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2024/06/16

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(7)

 

   煤掃や埃に日のさす食時分 千 川

 

 煤掃[やぶちゃん注:「すすはき」。]が一わたり濟んで晝飯になる。まだ片づききらぬ家の中で飯を食ふ。がらんとした室内に冬の日光がさし込んで、こまかい埃の浮動するのが見える、といふ意味であらう。「埃に日のさす」といふ言葉から見ると、一隅に掃寄せられたごみに日が當るといふ意味に解せられぬこともないが、それでは趣が少い。飯時分になつて稍〻落著いた室內に、さし入る日光をしみじみと見る。その中に浮動する埃にも或美しさを感ずる、といふことでなければならぬと思ふ。

「食時分」は「メシジブン」とよむのである。

 特に煤掃の時といふ記憶は無いが、日光に浮動する埃の美しさを感じたことは、吾々も子供の時分にある。美に對する子供の感じは存外早く發達するのである。あの中に無數の黴菌があるといふやうなことばかり敎へて、何ものの中にも美の存することを知らしめぬのは、果して子供の爲に幸福であるかどうか。――この句を讀んでそんな餘計なことを考へた。

 

   冬枯や物にまぎるゝ鳶の色 吏 明

 

 冬になつて天地が蕭條たる色彩に充される。さういふ天地の間に在る時、茶褐色の鳶の姿が物にまぎれて見えるといふのであらう。保護色などといふ面倒な次第ではない。鳶も亦冬枯色の中に存するのである。

 作者は冬枯の中に鳶を點じ去つただけで、鳶そのものの狀態に就ては何も說明してゐない。飛んでゐるか、とまつてゐるかといふことも、句の表には現してゐないが、冬枯を背景とし、その色彩に紛るゝとある以上、これはとまつてゐる鳶と見るを至當とする。「物にまぎるゝ」といふ七字が簡單にこれを悉してゐる[やぶちゃん注:「つくしてゐる」。]。

 

   麥まきや風にまけたる鳶烏 吏 明

 

 寒い畑に出て麥を蒔まきつゝある。强い風が野一面に吹きまくる。先程まで飛んでゐた鳶も烏も、風に堪へられなくなつたと見えて、そこらに影が見えなくなつた、といふ意味かと思はれる。

「風にまけたる」といふ言葉は上乘のものではないかも知れない。たゞ現在風に吹かれつゝある――吹き惱まされつゝある狀態だけでなしに、今し方まで飛んでゐたのが、いつか見えなくなつたといふ時間的經過を現し、その上に風の强い意味まで含ませるとすれば、やはりかういふ意味の言葉を使はなければをさまらぬのであらう。この種の言葉も元祿期の一特徵である。

 

   初雪や桐の丸葉の片さがり 路 健

 

 雪に對して桐の葉を持出したところに特色がある。桐一葉は秋の到るを現すのに恰好なものであるが、それだからと云つて、桐の葉は冬を待たずに全部落ち盡すわけではない。かなり遲くまで枝についてゐる葉がある。同じ作者の句に「初雪や桐の葉はまだ落果ず」といふのがあるが、これは桐の梢がまだ幾葉もとゞめてゐることを現したのである。「片さがり」の句はその葉の一に目をとめて、片さがりになつてゐる狀態を捉へた。「丸葉」は今の人だつたら「廣葉」といふところかも知れない。

 俳句は或傳統の上に立つ詩である。季題趣味といふものも、傳統の上に立たなければ解し得ぬ點がいくらもある。併しそれが爲に、桐の葉は秋に落ちるものだから、雪に配するのは常磐木か枯木に限るといふやうな既成觀念を生じて來ると、多少の危險を伴ふことを免れぬ。句の趣は直に自然に就て探るべく、歲時記や既成觀念に支配される必要は少しも無い。古人も夙にそれを實行してゐることは、雪中の桐の葉がよく之を證してゐる。

 

   栴檀の實にひよ鳥や寒の雨 蘆 文

 

 この栴檀は二葉より馨しい[やぶちゃん注:「かんばしい」。]名木ではない。アフチの實である。嘗て新年に伊勢神宮に參拜した時、黃色い實のなつてゐる木があつて、センダンだと敎へられた。「栴檀のほろほろ落つる二月かな」といふ子規居士の句を成程と合點したが、今度はこの句を讀んであの木のことを思ひ出した。

 寒の雨の降る中を、鵯[やぶちゃん注:「ひよどり」。]が栴檀の實を食ひに來る。鵯も栴檀の實も等しく雨に濡れつゝある。寒いながら何となく親しい感じのする句である。

[やぶちゃん注:「ひよ鳥」スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵯(ひえどり・ひよどり) (ヒヨドリ)」を見られたい。

「栴檀は二葉より馨しい名木」双子葉植物綱ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album の中国語の異名。

「アフチ」ムクロジ目センダン科センダン属センダン変種センダンMelia azedarach var. subtripinnata 。私は花が大好き。

「栴檀のほろほろ落つる二月かな」明治二七(一八九四)年、満二十六歳の時の作。表記は、

   *

 栴檀のほろほろ落る二月かな

   *

である。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 杜仲

 

Totyu

 

とちう  思仲  思仙

     木綿  檰

      【和名波比末由美】

杜仲

     【昔有杜仲者服此

      得道因名之思仲

トウ チヨン   思仙皆由此義】

 

本綱杜仲生深山中樹髙數丈葉似辛夷及柘葉其皮折

之銀𮈔相連如綿故名木綿初生嫩葉可食其花實苦澀

其子名逐折【與厚朴子同名】

皮【甘微辛温】 肝經氣分藥潤肝燥補肝虛葢肝主筋腎主骨

 腎𭀚則骨強肝𭀚則筋健屈伸利用皆屬于筋杜仲能

[やぶちゃん字注:「𭀚」は「充」の異体字。]

 入肝而補腎治腰膝痛み以酒行之則爲効容易矣【惡玄參】

△按杜仲本朝古有之今亦有稱杜仲者皮相似而無𮈔

 入藥來於中𬜻者佳

 

   *

 

とちう  思仲  思仙

     木綿《もくめん》  檰《めん》

      【和名、「波比末由美《はひまゆみ》」。】

杜仲

     【昔し、杜仲と云ふ者、有り、此れを服

      して、道≪を≫得。因りて、之れを名

      づく。「思仲」「思仙」、皆、此の義の由

トウ チヨン   《よし》。】

 

「本綱」に曰はく、『杜仲、深山の中に生ず。樹の髙さ、數丈。葉、辛夷(こぶし)、及び、柘《しや》の葉に似る。其の皮、之れを折るに、銀𮈔《ぎんし》、相《あひ》連りて、綿《わた》のごとし。故に「木綿《もくめん》」と名づく。初生の嫩葉《わかば》、食ふべし。其の花實《くわじつ》、苦く澀《しぶ》し。其の子《たね》を「逐折《ちくせつ》」と名づく【「厚朴《かうぼく》」の子と名を同じくす。】。』≪と≫。

『皮【甘、微辛、温。】 肝經《かんけい》の氣分の藥にて、肝の燥(かは)くを潤《うるほ》し、肝の虛を補ふ。葢し、肝は、筋を主《つかさど》り、腎は、骨を主る。腎、𭀚(み)つれば、則ち、骨、強く、肝、𭀚《みつ》れば、則ち、筋、健(すくや)かなり。屈伸の利用、皆、筋に屬す。杜仲、能く、肝に入りて、腎を補ひ、腰・膝の痛みを治す。酒を以つて、之れを行(めぐら)す。則ち、効(しるし)を爲《なす》こと、容-易(たやす)し【「玄參《げんじん》」を惡《い》む。】。』≪と≫。

△按ずるに、杜仲、本朝、古《いに》しへ、之れ、有り。今に亦、杜仲と稱する者、有り、皮、相ひ似て、𮈔≪は≫、無し。藥に入るに≪は≫、中𬜻より來たる者、佳《よ》し。

 

[やぶちゃん注:真の漢方の「杜仲」の基原植物は、一科一属一種である、

双子葉植物綱トチュウ目トチュウ科トチュウ属トチュウ Eucommia ulmoides

である(新しいAPG分類体系ではガリア目Garryalesに分類されているが、このガリア目もガリア属 Garrya とアオキ属 Aucuba との三属二十種足らずの小世帯である)。中国大陸原産で、本邦には自生しない。当該ウィキによれば、『日本にトチュウが導入されたのは』大正七( 一九一八)年、或いは、『一説には』明治三二(一八九九)年と『されている』とあるので、良安の言っている、本邦にも、古くに杜仲が自生していた、というような文々は誤りである。而して、同前ウィキに『日本では平安時代に貴族階級で「和杜仲」という強壮剤が使われていたが、これはトチュウ科のトチュウではなく』、『ニシキギ科』Celastraceae『のマサキとされている』とあったので、考証する手間が省けた。その「マサキ」(柾・正木)とは、

ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus

で、中国・朝鮮半島・日本に自生する。現在のマサキの中文名は「冬青衛矛」である。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「杜仲(ガイド・ナンバー[085-11b]以下)。

「波比末由美《はひまゆみ》」小学館「日本国語大辞典」に、『植物「とちゅう(杜仲)」または、「まさき(柾)」の古名』とし、「杜仲」の本邦の使用例の初出を「出雲風土記」とし、他に「新撰字鏡」(平安前期末に書かれた漢和字書。昌住(しょうじゅう)著で昌泰年間(八九八~九〇一年)成立)が挙げられてある。

「杜仲と云ふ者、有り、此れを服して、道≪を≫得」言わずもがな、元は太古の仙人の名とする。かの秦の始皇帝が、晩年に、不老不死の妙薬の探索を徐福に命じ、仙人の名を持つ「杜仲」を服用していたという逸話もあるという。

「辛夷(こぶし)」良安は、もう、確信犯で「コブシ」と振っているだが、これは、厳密には「シンイ」と読んでおくべきで(東洋文庫訳も『しんい』とルビする)、所謂、諸人の知る所の、私の好きな花である、モクレン目モクレン科モクレン属ハクモクレン節コブシ Magnolia kobus ではないからである。同種の中文ウィキを見られると、標題が「日本辛夷」となっている通り、日本、及び、韓国の済州島の温帯から暖帯上部にのみ分布するからである(一九二〇年に青島(チンタオ)に導入されたとある)。されば、ここはモクレン属Magnolia に留めねばならないのである

「柘《しや》」これも日中で異なるので、音で読んでおいた。中国では、

バラ目クワ科ハリグワ連ハリグワ属ハリグワ(中文名「柘」) Maclura tricuspidata

である。平凡社「世界大百科事典」他によれば、中国・朝鮮に原産し、時に栽培される棘のあるクワ科Moraceaeの落葉小高木で、若枝は、よく伸び、また、腋芽は短くまっすぐ伸びて棘となる。葉は互生し、ほぼ楕円形。全縁で、表面はつやのある緑色、裏面は淡緑色。雌雄異株で、六月頃に開花する。雄花序は葉腋に出て、短い柄に頂生し、ほぼ球形、多数の花が密生する。花は四枚の花被と、それに対生する雄蕊四本からなる。雌花序も球形で,花には花被四枚と雌蕊一本があり、長い花柱が、花被の隙間から超出する。花被片は肉質となり、赤く熟し、食べられる。樹皮や根は薬用に、材は黄色の染料に、果実は食用に、樹皮は製紙材料になる。また、葉はクワより堅いが、カイコの餌とする。なお、同属種カカツガユ Maclura cochinchinensis は、やや蔓性の常緑木本で、暖帯南部から亜熱帯に広く分布し、本邦でも、山口県・四国南部・九州・琉球に自生する、とあった。一方、本邦の「柘」は、古名で二種に当たり、

ツゲ(柘植)目ツゲ科ツゲ属ツゲ変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica

バラ目クワ科クワ属ヤマグワ Morus bombycis

である。前者は当該ウィキを、後者はウィキの「クワ」にある「ヤマグワ」を見られたい。後者は中国のハリグワの近縁種ではある。

「初生の嫩葉《わかば》、食ふべし」いろいろ読んでみたが、確実に同種の「葉」を食用にすることがちゃんと記されてあるのは、サイト「Botanic薬草LAB.」の「杜仲について」であった。そこには、漢方薬剤のガチガチの説明としてではなく、『ここでは特に、食品として楽しむことができる「杜仲葉」について主にまとめました』とあって、『漢方の分類五味五性では「甘」「温」になります。(一部で、皮を「辛」と分類している文献もありますが、甘が一般的)』とし、「杜仲葉」の項に、『葉をお茶にした杜仲茶には、血流を良くし、交感神経に働きかけ、血圧を下げる効果が最も知られています。杜仲葉配糖体(ゲニポシド酸)』(Geniposidic Acid)『が血圧に効果が有るといわれていて、医学的に実験し査読を通って発表されている論文があります。その成果を元に、特定保健用食品に認定された商品も市販されています』。『そのほか「肝腎から来る冷え」「頻尿」、さらに「ダイエット」にも効果があると言われ、体脂肪率や体重が減ったという報告も』あり、『ノンカフェインで妊婦さんや幼児でも安心して飲むことができます』とあった。

『其の子《たね》を「逐折《ちくせつ》」と名づく【「厚朴《かうぼく》」の子と名を同じくす。】。』前項「厚朴」を参照されたい。

「玄參《げんじん》」中国の真正の基原植物はシソ目ゴマノハグサ科ゴマノハグサ属玄參Scrophularia ningpoensis で、浙江省と四川省に分布する。

「藥に入るに≪は≫、中𬜻より來たる者、佳《よ》し」「日本薬学会」公式サイト内の「ゴマノハグサ」に、『江戸時代に小野蘭山が、玄参の原植物としてゴマノハグサを当てたことから、日本ではゴマノハグサ』(ゴマノハグサ属ゴマノハグサ Scrophularia buergeriana 当該ウィキによれば、『日本では、本州の関東地方南部・中部地方・中国地方、九州に分布し、やや湿り気にある草地、草原などに生育』し、『国外では、朝鮮半島、中国大陸北部・東北部に分布する』とあった)『の根が用いられてき』たとあり、また、『現在、市場で流通している玄参の多くは、中国産のものとなってい』るとあった。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(6)

 

   朝霜に摺餌摺なり步長屋 梨 月

 

「步長屋」は「カチナガヤ」と讀むのであらう。「カチ」は徒侍[やぶちゃん注:「かちざむらひ」。]、普通にオカチといふやつである。徒士とも書き、步行とも書くやうに聞いてゐる。こゝで徒侍の分限などに就て、武家生活の方から何か云ふのは、吾々の任でもなし、又この句にさう必要なわけでもない。步長屋は徒侍の住んでゐる長屋と解してよさゝうに思ふ。

 霜の白く置いた朝、さういふ步長屋で小鳥にやるべき摺餌を摺つてゐる。小鳥は朝起だから、無論早旦に相違無い。ゴロゴロ摺る摺餌の音と、朝霜との間には感じの上の調和があるが、朝早く鳥の摺餌なんぞを摺つてゐるところに、武家生活の或斷面が現れてゐるやうな氣がする。但それは眼前の小景を捉へたまでで、さう面倒な知識を要するほどのものではない。

 

   更る夜や舟の咳きく橋の霜 雩 木

 

 深更の趣である。橋の上には已に白く霜の置いてゐるのが見える。そこを通りかゝつた時、圖らずも寒夜に咳く[やぶちゃん注:「しはぶく」。]聲を耳にした、それは橋の下あたりに泊つてゐる舟人の咳であつた、といふのである。「置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」――橋の上を踏む行人の姿よりも、水上を家として舟に寐る人の生活が思ひ浮べられる。

 店月橋霜は詩歌の題材として古來云ひ古された觀があるが、この句をして力あらしむるものは、深夜の水に響く舟人の咳である。この咳一聲あるが爲に、霜夜の天地の闃寂[やぶちゃん注:「げきせき」。]たる感じが却つて强くなる。行人の咳でなしに、姿は見えぬ舟人の咳であるだけに、一層あはれを感ぜしめる。

[やぶちゃん注:「雩木」「うぼく」と読んでおく。「雩」の原義は「雨乞い。夏の日照りの時に雨が降るように祈る祭祀」の意があるが、ここは「虹」の意であろう。

「置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」言わずもがな、「百人一首」六番歌で、中納言家持の一首。「新古今和歌集」の「卷第六 冬」に何故か入っているもので(六二〇番)、

   *

 かさゝぎの渡せる橋にをく霜の

    白きを見れば夜ぞふけにける

   *

「をく」はママ。

「店月橋霜」晩唐の温庭筠(おんていいん 八一七年~八六六年)の五言律詩、

   *

  商山早行   溫庭筠

 晨起動征鐸

 客行悲故鄕

 雞聲茅店月

 人迹板橋霜

 槲葉落山路

 枳花明驛牆

 因思杜陵夢

 鳧雁滿囘塘

   商山の早行(さうかう)

  晨(あした)に起き 征鐸(せいたく)を動かす

  客行(きやくかう) 故鄕を悲しむ

  雞聲(けいせい) 茅店(ばうてん)の月

  人迹(じんせき) 板橋(ばんきやう)の霜(しも)

  槲葉(こくえふ) 山路(さんろ)に落ち

  枳花(きくわ) 驛牆(えきしやう)に明らかなり

  因(よ)りて思ふ 杜陵(とりやう)の夢

  鳧雁(ふがん) 回塘(くわいたう)に滿つるを

   *

の第三句の「茅店月」と、第四句の「板橋霜」から。サイト「note」の高松仙人氏の『幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 月・霜」』によれば、この二句を、北宋の政治家文人として知られる『欧陽脩』(一〇〇七年~一〇七二年)『が感賞して、「これは梅聖兪」(せいゆ:北宋中期の詩人で官僚の梅堯臣(一〇〇二年~一〇六〇年)の字(あざな))『の云うところの表しがたい状景で、目前に在るようだが』、『表せない意(おもい)を、言外に見えるようにしたものである。」として、自身も「鳥声梅店雨、野色版橋春」の一聯を作ることになったと云う』とあった。

「闃寂」「げきじやく」(げきじゃく)とも読む。「ひっそりと静まって寂しいさま」を言う。]

 

   火のきえておもたうなりぬ石火桶 蘭 仙

 

 理窟屋に聞かせたら、火の有無は重量に關係はない、といふかも知れぬ。そこは感じの問題である。炭のおこつてゐる時はさほどに思はぬのが、火が消えて冷たくなつたら、ひどく重く感ずる。石火桶であれば、その冷たさも、重さも、二つながら普通の火鉢以上であらう。

 

   底寒く時雨かねたる曇りかな 猿 雖

 

「底寒く」といふことは「底冷え」などといふ言葉と同じく、しんしんと底から寒いやうな場合を云ふのであらう。空が曇つて時雨でも來さうになつたが、遂に降らず、依然としてどんより曇つてゐる。さうして底寒い。何となく凝結したやうな狀態である。

 時雨は關東の地に絕無といふわけでもあるまいが、山に遠い關東平野の中にゐる吾々は、さつと來て直に去る初冬の時雨なるものに緣が無い。その代り京都の冬を談ずる者の必ず口にする「底冷え」なるものからも免れてゐる。時雨は底冷えのする土地の產物だと云つたら、或は語弊があるかも知れぬが、いづれも山近い土地の現象であるだけに、相互關係を否定出來まい。この句は時雨の降りかねた場合の寒さを、的確に現し得てゐる。

[やぶちゃん注:「猿雖」は「えんすい」と読む。窪田猿雖(寛永一七(一六四〇)年~宝永元(一七〇四)年)は伊賀蕉門の最古参の一人として、芭蕉から信頼された人物で、伊賀上野の富商であった。屋号は内神屋(うちのかみや)。元禄二(一六八九)年に出家し、俳諧に専念し、撰集「猿蓑」に二句、「續猿蓑」に七句、入集している。別号に意専がある。この句は、路健編「旅袋」に所収する。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 厚朴

 

Hounoki

 

かうぼく   烈朴 赤朴

 ほゝのき  厚皮 重皮

厚朴

        樹名榛

        子名逐折

      【和名保々加之波乃木

       今云保々乃木】

 

本綱厚朴生山谷中梓州龍州者爲上其木髙三四丈徑

一二尺膚白肉紫春生葉如槲葉四季不凋皮鱗皺而厚

紫色多潤者良五六月開細紅花結細實如冬青子生青

熟赤有核

皮【苦辛温】 其用有三平胃【一也】去腹脹【二也】孕婦忌之【三

 也】雖除腹脹若虛弱人宜斟酌用之誤服脫人元氣乃

 結者散之之神藥能瀉胃中之實平胃散用之佐以蒼

 术瀉胃中之濕平胃土之太過以致於中和而已非謂

[やぶちゃん注:」は「木」の異体字であるが、これは、諸漢方記事を見るに、「朮」の誤字である。訓読では、後の部分も「朮」に訂した。

 温補脾胃也蓋與枳實大黃同用則能泄實滿與陳皮

 蒼术同用則能除濕滿與解利藥同用則治傷寒頭痛

 與瀉痢藥同用則厚腸胃

 【不以薑製則棘人喉舌乾薑爲

  之使惡澤瀉忌豆食之動氣】

[やぶちゃん注:以上の割注は、以上のように、改行している。珍しい書式であるが、これは、続けて書くと、次の行に二字のみとなるのを嫌って、かく、したものと推定される。]

 新六 何そこの西の軒はのほゝかしは山のはまたて月そかくるゝ 知家

 六帖 みちのくの栗狛の山のほゝの木の枕はあれと君か手枕 人丸

△按厚朴葉大者近尺似槲葉而無刻齒淺綠色冬凋春

 生嫩葉夏開花狀似牡丹花而淺紫色大一尺許隨結

 實似冬靑子而熟則殻自裂裏赤中子黒老木皮有鱗

 皺剥入藥用膚白理宻微帶黃作刀劔鞘或釐等奩蓋

 其葉四季不凋者花紅細者並不當

 

   *

 

かうぼく   烈朴 赤朴

 ほゝのき  厚皮《かうひ》 重皮

厚朴

        樹を「榛《しん》」と名づく。

        子《み》を「逐折」と名づく。

      【和名、「保々加之波乃木《ほほかしはのき》」。

       今、云ふ、「保々乃木《ほほのき》」。】

 

「本綱」に曰はく、『厚朴、山谷《さんこく》の中に生ず。梓州《ししう》・龍州の者、上と爲《なす》。其の木、髙さ、三、四丈。徑《めぐ》り、一、二尺。膚《はだへ》、白く、肉、紫。春、葉を生ず、槲(かしは)の葉のごとく、四季、凋まず。皮に鱗《うろこ》の皺(しわ[やぶちゃん注:ママ。])ありて、厚し。紫色。多く、潤《うるほ》ふ者、良し。五、六月、細《こまやか》なる紅≪の≫花を開き、細《こまやか》なる實《み》を結ぶ。「冬青(まさき)」の子(み)のごとし。生《わかき》は、青く、熟《じゆくせ》ば、赤く、核《たね》、有り。』≪と≫。

『皮【苦辛、温。】 其の用、三《みつ》、有り。胃を平《たひ》らぐ【一《いつ》なり。】。腹の脹《は》りを去る【二なり。】。孕婦には、之れを忌む【三なり。】。腹の脹りを除くと雖も、虛弱の人のごときは、宜しく斟酌《しんしやく》して之れを用ふべし。誤り、服すれば、人の元氣を、脫す。乃《すなはち》、結する者、之れを散ずるに、之《これ》、神藥にて、能く、胃中の實《じつ》を瀉《しや》す。「平胃散」に、之れを用ひて、佐《さ》するに、「蒼朮《さうじゆつ》」を以つて、胃中の濕《しつ》を瀉し、胃土の太過《たいくわ》を平らげ、以つて、中和を致すのみ。脾胃を温補《おんほ》すると謂ふに非ざるなり。蓋し、「枳實《きじつ》」・「大黃《だいわう》」と、同じく用ゆれば、則ち、能く、實滿《じつまん》を泄《せつ》す。「陳皮《ちんぴ》」・「蒼朮」と同じく用ふれば、則ち、能く濕滿《しつまん》を除く。解利の藥と同じく用ふれば、則ち、傷寒・頭痛を治し、瀉痢の藥と、同≪じく≫用ふれば、則ち、腸胃を厚くす。』≪と≫。

『【「薑《きやう》」≪にて≫製《せい》≪を≫以つてせざれば、則ち、人の喉《のど》・舌を、棘(いらつ)かす。「乾薑《けんきやう》」を、之れが「使」に爲《な》す。澤瀉《たくしや/おもだか》を惡《い》み[やぶちゃん注:「忌み」に同じ。]、豆を忌む。之れを食へば、氣を動かす。】』≪と≫。

 「新六」

   何《なに》ぞこの

       西の軒ばの

    ほゝかしは

      山のはまたで

       月ぞかくるゝ 知家

 「六帖」

   みちのくの

       栗狛(くりこま)の山の

    ほゝの木の

      枕はあれと

       君が手枕(たまくら) 人丸

△按ずるに、厚朴、葉の大なる者は、尺に近く、槲(かしは)の葉に似て、刻齒《きざみば》、無く淺綠色。冬、凋≪み≫、春、嫩葉(わか《ば》)を生ず。夏、花を開く。狀《かたち》、牡丹の花に似て、淺紫色。大いさ、一尺許《ばかり》。隨ひて、實を結ぶ。「冬靑(まさき)」の子《み》に似て、熟すれば、則ちお、殻、自《おのづか》ら、裂(さ)け、裏、赤《あかし》。中の子《たね》、黒し。老木の皮、鱗皺《うろこじは》、有り。剥(は)ぎて、藥用に入《いるる》。膚《はだへ》、白く、理(きめ)、宻(こまか)にして、微《ちと》、黃を帶ぶ。刀劔の鞘(さや)、或いは、釐-等(でぐ)の奩(いえ[やぶちゃん注:ママ。「家(いへ)」で「箱」のこと。「釐-等の奩」の私の注を見られたい。])に作る。蓋し、「其の葉、四季、凋まざる。」と云≪ひ≫[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、花、紅にして、細きなり。」と云ふは[やぶちゃん注:同前。]、並びに、當たらず。

 

[やぶちゃん注:これは、良安の種の類推に、非常に、問題がある。それについて、東洋文庫では後注で、「冬青(まさき)の子に似て」という部分を指摘にして、『良安は冬青をマサキと認識して話をすすめているが、中國の冬青は現在ではナナメノキとされている』とあるからである。この以下に続く痙攣的誤謬の堆積物を、まず、「腑分け」しなければならない。

「冬青」は本邦に於いては、現行、双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属ソヨゴ Ilex pedunculosa の漢字表記

である。当該ウィキによれば、ソヨゴは『常緑樹で』、『冬でも葉が青々と茂っていることから「冬青」の表記も見られる』しかし、『「冬青」は常緑樹全般にあてはまることから、これを区別するために「具柄冬青」とも表記され』、『中国』の『植物名でも』「具柄冬青(刻脈冬青)」『と表記される』とあり、当該中文ウィキでも、そうなっている(他に別名として「長梗冬青」も挙げられてある)。ところが、良安は、この「冬青」に『マサキ』とルビしてしまっている。しかし、「マサキ」は、

ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus

であって、上位の科タクソンで異なる、全くの異種なのである。翻って、本標題の「厚朴」は、現行では、「ナナメノキ」の異名を持つ、

〇モチノキ目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis

を指すのである。中文名も正しく「冬青」である。Wikispecies」の「Ilex chinensisの終わりにある「一般名」に「中文:冬青」とあるので、間違いない。従って、

「本草綱目」で時珍が記述している「厚朴」はのナナミノキと断定してよい

ということになるのである。こうした多重錯誤が行われているため、話しが全く噛み合わなくなってしまっており、結果、ドン尻で、良安は、『蓋し、「其の葉、四季、凋まざる。」と云、花、紅にして、細きなり。」と云ふは、並びに、當たらず。』と不満をブチ挙げるに至っているのである。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「厚朴」(ガイド・ナンバー[085-8a]以下)はかなり長いので、各自で見られたい。

 以上で比定同定した「厚朴」=「ナナミニノキ」について、小学館「日本大百科全書」から引用しておく(当該ウィキは、失礼乍ら、記載が頗る貧困で、樹形等の写真ぐらいしか役に立たない)。『ななみのき』は『七実木』であり、『モチノキ科』Aquifoliaceae『の常緑高木。高さは』十『メートルに達する。幹は灰褐色、若枝は緑色で稜がある。葉は厚く、長卵状楕円形、長さ』七~十三『センチメートル、低い鋸歯がある。花は』六『月、葉腋から出た集散花序につき、淡紫色。雌雄異株。核果は球形、径約』六『ミリメートルで、赤く熟す。静岡県以西の本州、四国、九州』、及び、『中国に分布し、山地に生える。美しい実が多くなるので』、『この名がある。材は器具材とし、樹皮から』「トリモチ」や『染料をとる』とあった。中文ウィキは存在しない。英文の当該種のウィキを見るに、『冬青は伝統的な中医学で使われる五十種の基本的な生薬の一つで、「冬青」(中国語名「冬青」)という名前で呼ばれている。中医学では、血行を促進し、鬱血を取り除いて、熱と毒素を排除するとされている。狭心症・高血圧・ぶどう膜炎(眼の中の「虹彩」・「毛様体」・「脈絡膜」から成る非常に血管の多い組織を総称して「ぶどう膜」と呼び、そこに炎症が起こる病気を指すが、実際には、「ぶどう膜」だけではなく、脈絡膜に隣接する「網膜」や、眼の外側の壁となっている「強膜」に生じる炎症も含んで総称する)、・咳・胸部圧迫感・喘息等の症状を改善すると信じられている。また、本種の根は、皮膚感染症・火傷・外傷に局所的に塗って効果がある。中国やヨーロッパの多くの都市で街路樹として使用されている』といった内容が記されてあった。これらの対応疾患は、時珍の記述によく一致することが判る。

「榛《しん》」「本草綱目」の「厚朴」の「釋名」に出てしまっているのだが、これもコマッタちゃんで、現行では、

ブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ変種 Corylus heterophylla var. thunbergii

を指す。

「逐折」中文の「中醫世家」のここに見つけた。『杀鼠,益气明目。一名百合。浓实,生禾间,茎黄,七月实黑,如大豆。』とあるので、この「益气明目」は「当たり」である。

『和名、「保々加之波乃木《ほほかしはのき》」。今、云ふ、「保々乃木《ほほのき》」。』これもまた、ダブル・コマッタちゃんだ! これは、「ホオ」「ホオガシワ」の異名を持つ、ジェンジェン違う、

モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata

だがね!!

「梓州《ししう》」南北朝時代から宋代にかけて、現在の四川省綿陽市(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)南部に設置された州名。

「龍州」南北朝時代から明代にかけて、現在の四川省の綿陽市北部と、同省の広元市西部に跨る地域に設置された州名。

「槲(かしは)」繰り返さないが、先行する「柏」の項では、良安は、そこでは、この「槲」を「くぬぎ」と読んじゃってるのだ。やり過ぎのドタバタ・コメディを見てるような呆れたありさまである。

「冬青(まさき)」このルビを以って、「マサキ」が「厚朴」とイコールと断じて「本草綱目」の記載を読んでしまった良安の認識こそが地獄の坩堝落ちの大脱線の始まりであったのである。

「平《たひ》らぐ」平静な状態に戻す。

「胃中の實《じつ》を瀉《しや》す」胃の内部にある、異常な食物の固まったものを排泄・除去する。

「平胃散」サイト「おくすり110番」の「平胃散」を見られたい。「Ⅰ作用」の「働き」に『平胃散(ヘイイサン)という方剤』は、『胃の働きをよくして、水分の停滞を改善し』、『その作用から、消化不良による胃もたれ、胃のチャポチャポ、お腹のゴロゴロ、下痢などに適応し』、『体力が中くらいの人を中心に広く用いることができ』るとあって、「組成」の項に、『平胃散の構成生薬は、胃腸によい下記の』六『種類で』あるとして、「厚朴」を『健胃作用』があるとし、蒼朮・厚朴・陳皮・生姜(ショウキョウ:薑(ショウガ))・大棗(タイソウ)・甘草をリストする。

「佐《さ》するに」「主薬の補助剤とし」の意。

「蒼朮《さうじゆつ》」はキク目キク科オケラ属ホソバオケラ Atractylodes lancea の根茎の生薬名。中枢抑制・胆汁分泌促進・抗消化性潰瘍作用などがあり、「啓脾湯」・「葛根加朮附湯」などの漢方調剤に用いられる。参照したウィキの「ホソバオケラ」によれば、『中国華中東部に自生する多年生草本。花期は』九~十『月頃で、白〜淡紅紫色の花を咲かせる。中国中部の東部地域に自然分布する多年生草本。通常は雌雄異株。但し、まれに雌花、雄花を着生する株がある。日本への伝来は江戸時代、享保の頃といわれる。特に佐渡ヶ島で多く栽培されており、サドオケラ(佐渡蒼朮)とも呼ばれる』とある。

「胃土」東洋文庫訳では、割注があって、『(胃は五行の土にあたる)』とある。

「太過《たいくわ》」「大過」とも書く。ここは、易(えき)の六十四卦の一つ。「沢風大過」とも称し、「四陽」が「中(ちゅう)」に集まり、「二陰」が外にあるために、陽が盛大に過ぎる状態を指す語であろう。

「枳實《きじつ》」ミカン・ダイダイ・ナツミカン等の未熟果実を乾燥させたもの。漢方で健胃・胸痛・腹痛・鎮咳・去痰などに薬用とする。

「大黃《だいわう》」ダイオウ。タデ目タデ科ダイオウ属 Rheum の一部の種の根茎の外皮を取り去って乾燥したもので、健胃剤・潟下剤とする。「唐大黄」と「朝鮮大黄」との種別がある。

「實滿《じつまん》を泄《せつ》す」消化器系で閉塞を起こしているものを、排泄させる。

「陳皮《ちんぴ》」中国では熟したムクロジ目ミカン科ミカン属マンダリンオレンジ Citrus reticulata の果皮を観想させたものであるが、本邦では熟したミカン属ウンシュウミカン Citrus unshiu のそれで代用する。

「濕滿《しつまん》を除く」「漢方で言う体内の病的な湿気(しっき)の膨満状態を取り除く」の意。

「解利の藥」東洋文庫の割注に、『(利き目のするどいのを緩める薬)』とある。

「傷寒」漢方で「体外の環境変化により経絡が冒された状態」を指し、具体には、「高熱を発する腸チフスの類の症状」を指すとされる。

「薑《きやう》」「乾薑」漢方生薬としては「良姜」で、ショウガ目ショウガ科ハナミョウガ属 Alpinia の根茎を乾したものを指す。

「澤瀉《たくしや/おもだか》」ここは正しくは「たくしや」(たくしゃ)で読むのが正しいが、良安が「おもだか」と読んでいた可能性を完全には排除出来ないので、かく、した。本邦で「澤瀉」は、

単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ Sagittaria trifolia

を指すのであるが、中国では、

オモダカ科サジオモダカ属ウォーター・プランテーン変種サジオモダカ Alisma plantago-aquatica var. orientale

属レベルで異なる別種の塊茎を乾燥させたものを「澤瀉」と言うからである。詳しくは、私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 澤瀉(をもだか) (オモダカ)」を参照されたい。

「新六」「何《なに》ぞこの西の軒ばのほゝかしは山のはまたで月ぞかくるゝ」「知家」「新六」は「新撰和歌六帖(しんせんわかろくぢやう)」で「新撰六帖題和歌」とも呼ぶ。寛元二(一二四三)年成立。藤原家良(衣笠家良)・藤原為家・藤原知家(寿永元(一一八二)年~正嘉二(一二五八)年:後に為家一派とは離反した)・藤原信実・藤原光俊の五人が、寛元元年から同二年頃に詠んだ和歌二千六百三十五首を収録した類題和歌集。奇矯・特異な詠風を特徴とする。日文研の「和歌データベース」の「新撰和歌六帖」で確認した。「第六 木」のガイド・ナンバー「02483」である。

「六帖」「みちのくの栗狛(くりこま)の山のゝの木の枕はあれと君が手枕(たまくら)」「人丸」「六帖」は「古今和歌六帖」のこと。全六巻。編者は紀貫之、或いは、「和名類聚鈔」で知られる源順(したごう)とも言われる。草・虫・木・鳥等の二十五項、五百十六題について和歌を掲げた類題和歌集。十世紀の終わり近く、円融・花山・一条天皇の頃の成立か。成立年代は未詳であるが、貞元元(九七六)年から永延元(九八七)年まで、又は源順の没年である永観元(九八三)年までの間が一応の目安とされる。日文研の「和歌データベース」の「古今和歌六帖」で確認した。「第五 服飾」のガイド・ナンバー「03237」である。「栗狛の山」とは山体が宮城・秋田・岩手の三県に跨る栗駒山(くりこまやま:標高千六百二十六メートル)のこと。なお、「夫木和歌抄」にも載るが、そちらでは「読人不知」である。

「釐-等(でぐ)の奩(いえ《✕→いへ》)」割注したが、まず、後半を順序立てて言うと、「奩」は音「レン」で、古くは、漢代の化粧用具の入れ物を指した。青銅製と漆器とがり、身と蓋とから成り、方形や円形のものがある。この中に、鏡や小さな容器に詰めた白粉(おしろい)・紅・刷毛・櫛などを入れる。また,身が二段重ねになっており、上段に鏡を,下段に白粉などを入れるタイプもある。長沙の馬王堆一号漢墓や楽浪の王光墓などから出土している。という訳でここは、まずは、ざっくりと「箱」のことと捉えて欲しい。さて、問題は前の部分で、始めは意味が判らなかった。まず、「釐等」を調べると、小学館「日本国語大辞典」に、「れいてんぐ」で「釐等具・厘等具」と漢字表記し、『「れい」「てん」はそれぞれ「釐」「等」の唐宋音』とし、『釐(りん)・毫(ごう)のような少量までを量るのに用いる秤(はかり)。明治初年頃まで、金銀などの貴重品の重さを量るのに用いた』とある。さすれば、金銀の重量を計る器具を入れる「奩」=「箱」? なんか、今一、ピンと来ない。ところが、後に読みが続き、「れいてん。れてぐ。れいてぐ。れていぐ。れてん。」とあった。而して、良安は「釐等」に対して「テグ」とルビしている。――決定打は東洋文庫の訳で――『釐等奩(にんぎょうばこ)』――とあったので、瞬時に氷解した。「テグ」は「デグ」で、その発音を用いただけであり、「でぐ」の意味は「木偶」(でく・でぐ)のことで、大道芸人が操る木彫りの「人形」や、仕掛けを施した「操り人形」を指し、「その芸人が木偶人形を入れて旅をし、人形操りの台にもした奩」=「人形箱」の意なのだった。]

2024/06/15

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 波牟乃木

 

Hannoki

 

はんのき  正字未詳

波牟乃木

 

 

△按波牟乃木生山中髙者二三丈葉似栗而輭花亦似

[やぶちゃん注:「輭」は「軟」の異体字。]

 栗花而褐色實似杉實其木肌心白色見日則變赤今

 染家用梅木煎汁中投此木屑經宿以染赤色

 

   *

 

はんのき  正字、未だ詳かならず。

波牟乃木

 

 

△按ずるに、波牟乃木、山中に生ず。髙き者、二、三丈。葉、栗に似て、輭《やはらか》。花も栗の花に似て、褐色。實、杉の實に似≪て≫、木肌・心、白色。日《ひ》を見れば、則ち、赤に變ず。今、染家(そめものや)、梅≪の≫木の煎汁《せんじじる》を用ひて、中≪に≫此の木屑(《き》くず[やぶちゃん注:ママ。])を投じて、宿を經て、以て、赤色を染む。

 

[やぶちゃん注:「はんのき」「波牟乃木」は、

双子葉植物綱ブナ目カバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonica

である。良安は、「正字、未だ詳かならず」と言っているが、当該ウィキによれば、『古名を榛(はり)といい、ハンノキという名称はハリノキ(榛の木)が変化したものである』。現在の『中国名は「日本榿木」。別名はヤチハンノキで』、『湿地のハンノキの意味でよばれている』。『岩手県の地方名にヤチバがある』。但し、『漢字表記に用いる「榛」は』、本来、『ハシバミ』(ブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii )『の漢名で』、『ハンノキに用いるのは日本独自の用法であ』り、『また、漢名に赤楊』(これは『を当てたが、これ』も『本来』(これは文字列から「赤い、枝が垂れずに立ち上がるヤナギ科 Salicaceaeの柳の一種」の意になってしまう)、『誤用である』とする(以下、注記記号はカットした)。『日本の北海道から九州、沖縄まで、朝鮮半島、台湾、中国東北部、ウスリー、南千島に分布する。低地の湿地や低山の川沿いに生え、日本では全国の山野の低地や湿地、沼に自生する。湿原のような過湿地において森林を形成する数少ない樹木。田の畔に植えられ、近年では水田耕作放棄地に繁殖する例が多く見られる。普通の樹木であれば、土壌中の水分が多いと酸欠状態になり生きられないが、ハンノキは耐水性を獲得したことで湿地でも生き残ることができる』。『落葉高木で、樹高は』四~二十『メートル』、『直径』六十『センチメートル』『ほど。湿地周辺部の肥沃な土地では、きわめてよく生長を示すものがあって、高さ』三十『メートル、幹回りの直径』一『メートルを超す個体もあるが、湿地中央部に生える個体は成長は減退して大きくならない。樹皮は紫褐色から暗灰褐色で、縦に浅く裂けて剥がれる。葉は有柄で互生し、長さ』五~十三センチメートルの『長楕円形から長楕円状卵形』で、『葉縁には浅い細鋸歯があり、側脈は』七~九『対。葉の寿命は短く、緑のまま次々と落葉する。春先に伸びた』一『葉や』二『葉(春葉)の寿命は、以降に延びた葉(夏葉)よりも短いため』六『月から』七『月になると』、『春葉が集中的に落葉する事が報告されている』。『花期は冬』から初春の十一~四『月頃で、葉に先だって単性花をつける。雌雄同株で、雄花穂は枝先に』一~五『個』、『付き、黒褐色の円柱形で尾状に垂れ下がる。雌花穂は楕円形で紅紫色を帯び、雄花穂の下部の葉腋に』同じように一~五『個』を『つける』。『花はあまり目立たない。また、ハンノキが密集する地域では、花粉による喘息発生の報告がある』。『果実は松かさ状で』同数『個ずつ』、『つき』、十『月頃』、『熟すと長さ』十五~二十『ミリメートルの珠果状になる。松かさに似た小さな実が翌年の春まで残る』。『冬芽は互生して、枝先につく雄花序と、その基部につく雌花序はともに裸芽で柄があり、赤みを帯びる。仮頂芽と測芽はどちらも葉芽で、有柄で』三『枚の芽鱗があり、樹脂で固まる。葉痕は半円形で維管束痕は』三『個ある』。『水田の畔に稲のはざ掛け用に植栽されている。しばしば』、『公園樹として、公園の池のそばに植えられる』。『伝統的な水ワサビの栽培においては』、『木々に囲まれた山の沢を再現するためにわさび田の中に植えられた。現在ではハンノキの代わりに日除けを設置することが多くなった』。『良質の木炭の材料となるために、以前にはさかんに伐採された。材に油分が含まれ生木でもよく燃えるため、北陸地方では火葬の薪に使用された。葉の中には、根粒菌からもらった窒素を多く含んでいて、そのまま葉が散るため、葉の肥料木としても重要である』。『材は軟質で、家具や器具に使われる』。『樹皮や果実は、褐色の染料として有効に使われている。また、抗菌作用があり、消臭効果が期待されている。ハンノキには造血作用のある成分が含まれるため』、『漢方薬としても用いられる』とある。

「宿を經て」「一晩、おいて」。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 黃櫨

 

Hajinoki

 

はじのき  和名波𨒛之

       俗云波時乃木

黃櫨

 

ハアン ロウ

[やぶちゃん字注:「𨒛」は「邇」の異体字。]

 

本綱黃櫨生山谷葉圓木黃可染黃色

木【苦寒】 治黃疸目黃水煮服之洗赤眼及湯火𣾰瘡

[やぶちゃん字注:「𣾰」は「漆」の異体字。]

△按黃櫨以染黃色天子御袍稱黃櫨染是也染帛上用

 砥水畧染則爲黑茶色其葉小淺青色莖微赤三四月

 開小白花結細子至秋紅葉

  新古今鶉なくかた埜にたてるはじ紅葉ちらぬばかりに秋風そふく親隆

[やぶちゃん注:最後の和歌の「ちらぬばかりに」は「ちりぬばかりに」の誤りであるので、訓読では訂した。]

 

  *

 

はじのき  和名、「波𨒛之《はにし》」。

       俗、云ふ、「波時乃木」。

黃櫨

 

ハアン ロウ

[やぶちゃん字注:「𨒛」は「邇」の異体字。]

 

「本綱」に曰はく、『黃櫨《くわうろ》、山谷に生《しやうず》。葉、圓《まろ》く、木、黃にして、黃色に染むべし。』≪と≫。

『木【苦、寒。】 黃疸≪がため≫、目、黃なるを治す。水≪にて≫煮て、之れを服す。赤眼《あかめ》、及び、湯火(やけど)・𣾰瘡(うるしまけ)を洗ふ。』≪と≫。

△按ずるに、黃櫨は、以つて、黃色を染む。天子の御袍(《ご》はう)、「黃櫨染(くわうろせん)」と稱す、是れなり。帛《きぬ》を染めて、上《うへ》に砥水《とみづ》を用ふ。畧《やや》染まれば、則ち、黑茶色を爲《なす》。其の葉、小さく、淺青色。莖、微《ちと》、赤≪し≫。三、四月、小≪さき≫白≪き≫花を開く。細≪かなる≫子《み》を結ぶ。秋に至《いたり》、紅葉す。

  「新古今」            親隆

    鶉なくかた埜にたてるはじ紅葉

       ちりぬばかりに秋風ぞふく

 

[やぶちゃん注:「黃櫨」(くわうろ(こうろ))「はじのき」は、日中ともに、

双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum

を指す。但し、現代の中文名は「野漆」で、同中文ウィキでは、異名を「野漆樹「大木漆」「山漆樹」「癢漆樹」「漆木」「檫仔漆」「山賊子」と挙げるのみで、「黃櫨」は記されていない。同種は中国・インドシナ原産で、琉球から最初に渡来したので、「リュウキュウハゼ」の名もある。本邦の当該ウィキによれば(注記記号は省略した)、『ハゼノキ(櫨の木・櫨・黄櫨の木・黄櫨)『はウルシ科ウルシ属の落葉小高木。単にハゼとも言う。東南アジアから東アジアの温暖な地域に自生する。秋に美しく紅葉することで知られ、ウルシほどではないがかぶれることもある。日本には、果実から木蝋(Japan wax)を採取する資源作物として、江戸時代頃に琉球王国から持ち込まれ、それまで木蝋の主原料であったウルシの果実を駆逐した』。『「ハゼ」は古くはヤマウルシ』(ウルシ属ヤマウルシ Toxicodendron trichocarpum )『のことを指し、紅葉が埴輪の色に似ていることから、和名を埴輪をつくる工人の土師(はにし)とし、それが転訛したといわれている』。『別名にリュウキュウハゼ(紅包樹)、ロウノキ、トウハゼなど。果実は』「薩摩の実」(薩摩藩が不当に琉球を実行していたことによる)『とも呼ばれる。中国名は、野漆 (別名:木蠟樹)』。『日本では本州の関東地方南部以西、四国、九州・沖縄、小笠原諸島のほか、朝鮮半島南西沖の済州島、台湾、中国、東南アジアに分布する。低地で、暖地の海に近い地方に多く分布し、山野に生え、植栽もされている。日本の山野に自生しているものは、かつて果実から蝋を採るために栽培していたものが、それが野生化したものが多いともいわれる。明るい場所を好む性質があり、街中の道端に生えてくることもある』。『ときに、庭の植栽としても見られる』。『雌雄異株の落葉広葉樹の小高木から高木で、樹高は』五~十『メートル』『ほどになる。樹皮は灰褐色から暗赤色で、縦に裂けてやや網目状の模様になる。一年枝は無毛で太く、縦に裂ける皮目がある』。『葉は奇数羽状複葉で』、九~十五『枚の小葉からなる。小葉は少し厚くて細長く、長さ』五~十二『センチメートル』『の披針形で先端が尖る。小葉のふちは鋸歯はついていない。表面は濃い緑色で光沢があるが、裏面は白っぽい。葉軸は少し赤味をおびることがある。秋には常緑樹に混じって、ウルシ科特有の美しい真っ赤な色に紅葉するのが見られる。秋にならないうちに、小葉の』一~二『枚だけが真っ赤に紅葉することもある』。花期は』五~六『月』で、『花は葉の付け根から伸びた円錐花序で、枝先に黄緑色の小さな花を咲かせる。雄花、雌花ともに花弁は』五『枚。雄花には』五『本の雄しべがある。雌しべは』三『つに分かれている』。『秋に直径』五~十五『ミリメートル』『ほどの扁平な球形の果実が熟す。果実の表面は光沢があり無毛。未熟果実は緑色であり、熟すと黄白色から淡褐色になる。中果皮は粗い繊維質で、その間に高融点の脂肪を含んだ顆粒が充満している。冬になると、カラスやキツツキなどの鳥類が高カロリーの餌として好んで摂取し、種子散布に寄与する。核は飴色で強い光沢があり、俗に「きつねの小判」、若しくは「ねずみの小判」と呼ばれる』。『冬芽は互生し、頂芽は円錐状で肉厚な』三~五『枚の芽鱗に包まれており、側芽のほうは』、『小さな球形である。落葉後の葉痕は心形や半円形で、維管束痕が多数見える』。『個人差はあるものの、樹皮や葉に触れても普通はかぶれを起こさないが、葉や枝を傷つけると出てくる白い樹液が肌に触れると、ひどくかぶれをおこす。また、枝や葉を燃やしたときに出る煙でも、かぶれることがある』。『よく似ている樹種に』同属の『ヤマハゼ( Toxicodendron sylvestre )があり、ヤマハゼは葉の両面に細かい毛が生えていて、紅葉が赤色から橙色で、鮮やかさはハゼノキよりも劣る印象がある。ハゼノキは葉の表裏ともに毛がない点で、日本に古来自生するヤマハゼと区別できる』。『果実を蒸して圧搾して採取される高融点の脂肪、つまり木蝋は、和蝋燭(Japanese candle)、坐薬や軟膏の基剤、ポマード、石鹸、クレヨン、化粧品などの原料として利用される。日本では、江戸時代に西日本の諸藩で木蝋をとる目的で盛んに栽培された。また、江戸時代中期以前は時としてアク抜き後焼いて食すほか、すり潰してこね、ハゼ餅(東北地方のゆべしに近いものと考えられる)として加工されるなど、救荒食物としての利用もあった。現在も、食品の表面に光沢をつけるために利用される例がある』。二十『世紀に入り安価で大量生産可能な合成ワックスにより、生産が低下したが、近年』、『合成ワックスにはない粘りや自然品の見直し気運などから需要が増えてきている』。『木材は、ウルシと同様心材が鮮やかな黄色で、工芸品、細工物、和弓、櫨染(はじぞめ)などに使われる。櫨染は、ハゼノキの黄色い芯材の煎じた汁と灰汁で染めた深い温かみのある黄色である。なお、日本の天皇が儀式に着用する櫨染の黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)』(☜同ウィキがあり、画像もあるので見られたい)『の色素原料は同じウルシ属のヤマハゼになる』。『美しい黄緑色の木蝋が採取でき、融点が高いため、和蝋燭の上掛け蝋(手がけ和蝋燭の一番外側にかける蝋)として利用される』。『通常、櫨に含まれる蝋分は』二十『%程度であるが、この櫨の実に占める蝋分は』三十~三十五『%と圧倒的に高いため、採取効率が最も良いとされる。以下、「主な種類」として、長崎県島原市原産の「マツヤマハゼ(松山櫨)」、松山櫨から品種改良された福岡県小郡市が原育成地で主産地を熊本県水俣市とする「イキチハゼ(伊吉櫨)」、愛媛県の優良品種「オウハゼ(王櫨)」が挙げられているが、品種と言いながら、学名は他で調べても見当たらない。『日本への渡来は安土桃山時代末の』天正一九(一五九一)年に『筑前の貿易商人 神屋宗湛や島井宗室らによって中国南部から種子が輸入され、当時需要が高まりつつあった蝋燭の蝋を採取する目的で栽培されたのが始まりとされる。他方、大隅国の』武将『禰寝重長』(天文五(一五三六)年~天正八(一五八〇)年)『が輸入して初めて栽培させたという説もある』。『江戸時代は藩政の財政を支える木蝋の資源植物として、西日本の各藩で盛んに栽培された』。『その後、江戸時代中期に入って中国から琉球王国を経由して、薩摩藩でも栽培が本格的に広まった。薩摩藩は幕末開国後の』慶応三(一八六七)年には、『パリ万国博覧会に』、『このハゼノキから採った木蝋(もくろう)を出品している』。『広島藩では』、一七〇〇『年代後半から藩有林を請山として貸出し、商人らがハゼノキをウルシノキとともに大規模に植林、製蝋を行っていた記録が残る』。『今日の本州の山地に見られるハゼノキは、この蝋の採取の目的で栽培されたものの一部が野生化したものとみられている』とあった。私の家の無駄にある斜面にも、かなりの大きさのそ奴が生えている。私は、四十代後半にウルシにかぶれになった(大好きだったマンゴーも、はたまた、キウィも食べられなくなった)ので、なるべく、その木の傍には行かないことにしている。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「黄櫨で、ガイド・ナンバー[085-7b]以下である。短いので、全原文を手を加えて転写しておく。

   *

黃櫨【宋、嘉祐。】

集解【藏器曰、「黃櫨、生商洛山谷四川界。甚有之葉、圓。木、黃可染黃色。】

木 氣味、苦寒無毒。主治除煩熱解酒疸目黄水煮服之【藏器。】。洗赤眼及湯火漆瘡【時珍。】

附方【「新一」。】大風癩疾【黃櫨木、五兩、剉用新汲水一斗浸、二七日、焙硏、蘇枋木五兩、烏麻子一斗、九蒸九暴、天麻二兩、丁香乳香一兩、爲末、以赤黍米一升、淘淨用浸黃櫨木煮、米粥搗、和丸梧子、大每服、二、三十丸、食後漿水下日二夜、一聖【「濟總錄」。】】。

   *

「赤眼」疲れや病気などのために目が赤く充血した状態を指す。

「砥水《とみづ》」刃物を砥石で研ぐ時に使う水。ここは、その研いだ後の混濁した水。なお、別に、濁っている色がそれに似ているところから「味噌汁」を指す大工仲間の隠語があるが、ここは本来の用法であろう。ウィキの「天然砥石」によれば、『原料は主に堆積岩や凝灰岩などであり、荒砥は砂岩、仕上げ砥は粒子の細かい泥岩(粘板岩)から作られ、中でも放散虫の石英質骨格が堆積した堆積岩が良質であるとされる』とあり、その成分が恐らく絹に染み込んだハゼノキの色素成分を固定させる性質があるのであろう。

「新古今」「親隆」「鶉なくかた埜にたてるはじ紅葉ちりぬばかりに秋風ぞふく」は、「新古今和歌集」の「卷第五 秋歌下」の平安後期の公卿藤原親隆(康和元(一〇九九)年~永万元(一一六五)年)の一首(六三九番)、

   *

  法性寺入道前關白太政大臣家歌合に 前參議親隆

 うづらなく

     交野(かたの)に立てる

    櫨(はじ)もみぢ

         散りぬばかりに

               秋風ぞふく

   *

「うづら」キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica 。博物誌は「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を見られたい。私の歌語としては、「憂づ」を匂わせるものである。「交野」交野ヶ原(かたのがはら)。河内国の歌枕。皇室の狩場があり、花の名所であった。現在の大阪府枚方市から交野市にかけて広がる丘陵地の慣習的な古地名。この南北の広域で、当該ウィキによれば、『広大な原野で大きな川が流れていたこともあり、多くの野鳥が集っており、貴族の遊猟地として栄えたとされている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)の中央の南北の広域に相当する。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(5)

 

   爐びらきや障子の穴の日のこぼれ 東 耕

 

 爐開の疊の上に――疊でなくても構はぬが、先づ疊と解するのが妥當であらう――障子の穴から日がさしてゐる。ぽつりと落ちたやうな日影を「こぼれ」と云つたのである。いさゝか巧を弄した言葉のやうでもあるが、最も簡潔にその感じを現したものと見ることが出來る。

 疊にさす小さな日影に目をとめる。そこに爐開頃にふさはしい、落著いた氣分が窺はれる。

 

   筆や氷る文のかすりのなつかしき 機 石

 

 人から來た手紙を讀んでゐると、ところどころ筆のあとのかすれたところがある。寒い夜半などに筆を執つて、穗先が氷つた爲にかすれたのであらうか、と想ひやつた句である。「文のかすり」と云つただけで、手紙の字がかすれてゐることを現し、その手紙を書く場合の寒さを想ひやるあたり、云ふべからざる情味を含んでゐる。

 蕪村の「齒豁[やぶちゃん注:「あらは」。]に筆の氷をかむ夜かな」といふ句は、自ら筆をかむ場合であり、身に沁み通るやうな寒さを現してゐる點において、特色ある句たるを失はぬ。機石の句はその點から云へば寧ろ平凡であらう。たゞ平凡の裡に何となく棄てがたいものがある。

[やぶちゃん注:蕪村の句は「蕪村句集 槇卷之下」に載る。表記は、

   *

 齒豁(アラハ)に筆の氷を嚙む夜哉

   *

である。]

 

   もの買に折敷をかぶる霰かな 燕 流

 

 折敷[やぶちゃん注:「をしき」。]といふ言葉は地方によつては使はれてゐるかも知れぬが、現在の吾々には稍〻耳遠い。『言海』には「飯器を載する具。片木へぎ作りの角盆」とあるから、あまり上等なものではなさそうである。買物に行くのにそれを持つて行くのは、何か載せて歸るためであらう。丁度霰が降つて來たので、笠か帽子の代りに折敷を頭にかぶつた、といふのである。霰が降つている中を買物に出るのに、傘をさすほどのこともないから、折敷をかぶると解しても差支ない。

 木導の句に「鍋屋からかぶつて戾る時雨かな」といふのがある。鍋を買ひに行つたか、修繕にやつたのを取りに行つたか、いづれにしても鍋屋から鍋を持つて歸る、折からの時雨に頭から鍋をかぶつて歸るといふので、この方が働いてゐるかと思ふ。折敷をかぶつて買物に出るといふよりも、鍋屋から鍋をかぶつて駈け戾るといふ方が、輕い卽興的なところがあつて面白い。

[やぶちゃん注:「鍋屋からかぶつて戾る時雨かな」この句は、「日本人の笑 文學篇」(池田孝次郎・柴田宵曲・森銑三共著/昭和一七(一九四二)三省堂刊)でも、採用している。この本は所持するが、共著者森銑三が著作権存続であるため、電子化は出来ない。国立国会図書館デジタルコレクションのここで原本の当該部をリンクさせておく。]

2024/06/14

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(4)

 

   麥まきの藪をへだつる西日かな 吾 仲

 

 現在麥を蒔きつ窶ある畑の向うに藪があつて、その向うに夕日がかゝつている。藪があるだけ、日の傾くことも多少早いわけであるが、同時にその藪によつて平野の單調を破つてゐる感がある。單に傾きつゝある西日といふよりも、藪の秀[やぶちゃん注:「ほ」。]がこれを隔てるといふ方が、景色の上に或まとまりを作ることになるからである。

 麥蒔に夕日を配した句は、この外にも猶「麥蒔のうしろ淋しき入日かな 支庸」「麥蒔の影法師長き夕日かな 蕪村」の如きものがある。冬の日の暮れ易いことも固よりではあるが、麥蒔頃の野良の寒さが、何となく夕日の名殘を惜しませるのではないかと思ふ。

[やぶちゃん注:このパースペクティヴは、タルコフスキイの「鏡」のような遠近法の魔術的なスカルプ・イン・タイムを思わせる、優れた一句と思う。

「麥蒔のうしろ淋しき入日かな 支庸」どの派かは判らぬが、俳人麓庵支庸かと思われる。「安永六丁酉歲」という俳諧撰集を安永六(一七七七)年に板行している。以下の蕪村の句が無関係ではないとすれば、蕪村の一派であろうか。

「麥蒔の影法師長き夕日かな」蕪村の安永七(一七七八)年の句として「蕪村遺稿」に載る。但し、そこでも表記は、

   *

 麥蒔の罔兩(かげぼし)長き夕日かな

   *

である。]

 

   時雨るゝや古き軒端の唐辛 爐 柴

 

 草家の軒などに眞赤な唐辛子が吊してある。そこに時雨が降るのである。

「古き軒端の」といふ言葉は、百人一首を連想せしめさうなものであるが、この場合、そんな事を顧慮する必要は無い。古ぼけた軒端に吊した唐辛子だけが、たゞ赤々と著しく眼に入る。その色が赤ければ赤いだけ、侘びた趣が增すのである。言葉は雅馴であつて、內容に一種の新しい感じがある。然も時雨と古き軒端と、極めて陳腐な配合を竝べた末に、突如として唐辛子を點出することは、決して凡庸の手段でない。芭蕉の「春雨や蜂の巢つたふ屋根の漏」の句が、春雨と軒の雫といふ尋常な配合を用ゐながら、蜂の巢によつて全く新なものにしてゐるのと、稍〻相似た筆法である。俳諧の妙味はこの邊に存するのであらう。

[やぶちゃん注:錯雑物がない、鮮やかに見事なズーム・アップである。

『芭蕉の「春雨や蜂の巢つたふ屋根の漏」』は元禄七(一六九四)年の作で、「炭俵」に所収する。そこでは、

   *

 春雨や蜂の巢つたふ屋ねの漏

   *

の表記である。]

 

   冬旅や足あたゝむる馬の首 誐々

 

 馬上旅行といふものは、未だ曾て經驗したことが無いが、冬日風に向つて馬を驅るなんぞは、あまり難有いこととは思はれない。芭蕉が伊良胡に杜國を訪ねた時の句に「すくみ行くや馬上に氷る影法師」とあるのを見ても、その寒さは略〻想像出來る。

 この句は馬上の旅を續けてゐる人が、足のつめたさに堪へず、馬の首に觸れてあたゝめる、といふことらしい。溫め鳥[やぶちゃん注:「ぬくめどり」。]と同じやり方である。馬の體溫によつて足をあたゝめるといふのは、馬上の寒さを裏面から現したやうで、實はさうでない。吾々も作者と同じく、足を觸れる馬の首のあたゝかさを如實に感じ、併せて昔の旅人の侘しさをしみじみと感ずる。珍しい句である。

[やぶちゃん注:私のブログの「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる (分量膨大に附き、ご覚悟あれかし)」を参照されたい。サイト版で一括した「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる(「笈の小文」より 藪野唯至附注)PDF縦書版」もある。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 小蘗

 

Megi

 

いぬきはだ  子蘗

 しこのへい 山石榴

小蘗

       【金櫻子杜鷗

        花並名山石

        榴同名異物

        也】

スヤウ゜ポツ

 

本綱小蘗生山石間小樹也枝葉與石榴無別伹花異子

赤如枸杞子兩頭尖其皮外白裏黃如蘗皮而薄小也

氣味【苦大寒】 治口瘡殺諸蟲去心腹熱氣

△按小蘗葉似柹而狹長其子大如豆生青熟淡紫色中

 有三子黑色似山椒子【苦辛甘】名志古乃倍伊用洗眼良

 樹皮可以染黃僞𭀚黃栢不可不辨其材爲板旋箱

[やぶちゃん字注:「𭀚」は「充」の異体字。]

 

   *

 

いぬきはだ  子蘗《しはく》

 しこのへい 山石榴《さんせきりう》

小蘗

       【「金櫻子(ざくろ)」・「杜鷗

        花(さつき)」、並びに、「山

        石榴《やまざくろ》」、同名

        異物なり。】

スヤウ゜ポツ

 

「本綱」に曰はく、『小蘗《しやうはく》、山石の間に生ず。小樹なり。枝葉、「石榴《ざくろ》」と、別、無し。伹《ただし》、花、異なり、子《み》、赤く、「枸杞《くこ》」の子、ごとし。兩頭、尖る。其の皮、外、白く、裏、黃にして、「蘗《きはだ》」の皮のごとくにして、薄く、小さし。』≪と≫。

『氣味【苦、大寒、】 口瘡《こうさう》を治し、諸蟲を殺し、心腹の熱氣を去る。』≪と≫。

△按ずるに、小蘗、葉、柹に似て、而≪れども≫、狹《せば》く、長し。其の子《み》、大いさ、豆のごとく、生《わかき》は、青く、熟≪せ≫ば、淡(うす)紫色。中に、三《みつ》、子《み》、有り、黑色。「山椒」の子に似る【苦、辛甘。】。「志古乃倍伊《しこのへい》」と名づく。用ひて、眼を洗ひて、良し。樹の皮、以つて、黃を染む。僞りて、「黃栢《わうばく》」に𭀚《あ》つ。辨ぜざらんは、あるべからず。其の材、板と爲《なし》、箱に旋(さ)す。

 

[やぶちゃん注:「いぬきはだ」「しこのへい」「小蘗」(歴史的仮名遣「しやうはく」)は、日中ともに、

双子葉植物綱キンポウゲ目メギ(目木)科メギ属メギ Berberis thunbergii

を指す。当該ウィキによれば、『別名では、コトリトマラズ』・『ヨロイドオシ』『ともよばれる』。『和名メギの由来は、茎や根を煎じて洗眼薬に利用されていたので』、『「目木」の名がある』。『枝に鋭い棘を多く生やし、鳥がとまれそうにないことから、コトリトマラズの別名でも呼ばれる』。『落葉広葉樹の低木で』、『樹高』二『メートル』『ほどまで成長し、よく枝分かれする』。『樹形は株立ち』。『樹皮は灰褐色から褐色で、縦にやや不規則な割れ目がある』。『枝は赤褐色から褐色で、顕著な縦の溝と稜が目立つ』。『枝の節や葉の付け根には長さ』五~十二『ミリメートル』『の棘があり』、『徒長枝』(樹木の幹や太い枝から上方に向かって真っ直ぐに長く太く伸びる枝を指す園芸用語)『の葉の付け根には』三『本に分かれた棘がある』。『樹皮は黄色の染料になる』。『葉は単葉で』、『新しく伸びた長枝には互生し』、二『年枝の途中から出た短枝には束生する』。『葉身は長さ』一~五『センチメートル』、『幅』〇・五~一・五センチメートルの『卵倒形から狭卵倒形、または』箆『形で』、『先端は鈍頭または円頭、基部は次第に細くなって短い葉柄になり』、『最大幅は先寄り』。『葉縁は全縁で、表面は薄い紙質で無毛、裏面は色々を帯び無毛』。四~五『月に若葉を出す』。『開花時期は』四~五月で、『新葉が出るころに単枝から小形の総状花序または散形花序を出し、直径約』六ミリメートルの『淡黄色から緑黄色の花を『二~四個、『下向きに付ける』。『花弁の長さは約』二ミリメートルで六個。『萼片は』六『個あり、長楕円形で花弁より大きく、淡緑色にわずかに紅色を帯びる』。『雄蕊は』六『個で』、『花柱は太く』、『触ると』、『葯が急に内側に曲がる』。『雌蕊は』一『個』。『果実は液果で、長さ』七~一〇ミリメートルの『楕円形』を成し、十~十一月に『鮮やかな赤色に熟す』。『アルカロイドの』(alkaloid:古くから向精神物質知られる一種の麻薬)一『種のベルベリン』(berberine:名はまさにメギ属の属名 Berberis に由来する。当該ウィキによれば、『抗菌・抗炎症・中枢抑制・血圧降下などの作用があり、止瀉薬として下痢の症状に処方されるほか、目薬にも配合される。タンニン酸ベルベリンを除いて強い苦味がある。腸管出血性大腸菌O157などの出血性大腸炎、細菌性下痢症では、症状の悪化や治療期間の延長をきたすおそれがあるため』、『原則として禁忌である』とある)『を含む』。『秋は熟した赤い果実と紅葉が美しく』、『冬になっても果実が残る』。『冬芽は枝に互生し、棘の基部につく』。『冬芽の大きさは小さく、長さは』二ミリメートル『ほどで、赤褐色をした数枚の芽鱗に包まれている』。『ブラジルでは』、『この植物は』「日本のメギ」(ポルトガル語:Berbére-japonês)として『広く知られており、生垣や花壇で広く栽培されてい』るという。『日本では、本州の東北地方南部』『から、四国と九州にかけての温帯』『地域に分布する』。『山地から丘陵にかけての林縁』『や原野に生育し、蛇紋岩の地でもよく生育する』。『自然分布の他、人の手によって植栽されて生垣としての庭木や公園樹として利用されている』。『秋田県では分布域が限定され、個体数が希少であることからレッドリストの絶滅危惧種IB類(EN)の指定を受けていて、森林伐採や道路工事による個体数の減少が危惧されている』。『新潟県』『と鹿児島県甲子夜話卷之では、絶滅危惧II類(VU)の指定を受けている。大阪府では準絶滅危惧の指定を受けている』が、『国レベルではレッドリストの指定を受けていない』。「品種」の項。『葉が赤紫色の栽培品種(アカバメギ)』( Berberis thunbergii f. atropurpurea )『があり、黄金葉や歩斑入りの栽培品種もある』。「近縁種」には、オオバメギ Berberis tschonoskyana(「大葉目木」。『メギよりも葉が大きく、棘が少なく、枝に稜がない』)や、ヘビノボラズ Berberis sieboldii(「蛇登らず」。葉に鋸葉があり、湿地周辺のやせ地に生育する』)があるとある。因みに、同種の維基百科を見ると、中文名を「日本小檗」とし、『日本及び中国本土の殆んどの省や地域に分布し、現在では、園芸植物として広く利用されている』とあった。

「金櫻子(ざくろ)」バラ科バラ属ナニワイバラ Rosa laevigata 。中国原産の蔓性常緑低木。本邦には宝永年間(一七〇四年~一七一一年)に渡来し、観賞用に植栽されるが、四国・九州では野生化もしている。枝は、よくのびて、棘が多い。葉は三出複葉で、三個の小葉は厚く、上面に光沢がある。五月に、径六〜八センチメートルの白色の五弁花を開く。萼筒には長い棘が密生する。果実は洋梨形で長さ三・五〜四センチメートル、暗橙赤色に熟す。花が淡紅色のものを「ハトヤバラ」と称する(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。本書「和漢三才圖會」は正徳二(一七一二)年成立であることからも判る通り、この冒頭標題の割注は、「本草綱目」からの引用である(後注参照)。従って、良安が「ザクロ」というルビを当てたのは、誤りである。

「杜鷗花(さつき)」現行の中文では、ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron を指す漢語である。維基百科のこちらを見られたい。言うまでもないが、「サツキ」というルビは良安が勝手に附したものである。これもまた、言うまでもないことだが、本邦ではツツジ属の中に含まれる「ツツジ」・「サツキ」・「シャクナゲ」を別種(群)のように弁別して呼ぶ慣習があるが、これは学術的上の分類とは全く無縁である。

「山石榴《さんせきりう》」本邦では、「サツキツツジ」(皐月躑躅)とも呼ばれる、ツツジ目ツツジ科ツツジ属サツキ Rhododendron indicum の異名であるが、本種は日本固有種であるからして、時珍の言う「山石榴」というのは同種ではなく、現在のツツジ属 Rhododendron 全般、或いは、同属の中国産のどれかの種を指している。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「小蘗で、ガイド・ナンバー[085-7a]以下である。以上の問題から、全原文を手を加えて転写しておく。

   *

小蘗【唐「本草」。】

釋名【子蘗、𢎞景、『山石榴』。時珍曰、『此與、金櫻子・杜鵑花、並、名山石榴、非一物也』。】

集解【𢎞景曰、『子蘗樹小、狀如石榴、其皮黄而苦。又一種、多刺皮、亦黄。並主口瘡。』。恭曰、『小蘗生山石間。所在皆有襄陽峴。山東者為良。一名山石榴。其樹枝葉、與石榴無别。但花異子、細黒圓如牛李子及女貞子爾。其樹皮、白陶云、皮黄、恐謬矣。今太常所貯乃小樹、多刺而葉細者、名刺蘗、非小蘗也。』。藏器曰、『凡是蘗木皆皮黄。今既不黄非蘗也。小蘗如石榴、皮黄、子赤、如枸杞子、兩頭尖。人剉枝以染黄若云。子黑而圓恐是别物非小蘗也。』。時珍曰、『小蘗、山間時有之。小樹也。其皮外白裏黄、狀如蘗皮而薄小』。】

