[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、先の「鰑の說」以上に、早々に、図版十枚を先に電子化注しないと、ダメであることが判明した。ここから、ここまでの全十図である。「鰑」の図版の際と全く同様の仕儀(長くなるので、繰り返さない。まず、「鰑」のそちらのリンク先を見られたい)で、以下に電子化する。
但し、今回の図版は上罫線外には、図の標題が全くない。]
【図版1】
[やぶちゃん注:ここでは、図の形状、及び、叙述から見て、まず、上段から下段で、而して、右へと移る記載である。その順で電子化する。]
■「長切昆布《ながきりこんぶ》」
「俗に『板昆布』と云《いふ》。」「根室産。」
「原藻の長さ一𠀋許《ばかり》より、最も長きは、
三𠀋五、六尺に至る。幅三、四寸許の葉は、
花折《はなをり》・元揃《もとぞろ》ひの類《るゐ》
に比すれハ[やぶちゃん注:「ば」。]、薄し。北海道
昆布中、最《もつとも》、多く產収するものとす。
一束《ひとたば》の量目、八貫目より、十貫とす。
莖根、五、六寸を切捨《きりすて》、長さ四尺二寸
に切断し、図の如く、結束《けつそく》す。概ね、
葉の薄きものハ、多く、上海《シヤンハイ》へ輸送す。
[やぶちゃん注:「長切昆布」国立国会図書館デジタルコレクションの「北海道漁業志稿」(北水協會編・昭和一〇(一九三五)年北海道水產協會刊)の「第七篇 昆布」の冒頭の「名稱」の内に、『採取季節により名稱を異にせしもの左の如し。』とするここ以下の、次のページに、『四尺乃至三尺五、六寸位に揃へ元を切り捨て結束すること』とある。「四尺乃至三尺五、六寸位」というのは、一・二一~一・〇二メートル、或いは、一・〇六メートルである。現代の昆布業者のサイトでは、昆布を七十五センチメートルから一・〇五メートルの一定の長さに切り揃えて結束したものを指す、とあった。但し、「長切昆布 板昆布」でグーグル画像検索をしても、ラッピングが、このようになった製品は、最早、挙がってこない。
「三𠀋五、六尺」十・六一~一二・四三メートル。
「三、四寸」九・一~十二・一センチメートル。
「花折」同前の国立国会図書館デジタルコレクションの「北海道漁業志稿」の「第七篇 昆布」の同じ「名稱」の内に、『大小により三、四枚乃至五枚宛』(づつ)『を揃へ二つに折り』、『末っを切捨て結束す。その結束方に大・中・小の三種あり、㐧は一把二貫目』(七・五キログラム)『、小は一貫目』(三・七五キログラム)『内外を常とす』とあった。因みに、その後に単なる『折』の項があり、『五、六枚乃至十二三位を揃え末の方より卷き折り結束す』とあった。
「元揃ひ」同前で、『根を切捨て一本每に元と先を揃て結束するもの』とある。現代の昆布業者のサイトでは、乾し昆布の内、葉元を整形して、葉先から内側に折り畳み、葉元を揃えたものを指す、とあった。より詳しいものでは、「株式会社くらこん」の「こんぶのくらこん」の「昆布講座」のページの、「6. 昆布のいろいろな区分」の「加工調整(製品)による区分」の「元揃(もとぞろえ)昆布」の項で、『以前は長いまま根元をそろえ、その何箇所かを昆布で作った縄でしばって製品としていました。現在は、根元をそろえるのは同じですが、羅臼昆布はほとんどが』七十五センチメートル、『真昆布は』九十センチメートル『の長さに折って結束します』とあった。
「八貫目より、十貫」三十~三十七・五キログラム。
「五、六寸」十五・六~十八・二センチメートル。
「四尺二寸」一・四七メートル。
さて、問題は種であるが、これは、根室産であるから、
ナガコンブ(長昆布=「浜中昆布」) Saccharina longissima
に限定してよい。]
■「胴結昆布《どうむすびこんぶ》」
「一名『だきり昆布』」
[やぶちゃん注:標題下にあるので、附属題と採る。]
「原藻、長さ、一𠀋五尺より、二𠀋餘に至る。」
[やぶちゃん注:「胴結昆布」「一名『だきり昆布』」前掲の「北海道漁業志稿」(北水協會編・昭和一〇(一九三五)年北海道水產協會刊)の「第七篇 昆布」の「種類及形狀」の「元昆布」の次の「三石昆布」の項に認められる(この前の「元昆布」はマコンブ(真昆布) Saccharina japonica を指す内容であるが、どうも、おかしい。何故なら、以下の「三石昆布」の中に、突然、「眞昆布」が出現しているからである。これは、どうも今のところ、不審が解けないでいる)。以下に全文を示す(原本は標題のみが一字目からで、解説は二行目以降、総て、一字下げであるが、適宜、読み易く手を加えた。【 】は二行割注。
*
三石昆布 幅廣き處二、三寸、長さ三、四尺よる大なるもの數丈に至り、中心に條あること細目昆布の如く、暗綠色にして其質元昆布に比すれば厚く、鹽氣少く[やぶちゃん注:「すくなく」。]甘味あり。日高國三石郡に產するを以て名づく、古來著名なり。
結束により名を異にするもの長切昆布、胴結昆布【一名「ダキリ」昆布、根室產原草[やぶちゃん注:ママ。以下では注さない。]の長さ一丈五尺乃至二丈、幅二、三寸なり。日高國ては駄昆布と云ふ】鹽干昆布、若生昆布、棹前昆布【未熟のものを採取製造せしなり。原草の長三尺四、五寸、幅三寸許にして葉少しく薄し】拾昆布、屑昆布の數種あり。
眞昆布【長昆布と云ふ】幅二、三寸、長さ二丈より六丈餘に至る。鮮綠色にして三石昆布に比すれば質薄くして、長さ四倍餘に及べり。
結束により名を異にするもの長切昆布【根室產原草の長さ一丈乃至三丈五、六尺にして三四寸】鹽干昆布【日高國產原草の長さ七尺乃至一丈餘、幅二、三寸にして葉厚し】胴結昆布、棹前昆布、若生昆布等なり。
*
これは、
コンブ属ミツイシコンブ(三石昆布=「日高昆布」) Saccharina angustata
としてよい。]
■「仝」「日髙産。」
[やぶちゃん注:「仝」「廣漢和辭典」では「同」の古字とする。従って、ここは前と同じ「胴結昆布」である。しかし、図は前者よりも、その縛り方と、ややスマートな製品の見た目からは、最初の「長切昆布」とよく似ている(当初、そのために、私は、図の記載順序を縦方向ではなく、右から左の横方向に並べてあると錯覚したぐらいである)。さて、但し、ウィキの「仝」には、漢字ではない記号である『「々」は』、『この文字を基にしているという説がある』とあり、さらに『第二次漢字簡化方案の第二表に同音の漢字である「童」の簡化字として』、『この字が掲載されている』。『JIS X 0208では記号として扱われているが、『Unicodeでは漢字としての扱いである』と書かれてある。しかし、そこの「用例」の項に、中・晩唐の詩人である「盧仝」(ろどう)、明代に書かれた「水滸傳」の登場人物である「朱仝」(しゅどう)のケースがある以上、上記の『記号として扱われている』というのは、電子化コードが漢字不全であった時代の便宜上の扱いに過ぎない。
さて、ここでは標題を「仝」として「胴結昆布」ということになる。而して、これも
コンブ属ミツイシコンブ(三石昆布=「日高昆布」) Saccharina angustata
「日高産」というこの一発で、現行では、「日高昆布」を指すからである。而して、北海道日高郡新ひだか町三石港町の「よしあり水産」公式サイトの「日高みついし昆布の歴史と伝統|北海道の豊かな海が育む逸品」に、「2.日高みついし昆布の歴史」、「江戸時代から続く昆布の歴史」として、『北海道の昆布漁は、江戸時代初期から行われていました。特に日高地方は、寒流と暖流が交わる豊かな漁場が広がり、質の良い昆布が採れる地域として知られていました』。『江戸時代には、昆布は貴重な交易品のひとつ であり、北海道から本州、さらに中国へと輸出される「昆布ロード」と呼ばれる交易ルートが確立されました』とあり、「みついし昆布のブランド化」と題して、『「みついし昆布」の名が広まったのは、明治時代以降のこと』(★☜)『三石地区で収穫される昆布は特に品質が高く、出汁用としてだけでなく、昆布巻きや佃煮などにも適していると評判になりました』。『地元の漁師たちは、昆布の品質を保つための工夫を重ね、現在では』『「みついし昆布」ブランド』『として全国に出荷されています』とあるので、本書でも、同定比定は揺るがないのである。
なお、読者諸君の中には、「ナガコンブとミツイシコンブの分布域は重なるのではないか?」と物言いする方もいるであろう。確かに、十勝・釧路・根室で重なる箇所はあるものの、「日高産」というのは、まず、間違いなく――ミツイシコンブを指す――のである。
「北海道」公式サイトの「水産林務部」・「森林海洋環境局成長産業課」の「ナガコンブ[長昆布]のページに、「■分布図」の道内の地図画像があり、『釧路・根室地方の太平洋沿岸、貝殻島、歯舞諸島、国後、択捉』とあるのである。因みに、解説には、『世界の昆布属のうち』、『最も長くなる種』とし、『成長した葉は細長い帯状で、長さは通常』四~十二メートル、『なかには』十五メートル『を超える長いものもあります。幅は』六~十八センチメートル『で、縁辺部は縮れていないのが特徴。茎は円柱状からやや偏平で、長さは』三~六センチメートル、『直径は』五~七ミリメートル『になります』とある(但し、『世界の昆布属のうち』、『最も長くなる種』と言うのは、間違っていないが、誤解する方がいると思うので、注しておく。何故かというと、現行では、旧コンブ属(ゴヘイコンブ属) Laminaria とカラフトコンブ属 Saccharinaに移されていることは素人の場合、まず知らないこと、「昆布属」と言われてしまうと、その属の上位タクソンであるコンブ科 Laminariaceaeと採ってしまう可能性が高いことから、まずいのである。現行のコンブカ科の世界最大種は、“Giant kelp”の名で、アザラシ・ラッコの棲み家になっていることで知られる、コンブ科オオウキモ属オオウキモ Macrocsytis pyrifera である。南北アメリカ大陸の太平洋沿岸、オーストラリア・ニュージーランド南岸、アフリカ大陸南岸に分布する。一般的には食用は不適とされる。アメリカでは刈り採って、アルギン酸の原料に使用する)。『釧路、根室地方の太平洋沿岸、貝殻島、歯舞諸島、国後島、択捉島の周辺に分布し、寿命は』三『年といわれています。成長が速く、成長期には一日に最大』十三センチメートル『伸びます。ナガコンブの漁場は主に水深』三メートル『より浅いところですが、貝殻島などの海水の流れが強く透明度が高い地域では』、『水深』六メートル『まで群落ができます』。『だしには向きませんが煮えやすいので、おでん、昆布巻き、佃煮に利用されます。「早煮昆布」「野菜昆布」などの商品名でも売られており、家庭料理用の食材として人気があります』とある。
一方、同サイトの「ミツイシコンブ[三石昆布]」のページを見ると、「■分布図」の道内の地図画像があり、地図上では、『十勝・釧路・根室』と『渡島・胆振』(いぶり)・『日高』とするものの、印字キャプションでは、『主産地は日高、十勝』とあるのである。同じく、解説を引くと、『別名ヒダカコンブ(日高昆布)とも呼ばれます』。『成長した葉は帯状で長さは』二~七メートル、『幅は』七~十五センチメートルで、『縁辺部は』、『ほとんど波打っていません。茎は円柱状で長さは』三~七センチメートル、『直径は』五~八ミリメートル『になります』。『名前のとおり』、『日高地方を主産地としており、津軽海峡東側から襟裳岬を経て』、『十勝沿岸までの広い海域に分布します。潮通しの良い岩礁に密生する性質をもち、主な漁場は海水の流れが強い海岸線に』、『ほぼ並行する岩礁地帯です。日高地方では、上浜、中浜、並浜と称する浜格差があり、浦河町』(うらかわちょう)『井寒台』(いかんたい)『地区』(ここ。グーグル・マップ・データ)『が最上といわれています』。『煮えやすく、身も柔らかいため、煮コンブや佃煮、コンブ巻、だしコンブなどに利用されます』とあった。]
■「猫足昆布」
「原藻の莖根、猫足の形を爲《な》す。
長さ、六、七尺。幅、三寸許にして、葉、厚し。
夏、土用明《どようあけ》より、採収す結束ハ、
長切昆布ニ同じ。多く、大坂、輸送し、
細工昆布其他《そのた》の食用に供《きやう》す。
[やぶちゃん注:「猫足昆布」これは、
ネコアシコンブ属ネコアシコンブ(猫足昆布) Arthrothamnus bifidus (GMELIN)RUPRECHT(別名「ミミコンブ(耳昆布)」)
である。私の所持する海藻愛読書の中で最も信頼している海藻の碩学であられる田中次郎先生の著になる「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊。この図鑑は写真(かの優れた海洋写真家中村庸夫先生!)も優れており、何より凄いのは総ての学名(種小名は総て!)の由来が記されてある点である)によれば、『生育場所』は『潮下帯』、『長さ1~3m、葉部の幅10~15㎝』で、『ネコアシコンブ属 Arthrothamnus は「関節を持つ木」の意。日本には本種のみが知られる。和名は、付着部をつくる円柱状の仮根の先の形ネコの足先の形に似るのでつけられた。波の荒い岩礁域に生育する。1年目の藻体は』『1枚の葉体からなるが、2年目以降、付着部が2つに分かれて、2枚の葉体をもつようになる。北海道東部の地域でしか見られない』(★☜)。『多年生。』とある。適切な画像が見当たらないのだが、英文サイト“Algae Herbarium Portal A consortium of algae collections”の同種の干乾びた標本画像をリンクさせておく。引用底本の中村先生の生体採取された画像(全葉体と仮根との美しい二葉!)を是非、手に取って見て戴きたい!
なお、引用はしないが、ネコアシコンブについて書かれた名畑進一氏の『「コワカレ」するコンブ』(『釧路水試だより』第六十五号・一九九一年三月発行・PDF)が興味深いお話しであるので、是非、読まれたい。]
■「駄昆布《だこんぶ》」
「原質其他、『胴結昆布』に同じ。伹《ただし》、
結束、異にして、図の如く、長さ、三尺、二、
三寸許。断《だん》して、結束す。」
[やぶちゃん注:種は不詳。結束法を見せるための図であるから、前掲二種の孰れか、或いは、両方であろうか?(但し、次の【図版2】の「元揃昆布」で解決した! 実は、これ、マコンブ変種リシリコンブ(利尻昆布) Saccharina japonica var. ochotensis であった!)
