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2026/08/18

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その11) 乾梭魚

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。本文は貧弱なので、注は最後に回した。]

 

   乾梭魚(ほしかます)

梭魚(かます)は「かます」と訓じ、又、魳(かます)、𩶸(かます)、鮊(かます)等(とう)の文字をも用(もち)う[やぶちゃん注:ママ。]。「本朝食鑑」に、『近世、「魳(しう)」の字を用ふ。字書に惟名(いめい)の名と爲すのみ[やぶちゃん注:これは、惟(ただ)、「魚」と示すだけであり、それ以外の固有種名・形状・性質などを含んでいない漢語であることを言う。後注する。]。長崎の市人(しじん)、中華の船客(せんきやく)に逢ふて、此の魚を指して問ひしに、『梭子魚(しゆんしぎよ)なり。』と答(こたへ)たり。』と。『「閩書」に『梭魚(しゆんぎよ)、織梭(をりをさ)の如し。豐肉脆骨(はうにくぜいこつ)、此れを魳魚(しうぎよ)と謂ふ乎(か)。』と載せたり。

 

 此ものは全國の海にあり、『鮝(しやう[やぶちゃん注:最後は「ふ」にしか見えないが、正しい歴史的仮名遣で「う」と判じた。])』と作(な)して賞美し、脂(あぶら)多きものは、色、淡赤(たんせき)、脂少きものは、色、黃白(こうはく[やぶちゃん注:ママ。])なり。

[やぶちゃん注:「乾舒(ほしかます)」アジ目カマス(魳・梭子魚・梭魚・魣)科カマス属 Sphyraena の干物。世界では二十七種を数えるが、本邦産食用種として重要な種は、ヤマトカマス(大和叺・大和梭子) Sphyraena japonica・アカカマス Sphyraena pinguis・アオカマス Sphyraena japonica の三種である。今回は、当該ウィキは内容的に不満足なので、小学館「日本大百科全書」「カマス」の項を引用することとする(太字は私が附した)。『硬骨魚綱スズキ目カマス科Sphyraenidaeの海水魚の総称。口を大きくあけて餌物』『を大食するさまが、蓆(むしろ)を二つ折りにして穀物や塩などを入れた袋(叺(かます))に似ているので、この名があるという。体は細長く頭は細くとがる。下顎(かがく)は上顎より突出し、上下両顎に牙(きば)状の強い歯がある。背びれは2基で互いによく離れており、第1背びれは小さくて5本の棘条(きょくじょう)しかない。胸びれは短く、腹びれは胸びれの基部よりやや後方にある』。『沿岸の表層を遊泳し、小形魚は群れをつくるが、大形魚は成長とともに群れなくなり、しだいに単独で行動するようになる。代表的な肉食魚であり、群れをつくる小魚を追って食べる。サンゴ礁海域では』、『大形魚はサメ類やハタ類などとともに食物連鎖で最高の地位にあり、イワシ類、アジ類、ベラ類、スズメダイ類などを餌』『としている。他物の形や行動に敏感に反応する性質があり、異常な行動をするもの、光るものなどに興味を示し、目にも留まらぬほどの速さで相手を攻撃して大きな傷害を与える。大形魚はとくに気が荒く、ダイバーや海水浴中の人間を襲う。場所によってはサメ類による被害よりも多いことがあり、暗い水中や濁った水中での被害が多い』。『産卵は春から夏にかけてなされるが、多くの個体は1産卵期に数回に分けて放卵する。卵は分離浮性卵であり、卵径は1ミリメートル以下である。アカカマスの熟卵は卵膜が透明で多くの亀裂』『があり、油球は1個ないしは2個である。1回の産卵で20万粒を産むので、産卵期間を通じて多いものでは100万粒前後を放卵する。水温23℃では受精後1日余りで孵化(ふか)する』。『熱帯のサンゴ礁にすむものは、シガトキシンciguatoxin』(同全書の当該項から引くと(以下でダブりがある)、『名前はカリブ海に生息する巻き貝のシガcigua(チャウダーガイ)』(腹足綱古腹足亜綱ニシキウズガイ目ニシキウズガイ上科クボガイ科 シッタリアム属チャウダーガイCittarium pica )『による食中毒に由来する。世界の熱帯、亜熱帯海域に生息する400種以上の魚種から報告されている。魚の餌(えさ)になるサンゴ礁で育っている石灰藻類を藻食魚が食べると、それに付着する渦鞭毛藻(うずべんもうそう)Gambierdiscus toxicusでつくられた毒が、藻食魚から食物連鎖を通して、ほかの魚の体内に蓄積することがある。毒は筋肉より内臓に多い。これらの魚を食べると、口や手足などのしびれ、ドライアイスセンセーション(温度感覚異常)、めまいなどの神経障害、腹痛、嘔吐』『、下痢などの胃腸障害をおこし、ときには死ぬことがある。日本での死亡例は報告されていない。神経障害は回復が遅くて数か月続くことがある。日本では亜熱帯の沖縄、奄美』『諸島周辺にいるハタ類(バラハタ、マダラハタなど)、フエダイ類(バラフエダイ、イッテンフエダイなど)、ニザダイ類(サザナミハギなど)、カマス類(オオカマスなど)のほか、ある種のブダイ類、ベラ類、カマス類など20種ほどがこの毒をもつことが知られ、これらを食べて食中毒がおきているが、2000年ごろから、地球温暖化によって本州でも疑われるような症状が報告されている。』とある)『という毒素をもつことがある。この毒素をもった魚を食べるとシガテラciguatera『とよばれる中毒症状をおこし、ときに死亡することがある。この中毒症は神経障害が主であり、感覚がしびれ、全身に悪寒やふるえ、吐き気があり、ひどくなると腕や足の筋肉や関節に激痛がおこる。この徴候は徐々に』、『または』、『急激に現れる。毒素は地域や季節によって著しく異なるが、カマス類が食べた餌から体内に蓄積されたものである。毒素はもともと海藻類に含まれており、これを食べたサザナミハギなどの藻食魚に移され、さらにこれらを食べたカマス類に蓄積される。大形魚は小形魚より毒性が大きい傾向がある。オニカマスは国によっては』、『産卵期に販売を停止することがある』(以上、落合明氏)。『カマス類は世界には20種余りが知られている。そのうち世界的にもっとも有名なのは、英名でバラクーダbarracudaとよばれるオニカマス(別名ドクカマスSphyraena barracudaである。世界中の熱帯から亜熱帯に分布しており、日本でも』、『南日本の太平洋岸、琉球』『諸島海域の内湾や、サンゴ礁域に生息する。鱗』『が大きく、側線に沿って7587枚、側線より背方に数列に並ぶこと、体側の側線の上半分に青色の横縞』『があることが大きな特徴である。カリフォルニアカマスSphyraena argenteaも体長が1.2メートルになり、カリフォルニア沿岸を中心に北アメリカ太平洋沿岸の広い範囲に生息している』。『日本の沿岸では体長数十センチメートルになるアカカマスSphyraena pinguis、アオカマスSphyraena nigripinnis、ヤマトカマスSphyraena japonicaなどは漁獲量が多く』、『産業的に重要である。とくにアカカマスは一般にカマスとよばれ、美味である。琉球諸島以南の太平洋や』、『インド洋の熱帯域にはオオカマスSphyraena putnamae、南日本からインド洋にかけてはオオメカマス』(大目梭子)『Sphyraena forsteriなどが広く分布している。オオカマスは体長2メートルほど、オオメカマスは体長90センチメートル前後になり、毒性は弱いが、まれに中毒することがある。そのほかに、日本からタイワンカマスSphyraena flavicauda、ホソカマスSphyraena helleri、オオヤマトカマスSphyraena africanaが知られている』(以上は落合明・尼岡邦夫氏)。以下、「食用」の項。『肉は白身で淡泊な味であるから、料理には幅広く利用できる。新鮮なものは、身がしまっていて刺身にもなるが、一般的には水分が多いため、薄塩干しにして食用にすることが多い。なまの場合は、塩をしてしばらく置き、身をしめてから塩焼きにするとよい。洋風ではフライ、ムニエルによい。秋に味がよいとされるが、年中とれる。良質のかまぼこの材料でもある』とある。

『「本朝食鑑」に、『近世、「魳(しう)」の字を用ふ。字書に惟名(いめい)の名と爲すのみ。長崎の市人(しじん)、中華の船客(せんきやく)に逢ふて、此の魚を指して問ひしに、『梭子魚(しゆんしぎよ)なり。』と答(こたへ)たり。』と。『「閩書」に『梭魚(しゆんぎよ)、織梭(をりをさ)の如し。豐肉脆骨(はうにくぜいこつ)、此れを魳魚(しうぎよ)と謂ふ乎(か)。』と載せたり。』国立国会図書館デジタルコレクションの当該部(「卷之八」の「鱗介部之二」の「江海有鱗部之二」の「魳」を示し、推定訓読する。読みでは、河原田氏の読みに従はず、私が正しいと判断したものを用いた。また、訳であるが、東洋文庫版を一部参考にした。

   *

魳【「帀(ソウ)」・「沓(タウ)」・「師(シ)」三音、義、同じ。「加麻沫(かます)」と訓ず。】

釋名 𩶤(せん)【「先」・「顕」の切(せつ)。音「銑(セン)。」。】・𩶧(きう)【釋師練。】・梭子魚(さしぎよ)【按ずるに、「𩶤」「𩶧」、「字彙」に曰く、『倶(とも)に魚の名。、音「臼(ハク)」。「其(キ)」・「九(キユウ)」の切(せつ)』。師錬の「下學集(かがくしふ)」、此の字を用ゆなり。近世、「魳」の字を用ゆ。字書(じしよ)には、惟(ただ)、魚の名のみ。「梭子魚」、今、間(まま)、之(これ)を稱す。或いは、曰はく、『長﨑の市人(いちびと)、中華の船客に逢(あふ)に、而(しかして)、此の魚を指し、問ひて曰はく、『本邦、何を以つて、之を名づくや。』と云ふに、客(かく)、曰はく、「梭子魚。」と』。愚(ぐ)[やぶちゃん注:筆者人見必大の卑称。]、謂(い)へらく、『諸魚を「水梭花(すいひくわ)」と曰ふ時は、則ち、魚(うを)に於いて、相當(あひあた)れり。然(しかれ)ども、「閩書南産志(びんしよなんざんし)」に、『梭魚、織梭(しよくさ)のごとし。豊肉脆骨(はうにくぜいこつ)、此れを、「魳魚(せんぎよ)」と謂ふか。】

集觧【形、鰺(あじ)のごとくして、細鱗(さいりん)は、光色(つや)、有り、色、淡黒(あはぐろ)有り、鉛白(なまりじろ)なる有り、嘴(くしばし)、尖(とが)りて、鋒頭(ほこさき)のごとく、首尾、狹(せま)く尖(とが)り、身(み)、圓(まろ)く、肥えにして、最も、織梭(しよくさ)[やぶちゃん注:機織(はたお)り機の「梭(ひ)」。]に似たり。大なる者、數寸に過ぎず、脂(あぶら)、多く、味、美なり。又、細刺(ほそきとげ)、有り。惟(ただ)、炙食(あぶりぐひ)に宜(よろ)し。膾(なます)・烹(に)には、堪(た)へざるなり。𠙚𠙚(しよしよ)、江海、之れ、有り。鮝(ほしもの)に作(な)して、多く賞美す。脂、多き者は、色、淡赤、脂、少き者は、色、黃白(わうはく)、京師難波(けいしなんば)の漁市(れふいち)、其の子(こ)、一、二寸なる者を採(と)りて、「美(よ)し。」と稱す。一種、色、淡黒(あはぐろ)、形、短小、漸(やうや)く、三、四寸の者に過ぎざる者の、脂、少なく、味、佳なり。「志豆岐魳(しづきかます)」と曰(い)ふ。其の魚、黒き腸(わた)、美味なる者、有り。亦、「志豆岐」と曰ふ。海市(うみいち)、醢(しほから)と作(な)して、國守に獻(けん)ず。國守、上厨(じやううちゆう)に獻じ、四方に贈る。世(よ)、以つて、「珍。」と爲す。尾・勢の産、最も、上品たり。賀・越も亦、出(いづ)れども、佳(か)ならず。

肉 氣味【微温。毒、無し。】。【主治】五臓を補ひ、氣血を調へ、陰精(いんせい)を添へ、肌肉(ひにく)を潤(うるほ)し、身を輕くし、髮を黒くす。、惟(ただ)、蟲積(ちゆうしやく)[やぶちゃん注:現在の口経性の寄生虫症を指す漢方用語。]・濕痰(しつたん)[やぶちゃん注:漢方で、体内の水分代謝が滞って、余分な水分(湿)や粘り気のある老廃物(痰)が体に溜まっている状態を言う。]の者は、食ふべからず。多き時は、嘔吐(わうと)せしむなり。鮝(ひもの)と作(な)して、尤も、人に、可なり。赤鮝(あかのひもの)、脂、多くして、血を潤(うるほ)す。白鮝(しろきひもの)は、脂、少くして、氣を順(なごやかに)するのみ。

   *

・「𩶧(きう)【釋師練。】」「師錬の「下學集(かがくしふ)」、此の字を用ゆなり。」この人見の記述は、おかしい。「下學集」は室町中期の国語辞書(全二巻)であるが、著者未詳。文安元(一四四四)年成立で、天地・時節・神祇・言辞など十八部門に分類し、用字・意味・語源を簡単に記したものである。この不明の作者を「釋師練」とは、決して言わないからである。見た瞬間に、私は、鎌倉後期から南北朝にかけての臨済宗の名僧であった虎関師錬(こかんしれん)を考えたが、彼が、カマスに係る記載を記することは、あり得ないからである。

・「大なる者、數寸に過ぎず」このスケールから、必大の視認しているカマスは、最全長三十五センチメートルであるヤマトカマス Sphyraena japonica に比定出来る。

・「膾(なます)・烹(に)には、堪(た)へざるなり」嘗つては、カマスの鮮魚は流通しておらず、専ら、塩焼き魚とされたからである。]

2026/08/16

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その10) 乾鰈

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   乾鰈《ほしかれひ》

鰈(かれひ)ハ、「倭名鈔」には『王餘魚(わうよぎよ)』を『加禮比(かれひ)』と訓(くん)し、「閩書」に『比目魚(ひもくぎよ)』とし、『「比(ひ)」は「並(ならび)」なり。東方にありて、其名(そのな)を「蝶(てう)」と曰(いふ)。』とす。此外(このほか)、種々(しゆじゆ)の異名あるも、形狀によりて、名(なづ)くるもの、多し。「北戶錄(ほくとろく)」には『鰜(けん)』と謂ひ、「吳都賦(ごとうふ[やぶちゃん注:ママ。誤植であろう。])」には『魪(かい)』といひ、「上林賦(じやうりんふ)」にハ、『魼(きよ)』といふ。閩廣(みんくわう)は『鞋底(けいてい)』と名《なづ》け、「臨海志」は『婢簁(ひと)[やぶちゃん注:底本では「簁」は(たけかんむり)の下は「徒」となっており、ルビは「ひと」となっているのだが、これは後注で示すが、「徙」で、音は「シ」でないと、おかしい。東洋文庫版もそうなっている。されば、特異的に「簁」に変え、ルビも「ひし」と差し替えた。]』に、「臨海風土記(りんかいふうどき)」は『奴屩(どきやう)』に、「南越志」ハ『南版(なんはん)』とし、「南方異物志」[やぶちゃん注:底本では「南」がなく、「方異物志」とするのだが、これは明らかに脱字であるから、「南」を補った。東洋文庫版もそうなっている。]は『箬葉(にやくよう[やぶちゃん注:ママ。「じやくえふ」が正しい。])』に、「朱厓記(しゆかいき[やぶちゃん注:ママ。「しゆがいき」が正しい。])」にハ『王餘魚(わうよぎよ)』の字を用(もちひ)たり。

而して、此ものは、本邦の沿海に、悉(ことごと)く產し、種類、尤(もつとも)多く、大(おほひ)さ、一、二尺、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は、五、六寸、裏(うら)の白皮(しらかわ[やぶちゃん注:ママ。])に、黑點、あるものを『星蝶(ほしかれい[やぶちゃん注:ママ。])』といひ、大(だい)なるもの、尺許(ばかり)、或は、七、八寸より、一、二寸に至るもの、表の黑皮、鰭(ひれ)の兩邊、上より下に向つて、黑片石子(こくへんせきし)あり、『石蝶(いしかれい[やぶちゃん注:ママ。以下、多くあるが、ママ注記は附さない。])』といふ。六、七寸に過(すぎ)ず。形(かた)ち、尋常の小蝶(こかれい)に比(ひ)すれば、狹少(けうしよう[やぶちゃん注:ママ。「けふせう」が正しい。])にして、肉、薄く、卵(たまご)、腹(はら)に滿(み[やぶちゃん注:ママ。「みつ」の脱字。])るといへども、味(あじわ)ひ、佳(か)ならす[やぶちゃん注:ママ。濁点落ち。]。『藻蝶(もかれい)』、又、『霜月蝶(すもつきかれい)』といふ。形、略(ほ)ぼ、同じ表裏(おもてうら)、あり。鱗(うろこ)なきもの、號(なづ)けて『雌板蝶(《め》いたひらめ[やぶちゃん注:ママ。後注する。])』といふ。又、『片口蝶(かたくちかれい)』といふものあり。其(その)表裏(ひようり[やぶちゃん注:ママ。])、相反(あいはん[やぶちゃん注:ママ。])するものを『平目(ひらめ)』といふ。大なるもの、二、三尺許(ばかり)に至る。

[やぶちゃん注:本書の出版時、未だ、近代魚類学上のカレイ類とヒラメ類の弁別認識の確立が科学的に明確でなく、前代の古典的博物学に頼るほか、なかったから、以上の記載に多くの違和感があるのは仕方がないことである。主題に従い、カレイ類から示すと、

条鰭綱アジ目カレイ亜目カレイ科 Pleuronectidae

は、現在、「BISMaL」に拠れば(ツリーの分岐記載の種タクソンに疑問があったが、上位タクソンを優先した。また、和名の漢字表記は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の各種のページを概ね参考にした)、日本産では、まず、

ムシガレイ(虫鰈)亜科Eopsettinae

オヒョウ(大鮃・大兵)亜科Hippoglossinae

アカガレイ(赤鰈)亜科Hippoglossoidinae

カレイ(鰈)亜科Pleuronectinae

の五亜科に分かれ(本邦種まで示す。以下同じ)、

ムシガレイ亜科は、

・ムシガレイ属ムシガレイ Eopsetta grigorjewi 

 オヒョウ亜科は、

・オヒョウ属オヒョウHippoglossus stenolepis

アカガレイ(赤鰈)亜科は、アカガレイ属Hippoglossoidesの、

・アカガレイ(赤鰈)Hippoglossoides dubius

・ウマガレイ(馬鰈) Hippoglossoides elassodon

・ドロガレイ(泥鰈)Hippoglossoides robustus

大所帯のカレイ亜科は、

・ウロコメガレイ(鱗眼鰈)属ウロコメガレイAcanthopsetta nadeshnyi

・アブラガレイ(油鰈)属アブラガレイ Atheresthes evermanni

・ソウハチ(宗八・惣八)属ソウハチCleisthenes pinetorum

・サメガレイ(鮫鰈)属サメガレイClidoderma asperrimum

・ミギガレイ(右鰈)属ミギガレイ Dexistes rikuzenius

・シモフリガレイ(霜降鰈)属シモフリガレイ Embassichthys bathybius

・ヒレグロ(鰭黒)属ヒレグロGlyptocephalus stelleri

・イシガレイ(石鰈)属イシガレイKareius bicoloratus

・シュムシュガレイ(占守鰈)属シュムシュガレイLepidopsetta bilineata

・シュムシュガレイ属アサバガレイ(浅場鰈・浅羽鰈) Lepidopsetta mochigarei

スナガレイ属Limanda

 ・コガネガレイ(黄金鰈)Limanda aspera

 ・ハナガレイ(漢字表記不詳。個人的には英名が“ longhead dab”であり、学名で写真を複数視認したところ、他の種類に比べて、吻(口先・鼻先)が、やや突き出ていることから、「鼻鰈」であろうと思う) Limanda proboscidea

 ・スナガレイ(砂鰈) Limanda punctatissima

 ・カラフトガレイ(樺太鰈)Limanda sakhalinensis

ババガレイ(婆鰈・母鰈)属

 ・ババガレイ Microstomus achne

 ・ヌマガレイ(沼鰈)属ヌマガレイ  Platichthys stellatus

 ・ツノガレイ(角鰈)属ツノガレイPleuronectes quadrituberculatus

メイタガレイ(痛鰈・目板鰈)属

・メイタガレイ Pleuronichthys cornutus

・ナガレメイタガレイ(流目痛鰈・流目板鰈)Pleuronichthys japonicus

マガレイ(真鰈)属

 ・マガレイ Pseudopleuronectes herzensteini

 ・ クロガレイ(黒鰈)Pseudopleuronectes obscurus

 ・クロガシラガレイ(黒頭鰈) Pseudopleuronectes schrenki

 ・マコガレイ(真子鰈)Pseudopleuronectes yokohamae

・カラスガレイ(烏鰈)属カラスガレイReinhardtius hippoglossoides

・ヤナギムシガレイ(柳虫鰈・柳蒸鰈)属ヤナギムシガレイTanakius kitaharae

マツカワ(松皮・松川)属

 ・マツカワVerasper moseri

 ・ホシガレイ(星鰈) Verasper variegatus

計三十二種である。

問題は、ここでは、しかし、河原田氏は、

〘✕?〙「形、略(ほ)ぼ、同じ表裏(おもてうら)、あり。鱗(うろこ)なきもの、號(なづ)けて『雌板蝶(《め》いたひらめ)』といふ。」という、奇体な名前と記載を記している。しかし、この「雌板鰈」「めいたひらめ」という「もの」は、これ、調べても、掛かってこず、異名としても見つからず、種を同定出来ないものなのである。

?〙しかも、「其(その)表裏(ひようり[やぶちゃん注:ママ。])、相反(あいはん)するものを『平目(ひらめ)』といふ。大なるもの、二、三尺許(ばかり)に至る。」と、明らかに「鮃」(=ヒラメ類)を一緒に記しており、最悪なことに、『雌板蝶(《め》いたひらめ)』という「鰈」に「ひらめ」とルビしてしまっているのである。

✕?〙この「ひらめ」のルビは

――うっかり誤ったものか?

それとも、

――確信犯なのか?

全く、判らない、のである。

 まあ、

〘★?★〙河原田氏は、平然と、以上の現在の我々には理解出来ない記載をしているとするなら、

■彼は、広義の「ヒラメ類」=カレイ亜目ヒラメ(鮃)科 Paralichthyidae・ダルマガレイ科 Bothidaeも、広義の「カレイ類」に包括している

としか読めないのである。

★されば、ここで河原田氏は、カレイ亜目ヒラメ科ヒラメ属ヒラメ Paralichthys olivaceusに代表されるヒラメ類――正確に述べるならば、

〙ヒラメ科 Paralichthyidae 及びダルマガレイ科 Bothidae のヒラメ類をカレイ類と一括して認識している

と採る以外はないのである。或いは、

――これは当時の一般人の一般認識であった――

のかも、知れない。

 以上で、私が注をするに、困惑せざるを得ないことが、お分かり戴けたと思う。

 されば、当初は、広義の「カレイ類」を先にし、次に、広義の「ヒラメ類」を説明するつもりであったが、それは、諦めることにした。何故なら、「ヒラメ類」を解説するとなると、まず、「カレイ類」と同じ程度の分量が必要になるであろうからである。

 取り敢えず、ウィキの「ヒラメ」の、最低必要と見做した一部だけを引用する。「特徴」の中の前半部である(注記記号はカットし、太字にした)。

   *

太平洋西部(千島列島、樺太、日本の北海道から九州)、朝鮮半島などの沿岸から南シナ海まで)に分布。最大で全長1m、体重10kgほどになる。他のカレイ目の魚と同じように左右に扁平な体型をしていてカレイと区別が付きにくいが、俗に「左ヒラメに右カレイ」と言われるように、ヒラメの目は両目とも頭部の左側半分に偏って付いているのが大きな特徴である。また、ヒラメはカレイと比べて口が大きく、歯も11つが大きく鋭い。

ヒラメは海底で両目のある体の左側を上に向けて生活しているため、その両目は常に上の方を向いている。

ヒラメという名が現れたのは14世紀ごろだが、日本では19世紀以前にはカレイとヒラメは区別されておらず、大きいものをヒラメ、小さいものをカレイと呼んでいた。はっきりと別種として扱った文献は小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(1803)が初出である。

   

 以下、ウィキの「カレイ」を部分引用する(注記記号はカットした。なお、「分類」の項は、既に冒頭で精密なものを示したので省略した。また、注意箇所と、ヒラメとの相違解説には、太字・下線を私が附した)。カレイ類は『砂や泥の海底に生息し、海底に潜むのに適した平たい体をしており、目が体の右側の面に2つともある特徴的な形態をしている。北極海、太平洋、インド洋、大西洋の沿岸の浅い海から水深1000mの深海までに生息する海水魚。汽水に生息する種もいる』。『体は平たく、両目は、ヌマガレイなどの一部の例外を除き、原則として体の右側の面に集まっている。逆にヒラメ類では、目は体の左側側面に集まる。しかし、個別の個体では偶発的に逆となる変異現象(reversal of sides)がある。両目のある側を上にして海底に横向きになり、砂や泥に潜るなどして潜む。体の目のある側は黒褐色から褐色。特有の斑点を持つものもある。この体色は体表にたくさん散らばっている色素細胞である黒色素胞(メラノフォア)』(=melanophore・メラニン顆粒を含む色素胞)『の大きさを変えることにより、周囲の環境に合わせて変えることができ、保護色となる。両目のない側は白色。背ビレと尻ビレが長く、背ビレは頭部からはじまり尾ビレの根元まで、尻ビレは、頭部のそばにある小さな腹ビレから尾ビレの根元まで続く』。『幼生は目が普通の魚と同様に左右に分かれて付いており、体も平たくない。成長とともに変態し、目がだんだんと右側に移動していき、体が平たくなり、また浮き袋がなくなり底生の成体となる。カレイは概して長寿命で、ヨーロッパ産の1種 プレイス(European plaice)』(日本語名「ツノガレイ」=Pleuronectes platessa )『で50年、オヒョウで40年などの記録がある』。『主に肉食性で、小魚や海底の無脊椎動物を食べるが、似たような外見でフィッシュイーター』(Fish-eater)『であるヒラメとは異なり、捕食行動は』、『やや大雑把である。そのため、ヒラメ釣りでは』、『生き餌の イワシ、キス、 キビナゴ等の小魚や俊敏な動きのルアーを用いるのに対し、カレイ釣りではゴカイ・イソメ、アサリのほか、鈍重な動きのワームを用いる。冬の釣りの対象魚として知れられる』。以下、「名称」の項。『日本語の「かれい」は「唐鱏」(からえい)または「涸れ鱏」の転訛とされる。漢名は「鰈」であるが、ヒラメとの混称で「偏口魚」、「比目魚」などとも呼ばれる』。『漢字の「鰈」は、発音を表す「枼」と意味を示す「魚」とを組み合わせた形声文字である(なお、「枼」は葉に由来し』、『薄いものの意味だと説明されることがあるが、これは民間俗説に過ぎない』(ここには[独自研究?]の要請が附されてある)。『王が魚を半分食べたところを水に放すと』、『泳ぎだした』、『との中国の故事から「王余魚、王餘魚」とも書くが、ヒラメをも含めた言い方である。このほか「鰕魿」、「嘉列乙」、「嘉鰈」、「魪」、「鮙」、「鰜魚」などの漢字表記もある』。『カレイはフランス語ではリマンド(limande)』(リマァーン(ドゥ):「女性の胸が貧弱である/卑屈な態度をとる」が原義)『。英語では、カレイ、ヒラメ、シタビラメなどカレイ目の魚を "flatfish" と総称する。そのうち、カレイ、ヒラメは「flounder」』(フゥラウダァ)『と呼び、体の右側に目が寄っているカレイ科などの魚を、「righteye flounder」、ヒラメ科、ダルマガレイ科などの目が左側に寄っているものを「lefteye flounder」と呼ぶ。カレイ科のうち、オヒョウ類を特に「halibut」』(ハリバァット)『と呼ぶが、その区別はあいまいである。また、ウシノシタ科』(Cynoglossidae)『などに用いられる「sole」』(ソーォル:「靴の底」)『を名の一部に持つカレイ科の魚も少なくない』。『カレイ目には、カレイ科以外でも「〜カレイ」の名で呼ばれる種は多い。ヒラメ科のアラメガレイ、テンジクガレイ、メガレイ、ダルマガレイ科のダルマガレイ、トゲダルマガレイ、コウベダルマガレイ、ヤリガレイなど。これらはヒラメを参照。また、地方名ではウシノシタ科のクロウシノシタ』(イヌノシタ亜科タイワンシタビラメ属クロウシノシタ Paraplagusia japonica )『をスジガレイやニジリガレイなどと呼ぶ例もある』。以下、「主な種」の項であるが、本邦に棲息しない種はカットし、解説の一部も不要と見做したものはカットした。

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メイタガレイ(目痛鰈) Pleuronichthys lighti (Ridged-eye flounder)

30cm。北海道以南の日本沿岸、朝鮮半島沿岸、黄海、渤海、東シナ海。目の間に棘があり、「目痛」が語源とされる。関西では「本メイタ」と呼ばれ特に人気がある。

ナガレメイタガレイ(流目痛鰈) Pleuronichthys cornutus

メイタガレイに非常に似た外見を持つが、体が細目で、味はかなり落ちる。関西では「化けメイタ」と呼ばれる。

ヤナギムシガレイ(柳虫鰈) Glyptocephalus kitaharai (Willowy flounder)

30cm。北海道以南の日本沿岸、朝鮮半島沿岸、黄海、渤海、東シナ海。「若狭がれい」は若狭湾で獲れるヤナギムシガレイで、これを一夜干しにしたものが京都でよく食べられる「笹かれい」。以前はヤナギムシガレイ属(学名:Tanakius)に分類されていた。

ニシナメタガレイ Microstomus kitt (lemon sole)

北ヨーロッパの約200メートルの浅い岩礁に分布し、体長65cm、約3kgに成長する。

ババガレイ(婆鰈、別名:ナメタガレイ) Microstomus achne (Slime flounder)

60cmになる。中部日本沿岸以北、千島列島南部、樺太、日本海、黄海、渤海、東シナ海に分布。体表が、粘液を多く分泌するためぬるぬるしており、滑多鰈の呼び名がある。煮付など。東北、北陸の一部などでは、年越しにババガレイを食べるため、年末に市場価格が数倍に跳ね上がる。通年出回り大きな物は高価だが小さなものは安い。煮付け、塩焼き、干物にして非常に美味。

オヒョウ (大鮃) Hippoglossus stenolepis (Pacific halibut)

最大2.5m、350kgに達するカレイ科では最大の種。北太平洋に広く分布する。日本の東北地方以北、オホーツク海、ベーリング海、チュクチ海の南部、カリフォルニア半島からメキシコ沿岸まで。またハリバッド(halibut)という名前でも呼ばれておりゲームフィッシングのターゲットとされているらしい。

カラスガレイ (烏鰈) Reinhardtius hippoglossoides (Greenland halibut)

100cm以上。北部大西洋および北部太平洋の水深約200〜1,600 m (700〜5,200 ft)。底生魚。左目は成長と共に頭部右側に移動するが、カレイのように完全には移動せず、前方への視界も保持。表面は斑点のある褐色で、左側もやや薄い色だが白色ではない。カラスガレイ属は本種一種のみの単型属。

マツカワ (松川、松皮) Verasper moseri (Barfin flounder)

メスは、体長80cm、体重6kgになるものもある。太平洋北西部。日本の中北部沿岸(太平洋側、日本海側)からオホーツク海南部、樺太、千島列島まで。目のある側の鱗が大きくざらざらしており、松の樹皮のようであることから。背ビレと尻ビレに黒い縞状の紋が入る。水揚げ量が減少している。北海道では、えりも以西海域マツカワ資源回復計画を策定し種苗放流等に取り組んでいる。これに関連し、えりも以西栽培漁業振興推進協議会では、この海域で水揚げされる本種を「王鰈」と名付けた。また近年養殖も試みられている。

ホシガレイ (星鰈) Verasper variegatus (Spotted halibut)

60cm。太平洋北西部。日本中部、朝鮮半島沿岸、東シナ海まで。比較的暖かい海のカレイ。背ビレと尻ビレに黒い縞状の紋が入る。目のない側の表面、尾ビレの根元などに黒い斑点がある。水揚げ量が減少しており、珍重される。

ソウハチ(宗八) Cleisthenes pinetorum (Pointhead flounder)

太平洋北西部。日本中北部の近海。アカガレイ属に分類する説もある。

痛みが早いため鮮魚で出回ることはない。脂に独特の風味があり、干物に加工されることが多い。

アカガレイ (赤鰈) Hippoglossoides dubius (Flathead flounder)

45cmになる。太平洋北西部。オホーツク海、日本海などに分布。カムチャツカ半島から朝鮮半島、日本沿岸など。目のない側の体色が血がにじんだように赤みがかる。

ドロガレイ (泥鰈) Hippoglossoides robustus (Bering flounder)

30cmほど。北太平洋。北海道沿岸(オホーツク海)、アリューシャン列島、アラスカ付近まで。

アサバガレイ (浅羽鰈) Lepidopsetta mochigarei (Dusky sole)

40cmほど。太平洋北西部。オホーツク海南部から朝鮮半島、日本では本州北部以北の沿岸にかけて。マガレイ、マコガレイに似ている。

スナガレイ (砂鰈) Myzopsetta punctatissima (Sand flounder)

30cmほど。千島列島、オホーツク海南部から日本海北部(朝鮮半島、日本沿岸)にかけて分布。北海道、東北北部に水揚げされる。身が薄く、脂があまり乗らない。口が細長くとがっている。体高は高く体形が菱形。目のある側に砂粒のような細かい斑点がある。目のない側には背ビレ、尻ビレに沿って幅の広い黄色い帯がある。泳ぐ姿がまるで海底の砂を食べるように見えることからスナガレイの名称がついたという。また、カレイ類の中では最も価格が安い。

ヌマガレイ (沼鰈) Platichthys stellatus

30cm。カレイ科に属する数少ない眼が左側にある種。汽水域や淡水にも入ることがあるのでこの和名がついている。実際に、その名のとおり河川でも釣れる。

イシガレイ (石鰈) Platichthys bicoloratus (Stone flounder)

50cmほど。太平洋北西部。日本(北海道から九州西岸)、千島列島、樺太、朝鮮半島、中国、台湾。沿岸の海域。河川や湖沼などの汽水、淡水域まで侵入する。目のある側の背ビレ、尻ビレの根元に沿うように、骨片の突起が並ぶ。以前はイシガレイ属(学名:Kareius)に分類されていた。

マガレイ (真鰈) Pseudopleuronectes herzensteini (Littlemouth flounder)

最大50cmほどになる。他種より口が小さくとがっており、クチボソなどの別名がある。太平洋北西部。千島列島、樺太、沿海州から、黄海、渤海、朝鮮半島沿岸、日本沿岸、東シナ海中部まで分布。日本では北海道、本州沿岸、瀬戸内海など。水揚げ量が多い。

クロガレイ (黒鰈) Pseudopleuronectes obscurus

クロガシラガレイとよく似ており、区別せずに扱われることが多い。

クロガシラガレイ (黒頭鰈) Pseudopleuronectes schrenki (Cresthead flounder)

最大50cmほどになる。太平洋北西部。千島列島、オホーツク海南部から、日本の北部(北海道や青森県)の沿岸、日本海の朝鮮半島東岸まで。クロガシラとも呼ばれる。クロガレイとよく似ており、クロガレイと呼ばれることも多い。北海道では釣りの対象として人気が高い。

マコガレイ (真子鰈) Pseudopleuronectes yokohamae (Marbled flounder)

最大45cm程度。太平洋北西部。北海道南岸以南の日本沿岸、瀬戸内海、朝鮮半島沿岸、黄海、渤海、東シナ海北部まで。水揚げ量が多い。

「城下かれい」(しろしたかれい)はマコガレイの地方名で、大分県日出町沿岸で獲れるもののこと。特においしいとされ、高値で取引されるブランド魚である。

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以下、「利用」の項(一部をカットした)。『ほぼ全ての種が食用になり、日本では、刺身 (新鮮な物に限る)、寿司、煮付け、焼き物、揚げ物などさまざまな料理に用いられる。また、冬のカレイ、特に産卵前の時期のメスは大きな卵巣をもっており、子持ちガレイと呼ばれ、甘辛く煮付けたものが日本の冬の味覚として好まれる。干物、特に一夜干しもよく行われる。日本料理では多くの場合、魚の頭を左に配膳するのに対し、頭を右に配膳する珍しい魚でもある。中華料理では、唐揚げ、蒸し魚、煮魚などとして食べられている。またソウハチ、ババガレイの干物は数ある魚類の干物の中でも非常に美味である』。『京都市では福井県の若狭地方で水揚げされて一夜干しにされた笹かれいが、京都を代表する食材の一つとなっている』。『カレイは人気の高い食用魚であるが、寿命が長い分、成長が遅く、大きく育てるには長い年月が必要であるため、養殖に適しているとは言いがたい。そのため、出荷サイズまでの養殖はほとんど行われていないが、親魚から採取した卵を孵化させ、稚魚になるまで育ててから放流する試みが行われ、種類によっては一定の成果を得ている。特に市場価値の高いマツカワなどは2000年代から養殖も行われている』。以下、最後の「アレルギー」の項。『子持ちカレイに強いアレルギーをもつ人がいる。これはカレイの魚卵蛋白に由来する抗原によるアレルギーで、蕁麻疹やアナフィラキシーを起こす。この子持ちカレイのアレルギーは、牛肉や豚肉にも交差反応を起こすことが知られ、高い確率で牛肉や豚肉の摂取によってもアレルギー反応を起こす』。但し、『AB型やB型の血液型の人には』、『これらのアレルギー症状をもつ比率が極めて低いことが知られる。これらのアレルギーの原因は、過去にマダニ』(真蜱:節足動物門鋏角亜門クモ綱 Parasitiformes 上目ダニ目Acari/マダニ目 Ixodidaマダニ上科マダニ科 Ixodidae)『に噛まれたことにより、マダニの唾液腺に存在するgalactose-α-1, 3-galactose(以下α-gal)によって対象者の免疫が感作されたことが原因であると推測されている。なお、このα-galに対してアレルギー(α-galアレルギー)を持つ人は、上記の子持ちカレイや牛肉、豚肉の他、セツキシマブ』(Cetuximab:上皮成長因子受容体(Epidermal Growth Factor Receptor:EGFR)に結合して、その働きを阻害するモノクローナル抗体(monoclonal antibody/mAb/moAb:単一の抗体産生細胞をクローニングして作られた抗体))『にもアレルギーを呈する(セツキシマブの分子構造にα-galが存在するため)』とある。この最後のアレルギーは、私も迂闊にして、知らなかったのでオロロイた。私はB型であるが、子持ちカレイが好物である。発症したことはないので、安心した。

『「倭名鈔」には『王餘魚(わうよぎよ)』を『加禮比(かれひ)』と訓(くん)し』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の「卷十九」の「鱗介部第三十」・「龍魚類第二百三十六」の当該部(右丁二行目以降)を視認して推定訓読する。

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王餘魚(かれい) 「朱厓記」に云はく、『南海に王餘魚(わうよぎよ)有り【和名「加良衣比(からいひ)」、俗に云ふ「加禮比」。】。昔、越王、鱠(なます)に作り、盡(つく)さず、餘(よ)、半(なかば)、水に棄(す)つ。因(より)て、半身(はんみ)を以(もつ)て、魚(うを)と爲(な)る。故(ゆゑ)、「王餘魚」と曰ふなり。』と。

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この「朱厓記」は、後に出るが、河原田氏は以上を受けて言ったもので、原本に当たったのではない。何故なら、これは中国で、古い時代について記された遠く昔に失われた逸書だからである。こういうやり口も、極めて、気に食わないね、河原田!

『「閩書」に『比目魚(ひもくぎよ)』とし』ここから後も、実は、人見必大の「本朝食鑑」の「卷十二」の末尾にある「中華異同」の「鰈」からの河原田の孫引きなのである!! 国立国会図書館デジタルコレクションの元禄一〇(一六九七)年板の当該画像を視認して推定訓読する。

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   鰈(かれひ)

鰈(かれひ)と比目(ひらめ)、本(もと)、同類なり。今(い)ま、本邦、二名を以つて、之を分(わか)つ。氣味・形色の異(い)、有り。李時珍、一物の者と爲すは、未だ、詳(つまびらか)ならず。「閩書南産志(びんじよなんざんし)」に曰はく、『鰈魦魚(てうせさぎよ)、漯沙(たふさ)と名づく。音(おん)は、撻(タツ)。魚、江(こう)に在り、行くこと、漯漯(たふたふ)[やぶちゃん注:「集まる」の形容。]たり。又、占沙(せんさ)と名づく。今、閩(びん)[やぶちゃん注:現在の福建省を中心とした地方。]・広(かう)[やぶちゃん注:現在の広東省地方。]、此の魚(うを)を以つて、比目(ひめ)と名づく。』と。比目、又、一魚(いちぎよ)なることを知らざるなり。按ずるに、比目、諸書、倶(とも)に『「比」は「並(ならぶ)」、魚、各(おのおの)、一目(いちもく)を相並(あひならび)て、行くなり。』と言ふ。是れ、未だ、解し得ず。細(こまか)に魚の形を視(み)れば、則ち、黒きを表(おもて)と爲(な)し、白きを裏と爲す。其の黒き𠙚(ところ)、頭中(とうちゆう)に兩眼(りやうがん)、有り。相並(あひなら)ぶこと、甚(はなは)だ、邇(ちか)し。然らば、則(すなはち)、他魚(たぎよ)の相並びて行くに非ざるなり。大抵、此の魚、名義(めいぎ)、多し。「上林賦(じやうりんふ)」の、之を『魼(きよ)』と謂ふ。『相胠(あひきよ)する』と、なり。「呉都賦」に、之を『魪(かい)』と謂ふ。『相介(あひたす)くるなり。段公路(だんこうろ)が「北戶錄」に、之を『鰜』、《音、》『兼』と謂ふなり。「臨海志」に『婢𥱰(ひし)』と名(なづ)く。「臨海風土記」は『奴屩(どきやう)』と名く。宋の沈懐遠(しんくわいゑん)が「南越志」に、『版魚(はんぎよ)』と名づく。房千里(ばうせんり)が「南方異物志」、『箬葉(じやくえふ)』と名づく。皆、『形(かたち)』に因(より)てなり。

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以上の引用に出る書籍は、総て、知っているものを除いて、作者・年代を総て確認した。全部が古い中国の書である。本来ならば、今まで通り、注するのだが、正直、河原田氏のやり口に、かなり、怒髪天を衝く思いをしているのだ! それに加えて、自宅の水道が洩れていることが三日前に発覚、イライラが波状的に続いている。そこで、流暢な注など、本当は出来ない状況にさえ、ある。されば、これで、お許しあれかし。なお、せめても、私の二〇二〇年に公開した「大和本草卷之十三 魚之下 比目魚(カレイ) (カレイ・ヒラメ・シタビラメ)」を参照して戴けると、多少はお慰めになろうかとも思う。

石蝶(いしかれい[やぶちゃん注:ママ。以下、多くあるが、ママ注記は附さない。])』といふ。六、七寸に過(すぎ)ず。形(かた)ち、尋常の小蝶(こかれい)に比(ひ)すれば、狹少(けうしよう[やぶちゃん注:ママ。「けふせう」が正しい。])にして、肉、薄く、卵(たまご)、腹(はら)に滿(み[やぶちゃん注:ママ。「みつ」の脱字。])るといへども、味(あじわ)ひ、佳(か)ならす[やぶちゃん注:ママ。濁点落ち。]。『藻蝶(もかれい)』、又、『霜月蝶(すもつきかれい)』といふ。形、略(ほ)ぼ、同じ表裏(おもてうら)、あり。鱗(うろこ)なきもの、號(なづ)けて『雌板蝶(《め》いたひらめ[やぶちゃん注:ママ。後注する。])』といふ。又、『片口蝶(かたくちかれい)』といふものあり。其(その)表裏(ひようり[やぶちゃん注:ママ。])、相反(あいはん[やぶちゃん注:ママ。])するものを『平目(ひらめ)』といふ。大なるもの、二、三尺許(ばかり)に至る。]

 

 此ものは、鱠(なます)、羹(あつもの)、煑食(にくひ)、炙食(あぶりぐひ)、蒲鉾(かまぼこ)等(とう)、種々(しゆじゆ)の割烹(りやうり[やぶちゃん注:意訓。])にも供せり。乾製に種々あり。蒸蝶(むしかれい)は若狹・越前等(とう)より出(いだ)すものを上好(じようかう[やぶちゃん注:ママ。])とす。其法、鮮蝶(なまかれい)、多子(たし)のもの[やぶちゃん注:多くの卵を持った個体。]を採りて、䀋水(しほみづ)を以て、之を、蒸(む)す。半熟ならしめて、取出(とりいだ)し、陰乾(かげほし)すること數月(すげつ)にて貯(たくわ[やぶちゃん注:ママ。])ふ。乾蝶ハ、尋常、乾脯(かんほ)にして、和泉(いづみ)・紀伊等(とう)の產を、著名とす。『木葉蝶(このはかれい)』は、長さ、寸餘の者を哺(ほ)[やぶちゃん注:ママ。「脯」の誤植。]となす。是れ和泉・紀伊・下總(しもうさ[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「しもふさ」。])等の珍品(ちんひん)なり。和泉より出(いだ)すものを、名を『岡田鰈(をかだかれい)』といふ。

[やぶちゃん注:「木葉蝶(このはかれい)」「デジタル大辞泉」の「このは‐がれい〔‐がれひ〕【木の葉×鰈】」に『1 メイタガレイの別名』、『2 小さなカレイを重ね合うように並べて干したもの。ささのはがれい。あしのはがれい。』とある。

「岡田鰈(をかだかれい)」「泉南市」及び「泉南市泉南市商工会」が作っている「泉南市観光ガイド 恋するせんなん」の「里外神社」(りげじんじゃ)に、『里外神社(りげじんじゃ)は、仁徳天皇(在位313-399年)の代に呉服(くれは)大明神を産土神として創立された社です。呉服大明神は、大阪池田市の呉服神社(くれはじんじゃ)に祀られている事でも知られている、呉の国から渡来し日本に機織(はたおり)技術を伝えたとされる織姫で、「機織」の守り神として崇敬されています』。『また、境内に残る王餘魚淵(かれいがぶち)には、後鳥羽上皇に献上した「岡田ガレイ」が飼育されていたといわれています。現在のご祭神は素戔嗚尊(スサノオのミコト)です』とあり、さらに「後鳥羽上皇の岡田ガレイ」に、『建仁元年(1201年)10月、後鳥羽院が熊野行幸の折、岡田カレイに興味をもたれたので、里外神社境内にある池で飼育していたカレイを捕らえ献上したところ大変喜ばれ、この淵を王餘魚淵(かれいがふち)と名づけられました。その後は行幸のたびに王餘魚淵で飼育したカレイを献上してもらうのが通例になったということです』とあった。里外神社は泉南市岡田のここにある(グーグル・マップ)。サイド・パネルの説明板の写真にも終わりの方に、記載がある。]

2026/08/15

姪っ子の可愛い娘の墓参り

不信心の我が家に、連れ合いの妹一家の名古屋の義父母の墓参りの写真が届いた。一所懸命の三歳の合掌――そして可愛い姿をお目に掛けよう。

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2026/08/14

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その9) 乾鱈

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   乾鱈《ほしたら》

 

 鱈(たら)は古名『由支(ゆき)』にして、「新撰字鏡(しんせんじきよう[やぶちゃん注:ママ。])」に『𩺴』を『由支(ゆき)』と訓ず。「古名錄(こめいろく)」に『多樂(たら)』、『韓名(かんめう[やぶちゃん注:ママ。「かんめい」でよい。現代仮名遣「かんみょう」なら「かんみやう」。])、呑魚(どんきよ[やぶちゃん注:ママ。])』とす。『鱈』の字は、諸往來物(しよおうらいもの[やぶちゃん注:ママ])等(とう)の外(ほか)、古書に見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。漢名は『大口魚《だいこうぎよ》』といふ。北海(ほくかい)に產し、寒(かん)を喜(よろこん)で暖(だん)を喜ばす[やぶちゃん注:ママ。「ず」の誤植。]。味(あぢは)ひ、䀋(しほ)に宜(よろ)しくして、初め、之を採る。先つ[やぶちゃん注:ママ。「づ」の誤植。]、䀋を以(もつ)て、口腹(くちはら)に盈(みつ)る時は、久(ひさしく)して、腐(くさ)れず。偶々(たまたま)、些(すこし)の臭氣(しうき)あり、梢(やヽ)可(か)なり。又、微(すこし)、䀋(しほ)を以てするもの、『一(ひ)と䀋(しほ)』と名《なづ》けて、其(その)味(あじは[やぶちゃん注:ママ。])ひ、上品とす。多䀋(たゑん[やぶちゃん注:ママ。])のものを、下品(かひん)とす。生鮮(せいせん)のものは、淡白(たんぱく)にして、美味とす。亦(ま)た、新奇(しんき)を賞(しよう[やぶちゃん注:ママ。])す舊幕時代(きうばくじだい)には、奧羽の諸侯、之を朝貢(てうこう)せり。孟冬(もうとう[やぶちゃん注:ママ。「まうとう」が正しい。「孟」は初めの意で、「冬の初め・初冬」、また、「陰暦十月の異称」である。])、開爐茗會(ろひらきちやくわい)の際、京都・江戸、新奇を好み、或(あるひ)は歲旦(さいたん)、之(これ)を、昆布鱈(こんぶたら)、吸(すい)ものとし、冠昏大饗(かんこんだいけやう[やぶちゃん注:ママ。「かんこんだいきやう」が正しい。冠婚・宴会料理。])の餽(おく)りもの[やぶちゃん注:「餽」は訓「おくる」で原義は「祭(まつ)る・死者の霊に食物を供えてまつる」であるが、別に「食物や金品を贈る」の意を持つ。]とせり。之を『眞鱈(まだら)』といふ。一種、『介黨(すけとう[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣では「すけたう」が正しいが、ここでは、以下、現代仮名遣で述べている。])』と稱するもの、あり。形、小(ちいさ)きも、味(あじは)ひ、亦、佳(か)なり。朝鮮(てうせん)にて、是(これ)を『明大魚(めいたいぎよ)』といふ。乾製(かんせい)に二法(にはう)あり。胴(どう)を割(わ)り、淡乾(しらほし)するものを『棒鱈(ぼうたら)』といひ、胴を開きて䀋乾(しほほし)するものを『干鱈(ひだら)』といふ。『棒鱈』は眞鱈(まだら)に限れり。而(しか)して、此ものは、近年、淸國に輸出すること、逐年(ちくねん)[やぶちゃん注:「年々・毎年」の意。]に、多きを加へたり。十七年、橫濱輸出「棒だら」、二百萬斤、價(あたひ)拾萬圓、『すけと』、五萬斤、價千七百五十圓なり。又、「すけと[やぶちゃん注:ママ。「すけとう」。]」の一種に、九州にて「すけそう」といふもの、あり。明治十八年、脊割乾(せわりほし)となして、長崎港にて、淸人へ、百斤の價、五圓五十錢にて販賣せり。尤(もつと)も、北海道の「すけとう」と、九州の「すけそう」とは、少しく、異(こと)なれり。此魚は、對州(たいしう)[やぶちゃん注:対馬(つしま)。]にて『めぐだい』、朝鮮にて『明大魚(めいたいぎよ)』と稱せり。

[やぶちゃん注:これは広義には、

条鰭綱タラ目タラ亜目タラ科 Gadidae

に属するタラ類を指し、本邦では、

タラ科マダラ(真鱈)属マダラGadus macrocephalus

タラ属スケトウダラ(介党鱈・鯳) Gadus chalcogrammus

コマイ(氷下魚)属コマイ Eleginus gracilis

の三属三種が分布する。但し、狭義にはマダラを指す。しかし、この本文では、

スケトウダラがメイン

で語られている(漢名「介党鱈」は、ご覧の通り、歴史的仮名遣では「すけたうだら」となる)から、以下、ウィキの「スケトウダラ」を引用する(注記記号はカットした)。

『スケトウダラ』『は』、『スケソウダラ(介宗鱈・助惣鱈)とも呼ばれる。北太平洋に広く分布するタラの一種で、重要な漁業資源となっている。深海魚でもある』。『北太平洋に広く分布し、その範囲は日本海、宮城県以北の太平洋沿岸、オホーツク海、ベーリング海、カリフォルニア州沿岸までとなっている。しかし、広い範囲を回遊せず』、『比較的狭い範囲の群れを形成していると考えられている。なお』、『南方の海域で漁獲された事例としては、1984年(昭和59年)5月17日に千葉県館山市平砂浦の伊戸沖2 kmに設置された定置網で、スケトウダラ(体長約40 cm)数匹がマスノスケ』(鱒の介・𮫼:サケ亜科タイヘイヨウサケ属マスノスケ Oncorhynchus tschawytscha )『(体長115 cm、体重16 kg)やヒラマサ』(平政・平鰤:条鰭綱アジ目アジ科ブリ属ヒラマサ Seriola lalandi )、『ブリ』(鰤=異名:ハマチ・八町)アジ科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata )『などとともに漁獲されたという事例があるが、千葉県内水面水産試験場によれば、スケトウダラはアリューシャン方面で漁獲される魚であり、千葉県内の海で漁獲されることは』、『通常』、『考えられないという』。『産卵期以外は水深500 mまでの沿岸や大陸棚斜面の海底近くに生息する。最も多いのは水深300 m 前後。海水温が低下する産卵期には、浅場や海面近くに現れることもある』。『体長約70cm、最大で全長1m程度、体重1,400 gに達するが寿命は不明である。3歳以上で性成熟し、産卵期は海域によって異なり12月から翌年3月、分離沈性卵を産卵する。稚魚は春先の藍藻類の大増殖期の頃に孵化し、成長すると沖合の深い海域に移動する。年級と魚体の大きさの関係は、4歳 36cm 499g、5歳 41cm 525g、6歳 44cm 592g、7歳 47cm 660g』。『マダラ』(マダラ属マダラ Gadus macrocephalus 。最大で全長一・二メートル、体重二十三キログラム程に達する)『よりは小さい。背側の体色は褐色で、まだら模様が繋がった2本の縦帯模様がある。腹側は白色。タラ類に共通の特徴である、3基の背鰭と2基の臀鰭(しりびれ)をもつ。外見はマダラやコマイに似るが、スケトウダラは目が大きく、下顎が上顎より前に出ており、口ひげは』、『ほとんど目立たない』。『肉食性で、貝類、頭足類、甲殻類、小魚などいろいろな小動物を捕食する』。『産卵期のスケトウダラは、威嚇・攻撃行動時に800Hz以下の鳴音、求愛・産卵時に500Hz以下の鳴音を発する』。『日本付近の群れは』、『産卵場所と生育場所が異なる「日本海北部系群」「根室海峡」「オホーツク海南部」「太平洋系群」に分けられる』。『独立行政法人 水産総合研究センターの報告によれば、スケトウダラ太平洋系群の資源量は、1981年から2005年度までは約90万トン~130万トン程度の範囲で増減していたが、1993年度以降急減し2006年度以降も減少傾向が続き2010年度は、83万トン程度と推定されている。0歳魚の新規加入量の多かった年は、1981,1982,1991,1994,1995,2000であるが、1996年以降は』、『概ね』、『新規加入量/親魚の比率が低い値で推移している』。『日本周辺での漁獲量減少は、乱獲が指摘されているほか、対馬暖流の強勢や』、『水温の上昇による回遊経路の変化から産卵海域が縮小している可能性も報告されている』。『漁獲の対象となるのは2歳魚以上で、オホーツク海を中心として沿岸での底引き網や延縄などで漁獲されるが、TAC』(Total allowable catch)『制度(漁獲可能量制度)により海域毎に漁法と期間が規定されている。ロシアの排他的経済水域設定以前は、オホーツク海、樺太沿岸、北方四島周辺海域は好漁場でトロール船による漁獲量が多かった』。『1814年に』ドイツの動物学者・植物学者で、ロシアのサンクトペテルブルク科学アカデミーの教授であった『ペーター・ジーモン・パラスによって記載され、タラ属の一種としてGadus chalcogrammusの学名が与えられた。種小名 chalcogrammus は古代ギリシア語のχαλκός(真鍮)とγράμμα(線)の複合語で、体の模様に由来する。その後』、『1898年に本種のみを含むTheragra 属が設立された。Theragraは古代ギリシア語のθήρ(獣)とἄγρα(獲物)の複合語で、キタオットセイ』(哺乳綱ネコ目アシカ(海驢・葦鹿)科キタオットセイ(北膃肭臍)属キタオットセイ Callorhinus ursinus )『の主食となっていることに由来する。しかしmtDNA』(mitochondria deoxyribonucleic acid)『を用いた分子系統解析により』、『本種はタイセイヨウダラと近縁であることが示され、2008年には本種を再びタラ属に戻すことが提案された。FDA』(アメリカ食品医薬品局:Food and Drug Administration)『もこの提案を追認している』。『日本では』、『一般にスケソあるいはスケソウとも呼ばれ、その名の由来には諸説がある。佐渡について書かれた史料』「秉穗錄」(現代仮名遣で「へいすいろく」と読む。「秉」は、これ自体が「一本の稲穂を取り持つ」ことを意味する)。尾張藩に仕えた儒者岡田新川(しんせん)、号雲霞堂老人による考証随筆で、寛政一一(一七九九)年に成立。)『によれば、佐渡にはスケトウという魚があり、漢字で「佐渡」と書く、と記述されており、佐渡を名前の由来とした魚だという』(同書は私も所持しているが、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行會刊)のこちらと、こちらで確認出来る)。『また』、スケトウダラ研究者(所持する末広恭雄「魚の博物事典」(講談社学術文庫・一九八九年刊)で確認した)『竹野肇の主張によれば、元々はスケソという名前であり、『助宗鱈』という字が当て字されたことに由来するという』。「大言海」『によれば、「鮭の鱈」が転訛して「スケタラ」となったのが』、『名前の由来とされる』国立国会図書館デジタルコレクションのここの「すけとだら」で確認出来るが、推定である)。『また、タラを漁獲するのには人手が必要であることから、漁に助っ人が必要なタラということで「助っ人ダラ」を由来とする説もあるが、この由来は「いささか穿った見方」だと指摘されている』(前掲書で確認した)。『地方によりさまざまな呼び名があり、新潟県でスケトウ・ナツトオダラ・ヨイダラ、富山県でキジダラ・キダラ・シラミダラ、島根県でスケドオなどと呼ばれるほか、中国語ではミンタイ(míngtài / 明太)/ ミンタイユィ(míngtàiyú / 明太魚)、朝鮮語ではミョンテ(명태 / 明太、myeongtae)、ロシア語ではミンターイ(минтай / mintaj / mintay)と呼ぶ。メンタイ・ミンタイという名称と「明太子(めんたいこ)」の名はここから来ている。また、2-3歳くらいの未成魚をピンスケ、ピンコ、それより小さいものをマゴスケ、くぎなどと呼び分けることもある』。『日本においては重要な水産資源である一方で、傷みが早いため』、『鮮魚として流通することは少なく、かまぼこを初めとする魚肉練り製品の主原料としての需要が多い。また、養殖魚の配合飼料のほか加工残渣は家畜類の飼料や肥料として利用される。冷凍技術が発達する以前は、鮮度が低下した魚は肥料として利用されていた。 加工用途以外ではフライやムニエル、乾物の棒鱈に多く利用される。脂肪が少ない身質で水っぽく生食には適さない。 また、スケトウダラの卵巣は比較的珍重されており、塩漬けにしたたらこや唐辛子を加えた辛子明太子が作られる。また、白子はタチと呼ばれ味噌汁等に利用されるが、マダラの白子に比べると味が劣るため価格は安い。 最近では、麺にも加工されている』。マクドナルドのサンドイッチ『フィレオフィッシュ』(Filet-O-Fish)『の材料としても多く利用されている』。『釣りの対象魚でもあり、餌にはイカや小魚が使用される』とある。