氣味 苦大寒無毒。主治口瘡疳䘌殺諸蟲去心腹中熱氣【唐「本」。】。治血崩【時珍、茄婦人良方。治血崩。阿陀丸方中用之。】

   *

「枸杞《くこ》」ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense 。

「蘗《きはだ》」前出の「黃蘗」に同じ。但し、日中で種がことなるので、そちらを見られたい。

「口瘡」既出既注であるが、再掲すると、口腔内の炎症や感染症。知られたものでは、新生児・乳児に見られる「鵞口瘡」(がこうそう)で、口の粘膜に発生する黴であるカンジダ(菌界子嚢菌門半子嚢菌綱サッカロミケス目 Saccharomycetalesサッカロミケス科カンジダ 属 Candida )感染症がある。口腔の内側の粘膜・舌・口唇に、白色のミルクの滓(かす)のように隆起する粘膜斑で、擦っても剝がすことが難しく、無理に剝そうとすると出血する。

「山椒」ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum 

「志古乃倍伊《しこのへい》」標題にも出た和名「しこのへい」だが、不詳。但し、先に示した通り、枝に鋭棘が多く生えていることからの異名「コトリトマラズ」「ヨロイドオシ」から類推するに、「醜(しこ)の兵(へい)」の文字列を私は想起した。

「黃栢《わうばく》」先行する「黃蘗」の私の冒頭注を参照されたい。但し、ここは良安の言葉であるから、キハダ属キハダ変種キハダ Phellodendron amurense var. amurense と限定してよい。

「旋(さ)す」東洋文庫訳では、『つくる』と訳すが、「旋」には「作る」の意はない。「めぐる・めぐらす・まわる」の意を、「変化させる」の意で用いたか、或いは、単に使役の助動詞代わりに、この字を当てたのかも知れない。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(3)

 

   炭竈や兩膝(モロヒザ)抱(ダキ)て髭男 散 木

 

 炭竈を守るためであらう、ぼうぼう髭を生はやした男が、兩膝を抱いてそこに居る、といふのである。「炭燒のひとりぞあらん竈の際」といふ其角の句は、炭竈の樣子を想ひやつたのであるが、これは炭竈のところにゐる男の樣子を、的確に現した點に特色がある。

「兩膝抱て」といふ中七字は、その男の樣子を描き得て妙である。「蓆敷いて長臑[やぶちゃん注:「ながすね」。]抱きぬ夜水番[やぶちゃん注:「よみづばん」。] 泊月」などといふ句も、この意味に於て軌を同じうするものであらう。

[やぶちゃん注:三句、孰れも、フランスの初期自然主義小説のワン・シーンをスカルプティングした強いリアリズムを感ずる。大正期以降のプロレタリア俳句のようなメッセージさえ伝わってくるとも言えよう。但し、調べたが、作者や収録本は判らなかった。

「炭燒のひとりぞあらん竈の際」は俳論・俳諧発句・連句集を合わせた「雜談集(ざふだんしふ)」(元禄四(一六九一)年刊)に、

   *

 炭燒のひとりぞあらん釜の際(キハ)

   *

と載るのを、国立国会図書館デジタルコレクションの『俳人其角全集』第一巻(勝峯晋風 編・昭和一〇(一九三五)年彰考館)のここで見つけた(下巻・左ページ下段二行目)。

「蓆敷いて長臑抱きぬ夜水番」これは極めて不親切。近現代のもので、作者は、野村泊月(明治一五(一八八二)年~昭和三五(一九六一)年)。当該ウィキによれば、『兵庫県出身の俳人。本名勇』。『竹田村(現丹波市)生。酒造家西山騰三の次男で兄は西山泊雲』。明治三〇(一八九七)『年、早稲田大学英文科卒。同年結婚して野村姓となる。中国の杭州で教職についたが、病により帰国し』明治四三(一九一〇)『年より』、『大阪九条で日英学館を経営した。在学中』から『高浜虚子に師事。兄泊雲とともに』「丹波二泊」と『呼ばれた』。大正一一(一九二二)『年、田村木国、皆吉爽雨と』『山茶花』を『創刊、雑詠選者』となった。昭和一一(一九三六)年、『山茶花』を『辞し』て、自ら『桐の葉』を創刊し、主宰した。『豪放磊落な性格で酒豪であった』とし、『ホトトギス』の『停滞期の作家で、三村純也は「虚子の提唱を忠実に守りぬき、平明な写生句が実を結ぶ先駆けをなした」としている』(「現代俳句大事典」)とあった。本書を読む者なら、当然、知っていると考えて、かく書いたものとは思われるが、現在では、近代定型俳句に詳しい方でないと、それほど有名な人物ではない(自由律俳句から無季語俳句に移った私は全く知らなかった)。因みに、兄泊雲は『「秋」(8)』の宵曲の解説で既出既注である。]

 

   前髮に雪降かゝる鷹野かな 吏 明

 

 鷹野の趣は、獵銃以後に生れた吾々には十分にわからない。同じ狩であつても、飛道具に鷹を用ゐるとなると、雅致と餘裕と竝び生ずるやうな感じがする。一度呑ませたあとで吐かせる鵜飼とは同日の談でない。

 御小姓などであらう、鷹野の御供をする若衆の前髮に、霏々として雪が降りしきる。勿論雪はあたり一面降り埋めつゝあるのであるが、美しい若衆の前髮に降りかゝるところを見つけたのが、この句の主眼であり、鷹野の景色に或ポイントを與へたことになつてゐる。炭竈の髭男はもともとそこに一人しかいない役者であらうが、これは鷹野における人數の中から、特に若衆役を持出した點に一種の技巧がある。畫のやうな趣である。

 

   餅搗や捨湯流るゝ薄氷 晚 柳

 

 餅搗の場合に湯をこぼす。その湯が白い湯氣を立てながら、薄氷の方へ流れて行く、といふだけのことであらう。薄氷のミシミシと音して解ける樣、一面に立つ湯氣の白さまで、眼に浮んで來るやうに思はれる。

 元祿時代のかういふ句を見る每に、吾々はいつも眞實の力を痛感する。寫生と云つても、實感と云つても畢竟同じことである。如何に句を作る技術上の練磨が發達したところが、それだけでかういふ句を得ることは不可能であらう。

 

2024/06/13

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(2)

 

   石竹の一花咲る冬野かな 桃 里

 

 蕭條たる冬野の中に、たつた一輪石竹の花が咲いてゐる。かういふ光景には未だ逢著したことが無いが、實際には屢〻あるのかも知れない。尙白にも「よろよろと撫子殘る枯野かな」といふ句がある。趣は略〻似たやうなものであるが、句としては尙白の方が遙にすぐれてゐる。「よろよろと」の一語が枯野に殘る撫子の樣子を如實に現してゐるのみならず、强ひて一花と限定しないのも、却つて風情が多いからである。

 嘗て定家の「拾遺愚草」を點檢して「霜冴ゆるあしたの原のふゆがれに一花さけるやまとなでしこ」の一首を發見した時、尙白の句と比較すると、數步を讓らなければなるまいと老へたことがあつた。今にして思へば、尙白の句は寧ろ獨立して考へらるべきで、それよりはこの桃里の句の方が、よほど定家の歌に似てゐる。桃里は定家の歌によつて、この趣向を立てたものではないかも知れぬ。たゞ定家の歌以上の働きを、この句に認め難いのを遺憾とする。

[やぶちゃん注:「石竹」双子葉植物綱ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis

「尙白」の句は、調べた限りでは、

   *

よろよろと撫子殘る枯野哉

   *

の表記である。

「霜冴ゆるあしたの原のふゆがれに一花さけるやまとなでしこ」文治二(一一八六)年の「二見浦百首」の中の一首。]

 

   大きなる雪折々の霙かな 旭 芳

 

 霙[やぶちゃん注:「みぞれ」。]が降るのを見ていると、時々大きな雪片がまじつてゐる、と云つたのである。平凡な事柄のやうで、一槪にさう云ひ去ることの出來ぬものがある。

 由來霙などといふ句は、配合物を主にしたものが多く、霙そのものを見詰めたものは少い。この句はその少い一例である。折々まじる大きな雪片は、直に讀者の眼にはつきりうつるやうな氣がする。

 

   膳棚へ手をのばしたる火燵かな 溫 故

 

 火燵を無性箱[やぶちゃん注:「ぶしやうばこ」。]と云ひ出したのは誰か知らぬが、頗る我意を得てゐる。物臭太郞にも或點で興味を持つ吾々は、勿論火燵を以て亡國の具と觀ずるわけではない。無性を直に道德的功過に結びつけるのは、少くとも俳人の事ではあるまいと思ふ。

 この句は火燵に於ける無性の一斷片を現したものである。火燵は第一に人の起居の動作を懶くする。膳棚へ手をのばしたといふのは、立つて取るのが面倒だから、無性中に事を行はうといふに外ならぬ。

 

   火燵からおもへば遠し硯紙 沙 明

 

といふ句なども、やはり同じやうな心持を現してゐる。作者は火燵に在つて何か書くべき硯や紙の必要を感じながら、取りに行くのが懶いために、その「硯紙」の距離を遠く感ずるのである。句としては特に見るに足らぬが、無性箱の消息を傳へたものとして、前句と併看の價値はあるかも知れない。

[やぶちゃん注:「膳棚」膳や椀などの食器をのせる棚。

「功過」「功罪」に同じ。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 目録・黃蘗

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、初回を参照されたい。「目録」の読みはママである。本文同様、濁点落ちが多い。]

 

和漢三才圖會卷第八十三目録

   喬木類

黃蘗(わうへき)【きはだ】

小蘗(こきはだ)【しこのへい】

黃櫨(はじのき)

波牟木(はんのき)

厚朴(かうぼく)【ほゝのき】

杜仲(とちう)

椿(ひやんちゆん)【椿根皮(チユンコンヒ) 鳳眼草】

𣾰(うるし)

(あづさ)

(ひさぎ)

刺楸(はりひさき)

(こひさき)

(あはき)

(きり)

岡桐(おかきり)

梧桐(ことうきり)

油桐(あふらきり)

海桐(しまきり)

赬桐(たうきり)

菜盛葉(さいもちは)

(あふち)【せんたん】

黃棟樹(わうれんしゆ)

(ゑんじゆ)

(まゆみ)

莢蒾(けうめい)

秦皮(とねりこのき)

合歡木(ねふのき)

皂莢(さいかし)【皂⻆子 皂⻆刺】

[やぶちゃん字注:「⻆」は「角」の異体字。]

肥皂莢(ひさうけう)

無患子(つぶ)

木欒子附リ菩提樹】

沒石子(もしくし)

訶黎勒(かりろく)

(けやき)【石欅(いしけやき) 槻(つき)】

[やぶちゃん字注:「いしけやき」の「け」は「ケ」の第三画しか見えないが、原本当該部と東洋文庫の当該項のルビから「ケ」と決した。]

波太豆(はたつ)

(ゑのき)

(やなき)

檉柳(いとやなき)【したれ柳】

水楊(かはやなき)

白楊(まるはのやなき)

扶栘(ふいのやなき)

杞柳(きりう)

贅柳(こぶやなき)

美容柳(ひようやなき)

(むきのき)

(にれ)

蕪荑仁(ふいにん)

蘓方木(すはうのき)

[やぶちゃん字注:「蘓」は「蘇」の異体字。]

鳥木(こくたん)

[やぶちゃん字注:「鳥」はママ。当該項では「烏」になっているので、誤刻である。]

黒柹(くろかき)

(かば)

華櫚(くはりん)

椶櫚(しゆろ)

烏臼木(うきうほく)

巴豆(はづ)

海紅豆(かいかうづ)

相思子(たうあづき)

豬腰子(ちやうし)

石瓜(せきくわ)

鐵樹(たがやさん)

美豆木(みつき)

扇骨(かなめ)

奈岐乃木(なぎのき)

古賀乃木(こがのき)

娑羅雙樹(しやらさうしゆ)

梖多羅(ばいたら)

多羅葉(たらえう)

(よう)

 

 

和漢三才圖會卷八十二

         攝陽 城醫法橋寺島良安尙順

   香木類

 

Kihada

 

[やぶちゃん注:右の樹の上に『本草必讀之圖』(「本草必讀」の圖)、左の樹の上に『三才圖會之圖』(「三才圖會」の圖)のキャプションが記されてある。「本草必讀」は「楓」その他で、 既出既注。「三才圖會」の原図は、国立国会図書館デジタルコレクションの萬暦三七(一六〇九)年序刊のものの、ここの「蘗木」で視認出来る。

 

わうへき  黃栢【俗稱】

 きはだ  蘗木

      【和名岐波太】

黃蘗

      今專曰黃栢

唐音

 ハアン ポツ

 

本綱黃蘗樹髙數丈葉似呉茱萸亦如紫椿經冬不凋其

皮外白裏深黃色緊厚二三分鮮黃者爲上根結塊如松

下茯苓名之檀桓【百歳者根長三四尺別在一旁以小根綴之又名檀桓芝】

氣味【苦寒】 入足少陰腎經爲足太陽膀胱引經藥

 【生用則降實火熟用則不傷胃酒制則治上鹽制則治下蜜制則治中也】惡乾𣾰伏硫黃其

[やぶちゃん字注:「蜜」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、かく、した。]

 用有六瀉膀胱龍火【一也】利小便結【二也】除下焦濕腫【三也】治痢疾先見血【四也】治臍中痛【五也】補腎不足壯骨髓【六也】乃癱疾必用之藥治口瘡如神

[やぶちゃん字注:「臍」は原本では十七画((つくり)の下方の横画の二本目)が十六画の中心から縦に下に下がる。異体字にも見えないので、正字で示した。]

黃蘗無知毋猶水母之無蝦也葢黃栢能制膀胱命門陰

[やぶちゃん字注:「毋」は「母」の異体字であるが、同一行の中で「母」が使用されいるから、明らかに差別化(恐らくは植物と動物の違いを意識して)している意図が明白なので、敢えて用いた。]

中之火知毋能清肺金滋腎水之化源故皆以爲滋陰降

火要藥然必少壯氣盛能食者宜用之若中氣不足而邪

火熾甚者久服則有寒中變

檀桓【苦寒】 治心腹百病安魂魄不饑渴久服通神

△按黃栢藥用外可以染黃色日向加賀之產最良和州

吉野奧州會津之産次之

 

  *

 

わうへき  黃栢《わうばく》【俗稱。】

 きはだ  蘗木《はくぼく》

      【和名「岐波太《きはだ》」。】

黃蘗

      今、專ら、「黃栢」と曰ふ。

唐音

 ハアン ポツ

 

「本綱」に曰はく、『黃蘗樹の髙さ、數丈。葉、「呉茱萸《ごしゆゆ》」に似たり。亦、「紫椿《しちん》」のごとし。冬を經て、凋まず。其の皮、外、白く、裏、深黃色なり。緊《しまりて》、厚さ、二、三分。鮮(あざや)かに黃なる者を、上と爲《な》す。根、結塊≪して≫松の下の茯苓《ぶくりやう》のごとく、之れを「檀桓《だんくわん》」と名づく【百歳の者、根の長さ、三、四尺。別に、一旁《いつばう》、在りて、小≪さき≫根を以つて、之れを綴り、又、「檀桓芝《だんくわんし》」と名づく。】』≪と≫。

『氣味【苦、寒。】 足≪の≫「少陰腎經」に入りて、足≪の≫「太陽膀胱引經」の藥と爲《な》る。』≪と≫。

 『【生にて用ふれば、則ち、實火(じつくわ)を降《くだ》す。≪煮≫熟《にじゆく》して、用ふれば、則ち、胃を傷めず。酒≪もて≫制すれば、則ち、≪體內の≫上《うへ》を治す。鹽≪もて≫制すれば、則ち、≪體內の≫下を治す。蜜≪もて≫制すれば、≪體內の≫中《ちゆう》を治ずるなり。】。乾𣾰《かんしつ》を惡《い》み[やぶちゃん注:「忌み」に同じ。]、硫黃《いわう》を伏《ぶく》す。其の用[やぶちゃん注:ここは「効用」の意。]、六つ、有り。膀胱の龍火を瀉《くだ》す【一《いち》なり。】。小便≪の≫結≪せる≫を利す【二なり。】。下焦《かしやう》の濕腫《しつしゆ》を除く【三なり。】。痢疾≪にて≫、先づ、血を見るものを治す【四なり。】。臍《へそ》の中《うち》≪の≫痛みを治す【五なり。】。腎の不足を補ひ、骨髓を壯《さかん》にす【六なり。】。乃《すなは》ち、癱疾《たんなん》≪の≫必用の藥≪にして≫、口瘡《こうさう》を治すること≪も、また≫、神《しん》のごとし。』≪と≫。

『黃蘗、「知毋《ちも》」、無ければ、猶ほ、水母(くらげ)の、蝦(ゑび[やぶちゃん注:ママ。])、無きがごとくなり。葢し、黃栢、能く、膀胱命門の陰中の火《くわ》を制す。「知毋」は、能く、肺金《はいきん》を清《きよらかにす》、腎水の化源を滋《やしなふ》。故《ゆゑ》、皆、以つて、「滋陰降火《じいんかうくわ》」の要藥たり。然れども、必ず、少壯≪にして≫、氣、盛んにして、能く、食する者、宜(よろ)しく之れを用ふべし。若《も》し、中氣、不足して、邪火《じやくわ》、熾(も)ゆること、甚しき者≪は≫、≪これを≫久しく服すれば、則り、寒中の變、有り。』≪と≫。

『檀桓【苦、寒。】 心腹≪の≫百病を治し、魂魄を安んじ、饑渴せず、久≪しく≫服すれな、神に通ず。』≪と≫。

△按ずるに、黃栢は、藥用の外、以つて、黃色を染むべし。日向・加賀の產、最≪も≫良し。和州・吉野・奧州會津の産、之れに次ぐ。

 

[やぶちゃん注:「黃蘗」は、

被子植物門双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科キハダ属Phellodendron

で、基本、日中でも基原種は同じで、

キハダ属キハダ変種キハダ Phellodendron amurense var. amurense

である。但し、中国では、同属の、

川黃檗 Phellodendron chinense

(現行の中文名では「蘗」は「檗」である)も広く分布しており、

同種の基原変種川黃檗  Phellodendron chinense var. chinense

及び、

禿葉黃檗 Phellodendron chinense var. glabriusculum

が自生するので、「本草綱目」の引用では、それらを総て比定種とする必要がある。小学館「日本大百科全書」によれば、『黄色の色素をもつ植物染料の一つ』で、『キハダは山地に生じる高木で、内皮は黄色。「きわだ」の名称は、きはだ(黄膚)から出たものという。漢方の薬用植物で、苦味のある内皮を黄蘗皮(おうばくひ)と称して、胃の薬とする。染色には、この黄色の部分を煎じて用いる。媒体を必要としない直接染料で、色は白みを帯びた品のいい色であるが、堅牢性に乏しく、とくに直射日光には弱い』とある。当該ウィキもリンクさせておく。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の冒頭の「蘗木」

「唐音」勘違いしている生徒が多かったので、言っておくと、一般に知られる「漢音」は、平安時代初氣頃までに、遣唐使・留学僧などによって伝えられた、唐の首都長安の北方標準音に基づくものを指す。次いで、「呉音」というのは、元来は「和音」と呼ばれていたが、平安中期以後に「呉音」とも呼ばれるようになった。北方系の漢音に対して、南方系であるとされ、特に仏教関係の語などに多く用いられている。而して、「唐音」は、狭義には、江戸時代になって、長崎を通じて伝えられた、明から清の初期の中国語の発音によるものを指す。禅僧・長崎通事・貿易商などによって伝えられた。また、広義には、江戸時代以前から広まった宋音をも含めた「唐宋音」を包含する。孰れも、中国の歴史的王朝・国名とは、関係がないので、注意が必要である。昔、生徒が「唐音」を唐王朝当時の発音と採っていたので、敢えて、ここで言っておく。

「呉茱萸《ごしゆゆ》」「ごしゅゆ」はムクロジ目ミカン科ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum 当該ウィキによれば、『中国』の『中』部から『南部に自生する落葉小高木。日本では帰化植物。雌雄異株であるが』、『日本には雄株がなく』、『果実はなっても種ができない。地下茎で繁殖する』八『月頃に黄白色の花を咲かせる』。『本種またはホンゴシュユ(学名 Tetradium ruticarpum var. officinale、シノニム Euodia officinalis )の果実は、呉茱萸(ゴシュユ)という生薬である。独特の匂いと強い苦みを有し、強心作用、子宮収縮作用などがある。呉茱萸湯、温経湯などの漢方方剤に使われる』とあった。漢方薬剤としては平安時代に伝来しているが、本邦への本格的渡来は享保年間(一七一六年から一七三六年まで)とされる。

「紫椿《しちん》」驚いたことに、東洋文庫では、そのまま訳文に使用して、何の注も附していないが、これは「ツバキ」とは縁も所縁もないもので(因みに言っておくと、現代中国語でツバキは「山茶花」「日本椿花」と漢字表記される)、ムクロジ目センダン科チャンチン属 Toona ciliata である。アフガニスタンからインド・パプアニューギニア・オーストラリアにかけての南アジア全域に植生する。当該英文ウィキをリンクさせておく。

「松の下の茯苓《ぶくりやう》」菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensaウィキの「マツホド」によれば、アカマツ(球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora)・クロマツ(マツ属クロマツ Pinus thunbergii)等のマツ属 Pinus の植物の根に寄生する。『菌核は伐採後』二~三『年経った切り株の地下』十五~三十センチメートルの『根っこに形成される。子実体は寄生した木の周辺に背着生し、細かい管孔が見られるが』(oso(おそ)氏のキノコ図鑑サイト「遅スギル」のこちらで画像で見られる)、『めったには現れず』、『球状の菌核のみが見つかることが多い』。『菌核の外層をほとんど取り除いたものを茯苓(ブクリョウ)と呼び、食用・薬用に利用される。天然ものしかなかった時代は、松の切り株の腐り具合から』、『見当をつけて』、『先の尖った鉄棒を突き刺し』、『地中に埋まっている茯苓を見つける「茯苓突き」と言う特殊な技能が必要だった。中国では昔から栽培されていたようだが』、一九八〇『年代頃より』、『おがくず培地に発生させた菌糸を種菌として榾木に植え付ける(シイタケなどの木材腐朽菌と同様の)栽培技術が確立され、市場に大量に流通するようになって価格も下がった。現在ではハウス栽培で大量生産されて』おり、『北京では茯苓を餅にしてアンコをくるんだ物が「茯苓餅」または「茯苓夾餅」の名で名物となっている。かつては宮廷でも食された高級菓子で、西太后も好物だったという。現在は北京市内のスーパーでも購入することができる』。『薬用の物では、雲南省に産する「雲苓」と呼ばれる天然品が有名であるが、天然物は希少であるため』、殆んど『見ることはできない』。『日本は』、『ほぼ全量を輸入に頼っていたが』、二〇一七年に『石狩市の農業法人が漢方薬メーカーの』「ツムラ」(「夕張ツムラ」)との『協力で、日本初となるハウス量産に成功した』とある。『菌核の外層をほとんど取り除いたものは茯苓(ブクリョウ)という生薬(日本薬局方に記載)で、利尿、鎮静作用等があ』り、『多くの漢方方剤に使われ』ているとあった。

「檀桓芝」「霊芝」でご存知の通り、実は、この「芝」と言う漢字は、まさに担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum を指す漢字として作られたものなのである。「シバ」ではなく、「神聖なキノコ」を示す漢語なのである。レイシに就いては、私の「日本山海名産図会 第二巻 芝(さいはいたけ)(=霊芝=レイシ)・胡孫眼(さるのこしかけ)」を参照されたい。

『足≪の≫「少陰腎經」』東洋文庫の後注に、『身体をめぐる十二経脈の一つ。巻八十二肉桂の注一参照のこと』とある。このプロジェクトで先行している「肉桂」の私の注を見られたい。

『足≪の≫「太陽膀胱引經」』同前で、『身体をめぐる十二経脈の一つ。卷八十二肉桂の注三參照のこと』とある。リンク同前。

「實火(じつくわ)」東洋文庫の割注に、『(激しい陽性の熱)』とある。

「龍火」東洋文庫の割注に、『(陰火。うちにこもった熱?)』と、疑問符附きである。

「小便≪の≫結≪せる≫」「結」は「結滯」の意。排尿困難。

「下焦」中医学が仮想した器官「三焦」の一つで、「五臓六腑」の名数にも入っている。生命の根幹たる気と水液を司り、五臓六腑にそれらを送りだす最重要の働きがあるとされた。上焦・中焦・下焦の三つに分けられる。上焦は「心」・「肺」で飲食物を送り込むことを、中焦は「脾胃」の消化運動を、下焦は「肝」・「腎」にあって排泄を司るとされた。しばしば、比喩として用いられる「病膏肓に入る」の「膏肓」の「膏」は心臓の下部、「肓」は隔膜の上とされ、身体の一番奥で生命維持機能を統括する場所を指す語であり、この三焦がその臓器であるという話を嘗て聴いたことがあった。

「濕腫」体内に溜まった過剰な水分や湿気によって生ずる水腫や腫物。

「癱疾《たんなん》」東洋文庫の割注に、『(激しい陽性の熱)』とある。

「口瘡《こうさう》」口腔内の炎症や感染症。知られたものでは、新生児・乳児に見られる「鵞口瘡」(がこうそう)で、口の粘膜に発生する黴であるカンジダ(菌界子嚢菌門半子嚢菌綱サッカロミケス目 Saccharomycetalesサッカロミケス科カンジダ 属 Candida )感染症がある。口腔の内側の粘膜・舌・口唇に、白色のミルクの滓(かす)のように隆起する粘膜斑で、擦っても剝がすことが難しく、無理に剝そうとすると出血する。

「知毋《ちも》」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ハナスゲ属ハナスゲ Anemarrhena asphodeloides の根茎の生薬名「知母」。当該ウィキによれば、『中国東北部・河北などに自生する多年生草本』『で』、五~六『月頃に』、『白黄色から淡青紫色の花を咲かせる』。『根茎は知母(チモ)という生薬で日本薬局方に収録されている』。『消炎・解熱作用、鎮静作用、利尿作用などがある』。「消風散」・「桂芍知母湯」(ケいしゃくちもとう)・「酸棗仁湯」(さんそうにんとう)『などの漢方方剤に配合される』とある。

「水母(くらげ)の、蝦(ゑび)、無きがごとくなり」東洋文庫の割注に、『水母と蝦は共生し、蝦は水母の涎(よだれ)を飲んで生き、その代り水母の眼の役割をして水母の移動に力を貸しているという。また黄栢は腎経血分の藥、知母は腎経気分の藥で、相俟って効力を発揮する』とあった。前半部、クラゲ・フリークである私から見ても、頑張って注してあると思う。私は、フリークの海産生物以外でも、寄生している種と、寄生されている種との、完全な「共生」(相互共生)というのは、なかなか無批判に納得出来るケースは、そう多くないと感じている人種である。旧来、安易に「共生」という言い方をする学者や一般人には、必ず、眉に唾つけて「片利共生なんじゃないの?」と突っ込むトンデモ男なのである。確かに、私が海産無脊椎動物に目覚めた小学校二年生に知った、名にし負う、

エビクラゲ刺胞動物門鉢虫綱根口クラゲ目イボクラゲ科ビクラゲ属エビクラゲ Netrostoma setouchianum の口腕に、多くの

節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目コエビ下目タラバエビ上科タラバエビ科クラゲエビ属クラゲエビ Chlorotocella gracilis が共生している

という子供向けの読物には、ひねこびていなかった私は、大いに素直に感動したものだったのは事実ではあった(しかし、そこに描かれたイラストでは、あろうことか――どっしり海底に鎮座したエビクラゲの下に、これまた、茹でた如き紅色の、大きな、如何にもな「エビ」が触手の間にデンと隠れている――というトンデモ画であったことも、いっかな、忘れないのだが)。けれども、高校時代頃には、『これらは、他の生物社会に対して、安っぽいヒューマニティを安易且つ独善的に及ぼしたものも多いのではないか?』と、頗る懐疑的になって今に至っていたのであった。しかし、今回、仕切り直して調べてみた結果、林健一・坂上治郎・豊田幸詞共作になる学術論文「日本海および東北地方の太平洋岸に出現したエチゼンクラゲに共生するクラゲモエビ」(雑誌『Cancer』二〇〇四年五月発行所収・PDF)に於いて、

『クラゲモエビとエチゼンクラゲとの共生については正確に報告されたことはなかった』『今回』、『潜水観察を行い』、『さらに水槽での短期飼育を行った』結果、『クラゲモエピの形態と共生関係を観察することができた』

とあるのを見た以上、相互共生を、この二種間には、確かに認められると確信した。この「エチゼンクラゲ」とは、大型になるクラゲの筆頭である、

口クラゲ目ビゼンクラゲ科エチゼンクラゲ属エチゼンクラゲ Nemopilema nomurai

で、本邦では主に東シナ海から日本海にかけて分布し、実に最大個体では傘の直が二メートル、湿重量は百五十キログラにも達する。古くは瀬戸内海に有意に入り込んでいたものか備前国(岡山県)を産地としたことに和名は由来する(但し、私は実はそれは、エチゼンクラゲの近縁種である、ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta を指していたのではないかと秘かに思っている)。なお、これ以外にも、香川県水産課のスタッフが執筆しているブログ「うどん県おさかな課」の「アナタはダレ?ワタクシはエビクラゲです、か?」に、試験場での現認になる、エビクラゲに『共生』していた小エビとして、クラゲエビ以外に、「タコクラゲエビ」という種も挙げてあった。但し、この和名、そこに記された『広島大学総合博物館研究報告』(第三号・二〇一一年十二月発行)の、大塚攻・近藤裕介・岩崎貞治・林健一論文『瀬戸内海産エビクラゲNetrostoma setouchiana に共生するコエビ類』によって(ここでPDFでダウンロード出来る)、この種は、正しくは、

コエビ下目テッポウエビ上科モエビ科ホソモエビ属タコクラゲモエビ Latreutes mucronatus

であることが、判明した。

「肺金《はいきん》」東洋文庫の割注に、『(肺は五行の金に属する)』とあった。

「中氣、不足して、邪火《じやくわ》、熾(も)ゆること、甚しき者≪は≫、≪これを≫久しく服すれば、則り、寒中の變、有り」この部分、あんまり、言っている意味が解らないことを正直に告白しておく。]

2024/06/12

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 瑞香 / 卷第八十二 木部 香木類~了

[やぶちゃん注:本篇を以って、「卷第八十二 木部 香木類」は終っている。『「和漢三才圖會」植物部』の始動は、本年、二〇二四年四月二十七日であるから、巻第八十二の全項目を十五日で終わったことになる。亡父の後片付けの最中の中で、この一巻五十三項を終えることが出来たのは、気の遠くなる「植物部」全千百十九項に光明が見えてきた気が、強くしている。維持は難しいものの、このペースだと、単純にドンブリすると、数年、七十歳になる遙か以前に、完遂出来る気がしてきたのである。

 

Jintyouge

 

ちんちやうけ 𪾶香【五雜組】

       【俗云沈丁花

         誤曰里牟

         知也宇介】

瑞香

 

ツイ ヒヤン 【本草芳草類有

        之今改移于此】

 

本綱瑞香南方山中有之枝幹婆娑柔條厚葉四時不凋

冬春之交開花成簇長三四分如丁香狀有黃白紫三色

其高者三四尺有數種有枇杷葉者楊梅葉者柯葉者毬

子者攣枝者惟攣枝者花紫香烈其節攣曲如斷折之狀

也枇杷葉者乃結子其始出於廬山宋時人家栽之始著

名其根綿軟而香【味甘鹹】

五雜組云相傳廬山一比丘晝寢山石下開異香覺而尋

之得此花故名𪾶香後好事者以爲祥瑞改爲瑞香

古今醫統云用浣衣灰汁澆瑞香根去蚯蚓以𣾰査壅根

[やぶちゃん字注:「𣾰」は「漆」の異体字。]

撏雞鵞水澆之皆盛長此花悪濕畏日不可露根

△按瑞香人家多栽之疑此山礬之類此云沈丁花也春

 揷之能活一二尺亦開花髙者四五尺枝幹婆娑葉似

 無齒梔子葉及楊梅葉春著花形如丁香而紫既開則

 四出外淡紫內白十余朶攅簇其香烈如沉香丁香相

 兼故俗曰沈丁花然濕濃不如蘭花之艶【未見黃色花者未審】

 

   *

 

ぢんちやうげ 𪾶香《すいかう》【「五雜組」。】

       【俗、云ふ、「沈丁花」。

        誤りて、

        「里牟知也宇介(ぢんちやうげ)」

        と曰ふ。】

瑞香

 

ツイ ヒヤン 【「本草」、「芳草類」に、之れ、有り。

        今、改≪めて≫此《ここ》に移す。】

 

「本綱」に曰はく、『瑞香、南方山中、之れ、有り。枝・幹、婆娑《ばさ》たり。柔《しなやかなる》條《えだ》、厚≪き≫葉、四時、凋まず。冬・春の交(あはひ)、花を開き、簇《むれ》を成す。長さ、三、四分、丁香《ちやうかう》の狀《かたち》のごとく、黃・白・紫の三色、有り。其の高き者、三、四尺。枇杷≪の≫葉の者、楊梅《やまもも》≪の≫葉の者、柯《しひ》の葉の者、毬-子《まり》の者、攣《かがまれる》枝の者、數種、有り。惟《ただ》、攣《かがまれる》枝の者は、花、紫にして、香、烈なり。其の節《ふし》、攣曲《れんきよく》にして、斷-折(うちを)りたる狀《かたち》のごとし。枇杷の葉の者には、乃《すなはち》、子《み》を結ぶ。其の始め、廬山より出づ。宋の時より、人家に之れを栽ゑて、始めて、名を著《あら》はす。其の根、綿≪の如く≫軟《やはらか》にして、香《かんば》し【味、甘、鹹。】。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「本草綱目」からの引用は、ここまでである。]

「五雜組」に云はく、『相ひ傳ふ、「廬山の一比丘、山石の下に晝寢(ひるね)して、異香を開く。覺(さ)めて、之れを尋ねて、此の花を得たる故、「𪾶香」と名づく。後《のち》、好事(こんず[やぶちゃん注:ママ。])の者、以つて、祥瑞《しやうずい》と爲《な》し、改めて、「瑞香」と爲す」≪と≫。』≪と≫。

「古今醫統」に云はく、『衣《ころも》を浣《あら》ふ、灰-汁(あく)を用ひて、瑞香の根に澆(そゝ)ぎ、蚯蚓(みゝづ)を去り、𣾰《うるし》の査(かす)を以つて、根に壅(を)き[やぶちゃん注:ママ。「置き」。但し、「壅」に「置く」の意はなく、ここは「塞ぐ」の意である。]、撏(と)りて、雞《にはとり》・鵞《がてう》の水[やぶちゃん注:小水。小便。]を之れに澆げば、皆、盛《さかんに》長《ちやう》ず。此の花、濕《しつ》を悪《にく》む。日を畏《おそ》る。根を露(あらは)すべからず《→露(あらは)にすべからず》。』≪と≫。

△按ずるに、瑞香は、人家、多く、之れを栽う。疑ふらくは、此れ、「山礬」の類にして、此《ここ》に云ふ、沈丁花なり。春、之れを揷して、能く、活《かつ》≪すること、≫一、二尺。亦、花を開く。髙き者、四、五尺。枝・幹、婆娑として、葉、齒の無き梔子《くちなし》の葉、及び、楊梅《やまもも》の葉に似る。春、花を著《つ》く。形、丁香《ちやうかう》ごとくにして、紫。既に開けば、則ち、四《よつ》、出づ。外(そと)、淡紫、內、白。十余朶、攅-簇(こゞな)り、其の香、烈≪なり≫。沉香《ぢんかう》・丁香、相ひ兼ぬるごとし。故、俗に「沈丁花」と曰ふ。然《しか》≪れども≫、濕(しつ)、濃(こ)く、蘭花の艶(やさし)きにしくならず【未だ黃色の花の者、見ず。未だ審らかならず。】。

 

[やぶちゃん注:「瑞香」は、「沈丁花」であるが、「本草綱目」以下二書の引用は、中国のものであるから、

双子葉植物綱フトモモ(蒲桃)目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属 Daphne

まで、である。何故かと言えば、ジンチョウゲ科Thymelaeaceaeは、五十属五百種を数えるからである。小学館「日本大百科全書」の「ジンチョウゲ科」に拠れば、『離弁花類。低木または小高木。樹皮の靭皮繊維は強く』丈夫で、『ちぎれにくい。葉は互生または対生し、鋸歯がない。花は束生するか』、『頭状花序をつくり、萼筒は細長くて子房を包み、先は』四~五『裂する。子房は上位。一般に花弁を欠く。果実は核果または堅果で』一『個の種子がある。熱帯から温帯に分布し、日本にはガンピ属』十『種、ジンチョウゲ属』三『種が自生し、ジンチョウゲ』(本邦の最も知られたフトモモ(蒲桃)目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属ジンチョウゲ Daphne odora 。良安の言っている種もこれ、若しくは、その品種と考えてよいだろう)や、同属の『フジモドキ』( Daphne genkwa )『が観賞用に、高級紙の原料としてミツマタ』(ジンチョウゲ科ミツマタ属ミツマタ Edgeworthia chrysantha )『が栽培される。また』、『ガンピからは雁皮紙をつくる』。『APG分類』(既出既注)『でもジンチョウゲ科とされる。日本にはジンチョウゲ属、シャクナンガンピ属』( Daphnimorpha )、『ガンピ属』( Diplomorpha )、『アオガンピ属』( Wikstroemia )『が自生し、ミツマタ属が野生化する』とある。一応、ジンチョウゲ Daphne odora 当該ウィキを引いておく。『別名でチンチョウゲともいわれる』。『中国名は瑞香』。『別名』に『輪丁花。原産地は中国南部で、中国から日本に渡来して、室町時代にはすでに栽培されていたとされる』。『クチナシ』(リンドウ目アカネ科サンタンカ(山丹花)亜科クチナシ連クチナシ属クチナシGardenia jasminoides )、『キンモクセイ』(シソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ属モクセイ変種キモクセイ品種キンモクセイ Osmanthus fragrans var. aurantiacus f. aurantiacus )『とともに、日本の三大芳香木の一つに数えられる』。『「沈丁花」という漢字名は、香木の沈香(ジンコウ)のような良い匂いがあり』、チョウジノキ『丁子(クローブ)』(Clove:フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum )『の香りを合わせたような香木という意味で名付けられた』。『また、沈丁は沈香から転訛したものという説もある』。『学名の』『属名 Daphne(ダフネ)はギリシア神話の女神ダフネ』(当該ウィキを見られたい)『にちな』み、『種小名の odora(オドラ)は「芳香がある」を意味する』。『常緑広葉樹の低木』で、『樹皮は褐色で滑らか』にして、『葉は互生し』、『濃緑色をしたツヤのある革質で、長さ』六『センチメートル』、『幅』二センチメートルの『倒披針形で』、『ゲッケイジュ』(クスノキ目クスノキ科ゲッケイジュ属ゲッケイジュ Laurus nobilis )『の葉に似ているが、ゲッケイジュよりも軟弱』である。『雌雄異株であるが、日本にある木は雄株が多く、雌株は』殆んど『見られない』。『花期は』二~四月で、『枝先から濃紅色の花蕾が、集まって出てくる』。『花は花弁がない花を』二十~三十『個、枝の先に手毬状に固まってつく』。『花弁のように見えるものは』四『枚の萼片で』、『外側が淡紅色、内側が白色で、中にはすべて白色のものもある』。『雄蕊は黄色、花から強い芳香を放つ。花を囲むように葉が放射状につく』。『果期は』六『月』で、『赤く丸い果実をつけるが、実を噛むと辛く』、『有毒である。日本には雌株が少ないため、あまり結実しないが、ごく稀に実を結ぶこともある』。『冬芽は前年枝の先につき、そのほとんどが花芽で、多数の総苞に包まれている』。『側芽は枝に互生し、かなり小さく、葉が落ちると見えるようになる』。『葉痕は半円形で、維管束痕が』一『個ある』。『関東地方以南では、庭木や公園樹として親しまれており、墓に植えられることも多い』。但し、『移植は好まず』、『耐寒性には乏しい性質がある』。『日本にあるものは』殆んどが『雄株のため、挿し木で増やす』。『花の煎じ汁は、歯痛・口内炎などの民間薬として使われる』。『全体にメゼレインなどの有毒成分を含み、特に果実や樹皮の毒が強い。誤食した場合には口唇や舌の腫れ・のどの渇き・嚥下困難・悪心・嘔吐・血の混じった下痢を伴う内出血・衰弱・昏睡などの症状が出て、死に至る可能性もある。また、汁液に触れた場合には皮膚に炎症などが生じる恐れがある』とある。以下、「品種」として主な三種が挙げられてある。

「五雜組」既出既注

『「本草」、「芳草類」に、之れ、有り。今、改≪めて≫此《ここ》に移す』この良安のオリジナルな変更の意図は、前の「山礬」の私の傍注を参照されたい。「本草綱目」の「卷十四」の「草之三芳草類」(「漢籍リポジトリ」)の独立項「山礬」。ガイド・ナンバー[041-70b]以下である。短いので、手を加えて転写しておく。

   *

瑞香【「綱目」。】

集解【時珍曰、南土處處山中有之。枝幹婆娑柔條、厚葉四時不凋。冬春之交開花成簇。長三四分、如丁香狀。有黄白紫三色。「格古論」云、瑞香髙者三四尺。有數種、有枇杷葉者、楊梅葉者、柯葉者、毬子者、攣枝者。惟攣枝者、花紫香烈。枇杷葉者、結子。其始出于廬山、宋時人家栽之始著名。攣枝者、其節、攣曲、如斷折之狀也。其根綿軟而香。】

 根。氣味、甘鹹、無毒。主治急喉風、用白花者、研水灌之。時珍曰、出「醫學集成」。

   *

「婆娑《ばさ》たり」原義は「舞う人の衣服の袖が、しどけなく、美しく翻るさま。」で、他に「影などが乱れ動くさま」「樹竹の葉などに雨や風があたってガサガサと音がするさま」を言う。ハイブリッドにとってよかろう。

「丁香《ちやうかう》」バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum 。先行する「丁子」を参照。

「楊梅《やまもも》」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra 。複数回、既出既注。

「柯《しひ》」中国では、ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis の樹木、本邦ならば、ツブラジイ( C. cuspidata )・スダジイ( C. sieboldii )、及び、近縁のブナ科マテバシイ属マテバシイ Lithocarpus edulis 等も、「しい」と呼ぶ。私の好物。

『「五雜組」に云はく、『相ひ傳ふ、「廬山の一比丘、山石の下に晝寢(ひるね)して、異香を開く。覺(さ)めて、之れを尋ねて、此の花を得たる故、「𪾶香」と名づく。後《のち》、好事(こんず[やぶちゃん注:ママ。])の者、以つて、祥瑞《しやうずい》と爲《な》し、改めて、「瑞香」と爲す」≪と≫。』』「中國哲學書電子化計劃」ここから、電子化されたものをそのままで転写する(最近、このサイトの影印本画像が見られなくなってしまった)。

   *

瑞香原名睡香相傅廬山一比丘信畫寢山石下夢寐之中但聞異香酷烈覺而尋之因得此花故名睡香後好事者苛其事以篇祥瑞迺改為瑞余謂山谷之中苛卉異花城市所不及知者何限而山中人亦不知賞之二吳最重玉蘭金陵天界寺及虎丘有之每開時以篇青睹而支提太妹道中彌口滯谷一望林際酷烈之氣衡入頭眩又延平山中古桂夾道上參雲漢花墮狼藉地上入土數尺固知荊山之人以玉抵鵲良木誣也

   *

「古今醫統」既出既注だが、再掲すると、明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六)によって編纂された一種の以下百科事典。全百巻。「東邦大学」の「額田記念東邦大学資料室」公式サイト内のこちらによれば、『歴代の医聖の事跡の紹介からはじまり、漢方、鍼灸、易学、気学、薬物療法などを解説。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べている。分類された病名のもとに、病理、治療法、薬物処方という構成になっている』。『対象は、内科、外科、小児科、産婦人科、精神医学、眼科、耳鼻咽喉科、口腔・歯科など広範囲にわたる』とある。

「山礬」前項の「山礬」を参照されたい。

「攅-簇(こゞな)り」孰れの漢字も「群がり集まる」の意。

「沉香《ぢんかう》」先行する「沈香を参照されたい。

「濕(しつ)、濃(こ)く」「香りが濃厚に過ぎて、しつこく」の意。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 山礬

 

Sanban

      芸香 七里香

      柘花  掟花

      春桂  瑒花

山礬

     【本草灌木類有之

サンハン  今改移于此】

 

本綱山礬山野叢生甚多而花繁香馥故名芸【音云盛多也】大

者株髙丈許其葉似巵子葉生不對節光澤堅強畧有齒

凌冬不凋三月開花白如雪六出黃蕋甚芬香結子大如

椒青黒色熟則黃色可食其葉取以染黃及收豆腐或雜

入茗中又采葉燒灰以染紫爲黝不借礬而成故名山礬

[やぶちゃん字注:「茗」は「茶」の異体字。]

葉【酸濇微甘】 治久痢止渴殺蚤蠧

 畫譜云其花細小而繁香馥甚遠故名七里香

△按山礬【未詳】蓋沈丁花之類也而曰似梔子葉凡梔子

 葉有齒與無齒有二種山礬葉有齒沈丁花葉似無齒

 梔子葉有花四出與六出色白與淡紫子有與無之違

 

   *

 

      芸香《うんかう》 七里香《ひちりかう》

      柘花《しやくわ》  掟花《ていくわ》

      春桂《しゆんけい》 瑒花《やうくわ》

山礬

     【「本草」、「灌木類」に、之れ、有り。

サンハン  今、改めて、此《ここ》に移す。】

 

「本綱」に曰はく、『山礬は、山野に叢生し、甚だ多くして、花、繁く、香、馥《かぐは》しき故、「芸《うん》」と名づく【音、云《ふこころは》、「盛≪んにして≫多き」なり。】。大なる者、株の髙さ、丈許《ばか》り。其の葉、「巵子(くちなし)」の葉に似て、生《は》≪ゆるに≫、節《ふし》を對《たい》せず。光澤、堅強《かたくつよく》、畧(ちと)、齒、有り。冬を凌ぎて、凋まず。三月、花を開き、白くして、雪のごとく、六《むつつ》、出づ。黃≪の≫蕋《しべ》、甚だ、芬香《ふんかう》≪す≫。子《たね》を結ぶ。大いさ、椒《しやう》のごとく、青黒色。熟する時は[やぶちゃん注:「時」はルビにある。]、則ち、黃色。食ふべし。其の葉、取りて、以つて、黃を染め、及び、豆腐を收め、或いは、茗(ちや)の中に雜-入《まぜいれ》、又、葉を采り、灰に燒きて、以つて、紫を染むれば、黝(あをぐろ)に爲《な》る。礬(みやうばん)を借《か》らずして、成る故《ゆゑ》、「山礬」と名づく。』≪と≫

『葉【酸濇《さんしよく》、微甘。】 久痢を治し、渴《かはき》を止め、蚤《のみ》・蠧《きくひむし》を殺す。』≪と≫。

『「畫譜」に云はく、『其の花、細く、小にして、繁く、香、馥《かぐはし》。甚だ、遠≪くへ薫る≫。故、「七里香」と名づく。』≪と≫。』≪と≫。

△按ずるに、山礬【未だ詳かならず。】、蓋し、沈丁花の類なり。而して、梔子の葉に似ると曰ふ。凡そ、梔子の葉、齒、有ると、齒、無きと、二種、有り。山礬の葉には、齒、有り、沈丁花の葉は、齒、無き、梔子の葉に似たり。花、四《よつ》、出《いづる》と、六《むつ》、出づると、色、白きと、淡紫と、子、有ると、無きとの違ひ、有り。

 

[やぶちゃん注:ここで恐らく、良安は、「本草綱目」の「香木類」が、どうも、日中では樹種名が違うということに、何となく気づいてきたのであろう、と私は踏んだ。さればこそ、時珍の分類を仕切り直して、この「山礬」を、敢えて、ここへ繰り入れて、自身の分類法をよしとしたのであろう、と推理した。実は、次の「瑞香」も「芳草類」から、配置換えをしているからである。而して、それは、すこぶる正しいのである。さて、「山礬」とは、常緑、又は、落葉の低木、または、高木の、

双子葉植物綱カキノキ目ハイノキ科ハイノキ属 Symplocos

である。同属は約四百種が熱帯・亜熱帯を中心に、アジア・オーストラリア・南北アメリカの広い範囲に分布するが、アフリカには植生しない。日本にも二十数種が植生する。ウィキの「ハイノキ科」によれば、『ハイノキ科にはアルミニウムを含む種が多くあり、各地で染色に用いられてきた。日本語科名の「灰の木」も、日本に分布するハイノキの灰汁を媒染剤に使ったことによる』。因みに、『ラテン語の科名は「一緒になる」の意味で、多数あるおしべが、それぞれまとまって』五『組の束になっていることによる』とあった。されば、「本草綱目」の記すものは、同属ではあるが、種は違う。ただ、維基文庫の「山礬」があったのだが、この山礬 Symplocos sumuntia というのは、ハイノキ属クロバイ Symplocos prunifolia のシノニムであり、中国には自生せず、本州関東以西の四国・九州・沖縄、及び、済洲島に分布するので、違う。現行の中国語の「山礬」は、近代以降に当てられたものということになる。ただ、中国に分布するハイノキ属はリストがないので、種同定は残念ながら、出来ない。而して、本邦産の代表種は、

ハイノキ Symplocos myrtacea

となる。当該ウィキによれば、『和名「ハイノキ」の由来は、この樹木の木灰が、近縁のクロバイ同様、染色の媒染剤として利用されたことから「灰の木」の名がある』。『九州ではイノコシバ(猪の子柴)と呼ばれた。狩りで獲た猪を縛るのに、この木の丈夫な枝を用いたためという』。『日本の本州(近畿地方以西)、四国、九州に分布』し、『南限は屋久島。暖地の山地に生える』。『常緑広葉樹の低木から高木で、高さは』十二『メートル』『ほどになる』。『樹皮は暗視褐色』、『葉は互生し、長さ』四~七『センチメートル』『の狭卵形から長楕円形』、『葉身には光沢があり、短い葉柄がついて、葉縁には浅い鋸歯がある』。『花期は』四~五『月』で、『前年』の『枝の葉腋から総状花序を出して、小さな白い花をたくさん咲かせる』。一『つの花序には花が』三~六『個つく』。『花冠は』五つに『深裂し、直径は』十二『ミリメートル』『ほどある』。『雄蕊は多数で花冠の外に突き出して』おり、『雌蕊は』一『個』。『果期は』十~十一『月』で、『果実は長さ』六~八ミリメートルの『狭卵形で、秋に黒紫色に熟す』とあった。

「芸香《うんかう》」この「芸」は「藝」の字の新字「芸」とは、相同字形にして、全く異なる古くからある漢字であるので、注意されたい。正確には「芸」ではなく、(くさかんむり)が、中央で切れる字体である。私は大学で図書館司書の目録法の授業で絞られた前島重方先生(特に英文目録法での半角空けをテツテ的にチェックされたのは強烈だった。それでも全部、「優」を下さった)に、奈良末期の石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が作った日本最初の図書館の名、「芸亭」(ウンテイ)を教わったのを、今も、よく覚えている。この字は、

一 ①香草の名。ヘンルーダ(バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ヘンルーダ属ヘンルーダ Ruta graveolens )。そこから「書物」の意ともなった。これはヘンルーダを書物の除虫草として使ったことに拠る。

  ②芳香を持った野菜の名。

  ③「盛んな」或いは「多い」様子の形容。(時珍は、「釋名」で、これで説明している)

  ④くさぎる。草を刈る。

二 「黄ばむさま」。木の葉が枯れかけて黄変するさま。

の意である。

「七里香」以下の異名から、中国産の樹種を比定同定出来るかと思ったのだが、ネットでは、それらしいものは見当たらなかった。残念至極!

『「本草」、「灌木類」に、之れ、有り』「本草綱目」の「卷三十六」の「木之三灌木類」(「漢籍リポジトリ」)の独立項「山礬」。ガイド・ナンバー[088-44a]以下である。

「巵子(くちなし)」リンドウ目アカネ科サンタンカ(山丹花)亜科クチナシ連クチナシ属クチナシGardenia jasminoides

「生《は》≪ゆるに≫、節《ふし》を對《たい》せず」東洋文庫訳では、『節のところで対生しない』とある。これは、グーグル画像検索で、「クチナシの葉」と、「ハイノキ属の葉」を比べて見ると、一瞬で意味が明確になる。則ち、葉の中肋(中央脈)の左右に出現する側脈がクチナシでは、明瞭に左右対称にはっきり見えるのに対し、ハイノキ属では、明瞭に見えない、殆んど視認出来ないことを言っているのである。

「椒《しやう》」ムクロジ目ミカン科サンショウ属 Zanthoxylum 、及び、そのうちで、香辛料として使われるものを指すか、又は、ナス目ナス科トウガラシ属 Capsicum(タイプ種はトウガラシ Capsicum annuum )、或いは、コショウ目コショウ科コショウ属 Piper(タイプ種はコショウ Piper nigrum )を指す。

「豆腐を收め」前述の通り、ハイノキ属にはアルミニウムを多く含む種があり、豆腐の「にがり」には、塩化アルミニウムが、豆腐の固形化に効果があると、論文にあった。

「礬(みやうばん)」硫酸カリウムアルミニウム十二水和物。

「酸濇《さんしよく》」今まで、「和漢三才圖會」の私のプロジェクトでは、この「五味」に関わる熟語は見かけたことは、記憶では、ないが、「濇」は本邦の略字「渋」、中国語の略字「涩」の異体字で、意味は同じであるから、「酸っぱさと渋みの合わさった味」を指すものと思われる。

「畫譜」既出既注だが、再掲すると、東洋文庫の巻末の「書名注」によれば、『七巻。撰者不詳。内容は『唐六如画譜』『五言唐詩画譜』『六言唐詩画譜』『七言唐詩画譜』『木本花譜』『草木花譜』『扇譜』それぞれ各一巻より成っている』とあった。

「沈丁花」フトモモ(蒲桃)目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属ジンチョウゲ Daphne odora 。]

2024/06/11

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 扉木

 

Tobera

 

とべら    正字未詳

とひらのき  【倭名抄用石

        楠草三字】

扉木

       俗云止比良乃木

       今云止閉良

 

△按此樹山中多今人家庭園植之樹葉狀似楊梅而有

 臭香相傳云除夜揷之門扉能辟疫鬼故名扉木矣四

 月開小白花結實四五顆櫕生青色稍熟自裂中有子

 赤色似水木犀子而大

治牛病 用葉擂揉鹽少許和與之良

 

   *

 

とべら    正字、未だ詳かならず。

とびらのき  【「倭名抄」、「石楠草」の

        三字を用ふ。】

扉木

       俗、云ふ、「止比良乃木《と

       びらのき》」と。今、云ふ、

       「止閉良《とびら》」。

 

△按ずるに、此の樹、山中に多し。今、人家≪の≫庭園、之れを植ふ。樹葉の狀《かたち》、楊梅(やまもも)に似て、臭(くさ)き香(か)、有り。相≪ひ≫傳へて云ふ、「除夜、之れを門扉に揷せば、能く、疫鬼を辟《さ》く。故《ゆゑ》≪に≫、「扉木」と名づく。」≪と≫。四月、小≪さき≫白≪き≫花を開き、實を結ぶこと、四、五顆、櫕(こゞな)り生(な)る。青色、稍《やや》熟して、自《おのづか》ら裂(さ)け、中に、子《たね》、有り。赤色。「水木犀(もつこく)」の子に似て、大なり。

牛の病《やまひ》を治す。 葉を用ひて擂揉《するもみ》て、鹽《しほ》、少し許り、和して、之れを與《あた》へて、良し。

 

[やぶちゃん注:これは、良安のオリジナル項目であり、「扉木」は、

セリ目トベラ科トベラ属トベラ Pittosporum tobira

である。小学館「日本大百科全書」によれば、『常緑の大形低木。高さ約』三『メートルに達する。葉は枝先近くに密に互生し、楕円状倒卵形で長さ十センチメートル、幅約三センチメートル、革質で光沢があり、先は丸い。六月頃、枝先に集散花序を作り、白色花を開く。花は単性花で芳香があり、雌雄異株。萼片は五枚、卵形で縁(へり)に毛がある。花弁は箆(へら)形で平開し、先端は、しばしば反り返る。雄しべは、雄花では、長く稔性であるが、雌花では、小さく、不稔性。雌花には、三枚の心皮からなる雌しべが一本ある。果実は球形で、径一・二~一・六センチメートル、熟すと、三裂開し、赤色の種子を裸出する。和名は、節分の日に、この果実を扉に挟み、魔除けとすることに由来し、別名を「トビラノキ」とも称する。海岸に生え、関東地方以西の本州から沖縄、及び、朝鮮半島南部・中国大陸南部・台湾に分布するが、中国のものは自生ではない可能性がある。近縁のコヤスノキ(子安木)Pittosporum illicioides は常緑低木で、葉質はトベラほど厚くなく、先は鋭く尖る。花柄は毛がなく、細長い。兵庫県・岡山県の山地の林内に生え、台湾と中国大陸中部にも分布する。神社の林に多く見られ、安産祈願をすることから、「コヤスノキ」の名がある。トベラ属は約百五十種あり、一部はアジアにあるが、分布の中心はポリネシア及びオーストラリアである。小笠原にはトベラの近縁種が四種あり、狭い地域で著しく種分化が起こっていることで知られる。トベラ科PittosporaceaeはAPG分類(一九九八年に公表された被子植物の新しい分類体系。「被子植物系統グループ」(Angiosperm Phylogeny Group)とは、この分類を実行する植物学者の団体名で、この分類は、現在は特に命名されておらず、「APG体系」・「APG分類体系」などと呼称されている)でもトベラ科とされる。この分類によると、アジア・アフリカ・オーストラリアの暖帯から熱帯に九属約二百五十種あり、日本には一属六種が分布する、とある。画像のある当該ウィキもリンクさせておく。

『「倭名抄」、「石楠草」の三字を用ふ。』「和名類聚鈔」では、「卷二十」の「草木部第三十二」の「木類第二百四十八」に、

   *

石楠草(トヒラノキ/クサナムサ) 「本草」に云はく、『石楠草【「楠」、音「南」。和名「止比良乃木」。俗に云ふ、「佐久奈無佐」。】。』。

   *

「楊梅(やまもも)」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra 。同じく「日本大百科全書」から引くと、『ヤマモモ科』Myricaceae『の高木。高さ』十五~二十『メートル。枝はもろく、多くの細枝がある。葉は長さ』五~十『センチメートルで広倒披針形または倒披針形、革質で先が』尖る。『成木は全縁または浅い鋸歯があり、実生の幼苗期は葉縁の切れ込みが深い。雌雄異株』三月頃、『葉腋に発育した花穂は、雌花序は長さ』一~二『センチメートルの棒状になり、柱頭は紅色で』二『裂した雌しべを』四~五『個つけ、雄花序は長さ』三『センチメートルの長い筆の穂先状になり、多量の花粉を飛ばす。果実は径』一・五~二『センチメートルの球形で』、六~七『月に成熟する。果色は濃紅赤色、赤色、帯淡紅白色などがある。甘・酸味が強く多汁で、生食のほか、砂糖漬け、焼酎漬けにする。ジュースは淡紅色になる。樹皮は乾燥し』て、『楊梅皮とし、下痢や打撲症に効く。また諸媒染剤により、茶、黄、黄金、褐、緑黒色などの染料にする。関東地方以西から九州』及び『台湾を含む中国暖地に分布し、山地に生える』とある。画像のある当該ウィキもリンクさせておく。

「臭(くさ)き香(か)、有り」当該ウィキによれば、『枝葉は切ると悪臭を発するため、節分にイワシの頭などとともに鬼を払う魔よけとして戸口に掲げられた風習があった』とし、『根の皮や枝には悪臭がある』とある。

「櫕(こゞな)り生(な)る」群がって実を結ぶ。

「水木犀(もつこく)」江戸五木の一つで、「庭木の王」と称されるツツジ目モッコク科モッコク属モッコク Ternstroemia gymnanthera 。詳しくは、当該ウィキを見られたい。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 返魂香

 

Hangonkaou

 

はんごんかう 附

        兠木香

返魂香

 

ハン フヲン ヒヤン

[やぶちゃん字注:「兠」は「兜」の異体字。]

 

本綱漢書及博物志所謂靈香是也返魂樹西域有之狀

如楓栢花葉香聞百里采其根水煑取汁錬之如𣾰乃香

[やぶちゃん字注:「𣾰」は「漆」の異体字。]

成也凡有疫死者燒豆許熏之再活

漢武帝時月氏國貢此香三枚大如燕卵黑如桑椹値長

 安大疫西使請燒一枚辟之宮中病者聞之卽起香聞

 百里數日不歇疫死未三日者𤋱之皆活乃返生神藥

 也此說雖渉詭怪然理外之事容或有之


兠木香

 漢武故事云西王母降燒兠木香未《✕→末》【兠渠國所進者也】如大豆

 塗宮門香聞百里關中大疫死者相枕聞此香疫皆止

 死者皆起此乃靈香非常物也

 

   *

 

はんごんかう 附《つけた》り

        兠木香《ともつかう》

返魂香

 

ハン フヲン ヒヤン

[やぶちゃん字注:「兠」は「兜」の異体字。]

 

「本綱」に曰はく、『「漢書」及び「博物志」≪の≫、所謂る、「靈香」、是れなり。返魂樹《はんごんじゆ》、西域に、之れ、有り。狀《かたち》、楓《ふう》・栢《はく》のごとく、花・葉、香《かぐはし》く、百里に聞《にほ》ふ。其の根を采り、水もて、煑て、汁を取り、之れを錬《ね》る。𣾰《うるし》のごとく、乃《すなはち》、香《かう》、成るなり。凡そ、疫死《せる》者、有≪らば≫、豆(まめつぶ)許《ばかり》を燒きて、之れを熏《くん》じて、再たび、活《いけ》り。』≪と≫。

『漢の武帝の時、月氏國より、此の香、三枚を貢《みつぎ》す。大いさ、燕≪の≫卵のごとく、黑くして、桑椹(くわのみ[やぶちゃん注:ママ。])のごとし。≪時に≫長安の大疫に値《あたる》。西使、請《こひ》て、一枚を燒きて、之れを辟《さ》く。宮中の病者、之れを聞きて、卽ち、起(た)つ。香、百里に聞《にほひ》、數日《すじつ》、歇(や)まず。疫死≪して≫、未だ三日ならざる者、之れを𤋱《かげば》、皆、活《かつ》す、乃《すなはち》、生《しやうを》返す。神藥なり。此の說、詭怪《きくわい》に渉(わた)ると雖も、然《しか》も、理外の事、容(まさ)に、或いは、之れ、有るべし。』≪と≫。[やぶちゃん注:この場合の「容」は再読文字である。]


『兠木香(とりつかう)

 「漢武故事」に云はく、『西王母《せいわうぼ》、降《くだ》りて、兠木香の末《まつ》を燒きて【兠渠《ときよ》國より進ぜらる者なり。】、大豆のごとく≪して≫、宮門に塗りて、香、百里に聞《にほ》ふ。關中、大いに疫死する者、相《あひ》枕《まくら》す。此の香を聞《きく》て、疫、皆、止む。死する者、皆、起つ。此れ、乃《すなはち》、靈香にして常物《つねのもの》に非ざるなり。』≪と≫。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「返魂香」は良安が附言しないように、実在の香ではない。本記事としっかり対応しているので、ウィキの「反魂香」を全文引く。『反魂香、返魂香(はんこんこう、はんごんこう)は、焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上の香』。『もとは中国の故事にあるもので、中唐の詩人・白居易の』「李夫人詩」『によれば、前漢の武帝が李夫人を亡くした後に道士に霊薬を整えさせ、玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという』。『日本では江戸時代の』「好色敗毒散」・「雨月物語」『などの読本や、妖怪画集の』「今昔百鬼拾遺」、『人形浄瑠璃・歌舞伎の』「傾城反魂香」『などの題材となっている』「好色敗毒散」には、『ある男が愛する遊女に死なれ、幇間の男に勧められて反魂香で遊女の姿を見るという逸話があり、この香は平安時代の陰陽師・安倍晴明から伝わるものという設定になっている』。『また、落語の「反魂香」「たちぎれ線香」などに転じた』(私は「たちぎれ線香」が好き)。『なお』、『明朝の万暦年間』(一五七三年~一六二〇年)『に書かれた体系的本草書の決定版』「本草綱目」の「木之一」の「返魂香」では、『次のとおり記載されている』。『按の『内傳』では』(このウィキの記者、漢文が苦手らしく、いきなり、冒頭から、おかしい。「返魂香」の項の「集解」の冒頭部だが、これ「珣曰按漢書云」とあるので、「珣(しゆん)が曰はく、『按ずるに「漢書」に云はく、『武帝の時……』と読まねばならんがね! 「珣」は盛唐の文学者にして本草学者であった李珣で、「安禄山の乱」(七五五年)の際、蜀に亡命し、その後は梓州(四川省三台)に移住した。唐末期から著名な人物として知られた。しょっぱなからガックりきたので、以下にある原本文は「漢籍リポジトリ」のここのガイド・ナンバー[083-70b]から、項ごと、全文を引くことにする。一部の表記に手を加えた)

   *

返魂香【「海藥」】

集解【珣曰按漢書云武帝時西國進返魂香内傳云西域國屬州有返魂樹狀如楓柏花葉香聞百里采其實於釡中水煑取汁鍊之如漆乃香成也其名有六曰返魂驚精回生振靈馬精却死凡有疫死 者燒豆許薫之再活故曰返魂時珍曰張華博物志云武帝時西域月氏國度弱水貢此香三枚大如燕卵黑如桑椹值長安大疫西使請燒一枚辟之官中病者聞之卽起香聞百里數日不歇疫死未三日者薫之皆活乃返生神藥也此說雖渉詭怪然理外之事容或有之未可便指爲謬也】

附録 兠木香【藏器曰漢武故事云西王母降燒兠木香末乃兠渠國所進如大豆塗宫門香聞百里關中大疫死者相枕聞此香疫皆止死者皆起此乃靈香非常物也】

   *

『西海聚窟州にある返魂樹という木の香で楓または柏に似た花と葉を持ち、香を百里先に聞き、その根を煮てその汁を練って作ったものを返魂といい、それを豆粒ほどを焚いただけで、病に果てた死者生返らすことができると記述している』。『張華の』「博物志」『では』、『武帝の時』、『長安で疫病が大流行していたおり、西域月氏国から献上された香には病人に嗅がせるだけで』、『たちどころにその生気を甦えらせるという効能で知られていたが、上質なものになると死に果てた者でも』三『日の内であれば』、『必ず』、『この香で蘇らせることができた』『と記述されている』。但し、『これについて』「本草綱目」の著者である』『李時珍は』「此の說、詭怪(きくわい)に渉(わた)ると雖も、然(しか)も、理外の事、容(まさ)に、或るいは、之れ、有るべし。」(ここは本書の終りの訓読に代えた)『と批判している』とある。最後も時珍の『批判』という表現は、おかしいぞ? ここは、訳すなら、「この説は偽り・騙しを含んでいる語りのようにしか、一見、見えないものだが、しかし、尋常の理屈の範疇の外で、或いは、実際に起こったものであったのかも知れない。」という、疑義を含みながらも、微妙に留保している謂いである。

「返魂樹《はんごんじゆ》」ダメ押しで、小学館「日本国語大辞典」を引いておく。『反魂香の原料になるといわれる想像上の香木』。

「楓」本邦の「楓」とはちゃいまっせ! 「かえで」ではなく、「フウ」と読んでおくれやっしゃ! 先行する「楓」を見ておくれやす!

「栢」同前で「かしわ」なんて読んだら。もう、あきまへん! 何度か言うてますが、まんず、始動冒頭の「柏」を、どんぞ!

「百里」明代の一里は短いかい、おます。五百五十九・八メートルどす。五十五・九八キロメートルで、ごんす。

「漢の武帝の時」在位は紀元前一四一年から紀元前八七年。

「月氏國」月氏は紀元前三世紀から一世紀頃にかけて、東アジア・中央アジアに存在した遊牧民族と、その国家名。紀元前二世紀に、匈奴に敗れてからは、中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになった。大月氏時代は東西交易で栄えた。「漢書」の「西域伝」によれば、羌(きょう)に近い文化や言語を持つとあるが、民族系統については諸説ある。以下は、参照にした当該ウィキを見られたい。

「西使」「西」の「月氏國」から来た使節の公式の使者。

「聞きて」本邦でも「香」は「きく」と申しますやろ?