「駄昆布」先の「胴結昆布」で引用した、「三石昆布」にも割注で出ているが、その「北海道漁業志稿」(北水協會編・昭和一〇(一九三五)年北海道水產協會刊)の『結束法』に、『駄昆布を長さ二尺五寸に切』(きり)『一駄の量二貫目』[やぶちゃん注:七・五キログラム。]『とし、縨泉[やぶちゃん注:「ほろいづみ」。現在の縨泉郡(ほろいずみぐん)。ここで、当該ウィキによれば、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足して以来、郡域は』一『町のまま』、『変更されていない』とある。]、十勝は長三尺二寸、釧路は長三尺五寸にして各量目を八貫目』[やぶちゃん注:三十キログラム。]『と爲したり。』とある。但し、「ヒロコンフース株式会社」公式サイト内の「昆布業界ならではの取引用語のご紹介」のページには、筆頭に『駄(だ)』を掲げてあり、そこには、『昆布の結束単位の総称で、基本的には1駄が20kgとなっております』。『人によっては「1駄」のことを「1本」と言う人もいます』。『駄と言われる由来としては、昔昆布を荷馬輸送していたことから呼ばれているという説があります。』とあるので、歴史的には「一駄」の量は変化していることが判る。]
■「塩亍昆布《しほぼしこんぶ》」
「原藻の長さ、七尺より、一𠀋許。
幅、二、三寸許。図の如く結束して、
一束の量目、四貫目となす。葉、厚く
して、五月中旬より、八月中《ちゆう》に
採収するものとす。多く、大坂へ輸送し、
『刻昆布《きざみこんぶ》』等に用ふ。」
[やぶちゃん注:「亍」は既に本文で使用されているが(そちらでは、『紛らわしいので、一律、「干」で起こした。』と注記した)、「干」の異体字。
さて。この種は何か? 素人考えだと、「刻昆布」という用途は、横綱格の前二種には相応しくない(個人的には、幾つもの高級品を短冊にして舐めている関係上、全くそうは思わないのだが)と考え、例えば、安めで、しかも味が良い、
ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina religiosa var. religiosa
などかと思うかも知れぬが、同種は長さ四十センチメートルから、せいぜい一メートルしかないから(幅も五~十センチメートル前後しかない)、以上に書かれた原藻の長さが、全く当たらないから、違う。結局は、この[図版1]に組まれる以上、やはり、
先の二種のものと同種
と考えるべきであろうか? 但し、この一図の中では、全体に結束紐が一本しかなく、図の描き方も、明らかにゾンザイであることが際立っていしまっている。そもそも「塩干」という処理法が同二種の優良品としては、まず、おかしい。されば、それらの切れてしまった流れものや、上製品作成の相応しくない個体を用いて、かく製品化したものと私は採るものである。先の「三石昆布」の引用の中に『鹽干昆布【日高國產原草の長さ七尺乃至一丈餘、幅二、三寸にして葉厚し】』にあるのだが、その記載のように、葉が厚くは見えないのである。識者の御斧正を乞うものである(但し、次の【図版2】の「元揃昆布」で解決した!)。]
【図版2】
[やぶちゃん注:右ページ。ここでは、図の形状と配置から見て、まず、右の大物、次いで、上段中央から中段の右・左の順で、電子化する。]
■「元揃昆布《もとそろへこんぶ》」
「原藻の長さ、五尺許。幅、二、三寸より、
五、六寸許。図の如く三處《さんしよ》を
結束し、三十五、六枚より、四十枚を一把
となし、其量目、二貫目にして、二千把を
以て、百石となす。專ら、大坂へ輸送し、
『細工昆布』に製す。」
[やぶちゃん注:「元揃昆布」先の「北海道漁業志稿」(北水協會編・昭和一〇(一九三五)年北海道水產協會刊)の『結束法』(右ページ冒頭)に、『元揃昆布、原草は元昆布、黑昆布の二種にして、三十五枚或は四十枚を重ね根部を揃へて三日月形に切り、長さ五尺とし三ケ所を縛り一把とし、其量二貫目、二千把を以て百石とす。裁斷し餘りたる昆布は駄昆布に製す。』と、この記載と、ほぼ一致するものがあった。
因みに、この「元昆布」はマコンブでよいのだが、「黑昆布」は、やはり、不審であった。再度、いろいろと調べてみたところ、遂に、判明した!
「函館市/函館市地域史料アーカイブ」の「恵山町史」(平成一三(二〇〇一)年刊)の「3、明治前期の昆布漁について」の、「<明治前・中期の昆布の実体> 『北海道水産全書 高雄北軒(明治26年刊)』より」という項の「主な昆布と形状」に(恵山町(えさんちょう)は渡島半島東部部分の北海道渡島支庁の波頭先端に嘗つてあった町。二〇〇四年に函館市に編入された。旧町域は参照したウィキの「恵山町」の地図を見られたい)、
《引用開始》
・元昆布(マコンブ) 多少厚薄長短に差はあるが、概ね幅3~4寸(9~12センチメートル)より尺余り(30センチメートル)、長さ6~7尺(1.8~2.1メートル)より丈余り(3メートル)である。質は厚く濃緑色で、古来松前昆布と称して賞味されていたものはこれである。
・三石昆布(ミツイシコンブ) 幅2~3寸(6~9センチメートル)、長さ3~4尺(0.9~1.2メートル)より丈余り(3メートル)になるものもある。暗緑色で元昆布に比べて厚く塩分少なく甘みが多い。
・細目昆布(ホソメコンブ) 幅1~3寸(3~12センチメートル)、長さ4~5尺(1.2~1.5メートル)乃至7~8尺(2.1~2.4メートル)、中心に條があり葉薄く、盆布(ボンメ)ともいう。
・真昆布(ナガコンブ) 長昆布と呼ばれているもので、幅2~3寸(6~9センチメートル)、長さ数丈(3メートル~)になる。三石昆布に比べれば質薄い。
・黒昆布(リシリコンブ) 幅3~4寸(9~12センチメートル)、長さ4~5尺(1.2~1.5メートル)に及ぶ、黒色で質厚く天塩の沿岸に産するものを天塩昆布といい、利尻礼文等に産するものを利尻昆布という。一般に「ダシ」昆布と呼ばれているのはこれである。
・水昆布(幼生の昆布、若生をさしている) 細目昆布のように幅狭く中心に條がある。その質薄弱で味淡白である。
《引用終了》
なんと!
★「真昆布」はマコンブ変種リシリコンブ(利尻昆布) Saccharina japonica var. ochotensis
であったのである!
なお、さすれば、先の「駄昆布」と「塩というのは、マコンブやミツイシコンブ、及び、リシリコンブの余りを用いたものと推定してよいということになるのである。
さらに、後の本文で出る、私は聴き馴れない「水昆布」なるものが、「若生」、この場合は、「わかおい」と読み、「薄く柔らかい一年昆布のこと」を指すことが判明した。
但し、国立国会図書館デジタルコレクションで原本を確認したが、以上の和名と学名は、「恵山町史」で附加したものであることが判った。「ビューア」の当該ガイド・ナンバー「779」を見られたい。にしても、明治期のコンブ類の呼称に学名を比定した、正に、稀有のものなのである!!!
……にしても……この図の束……食べてみたいなぁ…………]
■「若生昆布《わかおひこんぶ》」。
[やぶちゃん注:この図には標題のみで、キャプションが、ない。青森県の観光・物産・グルメの紹介サイト「まるごと青森」の「おにぎりでお馴染み”若生(わかおい)こんぶ”の可能性を探れ!〜いろんなメニューを試してみました〜」が、非常に、よい! 是非、見られたい。そこに、『若生こんぶとは、昆布の繊維が柔らかくて薄い』、一『年目の若芽の昆布のことです。青森では、炊き立てのあったかいご飯を若生昆布でシンプルに包んだ郷土料理「若生おにぎり」があり、主に津軽地方で食べられていたといわれています。私も若生おにぎりを初めて食べたときは、磯の香りをまとった昆布の塩味とご飯とのバランスが最高で、その美味しさに感動しました!』とあり、作り方も画像付きで書かれてある。食べたい!!! 太宰治が愛したとされる郷土料理らしい。種は「青森県産業技術センター」公式サイト内の「水産総合研究所」のここで、マコンブであることが確認出来た。]
■「棹前昆布《さをまへこんぶ》」
「原藻の長さ、サンジャク、四、五寸。
幅三寸許にして、葉、少《すこ》しく
薄く、長切昆布《ながきりこんぶ》の
熱せざるものなり。図の如く、
手繰《たぐり》にして、結束し、
一束の量目、四貫目とす。
多く、北越に輸送す。」
[やぶちゃん注:「棹前昆布」は、
ナガコンブ(長昆布=「浜中昆布」) Saccharina longissima
である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の当該種のページで、種同定出来た。「加工品・名産品」の項に、『棹前昆布●「早煮昆布」、「野菜昆布」とも。5月〜昆布の漁期7月初旬・中旬以前にとったま』だ『若い軟らかいコンブ』とあり、更に『早煮昆布(野菜昆布)●棹前昆布のことで、昆布が成長して硬くなる前にとったもの。あらかじめ蒸して煮えやすくして干したもの。以上の2種のこと。』とあった。さらに、その前の「食べ方・料理法・作り方」に『新潟県燕市で昆布巻き用に売られているもの。』というキャプションのある画像が、今も、この図のニュアンスを伝えて呉れている(これも食べたいなあ!!!)。 「棹前」に就いては、羅臼昆布の老舗のサイト「四十物(あいもの)こんぶ」に拠れば、『棹前煮昆布』に『棹前とは』として、『昆布は7月20日前後に棹を入れて採ります。その前に採る若い昆布を棹前昆布と言います。根室、釧路管内で採れ、毎年6月1日から採取します。6月末まで。7月5日くらいまでずれ込むこともあります』とあった。流石はプロ! 扱っている『北方領土の歯舞群島(貝殻島)の』ナガコンブの『貝殻棹前昆布』の過去に遡って採獲量も書かれてある! そこでは、『煮えやすいので、昆布巻、おでん、煮〆、佃煮に最適です。当社は貝殻産(歯舞)昆布を使用しています』。『特に元昆布(根の部分)は大変やわらかく、全国のたくさんの人に愛用されています』とあった。]
■「細布《ほそめ》」
「原藻の長《ながさ》、三尺許。
幅、二寸許にして、葉、薄し。
図の如く、結束して、四貫目を
以て、一束とす。坂田・庄內に
輸送し、食用に供す。又、東京
に於て、刻昆布《きざみこんぶ》
にも製す。」
[やぶちゃん注:これは、
マコンブ変種ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina japonica var. religiosa
但し、このホソメコンブ、鈴木雅大氏の「生きもの好きの語る自然誌」の「ホソメコンブ(細め昆布)」のページを見ると、『ホソメコンブは,独立の種( Saccharina religiosa 又は Laminaria religiosa )として扱われてきましたが,Yotsukura et al. (2008)はホソメコンブをマコンブ( Saccharina japonica var. japonica )の変種としました。』とあり、以下、鈴木氏の見解が書かれてあるので、是非、読まれたい。因みに、学名の変更は、一般のネット記載では語られていない、と言うより、学名自体を挙げていないところが殆んどである。このマコンブ変種をちゃんと記されてあるのは、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の当該種のページぐらいなものである。なお、そこでは、「由来・語源」に『藻体の幅が細いため。』とある。「北海道」公式サイトの「水産林務部」の「森林海洋環境局成長産業課」にある、「ホソメコンブ[細目昆布]」のページには、「分布図」で『石狩・檜山』・『後志・留萌』とし、『留萌以南 主産地:檜山、後志』とし、「地方名」に『イソコンブ』(磯昆布)とあり、『成長した葉は帯状からささの葉状で、波打ち際に生息しているものは長さ0.4~1m、幅は5~10cm、茎は円柱状で長さ4~6cm、直径3~6mmになります』。『利尻島、礼文島から渡島半島の福島町まで分布し、漁場水深は0~10mで、波当たりの強いところでは深く、逆に弱いところでは浅くなります』。『北海道では』、『もっとも古くから採取されてきたコンブですが、現在は生産量が少なく価格も安いため、漁が行われていない地域もあります。増殖対策も行われていますが、近年、対馬暖流の流量が増加して冬の水温が上昇傾向にあることから、それほど増産にはつながっていないのが現状です』。『だし汁の香りは弱いですが、比較的粘りが強いため、とろろ昆布、きざみ昆布などに利用されます。』とある。「北海道立総合研究機構 水産研究本部」の「中央水産試験場」公式サイト内の「ホソメコンブ」には、『北海道には、マコンブ、リシリコンブ、ナガコンブ、オニコンブ、ミツイシコンブなど、産業的に重要なコンブの仲間が多くありますが、本道の中・南西部の日本海沿岸の浅みに生えているのがホソメコンブです。寿命は1年で、秋に遊走子というものが放出され、これが雄雌の配偶体になり、卵と精子を作って受精卵になります。発芽して、冬~春先に幼芽となり夏に最大になります。また秋になると遊走子を放出して枯れて死んでしまいます』。『図鑑などでは味は良くないとか』、『品質は良くないなど、あまり芳しい評価を得ていません。主にウニ・アワビ類の餌としての価値が重要視されています。』とあり、また、株式会社JTBが実施・運営するサイト「美食半島」の「積丹(北海道)」「ホソメコンブ[細目昆布]」には、『北海道積丹町は、基幹産業である漁業を中心に発展してきた町であり、観光入込は毎年6月から8月のウニ漁業の期間に集中しています。この期間に来訪する観光客の多くが、高級ブランドとして知られている「積丹ウニ」を求めて町内の飲食店を訪れており、「積丹ウニ」の人気や需要に応えるためには、安定的な生産や供給体制の確立を図る必要がありました。そこで、ウニの餌料となるホソメコンブの養殖を始めました』。『当初はウニの安定生産・安定供給を図るためのコンブ養殖でしたが、年間約100tにおよぶウニ殻の廃棄処理に苦慮していた漁業者グループが、コンブの生育を促進させる施肥材としてコンブ種苗糸ロープにウニ殻を混ぜたところ、多量のコンブが収穫できるようになりました』。『コンブに含まれる「アルギン酸」や「フコイダン」という成分は、糖質や脂質の吸収を抑え、コレステロール値の上昇を抑えてくれるほか、腸から免疫力を高める作用もあります。また、コンブには、うま味成分の「グルタミン酸」が多く含まれており、コンブで取るだしは上品でやさしいので、日本料理では必ずと言っていいほど利用されます』。『ホソメコンブは、栄養素・味ともに他のコンブと比べても何ら申し分ないのですが、利尻昆布や真昆布といった有名なコンブよりも知名度で劣っているため、市場にはほとんど出回っていないのが現状です』。『ホソメコンブは、1月ころ収穫したものはワカメのように柔らかいため、佃煮に、5月ころ収穫したものは太く長いため、だし用コンブや昆布巻きに最適です』とある。最後に、「日本昆布協会」公式サイトの「こんぶネット」の「細布昆布<細目昆布(ほそめこんぶ)>」には、『主な産地』を『北海道の日本海側沿岸』とし、『幅が細く、1年目に採取される。切り口が最も白く、細目の葉形で粘りが強い』とあり、「主な用途」として『とろろ昆布、納豆昆布、刻み昆布など』とあった。]