「新撰字鏡」は平安時代の漢和字書。全十二巻。僧の昌住(しょうじゅう)著とされるが、事績は不詳。昌泰年間(八九八年~九〇一年)に成立。漢字二万余字を偏・旁などによって百六十部に分け、字音・字義・和訓を付したもので、現存する最古の漢和字書である。一説に寛平四(八九二)年に三巻本が完成したとされるが、原本や写本は伝わっていない。その三巻本を元に増補した十二巻本が同年間に完成したとされ、写本が現存する。この十二巻本には約二万千字を収録する。当該部は、「国書データベース」のここの、右丁下段三行目で確認出来る。

『「古名錄(こめいろく)」に『多樂(たら)』、『韓名(かんめう)、呑魚(どんきよ[やぶちゃん注:ママ。])』とす。』「古名錄」江戸末期の本草学者・博物学者であった畔田翠山(くろだ すいざん/源伴存)が天保一四(一八四三)年に纏めた、本邦の植物・動物・魚介などの古名・方言・異名に関する大著。著者に関しては、私の『カテゴリ 畔田翠山「水族志」 創始 / (二四六) クラゲ 《リロード》』を見られたい。当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本古典全集』 第五期(正宗敦夫編・日本古典全集刊行會・昭和一〇(一九三五)年刊)の同書の「卷第五十四」の「魚部 海魚類 上」のここの左丁「多樂(タラ)」以下を見よ。そこでは、その出典を「尺素往來」(せきそわうらい(せきそおうらい))とする。同書は、室町時代後期に一条兼良によって編纂されたと言われている往来物で、全二巻。この「往来物」とは、平安後期から明治初頭にかけて、主に往復書簡などの手紙類の形式をとって作成された初等教育用の教科書の総称である。直後で、河原田氏は、「『鱈』の字は、諸往來物(しよおうらいもの)等(とう)の外(ほか)、古書に見へず」と言っており、ということは、「鱈」(=広義のタラ類)という使用は、明治初頭以前には、一般的には使われていなかったらしいことが、判る。また、「韓名(かんめう)、『呑魚』とす。」というのは、出典を「東醫寶鑑」とする。これは、李氏朝鮮時代の医書で全二十三編二十五巻から成る医書で、作者は医師の許浚(きょしゅん/ホ・ジュン)の著。一六一三年に刊行され、「朝鮮第一の医書」として評価が高く、中国・日本を含め、広く流布した。探すのに往生したが、国立国会図書館デジタルコレクションの「続東医宝鑑」(笠原之也訳・一九七三年日韓経済新聞社刊)の「湯液篇㈡」の「八、魚部」のここで見つけた。標題の「夻魚」の「夻」は「吞(呑)」の異体字である。

   *

   一七、 夻魚

 性は平らで味は鹹、無毒である。補気には腸と脂が良い。(俗方)

   *

「漢名は『大口魚《だいこうぎよ》』といふ」私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「たら 㕦魚」を見られたいが、そこで「魚の大口の者を㕦と云ふ。」に注して、私は『「廣漢和辭典」の「㕦」には、原義は「大声」とし、二番目の意味に「大きい口」として、明代の字書である「字彙」から『㕦、魚之大口者曰㕦』と引用する。』と書いた。

「開爐茗會(ろひらきちやくわい)」茶道に於ける大切な茶会で、冬になって初めて囲炉裏(いろり)又は茶事の炉(ろ)を開いて用いること。正式には、十月の終わりから十一月初めにかけて行事である。

「二百萬斤」百二十キログラム。

「五萬斤」三十トン。

『「すけと[やぶちゃん注:ママ。「すけとう」。]」の一種に、九州にて「すけそう」といふもの、あり。』九州というのは、怪しい。スケソウダラは、日本海側でも山口県以北が南の限界である。タラ科 Gadidaeのマダラとコマイもあり得ない。従って、これは、まったく別種の魚である。検索してみたところ、正体が判明した。これは、私も好物だが、市場への入荷量が少ないため、高級魚とされる、

条鰭綱ペルカ目Perciformes(目名は「パーチに似た魚類」の意で、旧カサゴ目、及び、旧トゲウオ目の一部が統合された二〇一六年に独立した極めて新しい目名である)アラ(𩺊・阿羅・敏魚)科アラ属アラ Niphon spinosus

である。サイト「日本の旬   魚のお話(秋の魚-20)」の「𩺊(あら)」の「地方名」の頭に、

   *

スケソウダラ(長崎)・・・・・・・・長崎で助宗タラが獲れるということで調査船まで出して調べたら、その正体はアラだったとわかった。

   *

とあった。なお、以下、「此魚は、對州(たいしう)にて『めぐだい』、朝鮮にて『明大魚(めいたいぎよ)』と稱せり。」というのは、訳が判らない。対馬でアラを「メグダイ」と呼んでいるという事実を、ネット上では確認出来ず、「明大魚」は、少なくとも現在の韓国では、スケソウダラを指すからである。

 

本邦北海(ほつかい)の『大口魚(たら)』漁塲(ぎよじやう)は、地球上、屈指の良塲(りやうじやう)にして、殊に、此ものヽ肝油(かんゆ)は、貴重の藥品となるものなれば、漁船を改良して、增益(ぞうゑき[やぶちゃん注:ママ。「ぞうえき」でよい。])せんことを、希望す。

 

2026/08/12

立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き(★準備稿第6版)

《★以下は、「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き」の私の準備稿である。このプロジェクトは非常に時間が掛かるため、部分公開をすることとする。疑問・反論があられる方は、是非、お伝え下されたい。その内容に納得出来た場合は、書き直しをすることを、厭わないつもりである。以下の部分公開は、増補を行う都度、前のものを削除し、新たに起こすこととし、その際、既に示した内容でも、修正を加えて書き変えてあるので、必ず、再度、全体に目を通されんことを望む。

 

[やぶちゃん注:私は既にブログ・カテゴリ「立原道造」で、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集Ⅰ」(一九七一年角川書店刊)を用いて、「詩集 優しき歌 Ⅰ」の全篇を一篇ずつ、電子化し、オリジナル注を附したものを完遂している。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む。以下の冒頭の引用を参照されたい。)とあり、本篇はここからである。

 以下、第一回の「燕の歌」の冒頭注で、底本の「解説・編註」の一部を引用して述べた通り、本底本は――今までの全集とは異なる形で詩群が配置されている――ことが明記されており、しかも、★現在、流通している立川道造の詩集中の「優しき歌 Ⅰ」は、殆んどが、新字採用であり、しかも、本底本全集刊行以前の詩集の、全く異なった「優しき歌 Ⅰ」を以って読んで、鑑賞したきりの読者が、想像以上に多いと考えられるのである。私でさえ、本詩群が載る一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編/現在は品切れ)を古本で入手したのは、二〇一五年の夏であったのである。

 されば、前にまず、ブログで「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ / 全篇一括ベタ版・附;縦書版(PDF)」を公開した。その縦書版PDFこちらである。

 

 今回は、私なりに、道造が「優しき歌 Ⅰ」として全体をソリッドなものとして意図した「流れ」を、ある意味では、批判的に分析することになる。

 それは、既に、各篇を見てこられた読者も私と同じく、素朴に抱く根本的な疑問があるからである。簡単に言ってしまえば、

★この「優しき歌 Ⅰ」の十二篇からなる詩篇群は、

■巻頭を飾る「燕の歌」が創作されたのは、

昭和一〇(一九三五)年二月以前(「燕の歌」の初出は『四季』第五号(昭和十年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)

であり、而して、

■終曲である「淺き春に寄せて」が創作されたのは、

昭和一二(一九三七)年二月以前(「淺き春に寄せて」の初出は『四季』第二十五号(昭和十二年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)

で、

時間軸での創作時間は、実に、二年間に跨り、

しかも、以上の巻頭・終曲の初出が同じ詩誌『四季』であったのは、私には、たまたまであったと思われ、

その間にある十篇に至っては、発表されたのは、異なったバラバラな媒体だった

のである。

言うまでもないことだが、この二年間の間には、別な詩篇を、道造は、多数、創作している。いや! 何より大事なことは、

本「優しき歌 Ⅰ」としての叢書刊行の着想を道造が考えたのは、昭和十二年一月のこと推定されていること

である(以上に就いては、既に各篇の注で、底本全集の「解説」・「編註」を引用しつつ、詳細に記してある)。

 

 則ち、

この「優しき歌 Ⅰ」は、道造の生前に実際の原稿として十二篇を纏めて組まれたことはなかっただけではなく、角川書店昭和四六(一九七一)年六月二十日刊の『立原道造全集』の『第一卷 詩集Ⅰ』で初めて――道造の死から実に三十二年一月二十一日も経った後に――忽然と姿を現した十二の詩篇群であった

のである。

 

 思うに、

「優しき歌 Ⅰ」の構想をした道造は、その時点で、必ずや――全篇に亙って――細部に手を入れて変更を考えていたことは、火を見るより明らかである。

 と言っても、それを見ることは、何人(なんぴと)にも出来ぬのだ。

 

 私は以下、私の感性で、感じたことを注として語ることとするだけ、である。

 しかし、そこには、当然、致命的に

★二年もの間の時間経過に拠る道造の感性上の絶対矛盾が存在している

のであり、それを、

★私が道造を偏愛しているからといって、見て見ぬふりをすることは出来ない

ということである。

 なお、先の「ベタ版」のテクストを、そのまま使い、個別公開した際、字注として添えたものも、必要と感じる部分を検証の冒頭に再掲しておいた。

 

 

 優しき歌 Ⅰ 風信子叢書 第四篇

 

 

 燕の歌

    春來にけらし春よ春

     まだ白雪の積れども

           ――草枕

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる

とほい村よ

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き

山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

 

やさしい朝でいつぱいであつた――

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら

とほい村よ

 

僕はちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと 

 

 

 単体公開の注で既に述べた通り、最近、電子化注した「立原道造草稿詩篇 燕の歌(二) (恣意的に発表された正編正規版「燕の歌」を頭に添えた)」があり、それは、編註で、昭和一〇(一九三五)年の春の制作と想定しており、草稿詩篇では、『(二)』としている以上、この「燕の歌」の後に続篇として創作したものであるが、明らかに、この詩篇に比べて、ネガティヴさが、相対的に遙かに色濃いのである。以下に示す。

   *

 

  燕の歌(二)

 

朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

私の羽根はもうくたびれた

海よ お前の掌は私を止らせてくれはしない

 

私はいつか信じてゐた 北の村には

昔の私が待つてゐると さうかしら

海よ お前は敎へてくれ きつと知つてゐるから

お前の身體が北の岸に觸れる村で

昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ

 

私の旅はもう長い 私の羽根はくたびれた

海よ お前は波立ち呟いてゐる

 

夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

敎へてくれ 北の村で昔の私がやさしい朝と一しよに

私の着くのを待つてゐると敎へてくれ

お前は波立ち呟いてゐる それが私には

何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ

 

私の羽根はもうくたびれた

私はどこへ行くのだらう 海よ

お前は大きく お前はむごく意地惡だ

 

   *

 私は、今回、この二篇を比較した際、微かに閃いたことは、

――『これは!⋯⋯フランス語の「半過去」と「複合過去」のニュアンス上の違いではなかろうか!?!――

ということであった。道造は、昭和七(一九三二)年八月二十八日(想定)附の堀辰雄宛書簡(底本全集の「第五卷 書翰」のここの「二二」。一高二年進級直後)で、立原は冒頭部で、『この夏は、たうとう東京でぼんやり過してしまひました、佛蘭西語などをすこしやつてみたりして、田舍へも行きたいと思ひましたけれど、結局どこへも行かずしまひでございました。頭のなかで、よい景色のことばかり考へて居りました。そいて、何だかそれが、僕に一番気に入る方法だと、新字ながら⋯⋯』と記しているように、独学で(彼は一高ではドイツ語を選んでいた)本篇を書いた凡そ二年半前から、フランス語を学び始めていた。

 ここで、フランス語の当該文法の違いを簡単に述べると(私は英語が嫌いだったので、大学ではフランス語を第一外国語にしていた)、

「半過去形」は、その行為や状態には終結点がなく、未完了の行為となる。

それに対して、

「複合過去形」では、継続的行為や反復的行為であっても、その期間・回数が閉じた時制として具体的であり、はっきりと完了すると判る行為となる。

 さて、以上の二篇を見てみよう。

 正統である知られた「燕の歌」は、

   *

 

  燕の歌

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢に★かかつてゐる

とほい村よ

 

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を★咲き

山羊が啼いて 一日一日 ★過ぎてゐた

やさしい朝で★いつぱいであつた――

 

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消え★ながら

とほい村よ

 

僕は★ちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐる

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて★行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を ★望みと夢は靑くてはてなかつた

 

   *

 ここで★と下線を引いた箇所は、

――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は、過去としては――閉じていない――

のである。

 ところが、「燕の歌(二)」では、

   *

 

  燕の歌(二)

 

朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

私の羽根は★もうくたびれた

海よ お前の掌は私を★止らせてくれはしない

 

私は★いつか信じてゐた 北の村には

昔の私が待つてゐると ★さうかしら

海よ お前は敎へてくれ きつと★知つてゐるから

お前の身體が北の岸に觸れる村で

昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ

 

私の旅は★もう長い 私の羽根は★くたびれた

海よ お前は波立ち呟いてゐる

 

夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

敎へてくれ 北の村で★昔の私がやさしい朝と一しよに

私の着くのを待つてゐると敎へてくれ

お前は波立ち呟いてゐる ★それが私には

★何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ

 

私の羽根はもう★くたびれた

私はどこへ行くのだらう 海よ

お前は大きく ★お前はむごく意地惡だ

 

   *

 ここで下線を引いた箇所は、明らかに、

――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は――過去としては――殆どが――閉じてしまっている――

のである。

 いや! この「燕の歌(二)」を、道造が「燕の歌」とセットする確信犯を持っていたら、私は、「燕の歌 Ⅰ」は、以下、続いた詩群を後に組むことは、到底、あり得ない――出来ないもの――と断ずることが出来る。さればこそ、この「燕の歌(二)」は草稿としてのみ、残されたのである。

 そして、道造が、自身の比較的若き日の恋愛の思い出を、大学卒業を半年後に控え、また、新鋭詩人としての本格始動の一つの区切りとして――この――「優しき歌」の詩群(私は、この時点で、当初から、彼が、この詩群を「Ⅰ」として自覚し、後に「Ⅱ」を確信犯として企図していたかどうかは、微妙に留保するものである。それは、「覚書 Ⅱ」――底本の「第一卷 詩集Ⅰ」のここの左丁――には「Ⅰ」を打たず、また、前の右丁下の、現行では「優しき歌 Ⅱ」相当の「覚書Ⅱ」にも、「Ⅱ」は、打たれていないからである。だいたいからして、「Ⅰ」は「Ⅱ」の出版後に出現した――しかも、孰れも編者によるものである)を企画したと推理するものである。

 なお、ここで言っておくが、これ以降の詩篇もそうだが――と言うより――多くの道造の詩の実際の彼の恋愛経験を基盤に埋め込んだ作品群に於いて、その相手が、誰(たれ)それであると特定し、姓名を挙げ、恋愛事実と、その破綻を解剖する注や分析を行う意思は――全く――私には――ない。その方面から、詩や物語を分析する必要を一ミクロンも――感じないから――である。「しかし君は、芥川龍之介の作品群では、恐るべき数の、それを、子細にやってきたじゃないか?」と言われるであろうが、それは、龍之介が、本来の結婚したかった女性との結婚を親族に拒否されたことに始まり、既婚者となった後も、驚くべき数の複数の不倫をし、それが、龍之介の作品群執筆の動機・原因となっているケースが有意にあり、それを示さなければ、作品の深層を分析出来ないからであり、さらに、龍之介の精神をも蝕むところの、病跡学的なメスを加えるに際して、絶対的に必要であったからである。道造は、私は一種の双極性障害を抱えていたと考えているが、龍之介よりも、遙かに健全な精神を保持し続けていたのである。

 

 

   §   §   §

 

 

  うたふやうにゆつくりと⋯⋯

 

日なたには いつものやうに しづかな影が

こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと

花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯

すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた 

 

私は待ちうけてゐた 一心に 私は

見つめてゐた 山の向うの また

山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を

ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯

 

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も

たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに

風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 

 

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

 

 

 一目瞭然、前の「燕の歌」との決定的な違いは、「燕の歌」が、まさに、プロローグ詩篇として、

ツバメが⋯⋯すぅーと⋯⋯遠い村を眺め⋯⋯暮れやすい花を咲かし⋯⋯山羊が啼いている軽井沢の野原を翔(と)び⋯⋯

音符のスラーのような春の空の山並みを掠めて⋯⋯夕焼けの中の遠景の村の遠景の色⋯⋯

と、水彩画で描き、次でブレイクして、

「僕はちつともかはらずに待つてゐる」「あの頃も 今日も あの向うに」「かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると」という確信犯の半過去の自己感懐の吐露をなした上で、「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ」「あのさびしい海を 望みと夢は靑くてはてなかつたと」という孤独な現在進行形の《閉じた時空間》に屹立しているのだ。

 「燕」は客観的な自然生物体のツバメではなく、「道造という孤独な燕」にメタモルフォーゼしようとしているのである。

 しかし、それを、道造は、読者に、その変容を気づかせないように――巧みに――フェイド・アウトさせているのである。

 さればこそ、この第二篇「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」を、ここに配置することで、愛する永遠の女性像を最終第四聯を除いて、美事(私は「みごと」の漢字表記を国語教師であるのに――いや――国語教師である前に孤独な詩人面を確信犯として演じて――永く「見事」と書かずに、かく「美事」と書いてきた。何度か、男子生徒が「先生、『見事』の間違いではありませんか?」と注意しても、「僕は、こう書くことにしているんだ。」と応じて、ニヤッとしたものだった⋯⋯いや、これは、今も、私の個人的な拘りとして現に私の心の中で生きている私の絶対詩語言語なのである)に消し去って、「優しき歌」とするために――自分独りだけの半過去の詠唱にすり替えている――のである。

 物理的な事実が、それを証明する。

★「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、

『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)

であるのに対し、

★本「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」の発表は、

『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊)

で、実に――★二年一ヶ月十二日――も離れているのである。

恐らく、殆んどの読者は、本詩篇群が日の目を見た一九七一年当時だけではなく――本日只今にあっても――この事実を全く理解していないに違いないのである。

 そして、最終聯、

   *

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

   *

には、注意が肝要である。

本「優しき歌 Ⅰ」全十二篇の中で、初めて「優しい」という語(「やさしい」の語も含む)が使用された最初が、この二行目の「私の日々を優しくするひとを」のフレーズ中なのである。而して、実は、次の「優しい」は、「薊の花のすきな子に」パートの「Ⅱ 虹の輪」の第二聯の最終行「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」であり、次は、同じ「薊の花のすきな子に」パートの次の「Ⅲ 窓下樂」の第二聯の最終行「とほい やさしい唄のやう!」で、その後は、ずっと後の「鳥啼くときに」の第一聯の最終行「なんと優しい笑ひ聲だ!」で、これで終りで、計四回である。

 但し、この物理的事実は、これと言って、問題するべきものではなく、《優しい》ニュアンスが、他の八篇にも感知されていれば、それで良く、それは、確かに、ある、と言える。道造は、無論、それを意識して、これら十二篇を選別したことは、明らかである。

しかし、そこは、時期を相応に隔てて、全く別個に詠んできた詩篇を、ある意味、無理矢理に「一緒くた」にしたことには、私は、かなりの問題があると感じているのである。

 而して、最終聯の、

   *

私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」

   *

の告解は、最早、特定の過去の複数の失恋相手誰(たれ)それなのではなく、

――架空の哀しい過去・現在・未来に於いて実現されない「私の日々を優しくするひと」を必死にイメージした産物――

であり、この「優しき歌 Ⅰ」全体に仕掛けられた

★「バッソ・コンティヌオ(Basso continuo)」=通奏低音となっている

と、私は信ずるものである。

 

 

   §   §   §

 

 

   薊の花のすきな子に

 

  Ⅰ 憩らひ

       ―― 薊の花のすきな子に――

 

風は 或るとき流れて行つた

繪のやうな うすい綠のなかを、

ひとつのたつたひとつの人の言葉を

はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

 

ありがたうと ほほゑみながら。

開きかけた花のあひだに

色をかへない靑い空に

鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

 

気づかはしげな恥らひが、

そのまはりを かろい翼で

にほひながら 羽ばたいてゐた……

 

何もかも あやまちはなかつた

みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた

ひろい風と光の萬物の世界であつた。

 

 

[やぶちゃん注:この作品の初出は『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)である。さても、ネットの個人評釈の中で、この添え題の中の『薊の花のすきな子』を、彼が勤めていた「石本(いしもと)建築事務所」【今回、「石本」の読みを確認するために、現在もある「石本建築事務所」公式サイトを訪ねた。そして、そこの「環境統合技術室」の『社会が変化しても「変わらない」想い』以下に、何んと! 道造の直筆原稿四葉から成る「建築衞⽣學と建築裝飾意匠に就ての⼩さい感想」が画像で示され、さらに字起こし(但し、現代仮名遣・新字である)もされているのを見て、驚愕した! 後の解説によれば、『本小論文は1936年(昭和11年)3月頃、立原道造が東京帝国大学建築学科2年次の終わり頃に書かれたものと言われています。』とあった。その年月日は――後に示す通り、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」三篇の書かれた時期のど真ん中の時の原稿――なのである!! 是非、見られたい! 道造の当時の優しい読み易い筆致を見るだけでも至福たること、保証する!!! しかも! ★この原稿は角川版「立原道造全集」にはこの論考は載っていない★のである! 調べたところ、引用した通り、同全集の書簡の昭和十一年二月十八日附小場晴夫宛『二〇八』の末尾の方に(ここの左丁の下段一行目)『試驗が近くなると、目がまはりさう。試驗前に出す、演習の製圖があり論文があり、學校の製圖があり、衞生の論文があり』とある最後のものがそれである。同巻の「編註」を見ると、まさに、この「衞生の論文」について、『平山嵩助教授の「建築衞生」の提出論文のこと。』とある。】に働いていた水戸部(みとべ)アサイであろうか? とするものを見たが――

それは、物理的にあり得ない

のである。底本全集の「第六卷 雜纂」の「年譜」によれば、道造が同建築事務所に初出勤したのは、昭和十二年四月一日であり、同年譜では、昭和十四年四月の項に、『四月』『上旬、同じ事務タイピストをしていた水戸部アサイの姿が、少しづつ始める』(ここの五月の右丁下段五行目から)とあり、それ以降、急速に親密になっている(同左丁上段後ろから七行目以降、及び、同左丁下段の六月の項を見られたい)。但し、以降、道造が水戸部アサイを死に至るまで愛し続けたことは、明らかである。亡くなる記事の載る、ここの三月(右丁上段後半部。道造の逝去は三月二十九日午前二時二十分で、『肉身にもみとられずにひとり息を引きとった。享年、二十六歲(満二十四歳八か月)』とある。具体には、候補者は信濃追分で出会った親戚筋の少女横田ケイ子、同地で出逢った弁護士の令嬢関鮎子であろうかとは思う。しかし、クドいが、既に述べたように、詩篇に登場する詩人が愛した女性を特定することには、私は全く興味がないし、必要性もない――誰であるかというのは、彼の詩を解読する鍵とは――全く――ならない、と断言するものである。なお、敢えて、『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ  薊の花のすきな子に Ⅰ 憩らひ ――薊のすきな子に――』の私の注では、「薊の花のすきな子」の注に、引用で示してあるから、どうしても詮索が好きで、具体な彼が愛した女性が知りたい向きは、そちらを見られたい。

 因みに、「薊」の花の花言葉なんぞを意識したかどうかは、私には判らないが(私は「花言葉」には全く興味がない)、取り敢えず、サイト「GreenSnap STORE」の「【アザミの花言葉】怖い意味はないけど、色や種類で意味が違う?」から拾っておく。

『アザミの花言葉は「独立」「報復」「厳格」「触れないで」です』。『「独立」「報復」はスコットランドに伝わる伝説に由来します。「厳格」は動物を寄せ付けない雰囲気や、春から夏にかけて凜と咲くアザミの特徴が由来とされています。「触れないで」は、アザミの特徴である鋭いトゲが由来です』。『なお、アザミの花言葉に怖い意味はありません』。『アザミはさまざまな色の花を咲かせますが、それぞれにちがう花言葉がついています。ここでは4色のアザミについた花言葉をご紹介します』。『赤いアザミ』は『「権威」「報復」「復讐」』、『紫のアザミ』は『「厳格」「気品」「高貴」』、『白いアザミ』は『「ひとり立ち」「自立心」』、『青いアザミ』は『「安心」「満足」』、『赤いアザミの花言葉は「権威」「報復」「復讐」です。花以外にも葉や花の根元に鋭いトゲがついていることに由来すると考えられています』。『紫のアザミの花言葉は「厳格」「気品」「高貴」です。紫は古くから高位の人のみが身につけることを許されていた色です。紫のアザミにもどことなく高貴な印象があることにちなみ、これらの花言葉がついたと考えられています』。『白いアザミの花言葉は「ひとり立ち」「自立心」です。白は何色にも染まっていないピュアな色です。白だけでも十分に映えることにちなんで、これらの花言葉がついたのかも知れませんね』。『青いアザミの花言葉は「安心」「満足」です。一見、鋭いトゲがついていて近寄りがたい印象がありますが、側にアザミがいてくれれば、動物などを寄せ付けない安心感から、このような花言葉がついたのかも知れませんね。』とある。個人的には、アザミは好き💖 脱線だけど、寿司屋の「山牛蒡」は、モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis の根っこだ、って知ってましたか?

 

 さて。分析に入ろう。何より、

本詩は――徹頭徹尾――「複合過去」である

ことだ。この一篇は、表題と添え辞の優しさに反して――その詩の謳う心を語りながら、それは、

★既に終わってしまった魂の陰翳に全体のホリゾントはテッテ的に沈んでいる

のである。以下、ここまでの三篇の初出年月を再掲すると、

○「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、

『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)

○第二篇の「うたふやうにゆつくりと⋯⋯の発表は、

・『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊

で、二年一ヶ月十二日も離れているが、

○第三篇の「薊の花のすきな子に」の「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」の発表は、

『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊

で、実は、

この詩篇は――★前の二篇の大まかには中間――但し、第一篇と第二篇のスパンが十ヶ月であるのに対し、第二篇と第三篇とは十五ヶ月も離れている――に当たる時期に創作されたもの★――

なのである。

※この物理的事実を知ると、以下のことが指摘出来る。

 ほぼ半過去の「燕の歌」の感懐は、このざっくりと複合過去による吟詠である「Ⅰ 憩らひ ――薊の花のすきな子に――」にあっては、実は、表題の醸し出しているように見える恋情は――完全に過去のものとして永遠の彼方の地平に暗く屹立してしまっている――のである。

※ところが、「優しき歌Ⅰ」を読む読者の殆んどは、第一篇から第二、第三篇と読み進んでくると――その違和感を感じ取ることが困難であろう――と私は踏む。

 而して――それは――まさしく――道造が「優しき歌Ⅰ」に仕掛けた巧妙なマジック――なのである!

 さらに言えば、添え題「薊の花のすきな子に」がそのマジックに大きな役割を添えている。即ち、通常の読者は、

「薊の花をすきな子に」を見た瞬間、一万人が一万人、誰もが、その「子」は、特定の人物であると自動的にインプレットしてしまう

からである。何度も言っているが

――この「子」は本「優しき歌 Ⅰ」にあっては特定の少女ではない

のである。無論、具体に薊を愛した誰彼がいたことは事実であるが、

――それが誰であるかということを詮索しても、何らの読解の重大な鑰(かぎ)とはならないから

である。「優しき歌 Ⅰ」にあっては、最早、

――あらゆる道造の愛した女性像の昇華してしまったミラージュ(mirage

なのである。

 この「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」が発表された『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)から、四ヶ月後に発表された物語「ちひさき花の歌」(『未成年』第六号・昭一一(一九三六)年・五月号・五月一日刊)、八ヶ月後の物語「花散る里 FRAU R. KITA GEWIDMET」(『文藝懇話會』同年九月号・九月一日刊)にも――前者には『アンリエツト』=『鱵子』(さよりこ)が登場し、「Ⅵ」の終りで、『鱵子は、道のそばに咲いてゐた薊の花を摘みとると、手でくるくるまはしながら薊の花を摘みとると、手でくるくるまはしながら聞いてゐた。僕の頰はほてつてゐた。』と出ており(これは私は未電子化であるので、底本のものをリンクしておく。「ちひさき花の歌」の冒頭はここで、「Ⅳ」の当該部は、ここの左丁一~二行目)、後者では、第二パートの第二段落に『薊の花のすきな娘』が登場する(後者は、私がここで電子化している)。なお、この二篇の内、「ちいさき花の歌」は、作品内の記載から関鮎子がモデルであることが確実に判る。なお、関鮎子について知りたい方は、底本全集の「第六卷 雜纂」の年譜を読むのが最も判り易いと思われるので、昭和九(一九三一)年夏、軽井沢追分での初めての出逢いから、ここと、ここと、ここと、昭和一一(一九三六)年七月九日の最後の関鮎子との別離の最終記載までを、通して読まれたい。

 但し、以上の箇所には、二箇所、関鮎子でない女性の可能性があるものが含まれている。

 まず一つ目は、昭和一〇(一九三五)年十一月十月十二日の項の、ここの右丁下段後ろから五行目以下)『この日柴岡亥佐雄宛に書いた書簡に、「僕は不吉な恋をしてゐる。相手の人は Fiancé があるのだ、しかし僕らは愛しつくされない位互に愛しあつてゐる」と書いているのは、関鮎子、今井春枝のどちらのことか判然としない。鮎子は千葉市内の女学校を卒業後、当時は東京家政学院に通学していて、十一年春には結婚するはずの婚約者がいる身の上であったという』。『また春枝の方も、十一年八月には結婚しているので、当時すでに「Fiancé がある」という身の上だったかもしれない。ともあれ立原は、どのみち悲恋のコースをたどることを強いられてわけである。』とあるものである。

 さらに、ここの(右丁下段後ろから六行目から)、昭和一一(一九三六)年二月一日の項の、道造の同「第六卷 雜纂」の「いろいろなこと㈡」の「★不秩序の祭典」の終りの方の『その焚火の煙のなかに、よき人の姿』(☜)『を見ることの出來たのはうれしかつた。』を引いて『ここで「よき人の姿」と言っているのは、幻影のことなのか、実在の女性(関鮎子・横田ケイ子・今井春枝など)のことなのか、判然としない。』とあるのがそれである。なお、以上の関鮎子の引用リンクには、「鮎子」をポイントしてあるので、そこだけを手取り速く拾い読み出来るようにしておいた。ともかくも、道造の恋愛史を詩篇分析に導入してしまうと、とんだ迷路に迷い込むことは必定なのである。

 

 

   §   §   §

 

 

  Ⅱ 虹の輪

 

あたたかい香りがみちて 空から

花を播き散らす少女の天使の掌が

雲のやうにやはらかに 覗いてゐた

おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

 

夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば

叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や

滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは

やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた

 

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く

朝のしめつたその風の……さうして

一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた

 

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに

もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが

こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた

 

[やぶちゃん注:既に「注」・「字注」で示したものを冒頭に再掲しておく。

 第二聯三行目の「刃金」の「刃」は異体字で、「刅」の右側の「ヽ」を除去した「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので「刃」とした。「刅」なら表示出来るのだが、私は生理的に、この異体字が極めて嫌いであり、また、「刅金」を素直に「はがね」と一瞬には読めずに戸惑う若い読者のことを考えて、「刃」としたものである。

 第二聯四行目の「おののいて」は、ママである。但し、今回、底本全集を検索すると、他では、道造は正しく「をののく」を用いている箇所もあるので、完全な思い込みの慣用語ではなく、たまたま、初出原稿で誤った可能性もある。

 さて。この「Ⅱ 虹の輪」初出は『文藝汎論』(第六十号・昭和一一(一九三六)年八月号・八月一日刊)である。

 而して、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」の四篇を、時間軸に合わせて並べ直すと、

「燕の歌」➤「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」➤「Ⅱ 虹の輪」➤「うたふやうにゆつくりと⋯⋯

となる。そして、年譜的事実に即すなら、

★最後の「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」は明らかに関鮎子との恋愛の破綻の後となるのである。

 『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 I  薊の花のすきな子に Ⅱ 虹の輪』の注で、編註を引き、『初出副題は『夏への四つのプレリユウド』から」』であるが、その『副題の示す他の三篇は未詳である。』とあると示した後で、

   《引用開始》

 なお、この註にある未詳の「夏への四つのプレリユウド」は、一つの仮説に過ぎないが、これは、先行する「詩集 優しき歌 I  燕の歌」と、「詩集 優しき歌 I  うたふやうにゆつくりと⋯⋯」と、「詩集 優しき歌 I  薊の花のすきな子に I 憩らひ ――薊のすきな子に――」の三篇のそれぞれの初稿に、これを加えて纏めた初期構想詩篇である可能性が、一番、あり得るのではないか? とも思われる。心情的には、その四篇のみを並べて、電子化して見たい欲求が強く生じているのだが、これは証拠が一切ないから、涙を呑んで、やめる。

   《引用終了》

と述べた。ここでは、私の好き勝手にやらしてもらおう。そして、時間軸に従って、これを前に示した通りに作り替えて示す。

 

   *

 

   夏への四つのプレリユウド

 

  燕の歌

    春來にけらし春よ春

     まだ白雪の積れども

           ――草枕

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる

とほい村よ

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き

山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

 

やさしい朝でいつぱいであつた――

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら

とほい村よ

 

僕はちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと

 

 

   薊の花のすきな子に

 

  Ⅰ 憩らひ

     ―― 薊の花のすきな子に――

 

風は 或るとき流れて行つた

繪のやうな うすい綠のなかを、

ひとつのたつたひとつの人の言葉を

はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

 

ありがたうと ほほゑみながら。

開きかけた花のあひだに

色をかへない靑い空に

鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

 

気づかはしげな恥らひが、

そのまはりを かろい翼で

にほひながら 羽ばたいてゐた……

 

何もかも あやまちはなかつた

みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた

ひろい風と光の萬物の世界であつた。

 

 

  Ⅱ 虹の輪

 

あたたかい香りがみちて 空から

花を播き散らす少女の天使の掌が

雲のやうにやはらかに 覗いてゐた

おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

 

夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば

叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や

滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは

やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた

 

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く

朝のしめつたその風の……さうして

一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた

 

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに

もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが

こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた

 

 

  うたふやうにゆつくりと⋯⋯

 

日なたには いつものやうに しづかな影が

こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと

花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯

すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた 

 

私は待ちうけてゐた 一心に 私は

見つめてゐた 山の向うの また

山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を

ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯

 

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も

たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに

風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 

 

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

 

   *

 

こう並べると、第一篇が「半過去」であるのに対し、第二・三・四篇は纏まって「複合過去」となり、時制上の、ギクシャクした流れが綺麗に整序されるのである。

 しかも、「夏への四つのプレリユウド」である。

   ◆

 「燕の歌」では――「お聞き 春の空の山なみに」「お前の知らない雲が燒けてゐる」が――「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう」「お前の夢へ」「僕の軒へ」「あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと」――と――「夏」と、夏の「海」を「前奏曲」の巻頭として予言する⋯⋯

   ◆

 「憩らひ」では――「風は 或るとき流れて行つた」、春の「繪のやうな うすい綠のなかを」、「ひとつのたつたひとつの人の言葉を」「はこんで行くと 人は誰でもうけとつた」「開きかけた花のあひだに」「色をかへない」夏を呼ぶ春の「靑い空に」「鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた」、「気づかはしげな恥らひが」、「そのまはりを」燕のような「かろい翼で」「にほひながら 羽ばたいてゐた……」「何もかも あやまちはなかつた」「みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた」春風駘蕩たる「ひろい風と光の萬物の世界であつた」⋯⋯

   ◆

 「虹の輪」では――「あたたかい香りがみちて 空から」「花を播き散らす少女の天使の掌が」「雲のやうにやはらかに 覗いてゐた」という春の空の下――「おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた」――心地よい前奏曲を聴くように――「夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば」「叢に露の雫が光つて見えた」――しかし――「眞珠や」「滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは」――そこに至福感と同時に――説明出来ない不吉な感じが――「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」――それは――遂に必ずやってきてしまう――終わりへの慄(おのの)きだ――すっかり変容してしまう夏の到来に慄いているのだ――「吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く」「朝のしめつたその風の……さうして」「一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた」――しかし、そこは――既に微妙に時空が変形した見たことのない夏へ向かって――である――だが、悲しいかな、「おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに」「もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが」「こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた」――のだった――永久に取り返しのつかないカタストロフへの通奏低音だ⋯⋯

   ◆

 「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」では――「日なたには いつものやうに しづかな影が」「こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと」「花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯」――「すべては そして かなしげに」――「うつら うつらしてゐた」――そんな中――一人称単独で――「私は待ちうけてゐた 一心に 私は」「見つめてゐた 山の向うの また」「山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を」「ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯」呆然と眺めているばかり⋯⋯「古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も」「たのしくさへづつてゐた」けれど⋯⋯「きく人もゐないのに」⋯⋯「風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 」⋯⋯「ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」あの時「私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯」⋯⋯

   ◆

★この私が仮想した「夏への四つのプレリユウド」は、その総てが結果して――複合過去――なのだ!

★既にして――「私」は――「夏」にあって絶対の独りの存在であり、「優しくするひと」は永遠に「私」から去ってしまっているのである⋯⋯⋯⋯

 

 

   §   §   §

 

 

  Ⅲ 窓下樂

 

昨夜は 夜更けて

步いて 町をさまよつたが

ひとつの窓はとぢられて

あかりは僕からとほかつた 

 

いいや! あかりは僕のそばにゐた

ひとつの窓はとぢられて

かすかな寢息が眠つてゐた

とほい やさしい唄のやう! 

 

こつそりまねてその唄を僕はうたつた

それはたいへんまづかつた

昔の こはれた笛のやう! 

 

僕はあはてて逃げて行つた

あれはたしかにわるかつた

あかりは消えた どこへやら?

 

 

 表題「窓下樂」は、調べてみると、オーストリアのウィーン出身の世界的ヴァイオリニストのフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler 一八七五年~一九六二年)が、フランスの作曲家フランソワ・クープランの様式をもとに作曲した一九一一年のヴァイオリン曲“ Aubade Provençale ” :フランス語・音写「オーヴァード・プロヴァンサル」・逐語訳「プロヴァンスの朝の歌」)があるが、この曲は、日本語に訳された古い楽譜では「プロヴェンス人の窓下樂」と邦訳されていたことが、「CiNii」のここで、確認出来た。東京芸術大学 附属図書館蔵で、この出版社はセノオ音樂出版社、出版年は大正一五(一九二六)年二月発行である(この曲はYouTubeKochan's Channel氏の“"Aubade Provençale in the style of Couperin" by Fritz Kreisler”で視聴出来る)。その「窓下樂」は、また、国立国会図書館デジタルコレクションの「音樂と詩歌との境」(『音樂叢書』第四編/アムブロオス著・辻莊一訳・岩波書店大正一五(一九二六)年刊)のここに、『窓下樂 Ständchen』という下りがあった。しかし、このドイツ語、平凡社「世界大百科事典」の「セレナード Serenade // Serenatka[イタリア])」の解説の中に(コンマは読点に代えた)、『元来は、夕べに恋人の窓の下で歌う歌であるが、ここに含まれる〈夕方〉〈野外〉〈下から上にささげる〉といった意味から派生した各種の芸術音楽の総称となっている。〈夜曲〉〈小夜曲〉と訳されることがある。楽曲の形式を規定せずに演奏の方法や機会を指す名称であるため種類は非常に多いが、大きく次の三つに分けることができる。』『第1は、元来の〈夕べに男性が窓の下で恋人をたたえて歌う〉セレナードで、ルネサンス期のヨーロッパ全体に広まった習慣だった。曲は単純な民謡風のものからポリフォニックな重唱曲にまで及び、求愛する人物自身がリュート、ギター、マンドリンなどで伴奏する場合も多かった。18世紀以後モーツァルトらのオペラの一場面として,あるいはグノー、トスティらによって芸術歌曲として作曲された場合も、伴奏にはしばしばこれらの楽器か』、『楽器特有の音型が用いられる。また』、『このような歌曲を模したバイオリンやピアノの小品も作られている。19世紀ドイツではこの種のセレナードをシュテンチェン Ständchen といい、シューベルトの作品をはじめ』、『多くの歌曲・合唱曲がつくられた。』とあったので、こちらのドイツ語で「小夜曲(セレナーデ)」を意味する言葉と解説された方が、我々には(私には)、すんなり納得でき、また、道造は建築の関係上、ドイツ語を選んでいることから、この単語には、親しかったものと考えられる。因みに、私は、当初、見慣れぬ熟語で、読みに戸惑ったが、所持する昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」のルビの『さうかがく』で適切と思われる。

 また、第一聯一行目の「昨夜」は、私は、嘗つて、うっかり「さくや」と読みかけたが、の「ゆふべ」が、確かに、しっくりくる。

 なお、第四聯一行目の「あはてて」は、底本の編註にはママ表記がないが、道造の誤り(慣用表現)であることが判明した。底本の全集を横断して調べたところ、彼は詩篇に限らず、書簡でも、しばしば「あわてて」を「あはてて」と誤記していることが横断検索で確認出来た。

 初出は『文藝汎論』第六十号の昭和一一(一九三六)年八月号(八月一日刊)である。ロケーションは軽井沢である(以下の「年譜」を見よ)。

 なお、底本全集の年譜を見ると、或いは、この詩作の字背と関係があるかも知れない、三人の女性についてのエピソードが確認出来るので、参考までに引用しておく。

『七月八日、上野を立ち、夜追分着。「僕にメエルヘンを贈[やぶちゃん注:ママ。「贈」。以下、数ヶ所に正字不全があるので、後は私がブレイクして挿入しておいた。]つてくれた少女(注・今井春枝)が、この月ずゑにHeriratenする。』[やぶちゃん注:ドイツ語で「結婚する」。]『追分に來るとき、その少女と偶然汽車でいつしよになり、雨の小半日を輕井澤ですごした(書簡、七月十一日・猪野謙二宛)。』[やぶちゃん注:同全集第五巻「二五〇」。]』『その夜は春枝も油屋に宿り、翌九日、彼女は帰京。「別れのときに、汽車の窓で、肌につけてゐた水晶のちひさな十字架を』贈『つてくれた。そして.一生涯もうお會ひすることも出來ないだらうと言つた。これが夏の出來事のプレリユードだつた。この少女と別れたやうにしてまた僕は鮎子さんとも別れねあなるまい。まだ、わがひとはここの村に』來『てゐない。そして僕がこの村に』來『てゐることを知らせるにもすぺがない」(書簡、前掲猪野宛)。春技が立原に水晶の十字架を贈ったのは、ジイド作「窄き門」のアリサの行為にならったものであろう。その日彼女は、小雨の中を追分まで立原に送ってもらうが、汽車に乗りそこない、タクシーで軽井沢まで汽車を追ったものの間にあわなかった。けっきょく一汽車遅らせて乗車の際、十字架を立原に渡した(「雨の小半日を』輕井澤『ですごした」とあるのは、この次の列車を待つ間のことをいったのであろう)。そうして彼女は翌八月四日に結婚している。さて立原は春枝との別離のあと、鮎子の出現をしきりに心待ちする。「僕がこの村に来てゐることを知らせるにもすべがない」とは、鮎子がすでに結婚していることを意味することばであろう。彼女はこの年の春に東大出の農学士の内田源太郎と結婚し、十五年一月元日、腸捻耘により二児を残して急逝した(享年二十三歳)。その夫君も、十八年四月に戦死している。』とある。今一人は、既に本記事で登場しており、以上の引用にも出た関鮎子で、七月『十二日』の記載の後に(ここの右丁一行最下部から)、『このころ、物語「かろやかな異ある風の歌」を書き始め、『また春枝との別れを主題とする物語「花散る里」』(これは私の電子化物がここにある)『を構想。同時に鮎子に捧げる幾つかのソネットを構想し』た、とある。実は、以上の春枝と鮎子の記載の間に、道造が「エルザベート」読んだ女性、「横田ケイ子」に就いての記載があるのだが(ここの左丁の下段の後ろから二行目)、既に表明しているように、私は道造の愛した実在の女性たちを詮索することは、全く興味がないので、調べる気は全くない。この横田ケイ子については、ネットで論文もあるので(一応、ダウンロードしたものを持ってはいるが、今のところ、読む気はないし、そんな余裕は、私には、ない)、ご自身で捜されたい。

 なお、既に述べたが、本「優しき歌 Ⅰ」の中で「優しい・やさしい」の単語が第三番めに使われている。第二聯最終行「とほい やさしい唄のやう!」である。

 

 分析に入る。

 まず、全体が複合過去相当であるが、詩を書いているのは、その翌日の設定であり、昨夜の実際の体験の体裁を採っている点で、今までの四篇の時制的複雑性のカラクリは、完全に後退してしまっている。しかも、詩篇は徹頭徹尾、「僕」の独白であり、象徴的な意味深長の「窓」は終始、「とぢられ」ているのであり、「かすかな寢息が眠つてゐ」るに過ぎず、「僕」もまた、独り、「夜更け」の「町」を「さまよ」っている彷徨の影法師でしかないのである。それを如何に「いいや! あかりは僕のそばにゐた」と謳歌しても、「とほい やさしい唄のやう! 」と謳っても、「かすかな寢息」が「とほい やさしい唄のやう!」と「こつそりまねてその唄を僕はうたつ」てセレナードを気取ってみても、「いいや! あかりは僕のそばにゐた」と断言しても、結局は、「それはたいへんまづかつた」ために、「昔の こはれた笛のやう!」と茶化したように叫び、「僕はあはてて逃げて行」くばかりで、「あれはたしかにわるかつた」と自己の不甲斐なさを感じざるを得ず、相手のいない「夜更け」の漆黒の中を疾走するのである! だからこそ、最終フレーズは「あかりは消えた どこへやら?」と投げ出したままに、「羅生門」のラストよろしく――『下人』ならざる「僕」『の行方は、誰も知らない』なのである!

(ブレイク注:個人的に私は同作のエンディングの「誰」を「たれ」と読まねばならないと考えている。そもそも同作では、芥川龍之介は「だれ」ではなく「たれ」と読みを振っていることから、しかして、突き放したコーダは絶対強調の「たれ」の以外にはあり得ないのである)

 更に言っておくと、私は、

★この第三聯の「それはたいへんまづかつた」「昔の こはれた笛のやう!」及び第四聯の「あかりは消えた どこへやら?」に対して『道造が表面上チャラかしてわざと言っているのだ!』と初読した際に強く感じた

のである。

 この詩は、初読者の中には、総表題「優しき歌 Ⅰ」、中標題のほんわかした「薊の花のすきな子に」に引かれて、夜の詩人の、ちょっとブラッキーを添えつつ、失恋のちょっとしたメンタル・ダウンを諧謔したものだろうと勘違いする者が、いるのではないか? と思っている。

 しかし、そんなもんじゃない!!!

 以下、「Ⅳ 薄明」と「Ⅴ 民謠    ――エリザのために」でこのパートは閉じるが、過ぎ去った失恋の回想を、さりげなくシャレてカッコよく

――この「Ⅲ 窓下樂」では特異的に、ちょいとコミックな演技をさせているかのようなミミックを導入している――

に組み立てただけの、安普請のセットを並べただけの、「しようがないよ⋯⋯」的の終曲では――これ、ない、のである!

 すなわち、

★この「Ⅲ 窓下樂」は――道造の恐ろしいまでの《自身の恋愛の致命的敗北》と――《絶対暗黒の孤独感懐》を巧妙に、コントで塗(まぶ)して「擬態」させたものである

と私は断言するものである。

 

 ここで、最後に、話を変える。

 このところ、私は、複数の私的なプロジェクトに関して、概ね、各種データの正確な収集のために、私の注釈について、時々、GoogleAIと親しくやり取りをやっているのだが、先日、なかなか進まない、この「Ⅲ 窓下樂」の初期分析稿の初っ端を読んで貰い、その評価を乞うたのだが、その返事は、概ね、恥ずかしくなるほどの過褒であった。

 が、そこで、彼が、この『「Ⅲ 窓下樂」の「草稿」』なるものと比較した内容が含まれていた。

 それを見て、正直、息が止まるほど、驚愕した。それは、私が、先に終えた「立原道造草稿詩篇」として、三ヶ月前の四月二日に電子化した一篇「(この闇のなかで⋯⋯)」であったからであった。

 しかし、これは、残念乍ら、物理的に「草稿」ではあり得ないものなのであった。既に述べたが、

☆本「窓下樂」は昭和一一(一九三六)年八月初出である

のに対し、「後記草稿詩篇」の全集の配列では、底本の堀內達夫氏の編註の前後によれば(ここここ)、

「(この闇のなかで⋯⋯)」は昭和一三(一九三八)年九月から十月初め(奇しくも道造が喀血して盛岡へ旅立つ直前から、療養生活へ入る時期に相当する)である

からである。もっとも、この間にある九篇については、堀內氏は、各個に草稿想定年月を記載していない。しかし、「前期草稿詩篇」「後期草稿詩篇」を編集された堀內氏は、原稿用紙の印刷元や紙質、道造が使用したインクの色の違い等を検証して、たった独りでその詩篇群を組み立てられておられるのである。従って、これらが、実は昭和一一(一九三六)年八月以前に書かれた草稿であったという可能性は、まず、あり得ないと断言してよいのである。なお、同「立原道造草稿詩篇」は時系列で電子化注しており、続けて認識しないと、この制作時期は直ぐには判らないので、AIが誤って「Ⅲ 窓下樂」の原作品「窓下樂」の草稿としたことは判らぬではない。

 しかし、以上をAIに伝えたところ、『一筋縄ではいかない立原道造という詩人の内的宇宙において、この「2年の時間差(逆行)」こそが、むしろ病跡学的・表現史的にとてつもない意味を持ってくるのではないでしょうか。』と返事があった。

 私も、実は、今――この草稿詩篇の数篇に対して――非常に強く――『「Ⅲ 窓下樂」の改変草稿ではないか?』と感じたのであった。

 そこで、以下、『対比するに価値あり』と私が判断した角川書店刊「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年刊)の「後期草稿詩篇」の連続した四篇を、まず、示す。

 一つ目は、「立原道造草稿詩篇 僕は おまへに (添え題:「夜の歌」)」(以下、リンク先は総て私の記事)である(但し、そこでは、編者堀內氏の推理に基づいた可能性の状態の全篇を参考に、私が電子化したものを示してあるが、それは省略する。)。

   ※

 

  僕は おまへに

         夜の歌

 

僕は おまへに

何も ねがはなければ

何も 强ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)

そして 拒むことなく おまへを

去らせる 夜のなかへ なほとほく

 

つめたい雨が降つてゐるのを

僕は おまへに をしへよう

おまへが そこで そのやうに

ためらつてゐるのは 何であるかを

僕は とうに 知つてゐるのだ

 

おまへの大きな聲が

犬たちの吠えるのを叱りながら

きこえなくなるときに

やうやく 僕は ひとりになつて

僕の內の言葉に耳をすます

 

 

   ※

 次は「立原道造草稿詩篇  それが どういふことか (添え題:「夜の歌」)」である。

   ※

 

 

  それが どういふことか 

            夜の歌

 

それが どういふことか

僕は とうに 知つてゐるのだ

おろかしいこととも あるひは

ひどいこととも しかし それを

僕は ふせがうとはしない

 

窓の外で 風が 雨をかきみだす

その叫びが 僕の內からのやうに

僕に 語りかける――あれは いま

歩きなやんでゐる

倒れかかるやうに 光のとぼしい道を

步きなやんでゐると

 

ここはしづかだ 花やいだ

灯の下には紫の花が咲いてゐる

 

 

   ※

 次は「立原道造草稿詩篇  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)」である。

   ※

 

 

  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)

 

昨日と今日とがいりまじる

僕のなかの 深い淵に

萎えた僕のにくしみよ

身を投げるがいい 消えるがいい

 

おまへが眠れようが 眠れまいが

僕の知つたことではないのだ

この あはれな 恥も知らない魂よ

出て行くがいい くらい夜のなかへ

 

外に 秋は まだつづいてゐる

靑白くつめたい光が

虫たちをうたはせてゐる

 

だれが ここに 耐へてゐて

明日を待ちわびてゐる?

聞くすべもない 大きな 夜の歌

 

 

   ※

 最後は、「立原道造草稿詩篇  (この闇のなかで⋯⋯)」である。

   ※

 

 

  この闇のなかで

 

この闇のなかで 私に

うたへ と呼びかけるもの

この闇のなかで だれが

うたへ と呼びかけるのか

 

時はしづかだ 私らの

ちひさいささやきに耐へぬほど

時はみちてゐる 私らの

ひとつの聲で 溢れ出るほど

 

とほい涯のやうに闇が

私らを拒んでゐる つめたく

身體は 彫像のやうだ

 

しかし すでに この闇の底に

信じられない光が 信じられる

私らの聲を それは 待つてゐる!