「漢武故事」底本の巻末の「書名注」に、『一巻。後漢の班固撰と伝えるが、後人の偽作といわれる。もと二巻。『史記』『漢書』の武帝記の記述と合致するところもあるが、妖妄(ようもう)』(奇怪で出鱈目なこと)『の話が多い』とある。

「西王母」中国古代の仙女。崑崙 (こんろん) 山に住み、不老不死の薬を持つ神仙とされ、仙女世界の女王的存在として長く民間で信仰された。

「兠渠《ときよ》國」不詳。

「關中」現在の陝西省の西安を中心とした一帯。思い出すね、漢文の「鴻門之会」。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(1)

 

 

        

 

 

   水鳥のかたまりかぬる時雨かな 良 長

 

 時雨の降る中に浮んだ水鳥が、一團となりさうに見えながら、かたまりきらずにゐる。かたまるべくしてかたまらぬ樣子を「かたまりかぬる」と云つたのであらう。時間は必ずしも限定するには當らぬが、何となく寂しい夕方の景色を想像せしめる。

 水鳥は時として岸の上などに群れてゐることもある。この句は岸の上としても解釋出來ぬことはないけれども、「かたまりかぬる」といふ語勢から考へると、やはり水上に浮びながら、かたまりあえぬもののやうな氣がする。

 

   霜しろく荷になひつれけり肴ふご 鶴 聲

 

 肴賣が荷ふ魚畚[やぶちゃん注:「さかなふご」。]の上に霜が白く置いてゐるといふだけの句であるが、「荷ひつれけり」の一語によつて、この肴賣が一人でないことがわかる。肴の荷を曳ひいて走る魚河岸の若い者では、「霜しろく荷ひつれけり」はうつるまい。但一人でないから、幾分賑な樣子はこの句からも窺ふことが出來る。

 鳴雪翁の句に「初霜をいたゞきつれて黑木賣[やぶちゃん注:「くろきうり」。]」といふのがあつた。同巧異曲であるが、霜を帶びたものを荷ふといふ點から云へば、或は黑木の方がふさはしいかも知れない。

 鶴聲の句は「霜しろく」で意味を切つて、霜白き朝を肴賣が畚を荷ひつれて行く、といふ風に解することも或は可能であらう。卽ち「霜しろし荷ひつれたる肴畚」の意に取るのであるが、これには多少の無理がある。「霜しろく荷ひつれけり」と續く以上、霜白き畚を荷ひつれた意に解する方が、先づ妥當であらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「初霜をいたゞきつれて黑木賣」古いものでは、国立国会図書館デジタルコレクションの「明治四大家俳句集 秋冬」(寒川鼠骨編・明三九(一九〇六)年大学館刊)のここで視認出来る。「黑木賣」の「黑木」は薪(たきぎ)を指す。皮のつたままの材木、皮つきの丸木(「榑(くれ)の木」と称した)洛北八瀬大原の婦女が、これを京都の市上に売った。婦女を「黑木賣」と呼んだ。所謂、知られた「大原女」「小原女」である。]

 

   水風呂に戶尻の風や冬の月 十 丈

 

 水風呂[やぶちゃん注:「すいふろ」。]といふのはもと蒸風呂[やぶちゃん注:「むしぶろ」。]に對した言葉だ、といふ說を聞いたことがある。橋本經亮などは、鹽浴場に對する水浴湯といふことから起つたので、居風呂[やぶちゃん注:「すゑふろ」。]といふ名は誤だろうと云つてゐる。いづれにしても現在吾々の入るのは水風呂のわけである。この句もスイフロで、ミヅブロではない。

 風呂に入つてゐる場合、戶尻[やぶちゃん注:「とじり」。]が透いてゐて、寒い風が吹込んで來る。そこから冬の月の皎々と照つてゐるのが見える。一讀身に沁むやうな冬夜の光景である。「戶尻の風」の一語が極めて適切に働いてゐる。

[やぶちゃん注:「橋本經亮」(つねあきら/つねすけ 宝暦五(一七五五)年~文化二(一八〇五)年:生没年には異説がある)は江戸後期の国学者で有職故実家。本姓は橘。通称は肥後守。号は橘窓・香果堂。父は梅宮(現在の京都市右京区の梅宮大社)の神官橘昆経。家職を継ぎ、正禰宜となり、宮中に出仕して非蔵人を兼務した。有職の学は高橋図南(となん)に学び、図南の著書の多くを校正した。また、和歌を小沢蘆庵に学び。上田秋成・伴蒿蹊らとも親しかった。豪放不羈、奇行を以って知られ、自宅から宮中に至る途上も、読書しながら往来し、田畑に落ちて衣服を汚しても気にかけなかったという。考証を得意としたが、特に古絵図を拠り所とするところにその特色があった。著書に「橘窓自語」・「梅窓筆記」などがある(以上は朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。この記事は「梅窓筆記」(文化二(一八〇五)年十月平安丘思純の序がある)の「卷之一」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第三巻(日本随筆大成編輯部編・昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここで視認出来る(右ページ二行目から)。短いので、電子化しておく(底本では二行目以降は一字下げ)。

   *

〇今人ノ入湯ノ湯ハ、水湯(ミヅユ)ト云モノナリ。水風呂ト云名アルモ遺風ナリ。台記、久安三年[やぶちゃん注:一一四七年。]二月二十六日。(取要)自今日始潮湯正法須水湯。七日後始ㇾ之。同月廿七日。(辛酉)復浴水湯。トアリ。潮湯(シホユ)ニ對シテ水湯ト云ナリ。

   *]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(22) / 「秋」の部~了

 

   蕣や桃の下葉のちり初る 之 道

 

 つくろはぬ庭などの樣であらう。朝顏の花が咲いてゐるほとりに桃の木があつて、已に色づいた下葉をはらはらと落す、といふ光景である。朝顏と桃とは近くにあるといふだけで、格別深い交涉があるわけではない。季題は勿論朝顏に在るけれども、朝顏の咲く時に當つて桃の下葉が散りはじめるといふ、交錯した事實を描いた爲に、子規居士の所謂二箇中心の句のやうな趣になつてゐる。

「あさましき桃の落葉よ菊畠」といふ蕪村の句は、菊畠に溜る桃の落葉を詠んだので、どこまでも菊畠が中心になつて居り、落葉はその景物に過ぎない。之道の句は寧ろ「桃の下葉のちり初る」といふ推移に興味を置いたものの如く、それだけ句としては蕪村のほど纏つてゐないけれども、又その纏らぬところが自然だとも云へる。元祿と天明との相異は、この邊にも存するのであらう。

[やぶちゃん注:『「あさましき桃の落葉よ菊畠」といふ蕪村の句』「蕪村句集」の「卷之下」の「秋之部」に載る。安永七(一七七八)年から天明三(一七八三)年の間の作。因みに、「自筆句帳」では「落葉よ」は「落葉や」となっている。]

 

   雲高き野分の跡の入日かな 空 能

 

 野分[やぶちゃん注:「のわき」。]がやみ方になつて、一しきり赤い夕日が西の空を染める。その赤い入日の空を、野分の名殘の風に乘つて、斷雲[やぶちゃん注:「ちぎれぐも」。]が高く飛んで行く、といふ光景を句にしたものかと思ふ。

 但「雲高き」といふ言葉は、必ずしも高く飛ぶ場合には限らぬかも知れない。野分のあとが何時の間にか晴渡つて、澄んだ空高く雲が浮んでゐるものとも解される。飛ぶにしても、浮ぶにしても、その雲が入日の朱を帶びてゐることは慥である。

「野分の跡の入日」だけでは格別のことも無いが、「雲高き」の一語を點じたため、濶然たる秋の夕空が直に眼に浮んで來るやうな氣がする。

 

   化兼る狐とびゆく野分かな 一 空

 

 一疋の狐が何者かに化けるつもりで、先刻からいろいろ工夫してゐるが、未熟なせゐか、あまり風が强過ぎるせゐか、たうとううまく化けられないで、野分の中を向うへ飛んで行つた、といふやうなところであらうか。句には現れてゐないが、夕方らしい情景である。

 日本の文學には屢〻未熟の狐とか、化損ひの狐とかいふものが出て來る。妖氣を伴うべき狐魅談に愛敬を生じ、滑稽が生れるのは全くかういふ未熟な、化損ひの徒が介在する爲である。この野分の中で化けかねた先生なども、狐の爲に氣を吐くに足らぬにせよ、文學的材料としては一顧の價値がある。

 狐は蕪村に至つて大に獨得の趣味が發揮された觀があるが、この句はその先蹤と見るべきものである。若干の滑稽味を伴ふ點に於て、特にその感を强うする。

[やぶちゃん注:「化兼る狐とびゆく野分かな」この句、岩波文庫版では、上五のを「化兼(ばけかね)る」とルビを振っている。しかし、私は「ばけかぬる」と読む。

「狐は蕪村に至つて大に獨得の趣味が發揮された觀がある」蕪村の「新花摘」には、五篇の狐狸談を収録しており、蕪村が狐狸の怪を信じ、好んでいたことは、よく知られている(私の「柴田宵曲 俳諧博物誌(13) 狸 二」は参考になろう)。蕪村の狐の句を拾うのは、ちょっと厄介だなと思って、検索を掛けたところ、幸い、個人ブログ「猫まち 俳句的つれづれ日記」の「蕪村の狐の句」に拾われてあった。所持する同引用句集(岩波文庫)で表記を確認し、一部に読みを追加し、漢字を恣意的に正字にして以下に示す。

     *

   公達に狐化たり宵の春

   小狐の何にむせけむ小萩はら

   石を打(うつ)狐守(もる)夜のきぬた哉

   草枯(かれ)て狐の飛脚通りけり

   春の夜や狐の誘ふ上童(うへわらは)

   短夜や金(かね)も落さぬ狐つき

   飯盜む狐追(おひ)うつ麥の秋

   巫女(かんなぎ)に狐戀する夜寒(よさむ)かな

   水仙に狐あそぶや宵月夜

     *]

 

   はれきるや光に曇る月の影 旦 藁

 

 晴れ渡つた、明皎々たる月である。併し中天にかゝつた圓い影を見ると、その明な光の中にほのかな曇がある。霧が立つとか、薄雲がかゝるとかいふわけではない。晴れた光の中の曇である。その感じを現すのに「光に曇る」の語を以てしたのであらう。

 秋の夜の月の隈なきをのみ愛ずるめでたき人々には、到底かういふ觀察は出來ない。さうかと云つて皎々たる月では平凡だから、殊更に光の中の曇を發見しようといふわけでもない。ぢつと月の光に眺め入る時、そこに一點の曇を感じた、といふのが自然の姿なのである。深夜の月の光の中に、潤んだやうな曇を感ずるのは、何人にも味ひ得べき趣であつて、而も容易に句にし得ぬところのやうに思ふ。「光に曇る」の語も云ひ得て妙である。

 

   めいげつや客をむかひに里離れ 探 志

 

 あまり月がいゝので、急に人を呼んで酒でも飮まうと思ひ立つて、ぶらぶら月下の道を里離れた[やぶちゃん注:「さとはなれた」。]あたりまで步いて行つた、といふ風にも解せられる。

 名月のことだから、かねて人を會する約があつたが、漫然家にあつて待つに堪へず、來る道はわかつてゐるので、迎え旁〻出かけて行く。月竝な歌よみなら「月を見がてら」とか何とかいふところとも解せられる。

 客の性質や客との關係は、さう僉議を加へるほどのことも無い。この句の興味は、名月の夜に當つて客を迎へに行くといふこと、その迎へる道がいつか里離れたところまで來てゐた、といふことに在る。月に浮れたといふほどでないにしても、輕い氣分の下に步いてゐることは想像出來る。

 

   午の貝おくる木玉や三井の秋 探 志

 

 何かの合圖に貝を吹くといふことは、現代の吾々には殆ど沒交涉である。法螺貝を手に取つたことはあつても、未だかつて吹いたことは無い。山伏にも因緣が無いから、貝の音に耳を驚かされた記憶も持合せて居らぬのである。

 この句の貝は時刻を報ずるものらしく思はれる。食事の合圖かどうかわからぬが、午[やぶちゃん注:「ひる」。]になつて貝を吹き鳴らす。その音が遠く谺して聞えて來る。場所が三井寺だけに、秋天の下にひろがる大湖を背景にして、谺も遠きに及ぶのであらう。

 三井の秋は日本畫の題材になりさうな舞臺である。併し湖を畫き、雲を畫き、寺を畫き得ても、そこに「午の貝おくる木玉」を添へることは、丹靑の技のよくするところであるまい。詩の獨自の境地はこの邊にも存する。

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、句は、「ひるのかひおくるこだまやみゐのあき」である。

「丹靑」「たんせい」・「たんぜい」両用に読む。「絵画」また、「絵の具で描くこと」。]

 

   御明の消て夜寒や轡むし 里 東

 

 轡蟲は秋鳴く蟲の中でも最も景氣のいゝ、哀感に乏しいもののやうな氣がするが、この句は妙にうら寂しい情景を持出した。

 神前か、佛前か、今まで上げてあつた御明(みあかし)がふつと消えて、あたりは暗くなつた。と同時に俄に夜寒を感ずる、轡蟲が鳴いてゐる、といふのである。

 御明が消えて、俄に夜寒を感ずる、といふ風に限定して解釋しないでも、寂然たる夜寒の屋內に、今までついてゐた一點の燈が消えた、と見てもいゝのであるが、この句の表現には或動きがあるので、その動きに基いて前のやうに說いたのである。いづれにしても句の世界に大した變りがあるわけではない。

 轡蟲の聲も最初のうちは四鄰を惱ますだけの威力を具へてゐるが、秋が深くなるにつれて、かすれたやうな聲に變つて來る。この轡蟲もいさゝか聲の衰へた場合、從つて夜寒も身に入む[やぶちゃん注:「しむ」。]頃と解していゝかも知れない。

 

   捻上て友待顏や雁の首 諷 竹

 

「友待顏」といふ言葉から考へると、この雁は一羽のやうに見える。首を捻上げるやうにして友を待つといふ以上、これは飛んでゐる雁ではない。水の上か、田圃か、何かの上に下りてゐるらしい。作者はさういふ雁の恰好を見て「友待顏」と解したので、さういふ感じを起させたのは、雁が一羽きりで寂しげに見えたからだらうといふことになる。

 詩歌に取入れられた雁の多くは空を飛んでゐるか、或は雁聲を耳にするかで、雁そのものの姿に及んだものはあまり見當らない。俳諧には往々雁の姿を捉へたものがあるが、それにしても捻上げた雁の首などは、異色あるものたるを失はぬ。「月の出や皆首立てゝ小田の雁」といふ子規居士の句は、この句に比べると繪畫的であり、趣向も複雜になつてゐる。諷竹の句の興味は雁の形だけを描いた、單純な點に在るかと思ふ。

 

   秋ふかし人切り土堤の草の花 風 國

 

「人切り土堤」は地名といふよりも、寧ろ俗稱の部類であらう。「人切り土堤」と稱する以上、嘗てそこで人が斬られたとか、よく人の斬られることがあるとか、何かさういふ由來があるに相違無い。現在は何事も無いにしても、そんな名があるだけに、何となく寂しい感を與へる。もう秋も深くなつた「人切り土堤」に草の花が咲いてゐる、といふのがこの句の見つけどころである。

 鳴雪翁の自敍傳に、今の芝公園と愛宕山の界のところを「切通し」といふ、晝間から宵の口までは相當賑であつたが、夜が更けると寂しくなり、辻斬なども屢〻行はれた、翁は子供心に、始終人を斬るから「切通し」だと思つてゐた、といふことが見えてゐる。「人切り土堤」に至つては、その上に更に人の字がついてゐるのだから、連想のそこに及ぶのは當然である。生々しい人斬の噂なども傳はつてゐるとすれば、寂しい以上に凄愴な感じさへ伴つたであらう。けれども「人切り土堤」に附會して、この草の花は赤い方がいゝとまでは考へない。「秋ふかし」といふ季節に照應する、寂しい感じのものであればよからうと思ふ。

[やぶちゃん注:以上の内藤鳴雪の「鳴雪自叙傳」は国立国会図書館デジタルコレクションの原本(大正一一(一九二二)年刊岡村書店刊)のここで視認出来る(右ページ最終行から)。]

 

   二階からたばこの煙秋のくれ 除 風

 

 たゞ眼前の景である。煙草を吹かしてゐる以上、そこに人間のゐることはいふまでもないが、どんな人間かわからず、又どんな人間であつてもいゝわけである。作者は秋の暮の中に一軒の二階家を認め、その二階に吹かす煙草の煙を描いただけで、他の消息を傳へてゐない。「煙草ふかす二階の人や秋のくれ」とでもいえば、人間の姿が句の上に現れるが、さういふ點に一向重きを置かず、煙だけで用を濟してしまつた。

 煙につきものの「立昇る」といふ言葉も、「なびく」といふ言葉も、この場合に用ゐるものとしては强きに失する。ふはりと宙に浮ぶやうな煙の狀態は、「二階からたばこの煙」といふ無造作な表現によつて、却つてよく現し得るのかも知れない。

 

   夜寒哉煮賣の鍋の火のきほひ 含 粘

 

 煮賣屋の鍋の下を焚き立てる火が、旺に赤々と燃えてゐる。鍋の內のものは食欲を刺激するやうな匂をさせることであらうが、作者はその句にも、ぐつぐつ煮える鍋の音にも、格別感覺を働かしてゐない。赤々と燃え盛さかる火そのものに興味を集中して居り、それが夜寒の感を强からしむる結果になつてゐる。

「夜寒哉」といふ風な言葉を上五字に置く句法は、俳句に於て非常に珍しいといふほどでもないが、下五字に置いたのよりは遙に例が少い。それだけ用ゐにくいといふことにもなるが、詠歎的な氣持は下五字を「かな」で結ぶよりも强く現れるやうな氣がする。この句は「火のきほひ」の一語によつて、上の「夜寒哉」を引緊めてゐるやうである。

 

   朝顏や皆實みになして引たぐる 玄 梅

 

 大輪朝顏か何かの貴重な種類であれば、自ら咲かせる花を制限して、多く實などを結ばせぬやうにするのであらうが、これはそんな面倒なものではない。莟の出來ただけを悉く花にし、その花も千切つたりせずに、皆實になるに任せて置いて、蔓ごと引たぐるといふ意味であらう。平凡なる駄朝顏である。

 これと同樣なことは、人生の各方面において認められる。敎育方針などといふことも、畢竟この朝顏に臨む態度と似たものかも知れぬ。秀才を產み、貴重な花を作るのも固より結構であるが、花の咲くに任せ、實のなるに任す態度には、自らなる氣安さがある。そこに安心の地を見出すのは、或は吾々に與へられた使命であらう。

[やぶちゃん注:これを以って、「秋」の部は終っている。]

2024/06/10

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(21)

 

   殘る蚊に袷著てよる夜さむかな 雪 芝

 

 殘る蚊と、秋の袷と、夜寒と三つの材料から成立つてゐる。しかしそのために五目飯や三題噺のやうなことにはならず、渾然として一體になつてゐるのが、この句の手際であらう。

 漸く夜寒を感ずる頃である。何かの集りがあつて、來た人が皆袷を著てゐる。が、その座には秋の蚊が殘喘を保つてゐて、時々人の肌を襲ひに來る、といふ意味の句らしい。夜寒と殘る蚊とが一句の上に交錯するなどは、ちよつと思ひつかぬ趣であるが、自然の上にはいくらもある事實である。一面夜寒を感じ、一面殘る蚊を見る。秋の或季節の趣は、殆どこの一句に悉されてゐるやうに思ふ。

「袷著てよる」の「よる」といふ言葉は、見方によつていろいろに解されるが、しばらく右のやうに解して置いた。人の集りと云つたところで、さう大勢の會合ではあるまい。たゞ袷を著てゐるといふだけでなしに、「よる」の一語があるため、一句をちよつと複雜なものにしてゐる。平淡なやうで手の込んだ句である。

 

   うら道の露の深さや猫の腹 夕 兆

 

 この裏道は草などの生はえた、狹い道らしく思はれる。さういふ道に現在猫がゐるわけではない。猫の腹がしとどに濡れてゐるのを見て、裏道を步いて來たものと推定し、草に置く露の如何ばかり[やぶちゃん注:「いかばかり」。]深いかを想ひやつたのであらう。

 眼前の光景を現したやうな「うら道の露の深さや」といふ言葉が、想像の上に立つてゐるところに、この句の特色がある。猫の毛は一體に他の獸に比して水をはじく力が乏しいから、露の草むらなどを步けばぐつしより濡れてしまふ。裏道の露の深さは、この猫の腹の濡れ工合によつて想像されるのである。「露の深さ」と猫の腹との間に、想像的意味が含まれてゐるものと見れば、必ずしも無理な表現とも思はれぬ。

 

   瓢簞の軒端にさがる日あしかな 爲 有

 

 軒端に瓢簞[やぶちゃん注:「へうたん」。]がぶらりと下つてゐる、稍〻傾いた秋の日脚がその邊に明るくさしてゐる、といふ光景らしい。作者はかう描き去つたのみで、瓢簞の影も點じなければ、他の配合物も持つて來ない。手の込んだ後世の句から見ると、その點は羨うらやましい位大まかである。

「日あし」といふ言葉に限定された時間は無いわけだから、かう云つただけでは傾いた日脚かどうかわからぬやうなものの、軒に下つた瓢簞にさす日脚とすれば、外の時間では工合が惡い。西へ廻つた秋の日脚で、明るい中に漸く日の詰つたことを思はせる光線が眼に浮んで來る。當然あう解して差支無いやうに思はれる。

 

   外屋敷や野分に殘る柿の蔕 野 童

 

「外屋敷」はトヤシキと讀むのかと思ふが、よくわからない。「野分[やぶちゃん注:「のわき」。]に殘る」といふ言葉から考へると、野分の直後のやうだけれども、實際はもう少し時間の距離があるので、野分に吹落された柹の蔕が梢に殘つてゐる、秋もかなり闌けた[やぶちゃん注:「たけた」。]場合ぢやないかといふ氣もする。批評の發達した近頃の句は、電車の交叉點を突切る時のやうに、前後左右を見廻して作るから、言葉の現す意味も自ら考慮されてゐるが、昔の人はさういふ點にあまり頓著せず、眼中の印象を悠々として一句に收めてゐる。この「柹の蔕」なども慥にその一例と見るべきもので、どこにどう殘つてゐるのか、深く問はぬやうな趣がある。

 

   篠深く梢は柹の蔕さびし 野 水

 

    三線からむ不破の關人 重 五

 

といふ附合の句は、ずつと以前七部集を耽讀した頃から、頭に沁み込んで離れぬものの一であるが、これが先入主になつているせゐか、野童の柹の蔕も直に梢にあるものと解釋した。外屋敷の背景の下に、この蔕のあるところを考へれば、柿の木の梢より外にはあるまいと思ふ。

 子供の時分、父が柹の木を二本買つて植ゑたことがあつた。一本の百目柹には大きな實が一つ二つ殘つてゐたが、一本の方は葉も何も悉く落盡して、枯木のやうになつてゐた。その梢に點々と黑いものの殘つてゐるのを、何かと思つて竹竿で落して見たら、固く干からびた蔕であることがわかつた。この柹は庭に植ゑてから、一度もならずに枯れてしまつたと記憶してゐる。嘗て「篠深く」の句に興味を感じ、今又この柹の蔕を取上げたのも、畢竟この少年の時の事が土臺になつてゐるのかも知れない。人間といふものは他の句を解釋するに當つても、自己の世界を脫却出來ぬものと見える。

[やぶちゃん注:宵曲の自己分析は見事!

「野水」と「重五」のそれは、「冬の日」の(前後を少し附した)、

    *

 櫛ばこに餅すゆるねやほのかなる かけい

  うぐひす起(おき)よ帋燭(しそく)とぼして 芭蕉

 篠(ささ)ふかく梢は柹の蔕さびし 野水

  三線からん不破のせき人 重五

 道すがら美濃で打ける碁を忘る 芭蕉

  ねざめねざめのさても七十 杜國

   *

の表記である。]

 

   炭竈をぬりて冬待つ嵐かな 吏 明

 

 山家[やぶちゃん注:「やまが」。]の句であらう。冬が近くなつたので、炭を燒くべく炭竈を塗り、もう何時[やぶちゃん注:「いつ」。]冬が來ても差支無い用意がとゝのつた。若し「炭竈をぬりて冬待つ山家かな」だつたら、それこそ平凡極るものだけれども、作者は句に一轉化を與へるため、嵐といふものを持出して來た。冬が近づくに從つて、山は屢〻嵐が吹く。「いかばかり吹く峯の嵐ぞ」といふやうな、詠歎的なものではない。現實に山家の人の心を搖る[やぶちゃん注:「ゆする」。]寒い嵐である。この嵐あるによつて、この句ははじめて魂が入つたことになる。

 俳諧の要諦はこの「嵐」の呼吸に在る、と云つただけでは、未だ意を悉さぬ[やぶちゃん注:「つくさぬ」。]嫌があるかも知れぬが、この嵐の如きものがあつて、畫龍點晴の妙を發揮する場合が多いといふことは、斷言してよからうと思ふ。

[やぶちゃん注:「いかばかり吹く峯の嵐ぞ」は「新古今和歌集」の「卷第六 冬歌」の藤原資宗朝臣の一首、

   *

   後冷泉院御時、上(うへ)のをのこども

   大井河にまかりて、「紅葉浮ㇾ水」と

   いへる心をよみ侍(はべり)ける

 いかだ士よ待てこととはん水上(みなかみ)は

          いかばかり吹く山のあらしぞ

   *

である。]

 

   はつ秋や小袖だんすの銀の鎰 巴 水

 

「鎰」といふのはカギのことである。普通の鍵とどう違ふかわからぬが、その邊は專門家に一任してよからうと思ふ。第一この句では鍵がどうなつてゐるのか、それからして明瞭でない。「小袖だんす」といふものを句の中に持出した以上、腰にぶら下げたりしてゐるのでないことは慥だけれども、今少し立入つて、この場合鍵がどうなつてゐるかといふ段になると、さつぱり見當がつかぬのである。

 この句の生命は「銀」の一字にある。もしこの句から銀の字を除いたならば、卒然として價値の半を失ふに相違ない。鍵は銀光を放つことによつて初秋と調和し、それが一句の中心をなしてゐるやうに思ふ。假にこの句から鍵の音を連想する人があるにしても、その音は銀光の範圍に屬するものでなければならぬ。

 

   蚊屋しまふ夜や銀屛のさびのよき 醉 竹

 

 蚊帳を釣らぬやうになつて、何となくぱつとした燈影が座邊を照す。そこに立てた屛風の銀が稍〻さびて、極めて落著いた色を見せてゐる。作者は句中に灯を點じてはゐないけれども、「さびのよき」銀屛がしづかに灯を受けてゐることは十分想像出來る。

 支考は芭蕉の「金屛の松のふるびや冬籠」の句について、「金屛は暖かに銀屛は涼し」と云ひ、「六月の炎天に金屛をたてんに、人の顏かゞやきてよからず、さる坐敷は道具知らぬ人に落ちぬべし、されば金銀屛の涼暖を今の人の見付けたるにはあらず、そも天地より成せる本情なり」と論じた。それほど面倒なことを云はなくてもいゝが、前の句と云ひ、この句と云ひ、初秋の季節に銀色を配したのは頗る感覺的である。銀の鍵は燦然たるところに、屛風は銀の色のやゝさびたところに、各〻秋の心を捉へてゐる。「銀の鎰」の方は時間を明にせぬが、やはり夜の燈下がふさはしいやうな氣がする。

[やぶちゃん注:『支考は芭蕉の「金屛の松のふるびや冬籠」の句について、……』芭蕉の元禄六年の十月九日附許六宛書簡初出だが、異形句が多い。

   *

 金屛の松の古さよ冬籠(「炭俵」)

   *

 金屛に松のふるびや冬籠り(「笈日記」)

   *

 金屛の松もふるさよ冬籠(「芭蕉庵小文庫」)

   *

 金屛の松のふるびや冬籠(「陸奥鵆(むつちどり)」)

   *

因みに、この句は富家の座敷を想起した想像句で、そこに侘びた芭蕉の冬籠りを通わせたのである。さて、さる方の論文によって、この支考の評は、俳論「續五論」の一節であることが判った。その引用を参考に正字で示すと、

   *

金屛はあたゝかに銀屛は涼し。 是をのづから金屛・銀屛の本情也。(略)[やぶちゃん注:論文者による。]金屛・銀屛のうち出たる本情は、貴品高家の千畳敷とおもひよるべし。それを松の古さよといはれたれば、牒つがひもはなればなれに兀(はげ)

かゝりて、ばせを庵六畳敷のふゆごもりと見え侍るか。是風雅の淋しき實なるべし。金屛のあたゝかなるは物の本情にして、松の古さよといふ所は二十年骨折たる風雅のさびといふべし。

   *

である。衒学的な支考らしい大上段で、微苦笑したくなるね。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 胡桐淚

 

Totourui

 

ことうるい 胡桐鹼

      胡桐律

胡桐淚

 

 

ウヽ トン レイ

 

本綱胡桐淚生西域肅州及凉州其木初生似柳大則似

桐蟲食其樹而汁出下流似眼淚又有入土石成塊如鹵

[やぶちゃん注:「鹵」は、底本では、「グリフウィキ」のこれに近い字体。]

鹸者形如小石片子黃土色爲上有夾爛木者

氣味【鍼苦大寒】 今治口齒家多用爲最要之藥能軟一切物

 瘰癧非此不能除又可爲金銀銲藥

 

   *

 

ことうるい 胡桐鹼《ことうけん》

      胡桐律

胡桐淚

 

 

ウヽ トン レイ

 

「本綱」に曰はく、『胡桐淚は、西域の肅州、及び、凉州に生ず。其の木、初生、柳に似たり。大なる時は、則ち、桐に似る。蟲、其の樹を食して、汁、出でて、下流す。眼≪の≫淚《なみだ》に似たり。又、土石を入れ、塊《かたまり》を成し、鹵鹸(しけん)のごとくなる者、有り。形ち、小さき石の片子(へげ)のごとく、黃土色≪のもの≫、上と爲《な》す。爛《ただ》≪れたる≫木を夾(はさ)む者、有り。』≪と≫。

『氣味【鍼、苦。大寒。】 今、口齒《こうし》を治≪する≫家《か》、多く用ひて、最要の藥と爲《な》す、能く、一切の物を軟《やはら》げ、瘰癧《るいれき》、此れに非ざれば、除くこと、能はず。又、金銀≪の≫銲藥《はんだやく》と爲す。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注: 「胡桐淚」は、中文サイトの複数の記載を合わせて比較したところ、

キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属コトカケヤナギPopulus euphratica (中文名は「胡楊」)の樹脂

を指すと確定出来た。ウィキの「コトカケヤナギ」(琴掛け柳)によれば、『「ポプラ」の一種で、中央アジアから中東や北アフリカまでの乾燥地帯でよく見られる。沙漠などの乾燥に強く、タマリスク』(ナデシコ目ギョリュウ(御柳)科ギョリュウ属ギョリュウ Tamarix chinensis )『と』ヤナバグミ(バラ目グミ科グミ属ヤナギバグミ Elaeagnus angustifolia 。異名「スナナツメ」)『と共に「沙漠の』三『英雄(植物)」とも呼ばれ、特に長寿で、秋にはきれいに紅葉する』。『学名と英文名称が「ユーフラテスのポプラ」で、旧約聖書の詩編』一三七の『「バビロンの川のそばで、』……『そこの柳に竪琴を掛けて、シオンを思い出した。」(英文欽定訳聖書からの直訳)と関係あるため、和名も「琴掛け柳(楊)」と名付けられた』。『中国語名称は「胡楊」で、隣国・中国新疆ウイグル自治区のタリム川に沿って多く生育しているので、そこへの旅行者も含めて日本でも胡楊と呼ぶ人が多い』。『中央アジアのトルクメニスタンではトゥランガと呼ばれている』。『また、中国のことわざにも「胡楊」が登場し、「胡楊生而千年不死、死而千年不倒、倒而千年不爛」(胡楊は生きて千年枯れず、枯れて千年倒れず、倒れて千年腐らず)と記されている』。『中規模の落葉樹で』、『樹高は最大』十五センチメートルほど、『幹まわりは約』二・五メートル『ほどになる。陽光を好む。 幹は曲線的に分枝し、外皮は成熟すると』、『オリーブ色で荒い木肌の樹皮となる。木材の断面では外側の色の薄い辺材は白に近く、内側の色の濃い心材は赤色を帯び、中心部の髄にかけて黒くなる』。(☞)『幹に多量の水分が蓄えられており、穴を開けると』、『水が吹き出す現象は「胡楊の泪」と呼ばれる』(☜)。『根はそれほど深く張らず』、『横に広がるように根付く。根萌芽によっても繁殖する』。『 葉の形状は多様で、披針形、卵円形、鋸歯をもつ菱卵形など、同じ個体でもさまざまな形になる。花は尾状花序を形成し、雄花のものは』二・五~五センチメートル、雌花のものは五~七センチメートル『ほどの大きさになる。果実は、卵型披針形のカプセル状の実の内側になめらかな毛で』、『小さな複数の種子が包まれている。他のヤナギやポプラ同様、白い綿毛を持った種子が風に舞う柳絮(りゅうじょ)と呼ばれる現象もみられる』。『アフリカ北部から、中東、中央アジア、中国西部にかけての広い地域に分布する。 国名ではスペイン、モロッコ、アフガニスタン、インド、カザフスタン、パキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンなどの国に見られる。 中国では本種の』九十『%が新疆ウイグル自治区に集中し、さらにその』九十『%はタリム盆地に集中しており、絶滅危惧種に指定され保護区となっている』。『乾燥した気候に強く、海抜』四千メートル『程度までの高度で、熱帯・亜熱帯乾燥気候の広葉樹混交林などのなかにも本種が見られる。砂漠気候やステップ気候下の氾濫原においてはヤナギ、ギョリュウ、クワの木などと本種の混合林が代表的な例である。塩分濃度の高い土壌でもよく育つため、季節的に氾濫する川辺、特に淡水と海水が混在する汽水域周辺の土地に本種の森林が自然に形成される。だが、これらの地域では貴重な薪の資源として伐採され続けた結果、今日ではその』殆んどが『失われている』。『森林農業で植樹され、葉は家畜の飼料となる。幹は建築用の木材や、また製紙の原材料にも成り得る。樹皮には駆虫薬(虫下し)の作用があると伝えられ、小枝を噛んで歯磨きにも用いられる』。『特に塩害を伴う砂漠地域の植林計画に本種が選ばれ、防風林と土壌浸食の対策に用いられている。一方、今日の中国では禁伐のため』、『枯死した枝を薪にする程度である』とあった。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「胡桐淚」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-69a]から始まる。上手くチョイスしてある。

「西域の肅州」現在の甘粛省酒泉市粛州区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「凉州」「肅州」の南東の、現在の甘粛省武威市凉州区

「柳」中国語では、ヤナギの中でも枝が垂れる種群を「柳」、枝が垂れない種群を「楊」と称している。名にし負うお馴染みのヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica は中国原産である。

「桐」シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa

「鹵鹸(しけん)」東洋文庫訳では割注で、『(塩辛い土の塊り)』とある。

「片子(へげ)」欠片(かけら)。

「口齒《こうし》を治≪する≫家《か》」口腔科医・歯科医。東洋文庫には、ここ以下の一文に後注して、『土石の入った石涙は性が寒で熱を除く。またその味は鹹でよく骨に入り堅いものを軟らげる。それで齒牙痛・温熱による歯疼』(しとう:歯の疼(うず)き)『・齒牙痛の薬となる。(『本草綱目』胡桐涙)』とある。同項目の「發明」にある。「漢籍リポジトリ」のこちらの、ガイド・ナンバー[083-70a]以下を参照。

「瘰癧《るいれき》」東洋文庫訳では割注して、『(結核性の頸部リンパ腺のはれもの)』とある。

「銲藥《はんだやく》」「はんだ」は東洋文庫訳のルビを採った。「はんだ」は江戸時代初期からあった語である。当該ウィキを見られたい。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 盧會

 

Rokai

 

ろくはい   奴會 訥會

       象膽

盧會

       黒而苦故名

       象膽者隱語

ロウ ホイ  也

 

本綱盧會原在草部爪哇三佛齋諸國所出者乃草屬狀

如鱟尾采之以玉噐搗成膏生波斯國者乃樹脂也狀似

黒餳蓋二說不同豈亦木質草形乎

氣味【苦寒】 厥陰經藥其功專於殺蟲清熱故能治小兒

 癲癇驚風五疳殺三蟲𧏾齒甚妙

△按盧會難辨眞僞亞于阿魏其味苦而後微甘者爲眞

 然本草謂只甘

 

   *

 

ろくはい   奴會 訥會《とつくはい》

       象膽《ざうたん》

盧會

       黒くして苦す。故、「象膽」と

       名づく。隱語なり。

ロウ ホイ

 

「本綱」に曰はく、『盧會、原(もと)、「草の部」に在り。爪哇(ジヤワ)・三佛齋《さんぶさい》の諸國、出だす所≪の≫者、乃《すなはち》、草の屬にして、狀《かたち》、鱟(かぶとがに)の尾のごとし。之れを采るに、玉《ぎよく》の噐を以つて、搗きて、膏と成す。波斯(ハルシヤ)國に生ずる者、乃ち、樹の脂《やに》なり。狀、黒餳(《く》ろあめ)に似《にる》≪と≫。蓋し、二說、同じからず。豈に亦、木の質にて、草の形ちなるか。』≪と≫。

『氣味【苦、寒。】 厥陰經《けついんけい》の藥。其の功、蟲を殺し、熱を清《せい》するに專らなる故、能く、小兒癲癇・驚風・五疳を治し、三蟲を殺す。𧏾-齒(むしくいば[やぶちゃん注:ママ。])に、甚だ、妙なり。』≪と≫。

△按ずるに、盧會、眞僞を辨し難きこと、「阿魏」に亞(つ)ぐ。其の味、苦くして、後《のち》、微《やや》甘き者、眞と爲す。然≪れども≫、「本草」には、只、『甘し。』と謂ふ。

 

[やぶちゃん注:「盧會」は、中文の「維基文庫」の「蘆薈」により、

単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科アロエ属シンロベラ(アロエベラ) Aloe vera

に比定される。当該の日本のウィキによれば、『アラビア半島南部、北アフリカ、カナリア諸島、カーボベルデが原産地だと考えられている。乾燥地帯でも育ち、アフリカ、インドやその他の地域に広く分布している。生薬としてもしばしば用いられる。アロエベラの薬効については多くの研究が行われている。その中には相反するものもあるが』、『抽出物は怪我・火傷・皮膚感染・皮脂嚢胞・糖尿病・高脂血症等に効くという証拠も多い』。『特にインスリン抵抗性の減少・レベル低下は、加齢関連の病態の予防に効果を発揮する可能性があると推測されている』。『これらの薬効は多糖・マンナン・アントラキノン・レクチン等の存在に依ると考えられている』。『治療用途に必要な成分抽出については品質管理が課題とされ、現在、流水で着色物質を洗い流し、特許取得済みの超乾燥システムを使用する方法が有効とされている』。『また、アロエ酪酸塩の免疫調節や慢性炎症に対する有用性も認められているものの、一方で新たな洞察が提出されることを期待する見方もある』。『増やし方は、挿し木、株分け。もっぱら葉挿しでも可能とされているが』、『真偽は不明である』。『茎がないか、非常に短い茎しかない多肉植物で』六十センチメートルから一メートルの『高さに育つ。葉は厚く、緑色から灰緑色で、表や裏に白い斑点が入っているもの等、様々な種類がある』。『葉の縁は鋸葉状で、白い小さなとげが付いている。葉の皮内細菌から抽出される酪酸発酵成分にはヒトの健康に対する予防的および治療的役割を発揮する可能性があるとされている』。『花は夏期に、高さ』九十センチメートルの『穂の上に咲く。それぞれの花には、黄色い』二、三センチメートルの『管状の花冠がぶら下がっている』。『他のアロエ属の種と同様にアーバスキュラー菌根』(arbuscular mycorrhiza:AM:は、根に菌類が共生した構造である菌根の一型)『を形成し、共生することによって土中の栄養分を効率的に得ている』。『多糖体のため保水力に優れており、腸内環境改善や摂取した栄養分の働きをサポートするなど、近年の研究により様々な特徴が明らかになりつつある』。『世界中で栽培されており、自生範囲は明確ではない。アラビア半島南部から北アフリカ(モロッコ、モーリタニア、エジプト)、スーダン、カナリア諸島、カーボベルデ、マデイラ諸島辺りが原産地だと考えられている』。『かつて硬葉植物の森林が広い範囲を覆っていたが、砂漠化によって急速に減少し、少数の種類の植物が残ったことが推測される』。十七『世紀に中国や南ヨーロッパに持ち込まれ』、『オーストラリア、バルバドス、ベリーズ、ナイジェリア、パラグアイ、アメリカ合衆国等の温帯地域から亜熱帯地域でも生育するようになった』。「医薬品」の項。『アロエベラの化粧品や医薬品としての効果に関しては限定されたものであり、しばしば議論になっている』。『現在熱傷や肝炎の治療に広く使用されてはいるものの、治療上の証拠が不足しており、その原因は、アロエベラゲル中の着色物質、成分が汚染によって変化する可能性にあるとされている』。『一方で、後述するようにアロエベラの鎮静効果、保湿効果、治癒効果について一定の有用性を認める研究結果もあり、化粧品や代替医療の業界は、これらの効果を用いた商品を取り扱うことがある』。『例えば、アロエベラのゲルは、流通しているローション、ヨーグルト、飲料、デザート等にも用いられている』。『アロエベラ』・『ジュースは胸焼けや過敏性腸症候群等の消化器疾患の解消のために飲用されている。実際に、治療が難しい過敏性腸症候群に対し、アロエベラが症状の改善に有効であることが米国消化器学会で発表されている』。『化粧品会社は、メーク、化粧水、増毛剤、ティッシュ、保湿剤』、『石けん、日焼け止め、香料、シャンプー等の製品にアロエベラの液汁等を添加している』。『その他には、ヒツジの人工受精で精液を薄めるために用いたり』、『生鮮食品の保存料』、『小さい畑の節水のためにも用いられている』。『長い間民間療法で用いられてきたが、医薬用としての利用がいつ頃から始まったのかは定かではない。紀元前』十六『世紀のエーベルス・パピルスには既に記述が見られる』。『また』、一『世紀中盤に書かれたペダニウス・ディオスコリデスの』「薬物誌」や『ガイウス・プリニウス・セクンドゥスの』「博物誌」にも『記述が見られる』。『アロイン』『という成分を除去したアロエベラは無毒で副作用も知られていないが、アロインを含むアロエベラを過剰に摂取すると様々な副作用が起こる』。『しかし、この種は中国、日本、ロシア、南アフリカ、アメリカ合衆国、ジャマイカ、インド等で伝統的な民間療法薬として広く用いられてきた』。『便秘、疝痛、皮膚疾患、寄生虫侵入、及び感染症に対する伝統的なインド医学に使用されている。また、トリニダード・トバゴでは高血圧に、メキシコ系アメリカ人の間では』、二『型糖尿病の治療に使用されている。中国医学では真菌性疾患の治療に推奨されることが多い』。『アロエベラは適切な用法を守ることで怪我の治療に一定程度有効だと言われている』。『例えば、ある研究では傷が治癒する速度を上げるという結果が得られているが』、『別の研究でアロエベラゲル(英:Aloe vera gel)を処置した傷は、他の伝統薬で処置した傷よりも効果的であるとは限らないことが指摘されているが』、『子供や幼児の間で一般的な炎症性疾患であるおむつ皮膚炎などの治療に研究結果も存在する』。『また、抗炎症作用として、紫外線による皮膚の炎症状態の局所治療に有用である可能性についても指摘されている』とし、近年の研究が続く。私は、ムカデ咬傷に効果があるという研究者の指摘を若き日に知り、たまたま、ムカデに咬まれた同僚の女性教諭が、痛みを訴え、保健師が困っているところに行き合わせ、窓辺にあったアロエの葉の肉を採取し、彼女の患部に塗布して、包帯を巻いていたところ、即時に痛みが消え、以来、私を怖がっていた彼女は、私を見直したのが、妙に忘れられない。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「盧㑹」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-65b]から始まる。時珍にして、疑問を提示している部分は、特異点である。

「厥陰經《けついんけい》」東洋文庫の後注に、『体内をめぐる十二経脈の一つ。手の厥陰心包経と足の厥陰肝経とがある。足の厥陰経は足の親指から出て内股をあがり陰部へ、陰部から上行して肝、さらに側胸部から咽喉を通って眼、額から頭頂部へ。支脈は肝から肺へ。手の厥陰経は胸中から心包へ、次いで横隔膜を下って三焦につなぐ。また一支脈は、胸から側胸へ出て肢下から手を通って中指に至る。その病症は上熱下寒、胸苦しく煩悶を起こしたり、陰部が腫れたりする』とある。

「五疳」同前で、『小児の神経過敏症。それによって臓腑に病変がおこる。風疳(肝疳)・驚疳(心疳)・滾(こん)疳(肺疳)・気疳(肺疳)・急疳(腎疳)』とある。

「三蟲」東洋文庫訳では、割注して、『蛔(かい)虫・蟯(ぎょう)虫・条虫』とある。これらのヒト寄生虫が、果してちゃんと古くに認識されていたかどうかに、ちょっとクエスチョンを感じたのだが、薬学論文を見るに、後漢に成立した「神農本草本經」に既に「厚朴は三虫を殺す」という記載があり、その「三虫」について、以上の三種の寄生虫がちゃんと挙げられてあった(「厚朴」はモクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata 、或いは、シナホオノキ Magnolia officinalisの樹皮を乾燥させたもの)。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 阿魏

 

Agi

 

[やぶちゃん注:左下に「木の阿魏」の樹脂の採取に用いると、「本草綱目」の本文に出る竹製の道具(筒)が添えられてある。]

 

あぎ   阿虞 薫渠

     哈昔泥

阿魏

 

アタイ

 

本綱阿魏有草木二種草者出西域苗葉根莖酷似白芷

擣根汁日煎作餅者爲上截根穿暴乾者爲次體性極臭

而能止臭亦爲奇也 木者出南畨木長八九尺皮色青

黃三月生葉似䑕耳無花實其枝汁出如飴久乃堅凝也

大明一統志云出火州及海牙國者草髙尺許根株獨立

枝葉如葢臭氣逼人生取其汁熬名阿魏所謂出於西域

草之阿魏也 出三佛齋及暹羅國者樹不甚髙土人納

竹筒于樹內滿其中冬月破筒取之所謂出於南蠻木之

阿魏也西南風土不同故或如草如木也

 人多煎蒜白僞之諺云黃苓無假阿魏無眞以其多僞

 也騐法阿魏安銅噐中一宿至明沾阿魏𠙚白如銀汞

 無赤色者眞也

氣味【辛】 殺下細蟲極效治㾷【以無根水下之】治痢【以黃連木香湯下之】

[やぶちゃん字注:「㾷」は「瘧」の異体字。]

△按阿魏多僞𬜻人尙難辨况於日本乎今所來者燒之

 試多有蒜氣蓋此以蒜僞者乎

 

   *

 

あぎ   阿虞《あぐ》 薫渠《くんきよ》

     哈昔泥《かせきでい》

阿魏

 

アタイ

 

「本綱」に曰はく、『阿魏に、草・木、二種、有り。草なる者は、西域に出づ。苗・葉・根・莖、酷《はなは》だ、「白芷《びやくし》」に似る。根を擣《つ》≪きける≫汁、日(ひにひ)に、煎じて、餅と作《な》す者を上と爲《な》す。根を截りて、穿ちて、暴し乾す者を、次と爲す。體性、極めて臭くして、而《しか》も、能く、臭きを止《とむ》る。亦、奇なりと爲すなり。』≪と≫。 『木なる者は、南畨より出づ。木の長さ、八、九尺。皮≪の≫色、青黃。三月に葉を生ず。䑕《ねづみ》≪の≫耳に似る。花實、無く、其の枝≪の≫汁、出づること、飴(あめ)のごとし。久くして、乃《すなは》ち、堅く凝るなり。』≪と≫。

『「大明一統志」に云はく、『火州、及び、海牙國に出づる者、草の髙さ、尺許り。根・株、獨立≪し≫、枝葉、葢《ふた》のごとし。臭氣、人に逼(せま)る。生《なま》で、其の汁を取り、熬《いり》て、「阿魏」と名づく。所謂、西域より出づる、草の阿魏なり。』≪と≫』≪と≫。 『「三佛齋(さんぶさい)」及び「暹羅《シヤム》國」に出づる者、樹、甚だ≪は≫髙からず。土人、竹の筒≪を≫樹の內に納め、其の中に滿《みたす》。冬の月、筒を破り、之れを取る。所謂る、南蠻より出づる、「木の阿魏」なり。西≪と≫南≪と≫、風土、同じからず。故《ゆゑ》、或いは、草のごとく、木のごとくなり。』≪と≫。

『人、多く、蒜白《にんにくのくき》を煎じて、之れを僞る。諺に云はく、「黃苓《わうきん》、假《にせ》、無く、阿魏、眞(まこと)、無し。」≪と≫。其れ、僞≪り≫多きを以つてなり。騐《こころみ》る法。阿魏を、銅噐の中に安《あん》じて、一宿し、明くるに至りて、阿魏を《✕→の》沾《うるほ》す𠙚、白くして、銀汞(みづがね)のごとく、赤≪き≫色、無き者、眞なり。』≪と≫。

『氣味【辛。】 細蟲を、殺し、下《くだ》す。極めて效あり。㾷《おこり》を治す【「無根水」を以つて、之れを下す。】。痢を治す【「黃連木香湯《わうれんもくかうたう》」を以つて、之れを下す。】

△按ずるに、阿魏に、僞《にせ》、多し。𬜻人《もろこしびと》≪さへ≫、尙を[やぶちゃん注:ママ。]、辨じ難し、とす。况んや、日本に於いて≪を≫や。今、來《きた》る所の者、之れを燒きて、試みるに、多くは、蒜《にんにく》の氣《かざ》、有り。蓋し、此れ、蒜を以つて、僞はる者なるか。

 

[やぶちゃん注:ここで時珍が「草の阿魏」とするものは、

セリ目セリ科オオウイキョウ属アギ Ferula assa-foetida 、或いは同属の近縁種

である。当該種のウィキの「アサフェティダ」(asafoetida)によれば、『セリ科』Apiaceae『の二年草』で、『サンスクリット名』を『ヒング』と言う。『北アフリカ原産で、現在は中近東やインドにおいて栽培されている』。『茎から採れる樹脂状の物質を香辛料や生薬として用いる』。『香辛料としてのアサフェティダは、複数の揮発性硫黄化合物を含み』、『ニンニクやドリアンに似た強烈な臭いがあるが』、『油で加熱すると』、『強烈な臭いは消えて、タマネギのような風味となる。インドにおいて香辛料として幅広く用いられる他、ウスターソースの原料としても使われている。強烈な臭気を喩えて、悪魔の糞』『(Devil's dung)という呼び名もある』。『仏教ではネギ属の多くの植物とともに、五葷』(ごくん:本邦の一般では、「ニラ・ニンニク・ラッキョウ・アサツキ(タマネギ)・ネギ」を名数とする)『のひとつとして食用を禁止している』とあるものである。

 一方、

「木の阿魏」の方は、実在しないもの

である。「株式会社ウチダ和漢薬」の「阿魏」に、『阿魏は『新修本草』に初収載され、「味辛、平。無毒。諸小虫を殺し、臭気を去り、癥積を破り、悪気を下し、邪気、蠱毒を除く。西蕃及び崑崙に生じる」とあります。唐本注に「苗、葉、根、茎は白芷に酷似する。根を擣いた汁を一日かけて煎じて餅にしたものを上とし、根を截って穿』(せん)『して暴乾したものを次品とする。体性は極めて臭いが、能く臭を止める。奇物である」といっています。その名称について、李時珍は「夷人は自らを称して阿という。この物は極めて臭く、阿の畏るものだという意味である。波斯国(ペルシア)では阿虞と呼び、天竺国では形虞と呼ぶ。涅槃經にはこれを央匱といってある。蒙古人はこれを哈昔泥という。元の時には食用に調味料とし、その根を穏展と名づけ、羊肉を淹けると甚だ香美で、その功は(樹脂由来の)阿魏と同じだといっている」と述べています。段成式の』「酉陽雑俎」には『「樹は長さ八、九尺で、皮の色は青黄、三月に鼠耳に似た形の葉を生じ、花、実はない。その枝を断ると飴のような汁が』出て、『久しくすると堅く凝まり、これを阿魏と名づける。拂林国(東ローマ説が有力)の僧彎が説くところと同じである。摩伽詑国(古代インドの十六大国の一つ)の僧提婆は、その汁を取って米、豆の屑と和して阿魏を合成するのだ」と云っています。一方、蘇頌は蘇敬の説を引き、ほかに「今広州に出るものは、木の膏液が滴醸して結成したものだと云っており、二説あって蘇敬の説と同じでない。段成式の酉陽雑俎にあるものは今広州から報告されたものと近い」と書いていることから、阿魏の製造法に二説あることがわかります。また李時珍も「阿魏には、草、木の二種があって、草のものは西域に産し、晒すもよく煎じるもよい。蘇敬に所説のものがそれである。木のものは南番に産し、その脂汁を取る。李珣、蘇頌、陳承の所説のものがそれである」と云っています。阿魏はインド北部〜ペルシャに産する外国産生薬であったことから、その原植物を実際に見てなかったため諸説が出てきたのであろうと考えられます』(太字は私が附した)とあるので、幻しの存在であることで、キマりである。「酉陽雜俎」のそれは、「卷十八 廣動植之三」で、「中國哲學書電子化計劃」のここのガイド・ナンバー「48」を見られたい。因みに、所持する東洋文庫の今村与志雄氏訳注でも確認した。今井氏は後注で一ヶ所、『樹液』という言い方をされているものの、正しくオオウイキョウ属 Ferula を指示しておられる。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「阿魏」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-65b]から始まる。記載は、かなりゴチャついているため、良安は、判り易く、パッチワークにしていて、整理としては好ましい処理である。

「白芷《びやくし》」セリ亜科シシウド属ヨロイグサ Angelica dahurica 。その根は漢方生薬として知られ、消炎・鎮痛・排膿・肉芽形成作用があり、皮膚の痒みをとる。日本薬局方にも記載されている。

「大明一統志」既出既注

「火州」東洋文庫では割注して、『(カラ・ホージョ。トルファン)』とある。このカラ・ホージョは小学館「日本大百科全書」に漢字表記「哈剌和卓」(Karakhōjo)とし、『中国、新疆』『ウイグル自治区トゥルファン盆地に残る都城址』。『「荒廃した高昌(こうしょう)」の意。イディクト・シャリIdikut Shariの呼称もある。現在、高昌故城として全国重要文物保護単位に指定されている。この都城の沿革は紀元前』一『世紀の高昌壁』『にさかのぼるが、現存する遺構は、トゥルファン盆地の歴史でいう高昌国、唐の西州、西ウイグル国、モンゴル帝国時代に、その首都および主要都城となっていたころのものと推定される。都城は一辺』千五百~千六百『メートルの方形で、城壁をもち、外城、内城、宮殿址からなり、高昌国時代は条坊制も施行されていて、中国の都城プランの直接的影響が認められる。しかし遺構の大半を占める寺院址はペルシア風で日干しれんが造りである』。二十『世紀初頭のルコックらの調査によって、仏教のほかマニ教、景教(ネストリウス派キリスト教)の寺院址も確認され、壁画などの多様な遺物によって、東西交易路の要衝を占めたオアシス都市の繁栄のさまと高度な文化の一端が明らかとなった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は敦煌に行った際、訪ねた。

「海牙國」不詳。東洋文庫訳にも注はない。以下の「西≪と≫南≪と≫、風土、同じからず」とあるからには、東南アジアの「シャム」、現在のカンボジアの近くではあろう。

「三佛齋(さんぶさい)」既出既注

「蒜白《にんにくのくき》」東洋文庫訳のルビを採用した。

「黃苓《わうきん》」「黃芩」に同じ。双子葉植物綱キク亜綱シソ目シソ科コガネバナ Scutellaria baicalensis の根から採れる生薬。漢方にあっては婦人病の要薬として知られる。血管拡張・血行循環促進・産後の出血・出血性の痔・貧血・月経不順といった補血作用(但し、多くは他の生薬との調合による作用)を持ち、冠状動脈硬化性心臓病に起因する狭心症にも効果があるとする。

「銀汞(みづがね)」水銀。

「無根水」天から降って来て、地に一度も触れていない清浄な水。「西遊記」に出るらしい。

「黃連木香湯」不詳。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(20)

 

   畑々や豆葉のちゞむ秋日和 卓 袋

 

 柳田國男氏の「豆の葉と太陽」といふ本を近刊豫告で見た時、どういふ意味の標題か、見當がつかなかつたが、その內容を一讀するに及んで、奧州の大豆畠に於ける日光の美しさを說いた文章が、卷頭に置かれてある爲の名であることがわかつた。今日の風景鑑賞家なるものが、妙に農作物の色調に無關心であることは、柳田氏の說の通りであらう。若し這間の消息を解する者があるとすれば、それは俳人の畠でなければならぬと思つたら、果してかういふ句のあるのに氣がついた。

 この句は柳田氏が說かれたやうに、豆の葉の美しさを明瞭に描いてはゐない。たゞこれを讀むと、一面の豆畠に强い秋の日が照つてゐる、明るい光景が展開する。豆の葉はもう黃ばんでちゞんでゐる。その色調を現さぬのは、俳人がさういふ感覺に無頓著なのではなくて、「ちゞむ」の語に豆の葉の已に黃ばんでゐることを含ませたものと見るべきであらう。

 豆の葉などといふものは、平安朝以來の傳統に立つ歌よみの顧るべき材料ではない。殊にそれが少し黃ばんで、ちゞれ氣味になりながら、秋天の下に展けてゐる光景の如きは、恐らくは油畫が渡來するまで、畫家と雖も看過してゐた美しさではあるまいか。元祿時代には、まだこの外に「大豆の葉も裏吹ほどや秋の風」といふ路通の句があり、附合の中に「豆の葉も色づく鳥羽の畝傳ひ 林紅」といふ句を發見したこともあるが、柳田氏の說かれるところに最も近いものとしては、卓袋の一句を推すべきであらうと思ふ。吾々は柳田氏が一般に閑却され勝な「豆の葉と太陽」を以て、旅と自然とに關する一書に名づけられたことに敬意を表すると共に、早くこの光景に留意して自家藥籠中のものとした俳人の觀察眼を、この際改めて稱揚して置きたいのである。

[やぶちゃん注:『柳田國男氏の「豆の葉と太陽」といふ本』国立国会図書館デジタルコレクションの原本で(昭和一八(一九四一)年創元社刊)ここから、視認出来る。但し、初出は『東北の旅』(昭和五(一九三〇)年十一月発行)である。

「大豆の葉も裏吹ほどや秋の風」「西の雲」の歌仙に所収する。

「豆の葉も色づく鳥羽の畝傳ひ 林紅」は俳諧撰集「そこの花」に載る。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本俳書大系』第十七巻(昭和二(一九二七)年刊)のここ(左ページ上段五行目)で視認出来る。それを見ると、「畝」には『アゼ』のルビがある。]

 

   蕣のうねりぬけたり笹の上 萬 乎

 

 朝顏の蔓が笹にからまつて、笹の上まで拔け出てゐるといふのである。單に朝顏の蔓が上まで拔け出ただけでは面白くない。そこには必ず花が咲いてゐなければならぬ。俳人が朝顏といふ以上、花あることを常とするばかりでなく、花が無ければ「うねりぬけたり」といふ感じも亦はつきりせぬからである。

 芥川龍之介氏の「閑庭」と題した歌に「秋ふくる晝ほのぼのと朝顏は花ひらきたりなよ竹のうらに」といふのがあつた。これは末方になつた朝顏が晝まで咲いてゐる景色で、趣はいさゝか異るけれども、朝顏が細い竹にからんで行つて、高いところに花をつけてゐる樣子はよく現れてゐる。手入などをあまりせぬ、蔓の匍ふに任せた朝顏を描いた點は、この萬乎の句と同じである。

[やぶちゃん注:大正十五(一九二六)年十二月新潮社刊の芥川龍之介の単行作品集『梅・馬・鶯』に「短歌」の題で収められたものの一首。「閑庭」の前書の第一首。サイト版「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を見られたい。]

 

   稻妻や壁に書きたる大坊主 羽 笠

 

 稻妻がぱつと壁を照すと、その壁に畫いた大坊主の顏が浮んで見える、と思ふ間に又もとの闇に還つてしまふ。稍〻際どい、瞬間的な場合を現した句である。この大坊主は物凄いといふほどでもないが、作者はいづれかと云へば無氣味な風に扱つてゐるやうな氣がする。

 この句を讀むと、一茶の「秋風や壁のヘマムシヨ入道」を思ひ出す。ヘマムシヨ入道はヘヘノノモヘジのことである。似たやうで違ひ、違つたやうで似てゐるところに、この兩句の獨立性はあるのであらう。

[やぶちゃん注:「秋風や壁のヘマムシヨ入道」私の好きな一句。「七番日記」所収で、文化八(一八一一)年の作。

「ヘヘノノモヘジ」「へのへのもへじ」の別称。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(19)

 

   衣うつ所へ旅のもどりかな 旦 藁

 

 この旅から戾る人物は、どういふ種類の者かわからぬ。突然戾つて來たのか、或は歸るべき日に歸つて來たのか、それもわからぬ。わかるのは女房が砧盤[やぶちゃん注:「きぬたばん」。]を出して衣を擣つてゐるところへ、旅行から夫が歸つて來たといふことだけである。理窟を云へば衣を擣つ者が妻であり、歸つて來る者が夫であることも、句には現れておらぬやうであるが、そこはさう解するのが砧の句の定石であらう。下女砧を打ち、主人行商より歸るでは、この句の情味は全く減殺されてしまふ。

 子規居士の「百中十首」の中に「七年の旅より歸るわが宿に妹が聲して衣打つなり」といふ歌がある。この句から脫化したものかどうかわからぬが、境地は全く同じである。たゞ旦藁は衣を持つ者の側より見、子規居士は旅より歸る者の側より見てゐるだけの相違に過ぎぬ。「七年の」の歌は固より想像の產物であるが、旦藁の句は一槪にそう斷ずることも出來ない。極めて手輕く敍し去つてゐるところに、却つて實感らしいものが含まれてゐる。

[やぶちゃん注:子規居士の「百中十首」のそれは、明治三一(一八九八)年のもので、標題の後に子規の『およそ百ばかり歌の中より十を選べと乞ひて同人の選びたる者この百中十首なり。歌の惡きは選者の罪にあらず、作者の着き歌無ければなり。見ん人必ず選者をな咎めたまひそ。』という前書があるもの。国立国会図書館デジタルコレクションの改造社版『子規全集』第七巻(昭和五(一九三〇)年刊)のここから始まるが、その内、「其十」で露月の選になる中にあった(左ページ後ろから三~二行目)。言わずもがな、であるが、この「妹」(いも)は実際の子規の実妹で彼の看病に献身した律(りつ)である。]

 

   たばこ切鄰合せやくつはむし 素 覽

 

 煙草を刻む音などといふものは、專賣局が出來た以後の人間には緣が遠くなつた。夜なべか何かに煙草を刻んでゐる家がある。その鄰の方では轡蟲が鳴き立ててゐる。いづれもあまり風流でない、やかましい方の取合[やぶちゃん注:「とりあはせ」。]である。轡蟲の聲から思ひついて、かういふ取合を求めたとなると、いさゝか窮屈になつて面白くないが、實際かういふ光景があつたのであらう。卽き[やぶちゃん注:「つき」。]さうで卽き過ぎぬところに、自然の妙は存するのである。

[やぶちゃん注:「くつはむし」「轡蟲」博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 鑣蟲(くつわむし)」を見られたい。

「專賣局が出來た」『「秋」(6)』の「妹がすむたばこの花の垣根かな 春 鷗」の私の注を参照されたい。]

 

   茶ちりめん借て著て見る夜寒かな 秋之坊

 

 泊客などであらうか、稍〻夜寒を感ずるといふまゝに、主人の著物でも出して著せる。その著物が茶縮緬なのである。一句の表だけ見ると、茶縮緬の著物を所望して借りたやうであるが、さうではあるまい。夜寒を凌ぐために借著をした、それが茶縮緬だつたといふのであらう。借著はして見たが、何となく身にそぐはぬやうな感じが現れてゐる。

「借具足我になじまぬ寒さかな」といふ蕪村の句は、趣向としても奇拔であり、調子もこの句より引緊つてゐる。秋之坊の句はさのみすぐれたものではなく、元祿の句としては多少の弛緩を免れぬが、再誦三誦すると、やはりこの句の方が吾々には親しみがある。と云つて逗留の夜寒に縮緬の著物を借りて見た經驗があるわけではない。

[やぶちゃん注:蕪村の句(この場合の「具足」は単なる「道具・物品」の意)は、調べてみると、表記は、

 借具足我になじまぬ寒かな

である。]

 

   笹葉たくあとやいろりの蛩 夕 兆

 

 この「蛩」[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]は勿論今のコオロギである。例の「きりぎりすなくや霜夜のさむしろに」の歌が人口に膾炙してゐる通り、秋の蟲の中ではコオロギが冬まで生延びることになつてゐる。蛩によつて分てば秋になり、圍爐裏によつて分てば冬に入る。その邊は分類學者に任せて置いて差支無い。

 秋とすれば大分末の方、冬とすればまだ淺い頃である。圍爐裏に笹の葉を焚いて、あたりが暖くなつた爲か、爐邊でコホロギが鳴き出した。笹の葉を焚くのだから、眞冬の榾のやうな旺な[やぶちゃん注:「さかんな」。]火になる氣遣は無い。そのほのかな溫みがコホロギに蘇生の想あらしめたのであらう。斷續して幽な[やぶちゃん注:「かすかな」。]聲が聞える、といふのである。

 笹の葉を焚くといふやうな趣向は、實際でなければ思ひつくものではない。「もの焚きしあとや」とでも置替へて見れば、容易に自然の妙を感ずることが出來る。

 

   すかすかと西瓜切也龝のかぜ 陽 和

 

 西瓜といふものは季題の上では秋になつてゐる。瓜が夏で西瓜が秋といふのは、藤が春で牡丹が夏なのと同じく、季節の境目に於ける已むを得ぬ現象であらう。今は一切の事が便利過ぎる世の中になつてしまつたから、昔の季題の標準で律するわけには行かないが、西瓜を食ふのは赫々たる[やぶちゃん注:「かくかくたる」。]炎暑の中にも多少の涼味が動き初めてから――秋意のほのめくやうになつてからが多いかと思ふ。

 西瓜の靑い肌に庖刀[やぶちゃん注:「はうちやう」。]を當ててすかりと切る。この庖刀はよく切れるのでなければならぬ。「すかすか」といふ言葉は、その切味を示してゐると共に、先づ二つに割り、次いで半月形に切るといふやうな、連續的な動作をも現してゐる。

 この句は明に「龝の風」と斷つてゐるから、新涼の度が漸くこまやかになつてからのものに相違無い。西瓜の中味もよく熟し、すかと切る庖刀を露の滴る樣なども連想に浮んで來る。

 

2024/06/09

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(18)

 

   鬼灯や艸の間にふと赤し 非 群

 

 散文に書き直せば、鬼燈が草の間にふと赤く見えた、といふ意味である。草むらの中に赤く色づいてゐた鬼灯がふと目に入つた。今までは靑い爲に目につかなかつたのだ、と解釋しなくてもいゝ。何かに隱れてゐた鬼灯が、ひよつと目に入つたのだ、といふ風に說明する必要も無いかも知れぬ。草の間にたまたま赤い鬼灯を見た、といふ瞬間の印象を「ふと赤し」の一語に纏めたのである。「ふと」の一語がこの句の山であることは云ふまでもない。

 

   あはれさや日の照山にしかのこゑ 万 乎

 

 鹿の聲といふものは、とかく夜の連想を伴ひ易い。それは山野に棲息する彼等の行動が、どうしても夜間を便宜とするからであらう。奧山に紅葉蹈み分け鳴く鹿の聲なるものは、現在の吾々には緣の遠いものであるが、たゞ鹿の聲を詠じた句を見ると、自然夜の趣が心に浮んで來る。

 この句は白日の下の鹿の聲を捉へた。前山に秋の日がかんかん當つてゐて、そこから鹿の聲が聞えて來るとすれば、最もわかりいゝわけだけれども、必ずしもさう限定する必要は無い。作者自身も山中に在つて、明るい秋の日の下を步きつゝある。さういふ場合にどこかで鹿の鳴く聲を聞いた、と解してもよさゝうである。

 夜鳴く鹿のあはれさは古來幾多の人がこれを捉へてゐる。万乎は日の照る山に鳴く鹿を聞き、そこに別箇のあはれさを認めたのである。

 

   だき起す雨の薄のみだれかな 苔 蘇

 

 庭中の薄であらうかと思ふ。降り續く雨に穗先が亂れて俯伏すやうになつてゐる。重いその一叢[やぶちゃん注:「ひとむら」。]を抱き起すといふだけのことである。

「だき起す」といふ言葉は人に對するもののやうであるが、この場合少しも厭味を伴はず、却つて薄に對する或親しみが現れてゐる。のみならず「だき起す」といふ動作によつて、その一叢の薄の樣子から、雨を帶びた重みまでが身に感ぜられる。薄の句としては特色あるものたるを失はぬ。

 

   露ぬれて鳴子なるこの繩や一たぐり 陽 和

 

 朝早く鳴子の繩を引くと、夜の間に置いた露のためにしとゞに濡れてゐる。さういふ鳴子を一手繰り引いた、といふだけのことである。

 鳴子といふ題を頭に置いて考へると、秋天の下に展ける田圃、パツと飛立つ雀、遠くの道を行く人、森の向うに立つ煙、その他いろいろな光景が連想される。併しかういふ趣は決して思ひつかない。それは吾々がさういふ生活の中にゐないからでもあるが、古來の作家もこんな世界はあまり窺つて居らぬやうな氣がする。

 この句の眼目は「露ぬれて」の一語にある。これあ在るによつて現在鳴子の繩を手にする場合の實感が、直に吾々にも傳はつて來るのである。

 

   朝顏や箒立たる枳殼垣 釣 壺

 

 この「立たる」といふ言葉は、立てかけるといふ意味であらう。朝の庭を掃いた箒を、そのまま無造作に立てかけて置くといふのである。朝顏はその庭に咲いてゐるので、枳殼垣[やぶちゃん注:「きこくがき」。「枳殼」は「からたち」とも読めるが、少なくとも、句は音数から、これである。]にからんでゐるとまで限定する必要は無さゝうに思ふ。

 花が朝顏である爲に、時間は自ら明瞭になるが、今その邊を掃いた箒でなしに、昨日あたり使つた箒がそのまゝ枳殼垣に立てかけてあるものとしても差支無い。俳句のやうな短詩形に在つては、さういふ時間の關係は現すことも困難であるし、又それほど拘泥すべき問題とも思はれぬ。

 

   名月や肌は落著くひとへ衣 助 然

 

 中秋名月は年によつて遲速がある。從つて晝のほてりのまださめやらぬやうな陽氣の年もあれば、更けて夜寒よさむの氣が身に沁みるやうな年もある。この句の場合は依然として夏のまゝの單衣[やぶちゃん注:「ひとへぎぬ」。]を著てゐるのだから、あまり遲い年ではないのである。併し夏のうち、乃至殘暑の頃と違つて、さすがに肌が汗ばんだりするやうなことは無い。單衣の肌ざはりもさつぱりと落著くやうになつてゐる。作者はそこを捉へたのである。

 名月の光、その夜の風物といふやうなものよりも、季節の感じが主になつてゐる。月をのみ追駈ける者は、往々にしてその影を失する。月を離れたところにかういふ世界を見出すのは、俳人得意のところであらう。

 

   西瓜喰ふ空や今宵の天の川 沙 明

 

 新曆が歲時記を支配するやうになつてから、人事としての七夕は夏の部に移り、天文の天の川は秋に取殘される形になつた。「久方の天の川原をうちながめいつかと待ちし秋は來にけり」といふやうな感じは、古今を通じて變らぬに拘らず、古人は銀漢を仰ぐに當つて、特に牽牛織女の二星を連想し、今人は無數の星群として之を觀ずる。句に現れるところが異るのは、固より怪しむに足らぬ。

 この句は勿論七夕の夜の天の川である。「今宵の」の一語は「月今宵」などの「今宵」と同じく、明に年に一夜の今宵であることを示してゐる。七夕の夜の緣側か何かに端居[やぶちゃん注:「はしゐ」。]して西瓜を食ふ。空には天の川が白々とかゝつてゐる。滴る如き夜空の下に食ふ西瓜の雫は、晝間食ふより遙に爽であるに相違無い。

 年に一度の七夕の夜を描きながら、寧ろ離れた趣を持出してゐる。「今宵の」といふことが、この場合離れたものを繫ぐ役に立つてゐるやうな氣もする。

[やぶちゃん注:「久方の天の川原をうちながめいつかと待ちし秋は來にけり」源実朝の「金槐和歌集」の「卷之上 秋部」の一首(一九三番)。所持する斎藤茂吉校訂の岩波文庫一九六三年刊改版では、

   *

久かたの天の河原をうちながめいつかと待(まち)し秋も來にけり

   *

である。]

 

   露深し今一重つゝむ握り飯 蘆 文

 

「旅行」といふ前書がある。朝立に臨んで握飯を腰に著けるのであらう。しとゞに置いた露の中を分けて行くのに、濡れ透ることを恐れて、常よりも今一重餘計に裹むといふ意味らしい。

 露の深さ、草の深さに行きなづむといふやうなことは、句中に屢〻見る趣であるが、たゞ裾をかゝげたり、衣袂[やぶちゃん注:「たもと」。]を濡したりする普通の敍寫と違つて、握飯を今一重裹むといふのは、如何にも實感に富んでゐる。昔の旅行の一斷面は、この握飯によつて十分に想像することが出來る。

 

   又さけるいばら薔薇も後の月 荊 口

 

 返り花といふ季題は冬の部になつてゐる。小春の溫暖な氣候に時ならぬ花を咲かせることを指すのであるが、實際の返り花は小春を俟つてはじめて咲くとは限らない。植物によると夏の末から秋へかけて、二度の花をつけるのがある。薔薇の中には三度咲などといふのがあるから、荊口の句は返り花としないでも解釋することは出來るが、やはり返り花と見た方がいゝかと思ふ。

 秋もやゝ深くなつた十三夜の頃に、茨、薔薇の枝頭に又花の咲いてゐるのを發見した、その驚きに似たものを描いたのであらう。地上の花の漸く少からむとする時分になつて思ひがけず月下に匂ふ花を見たといふのは、ちよつと變つた趣である。茨、薔薇の返り花が珍しいだけではない、後の月の句としても慥に異彩を放つてゐる。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、中七の「薔薇」は「しやうび」である。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本俳書大系』第五(昭和三(一九二八)年春秋社刊)の「笛苅草」(元禄一六(一七〇三)年板(牧童名義だが、実際には支考の編))のここ(左ページ上段初行)でルビが確認出来る。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 龍腦香

 

Ryuunoukou

 

りうなう   羯婆羅香

       片腦 氷片

       梅花腦

龍腦香

       【膏名】婆律香

[やぶちゃん注:「りうなう」はママ。]

 

本綱龍腦舊出西海婆律國今南畨諸國皆有之其木髙

七八丈大可六七圍如積年杉木狀旁生枝其葉正圓而

背白結實如豆蔲皮有甲錯香卽木中脂也以白瑩如氷

及作梅花片者爲良【又有米腦◦速腦◦金脚腦◦蒼龍腦皆因形色名之不及氷片・梅花者也】或

云千年老杉樹其枝幹不曽損動者則有香若損動則氣

洩無腦矣

龍腦【辛苦温】 婦人難產以新汲水【研末少許】服立下治內外障

 眼病小兒驚風先入肺傳於心脾能走能散然非常服

 之藥甚清香爲百藥之先萬物中香無出其右者

 合糯米炭相思子或用杉木炭貯之則不耗【今人多以樟腦僞之】

△按龍腦色白似雲母片而透明者名梅花腦爲上品細

 小色不鮮明且黑者襍名美止利爲下品不入藥用合

 香家用之如水濡者不透明或無稜者乃以樟腦襍亂

 者也宜辨之

 樟腦再燒者名反腦與片腦字同聲故誤以爲一物甚

 非也凡抹龍腦安于檜上以檜箆按之則能細末成

 

   *

 

りうなう   羯婆羅香《かつばらかう》

       片腦《へんなう》 氷片

       梅花腦

龍腦香

       【膏名】婆律香《ばりつかう》

 

「本綱」に曰はく、『龍腦は、舊《も》と、西海≪の≫婆律《ばりつ》國に出づ。今、南畨[やぶちゃん注:「蠻」の異体字。]の諸國、皆、之れ、有り。其の木、髙さ、七、八丈。大いさ、六、七圍《かこみ》。積年の杉木《すぎき》の狀《かたち》のごとく、旁らに、枝を生ず。其の葉、正圓にして、背《うら》、白し。實を結ぶこと、豆蔲《づく》のごとく、皮に甲錯《かうさく》有り。香《かう》は、卽ち、木の中の脂《やに》なり。白≪く≫瑩《かがや》≪きて≫、氷のごとき、及び、梅花片《ばいくわへん》を作《なす》者≪を≫以つて、良と爲《な》す【又、「米腦」◦「速腦」◦「金脚腦」◦「蒼龍腦」、有り。皆、形・色に因りて、之れを名づく。氷片・梅花の者≪には≫及ばざるなり。】。或いは、云ふ、「千年の老杉の樹も、其の枝・幹、曽《か》つて損動《そんどう》せざる者には、則ち、香《かう》、有り。若《も》し、損動すれば、則ち、氣、洩れて、腦、無し。」≪と≫。』≪と≫。

『龍腦【辛苦、温。】 婦人、難產に、新≪たに≫汲≪くめる≫水を以つて【研末して、少し許り。】服す。立処ろに[やぶちゃん注:「処」は送り仮名にある。]下《くだ》る。內・外障(うちひ・そとひ)の眼病、小兒の驚風を治す。先づ、肺に入り、心・脾に傳はり、能く走り、能く散ず。然れども、常服の藥に非《あら》ず。甚だ清香≪にして≫、百藥の先《せん》と爲《な》す。萬物中の香、其の右に出づる者、無し。』≪と≫。

『糯米《もちごめ》の炭《すみ》に、相-思-子(たうあづき)を合はせ、或いは、杉の木の炭を用ひて、之れを貯≪へれば≫、則ち、耗《へら》ず【今人《きんじん》、多く、樟腦を以つて、之れを僞はる。】。』≪と≫。

△按ずるに、龍腦≪の≫、色、白く、雲母(きらゝ)の片《かけら》に似て、透明(すきとを[やぶちゃん注:ママ。])る者、「梅花腦」と名づく。上品と爲す。細小≪にして≫、色、鮮明(あざやかな)らず、且つ、黑き者≪の≫襍《まぢれ》る、「美止利《みどり》」と名づく。下品たり。藥用に入れず、合香家《がうかうか》、之れを用ふ。水に濡(ぬ)れたる者のごとく、透明《すきとほ》らざる、或いは、稜(かど)無き者、乃《すなはち》、樟腦を以つて、襍《まぢ》へ亂《みだせる》者なり。宜しく、之れを辨ずべし。

 樟腦、再たび、燒《やきたる》者を、「反腦《へんなう》」と名づく。「片腦《へんなう》」と、字、同聲なる故《ゆゑ》、誤りて、以つて一物と爲《なす》≪こと≫、甚だ、非なり。凡そ、龍腦を抹するに、檜《ひのき》の上に安んじて、檜の箆(へら)を以つて、之れを按《やすんじ》せば、則ち、能く、細末と成る。

 

[やぶちゃん注:「龍腦」は、先の「樟腦」の「霹靂木」で画像とともに参考として示した、

双子葉植物綱アオイ目フタバガキ科リュウノウジュ属リュウノウジュ Dryobalanops aromatica の樹幹の空隙に析出される、ボルネオール(borneol:ボルネオショウノウとも呼ばれる二環式モノテルペンで、化学式は C10H18O

を指す。幻想的な同種の樹林の俯瞰写真を、今一度、

 

Dryobalanops_aromatica_canopy_20240609083101

 

以上の通り、掲げておく。ウィキの「リュウノウジュ」によれば、『常緑高木。種小名 aromatica は、ダンマル樹脂(英語版)が匂うことを表すラテン語(aromaticus = 芳香のある)に由来する』。『最大』六十五『メートル』、『さらには』七十五『メートルまで成長する超高木で』、『リュウノウジュは、樹木の葉が互いに接触しないよう成長するクラウン・シャイネス(英:crown shyness)と呼ばれる行動がみられる樹種の』一『つとして知られる』(上記画像がそれ)。『インドネシア(スマトラ島、ボルネオ島)、ブルネイ、マレーシア』に分布する。『この種は樟脳の主な原料の』一『つであり、香や香水に使用され、金以上の価値があった時にはボルネオへ』、『アラブの交易商が引き寄せられた』。『木材としての名前は、カポール(Kapur)と呼ばれる』。『リュウノウジュの樹幹の空隙に析出される竜脳は、生薬として中枢神経系への刺激による気付けの効果を期待して利用される』。『森林伐採やアブラヤシなどのプランテーションへの転換などによる自生地の破壊、木材採取や抽出物のための伐採などにより、個体数は減少している』。以下、「リュウノウジュ属」項では、現生、七『種全てがボルネオに自生しており、ボルネオ以外では確認されていない種も含まれる』とあって、後の六種の記載がある。

 一方、ウィキの「ボルネオールによれば、『香りは樟脳に類似しているが揮発性がそれに比べると乏しい。樟脳と同じくボルナン骨格を有し、樟脳を還元することによって得ることができる』。『歴史的には紀元前後にインド人が』、六~七『世紀には』、『中国人が』、『マレー、スマトラとの交易で、天然カンフォルの取引を行っていたという。竜脳樹はスマトラ島北西部のバルス(ファンスル)とマレー半島南東のチューマ島に産した。香気は樟脳に勝り価格も高く、樟脳は竜脳の代用品的な地位だったという。その後』、『イスラム商人も加わって、大航海時代前から香料貿易の重要な商品であった。アラビア人は香りのほか冷気を楽しみ、葡萄・桑の実・ザクロなどの果物に混ぜ、水で冷やして食したようである』とある。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「龍腦香」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-60b]から始まる。記載は、かなり長い。良安は、その「集解」を中心に、コンパクトによく纏めている。

「羯婆羅香《かつばらかう》」中文の「維基百科」の「リュウノウジュ属」相当するページを台湾繁体字に代えて見たところ、ボルネオ島を「婆羅洲」と漢字表記している。「羯」は中国が好きな異民族を示す卑称の一つである(狭義の「羯」は「ケツ」で四世紀の中国北部の山西に存在した小部族を指した)。

「片腦《へんなう》」これ、幼少期より、「小林脳行」ウィキの「小林脳行」によれば、『現在は経営破綻して会社は存在しないが、営業権は小林製薬が承継している』とある)の「煙出しネオ片脳油」で、ツンとした臭いと、おどおどろしい赤い罐と文字を反射的に思い出してしまうトラウマである。グーグル画像検索「煙出しネオ片脳油」をやっちゃった! うわ~!!! これだッツ!