【図版3】
[やぶちゃん注:左ページ。ここでは、図版1に合わせて、順列を、上下を先に、右左を後にする。]
■「新製折昆布」
「根室國《ねむろのくに》花咲村《はなさきむら》。」
[やぶちゃん注:「折昆布」函館市川汲町(かっくみちょう)の「南かやべ漁業協同組合 直販加工センター」公式サイト内の「真昆布 折り」に拠れば、『海から揚げた昆布は素干ししただけだと棒状になっていますが、それを平らにのばして折り込んだ物を「折り昆布」と言います。だし昆布として鍋などに使用する際、カットしやすく、昆布締めも簡単です』とあった。
「根室國花咲村」現在の根室花咲町。幅の派手な大きさと、丁寧な結束から、私は、マコンブよりも、マコンブ変種オニコンブSaccharina japonica var. diabolicaと比定するものである。]
■「鼻析昆布」[やぶちゃん注:「析」はママ。「折」の誤字。注では訂した。]
「渡島《としま》産」[やぶちゃん注:図の下部にある。]
「原藻の長さ、五尺より、六尺許。
幅、五寸より三寸許。胴の如く、
結束し、一把の量目、八百目とす。
大坂に輸送し、出《だ》し昆布、
其他、食用に供す。
[やぶちゃん注:「鼻折昆布《はなをれこんぶ》」「知床三佐ヱ門本舗」の三佐ヱ門氏のブログ「知床の風だより」の『「花折(はなおり)昆布」って?』(「鼻折昆布」と「花折昆布」で漢字表記が異なるが、国立国会図書館デジタルコレクションの「大阪経済史料集成第六巻」(大阪昆布仲買商組合沿革・大阪諸商旧記)・大阪経済史料集成刊行委員会編・一九七四年・大阪商工会議所刊)の「大阪昆布仲買商組合沿革」のパートに(左の「二九」ページの四行目に、『南部花折昆布』の項に、『南部花折昆布 花折ハ鼻折トモ書ス』とし、産地を示し、最後に『元揃昆布に次グ』とあったから、同一と判る)の記事の『羅臼昆布一等品と、花折昆布の違いがわかりません、教えていただけませんか?』という問いに、『これについては実家が昆布漁をしている金沢からご説明します。』と前置きされて、『昆布は乾燥させると棒状になります』。『棒昆布は そのままカットしたもの』で、『花折昆布は 昆布のしわを伸ばし、根元・葉をカット後、整形し折りたたんだもの』『をいいます』。而して、『羅臼昆布は、製品が完成後』、『【等級検査】で、昆布の幅・重量や品質を選別し、1等級~5等級(他数種)に仕分けがされます』。『一等検とは、1等級のことで、羅臼昆布の中の最高品質のものでございます。』因みに、『今回のお届けの品は、羅臼昆布一等検(花折昆布)でございます。』と回答され、質問者は、『はい、「花折(はなおり)」とは』、『昆布の仕上がり形状』『を指す言葉なのですね』。『どうぞよろしくお願い申し上げます。』と質問者の謝辞が添えられてある。
問題は、このケースの種で、羅臼昆布=マコンブ変種オニコンブ Saccharina japonica var. diabolica は、ここで産地としている「渡島」には、分布しないので、この場合のそれは、ミツイシコンブ(三石昆布=「日高昆布」) Saccharina angustata の「鼻(花)折昆布」ということになる。これは記載の長さ・幅とも、概ね、一致を見る。]
■「菓子昆布」
[やぶちゃん注:「菓」の字は中央部が「田」型ではなく、「日」になっているが、このような異体字はないので、誤字であると断じた。当然、表示は出来ない。国立国会図書館デジタルコレクションの「北水試月報」(製本合本・北海道立中央水産試験場編・一九八三年北海道立中央水産試験場刊)の『40 40 42――62 1983(報文番号B1839)』のナンバーを持つ、田沢伸雄氏の「北海道昆布漁業史」の中の、「享保期(1716)以降」という項のここに、
《引用開始》
一、菓子昆布。色黒緑、長一丈ばかり味至って甘美、汐首岬よりシカベ海底に産す。
《引用終了》
とあった。而して、このフレーズで調べたところ、「函館市」公式サイト内の「函館市地域史料アーカイブ」の「戸井町史」の「第八章 産業 /第一節 水産業 / 一、昆布漁」に(かなり、量があるが、部分的に示しては、話しが半可通になってしまうので、ソリッドに示した。丸括弧内の記号は傍点を指すようだ。下線は私が附した)、
《引用開始》
(8)寛政十二年(一八〇〇)に書かれた『蝦夷島奇観』に
「昆布は東夷地に産し、西夷地にはない。六月土用から八月十五日まで取る。
一、御上り昆布(一名天下昆布)
汐首崎から東、鹿部海辺までに産する。長さ一丈三、四尺、幅五、六寸、紅黄緑色。取り上げて清浄な地を選んで乾す。五十枚を一把とし、その上を昆布で包み、十六ケ所を結び、役所に納める。これは昆布の絶品である。
一、シノリ昆布
これは箱館の東の海で産する。長さ七尋余、幅一尺三、四寸、緑色、味は甘美である。この昆布は唐山に送る。(註、唐山は支那をさしている)
一、菓子昆布
長さ一丈ばかり、色は黒緑、味は至って甘美である。この昆布は汐首崎から鹿部の海辺で産する。」とある。
村上島之丞は、蝦夷地の昆布を①御上り昆布、②シノリ昆布、③菓子昆布の三種に分けて、その産地、大きさ、色、味、製法、用途などを簡明に記述している。島之烝が御上り昆布(○○○○○)と書いているのは、これ以前の古書の献上昆(○○○)布(○)であり、菓子昆布(○○○○)とあるのは、加工用の昆布(○○○○○○)を指しており、産地はいずれも「汐首崎から東シカベの海辺までに産する」と書いている。
「シノリ昆布は、箱館の東海に産する」と書いており、「唐山へ送る」と書いているが、前に述べた『東遊記』に「志野利浜の昆布は、上品ではないが、長崎の俵物で、異国人が懇望するので金高である」と書いているのを併わせ考えて見ると、昔は支那への貿易品に指定され支那に輸出されたのは、専ら、シノリ(・・・)昆布であった。シノリ昆布は国内向でなく専ら国外向であったのである。「シノリ昆布は名代(なだい)の昆布、名代昆布はシノリの昆布」と民謡に歌われている昆布は、支那に昆布を輸出していた昔は、日本人の口には、はいらなかったのである。
御上り昆布(・・・・・)と菓子昆布(・・・・)の産地は、「汐首崎から」と書いているが、「汐首崎から少し西方シロイハマ、釜谷から鹿部まで」と書いた方が正しい。『庭訓往来』の「宇賀昆布」は厳密にいうと「シロイハマ、釜谷の海辺で産する昆布」を称したのである。
御上り昆布は、高貴な人々の口にはいり、庶民の口には、はいらなかったもので、天下昆布(・・・・)とか、献上昆布といわれたもので、最上の昆布であった。松前広長は極品(○○)と書き、村上島之丞は絶品(○○)と書いている。
昆布についての古書、古記録を調べて見ても、村上島之丞の『蝦夷島奇観』の記述は、正に「絶品」である。島之丞は足を使って、下海岸、蔭海岸の昆布場所を実見して書いたものなので、記述は簡単であるが、最も正確であり、昆布場所と昆布を知っている人々の納得する内容である。
昔の戸井町の昆布のうち、小安附近でとれたものの一部は「シノリ昆布」として、支那への輸出品になり、釜谷以東鎌歌、原木でとれた昆布の大部分は、「菓子昆布」の名で松前を経て、若狭方面に移出され、加工されて本州各地に広まった。その一部の上等品が天下昆布として献上品になったのである。
近世になって、真(ま)昆布を「白口(しろくち)昆布」「黒口(くろくち)昆布」に大別している。戸井、尻岸内でとれる昆布は全部「黒口昆布」である。「白口昆布」の産地は川汲を中心として、尾札部、臼尻、木直(きなおし)、古部など現在の南茅部町産の昆布で、鹿部、椴法華産の昆布には一、二割程度の「白口昆布」が混っている。
昆布の最高品は南茅部町の「白口昆布」であり、そのうちでも川汲産のものは、自他共に認める「日本一」の絶品である。昔皇室に献上された昆布は、斎戒沐浴(さいかいもくよく)して採取し、製品にしたものである。
戸井、尻岸内、椴法華、鹿部などの昆布の上等品の一部は、尾札部昆布として関西市場で取引されたり、加工されたりしている。
《引用終了》
とあった。以上の下線部の地名を注しておくと、
「汐首崎」現在の函館市汐首町(しおくびちょう)にある汐首岬であろう。
「シロイハマ」これは、正式地名ではなく、「道の駅 しかべ 間歇泉公園」公式サイトの「貴重な白口浜真昆布をぜひご家庭で」で、『北海道道南』『渡島半島の』現在の北海道道南の渡島半島の『鹿部町』(しかべちょう:ここ)『沿岸で採取される昆布を”白口浜真昆布”(しろくちはままこんぶ)といいます』とあることから、限定された名産コンブの特定地域での製品名であることが判る。鹿部町はここである。而して、ウィキの「コンブ」の「マコンブ」の項に(下線太字は私が附した)、『主に津軽海峡〜噴火湾沿岸で獲れる道南産のコンブ。昆布の最高級品とされることもある。非常に多くの銘柄と格付があり、旧南茅部町周辺(現在は函館市)に産する真昆布が最高級品とされ、「白口浜」と言う銘柄で呼ばれる。その他に旧恵山町周辺で産する「黒口浜」、津軽海峡の「本場折」、それ以外の海域で取れた物を「場違折」などの銘柄に分ける。市場価値も』、『おおよそこの順番となるが、銘柄内でも品質により数段階の等級に分けられる。だし汁は上品で透き通っていて、独特の甘味がある。大阪ではこの味が好まれ、だし昆布と言えば、大抵この真昆布を用いる。現在の分類においては、オニコンブ、リシリコンブ、ホソメコンブは本種の変種とされている』とあることから、★この「菓子昆布」は、マコンブに限定出来るのである。
「釜谷」汐首岬の北西直近の函館市釜谷町(かまやちょう)。]
■「小鼻折昆布」「渡島國」
[やぶちゃん注:同じくキャプションは、ない。一目瞭然、藻体の伸び上がった先端の、細く小さくなって尖った部分である。されば、これは、正当に昆布の「鼻」と言え、この「小鼻折」という冠は、名にし負う正統なる「小鼻折昆布」という名であると私は思う)。而して、前の「菓子昆布」の下に配し、同じくキャプションなしというのは、同じ地方の製品として河原田氏が配したものと、私は、読む。されば、前者がマコンブの最上品であるのだから、その先っぽの部分、或いは、「菓子昆布」にはしない(のかも知れない)、先の部分の乾燥品ではなかろうか? と推定するものである。]
【図版4】
[やぶちゃん注:右ページ。同じく、順列は、上下を先に、右左を後にする。]
■「三厩昆布《みむまやこんぶ》」
「五分の一。」
[やぶちゃん注:「三厩昆布」ブログ「青森県立郷土館ニュース」の「ふるさとの物語 第153回 今別の昆布 江戸時代はブランド品」(県立郷土館副館長・古川実氏筆)の全文を引用させて戴く。どの部分も、略すことが出来ない貴重な語りであられるため、普通、やらないことだが、お許し戴きたい。
《引用開始》
江戸時代、三厩湾の昆布はブランド品で、重要産物であった。今別町史によると、中国向け輸出品として長崎に出荷されたものは「津軽昆布」の名が付いた。能登・加賀などの商人が買い付け、三厩港から船積みしたものは「三厩昆布」、さらに若狭へ渡り、京都・大阪へ売り出されたものは「若狭昆布」とも呼ばれたという。
昆布が最も繁茂した場所は今別町の沖合であり、その由来は同町本覚寺の高僧貞伝上人の伝説となって、この地域一帯に語り伝えられている。上人が多聞天様に祈願し、船上念仏読経しながら紙片を海上にまくと、それが沈んで昆布となり漁師たちに恵みをもたらした。あるいは、上人が海に石を投げ込むとそれが海を豊かにし、立派な昆布が採れるようになったというのである。
2年前の8月下旬、今別町浜名の海岸でおじいさんから昆布漁のことを聞いた。漁期は夏の土用ごろから始まり、食事の時間も惜しみ家族総出で採ったもので、陸奥湾内の平館あたりからも、浜に泊まり込みで来て漁をしたという。お爺さんは海の方を眺めて、そのころ浜はもっと広かったと教えてくれた時、漁に励む人たちや昆布が敷きつめられている光景が浮かんだ。今別漁港に立ち寄ると一面に昆布を干していて、かつての昆布漁のことをまた思い浮かべたのだった。
《引用終了》
この三厩湾は、青森県東津軽郡外ヶ浜町(そとがはままち)の旧三厩村の、この附近(見やすくするために、ここのみ、グーグル・マップ航空写真で示した)で、お話しに出る今別町(いまべつまち)浜名(はまな)は、その東に接するここである。「ひなたGIS」で戦前の地図を示そうとしたが、この箇所は、軍部の関係上であろう、それが示されない。最後に。「三厩昆布」は、古くからマコンブの別名である。なお、「コトバンク」の日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」では、『三厩昆布(ミウマコンブ)』と見出しに記し、『植物。コンブ科の褐藻。マコンブの別称』とし、ネット検索をすると、サイト「Mx((同)エムック, emukk LLC)」の英文論文(十一名によるもの)“Inhibition of SARS-CoV-2 Virus Entry by the Crude Polysaccharides of Seaweeds and Abalone Viscera In Vitro”の邦文シノプシスに『ミウマコンブ』と記されてあるのだが、それ以外に「三厩昆布」を「ミウマコンブ」と記すものを見出せない。但し、「Yahoo!ニュース」の「青函トンネル建設工事を支えた津軽半島最北端の終着駅 津軽線 三厩駅(青森県東津軽郡外ヶ浜町)」の記事の中に、『駅名「三厩」の読みは当初「みうまや」で、村名に合わせて「みんまや」に合わせて改称されたのは平成3(1991)年3月16日のことだった。由来については諸説あり、生き延びた源義経が東北から蝦夷(北海道)へと渡る際に岩窟にいた3頭の駿馬を連れて行ったという伝説も残されている。「厩」は馬小屋、馬をつないでおくところを表す感じだ。「厩」がつく駅名は、もう一つ、岩手県の大船渡線千厩駅[やぶちゃん注:「せんまやえき」と読む。ここ。]があるのみで、こちらは奥州藤原氏が厩を建てて千頭の馬を飼ったことに由来すると言われる。奥州藤原氏の庇護を受けた義経もまた千厩産の馬を戦いで用いたとされており、「厩」の字を持つ二つの駅名は義経を通して繋がっていると言えよう。』とあるのを見つけた。しかし、地名由来の異名であり、「ミウマヤコンブ」は誤った読みと言うべきであろう。識者の御教授を乞うものである。なお、先行する本文では、一箇所だけ、「三厩昆布」に「みむやまこんぶ」のルビがある。「む」が「ん」になるのは、国語学では「転呼」と呼び、江戸時代には一般化していた。従って、このルビには問題が少ないと私は考える。そもそも「みむやま」と書いても、その通りに発音するのは、明治人であっても、その通りに発音せず(実際に喋って見れば判る通り、物理的に発音し難い)、「みんやま」と発音していたはずである。更に言えば、明治まで、一般人はもとより、知られた作家たちの内、必ず、原稿にルビをしっかりかっちり附した作家は、泉鏡花など、一部の作者に限られ、校正係や植字工が勝手に附していたのである。芥川龍之介なども然りで、「校正の神様」と呼ばれた神代種亮(こうじろたねすけ)が、滅多矢鱈に勝手なルビを振るのに、キレたことがある。岩波書店第一次「芥川龍之介全集」で、編集者の一人であった弟子堀辰雄が、小説をルビ無しにするのを提案しているほどである(他の編集者たちから却下された)。されば、本書も河原田氏のルビではない可能性も大なのである。されば、ここでは、私は「みんやまこんぶ」と読むことにする。]