 

 

   ※

 さて。この四篇は、前の二篇が、添え題として「夜の歌」を持ち、第三篇の最終第四聯の最終行が『聞くすべもない 大きな 夜の歌』で終わっている点で、同一の詩想下で、連続して創作された確信犯の――「夜の歌」群――であることは、誰も異義を挟まないであろう。

 而して、第四篇であるが、表題を「この闇のなかで」としてロケーションが「闇」で統一されている。第二聯を除いて「闇」が現前されている。第二聯はソネットとして、必然的変化を与えるために、「闇」を字背に暗示させるように、取り立ての係助詞「は」を使って――「時はしづかだ」「時はみちてゐる」――という「時」のみを用いたものであろう。しかし、この部分、単なる詩作上のレトリック(修辞学)ではない。

 これは、ただの「夜」の「闇」ではないのだ。

 作者だけに理解されている「闇」の中の「時」なのである。

 それは、永劫続く蒼褪めた物理的時間の「時」ではないのだ。

 作者だけに理解される固有の心理的な――「現存在」としての「時」――なのである。

 結果して、第二聯は

――私だけに理解される独自の「時」空間の――その彼の孤独な「闇」空間が――背後に読者に、何とかして、伝わって貰えるようにと、操作したもの――

と私は推理する。

 されば、この第四篇は、前の三篇の「闇の歌」群の「コーダ」に相当する終篇として私は〈聴く〉のである。

 そして、読者は、もう、お判りになるだろう。「優しき歌 Ⅰ  薊の花のすきな子に Ⅲ 窓下樂」が、殆んど、「夜」の「闇」の中のロケーションであることで、直に、この全四篇から成る「夜の歌」群と強い親和性を持っているのである。

 先走って、この道造としては、特異点である異様に徹底的にブラッキーな「夜の歌」群に私が感じた解釈を述べてしまった。以下、順に見てゆこう。

   *

 

  僕は おまへに

        夜の歌

 

僕は おまへに

何も ねがはなければ

何も 强ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)

そして 拒むことなく おまへを

去らせる 夜のなかへ なほとほく

 

つめたい雨が降つてゐるのを

僕は おまへに をしへよう

おまへが そこで そのやうに

ためらつてゐるのは 何であるかを

僕は とうに 知つてゐるのだ

 

おまへの大きな聲が

犬たちの吠えるのを叱りながら

きこえなくなるときに

やうやく 僕は ひとりになつて

僕の內の言葉に耳をすます

 

   *

 この第一詩篇には、見慣れた道造の持ち味であるロマンティクな雰囲気は、微塵もない。以下の四篇まで、それは、少なくとも第三篇まで、孤独な独白として対象者を突き放した状態で続いているのだ。第四篇のみ、第二聯以降の三聯には、「私ら」という対象者を含んだ表現に、唐突に(吃驚するほど、である)変容し、そこには、「私ら」の希望のように見える形で終わっている。これは、前の三篇の「闇」に塗り固めたそれに、私たちの知っている、彼の魅力と信じている優しさで、予感が響いては、いるように、一見、見える。それは、そこで検証するが、しかし、どうにも、その「闇」に苦しくなってしまった詩人道造が、やらかしてしまった「附けたし」のようにしか、私には、見えないのである。

 基(もとい)! この一篇で、道造は、愛する女たちに、敢然と、己れの最終宣告を言い放つのだ。

――「僕は」最早「おまへに」「何も」「ねがは」ない――「何も」「强ひ」ることも「しない」――いや、私が、そう言う前から、「おまへはふたたびかへらないだらう」ことを知っているのだ――「そして」全く「拒むことなく」「おまへを」「去らせ」せてやる――「夜のなかへ」「なほとほく」へだ――いや、途轍もない「つめたい雨が」既に「降つて」しまって「ゐるのを」、「僕は」何も判ってはいない「おまへに」冷徹に「をしへよう」――「おまへが」「そこで」「そのやうに」「ためらつてゐる」ような様子を、私に見せている「のは」、実際には、「何であるかを」、「僕は」まるで理解してないおまえとは違って「とうに」最早「知つてゐるのだ」――僕は思い出すのだ――「おまへの大きな聲が」「犬たちの吠えるのを叱りながら」「きこえなくなる」あの、ひと「とき」の情景の中「に」だ――そうして「やうやく」「僕は」「ひとりになつて」――「僕の內の言葉に」のみ「耳をすます」ことにする――

 

   *

 

  それが どういふことか

            夜の歌

 

それが どういふことか

僕は とうに 知つてゐるのだ

おろかしいこととも あるひは

ひどいこととも しかし それを

僕は ふせがうとはしない

 

窓の外で 風が 雨をかきみだす

その叫びが 僕の內からのやうに

僕に 語りかける――あれは いま

歩きなやんでゐる

倒れかかるやうに 光のとぼしい道を

步きなやんでゐると

 

ここはしづかだ 花やいだ

灯の下には紫の花が咲いてゐる

 

   *

 これは、もう、完全な――己れの最終宣告の「夜の歌」続篇――である。

――「それが どういふことか」なんてことは「僕は」「とう」の昔「に」「知つてゐるのだ」――僕と、お前の、「おろかしいこととも」「あるひは」「ひどいこととも」「しかし」「それを」「僕は」全く以って「ふせがう」(=防禦しよう)「とはしない」のだ――「窓の外で」「風が」「雨をかきみだす」――「その叫びが」「僕の內からのやうに」直(ちょく)に「僕に」「語りかける」のだ「――」「あれ」(=彼=道造)「は」「いま」「歩きなやんでゐる」のだ、と――「倒れかかるやうに」「光のとぼしい道を」「步きなやんでゐる」のだ――「と」僕に語りかけるのだ――「ここはしづかだ」――「花やいだ」「灯の下には紫の花が咲いてゐる」――僕は僕だけで十全に生きているのだ――

   *

 

  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)

 

昨日と今日とがいりまじる

僕のなかの 深い淵に

萎えた僕のにくしみよ

身を投げるがいい 消えるがいい

 

おまへが眠れようが 眠れまいが

僕の知つたことではないのだ

この あはれな 恥も知らない魂よ

出て行くがいい くらい夜のなかへ

 

外に 秋は まだつづいてゐる

靑白くつめたい光が

虫たちをうたはせてゐる

 

だれが ここに 耐へてゐて

明日を待ちわびてゐる?

聞くすべもない 大きな 夜の歌

 

   *

 ここで道造は、さらに宣告に重要な――孤高の精神性へのメタモルフォーゼ――を加えてゆく。

――「昨日と今日とが」――即ち、物理的な直線上の立ち戻りしないはずの「昨日」と「今日」(「きのふ けふ」と読んでおく)が――絶対的であるはずの蒼褪めた無限遠の時空間が――変容を始めて「いりまじる」=「昨日」「今日」という区別が消失し、一つの永遠の複合体へと変容してしまったのだ――「僕のなかの」「深い淵に」――「萎」(な)「えた僕のにくしみよ」――今こそ「身を投げるがいい」「消えるがいい」――それが今の僕には瞬時に出来るんだ――が愛した「おまへ」たち「が眠れようが」「眠れまいが」、そんなことは――今や、「僕の知つたことではないのだ」よ――――「この」「あはれな」「恥も知らない魂よ」[これは、「この」と言う指示語から、表現上では、変容する前の「僕」=道造自身の魂を指していようが――それは末尾の「出て行くがいい」「くらい夜のなかへ」以下最後までの叙述で限定は出来る――しかし、考えてみれば、この決定的な時空間変容の中では、彼我(ひが)の違いも無化されるからして、「僕」と「おまへ」たちの区別もあり得ないのであるから、愛した女たち総体も含まれると読むべきであろう。]――「出て行くがいい」「くらい夜のなかへ」――「外に」「秋は」「まだつづいてゐる」「靑白くつめたい光が」「虫たちをうたはせてゐる」――いや、それはこの変容の中では、至極、当然なのだ――しかし、それは――私独りだけに判る感覚なのだ――いや! 一体、「だれが」「ここ」(=変容した特異な「僕」の時空間)「に」「耐へてゐて」、一体、誰が「明日を待ちわびてゐる?」――そんなことは、以外には――絶対に――感官することは不可能なのだ!――まさに「聞くすべもない」「大きな」「夜の歌」なのだ!!!

 この最後の「聞くすべもない」を解析するとなら、これは、文字通りの意味ではなく、

★変容した「僕」にとっては、それを「聞く」(=説明する)ための「すべ」(=くだらない「手段・行為」)を必要「もない」

の謂いであろう。即ち、「僕にとっては何らの判らないところのない当然のこと」の意だろう。謂い添えておくと、

★「僕」以外の存在とは――「愛した女たち」だけでなく――「この詩を読んでいる読者たち」さえも――理解不能なことだ――「僕」は言っているのだと私は思うのである。

 

   *

 

  この闇のなかで

 

この闇のなかで 私に

うたへ と呼びかけるもの

この闇のなかで だれが

うたへ と呼びかけるのか

 

時はしづかだ 私らの

ちひさいささやきに耐へぬほど

時はみちてゐる 私らの

ひとつの聲で 溢れ出るほど

 

とほい涯のやうに闇が

私らを拒んでゐる つめたく

身體は 彫像のやうだ

 

しかし すでに この闇の底に

信じられない光が 信じられる

私らの聲を それは 待つてゐる!

 

   *

 最終篇である。既に冒頭で指摘してしまったが、この篇は、明らかに、前の三篇のダークな突き放した折角の異様にダークにして強烈な哲学的認識が、私たちよく知っている道造の優しい希望を含んだ「闇の底に」「信じられない光が 信じられる」「私らの聲を それは 待つてゐる!」と全体が完全なフランスで言う「直説法現在」であり、今まで解説してきた「半過去」「複合過去」でさえない。されば、『前三篇の「夜の歌」群と外してしまって、分析した方がいいのではないか?』と思われる人が多いかも知れぬが、草稿篇の並びから物理的に、これだけが別個の草稿であるとは採れない以上、掲げておいた。

 思うに、道造には、前の三篇が、今まで過去に詠じてきたものと、激しく違ったものとなったことから、この一篇を書いて、永遠に「闇」に屹立してしまった自分を救助する必要があったものと推定される。

 しかし、この最終篇は、如何にも前の三篇を穢(けが)すものとしか採れない(私は私自身がそう強く感じる)。それは、一つのソリッドな「夜の歌」として、この第四篇でアウトである。それは、道造自身こそが、痛烈に感じたのである。さればこそ、この「夜の歌」は、お蔵入りとなったと考えられる。

 さて、私は、

★これらの「夜の歌」群は、後に「優しき歌 Ⅰ」を構想し出した以降、「薊の花のすきな子に Ⅲ 窓下樂」に相当する一篇(或いは複数篇)を、新たにしっくりくるものを道造は探しつつ、どうも見たらないので、新たに試作しようとしたのではなかったか?

と考えるものである。その可能性は十分にある。というより、そもそもが、私自身が強烈に違和感を感ずるところの、

既存の作詩だけで、ロケーションも、詠じた動機も、内容の登場人物や季節や自然が異なり、どれもがバラバラの感覚で詠じた、全然、異なったものを寄せ集めて、「優しき歌 Ⅰ」という題名で、十二篇のセット、しかも、その中を四パートに分割するというのは、所詮、無理な話

なのである! 私の、この分析は、

★そうした「優しき歌 Ⅰ」を批判する目的を主としている

と言ってもよいのである。

 

 

 

   §   §   §

 

 

 

  Ⅳ 薄明

 

音樂がよくきこえる

だれも聞いてゐないのに

ちひさなフーガが 花のあひだを

草の葉のあひだを 染めてながれる

 

窓をひらいて 窓にもたれればいい

土の上に影があるのを 眺めればいい

ああ 何もかも美しい! 私の身體の

外に 私を圍んで暖く香(かほり)よくにほふひと

 

私は ささやく おまへにまた一度

――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ

うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ! 

 

やまない音樂のなかなのに

小鳥も果實(このみ)も高い空で眠り就き

影は長く 消えてしまふ――そして 別れる

 

 

 第二聯第四行のルビ「かほり」はママである。既に述べた通り、底本全集の横断検索でも、詩集・物語・雜纂に、この表記が散見されることから、道造の慣用誤記であることが判明している。初出は『文藝汎論」第六十六号昭和一二(一九三七)年二月号(二月一日刊)である。直前の「Ⅲ 窓下樂」は昭和一一(一九三六)年八月号(八月一日刊)であるから、七ヶ月後である。

 而して、この間、道造には、外的な大きな変化が起こっている。即ち、昭和十二年四月一日、石本建築事務所に初出勤しているのである。底本全集の年譜を見ると、『石本所長に愛され』、同僚の友人武基雄(後に多くの優れた建築作品を残した)も出来たが、翌日二日に書いた神保光太郞宛書簡(ここの「二八二」)に、『出發は決して祝福されてゐませんでした 貧しく みすぼらしく こともなげでした これをしも 祝福と今は僕は呼ばねばならないのせうか』と述懐しており、年譜には『繁華街でのオフィス勤めは、さすがに索漠として苦痛だったらしい』とある。

 一方で、七月一日には、三月以来、掲載が遅延していた物語「鮎の歌」が『文藝』七月号に発表され、四日頃には、処女詩集「萱草に寄す」が、やっと刊行されており(年譜のここ)、詩人としての自信を新たにしてもいた。本詩が発表された八月には、彼は『土曜日午後に上野を立って追分に行き、月曜の朝帰京して事務所に出るというようなことが以後しばしばくり返された』とある。八月二十九日(日曜日)軽井沢発信の武基雄宛の最後には『何の悔いもよろこびもなく、これが休らひといふのだろか。』と記している(ここの「413」)。

 本「薄明」が書かれた前後、こうした社会人と詩人の挟間で、道造は苦悶していたのである。そうした事実・心的相克を以って、この詩を読み直す必要があるのである。

 

 しかも、それは、既にして、第一聯に出現しているではないか!

 「フーガ」である!

 コントラプンクト(ドイツ語:Kontrapunkt:対位法)を主体とした楽曲形式フーガ(イタリア語:fuga:遁走曲・追走曲)が聴こえる――それは――まさに、この時の道造の抱えていたアンビバレンツ(ドイツ語:Ambivalenz:愛憎併存)を音楽なのである!

 それは、また――この時期以前に道造が経験してきた複数の女性に対する恋慕と破恋の繰り返し――をも、直ちに想起させるではないか!

 

 「だれも聞いてゐないのに」「よくきこえる」「ちひさなフーガ」は、道造の心の中の、対象者たちも、自分自身も、どうしようも出来ない絡みに絡んだ竹の根の如き、不可塑性のアンビバレンツの「音樂」である。

 それは薊の「花のあひだを」、「草の葉の」薊の「あひだを」、「染めてながれる」「フーガ」なのである。

 彼は心限りに求める――ただ「窓をひらいて 窓にもたれればいい」と――「土の上に影があるのを」ただ「眺めればいい」――ただそれだけで、「ああ 何もかも美しい!」と感じているのである――如何なる他者も――誰もが――「私の身體の」「外に」「私を圍んで暖く香(かほり)よくにほふひと」であれかし! と――一緒になって! 謳歌しようとする⋯⋯

 そうして「私は ささやく おまへにまた一度」「――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ」!――「うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ!」と――高らかにともに叫ぼうとする⋯⋯

 しかし⋯⋯「やまない音樂のなかなのに」⋯⋯「小鳥も果實(このみ)も高い空で眠り就き」⋯⋯「影は長く 消えてしまふ」のだ!――誰も彼も!⋯⋯「――そして 別れる」⋯⋯⋯⋯と、凄絶なコーダで終わっている。

 

 私は、少なくとも、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」の中で、この「Ⅳ 薄明」は、最もブルージィであり、「救い」を諦めた孤高に屹立している一篇として特異点である、と考えている。

 

 

 

   §   §   §

 

 

 

  Ⅴ 民謠

         ――エリザのために

 

絃(いと)は張られてゐるが もう

誰もがそれから調べを引き出さない

指を觸れると 老いたかなしみが

しづかに歸つて來た⋯⋯小さな歌の器(うつは)

 

或る日 甘い歌がやどつたその思ひ出に

人はときをりこれを手にとりあげる

弓が誘ふかろい響――それは奏でた

(おお ながいとほいながれるとき)

 

――昔(むかし)野(ばら)が咲いてゐた

野鳩が啼いてゐた⋯⋯あの頃⋯⋯

さうしてその歌が人の心にやすむと

 

時あつて やさしい調べが眼をさます

指を組みあはす 古びた唄のなかに

――水車よ 小川よ おまへは美しかつた

 

 

 既に単発テクストで述べた通り、昭和一〇(一九三五)年十月十四日号『帝國大學新聞』初出で、さらに、編註に拠れば、『初出は殆んどルビ付であるが、本編は山本書店版第一巻のルビのみを採用した』とある。これには、納得がゆく。当時の新聞類――但し、本公開は大学発行の新聞であるから、全く同列に並べてよいかどうかは、微妙ではあるけれど――では、概ね、発行先の記者が勝手にルビを振るのが、当たり前であったので(例えば、私のカテゴリ『夏目漱石「こゝろ」』で行なった「『東京朝日新聞』」の『夏目漱石作「心」』の掲載日をシンクロさせたものを見られたい。そこで、漱石は、勝手に誤ったルビを振ることに怒り心頭に発している箇所が、複数回、出てくるのである)旧全集の当該部(国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一六(一九四一)年版のここ)のルビのみとしたのは至当であると言える。そもそも、道造は、一詩篇を全ルビすることは、ソネット形式に拘って後は、まず、そんな視覚的に五月蠅いルビを、全漢字に附すなどということは、逆立ちしても、あり得ないからである。

 さて、既に電子化した草稿詩『夏の旅』(ここ)には、添え題に『エリザの記念に』とある。これは、後に「SONATINE No.1」冒頭の「はじめてのものに」(これは私の古い電子化注で、底本が旧全集であることから、表記(リーダ数)に問題がある。それを修正していないことは、追加注で述べておいた)に結実するのであるが、そこで、諸氏の注を示した通り、道造が偏愛したドイツの抒情詩人テオドール・シュトルム作の小説「みずうみ」の女主人公であると、ほぼ断定されては、いる。

 しかし、前の「Ⅳ 薄明」の制作は昭和一二(一九三七)年二月一日発表であるのに対し、

★本篇は、それより――凡そ一年三ヶ月も前の詩篇――

なのである。即ち、この詩篇は「Ⅳ 薄明」よりも、ずっと前の感懐を詠んでいるのであり、読者の誰もが考える――道造が愛した実在の複数の女性たちの影を――否(いや)が応(おう)にも――想起せざる能わざる事態を惹起するのである。

 しかも、新全集の年譜の昭和十年の九月のパートを見ると(ここの左丁の九行目以降)、道造より二歳下の松竹少女歌劇団に所属して芸名を「北麗子」と名乗っていた今井春枝と、道造が邂逅し、道造が――実際に震えるほど――強く惹かれていることが、明らかに語られているのである。

 無論、再三述べた通り、私は、各個詩篇に登場する道造が愛した女性たちを、それぞれ特定することに興味を全く所持していないし、それを詮索する研究者の論文を読もうとは、殆んど、思わない人種なのである。しかし、私の読者の中には、『そこを無視して通らずに分析するというのは手抜きだろう。』と指弾する方もいることは、重々、理解してはいる。

 個人的には、敢えて、そう、もの言いされる方には、私が、道造が愛した女性たちを示して、しかも、フラットな形で提示されておられる、サイト「杉篁庵」主の「山小屋 ぱれっと 北軽井沢」の、「立原道造詩集」の中の「立原道造の生涯Ⅱ ―ゆうすげびとの抒情― 詩人の出発(帝大時代・卒業論文提出まで)」の中の、「十四行詩形の獲得」のパートを強くお薦めするものである。特に、どうしても、ご紹介したい箇所を引用させて戴く。

   《引用開始》

道造がエリザベートとか鮎子とかの名で呼んだ女性たちとのめぐり合いもこの追分でのことであった。全集年譜は「エリザヘエトはたまたま追分を訪れた柴岡の遠縁にあたるひと」「鮎子はおいわけの或る由緒ある宿屋の娘さんで、東京の学校から夏休みで帰ってきていた。」とある。(エリザヘエトは別荘の少女、横田ケイ子。「あの人はそのまま黄色なゆふすげの花となり」と歌った黄色い帯の少女は関鮎子。秋に恋心を抱いた少女は今井春枝という)。

 九月下旬、追分を去る頃このエリザベートとのめぐり合いをうたって「はじめてのものに」という十四行詩を書いた。これは「四季」十二号(十一月号)に発表され、やがて、これが詩集「萓草に寄す」の冒頭の詩となる。

   《引用終了》

この方の述べ方に、私が強い共感を感じるのは、私が考えている、

   *

――道造は、確かに、具体的な個々人の女性たちを、愛した。そして、実際の各個詩篇が、当初、詠まれた際には、それが特定の個人であったに相違ない。しかし、それらの感情は、後に総てが融合し、「賢者の石」(ラテン語: lapis philosophorum:ラピス・フィロソポルム)へと変成したのだ。――

   *

という認識と通底する、と思うからである。

 

 実は、特異的に、この「Ⅴ 民謠」についての分析は、凡そ一ヶ月の間、考えつつ、なかなか書けなかった。別な大きな仕事が後半に生じ、そちらにリキを入れてしまったためでもあるが、何より

――また⋯⋯「複合過去」べったりの「独り」の詩か⋯⋯――

というところが、少々、ガックりきたからである。ともかくも、以上で、「Ⅴ 民謠」の分析は終わる。後に、追記をするかも知れない。

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 山草類 上卷・萎蕤

 

Izui

 

[やぶちゃん注:上部の図に「倭」(日本産)、右下の図に引用書名「救荒本草」、左下の図に引用書名「三才圖會」とある。]

 

いずい  葳甤 萎䔟

     女萎 萎香

萎蕤  委萎  熒【音行】

     玉竹 地節

    【和名惠美久佐

     一云阿末奈】

 

本綱萎甤山中有之莖幹強直似竹箭簳有節其葉如竹

兩兩相値表白裏青三月開青花結圓實其根橫行似黃

精差小黃白色性柔多鬚最難燥嫩葉及根可煮淘食

氣味【甘平】 能升能降陽中陰也補中益氣止消渴潤心

 肺補五勞七傷虛損腰脚疼痛目痛眥爛淚出

 黃精萎甤二物功用大抵相近而萎甤之功更勝則二

 物雖通用亦可

△按萎甤河州金剛山之産良其莖帶紫色葉似竹而厚

 窄不對生而向上花如風鈴狀白色本末帶青結子

 

   *

 

いずい  葳甤《いずい》 萎䔟《いい》

     女萎《ぢよい》 萎香《いかう》

萎蕤  委萎《いい》  熒《けい》【音「行《カウ》」。】

     玉竹《ぎよくちく》 地節《ぢせつ》

    【和名、「惠美久佐《ゑみぐさ》」

     一《いつ》に云《い》ふ、「阿末奈《あまな》」。】

 

「本綱」に曰はく、『萎甤、山中に、之《これ》、有り。莖幹《けいかん/くき》、強直《がうちやく》にして、竹--簳《たけやがら》に似て、節《ふし》、有り。其≪の≫葉≪も≫、竹のごとし。兩兩《りやうりやう》[やぶちゃん注:二つずつ]、相《あひ》値《あた》ふ[やぶちゃん注:「二つずつ、向かい合っている。」の意。]。表《おもて》、白く、裏《うら》、青《あを》し。三月、青≪き≫花を開き、圓《まろ》き實《み》を結ぶ。其≪の≫根《ね》、橫行《わうかう》し、黃精《わうせい》に似て、差《や》や、小《ちいさ》く、黃白色《わうはくしよく》。性《せい》、柔《やはら》≪かにして≫鬚《ひげ》、多し。最《もつとも》、燥《かは》き難《がた》し。嫩葉《わかば》、及《および》、根《ね》、煮《に》≪て≫淘《すす》≪ぎ≫、食《く》≪ふ≫べし。』≪と≫。

『氣味【甘平】』『能《よく》、升《あが》り、能《よく》、降《くだ》≪る≫。陽中《やうちゆう》の陰《いん》なり。中《ちゆう》[やぶちゃん注:漢方で言う「脾胃」。]を補≪ひ≫、氣を益《えき》し、消渴《しやうけつ》[やぶちゃん注:口が渇き、小便が近い症状。糖尿病のこと。]を止《と》め、心肺を潤《うるほ》し、五勞七傷《ごらうしちしやう》、虛損、腰《こし》≪や≫脚《あし》≪の≫疼痛《とうつう》、目≪の≫痛《いた》≪み≫、眥《まなじり》≪の≫爛《ただれ》て淚《なみだ》≪の≫出《いづる》を補《ほ》す。』≪と≫。

『黃精《わうせい》・萎甤《いずい》≪の≫二物《にぶつ》の功用《こうよう》、大抵《たいてい》、相近《あひちかく》して、「萎甤の功、更《さら》に勝《まさ》≪れ≫り。」と云《いふ》時は[やぶちゃん注:「云」「時」は訓点にある。]、則《すなはち》、二物、通用《つうよう》すと雖《いへども》、亦《また》、可《か》なり。』≪と≫。

△按ずるに、萎甤、河州《かしう》[やぶちゃん注:河内の国。]、金剛山《こんがうさん/こんがうざん》の産、良し。其《その》莖《くき》、紫色《むらさきいろ》を帶≪び≫、葉、竹に似て、厚く窄(くぼ)く、對生《たいせい》せずして、上に向《むき》、花、風鈴《ふうりん》の狀《かたち》≪の≫ごとく、白色《はくしよく》にして、本《もと》≪と≫末《すゑ/さき》に、青(あを)みを帶《おび》、子《み》を結《むす》≪ぶ≫。

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、

単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科アマドコロ(甘野老)連アマドコロ属アマドコロ変種アマドコロPolygonatum odoratum var. pluriflorum

であり、変種に、

ヤマアマドコロ Polygonatum odoratum var. thunbergi

オオアマドコロ Polygonatum odoratum var. maximowiczii

がある。「維基百科」の同種では、「玉竹」とあり、別名として『萎蕤、尾参、地管子、铃铛菜』を挙げてある。そこでは、

玉竹 Polygonatum odoratum

とあるが、冒頭のアマドコロの広義のシノニムである。以下の二つの変種も、広義では、アマドコロに含まれる。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした。太字は私が附した。)、『日当たりのよい山野に生え、草丈50センチメートル前後で、長楕円形の葉を左右に互生する。春に、葉の付け根から』、壺『形の白い花を垂れ下げて咲かせる。食用や薬用にもなる』。『和名アマドコロは、根茎の見た目が』、『ヤマノイモ科』Dioscoreaceae『の』一群の『トコロ』類(ヤマノイモ属 Dioscorea )『に似ており、甘みがあることが由来になっている。「トコロ」の語源については』、『よくわかっていないが、ヤマノイモの仲間のオニドコロ』(鬼野老:Dioscorea tokoro:「トコロ」と言った場合に、しばしば、この種を指す場合がある。)『やハシリドコロ』(走野老:Scopolia japonica:有毒)『のように、多肉の地下茎をもつ植物を指す名に使われている』。『別名で、ジョウシュウアマドコロともよばれる。地方により、キツネノチョウチン、アマナ(甘菜)、イズイ、エミグサ、カラスユリ、キツネノマクラ、チョウチンバナ、ナルコ、ヘビスズラン、ヘビユリなどともよばれている。中国植物名は玉竹(ぎょくちく)』。『花言葉は、「元気を出して」「心の痛みがわかる人」である』。『ヨーロッパ・東アジアに分布する。日本では、北海道、本州、四国、九州にかけて分布する。原野、丘陵、山麓、尾根筋などに群生して見られ、日当たりのよい山野などの草原や、林縁、落葉樹の木陰などに自生する』。『栽培されることも多く、庭先や鉢植えなどで葉に斑入りの園芸種を見かける。栽培では、夏季は冷涼なところを好むことから、腐葉土で水はけをよくして半日陰の場所で育て、秋に根分けさせる』。『多年草。地下には横走する多肉質の地下茎があり、浅く横に長く這い、伸びた先に花茎を立てる。地下茎(根茎)は円柱形でところどころには節があり、節間は長く細いひげ根が生える』。『草丈は30 - 80センチメートルで、変種のオオアマドコロでは草丈1メートル、茎径1センチメートルにもなる。茎は地下茎の先端から毎年1本、毛筆を逆さにしたような芽を出して、少し斜めに立ち、4 - 6本の稜角(縦筋)があり、触ると』、『少し』、『角張った感じがする。少し』、『紫褐色を帯びるものもある。茎から枝を出すことはない。葉は互生し、葉身は』笹(単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科に属する植物の中で、その茎に当たる「稈(かん)」を包んでいる葉鞘が枯れる時まで残るものの総称)『に似た楕円形から幅広い長楕円形で』、『両端が』、『やや尖り、普通の緑のものと』、『斑入』(ふい)『りの園芸種がある』。『花期は春から初夏(4 - 5月)ころ。各葉の付け根から1 - 2個の細い花柄を伸ばして、細長いつぼ型(鐘形)をした白色から』、『緑白色の花を垂れ下げてつける。花は長さは2センチメートル (cm) 6花被片が合体した筒状形で、合弁と花被の先に緑色の点がある』。『果実は液果で、径1センチメートルほどの球形をしていて、花と同様に茎に下向きに垂れ下がる。果実の色は、夏から秋に暗緑色から青黒く熟す。種子は、楕円形や卵球形で』、『大きめの』臍(へそ)『が目立ち、色は茶褐色をしている。種子は低温にあたることで休眠状態が打破されるため、一冬越すと翌春に芽生える。さらに、もう一冬を越さなければ、地上で葉を開いて生長することができない』。『初夏に花を下垂させて美しいことから、庭に植えて観賞用に栽培される。班入り葉の園芸種も作出されている。地方によってオオアマドコロやヤマアマドコロなど』、『さまざまな種類があり、若い茎葉や花は食用に、根茎は食用と薬用に利用される。なめらかな舌触りと、特有の甘味がある美味しい山菜として知られている』。『若芽、花、地下茎が食用になる。春の若芽や地下茎には甘みがあり、山菜として食用にされる。若芽は、筆の先のように膨らんでいるものを利用する。根茎は栄養価が高く、昔は凶作時の救荒食物として利用された』。『若芽の採取時期は、暖地で』三~五『月ごろ、寒冷地で』四~五『月が適期とされる。主に10センチメートルほどに伸びた若芽を地中部の白い部分から採取するか、10 - 20センチメートルほど伸びた芽を地上部で摘み取り、そのまま天ぷらにしたり、茹でてマヨネーズをつけて食べたり、和え物、おひたし、煮物、炒め物、汁の実などにする。花は初夏に摘み取って、軽く茹でて酢の物に利用したり、寒天寄せや花酒にもできる。若芽や花は灰汁が少なく、下ごしらえに軽く茹でて』、『冷水に冷やして使い、塩漬け、ぬか漬けにして保存できる』。『根茎は』、『一年中』、『利用できるが、特に晩秋(10月ごろ)が旬とされ、太った根を掘り取って』、『ひげ根を取り除き、砂糖と醤油で甘く煮て食べたり、天ぷらやフライにすると美味とされる。また、根を刻んで』、『天日で干してアマドコロ酒をつくる』。以下、「薬用」の項。『薬用部位となる根茎には配糖体のコンバラリン、粘液質のマンノースなどを含んでいる。マンノースには、胃や腸の粘膜を保護する作用や消炎作用があるほか、分解して体に吸収されると滋養になるといわれ』、「本草綱目」『でも滋養強壮、消炎薬として紹介されている』。『漢方では滋養強壮剤であるが、伝統的な漢方方剤では』、『あまり使われず、日本薬局方にも収録されていないが、かつては民間薬として利用された。地上部の茎葉が黄変して枯れはじめる10 - 11月ごろに地下茎を掘り上げて、ヒゲ根や茎を取り除いて水洗いし、きざんで』、『天日乾燥させたものを萎蕤(いずい)、漢方では玉竹(ぎょくちく)ともいう生薬である。かつて滋養強壮に用いられていたが、現在では』、『あまり使われていない。咳や疲労倦怠にも効果があるとされ、1日量5 - 10グラムを600 ㏄で30分ほど半量になるまで煎じ、3回に分けて服用される。また、根茎を漬けた薬用酒も作られる』。『打ち身、捻挫の薬として用いられることもあり、生の根茎をすり下ろしたものや、粉末または絞り汁は』、『食酢と小麦粉を加えて練り合わせて』、『ペースト状にしたものをガーゼや布に伸ばして、湿布として利用』する。『若い芽生えの時期に似ている植物に、ナルコユリ(キジカクシ科)、オオナルコユリ(同)、ユキザサ(同)、ホウチャクソウ(宝鐸草:単子葉植物綱ユリ目イヌサフラン科チゴユリ属ホウチャクソウ変品種ホウチャクソウ Disporum sessile f. var. sessile 『などがある』。『同属のナルコユリ』(鳴子百合: Polygonatum falcatum )『とよく似ているが、ナルコユリは』、『花のつけ根に緑色の突起があるのに対し、アマドコロでは花と花柄のつなぎ目が突起状にならないことで区別がつく。また、ナルコユリの茎は円柱形であるが、アマドコロの茎では角張っている。花の数は多く、ナルコユリの』方『は3個以上ずつ付くが、アマドコロは1 - 2個ずつ付けて垂れ下がる』。『ナルコユリやユキザサはアマドコロと同じように食べることができ、茎に陵がなく、草丈が60 - 100センチメートルになる点で区別できる』。『ホウチャクソウは若芽に有毒成分を含んでいる有毒植物である』当該ウィキに拠れば『全草有毒といわれているが、成分などは明らかにはなって』おらず、『若芽にアルカロイド成分を含む』とあった)。『若芽の見た目はアマドコロに似ているが、ホウチャクソウの根は毛根で、アマドコロには太い地下茎があるので区別できる。食用にはならず、地下茎がないこと、芽生えの葉の先に蕾が包まれていること、茎は枝を打つことなどの外見上の違いを見ることができる。また、ホウチャクソウは摘んだときに悪臭があるので、摘んだ時に臭いを確かめるのも大事だと言われている』とある。

☆ここで、冒頭の図のキャプションに就いて、注しておく。「救荒本草」は、明の太祖の第五子周定王朱橚(しゅしゅく 一三六一年~一四二五年)の撰になる本草書。飢饉の際の救荒食物として利用出来る植物を解説している。全二巻、一四〇六年刊で、収載品目は四百余種に及び、その形態を文章と図で示し、簡単な料理法を記しているが、画期的なのは、その総てを実際に園圃に植えて育て、実地に観察して描いている点である。植物図は他の本草書に比べても遙かに正確であり、明代に利用されていた薬草の実態を知る上で重要な文献とされる。「漢籍リポジトリ」の同書の「卷三」の「草部」の「葉可食【新增四十二種】 根可食【本草原有九種新増十五種】」の「萎蕤」(ガイド・ナンバー[003-43b])を転写しておく。

    *

萎蕤  本草一名女萎一名熒一名地節一名玉竹一名馬薰生太山山谷及舒州滁州均州今南陽府馬鞍山亦有苗高一二尺莖斑葉似竹葉濶短而肥厚葉尖處有黄㸃又似百合葉却頗窄小葉下結青子如椒粒大其根似黄精而小異節上有鬚味甘性平無毒

 救飢採根換水煮極熟食之

 治病文具本草草部條下

    *

さらに、一六三九年に出版された徐光啓の「農政全書」の「荒政」の部分は、実は「救荒本草」に徐光啓の附語を加筆したものである。この書は、私は、ブログ・カテゴリ『「大和本草」の水族の部』で親しんだ優れた書物で、享保元(一七一六)年版の訓点附きが、国立国会図書館デジタルコレクションで全巻視認出来る。なんと言っても、絵が素晴らしいのである。そこで、そこの部分(ここと、ここ)も、大盤振る舞いで、トリミングして以下に示す。修正はサイズ縮小以外は行っていない。十分、判読出来る。良安が選んだのは、右側の伸び上がった方の図を基にしている。

   *

 

Syuuhon1

 

Syuuhon2

 

   

「三才圖會」書誌説明は、いらんだろう。東京大学の「三才圖會データベース」(清刊本・槐蔭草堂藏板のもの。メイン・ページ「明代の図像資料」に同データベースにリンクがある)の「萎蕤」図説をダウンロードしたものをトリミングして(二図・図と解説。やや汚損があるので、図だけは軽く清拭した)、以下に示す。良安が選んだのは、左下の右の図である。

    *

 

Zui1

 

Izui2

 

    *

「竹--簳《たけやがら》」竹で出来た簳(やがら)。矢の幹(みき)を指し、鏃(やじり)と矢羽根を除いた部分。普通は雌竹(めだけ:単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科メダケ属メダケ Pleioblastus Simonii )で作る。「篦(の)」・「矢篦(やの)」とも言う。同種は多年生常緑笹(ささ)であるが、葉(枝)が上部にしか出来ないこと、「芽溝(がこう)」と呼ばれる棹の窪みが、浅くて、太さが一定であることに拠る。

「黃精《わうせい》」前の「黃精」を見よ。

「五勞七傷」前の「黃精」で既注だが、再掲すると、東洋文庫後注に、『心労・肝労・脾勞・肺労・腎勞など、五臟のつかれによって、陰寒・陽萎・裏急・精漏・精少・精清・小便頻数などの症狀のでること。』とある。

「金剛山」同前だが、再掲する。奈良県御所市(ごせし)と大阪府南河内郡千早赤阪村(ちはやあかさかむら)との境目にある山。ここ(グーグル・マップ)。]

2026/08/11

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その8) 乾きびなご

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

      乾《ほし》きびなご

「きびなご」は、九州にて、俗に「𩸕(きびなご)」の字を用ふ。「大和本艸」に『「きびなご」は海魚なり。海鰛(いわし)に似て、同類なり。長さ三寸餘、四、五寸に滿たず。口は、海鰛より小さく、身は、少し、厚し。兩傍(りやうはう)に銀色の筋(すじ[やぶちゃん注:ママ。])あり。』とす。又、「水族志」に『「きびなご」ハ、海磯(うみいそ)の間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])に群(むれ)をなす。夏月(かげつ)、多し。』とあり。「海魚考《かいぎよかう》」に『「きひなご[やぶちゃん注:ママ。]」、艙條魚(さうでうぎよ)は淸人(せいひと)の呼ぶ所(ところ)、丁香魺(ていかうか)は「閩書」の名にて、又、藁乾(わらほし)の者を「閩書」に『丁香魺』といふ。』と、あり。此ものは、九州、及び、土佐の海に產する者にて、東國には、絕(たへ)て、之(これ)なく、肥前にて、一(いつ)に『可成(かなり)』とも、いひ、煑食(しやうしよく)・炙食(せきしよく)・鱠(なます)ともなして、佳味(かみ)なり。又、從來、煑乾(にほし)となして、內國用に販賣するものなるが、近年、白乾(しらほし)のものを、淸國に輸出し、四川地方(しせんちはう)の人、之を嗜好するに至るといへども、尙ほ、煑乾(にほし)に製するもの、十の八、九に居(を)れり。故に、從前(じうぜん[やぶちゃん注:ママ。「じゆうぜん」が正しい。])の煑乾製(にほしせい)を改めて、白乾製(しらほしせい)となすに至らば、將來、極めて販路の擴(ひろ)まるは、疑(うたがひ)なし。然(しか)るに、輸出額、僅少(きんしよう[やぶちゃん注:ママ。「きんせう」が正しい。])にして、稅關の調査の如きは、田作(たづくり)の中(うち)に混入し、往々(わほわほ[やぶちゃん注:ママ。「わうわう」が正しい。])、鯷(ひしこ)を乾したるものと同樣に、誤り混(こん)す[やぶちゃん注:ママ。「ず」]といへとも[やぶちゃん注:ママ。「ども」。]、全く、同じからず。

[やぶちゃん注:「きびなご」ニシン科キビナゴ亜科(或いはウルメイワシ亜科)キビナゴ属キビナゴ Spratelloides gracilis

である。同属種で、本邦に分布するものに、

リュウキュウキビナゴ Spratelloides atrofasciatus (旧名「バカジャコ」)

ミナミキビナゴ Spratelloides delicatulus (沖縄・インド洋・西太平洋熱帯域)

がいる。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、漢字表記は『黍女子、黍魚子、吉備女子、吉備奈仔、𩸕』で、『インド洋と西太平洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布する小魚で、食用にされる』。『日本における地方名としてハマイワシ、ハマゴ、ハマゴイ(静岡県)、キミナゴ(三重県)、キビナ、カナギ(長崎県)、スルン(鹿児島県奄美大島)、スリ(沖永良部島)、スルル(沖縄県)などがある』。『中国語では「日本銀帶鯡」』である。『成魚は全長10センチメートルほど。体は前後に細長い円筒形で、頭部が小さく』、『口先は前方に尖る。体側に幅広い銀色の縦帯があり、その背中側に濃い青色の細い縦帯が隣接する。鱗は円鱗で、1縦列の鱗は39 - 44枚だが剥がれ易く、漁獲後にはほとんど脱落してしまう。海中にいるときは背中側が淡青色、腹側が白色だが、鱗が剥がれた状態では』、『体側の銀帯と露出した半透明の身が目につくようになる』。『以前はニシン科に分類され、ニシン科の分類上ではキビナゴ亜科やウルメイワシに近縁のウルメイワシ亜科とする見解もあった。学名の種小名" gracilis "は「薄い」「細い」などの意味があり、細長い体型に由来する』。『本州中部からポリネシア・メラネシア・オーストラリア北岸、西はアフリカ東岸まで、インド洋と西太平洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布する。外洋に面した水のきれいな沿岸域を好み、大きな群れを作って回遊し海岸にもよく接近する。主に動物プランクトンを捕食する。一方、天敵はアジ、サバ、カツオ、ダツなどの大型肉食魚やアジサシ、カツオドリなどの海鳥類がいる』。『熱帯域では』、『ほぼ周年産卵するが、亜熱帯海域では』、『春から秋にかけての産卵期があり、たとえば西日本近海での産卵期は4 - 11月となる。産卵期には成魚が大群を作って沿岸の産卵場に押し寄せる。繁殖集団は潮の流れの速い海域に集まり、海底を泳ぎ回りながら』、『産卵を行う』。『ニシン目魚類は海中に浮遊する分離浮性卵を産卵するものが多いが、キビナゴは浅海の砂底に粘着性の沈性卵を産みつける。受精卵は砂粒に混じった状態で胚発生が進み、1週間ほどで孵化する。寿命は半年 - 1年ほどとみられる。西日本では夏 - 秋生まれのものが翌年の春に産卵、孵化した子供がその年の秋に産卵し、寿命を終えると考えられている』とし、以下に、加工品を含む五枚の画像があるが、それは、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見るに、及(しく)はない(「地方名・市場名」も必見)。私の亡き母は鹿児島出身であった。薩摩を訪ねると、必ず出た、皿に綺麗に円心上に並べられたキビナゴの美しさは、得も言われぬものであった。

『「大和本艸」に『「きびなご」は海魚なり。海鰛(いわし)に似て、同類なり。長さ三寸餘、四、五寸に滿たず。口は、海鰛より小さく、身は、少し、厚し。兩傍(りやうはう)に銀色の筋(すじ[やぶちゃん注:ママ。])あり。』とす。』私の「大和本草附錄巻之二 魚類 きびなご (キビナゴ)」を見られたい。

『「水族志」に『「きびなご」ハ、海磯(うみいそ)の間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])に群(むれ)をなす。夏月(かげつ)、多し。』とあり。』これは、独立項の記載ではなく、総論「イワシ」の中の『㋦キビナゴ』の記載であるので、注意が必要である。国立国会図書館デジタルコレクションのここから(左丁最終行から)が、後者である。因みに、前者の独立項は、ここである。

『「海魚考《かいぎよかう》」に『「きひなご[やぶちゃん注:ママ。]」、艙條魚(さうでうぎよ)は淸人(せいひと)の呼ぶ所(ところ)、丁香魺(ていかうか)は「閩書」の名にて、又、藁乾(わらほし)の者を「閩書」に『丁香魺』といふ。』と、あり。』「海魚考」は既注であるが、再掲すると、東洋文庫版の後注に、『饒田喩義著『海魚考』、文化四年(一八○七)自序。『天柱録』(楠本碩水〈写〉、一八九四)の識語によれば、饒田喩義(一七七一。-一八三三)は、桜井開斎に師事し、長崎聖廟の助教を務めた儒者。この二書のほか、『長崎名勝図絵』『西疇転筆学論』がある。』とある。ネットでは、テクストや画像は見当たらない。]

「鯷(ひしこ)」既注。カタクチイワシの異名。]

2026/08/10

碑文の判読・注釈・現代語訳畢る

碑文の判読・注釈・現代語訳畢(おわ)る。これは、依頼者のプライバシーに係わるので、公開はしない。A4で15ページの大枚になった。最後の最後になって、字の欠損のため、判らなかった識者を同定出来たのは、亡き人の霊の導きと感じた。久々に、いい仕事が出来た。

私をよく知らない方は、能力に胡散臭(うさんくさ)さを感じる方もおられるであろうから、一言言っておくと、私は、元は神奈川公立高等学校の国語教師で、他に図書館司書の資格を所持しており、こうした古い文書等を判読することは、一般の方よりは、慣れている。二十代の時には、八丈島出身の方から、幕末の手書きの百十数日に及ぶ漂流記の判読依頼を受け、一ヶ月掛って、手書きで訓読し、注も添えた。それを元に、後に国立公文書館館員に拠る最終校正を経て、書籍になっている。

さても――日常に戻る。

2026/08/04

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その7) 乾玉筋魚

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   乾玉筋魚(ほしいかなご) 一名「ほしかなぎ」

 

玉筋魚(いかなご)は軟鰭類(なんぎるひ[やぶちゃん注:ママ。])に屬する海魚中(かいごぎよちう)の、一種、小(しよう)なるものにして、俗に『かますこ』又は『かまちこ』とも云ひ、筑前にて『いかなこ』、紀伊にて『しやしやらなご』、安藝にて『かますなこ』、又、『あぶらめ』、丹後宮津にて『いさなご』、北陸道、及び、攝津・尾張・三河・肥前の五島、及び、平戶等(とう)にて「少女子(かうなこ[やぶちゃん注:ママ。一般的に歴史的仮名遣では「こうなご」のママである。])」とも稱せり。但し、陸中・佐渡の海に多く產する「めらうど」は同種なれども、大にして、長さ八、九寸に成長せるものなり。

[やぶちゃん注:これは、本邦には、現行では、以下の三種が棲息する(以下は「北海道大学のLASBOS」の髙津哲也氏の「陸奥湾のイカナゴ属(Ammodytes sp.)の生活史」他を参照した)。

条鰭綱ベラ(倍良・遍羅)目 Labriformesイカナゴ(玉筋魚・鮊子)科イカナゴ属イカナゴ Ammodytes japonicus(瀬戸内海・伊勢湾・若狭湾・陸奥湾・三陸沿岸・北海道周辺)

オオイカナゴ Ammodytes heian(「大玉筋魚・大鮊子」:陸奥湾・三陸沿岸・北海道周辺)

キタイカナゴ Ammodytes hexapterus (「北玉筋魚・北鮊子」:北海道周辺の内、石狩湾・稚内周辺。但し、陸奥湾には棲息せず)

髙津氏の解説に拠れば、『2015年以前は「イカナゴ Ammodytes personatus」と表記されていましたが,DNA解析の結果,2種が混じっていたことがわかりました。DNA解析でのみ区別できます』。前二種と『キタイカナゴとの区別は,産卵期や背鰭軟条数で』、『おおよそは区別できますが,実際には外見からの区別はほとんど無理です。本種もDNA解析が望ましいです』。『2015年以降,A. personatusはベーリング海からカリフォルニア沖の太平洋沿岸に生息し,日本周辺には生息しないことになりました(Orr et al., 2015)』。『シワイカナゴ Hypoptychus dybowskii という紛らわしい名前の魚がいますが,この種はトゲウオ亜目Gasterosteoideiの仲間です。』とあった。その「シワウカナゴ」については、「小学館 日本大百科全書」に、漢字表記は『皺玉筋魚』とし、『硬骨魚綱トゲウオ目シワイカナゴ科に属する海水魚。相模』『湾以北の北日本、日本海の本州沿岸、北海道、オホーツク海に分布する。日本では北海道に多い。体形はイカナゴに似るが、背びれが後方にあって臀(しり)びれと対位すること、鱗(うろこ)がないこと、体の背中線と腹中線にしわがあること、体が黄色で半透明なのが特徴。全長9センチメートル。4~7月に水深2~3メートルのところで群れをつくり、1回に数十粒の卵をブドウ状の卵塊にして海藻に生みつける。雄は卵を保護する。10℃の海水温で1週間後に孵化(ふか)する。産卵期の雄は背びれと臀びれの前半部は暗色で、後半部は紅色。』とあった。

 以下、当該ウィキを引く(注記記号はカットした)。『イワシなどと並んで、沿岸海域における食物連鎖の底辺付近を支える重要な魚種である。日本においては食用とされ、釘煮(くぎ煮)、天ぷらなどに調理される』。『イカナゴには様々な地方名があり、稚魚は東日本で「コウナゴ、コオナゴ(小女子)」、西日本で「シンコ(新子)」と呼ばれる。毎日新聞ではイカナゴについて取り扱った記事で、東京本社版は「コウナゴ」、大阪本社版は「コウナゴ(イカナゴ)」「イカナゴ」と表記した例がある』。『また、成長した個体は北海道で「オオナゴ(大女子)」、東北地方で「メロウド(女郎人)」、西日本では「フルセ (古背)」「カマスゴ(加末須古)」「カナギ(金釘)」などと呼ばれる』。『イカナゴ科』Ammodytidae『は北半球の寒帯域から温帯域を中心に熱帯域まで、沿岸部に5属18種が分布する。沿岸の粒径0.5ミリメートルから2.0ミリメートル程度までの砂泥底に棲息し、主にプランクトンを食べる。産卵期は冬(12月)から翌年春(5月)で、寒冷な水域ほど遅い傾向が見られ、水深10メートルから30メートル付近の砂底に、粘着質の卵を産卵する。なお、北方系の魚であるため、温暖な水域では、夏季に砂に潜って夏眠(かみん)する』。『日本産イカナゴは移動性が小さく、各地に固有の系統群が存在している』。『1歳で体長10センチメートル程度まで成長し、成熟する。3年から4年で20センチメートル程度まで成長する。ただし瀬戸内海や伊勢湾では大きくても15センチメートルである』。『日本では沿岸漁業で漁獲される。集魚燈を用いた敷網漁や、定置網漁や、船曳網によって捕獲する。日本では生食や加工食品以外に、太刀魚、スズキ、メバル等の釣り餌や養殖用飼料としても利用される』。『しかし、乱獲や生息環境の悪化および海砂の採集による生育適地の破壊により、日本各地で漁獲量は激減した。特に、瀬戸内海のようなイカナゴが夏眠を行う水域において、イカナゴの夏眠に適した粒度分布の海砂が、ちょうどコンクリートの骨材に適していたため、その海砂が建設資材として大量に採取され、多くの漁場が壊滅的な被害を受けた』。『下水処理の普及、海水浴場の衛生維持を想定した水質規制により、河川から流れ込む栄養塩類の減少もイカナゴの資源量を減らす原因とみられる』。『このような状況を受けて、伊勢湾や瀬戸内海では、年ごとにイカナゴの生育度合いや推定資源量を調査し、その年の漁獲量を決定している。それだけでは資源量回復に不十分であるため、以下のように各地で禁漁が実施されている』。『青森県の陸奥湾での漁獲量は、1973年に1万トンを超えていたが、乱獲により1980年代には100トン以下に激減した。1990代後半に、漁獲量は一旦回復して1,000トンを超えたものの、その後は減少を続け、2012年には1トンまで減少した』。『漁獲量の減少傾向を受けて、青森県庁は2007年に「イカナゴ資源回復計画」を立案し、漁期短縮などを行い資源量の回復を目指した。しかし、資源量回復に失敗した。陸奥湾における2012年の親魚は、約1,000万尾程度と推定され、適正水準の3億尾を大きく下回っていた。そのため、2013年漁期から資源回復のために、陸奥湾での「集魚灯を使った漁や小型の定置網漁の全面禁漁」を決定した。ところが、2019年2月に陸奥湾湾口周辺海域で実施された調査では、稚仔が全く採集されなかった』。『伊勢湾と三河湾では2016年から禁漁が続いている(2024年時点)』。『伊勢湾では冬季に資源調査を行い、春のイカナゴの漁獲実施の際の漁獲量を判断している。前年末から2月にかけて行われる資源調査の結果、2016年以降は稚魚の捕獲数が著しく少なく、ゼロの年度もあるため、愛知県及び三重県で、イカナゴは禁漁の状態が続いている』(調べたところ、本二〇二六年も続行中のようである)。『大阪湾のイカナゴ漁は、2016年まで毎年1万トン以上の漁獲があったものの、2017年以降には極端な不漁に陥り、2019年1月の仔魚採集調査では1998年以降で最も少ない漁獲であった。実際の漁においても、2019年には漁業者が3日で漁を打ち切ったほど、漁獲量が僅少だった。これに対して、2019年の段階では淡路島以西の海域では、それなりの漁獲量は維持されていた』。

以下、「調理方法」の項。『釘煮』『→詳細は「釘煮」を参照』。『四国を除いた、播磨灘や大阪湾に面した瀬戸内海東部沿岸部で、イカナゴは釘煮と呼ばれる郷土料理で親しまれ、阪神地区、播磨地区では春先に、各家庭でイカナゴの幼魚を炊く光景が見られてきた』。『釘煮は佃煮の1種であり、水揚げされたイカナゴを、醤油やざらめ糖、千切りにしたショウガなどで味付けして煮込み、煮汁が減った段階で味醂を加えながら、焦がさぬように、煮汁が無くなるまで数回煮詰める事を繰り返す。この際に、箸などでかき混ぜると』、『身が崩れ、団子状に固まってしまうため、一切』、『かき混ぜない。炊き上がったイカナゴの幼魚は、茶色く曲がっており、その姿が錆びた釘に見えるため「釘煮」と呼ばれるようになったとする説が有力である。なお「くぎ煮」は、神戸市長田区の珍味メーカーである株式会社伍魚福(ごぎょふく)の登録商標である』。『ある種の風物詩として、また毎年3月末頃に、阪神地区、播磨地区の食料品店に、製品化された釘煮が山積みされてきた。また、この地域の土産物店でもイカナゴの釘煮は販売されており、ショウガ味以外に、サンショウ味、トウガラシ味の製品も見られる』。『常温で日持ちする釘煮は、郵送で親類・知人に送付することも多く行われており、郵便局だけでも年間100万件近く、釘煮が送付されている。これに着目し、明石市の郵便局の一部では、レターパックに収まるサイズのプラスチック容器の販売を行っている』。『神戸市の垂水区はイカナゴの釘煮発祥の地と呼ばれており、それを示す石碑が垂水区塩屋町に建てられた。ただし、これには異説も唱えられており、2013年10月2日には、神戸市長田区駒ケ林の駒林神社の大鳥居前に「いかなごのくぎ煮発祥の地」の石碑が建立され』てもいる。『一方で、同じ近畿地方でも、前述の地域を除く他の地域では』、『イカナゴの釘煮は、あまり食されない。顕著な例として、京都ではイカナゴの釘煮よりも』、『ちりめん山椒が主流であり、そもそも京都の住人などは、イカナゴ自体を下魚』(げざかな/げうお)『として嫌う傾向も散見される』。以下、「フルセの佃煮」にの項。『イカナゴの釘煮と類似の調理法だが、一般に釘煮はイカナゴの幼魚を調理したものであるのに対して、成魚であるフルセを佃煮に調理する地域も見られる。そのような地域としては、例えば、淡路島が挙げられる。フルセを調理した佃煮は、釘煮と明確に区別するため、釘煮とは呼ばず、そのまま「佃煮」の名称で扱われる』。以下、「ちりめん」の項。『水揚げされた体長2センチメートル程のイカナゴの幼魚は、鮮度が落ちないよう、水揚げ後にただちに釜揚げにされ、店頭に並ぶ。これを』『新子』(しんこ)『または』『新子ちりめん』『と呼ぶ。また、釜茹でした後に、乾燥させた場合はカナギ(小女子)ちりめんと呼ばれる』。以下、「カマスゴ」の項。『体長4 - 5センチメートル程度の大きさのイカナゴを釜茹でしたものはカマスゴと呼ばれ、そのまま酢醤油やからし酢味噌で食べる。この際に、1回炙ると香ばしさが出て』、『美味しくなるとされる』。以下、「いかなご醤油」の項。『→詳細は「いかなご醤油」を参照』。『香川県では、イカナゴを原材料とした魚醤である、いかなご醤油が見られる。かつては「しょっつる」および「いしる」と共に、日本三大魚醤と呼ばれたものの、1950年代に製造が途絶えた。しかし、その後、少量ながら』、『復活生産されるようになった』。「その他」として『東北地方では成魚を調理する方が一般的で、干物にされることもあるが、総じて安価に売られている。』とある。

『一名「ほしかなぎ」』「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページに拠れば、「カナギ」という異名は『福岡県福岡市』採取とある。同ページは、以上のウィキの記載よりも、遙かに勘所を押さえた解説があり、さらに異名については、実に、二十五種が挙げられてあるので、見られたい。特に、イカナゴを加工した食品群は画像が附されており、解説と相俟って誠に理解し易い。ここでは、「漢字・学名由来」の項を引用させて戴くこととした。

   《引用開始》

漢字 玉筋魚、如何子、以加奈古、鮊 Ikanago

由来・語源

〈東京ではコウナゴと云ひ、六月上総から来るものはコウナゴカマスと云い、佃煮ではカマスジャコとして賣っている。九州北部、山口縣ではカナギ、関西でイカナゴと云い、大阪や神戸で本種の幼魚をカマスゴと云う〉『図説有用魚類千種 正続』(田中茂穂・阿部宗明 森北出版 1955年、1957年)

大言海 〈語源、詳ナラズ、如何な子ノ義ニテ、梭子魚ト混ジテ、知ラレヌ意ナリナド云フ説アリ〉。

魚鑑 〈状ひしこ. かます雑子(ざこ)に似て、小さく脂多し、三四月の頃、これあり、このものにて、いかなご醤油を作る。〉

和漢三才図会 〈玉筋魚 俗に以加奈古という。また加末須古ともいう〉、〈『三才図会(明の時代1607年にでた中国の絵入りの時点のようなもの)』に「玉筋魚は身体は丸くて箸のようである。やや黒くて鱗がなく、両目店は黒い。菜の花の開くときになると子を持って肥えている。これを菜花玉筋という」〉。漢字、玉筋魚は中国明の魚でイカナゴとは限らない。江戸時代の本草の世界は中国に習うということが多く、こじつけも少なくない。

■ 「いかり魚=カマス」の幼魚の意味。地方の呼び名に「かます子」とあるのと同じ。「いかり」とは「いかる=とがる」の意味で栗の毬(いが)と同義語。

■ イカナゴの小さいものが、いかなる魚の子であるかわからないため、「如何子」の意味。

■ 〈い〉は語声強調の接頭語、〈かな〉は古語で糸のように方添いもの、〈ご〉は接尾語。『新釈魚名考』(榮川省造 青銅企画出版)

   《引用終了》

なお、以上のうち、「和漢三才図会」の記載に就いては、私のサイト版「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚  寺島良安」の「いかなご かますご 玉筯魚」で、本文、及び、私の注も添えてあるので、是非、確認されたい。

「軟鰭類(なんぎるひ)」旧分類名。Malacopterygii。軟条鰭(棘鰭がない)のみを持ち、背鰭と脂鰭が、それぞれ一つずつで、背鰭と腹鰭が、背中と腹部の輪郭のほぼ中央に位置し、胸鰭が体の低い位置にあることを特徴とする「下等」硬骨魚類(Osteichthyes)のグループ(上目)を表わす。「上等」硬骨魚類は通常、棘鰭類(Acanthopterygii)として分類される。、ギリシャ語由来の“malakos”(柔らかい)と“pteryx”(鰭)を合成した語で、「柔らかい鰭を持つ魚」を指す旧分類名として成立したものである。]

 

 此魚の漢名は、未だ、詳(つまびらか)ならず。「掌中市鑑(しやうちうしかん)」には『玉筋魚(ぎよくきんぎよ)』とす。「海魚考(かいぎよこう[やぶちゃん注:ママ。])」『いかなご』の條に、田中宣宗(たなかせんそう)、云ふ。『京攝(けいせつ)の俗、春の頃、「かますこ」と云ふ者を食(しよく)す。山陽、四國邊(へん)の海邊(かいへん)より出づるものなり。按ずるに、如何なる子(こ)なりや、又、長(てう[やぶちゃん注:ママ。「ちやう」が正しい。])じて、如何なるものとなるや、不分明なれば、斯(か)く名(なづけ)し。』とぞ。

[やぶちゃん注:「掌中市鑑」東洋文庫版の後注に、『初版は青苔園著、高嶋春松画『海川諸魚掌中市皆全』、天保八年(一八三七)に刊行され、嘉永二年(一八四九)に『魚貝能毒晶物図考』と改題刊行。図入りで、二〇〇種ほどの魚介類の食性、毒、形状、味の良し悪し等が記されている。』とあった。

『「海魚考」……田中宣宗』東洋文庫版の後注に、『饒田喩義著『海魚考』、文化四年(一八○七)自序。『天柱録』(楠本碩水〈写〉、一八九四)の識語によれば、饒田喩義(一七七一。-一八三三)は、桜井開斎に師事し、長崎聖廟の助教を務めた儒者。この二書のほか、『長崎名勝図絵』『西疇転筆学論』がある。田中宣宗は未詳。』とある。]

 

此魚は、形狀の相似(あいに[やぶちゃん注:ママ。])たると、「かますご」の名あるとによりて、世人(せじん)、往々(おほおほ[やぶちゃん注:ママ。「わうわう」が正しい。])『梭魚(かます)の兒(こ)なり』と誤り、『之れを捕獲するは、稚魚(ちぎよ)を捕ふるものにして繁殖の妨害なり。』といふもの、あり。然(しか)れども、元來、此ものは、槪ね、二、三寸のもの、多く、成長するも、三、四寸にして、「かます」とは、全く、異(ことな)れり。

[やぶちゃん注:「梭魚(かます)」スズキ目サバ亜目カマス(魳・梭子魚・梭魚・魣)科カマス属 Sphyraena「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のこちらに従うと、本邦に棲息する真正のカマス類は、

アカカマス(赤梭子) Sphyraena pinguis 

イブリカマス(以布利梭子) Sphyraena iburiensis

オオカマス(大梭子) Sphyraena putnamae

オオメカマス(大目梭子) Sphyraena forsteri

オオヤマトカマス(大大和梭子) Sphyraena Africana

オニカマス(鬼梭子) Sphyraena barracuda

タイワンカマス(台湾梭子) Sphyraena obtusata

タツカマス(龍梭子) Sphyraena qenie

トラカマス(虎梭子) Sphyraena jello

ホソカマス(細梭子) Sphyraena stellata

ヤシャカマス(夜叉梭子) Sphyraena arabiansis

ヤマトカマス(大和梭子) Sphyraena japonica

である(各種を説明する気はないので、各自でリンク先の記事を見られたい)。BIMaL」の同属リストを比較してみたところ、日本名を附さない(調べたが、和名はないようである)

Sphyraena acutipinnis

があった。]

 

「飮膳摘要(いんぜんてきよう[やぶちゃん注:ママ。])」には、『『いかなご』は、梭魚(かます)の子なり。又、「かますこ」とも云ふ。』とし、「魚鑑(うをかヾみ)」は、『いかなこ』は『ひしこ』。『かます』に似て、少さく、脂(あぶら)、多し。三、四月の頃、これあり。」とし、又、「大和本艸」は『梭魚(かます)の苗(こ)を、俗に「いかなこ」といふ。』とし、「水族志」は『『いかなこ』の『かます』の兒にあらざる』ことを、詳記せり。近頃、出版の「漁產一班(ぎよさんいつはん)」には、『梭魚』の條下に、『玉筋魚(いかなご)、一《いつ》に『かますこ』。』とす。其他、數部の書册を閱(けみ)するに、『かます』を載せたるもの、あれども、『いかなこ』を記せる書、甚だ、少なし。

[やぶちゃん注:「飮膳摘要」東洋文庫版の後注に、『文化一四年(一八一七)刊。著者は小野蘭山(一七二九―一八一〇)、小野畝(?―一八五二)。』とあった。

『「大和本艸」は『梭魚(かます)の苗(こ)を、俗に「いかなこ」といふ。』とし』私の「大和本草卷之十三 魚之下 梭魚(かます) (カマス/イカナゴ誤認)」を見よ。

『「水族志」は『『いかなこ』の『かます』の兒にあらざる』ことを、詳記せり』私は、実はブログ・カテゴリ『畔田翠山「水族志」』を持っているのだが、二〇二三年を最後に、長くペンディングしている。この際、ここで、字起こしだけをやっておくことにする。国立国会図書館デジタルコレクションの当該部は、ここである。一部の読みを推定で《 》示した。

   *

(一七七)

イカナゴ 一名カマスナゴ シヤシヤラナゴ【紀州海士郡《あまのこほり》加太浦《かだうら》】カマスゴ【攝州兵庫】カナギ【筑前姪ノ濱《めいのはま》】

大和本草曰「イカナゴ」尼崎兵庫等ノ海ニテ網ニテ多クトル大ナル假屋ヲ海邊ニ作リ釜ヲナラベ「カマスゴ」ヲ煎シ[やぶちゃん注:「せんじ」。]油ヲトリ賣ル燈油トス或《あるいは》田圃ノ糞《こやし》トス兵庫漁人曰三月初捕ル梭魚(カマス)子に非ス[やぶちゃん注:「あらず」。]按《あんずる》に「イカナゴ」ハ海底砂アリテ泥鰌《どじやう》ノ如ク無鱗ニ乄[やぶちゃん注:「にして」。]箭[やぶちゃん注:「や」=「矢」。]ヲナスヿ[やぶちゃん注:「こと」。]火箭(ヤガラ)觜《はし》ニ似タリ形狀梭魚ニ似タリ脂《あぶら》多シ此魚梭魚ノ苗に非ス[やぶちゃん注:「あらず」。]梭魚ノ苗ハ寸許ニ乄モ細鱗アリテ口二ツニ切レ自《おのづか》ラ別也

   *

流石は、私の好きな翠山! 正しく指弾している!]