「婆律香」検索したら、サイト「中国古詩网」のここ(但し、ここのものは簡体字)で、宋代の詩人葛勝仲の詩「鷓鴣」の第一句に、『婆律香濃氣味佳』とあるのを見つけた。

「西海≪の≫婆律《ばりつ》國」東洋文庫訳では、割注して、現在のインドネシアの『(バリ島)』とある。

「豆蔲《づく》」読みは東洋文庫のルビを参考にした。これは、先の「篤耨香」の注で示した、カタバミ目ホルトノキ科ホルトノキ属Elaeocarpus の種群の異名である。

「甲錯《かうさく》」東洋文庫訳は割注して『(爪あとのようなすじ目?)』と疑問推定で添えてある。

『「米腦」◦「速腦」◦「金脚腦」◦「蒼龍腦」』前後から推して、色・固まった際の形状による呼称と推定される。一応、画像検索に掛けたが、現行では、対象品を探し得なかった。

「損動《そんどう》」東洋文庫訳は割注して『(損傷・衝動)』とある。

「內・外障(うちひ・そとひ)の眼病」眼球内に障害があって物の見えなくなる病気。瞳の色の違いよって、「白そこひ」(白内障)・「青そこひ」(緑内障)・「黒そこひ」(黒内障)と呼ばれる。ここはその見た目の症状の違いを「内」「外」に分けている過ぎず、以上の三種の疾患の孰れかである。現行、「そこひ」は聴くが、「うちひ」は聴かない。

「驚風」東洋文庫訳はルビで『(ひきつけ)』とする。

「相-思-子(たうあづき)」マメ目マメ科マメ亜科トウアズキ属トウアズキ Abrus precatorius のこと。小学館「日本国語大辞典」の「唐小豆」(歴史的仮名遣「たうあづき」)によれば、『マメ科のつる性常緑木本植物。アフリカ原産で、アジアやアメリカの熱帯地方に早くから伝播し』、『帰化している。葉は偶数羽状複葉で互生、長さ六~八センチメートル、八~』十五『対の長楕円形の小葉からなる。秋、葉腋に総状花序を出し、淡紫色または淡黄白色の蝶形花を多数つける。莢は長楕円形で扁平、長さ三~四センチメートル。種子はアズキ大、上半部は深紅色で下半部は黒色、光沢があって美しくビーズとして装飾用とされる。また、種子は猛毒を含んでもいて、毒矢の原料ともされ、薬用ともされる。根や茎・葉は煎じて飲用とする。漢名、相思子。なんばんあずき』とあった。一方、「相思子」を引くと、『植物「とうあずき(唐小豆)」の漢名。また、その種子の名。生薬として眼薬、殺虫剤などに用いた』と、目の薬としての用法が確認出来た。

「美止利《みどり》」不詳だが、調べるうちに、「跡見群芳譜」のここに出る、シソ目シソ科カワミドリ属カワミドリ Agastache rugosa の記載に目が留まった。「漢語別名」に『藿香、野藿香、大葉薄荷・山薄荷・野薄荷、排香草』とあったからである。「スースーする」点で似てないか? 「みどり」だし。以下、『全草に、ハッカに似た独特の芳香を持つ』とあり、『中国では、カワミドリ及びパチョリの全草を、藿香(カクコウ,huòxiāng)と呼び、薬用にする』とされ、さらに、『日本では、カワミドリの全草を土藿香(どかっこう)・野藿香と呼び、あるいは』、『葉を乾したものを排草香(はいそうこう)と呼び、薬用にする。但し、中国の排草香は』 Lysimachia capillipes 。『日本の生薬カッコウはパチョリ』とある。このパチョリは、シソ目シソ科ミズトラノオ属パチョリ Pogostemon cablin で、同種は、当該ウィキによれば、『主に東インドや西インドなど、熱帯地方に生育している』とある。リュウジュとは、縁も所縁もないのだが、どーにも、「スースー」で通底してしまうんだがなぁ……。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(17)

 

   初秋や居所かゆるかたつぶり 史 興

 

 蝸牛の存在は梅雨頃を全盛期として、赫々たる炎天下には閑却され勝になる。盛夏と雖も雨が降續けば、自ら時を得るわけであるが、百蟲活動の夏は蝸牛に取つては寧ろ影の薄い季節でなければならぬ。

「居所かゆる」といふのは、今まで此處にいたものが何處へ行つたといふほど、はつきりした動作ではあるまい。天地に充つる新秋の氣が、蝸牛のやうな微物の上にも或衝動を與へて、居所を替へしむるに至つたといふのであらう。卽ち「日盛や所替へたる晝寐犬」といふやうな、現金なふるまひではない。もう少し天地自然の大きな步みに觸れた動きである。

「秋來ぬと目にはさやかに見えねども」といふ。見えざる秋の現れは、ひとり風の音のみには限らない。殼を負うた漂泊者蝸牛先生も、何者かをその身に感じて居を移す。そこに目をとめたのがこの句の眼目であり、俳諧らしい興味でもある。

[やぶちゃん注:「秋來ぬと目にはさやかに見えねども」「古今和歌集」の「卷四 秋歌上」の巻頭に配された、藤原敏行朝臣によって立秋の日(旧暦七月上旬。現代の八月六、七日頃)に詠まれた一首(一六九番)。

   *

   秋立つ日詠める

 秋來ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる

   *]

 

   きりぎりす扇をあけてたゝむ音 和 丈

 

 このきりぎりすは蟋蟀[やぶちゃん注:「こほろぎ」。]ではない。螽斯[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]の方である。きりぎりすの鳴いてゐる場合に、扇をあけてたゝむ音がする、といふ風に解せられぬこともないが、句の意味から云ふと、扇をひろげてたゝむ、あのギイといふやうな音を、きりぎりすの聲に擬したものと思はれる。「山がらの我棚つるか釘の音」の格であるが、あれほど技巧を弄したところは無い。今の人が見たら、ルナアル的興味だと云ふかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「このきりぎりすは蟋蟀ではない。螽斯の方である」『「秋」(4)』の「きりぎりす秋の夜腹をさすりけり 靑 亞」の私の注を読まれたい。]

 

   草刈のまだ夜はふかき月夜かな 長 之

 

 草刈といふ季題は、近頃は夏に定められたかと思ふが、必ずしもさう限定する必要は無い。この句は秋の草刈である。

 まだ夜の明けぬうちに草刈に出る。天地は闃寂[やぶちゃん注:「げきせき」。「げきじやく」とも読む。「せき」は漢音(一般に使用する「ジャク」は呉音)。「ひっそりとしてさびしいさま」。]としていて、東の空も白むに至らぬ。たゞ明るい月が照つてゐる。全く夜のまゝである。普通に夜深きといふ場合は、もう少し前の時間を指すやうであるが、この句は明方に近づきながら、全く夜深き有樣だといふことを現したのが面白い。白み易い夏の夜では、この趣は窺はれぬ。秋になつて天明が遲くなりつゝあることも、自らこの裡[やぶちゃん注:「うち」。]に含まれてゐる。

「まだ夜は明けぬ」といふのと「まだ夜はふかき」といふのと、實際の時間から云へば大差無いかも知れぬが、受取る感じには非常な相違がある。「まだ夜はふかき」の一語によつて、はじめて闃寂たる空氣に觸れ得るやうな氣がする。

 

   名月や壁に酒のむ影法師 半 綾

 

 讀んで字の如し。月を愛めでて酒を飮む。その影が壁にうつるのは、卽ち月の光によつてである。「明月や圓きは僧の影法師」といふ漱石氏の句は、奇に於て勝つてゐるが、この句は自然の裡に變化を藏してゐる。そこに元祿らしい好所がある。

[やぶちゃん注:漱石の句は、岩波旧全集では、明治二九(一八九六)年の「正岡子規へ送りたる句稿 その十七 九月二十五日」として収め、句稿末には「愚陀拜」とある。因みに、私は、漱石の俳句で、心惹かれたものは、一句も、ない。]

2024/06/08

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(16)

 

   聖靈もござるか今の風の音 桃 妖

 

 迎火でも焚いてゐる場合かと思はれる。ざわざわと吹き渡る風の音も、その場合たゞならぬやうにおぼえて、亡き魂がこの風に乘つて來るのではないかといふ氣がする。「吹く風の目にこそ見えね」といふことも、一方が聖靈[やぶちゃん注:「しやうりやう」。]であるだけに、特にもの恐しいやうな感じを伴つてゐる。

 かういふ心持は古今を通じて變りはあるまい。

 

   迎火の消えて人來るけはひかな 子 規

   風が吹く佛來給ふけはひあり 虛 子

 

 子規居士のは必ずしも佛でなしに、迎火の消えた闇の門を、向うから人の來るけはひがする、といふ意味かも知れぬ。併しさういふ普通の人の來るけはひさへ、この場合は或幽遠な世界に觸れるのである。「鳴雪俳句集」などには出ていないが、鳴雪翁にも「迎火に魂や來る道の鴫飛んで」といふ句があるよしを、何かで見たおぼえがある。桃妖の句は技巧的に云へば、この中で一番劣るであらう。たゞどこか素樸なところがあつて、この內容に適してゐるのみならず、時代において先んじてゐることも認むべきである。

[やぶちゃん注:子規の句は、ネットの複数の掲示句を見るに、

   *

   迎火の消えて人來るけはひ哉

   *

であるようだ。私は「久女好きの虛子嫌ひ」だが、虚子のこの句は、所持する大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和五五(一九八〇)年増補校訂八版)で、句集「五百句」所収で、明治二八(一八九五)年秋の作であることが判った。林火は虚子パートの冒頭にこの句を掲げている。それは、この句が、子規の従弟にして虚子の旧友で、ピストル自殺した藤井古白(明治四(一八七一)年~明治二八(一八九五)年四月十二日)を『追慕する霊迎えの句である』(林火解説文より)からである(古白の自死の原因は、文学・哲学を志しながら、それが世間に認められないジレンマによる神経疾患発症の他に、禁断と認識された叔母「すみ」への恋慕が絡んでいた。因みに、虚子もこの「すみ」を愛していた競争相手でもあったのである)。この句自体に、実は、以下の脇書がある(国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここで確認したが、林火の記載にそこにないものがあるため、勘案して入れ込んでおいた)。

   *

  明治二十八年

  八月。府下豐島群下戶塚村四三四、古白
  舊廬に移る。一日、鳴雪、五城、碧梧桐、
  森々召集、運座を開く。

   *

林火、末尾に、『夕闇迫る門辺で芋殼を焚くのが迎え火であるが、その煙りがたなびけばそれはそれに乗って仏が来たような気配を与える。「風吹けば」がこの句に妖気を添えて効果があることを見逃せぬ。』『子規はこの句を天位となし「句法の巧妙、老成家ノ手ニ成リタラン」と小評している。なお子規に「亡き古白を思ひ出でて」の前書ある「春の夜のそこ行くは誰そ行くは誰そ」がある。』と擱筆している。子規の慟哭の一句は、やはり、明治二十八年の作である。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 篤耨香

 

Tokujyokukou

 

とくちよくかう

 

篤耨香

 

 

[やぶちゃん字注:読みの「とくちよくかう」はママ。]

 

本綱篤耨香出眞臘國樹之脂也樹如松形其香老則溢

出色白而透明【名白篤耕】盛夏不融香氣清遠土人取

後夏月以火炙樹令脂液再溢至冬乃凝復收之其香夏

融冬結以瓠瓢盛置陰凉𠙚乃得不融雜以樹皮者則色

黑【名黑篤耨】爲下品 主治靣黧䵟𪒟

 

   *

 

とくぢよくかう

 

篤耨香

 

 

[やぶちゃん字注:読みの「とくぢよくかう」は濁点を入れたが、ママ。何故、こんな注を附すか判らない方が、半数以上、おられるであろう。しかし、この「耨」の音は「ちよく(ちょく)」でも、「ぢよく(じょく)」でも、ない、のである。「耨」の音は「ドウ」と「ヌ」の音しかないのである。現代中国語では、“nòuノォゥ)で、今も昔も「鍬(くわ)で雑草を刈り取る」及び「除草用農具の鍬」を指す。されば、ここは本来なら「とくどうかう」でなければ、おかしいのである。

 

「本綱」曰はく、『篤耨香、眞臘《しんらう》國に出づる。樹の脂なり。樹、松の形のごとし。其の香《かをり》、老《らう》する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則と、溢(あふ)れ出づ。色、白≪くして≫透(す)き明(とを)る[やぶちゃん注:ママ。]。【「白篤耕」と名づく。】盛夏、融(どろ)けず、香氣、清≪らにして≫遠《とほ》し。土人、取りて後、夏月、火を以つて、樹を炙り、脂液《やにのえき》をして、再たび、溢《あふ》れしめて、冬に至りて、乃《すなは》ち、凝《こ》る。復や、之れを收む。其の香《かう》≪は≫、夏、融けて、冬、結す。瓠-瓢《ひさご》を以つて、盛り、陰凉の𠙚に置けば、乃《のち》、得て、融けず。雜(まぜ)るに、樹の皮を以つて≪せし≫者≪は≫、則ち、色、黑し【「黑篤耨」と名づく。】下品たり。』≪と≫。 『靣黧《めんれい》・䵟𪒟《かんざう》を治ずることを、主《つかさど》る。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:良安は、明らかに前項「蘇合油」と同様、実在性に疑問を抱いている感じで、「本草綱目」の引用だけで、自身の見解を、一切、附記していない。しかし、「本草綱目」が、具体な樹液の採取法・保存法を記載していることから、挿絵には、「松の形のごとし」を受けて松のような想像図の樹木を左に添えている。前の「蘇合油」では「薬壺」の絵だけで、木そのものが全く描かれていない(先には、「樟腦」に原木クスノキが描かれていないが、これは、逆に、ありふれた日本人の誰もが知っている「楠木」であるという真逆の理由である)。しかし、またしても良安先生には悪いが、これは、実在する。

「テレビンティナ」(ポルトガル語「terebinthina」)で、マツ科の植物から採取した樹脂を水蒸気蒸留して得られた精油「テレビン油」(ターペンタイン:英語:turpentine oil)のこと

である。無色、乃至、淡黄色の粘稠(ねんちゅう)な液体。特異な香気を持ち、味は辛い。揮発し易く、点火も易い。日光に当たると、酸化して樹脂様に変化する。合成樟脳・ボルネオール・テレピネオールなどの製造原料の他に、塗料・靴墨・油絵の材料・医薬品等に用いられ、「篤耨香(とくどうこう)」「松脂油」「テレメン油」「テレビン」等とも呼ぶ。本邦では、原樹脂は、

裸子(球果)植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora

マツ属 Pinus亜属 Sylvestri 節クロマツ Pinus thunbergii

などから採取している。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「篤耨香」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-60a]から始まる短いもので、「集解」「氣味」を一部カットして載せている。「集解」の最後にある「附録」の「膽八香」は全部外している。因みに、この時珍の載せた「膽八香」というのは、台湾原産で、カタバミ目ホルトノキ科ホルトノキ属Elaeocarpus の中文名「杜英」 Elaeocarpus sylvestris の果実から絞った油で、御香の原料にされるとされる。これは、中文ウィキの「杜英」に拠ったのだが、ここで、注意が必要なのは、このウィキで「日本語」を選ぶと、「ホルトノキ」に行くが、そこで掲げているのは、『日本在来種である』とする、ホルトノキの変種であるホルトノキ Elaeocarpus zollingeri var. zollingeri リンクしてしまうことである(無論、逆も同じ)。この日本在来種の方のホルトノキは、日本以外では、『台湾、インドシナなど』とあって、中国本土を分布域に入れていないのである。どうも、しかし、ここには、錯誤或いは学説の異説でもあるかのようで、中文ウィキの「杜英」には、日本語の「ホルトノキ」にある六枚の写真が、全部キャプションごと転用されているのである。則ち、中国では、Elaeocarpus zollingeri var. zollingeri を認めていないという風にしか見えないのである。そこで、台湾のサイト「農業知識入口網」の『臺灣原生種之杜英科』『杜英屬林木』『和同扇被梢作「錫蘭椴攬」的外來樹種』という資料を見るに、この変種を認めていない(変種名学名は出ない)と思われる内容が確認出来た。ところが、私が植物では最も信頼しているサイト「跡見群芳譜」の「ほるとのき(ホルトの木)」には、この変種名の学名で掲げられてあり、一方で、説明の項で、分布域を、『本州(千葉県南部以西)・四国・九州・琉球・臺灣・福建・浙江・江西・湖南・兩廣・西南・インドシナに分布』とあったのである。本項とは、直接に関係しないのであるが、どうにも気になったので、取り敢えず記しておうことにした。

「眞臘《しんらう》國」六~十五世紀、インドシナ半島のメコン川流域に存在したクメール人(カンボジア人)の国家の中国名。扶南から独立して建国、七世紀前半に扶南を滅ぼした。八世紀に水真臘と陸真臘に分裂したが、九世紀初めに再統一し、アンコール‐ワットに代表されるクメール文化を現出した。十四世紀頃からタイの圧迫を受け、次第に衰退した。良安の時代は、その結果として暗黒時代であった。現在のカンボジアに相当する。

「白篤耕」ウェヘェ!!! 中文サイト「雪華新」の「春宵百媚香」に一ヶ所(配剤名のみ)だけ出るだけで、他に検索に掛らない!

「遠《とほ》し」遠方までその香りが届く。

「黑篤耨」殆んどが中文サイトで「篤耨香」関連で出るだけなので、私には万事休す。

「靣黧《めんれい》・䵟𪒟《かんざう》」東洋文庫訳の割注で『(どちらも顔色の黒ずんでいること)』とある。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 蘇合油

 

Sogouyu

 

そかふゆ 咄魯瑟劍【梵書】

 

蘇合油

 

[やぶちゃん注:東洋文庫では、「咄魯瑟劍」の「魯」の右にママ注記を附し、下に割注で『(竭)』と修正している。しかし、「本草綱目」の「蘇合香」の「釋名」には、『時珍曰按郭義恭廣志云此香出蘇合國因以名之梵書謂之咄魯瑟劒』とあり、また、「大蔵経データベース」で調べると、「大威怒烏芻澁麼儀軌經」に『咄嚕瑟劍蘇合香也』とあるので、ママとする。]

 

本綱蘇合油如黐膠黃白色中天竺國出蘇合香是諸香

汁煎成非自然一物也或云今出安南三佛齋諸畨《✕→蕃》國樹

生膏可爲油胡人將來欲貴重之飾曰是獅子屎也

氣味【甘温】 氣𮄒能通諸竅臟腑故其功能辟一切不正

[やぶちゃん字注:「𮄒」は「竄」の異体字。ここは「放つ・駆逐する」の意。]

 氣殺鬼精物和劑局方有蘇合香丸能治卒心痛時氣

 鬼魅暴痢月閉小兒驚癇客忤大人中風中氣狐狸病

△按蘇合香油雖木膏不言其樹形狀雖諸香煎汁不載

 其練方故未詳也本草必讀云來從西域賣自廣東

 

   *

 

そがふゆ 咄魯《とつろ/トロ》・瑟劍《しつけん/ビケン》【梵書。】

 

蘇合油

 

「本綱」曰はく、『蘇合油は、黐膠(とりもち)のごとく、黃白色。中天竺《ちゆうてんじく》國に蘇合香を出だす。是れ、諸香の汁《を》煎じて、成り、自然≪の≫一物に非ざるなり。或いは、云ふ、「今、安南・三佛齋《さんぶつさい》≪の≫諸蕃國に出づ。樹、膏を生じ、油と爲すべし。」≪と≫。胡人、將來して、之れ、貴重せんと欲し、飾りて、曰《い》ふ、「是れ、獅子の屎《くそ》なり。」と。』≪と≫。

『氣味【甘、温。】 氣、𮄒《お》ひ、能く、諸竅《しよけつ》・臟腑を通ず。故《ゆゑ》、其の功能、一切の不正辟の氣を辟《さ》く。鬼精≪の≫物を殺す。「和劑局方」、「蘇合香丸」有り、能く卒心痛・時氣《はやりやまひ》・鬼魅・暴痢・月閉・小兒驚癇・客忤《きやくご》・大人《おとな》の中風《ちゆうぶ》・中氣、「狐狸の病《やまひ》」を治す。』≪と≫。

△按ずるに、蘇合香油は、「木の膏《あぶら》」と雖も、其の樹の形狀を言はず、「諸香の煎汁《せんじじる》」と雖も、載せず。其の練方《ねりかた》を載せず。故に、未だ詳らかならざるなり。「本草必讀」に云はく、『西域より來たり、廣東より賣る。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:この「蘇合油」「蘇合香」に対して、良安は実在を激しく否定している口ぶりであるが、実際には実在する。その基原植物は、ウィキの「蘇合香」、及び、同英文ウィキによれば、十六世紀までは、現在の『トルコ近辺に産する』、

双子葉植物綱ツツジ目エゴノキ科エゴノキ属セイヨウエゴノキ Styrax officinalis

から得られた樹脂を指していた(因みに、この植物は、前出の「安息香」が得られるそれと近縁の植物である)。ところが、同種と同じく『トルコ近辺に産し、品質的に類似したより安価な』、

双子葉植物綱ユキノシタ目フウ科フウ属ソゴウコウ Liquidambar orientalis(「ストラックス・レヴァント(styrax Levant)」・「Asiatic storax(アジアン・ストラックス)」等と呼ばれる)

から『得られる樹脂が現れてからは、それにとって代わられる形で市場から消えた』とある。『現在では』、さらに『この植物の近縁種であり』、『アメリカ南部から中央アメリカに産する』、

フウ属モミジバフウ Liquidamber styraciflua(「アメリカフウ」・「アメリカソゴウコウノキ」「アメリカン・ストラックス( American storax 英文の同種のウィキを参照した。ここでは、邦文のものは信用出来ない)等と呼ばれる)

から『得られる樹脂も市場に出』まわっている、とある。……良安先生、あるんですよ、確かに――

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「蘇合香」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-58a]直前から始まる、「集解」「釋名」「正誤」「氣味」のパッチワークであるが、現物の存在不信を持った良安のそれが、如何にも怪しい記載部分ばかり(「獅子の屎」等)を選んで繋げた、という感じが如何にもする引用となっているのが、失礼乍ら、面白い。

「中天竺」「五天竺」(残りは東西南北)の一つ。古代インドを五区分した際の、中央の部分。単に「中天」とも言う。

「安南」インドシナ半島東岸の狭長な地方。現在のヴェトナムである。その名は唐の「安南都護府」(唐の南辺統治機関)に由来する。唐末、「五代の争乱」(九〇七年〜九六〇年)に乗じて、秦以来の中国支配から脱却した。一時は明に征服されたが、一四二八年(本邦では室町時代の応永三十五年・正長元年相当)独立。十七世紀には朱印船が盛んに出入し、ツーラン・フェフォには日本町が出来た。

「三佛齋」現在のインドネシア共和国のスマトラ島のこと。本来は、宋代の史書に、その名が見える南海の古国。七~十一世紀に、スマトラ島の南東部にあった大乗仏教の国で、唐代には「室利佛逝」と書かれた。

「和劑局方」宋代に出版された漢方処方箋集。正式書名は「太平惠民和劑局方」。徽宗の代に、当時、各地の薬局で使用されていた局方(処方集)の誤りを訂正するため、陳師文らに校訂を命じ、五巻本として出版された勅撰本。様々な病状別に用いられる処方を記し、さらに、各処方についての細かい使用目標を詳述した実用書で、収載された処方箋は十分に吟味されたものばかりで、宋代以後も大いに利用された。本邦でも、鎌倉から室町時代にかけて広く用いられ、多くの医家が利用した。現在、流通している家庭薬のなかにも、本書に記された処方箋を基本とするものが多い。なお、現在の「薬局方」という名称は本書の題名に由来している(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「蘇合香丸」サイト「東苑漢方」の当該薬の解説に、『伝統的な名漢方で』、『主成分の蘇合香、安息香、麝香には血行をよくする働きがあり、脳卒中による意識障害に対して数多くの改善例が報告されて』おり、『言語不明瞭、舌の硬化、話ができないなどの症状にも』効果があるとし、その「成分」は『蘇合香、安息香、麝香、氷片、水牛角濃縮粉、沈香、乳香、訶子肉、檀香、丁香、香附子、木香、白朮、朱砂』で、「効能」は、『脳卒中後遺症による意識障害、半身不随、顔面神経麻痺などの治療に』用いる、とあった。

「卒心痛」東洋文庫訳では、割注して、『(心筋梗塞)』とある。先だって亡くなった父の疾患だ。

「時氣《はやりやまひ》」読みは、東洋文庫訳のルビを参考にした。

「月閉」メンスの閉塞や、重い不順。

「客忤《きやくご》」東洋文庫訳では、割注して、『(不意におびえにおそわれて小児が驚癇のような症状を呈するもの)』とある。「忤」は「逆らう・逆の方向に進行する」の意。「客」は、思うに、「本来あるべき心の状態から離れてゆくこと」を意味するか。

「中風・中氣」「烏藥」で既出既注。

「狐狸の病《やまひ》」東洋文庫訳では、割注して、『(狐つきのような精神病)』とある。解離性障害(ヒステリー)を主因とする複数の重い妄想傾向を強く持った精神疾患の症状である。

「本草必讀」「楓」その他で、既出既注。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(15)

 

   ひよろひよろと蜂や水のむ秋の暮 歲 人

 

 秋の暮は普通秋の夕のことになつてゐるが、これは夕方の景色とすると、少しそぐはぬやうな氣がする。暮秋の日向か何かで、もう元氣のなく無つた蜂が、ひよろひよろしながら水をのむところと見るべきであらう。「喪の名殘」といふ俳書が暮秋の句の中に一括して入れてゐるのを見ると、餘計さういふ風に考へられる。

 蜂の水をのむところを見つけた句は、太祇に「腹立てゝ水のむ蜂や手水鉢」といふのがある。太祇一流の働いた句ではあるが、稍〻句格の低い點は如何とも仕方がない。ひよろひよろと水のむ蜂の方が、自然で且あはれが深いのである。

[やぶちゃん注:「喪の名殘」立花北枝が、元禄九(一六九六)年、芭蕉の三回忌に義仲寺で、

 笠提て塚をめくるや村しぐれ

(かささげてつかをめぐるやむらしぐれ)の一句を手向け、去来らと追善俳諧を催し、翌元禄十年に編んだ追善集(上・下で、四季・追加に分ける)。丈艸・其角・支考・去来・正秀・惟然・杉風・許六・風国・木節・浪化・尚白・句空ら、錚錚たるの蕉門俳人群の句を収めている。但し、管見するに、追悼句としてのしみじみとした良い句は殆んど見当たらない。敢えて言えば、丈艸の「香語」とする追悼文がリアルな情景に思いを託して好ましいと私は感じた。国立国会図書館デジタルコレクションの、『加越能古俳書大觀』上編(日置謙校・昭一一(一九三六)年石川県図書館協会刊)の、ここで、当該句が確認出来る(左ページ上段後方。名「歲人」の右上に小さく「南都」と打つ)。

『太祇に「腹立てゝ水のむ蜂や手水鉢」といふのがある』高桑闌更の弟子が編した「新五子稿」に収載する。因みに、この「新五子」とは、「蕪村・太祇・暁臺・闌更・青羅」を指す。]

 

   起もせず手の筋みるや秋の暮 長 久

 

 この句は秋の夕暮で差支無い。ごろりと寐轉んだまゝ自分の手の筋を見る。考へ事があるやうでもある。悲觀してゐるやうでもある。懶さう[やぶちゃん注:「ものうさう」。]でもある。けれども作者はそんなことは何も云はない。たゞ起きもせず掌[やぶちゃん注:「たなごころ」。]を見る男を描き出して、頗る冷然としている。俳諧の非人情的態度の一として見るべきであらう。

 春の暮でもいゝやうな氣もするが、何度も讀返してゐると、やはり秋の暮にふさわしい。ひとり寐轉んで掌を見る男の寂しさが、ひしひしと身に迫るやうに思はれる。

 

     述 懷

   手のしはを撫居る秋の日なたかな 萬 子

 

といふ句も目についた。かういふ自己の身體を見守るやうな心持、いとほしむやうな心持は、秋に起ることが多いやうである。少し理窟を附加へれば、人生の秋に遭遇した者の經驗し易い心持なのかも知れぬ。必ずしもいゝ句といふわけでもないが、心持の上に共通する點があるかと思ふので、ついでに擧げて置くことにする。

 

   秋たつやきのふの雨を今朝の露 從 吾

 

 句としては寧ろ陳腐であらう。古い歌の中にもこんな意味のものがあつたかも知れない。ただ何となく棄てがたいやうな感じがするのは、この句のもとになつてゐる爽涼の氣の爲であらう。

 昨夜雨が降つた。或は夜と限らずに、昨日一日降つた雨でも差支無い。その雨の名殘が草葉の露となつてゐる。かういふありふれた光景も、「秋立つ」といふ自然の推移の上に立つて見ると、今までと違つた感じを與へる。雨の名殘の露といふものにさへ、秋立つ前と後とでは感じの相違があるのである。この句を誦して第一にそれを感ぜぬ人は、俳句を味ふ感覺に於て、何者かを缺いてゐると云はなければならぬ。

 それが

 

     八日の朝

   星達の契のすゑや木々の露 白 良

 

といふ句になると、句の內容に大差は無くても、作者の心持は大分違つて來る。木々の葉にしとゞに置く露を、星合[やぶちゃん注:「ほしあひ」。]の名殘の露と見ることは、一見氣が利いてゐるやうで、實は技巧の範圍に墮ちる。「秋たつや」の句が直に大きな自然の動きに觸れてゐるのに反し、この句は或趣向が主になつてゐる。同日に談ずべからざる所以である。

 

   星合や蚊屋一張に五人寢ル 里 倫

 

 卽事を句にしたものであらう。年に一度星の契るといふ七夕の夜を、一張の蚊帳の中に五人一緖に寢た、といふのである。芭蕉も「嵯峨日記」の中に、一張の蚊帳に五人で寢たら、どうしても眠れないので、夜半過から皆起出して話したことを記し、「去年の夏凡兆が宅に臥たるに、二疊の蚊屋に四國の人ふしたり。おもふこと四[やぶちゃん注:「よつ」。]にして夢も又四くさと書捨たる事どもなど云出して[やぶちゃん注:「いひいだして」。]笑ひぬ」などと云つてゐる。同じ蚊帳に四國の人が寢て、四通りの夢を見るなどは、俳諧らしいおかしみであるが、この句はさういふ趣向があるわけではない。文字に現れた通りの事實を、そのまゝ捉へたに過ぎぬ。

 七夕の夜の卽事といふ以外、格別七夕に關連したところは無いが、かうして一句になつたのを見ると、七夕なるが故に又一種の味を生ずる。單に五人一張の蚊帳に寢るといふ事實も、七夕に配されることによつて、別樣の趣が發揮されるかと思ふ。表面離れたやうで、內面に通ふものがある。俳諧得意のところであらう。

[やぶちゃん注:「嵯峨日記」芭蕉の俳諧日記。一編。宝暦三(一七五三)年刊。元禄四(一六九一)年四月一八日から五月四日の間、京都嵯峨にある向井去来の別荘「落柿舎」に滞在した際に綴ったもので、芭蕉の日記としては唯一のものである。文学作品としての構想のもとに、落柿舎での生活・感想・門人たちとの交渉などを発句・連句・漢詩などを交えながら記す。当該部は「四月廿日」の条。以下に示す。底本は岩波文庫「芭蕉紀行文集 付 嵯峨日記」(中村俊定校注・一九七一年刊)を用いた。

   *

廿日 北嵯峨の祭見むと、羽紅尼(うこうに)來ル。

 去來京より來ル。途中の吟とて語る。

つかみあふ子共(ども)の長(たけ)や麦畠

 落柿舍は昔のあるじの作れるまゝにして、處々頽破ス。中々に作(つくり)みがゝれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とゞまれ。彫(ほりもの)せし梁(うつばり)、 畫(ゑがけ)ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎(むぐら)の下にかくれたる、竹緣の前に柚(ゆず)の木一(ひと)もと、花芳(かんば)しければ、

  柚の花や昔しのばん料理の間(ま)

  ほとゝぎす大竹籔をもる月夜

    尼羽紅

  又や來ん覆盆子(いちご)あからめさがの山

 去來兄の室(しつ)より、菓子・調菜の物など送らる。

 今宵(こよひ)は羽紅夫婦をとゞめて、蚊屋(かや)一はりに上下(かみしも)五人擧(こぞ)伏(ふし)たれば、夜もいねがたうて、夜半過ゟ(すぎより)をのをの[やぶちゃん注:ママ。]起出(おきいで)て、昼の菓子・盃など取出(とりいで)て、暁ちかきまではなし明(あか)ス。去年(こぞ)の夏、凡兆が宅に伏したるに、二疊の蚊帳に四國の人伏たり。「おもふ事よつにして夢もまた四種(くさ)」と、書捨たる事共(ども)など、云出(いひいだ)してわらひぬ。明(あく)れば羽紅・凡兆京に歸る。去來猶とゞまる。

   *

この年の四月二十日は、愛宕山(あたぎやま)大権現の嵯峨祭の日に当たっていた。「羽紅尼」は野沢凡兆の妻「とめ」。この年、剃髪していた。「つかみあふ子共の長や麦畠」中村氏の脚注によれば、「猿蓑」・「去来抄」にも載るが、そこでは、孰れも「游刀」の作としている。俳諧撰集では、芭蕉に限らず、こうした作者の改変操作がしばしば行われている。女流の作家のものには、しばしば、別な男性俳人のものに改竄されるジェンダー・ヘイトがあったように私には思われる。「去來兄の室」去来の長兄で、父を継いで京で医師をしていた向井元端(震軒)の妻「多賀」のこと。「凡兆が宅」中村氏脚注に『当時凡兆は京の「小川さはら(椹)木町上」(京羽二重)に居住』していたとある。「去年(こぞ)の夏、凡兆が宅に伏したるに、二疊の蚊帳に四國の人伏たり」同前で、『去来の「丈草誄」』(じょうそうがるい)『によれば、芭蕉(伊賀上野)・去来(肥前長崎)・丈草(尾張犬山)・凡兆(加賀金沢)をさす』とある。]

2024/06/07

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(14)

 

   蓮の葉のいよいよ靑し花の跡 柳 燕

 

 かういふ句は季題に拘泥して分類すると妙なことになる。蓮といふものは夏になつて居り、花といふ文字も使つてあるから、さし當り夏の部に入れて置くのが便宜のやうでもある。しかし「八重葎」といふ俳書がこれを秋の部に入れたところを見れば、花の咲かなくなつた蓮で、秋の句になるのであらう。蓮の實は秋の季題にあるが、花の跡だから實といふことにすると、いさゝか理窟つぽくなる。季はわかつてゐるに拘らず、分類に面倒な句である。

 花は咲かなくなつたが、蓮の葉は依然靑い色をしてゐる。秋だからと云つて直に葉の衰[やぶちゃん注:「おとろへ」。]といふところに考へ及ぼすのは、自然に參せぬ、槪念の產物である。實際蓮の葉は秋になつて直ぐ破れるものではない。秋ながら靑い蓮葉を描いたのがこの句の眼目であり、「いよいよ靑し」の一語によつて、その靑さが强く浮ぶやうな氣がする。實もそこらにあるかも知れぬが、作者はたゞの靑さに眼を注いでゐるのみである。

 蓮の實とか、敗荷はいかとかいふ季寄本位の觀念を離れて、秋天の下にいよいよ靑い蓮葉を見る。そこに元祿の句の自然なところがある。吾々は句そのものの價値よりも、この點に心を惹かれざるを得ない。

[やぶちゃん注:『「八重葎」』(やへむぐら)『といふ俳書がこれを秋の部に入れた』「八重葎」は正確には「八重葎 花」で、江戸前期の俳人神戸友琴(かんべゆうきん 寛永一〇(一六三三)年~宝永三(一七〇六)年:北村季吟に学び、生地の京都から加賀金沢に移り、和菓子商を営む傍ら、俳諧を教え、加賀俳壇に重きをなした人物。通称は武兵衛。別号に幽琴・山茶花など。編著には他に「白根草」「金沢五吟」「色杉原」などがある)の俳諧撰集。国立国会図書館デジタルコレクションの、『加越能古俳書大觀』上編(日置謙校・昭一一(一九三六)年石川県図書館協会刊)の、ここで、当該句が確認出来る(右ページ下段八行目)。リンク先では、刊行年を不詳とするが、元禄八(一六九五)年刊である。]

 

   緣に出て手をうつ柿の烏かな 宜 律

 

 句意は別に解するまでもない。緣に出て手を打つて、柿に來る烏を追つたといふのである。これを上から眞直に讀下して、柹の烏が緣側で手を打つやうに考へる人は、少くとも俳諧國の民にはあるまいと思ふ。

 柹に烏は相當あり觸れた題材である。柹の烏を追ふといふ趣向も少くない。「柹を守る吝き[やぶちゃん注:「しわき」。]法師が庭に出でてほうほうといひて烏追ひけり」といふ子規居士の歌もあり、漱石氏は又「野分」の一節にこれを用ゐて、道也先生をして「蛸寺の和尙が烏を追つてゐるんです。每日がらんがらん云はして、烏計り追つてゐる。あゝいふ生涯も閑靜でいゝな」と評せしめてゐる。柹の烏を追ふ方法もいろいろあるらしい。この三種の中では、緣へ出て手を打つのが最も消極的のやうである。

[やぶちゃん注:「柹を守る吝き法師が庭に出でてほうほうといひて烏追ひけり」子規の明治三二(一八九九)年十月一日の『短歌第四會』の一首。

   *

    柹

 柹を守る吝き法師が庭に出でてゝほうほうといひて烏追ひけり

   *

である。国立国会図書館デジタルコレクションの『子規全集』第六巻(和歌・大正一五(一九二六)年アルス刊)のここで視認出来る。

『漱石氏は又「野分」の一節にこれを用ゐて、……』「野分」(のわき:明治四〇(一九〇七)年一月『ホトトギス』に発表。漱石が教職を廃し、専従作家となる前の最後の小説である)の「六」章の掉尾。国立国会図書館デジタルコレクションの漱石全集刊行会の昭和一一(一九三六)年刊の『漱石全集』第三巻のここ(当該部)で、正字正仮名で視認出来る。]

 

   干稻の間もなく暮る日影かな 盛 弘

 

 干稻に日が當つてゐる。もう間もなく暮れる心細い日影である。干稻の日影も寧ろ平凡な趣向であるが、「間もなく暮る」の一語によつて、その光景を明瞭ならしめてゐる。

 稻架[やぶちゃん注:二字で「はさ」と読む。]にかけた稻か、田にひろげ干す稻か、それはわからぬ。この句の主眼はさういふ道具立の上でなく、今にも暮れようとする秋の日ざしが、僅に干稻の上に殘つてゐる、その感じに存するのであらう。

 

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 安息香

 

Ansokukou

 

あんそくかう

 

安息香

 

アン スエ ヒヤン

 

本綱安息香生南海波斯國樹中脂也樹長二三丈皮黃

黑色葉有四角經冬不凋二月開花黃色花心微碧不結

實刻其樹皮其脂如餳六七月堅凝乃取之燒之通神辟

衆惡燒之能集䑕者爲眞【大明一統志云樹如若楝大而直葉似半桃而長木心有脂】

[やぶちゃん字注:この「若」は実は「苦」の同型異字の異体字である。本文では紛らわしいだけなので、訓読では「苦」に代えた。また「半桃」は「羊桃」の誤字であるので、訓読では訂正した。

五雜組云安息香能聚䑕其烟白色如縷直上不散又狼

烟亦直上也

氣味【辛苦】 治邪鬼魍魎鬼胎産後血運

△按安息香今出於莫臥爾咬𠺕吧蓋試燒之而不能䑕

 集未知謬說乎不𫉬眞者而然乎

 

   *

 

あんそくかう

 

安息香

 

アン スエ ヒヤン

 

「本綱」に曰はく、『安息香は、南海の波斯《パルシヤ》國に生ず。樹の中の脂《やに》なり。樹の長さ、二、三丈。皮、黃黑色。葉、四角《よつかど》有り。冬を經て≪も≫、凋まず。二月に、花を開き、黃色≪なり≫。花の心、微《わづかに》碧《みどり》にして、實を結ばず。其の樹の皮を刻《きざ》≪めば≫、其の脂《やに》、「餳(ぢわうせん)」のごとし。六、七月、堅く凝りて、乃《のち》、之れを取り、之れを燒≪けば≫、神《しん》に通ず。≪→じて、≫衆惡を辟《さ》く。之れを燒きて、能《よく》、䑕《ねずみ》を集むる者、眞と爲《な》す【「大明一統志」に云はく、『樹、苦き楝(あふち)のごとくして、大にして直なり。葉、「羊桃《やうたう》」に似て、長し。木の心《しん》、脂、有り。』≪と≫】。』≪と≫。

「五雜組」に云はく、『安息香、能く、䑕を聚む。其の烟《けぶ》り、白色≪にて≫、縷《ながきいと》のごとく、直つに上《のぼり》て、散らず。又、狼烟《のろし》も亦、直ちに上るなり。』≪と≫。

氣味【辛、苦。】 邪鬼・魍魎《まうりやう》・鬼胎・産後の血運《ちのめぐり》を治す。

△按ずるに、安息香、今、莫臥爾《モウル》・咬𠺕吧《ヂヤガタラ》より出づ。蓋し、試みるに、之れを燒きて≪も≫、能く、䑕、集まらざること、未だ知らず、謬說《びやうせつ》か、眞なる者を𫉬《え》ずして、然(しか)るか≪を≫。

 

[やぶちゃん注:「安息香」は、

双子葉植物綱ツツジ目エゴノキ科エゴノキ属アンソクコウノキ Styrax benzoin 、又は、その他の同属の植物が産出する樹脂

を指す。ウィキの「安息香」によれば、『名の由来にはいくつかの説がある。一説にはパルティア(漢名が安息)』(紀元前二四七年から紀元後二二四年まで存在した古代イランの王朝)『で用いられていた香りと』、『安息香の香りが似ていたのでこの名がついたという。また』、「本草綱目」では、後述する「安息香」の冒頭の「釋名」で時珍が、『諸邪を安息する効能があることから名づけられたとの記載がある。また、チンキの蒸気に呼吸器の粘膜を刺激して痰の排出を促進する作用があることから安息香と名づけられたという説もある』。『ベンゾインの名はガム・ベンジャミンと呼ばれていたものが訛ったものと考えられている。また』、『このベンジャミンは人名由来ではなく』、『ジャワから来た』「香」を『意味するアラビア語のルバーン・ジャーウィー』(「ジャワの乳香」の意)『が訛ったものという説がある』。『安息香の主な産地はタイ、ラオス、ベトナムの高原地方を中心とするインドシナ半島とインドネシア』の『スマトラ島である』。『インドシナ半島とインドネシアでは産出する樹木の種に違いがあり、前者はシャム安息香( S. tonkinensis )、後者はスマトラ安息香(アンソクコウノキ)と区別されている』。『産出量はスマトラ安息香の方がずっと多いが、香料としての品質はシャム安息香の方がすぐれている。これは安息香の香気に主要な寄与をしているバニリン』(vanillin。中国語「香草醛」。バニラの香りの主要な成分となっている物質)『の含有量がシャム安息香の方がずっと高いためである』。『安息香の主要な成分は芳香族カルボン酸とそのエステルである。シャム安息香では安息香酸とそのエステルが主成分である。バニリンは』三『%程度含まれる。スマトラ安息香ではケイ皮酸とそのエステルが主成分で、バニリンは』一『%程度と少ない』。『安息香は香料として使用される』『ほか、含まれる安息香酸の静菌作用により』、『食品添加物の保存料として使用されていたとの書籍上の記載もある』。但し、『食品添加物としての使用については、香料としての使用実績はあっても保存料としての使用実績は無いのではないかと疑問視する研究者もいる』とある。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「安息香」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-56b]から始まる「集解」以下の部分引用である。

「安息香は、南海の波斯《パルシヤ》」(現在のイラン)「國に生ず」については、東洋文庫では、詳しい後注があって、『『酉陽雑俎』3(平凡社東洋文庫、今村与志雄訳)「広動植之三 安息香樹」の注で、今村氏は「中国では、唐、宋の時代、古代イラン方面で産出した一種の香料と、マライ半島を原産地とする小灌木 Styrax benzoir(ママ。斜体でないのもママ。種小名を転写し損なっている。正しくは「benzoin」である。)『からとれる香料(benenjoins Fr., benzoin, in Eng.)とを、同じ安息香の呼称で包括していたらしい」と述べておられる。また、同書「竜脳香樹」』(「安息香樹」の直前にある)『の注で今村氏は、『酉陽雑俎』に竜脳香樹の産地としてあげられている波斯国は、一般にいうイランのペルシアではなく、マライの波斯(ボースー)』(ルビ。但し、同書(一九八一年刊)は私も所持しているが、そこのルビは当て字「波」から容易に推定される通り、半濁音の「ポ」ではなく、濁音の「ボ」であり、ちゃんと『ボースー』となっているのである。これも転写ミスである。二箇所も誤るのは、礼儀としても、学術的にも、最早、最低である。当該部の担当者は竹島敦夫氏である。)『と解釈すべきである、とされている。すれば、ここにいう南海の波斯もマライの波斯と考えてよいということになろうか。』と記してある。上記の通り、杜撰の極みなので、より正確に今村先生の注を原本から確認しよう。

   《引用開始》

波斯国 「波斯」は、ふつう、イランをさすPersiaの転写とされているが、『酉陽雑俎』のこの例は、マライの波斯(ポースー)と解釈すべきである。一「忠志」一七話[やぶちゃん注:「一七」は原本では半角。『一「忠志」一七話』の「忠志」は同「酉陽雑俎」第一巻の篇名。]、交趾から龍脳を献上した話をしるすが、そこでも波斯では、老龍脳樹と呼ぶとしるし、交趾から距離的に近いことが示されている。B・ラウファーが、『シノ・イラニカ』で指摘しているとおり、唐の樊綽(はんしゃく)の『蛮書』に、そのマライの波斯は、驃(ビルマ)と境界を接しているある地域として記載されている。なお、F・ヒルト、W・W・ロックフィル『趙汝适』で、波斯国でも産するというのを、イラン――ペルシアの船舶で輸入される意味と解釈しているが、B・ラウファーは、その説を悪しき概括として批判した。

 なお、『蛮書』一〇には、「驃国は……波斯および婆羅門と隣接する」とある。また、同書六には「永昌城は、古の哀牢の地である。……さらに、南に、婆羅門、波斯、闍婆、勃泥、崑崙数種外道がある」という。闍婆は、いまのジャヴァ、勃泥はボルネオ、いまのインドネシアのカリマンタンである。向達の『蛮書校注』では、同書一〇に「大秦波羅門国」(向達は、大波羅門国とすべきで、秦はあるいは誤衍(えん)であろうという)、「小婆羅門国」とあるのをとりあげ、小婆羅門国は、いまのインド東部、アッサム南部一帯をさし、アッサム北部以西からガンジス河流域までが大婆羅門国に属するだろうと推定している。だとすれば、波斯は、マライ半島のある地域か、あるいは、ひろくいって南海のどこかの地域をさす[やぶちゃん注:下線太字は私が附した。]ことになる。向達は、フランスの東洋学者G・フェランの「南海の波斯」を引き、いわゆる「南海の波斯」はビルマのバセインBassein(イワラジ川下流流域の西)であるか、スマトラ東北岸のパセPasè,あるいはボルネオ、ジャヴァ、バンカなどの諸島のパシルPasirでもあり得るというその説を紹介している。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

この下線太字部が「波斯」の正しい比定地となると考えてよい。

「餳(ぢわうせん)」この漢字は音「トウ・ドウ・セイ」、中国語では、「飴・水あめ」を意味する。則ち、この「ぢわうせん」は和訓であり、ウィキの「地黄煎」によれば、『地黄(アカヤジオウ)』(キク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科アカヤジオウ属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa )『の根を煎じた生薬、およびそれを添加して練った日本の飴である』とし、『江戸』『では』、「下り飴」・「くだり飴(くだりあめ)」とも称した』。『日本では膠飴(こうい)と表記し』、『「じおうせん」「じょうせん」と読む場合もある』とあった。但し、『地黄(アカヤジオウ)の地下茎に補血・強壮・止血の作用があることは、古く』「神農本草經」に『記載されて知られていた。地黄を日本では別名で「佐保姫」と、春の女神の名で呼ぶ』。『平安時代』、『宮内省典薬寮は、「供御薬」という宮中行事により、毎年旧暦』十一月一日に、『地黄煎を調達していた』。『このことにより』、『地黄煎の栽培・販売について、その後の供御人』(くごにん/くごんちゅ:中世に於いて、朝廷に属し、天皇・皇族等に山海の特産物などの食料や、各種手工芸品などを貢納した集団。後に貢納する物品の独占販売権を取得し、座に属する商人と同様の活動を行った。「禁裏供御人」とも言う)『の身分が形成された』。『典薬寮を本所とした、地黄煎の販売特権をもつ供御人による「地黄煎商売座」という座を形成、この座による販売人を「地黄煎売」(じおうせんうり)という』。『産地は摂津国、和泉国、山城国葛野郡であった』。『中世』『期の「地黄煎売」の姿は、番匠(大工)がかぶる竹皮製の粗末な笠である「番匠笠」、小型の桶を棒に吊るし振売のスタイルであった』。『室町時代』の明応三(一四九四)年に『編纂された』「三十二番職人歌合」には、『糖粽(とうそう)』(糖粽(あめちまき)。「飴粽」「餳粽」「粭粽」(あめちまき/あめぢまき)とも書く。ウィキの「糖粽売によれば、「糖粽」の定義は三説あり、①『飴色をした粽餅(茅巻餅)』、②『粽餅(茅巻餅)の表面に飴を塗布したもの』、③『固飴を茅萱(チガヤ)で巻いたもの』とあった)『を売る「糖粽売」とともに「地黄煎売」として紹介されている』。『このころ振売を行っていた「地黄煎売」は、「飴売」とみなされていた』。『江戸時代』『にも、飴としての「地黄煎」は製造・販売されており』元禄五(一六九二)年に『に井原西鶴が発表した』「世間胸算用」にも、『夜泣きに効くという趣旨で「摺粉に地黄煎入れて焼かへし」というフレーズで登場する』寛文元(一六六一)年の『加賀藩の資料によれば、石川県金沢市泉野町のあたりの旧町名は「地黄煎町」であった』。元禄八年に『に発行された』「本朝食鑑」には、『膠煎(じょうせん)として紹介され、これを俗に「地黄煎」という、としている』。正徳(しょうとく)二(一七一二)年に発行された「和漢三才圖會」に『よれば、膠飴(じょうせん)と餳(あめ)は湿飴(水飴)とは異なり、前者は琥珀色、後者は白色であり、煮詰めて練り固めて製造する膠飴のなかでも、切ったもの(切り飴)を「地黄煎」という、と説明している』(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の私と同じ原本のこちらで視認出来る。「第百五」の「造釀類」の「飴」の項で、標題下方の最後に『膠飴』『【俗云地黃煎】』と出る)とある。

「大明一統志」明の全域と朝貢国について記述した地理書。全九十巻。李賢らの奉勅撰。明代の地理書には先の一四五六年に陳循らが編纂した「寰宇(かんう)通志」があったが、天順帝は命じて重編させ、一四六一年に本書が完成した。但し、記載は、必ずしも正確でなく、誤りも多い。東洋文庫訳では、ここに割注して、『(巻九十本文安南土産、安息香)とある。』とある。「維基文庫」の同巻を見ると、「安南」の項の、「土产」(=「土產」)の条に『安息香【樹脂其形色类核桃□』(表示不能字或いは判読不能字)『不宜于烧然能髮衆香故人取以和香】」、及び、『安息香【樹如苦練大而直叶類羊桃而長中心有脂作香】』(簡体字を繁体字に代えた)とあった。

「楝(あふち)」ムクロジ(無患子)目センダン(栴檀)科センダン属センダン Melia azedarach の別名「オウチ」。

「羊桃《やうたう》」東洋文庫訳では、割注して、『(ごれんし)』とする。カタバミ目カタバミ科ゴレンシ属ゴレンシ Averrhoa carambola 。「五斂子」。ウィキの当該同種を指す「スターフルーツ」を見られたい。

「五雜組」冒頭の「柏」で既出既注。以上は「卷十」の「物部二」の一節。「維基文庫」の電子化されたここで視認出来る。

「血運《ちのめぐり》」東洋文庫訳のルビを、そのまま用いた。

「莫臥爾《モウル》」「モール(ポルトガル語:mogol)インドにあったモグール(ムガル)帝国。

「咬𠺕吧《ヂヤガタラ》」何度も出ているが、再掲すると、インドネシアの首都ジャカルタの古称。また、近世、ジャワ島から日本に渡来した品物に冠したところから、ジャワ島のことをも指す。

「蓋し、試みるに、之れを燒きて≪も≫、能く、䑕、集まらざること、未だ知らず、謬說《びやうせつ》か、眞なる者を𫉬《え》ずして、然(しか)るか≪を≫」良安先生の、こういう事実確認、いいね!]

2024/06/06

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(13)

 

   月うすし河獺や取ル鮭の魚 蘆 錆

 

 薄月夜である。はつきりとも見えぬ水の隈くまに、何やらざぶんといふ物音がする。獺が鮭でも取るのであらう、といふ句意らしい。

 獺が魚を取るのに不思議は無いと云へばそれまでのやうであるが、この句は慥に妖氣を含んでゐる。水面がはつきり見え渡らぬのも、獺のふるまひにふさはしい。はつきり獺の姿を現さず、ざぶんといふ水音だけ聞かせて――それも句の裏になつてゐる――想像に委したのも妖氣を助けてゐる。但さういふ細工を意識して捏上げた句でなしに、作者の實感から得來つたものであることは云ふまでもない。

[やぶちゃん注:「蘆錆」「ろしやう」か「ろせい」か、確認出来ない。

「妖氣」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を見られたいが、本邦の民俗社会では、古くから狐狸に次いで、人を騙す妖獣として食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon は認識されていた事実がある。しかし……その種を近代、日本人は絶滅させてしまった。その方が、遙かに怪奇にして怨みの妖気が漂うと言うべきだ。]

 

   月代や煮仕舞たる馬の菽(まめ) 廣 房

 

 月代は「月白」と書いたものもある。月の將に出でむとするに當つて、東の空が先づ薄明るくなる、それを云ふのである。中七字は「煮えしまひたる」と讀むのであらう。

 秋の夜長に馬にやるべき豆を煮る。ぐつぐついゝ工合に煮えた頃、ほのかに東に月代が上つて來た。やゝ遲い月の出汐になつたのである。一讀しづかな農家の庭に立つ想がある。

 

   そよ風に早稻の香うれしかゝり船 松 雨

 

 平野の中を流るゝ江河のほとりであらうか、岸近く繫いだ船に、爽な早稻田の香が流れて來る。あるかなきかのそよ風が稻の香を漂はせるのである。

 昧爽[やぶちゃん注:「まいさう」。]か、夕方か、乃至は晝間か、さういふ時間はこの句に現れてゐない。船中に在る作者は、岸近く繫いだことによつて、野を渡る微風を感じ、そこに流るゝ稻の香をなつかしんだものであらう。「うれし」の一語に野をなつかしむ心持が窺はれる。

[やぶちゃん注:「昧爽」明け方のほの暗い時を指す語。]

 

   芭蕉葉を尺取むしの步みかな 末 路

 

 廣い芭蕉の葉の上を、小さな尺蠖むしが步きつゝある。作者はこの事實に興味を覺えたので、外に何も隱れた意味はない。芭蕉葉の寸法を測るのだなどと解するのは、この句に在つては曲解である。

 再版の「獺祭書屋俳話」の表紙には、芭蕉の葉と小さい蝸牛の畫がかいてあつた。芭蕉の葉の蝸牛は直に畫になるが、尺蠖ではさうは行かない。が、句としては一の興味ある光景になつている。所謂配合論者が考へて而して成るやうなものではない。

[やぶちゃん注:「末路」幾ら何でも「まつろ」ではあるまい。「ばつろ」と読んでおく。

「尺取むし」「尺蠖むし」昆虫綱鱗翅(チョウ)目シャクガ(尺蛾)上科シャクガ科 Geometridae に属する蛾類の幼虫を総称する語。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚇蠖(シャクトリムシ)」を見られたい。

『再版の「獺祭書屋俳話」の表紙には、芭蕉の葉と小さい蝸牛の畫がかいてあつた』辛うじて、「古書 古群洞」公式サイトのこちらの画像で確認出来る。左下に小さく蝸牛が視認出来る。]

 

   名月や背戶から客の二三人 枝 動

 

 名月の晚に背戶から客が二、三人來た、といふだけである。特に「背戶から」といふ以上、背戶以外から來た客もあることになるかも知れぬが、この句はそれには拘泥しない。たゞ「背戶から客の二三人」とのみ云ひ放つてゐる。

 子規居士が「俳句問答」で、俳句と理窟とに就て辨じた時、「名月や裏門からも人の來る」といふ句を例に引いて、「も」の字を難じたことがある。「裏門からも」といふ裏には「表門からも」といふことが含まれてゐる、そこに知識乃至理窟の働きがある、單に「名月の夜人の裏門より來る」といふ一場の光景を詠むべきである、といふのである。「背戶から」の句は偶然その一方のみを敍した實例になつてゐる。

[やぶちゃん注:「俳句問答」の当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの「俳諧大要・俳人蕪村・俳句問答・俳句の四年間」(正岡子規著・高濱淸(虚子)編・大正2(一九一三)年籾山書店刊)のここで当該部が視認出来る。この「も」に対する批判は非常に共感出来る。この「も」でこの句は死んでいる。所謂――「てにをは」の命――である。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 麒麟竭

 

Kirinketu

 

きりんけつ   血竭

麒麟竭   【此物如乾血

         曰麒麟者隱

         語也】

 

キイリンキツ

 

本綱麒麟血今南番《✕→蕃》諸國及廣州皆出之木髙數尺婆娑

可愛葉似櫻桃而有三角其脂液從木中流出滴下如膠

飴狀久而堅凝乃成竭赤作血色或於樹下堀《✕→掘》坎斧伐其

樹脂流於坎旬日取之

 試之以透指甲者爲眞又以火燒之有赤汁涌出久而

 灰不變本色者爲眞也凡使先研作粉篩過入丸散用

 若同衆藥擣則化作塵飛也

氣味【甘鹹】 治心腹卒痛金瘡血出破積血止痛生肉

 和血之聖藥也乳香没藥雖主血病而兼入氣分此則

 專於血分者也

△按麒麟血柬埔寨咬𠺕吧暹羅皆渡之有數品以籜包

 之如唐粽故名粽手爲上爲粉正赤者良今試之所謂

 透指甲者亦燒之灰赤不變本色者未見之

 

   *

 

きりんけつ   血竭《けつけつ》

麒麟竭   【此の物、乾ける血のごとし。

         「麒麟」と曰ふは、隱語なり。】

 

キイリンキツ

 

「本綱」に曰はく、『麒麟血、今、南蕃の諸國、及び、廣州、皆、之れを出づ。木の髙さ、數尺、婆娑《ばさ》≪として≫、愛すべし。葉、櫻桃(ゆすら)に似て、三角《みつかど》、有り。其の脂-液(しる)、木≪の≫中《うち》より流れ出で、滴り下《くだり》、膠飴(ぢわうせん)の狀《かたち》のごとし。久しくして、堅く凝《こ》り、乃《のち》、「竭《けつ》」と成る。赤くして、血の色を作《な》す。或いは、樹の下に於いて坎《あな》を掘りて、斧にて、其の樹を伐り、脂、坎より、流し、旬日にして、之れを取る。』≪と≫。

『之れ、試みるに、指甲(ゆびのつめ)に透る者を以つて、眞と爲《な》す。又、火を以つて、之れを燒くに、赤≪き≫汁、涌(わ)き出づること有り、久しくして、灰、本《もと》≪の≫色に變ぜざる者、眞と爲すなり。凡そ、使ふに、先づ、研《けん》して、粉に作《な》し、篩《ふる》ひ過《とほ》し、丸《ぐわん》・散《さん》に入れ、用ふ。若《も》し、衆藥と同≪じく≫擣《つく》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、化して、塵《ちり》と作《なり》て、飛ぶなり。』≪と≫。

『氣味【甘、鹹。】 心腹≪の≫卒痛《そつつう》・金瘡、血≪の≫出づるを、治す。積血《しやくけつ》を破り、痛を止め、肉を生《しやうじ》≪させしむ≫。血を和《わ》するの聖藥なり。乳香・没藥、血病《けつびやう》を主《つかさど》ると雖も、兼ねて、氣≪の≫分に入る≪とも≫、此れ、則ち、血≪の≫分に專《もつぱら》なる者なり。

△按ずるに、「麒麟血」は、柬埔寨(カボヂヤ)・咬𠺕吧(ヂヤガタラ)・暹羅(シヤム)、皆、之れを渡す。數品《すひん》有り。籜(たけのかは)を以つて、之れを包み、唐《もろこし》の粽(ちまき)のごとくなる故《ゆゑ》、「粽手《ちまきで》」と名づくるを、上と爲す。粉と爲して正赤なる者、良し。今、之れを試みるに、所謂《いはゆ》る、「指-甲(≪ゆびの≫つめ)に透《すきとほ》る者」≪も≫、亦た、「之れを燒≪きたる≫灰≪の≫、赤く、本《もと》≪の≫色≪と≫變ぜざる者、未だ之れを見ず。

 

[やぶちゃん注:「麒麟竭」「麒麟血」とは、熱帯地方に産する、「龍血樹」と呼ぶ、

単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科トウ連トウ亜連トウ属キリンケツヤシ(中文学名:麒麟竭)Calamus draco 及び、その近縁種の幹などから採取される紅色の樹脂

を狭義には指す。止血剤・着色剤・防食剤に用いられる。「維基百科」の「血竭」の画像がその鮮烈な色をよく伝える。英文ウィキの「Calamus dracoには、Calamus draco Willd. のシノニムとして、

Calamus draconis Oken

Daemonorops draco (Willd.) Blume

Daemonorops rubra (Reinw. ex Blume) Mart.