■「折昆布」「渡島國《としまのくに》産」
「結束、圖の如くにして、其他《そのほか》、
花折に同し。」
[やぶちゃん注:「渡島國産」は、右に添えた解説キャプションの下方にあるが、ポイントが大きく、標題のサブであるから、上記のように配した。
産地と図の幅から、オニコンブSaccharina japonica var. diabolicaと比定する。]
■「島田折昆布」
「原藻の長さ、七、八尺より、一𠀋許。
幅、四、五寸より、七、八寸にして、
花折に比すれハ[やぶちゃん注:清音はママ。]、
葉、少しく薄し。採集収季節ハ、花折等に同し。
圖の如く、結束し、一把の量目一貫目とす。
多く、東京へ輸送す。
[やぶちゃん注:「島田折昆布」前で示した、「函館市/函館市地域史料アーカイブ」の「恵山町史」(平成一三(二〇〇一)年刊)の「3、明治前期の昆布漁について」の、「<明治前・中期の昆布の実体> 『北海道水産全書 高雄北軒(明治26年刊)』より」という項の「結束法あるいは製品名」に、『・島田折昆布 原草は、元昆布・黒昆布の2種類で、婦人の島田髷』(しまだまげ)『(髪型)の形状に結束したもので、その重量は通常1貫目(3.75キログラム)とする。』とあった。既に考証した通り、「元昆布」はナガコンブ、「黒昆布」はミツイシコンブである。比喩の髪型が浮かばない方は、ウィキの「島田髷」を見られたい。]
■「小花折昆布《こばなをりこんぶ》」
「陸奥上北郡《かみきたのこほり》泊村《とまりむら》産」
[やぶちゃん注:「小花折昆布」「図版3」で既出既注。
「泊村」「鰑の說(その5)」で既出既注だが、再掲しておく。現在の、原子燃料サイクル施設で知られる下北半島の太平洋岸側の、「斧の柄」に当たるところの中央の、ここにある。本書刊行の翌々年の、明治二一(一八八九)年四月一日、町村制の施行により、同郡内の倉内(くらうち)村・平沼村・鷹架(たかほこ)村・尾駮(おぶち)村・出戸(でと)村、及び、泊村の区域を以って「六ヶ所村」が発足している。なお、「日テレ」公式サイト内の「道草を食いながらどこまで行けるか?」の「道草マップ」の「六ヶ所村」に、『明治時代に』六『つの村が集まってできており、それぞれの村名が馬に由来するとされる。古来より名馬の産地として知られ、鎌倉時代には名馬『生食(いけずき)』が源頼朝の軍馬となり、「宇治川の合戦」でも活躍したという。その馬の門出』(かどで)『たところが「出戸(でと)」、身丈』(みたけ)『が鷹待場』(たかまちば)『の架』(ほこ:台架(だいほこ)。鷹を止まらせるとまり木)『のようだったので、「鷹架(たかほこ)」、背中が沼のように平らだったので「平沼(ひらぬま)」、尾が斑』(まだら)『になっているので「尾駮(おぶち)」、さらにその馬に鞍を打ったので「倉内(くらうち)」、鎌倉へ引き渡すために泊まったところが「泊(とまり)」となったとされる。また「尾駮の牧」は、青森県東北町と六ヶ所村にまたがる大牧場だったと推定され、ここから都へと供給された馬は、特に馬格に優れていた』とあった。これは、鎌倉史を研究している私は、全く知らない語源であったので、大いに驚いた。]
【図版5】
[やぶちゃん注:左ページ。同じく、順列は、上下を先に、右左を後にする。]
■「天塩昆布《てしほこんぶ》」
[やぶちゃん注:キャプションなし。
「天塩昆布」「図版2」の『■「元揃昆布」』で引用した通り、リシリコンブである。]
■「青板昆布《あをいたこんぶ》」
「大坂にて製す。
『大板《おほいた》』・『小板』、あり。
『大板』ハ二枚並べにて、二百枚を
以《もつ》て壱把と(□)『小板』ハ、
百枚をもつて壱把とす。」
[やぶちゃん注:以下は、図の検束の間に入れてある製品の熨斗。「※」の箇所は、太いマスの「□」の中に太字の「木」が入ったもの。意味するところ、不詳。商売店の屋号か? その下の「本改」も意味不詳。]
『※本改』
[やぶちゃん注:以上は右キャプション。次のそれは、左キャプション。]
「長《ながさ》尺五寸。量目、二百六、七十目なり。」
[やぶちゃん注:このキャプションは字がスれて、判読が苦しい。かなり危ない判読であるので、その箇所に下線を施した。「大坂にて製す」の「坂」は「阪」のようにも見えるが、今までの本文では、「大坂」の表記であることに基づいた。「□」は、全く、白くして、痕跡がないのでお手上げだが、後文戶の対照から、「とす(。)」或いは「とし(、)」(正しいとするなら、後者の方が自然である)であろう。
「青板昆布」ネット検索を掛けると、複数の昆布販売店の記載で――「昆布を蒸してから、板状にした昆布」――といったものが確認出来る。また、サイト「日本の食べ物用語辞典」の「青板昆布」には、『昆布を蒸して柔らかくしてから板状にしたもの。鯖寿司、昆布巻(にしんの昆布巻、鮎の昆布巻等)などに用いられる。かつては「青竹」などの着色料を用いて、青色や緑色など色鮮やかに染めていたものもあったが、現在では自然の色をしたものが出回っている。』とあった。小学館「日本国語大辞典」には、『あおいた‐こんぶ』『あをいた‥【青板昆布】』に、『コンブを細長くそろえて切り、丹礬(たんばん)、緑礬(りょくばん)、青竹』(あおだけ)『などを用いて着色したもの。昆布巻などの料理に用いる。青昆布。』とある。但し、「丹礬」は誤用で、「胆礬」が正しい。銅の硫酸塩鉱物Chalcanthiteで、「カルカンサイト」。銅の鉱山などで採取され、結晶は青く、半透明で、ガラスのような光沢を持つ。硫酸イオンのため、強酸性を示し、有毒である。私は、高岡市立伏木中学校で理科部の海塩核を研究する班の班長(学生科学展で県の優秀賞を採った)であったが、秘かに思いを寄せていた女生徒に「硫酸銅の水溶液って、綺麗ね。」と囁かれ、成り行きで試験管に溶かしたそれを飲んだことがある。強烈な金属の味がし、翌日、腹が痛くなったわい。「緑礬」は硫酸鉄(Ⅱ)の七水和物の俗称である。
さて、この程度では、今一つ、製品解説に納得出来なかったので、国立国会図書館デジタルコレクションで調べところ、「乾物類之栞」(小松忠五郎商店編・昭和一三(一九三八)年小松忠五郎商店刊)の「海藻製品」の「昆布」の項のここで、以下を見つけたので、視認して起こす(句点は最後のみで、読点も極めて少ない。字配は再現していない)。
*
靑板昆布 用途 昆布卷及細工昆布
北海道三石近海の物を本場とし又產出高も一番です出昆布[やぶちゃん注:「だしこんぶ」。「出汁昆布」のこと。]とは全く性質が違ひ出しは一滴も出ませんし昆布其の物が人工味でも付けなければ喰ヘた物では無いのであります其れが爲め昆布卷とか昆布菓子とかの外にはあまり使ひ道が無い樣ですすべて靑板昆布にかぎらず昆布類の大取引を致さうとしま
すと大阪とか敦賀とか近江とかゞまるで原產地でも有るかの樣に思はれますが其れは北海道から大阪灣敦賀灣等に至る交通の便利で有つた關係[やぶちゃん注:ここ、「上」の脱字か。]昆布の味と云ふ物を昔から大阪の人々に植付け大阪料理は美味だ出しは昆布だと云つた具合に賣出し今日に至つた爲販賣力、智識、位置等は他にまねの出來ぬ力を以て居りますので產地はとても及ばぬ程です。
品質の見方 ⑴肉厚出[やぶちゃん注:後の部分で判るが、「厚手」の意である。] ⑵染色ムラなく ⑶赤葉なく ⑷水に漬けぬる[やぶちゃん注:「ヌメリ」のことであろう。]の出ない物
肉の厚出薄出は使用する人の思い思い[やぶちゃん注:ママ。後の「思い」は底本では踊り字「〱」。]で好き不好き[やぶちゃん注:「ぶすき」と読む。]があります。
*
「二百六、七十目」この場合の「目」は「匁」で、九百七十五グラム~一・〇一二キログラム。
さても。問題は、この種は何かである。先の「乾物類之栞」の引用冒頭の『三石近海の物を本場と』するという点では、名にし負う、
ミツイシコンブ(三石昆布=「日高昆布」) Saccharina angustata
である。しかし、現行の「青板昆布」のネット上の広告を見ると、例えば、「【楽天市場】北海道産 青板昆布」のページには、『昆布を蒸してから板状にした昆布で、昆布巻きなどに使います。「おせち」を極めるには欠かせない昆布です。原料には、繊維質が柔らかく煮て食べるには最適な「釧路あつば昆布」を使用しています。』とあり、下方の商品ワード部分には、『 1kg 送料無料 業務用 あおいた こんぶ お飾り 正月 釧路昆布 根室 昆布 半生 厚葉昆布 釧路あつば昆布:国産乾物問屋 「薩摩屋本店」』とある。この内、
「釧路あつば昆布」というのは、釧路・根室地方沿岸、貝殻島・歯舞諸島・国後島・択捉島周辺に分布する
ガッガラコンブ Saccharina coriacea
の異名「アツバコンブ(厚葉昆布)」である。ところが、その前にある、
「釧路昆布」というのは、既に述べた早期収穫する「棹前昆布」、
ナガコンブ(長昆布=「浜中昆布」) Saccharina longissima
を指すのである。さらに、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「地方名・市場名」を見られたいが、六『月初旬の若いものを茹でたもの 備考棹前昆布は本格的な収穫期である初夏、本州の梅雨時の』六『月初旬の若いもの。これをゆでたものを「青こんぶ」という。』とあるのである。
図の幅の広さからは、前者のミツイシコンブ・ガッガラコンブであろうと、私は思うが、図のスケールが示されていないので、限定は出来ない。これまでである。]
■「とろゝ昆布」
「原藻の長さ、五尺より、六尺許《ばかり》。
幅、三寸にして、葉、薄し。
採収季節ハ、夏、土用とす。
乾燥して、図の如く、組み、食用に
供《きやう》す。
するには、一寸許《ばかり》に
細切《ほそぎり》し、
水に浸《ひた》せハ[やぶちゃん注:ママ。]、
『とろヽ』の如くなる。
[やぶちゃん注:まず、私の話を「枕」と、しよう。私は幼少期より、海岸動物が好きで(高じて、総合学習で、生物教師二人と組んで、横浜国立大学臨海環境センターを拠点に、海岸動物観察をやらかしたが、その採取終了の際、私を呼んだ生徒に岩場で振り返って、スッテンコロリンし、目出度く、右腕の根本(医学上は右腕遠位端と呼ぶ)を粉砕し、イリザノフ固定術をしたものの、医師のミスで、術後一ヶ月後に失敗となり、再手術をした。固定治癒するのに三ヶ月掛った。黒板に字が書けない国語教師としてガックり、きた)を現在、海岸動物図鑑だけでも、古書蒐集物も含めて二十冊を超える。そんな中でも、偏愛する一冊が、大学二年の時に買った、小学館の菅野徹先生の著になる『自然観察と生態シリーズ』8の「海辺の生物――水の生物 Ⅰ――」(昭和五一(一九七六)年)である。中でも、感激物は、「シラス干し」千円分の中から採取したシラスならざる生物の見開きであった。国立国会図書館デジタルコレクションに本登録されている方は、ここである。その次のコマに(127ページ)、「トロロコンブ」の項があり、そこには(傍点を太字とした。読みはカットした)、『長さ5メートル。幅10㎝ほど。名前に反して、とろろこんぶにはならない。しかし、細かくきざむとねばりけがでて、とろろのようになり、みそ汁の実などにする。干潮で干あがるようなところにも生えている。葉に型おししたような凹凸があるので、すぐみわけられる。極めて北方的な海藻。』とあった。菅野先生の『名前に反して、とろろこんぶにはならない』の一文を絶対の伝家の宝刀として、授業でも、よく言ったのだが……因みに、本種も低品質の「とろろ昆布」にトロロコンブが使用されていることを知ったのは、二〇一三年の終りぐらいに見た、ウィキの「トロロコンブ」で知った。現行では、『とろろ昆布、おぼろ昆布などの加工原料として利用されるが』、『経済的な重要性はナガコンブ、ガッガラコンブなどよりも落ちる』と、あり続けている。……因みに、私は、右腕遠位端骨折で、内心、ヤケのヤンパチになり、丁度、一名の国語科減となり、なり手がなかったので、教師人生で最も楽しかった横浜緑ケ丘から転勤希望を出してしまった。どこでもきて、続かなければ、止めちまおう、という気持ちだった。ところが、豈図らんや、進学校の横浜翠嵐に転勤となった。いやいや! 奇しくも、実は、先の菅野徹先生は、実は英語の神奈川県の教師で、この翠嵐におられたことがあったのである。生物の教師が、菅野先生が纏めた学校周辺の膨大な植物リストを見せて呉れたので、今も、コピーしたものを所持している。
閑話休題。前に示した田中次郎先生の著になる「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)の同種の記載を引用させて戴く。
《引用開始》
[学名]Kjellmaniella gyrata (KJELLMAN) MIYABE
[学名の由来]円形の[漢字名]とろろ昆布
[分布]北海道
[生育場所]潮間帯
[大きさ]長さ1.5~4m、葉部の幅20~40㎝
[解説]トロロコンブ属Kjellmaniellaは、本種を最初に記載したKjellman博士にちなむ。-ellaは小さいの意。日本には2種が知られる。名前だけで食用の「とろろ昆布」(マコンブの製品名)と間違えられるが、携帯はまったく異なる別種のコンブである。中央にはっきりした中帯部のしわがよる。とくにへりには深いひだができる。色は薄い褐色なので他のコンブ類と区別が容易である。