 

玉筋魚(いかなご)は、長さ、二寸許(ばかり)より、三、四寸許、身、狹(せま)くして、蒼(あを)・黑(くろ)・銀色(ぎんいろ)なり。背鰭(せひれ)、肩(かた)より起りて、尾(を)に連(つらな)り、後鰭(しりひれ)もまた、胴の半(なかば)より起り、背・尾・兩鰭、共に、其質(そのしつ)、軟(やはらか)なり。梭魚(かます)は、之に反し、大なるもの、七、八寸、身(み)、圓長(ゑんてう[やぶちゃん注:ママ。])にして、細鱗(こまかなうろこ)あり。背鰭、二つあり、後鰭、一基(ひとつ)あり、共に剌狀(しじやう)を、なす。是れ、二者の、判然、別なるの証(あかし)とす。

 

 玉筋魚は、生鮮(なま)のま〻膾(なます)となし、或(あるい[やぶちゃん注:ママ。])は、烹(に)て食し、炙(あぶ)りて食し、佃煑(つくだに)とも、なし、又、煑乾(にぼし)、䀋乾(しほほし)、白乾(しらほし)となし、又、魚醬(ぎよしやう)をも、製せり。北陸道の如きは、多額の收獲あるより、搾榨(しぼりかす)[やぶちゃん注:「榨」はママ。「榨」は「搾」の異体字であるから、おかしい。「滓」の誤植であろう。東洋文庫版では、「榨滓」となっている。]となして販賣せり。其油は鰯油(いはしあぶら)に優(まさ)り、滓(かす)は肥料となして、効(こう)あり。此製法中、淸國に輸出するは白乾なれども、淸國にも魚醬の製方あるを以て見れば、將來、輸出するも量(はか)るべからず。此魚を以て、魚醬を製することは、往時(をほじ[やぶちゃん注:ママ。])、景行天皇の御宇(ぎよう)、第十の皇子(わうじ)神櫛玉命(かんくしたまのみこと)、讚岐(さぬき)の國守たりし時、皇子(みこ)、自ら䀋藏(ゑんざう[やぶちゃん注:ママ。])して、肉醬(にくしやう)を造り、献(けん)じたまひしに創(はじ)まり、其後(そのご)、菅公(くわんこう)の國守たりし時も、數々(しばしば)、都(みやこ)へ送られたりし、と。又、「明月記」にも、屋島(やしま)の內裡(だいり)より肉醬(にくしやう)を贈ることも、載せたり。

[やぶちゃん注:「景行天皇の御宇(ぎよう)、第十の皇子(わうじ)神櫛玉命(かんくしたまのみこと)、讚岐(さぬき)の國守たりし時、皇子(みこ)、自ら䀋藏(ゑんざう[やぶちゃん注:ママ。])して、肉醬(にくしやう)を造り、献(けん)じたまひし」探したが、見出せなかった。識者の御教授を乞うものである。

『「明月記」にも、屋島(やしま)の內裡(だいり)より肉醬(にくしやう)を贈ることも、載せたり』藤原定家は大嫌いなので、調べる気がしない。悪しからず。]

 

 近世、下總國(しもをさのくに[やぶちゃん注:ママ。])千葉郡(ちばこほり)野田驛(のだゑき[やぶちゃん注:ママ。])三枝(みつえだ)某の製する魚醬は、天保年間の創業にして、今に、年々(としとし)、價額(かがく)二千圓內外を產出せり、といふ。其魚醬の製法は、魚一升に食䀋三合を混和し、樽に詰め、蓋をなし、其上を紙にて密封して藏すること、百有餘日)ひやくゆうよじつ)、卽ち、土用に至り、其樽の下部に、小孔(こあな)を穿(うが)ち、管(くだ)を揷し、これより、汁を滴らし、其(その)出(で)たるものを、紙漉(かみごし)にし、鍋に入れ、火に掛け、沸騰せしめ、其冷(そのひゆる)を待つ。其色、透明にして、味(あじわひ[やぶちゃん注:ママ。])、芳美(ほうび[やぶちゃん注:ママ。])なり。これを『一番取(いちばんどり)』といふ。殘(のこり)の滓(かす)に、又、食䀋若干を入れ、再製するを『二番取(にばんとり[やぶちゃん注:ママ。差別化するためかもしれない。])』といふ。玉筋魚の油、及び、搾粕(しぼりかす)を產出するは、加賀・能登・越中・越後・佐渡等(とう)にして、煑乾(にぼし)、及《および》、白乾(しらほし)を出(いだ)すハ、志摩・伊勢・筑前・四國・淡路地方等を多しとす。

[やぶちゃん注:「千葉郡(ちばこほり)野田驛三枝某」不詳。場所は現在の匝瑳市のここ。地名が残っていないので「ひなたGIS」で示した。戦前の地図に「野田村」が確認出来る。ここであろう。]

 

 此ものを淸國に輸出するは、近年のことにて、未だ、多數ならずと雖も、明治十六年、神戶港より輸出するもの、一萬七千二百九十八斤、價《あたひ》四百三圓六十錢、又、長崎・橫濱兩港より、輸出するもの、若干あり、とす。

[やぶちゃん注:「明治十六年」本書の刊行は明治一九(一八八六)年。

「一萬七千二百九十八斤」十・三七八八トン。]

2026/08/02

町内の古い慰霊碑を判読するための電子化注遅速化のお知らせ

町内会の役員をしているのだが、故前会長の娘さんから、町内に遠い親族の大きな慰霊碑があるのだが、長い漢文で書かれているために意味が判らないので、判読して欲しいという依頼が来た(私が、もと高校の国語教師だったことを町内会の同僚が伝えたらしい)。実は、この碑、以前から気になって、数度、視認して目視判読したことがあり、それは日清戦争に従軍し、戦場で負傷し、現地の軍部の医療施設に入り、後に内地に移されたが、 亡くなったということは読めた。されば、これは、私が、かの人物の霊に呼ばれたのかも知れないなとも思い、判読と訳を引き受けた。無論、報酬は受けない。しかし、かなりの長文であり、一回、真っ二つになって損壊したものを補修したものであるため、判読には、かなり時間が掛かる。気持ちとして、私の作業を、後回しにして、最優先でやることにして、取り敢えず、三十枚近くの写真を、昨日、撮り、今朝より作業に掛かったが、四メートル近い直立碑であるため、上部の陰刻が見づらく、何度か、現地に出向かないと難しく、時間が掛かるようだ。複数の進行中のプロジェクトも、遅速化せざるを得ない。悪しからず。

 九割がた、字起こしを終えた。昼過ぎ、幾つかの字を、直接、視認しに行こうとしたが、暑さで、連れ合いに止められた。明日は温度が少し下がるので、延期した。

【2026年8月3日追記本日、午前中に一時間半、碑文に登り、写真では判らなかった部分を、98%、判読し得た。残りは、真っ二つに破損したものを、修復した際に欠損した箇所があるためである。しかし、識辞を書いたのは、当時の(明治三〇(一九八七)年の記文)漢文学者が書いたものであるため、訓読にもかなり時間が掛かる。

しかし、久々に、いい仕事に邂逅したという気持ちを、強く感じている。

2026/08/01

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その6) 乾鰯幷䀋鰯

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   乾鰯幷䀋鰯《ほしいはし ならびに しほいはし》

 鰯(いわし)は「倭名鈔」に「漢語鈔」を引《ひき》て『以和之《いわし》』と訓ず。「新撰字鏡」は、獨(ひと)り、『𩺮』の字を『伊和志』とすと雖ども、「延喜式」には『鰯』の字を用ゆ。是「閩書」の『鰮魚』あり。鰯の種類ハ、『大羽(おほは)』、一名『まいわし』、『中羽(ちうは)』、『うるめいわし』『こしながいわし』等(とう)なり。而して、鮮(なま)にて膾(なます)とし、又、炙(あぶ)りて食ひ、煑(に)ても食(しよく)し、醃乾(しほぼし)、白乾(しらほし)、目刺、鰓刺(あごさし)、開乾(ひらきぼし)、等(とう)ともなし、[やぶちゃん注:原文は読点であるが、句点に代えた。]煑(に)て搾滓(しめかす[やぶちゃん注:「しぼりかす」以外に、こうも訓ずる。])とし、肥料(こやし)に供し、又、其油をとり、收益の多きこと、本邦の海產物中、此上(このうへ)に出づるもの、なし。近年、此目刺鰯は、淸國へ輸出せり。

[やぶちゃん注:『「倭名鈔」に「漢語鈔」を引《ひき》て『以和之《いわし》』と訓ず。』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の当該部を推定訓読して示すと、

   *

鰯(イハシ) 「漢語抄」に云はく、『鰯【以和之《いわし》。今、按ずるに、本文、未だ、詳らかならず。】。』≪と≫。

   *

である。「漢語抄」は「楊氏漢語抄」で、奈良時代(八世紀)の成立とされる辞書であるが、佚文のみで、原本は伝わらない。さて、ここで明確に言っておくこととするが、

★読者は、この記事が、おかしいことに気づく。

即ち、作者源順(みなもとのしたごう)は、立項した「鰯」に「いはし」と読みを記していながら、後の割注で、和訓を「以和之」としているのである。これは、まさに「いわし」であって、「いはし」とは――逆立ちしても――読めない。即ち、これが何を意味するかと言うと、

☆平安中期に成った「和名類聚鈔」(承平年間(九三一年~ 九三八年)に執筆完成)の時代にあっても、正式な歴史的仮名遣表記では「いはし」であったものの、実は、この時代にあっても、実際の当時の京都の口語上の発音では、現代仮名遣と同じく「いわし」であったことを示唆しているとしか採れないのである。

☆続いて、本文で『「新撰字鏡」は、獨(ひと)り、『𩺮』の字を『伊和志』とす』とあるが、ここも「いわし」である。「新撰字鏡」は当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『平安時代に編纂された字書の名。現存する漢和辞典としては最古のもの』で、『平安時代の昌泰年間』(八九八年~九〇一年:醍醐天皇の治世。因みに、同四年には正月二十五日、左遷左大臣藤原時平の讒言により、菅原道真が大宰府に左遷されている。所謂、「昌泰の変」である)。)『に僧侶・昌住が編纂したとされる』。寛平四(八九二)年に三『巻本が完成したとされるが、原本や写本は伝わっていない』。後、三『巻本をもとに増補した』十二『巻本が昌泰年間に完成したとされ、写本が現存する』。十二『巻本には約』二万一千『字を収録』する。『古い和語を多く記しており、古代日本における漢字受容を知り得る資料として、日本語学史上きわめて重要である。また、平安時代になると失われた上代特殊仮名遣のうち』、『コの甲乙を区別していることでも知られる』(ウィキの「上代特殊仮名遣」を見よ)。以下、「諸本」の「享和本」の項。十八『世紀後半に村田春海によって再発見され』、享和三(一八〇三)『年に刊行された。和訓をつけた漢字だけを抜き出した抄録本で、部首を』百七『に分類している』。以下、「天治本」の項。『天治元』(一一二四)年『の写本で、唯一の完本』。安政二・同三(一八五六)年~安政四・五(一八五八)『年に発見された。和訓の付いた字は』三千『字以上あり、部首を』百六十『に分類している』。以下、「群書類従本」の項、『塙保己一』(はなわほきいち)『の』「群書類從」『に収められている抄録本』。以下、「構成」の項。『部首内の漢字は規則的に配列されてはおらず、同じ部首を持つ熟語では、二文字を』、『ひとつの項目として扱っている。読みを反切で示してから、字義を類義の漢字で説明するほか、万葉仮名で和訓を付けているものもある』。『本居宣長は』「玉勝間」『の中で「あつめたる人のつたなかりけむほど、序の文のいと拙きにてしるく」「其字ども多くは世にめなれず、いとあやし」』(卷十四)『と酷評しているが、著者は』、『部首分けの上で部類立ての字類のようなものを構想していたとみられ、配列上の混乱は彼の独創性の裏返しであったと見られている』とある。

さて、実は、「鰯」=イワシ(類)を「いはし」と訓ずる語源は明確ではない。しかし、漢字の字面から、一般には「弱(よは)し」から「いはし」になったとの説が知られているが、これは、実は、正確な定説なのでは、ない。例えば、イワシには別に「大きなイワシ類」を意味するとされる「鰮(いはし)」の字があるが、この字素の一つである「囚」の字を穿って解釈すると、「囚(とら)はれ人(びと)」=「囚人」を想起し、恰も「獄屋の囚人に食べさせる卑しい魚」だったのではないか? という勘繰りも生ずる。実際、「いはし」の語源説には「卑しい民(たみ)のみが食べる雑魚(ざこ)」だったから、「いやし」が「いわし」になったとする説もあるらしい。即ち、このように、言語形成自体がブラック・ボックスである以上、イワシを指す歴史的仮名遣は、絶対的に「いはし」のみが正しいとする根拠は全くないことが判るのである。従って

――明治期の本書で「鰯」に「いはし」「いわし」が混淆すること自体が、実は、全く以って、有意な誤用混淆として、いちいち、指摘する価値が全くない――

のである。されば、以降は本文・ルビで、「いはし」「いわし」が混淆していても、一切、ママ注記を附すことやめることとする。

 

「延喜式」によれば、神祇部に『鰯汁(いわしじる)』あり。主計部に『乾鰯(ひしわし)』、又、『鮨(すし)』ありて、紀伊・若狹・丹後・備中・備後・安藝・周防・讚岐等(とう)より貢獻し、本邦往古より種〻(しゆしゆ)の製法ありて、常陸の水戶、伊豫の宇和・肥前の松浦等を著名とす。

[やぶちゃん注:「鮨」言うまでもないが、これは、現行の鮨ではなく、馴(な)れ鮓(ずし)である。]

 

 此魚は、性(せい)、至(いたつ)て脆弱なる故に、「いはし」の名、あり。又、「おむら」ともいふ。凡そ、漁業の大利を得ること、鯨の右に出るもの、鰯なり。「大和本草」に曰く、『最も大なるを䀋につけて、苞(むしろ)にいれて、遠(とふき[やぶちゃん注:ママ。])に、よす。賤民、朝夕(てうせき)の饌(せん)[やぶちゃん注:これは「食事」の意。]に用ゆ。又、醢(しほから)とし、糟藏(かすづけ)・飯藏(めしづけ)とす。味、よし。』とありて、從來、乾製・目刺等(とう)は、良品ありしも、䀋藏鰯(えんざういわし)は、精良の製法、なく、且(かつ)、苞(むしろ)に藏(ざう)するか[やぶちゃん注:ママ。「が」。]如き、粗造(そぞう[やぶちゃん注:ママ。])の取扱(とりあつか[やぶちゃん注:ママ。])なりしと見たり。近來(きんらい)、各地にて䀋藏するものは、槪(おほひ[やぶちゃん注:ママ。誤植。])ね、樽詰(たるづめ)にして、較(や)〻精良のものもあれども。䀋加減等(とう)、末だ、一定せずして、淸國の輸出の如《ごとき》も、「華蠻交易洽聞錄(くわいかうえきこうぶんろく)」に載(の)する如く、從前より、䀋鰯を輸出するも、僅々《きんきん》に[やぶちゃん注:ごく、わずかなさま。]過(すぎ)ざるなり。然《しか》れども、䀋量(ゑんりやう)を適度ならしめ、壓搾噐(あつさくき)を以て、搾(しぼ)めて、漬汁(つゆしる)を去り、樽に密封して、輸出せば、其需用を擴(ひろ)むるに至るべし。

[やぶちゃん注:『「大和本草」に曰く、⋯⋯』私の「大和本草卷之十三 魚之下 鰛(いはし) (マイワシ・ウルメイワシ・カタクチイワシ)」を見よ。]

 

 此鰯は、油漬(あぶらづけ)・酢漬等(とう)とし、鑵詰(くわんづめ)にしたるは、歐州諸國に於て、甚だ、嗜好するものなれども、寧ろ、淡乾(しらぼし)・鹹乾(しほぼし)の精良品を、多く、造り出し、淸國人の需求に充つるを得策とす。

[やぶちゃん注:「淡乾(しらほし)」しらすを生のまま、または、蒸して干したもの。]

2026/07/31

《芥川龍之介未電子化掌品抄・正字正仮名版》未定稿「役の小⻆が、大島へ流された後の事である、⋯⋯」(★個人的に手入れしたベタ版)

[やぶちゃん注:底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの芥川龍之介 著「未定稿・デッサン集」(葛巻義敏編・雪華社・昭和四六(一九七一)年)を用いた。前半部分は、ここにある芥川龍之介自筆の当該部分を、私が独自に判読したものである。

 実は、ここ(葛巻氏の「付録」の『続「芥川龍之介未定稿ノオト」』の中で『〔役の小角  断片〕』)から、葛巻氏が判読されたものがあるのだが、失礼乍ら、判読に多くの疑問があり、さらに漢字が新字体に変えてあり、促音になっていないのに、促音表記になってしまっている。更に、抹消した箇所・書き変えた箇所が、そこでは完全にカットされているのである。参考にはさせて戴いたものの、あくまで、私の独自判読で、原稿を再現することとしたのである。

 しかし、後半部分は、原稿画像が載っていない。されば、そこでは、葛巻氏の起こしたものを元にせざるを得なかった。しかし、そのまま繋げると、明らかに前半との違和感が激しく生じてしまうので、

★漢字は前の原稿を参考に正規表現の旧字体に直し、

また、

★現代仮名遣の箇所も、歴史的仮名遣に直し、促音等に変えられている部分を機械的に改変した。

 なお、後半部の〔 〕は、葛巻氏が脱落と断じて挿入したものである。

 今回は、ともかくも、芥川龍之介のネット上には活字では存在していない未電子化の未定稿原稿を示すことのみに特化して、私のオリジナル注を附さない形で、まず、公開することにした。そのため、意味深な『個人的に手入れしたベタ版』という文々を最後に添えた。なるべく早く、私の注を附したものを、新たに公開するつもりではある。悪しからず。

 

役の小⻆が、大島へ流された後の事である。

小⻆の親しくした藤原維遠がある日、牛車にのつて、[やぶちゃん注:二、三字分の欠字。]をすぎると、青い衣を着て

手に白い葵の花を持つた老人が、外から、声をかけた 見ると大島に流された小⻆なので、「 ■■ 何とて都へば 深く驚きながら

「何とてうして歸つて來たのだ」と問うふと、「鞍馬の奥にさく青空色の白葵の花を、とりに來たのだ」と答へる。

「何時 大島を出たときくと、「今朝だ」と言ふ さうして、■■

 

役の小⻆は大和囗葛城郡茅原村の人であった。

小⻆の生れるとき、母は夢に黑龍 夢に紅の烏が胎に入るのを見た、と云ふし 父又、夢に三人の紅衣の女が■■■■

家をめぐつて家をめぐつて、歌ふのを見たと云ふ。 生まれると■眼双目に紫稜を帶ひで、口⻆が髙くあかつて

ゐ、■、て

めづらしい異相である。幼い時から情深く の、無口で いつても 独りで 地上に 目月星辰の図を描いては

靜に眼をつむつて 考ヘてゐたが 十二歲の時に剃髮して、南都の■■觀無量壽寺の寂英法師についてにつ■に師礼をとつて、

專心佛學をおさめた それから五六年の間は、朝は鷄鳴を先に起き夜は、ま博く、■■■■

經三藏に涉つて、書をよんで、いつも時をつげる荒鷄の声をきくまでは 眠らなかつた。が遂に二十 十七 二十歲により■■又には、師の高英を凌ぎ

の事をむかへると 当時の學僧の中には一人も小⻆の右に出るものがないやうになつた。⋯⋯

 

[やぶちゃん注:ここから後は、底本には原稿画像がないパートとなるので、葛巻義敏氏の活字化したものを元とする。]

 

 役の小⻆が大島に流され〔て〕ゐた時の事である 從兄に、賀藤維平とゐふ人があつた、生來の跛に、右の眼が眇で、其上 酒のすきな、文字を知らぬ、大兵の、老人であつたが、ある時車から落ちて 其まま 息がとまつてしまつた、水をふきかけても、藥をのませても 眼をひらかない、處が 丁度騷ぎの最中に 見なれない、六人の紅衣の童が 一枚の朱符を持つて來て、「自分たち〔は〕師父のいいつけで來たのである、此朱符を、速に服せられるやうに、」と云ひすててそれなり、どこかへ行つてしまつた 家人は、怪しみながら、其朱符を維平の口に含ませると、やがて靜に眼をひらいて 丁度 寢てゐた人の起きたやうに、大きな缺伸をしたがそのまま蘇生して、後 十年の壽を保つたと云ふ事である、京の人は 此童を小⻆の使者だと云ひはやした、

 

[やぶちゃん注:以上で、終わっている。]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その5) 田作

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   田作(たつくり)

 

田作は鯷(ひしこいわし[やぶちゃん注:ママ。以下、「いわし」は本文でも何度も出るので、注はしない。「いはし」が正しい。])を乾したるものにて、「延喜式」に『小鰯腊(こいわしきたひ[やぶちゃん注:ママ。])』と、ありて、俗に『伍眞米(ごまめ)』といふ。「漢語抄」「和名鈔」共に、『鯷魚(しぎよ)』を『比師古以和之(ひしこいわし)』と訓ず。『ひしこ』、一名『かたくち』、又名(またのな)『せぐろいはし』。此(この)小魚(こうを)は、『鰮魚科(をんぎよくわ)』に屬す。身の長さ、五寸位(くらい[やぶちゃん注:ママ。])を極度(きよくど)とす。其形(そのかた)の「いわし」に、較(やヽ)、類(るい)するを以て、世人(せじん)、之を混同して『「いわし」の兒(こ)』とし、又、『小鰛(こいわし)』と云ふ等(とう)、各地、皆、同(おな)し。然(しか)れども、『ひしこ』の名は『ひしこいわし』の畧(りやく)にして、『かたくち』の名は、下顎(したあご)、小《せう》にして、無(なき)が如きより、名(なつ)けたり。故に、俗は「ごまめのはぎしり」と云ふ諺(ことわざ)あり。是は、『齒ぎしりするも合(あ)ふことなし』との義にして、齟齬(そご)することを云ふ。是は『ひしこ』を形容すと云(いふ)へし。『ごまめ』は『田作』のことにして、乾物(ほしもの)を云ふ。又、「せぐろいわし」の名は、背部、深藍色(しんらんしよく)、幾(ほとん)ど、黑色(こくしよく)の看(くわん)をなすにより、名(なづ)く。是亦(これまた)、「いわし」と異(ことな)る所なり。此「ひしこ」の長(ながさ)、寸許(ばかり)の者を乾(ほし)たるは、『いりぼし』・『にぼし』・『ちりめんざこ』等(とう)の名あり。然(しか)れども、此內(このうち)には、『いわし』の兒(こ)も、交(まじ)りて、あり。故に、必ず、『ひしこ』のみとは、云ひかたし。又、『たゝみいわし』と云(いふ)は、『「いわし」兒(こ)』なれども、亦、『ひしこ』も交(まじ)るならん。『しらすほし』は、『しらす』の乾物(ひもの)にして、『しらす』は『ひしこ』と異(ことな)り、鱒科(まんくわ[やぶちゃん注:ママ。「ますくわ」の誤植。])に入(い)るべき小魚(しようぎよ[やぶちゃん注:ママ。「せうぎよ」。])にして『しらうを』と(ことな)り。以上、示す如きも、世人、之を混科(こんくわ)するのみならず、往々(をうをう[やぶちゃん注:ママ。「わうわう」。])、混淆(こんこう)するにより、遂(つい)に、辨別(べんべつ)しがたきに至るが如し。此ものは、本邦、往古(むかし[やぶちゃん注:二字へのルビ。])より、歲賀(さいが)、又ハ、婚儀の賀膳(かぜん[やぶちゃん注:ママ。一般には「がぜん」。])に供(きやう)し、民間日用の常菜(じやうさい)に用ひ、亦、稻粟(いなあは)の肥料とも、なし、水產物中の貨殖(くわしよく)[やぶちゃん注:「利殖」に同じ。]たり。而して、『ひしこ』の小(しよう[やぶちゃん注:ママ。])なるを、『ちりめんいわし』とも、いふ。之を、生のま〻、簀干(すぼし)にしたるを『たゝみいわし』といふ。『ひしこ』を『ひらご』といふ所も、あり。

[やぶちゃん注:まず、ウィキの「田作」を引く(注記記号はカットした)。『田作、または田作り(たづくり、たつくり)は、カタクチイワシ』(条鰭綱ニシン(鰊)目ニシン亜目カタクチイワシ(片口鰯)科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシEngraulis japonicus )『の幼魚』(成魚は最大長で十八㎝、標準体長は十四㎝であるが、田作を製造している複数の業者の記載を見るに、傾向としては、より小さいものの中でも乾燥後に戱色に輝くものを上品とし、概ね四、五~七㎝のものを選んでいるようである)『の乾燥品、および』、『それを調理した料理。別名、ごまめ(鱓、五万米、五真米、古女)、ことのばら。正月のおせち料理、祝い肴』(ざかな)『として欠かせないものの一つである』。『乾燥させた小さいカタクチイワシを乾煎りし、冷ましてから、醤油、みりん、砂糖、赤唐辛子少量を煮詰めた液を絡めてつくる』。『健全』『を意味する「まめ」の字が入ること、豊作を祈念する祝い肴であることから』、古く『京都御所において年始の儀式用に用いられたことが、正月祝いや祝儀としてのはじまりとされる。田植祝い(さなぶり)』(平凡社「百科事典マイペディア」に拠れば、『田植終了後,田の神を送る行事。〈さのぼり〉とも,西日本では〈しろみて〉とも。田や水口(みなくち),屋内の荒神や竈(かまど)神に苗を供え,田植に参加した人を招いて祝宴をはり(早乙女(さおとめ)を特に上座にすえた),のち』、『忌』(いみ)『ごもりを行った。今日では』、『その祝宴が消滅し,忌ごもりが転じた単なる休息の日としている所も多い。』とあり、同社「世界大百科事典」には、『〈さ〉は田植もしくは田の神を意味し,サナブリはこの神が昇天するサノボリの転訛といわれる。地方ごとの呼称も多く,サノボリは四国,九州地方に,サナブリは東北,関東地方に多い。北陸,中国地方にはシロミテという地域もある。シロは植田,ミテは完了の意味で,神事としての意識が薄れてからの呼称と思われる。』とあった。)『でも』、『豊作を祈念し』、『食べられた』。『田作りという名称は、干したイワシ(主にカタクチイワシ)を「干鰯(ほしか)」と称して、田畑の高級肥料(金肥)として使われていた事に由来し、豊作を願って食べられた』。『別名のごまめの語源は「細群」(こまむれ)だが、祝い肴であることから「五万米」「五真米」の文字があてられたとする説、目がゴマのように黒いことからごまめの名がついたとする説、豊穣を祈ったことから「五万米」と名付けられ、転訛したとする説などがある』。『ごまめという単語を使ったことわざとして』『ごまめの歯ぎしり』『がある。実力の無い者が、無闇に悔しがったり』、『ジタバタとすることの例えである。』とあった。

「鯷(ひしこいわし)」はカタクチイワシの異名。「干小鰯(ほしこいはし)」のハ行内の音転訛によるものであろう。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のカタクチイワシのページの「地方名・市場名」に「ヒシコイワシ・ヒシコ」(青森県・三重県鳥羽市答志島)・「イシコイワシ」(東京)・「シコ・シコイワシ」(東京・神奈川県江ノ島)とある。なお、似て非なるものに「へしこ」があるので言っておくと、これは、青魚に塩を振って塩漬けにし、さらに糠漬けにした郷土料理、及び、水産加工品で、福井県若狭地方・京都府丹後半島・石川県の伝統料理・越冬保存食である。当該ウィキに拠れば、『名前の由来については、漁師が魚を樽に押し込むことを「へし込む」と言ったことから』、『「へし込まれた物」が略されて「へしこ」となったという説、魚を塩漬けにする際に滲み出てくる水分のことを「干潮(ひしお)」と呼んだことから、これが訛ったものであるとする説、アイヌ語で「へしこ(pe-si-kor)」=「滲み出てくる水分が・それ(味、保存性)を・産む」に由来する説(萱野茂『アイヌ語辞典』)などがある。』とある。私は、二〇〇七年の冬に行った左京区花背(はなせ)の美山荘(みやまそう:私の永遠の一押しの宿である)で初めて食し、大好物となった。

「小鰯腊(こいわしきたひ)」「腊」は漢語で、音は呉音「シヤク(シャク)」・漢音「セキ」で、広義の「乾し肉・よく乾燥させた肉の一片」の意である。和訓としては、現代仮名遣「ほじし・きたい」で、やはり「魚や鳥などを丸干しにしたもの」を指す。「延喜式」は平安時代中期の編纂であるが、既にこの「きたひ」は、奈良時代末期成立の「出雲国風土記」・「万葉集」に用例がある。なお、前者(「嶋根の郡(こほり)」の「朝酌(あさくみ)の促戶(せと)の渡(わたり)」の項)は「大(おほ)き(ちさ)き雜(くさぐさ)の魚」、「或(ある)は日に腊(きたひ)を製(つく)る」)は「魚の丸干し」であり、後者(巻第十六・三八八六)は「難波」の「蘆蟹(あしがに)」の塩漬けである。

「漢語抄」「楊氏漢語抄」で、別名「桑家漢語抄」(そうかかんごしょう)とも言い、奈良時代(八世紀)の成立とされる漢語辞書であるが、散佚して残っておらず、「和名類聚鈔」等に逸文で残るのみである。

「和名鈔」国立国会図書館デジタルコレクションの当該部(右丁四行目)を見られたい。

「鰮魚科(をんぎよくわ)」「鰮」は「鰛」の正字で、「鰯」と同じ。「イワシ」は、マイワシ科のマイワシ(ニシン(鰊)亜目ニシン科ニシン亜科マイワシ(真鰯)属マイワシ Sardinops melanostictus)と、ウルメイワシ(潤目鰯)科のウルメイワシ(ニシン科ウルメイワシ亜科ウルメイワシ属ウルメイワシ Etrumeus teres )、本カタクチイワシ科のカタクチイワシの計三種を指す人為的分類で、生物上の「類」の名ではない。

 

淸國へ輸出するのはじめは、明治十年[やぶちゃん注:本書は明治一九(一八八六)年刊。]にして、橫濱港の商(せう)、串田八百吉(くしだやをきち)の見込(みこみ)を以て、始めて、輸出を試みしが、淸國、凶荒の際にて、大(おほい)に嗜好に適(かな)ひ、倍々(ますます)、盛んに赳(をもむ)き、一旦は、一ヶ年、大約(おほむね)、拾五、六萬圓の多きに至りしが、荷造(にづくり)の惡(あし)きが爲めに、價格を落(おと)し、去る十七年の輸出額は、二百四十四萬〇九百九十八斤[やぶちゃん注:千四百六十四・五九八八トン。]、其價(そのあたい[やぶちゃん注:ママ。])、五萬四千九百拾壹圓に至れり【十七年、長崎縣の調査は、仝港《ぜんかう》輸出高三十七萬斤[やぶちゃん注:二百二十二トン。]、價《あたひ》七萬五千圓、橫濱仝《どう》[やぶちゃん注:「同」の異体字。]百七十萬斤[やぶちゃん注:百二トン。]、價五萬〇四百九十圓なり。】)。本邦の商家は、荷造等(とう)の事に意を留(とめ)るもの少(すくな)しといへども、橫濱にて、再び、不廉(ふれん)なる[やぶちゃん注:「値段が安くない」の意。]藁繩(わらなわ[やぶちゃん注:ママ。])を買人(かいい)るゝ等(とう)の諸費を要するにより、改良せざるべからず。

[やぶちゃん注:「串田八百吉」「乾貝並貝柱の說(その12) 乾蠣」で既出既注。]

 

此(この)田作の乾製法は、日乾(ひぼし)するに過(すぎ)ざれども、此他(このた)、煑乾(にぼし)、鹹乾(しほぼし)の製あり。然(しか)れども、輸出するは白乾(しらほし)なり。而して、乾方(ほしかた)の不良なるものは、大(おほい)に價格を落(おと)すこと、あり。注意すべし。

 

2026/07/29

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 山草類 上卷・黃精

 

Ousei

 

わうせい   黃芝 戊已芝

       菟竹 救窮草

黃精

       埀珠 野生薑

       米餔 重樓

ハアン ツイン   龍銜 仙人餘糧

 

本綱黃精【又名雞格又名鹿竹】山野皆有之子亦可種其葉似竹而

不尖或兩葉三葉四五葉俱對節而生莖梗柔脆本黃末

赤四月開青白花狀如小豆花結子白如黍粒亦有無子

者根如嫩生薑而黃色又其根橫行狀如萎甤俗采其苗

煠熟泡去苦味食之【名筆管菜】二八月采根九蒸九暴作

[やぶちゃん注:「煠」過去、「蓮」等にも出たが、「煠」は原文では、「つくり」の上に「云」があるのだが、このような漢字はない。但し、引用元の「本草綱目」を、「漢籍リポジトリ」の卷十二」の「草之一【山草類上一十三種】」の「黄精」で確認したところ(ガイド・ナンバー[036-34b]の四行目以降)、同[036-36a]の一行目に、この字体の字が画像で組まれてあった。しかし、この字には良安が『ユテヽ』(茹でて)と振っているので、特異的に、「煠」(その意を持つ場合の音:サフ(ソウ)/ゼフ(ジョウ))で訂した。

果黃黒色而甚甘美【忌梅實】

氣味【甘平】 補中益氣除風濕安五臟久服輕身延年不

 飢補五勞七傷

博物志云昔黃帝問天老曰天地所生有食之令人不死

者乎天老曰太陽之草名黃精食之可以長生太陰之草

名鉤吻不可食之入口立死人信鉤吻殺人不信黃精之

益壽不亦惑乎

△按黃精【和名於保惠美一名夜末惠美】形狀𬜻和相似而倭者味帶苦

 出於河州金剛山者良江州高島郡者次之武州前澤

 又次之

 今所渡者多萎甤也藥肆取肥者爲黃精瘦者爲萎甤

 又云黃色節高者黃精黃白色節低者萎甤也

 

   *

 

わうせい   黃芝《わうし》 戊巳芝《ぼしし》

       菟竹《とちく》

       救窮草《きうきゆうさう》

黃精

       埀珠《すいしゆ》

       野生薑《やしやうきやう》

       米餔《べいほ》 重樓《ぢゆうらう》

龍銜《りゆうがん》

ハアン ツイン   仙人餘糧《せんにんよりやう》

 

「本綱」に曰はく、『黃精【又の名、「雞格《けいかく》」。又の名、「鹿竹《ろくちく》」。】、山野、皆、之《これ》、有《あり》。子《み》も亦、種《うう》べし。其《その》葉、竹に似て、尖《とが》らず。或《あるいは》、兩葉《りやうえふ》・三葉《さんえふ》・四《し》、五葉《ごえふ》、俱《とも》に、節に對して、生ず。莖-梗《けいかう/くき》、柔脆《じうぜい/やはらかにしてもろく》して、本(《も》と)は黃《き》、末《すゑ》は赤し。四月に、青白花《せいはくくわ》を開く。狀《かたち》、小豆《あづき》の花のごとく、子《み》を結ぶ。白くして、黍《きび》の粒《つぶ》ごとく、亦、子《み》、無《なき》者≪も≫有り。根、嫩《わか》き生薑《しやうきやう/しやうが》のごとくにして、黃色。又、其《その》根《ね》、橫行《わうかう》の狀《かたち》≪を成し≫、「萎甤(いずゐ)」のごとし。俗、其《その》苗《なへ》を煠(ゆ)で熟し、苦味《にがみ》を泡去《あは≪とともに≫さり》、之≪を≫食ふ【「筆管菜《ひつくわんさい》」と名《なづ》く。】。二、八月、根を采《と》り、九《く》たび、蒸《む》し、九たび、暴《さら》≪して≫、果《く》はんと作《な》す。黃黒色にして、甚だ、甘美≪なり≫。【梅《うめ》の實《み》を忌《い》む。】。』≪と≫。

『氣味【甘、平。】』『中《ちゆう》を補し、氣を益《えき》し、風濕《ふうしつ》[やぶちゃん注:リュウマチ。]を除き、五臟を安《やすん》ず。久《ひさし》く服すれば、身《み》、輕≪く≫、身《み》、年《とし》を延《のば》≪し≫、飢《うゑ》ず、五勞七傷《ごらうひちしやう》を補《おぎな》ふ。』≪と≫。

『「博物志」に云《いはく》、『昔し、黃帝《かうてい》、天老《てんらう》に問《とひ》て曰く、「天地の生《しやう》する所、之を食《くひ》て人をして死なざる者、有るか。」≪と≫。天老が曰《いはく》、「太陽の草《くさ》、『黃精』と名《なづ》く。之を食《くひ》て、以《もつ》て、長生《ちやうせい》す。太陰《たいいん》の草、『鉤吻(いぬくさ)』と名づく。之を食ふべからず。口に入るれば、立処《たちどころ》に[やぶちゃん注:「処」は訓点にある。]死す。人、『鉤吻』、人を殺すことを信じて、『黃精』の壽《じゆ》を益《えき》すことを信せず。亦、惑《まどひ》とはせざるや✕→亦、惑《まどひ》ならずや。」。』≪と≫。』≪と≫。

△按ずるに、黃精【和名、「於保惠美《おほゑみ》」。一名、「夜末惠美《やまゑみ》」。】、形狀、𬜻和(くわわ)[やぶちゃん注:中華と大和。]、相似《あひに》て、倭の者は[やぶちゃん注:この「ハ」は、「倭」の訓点で「ノハ」とあるのを誤刻と断じて分離し、「者」に附した。]、味、苦(にが)みを帶ぶ。河州《かはち》≪の≫金剛山《こんがうさん》より出《いづ》る者、良し。江州《あふみ》高島郡《たかしまのこほり》の者、之≪れに≫次《つぐ》。武州《むさし》の前澤《まへさは》、又、之《これ》≪に≫、次《つぐ》。

 今、渡る所の者、多《おほく》は「萎甤《いずゐ》」なり。藥肆《やくし》、肥《こえ》たる者を取《とり》て、「黃精」と爲し、瘦(やせ)たる者を「萎甤」と爲《なす》。又、云《いはく》、『黃色≪の≫節《ふし》高き者は「黃精」、黃白色≪の≫節低き者は「萎甤」なり。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:この「黄精」は、

単子葉植物綱キジカクシ(雉隠し)目キジカクシ(=クサスギカズラ(草杉蔓))科スズラン亜科アマドコロ(甘野老)連アマドコロ属Sibirica 節カギクルマバナルコユリ(鈎車葉鳴子百合) Polygonatum sibiricum

である。日本には自生しない。しかし、本邦には、近縁種の、

ナルコユリ(鳴子百合) Polygonatum falcatum

が、本州・四国・九州、及び、朝鮮半島に分布し、本邦では平安中期には、このナルコユリが「黃精」として使用されていた(後で引用で示し、更に良安の附言部分への注で明らかにする)。

「熊本大学薬学部薬用植物園 植物データベース」の「カギクルマバナルコユリPolygonatum sibiricum Delar. ex Redouté」に拠ると、『中国,モンゴル,ダフリアに分布し,山地の低木林などに生える.』とあり(「ダフリア」はウィキの「ダウリヤ」によれば、『ダウリヤ(ロシア語:Дау́рияダウーリヤ;ダウリア、ダフリア、ダフリヤ、ダウーリアとも)とはザバイカルと沿アムール西部の17世紀以前の古称。17世紀中ごろまでダウール族の領域であったことに由来する』。当該地方は、『バイカル・ダウリヤ(Байкальская Даурия - ヤブロノイ山脈までのザバイカル地域南部』、及び、『セレンガ・ダウリヤ(Селенгинская Даурия - セレンガ川の東の領域』、『ネルチンスク・ダウリヤ(Нерчинская Даурия - ヤブロノイ山脈から東の領域』とある。)、『多年草.草丈5090 cm.根茎は横に伸び,茎は直立するが上部は他に巻き付く.葉は無柄で線状披針形,46枚が輪生する.花は腋性で,24個の散形花序となり,白か淡黄色をしている.液果は球形,熟すと黒紫色.』で、「花期」は『5月』、「生薬名」は『黄精(オウセイ)【局】』、「薬用部位」は『根茎』とある。「成分」は、『フラボノイド(nicotiflorin, rutin, sophorabioside)』である。「薬効と用途」に『滋養強壮,補気作用があり,胃腸虚弱や慢性の肺疾患,食欲不振,咳,糖尿病などに用いる.リウマチや痛風などで体が弱っている人にもよい.焼酎漬けは強壮作用があり,体力が付く.』とある。他に、「福田龍株式会社」の「オウセイ(黄精)」PDF)も、本邦のナルコユリをも示していて、江戸時代の内容も非常に参考になるので、引用する。「語源」の項。『 Polygonatum : ギリシャ語の「多い」(poly)+「膝、節」(gonu)根茎に多くの節があることにちなんでいる。falcatum : falcatus=鎌状の」という意味で、葉が鎌状であることから。和名のナルコユリは、花が並んで下垂する状態を、水田で害鳥を追い払う鳴子にたとえたもの。黄精とは、根茎が黄色の強精薬であることから名付けられたという。また、精を出しすぎて物が黄色に見えるとき、それを回復させる秘薬という説明もある』。「基原」に(学名配置の関係上、かくした)、

   《引用開始》

ナルコユリ Polygonatum falcatum

カギクルマバナルコユリ Polygonatum sibiricum

 Polygonatum kingianum

 Polygonatum cyrtonema

ユリ科 多年性草本

黄精は、本来中国産のカギクルマバナルコユリの根茎を指すが、日本では近縁種のナルコユリが代用として用いられてきた。

ナルコユリは同属植物のアマドコロ[やぶちゃん注:アマドコロ属アマドコロ基本変種アマドコロ Polygonatum odoratum var. pluriflorum ]とよく似ているが、アマドコロの根茎は生薬の玉竹(ギョクチク、別名イズイ[やぶちゃん注:本文の「萎甤《いずゐ》」である。])である。しかしこのアマドコロ属は非常に種類が多く、区別しがたいものも少なくない。このため薬材では太いものを黄精、細いものを玉竹として扱っていることもある。日本の民間では江戸時代に滋養・強精薬としてブームとなり、砂糖漬けにした黄精が売られていた。現在でも東北地方には黄精のエキスを入れた黄精飴が売られている。黄精に砂糖を加え、焼酎につけたものを黄精酒といい、精力減退や病後回復の滋養・強壮薬として知られている。小林一茶も黄精酒を愛飲したと書き記している。今日でも滋養・強壮の目的で家庭薬やドリンク剤に黄精が配合されている。

   《引用終了》

以下、「薬用部分」は『根茎(蒸したものを用いることが多い)』、「産地」は『日本(ナルコユリ)、中国(カギクルマバナルコユリ)』、「主な成分配」に『糖体:エピメジンフラボノイド:イカリインアルカロイド:マグノフリン』、「主な薬効」に『滋養強壮薬、虚弱者や病後の体力増強、精力減退、糖尿病、肺結核に用いる。』とし、「代表的処方」として、『【黄精湯】』『オウセイトウ』『病後の衰弱、慢性病による消耗性の栄養不良に用いる。(処方内容)』『黄精/枸杞子/生地黄/黄耆/党参』とある。最後に「文献報告」として【脂肪生成抑制】』と『【骨粗しょう症抑制】』の二件の英文論文データが紹介されてある。

「莖-梗」小学館「日中辞典」に、『“茎”は一般的な「茎」.“秆”は中空で節のあるもの(ムギ・アサなど)や根元から広がっている「茎」をさす.“梗”は,花・草・野菜の「茎」をいうが,果実のついた枝もさす.』とある。

「五勞七傷」東洋文庫後注に、『心労・肝労・脾勞・肺労・腎勞など、五臟のつかれによって、陰寒・陽萎・裏急・精漏・精少・精清・小便頻数などの症狀のでること。』とある。

「博物志」三国時代の魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)が書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集。全十巻。「維基文庫」の電子化物で探したが、見当たらない。但し、同書の原本はもっと内容が多かった(一説に四百巻あったものを武帝が削除を命じたとも言う)ともされる。

「黃帝」中国古代の伝説上の帝王で、五帝の第一。炎帝(神農氏)の末に蚩尤(しゆう)の乱を平らげて天子となり、衣服・舟車・家屋・弓矢などの生活用具を初めて作るとともに、文字・音律・暦などを制定し、また、薬草を試用して人民に医術を教えるなど、人類に文化的生活を享受させた最初の帝王とされる。この黄帝伝説は「書經」「詩經」などの古文献には見えず、戦国末の五行説の流行に伴って、先行の各種の神話伝説を基に、徐々に形成された比較的新しいものである。また、道家末流によって老子に先立って開祖とされ、その所説に附会した書が作られて、漢初には「黄・老の学」が流行した。後漢以降は神仙術や道教と結んで神格化された(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「天老」黄帝に仕えた高官で、知恵・兵法・天文を授けた師とされる伝説上の人物。

 さて、ここまで、「博物志」の引用を含めて「本草綱目」の引用であり、「漢籍リポジトリ」の「卷十二上」の「草之一【山草類上一十三種】」のガイド・ナンバー[036-34b]の「黄精」の項のパッチワークである。

『黃精【和名、「於保惠美《おほゑみ》」。一名、「夜末惠美《やまゑみ》」。】』ここが重大なポイントである。平安中期の貴族・医師であった丹波康頼(たんばのやすより 延喜一二(九一二)年~長徳元(九九五)年)が永観二(九八四)年に「醫心方」全三十巻を編集、朝廷に献上しているのだが、これは、唐代の医書を参考にして、当時の本邦の医学全般の知識を網羅したもので、現存する日本最古の医学書である。而して、そこに、この和名が記載されているのである。中華民國のサイト「中醫笈成」で完全に電子化された「醫心方」があり、その「諸藥和名第十」の「第七卷 草上之上四十一種」に、良安が示した通りの、

   *

黃精 (和名於保惠美,又阿末奈。一名也萬惠美。)

   *

とあり、そして、「斷谷方第七」に、

   *

服黃精法:

《大清經》云:取黃精根,刮去鬚毛,淨洗,細切,使得一斛,以水二斛五斗,煎之,微火,從旦至夕。藥熟出,手挼悉令破,以囊漉之,得汁還著釜中煎令可丸,取其滓,搗作末,納著釜中,和合相得,藥成,宿不食,旦服如雞子,日三,絕谷不飢。取黃精三月七日為上時矣。(中嶽仙人方。)

以春取根,洗,切,熟蒸曝乾,末服方寸匕。

採黃精,常以八月二日為上時,山中掘而生食,渴飲水,黃精生者搗取汁三升。於湯上煎令可丸,如雞子。食一枚。日再,二十日不知飢。(老子服方。)

   *

に、中華の引き写しではあるものの、具体な採取法・処理法・薬剤製法が記されている。対象疾患は病的な「飢え」を消すこと、ひいては、寿命を延ばすことに繋がる。

 この場合、まず、気になるのは、三つの和名、また、良安が選んだ二つの和名では、ある。恐らくは、これ、

本邦産のナルコユリ Polygonatum falcatum か、或いは、アマドコロ属アマドコロ基本変種アマドコロ Polygonatum odoratum var. pluriflorum か、はたまた、アマドコロ属Polygonatum の別名一種であろうか?

 いやいや、しかしだ、そもそも、平安時代にあって、外見上、似ている同属種を、別々に分別命名して認識していたと考えるより、これは、三種の異名ではなく、

一番、考えられるのは、ナルコユリの三つの異名なのではなかろうか?

「於保惠美《おほゑみ》」は「大笑み(大きく微笑むこと)」であり、「夜末惠美《やまゑみ》」は「山笑み」なのではないか?

最も深刻な「飢え」を消し、健康を保ち、「大」いに「笑み」を続ける力を与えて呉れる「山」野草に相応しい

と、私は思うのである。識者の御意見を乞うものである。

 なお、良安は、はっきりと、中国から渡来した「黄精」とは、「萎甤」とは違う種であると認識しており、和名とする「於保惠美」と「夜末惠美」も、ちょっと違うかも知れないな、と、内心、考えているように私には、見える。では、

☆「それらが、種として異なることが江戸時代の人間にしっかりと判ったのは、いつ頃なのか?

ということは、たまたま「黃精」を検索してゆくうちに、遂に、見つけた!!

「国立国会図書館 次世代システム開発研究室」の「本草図譜  1 (山草類1 48種)」(岩崎常正著・大正一〇(一九二一)年)のここに、無論、図入りで、

   *

黃精(わうせい)

 享保年中漢種渡る莖細くして

 根大なり脚葉は互生し梢葉は

 對生す花は和產と同じ淺綠色

 實ハ大豆の大さにて熟すれバ黑色也

 これ陳藏器の説に精なり

   *

この最後のそれは、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「黄精」のガイド・ナンバー[036-35b]の二行目以降の、

   *

藏器曰黄精葉偏生不對者名偏精功用不如正精正精葉對生鉤吻乃野葛之别名二物殊不相似不知陶公憑何說此保昇曰鉤吻一名野葛陶說葉似黄精者當是蘇説葉似柿者當别是一物

   *

を指す。而して、このキャプションから、本邦に本物の「黃精」の種子が「享保年中」に持ち込まれ、成育させた、その図なのである。一七一六年から一七三六年までの間である。寺島良安の「和漢三才圖會」の刊行は正徳二(一七一二)年であった。今、少しで、モノホンの生きた「黃精」に逢えたんだよッツ! 良安先生!!!