Palmijuncus draco (Willd.) Kuntze

を掲げ、以下、簡潔に、『 Calamus draco はヤシ科Arecaceaeのアジア産の蔓性の籐(とう)植物ラタン(Rattan)の一種で、原産地はタイ半島からマレーシア西部。「龍の血」として知られる赤色の樹脂の原料で、薬用色素として使用される』。『Calamus draco は、茎が房状に集まって、十五メートルまで伸びる茎(一般の「籐」に相当する)を形成し、鞘の直径は三センチメートルに達する。葉身はスィアレイト(cirrate:巻髭(まきひげ)。但し、籐の葉では先端が硬い鉤爪状に装備している)で、葉鞘から生じる。葉鞘は明るい緑色で、若い個体はチョコレート色の被毛を持つ。葉柄(最大三十センチメートル、長さ六ミリメートルの短い側刺群を装備する)を含めると、長さは二・五メートルに達する。スィアレイトの総体であるスィーラス(cirrus)は約一メートルに達する。約 二十枚の小葉が、複葉の主茎の両側に規則的に並んでいる。成熟した果実は、多かれ少なかれ、卵形で、二・八~二センチメートルで、十六列の垂直な鱗片葉で覆われるが、時に「龍の血」で、ひどく覆われている場合がある』といった解説がある。学名のグーグル画像をリンクさせておく。

 さて、日本語版のウィキでは「竜血」が該当するが、そこでは、細述されているものの、あらゆる情報をテンコ盛りし過ぎて、私のダラダラ注同様に迂遠な解説になってしまっている。まあ、しかし、外来の奇品にして稀品であり、「龍血」と呼ばれて珍重された、上記の基原とされるCalamus draco とは全く異なるものが、本邦に知られ、渡来もしたであろうからして、これも、全文を引かざるを得ない。『竜血(りゅうけつ)とは、古来洋の東西を問わず、貴重品として取り引きされ、薬用やさまざまな用途に用いられてきた、赤みを帯びた固形物質のこと』を指すが、『とはいえ、実際にはさまざまな名称あり、それらが複数の物質を指すために使われてきている。この事情がやや錯綜しており、項目をいくつかに分割するのも難しい。 複数の物質とは、おもに以下の通り』として、四つの全くことなる基原植物、及び、植物ではない物質が掲げられてある(そこは引用二重括弧を外した)。

1.リュウゼツラン科ドラセナ属に属するいわゆる“竜血樹”、すなわち Dracaena cinnabari Dracaena draco などから採れる樹脂のこと。

2.東南アジア系の“竜血樹”、Dracaena cochinchinensisDracaena cambodiana などからとれる樹脂のこと。

3.ボルネオ島、スマトラ島などで採れる籐の一種、ヤシ科ヒメトウ属(キリンケツ属)・キリンケツヤシ( Daemonorops draco ) の果実を加工したもの。現地名は jernang(ジュルナン)。

4.鉱物の一種・辰砂、英名 cinnabar。

以下、『呼称については下の解説の中でふれることとするが、呼称に言及するときにも呼称がないと不便なので、ある種のメタ呼称として“竜血”の語を用いることとする』と前置きして、「西洋における“竜血”」の大項目で、『紅海の入り口の東、インド洋の西端に浮かぶソコトラ島は、遅くともプトレマイオスの時代には、古代世界の重要な貿易中継地であった。島は乾燥した岩山ばかりで農業はほとんど成り立たなかったが、唯一とも言える特産品であったのが、世界中でも同島にしか育たないベニイロリュウケツジュ( Dracaena cinnabari )から採れる竜血であった』。紀元一『世紀のペリプルス』の「エリュトゥラー海案内記」にも、『同島の特産品として記載が見える』。十五『世紀には、大西洋・カナリア諸島に赴きリュウケツジュ( Dracaena draco )の竜血を入手した者たちがいたという』。『これら』二『種の“竜血樹”はアフリカをはさんで東と西に遠く離れて分布しているが、同じドラセナ属に属する近縁種である。ほかにも類似の種が各地に分布している』。『こうした“竜血樹”の樹皮を傷つけると』、『滲みだしてくる』が、その『血のような色をした樹脂を集め、乾燥させてドロップ状にしたものがいわゆる“竜血”であり、アラビア、インド、ギリシアなどの商人の手によって各地に流通してきた』。『“竜血”の呼称としては、「竜の血」系の名(ラテン語: sanguis draconis、英語: dragon's blood)と「シナバル」系の名(古代ギリシア語』。『ラテン語: cinnabaris、英語: cinnabar)とがあったが、どちらの系統の名も、“竜血樹の竜血”以外に辰砂をも意味したという点には注意が必要である。古くは両者は同じ物質として扱われ、たびたび混同されたという』。『なお、現在の英語では“竜血樹の竜血”は dragon's blood、“辰砂”は cinnabar と呼ぶのが一般的である』。『古代ローマ時代から鎮痛効果や止血のための薬品としても使用されたほか、中世期には染料やラッカーとして用いられ、『赤い金』ともてはやされた時代もあったという』。『傷の手当てなどに外用することもあり、また内服でも用いた』。『ペダニウス・ディオスコリデスの著作にも薬用品としての記述が見られ』、『ソコトラ島』(イエメンのソコトラ県に属するインド洋上の島。ここ。グーグル・マップ・データ)『の地元民は一種の万能薬として竜血を使用するという』。『家具、バイオリンなどの製作において、仕上げ用のワニスに赤みを加える目的で用いられることがあ』り、『化学染料以前の時代には赤インクの原料として使用された』。『その他』、『薫香に練り込んだり』、『ボディオイルなどに配合されることがあ』り、『中世には錬金術や魔術の用材としても用いられたという』。以下、「東洋における“竜血”」の大項目。『中国においては「血竭(xuějié; けっけつ)」「麒麟竭(qílínjié; きりんけつ)」などと呼ばれる“竜血”が古くから知られ、漢方にも用いられてきた』。『これらの中にソコトラ島産の“竜血”が含まれていたかどうかは不明だが、「』一九七二『年に中国国内で“竜血樹”が発見されるまでは、血竭の需要は東南アジアとアフリカからの輸入に頼っていた。アフリカではリュウゼツラン科植物の幹から血竭をとり』、二千『年以上の歴史がある」とする資料がネット上には見られる』。『現在は、Dracaena cochinchinensis(剣葉竜血樹; Cochinchina はベトナム南部を指す旧称)とDracaena cambodiana(海南竜血樹)の』二『種がおもに利用され、東南アジアや中国南部で血竭が生産されている』。『なお』、『上の資料とやや矛盾するようだが』(★☞)、「本草綱目」には『「騏驎竭」として記載があり、さまざまな資料を引いておおむね「松脂のような樹脂の流れてかたまったもの」としていて、これは“竜血樹の竜血”について解説していると見て間違いがないが、蘇頌』の「本草圖經」(十一世紀成立)『からの引用として』、『今南蕃諸國及廣州皆出之』と『する。しかし』、『同書にはまた』、『別資料からの引用として「此物出於西胡」ともある』(★☜)(★☞)『いずれにしても』、『現在の中国で漢方薬、民間薬、その他に利用される“麒麟竭”は、ドラセナ属とは全く別種の植物・キリンケツヤシ Daemonorops draco の実から精製したものが最も多い。 ちなみに、ドラセナ属由来のものとキリンケツヤシ由来のものとを混同しているような様子は全く見られないのだが、とはいえ』、『両者を区別して用いることはあまり行われていないようである』(★☜)とある。この部分は、本「和漢三才圖會」の「麒麟竭」を理解する上で重要な示唆と言え、また、以下の『「到福」の紅紙』と題する一節も重要である。特異的に太字にした)。「本草綱目」に『よれば』、『“騏驎竭”の主治は「心腹卒痛,金瘡血出,破積血,止痛生肉,去五臟邪気」。“活血の聖薬”であるという。 おもな方剤には七厘散(しちりんさん)などがある』。『また』、『民間薬としては創傷、打撲、皮膚癬などに外用することもある』。『その他、西洋の竜血と同様に塗料や着色の用途にも用いられる。春節や慶時に使う紅紙(hóngzhǐ; ホンチー)の着色にも用いるという』とあった。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「騏驎竭」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-54a]から始まる「集解」以下の部分引用だが、同サイトでは珍しく、表示不能の漢字がごっそりある。但し、これは、そこの影印本画像を見れば、イッパツで判る通り、殆んどが「紫『緋』樹」の「緋」の異体字(崩し字の一種)に過ぎない。(つくり)の部分が「非」の「グリフウィキ」のこれに酷似しているから、間違いない。

「廣州」現在の広西省・広東省。

「婆娑」原義は「舞う人の衣服の袖が、しどけなく、美しく翻るさま。」で、他に「影などが乱れ動くさま」「樹竹の葉などに雨や風があたってガサガサと音がするさま」を言う。ハイブリッドにとってよかろう。英文サイト“Heaven & Nature Store”の“Dragon’s Blood   Calamus draco の同種の全景の樹形を見ると、実にしっくりくる姿であると、私は思う。

「櫻桃(ゆすら)」これは、時珍の記載であるから、

双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属カラミザクラ(唐実桜) Cerasus pseudo-cerasus の中文名

である。当該ウィキによれば、『名の通り、中国原産であり、実は食用になる。別名としてシナミザクラ』『(支那実桜)』、『シナノミザクラ』、『中国桜桃などの名前を持つ。おしべが長い。中国では櫻桃』(☜)『と呼ばれる』。『日本へは明治時代に中国から渡来した』。『実は食用になることが知られている。大きさは』一。五センチメートル『程度であり、始めは緑色で徐々に黄色を経て』、『赤く熟する。セイヨウミザクラ』(サクラ属サクラ亜属セイヨウミザクラ Prunus avium )『よりも小粒のサクランボで美味である』が、『現在、食用種としてはセイヨウミザクラが使われることが多い。佐藤錦などの種もセイヨウミザクラを改良したものである。これはカラミザクラは』、『若干』、『酸味が強いためである』とあった。しかし、実は、食用果実として「さくらんぼ」(同系統の原産地はトルコとされる)を日本人が食すようになったのは、

明治元年、プロイセンの貿易商ライノルト・ガルトネル(Gaertner, R.)が渡島国七重村(現在の北海道七飯町)に農場を開き、果樹栽培をはじめ、本格的西洋農業を試みた折、日本に初めて「さくらんぼ」を導入してから

であって、

江戸時代の日本人は、所謂、現行の「さくらんぼ」を食べたことはない

のである。されば、良安は、この「本草綱目」中の『櫻桃』を、別名でこの名で示される、中国北西部・朝鮮半島・モンゴル高原原産で、本邦には江戸初期に渡来し、主に庭木として栽培されていた、果実が薄甘く、酸味が少ない、今の「さくらんぼ」に似た味がするところの、

サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa

と認識していたことに注意しなければならないのである。

「膠飴(ぢわうせん)」東洋文庫後注に、『地黄(薬草)を煎じた汁を加えて作った飴。地黄煎飴。水飴状で杉箸につけて売った』とある。この「地黄」は、キク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科 アカヤジオウ属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa の根を陰干ししたもの。同種は、日本には奈良時代に薬用目的で持ち込まれた。古名を「サオヒメ」といい、中国原産で淡紅紫色の美しい花をつける。内服薬としては補血・強壮・止血の作用が期待され、外用では腫れものの熱をとり、肉芽形成作用を持つとする。

「竭《けつ》」この字には「枯れる」の意がある。水分が失われて、枯れひねこびたような個体の塊となることを言っている。

「指甲(ゆびのつめ)に透る者を以つて、眞と爲す」この真贋の識別法は面白い。指の爪は言うまでもないが、皮膚が変化して硬くなったものである。されば、麒麟竭の真正品は人間の皮膚に容易に浸透するのだ。肌に附けてためしたのでは、肌に、このドギつい紅色が附いて落ちなくなるから、爪に僅かに附け、直ぐに拭き取っても、浸潤して消えない。されば、直ぐに爪の表面を削ればいいのである。

「心腹≪の≫卒痛《そつつう》」東洋文庫訳では、「卒痛」にルビして、『とつぜんのいたみ』とする。

『今、之れを試みるに、所謂《いはゆ》る、「指-甲(≪ゆびの≫つめ)に透《すきとほ》る者」≪も≫、亦た、「之れを燒≪きたる≫灰≪の≫、赤く、本《もと》≪の≫色≪と≫變ぜざる者、未だ之れを見ず』う~ん、ちゅうことはですよ、……良安先生……お持ちの「麒麟血」は……本物じゃあ、ない、つーことではありんせんか?……

2024/06/05

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(12)

 

   朝顏よ一番馬の鈴の音 北 空

 

 今の電車にしろ、バスにしろ、始發と終發の時間は大體きまつてゐるから、昔の馬にもさういふ定めがあつたものと思はれる。其角の「それよりして夜明烏や時鳥」といふ句が「己が光」には「夜明の馬や」となつており、馬としても解釋出來ぬことは無い、といふことは已に述べた。若しきまつて夜明に出る馬があれば、恐らく一番馬の名に値するのであらう。

 朝顏の花が咲いてゐる。しづかにその花に對してゐると、一番馬の通る鈴が聞えて來る。「驛路の朝顏」とでもいふべき題材である。明方の爽涼の氣と、朝顏の花と、高い鈴の音と相俟つて三重奏の觀を呈してゐる。

[やぶちゃん注:其角の句のそれは、『「夏」(9)』の、里東の「ほとゝぎす月夜烏の跡や先」の解説を指す。]

 

   稻づまや扇ひろげてたゝむ間 千 甫

 

 倏忽[やぶちゃん注:「しゆくこつ」。]時間がきわめて短いさま。現代仮名遣は「しゅっこつ」。]の感じである。

 扇をひろげてたゝむ、その短い間にさつと稻妻がさす。ひろげた扇をパチリとたゝむ。その感じと稻妻の走る光とが句の上で一になつてゐる。

 配合の句と云へばそれまでであるが、所謂配合以上に或感じを捉へ得てゐるやうに思ふ。

[やぶちゃん注:句の「間」の読みは「あひ」であろう。]

 

   乘かけの荷をしめ直す野分かな 冬 稚

 

「乘かけ」といふのは乘掛馬のこと、本馬ならば三十六貫の荷を負わせるところを、荷を二十貫に減じ、一人これに乘るの謂である。

 さういふ支度で出かけたが、あまり野分[やぶちゃん注:「のわき」。]が吹きまくるので、途中で馬の荷を締め直す。必ずしも野分によつて吹飛されるわけではないにしても、著けた荷を途中で締め直すところに、野分らしい或不安が現れてゐる。

 昔の旅の心細さといふものは、今日からは十分に想像出來ない。馬背に跨つて野分に吹かれ行く旅人の樣子も、吾々の腦裏には動も[やぶちゃん注:「ややも」。]すれば畫裡の眺の如く映ずる。「荷をしめ直す」の一語は、旅の實感から生れたところに、云ふべからざる强味があるのである。

[やぶちゃん注:「本馬」(ほんま)は、江戸時代の宿場に置いた駄馬の一つの呼称。「一駄(だ)」として定められていた積荷量が四十貫(百五十キログラム)又は三十六貫(百三十五キログラム)の伝馬を指す。別に「からじり(うま)・からしり(うま)」(「輕尻・空尻」)がおり、こちらは、人を乗せる場合、手荷物を五貫目(十八・七五キロ)まで、人を乗せない場合は本馬の半分にあたる二十貫目(七十五キログラム)まで荷物を積むことが出来た。]

 

   溜り江や野分のあとの赤とんぼう 從 吾

 

「溜り江」といふ言葉はいさゝか耳慣れぬようであるが、水のあまり動かぬ、ぢつと湛へてゐる場所らしく想像される。荒れに荒れた野分がやんで、しづかな水の上に赤蜻蛉が飛んでゐるといふのである。

 この「溜り江」なる水はさう深くもないし、且淸澄なものとも思はれぬ。蘆葦[やぶちゃん注:「ろゐ」。]のたぐひでも生えてゐるやうなところであらうか、そこに弱々しい赤蜻蛉の飛んでゐる趣は、野分のあとの空氣に極めてよく調和してゐる。平凡に似て平凡ではない。下五字は「赤とんぼう」と延さずに「赤とんぼ」と詰つた方がいゝやうであるが、或は字でかう書いても、發音する場合には詰るのかもわからない。

 

   谷中は私(わたくし)風に鳴子かな ウ 白

 

「私雨」といふ言葉がある。或場所に限つて降る雨の意らしい。芭蕉に「梅雨ばれの私雨や雲ちぎれ」といふ句があり、西鶴も「偖も此所の私雨、戀をふらすかと袖ぬれて行ば」(三代男)「軒端はもろもろのかづらはひかゝりてをのづからの滴こゝのわたくし雨とや申すべき」(五人女)などと使つてゐる。更に後世になつても「あやしさの私雨や初紅葉」といふ嘯山の句、「箱根山關もる人も朝ぎりのわたくし雨にあざむかれつゝ」といふ景樹の歌など、之を踏襲したものがある。そこばかり降るのを「私雨」と稱するのは、誰の創意に成る言葉か知らぬが、含蓄があつて面白い。

 已に私雨といふ言葉が通用する以上、私風もあつて差支無さゝうである。外は風が吹くとも見えぬのに、こゝの谷間だけ風が吹いて、谷田の鳴子がガラガラ鳴る。「私風」といふ言葉には、妖氣といふほどではないけれども、多少怪しい感じが伴つてゐるやうな氣がする。

 私雨といふ言葉から出發して、新に私風といふ言葉を造つたのか、地方的にかういふ言葉があつたものか、その邊の穿鑿は不案內である。いづれにしてもこの語を用ゐずに、これだけの感じを現すことは困難であらう。

[やぶちゃん注:「私雨」小学館「日本国語大辞典」に、『限られらた区域にだけ降るにわか雨。特に、有馬、鈴鹿、箱根などの山地の者が知られている』とあり、俳諧撰集「唐人躍」(野々口立圃(りゅうほ)の門弟井上友貞延宝五(一六七七)年に刊したもの)の國信の句、

 もみじぬはわたくし雨よ松の聲

が例示されている。「わたくしかぜ」は同辞典には載らなかったが、登録しているG&Aサイト「Qura」のここで見つけた。『愛媛県では、いくつかの特徴的な強風(局地風)が見られます。このうち、宇和島市付近でみられる局地風に「わたくし風」というものがありますが、質問者の意図とは合致していないでしょうね』と謙遜しておられるが、『風は地形の影響を強く受けるため、地形の複雑な愛媛県では地域による差が大きく、東予東部の「やまじ風」、肱川河口付近の「肱川[やぶちゃん注:「ひじかわ」。]あらし」などと言われる局地風があります』とあり、さらに、「松山地方気象台」の二〇二四年五月の「気象と気象用語」というリーフレットPDF)にも、『【気象用語】「愛媛県の局地風」について』の中に、

   *

   わたくし風

 宇和島市では、低気圧等が四国の南岸を進むときに東よりの強風が吹くことがあります。この強風を地元では「わたくし風」「深山おろし」「大風」「宇和島風」と呼んでいるようですが、ここでは「わたくし風」とします。

 「わたくし風」は低気圧等が四国の南岸を進むとき、高知県側から東よりの風が鬼が城山系を吹きおろす強風で、農作物等に被害が発生することがあります(第2 図)。「わたくし風」もおろし風で強風とともに気温の上昇が見られます。

   *

とあった。「わたくし風」もあったと私は考える。

『芭蕉に「梅雨ばれの私雨や雲ちぎれ」といふ句があり』残念ながら、現在は芭蕉の句として正しくは認定されていない。所持する中村俊定校注「芭蕉俳句集」(一九七〇年岩波文庫刊)に「存疑の部」で見出した。「もとの水」に、

   *

  しなのの洗馬(せば)

 つゆばれのわたくし雨や雲ちぢれ

   *

とあり、他に「袖日記」・「芭蕉翁句解參考」(前書を『木曾路にて』とする。)・「俳諧一葉集」(作を貞享・元禄年中とする)に載る。

『西鶴も「偖も此所の私雨、戀をふらすかと袖ぬれて行ば」(三代男)「軒端はもろもろのかづらはひかゝりてをのづからの滴こゝのわたくし雨とや申すべき」(五人女)などと使つてゐる』国立国会図書館デジタルコレクションの『西鶴全集』「下卷」 (明治二七(一八九四)年帝国文庫刊)のここで前者が(右ページの「●戀は癒(なほ)らでいなの酒呑」の二行目下方から)、後者が、同「上卷」のここ(左ページ八行目中央。「●衆道(しゆだう)兩の手に散花(ちるはな)」の一節)で視認出来る。

『「あやしさの私雨や初紅葉」といふ嘯山の句』この句は確認は出来た。作者は儒者で俳人であった三宅嘯山(みやけしょうざん 享保三(一七一八)年~享和元(一八〇一)年)。本名は芳隆。三宅観瀾の一族で、京の質商。望月宋屋(そうおく)に俳諧を学び。炭太祇・与謝蕪村らと交わり、「俳諧古選」などの評論で、元禄期への復帰を唱えた京俳壇の重鎮であった。漢詩にも優れ、「嘯山詩集」を残し、中国近世の白話小説にも通じた。

『「箱根山關もる人も朝ぎりのわたくし雨にあざむかれつゝ」といふ景樹の歌』江戸後期の歌人桂園派の開祖香川景樹(かがわかげき 明和五(一七六八)年~天保一四(一八四三)年)の一首。国立国会図書館デジタルコレクションで確認は出来た。]

甲子夜話卷之八 25 町奉行依田豐前守、水戶邸の出火に馳入る事

8-25

 先に依田豐前守が事を記したるに、此頃(このごろ)又、一事を聞(きけ)り。

 豐州、町奉行勤役のとき、水戶邸、自火ありしかば、出馬して、町人足の集りたるを指麾(しき)して、門に入(いら)んとしけるに、水府の人、出(いで)て、

「火は、手勢にて、消し候へば、暫く、猶予し玉はるべし。」

と申(まうし)ける。

 そのとき、豐州、色を正しくし、詞(ことば)を改めて、

「彌(いよいよ)、御手勢にて消留(けしとめ)られ候はゞ、是に扣(ひか)へ候半(さふらはん)。もし、左無(さな)きときは、御定法(ごぢやうはふ)の通り、人數(にんず)をかけ候。」

とぞ申ける。

 其中(そのうち)に、火勢、次第に盛(さかん)に成行(なりゆき)しかば、豐州、馬上に立揚(たちあが)りて、

「水戶殿にもせよ、火を出(いだ)したが、わるひ[やぶちゃん注:ママ。]ぞ。かゝれ、かゝれ。」

と云(いひ)ながら、馬に、鞭打(むちうつ)て、門內に馳入(はせいり)ければ、續ひ[やぶちゃん注:ママ。]て、

「ゑい、ゑい。」

聲を出(いだ)して、百千の町人足、一度に、

「どつ」

と走り込(こみ)、遂に其手(そのて)にて、火を消留し、となり。

■やぶちゃんの呟き

「町奉行依田豐前守」「先に依田豐前守が事を記したる」とあるのは、「甲子夜話卷之六 11 御留守居役依田豐前守の事蹟 / 12 同」のこと。そちらで、江戸中期の旗本依田政次(元禄一六(一七〇三)年~天明三(一七八三)年)の事績を詳細に注してあるので見られたい。因みに、彼は宝暦三(一七五三)年に北町奉行に就任、明和六(一七六九)年まで務めている。この火事の日時は、調べてみたが、判らなかった。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 没藥

 

Motuyaku

 

もつやく  末藥

       女伊羅【蠻語】

没藥

 

 

本綱没藥生波斯國今海南諸國及廣州或有之樹髙大

如松葉青而宻歳久者則有脂液流滴在地下凝結成塊

大小不定黑色似安息香又云皮厚一二寸采時掘樹下

爲坎用斧伐其皮脂流於坎旬餘方取之

沒藥【苦】 治金瘡諸惡瘡痔漏凡乳香活血没藥散血皆

 能止痛消腫生肌故二藥毎毎相兼而用

△按乳香沒藥外科要藥也阿蘭陀流膏藥婆之利古牟

 用止痛消腫以乳香沒藥松脂蠟麻油煉成【各分量有口傳】

 本草必讀云戲術酒滿過盞空盞先以沒藥抹杯弦斟

 酒髙一二分流不出

 

   *

 

もつやく  末藥《まつやく》

       女伊羅(メイラ)【蠻語。】

没藥

 

 

「本綱」に曰はく、『没藥は、波斯(ペルシヤ)國に生ず。今、海南の諸國、及び、廣州にも或いは、之れ、有り。樹、髙大にして、松のごとし。葉、青くして、宻《みつ》なり。歳久《としひさし》き者には、則ち、脂(やに)≪の≫液、有り、流れ滴(したゝ)り、地下に在り、凝結して塊《かたまり》を成す。大小、定まらず、黑色、「安息香」に似《にた》り。又、云ふ、『皮の厚さ、一、二寸。采る時、樹下を掘り、坎《あな》を爲《な》し、斧を用ひて、其の皮を伐り≪→ると≫、脂、坎に流る。』≪と≫。『旬餘にして、方《まさ》に之れを取る。』≪と≫。』≪と≫。

『沒藥【苦。】 金瘡・諸惡瘡・痔漏を治す。凡そ、「乳香」は、血を活《いか》し、「没藥」は、血を散《さん》ず。皆、能く、痛みを止め、腫≪れ≫を消し、肌を生す。故に、二藥、毎毎《つねづね》、相ひ兼ねて、用ゆ。』≪と≫。

△按ずるに、「乳香」・「沒藥」は、外科の要藥なり。阿蘭陀流《オランダりう》膏藥「婆之利古牟(バジリコン)」に用ひて、痛みを止め、腫れを消す。以つて、「乳香」・「沒藥」・「松脂」・「蠟」・「麻油《あさあぶら》」を煉り、成《せいす》【各分量、口傳《くでん》有り。】。「本草必讀」に云はく、『戲(たはふ)れの術に、酒、盞《さかづき》に滿過《みちすぐ》す《✕→(みちすぐ)ざるには》、空《から》盞に、先づ、沒藥の抹を以つて、杯《さかづき》≪の≫弦《つる》[やぶちゃん注:盃の縁(ふち)の(半)円形部分。]≪に塗り≫、酒を斟《くめば》、髙さ、一、二分、流して《✕→流し入れども》、出でず。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「没藥」(もつやく)とは、

ムクロジ目カンラン科ミルラノキ(コンミフォラ)属 Commiphora abyssinica (の系統(変種・雑種・品種?)という記載もあり、Commiphora kua のシノニム( Commiphora habessinica とも)ともあって、学名は混乱がある)、或いは、同属の各種樹木から分泌される赤褐を呈した植物性ゴム樹脂

を指す。当該ウィキによれば、『古くから香として焚いて使用されていた記録が残されている。また、殺菌作用を持つことが知られており、鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていた』。『古代エジプトにおいて、日没の際に焚かれていた香であるキフィの調合には』、『没薬が使用されていたと考えられている。また、ミイラ作りに遺体の防腐処理のために使用されていた。ミイラの語源はミルラから来ているという説がある』。以下は既に「乳香」の注でも述べたが、『聖書にも没薬の記載が多く見られ』、「出エジプト記」には『聖所を清めるための香の調合に没薬が見られる。東方の三博士がイエス・キリストに捧げた』三『つの贈り物の中にも没薬がある。没薬は医師が薬として使用していたことから、これは救世主を象徴しているとされる。また、イエス・キリストの埋葬の場面でも』、『遺体とともに没薬を含む香料が埋葬されたことが記されている』。『東洋においては』、『線香や抹香の調合に粉砕したものが使用されていた』と記す。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「沒藥独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-52b]から始まる「集解」の部分引用だが、一つ、不審がある。最後の『旬餘方取之』の部分で、これは「沒藥」の記載には認められない。そこで調べてみたところ、これは、独立項の、本底本では次の項である「卷三十四」の「木之一」「香木類」の独立項「騏驎竭」(同ガイド・ナンバー[083-54a]から始まる)の「集解」中に(読み易くするために、推定で句読点その他を入れた)

   *

「一統志」云、『血竭樹、畧如沒藥樹、其肌赤色、采法亦、於樹下掘坎、斧伐其樹、脂流於坎、旬日取之。』(以下略)

   *

にある記載と、ほぼ一致するのである。但し、これは、良安が誤って混入させてしまったものではなく、「采法亦」とあるから、フライングして、挿入したものと推定された。

「海南の諸國」これは、現在の中国の海南省ではなく、中国より以南の、非常な広域の南アジアの諸国を指している。

「廣州」現在の中国の広西省・広東省。

「安息香」ツツジ目エゴノキ科エゴノキ属のアンソクコウノキStyrax benzoin、またはその他同属植物が産出する樹脂で、それらの樹木の幹に傷をつけ、そこから滲み出た樹液の固化した樹脂として採集する。主要な成分は芳香族カルボン酸とそのエステルで、古くから香料として利用されてきた。本書では、次の次の項である。

「旬餘」十日余り。

「痔漏」「痔瘻」が正しい。所謂「穴痔」(あなじ)で、急性或いは慢性肛門周囲炎が自壊し、肛門部・肛門周囲皮膚、或いは、直腸粘膜に瘻孔を形成し、膿汁などを出す疾患を指す。安静にしにくく、糞便で汚れる部位であることなどのため、治りにくく、外科的処置を要する。結核性のものは現在では、殆んど見られない。

『阿蘭陀流膏藥「婆之利古牟(バジリコン)」』(ポルトガル語:basilicão)は 蘭方薬の一種。オリーブ油・黄蝋・松脂・チャン(瀝青:この場合は植物から分泌される透明な「樹脂」=レジン(resin)を指す)などから製した、吸出し膏薬。「バジリ」「バジリ膏」とも言った。

「本草必讀」東洋文庫の巻末の「書名注」に、『「本草綱目必読」か。清の林起竜撰』とある。なお、別に「本草綱目類纂必讀」という同じく清の何鎮撰のものもある。この二種の本は中文でもネット上には見当たらないので、確認出来ない。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 薰陸香

 

Kunrokukou

 

くんろく

 

薰陸香

 

 

本綱薫陸香乳香爲一物以如乳頭者爲乳香主治亦似

而異

薰陸【微温】 治風水毒腫去惡氣伏尸癮𤺋毒

△按今多乳香用唐藥薫陸用倭藥而倭薫陸出於奧州

 南部山中堀地取之松津液乎盛夏則鎔融蚊蟻粘着

[やぶちゃん注:「堀」はママ。近世・近代の小説等でも、この「掘」の誤用はしばしば見られる。訓読では、躓くだけなので、正字にした。]

 者多只合香家多用之入藥用者希也

 

   *

 

くんろく

 

薰陸香

 

 

「本綱」に曰はく、『薫陸香、乳香と一物と爲《な》す、乳頭(ちくび)のごときなる者を、以つて「乳香」と爲す。主治も亦、似れども、異《い》なり。』≪と≫。

『薰陸【微、温。】 風水毒腫を治し、惡氣伏尸《あくきぶくし》・癮𤺋《いんしん》・癢毒《やうどく》を去る。』≪と≫。

△按ずるに、今、多く、「乳香」は唐藥《たうやく》を用ひ、「薫陸」は倭藥《わやく》を用ふ。而して、倭の「薫陸」は、奧州南部の山中より出づ。地を掘り、之れを取る。松の津-液(しる)か。盛夏には、則ち、鎔(わ)き融(どろけ)て、蚊・蟻、粘(ねば)り着く者、多し。只《ただ》、「合香家(かうぐや)」に、多く、之れを用ふ。藥用に入るる者は、希《まれ》なり。

 

[やぶちゃん注:「薫陸」(「ろく」は呉音。「くんりく」と読んでも構わない)は、インドの大部分と、パキスタンに広がるパンジャブ地方の乾燥高地に自生している、

ムクロジ目カンラン科ボスウェリア属ボスウェリア・セラータ Boswellia Serrata の樹脂が固まって石のようになったもの

で、英文の基原植物のウィキによれば、本種は『現在、絶滅の危機に瀕している』とし、『同種はβ-ボスウェリア酸・アセチル-β-ボスウェリア酸・11-ケト-β-ボスウェリア酸・アセチル-11-ケト-β-ボスウェリア酸等の、ボスウェリア酸(Boswellic acid)のさまざまな誘導体を含』んでおり、この成分は『変形性関節症と、関節機能について臨床的に研究されており、研究によれば、関節痛と関節機能に対して有益な傾向(ちょっとした改善性)がある』といった内容が記されてある。その「薫陸香」はインド産の広義の「乳香」(前項参照)であり、「香老舗林 龍昇堂」のこちらで、画像が見られ、そこに『黄褐色または暗褐色をしており、琥珀に大変似ているが』、『成分は異なる』とあり、『主に香料や薬剤として使用されている』とある。「ろく」は「陸」の呉音で、小学館「日本国語大辞典」には、第一義に『インド、イランなどに産する樹のやにの一種。盛夏に、砂上に流れ出て、固まって石のようになったもの。香料、薬用となる。乳頭状のものは、乳香という。くろく。なんばんまつやに。薫陸香(くんろっこう)』とし、第二義に、所謂、「和の薫陸」として、『松、杉の樹脂が、地中に埋もれ固まってできた化石。琥珀(こはく)に似るが、琥珀酸を含まない。粉末にして薫香とする。岩手県久慈市に産する』とある。本底本では、次項が「薰陸香」である。①の本邦の初出例は九二七年の「延喜式」とする。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「薫陸香」の合体した独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-48b]から始まる、長い記載のごく一部を拾ったパッチワークである。直にこの記事に来られた方は、まず、前項の「乳香」を先に読まれたい。その最後で、良安が、「本草綱目」の纏めて書かれた香類(こうるい)を、独自に各条に独立させ、解説をする旨の断り書きがあるからである。

「風水毒腫」この「風水」は広義の思想としてのそれ(中国の伝統的な自然観の一つ。都市や住宅・墳墓などを造る際、地勢・方位・地脈・陰陽の気などを考え、そこに生きる者と、そこで死んだ者総てに、よりよい自然環境を求めようとするもの)ではなく、疾患としての「関節水腫」を指す語である。「毒腫」は分離させずに読み、それに屋上屋で添えたものであろう。

「惡氣伏尸」東洋文庫訳では割注して、『(死骸から発する悪気)』とする。

「癮𤺋《いんしん》」同前で『(じんましん)』(蕁麻疹)とする。

「癢毒《やうどく》」同前で『(皮膚がかゆくなる症)』とする。広義の皮膚の搔痒症状を指すということであろう。

「奧州南部」南部藩=盛岡藩。陸奥国北部(明治以降の陸中国及び陸奥国東部)、現在の岩手県中部を地盤として青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた南部氏の藩。藩域は、複雑で、正確に示すのが困難なので、岩手県文化スポーツ部文化振興課文化芸術担当の作製になるサイト「いわての文化情報大事典」の「盛岡藩と八戸藩」にある、冒頭の図がよい。

「津-液(しる)」漢方のヒトに用いる語を漢方基原植物に対して擬人表現したもの。ウィキの「津液」によれば、『津液(しんえき)は、津(陽性の水分、清んで粘り気がなく、主として体表を潤し、体温調節に関与し、汗や尿となって体外へ排泄される)と液(陰性の水分、粘り気があり体内をゆっくりと流れるもので、骨や髄を潤す。体表部では目、鼻、口などの粘膜や皮膚に潤いを与える)で構成される体内の水分の総称である。源は飲食物で、胃や腸に入って水様のものが分離されて作られる。別名、陰津、水液、水津、水湿とも呼ばれる』。『脾胃(中焦)、肺(上焦)、腎・膀胱(下焦)と関係が深く、脾胃は水穀から津液を分離して脾の働きでこれを上部の肺へ送り、肺は胃から送られた津液を全身へ布散し、腎は全身に輸布された津液を管理して、不用のものを膀胱に貯めて尿として排泄する』とある、それである。

「融(どろけ)て」「とろけ」ではなく、この「ど」は珍しく、原本に、ちゃんと『ド』と濁点を打ってある。]

2024/06/04

甲子夜話卷之八 24 淇園先生勇氣ある事

8-24

 淇園(きえん)先生は沈勇なる人なり。

 一日、門生と與(とも)に祇園の二軒茶屋に遊ぶ。こゝは西都群會の地ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、諸人、皆、來て、宴飮す。

 時に一人、醉(ゑひ)に乘じて、刄(やいば)を拔(ぬき)て、狂するもの、あり。

 在る所の男女(なんによ)、駭怖(おどろきおそれ)て、亂走す。

 狂人、その茶屋に近づく。

 門生、言(いひ)て曰(いはく)、

「早く、避(さく)べし。」

 先生、盃(さかづき)を把(とり)て、動(うご)かず。

 門生、頻(しきり)に促(うなが)せども、自若たり。

 狂、已(すで)に前(まへ)に來(きた)り、刄を振(ふるひ)て、簷下(のきした)の挑燈(てうちん)を斫(き)る。

 燈(ともし)、三、四、中斷して、落つ。

 門生、堪(たへ)ず、先生の肩を執(とり)て引く。

 先生、嗤(わらひて)、曰(いはく)、

「すばらしきもの哉(かな)。」

とて、遂に起(た)たず。

 狂、遂に、人の爲に縛(ばく)せられて止(やみ)ぬ。

 後、門生、先生に言ふ。

「師、如ㇾ此(かくのごとき)とき、去(さら)ずして、若(もし)、かれが爲に害を受けば、都下の笑(わらひ)を惹(ひか)ん。

 先生、曰、

「否、天、あらずや。狂、それ、如予何(よをいかんせん)。」

と答たり、となり。

■やぶちゃんの呟き

「淇園先生」儒学者皆川淇園(みながわきえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)。「甲子夜話卷之一 12 大阪天川屋儀兵衞の事」で既出既注。

「天、あらずや。狂、それ、如予何。」「論語」の「述而第七」の二十二章に引っ掛けて応じたもの。

   *

 子曰、「天生德於予。桓魋其如予何。」。

(子、曰はく、「天、德を、予(われ)に生(しやう)ぜり。桓魋(くわんたい)、其れ、予(われ)を如何(いかん)せん。」と。)

   *

「桓魋」宋の大夫であった司馬(軍事長官)向魋(しょうたい)。紀元前四九二年、宋を訪ねた孔子を殺そうとした。当該ウィキを参照されたい。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(11)

 

   暮がたや次第次第にしろき菊 薄 芝

 

 幸田露伴博士の「心のあと」といふ長詩の中に「夜に入つてたゞ鶴白く、桃李隱れて梅殘る」といふ句があつた。これは「人やゝ老いて神を知り、世念失せて詩を思ふ」といふ句の前提として置かれたものだから、單なる敍景の句ではない。白い色のはつきり見える點から云へば、やはり日光の下が一番なのであるが、周圍がだんだん薄暗くなつて、外の色彩が次第に力を失ふに及び、白い色が最後まで殘つてゐる。「次第次第にしろき菊」はその感じを捉へたので、菊が白くなるのではない、夕闇が次第に濃くなつたのである。

 鳴雪翁に「灯ともせばたゞ白菊の白かりし」といふ句がある。闇中に燈を點じて、たゞ白菊の白きを見る方が印象も明であり、句としては巧であるが、次第に夕闇に沒する白菊の趣も棄て難い。元祿らしい自然なところがあるからであらう。

[やぶちゃん注:中七は「次第」の後に踊り字「〱」である。「々々」ではちょっと厭だから、かく、した。

「露伴」のそれは、国立国会図書館デジタルコレクションで原本である「心のあと」(幸田露伴(成行)著明三八(一九〇五)年一月春陽堂刊)のここで視認出来る。そこ(「第十七章」冒頭)では、

   *

 夜に入つて たゞ 鶴白く、

 桃李隱れて 梅殘る!。

 人や〻老いて 神を知り、

 世念(セイネン)失せて 詩を思ふ!

[やぶちゃん注:以下略。]

   *

となっている。因みに。「世念」は「せねん」と読むのが正しく、「俗世に執着する心」を意味する漢語である。

『鳴雪翁に「灯ともせばたゞ白菊の白かりし」といふ句がある』国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右ページ一行目)で確認出来た。]

 

   垣ごしや菊より出て長咄し 旦 藁

 

 俳畫的小景である。垣根の向うに菊が作つてあつて、そこに菊作りの主が居る。菊の中から現れたその人と、思はずそこで長咄をした、といふ意味らしい。

「菊より出て」といふ言葉は、見方によつて二樣に解せられる。「畠より出で來る菊の主かな」の句のやうに、菊の咲いてゐる中から出て來て話をした、といふ風にも見えるが、「春寒や砂より出でし松の幹」のやうに見ると、滿開の菊の中からぬつと姿を現した、といふやうにもなる。垣越の人とはいづれ前から識つてゐるのであらう。何でもない話がつい長くなつてしまつたので、必ずしも菊の奴[やぶちゃん注:「やつこ」。]たる主が得々として菊作りの苦心を語るといふが如く、菊に卽して考へる必要は無さそうに思ふ。最初に俳畫的小景と云つたのは、菊の中から姿を現した方の解釋である。嘗てどこかでさういふ畫を見たやうな氣がするほど、この趣は一幅の畫として感ぜられる。

「畠より出で來る」式な解釋にすると、それから垣根のところへ步み寄つて、長咄に移る段取になるのであるが、作者は「菊より出て」と云つたのみで、長咄をする人間の何者であるかを明にしないのだから、これ以上は各自の想像に任すより外はあるまい。吾々はやはり菊の中からぬつと現れて話す俳畫的小景に心を惹かれるのである。

[やぶちゃん注:「畠より出で來る菊の主かな」句の存在は国立国会図書館デジタルコレクションの検索で『国文学 解釈と鑑賞』の中で確認出来たが、遠隔複写サービスで申し込まないと見ることが出来ない。但し、その記事は「蕉門俳風の変遷」という記事の中にあるので、蕉門の誰かの句ではある。

「春寒や砂より出でし松の幹」高濱虛子の大正二(一九一三)年の句。]

 

   稻づまや晝寐のまゝの蚊帳の外 二 方

 

 晝寐の時に釣らせた蚊帳がそのまゝになつてゐる。晝寐の人は一度起きて外へ出たのか、そのまゝぐつすり寢込んで夜に入つたのか、そこはわからぬ。若し一度起きたにしても、この場合は又その蚊帳に入つてゐるのである。さういふ蚊帳の外に稻妻が閃々と射す。蚊帳の中の人は暢氣にそれを見てゐる、と云つたやうな情景が想像される。

 稻妻は秋の季になつてゐるが、夏にも無いことはない。蚊帳も晝寐も夏のものである。秋と夏との風物が交錯する初秋の空氣がよく現れてゐる。勿論雷を恐れて蚊帳に入つてゐるわけではない。

 

   大かたは踊おぼえぬふた廻り 一 莊

 

 はじめて踊に加つた場合らしい。唄につれ、人の拍子につれて、見やう見眞似で踊つて行く。踊の輪の二廻りも廻つた時分には、大方踊の手振もおぼえたといふのである。

 踊の句には局外から見たものが多い。「一廻り待つ人おそき踊かな 尙白」などといふ句は第三者として踊の輪の廻るのを見る一例であるが、一莊の句は自ら踊の輪の中にあつて、二廻りも廻つてゐるところに特色がある。二廻り廻つてやつと踊をおぼえるあたりは、さすがに元祿人らしく、悠々たる趣があつていゝ。

 

   秋風や葛屋はなれてひさご蔓 英 之

 

 葛屋のことは前に書いた。草葺屋根の家に絡んでいる瓢の蔓の末が、離れて虛空にある場合を捉へたものであらう。

 必ずしも秋風の爲に吹き離れたものと解釋しなくても差支無い。葛屋も、それに絡んだ瓢も、その蔓の末も、悉く秋風の中に在ると見ればいゝのである。

 

   日ぐらしの聲に沓はく鞠場かな 一 琴

 

 蹴鞠といふものはどういふ時間にやるものか、又どの位の時間やつてゐるものか、その邊の知識が無いからよくわからぬが、無識のまゝにこの句を解すると、蜩の聞える夕方になつて、そろそろ鞠でも蹴ようかといふ場合かと想像する。蜩も秋の季にはなつてゐるが、これは夏のうちから鳴いて居り、東京あたりでは普通の蟬より早く鳴きはじめる。從つてこの句は秋ではあつても、まだ暑い場合と解釋してよさゝうである。

 暑い日脚が斜になつて、そこらで蜩が鳴き出す。もう鞠場の日もかげつて涼しくなつたから、少し鞠でも蹴ようとして沓を穿く、といふ風に解せられる。若しこの蜩の聲がさういふ明るいふちのものでなくて、薄暮を現すものとすると、反對に鞠場を引上げることにしなければならぬが、「沓はく鞠場」といふ續き樣は、鞠を蹴るために沓を穿くものと見た方が自然のやうに思ふ。要はこの句に於ける蜩の鳴く時間と、沓を穿くことに對する解釋によつて、自ら句意が異るわけである。蹴鞠に就てもう少しはつきりした觀念を得たら、この解釋は或はもう一度出直さなければならぬかも知れない。

 

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 乳香

 

Nyuukou

 

にうかう   馬尾香 摩勒香

       多伽羅香【佛書】

乳香    天澤香

       蠻語【末須良以加

          又云末須天

          木須】

 

本綱乳香乃薰陸中似乳頭者總名爲薰陸香出於天竺

及大食國波斯國其樹類松以斤斫樹脂溢於外結而成

香聚而成塊圓大如乳頭透明者【名滴乳】爲上品以瓶收者

【爲乳塌】次之雜沙石者【爲黑塌】次之【今以楓脂雜之惟燒之可辨也】

乳香【苦辛微温】 香𮄒能入心經活血定痛故癰疽瘡瘍心腹

[やぶちゃん注:「𮄒」は「竄」の異体字。]

 痛要藥素問云諸痛癢瘡瘍皆屬心火是矣産科諸方

 多用之亦取其活血之効爾

 乳香至粘難碾用時以繒袋掛於窓𨻶間良久取研乃

 不粘入丸散微炒殺毒則不粘【古今醫統云研時口念玄胡索卽成末】

△按乳香樹雖似古松而花實有無未詳或謂波斯國松

 樹亦非也然乳香形色氣味與松脂不遠也且薫陸香

 乳香本是爲一物而氣色各別効用則稍異故立各條

 

   *

 

にうかう   馬尾香《ばびかう》 摩勒香《まろくかう》

       多伽羅香《たきやらかう》【佛書。】

乳香     天澤香《てんたくかう》

       蠻語【「末須良以加(マスライカ)」、

          又、云ふ、「末須天木須《マス

          テムス》」。】

 

「本綱」に曰はく、『乳香は、乃《すなはち》、「薰陸《くんろく》」の中《うち》、乳頭《ちくび》に似る者なり。總名を「薰陸香」と爲《な》す。天竺、及び、大食(たいし)國・波斯(パルシヤ)國に出づ。其の樹、松に類す。斤(てをの)を以つて、樹を斫(はつ)り、脂(やに)外に溢(あふ)れ、結して、香に成る。聚《あつま》りて塊(かたまり)と成る。圓大にして、乳頭のごとく、透-明(すきとを[やぶちゃん注:ママ。])る者【「滴乳」と名づく。】、上品と爲す。瓶を以つて、收《をさむ》る者【「乳塌《にうたう》」と爲す。】、之れに次ぐ。沙石の雜(ま)じる者【「黑塌」と爲す。】之れに次ぐ【今、楓《ふう》の脂(やに)を以つて、之れを雜《まぢ》ふ。惟《ただ》、之れを燒≪けば≫、辨ずべきなり。】。』≪と≫。

『乳香【苦辛、微温。】 香《かう》、𮄒(かく)れて、能く、心經《しんけい》に入り、血を活《かつ》し、痛みを定《をさ》むる。故、癰疽・瘡瘍《さうやう》・心腹痛の要藥なり。「素問」に云はく、「諸痛・癢《やう/かゆみ》・瘡瘍、皆、心火に屬す。」と云《いふ》[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、是れなり。産科の諸方、多く、之れを用《もちふ》るも、之れ亦、其の活血の効を取るのみ』≪と≫。

 『乳香、至つて粘(ねば)り、碾(をろ)し難し。用ふる時、繒袋(きぬ《ぶくろ》)を以つて、窓≪の≫𨻶《すき》の間《あひだ》に掛け、良《やや》久しくして、取り、研《おろす》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、乃《すなはち》、粘らず。丸《ぐわん》・散《さん》に入るるには、微《わづかに》炒りて、毒を殺す。則ち、粘らず。【「古今醫統」に云はく、「研す時、口に『玄胡索《げんごさく》。』を念≪ずれば≫、卽ち、末《まつ》と成る。」≪と≫。】≪と≫。

△按ずるに、乳香の樹、古≪き≫松に似たりと雖も、花・實の有無《うむ》、未だ詳らかならず。或いは、「波斯(パルシヤ)國の松の樹。」と謂≪ふも≫、亦、非なり。然るに、乳香、形・色・氣味、「松脂」と遠からざるなり。且つ、『「薫陸香」≪と≫「乳香」≪と≫は、本《も》と、是れ、一物たり。』と。而れども、氣《き》・色《いろ》、各《おのおの》、別≪にして≫、効用も、則ち、稍(やゝ)異《こと》なり、《→なる》故≪に≫、各條を立つ。

 

[やぶちゃん注:「乳香」は、

双子葉植物綱ムクロジ目カンラン科ボスウェリア属 Boswellia の樹木から分泌される樹脂

を指す。当該ウィキによれば、『乳香の名は、その乳白色の色に由来』し、『古くからこの樹脂の塊を焚いて香とし』、『または香水などに使用する香料の原料として利用されている』。『香以外にも中医薬・漢方薬としても用いられ』、『鎮痛、止血、筋肉の攣縮攣急の緩和といった効能があるとされる』。『また、多く流通している南アラビア地域では、唾液分泌の促進やリラクゼーションのために乳香樹脂をガムのように噛むことがある』。『水蒸気蒸留で得られる精油は、食品や飲料に香料として添加される。また、香水にも利用され、シトラス系、インセンス様、オリエンタル系、フローラル系など、様々な香水に使われている。ベンゼンなどの溶剤を使って抽出したアブソリュートは、香りの定着剤として多くの香水に用いられる。乳香が数千年にわたり宗教に利用されてきたことを』鑑みると、『香として利用した際の芳香成分には、リラクゼーションや瞑想に効果的であると考えられる』。『アロマテラピーに精油が用いられるが、樹脂を燃焼させた際の成分とは異なるため、香としての効能を流用することはできない』。『精油には強い刺激作用があり、産地や抽出法で成分が異なるため』、『効能を一般化することは困難だが、香りを楽しむ目的で精油をマッサージなどと併用するのなら、アロマテラピーでの利用も有益であるかもしれない』。『精油の香りには興奮作用が、樹脂を燃やした香りにはリラックス効果が見られるようである』。『精油は強力な抗菌活性を持つが、抗真菌作用は非常に弱い』。『ボスウェリア属の樹木は、オマーン、イエメンなどのアラビア半島南部、ソマリア、エチオピア、ケニア、エジプトなどの東アフリカ』、『インド』『に自生している。 これらの樹皮に傷をつけると』、『樹脂が分泌され、空気に触れて固化する』。一~二『週間かけて乳白色 - 橙色の涙滴状の塊となったものを採集する』。『樹脂の性質は樹木の種類や産地によって大きく異なる。樹木は栽培して増やすことが困難で、これらの自生地の特産品となり、かつては同じ重さの金と取引されたこともある』。『古い時代には、現在はオマーンに属するアラビア南部のシスルから積み出される乳香が特に知られていた』。『現在も良質とされるものの商業的な生産は主にオマーンで行なわれている』(この最後の部分には「要出典」が附されてある)。『近年は火災、カミキリムシによる害、乱獲、乱開発、農地への転換などで急速に減少している。最近の研究では、今後』五十『年で約』九十『%減少すると予想されており、持続は不可能と考えられている』。『乳香は紀元前』四十『世紀にはエジプトの墳墓から埋葬品として発掘されているため、このころには』、『すでに焚いて香として利用されていたと推定されている。古代エジプトでは神に捧げるための神聖な香として用いられていた』。『神に捧げるための香という点は古代のユダヤ人たちにも受け継がれており、聖書にも神に捧げる香の調合に乳香の記述が見られる』。『また、ベツレヘムでイエス・キリストが生まれた時に東方の三博士がイエス・キリストに捧げた贈り物の中に乳香、没薬、黄金がある』。『日本にも』十『世紀には薫香の処方内への記述が現れるため、このころにシルクロードを通じて伝来したものと考えられている』(この最後の部分にも「要出典」が附されてある)。『日本正教会を含む正教会では、古代から現代に至るまで、奉神礼で香炉で乳香を頻繁に焚いて用いる。振り香炉にも乳香が用いられる』。『香水などへの使用が行なわれるようになったのは』十六『世紀に入ってからであり、乳香を水蒸気蒸留した精油や溶剤抽出物であるアブソリュートがこの用途に用いられるようになった』(この一文には全体に「要出典」が附されてある)。『西アジア及び地中海周辺地域の古代において乳香は、虫除け、宗教儀式、炎症薬として用いられていたこともあり』、『乳香の需要は高く、その需要に対しての供給量(収穫量)が少い場合は価格が高騰し、金と同じ重量で取引された記録がある。また西アジア及び地中海周辺地域において乳香の価格が高騰した際にはインド産“ボスウェリア・コナラ”から抽出された乳香のインディアン・フランキンセンスが交易商人によって輸入された。少なくともマウリヤ朝時代』(紀元前三二二年~紀元前一八五年)『には交易によってインドから西アジアに輸出されたと思われる記録及び民間伝承写本が幾つかある』。『インドにおいての乳香の歴史も古くインド聖典“アーユルヴェーダ”医学に用いられた』とある。

 このボスウェリア属のうち、

ボスウェリア・サクラ Boswellia sacra

英文ウィキがあったので、リンクさせておく。その末尾の方に、『ギリシャ神話によると、乳香を採取する植物は、嘗つては「レウコトエ」(Leucothoe)という名の人間の女性であった。太陽神ヘリオスは彼女に恋をし、以前の恋人クリュティエと別れた。苦々しい思いから、クリュティエはレウコトエの父オルカムスに盛んに陰口をしたところが、オルカムスは娘を生き埋めにしてしまった。ヘリオスは彼女を救うには遅過ぎたが、「土の中で腐らせておくわけにはいかない。」と、彼女を新しい木に変ぜさせて、空気を吸えるようにした』とあった。英文の「Leucothoe (daughter of Orchamus)」のウィキもリンクさせておく。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「薫陸香」と「乳香」の合体した独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-48b]から始まる、その「釋名」「集解」「修治」のパッチワークである。

「末須良以加(マスライカ)」言語不詳。オランダ語か。

「末須天木須《マステムス》」このカタカナは東洋文庫訳のルビに従った。同前。

「薰陸《くんろく》」「薰陸香」「ろく」は「陸」の呉音。小学館「日本国語大辞典」によれば、第一義に『インド、イランなどに産する樹のやにの一種。盛夏に、砂上に流れ出て、固まって石のようになったもの。香料、薬用となる。乳頭状のものは、乳香という。くろく。なんばんまつやに。薫陸香(くんろっこう)』とし、第二義に、所謂、「和の薰陸」として、『松、杉の樹脂が、地中に埋もれ固まってできた化石。琥珀(こはく)に似るが、琥珀酸を含まない。粉末にして薫香とする。岩手県久慈市に産する』とある。本底本では、次項が「薰陸香」である。①の本邦の初出例は九二七年の「延喜式」とする。なお、本底本では、この次の項が「薰陸香」である。

「大食(たいし)國」唐・宋代に、中国人が、アラブ国家やアラブ人、さらには、イスラム教徒一般を指した呼称。ペルシア人が「アラブ人」の総称として用いた呼称「タージー」(Tazi)に由来する(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。東洋文庫訳では、『大食国』にルビして、『サラセン・アラビア』とある。「サラセン」(英語:Saracen)は中世ヨーロッパ世界で「イスラム教徒」を指した語である。

「波斯(パルシヤ)國」ペルシャ。現在のイランを表わすヨーロッパ側の古名。

『瓶を以つて、收《をさむ》る者【「乳塌《にうたう》」と爲す。】、之れに次ぐ』東洋文庫では、ここに相当する部分に後注して、『『本草綱目』では瓶に収め取るものは瓶香で、次の雑沙石のものが乳塌で』、『一つずつ』、『ずれている』として、「本草綱目」原文と「和漢三才圖會」の原文を引いて比較してある。当該部に相当するものを、「漢籍リポジトリ」からコピー・ペーストし(私は「コピペ」という短縮形は生理的に気持ちが悪くて使ったことがない)、合わせて、上記原文部を併記しておく。

   *

為瓶香以瓶收者次為乳塌雜沙石者次為黒塌色黒(「本草綱目」)

   *

以瓶收者【爲乳塌】次之雜沙石者【爲黑塌】次之(「和漢三才圖會」)

   *

因みに、「塌」という語は、現代中国語で、「(支えられているものが)崩れ落ちる・倒れる・抜け落ちる」、「落ち凹む・へこむ」、「(気持ちを)落ち着ける」の意であったが、大修館書店「廣漢和辭典」を引いてみたら、『地が低い』、『床の低くて安らかなこと』、『おちる【おつ】。おとす』、『初めて耕す』とあったことから、樹木から樹脂を「落して」、諸状態で、それぞれに製品として「安んじる方法」を意味すると採っておく。

「楓《ふう》」決して「かえで」と読んではいけない。ユキノシタ目フウ科フウ属フウ Liquidambar formosana である。先行する「楓」を参照。

「𮄒(かく)れて」人が全く意識しないうちに体内に作用することを言う。

「心經」東洋文庫では、後注して、『身体をめぐる十二経脈の一つで、手の少陰心経のこと。一つは心臓から下って小腸に入る。支脈は心臓から咽喉にのぼ眼球の後ろから脳に入る。もう一つは心臓から肺に入り前腕を通って小指の先端に行く』とある。

「瘡瘍《さうやう》」東洋文庫訳では、割注して、『(主要・潰瘍をふくめたできもの一般の総称)』とある。

「素問」中国最古の医書とされている「黃帝內經」(こうていだいけい)の「素問編」。本来、この書は「素問編」と「靈樞編」の二部から成っており、黄帝と、その臣岐伯との問答に託し、「陰陽五行説」を利用して、生理・病理・衛生の基礎的理論を述べたもので、多少、後世の改修があるが、秦・漢頃の作と考えられている。「靈樞編」は鍼灸の術について述べたものとされるが、現存の「靈樞」の由来については、実は不明の点が多い。「素問」には王冰(おうひょう)の注 二十四巻があり、「靈樞」には、宋の史崧(ししょう)の注が二十四巻がある。これらとは別に、唐の楊上善の注になる「黃帝內經太素」全三十巻が日本にだけ伝わり、「黃帝內經」の旧形を保存している(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「心火」五行思想で「心」は「火」に属す。

「古今醫統」明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六)によって編纂された一種の以下百科事典。全百巻。「東邦大学」の「額田記念東邦大学資料室」公式サイト内のこちらによれば、『歴代の医聖の事跡の紹介からはじまり、漢方、鍼灸、易学、気学、薬物療法などを解説。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べている。分類された病名のもとに、病理、治療法、薬物処方という構成になっている』。『対象は、内科、外科、小児科、産婦人科、精神医学、眼科、耳鼻咽喉科、口腔・歯科など広範囲にわたる』とある。

「研す時、口に『玄胡索《げんごさく》。』を念≪ずれば≫、卽ち、末《まつ》と成る。」東洋文庫では、後注して、『玄胡索は山草類で根を薬用とし、血を活かす良薬とされる。恐らくこの根は粉末にしやすく、それでこういうのであろう。』とある。この「玄胡索」は、キンポウゲ目ケシ科ケマンソウ亜科キケマン属延胡索(エンゴサク) Corydalis yanhusuo 、及び、東北延胡索 Corydalis ambigua の塊茎を基原とする漢方生薬。日本語のウィキもあるが、対象種の学名(しかも品種である)が不審なので、中文の「維基百科」の「延胡索」に基づいた。そこに異名として「玄胡索」もあるのである。そこに『中国本土の安徽省・山東省・浙江省・江蘇省・湖北省・河北省・河南省桔河市及び信陽市に分布し、主に丘陵地帯の草原で見られ、模式種の原産地は浙江省杭州』とあり、『辛味、苦味、温感を持つ様々なアルカロイドが含まれており、主に血液循環の促進・気の促進・鎮痛・鎮静・催眠効果がある』といったことが書かれてある。さて、私は、東洋文庫の注に、一つ、文句がある。それは、「念」の意味を解説していない点である。迂闊な読者は、この「念」という動詞を物理的に「混ぜ込む」の意で採ってしまうだろうと思ったからである。残念乍ら、「念」の漢語・日本語の孰れも、「混ぜ込む」などという動詞の意味は、ない、のである。則ち、これはフレーザーの言う「類感呪術」で、玄胡索の根が粉末にし易いということから、乳香を削る際、心の中で「念」(ねん)ずることで、呪的に乳香の性質を変ずることが出来ると言っているのである! そこを言わずして、何の現代語訳かッツ!!!

「而れども、氣《き》・色《いろ》、各《おのおの》、別≪にして≫、効用も、則ち、稍(やゝ)異《こと》」「《→なる》故≪に≫、各條を立つ」この最後の附言は、ここ以降では、その理由から、後、独立項で「香」(こう)類を扱う、と言っているのである。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(10)

 

   猫の子もそだちかねてや朝寒し 元 灌

 

 春から夏へかけて生れた猫の子は、造作なく育つやうだけれども、秋口になつてからのは、次第に冷氣が加はる爲であらう、どうも育ちにくいやうである。吾々も秋口の猫の子を貰つて、何度かやり損つた經驗を持つてゐる。

 この句の眼目は「そだちかねてや」の一語にあ在る。子猫は死んでゐるわけではない、何だか育ちさうもない狀態なので、「そだちかねてや」と斷定しきらぬところに、餘情もあれば哀もあるやうに思ふ。そこがまた朝寒といふ時候に調和を得てゐるのである。

 

   鵙啼や竿にかけたるあらひ物 浦 舟

 

 鵙の聲は直に秋晴の天を連想させる。しきりに啼き立てる鵙の銳聲と、竿にかけて干す洗濯物と相俟つて、明るい秋の日和を十分に現してゐる。それだけに句としては寧ろ平凡だといふ人があるかも知れぬ。けれどもそれはその後に於て、この種の趣向が屢〻繰返された爲で、浦舟の句が出來た時分には、まだそれほどでなかつたのではないかといふ氣もする。

 

   ひとつふたつ星のひかりや秋の暮 稚 志

 

 しづかな、風も無い秋の夕暮であらうと思ふ。暮れむとして未だ暮れきらぬ空の中に、一つ二つ星の光が見えて來る。かくして徐に天地は暮れて行くのである。

 この句を讀むと、どうしても「夕暮に獨り風吹く野に立てば、天外の富士近く、國境をめぐる連山地平線上に黑し。星光一點、暮色漸く到り、林影漸く遠し」といふ「武藏野」の一節を想ひ出さゞるを得ない。「星光一點、暮色漸く到り、林影漸く遠し」といふほど、徐に暮れ行く秋野の天を、簡潔に而も生々と描き得た文章は稀であらう。この稚志の句は武藏野の如き平野の光景であるかどうか、それはわからないが、自らその間に趣の相通ずるものがある。

 秋の暮には由來傳統的な觀念が附纏つてゐる。「心なき身にもあはれはしられけり」とか、「その色としもなかりけり」とか、「花も紅葉もなかりけり」とかいふ三夕の糟粕を嘗めぬまでも、多くは寂しいといふことに捉はれ過ぎる傾がある。「うき人を又口說き見む秋の暮」「君と我うそに惚ればや秋の暮」といふやうな句は、一見この單調を破り去つたようで、實は心底の寂しさを紛らさうとする聲に外ならぬ。稚志のこの句が殆どすべてのものを離れて、一二點の星のみによつて秋の暮を描いたのは、この意味に於て異色ありといふべきであらう。作者は何ら自己の主觀を述べず、これ以外に何者の姿をも點じて居らぬが、天地に亙る秋暮の氣はひしひしと身に迫るやうに感ぜられる。

[やぶちゃん注:國木田獨步の「武藏野」(リンク先は私のサイトの最も古層に当たる電子化注。本未明、実に二十六年振りに大々的に正字不全及び誤りを訂した)の引用は「((二))」の以下。下線は原本では「○」、太字は「●」である。

   *

十一月四日――『天高く氣澄む、夕暮に獨り風吹く野に立てば、天外の富士近く、國境をめぐる連山地平線上に黑し。星光一點、暮色ようやく到り、林影漸く遠し。』

   *

「三夕」「新古今和歌集」の、

 寂しさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮

 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ澤の秋の夕暮れ 西行

 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ  定家

を指す。

「うき人を又口說き見む秋の暮」向井去来の句。私には、ちょっと生理的に厭な感じのする句である。

「君と我うそに惚ればや秋の暮」高濱虚子の明治三九(一九〇六)年九月十七日の詠。]

 

   しら菊をのぞけば露のひかりかな 春 曙

 

 白菊の大きな花――であらう――を覗いて見たら、花に置くこまかい露の光が眼に入つた、といふだけのことである。この句の特色は、菊に對して何者も配せず、ぢつと菊の花だけを見つめた――覗き込んだところに在る。この場合、赤菊でも黃菊でも面白くない、白菊ではじめて「露のひかり」が生きるのであるが、作者はさういふ商量を經たのでなしに、自分の覗いたのが白菊であつたから、そのまゝを詠じたのであらう。

 花の露といふやうな句は、いづれかと云へば美しい空想の下に詠まれたものが多い。この句はさういふ類ではなささうである。作者は白い菊の花と、それに置いた露の光の外、何も描いてゐない。讀者もそれだけを眼前に髣髴すれば足るのである。

 

2024/06/03

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 雞冠木

 

Momiji

[やぶちゃん注:図の右下方に「花」とキャプションした二つの花の図が配されてある。]

 

かへで   鷄頭樹

   【万葉】蝦蟇手木

雞冠木 【和名賀倍天乃木

       一云加比留提乃

       木】

もみち   俗通稱毛美知

 

△按本草綱目楓葉有岐作三角至霜後葉丹可愛則雞

 冠木亦楓之屬乎然楓花白色實大如鴨卵則與雞冠

 木花實迥異也猶朝鮮松子大而異常

 鷄冠木有數種髙者二三丈葉有尖岐如蝦蟇手大抵

 七八岐或九岐又有十三葉者謂之十二一重三四月

 嫩葉紅色映滿山五六月復靑葉深秋其葉黃落經歲

 者則五月開小黃花狀如飛蛾梢頭結實中子如牛蒡

 子和州龍田雍州髙雄山最多至秋葉丹赫耀天下賞

 美之凡草木秋乃紅葉者多有之而蝦手樹葉爲勝故

 只稱紅葉卽蝦手葉也猶只稱花則櫻花也花與紅葉

 左右之以悅人目者也然於中𬜻此二物似闕也

  万葉我か宿に黃變蝦手見る每にいもをかけつつ戀ぬ日はなし


八入    春嫩葉正赤色而四月復青葉

青海    葉大岐深而色甚鮮明五月復青葉

毛氊    同青海而葉稍小

野村    葉大而深紫色

透明    葉岐深而纖色常青

唐蝦蟇手  葉最大有十二三岐而青

𮈔垂蝦蟇手 枝葉靭垂似𮈔垂柳狀

 凡透明十二一重唐蝦蟇手之三種色青但在山中者

 至秋紅葉

                           貫之

 至秋紅葉 古今年毎に紅葉はなかす龍田川湊や秋のとまりらん

[やぶちゃん注:最終句は「とまりなるらん」であるが、どう見ても、「なる」はない。訓読では補った。]

 

   *

 

かへで   鷄頭樹《けいとうじゆ》

   【「万葉」。】蝦蟇手木(かえでの《き》)

雞冠木 【和名、「賀倍天乃木《かへでのき》」。

       一《いつ》≪に≫云《いふ》、

       「加比留提乃木《かひるでのき》」。】

もみぢ   俗、通《つう》して「毛美知《もみぢ》」と稱す。

 

△按ずるに、「本草綱目」、『楓《ふう》は、葉、岐《また》、有りて、三角《さんかく》を作《な》す、至霜≪の≫後《のち》、葉、丹《あか》く、愛すべし。』と云《いふ》時は、[やぶちゃん注:「云」「時」は送り仮名にある。後も同じ。]。則ち、雞冠木《かへで》も亦、楓《ふう》の屬か。然≪れども≫、『楓の花は、白色、實、大にして、鴨の卵のごとし。』と云《いふ》時は、則と、雞冠木の花・實と、迥(はる)かに異《こと》なり、猶を[やぶちゃん注:ママ。]、「朝鮮松」の子《み》、大にして、常に異なるか。

 鷄冠木、數種、有り。髙き者、二、三丈、葉、尖り、岐、有り、蝦蟇(かへる)の手のごとし。大抵、七、八岐、或いは、九岐≪なり≫。又、十三葉の者、有り≪て≫、之れを「十二一重(《じふに》ひとへ)」と謂ふ。三、四月、嫩葉《わかば》、紅色≪べにいろ≫≪して≫、滿山≪に≫映ず。五、六月、靑葉に復《かへ》る。深秋、其の葉、黃《きば》み、落つ。歲《とし》を經《ふ》る者は、則ち、五月、小≪さき≫黃花を開く。狀《かたち》、飛≪ぶ≫蛾《が》のごとし。梢≪の≫頭《かしら》に、實《み》を結ぶ。中の子《たね》、牛蒡(ごばう)の子のごとし。和州の龍田・雍州の髙雄山、最も多く、秋に至りて、葉、丹《あか》く、赫-耀《かがやき》、天下、之れを、賞美す。凡そ、草木、秋は、乃《すなはち》、紅葉する者、多く、之れ、有《り》。而《しかれども》、蝦手《かへるで》≪の≫樹、葉、勝れりと爲《な》す。故《ゆゑ》≪に≫、只《ただ》、「紅葉(もみぢ)」と稱するは、卽ち、蝦手の葉なり。猶を[やぶちゃん注:ママ。]、只、「花」と稱する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、「櫻花」のごとし。花と、紅葉《もみぢ》と、之れを、左右《さう》にして、以つて人≪の≫目を悅ばしむ者なり。然るに、中𬜻《ちゆうくわ》に於いては、此の二物《にぶつ》、闕(か)けたるに似るなり。

 「万葉」

   我が宿に

    黃變(もみづる)蝦手(かへるて)

      見る每(ごと)に

     いもをかけつつ

         戀(こひ)ぬ日はなし


「八入(やしほ)」  春の嫩葉(わかば)、正赤色にして、四月、青葉に復(かへ)る。

「青海(せいかい)」 葉、大きく、岐《また》、深くして、色、甚だ、鮮-明(あざや)かなり。五月、青葉に復る。

「毛氊(もうせん)」 「青海」に同じくして、葉、稍(やゝ)小さし。

「野村」       葉、大にして、深≪き≫紫色。

「透明(すかし)」  葉、岐、深くして、纖(ほそ)く、色、常に青し。

「唐蝦蟇手(からかへで)」 葉、最≪も≫大きく、十、二三≪の≫岐、有りて、青し。

「𮈔垂蝦蟇手(しだれかへで)」 枝葉、靭-垂(しなへた)れ、「𮈔垂柳(しだれ《やなぎ》)」の狀《かたち》に似たり。

 凡そ、「透明(すかし)」。・「十二一重」・「唐蝦蟇手」の三種は、色、青し。但《ただし》、山中に在る者≪は≫、秋に至りて、紅葉《もみぢ》す。

                      貫之

「古今」

    年毎(としごと)に

      紅葉(もみぢ)ばながす

     龍田川(たつたがは)

       湊(みなと)や秋の

          とまりなるらん

 

[やぶちゃん注:この「雞冠木」は、完全に良安主導で記しており、

ムクロジ目ムクロジ科カエデ属 Acer の多数の種

を指す(主な種はウィキの「カエデ」を参照されたい)。一応、「本草綱目」の「楓(ふう)」の記載を二箇所で引用しているものの、良安は、ここでは、かなりはっきりと、その「楓(ふう)」と「雞冠木(ももぢ/かへで)」は、花と実の違いから、全くの別種であることを、ほぼ認知していることが判る。前項「楓」で、それは、殆んど、明らかに認知していた。だからこそ、「楓」の標題下で、良安がバシッと、『俗、以つて「蝦手《かへで》の樹」と爲《な》すは、非なり』と断言していることからも、既にして明白であったのである。

 ここに出る「蝦蟇手の木」の表記には、ギョッとされた方も多いだろうが、当該ウィキにも本邦の漢字表記に「蛙手」を挙げており、冒頭でも、『名前の由来は、葉の形がカエルの手「蝦手(かへるで)」に似ていることから、呼び方を略してカエデとなった』とある。

「朝鮮松」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属 Strobus 亜属 Cembra 節チョウセンゴヨウ Pinus koraiensis の異名。所謂、「松の実」を採る種である。

「十二一重(《じふに》ひとへ)」

「和州の龍田」現在の奈良県生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)龍田(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「雍州の髙雄山」京都府京都市右京区梅ケ畑谷山川西(うめがはたたにやまかわにし)に頂上(四百二十八メートル)があり、その中腹に高野山真言宗の神護寺がある。

「中𬜻に於いては、此の二物、闕(か)けたるに似るなり」とあるが、無論、中国には桜も楓(かえで)もある。ただ、双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属 Cerasus(若しくはスモモ属 Prunus で、その場合は、その下にサクラ亜属 Cerasus を置く)は平安時代以後、特別な地位に立つようになり、盛んに栽培・品種改良が行われてきた歴史があり、その内、現代では、世界的に観賞用として広く植栽されているのが、圧倒的に江戸時代に生まれたソメイヨシノ Cerasus × yedoensis ‘Somei-yoshino’であるために、中国産のサクラは特に目立たないだけである。サクラはヒマラヤ原産と考えられているから、中国を経由して本邦に入ったものであろう。但し、中文ウィキの「花」は、明らかにベースを我が国の「サクラ」のウィキを基本ベースとしたものであり、菊とともに日本の国花の桜花が日本の侵略のイメージと通底しているためであろうから、文化的にはあっさりとしか書かれていない。カエデ属の中文の「枫属」も中国文化の記載は、ごく簡潔で、「賞楓」(本邦の「紅葉狩」)の項も、「中國」のパートには「八達嶺國家森林公園」・「香山公園」・「栖霞山」・「圭峰山國家森林公園」・「石门国家森林公园」・「西湖」の地域名を載せるにとどまっている。歴史の不幸な傷痕と言うべきか。

「万葉」掲げられた「万葉集」のそれは、「卷第八」の「大伴田村大孃(おほとものたむらのおほをとめ)の妹(いも)の坂上大孃(さかのうへのおほいらつめ)に與へたる二首」の二番目で(一六二三番)、

   *

 わが屋戶に

    黃變(もみ)つ鶏冠木(かへるで)

   見るごとに

       妹を懸けつつ

           戀ひぬ日は無し

   *

である。

「八入(やしほ)」「八汐」とも。カエデの園芸品種の一つ。イロハモミジ( Acer palmatum )系の小葉のカエデ。若芽は紅色で、若葉は淡紅色を帯びる。

「青海(せいかい)」非常に古くからある園芸品種。芽吹きが美しく、新葉から赤く色づき、後に赤茶色から黄緑・緑に変化し、夏は濃緑となる。秋、赤から橙色に紅葉する

「毛氊(もうせん)」「毛氈」は「千染」・「血汐」・「紅八房」・「血潮」等、さまざまな異名がある。早春は赤芽、徐々に葉の中心が緑色になり、縁が赤く残る。さらに夏には、緑一色になり、秋の紅葉は橙から黄色を呈する。

「野村」「野村紅葉」。イロハモミジの園芸品種(オオモミジ Acer amoenum var. amoenum の変種という説もある)で、江戸時代から庭木として使われ、春先から秋まで、やや紫がかった紅色の葉をつけるため、庭のアクセントとして使われることが多い。地域や環境によっては季節に応じて色が変化していく。)「野村」は人名ではなく、濃い紫の葉の色に由来する。嘗つては「武蔵野」と呼ばれていた。