《引用終了》
Kjellman博士はスウェーデンの藻類学者フランス・レインホルド・キェルマン(Frans Reinhold Kjellman(一八四六年~一九〇七年)。一八七八年の、フィンランド大公国(現在のフィンランド共和国)出身のスウェーデン系フィンランド人で、鉱山学者・探検家であったルドニルス・アドルフ・エリク・ノルデンショアドルフ・エリク・ノルデンショルド(Nils Adolf Erik Nordenskiold 一八三二年~一九〇一年:北ヨーロッパと東アジアを結ぶ最短の北東航路の開拓を成功させ、日本にまで達したことで、世界的センセーションを巻き起こした人物)の「ヴェガ号」の「北東航路」による航海に参加し、北極海や日本の藻類の研究を行った人である。なお、トロロコンブの学名は、二〇〇六年に、トロロコンブ属( Kjellmaniella )からカラフトコンブ属( Saccharina )に移され、
Saccharina gyrata (Kjellman) C.E.Lane, C.Mayes, Druehl & G.W.Saunders 2006
となっている。また、田中先生が『二種ある』とおっしゃっているのは、
カラフトトロロコンブ(樺太薯蕷昆布) Saccharina sachalinensis
のことである。
いやいや! 迂遠な注をしてしまった! 製品としての、「とろろ昆布」を示さねばならなかった! 以下、ウィキの「とろろ昆布」を引いておく(注記号はカットした。太字は私が附した)。『とろろ昆布(とろろこんぶ、とろろこぶ、薯蕷昆布)は、コンブ(昆布)を細長く糸状に削った昆布加工品の一種。手加工のものは稀になっており、昆布の耳や端材を集めてブロック状にプレスしたものの側面を機械で削った食品である。削りこんぶともいう。市販の製品は一般的にマコンブなどを削った製品であり、生物種としてのトロロコンブとは異なる』。『なお、おぼろ昆布は酢に漬けて柔らかくした昆布の表面を、職人が帯状に削った昆布加工品でとろろ昆布とは加工法も形状も異なる(おぼろ昆布を削る技術は機械化が困難とされている)。おぼろ昆布やとろろ昆布は細工昆布に分類される。本項では』、『便宜的に同じ細工昆布に分類される』、『おぼろ昆布についても述べる』。『北海道産の昆布は鎌倉時代の後期には若狭国の敦賀・小浜から陸路で大阪に運ばれていた。本格的な昆布加工業の発展は』十八『世紀からとされ、敦賀では宝暦年間に高木(米屋)善兵衛がおぼろ昆布や』、『とろろ昆布といった細工昆布の加工業を始めた。一方、北前船の寄港地として直接昆布が』、『もたらされるようになった堺には、刃物の技術(堺打刃物)があり、昆布を削ったおぼろ昆布や』、『とろろ昆布の加工業が盛んになった』。『福井県では』昭和二二(一九四七)年三月一日『に福井県昆布商工業協同組合が設立された』。『大阪府堺市では堺昆布加工業協同組合が組織されている』。『とろろ昆布は』、『昆布の耳や端材を集めてブロック状に圧縮し、それを側面から糸状に細く削ったもので機械加工が主になっている』。『おぼろ昆布は』、『酢に浸して柔らかくした乾燥昆布の表面を職人が専用の包丁で帯状に削ったもので、厚めの一枚物の昆布を必要とし、加工にも熟練の技術が必要なため機械化も困難とされている』。『昆布を削る際』、『刃をわずかに内側へ曲げることを「アキタをかける(いれる)」という』(「株式会社小倉屋松柏」公式サイト(店長・下浩一郎氏)の『とろろ昆布とあきたの話』に、『ごくごく薄いおぼろ昆布、これを作る包丁はアキタといわれています』。『この包丁は、刃先を少し曲げて昆布の表面にひっかリ易くしてあります。名の由来は大正』五(一九一六)『年頃』、『高野甚三郎という昆布職人がいました。この職人は浪花節が好きで、それがエスカレートして浪花節一座の』一『員として地方巡業に出かけていったが、秋田県で興行成績があがらず』、『解散した』。『そこで、この職人は日銭を稼ぐため』、『地元の昆布屋に職を探した 作業場では、女性が透き通るようなおぼろ昆布を削っている。思わず』、『めを見張ると』、『昆布の両端を固定し刃先をわずかに曲げた包丁で削っているではないか』! 『包丁を借りて自分でもすると、さすが昆布職人』、『すぐにその技を自分のものにしてしまった』。『やがて堺に戻ると』、『昆布店に雇ってもらい、おぼろ昆布を削り出した』。『最初は刃先の秘密を知られぬように便所で隠れて茶碗の先でまげていたらしい』。『そのうち、うわさがひろがり』、『他の店でも遊郭で』一『晩遊ばせては』、『秘伝を教わったらしい』、『その後、改良を加えていき』、『おぼろ昆布の生産量は飛躍的に増えた』。『これにより、今でもこの包丁をアキタと呼ぶそうです』とあった。粋な話だなあ!)。『昆布は表面に近い外側ほど黒く風味が強く、内側ほど白く柔らかく、削り始めの外側の部分を「さらえ(黒おぼろ)」、表面から芯に近い部分を「むきこみ」、さらに中心に近い部分を「太白(白おぼろ)」という』。以下、「副産物」の項。『白板昆布』は、『おぼろ昆布を削り出した後に最後に残った芯の部分が白板昆布(バッテラ昆布)である。ただし、おぼろ昆布を削ったものだけではバッテラ寿司の需要をまかないきれないため、昆布の粉を固めた「バッテラシート」が販売されている』。『根昆布(爪昆布)』は、『昆布の根元にあたる爪の形に似た部分で、おぼろ昆布を削る際に手で持つために削れない部分である。そのまま食べたり』、『湯豆腐に用いる』。『耳昆布』は『昆布の縁(両端)にあたる部分で加工前に切り落としたもの。とろろ昆布の原料に混ぜて利用されるため』、『一般には』、『ほとんど販売されない。そのままか』、『素揚げにすると美味しいとされる』。以下、「利用」の項。『北陸地方では、使用する原料や加工方法などの違いにより、色々な種類のとろろ昆布が販売されている。特に富山県の昆布消費量はとろろ昆布を含め日本一(全国平均の約』二『倍)で、とろろ昆布のおにぎりなど昆布を使った料理が郷土料理として数多く食されている』とある。私が昆布にマニアックに魅せられたのは、六年間の富山の中高時代、であった……。]
■「刺昆布《さしこんぶ》」
[やぶちゃん注:キャプションは、ない。国立国会図書館デジタルコレクションの「農家小學」(酒勾常明 著・吉備商會等編・明二〇(一八八七)年刊)の「六」のここに、『刺昆布ハ、細カク刻ミタルヲ謂ヒ、白髮昆布ハ、糸ノ如クウスク削リタルモノヲ稱ス、共ニ、內地ノ需要ノミナラズ、清國ニモ多ク輸出ス。』とあった。本書は明治十九年刊であるから、アップ・トゥ・デイトな記事である。因みに、「白髮昆布」というのは、国立国会図書館デジタルコレクションの「海苔と昆布」(『クロモシーリズ』・殖田三郞著・昭和五(一九三〇)年三省刊)の「こぶ(昆布)」の章のここに、『乾燥製品の表皮を去り、內部白色の部分のみを刻みますと所謂、白髮昆布が出來ます。それから、白髮昆布同樣、硬くて茶褐色をした表皮を去りまして、白色の部分のみににしたものを鉋[やぶちゃん注:「かんな」。]で削つたものが朧昆布[やぶちゃん注:「おぼろこんぶ」。]となり或はとろゝこぶ[やぶちゃん注:ママ。傍点を太字に代えた。以下同じ。]と云はれるものであります。之に用ふ原料は多くまこんぶ、りしりこんぶでありますが、こぶ類緣のものにとろゝこんぶと云ふ粘液の多いこぶでありまして、此の乾燥品から作つたとろゝこぶは上等でございます。』とあった。★これは、極めて興味深い記載である! この最後の粘りの強いそれは、明らかに真正の「トロロコンブ」を指しているからである! そも、前で「マコンブ」と「リシリコンブ」という正規和名を用いていることからも、実は!――今と違い、この真正の「トロロコンブ」製の「とろろ昆布」が上等品とされていた事実があった!――のである!!!]
■「刺昆布」
「内國用」
[やぶちゃん注:しっかり箱入りになっているのに着目! 本「昆布」の図版の中で、ちゃんとした箱入りというのは、これと、下の物だけである!]
■「仝 清國向《しんこくむけ》」
「此《この》箱、必らず[やぶちゃん注:ママ。]。
あり。入《いるる》に
作るへし[やぶちゃん注:ママ。]。
且つ、𠀋夫にせされハ[やぶちゃん注:ママ。]、
上海《シヤンハイ》等に至ら
ざるうちに、顚損《てんそん》し、
爲めに、損毛《そんもう》を來《きた》せり。
[やぶちゃん注:「顚損」倒れ転んで損壊すること。]
【図版6】
[やぶちゃん注:右ページ。順列は、上下は無視し、右から左に順に起こす。]
「三石昆布」
[やぶちゃん注:ページ標題で右最上部に配置。ポイント大。六つの製品は、藻体から見て、総て、ミツイシコンブ(三石昆布=「日高昆布」) Saccharina angustata と比定してよい。「北海道」公式サイト内の「水産林務部」の「森林海洋環境局成長産業課」の「ミツイシコンブ[三石昆布]」に拠れば、「煮えやすく味も良い用途が広い万能型コンブ」と標題し、『別名ヒダカコンブ(日高昆布)とも呼ばれます』。『成長した葉は帯状で長さは2~7m、幅は7~15cm。縁辺部はほとんど波打っていません。茎は円柱状で長さは3~7cm、直径は5~8㎜になります』。『名前の』通り、『日高地方を主産地としており、津軽海峡東側から襟裳岬を経て十勝沿岸までの広い海域に分布します。潮通しの良い岩礁に密生する性質をもち、主な漁場は』、『海水の流れが強い海岸線に』、『ほぼ並行する岩礁地帯です。日高地方では、上浜、中浜、並浜と称する浜格差があり、浦河町井寒台地区が最上といわれています』。『煮えやすく、身も柔らかいため、煮コンブや佃煮、コンブ巻、だしコンブなどに利用されます』とある。]
■「日高國《ひだかのくに》三ツ石郡《みついしのこほり》三ツ石産」
[やぶちゃん注:「日高」日高支庁の旧三石町(みついしちょう)。本書刊行時(明治一九(一八八六)年)では、ウィキの「三石町(北海道)」では役に立たない(「沿革」は明治三九(一九〇六)年の二級町村制の「三石郡三石村」の発足からしかなく、しかも、その際に合併した旧村名には「三石」という文字は全くないため)。ウィキの「三石郡」が、それ以前の経緯が判った。『江戸時代に入ると、日高国で最初とされる松前藩の商場知行制および場所請負制によるミツイシ場所が現在の三石市街地区に開かれている。陸上交通は、渡島国の箱館から道東や千島国方面に至る道(国道』二百三十五『号の前身)が通じていた』。『ミツイシの名はアイヌ語のピットウシ=小石の多い土地に由来し、三石、三ツ石などと表記された』。天明六(一七八六)年に『阿部屋伝七が三石場所の請負人となる』。『江戸時代後期には東蝦夷地に属し』、寛政一一(一七九九)年、『天領(幕府直轄領)とされ』、『松前奉行の治世となるが』、文政四(一八二一)、一旦、『松前藩領に復す。このころ、三石場所請負人楢原屋(小林屋)半次郎が、姨布に市杵島比売神を祀る弁天社(後の三石神社)を奉る』。天保七(一八三六)年には『稲荷神社が創立される』。安政二(一八五六)年には『再び』、『天領となり、仙台藩が警固をおこなった』。「戊辰戦争(箱館戦争)」『終結直後の』明治二(一八六九)年八月、「大宝律令」『の国郡里制を踏襲して三石郡が置かれた』。明治二年八月十五日(一八六九年九月二十日)、『北海道で国郡里制が施行され、日高国および三石郡が設置され』、『開拓使が管轄』。明治五年四月(一八七二年五月)『全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)』となった。同年の十月十日(一八七二年十一月十日、七ヶ月前に『設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)』。明治八(一八七五)年三月、『姨布村』(おばふむら)『に』、『日高国で最初の戸長役場が置かれ』、翌明治九年、『カムイコタン村が神潭(かむいたん)村に改称』、明治一二(一八七九)年七月、『郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての三石郡が発足』、翌年の三月、『浦河郡』(うらかわぐん)『外』(ほか)『十郡役所』(浦河・三石・様似(さまに)・幌泉(ほろいずみ)・広尾・当縁(とうぶい)・十勝・中川・河西(かさい)・河東(かとう)上川郡役所[やぶちゃん注:正式名は読みと「・」は一切ないベタである。])の管轄となる)。明治十五『年』『神潭村が辺訪村』(べほうむら)『に、延出村』(のぶしゅつむら)『が幌毛村』(ほろけむら)『に合併』、同年二月、 北海道開拓史に於ける行政区分の一つである「三県一局時代」の『廃使置県により』、『札幌県の管轄とな』ったとある。「ひなたGIS」で戦前の地図の「三石」を中央に打ったものをリンクしておく。]
■「日髙國浦河《うらかは》産」
[やぶちゃん注:「浦河」ここ。当該ウィキによれば、明治十二年『に行政区画として発足して以来、郡域は上記』一『町のまま』、『変更されていない』とあり、『江戸時代に入ると、松前藩の商場知行制および場所請負制による浦川場所(会所)が荻伏』(おぎふし)『地区に開かれている。浦川の名は』、『この時、今の元浦川(アイヌ語でウララペッ=霧深い川の意味)にちなんで名付けられた』とあった。]
■「日髙國樣似《さまに》產」
[やぶちゃん注:「樣似」現在の北海道様似郡様似町。ここ。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『サマニはアイヌ語起源で、サムンニ(倒れ木)、サンマウニ(寄り木)、エサマンペッ(カワウソの川)、シャンマニ(高山のあるところ)、シャマニ(横木)、女性の名前など、諸説ある』とあった。]
■「日髙國縨泉村《ほろいづみむら》産」
[やぶちゃん注:「縨泉村」これは、現在の北海道幌泉郡えりも町の襟裳岬の東北にある、「えりも港」を擁する、幌泉郡えりも町本町周辺の旧村名である。「ひなたGIS」の戦前の地図で、村名が確認出来る。]
■「日髙國新冠郡《にいかつぷのこほり》新冠村」
[やぶちゃん注:見開きで左の図を見ても、これを除き、総てに「産」があるので、脱字である。
