フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

2025/06/23

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 胡椒

 

Kosyou

 

[やぶちゃん注:図の右上に「倭」(本邦種)の文字があって苗木が描かれてあるが、但し、調べる限りでは、インド産のコショウは、中国を経て、奈良時代に伝来しているので、特に中国産のものとの違いを示しているものではない。但し、コショウ属には複数あるので、異種である可能性を考慮して、かく添えたもので、それは、良安の評言の中にも感じられ、現行の植物学的、或いは、世界的な異種分布を考えれば、極めて正当な添え辞である。上方左には、その「倭」の胡椒の実の「粒」のキャプションとともに三個体が描かれてある。下方には、同種が蔓性植物であるために行われる棚を用いた栽培のさまが描かれている。]

 

こしやう   昧履支

 胡椒

      【胡者西戎之名雖

       非椒類因其辛似

       椒名

       之】

フウツヤ

[やぶちゃん字注:下方の割注(これは、「本草綱目」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「胡椒」(「維基文庫」の当該部をリンクした)の『釋名』に『昧履支』とした後に『蚊時珍曰、胡椒、因其辛辣似椒、故得椒名、實非椒也。』と記してあるのを、良安が手を加えたものであるが、何故か、最後の「之」が、改行されてしまっている。これは、彫師が誤ったものとしか思われない。訓読では、前に繋げた。

 

本綱胡椒出摩伽陀國今南畨諸國皆有之其苗蔓生莖

極柔弱作棚引之葉長一寸許扁豆山藥軰正月開黃白

花結實纏藤而生狀如梧桐子亦無核生青熟紅青者更

辣四月熟五月采收曝乾乃皺其葉晨開暮合合則褁其

子於葉中今遍中國食品爲日用之物也

實【辛大温】 下氣温中去痰除臟腑中風冷殺一切魚肉鼈

 蕈毒蓋純陽之物腸胃寒濕者宜之熱病人動火傷氣

 時珍自少嗜之歳歳病目而不疑及也後漸知其弊遂

 絕之目病亦止纔食一二粒卽便昏澀病咽喉口齒者

 亦宜忌之

△按胡椒阿蘭陀商舶將來之畨陀國之產最良蘓門荅

 剌交趾母羅加次之近頃有撒種生者其樹髙二三尺

 葉似畨椒葉而厚不靭亦似千葉梔子葉四月開小白

 花秋結子生熟與異國之產無異伹枝莖雖纎弱不蔓

 之屬葉亦大異也蓋此不胡椒小天蓼也灌木類

 天蓼下可考合

 胡椒辛氣入鼻則嚏故誤物入鼻孔不出者傍撒胡椒

 末令嚏則隨出

 

   *

 

こしやう   昧履支《まいりし》 

胡椒

      【「胡」とは、「西戎《さいじゆう》」の名。

       椒類《せうるゐ》に非ずと雖も、其の辛

       さ、椒に似るに因りて、之れを名づく。】

フウツヤ

 

「本綱」に曰はく、『胡椒は摩伽陀國《マガダこく》に出づ。今、南畨《なんばん》の諸國、皆、之れ、有り。其《その》苗《なへ》、蔓生《つるせい》して、莖、極《いはめ》て柔弱≪なれば≫、棚を作り、之れを引く。葉の長さ一寸許《ばかり》、扁豆《へんづ》・山藥《さんやく》の軰《はい》のごとし。正月、黃白《わうはく》の花を開き、實を結ぶこと、藤《かづら》[やぶちゃん注:蔓。]を纏(まと)ひて、生ず。狀《かたち》、「梧桐《ごとう》」の子《み》のごとく、亦、核《さね》、無し。生《わかき》は青く、熟≪せ≫ば、紅《くれなゐ》なり。青き者は、更≪に≫辣《から》し。四月に熟す。五月に采り、收《をさ》め、曝乾《さらしほ》して、乃《すなはち》、皺(しは)む。其《その》葉、晨《あした》に開き、暮《くれ》に合《がつ》す[やぶちゃん注:萎(しぼ)む。]。合する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、其の子を、葉の中に褁《つつ》む。今、遍(あまね)く、中國の食品、日用の物と爲《なす》なり。』≪と≫。

『實【辛、大温。】』『氣を下し、中《ちゆう》を温め、痰を去り、臟腑の中《なか》の風冷を除き、一切≪の≫魚・肉・鼈《すつぽん》・蕈《きのこ》の毒を殺《さつ》す。蓋し、純陽の物、腸胃・寒濕の者、之《これ》、宜《よろ》し。熱病の人、火《くわ》を動《うごか》し、氣を傷《きづつく》る。時珍[やぶちゃん注:自称。]、少(わか)き時より[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、之れを嗜(す)く。歳歳《さいさい》、目を病《や》む。而《しかれ》ども、疑《うたがひ》及ばざるなり。後《のち》、漸《やうか》く其《その》弊(ついへ[やぶちゃん注:ママ。])を知り、遂《つひ》に之《これ》を絕(た)ち、目の病《やまひ》≪も≫亦、止む。纔《わづか》に一、二粒を食《くふ》≪のみにても≫、卽《すなはち》便《すなは》ち、昏-澀(かす)む。咽喉・口・齒を病む者、亦、宜しく、之《これ》、忌むべし。』≪と≫。

△按ずるに、胡椒、阿蘭陀《オランダ》商舶《しやうはく》、之れを將來《しやうらい》す。畨陀國《バンダこく》の產、最《もつとも》良し。蘓門荅剌《ソモタラ》[やぶちゃん注:スマトラのこと。]・交趾(カウチ)[やぶちゃん注:現在のヴェトナム北部。]・母羅加(モロカ)、之≪に≫次ぐ。『近頃、種を撒《まき》て生(は)へる者、有り。其《その》樹、髙さ、二、三尺、葉、「畨椒(たうがらし)」の葉に似て、厚く、靭(しな)へず。亦、「千-葉《やへ》の梔子(くちなし)」の葉に似たり。四月、小≪さき≫白≪き≫花を開《ひらき》て、秋、子を結ぶ。生《なま》・熟《じゆく》、與《ともに》、異國の產と異なること、無し。伹《ただし》、枝・莖、纎(ほそ)く弱《よはき》と雖《いへども》、蔓(つる)の屬ならず。葉も亦、大《おほい》に異《こと》なり。』云云《うんぬん》≪と≫。蓋し、此《これ》は、胡椒ならず、「小天蓼(こまたゝび)」なり。「灌木類」≪の≫「天蓼(またゝび)」の下《した》、考合《かんがへあはす》べし。

 胡椒は、辛氣《しんき》、鼻に入《いる》と、則《すなはち》、嚏(はなひ)る故《ゆゑ》、誤《あやまり》て、物、鼻の孔《あな》に入《いり》て、出《いで》ざる者、傍《かたはら》に胡椒の末《まつ》を撒(ま)きて嚏《はなひ》らしむれば、則《すなはち》、隨《したがひ》て、出づ。

 

[やぶちゃん注:★!★今回は、変則的に、良安の評言部に不審があるので、それを片付けてから、注に入ることとする。私の長年の「和漢三才圖會」の読者も、一読、不審に思うであろう箇所である。「」の部分である。今までの、サイトとブログで完遂している膨大な「動物部」でも、また、ブログで単発で行っている「和漢三才圖會抄」でも、そして、今まで三百十三記事に至っている本「植物部」でも、「云云」等という記載は、私の記憶する限り、一度もなかったからである。而して、東洋文庫訳には、ここ以下終りまでについて、以下の後注があるのである。

   《引用開始》

この部分は杏林堂版では次のようになっている。「わたしの家にもあるが、まだ三尺以上のものは見ない。小木でよく子を結ぶ。〔一般に倭方(わほう)の木香丸や阿伽陀円などという薬中に胡椒を入れるが、これは気を下し肺・胃を温める効があるからである。〕」

   《引用終了》

出版詳細が判っていないが、「和漢三才圖會」には、杏林堂版は、通行本の五書肆名連記版を改稿したものとも思われる。私は、杏林堂版を所持していないので、「日本古典籍ビューア」のここで、当該部を視認し、以下に示すこととした。煩を厭わず、良安の評言部全部を本プロジェクトと同じ形式で示す。下線部が異なる箇所である。

   *

△按胡椒阿蘭陀商舶將來之陀國之產最良蘓門荅

 剌交趾母羅加次之近頃有撒種生者其樹髙二三尺

 葉似椒葉而厚不靭亦似千葉梔子葉四月開小白

 花秋結子生熟與異國之產無異伹枝莖雖纎弱不蔓

 之屬葉亦大異也予家亦有之未見過三尺者小木而

 能結子【凡倭方木香丸阿伽陀圓等薬中入用胡椒者以下氣溫中之功也】

 胡椒辛氣入鼻則嚏故誤物入鼻孔不出者傍撒胡椒

 末令嚏則隨出

   *

△按ずるに、胡椒、阿蘭陀《オランダ》商舶《しやうはく》、之れを將來《しやうらい》す。陀國《バンダこく》の產、最《もつとも》良し。蘓門荅剌《ソモタラ》[やぶちゃん注:スマトラのこと。]・交趾(カウチ)[やぶちゃん注:現在のヴェトナム北部。]・母羅加(モロカ)、之≪に≫次ぐ。近頃、種を撒《まき》て生(は)へる者、有り。『其《その》樹、髙さ、二、三尺、葉、「椒(たうがらし)」の葉に似て、厚く、靭(しな)へず。亦、「千-葉《やへ》の梔子(くちなし)」の葉に似たり。四月、小≪さき≫白≪き≫花を開《ひらき》て、秋、子《み》を結ぶ。生《なま》・熟《じゆく》、與《ともに》、異國の產と異なること、無し。伹《ただし》、枝・莖、纎(ほそ)く弱《よはき》と雖《いへども》、蔓(つる)の屬ならず。葉も亦、大《おほい》に異《こと》なり。』≪と≫。予が家も亦、之《これ》、有り。≪而れども、≫未だ、三尺≪を≫過《すぐ》者を見ず。小木《せうぼく》にして、能く、子を結ぶ【凡そ、倭方《わはう》の「木香丸《もくかうぐわん》」・「阿伽陀圓《あかだゑん》」等の薬中に胡椒を入《れ》用《もちふ》るは、以氣を下《くだ》し、中《ちゆう》を溫《あたたむ》るの功《かう》を以つてなり。】。

 胡椒は、辛氣《しんき》、鼻に入《いる》と、則《すなはち》、嚏(はなひ)る故《ゆゑ》、誤《あやまり》て、物、鼻の孔《あな》に入《いり》て、出《いで》ざる者、傍《かたはら》に胡椒の末《まつ》を撒(ま)きて嚏《はなひ》らしむれば、則《すなはち》、隨《したがひ》て、出づ。

   *

・「木香丸《もくかうぐわん》」江戸時代の売薬の名。植物の木香(双子葉植物綱キク目キク科ドロミアエア属モッコウ Dolomiaea costus 。インド北部原産の多年生草本。江戸時代には薬物として渡来していた。現在は雲南省や、本邦でも北海道で栽培が行われている)の根から製した腹痛の薬。

・「阿伽陀圓《あかだゑん》」万病に効く霊薬と言われた「阿伽陀」の名によって作られた丸薬。近世、大坂安堂寺町通の紐屋(薬店の屋号か)などで売薬として売られた。孰れも小学館「日本国語大辞典」に拠ったが、大坂安堂寺町通は江戸時代より組み紐の店があり、今もある。紐屋が、本業以外に、この薬を売っていたものか? 調べたが、判らなかった。

 さて、以上で、概ね、すっきりしたので、以下、普段の注に入ることとする。

   *

 この「胡椒」は、日中ともに、

双子葉植物綱モクレン亜綱コショウ目コショウ科コショウ属コショウ Piper nigrum

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした。必要を認めない箇所は基本、示さずに省略した。また、私は実際のコショウの植物体を見たことがないので、以上の本文と図と比較するために一部で同ウィキの画像をリンクした。太字・下線は私が附した)。『コショウ科コショウ属に属する』蔓『性植物の』一『種』(『図1a)、または』、『その果実を原料とする香辛料のこと(英:pepper図1b)である。インド原産であるが、世界中の熱帯域で広く栽培されている』。『果実には強い芳香と辛みがあり、香辛料としてさまざまな料理に広く利用され、「スパイスの王様」ともよばれる。精油が香気成分となり、アルカロイドのピペリン』(piperine)『やシャビシン』(Chavicine)『が刺激・辛味成分となる。果実の処理法などによって、黒胡椒(ブラックペッパー)や白胡椒(ホワイトペッパー)などに分けられる』。十五『世紀以降のヨーロッパの東方進出は、コショウ貿易による利益も関わっていた』。『コショウの英名は「pepper」であるが、これはサンスクリット語で同属別種であるヒハツ(インドナガコショウ)』(畢撥: Piper longum )『を意味する「pippali」に由来しており、古くに名前の取り違えが起こったと考えられている』。『トウガラシ』((唐辛子・蕃椒:キク亜綱ナス目ナス科トウガラシ属トウガラシ Capsicum annuum )『やオニシバリ』(鬼縛り:バラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属オニシバリ Daphne pseudomezereum 果実は辛く、有毒)、『また』、『サンショウ』(ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum )『の果実を「胡椒」とよぶことがある』ので注意が必要である。蔓『性の木本(藤本=とうほん)であり、長さはときに』十メートル『以上になり、節は膨らみ、節から不定根を出して他物に絡み付く(図2ab)。葉は互生、葉柄は長さ』一~二センチメートル、『葉身は卵形から長卵形』で、十~十五センチメートル×五~九センチメートルで、『先端は尖り、無毛で革質、表面は光沢がある暗緑色、葉脈は掌状で』、五~七(或いは九)『脈、中央の脈は基部から』一・五~三・五センチメートル『の部分で分枝する(図2c)』。『野生株では単性花(雄花と雌花が別)をつけ』、『雌雄異株(雄花と雌花が別の個体につく)のものが多いが、栽培される系統のものは雌雄同株(雄花と雌花が同じ個体につく)であり、また様々な程度で両性花をつける。野生型では果実量が少ないが、栽培されるものでは両性花率が高い系統ほど果実量が多いことから、栽培の歴史の中でこのような系統が選択されてきたと考えられている。花期は』六~十『月(中国の場合)、穂状花序を形成し、花梗は葉柄とほぼ同長、花穂は長さ約』十センチメートル、『葉と対生状につく(図3a、』3『d)。苞は』箆(へら)『形から楕円形、およそ』三~三・五×〇・八ミリメートルで、『花被を欠く。雄しべは』二『個、花糸は太く短い(図3d)。雌しべの子房は球形、柱頭は』三~四(或いは五)『個(図3d)』。『果穂は長さ』十五~十七センチメートル『ほどになり』、五十から六十『個の果実からなる(図3b』、3『c)。個々の果実は核果』一『個の種子を含み、球形で直径』五~六ミリメートル。『未熟果実は緑色だが』、『これを天日干しすると黒色』となり、『熟した果実は赤色になる(3b、』3『c)。『染色体数は 2n = 48, 52, 104, 128 が報告されており、栽培の歴史の中で著しい染色体倍加が起こったと考えられ、また他種との交雑の可能性も示唆されている』。

以下、「分布」の項。『原産地はインド南西部マラバール地方とされるが、すでに紀元前』一『世紀ごろには東南アジア熱帯域で栽培されていたと考えられている』。二〇二〇『年時点では、東南アジア、アフリカ、中南米の熱帯域で広く栽培されている』。

以下、「香辛料」の項。『コショウの果実には強い芳香と強烈な辛みがあり、最もよく使われる香辛料(スパイス)の』一『つであるため、「スパイスの王様(king of spice)」ともよばれる。コショウの辛さは、塩辛さとは異なる辛さである。コショウは肉料理、魚料理、野菜料理、スープなどさまざまな料理に使われ、またハムやソーセージの製造にも利用される。他にもソースやケチャップなどの調味料の原材料ともなる』。

以下、「種類」の項。『コショウは収穫のタイミング(未熟果、完熟果)や乾燥方法、外皮(外果皮・中果皮)の除去などの違いにより、黒胡椒、白胡椒、青胡椒、赤胡椒の』四『種類に分けられる』。

・『黒胡椒、ブラックペッパー(黒コショウ、黒こしょう、black pepper)』

『完熟前の緑色の果実を収穫し、天日干しで乾燥させたものであり、黒色になる。湯通しした後に乾燥したり、薪を使って』燻(いぶ)す『こともある。乾燥の際、果皮(外果皮、中果皮)にシワが生じるが、剥がさず』、『そのまま使用する。中果皮には辛み成分が多く含まれており、香りと辛みが強いため、強い味の肉料理や青魚などとの相性がよいとされる。また、インドの伝統医学であるアーユルヴェーダにて高く評価されている』。

・『白胡椒、ホワイトペッパー(白コショウ、白こしょう、white pepper)』

『赤色に完熟した果実を収穫し』、一『週間ほど水に浸して発酵させた後、柔らかくなった外果皮・中果皮を除去したものである。核(種子とこれを包む硬い内果皮)のみからなり』、『外果皮・中果皮がないため、黒胡椒より』、『辛みは弱いが』、『異なる風味を持ち、魚料理やシチューなど素材の味が強くないものとの相性が良いとされる』。『人によっては白胡椒に不快臭を感じる事があるが、これは製造工程で果皮を水中で腐敗させる際に発生する物質に由来しており、流水中の処理により』、『臭みの発生を押さえることが報告されている。白胡椒は発酵食品でもあり、コーヒーやカカオのように発酵過程の調節で多様な風味をつくることが可能ともされる。一方で、黒胡椒の外果皮・中果皮を機械で剥がして白胡椒としたものもある。また』、『下記のように胡椒は薬用にも使われるが、その際には』、普通、『白胡椒が使われる』。

・『青胡椒、緑胡椒、グリーンペッパー(青コショウ、青こしょう、green pepper)』

『完熟前の緑色の果実を原料とするが、黒胡椒とは異なり』、『天日干しにはせず、ゆでてから塩蔵、またはフリーズドライ加工したもの。そのため、果実の色は緑色が残っている(図8)。さわやかな香りと辛みを特徴とする。料理に散らしてアクセントにしたり、香りを活かしてスープやサラダに加える。タイ料理では「プリックタイオーン」とよばれ、粒のまま炒め物に利用されることがある』。

・『赤胡椒、ピンクペッパー(赤コショウ、赤こしょう、pink pepper)』

『赤色に完熟した果実を収穫するが、白胡椒とは異なり』、『外果皮・中果皮をはがさずにそのまま塩蔵したものや』、『天日乾燥したもの。赤い外果皮はシワが入り(図9)、香りと辛みがマイルドであるとされる。ペルーなど南アメリカの料理で使用されることがある。ただし「ピンクペッパー」(pink pepper)は』、胡椒とは全く無縁な、『ウルシ科の辛みがない植物コショウボク』(胡椒木:ムクロジ目ウルシ科サンショウモドキ属コショウボク Schinus molle )『の果実を意味することが多い』(私のような「ウルシかぶれ」の体質者は或いは気をつけねばならんな。当該ウィキをリンクしておく)。

『コショウは様々な形態で利用され、ホール(原形の粒の状態、粒胡椒)、あらびき(粗挽き)、パウダー(粉末状)などが市販されている。また、使うたびにペッパーミルを用いてホールを挽いたほうが新鮮な風味を得ることができるとされる』。『異なる種類の胡椒を混ぜて使うこともあり、日本で市販品には黒胡椒と白胡椒を混合したものもある。また』、『塩などと混ぜた「味付塩こしょう」として市販されているものもある』。『コショウの消費期限は、製造方法や保管状況にもよるが、おおよそ』二~三『年である。挽いた後のものは、挽く前(ホール)より香味が飛びやすい。また「黒胡椒」「白胡椒」の乾燥させたものは、「青胡椒」「赤胡椒」といった乾燥させる前のものより長持ちしやすくなる。大航海時代など物流が発達する前は「青胡椒」「赤胡椒」は原産地での香辛料や食材として使用されていたのに対し、原産地から離れていたヨーロッパでは「黒胡椒」「白胡椒」が使用されていた。現在は物流が発達したことや世界各地でコショウの生産が行えるようになったこと、さらに各国の料理が世界中に広まっていることからこの区別はなくなっている』。以下、「薬用」の項。『コショウの果実にはアルカロイドであるピペリンなどが含まれており、薬効を期待した料理や外用薬に使われることがある。抗菌、食欲増進、消化促進、健胃、駆風、発汗促進、利尿、鎮痛などの作用があるとされ、食欲不振、消化不良、胃弱、嘔吐、下痢、腹痛、腹部膨満、歯痛などに使われる。また、抗がん作用、抗酸化作用、止瀉作用も報告されている。脂肪燃焼作用やエネルギー代謝の亢進によるダイエット効果、また他の成分の吸収率を高めることで一緒に摂取した医薬品の作用を増強する効果があるとして健康食品に使用されることもあるが、多量に摂取した場合に他の医薬品と相互作用を示すことから、健康被害が発生する可能性を否定できず注意が必要ともされる』。『アルカロイドであるピペリンやシャビシン、ピペラニン (piperapine)、これらの構成要素であるピペリジン(piperidine)などが辛み成分となり、また精油であるピネン(pinen)、リモネン(limonene)、カリオフィレン(caryophyllene)、ピペロナール(piperonal)などが香り成分となる。コショウでくしゃみが出るのは、辛味成分であるピペリンが鼻腔の神経を刺激するためである』。

以下、「産地」の項。『コショウはインド原産であるが、世界中の熱帯域で広く栽培されている』。二〇二一『年時点の生産量(ただしコショウ属の他種を含む)はベトナムが最大であり、以下ブラジル、インドネシア、ブルキナファソ、インドと続いている』とある。

 なお、以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の冒頭の「胡椒」(ガイド・ナンバー[079-10a]以下)のパッチワークである。

「昧履支《まいりし》」これは、原拠は「本草綱目」の記載から、唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した「酉陽雜俎」(二十巻・続集十巻・八六〇年頃成立)の「續集」の「卷十八 廣動植之三」からである(「百度百科」の「昧履支」を見よ)。原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、当該部の電子化されてある。一部に手を加えて示す。

   *

胡椒、出摩伽陀國、呼爲昧履支。其苗蔓生、極柔弱。葉長寸半、有細條與葉齊、條上結子、兩兩相對。其葉晨開暮合、合則裹其子於葉中。形似漢椒、至辛辣。六月採、今人作胡盤肉食皆用之。

   *

私は、同書を東洋文庫版の今村与志雄訳注で所持する。当該部の訳を引用する。

   《引用開始》

   胡椒(こしょう)。

 マガダ国に産出する。同地では、昧履支と呼ぶ。その苗は、蔓(つる)生で、きわめて

やわらかく弱い。葉の長さは、一寸半で、細い条(こえだ)があり、葉と同じである。条(こえだ)に子(み)を結び、両々相対する。その葉は、朝、開き、日が没すると、合わさる。その子(み)を葉のなかにつつむ。ぁ達は、漢椒に似ているが、たいへん辛(から)くひりひりする。六月、採取する。いまの人は胡盤肉をつくるとき、これを使用する。

   *

今村先生の注を使用させて戴くと、「昧履支」は『現代中国語音 mei-li-či。これは胡椒を意味するサンスクリット、マリチャ maricamarica の転写である。なお、サンスクリットのマーガダ māgadha は、コショウ pepper の形容語である。インドのうち、とくにマガダ国 Maghda という地名に結びつけられる所以がある』とある。私の後注も参照のこと。

「漢椒」は『蜀椒のこと』とあるので、先行する「秦椒」及び「蜀椒」で示した通り、サンショウを指す。

「胡盤肉食」『胡は、唐代、外来の物をさす場合、一種 の接頭語として使用されたが、とくに、西域、イラン系の文物に用いられることが多い。もっとも、胡椒のようにインド産の物にも使われているから、その使用の仕方は、きゅうくつなところはなかった。胡盤肉食は、西域ふうの肉料理という意味らしい。胡椒は、その後、普及し、一六世紀、明代の李時珍(一五一八-一五九三年)のときには、「胡椒は、いま南番諸国および交趾、滇南[やぶちゃん注:現在の雲南省昆明以南の広大な地域を指す。]、海南の諸地はどこにもある……いまや中国の食品にゆきわたり、日用の物になった」というぐらいになっていた。』と述べておられる。

 以下、

本文注に入る。

「西戎」中国が西方の異民族を呼んだ卑称。

「南畨」「南蠻」に同じ。同前で南方の異民族を呼んだ卑称。

「摩伽陀國《マガダこく》」当該ウィキによれば、ヒンディー語ラテン文字転写で「Magadha」(紀元前六八二年~紀元前一八五年)は『古代インドにおける十六大国の一つ。ナンダ朝のもとでガンジス川流域の諸王国を平定し、マウリヤ朝のもとでインド初の統一帝国を築いた。王都はパータリプトラ』(現在のビハール州の州都パトナ。グーグル・マップ・データ)とある。

「扁豆《へんづ》」マメ目マメ科マメ亜科インゲン連フジマメ(藤豆・鵲豆)属フジマメ Lablab purpureus 。東洋文庫訳では、割注で『(インゲンマメ)』とするが、誤り。マメ科インゲンマメ属インゲンマメ Phaseolus vulgaris で、全く異なる種である。何故、間違ったかは、判る。これを担当された清水淳夫氏は大阪生まれだからである。ウィキの「フジマメ」によれば、『関西ではフジマメをインゲンマメと呼び、インゲンマメはサンドマメと呼ばれている』とあるのである。

「山藥《さんやく》」これは、本来は漢方薬での呼称である。しかも、「本草綱目」であるから、単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya しか指さない。日本原産のヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica は厳密には含まない。但し、中国にも現在は非常な広域で分布はしており、その伝播の時期は判らない。

「梧桐《ごとう》」双子葉植物綱アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex 。先行する「卷第八十三 喬木類 梧桐」を見よ。

「母羅加(モロカ)」これは、現在のモルッカ諸島(英語:Moluccas/オランダ語:Molukken)=マルク諸島(インドネシア語:Kepulauan Maluku)、インドネシア共和国のセラム海とバンダ海に分布する群島のことであろう。当該ウィキによれば、『スラウェシ島の東、ニューギニア島の西、ティモール島の北に位置する。歴史的に香料諸島(スパイス諸島)』(☜)『として特に西洋人や中国人の間で有名であった』とある。

「小天蓼(こまたゝび)」『「灌木類」≪の≫「天蓼(またゝび)」』「コマタタビ」という種はないので、双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygamaの実のことを言っているとしか思われない。先行する「卷第八十四 灌木類 木天蓼」を見よ。]

2025/06/21

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 崖椒

 

Inuzannsyou2

 

のさんしやう  野椒

 

崖椒

       【俗此亦名犬山椒】

 

本綱崖椒葉大於蜀椒不甚香而子灰色不黑無光野人

用炒雞鴨食

椒紅【辛熱】 治肺氣上喘兼欬嗽

△按崖椒生原野其樹刺葉實皆類川椒伹葉稍大色深

 綠不潤開細花結子大如綠豆而攅生未紅熟而開口

 味苦微有椒氣其目黑而不光澤此亦名犬山椒凡物

 與某似而賤劣者皆稱犬稱烏【犬蠶豆犬綠豆鴉碗豆之類也】

[やぶちゃん字注:「某」は「グリフウィキ」のこの異体字(下方が「木」ではなく、「ホ」の字型)だが、表示出来ないので正字とした。]

 

   *

 

のさんしやう  野椒《やせう》

 

崖椒

       【俗、此れも亦、「犬山椒《いぬ

        さんせう》」と名づく。】

 

「本綱」に曰はく、『崖椒《がいせう》は葉、蜀椒《しよくせう》より大なり。甚《はなはだ》≪は≫香《かんばし》からずして、子《み》、灰色にして黑からず、光《ひかり》、無し。野人、用《もちひ》て、雞《にはとり》・鴨を炒《い》り、食ふ。』≪と≫。

『椒紅【辛、熱。】』『肺氣、上《のぼ》り、喘(すだ)き[やぶちゃん注:ぜいぜいと喘(あえ)ぎ。]、兼《かね》て、欬嗽《がいそう》[やぶちゃん注:咳(せき)。]を治す。』≪と≫。

△按ずるに、崖椒は、原野に生ず。其《その》樹、刺・葉・實、皆、川椒《せんせう》に類《るゐ》す。伹《ただし》、葉、稍《やや》、大にして、色、深綠。潤《うるほ》はず。細≪き≫花を開き、子を結ぶ。大いさ、綠豆(ぶんどう)のごとくにして、攅生《さんせい》[やぶちゃん注:群がって成り。]≪し≫、未だ紅熟ならずして、口を開く。味、苦《にがく》、微《やや》、椒《せう》≪の≫氣《かざ》、有り。其の目《たね》、黑くして、光澤ならず。此れも亦、「犬山椒」と名《なづ》く。凡《およそ》、物《もの》、某《ぼう》と似て、賤劣《せんれつ》なる者、皆、「犬《いぬ》」と稱し、「烏《からす》」と稱す【「犬蠶豆(《いぬ》そらまめ)・「犬綠豆(《いぬ》ぶんどう)・「鴉碗豆《からすのゑんどう》」の類《たぐゐ》なり。】。

 

[やぶちゃん注:これは、前項の「蔓椒」と同一の、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属イヌザンショウ(犬山椒)変種イヌザンショウ Zanthoxylum schinifolium var. schinifolium

である。私の注で引いた「拼音百科」の同種のページ「青花椒」の『别名』の中に『崖椒』があるからである。

 昨日から「漢籍リポジトリ」にアクセス出来ないので、「維基文庫」で示すと、「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「崖椒」からのパッチワークである。

「川椒」良安が、安易に、この固有名詞を出すのは、おかしいし、現代の学術的視点からは間違っている。これは、先行する「秦椒」及び「蜀椒」で私が考証した通り、「川椒」は本邦には植生しない、

サンショウ属カホクザンショウ(華北山椒) Zanthoxylum armatum 

である。則ち、良安は見たことがないのに、葉・花・実の実態まで見たように語っているのだが、どうして、こんな記載が出来るんだヨッツ! アホンダラ!

「綠豆(ぶんどう)」マメ目マメ科マメ亜科ササゲ(大角豆・豇豆)属ヤエナリ(八重生) Vigna radiata の種子を指す。当該ウィキを見よ。後の「犬綠豆(《いぬ》ぶんどう)」も、その貧弱個体の卑称であろう。

「犬山椒」先行する「蔓椒 いぬさんしやう」を見よ。

「犬蠶豆(《いぬ》そらまめ)」この名の種は存在しない。マメ科ソラマメ(空豆・蚕豆)属ソラマメ Vicia faba の貧弱個体の卑称であろう。

「鴉碗豆《からすのゑんどう》」私が幼少期より好きな野草である、マメ科ソラマメ属オオヤハズエンドウ(大矢筈豌豆)亜種ヤハズエンドウ Vicia sativa subsp. nigra の異名「カラスノエンドウ」。当該ウィキを見よ。]

2025/06/20

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 蔓椒

 

Inuzansyou

 

いぬさんしやう 豬椒 豕椒

        彘椒 豨椒

        狗椒 金椒

蔓椒

        【和名鼬波之加美

         一云保曽木】

マン ツヤウ   今云以奴山椒

 

本綱蔓椒野生林箐閒枝軟如蔓子葉皆似椒山人亦食

實根莖【苦温】 治風寒濕痺四肢膝痛【煎湯蒸浴取汗】根治痔【燒末之服】


地椒

本綱地椒卽蔓椒之小者其苗覆地蔓生莖葉甚細花作

小朶色紫白因舊莖而生其子小味微辛土人以煑羊肉

食香美

實【辛温有小毒】 治淋渫腫痛可作殺蛀蟲藥

 

   *

 

いぬさんしやう 豬椒《ちよせう》 豕椒《しせう》

        彘椒《ていせう》 豨椒《きせう》

        狗椒《くせう》  金椒

蔓椒

        【和名は「鼬波之加美《いたちはじかみ》」。

         一《いつ》に云ふ、「保曽木《ほそき》。】

マン ツヤウ   今、云《いふ》、「以奴山椒《いぬさんせう》」。

 

「本綱」に曰はく、『蔓椒《まんせう》、林《はやし》・箐《せい》[やぶちゃん注:大規模な竹林。]の閒に野生す。枝、軟《やはらか》にして、蔓《つる》のごとく、子《み》・葉、皆、椒《せう》に似たり。山人、亦、之れを食ふ。』≪と≫。

『實根莖【苦。温。】』『風寒濕痺《ふうかんしつひ》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の後注に『風・寒・温の三つの邪気がまざりあい、身体を侵し』麻『痺を発するもの。悪寒して体はだるく、しびれ、心悸(き)して痺の証があらわれる』とある。]四肢≪の≫膝痛《ひじつう》を治す【煎じ湯にて蒸し浴びし、汗を取る。】。痔を根治す【燒きて末とし、之れを服す。】。』≪と≫。


地椒(ちしやう)

本綱に曰はく、『地椒は、卽ち、蔓椒の小なる者≪なり≫。其《その》苗、地を覆《おほ》ふて、蔓生《つるせい》す。莖・葉、甚だ、細く、花、小《ちさ》≪き≫朶《ふさ》を作《なし》、色、紫白。舊(ふる)き莖に因《よつ》て生ず。其《その》子、小《ちさ》く、味、微《やや》辛《からし》。土人、以《もつて》、羊肉を煑て、食ふ。香、美なり。』≪と≫。

『實【辛、温。小毒、有り。】』『淋渫《りんせつ》≪の≫腫痛[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に『(淋病の菌によっておこる腫痛)』とあるが、要は淋病の主症状で、主に性行為によって尿道・子宮頸管・喉などの粘膜に感染することで発症する。]を治す。≪また、≫蛀蟲《むしくひ》を殺す藥と作《な》すべし。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属イヌザンショウ(犬山椒)変種イヌザンショウ Zanthoxylum schinifolium var. schinifolium

である。「拼音百科」の同種のページ「青花椒」によれば、『别名』は『野椒・天椒・崖椒・隔山消・山甲・狗椒・青椒・香椒子・王椒・小花椒・山花椒』とあり、『標高八百メートルまでの平野の疎らな森林・灌木・岩場などによく見られる。また、中国の武陵山脈以北と遼寧省以南の殆んどの省・地域、更に、北朝鮮と日本にも分布している。揚子江以北で産するこの種の小葉には、透明な腺点』(蜜・油・粘液などを分泌又は貯めておく小さな点状組織)『が多く、葉の毛はまばらで短いか、殆んど、無毛である。小葉は特に江蘇省と山東省で小さく、揚子江以南と武陵山脈以北で産するものの小葉は大きく、腺点は少ない。武陵山脈の南斜面(福建省南部・広東省・広西チワン族自治区を含む)で生産される植物の小葉は最も大きく、毛が密集している。葉の縁の鋸歯状の部分を除いて、その他の腺点は目立たない』とあった。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名、オオバイヌザンショウ、ホソバイヌザンショウ、コバノイヌザンショウともよばれる』。『和名「イヌザンショウ」の由来は、サンショウ』( Zanthoxylum piperitum )『に似るが、香りが弱く』、『香辛料にならないため、名に本物のサンショウに比べて役に立たないという意味の「イヌ」をつけたものである。中国名は「青花椒」』。『日本の本州(秋田・岩手県以西)、四国、九州と、朝鮮半島、中国に分布する。山地や山野の河原や林縁などに生える』。『落葉広葉樹の低木から小高木。高さは』一~三『メートル』『になる。樹皮は灰褐色で、若木は』瘤『状になったトゲがあるが、次第に少なくなる。成木の樹皮には縦に裂け目が入ってくる。若い枝は暗緑色や赤褐色で無毛、トゲが互生し、トゲが対生するサンショウと見分けられる。葉は奇数羽状複葉で互生し、小葉は長楕円形から広披針形で長さは』二~四『センチメートル』『ある。葉に腺点がある』。『花期は』七~八『月でサンショウよりも遅い。雌雄異株。枝の先に淡緑色の小花を多数つける。花は淡緑色で、花弁と萼片が』五『枚ずつつくのが』、『特徴で、サンショウには花弁がないのが相違点である。果期は』十『月。果実は楕円形状球形の蒴果で、紅紫色から紅褐色を帯び』、三『個の分果に分かれる。分果はほぼ球形で長さ』四~五『ミリメートル』『あり、熟しても淡緑色で、熟すと』二『つに裂けて、中から光沢がある黒色の種子を出す。種子は長さ』三~四ミリメートル『の楕円状の球形で、種皮は光沢があるが、種皮を剥くと黒色で表面に凹凸が並ぶ。葉や果実はサンショウほど香らない』。『冬芽は互生し、暗褐色の芽鱗』二、三『枚に覆われた小さな半球状をしており、葉痕のほうが大きい。枝先には仮頂芽がつく。葉痕は半円形や心形で、維管束痕が』三『個ある。しばしば枝先に果序が残る。果実を煎じた液や葉の粉末は漢方薬に利用される。樹皮や果実を砕いて練ったものは湿布薬になる』とある。

 以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の四項目の「蔓椒」のパッチワークである。

「地椒(ちしやう)」正しい歴史的仮名遣は「ちせう」。これは、サンショウとは全く無縁の、

キク亜綱シソ目シソ科イブキジャコウソウ(伊吹麝香草)属イブキジャコウソウ Thymus quinquecostatus

である。但し、時珍の記載は明らかに確信犯的記載であるから、何らかのコショウ属の個体を指しているようには見える。「維基百科」の同種の文字通りの「地椒」を見られたい。そこには、『中国本土の遼寧省・河北省・山西省・山東省・河南省などに分布する』とあった(日本への言及はない)。本邦の当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名、イワジャコウソウ、ナンマンジャコウソウ』(後者の「マンナン」はネットで調べたが、漢字不明。識者の御教授を乞う)。『茎は細く、地表を這い、よく分枝する。枝には短い毛があり、直立して高さは』三~十五センチメートル『になる。葉は茎に対生する。葉身は卵形から狭卵形で、先端は鈍頭、長さ』五~十ミリメートル、『幅』三~六ミリメートル『になり、縁は全縁になる。全体に芳香がある』。『花期は』六~八『月。枝の先端に短い花穂をつける。花冠は紅紫色の唇形で、上唇はわずかに』二『裂して直立し、下唇は』三『裂して開出する。萼は筒状鐘形の唇形となる。雄蕊は』四『本ある。果実は分果となり、やや扁平となる』。『和名は、伊吹山に多く産し、芳香があることから付けられた』。『日本では、北海道、本州、九州に分布し、海岸から高山帯までの日当たりの良い岩地に生育する。アジアでは、朝鮮、中国、ヒマラヤに分布する』。以下、三種の変種・品種が載る。

シロバナイブキジャコウソウ Thymus quinquecostatus f. albiflorus (別資料で、分布は北海道・本州・九州とあった)

ハマジャコウソウ Thymus quinquecostatus f. maritimus (別資料(学術論文)で、分布は本州(関東・東海・三重・福井)とあった)

ヒメヒャクリコウ Thymus quinquecostatus var. canescens (『葉にあらい毛があり、日本の北アルプスに』、稀『にみられる。アジアでは、樺太、ウスリーに分布する』)

以上である。]

2025/06/19

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「國分寺藥師佛奇」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)添え、段落・改行を成形した。]

 

 「國分寺藥師佛奇」 安倍郡北安東村《きたあんどうむら》龍池山國分寺にあり。寺記云《いはく》、

『永祿十二年、武田晴信入道信玄、兵を當國に入《いる》るの時、當寺の本尊藥師佛を取《とり》て鑄潰《いりつぶ》し、火砲に用《もち》ゆ。其《その》首《かしら》、爍《と》けず、一夜の內に堂中に飛來《とびきた》る。今、猶《なほ》、首のみ、存せり。若《もし》、諸願ある人、是を擡《もたげ》る[やぶちゃん注:持ち上げる。]に、罪障深き者は、力あり共《とも》あがらず。云云』。

 奇成哉《きなるかな》、傳云《つたへていふ》、

「永祿兵災の後《のち》、寺地、年々に破壞して、本尊再建の力《ちから》なく、終《つひ》に木佛を彫《ほり》て本尊とす。」。

 

[やぶちゃん注:「龍池山國分寺」前の「國分寺大蛇呑經」を見よ。

「永祿十二年」一五六九年。この年の末、信玄は、再び、駿河侵攻を行い、駿府を掌握している。

「奇成哉傳」「近世民間異聞怪談集成」は書名としているが、こんな書は存在しないようであるので、以上のように訓読した。もし、あるというならば、是非、お教え戴きたい。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「國分寺大蛇呑經」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)添え、段落・改行を成形した。引用の漢文脈の中に、珍しく、一箇所、ルビがある。上附きで丸括弧で添えた。ここから「安倍郡」パートとなる。当該ウィキによれば、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では、概ね、静岡市葵区の大部分(春日・柚木・宮前町・長沼・古庄・瀬名・瀬名川・南瀬名町・東瀬名町・西瀬名町・瀬名中央・長尾・平山を除く。静岡駅周辺の住居表示実施地区の境界線は不詳)にあたる』。『駿河国府が置かれた地である』とある。旧郡域はリンク先の地図を見られたい。]

 

       安  倍  郡

 「國分寺大蛇呑經《こくぶんじ おろち きやうを のむ》」 安倍郡北安東村龍池山國分寺【東動院と號す。眞言高野山無量光院末、寺領八石。】、別堂にあり。「三代實錄」云《いはく》、

『貞觀十四年壬辰夏六月三十日己亥、駿河國國分寺別堂大蛇、呑般若心經卅一卷、復一軸、觀者以ㇾ繩結蛇尾、倒懸樹上小選(シバラク)乄吐ㇾ經、蛇落ㇾ地半死、俄而更生【下畧。】。同年秋七月二十九日丁酉、駿河國、蛇呑佛經之異、神祗官卜曰、

「當年冬、明年春、當國有失火疫癘之災。」。[やぶちゃん注:「當」の下には返り点「三」はないが、文脈から、「近世民間異聞怪談集成」にあるのを採用した。]」是日令下二國司鎭謝云云。[やぶちゃん注:現行の返り点では存在しない「下二」が使われている。これは、「近世民間異聞怪談集成」でもそうなっている。論理的にはおかしいものの、こうした返り点は古くはあったし、私には違和感はない。]」。

 大蛇の人を呑《のむ》事、往々、聞けり。未《いまだ》、經を呑事を聞かず。奇なる哉《かな》。

 