「透明(すかし)」不詳。

「唐蝦蟇手(からかへで)」不詳。

「𮈔垂蝦蟇手(しだれかへで)」枝垂れモミジ。ヤマモミジ(イロハモミジ変種ヤマモミジ(ホンドウジカエデ) Acer palmatum var. matsumurae )の園芸品種で、枝が垂れるもの。

「𮈔垂柳(しだれ《やなぎ》)」キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ変種シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica

「古今和歌集」の紀貫之の歌は、「卷第五」の「秋歌下」の以下(三一一番)、

    *

  秋のはつる心を龍田川に思ひやりてよめる

 年ごとに

   もみぢばながす

    龍田川

      みなとや秋の

       とまりなるらむ

   *

「みなと」は龍田川が大和川に入って、やがて下って大阪湾に注ぐ場所を指す。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(9)

 

   名月や葛屋の軒のたりさがり 東 夷

 

「葛屋」は「言海」を見ると、「くさや、かややニ同ジ」とあつて、茅屋の字が宛ててある。葛といふ字に格別の意味は無いのであらう。草家の軒の傾いた樣を「たりさがり」と云つたものと思はれる。月下に茅屋を見る場合ではない、茅屋の內に坐して名月を望む場合である。さうでなければ「たりさがり」といふ言葉が、あまり利かぬことになつて來る。

「明月の御覽の通り屑家かな」といふ一茶の句は、茅屋より更に進んで「けちな家」といふ貶意を含んだものと思はれるが、これを讀むと、名月に對する「屑家」といふ對照的な考が先に立つて、肝腎なその家の樣子は一向眼に浮んで來ない。一茶一流の自嘲の氣が强過ぎる爲である。從つてこの句の裏には、御覽の通りの屑家ではあるが、名月を見るには何の妨も無い、といふ底意が窺はれる。芥川龍之介氏はかつて芭蕉と一茶とを比較して、

 「明月や池をめぐりて夜もすがら」とは芭蕉が

  明月の吟なれども、一茶は同じ明月にも、

  「明月や江戶のやつらが何知つて」と、氣を

  吐かざるを得ざりしにあらずや。

と云つたことがあるが、必ずしも芭蕉との比較において然るのみではない。茅屋に坐して名月を望むといふ狹い天地に於て、有名ならざる東夷の作と比較しても、その差は斯の[やぶちゃん注:「かくの」。]如く甚しいのである。芥川氏は元祿人と一茶との差異を以て人生觀の差異に歸し『元祿びとの人生は、自然に對する人生なり。一茶の人生は現世なり。今人の所謂「生活」なり。一茶を元祿びとと異らしむるは、この一點にありと云ふも誇張ならず』と斷じたが、この解釋はこゝにも當嵌るべきものと信ずる。

[やぶちゃん注:芥川龍之介の「一茶句集の後に」は、ネット上には前文の電子化物が存在しないことが判ったため、正字正仮名で、急遽、電子化注をブログで揚げておいた。]

 

   名月や何に驚く雉の聲 示 右

 

 句意は改めて說くまでもない、極めて明瞭である。名月の光の下に、突如として鋭い雉子の聲がする。あれは何に驚いたのであらうか、と云つたのである。

 月の光にうかれて鳴く阿房鴉[やぶちゃん注:「あはうがらす」。]の聲は、平凡であるだけに無事である。寢ぼけた雞の聲にしても格別のことはない。雉子の聲は銳いと同時に、どことなく尋常ならざるものがある。雉子を啼かしむる何者かのあることを想像させる。「何に驚く」の語の生れる所以であらう。

 

   つむ本の木口ぞ古き秋の暮 旦 藁

 

「木口」と書いてあるけれども、これは「小口」の意であらうと思ふ。座右に積んだ本の小口が悉く古びてゐる。作者は秋の暮に當つて、その古い小口にしみじみと目をとめたのである。

 書册を詠じた句の少からぬ中に在つて、書物の小口に注目したものは、この句の外に「待春や机にそろふ書の小口 浪化」しか今記憶に無い。きちんと揃へた書の小口に春を待つよろこびを感じ、積み重ねた書の小口の古びに秋の暮の寂しみを感ずる。いづれも俳諧の微妙な觀察であるが、平日書物に親しむ者でなければ、容易にこの種の趣は捉へ得ぬであらう。但この兩句を比較すると、趣に於ては浪化の方がまさつてゐるかと思はれる。

[やぶちゃん注:書狂の私は反対。旦藁(たんかう(たんこう))の方が、遙かにしみじみしていて好ましい。]

父遺品整理から

Titianndepanndan1982
記事は、父のメモがあり、朝日新聞社富山支局の五十嵐記者が昭和五七(一九八二)年二月十日に取材した、とある。

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 一茶句集の後に

[やぶちゃん注:初出単行本未詳(「一茶句集」不詳。国立国会図書館デジタルコレクションで調べたが、この執筆以前(後述)の同題の単行本は見当たらない。直近のものでは、前年の博文館明治三一(一八九八)年刊の『俳諧文庫』第十一編の中に「一茶全集」として「一茶發句集」・「一茶聯句集」・「俳文をらが春」があるから、これかとも思われる)。随筆集「點心」(龍之介最初の随筆集。大正一一(一九二二)年五月十五日金星堂刊。龍之介満三十歳)に収められている。大正一四(一九二五)年五月五日及び翌六日附の『東京日日新聞』に掲載されたもの。現在進行中の柴田宵曲「古句を觀る」の電子化注に必要となったので、急遽、作成した。

 底本は岩波旧全集第七巻(一九七七年十二月刊)に拠った。その本文底本は「點心」。なお、底本の「後記」に、底本に先行する岩波普及版では、文末に『(大正十一年一月)』(西暦一九二三年)のクレジットがあるとする。これが脱稿のそれだとすると、満二十九(龍之介は三月一日生まれ)で、この年の元日の発表作は「藪の中」「俊寬」「將軍」「神神の微笑」(リンクのあるものは私の古いサイト版)と傑作が目白押しである。また、前年の中国特派旅行の紀行「江南游記」(サイト一括版はこちらで、ブログ分割版はこちら)の『大阪毎日新聞』への連載も、この日に開始されている。

 注は、改行の後に挟んだ。]

 

 

  一茶句集の後に

 

 

 一茶句集今日一讀過。一讀過、畢に慊焉たり。

[やぶちゃん注:「今日」「こんにち」であろう。「畢に慊焉たり」「つゐにけんえんたり」で、「慊焉」は、満足と不満足との二様の意があるが、この場合は、書き振りから、「あきたらず思うさま・不満足なさま」の意である。]

 一茶の句は主觀句なり。元綠びとの句も主觀句なり。元綠びとと一茶と異るは、人生觀上の差違なるべし。元綠びとの人生は、自然に對する人生なり。一茶の人生は現世なり。今人の所謂「生活」なり。一茶を元綠びとと異らしむるは、この一點にありと云ふも誇張ならず。「明月や池をめぐりて夜もすがら」とは芭蕉が明月の吟なれども、一茶は同じ明月にも、「明月や江戶のやつらが何知つて」と、氣を吐かざるを得ざりしにあらずや。

 現世に執するの俳人、一茶の外にも少しとせず。談林江戶座の俳人中には、或は數指を屈するものあるべし。但彼等は一茶の如く、娑婆苦を吟ずるの道に出でず。出づるも彼の如く深刻なる能はず。一茶をして獨步せしむる所以なり。一茶も亦好漢たらずとせず。

[やぶちゃん注:「江戶座」前の「談林」とは切れているので注意。こちらは、芭蕉の死後、江戸で、都会趣味的な洒落と機知とを主とする句を作った俳諧の一派を指す。芭蕉の門人宝井其角に始まる。]

 されど人生に對する態度より云へば、一は生活を謳歌し、一は生活に惱めるにも關らず、一茶には談林江戶座の或者と、一味相通ずる特色あり。これ流俗も亦一茶を愛する所以、必しも一茶の爲に賀すべからず。

 既に元綠びとの句境あり。又一茶等の句境あり。その間の折衷を試みしもの、卽ち所謂月並みなり。月並みは膚淺を意味するのみにあらず。又隣の隱居の如き人生觀を交ふるを云ふなり。

[やぶちゃん注:「膚淺」(ふせん)は浅墓なこと。浅薄・膚薄。]

 更に人生に對する態度より云へば、元祿びとの法燈は、天明びとこれを繼ぎたりと云ふとも、一茶これを繼ぎたりと云ふべからず。天明びとは一茶よりも、直ちに自然に參したればなり。但予は夜半亭の屋高き事、俳諧寺の塔に勝れりとなさず。

[やぶちゃん注:「法燈」「ほふとう」と読む(「法」は一般語では歴史的仮名遣は「はう」であるが、仏教用語の場合は、「ほふ」と読む)。元語は「仏の正法が世の闇を照らすことを灯火に喩えて、一切衆生の迷いを救う仏法。」の意であるが、ここは、単に「作風」を言う。「夜半亭」は江戸時代の俳諧の一派の宗匠名。三代、続いた。一世は早野巴人(はやのはじん 延宝四(一六七六)年~寛保二(一七四二)年)で、名乗りは、晩年の元文二(一七三七)年に江戸日本橋本石町(ほんごくちょう)に「夜半亭」を構え、「夜半亭宋阿」と名乗ったことに始まり、二世は、かの与謝蕪村(享保元(一七一六)年~天明三(一七八四)年)で、明和七(一七七〇)年に宋阿の弟子であった蕪村が、宋阿の死後二十八年目に継承し名乗った。三世は蕪村の弟子であった高井几董(寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)が、蕪村没後三年目の天明六年に継承した(ここは当該ウィキに拠った)。]

 一茶には如上の特色あり。常世の人の一茶を愛する、亦故なきにあらずと云ふべし。石川啄木その歌集に題して「悲しき玩具」と云ふ。俳諧は恐らく一茶にも、「悲しき玩具」に過ぎざりしならん。一茶啄木の態度を以てせば、句を作り歌を作るは、委曲を盡して憾みなき事、終に小說を作るに若かず。予が句を讀み歌を讀むは、悲にあらず喜にあらず、人天相合する處、油然として湧く事雲の如き、無上の法味を甞めんが爲なり。試みに芭蕉を見よ。「秋深き隣は何をする人ぞ」這裡何處にか「生活」ある。ヴエルレエンの語を用ふれば「詩とはこれのみ、他は悉文學」にあらずや。一茶の句境未この醍醐を知らず。予の慊焉たる所以なり。

[やぶちゃん注:「如上」は「前に述べたこと・上述」の意。筑摩書房全集類聚版では、『じよじやう』とルビするが、確かにその読みもあるが、私は従えない。「によじやう」と読みたい。「甞めん」「なめん」。「這裡」(しやり(しゃり)で「這裏」とも書く。「這」は「此の」の意で、「このうち・この間(かん)」。]

[やぶちゃん後注:私はこの龍之介の見解には、非常に同感する。一茶は嫌いではないが、芭蕉と比しては、俗に執し過ぎて、話しにならない。なお、底本の「後記」によれば、

・「生活に惱めるにも」の部分は、普及版全集では『生活に苦惱せるにも』。

・「但予は夜半亭の屋高き事、俳諧寺の塔に勝れりとなさず。」の部分は普及版全集では『但夜半亭の屋高きか、俳諧寺の塔高きか、未疑なきにあらず。』。

であるとある。]

2024/06/02

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 楓

 

Okatura

[やぶちゃん注:図の下方に実の図が配されてあり、右下方に「大楓子」(だいふうし)の実のキャプションが附されてある。]

 

おかつら   攝攝【爾雅】

       【和名乎加豆良】

【音風】

      【俗以爲蝦手

       樹者非也】

フヲン

 

本綱楓南方髙山中甚多其木枝幹修聳大者連數圍木

性甚堅有赤有白白者細膩葉圓而作岐有三角而香二

月有花白色乃連着實大如鴨卵其實成毬有柔刺至霜

後葉丹可愛其枝弱善𢳸故字從風五月斫其木爲坎十

[やぶちゃん注:「𢳸」は底本では(つくり)の下半分が「正」の字になっている。このような異体字は見当たらないので、これに代えた。]

一月采脂其脂爲白膠香【梵書謂之薩闍羅婆香】

爾雅注云楓脂入地千年爲琥珀【楓菌有毒食之令人笑不止地漿解之】

黃帝殺蚩尤於黎山之丘擲其械于太荒之中化爲楓木

 之林【楓木歳久生瘤如人形遇暴雷驟雨則暗長三五尺謂之楓人或云化爲羽人】

白膠香【辛苦平】 治一切癰疽瘡疥金瘡生肌止痛吐血咯

[やぶちゃん注:「咯」は「喀」の異体字。]

 血燒過揩牙永無牙齒疾爲外科要藥

[やぶちゃん注:ここは、「本草綱目」自体が杜撰で、良安は「治」を補っているが、それでも、後の方の「痛吐血咯血」の頭に「治」がないと読めない。訓読では補った。

大楓子【甘熱】 主癘風癰疥殺蟲

△按倭名抄云楓【和名乎加豆良】有脂而香【一名攝】桂【和名女加豆良】〕以爲

 楓與桂如雌雄矣然未知其𢴃也又本草綱目喬木下有大風子恐此大楓子重出者乎

大風子【辛熱有毒】 能治大風疾故名之南方有之大樹之子

 狀如椰子而圓其中有核數十枚大如雷丸子中有仁

 白色久則黃人取其油名大風油可以和藥

 本草必讀醫學入門皆以大風子附乎大楓樹下【丸藥去壳紙槌去油如瘡藥帶油】

[やぶちゃん字注:「壳」は「殼」の異体字。]

 近世倭方治癩病爲君藥以他藥佐之多有奇効其油

 和藥傅疥癬諸瘡及虱瘡亦有効藥肆僞稱雷丸油今

 禁虛名直稱大風子油暹羅交趾柬埔寨多來

 

   *

 

おかつら   攝攝《しようしよう》【「爾雅」。】

       【和名、「乎加豆良《をかつら》」。】

【音「風」。】

      【俗、以つて「蝦手《かへで》の

       樹」と爲《な》すは、非なり。】

フヲン

 

「本綱」に曰はく、『楓《ふう》は、南方、髙山の中、甚だ、多し。其の木、枝・幹、修聳《しゆうしよう》≪し≫、大なる者、數圍《すうゐ》を連《つら》≪ぬ≫。木の性、甚だ、堅く、赤き有り、白き有り、白きは、細≪やかなる≫膩《あぶら》なり。葉、圓《まどか》にして、岐(また)を作《なし》、三角、有りて、香《かんば》し。二月、花、有り、白色。乃(すなは)ち、實《み》を連着《れんちやく》す。大いさ、鴨(かも)の卵(たまご)のごとし。其の實、毬(まり)を成す。柔《やはらか》なる刺(はり)、有り。霜≪の≫後《のち》に至りて、葉、丹(もみぢ)して、愛しつべし。其の枝、弱くして、善《よ》く𢳸《ゆら》ぐ。故に、字、「風」に從ふ。五月、其の木を斫(はつ)り、坎《あな》を爲《つく》る。十一月、脂(やに)を采《と》るや、其の脂を「白膠香」と爲《な》す【梵書、之れを、「薩闍羅婆香《さつじやらば》」と謂ふ。】』≪と≫。

『「爾雅注」に云はく、『楓脂、地に入りて、千年して、「琥珀」と爲《な》る』≪と≫【楓菌、毒、有り。之れを食へば、人をして、笑《わら》ひて止まずせしむ。「地漿《ちしやう》」、之れを解す。】。

[やぶちゃん注:この割注は、恐らく良安の附記である。以下の一段は「本草綱目」からの引用ではない。出典は判らないが、割注を除く本文は、調べた限りでは、王瓘述 韓若雲撰になる「軒轅黃帝傳」に酷似した文字列があった。「維基文庫」の「軒轅黃帝傳」に『既擒殺蚩尤,乃遷其庶類善者於鄒屠之,其惡者以木械之。帝令畫蚩尤之形於旗上,以厭邪魁,名蚩尤旗。殺蚩尤於黎山之丘』。『擲械於大荒中宋山之上,其後化為楓木之林。』である。

『黃帝、蚩尤《しゆう》を黎山《れいざん》の丘に殺す。其の械(あしかせ)を太荒の中に擲(なげう)つ。化して楓木の林と爲《な》れり。』≪と≫【楓木の、歳《とし》久≪しくして≫、瘤《こぶ》を生ず。人≪の≫形《かたち》のごとし。暴雷・驟雨に遇へば、則ち、暗《ひとしれず》≪して≫、長《たけ》、三、五尺≪となれり≫。之れを「楓人」と謂ふ。或いは、云ふ、『化して、羽人《うじん》』と爲《な》る。」≪と≫。】。

[やぶちゃん注:以下は「本草綱目」に戻る。]

『白膠香【辛苦、平。】 一切の癰疽《ようそ》・瘡疥・金瘡《かなさう》を治す。肌を生《いきかへ》らせ、痛みを止め、吐血・咯血を治す。燒過《やきすご》して、牙《は》に揩《ぬ》れば、永く、牙齒《がし》の疾ひ、無し。外科の要藥と爲《な》す。』≪と≫。

[やぶちゃん注:以下は「本草綱目」に認められない。]

『大楓子【甘、熱。】 癘風《れいふう》・癰疥《ようかい》を主《つかさど》り、蟲を殺す。』≪と≫。

△按ずるに、「倭名抄」に云はく、『楓《ふう》【和名「乎加豆良《をかつら》」。】、脂《あぶら》有りて香し【一名「攝《しよう》」。】。桂《けい》【和名「女加豆良《めかつら》」。】〕』と以≪つて≫爲《し》、「楓」と「桂」とは雌雄のごとし。然れども、未だ其の𢴃《よりどころ》を知らざるなり。又、「本草綱目」、「喬木」の下に「大風子《だいふうし》」、有り。恐らくは、此れ、「大楓子」を重出する者か。

大風子【辛、熱。毒、有り。】 能く、大風疾を治する故、之を名づく。南方に、之れ、有り。大いなる樹の子(み)≪にして≫、狀《かたち》、椰子(やしぼ)のごとくにして、圓《まろ》く、其の中に、核《たね》、數《す》十枚、有り、大いさ、「雷丸《らいぐわん》」の子《み》のごとし。中に仁《さね》有り、白色。久《しくすれば》、則ち、黃なり。人、其の油を取りて、「大風油《だいふうゆ》」と名づく、以つて、藥に和すべし。

 「本草必讀」・「醫學入門」、皆、「大風子」を以つて「大楓樹」の下《もと》に附す【丸藥には、壳《から》を去り、紙槌《しつい》≪には≫、油を去り、瘡藥のごときは、油を帶《お》ぶ≪やうにさす≫。】

 近世、倭方≪にては≫、癩病を治する「君藥《くんやく》」と爲《な》し、他藥を以つて、之れを佐《たすけ》として、多く、奇効、有り。其の油、藥に和して、疥癬・諸瘡、及び、虱瘡《しつさう》に傅《つ》く。亦、効、有り。藥肆《くすりみせ》、僞りて、「雷丸《らいいぐわん》の油」と稱す。《→せしも、》今、虛名を禁じて、直《ぢき》に「大風子の油」と稱す。暹羅《シヤム》・交趾(カウチ)・柬埔寨(カボジヤ)≪より≫、多く來たる。

 

[やぶちゃん注:「楓」(フウ)は、良安が『俗、以つて「蝦手《かへで》の樹」と爲《な》すは、非なり』は、その点では、極めて正しい。これは我々に親しいムクロジ目ムクロジ科カエデ属 Acer のそれとは、全くの別種の、

ユキノシタ目フウ科フウ属フウ Liquidambar formosana

を指すからである。

 なお、東洋文庫では、訳の中で、『楓(マンサク科)』とするが、これは、嘗つての旧分類である「クロンキスト分類体系」(Cronquist system:一九八〇年代にアーサー・クロンキスト(Arthur Cronquist)が提唱した被子植物の分類体系)によるもので、一九九〇年代以降、DNA解析による分子系統学が大きく発展し、一九九八年に公表された被子植物の新しい分類体系「APG植物分類体系」(Angiosperm Phylogeny Group:「被子植物系統グループ」)ではユキノシタ目に統合され、フウ属と、その近縁の属は、「フウ科」に分離されたからである(東洋文庫版『和漢三才図会』全十八巻は、一九八五年から一九九一年にかけて全巻が刊行されたが、本項を含む第十五巻(私の所持するものは初版)は一九九〇年の発行)。

 ウィキの「フウ」によれば、『公園樹や街路樹にされる。別名、サンカクバフウ(三角葉楓)、タイワンフウ(台湾楓)』、『イガカエデ(伊賀楓)、カモカエデ(賀茂楓)。古名、オカツラ(男桂)』。『種小名 formosana は「台湾の」の意味』(「台湾語」は英語で“Taiwanese”又は“Formosan”である)で、『属名の Liquidambar はリキッド・アンバー(「液体の琥珀」の意)で、その樹皮から香りのよい樹脂が採れることにちなむ』。『そのため、中国名では楓香樹の名がある』(中文ウィキ「枫香树」を見られたい)。『また』、『中国名の別名では漢字で「楓」(楓樹』『)と書き、和名はその音読みを由来とする』。『日本では古来、「楓」の字を「カエデ」と訓むが、本来の楓は本項目のフウのことを指し』、『カエデを表す漢字は槭である』。『原産地は台湾、中国南東部』で、『日本には江戸時代中期、享保年間』(一七一六年~一七三六年)『に渡来し、珍しい樹として江戸城と日光に植えられたのが始まりである』。『植栽は日本全土に分布し』、『関東地方以南で使われている例が多い』とある。

 しかし、以上の渡来期が大いに問題であり、また、冒頭の和訓「をかつら」が、甚だ、気になるのである。何故なら、「フウ」が渡来する「和漢三才図会」成立は正徳二(一七一二)年だからであり、「をかつら」は「楓」「男桂」「雄桂」「牡桂」であり、更に、良安は和名を「乎加豆良《をかつら》」としているからである。これらの日本語は、実は、

ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum

を指すからである。本草学者とはいえ、本書が完成したフウの渡来の四年前に良安がフウとカツラが異なる種であることを認識していた可能性は、絶望的に――ない――と思われるからである。それは、今までの本巻の多くが、日中である漢字が種を異なることを見てきた。ここも、それを良安が認識していない(「本草綱目」の記載の解説に変だなと思う部分はあったことは大いに感じられるが)ことは、明白々である。我々は、またしても、そうした部分を批判的に読まないと、墓穴を掘ることとなることを認識して、各自で、読まれたい。私は植物に冥く、漢方にも通じていない。されば、錯誤の総てを指摘することは、不可能であるからである。

「爾雅」既出既注だが、再掲しておくと、中国最古の類語辞典・語釈辞典・訓詁学書として知られるもの。漢字は形・意味・音の三要素から成るが、その意味に重点をおいて書かれたもので、著者は諸説あり、未詳。全三巻。紀元前二〇〇年頃の成立。以後の中国で最重視され、訓詁学・考証学の元となった。後世の辞典類に与えた影響も大きい書物である。

 「本草綱目」の引用は、未だ「漢籍リポジトリ」が一向に作動しないので、「維基文庫」の電子化物で調べたところ、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「楓香脂」の独立項であるが、既に原文で注した通り、良安は、「本草綱目」以外のものから投げ込んだり、彼自身の割注を入れ込んだりしている。

「修聳《しゆうしよう》」長く・高く(「修」)、聳(そび)えること。

「白膠香」本邦では「白膠木」というと、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis を指すが、同種との関係ない。

「薩闍羅婆香」「大蔵経データベース」で検索したところ、「行林抄」と「傳受集」でヒットした。

「爾雅注」「爾雅注疏」。全十一巻。晋の郭璞注と、北宋の邢昺(けいへい)疏になる「爾雅」の注釈書。東洋文庫の書名注には、『大変すぐれたもので、後世の人々から注疏の手本とされている』とあった。

『楓脂、地に入りて、千年して、「琥珀」と爲《な》る』琥珀は地質時代の樹脂の化石であるから、「正しいですが、気の遠くなるドライヴが必要でっせ?」。

「楓菌」菌界担子菌門ハラタケ綱ハラタケ目オキナタケ科ヒカゲタケ属ワライタケ Panaeolus papilionaceus のことであろう。私の「耳囊 卷之三 楓茸喰ふべからざる事」の私の注を見られたい。ただ、ワライタケのことを、当時、「楓菌」(かえできのこ?)と俗で呼んでいたから、ただ「楓」繋がりだけで良安が要らぬ脱線割注をしたことが、これで知れる。

「地漿《ちしやう》」東洋文庫の割注では、『(地から湧き出る水)』とするが、どうも不審であったので、調べたところ、中文の「維基文庫」の「地浆水」(=地漿水)に、『伝統的な漢方薬の原料』とし、『製造方法は、地中を』九十一センチメートル『ほど掘り、黄土層に真水を注入して混合し、清澄後、取り出した水が地漿水となる』とする。そこで、「本草綱目」を引いて、『地漿水は中毒とそれによる煩悶を和らげ、総ての魚・肉・果物・野菜・薬物・諸種の細菌の毒素を和らげ』、また、『打ち身や食中毒の治療にも使われるとも言われている』とあった。「中國哲學書電子化計劃」の「本草綱目」の「水部」第五巻の「地水類」の「地漿」であった。国立国会図書館デジタルコレクションの読み易い現代語訳の『国訳本草綱目』第三冊(鈴木真海訳,・白井光太郎校注/一九七四年春陽堂書店刊)の当該部を示しておく。要らぬ割注に、要らぬお世話をしてしまったわい。

「黃帝」中国古代の伝説上の帝王。三皇五帝のひとり。姓は公孫。軒轅氏とも、有熊氏ともいう。蚩尤の乱を平定し、推されて天子となる。舟・車・家屋・衣服・弓矢・文字をはじめて作り、音律を定め、医術を教えたという。

「蚩尤」中国神話の戦闘神。斉国(現在の山東省)の神とされ、銅頭鉄額・人身牛蹄。黄帝と涿鹿(たくろく)の野で戦い、大風雨を起こしたが、黄帝は旱(ひでり)の神である魃(ばつ)の助けで、蚩尤を誅殺したとされる。

「黎山」一つのモデル候補は、陝西省西安市の郊外、秦嶺山脈の驪山(りざん)である(グーグル・マップ・データ航空写真)。なお、東洋文庫では、後注で、『『史記』五帝本紀の「索隠」には、黄帝が応龍に命じて蚩尤を殺させたのは凶黎の谷とある。『山海経』の「大荒東経」では凶犂土丘となっている』とある。

「楓人」小学館「日本国語大辞典」に、本邦では、『楓(かえで)の老木に生ずるこぶの大きなもの。その形が人に似ているところからいう』ある。なお、白居易の「送客春遊嶺南二十韻」に『雨黑長楓人』と使われている。中文の「古诗句网」のこちらを見られたい。

「羽人」仙人の別称。

「燒過《やきすご》して」充分に焼いて。

「癰疽」悪性の腫れ物。「癰」は浅く大きく、「疽」は深く狭いそれを指す。

「瘡疥」この場合は、前が前だから、現代の小児や若者の顔に生じる「はたけ」(疥・乾瘡:顔面単純性粃糠疹 (ひこうしん))ではなく、厚い痂皮(かひ)を生じて木の皮のようにポロポロと剥がれ落ちる乾燥性の強い重度の皮膚炎を指しているように思われる。

「大楓子【甘、熱。】 癘風《れいふう》」(癩病)「・癰疥《ようかい》」(瘡を生ずる重い腫れ物。東洋文庫訳は『疥癬(疥癬虫によって起こる皮膚病・ひぜん)』とするが、採らない)「を主《つかさど》り、蟲を殺す』ここは、既に「本草綱目」に認められないと注したが、良安は後の評で、わざわざ、『「本草綱目」、「喬木」の下に「大風子《だいふうし》」、有り。恐らくは、此れ、「大楓子」を重出する者か』と言っているところが、確信犯であるから、奇妙である。実は、「本草綱目」の「楓香脂」(結構、記載が長い)には、「附方」に、

   *

【新一】大風瘡【楓子木燒存ㇾ性研硏粉等分麻油調搽極妙章貢有二鼓角匠一病此一道人傳方遂愈 「經驗良方」】

   *

があり(以上は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本の「本草綱目 補註 下卷一」(多紀永寿院安元著・多紀鶴郎・永島忠編/大正五(一九一六)年半田屋出版部刊)の当該部を視認した)があるので、これを良安が見間違えたか、或いは、本邦の版元が、誤って「瘡」を「子」と彫ったものかも知れないと、ちょっと、思った。

『「倭名抄」に云はく、『楓《ふう》【和名「乎加豆良《をかつら》」。】、脂《あぶら》有りて香し【一名「攝《しよう》」。】。桂《けい》【和名「女加豆良《めかつら》」。】〕』源順の「和名類聚鈔」のそれは、「卷二十」の「草木部第三十二」の「木類」の「第二百四十八」に二つを並べて、

   *

楓 「兼名苑」云、『楓、一名欇【「風」「摂」二音。和名「乎加豆良」。】「爾雅」云、有脂而香謂之楓。

桂 「兼名苑」云、『桂、一名梫【「計」「寑」二音。和名「女加豆良」。】。

   *

とあるのを、指す。この良安の不審は、如何にも御尤も、である。

「大風子」大風子油(だいふうしゆ)のこと。当該ウィキによれば、キントラノオ目『アカリア科(旧イイギリ科)ダイフウシノキ属』 Hydnocarpus 『の植物の種子から作った油脂』で、『古くからハンセン病の治療に使われたが、グルコスルホンナトリウムなどスルフォン剤系のハンセン病に対する有効性が発見されてから、使われなくなった』とあり、『日本においては江戸時代以降』、「本草綱目」『などに書かれていたので、使用されていた。エルヴィン・フォン・ベルツ、土肥慶蔵、遠山郁三、中條資俊などは』、『ある程度の』ハンセン病への『効果を認めていた』とある。

「大風疾」この「大風」は、中国で歴史的に梅毒の異名として用いた語である。中文の「ハンセン病」の「維基百科」の「麻风病」の「中国歷史的情况」を見られたい。

「椰子(やしぼ)」底本のルビは「ヤシホ」であるが、私は、これ、「椰子(ヤシ)ノ坊主(バウズ)」の当時の口語の短縮形であろう「ヤシノボウ」の「ノ」と「ウ」が省略したものと判断した。

「雷丸《らいぐわん》」竹に寄生するサルノコシカケ科カンバタケ属ライガンキンPolyporus mylittae の茸(きのこ)の菌体。直径一~二センチメートルの塊状を成す。回虫・条虫等の駆虫薬にされる。

「本草必讀」東洋文庫の巻末の「書名注」に、『「本草綱目必読」か。清の林起竜撰』とある。なお、別に「本草綱目類纂必讀」という同じく清の何鎮撰のものもある。この二種の本は中文でもネット上には見当たらないので、確認出来ない。

「醫學入門」明の李梃(りてい)撰の医学書。全七巻・首一巻。参照した東洋文庫版の書名注に、『古今の医学を統合し、医学知識全般について述べた書』とある。ネット検索では一五七五年刊とする。

「紙槌《しつい》」「鉄槌」から連想するに、紙で作った槌(つち)で、それに薬物を湿らせて患部を叩くものか。

「君藥」主薬。

「佐《たすけ》」補助薬。それにしても、良安先生、結局、「楓」とちゃう「大風子」の話で終わってるのは、ちょっとヘン!]

2024/06/01

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 必栗香

 

Hituritukou

 

ひつりつかう 花木香

       詹香

必栗香

 

 

本綱必栗香生髙山中葉如老椿擣置上流魚悉暴腮而

死木爲書軸白魚不損書也

 

   *

 

ひつりつかう 花木香《くわぼくかう》

       詹香《せんかう》

必栗香

 

 

「本綱」に曰はく、『必栗香は、髙山の中に生ず。葉、老椿《おひつばき》のごとし。擣《つ》きて、≪川の≫上流に置けば、魚、悉く、腮(えら)を暴《さら》して死す。木を書軸と爲《す》れば、白-魚(しみ)、書を損ぜざるなり。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:前の実在しない「櫰香」と同じく、良安の評がない。前項で語れなかったことから、これもろくにディグぜず、放置プレイしたものか? しかし、これは、本邦にもちゃんと植生する、

ブナ目クルミ科ノグルミ(野胡桃)属ノグルミ Platycarya strobilacea

のことである。日中でも同種であることは、台湾のサイト「百草谷藥用植物園」の「化香樹」に上記学名を掲げ、「別名」として、筆頭に『必栗香』を挙げ、以下『化香木、詹糖香、詹香、台灣化香樹、花果兒樹、放香樹、還香樹』とあり、更に、『根部可供藥用』とし、『葉、果有毒』とあり、『浸液可殺虫、毒魚、葉可為驅蟲劑』、『根部碾末可供藥用』とあったから、確実である。ウィキの「ノグルミ」によれば、『中国中南部、台湾、朝鮮半島、日本(東海以西の本州、四国、九州)に分布する』。『日当たりの良いところを好む』。『落葉広葉樹の高木で、幹は直立して樹高は』十~二十『メートル』『くらい、直径は』六十『センチメートル』『くらいになる』。『樹皮は黒褐色で縦に細かく裂ける』。『一年』の『枝はやや太く、多数の皮目があり、無毛か』、『まばらに毛が残る』。『葉は互生で、奇数羽状複葉』。『花期は』六『月ごろ』で、『風媒花であり、風に乗せて花粉を運ぶ。雌雄同株』。『果実は革質の硬い鱗片で覆われ、形状は長楕円形でハリネズミに似ている』。『これは、トゲトゲしていて触ると痛いし、食用にもならない。冬でも枝の先に果穂が残る』。『冬芽は卵形で短毛があり、上部の芽鱗はときに黄褐色を帯びる』。『枝先の頂芽は側芽よりも大きく、側芽は枝に互生する』。『葉痕は心形や腎形で、維管束痕が』三『個つく』とあって、『建築材、器具材にする』。『樹皮から抽出するタンニンは皮をなめすのに利用された』。『ノグルミを燃やすと』、『特有の芳香があり』、本邦の『中国地方や九州地方では福の神を呼ぶため大晦日や節分にこれを焚く風習があった』、『昔は、樹皮や枝葉を砕いて魚毒にした』とある。調べたところ、ノグルミの持つ魚毒成分はナフトキノン(naphthoquinone)というナフタレン環骨格をもつキノンであることが判った。

 「本草綱目」の当該部は、未だ「漢籍リポジトリ」が一向に作動しないので、「維基文庫」の電子化物で調べたところ、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「必栗香」の独立項で見た。短いので、やや表記に手を加えて掲げておく。

   *

必栗香(「拾遺」)

【釋名】花木香、詹香。

【集解】藏器曰「必栗香生高山中。葉如老椿、搗置上流、魚悉暴腮而死。木白魚不損書也。」。

【氣味】辛、溫、無毒。

【主治】鬼疰心氣、斷一切惡氣、煮汁服之。燒爲香、殺蟲、魚(藏器)。

   *

「椿」ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ(ツバキ) Camellia japonica 中文ウィキでも同種であるが、中国語では「山茶花」である中文の当該種のウィキを参照されたい)。ウィキの「ツバキ」には、『日本における海岸近くの山中や、雑木林に生える代表的な野生種を』特に『ヤブツバキとよんでいる』。『植物学上の種(標準和名)であるヤブツバキ』『の別名として、一般的にツバキと呼んでおり』、『またヤマツバキ(山椿)の別名でも呼ばれる』『日本内外で近縁のユキツバキから作り出された数々の園芸品種、ワビスケ、中国・ベトナム産の原種や園芸品種などを総称的に「椿」と呼ぶが、同じツバキ属であってもサザンカを椿と呼ぶことはあまりない。なお、漢字の「椿」は、中国では霊木の名で、ツバキという意味は日本での国訓である』。『ヤブツバキの中国植物名(漢名)は、紅山茶(こうさんちゃ)という』とあった。なお、「椿油」の項には、『椿油は、種子(実)熱を加えずに押しつぶして搾った油で』、『「東の大島、西の五島」の名産品としてもよく知られている』。『高級食用油、機械油、整髪料、養毛剤として使われるほか』、『古くは灯りなどの燃料油としてもよく使われた。ヤブツバキの種子』『から取る油は高価なため、同じくツバキ属の油茶などから搾った油もカメリア油の名で輸入されている。また、搾油で出る油粕は川上から流して、川魚、タニシ、川えび等を麻痺させて捕獲する毒もみ漁に使われた』とあり、最後にノグルミとの意外な通性が確認出来るが、ツバキの方の魚毒成分は、ナマコ類が持つそれと同じサポニン(saponinである。

「鰓(えら)を暴《さら》して死す」東洋文庫訳では、『鰓(えら)を痛めて死ぬ』とあるが、採らない。私の訓の方が、毒揉みの凄惨な様子がよく伝わると考えるからである。

「白-魚(しみ)」節足動物門昆虫綱シミ目 Thysanura のシミ類で、シミ科 Lepismatidae・ムカシシミ科 Lepidotrichidae・メナシシミ科 Nicoletiidae・Maindroniidae 科に分かれる。ここは時珍の記載だから、そこまでである。中国に分布するシミ類のリストはネット上では見出せなかった。因みに、本邦で現在よく見かける在来種は、シミ科ヤマトシミ属ヤマトシミ Ctenolepisma villosa(やや褐色を呈し、日本在来の室内種)と、同属のセスジシミ Ctenolepisma lineata(茶褐色で光沢に乏しく、背に縦線模様を持つ)であるが、近年は移入種であるセイヨウシミ属セイヨウシミ Lepisma saccharina(銀白色を呈する)の方が在来種よりも優勢である。但し、「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 衣魚(シミ)」の私の注で述べた通り、シミ類は、古くから、書物を有意に食害するとされたが、実際には顕在的な食害は殆んど認められないのが事実で、それは冤罪の部類と言ってよく、シミの食い痕とされるものの多くは、木質部や紙にトンネルを掘り、或いは標本類をバラバラになるまで著しく食害するところの、多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae に属する「死番虫」類が真犯人である。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(8)

 

いなづまにはつと消たる行燈かな 窓 竹

 

 理窟を云へば稻妻と行燈の燈が消えるのと、別に關係があるわけではない。たゞ稻妻がぴかりとさす、行燈の灯がぱつと消える、といふ倏忽[やぶちゃん注:「しゆくこつ」。時間が極めて短いさま。]の感じを捉へたところに、この句の面白味があるのである。

 行燈の消えたのは油が盡きた爲か、風でも吹いて來た爲か、それはいづれでも差支無い。窓を射る稻妻と、ぱつと消える行燈とが同時でありさへすればいゝのである。寸隙を容れぬ瞬間の印象がよく現れてゐる。

[やぶちゃん注:句の「行燈」は「あんど」(「あんどん」の音変化で、よく使われる)と読んでおき、本文は「あんどん」で読んでおく。]

 

   接待や欠がちなる晝さがり 畏 計

 

 攝待といふのは「佛寺或は街衢がいくにて往來の人に茶湯を施すこと」と歲時記にある。日は別に定つて居らぬらしい。

 この句は攝待する側の人を描いたものである。佛寺であるか、街衢であるか、それはわからぬ。通行の人は次から次へと來て、茶に咽喉を潤して去る。いづれ酌むに任せ、飮むに任せてあるに相違無いから、攝待する側の人はたゞそこに詰めてゐるものと思はれる。晝下りは由來最も眠くなり易い時刻である。秋の日と雖もその點に變りは無い。若し殘暑の去りやらぬ時分でもあれば尙更であらう。攝待する側の人が閑殺されたやうな形で欠(あくび)ばかりしてゐるといふのも、慥に同情に値する事實である。攝待の句としては變つた種類のものと云はねばならぬ。

 

   いわし寄る波の赤さや海の月 桃 首

 

 魚の大羣の寄せて來る時は海の色が變るといふ。それは晝間のことであらうが、月下にも同樣であるかどうか、不幸にしてまだ見たことが無いから、何とも斷言は出來ない。月明の夜であつたら、潮の色が變つて見えるのかも知れぬ。この句はどうしても空想に成つたものではなささうである。

「鰊羣來」といふ言葉が頻に俳句に用ゐられたことがあつた。幸田露伴博士の說によると「クキル」といふのは古い言葉らしい。「北海道では今、羣來の二字を充てるが、古は漏の字を充ててゐる。鯡のくきる時は漕いでゐる舟の櫂でも艫でも皆かずの子を以てかずの子鍍金[やぶちゃん注:「めつき」。]をされてしまふ位である」と書いてある。この句は羣來の語を用ゐずに羣來を描いたので、それだけ景色が大きくもなり、ゆとりがあるやうにも感ぜられる。或は夜景の爲かも知れない。

[やぶちゃん注:「鰊群來」は「にしんくき」と読み、鰊(硬骨魚綱骨鰾(ニシン)下区ニシン上目ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii )が産卵のため、三~四月頃、主に北海道西岸に回游して来て、その放つ精液で海面が乳白色に見える現象を指す。「春」の季語であったが、参照した小学館「日本国語大辞典」によれば、初出の実例句は、山口誓子の句集「凍港」(昭和八(一九三二)年刊)の、

   *

 どんよりと利尻の富士や鰊群來(にしんくき)

   *

で、近代の新しい季語であるが、ニシン漁衰退で季語として死語となってしまった。しかし、去年、それが北海道で珍しく見られたのを、私はNHKの自然番組で見、感激した。

「幸田露伴博士の說によると……」この露伴の引用は、随筆「華嚴瀧」の「七」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの幸田露伴「鷲待庵物語」(昭和二四(一九四九)年刊・朝日新聞社『朝日文庫5』)のこちらで正字正仮名で視認出来る。引用は右ページ後ろから三行目からであるが、その直前に『車は夕暮に迫つて菖蒲が濱から歌が濱へと走つたが、この間のドライブは實に愉快である。右は中禪寺湖なり、左は男體山なり、道は好し、樹木の茂れる中を走るのであるから、そのさわやかさは幾度も繰返して味はひたいと思ふくらゐである。車中から偶然(ふと)見る湖岩に漣波(さざなみ)が立つて赤腹(あかはら)といふ小魚が群騷いでゐる。產卵のために雌魚が夢中になつてゐるのである。古い語で「タキル」とこれをいふ』とあって、引用部が続く。「タキル」は「たぎる」で「滾る」「沸る」であろう。なお、「博士」とあるが、当該ウィキによれば、露伴は学歴は逓信省電信修技学校卒で、文学は独学。明治四一(一九〇八)年(年)、京都帝國大学文科大学初代学長の旧友狩野亨吉に請われ、破格の招聘で国文学講座の講師となった。大学を辞めた翌年の明治四四(一九一一)年、明治四十年に、唐の伝奇小説「遊仙窟」が「万葉集」に深い影響を与えていることを論じた「遊仙窟」を主たる業績として「文学博士」の学位を授与されている。]

 

   引網の魚えり分くる月夜かな 川 鳥

 

「寄月漁父」といふ前書がある。題によつて想を構へたものであらう。その點前の句とは多少の逕庭がある。

 尤もこれは構へ得べき想ではあるが、全然實感を伴はぬわけではない。引寄せた網の中から獲物を選り分ける。銀鱗潑剌として月光に躍る有樣は、決して惡いことはない。たゞ全體から見ていさゝか平凡なのである。月下の漁父についてこれだけの景色を描き出すことは、比較的容易な憾がある。

 

   湖に行水すつる月夜かな 西 與

 

「大津止泊の比」といふ前書がついてゐる。湖畔の家に泊つて、行水をすました湯を月夜の湖に捨てる、といふだけの事である。今の人だと假令同じ場合に臨んでも、「湖に」と大きな語を點ずることを敢てしないかも知れぬ。元祿の句の面白味はかういふ大まかな所にもある。

 行水を捨てる句として最も人口に膾炙したのは、鬼貫の「行水のすてどころなし蟲の聲」であらう。この水を捨てたら折角鳴いてゐる蟲が鳴きやむに相違無い、蟲はそこら一面に鳴いてゐるので、どこへ水を捨てていゝかわからない、といふのは思はせぶりの甚しいものであり、えせ風流である。この句が俚耳[やぶちゃん注:「りじ」。世間の俗人らの耳。]に入り易いのも、全くこの思はせぶりの爲で、俗人はこの種のえせ風流に隨喜する傾がある。子規居士も「月見つゝ庭めぐりせばなきやまんゐながら蟲の聲は聞かまし」といふ歌を評して

[やぶちゃん注:以下、底本では、一行目が一字下げ、二行目以降が、二字下げで引用してある。妙なので、全部、引き上げて、前後に「*」を入れた。]

   *

「なきやまん」と想像語にする事歌よみの常ながら極めて惡し。箇樣なる想像を風流と思ひ居れども、こはえせ風流にして却て俗氣を生ずるのみ。庭を步行いて[やぶちゃん注:「あるいて」。]蟲が鳴きやみたりとてそれが不風流になる譯もあるまじ。寧ろ想像をやめて、實地に蟲の鳴きやめたる樣を詠む方實景上感を强からしむるに足らんか。………古歌の「渡らば錦中や絕えなん」といふも惡し。それよりも、渡りて錦の絕えたる方面白きなり。

   *

と喝破したことがあるが、これはそのまゝ鬼貫の句に該當すべきものである。行水の湯をざぶりと月の湖に捨てるの朗然たるに如かぬ。

 泊雲氏の「暗き湖に何洗ふ音や行水す」などといふ句は、同じく湖畔の行水を題材としたものである。但大正年代だけに捉へ所がこまかくもなり、複雜にもなつてゐる。

[やぶちゃん注:『鬼貫の「行水のすてどころなし蟲の聲」』は明和六(一七六九)年平安書肆刊・大祇校訂「鬼貫句選」では、

   *

 行水(ぎやうずい)の捨(すて)どころなしむしのこゑ

   *

である。

『子規居士も「月見つゝ庭めぐりせばなきやまんゐながら蟲の聲は聞かまし」といふ歌を評して……』国立国会図書館デジタルコレクションの『子規全集』第六巻(昭和四(一九二九)年改造社刊)の「短歌愚考」(明治三三(一九〇〇)年一月作)のここの一節で視認出来る。但し、やり玉に挙げた和歌の後にある、子規の思うままに改作した、

   *

(愚考)月照らす庭の小萩をめぐりつゝ我行く方に蟲なきやみぬ

   *

を宵曲はカットしている。いやいや、子規の改作の方がすっと胸に落ちる。

『泊雲氏の「暗き湖に何洗ふ音や行水す」』西山泊雲(明治一〇(一八七七)年~昭和一九(一九四四)年)は兵庫県生まれ。本名は亮三。当該ウィキによれば、『兵庫県竹田村(現丹波市)生。酒造家西山騰三の長男。弟は野村泊月で、泊月の紹介で高浜虚子に師事した。酒造業を継いだが、青年期には神経衰弱に陥り』、『家出や自殺未遂を経験。また』、『家業が不振となった折には、虚子がその醸造酒を「小鼓」と命名』、『ホトトギス』に『何度も広告を出して再興を助けた』。『鈴木花蓑』(はなみの)『と並び』、『ホトトギス』『沈滞期を代表する作家で』、『同誌巻頭を』二十八『回取っているが、山本健吉は(花蓑と比べても)「泊雲のほうがより没主観の写生主義であり、句柄も鈍重で冴えたところがない」としている』。『泊月とともに丹波二泊とも呼ばれた。代表句に「土間にありて臼は王たり夜半の月」』とある。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(8)

 

   田へかゝる風のにほひや天の川 河 菱

 

「田へかゝる」といふのは、多分田にさしかゝる意味であらう。道が田圃にさしかゝつて、爽な稻の匂を鼻に感ずる。空には月が無く、天の川が斜に白々と流れてゐる、といふ趣らしい。

 漱石氏の「夢十夜」の中に、盲目の子供を負つて闇夜を步く話がある。背中の子が「田圃へ掛かつたね」といふので、「どうして解る」と聞くと、「だつて鷺が鳴くじぢないか」と答へる、果して鷺が二聲ほど鳴いた、と書いてある。この場合の鷺の聲は一脈の妖氣を漂はす點に於て頗る妙であるが、「田へかゝる」の句を讀んだら、直にあの話を思ひ出した。但この句には妖氣などは無い。爽な闇と、稻の匂とがあるだけである。「田のにほひ」と云つて稻の香が連想されるのは、季節の詩たる俳句の特長であらう。

[やぶちゃん注:「夢十夜」のそれ「第三夜」は、私のライフ・ワーク「こゝろ」(リンク先は私のブログ・カテゴリ『夏目漱石「こゝろ」』。サイト版の初出本文開始は(単行本「上 先生と私」相当パート)は、ここから。サイト版には「こゝろ」マニアックスやぶちゃん贋作「こゝろ佚文」やぶちゃんの教え子のマニアック「こゝろ」小論文もある)に次いで、私の偏愛する作品である。短いので、全文を示す。底本は岩波旧全集である。読みは一部に留めた。

   *

 

   第 三 夜

 

 こんな夢を見た。

 六つになる子供を負(おぶ)つてる。慥に自分の子である。只不思議な事にはいつの間にか眼が潰れて、靑坊主になつてゐる。自分が御前の眼は何時(いつ)潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答へた。聲は子供の聲に相違ないが、言葉つきは丸で大人である。しかも對等だ。

 左右は靑田(あをた)である。路は細い。鷺の影が時々闇に差す。

「田圃へ掛つたね」と脊中で云つた。

「どうして解る」と顏を後ろへ振り向ける樣にして聞いたら、

「だつて鷺が鳴くぢやないか」と答へた。

 すると鷺が果して二聲ほど鳴いた。

 自分は我子ながら少し怖(こは)くなつた。こんなものを脊負(しよ)つてゐては、此の先どうなるか分らない。どこか打遣(うつち)やる所はなからうかと向ふを見ると闇の中に大きな森が見えた。あすこならばと考へ出す途端に、脊中で、

「ふゝん」と云ふ聲がした。

「何を笑ふんだ」

 子供は返事をしなかつた。只

「御父(おとつ)さん、重いかい」と聞いた。

「重かあない」と答へると

「今に重くなるよ」と云つた。

 自分は默つて森を目標(めじるし)にあるいて行つた。田の中の路が不規則にうねつて中々思ふ樣に出られない。しばらくすると二股になつた。自分は股の根に立つて、一寸休んだ。

「石が立つてる筈だがな」と小僧が云つた。

 成程八寸角の石が腰程の高さに立つてゐる。表には左り日(ひ)ケ窪(くぼ)、右堀田原(ほつたはら)とある。闇だのに赤い字が明(あきら)かに見えた。赤い字は井守の腹の樣な色であつた。

「左が好いだらう」と小僧が命令した。左を見ると最先(さつき)の森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ抛(な)げかけてゐた。自分は一寸躊躇した。

「遠慮しないでもいゝ」と小僧が又云つた。自分は仕方なしに森の方へ步き出した。腹の中では、よく盲目(めくら)の癖に何でも知つてるなと考へながら一筋道を森へ近づいてくると、脊中で、「どうも盲目(めくら)は不自由で不可(いけな)いね」と云つた。

「だから負(おぶ)つてやるから可(い)いぢやないか」

「負(お)ぶつて貰つて濟まないが、どうも人に馬鹿にされて不可(いけな)い。親に迄馬鹿にされるから不可い」

 何だか厭になつた。早く森へ行つて捨てゝ仕舞はふと思つて急いだ。

「もう少し行くと解る。――丁度こんな晚だつたな」と背中で獨言(ひとりごと)のやうに云つてゐる。

「何が」と際(きは)どい聲を出して聞いた。

「何がつて、知つてるぢやないか」と子供は嘲(あざ)ける樣に答へた。すると何だか知つてる樣な氣がし出した。けれども判然(はつきり)とは分らない。只こんな晚であつた樣に思へる。さうしてもう少し行けば分る樣に思へる。分つては大變だから、分らないうちに早く捨てゝ仕舞つて、安心しなくつてはならない樣に思へる。自分は益(ますます)足を早めた。

 雨は最先(さつき)から降つてゐる。路はだんだん暗くなる。殆んど夢中である。只背中に小さい小僧が食付(くつつ)いてゐて、其の小僧が自分の過去、現在、未來を悉く照して、寸分の事實も洩らさない鏡の樣に光つてゐる。しかもそれが自分の子である。さうして盲目(めくら)である。自分は堪(たま)らなくなつた。

「此處だ、此處だ。丁度其の杉の根の處だ」

 雨の中で小僧の聲は判然(はつきり)聞えた。自分は覺えず留つた。何時しか森の中へ這入つてゐた。一間ばかり先にある黑いものは慥に小僧の云ふ通り杉の木と見えた。

「御父(おとつ)さん、その杉の根の處だつたね」

「うん、さうだ」と思はず答へて仕舞つた。

「文化五年辰年だらう」

 なるほど文化五年辰年らしく思はれた。

「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」

 自分は此の言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晚に、此の杉の根で、一人の盲目を殺したと云ふ自覺が、忽然として頭の中に起つた。おれは人殺(ひとごろし)であつたんだなと始めて氣が附いた途端に、背中の子が急に石地藏の樣に重くなつた。

   *

「仕舞はふ」はママ。漱石の書き癖。「日(ひ)ケ窪(くぼ)」は巻末の古河久氏の編になる「注解」に『麻布区(今の港区)にある地名。当時は「日下窪」とも書き』、『南北に分れていた』とする。調べてみると、この中央の東西の附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)と思われる。「堀田原(ほつたはら)」同前で『『東京案内』(東京市役所市史編纂係著明治四十』(一九〇七))『年刊)の北日下窪町の説明に「南日下窪町の北にあり、明治五』(一八七二)『年正信寺教善寺門前を合し、五年又華族堀田氏址及寺地を合す」とあるので、堀田邸附近をこう呼んだのかも知れない』とある。この内、「正信寺」は近年、小石川へ移転しているが、教善寺の方は寛永六(一六二九)年以降は港区六本木五丁目から動いていないので、この附近である。さすれば、両地区の位置から、子を背負った主人公は東の芝公園南付近から西に歩いてきたと考えられ、その分岐は現在の「麻布十番」附近と私は推定する。「文化五年辰年」戊辰(つちのえたつ)でグレゴリオ暦一八〇八年。因みに、「夢十夜」の初出連載は、『大阪朝日新聞』で明治四一(一九〇八)年七月末から八月にかけてである。私は、かねてより、この――背負った杉の根の下で主人公父に殺された主人公の盲目の男子――とは、第一高等学校講師(東京帝国大学講師兼任)で英語教師をしていた漱石が強く叱責し、その数日後、明治三六(一九〇三)年五月二十二日、華厳瀧で入水自殺してしまった藤村操の「影」であろうと踏んでいる。「杉」(裸子植物門マツ綱ヒノキ科スギ亜科スギ属スギ  Cryptomeria japonica 「の根の處」で「殺した」というのは、藤村が自死に臨んで、大きな水楢(双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属ミズナラ 変種ミズナラ Quercus crispula Blume var. crispula の木の皮を剝いで刻んだ遺書「巖頭之感」を意識した殺害場所であると考えている(スギとミズナラの樹皮だけを見た場合、似ていると言える。当時の報道では「大樹」と記すものが多い)。私は、イギリス留学中の漱石の病態は、強い関係妄想を持った強迫神経症、或いは、統合失調症であると思われ、その後遺症もあると考えているので、藤村の一件が、漱石の終生のトラウマになっていたことは間違いないと感じている。「『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月3日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百二回」の私の注の『■「Kの遺書」を考えるに当たって――藤村操の影』も参照されたい。

2024/05/31

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 櫰香

 

Kaikou

 

くわいかう     兠婁婆香

櫰香【音懷】   【楞嚴經出】

 

[やぶちゃん注:「兠」は「兜」の異体字。]

 

本綱櫰香江淮湖嶺山中有之大者丈許小者多被※采

[やぶちゃん注:「※」=「𤍫」-「土」+「扌」であるが、こんな漢字は見当たらない。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版を見ると、「樵」となっている。原本の「※采」の読みは、良安によって『カリトラ』とあることから、訓読では、「樵」に代えた。]

葉青而長有鉅齒狀如小薊葉其香對節生其根狀如拘

𣏌根而大煨之甚香楞嚴經所謂煎水沐浴卽此香也

[やぶちゃん注:「𣏌」は「杞」の異体字。]

 

   *

 

くわいかう     兠婁婆香《とろばかう》

櫰香【音「懷」。】 【「楞嚴經《りようがきやう》」に出づ。】

 

[やぶちゃん注:「兠」は「兜」の異体字。]

 

「本綱」に曰はく、『櫰香、江淮・湖嶺の山中に、之れ、有り。大なる者、丈許《ばかり》、小《ち》さき者、多く樵-采(かりと)らる。葉、青くして、長く、鉅齒(のこぎり《ば》)、有り。狀《かたち》、小-薊(あざみ)の葉のごとく、其の香、節《ふし》に對《たい》≪して≫、生《しやう》ず。其の根の狀、拘𣏌《くこ》の根のごとくして、大きく、之れを煨《やきうづ》め≪れば≫、甚だ香《かんば》し。「楞嚴經」に所謂《いはゆ》る、『水を《→に》煎じて、沐浴す。』と≪あるは≫、卽ち、此の香《かう》なり。

 

[やぶちゃん注:「櫰香」は、中文サイトで幾つも記述があるが、殆んどが、「本草綱目」の引き写しの本草書の記載で、ある日本に研究者の論文を見出したが、実在するかどうかわからないといった叙述だけで、遂にネット上でも、現在の樹木の学名を記すものは、見当たらなかった。「兠(=兜)婁婆香」で調べても、同じであった。「東洋文庫」も科も属も種も、否、対象植物についての注の一つも、ないのである(杜撰! 判らぬのなら、不明と注すべきだ! 底本は百科事典なんだぞッツ!!!)。本植物部は、まだ初っ端であるが、実在しないという樹は、初めてである。良安の評がないのも、少なくとも、比定すべきものが本邦には存在しないからであろう。

 「本草綱目」の当該部は「漢籍リポジトリ」が一向に作動しないので、「維基文庫」の電子化物で調べたところ、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「櫰香の独立項で見たが、良安の当たった版本が異なるのか、「小者多被樵采」に相当する部分が存在せず、「楞嚴經」に載るのは、『壇前根』とのみある。短いので、以下に全文をコピー・ペーストしておく(一部、改行部を普通の同書の書式に代え、句点・括弧閉じるを追加した)。

   *

櫰香
(櫰音懷。)《綱目》

【釋名】兜婁婆香。

【集解】時珍曰︰ 香,江淮、湖嶺山中有之。木大者近葉青而長,有鋸齒,狀如小薊葉而香,對節生。其根狀如枸杞根而大,煨之甚香。《楞嚴經》云︰壇前根。

【氣味】苦,澀,平,無毒。

【主治】頭癤腫毒。碾末,麻脂調塗,七日腐落。(時珍)

   *

「楞嚴經」は二種ある。一つは、秦の名翻訳僧鳩摩羅什訳で、首楞厳三昧について説いた「首楞嚴三昧經」全三巻で、今一つは、「大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經」の略名で、全十巻。般剌蜜帝(ばんらみたい)訳とされるが、中国で捏造された偽経と考えられている。修禅・耳根円通などについて禅法の要義を説いた経で、一名を「中印度那陀大道場經」「大佛頂經」と言い、通常、「首楞嚴經」というと、これを指すことが多い、と小学館「日本国語大辞典」にはあった。「大蔵経データベース」で、両経を調べたが、文字列「煎水沐浴」も「壇前根」も、見出せなかった。万事休す。

「江淮・湖嶺」東洋文庫訳の割注を参考にするに、現在の江蘇省・安徽省湖北省・湖南省と、広西チワン族自治区及び広東省北部・湖南省及び江西省南部を東西に走る中国南部最大の褶曲山脈にして、長江水系と珠江水系の分水嶺であり、華中と華南の境界を成している南嶺(五嶺)山脈(位置は当該ウィキを参照されたい)周辺を含む――幻しの香木には相応しい――甚だ呆れるほどの広域に当たる。そんなに広く分布するなら、樹種をある程度、具体に示し得るはずだのに……。

「鉅齒(のこぎり《ば》)」「鉅」には、「かぎのように先が曲がった形」の意があるから、まあ、違和感は薄い。東洋文庫訳は『鋸歯(ぎざぎざ)がある』と意訳している。

「小-薊(あざみ)」キク目キク科アザミ亜科アザミ連アザミ属 Cirsium 、及び、それに類する植物の総称。但し、日中辞書では、現代中国語では、特にアレチアザミ Cirsium segetum (中国シノニム Cephalonoplos setosum )を指定している。このアレチアザミは朝鮮・中国(長江流域以北)産で、本邦では対馬にのみ自生する。

「節《ふし》に對《たい》≪して≫、生《しやう》ず」東洋文庫訳では、『羽状複葉で節のところに対生する』とある。判りがいい。

「拘𣏌」ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense の根皮は、漢方で清涼・強壮・解熱薬などに用い、「地骨皮」「枸杞皮)」と呼ぶ。

「煨《やきうづ》め≪れば≫」東洋文庫訳では、割注で、『(煨(や)く(埋』(うず)『め火』(び)『にうめる)』とある。これを参考に読みを振った。白水社「中国語辞典」では、『1 とろ火で時間をかけて煮込む』、『2 直接』、『火・灰の中に入れて蒸し焼きにする』とあった「2」を採用した。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 烏藥

 

Uyaku

 

うやく  旁其 鰟𩶆

     矮樟

烏藥  【其氣似樟故名】

 

ウヽ ヨツ

 

本綱烏藥木似茶檟髙五七尺葉微圓而尖其狀似鰟𩶆

鯽魚而靣青背白有紋四五月開細花黃白色六月結實

其子如冬青生青熟紫核殻極薄其仁香而苦根如芍藥

嫩者肉白老者肉褐色如車轂紋形如連珠者佳其根葉

亦有香氣然根有二種嶺南者黑褐色而堅硬天台者白

而虛軟世稱天台之產爲勝今比之洪州𢖍州者天台香

味爲劣入藥功効亦不及

根【辛温】 散諸氣故入中風中氣藥婦人血氣小兒腹中

 諸蟲除一切冷氣治霍亂反胃吐食瀉痢其功不可悉

 載猫犬百病並可磨服

△按鳥藥能雖治鳥獸之病而烏藥之烏非鴉烏之烏以

鳥《✕→烏》褐色名之耳凡堅而直者不佳俗稱久久利者良

 

   *

 

うやく  旁其《ばうき》 鰟𩶆《はうひ》

     矮樟《わいしやう》

烏藥  【其の氣(かざ)、「樟(たぶ)」に似、

      故に名づく。】

 

ウヽ ヨツ

 

「本綱」に曰はく、『烏藥は、木、「茶檟(ちさ)」に似て、髙さ、五、七尺。葉、微《やや》圓《まどか》にして、尖り、其の狀《かたち》、「鰟𩶆」・「鯽魚(ふな)」に似て、靣《おもて》、青く、背《うら》、白く、紋、有り。四、五月、細《こまやか》なる花、開く。黃白色。六月、實を結び、其の子《たね》、「冬青(まさき)」のごとく、生《わかき》は、青く、熟≪せば≫、紫なり。核《たね》≪の≫殻、極めて、薄し。其の仁《じん/さね》、香《かをり》して、苦《にが》し。根、「芍藥」のごとく、嫩(わか)き者、肉、白。老ひ子は[やぶちゃん注:「子」(たね)は送り仮名にある。]、肉、褐色にして、車《くるま》の轂(くるゝ《✕→こしき》)の紋のごとし。形、連珠のごとき者、佳なり。其の根も、葉も、亦、香氣、有り。然《しか》るに、根に、二種、有り。嶺南の者は、黑褐色にして、堅-硬(かた)く、天台の者は、白くして、虛-軟(やはら)かなり。世に、「稱天台の產、勝(すぐ)れり。」と爲《な》す。今、「之れを、洪州・𢖍州(こうしう)の者に比すれば、天台の香味《かうみ》、劣れり。」と爲す。藥に入れて功-効《こうこう》も亦、及ばず。』≪と≫。

『根【辛、温。】 諸氣を散ずる故、中風《ちゆうぶ》・中氣の藥、婦人≪の≫血氣、小兒≪の≫腹中≪の≫諸蟲に入るる。一切の冷氣を除き、霍亂・反胃・吐食・瀉痢を治す。其の功、悉く載すべからず。猫・犬の百病、並びに、磨(す)りて、服(の)ますべし。』≪と≫。

△按ずるに、鳥藥、能く鳥獸の病ひを治すと雖も、「烏藥」の「烏」は、非「鴉-烏《からす》」の「烏」に非ず。「『烏』褐(くろちや)色」なるを以つて、之れを名づくのみ。凡そ堅くして直《すぐ》なる者、佳《よ》からず。俗、「久久利《くくり》」と稱する者、良し。

 

[やぶちゃん注:「烏藥」とは、現行の漢方の基原植物としては、

クスノキ目クスノキ科クロモジ属テンダイウヤク Lindera aggregata

である。小学館「日本大百科全書」によれば、『クスノキ科』Lauraceae『の常緑低木』で、『原産は中国中南部、台湾であるが、江戸時代に薬用として輸入したため、現在では九州のほか、和歌山県、大阪府、静岡県などでも野生化している。光のよく当たる環境を好み、高いものでは』五『メートルに達する。葉は互生し、広楕円(こうだえん)形で』、『先は急に細くなって尾状となり、長さ』三~八『センチメートル、幅』一・五~五『センチメートルで全縁』(葉の縁が滑らかでギザギザのないこと。「全辺」とも言う。)、『基部は円形あるいは広い』楔(くさび)『形をなし、革質で明瞭』『な三行脈がある。若葉のときは長い褐色の軟毛を密生するが、のちに上面は無毛となって光沢をもち、下面は灰白色で毛がある』。三~四『月に散形花序を腋生(えきせい)し、鱗片』『状の包(ほう)の中から長さ』二~五『ミリメートルの短毛を密生した花柄を出し、黄緑色の花を開く。雌雄異株で、雄花には雄しべ』九『個、雌花には雌しべ』一『個のほか、多くの退化雄しべがある。花被(かひ)』(萼と花弁の総称)『は』六『個。核果は楕円形で、初め』、『緑色であるが、成熟すると黒くなる。根は数珠』『状に長く肥大して硬く、外面は暗褐色を呈する。根を乾燥したものを漢方では』「烏薬」『(うやく)と称し、精油を含有するので、鎮痛、興奮、健胃剤として、腹痛、胸痛、消化不良などの治療に用いる。なお、テンダイウヤクの名のおこりは、中国の浙江』『省の天台山に産する烏薬が良品であるところから天台の二字をつけたものである』とある。リンク先に二枚画像がある。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「烏藥」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、[083-42b]から始まる。 その内容のパッチワークである。

「樟(たぶ)」例によって、日中で指示する種が異なる。既出項の「樟」、及び、「烏樟」を、必ず、参照されたい。

「茶檟(ちさ)」所謂、「茶」、ツツジ目ツバキ科ツバキ属チャノキ Camellia sinensis

「鰟𩶆」条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科タナゴ亜科タナゴ属 Acheilognathus ・バラタナゴ属 Rhodeus に属する淡水魚の種群を包括して指す語。無論、比喩で、テンダイウヤクの葉の形がそれらの魚の体型に似ていると言っているのである。

「鯽魚(ふな)」コイ科コイ亜科フナ属 Carassius の種群を指す。同前の比喩。

「冬青(まさき)」バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属ソヨゴ Ilex pedunculosa当該ウィキによれば、『和名ソヨゴは、風に戦(そよ)いで葉が特徴的な音を立てる様が由来とされ、「戦」と表記される。常緑樹で冬でも葉が青々と茂っていることから「冬青」の表記も見られる』。但し、『「冬青」は常緑樹全般にあてはまることから、これを区別するために「具柄冬青」とも表記される。中国植物名でも、具柄冬青(刻脈冬青)と表記される』とある。なお、東洋文庫訳では、割注で『(灌木類。ナナメノキ)』とする。この「ナナメノキ」は、モチノキ目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis の異名で、中文ウィキの「冬青属」相当では、確かに狭義の「冬青」をナナミノキに宛ててはある。となれば、厳密には現代では、日中で同属異種ということになるが、明代に、それを確然と区別していたとは、私には思われないので、これ以上、ディグはしない。

「仁《じん/さね》」「さね」は東洋文庫訳のもの。

「芍藥」ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora 、或いは、その近縁種も含む。

「車《くるま》の轂(くるゝ《✕→こしき》)」良安に訓読の誤り。この「くるゝ」の誤りは、経過的には、良安の評の最後に出る『俗、「久久利《くくり》」と稱する者』の呼称(ソヨゴの異名或いは方言としては、生き残っていないようである)にうっかり引かれてしまった誤記が発端かと思う。一方で、物理的構造的に彼が想起したのは、扉の回転軸部分を言う「くるる」=「樞」(枢:「とぼそ」とも言う)で、これは、荷車の「轂」=「こしき」=「車輪の軸を受ける部分」のそれを、錯誤したものと考えるものである。

「嶺南」現在の広東省・広西省。

「黑褐色にして、堅-硬(かた)く」ウィキの「ソヨゴ」によれば、同属のモチノキ属クロソヨゴ Ilex sugerokii は、『やはり長い柄を持つ果実をつけ、葉の形などもやや似ているが、葉に鋸歯があり、全体にやや小さい。枝が黒っぽい』とあるので、それかと思ったが、調べてみると、これは本邦の本州(山梨以西)・四国産で、中国には自生しないようであるから違う。その近縁種か。

「洪州」現在の江西省。

「𢖍州(こうしう)」(「𢖍」は「衡」の異体字)湖南省。

「中風」脳血管障害の後遺症である半身不随・片麻痺・言語障害、及び、手足の痺れや麻痺などを指す症状の総称。

「中氣」(惡氣に中(あた)る)で、「中風」に同じ。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(7)

 

   秋寒し起て詠ル我まくら 諷 竹

 

 閨怨の句と見るべきであらうか。「閑吟集」に「逢ふ夜は君が手枕、來ぬ夜は己が袖枕、枕餘りに床廣し、寄れ枕こち寄れ枕、枕さへ疎むか」と云ひ「科[やぶちゃん注:「とが」。]もない尺八を枕にかたりと投げあてても、さびしや獨り寢」と云ふ類、いづれも同じ情趣を傳へてゐるが、季節は別に現れてゐない。諷竹の句は情を抒することが多くない代りに、「秋寒し」の一語を以て、我と我枕を眺めてゐる人の姿をまざまざと描き出してゐる。俳句と他の詩との行き方の相違は、この兩者を比較しただけでも、多少の消息を窺ひ得るであらう。

「詠ル」は「ナガムル」とよむのである。自分の枕を眺むる態度は、やがて自己を客觀する態度とも解せられる。

[やぶちゃん注:「閑吟集」の以上の二首は、別々の歌で、所持する岩波文庫「新訂 閑吟集」(浅野健二校注一九八九年刊)では、前者は通し番号「171」で、

   *

 逢ふ夜は君が手枕(たまくら) 來ぬ夜は己(おの)が袖枕(そでまくら) 枕餘りに床(とこ)廣し 寄(よ)れ枕 此方(こち)寄れ枕よ 枕さへに疎(うと)むか

   *

である。浅野氏の解説には、『狂言「枕物狂(まくらものぐるい)」の歌謡。狂言では、百歳(ももとせ)に余る老人が若い娘を恋い慕っての物狂いの場で歌うが、独立させれば前歌』(「170」の「めぐる外山(とやま)に鳴く鹿は 逢(お)うた別れか 逢はぬ怨みか」を指す)『を承けて、空閨をかこちながら輾転反側(てんてんはんそく)する女の歌とみることが出来よう』とある。後者は「175」で、

   *

 人を松蟲 枕にすだけど 淋しさのまさる 秋の夜すがら

   *

である。「松虫」が文学作品に登場するのは平安時代からであるが、一般に研究者は、当時は「松虫」(直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科 Xenogryllus 属マツムシ Xenogryllus marmoratus )と「鈴虫」(コオロギ科 Homoeogryllus 属スズムシ Homoeogryllus japonicus )の呼称は逆転していたとされ、現在と一致するのは江戸時代初期とされる。しかし、私は、これは昆虫学を知らない古典文学者の杜撰な説と考えている。それは長くなるので、「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 松蟲」の私の見解を見られたい。「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 金鐘蟲(すずむし)」はこちらにある。]

 

   年々のもたれ柱や星迎 白 雪

 

 緣側の柱などであらうか、七夕の夜二星を迎ふる每に、必ずその柱に靠れる[やぶちゃん注:「もたれる」。私はこの漢字が生理的に嫌いである。私は「凭れる」を使う。]習慣になつてゐる。格別子細があるわけでもない、年々歲々同じ星祭の行事を繰返すうちに、自然さういふ習慣を生じたのである。この句の裏面にはかなり長い時間が含まれてゐる。