「新冠郡新冠村」現在の新冠郡(にかっぷぐん)新冠町。ウィキの「新冠町」によれば(注記号はカットした)、『「新冠」の名称が文献上初めて登場するのは』元禄一三(一七〇〇)年の「松前嶋鄕帳」(まつまえとうごうちょう)『にある「にかぶ」の記載であり』、元文四(一七三九)年『頃発行の「蝦夷商賣文書」には「ニイカップ」と記載されている。また、「新冠」の当て字が定着する以前には「新勝府」の当て字が使われたこともある』。『この名称はアイヌ語の「ニカㇷ゚(ni-kap)」(木・皮〔革〕)が原義とされるが、その名称となった理由については諸説あり、永田方正は、この地のアイヌがニレの木の樹皮から作った衣服を着用しており、他地域のアイヌの衣服と色が異なっていたことに由来する、と説明している』。『また、もとはアイヌ語で現在の新冠川河口付近の大岩(現在は判官館岬と呼称)が突き出している地形から「ピポㇰ(pi-pok)」(岩・下)と呼ばれていたところ、それが方言で』「密売」を表わ『す「ビイフク」という語と似ているため』、『良くない名称であるとして、音が近い「ニカㇷ゚(ni-kap)」に改めたとする説もある。この時期については松浦武四郎の』「東蝦夷日誌」『の記述に依れば』、文化六(一八〇九)年『に川尻の会所の名称を「呼び声のよろしからざるに依て」、「ビボク」から「ニイカツプ」と改めたとされているが、前述の「にかぶ」の記載の初出よりは』、『後のことである』とある。]
■「日髙國静内産」
[やぶちゃん注:「静内」現在の日高郡新ひだか町内の複数の静内地区があるが、豈図らんや、「ひなたGIS」の戦前の地図で見ると、現在の「新ひだか町」の町名があるところと、東の部分にも、大きく「靜內」とあるので、非常な広域であることが判明する。当該ウィキによれば、『町名の由来は、アイヌ語の「スッナイ」(祖母の沢)もしくは「ストゥナイ」(ぶどうづるの沢)といわれる』とある。]
【図版6】
[やぶちゃん注:左ページ。順列は、上下は無視し、右から左に順に起こす。]
■「長昆布」
[やぶちゃん注:ページ標題で右最上部に配置。ポイント大。八つの製品は、藻体から見て、総て、ページ標題で右最上部に配置。ポイント大。六つの製品は、藻体から見て、総て、ナガコンブ(長昆布=「浜中昆布」) Saccharina longissima と比定してよい。既注であるが、ほぼ再掲すると、「北海道」公式サイトの「水産林務部」・「森林海洋環境局成長産業課」の「ナガコンブ[長昆布]のページに、「■分布図」の道内の地図画像があり、『釧路・根室地方の太平洋沿岸、貝殻島、歯舞諸島、国後、択捉』とあり、『世界の昆布属のうち』、『最も長くなる種』とし、『成長した葉は細長い帯状で、長さは通常』四~十二メートル、『なかには』十五メートル『を超える長いものもあります。幅は』六~十八センチメートル『で、縁辺部は縮れていないのが特徴。茎は円柱状からやや偏平で、長さは』三~六センチメートル、『直径は』五~七ミリメートル『になります』とある(但し、『世界の昆布属のうち』、『最も長くなる種』と言うのは、間違っていないが、誤解する方がいると思うので、注しておく。何故かというと、現行では、旧コンブ属(ゴヘイコンブ属) Laminaria とカラフトコンブ属 Saccharinaに移されていることは素人の場合、まず知らないこと、「昆布属」と言われてしまうと、その属の上位タクソンであるコンブ科 Laminariaceaeと採ってしまう可能性が高いことから、まずいのである。現行のコンブカ科の世界最大種は、“Giant kelp”の名で、アザラシ・ラッコの棲み家になっていることで知られる、コンブ科オオウキモ属オオウキモ Macrocsytis pyrifera である。南北アメリカ大陸の太平洋沿岸、オーストラリア・ニュージーランド南岸、アフリカ大陸南岸に分布する。一般的には食用は不適とされる。アメリカでは刈り採って、アルギン酸の原料に使用する)。『釧路、根室地方の太平洋沿岸、貝殻島、歯舞諸島、国後島、択捉島の周辺に分布し、寿命は』三『年といわれています。成長が速く、成長期には一日に最大』十三センチメートル『伸びます。ナガコンブの漁場は主に水深』三メートル『より浅いところですが、貝殻島などの海水の流れが強く透明度が高い地域では』、『水深』六メートル『まで群落ができます』。『だしには向きませんが煮えやすいので、おでん、昆布巻き、佃煮に利用されます。「早煮昆布」「野菜昆布」などの商品名でも売られており、家庭料理用の食材として人気があります』とある。
■「根室國《ねむろのくに》花咲郡《はなさきのこほり》花咲産 上等」
[やぶちゃん注:「上等」は解説ではないものの、他の部分との関係から、半角を入れた。
「根室國花咲郡花咲」現在の北海道根室市花咲町。「ひなたGIS」も添えておく。平凡社「日本歴史地名大系」の「花咲郡」によれば、『明治二年(一八六九)八月』十五『日に設置された根室国の郡(公文録)。近世は東蝦夷地のうちで、ネモロ場所(歯舞諸島・色丹島を含む)とクスリ場所の一部を継承した。根室国の南東部、根室半島先端部に位置し、現在の根室市域南東部にあたる。西は根室郡に接し、北は根室海峡、東と南は太平洋に臨む。郡名は松浦武四郎の提案で、半島先端部の「鼻岬」の文字を改めた(「郡名之儀ニ付奉申上候条」松浦家文書)。』とある。サイト「Bojan International 北海道のアイヌ語地名」の『(87)「花咲・長節・昆布盛」』の「花咲」によれば、アイヌ語の「poro-not」で、『大きな・岬』の意とされ、『この「花咲」は「花咲ガニ」でもお馴染みの、根室市花咲に由来する……んでしょうかねぇ?』とあり、『「花咲」という字であったり』、『「はなさき」という音からは、アイヌ語由来では無く和名のようにも思えるのですが……。山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。』とされ、『上原熊次郎地名考は「此地名故事相分からず」と書いた。アイヌ語では読めないからだったろう。永田地名解は「花咲郡。元名ポロ・ノッ poronot。大・岬の義(注:今の花咲岬)。花咲は鼻崎(はなさき),即ち岬の義。ポロノッの俚訳」と書いた。「岬の鼻の先」の意だったか。』『(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.243-244 より引用)』とあって、『というわけで……。比較的珍しい、意訳によるアイヌ語地名だったのでした。poro-not で「大きな・岬」ですが、もしかしたら poro-not-etok で「大きな・岬・出鼻」だったのかも知れませんね。』と記されておられる。]
■「釧路國《くしろのくに》釧路郡《くしろのこほり》釧路村産」
[やぶちゃん注:「釧路國釧路郡釧路村」平凡社「日本歴史地名大系」の「花咲村」によれば、『明治五年(一八七二)頃から同』十七『年まで存続した村。現釧路市域の中央部にあり、南部は海に臨む。村内に米(こめ)町などの釧路市街地を形成し、東は桂恋(かつらこい)村、西は鳥取(とつとり)村に接する』とある。「ひなたGIS」で示しておく。]
■「十勝國《とかちのくに》廣尾郡《ひろをのこほり》廣尾村産」
[やぶちゃん注:「十勝國廣尾郡廣尾村」ここは、現在の北海道十勝管内の最南端に位置する広尾郡広尾町であるが、複数の信頼出来る記載を調べてみると、この「廣尾村」というのは、通称で「村」を附しているものと判断される。ウィキの「広尾町」が判りがよいので引用すると(注記号はカットした)、ここは、昔は「茂寄村」(もよりむら)と呼んでいたことが判る(「コトバンク」の「日本歴史地名大系」の「広尾村」で確認済み)。『広尾は昔時「東、奥蝦夷」と称した地で、東南広尾川に沿えるアイヌが住んだ一集落である。当初』『松前藩士・蠣崎蔵人』(かきざきくろうど:室町時代に宇曽利郷田名部の蠣崎城主蠣崎蔵人信純による南部氏に対する反乱「蠣崎蔵人の乱」(当該ウィキを見られたい)で知られる人物)『の給地であった。幕吏・小林卯十郎が海に沿って東行』して『釧路に達する新道を開くに及び、始めて陸路交通の便を得る。寛政の頃から』、『十勝国全部をトカチ場所と称し、会所を』現在の『広尾に置いて』、『支配人に納税や宿泊等の取扱いをなさしめた』。『安政』六(一八五九)『年、仙台藩の領となり、目付、代官、勘定方等が人夫を伴い来て』、『丸山の麓に陣屋を構え、農家、大工、木挽等を移住させ、穀菜等の試作をなさしめる。同年』九『月』、『鹿児島藩領となり、同年』、『転じて』、『田安、一橋両侯家に分属され、田安家はビホロ川以北モンベツ川の間を領し、役宅を茂寄に、一橋家はビホロ川以南よりビタタヌンケまでを領し、役宅を音調津に設けた』。明治七(一八七一)『年、田安、一橋両家の支配を罷めた』。以下、年表になっており、それに先立つ明治四年、『浦河郡役所広尾』(☜)『出張所を置く』とある(以下、ポイントとなる地名を太字下線とした)。明治八(一八七五)年一月に、『茂寄郵便局を設ける』。同二月、『戸長』(こちょう:明治前期に区・町・村に設置された行政事務の責任者)『役場を置き、広尾、当縁二郡を管轄する』。明治二〇(一八八七)年、『釧路郡役所の管轄となる』。;明治三〇(一八九七)年、『河西支庁の管轄となり、戸長役場の管轄区域を改め、当縁郡を割き、管轄を広尾全郡とし、茂寄村役場となる』。明治三十二年四月には、『釧路裁判所茂寄出張所を置く』。明治三九(一九〇六)年になって、『広尾郡茂寄村(もより)、当縁郡(とうぶい)大樹村、歴舟村(べるふね)、当縁村の一部が合併、二級町村制、広尾郡茂寄村が発足』したが、十四年後の、大正一五(一九二六)年になって、初めて『広尾村に改称』とあるのである。
則ち、本書の刊行された明治一九(一八八六)年には、「廣尾」は、あくまで、「廣尾郡」であって、村名ではなく、郡名であり、当該の場所は、あくまで、「茂寄村」であったのである!]
■「釧路國厚岸郡《あつけしのこほり》厚岸村産」
[やぶちゃん注:「釧路國厚岸郡厚岸村」現在の厚岸郡(あっけしぐん)厚岸町。ウィキの「厚岸町」によれば(注記号はカットした)、『町名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語に基づいている。有力な説は市街地の西にある現在のアツケシ沼で』、『アットウシ』(当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『(アイヌ語: Attus)は、オヒョウ(シナノキが使われることもある)などの木の内皮の繊維を織ったアイヌの織物。衣服として作られることが多い。アツシ、アトゥシ、アットゥシ織、アッシ織、厚司織とも表記される。また、経済産業省のプレスリリースでは小書きシを使い、「アットゥㇱ」と表記されている』とある)『の原料となるオヒョウニレ』(双子葉植物綱イラクサ(刺草:当該の同名種自体は草本)目ニレ(楡:無論、同名種は木本)科ニレ属オヒョウ(於瓢) Ulmus laciniata の異名。落葉高木。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『樺太の白浦地方では樹皮をアイヌ語でオピウ(opiw)とも呼び、和名「オヒョウ」の名称はこれに由来する。アイヌ語ではオヒョウの樹皮と繊維をアッ(at)、それが採れる木をアッニ(atni)ともよんでいる。樺太の方言ではそれぞれアㇵ(ah)、アㇵニ(ahni)という。ただし』、『アイヌ語学者の知里真志保によれば、アイヌ語には植物の部分の呼び名はあっても、元来は植物そのものの名前はないとされる。樹皮が特別にオピウとよばれるのは、アイヌにとって』、『この樹皮が特別役に立つものであったからである。俗説として、葉の形を魚のオヒョウになぞらえる人もいるが、これについては懐疑的な見方もされている』とある。私は厚岸産のカキが好物で、毎年、レストランに送られてくるのを楽しみにしている)『の皮を剥いだことに由来する「アッケウシイ(at-ke-us-i)」(オヒョウニレの皮・剥ぐ・いつもする・所)、あるいは「アッケシト(at-kes-to)」〔オヒョウニレ・下の・沼〕から転じたものとされている』。『このほか、アイヌ研究家のジョン・バチェラー』(John Batchelor(一八五四年~ 一九四四年):イギリス人の聖公会宣教師。半世紀以上に亙って、アイヌへの伝道・アイヌ文化、及び、アイヌ語の研究、困窮するアイヌの救済に尽力し、「アイヌの父」と呼ばれた。バチラーとも表記される。以上は当該ウィキに拠った)『が、「アッケシ」をカキの意とする説を挙げているが、町史では「一単語、一固有名詞が地名に転化する例は』、『ほとんど見あたらない、この説を採用したのは、厚岸のカキを宣伝するために用いたのではないだろうか」として否定している』とあった。]
■「釧路國白糖郡白糖村産」
[やぶちゃん注:「白糖」この二箇所の「白糖」は、「白糠」のイタい誤りである。則ち、
「白糠郡《しらぬかのこほり》白糠村《しらぬかむら》」
が正しい。ここは、現在の白糠郡(しらぬかぐん)白糠町である。「ひなたGIS」の戦前の地図で「白糠村」を確認出来る。]
■「千島國《ちしまのくに》國後郡《くなしりのこほり》國後村産」
[やぶちゃん注:「千島國國後郡國後村」これも、おかしい。言わずもがな、ロシアに不当占拠されている国後島であるが、同島には、西半分を占める泊村と、東半分を占める留夜別村(るよべつむら・るやべつむら)しかなく、国後村というのは、歴史的にも存在しない。ウィキの「国後島」の「近代以降」によれば、『第二次世界大戦前は、北海道本島からの船が発着した泊(ロシア名:ガラブニノ Головнино)に』、『国後島全体を管轄する官庁や神社がおかれ、中心集落であった。島の沿岸には、全域にわたり』八十『以上もの漁業集落が点在しており、産業としては、コンブやサケ、カニなどの漁獲高が多く、缶詰製造で栄えた。また、畜産や金属鉱石、硫黄の採掘も行われていた』とある。]
■「璃瑠蘭《りるらん》産」
[やぶちゃん注:「璃瑠蘭」これも誤字で、「璃瑠灡」が正しい。平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、「璃瑠灡村」で、『現在地名』は『厚岸郡厚岸町末広(まびろ)』(ここ)『・登喜岱(ときたい)』(ここ)とし、『明治初年』(一八六八年)『(同二年八月から同六年の間)から明治三三年(一九〇〇)まで存続した厚岸郡の村。末広村の東、厚岸半島の南端に位置し、南は太平洋に面する。全域が丘陵地で北に向かって傾斜し、海岸には断崖が屹立する。近世にはアッケシ場所のうち』であった。『明治初年』、『リルランなどの地を包含して成立した。村名は初め』、『リルラン村と記され、明治八年五月「璃瑠村」と漢字表記に改められた(開拓使根室支庁布達全書)』。「釧路國地誌提要」『には理流瀾村とみえ、明治六年の戸口は平民一戸・三人(男二・女一)。同年一一月五日、厚岸を出発した榎本武揚はリルランの小休所で昼食をとり、その後山坂を越えて浜中(はまなか)会所(現浜中町)へ向かった(北海道巡廻日記)。』とある。]