[やぶちゃん注:「安倍郡北安東村龍池山國分寺【東動院と號す。眞言高野山無量光院末、寺領八石。】、別堂にあり」現在の駿府城跡の北西外直近の静岡市葵区長谷町に現存する(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。ウィキの「駿河国分寺」を引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『真言宗醍醐派の寺院。山号は龍頭山。本尊は地蔵菩薩』。]『奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、駿河国国分寺の後継寺院といわれる。本項では、創建当時の寺跡として駿河国分寺跡を巡る議論についても解説するとともに、駿河国分尼寺についても解説する』。『静岡市中心部、駿河国総社の静岡浅間神社の東方約』四百五十『メートルの地に鎮座する』。『駿河国の国分寺については、古代における所在地は確定されていないが、中世には当地付近に「国分寺」を称する寺院があったことが知られる(ただし法統関係は定かでない)』。仁治三(一二四二)年(鎌倉時代前期。この年、四条天皇が正月に崩御し、後嵯峨天皇が即位しており、鎌倉幕府将軍は藤原頼経で、執権は、この年の六月に第三代北条泰時が逝去し、北条経時が就任した)『には』「惣社幷國分寺云云」『とあることから、同年頃には、惣社(静岡浅間神社)の側に存在したとされる』。『その後も』享禄三(一五三〇)年(事実上の戦国時代。後奈良天皇で、室町幕府の第十二代征夷大将軍は足利義晴)は、『の朱印状や』「言繼卿記」弘治二(一五五六)年(後奈良天皇。但し、翌年に崩御し、正親町(おおぎまち)天皇が即位している。室町幕府将軍は足利義輝)『条にも記載が見える。史料から、国分寺の子院である龍池山千灯院(泉動院[やぶちゃん注:本文の「東動院」はこれの誤字か、或いは、後に改名したものかも知れない。]/仙憧院)によって事実上継承されたと見られている』。『その後も、江戸時代を通じて「国分寺」を称する寺院が当地に存在したことは明らかで、その後裔が当寺と見られる』。『創建時の国分寺の位置は未だ明らかとなっていない。その中で最も有力視されるのが、静岡市駿河区大谷にある片山廃寺跡(国の史跡)』(現在の同大谷にある「片山廃寺跡瓦窯跡」の近くであろう)『である。この片山廃寺は塔跡が未発見であったため、国分寺説を否定して有度郡の地方豪族の私寺と見る説が挙げられているが』、二〇〇九年『の調査で塔跡と推定される版築』(はんち:土を建材に用い、強く突き固めて、堅固な土壁や建築の基礎部分を徐々に高く構築する工法を指す)『が見つかっており、国分寺の可能性を高めている。なお、この片山廃寺を国分寺跡と見ない説では、国分寺跡を静岡市葵区長谷町や駿府城内東北部に推測』している。『一方、後述の菩提樹院境内には国分寺の遺構とする説のある塔心礎が伝わっており、「伝駿河国分寺の塔心礎」として静岡市指定文化財に指定されている。その銘文から』、明和八(一七七一)年(第十代将軍徳川家治の治世)『に駿府城代武田信村から駿府城三の丸城代屋敷内の社の手水鉢として奉納されたものとされる。元々はいずれの寺院で使用されたのか明らかでないが、舎利穴の大きさは甲斐や伊豆の国分寺とほぼ同じになる。この心礎は、昭和』五(一九三〇)年『に日本赤十字社静岡支部の庭(現・静岡県総合福祉会館の位置)において発見され、昭和』二八(一九五三)年『に国分尼寺後裔と伝える菩提樹院に寄進された』。『国分尼寺についても、創建時の位置は明らかでない。太田道灌作といわれる』「慕景集」の嘉吉元(一四四一)年『の記事に』『國府尼寺菩樹院』『と見えることから、後継寺院は静岡市葵区沓谷』(くつのや)『の正覚山菩提樹院であるといわれるが、根拠に乏しく確証はない。菩提樹院』の『寺伝では、武田氏の駿河侵攻において兵火を受けたため、天正年間』(一五七三年~一五九二年)『頃に駿府城西方に再興されたという。その位置は常磐公園付近にあたるが』、昭和一五(一九四〇)『の大火で焼失したことにより、さらに現在地に移転した。この菩提樹院境内には、前述のように国分寺のものと伝える心礎が残っている』とある。

「三代實錄」「日本三代實錄」。六国史の第五の「日本文德天皇實錄」を次いだ最後の勅撰史書。天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年までの三十年間を記す。延喜元(九〇一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真ら。編年体・漢文・全五十巻。

 以下、漢文部を訓読する。今回は、国立国会図書館デジタルコレクションの「國文 六國史 第十」(武田祐吉・今泉忠義編・昭和一六(一九四一)年大岡山書店刊)の当該訓読部(左ページの最終行から)を参考にしたが、見てみると、本文に大きな異同が複数あるので、以上の訓読で読み変えた箇所がある。中略部分も補い、参考底本を参考にして改行・改段落を加えた。実は、後半部は参考底本では、飛んでいるここの左ページ四行目以降ので、そこも、最低、必要な部分(かなりカットされている)を加えた。

   *

 貞觀(ぢやうぐわん)十四年壬辰(みずのえたつ/じんしん)夏六月三十日己亥(つちのとゐ/きがい)[やぶちゃん注:清和天皇の御世。但し、この年は六月は小の月で「三十日はない。干支が合わないのは史料では価値が認められないから、調べてみると、前月五月三十日が「己亥」であるから、それで記すと、ユリウス暦八七二年七月九日、グレゴリオ暦換算で七月十三日である。それで採る。]、駿河國(するがのくに)國分寺の別堂に大蛇(おろち)、有り、「般若心經」卅一卷を復(あは)せて一軸と爲(な)ししを呑む。觀(み)る者、繩(なは)を以つて、蛇の尾に結び、倒(さかしま)に樹上(じゆじやう)の懸(か)く。小選(しばらく)して、經を吐き、蛇(へび)、地に落ちて、半(なかば)、死(し)に、俄(しばら)くして、更(また)、生きき。

 備後國(びごのくに)、連理(れんり)の樹(き)一(ひともと)を獲(え)き。

 同年秋七月、二十九(にじふく)日丁酉(ひのえとり/ていいう)[やぶちゃん注:この干支は正しい。ユリウス暦八七二年九月五日、グレゴリオ暦換算で九月九日。]、駿河國の蛇、佛經を呑みし異(しるまし[やぶちゃん注:奇怪な徴候・不吉な前兆。])、神祗官、卜(うら)して曰はく、

「當年の冬と、明年の春と、當國(そのくに)に、失火(しつくわ)・疫癘(えきれい)の災(わざはひ)、有り。」

と申(まう)しき。是(こ)の日、國司をして鎭謝(ちんしや)[やぶちゃん注:神霊をしずめなだめること。]せしめき。

   *]

2025/06/18

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「私雨」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)添え、段落・改行を成形した。なお、これで「駿東郡」のパートは終わっている。]

 

 「私雨《わたくしあめ》」 駿東郡足柄山《あしがらやま》にあり。傳云《つたへいふ》、

「天氣快霽《くわいせい》、外《ほか》一點の雲なき日といへども、此山、忽《たちまち》、雲、生じ、村雨《むらさめ》、降る。餘山《よざん》、猶《なほ》、晴明也。故に土俗、是を號《なづけ》て『私雨』と云《いへ》り。凡《およそ》、此《この》足柄山は、當郡竹の下村を境として、駿・相《さう》兩國に跨《またが》れり。故に茲《ここ》に記す。

 

[やぶちゃん注:「足柄山」ウィキの「金時山」によれば、読みは、「きんときやま」「きんときさん」で、『金太郎伝説や童謡「金太郎」の歌詞』の二『番』にある『足柄山の山奥で けだもの集めて相撲のけいこ……』『で知られる足柄山(あしがらやま)は、金時山から足柄山地の足柄峠にかけての山々の呼称である。山域の呼称であり、足柄山という単独の峰は存在しない』とある。「ひなたGIS」で示すとここで、一方、広域の足柄山地は、ウィキの「足柄山地」によれば、『神奈川県北西部に広がる丹沢山地と同県南西部の箱根山地の間にある標高』一千メートル『前後の小規模な山地であり、丹沢山地とは神縄断層および小菅沢断層、箱根山地とは内川断層によって境される』。『このように断層によって隔てられた山地であるが、丹沢山地や箱根山地の一部として扱われることも多い』。『山地中央部を流れる酒匂川によって北東部と南西部に分けられ、北東部は起伏の小さい地域、南西部は起伏の大きい山地となっている』。『いずれの地域も多くは』、『たおやかな地形となっているが、南部に位置する矢倉岳は石英閃緑岩の貫入岩体が浸食から取り残され』、『おにぎりを立てたような形となっており』、『足柄山地の象徴的な存在となっている』とある。因みに私は、神奈川県公立高校教師時代、若い頃と、終わりの頃に、ワンダフォーゲル部と山岳部の顧問をしたが、後者では、毎春は、金時山登山を常としていた。私は、ここから見る富士山が最も美しいと思う。グーグル・マップ・データのサイド・パネルの画像をリンクさせておく。

「竹の下村」現在の静岡県駿東郡小山町竹之下(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

2025/06/17

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 柚山椒

 

Yuzukosyou

 

ゆうさんしやう

 

柚山椒

 

本綱蘓頌曰東海諸島上有椒枝葉皆相似子長而不圓

甚香其味似橘皮島上麞鹿食其葉其肉自然作椒橘香

△按俗稱柚山椒者是也𠙚𠙚希有之枝葉子皆相似而

 其香氣似柚橘之類不上品伹其子長而不圓者少異

 而已

 

   *

 

ゆうさんしやう

 

柚山椒

 

「本綱」、蘓頌、曰≪はく≫、『東海諸島の上に、椒、有《あり》。枝・葉、皆、相《あひ》似て、子《み》、長《ながく》して、圓《まろ》からず。甚《はなはだ》、香《かほ》ふ[やぶちゃん注:ママ。]。其《その》味、「橘皮《きつぴ》」に似《にる》。島の上≪にては≫、麞-鹿《のろじか》、其の葉を食ふ。其の肉、自然に、椒・橘の香《か》を作《な》す。』≪と≫。

△按ずるに、俗、「柚山椒」と稱するは、是《これ》なり。𠙚𠙚《ところどころ》、希《まれ》に、之《これ》、有り。枝・葉・子、皆、≪山椒と≫相《あひ》似て、其の香氣、柚《ゆず》・橘《たちばな》の類《たぐゐ》に似たり。上品ならず。伹《ただし》、「其の子、長くして、圓かならず。」と云《いふ》は、少《すこし》、異《こと》なるのみ。

 

[やぶちゃん注:調味料としての「柚山椒」は私の欠かせないものだが、植物種としての「柚山椒」なるものは、ネット上では、如何にしても見出せない。従って、注は、一切、附せられない。東洋文庫訳もシカトしている。植物種として御存知の方は、是非、御教授を乞うものである。

 以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十の「果之四」「味類一十三種内附四種」の冒頭の「秦椒」の「集解」の一部である。

「橘皮」「第八十七 山果類 橘」の本文中の「橘皮」、及び、私の注の「枳実」及び「橘皮」を参照されたい。

「麞鹿」シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus。「獐(のろ)」とも。「ノロジカ」は哺乳綱鯨偶蹄目シカ科ノロ亜科ノロ属ノロ Capreolus capreolus 。漢字表記は「麕鹿」「麞鹿」麇鹿」「獐鹿」であるが、単に「ノロ」とも呼び、その場合は以上の「鹿」を除去した一字で通用する。ウィキの「ノロジカ」によれば、『ヨーロッパから朝鮮半島にかけてのユーラシア大陸中高緯度に分布する。中国では狍子』(パァォヅゥ:或いは単に「狍」)『と呼ばれる』。体長は約一~一・三メートル、尾長約五センチメートルと、『小型のシカ。体毛は、夏毛は赤褐色で、冬毛は淡黄色である。吻に黒い帯状の斑があり、下顎端は白い。喉元には多彩な模様を持つのがこの種の特徴である。臀部に白い模様があるが、雌雄で形は異なる。角はオスのみが持ち、表面はざらついており、先端が三つに分岐している。生え変わる時期は冬』。『夜行性で、夕暮れや夜明けに活発に行動する。食性は植物食で、灌木や草、果実などを食べる』とある。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麞(くじか・みどり) (キバノロ)」も参考になろう。]

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 冬山椒

 

Huzansyou

 

ふゆさんしやう 俗稱

 

冬山椒

 

 

本草蘇頌曰秦椒初秋生花秋末結實九月十月采之

△按有冬山椒者其葉大而冬實熟者此秦椒之別種也

 人以爲珍然不如夏山椒氣味佳者時珍未見之乎𧁨

 頌之說以爲不然者非也

 

   *

 

ふゆざんしやう 俗稱

 

冬山椒

 

 

「本草」に曰はく、『蘇頌が曰《いは》く、「秦椒、初秋、花を生じ、秋の末、實を結ぶ。九月、十月に、之≪を≫、采《とる》。」と云《いふ》[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]。

△按ずるに、「冬山椒」と云《いふ》[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]者、有り。其《その》葉、大にして、冬、實、熟する者、此れ、「秦椒」の別種なり。人、以《もつて》、珍と爲《なす》。然れども、「夏山椒」の氣味、佳なる者には、如《し》かず。時珍、未だ、之《これ》を見ざるや。𧁨頌《そしよう》の說を以《もつて》、「然《しか》らず」と爲《なす》は、非なり。

 

[やぶちゃん注:これは、良安にして珍しく(皮肉ではない。鎖国時代の彼にして、正しい種を、たまたま来訪した中国人の漢方に関わる又聞きででも基原植物について多少は聞いたものであったとしても、机上で中国の本草書の各種資料を基に、推理して現代の種名の正解を言い当てるのは、かなり難しいことだと言ってよい。しかも以下の引用を見るに、本邦で漢方生剤としてよく用いられてはいなかったようであるから、なおさらである)、正しい推定が図に当たったもので、日中共通種である、既出のカホクザンショウの変種である、

サンショウ属カホクザンショウ変種フユザンショウ(冬山椒) Zanthoxylum armatum var. subtrifoliatum

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした。太字は私が附した)。『名前の由来は冬でも葉を落とさないサンショウという意味』原種の『学名の』種小名“ armatum ”『は、「刺のある」の意味。冬でもわずかに葉を残す』。『中国、台湾、朝鮮半島、日本に分布する』。『日本では本州(関東地方以西)、四国、九州、沖縄の丘陵帯に分布する』。『暖地の山地に生える』『常緑広葉樹の低木』で、『樹高は』二~三『メートル』『ほど』(原種と同じ)。『雌雄異株だが』、『日本では雌株だけしか存在しない』(原種は雌雄ともに日本に植生する)。『樹皮は灰黒色で筋があり、こぶ状の大きなトゲの名残がある。若い幹の樹皮は皮目が多い。一年枝は赤褐色で、無毛または毛が残り、枝や葉柄の基部には対生するトゲがある。若い枝やトゲは同じ色合いで、白い葉痕が目立つ。葉は奇数羽状複葉で互生する。葉柄には翼がある。小葉は』三~七枚『の長楕円形。頂小葉が一番大きい。葉縁には鋸歯がつく』(原種の「サンショウ」のウィキには、『葉柄の基部に鋭い棘が』二『本ずつ対生してつくが、ときに単生するものや』、『突然変異で棘の無い株(実生苗)も稀に発生し得る』。『棘の無い「実山椒(雌木)」としては但馬国の朝倉谷(兵庫県養父市八鹿町朝倉地区)原産の「朝倉山椒」』(前項参照)『が特に有名であるものの』、それに限らず、『日本各地で棘の無いサンショウの栽培が見られる』とある)。『花期は』四~五『月ごろ。葉腋に』二~三『センチメートル』『の花序を出し、淡黄緑色の小さな花をつける。雌株だけで実をつける単為生殖で増える。果期は』八『月で』、十~十一『月には果実は赤く熟し』、二『つに分かれる。種子は黒色で直径約』五『ミリメートル』『ある』。『冬芽は裸芽で、幼い葉が小さく集まり、側芽は枝に互生する。葉痕には維管束痕が』三『個つく』。本邦では、『葉や実には芳香性が無いので、サンショウのように食用にはならないが、サンショウの接ぎ木の台木としては用いられる』とある。

 以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十の「果之四」「味類一十三種内附四種」の冒頭の「秦椒」の「集解」の一部である。既に当該項の全文を先行する「秦椒」の注で「本草綱目」の「秦椒」の項の全文を掲げてあるが、当該部は、

   *

頌曰今秦鳳明越金商州皆有之初秋生花秋末結實九月十月采之

   *

の抄録である。蘇頌(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)は北宋の科学者で宰相。「本草圖經」等の本草書があった。原本は散佚したが、「證類本草」に引用されたものを元にして作られた輯逸本が残る。時珍は彼の記載を「本草綱目」で、かなり引用している。而して、良安が引いているのは、「集解」の終りの時珍の記載の最終部で、

   *

蘇頌謂其秋初生花蓋不然也

   *

である。但し、軽々には、ここで蘇頌が言っているのが「冬山椒」であり、時珍が蘇頌が指示しているものが、「冬山椒」であり、良安がまた、同じく「冬山椒」と判断し、蘇頌が誤記している、と認めることは、そもそもが、「本草小目」の「秦椒」と「蜀椒」が、現代の研究に基づくと、複数の同一種の混淆記載であることが指摘されている以上、到底、不可能であることに注意されたい。

2025/06/16

葛デブリ掃討最終決戦を本日午前中独りで二時間決行!

折れた中木を梯子から切り倒し、頂上の葛骸骨も99%除去した! 体がガタガタになったが、達成感120%!

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 朝倉椒

 

Asakurazannsyou

 

[やぶちゃん注:下方の中央やや左位置に二つの花をつけた枝が、独立して添えて描かれてある。実は本図内にさわに実っている。]

 

あさくらさんしやう

 

朝倉椒

 

 

△按朝倉山椒始出於伹馬朝倉谷【其谷兩岸四五町閒皆椒樹也】丹波

 丹後多接其枝今人以爲丹波朝倉近頃奧州津輕之

 産亦顆大而氣味勝矣京師大坂人家雖接枝多不長

 經四五年者希也山椒之名𢴃此其樹無刺葉大而顆

 亦大於他椒夏月開小花其目光黒最美其子生者不

 佳可以枝接

椒紅 俗云乾山椒也常乾山椒辛味微而經月則變苦

 朝倉椒正赤而甚辛越年亦味不變伹忌觸人手此乃

 本草所謂蜀椒乎然蜀椒不𬜻結子朝倉椒有花亦無

 針蓋此一種因土地之異然耳

 凡蛇喜山椒樹來棲反鼻蛇最然矣


椒葅法

[やぶちゃん字注:「葅」は原文では、(くさかんむり)の左下は「メ」「メ」であるが、異体字にはないので、これとした。この字は「漬物」を意味する。

△按淹山椒六月用半熟者一升鹽三合和藏缾噐入水

[やぶちゃん字注:「缾」は原本では(へん)が「卸」の(へん)になっているが、誤刻と断じて訂した。この漢字は「瓶」と同字である。口が小さく、徳利(とっくり)に似た形をしている噐を指す。]

二升上安小木板而用小石畧壓之使椒不浮漂毎用取出以後亦如此否則變色味

 

   *

 

あさくらさんしやう

 

朝倉椒

 

 

△按ずるに、朝倉山椒《あさくらさんせう》は、始《はじめ》、伹馬《たじま》の朝倉谷《あさくらだに》に出づ【其の谷の兩岸、四、五町[やぶちゃん注:四百三十六~五百四十五メートル。]の閒、皆、椒樹《せうじゆ》なり。】。丹波・丹後に多《おほく》、其の枝を接《つ》ぎ、今の人、以《もつて》、「丹波の朝倉」と爲《なす》。近頃、奧州津輕(つがる)の産、亦、顆《つぶ》、大にして、氣味、勝《まさ》れり。京師・大坂の人家に枝を接ぐと雖《いへども》、多《おほ》≪くは≫長《ちやう》ぜず、四、五年を經る者、希《まれ》なり。「山椒」の名、此《これ》に𢴃《よる》[やぶちゃん注:ここは、平野平地ではなく、山や谷間の地で、よく成長することに由来する名であることを言っているのである。]。其《その》樹、刺《とげ》、無く、葉、大にして、顆《たね》も亦、他《ほか》≪の≫椒《せう》より、大なり。夏月、小≪さき≫花を開く。其の目《み》[やぶちゃん注:「實」。]、光り、黒《くろ》≪くして≫、最≪の≫美なり。其の子生(みば)への者は、佳《か》ならず。枝を以≪つて≫接《つ》ぐべし。

「椒紅《せいこう》」は、俗、云《いふ》「乾山椒(ひさんしやう)」なり。常《つね》の乾山椒は、辛味、微にして、月を經れば、則《すなはち》、變じて、苦(《に》が)し。朝倉椒は、正赤にして、甚だ、辛く、年を越《こえ》ても亦、味、變ぜず。伹《ただし》、人の手を觸《ふる》ふを忌む。此《これ》、乃《すなはち》、「本草≪綱目≫」に所謂《いはゆ》る、「蜀椒《しよくせう》」か。然れども、蜀椒は、𬜻《はな》、さかずして、子《み》を結ぶ。「朝倉椒」は、花、有《あり》て、亦、針、無し。蓋し、此れ、一種にして、土地の異に因《より》て然《しかる》のみ≪ならん≫。

 凡そ、蛇(へび)、山椒の樹を喜《よろこび》て來《きた》り、棲《すむ》。反鼻蛇(くちはみ《へび》)[やぶちゃん注:有鱗目クサリヘビ科マムシ(蝮)亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii の異名。]、最も然り。


椒葅法(づけさんしやう)

△按ずるに、山椒を淹(つ)けるに、六月、半熟の者を用《もちひ》て、一升≪に≫鹽三合、和《わ》して、缾-噐(つぼ)に藏(をさ)め、水二升、入《いれ》て、上に、小《ちさ》き木板《きいた》を安《やすん》じ、小石を用て、畧《ほぼ》、之れを壓(お)し、椒をして、浮《うき》漂《たゞよ》はざらしめ、用る毎《ごと》に、取出《とりいだし》、以後、亦た、此《かく》のごとくす。否(しからざ)れば、則《すなはち》、色・味を變ず。

 

[やぶちゃん注:「朝倉」山「椒」は、当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『朝倉山椒(あさくらさんしょ)』現代仮名遣では、ネット検索では多くは「あさくらさんしょう」ではなく「あさくらさんしょ」である。但し、後に示すように正式な和名品種の学名は「アサクラザンショウ」で、濁る。ところが、「あさくらざんしょう」と濁る読みは流通を含み、ネット上には見当たらない。例外例らしいものは、栽培用の接木用の「朝倉実山椒」で、これは素直に読むなら、「あさくらみざんしょう」と読んでいる可能性が高いと私は思う『は、兵庫県養父市特産の山椒。毎年』六『月から』七『月にかけてと』、九『月の、年』二『回の収穫時期がある。但馬地方の地域ブランドとしての名称は「朝倉さんしょ」であるとある。『論文と現地調査から朝倉山椒の原産地は今瀧寺』(現在の兵庫県養父市八鹿町(ようかちょう)今滝寺(こんりゅうじ):グーグル・マップ・データ)で、『発祥の地が』、そこの東直近の『養父市八鹿町朝倉』(グーグル・マップ・データ)『とされている』。『柑橘系の爽やかな香りと、さっぱりと柔らかな辛みが特徴的な山椒で、枝に棘がなく、実が多くつく。全国で栽培されている山椒の多くは、この朝倉山椒の中からとくに大きな実のなる苗木を交配し、品種改良したものとなっている』。『文献にみえる最古の記録は、慶長』一六(一六一一)年九月二十六日、『生野奉行』(いくのぶぎょう:織田信長・豊臣秀吉、及び、江戸幕府により置かれ、「生野銀山」を管理した。享保元(一七一六)年、同銀山の産出量減少のため、「生野代官」に組織変更された)『の間宮新左衛門が駿府城にいた徳川家康に献上したことを伝える記録で、朝倉の集落で多く栽培されていたことから「朝倉山椒」と記録したものとみられる。また、寛永年間』(一六二四年~一六四四年)『のある年』、十一月二日『に、出石』(いずし:兵庫県豊岡市内)『出身の名僧と知られる沢庵和尚が、松平阿波守』(阿波徳島藩第二代藩主蜂須賀忠英(ただてる))『に朝倉山椒を一折を贈った記録が残る』。さらに『先立つこと』、天正一四(一五八六)年『には、豊臣秀吉が焦がした山椒を白湯に入れて飲み、風流だと喜んだとも伝えられ、山椒は高貴な身分の者への献上品として好まれたとみられる。江戸時代には出石藩、篠山藩などから、枝付きの房のままの成熟した山椒を袋や箱に入れて幕府へ献上された』。『江戸時代になると、俳諧、狂歌で朝倉山椒が題材となっている』。延宝六(一六七五)年『には狂歌で半井朴養』(なからいぼくよう:本業は幕医)が、

 朝倉や木の丸粒の靑山椒

という一首を詠じている、とあった。

 無論、これは本邦のサンショウの品種であり、学名は、

アサクラザンショウ Zanthoxylum piperitum f. inerme

である。ウィキの「サンショウ」の「系統品種」の

『アサクラザンショウ(朝倉山椒、Z. piperitum (L.)DC forma inerme (Makino) Makino)』の項には、

『突然変異で現れた、棘の無い栽培品種をいう』。『江戸時代から珍重されていた』。『実生では雌雄不定で』、且つ、『棘が出てくるので、主に雌株を接ぎ木で栽培した物を朝倉山椒として販売している』とあった。なお、実はネットで調べたところでは、

――別名に「ブドウンショウ(葡萄山椒)」がある――

という記載があったのだが、このウィキでは

   *

『ブドウザンショウ(葡萄山椒)

アサクラザンショウから派生した系統とされる。小さいものの、枝に棘がある。樹高が低く、果実が大粒で葡萄の房のように豊産性であるため、栽培に適している』。『雌株を接ぎ木で栽培している。』

   *

とあった。但し、学名を添えていない

『「椒紅《せいこう》」は、俗、云《いふ》「乾山椒(ひさんしやう)」なり。常《つね》の乾山椒は、辛味、微にして、月を經れば、則《すなはち》、變じて、苦(《に》が)し。朝倉椒は、正赤にして、甚だ、辛く、年を越《こえ》ても亦、味、變ぜず。伹《ただし》、人の手を觸《ふる》ふを忌む。此《これ》、乃《すなはち》、「本草≪綱目≫」に所謂《いはゆ》る、「蜀椒《しよくせう》」か。然れども、蜀椒は、𬜻《はな》、さかずして、子《み》を結ぶ。「朝倉椒」は、花、有《あり》て、亦、針、無し。蓋し、此れ、一種にして、土地の異に因《より》て然《しかる》のみ≪ならん≫』地域性個体変異説は誤り。既に前の「蜀椒」の私の注で述べた通り、「蜀椒」は冒頭の「秦椒」と同じ、

サンショウ属カホクザンショウ(華北山椒) Zanthoxylum armatum 

である。

「凡そ、蛇(へび)、山椒の樹を喜て來《きた》り、棲。反鼻蛇(くちはみ《へび》)、最も然り」私は嘗つて、宅地の一画に永らく大きなサンショウの木があったが、ヘビやマムシ云々という事実はない(その比較的近くに巨大なアオダイショウが今も巣を作っているが、サンショウの木に近づいたことは、ない。また、以上の話は、私は全く聴いたことがない。しかし、「YAHOO!知恵袋」のここで、『少し前に 山から採ってきた山椒の木を玄関先の花壇に植えました。ところが、年寄りに「山椒にはまむしが来るので 玄関はやめた方がいい、山の畑に植えろ!」と言われました。本当なんでしょうか? 私は、山椒の葉などを料理に使いたいので いつでも、とって使えるところがいいと思ったのですが・・・』という問いに対し、ある応答では、『マムシの臭(匂)い・・・嗅いだ事がありますか?(野山でマムシに出会うと、一種独特の臭いがします)。よく「マムシの臭い≒山椒の匂い」に例えられます。(「鮎の匂い≒西瓜の匂い」と同様、感じ方には個人差があります)。山椒を植えたからといって、マムシが寄って来るというのは迷信だと思いますが、一部の園芸種を除く山椒には、鋭い棘があります。人の往来の多い玄関先に植えると、棘による思わぬ事故が・・・。その辺を心配した迷信かも知れませんネ。(以下略)』と応じており、「ベストアンサー」の「ねずみ1番さん」のそれには、『うちは山の林の中にありまして、近所の家の縁側にはマムシ焼酎の大瓶が並んでいたりするんですけど(つまりそこらじゅうにマムシがいる)、我が家のテラスのど真ん前に山椒の木を植えてありますが、テラスでマムシを見たことはありません。庭の端のほうには居ると思います。「草やぶ化」していて長靴なしでは歩けませんから。山椒にイモムシ・ケムシがつくと、たった一日で驚くほど食べ尽くされてしまうそうです。姉が東京のアパートのベランダで被害に遭ったそうです。うちは野鳥がいっぱい来るみたいだから(関心がないから、しっかり観察していない)それで無事なんだと思います。実際、時々高い木の上から小鳥が飛んできて、山椒の木に2~3羽とまっています。トゲトゲなのに。「庭に小鳥を呼ぼう」みたいな本を買ってきて餌台みたいなのを作ったら、山椒の木を守ってもらえるかもしれませんね。全般的に無責任口調ですみません。山椒の木が一本あると料理に便利ですよね。山の畑が遠いのでしたら、そこまで離れたところに植えるのは残念ですね。葉を大量に摘んで佃煮にしても美味しいですよ♪(余談)って言うかこの回答丸ごと余談です。』とあった。一応、「アホ臭」と思いながらも、ネット検索を続けたが、生物学的に相互の親和性を記す記事は皆無であった。

2025/06/15

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「小龍爲佛身」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)添え、段落・改行を成形した。]

 

 「小龍爲佛身《しやうりゆう ぶつしんと なる》」 駿東郡某の村にあり。

 「風土記」云《いはく》、

『駿河郡古家靑龍寺、寄田二十七束二畝半二毛田、朱鳥元年丙戌十月、役小角點小龍而爲佛躰、故曰二靑龍寺一云云。』。

古家は鄕名《がいめい》也。按《あんず》るに、人、信じても、得難きは佛果《ぶつくわ》也。然《しか》るを、小角いか成《なる》法力《はふりき》の有《あり》てか、小龍をたやすく佛《ほとけ》とはなしたる、實《げ》に奇と云《いふ》べし。

 

[やぶちゃん注:「風土記」の漢文部を推定訓読しておく。これは、通常の「駿河風土記」である。

   *

 駿河郡《するがのこほり》古家《ふるいへ》靑龍寺《せいりゆうじ》、寄田《よりだ》二十七束《そく》二畝半《ほはん》二毛田《にもうだ》、朱鳥(しゆてう/すてう/あかみとり)元年丙戌(ひのえいぬ)十月、役小角《えんのおづぬ》、小龍を點《てん》じ、而して佛躰《ぶつたい》と爲《な》す。故《ゆゑ》、「靑龍寺」と曰ふ。云云《うんぬん》。

   *

「駿東郡某の村にあり」「駿河郡古家靑龍寺」当初、「富士宮市」公式サイト内の「柚野の地名について」(「柚野」は「ゆの」と読む)に、『古代の富士郡の地名を記したものとして』「倭名類聚抄」『という平安時代中期に作られた漢和・百科事典があります』。『これによれば、富士郡は当時「島田(しまだ)・小坂(おさか)・古家(ふるいえ)・蒲原(かんばら)・馬家(うまや)・大井(おおい)・久武(くに)・姫名(ひな)・神戸(かんべ)」の』九『つの郷と呼ばれる地域にわかれていました。ただ』、『具体的にどの郷が現在のどこにあたるのかは書かれていません』とあり、同定は難しいかと思ったのだが、「青龍寺」で調べると、御殿場市に現存する寺が確認出来たため、「御殿場静岡 役行者 龍 仏身 青龍寺 御殿場」で調べたところ、「静岡県:歴史・観光・見所」「御殿場市: 青竜寺」のページに、『青竜寺(御殿場市)概要:』『護法山青龍寺は静岡県御殿場市増田に境内を構えている臨済宗建長寺派の寺院です。青竜寺の境内に作庭された池に浮ぶ蓮青竜寺境内に植樹された大木と石碑青龍寺の創建は飛鳥時代に修験道の祖とされる役行者(役小角)によって開かれたのが始まりとされます。総門は切妻、本瓦葺き、一間一戸、四脚門。本堂は木造平屋建て、入母屋、銅瓦棒葺き、平入、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。山門は宝形屋根、銅板葺き、上層部鐘撞堂、外壁は柱のみの吹き放し、高欄付き、下層部は袴腰、外壁は下見板張り縦押縁押え、鐘楼門形式。落ち着いた境内には苔むした石段があり正面には珍しい袴腰造の鐘楼門が建っています。山号:護法山。宗派:臨済宗建長寺派。本尊:阿弥陀如来。』とあったので、役行者所縁の寺は静岡に複数あるようだが、まず、ここがそれと断定してよいと思われる。現在の静岡県御殿場市増田(ましだ)のここにある(グーグル・マップ・データ)。

「寄田」これは「寄るところの寺領持ちの田圃」の意味でとっておく。

 さて、調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河國新風土記 富士山、附錄、第九」「第十輯」(扉標題(活字印刷)・駿河/新庄道雄著・出雲/足立鍬太郞訂・昭和九(一九三四)年志豆波多會刊・但し、本文はガリ版刷(但し、一部は印字が薄いが、かなり読み易い)の、ここから書かれてある「役小角」(左丁七行目冒頭に四角で「役小角」とある)の長い記載の、ここの右丁の二行目以降に、「風土記」の記事が記され、さらに次のコマまで書かれてあるので見られたい。活字に起こすことも考えたが、これと言って、この底本の電子化については、注に相当な時間と労力をかけている割には、読者のエールも極めて少ないので、やらない。悪しからず。

2025/06/14

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「桃澤池奇怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)を添えた。]

 

 「桃澤池奇怪《ももざはいけ の きくわい》」 駿東郡上窪村桃澤池にあり。「風土記」云《いはく》、『駿河郡桃澤、桃澤池、東西三里、南北四里程、出于鮮、又令ㇾ栖鴻雁鸛鶴鴨鷺名禽池島有ㇾ神、所ㇾ祭鳴澤女神也。土俗、以兒夜啼、祈此社、其忽驗如ㇾ巡ㇾ掌、曰鳴神云云。』。今は祈る者ありとも聞えず。

 

[やぶちゃん注:先に「風土記」(既出既注であるが、正規の「風土記」ではない、怪しいものだが、本記載は、国立国会図書館デジタルコレクションの現行の複数の「駿河風土記」を調べたが、見当たらない)の引用部を推定で訓読する。原文は、送り仮名が一箇所あるのみで、かなり不全であるから、自然流で補ってある。一部の読点を句点に代えた。

   *

 駿河郡《するがのこほり》桃澤《ももざは》、桃澤池《ももざはのいけ》、東西三里、南北四里程、鮮《あざや》かに出で[やぶちゃん注:景観がくっきりと見通せるさまであろう。]、又、令ㇾ鴻《こうのとり》・雁《かり》・鸛《こふのとり》・鶴《つる》・鴨《かも》・鷺《さぎ》の名禽《めいきん》[やぶちゃん注:名だたる鳥たち。]を栖《す》めしむ。池の島、神、有り、所ㇾ鳴澤《なきさは》の女神を祭《まつり》せむなり。土俗に、「兒《こ》の夜啼《よなき》を以つて、此の社《やしろ》に祈れば、其れ、忽ち、驗《しるし》、掌《たなごころ》を巡《やすん》ずる[やぶちゃん注:「手のひらを合わせて祈るやいなや、立ちどころに平癒する」の意であろう。]がごとくなれば、『鳴明神《なきみやうじん》』と曰《まう》す。」と云云《うんぬん》。

   *

この「桃澤池」は不詳であるが、既に、三つ前の本「卷之二十四下」冒頭の「神木鳴動」に「桃澤」は出る。しかし、ここは、愛鷹山の南東の山麓であり、このような大きな池は見出せない(「ひなたGIS」を見よ)。しかし、そちらでは、「安倍郡鯨《くじら》か池」、現在の静岡県静岡市葵区下(しも)に現存する「鯨ヶ池」(グーグル・マップ・データ)、及び、「淺畑池」(グーグル・マップを見ると、鯨ヶ池の南南東に、現在、「麻機遊水池」、及び、周辺に池様のものが、複数、点在するので、同一場所を、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、ここに広大な「淺畑沼」が確認出来る)という「池」が出る。と言っても、「東西三里、南北四里程」もの池沼ではない。但し、後者の「淺畑池」は、近世には、「鯨ヶ池」よりも遙かに広大な「沼」であった可能性が高いから、位置に甚だ問題があるが、私はここを一つの候補としたい気がしている。しかし、駿東郡で水鳥が多く棲息している湿原であるならば、やはり既出の『「卷之二十四上」「富士沼水鳥の怪」』に出る「浮島原」が、俄然、第一候補となろうと思う。

 因みに、この「鳴澤女神」というのは、原型は「泣澤女神」(なきさはめ)である。別名を「啼澤女神」「哭澤女命(なきさはめのみこと)」など呼ぶ。ウィキの「ナキサワメ」によれば、『国産み・神産みにおいて』「いさなき」『(伊邪那岐)』と「いさなみ」『(伊邪那美)との間に日本国土を形づくる数多の子を儲ける。その途中、』伊邪那岐『が火の神である』「かぐつち」『(迦具土神)を産むと』『陰部』(ほと)『に火傷を負って亡くなる。「愛しい私の妻を、ただ一人の子に代えようとは思いもしなかった」と』伊邪那岐『が云って』伊邪那美『の枕元に腹這いになって泣き悲しんだ時、その涙から成り出でた神は、香具山の麓の丘の上、木の下におられる。この神がナキサワメである』。奈良県橿原市にある『畝尾都多本』(うねおつたもと)『神社に泣沢という井戸があり、その井戸が御神体として祀られている』。『この事から、ナキサワメは大和三山の一つである香具山の麓の畝傍から湧き出る井戸の神様ということになる。井戸の中には、ナキサワメが流した涙があるといわれている。その井戸には、和歌が残っている』。これは、「万葉集」の「卷第二」で(二〇二番)、素性は不明の奈良時代の皇女である檜隈女王(ひのくまのおほきみ)の詠歌で、

   或る書の反歌一首

 哭澤(なきさは)の

   神社(もり)に神酒(みき)すゑ

  禱祈(いの)れども

    わご大君(おほきみ)は高日(たかひ)知らしぬ

である。以下、ウィキの訳。

『泣沢神社の女神に神酒を捧げて、薨じられた皇子の延命を祈っているのに、皇子はついに天を治めになってしまわれた。』で、『その左注に』、

   *

右一首、「類聚歌林」に曰はく、桧隈女王の泣澤神社を怨(うら)むる歌といへり。「日本紀」を案(かむが)ふるに云はく、「十年丙申[やぶちゃん注:六九六年。]の秋七月辛丑の朔(つきたち)の庚戌(かうじゆつ)、後(のち)の皇子尊(のちのみこのみこと)、薨(かむあが)りましぬといへり。

   *

『と記されている。 これは、持統天皇十年』(六九六年)『に、妃である』『ヒノクマオオキミ』(檜隈女王)『が再生の神に神酒を捧げタケチノミコ(高市皇子)の延命を祈ったのに、蘇ることなかったという、ナキサワメを恨む和歌である』。この神の『神名は「泣くように響き渡る沢」から来ているという説がある。また、「ナキ」は「泣き」で、「サワ」は沢山泣くという意味がある。「メ」とあるので女神である』。『江戸期の国学者、本居宣長は』、「古事記傳」で、『「水神」「人命を祈る神」、平田篤胤は「命乞いの神」と称するなど、水の神、延命の神として古代より信仰を集めている』。『太古の日本には、巫女が涙を流し死者を弔う儀式が存在し、そのような巫女の事を泣き女という。この儀式は死者を弔うだけではなく魂振りの呪術でもあった。泣き女は神と人間との間を繋ぐ巫女だった。ナキサワメは泣き女の役割が神格化したものとも言われており、出産、延命長寿など生命の再生に関わる信仰を集めている。また、雨は天地の涙とする説があり降雨の神様としても知られている』とある。

 さて。ここで、何故、この富士山山麓に近い位置に、この「鳴澤女神」が祀られていたのかを考えるに、全く根拠はないのだが、私は、この短い「風土記」の記事の文字列と音通から、

――富士山の轟き渡る噴火の際の「鳴」や、溶岩の流れる「澤」を神威と捉えた、この辺りの往昔の人々が、この「泣澤女神」の音通から、習合させたものではないか?――

と感じた。而して、小児の「夜泣き」の病いを癒すというのも、

――実際には、噴火の「夜」の鳴動(鳴き)を封じて呉れる神から転じて、日常的な音通の、嬰児の「夜泣き」封じの祈願に転訛されたものではないか?――

と思い至った。何らの伝承や学術的裏打ちはないから、私の思い付きに過ぎない。大方の御叱正を俟つものではある。

 なお、この本文の内容を、いろいろ調べてみたものの、ロクなものはなかったのだが、一つ、目が止まったものがあった。それは、国立国会図書館デジタルコレクションで「桃澤池」を検索していた中で見つけたもので、「加賀志徴 下編」(森田平次著・昭和四四(一九六九)年石川県図書館協会刊)の「卷十」の「石川郡」の「夜啼きの松」の一節である。以下に示す。因みに、本書は歴史的仮名遣で、以下は正規表現である。

   《引用開始》

○夜啼きの松  額谷村[やぶちゃん注:現在の石川県金沢市額谷(ぬかだに:グーグル・マップ・データ)周辺と思われる。]。○此谷川の川緣なる山上にあり。小兒の夜泣きする時は、此松の皮を取り來りて枕邊に置けば、必止るといへり。おかなる由緣にや詳ならず。○按ずるに、惣國風土記。駿河郡桃澤池の條に、池島有ㇾ神。所ㇾ祭鳴澤女神也。土俗以兒夜啼此社。其忽驗如ㇾ巡ㇾ掌。曰鳴神。とあり。此はかの笠明神に瘡痛の事を祈る如く、鳴澤女てふ神名より起りたる俗諺なるべし。源平盛衰記卷二十六に、平相國出生の事を記して、此子生れてより夜泣する事不ㇾ懈[やぶちゃん注:「おこたらず」。頻りに夜泣きして止まない。]。忠盛大きに歎きけり。我實子ならば里へも放し度思ひけれども、勅定を蒙り申けり。證誠殿[やぶちゃん注:「しやうせいでん」。熊野本宮神社にある式場神殿。]の御殿に戶を推開き[やぶちゃん注:「おしひらき」。]、御託宣とおぼしくて一首の歌あり。『夜泣すと忠盛たてよみどり子は淸くさかゆる事あれ[やぶちゃん注:二重鍵括弧閉じるは、ない。]と。悅の道に成つて、黑目に付たりければ、夜泣ははや止みにけり。云々。

   *

最後の「悅の道に成つて、黑目に付たりければ、」の意味は、私にはよく判らない。恐らくは、『託宣の歌を受けることが出来たので、忠盛は悦(えつ)に入って、不安だったために、目が白黒していたのが、晴眼となった(すっかり安心した)ので、』という意味か。さても。この森田氏の解釈は、まあ、穏当ではあろうが、失礼乍ら、わざわざ、本話や「源平盛衰記」の引用を事大主義的に引いて示すほどのこともないようには思う。因みに、なるほど、「駿河風土記」に出ないはずだ。これは、別な「惣領駿河風土記」なんだな。しかし、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本版を調べたが、載ってなかった。写本だから、しゃあないか。いい加減、飽きた。これまでとする。]


2025/06/13

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「箭柄墳の奇事」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点の変更や追加をし、記号を加えた。但し、漢文部はいじっていない。]

 

 「箭柄墳《やがらづか》の奇事」 駿東郡柏原《かしはばら》驛にあり。今、其墳蹟《つかあと》、詳《つまびらか》ならず。「風土記」云《いはく》、

『駿東郡栢原、箭柄墳。白鳳年中、有一樵翁、食ㇾ芝絕ㇾ粒、恰如仙客、齡歷九旬、其步行一日期二百里、隣國自在也。白鳳十二年癸未十月朔、至原之巖窟、忽不ㇾ見其跡、行人成其奇異、所ㇾ殘所ㇾ携右手之箭柄而已、故國造擧ㇾ之埋其箭柄、曰二箭柄墳一。樵翁不ㇾ委二其姓氏一。云云。』。

 

[やぶちゃん注:この記事が書かれた時点で、この岩窟・「墳」=塚は消失していただけに、現行のネット上では、全く掛かってこない。取り敢えず、あったとする「柏原驛」であるが、これは、現在の静岡県富士市柏原(かしわばら)(グーグル・マップ・データ:読みは現行の読みで歴史的仮名遣で加えた)。但し、「ひなたGIS」で見ると、現行より東西に広いように感じられる。現行の位置だと、「浮島原」の湿田地帯である。凡そ「巖窟」があろうとも思われない。ここには、現在、「浮島ヶ原自然公園」(グーグル・マップ・データ航空写真)があり、これは、湾口・砂州の形成、及び、その内湾のラグーン化・低湿化した場所である。或いは、古くに、何らかの局所的地震・地殻変動・津波等による変貌が疑われる。

「風土記」既出既注。正規の「風土記」ではない、怪しいものである。因みに、国立国会図書館デジタルコレクションの「修訂駿河國新風土記(續篇)第一輯」(「駿河地志稿 駿東郡之部」(贄川良以著・贄川他石補綴・昭和九(一九三四)年志豆波多會刊・★謄写版★印刷)の「△郷名考」のここに、以下の記載がある。

   *

箭柄塚  舟津邊にありと云共さだかならず、今山伏塚と云あり、浮島二つ社女塚男塚と云

   

但し、これらの「塚」の記載を調べても、やはりネットでは見当たらない。しかし、この「船津」は「ふなつ」で、現在の富士市船津(グーグル・マップ・データ)で、旧駿東郡であり、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、旧浮島沼の北東部に位置する。ここは愛鷹山の南西麓で、古くに「巖窟」があってもおかしくない場所である。さらに調べると、この地区には、「稲荷塚古墳」がある。「富士市」公式サイトの「浅間古墳から始まる富士の古墳文化」のページに、『古墳時代、浮島ヶ原の周辺では人々が活発に活動し、浅間古墳をはじめとする多くの古墳がつくられ、豊かな文化が育まれました』とあり、ずっと下に、「稲荷塚古墳」があり、『春山川東岸につくられた円墳【富士市指定史跡】』とあり、そこに『稲荷塚古墳の周辺は古墳の密集地帯』であるとある。そうだ! 「巖窟」とは「古墳」であると考えれば、納得が行くのだ! この附近が、この話の震源地であることは、最早、疑いがない!!