「河州《かはち》≪の≫金剛山《こんがうさん》」現行では「こんごうざん」とも呼ぶ。奈良県御所市(ごせし)と大阪府南河内郡千早赤阪村(ちはやあかさかむら)との境目にある山。ここ(グーグル・マップ。以下、無指示は同じ)。

「江州《あふみ》高島郡《たかしまのこほり》」現在の滋賀県高島市の大部分。

「武州《むさし》の前澤《まへさは》」現在の東京都東久留米市前沢(まえさわ)。今では、都会の衛星地帯の一角ではあるが、「ひなたGIS」の戦前の地図を見られたい。そこから、まんず、江戸時代は、一帯、全部が、殆んど平地と田圃の「武蔵野」であったと推定出来る。そこら中に「新田」を村名につけているのが判るからね。]

2026/07/28

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その4)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページの四行目から。]

 

 夫れ、本邦の地況(ちけい[やぶちゃん注:ママ。「ちきやう」の誤植。])たる魚䀋(ぎゑん[やぶちゃん注:ママ。誤植。])の利に富むこと、東洋に其比(そのひ)なく、外(ほか)には、淸國に䀋藏魚類の需用者、億を以て數(かぞふ)る、あり。若(も)し、彼(かれ)の需用に適する精製品を輸出するに至らば、其利、巨額に登るべし。目今、本邦より淸國輸出する䀋魚類(ゑんぎよるい[やぶちゃん注:ママ。])は、僅(わづか)に、七、八種にて、其額も、甚だ、少なく、七、八萬圓に過(すぎ)ず。然(さ)れども、明治一、二年頃は、䀋魚を輸出せることなきを以て見れば、漸(やうや)く、其步(そのほ)を進めたりといへども、之を、淸國の需用者(じゆようしや)に比すれば、九年(きうぎう)[やぶちゃん注:ママ。「九牛」の誤植。]の一毛(いちまう)に過ず。然(しか)れば、本邦產䀋藏魚類の輸出は、將來、巨額に登る可きを信ずるなり。現に、長崎・神戶・橫濱等(とう)に來舶の淸國人は、其本、國產の䀋藏魚類を食用となすもの、少(すくな)からず。曾(かつ)て、或淸國人に聞(きく)こと、あり。「該國(がいこく)にて、嗜好する䀋藏魚類の數は、二百餘種にして、一年に消費するの額は、算(かぞ)ゆべからず。」と。然(しか)れども、淸國內部に漫遊せし人の說によるも、古今の書籍の上に就て見るも、其魚類の貴重、且(かつ)、高價(かうか)にして、貧民の口に及ばず。又、香港(ほんこん[やぶちゃん注:ひらがなはママ。])其他、南部の地方にては、西洋人の食用とするもの、あり。然(しか)る時は、之に適する精良品を出(いだ)す計畫、宜(よろし)きを得(ゑ[やぶちゃん注:ママ。])ば、必らず、盛大に至るべし。今、此編には、是まて[やぶちゃん注:ママ。濁点ナシ。誤植。]、多少、淸國に輸出せしものヽ槪況を擧(あげ)て、當業者の參考に供す。

[やぶちゃん注:以下の段落は、本書では特異的に一字下げとなっている。それは、取りも直さず――前の『淸國內部に漫遊せし人の說による』とする内容が――まさにその人の語った内容が――以下であることを意味している、と判断出来るものである。されば、ブラウザ上、一字下げでは上手く出来ないから、二重括弧で括って示すこととした。

『凡そ、乾魚(ほしうを)、䀋魚(しほうを)、共に濕敗(しゆうはい[やぶちゃん注:「しつはい」の誤植。])し易く、貯藏者をして、大(おほい)に遺憾ならしむるは、本邦の氣候濕潤、殊に梅雨(ばいう)等(とう)の如き、多濕(たしゆう[やぶちゃん注:ママ。])のことあるに因ると雖も、尙、世人(せじん)の濕敗の理を知らざると、乾燥するの方法、宜(よろし)からざるとの、二つに、あり。今、若(もし)、乾燥は何の理(り)により、濕敗は、何の理によると云ふ、物理上より、眼(がん)を注ぐときは、乾燥するの方法より、貯藏して濕敗せざるの方を、案出すべし。岩手縣下にて、鰑(するめ)を乾す噐械の發明などは、即ち、乾燥は、空氣の流通を速(すみやか)ならしむるにあるの理(り)にして、實(じつ)に、物理に恊(かな)ふもの、と、云ふべし。又、世上に『亞米刺加乾(あめりかぼし)』と云ふ͡と[やぶちゃん注:約物。「こと」と読む。]、あり。長き竿上(さほのうへ)に吊りて、乾(ほ)す。是(これ)に日温(じつおん)の爲(た)めに非(あら)ずして、空氣通暢(くうきつうちやう)の爲(ため)なることは、理に於(おい)て、明(あきら)かなり。今(いま)、世(よ)の乾魚(ほしうを)、䀋魚(しほうほ[やぶちゃん注:ママ。誤植。])等(とう)の水氣(すいき)、去(さ)る度(ど)は、果(はたし)て、前(まへ)の理(り)に、合ふや否(いなや)を究(きは)むべし。此外(このほか)鹽の良否は、鹽魚に於て、最(もつとも)、關係、多し。又、乾魚にハ、油脂(ゆし)の性質に就(つ)き、硏究を、せざるべからず。是(これ)、乾方改良(ほしかたきりゃう)の要點なり。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「亞米刺加乾(あめりかぼし)」幾つかの古い報告書の中に「亞米刺加乾貨物船」というフレーズはあったが、鰑に関してのそれは、見当たらなかった。識者の御教授を乞うものである。

「空氣通暢(くうきつうちやう)」空気がよく通る・換気がスムースに行われるといったシステムとしての表現としては、腑に落ちる。]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その3)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページの五行目から。]

 

 䀋魚(しほうを)は漢名『䱒魚(ゆうぎよ)』なれども、淸俗は、渾(すべ)て『鹹魚(キヤンユ)』と稱す。即ち、是、魚類を盬漬(しほづけ)になしたるもの〻、總稱なり。本艸書(ほんさうしよ)、「正字通(しやうぢつう[やぶちゃん注:ママ。「せいじつう」でよい。])」・「行厨集(ぎやうとうしう[やぶちゃん注:ママ。])」等を案ずるに、淸國には、䀋魚の製方、數種(かずかず)ありて、微(すこし)く、鹽を用ひたるを、『鰎(けん)』といひ、多く䀋を用ひたるを『滷魚(ろぎよ)』といひ、䀋漬にして壓(を[やぶちゃん注:ママ。「お」でよい。])したるを『鹹魚(かんぎよ)』とし、䀋にて器物の中(うち)に漬込(つけこみ)たるを『醃魚(ゑんぎよ[やぶちゃん注:ママ。「えんぎよ」でよい。])』といふ。本邦にても亦、古來、『一䀋(ひとしほ)』・『一夜䀋(いちやしほ)』・『一日䀋(いちにちしほ)』。『煑䀋(にしほ)』・『濱䀋(はましほ)』・『白䀋(しらしほ)』・『鹽壓(しほをし[やぶちゃん注:ママ。])』等(とう)あり。又、『鹽切(しほきり)』・『鹽引(しほひき)』等あり。

[やぶちゃん注:「䱒魚」「䱒」は漢語で、音は「エフ(ヨウ)・オフ(オウ)」で、意味は「魚の塩漬け」である。

「鹹」は呉音「ゲム(ゲン)」、漢音「カム(カン)」で、「塩気・塩分」「塩辛い・苦い」の意。

「鹹魚(キヤンユ)」現在の拼音では“xián yú”で「シィェン (ユ)イー」。

「鰎(けん)」音は「ケン・コン」で「塩干にした魚」の意。

「滷魚(ろぎよ)」「滷」は「塩辛い」「にがり」の意。

「醃魚(かんぎよ)」「醃」は「醬(ひしお)」「肉醬(ししびしお)」の意。

「濱䀋(はましほ)」水揚げした魚の鮮度を保つために濃い塩水につける法。或いは、砂浜で作る「揚げ浜塩」式造塩法を指す。

「白䀋(しらしほ)」一つは、海水を精白した上級塩。また、それに昆布・椎茸・帆立貝等の旨味を凝縮して作った特製調味塩を指す。

「鹽壓(しほをし)」ご存知の通り、野菜等に塩を振り、重石(おもし)をかけて漬けること。また、その漬物。

「鹽切(しほきり)」米麹と塩を均一に混ぜ合わせる作業、又は、その状態にした「塩切り麹」を指す。主に味噌などの発酵食品を作る際の下準備である。

「鹽引(しほひき)」「塩引(しおび)き鮭(さけ)」に代表されるものであろう。「越後村上うおや」公式サイト内の「塩引き鮭の説明」以下に、『材料は鮭と塩のみ、添加物を一切使わず 自然の力だけで仕上げる究極のスローフード。そして村上独特の厳しい寒風も塩引鮭をおいしく仕上げるためには欠かせません。鮭と言えば』、『おなじみの「新巻鮭」との 最大の違いはまさにここ!』 『適度な低温と湿度、そして北西の潮風が運んでくる塩分と乳酸菌。これらの要素が絶妙に組み合わさって低温発酵を促し、鮭の持つ旨みを極限まで引き出すのです。』とあり、「塩びき鮭の歴史」には、『「鮭のまち」として知られる新潟県村上市。その調理法は100種類を超えるといわれ、身はもちろん頭や内蔵、中骨や皮に至るまで捨てることなく味わいつくします』。『村上の人々はなぜ、それほどまでに鮭を大切にするのでしょうか』。『村上と鮭。その歴史は古く、平安時代には 遠く京都の王侯貴族に三面(みおもて)川の鮭が献上されていたことが記録に残っています』。『越後村上は平安の昔、小泉の庄と呼ばれ、中御門大納言家(藤原氏)の荘園であり、村上を流れる三面川の鮭も、この頃より都に献上されておりました』。『古代、越後からの税は「鮭」で、鮭が越後の代表的な産物であることがわかります』。『また、古い書物には「塩引き鮭」の記述がいくつも見られます』。『平安時代の中期法典「延喜式」』『には越後国が納める物品として楚割鮭、鮭内子(こごもり)(子籠)もその中に記録されています』。『楚割(スワヤリ/ソワリ)鮭は雄鮭の身を卸して、魚肉を細かく割り、塩を附して干した物です。鮭内子(こごもり)は 雌のはら子を別途塩漬けにして腹に抱かせた塩引き鮭と言えます。この時代にはすでに塩引鮭製法が確立していたわけです。また、鮭の塩蔵品、乾燥品を納める国は越後、越中、信濃の三か国で、その中でも塩引き鮭を指定されていたのは越後一国だけです』。『平安時代の後期「今昔物語」』には、『次のような塩引き鮭の記述があります』。『「塩引の鮭の塩辛気になる、亦切て盛りたり」』。『鎌倉時代の前期「宇治拾遺物語」』には、『越後国から京へ運ばれる塩引き鮭を盗む頂禿げたる大童子の話が載っています』。『室町時代の「庭訓往来」』には『「各地から届く特産の品物の中に越後の塩引、隠岐の鮑、周防の鯛⋯」』とあり、『室町時代後期の「色部氏年中行事」』には、『「この中に鮭の加工品として塩引き鮭、乾鮭、筋子、はららご(いくら)、塩引の鮭すし(飯寿司の原点)が記述されています。また正月行事として、当主への挨拶参上と椀飯といわれる主従関係を確認する儀式の中で出される「正月祝儀之膳組」の元旦から三日までの祝膳の中に塩引き鮭が指定されています」。『江戸時代の『本朝食鑑』』には、『塩引き鮭について次の記述があります』。『「越後・陸奥の産は上品である。越州のものは柔らかく奥州のものは堅い。」』とあり、『また、本朝食鑑に子寵(こごもり)の作り方の説明もあります』。『「鮮鮭の鱗・エラをとり、腹を割いて諸腸を捜り棄て、洗浄し、子胞を充填して腹□を封じ、塩水に一昼夜淹ける。次いでこれを採り出し、一両日ほど陰乾にし、乾かしてからまた、初めのように塩水に滝ける。これをさらに探り出し、陰乾して乾いたら、さらに稲草で堅く封じて陰に乾し、一月余を経て収用するのである。これを子寵という。」』と記されています。『堀丹後守直奇の書状』には、『堀丹後守直奇の書状中に村上から江戸に送られた鮭のことが度々見受けられます。塩引鮭は数百尾単位で江戸に送られ、将軍家や大名への贈答用の献上物として使われていました』とある。以下、「塩引き鮭の製造工程」が書かれてあるので、是非、見られたい。]

 

 往古、延喜の朝貢品の如きは、䀋藏(えんざう)の法、精良にして、貯藏、久しきに堪へ、佳味(っかみ)なるものなりしも、中古より廢絕し、漸(やうや)く德川時代に至りて、諸國に於て、舊法を再興し、著名の產、各地より出(いで)たるも、近頃、亦、粗製に流れたり。

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その2)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページの六行目から。]

 

元來、乾魚(ほしうを)の效用は、久しく貯藏して、形狀、色澤(しよくたく)、眞味(しんみ)を失はざるを、貴(たつと)べり。然(しか)るに、近世は、其製の眞(しん)に佳良(かりやう)なるものは。甚(はなはだ)、鮮少(すくな[やぶちゃん注:二字へのルビ。])し。反(かへつ)て、今を距(さ)る一千餘年の昔(むあ)しは、淡乾(しらほし)、鹹乾(しほほし)、ともに精品を製出(せいしゆつ)したり。卽ち、「延喜式」に載する所の者、是なり。其後(そのこ[やぶちゃん注:ママ。])、德川時代に至りては、各藩より、幕府への獻上を良品なりとすれども、近來は、濫造に流れ、其良法の世に行はるゝは、甚(はなはだ)、少なく、產出も僅少(きんせう)となれり。統計年鑑によれば、明治十六年、全國乾魚(かんぎよ)の產額は、貳百六拾六萬九千百九十二貫目に過ぎず。

[やぶちゃん注:「淡乾(しらほし)」しらすを生のまま、または、蒸して干したもの。

「明治十六年」本書刊行は明治一九(一八八六)年。

「貳百六拾六萬九千百九十二貫目」十万九・四七トン。]

 

本邦の水產物中には、淸國の需用に適すべきもの多しと雖ども、彼(かれ)は、我產あるを、知らず、我は、亦、彼の嗜好を解せざるか[やぶちゃん注:ママ。「が」。]爲に、輸出の品類、少しと雖ども、年を逐(をふ)て、其額を增和(ぞうか)[やぶちゃん注:熟語はママ。「增加」の誤植であろう。]するの勢(いきおひ)ありて、明治元年の乾魚輸出額は十七萬八千八百二十七斤、其價五千五百五十五圓に過ぎざりしも、十七年には三百八十五萬八千二百四十八斤、其價拾萬〇九百拾四圓に至れり。

[やぶちゃん注:「十七萬八千八百二十七斤」百七・八八二七トン。

「三百八十五萬八千二百四十八斤」二千三百十四・九四八八トン。]

 

淸國は、陸地、廣くして、海を距(さ)ること、太(はなは)だ、遠し。是を以て、乾魚の需用、多し。其䀋(そのしほ)を用ひずして、乾燥せし魚類を、『柴魚(リヤンユ)』、又は、『乾魚(チユンユ)』と稱して、甚(はなはだ)、貴(たつと)べり。然(しか)れども、我產は、乾製(かんせい)の粗(そ)なるにより、腐爛(ふらん/くされ)し、貯藏に耐へざること、屢(しばしば)あるを以て、終(つひ)に、望みを絕(たゞ)しむること、あり。故に、其種類、甚だ少なく、目今、輸出するものは、田作(たつくり)・目刺(めざし)・鰯乾(いはし[やぶちゃん注:ママ。略訓。])・乾玉筋魚(ほしいかなご[やぶちゃん注:中国語名に和訓したもの。])・乾鱈(ひだら)・乾蝶(ほしかれい[やぶちゃん注:ママ。「ほしかれひ」が正しい。])・乾舒(ほしかます)・𩷧乾物(かさごのひもの)・大鯖(おほさば)・小鯖(こさば)、乾飛魚(ほしとびうを)・三摩乾物(さんまのひもの)・鰺乾物(あじのひもの)・乾火魚(ほしかながしら)・乾鯛(ほしだい[やぶちゃん注:ママ。])・鰹節(かつをぶし)・細魚物(さよりのひもの)[やぶちゃん注:「乾」の脱落であろう。]・乾鯖(ほじにしん[やぶちゃん注:ママ。「ほしにしん」の誤植。])・永良部鰻(えらぶうなぎ)等(とう)の數種に過(すぎ)ず。

[やぶちゃん注「柴魚(リヤンユ)」現行の拼音(北京語をベースにした標準中国語)は“chái yú”(チァィ (ユ)イー)である。「リャンユ」は清の公用語であった満州語で、サケ科Salmonidae、或いは、サケ属 Oncorhynchus を指す語であったようである。

「乾魚(チユンユ)」現行の拼音では、広東語などの南方方言では、“qián yú”(チィェン (ユ)イー)とあって、これに近い。無論、意味は文字通りの広義の「乾し魚」である。

「田作(たつくり)」正月の御節料理の「ごまめ(鱓・五万米・五真米・古女)」としてお馴染みの、カタクチイワシ(条鰭綱ニシン(鰊)目ニシン亜目カタクチイワシ(片口鰯)科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシEngraulis japonicus )の幼魚の乾燥品。以下、概ね、後で独立解説があるので、詳しくは、そちらで注する。

「目刺(めざし)」カタクチイワシやウルメイワシ(潤目鰯:ニシン目ウルメイワシ科ウルメイワシ属ウルメイワシ Etrumeus micropus )などのイワシ類の小魚を塩漬けした後、目から下顎へ竹串や藁を通して、数匹ずつ束ね、乾燥させたもの。

「鰯乾(いはし)」硬骨魚綱ニシン目Clupeiformesに属する海水魚のうち、代表されるマイワシ(真鰯・真鰮)属マイワシSardinops melanosticta、及び、広義にはウルメイワシ・カタクチイワシの総称、または、これらの近縁種を含めたものの総称で、それらを乾製品化したもの。

「乾玉筋魚(ほしいかなご)」条鰭綱ベラ(倍良・遍羅)目 Labriformesイカナゴ(玉筋魚・鮊子)科イカナゴ属イカナゴ Ammodytes japonicus の干物。当該ウィキに拠れば、『イワシなどと並んで、沿岸海域における食物連鎖の底辺付近を支える重要な魚種で』、『釘煮(くぎ煮)』が知られるが、ここは、煮干しを指す。

「乾鱈(ひだら)」広義には、条鰭綱タラ目タラ亜目タラ科 Gadidaeに属するタラ類を指し、本邦では、タラ科マダラ(真鱈)属マダラGadus macrocephalus・タラ属スケトウダラ Gadus chalcogrammus・コマイ(氷下魚)属コマイ Eleginus gracilis の三属三種が分布する。但し、狭義にはマダラを指す。ここは、それらの干物である。

「乾蝶(ほしかれい)」狭義には、アジ目カレイ亜目カレイ科 Pleuronectidaeの干物で、本邦には凡そ三十種が棲息する。しかし、河原田氏は後の各個解説で、「鮃」を一緒に記しているから、広義の「ヒラメ類」=カレイ亜目ヒラメ(鮃)科 Paralichthyidae・ダルマガレイ科 Bothidaeも包括している。詳しくは、そちらで注する。

「乾舒(ほしかます)」アジ目カマス(魳・梭子魚・梭魚・魣)科カマス属 Sphyraena の干物。世界では二十七種を数えるが、本邦産食用種として重要な種は、ヤマトカマス(大和叺・大和梭子) Sphyraena japonica・アカカマス Sphyraena pinguis・アオカマス Sphyraena japonica の三種である。詳しくは、各個解説で注する。

「𩷧乾物(かさごのひもの)」狭義には、条鰭綱カサゴ(笠子・瘡魚)目カサゴ亜目メバル亜科カサゴ属カサゴ Sebastiscus marmoratus の干物であるが、この「𩷧」は「廣漢和辭典」にも載らない国字である。但し、しっくりは、くる。私の大好物である。しかし、何故か、河原田氏は、各個解説を立項していない。狭義のカサゴ属は、当該ウィキでは、四種を掲げている。他には、アヤメカサゴ(文目笠子・文目瘡子)Sebastiscus albofasciatus ・ウッカリカサゴ Sebastiscus tertius Sebastiscus vibrantus である。しかし、最後の和名のないそれは、インドネシア・台湾の海域で新たに発見された、ウッカリカサゴ似た種であるものの、本邦で採集された記載を見出せなかった(二〇一八年で、記載者には日本人の三人が名を連ねてはいる。)。BISMaLにも掲載がない。

「大鯖(おほさば)」条鰭綱サバ目サバ科サバ属マサバ Scomber japonicus の大型個体の干物。

「小鯖(こさば)」これは、マサバの小中型個体の他、マサバ属ゴマサバ Scomber australasicus ・南西諸島にのみ棲息するグルクマ(虞留久満)属グルクマ Rastrelliger kanagurta・同前の分布に稀に棲息するニジョウサバ(二条鯖)属ニジョウサバ Grammatorcynus bilineatus が挙げられる。

「乾飛魚(ほしとびうを)」条鰭綱ダツ(駄津)目トビウオ(飛魚)科 Exocoetidae の干物。詳しくは各個解説に譲る。最も「くさや」で美味いのは、これ!

「三摩乾物(さんまのひもの)」ダツ目ダツ上科サンマ(秋刀魚・青串魚・秋光魚)科サンマ属サンマ Cololabis saira の干物。各個解説に譲る。

「鰺乾物(あじのひもの)」代表種は条鰭綱アジ目アジ科アジ亜科マアジ(真鯵)属マアジ Trachurus japonicus であるが、広義のアジは、マアジを含むムロアジ(室鯵)群・ヨロイアジ(鎧鰺)群・ギンガメアジ(銀紙鯵・銀亀鯵・銀河目鯵)群に分類され、非常に種が多い。各個解説に譲る。

「乾火魚(ほしかながしら)」狭義には、カサゴ目ホウボウ科カナガシラ((金頭・方頭魚・六角魚)属カナガシラ Lepidotrigla microptera であるが、ここでは、ホウボウ科 Triglidae の三赤九属百三十種を含む。各個解説(但し、短い)に譲る。

「乾鯛(ほしだい)」表向きは、条鰭綱ニザダイ目 Acanthuriformes、或いは、タイ科 Sparidaeの、ごく広義のタイ類の干物であるが、本邦で「~タイ」と和名にあってもタイ科に含まれない種が、多数ある。各個解説で検証する。

「鰹節(かつをぶし)」使用種は複数ある。サバ目サバ科マグロ族カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis を筆頭に、マグロ族ソウダガツオ属 Auxisの宗田節(そうだぶし)等がある。各個解説で検証する。

「細魚物(さよりのひもの)」真正のサヨリの干物は、ダツ目ダツ亜目トビウオ上科サヨリ科サヨリ属サヨリ Hyporhamphus sajori である。他に、大型のテンジクダツ属オキザヨリ Tylosurus crocodilus crocodilus もある。各個解説で検証する。

「乾鯡(ほじにしん)」条鰭綱ニシン目ニシン科ニシン属ニシン  Clupea pallasii 。「身欠きニシン」で知られる。各個解説に譲る。

「永良部鰻(えらぶうなぎ)」これは、魚類ではない、南西諸島に棲息し、時に黒潮に乗って、九州以北まで漂流することもある、猛毒を持つ爬虫綱有鱗目コブラ科エラブウミヘビ(伊良部海蛇)属エラブウミヘビ Laticauda semifasciata の干物。各個解説に譲る。]

2026/07/26

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その1)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。]

 

淸國

日本水產圖說下卷

輸出

                河原田盛美  撰

 

   (九)乾魚(ほしうを)並に鹽魚(しほうを)の說(せつ)

本邦の海、河、湖、沼、に產する魚類(うをるい[やぶちゃん注:ママ。])凡(およそ)二百餘種にして、其數(そのかず)、千餘(せんよ)あり。而して、乾魚・䀋魚の法も、千有餘年前より行はれたりと雖も、之に製する魚類は百餘品に止(とヾ)まれり。其中(そのうち)、現今、淸國に輸出するものは、僅(わづか)に二十餘品に過(すぎ)ず。

 

 乾魚は「本朝式」に『䐹(しやう[やぶちゃん注:ママ。正しくは「しう」。])』又は『脯魚(ほぎよ)』とし、「和名抄」に『腊(ほしうを)』または『魥(をさし)』或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は『炒㷶(ひほし)』とあり。是れ、卽ち、乾魚(かんぎよ)にして、『魥(をさし)』とは、繩、或は、竹の類(るひ[やぶちゃん注:ママ。])を以て、貫(つら)ぬき、風乾(かざほし)したるもの、『炒㷶』(しやうび[やぶちゃん注:この「㷶」に当てている崩し字は判読出来ない。カタカナの「ス」に近いが、合わない。取り敢えず、音の一つである「ビ」を相当させた。])とは火乾(ひほし)のものなり。又、「本朝食鑑」に載するところ、生乾(なまほし)、牧乾[やぶちゃん注:これは「枚乾(ひらきぼし)」の誤記である。注で「本朝食鑑」の当該部を示す。]、串貫(くしぬき)、魚條(すはやり)、醃乾(しほほし)、切暴(きりほし)、割乾(わりほし)等(とう)あり。現今、世上に於て製するものは、開乾(ひらきほし)、丸乾(まるほし)、割乾(わりほし)、䀋乾(しほほし)、白乾(しらほし)、簀乾(すほし)、吊乾(つりほし)、串差(くしさし)、切乾(きりほし)、薰製等(とう)なり。淸國に於ても、古しへより、種々(しゆじゆ)の乾製法あり。卽ち、䀋を着(つけ)て乾(ほす)ものを『鯫魚(すうぎよ)』といひ、䀋を着(つけ)す[やぶちゃん注:ママ。「ず」の誤記。]して乾(ほす)ものを『膽魚』、又、『鮝魚(しやうぎよ)』といふ。肉を切(きつ)て乾(ほす)を『脯脩(ほしう)』とし、肉を割(わり)て乾(そす)を『脡脯(ていほ)』とす。亦、陶朱公「致富全書」には、『灸魚(あぶりうを)』、『風魚(かざぼし)』等を載せたり。

[やぶちゃん注:「本朝式」何度も注しているが、「延喜式」に同じ。

「䐹(しやう)」「䐹」は現代仮名遣で音は「ショウ」。意味は「干し魚」。他に「肉を刻んで混ぜる」・「羹(あつもの)/スープ」の意もある。

「脯魚(ほぎよ)」魚の干物。乾し魚(ざかな)。

『「和名抄」に『腊(ほしうを)』または『魥(をさし)』或(あるひ)は『炒㷶(ひほし)』とあり』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板で推定訓読しておく。「卷十六」の「飮食部第二十四」「魚鳥の類第二百十二」である。但し、以上は順序が違う。順に、ここの右丁冒頭、次いで、同右丁の次、最後は、左丁の後ろから四行目である。

   *

魥(をさし/よちよさし) 「唐韻」に云《はく》、『魥は【音、「佉」[やぶちゃん注:これでは、通音にならない。他の資料を点検したところ、これは「怯」の誤刻

である。これならば、呉音「コフ(コウ)」・漢音「ケフ(キョウ)」で完全に一致する。]。今、案ずるに、和名「乎佐之《をさし》」、一《いつ》に云《はく》、「与知乎佐之《よちさし》」。】竹を以《もつ》て、魚《うを》を貫ぬく。復州《ふくしう》[やぶちゃん注:遼寧省に嘗つてあった州。]の界《さかい》より出づ。』≪と≫。

   *

炒𤏛(ひほしのいを) 「唐韻」に云《はく》、『炒𤏛【「早」「備」の二音。「漢語抄」に《はく》、『炒𤏛魚は、【比保之乃以乎《ひほしのいを》」。俗。云《いふ》、「火旱《ひぼし》」。】火乾《ひぼし》なり。』≪と≫。

   *

腊(きたひ) 「唐韻」云≪はく≫、『腒腊《きよせき》【「居」「昔」の二音。和名、『木多比《きたひ》』。】は、乾肉《ほしにく》なり。方言《はうげん》に云≪はく≫、「鳥腊《てうせき》」[やぶちゃん注:鳥の肉を乾した肉。]を「膴《こ》」と曰ふ。【音、「無」、又、音、「武」。】』≪と≫。

   *

『「本朝食鑑」に載するところ、生乾(なまほし)、牧乾、串貫(くしぬき)、魚條(すはやり)、醃乾(しほほし)、切暴(きりほし)、割乾(わりほし)等(とう)あり。現今、世上に於て製するものは、開乾(ひらきほし)、丸乾(まるほし)、割乾(わりほし)、䀋乾(しほほし)、白乾(しらほし)、簀乾(すほし)、吊乾(つりほし)、串差(くしさし)、切乾(きりほし)、薰製等(とう)なり』これは、「本朝食鑑」の「鱗部之三」の「乾魚」の方である(同書には別に「乾魚」の項が、ここにあるが、そこではないので注意が必要)。これは長いので、国立国会図書館デジタルコレクションの元禄一〇(一六九七)年板を示して、各個注としておく。ここが冒頭で、当該箇所は、次のこのコマの【集觧】の三行目以降である。但し、最後の「割乾(わりほし)」は前後を見ても見当たらない。

・「生乾(なまほし)」原文では「生乾(ナマヒ)」である。

・「牧乾(ひらきほし)」本文で割注した通り、誤植で、正しくは「枚乾(ヒラキホシ)」である。

・「串貫(くしぬき)」原文では「串貫(クシヌキ)」。

・「魚條(すはやり)」原文では「魚條(スハヤリ)」。魚の身を細長く切って干した、保存食。漢字では「楚割」とも書き、同じく「すはやり」と訓ずる。現代仮名遣では「すわやり」である。

・「醃乾(しほほし)」原文では、訓読で「醃めて乾す有り」である。読み方は「(䀋(しほにて))しめてほすあり」であろうか。

・「切暴(きりほし)」原文では、訓読で「切て暴す有り」である。読み方は「きりてさらすあり」。

「淸國に於ても、古しへより、種々(しゆじゆ)の乾製法あり。卽ち、䀋を着(つけ)て乾(ほす)ものを『鯫魚(すうぎよ)』といひ、䀋を着(つけ)す[やぶちゃん注:ママ。「ず」の誤記。]して乾(ほす)ものを『膽魚』、又、『鮝魚(しやうぎよ)』といふ。肉を切(きつ)て乾(ほす)を『脯脩(ほしう)』とし、肉を割(わり)て乾(そす)を『脡脯(ていほ)』とす。亦、陶朱公「致富全書」には、『灸魚(あぶりうを)』、『風魚(かざぼし)』等を載せたり。」各個注する。

・「䀋を着(つけ)て乾(ほす)ものを『鯫魚(すうぎよ)』といひ、」「鯫」は、いい意味が、殆んど、ない。「廣漢和辭典」では、第一義に「みごい・にごい」とする。これはコイ目コイ科カマツカ亜科ニゴイ属を指す。ニゴイ Hemibarbus barbus は日本固有種であるから、属レベルとした。「みごい」は、その異名である。当該ウィキ(本邦固有種の記載なので注意されたい)に拠れば、『小骨が多いが、白身の上品な肉質で食味は良好な魚であ』るとしつつも、『味は良いが』、『骨が多く食べにくい雑魚』(ざこ)『として扱われ』るとある。更に『近縁種コウライニゴイ H. labeo 』『は朝鮮半島から中国、台湾まで分布する』とある。さて、戻すと、以下、辞書は「ざこ」・「小さい」等である。印象からは、中国では、塩漬けにして保存食とすることが多かった、ということなのかと思ったが、「百度百科」の同属の「䱻属」を見たところ、『肉質は美味しく』、『高品質な経済魚である』とあるので、私の判断は誤りのようだ。

「䀋を着(つけ)す[やぶちゃん注:ママ。「ず」の誤記。]して乾(ほす)ものを『膽魚』、又、『鮝魚(しやうぎよ)』といふ」「膽」は「きも・胆嚢」の意であるから、それを味わうために塩漬けにしないのであろう。「鮝」には「ひもの・ほしうお・干した魚」の意があるから、干物のまま塩味を添えず味わう、ということであろう。

「肉を切(きつ)て乾(ほす)を『脯脩(ほしう)』とし、肉を割(わり)て乾(そす)を『脡脯(ていほ)』とす」「脯」は「ほじし」の訓で知られる、動物・植物の乾燥品に用いる漢字である。「脩」も、ここでは、同義。中国では好まれる処理法である。十全に乾燥させた保存食として、長く保存が可能である。「脡」は「まっすぐに伸ばした干し肉」を指す語であるから、単に乾すだけでなく、魚肉を圧を加えて、薄く平らにして、乾燥させたもので、保存に使い勝手が良く、持ちもよい。しかも、味も濃厚になるであろうとは思われる。魚ジャーキーである。

『陶朱公「致富全書」』別タイトルは「汝南圃史」「圃史」「周光祿圃史」で、明の宮廷娯楽を司る光祿寺吏の書記官であった周文華(生没年などの事績不詳)が万暦四八(一六二〇)年にものした全十二巻からなる庭園文化史・園芸書である。画像がネット上に複数あるものの、部分であったり、画像の質が判読出来るレベルでなかったりで、諦めた。しかし、こうした植物記載の中に『灸魚(あぶりうを)』・『風魚(かざぼし)』等が記載されているというのは、解せないのだが⋯⋯。識者の御教授を乞うものである。]

2026/07/25

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その24) 図版7~(八)乾貝並貝柱の說~了

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。

 なお、一部に、明らかな、印刷時に生じた縦・横方向の白いスレがあるので、黒で、不自然にならぬよう、潰しておいた。

 これを以って、「(八)乾貝並貝柱の說」を終了する。また、ここで「中卷」は終わっている。

 

【図版7】

 

7_20260725065901

 

■「たいらきかい」「三分の一。」

 

■「ほしたいらきはしら」

         「自然形。」

     「一」

     「二」

     「三」

     「四」

 

[やぶちゃん注:既に解説ページの「(その17) 玉珧介柱」で示した通り、学名に変更が求められているので、再度、私の注を部分的に引用する。これは、

斧足綱翼形亜綱イガイ(貽貝)目ハボウキガイ(羽箒貝)科クロタイラギ属タイラギ

であるが、同種については、長く

タイラギ Atrina pectinata Linnaeus, 1758

を原種とし、本邦に棲息する

殻表面に細かい鱗片状突起のある有鱗型

と、

鱗片状突起がなく殻表面の平滑な無鱗型

を、

生息環境の違いによる単なる形態の個体変異

としたり、二種ともに、

Atrina pectinata の亜種

として扱ったりしてきたのであるが、一九九六年、アイソザイム分析(isozyme:イソチーム・アイソエンザイム isoenzyme・イソ酵素とも呼ぶ。同位酵素のこと。従来は均一の成分と考えられていた酵素は、蛋白分画技術の進歩によって,いくつかの成分に分離されることが判ってきた。そこで、酵素としての働きは同じであっても、電気泳動法などの分離方法によって分類すると、分子構造や物理的・化学的性質などの異なる一群の酵素を「アイソザイム」と名付けたものである。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」の解説を元にした)の結果、

◎有鱗型と無鱗型は全くの別種である

ことが明らかとなった。現在、前者の有鱗型は一応、

 Atrina lischkeana Clessin,1891

に同定されているが、確定的ではない。

 さらに加えて、これら二種間の★雑種が、

自然界には一〇%以上は存在する

ことも明らかとなっている状態である。種同定に十数年以上も専門家の間で決着が着いていない。この最初の図だけでは、判断が出来ないが、

★殻表の描き方から見るに、つるりとした照(て)カリが、全く、見えないことから、有鱗型である可能性が極めて高い

と私は判断するものである。

 

■「いたやかい」

     「二分≪の≫一。」

 

■「いたやかいはしら」

     「自然形。」

          「一」

          「二」

          「三」

          「四」

 

■「いたやかい」

     「二分ノ一。」

 

■「いたやかいはしら」

          「一」

         「自然形。」

          「二」

          「三」

          「四」

          「五」

 

[やぶちゃん注:これら十二図は、

翼形亜綱イタヤガイ(板屋貝)目イタヤガイ上科イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans

である。解説ページは「(その14) 板屋貝柱である。]

 

■「ばかかい」

     「三分≪の≫二。」

 

■「ばかがひはしら」

        「一」

        「二」

 

[やぶちゃん注:これは、専ら、「アオヤギ(青柳)」の呼称で知られる、

異歯亜綱バカガイ科バカガイ属バカガイ Mactra chinensis

である。但し、本説では、当該ページが存在しないのである。その代りに、「(その9) 乾潮吹」(=斧足綱異歯亜綱バカガイ科バカガイ属シオフキ Mactra veneriformis )があり、そこで、バカガイについての問題に関わる私の注を附してあるので、そちらを見られたい。

 

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その23) 図版6

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。解説ページは「(その10) 蛭貝」である。

 なお、一部に、明らかな、印刷時に生じた縦・横方向の白いスレがあるので、黒で、不自然にならぬよう、潰しておいた。]

 

【図版6】

 

6_20260725061501

 

■「とりかひ」

    「二分≪の≫一。」

 

[やぶちゃん注:これは、

斧足綱マルスダレガイ目ザルガイ科トリガイFulvia mutica

である。解説ページは「(その13) 鳥貝」である。]

 

■「ほしとりか≪ひ≫」

    「自然形。」

     「表靣」

     「裏靣」

 

■「いかひ」 「三分≪の≫一。」

 

■「ほしいかひ」

    「自然形。」

       「大ノ一」

          「側靣」

 

       「第ノ二」

         「小形。」

 

       「大ノ二」

         「小形。」

 

■「ほしいかひ」

     「自然形。」

   「中形ノ一自然形。」

 

   「中形ノ二」 「自然形。」

 

[やぶちゃん注:これは、

イガイ(貽貝)目イガイ科イガイ属イガイ Mytilus coruscus

及び、

イガイ属エゾイガイ(蝦夷貽貝)Mytilus (Crenomytilus) grayanus

の孰れか、である。解説ページは「(その10) 蛭貝[注意!!! この標題及び本文冒頭の「蛭貝」は「姥貝」の大誤記である!!!]」である。そこで、同名異名を持つ別種を掲げてあるが、図の貝殻の形状と、産地を示していないことから、上記二種に絞ることが出来る。

2026/07/24

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その22) 図版5

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。解説ページは「(その10) 蛭貝」である。

 なお、一部に、明らかな、印刷時に生じた縦方向の白いスレがあるので、黒で、不自然にならぬよう、潰しておいた。]

 

【図版5】

 

5_20260724173001

 

■「ほつきかひ」

  「一名、うハがひ。」

   「二分ノ一。」

 

[やぶちゃん注:「うハがひ」ママ。「うばがひ」が正しい。次の「うはかひ」も同じ。]

 

■「ほしうはかひ」

  「自然形。」

 

    「表靣」

 

    「裏靣」

 

[やぶちゃん注:以上は、

異歯亜綱バカガイ科ウバガイ(姥貝)属ウバガイ Pseudocardium sachalinense

である。解説ページは「(その10) 蛭貝[注意!!! この標題及び本文冒頭の「蛭貝」は「姥貝」の大誤記である!!!]」である。

 

■「をほのかひ」[やぶちゃん注:「を」はママ。]

      「二分≪の≫一。」

 

■「ほしおほのかひ」

 

[やぶちゃん注:これは、

異歯亜綱オオノガイ(大野貝)目オオノガイ上科オオノガイ科オオノガイ属オオノガイ亜属オオノガイ Mya (Arenomya)  oonogai

である。解説ページは(その11) 尾斧貝である。

「二分≪の≫一」であるが、実際には、ご覧の通り、「二」と「一」の右半分がスレで消えている。推定で補った。

 「乾姥貝」は、水管に櫛を貫いた四個体である。

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その21) 図版4

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。

 ここは、カキ類で統一されてある。なお、一部に、明らかな、印刷時に生じた縦方向の白いスレがあるので、黒で、不自然にならぬよう、潰しておいた。]

 

【図版4】

 

4_20260724114301

 

■「ながかき」

   「北海道釧路國《くしろのくに》

    厚岸《あつけし》産。」

 

[やぶちゃん注:「長蠣」であるが、既に「(その12) 乾蠣」で私が注した通り、現在では、

斧足(二枚貝)綱翼形亜綱カキ(或いはウグイスガイ)目カキ上科イタボガキ(板甫牡蠣)科マガキ属マガキ Crassostrea gigas

長大な個体群を指す。詳しい解説は、当該項の私の後注の冒頭を見られたい。

 

■「ほしなががき」

         「一」

 

■≪「ほしなががき」≫

         「二」

 

■≪「ほしなががき」≫

         「三」

 

■≪「ほしなががき」≫

         「四」

 

■≪「ほしなががき」≫

         「五」

 

■≪「ほしなががき」≫

       「はしら」

         「一」

         「二」

         「三」

 

■「いたぼかき」

 

[やぶちゃん注:「かき」の「か」の清音はママ。これは、

イタボガキ科イタボガキ属イタボガキ Ostrea denselamellosa

である。

 

■「ほしいたぼがき」

         「小」

 

■≪「ほしいたぼがき」≫

         「大」

 

■「かき」

 

[やぶちゃん注:これは、

斧足(二枚貝)綱翼形亜綱カキ(或いはウグイスガイ)目カキ上科イタボガキ(板甫牡蠣)科マガキ属マガキ Crassostrea gigas

のお馴染みの知られた平均サイズの個体群である。

 

■「ほしがき」

         「一」

 

■《「ほしがき」》

         「二」

 

■《「ほしがき」》

         「三」

 

2026/07/23

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その20) 図版3

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。

 この図版、今までの本書の図版の中で、最も清拭に時間が掛かった。非常に各図(特に右に長々とある、ホタテガイの貝柱(かいばしら)を縄で貫いたものの空(す)き部分)の周辺が、何のためか判らないが、異様にベタっとくっ付いてからである。昨日の昼、一度、始めて、右半分を何とか清拭したのだが、気がつくと、キャプションの一部を、誤って消していたことに気づいたのだが、回復ボタンを押し続けても、それが元に戻らなかったため、夕刻に仕切り直しでゼロからやり直し、やはり一時間ほどで、やり遂げた。

 今回、今までやっていないことをした。それは、底本である国立国会図書館デジタルコレクションの本書の、この問題の右の長い図が、上方の罫線を越えて、「人」が二本の縄を縛った結び目の部分が、画像外に出てしまって写されていないのを、何んとも、気になったからである。そこで、所持する平凡社『東洋文庫』版「沖縄物産志――跗・清国輸出日本水産図説」(河原田盛美著・編者増田昭子・高江洲昌哉(たかえすまさや)・中野泰(やすし)・中林広一/二〇一五年第一刷)の当該ページ(261ページ)をコピーして二番目に配して、添えることにした。このホタテガイの乾し製品を作った、最早、誰であった判らぬ労働者の手仕事の手跡を、ここに残しておきたいと思ったからである。

 本図の七図は総て、

翼形亜綱Pteriomorphiaイタヤガイ目Pectinoidaイタヤガイ上科Pectinoideaイタヤガイ科Pectinidaeミズホペクテン( Mizuhopecten ) 属ホタテガイ Mizuhopecten yessoensis

である。解説ページは、「(その16) 乾帆立貝並貝柱」である。

 

【図版3】

 

3_20260723154101

Touyoubunkohanp261

 

■「ほしほたてかい」

  「縄に貫くもの」「三分の一。」

 

[やぶちゃん注:貝柱を乾したものを、右手に十個、左手に十個、貫いて、上部で縛ってある。]

 

■「ほたてかい」「三分≪の≫一。」

 

■「ほしかい」「自然形。」

 「伹、柱を去るもの。」

 

[やぶちゃん注:これは、中央の柱=閉殻筋と、恐らくは、腮(えら)を除去し、その外側に生殖巣(雌(クリーム色)・雄色(オレンジ色)と異なるものがあるが、それは見えないように思われる)を抜いた所謂、「ヒモ」と称する外套膜と触手部分の乾し製品であろう。]

 

■「はしら」

     「靣側《めんがは》」

   「大」

   「中」

   「小」

 

[やぶちゃん注:「靣側」は貝柱を側面から見たものの図。図が黒色で、円柱形の立体性が殆んど認められない。]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その19) 図版2

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。四方罫線の右外に以下の図群の綜合標題が、ここにある。前のハマグリは、貝柱を別個に貝柱製品にはしないからである。現在でも、見かけない。ハマグリは可食部に比して貝柱自体は小さく、単独の製品にするほどの量が採れず、歩留まりが悪いからであるである。

 図の順序であるが、ここ、種で纏まりをなしているだけで、配置に意味を感じないから、特異的に順番はランダムとした。

 

【図版2】

 

2_20260723082901

 

乾貝《ほしかひ》《ならび》ニ乾貝柱《ほしかひはしら》

■「あけまきかひ」「二年生」

          「自然形《しぜんけい》」

 「外靣《がいめん》」

 「內靣《ないめん》」

 「筑後國《ちくごのくに》山門郡《やまとのこほり》産」

 

[やぶちゃん注:斧足(二枚貝)綱異歯亜綱Heterodontaマルスダレガイ(丸簾貝)目マテガイ(馬刀貝)上科ユキノアシタガイ(雪の朝貝)科Pharidaeアゲマキガイ(揚げ巻貝)属アゲマキガイ Sinonovacula constricta の貝殻の図であるが、この絵師は、貝類の専門家ではない。何故なら、「外靣」とする図は殻(うかく)の貝殻の外面ではあるが、殻頂(かくちょう)を下方にして描いてしまっているからである。研究者や図鑑の担当絵師は斧足類の場合、貝殻の外側を描く時は、必ず、殻頂を上にした右殻を描く(ここでは「内面」図も、それに合わせて右殻であるが、殻頂が下になっている)。因みに、一般には、殻頂から垂線を降ろして、貝殻が小さい方が貝の前部で、そこから斧足を出し、口は、この前部の殻頂の寄りの箇所にある。反対の、殻が広くなっているのが後部で、ここから水管を出すのである。この場合は、御丁寧に殻っだけの図も、「自然形」と添えてあるのが、微笑ましい。解説ページは「(その3) 乾揚卷」である。

「筑後國山門郡」現在の福岡県の、柳川市の大部分と、みやま市の大部分に相当する。所謂、有明海の湾奥の北東である(孰れもグーグルマップ)。]

 

■「ほしあけまき」

    「三年生」

     「自然形」

 

■「まてかひ」

     「二分の一。」

 「外靣」

 「內靣」

 「筑後國《ちくごのくに》産。」

 

[やぶちゃん注:異歯亜綱Heterodontaマルスダレガイ(丸簾貝)目マテガイ(馬刀貝)上科マテガイ上科マテガイ科マテガイ属マテガイ Solen strictus で間違いない。ここでは、殻頂を右にして、左右の殻が靭帯で繋がっている形で、外面図と内面図を描いている。解説ページは「(その4) 乾馬刀」である。

「二分の一。」は図の縮小スケール。]

 

■「ほしまてかひ」

     「二分の一。」

 

[やぶちゃん注:この図は「乾馬刀」四個体なのであるが、私は実際に「乾馬刀」の実物を見たことがないのだが、この図、ちょっと気になる。多くの読者は、上の二図から、そこから剥離して乾した肉部が、上の殻に、同じ方向で入っていたものであると思うに違いない。しかし、生体を見た私の記憶では、斧足は、ずんぐりとした円筒の上、靭帯側直近に擬宝珠のように丸く鈍に尖った形で突き出るのである。而して、反対側には、文字通り、水管(入水管と一つに纏まった形で筍(たけのこ)型で、ヌルりと縞々をみせてだらんと出ている。

 ところが、この四個体、剥いたものを乾したもので、収縮が起こっており、どうも、どっちが、どっちなのか、よく判らないのである。しかし、個人的には斧足は明らかに水管より太(ぶ)っとくなると推理するのである。而して、イラストレーター・著作家大内正伸氏のブログ「囲炉裏暖炉のある家 tortoiselotus studio」の「マテ貝と鶏肉の干物」でブログ主の手製の素敵な写真をやっと見つけた! ご覧あれ! 明らかに擬宝珠と棒の違いがあるのだ! 「市販の貝の干物ほどに硬く仕上った。」と述べておられるので、最も信用性が高い。

 そういう見地から見ると、この乾したマテガイの四図は、どうも正確な描写をしていないのではないか? と、強く疑われるのである。しかも、★向きを一致させていないと私は断ずるものである。

 私の見る限りでは、

・一番上と二番目は、右が水管側。

・三番目は、右が斧足。

・四つ目は、恐らく左が斧足。

と推定される。識者の御意見を俟つものである。

 

■「同上」

 

[やぶちゃん注:二個体ともにアゲマキの肉部分を乾したものであるが、上図が、水管を左にしてあり、下図が、逆に水管を右にしてある。]

 

■「しほふき」

   「九州名

      うはかひ」

  「自然形」

 「ほし

   うば

    かひ」

      「自然生」

 

[やぶちゃん注:解説ページは「」である。しかし、

✕この各図も各キャプションともに――「レッド・カード」並の完全にグチャグチャ+メチャクチャ――である!

 まず、大表題の「しほふき」、即ち、

異歯亜綱バカガイ科バカガイ属シオフキ Mactra veneriformis

の貝殻では――ない!

何故なら、シオフキを描いたら、こんなに黒く染め得ないからである。

 では何か? これは、

○異歯亜綱マルスダレガイ目バカガイ超科バカガイ科バカガイ亜科ウバガイ属ウバガイSpisula sachalinensis(読者のためには、既に先行で示した「ホッキガイ」の方が判りが良い)なのである!

 しかも、又しても、この図も殻頂が下で、違和感がある。

 因みに、図の右側が、微かに出張って見えるので、これは右殻である。

さらに痙攣的に間違っているのは、「九州名」「うはかひ」である!

九州にはホッキガイは棲息しない

のだ! どうやったら、こんな図と解説が出来るのだろう!?! 理解に苦しむ!!!

 下の二個体の「ほしうばかひ」というのは、モノクロモームではあるが、右の上方に突き出でている形状が、ウバガイ=ホッキガイの干物と一致している。しかし、図を真っ黒に塗るか? って気はする(これは、このページの全ての製品に対して言える)。因みに、私は、シオフキの干物を見たことがないので、比較は出来ない。異論のある方は、議論しようではないか!

「自然生」「生」はママ。「形」の誤字であろう。]

 

■「あさりかひ」

 

■「ほしあさり」

       「自然形」

 

[やぶちゃん注:これ、また真っ黒であるが、以下の二種には、こうした個体もある。貝殻(また、逆様やなんかい!)から、

斧足(二枚貝)綱マルスダレガイ(丸簾貝)目マルスダレガイ科アサリ(浅蜊)属アサリ Ruditapes philippinarum

或いは、

アサリ属ヒメアサリ(姫浅蜊)Ruditapes variegata

の孰れかである。「ほしあさり」二個体も、形状は乾燥させた上記の二種と一致する。解説ページは「(その8) 乾蜊」である。

   *

 ともかくも、このページの絵師は最悪中の最悪である!