■「十勝國十勝郡十勝村産」
[やぶちゃん注:「十勝村」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、『明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三九年(一九〇六)まで存続した十勝郡の村。十勝川(現浦幌十勝川)河口部東岸にあり、西は同川・大津(おおつ)川(現』在の『十勝川)を挟んで同郡大津村、北は同郡生剛(おへこわし)村、東は直別(ちょくべつ)川を境に白糠しらぬか郡音別(おんべつ)村(現』在の『音別町)、南は太平洋に面する』とある。現在の十勝郡(とかちぐん)浦幌町(うらほろちょう:この町一つで、十勝郡を成す)。]
【図版8】
[やぶちゃん注:右ページ。順列は、まず、上から下、右から左の順に起こす。]
■「大間昆布《おほまこんぶ》」
「青森縣陸奥國《むつおくのくに》
下北郡《しもきたのこほり》
大間村産」
「長《ながさ》、六尺。乾品《かんぴん》にて、
幅《はば》廣きところ、六、七寸。
淺綠にして、兩緣《りやうゑん》、
淡黄色《たんわうしよく》にして、
『三厩昆布《みんまやこんぶ》』に似たり。
[やぶちゃん注:以下は、図の左橫にある。右傍線は下線にした。]
質《しつ》、厚くして、味、頗《すこぶ》る
佳《か》なり。故《ゆゑ》に、煮出《にだ》し
て、又、削りて、
をぼろ とろヽ はつゆき等の細工昆布となす
に、よろし。」
[やぶちゃん注:「大間昆布」今や、希少価値にして、高額で取引される「大間まぐろ」(条鰭綱スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科マグロ族マグロ属クロマグロ Thunnus orientalis の天然個体)でお馴染みの、津軽海峡に面した下北半島西北端に位置する本州最北端の自治体である、青森県下北大間町郡大間(おおままち)町。今回、「一般財団法人 海苔増殖振興会」公式サイト内の「海苔百景」の、同会の副会長にして東京水産大学名誉教授・理学博士有賀祐勝氏の「リレーエッセイ 2017・夏」の「沖縄の海でコンブを養殖したい」(別にPDFも有り)の中に、精緻な、北海道、及び、東北地方の有用コンブ七種(マコンブ・ホソメコンブ・リシリコンブ・オニコンブ・ミツイシコンブ・ナガコンブ・ガッガラコンブ)の分布域図を見つけたのだが、大間には、マコンブとホソメコンブが分布することが確認出来る(因みに、御存知の方も多いであろうが、沖縄県と富山県は、永らく、コンブ消費量の日本一を争っていた)。現行のネット上で見られる相応の値段のする「大間昆布」と名打っている販売品の原藻もマコンブである。なお、用心に用心を重ねて、「大間昆布」を、過去に遡って調べてみたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの「帝國水產書敎師用」(興文社編輯所編・明治三八(一九〇五)年興文社刊)の「第三十四課 昆布」のここ(右ページ十行目以降)に、
*
ほんこんぶハ、まこんぶトモ稱セラレ、函館・福山[やぶちゃん注:これは、北海道松前町松城(まつしろ)の旧称。]ヲ有名ナル產地トシ、同種ニシテ陸奥大間ニ產スルヲ大間昆布ト稱シ、陸中三厩ニ產スルヲ三厩昆布ト稱ス。コレヲ製シタルヲ花折昆布トイフ。
*
とあったので、間違いない。なお、検証のために、種々の記載を調べたのだが、一つ、「JF全漁連 漁政部 環境・生態系チーム」の「なぎさは海のゆりかご 海のゆりかご通信No,29 Feb,2012」の鹿児島大学水産学部准教授・博士鳥居享司氏の「なぎさシリーズNo.23 マグロの大間!コンブの大間?」の記事(PDF)で、大間に於けるコンブ水揚げの激減(本文に『コンブの水揚金額は 1989年に約 7 億円を記録したが、2005 年には1,000 万円程度まで激減した。』とある)を受けて、大間の漁師たちが、コンブ場の復活・再生のために苦闘されている様子を読み、甚だ感動した。是非、読まれたい。
「陸奥國《むつおくのくに》」「昆布の說」本文では、かく「むつおく」のルビ(一部、歴史的仮名遣を誤っている)を振っているのに従った。
「はつゆき」どう見ても、こうしか読めないのだが、これ、「うすゆき」の誤記ではあるまいか? 「デジタル大辞泉」に『うすゆき‐こんぶ【薄雪昆布】』として、『ごく薄く削った白色のおぼろ昆布。』とあるからである。]
■「本昆布《ほんこんぶ》」
■「本昆布」
「乾品にて、幅廣きところ、
一尺四、五寸あり。長さ、二尺餘に
至り、一石《いつこく》に、四、五本も
生《しやう》す[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]る、
あり。末の細きところの幅ハ、二、三寸なり。
凾館近傍の産。幅広きもの。」[やぶちゃん注:図の右下方にあるが、これは、キャプションとしては、物理的に繋げる余裕がなくなっているから、そこに配しただけで、前に続いていると読める。]
[やぶちゃん注:前者(二個体)には、キャプションがなく、次の行にある同名題の図と酷似しているので、セットにした。
「本昆布」は、前の本文のここで、『(三)長昆布(ながこんぶ)、一名、本昆布(ほんこんぶ)、又、眞昆布(まこんぶ)と稱するものは、十勝、釧路、千嶋、根室等の產にして、乾品の幅二、三寸許、長さ、短きもの、二丈より六丈餘に至り、鮮綠色なり。而して、產地により、幾分か、厚薄(こうはく)長短(ちやうたん)ありと雖ども、皆、長切昆布(ながきりこのぶ)に造りて、淸國に輸出せり。』とあり、マコンブ(真昆布) Saccharina japonica を指す異名である。ここは、図とキャプション、及び、後の二品から、それに同定比定してよい。「本場の昆布」という意味であろう。しかし、そうなると、他種の項品質のものにも、これを使うことがある可能性が、古今に、当然、あり、それを念頭に置いて、可能ならば、実物の生体及び製品を子細に観察して見極めることも必須であると言える、と、私は考える。]
■「本昆布」「松前昆布」
[やぶちゃん注:「松前昆布」昔も今も、マコンブの松前産のブランド名。]
■「三厩昆布《みんまやこんぶ》」
[やぶちゃん注:【図版4】で既出既注。]
■「厚昆布《あつこんぶ》」
「陸前國《りくぜんのくに》本𠮷郡《もとよしのこほり》階上村《はしかみむら》最知濵《さいちはま》産」
[やぶちゃん注:この図、産地を見なかったなら、前の酷似している六個体の図に引かれて、マコンブと思ってしまうところだった。
「陸前國本𠮷郡階上村最知濵」これは、現在の宮城県気仙沼市最知川原(さいちかわら)の海岸附近である(ドットは、同地の東日本旅客鉄道(JR東日本)気仙沼線BRT(バス高速輸送システム)の「最知駅」とした。嘗つては、同社の気仙沼線の鉄道駅であった)。「ひなたGIS」の戦前の地図を見られたい。「階上村」がある。
★而して、この場所が決定的なのだ! ここは、先に示した「沖縄の海でコンブを養殖したい」の分布図を見れば、一目瞭然! ここは――マコンブの分布域限界から、遙か、南なのだ!
★ここに分布する有用コンブは、ただ一種、マコンブ変種ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina japonica var. religiosa なのだ!
因みに、地理フリークである私には、「階上村」が、気になった。青森県三戸郡階上町(はしかみちょう)赤保内寺下(あかぼないてらした)にある「寺下観音歴史資料館」公式サイト内の『「はしかみ」地名考』に以下のようにあった。
《引用開始》
■宮城県気仙沼市階上地区
かつて、宮城県本吉(もとよし)郡に階上村という村が存在しました。昭和30年(1955年)に大島村、新月村とともに気仙沼市に編入されましたが、現在のJR気仙沼線「陸前階上駅」のあたりで、気仙沼市のほぼ中央に位置します。
→ 気仙沼階上(気仙沼市観光協会 階上支部)
この階上村は、明治8年(1875年)の村落統合によって、波路上(はじかみ)村、長磯(んがいそ)[やぶちゃん注:東北弁読みが、超スゴッツ!]村、最知(さいち)村、岩月(いわつき)村の4村が合併して誕生しましたが、「階上」の名前は、かつてこの地域が「階上郡」と呼ばれていたことに由来します。
なお、この「波路上」はもともと「波止上」であり、誤った字で伝えられたものです。
この階上郡は、続日本紀にも記述があります。
それによると、名取郡以南の14郡は山や海の僻地(へきち)であり、多賀城からも遠く離れていて、戦のような緊急時には間に合わないため、延暦(えんりゃく)4年(785年)に不慮(ふりょ)に備えて官員(かんいん)(役人)を置き、防御を固めるために郡に格上げしたとされます。
《引用終了》
由来もスゴッツ!]
【図版9】
[やぶちゃん注:左ページ。順列は同前。]
■「昆布」
「陸前國宮城郡七濱産」
[やぶちゃん注:「陸前國宮城郡七濱」現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町(しちがはままち)。標題が「昆布」とあるだけで、厳しい。直前の図と通性があるが、場所が、金華山を廻った場所で、現在の例の「沖縄の海でコンブを養殖したい」の分布図では、全くの埒外である。ネットで「七ヶ浜町 コンブ」で検索しても、全く掛かってこない。しかし、ふと、『現在のような温暖化が起こる以前は、親潮の勢力が強く回り込んで、或いは、ホソメコンブがこの地区でも繁茂し、有意に漁獲していたのではないか?』という疑問が浮かんだ。この場所は、宮城県の太平洋側の、丁度、中央に当たるのである。そこで、国立国会図書館デジタルコレクションで「宮城郡七 ホソメコンブ」で検索してみたところ、『「水産宮城」昭和五十三年版』(宮城県水産林業部編・出版・一九八〇年刊)の中の、「9―3 水産加工研究所」の「業務内容」の「浅海養殖生産物利用加工試験」の「⑵」に、
*
ホソメコンブを原料とした従来の抄きコンブの代わりに養殖マコンブを使用した抄コンブ製造の可能性を検討する。
*
という一文を発見した。この「抄(き)コンブ」というのは、対象が「岩手県産」ではあるが、「農林水産省」公式サイト内の「うちの郷土料理」の「すき昆布の煮物 岩手県」にある、『「すき昆布」とは、三陸沿岸』(☜宮城県を含む)『でとれた若い昆布をボイルして細くカットし、板状にして乾燥させたものである。昭和44』(一九六九)『年頃、沿岸部の普代村』(ふだいむら:岩手県下閉伊郡普代村)『で昆布の養殖とすき昆布加工が始まり、保存食として県全体に広まった。普代のすき昆布は、間引きをしない若い昆布を使用しているため、やわらかな歯ごたえがある。』]とあった(因みに、この岩手産の「抄き昆布」では、マコンブ・ホソメコンブの分布域であるから、両方とも使える)。しかも、先の引用文では、『ホソメコンブを原料とした従来の抄きコンブの代わりに養殖マコンブを』と言っている。「ホソメコンブ」には「養殖」は、頭に、ついてない。しかも『従来の抄きコンブ』と言っている。従って、少なくとも、同書の刊行昭和五五(一九八〇)年までは、宮城県海浜地区で、ホソメコンブが漁獲でき、それで「すき昆布」を製造していたことが判るのである。
以上から、私は、この「昆布」はマコンブ変種ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina japonica var. religiosa に比定するものである。]
■「細布」
『「ほそめ」ニ「ぼんめ」、「又じやうめ」と云《いふ》。
ぼんめに、二《ふたつ》、あり。「大須《おにす》ぼんめ」・
「ハなぶちぼんめ」なり。大須ハ、厚く、
長《ながさ》、五尺余。「はなふち」ハ、
[やぶちゃん注:前行の「はなふち」の「ふ」の清音はママ。]
較《おほむね》、厚し、廣し。此《この》ものハ、
[やぶちゃん注:「厚し」は、思うに、「厚く」の誤記であろう。]
年、三度、採収《サイシウ》す。
「陸前産」
[やぶちゃん注:ここでは、特異的にキャプション内で鍵括弧を筆者が使用している。
「ほそめ」は、ホソメコンブのことととってよかろう。
「ぼんめ」国立国会図書館デジタルコレクションの「水產動植物精義」(倉上政幹著・大正一四(一九二五)年杉山書店刊)の「ほそめこんぶ 細布昆布」の項の部分に、「異名」として、『ほそめ』・『ぼんめ』・『いそこんぶ』・『はなをりこんぶ』を挙げ、冒頭の『植物學上ノ位置』に、『羽越地方ニ移出シ中元ノ祭禮用ニ供スルヲ以テ「ぼんめ」ノ名ヲ以テ知ラルヽモノニシテ』とあることから、「盆布(ぼんめ)」と判る。次のページの『分布産額』[やぶちゃん注:「産」はママ。]の中にも、『三陸磐城地方』(現在の福島県の浜通り・中通り南部・宮城県南部相当)『ニ產スル「ぼんめ」ト稱スルモノモ亦本種ナルベシト云フ』と重ねて言っている。
「又じやうめ」(この「又」は鍵括弧の外に出して、『又、「じやうめ」』とあるべきところである)れは、思うに、「條布」であろう。ホソメコンブの生体は、葉部中央に入る中帯部が両脇に凹凸を持っており、くっきりした筋(=条)があるように見えることからであろう。但し、コンブ目アナメ科スジメ(筋布)属スジメ Costaria costata があるので、混同しないように注意されたい(因みに、スジメの属名と種小名は孰れも「筋がある」の意味である)。
『「大須ぼんめ」・「ハなぶちぼんめ」』国立国会図書館デジタルコレクションの「日本昆布業資本主義史 支那輸出 」(『慶応義塾經濟史學會紀要』(第二册)・羽原又吉著・昭和二四(一九四九)年有斐閣刊の「第三章 昆布の種類及產地」のここで、
*
(六)細布は一に盆布にてにて三石昆布に似たり。北海道、三陸各沿岸に產するも特に陸前牡鹿郡大須濱より名振、船越、熊澤、桑濱產を「大須盆布(オニスボンメ)」といひ、宮城郡花淵盆布又は花淵昆布といふ。此地方の習慣として中元これを佛前に供し或は煮物に加へる等その需用少なからず故に盆布の名あり。中元後これを東京に送り刻獻昆布の原料とすと。陸奥にて「めのこ昆布」とは先づ雨露に晒し春碎して貯へ食する時は水に浸し米に加へ飲食す、すなわち救荒の一法である。
*
とあった。この「大須濱」は宮城県石巻市雄勝半島の最東端にある雄勝町の漁村で、ここ、「名振」は、その半島の北西のここ、「船越」は、その二つの間のここ、「熊澤」はここ、「桑濱」はここだ! 何んと! 集中した共同体の民俗習慣と! 実用経済と! 救荒準備と!――素晴らしいではないか!]