 以下、漢文部を推定で補助(御覧の通り、送り仮名が全くない)して、訓読しておく。句読点は私の判断で変更・追加した。

   *

 駿東郡(すんとうのこほり)栢原(かしはばら)、箭柄墳(やがらづか)。白鳳年中、一《ひとり》の樵翁《きこりのおきな》、有り。芝(し)を食ひ、粒(めし)を絕つ。恰(あたか)も仙客(せんかく)のごとく、齡(よはひ)九旬(くじゆん)を歷(ふ)るも、其の步-行(ありき)、一日(いちじつ)、二百里を期(き/ご)し、隣國(りんごく)なるとも、自在なり。白鳳十二年癸未(みづのとひつじ)十月朔(つひたち)、原(はら)の巖窟(ぐわんくつ)に至り、忽(たちま)ち、其の跡を見ず。行く人、其れ、「奇異」と成す。殘されしは、携へし所の右手の箭柄(えがら)のみ。故(ゆゑ)に、國造(くにのみやつこ)、之れを擧(とりあ)げて、其の箭柄を埋(うづ)む。「箭柄墳」と曰ふ。樵翁は、其の姓氏、委(くは)しからず。云云(うんぬん)。

   *

「白鳳年中」これは「日本書紀」に現われない私年号の一つ。通説では「白雉」(六五〇年〜六五四年)の別称・美称とされる。

「芝」「霊芝」でご存知の通り、実は、この「芝」と言う漢字は、まさに担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum を指す漢字として作られたものなのである。「シバ」ではなく、「神聖なキノコ」を示す漢語なのである。レイシに就いては、私の「日本山海名産図会 第二巻 芝(さいはいたけ)(=霊芝=レイシ)・胡孫眼(さるのこしかけ)」を参照されたい。所謂、仙人の常食物として知られる。

「九旬(くじゆん)」数え九十歳。

「二百里」ウィキの「里」によれば、「大宝律令」で「里 」は「五町」で「三百歩」と規定されてあった。『但し、当時の尺は、現存するものさしの実測によれば』、『曲尺』(譯〇・三センチメートル)『より』も二~三『%短いため、歩・町も同じ比率で短くなる』ため、『当時の』一『里はおよそ』五百三十三・五メートル『であったと推定されている』から、それで換算すると、百六・七キロメートルとなる。

「白鳳十二年癸未(みづのとひつじ)十月朔(つひたち)」「白雉」は五年で終わり、続く朱鳥(しゅちょう)は一年で終り、続く大宝も四年までであるから、慶雲元(七〇四)年となる(大宝四年五月十日改元)。しかし、慶雲元年の干支は「辛丑」で、合わない。干支を誤るものは史料としては使えないので、通常は、本記載自体が無効となるので、これでアウトだが、一応、言っておくと、この前後で「癸未」となるのは、遙か前の推古天皇三一(六二三)年と、遙か後の天武天皇一二(六八三)年で、話しにならない。

「右手の箭柄(えがら)」右手に杖代わりに常時持っていた長い弓矢の矢の篠竹で作った本体部分を指す。矢羽(やばね)・矢筈(やはず)・鏃(やじり)は附いていないものを指す。「延喜式」に載る「伊勢神寶征矢」の長さは附属部を含めて六十九・七センチメートルであるから、長さは充分、杖の代わりには、なる。敗残の武将などは、弓自体を杖代わりにしているから、矢柄でも十分である。

「國造(くにのみやつこ)」大化の改新以前における世襲制の地方官。地方の豪族で、朝廷から任命されてその地方を統治した。「大化の改新」(狭義には大化年間(六四五年~六五〇年)の改革のみを指すが、実際的には広義に大宝元(七〇一)年の「大宝律令」完成までに行われた一連の改革を含む)以後は廃止されたが、多くは郡司となって、その国の神事も司った。]

2025/06/11

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 蜀椒

 

Syokusyou

 

しよくしやう  巴椒 川椒

        漢椒 南椒

        蓎藙 㸃椒

蜀椒

        【巴蜀川漢皆

          地之名也】

      【和名奈留波之加美

シヨ ツヤ゚ウ 一名不佐波之加美】

 

本綱蜀椒初出於蜀國【今號四川】今𠙚𠙚人家多作園圃種之

其木髙四五尺似茱萸而小有針刺葉堅而滑四月結子

無花伹生于枝葉間顆如小豆而圓皮紫赤色肉厚皮皺

其子光黑如人之瞳子故謂之椒目他椒子雖光黑亦不

似之

椒紅【辛温有毒】 手足太隂右腎命門氣分之藥稟五行之氣

 而生葉青皮紅花黃膜白子黒其氣馨香其性下行能

 使火熱下達不致上薫芳艸之中功皆不及之

 凡人嘔吐服藥不納者必有蚘在膈閒蚘聞藥則動動

 則藥出而蚘不出伹於嘔吐藥中加炒川椒十粒良蓋

 蚘見椒則頭伏也 又能可收水銀 畏欵冬防風附

 子

椒目【苦寒】 利小便治十二種水種脹満及腎虛耳鳴聾

△按蜀國今號四川生於彼地草木皆佳種也故川椒川

 芎川烏頭川黃連川楝子之名據此入藥椒紅亦宜用

 川椒在本朝可用朝倉椒

 

   *

 

しよくしやう  巴椒《はせう》 川椒《せんせう》

        漢椒 南椒

        蓎藙《たうき》 㸃椒《てんせう》

蜀椒      

        【巴・蜀・川・漢、皆、

         地の名なり。】

      【和名、「奈留波之加美《なるはじかみ》、

シヨ ツヤ゚ウ 一名、「不佐波之加美《ふさはじかみ》。】

[やぶちゃん注:「椒」の『しやう』は良安の誤った慣用読み。前の「秦椒」の私の注意書きを参照されたい。なお、以下の項目でも同じなので、これは繰り返さないので、注意されたい。「巴・蜀・川・漢」東洋文庫訳の後注に、『いずれも現在の四川地方の呼称。蜀は四川省の古の国名。漢は四川省西部の地域(成都・広漢・潼(とう)川)、巴は四川省東部の地域(重慶・虁(き)州・順慶・閬(ろう)中)。川とは巴蜀の総称。』とある。則ち、これらは各個的な地名の羅列なのではなく、現在の古い広域としての「四川地方」の古名、及び、その内の歴史的・地方的な国名・地方名を披歴羅列したものである。この内、「広漢」は現在の四川省徳陽市南西部に位置する県級市としてあり、「潼川」は潼川府で、宋から民国の初年にかけて、現在の四川省中部に設置された管轄としての府名。「虁州」は唐詩ではお馴染みで、唐代に現在の四川省東部の奉節県におかれた州名。揚子江中流の有名な「三峡の険」の入り口に相当する。「順慶」は四川省南充市の市轄区である順慶区に残り、「閬中」は四川省南充市に位置する県級市で、四川省を南北に重慶市へと流れる嘉陵江の河畔にある。古くからの中心都市で水運の街として栄え、現在は国家歴史文化名城に指定されている。「巴蜀」広義の四川地方の非常に古い地名であり、具体的には「巴」は現在の重慶一帯を、「蜀」は現在の成都一帯を中心とした古地名である。流石に、いちいち示すほど、私はお目出度くない。グーグル・マップ・データの四川省をリンクさせておくので、各自、確認されたい。]

 

「本綱」に曰はく、『蜀椒、初《はじめ》、蜀の國に出づ。【今は「四川」と號す。】今、𠙚𠙚《ところどころ》、人家、多《おほく》園圃《えんぽ》[やぶちゃん注:果樹・野菜を植えて育てる所と、田畑を指す。]に作《なし》、之れを種《うう》。其の木、髙さ、四、五尺。茱萸《しゆゆ》に似て、小《ちさく》、針刺《はりとげ》、有り。葉、堅《かたく》して、滑《なめらか》≪なり≫。四月、子《み》を結《ぶ》≪も≫、花、無《なく》して、伹《ただ》、枝葉の間に生ず。顆(つぶ)、小豆《あづき》のごとくして、圓《まろく》、皮、紫赤色。肉、厚く、皮、皺《しは》≪し≫。其の子、光《ひかり》、黑《くろく》して、「人の瞳《ひとみ》の子《たま》」のごとし。故に、之れを、「椒目《せうもく》」と謂ふ。他《ほか》の椒《せう》≪の≫子、光、黑なりと雖も、亦、之れに、似ず。』≪と≫。

『椒紅《せうこう》【辛、温。毒、有り。】』『手足の太隂・右腎命門《うじんめいもん》の氣分の藥≪なり≫。五行の氣を稟《う》けて、生ず。葉は青く、皮は紅《くれなゐ》。花は、黃、膜は白、子は黒。其《その》氣、馨香《けいかう》≪たり≫[やぶちゃん注:良い匂いが漂う。]。其の性、下行して、能《よく》、火熱をして、下達《かたつ》せしめ、上薫《じやうくん》致させしめず。芳艸《はうさう》の中《うち》、功、皆、之れに及ばず。』≪と≫。

『凡そ、人、嘔吐して、藥を服し、納《をさ》まらざる者、必《かならず》、蚘《むし》[やぶちゃん注:ヒト寄生虫(但し、ここでは日和見感染の種も含むとすべきであろう)を指す。]、有《あり》て、膈《かく》[やぶちゃん注:漢方では、現代医学の「横隔膜」ではなく、主に「胸の壁」・「胸腹の境界」を指し、臓腑の機能を司る上で重要な役割を持つ部位を指す。]の閒《あひだ》に在《あり》。蚘、藥を聞けば、則《すなはち》、動《どう》ず。動ずれば、則、藥は出《いで》て、蚘、出でず。伹《ただし》、嘔吐の藥中に於《おい》て、炒《い》≪れる≫川椒《せんせう》[やぶちゃん注:「秦椒」の異名。「秦椒」を参照のこと。]十粒を加へて、良し。蓋し、蚘、椒を見れば、則ち、頭《かしら》、伏《ふ》≪すれば≫なり。』『又、能《よく》、水銀を收《をさ》む。』『欵冬《かんとう》・防風・附子《ふし》を畏《おそ》る。』≪と≫。

『椒(さんせう)の目(め)【苦、寒】』『小便を利し、十二種の水種・脹満《ちやうまん》[やぶちゃん注:腹部が膨張する症状。]、及《および》、腎虛・耳鳴《みみなり》・聾《らう》を治す。』≪と≫。

△按ずるに、蜀の國は、今、四川と號す。彼の地に生ずる草木、皆、佳《よき》種なり。故、川椒・川芎《せんきゆう》・川烏頭《せんうづ》・川黃連《せんわうれん》・川楝子《せんれんし》の名、此《これ》に據る。藥≪に≫入《いる》る椒紅(しざんせう)も亦、宜しく、川椒を用ふべし。本朝に在りては、朝倉椒《あさくらざんしやう》を用ふべし。

 

[やぶちゃん注:本種同定は、既に、前回の「秦椒」の引用の考証、及び、後の私の最終比較同定で、★「秦椒」と同じ

サンショウ属カホクザンショウ(華北山椒) Zanthoxylum armatum 

であることを既に述べてあるので、そちらを見られたい。

 なお、 なお、以上の本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の冒頭から二つ目の「蜀椒」からのパッチワークである。

「奈留波之加美《なるはじかみ》」「不佐波之加美《ふさはじかみ》」所持する平凡社「世界大百科事典」の「サンショウ(山椒)」の「利用」の項に(コンマは読点に代えた)、『サンショウは古くから食用、薬用とされてきた。はじめは〈はじかみ〉と呼ばれたが、同じようにしんらつ』(辛辣)『味をもつショウガが伝来すると、それを〈くれのはじかみ〉と呼び、サンショウは〈なるはじかみ〉〈ふさはじかみ〉と呼んで区別するようになった』とあった。

「茱萸《しゆゆ》」とあるが、これは本邦では、バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus のグミ類を指すのであるが、サンショウ類とは似ても似つかないのは一目瞭然であり、では何かと言うと、東洋文庫訳で、割注を附して、『茱萸(後出、呉茱萸)』とある通りで、この後の九項目の「吳茱萸(ごしゆゆ)」に相当するものである。私は既に、「卷第八十四 灌木類 山茱萸」で登場し、私の注も附してある。一部を削り、表記にも手を加え、それを掲げておく。

   *

「吳茱萸《ごしゆゆ》」「ごしゅゆ」はムクロジ目ミカン科ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum である。当該ウィキによれば、『中国』の『中』部から『南部に自生する落葉小高木。日本では帰化植物。雌雄異株であるが』、『日本には雄株がなく』、『果実はなっても種ができない。地下茎で繁殖する』。八『月頃に黄白色の花を咲かせる』。『本種またはホンゴシュユ(学名 Tetradium ruticarpum var. officinale、シノニム Euodia officinalis )の果実は、呉茱萸(ゴシュユ)という生薬である。独特の匂いと強い苦みを有し、強心作用、子宮収縮作用などがある。呉茱萸湯、温経湯などの漢方方剤に使われる』とあった。漢方薬剤としては平安時代に伝来しているが、本邦への本格的渡来はこれまた、享保年間(一七一六年から一七三六年まで)とされる

   *

というのが、それである。

「手足の太隂」東洋文庫訳の後注に、『身体をめぐる十二経脈の一つ。手の太陰肺経は胃のあたりからおこり、大腸に連なり上行して肺に入る。ついで喉頭をめぐり、横に出て肢の下にくる。そこから腕の内面を通って手の親指の末端に至る。支脈は腕の下部から分かれて第二指の先端に至る。足の太陰肺経は足の親指の末からおこり、脚の内面を上り腹部に入って肺に連なり腎につながる。さらに横隔膜を通って咽喉から舌に行く。支脈は胃部から分かれて心臓に達する。』とある。

「右腎命門《うじんめいもん》」東洋文庫訳の後注に、『右腎のことを命門という。命門とは元気の根源という意味。』とある。

「十二種の水種」東洋文庫訳の後注に、『水腫は体内に水液が溜っておこる病症。風水・皮水・正水・石水・黄水・心水・肝水・肺水・肺水・腎水・陰水・陽水。』とある。

「川芎《せんきゆう》」センキュウ。セリ科の草木。その根茎が頭痛などの薬剤になる。薬用として栽培された』とある。当該ウィキによれば、『中国北部原産で秋に白い花をつける』『多年草』(セリ目セリ科ハマゼリ属)『センキュウCnidium officinaleの根茎を、通例、湯通しして乾燥したもので』、『本来は芎窮(きゅうきゅう)と呼ばれていたが、四川省のものが優良品であったため、この名称になったという。日本では主に北海道で栽培される。断面が淡黄色または黄褐色で、刺激性のある辛みと、セロリに似た強いにおいがある。主要成分としてリグスチリド』(Ligustilide)『などがあげられる』。『現在の分析では鎮痙剤・鎮痛剤・鎮静剤としての効能が認められ、貧血や月経不順、冷え性、生理痛、頭痛などに処方されて』おり、『漢方では』「当帰芍薬散」に『配合され』、『婦人病』、所謂「血の道」の『薬として』、『よく用いられる』とあった。

「川烏頭《せんうづ》」「烏頭」は猛毒で知られるキンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum を指す。種にもよるが、致命的な毒性を持ち、狩猟や薬用に利用されてきた歴史がある。

「川黃連《せんわうれん》」「黃連」はキンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica の髭根を殆んど除いた根茎を乾燥させたもの。

「川楝子《せんれんし》」漢方で、ムクロジ目センダン科センダン属トウセンダン  Melia toosendan の果実を指す。詳しくは、「卷第八十三 喬木類 楝」の私の長い引用注を見られたい。

「朝倉椒《あさくらざんしやう》」次の同名の項を参照されたい。ここでは、メンドクサイのでAIのデータを引いておく。『朝倉山椒は、兵庫県養父市八鹿町朝倉が発祥とされる山椒で、柑橘系の爽やかな香りが特徴です。江戸時代には徳川家康に献上されたこともあると伝えられ、その風味の良さで知られています。トゲがなく、大きな実がなり、辛みが後にひきにくいという特徴があります。』とある。]

2025/06/10

サイト版「尾形龜之助 詩集 色ガラスの街 〈初版本バーチャル復刻版〉」を正字補正した

サイト版「尾形龜之助 詩集 色ガラスの街 〈初版本バーチャル復刻版〉」を遅まきながら、正字補正を行い、全体のレイアウト等、細部に手を加えた。ことの序でに、底本に差し込みでサーヴィスされてあった彼のサインを以下に掲げておく。

Oagata

 

2025/06/09

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「釜化河伯」

[やぶちゃん注:底本はここ。句読点の変更や追加をし、記号を加えた。]

 

 「釜化河伯《かま かつぱに かす》」 駿東郡德倉村《とくらむら》狩野川《かのがは》にあり。傳云《つたへいふ》、此川の東に淵あり。「釜が淵」と云《いふ》。往昔《わうじやく》、此池の山王の社《やしろ》に、大釜《おほがま》、二《ふたつ》あり。或時、盜賊、來《きたつ》て其一《ひとつ》を取り、途中、あやまつて、此川に落《おと》せり。是より、釜、化して河伯となる。「遊方名所畧」云《いはく》、『釜淵、沼津ヨリ一里有釜淵駿河新宿路傍畠中有大釜二一。俗傳云、賴朝富士牧獵時、所ㇾ鑄也。時有竊ㇾ之荷擔而行者、重不ㇾ堪其任川中、此釜有ㇾ靈、遂爲水中主、故云爾。一釜又有畠中云云』。

 

[やぶちゃん注:「遊方名所畧」元禄一〇(一六九七)年刊。作者・書誌不詳。この引用の訓点は不全であるので、ここで、私が訓読文を試みておく。

   *

『釜淵(かまがふち)。沼津より一里、釜淵、有り。駿河新宿の路傍の畠中に、大釜、二つ有り。俗傳に云はく、「賴朝、富士の牧獵(まきれう)の時、鑄(い)さするなり。時に、之れを竊(ぬす)み、荷として擔(にな)ひ行く者、有り。重くして其の任に堪へずして、之れを川中に捨つ。此の釜、靈、有り、遂に水中の主(あるじ)と爲(な)れり。故に、云ふのみ。一つの釜、又、畠中(はたなか)に有り云云(うんぬん)』。

   *

「駿東郡德倉村狩野川」現在の静岡県駿東郡清水町(しみずちょう)。「ひなたGIS」で示す。狩野川に河童が棲息していると記す記事は、複数、見られるが、ここに記されている――釜が河童になる――という話を見出すことは出来なかった。河童が持ってきた瓶の話は、河津町(かわずちょう)であるが、サイト「スーちゃんの妖怪通信」の「河童の瓶[かめ]」を見られたい。但し、本記事との関連性は、全く、ない。]

小泉八雲「若返りの泉」(『ちりめん本』原英文+藪野直史拙訳)――これを以って、私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」は、唯一の来日以後の全作品の電子化訳を完遂した。――

[やぶちゃん注:本作が第一書房版「小泉八雲全集」に収録されていないことは、既に述べた。なお、今回、調べた結果、この謎を孕んだ作品について、優れた考証を展開しておられる石井花氏の論文「 小泉八雲とちりめん本――『若返りの泉』の成立過程を中心に――」(『ヘルン研究』第四号・富山大学ヘルン(小泉八雲)研究会・二〇一九年三月刊・「富山大学学術情報リポジトリ」のここでPDFで入手可能・論文+資料編)を、まず読まれるにしくはない、ことが判ったので、是非、読まれたい。従って、原拠探索や、死後に刊行された経緯等も、そちらに詳しい。石井氏の骨折りに敬意を表し、ここでは、そうした背景への注は、一切、行わない。

 以下、サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらのラベル「富山大学蔵書」蔵書番号「1230124737」の画像、及び、そこにリンクされた二番目のもの英文を参考底本とし、英語嫌いな私の拙訳を添えた。一切の他者の訳したものを参考にすることなく、完全にオリジナルなものである。

 

[やぶちゃん注:表紙。]

 

JAPANESE FAIRY TALE

 

THE FOUNTAIN

            OF  YOUTH

 

Rendered into English

   by Lafcadio Hearn

 

[やぶちゃん注:裏表紙。奥附相当ページ。邦文は縦書。紙質の関係上、字のように見えるところもあるが、判読出来ず、本来の意味を想到出来ないので、空欄とした箇所があり、また、旧字か新字か判読出来ない場合は、旧字を採用した。]

 

All Rights Reserved

Hasegawa,

Tokyo

 

 著作權所有

大正十一年十二月十日 㐧一版發行

同十四年十一月十日 㐧二版印刷

 

 英 譯 者

   故 ラフカヂオ ヘルン

 

 編輯幷発行者

     長谷川武次郞

 

 印 刷 者

     西 宫 與 作

  右同所

 

[やぶちゃん注:以下、本文。“Readered”のミス・スペルはママ。本文冒頭の“L”は原本では二行目にかけて配された特大活字である。]

 

 

THE FOUNTAIN OF YOUTH

 

Readered into English by

LAFCADIO HEARN

━━━━

LONG, long ago there lived somewhere among the mountains of Japan a poor woodcutter and his wife. They were very old, and had no children. Every day the husband went, alone to the forest to cut wood, while the wife sat weaving at home.

 

   One day the old man went further into the forest than was his custom, to seek a certain kind of wood; and he suddenly found himself at the edge of a little spring he had never seen before. The water was strangely clear and cold, and he was thirsty; for the day was hot, and he had been working hard. So he doffed his huge straw-hat, knelt down, and took a long drink.

 

   That water seemed to refresh him in a most extraordinary way. Then he caught sight of his own face in the spring, and started back. It was certainly his own face, but not at all as he was accustomed' to see it in the bronze mirror at home. It was the face of a very young man! He could not believe his eyes. He put up both hands to his head which had been quite bald only a moment before, when he had wiped it with the little blue towel he always carried with him. But now it was covered with thick black hair. And his face had become smooth as a boy's: every wrinkle was gone. At the same moment he discovered himself full of new strength. He stared in astonishment at the limbs that had been so long withered by age: they were now shapely and hard with dense young muscle. Unknowingly he had drunk of the Fountain of Youth; and that draught had transformed him.

 

First he leaped high and shouted for joy; then he ran home faster than he had ever run before in his life. When he entered his house his wife was frightened; because she took him for a stranger; and when he told her the wonder, she could not at once believe him. But after a long time he was able to convince her that the young man she now saw before her was really her husband; and he told her where the spring was, and asked her to go there with him.

   Then she said: "You have become so handsome and so young that you cannot continue to love an old woman; so I must drink some of that water immediately. But it will never do for both of us to be away from the house at the same time. Do you wait here, while I go." And she ran to the woods all by herself.

   She found the spring and knelt down, and began to drink. Oh! how cool and sweet that water was! She drank and drank and drank, and stopped for breath only to begin again.

   Her husband waited for her impatiently; he expected to see her come back changed into a pretty slender girl. But she did not come back at all. He got anxious, shut up the house, and went to look for her.

    When he reached the spring, he could not see her. He was just on the point of returning when he heard a little wail in the high grass near the spring. He searched there and discovered his wife's clothes and a baby, a very small baby, perhaps six months old.

   For the old woman had drunk too deeply of the magical water; she had drunk herself far back beyond the time of youth into the period of speechless infancy.

   He took up the child in his arms. It looked at him in a sad wondering way. He carried it home,murmuring to it, thinking strange melancholy thoughts.

━━━━

 

[やぶちゃん注:この後には、“JAPANESE FAIRY TALE SERIES.”(「日本の妖精譚シリーズ」)“ENGLISH EDITTION”(「英語版」)と標題し、“ON CRLPE PAPER WITH ILASTRAYTIONS IN COLOURS.”(「カラー版挿絵附きの『縮緬(ちりめん)本』」)という添え辞を持った“1”番から“22”番までのリストが載るが、それは電子化しない。

 次が、原本の裏表紙で、鉞(まさかり)に海石榴の花枝を結び付けた挿絵が中央にあり、右手下に絵師の署名があるが、私には読めない。私の書道に堪能な教え子同士の御夫婦に判読を依頼してあるので、それを待って、捜索してみようと思っている。

 以下、私の拙訳であるが、本邦を舞台としたおとぎ話の形式であることを鑑みて、本邦の同型の語彙や文体に似せたものにしてある。無論、読者は子どもであることを考えて、全体のコンセプトは、小泉八雲の訳したワン・フレーズには束縛さない形で読点を入れたり、時に文を切り、敬体の近代的な口語型とした(翻案にはならないように細心の注意はした積りであるが、英文はシチュエーションを、子どもたちに判るようには十全に叙述していないので、私がその部分を添えておいた。いや、今や、小学生でも英文の方がよく読めてしまうのだろうが)。子どもが読むことを考慮して、読みを大幅に入れ、シチュエーションが判るように一部の表現を附加した(間接表現を直接表現にして改行した箇所もある)。実際、展開上、中には、一段落でなく、段落を新たにした方がいいと強く思う箇所もあったが、それは、八雲先生の呼吸として、厳に守った。但し、本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」で電子化したものに合わせ、漢字は正字を用い、歴史的仮名遣を用いた。なお、本文の冒頭にあるものは、表紙と同じものであるので、カットした。]

 

◆藪野直史オリジナル譯

 

 日本(につぽん)のおとぎばなし集(しゆう)

       若返(わかがへ)りの泉(いづみ)

 

  ラフカディオ・ハーン による

             英語譯(えいごやく)

 

 

 昔々(むかしむかし)、日本の山の奥(おく)に、貧(まづ)しい樵(きこ)りと、そのおかみさんが住んでゐました。彼ら二人は、たいさう年老(お)いてをり、子どもも、をりませんでした。おぢいさんは、每日、おばあさんが家で機織(はたお)りをしてゐる間(あひだ)、獨(ひと)りで、森へ、木を伐(き)りに行きました。

 或(あ)る日のことです。おぢいさんは、とある木を探(さが)すため、何時(いつも)より更(さら)に森の奥深(おくぶか)くまで行きました。すると、突然(とつぜん)、今まで見たこともない、小さな泉(いづみ)に辿(たど)り着(つ)きました。

 そこの泉の水は、不思議なほど澄(す)んでゐて、冷たいのです。おぢいさんは喉(のど)が渇いてゐました。暑(あつ)い日でしたし、一所懸命(いつしよけんめい)に働いてゐたからです。そこで、おぢいさんは大きな麥藁帽子(むぎわらばうし)を脫(ぬ)ぎ、跪(ひざまづ)いて、一氣(いつき)に水を飮みました。

 その水は、おぢいさんが吃驚(びつく)りするほど、元氣づけて吳(く)れたやうでした。

 ところが、その時、おぢいさんは、泉に、ちらと映(うつ)つた自分の顏(かほ)を見て、思わず、泉のたもとに引き返しました。それは、確(たし)かに自分の顏ではあつたのですが、家の銅(あかがね)で出來た鏡(かがみ)で見慣(みな)れてゐる顏とは、これ、全(まつた)く違(ちが)つてゐたからです。それは、とても若い男(をとこ)の顔だつたのです! おぢいさんは、自分の目が信じられませんでした。おぢいさんは兩(りやう)の手で、頭を押さえてみました。ほんの少し前までは、何時(いつ)も持ち步(ある)いてゐる小さな手拭(てぬぐ)ひを頭を覆(おほ)つたばかりで、すつかり禿(は)げ上がつてゐたはずだつたからなのです。しかし、今は、何んと、濃(こ)い黑髮(くろかみ)に覆(おほ)はれてゐたのです。そして、おぢいさんの顏はといふと、少年のやうに滑(なめ)らかになつてゐて、皺(しは)は消えてゐたのでした。同時に、おぢいさんは、自分が新しい力(ちから)に滿(み)ち滿ちてゐることにも氣づきました。おぢいさんは、嘗(か)つては、あんなに堅(かた)くて不自由だつた手足を、驚(おど)いて見つめてゐました。年を取つたことで、すつかりしなびてゐた腕(うで)は、今や、若く張(は)りのある筋肉(きんにく)の形(かたち)を見せて、がつしりしてゐるのでした。おぢいさんは、知らず知らずのうちに、「若返りの泉」を飮んでゐたのです。そして、その、水のわづかな一杯(いつぱい)が、おぢいさんの姿を、すつかり變(かへ)たのでした。

 まづ、おぢいさん――もう、「おぢいさん」ではないので、「彼(かれ)」と言ひませうね。――彼は、高く飛(と)び上がり、よろこびの叫び聲(ごゑ)を擧(あ)げました。――それから、生まれてこの方(かた)、そんな速(はや)さで走つたことのない驚くべき速さで、家まで走つて歸つたのです。家に入(はひ)ると、おばあさんは、彼を『見知らぬ他所者(よそもの)ぢや。』と思ひ、怯(おび)えました。彼が、自分が感じた驚(おどろ)きを話しても、おばあさんは、直(す)ぐには信じられませんでした。しかし、長い時間をかけて、彼は、おばあさんに、今、目の前にゐる若い男が、本當(ほんたう)におばあさんの夫(をつと)であるおぢいさんだ、といふことを納得(なつとく)させることが出來ました。さうして、泉の場所を敎へ、

「一緖(いつしよ)に行かう。」

と誘(さそ)ひました。

 すると、おばあさんは言ひました。

「あなたはすつかり若く美しくなられましたから、この年老いたばあさんを愛し續(つづ)けることは出來ません。だから、私は、すぐ、その水を飮まなければなりません。でも、私たち二人(ふたり)が一緖(いつしよ)に家を離れるのは物騷(ぶつさう)で出來ません。私が行つて歸つて來るまで、ここで待つてゐて下(くだ)さいな。」

 さうして、おばあさんは、獨りで森へ走つて行きました。

 おばあさんは、彼(か)の泉を見つけると、跪(ひざまづ)いて、水を飮み始めました。

「ああつ、この水は、なんて冷たく、甘いのでせう!」

と、おばあさんは、飮み、そして、飮み、ひたすら、飮み、息をつくための一度(ひとたび)の休みさへ、もどかしさうに、再(ふたた)び、飮み始めたのでした。

 さて、彼女の夫は、彼女が歸つて來るのを、待ち焦がれてゐました。――『きつと、美しい、細(ほつ)そりとした娘になつて、戾ってくる。』と待ちに待つてゐました。しかし、幾(いく)ら待つてゐても、彼女は一向(いつかう)に戾(もど)つて來ないのでした。夫は心配になつて、しつかりと家の戶締(とづ)まりをして、彼女を探しに出かけました。

 泉に辿(たど)り着いた時、彼女の姿は見えませんでした。立つたまま、何處(どこ)を見渡(みわた)して見ても、見えません。仕方(しかた)なく、彼が丁度(ちやうど)、家に戾(もど)ろうとしたその時、泉の近くの背の高い叢(くさむら)の中から、小さな泣き聲が聽(き)こえて來ました。彼が、其處(そこ)を探して見たところが、おばあさんの着てゐた衣服(いふく)と、赤(あか)ん坊(ばう)を見つけました。――それはそれは、とても小さな赤ん坊で、生まれて六ヶ月くらいの赤ん坊だつたのです。

 さうです、おばあさんは、泉の魔法(まはう)の水を飮(の)み過ぎてしまつたのでした。若い頃を遙(はるか)に越え、喋(しやべ)ることも出來ない赤ん坊の時間に到(いた)る時まで、彼女は、すつかり醉(よ)ひ痴(し)れてしまつてゐたのでした。

 彼は赤ん坊を腕に抱き上げました。赤ん坊は悲しさうに、不思議そうに、彼を見詰(みつ)めてゐました。彼は赤ん坊に何かを囁(ささや)きつつ、奇妙で、もの哀(がな)しい思ひを巡(めぐ)らせながら、家へと、連れて歸つたのでした。

 

 

2025/06/08

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「神木鳴動」

[やぶちゃん注:底本はここ。句読点の変更や追加をし、記号を加えた。]

 

駿 國 雜 志 卷之二十四下

         阿 部 正 信 編 揖

 

        怪   異

       駿  東  郡

 「神木鳴動」  駿東郡《すんとうのこほり》上窪村《かみくぼむら》桃澤《ももざは》の社《やしろ》にあり。傳云《つたへいふ》。「慶長十七年正月三日、當社の神木《しんぼく》、鳴動する事、夥《おびただ》し。此日、富士川、洪水、安倍郡鯨《くじら》か池[やぶちゃん注:ママ。]、溢《あふ》れ、淺畑池に注ぎ入《いる》。當郡松永濱、沼津浦邊、大浪して、獵船數十艘、破損す。是、神木、怪をなして、水災を告《つげ》給ふならん。土俗、云《いはく》、『桃澤神社、今、愛鷹明神とす。云云。』。」。

 

[やぶちゃん注:「駿東郡上窪村桃澤」現在の静岡県駿東郡長泉町桃沢(ももざわ)。「ひなたGIS」で示した。桃沢川の下流に「元長窪」や「上長窪」の地名も確認出来る。

「桃澤の社《やしろ》にあり」先の前の「ひなたGIS」の最初の位置を考えるなら、グーグル・マップ・データ航空写真の「愛鷹山水神社」であろうか。

「慶長十七年正月三日」グレゴリオ暦一六一七年二月四日。

「安倍郡鯨《くじら》か池」静岡県静岡市葵区下(しも)に現存する「鯨ヶ池」(グーグル・マップ・データ)。由来は、「FNNプライムオンライン」の「テレビ静岡」の調査による『「鯨ヶ池」 池なのにクジラ? 静岡随一の名水といわれた池は大正天皇も訪れていた』が素晴らしい!

「淺畑池」グーグル・マップを見ると、鯨ヶ池の南南東に、現在、「麻機遊水池」、及び、周辺に池様のものが、複数、点在するので、同一場所を、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、ここに広大な「淺畑沼」が確認出来る。

「當郡松永濱」「ひなたGIS」では、精査して見たが、この名の浜はなかった。しかし、「當郡」とあり、これは、パートが「駿東郡」であること、並置するのが「沼津浦邊」であることから、これは、沼津に近いと考えて探すと、沼津市の東直近に、沼津市内の「松長」があった。現行では、この地区に「片浜海岸」(グーグル・マップ・データ)があるから、これであろうか?