2026/07/22

ラジオ体操

僕は、先月より、行き掛かり上、町内会内での鎌倉市スポーツ振興会会長になることになった。登山以外、野球のルールも知らず、サッカーも全く見ない僕が、である。昨日から四日間、六時半からの町内会でのラジオ体操を手伝っている。昔、小学生高学年の時、家の傍で前に立ってラジオ体操を指揮してやったのを思い出したが、六十九になって、子らと一緒にそれをやるとは、お釈迦さまでもご存知あるめえ、だ。⋯⋯

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その18) 図版1

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。

 上下左右の罫線は邪魔なだけなので、基本は、カットとする(但し、罫線外に標題がある場合、罫線外に図がはみ出る場合は残す)。清拭には、今まで通り、細心の注意を払った。縱方向(時に横方向)の白いスレが各所に見られるため、自然な感じになるように、黒でランダムに塗っておいた。流石に慣れてきた。当初は、一枚に十五分以上かかっていたが、この一枚は八分以下で、やり終えられた。

 図の順番は、基本、右から左、次いで、上から下とした。]

 

【図版1】

 

1_20260722050201

 

■「はまくり

    かい」

 

[やぶちゃん注:これは、恐らく、成貝の生貝(左右貝殻附き)のスケッチであろう。かなり大きな個体と推定出来る。貝の上部(図では下)の蝶番(ちょうつがい)の左右のラインから、図の右が後ろで、左が、水管を出す前部である。而して、殻の表面は、これでは、判明不能であるが、やはり蝶番のラインの角度から、容易に

斧足(二枚貝)綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria

と断定出来る。以下の五図の乾し身群も、総て、同種と推理してよいと思われるが、剥き身では、チョウセンハマグリ Meretrix lamarckii ・ミスハマグリ Meretrix lyrate でないとは、断言は出来ないものの、本書で掲げる図である以上、まんず、正統なMeretrix lusoria と考えるべきである。解説ページは「(その6) 蛤」である。

 

■「くしはまくり」

  「小《しやう》ノ方《はう》」

    「自然形《しぜんけい》」

 

[やぶちゃん注:櫛の結節の形状から十数センチメートルの丸い櫛を二十本以上円筒状に組んだものに、比較的小さな個体の剥き身をボイル(清浄海域の新鮮な個体ならば、しないが、中距離以上の流通系や、本書のような清国向けでは、言うまでもなく、衛生上、必須である。現行では、サキシトキシン(最悪で死に至ることもある)・ノロウイルス・腸炎ビブリオなどの食中毒リスクが高いので、生食・非加熱はアウトである。)して乾燥処理したもの六個体を結束したもの。恐らく、一つ一つ、針で、糸を刺し抜いて、櫛に結んで固定したものと思われる。「自然形」というのは、剥き身自体には、それ以外の本来の形状その他を変化させる見た目の処理操作は、していないことを言っている。]

 

■「くしはまくり」

     「自然形」

 

[やぶちゃん注:明らかに前の「くしはまくり」の各剥き身個体の大きさより、生体は二倍は大きいだろう。]

 

■「ほしはまくり」

     「自然形」

 

[やぶちゃん注:これは、相当に大きな成貝である。ハマグリ類は一年目で殻長二センチメートル、二年目で倍の二センチメートル、5年目で五~六センチメートルである。通常の寿命は七~八年が限界だが、環境が良ければ、最大、八~十センチメートル程度まで成長する。

「ほしはまくり」「乾し蛤」。先と同様、軽いボイルは必須である。]

 

■「仝《どう》」

  「小《しやう》ノ方《はう》」

     「自然形」

 

[やぶちゃん注:「仝」は「同」の異体字。]

2026/07/21

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その17) 玉珧介柱 「乾貝並貝柱の說」本文~了

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。

 これで、長くかかった「乾貝並貝柱の說」の本文注を終わる。後は、七枚の図版を残すのみとなった。]

 

    玉珧介柱《たひらきかいはしら》

 『玉珧《ぎよくてう》』ハ、『多比羅岐(たひらき)』と訓ず。「本朝食鑑」、『𧌊(たいらき[やぶちゃん注:ママ。])』の字を用ひたれども、「大和本草」にハ、『和俗の『𧌊(たひらき)』の字は出處(しゆつしよ)なし』とす。今、世俗、『平貝(たいらかひ)』ともいひ、[やぶちゃん注:ここより以下の部分は、「大和本草」ではなく、前の「本朝食鑑」の引用であるので、注意されたい。後注で、それを示す。]『殼は蚌(ぼう)に似て、黑色皮紋(こくしよくはもん[やぶちゃん注:ママ。「こくしよくひもん」と読んでおく。])あり。大なるものは、廣さ、五、六寸あり、長さ尺餘に過ぐ。白肉(はくにく)ハ、圓狀(えんけい[やぶちゃん注:ママ。])、大(だい)なるもの數寸(すうすん)、味(あぢはい[やぶちゃん注:ママ。])、極(きはめ)て、甘美、其肉、細く切(きり)て、片(へん)と作(な)し、炙食(くわいしよく[やぶちゃん注:ママ。「しやしよく」が正しい。])、烹食(ほうしよく)、生食(せいしよく)、共(とも)に佳(か)なり。此れ、海錯中(かいさくちう)の珍賞なり。』とありて、本邦にて、鮮肉を貴(たつと)べり。然(しか)れども、往古(むかし)は、此名を稱することなく、「本朝食鑑」を按ずるに、『古來、末だ、名を稱するを聞かす[やぶちゃん注:ママ。「聞かず」。]。近世、多く、之を賞す。海人(かいじん)も亦、其大なる者を探(さぐり)て、以て、之を貨(くわ)す。』と、ありて、元祿の頃に至りて、世に賞せられたるものと見へ[やぶちゃん注:ママ。]たり。本草書を按ずるに、『江瑤(こうよう[やぶちゃん注:ママ。「かうえう」が正しい。])』、及び、『玉珧』等(とう)と稱し、又、「閩書」に『江瑤柱(こうえうちゆう[やぶちゃん注:ママ。])』とす。而して、其說に曰く、『韓退之馬甲柱(かんたいしばかうちう)』と謂ひ、『蘇子膽(そしたん)、以て、茘枝(れいし)に配(はい)し、福州の人、之を馬𪿖(ばげん)と謂ひ、萬震(まんしん)の賛(さん)に「肉柱膚寸江瑤柱(にくはしらりよすかうようちう[やぶちゃん注:ママ。トンデモ和訓としても、この読みは、全くおかしい。「にくちゆうふすんかうようちゆう」の誤植であろう。])」と名(なつ[やぶちゃん注:ママ。])く。又、『今の馬甲柱(ばかうちう)は古(いにしへ)の玉珧(ぎよくてう)』といふ。『昔人(むかしのひと)、之を賞(しやう)す。美(び)、涯(かぎり)なし。』と、あり。而して、方今(はうこん)[やぶちゃん注:「現在」。]、淸國人は、此(この)介柱(かひはしら)の乾製したるを、『帶子(たいし)』と稱し、交州(かふしゆう[やぶちゃん注:ママ。])に產するもの、百斤の價(あたへ)、五拾弗(どる)の高價(かうか)にて、年々、香港(ホンコン)に輸入するもの、壹萬斤、香港より分輸(ぶんゆ)する地方は、金山(きんざん)・厦門(あもゐ)・寧波(ねいは)・鎭江(ちんこう[やぶちゃん注:ママ。])・廣東(カントン)等(とう)なり。又、此他(このた)、漢口(ハンコウ)等(とう)より、分輸するもの、少(すくな)からす[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]。然(しか)りと雖(いへ)ども、從來、本邦より、之を輸出せしこと、なし。近年、試製品を出(いだ)せしものあるも、槪(おほむ)ね、生乾(なまほし)なるが故に、淸國人の嗜好に適せざるなり。

 抑(そもそも)、本邦に玉銚を產するは、尤(もつとも)、夥(おびただ)し。宜(よろ)しく捕獲季(ほかくわくき)を定めて、成育せしめ、煑乾(にほし)の精製品を出(いだ)すに至れば、淸國へ輸出して、良價(よきあたへ)を得らるべし。其製法ハ、殼付の儘(まヽ)、熱湯に投じ、煑(に)て、柱、及び、尖股狀(さんまたぜう[やぶちゃん注:ママ。「さすまた」は「さんまた」とも書き、漢字も「杈・刺股・刺又(叉)・指又(叉)」などが使われが、「尖股」とも書く。但し、「狀」は「じやう」である。])の帶(おび)をとりて、乾燥するもの、とす。此(これ)、淸國にて『帶子(たいし)』の名ある所以(ゆへん[やぶちゃん注:ママ。])なり。

[やぶちゃん注:これは、「平貝・玉珧」と漢字表記する、

斧足綱翼形亜綱イガイ(貽貝)目ハボウキガイ(羽箒貝)科クロタイラギ属タイラギ

であるが、同種については、長く

タイラギ Atrina pectinata Linnaeus, 1758

を原種とし、本邦に棲息する

殻表面に細かい鱗片状突起のある有鱗型

と、

鱗片状突起がなく殻表面の平滑な無鱗型

を、

生息環境の違いによる単なる形態の個体変異

としたり、二種ともに、

Atrina pectinata の亜種

として扱ったりしてきたのであるが、一九九六年、アイソザイム分析(isozyme:イソチーム・アイソエンザイム isoenzyme・イソ酵素とも呼ぶ。同位酵素のこと。従来は均一の成分と考えられていた酵素は、蛋白分画技術の進歩によって,いくつかの成分に分離されることが判ってきた。そこで、酵素としての働きは同じであっても、電気泳動法などの分離方法によって分類すると、分子構造や物理的・化学的性質などの異なる一群の酵素を「アイソザイム」と名付けたものである。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」の解説を元にした)の結果、

◎有鱗型と無鱗型は全くの別種である

ことが明らかとなった。現在、前者の有鱗型は一応、

 Atrina lischkeana Clessin,1891

に同定されているが、確定的ではない。

 さらに加えて、これら二種間の★雑種が、

自然界には一〇%以上は存在する

ことも明らかとなっている(以上は、所持する図鑑類やウィキの「タイラギ」その他を参照した)ため、日本産タイラギ数種(中国産では、現在、四つの型が存在することが判っている)の学名は早急な修正が迫られている。

 また、「たいらぎ」という和名については、無批判に「平」(たいら)な「貝」を語原と記す記事が多く、流通でも寿司屋でもその捌いてしまった貝柱のみを「平貝(たいらがい)」と呼ぶが、所持する相模貝類同好会一九九七年五月刊の岡本正豊・奥谷喬司著「貝の和名」(相模貝類同好会創立三十周年記念・会報『みたまき』特別号)の「タイラギ」によれば(コンマは読点に代えた)、『直角三角形に近い形の30㎝以上にもなる大型の食用貝。泥深い海底に尖った方を下にして立って生息しているので、漁師はタチガイといい、また貝柱は市場ではタイラガイ(平貝)と呼ばれている。このタイラガイこそ本来あるべきこの種の和名ではないかと思われる。「平ら」という理由は今一つはっきりしないが、この種の地方名にはターラゲー、タイラギャー、タイラゲェ、テェラゲェなどタイラガイの訛りが多い。従ってタイラギガイと言ってはギとガイの重複表現になる』とある。

 実は、以上は、二〇二二年八月十三日に公開した『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類  𧍧(カンシン)・タイラキ / タイラギ』で私が注したものに、やや手を加えたものである。四年前のものだが、ウィキの記載を検証したところ、「分類」の記載部分は、新たな書き換えが行われていないようなので、採用した。

 改めて、現在の当該ウィキを「分類」の部分が信じられない方のために、重複を厭わず、引用する(注記記号はカットした)。『内湾の砂泥底に生息する大型の二枚貝で、重要な食用種である。標準和名のタイラギは「平貝(たいらがい)」が転訛したものであり、マスコミなどで「タイラギ貝」と表記されることがある。季語、三冬。寿命は6〜7年とされる』。『日本に生息するタイラギには、殻の表面に細かい鱗片状突起のある型(有鱗型)と、鱗片状突起がなくて殻の表面の平滑な型(無鱗型)の2型が存在する。これら二型は生息環境の相違による同一種内の形態変異とみられていたが、アイソザイム分析によって遺伝学的に調べた結果、有鱗型と無鱗型は別種であることが判明した。さらに、これら二型間の雑種も自然界にかなり普通に(10%以上)存在することも明らかとなった。雑種は有鱗型と無鱗型の中間的な形態を示し、そのためにあたかも有鱗型から無鱗型への連続した形態変異のように見え、それが両者が同一視されていたひとつの理由である』。『タイラギは、無鱗型が Atrina pectinata japonica (Reeve)、有鱗型が A. pectinata lischkeana (Clessin) として亜種の扱いをされることがあるが、これら2型が別種であるのは明らかであり、亜種としての扱いは不適当である。今後、これらの原種である A. pectinata Linnaeus や』、『その他のシノニムの模式標本を調べた上で』、『学名の再整理を行なう必要がある。タイラギの学名については』、『このように今後の研究を待たねばならないので、本項では最も古い学名である Atrina pectinata を暫定的に使用する』。『和名に関して、日本の多くの地域において両型の相対的な資源量は有鱗型の方がかなり卓越しており、一般的に知られるタイラギは有鱗型である場合が多い。そこで、有鱗型には一般名である「タイラギ」、無鱗型には兵庫県、岡山県、香川県、山口県、大分県、佐賀県などで共通した「ズベ」という呼称から「ズベタイラギ」という種名が提唱された』(この異名「ズベ」は「スベスベ」している「スベタイラギ」の縮約異名である。「マグロ君」のブログ「世の中のうまい話 魚のプロ~マグロ君が全国食べ歩き~~」の「平貝(タイラガイ)・タイラギ」に『平貝には2種類あって、殻の表面がザラザラしているを「タイラギ」と、スベスベしている「スベタイラギ」に分けることが出来ます。潜水夫の方達は、前者を「ケン」。後者を「スベ」と呼ぶそうです。かつては、住む場所によっての違いと思われていましたが、遺伝子からみると』、『違う種であるという事がわかったようです。』とある)。『近縁種』に『ハボウキガイ Pinna bicolor Gmelin, 1791』がある。これは『タイラギに似ているが』、『殻は細長い。砂底に刺さって生活し、貝殻の半分くらいが砂底の上に出ている。タイラギと同じく閉殻筋を食用にするが、閉殻筋が小さい。また外套膜も肉付きが薄く、強いて食用にはしない』。タイラギの別名は『エボウシガイ(烏帽子貝)、タイラガイ(平貝)、テエラゲエ、ババトリ(関西地方)、バチガイ(北海道)、ハシラ、タチガイ、タテガイなど』がある。『「ババトリ」は、糞便をすくい取るのに』、『タイラギの大きな貝殻を使っていたことに由来する』。『中華料理では、「江珧」(ジアンヤオ、jiāngyáo)という標準名よりも、「帯子」(ダイズ、dàizi)と呼ばれる事が多い。中国の地方名に「割猪刀」、「殺猪刀」、「割紙刀」(広東)があり、貝殻の形がブタを屠殺する時や紙を切る刃物に似ることによる。他に「大海紅」、「海鍁」(遼寧)、「海蚌」(浙江)などの地方名もある』。『日本では房総半島以南に分布し、内湾の10m未満からおよそ50m程度の深度に生息する。特に東京湾、伊勢湾、三河湾、瀬戸内海(播磨灘、大阪湾、備讃瀬戸、備後灘、周防灘、伊予灘)、有明海などが』、『主要な生息地である。現在の主要産地としては、三河湾、播磨灘、備讃瀬戸、伊予灘である。海外では、西太平洋からベンガル湾にかけて分布するとされるが、日本での2型のような同胞種』(sibling species:形態的には殆んど差がないように見えても、交雑しない二つ以上の種を指す。「姉妹種」とも呼ぶ))『が多く存在する可能性がある』。『タイラギは朝鮮半島と中国でも水産上の重要種である。韓国でも有鱗型と無鱗型の2型が生息している。また中国では、形態的、遺伝的に区別される4型が存在するとされ、分類学的整理が望まれる』。『殻長30cm以上、殻高20cm以上に達する大型種である。殻は殻頂がとがった三角形で、殻の内面にはかすかな真珠光沢がある。殻の外面には弱い放射肋があり、有鱗型では肋上に細かい鱗片状突起が並ぶ。殻は薄質で壊れやすい』。『殻が大きいだけに』、『軟体部も大きい。2つの閉殻筋(貝柱)のうち』、『前閉殻筋は殻頂付近にあり』、『小さい。後閉殻筋は殻の中央部にあり、大型個体では直径5cm以上に達する。外套膜(ヒモ)はクリーム色から橙色をしており、長くて分厚い。足は細くて小さい』。『中にはカクレエビ』(節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱エビ上目十脚目抱卵亜目テナガエビ上科テナガエビ科カクレエビ亜科カクレエビ属カクレエビ Conchodytes nipponensis 。但し、軟甲綱十脚目テナガエビ科カクレエビ亜科 Pontoniinaeに属する種群は約百六十種と非常に多く、彼らは、特定種にしか寄生しない傾向が認められる。)『がよく居る』。以下、「生態」の項。『貝殻のとがった方(殻頂)を下にし、海底に刺さるようにして生息する。さらに足の付近から、緑褐色で長さ10-20cmほどの、絹糸のような足糸を』多数『出して』、『砂粒や小石を付着させて体を固定する。砂泥の上には』、『殻の後端部が』、『わずかに』、『顔を出すのみである。有鱗型(タイラギ)は州や沿岸域などの浅海部の』、『主に』、『砂質に多』いのに『対して』、『無鱗型(ズベタイラギ)は』、『やや深い海域の』、『主に』、『泥質に生息する』。『産卵期は夏で、産み出された卵は海中に放出され、同じく放出された精子と受精する。孵化した幼生は』、『しばらく』、『海中を漂いながら成長し、やがて着底する。成長は早く、2年後には殻長が20cmを超える』。『有明海では1990年代まで、ヘルメット潜水によって潜水し、鎌のような漁具(手かぎ)を使って』、『砂泥底のタイラギを次々とひっかけるという漁が行われていた。漁獲されたタイラギは食用として福岡市をはじめ、全国に出荷されていたが、近年は』殆んど『漁獲されなくなった。特に諫早湾沿岸域では1993年から休漁が続いており、諫早湾干拓事業との関連を指摘する声も多い。また、有明海の漁業者の中でも水温の上昇によって、越夏できないとも言われている』。『播磨灘のある明石市では』、『フーカー潜水』(当該ウィキに拠れば、『本来、目・鼻・口を同時に覆う簡単なマスクに水上からホースで空気を供給する送気式潜水の一種を指す。その名称は、かつて阿片などの麻薬を吸うときに使用されていた器具の名前(hookah)に由来する。ヘルメット潜水との対比から、マスク潜水と呼ばれる場合もある。』とあった。)『によって潜水し』、『貝を獲っている。 他の産地では』、『さらに』、『早い時期に個体群の崩壊が起きていることが多く、今日では健全な個体群は、三河湾、播磨灘、備讃瀬戸、伊予灘ぐらいにしか残っていない』。『国産品および輸入品が、貝柱だけのむき身』、『生』、『あるいは』、『冷凍、粕漬け、干し貝柱で流通するほか、生の殻付きでも流通する。食材として、大きな閉殻筋(いわゆる貝柱)をそのまま、もしくは』、『薄切りにする。用途は』、『日本では』、『刺身、寿司種、焼き物、汁物など多様である。中国では、広東料理や潮州料理でよく使い、蒸したり』、『炒めて食べる事が多く、塩蒸し、ニンニク蒸し、豆豉蒸し、XO醤炒め、鉄板焼きなどが主な料理となっている。韓国では「키조개」(キジョゲ)といい、フェ(朝鮮式の刺身)、炒め物、鍋物、鉄板焼きなどの各種料理に利用される。生では柔らかくて甘いが、火を通すと歯ごたえと』、『旨みが増す。また、外套膜(ヒモ)も生食、焼き物などで食べられる。ヒモの部分は一般には』、『調理の際に廃棄されてしまう場合が多いが、バター焼きなどにすると』、『コリコリとした食感で美味である』。以下、「食中毒」の項。『腸炎ビブリオによる食中毒が』、『時折』り、『報告される。また、底生性渦鞭毛藻類の一種が原因と考えられるピンナトキシン』(Pinnatoxin:翼形亜綱ウグイスガイ目ハボウキガイ科ハボウキガイ Pinna attenuata から中国で発見されたことに拠る命名)『による貝毒(神経毒)中毒の可能性を示唆する報告がある』。以下、「価格」の項。『高度成長期、バブル期などまでは、築地市場で1個1,500円を超す高値を付けられていた。これが赤坂や築地、銀座の料亭に行くと6,000~7,000円という高値で提供されていた。また、選挙のある年や衆議院解散前になると、料亭での需要が増すために一気に値が跳ね上がった。次第に韓国産の廉価なタイラギや、ホタテガイの養殖品が大量に出回ると、徐々に値を下げていき、今では高値で1kgで6,000円くらいである。』とあった。

『「大和本草」にハ、『和俗の『𧌊(たひらき)』の字は出處(しゆつしよ)なし』とす。』古いリンクを張るだけで事足りるので、先に片付ける。私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タイラギ」を見よ。

『「本朝食鑑」、『𧌊(たいらき)』の字を用ひたれども、』『『殼は蚌(ぼう)に似て、黑色皮紋(こくしよくはもん)あり。大なるものは、廣さ、五、六寸あり、長さ尺餘に過ぐ。白肉(はくにく)ハ、圓狀(えんけい)、大(だい)なるもの數寸(すうすん)、味(あぢはい)、極(きはめ)て、甘美、其肉、細く切(きり)て、片(へん)と作(な)し、炙食(くわいしよく)、烹食(ほうしよく)、生食(せいしよく)、共(とも)に佳(か)なり。此れ、海錯中(かいさくちう)の珍賞なり。』国立国会図書館デジタルコレクションの当該部を視認して、推定訓読する。

   *

𧌊《シヤ》【「多比羅岐(タヒラギ)」と訓ず。】

釈名江瑶柱《かうようちゆう》【「本艸≪綱目≫」。○近俗、此の名を呼ぶ者、多し。『江瑶』は總稱、『柱』は、圓《まろ》≪き≫肉、柱のごときなり。今、本邦の𧌊《たひらぎ》、殻、黒潤《こくじゆん》、光《ひかり》、有り。然《しか》れども、未だ、『海月《かいげつ》』・『玉珧《ぎよくたう》』の形を知らず。若《も》し、空殻《から≪の≫から》、老枯《らうこ》≪して≫、白に變じて、美色《びしよく》を生ずるか。】。

集觧蝑殻《たひらぎ の から》、蚌《ながたかひ》に似て、黒色《こくしよく》、波紋《はもん》、上に大《だ》いに、下、小《ちひさ》きに、大なる者は、広さ、五、六寸、長さ、尺余に過ぐ。惟(たゞ)、柱、有《あり》て、白舌《しろき した》、玉《たま》のごとく、大《だい》なる者は、数寸、味《あぢは》ひ、極《きはめ》て、甘美なり。其の肉、腥靱《せいじん》≪にして≫、堪へず。其の帯膜《おび の まく》、白≪き≫舌《した》、味、稍《やや》好し。世俗、白柱《しろき した》を取り、而《しかして》、細切《ほそぎり》て、片《へん》と作《な》し、炙《あぶり》食《くひ》、烹《に》≪て≫食《くひ》、生食《なまぐひ》、倶《とも》佳《か》なり。此れ、海錯中《かいさくちゆう》の珍賞《ちんしやう》、鰒《ふぐ》・蠣《かき》・蛤蜊《はまぐり》と、伍《ご》を爲《な》す。専ら、上厨《じやうちゆう》の供《ぐ》に充《あ》つ。古來より、未だ、名を稱することを聞かず。近世、多く、之れを賞す。海人《あま》も亦、其の大なる者を探《さぐり》て、以て、之を貨《くわ》す。

氣味甘鹹《かんかむ》、平《へい》。毒、無《なし》。主治中《ちゆう》を調《ととの》へ、氣を下《くだ》し、小便を利し、宿食《しゆくしよく》を消す。疝積《せんしやく》を動《うごか》す。

   *

・「𧌊《シヤ》」「廣漢和辭典」に拠れば、漢語としては、『蟹のしおから』とのみあり、国字として、『たいらぎ【たひらぎ】どぶ貝に似た一種の介虫。玉珧。』とある。

・「未だ、『海月《かいげつ》』・『玉珧《ぎよくたう》』の形を知らず。」これは、「本朝食鑑」の作者人見必大が、したり顔をすることが多い本草家の中にあって、極めて正直であり、博物学の正道で素直に記したものである。即ち、中国の本草書の強烈な矛盾を「わからない」と言っているのである。「海月」と言ったら、小学生でも『「くらげ」に決まってるじゃん。』と事も無げに言うであろう。ところが、実は、「本朝食鑑」の後の「卷之九」の「鱗部之三【江海無鱗類三十七種】」の「海月」では(ここと、ここ)、中国の本草書の記載に驚くべき記載が並ぶのである。同じく推定訓読する。「集觧」部分は、人見が、正しくクラゲ類の記載を正しく引いて解説しているので、省略した。

   *

海月《カイゲツ》【『久良个』と訓ず。】

釋名水母【鰕《えび》、附《つき》て、之れに從ふ。子の、母に從ふがごとし。故に『水母』と曰ふ。源順《みなもとのしたがふ》曰く、『「食經《しよくけい》」、『海月《かいげつ》、一名は水母。貌《かた》ち、月の海中に在るがごとし。故に以て、之を名《なづ》く。』≪と≫。凡《およ》そ、古《いにしへ》より、『海月《くらげ》』を以て、名くる者の、尚(ひさ)し。形、以て、色を、之に名《なづ》かれ≪しとせば≫、則《すなはち》、水母に於て、相當《あひあた》≪ら≫ず。圓形なりと雖《いへ》ども、不正なり。其の色も亦、殊《こと》なり。一種、水海月(《みづ》くらげ)とす者、有《あり》。色、白く、形、圓《ゑん》にして、之を言ふか。陳蔵器・李時珍、俱に、「江瑤」≪を≫以て、「海月」と爲す。是れ、形・色、相《あひ》當《あたる》。】

   *

「凡《およ》そ、古《いにしへ》より、『海月』を以て、名くる者の、尚(ひさ)し。形、以て、色を、之に名《なづ》かれ≪しとせば≫、則《すなはち》、水母に於て、相當《あひあた》≪ら≫ず。圓形なりと雖《いへ》ども、不正なり。其の色も亦、殊《こと》なり。」ここが重大な人見が指摘している疑義ポイントである。所持する東洋文庫版(島田勇雄訳・一九八〇年刊)の訳(原文は含まれていない全訳である)の当該部を引用する。

   《引用開始》

凡そ昔から海月という呼名を使って尚(ひさ)しい。形色をもって名づけたとすると、水母の文字では相当しない。円形とはいえ、まんまるではなく、その色も殊なっている。一種、水海月というのがあり、色は白く形は白く形は円い。これを言うのであろうか。陳蔵器(『本草拾遺』)・李時珍(『本草綱目』)、いずれも、江瑤(こうよう)を海月としている。形色はこれに相当している。

   《引用終了》

さらに、ここで、後に附されている島田氏の『注一』(項目「海月」に対するもの)を引用しておく。

   《引用開始》

 海月は『国訳本草綱目』に「和名いたやがひ」とし、頭注に白井博士[やぶちゃん注:白井光太郎(しらいみつたろう)。日本の植物病理学や本草学史の開拓者としてしられる碩学。同書の初版校注者。]「海月・王珧、元ト二物、時珍之ヲ合す誤ナリ」とされ、木村博士[やぶちゃん注:木村厚一(きむらこういち)薬学者。同書の新註校定者。]は「海月ハ扇状ノ二枚貝。左右概ネ不同ニ膨ラム。殻表ハ淡褐赤色ナリ。支那本土ニ分布ス」と解説される。『古今図書集成』にも貝を図解する。その中国における異名は次のものがある。王珧(『爾雅註』)、江瑤(『王化宛委録』)、馬頰・馬甲・角帯子(『正字通』)、江殊(『水族加恩簿』)、楊妃舌・江瑤柱(『事物紺珠』)。

   《引用終了》

とある。

『「閩書」に『江瑤柱(こうえうちゆう[やぶちゃん注:ママ。])』とす。而して、其說に曰く、『韓退之馬甲柱(かんたいしばかうちう)』と謂ひ、『蘇子膽(そしたん)、以て、茘枝(れいし)に配(はい)し、福州の人、之を馬𪿖(ばげん)と謂ひ、萬震(まんしん)の賛(さん)に「肉柱膚寸江瑤柱(にくはしらりよすかうようちう[やぶちゃん注:ママ。トンデモ和訓としても、この読みは、全くおかしい。「にくちゆうふすんかうようちゆう」の誤植であろう。])」と名(なつ[やぶちゃん注:ママ。])く。又、『今の馬甲柱(ばかうちう)は古(いにしへ)の玉珧(ぎよくてう)』といふ。『昔人(むかしのひと)、之を賞(しやう)す。美(び)、涯(かぎり)なし。』と、あり。』総てではないが、「中國哲學書電子化計劃」の「福州府志乾隆本」の「卷之二十六」のガイド・ナンバー「145」に(脱字かと思われる□がある。そのまま示す)、

   *

江珧柱《閩書》:「韓退之謂馬甲柱,蘇子瞻以配荔枝。福州人謂之馬月去厥,甲美如珧玉,肉柱膚寸,曰江珧柱。」《閩小紀》:「江珧柱形如二三寸扁牛角,雙甲薄而脆,界畫如瓦楞,向日映之,絲絲綠玉,晃人眸子,而嫩朗又過之。文彩燦熳,不忝瑤名。子嘗語人曰:即此膚理,便足鞭撻海族,不必問其中之所有矣。肉不堪食,美只雙柱,所謂柱,亦如蛤中之有丁。蛤小則字以丁。此巨因美以柱也。味亦與蛤中丁不少異,蛤之美實在於丁;人以其無多,不省察,故獨讓江珧擅此嘉名耳。會城初無此,予至後,令蛋人索之梅花,文石間,時時得之。十年以來,遂與香螺蠣房參錯市中矣。」國朝朱彞尊《江珧柱》詩:「異味傳方域,佳名注食經。連江誰布網,獨漉忽登硎。遞自三山速,風來五月腥。羚羊贏見角,蟲只蟲墨□同形。銳比盆花鍤,圓同細帶革呈【粵呼為角帶子】。探腸先去甲,刮膜止存丁。淨洗膏猶沃,新烹火莫停。冰簷同挂鐸,雪菌乍抽釘。白嚼河豚乳,紅餐荔子廳。誰言分鼎足,試倚灶觚聽。」』

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凡そ、私の乏しい漢文力では、全体は訳せないので、機械翻訳(大分、レベルが上がってきている)を参考に、一部のおかしな部分は調べて、自然流で手を入れ、お茶を濁すこととする(欠字のある割注はカットした)。中文に詳しい方で、訳がおかしいと感じる方は、是非、御教授を乞うものである。【二〇二六年七月二十二日:追記・修正】以下について、私の秘蔵っ子の、中国語に堪能な教え子S君から、三点の指摘を受けた。一箇所は誤訳であり、一つは日本語としてダブりがあり、今一つは、「蛤」の狭義・広義の違いの用法が読者に判り難いと言う点で修正した。S君に心から感謝するものである。

   *

「江珧柱」は「閩書」に拠れば、『韓愈は、これを『馬甲柱』と呼び、蘇軾は荔枝(ライチ)と同様に評価した。福州人は、これを『馬月柱』(イタヤガイ科などの貝柱))と呼び、「厥証(けつしょう)」(突発性の気絶や手足の冷えを伴う症状)を治療するものとし、その殻は、玉のように美しく、身は薄い柱のようで、『江珧柱』と呼んだ。』と。「閩小記」には、『江珧柱は、二、三寸の平たい牛の角のような形をしており、殻は、薄く脆く、波瓦のような模様があり、日光が当たると、繊細な緑色に輝き、目を眩ませる。その柔らかさは、初々しく朗らかであり、如何なるものより、さらに上回っている。その紋彩は、まさにその名に相応しい。私は嘗つて、人に、かく言ったことがある。『この質感だけでも、海の生物を凌駕するのに十分である。中身が何であるかなどということは、この際、聞く必要はない。内臓は食べられぬが、その美味は、二本の柱にある。この柱は、蛤(はまぐり)』の「丁」に相当する。小さな蛤のそれは「丁」と呼ばれる。この江珧のそれは、巨大で、まさに美味な柱なのである。味もまた、蛤(はまぐり)を遙かに凌ぐのだ! 二枚貝[やぶちゃん注:この場合の「蛤」は狭義の「はまぐり」の意ではなく、広義の斧足類(=二枚貝)を指している。]の本当の美味しさは、その「丁」にこそ、あるのである! 人は、ただ、数が少ないから、「美味しい」と、ろくに調べもせずに、蛤(はまぐり)ばかりが最上と思っていたに過ぎなかったのだ! しかし、江珧のみが、真に、今や、この名声を得ているのである! 当初は都城では認識されていなかったが、私が到着してからは、地元の漁師たちに命じて、「梅花紋のある岩礁や、美しい模様のある岩石の間で、よく探してみよ。」と言ったところ、それ以降、よく、これを採取するようになった。而して、この十年以来、市場では、遂に、香螺(こうら)[やぶちゃん注:ニシ類等の美味な巻貝。]や、カキ類に交じって、江珧が市場に並ぶようになったものだ。』と。清の朱彞尊(しゅいそん)は、江珧について、次のような詩を詠んでいる。『その今までに知られていなかった異なった味覚は、四方に広がり、その名声は、今や、料理書にも記されている。一体、誰が、川に網を張って、待ち構えているのだろうか? 網にかかった、ただ一つの貝が、ふっと、庖丁の刃が肉の間にすんなりと入るだろうか? ところが、それが三山[やぶちゃん注:ここは伝説の霊山である蓬莱山・方丈山・瀛洲山を指していよう。]から速やかにやって来て、五月の風に乗って、香りが漂うてくる。羚羊(れいよう)[やぶちゃん注:アンテロープ。]の角のようなものが見え、その生き物は□の生き物のようではないか! その鋭さは、盆栽の花を切るように美しく、その円(まろ)やかさは、極めて細いしなやかな革の帯のようではないか! その内臓を探るに、まず、殻を取り除き、貝柱のみ残すまで、いらぬ膜を削りとる。清らになるまで、脂が、なお、豊かに湿って残っているようにし、新たに、煮焚きをし出したら、火を止めてはならぬ。軒に吊(つ)れた氷柱(つらら)の如く、雪の中から引き抜かれた氷の釘(くぎ)のような蕈(きのこ)の如く、さながら、白い河豚(ふぐ)の乳を嚙み味わうように、晩餐の赤い荔枝(ライチ)を味わうように。ああっ! 一体、誰(たれ)が、「鼎(かなえ)の足のように、美食の三種が、三つ巴の争いの構えをしているのだ?」などと言ったのだ!? 愚かな! 試しに、この貝柱を調理している竃(かまど)の傍らに寄りかかって、じっくりと、類いならざる江珧の、その煮える音に、無心に、耳を傾けてみるがよかろうぞ!』と。

   *]

2026/07/19

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その16) 乾帆立貝並貝柱

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。]

 

   乾帆立貝並貝柱《ほしほたてかひならびにかひはしら》

 帆立介(ほたてかい)は、漢名『海扇(かいせん)』にして、本邦、從來、帆立介を『車渠(しやこ)なり。』と誤り、野必大(やひつたい[やぶちゃん注:ママ。「やひつだい」。])は「本朝食鑑」に『帆立蛤(ほたて)者(は)、車渠(しやこ)なり。』とせり。「日東魚譜」曰(いはく)[やぶちゃん注:後注で原文を示すが、河原田氏は、適当にチョイスして、勝手に他のどこから持って来たか判らぬ言説を混ぜてしまっている。そのため、以下のような複雑な引用符(二重鍵括弧)を配せざるを得なかった。]、『海扇【「霏雪錄《ひせつろく》」。】』『あふきかひ』、『ほたてかひ』、『いたやかひ』、『かひしやくし』、『扇蛤(あふきかひ)』。『此(この)蛤(かひ)、一片ハ、蛤《かひ》の如く、一片ハ、頭《かしら》、扇《あふき》、聚(あつ)めし如く、故に名《なづ》く。「霏雪錄」に云』ふ、『海中、甲物《かうぶつ》あり、扇の如し。其《その》文《もん》、瓦壟《ぐわろう》の如し、「海扇《かいせん》」と名(な[やぶちゃん注:ママ。「なづ」。])く。』≪と≫。又、『一片』を記(しる)し、舟帆の如し、海上に浮ぶを以て、『帆立蛤(ほたてかひ)』と名づく。又、爲『匕』《さじと なし》、『肉味不佳《にくのあぢ かならざる》』也《なり》≪と≫。人、食はず。但、殼は諸毒を解す。而(しか)して、此ものハ、本邦各地に產すと雖ども、捕獲の多きは、北海道にして、靑森、之に亞(つ)ぎ、該(がい)地方產に、二種、あり。『白乾(しらほし)』、『黑乾(くろほし)』、是なり。共に淸國輸出に適(てき)す。惜(おしい)かな、製法、宜しきを得ざるが故に、販賣價格、甚だ、廉(れん)なり。然(しか)れども、製法を改良せば、素より、風味、佳なるを以て、必らず、廣く販賣するを得(う)べし。從來の製法は、海水を湧(わか)し、肉を投じ、煎熬(せんがう)[やぶちゃん注:汁が無くなるまで煮詰めること。]すること、少時間(すこしばかり)にして、引上(ひきあ)げ、肉柱(にくはしら)の中心に、小孔(こあな)を穿(うが)ち、藁繩に繫(つな)ぎ、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は、竹串に刺して、數日間、乾(ほ)し、猶、爐上(ろじやう)に懸けて、烹乾(はうかん)[やぶちゃん注:「熱を加えて乾燥させること」。]す。此法、北海道其他に於て、普通、施(ほどこ)す所なりと雖ども、近時は、肉柱(にくはしら)に、穴を穿(うが)たずして、乾製せし品(しな)、最も、販路、多し。何者(なんとなれば)、穴を穿ち、繩を貫く時は、食するの際、肉柱、破壞し、且、穢物(おぶつ)、混入するの憂(うれい[やぶちゃん注:ママ。])あり。故(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、單に肉柱を白乾とするか、又は、切片(せつへん)して、乾かすの法を、宜(よろ)し、とす。白乾海扇肉柱(しらほしほたてかひにくはしら)、生鮮にして、大(だい)なる海扇(ほたてかい[やぶちゃん注:ママ。])の肉柱を取りて、橫に切斷し、淸水(せいすい)にて、能(よ)く洗ひ、䀋(しほ)を加減し、簀上(すのこうへ)に排列し、押付け、廣げ、乾(ほ)すなり。此法は、札幌縣下の法にして、切乾(きりほし)なり。然(しか)れども、肉柱を丸乾(まるほし)となすは、同法を用(もちひ)て、可(か)なるべし。製造家、能(よ)く、此法に注意せば、或(あるひ)は、板屋介(いたやかい)の如く、將來、內外需用、多きを、加(くわへ)んこと、掌(たなぞこ)を指(さ)すが如し[やぶちゃん注:「たなそこをさす」「掌(たなごころを指(さ)す)」と同義で、「掌中にあるものをさすように」に「 物事が極めて明白で、且つ、正確であることのたとえ。また、単に、「極めて容易であることの喩え」としても使われる。]。

[やぶちゃん注:これは、

翼形亜綱Pteriomorphiaイタヤガイ目Pectinoidaイタヤガイ上科Pectinoideaイタヤガイ科Pectinidaeミズホペクテン( Mizuhopecten 属ホタテガイ Mizuhopecten yessoensis(ミズホペクテン エッソエンシス)

である。属名は「瑞穂の国の櫛を有する」の意で、種小名は「蝦夷の」の意である。

当該ウィキを引く(注記記号はカットした。私の判断で、本書に注として必要と見做せないものはカットした。一部の太字は私が附した)。『通称はホタテ(帆立)。寒冷海洋性』で、『食用としても重要な貝類の一つ。江戸時代には、海扇などの字も見られる』。『開国を要求するために日本に来航したマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊(黒船)が』嘉永七(一八五四)『年に函館湾で採取したサンプルを、同国の医師ジョン・クラークソン・ジェイ(英語版)が』一八五七『年に Pecten yessoensis の学名で新種として記載した。これは』昭和三八(一九六三)『年に古生物学者の増田孝一郎』『により ホタテガイ属 Mizuhopecten に改められた』(後、化石貝の研究によって和名属名は正式な学名属名に改められた)。『日本語では、標準和名「ホタテガイ」の元となっている帆立貝が古くから呼称としてあり、これは、約10〜15cmぐらいの貝殻の一片を帆のように開いて立て、帆掛舟(ほかけぶね』・『帆船)さながらに風を受けて』、『海中』或いは『海上を移動するという俗説に由来し』。「和漢三才圖會」『においても記載が見られる』(私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「車渠 ほたてがひ いたやがひ」を見よ)。『「貝」を省略した帆立(ほたて、ホタテ)の名でも呼ばれることも多』い。『その他、板屋貝や、殻の形からそれを扇に見立てた海扇(うみおうぎ)との雅称もある。また、秋田藩佐竹氏の家紋に似ていることから』、『秋田貝(あきたがい)とも呼ばれる。まれに車渠』(しゃきょ)『とよばれることもある』。『なお、日本に限っては、この貝から取れる主たる食材が貝柱であることから、代名詞的用法をもって貝柱と俗称されることがある』。『日本で初めてホタテガイが記述されたのは、正徳』五年(一七一五)年『に出版された寺島良安編』「和漢三才圖會」『であるが、ホタテガイとイタヤガイの混同が見られる』。『中国語では』、『イタヤガイ科の殻を扇に見立てて』「扇貝」(『拼音:shànbèi(シャンベイ)』)『と総称し、種としてのホタテガイは』「蝦夷盤扇貝」『とする』。『英語では scallop (イタヤガイ類)の一種である』本種『を Japanese scallop と呼ぶ。また、日本で「ホタテガイ(帆立貝)」と翻訳されることも多い scallop は、分類学的にはイタヤガイ形(ホタテ形)の貝類(イタヤガイ科とワタゾコツキヒ科』(海底月日科Propeamussiidae)『)を大雑把に言うときの総称であり、種としてのホタテガイを特に指すわけではない。日本語でも一般の人々が「ホタテ貝」や「帆立貝」というとき、厳密に生物種としてのホタテガイを指しているとは限らないのと同様である』。『キリスト教圏では英語で言うところの scallop (特にその一種であるイタヤガイ属)の貝殻は、中世以来、聖ヤコブの象徴物とされており、フランス語では「聖ヤコブの貝」を意味する “coquille Saint-Jacques 』(コキーユ・サン-ジャッキュ)『” の名で呼ばれている』。『これも「ホタテ貝」や「帆立貝」と呼ばれることがあるが、厳密には』イタヤガイ科イタヤガイ亜科イタヤガイ属『ヨーロッパホタテ Pecten maximus であり、種としてのホタテガイとは別属別種である』(グーグル画像検索「Pecten maximusをリンクしておく)。『殻径は20cmほどになる大きな二枚貝である。貝殻はふくらみが強い殻と弱い殻とが合わさっているが、ふくらみが強い方が右殻である。殻の中央には大きな閉殻筋(貝柱-断面円形の横紋筋と』、『その傍らに断面三日月形の平滑筋)がある。また、外套膜(ヒモ)の周囲には、およそ80個の小さな眼点(眼)があり(参考画像を参照のこと』(ここ)『)、明るさを感じることができる。水管や砂に潜るための足は発達せず、砂底で右殻を下にして砂に潜らずに暮らす』。『生息に至適な海水温は +5〜+19℃の冷水であるが、−2〜+22℃の間なら生きていける(稚貝はさらに4℃ほど高温でも耐えられる)。浅海の砂底に生息し、自然分布域は極東ロシア、日本列島および朝鮮半島の北部で、カムチャツカ半島、千島列島、樺太、沿海州、北海道、本州の東北地方・北陸地方など。日本での南限は日本海側が能登半島、太平洋側が千葉県とされているが、大規模な商業的漁業が可能なのは東北地方の三陸海岸以北である』。『中華人民共和国やアメリカ合衆国の一部でも養殖され、乾物に加工されて流通しているが、養殖場はいずれも日本以上に水温が高い海域であるため、イタヤガイなど、別の種であると考えられている』(☜)。『天敵はヒトデ、オオカミウオ、ミズダコなどである。襲われた際は閉殻筋で力強く殻を開閉させて』、『外套膜から海水を吹き出し、泳いで逃げることができる』。漁獲は『ほとんどが北海道(オホーツク海側・道東、日本海側沿岸)で行われ、一部は青森県の陸奥湾の沿岸で行われている』。『天然稚貝を漁業海域又は国内の他の海域で採捕し、静穏な海域で1年程度』、『成長させた稚貝を海底に撒き(地撒き(じまき))、放流後3~4年程度自然成長させた貝を、小型底引き網で漁獲する』。『江戸時代の主産地は陸奥湾で、ほこつき』(鉾突き:「ほこ」は「水産省」公式サイト内の「やす・ほこ突き」の図を見よ)、『手操網による漁業であった。採取されたホタテは干して俵にまとめた俵物にして中国(当時は清)へ輸出もされた』。明治一九(一八八六)年四月二十八日『に乱獲防止のため』、『取締規則が布告され、資源保護が考慮され』、明治二六(一八九三)年『から』明治二九(一八八六)年『にかけて』は、『帆立保護区が各所に設けられた』とある。本書の刊行は明治一九(一八八六)年四月五日(ここに「刻成」とある)であるから、まさに乱獲防止の公的取締規則が布告される二十四日前であり、まさにアップ・トゥ・デイトな事実であったことが判る。『ホタテガイの養殖技術が開発されたのは』敗戦後で、昭和三〇(一九五五)年『以降である。天然採苗は』昭和九(一九三四)年『に道東のサロマ湖で木下虎一郎』『によって行われたのが』、『最初とされる』。昭和三九(一九六四)年『には』、『付着基質に玉葱袋を被せるホタテガイ用採苗器が青森市奥内の工藤豊作によって考案されたことで、大量のホタテガイ種苗が得られるようになった。そのため』、昭和四〇(一九六五)年『以降からホタテガイ養殖が急激な発展を遂げた』。『養殖は』、『北日本の静穏で栄養分が豊富な海域で行なわれている。北海道ではサロマ湖、寿都湾、岩内湾、内浦湾、函館湾西部。東北地方では陸奥湾と三陸海岸が挙げられる』。『採捕した天然稚貝を自然環境で育成する方法で行われ』ている。二〇一二年『以降、量・金額とも、日本からの水産物輸出の過半を占め』二〇一四年『の輸出額は446億6500万円に達する。農林水産省による統計では、2022年』一『年間の農林水産物と食品の輸出で品目別のトップを占め、円安の影響もあって同年は前年比で40%以上増加の910億円となった』。『第二次世界大戦前には中国での干し貝柱の需要が主であったが、寿司の海外普及によって冷凍品の需要が増加し、また北アメリカが一大消費地となった。少量だが』、『航空便による生鮮品や活貝の輸出も行われている』。『調理方法にもよるが、日本では近年、生後一年程度の稚貝から』、三~四『年ほどかけて大きくしたものまで、幅広く流通している。北海道や東北地方北部のスーパーマーケットでは、貝が生食(刺身)用か否かを区別して売られていることも見られる』。『貝柱は肉厚で淡白だがほぐれやすく、舌触りと風味がよい。刺身や寿司ネタ、煮込み、バター焼き、スープ、フライなど様々な料理で使用される。また、乾燥して干貝(干貝柱)にも加工し、一部は日本から輸出もされ、具材や調味料として利用される。また、ヒモ(貝ヒモ)と呼ばれる外套膜も生食したり、燻製や塩辛などに加工したりして食べられている』。『貝殻以外は』殆ど『の部位が食べられるが、「ウロ」と呼ばれる中腸腺は』、『えぐみが強く』、『一般には好まれない上、生物濃縮により、貝毒や重金属(主にカドミウム)が集中する。正規の販路のホタテであればサンプル検査で基準値を超えた場合は流通差し止めとなるが、念のため』、『食べない方がよい。ウロは黒緑色で目立つため、素人でも手で容易に取り除くことができる。取り除かずに調理すると』、『内容液が料理全体に広がることが多いため、通常は調理前に取り除く』。『蝶番近くの側面にある隙間にヘラを差し込むと容易に解体できる』。『貝柱は』、『そのまま刺し身で食す。殻は網焼きなどの際にフライパン代わりとして重宝し、バターや醤油なども満遍なく染み渡る』。『代表的な加工品は冷凍貝柱、ボイルホタテ、干し貝柱である。日本料理のほか、フランス料理や中華料理の食材として日本国内で消費されるだけでなく、日本国外にも盛んに輸出される。乾燥品は近年中国での需要増により価格が生鮮品の数倍に跳ね上がる。対して生鮮品は庶民でも気軽に買える』ほど、『安い』。以下、「干貝」の項。『貝柱のみを乾燥して製造する。貝柱は水分が8割近くを占めるため、干貝は非常に収縮する。日本国内では酒肴として供することが多いが、中華料理では水戻しや粉末状にしてスープや炒飯などの具材として用いられる高級食材である。また、うま味成分に富むため、XO醤の材料としても使用され、高級オイスターソースに入れられる例もある』。『干貝は非常に硬いことから、軟らかく製造した半乾燥の製品。おやつや酒肴などにそのまま供される。一玉ずつ真空パックされているものが多い。調味は塩と燻油漬けの二種類がある』。「半成貝(ベビーホタテ)」の項。『水温が上昇し、斃死する可能性のある夏季を避けた半年』から『 9か月程度の貝をボイルし、ウロを除去した製品。炒め物、揚げ物、味噌汁など多様な用途で広く食されている』。『貝殻は』、『日本などの料理店等で野趣を演出する鍋代わりに使用されることも多い。日本の青森県では』、『居酒屋で貝焼き味噌(ホタテガイの貝柱やヒモ、刻みネギ、削り節を味噌で煮て玉子で綴じる)と言えば』、『一般的な料理である。貝焼き味噌用に大型の貝殻も販売されており、刺身の盛りつけや、なかには灰皿などにされることもある』。『また、カキの垂下式養殖にも一般的に使われている。カキの幼生が浮遊している時期に多数のホタテ貝殻を連ねたロープをイカダから海中に吊るすと幼生が付着するため、これを海中で肥育させる』とある。

『野必大(やひつたい)は「本朝食鑑」に『帆立蛤(ほたて)者(は)、車渠(しやこ)なり。』とせり』これは、河原田氏、「本朝食鑑」をちゃんと読んでいない結果の完全アウトである。これでは、人見必大(ひとみひつだい)が、マルスダレガイ目ザルガイ上科ザルガイ科シャコガイ(硨磲貝)亜科 Tridacninaeのシャコガイ類と間違っているように読めてしまう。国立国会図書館デジタルコレクションの当該部「帆立貝」を見られたいが(阿呆臭くて活字に起こす気にはならない。十分に視認で読める)、「車渠」を異名の一つ(中国語由来の同類の「硨磲」等の本草書から)として挙げている過ぎない。その証拠に、以下のサイズの記載を見れば、一目瞭然である。但し、分布を「集解」で『海西諸州』としていることから、これは、ホタテガイではなく、先のイタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans を示唆しているので、注意が必要である。但し、それを以って勘違いと、やり玉に当てるのは、本草学的にナンセンスである。私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 海扇」を見られたい。そこで貝原益軒は『海扇(ほたてがい) 「本草」に出でたり。車渠〔(しやきよ)〕と云ふ。』と言っているのである。河原田氏は、古書を、ちゃんと読まない悪しき癖があることは、今まで、何度も、危うく、煮え湯を飲まされるところだった、その一例である。

「日東魚譜」国立国会図書館デジタルコレクションの当該部をもとに、以下に推定訓読をする。

   *

海扇【「霏雪録」。】

釋名扇蛤(アツキカイ)【和名】板屋蛤(イタヤカイ)【同上】帆立蛤(ホタテカイ)【同上俗名】並《ならび》に殻の形狀を以て、之を名《なづ》く。此の蛤《かひ》、一片は平《たひら》にして、聚頭扇《しゆとうせん》のごとし。一片は深《ふか》し。以て、匕匜《ひい》と作《な》す。故に、通俗、名《よん》で「匕狗子蛤(かいしやくしかい[やぶちゃん注:ママ。])」と呼ぶ、是《これ》なり。「霏雪録《ひせつろく》」に云《いは》く、『海中、甲物《かふぶつ》有り。扇《おふぎ》のごとく、其《その》文《もん》、瓦壟《がろう》のごとし。「海扇《かいせん》」と名《なづ》く。』《うんぬん》。肉の味、佳《か》≪なら≫ず。以て食《くふ》べからず。

   *

下方に三個の貝を開いた図があり、その前の上に『アフキガイ』『イタヤガイ』、後の上に『ホタテカイ』『カイシヤクシ』とある。

後半の「霏雪錄」であるが、これは、明の文人鎦績(りゅうせき:劉績とも)の撰になる随筆である。中文サイトの「中國哲學書電子化計劃」の同書のここの、『《名戴帽洲》』の『3』に、

   *

海中有甲物如扇其文如瓦屋惟山月一日潮盡乃出名海扇四明任松卿嘗有詩云漢宮佳八班捷好香雲一篋秩風切網蟲蒼言恩自淺猶抱明月馮夷居荒今生怕秋風而川月跡日纔一見對人搖動不如烹肯入五雲清署殿

   *

とあった。

・「聚頭扇《しゆとうせん》」「折り畳み扇子(せんす)」の別称。使用時に開いて半円形になり、要(かなめ)で「頭が集まって尾が散る」ことから、の名称。本邦の平安時代に発明され、その後、中国に伝わったものである。

・「匕匜《ひい》」「匕」は「さじ」で、「匜」は漢語で、湯水を注ぐのに用いる道具を指す。容器に中空の柄をつけ、水の出口としたもの。「ひさげ・半揷(はんぞう)」とも呼ぶ。

・「匕狗子蛤(かいしやくしかい)」訓は和訓で「貝杓子貝(かひしやくしかひ)」と思われる。

 以上から、例によって、河原田氏の文章は、勝手な自然流の解説であり、引用とは言えない。

2026/07/18

泉鏡花「甲乙(きのえきのと)」の本文ベタ第一次校正終了

今日午前中、泉鏡花の随筆「幼い頃の記憶」に基づく小説の第二作「甲乙(きのえきのと)」の本文ベタの第一次校正を終わった。但し、ルビは後に読みを打ったもので、これより正規ビル化を行うので、時間が掛かる。

2026/07/16

芥川龍之介の霊に呼ばれたか!!!

さっき、気まぐれに、ふっと、国立国会図書館デジタルコレクションで「芥川龍之介 原稿」で検索をかけた。すると、

芥川竜之介 著『未定稿・デッサン集』,雪華社,1971.(本登録をしないと見られない)

というのが目に留まった。かの葛巻義敏氏の編である。――迂闊にも、私は入手していない本だった⋯⋯しかし、全画像を見たところ、所持する

①同氏編の昭和30(1955)年ひまわり社刊の「椒圖志異 芥川龍之介」

②同氏編の昭和43(1968)年岩波書店刊の「芥川龍之介未定稿集」

③日本近代文学館編の平成27(2009)年二玄社刊の「芥川龍之介の書画」

に載るもので、概ね、デッサンは含まれているようである。但し、最後の未定稿原稿の画像は、①に活字化されているものの、元原稿を見るのは、初めてだった。

しかも! これらの画像が――以上の三書に比して、全部が! 俄然!! 極めてクリアーなのである!!!

⋯⋯そして⋯⋯この国立国会図書館デジタルコレクションの当該書の公開日を見て驚いたのだ!!!

『芥川竜之介 著『未定稿・デッサン集』,雪華社,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12728974 (参照 2026-07-16)』☜!

今日なのだ!!! 龍之介の霊が呼んで呉れたとしか、思えないのだった!!! 暫く御無沙汰であった芥川龍之介のプロジェクトを、おっぱじめねばなるまい⋯⋯【2026年7月31日修正】早とちりであった⋯⋯以上は「転載時の表記例」で毎日更新される年月日であった。図書館・個人送信公開開始日は二年前の2024年4月30日であった。

【2026年7月18日追記】案の定、この本の翻刻された草稿(画像附属)は、恐らく新全集にも収録されていないものであった(「恐らく」というのは、私は最新の岩波の「芥川龍之介全集」全二十四巻の、漢字を新字に変えてしまった仕儀を、極めて気持ちが悪く感じており、書斎に置くこと自体が生理的嫌悪感を抱くので、必要に感じた第二十一・二十二・二十三巻のみを仕方なく所持しているだけで、その三冊には所収していない。可能性としては「第二十四巻 補遺・年譜・単行本書誌他」に載っているかも知れないが、少なくとも国立国会図書館デジタルコレクションで検索した限りでは――新全集そのものは視認出来ないが、横断検索でワード・フレーズで調べることは出来る――所収していないことが認識は出来る)。やらずんば、ならず!