■「宮古昆布」
「『小本昆布』等《など》。」
[やぶちゃん注:「宮古昆布」浄土ヶ浜で知られる岩手県宮古市であるが、ここは、マコンブとホソメコンブの分布域であるが、図の製品の細さから、ホソメコンブである。]
■「黑昆布」「天䀋國《てしほのくに》産」
[やぶちゃん注:「黑昆布」種は、「天䀋國産」とあるから、自動的にリシリコンブとなる。既出の「函館市/函館市地域史料アーカイブ」の「恵山町史」(平成一三(二〇〇一)年刊)の「3、明治前期の昆布漁について」の、「<明治前・中期の昆布の実体> 『北海道水産全書 高雄北軒(明治26年刊)』より」という項の「主な昆布と形状」に、
《引用開始》
・黒昆布(リシリコンブ) 幅3~4寸(9~12センチメートル)、長さ4~5尺(1.2~1.5メートル)に及ぶ、黒色で質厚く天塩の沿岸に産するものを天塩昆布といい、利尻礼文等に産するものを利尻昆布という。一般に「ダシ」昆布と呼ばれているのはこれである。
《引用終了》
但し、ひまわりさんのブログ「ひわりblog」の「北三陸漁師さんが作る【すき昆布】と【黒昆布】」を見ると、興味深い記載がある。
《引用開始》
【「だし昆布」(黒昆布種)「すき昆布」は真昆布種。黒昆布種は天然昆布は田野畑村の断崖の下の岩礁にしかない昆布】
実は、「黒昆布の種」、つまり黒昆布は三陸でも田野畑の特定の2箇所(北山崎・鵜の巣断崖の断崖の下)しかありません。
だから、漁協では、この種子を他には絶対に種を密漁されたりしないように、組合員や地元警察がアワビ密漁防止活動として、海域を船や車で周り監視しています。すぐ、警察に通報出来るようにしています。震災後に3回捕まっています。まあそれほど、アワビと並んで価値のあるものなのです。どっちにしても、黒昆布はいくら種を持って行っても死滅します。環境に合わないからです。 黒昆布を村の港の近くに根付かせようとしましたが、あの断崖の下のような環境がないと育たないのは実証済みです。
【だし昆布(黒昆布)は昆布そのものを、千切、煮付けにしたりして食べて欲しい昆布】
北海道や他の三陸の昆布は殆どが「真昆布」です。肉厚さ、粘りもが違うのです。販売してるのは、1年昆布ですが、2年昆布はもっと肉厚で長くなり、色も濃い茶褐色になり粘りも半端ではありません。しかし、養殖するには2年目になると重たくて落ちてしまいので、1年サイクルにしています(1年サイクルの方が効率化できて収入もふえますから)だから、例えば「出し汁」を取った後にも昆布そのものを、千切りにしたり、煮付けにしたりして食べて欲しい昆布なんです。
《引用終了》
とあるのである。「田野畑」(たのはた)村はここで、「北山崎」(きたやまざき)はここ、「鵜の巣断崖の断崖」はここである(ここは、中腹にウミウ(カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus )、及び、カワウ( Phalacrocorax carbo )の営巣地があることに因んで、この名があり、ここは「三陸復興国立公園」内に属する)。しかも――その真正の「黒昆布」はマコンブ――なのである。事実、ネット検索を掛けると――天塩三産黒昆布――というのは、掛かってこないのである。現代では、狭義には――「ひまわりさん」の仰ることが正当――と言えるのである(因みに、次の次の引用で、戦後までは、リシリコンブを「黒昆布」と呼んでいたことが判る)。
「天䀋國」現在の北海道天塩郡天塩町。]
■「ほそめ」「一名、『ぼんめ』。」
「青森縣下下北郡《しもきたのこほり》尻屋村《しりやむら》産」
「此ものハ、七月頃、多く、採収し、中元、
佛壇の飾《かざり》に用ふ。
長さ、五尺許。色、暗綠色ニして、淡く、
較〻《やや》、茶色を交《ま》づ。
質、甚《はなはだ》、薄く、魚類を巻き、
食《くひ》たるを常とす。」
[やぶちゃん注:「ほそめ」文字通り、ホソメコンブである。
「青森縣下下北郡《しもきたのこほり》尻屋村」青森県の下北半島の北東端をなす岬「尻屋崎」のある下北郡東通村尻屋。]
■「小元昆布《おもとこんぶ》」
[やぶちゃん注:キャプションなし。この「小本昆布」の「小本」は地名で、現在の龍泉洞で知られる岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)小本である。分布域と図の細さから、ホソメコンブに比定できる。]
■「めのこ」
「宮古、大槻、小槌《こづち》、等にて、乾して、
臼《うす》にて、搗《つ》き、䅟米に混《こん》じ、
炊き、食ふなり。」
[やぶちゃん注:「めのこ」国立国会図書館デジタルコレクションの「日本昆布大觀」(日本昆布大觀編纂所編・昭和二二(一九四七)年日本昆布大觀編纂所刊)のここの、『(五)黑昆布(一名利尻昆布)』の最後の段落で(傍点「﹅」は太字とした)、『また、陸奥にては、「めのこ昆布」と稱し、地方人の食用に供するが、其の製法は雨露に晒して後ち日光にて乾かし、春碎して、米粒位の大きさにして貯藏して置き、食する時には水に浸して米に加えて炊くのである。卽ち米穀に乏しい場合の食糧――所謂救荒の一法であるが、平常食としても用ひられる。』とあることから、リシリコンブの異名であることが判明した。「めのこ」とは、私は「女子」であろうと考える。所謂、当該地で採れる大型の厚いマコンブを「男」に喩え、それより遙かにスマートなリシリコンブに、この名を与えたものであろう。
「大槻」これは、現在の岩手県「宮古」市と、上閉伊郡(かみへいぐん)大槌町(おおつちまち)「小槌」の位置と地名から見て、小槌の北に接する大槌町「大槌」の誤字である。
「䅟米」これも、ちょっと疑問を感じた。「䅟」は、「辞典オンライン」で見ると、音「サン」で、第一義が『稗(ひえ)の類』とあり、第二義に『「稴䅟(れんさん)」は、稲の穂が実らないこと。』とある。後者は考証外であるから、「ヒエ」=単子葉植物イネ目イネ科キビ亜科キビ連ヒエ属ヒエ Echinochloa esculenta の種子のことと、まず、考えた。但し、別に、河原田氏が、今までも、誤字をしばしば記すことから、「糁米」の誤字とも考えた。同じく「辞典オンライン」で「糁」を見ると、「糁」は、音「サン・シン」で、意味に、『こながき。米を加えて煮た羹(あつもの)。』と、『めしつぶ。米の粒。』があった。しかし、前者にわざわざ混ぜるのもおかしく、後者も、少ない「飯粒」に混ぜるというのも、「量増(かさま)し」の意味と採れなくもない。特に、前に引用したものからも、可能性は半々かも知れない。]
■「はかたこんぶ」
[やぶちゃん注:キャプションなし。
「はかたこんぶ」国立国会図書館デジタルコレクションで「博多昆布」を検索すると、昆布関連の記載で、複数、形状に拠る命名とし、料理書では(例えば、ここ(赤堀峯吉著「日本料理法」昭和三(一九二八)年大倉書店刊)の『(五)博多昆布(かたこんぶ)』。総ルビだが、一部に留めた)、『名の通り、博多の樣に美しく見える料理、燒肴(やきざかな)や口取(くちとり)の相手も、つとまります。』とあることから、これは、百%、「博多美人」の「博多」である。]
【図版10】
[やぶちゃん注:右ページ。順列は同前。最後は、左下の七本の藻体を広げている図とした。]
■「縮み昆布」
「一名、『とろ〻こぶ』。一種。」
[やぶちゃん注:「図版5」で既注済み。]
■「かもめこぶ」
[やぶちゃん注:キャプションなし。これは、
ガゴメ属ガゴメ(コンブ)(籠目(昆布)) Kjellmaniella crassifolia
であるが、誤りではない。国立国会図書館デジタルコレクションの「函館市史 銭亀沢編」(函館市史編さん室編・一九九八年函館市刊)の「第二節 銭亀沢の食生活」の「五 食べ物作り」に、『〈とろろ昆布〉 カモメコンブ』(☜「鷗昆布」の方が発音が綺麗!)『を乾燥させ、切ってからストーブの上においてカラカラに乾燥させ、擂り鉢で擂って粉にしてから、大根おろしと混ぜたり、ナス・キュウリ・するめを切ったものと混ぜて食べた。粉末昆布がその他の野菜から出る水分を吸収して軟らかくなる。味噌汁に入れても美味である。』とあるからである(無論、誤った異名ではあろうが)。ウィキの「ガゴメコンブ」を引く(注記号はカットした)。『ガゴメ、ガゴメコンブ(籠目昆布、学名:廃・Saccharina sculpera 、現・Kjellmaniella crassifolia )は、コンブ科ガゴメ属の褐藻の1種』。『潮下帯というより、マコンブの生息帯の、より深場にいる海藻で、岩場に固定する付着器(英語版)に茎と葉がつく、葉は分かれない大型褐藻類(コンブ類・ケルプ類)の典型的な形態である。葉全体に雲紋状の凹凸模様があるのが特徴で、その外見が籠目に似ていることから名付けられた。俗にガメと呼ばれる。カゴメノリ属』( Hydroclathrus )『(英語版)とは別』。『フコイダン』(fucoidan:硫酸化多糖の一種。コンブやワカメ(一部位であるメカブを含む)、モズクなど褐藻類の粘質物に多く含まれる食物繊維。類似の物質はナマコなどの動物からも見つかっている。以上は当該ウィキに拠った)『を多く含むことでも知られ、他の藻類と比較してもフコイダンの種類が多角的で、健康補助食品(サプリメント)、化粧品、加工食料品に利用される』。『日本近海では北海道南部から下北半島(青森県)北側の沿岸に分布する。さらに樺太南部、間宮海峡付近及び朝鮮半島東海岸北部にも分布する』。『食用になる。北海道函館市では、「がごめ飯」の名称で産官学共同で商品化し、新たな名産品として提供されている(刻みのガゴメの米飯に海産物を載せた品)。加工品では、とろろ昆布や』、『おぼろ昆布、松前漬け、塩昆布などの原料になっている。サプリメント商品も出ている』。『韓国においても採集や食料利用はあるとされる』。『函館ではコロナ禍のさなか、がごめ昆布飴が無償配布され、ゆるキャラの「ガゴメマン」(北大・安井肇が考案)も配布にくわわった。』とある。所持する柳町敬直著「新版 食材図典 生鮮食材篇」(小学館二〇〇三年刊)の解説も引いておく。『北海道室蘭から恵山(えさん)岬』(ここ)『を経て函館までの沿岸と、青森県の津軽海峡沿岸三厩(みんまや)から大間崎を経て岩屋』(ここ)『に至る沿岸、さらに朝鮮半島東海岸北部沿岸に分布する。葉体の長さは2m、幅30~40㎝に達し、基部は広い楔(くさび)型、外形はマコンブに似るが葉面全体に雲紋状の特徴的な凹凸模様が列をつくる粘質にとんでいるため、とろろこんぶ、おぼろこんぶ、ばってら用として利用される。最近は多量に含まれるフコダインが抗癌(がん)、肝炎予防、増毛、血圧降下の効果があるといわれ、また、動脈硬化、脳卒中、心筋梗塞(こうそく)などを予防する生物活性であることが確認されたため、これを原料に予防健康食品や化粧品の開発、発売がなされている。』とある。]
■「とろ〻昆布」
[やぶちゃん注:キャプションなし。二つ前と同じ。]
■「猫足昆布」
[やぶちゃん注:これは、
ネコアシコンブ属ネコアシコンブ(猫足昆布) Arthrothamnus bifidus(別名「ミミコンブ(耳昆布)」)
である。例の「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)の同種の記載を引用しておく。『[学名] Arthrothamnus bifidus (GMELIN)RUPRECHT』、『[学名の由来]2つの足の』、『[漢字名]猫足昆布』、『【分布】 北海道』、『【生育場所】 潮下帯』。『【大きさ】 長さ1~3m、葉部の幅10~15㎝』、『【解説】 ネコアシコンブ属 Arthrothamnus は「関節を持つ木」の意。二歩には本種のみが知られる。和名は付着部の仮根がネコの足先の形に似るのでつけられた。波の荒い岩礁域に生育する。1年目の藻体は写真のような1枚の葉体からなるが、2年目以降、付着部が2つに分かれて、2枚の葉体をもつようになる。北海道東部の地域でしか見られない。多年生。』とある。中村康夫先生の素敵に美しい鮮明な新鮮な生体写真二枚をシラっと垣間見せようと思ってスキャンしたが、私のものでは、解像度が低く、話しにならなかった。学名で海外サイトも見たが、中村先生の、まさに「足」にも足らないクソ写真しかなかった! 是非、同書を買って見て戴きたい!!!]
■「鬼昆布」
[やぶちゃん注:キャプションなし。これは、そのまま、
マコンブ変種オニコンブ(=「羅臼昆布」) Saccharina japonica var. diabolica
である。前掲の「新版 食材図典 生鮮食材篇」(小学館二〇〇三年刊)の解説を引いておく。同種の異名は多く、『ハバヒロ、オオハバヒロ、イタコンブ、モトゾロエコンブ、クキナガ、ハルクキナガ、オオアツバ、ロシアコンブ、メナシコンブ、ラウスコンブ』と冒頭に並び、『北海道の厚岸(あっけし)から根室を経て、尻床から羅臼(らうす)沿岸と、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)、樺太(からふと)各沿岸に生育し、比較的静穏な海域に分布する。二~三年生で、茎が太く、短く、葉は幅広で基部が広く張り出す。長さ3m、幅30㎝、厚さは5㎜、以上になるが、縁辺は薄く大きく波打つ。乾燥品の葉質はやわらかい。香りがよく、黄色みを帯びたコクのある出汁(だし)がとれる。出汁用、こんぶ茶、加工用に利用される。』とある。]
■「厚岸抦長昆布《あつけしえながこんぶ》」
[やぶちゃん注:キャプションなし。「抦」は「柄」の誤字である。国立国会図書館デジタルコレクションの「田中芳男君七六展覽會記念誌」(大日本山林會編・大正二(一九二三)年大日本山林會刊:田中芳男(天保九(一八三八)年~大正五(一九一六)年:博物学者。「日本の博物館の父」として知られる人物。詳しくは、参照した当該ウィキを見られたい)のここに、
*
(三四九)柄長昆布搨寫圖幅[やぶちゃん注:「とふしやづふく」。模写した図。] 柄長い昆布一名大葉昆布と稱す北海道釧路國厚岸灣の產なり。下啓助氏該地に旅行の際携歸る所の者にして柄の長さ二尺許あるものを搨寫するものなり氏の話しに此品は土人は「チャンチャコブ」と稱し嫩小[やぶちゃん注:「どんしやう」か。「若く小さいこと」であろう。]のとき食して美味なりと云ふ。
*
とある。さて、この種であるが、ネットでは、複数の学術的記載で、
エナガコンブ、或いは、カキジマコンブの和名
を示し、
学名を Saccharina longipedalis [ Laminaria longipedalis ]
と記すのであるが、私が最も信頼する鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」のこちらで、
Saccharina longipedalisは、前掲のオニコンブのシノニム
としておられる。]
■「桂昆布」
「『がつからこぶ』といふ。」
[やぶちゃん注:これは、
ガッガラコンブ(=「厚葉昆布」)Saccharina coriacea
である。但し、この図、製品化したものを、恐らく、下方で結束したもの描いたもので、生態図と間違えないように注意されたい。本種は、仮根から一本に伸びた単体であり、このように放射状には、決して生えない。最後なので、田中次郎先生の著になる「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)の同種の記載を引用させて戴く(一部の属名解説は改定以前なのでカットする)。種小名は『革質の』で、『【分布】北海道北東部』、『【大きさ】長さ3~4m、葉部の幅8~20㎝ 【類似種】他のコンブ類』『【解説】』『本種では中帯部が広く、葉の幅の6~7割を占める。色は黒々としており、質は厚い革のようである。名前は乾燥したときに葉がぶつかりあう音に由来する。おもに釧路地方に見られる。ナガコンブと同じ場所に生育するが、低潮線下7mぐらいまで分布する。葉が厚く「厚葉コンブ」と呼ばれる。』とある。
「桂昆布」という漢字名は、当初、和名のミミクリーの漢字転写と思ったのだが、ふと、感ずることがあった。それは、アイヌの時代からのコンブ類の名産地の一つに、北海道釧路市桂恋(かつらこい)という素敵な地名があることを、かなり前から知っていたからであった。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『釧路市のホームページは「水鳥が波に集まる」という意味のアイヌ語に由来するとする一方、江戸時代のアイヌ語通詞だった上原熊次郎は「カチロコイ。此の山辺にカチロコイと囀る小鳥のある故字になすという」と記録し、幕末の探検家・松浦武四郎は』「東蝦夷日誌」『に「カツラコイ。名義は、往昔カツラコイ・チリといへる鳥が多く寄りしが故に号ると」と記している』。一九七五『年発行の』「北海道地名誌」『ではコシジロウミツバメ』(腰白海燕:ミズナギドリ目ウミツバメ科オーストンウミツバメ属コシジロウミツバメ Hydrobates leucorhous )『を表す「カンヂャラコイ」がなまったものとしている。』とあり、この「カンヂャラコイ」には、そこはかとなく、「ガッガラ」の音通の感じがしたからである。例えば、国立国会図書館デジタルコレクションの『釧路叢書』第二十六巻(一九八八年・釧路市刊)のここの、『昆布村桂恋』を見られたい。]