「冬籠又よりそはんこの柱」といふ芭蕉の句は、冬籠だけに柱に寄添ふ時間が長いので、柱に對しても宛も[やぶちゃん注:「あたかも」。この漢字も嫌悪する。私は「恰も」を使う。]人の如き親しみを生じているが、白雪の句にはそれほどの感情は含まれてゐない。むしろ「年々に松打つ柱古りにけり 虛子」などといふ句の方に近いかと思ふ。尤も年に一度の「もたれ柱」は星の契[やぶちゃん注:「ちぎり」。]と同じく、見樣によつては却つて情味が深いことになるのかも知れない。擬人の弊に陷り易い七夕の句としては、この程度に離れる必要があるのであらう。

[やぶちゃん注:「冬籠又よりそはんこの柱」は「曠野」(元禄二(一六八九)年刊)では、

   *

 冬籠りまたよりそはん此はしら

   *

の表記で載る。この句は元禄元年十二月三日(グレゴリオ暦一六八八年十二月二十五日)附益光宛、及び、同月五日附尚白書簡に見える。

「年々に松打つ柱古りにけり」調べる限りでは、表記は、

   *

 年々に松うつ柱古りにけり

   *

である。]

 

   麻の葉の露や夜明の星祭 八 菊

 

「夜明の星祭」は夜明になつて星祭をするといふのではない、「星祭の夜明」と見たらよからうと思ふ。「星別れむとする晨[やぶちゃん注:「あした」。]」である。

 麻の葉と星祭とは直接の關係が無い。作者はあの靑い鮮な葉の上に、夜明に近い露を認めたまでである。若し七夕に直接の關係を持つてゐたら、この麻の葉の露もまた少しく擬人的なものに變化する虞がある。露を何者かの淚と見る趣向は、和歌以來已に陳腐であるのみならず、星の別の淚となつては愈〻ありがたくない。この句は飽くまでも客觀の景色と見るべきである。

 

2024/05/30

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(6)

 

   干綿に落て音なきじゆくしかな 暮 谷

 

 自ら枝を離れた熟柹が、綿を干した上に落ちる。柿が堅いか、下のものが堅いかすれば、音がするわけだけれども、柿も熟しており、下が柔い綿なので、何の音もしなかつた、といふのである。

 ちよつと變つた場合を見つけたところに面白味がある。綿を澤山積んで置いて、その上へ高いところから飛下りたら怪我をせずに濟むだらうか、といふやうなことを考へた少年時代を思ひ出す。

 

   鰯ほす有磯につゞく早稻田かな 句 空

 

 磯に續く此方は、一面の田圃たんぼになつていて、穗に出た早稻がそよいでいる。磯には鰯が干してある。烈しい秋の日が照りつけて、むつとするやうな干鰯ほしかの匂もあたりに漲みなぎつているに相違ない。

 芭蕉の「早稻の香や分け入る右は有磯海」といふ句は、海に近い稻田の比較的大きい景色と、その間をとぼとぼと行く芭蕉の旅姿を連想せしめるが、句空は「鰯ほす」の一語によつて、その磯の樣子を强く描き出している。北國作家の一人だから、舞臺は無論同じところである。

[やぶちゃん注:「句空」(没年不詳)は加賀蕉門の重鎮。元は金沢の商人であった。元禄元(一六八八)年四十一、二歳頃、京都の知恩院で剃髪し、金沢卯辰山の麓に隠棲した。翌二年、芭蕉が金沢を訪れた際に入門、同四年には、大津の義仲寺に芭蕉を訪ねている。五部の選集を刊行しているが、俳壇的野心は全くなかった。一方で、芭蕉に対する敬愛の念は深く、宝永元(一七〇四)年に刊行した「ほしあみ」の序文に、芭蕉の夢を見たことを記している。正徳二(一七一二)年刊行の「布ゆかた」の序に、当時六五、六歳とあり、この年以後の消息は全く不明である(以上は主文を朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「早稻の香や分け入る右は有磯海」私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 61 越中國分 早稻の香や分け入る右は有磯海』を見られたい。]

 

   何をする家とも見えず壁に蔦 其 由

 

 壁に蔦などを匍はせて住んでゐるが、必ずしも數寄者といふわけではない。この「何をする」といふ言葉は、蕪村が「こがらしや何に世わたる家五軒」といつたほど强い意味の言葉でなく、素性のわからぬ、得體の知れぬといつた程度のものと見るべきであらう。子規居士の「職業のわからぬ家や枇杷の花」といふ句が、ちよつとこの句に近いものを捉へてゐる。

[やぶちゃん注:「こがらしや何に世わたる家五軒」明和五年十月二十三日(グレゴリオ暦一七六八年十二月一日)の作。

「職業のわからぬ家や枇杷の花」明治三三(一九〇〇)年の作。]

 

   張聲や籠のうづらの力足 山 店

 

 籠に飼はれた鶉が一際聲を張つて鳴く時に、足に力を入れる、といふだけのことである。「張聲」と云ひ「力足」と云ひ、言葉の上にもいさゝか前後照應するものがある。

 由來俳人はこの種の觀察を得意とする。鶯の鳴く場合の描寫がいろいろあることは已に記した。但この種の觀察は、自然に活動する山禽野鳥の上には下しにくいので、畫家の寫生と同じく、籠中のそれを便宜とするわけであらう。この句も「籠の鶉」であることを、ちゃんと斷つてゐる。

 

   竹伐て日のさす寺や初紅葉 吾 仲

 

 句意は隱れたところもない。竹を伐つた明るい感じ、日のあたる寺、あたりの紅葉し初めた木々、といふやうなものは、そのまま一幅の畫圖である。

「肌さむし竹切山のうす紅葉 凡兆」といふ句は、竹を伐ることに紅葉を配した點で、稍〻似たやうな趣を具へてゐるが、凡兆の句が蕭條たる山中の氣を肌に感ぜしむるに對し、吾仲の句は繪畫的にあたりの景色を髣髴せしむるところがある。「初紅葉」と云ひ「うす紅葉」と云ひ、紅葉の色の濃からざる[やぶちゃん注:「こまやかからざる」。]ことが、句中の趣を助けてゐる點は、兩句ともあまり變りが無い。

「肌さむし竹切山のうす紅葉」この凡兆の句は「猿蓑」の「卷第三」に載る。岩波文庫堀切実編注「蕉門名家句選(下)」の解説によれば、『「木六竹八」といって、竹は陰暦の八月ごろに伐るのが最良とされる』とある。]

 

   秋の日や釣する人の罔兩 雲 水

 

「罔兩」は「カゲボフシ」とよむのであらう。秋天の下に釣する人の影法師を描いただけの句で、今の人から見たら大まかに過ぎるかも知れない。併し徐にこの句を再誦三誦して見ると、何となく棄て難いものがある。無心に釣を垂れてゐる人の影法師は、春日でも面白くなし、冬日でも工合が惡い。夏の炎天では尙いけない。たゞ一個の影法師を描いただけで、或うらさびしさを感ぜしむるのは、天地に亙る秋の氣の力である。何の背景もなしに或空氣を描き出すのは、かういふ大まかな句の一特長とも見ることが出來る。

 

   妹がすむたばこの花の垣根かな 春 鷗

 

 煙草の花は美しいものである。妹の垣根に煙草が高く伸びて、美しい花をつけてゐるなどは材料が新しいのみならず、眺としても面白い。「妹が垣根三味線草の花咲きぬ」といふ蕪村の句は、實景であつたかも知れぬが、妹と三味線とが緣のあるものだけに、殊更にかういふ想を構へたかといふ疑も起る。煙草に至つてはそんな關係は何も無い。極めて自然である。

 煙草が官營になつてから、もう四十年近くになるであらうか。煙草の製品が專賣局以外にないのみならず、植えられた煙草の葉一枚と雖も、苟も[やぶちゃん注:「いやしくも」。]出來ないことになつてしまつた。何かの煙草の中に種子がまじつてゐたのを蒔いて置いたら、煙草が生えて花が咲出した爲、遂に見つかつて罰金を取られた、といふ話を聞いたことがある。煙草花咲く妹が垣は、昔の夢とするより仕方がない。

[やぶちゃん注:「煙草が官營になつてから、もう四十年近くになるであらうか」まず、「葉煙草專賣法」は、明治二七(一八九四)年から翌年に、「日清戦争」を受けて、国家財政の補助のために導入された税金であったが、逆に「葉煙草」の不正取引や、安い輸入品の国内流入を招く結果を生み、政府は目標の税収を得ることが出来なかった。それに対処するため、総てを国が管理する「煙草專賣法」が明治三七(一九〇四)年に「煙草専売法」が制定された(以上は「JT」公式サイトの「たばこの歴史」の『専売化された「たばこ」』に拠った)。]

譚 海 作者津村津村正恭淙庵の後書・柳塘主人「序」/ 「譚海」~九年四ヶ月を経て全電子化注終了

[やぶちゃん注:「譚海」の電子化注は、今までのプロジェクトでは、最も時間がかかった。始動は二〇一五年二月九日であった。実に九年四ヶ月を費やした。感慨無量――

 以下は、まず、漢文のままに電子化し(返り点のみが附されてある)、後に推定訓読を示す。

 なお、底本には、「目錄」が冒頭にあるが、それは総ての投稿で標題にしたものであり、カテゴリ「譚海」で全標題が一目で順に見えるので、屋上屋はせぬこととする。

 

予壯歲有志于四方而塵鞅不ㇾ果、每厠稠人談、及四方之事、亦不ㇾ爲ㇾ尠焉。遂記矢口之言譚海其始也偶然筆ㇾ之、中則荒於其業、終則勇於其成。既而二十年成十五卷、亦復足ㇾ贘初志耳。今也老矣、時時展玩、如別閱宇宙也、呵々。

  寬政七仲夏之吉        淙庵道人識

 

○やぶちゃん推定訓読

 予、壯歲(さうさい)、志(こころざし)、四方(しはう)に有り。而して、塵鞅(ぢんわう)ありて、果たせず、每(つね)に稠人(ちうじん)の談に厠(まじ)り、四方(よも)の事に及びて、亦、尠(すこ)しも爲(な)さず。遂に矢口の言を記(き)して、「譚海」と名づく。其の始めや、偶然、之れを筆(ひつ)し、中(なかごろ)には、則ち、其の業(ぎやう)、荒れ、終(つひ)に、則ち、其れを成さんと勇めり。既にして二十年、十五卷、成り、亦復(またまた)、初志を贘(ほむ)るに足(た)るのみ。今や老いたり、時時(じじ)、展玩(てんぐわん)し、三別して宇宙を閱(けみ)するがごときなり。呵々(かか)。

  寬政七仲夏 吉        淙庵道人識

 

[やぶちゃん注:「塵鞅」この世の足手纏い。

「稠人」衆人。多くの人。

「矢口の言」次々と放たれる弓矢の如き人々の語りの意か。明和七(一七七〇)年一月に江戸外記座にて初演された人形浄瑠璃「神靈矢口渡」に引っ掛けたものかとも思ったが、私の知るその語りには、ピンとくるものがなかった。

「厠」「廁」の異体字であるが、動詞で「まじる・まじえる」の意がある。

「寬政七」一七九五年。

「展玩」見て楽しむこと。

「三別」「三」は単にパートを大きく分けることを言っていよう。]

 

 

[やぶちゃん注:本底本冒頭にある「序」。但し、これは底本の竹内利美氏の冒頭解題に、この「序」は筆者した際に「柳塘主人」 が『勝手に書き加えたもののようである』とあったことから(後で当該部を引用した)、わざと外したものである。ここに参考までに掲げることとする。竹内氏によれば、この「序」は国立国会図書館本にしかない、とされる(国立国会図書館デジタルコレクションの画像では、ここ)。そして、『筆者の柳塘主人は幕末の漢詩人小栢軒(晩翠軒)と思われるが、淙庵との関係は未詳である。しかし淙庵自身の依頼によるところではなく、後に筆写の際、勝手に書き加えたもののようである』とあるのである。電子化は以上の後書に準じた。この漢文の訓読は、かなりクセがあって、少し手間取った。万一、よりよい訓読法があれば、御教授願いたい。]

 

 序

 古往今來、受人身南瞻部州者何限、而電光石火之際、多與草木偕朽、寥々無ㇾ聞、是可ㇾ咲矣、然則以ㇾ何、不草木化朽也、受人身者、可ㇾ有ㇾ爲耳、𡉌士得ㇾ志、則以其所一レ學施其所一レ行、德加百姓、功蓋一世、是現宰官身、最上得意者所爲也、朝遊花街、暮宿柳樓、或呂名香、或鬪芳茗視ㇾ酒如ㇾ水、擲ㇾ金若ㇾ土、豪邁不覉、自我作ㇾ古者、雖ㇾ非善男子、然互必竟有ㇾ爲者也、然是得其時與勢者也、不ㇾ得其時與勢、而不草本偕朽者、最難矣、淙庵老人、生-長市朝之間、且其生計頗窮、不ㇾ得時與勢最甚者也、而風流溫藉、勤ㇾ學不レ倦、其緖餘著譚海一書、雖ㇾ書ㇾ以國字、上從廟堂遺事、下到里巷鎖說、及山川土草本、禽魚之微、上下數百年、縱橫千萬里、目所ㇾ視耳所ㇾ聽、筆之不ㇾ洩、奇々妙々、使ㇾ人閱斯書、猶ㇾ行會稽道上一、唯恐、其書也是可以傳後世矣、後世得奇々妙々之賜於淙庵老人、又使後世知南瞻部州、有淙庵老人者有、而不草木化朽也、夫在此一書哉、僕不ㇾ堪艷羨乃歌曰、富耶貴耶、一肱手眠、北邙之土、埋ㇾ醜埋ㇾ娟、唯其著述、可以永年、遂書以爲ㇾ序

                 柳 塘 主 人

 

○やぶちゃん推定訓読

 序

 古往今來、人身を受け、南瞻部州に生まれしは、何(いづ)れが限りか。而して、電光石火の際、多くは、草木(さうもく)と偕(とも)に朽ち、寥々(れうれう)として、聞く無し。是れ、咲(わら)ふべし。然れば、則ち、何(いづ)れを以つて、草木と化(かわ)して朽ちざらんや。人身を受くるは、爲す有るのみ。𡉌(ひさし)く、士、志(こころざし)を得て、則ち、其の學ぶ所を以つて、其の行く所に施す。德は百姓(ひやくせい)に加へ、功(こう)、一世(いつせい)を蓋(おほ)ふ。是れ、現宰(げんさい)・官身(かんしん)、最上の得意の者の所爲(しよゐ)なり。朝(あした)に花街(くわがい)に遊び、暮(くれ)に柳樓(れうらう)に宿(やど)す。或いは、名香(めいかう)を呂(き)き、或いは、芳茗(はうめい)を鬪(あらそ)ひ、酒を視れば、水のごとく、金を(なげう)ちて、土(つち)のごとく、豪邁不覉(がうまいふき)、自づから、「我れ、古(ふる)きを作(な)すは、善男子(ぜんなんし)に非ざると雖も、然(しか)も互ひに必竟(ひつきやう)、爲(な)すこと有る者なり。然(さ)れば、是れ、其の時の與勢(よせい)を得たる者なり。其の時の與勢を得ざれば、而して、草本と偕(とも)に朽ちざる者は、最も難(なん)たり。」と。淙庵老人、市朝(してう)の間(かん)に生まれ、且つ、其その生計(なりはひ)、頗窮(ひんきゆう)たり。時の與勢を得ざるは、最も甚しき者なり。而れども、風流にして溫藉(をんしや)、學に勤めて、倦(う)みず、其の緖餘(しよよ)、「譚海」一書を著(ちよ)す。國字を以つて書くと雖も、上(かみ)は廟堂遺事より、下(しも)は里巷鎖說(りかうさせつ)に到る。山川(さんせん)・土(ど)・草本(さうほん)、禽魚(きんぎよ)の微(び)に及ぶ。上下(かみしも)數百年(すひやくねん)、縱橫(じゆうわう)、千萬里、目(め)、視る所、耳、聽く所、筆、之れ、洩らさず、奇々妙々、人をして斯(こ)の書を閱(けみ)して、猶ほ、會稽(くわいけい)の道上(だうじょう)を行くがごとし。唯だ恐る、其の書や、是れ、以つて後世(こうせい)に傳ふべきに、後世、淙庵老人より、奇々妙々の賜(たまはり)を得て、又、後世、南瞻部州に、淙庵老人、有るを知らしめし者、有(あ)りて、而して、

「草木と與(とも)に化して朽ちざるや。夫(そ)れ、此の一書に在(あ)るや。」

と。僕(ぼく)、艷羨(えんせん)に堪へず、乃(すなは)ち、歌ひて曰はく、

「富(ふ)や貴(き)や 一肱手(いつこしゆ)の眠(ねむ)り 北邙(ほくばう)の土(つち) 醜(しう)に埋(うづ)み 娟(けん)に埋む」

と。唯だ、其の著述、以つて永年なるべければ、遂(つひ)に書き、以つて、「序」と爲(な)す。

                 柳 塘 主 人

 

[やぶちゃん注:「寥々」「ものさびしくひっそりとしているさま」「空虚なさま」「むなしいさま」「寂莫」の他に、「数の非常に少ないさま」の意がある。総てハイブリッドに含むと考えてよい。

「𡉌(ひさしく)、士」「𡉌」は漢語ではなく、「Unicode(ユニコード)一覧とURLエンコード検索・変換サイト」を名乗る「0g0.org」のここによれば(このサイト、難字を検索すると、しばしがかかるのであるが、その解説では、やはり意味を記さず、それでいて、周辺情報を記すという、糞AIが作った文章のような、常体・敬体ゴチャ混ぜで、全体に気持ち悪さ満載である。以下の引用を見られたい)、『江戸時代末期に作られた字体である。この字体は、当時のみんなが描く文字に対して、より美しい字体を求めた結果生まれました。そこで、書道家たちは文字の形を考え抜き、その結果『𡉌』という文字が生まれました。 この文字は、四角くて対称的な形をしており、線が細く曲線も繊細です。それ故、細かな作業が必要とされ、書くことはとても難しいと言われています。しかし、綺麗に書かれた𡉌の文字は、美術品のような美しさを持っているため、多くの人々から愛されています。 𡉌は、現代でもなお、書道家や美術家たちから関心の的となっています。また、近年では、この書体を使用したデザインやロゴなどが注目を集めるようになっており、その魅力が再び見直されているといえます。 このように、𡉌という文字は、美しい形状とその歴史的な背景により、現代でも愛され続けています』とあるのである。だったら、ネットの目立とう精神満々の書道家や美術家が、この字を示したページが一杯なきゃ、おなしいだろ? 但し、事実、複数の中文サイトでは、意味を示さず、「輸入された漢字」という附記があった。というわけで、意味不明。当初、「𡉌士(きうし)」と読んでいたが、これでは意味が解らないから、まあ、(つくり)の「久」が意味であろうと踏めば、この分離で読んでおいたものである。

「柳樓」「靑樓」に同じ。妓楼だが、江戸では特に官許の吉原遊郭を指した。

「呂(き)き「呂」に動詞の用法はない。日本や中国の音楽で陰(偶数番目)の音階を指す「呂律」(りょりつ)である。そこで、香道で「香を聞く」と言うから、それを私が、かく、洒落て訓読したものである。

「芳茗」香りのよい高級茶。

「豪邁不覉」「豪邁」は「気性が強く、人より勝れていること」、「不覉」は「物事に束縛されないで行動が自由気ままであること」、また、「才能などが並はずれていて、枠からはみ出すこと」だが、ここは前の意でよかろう。

「溫藉」心が暖かく、広いこと。

「緖餘」残されたもの。

「里巷鎖說」田舎や市街の巷間に関わる繋ぎ合わされた諸説。ここは、噂話・都市伝説等の尾鰭のついた流言飛語を底辺の老いた謂いか。

「土(ど)」は「風土」で、民俗社会を指していよう。

「會稽の道上を行く」知られた「臥薪嘗胆」の「會稽の恥を雪ぐ」をインスパイアした表現。遂に「譚海」だけが残った「𡉌」(ひさ)しく精進努力した、埋もれていた士、津村淙庵が、この書が大衆に読まれることで、屈辱を晴らし、名誉回復すると、大讃歌をぶち上げたのである。

「後世、淙庵老人より、奇々妙々の賜(たまはり)を得て、」原文「後世得奇々妙々之賜於淙庵老人、」の返り点では私は読めないと判断したので、かく訓じた。

「艷羨」羨ましく思うこと。

「富(ふ)や貴(き)や 一肱手(いつこしゆ)の眠(ねむ)り 北邙(ほくばう)の土(つち) 醜(しう)に埋(うづ)み 娟(けん)に埋む」「一肱手の眠り」は、ちょっとの間、手の肘を曲げて転寝(うたたね)することであろう。富貴(ふうき)は勿論、人生そのものがそのように無常にして一瞬の果敢ないものだというのであろう。而して「北邙」が出る。これは一般名詞で「墓場」の意である。結句は、「果敢ない富貴とは対照的に、富貴であっても遺体は醜く埋められ、無名にして貧しくとも、その遺体は艶やかで美しい。」と言うのであろう。]

2024/05/29

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(22) / 「譚海」本文~了

○瘡毒の藥。

 白鮮皮(はくせんぴ)・防風・荆芥・木瓜(ぼけ)・薏苡仁(よくいにん)・木通(あけび)・金銀花・苦參(くじん)・龍膽草(りゆうたんさう)・唐皂角子(たうさうかくし)・澤潟(おもだか)・唐大黃(たうだいわう)【各五匁。】・茯苓・川芎・黃連・黃柏・杜仲・車前子【各一匁七分。】・連翹・生地黃(なまじわう)・黃笒(わうごん)・山巵子(くちなし)・當歸・甘草【各七分。】

 已上、廿四味を七貼(てう)にして、一貼へ、山歸來、八十目宛(づつ)、加へ、七日、飮(のむ)べし。

痼疾の瘡毒、耳など聞えざるものにても、治する也。尤(もつとも)、大貼にして用(もちゆ)べし。

山歸來は、一番、二番、三番けづり迄、有(あり)。下直(げぢき)の品、よし。禁物、あぶらこき肴(さかな)を、いむ。此藥、妙也。

[やぶちゃん注:「瘡毒」梅毒。

「白鮮皮」ムクロジ目ミカン科ハクセン属ハクセン Dictamnus albus の根皮を基原とする生薬で、当該ウィキによれば、『唐以降の書物に見られ』、『解毒や痒み止めなどに用いられていたが、現在は』殆んど『用いられない。ヨーロッパでは、皮膚病の薬や堕胎薬として用いられていた』とある。

「薏苡仁」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科ウシクサ連ジュズダマ属ジュズダマ変種ハトムギ  Coix lacryma-jobi var. ma-yuen の皮を剥いた種子を基原とする生薬。当該ウィキによれば、『滋養強壮、いぼ取りの効果、利尿作用、抗腫瘍作用(消炎)などがあるとされる』とある。

「苦參」マメ目マメ科マメ亜科クララ連クララ属クララ Sophora flavescens の根又は外の皮を除いて乾燥したものを基原とする生薬。当該ウィキによれば、『利尿、消炎、鎮痒作用、苦味健胃作用があ』る、とする。なお、『和名の由来は、根を噛むとクラクラするほど苦いことから、眩草(くららぐさ)と呼ばれ、これが転じてクララと呼ばれるようになったといわれる』とあった。

「龍膽草」リンドウの異名。]

 

○又、一方。

 山歸來・忍冬・土骨皮【各六匁。】・桔梗・大黃・黃連【各一匁。】・甘草【五匁。】

 右、七味、是は輕き瘡の藥也。

 

○又、一方。

 山歸來【四匁。】・防風・木瓜・木通・薏苡仁・白鮮皮・金銀花【各五分。】・皂角子【四分。】

 已上、八味。

 

○瘡毒痼疾、ほねがらみに成(なり)たるを、治す。

 此藥、奇々、神の如し。見聞して覺たる所也。牛込原町若松町、御旗組同心衆今井利助殿より出(いづ)る。一劑代金、一兩二步也。なほり、こじれたる淋病抔に、半劑、服して功、有(あり)。若(もし)此藥、用ひたくば、金子、持參(もちまゐ)れば、製藥に取(とり)かゝり、四、五日過(すぎ)て、出來る也。禁物、甚(はなはだ)多し。乍ㇾ去(さりながら)、鼻の缺(かけ)りたるも、此藥を用(もちゆ)る時は、元の如くに、直(なほ)る程の奇方也。

[やぶちゃん注:梅毒で鼻が欠けた場合、直るというのは、望めない。]

 

○おらんだ水藥(みづぐすり)。

 右の藥、「かさ」に用(もちゆ)る事、有(あり)。必(かならず)、用べからず。害をなす事、至(いたつ)て、深し。此藥、用(もちい)て後は、外に治すべき方(はう)有(あり)ても、きかず、愼(つつしみ)恐るべし。

 

○病犬にかまれたるには、

 右藥、賣(うる)所、淺草門跡、前橋の際(きは)、藥店に有(あり)。一貼、代金、一步也。此藥を服すれば、二度(ふたたび)起る事、なし。但(ただし)、此藥、用(もちい)る時は、病氣、つよく起(おこり)て、死(しな)んとするほどに有(ある)也。二、三日、過(すぐ)れば快氣する間、驚(おどろく)べからず。

 

○又、一方。

 「とこゆ」【柚の類也。】、「わさびおろし」にて、すり、疵口を、水にて、能(よく)、洗(あらひ)て、すり、つくれば、疵口より、水、出(いづ)る。しばらく置(おき)て、又、すり付(つく)べし。いくたびも如ㇾ此すれば、よく直る也。

[やぶちゃん注:「とこゆ」果実が小形で早熟性のムクロジ目ミカン科ミカン属ハナユCitrus hanayu 。異名を「ハナユズ」「一才ユズ」等とも呼ぶ。]

 

○又、一方。

 紫蘇(しそ)の葉を、もみて、汁も葉も共に、ぬり付(つく)べし。

 

○馬、又は、犬などに、かまれたるには、

 「さゝげ」のみを、かみくだきて、付(つく)べし。すべて、獸(けもの)に、くはれたるには、よく、功、有(あり)。

 

○「まむし」にさゝれたるには、

 樟腦一味、「みゝづ」に、すりまぜて、付(つく)べし。

[やぶちゃん注:「樟腦」本日、公開した『「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 樟腦」』を参照されたい。]

 

○又、一方。

 「螢火丸」を、かみくだき、「つばき」にて、ぬり付(つけ)て、よし。

[やぶちゃん注:「螢火丸」「京都産業大学」広域サイト内のここにある「蛍火武威丸(包紙)」か。『代々』、『陰陽頭をつとめた土御門家が製造していた薬』とある。]

 

○又、一方。

 「なめくじり」を付(つく)れば、立所(たちどころ)に治する也。

 

○又、一方。

 年始に門松に用(もちい)たる「くし柹(がき)」を、かみくだき、付(つけ)て、よし。

 

○又、一方。

 朝がほの葉を、つねに、「ごまの油」に、ひたし置(おき)、それを、「まむし」にさゝれたる時に付(つく)れば、卽功、あり。

 

○又、一方。

 疵口へ、「とりもち」を、ぬりて、膝の「ふし」より下を、土の中へ、しばし埋(うづめ)て居《を》れば、去る事、妙也。

[やぶちゃん注:河豚中毒者を地中に埋めて治すのと兄弟のトンデモ療治だな。]

 

○「まむし」を、よくる守札。

 右、上杉家中志津田孫兵衞と云(いふ)人より出(いづ)る。每年正月十六日・七月十六日、兩度也。禮物(れいもつ)、百錢、持參する也。其外の日、所望すれば、金子百疋なり。此符、神驗(しんげん)ある事、筆上に、つくしがたし。

 

○鼠に、くはれたるには、

 「しきみ」の「枯(かれ)ば」を細末にして、せんじて、痛所を、あらひ、又、一ぷくほど、飮(のみ)て、よし。

[やぶちゃん注:危険ですな、シキミは全草が有毒ですから。]

 

○又、一方。

 日本橋平松町、井上文平、所に、あり。「つて」を賴(たのみ)て、もらふべし。

 

○蜂にさゝれたるには、

 芋の葉にても、「くき」にても、すりつくれば、痛(いたみ)、忽(たちまち)に止(とま)る也。生(なま)の「里いも」を付(つけ)ても、よし。

 

○「あり」を、さる方。

 ありのかよふ道へ、「熊のゐ」を、水にて、とき、ぬりて、よし。

 

○「のみ」を、さる方。

 菖蒲(しやうぶ)にて、「むしろ」を、あみて、敷(しき)てねる時は、のみ、よらず。

 

○虱(しらみ)を、さる方。

 「朝がほ」の葉を、湯に、わかしたるにて、洗濯すべし。

 

○蚊いぶしの方。

 「べぼう」と云(いふ)木を、蚊遣に、すべし。

 右數寄屋河岸、さつま物問屋に、あり。

[やぶちゃん注:「べぼう」「譚 海 卷之十三 べほうの事」の私の注を見られたい。]

 

○又、一方。

 蓬(よもぎ)を、陰ぼしにして、蚊遣にすべし。

 

○諸蟲、「あんどん」へよらざる法。

 萱(かや)の實、一つ、つるし置(おく)時は、諸蟲、燈へ、よる事、なし。

[やぶちゃん注:この「萱」は、恐らく「大麻草」、バラ目アサ科アサ属 Cannabis のそれであろう。]

 

○魚を、いかす方。

 死なんとする鯉・鮒のたぐひ、一夜、水しだりを、しかけて、其水へ、はなち、水の音を、きかするやうにすべし。

 

○百草黑燒の方

 五月五日、百種の草を採集(とりあつめ)て、其夜、露を、うけて、翌日より、每日、炎天に、ほし、かためて、後、黑燒にすべし。

 

○病人、生死を見わくる藥。

 辰沙・五靈脂(ごれいし)【各三匁。】・銀硃【一匁五分。】・麝香【三分。】・ひまし【三匁。】・雄黃【五匁。】・巴豆

 已上、七味、右、端午、淨室(じやうしつ)に入(いり)て、午(うま)のとき、細末して、磁器に貯(たくは)ふ。但(ただし)、婦人の手に觸(ふる)べからず。此藥用たる跡、川へ、ながすべし。右の藥、「ふき」の賞(み)の大さに、まろめ、病人の印堂(いんだう)の穴に付(つけ)て、線香一本焚(たく)ほど、置(おき)て、此藥を取(とり)すつべし。其跡、赤く、はれあがりたる時は、重病とても、蘇生す。

[やぶちゃん注:本篇を以って、「譚海」は終っている。後は、津村の後書(漢文)と、本底本冒頭にある「柳主人」なる人物の「序」のみである(この「序」を最初に配さなかったのは、竹内利美氏の冒頭解題に、この「序」は筆者した際に「柳主人」 が『勝手に書き加えたもののようである』とあったからである)

「五靈脂」中国に棲息する哺乳綱齧歯目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属Petaurista の糞を基原とした生薬。「金澤 中屋彦十郎藥局」公式サイト内のこちらによれば、『成分としてはビタミンA類、その他で』、『炒りながら』、『酢や酒を加え、乾燥したものがよく用いられる』。『かつては解毒薬として蛇、ムカデ、サソリ等に咬まれたときに外用した』とある。

「銀硃天然の辰砂に硫黄を混ぜたニカワを練り合わせて作った朱w「銀朱」と呼ぶが、これか。

「ひまし」「ひまし油」か。漢字では「篦麻子油」と書く。「篦麻」はトウダイグサ目トウダイグサ科トウゴマ(唐胡麻)Ricinus communis のことを指し、その種「子」から採取する植物油の謂いである。但し、その強い毒性は必ずしもよく認識されていないと思うので(ごく最近、本邦で夫をこれで殺害しようとした妻が逮捕されたニュースを見た)、ウィキの「トウゴマ」から引いておく。『種子から得られる油はひまし油(蓖麻子油)』が知られるが、この『種にはリシン(ricin)という毒タンパク質がある』。『学名の Ricinus はラテン語でダニを意味しており、その名のとおり果実は模様と出っ張りのため、ダニに似ている。トウゴマは栽培品種が多くあり、その植生や形態は個体によって大きく変化し、あるものは多年生で小さな木になるが、あるものは非常に小さく一年生である。葉の形や色も多様であり、育種家によって分類され、観葉植物用に栽培されている』。『一属一種。原産は、東アフリカと考えられているが、現在では世界中に分布している。公園などの観葉植物として利用されることも多い』。種子は四〇~六〇%の『油分を含んでおり、主にリシノリン』『などのトリグリセリドを多く含むほか、毒性アルカロイドのリシニンも含む』。『トウゴマの種は、紀元前』四千年頃に『つくられたエジプトの墓所からも見つかっている。ヘロドトスや他のギリシャ人旅行者は、ひまし油を灯りや身体に塗る油として使用していたと記述している。インドでは紀元前』二千年頃から『ひまし油を灯りや便秘薬として使用していたと記録されている。中国でも数世紀にわたって、内用・外用の医薬品として処方されている。日本では、ひまし油は日本薬局方に収録されており、下剤として使われる。ただし、猛毒であるリシンが含まれているため、使用の際は十分な注意が必要である。特に妊娠中や生理中の女性は使用してはならない。また、種子そのものを口にする行為はさらに危険であり、子供が誤食して重大事故が発生した例もある』とする。ウィキの「リシン」によれば、リシンは『猛毒であり、人体における推定の最低致死量は』体重一キログラ当たりたったの〇・〇三ミリグラムで、毒作用は服用から十時間後程度で発生、その機序は『たんぱく質合成が停止、それが影響していくことによる仕組み』拠るとある。『リシン分子はAサブユニットとBサブユニットからなり、Bサブユニットが細胞表面のレセプターに結合してAサブユニットを細胞内に送り込む。Aサブユニットは細胞内のタンパク質合成装置リボゾームの中で重要な機能を果たす28S rRNAの中枢配列を切断する酵素として機能し、タンパク質合成を停止させることで個体の生命維持を困難にする』。『吸収率は低く、経口投与より非経口投与の方が毒性は強いが、その場合の致死量はデータなし。戦時中はエアロゾル化したリシンが、化学兵器として使用された事もある。また、たんぱく質としては特殊な形をしているため、胃液、膵液などによって消化されず、変性しない』。また、『現在、リシンに対して実用化されている』科学的に有効と断定される『解毒剤は存在しない』とある。

「印堂」眉間の中央部分にあるツボの名称。]

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(21)

○みもちの婦人、麻疹(はしか)する時、傷產(しやうざん)せぬ方。

 「伏龍肝(ぶくりゆうかん)」一味、水に、とき、臍のあたり、すべて胎(たい)の有(ある)あたりへ、ぬるべし。傷產する事、なし。寶町桐山、三ケ所にあるもの、よし。

[やぶちゃん注:「傷產」読みは以下の読みから推測。死産・流産、或いは、胎児が母から麻疹に感染したり、或いは、その結果として、何らかの障碍を持って生れて来ることか。

「伏龍肝」前回で既出既注だが、再掲すると、「株式会社ウチダ和漢薬」公式サイトの「ブクリュウカン(伏龍肝)」を見られたい。]

 

○「たむし」を治する奇方

 「はらや」、一箱の目かたに、「かたべに」、五、六丁目、くはふ。右、二味を、「ぬかのあぶら」にて、ねりて、たくはひ置(おき)、それを酢にて、とき、付(つく)べし。いかやうの「たむし」にても、跡なく、治す。但(ただし)、「はらや」は、水かねを燒(やき)たるもの也。一箱の價(あたひ)、銀十匁程、「ぬかのあぶら」のとりやうは、茶わんを、紙にて、くゝりふたぎ、紙の上へ、「ぬか」を、もり、「ぬか」へ火を付(つく)れば、「ぬか」、もゆるに隨(したがひ)て、段々、茶わんへ、紙を、こして、油、したゝる也。

[やぶちゃん注:「たむし」「田蟲」。白癬の一種で、皮膚に小さな丸い斑点が生じ、それが次第に周囲に向かって円状(銭状)に広がって、中央部の赤みが薄れて輪状の発疹となる。痒みが激しい。股間に生ずるものは特に「陰金田虫」(いんきんたむし)という。銭田虫。

「かたべに」「形脂」で「かたべに」と読む。紅花(双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctorius )から採った、どろどろした艷紅(つやべに)を乾燥させたもの。口紅・印肉・食料品の染色材料とされる。]

 

○又、一方。

 硫黃・大黃・明礬、三味、粉にして、酢にて、付(つく)る。

 

○田蟲・水蟲・しらくも・あせも。

 右の藥、正恭(まゆき)、家方(かはう)也。こゝに、しるさず。

[やぶちゃん注:「正恭」作者津村淙庵の本名。書かんカイ! アホンダラ!]

 

○「魚の目」には、

 蜂の子の、かへらぬ内に取(とり)て、すりつぶし、付(つけ)て、よし。

 

○「いぼ」をぬく藥。

 餅米を、粉にして、石灰に和し、水に、とき、ぬり付(つく)べし。但(ただし)、「いぼ」を、いろひ[やぶちゃん注:「綺(いろ)ふ」。手でいじる。]たる手にて、外の所をかき、又は、なで、など、すべからず。其まゝ、うつりて、「いぼ」、出來(いでく)る也。

[やぶちゃん注:この但し書きのそれは、ウイルス性イボ=尋常性疣贅(ゆうぜい)であることを意味する。]

 

○名のしれぬ腫物、出來(でき)たるには、

 白つゝじの花、一匁、集置(あつめおき)て、水にひたし、洗ふべし。如ㇾ此して、いえざるときは、「みぞはぎ」の花、一匁、加へて洗(あらふ)べし。治する也。

[やぶちゃん注:「みぞはぎ」フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属ミソハギ Lythrum anceps 。私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 鼠尾草(みそはぎ) (ミソハギ)」を参照されたい。]

 

○なほりこじれたる出來物には、

 鮒(ふな)を生(いき)たるまゝにて、はらわた・鱗共(とも)に、「すり鉢」にて、すりつぶし、「そくゐ[やぶちゃん注:ママ。]」で、まぜ、紙にぬりて、付(つく)べし。

[やぶちゃん注:「そくい」「續飯」。既出既注だが、再掲しておくと、飯粒を練りつぶして作った粘りけの強い糊のこと。]

 

○禁穴へ出來たる腫物(はれもの)を、外へ引(ひき)て治する方(はう)。

 寒中の「むぐらもち」を黑燒にして、胡麻の油にて、とき、腫物の引たき所へ、腫物より、胡麻の油にて、筋を、ひき、幾度も、其所へ、指に油をぬり、ひけば、禁穴の腫物は直りて、油、引たる所へ、「むくり」と出來(いでく)る也。其所にて、膏藥にても、治する方を用(もちい)て、療治すべし。

[やぶちゃん注:「禁穴」命に拘わる急所。

「むぐらもち」モグラの古称。]

 

○もろくもろ腫物には、

 犬山椒の實を、すり付(つく)べし。

 

○腫物に付(つけ)てよき藥、諸病に用(もちい)て、よし。

 忍冬を、二寸程に切(きり)て、澤山に拵へ、せんずべし。尤(もつとも)、水、澤山、入(いれ)て、二日ほど、せんじ、五斗の水三升程に成(なる)を待(まち)て、絹にて、粕(かす)を、こしさり、其跡へ、金銀花を細末にし、入(いれ)て、又、せんじつめて、地黃のやうに、かたまりたるとき、火より、おろすべし。右、用(もち)ゐやう、一日に十匁ほどづつ、朝夕二度に、のむべし。腫物には付(つけ)ても、よし。

[やぶちゃん注:「金銀花」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica の異名、及び、棒状の蕾の生薬名。当該ウィキを見られたい。]

 

○「つぶり」へ出來物せしには、

 茵蔯十匁・「すひかづら」二十匁、合(あはせて)三十匁、右を、三つに、わけ、三日ほどして、一日分へ、大柄杓で、水、五はい、入(いれ)て、四はい半に、せんじつめ、あらふべし。半時程づつおいて、一日にて、八度、洗(あらふ)べし。

[やぶちゃん注:「茵蔯」既注の「茵蔯湯」の主剤の「インチンコウ」=キク亜綱キク目キク科ヨモギ属カワラヨモギ Artemisia capillaris の頭花であろう。]

 

○又、一方。

 こき白水へ(しろみづ)、靑袋、一味、加へ、煎(せんじ)、洗(あらふ)べし。一日に、二、三度も、あつく、わかし、あらへば、内へ入(いる)事、なし。

[やぶちゃん注:「白水」米の研ぎ汁。

「靑袋」これは恐らく「靑黛(せいたい)」の津村の誤記であろう。国立国会図書館本を見ると、ひらがなで『せいたい』となっているからである。「慶應義塾大学医学部消化器内科」公式サイト内の「慶應義塾大学病院IBD(炎症性腸疾患)センター」の「センターからのお知らせ」の「青黛もしくは青黛を含有している漢方薬を使用している患者さんへ」の冒頭部に、『 青黛(せいたい)とは、リュウキュウアイ、ホソバタイセイ等の植物から得られるもので、中国では生薬等として、国内でも染料()や健康食品等として用いられています。近年、潰瘍性大腸炎に対する有効性が期待され、臨床研究が実施されているほか、潰瘍性大腸炎患者が個人の判断で摂取する事例が認められています』。しかし、『今般、青黛を長期に服用した潰瘍性大腸炎患者において、青黛の服用と因果関係の否定できない肺動脈性肺高血圧症が発現した症例が複数存在することが判明したことから、厚生労働省が関係学会等に対して注意喚起を行いました』(以下略)とあった。例示された基原植物は、シソ目キツネノマゴ科イセハナビ属リュウキュウアイ Strobilanthes cusia と、アブラナ目アブラナ科タイセイ属ホソバタイセイ Isatis tinctoria である。]

 

○又、一方。

 白朮の粉を、すり付(つけ)、すり付、すべし。

 

○又、一方。

 「淸上防風湯」、荊芥(けいがい)を去(さり)て、せんじ、服すべし。

[やぶちゃん注:「淸上防風湯」「6」で既出既注。]

 

○「ねぶと」は、

 「みそ」を、ひらたくして、「はれ物」の上へ置(おき)、灸すべし。膿をもつ事、はやし。扨(さて)、膏藥にて治すべし。

[やぶちゃん注:「ねぶと」「根太」。ここは所謂、「おでき」の一種としておく。大腿部や臀部などに発し、赤く腫れて硬く、中心が化膿して時に激痛がある。「疔」(ちょう)や「癰」(よう)等とも呼ぶ。但し、鼠径リンパ節に痛みのある腫脹が発生する症状の中には、性病の軟性下疳や硬性下疳の場合もある。]

 

○又、一方。ふるき紙子(かみこ)を付(つく)るも、よし。

[やぶちゃん注:改行なしは、ママ。]

 

○癰疔(ようちやう)には、

 「萬病感應丸」、よし。食傷の所に有(あり)。

[やぶちゃん注:「癰疔」皮膚の急性化膿性炎症の内、単一の腺に起るのを「癤」(せつ)と呼び、隣りあう多数の腺に群がって起こるものを「癰」と言う。これはその中・重度の様態を指すと考えてよいか。

「萬病感應丸」「16」で既出既注。]

 

○「しつ」をひ出し藥。

 正月の「かざりえび」を、せんじ、其汁を飮(のむ)べし。

[やぶちゃん注:『「しつ」をひ出し藥』「しつ」「濕瘡」であろう。皮膚病である疥癬(かいせん)虫(節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱ダニ目無気門亜目ヒゼンダニ科ヒゼンダニ属ヒゼンダニ Sarcoptes scabie )の寄生によって皮膚に湿疹を発し、全身に広がって痒みを起こさせるもの。「かいせん」「ひぜん」。後半は「追(お)ひ出し藥」であろう。]

 

○又、一方。

 巴豆(はづ)・大風子(だいふうし)・黑胡麻。各、等分。いりて、用ふべし。

 右、三味、「大ぐはんの油」にて、ねり、絹に包み、一夜、酒に、ひたし、翌日より、總身(さうみ)へ、ぬる也。一日に、三度づつ、ぬる也。顏と、まへと、「いんのう」をよけて、ぬる也。右、三日一ぷくを用(もちゆ)べし。三日の内、酒、不足に成(なり)たらば、つぎたし、つぎたしして、ぬるべし。三日目の夜、はじめのくすりを、すてて、あらたに、ひたし、翌日より、其藥を、四日、ぬるべし。第八日目に、米の「とき水[やぶちゃん注:ママ。]」を、たくはひ置(おき)、ゆに、わかし、行水すべし。行水する内より、「しつ」、ことごとく、いえて、かしらの「ふけ」の如くに、直(なほ)る也。每日、段々、直りて、半月程にて、元のはだのごとくに成(なる)也。此藥、「しつ」を内へ入(いる)る事、なし。「しつ」、根を切(きり)て、二度、おこらず。右の療治中、木綿にて手袋を拵へ、飯をも、手袋の上へ、のせて、くふべし。決して、手にて、顏などを、いらふべからず。「はし」の先を、けづり置(おき)て、それにて、髮抔(など)をも、かくやうに、すべし。「いんのう」、「いんきやう」をも、よく、つゝみて、藥のつかぬやうに、すべし。

[やぶちゃん注:「いんきやう」底本では、右に編者右傍注があり、『(陰莖)』とある。

「大風子」大風子油(だいふうしゆ)のこと。当該ウィキによれば、キントラノオ目『アカリア科(旧イイギリ科)ダイフウシノキ属』 Hydnocarpus 『の植物の種子から作った油脂』で、『古くからハンセン病の治療に使われたが、グルコスルホンナトリウムなどスルフォン剤系のハンセン病に対する有効性が発見されてから、使われなくなった』とあり、『日本においては江戸時代以降』、「本草綱目」『などに書かれていたので、使用されていた。エルヴィン・フォン・ベルツ、土肥慶蔵、遠山郁三、中條資俊などは』、『ある程度の』ハンセン病への『効果を認めていた』とある。

「大ぐはんの油」これは、キントラノオ目トウダイグサ科アブラギリ属アブラギリ Vernicia cordata から採取される油と思われる。]

 

○「しつ」はらい[やぶちゃん注:ママ。]藥。

 山歸來(さんきらい)【又、十番皮も用(もちゆ)。】・木瓜(ぼけ)・木通(あけび)・防風・皂角子(さうかくし)【各等分。】・金銀花【二倍。】

右、せんじ藥にして、入梅雨濕(うしつ)の比(ころ)、用(もちゆ)べし。

[やぶちゃん注: 「山歸來」中国南部・台湾に自生する多年生草本である単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属ドブクリョウ(土茯苓) Smilax glabra の塊茎を乾したものを基原とする漢方生薬。当該ウィキによれば、『古くは梅毒の治療薬(梅毒の治療に水銀が用いられていたが、水銀中毒を防ぐために合わせて服用された』『)として知られ、梅毒が大きな問題となっていた江戸時代の日本では、国産が不可能なこともあり』、『毎年のように大量に輸入され、安永』六(一七七七)年には五十六『万斤もの輸入があった』とあり、『身近なところでは便秘薬で有名な毒掃丸シリーズ(ドクソウガンE、複方毒掃丸、新ドクソウガンG)に便秘に伴う吹出物、肌あれなどの改善目的で配合されている』とある。但し、単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属サルトリイバラ Smilax china をも「山帰来」と呼ぶとあり、当該ウィキによれば、東アジア(中国・朝鮮半島・日本)に分布し、『秋に掘り上げて』、『日干し乾燥させた根茎は薬用に使われ、利尿、解毒、皮膚病に効果があり、リウマチの体質改善に役立つと考えられてきた』。『漢方では菝葜(ばつかつ)とよんで、膀胱炎や腫れ物に治療薬として使われ』、『民間療法として、おでき、にきび、腫れ物などに』『服用する用法が知られている』とある。しかし、国外から入手していたこと、末期には皮膚変成が激しい梅毒の治療薬とされたことなどから考えると、ドブクリョウの方に分があるように私には思われる。

「十番皮」不詳。

「皂角子」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ(皂莢)属サイカチ Gleditsia japonica の棘を基原とする漢方生薬。当該ウィキによれば、『腫れ物やリウマチに効くとされる』とある。]

 

○「しつ」のくすり湯。

 柳の葉・桃葉・桑葉・忍冬・蓮葉・當藥(たうやく)。「湯の花」、少し、くはふ。

 右、七味、きざみて、袋に入(いれ)、風呂に燒(やき)て、七日、入(はいる)べし。冬、葉のなきときは、此木の枝を、けづりて用(もちゆ)べし。

[やぶちゃん注:「當藥」 苦いことで知られる、リンドウ目リンドウ科センブリ属センブリ Swertia japonica の全草体を基原とする生薬。]

 

○「ひぜん」の藥。

 黃芪(わうぎ)・大黃【各二匁。】・白朮・川芎(せんきゆう)【各一匁五分。】

 右、四味、細末にして、まじりのなき「そば粉」二匁、入(いれ)、一劑にして、三度に、服すべし。十時《じふとき》ほどにして、小便、必(かならず)、にごる。其(その)にごり、澄むまで、白湯(はくたう)にて、用(もちゆ)ベし。但(ただし)、此藥、用る中(うち)、靑物・油揚の物を、堅く、いむ。

[やぶちゃん注:「黃芪」マメ目マメ科ゲンゲ属キバナオウギ Astragalus membranaceus の根を基原とする生薬。当該ウィキによれば、『止汗、強壮、利尿作用、血圧降下等の作用がある』とある。]

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(20)

○灸、かさ、なほりそんじたるには、

 井の中の靑苔を、靑竹の中の紙を、とり、それに付(つけ)て、「灸のふた」とすベし。

 

○「うるし」にかぶれたるには、

 鰹魚(かつを)を、くひて、よし。

[やぶちゃん注:私は二十年前、大好きだったマンゴーも食べられなくなったウルシ過敏症であるが、大好きなカツオを試したい気は、全く、しない。]

 

○巴豆(はず)の毒に、かぶれたるには、

 黑豆の「せんじ汁」にて洗(あらふ)べし。其儘、いゆる也。

[やぶちゃん注:「巴豆」「(4)」で既出既注。]

 

○「霜やけ」には、

 里芋を、土のまゝ、黑燒にして、胡麻油にて、付(つく)べし。

[やぶちゃん注:小学校を卒業した直後、鎌倉から富山の高岡へ引っ越した。最初の冬、両足が、霜焼けに襲われた。赤斑らになり、激しく痒かったのを思い出す。]

 

○「ひゞ」のくすり。

 「からす瓜」の赤く成(なり)たるを、酒に、すりまぜて、付(つく)べし。

[やぶちゃん注:「からす瓜」実が赤くなったのが好き。家の玄関に乾燥したそれが、十年ぐらい前から飾ってある。ウリ目ウリ科カラスウリ属カラスウリ Trichosanthes cucumeroides や、カラスウリ属 Trichosanthes kirilowi 変種キカラスウリ Trichosanthes kirilowii var. japonica である。キカラスウリの方は、学名から察せられる通り、日本固有種であり、北海道から九州に自生している。ウィキの「カラスウリ」によれば、『若葉は食べる人は少ないが』、『食用になる』。『採取適期は、関東地方以西の暖地では』五~八『月、東北地方以北などの寒冷地では』六~八『月ごろとされる』。『摘んだ葉は茹でて水にさらし、ごま和えや』、『マヨネーズ和えなどの和え物、炒め物などにして利用する』。『生の若葉は、そのまま天ぷらにも出来る』(この「天ぷら」は東北の奥深い温泉宿で食したことがある)。『初秋のまだ熟さない緑色の果実も食用にし、摘んで塩漬けや味噌漬けにしてお新香としたり、汁の実にしたりする』。『食味は苦みがあり』、『万人向きではないが、酒の肴として好まれる』とあった。今度、食ってみんべい。]

 

○「あかぎれ」には、

 足を、よく、あらひ、「おはぐろ」を、わかし、「あかぎれ」の口へ、入(いる)べし。一日の内に愈(いゆ)る也。

 

○「風(かざ)ぼろし」には、

 「えの木」の「は」を、酢にて、せんじたるを、付(つく)べし。

[やぶちゃん注:「風ぼろし」「デジタル大辞泉」に「かざほろし」(風疿)で載り、「ほろし」は発疹のこと。「かざぼろし」とも言うとあり、風邪の熱などが原因で、皮膚に生じる小さな発疹。「かざはな」とも言う、とあった。使用例を「和名類聚鈔」とするから、平安中期には既にあった病名である。]

 

○腫(はれ)やまひを治する法。

 冬瓜(たうがん)の「つる」の所を、茶釜の蓋の如く、切(きり)て、其内に有(ある)たねを、取(とり)すて、其後(そのあと)へ、「かうじ」一升二合、焚(たき)たての「めし」を、六合、あはせ、つめて、其後(そののち)、「ふた」をし、かたく、繩にて、くゝり、晝は、日のあたる所へ出(いだ)し、夜は、「ふとん」などにて、つつみ置(おく)時は、五、六日過(すぎ)て、よきほどの甘酒に成(なる)也。その「あま酒」を、あたゝめ、くらふときは、腫病、よく直る也。扨(さて)、殘りの冬瓜をば、別に「あまざけ」に造りおいて、其(その)甘酒の中へ、冬瓜を、切(きり)、まぜ、用(もちゆ)べし。是も、よきほどの功ある甘酒となり、病氣本復迄に、用ひあまるほど也。

 

○又、一方。

 越後の國にて腫病(はれやまひ)に、山牛房[やぶちゃん注:ママ。](やまごばう)を煮て、くふ事也。「商陸(しやうりく)」よりは、其(その)功、萬々(ばんばん)也。

[やぶちゃん注:「商陸」ナデシコ目ヤマゴボウ科ヤマゴボウ属 ヤマゴボウ Phytolacca acinosa 。しかし、有毒であり、食用には適さない。なお、ご存知かと思うが、「山牛蒡の漬物」として販売され、寿司屋等で呼ぶそれは、真正のヤマゴボウではなく、キク目キク科アザミ属モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis・オニアザミ(鬼薊)Cirsium borealinipponense・キク科ヤマボクチ属オヤマボクチ(雄山火口)Synurus pungens の根である。]

 

○疱瘡には、

 一角を粉にして、時々、「さゆ」にて用(もちゆ)べし。極上の治方也。六ケ敷(むつかしく)手を引(ひき)たる「ほうそう[やぶちゃん注:ママ。]」に、よし。

[やぶちゃん注:「一角」「極上の」と言っているからには、哺乳綱鯨偶蹄目イッカク科イッカク属イッカク Monodon monoceros の♂の一本の歯が変形した牙であろう。当該ウィキによれば、『中近世ヨーロッパでは、ユニコーンの角には解毒作用があるという伝承があったため、ユニコーンの角と偽ってイッカクの角が売買された』。『江戸時代の日本でも、オランダ商人を通じてイッカクの角がユニコーンの角として輸入されており、「烏泥哥兒」(うにかうる、うにこーる)などと呼ばれていた』。『ユニコーンの角は今村源右衛門(今村英生)や青木昆陽によって紹介されており』、『当時の百科事典』「和漢三才図会」にも『掲載されていた』。『そのようななかで、木村兼葭堂(木村孔恭)は』「一角纂考」を『著した』。『同書では、オランダ人による北極捕鯨誌などをもとに』、『西洋のユニコーンの伝説だけでなく、その正体であるイッカクの生態や詳細な骨格、さらには珍しい二本角のイッカクのことも紹介している』とあった。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 一角(うんかふる/はあた:犀角) (海獣イッカクの角)」を参照されたい。

『六ケ敷手を引たる「ほうそう」』医師が匙を投げた天然痘。]

 

○又、一方。

 享保年中、淸朝より、白牛(しろうし)を、とりよせられ、房州において飼仰付(かひおほせ)られ、「もぐさ」斗(ばかり)を飼立(かひたて)て、其牛の「ふん」を、御用にて、俵に入(いれ)、江戶へ取(とり)よせ給ひ、町へも下されける。是(これ)、疱瘡の至極の治藥也。其時の「御用がゝり」齋藤三右衞門と云(いふ)人、牛込に居住せしかば、其子孫の家に、たくはへたるべし。求(もとめ)て用(もちゆ)べし。

[やぶちゃん注:「日本酪農発祥の地 千葉家 酪農のさと」の「安房の酪農―はじまりから江戸時代」を読むに、「淸朝より」というのは誤認のようである。『江戸時代の中ごろ』の、享保一三(一七二八)年、第八『代将軍徳川吉宗は美作(現在の岡山県北東部)から白牛を』三『頭導入し、嶺岡牧で飼育しました』。『嶺岡牧では』、『この白牛の数を増やすとともに』、『搾った牛乳で「白牛酪」という生キャラメルに似た乳製品を作り、日本橋の「玉屋」などで庶民へも売られるようになりました』。『この時』、『始まった「酪農」が』、『現在の酪農や乳業へとつながっていったので、千葉県が日本酪農の発祥の地といわれているのです』とあった。次の項の注も必ず参照されたい。

 

○疱瘡、かろくする「まじなひ」。

 橘町二丁目大坂屋平六と云(いふ)藥店に、「フランカステテン」と云(いふ)石、所持せり。おらんだ物にて、「まむし」の「かしら」より出(いで)たる石也。是にて疱瘡前の小兒の體中(からだぢゆう)を、なづれば、疱瘡、輕くする也。何にても腫物(はれもの)に付(つく)れば、ひつたり[やぶちゃん注:ママ。]と付(つき)て、膿水(なうすい)を、すひ出す也。膿(うみ)を吸盡(すひつく)せば、自然に、「ほろり」と落(おち)る。其後(そののち)、乳をしぼりたる中へ、此石を、ひたし置(おか)ば、吸(すひ)たる膿・血・毒氣などを、乳の中へ、吐出(はきいだ)す也。

[やぶちゃん注:前の「白牛」の話と、この話は、実は、既に、「譚海 卷之二 唐山白牛糞疱瘡の藥に用る事」と、「譚海 卷之十一 スランカステインの事」の二話で、同内容の記事が出ている。そちらの私の注を見られたい。]

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(19)

○うち身のくすり。

 黃柏・犬山椒【各一兩。】・明礬【一匁。】

 右、三味、細末、酢に、ときぬれば、治する事、妙也。

[やぶちゃん注:「犬山椒」双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属イヌザンショウ 変種イヌザンショウ Zanthoxylum schinifolium var. schinifolium 当該ウィキによれば、『果実を煎じた液や葉の粉末は漢方薬に利用される』。『樹皮や果実を砕いて練ったものは湿布薬になる』とあった。]

 

○又、一方。

 療治所、下野(しもつけ)栗橋より五里、江戶より十六里有(あり)。「ぢうでう坂」まきの甚右衞門と云(いふ)百姓也。右かたへ、尋行(たづねゆく)べし。骨のおれたる「うで」も、引(ひき)ちがひたるにても、みな直し、もとの如くする也。奇妙。

[やぶちゃん注:「引ちがひたる」肉離れのことか。]

 

○又、一方。

 足をくじきたるを治する方、よろし。前に出(いづ)。

[やぶちゃん注:「(10)」の「○足を、くじきたるを、治す方。」。]

 

○又、一方。

 靑松葉を手一束に切(きり)、酒に煎じ、其酒を、醉(ゑふ)ほど、のましむ。醉(ゑひ)て、其人、ねぶる也。ねぶりさむるとき、必(かならず)、吐(はく)也。其後(そののち)、再(ふたたび)、うち身、起(おこ)る事、なし。しかふして、「安神散(あんしんさん)」か、「龍王湯(りゆうわうたう)」一貼(いつてふ)、服すべし。血を、とゝのふる也。

 但(ただし)、怪我せし時、目・口より、少しにても、血の出(いで)たるには、此方、用(もちゆ)るといヘども、きく事、なし。

[やぶちゃん注:「安神散」サイト「おきぐすり屋」のこちらを見られたい。

「龍王湯」小学館「日本国語大辞典」に、『江戸時代、女性特有の病気や避妊に用いた煎じ薬』とあるが、ちょっと怪しいし、違うな。]

 

○又、一方。

 水一升・酢一合・鹽一合

 右、三味を、まじへ、せんじつめ、痛所(つうしよ)を、あらふべし。

 

○又、一方。

 「にかわ」を、とき、付(つく)べし。

[やぶちゃん注:「おいおい!」と言いたくなったが、考えてみると、効果あるかも知らんね。]

 

○又、一方。

 鳥賊魚(いか)、甲を、けづり、「そくい」にまぜて、痛所へ、はるべし。「いかのかう藥」店に有(あり)。

[やぶちゃん注:「そくい」「續飯」。既出既注だが、再掲しておくと、飯粒を練りつぶして作った粘りけの強い糊のこと。]

 

○年をへて、打身おこるには、

 大根を、澤山に、おろし、痛所へ付(つく)べし。殊の外、通じ、痛(いたみ)、こらへがたき程也。取(とり)かへ、取かへ、三、四度も、つくれば、通じもなく、こらへ安く成(なる)也。其時に止(やむ)ベし。大根、初めは、しみて、いたみ、こらへがたし。灸をすうるやう也。「大こん」のからみ、骨に、とほりて後は、あつく、こらへがたきも、うすく成る也。

[やぶちゃん注:「通じもなく」不詳。「痛みが続かなくなって」の意か。]

 

○やけどのくすり。

 紫の切(きれ)を黑燒にして、胡麻油にて、とき、つくべし。

 

○又、一方。

 あつ灰(ばひ)を、水にひたし、付(つく)べし。

 

○又、一方。

 玉子の油を付(つく)べし。玉子を煮て、其鍋を傾けおけば、油、出(いづ)るを、綿に、しめして、とるべし。

 

○又、一方。

 南天葉(なんてんのは)を摺鉢にて、すり、其汁を、度々、付(つく)べし。

 

○又、一方。

 新しき「あはび貝」へ水を入(いれ)て、石にて摺(する)時は、白き水に成(なる)也。それを付(つく)れば、治す。尤(もつとも)、度々(たびたび)付べし。

 

○又、一方。

 ふるき家の百年もへたる竈(へつつい)を、くづしたる下に、灰の、「たどん」ほどに、かたまりたる物、有(あり)。それを、へがしへがし、すれば、赤色也。赤色を、へがせば、中に「むくろじ」ほどにてあるは、朱のいろのごとし。是、正眞(しやうしん)の「伏龍肝(ぶくりゆうかん)」也。甚(はなはだ)、得がたきもの也。是を、すこし、水にて、とき、「やけど」のうへに、ぬる時は、塗(ぬる)かたはしより、いたみ、とまる。奇妙の方也。

[やぶちゃん注:「伏龍肝」「株式会社ウチダ和漢薬」公式サイトの「ブクリュウカン(伏龍肝)」を見られたい。]

 

○又、一方。

 靑菜の汁にて、「さとう」を、とき、付べし。

 

○又、一方。

 鹽を、「めしつぶ」にまぜて、付べし。

 

○又、一方。

 生醬油(きじやうゆ)を付べし。

 

○又、一方。

 里芋を「わさびおろし」にて、すり、「さとう」をまぜ、付べし。又、山いも・黑ざとう、玉子の白味にて、とき、付べし。

 

○又、一方。

 黃柏、黃と白と「かば色」と三品、等分にして、「ごまの油」にて、とき、付るも、よし。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(5)

 

   木犀のしづかに匂ふ夜寒かな 賈 路

 

 木犀の題を課して作つたとしたら、恐らくかういふ句は出來まい。夜寒の題を課したとしても同斷であらう。しづかに匂ふ木犀の花と夜寒とがぴたりと一緖になつて、些の隙も見せないのは、實感によるより仕方が無い。

 もう何年前の秋になるか、一週間ほど廣嶋に滯在した時、雨戶を引かぬ障子の外の中庭に、木犀の木が何本かあつて、朝夕その花の匂に親しんで過したことがある。この句を讀んで直にそれを思ひ出したのは、筆者だけの勝手な連想に過ぎない。實を云へばその時の廣嶋は、夜寒を感ずるには少し暖かつたからである。この木犀は庭にある場合と限らず、路傍にあるものとしてもいゝが、一句の趣を味ふ上から云ふと、通りすがりなどでなしに、靜止した稍〻長い時間が必要のやうに思はれる。

 

   伐透す藪より來たる夜寒かな 釣 眠

 

 藪にあつた木を何本か伐つた爲に、今までより大分あらはになつた。その藪が家の周圍にある場合、今までよりも夜寒を强く感ずるといふのは、さもあるべき事實である。髮を短く刈つた時の感じに喩へたら、中らずと雖も遠からずといふことになりはしないだらうか。

 この句の主眼は「伐透す」の五字にある。「藪より來たる」の語は少し强過ぎて――如何に藪があらはになつたにしろ、何だか工合が惡い。「伐透す藪」の夜寒をしみじみと感ずるが故に、「より來たる」の語によつて、この句を棄てたくないまでである。

 

   澄切て鳶舞ふ空や秋うらゝ 正 己

 

 秋晴の天を詠じたのである。春の空は「うらゝか」秋の空を「さやか」といふ風に限るのは歲時記に捉はれ過ぎた見解で、芭蕉にも「我ために日はうらゝなり冬の空」といふ句があつたと思ふ。自然を重んじた元祿の俳人は、晴れ渡つた秋晴の天にも、しづかに凪いだ冬の日光の中にも、うらゝかな趣の存在することを看過しなかつたのである。

 秋天の鳶はいづれかと云へば平凡な景物であらう。鳶を主としないで、澄みきつた秋天のうらゝかな趣を捉へたところに、この句の特色はある。

[やぶちゃん注:芭蕉の句は、岩波文庫中村俊定校注「芭蕉俳句集」(一九七〇年刊)では、「存疑の部」にある。「百歌仙」に、

   *

 我ために日はうらゝなり千〻の冬

   *

の句形で載り、「一葉集」の「考証の部」で、

   *

 我爲に日はうらゝなり冬の空

   *

とある。講談社学術文庫の山本健吉「芭蕉全発句」(二〇一二年刊)では、この句を載せない。

 

   燒米や鹿聞菓子に夜もすがら 半 殘

 

 秋になつて鹿の音を聞くなどといふことは、現代の吾々にはあまり緣の無い話になつてしまつた。芭蕉が「ぴいとなく尻聲かなし」と詠んだ「奈良の鹿」は、今日でも聞くことが出來るが、古人は更に山野に棲息する鹿の聲を聞かうとしたものらしい。蕪村も「ある山寺へ鹿聞きにまかりけるに茶を汲む沙彌の夜すがらねぶらで有りければ晉子が狂句をおもひ出て」といふ前書で、「鹿の聲小坊主に角なかりけり」といふ句を作つてゐるから、山中の寺までわざわざ鹿を聞きに行つたものと見える。

 半殘のこの句は蕪村のやうな前書がないので、さういふ點は十分にわからぬけれども、やはり「鹿聞き」の句であることは疑ふべくもない。燒米を菓子として食ひながら鹿の聲を聞いた――若しくは一晚中鳴くのを待つてゐた、といふのである。燒米を菓子にするといふことが、自ら鹿の聲の聞けるやうな場所を現してゐるやうに思はれる。

[やぶちゃん注:『芭蕉が「ぴいとなく尻聲かなし」と詠んだ「奈良の鹿」』は芭蕉の元禄七(一六九四)年九月十日附杉山杉風宛書簡に、

   *

 びいと啼(なく)尻聲(しりごゑ)悲し夜の鹿

   *

の句形で載る。「びい」は原書簡のママ。「中村氏の「芭蕉俳句集」の脚注に、「笈日記」から前文を引いて、『その夜(九月八日)はすぐれて月もあきらかに、鹿も声々』(「々」は底本では踊り字「〲」)『にみだれてあはれなれば、月の三更』(午後十一時から午前一時までの間)『なる比、かの池のほとりに吟行す』とあり、補注の別の本の前書と合わせて、このロケーションは奈良の「猿沢の池」であることが判る。この句形の後に、「芭蕉句集」から、

   *

 ぴいと啼尻聲寒し夜の鹿

   *

が載るが、「奈良の鹿」は、ない。宵曲の誤認と思われる。「奈良の鹿」は芭蕉にしてあり得ないと私は思うがね。因みに、元禄七年九月八日は、グレゴリオ暦で十月二十六日で、月は半月である。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 樟腦

 

Syounou

 

しやうなう  韶腦

 

樟腦

 

チヤン ナ゜ウ

 

本綱樟腦出韶州漳州狀似龍腦白色如雪樟樹脂膏也

煎樟腦法用樟木新者切片以井水浸三日三夜入鍋煎

之柳木頻攪待汁減半柳上有白霜卽濾去滓傾汁入瓦

盆內經宿自然結成塊也他𠙚雖有樟木不解取腦

又鍊樟腦法用銅盆以陳壁土爲粉糝之却糝樟腦一重

又糝壁土如此四五重以薄荷安土上再用一盆覆之黃

泥封固於火上款款灸之須以意度之不可大過不及勿

令走氣俟冷取出則腦皆升于上盆如此升兩三次可充

片腦也【片腦卽龍腦也今多製樟腦僞片腦不可不辨】

氣味【辛熱】通關竅利滯氣霍亂心腹痛寒濕脚氣殺蟲

[やぶちゃん字注:この行は誰が見ても動詞が脱字していることが判る。「霍亂」の前に「治」がないと読めない。これは良安の引用の際の見落としである「漢籍リポジトリ」のこちらのガイド・ナンバー[083-65a]の「樟腦」の「氣味」の一行目に、ちゃんと「治」が置かれてある)。訓読では補った。

 與熖硝同性水中生火其熖益熾又燒烟熏衣筐席簞

 能辟虱䖝蛀治疥癬齲齒

[やぶちゃん注:「䖝」は「虫(蟲)」の譌字(かじ:筆画・字形に誤りのある漢字)である。]

 【凡用毎一兩以二盌合住󠄁濕紙糊口文武火燲之半日許取出冷定用之】

△按樟腦出於日向薩摩大隅深山中採老楠木以圓刄

 釿斫取盛土鍋上亦葢鍋蒸炙之腦升着于上如霜乃

 此樟腦也此物能殺蟲凡藥種易蛀物四月晒乾用樟

 腦包紙納其箱櫃中封口則雖極暑不蠧也其藥使時

 隔紙焙則樟腦氣去如忌火藥包紙置于濕地亦樟腦

 去以無臭香氣爲度葢雖樟腦今皆楠腦也【未知和漢有異乎否】


霹靂木

推古天皇三十六年遣河邊臣於藝州造舟舶仍至藝州

[やぶちゃん字注:これは「日本書紀」の「卷第二十二」からの引用だが、確認したところ、「三十六年」は「二十六年」の誤りであることが判った。訓読では、訂しておいた。]

覔舟材時有一木其大十圍使人夫伐之時有人曰此名

[やぶちゃん字注:「覔」は「覓」の異体字。]

木也自古伐之雷電祟其人故號霹靂木不可伐河邊臣

曰普天下無非皇土雖雷神豈逆皇命耶使人夫伐之當

此時大雨雷電河邊臣案劔曰雷神無犯人夫當傷我身

而仰待之霹靂不震犯而止於是伐其木作舟舶

△按其樹不載形狀不知何木也樟楠杉檜之類乎

 

   *

 

しやうなう  韶腦《しやうなう》

 

樟腦

 

チヤン ナ゜ウ

 

「本綱」に曰く、『樟腦は韶州・漳州より出づ。狀《かたち》、「龍腦《りゆうなう》」に似て、白色、雪のごとし。樟樹《しやうじゆ》の脂-膏(あぶら)なり。樟腦を煎《せん》ずる法、樟の木の新しき者を用ひて、切-片(《きり》へ)ぎ、井《ゐ》≪の≫水を以つて、浸すこと、三日三夜、鍋に入れて、之れを煎じ、柳≪の≫木にて、頻りに攪(かきま)ぜ、汁、半《なかば》、減(へ)り、柳の上に、白≪き≫霜《しも》≪の樣なる物≫有るを待ちて、卽ち、濾(こ)して、滓(かす)を去り、汁を傾(かた)ぶけ、瓦盆《かはらばち》の內《なか》に入れて、宿《しゆく》を經《へ》、自然に結《けつ》して、塊(かたまり)と成るなり。他𠙚《たしよ》に、樟木《しやうぼく》、有ると雖も、腦を取ること、解《し》らず。』≪と≫。