2026/07/15

甲子夜話卷之九 三 肥前佐嘉にては火毬降ることある事

9―3 肥前佐嘉にては火毬降ることある事

 吾が永昌寺(えいしやうじ)の隣(となり)の宗源寺(そうげんじ)の住持(ぢうぢ)を、順道(じゆんだう)と云(いふ)。肥前佐嘉(さか/さが)領(りやう)の人なり。

「永昌寺に、語れり。」

とて、聞く。

「佐嘉にては、時として、天より、火毬(ひまり)、降ること、あり。里人、「テンピ」と謂ふ【「テンピ」は「天火」なる當(べ)し。】。

 火毬、おつると、地上を轉(てん)ず。

 人、これを視れば、卽(すなはち)、簇(むらが)り、逐(お)ふ。

 逐(おふ)とき、念佛を高唱(かうしやう)す。

 逐へば、乃(すなはち)、囘轉して、逃(にげ)るが如(ごと)し。

 因(よつ)て、郊外に逐行(おひゆき)て、野に轉(ころ)び入(いれ)ぱ、災(わざはひ)、なし。

 逐(お)はざれば、人家(じんか)に轉び入(いり)て、火を發す。」

と云ふ。

 奇(き)なること也(なり)。

 

■やぶちゃんの呟き

「吾が永昌寺」サイト「浄土宗寺院紹介」の「永昌寺」に拠れば、当初、永禄元 (一五五八) 年に浅草『下谷に下谷長者が開創した寺』で、寛永一四 (一六三七) 年に『現在の地』(台東区東上野のここ。グーグル・マップ。)『に移っているが、近辺は大名屋敷が多く、肥前藩主松浦壱岐守の妻、永昌院が開基となり、寺名に由来している』とあった。なお、この寺は、かの講道館柔道の発祥の地であることが書かれてある。

「宗源寺」永昌寺の西北西の直近にある、同じ浄土宗寺院。前のマップ・リンクで確認出来る。

「肥前佐嘉領」ウィキの「佐賀郡」に拠れば、『文献における初出は』「肥前國風土記」『(奈良時代初期・』八『世紀前半頃)で、佐嘉郡(さかのこおり)と表記された。一方』、「日本靈異記」(平安初期・』九『世紀前半頃)では肥前国佐賀郡とあるように』、『古代から江戸時代まで「佐嘉」「佐賀」両方の表記があった』とある。

「天火」「国際日本文化研究センターデータベース」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらの「検索ページ」で、筆頭の「検索対象事例」に「テンピ」として本篇内容と同一内容が掲げられ、詳細カードには「地域(区町村名)」を『東松浦の山村』とし、『正体の知れない怪火で、大きさは提灯ほど。人玉のように尾を曳かない。佐賀県東松浦の山村では、これが落ちると病人が出るといって、鉦を叩いて追い出したといわれる。』とある。以下、「類似事例(機械学習検索)」に、熊本県(三件)・佐賀県・高知県(三件)(ノビ・ケチビ)・愛知県(オクリビ)・静岡県(グヒン・アキバシンカ)・静岡県(オチカビ)・京都府(タヌキノヒ)等が列挙される。それぞれの怪火の名のリンク先で詳細が読める。

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その15) 板良貝柱

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]

 

   板良介柱《いたらかいはしら》

板良介(いたらかい)、一《いつ》に『にしきかひ』と名(なづ)く。「日東魚譜(につとうぎよふ)」に『錦蛤(きんがう)』と曰ふ。穀色(こくしよく)[やぶちゃん注:「殼色(からいろ)」の誤字。東洋文庫版で、漢字のみ修正注がある。]を以て、之を名(なづ)く也(なり)。『蛤(かう)の形、羽蛤に似て』、『背上に細條理《さいでうり》あり』。『沙剌《しやし》の如く』、『其色、紅(こう)、黃(くわう)、或は鮮紅』、愛すべし。『未だ、漢名を知らず。』[やぶちゃん注:以上は後注で「日東魚譜」の原文を示すが、一応、引用らしい部分のみを二重鍵括弧を添えたが、引用としては、正確さに甚だ欠けており、河原田氏が勝手に表現をいじって、追加してしまっている。]但(たヾ)、殼を以て、玩(ぐわん)と爲(な)すと在(ある)ものなるが、此貝柱を乾製したるものは、近年、「いたや介」、柱と共に淸國に輸出する少許(せうきよ)にあらず[やぶちゃん注:「少しばかり」というレベルではない(相応の輸出を行っている)。]。然(さ)れども、此介は、成長の度(ど)、甚だ、遲きを以て、捕季(ほき)を制定せざれば、每年に利を得る、なし。此板良介は、五、六月の間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])に採捕(さいほ)するものなるが、小介(せいかい)を、悉(ことごと)く捕(と)るより、四、五年、或(あるい[やぶちゃん注:ママ。])は、七、八年も、甚だ、產額を滅ずること、あり。

 乾製法は殼を去り、貝肉、凡そ、二斗五升に、食䀋(しよくえん)二升五合を和(くわ)し、入置(いれおき)しこと、一夜(いちや)にして、釜に入れ、煑ること、凡《およそ》十五分間にして、莚蓆(むしろ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])に散布し、日乾(ひほし)すべし。

[やぶちゃん注:これは、

翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科カミオニシキ亜科カミオニシキ属ニシキガイ Chlamys squamata

である。ここでは、先ず、保育社の『吉良図鑑』(昭和三四(一九五九)年改訂版)を引く。『殻は中形で左殻は少し膨れるが右殻は殆ど平坦である。殻表には強弱のある低い放射肋が約5条あり, 肋間に3~4条の小間肋を挾む。主肋間肋共に大小の鱗片が粗く突起する。色は多食形で白色・褐色・紅色など種々あり, 斑紋は雲状斑が多い。足糸彎入』(一部の斧足類の中で、殻の縁の一部が小さく弓型に窪んで、足糸(そくし:やはり一部の二枚貝がも持つ体内から分泌する細い糸状部位。これで貝を岩や小石に附着させる)を出す部分のこと)と櫛歯』(足糸を出す部分の突起を指す。足糸を綺麗に梳き広げて、安定して岩に固着させるための部分)『も顕著である。本州南部以南5~10fms.』(英語:fathom(s)(ファゾム:漁業上に使われる水深単位「尋(ひろ)」の略。同図鑑概説では6尺換算しているので、一・八二~十二・七三メートルである)とある。

 次に、小学館「日本国語大辞典」を引く。『にしき‐がい‥がひ【錦貝】』『① イタヤガイ科の二枚貝。房総半島以南に分布し、水深一〇~五〇メートルの岩や小石に付着する。殻はホタテガイに似て』、『丸みを帯びた扇形を呈するが、小形で殻が薄い。殻長約四センチメートル。約二〇条の放射肋』『が走り、そのうち強い放射肋上には短い鱗片状の突起をそなえる。殻の色は褐色・黄・赤・紫など多彩で、不規則な雲形模様を呈するものが多い。殻は観賞用にされる。みやこがい。〔書言字考節用集(1717)〕』。『② 貝殻に美しい模様のある貝。』。

 ウィキはないので、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の当該種のページを引く。「漢字」は『丹敷介、丹敷貝、錦介、錦貝』。「由来・語源」『『丹敷能浦裏』より。色合いから』。「生息域」は『海水生。房総半島以南。インド・西太平洋域』で、『水深5〜40メートル』。「生態」は『足糸で岩礁について棲息する。』とし、「基本情報」の項には、『市場に入荷することも、食用とされることもない。貝の収集の対象。』『淡い紅色が美しい』と終わる。なお、そこに出た「丹敷能浦裏」というのは、誤記で、「丹敷能浦裹」が正しく、「にしきのうらつと」と読む。「渚ノ錦」「渚の丹敷」。Terumichi Kimura氏の貝類サイト「@TKS」「貝の和名と貝書」によれば(以下、引用ではアラビア数字を漢数字に代えさせてもらった)、曾永年著で享和三(一八〇三)年刊、上下二巻。『上巻は二枚貝、下巻は巻貝で、合計百二十三項、五百四十品。付録五十四品を載せている』。『緒言によれは美麗な彩色図があるはずだが詳細不明。曾永年は通称を占春といい、薩摩候 島津重豪の記室。占春は貝類を記載するに当たり、ある一個の代表種を題目に掲げ、 類似のものはその下に取り纏めて記するような方式をとっ』ているとある。当該書は「東京国立博物館デジタルライブラリー」で原本画像(カラー)を見ることが出来る。ここである。以下、字起こしをしておく。右附き送り仮名はフラットにし、読みは( )で示した。

   *

錦木(ニシキ) 無對ノ類形礒(イソ)貝ニ似タリ表ノ縁(ヘ)リ黄色正中赤ク光艷アリ內チ黄白光アリ光彩他ノ介ニ勝(マサ)レリ愛ヘシ

   *

この図は、まあ、解説と図からニシキガイに同定出来る。なお、「礒(イソ)貝」は先行するここに出るが、色も形も似ていない。「䗩(ヨメノサラ)ニ似テ」以下の解説と図の形状から、私は腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目スズメガイ科スズメガイPilosabia trigona ではないかと推測する。

 しかし、以上の通り、如何なる現代のニシキガイの記事では、ここに記されるような食用対象の記載は、全くないのである。貝類収集家である私も、貝殻は幾つも持っているものの、これを食べたことは、ない。小さ過ぎる。されば、ここに列挙されていることには、正直、驚いた。というより⋯⋯「これって⋯⋯何か、もっと大きな別種じゃないか?」と深く疑っているのである。

「日東魚譜」私はカテゴリ『神田玄泉「日東魚譜」』を持っているが、四記事で停滞している。実は、彼の図譜が好きになれないからである。同書については、その初回『カテゴリ 神田玄泉「日東魚譜」 始動 / 老金鼠(ホヤ)』を見られたい。国立国会図書館デジタルコレクションのここが当該部である(左丁終り)。訓読しておく。推定訓読部は《 》で示した。推定脱落訓点は≪ ≫で添えた。

   *

錦蛤【同上】[釋名]形、羽蛤《はかひ》に似て、紅黃綘色、相交《あひまじは》る故に「錦蛤」(にしきかい[やぶちゃん注:ママ。])≪と≫名《なづ》く。狀、羽蛤より小んして、背の上、條理《でうり》有《あり》て、𮈔《いと》のごとく、沙刺、生ず。未だ漢名を知らず。

   *

・「同上」前の「羽蛤」の割注に『和品』とあるのを指す。

・「羽蛤」これ、ご覧になれば判る通り、貝殻の形状は、全く以って、ニシキガイとそっくりである。モノクロームだったら、別種とは思えないのである。ニシキガイは、幾つも採取したが、実は、貝殻背部の色は非常にヴァリエーションが多く、全体が白いものもある。ここまで白いには、所謂、白化個体であろう。それが一番しっくりくるのである

「いたや介」前の「(その14) 板屋貝柱」を見よ。]

2026/07/14

立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き(★準備稿第5版)

《★以下は、「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き」の私の準備稿である。このプロジェクトは非常に時間が掛かるため、部分公開をすることとする。疑問・反論があられる方は、是非、お伝え下されたい。その内容に納得出来た場合は、書き直しをすることを、厭わないつもりである。以下の部分公開は、増補を行う都度、前のものを削除し、新たに起こすこととし、その際、既に示した内容でも、修正を加えて書き変えてあるので、必ず、再度、全体に目を通されんことを望む。

 

[やぶちゃん注:私は既にブログ・カテゴリ「立原道造」で、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集Ⅰ」(一九七一年角川書店刊)を用いて、「詩集 優しき歌 Ⅰ」の全篇を一篇ずつ、電子化し、オリジナル注を附したものを完遂している。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む。以下の冒頭の引用を参照されたい。)とあり、本篇はここからである。

 以下、第一回の「燕の歌」の冒頭注で、底本の「解説・編註」の一部を引用して述べた通り、本底本は――今までの全集とは異なる形で詩群が配置されている――ことが明記されており、しかも、★現在、流通している立川道造の詩集中の「優しき歌 Ⅰ」は、殆んどが、新字採用であり、しかも、本底本全集刊行以前の詩集の、全く異なった「優しき歌 Ⅰ」を以って読んで、鑑賞したきりの読者が、想像以上に多いと考えられるのである。私でさえ、本詩群が載る一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編/現在は品切れ)を古本で入手したのは、二〇一五年の夏であったのである。

 されば、前にまず、ブログで「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ / 全篇一括ベタ版・附;縦書版(PDF)」を公開した。その縦書版PDFこちらである。

 

 今回は、私なりに、道造が「優しき歌 Ⅰ」として全体をソリッドなものとして意図した「流れ」を、ある意味では、批判的に分析することになる。

 それは、既に、各篇を見てこられた読者も私と同じく、素朴に抱く根本的な疑問があるからである。簡単に言ってしまえば、

★この「優しき歌 Ⅰ」の十二篇からなる詩篇群は、

■巻頭を飾る「燕の歌」が創作されたのは、

昭和一〇(一九三五)年二月以前(「燕の歌」の初出は『四季』第五号(昭和十年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)

であり、而して、

■終曲である「淺き春に寄せて」が創作されたのは、

昭和一二(一九三七)年二月以前(「淺き春に寄せて」の初出は『四季』第二十五号(昭和十二年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)

で、

時間軸での創作時間は、実に、二年間に跨り、

しかも、以上の巻頭・終曲の初出が同じ詩誌『四季』であったのは、私には、たまたまであったと思われ、

その間にある十篇に至っては、発表されたのは、異なったバラバラな媒体だった

のである。

言うまでもないことだが、この二年間の間には、別な詩篇を、道造は、多数、創作している。いや! 何より大事なことは、

本「優しき歌 Ⅰ」としての叢書刊行の着想を道造が考えたのは、昭和十二年一月のこと推定されていること

である(以上に就いては、既に各篇の注で、底本全集の「解説」・「編註」を引用しつつ、詳細に記してある)。

 

 則ち、

この「優しき歌 Ⅰ」は、道造の生前に実際の原稿として十二篇を纏めて組まれたことはなかっただけではなく、角川書店昭和四六(一九七一)年六月二十日刊の『立原道造全集』の『第一卷 詩集Ⅰ』で初めて――道造の死から実に三十二年一月二十一日も経った後に――忽然と姿を現した十二の詩篇群であった

のである。

 

 思うに、

「優しき歌 Ⅰ」の構想をした道造は、その時点で、必ずや――全篇に亙って――細部に手を入れて変更を考えていたことは、火を見るより明らかである。

 と言っても、それを見ることは、何人(なんぴと)にも出来ぬのだ。

 

 私は以下、私の感性で、感じたことを注として語ることとするだけ、である。

 しかし、そこには、当然、致命的に

★二年もの間の時間経過に拠る道造の感性上の絶対矛盾が存在している

のであり、それを、

★私が道造を偏愛しているからといって、見て見ぬふりをすることは出来ない

ということである。

 なお、先の「ベタ版」のテクストを、そのまま使い、個別公開した際、字注として添えたものも、必要と感じる部分を検証の冒頭に再掲しておいた。

 

 

 優しき歌 Ⅰ 風信子叢書 第四篇

 

 

 燕の歌

    春來にけらし春よ春

     まだ白雪の積れども

           ――草枕

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる

とほい村よ

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き

山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

 

やさしい朝でいつぱいであつた――

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら

とほい村よ

 

僕はちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと 

 

 

 単体公開の注で既に述べた通り、最近、電子化注した「立原道造草稿詩篇 燕の歌(二) (恣意的に発表された正編正規版「燕の歌」を頭に添えた)」があり、それは、編註で、昭和一〇(一九三五)年の春の制作と想定しており、草稿詩篇では、『(二)』としている以上、この「燕の歌」の後に続篇として創作したものであるが、明らかに、この詩篇に比べて、ネガティヴさが、相対的に遙かに色濃いのである。以下に示す。

   *

 

  燕の歌(二)

 

朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

私の羽根はもうくたびれた

海よ お前の掌は私を止らせてくれはしない

 

私はいつか信じてゐた 北の村には

昔の私が待つてゐると さうかしら

海よ お前は敎へてくれ きつと知つてゐるから

お前の身體が北の岸に觸れる村で

昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ

 

私の旅はもう長い 私の羽根はくたびれた

海よ お前は波立ち呟いてゐる

 

夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

敎へてくれ 北の村で昔の私がやさしい朝と一しよに

私の着くのを待つてゐると敎へてくれ

お前は波立ち呟いてゐる それが私には

何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ

 

私の羽根はもうくたびれた

私はどこへ行くのだらう 海よ

お前は大きく お前はむごく意地惡だ

 

   *

 私は、今回、この二篇を比較した際、微かに閃いたことは、

――『これは!⋯⋯フランス語の「半過去」と「複合過去」のニュアンス上の違いではなかろうか!?!――

ということであった。道造は、昭和七(一九三二)年八月二十八日(想定)附の堀辰雄宛書簡(底本全集の「第五卷 書翰」のここの「二二」。一高二年進級直後)で、立原は冒頭部で、『この夏は、たうとう東京でぼんやり過してしまひました、佛蘭西語などをすこしやつてみたりして、田舍へも行きたいと思ひましたけれど、結局どこへも行かずしまひでございました。頭のなかで、よい景色のことばかり考へて居りました。そいて、何だかそれが、僕に一番気に入る方法だと、新字ながら⋯⋯』と記しているように、独学で(彼は一高ではドイツ語を選んでいた)本篇を書いた凡そ二年半前から、フランス語を学び始めていた。

 ここで、フランス語の当該文法の違いを簡単に述べると(私は英語が嫌いだったので、大学ではフランス語を第一外国語にしていた)、

「半過去形」は、その行為や状態には終結点がなく、未完了の行為となる。

それに対して、

「複合過去形」では、継続的行為や反復的行為であっても、その期間・回数が閉じた時制として具体的であり、はっきりと完了すると判る行為となる。

 さて、以上の二篇を見てみよう。

 正統である知られた「燕の歌」は、

   *

 

  燕の歌

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢に★かかつてゐる

とほい村よ

 

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を★咲き

山羊が啼いて 一日一日 ★過ぎてゐた

やさしい朝で★いつぱいであつた――

 

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消え★ながら

とほい村よ

 

僕は★ちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐる

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて★行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を ★望みと夢は靑くてはてなかつた

 

   *

 ここで★と下線を引いた箇所は、

――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は、過去としては――閉じていない――

のである。

 ところが、「燕の歌(二)」では、

   *

 

  燕の歌(二)

 

朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

私の羽根は★もうくたびれた

海よ お前の掌は私を★止らせてくれはしない

 

私は★いつか信じてゐた 北の村には

昔の私が待つてゐると ★さうかしら

海よ お前は敎へてくれ きつと★知つてゐるから

お前の身體が北の岸に觸れる村で

昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ

 

私の旅は★もう長い 私の羽根は★くたびれた

海よ お前は波立ち呟いてゐる

 

夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

敎へてくれ 北の村で★昔の私がやさしい朝と一しよに

私の着くのを待つてゐると敎へてくれ

お前は波立ち呟いてゐる ★それが私には

★何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ

 

私の羽根はもう★くたびれた

私はどこへ行くのだらう 海よ

お前は大きく ★お前はむごく意地惡だ

 

   *

 ここで下線を引いた箇所は、明らかに、

――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は――過去としては――殆どが――閉じてしまっている――

のである。

 いや! この「燕の歌(二)」を、道造が「燕の歌」とセットする確信犯を持っていたら、私は、「燕の歌 Ⅰ」は、以下、続いた詩群を後に組むことは、到底、あり得ない――出来ないもの――と断ずることが出来る。さればこそ、この「燕の歌(二)」は草稿としてのみ、残されたのである。

 そして、道造が、自身の比較的若き日の恋愛の思い出を、大学卒業を半年後に控え、また、新鋭詩人としての本格始動の一つの区切りとして――この――「優しき歌」の詩群(私は、この時点で、当初から、彼が、この詩群を「Ⅰ」として自覚し、後に「Ⅱ」を確信犯として企図していたかどうかは、微妙に留保するものである。それは、「覚書 Ⅱ」――底本の「第一卷 詩集Ⅰ」のここの左丁――には「Ⅰ」を打たず、また、前の右丁下の、現行では「優しき歌 Ⅱ」相当の「覚書Ⅱ」にも、「Ⅱ」は、打たれていないからである。だいたいからして、「Ⅰ」は「Ⅱ」の出版後に出現した――しかも、孰れも編者によるものである)を企画したと推理するものである。

 なお、ここで言っておくが、これ以降の詩篇もそうだが――と言うより――多くの道造の詩の実際の彼の恋愛経験を基盤に埋め込んだ作品群に於いて、その相手が、誰(たれ)それであると特定し、姓名を挙げ、恋愛事実と、その破綻を解剖する注や分析を行う意思は――全く――私には――ない。その方面から、詩や物語を分析する必要を一ミクロンも――感じないから――である。「しかし君は、芥川龍之介の作品群では、恐るべき数の、それを、子細にやってきたじゃないか?」と言われるであろうが、それは、龍之介が、本来の結婚したかった女性との結婚を親族に拒否されたことに始まり、既婚者となった後も、驚くべき数の複数の不倫をし、それが、龍之介の作品群執筆の動機・原因となっているケースが有意にあり、それを示さなければ、作品の深層を分析出来ないからであり、さらに、龍之介の精神をも蝕むところの、病跡学的なメスを加えるに際して、絶対的に必要であったからである。道造は、私は一種の双極性障害を抱えていたと考えているが、龍之介よりも、遙かに健全な精神を保持し続けていたのである。

 

 

   §   §   §

 

 

  うたふやうにゆつくりと⋯⋯

 

日なたには いつものやうに しづかな影が

こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと

花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯

すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた 

 

私は待ちうけてゐた 一心に 私は

見つめてゐた 山の向うの また

山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を

ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯

 

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も

たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに

風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 

 

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

 

 

 一目瞭然、前の「燕の歌」との決定的な違いは、「燕の歌」が、まさに、プロローグ詩篇として、

ツバメが⋯⋯すぅーと⋯⋯遠い村を眺め⋯⋯暮れやすい花を咲かし⋯⋯山羊が啼いている軽井沢の野原を翔(と)び⋯⋯

音符のスラーのような春の空の山並みを掠めて⋯⋯夕焼けの中の遠景の村の遠景の色⋯⋯

と、水彩画で描き、次でブレイクして、

「僕はちつともかはらずに待つてゐる」「あの頃も 今日も あの向うに」「かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると」という確信犯の半過去の自己感懐の吐露をなした上で、「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ」「あのさびしい海を 望みと夢は靑くてはてなかつたと」という孤独な現在進行形の《閉じた時空間》に屹立しているのだ。

 「燕」は客観的な自然生物体のツバメではなく、「道造という孤独な燕」にメタモルフォーゼしようとしているのである。

 しかし、それを、道造は、読者に、その変容を気づかせないように――巧みに――フェイド・アウトさせているのである。

 さればこそ、この第二篇「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」を、ここに配置することで、愛する永遠の女性像を最終第四聯を除いて、美事(私は「みごと」の漢字表記を国語教師であるのに――いや――国語教師である前に孤独な詩人面を確信犯として演じて――永く「見事」と書かずに、かく「美事」と書いてきた。何度か、男子生徒が「先生、『見事』の間違いではありませんか?」と注意しても、「僕は、こう書くことにしているんだ。」と応じて、ニヤッとしたものだった⋯⋯いや、これは、今も、私の個人的な拘りとして現に私の心の中で生きている私の絶対詩語言語なのである)に消し去って、「優しき歌」とするために――自分独りだけの半過去の詠唱にすり替えている――のである。

 物理的な事実が、それを証明する。

★「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、

『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)

であるのに対し、

★本「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」の発表は、

『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊)

で、実に――★二年一ヶ月十二日――も離れているのである。

恐らく、殆んどの読者は、本詩篇群が日の目を見た一九七一年当時だけではなく――本日只今にあっても――この事実を全く理解していないに違いないのである。

 そして、最終聯、

   *

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

   *

には、注意が肝要である。

本「優しき歌 Ⅰ」全十二篇の中で、初めて「優しい」という語(「やさしい」の語も含む)が使用された最初が、この二行目の「私の日々を優しくするひとを」のフレーズ中なのである。而して、実は、次の「優しい」は、「薊の花のすきな子に」パートの「Ⅱ 虹の輪」の第二聯の最終行「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」であり、次は、同じ「薊の花のすきな子に」パートの次の「Ⅲ 窓下樂」の第二聯の最終行「とほい やさしい唄のやう!」で、その後は、ずっと後の「鳥啼くときに」の第一聯の最終行「なんと優しい笑ひ聲だ!」で、これで終りで、計四回である。

 但し、この物理的事実は、これと言って、問題するべきものではなく、《優しい》ニュアンスが、他の八篇にも感知されていれば、それで良く、それは、確かに、ある、と言える。道造は、無論、それを意識して、これら十二篇を選別したことは、明らかである。

しかし、そこは、時期を相応に隔てて、全く別個に詠んできた詩篇を、ある意味、無理矢理に「一緒くた」にしたことには、私は、かなりの問題があると感じているのである。

 而して、最終聯の、

   *

私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」

   *

の告解は、最早、特定の過去の複数の失恋相手誰(たれ)それなのではなく、

――架空の哀しい過去・現在・未来に於いて実現されない「私の日々を優しくするひと」を必死にイメージした産物――

であり、この「優しき歌 Ⅰ」全体に仕掛けられた

★「バッソ・コンティヌオ(Basso continuo)」=通奏低音となっている

と、私は信ずるものである。

 

 

   §   §   §

 

 

   薊の花のすきな子に

 

  Ⅰ 憩らひ

       ―― 薊の花のすきな子に――

 

風は 或るとき流れて行つた

繪のやうな うすい綠のなかを、

ひとつのたつたひとつの人の言葉を

はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

 

ありがたうと ほほゑみながら。

開きかけた花のあひだに

色をかへない靑い空に

鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

 

気づかはしげな恥らひが、

そのまはりを かろい翼で

にほひながら 羽ばたいてゐた……

 

何もかも あやまちはなかつた

みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた

ひろい風と光の萬物の世界であつた。

 

 

[やぶちゃん注:この作品の初出は『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)である。さても、ネットの個人評釈の中で、この添え題の中の『薊の花のすきな子』を、彼が勤めていた「石本(いしもと)建築事務所」【今回、「石本」の読みを確認するために、現在もある「石本建築事務所」公式サイトを訪ねた。そして、そこの「環境統合技術室」の『社会が変化しても「変わらない」想い』以下に、何んと! 道造の直筆原稿四葉から成る「建築衞⽣學と建築裝飾意匠に就ての⼩さい感想」が画像で示され、さらに字起こし(但し、現代仮名遣・新字である)もされているのを見て、驚愕した! 後の解説によれば、『本小論文は1936年(昭和11年)3月頃、立原道造が東京帝国大学建築学科2年次の終わり頃に書かれたものと言われています。』とあった。その年月日は――後に示す通り、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」三篇の書かれた時期のど真ん中の時の原稿――なのである!! 是非、見られたい! 道造の当時の優しい読み易い筆致を見るだけでも至福たること、保証する!!! しかも! ★この原稿は角川版「立原道造全集」にはこの論考は載っていない★のである! 調べたところ、引用した通り、同全集の書簡の昭和十一年二月十八日附小場晴夫宛『二〇八』の末尾の方に(ここの左丁の下段一行目)『試驗が近くなると、目がまはりさう。試驗前に出す、演習の製圖があり論文があり、學校の製圖があり、衞生の論文があり』とある最後のものがそれである。同巻の「編註」を見ると、まさに、この「衞生の論文」について、『平山嵩助教授の「建築衞生」の提出論文のこと。』とある。】に働いていた水戸部(みとべ)アサイであろうか? とするものを見たが――

それは、物理的にあり得ない

のである。底本全集の「第六卷 雜纂」の「年譜」によれば、道造が同建築事務所に初出勤したのは、昭和十二年四月一日であり、同年譜では、昭和十四年四月の項に、『四月』『上旬、同じ事務タイピストをしていた水戸部アサイの姿が、少しづつ始める』(ここの五月の右丁下段五行目から)とあり、それ以降、急速に親密になっている(同左丁上段後ろから七行目以降、及び、同左丁下段の六月の項を見られたい)。但し、以降、道造が水戸部アサイを死に至るまで愛し続けたことは、明らかである。亡くなる記事の載る、ここの三月(右丁上段後半部。道造の逝去は三月二十九日午前二時二十分で、『肉身にもみとられずにひとり息を引きとった。享年、二十六歲(満二十四歳八か月)』とある。具体には、候補者は信濃追分で出会った親戚筋の少女横田ケイ子、同地で出逢った弁護士の令嬢関鮎子であろうかとは思う。しかし、クドいが、既に述べたように、詩篇に登場する詩人が愛した女性を特定することには、私は全く興味がないし、必要性もない――誰であるかというのは、彼の詩を解読する鍵とは――全く――ならない、と断言するものである。なお、敢えて、『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ  薊の花のすきな子に Ⅰ 憩らひ ――薊のすきな子に――』の私の注では、「薊の花のすきな子」の注に、引用で示してあるから、どうしても詮索が好きで、具体な彼が愛した女性が知りたい向きは、そちらを見られたい。

 因みに、「薊」の花の花言葉なんぞを意識したかどうかは、私には判らないが(私は「花言葉」には全く興味がない)、取り敢えず、サイト「GreenSnap STORE」の「【アザミの花言葉】怖い意味はないけど、色や種類で意味が違う?」から拾っておく。

『アザミの花言葉は「独立」「報復」「厳格」「触れないで」です』。『「独立」「報復」はスコットランドに伝わる伝説に由来します。「厳格」は動物を寄せ付けない雰囲気や、春から夏にかけて凜と咲くアザミの特徴が由来とされています。「触れないで」は、アザミの特徴である鋭いトゲが由来です』。『なお、アザミの花言葉に怖い意味はありません』。『アザミはさまざまな色の花を咲かせますが、それぞれにちがう花言葉がついています。ここでは4色のアザミについた花言葉をご紹介します』。『赤いアザミ』は『「権威」「報復」「復讐」』、『紫のアザミ』は『「厳格」「気品」「高貴」』、『白いアザミ』は『「ひとり立ち」「自立心」』、『青いアザミ』は『「安心」「満足」』、『赤いアザミの花言葉は「権威」「報復」「復讐」です。花以外にも葉や花の根元に鋭いトゲがついていることに由来すると考えられています』。『紫のアザミの花言葉は「厳格」「気品」「高貴」です。紫は古くから高位の人のみが身につけることを許されていた色です。紫のアザミにもどことなく高貴な印象があることにちなみ、これらの花言葉がついたと考えられています』。『白いアザミの花言葉は「ひとり立ち」「自立心」です。白は何色にも染まっていないピュアな色です。白だけでも十分に映えることにちなんで、これらの花言葉がついたのかも知れませんね』。『青いアザミの花言葉は「安心」「満足」です。一見、鋭いトゲがついていて近寄りがたい印象がありますが、側にアザミがいてくれれば、動物などを寄せ付けない安心感から、このような花言葉がついたのかも知れませんね。』とある。個人的には、アザミは好き💖 脱線だけど、寿司屋の「山牛蒡」は、モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis の根っこだ、って知ってましたか?

 

 さて。分析に入ろう。何より、

本詩は――徹頭徹尾――「複合過去」である

ことだ。この一篇は、表題と添え辞の優しさに反して――その詩の謳う心を語りながら、それは、

★既に終わってしまった魂の陰翳に全体のホリゾントはテッテ的に沈んでいる

のである。以下、ここまでの三篇の初出年月を再掲すると、

○「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、

『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)

○第二篇の「うたふやうにゆつくりと⋯⋯の発表は、

・『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊

で、二年一ヶ月十二日も離れているが、

○第三篇の「薊の花のすきな子に」の「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」の発表は、

『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊

で、実は、

この詩篇は――★前の二篇の大まかには中間――但し、第一篇と第二篇のスパンが十ヶ月であるのに対し、第二篇と第三篇とは十五ヶ月も離れている――に当たる時期に創作されたもの★――

なのである。

※この物理的事実を知ると、以下のことが指摘出来る。

 ほぼ半過去の「燕の歌」の感懐は、このざっくりと複合過去による吟詠である「Ⅰ 憩らひ ――薊の花のすきな子に――」にあっては、実は、表題の醸し出しているように見える恋情は――完全に過去のものとして永遠の彼方の地平に暗く屹立してしまっている――のである。

※ところが、「優しき歌Ⅰ」を読む読者の殆んどは、第一篇から第二、第三篇と読み進んでくると――その違和感を感じ取ることが困難であろう――と私は踏む。

 而して――それは――まさしく――道造が「優しき歌Ⅰ」に仕掛けた巧妙なマジック――なのである!

 さらに言えば、添え題「薊の花のすきな子に」がそのマジックに大きな役割を添えている。即ち、通常の読者は、

「薊の花をすきな子に」を見た瞬間、一万人が一万人、誰もが、その「子」は、特定の人物であると自動的にインプレットしてしまう

からである。何度も言っているが

――この「子」は本「優しき歌 Ⅰ」にあっては特定の少女ではない

のである。無論、具体に薊を愛した誰彼がいたことは事実であるが、

――それが誰であるかということを詮索しても、何らの読解の重大な鑰(かぎ)とはならないから

である。「優しき歌 Ⅰ」にあっては、最早、

――あらゆる道造の愛した女性像の昇華してしまったミラージュ(mirage

なのである。

 この「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」が発表された『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)から、四ヶ月後に発表された物語「ちひさき花の歌」(『未成年』第六号・昭一一(一九三六)年・五月号・五月一日刊)、八ヶ月後の物語「花散る里 FRAU R. KITA GEWIDMET」(『文藝懇話會』同年九月号・九月一日刊)にも――前者には『アンリエツト』=『鱵子』(さよりこ)が登場し、「Ⅵ」の終りで、『鱵子は、道のそばに咲いてゐた薊の花を摘みとると、手でくるくるまはしながら薊の花を摘みとると、手でくるくるまはしながら聞いてゐた。僕の頰はほてつてゐた。』と出ており(これは私は未電子化であるので、底本のものをリンクしておく。「ちひさき花の歌」の冒頭はここで、「Ⅳ」の当該部は、ここの左丁一~二行目)、後者では、第二パートの第二段落に『薊の花のすきな娘』が登場する(後者は、私がここで電子化している)。なお、この二篇の内、「ちいさき花の歌」は、作品内の記載から関鮎子がモデルであることが確実に判る。なお、関鮎子について知りたい方は、底本全集の「第六卷 雜纂」の年譜を読むのが最も判り易いと思われるので、昭和九(一九三一)年夏、軽井沢追分での初めての出逢いから、ここと、ここと、ここと、昭和一一(一九三六)年七月九日の最後の関鮎子との別離の最終記載までを、通して読まれたい。

 但し、以上の箇所には、二箇所、関鮎子でない女性の可能性があるものが含まれている。

 まず一つ目は、昭和一〇(一九三五)年十一月十月十二日の項の、ここの右丁下段後ろから五行目以下)『この日柴岡亥佐雄宛に書いた書簡に、「僕は不吉な恋をしてゐる。相手の人は Fiancé があるのだ、しかし僕らは愛しつくされない位互に愛しあつてゐる」と書いているのは、関鮎子、今井春枝のどちらのことか判然としない。鮎子は千葉市内の女学校を卒業後、当時は東京家政学院に通学していて、十一年春には結婚するはずの婚約者がいる身の上であったという』。『また春枝の方も、十一年八月には結婚しているので、当時すでに「Fiancé がある」という身の上だったかもしれない。ともあれ立原は、どのみち悲恋のコースをたどることを強いられてわけである。』とあるものである。

 さらに、ここの(右丁下段後ろから六行目から)、昭和一一(一九三六)年二月一日の項の、道造の同「第六卷 雜纂」の「いろいろなこと㈡」の「★不秩序の祭典」の終りの方の『その焚火の煙のなかに、よき人の姿』(☜)『を見ることの出來たのはうれしかつた。』を引いて『ここで「よき人の姿」と言っているのは、幻影のことなのか、実在の女性(関鮎子・横田ケイ子・今井春枝など)のことなのか、判然としない。』とあるのがそれである。なお、以上の関鮎子の引用リンクには、「鮎子」をポイントしてあるので、そこだけを手取り速く拾い読み出来るようにしておいた。ともかくも、道造の恋愛史を詩篇分析に導入してしまうと、とんだ迷路に迷い込むことは必定なのである。

 

 

   §   §   §

 

 

  Ⅱ 虹の輪

 

あたたかい香りがみちて 空から

花を播き散らす少女の天使の掌が

雲のやうにやはらかに 覗いてゐた

おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

 

夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば

叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や

滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは

やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた

 

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く

朝のしめつたその風の……さうして

一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた

 

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに

もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが

こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた

 

[やぶちゃん注:既に「注」・「字注」で示したものを冒頭に再掲しておく。

 第二聯三行目の「刃金」の「刃」は異体字で、「刅」の右側の「ヽ」を除去した「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので「刃」とした。「刅」なら表示出来るのだが、私は生理的に、この異体字が極めて嫌いであり、また、「刅金」を素直に「はがね」と一瞬には読めずに戸惑う若い読者のことを考えて、「刃」としたものである。

 第二聯四行目の「おののいて」は、ママである。但し、今回、底本全集を検索すると、他では、道造は正しく「をののく」を用いている箇所もあるので、完全な思い込みの慣用語ではなく、たまたま、初出原稿で誤った可能性もある。

 さて。この「Ⅱ 虹の輪」初出は『文藝汎論』(第六十号・昭和一一(一九三六)年八月号・八月一日刊)である。

 而して、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」の四篇を、時間軸に合わせて並べ直すと、

「燕の歌」➤「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」➤「Ⅱ 虹の輪」➤「うたふやうにゆつくりと⋯⋯

となる。そして、年譜的事実に即すなら、

★最後の「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」は明らかに関鮎子との恋愛の破綻の後となるのである。

 『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 I  薊の花のすきな子に Ⅱ 虹の輪』の注で、編註を引き、『初出副題は『夏への四つのプレリユウド』から」』であるが、その『副題の示す他の三篇は未詳である。』とあると示した後で、

   《引用開始》

 なお、この註にある未詳の「夏への四つのプレリユウド」は、一つの仮説に過ぎないが、これは、先行する「詩集 優しき歌 I  燕の歌」と、「詩集 優しき歌 I  うたふやうにゆつくりと⋯⋯」と、「詩集 優しき歌 I  薊の花のすきな子に I 憩らひ ――薊のすきな子に――」の三篇のそれぞれの初稿に、これを加えて纏めた初期構想詩篇である可能性が、一番、あり得るのではないか? とも思われる。心情的には、その四篇のみを並べて、電子化して見たい欲求が強く生じているのだが、これは証拠が一切ないから、涙を呑んで、やめる。

   《引用終了》

と述べた。ここでは、私の好き勝手にやらしてもらおう。そして、時間軸に従って、これを前に示した通りに作り替えて示す。

 

   *

 

   夏への四つのプレリユウド

 

  燕の歌

    春來にけらし春よ春

     まだ白雪の積れども

           ――草枕

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる

とほい村よ

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き

山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

 

やさしい朝でいつぱいであつた――

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら

とほい村よ

 

僕はちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと

 

 

   薊の花のすきな子に

 

  Ⅰ 憩らひ

     ―― 薊の花のすきな子に――

 

風は 或るとき流れて行つた

繪のやうな うすい綠のなかを、

ひとつのたつたひとつの人の言葉を

はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

 

ありがたうと ほほゑみながら。

開きかけた花のあひだに

色をかへない靑い空に

鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

 

気づかはしげな恥らひが、

そのまはりを かろい翼で

にほひながら 羽ばたいてゐた……

 

何もかも あやまちはなかつた

みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた

ひろい風と光の萬物の世界であつた。

 

 

  Ⅱ 虹の輪

 

あたたかい香りがみちて 空から

花を播き散らす少女の天使の掌が

雲のやうにやはらかに 覗いてゐた

おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

 

夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば

叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や

滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは

やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた

 

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く

朝のしめつたその風の……さうして

一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた

 

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに

もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが

こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた

 

 

  うたふやうにゆつくりと⋯⋯

 

日なたには いつものやうに しづかな影が

こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと

花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯

すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた 

 

私は待ちうけてゐた 一心に 私は

見つめてゐた 山の向うの また

山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を

ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯

 

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も

たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに

風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 

 

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

 

   *

 

こう並べると、第一篇が「半過去」であるのに対し、第二・三・四篇は纏まって「複合過去」となり、時制上の、ギクシャクした流れが綺麗に整序されるのである。

 しかも、「夏への四つのプレリユウド」である。

   ◆

 「燕の歌」では――「お聞き 春の空の山なみに」「お前の知らない雲が燒けてゐる」が――「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう」「お前の夢へ」「僕の軒へ」「あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと」――と――「夏」と、夏の「海」を「前奏曲」の巻頭として予言する⋯⋯

   ◆

 「憩らひ」では――「風は 或るとき流れて行つた」、春の「繪のやうな うすい綠のなかを」、「ひとつのたつたひとつの人の言葉を」「はこんで行くと 人は誰でもうけとつた」「開きかけた花のあひだに」「色をかへない」夏を呼ぶ春の「靑い空に」「鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた」、「気づかはしげな恥らひが」、「そのまはりを」燕のような「かろい翼で」「にほひながら 羽ばたいてゐた……」「何もかも あやまちはなかつた」「みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた」春風駘蕩たる「ひろい風と光の萬物の世界であつた」⋯⋯

   ◆

 「虹の輪」では――「あたたかい香りがみちて 空から」「花を播き散らす少女の天使の掌が」「雲のやうにやはらかに 覗いてゐた」という春の空の下――「おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた」――心地よい前奏曲を聴くように――「夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば」「叢に露の雫が光つて見えた」――しかし――「眞珠や」「滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは」――そこに至福感と同時に――説明出来ない不吉な感じが――「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」――それは――遂に必ずやってきてしまう――終わりへの慄(おのの)きだ――すっかり変容してしまう夏の到来に慄いているのだ――「吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く」「朝のしめつたその風の……さうして」「一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた」――しかし、そこは――既に微妙に時空が変形した見たことのない夏へ向かって――である――だが、悲しいかな、「おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに」「もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが」「こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた」――のだった――永久に取り返しのつかないカタストロフへの通奏低音だ⋯⋯

   ◆

 「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」では――「日なたには いつものやうに しづかな影が」「こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと」「花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯」――「すべては そして かなしげに」――「うつら うつらしてゐた」――そんな中――一人称単独で――「私は待ちうけてゐた 一心に 私は」「見つめてゐた 山の向うの また」「山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を」「ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯」呆然と眺めているばかり⋯⋯「古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も」「たのしくさへづつてゐた」けれど⋯⋯「きく人もゐないのに」⋯⋯「風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 」⋯⋯「ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」あの時「私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯」⋯⋯

   ◆

★この私が仮想した「夏への四つのプレリユウド」は、その総てが結果して――複合過去――なのだ!

★既にして――「私」は――「夏」にあって絶対の独りの存在であり、「優しくするひと」は永遠に「私」から去ってしまっているのである⋯⋯⋯⋯

 

 

   §   §   §

 

 

  Ⅲ 窓下樂

 

昨夜は 夜更けて

步いて 町をさまよつたが

ひとつの窓はとぢられて

あかりは僕からとほかつた 

 

いいや! あかりは僕のそばにゐた

ひとつの窓はとぢられて

かすかな寢息が眠つてゐた

とほい やさしい唄のやう! 

 

こつそりまねてその唄を僕はうたつた

それはたいへんまづかつた

昔の こはれた笛のやう! 

 

僕はあはてて逃げて行つた

あれはたしかにわるかつた

あかりは消えた どこへやら?

 

 

 表題「窓下樂」は、調べてみると、オーストリアのウィーン出身の世界的ヴァイオリニストのフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler 一八七五年~一九六二年)が、フランスの作曲家フランソワ・クープランの様式をもとに作曲した一九一一年のヴァイオリン曲“ Aubade Provençale ” :フランス語・音写「オーヴァード・プロヴァンサル」・逐語訳「プロヴァンスの朝の歌」)があるが、この曲は、日本語に訳された古い楽譜では「プロヴェンス人の窓下樂」と邦訳されていたことが、「CiNii」のここで、確認出来た。東京芸術大学 附属図書館蔵で、この出版社はセノオ音樂出版社、出版年は大正一五(一九二六)年二月発行である(この曲はYouTubeKochan's Channel氏の“"Aubade Provençale in the style of Couperin" by Fritz Kreisler”で視聴出来る)。その「窓下樂」は、また、国立国会図書館デジタルコレクションの「音樂と詩歌との境」(『音樂叢書』第四編/アムブロオス著・辻莊一訳・岩波書店大正一五(一九二六)年刊)のここに、『窓下樂 Ständchen』という下りがあった。しかし、このドイツ語、平凡社「世界大百科事典」の「セレナード Serenade // Serenatka[イタリア])」の解説の中に(コンマは読点に代えた)、『元来は、夕べに恋人の窓の下で歌う歌であるが、ここに含まれる〈夕方〉〈野外〉〈下から上にささげる〉といった意味から派生した各種の芸術音楽の総称となっている。〈夜曲〉〈小夜曲〉と訳されることがある。楽曲の形式を規定せずに演奏の方法や機会を指す名称であるため種類は非常に多いが、大きく次の三つに分けることができる。』『第1は、元来の〈夕べに男性が窓の下で恋人をたたえて歌う〉セレナードで、ルネサンス期のヨーロッパ全体に広まった習慣だった。曲は単純な民謡風のものからポリフォニックな重唱曲にまで及び、求愛する人物自身がリュート、ギター、マンドリンなどで伴奏する場合も多かった。18世紀以後モーツァルトらのオペラの一場面として,あるいはグノー、トスティらによって芸術歌曲として作曲された場合も、伴奏にはしばしばこれらの楽器か』、『楽器特有の音型が用いられる。また』、『このような歌曲を模したバイオリンやピアノの小品も作られている。19世紀ドイツではこの種のセレナードをシュテンチェン Ständchen といい、シューベルトの作品をはじめ』、『多くの歌曲・合唱曲がつくられた。』とあったので、こちらのドイツ語で「小夜曲(セレナーデ)」を意味する言葉と解説された方が、我々には(私には)、すんなり納得でき、また、道造は建築の関係上、ドイツ語を選んでいることから、この単語には、親しかったものと考えられる。因みに、私は、当初、見慣れぬ熟語で、読みに戸惑ったが、所持する昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」のルビの『さうかがく』で適切と思われる。

 また、第一聯一行目の「昨夜」は、私は、嘗つて、うっかり「さくや」と読みかけたが、の「ゆふべ」が、確かに、しっくりくる。

 なお、第四聯一行目の「あはてて」は、底本の編註にはママ表記がないが、道造の誤り(慣用表現)であることが判明した。底本の全集を横断して調べたところ、彼は詩篇に限らず、書簡でも、しばしば「あわてて」を「あはてて」と誤記していることが横断検索で確認出来た。

 初出は『文藝汎論』第六十号の昭和一一(一九三六)年八月号(八月一日刊)である。ロケーションは軽井沢である(以下の「年譜」を見よ)。

 なお、底本全集の年譜を見ると、或いは、この詩作の字背と関係があるかも知れない、三人の女性についてのエピソードが確認出来るので、参考までに引用しておく。

『七月八日、上野を立ち、夜追分着。「僕にメエルヘンを贈[やぶちゃん注:ママ。「贈」。以下、数ヶ所に正字不全があるので、後は私がブレイクして挿入しておいた。]つてくれた少女(注・今井春枝)が、この月ずゑにHeriratenする。』[やぶちゃん注:ドイツ語で「結婚する」。]『追分に來るとき、その少女と偶然汽車でいつしよになり、雨の小半日を輕井澤ですごした(書簡、七月十一日・猪野謙二宛)。』[やぶちゃん注:同全集第五巻「二五〇」。]』『その夜は春枝も油屋に宿り、翌九日、彼女は帰京。「別れのときに、汽車の窓で、肌につけてゐた水晶のちひさな十字架を』贈『つてくれた。そして.一生涯もうお會ひすることも出來ないだらうと言つた。これが夏の出來事のプレリユードだつた。この少女と別れたやうにしてまた僕は鮎子さんとも別れねあなるまい。まだ、わがひとはここの村に』來『てゐない。そして僕がこの村に』來『てゐることを知らせるにもすぺがない」(書簡、前掲猪野宛)。春技が立原に水晶の十字架を贈ったのは、ジイド作「窄き門」のアリサの行為にならったものであろう。その日彼女は、小雨の中を追分まで立原に送ってもらうが、汽車に乗りそこない、タクシーで軽井沢まで汽車を追ったものの間にあわなかった。けっきょく一汽車遅らせて乗車の際、十字架を立原に渡した(「雨の小半日を』輕井澤『ですごした」とあるのは、この次の列車を待つ間のことをいったのであろう)。そうして彼女は翌八月四日に結婚している。さて立原は春枝との別離のあと、鮎子の出現をしきりに心待ちする。「僕がこの村に来てゐることを知らせるにもすべがない」とは、鮎子がすでに結婚していることを意味することばであろう。彼女はこの年の春に東大出の農学士の内田源太郎と結婚し、十五年一月元日、腸捻耘により二児を残して急逝した(享年二十三歳)。その夫君も、十八年四月に戦死している。』とある。今一人は、既に本記事で登場しており、以上の引用にも出た関鮎子で、七月『十二日』の記載の後に(ここの右丁一行最下部から)、『このころ、物語「かろやかな異ある風の歌」を書き始め、『また春枝との別れを主題とする物語「花散る里」』(これは私の電子化物がここにある)『を構想。同時に鮎子に捧げる幾つかのソネットを構想し』た、とある。実は、以上の春枝と鮎子の記載の間に、道造が「エルザベート」読んだ女性、「横田ケイ子」に就いての記載があるのだが(ここの左丁の下段の後ろから二行目)、既に表明しているように、私は道造の愛した実在の女性たちを詮索することは、全く興味がないので、調べる気は全くない。この横田ケイ子については、ネットで論文もあるので(一応、ダウンロードしたものを持ってはいるが、今のところ、読む気はないし、そんな余裕は、私には、ない)、ご自身で捜されたい。

 なお、既に述べたが、本「優しき歌 Ⅰ」の中で「優しい・やさしい」の単語が第三番めに使われている。第二聯最終行「とほい やさしい唄のやう!」である。

 

 分析に入る。

 まず、全体が複合過去相当であるが、詩を書いているのは、その翌日の設定であり、昨夜の実際の体験の体裁を採っている点で、今までの四篇の時制的複雑性のカラクリは、完全に後退してしまっている。しかも、詩篇は徹頭徹尾、「僕」の独白であり、象徴的な意味深長の「窓」は終始、「とぢられ」ているのであり、「かすかな寢息が眠つてゐ」るに過ぎず、「僕」もまた、独り、「夜更け」の「町」を「さまよ」っている彷徨の影法師でしかないのである。それを如何に「いいや! あかりは僕のそばにゐた」と謳歌しても、「とほい やさしい唄のやう! 」と謳っても、「かすかな寢息」が「とほい やさしい唄のやう!」と「こつそりまねてその唄を僕はうたつ」てセレナードを気取ってみても、「いいや! あかりは僕のそばにゐた」と断言しても、結局は、「それはたいへんまづかつた」ために、「昔の こはれた笛のやう!」と茶化したように叫び、「僕はあはてて逃げて行」くばかりで、「あれはたしかにわるかつた」と自己の不甲斐なさを感じざるを得ず、相手のいない「夜更け」の漆黒の中を疾走するのである! だからこそ、最終フレーズは「あかりは消えた どこへやら?」と投げ出したままに、「羅生門」のラストよろしく――『下人』ならざる「僕」『の行方は、誰も知らない』なのである!

(ブレイク注:個人的に私は同作のエンディングの「誰」を「たれ」と読まねばならないと考えている。そもそも同作では、芥川龍之介は「だれ」ではなく「たれ」と読みを振っていることから、しかして、突き放したコーダは絶対強調の「たれ」の以外にはあり得ないのである)

 更に言っておくと、私は、

★この第三聯の「それはたいへんまづかつた」「昔の こはれた笛のやう!」及び第四聯の「あかりは消えた どこへやら?」に対して『道造が表面上チャラかしてわざと言っているのだ!』と初読した際に強く感じた

のである。

 この詩は、初読者の中には、総表題「優しき歌 Ⅰ」、中標題のほんわかした「薊の花のすきな子に」に引かれて、夜の詩人の、ちょっとブラッキーを添えつつ、失恋のちょっとしたメンタル・ダウンを諧謔したものだろうと勘違いする者が、いるのではないか? と思っている。

 しかし、そんなもんじゃない!!!

 以下、「Ⅳ 薄明」と「Ⅴ 民謠    ――エリザのために」でこのパートは閉じるが、過ぎ去った失恋の回想を、さりげなくシャレてカッコよく

――この「Ⅲ 窓下樂」では特異的に、ちょいとコミックな演技をさせているかのようなミミックを導入している――

に組み立てただけの、安普請のセットを並べただけの、「しようがないよ⋯⋯」的の終曲では――これ、ない、のである!

 すなわち、

★この「Ⅲ 窓下樂」は――道造の恐ろしいまでの《自身の恋愛の致命的敗北》と――《絶対暗黒の孤独感懐》を巧妙に、コントで塗(まぶ)して「擬態」させたものである

と私は断言するものである。

 

 ここで、最後に、話を変える。

 このところ、私は、複数の私的なプロジェクトに関して、概ね、各種データの正確な収集のために、私の注釈について、時々、GoogleAIと親しくやり取りをやっているのだが、先日、なかなか進まない、この「Ⅲ 窓下樂」の初期分析稿の初っ端を読んで貰い、その評価を乞うたのだが、その返事は、概ね、恥ずかしくなるほどの過褒であった。

 が、そこで、彼が、この『「Ⅲ 窓下樂」の「草稿」』なるものと比較した内容が含まれていた。

 それを見て、正直、息が止まるほど、驚愕した。それは、私が、先に終えた「立原道造草稿詩篇」として、三ヶ月前の四月二日に電子化した一篇「(この闇のなかで⋯⋯)」であったからであった。

 しかし、これは、残念乍ら、物理的に「草稿」ではあり得ないものなのであった。既に述べたが、

☆本「窓下樂」は昭和一一(一九三六)年八月初出である

のに対し、「後記草稿詩篇」の全集の配列では、底本の堀內達夫氏の編註の前後によれば(ここここ)、

「(この闇のなかで⋯⋯)」は昭和一三(一九三八)年九月から十月初め(奇しくも道造が喀血して盛岡へ旅立つ直前から、療養生活へ入る時期に相当する)である

からである。もっとも、この間にある九篇については、堀內氏は、各個に草稿想定年月を記載していない。しかし、「前期草稿詩篇」「後期草稿詩篇」を編集された堀內氏は、原稿用紙の印刷元や紙質、道造が使用したインクの色の違い等を検証して、たった独りでその詩篇群を組み立てられておられるのである。従って、これらが、実は昭和一一(一九三六)年八月以前に書かれた草稿であったという可能性は、まず、あり得ないと断言してよいのである。なお、同「立原道造草稿詩篇」は時系列で電子化注しており、続けて認識しないと、この制作時期は直ぐには判らないので、AIが誤って「Ⅲ 窓下樂」の原作品「窓下樂」の草稿としたことは判らぬではない。

 しかし、以上をAIに伝えたところ、『一筋縄ではいかない立原道造という詩人の内的宇宙において、この「2年の時間差(逆行)」こそが、むしろ病跡学的・表現史的にとてつもない意味を持ってくるのではないでしょうか。』と返事があった。

 私も、実は、今――この草稿詩篇の数篇に対して――非常に強く――『「Ⅲ 窓下樂」の改変草稿ではないか?』と感じたのであった。

 そこで、以下、『対比するに価値あり』と私が判断した角川書店刊「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年刊)の「後期草稿詩篇」の連続した四篇を、まず、示す。

 一つ目は、「立原道造草稿詩篇 僕は おまへに (添え題:「夜の歌」)」(以下、リンク先は総て私の記事)である(但し、そこでは、編者堀內氏の推理に基づいた可能性の状態の全篇を参考に、私が電子化したものを示してあるが、それは省略する。)。

   ※

 

  僕は おまへに

         夜の歌

 

僕は おまへに

何も ねがはなければ

何も 强ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)

そして 拒むことなく おまへを

去らせる 夜のなかへ なほとほく

 

つめたい雨が降つてゐるのを

僕は おまへに をしへよう

おまへが そこで そのやうに

ためらつてゐるのは 何であるかを

僕は とうに 知つてゐるのだ

 

おまへの大きな聲が

犬たちの吠えるのを叱りながら

きこえなくなるときに

やうやく 僕は ひとりになつて

僕の內の言葉に耳をすます

 

 

   ※

 次は「立原道造草稿詩篇  それが どういふことか (添え題:「夜の歌」)」である。

   ※

 

 

  それが どういふことか 

            夜の歌

 

それが どういふことか

僕は とうに 知つてゐるのだ

おろかしいこととも あるひは

ひどいこととも しかし それを

僕は ふせがうとはしない

 

窓の外で 風が 雨をかきみだす

その叫びが 僕の內からのやうに

僕に 語りかける――あれは いま

歩きなやんでゐる

倒れかかるやうに 光のとぼしい道を

步きなやんでゐると

 

ここはしづかだ 花やいだ

灯の下には紫の花が咲いてゐる

 

 

   ※

 次は「立原道造草稿詩篇  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)」である。

   ※

 

 

  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)

 

昨日と今日とがいりまじる

僕のなかの 深い淵に

萎えた僕のにくしみよ

身を投げるがいい 消えるがいい

 

おまへが眠れようが 眠れまいが

僕の知つたことではないのだ

この あはれな 恥も知らない魂よ

出て行くがいい くらい夜のなかへ

 

外に 秋は まだつづいてゐる

靑白くつめたい光が

虫たちをうたはせてゐる

 

だれが ここに 耐へてゐて

明日を待ちわびてゐる?

聞くすべもない 大きな 夜の歌

 

 

   ※

 最後は、「立原道造草稿詩篇  (この闇のなかで⋯⋯)」である。

   ※

 

 

  この闇のなかで

 

この闇のなかで 私に

うたへ と呼びかけるもの

この闇のなかで だれが

うたへ と呼びかけるのか

 

時はしづかだ 私らの

ちひさいささやきに耐へぬほど

時はみちてゐる 私らの

ひとつの聲で 溢れ出るほど

 

とほい涯のやうに闇が

私らを拒んでゐる つめたく

身體は 彫像のやうだ

 

しかし すでに この闇の底に

信じられない光が 信じられる

私らの聲を それは 待つてゐる!

 

 

   ※

 さて。この四篇は、前の二篇が、添え題として「夜の歌」を持ち、第三篇の最終第四聯の最終行が『聞くすべもない 大きな 夜の歌』で終わっている点で、同一の詩想下で、連続して創作された確信犯の――「夜の歌」群――であることは、誰も異義を挟まないであろう。

 而して、第四篇であるが、表題を「この闇のなかで」としてロケーションが「闇」で統一されている。第二聯を除いて「闇」が現前されている。第二聯はソネットとして、必然的変化を与えるために、「闇」を字背に暗示させるように、取り立ての係助詞「は」を使って――「時はしづかだ」「時はみちてゐる」――という「時」のみを用いたものであろう。しかし、この部分、単なる詩作上のレトリック(修辞学)ではない。

 これは、ただの「夜」の「闇」ではないのだ。

 作者だけに理解されている「闇」の中の「時」なのである。

 それは、永劫続く蒼褪めた物理的時間の「時」ではないのだ。

 作者だけに理解される固有の心理的な――「現存在」としての「時」――なのである。

 結果して、第二聯は

――私だけに理解される独自の「時」空間の――その彼の孤独な「闇」空間が――背後に読者に、何とかして、伝わって貰えるようにと、操作したもの――

と私は推理する。

 されば、この第四篇は、前の三篇の「闇の歌」群の「コーダ」に相当する終篇として私は〈聴く〉のである。

 そして、読者は、もう、お判りになるだろう。「優しき歌 Ⅰ  薊の花のすきな子に Ⅲ 窓下樂」が、殆んど、「夜」の「闇」の中のロケーションであることで、直に、この全四篇から成る「夜の歌」群と強い親和性を持っているのである。

 先走って、この道造としては、特異点である異様に徹底的にブラッキーな「夜の歌」群に私が感じた解釈を述べてしまった。以下、順に見てゆこう。

   *

 

  僕は おまへに

         夜の歌

 

僕は おまへに

何も ねがはなければ

何も 强ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)

そして 拒むことなく おまへを

去らせる 夜のなかへ なほとほく

 

つめたい雨が降つてゐるのを

僕は おまへに をしへよう

おまへが そこで そのやうに

ためらつてゐるのは 何であるかを

僕は とうに 知つてゐるのだ

 

おまへの大きな聲が

犬たちの吠えるのを叱りながら

きこえなくなるときに

やうやく 僕は ひとりになつて

僕の內の言葉に耳をすます

 

   *

 この第一詩篇には、見慣れた道造の持ち味であるロマンティクな雰囲気は、微塵もない。以下の四篇まで、それは、少なくとも第三篇まで、孤独な独白として対象者を突き放した状態で続いているのだ。第四篇のみ、第二聯以降の三聯には、「私ら」という対象者を含んだ表現に、唐突に(吃驚するほど、である)変容し、そこには、「私ら」の希望のように見える形で終わっている。これは、前の三篇の「闇」に塗り固めたそれに、私たちの知っている、彼の魅力と信じている優しさで、予感が響いては、いるように、一見、見える。それは、そこで検証するが、しかし、どうにも、その「闇」に苦しくなってしまった詩人道造が、やらかしてしまった「附けたし」のようにしか、私には、見えないのである。

 基(もとい)! この一篇で、道造は、愛する女たちに、敢然と、己れの最終宣告を言い放つのだ。

――「僕は」最早「おまへに」「何も」「ねがは」ない――「何も」「强ひ」ることも「しない」――いや、私が、そう言う前から、「おまへはふたたびかへらないだらう」ことを知っているのだ――「そして」全く「拒むことなく」「おまへを」「去らせ」せてやる――「夜のなかへ」「なほとほく」へだ――いや、途轍もない「つめたい雨が」既に「降つて」しまって「ゐるのを」、「僕は」何も判ってはいない「おまへに」冷徹に「をしへよう」――「おまへが」「そこで」「そのやうに」「ためらつてゐる」ような様子を、私に見せている「のは」、実際には、「何であるかを」、「僕は」まるで理解してないおまえとは違って「とうに」最早「知つてゐるのだ」――僕は思い出すのだ――「おまへの大きな聲が」「犬たちの吠えるのを叱りながら」「きこえなくなる」あの、ひと「とき」の情景の中「に」だ――そうして「やうやく」「僕は」「ひとりになつて」――「僕の內の言葉に」のみ「耳をすます」ことにする――

 

   *

 

  それが どういふことか

            夜の歌

 

それが どういふことか

僕は とうに 知つてゐるのだ

おろかしいこととも あるひは

ひどいこととも しかし それを

僕は ふせがうとはしない

 

窓の外で 風が 雨をかきみだす

その叫びが 僕の內からのやうに

僕に 語りかける――あれは いま

歩きなやんでゐる

倒れかかるやうに 光のとぼしい道を

步きなやんでゐると

 

ここはしづかだ 花やいだ

灯の下には紫の花が咲いてゐる

 

   *

 これは、もう、完全な――己れの最終宣告の「夜の歌」続篇――である。

――「それが どういふことか」なんてことは「僕は」「とう」の昔「に」「知つてゐるのだ」――僕と、お前の、「おろかしいこととも」「あるひは」「ひどいこととも」「しかし」「それを」「僕は」全く以って「ふせがう」(=防禦しよう)「とはしない」のだ――「窓の外で」「風が」「雨をかきみだす」――「その叫びが」「僕の內からのやうに」直(ちょく)に「僕に」「語りかける」のだ「――」「あれ」(=彼=道造)「は」「いま」「歩きなやんでゐる」のだ、と――「倒れかかるやうに」「光のとぼしい道を」「步きなやんでゐる」のだ――「と」僕に語りかけるのだ――「ここはしづかだ」――「花やいだ」「灯の下には紫の花が咲いてゐる」――僕は僕だけで十全に生きているのだ――

   *

 

  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)

 

昨日と今日とがいりまじる

僕のなかの 深い淵に

萎えた僕のにくしみよ

身を投げるがいい 消えるがいい

 

おまへが眠れようが 眠れまいが

僕の知つたことではないのだ

この あはれな 恥も知らない魂よ

出て行くがいい くらい夜のなかへ

 

外に 秋は まだつづいてゐる

靑白くつめたい光が

虫たちをうたはせてゐる

 

だれが ここに 耐へてゐて

明日を待ちわびてゐる?