「愛鷹明神」「愛鷹」「愛鷹明神」を名乗る神社は、現在、この広域に、実に十二社もある。] 

2025/06/07

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 目録・秦椒

 

[やぶちゃん注:以下の「目録」(表記はママ)は、上方の項目の読みは、そのままに示した(歴史的仮名遣の誤りはママ。清音の箇所は濁音化していない)。下方の附属項のルビのカタカナ表記はそのままで丸括弧で示した。]

 

  卷之八十九

   味果類

 

秦椒(さんしやう) 椒樹皮(サンシヤウノカハ)

蜀椒(しよくのはしかみ)

朝倉椒(あさくらさんしやう)

冬山椒(ふゆさんしやう)

柚山椒(ゆさんしやう)

蔓椒(いぬさんしやう)

崖椒(のさんしやう)

胡椒(しやう)

畢澄茄(ひてうさや) 山胡椒

畨椒(たうがらし)

吳茱萸(ごしゆゆ)

食茱萸(おほたら)

鹽麩子(ふし)

醋林子(さくりんし)

(ちや)

蠟茶(ろふちや)

孜兒茶(がいじちや)

茶湯(ちやのゆ)

皐蘆(なんばんちや)

 

 

和漢三才圖會卷第八十九

      攝陽 城醫法橋寺島良安尚順

  味果類

 

Kahokuzansyou

 

[やぶちゃん注:右下に裂けた実の五個体が描かれ、「椒紅」とキャプションが添えてある。]

 

さんしやう  花椒 大椒

       檓【音毀大椒】

秦椒

       椒𣐹𣒏【並同】

        玆消切音焦

唐音     今俗作枡非也

シン ツヤ゚ウ  名山椒

 

本綱秦椒始産于秦故名今𠙚𠙚可種最昜蕃行其葉對

生尖而有刺四月生細花五月結實生青熟紅大於蜀椒

其目亦不及蜀椒目光黑也伹秦地亦有蜀椒蘇㳟曰秦

[やぶちゃん字注:「㳟」は「恭」の異体字だが、見慣れないので、訓読では「恭」に代える。]

椒樹葉及莖子都似蜀椒伹味短實細爾然宗奭及時珍

曰其實大於蜀椒

椒紅【辛温有毒】 除風邪温中堅齒髮明目久服好顏色耐老

 古今醫統云花椒以帯目未開口者用碎土拌和入浄

 缾中宻封口倒置地上於南檐有日色𠙚晒着至春分

[やぶちゃん字注:「檐」は原本では(つくり)が「簷」であるが、表示出来ないので、「檐」とした。また、「春分」は原書(中文サイト「中醫笈成」の「古今醫統大全」

の「花木類第二」に当たったところ、『花椒 以帶目未開口者,用碎土拌和,入淨瓶中,密封口倒置地上,於南檐有日色處曬』(「さらす」と同義)『著,至春初撒畦中,則粒粒皆出。』とあり、「春初」は引用の誤りであることが判明したので、訓読では訂した。

 撒畦中則粒粒皆出凡椒紅口閉者有毒殺人

△按秦椒乃常名山椒者也以蘇秦之說可爲當山谷多

 有之也樹髙五六尺不直其葉似槐葉而青綠色對生

 尖有丫冬凋落其枝多刺三月生嫩芽謂之木芽入羹

[やぶちゃん注:「丫」は原本では「了」であるが、誤刻と断じて、「丫」とした。東洋文庫訳も「丫」となっている。]

 及酒中有佳香四月開細花青白色五月結實攢生青

 色謂之青山椒味辛香佳藏鹽水越年辛味不變也六

 月熟黃紅色採大者曝乾純赤開口謂之椒紅藏之包

 黑反古紙則味不變備前瓷坩亦可也然越年者辛味

 失苦生殊小顆者名平椒唯青時可食乾之不佳往昔

 所謂秦之地乃今陝西也

椒樹皮 剥木去麁皮曝乾販之用時浸水刮去內白肌

 鹽漬或以醬油煮乾食之味辛鹹微香美僧家最賞之

 山城鞍馬山之產皮薄味勝丹波但馬及遠州山中野

 州二荒山皆多出之

食椒噎甚者不能言悶亂【急令開口吹入人息於咽則安或爐灰少許舐則佳凉水亦可】

 

   *

 

さんしやう  花椒《くわせう》 大椒

       檓【音「毀」。大椒。】

秦椒

       椒・𣐹・𣒏【並びに同じ。】

        「玆」「消」の切。音「焦」。

唐音     今、俗、「枡」に作るは、非なり。

シン ツヤ゚ウ  山椒《さんせう》と名づく。

 

「本綱」に曰はく、『秦椒《しんせう》[やぶちゃん注:歴史的仮名遣に於いては、「椒」の現代仮名遣「ショウ」は、歴史的仮名遣では「セウ」であって、「シヤウ」ではない。しかし、良安の「椒(しやう)」の読みが示されているものは、目録でも、標題の「さんしやう」でも、この「秦椒」だけでなく(但し、以下の「椒紅」には、良安は「ひさんせう」(「紅山椒」の当て訓)を当てては、いる)、以下の項でも、ほぼ一貫して「しやう」であることから、その誤った彼の思い込みの慣用読みを総て私が訂正することは、本電子化ポリシー上、正当な行為とは思われない。しかし、それに合わせて、ルビのない「椒」に対しても、私が「しやう」を使用することは、誤りである以上、私には許されないと考えるし、その気も、全く、ない。されば、私が添えた読みでは、正しい歴史的仮名遣で「せう」を用いる。それでこそ、以下の項目でも良安の慣用読みの誤りが、読者に明確に常に認知されるからである。]は、始《はじめ》て、秦に産す。故、名づく。今、𠙚𠙚、種《う》うべし。最《もつとも》蕃行《ばんぎやう》し昜《やす》し[やぶちゃん注:繁殖しやすい。]。葉、對生す。尖りて、刺《とげ》、有り。四月に細≪かなる≫花を生じ、五月、實を結ぶ。生《わかき》は青く、熟せば、紅《くれなゐ》にして蜀椒《しよくせう》より大なり。其の目《み[やぶちゃん注:実。]》も亦、蜀椒の目の光り黑きに及ばざるなり。伹《ただし》、秦の地にも亦、蜀椒、有り。蘇恭《そきやう》の曰《いはく》、「秦椒の樹・葉、及び、莖・子《み》、都(すべ)て、蜀椒に似たり。伹《ただし》、味、短《みじか》く[やぶちゃん注:及ばず。]、實≪も≫細《こまか》なるのみ。」≪と≫。然《しか》るに、宗奭《そうせき》、及《および》、時珍の曰く、「其の實、蜀椒より大なり。」と。』≪と≫。

『椒紅(ひさんせう)【辛、温。毒、有り。】』『風邪を除き、中《ちゆう》[やぶちゃん注:中胃。脾胃。]温《あたた》め、齒・髮を堅くし、目《め》を明にして、久《ひさし》く服すれば、顏色を好くし、老《おい》に耐《たふ》。』≪と≫。[やぶちゃん注:検証すると、ここで「本草綱目」の引用は終わっている。

「古今醫統」に云はく、『花椒、目《み》[やぶちゃん注:先行する「本草綱目」の引用中の『目《み[やぶちゃん注:実。]》』に同じ。]を帯《おび》、未だ口を開かざる者を以て、碎≪ける≫土を用≪ひて≫、拌-和(かきま)ぜ、浄《きよらな》缾《かめ》の中に入《いれ》、宻《みつ》に口を封じて、倒《さかさ》まに地上に置《おき》、南≪の≫檐《のき》≪の下の≫日《ひ》≪の≫色《いろ》の有《ある》𠙚[やぶちゃん注:太陽光線が直接に射す所。]に於《おい》て晒-着《さらしつ》け[やぶちゃん注:陽に晒し続けて。]、春≪の≫初≪め≫に至《いたり》て、畦《あぜ》≪の≫中に撒(ま)けば、則《すなはち》、粒粒《つぶつぶ》、皆、出づ。』≪と≫。[やぶちゃん注:以下は良安の補足と推定される。]『凡そ、椒紅≪の實の≫、口《くち》、閉《とづ》る者、毒、有りて、人を殺《ころす》。』≪と≫。

△按ずるに、秦椒《さんせう》は、乃《すなは》ち、常≪には≫「山椒《さんせう》」と名《なづく》る者なり。蘇秦の說を以《もつ》て當れりと爲《なす》べし。山谷に、多く、之れ、有るなり。樹の髙さ、五、六尺。直(す)ぐならず。其の葉、槐《えんじゆ》の葉に似て、青綠色。對生して、尖《とがり》て、丫《また》、有り。冬、凋み落つ。其の枝、刺《とげ》、多《おほし》。三月、嫩芽《わかめ》を生ず。之れを「木芽(《き》のめ)」と謂ふ。羹(にもの)、及《および》、酒≪の≫中に入《いれ》、佳き香、有り。四月、細≪かなる≫花、開《ひらき》、青白色。五月、實を結ぶ。攢生《さんせい》して[やぶちゃん注:群がって生え。]青色≪たり≫。之れを「青山椒《あをざんせう》」と謂く《✕→謂ふ》。味、辛《からく》、香《かほり》、佳し。鹽水《しほみづ》に藏《ざう》すること、年を越《こえ》て、辛味《からみ》、變せざるなり。六月、熟して、黃紅色。大なる者を採《とり》て、曝乾《さらしほせ》≪ば≫、純赤≪たり≫。口を開く。之れを「椒紅《しやうこう》」と謂ふ。之れを藏《ざうす》るに、黑き反--紙(ほうぐ)に包≪めば≫、則《すなはち》、味、變せず。備前の瓷-坩(つぼ)も、亦、可なり。然れども、年を越《こえ》る者は、辛味(からみ)、失せて、苦(にがみ)、生ず。殊に、小顆(こつぶ)なる者、「平椒(ひんしやう)」と名づく。唯《ただ》、青き時、食ふべし。之れを乾≪かすと≫、佳ならず。往-昔《むかし》、所謂《いはゆ》る、秦の地は、乃《すなはち》、今の陝西《せんせい》なり。

椒樹皮(さんしやうのかは) 木を剥(はぎ)て、麁皮《あらかは》を去り、曝-乾《さらしほし》て、之≪れを≫販《うる》。用《もちひ》る時、水に浸し、內の白≪き≫肌を刮(こそ)げ去《さり》、鹽に漬け、或《あるい》は、醬油≪を≫以《もつて》、煮《に》、乾《かはかして》、之れを食ふ。味、辛鹹《しんかん》[やぶちゃん注:辛く塩辛いこと。]・微香《びかう》≪ありて≫、美なり。僧家、最《もつとも》、之≪れを≫賞す。山城鞍馬山の產、皮、薄く、味、勝れり。丹波・但馬、及《および》、遠州の山中、野州《しもつけ》二荒山《ふたらさん》、皆、多《おほく》、之れ、出《いづ》。

椒を食《くひ》て、噎(むせ)て甚しき者は、言《ものいふ》こと、能《あたは》ず、悶亂《もんらん》す【≪その時は≫急《ただちに》に、口を開きしめて、人の息を咽《のど》に吹き入≪るれば≫、則ち、安《やす》し。或いは、爐≪の≫灰、少許《すこしばかり、》舐《なめ》れば、則ち佳なり。凉水《りやうすい》も亦、可なり。】。

 

[やぶちゃん注:「秦椒」は、小学館「日本国語大辞典」によれば、『ミカン科の植物、サンショウ・イヌザンショウ・フユザンショウなどの異名』とあった。しかし、これは日本語での話であり、そのままには受け入れられない。本邦では、まず、

双子葉植物綱ムクロジ(無患子)目ミカン科Rutaceaeサンショウ(山椒)属サンショウ Zanthoxylum piperitum

が代表種として認識されており、良安の勝手な「山椒」は、まず、これを第一としていいだろうとは思われる。以下、

サンショウ属イヌザンショウ(狗山椒)変種イヌザンショウ Zanthoxylum schinifolium var. schinifolium (又は、変種ではなく、Zanthoxylum schinifolium

サンショウ属カホクザンショウ(華北冬山椒)変種フユザンショウ Zanthoxylum armatum var. subtrifoliatum

も挙げておく。しかし、『秦椒《さんせう》は、乃《すなは》ち、常≪には≫「山椒《さんせう》」と名《なづく》る者なり』と言ってしまった良安は完全アウトである。

「本草綱目」で言う「秦椒」はサンショウ Zanthoxylum piperitum ではない

のである。それは、「維基百科」の「秦椒」に三つの意味を並置し、

   *

〇ナス目ナス科トウガラシ属トウガラシ Capsicum に属するトウガラシ類である。

〇ミカン科の植物「花椒」の果実である。

〇ミカン科サンショウ属( Zanthoxylum 属)の小型落葉樹である「竹叶花椒」である。

   *

とあり、以下、香辛料のトウガラシ類をピックアップした解説で、『主に秦嶺山脈で生産される「花椒」(=唐辛子)、例えば、鮮やかな赤い色で有名な「大紅袍」や、七月中旬に熟す「七月袍」などを指す。この地域の唐辛子は、辛い料理を好むことで知られる四川省の人々に売られている』とあるのである。他の中文百科も総てが、この立場を取っている。しかし注意しなくてはならないのは、

◎現代中国では「椒」は、第一義にサンショウ類ではない広義の「トウガラシ」であり、次に、

◎広義の「サンショウ属の果実の名称」であり、

◎最後に「竹叶花椒」を指すのである。

   ★

やっと核心に踏み込めた。而して、

この「竹叶花椒」はサンショウ属カホクザンショウ(華北山椒) Zanthoxylum armatum なのである。

   ★

さて、本邦のウィキの「カホクザンショウ」を見よう(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『カホクザンショウ(華北山椒』『英名:Sichuan pepper)は、中国のミカン科サンショウ属の落葉低木である。日本原産のサンショウ(山椒)とは同属異種に当たる』。『一般には中国名である花椒で知られ、日本語読みで「はなしょう」もしくは「かしょう」、中国語読みで[xwátɕjɑ́u](拼音: huājiāo)と発音され、「ホアジャオ」とも呼ばれる。また、日本の山椒と区別して四川赤山椒、四川山椒、中国山椒、中華山椒などとも呼ぶ』。『果皮は食用、薬用である。痺れるような辛さを持つ香辛料として、中国料理、特に四川料理では多用する。「花椒」のほか』、『蜀椒(しょくしょう)』「目録」で判る通り、次の立項は「蜀椒」である『椒紅(しょうこう)』(☜本文に出る。以下同じ)『などとも呼ばれ、漢方では健胃・鎮痛・駆虫作用があるとされる』。『一般的によく使われる「花椒」』(☜)『は、カホクザンショウの実が熟すると、木に赤い花が咲いたようにも見えるので、これが由来となっている』。『細かくは、実の大きさと色によって、大きく赤い大椒(だいしょう)、別名大紅袍(だいこうほう)・獅子頭(ししがしら)と、小振りで黄色い小椒(しょうしょう)、別名小黄金(しょうおうごん)に分けられ、実の採集時期によって秋椒(しゅうしょう)と伏椒(ふくしょう)に分けられる』。『英語ではSichuan pepper, Szechuan pepper, Chinese prickly-ash, Flatspine prickly-ashなどとも呼ばれる』。『漢の』「爾雅」の「釋木」『に見える古名に檓』(☜)『(き、拼音:huǐ)、大椒(だいしょう)』(☜)『がある』。『前漢の馬王堆漢墓から出土した医書に椒と称し』、『薬用に供されていた』。『後漢代の』「神農本草經」中卷「木部中品」『に秦椒(しんしょう)』(☜)『中巻木部下品には蜀椒(しょくしょう)の名称がみられる』。『後漢の』「說文解字」『には椒の異体字である「茮」(ショウ、拼音:jiāo)の字体で収載されており、「茮莍也」との説明がある』。『北魏の』「齋斉民要術」『は「植椒編」を設け、栽培、利用についての記述がある』。『明の』「本草綱目」『「果之四」に秦(秦嶺山脈)に産が始まる花椒と注記した秦椒と、蜀椒を記載』し、『前者の別名を大椒とするが、いずれも産地名と組み合わせた呼称であり、別種であるかは不明。産地名を付した呼称は、他に巴椒(はしょう)・川椒(せんしょう)・南椒(なんしょう)・漢椒(かんしょう)などある』。「本草綱目」『は蜀椒の別名として点椒(てんしょう)も記載』する。『なお、現代中国語の「秦椒」にはトウガラシの意味もある』。『サンショウは雌雄異株だが、カホクザンショウでは雌雄同体で雄株はないと見られている。樹高は』七メートル『ほどになる。枝には鋭い棘が』二『本ずつ付く。葉は互生、奇数羽状複葉。長さ』八~十四センチメートル『ほど』。五~十一『対の小葉は』一~二センチメートル『の楕円形で縁は鋸歯状。裏は表に比べ白っぽい。花は』三~五『頃』、『開花し、直径』四~五ミリメートル『で黄緑色。果実の直径は』四ミリメートル『程度で、初めは緑色だが』七『月から』十『月頃に赤く熟し、裂開して中の黒い種子が落下する』。『サンショウ属を含むミカン科の木にはアゲハチョウの幼虫が付くことがある。アゲハチョウの幼虫は大食であり、小さな株なら』、一『匹で葉を食べ尽されて丸裸にされてしまうこともあるので注意が必要である』。『東アジア原産。中国では黒竜江省から広西チワン族自治区まで広く分布する。栽培もされており、四川省、河北省、山西省、陝西省、甘粛省、河南省などが主産地である』。現在は『中国の貿易商が、日本の山口県や大阪府泉佐野市にて青花椒の栽培を試みている』。『一部の同属異種の果皮をも「土花椒」などと称して、香辛料に使用される例がある』。以下、同属異種が列挙される。

Zanthoxylum piperitum (『サンショウ(山椒)。日本原産』。以下の本邦の「サンショウ」は同ウィキを、必ず、見られたい。ここでは、グダグダになって混同してしまうので引用しないが、良安の勘違いを批判的に認識するためには、先ず、そちらを見られたい

Zanthoxylum armatum  (シノニム:Zanthoxylum alatum :『 フユザンショウ(冬山椒)』)

Zanthoxylum schinifolium (『イヌザンショウ(犬山椒)。中国語で「香椒」。芳香がなく、棘が互生する。イヌザンショウの果実は黄緑から緑色で、「香椒子」「青椒」「青花椒」と呼ばれて精油を持ち、煎じて咳止めの民間薬に用いられる』)

Zanthoxylum bungei (『ツルザンショウ。中国語で「野山椒」「蔓椒」』)

Zanthoxylum beecheyanum (『ヒレザンショウ。沖縄県』)

Zanthoxylum simulans (『トウザンショウ(唐山椒)』)

Zanthoxylum argyi

Zanthoxylum avicennae (『中国語で「簕欓」「鷹不泊」。華南、ベトナム、フィリピン原産』)

Zanthoxylum ailanthoides (『カラスザンショウ(烏山椒)』)

Zanthoxylum americanum -(『アメリカザンショウ(アメリカ山椒)』)

Zanthoxylum fraxinoides

Zanthoxylum nispinum (『中国語で「竹葉椒」』)

Zanthoxylum nitidum (『テリハサンショウ(照葉山椒)』。『中国で「両面針」と称して薬用にされる。葉の中心線に沿って棘がある』)

Zanthoxylum micranthum (『中国語で「小花花椒」』)

Zanthoxylum integrifoliolum (『中国語で「蘭嶼花椒」』)

『果皮は、爽やかな香りと痺れるような辛味を持ち、花椒の名で呼ばれる香辛料である。四川料理、貴州料理、雲南料理、西北料理などで多用され、煮込み料理を中心に、炒め料理、蒸し料理など幅広い料理に使われる』。『特に、日本でも知られる麻婆豆腐や担担麺をはじめとする四川料理は、花椒の痺れるような辛さ(麻味)と唐辛子のピリっとした辛さ(辣味)のハーモニーである麻辣味が基本であり、花椒は欠かせない。日本国内の市場規模は』二〇一八『年で約』一『億円で、それまでの』四『年間で』二『倍以上に拡大した。果皮の乾燥粉末を料理の仕上げに使うことが多いが、果皮を植物油に漬けて成分を溶出させた花椒油(かしょうゆ)も使われる。粉末(挽きたてが望ましい)は香りに優れ、花椒油は辛味に優れるため、一つの料理で両方の使い方をすることもある』。『炒った塩と同量の花椒の粉末を混ぜたものを花椒塩(かしょうえん、ホアジャオイエン)と呼び、中国各地で揚げ物につけて食べるのに用いる』。『粉末を桂皮(シナモン)、丁香(クローブ)、小茴(フェンネルもしくはウイキョウ)、大茴(八角もしくはスターアニス)、陳皮(チンピ)などとブレンドしたものは五香粉(ごこうふん、ウーシャンフェン)と呼ばれ、食材の臭い消しなど下処理に多用される』。『砂糖、黒酢、豆板醤、練り胡麻、トウガラシ、ニンニク、ショウガ、ネギ、砕いたラッカセイなどと組み合わせた味は複雑で奇怪な味という意味で「怪味」(かいみ、グヮイウェイ 拼音: guàiwèi)と呼ばれるが、これに花椒の風味は欠かせない。タレは怪味だれ、怪味ソースなどとも呼ばれる』。『中国などでは豆豉や油脂などと配合した合わせ』、『調味料も多種』、『販売されている』。『全粒の花椒を大量に買うと、種子が果皮に挟まったものが』、『まれに混じることがあるが、これは』不味い『ので気付いたなら取り除くべきである』。『花椒が無い場合、日本のサンショウで代用できないことはないが』、『風味や辛さが大きく異なる』。『果皮には産地により差があるが約』一~九『%の精油成分を含む。主な精油成分はゲラニオール、リモネン、クミンアルコール、シトロネラールなど。油脂分ではパルミチン酸とパルミトレイン酸を多く含む。主な辛味成分はヒドロキシ-α-サンショオール(Hydroxy-α-sanshool)などのサンショオール誘導体とサンショアミド』である。『果皮は「花椒」、「椒紅(しょうこう)」と称して生薬としても用いられる。漢方で「花椒」は健胃、鎮痛、駆虫作用があるとされ、大建中湯、烏梅丸などに使われる』。「本草綱目」『は性味を「辛、温、有毒」とする。陰虚の患者、妊婦は忌避すべきとされる。授乳を終える時期に花椒を煎じ、砂糖を加えて飲むと、乳の分泌が抑えられ、乳房の張りも収まるとされる』。『また、中の黒い種子を「椒目」(しょうもく)と称し、煎じたり、粉砕して「水気腫満」(水腫)、「崩中」(子宮出血)、下り物の治療に用いた。利尿作用、鎮咳作用もある。主な成分はオレイン酸、パルミチン酸などの脂肪酸、リノール酸メチル、リノレン酸メチルなどの脂肪酸エステルで、モノテルペノイド、セスキテルペノイドも含む』。『日本薬局方では、サンショウの成熟した果皮で、種子をできるだけ除いたものを生薬・山椒(サンショウ)と規定している。このため花椒を日局サンショウとして用いることはできない』。『花椒の実は多くなることから、中国では古くより子孫繁栄の象徴と見られてきた。西周の詩歌を集めた』、「詩經」の「唐風」には、「椒聊之實 蕃衍盈升」『(椒聊の実は、繁って増え、上に昇る)と記されている。また、後漢の班固は』「西都賦」『で壁に花椒を塗った「椒房」を皇后の部屋としていると記し、子孫繁栄を願っていたことが窺える』とある。

 なお、 なお、以上の本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」「果之四」「味類一十三種内附四種」の冒頭の「秦椒」からのパッチワークであるが、いろいろと引用に問題を感じているので、長いが、以下に全文を手を加えて示す。下線部が、良安の引いた箇所(勝手に手を入れているので注意)である。彼のここでのパッチワークが、如何に危ういアクロバティックにして、グチャグチャの極みであることが判然とする。

   *

秦椒【本經中品】 校正【自木部移入此】

 釋名大椒【爾雅】花椒

 集解【别錄曰秦椒生㤗山山谷及秦嶺上或瑯琊八月九月采實弘景曰今從西來形似椒而大色黃黑味亦頗有椒氣或云卽今樛樹子樛乃豬椒恐謬恭曰秦椒樹葉及莖子都似蜀椒但味短實細爾藍田秦嶺間大有之頌曰今秦鳳明越金商州皆有之初秋生花秋末結實九月十月采之爾雅云檓大椒郭璞注云椒叢生實大者爲檓也詩唐風云椒聊之實繁衍盈升陸璣疏義云椒樹似茱茰有針刺葉堅而滑澤味亦辛香蜀人作茶吳人作茗皆以其葉合煮爲香今成臯諸山有竹葉椒其木亦如蜀椒小毒熱不中合藥也可入飮食中及蒸鷄豚用東海諸島上亦有椒枝葉皆相似子長而不圓甚香其味似橘皮島上麞鹿食其葉其肉自然作椒橘香今南北所生一種椒其實大於蜀椒與陶氏及郭陸之說正相合當以實大者爲秦椒也宗奭曰此秦地所産者故言秦椒大率椒株皆相似但秦椒葉差大粒亦大而紋低不若蜀椒皺紋爲髙異也然秦地亦有蜀椒時珍曰秦椒花椒也始產於秦今處處可種最易蕃衍其葉對生尖而有刺四月生細花五月結實生靑熟紅大於蜀椒其目亦不及蜀椒目光黑也范子計然云蜀椒出武都赤色者善秦椒出隴西天水粒細者善蘇頌謂其秋初生花蓋不然也】

 修治【同蜀椒】[やぶちゃん注:「本草綱目」の「蜀椒」は次項。]

 椒紅氣味辛温有毒【别錄曰生温熟寒有毒權曰苦辛之才曰惡苦蔞防葵畏雌黃】主治除風邪氣温中去寒痺堅齒髪明目久服輕身好顔色耐老増年通神【本經】療喉痺吐逆疝瘕去老血產後餘疾腹痛出汗利五臟【别錄】上氣欬嗽久風濕痺孟詵治惡風遍身四肢𤸷痺口齒浮腫搖動女人月閉不通産後惡血痢多年痢療腹中冷痛生毛髪滅瘢【甄權】能下腫濕氣【震亨】

 附方【舊六】膏痺尿多其人飲少用秦椒二分出汗蔕二分爲末水服方寸匕日三服類【傷寒要】手足心腫【乃風也椒鹽末等分醋和傅之良肘後方】損瘡中風【以麪作餫飩包秦椒於灰中燒之令熟斷開口封於瘡上冷卽易之【孟詵食療】】久患口瘡【大椒去閉口者水洗麪拌煮作粥空腹吞之以/飯壓下重者可再服以瘥爲度【食療本草】】牙齒風痛【秦椒煎醋含潄孟詵食療百蟲入耳椒末一錢醋半盞浸良久少少滴入自出【金續千方】】

   *

「蘇恭」初唐の官人で医師であった蘇敬(五九九年(隋の最末期)~六七四年)の別表記。当時の宋(現在の湖北地方の中にあった地名)の出身。朝議郎右監門府長史騎都尉。顯慶二(六五七)年に、六朝時代の医学者・科学者にして道教茅山派の開祖であった陶弘景の医学書「本草經集注」に誤りが多いことに鑑み、上奏して修正せんことを請い、同書の改訂案を仕上げた。これが現在の「唐本草」として「新修本草」に収録されている(「維基百科」の彼の記載他から作成した)。

「宗奭《そうせき》」北宋の官人で医学者・薬物学者であった寇宗奭(生没年未詳)。 北宋の名宰相寇準の曽孫と伝えられる。「萊公勳烈」の編集をしている。熙寧一〇(一〇七七)年に思州武城縣主簿に任ぜられ、以後、各地方の官吏を歴任した。特に本草医学に精通し、「本草衍義」二十巻(一一一六年完成)を撰述している。

「椒紅(ひさんせう)」引用に出たカホクザンショウの実である「花紅」「ホアジャオ」を指す。なお、現代の中国語では「紅椒」と書くと、トウガラシや赤色になったピーマンを意味するので、今度しないように注意が必要である。

「古今醫統」複数回既出既注だが、再掲すると、明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六)によって編纂された一種の以下百科事典。全百巻。「東邦大学」の「額田記念東邦大学資料室」公式サイト内のこちらによれば、『歴代の医聖の事跡の紹介からはじまり、漢方、鍼灸、易学、気学、薬物療法などを解説。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べている。分類された病名のもとに、病理、治療法、薬物処方という構成になっている』。『対象は、内科、外科、小児科、産婦人科、精神医学、眼科、耳鼻咽喉科、口腔・歯科など広範囲にわたる』とある。以下の引用は、「維基文庫」の「古今醫統大全/80」の「通用諸方 \ 花木類第二」に(漢字の一部に手を入れ、コンマを読点に代えた)、

  *

花椒以帶目未開口者、用碎土拌和、入淨瓶中、密封口倒置地上、於南檐有日色處曬着、至春初撒畦中、則粒粒皆出。

  *

とあるのを確認した。

「『凡そ、椒紅≪の實の≫、口《くち》、閉《とづ》る者、毒、有りて、人を殺《ころす》。』≪と≫」この部分、思うに、良安が、「本草綱目」の次の「蜀椒」の「修治」にある、

   *

椒紅氣味辛温有毒【别錄曰大熱多食令人乏氣喘促口閉者殺人[やぶちゃん注:以下、略。]】

   *

「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」から手を入れて引用した)から、勝手に持ってきたものと推定するものである。基本的に先の引用で判る通り、「秦椒」と「蜀椒」は同一とする見解があるので、まあ、いいとしても、安易に「殺人」というオトロしけない語を、安易に持ってくるというのは、医師として、指弾されるべきレベルの禁則行為である!

「槐《えんじゆ》」双子葉植物綱バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 「卷第八十三 喬木類 槐」を見よ。

「木芽(《き》のめ)」「木の芽」。日本料理でサンショウの若葉を指す語である。香りが良く、辛みがあり、香辛料として用途が広い。吸物に浮かしたり、煮物の青みに添えたりする。刻んで味噌に入れた「木の芽味噌」は木の芽田楽や、木の芽和(あ)え等にする。三杯酢に混ぜた木の芽酢、付け焼きに振り込む木の芽焼などもある(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。ああっつ! 思い出すなぁ! 柏陽高校で、今は亡き菊池のとっつあん先生が、無理矢理にやらされたラグビー部の顧問から、ワンダーフォーゲル部に引き抜いて呉れた直前、丹沢山行で、とっつあんが、自然の木の芽を見つけて、手ずから、味噌和えにして食わせて呉れたのを! ほんと、美味かったなぁ

「平椒(ひんしやう)」不詳。識者の御教授を乞う。方言か?]

2025/06/05

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「曾我祐成幽魂告苦」 / 「卷之二十四上」~了

[やぶちゃん注:底本はここから。長いので、段落・改行を成形し、句読点(変更・除去を含む)・記号を附加した。全体が連続しているため、注は、物によっては、文中に割注で入れるのが、五月蠅いものの、最適と判断した。

 なお、本篇を以って「卷之二十四上」は終わっている。]

 

 「曾我祐成幽魂告苦《そがのすけなりのいうこん くを つぐ》」  富士郡《ふじのこほり》不二山の裾野に有り。

 「甲越信戰錄」云《いはく》、「武田信玄公は人皇百五代、後柏原院《ごかしはばらゐん》大永六年[やぶちゃん注:一五二六年。但し、これは誤りである。信玄が生まれたのは大永元年十一月三日(ユリウス暦一五二一年十二月一日)である。これは、「甲越信戰錄」の筆者が後柏原天皇の崩御(大永六年四月七日(一五二六年五月十八日))年と錯誤したものである。]の御生れにて、御名を太郞殿と中ける。いか成事にや、二年の間、左の御手を開き給はず。父信虎公も、甚《はなはだ》、氣を痛め給ふに、惠林寺(ゑりんじ)の快川(くわいせん)和尙、御殿に出《いで》て、此君を見奉りて、

「必《かならず》、御按(ごあん)じ[やぶちゃん注:この場合は、「御案じ」の方が相応しい。「心配すること」である。]の義にはあらず、やがて、御手は開き給ふべし。御相を見奉るに、行末、愛度《めでたき》御まなじり、智仁兼備の御相にておはします也。昔、人皇三十二代用明天皇の御子、厩戶皇子[やぶちゃん注:聖徳太子。]、降誕有りて、二年の間、御手を開き給はず。月增花增《つきましはなまし》[やぶちゃん注:「月增」は「一と月二た月と、月が経つにつれて増す」、「花增」は「より優れた花」の意から「より好きな人・前の女にも増して愛する女」の意であるが、ここは、帝の寵愛ぶりを指すものであろう。]に抱き守りて、宮女等、大《おほい》におどろきしが、翌年の二月十五日に御手を開き給ふ。光明赫々《かくかく》として、佛舍利を持《もち》玉ひ、『南無佛々[やぶちゃん注:「々」は前の三字を繰り返すと考えて「なむぶつ なむぶつ」と読んでおく。]』と唱《となへ》玉ふ。是より『南無佛の舍利』と號し、攝州天王寺の金堂に納《をさめ》る處の舍利、是也。抑《そも》、此《この》舍利と申《まうす》は、天竺にて釋尊入滅の後《のち》、國王の御后※曼夫人《しやうまんぶにん》[やぶちゃん注:「※」は「勝」の異体字だが、そっくりなものがない。最も近いのは「グリフウィキ」のこれである。「勝曼夫人」は当該ウィキによれば、『勝鬘夫人(しょうまんぶにん、シュリーマーラー)は、古代インドの在家仏教徒。シュリーマーラーは「素晴らしい花輪」という意味で、勝鬘はそれを漢訳したもの。舎衛国(コーサラ国)の波斯匿王(はしのくおう)と彼の妃ある末利夫人(まりぶにん、マッリカー夫人)との娘』で、『阿踰闍(アヨーディヤー)国王の妃』。『経典』「勝鬘經」『の主人公で、釈迦に帰依した父母が勝鬘夫人の知恵が優れていることを理由に、仏に会うことを彼女へ勧める。両親からの手紙を読んだ勝鬘夫人が仏を称え救いを請うと、仏が姿を現して説法し、彼女もそれに応え誓願と説法を述べたと伝わる』という人物である。]、阿羅漢に請《こひ》て佛舍利を得、一生肌を放ち給はず、御臨終の時、手に握り、空《むなし》く成《なり》玉ふが、其後《そののち》、唐土《もろこし》へ生れ玉ふ。南嶽禪師[やぶちゃん注:「南嶽(岳)懐譲」(なんがくえじょう 六七七年~七四四年)は初唐から盛唐にかけての禅僧。出家して六祖慧能の門に入る。七一四年、南岳の般若寺観音堂に入って住すること三十余年、独自の禅風を興した。後世、この法系を「南岳下」と称した。諡号は大慧禅師(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。当該ウィキもよい。]、是也。又もや、佛舍利を握りて生れ出《いで》、經山寺[やぶちゃん注:調べた限りでは、彼の「維基百科」には、「後移居南嶽衡山觀音台」とあるので、これは「衡山の寺」の誤りのように思われる。識者の御教授を乞う。]に在りて、弘《ひろ》く法を說《とき》玉ふ。遷化《せんげ》の時、件《くだん》の舍利を握り、「東方有緣。」と申《まうして》て終り玉ひ、日本に生れ玉ふ時は、佛法扶桑の開祖、聖德太子、是也[やぶちゃん注:これは、おかしい。聖徳太子の生年は敏達天皇三年一月一日(五七四年二月七日)で南嶽禪師の生没年より百年も前である。]。かゝる例《ため》しもおはしませば、若君、御手の開かざるも、究めて名將の御しるしにて候はん。」

と申けり。

 果して、左の御手、ひらけしに、金の龍の目貫[やぶちゃん注:刀や槍の目釘のこと。鎌倉以降、頭(かしら)と座の飾りと、釘の部分を離して、別の位置に付けるようになり、釘の部分を「真目貫(まことめぬき)」・「目釘」と称し、飾りの金物を目につく箇所につけて「空目貫(そらめぬき)」と称した。ここは後者。]を、片々(かたがた)、持《もち》玉ふ。

「快川の判詞《はんし》、符節を合するが如し。」

と、御父、御喜悅也。

 其後、臨濟の沙門某、諸國を巡り、東海道を通り、富土の裾野を打詠め、終日《ひねもす》遊行《ゆぎやう》せし程に、日は西に入《いり》て、其夜は廣野に臥《ふせ》ぬ。

 勿論、三衣一鉢《さんえいつぱつ》[やぶちゃん注:行脚僧が具備することとされる「三衣(さんえ)」(「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣を指し、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製したもの)・大衣(だいえ。「鬱多羅僧衣」(うったらそうえ)とも言い、七条の袈裟で上衣とするもの)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指す)と托鉢。呆れたことに、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『江戸怪異綺想文芸大系 第五巻』(高田衛監修・堤邦彦/杉本好伸編)の「近世民間異聞怪談集成」(二〇〇三年刊初版)に所収する同パート(堤邦彦氏校訂)では、『三夜一鉢』となっていて、注も何もついてない! この本、他の作品の別人の校訂でも、とんでもないミスだらけで、腹が煮えくり返ったものだったが、一万八千円もするこの本、買わぬがマシだぜ! ホンマに!!]、樹下石上《じゆかせきじやう》の出家なれば、更に驚く事、なし。一木《いちぼく》のもと成る石上に安坐して、一心を將動《しやうどう》せず[やぶちゃん注:揺るがすことなく。]、坐禪觀法《くわんほふ》の風《かぜ》、凉々《りやうりやう》として、水、淸く、時に夜も更渡《ふけわた》り、北斗も寒き芒原《すすきはら》の露、ふみしだき來《きた》る者、有り。

 いまだ壯年の姿にて、狩衣の袖もしほれて、申やう、

「此所《このところ》は夜《よ》、嵐、つよく、露に濡れ給はん事、痛はし。我等が草の扉《とぼそ》に御供申《まうし》奉らむ。」

と。

 沙門も、是を悅び、彼《かの》男と諸共に、草を分行《わけゆ》く事、三町[やぶちゃん注:三百二十七メートル。]計りにして、庵《いほり》、有り。是《ここ》に入《いり》て、世の中の事など談話するに、何國《いづく》ともなく、

「曳々《えいえい》。」

と鯨波を上げ、四方の熖火《えんくわ》、盛りに燃上《もえあが》る。

 彼《かの》男、色、靑くなり、

「はや、迎《むかへ》の參りし。」

と、太刀を橫たへて出行《いでゆく》に、僧も

『不思議。』

と眼《まなこ》を見開き、

「き」

と見てあるに、姿は見えず、只、叫聲《さけびごゑ》のみ也。

「扨《さて》は。修羅の街にくるしむ者どもよ。」

と、淚を流し、一心に讀經す。

 暫くありて、物音、靜《しづま》り、彼男、弱々として、立歸《たちかへ》る。

 其時、僧の曰《いはく》、

「只今の有樣は、修羅の戰《いくさ》也《なり》。いかなる罪業《ざいごふ》にて、浮《うか》みもやらず、かヽる苦みを受玉ふぞや。」

 彼男、頭《かしら》を上げ、

「耻《はづ》かしき事ながら、それがしこそは、曾我の十郞祐成が昔の姿にて候。」

といふ。

「扨は。建久四年、此所にて工藤祐經を討《うち》玉ひし十郞殿なるか。御舍弟の五郞殿も同じ苦《くるし》みを受《うけ》給へるか。」

 彼男、

「いや。弟時致《ときむね》は母の詞に隨ひ、幼年より箱根山にて育られ、常に御經を讀誦し候、法華の功力《くりき》にて、再び此世に生れ出《いで》、今、甲州の大守と仰《あふが》れ候也。其しるしこそ、是也。」

と、金の龍の目貫を取出《とりいだ》し、

「片々《かたがた》は時致が持《もち》て生れ候也。」

と沙門に渡し、

「それがしは、露ばかりも善根なく、現世《げんせ》に作る其罪にて、長く、くるしむ。修羅道を、たすけ玉へ、御僧《おんそう》。」

といふも松吹《まつふく》風、庵も、うせて、草村《くさむら》なり。

 沙門も奇異の思ひをなし、翌日より、「法華」を營み、念頃《ねんごろ》に弔ひ、即《すなはち》、善福寺に、二の石碑を建つ。法名、

――高宗院峰岩良雪大禪定門 祐成――

――鷹嶽院士山良富犬禪定門 時致――

 其後、彼沙門、甲州に來り、惠林寺にて此事を物語る。

 快川和尙は、覺へ有る金の目貫なれば、沙門より、もらひ、直《ただち》に御殿に上り、右の物語を委《くはし》く申《まうし》て、金の目貫を差上《さしあぐ》る。

 御大將も大《おほき》に驚き、目貫を合せ、御覽有るに、一對と成けり。

 扨こそ、信玄公は、曾我の時致が生れかはりとは申せし也。猶《なほ》も、信玄公、曾我一門の菩提の爲に一寺を建立し給ふ。是、今の萬年山大仙寺也。兄弟の墓所、今に有り。當寺の寶物「金龍の目貫」は、此由來也。云云』。

 按《あんず》るに、祐成兄弟、父の爲、苦心する事、凡《およそ》十八年、天、其《その》孝心を憐み導《みちびき》て、祐經を此野に討たしむ。

 何ぞ、善根なしと、いはむ。

 時致、又、至孝のみに非ず、義を守るの男也。

 信玄、實《まこと》に時致が再來ならば、行跡《ぎやうせき》、正しかるべきを、佞奸《ねいかん》にして、非義、多し。再生ならざる事、必《ひつ》せり。

 佛者、猥《みだ》りに說をなして、稀世《きせい》の孝子を恥かしむ。

 惡《いく》むべきの、甚敷《はなはだしき》もの也。

 

          ――(卷二十四上終り)――

 

[やぶちゃん注:最後の「――(卷二十四上終り)――」は原本にはなく、編者によるものであるが、一応、添えておいた。

「甲越信戰錄」サイト「信州デジタルコモンズ」(県立長野図書館が運用するデジタル・アーカイブ・システムに、参加機関が所蔵している古文書や書籍、写真、絵図・地図、映像などをデジタル化して記録保存し、これを公開・提供する画像閲覧サービス)の「甲越信戦記」に一『頁目に「甲越信戦記」とあるが、その後の表記はすべて「甲越信戦録」と改まっている。甲越信戦録は、江戸後期に書かれたとされる武田信玄、上杉謙信による川中島の戦いを題材とした全八巻の軍記。作者不詳で、写本によって読み継がれた。この写本は全八巻分を一冊にまとめている。徳川家光が上杉家に命じて書かせ、実録と認めた合戦の記録「甲越信戦録」を柱とし、「武田三代記」「甲陽軍艦」を基にこの書を書き上げた旨を記し、武田・上杉の来歴、山本勘助と弟重頼の修行から軍師としての働き、各陣営の計略や駆け引き、信玄と謙信の一騎打ちや激しい交戦の様を両軍を代表する忠臣たちの働きや逸話も交えながら綴る。和睦の破棄のいきさつなどから信玄の仁の少ないことを嘆き、一方で謙信の仁の心が厚いことを讃えてもいる。最後は両家和睦して』十八『年に及んだ戦いが終結し、民百姓は安堵したと締めくくる』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの「實録甲越信戰錄」(上)西沢喜太郞編・明治一六(一八八三)年・信陽書肆 松葉軒刊)のここから、以上の当該部を視認出来る。また、長野市の綜合サイト「川中島の戦い」の『戦記「甲越信戦録」』があり、その『戦記「甲越信戦録」巻の三』のページの「一.晴信公は曽我五郎再来のこと」で、以上の話が、現代語で語られてある。

「快川和尙」快川紹喜(かいせんじょうき ?~天正一〇(一五八二)年)は臨済僧。美濃国土岐氏の出身。妙心寺第二十七世仁岫宗寿(じんしゅうそうじゅ)の法を嗣ぐ。美濃国南泉寺・崇福寺の住持となるが、同国の伝燈寺が引き起こした国内の禅刹統轄権を巡る争いで、国を出、甲斐国に行き、国分寺に住したが、武田信玄の帰依を受け、恵林寺(グーグル・マップ・データ)の住持となる。信玄の道号「機山」は快川の与えたものである。天正九(一五八一)年、大通智勝の国師号を朝廷から受けた。信玄没後、織田信長が武田勝頼を攻めた際、一山の僧と共に三門上に籠もり、焼死した。その時の「安禪必ずしも山水を須(もち)ひず、心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」の辞世の語は有名である(以上は、朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」を参考にした。当該ウィキが詳しいので、見られたい。

 さて。後半の修羅道に堕ちた曾我祐成の話であるが、曾我兄弟仇討ちについては、私の「北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート1〈富士の巻狩り〉」

「北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート2〈曾我兄弟仇討ち〉 了」

で「吾妻鏡」の原文も引き、詳細に記してあるので、そちらを参照されたい(古い電子化注なので、正字不全があったが、このために、昨日、補正しておいた)。

 また、この怪奇談は、私の電子化物では、延宝五(一六七七)年に京の松永貞徳直系の貞門俳人荻田安静(おぎたあんせい ?~寛文九(一六六九)年:姓は「荻野」とも)の編著になる、

「宿直草卷五 第四 曾我の幽靈の事」

が古く、よい。因みに、それをインスパイアしたものと推定される、正体不明の章花堂なる著者の元禄一七(一七〇四)年板行になる浮世草子怪談集の、

「金玉ねぢぶくさ卷之四 冨士の影の山」

もある。前者の方が、ぐだぐだと装飾テンコ盛りした後者よりも、お勧めではある。見られたい。

2025/06/04

ブログ・カテゴリ「小泉八雲」の来日後の作品を一篇を除いて正字化不全修正と全面改訂を終了した

 