『又、樟腦を鍊る法、銅≪の≫盆を用ひて、陳(ふる)き壁土を以つて、粉と爲《なし》、之れを糝(まぶ)し、却りて≪その上に≫樟腦を糝《まぶす》ること、一重《ひとへ》。又、壁土を糝し、此くのごとくすること、四、五重。薄荷《はつか》を以つて、土の上に安《やすん》じ、再び、一盆を用ひて、之れを覆《おほ》ひ、黃泥《かうでい》にて、封固《ふうこ》し、火の上に於いて、款款《ゆるやか》に之れを灸る。須(すべから)く、意を以つて、之れを度(はか)るべし。大過《たいくわ》に及ばすべからず。冷氣を走らせること、勿《なか》れ。冷《ひゆ》るを俟《まち》て、取り出す時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、腦、皆、上≪の≫盆に升《のぼ》る。此くのごとく升《のぼす》ること、兩三次、「片腦《へんなう》」に充つるなり』≪と≫【「片腦」は、卽ち、「龍腦」なり。今、多く、「樟腦」を製して、「片腦」に僞《いつはる》。辨《べん》ぜざるべからず。】。

[やぶちゃん注:最後の割注は、良安が附したものであるので、注意が必要。医師である良安は、厳密に「樟脳」と「龍脳」を弁別して使用していることが判り、当時、中国や東南アジアのみではなく、本邦でも、そうした偽物が多く出回っていたことを示すものである。

『氣味【辛、熱。】關竅《くわんきやう》を通《つう》じ、滯氣を利し、霍亂《かくらん》・心腹痛・寒濕≪に據れる≫脚氣(かつけ)を治し、蟲を殺す。』≪と≫。

『熖硝《えんしやう》と性を同じくす。水中に火を生じ、其の熖(ほのほ)、益益《ますます》[やぶちゃん注:訓点では踊り字「〱」が置かれてある。]熾《さか》んなり。又、燒烟《しやうえん》して衣筐《えきやう》・席簞《むしろばこ》を熏じて、能く、虱《しらみ》・䖝《むし》・蛀《きくひむし》を辟《さ》け、疥癬《かいせん》・齲齒《うし》を治す。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「䖝」は「虫(蟲)」の譌字(かじ:筆画・字形に誤りのある漢字)である。]

『【凡そ、用ひるに、毎一兩、二盌《わん》を以つて、合住󠄁《がふじゆう》≪し≫、濕≪めれる≫紙≪にて≫、口に糊《のりし》、文《→文火《ぶんび:とろ火。》》・武火《ぶび:強火。》にて之れを燲《あぶる》。半日許《ばかり》≪にして≫取り出だし、冷≪ゆるを≫定≪きわめて≫、之れを用ふ。】。』≪と≫。

△按ずるに、樟腦、日向・薩摩・大隅に出づ。深山の中の老いたる楠(くす)の木を採りて、圓刄(まるは)の釿《ちやうな》を以つて、斫(はつ)り取り、土鍋に盛り、上にも亦、鍋を葢(ふた)し、之れを蒸(む)し炙(あぶ)る。腦、上に升《のぼ》り着く。霜のごとし、乃《すなはち》、此れ、「樟腦」なり。此の物、能く蟲を殺す。凡そ、藥種、蛀(むしつゞ)り易き物、四月、晒≪し≫乾して、樟腦を用ひて、紙に包み、其の箱・櫃《ひつ》の中に納《をさめ》て、口に封する時は、則ち、極暑と雖も、蠧(むしく)はざるなり。其の藥、使ふ時、紙を隔てて焙《あぶ》れば、則ち、樟腦の氣(かざ)、去る。火を忌む藥のごときは、紙に包み、濕地に置きても、亦、樟腦、去る。臭香の氣《かざ》、無きを以つて、度《ど》と爲《な》す。葢し、「樟腦」と雖も、今、皆、「楠《くすのき》の腦」なり【未だ知らず、和漢の異、有りや否や。】。


霹靂木(へきれきぼく)

推古天皇二十六年、河邊臣(かはべのおみ)を藝州に遣し、舟-舶《つむ》を造らしむ。仍《よつ》て、藝州に至り、舟《つむ》≪の≫材《き》を覔《ま》く時、一《いつ》の木、有り。其の大いさ、十圍《とおかこみ》、人夫をして之れを伐《き》らしむ時、人、有りて曰はく、

「此れ、名木なり。古《いにし》へより、之れを伐れば、雷電《いかづちいなびかり》、其の人に祟(たゝ)る故《ゆゑ》、『霹靂木』と號す。伐るべからず。」

≪と≫。河邊の臣、曰はく、

「普天の下《もと》、皇土に非ずと云ふこと、無し。雷神と雖も、豈に皇命に逆はんや。」≪と≫。人夫をして、之れを伐らしむ。此の時に當《あたり》て、大雨・雷電す。河邊の臣、劔《つるぎ》を案《とりしぼりて》曰はく、

「雷神、人夫を犯すこと無かれ。當《まさ》に我が身を傷《やぶ》るべし。」

≪と≫。而《しか》仰せて、之れを待つ。霹靂、震犯《ふるひおか》さずして、止《やむ》。是《ここ》に於いて、其の木を伐りて、舟-舶《つむ》を作る。

[やぶちゃん注:以上の訓読では、一部、禁欲的に、国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓読 下巻」(昭和七(一九三二)年岩波文庫刊)の当該部を参考にしたが、良安の訓読は、執筆当時のものであり、近代に研究が進んだ上代語の特有の読みは、なるべく採らないように心掛けた。]

△按ずるに、其の樹、形狀を載せず。何の木と云ふことを知らざるなり。樟《たぶ》・楠《くす》・杉・檜《ひのき》の類《るゐ》か。

 

[やぶちゃん注:樟脳(しょうのう)は、オランダ語で「カンフル」(kampher・kamfer。医療分野でよく使用される)、英語「カンファ―」(camphor)で、化学式 C10H16O 。小学館「日本大百科全書」によれば、『多環状モノテルペンケトン』(monoterpene ketone)『の一つで』、『特有の香気をもつ半透明、昇華性の安定な粒状結晶。中国の揚子江以南、海南島、台湾および日本が主産地であるクスノキ科のクスノキ』

(クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora 当該ウィキを参照されたい。なお、中文ウィキのものは、『樟属 Camphora』『樟树』『 Camphora officinarum 』となっているが、これはシノニムである

『には、樟脳を生産する本樟』(前掲基種)『と、リナロールを主成分とする芳樟(ほうしょう)』

(ニッケイ属クスノキ変種ホウショウ Cinnamomum camphora var. nominale :本種については、サイト「長居植物園 植物図鑑」の「ホウショウ」がよい。そこには、『おおよその外観は基本種であるクスノキによく似るが、細部が異なる。クスノキとの差異としては、果実が小型であること、葉の縁がつよく波打つことが挙げられる。そして、最も大きな違いとしてはクスノキの主要な芳香成分である樟脳をほとんど含まず、リナロールという芳香成分をクスノキの1.5倍ほど含むことである。このリナロールはスズランなどに含まれている成分と同じであり、ホウショウの葉や枝からは花のような香りがする』とある

『とが著名である。化学構造から右旋性(d体)、左旋性(l体)、ラセミ体(dl体)の』三『種の光学異性体がある。本樟または芳樟の根、幹、小枝の切片(チップ)、葉を水蒸気蒸留すると、樟脳原油とともに泥状結晶が留出し、これを濾取(ろしゅ)すると』、『粗製樟脳が得られる』。『原木よりの収率は粗製樟脳0.8~1.0%、樟脳原油1.6~2.0%である。樟脳原油を分留すると再生樟脳が得られる。粗製樟脳とともに昇華法により』、『精製して精製樟脳とする。それは精製度によって甲種樟脳(A)、改良乙種樟脳(純度98%以上)、乙種樟脳(B)(純度95%以上)などの区別がある。精製樟脳は粉末状または粒状として製品化する』。『第二次世界大戦後、中華民国が台湾を支配したため』、『天然樟脳の生産は著しく減少した。日本における樟脳の生産量は』昭和二六(一九五一)年の『4200トンが最高であり』昭和三七(一九六二)年に『樟脳専売制度が廃止されたために、その生産量は急激に減少した』とある。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「樟腦」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-64b]から始まる、その「集解」の冒頭以下で始まるが、原文が、樟脳製造法をベタで続いて書いてあるのを、読み易く改行して示していることが判る。

「韶州」現在の広東省。

「漳州」福建省。

「龍腦」ボルネオール(borneol)。「ボルネオショウノウ」とも呼ぶ。アオイ目フタバガキ科リュウノウジュ属リュウノウジュ Dryobalanops aromatica から得られる樟脳の一種。ウィキの「ボルネオール」によれば、『香りは樟脳に類似しているが』、『揮発性がそれに比べると乏しい』。『歴史的には紀元前後にインド人が』、六~七『世紀には中国人が』、『マレー、スマトラとの交易で、天然カンフォルの取引を行っていたという。竜脳樹はスマトラ島北西部のバルス(ファンスル)とマレー半島南東のチューマ島に産した。香気は樟脳に勝り価格も高く、樟脳は竜脳の代用品的な地位だったという。その後イスラム商人も加わって、大航海時代前から香料貿易の重要な商品であった。アラビア人は香りのほか』、『冷気を楽しみ、葡萄・桑の実・ザクロなどの果物に混ぜ、水で冷やして食したようである』とある。一方、基原であるリュウノウジュは、当該ウィキによれば、『最大』六十五『メートルさらには』七十五『メートルまで成長する超高木で』、本種は『樹木の葉が互いに接触しないよう成長するクラウン・シャイネス(』『crown shyness)と呼ばれる行動がみられる樹種の』一『つとして知られる。』とあり、分布は『インドネシア(スマトラ島、ボルネオ島)、ブルネイ、マレーシア』で、『この種は樟脳の主な原料の』一『つであり、香や香水に使用され、金以上の価値があった時には』、『ボルネオへ』、『アラブの交易商が引き寄せられた』。『木材としての名前は、カポール(Kapur)と呼ばれる』。『リュウノウジュの樹幹の空隙に析出される竜脳は、生薬として中枢神経系への刺激による気付けの効果を期待して利用される』。『森林伐採やアブラヤシなどのプランテーションへの転換などによる自生地の破壊、木材採取や抽出物のための伐採などにより、個体数は減少している』とある。なお、以下に「リュウノウジュ属」の項があるが、リュウノウジュを除く六種が掲げられてあり、その総てがボルネオに自生しているとある。さればこその「ボルネオール」である。

「薄荷」シソ目シソ科ハッカ属 Mentha の類。種は多い。当該ウィキ「ミント」を見られたい。

「封固《ふうこ》し」堅く封をして。

「須(すべから)く、意を以つて、之れを度(はか)るべし。大過《たいくわ》に及ばすべからず。」「くれぐれも、炙り方(かた)に細かな注意を払わねばならない。炙り過ぎぬようにしなければならぬ。」の意。

「冷氣を走らせること、勿《なか》れ」「スーっと冷たい感覚を齎す揮発成分を、少しでも飛ばしてしまうことは、最もあってはならないことである。」の意。

「關竅《くわんきやう》」東洋文庫訳に割注で、『(身体各部の器関と孔穴)』とある。現代語の注記であるから、『器関』は「器官」の方がよかろう。まあ、漢方で言う「器官」は、現代医学の物理的な内臓器官とは異なるから、「器関」と言ったとも思われるけれど、一般読者が躓かないのは「器官」である。

「蟲を殺す」この場合は、「疳の虫」などの神経医学・精神医学的な発症基原としての象徴的な「虫」の意の他、現代のヒトに侵入する寄生虫類も含むと考えてよいだろう。

「熖硝」火薬。

「性を同じくす」これは所謂、「五行思想」による「性」質である。

「燒烟《しやうえん》して」樟脳を焼いた煙を用いて。

「衣筐《えきやう》」衣裳箱。

「席簞《むしろばこ》」東洋文庫訳のルビは『むしろござ』であるが、この五字の単語は聴いたことがないし、ネットで『席簞』という熟語を調べたが、中文サイトでも見当たらない。広義の「蓆」(むしろ)は「藁莚(わらむしろ)・茣蓙(ござ)・畳表・菰(こも・薦)などの総称」であるが、「簞」には、「わりご・竹で編んだ丸い飯びつ」、「はこ・竹で編んだ小箱」、「ひさご・ひょうたん(瓢簞)」の意しかないからである。但し、「むしろばこ」というのも語としては、知らない。私の造語だが、一応、蓆(むしろ)で作った行李のようなものを考えた。「むしろござ」のよく意味が分からない語よりマシだと思う。

「一兩」明代のそれは三十七・三グラムである。

「二盌《わん》」「二椀」に同じ。

「合住󠄁《がふじゆう》≪し≫」東洋文庫訳では、『きっちりと合せて蓋(ふた)をし』とある。

「藥種、蛀(むしつゞ)り易き物」医療用の薬の内、特に虫の食いやすい薬種。

「度《ど》と爲《な》す」東洋文庫訳は『それでいいのである』とある。

「未だ知らず、和漢の異、有りや否や」真正のものとは、当然、違いますよ、良安先生。

「推古天皇二十六年」ユリウス暦の機械換算は六一六年。

「河邊臣(かはべのおみ)」河邊禰受(かわべのねず 生没年未詳)飛鳥時代の豪族で、「臣」は姓。冠位は小徳。当該ウィキを見られたい。この話も紹介されてある。

「舟-舶《つむ》」小学館「日本国語大辞典」によれば、『上代における大型船の呼称。つみ。』とあった。

「覔《ま》く」求める。

「案《とりしぼりて》」ここは黒板勝美氏の訓読に従った。東洋文庫訳では、『剣に手を置いて』とする。

「按ずるに、其の樹、形狀を載せず。何の木と云ふことを知らざるなり。樟《たぶ》・楠《くす》・杉・檜《ひのき》の類《るゐ》か」なんで、良安が、わざわざ、この「樟腦」の最後に配したのかは、取り敢えず、以上の樹種の解説を終わっているから、ではあろう。しかし、偶然だろうが、ウィキの「リュウノウジュ」にある、同樹群の俯瞰写真、これ、

Dryobalanops_aromatica_canopy

霹靂に見えるぜッツ!!!

2024/05/28

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 烏樟

 

Kurotabu

 

くろたぶ     烏樟  棆【音綸】

         枕【音沈】

釣樟

         【樟有大小二種

          小曰豫大曰章】

チヤ゜ウ チヤン

 

本綱此亦樟之類而小者也髙丈餘葉似楠葉而尖長背

有赤毛若批杷葉上毛根似烏藥香以根皮刮屑止金瘡

血甚驗以莖葉置門上辟天行時氣其材作𦨴船次于樟

△按楠樟難長一歳僅一寸而有數抱大木桐梓易長一

 歳數尺而不有大木以爲商人戒貪多利而好奢者富

 不久得小利而守儉者福不盡

 

   *

 

くろたぶ     烏樟《うしやう》  棆【音「綸」。】

         枕【音「沈」。】

釣樟

         【樟に、大・小、二種、有り。

          小を「豫《よ》」と曰ひ、

          大を「章」と曰ふ。】

チヤ゜ウ チヤン

 

「本綱」に曰はく、『此れも亦、「樟《たぶ》」の類にして、小者なり。髙さ、丈餘。葉、楠の葉に似て、尖≪り≫、長く、背《うら》に赤き毛、有りて、批杷の葉の上の毛のごとく、根、烏藥《うやく》に似て、香《かんば》し。根の皮を以つて、刮(こそ)ぎ屑《けず》り、金瘡《かなさう》の血を止《と》め、甚だ驗《げん》あり。莖・葉を以つて、門≪の≫上に置けば、天行時氣《はやりやまひ》を辟《さ》く。其の材、𦨴-船《ふね》を作る。「樟の木」に次ぐ。』≪と≫。

△按ずるに、楠-樟(くすのき)は長《ちやう》じ難く、一歳、僅かに一寸にして、數抱《すかかへ》の大木、有り。桐-梓《→桐(きり)と梓(あづさ)》は長じ易く《→易けれども》、一歳、數尺にして、大木、有らず。以つて、商人《あきんど》の戒めと爲《な》す。「多利を貪り、奢を好む者、富《とみ》、久しからず。小利を得て、儉を守る者、福、盡きず。」≪と≫。

 

[やぶちゃん注:この記事を初めて読まれる方は、先ず、前項の「樟」の私の注を、必ず、読まれたい。そこで述べた良安の錯誤に就いては、基本、繰り返さないからである。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「釣樟」の独立項直前にある「樟」ではないので注意が必要で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-42a]から始まる、その「釋名」及び「集解」のパッチワークである。

 にしても、この時珍の葉の「背《うら》に赤き毛、有りて、批杷の葉の上の毛のごとく」というのは、どうも、前項の「樟」の私の注の最後の部分で不審を示した通り、クスノキ科ニッケイ(肉桂)属クスノキ Cinnamomum camphora ではあり得ない。クスノキの葉は、裏も表も無毛だからである。毛があるクスノキ科Lauraceaeの種となると、例えば、クロモジ属 Lindera のケクロモジ Lindera sericea や同変種ウスゲクロモジ Lindera sericea var. glabrata がある(他にもあるであろうが、そこまで調べる気にはならない)。しかも、たまたまクロモジ属のウィキの中文の当該のそれを見たところが、中文名が、『山胡椒屬(拉丁文:Lindera),又名釣樟屬,是樟科底下的一屬開花植物』とあったのである。則ち、時珍が指す「釣樟」とは、

本邦のクスノキ科ニッケイ(肉桂)属クスノキ Cinnamomum camphora ではなく、

クスノキ科クロモジ属 Lindera の樹種

であることが、確定的になったと言ってよい。

「烏藥」中国原産で、漢方生薬の「天台烏薬」の基原植物である、クスノキ目クスノキ科クロモジ属テンダイウヤク Lindera aggregata を指す。似てて、当然なのだ! ますます前の注の最後の同定に確信を持てた!

「天行時氣《はやりやまひ》」先行する「降眞香」に既出。同様の仕儀で読みを振った。

を辟《さ》く。其の材、𦨴-船《ふね》を作る。「樟の木」に次ぐ。』≪と≫。

「桐(きり)」シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa当該ウィキによれば、『成長すると高さ』十~十五『メートル』、『幹の直径は』五十『センチメートル』『になる』とある。

「梓(あづさ)」ウィキの「梓」を見られたい。そこには、多数の同定候補種が並ぶが、所謂、「梓弓」(あずさゆみ)のそれは、マンサク亜綱ブナ目カバノキ科カバノキ属ミズメ Betula grossa がそれである。最大樹高は二十五メートルに達する。

「商人《あきんど》」良安は当該ウィキによれば、『出羽の能代(一説に大坂高津)で商人の子として生まれた』が、『後に大坂に移り、同郷の伊藤良立及び和気仲安の門人となり』、『医学や本草学を学』び、『後にこの業績により、大坂城入医師となり』、『法橋に叙せられ』ているので、読みは、かく、した。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 樟

 

Tabu

 

たぶ   俗云太布

 

 

チヤン

 

本綱樟木髙丈餘小葉似楠而尖長背有黃赤茸毛若批

杷葉上毛四時不凋夏開細花結小子木大者數抱肌理

細而錯縱文章多故謂之樟宜於彫刻氣甚芬烈伹樟有

大小其小者名豫二本生至七年乃可分別𦨴舩多用之

△按樟木似楠而木理畧麁堪水土也不如楠之強其葉

 似楠而狹長厚背有微毛有赤樟烏樟之二種黑樟乃

 釣樟也【赤者實亦赤黑者實亦黑】伹烏樟葉無毛

 

   *

 

たぶ   俗、云ふ、「太布」。

 

 

チヤン

 

「本綱」に曰はく、『樟の木は、髙さ丈餘。小葉、楠に似て《→れども》、尖り、長く、背《うら》に黃赤の茸-毛(むくげ)有り。批杷の葉の上の毛のごとし。四時、凋(しぼ)まず。夏、細≪き≫花を開き、小≪さき≫子《み》を結ぶ。木、大なる者は、數抱《すかかへ》。肌理(きめ)、細かにして、錯縱《たてまぢり》≪の≫文章《もんしやう》、多き故《ゆゑ》に、之れを「樟《しやう》」と謂ふ。彫刻するに宜《よろ》し。氣《き》、甚だ、芬烈《ふんれつ》なり。伹《ただ》し、樟に大・小有り、其の小なる者、「豫」と名づく。≪樟と豫との≫二本、生《しやう》じて七年に至り、乃《すなは》ち、分別すべし。𦨴-舩《ふね》に、多く、之れを用ふ。』≪と≫。

△按ずるに、樟《たぶ》≪の≫木、楠《くすのき》に似て、木理(きめ)、畧(ちと)、麁(あら)く、水土に堪(た)ふることなり。≪しかれども、≫楠の強きが、しかならず。其の葉、楠に似て《→れども》、狹《せば》く、長く、厚し。背に微毛有り。赤樟《あかたぶ》・烏樟(くろたぶ)の、二種、有り。黑樟は、乃《すなは》ち、「釣樟《くろたぶ》」なり。【赤き者、實も亦、赤く、黑き者、實も亦、黑し。】伹し、「烏樟」の葉には、毛、無し。

 

[やぶちゃん注:前の「楠」で注した通り、

中国での「楠」は、モクレン類であるクスノキ目クスノキ科タブノキ(椨の木)属ナンタブ(南椨)  Machilus nanmu

であり、

中国での「樟」は、本邦のクスノキ科ニッケイ(肉桂)属クスノキ Cinnamomum camphora

である。無論、良安はその違いを認識しておらず、

良安は「樟」をクスノキ科タブノキ属タブノキ Machilus thunbergii に比定して叙述している

ことを押さえて読む必要があるのである。但し、同じクスノキ科であり(ナンタブとタブノキは同属)、三者は樹の様子や、葉の形などは、ちょっと見では似ている箇所が、かなりある。ナンタブと、クスノキと、タブノキの学名の画像検索をリンクしておくので比較されたい。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「」の独立項直前にある「樟」ではないので注意が必要で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-42a]から始まる、その「集解」の一行目末以下であるが、前の「釋名」とのパッチワークである。

「錯縱《たてまぢり》」読みは東洋文庫のルビを参考にした。

「文章」「紋章」。

「芬烈」東洋文庫訳では割注して『(香りのきついこと)』とある。これはタブノキと共通する当該ウィキによれば、『樹皮や枝葉には粘液が多く、葉には香りがあり』、『乾かして粉にするとタブ粉が得られる。タブ粉は線香や蚊取線香の材料の』一『つ(粘結材)として用いた』とある。

『其の小なる者、「豫」と名づく』次項の「釣樟」がそれに当たる。

「分別すべし」「識別が可能となる」の意。

「𦨴-舩《ふね》に、多く、之れを用ふ」これもタブノキとも共通する当該ウィキによれば、『材は多岐に利用され、建築、家具などに使われる』。『かつては船材に使われ、漁業では海上から見て陸に高くそびえるタブノキを目印に位置を知り、魚を集める「魚寄せの木」として活用された』とあるのである。さすれば、前の香りといい、良安が完全に同一種と誤認したのには無理がないと言えるのである。

「赤樟《あかたぶ》・烏樟(くろたぶ)の、二種、有り」タブノキに亜種はないので、これは最初、樹皮の色の個体による違いに過ぎないと考えた。それは当該ウィキに、『樹皮は暗褐色から淡褐色、褐色』とあったからである。ところが、同属のタブノキ属ホソバタブ Machilus japonica があったので、そのウィキを見たところ、『葉は同属のタブノキより細い。また、タブノキの若葉は赤みを帯びるが』、『本種は帯びない』とあったからである。則ち、良安の言う「赤樟」はタブノキで、「烏樟(くろたぶ)」がホソバタブである可能性が出てきたのである。

「赤き者、實も亦、赤く、黑き者、實も亦、黑し」これは前注の識別には援護射撃にならない。タブノキもホソバタブも、実は熟すと、黒紫色になる。

『「烏樟」の葉には、毛、無し』これは前注の識別のやや援護射撃となるかと一瞬思った。Taku,Kanon氏のサイトかのんの樹木図鑑」の、「タブノキ」のページに、『葉は』『両面とも無毛』と明記があったからである。しかし、同サイトの「ホソバタブ」のページの葉の画像を見ても、毛があるようには、残念ながら、見えない。されば、次の項でさらに考証を継続する。実際、既に、実は「烏樟」=「釣樟」は、実は、クスノキでもタブノキでもないところまで、確信を持っている。されば、次項を必ず見られたい。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(4)

 

   たばこ呑煙影ある月夜かな 素 人

 

 一見古句らしからざる內容を具えてゐる。明るい月の下に吸う煙草の煙が、ほのかに漂はす影を捉へたのである。元祿俳人の著眼が斯くの如き微細な趣に亙つてゐるのには、今更ながら驚歎せざるを得ない。

 かつて白秋氏の「水墨集」を讀んで、

  月の夜の

  煙草のけむり

  匂のみ

  紫なる。

といふ詩に、この人らしい鮮な感覺を認めたことがあつた。素人の句は表面に何等目立たしいものを持つてゐないに拘らず、悠々として月夜の煙草の趣を捉へ、ほのかな煙の影をさへ見遁さずにゐる。新奇を好む人々は、卷煙草を銜へたことも無い元祿人が、容易にこの種の句を成すことを不思議に思ふかも知れない。句は廣く涉り、多く觀なければならぬ所以である。

[やぶちゃん注:『白秋氏の「水墨集」』は詩集。大正一二(一九二三)年アルス刊。「月光微韻」(短唱 二十二章)の「2」。国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここで視認出来る。]

 

   一すぢの蜘蛛のゐ白き月夜かな 獨 友

 

 張り渡した蜘蛛の絲が一筋白く月に見える。絲は元來一筋だけしか無いのか、一筋だけ特に目に入るのか、それは何れでも差支無い。たゞ白く見えるのは月の光によるだけでなく、露の置いた關係もありはせぬかと思はれる。

「露やふる蜘蛛の巢ゆがむ軒の月」といふ曾良の句は、同じ元祿時代の作だけれども、この句に比すれば纖巧[やぶちゃん注:「せんかう」。]な點に於て遙にまさつてゐる。月のさす軒端の蜘蛛の巢が、露の置くためにゆがむかと疑つたのは、「眉毛に露の玉をぬく」などといふよりも、却つて靜寂な夜の露けさを想はしめる。但その一面に幾分の際どさを含んでゐるだけ、元祿期の句としては、この句の自然なるに如かぬかも知れない。而も月下に白い蜘蛛の絲は、煙草の煙の影ほど特異なものでないにしろ、大まかな觀察者の眼に入る趣ではないのである。

[やぶちゃん注:曾良の句は、国立国会図書館デジタルコレクションでも、ネット検索でも掛かってこない。]

 

   三味線をやめて鼻ひる月見かな 關 雪

 

 月見の座の小景である。今まで三味線を彈いてゐた人が、急に手を止めたと思ふと、大きな嚔[やぶちゃん注:「くさめ」。]をした。本人に在つては滑稽でも何でもないであらうが、慌しく三味線をやめて嚔をしたといふ事實には、慥に或滑稽味が伴つてゐる。更くるに從つて冷えまさる夜氣が、自ら嚔を誘つたのであるといふことは、餘情の範圍として贅言を要せぬであらう。

 

   鳴神のしづまる雲や天の川 桃 鯉

 

 雷雨後の夜景であらう。今まで鳴りはためいてゐた雷は、天の一角にある雲中にをさまつてしまつて、晴れた空には天の川が明に見える。單に雷雨の後の天の川ならば、取立てて云ふほどのこともないが、雨は已に晴れて、而も一方には雷のをさまつた雲が蟠つてゐるといふところに、多少複雜な趣が窺はれる。一朶の雲は全く響を收めてゐても、雷の名殘だけに何となくたゞならぬものがあるやうに思ふ。

 

   耳かきもつめたくなりぬ秋の風 地 角

 

 春先、電車に乘つたりすると、乘降に摑む金屬の棒が、冬と違つて暖くなつてゐることを感ずる。俳句の季題に「水溫む[やぶちゃん注:「みづぬるむ」。]」といふのはあるが、「金溫む」といふのは無い。季題になるならぬは別問題として、天地の春がさういふ人工品にまで及ぶことは、季節を考慮する者の等閑に附すべからざる問題であらう。

 この耳搔の句は、天地の秋が人工の微物に到ることを詠んだのである。耳搔を取上げて耳を掘つて見ると、夏のうちと違つて冷たく感ずる。蹈む足に緣の冷かさを感じ、寐轉んで疊の冷かさを感ずる類は、必ずしも異とするに足らぬが、耳を掘る耳搔の冷たさは、蓋し俳人の擅場ともいふべき微妙な感覺である。それが使ひ馴れた耳搔であることは、「つめたくなりぬ」の中七字によく現れてゐる。

 

   きりぎりす秋の夜腹をさすりけり 靑 亞

 

 必ずしも腹が痛いからさするのではない。長々し夜をひとり寢て、我と我腹をさすつて見る。寢つかれない場合と見るか、夜半の寢覺と見るかは、この句を讀む人の隨意である。近々と鳴く蟋蟀[やぶちゃん注:「こほろぎ」。]の聲を聞きながら、しづかに腹をさする夜長人の姿を想ひ浮べれば、先づこの句の趣を解し得たに近い。

「きりぎりす」と云つて更に「秋の夜」の語を添へるのは、蛇足のやうでもある。少くとも「秋」といふことは不必要のやうに思はれるが、しづかにこの句を三誦すると、「秋の夜」の一語は贅字でないのみならず、長々し夜の趣を現す上に或效果を持つてゐることがわかるであらう。「秋の夜腹をさすりけり」といふ悠揚迫らざる言葉の上に、夜長の趣を感じ得ぬとすれば、俳句に對する味覺を缺いてゐるものと斷言して差支無い。

[やぶちゃん注:「きりぎりす」「蟋蟀」の近現代の反転は、「日本經濟新聞」公式サイト内の桜井豪氏の「コオロギは昔キリギリスだった? 虫の呼び名の謎」を読まれたい。但し、この反転を平安末の時代小説であるからと言って、芥川龍之介の「羅生門」の「きりぎりす」を「コオロギ」とする高校の国語教科書の注にあるのには、私は敢然として異義を唱えるものである。「記憶について 山村暮鳥」の私の注を、是非、読まれたい。]

 

   拍子木のかたき音聞きく夜寒かな 堇 浪

 

 これだけの句である。たゞカチカチと打つて通るのを「かたき音」と形容したのが、この句の眼目であらう。云はれて見れば何でもないやうなものの、「かたき音」といふ一語は拍子木の感じを現し得て妙である。

 秋も夜寒になる頃から、夜廻りなどが拍子木を打つて步くやうになる。若しくはさういふ音に耳を傾けるやうになる。すぐれた句でもないが、季節はよく現れてゐるやうである。

 

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(18)

○癲疳(てんかん)を治する藥。

 蝙蝠(かはほり)の黑燒、七疋分、こしらへ、日々、飮べし。

[やぶちゃん注:「癲疳」癲癇。]

 

○又、一方。

 火屋(ほや)の灰を飮(のむ)時は、治する也。

 

○又、一方。

 下總國葛飾郡駒木村(こまぎむら)、平右衞門と云(いふ)者の方に賣藥あり、一貼(いつてふ)の料代(れうだい)二百錢也。

[やぶちゃん注:「下總國葛飾郡駒木村」現在の千葉県流山市駒木(こまぎ)(グーグル・マップ・データ)。]

 

○洒に醉(ゑひ)たるを、さます方。

 白桃花(はくたうくわ)の花を、陰ぼしにして貯置(をさめおき)、大醉(だいすい)の時、少し、「さゆ」に入(いれ)て飮(のむ)べし。郞座に、醉を、さます也。

 

○酒毒には、

 葛の花を粉にして、白湯(さゆ)にて用(もちゆ)べし。藥店に有(あり)。

 

○水におぼれて死(しし)たる人を生(いき)かへす方。

 先(まづ)、其人を女牛(めうし)の背に、うつむけてくゝりつけ、牛の尻をたゝく時は、牛、そこらを、はしりありく。其度每(そのたびごと)に、死人の腹、おされる故、目・口より、水をはき出す也。扨(さて)、よく水を出(いだ)させて後(のち)、「わら」を燒(やき)たる灰の上に、ふさしめ、前後より、わら火を燒(やき)て、あたゝむれば、其人、息を、ふきかへす。其後に氣付抔(など)與へ、療治すべし。

 

○又、一方。

 溺死せし人には、雞(にはとり)の「とさか」の血を、とりて、のましむれぱ、卽座に、息、出(いで)て、水を吐(はく)也。

 

○水に落(おち)て、水をのみたるを吐(はか)するには、酢を、少し煎じて、のましむべし。腹中の水、殘らず吐(はく)也。

 

○血止(ちどめ)の藥【名「軍中一捻香」。】

 石灰を「寒ざらし」にして貯置(たくはへおき)、六月中、「にら」を取(とり)て摺鉢にて、すり、石灰を、まぜて、陰干にして、ひかたまりたる時、藥硏(やげん)にて、おろし、切疵などに付(つく)べし。「武田家中に、もちゆる、くすり成(なる)。」よし。

 

○又、一方。

 靑地といふ鳥を、黑燒にして付(つく)べし。

[やぶちゃん注:「靑地」本邦で普通に見かけるのは、スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属アオジ亜種アオジ Emberiza podocephala 。漢字表記は「蒿雀」「青鵐」で、この「靑地」の「地」は勝手な当て字である。読みは「あをじ」である。博物誌は「和漢三才圖會第四十二 原禽類 蒿雀(あをじ) (アオジ)」を見られたい。]

 

○又、一方。

 狐袋(きつねぶくろ)と云(いふ)物、古き庭に生ずるもの也。夫(それ)を取(とり)て、日に、ほしおく時は、粉に成(なる)也。是を付(つく)るも、よし。

[やぶちゃん注:「狐袋」まず、菌界ディカリア亜界 Dikarya担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ目ハラタケ科ホコリタケ属ホコリタケ Lycoperdon perlatum であろう。同種は異名を「キツネノチャブクロ(狐の茶袋)」と言う。当該ウィキによれば、『食べられるのは頂部がトゲに被われて内部がはんぺん状の白い幼菌のみで、少しでも着色があるものは悪臭があり食べられない』。『幼菌は食用キノコの中では非常に香りの強い物であるため、人によって好みが分かれるという。内部が純白色で弾力に富んだ若い子実体を選び、柄を除き、さらに堅くて口当たりの悪い外皮を剥き去ったものを食用とする。はんぺんに似た口当たりであるため、吸い物のような薄味の汁物などによく合う。軽く湯がいてから、酢の物、醤油をつけての串焼き、バター炒め、野菜炒め、鍋物などにも合う』とあり、「薬用」の項には、『漢方では「馬勃(ばぼつ)」の名で呼ばれ、完熟して内部組織が粉状となったものを採取し、付着している土砂や落ち葉などを除去し、よく乾燥したものを用いる。咽頭炎、扁桃腺炎、鼻血』(☜ ☞)、『消化管の出血、咳などに薬効があるとされ、また抗癌作用もあるといわれる』。『西洋でも、民間薬として止血に用いられたという』(☜)。『ホコリタケ(および、いくつかの類似種)は、江戸時代の日本でも薬用として用いられたが、生薬名としては漢名の「馬勃」がそのまま当てられており、薬用としての用途も中国から伝えられたものではないかと推察される。ただし、日本国内の多くの地方で、中国から伝来した知識としてではなく』。『独自の経験則に基づいて、止血用』』(☜)『などに用いられていたのも確かであろうと考えられている』とある。]

 

○又、一方。

 「松のは」を、粉にして、ふりかけて、よし。

 

○「きれぢ」・「はしり血」には、

 「靑のり」を、錢(ぜに)のまはりほどにして、火に、あぶり、少し、「おはぐろ」を、あつく、わかしたるを、右の「靑のり」へ、かけて、痛所(つうしよ)へ付(つく)れば、一日の内に、なほる事也。

[やぶちゃん注:『「きれぢ」・「はしり血」』とあるが、基本、同義で、「裂肛」を指す。通常は、硬く太い便によって肛門が傷ついたために発症するため、「切れ痔」・「裂け痔」と呼ぶ。]

 

○「ちどめ」のまじなひ。

 紙を三つに折(をり)て、又、それを、三つに折たるにて、血を押(おさ)ふべし。卽時に、血、とまる也。

 

○「とけつ」・「たんけつ」の藥。

 「くはずいせき」壹味、耳かきにて、ふたつ計(ばかり)飮(のみ)て、とまる也。

[やぶちゃん注:「くはずいせき」「花蕊石」。漢方生剤サイト「イアトリズム」のこちらによれば、基原は『蛇紋石を含む大理石』で、『止血作用、創傷回復、消腫作用、鎮痛作用など』があるとする。]

 

○又、一方。

 「れんこん」を「わさびおろし」にて、すりて、「さゆ」へ、しぼり込(こみ)、のますれば、卽時に治する也。急なる時は、「れんこん」の「しぼり汁」計(ばかり)をも、あたゝめ、用(もちゆ)ベし。

 

○鼻血出(いづ)るには、

 くみだての水を、紙に、ひたし、頭の眞中を冷して、よし。

 

○下血には

 梅ぼしを黑燒にして、「さゆ」にて、飮(のむ)べし。

 

○ふみぬきせしには、

 古たゝみのきれに、沈香、一味、くはへ、細末にして、水にとき、ぬりて、よし。

[やぶちゃん注:これは類感呪術である。]

 

○針・釘など、人の身に立(たち)、肉の内え[やぶちゃん注:ママ。]、入(いり)たる時、

 かまきりのほしたるを細末にして、疵口へ、ぬりおけば、針のかしら、少し、出(いづ)る也。其時、毛拔(けぬき)にても、「くぎぬき」にても、はさみ、ぬきとるべし。

 此方、名「權法散」。甲州高坂彈正家方(はう)。

 

○又、一方。

 鼠の「ふん」、角(かど)あるを、一つ、「めしつぶ」に、すりまぜ、針の立(たち)たる所へ付置(つけおく)ベし。針、「かしら」を出(いだ)す也。

[やぶちゃん注:いや、これは、化膿する危険性が高いな。]

2024/05/27

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(17)

○中氣の藥。

 靑松葉五匁を酒五合へ入(いれ)、煎じ、其酒斗(ばかり)を飮(のむ)べし。目・口、つりゆがみ、年へたる中風(ちゅうぶ)にても、治する事、神の如し。

 

○中風名湯(ちゆうぶめいたう)。

 桑の根・接骨木(にはとこ)【各一匁。】・石菖根(せきしやうこん)【五百目。】・枸杞【手、一束。】・忍冬【大。】・鹽一升・酢一升

 右、七味、大釜にて煎(せんじ)、三番迄、せんずべし。但(ただし)、初(はじめ)一番の湯を、のけ置(おき)、二・三番の湯と取合(とりあはせ)、水風呂に仕込(しこみ)、入浴すべし。右、七日、入湯する也。初日、三度、中ほどは、一日に五度、終(をはり)の一日、二日は、七度、但(ただし)、入湯(にうたう)して二日目位に、頭痛することあらば、頭痛のやむを待(まち)て、入(いる)べし。又、垢を、よる事、なかれ。却(かへつ)て、此湯、入浴、久しければ、頭痛する也。中風・痛氣・腰痛・打身等に妙湯(みやうたう)也。

 

○中風わづらはぬ灸。

 每年六月朔日、山田喜左衞門と云(いふ)人、夢想の灸をすゑる也。右の所は、芝口あたらし橋二葉町、大黑屋惣兵衞と申(まうす)人の所也。當日、出張して、灸をすゑる也。料物(れうもつ)、三十二錢づつ。

[やぶちゃん注:「芝口あたらし橋二葉町」現在の新橋。]

 

○中氣か、中氣でなきかを、こゝろむる方。

 人、外より歸りて、手足、すくみて、動かざる事、有(あり)。其時、「中氣也。」と、さはぎて、人參など、のますれば、人參にて、いよいよ、手足、かたまり、一生、中氣のやうに成(なる)物也。是は、寒氣强き時、寒氣に當りて、手足、すくむ事、有(あり)。夫(それ)には、人參、決して用べからず。中氣にて、なきゆへ[やぶちゃん注:ママ。]也。是を、こゝろむるには、生姜を、すりて、其しぼり汁を、よほど、白湯(はくたう)の中へ入(いれ)、のましむべし。寒氣にあたりたる人は、「くさめ」をする也。中氣ならば、「くさめ」をせず、もし、「くさめ」をしたらば、必(かならず)、人參、用(もちゆ)べからず。

 

○霍亂(かくらん)せしには、

 「へちま」の葉一枚を、梅の實(み)、「たね」ともに、黑燒にして、くみだての水にて、飮(のむ)べし【「張氏醫方筆記」に出(いづ)。】

[やぶちゃん注:「張氏醫方筆記」明代の医師の渡来書と思われる。]

 

○又、一方。

 「靑たで」の「は」を、摺鉢にて、すりて、紙につけ、足のうらの土ふまずへ、はりおけば、治する也。

 

○暑氣に、あたらぬ方。

 靑蓼葉・忍冬・艾葉(がいえふ)

 右。三味、煎(せんじ)用(もちゆ)べし。暑さに當ること、なし。

 

○寒氣にあたらぬ方。

 洒へ胡椒の粉を入(いれ)て、其湯にて、手足を塗(ぬり)て步行(ほぎやう)すれば、寒氣を、さくる事、妙也。

 

○風をひかぬ方。

 「くさめ」する度每に、其儘、鼻を、强く、かむべし。

 

○疫病のわづらはぬ方【名「三豆湯」。】

 八重(やへ)なり・あづき・黑豆

 右、三味へ、甘草、少し加へ、せんじ、用(もちゆ)べし。

[やぶちゃん注:「八重なり」マメ目マメ科マメ亜科ササゲ属ヤエナリ Vigna radiata 。小学館「日本国語大辞典」によれば、『一年草。インド原産で、古く中国を経て渡来し、栽培される。高さ』三十~八十『センチメートル。全体に粗毛を散布。葉は三出複葉。小葉は卵形。豆果は線形で黒褐色の粗毛が生え、内に数種子を含む。種子はアズキに似ているが』、『やや小さく、エナメル状の光沢があり、緑色または黄褐色のものが多い。種子で餡やもやしを作り、粉は、はるさめの原料とする。一つ株に』沢山の『豆果を結ぶところからの名』。他に「ぶんどう」「まさめ」「あおあずき」「りょくず」「りょくとう」等、異名が多い。当該ウィキによれば、『漢方薬のひとつとして、解熱、解毒、消炎作用があるとされる』とあった。]

 

○虐(おこり)をおとす方。

 「田ざらし」【「みつば」に似たる草にて、毒草也。】

 右、一味を、生(なま)にて、くだき、たゞらかし、其汁を取(とり)て、男は左の脈所(みやくどころ)、女は右の脈所へ、ぬるべし。半時ばかり置(おき)て、洗落(あらひおと)すべし。虐を截(たつ)事、妙也。但(ただし)、洗落さずして、半時を過(すぐ)れば、はれあがりて、とがむる也。小兒など、皮膚の柔(やはらか)なるものには、紙を敷(しき)て、其上より、汁を、しぼり付(つけ)て、よし。

[やぶちゃん注:「虐」マラリア。

「田ざらし」不詳。「毒草」とあるので、是非、知りたい。識者の御教授を乞う。]

 

○又、一方。

 「河原さいこ」と云(いふ)草、三匁、せんじて飮(のむ)べし。

[やぶちゃん注:バラ目バラ科バラ亜科キジムシロ属カワラサイコ Potentilla chinensis当該ウィキによれば、『日本では、本州、四国、九州に分布し、日当たりのよい海辺や河川敷などの砂礫地に生育する』。『世界では、極東ロシア、台湾、朝鮮半島、中国大陸に分布する』とあり、『和名カワラサイコは、「河原柴胡」の意』で、『河原に生え、根茎が太く、根茎を薬用とするセリ科』『ミシマサイコ』(セリ目セリ科ミシマサイコ属又はホタルサイコ属ミシマサイコ Bupleurum stenophyllum )『の類』である『「柴胡」に似ることによる』とあるだけで、薬効を記さない。]

 

○氣ちがひを治する方。

 越前瓜(えちぜんうり)、蔕(へた)、一味、けづり、くだにて、鼻の穴へ吹入(ふきいる)べし。

[やぶちゃん注:「越前瓜」不詳。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(3)

 

   根太から先へ名乘や草すまひ 范 孚

 

 相撲を秋の季と定めるのは、大內[やぶちゃん注:「おほうち」。]の相撲節會[やぶちゃん注:「すまひのせちゑ」。]に基くものとすれば、實感寫生を重んずる今の俳人が、依然これに倣つてゐるのは不思議なやうである。專門家の相撲は一月、五月と相場がきまつて、他の季のものは問題にされてゐない。今猶秋に屬するものがあるとすれば、寧ろ草相撲の類であらう。國技館の鐵傘[やぶちゃん注:「てつさん」。]の下から、ラヂオによつて勝負の經過が放送される大相撲よりは、素人の草相撲の方が俳句の材料に適してゐることは云ふまでもない。

 この句は草相撲の中の漫畫的小景を捉へたので、何といふ名かわからぬが、根太(腫物)の出來た男があつて、その方から先へ名乘つた、といふ意味である。如何に草相撲でも、根太を以て名としたわけではあるまい。根太が印象に殘つたから、「根太のある男」の略で、かう云つたものと思はれる。

[やぶちゃん注:「根太」は「ねぶと」と読み、ここは所謂、「おでき」の一種。大腿部や臀部などに発し、赤く腫れて硬く、中心が化膿して時に激痛がある。「疔」(ちょう)や「癰」(よう)等とも呼ぶ。但し、鼠径リンパ節に痛みのある腫脹が発生する症状の中には、性病の軟性下疳や硬性下疳の場合もある。]

 

   山領は法師ばかりの相撲かな 遲 望

 

 變つたところを見つけたものである。一山の荒法師どもが集つて相撲を取つてゐる。どれを見ても坊主頭ばかりだといふことが、頗る奇異な感を與へたものらしい。

 斷髮令以後の民は往々にしてかういふ消息を見遁す虞がある。「投げられて坊主なりけり辻相撲」といふ其角の句にしても、その坊主頭が異樣に眼に映ることを考慮に入れなければならない。伊勢濱が脫走した後、坊主頭で土俵に登つたのが異彩を放つてゐたことは、吾々の記憶にもあるが、昔としてはなかなかそんな程度ではなかつたらうと思ふ。坊主ばかりの相撲に至つては、慥に鳥羽繪中のものである。

[やぶちゃん注:「山領」は「さんりやう」と読んでおく。修験道系の山岳寺院の並み建つ山域であろう。

『「投げられて坊主なりけり辻相撲」といふ其角の句』元禄三年七月十九日興行の歌仙の発句。「辻相撲」(つじずもう)は夜間に街の辻などでやった素人相撲を指す。「花摘」所収のものでは、

   *

 投げられて坊主也けり辻相撲

   *

である。

「伊勢濱」伊勢ノ濱慶太郎(明治一六(一八八三)年~昭和三(一九二八)年)は東京府本所区(現在の東京都墨田区)出身で友綱部屋(入門時は根岸部屋)に所属した大相撲力士。本名は中立(なかだち)慶太郎。最高位は大関。当該ウィキによれば、出世が早く、明治三九(一九〇六)年五月場所で入幕したが、『この頃から素行が悪化、新入幕の場所は』一『勝しか挙げられず』(三敗一預五休)、翌年の『一月場所には脱走をしてしまった。戻ったときには頭を丸めて周囲を驚かせたという。改心したか』、『その後は稽古に励み、関脇に昇った』明治四三(一九一〇)『年頃からは』、『酒や煙草も断って』、一層『精進に努めた。横綱常陸山を破るなど』、『上位で活躍を続け』、大正二(一九一三)年五『月場所』で、『関脇で』九『勝』一『敗の好成績を収めて』、『場所後に大関に昇進した』。五『年余りにわたり』、『大関の地位にいたが』、『横綱昇進は果たせず、晩年は神経痛やリウマチを患い』、大正八(一九一九)年一『月場所限りで引退、年寄中立を襲名した』。『引退後は相撲協会の理事・検査役も務め、頭脳明晰にして温厚な人柄から人望も厚かったが』、昭和三年五月十七日、『宿泊先の静岡県沼津市の旅館で服毒自殺した』。享年四十四であった、とある。]

 

   七夕や庭に水打日のあまり り ん

 

 まだ日の暮れぬうちである。梅雨の明けきらぬ新曆の七夕では、古來の情趣は殆ど失はれたに近いが、「文月や六日も常の夜には似ず」といつた古人の感情から云へば、七夕の日の暮れるのは、今より遙に待遠しかつたであらう。新涼の氣が動いてゐるとはいふものの、晝の間はなかなか暑い。その日影がまだ殘つてゐる庭に水を打つて、二星の相見るべき夜を待つのである。

 七夕の句は二星に重きを置き過ぎる爲、動も[やぶちゃん注:「ややも」。]すれば擬人的の弊に陷り易い。七夕に關する行事も、人間扱にしてある點が面白いのであるが、あまり度々繰返されては、句として成功しにくい憾がある。この句は「七夕や」と云つただけで、格別七夕らしい何者も點ぜぬところが面白い。

[やぶちゃん注:「文月や六日も常の夜には似ず」芭蕉の「奥の細道」での越後今町(現在の直江津)での一句である。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 58 越後路 文月や六日も常の夜には似ず』を見られたい。]

 

   蠅ひとつねられぬ秋の晝寐かな 松 醒

 

 この句を讀むと直に「蚊ひとつにねられぬ夜半ぞ春のくれ 重五」といふ句を思ひ出す。表から見た兩句は殆ど相似てゐるといつて差支ない。併し句の心持には多少の相違がある。

 ぶんぶん唸つて來る蚊一つの爲に眠ることが出來ぬといふのは、來るべき夏の前奏曲であるが、顏に來る蠅一つをうるさがつて、容易に晝寐が出來ぬといふのは、去りやらぬ殘暑の一情景である。兩句は夏を中心にして、各〻前後に於ける人及蟲を描いてゐる。必ずしも類句としてのみ見るべきでない。

 芭蕉の「ひやひやと壁をふまへて晝寐かな」は、無名庵殘暑の句であるといふ。かういふ風な句を見ると、古人が季題に拘束されず、樂々と句を作つていることがわかる。「秋の晝寐」などは言葉も雅馴であるし、さう無理に取つてつけたやうな感じでもない。

[やぶちゃん注:「蚊ひとつにねられぬ夜半ぞ春のくれ 重五」加藤重五(承応三(一六五四)年~享保二(一七一七)年)は尾張名古屋の材木商。松尾芭蕉の門人。貞享元(一六八四)年、山本荷兮が名古屋に芭蕉を迎え、「冬の日」の歌仙を興行した際、連衆の一人となった。「阿羅野」等にも句が載る。通称は善右衛門・弥兵衛。本句は「春の日」の「春」の掉尾に載っている。そこでは、

   *

 蚊ひとつに寐られぬ夜半ぞ春のくれ

   *

の表記である。

『芭蕉の「ひやひやと壁をふまへて晝寐かな」は、無名庵殘暑の句であるといふ』「笈日記」所収。元禄七(一六九四)年七月、大津の木節庵(望月木節の屋敷。是好の医号を持つ大津の医師。芭蕉の最期を大坂で看取った一人である)での作。そこでは、

   *

   その後、大津の木節亭にあそぶとて

 ひやひやと壁をふまへて晝寢哉

   *

である。「昼寝」は現在では夏の季語であるが、この当時は季語とされていない。而して「ひやひやと」する足の裏の感触に――未だ残暑の名残の中の「秋」――が示されてあるのである。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 楠

 

Kusunoki

[やぶちゃん注:図の中央下方に左下の挿入図のキャプションとして「實」(み)とある。]

 

くすのき  柟【相同】

      【久須乃木】

【音南】

 

 

ナン

 

本綱楠生南方其樹直上童童若幢蓋之狀枝葉不相礙

葉似豫章而大如牛耳一頭尖經歳不凋新陳相換其花

赤黃色實似丁香色靑不可食幹甚端偉髙者十餘丈巨

者數十圍氣甚芬々爲梁棟噐物皆佳葢良材也色赤者

堅白者脆造船皆用之其性堅而善居水久則當中空爲

白峨所穴其近根年深向陽者結成草木山水之狀俗呼

爲骰柏楠宜作噐

△按楠葉似櫧葉而光澤背淡白邊畧反卷莖微赤五月

 開細白花帶黃其子如豆大而青色本細似細口梨形

 其木堅實耐水以造舶其根株經歳者變爲石

                           無名

 歌枕和泉なるしのたの森の楠の千枝に分かれて物をこそ思へ

[やぶちゃん注:この短歌は第三句に脱落があり、「楠の木の」が正しい。訓読では補塡した。]

 

   *

 

くすのき  柟《ゼン/ダン》【「枏」も同じ。】

      【≪倭名≫、「久須乃木」。】

【音南】

 

 

ナン

 

「本綱」に曰はく、『楠、南方に生ず。其の樹、直(《ちよ》く)に上《のぼ》り、童童《どうどう》として幢蓋(どうがい)の狀(かたち)のごとく、枝葉、相ひ礙(さは)らず。葉、豫《よ》・章《しやう》に似て、大きく、牛の耳のごとく、一頭、尖り、歳《とし》を經て、凋(しぼ)まず。新《しん》・陳《ちん》、相ひ換(か)ふ。其の花、赤黃色。實《み》、丁香《ちやうかう》に似て、色、靑し。食ふべからず。幹《みき》、甚だ端偉《たんい》≪にして≫、髙き者、十餘丈。巨なる者、數十《すじふ》圍《まわり》、氣、甚だ、芬々なり。梁《はり》・棟《むね》・噐物《うつはもの》と爲《な》して、皆、佳なり。葢し、良材なり。色、赤き者、堅く、白き者は、脆《もろ》し。船を造るに、皆、之れを用ふ。其の性、堅くして、善く水に居《を》る。久しき時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、當《まさ》に中空《ちゆうくう》にして、白蛾の爲《ため》、穴《あな》せらる。其の根に近き≪所は≫、年深《としふか》く、陽《ひ》に向ふは、結《けつ》して、草木山水《さうもくさんすい》の狀《かたち》を《→に》成る。俗、呼んで、「骰柏楠《とうはくなん》」と爲《な》す。宜しく噐に作るべし。』≪と≫。

△按ずるに、楠《くす》≪の≫葉、櫧(かし)の葉に似て、光澤≪あり≫、背、淡白《あはじろ》く、邊(まは)り、畧(ちと)、反卷(そりまき)、莖、微赤なり。五月、細≪き≫白花を開き、黃を帶ぶ。其の子《み》、豆の大きさのごとくにして、青色。本《もと》、細く、細-口-梨(《ほそぐち》なし)の形に似たり。其の木、堅實にして、水に耐(た)ふ。以つて、舶《ふね》に造る。其の根株、歳《とし》を經《ふ》る者、變じて、石と爲《な》る。

  「歌枕」          無名

 和泉なる

    しのだの森の

  楠の木の

     千枝(ちえ)に分かれて

           物をこそ思へ

 

[やぶちゃん注:これも、時珍の示す「楠」と、良安の認識している「楠」は種が異なる。但し、同じクスノキ目クスノキ科Lauraceaeではある。時珍のそれは、

クスノキ科タブノキ(椨の木)属ナンタブ  Machilus nanmu

(南椨)であるのに対し、我々や良安の認識するのは、

クスノキ科ニッケイ(肉桂)属クスノキ Cinnamomum camphora

なのである。後者は言わずもがなであるが(当該ウィキをリンクするに留める)、ナンタブというのは、私は初めて知った。英文の同種のページを見るに、『中国南部の四川省と雲南省北東部に固有の種で』、『主に伐採による棲息地の喪失の脅威に曝されている』とあり、ナンタブは『成長の遅い大型の木で、幹は長く真っ直ぐで、高さは』十~四十『メートル、直径は』五十センチメートルから一メートルに『なる』。その『木材は、腐食に非常に強く、密度が高く、オリーブ色から赤褐色までの魅力的な色を呈していることから、建築や家具作りに広く使用されてきた。かの「故宮」は、本来は、明の』永楽帝『朱棣』(しゅてい)に『よって、ナンタブの木材を使用して建設された』ものであったとあり、更に、『腐食に強いため、船を作るのにも使用された』とあり、時珍の叙述とピッタり一致するのである。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「楠」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-40a]から始まる、その「集解」の二行の「時珍曰」以下であるが、珍しく、かなりしっかりと、ほぼそのままに引用されてあるので、比較されたい。

「童童」「樹木に枝がないさま」を言う漢語。

「幢蓋(どうがい)」軍の指揮に用いる旗鉾(はたぼこ)と朱色の傘を合わせたもの。大将軍や州軍の長官などが用いた。

「礙(さは)らず」この「礙」は「碍」(「対象を害する」の意)の異体字。

「豫」これは次の次の項である「釣樟」で、その異名。高級爪楊枝となることで知られる、クスノキ目クスノキ科クロモジ(黒文字)属クロモジ Lindera umbellata var. umbellata を指す。

「章」これも次項である「樟」を指す。而して、これこそが、本邦のクスノキ科ニッケイ(肉桂)属クスノキ Cinnamomum camphora と同一種を指す。

「新・陳、相ひ換(か)ふ」葉が、年を経ても、なかなか枯れ落ちることがなく、旧葉は、相当の年月を過ぎて初めて、新葉に交代する。

「丁香」これは、所謂、「クローブ」(Clove)のことで、バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum である。

「食ふべからず」こう明記するからには、有毒なのであろうが、ナンタブ  Machilus nanmu の果実が有毒であるという記載は、ちょっと調べたが、ないようである。

「端偉」東洋文庫訳では、『幹は、大へん端正で、偉大』とある。

「白蛾」種不詳。

「年深く、陽に向ふは、結して」東洋文庫訳では、『何年もの長い間、陽(ひ)の方に向かっていると』、『結して』、『草木山水の状を形成する』とある。

「骰柏楠」中文の「北京保利國際拍賣有限公司」のサイトに、明の清の宮廷の旧蔵の机の画像があり、作品名称を「明 黄花梨骰柏楠面翘头案」とある。机上の表面を拡大視出来るようになっているが、その模様を見られたい。「草木山水の狀」と言えるかどうかは別として、確かに、独特の木目を示している。

「櫧(かし)」この漢字は、現行では、ブナ目ブナ科コナラ属アカガシ亜属アカガシ Quercus acuta を指す。当該ウィキによれば、『かたくて赤褐色の材は和名の由来となり、車両や船舶、三味線の棹、木刀にも使われる』とあり、材がナンタブやクスノキと通性がある。特にクスノキは、当該ウィキによれば、『材は、古木になるほど年輪が入り組んで、材のひき方によって様々な模様の杢が現れる』。『枝分かれが多く』、『直線の材料が得難いという欠点はあるが、虫害や腐敗に強いため、古来から船の材料として重宝されていた。古代の西日本では丸木舟の材料として、また、大阪湾沿岸からは、クスノキの大木を数本分連結し、舷側板を取り付けた古墳時代の舟が何艘も出土している。その』さまは、「古事記」の『「仁徳記」に登場するクスノキ製の快速船「枯野」(からぬ)の逸話からも窺うことができる』。『室町から江戸時代にかけて、軍船の材料にもなった』とある。

「細-口-梨(《ほそぐち》なし)」種不詳。

「歌枕」「歌枕名寄」(うたまくらなよせ)。中世の歌学書で、全国を五畿七道・六十八ヶ国に区分し、当該国の歌枕を掲げ、その歌枕を詠みこんだ証歌を、「万葉集」・勅撰集・私家集・私撰集から広く引き出して列挙したもの。成立年代は「新後撰和歌集」(嘉元元(一三〇三)年奏覧)の前後で、編者は『乞食活計之客澄月』と署名があるが、「澄月」その人の伝は不詳である。中世には、歌枕と、その証歌を、類聚して作歌の便を図った、所謂、「歌枕撰書」が幾つか編纂されたが、それらの中で、本書は最大(全三十八巻・六千余首)で、よく整備されたものである。また、江戸時代の万治二(一六五九)年に版行され、広く流布した。相当に形の異なる諸本があるが、澄月編纂の形に最も近いものは、細川幽斎自筆本(『永青文庫』蔵)である。所引の証歌は勅撰集にせよ私家集にせよ、現在の流布本とは形が異なるものが多く、その方面の文献学的研究に資するところは大きい(以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った。

「和泉なるしのだの森の楠の木の千枝に分かれて物をこそ思へ」「古今和歌六帖」(全六巻。編者は紀貫之、或いは、源順(したごう)とも言われる。草・虫・木・鳥等の二十五項、五百十六題について和歌を掲げた類題和歌集)の「第二 山」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」のそれの、ガイド・ナンバー「01049」で確認した。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(2)

 

   村雨も過ぎて切籠のあらしかな 乙 双

 

 村雨がばらばらと降つて止んで、切子燈籠に强い風が吹いて來た、といふのである。勿論夜の景色であらう。暗い夜空から降る雨も、俄に吹いて來る强い風も、盂蘭盆が背景であるだけに、他の場合とは自ら別個の感じを與へるところがある。

 

   桐苗の三葉ある内の一葉かな 知 方

 

 桐の苗木に葉が三枚ついてゐる。そのうちの一葉がばさりと落ちた。かういふ若木は秋の到ることを著しく感ずるものであるかどうか。三枚のうちの一葉を缺くのは、その小さな木から云へば重大な事件である。

「猿蓑」に「三葉散りてあとは枯木や桐の苗」といふ凡兆の句があつた。同じやうな材料ではあるが、これは一葉ではない。僅に三枚しかない苗木の桐の葉が皆散つてしまつて、あとは坊主の枯木になつてゐる、といふのだから、季節はもう少し後になる。漱石氏が「野分」の中でたつた一枚梢に殘つている桐の葉が、風に搖られて落ちるところを細敍したのは、それを見てゐる病人の心持と相俟つ點があつて、必ずしも自然の寫生ばかりではないが、季節から云ふと凡兆の句に近いであらう。「三葉散りて」と云つたところで、續けさまに葉が三枚散つたわけではなしに、嘗ては三枚あつた葉が三枚ながら散つてしまつて、今は枯木になつてゐるといふ、稍〻長い時間が含まれてゐる。知方の句は現在三枚あるうちの一枚が落ちたので、それほど時間的な意味は認められない。句としては凡兆の方が複雜でもあり、力强くもあるが、桐の苗の三枚の葉を別な立場から扱つた點に、吾々は或興味を感ずる。

[やぶちゃん注:凡兆の句は、所持する岩波文庫「芭蕉七部集」(中村俊定校注・昭和四一(一九六六)年刊)では、

   *

 三葉散りて跡はかれ木や桐の苗

   *

である。

『漱石氏が「野分」の中でたつた一枚梢に殘つている桐の葉が、風に搖られて落ちるところを細敍したのは、それを見てゐる病人の心持と相俟つ點があつて、必ずしも自然の寫生ばかりではない』「野分」(のわき)は明治四〇(一九〇七)年一月、『ホトトギス』に初出。「八」の以下のシーン。読みは一部に留めた。

   *

 垢染(あかじ)みた布團を冷やかに敷いて、五分刈りが七分程に延びた頭を薄ぎたない枕の上に橫(よこた)へてゐた高柳君は不圖(ふと)眼を擧げて庭前の梧桐(ごとう)を見た。高柳君は述作をして眼がつかれると必ず此梧桐を見る。地理學敎授法を譯して、く草々(くさくさ)すると必ず此梧桐を見る。手紙を書いてさへ行き詰まると屹度此梧桐を見る。見る筈である。三坪程の荒庭(あれには)に見るべきものは一本の梧桐を除いては外に何にもない。

 ことに此間から、氣分がわるくて、仕事をする元氣がないので、あやしげな机に頰杖を突いては朝な夕なに梧桐を眺めくらして、うつらうつらとしてゐた。

 一葉(いちえふ)落ちてと云ふ句は古い。悲しき秋は必ず梧桐から手を下(くだ)す。ばつさりと垣にかゝる袷(あはせ)の頃は、左迄(さまで)に心を動かす緣(よすが)ともならぬと油斷する翌朝またばさりと落ちる。うそ寒いからと早く繰る雨戶の外に又ばさりと音がする。葉は漸く黃ばんで來る。

 靑いものがしだいに衰へる裏から、浮き上がるのは薄く流した脂(やに)の色である。脂は夜每を寒く明けて、濃く變つて行く。婆娑(ばさ)たる命は旦夕(たんせき)に逼る。

 風が吹く。どこから來るか知らぬ風がすうと吹く。黃ばんだ梢は動(ゆる)ぐとも見えぬ先に一葉(ひとは)二葉(ふたは)がはらはら落ちる。あとは漸く助かる。

 脂は夜每の秋の霜に段々濃くなる。脂のなかに黑い筋が立つ。箒(はうき)で敲けば煎餅を折る樣な音がする。黑い筋は左右へ燒けひろがる。もう危うい。

 風がくる。垣の𨻶(すき)から、椽(えん)の下から吹いてくる。危ういものは落ちる。しきりに落ちる。危ういと思ふ心さへなくなる程梢を離れる。明らさまなる月がさすと枝の數が讀まれる位あらわに骨が出る。

 僅かに殘る葉を虫が食ふ。澁色(しぶいろ)の濃いなかにぽつりと穴があく。隣りにもあく、其隣りにもぽつりぽつりとあく。一面が穴だらけになる。心細いと枯れた葉が云ふ。心細からうと見てゐる人が云ふ。所へ風が吹いて來る。葉はみんな飛んで仕舞ふ。

 高柳君が不圖眼を擧げた時、梧桐は凡て此等の徑路を通り越して、から坊主ぼうずになってゐた。窓に近く斜めに張つた枝の先に只一枚の虫食葉(むしくひば)がかぶりついてゐる。

「一人坊つちだ」と高柳君は口のなかで云つた。

 高柳君は先月あたりから、妙な咳をする。始めは氣にもしなかった。段々腹に答へのない咳が出る。咳丈(だけ)ではない。熱も出る。出るかと思ふと已(や)む。已んだから仕事をしやうかと思ふと又出る。高柳君は首を傾けた。

 醫者に行つて見てもらはうかと思つたが、見てもらうと決心すれば、自分で自分を病氣だと認定した事になる。自分で自分の病氣を認定するのは、自分で自分の罪惡を認定する樣なものである。自分の罪惡は判決を受ける迄は腹のなかで辯護するのが人情である。高柳君は自分の身體(からだ)を醫師の宣告にかゝらぬ先に辯護した。神經であると辯護した。神經と事實とは兄弟であると云ふ事を高柳君は知らない。

 夜(よる)になると時々寢汗をかく。汗で眼がさめる事がある。眞暗(まつくら)ななかで眼がさめる。此眞暗さが永久續いてくれゝばいゝと思ふ。夜があけて、人の聲がして、世間が存在してゐると云ふ事がわかると苦痛である。

 暗いなかを猶暗くする爲めに眼を眠(ねむ)つて、夜着(よぎ)のなかへ頭をつき込んで、もう是ぎり世の中へ顏が出したくない。この儘眠りに入つて、眠りから醒めぬ間(ま)に、あの世に行つたら結構だらうと考へながら寐る。あくる日になると太陽は無慈悲にも赫奕(かくえき)として窓を照らしてゐる。

 時計を出しては一日に脉(みやく)を何遍(なんべん)となく驗(けん)して見る。何遍驗しても平脉ではない。早く打ち過ぎる。不規則に打ち過ぎる。どうしても尋常には打たない。痰を吐く度(たび)に眼を皿の樣にして眺める。赤いものゝ見えないのが、せめてもの慰安である。

 痰に血の交らぬのを慰安とするものは、血の交る時には只生きてゐるのを慰安とせねばならぬ。生きて居るだけを慰安とする運命に近づくかも知れぬ高柳君は、生きてゐるだけを厭(いと)ふ人である。人は多くの場合に於て此矛盾を冒(をか)す。彼等は幸福に生きるのを目的とする。幸福に生きんが爲めには、幸福を享受すべき生そのものゝ必要を認めぬ譯には行かぬ。單なる生命は彼等の目的にあらずとするも、幸福を享け得る必須條件として、あらゆる苦痛のもとに維持せねばならぬ。彼等が此矛盾を冒して塵界に流轉するとき死なんとして死ぬ能はず、而も日每に死に引き入れらるゝ事を自覺する。負債を償(つぐな)ふの目的を以て月々に負債を新たにしつつゝあると變りはない。之を悲酸(ひさん)なる煩悶と云ふ。

   *]

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(16)

○「葛花解醒湯(かつくわかいせいたう)」。

 白豆蒄(びやくづく)・縮沙・葛花【各五分。】・茯苓・陳皮・猪苓(ちよれい)・人參【各一匁護五分。但(ただし)、人參は砂參(ささん)にかへても、よし。】・白朮・神麹・澤潟・乾姜【各二分。】・靑皮【三匁。】・木香【五分。】

 已上、十三味、葛花は一匁入(いる)るも、よし。

[やぶちゃん注:上手く分離させることを忘れてしまっていた。以降、「四味平胃散」までは、前回「(15)」の後ろから二つ目の、「食傷せし時は」の連投である。なお、既に述べた通り、既注の生薬注は、基本、繰り返さない。

「葛花解醒湯」漢方方剤サイト「イアトリズム」のこちらの「処方構成」を参照されたい。「適応疾患および対象症状」の項に、『二日酔い、呑み過ぎ、嘔吐、頭痛、落ち着かない、みぞおちのつかえ、手足の震え、食欲不振、尿量減少』とある。]

 

○「萬病感應丸(まんびやうかんのうぐわん)」。

 此くすり、解毒・氣付・癰庁(ようちやう)、毒蟲にさゝれたる牛馬にも、用(もちい)て、よし。賣所(うりどころ)、下谷上野、屛風阪前町(まへちやう)にて尋(たづぬ)べし。價(あたひ)、しれず。

[やぶちゃん注:「萬病感應丸」「大正製薬株式会社」公式サイト内の「萬病感應丸A」を見られたい。

「下谷上野、屛風阪前町」いつもお世話になるサイト「江戸町巡り」に「【下谷②】屏風坂下車坂町」があり、現在の『台東区上野七丁目』とある。ここ(上野駅周辺)の内か、接した周縁であろう(グーグル・マップ・データ)。]

 

○「奇應丸」。

 沈香【五戔。】・人參【一兩。】・熊膽・麝香【各半兩。】・金箔【三十六枚。】・白檀【三匁】

 已上、六味。

[やぶちゃん注:「小児薬樋屋奇応丸」のページを見られたい。但し、そこでは微妙に添加物が異なる。]

 

○「梅木和中散(うめのきわちゆうさん)」。

 當歸・桔梗【三匁八分。】・白朮【三匁。】・胡黃蓮【二分。】・乾姜・陳皮・茯苓・香附子・益母(やくも)【各二匁五分。】・甘草【七分。】

 已上、十味。

[やぶちゃん注:「梅木和中散」「和中散」は江戸時代の家庭用漢方薬として有名。枇杷葉(びわよう)・桂枝・辰砂・木香・甘草などを調合した粉薬。暑気あたり・めまい・風邪などに服用(「デジタル大辞泉」に拠った)。「梅木和中散」は滋賀県栗東市六地蔵にあった「旧和中散本舗 大⻆家住宅」(グーグル・マップ・データ)が販売元。ここは旧「梅の木村」であった。

「益母」野原・道端などに生えて、高さ一メートル前後になり、夏に紫色の花を咲かせるシソ目シソ科オドリコソウ亜科メハジキ属メハジキ Leonurus japonicus は「目弾き」だが、別名を「益母草」(やくもそう)とも言う。当該ウィキによれば、『全草が産前産後、婦人病、眼病などの薬草として利用されていた』とあり、より詳しく、『花の時期の全草を採取し乾燥させたものを、漢方で産前産後の保健薬にしたことから、益母草(やくもそう)と称し』、『種子は茺蔚子(じゅういし)と称する生薬になる』。『初夏の開花始めのときに地上部を刈り取って、屋内で風干しして、長さ』二センチメートル『ぐらいに刻んで調製し、紙袋で貯蔵される』。『全草(益母草)は、止血、浄血、婦人病薬としての補精、浴湯料として薬効があるとされ、種子(茺蔚子)は水腫、目の疾患、利尿に効果があるとされる』。『全草、種子ともに婦人の要薬、特に産後の止血、浄血、補精、月経不順、腹痛に効用があるといわれている』とあった。なお、「目弾き」は茎を使った子どもの遊びに由来するが、私は、この遊びを知らなかった。「グーグル画像」で「目はじき 遊び」で見て、びっくりした。ウィキでは瞼につっかえ棒にしたとあるが(画像にも絵はある)、一寸危ないから、このびっくらの方が安心かな。]

 

○「四味平胃散」。

 陳皮・蒼朮・厚朴(こうぼく)【各等分。】・甘草【少。】

 此(この)「平胃散」、粉ぐすりにて、たくはひ置(おき)、すこしの腹痛には、用(もちい)て、功、有(あり)。

[やぶちゃん注:「四味平胃散」「日経DI」の「