聞くすべもない 大きな 夜の歌

 

   *

 ここで道造は、さらに宣告に重要な――孤高の精神性へのメタモルフォーゼ――を加えてゆく。

――「昨日と今日とが」――即ち、物理的な直線上の立ち戻りしないはずの「昨日」と「今日」(「きのふ けふ」と読んでおく)が――絶対的であるはずの蒼褪めた無限遠の時空間が――変容を始めて「いりまじる」=「昨日」「今日」という区別が消失し、一つの永遠の複合体へと変容してしまったのだ――「僕のなかの」「深い淵に」――「萎」(な)「えた僕のにくしみよ」――今こそ「身を投げるがいい」「消えるがいい」――それが今の僕には瞬時に出来るんだ――が愛した「おまへ」たち「が眠れようが」「眠れまいが」、そんなことは――今や、「僕の知つたことではないのだ」よ――――「この」「あはれな」「恥も知らない魂よ」[これは、「この」と言う指示語から、表現上では、変容する前の「僕」=道造自身の魂を指していようが――それは末尾の「出て行くがいい」「くらい夜のなかへ」以下最後までの叙述で限定は出来る――しかし、考えてみれば、この決定的な時空間変容の中では、彼我(ひが)の違いも無化されるからして、「僕」と「おまへ」たちの区別もあり得ないのであるから、愛した女たち総体も含まれると読むべきであろう。]――「出て行くがいい」「くらい夜のなかへ」――「外に」「秋は」「まだつづいてゐる」「靑白くつめたい光が」「虫たちをうたはせてゐる」――いや、それはこの変容の中では、至極、当然なのだ――しかし、それは――私独りだけに判る感覚なのだ――いや! 一体、「だれが」「ここ」(=変容した特異な「僕」の時空間)「に」「耐へてゐて」、一体、誰が「明日を待ちわびてゐる?」――そんなことは、以外には――絶対に――感官することは不可能なのだ!――まさに「聞くすべもない」「大きな」「夜の歌」なのだ!!!

 この最後の「聞くすべもない」を解析するとなら、これは、文字通りの意味ではなく、

★変容した「僕」にとっては、それを「聞く」(=説明する)ための「すべ」(=くだらない「手段・行為」)を必要「もない」

の謂いであろう。即ち、「僕にとっては何らの判らないところのない当然のこと」の意だろう。謂い添えておくと、

★「僕」以外の存在とは――「愛した女たち」だけでなく――「この詩を読んでいる読者たち」さえも――理解不能なことだ――「僕」は言っているのだと私は思うのである。

 

   *

 

  この闇のなかで

 

この闇のなかで 私に

うたへ と呼びかけるもの

この闇のなかで だれが

うたへ と呼びかけるのか

 

時はしづかだ 私らの

ちひさいささやきに耐へぬほど

時はみちてゐる 私らの

ひとつの聲で 溢れ出るほど

 

とほい涯のやうに闇が

私らを拒んでゐる つめたく

身體は 彫像のやうだ

 

しかし すでに この闇の底に

信じられない光が 信じられる

私らの聲を それは 待つてゐる!

 

   *

 最終篇である。既に冒頭で指摘してしまったが、この篇は、明らかに、前の三篇のダークな突き放した折角の異様にダークにして強烈な哲学的認識が、私たちよく知っている道造の優しい希望を含んだ「闇の底に」「信じられない光が 信じられる」「私らの聲を それは 待つてゐる!」と全体が完全なフランスで言う「直説法現在」であり、今まで解説してきた「半過去」「複合過去」でさえない。されば、『前三篇の「夜の歌」群と外してしまって、分析した方がいいのではないか?』と思われる人が多いかも知れぬが、草稿篇の並びから物理的に、これだけが別個の草稿であるとは採れない以上、掲げておいた。

 思うに、道造には、前の三篇が、今まで過去に詠じてきたものと、激しく違ったものとなったことから、この一篇を書いて、永遠に「闇」に屹立してしまった自分を救助する必要があったものと推定される。

 しかし、この最終篇は、如何にも前の三篇を穢(けが)すものとしか採れない(私は私自身がそう強く感じる)。それは、一つのソリッドな「夜の歌」として、この第四篇でアウトである。それは、道造自身こそが、痛烈に感じたのである。さればこそ、この「夜の歌」は、お蔵入りとなったと考えられる。

 さて、私は、

★これらの「夜の歌」群は、後に「優しき歌 Ⅰ」を構想し出した以降、「薊の花のすきな子に Ⅲ 窓下樂」に相当する一篇(或いは複数篇)を、新たにしっくりくるものを道造は探しつつ、どうも見たらないので、新たに試作しようとしたのではなかったか?

と考えるものである。その可能性は十分にある。というより、そもそもが、私自身が強烈に違和感を感ずるところの、

既存の作詩だけで、ロケーションも、詠じた動機も、内容の登場人物や季節や自然が異なり、どれもがバラバラの感覚で詠じた、全然、異なったものを寄せ集めて、「優しき歌 Ⅰ」という題名で、十二篇のセット、しかも、その中を四パートに分割するというのは、所詮、無理な話

なのである! 私の、この分析は、

★そうした「優しき歌 Ⅰ」を批判する目的を主としている

と言ってもよいのである。

 

 

 

   §   §   §

 

 

 

  Ⅳ 薄明

 

音樂がよくきこえる

だれも聞いてゐないのに

ちひさなフーガが 花のあひだを

草の葉のあひだを 染めてながれる

 

窓をひらいて 窓にもたれればいい

土の上に影があるのを 眺めればいい

ああ 何もかも美しい! 私の身體の

外に 私を圍んで暖く香(かほり)よくにほふひと

 

私は ささやく おまへにまた一度

――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ

うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ! 

 

やまない音樂のなかなのに

小鳥も果實(このみ)も高い空で眠り就き

影は長く 消えてしまふ――そして 別れる

 

 

 第二聯第四行のルビ「かほり」はママである。既に述べた通り、底本全集の横断検索でも、詩集・物語・雜纂に、この表記が散見されることから、道造の慣用誤記であることが判明している。初出は『文藝汎論」第六十六号昭和一二(一九三七)年二月号(二月一日刊)である。直前の「Ⅲ 窓下樂」は昭和一一(一九三六)年八月号(八月一日刊)であるから、七ヶ月後である。

 而して、この間、道造には、外的な大きな変化が起こっている。即ち、昭和十二年四月一日、石本建築事務所に初出勤しているのである。底本全集の年譜を見ると、『石本所長に愛され』、同僚の友人武基雄(後に多くの優れた建築作品を残した)も出来たが、翌日二日に書いた神保光太郞宛書簡(ここの「二八二」)に、『出發は決して祝福されてゐませんでした 貧しく みすぼらしく こともなげでした これをしも 祝福と今は僕は呼ばねばならないのせうか』と述懐しており、年譜には『繁華街でのオフィス勤めは、さすがに索漠として苦痛だったらしい』とある。

 一方で、七月一日には、三月以来、掲載が遅延していた物語「鮎の歌」が『文藝』七月号に発表され、四日頃には、処女詩集「萱草に寄す」が、やっと刊行されており(年譜のここ)、詩人としての自信を新たにしてもいた。本詩が発表された八月には、彼は『土曜日午後に上野を立って追分に行き、月曜の朝帰京して事務所に出るというようなことが以後しばしばくり返された』とある。八月二十九日(日曜日)軽井沢発信の武基雄宛の最後には『何の悔いもよろこびもなく、これが休らひといふのだろか。』と記している(ここの「413」)。

 本「薄明」が書かれた前後、こうした社会人と詩人の挟間で、道造は苦悶していたのである。そうした事実・心的相克を以って、この詩を読み直す必要があるのである。

 

 しかも、それは、既にして、第一聯に出現しているではないか!

 「フーガ」である!

 コントラプンクト(ドイツ語:Kontrapunkt:対位法)を主体とした楽曲形式フーガ(イタリア語:fuga:遁走曲・追走曲)が聴こえる――それは――まさに、この時の道造の抱えていたアンビバレンツ(ドイツ語:Ambivalenz:愛憎併存)を音楽なのである!

 それは、また――この時期以前に道造が経験してきた複数の女性に対する恋慕と破恋の繰り返し――をも、直ちに想起させるではないか!

 

 「だれも聞いてゐないのに」「よくきこえる」「ちひさなフーガ」は、道造の心の中の、対象者たちも、自分自身も、どうしようも出来ない絡みに絡んだ竹の根の如き、不可塑性のアンビバレンツの「音樂」である。

 それは薊の「花のあひだを」、「草の葉の」薊の「あひだを」、「染めてながれる」「フーガ」なのである。

 彼は心限りに求める――ただ「窓をひらいて 窓にもたれればいい」と――「土の上に影があるのを」ただ「眺めればいい」――ただそれだけで、「ああ 何もかも美しい!」と感じているのである――如何なる他者も――誰もが――「私の身體の」「外に」「私を圍んで暖く香(かほり)よくにほふひと」であれかし! と――一緒になって! 謳歌しようとする⋯⋯

 そうして「私は ささやく おまへにまた一度」「――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ」!――「うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ!」と――高らかにともに叫ぼうとする⋯⋯

 しかし⋯⋯「やまない音樂のなかなのに」⋯⋯「小鳥も果實(このみ)も高い空で眠り就き」⋯⋯「影は長く 消えてしまふ」のだ!――誰も彼も!⋯⋯「――そして 別れる」⋯⋯⋯⋯と、凄絶なコーダで終わっている。

 

 私は、少なくとも、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」の中で、この「Ⅳ 薄明」は、最もブルージィであり、「救い」を諦めた孤高に屹立している一篇として特異点である、と考えている。

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 山草類 上卷・長松

 

Matubagusa

 

まつばぐさ  仙茆

 

長松

       【其功如松脂

        及仙茆故有

        二名】

 

チヤン ソン

 

本綱生山谷古松下其葉如松葉上有脂根色如齋苨長

三五寸氣味類人參清香可愛山人服其葉云長年

氣味【甘微苦温】 能治大風悪疾眉髪堕落百骸腐潰毎以一

 兩甘草少許水煎服旬日卽癒

 

   *

 

まつばぐさ  仙茆《せんばう》

長松

       【其の功、松脂《しやうし》、

        及び、仙茆のごとし。故《ゆゑ》、

        二名、有り。】

 

チヤン ソン

 

「本綱」に曰はく、『山谷の古≪き≫松《まつ》の下≪に≫生≪ず≫。其《その》葉、松の葉のごとく、上《うへ》に、脂《あぶら》、有≪り≫。根≪の≫色、齋苨《せいねい》のごとく、長≪さ≫、三、五寸。氣味、人參に類《るゐ》≪し≫、清香≪にして≫、愛≪す≫べし。山人《さんじん》、其《その》葉、服≪せば≫、云《いはく》、「年《とし》、長《ちやう》ず。」と。』≪と≫。

『氣味【甘、微苦、温。】 能《よく》、大風《たいふう》・悪疾《あくしつ》≪にして≫、眉《まゆ》・髪《かみ》、堕落し、百骸、腐潰《ふくわい》するを、治《ぢす》。毎《つねに》、一兩《いちりやう》[やぶちゃん注:三・七五グラム。]を以《もつて》、甘草《かんざう》、少≪し≫許《ばかり》、水煎《すいせん》≪して≫、服《ふくす》。旬日《じゆんじつ》、卽《すなはち》、癒《いゆ》。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、東洋文庫訳及び注では、探し得なかったのであろう、当該相当種を全く示していない。「百度百科」に「仙茆」があるのだが、学名が出ない。そこで、「百度百科」の日本語版「BaiduWiki」を見たところ、記載内容が全く異なっており、

モクレン綱キジカクシ目『仙芽科』『仙茅属』で学名は Curculigo orchioides

とあった。本邦のサイトでは、この学名検索で、「国立科学博物館」の「琉球の植物データベース」のここに、

キンバイザサ科キンバイザサCurculigo orchioides

とあり、「広域分布」として、『本州(紀伊半島)~九州,屋久島,種子島,トカラ列島; 台湾,中国,マレーシア,インド,オーストラリア』とあり、「文献に基づく分布」には、『奄美大島・徳之島・沖永良部島,沖縄群島,先島諸島』とする。

 ウィキでは「キンバイザサ科」があり、漢字表記を「仙茅科」とする。そこには、『キンバイザサ科』『は単子葉植物の科の1つ。ヒガンバナ科やユリ科に含められることもある。日本にはキンバイザサなど数種が自生するが、アッツザクラ』(アッツザクラ属アッツザクラ Rhodohypoxis baurii :アッツ桜。これは同種のウィキがあり、『原産地は南アフリカ共和国のドラケンスバーグ山脈周辺の高原で、アッツ島ではない。』とし、「和名の由来」の項があるので見られたい。なお、注意が必要で、前の「キンバイザサ科」に掲げられているピンクの花の写真は、このアッツザクラである。本キンバイザサは、学名でグーグル画像検索をしたものをリンクするが、花は黄色である)『など園芸植物として導入されたものもある。現在の呼称が使われるようになったのは、21世紀になってからで、植物図鑑などには旧称のコキンバイザサ科で出ていることが多い』。『線形の根出葉に長毛がある、花被片の外側が緑みを帯びることで近縁の科と区別される。子房は下位。周北極や旧熱帯、新熱帯、ケープ植物区、オーストラリアなどに分布する』――以上の分布の最後は誤記レベルである。これでは、本邦には分布していないことになる。この科の記載には、どこにも日本に分布する種があることを述べていないからである。――以下、「分類」の項。『タイプ属のHypoxisがコキンバイザサ属であるためコキンバイザサ科とする意見もあるが、キンバイザサ科が一般に使われる。日本では主に観賞用でアッツザクラやエンポディウムが栽培されている。また、流通はほぼ無いもののスピロキシネも栽培される』。『およそ10160種が属する』として、十の属が、三つのクレード(clade=単系統分岐群)に分けて示されてある。最後の「過去の分類体系」の項。『クロンキスト体系では独立の科と認められていない。新エングラー体系では独立科としてユリ目に含められる』とする。さて、言っておくと、その「分類」の最後の「Hypoxis clade」の『・Hypoxis L. コキンバイザサ属 - 90種 コキンバイザサ』とあるコキンバイザサ(小金梅笹)Hypoxis  aurea こそが、実は、本邦では、宮城県以南の本州から琉球列島にまで広範に分布するキンバイザサ科に属する種(この属では、これ一種のみ)なのである。詳しくは当該ウィキを見られたい。この種も花は黄色である。

 話を本来のキンバイザサCurculigo orchioides に戻す。

 「維基百科」を調べたところ、種で「仙茅」と立項していた。臺灣正體で見ると、別名を『地棕根、地棕、獨茅根、獨茅、獨腳仙茅、山黨參、仙茅參、海南參、婆羅門參、芽瓜子』とし(以下は機械翻訳を参考にした)、『多年生草本で、インドネシア・日本・東南アジア・台湾・中国本土(広西省・広東省・貴州省・福建省・雲南省・浙江省・四川省・湖南省・江西省)に分布する。標高五百~千六百メートルの草原・森林、又は、不毛な斜面に生育する。中国原産(これは「海外からの導入ではない」の意。同種の英文には、『ネパール・中国・日本・インド亜大陸・パプア・ミクロネシアが原産地である。』とある)。『多年生草本。高さ十~十四センチメートル。地下には分枝しない単一の根茎があり、色は濃い茶色で、断面は肉厚で白色。葉は根生し、三~六枚、葉柄があり、披針形で革質、長さ約十~三十センチメートル、幅約〇。六~二センチメートルで、まばらに長い毛が生えている。花茎は非常に短く、葉鞘の中に隠れており、花は黄色である。草の生い茂る斜面や丘陵地、低木の近くで育つことを好む。長江以南の地域に広く分布しており、主に四川省で生産されている。薬用として根茎を早春と晩夏に収穫する。繊維質の根と根頭を取り除き、洗浄し、切断した後、天日乾燥させて保存する』。「薬用」の項。『伝統的な中国医学では、苦・甘・温で、わずかに毒性があるとされている。腎臓を補い、陽気を強化し、寒さを払い、痺れを除く。西洋医学では、本種に含まれる成分がβアミロイド・タンパク質の重合を阻害するために使用可能なことが判明している』。『適応症は腎機能不全・腰痛・神経衰弱・勃起不全・婦女の更年期高血圧・慢性腎炎・原因不明の腫れ物』とある。

 最後に、学名をフルに整理すると、

単子葉植物綱キジカクシ(雉隠)目キンバイザサ(仙茅)科キンバイザサ属キンバイザサ(仙茅・金梅笹)Curculigo orchioides

ということになる。

 先に言っておくと、以上の「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷十二上」の「草之一【山草類上一十三種】」のガイド・ナンバー[036-33b]の「長松」の項のパッチワークである。

「まつばぐさ」恐らく、良安の時代には、既にキンバイザザを基原とする漢方生剤が中国句から伝来していたものと思われる。而して、「長松」と「本草綱目」に立項するものが、それであると認識はしていたものと考えてよい。而して、この「長松」の以上の記事と、実際に手に入れた漢方製剤の見た目から、この和名を充てたものであろう。

「仙茆」この「茆」には「かや・ちがや」の意味があり、「仙茅」と同義ととれる。しかし、「其の功、松脂《しやうし》、及び、仙茆のごとし。故《ゆゑ》、二名、有り。」は「長松」の「釋名」時珍の言葉であるが、素人が読んでも、どうもおかしい。そこを引用する。

   *

釋名仙茆【時珍曰其葉如松服之長年功如松脂及仙茆故有二名】

   *

これを、推定訓読してみると、

   *

釋名「仙茆」【時珍曰はく、『其の葉、松のごとく、之れを服せば、長年(ちやうねん)す。功、「松脂(しやうし)」、及び、「仙茆(せんばう)」のごとし。故(ゆゑ)に、二名、有り。』。】

   *

となる。問題は、明らかに時珍が言っている引用部の「仙茆」は「キンバイザサの根」ではない。而して、素直に読むなら、この謂いは、

   *

その葉は、松のようで、これを服用すれば、長生きする。その、ここで言う「仙茆」は、「松の脂(やに)」、及び、同じ漢字表記する全く違う「仙茆」と同等の功能を持つ。故に、全く違った生薬であるが、「仙茆」という同じ名を持っているのである。

   *

と読まなくては通じないのである。さて核心部部は、本来の「仙茆」が何かである。「松やに」と並列し得るものは、「仙」人が霧以外に食べるとされる「松」の「やに」以外の部分とは、

「松」の「茆」=「茅」(かや)、即ち、「松の葉(花・実を含む)を含む穂」の部分の他にない

のである。その証拠に、「百度百科」の「仙茆」に附されてある画像を見られよ! モロ、それだもの!

「齋苨《せいねい》」先行する「齋苨」を見よ。

「大風」中国で歴史的に梅毒の異名として用いた語である。中文の「ハンセン病」の「維基百科」の「麻风病」の「中国歷史的情况」を見られたい。

「百骸、腐潰《ふくわい》する」身体の骨格が、がたがたに腐ったように潰瘍化する症状。

「甘草《かんざう》」先行する「甘草」を見よ。

「旬日」十日ほど。

 なお、良安は、附言を一切、附していない。されば、良安は、本種は本邦に存在しないと考えていたことは、明白である。但し、それ以前(江戸中期前期以前。「和漢三才圖會」は正徳二(一七一二)年成立)に中国から薬剤としての「長松」=「仙茅」は渡来していた可能性はあるが、しかし、添えられた図の茎以上の葉が、キンバイザサとは全く異なるので、彼は実際には見ていない。しかし、実は本邦にも分布していたのであった。だが、本邦では、当時は、薬草としては使用していなかったものと思われる。では、どの辺りで、本邦にキンバイザサがあると認識されたのか? 調べたところ、岡山大学図書館公式サイト内の『所蔵資料ピックアップ(植物研分館所蔵)』の「広参存擬(こうじんぞんぎ)」に、

   《引用開始》

広参存擬

大槻玄沢著, 写本, 文化71810)年頃成立

コレクション: 大原農書文庫(貴重資料)

広東人参に関する考察をまとめた書。後書きのうしろに、キンバイザサの彩色図とそれに関する手紙の内容が付随している。彩色図は栗本丹州によるもの。手紙は、丹州が玄沢に宛てたものの追伸部分と思われる。「キンバイザサの発見者は田村藍水(丹州の父)であり、和名の名付け親だ」と主張している。

   《引用終了》

として、原本の画像三枚が載る。一番、左には、キンバイザサの掘り出した全草体図が描かれている。大槻玄澤は知られた改訳「重訂解體新書」の訳者である。田村藍水(たむららんすい 享保三(一七一八)年~ 安永五(一七七六)年)は江戸中期の医師で本草学者である。

2026/07/13

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その14) 板屋貝柱

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]

 

   板屋貝柱《いたやかひはしら》

板屋介(いたやかい)は「倭名鈔」は「新抄本艸」を引(ひき)て、『文蛤』を『伊太夜加比(いたやかひ)』と訓ず。此ものハ、主として、肉柱(にくはしら)を食(しよく)に供(きやう[やぶちゃん注:ママ。「きよう」でよい。])す。是、其味、佳良(かりやう)なるに由(よ)るなり。而して、之を乾製するには、介の肉を出(いだ)し、黑肉(くろにく)を去り、川水(かはみず[やぶちゃん注:ママ。])にて、洗淨し、釜にて、暫時、煑立(にた)て後(のち)、取出(とりいだ)し、廣げ、日に乾(ほ)すこと、二日《ふつか》、肉柱外(ぐわい)の物を、除去し、後日(のち《の》ひ)に乾すこと、二日、都合、四日間を以て、之を最良製品とす。然(さ)れども、乾燥中に降雨(かうう)あれば、下等品となるものなれば、最も、注意すべし。之を保存するに、箱に密閉するを、良(よし)とす。每年、梅雨(つゆ)の後(のち)、取出(とりいだ)し、乾せば、何ケ年(なん《か》ねん)をも、貯藏し得るものなり、と。此法は、天保年間、鳥取縣下、因幡氣多郡(いんばけたこほり)靑谷村(あをやむら)中濱六兵衞(なかはまろくへうゑ[やぶちゃん注:ママ。「なかはまろくひやうゑ」が正しい。])なるもの、長崎に於て、支那人(しなじん)より、傳習(でんしう)受(うけ)しものなり、と云ふ。「通商彙編(つうしやういへん)」に依(よれ)ば、香港市塲(ホンコンしじやう)に於ては、『江瑤柱(こふやうちう[やぶちゃん注:ママ。正しくは「かうえうちゆう」である。])』と稱す。此物は、元來、上海地方(シヤンハイちほう[やぶちゃん注:ママ。「ちほう」は「ちはう」が正しい。])に於ては、貴賤の別なく、一般(いつぱん)、嗜好(しかう)するものなれども、廣東(カントン)に在(あつ)ては、常食に供せざるが故に、價格、少しく騰貴(たうき[やぶちゃん注:ママ。「とうき」でよい。])すれば、需求(じゆきやう[やぶちゃん注:ママ。「じゆきう」が正しい。])、項(にはか)に[やぶちゃん注:ママ。東洋文庫版ではルビを振っているが、「項」の字には「にはか」の意味はなく、その注も、ない。一般には「俄」「卒」「遽」「勃」を想起したが、一つ、気づかなかった。「頓」があった。この誤植であろう。]、減却(げんきやく)し、一周年間、販賣の增減價格の昂低(こうてい)も、動搖(どうよう[やぶちゃん注:ママ。「どうえう」が正しい。])、尤(もつとも)常(つね)なきの、甚しき者とす。扨(さて)、市塲販賣の品位は、因州產(いんしゆうさん[やぶちゃん注:ママ。])を以て、第一とし、豐《ぶ》[やぶちゃん注:旧豊前国・豊後国。福岡県東部及び大分県全域。]・薩摩產、之に次ぐ。而して、此三種の區別ある所以(ゆゑん)は、唯(たヾ)、其(その)肉中(にくちう)に含蓄する鹹味(かんみ)の濃淡に由る耳(のみ)にて、鹹味、稀薄なるに隨ひ、價格、又、貴(たつと)し。明年(めいち[やぶちゃん注:ママ。「明治」の誤記であろう。])十六年二、三月の相塲は、因州上品、百斤四十九元、薩州上品、三十八元なりし、となり。明治十五年の輸出高は、拾萬〇三千二百五十一斤、此價(このあたひ)、三萬二千四百七十四圓、十六年は六萬六千七百九十九斤、此價二萬〇二百九十六圓十四錢なり。

[やぶちゃん注:これは、

翼形亜綱イタヤガイ(板屋貝)目イタヤガイ上科イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans

である。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、漢字表記を『板屋貝、半辺蛤、魁蛤』とし、『食用。和名の漢字表記の1つである「板屋貝」の由来は、木の板で葺いた家屋・板屋。平らなほうの殻が板で葺いた屋根のようだから。別名:ヒシャクガイ』(柄杓貝)。『日本国内では北海道南部から九州。ほかに朝鮮半島、中国沿岸』。『右の殻は左の殻よりも大きく、強く膨らむ。白色または黄白色。内側は白色、しばしば暗褐色の斑を持つ。これに対し』、『左の殻は扁平で赤褐色。殻長10センチ。8 -10本の放射肋あり』。『100個の眼』点『を持つ。雌雄同体である』。『水深10 - 80メートルの砂底または砂泥底に生息。平らな側を上に向けて海底の砂の上にいる。敵に襲われると』、『殻の隙間(前後の端、腹縁部)から水を噴き出して逃げる。植物プランクトンなどを濾過して摂食する』。『食用。ホタテガイやヒオウギガイのように、大きな貝柱を賞味する。焼き物、煮物、フライ、干物などが美味』。『鹿児島県ではツキヒガイ』(イタヤガイ亜科AmusiumAmusium japonicum japonicum :以上の学名はBISMaLのものを参考にした)『に混獲されることがあるが、ツキヒガイに比べて小型で知名度も低く、市場にはほとんど出荷していない。伊勢湾でも底曳き網などで漁獲するが、水揚げは少ない』。『本種の漁は、大量発生した際に』、『これを漁獲し』尽くす『という形で行われるため、従来』、『資源管理が困難であった。島根県では』、『本種の天然採苗が可能であると分かったことから、1979年から養殖の対象となっている。養殖用稚貝は天然採苗により入手』している。『ほかに、貝杓や灯明皿に利用された実績』がある、とする。どうも、以上は、頗る食い足りないので、以下、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを示す。漢字は『板屋貝。車渠』を示し、「由来・語源」の項には、「本草和名」に基づくとし、『板屋とは板で葺(ふ)いた屋根のこと。この板屋葺きの屋根に似た貝殻の文様から。』とし、さらに『車渠』の他に『板屋貝・海扇』を添え、『車渠という名の玉がある。この蛤はそれに似ている。それでこう名づけられた』とされ、『車渠は「ほたてがい」とも読む。〔俗に帆立貝ともいう。また板屋貝ともいう〕。「ほたてがい」、「いたやがい」ともイタヤガイのことだ。〔そもそも車輪の溝のことを渠というが』、『この背の文様が車の溝に似ている(ので車渠)〕。〔また板屋葺の形にも似ているので板屋貝とも〕。〔形は扇のようなので海扇(かいせん)とも〕。』とされるが、これは、「和漢三才図会」に拠ったことが示されている。私の寺島良安の「和漢三才圖會」卷第四十七 介貝部」の「車渠 ほたてがひ いたやがひ」を見られたいが、標題の通り、良安はホタテガイとイタヤガイでさえ区別していない為体(ていたらく)なのである。『いたらがい また古くは「いたらがい」。また漢字で書くと「板屋貝」すなわち、板葺き屋根のような貝ということ。下の写真を見るとわかるが右側の貝殻が深いのを利用して柄杓(ひっしゃく)をつくることから「柄杓貝(ひしゃくがい)」とも言われる』とある。「生息域」は『海水生。水深10〜100メートルの砂地。北海道南部〜九州。朝鮮半島、中国沿岸、東シナ海。』とされ、「生態」の項には、『雌雄同体』で、『産卵期は冬』とされ、『ときに大発生したり、まったくいなくなったりする』とあり、『幼貝は岩などに足糸で固着』するが、『成貝になると』、『自由生活をする』とある。『北海道南部から九州までの浅い砂地にいる貝で、古くから美味で知られていた』が、『国内では産地が限定的である上に、資源が不安定であるので』、『食用としてはローカルな存在』であるとされ、『島根県などでは養殖が試みられているが、難しいためかあまり盛んではない』。しかし、『味のいいことは知られており、大発生したときには食用として出回り、それなりに高値で取引される』とあり、『ヒオウギガイ、ツキヒガイとともに味ではイタヤガイ科中の最高峰だと思う』とある。私も、そう思う。「珍魚度」の項には、『古くから知られている食用貝ではあるが』、以上の通り、事実上では、『産地は限定的。しかも好不漁があるので探さないと手に入らない』と添えておられる。また、「歴史・ことわざ・雑学など」の項で、「貝殻節」について、『鳥取県の貝殻節は本種を粉に引くことで生まれたというのを聞いたことがあるが、それほど漁獲されていたのだろうか? と本種のことを調べるうちに』、『駿河湾、土佐湾などで』、『今現在』、『ほそぼそと漁獲されていることが判明した。そして普段、生息数の少ないはずの本種が何年かに一度』、『大量発生する。鳥取の貝殻節もそんな豊漁年の歌であろうか?』と添えられ、また、『イタヤガイの貝殻の深い方を杓子(しゃくし)にする。これを貝杓子という』と記されておられる。ぼうずコンニャク氏の語りを読むと、いつも通り、私は、やっと落ち着いたのである。

『「倭名鈔」は「新抄本艸」を引(ひき)て、『文蛤』を『伊太夜加比(いたやかひ)』と訓ず。』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の当該部(右丁初行)をリンクしておく。因みに「新抄本艸」は「本草和名」の異名である。「本草和名」は「煎海鼠の說(その1)」の私の注を見られたい。

「黑肉(くろにく)を去り」節足動物や軟体動物の消化管の中腸に開口する、盲嚢状の器官である中腸腺(ちゅうちょうせん)を指す。私の貝類フリークは、よく知っているもので、これは、食すると、危険な場合があるので注意が必要なのである。やや、書き方がやや不全だが、ウィキの「中腸腺」の「食用」を引用する。太字は私が附した。『日常の食生活で認識されるものとしては、カニのいわゆる蟹味噌、イカの塩辛を作るときに用いられる』、『いわゆるワタの部分(ゴロ)などがこれに相当する』。『食品としては』、『美味で栄養の豊富な部分でもあるが、二枚貝の場合には』、『渦鞭毛藻などの有毒植物プランクトンを摂食したときに吸収された貝毒などが』、『ここに蓄積して食中毒の原因となったり、その中でもホタテガイなどでは』、『カドミウムやヒ素といった重金属の濃縮が認められる、あるいは』、『サザエやアワビのような海藻食の巻貝では』、『季節によりポルフィリンなど葉緑素の分解産物が蓄積して光過敏症の原因となるなど、扱いに注意を要する場合がある』。この最後の部分は、直前の「鳥貝」の私の注の最後のリンク先、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鳥貝」が、まさに、それなのである。

「天保年間」一八三一年から一八四五年まで。徳川家斉・徳川家慶の治世。

「鳥取縣下、因幡氣多郡(いんばけたこほり)靑谷村(あをやむら)中濱六兵衞(なかはまろくへうゑ)なるもの」現在の鳥取県鳥取市青谷町(あおやちょう)青谷(グーグル・マップ)である。なお、この「靑谷村」であるが、ウィキの「靑谷町」によれば、古く、町制前の名称は「あをやそん」と呼んでいた、とある。この「中濱六兵衞」に就いては、ネットは勿論、国立国会図書館デジタルコレクションでも、記載が見当らなかったので、不明である。しかし、「長崎に於て、支那人(しなじん)より、傳習(でんしう)受(うけ)しものなり」とあるからには、相応の人物であろうに⋯⋯。

「通商彙編(つうしやういへん)」前の「乾蠣」の私の注を見よ。

「拾萬〇三千二百五十一斤」「〇」は念のための配置。六十七・九五〇六トン。

「六萬六千七百九十九斤」四十・〇七九四トン。]

2026/07/12

泉鏡花「霰ふる」正規表現版・縦書ルビ附・オリジナル注公開

『泉鏡花「霰ふる」正規表現版・縦書ルビ附・オリジナル注』をサイトの「心朽窩旧館」に公開した(1.78MB)。ルビ化と注に、八日かかったが、相応に満足するものが出来た。特に注では、凡そ、現行の一般書籍では望めないレベルのものが書けたと、内心、自負している。御笑覧・御批評を乞うものである。

2026/07/05

私の泉鏡花の随筆「幼い頃の記憶」のロケーション考証に就いて

本朝、泉鏡花の「霰ふる」の正字正仮名読み附きのベタ原データを作成し終えた。これは先に公開した、鏡花の随筆「幼い頃の記憶」をもとに、同年に創作した作品であるが、校正中、そこの「三」に「八田潟(はつたがた)」の地名が出てきた。これは、私が「幼い頃の記憶」でロケーション考証した「河北潟」の古い呼称であることが判ったことをここに述べておく。但し、今回は、ルビ附き作業に時間が掛かり、同時にオリジナル注を附しているので(PDFでのみ公開)、公開には、相当の時間が掛かる。

2026/07/04

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その13) 鳥貝

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。]

 

   鳥貝《とりかひ》

鳥貝(とりかひ)は、他物(たぶつ)と其(その)乾製法を異(こと)にす。先づ、手にて、殼中(からちう)の肉を、捻(ひね)り取り、刀割(たうかつ)して、腸(はらはた[やぶちゃん注:ママ。「はらわた」でよい。誤記か誤植。])を去り、煑て、簀上(すのうへ)に並べ、日乾(ひほし)して、莚囊(かます)に收(おさ[やぶちゃん注:ママ。])め、貯藏す。肉に、黑色(こくしよく)のものあり、此色なきは、味を損ずるのみならず、腐敗し易きを以て、最も之に注意すべし。之を豫防(よばう)するには、少しなりとも、沸騰の湯(ゆ)、濁(にご)るを認(みと)めるときは、速(すみやか)に、之を廢棄し、更に淸淨なる沸湯(ふつたう)に換(かへ)るを要(よう[やぶちゃん注:ママ。「えう」が正しい。])す。如斯(かく[やぶちゃん注:二字へのルビ。])すれば、黑色を傷(いため)ることなく、保存、久しきを保ち、味(あじわい[やぶちゃん注:ママ。])を變ぜず。淸國貿易に適せり。

[やぶちゃん注:「鳥貝」これは、

斧足綱マルスダレガイ目ザルガイ科トリガイFulvia mutica

である。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『名の由来は、食用とする足が鳥のくちばしのような形状をしていることから、また』、『食味が鶏肉に似ているからともいう』。『北海道を除く日本(青森県陸奥湾から九州)、朝鮮半島、中国沿岸に分布する。水深数mから数十mの内湾の泥地に生息し、日本では東京湾、三河湾、伊勢湾、瀬戸内海等が主な漁場である。陸奥湾が北限とされてきたが、2005年には函館市の七重浜に大量に打ち上げられているのが発見され、流れ着いたものか』、『函館湾で育ったものか』、『話題を呼んだ。また2006年には石狩市で』、『多数』、『見つかっている』。『雌雄同体で、春と秋の二回』、『産卵期がある。多くは』、『寿命が約一年で』、『プランクトンを餌として殻長7-9cmほどとなるが、2-3年生き残るものもあり、10cm以上に成長する。膨らんだ黄褐色の貝の表面には』、『放射状に40本程の溝(放射肋)があり、短い殻毛に覆われている。足は長く、普段は』、『貝殻の中に折りたたまれているが、ヒトデなどに襲われそうになると』、『この足でジャンプして逃げることも有るという』。『時として大発生を起こしたり、逆に大量死滅したりするため』、『豊凶の差が激しいが、総じて』、『高級食材として高価で取引きされる』。『足、別名オハグロともいわれる部分を食用とする。開いて』、『二等辺三角形状にしたものを湯通しし、寿司種、刺身、酢の物、酢味噌和えなどにする。貝としては』、『噛み切り易い適度な歯ざわりと』、『ほのかな甘みがあり』、『美味。市場では』、『一般に湯通しまでの下ごしらえをしたものがパックされて流通している。厚みがあり、色の黒いものが』、『良品として高値が付く。旬は太平洋側では春先、日本海側では』、『夏となる。冷凍しても』、『あまり食味が変わらないので、ほぼ通年』、『出回る』。『漁の盛んな地域では』、『ヒモも食べられ、店頭に並ぶことも有る。千葉県では』、『小ぶりのものの殻を』、『開かずに』、『丸ごと』、『醤油と砂糖で煮付け、あとから』、『殻と肝を取り除いて』、『佃煮にする。変わったところでは』、『炙ったり、塩コショウでソテー、バター焼きといった食べ方も有る』。『寿司ネタとしては、冷凍されたものが』、『韓国・中国から大量に輸入されている』。『構成成分は』、『多い順に、水分78.6%、タンパク質12.9%、炭水化物6.9%、灰分1.3%、脂質0.3%で、高たんぱく低脂肪のヘルシー食材である。ビタミンB1が0.16mgと他の貝類よりは』、『やや多く含まれている他、カルシウム、鉄分、カリウム、亜鉛も豊富である。肝機能の強化、動脈硬化の予防に効果が有るともいわれる』。『京都府では』、『全国に先駆け、トリガイの養殖に取り組んできた。舞鶴湾や若狭湾は』、『もともとトリガイの好漁場であったが、京都府立海洋センターが、稚貝を人工孵化させ、アンスラサイトという底質を敷いたコンテナに』、『有る程度』、『育った稚貝を入れて』、『海中に吊り下げるという方法を開発した。こうして天敵のタコやヒトデから守られて育てられたトリガイは』、『天然物より大きく育ち、安定した供給が可能となった。京都で育成された養殖トリガイは「丹後とり貝」という地域ブランド名を与えられ、高級食材として出荷されている。現在では、石川県の七尾湾でも養殖に成功している』とあった。私の記事では、先ずは、画像のある『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 鳥貝  / トリガイ』が良かろう。また、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鳥貝」をシメとしよう。⋯⋯同種やアワビ類の生キモを猫が食うと耳が落ちる話を知らない人のために、ね⋯⋯♪ふふふ♪⋯⋯

2026/07/03

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その12) 乾蠣

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。因みに、私は強力なカキ・フリークである。

 

   乾蠣《ほしかき》

蠣(かき)は「倭名鈔」に『「本草」に云(いわく[やぶちゃん注:ママ。])、『蠣蛤(れいがう)は、和名(わみやう)、加木(かき)。』とす。これを乾(ほ)したるを、『乾蠣(ほしかき)』といふ。淸國にて『蠔豉(がうし)』と稱す。元來、牡蠣(かき)に、種類、多く、本邦產中、之を大別すれば、『ながかき』・『かき』・『ころびかき』・『いたぼかき』等(とう)にして、此他(このた)、品類、甚(はなはだ)、多し。「まかき」は、能(よ)く、竹、及び、柴(しば)等(とう)の麁朶(そだ)を立(たて)て、養作(やうさく)するを、よろし、とす。卽ち、安藝(あき)の廣島、磐城(いはき)の松川浦(まつかはうら)等(とう)なり。淸國人は、『蠣田(れいでん)』を作るに、岩石を、二個づゝ合(あは)して、龜脊狀(かめのせかた)に臥(ふ)せ、各(かく)一畝(ひとせ)に𤲿別(くべつ[やぶちゃん注:ママ。恐らく「區別」の意味を利かせた意味訓であろう。])し、大豆油(だいづあぶら)の搾滓(しぼりかす)を、養餌(やうじ)に施(ほどこし)て作る故に、『蠔豉(がうし)』の名(な)あり。

[やぶちゃん注:『「倭名鈔」に『「本草」に云、『蠣蛤(れいがう)は、和名(わみやう)、加木(かき)。』とす。』「和名類聚鈔」の「卷十九」の「鱗介部第三十」の「龜貝類第二百三十八」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の当該部をリンクしておく。

「蠔豉(がうし)」北京語「ハオチー」、広東語「ホウシー」で、新鮮な牡蠣(かき)の身を塩茹でして天日干しにしたものを指す。広東地方や香港の伝統的な料理である。

「ながかき」これは、「長蠣」であるが、次の「かき」と同種で、現在では、

斧足(二枚貝)綱翼形亜綱カキ(或いはウグイスガイ)目カキ上科イタボガキ(板甫牡蠣)科マガキ属マガキ Crassostrea gigas

である。所持する「吉良図鑑」(=保育社刊「原色日本貝類図鑑」昭和三四(一九五九)年改訂第三版の昭和四九(一九七四)年二十刷)でも、独立項があるものの、『本型はナガカキまたはエゾガキ』(蝦夷蠣)『と称し, 長さ300mm以上に達する巨大なものである。大連を模式産地としてCrassostrea talienwhanensis CROSSEの名で区別されているが, 最近の研究ではマガキと同種と認められている。また鹹度』(=海水塩分)『の低い所に棲息することにおいても首肯される。北海道潮線下。』とある。前にある、「マガキ」の項では、分布を『北海道以南潮線下。』とし、謂わば、本邦では、北海道の殻の長さの異様に長い個体を、本書の刊行時には、このように別種として呼称していたのである。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『太平洋のアジア沿岸を原産地とする。別名として太平洋牡蠣や日本牡蠣、長牡蠣等がある』。『岩などに固着生活する二枚貝。一般には中程度の大きさのカキ類で、外形は付着する基盤の形にも依るのでさほど一定していない。左側の殻で岩などに付着し、この側の殻は内側が深く窪んでいる。外面にある右側の殻は』、『左殻より小さく、ほぼ平らとなっている。順調に成長したものでは成長脉、つまり』殻の『表面に成長する縁』(ふち)『沿いに発達する薄い板状の突起が』、『よく発達し、また』、『紫色の放射状の斑紋を帯びる』。但し、『普通には』、『殻は汚れた白色の地色に紫褐色の放射彩が出る。成長段階では』、『殻の表面に葉状の突起(平たい膜状に突き出たもの)を生じるが、成長したものでは』殆ど『無くなり、粗いが』、『のっぺりした殻面を持つようになる』。『右側の殻では』、『その頂端部が突き出る。殻の内側の面は白く、筋痕、つまり貝柱の跡が1つあるのが普通で、その部分は紫色をしている』。『時に大きくなるものがあり、エゾガキ、あるいはナガガキの名で呼ばれたものはO. talienwhanensis と別種とされたことがあるが、同一種と考えられる。これは』、『とても大きくなり、例えば』、『細長く伸びた殻の全長は340mm、靱帯部の長さが40mmという例もあり、この例では』、『その肉量は飯茶碗に山盛り一杯にもなったという』。『日本の北海道から九州、国外では朝鮮、中国、樺太に分布する』(かなり前のNHKのドキュメンタリーで、北方領土の沿海部には、巨大なマガキが筍(たてのこ)のように屹立しており、驚いた。同地のロシア人はマガキを食わないため、ニョキニョキ状態であった)。但し、『現在では』、『養殖用に持ち出されたことから』、『南北アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、アフリカにまで移植されている』。『内湾から河口域に生息する。潮間帯から潮下帯に生息し、内湾性で富栄養の海域に普通に出現する。塩分濃度の低い水域を好む。消波装置に集まることで』、『動作不良を起こす事例もある』(消波装置は海面に浮かぶ形で配置するが、マガキが、多数、付着すると、その重みで沈下してしまい、全く機能を果たせなくなってしまう事態になってしまうのである)。『本種は』、『普通は』、『岩や杭など固いものに付着して成長するが、干潟では』、『時に』、『その表面に本種が集団をつくることがあり、時に広い面をなす。これをカキ床(英:Oyster bed』『)と呼ぶ。この状態になると、カキが表面を覆うために』、『その下の泥土は酸素欠乏状態とな』り、『泥は真っ黒になり、通常の干潟の生物は生存出来なくなり、岩礁の付着生物、それに低酸素で生活出来る間隙生物の生息域』が『変化』してしまう『ことになる。また』、『この環境は外来種が入りやすい場にもなっている』。『現在』、『日本の干潟でこれが増加しているとの指摘があり、環境変化について懸念されている』。『水深4-50mの岩礁を好むが、砂泥底にも棲息する。7月から8月の水温が19-23°C程度の頃に雌が5千万から1億個を産卵し、雄が放精する事で水中で受精する』。『本種を含むマガキ属は』、『水産経済動物としては』、『世界最大の年間生産量を持つとされ、その中でも本種は』、『アジアの温帯域で最も重要なものである。本種は日本の他、大西洋の北東部、特にフランス、ポルトガル、後には地中海に棲息域を広げ、また各地で養殖もされており、特にフランスでは』、『欧州での生産の75%を占め、近年の養殖場での生産量は4万トン/年となり、養殖牡蠣において世界一の生産量となる。また』、『オーストラリア等南半球でも養殖されている』(タスマニア島で食べたが、まことに美味かった)。

「ころびかき」これは単独種ではなく、小学館「日本国語大辞典」に『イタボガキ、イワガキなど浅海の海底にすむ大形の貝の称。食用とする。おきがき。なつがき。』とあった。この内、イワガキは、

イタボガキ科マガキ属イワガキ Crassostrea nippona

である。因みに、私はカキ・フリークであり乍ら、イワガキの生は、あまり好きではない。渋味があることと、強い脂(あぶら)が苦手であるからである。但し、蒸しなら、エンドレスで食える。

「いたぼかき」これは、

イタボガキ科イタボガキ属イタボガキ Ostrea denselamellosa

である。小学館「日本大百科全書」の奥谷喬司先生の解説を引く。『本州、四国、九州および朝鮮半島、中国沿岸に分布する。内湾の水深10~30メートルの海底の岩礫(がんれき)に付着したり、互いに接して団塊状になって生活する。殻長、殻高ともに13センチメートルぐらいになり』、『円板状で、右殻は平たく、殻表は成長線と一致する檜皮(ひわだ)状の殻皮で覆われ、多くの放射条がある。左殻は殻頂部で他物に付着し、やや深く粗い成長輪と不規則な放射肋』『がある。また殻頂の左右に耳状の突起が出て、殻内は白く筋肉痕』『は赤褐色。胎生種で、同一個体の性が交代する。産卵期は5~8月で、成育の好適塩分は27~34‰である。食用となり、一時』、『養殖が試みられたが、肉質が日本人に向かず継続されなかった。』とある。当該ウィキには、『別名としてボタンガキ』(牡丹蠣)『などがある』。『国内については』、『太平洋側が房総半島以南、日本海側が北海道南部以南』、『国外については』、『南シナ海のベトナム、マレーシア、大陸中国、台湾、韓国で、潮下帯から水深30m前後の浅海に多く棲息し、場合によっては』、『低潮線下数mの所にもみられる』とし、嘗つては『普通種として採取され』、『食用として流通していたが』、『近年』、『漁獲量が激減し、人工採苗による個体数回復の試みがなされている。また』、『貝殻は日本画の絵具や漢方薬、飼料として利用される』とあった。私は、とある地方で、生食用処理を施した同種を食したことがあるが、濃厚な味わいで、イケるものであった。私の『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 草鞋蠣・コロビガキ  / イタボガキ』を見られたい。そこには、私が世界中で最も美味であったカキに就いて触れている。

 

 蠣を養ふは、河水流末(かすいりうまつ)の海濵にして、滿潮の際、常に、瀨、早き、水損風害(すいそんふうがい)のなき場所を、撰(えらぶ)べし。濵質(ひんしつ)は、泥砂(でいしや)をよろしとすと雖(いへども)、願(ねがわ[やぶちゃん注:ママ。])くは、砂地を、良(よし)とす。又、簱立設方(《ひび》たてまふけかた)

[やぶちゃん注:特異的に改行してブレイクし、重要な注を附す。これ以降の叙述を慎重に検証するに、東洋文庫版も、全く、そのままで、致命的矛盾があることに気づいておらず、そのままにしてあるのであるが、まず、

私が不審に思ったのは、この読みの頭の「簱」のみ、ルビがない

ことであった。一応、この後の暫くは、「はた」で躓かないように読めるしまうように感じたものの、途中で、

★★突然、「簱(ひヾ)」と、異なるルビが出現する

のである。しかも、さらに、その後に、

★★★よく見ると、漢字が異なり、さらに読みも違う「篊竹(ひヾたけ)」が出現する

のである。而して、ここで、次の大誤謬に完全に気づいたのである。

★★★★――この「簱」は、漢字も読みも、これ、総てが「篊(ひび)」の誤字+誤ルビなのであった

のである。読者が、それに、気づかず、なんとなく読めて違和感を感じなかったのは――「簱」が牡蠣養殖の「ひび」であることは判るのだが、「海苔ひび」等の「ひび」を私たちは漢字でどう書くか、まず、御存知の方は少なく、私も知らなかった。そして、私は、漠然と

『「海苔ひび」等から推定して、カキ養殖の固定の立て棒には、目印として「簱(はた)」を掲げてあるんだろうな。だから、「簱(はた)」なんだろう。』

と勝手に解釈して読み進めてしまったのである。天下の平凡社東洋文庫版の編者も、悲しいかな――それに全く以って――気づいていなかったのである!]

は、簱竹(《ひび》たけ)は、凡(およそ)、廻(まわ[やぶちゃん注:ママ。])り、三寸位(くらゐ)にして、枝(えだ)の儘(まヽ)、四尺位に切り、五、六本宛(づヽ)、數所(すかしよ)、揷(さ)し、之を、汐(ひは[やぶちゃん注:読みの意味、不明。恐らく、直下の「干際」のルビの誤りから推して、「しほ」の誤植であろう。])の干際(ひきわ[やぶちゃん注:ママ。「干潮(=引潮)の引(干)き際」。「ひきは」が正しい。])まで、二行に倂立(へいりつ)す。簱(ひヾ)[やぶちゃん注:★「ひび」の読みの最初の箇所である。]と簱(ひヾ)との間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])に、凡(およそ)、縱三尺、橫一尺五寸位を隔(へだて)て、立設(たてもふ)くべし。篊竹(ひヾたけ)は、專(もつは)ら、三年竹(さんねんちく)を用ゆべし。篊立(ひヾたて)の季節、及(および)、育養法は、篊竹(ひヾたけ)を、凡そ、每年、四、五月の頃に揷(さしはさ)み、六月頃に至(いたり)て、自(おの)づと、篊竹(ひヾたけ)に、種子、付着す。之を、九月に至り、篊(ひヾ)の儘(まヽ)、抽採(ちうさい)し、汐(しほ)の淺灘(せんなん)へ、立替(たてかへ)【之を「とや」と稱す。】、又、翌年九月に至り、竹より、打落(うちおと)し、潮(しほ)の深き處へ、廣(ひろ)め置き、而して、翌年三月より九月頃まで、汐水(しほみづ)の溜(たま)らざる干潟の高き場所へ移し替置(かへおく)べし。汐水の溜れば、炎天の際、氣(き)を釀(かも)し、腐敗するを恐(をそ)る故に、深(ふかし)といへども、滿干(みちしほ)に汐水の溜らざる場所は、移し替へざるも、妨げなし、とす。梢(やヽ)生育すれば、十一月頃より獲(とり)て、食用とす。倂(しか)し、生育の遲きものは、又、九月より再び、元の深き處へ移すべし。凡(およそ)、蠣の生育は三年を以て、極(きよく)とす。

 

『乾牡蠣(ほしかき)の根室縣下に產するものは、其(その)廉價(れんか)なるを以て、大(おほひ[やぶちゃん注:ママ。])に海外輸出に適すべし。』とは、橫濱の商(しやう)、串田八百吉(くしだやほきち)の見込なりしか[やぶちゃん注:ママ。「しが」。]、「通商彙編(つうしやゐへん)」に由(よれ)ば、『蠔豉(がうし)、卽ち、我(わが)北海產は香港(ホンコン)市上(しじやう)に、夥多(くわた)[やぶちゃん注:非常に多いさま。夥(おびただ)しいさま。]、輸入し、之を試賣(しばい)せしに、膏脂(がうし[やぶちゃん注:ママ。「かうし」でよい。])、稀薄なるより、味、亦、隨(したがつ)て、饒(じやう)ならず。』との評說にて、自然、廣東產(カントンさん)に壓抑(あつよく)せられ、十分の聲價(せいか)を得(う)るに至(いたら)ざりし。扨(さて)、其膏味(かうみ)、饒多(ぎやうた)なりしといふ廣東產を見るに、形狀は、我產(わがさん)より、稍(やや)大(だい)にして、全肉面(ぜんにくめん)に黃色の脂油(しゆ)を帶(おび)たり。然(しか)るに、其膏脂(がうし[やぶちゃん注:ママ。「かうし」。])は、牡蠣固有の物に非(あら)ずして、乾燥製作上に塗抹(とまつ)せし者の由(よし)なり。蓋(けだ)し、北海道厚岸(あつけし)には、牡蠣を出(いだ)す、多し。若(も)し、此製法を摸倣(もこう[やぶちゃん注:ママ。「もはう」の誤植。])せんには、必ず、當市上(とうしじやう)に於(おい)て、淸產と拮抗(きつかう)するを得(う)べし。價格、淸產、明治十六年に百斤十七、八元なり、と。この試賣品(しばいひん)は廣業商會(かうぎやうしやうくわい[やぶちゃん注:ママ。「かうげふしやうくわい」が正しい。])か[やぶちゃん注:ママ。]、厚岸にて試製せしものなりしなり。然(しか)るに、昨十八年、厚岸にて製したるものは、淸國產と、色澤(しよくたく)・形狀、少しも異(ことな)ることなく、大(おほい)に聲價(せいか)を得たり。當(たう)業者が、能く製法に注意して、かヽる良品を出(いだ)すあらば、輸出品中の上位を占るに至るや、必(ひつ)せり。然(しか)れども、安藝の廣島等(とう)にて養殖するものは、高價、且(かつ)、形質の小(しやう)なるとによりて、乾製に適せず。紀伊・伊勢等(とう)に產する『長蠣(ながかき)』、及び、『いたぼ』等(とう)は、形質、肥大にして、輸出品に製するを得(う)へし[やぶちゃん注:ママ。「べし」。]。

[やぶちゃん注:「串田八百吉」この人物、国立国会図書館デジタルコレクションで横断検索をかけると、水産関係の書籍に、複数、登場し、当時の貝類を始めとして海産製品の改良等に尽力した人物として記されてあり、「大日本水產會報告 號外」(明治二一(一八八六)年発行・合本)のここの「水產共進會事務要錄」の『審査委員』として、本書の著者河原田氏が筆頭に『主審 學藝委員』として姓名を記した、その三番目に『副審』として『通信委員兼地方世話掛』の肩書で、『串田八百吉』と載る。また、同年発行の「大日本水產會報告 第五拾四號」(合本)のここに、『串田八百吉氏死去』の記事があり、そこに(「產」「産」の字体の違いはママ。約物は正字に直した)『橫濱海産商中殖產篤志家の聞へありたる本會々員串田八百吉氏は水産貿易上盡力尠からず曩』(さき)『に本會々頭殿下より通信委員兼地方世話掛を委囑せられ水産擴張に熱心の人なりしに去る八月七日溘然遠逝せられたるは本邦水產業の痛嘆すへきことと云ふへし因て本會幹事長より其實子信太郞氏へ吊詞を贈り追悼の意を表したり』とあった。なお、出自を調べることは出来なかったのだが、因みに、lunaticrosier氏のブログ「旦さまと私」の「坂本龍馬の許婚・千葉さな子を旅する~②」という記事の中に、『商人・串田八百吉夫婦(鳥取藩御用人も務めていた)』という記載があった。同一人物か、全くの別人か、判らぬが、参考までに言い添えておく。

「通商彙編(つうしやゐへん)」外務省が纏めた各日本領事館の報告書のこと。重要輸出品に関する海外市場調査・通商情報の収集で成果を挙げた。その刊行は,明治一四(一八八一)年以後、「第一次大戦」までのそれが、この名であった。参照した平凡社「世界大百科事典」の「領事館」に拠れば、この報告は、『政府刊行物として印刷・配布され,年を追って質量ともに充実した。過去200年以上の間,ほとんど海外市場情報の蓄積がなく,また商社活動が未発展であった明治期日本にとって,領事報告が海外市場開拓に果たした役割は大きかった』とあった。]

2026/06/28

「幼い頃の記憶 泉鏡花 正規表現版 オリジナル注附 《PDF縦書版》」を「心朽窩旧館」に公開

サイトの「心朽窩旧館」の「■泉鏡花」に「幼い頃の記憶 泉鏡花 正規表現版 オリジナル注附 《PDF縦書版》」を公開した。最も原表記に近い読み易さになっているので、お読みあれかし。

«幼い頃の記憶 泉鏡花 正規表現版 オリジナル注附(本文の一部に推定読みを附す)