 今年秋の朝ドラ「ばけばけ」の関係かららしく、私の小泉八雲の作品群(私は2020年1月15日にブログ・カテゴリ「小泉八雲」――現在は全659記事――で、彼の来日後の作品集全十二冊総ての電子化注を完遂している(但し、理由は不明だが、旧第一書房版「小泉八雲全集」に収録されていない“ The Fountain of Youth ”(「若返りの泉」)は除く)。小泉八雲の来日後の以上の作品を活字で日本語で読めるのは、現在、私のこのカテゴリのみである)へのアクセスが有意に増えている。しかし、その大半は、Unicodeを使いこなすようになる前のものであったため、正字表現が甚だ不全である。されば、諸電子化注の合間に、少しずつ、古い物から、本気を出して、正字への変更を始めている。完全に視認で確認し、底本を確認して打ち換えるため、かなりの時間が必要であるが、ドラマの開始までには、その作業を終えたいと思っている。無論、ミス・タイプ(かなりあった)は無論のこと、読み直して、注に不満がある箇所も大幅に補正している(よくアクセスされる一部は、既に、多少は修正済みではある)。御希望を下されば、フライングして修正しようとも思っている(実際、二、三年前からそうしたメールを戴き、修正している)。

 視力の低下が進み、なかなか、物理的に時間が掛かるが、頑張りたい。無論、何より――私の愛する小泉八雲のために――である。

殆どの電子化は、底本が不全、或いは、私が日本人小泉八雲の電子化として相応しくないと判断したため、新たに、信頼出来る新底本に拠り、ゼロから検証した。

 なお、訳者によって、「!」「?」の後に一マス空ける仕儀を行っていない場合があったが(文が切れる場合は除く)、これは、やはり、躓くので、一字空けを恣意的に施した。その他、底本に再度、当たり、行空けが相応しいかどうかも、確認する。

 ★また、今回の作業では、若い読者や日本語が出来るものの、ネイティヴでない方(私が親しくしているネット上の友人には複数いる)を意識して、難読語や、意味で躓くと私が判断した(元は高校国語教師であったので、その辺りは敏感である。作品によっては、私の授業と同じく、朗読をして、そうした箇所を点検することとした)熟語や表現には、割注を入れた。私の年齢(現在六十八歳)以上の読者には五月蠅いと感じられることもあろうが、私の読者ターゲットは、明らかに私よりも若い読者を対象とするものだからである。新字新仮名でなくては読まない、読めない、という日本人が大半を占めたら、それこそ、小泉八雲先生は、淋しくなられるに違いないからである。

 以下の、「経過報告」は不定時に更新する。

 なお、私の正字化補正を甘く見られると、私の辛苦の努力が空しくなるので、言っておくと、例えば、「内」は「內」に、ちゃんと、変えているのである。正規表現を掲げるサイトでも、この「內」を用いていないところは、かなり多いと存ずる。

 但し、言っておくと、参考等として、リンクを張ったものは、事実上、いちいちは再検証していない。存在しても、アドレスが変更されている場合もあるが、既に存在しないものもあり、そこから引用したものを抹消して、またまた、その部分をソリッドに書き変えるのは、あまりにも時間が掛かり過ぎるからである。悪しからず。

   *

【経過報告2025年2月19日 8:30現在】
現在、「小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十章 美保の關にて (二) 附 折口信夫「鷄鳴と神樂と」(附注)」まで修正作業を終わった。
【経過報告2025年2月21日14:35現在】
以上の「知られぬ日本の面影」の「江ノ島巡禮」(全)を、再々度、検証したところ、不全箇所を発見し、補正した。「ゝ」と「〻」の混用に至るまで、総て、厳密に再現した。まず、「江ノ島巡禮」(全)については、まず、OKかと思われる。それ以降の再検証も、再々点検中である。
【経過報告2025年2月21日17:10現在】
「知られぬ日本の面影」の「私の極東に於ける第一日」(全)の再々校訂を終了した。
【経過報告2025年2月28日 8:15現在】
必要があって、『小泉八雲 落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」の献辞及び「序」(附やぶちゃん注)』を全面改訂した。画像も追加した。
【経過報告2025年3月 4日12:40現在】 
「知られぬ日本の面影」の「第十九章 英語敎師の日記から」まで、補正を終了した。補正しながら、「(二十一)」を読み直し、またまた、落涙を禁じ得なかった。
【経過報告2025年3月 7日 8:45現在】
「知られぬ日本の面影」の 「第二十二章 舞妓について」(全六章分割)まで、補正を終了した。本文(プロローグを除く)を補正しながら再読して、またしても、滂沱してしまった。
【経過報告2025年3月11日 8:32現在】
「知られぬ日本の面影」の最終章「第二十七章 サヤウナラ」(全五章分割)の補正を終わり、取り敢えず、この「知られぬ日本の面影」の全補正を終わった。途中から、投稿原稿のブラウザを拡大して正字化修正をしたことから、その漏れは、かなり減衰したと思う。もし、私の注を含め、疑問に思われるものを発見された場合は、気軽に私にメールをお送り下さると、嬉しい。
【経過報告2025年3月11日10:18現在】
「知られぬ日本の面影」の「あとがき」(附やぶちゃん注)を、かなり、補正した。本篇に関わった三名の訳者によるもので、特に最後の大谷正信氏のものには、大谷氏に手書きで書いた、ハーンが日本に来るまでの経緯を語った、貴重な(他の小泉八雲の刊行物ではここでしか見られない)自筆年譜風の原文と、大谷氏による訳文が載る。未見の方は、是非、見られたい。
【経過報告2025年3月11日10:50現在】
小泉八雲の「神國日本」(戶川明三譯 附原文 附やぶちゃん注)の補正に入った。この電子化注は、小泉八雲の訳著作では、最も難渋した長編評論であり、されば、今までのように各章での経過報告は、しない。ある程度、ソリッドな複数章までで、補正状況を示すこととする。因みに、冒頭の「難解」は補正終了した。
【経過報告2025年3月15日 7:30現在】
思うところあって、「小泉八雲 ちん・ちん・こばかま (稻垣巖譯) / 底本「日本お伽噺」~了」と、序でだから、『柴田宵曲 妖異博物館 「小さな妖精」』を補正し、一部の注を書き変えた。但し、後に底本を変えて、再度、補正する。【2025年5月2日追記】底本を新たにして、全面改訂し、読みの一部を挿入した。
【経過報告2025年3月17日14:34現在】
小泉八雲の「神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(44) 大乘佛敎(Ⅲ) / 大乘佛敎~了」まで、補正を終了した。この最終章は、久々に正面から組み合ったが、やはり――聊か難物――であった。是非、読者諸君も挑戦されたい。
【経過報告2025年3月21日 9:35現在】
小泉八雲の「神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(100) あとがき(戶川明三) / 小泉八雲「神國日本」(戶川明三譯)附やぶちゃん注~完遂」まで、補正を終了した。私は、この電子化注テクストを作成するのに、実に、三年半かかった。今回の補正では、半ば頃から、補正スピードが急速になったが、これは、初回電子化の際、やっとUnicodeを使いこなせるようになっていたからであった(但し、「敎」等の不全や、私のミスタイプは複数あった)。どうか、リニューアルした、小泉八雲渾身の遺作であるこれを、是非、再読されんことを強くお薦めするものである。
【経過報告2025年3月21日11:28現在】
私の偏愛する小品「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月21日13:39現在】
「小泉八雲 草雲雀 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月21日14:58現在】
「小泉八雲 人形の墓 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。朗読してみて、思わず、涙が出た。
【経過報告2025年3月21日15:50現在】
「小泉八雲 門つけ (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月22日 7:02現在】
「生と死の斷片 小泉八雲(LAFCADIO HEARN)(田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月22日10:05現在】
「赤い婚禮 小泉八雲(LAFCADIO HEARN)(戶澤正保譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月22日10:40現在】
「小泉八雲 振袖 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月22日13:05現在】
「小泉八雲 因果話 (田部隆次譯)」(強力な注と原拠電子化を附してある)底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月22日17:12現在】
『小泉八雲 惡因緣 (田部隆次譯) 附・「夜窓鬼談」の「牡丹燈」』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月23日 7:30現在】
『小泉八雲 蟬 (大谷正信譯) 全四章~その「一」』底本を新たにして、全面改訂した。訳者註が、当該作の最後に纏めてあるのを、適切な箇所に移動しているため、午後五時から取り掛かったが、恐ろしく時間がかかった。専心しないと、厳しそう!
【経過報告2025年3月23日 9:00現在】
『小泉八雲 蟬 (大谷正信譯) 全四章~その「二」』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月23日10:54現在】
『小泉八雲 蟬 (大谷正信譯) 全四章~その「三」・「四」 / 蟬~全電子化注 完遂』底本を新たにして、辛うじて午前中に完遂した。
【経過報告2025年3月23日15:58現在】
「小泉八雲 夢魔觸 (岡田哲藏譯)」底本を新たにして、全面改訂した。私は、本作を、怪談としてではなく、ユングを先取りした、洞察に富んだ、深層心理学的・精神分析学的小佳品として、高く評価するものである。
【経過報告2025年3月24日10:15現在】
『小泉八雲 作品集「骨董」 (正字正仮名)全電子化注始動 / 幽靈瀧の傳說 (田部隆次譯)』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月24日11:08現在】
私が偏愛する「小泉八雲 茶碗の中 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。なお、私は既に『柴田宵曲 續妖異博物館 「茶碗の中」 附 小泉八雲「茶碗の中」原文+田部隆次譯』で、英文原文と原拠の電子化を行っているので、そちらも、是非、見られたい。
【経過報告2025年3月24日13:13現在】
「小泉八雲 常識 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。なお、私は既に 『柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その3) 附小泉八雲“ Common Sense ”原文+田部隆次譯』で、英文原文と原拠の電子化を行っているので、そちらも、是非、見られたい。
【経過報告2025年3月24日14:52現在】
「小泉八雲 生靈 (田部隆次譯) 附・原拠」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月24日15:44現在】
「小泉八雲 死靈 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月24日16:30現在】
『小泉八雲 おかめのはなし(田部隆次譯)/附・原拠「新撰百物語」卷二「嫉妬にまさる梵字の功力」(オリジナル翻刻・完全版)』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月24日17:08現在】
「小泉八雲 蠅のはなし  (大谷正信譯) 附・原拠」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月24日17:28現在】
「小泉八雲 雉子のはなし  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月25日 5:36現在】
『小泉八雲 忠五郞のはなし  (田部隆次譯) 附・原拠 / 「古い物語」~了』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月25日 7:50現在】
「小泉八雲 或女の日記 (田部隆次譯) 附・オリジナル注」底本を新たにして、全面改訂した。未読の方には、是非、読んで貰いたい作品である。
【経過報告2025年3月25日15:28現在】
「小泉八雲 平家蟹 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日 6:37現在】
「小泉八雲 螢  (大谷正信譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日 7:05現在】
「小泉八雲 露の一滴 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日10:40現在】
「小泉八雲 餓鬼 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日11:30現在】
「小泉八雲 尋常の事 (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日14:10現在】
「小泉八雲 默想  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日14:10現在】
「小泉八雲 病理上の事  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日15:05現在】
「小泉八雲 眞夜中  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月26日16:23現在】
「小泉八雲 夢を食ふもの(田部隆次譯)~作品集「骨董」全篇電子化注完遂」底本を新たにして、全面改訂した。一部の作品は、殆んど修正が必要なかったため、ここに記さなかったものもあるが、「骨董」は全作品について底本を新たにし、全面改訂してある。
【経過報告2025年3月27日 5:35現在】
『小泉八雲「怪談」(戶川明三・大谷正信・田部隆次共譯)始動 / 原序』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月27日 8:24現在】
『小泉八雲「怪談」(戶川明三・大谷正信・田部隆次共譯)始動 / 原序』、及び、「小泉八雲 耳無芳一の話 (戶川明三譯)」底本を新たにして、全面改訂した。未明から始めたが、複数の関連リンク先の補正と、原拠の字起こしの検証をしたため、三時間もかかってしまった。【経過報告2025年3月28日 3:58現在】
「小泉八雲 をしどり (田部隆次譯) 附・原拠及び類話二種」底本を新たにして、全面改訂した。この話には、個人的に拘りがあるので、丑三つ時に目が覚めて、やりたくなった。
【経過報告2025年3月28日 6:01現在】
『小泉八雲 お貞のはなし (田部隆次譯) 附・原拠「夜窓鬼談」の「怨魂借體」のオリジナル訓読注』底本を新たにして、全面改訂し、原拠のテクストも再度、校正し、補正した。
【経過報告2025年3月28日 6:40現在】
「小泉八雲 姥櫻  (田部隆次譯) 附・原拠」底本を新たにして、全面改訂し、原拠のテクストも再度、校正し、補正した。
【経過報告2025年3月28日 7:41現在】
「小泉八雲 術數  (田部隆次譯) 附・原拠」底本を新たにして、全面改訂し、原拠のテクストをも追加した
【経過報告2025年3月28日 9:57現在】
『小泉八雲 鏡と鐘  (田部隆次譯) 附・原拠「夜窓鬼談」の「祈つて金を得」オリジナル電子化注』底本を新たにして、全面改訂した。【経過報告2025年3月28日10:56現在】
私が最も偏愛する「小泉八雲 食人鬼  (田部隆次譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。本篇は、既に何度か、修正していたのに、ミス・タイプが二箇所もあった。まさに『あ〻恥ぢ入ります、――甚だ恥ぢ入ります、――實に恥ぢ入ります』と独り、口に出していた…………
【経過報告2025年3月28日13:59現在】
「小泉八雲 貉 (戶川明三譯) 附・原拠「百物語」第三十三席(御山苔松・話)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月28日15:09現在】
「小泉八雲 ろくろ首  (田部隆次訳) 附・ちょいと負けない強力(!)注・原拠」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月28日15:45現在】
『小泉八雲 葬られたる祕密  (戶川明三譯) 附・原拠「新撰百物語」の「紫雲たな引密夫の玉章」』底本を新たにして、全面改訂した。因みに――残る正字化不全は、二百記事を切った――
【経過報告2025年3月29日 5:02現在】
「小泉八雲 雪女  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月29日 7:34現在】
『小泉八雲 靑柳のはなし  (田部隆次譯) 附・原拠「多滿寸太禮」の「柳情靈妖」』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月29日13:28現在】
「小泉八雲 十六日櫻  (田部隆次譯) 附・原拠」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月30日 6:36現在】
『小泉八雲 安藝之助の夢 (田部隆次譯) 附・原拠参考文・陳翰「槐宮記」(書き下し文)』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月30日 7:59現在】
「小泉八雲 力ばか (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月30日 8:42現在】
「小泉八雲 日廻り (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月30日 9:01現在】
「小泉八雲 蓬萊  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月31日 7:03現在】
昨日より、今朝にかけて、「小泉八雲 蟲の硏究 蝶 (大谷正信譯)」(三・四の三分割)を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月31日 8:04現在】
「小泉八雲 蟲の硏究 蚊  (大谷正信譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月31日10:04現在】
「小泉八雲 蟲の硏究 蟻 (大谷正信譯) / 蟲の硏究 蟻~了 / 作品集「怪談」~了」(二・三四・五・六・七の三分割)を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年3月31日15:39現在】
「小泉八雲 作品集「天の河緣起そのほか」始動 / 天の河緣起 (大谷正信譯) (その1)」底本を新たにして、全面改訂した。本篇は長いため四分割で電子化したものだが、当時の私の附した注に不満があったので、思いの外、時間が掛かった。
【経過報告2025年4月 1日10:01現在】
「小泉八雲 天の河緣起  (大谷正信譯) その4 / 「天の河緣起」~了」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 2日 6:53現在】
『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」  (大谷正信譯)』底本を新たにして、全面改訂した。今回、小泉八雲が使用した旧蔵原本の当該箇所を示して、ヴィジュアルに対照して読めるように補正した。されば、この作品、全十四章と後書きに分割してあるので、全部を終わるのには、少し時間が掛かりそうである。
【経過報告2025年4月 2日10:18現在】
『小泉八雲 化け物の歌 「五 ロクロクビ」  (大谷正信譯)』を同前で全面改訂した。一部の崩し字の判読を修正した。
【経過報告2025年4月 2日16:50現在】
『小泉八雲 化け物の歌 (後書き部)  (大谷正信譯) / 化け物の歌~了』を同前で全面改訂した。
【経過報告2025年4月 3日 6:04現在】
「小泉八雲 『究極の問題』  (大谷正信譯)」底本を新たにして、全面改訂した。好きな評論であるので(結構、佶屈聱牙)、午前三時前から始めて、三時間みっちり検証し、注もかなり手を加えた。
【経過報告2025年4月 3日 8:08現在】
『小泉八雲 鏡の少女  (大谷正信譯) 附・原拠「當日奇觀」卷之第五の「松村兵庫古井の妖鏡」(原本底本オリジナル版)』を同前で全面改訂した。注で示した別テクストも、総て、再補訂した。
【経過報告2025年4月 3日15:18現在】
『小泉八雲 伊藤則助の話  (大谷正信譯) 附・原拠「當日奇觀」の「伊藤帶刀中將、重衡の姬と冥婚」』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 4日 4:58現在】
小泉八雲の来日後の唯一の、若き日の異国での体験を綴った「小泉八雲 小說よりも奇  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 4日 8:04現在】
『小泉八雲 日本からの手紙  (大谷正信譯) / 作品集「天の河緣起そのほか」全オリジナル電子化注~完遂』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 4日12:44現在】
『昭和六(一九三一)年一月第一書房刊「學生版 小泉八雲全集」(全十二巻)第七卷の田部隆次氏の「あとがき」』底本を新たにしたことから標題を含め、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 4日14:07現在】
『昭和六(一九三一)年一月第一書房刊「學生版 小泉八雲全集」(全十二巻)第七卷の大谷正信氏の「あとがき」 / 同第七巻全電子化終了』底本を新たにしたことから標題を含め、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 4日16:52現在】
『小泉八雲 作品集「日本雜錄」始動 / 奇談 / 「約束」(田部隆次譯)』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 4日17:30現在】
「小泉八雲 破約  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 5日 5:38現在】
『小泉八雲 閻魔の庁にて  (田部隆次譯) (原拠を濫觴まで溯ってテッテ的に示した)』底本を新たにして、テツテ的に全面改訂した。
【経過報告2025年4月 5日 7:57現在】
「小泉八雲 果心居士  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 5日10:00現在】
『小泉八雲 梅津忠兵衞  (田部隆次譯) 附・原拠「通俗佛敎百科全書」上卷』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 5日11:09現在】
「小泉八雲 僧興義  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 5日14:40現在】
『小泉八雲 作品集「日本雜錄」 / 民間傳說拾遺 / 「蜻蛉」(大谷正信譯)の「一」』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 5日 7:44現在】
『小泉八雲 「蜻蛉」のその「二」・「三」  (大谷正信譯)』底本を新たにして、全面改訂した。無名の一句の作者を探り当てた。
【経過報告2025年4月 5日11:12現在】
『小泉八雲 「蜻蛉」のその「四」  (大谷正信譯)』を全面改訂した。複数の新知見を注で追加した。
【経過報告2025年4月 5日13:04現在】
『小泉八雲 「蜻蛉」のその「五」  (大谷正信譯) / 「蜻蛉」~了』を底本を新たにして、全面改訂した。注も、全体にブラッシュ・アップした。
【経過報告2025年4月 6日 8:17現在】
「小泉八雲 佛敎に縁のある動植物  (大谷正信譯) / その1」を全面改訂した。
【経過報告2025年4月 8日 9:57現在】
『小泉八雲 佛敎に緣のある動植物  (大谷正信譯) /その3 ~「佛敎に緣のある動植物」~了』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 8日11:18現在】
『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 序・一(「天氣と天象との歌」)』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月 8日13:14現在】
『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 二(「動物に關した歌」)』を全面改訂した。
【経過報告2025年4月 8日16:01現在】
『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 三(「種々な遊戲歌」)』を全面改訂した。特に途中に入れてある私の注の一部を大幅にブラッシュ・アップした。
【経過報告2025年4月 9日 4:15現在】
『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 四(「物語の歌」)』を全面改訂した。
【経過報告2025年4月 9日 4:15現在】
『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信譯) 五(「羽子突歌と手毬歌」)』を全面改訂した。
【経過報告2025年4月11日 5:17現在】
『小泉八雲  (大谷正信譯) 六(「子守歌」)、及び、後書き部 / 日本の子供の歌~了』を全面改訂した。
【経過報告2025年4月11日 6:32現在】
「小泉八雲 橋の上  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月11日10:35現在】
「小泉八雲 お大の例  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。ひどいミス・タイプがあった。「お大さん」に心から謝罪しておく。
【経過報告2025年4月12日 4:12現在】
偏愛する小品「小泉八雲 海のほとりにて (大谷正信譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月12日 6:26現在】
勝れた漂流実話「小泉八雲 漂流  (大谷正信譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月12日 8:48現在】
「小泉八雲 乙吉の達磨  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月12日13:44現在】
『小泉八雲 日本の病院に於て  (田部隆次譯) / 作品集「日本雜記」全電子化注~了』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月12日16:16現在】
『小泉八雲作品集「影」 始動 / 献辞及び「珍しい書物からの話」の「和解」 附・原拠』底本を新たにして、全面改訂した。残る補正記事はブログ投稿記事数で七十數篇となった。
【経過報告2025年4月13日 5:07現在】
「小泉八雲 普賢菩薩の話  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月13日14:05現在】
「小泉八雲 衝立(ついたて)の乙女  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月13日14:56現在】
「小泉八雲 屍に乘る人  (田部隆次譯) / 原拠及びリンクで原々拠を提示」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月13日15:42現在】
「小泉八雲 辨天の同情  (田部隆次譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月13日17:09現在】
『小泉八雲 鮫人(さめびと)の感謝  (田部隆次譯) 附・原拠 曲亭馬琴「鮫人(かうじん)」』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月14日 8:10現在】
『小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲藏譯) その「一」』底本を新たにして、全面改訂した。この作品、小泉八雲の作品では、かなり読み難い(意味を採り難い)作品であるので、かなり時間がかかりそうだ。今回、注を大幅に増やした。
【経過報告2025年4月14日14:17現在】
『小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲藏譯) その「二」』底本を新たにして、全面改訂した。表画像も、新底本から新たにトリミングして補正し、差し替えておいた。
【経過報告2025年4月14日15:30現在】
『小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲藏譯) その「三」と「四」 / 日本の女の名~了』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月15日11:30現在】
「小泉八雲 日本の古い歌  (大谷正信譯) ~ (その1)」底本を新たにして、全面改訂した。注を、より附加した。
【経過報告2025年4月15日13:38現在】
「小泉八雲 日本の古い歌  (大谷正信譯) ~(その2) / 日本の古い歌~了」底本を新たにして、全面改訂した。注を、より附加した。
【経過報告2025年4月15日14:30現在】
『小泉八雲 夜光蟲 (岡田哲藏譯) / これより作品集「影」の最終パート標題「幻想」に入る』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月15日15:33現在】
「小泉八雲 群集の神祕  (岡田哲藏譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月15日17:31現在】
「小泉八雲 ゴシック建築の恐怖  (岡田哲藏譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月16日 5:37現在】
「小泉八雲 夢飛行  (岡田哲藏譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月16日 7:58現在】
「小泉八雲 夢書の讀物  (岡田哲藏譯)」底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月16日 8:48現在】
『小泉八雲 一對の眼のうち  (岡田哲藏譯) / 作品集「影」全電子化注~了』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月16日 9:38現在】
『小泉八雲 作品集「靈の日本」始動 / 斷片 (田部隆次譯)』底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月16日14:37現在】
「小泉八雲 香 (大谷正信譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。小泉八雲の日本での作品の中で、唯一、私が、当時、全く興味を持てなかった作品であったため、今回、校正したところ、ミス・タイプが異常に多かった。
【経過報告2025年4月16日15:55現在】
「小泉八雲 占の話 (田部隆次譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月17日 5:41現在】
「小泉八雲 蠶 (大谷正信譯)」を底本を新たにして――強力に――全面改訂した。残りの未修正記事は90を切った。
【経過報告2025年4月18日 7:18現在】
「小泉八雲 佛足石 (大谷正信譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。注をブラッシュ・アップした。かなり時間がかかった。
【経過報告2025年4月18日 7:18現在】
「小泉八雲 吠 (田部隆次譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月18日15:20現在】
「小泉八雲 小さな詩 (大谷正信譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。注をブラッシュ・アップした。
【経過報告2025年4月19日15:07現在】
「小泉八雲 佛敎に緣のある日本の諺 (大谷正信譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。訳に有意に省略があるのに呆れ果て、幾つかに就いては注でそれを指摘しておいた。
【経過報告2025年4月19日16:00現在】
「小泉八雲 暗示 (田部隆次譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月19日 4:55現在】
『小泉八雲 天狗の話 (田部隆次譯) / 作品集「靈の日本」電子化注~全完遂』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月20日 7:20現在】
「知られぬ日本の面影」の「あとがき」(附やぶちゃん注)に抜けていた(私が附すつもりですっかり忘れていた)訳者分担の表を、後刊(先行する底本にはない)の記載で追加した。
【経過報告2025年4月20日 8:51現在】
『昭和一一(一九三六)年十一月第一書房刊「家庭版小泉八雲全集」第七卷「あとがき」(大谷正信・岡田哲藏・田部隆次)』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月20日 9:33現在】
「小泉八雲作品集『異國情趣と囘顧』始動 / 献辞・序」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月20日12:35現在】
「小泉八雲 富士山 (落合貞三郞譯) / (その序)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月20日16:54現在】
『小泉八雲 富士山 (落合貞三郞譯) / その「三」・「四」・「五」・「六」(訳者は原作の七章構成を恣意的に六章構成に変えてしまっている) / 富士山~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月21日 7:26現在】
『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「一」・「二」』を底本を新たにして、全面改訂した。未明の午前三時から始めたが、原文との比較によって、小泉八雲・訳者大谷定信ともに誤っている箇所を、さらに見つけた結果、注改稿に、こんなに時間が掛かってしまった。画像も新しくした。
【経過報告2025年4月21日15:55現在】
『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「三」・「四」(カネタタキ)』を底本を新たにして、全面改訂した。案の定、これだけで、七時間近く掛かった。
【経過報告2025年4月23日 4:58現在】
『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「五」の「マツムシ」・「すずむし」』を底本を新たにして、全面改訂した。昨日は、午前中、自宅の斜面の葛の一大掃討作戦を独りで三時間行ったため、更新出来なかった。
【経過報告2025年4月23日 8:19現在】
『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「五」の「ハタオリムシ」・「うまおひ」・「キリギリス」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月23日10:14現在】
『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「五」の「クサヒバリ」・「キンヒバリ」・「クロヒバリ」』を底本を新たにして、全面改訂した。トンデモない誤った注を修正した。
【経過報告2025年4月23日14:00現在】
『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「五」の「コホロギ」・「クツワムシ」・「カンタン」 / 「五」~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月23日15:50現在】
『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「六」 / 「蟲の樂師」~了』を底本を新たにして、全面改訂した。最終段落の八雲の述懐に、再度、激しい衝撃を受け、暗澹たる思いに沈んでしまった。
【経過報告2025年4月24日 7:08現在】
「小泉八雲 禪の一問 (田部隆次譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月24日10:40現在】
先の、「小泉八雲 佛敎に緣のある日本の諺 (大谷正信譯)」の、『八二 死んだればこそ生きたれ』に重要な出典を追加した
【経過報告2025年4月24日13:29現在】
『小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「一」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月26日 9:40現在】
『小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「五」 / 「死者の文學」~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月26日14:32現在】
「小泉八雲 蛙 (大谷定信譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月27日 4:27現在】
「小泉八雲 月の願 (田部隆次譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。珍しく、ひらがなのタイプ・ミス(濁点等)三箇所と、同義熟語の熟語の漢字表記一字の誤記だけで、今までの中で、最速で補正が終わった。少しだけ、注を増補した。
【経過報告2025年4月28日 8:48現在】
『小泉八雲 初の諸印象 (岡田哲藏譯) / 作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』を底本を新たにして、全面改訂した。注を大幅に増やした。未読の方は、訳文、佶屈聱牙なれば、御覚悟あれかし。
【経過報告2025年4月28日13:51現在】
「小泉八雲 美は記憶 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月28日16:12現在】
「小泉八雲 美のうちの悲哀 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。後半部で小泉八雲の引用した原文を、今回、発見したので、原文を掲げて、自動翻訳しておいた。
【経過報告2025年4月29日 6:30現在】
「小泉八雲 若さの香 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月29日 7:45現在】
「小泉八雲 蒼の心理 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月29日10:37現在】
「小泉八雲 晩歌 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月29日16:40現在】
「小泉八雲 赤い夕日 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年4月30日17:33現在】
「小泉八雲 身震ひ (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。一部の注を大幅に変更した。
【経過報告2025年5月 1日 8:05現在】
「小泉八雲 赤い夕日 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 2日 6:46現在】
「小泉八雲 永遠の執着者 (岡田哲藏譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 2日 9:04現在】
『小泉八雲 化け蜘蛛 (稻垣巖譯) / 「日本お伽噺」所収の小泉八雲英訳作品 始動』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 2日10:48現在】
『小泉八雲 猫を畫いた子供 (稻垣巖譯)』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 2日13:38現在】
『小泉八雲 團子を失くしたお婆さん (稻垣巖譯)』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 2日16:07現在】
『第一書房昭和一二(一九三七)年三月刊「家庭版小泉八雲全集」(全十二卷)第六卷「あとがき」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 3日 4:20現在】
『小泉八雲 生神 (田部隆次譯) / 作品集「佛の畠の落穗」電子化注始動』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 3日14:00現在】
「小泉八雲 街頭より (落合貞三郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 3日15:10現在】
『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「一」・「二」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 5日 2:25現在】
『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「八」 / 京都紀行~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 5日 3:58現在】
「小泉八雲 塵 (落合貞三郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 5日 5:02現在】
『小泉八雲 日本美術に於ける顏について (落合貞三郞譯) / その「一」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 5日 9:28現在】
『小泉八雲 日本美術に於ける顏について (落合貞三郞譯) / その「五」・「六」 / 日本美術に於ける顏について~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 5日13:37現在】
『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郞譯) / その「一」・「二」・「三」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 6日 5:54現在】
『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郞譯) / その「六」・「七」 / 大阪にて~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 6日10:37現在】
「小泉八雲 日本の民謠に現れた佛敎引喩 (金子健二譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 6日16:38現在】
『小泉八雲 涅槃――總合佛敎の硏究 (田部隆次譯) / その「一」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 7日12:29現在】
『小泉八雲 涅槃――總合佛敎の硏究 (田部隆次譯) / その「五」 / 涅槃――總合佛敎の硏究~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 8日 7:27現在】
「小泉八雲 勝五郞の轉生 (金子健二譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。注を大幅に増補した。
【経過報告2025年5月 8日 8:49現在】
『小泉八雲 環中流轉相 (金子健二譯)  / 作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」~完遂』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 8日10:54現在】
『小泉八雲 作品集「心――日本內面生活の暗示と反響」始動 / (序)・停車場にて (田辺隆次譯)』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 9日 8:59現在】
小泉八雲 日本文化の神髓 (石川林四郞譯) / その「一」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月 9日 9:58現在】
『本カテゴリ「小泉八雲」で電子化していない日本で書かれた一篇である小泉八雲の「若返りの泉」について視認可能とした事』を記事公開した。
【経過報告2025年5月 9日16:08現在】
小泉八雲 日本文化の神髓 (石川林四郞譯) / その「二」・「三」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月10日 6:20現在】
小泉八雲 日本文化の神髓 (石川林四郞譯) / その「四」・「五」 / 日本文化の神髓~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月10日 9:55現在】
「小泉八雲 旅行日記より (石川林四郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月10日14:49現在】
「小泉八雲 阿彌陀寺の比丘尼 (石川林四郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。……今、昨年末、旅した出雲で買った菓子の最後の一つを食べている。その名を「杣人(そまびと)好み 山の香」と言う……。
「小泉八雲 旅行日記より (石川林四郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月12日 7:30現在】
「小泉八雲 戰後雜感 (石川林四郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月12日 9:36現在】
「小泉八雲 お春 (石川林四郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月13日 5:47現在】
「小泉八雲 趨勢一瞥 (石川林四郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月13日 8:10現在】
「小泉八雲 業の力 (石川林四郞譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月14日 8:21現在】
『小泉八雲 保守主義者 (戶澤正保譯) / その「一」・「二」・「三」・「四」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月17日 5:34現在】
『小泉八雲 保守主義者 (戶澤正保譯) / その「五」・「六」・「七」・「八」/ 保守主義者~了』を底本を新たにして、全面改訂した。本改訂に時間がかかったのは、自宅の斜面に蔓延る驚異的な葛の富岳(私は勝手に「マチュピチュ」と呼んでいるが、まさに実際のそれそっくりに見えたからである。因みに、私は結婚式も新婚旅行もしていない(する必然性を感じなかったこと、というより、私自身が金を全く持っていなかった――銀行には三百八十五円しかなかった――からであり、何より、連れ合い(一つ年上で名古屋人の長女である)も「それでいい」と納得して呉れたからである。而して、直後に彼女が「夏休みに海外なら何処に行きたい?」(我々は高校国語教師であった)と聴かれたので、海外は江の島以外には行ったことがなかったので、「マチュピチュとナスカ」と答えたところ、その三ヶ月後、二週間に亙るペルー旅行に連れて行って呉れたのである)掃討作戦を間歇的にテッテ的に行ったことと、連れ合いと三十年前に行った堂ヶ島へ、再び、旅したためである。悪しからず。
【経過報告2025年5月18日 6:53現在】
「小泉八雲 薄暗がりの神佛 (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。最後に今回追記した私の本作への感想について、読者の反応を是非お聞かせ下されば、幸いである。
【経過報告2025年5月18日16:11現在】
「小泉八雲 前世の觀念 (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月19日12:14現在】
「小泉八雲 コレラ流行時に (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月20日 7:29現在】
『小泉八雲 祖先崇拝に就いて (戶澤正保譯) / その「一」・「二」・「三」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月21日 8:03現在】
前掲の『小泉八雲 祖先崇拝に就いて (戶澤正保譯) / その「一」・「二」・「三」』であるが、どうもちゃんと再検証していない気が募って来たので(訳が、かなり私には日本語として読み難いことが気にかかっていたのに、それをしっかり読み下さずにいたことに、昨日の夕刻に気づいたため)、再度、全面改訂した。実は、昨日午前中、例の「葛のマチュピチュ」の最終攻撃として、山桜の上にゴッソり残った葛の残骸(私ら夫婦は「葛のデブリ」と呼称している)の半分を4・1メートル伐採機を駆使して陥落させるため、早急に上記を公開してしまったためである。
【経過報告2025年5月22日 6:52現在】
『小泉八雲 祖先崇拝に就いて (戶澤正保譯) / その「四」・「五」・「六」 / 祖先崇拜に就いて~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月23日 4:33現在】
『小泉八雲 きみ子 (戶澤正保譯)』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月24日21:52現在】
『小泉八雲 俗唄三つ (稻垣巖譯) / (序)と「『俊德丸』の唄」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月25日 9:47現在】
『小泉八雲 俗唄三つ (稻垣巖譯) / 「『小栗判官』の唄」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月25日10:25現在】
『小泉八雲 俗唄三つ (稻垣巖譯) / 「俗唄三つ」~了 / 作品集「心」~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月26日14:06現在】
『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集「東の國から」(正字正仮名版)始動/ 献辞・田部隆次譯「夏の日の夢」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月27日 5:04現在】
「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) 九州學生 (田部隆次譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月27日12:28現在】
「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月28日 8:15現在】
「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 永遠の女性に就て (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年5月29日 5:56現在】
「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 石佛 (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年6月 2日 9:33現在】
『小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 柔術 (戶澤正保譯)/その「一」から「五」』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年6月 2日 9:33現在】
『小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 柔術 (戶澤正保譯)/その「六」から「九」/「柔術」~了』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年6月 3日 6:42現在】
「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 叶へる願 (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年6月 3日16:45現在】
「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 橫浜にて (戶澤正保譯)」を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年6月 4日 8:40現在】
『小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 勇子――追憶談 (戸澤正保譯) / 作品集「東の國から」全電子化注~了 / 来日後の作品集全電子化注完遂』を底本を新たにして、全面改訂した。
【経過報告2025年6月 4日 9:06現在】
『第一書房昭和一二(一九三七)年二月刊「學生版小泉八雲全集」第五 田部隆次氏「あとがき」』を底本を新たにして、全面改訂した。

   *

 以上を以って、小泉八雲の来日後の作品集全十二冊総て(但し、理由は不明だが、旧第一書房版「小泉八雲全集」に収録されていない“ The Fountain of Youth ”(「若返りの泉」)は除く)の電子化注の全改訂を終わった。

   *

 以下、その後、来日前の「支那怪談」の訳文を総て(六篇)を電子化注してあるが、この校正は後にする。また、以上の“ The Fountain of Youth ”の拙訳電子化は、既に述べた通り、近いうちにやろうとは思っている。今まで、別に私が行っている全然関係ないテクスト電子化注を、この改訂のために、かなり疎かにしてきたので、今までのようには、シャカリキにはしない。悪しからず。ない、この記事も、標題を変え、今日の時制に書き変え、ブログ冒頭への配置を止める。

2025/06/03

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「富士山奇景」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落・改行を成形し、読点を補った。]

 

 「富士山奇景」  富士郡不二山に有り。

 文政某の年六月、武州四谷𪉩町《よつやしほちやう》の住《ぢゆう》、刀屋彌六と云《いふ》者、不二に登山す。或夜、小屋を出《いで》て用便す。山中、悉く海の如く、其廣き事、限《かぎり》を知らず、見る內《うち》、所々に樓閣の形ち、顯《あらは》せり。奇として、內に入、又、出て、四方を見るに、雲、晴、月、明《あきらか》か也。云云。

 蜃氣等の登れるにや。

 富士郡吉原《よしわら》驛本陣、長谷川八郞兵衞貞秀云《いはく》、

「當郡印野村は山極《やまぎは》の根付也。此地に九十餘歲の老人、有り。此事を尋《たづね》しに、

『もや立《たち》、或《あるい》は、雨を催《もよほす》べき天氣には、霧、または、白雲《はくうん》の、海の如く見えぬるは、折節は、見及《みおよび》たりしが、樓閣の形など顯する事は、聞《きく》も及《およば》ず。すべて、不二山は、見る內、風景、種々に替るが故に、むかしより、畫人、多く眞寫を慾《ほつす》れども、終《つほ》に、かき得る者、なし。」

と云《いへ》り。

 樓閣の形を顯《あらは》するは、最《もつとも》稀世《きせい》の奇景也。云云。

 

[やぶちゃん注:「文政某の年六月」「六月」があるのは、文政元(一八一八)年(文化一五年四月二十二日(グレゴリオ暦一八一八年五月二十六日)改元)から、天保に改元する(陰暦十二月十日:グレゴリオ暦一八三一年一月))文政十三(一八三一)年まで。

「武州四谷𪉩町」江戸切絵図で確認した結果、グーグル・マップ・データの、この「新宿通り」の南北の道際に東西にあった。

「吉原驛本陣」ここ(グーグル・マップ・データ)。同宿駅の吉原宿下本陣(長谷川本陣)跡。

「長谷川八郞兵衞貞秀」「富士市立博物館」公式サイト内の「吉原宿の問屋役および年寄役の変遷について」によれば、文政五(一八二二)年の条に『八郎兵衛(長谷川)』とあり、そこに『これより天保』四(一八三三)年『まで勤続している記録がある』とあるのが、彼である。

「印野村」現在の静岡県御殿場市印野。「ひなたGIS」のここ。別に、グーグル・マップ・データ航空写真も添えておく。富士山の東南の裾野に当たる。]

2025/06/02

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 畨蕉 / 卷第八十八 夷果類~了

 

Sotetu

 

[やぶちゃん注:右上に、「花初生」とキャプションした添書きがある。]

 

そてつ    華人呼曰鐵樹

        倭云蘇鐵

畨蕉

      【桄榔木亦名鐵樹同名異品也】

 

ハン ソヤ゚ウ

[やぶちゃん注:」は「番」の古い字体。東洋文庫訳では、総て「蕃」に書き変えてある。その方が確かに躓かずに読めるが、しかし、以下の「五雜組」の原本でも「」である以上、それで通す。「卷第八十四 灌木類 巵子」では、「蕃」の誤字として書き変えたのであるが、これには別に問題があるのである。それは現行では、台湾で「蕃蕉」と書いてバナナを意味するからである。

 

五雜組云相傳此樹從琉球來云種之能辟火患其葉似

鳳尾蕉而小其木麄巨葉宻比如魚刺將枯時以鐵屑糞

之或以䥫丁釘其根則復活蓋此樹水性金能生水也植

盆中不甚長一年纔落一下葉計長不能以寸亦不甚作

花余家畜二本三十年中僅見兩度花耳其花亦似芭蕉

而色黃不實

△按畨者外夷之稱其狀似鳳尾蕉故名畨蕉將枯者釘

 其根則活故倭曰蘇鐵【蘇者回生之義】原出於琉球而薩州多

 有之今𠙚𠙚植庭園及盆中貴重之大小皆可愛大者

 髙𠀋余徑尺余而皮有鱗甲如老松皮頂上生葉如桄

 榔椶櫚之軰其葉長二三尺深刻比比似魚刺兒樹生

 於根下大如拳亦鱗皮如本木然稍長至五六寸則生

 葉有一株七八子者性最畏寒濕冬月以藁包藏之四

 月將生新葉之前宜苅舊葉如中濕則朽急斫去朽𠙚

 宜栽之如輪切而無根亦能活一異也雖大木其根細

 如絲樹中心有白麫以作餠食亦如桄榔莎木麫之白

 麫可救饑

○琉球久米島之產葉細小宻比爲上大島爺山島之產

 葉粗大不宻爲次

○開花者希有之有花者不實有實者不花其花初無柎

 而木頂上脹起白色帶微青彷彿盛佛飯狀既長則花

 瓣厚硬至一二尺者似土筆菜綻者而不落花若生花

 宜急剪去否則新葉遲生

○結實者希有之其實生葉下有幕𮈔而連着之狀大小

 如栗有皺紋色如土朱𣾰而肉白中有仁乾則極堅

○冬月其根傍避尺許爲溝可漑鮮魚洗汁或糞汁古法

 培鐵屑釘鐵丁者如今不用

 泉州堺妙國寺有大木一株十七莖髙一𠀋五六尺同

 𠙚祥雲寺畨蕉亦次之他無比之者唯云薩州地如此

 者不乏近年土佐亦名木多


深山崖石上有加牟曾久草其莖葉畧似番蕉而株大似

 畨蕉椶櫚之軰僞以爲畨蕉嫩木然栽人家不活【出于石草】

 

   *

 

そてつ    華人、呼《よん》で曰ふ、「鐵樹《てつじゆ》」。

        倭、云ふ、「蘇鐵」。

畨蕉

      【桄榔木(たがやさん)、亦、「鐵樹」と名づく。

       同名異品なり。】

ハン ソヤ゚ウ

 

「五雜組」に云《いはく》、『相傳《あひつた》ふ、「此《この》樹、琉球より來《きた》る。」と。云《いは》く、之《これ》、種《うゑ》て、能《よく》、火患《くわかん》を辟《さ》く。」と。其の葉、「鳳尾蕉《ほうびせう》」≪と≫似て、小《ちさ》し。其《その》木、麄《あら》く、巨葉、宻(こまか)に比(なら)びて、魚(いを)の刺(えら)のごとく、將《まさ》に枯《かれ》んとする時、鐵屑《てつくづ》を以《もつ》て、之れに糞(こえ)し、或《あるい》は、䥫-丁(くぎ)を以て、其《その》根に釘(う)てば、則《すなはち》、復《また》、活《かつ》す。蓋し、此《この》樹、水性なり。金《きん》、能《よく》、水《すい》を生《せい》すればなり[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「五行相生」に基づく謂い。]。盆中に植《うゑ》、甚だ≪は≫長せず。一年、纔《わづか》に一≪枚の≫下葉《したば》を落《おとす》≪のみなり≫。計《はか》るに、長《ちやう》ずること、≪ただ≫≪一≫寸を以《もつて》すること≪のみにて≫、亦、甚《はなはだ》≪には≫花を作《なさ》ず。余[やぶちゃん注:著者である謝肇淛(しゃちょうせい)自身を指す。]が家に、二本を畜《つちか》ふ≪も≫、三十年中、僅《わづか》に兩度《りやうど》の花を見るのみ[やぶちゃん注:三十年の間、たった二度だけ、花をつけたに過ぎなかった。]。其《その》花、亦、芭蕉に似て、色、黃にして、實(《み》の)らず。』≪と≫。

△按ずるに、「畨」とは、外夷の稱《しやう》なり。其《その》狀《かたち》、「鳳尾蕉《ほうびせう》」に似たり。故《ゆゑ》、「畨蕉」と名《なづ》く。將に枯《かれ》んとする者、其《その》根に釘《くぎう》てば、則《すなはち》、活す。故、倭に、「蘇鐵」と曰ふ【「蘇」は、回生の義。】。原(もと)、琉球より出《いで》て、薩州に、多《おほく》、之《これ》、有り。今、𠙚𠙚《ところどころ》、庭園、及《および》、盆中に植ふ[やぶちゃん注:ママ。]。之《これ》を貴重≪と≫す。大小、皆、愛すべし。大なる者、髙さ、𠀋余。徑(わたり)、尺余≪に≫して、皮に、鱗甲、有《あり》て、老松≪の≫皮のごとく、頂上に葉を生じ、桄榔(たがやさん)・椶櫚(しゆろ)の軰《はい》≪の≫ごとし。其《その》葉、長《ながさ》、二、三尺。深き刻(きざみ)、比比《ひひ》として[やぶちゃん注:「並び連なっており」。]、魚刺(えら[やぶちゃん注:魚類の鰭の棘(とげ)ではなく、「鰓」の意。])に似たり。兒(こ)≪の≫樹、根の下《もと》に生ず。大いさ、拳(こぶし)のごとく、亦、鱗皮《うろこがは》、本木《ほんぼく》のごとく、然《しか》り[やぶちゃん注:「親の木の鱗のような木肌とそっくりである」の意。]。稍《やや》、長《ちやう》じて、五、六寸に至れば、則《すなはち》、葉を生《しやうず》。一株、七、八子の者、有り。性、最も寒・濕を畏《おそ》る。冬月、藁を以《もつて》、之れを包-藏《つつみかく》す。四月、將に新葉を生《しやうぜ》んとするの前、宜《よろ》しく、舊葉を苅るべし。如《も》し、濕に中《あた》れば、則《すなはち》、朽《くつ》る。≪其の時は≫急《きふ》に、朽《くち》たる𠙚を斫(はつ)り去《さる》。宜しく、之れを栽ふべし。輪切《わぎりのごとくにして》、根、無きも、亦、能《よく》活す。一異《いちい》なり[やぶちゃん注:一つの不思議である。]。大木と雖《いへども》、其の根、細く、絲《いと》のごとし。樹の中心に、白≪き≫麫《こな[やぶちゃん注:「粉」。]》、有り、以《もつて》、餠に作《つくり》て、食ふ。亦、桄榔・莎木麫《さもめん》の白≪き≫麫《こな》のごとく、饑《うへ》を救《すくふ》。

○琉球久米島の產、葉、細《ほそく》、小《ちさく》、宻比《みつひ》[やぶちゃん注:しっかりと密(みつ)に固まってあること。]≪にして≫、上と爲《なす》。大島[やぶちゃん注:奄美大島であろう。]・爺山(やゝま)島[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注では、『(八重山列島か)』とする。妥当であろう。]の產、葉、粗大にして宻ならず、次《つぎ》と爲《なす》。

○花を開く者、希《まれ》に、之れ、有り。≪然れども≫、花有る者、實(《み》の)らず、實の有る者は、花(《はな》さ)かず。其《その》花、初め、柎(がく)[やぶちゃん注:「萼」に同じい。]、無く、木の頂上、脹-起《ふくれおき》、白色にして、微青を帶《おぶ》。佛飯《ぶつぱん》を盛る狀《かたち》に彷-彿(さもに)たり。既に長ずれば、則《すなはち》、花瓣、厚く、硬く、一。二尺に至《いたり》ては、土--菜(つくし)の綻(ほころ)びたる者に似て、落花せず。若《も》し、花を生《しやうず》れば、宜《よろしく》、急ぎ剪-去《きりさる》べし。否-則(しからざる)時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、新葉、遲く生ず。

○實を結ぶ者、希《まれ》に、之れ、有り。其《その》實、葉下《はのした》に生じ、幕𮈔《まくいと》、有りて、連《つらな》り着くの狀《かたち》、大・小≪の≫栗《くり》のごとく、皺紋《しはのもん》、有り。色、「土朱𣾰(《どしゆ》ぬり)」のごとくにして、肉、白し。中に、仁《にん》、有り、乾《かは》く時は、則《すなはち》、極《きはめ》て堅し。

[やぶちゃん注:「土朱𣾰(《どしゆ》ぬり)」恐らく、「絵具屋三吉」公式サイト内の「[水干] 朱土」のページに、色合い画像を添えて、『「水」で精製し、「干」し上げてつくることから、水干絵具と呼んでいます。胡粉や黄土などに顔料で着色した、きめ細かい粒度の絵具です』とあるのが、それであろうと思われる。]

○冬月《とうげつ》、其《その》根の傍《かたはら》、尺許《ばかり》を避《さけ》て、溝を爲《つくり》、鮮魚の洗汁《あらひじる》、或《あるい》は、糞-汁《こやし[やぶちゃん注:そのまま読みたくないので、東洋文庫訳のルビを採用した。]》を漑《そそ》ぐべし。古法に「鐵屑《てつくづ》を培《つちかひ》、鐵丁《えつくぎ》を釘(う)つ」と≪あれども≫、如今《ぢよこん》は、用《もちひ》ず。

 泉州堺《さかひ》≪の≫妙國寺に、大木、有り。一株十七莖、髙さ一𠀋五、六尺。同𠙚《どうしよ》、祥雲寺の畨蕉も亦、之《これ》≪に≫次ぐ。他《ほか》≪には≫、之《これ》に比《ひし》たる者、無し。唯《ただ》、云《いふ》、薩州の地は、此《かく》のごとき者、乏(とぼ)し≪から≫ず≪と≫。近年は、土佐にも亦、名木、多し。


深山≪の≫崖石《がけいし》の上に、「加牟曾久(がんそく)」と云《いふ》[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]草、有り。其《その》莖・葉、畧《ほぼ》、番蕉に似て、株、大《おほき》く、畨蕉・椶櫚の軰に似《にる》。僞《いつはり》て、以《もつて》、「畨蕉の嫩木(わか《ぎ》)」と爲《なす》。然《しかれども》、人家に栽《うゑ》て≪も≫、活(つ)かず【「石草」に出《いだ》す。[やぶちゃん注:これは、十巻後の「卷九十八」の「石草類」の「崖椶」である。取り敢えず、国立国会図書館デジタルコレクションの当該項をリンクさせておく。因みに、東洋文庫訳では、本項訳文内割注で、『(カヤツリグサ科スゲ属タガネソウか)』と推定されてある(本巻と同じ竹島淳夫氏訳である)。これは単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属タガネソウ(鏨草) Carex siderosticta である(本邦のウィキをリンクさせておく)。確かに、「維基百科」の同種を見ると、「別名」の項に『崖棕』とはあった。この「棕」は「棕櫚」を表わす漢語である。ところが、その訳本文の最後で、竹島氏は割注で、『(良安がここに掲げた図は、オシダ科クサソテツのように見える)』としているのである(実は、リンク先のこの割注の前の本文の終りで、良安は、「蘇頌の図(「圖經本草」)は大いに異なり、本文と合わないので、図を改変した」と言っているのである)。しかもこの「クサソテツ」は、シダ植物門シダ綱コウヤワラビ科クサソテツ属クサソテツ(草蘇鉄) Matteuccia struthiopteris なのである! しかも、当該ウィキによれば、さらに、正直、厭だったけれど、ちょっと気になってしょうがないので、さらに少し調べてみると、小学館「日本国語大辞典」の『いと‐すげ【糸菅】』の項に、『カヤツリグサ科の多年草。各地の山中の半陰地に群生する。茎は高さ』十~二十『センチメートルほどの細い三角柱状。葉は柔らかく長さ』十~十五『センチメートルの糸状で、先が次第にとがり、下部はさやとなる。初夏、茎の頂に柄のある黄緑色の雄花穂を直立し、その下に一、二個の雌花穂を側生する。漢名は崖椶』(☜)とあるのを見出した。この「いとすげ」(糸菅)というのは、スゲ属イトスゲ Carex fernaldiana である(本邦のウィキをリンクさせておくが、そこには、正に『別名ガンソク』とあったのだ!!!)。まあ、「崖棕」から前者でいいとも言えるのだが、断定は出来ない。何より、「石草類」の「崖椶」に至るには、数年後になるが、そこで再度、考証してみる。……う~~、数年後の憂鬱が早くも見えてきたわい……。]】。

 

[やぶちゃん注:これは、

裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta

である。当該ウィキを引く(注記号は一部を除き、カットしたが、一部では勝手に同ウィキの画像をリンクした)。『ソテツ(蘇鉄、蘓鉄』『)は』『常緑樹の』一『種である。幹の頂端に大きな葉が多数密生する。外観はヤシ』(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科 Arecaceae)『や木生シダ』(現在のシダ植物は基本的に草本で、茎は地面を這うか、ごく短く立ち上がるが、「木生シダ」は、外見上、太い「幹」状のものがあり、ある程度の高さまで直立して育つものを指す。現生種はシダ植物門 Pteridophytaシダ綱 Pteridopsidaの内、ヘゴ目ヘゴ科ヘゴ属 Cyathea に属する種のみを指す)『に似ているが、系統的には全く遠縁であり、この類似性は他人の』空似『である。幹は、枯れ落ちた葉の基部が残って』鱗『状に覆われている。雌雄異株であり、雄株は細長い円柱状の小胞子嚢穂("雄花")を、雌株は大胞子葉が密生したドーム状の構造("雌花")を、それぞれ茎頂に形成する(図1)。大胞子葉について成熟した種子("")は赤朱色になる。根には窒素固定能をもつシアノバクテリア(藍藻)』(細菌 Bacteriaシアノバクテリア門 Cyanobacteria)『が共生しており、貧栄養地でも生育できる。九州南部から南西諸島、台湾、中国南部に分布する。ソテツを含めてソテツ類は、中生代』(約二億五一九〇万年前から約六六〇〇万年前)『から形態的にあまり変わっていないため、「生きている化石」ともよばれる』。『ソテツは、ソテツ類の中では、耐寒性があるため』、『鑑賞用に最も広く用いられており、世界中で植栽されている。その種子や幹には多量のデンプンが含まれるため、これを抽出して粥や味噌(蘇鉄味噌)など食用とすることがある。ただし、ソテツは』致死性の神経症状を齎すことがある『サイカシン』(Cycasin)『や』興奮毒性が疑わられ細胞損傷を惹起する『BMAA』(β-メチルアミノ-L-アラニン(β-Methylamino-L-alanine)『などの毒を含むため、食用とする際には』、『これを除く処理が必要となる』。『幹が柱状の常緑樹であり、高さ』一・五~八『メートル』、『幹の直径』二十~九十五『センチメートル』、『ふつう分枝しないが(図2a)、ときに多少分岐する(図2b, c)。ときに幹や根元から不定芽が生じる(図2d)。成長は遅いが』、五十『年で』四・五メートル『ほどになる。幹は、枯死した葉柄の基部が残って灰黒色のうろこ状に覆われている』(図e)。『他のソテツ類と同様、地表に特殊化した根(サンゴ状根)を形成し(図2f)、その中に窒素固定(窒素分子を植物が利用可能なアンモニアに変換する)を行うシアノバクテリア(藍藻)』(細菌 Bacteria シアノバクテリア門 Cyanobacteria )『が共生している』。四十~百『枚以上の葉が、茎頂にらせん状に密生している。葉は長さ』七十センチメートルから二メートルで、『幅』は二十~三十センチメートル、一『回』する『羽状複葉であり、葉軸に線形の小葉が多数(』六十~百五十『対)互生し、断面ではV字状につく』(図3a3b3c)。『葉柄は長さ』十~二十センチメートル、『両側に』六~十八『本のトゲがある(図5a)。葉柄と裏面には褐色の綿毛が密生する(3b)。複葉を構成する個々の小葉は長さ』八~二十センチメートル、『幅』四~八『ミリメートル』、『先端は尖り(触れると痛い)、全縁で縁は裏側(背軸側)に多少反り、表面は深緑色で光沢があり、裏面は淡緑色で軟毛がある』。『小葉の葉脈は中軸に』一『本のみあり、表面で窪み、裏面で隆起する。本州では、』六『月ごろと』九~十『月』頃の二『回』、『新葉が生じる』。『雌雄異株であり』、花期は五~八『月。ソテツでは』『雄花』・『雌花』『ともに、発熱することが報告されている(下記参照)』『雄花』『(小胞子嚢穂、雄性胞子嚢穂、雄錐、花粉錐)は茎頂に直立し、淡黄緑色、円柱状紡錘形、長さ』三十~七十センチメートル、『直径』八~十五センチメートル、『軸に』螺旋『状に配列した多数の鱗片(小胞子葉、雄性胞子葉、』、『雄しべ』)からなる(図4a, b)。小胞子葉は』三・五~六『×』一・七~二・五センチメートル、『三角形状』の楔『形で先端側が広がり、裏面(背軸面)に』三~四『個ずつ集まった花粉嚢が多数密生する(図4c)。花粉は楕円形、幅広い発芽溝がある。花粉放出後に』『雄花』『は枯れ、そのわきに新芽が生じて成長を再開する(仮軸成長)』。『雌花』『(種子錐)は、茎頂に密生した多数の大胞子葉(雌性胞子葉)からなる(図5a)。大胞子葉は黄色から淡褐色、褐色毛が密生してビロード状』で、『長さ』十四~二十二センチメートル、『先は羽裂し、柄に』二~八『個の直生胚珠が互生する(図5b, c)。風媒または虫媒(下記参照)。胚珠の珠孔から分泌された受粉滴に花粉が付着し、受粉滴とともに胚珠に取り込まれ、花粉管を伸ばして数』ヶ『月後に』螺旋『状に配列した』、『多数の鞭毛をもつ精子を放出する。この精子は』、明治二九(一八九六)『年、当時』の『東京農科大学(現』在の『東京大学農学部)の助教授であった池野成一郎』(せいいちろう)『によって、裸子植物ではイチョウに続く』二『例目として報告された(下記参照)。胚珠内には』、普通は二『個、ときに』三~五『個の造卵器が形成され』、十~十一『月に受精が起こる。受粉が終わると』、『大胞子葉』同士『が密着し、胚珠は外部から保護される。種子はやや扁平な卵形、およそ』四✕三センチメートル、『種皮外層は赤朱色で多肉質、中層は硬く石質、内層は薄く膜質(図5d』(これは種子であって、果実ではない)『)。結実後は』、『雌花』『の中心から成長を再開し(単軸成長)、普通葉または再び大胞子葉をつける。染色体数は 2n = 22』。『ソテツは、有毒な配糖体であるサイカシン(cycasin)やネオサイカシン(neocycasin)、マクロザミン(macrozamin)、および神経毒となる非リボソームペプチドであるβ-Nメチルアミノ-L-アラニン(β-methylamino-L-alanine, BMAA)を全体に含む。そのため、ソテツを食用とする場合は、これらの物質を除去する必要がある(下記参照)』。『サイカシンは、メチルアゾキシメタノール(methylazoxymethanol; MAM)とグルコースから合成される。摂取されるとMAMが遊離し、これがホルムアルデヒドとジアゾメタンへと分解され、急性中毒症状を起こし、また発癌性を示す。BMAAは興奮毒性を示し、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の原因になると考えられている』。『これらの物質の合成には、共生シアノバクテリアが関与していると考えられている』が、『ソテツは無菌状態でも BMAA を合成可能であることが報告されている』(以下の太字・下線は私が附した)。『ソテツは、ソテツ目』Cycadales『の中で日本に自生する唯一の種である。九州南部から南西諸島、台湾、中国南部(福建省)に分布する』(図7a,7b:前者は沖縄本島国頭村、後者は沖縄本島国頭村辺戸岬)『。中国南部では、かつては多く生育していたが』一九六〇『年代以降の生育環境の破壊や商業的採取によって大幅に減少し、現在では自生のものの有無は確かではないとされる。宮崎県串間市都井岬(図7c)が自生地北限とされるが、長崎県五島列島福江島のものも自生とする説がある。鹿児島県や宮崎県のソテツ自生地は、国の天然記念物に指定されている(下記参照)』。『主に海岸の風衝地や崖、原野などに生育し、特に石灰岩地に多い。根に窒素固定能をもつシアノバクテリアが共生しており、貧栄養の土地でも生育できる』。『ソテツは、風または昆虫によって花粉媒介される。ただし、風による花粉の散布能は低く、雄株から半径 』二メートル『以上では浮遊花粉は著しく減少し、また』雌花『を網かけして』、『昆虫を排除すると』、『雄の近傍にある個体以外では結実率が著しく低下する。送粉者である可能性がある昆虫として、与那国島では』ケシキスイムシ(「罌粟木吸」か)科Nitidulidae『の甲虫が報告されているが、ソテツ類のもう』一『つの科であるザミア科』Zamiaceae『で報告されているような送粉者の高い特異性は見られない。ソテツは』『雄花』、『雌花』『とも』、『強い臭気(揮発性物質であるエストラゴール』(Estragole)『などによる)を発し、これによって甲虫が誘引されると考えられている。また、ソテツは甲虫に対する報酬として食物(受粉滴、大胞子葉など)や繁殖場所を提供していると考えられている。ソテツの』『雄花』、『雌花』『は発熱し、それぞれ最大で外気温よりも』摂氏十一・五度、及び、八・三度『高くなることが知られており、これが臭気を強化していると考えられている。ザミア科では、強すぎる臭気や熱によって、花粉をつけた昆虫を高温の』『雄花』、『から追い出してより低温の』『雌花』『へ行くように仕向けるために』『雄花』『が』、『より』、『高温に発熱すると考えられている』。『ハシブトガラスやネズミによる種子散布が報告されている』。『熱帯アジア原産の蝶の』一『種であるクロマダラソテツシジミ(』黒斑蘇鉄小灰蝶:鱗翅目アゲハチョウ上科シジミチョウ科ヒメシジミ亜科ヒメシジミ族 Luthrodes属クロマダラソテツシジミ Luthrodes pandava 図8a)はソテツを含むソテツ類を食樹とするが、近年、南西諸島に定着し、ソテツを食害して問題となっており、また越冬はできないが』、『毎年』、『関東地方まで侵入している。また、東南アジア原産のカイガラムシ』(半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科 Coccoidea)『であるソテツシロカイガラムシ( Aulacaspis yasumatsui ; cycad aulacaspis scale, CAS図8b, c)は台湾においてソテツに大きな被害を与え、さらに』二〇二二『年には奄美大島で』、二〇二三『年には沖縄本島で生育が確認されている。また』、『このカイガラムシは、フロリダに植栽されているソテツにも被害を与えている』。『国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストでは』、二〇〇三『年版で近危急種に評価され、その後』、二〇〇九『年版で低危険種に変更された。日本では、ソテツは絶滅危惧等に指定されていないが、分布北限とされる宮崎県では保護上重要な種に指定されている』。『ソテツを含むソテツ類の全種は』、一九七七『にワシントン条約附属書II類に指定された(チャボソテツ Cycas beddomei のみは輸出入により制限がある附属書I類)。ただし、日本では承認を受ければ』、『ソテツを輸出することが可能である』。『日本では、国や自治体によって天然記念物等に指定されている自生ソテツや植栽されたソテツが多く、国指定の天然記念物としては、』二〇二三『年現在』、『以下のものがある(ソテツを含む植物群落全体の指定を除く)』(以下、リストは「保全状況評価」を参照されたい)。『南国情緒のある樹形や丈夫さ、高い環境適応能のため、ソテツ類の中では最も広く栽培されている。乾燥、潮風、大気汚染には強いが、寒さにはやや弱い。水はけが良い土質、日当たりと風通しが良い場所を好み、施肥や水やりをほとんど必要としない。日照不足や水のやりすぎは、根腐れを起こすことがある。小葉の先端が鋭く尖っているため、また人を含む動物に対して有毒であるため、植栽場所を考慮する必要がある。また、鉢植えや盆栽に利用されることもある』。『実生または幹から生じた不定芽を用いて殖やす。種子は播種後に発芽するまで乾かないように管理するが、発芽には少なくとも』二~三『ヶ月かかる。不定芽は、こぶし大になったものを幹から切り離して挿し木にして植える。植え付けは』五『月以降に行い、植え付けた際に水を充分に与える。定期的に剪定して古い葉は取り除く。病虫害は少ないが、上記のように、クロマダラソテツシジミやソテツシロカイガラムシが害を与えることがある』。『自生地である九州南部・南西諸島では、ソテツが多く植えられている』(写真有り)。『下記のように食用として利用され、また防風、防潮、侵食防止、畑の境界木、緑肥、燃料などの用途にも利用され、高度成長期以前には現在よりも多かった。自生地以外でも、世界中の暖温帯から亜熱帯域で主に観賞用に広く植栽されている』。『日本でも、関東以西では野外に植栽可能であり、各地の寺社、庭園、公園、学校、官公庁などに植えられている』。『やや寒冷な地では、冬になると』『防寒用に薦(こも)を巻いたり、新芽を残して葉を落とし、ワラで全体を覆うこともある』。『奄美大島などからは、観賞用や緑化用のソテツの種子が輸出されている』。『主にコスタリカやホンジュラスへ輸出されて苗木に仕立てられ、鉢植えや街路樹としてヨーロッパなどへ、砂漠緑化用にアフリカやオーストラリアへ再度輸出される』。『日本では、安土桃山時代以降に自生地以外でも庭園樹に使われてきたといわれ、島根県日御碕の福性寺境内にある大ソテツなど、天然記念物に指定されてきたものも少なくない』。『静岡県静岡市清水区の龍華寺』、『静岡県吉田町の能満寺』、『大阪府堺市の妙国寺のソテツ』『は、日本の三大ソテツとよばれる。妙国寺のソテツは織田信長によって安土城に移植されたが、妙國寺に帰りたいと夜泣きしたため、寺に戻されたという伝説がある』。『また』、「太閤記」『は、妙国寺のソテツは一度枯れかかったが、法華経を読んだことによって蘇ったという話を記している』(写真有り)。

 以下、「食用」の項。『ソテツは幹や種子にデンプンを多く貯めるため、南西諸島では古くから食用に利用されていた。しかし上記のようにソテツは全体にサイカシンやBMAAなどの毒を含むため、食用とする際には毒抜きが必要となる。毒抜きは非常に手間がかかり、表層を剥いだ幹や種子の胚乳を砕き、これを何度も何度も水にさらして有毒成分を分離する。また、茎を砕いてカビつけをし、むしろで覆って発酵させたのちに前記のようにデンプンを抽出することもあった。毒抜きが不完全であると、嘔吐や下痢などの中毒症状を示し、ときに意識不明、場合によっては死に至る。近年でも』、一九九九『年に愛媛県の中学校でソテツ種子を食して生徒が中毒になる事故が起きた』。『ソテツから抽出されたデンプンは、粥にしたり、団子、菓子、餅などに利用された。また、味噌(蘇鉄味噌; 下記)や醤油、焼酎の原料ともされた』。二十一『世紀現在では珍しい食材となっているが、第二次大戦後の高度成長期までは南西諸島において比較的一般的に利用されていた』。『幹よりも種子からの方が、デンプン抽出が容易であるため、幹を食用とする際には、種子をつくる雌株を避け、雄株が用いられていた』『また』、『花期』『には』、『雄花』『を持って』、『雌花』『につけて人工授粉を行って種子の増収を図ることもある(人工授粉の有無で収量は約)五『倍違うといわれる)。幹の食用利用は現在ではほとんど行われていないが、種子のデンプンは利用されることがある。奄美地方ではソテツの種子は「ナリ」とよばれるため、ソテツの種子を用いた粥は「ナリガユ」や「ナリガイ」、味噌は「ナリ味噌」とよばれる。またソテツの幹の芯の部分を用いた粥は「シンガイ」とよばれる』。『ソテツは味噌(蘇鉄味噌、ナリ味噌)の原料として利用されてきたが』、二〇二〇『年現在でも商業的な生産が行われている』。普通、『種子を二つ割りにして日乾し、種皮を除いて水洗したものを砕き、塩、麹とともに大豆、甘薯、米麦等を加えて発酵、熟成する。この過程でサイカシンなどソテツの毒は分解されるため、原料のソテツ種子の処理には上記のような毒抜きは行わないことがある。ソテツ味噌は』一『ヶ月ほどで食べ頃となり、味噌汁やお茶請けとされる』。『南西諸島では、古くから救荒食としてソテツが植栽されてきた』一七三四(享保一九)『年』(なお、琉球王国は中国の元号を使っていたので、正しくは清の雍正十二年である)『には、救荒植物としてソテツの植樹を奨励する琉球王府による布告があり、またその調理法も伝えられた。また』、十二『世紀の薩摩藩による奄美侵攻以来、奄美群島は薩摩藩の直接支配を受け、やがてサトウキビの栽培を強制されたため』、『しばしば日常的な食糧にも事欠くようになり、ソテツに対する依存度が高かった。そのため奄美群島ではソテツと深く関わった文化が見られ、「ソテツ文化」ともよばれる。そのようなソテツとの関わりは現代でも続いており、沖縄ではソテツが少なくなっているが』、二〇一二『年現在でも奄美大島ではソテツ畑の手入れに補助金が出ており、ソテツの利用や管理が続けられている』。『南西諸島では、飢饉の際にソテツを救荒食としていたが、正しい加工処理をせずに食べたことで食中毒により死亡する者もいた。特に、大正末期から昭和初期にかけて、農業や経済的状況、戦争関連恐慌、干魃や不作などにより』、『一部地方では重度の貧困と食糧不足に見舞われ、ソテツ食中毒で死者を出すほどの悲惨な状況にまで陥り、これを指して「ソテツ地獄」と呼ばれるようになった』。『ただし、「ソテツ地獄」は沖縄救済を訴えるジャーナリズムによる誇張を含む表現であり、上記のようにソテツは比較的身近な食材であったともされる』(この最後の部分は私は微妙に留保したい。因みに、ウィキの「ソテツ地獄」も、必ず、読まれたい)。『奄美大島では、珍しい食材として地域おこしに活用するため、』二〇一九『年現在』、『ソテツのデンプンを用いたうどん、天ぷら、餅、煎餅が製造されている』。『ソテツの種子は蘇鉄子(そてつし)や蘇鉄実(そてつじつ)とよばれる生薬となり、鎮咳、通経、健胃に用いられることがあったが、有毒であり、現在では利用されない。大正期には種子が薬用になるとして本土の大都市で販売されたが、誤った製法を用いたため中毒事故を起こす事もあった。また自生地では、民間薬として種子をつぶして外用薬としたり、除毒したものを内服薬とすることがあったが、その根拠となる成分は明らかではない』。『ソテツの葉は窒素など栄養分に富むため、水稲などの肥料として用いられていた。ただし、ソテツの使用量が多すぎると』、『根腐れやいもち病の原因になるとされ、耕耘も不便になることから』、『使用が避けられることもあった』。『乾燥させた種皮は、肥料としたり、魚を燻製する燃料とされたり、燃やした煙を蚊除けにしたりした』。『与論島、沖永良部島、喜界島など山林がない島では、ソテツの枯葉は重要な燃料であった』。『大島紬の泥染では、染まりが悪いと』、『ソテツの葉を入れて化学的作用を強くする場合がある。また、大島紬の代表的な柄である「龍郷柄(たつごうがら)」は、ソテツ(またはアダン』(単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ属アダン Pandanus odorifer )『)をモチーフとしている』。『虫かごやまり、笛など子供の遊具の材料とされたこともあった』。『ソテツの葉は生花や装飾用としても利用されており、ヨーロッパではソテツの乾燥葉を漂白したものに染色して降誕祭や復活祭の飾りや花輪に利用している。奄美地方では』、明治二八(一八九五)年『から戦後にかけてヨーロッパにソテツの葉を輸出していた』。二〇〇〇『年現在では』、『千葉県の南房総地方でソテツが多く栽培され(おそらく大正時代に南西諸島から購入)ソテツの葉の出荷組合が存在し、主に東北地方以北に向け出荷されている』。『ソテツは南西諸島における民謡や、短歌、俳句に取り上げられ、また、島尾敏雄の』「ソテツ島の慈父」、『新崎恭太郎の』「蘇鉄の村」、『笹沢左保の』「赦免花は散った」、『南條範夫の』「鹿児島の蘇鉄」『など』、『ソテツを扱った小説もある。「蘇鉄」は、夏の季語である』。

 以下、「精子の発見」の項。『陸上植物における雄性配偶子は、コケ植物やシダ植物では鞭毛をもつ精子であるが、ほとんどの種子植物は鞭毛をもたない精細胞である。しかし、種子植物の中で、ソテツ類とイチョウのみは鞭毛をもつ精子を形成する』。明治三九(一八九六)年九月九日、『帝国大学農科大学(現 東京大学農学部)の助手であった平瀬作五郎によって、イチョウの精子が発見されたが、同大学の助教授であった池野成一郎はその重要性を直ちに理解し、これを発信したといわれる。また、池野自身はそれ以前からソテツに注目して鹿児島へ赴き研究を行っていたが、同』『年に、固定して東京へ持ち帰った試料から、ソテツの精子を発見した。イチョウおよびソテツにおける精子の発見は世界的に大きな反響を呼び』、明治四五・大正元年(一九一二)『年に』、『この功績に対して平瀬、池野両名に第』二『回学士院恩賜賞が授与された。当初、学士院は池野のみを候補者としていたが、池野が「平瀬がもらえないのであれば自分ももらうわけにはいかない」としたため、両名受賞となったと伝えられている』。『池野成一郎によるソテツ精子発見の際に用いられたソテツの株は、鹿児島県立博物館前に現存しており(鹿児島県指定天然記念物』『)、これから分譲された株が』、『小石川植物園の正門近くに植栽されている』。また、『平瀬作五郎がイチョウ精子発見に用いた木も、小石川植物園内に現存する』。

 以下、「名称」の項。『ソテツの樹勢が衰えたときには、鉄釘を打ち込んだり、根元に鉄くずを施すと蘇生するとの伝承があり、これが「ソテツ(蘇鉄)」の名の由来とされることが多い。ただし、下記の南西諸島での名称から派生した可能性も示唆されている。「蘇鉄」や「ソテツ」の表記は、古いものでは』「沖永良部島代官系圖」(一六八二年:清の康熙二一年/本邦の天和二年)、「大和本草」(宝永六(一七〇九)年)、「首里王府評定所條文」(一七三二年:清 の雍正一〇年/享保一七年)『などに見られる。鉄によってソテツの樹勢が回復するという記述は中国の書にも見られるが、中国でのこの植物の名は』「鐵樹」・「鐵蕉」・『「鳳尾蕉」などであり、古い文献に』「蘇鐵」『は見られないという。中国名の』「鐵樹」・「鐵蕉」『は、材が固いことに由来するとする説や、成長が極めて遅いことに由来するとする説がある。後者と関連して、念願が叶うことを「千年の鉄樹が開花する」と例えることがある』。『南西諸島においてソテツは極めて身近な植物であり』、『地域によってさまざまな呼称がある。同一市町村であっても、集落によって異なることが多い。「ヒトゥチ」には、「ヒトゥ(デンプン)の木」の意味があるとされる』(以下、各南西諸島での呼称が、多数、列記されるが、カットする)。『外観がヤシ(palm)に似ており、またデンプン(木から得られる食用デンプンはマレー語でサゴ(sago)とよばれる)が得られるため、英名では “sago palm”、“king sago palm”、“Japanese sago palm” などとよばれる。商業的に利用されているサゴの原料はほとんどサゴヤシ(ヤシ科)であり、サゴヤシも “sago palm” とよばれるが、特に “true sago palm” としてソテツとは区別することもある』。『学名である Cycas revoluta のうち属名の Cycas は、ギリシア語でドームヤシ』(ヤシ科Hyphaene Hyphaene coriacea )『を意味する koikas から変化した kykas に由来する。種小名の revoluta は、葉の小葉の縁が裏側に巻き込むことに由来する』。『台湾の個体群は、タイワンソテツ( Cycas taitungensis )としてソテツとは別種とされることがある(図14)。形態的には、小葉がより大きく、小葉間隔が広いこと、大胞子葉がより短く、種子がより大型である点で異なるとされる。しかし、分子形質、形態形質を用いた詳細な解析からは、同種とすべきことが提唱されている』『ソテツ属はいくつかの属内分類群に分けられるが、ソテツは』、一『種のみ(上記のタイワンソテツを分ける場合は』二『種)で Asiorientales 節(Cycas section Asiorientales J. Schuster (1932))に分類される』。『Asiorientales 節は、Panzhihuaenses 節(中国中南部に分布する Cycas panzhihuaensis のみを含む)とともに、ソテツ属内で最初に他と別れた系統であることが分子系統学的研究から示されている』とある。

「桄榔木(たがやさん)」この良安の読みはアウトである。「桄榔木」は、

〇単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科クロツグ(中文名:桄榔・桄榔子)属サトウヤシ Arenga pinnata (シノニム:Arenga saccharifera

で、和名に「たがやさん」としてあるが、

双子葉植物綱マメ目マメ科ジャケツイバラ(蛇結茨)亜科センナ属タガヤサン Senna siamea

ではないからである。

「鐵樹」は、先行する「卷第八十八 夷果類 桄榔子」で私が考証したように、『「桄榔は、卽ち、鐵樹《てつじゆ》なり」良安が、サトウヤシを知っていたとは、到底、思われない。異名に「木」=「鐵木」があるから、良安は本邦で「鐵」の字がつく「樹」である「鉄楓」を、それと同種であると勘違いしたのではないか?』として示した、

バラ亜綱ムクロジ目ムクロジ科カエデ属テツカエデ  Acer nipponicum

であると思われる。

『「五雜組」に云《いはく》、……』同書は複数回既出既注。初回の「柏」の注を見られたい。以下は「卷十」の「物部二」の一節である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書ここの左丁の七行目から、ここの右丁部分に当たる記述をパッチワークしたものである。以下に訓点を参考に、私が訓読したものを電子化して示す。一部で正字化し、記号を加えた。

   

「南州異物志」に載す「蕉」に、『三種、有り、最も甘好(かんこう)なる者、「羊角蕉」と爲す。其一は雞卵のごとく、其一は藕(はす)の子(み)のごとし。」と。此れ、皆、芭蕉のみ。今、閩(びん)、「廣蕉」、尙ほ、數種、有り。「美人蕉」、有り。樹・葉、皆、芭蕉に似て、稍(やや)なり。花を開くこと、殷紅、鮮麗、千葉にして、槌(つち)のごとく。數月を經て、凋謝(てうしや)せず[やぶちゃん注:花がしぼんで落ちることがない。]。摘(つみ)て瓶の中に置き、水を以つて、之れを漬(つ)ければ、亦、一兩月を經(ふ)べきなり。此の蕉、最も佳なり。書齋の中に、多く、之れを植う。「鳳尾蕉」、有り。其の木、麄(あら)く、巨(きよ)にして、葉の長さ、四、五尺、密(こま)かに比(なら)びて、魚の刺(えら)のごとく然(しか)り。髙き者、亦、丈餘。又、「番蕉」、有り。「鳳尾」に似て、小さく、相ひ傳ふ、「流求[やぶちゃん注:「琉球」に同じ。]より來たれる者なり。」と。云はく、「之れを種(う)うれば、能く火患(くわかん)を辟(さ)く。」と。

 「美人蕉」は、華(はなさ)きて、實(みの)らず。吳・越の中(うち)、此の種、無し。顧道行(こだうぎやう)先生、數本を移して、家園に至りて、之れを植う。花の時、朋親識(ひんほうしんしき)、賞(しやう)する者の雲のごとく、以-爲(おもへら)く、『從來、未だ、始めより見ざる。』と。先生、喜ぶこと、甚し。「美蕉」を以つて、其の軒(けん)に名づく[やぶちゃん注:自身の邸宅の名とした。]。今、復た、二十餘年、知らず、何如(いかん)となることを[やぶちゃん注:ここは送り仮名が上手く読めない。]。「番蕉」は、云はく、「是れ、水精なり。故に、能く火を辟(さ)く。」と。將に枯れんとする時、鐵屑を以つて、之れを糞(つちか)ひ、或いは、以つて、鐵丁(てつくぎ)を釘(う)てば、其の根、則ち、復(また)、活(い)く。蓋し、「金」、能く、「水」を生ずればなり。物性(ぶつしやう)の奇、此(か)くのごとき者、有り。盆中に植ゑ、甚だしくは長(ちやう)せず、一年、纔(わづか)に一つの下葉(したば)を落すのみ。計(はか)るに、長ずること、不寸(すん)を以つてすること、能(あた)はざるなり。亦、甚だしくは、花を作(な)さず。余(よ)が家に、二本を畜(つちか)ふ。三十年の中(うち)に、僅かに兩度(りやうど)の花を見るのみ。花も亦、芭蕉に似て、色、黃にして、實(みの)らず。

   

・「南州異物志」は三国時代の呉(二二二年~二八〇年)の万震が書いたものだが、原本は存在せず、後の宋の叢書「太平御覽」に佚文で残る。

・「美人蕉」単子葉植物綱ショウガ目バショウ科バショウ属ヒメバショウ(姫芭蕉) Musa coccinea 。異名を「美人芭蕉」・「花芭蕉」とする。分布は中国・ヴェトナム。サイト「GKZ 植物事典」の同種のページを見られたい。

・「顧道行先生」は、「維基文庫」の「送顧道行副憲山東六首 作者:李化龍 明」の注によれば、『顧大典,字道行,隆慶二年(1568年)進士。』とあり、彼が進士に登第した年は、謝肇淛が生まれた翌年である。

・「賔」は「賓」の異体字で「賓朋親識」は「客人が来て親しく御覧(御観賞)になられること」の意であろうと推定される。

   *

「鳳尾蕉《ほうびせう》」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ナツメヤシ属ナツメヤシ Phoenix dactylifera「卷第八十八 夷果類 無漏子」を参照されたい。

「桄榔(たがやさん)」ここはタガヤサンでよい。

「椶櫚(しゆろ)」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属シュロ Trachycarpus fortunei 'Wagnerianus'(シノニム:Trachycarpus wagnerianus )。「卷第八十三 喬木類 椶櫚」を参照のこと。

「莎木麫《さもめん》」「サゴヤシ(沙穀椰子)」の異名。ウィキの「サゴヤシ」によれば、『サゴヤシ(マレー語・インドネシア語 sagu・英語 sago + 椰子)とは、樹幹からサゴ(サクサク(食品))という食用デンプンが採れるヤシ科やソテツ目の植物の総称。サゴヤシ澱粉(サゴ)は東南アジアなどで食用とするほかソースの原料にもなる』とある。

「泉州堺《さかひ》≪の≫妙國寺に、大木、有り」大阪府堺市堺区にある日蓮宗広普山(こうふさん)妙國寺(グーグル・マップ・データ)に現存する。この寺は、幕末に起こった堺事件所縁の寺として知られる。寺に就いては、ウィキの「妙国寺」がよい。そこに、「霊木・大蘇鉄の伝説」があり、『境内の大蘇鉄は国指定の天然記念物である。樹齢』千百『年余といい、次のような伝説が残っている』。『織田信長はその権力を以って天正』七(一五七九)年、『この蘇鉄を安土城に移植させた。ある時、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は庭先で妙な声を聞き、森成利(蘭丸)に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。この怪しげな声に、信長は激怒し』、『士卒に命じ』、『蘇鉄の切り倒しを命じた。しかし』、『家来が刀や斧で蘇鉄を切りつけたところ』、皆、『血を吐いて倒れ、さしもの信長も祟りを怖れ』、『即座に妙國寺に返還した。しかし、もとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけてきた。哀れに思った日珖』(本寺の開山僧)『が蘇生のための法華経一千部を読誦したところ、満願の日に蘇鉄から宇賀徳正龍神が現れ、「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げた。そこで日珖が早速門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。これにより徳正殿を建て、寺の守護神として宇賀徳正龍神を祀ることとした。爾来、これを信じる善男善女たちが安産を念じ、折れた針や鉄屑をこの蘇鉄の根元に埋める姿が絶えないという』とあった。なお、独立した「妙国寺のソテツ」のウィキもあるので見られたい。孰れにも、天然記念物のソテツの画像が載る。そちらによれば、『日本国内の植栽されたソテツの中でも最大規模のもので、幹が大小取り混ぜ』て、「十七莖」どころではない、『約』百二十『本もある巨大な株であ』る、とある。

「同𠙚《どうしよ》、祥雲寺」ここにある(グーグル・マップ・データ)臨済宗龍谷山祥雲寺。同寺のウィキの現在の「庭園」の画像の右手に、ソテツが見える。]

2025/05/30

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 覇王樹

 

Utiwasaboten

 

[やぶちゃん注:左下に、葉片を土に差し、前後を支えた杖棒を添えたものが描かれてある。]

 

さゝら     佐々良佐豆保宇

  さつほう  佐牟保天

        唐茄

        伊呂倍呂

覇王樹

       數名出處未詳

さんぽて

いろへろ

 

 

導生八牋云如掌色翠綠上多米㸃子葉生次上稱爲奇

樹可也

[やぶちゃん注:この書名「導生八牋」は既出既注の「遵生八牋」の誤りであるので、訓読では訂した。また、東洋文庫訳の後注でも示されているが、この引用の「如掌色翠綠上多米子葉生次上稱爲奇樹可也」とあるが、「維基文庫」のこちら(「卷十六」の「結子可觀盆種樹木 二十二種】」の中の一つ)で確認すると(コンマを読点に代え、漢字の一部に手を入れた)、

   *

霸王樹

產廣中、本肥、狀生如掌、色翠綠、上多米色點子、葉生頂上、稱爲奇樹可也。

   *

とあった。但し、本「和漢三才圖會」を刊行以後に読んだ人々は、これで読んだのだし、ここは、特に内容的に誤謬にはなっていないので、そのままにしておくことにした。

△按霸王樹今𠙚𠙚庭園有之無枝葉以爲身則枝爲枝

 則葉爲葉則實誠竒樹也其一枚大者長七八寸隋匾

 形如唐墨而深綠色表裏有白毛刺內白色堅重而脆

 昜折摘一枚揷之着土𠙚生根其根白短小而昜倒不

 用架杖則不能自立也三四月生新葉累累次上至三

 十枚許髙五七尺則夏兩邉生花似單葉菊花金黃色

 性畏雨雪喜風日故雖冬不包薦唯植南靣宜葺小屋

[やぶちゃん注:「葺」は原本(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の私の所持するものと同じ版)では(くさかんむり)の下方に接触する「一」があり、「口」の下は、「L型になっており、その下には「耳ではなく「月」が置かれた奇体な文字である。無論、「葺」の異体字でもない。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版に従い、「葺」とした。]

可防雨霜也研末挼膩帛則油垢能去

 

   *

 

さゝら     佐々良佐豆保宇

  さつぽう  佐牟保天《さむぽて》

        唐茄《たうなす》

        伊呂倍呂《いろへろ》

覇王樹

       數名、出處《でどころ》、

       未だ詳《つまびらか》ならず。

さんぽて

いろへろ

[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、「佐牟保天」に『さんぼて』とルビを振るが、二箇所とも肯んじ得ない。

 

「遵生八牋」に云はく、『掌(たなごころ)のごとく、色、翠-綠(みどり[やぶちゃん注:二字へのルビ。])なり。上[やぶちゃん注:表面。]に米≪のごとき≫㸃≪狀なる≫子《し》[やぶちゃん注:米粒状の斑点。]、多し。葉、生じて、上に次ぐ。稱して奇樹と爲《なす》べきなり。』≪と≫。

△按ずるに、霸王樹、今、𠙚𠙚《ところどころ》、庭園に、之れ、有り。枝葉、無し、以《もつて》、身かと爲(おも)へば、則ち、枝。枝と爲へば、則《すなはち》、葉。葉と爲へば、則、實《み》なり。誠に竒樹なり。其一枚、大なる者、長さ、七、八寸。隋(ほそなが)く、匾(ひらた)く、形、唐墨(から《すみ》)のごとくにして、深綠色。表裏《へうり》に、白毛≪の≫刺《とげ》、有り。內《うち》、白色。堅重にして、脆《もろ》く、 折れ昜《やす》し。一枚を摘(むし)りて、之れを揷せば、土《つち》に着く。≪その≫𠙚に根を生ず。其の根、白く、短小にして、倒《たふ》れ昜し。架杖(さほつえ[やぶちゃん注:ママ。これ、「佐補杖(さほつゑ)」ではあるまいかと私は思っている。])を用《もちひ》ざれば、則《すなはち》、自立すること、能はざるなり。三、四月、新葉を生じ、累累《るいるい》と次《ついで》、上《あが》りて、三十枚許《ばかり》至れば、髙さ、五、七尺。則《すなはち》、夏、兩邉《りやうへん》に、花を生《しやうず》。單葉の菊花《きくくわ》に似て、金黃色≪たり≫。性、雨・雪を畏《おそれ》、風《かぜ》≪と≫日《ひ》を喜《この》む。故《ゆゑ》、冬と雖も、薦(こも)に包まず、唯《ただ》南靣《なんめん》に植《うゑ》て、宜《よろしく》、小屋(《こ》やね)を葺《ふき》て、雨・霜を防ぐべし。研末(をろし[やぶちゃん注:ママ。]《こな[やぶちゃん注:(覇王樹を擦りおろした粉末。]》)≪にし≫、膩-帛(よごれたるきぬ)を挼《も》めば、則《すなはち》、

≪その帛の≫油垢《あぶらよごれ》、能《よく》去る。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱ナデシコ目サボテン科 Cactaceae のサボテン

であるが、平たい団扇のような茎(茎節)が連鎖するところから、

ウチワサボテン亜科 Opuntioideae

に限定してよいように思われる。「讀賣新聞オンライン」の「ニュース」の「九州発 西部本社編集局」の『江戸時代にダリアやウチワサボテンは日本に入っていた…武雄鍋島家の「植物図絵」に掲載』(二〇二三年五月十三日公開)の記事に『ウチワサボテン、ダリアは、江戸時代に海外から国内に入ってきたとされている』とあったからである。

「ブリタニカ国際大百科事典」の『ウチワサボテン』 opuntia; prickly pear』には(コンマを読点に代えた)、『サボテンのなかで、茎がうちわ状に平たい楕円形の茎節になる群の総称で、高さ数』メートル『に達する種類もある。オプンチア属 Opuntia の約』三百『種をはじめ』、『数属の植物がメキシコを中心に分布しているが、寒さに強い種もあり』、『分布は広い。そのうちの』一『種 O. tunaは』、『甘ずっぱい果実を食用にするため』、『栽培され、また』、『飼料にも用いられる。一般では観賞用によく栽培される』とあった。ウィキの「ウチワサボテン亜科」、及び、同「オプンティア」もリンクさせておく。

 因みに、「覇王樹」は、漢名の「仙人掌」の異名であり、正しく「天子南面す」をもとにした別名である。]

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 人靣子

 

Ninmensi

 

にんめんし

 

人靣子

 

 

本綱人靣子出廣中【廣東廣西廣南之中】樹似含桃春花夏實秋熟

其子大如梅李無味𮔉煎可食【甘酸】其核兩邊似人靣口目

鼻皆具

△按人靣子南方外國之產其種未入中𬜻乎五雜組云

 猩猩果人靣樹不得見之而已

 大豆及虹豆亦有如人頭者皆似日本黧民當世風俗

 頭髮而口目鼻不精而已

 

   *

 

にんめんし

 

人靣子

 

 

「本綱」に曰はく、『人靣子は廣中《こうちゆう》【廣東・廣西・廣南の中《うち》。】に出づ。樹、「含桃《がんたう/からみざくら》」に似て、春、花(《はな》さ)き、夏、實(《み》の)り、秋、熟す。其の子《み》、大いさ、梅・李《すもも》のごとく、味、無《なし》。𮔉煎《みつせん》≪して≫食《くふ》べし【甘、酸。】。其の核《さね》、兩邊、人靣《にんめん》に似て、口・目・鼻、皆、具《そな》はる。』≪と≫。

△按ずるに、人靣子は、南方外國の產。其の種、未だ中𬜻に入らざるか。「五雜組」に云はく、『猩猩果・人靣樹、見ることを得ざるのみ。』と。

 大豆、及び、虹豆(さゝげ)にも亦、人頭のごとくなる者、有り。皆、日本の黧民《りみん》[やぶちゃん注:これは原義は「顔の肌が黒ずんだ老人」の意。ここでは、「農作業で黒ずんだ頭・髪の農民」の意で採る。因みに、東洋文庫訳では何の説明もなくして、『農民』と訳してしまっている。]≪の≫當世の風俗≪たる≫頭髮に似て、口・目・鼻は精(くは)しからざるのみ。

 

[やぶちゃん注:これは、現行では和名がないらしい、

双子葉植物綱ムクロジ(無患子)目ウルシ科イボモモノキ(ダオ/人面子)属人面子(レンミャンスイ:拼音: rén miàn zǐ) Dracontomelon duperreanum

である。以上の生物学分類は、「維基百科」の「人面子」、及び、属名は、サイト「木の情報発信基地」の「樹木」の「平井信二先生の樹木研究」の「イボモモノキ属の樹木」に拠った。「維基百科」の「人面子」によれば(太字下線は私が附した)、『高さ二十メートルに達する、支柱根を持つ常緑樹である。奇数羽状複葉で、十一~十五枚の長楕円形の小葉が交互に現れる。春、円錐花序に小さな青白色の鐘形の花が咲き、花は両性花である。果実は。平らな球形の黄色の核果で、中心は凹んでおり、縁には五つの楕円形の窪みと小さな穴があり、人の顔のような形をしている。ベトナム・中国本土の広東省・広西チワン族自治区・雲南省などに分布している。標高九十三〜三百五十メートルの地域に植生する。森林に生育することが多く、栽培のために人工的に導入されたことはない』とある。そもそも、本文を見ても、「本草綱目」の記述と、良安の評言、中国には「人面子」が存在していないのであろうか? という「五雜組」の記載由来の謂いが矛盾していることが明らかである。後注で考証する。

 以下、植物学的には甚だ杜撰な邦文当該ウィキ「人面子」を引く(同ウィキには、当然あって然るべき「生物学分類」が存在しない注記号はカットした)。『人面子(レンミャンスイ、学名:Dracontomelon duperreanum 、ピンイン rén miàn zǐ :英語:dracontomelon fruit)は、中国やベトナムに自生する樹木。中国語を由来とする』。『『人面子』の表記が日本の古文書に現れるのは、博物学や漢方薬の研究を盛んに行っていた「山本読書室」が定期的に行っていた「山本読書室物産会」に出品された品目一覧名に含まれる』(この「山本読書室」は当該ウィキによれば、『山本読書室』『は、儒医山本封山(やまもと・ほうざん)が江戸時代後期に京都・油小路五条上ルに開いた私塾。平安読書室とも称される。日本博物学の西日本の拠点でもあった』とあり、以下、解説が続く。詳しくは、そちらを見られたいが、その『3.読書室物産会』には、天明四(一七八四)年から慶応三(一八六七)年までの八十三『年間の入門者は』千六百『名余。塾の特色をなす博物研究会「読書室物産会」は』、文化五(一八〇八)年『から』慶応三『年まで』六十『年間に通算』五十一『回開催された』。『読書室物産会に出入りした画工土田乙三郎(英章)は顕微鏡を用いて微生物を模写し、山本榕室がこれを「微虫図」と名付けて解説を加え、銅版師岡田春燈斎義房が銅版図に仕上げ、刊行された(嘉永元年』六『月)』とある)『現代の日本においても、ほとんど知られていない「人面子」などの多くの博物学品目名が「山本読書室物産会」出品品目一覧名に含まれている。実の部分は、甘酸っぱく、中国や東南アジアではジュースのようにして飲まれている。実は生のまま食べられ、漬け物にもする』。『人面子の名前の由来は、実の窪みには柔らかい棘が入っていて』、『成熟すると抜け落ち、実の窪み部分の中身が入っていない場合、頭蓋骨の目の部分のように大きな穴が』一『つの方向から見て』五『つ見えていて、見る方向によっては、この実の窪みが苦悶した人面に見える事がある事から「人面子」と中国では呼ばれる。実の窪み部分が埋まっている実の場合には、窪みにしわが多く、同じ系統の「ドラコントメロン・ダオ( Dracontomelon dao )」の実は』、一『つの方向から見た時に、しわの多い』五『つの窪みが見え、各窪みの中に』一『つずつ仏像が埋まっているように見える事もある事から、タイやラオスでは』、英語で『「Five Buddhas」と呼ぶ事がある』。『漢方薬として利用される。実、葉、根の皮など部位によって薬効が違い、主として、解毒、胃の働きの活発化、食欲不振の治療、小児のてんかん治療、酔い覚ましがある。代表的な漢方薬としては、人面子叶(人面子の葉の漢方薬(「叶」は「葉」の簡体字)。解毒し』、『痛みを抑える)、人面子根皮(人面子の根の皮の漢方薬』で『癰』『を取り除く解毒作用』を持つ)、『人面果(実。食欲不振、消化不良に効く。褥瘡(床擦れ)の治療)などがある』とあった。

 なお、以上の本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十三」の「果之五」「蓏類九種內附一種」の「人面子」([081-36b] 以下)からの抄録である。ごく短いので以下に、手を入れて示す。

   *

人面子【又曰草木狀云出南海樹似含桃子如桃實無味以蜜漬可食其核正如人面可玩祝穆 方輿勝覽云出廣中大如梅李春花夏實秋熟蜜煎甘酸可食其核兩邊似人面口目鼻皆具】

   *

「含桃《がんたう/からみざくら》」これは、バラ目バラ科サクラ属カラミザクラ Cerasus pseudo-cerasus である。先行する「第八十七 山果類 櫻桃」の私の注を見られたい。

に似て、春、花(《はな》さ)き、夏、實(《み》の)り、秋、熟す。其の子《み》、大いさ、梅・李《すもも》のごとく、味、無《なし》。𮔉煎《みつせん》≪して≫食《くふ》べし【甘、酸。】。其の核《さね》、兩邊、人靣《にんめん》に似て、口・目・鼻、皆、具《そな》はる。』≪と≫。

『按ずるに、人靣子は、南方外國の產。其の種、未だ中𬜻に入らざるか。「五雜組」に云はく、『猩猩果・人靣樹、見ることを得ざるのみ。』と』「中國哲學書電子化計劃」の「五雜爼」(「組」は「爼」とも表記する)の「卷十」の「物部二」の以下である(コンマ・ピリオドは句読点に代え、一部の表記を代えた)。

   *

歷考史傳所載果木、如所云都念豬肉子、猩猩果、人面樹者、今皆不可得見、而今之果木又多出於紀載之外者。豈古今風氣不同、或昔有而今無、或未顯於昔而蕃衍於今也? 今閩中有無花果、淸香而味亦佳、此卽「倦游錄」所謂木饅頭者。又有一種、甚似皂莢、而實若蒸慄、土人謂之肥皂果、或云卽菩提果。至於佛手柑、羅漢果之類、皆不見紀載。山谷中、可充口實、而人不及知者、益多矣。

   *

これ、実は、本パートの「和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 (序)」で良安が引用しているものである。今回、本腰を入れて、幾つかの機械翻訳を参考に、私が暴虎馮河で補助を加えて訳してみると(後日、中国語の堪能な教え子に見て貰い、修正を加えた)

   *

 歴史書・史伝の記載される果実や樹木が伝えるところでは、言うところの「猪肉子」・「猩猩果」・「人面樹」といった物は、現今では、皆、実物を見ることが出来ぬ、現在知られている果実や樹木などには、記録されていないものが、多くある。古今の気候風土の状態が異なることによるものか、或いは、昔はあったが、今はないのか、或いは、過去には目立たずに認識されていなかったものが、現在は、多くの人によく知られているようになったものがあるということだろうか?

 例えば、福建省には現在、香りがよく風味のよい無花果(イチジク)の一種があり、これは「倦游錄」に出ているところの「木饅頭(もくまんとう)」である。

 また、皂莢(ムクロジ)によく似た別の種類もあるが、その果実は蒸した栗のようで、地元の人民は「肥皂果」、或いは、「菩提果」と呼称している。

 それに反し、「佛手柑」・「羅漢果」の類は、皆、歴史的記載には見出せないのである。

 辺地の山谷では、腹を満たすに足る果樹があるのに、しかし、それらを知らない者が、甚だ多いのである。

   *

 先の「序」では、カットされているので、注していないが、ここに出る「倦游錄」というのは北宋の官人であった張師正が書いた「倦游雜錄」のことである。原本は散帙したが、「說郛」に節録されている。但し、一説では同じ北宋の官人魏泰が書いた偽書ともされる。

 さて、良安の疑問を解明してくれるヒントは、拙訳の最後の下線にあると言えよう。何度も述べている通り、李時珍は郷里から殆んど出ずに「本草綱目」を書いた。まさに、奇体なテーブル推理の「隅の老人」(The Old Man in the Corner)みたようなものなのである。海産生物の記載にトンデモ記載があるのは、実際のそれらを実は全く見ていないからなのである。辺地・北方・南方及び中国外の生物は「見たように物を言い」式のものであり、多くの古書や他の記録・聴書等が、その情報元であった。既に何度も注した「五雜組」の作者である明の文人官人謝肇淛は、それでも、湖州府推官・東昌府推官・南京刑部主事・兵部郎中・工部屯田司員外郎を経て、広西按察使に任ぜられている(後には西右布政使に至っている)から、時珍より、フィールド範囲が遙かに広かったものの、本草学者ではないし、本業も忙しかったであろうから、かく最後の感懐が真をよく伝えていると言えると私は思う。

「大豆」マメ目マメ科マメ亜科ダイズ属ダイズ Glycine max

「虹豆(さゝげ)」マメ科ササゲ属ササゲ亜属ササゲ Vigna unguiculata 豆類の「臍(へそ)」「お歯黒(おはぐろ)」と呼ばれる、豆と莢(さや)を結びつけていた部分で、非常に目立つ。これは、一点なので、一つでは、顔を思い浮かべる「シミュラクラ現象」(英語:simulacra)とは言えないものの、本来はそこに存在しないにも拘わらず。心に別に何かを思い浮かべる「パレイドリア現象」(英語:Pareidolia)現象にはもってこいのものだ。というより、日常的には、豆一つを見ることより、複数の豆を持った笊なり、お椀に盛ったものを見るのが一般的であり、そこでは、この「へそ」が三つ、位置を相応にあったならば、容易に「シミュラクラ」を引き起こす。その証拠に、私は少年期、台所の豆のそれを、気持ちが悪いものに感じていた。まさにそれだったのだ!

2025/05/29

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 枳椇

 

Kenponasi

 

けんぽのなし  𮔉𣖌𣕌 木𮔉

        𮔉屈律 木餳

枳椇

        木珊瑚 鷄距子

        鷄爪子

        【俗云介牟保乃奈之】

ツウ キユイ

 

本綱枳椇其木名白石木【一名金鈎木一名枅栱一名交加枝】生南地木髙

三四𠀋葉圓大如桑柘夏月開花枝頭結實如雞爪形長

寸許紐曲開作二三岐儼若雞之足距嫩時青色經霜乃

黃嚼之味甘如𮔉毎開岐盡𠙚結一二小子狀如蔓荆子

內有扁核赤色如酸棗仁飛鳥喜巢其上

實【甘平】止渴除煩去膈上熱潤五臟利大小便功用同蜂

 𮔉【枝葉煎膏亦同】能解酒毒

 若以其木爲柱則屋中之酒皆薄用此木誤落一片入

 酒甕中酒化爲水也

△按白石木今𠙚𠙚人家亦希有之相傳云小兒噉之能

 免痘疹然未知其驗本草及證治準繩等亦謂解酒毒

 不載免痘之功

 

   *

 

けんぽのなし  𮔉𣖌𣕌《みつしく》   木𮔉《もくみつ》

        𮔉屈律《みつくつりつ》 木餳《もくやう》

枳椇

        木珊瑚《もくさんご》 鷄距子《けいきよし》

        鷄爪子《けいさうし》

        【俗、云ふ、「介牟保乃奈之《けんぽなし》」。】

ツウ キユイ

 

「本綱」に曰はく、『枳椇は、其の木を「白石木《はくせきぼく》」と名づく【一名「金鈎木《きんこうぼく》」、一名「枅栱《けんきよう》」、一名「交加枝《かうかし》」。】。南地に生ず。木の髙さ、三、四𠀋。葉、圓大にして「桑柘(まくわ[やぶちゃん注:ママ。])」のごとし。夏月、花を開《ひらき》、花の枝≪の≫頭《かしら》に實を結ぶ。雞《にはとり》の爪の形のごとく、長さ、寸許《ばかり》。紐(むす)び曲(まが)りて、開《ひらき》て、二、三岐(また)を作《な》し、儼《げん》として[やぶちゃん注:まことに。]雞の足距《けづめ》のごとし。嫩《わかき》なる時、青色。霜を經て、乃《すなはち》、黃。之れを嚼《か》むに、味、甘《あまく》して、𮔉のごとし。毎《いづれも》、開≪ける≫岐《また》≪の≫盡《つく》る𠙚に、一、二≪の≫小《ちさき》子《み》を結ぶ。狀《かたち》、「蔓荆子《まんけいし》」のごとく、內に扁(ひらた)き核(さね)、有り。赤色≪にして≫「酸棗《サンサウ/さねぶとなつめ[やぶちゃん注:後者は東洋文庫訳にあるのを採用した。]》」≪の≫仁《にん》のごとし。飛鳥、喜んで、其の上に巢(すく)ふ。』≪と≫。

『實【甘、平。】渴《かはき》を止《とめ、》煩《はん》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に『(心臓部熱気のある感じがとれず苦しい症状)』とある。]を除き、膈上《かくじやう》の熱を去り、五臟を潤《うるほ》し、大小便を利す。功用、蜂𮔉に同じ【枝葉を煎じたる膏《あぶら》も亦、同じ。】能く酒毒を解す。』≪と≫。

『若《も》し、其の木を以《もつて》、柱と爲《なせば》、則《すなはち》、屋中の酒、皆、薄し。此の木を用《もちひ》て、誤《あやまり》て、一片を落して、酒甕(《さけ》つぼ)の中に入≪るれば≫、酒、化《け》して水と爲るなり。』≪と≫

△按ずるに、白石木、今、𠙚𠙚《ところどころ》≪の≫人家にも亦、希《まれ》に、之れ、有り。相傳《あひつたへ》て、云《いふ》、「小兒、之れを噉《く》へば、能《よく》、痘疹《とうしん》[やぶちゃん注:天然痘。]を免《まぬか》る。」と。然《しかれ》ども、未だ、其の驗《しるし》を知らず。「本草≪綱目≫」及び「證治準繩《しようぢじゆんじやう》」等にも亦、酒毒を解すと謂《いひ》て≪あれども≫、免痘の功、載せず。

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、

双子葉植物綱バラ目クロウメモドキ(黒梅擬)科ケンポナシ(玄圃梨)属ケンポナシ Hovenia dulcis

である(「維基百科」の同種の「北枳椇」を見よ)。本邦の当該ウィキを引く(注記号はカットした。太字は私が附した)。『ケンポナシ』は『昔の日本ではテンボノナシと呼び、肥前ではケンポコナシと呼んでいたが、シーボルトは、計無保乃梨(ケンポノナシ)、別名を漢名「シグ」とした。転訛して、ケンポナシとなった。別名「ヒロハケンポナシ」ともよばれる。中国名は「北枳椇」』。『日本、朝鮮半島、中国の東アジア温帯一帯に分布し、日本では北海道の奥尻島、本州、四国、九州まで分布する。山地の渓流沿いの斜面に自生する。植栽として、庭などに植えられる。果実の見かけは枝つき干し葡萄のようなので、英語では』“Japanese raisin tree” (ジャパニーズ・レーズン・トゥリー)『という』。『落葉広葉樹の高木。樹皮は暗灰色で、成木では縦に浅く裂けて、やがて短冊状に剥がれ、老木では縦の網目状になる。樹皮がよく剥がれたものはアサダ』(ブナ目カバノキ科アサダ(浅田)属アサダ Ostrya japonica )『の樹皮に似ている。若木の樹皮は縦に筋が入る。一年枝は暗紫色でつやがあり、皮目が多い。葉は葉縁が』、『やや内巻で波打ち、鋸歯がある』。『花期は初夏』六~七月で、『淡黄緑色の小型の花が集散花序になって咲く』。『秋に直径』〇・七~一センチメートル『の球形の果実が黒紫色に熟す。同時にその根元の黒っぽい果柄部が同じくらいの太さにふくらんで、ナシ(梨)のように甘くなり食べられ、野生動物にも好まれる』。『被食型散布樹種であり』、『ハクビシンやタヌキに食べられることで、分布範囲を拡大し』、『種子の発芽率が上昇する』。『冬芽は卵形や球形をした鱗芽で』、二~五『枚の芽鱗に包まれており、内側の芽鱗は毛が密生する。枝先に仮頂芽をつけ、側芽は互生し』、『葉痕に』一『個おきに』、『つく。ときに、葉痕の上に円い果軸の落ちた跡がある。葉痕はV字形で、維管束痕は』三『個つく』。『庭木にされる。太った果柄は食用となり、ナシのような甘さと歯触りがある』。『実は民間では二日酔いに効くともいわれる。この効用はジヒドロミリセチン』(DihydromyricetinDHM)『と呼ばれる化合物に由来するという研究が発表されている』(本文の記載に一致する)。『葉や樹皮を煎じて茶のように飲むこともある。葉に含まれる配糖体ホズルシン』(Hodulcine)『には甘味を感じなくさせる性質がある。ケンポナシ抽出物にはアルコール臭の抑制効果があるという報告もあり』(同前)、『ケンポナシ抽出物はチューイングガムなどに利用される』。『ケンポナシ属』は『東アジア温帯に数種ある』として、以下の二種が挙げられてある。

ケケンポナシ Hovenia trichocarpa(『本州・四国にはよく似たケンポナシよりも多く生えている。これは葉裏・花序・果実に毛があることと葉の形(厚く、鋸歯が鈍い)とでケンポナシと区別されるが、同じように利用される』)

シナケンポナシ Hovenia acerba

 なお、以上の本文は、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十一」の「果之三」「夷果類」の「都念子」([077-32b] 以下)からの抄録である。

「桑柘(まくわ)」この語は、特にバラ目クワ科クワ属ヤマグワ Morus australis を指す。詳しくは、先行する「卷第八十四 灌木類 目録・桑」の私の注を見られたい。

「蔓荆子」ちょっと問題があるもので、先行する「卷第八十四 灌木類 牡荊」の私の注を見られたい。

「酸棗《サンサウ/さねぶとなつめ》」≪の≫仁《にん》」成り行き上、かく訓読したが、実際には三文字には「-」が附されており、「酸棗仁」で「さんさうにん」と読む生薬名である。詳しくは、「卷第八十六 果部 五果類 棗」の冒頭の私の注を見られたい。バラ目クロウメモドキ科ナツメ属サネブトナツメ Ziziphus jujuba var. spinosa の仁を基原とするそれである。

「證治準繩」明の王肯堂によって編纂された私撰医学全書の一つとされるもの。「六科準繩」の別称があり、これは、内容が「證治準繩」・「傷寒證治準繩」・「幼科證治準繩」・「女科證治準繩」・「瘍科證治準繩」・「雜病證治類方」の六種の医書から成っていることに拠る。]

2025/05/27

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 馬檳榔

 

Mabinrou

 

[やぶちゃん注:この図、かなり汚損を清拭したのだが、本文と私の注によって、この図は全く信用出来ない。テキトーに描いたものであることが、バレバレである。

 

むまひんらう 馬金囊

       紫檳榔

       馬金南

馬檳榔

 

 

本綱馬檳榔生南夷地蔓生結實大如葡萄紫色味甘內

有核頗似大楓子而殼稍薄團長斜扁不等核內有仁亦

甜凡嚼之者以冷水一口送下其甜如𮔉

核仁【苦甘寒】 治產難臨時細嚼仁數枚【井𬜻水送下】須臾立產

 再四枚【去殻】兩手各握二枚惡水自下也

 欲斷產者常嚼二枚【以水下之】久則子宮冷自不孕矣

 又治惡瘡腫毒內食一枚【以水下之】外嚼塗之卽無所傷

△按馬檳榔名義未詳亦不言葉形狀恨未得其種也

 

   *

 

むまびんらう 馬金囊《ばきんなう》

       紫檳榔《しひんらう》

       馬金南《ばきんなん》

馬檳榔

 

 

「本綱」に曰はく、『馬檳榔は南夷の地に生ず。蔓生して、實を結《むすぶ》。大いさ、葡萄のごとく、紫色。味、甘く、內《うち》に、核《さね》、有り。頗る、「大楓子《だいふうし》」に似て、殼、稍《やや》、薄く、團《まろ》く長く、斜めに扁《ひらた》く、等(ひと)しからず。核の內に、仁《にん》、有り、亦、甜し。凡そ、之れを嚼《か》≪む時は≫、冷水一口を以つて、送下《おくりくだ》せば、其《その》甜《あまき》こと、𮔉《みつ》のごとし。』≪と≫。

『核仁《さねのにん》【苦、甘。寒。】』『產難を治す。時に臨《のぞみ》て、細《こまか》に、仁、數枚を嚼(か)み【井𬜻水《せいくわすい》[やぶちゃん注:寅の刻(午前二時から四時)に汲んだ水を指す。仏教由来。]にて送下《おくりくだす》。】、須臾(しばらく)して、立処《たちどころ》に[やぶちゃん注:「処」は送り仮名にある。]產す。再たび、四枚を以つて【殻は去る。】、兩手に各《おのおの》[やぶちゃん注:送り仮名に『〻』がある。]二枚を握(にぎ)れば、惡水、自《おのづか》ら下るなり。』≪と≫。

『產を斷《たた》んと欲する者≪は≫、常に二枚を嚼み【水を以つて、之れを下す。】、久《ひさしき》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、子宮、冷《ひえ》て、自《おのづか》ら、孕(はら)まず。』≪と≫。

『又、惡瘡・腫毒を治す。內《うち》へ一枚を食《たべ》【水を以つて、之れを下す。】、外≪用≫には、嚼んで、之れを塗れば、卽《すなはち》、傷せる無し。』≪と≫。

△按ずるに、馬檳榔は、名義、未だ詳かならず。亦、葉の形狀を言はず。恨《うらむ》らくは、未だ其《その》種《たね》を得ざることを。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱アブラナ目フウチョウボク(風蝶木)科フウチョウボク属マビンロウ Capparis masaikai

である。「維基百科」の「馬檳榔」(臺灣正體)で確認した。それによれば、『中国の固有種』で、『中国本土では雲南省・貴州省・広西チワン族自治区などに分布する。標高千六百メートルの地域に植生する。丘陵の道路脇、谷間・丘陵の斜面の密林、石灰岩の山などに生育することが多い。未だ人工的に栽培用には導入されていない』とあった。本邦の同種のウィキを引いておく(注記号はカットした)。『マビンロウ(Mabinlang)は、雲南省の亜熱帯地域に生える』『植物で、テニスボール大の果実を付ける。成熟種子は、中国医学で用いられる』。『また種子を噛むと甘味を出すため、甘味料としても用いられる。甘味の原因は、マビンリン』(Mabinlin当該ウィキによれば、『雲南省に生育するマビンロウ( Capparis masaikai )から単離される甘味を持つタンパク質であ』り、四『つのホモログ』(相同遺伝子)『があるが、マビンリン-2が』一九八三『年に初めて単離され』、一九九三『年に性質が調べられ』、四『つの中で最も研究が進んでいる。その他のマビンリン-1-3-4は』一九九四『年に発見された』とある)『と呼ばれる甘味タンパク質であることが分かっている。これらは、重量比でスクロースの』百~四百『倍と非常に甘い』とあった。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。詳しい学術的記載がネットでは少ないが、サイト「GKZ 植物事典」の同種のページがよい。

 なお、以上の本文は、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十一」の「果之三」「夷果類」の「都念子」([077-32a] 以下)からの抄録である。短いので、全文を手を加えて、以下に示す。

   *

【會編】

 釋名馬金囊【雲南志】馬金南【記事珠】【綱目】

 集解【時珍曰馬檳榔生滇南金齒沅江諸諸夷地蔓生結實大如葡萄紫色味甘內有核頗似大楓子而殻稍薄團長斜扁不等核內有仁亦甜】

 實氣味甘寒無毒

 核仁氣味苦甘寒無毒【機曰凡嚼之者以冷水一口送下其甜如蜜亦不傷人也】

 主治產難臨時細嚼數枚井華水送下須立產再以四枚去殻兩手各握二枚惡水自下也欲斷產者常嚼二枚水下久則子冷自不孕矣汪機傷寒熱病食數枚冷水下又治惡瘡腫毒內食一枚冷水下外嚼塗之卽無所傷【時珍】

   *

「南夷」旧中国に於いては、東南アジアを指す蔑称であるから、おかしい。而して、これから、時珍は本種の実際の成木を見たことがないことが判る(何度も述べているが、李時珍は殆んど郷里黄州府蘄州(現在の湖北省黄岡市蘄春県蘄州鎮)から出ていない(南京でさえ、本「本草綱目」の出版のために出向いた程度なのである)。されば、良安の恨み節『馬檳榔は、名義、未だ詳かならず。亦、葉の形狀を言はず。恨らくは、未だ其種を得ざることを』も納得出来るのである。漢方薬としてしか、知らなかったのである。

「大楓子《だいふうし》」大風子油(だいふうしゆ)のこと。当該ウィキによれば、キントラノオ目『アカリア科(旧イイギリ科)ダイフウシノキ属』 Hydnocarpus 『の植物の種子から作った油脂』で、『古くからハンセン病の治療に使われたが、グルコスルホンナトリウムなどスルフォン剤系のハンセン病に対する有効性が発見されてから、使われなくなった』とあり、『日本においては江戸時代以降』、「本草綱目」『などに書かれていたので、使用されていた。エルヴィン・フォン・ベルツ、土肥慶蔵、遠山郁三、中條資俊などは』、『ある程度の』ハンセン病への『効果を認めていた』とある。先行する「卷第八十二 木部 香木類 楓」の私の注を見られたい。]

2025/05/26

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「人穴奇怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。やや長いので、段落を成形し、句読点(変更を含む)・記号を附加した。]

 

 「人穴奇怪」  富士郡富士山の麓にあり。「北條九代記」云《いはく》、

『建仁二年三日、將軍賴家卿、駿河國富士の狩倉に赴《おもむき》給ふ。山の麓に、又、大なる穴あり。世の人、是を、「富士の人穴」とぞ、名付けける。此穴の奧を見極めさせられんが爲、仁田四郞忠常を召《めし》て、劍を賜り、

「汝、此穴の中に入《いり》て、奥を極めて來《きた》るべし。」

との上意なり。

 忠常、畏《かしこまり》て、御劔を賜り、御前を罷り立《たち》て、主從六人、穴の內にぞ入りにける。

 次の日、四日の已の尅《こく》[やぶちゃん注:午前十時頃。]に、四郞忠常、人穴より出でて歸り來《きた》る。往還、すでに一日一夜を經たり。

 將軍家、御前に召《めい》て聞《きこ》し召す。

 忠常、申しけるやう、

「この洞《ほら》、甚《はなはだ》狹くして、踵《きびす》を巡《めぐら》す事、叶《かない》がたし。纔《わづか》に一人通るべくして、心の如くに進み行《ゆか》れず。又、暗き事、云《いふ》ばかりなし。

 主從、手每《てごと》に松明をともし、互に聲を合せて行《ゆく》程に、路《みち》の間《あひだ》は、水、流れて、足をひたす。

 蝙蝠《かうもり》、幾等《いくら》と云ふ限《かぎり》なく、火の光に驚《おどろき》て飛《とび》かけり、其行先に滿《みち》ふさがれり。色黑き物は世の常にあり、白き蝙蝠も又、少《すくな》からず。

 水の流《ながれ》に隨《したがひ》て、ちひさき蛇の、足に當り、纏付《まとひつく》事、隙《ひま》なし。刀を拔《ぬき》て、切流《きりなが》し、切流し、進み行《ゆく》に、或《あるひ》は腥《なまぐさ》き匂《にほ》ひ、鼻を衝《つき》て嘔噦《おゑつ》せしむる時もあり。或は芳《かうば》しき薰《かをり》來りて、心を凉やかになす事もあり。

 奥は、漸々(ぜんぜん)、廣くして、上の方に、何やらん、色、透《すき》通りて、靑き氷柱の如くなる物、ひしと見えたり。

 郞從の中に、物に心得たるが申しけるは、

『是は「鐘乳」とて石藥《せきやく》也。仙人、是を取《とり》て不老長生の藥を煉《ね》ると傳聞《つたへきき》し。』

と語り候。

 又、步み行く足の下、俄《にはか》に雷《いかづち》のはためく音して、千人計《ばか》り、一同に鬨《とき》を作ると聞《きこへ》しは、是は定めて「修羅窟《しゆらくつ》」の音なるべし。凄(すさまし)[やぶちゃん注:珍しい底本のルビ。]き事に存《ぞんじ》て候。

 猶、行先、彌《いよいよ》暗く、松明をともし續け、すこし廣き所に出《いで》たり。四方は黑暗幽々《こくあんいういう》として、遠近《をちこち》には、時々、人の聲、聞ゆ。

 心細き事、さながら、迷途《めいど》[やぶちゃん注:「冥途」に同じ。]の旅路《たびぢ》に向ひ、たどり行く心地ぞする。

 かゝる所に、一《ひとつ》の大河に行《ゆき》かヽる。

 事問《とふ》べき都鳥も見えず、漲《みなぎ》り落《おつ》る水音は、其深さ、淵瀨《ふちせ》もさだかならず。

 逆卷く水に、足をひたし入《いれ》たりければ、水の早き事、矢の如く、冷《ひやや》かなる事、極寒の水に增《ませ》れり。「紅蓮《ぐれん》」・「大紅蓮」の地獄の氷は、是成《なる》べし。川向ひ、其遠さ、七、八十間も有《ある》べし。

 其中に、松明の如くなる物、向ひに見えて、光、さながら、火の色にもあらず。

 光の內を見れば、奇異の御姿《おんすがた》、あたりを拂《はらつ》て立ち給ふ。

 郞從四人は、其儘《そのまま》、倒《たふれ》て、死す。

 忠常、かの御靈《ごりやう》を拜禮するに、御聲《みこゑ》、幽《かすか》に敎へさせ給ふ御事《おんこと》有《あり》て、則《すなはち》、下し給はりし御劔《ぎよけん》を其《その》川に投入《なげいれ》ければ、御姿はかくれ給ひ、忠常は、命、助《たすか》りて、歸り出《いで》候也。」

と、申す。

 賴家卿、聞しめし、

「尙、其奥は、定めて、天地の外の世界なるべし、重ねて渡し舟を造らせ、人數《にんず》多く遣《つかは》して、見屆くべし。」

とぞ、仰せられける。

 古老の人々は、是を聞《きき》て、

「この穴は『淺間(せんげん)大菩薩の住所なり』と申傳《まふしつた》へ、昔より、『遂に其內を見る事、能はず。』と聞傳《ききつた》ふ。只今、かやうに事を破り給ふには、將軍家の御身に取《とり》て、御愼《おんつつしみ》無きに非ず。恐ろ)しく。」

とぞ、私語(さゝやき)[やぶちゃん注:珍しい底本のルビ。]ける。云云。

 

[やぶちゃん注:「富士の人穴」は、本書に既に先行する「人穴の怪」があるが、その第二弾である。而して、その注でも示した通り、これは、私の、二〇一三年に五年半かけて完成したオリジナル電子化注ブログ・カテゴリ「北條九代記」の「伊東崎大洞 竝 仁田四郞富士人穴に入る」の後半部「仁田四郞富士人穴に入る」を引いたものである。子細に対照検証したが、細部の表記に問題のない異同が認められるだけである。引用としては、極めて良質なものである。リンク先で詳細な注を附してあるので、そちらを見られたい。

2025/05/25

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「富士沼水鳥の怪」

[やぶちゃん注:底本はここから。やや長いので、段落を成形し、句読点(変更を含む)・記号を附加した。但し、後半の「東鑑」は、そのままで前後に二十鍵括弧で括った。]

 

 「富士沼水鳥の怪」 富士郡富士沼にあり。

 「平家物語」治承四年十月富士川條《の でう》云《いはく》、

『去《さる》程に、同じき二十四日卯の刻に、ふじ川にて源平の「矢あはせ」とぞ、さだめける。二十三日の夜に入《いり》て、平家の兵共、源氏の陣を見わたせば、伊豆・駿河の人民《にんみん》・百姓ら、いくさにおそれて、或《あるひ》は野に入《いり》、山にかくれ、或は舟にとり乘《のつ》て、海河《うみかは》にうかみたるが、いとなみの火[やぶちゃん注:その人民百姓の炊事の煮炊きの火。]、見へけるを、

「あな、をびたゞし[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、

「源氏の陣の、遠火《とほび》のおほさよ、げに、野も山も海も河も、皆、むしやで有《あり》けり、いかゞせん。」

とぞ、あきれける。

 其夜の夜半ばかり、富士沼に、いくらも有《あり》ける水鳥共が、何かは、をどろき[やぶちゃん注:ママ。]たりけん、一どに、

「ばつ」

と、立《たち》ける羽音の、いかづち・大風《おほかぜ》などのやうに聞へければ、平家の兵共、

「あはや、源氏の大勢《おほぜい》のむかふたるは、きのふ、齋藤別當[やぶちゃん注:實盛。]が申《まうし》つるやうに、甲斐・信濃の源氏ら、ふじのすそより、からめて[やぶちゃん注:背後。]へや、まはり候らん、かたき[やぶちゃん注:「敵」。]なん、十萬ぎ[やぶちゃん注:「騎」。]か有《ある》らん。取《とり》こめられては、叶《かなふ》まじ。爰《ここ》をば落《おち》て、をはり川[やぶちゃん注:ママ。尾張河(おはりがは)。木曾川の古名。]。すのまた[やぶちゃん注:「洲㑨」。「墨㑨」とも作る。木曾川下流の地。木曾川は「又洲㑨川」とも呼んだ。]を、ふせげや。」

とて、取《とる》物も取《とり》あへず、我先に、我先に、とぞ、落行《おちゆき》ける【中畧。】。兵衞佐[やぶちゃん注:賴朝。]、いそぎ、馬よりおり、甲《かぶと》をぬぎ、手水《てうづ》・うがひして、王城の方を、ふしおがみ、

「是は、まつたく、賴朝がわたくしの高名には、あらず。ひとヘに八幡大菩薩の御はからひ。」

とぞ宣《のたま》ひける。云云。』。

『其時の「らく書《しよ》」に、

  ふし河の、せヽの岩こす、水よりも、早くも落つる、伊勢平氏哉。』。

[やぶちゃん注:この「伊勢平氏」の「へいし」は「瓶子」に掛けてある。瓶子は御神酒を入れるための徳利のような形の器であり、これが、川面に浮かぶそれが、ふらふらと早く流れて行く為体を洒落たものである。]

 大將軍惟盛をはじめ、七万餘騎の軍兵《ぐんぴやう》、水鳥の羽音に驚《おどろき》て、迯歸《にげかへ》るは、實《げ》に八幡宮の御はからひか、天凶をしめす處か、彼《かれ》といひ、是《これ》といひ、また、奇怪ならずや。

 「東鑑」云《いはく》、

『治承四年十月二十日、武衞令ㇾ到駿河國賀島給。又左中將惟盛・薩摩守忠度・三河守知度等、陣于富士河西岸一、而ルニ及テ半更武田太郞信義、廻ラシ兵略、潜ニ襲件ノ陣ノ後面之處、所ㇾ集于富士沼之水鳥等、群カリ。其羽音偏軍勢之粧、依テㇾ之、平氏等驚、爰次將上總介忠淸等相談云、東國士卒、悉武衞、吾等怒 憖出洛陽、於中途、已難ㇾ遁ㇾ圍、速ハヤク歸洛可ㇾ搆於外云云。』。

 

[やぶちゃん注:本文の訓点は不全であるから、「東鑑」(=「吾妻鏡」)をカット部分を補塡して、当日分記事の原本を訓読して示しておく。読み易くするため、段落を成形した。

   *

治承四年十月小廿日[やぶちゃん注:ユリウス暦一一八〇年十一月九日。グレゴリオ暦換算一一八〇年十一月十六日。]己亥。武衞、駿河國賀島[やぶちゃん注:現在の静岡県富士市加島町(かしまちょう:グーグル・マップ・データ)。]に到らしめ給ふ。

 又、左少將惟盛、薩摩守忠度、參河守知度等、富士河西岸に陣す。

 而るに、半更(はんかう)[やぶちゃん注:冬なので、午前一時頃から午前三時頃まで。]に及び、武田太郞信義、兵略を𢌞(めぐ)らし、潛(ひそ)かに件(くだん)の陣[やぶちゃん注:平家側の陣を指す。]の後面を襲ふの處、富士沼[やぶちゃん注:現在しない広域の複数の沼沢を含む湿地帯。「浮島沼」或いは「浮島原」。「ひなたGIS」の戦前の地図のこの辺りを中心とする。]に集まる所の水鳥等、群れ立(だ)つ。其の羽音、偏(ひとへ)に軍勢の粧(よそほ)ひを成す。

 之れに依つて、平氏等、驚き騷ぐ。

 爰(ここ)に次將の上總介忠淸[やぶちゃん注:平家譜代の有力家人(けにん)藤原忠清。]等、相(あひ)談じて云はく、

「東國の士卒は、悉く、前(さき)の武衞に屬す。吾等、憖(なまじひ)に洛陽[やぶちゃん注:京。]を出でて、中途に於いて、已に圍(かこ)みを遁(のが)れ難し。速かに歸洛せしめ、謀(はかりごと)を外に搆(かま)ふべし。」

と云々。

 羽林[やぶちゃん注:平維盛。]已下、其の詞(ことば)に任(まか)せて、天(てん)の曙(あ)くるを待たず、俄かに以つて、歸洛し畢(をはん)ぬ。

 時に飯田五郎家義・同じき子息等、河を渡りて、平氏の從軍を追奔(ついほん)するの間(あひだ)、伊勢國住人伊藤武者次郞、返し合せて相ひ戰ひ、飯田太郞、忽ちに討ち取らる。家義、又、伊藤を討つと云々。

 印東次郞常義[やぶちゃん注:「常義」は「常茂」の誤判読と見られる。上総介広常の兄であったが、平家方に就いた。討ち取られたのは、三日後。]は鮫嶋(さめがしま)[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]に於いて誅せらると云々。

   *

う~ん……しかし、これ……怪談じゃあ……ないね。]

2025/05/23

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 都念子

 

Mangosutin

 

とねんし  倒捻子

 

都念子

 

本綱都念子生嶺南隋煬帝時進百株植于西苑樹髙𠀋

餘葉如白楊枝柯長細花心金色花赤如蜀葵而大子如

小棗𮔉漬食之甘美或云子如軟柹外紫內赤無核頭上

有四葉如柹蔕食之必捻其蒂故名

 

   *

 

とねんし  倒捻子

 

都念子

 

「本綱」に曰はく、『都念子は、嶺南[やぶちゃん注:現在の広東・広西省。]に生ず。隋の煬帝《やうだい》[やぶちゃん注:第二代皇帝。在位は六〇四年から六一八年。]の時、百株を進じて、西苑に植《うう》。樹の髙さ𠀋餘。葉、白楊(はこやなぎ)のごとく、枝-柯《えだ》、長く、細く、花の心[やぶちゃん注:「芯」。]、金色にて、花、赤く、蜀葵(からあをひ)のごとくにして、大なり。子《み》、小≪さき≫棗《なつめ》のごとく、𮔉《みつ》漬《づ》け≪にして≫、之れを食ふ。甘美≪なり≫。或いは、云ふ、「子、軟≪らかなる≫柹《かき》のごとく、外、紫、內、赤く、核《さね》、無《なし》。核、頭上≪に≫四葉、有り、柹の蔕(へた)のごとし。之れを食ふに、必《かならず》、其の蒂を捻《ひねる》。故に名づく。」≪と≫。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、しらっと、割注・後注もなく、種名を載せない。しかし、「或いは、云ふ」以下の「內、赤く」が、やや疑問ではあるが、この「內」が、果皮の内側の内皮ならば、納得され(中の果肉部分は白いが、これは仮種皮である)これは、「果物の女王」と称せられ、私も大好物である(最初の教え子同士(孰れも私の「秘蔵っ子」であり、結婚式では仲人代わりとして、連れ合いともに招待され、冒頭、二人を紹介した夫君の書いたものを私が読み上げた)の夫婦を当時の勤務先であったシンガポールに訪ねた際、彼女が買ってきてくれて、激しく美味であったのである)、

双子葉植物綱キントラノオ(金虎尾)目フクギ(福木)科フクギ属マンゴスチン Garcinia mangostana

で問題ない。「維基百科」の同種のページを「臺灣正體」を選ぶと、『山竹』とし、別名に『莽吉柿、芒翕、山竺、山竹子、倒捻子』(☜)・『鳳果』を見出せる。「百度百科」の「都念子」には、『倒捻子の果実の名』とある(但し、そこには学名は記されていない)。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『マンゴスチン(英: mangosteen』『)は、フクギ属の常緑高木。東南アジアのマレー原産。マレー語、インドネシア語ではマンギス(マレー語: manggis; インドネシア語: manggis)、タイ語ではマンクット』、『ベトナム語ではマンクッ(măng cụt)、中国名で「莽吉柿」という。果実は美味で「果物の女王」と称される。フクギ科ではもっとも利用されている種の一つ』。『名称にmangosteenとあるが、mango(マンゴー)』(ムクロジ目ウルシ科マンゴー属マンゴー Mangifera indica )『との関連はない』。『明治期の博物学書や百科事典の中で茫栗という漢字表記が用いられた』。七~二十五『メートル』『の直立する幹を持つ高木で、樹冠は円形または円錐形、樹皮は褐色から黒色、内側には黄色の樹液を含む』。『葉は対生、卵形ないし長円形で長さ』八~十五『センチメートル』、『厚く革質で』、『やや光沢を持つ。花は』二・五~五センチメートル『で雄花または両性花。両性花は若い短枝の先端に』一『または』二『個つく。萼と花弁は』四『枚、肉厚で』、『わずかに黄色を帯びた赤色から淡桃色。雄しべは多数。雌しべは』一『個、柱頭は』四~八『裂する。果実は直径』四~八センチメートル『の球形で、表面は滑らか、肉厚の萼が宿存し、反対側に柱頭の跡が残る。果皮は厚くてやや硬く、暗赤紫色をしている』。『果皮に包まれている食用の果肉部分は、仮種皮である。柱頭の数(通常』四~八『個)と同じに分離したミカンの房のような形をしており白色である。それぞれの房に』一『個の種子があるが、そのなかで発芽能力を持つ通常』一『個』時に、ゼロから二個)『だけが大きい(長さ』一センチメートル『程度で扁平)。発芽能力を持たない種子は小さく食用時に気にならない』。『東南アジアから南アジア、一部中南米で栽培される。輸出国としてはタイが有名である。ヴィクトリア女王をはじめヨーロッパ人に好まれた風味の果実のため、熱帯の各地への移入が今までに試みられてきている。ニュースサイト「VIETJO」では原産国がマレー半島とされており、ベトナムにはキリスト教の宣教師がもたらしたとされている。日本では、沖縄などで数々の熱帯果実の栽培が可能になっているが、現在のところマンゴスチン栽培は成功していない』。『一般的に栽培は実生による。初期は遮光が必要で、成長し結実するまでに』十『年前後かかり遅い。高濃度の施肥に反応を示し、酸性土壌で良好な排水が必要。短期間の乾燥には耐えるが』、『通年の降雨または灌漑が必要。若木で』百~三百『個、成木で』千~三千『個の果実がなる』。『雑種起源の倍数体で無性生殖をするといわれ、品種は知られていない』。『フクギ属( Garcinia )は』百『種ほど知られ、マンゴスチンの台木に使われるものもある。フクギ( G. subelliptica )は日本では沖縄県等で防風林・防潮林として植えられ、樹皮は染色に利用されている』。『果実の外皮は粉末にして下痢、赤痢、皮膚病に使われるほか、保湿効果や動脈硬化の予防効果が示唆されている。また、葉は乾燥させて茶にするほか、皮は染料としても使える。マンゴスチンの外皮に含まれるポリフェノールの一種のキサントンに、がん抑制効果があることが発表された』。『東南アジアの国では、ドリアン』(アオイ目アオイ科 Helicteroideae 亜科ドリアン属 Durio 。タイプ種は Durio zibethinus で、現在、三十種が知られる。私はタイで美味さにハマった)『とともにマンゴスチンを持ち込み禁止を掲げているホテルがある(特に高級ホテルに多い)。ドリアンはその匂いが強烈なためだが、マンゴスチンは皮に含まれる赤い色素でベッドや絨毯など調度類を汚してしまうおそれがあり、染料に使うほどなので容易に落とすことができないためである』。『ドリアンを「果物の王様」とよぶのに対し、マンゴスチンは柔らかい果肉、香りが良くさわやかな甘味で上品な味わいから、「果物の女王」ともよばれる。デリケートな食感を楽しむため生食が一般的だが、ジュース、ゼリー、缶詰に加工されることもある』。『基本的に劣化しやすく賞味期間の短い果物である。高湿度で低温にすればその期間を伸ばすことができるが』、『原産国では気温が高く、数日で劣化してしまうことが多い。実験では』摂氏四度『で湿度』九十%『で』四十九『日間品質を保ったという』。『収穫後は多くの果物とは反対に果皮が硬化してゆくが、もともと分厚く固いため内部の様子が分かりにくい。劣化するとシャーベット状だった可食部は透明感が増し』、『黄変し』てしまい『不味』い。『日本では、生または冷凍、シロップ漬の缶詰で入手できる。但し、ミバエ』(実蠅:双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ミバエ上科ミバエ科 Tephritidae)『の侵入を懸念して、現地のスーパーなどで購入した生のものは、そのまま国内に持ち込むことは禁止されている。国内では生の持ち込みは』二〇〇三『年に解禁されたものの、植物検疫に合格したことが証明されたもののみが持ち込み可能であるため、現状でも流通量は少なく値段も高い。また、生のものと解凍のものでは味が著しく異なる』二〇二三『年には条件付きで熱処理なしでタイから輸入できるようになった』。『アメリカ合衆国でも同様にミバエの侵入を懸念して輸入が禁止されていたが』、二〇〇七『年に放射線照射処理をすることを前提に輸入解禁となった』とある。但し、このウィキには注意喚起がないが、果物アレルギーある人は、マンゴスチンを摂取することで軽度なアレルギー反応を示すことがあり、症状は様々で、痒みや蕁麻疹、口周りの赤みや腫れなどの症例報告があることが知られており、その外の特定の体質や疾患を持っている場合は、禁忌であったり、二個以上の食用は避けた方がいいとする記事がネット上にはある。特に、Chihiroさんのサイト「Durian Hunter」の「マンゴスチンにも副作用あり⁉︎こんな人は食べ過ぎに注意!」に、各個的な注意喚起記載があるので、是非、読まれたい。

 なお、以上の本文は、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十一」の「果之三」「夷果類」の「都念子」([077-30a] 以下)からの抄録である。短いので、全文を手を加えて、以下に示す。

   *

都念子【拾遺】

 釋名倒捻子【詳下文】

 集解【藏器曰杜寳拾遺錄云都念子生嶺南隋煬帝時進百株植於西苑樹高丈餘葉如白楊枝柯長細花心金色花赤如蜀葵而大子如小棗蜜漬食之甘美益人時珍曰按劉恂嶺表錄云倒捻子窠叢不大葉如苦李花似蜀葵小而深紫南中婦女多用染色子如軟柹外紫內赤無核頭上有四葉如柹蔕食之必捻其蔕故謂之倒捻子訛而爲都念子也味甚甘軟】

 實氣味甘酸小温無毒主治痰嗽噦氣藏器暖腹臟益

 肌肉【時珍錄嶺表

   *

「白楊(はこやなぎ)」この良安の「ハコヤナギ」のルビはアウト! 「ハコヤナギ」は本邦では、

キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ(山鳴らし)属ヨーロッパヤマナラシ変種ヤマナラシ Populus tremula var. sieboldii

を指す異名であるが、先行する「白楊」で考証した通り、

キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属マルバヤナギ Salix chaenomeloides

であるからである。

「蜀葵(からあをひ)」音「しよくき」は、アオイ亜科タチアオイ属タチアオイ Althaea rosea の中文名(「維基百科」を見よ)にして、本邦での同種の古名であるので、問題ない。]

2025/05/17

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 阿勃勒

 

Saikati_20250517152301

 

なんはんさいかし

       婆羅門皂莢

       波斯皂莢

阿勃勒

      【婆躍門

        西域國名】

      【波斯

        西南夷國名】

 

本綱阿勃勒樹長三四𠀋圍四五尺葉似枸櫞而短小經

寒不凋不花而實莢長二尺中有隔隔內各有一子大如

指頭赤色至堅硬中黑如墨味甘如飴可食

 

   *

 

なんばんさいかし

       婆羅門皂莢《ばらもんさうきやう》

       波斯皂莢《はしさうきやう》

阿勃勒

      【「婆躍門」は、

        西域《さいいき》の國の名。】

      【「波斯」は、

        西南夷《せいなんい》の國名。】

 

「本綱」に曰はく、『阿勃勒は樹の長さ、三、四𠀋。圍《めぐり》、四、五尺。葉、枸櫞(ぶしゆかん)に似て、短小。寒《かん》を經て、凋まず、花あらずして、實(《み》の)る。莢(さや)の長さ、二尺。中に、隔《しきり》、有り、隔の內、各《おのおの》、一《ひとつ》≪づつ≫、子《み》有り。大いさ、指の頭《かしら》のごとく、赤色。至《いたつ》て堅-硬(かた)く、中《うち》、黑《くろく》して、墨《すみ》のごとし。味、甘《あまく》して、飴(あめ)のごとく、食ふべし。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、

双子葉植物綱マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ(皁莢・皂莢)属サイカチ Gleditsia japonica

(中文名は「維基百科」の同種のページでは「山皂荚」とする)である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名はカワラフジノキ。漢字では皁莢、梍と表記するが、本来「皁莢」は』同属の『シナサイカチ』( Gleditsia sinensis )『を指す』。サイカチとシナサイカチには『幹に特徴的な棘がある』。『樹齢数百年というような巨木もあり、群馬県吾妻郡中之条町』(なかのじょうまち)『市城』(いちしろ)『の「市城のサイカチ」』(ここ。グーグル・マップ・データ)『や、山梨県北杜市(旧長坂町)』(現在の長坂町(ながさかちょう)中丸(なかまる))『の「鳥久保のサイカチ」』(ここ。グーグル・マップ・データ)『のように県の天然記念物に指定されている木もある』。『和名サイカチは、生薬のひとつである皁角子(さいかくし)に由来し、「皁」は黒、「角」は莢を表わしている。中国名は、山皁莢である』。『日本では中部地方以西の本州、四国、九州に分布するほか、朝鮮半島、中国に分布する。山野や川原に自生する。実や幹を利用するため、栽培されることも多い』。『落葉高木で、幹はまっすぐに延び、樹高は』十二~二十『メートル』『ほどになる。樹皮は暗灰褐色で皮目が多く、古くなると』、『縦に浅く裂ける。幹や枝には、枝が変化した大きくて枝分かれした鋭い棘が多数ある。葉は互生または対生する。短い枝では』一『回の偶数羽状複葉、長枝では』一、二『回の偶数羽状複葉で、長さ』二十~三十『センチメートル 』。『小葉は、長さ』一・五~四センチメートル『ほどの長楕円形で』、八~十二『対』、持つ。『花期は初夏(『五~六『月)ごろ。若葉の間から伸びた長さ』十~二十センチメートル『ほどの総状花序を出して、淡黄緑色の小花を多数つける。花は雄花、雌花、両性花を同じ株につけ、花弁は』四『枚で楕円形をしている』。『果期は秋(』十~十一『月)で、長さ』二十~三十センチメートル『で』、『ねじ曲がった灰色の豆果をぶら下げてつける。鞘の中には数個の種子ができる。種子は大きさは』一センチメートル『ほどの丸い偏平形。冬になると』、『熟した黒い果実(莢)が落ちる』。『芽は互生し、半球状や円錐形で棘の下につく。短い枝にできる冬芽は、複数集まってこぶ状になる。側芽の鱗片は』四~六『枚。葉が落ちた痕にできる葉痕は、心形や倒松形で維管束痕は』三『個ある』。『木材は建築、家具、器具、薪炭用として用いる』。『莢にサポニンを多く含むため、油汚れを落とすため石鹸の代わりに、古くから洗剤や入浴に重宝された。莢(さや)を水につけて手で揉むと、ぬめりと泡が出るので、かつてはこれを石鹸の代わりに利用した。石鹸が簡単に手に入るようになっても、石鹸のアルカリで傷む絹の着物の洗濯などに利用されていたようである(煮出して使う)』。『豆果は皁莢(「さいかち」または「そうきょう」と読む)という生薬で去痰薬、利尿薬として用いる。種子は漢方では皁角子(さいかくし)と称し、利尿や去痰の薬に用いた』。『また』、『棘は皁角刺といい、腫れ物やリウマチに効くとされる』。『豆はおはじきなど子供の玩具としても利用される』。『若芽、若葉を食用とすることもある』。『サイカチの種子にはサイカチマメゾウムシ』(甲虫(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科ハムシ科マメゾウムシ亜科Bruchidius (シノニム:Megabruchidius )属 Bruchidius dorsalis )『という日本最大のマメゾウムシ科』『の甲虫の幼虫が寄生する。マメゾウムシ科』Bruchinae『はその名前と違って、ゾウムシ』(科 Curculionidae)『の仲間ではなく、ハムシ科に近く、ハムシ科の亜科のひとつとして扱うこともある。サイカチの種子は硬実種子であり、種皮が傷つくまでは』、『ほとんど』、『吸水できず、親木から落下した果実からは』、『そのままでは何年たっても発芽が起こらない。サイカチマメゾウムシが果実に産卵し、幼虫が種皮を食い破って内部に食い入ったとき』、『まとまった雨が降ると、幼虫は溺れ死に、種子は吸水して発芽する。一方、幼虫が内部に食い入ったときに』、『まとまった雨が降らなければ』、『幼虫は種子の内部を食いつくし、蛹を経て』、『成虫が羽化してくることが知られている』。『サイカチの幹からはクヌギやコナラと同様に、樹液の漏出がよく起きる。この樹液はクヌギやコナラの樹液と同様に樹液食の昆虫の好適な餌となり、カブトムシやクワガタムシがよく集まる。そのため、カブトムシを「サイカチムシ」と呼ぶ地域も在る。クヌギやコナラの樹液の多くはボクトウガ』『によるものであるという研究結果が近年出ているが、サイカチの樹液を作り出している昆虫は』、未だ、『十分研究されていない』。『また』、『サイカチは』「万葉集」に『収録された和歌の中にも』「屎葛(くそかづら)」の名で『詠まれている』とある。「万葉集」のそれは、「卷十六」 の「高宮王(たかみやのおほきみ:生没年不詳。奈良時代の歌人・官人。当該ウィキによれば、『名前に「王」が付いているところから皇族出身と推察されるが、詳しい系譜などは不明』で「万葉集」には二首の歌が載る、とある)の「數種(くさぐさ)の物を詠める歌二首」の第一首目(三八五五番)で、

   *

 𫈇莢(ざふけふ)に

     延(は)ひおほとれる

    屎葛(くそかづら)

   絕ゆることなく

      宮仕(みやづかへ)せむ

   *

である。「𫈇莢(ざふけふ)」ジャケツイバラ亜科ジャケツイバラ属ジャケツイバラCaesalpinia decapetala 。蔓性落葉低木。山地や河原に生える。枝に棘を持ち、葉は羽状複葉。初夏、黄色の花が、多数、開き、果実は莢(さや)状になる。種子は有毒であるが、漢方で「雲実」(ウンジツ)といい、マラリアや下痢に用いる。名は、茎が蜷局(とぐろ)を巻くように見えるのに由来する。別名を「河原藤」(かわらふじ)と呼ぶ(以上は小学館「デジタル大辞泉」に拠った。「万葉集」では、「𫈇莢(ざふけふ)」を訓読で「かはらふじ」と読む説がある。

 なお、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十一」の「果之三」「夷果類」の「阿勃勒」([077-28a] 以下)からの抄録である。短いので、全文を手を加えて、以下に示す。

   *

阿勃勒【拾遺】 校正【自木部移入此】

 釋名婆羅門皂莢【拾遺】波斯皂莢【時珍曰婆羅門西域國名波斯西南夷國名也】

 集解【藏器曰阿勃勒生拂林國狀似皂莢而圓長味甘好喫時珍曰此卽波斯皂莢也按段成式酉陽雜俎云波斯皂莢彼人呼爲忽野簷拂林人呼爲阿梨樹長三四丈圍四五尺葉似枸櫞而短小經寒不凋不花而實莢長二尺中有隔隔內各有一子大如指頭赤色至堅硬中黑如墨味甘如飴可食亦入藥也】

   *

「西南夷」中国古代に今の四川省南部から雲南・貴州両省を中心に居住していた非漢民族の総称。チベット(蔵)・タイ(溙)・ミヤオ(苗)などの諸民族に属する。滇(てん)・雟(すい)・哀郎・冉駹(ぜんもう)・邛(きよう)・筰(さく)など数多く。それぞれが幾つもの部族に分かれ、習俗・言語を異にした。四川省から西南夷を介してビルマからインドへ、また、南越の番禺(広州市)へと交通路が通じていて、文物の交流に重要な役割を果たした。前漢の武帝はこの地方の経営に乗り出し、これら諸族の君長を圧服、又は、懐柔して、牂柯(しようか)・越雟などの郡を置いた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「枸櫞(ぶしゆかん)」ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン変種ブッシュカン Citrus medica var. sarcodactylis 。先行する「山果類 佛手柑」を見よ。]

2025/05/16

三四郎島トンボロで海岸動物観察復帰!

三十年前春、大好きなゲンゲの田圃を眺め、堂ヶ島を訪れた。快晴だったが、強風のため、遊覧船は欠航だった――一昨日、リベンジで訪れ、遊覧を果たした。連れ合いが月齢を調べてセットしたので、が完全に繋がっていた。2001年夏、総合学習で真鶴海岸で生物教師二人とともに海岸生物の観察指導をしている最中、足を滑らし、右腕の手首を粉砕して以来、御無沙汰だったが、足を延ばして、訪ねた(手前の御崎にあったカミヤツデ(紙八手:Tetrapanax papyrifer )の大森林にも大感激であった)。連れ合いは先般、足首に罅を入れたので、岸辺で私が黙々と観察(ショウジンガニやミルの幼体などを十数種を現認出来た)する私を撮った。お目にかける――


Saved_file_1747335513640
Saved_file_1747335744175
Saved_file_1747335753563
Saved_file_1747335762970
Saved_file_1747335772399
Saved_file_1747335781465
Saved_file_1747335789887
Saved_file_1747335805650
Saved_file_1747335920325
Saved_file_1747335549795_20250516060401

2025/05/11

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「富士山北麓鼠怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号を附加した。]

 

 「富士山北麓鼠怪」 富士郡富士山の北麓にあり。「東鑑」云《いはく》。『治承四年十月二十五日、俣野五郞景久、相駿河國目代橘遠茂カ軍勢、爲ㇾ襲武田一條等源氏ヲ一、赴甲斐國。而昨日及昏黑之間、宿スル富士北麓之處、景久並郞從、所ノㇾ帶スル百餘張ノ弓ノ弦、爲ㇾ鼠被食ヒ切ラ一畢。仍テ失思慮之刻、安田三郞義定、工藤庄司景光、同子息小次郞行光、市川別當行房、聞石橋被ㇾ遂合戰、自甲州發向スル之間、於彼志太山、相景久等、各廻ラシㇾ轡飛矢攻責景久、挑刻、景久等依テㇾ絕ツニ、雖ㇾ取ルト太刀、不ㇾ能禦矢石、多ㇾ之、安田已下之家人等、又不ㇾ免、然而景久令雌伏逐電。云云』。奇と云べし。

 

[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」では、何の注も附していないが、「東鑑」(=「吾妻鏡」)のこの記事、「治承四年十月」とあるのは、「治承四年八月」の誤りである。以下、原本(『國史大系』)と対照し、当日のカットされている頭の箇所を補い(実際には上記の記事の後も続くが、そこはカットした)、また、送り仮名が不全なので、適宜、送り仮名・難読と思われる箇所に読みを添えてオリジナルに訓読する(所持する訓読本二種を参考した)。

   *

小廿五日[やぶちゃん注:治承四年八月。ユリウス暦十一月十四日・グレゴリオ暦換算十一月二十一日。] 乙巳 大庭三郞景親、武衞の前途を塞(ふさ)がんが爲(ため)に、軍兵(ぐんぺう)を分かちて、方々の衢(ちまた)に、關、固(かた)む。

俣野五郞景久、駿河國の目代(もくだい)橘遠茂が軍勢を相具(あひぐ)し、武田・一條等の源氏を襲はんが爲に、甲斐國(かひのくに)に赴く。而るに、昨日、昏黑(こんこく)に及ぶの間、富士北麓に宿するの處、景久幷びに郞從(らうじゆう)、帶(たい)する所の百餘張(ちやう)の弓弦(ゆづる)、鼠の爲に喰ひ切られ畢(をは)んぬ。仍(よ)つて思慮を失ふの刻(きざみ)、安田三郞義定・工藤庄司景光・同子息小次郞行光・市川別當行房、石橋に於いて合戰を遂げらるる事を聞き、甲州より發向の間(あひだ)、波志太山(はしたやま/はしだやま)に於いて景久等に相逢ふ。各(おのおの)、轡(くつわ)を𢌞(めぐ)らし、矢を飛ばし、景久を攻め責む。挑み戰ひ、刻(とき)を移す。景久等(ら)、弓弦を絕つに依つて、太刀を取ると雖も、矢石(しせき)を禦ぎ能はず。多く、以つて、之れに中(あた)る。安田已下(いか)の家人(けにん)等、又、劔刃(やいば)を免かれず。然れども、景久、雌伏(しふく)せしめて、逐電すと云々。

   *

鎌倉市研究をしている私には、登場人物は孰れも馴染みの人物であるから、注は附さない。悪しからず。何人かは、ウィキの「波志田山合戦」のリンク先で判る。

「波志太山」は前記リンク先でも記されてあるが、比定地が定かでない。平凡社「日本歴史地名大系」によれば、『波志太山』『はしだやま』『山梨県:南都留郡波志太山』『甲斐・駿河国境付近にあった山名。比定地については、現足和田(あしわだ)村と鳴沢(なるさわ)村にまたがる足和田山(一三五五メートル)、現静岡県沼津市の愛鷹(あしたか)山(一一八八メートル)などとする説のほか、波志太山は八朶山で漠然と富士山麓をさすという理解もある。治承四年(一一八〇)八月二五日、石橋(いしばし)山(現神奈川県小田原市)へ向かおうとする安田義定・工藤景光・工藤行光・市川行房らの甲斐源氏と、甲斐に攻め入ろうとした俣野景久・駿河目代橘遠茂軍との戦闘がここで行われ』、『甲斐源氏が勝利している(吾妻鏡)』とある。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「富士河怪」

[やぶちゃん注:底本はここから。やや長いので、段落を成形し、読点・記号を一部に打った。「□」は欠字。但し、底本では、二字の欠字は長方形である。]

 

 「富士河怪《ふじがはのくわい》」 富士郡《ふじのこほり》富士川【富士川の渡瀨は、駿東《すんとうのこほり》・庵原《いはらのこほり》の兩郡に跨るといへども、源《みなもと》、富士郡より出《いづ》、故に當郡に記す。】にあり。

 「明良洪範」云《いはく》、

『神君の姬君を、松平玄蕃頭《げんばのかみ》家淸へ遣《つかは》されし時、平松金次郞某《なにがし》事、御付《いんつき》に仰付《おほせつけ》られ御下りの時、富士川を御渡り有《あり》しに、川中《かはなか》にて、御船《おんふね》、すはりて、動かず。

 船頭、申《まうす》は、

「是は、岩淵《いはぶち》の主《ぬし》の見込《みこみ》し也。是非なき事なれば、銘々、何にても印《しるし》を付《つけ》、川へ投入《なげいれ》、しづみたる物、則《すなはち》、主《ぬし》の見入《みいり》しなれば、一人《ひとり》、入水《じゆすい》有《ある》べし。」

とて、各《おのおの》鼻紙やうの物[やぶちゃん注:鼻紙入れ(江戸時代はこれは財布と同義である)のような物であろう。]を投入《なげいれ》しに、姬君の鼻紙ばかり、沈みしかば、皆々、驚き、

「いかヾはせん。」

と云へ共、船頭は、

「大勢に一人は替《かへ》がたし。」

と申《まうす》。

 姬君の御召物、此度出來《しゆつたい》せし御上召《おんうへめし》、紅縮緬《くれなゐちりめん》なりしを、平松、申請《まうしうけ》、其外《そのほか》、付來《つけきた》りし者共に委細申合《まうしあはせ》、金次郞は御召物を羽織の樣に打《うち》かぶり、船より飛入《とびいる》とひとしく、御船《おんふね》は、動きたる。

 姬には、船より御上り有《あり》しに、其一町計り水下《みなしも》[やぶちゃん注:川下。一町は百九メートル。]にて、紅《くれなゐ》の波、水底《みなそこ》より、はね上りしに、其後《そののち》は見えず成《なり》けり。

 川下にて見し人は、

「暫くは、血の流るゝが如く、見えし。」

と云《いへ》り。

 此《これ》以後、岩淵の主、絕《たえ》て人を取《とる》事なし、とぞ。

 是までは、年每《としごと》に。三人は、きはめて、人を、とり、船を、くつがへしする事多かりしと也《なり》。云云』。

 平松は御譜代の勇士にして、御懇《おんねんごろ》の者也。水中にして彼《かの》怪を討《うち》たる天晴《あつぱれ》の働き、感ずべし、賞すべし。

 「松平主水淸良家記」云《いはく》、

『天正九年、神祖、上意を以て、御同腹の御妹君を玄蕃頭家淸に玉はりて室とす。三州竹谷《たけのや》に入輿《にふよ》、天正十八年十月十七日、逝去、時に二十二歲。法名天桂院殿月窓貞心。相州中島村□□山福巖寺に葬《はふる》、後三州西郡[やぶちゃん注:底本では以上の通り、右寄りで小さい□である。但し、「近世民間異聞怪談集成」では、ここは二字分の通常脱字となっている。]山天桂院に改葬す。入輿《にうよ/こしいり》の月日、並《ならびに》、御名《おんな》知ず《しら》。云云』。

 是を以《もつて》考《かんがふ》るに、富士川難《なん》の事、家淸が許《もと》に入輿の時には、あらざるべし。

 

[やぶちゃん注:主ロケーションは、「富士川の渡し」で、ここ(グーグル・マップ・データ)。なお、この「姬君」=「天桂院」については、サイト「LocalWiki」の「小田原」の「天桂院の墓」がよい。全文を一部のリンクを生かして引用する。

   《引用開始》

 

天桂院の墓

 

天桂院の墓天桂院の墓(てんけいいんのはか)は、中町の福厳寺境内の墓地にある、徳川家康の妹・天桂院(高瀬君)の墓。天桂院は、天正18年(15901017日、数え年22歳のときに、今井の陣屋(寿町4丁目、今井権現社のあたり)で死去した。曹洞宗の寺院に葬って欲しいとの遺言により、福厳寺に埋葬されたという。法名「天桂院殿月窓貞心大禅定尼」。墓には宝塔が1基あり、五輪塔で高さ約15寸(45cm)。(1)

天桂院は、天正9年(1581)に松平玄蕃頭家清の室となっていたため、その没後、福厳寺は毎年、松平家清の家(19世紀前半の子孫の家は旗本の松平主水清良)から仏供料を贈られ、また自身が東海道を通行するときに参拝を受けていた。毎年の忌日には小田原城主からの代拝もあった。(1)

葬地に関する疑義

『風土記稿』は、松平主水家の系譜には「号天桂院殿月窓貞心大姉、葬所武州八幡山、一寺起立仕、号月窓山天桂院、後年三州吉田へ改葬、又同国西郡へ改葬、右寺も同所に移す、其後慶安二年(1649)、天桂院全栄寺を一箇寺に仕、龍台山天桂院と改」とあるため、武蔵国児玉郡(埼玉県本庄市児玉町)八幡山に「天桂院」という寺院を建立して葬地とし、のちに三河国に改葬されたと考えられ、福厳寺が葬地とされていることには疑義がある、としている(1)

しかし、福厳寺は19世紀前半に至るまで、松平主水の家や小田原藩主から香奠を受けているので、別に理由があるのだろう、として、国替えの際の旅行中に具合が悪くなるなどして、まだ今井の陣屋が破却されていなかったため、同書にしばらく滞在して養生するなどしたのではないか、と推測している(1)

参考資料

 1.『風土記稿』中島村 福厳寺[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像が視認出来る。]

   《引用終了》

ウィキの「天桂院」によれば(一部のリンクを残した)、『天桂院(てんけいいん、永禄12年(1569年)天正181017日(15901114日))は戦国時代の女性。徳川家康の異父妹。名は於きんの方高瀬君とも』。『久松俊勝の娘で母は於大の方。天正9年(1581年)、竹谷松平家6代当主・松平家清に嫁ぎ』、『松平忠清を産んだ。初め』、『竹谷城(蒲郡市)に住んだが、天正18年(1590年)より家康から竹谷松平家に与えられた武蔵八幡山に住んだ』。『お産のため死去。墓所は福巌寺(小田原市)の他』『蒲郡市』の『天桂院にも墓碑がある』とある。

「明良洪範」江戸中期成立の逸話・見聞集。十六世紀後半から十八世紀初頭までの徳川氏・諸大名その他の武士の言行、事跡等を七百二十余項目で集録する。江戸千駄ヶ谷聖輪寺の住持増誉(?~宝永四(一七〇七)年:俗姓真田)の著。正編二十五巻・続編十五巻。成立年は不詳(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションで(明治四五・大正元(一九一二)年国書刊行会刊)視認でき、当該部はここ(左ページ上段四行目から)。最後のカットされた部分を以下に示す。

   *

右小田原氏の物語りに度々聞し事なり今平松金右衛門と云て主水家の長臣にて此家に右の記錄あり。金次郞兩人の內一人は子孫今に殘れる士は忠臣を第一とすべき事なり

   *]

2025/05/10

和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 古度子

 

Kotosi

 

ことし

 

古度子

 

 

本綱古度子出交廣諸州樹葉如栗不花而實枝柯間生

子大如石榴及櫨子而色赤味醋煮以爲粽食之若數日

不煮則化作飛蟻穿皮飛去也

 

   *

 

ことし

 

古度子

 

 

「本綱」に曰はく、『古度子は交[やぶちゃん注:「交趾」。現在のヴェトナムのハノイ。]・廣[やぶちゃん注:現在の広東省・広西省。]の諸州に出づ。樹・葉。栗のごとく、花、あらずして、實(《み》の)る。枝-柯《えだ》の間に子《み》を生ず。大いさ、石榴《ざくろ》及び櫨子(こぼけ)のごとくにして、色、赤く、味、醋《すつぱし》。煮《にて》、以《もつて》、粽《ちまき》と爲《なす》。之れを食ふ。若《も》し、數日《すじつ》、煮ざれば、則《すなはち》、化して、飛蟻《ひあり》と作《なし》て、皮を穿《うがち》て、飛去《とびさ》るなり。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫訳には、シラッと、一切、種を示さないが、「百度百科」と、「拼音百科」で、

双子葉植物バラ目クワ科イチジク属 Ficus の一品種

とするものの、学名は載らない。中文サイトで特定品種名を掲げる記載はなく、万事休す。同属の「維基百科」には、多くの種が挙げられているが、この「古度子」では見当たらない。一応、総て管見した見たが、

龙(龍)州榕 Ficus cardiophylla

褐叶榕 Ficus pubigera

羊乳榕 Ficus sagittate

变(変)叶榕 Ficus variolosa

白肉榕 Ficus vasculosa

が、分布域に一致するが、これが当該種かどうかは判らぬ。

 なお、引用は先と同じ、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十一」の「果之三」「夷果類」の「無花果」([077-27a]以下)の「附錄」中の「古度子」からの抄録である。短いので、全文を手を加えて、以下に示す。

   *

古度子【出交廣諸州樹葉如栗不花而實枝柯間生子大如石榴及樝子而色赤味醋煮以爲粽食之若數日不煮則化作飛蟻穿皮飛去也】

   *

「石榴《ざくろ》」双子葉植物綱フトモモ(蒲桃)目Myrtalesミソハギ(禊萩)科Lythraceaeザクロ属ザクロ Punica granatum で問題なし。「卷第八十七 山果類 石榴」を見よ。

「櫨子(こぼけ)」この「コボケ」は完全アウト! 「卷第八十七 山果類 樝子」の私の苦しんだ考証を必ず参照されたい!

2025/05/09

本カテゴリ「小泉八雲」で電子化していない日本で書かれた一篇である小泉八雲の「若返りの泉」について視認可能とした事

私は、『小泉八雲 ちん・ちん・こばかま (稻垣巖譯) / 底本「日本お伽噺」~了』の冒頭注で以下のように述べた。

   *

日本で長谷川武次郎によって刊行された「ちりめん本」の欧文和装の日本の御伽話の叢書“ Japanese fairy tale series の中の一篇である。同シリーズの第一期(英語で言うなら「First (Original) Series」)の№25(明治三六(一九〇三)年三月十五日刊)で(但し、同シリーズは第一期を完結せずに続けつつ、別に第二期を開始しているために、第二期の一部よりも後の刊行になる作品が出てきており、本編もその一つである)、編集・発行者は「長谷川武次郞」。小泉八雲は当該シリーズに五作品が寄せている。以下、同シリーズや長谷川武次郎氏及び訳者稲垣巌氏については『小泉八雲 化け蜘蛛 (稻垣巖譯)/「日本お伽噺」所収の小泉八雲英訳作品 始動』の私の冒頭注を参照されたいが、そこで書いたように、今一篇の、同シリーズに載った“ The Fountain of Youth ”(「若返りの泉」)は以下の底本には載らない。何故これが除かれているかは不明である(一部のネット記載を見ると、これは小泉八雲の創作とされているとあり、それと関係するものか? にしても、解せない)サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらで“ The Fountain of Youth ”の「ちりめん本」の画像と活字化されたそれを読むことが出来る。なお、これは後日、私自身が和訳を試みたいと考えている。[やぶちゃん注:中略。]本篇は、サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが画像と活字化した本文を併置していて、接続も容易で、使い勝手もよい。“Internet Archive”のこちらでも、全篇を視認出来る。また、アメリカのアラモゴードの蒐集家George C. Baxley氏のサイト内のこちら(長谷川武次郎の「ちりめん本」の強力な書誌を附した現物リスト)の、Chin Chin Kobakama Japanese Fairy Tale No. 25 1903も必見である。

   *

この“ The Fountain of Youth ”(「若返りの泉」)は、平易な英語であり、自身で和訳することは容易なのだが、現在、全体の正字不全とミス・タイプ、及び、オリジナル注釈検証作業を行っており、それを終わらない限り、それに着手しないと決めている(恐らくは、この夏には、それを終えることが出来ると思う)。しかし、この一作だけが本ブログで欠けていることには、甚だ不満を持っている。

 ★但し、実は、『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集「東の國から」(正字正仮名版)始動/ 献辞・田部隆次譯「夏の日の夢」』の最終章に、この話は、同一原文ではないが、相同のシノプシスで書かれては、ある。

 而して、本日、国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、

「ちんちん小袴」(中央公論社『ともだち文庫』23・小泉八雲作・光吉夏彌譯・初山滋 裝幀/揷絵[やぶちゃん注:表記はママ。]:昭和二三(一〇四八)年)のここから、本作の訳が視認出来る

ことが判った(但し、国立国会図書館に「本登録」をしないと見られない)。しかし、光吉夏彌氏は著作権継続であり(当該ウィキを参照されたい)、これを電子化することは出来ない。

 なお、同書の末尾の光吉氏の後書き「小泉八雲について」の中で、『「若返りの泉」は大正十一』(一九二二)『年に』出版された、とあった。小泉八雲の逝去から七年後のことであった。このことから、第一書房の元版「小泉八雲全集」は大正十五年から初刊刊行であるため、訳者の方々が、四年前に出版された本作を確認することを怠った結果、所収されなかったものと推定されるのである。

そこで、私が拙訳するまで、こちらで、視認されるよう、お願い申し上げる。これによって、

―――私のブログで広義の意味で――小泉八雲の本邦で書かれた作品を総て視認出来る――とすることが出来た。

と正面切って言えることとなった。

«和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 天仙果