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2026/02/17

立原道造草稿詩篇 夜に――

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、前の「雨」と同一の紙に書かれてある。]

 

  夜に――

 

鳩は小さな時計です ランプの蔭で

 

おまへは僕によく似てゐる

 

立原道造草稿詩篇 雨

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  雨

 

やさしい鳩たち

僕はくらい身體のなかで飼つてゐる

それなのに おまへらは不意に

僕をかなしませるために啼いてゐる

ネジの緩んだ時計の聲で

 

[やぶちゃん注:道造の草稿詩篇は、こういう短いのが、好き!!!]

立原道造草稿詩篇 冬

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、先の草稿で組詩の「冬」の二稿、とある。]

 

  冬

 

僕のマントは肩がすこしやぶけてゐる。步いてゐると、太陽がそこへとまつて、蝶のやうに僕の身體を覗きこむ。僕の部屋の小さな季節のにほひがありはしないかと。だが、そのせいか、

夜、寢間着に着換へながら、僕はいつでも日なたの町の風のにほひを思ひ出す。

 

[やぶちゃん注:「寢間着」は「ねまき」であるが、パジャマを想起してよいであろう。ブログ「ジャパンナレッジ」の「知識の泉」の小学館「日本国語大辞典」第二版の編者であられる神永曉(かみながさとる)氏の『 第291回 「寝巻」と「寝間着」』の解説が、流石に凄い! 全文を引用したいが、気が引けるので、ポイント部分を引用すると、但し、『この表記は当て字で、「寝巻」が本来の表記だったと思われる。室町時代の国語辞書『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』にも「寐巻 ネマキ」とある。「寐(び)」は、ねる、ねむるの意である』。『「ねまき」の語源はよくわからないのだが、江戸時代の国語辞書『俚言集覧(りげんしゅうらん)』に「寝纏の義」とあるように、寝るときに体に巻きつける衣類という意味があったのかもしれない』。『「寝間着」のほうは比較的新しい表記で、おそらく「寝間(=寝室)」で着用する衣類という意識で生まれたものであろう。古い用例はあまり見られずほとんどが明治以降のものである』。『たとえば、樋口一葉の『にごりえ』(1895年)の中にも、「これは此子の寝間着の袷(あわせ)、はらがけと三尺(さんじゃく)だけ貰って行まする」とある。「袷」は裏地のついている衣服のことで、貧しさゆえ就寝時に着る物はこれしかなかったのかもしれない』。『「寝巻」と「寝間着」の使い分けは厳密にはないと思われるが、「寝巻」は一般に浴衣(ゆかた)の形式の和服のものをいい、「寝間着」のほうはもっと広く室内着のようなものも含めて呼んでいるかもしれない』。『さらに表記に関して細かなことを言えば、「寝巻」だと語の構成は「ネ・マキ」だが、「寝間着」では、「ネマ・キ」になってしまう。また、「寝間着」の読みは「ネマギ」になる方が自然かもしれない。』とあった。]

立原道造草稿詩篇 夕暮の雲に

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、直前の「(大きな空洞の……)」と同じ紙に記されている、とある。内容的にも親和性がある。]

 

  夕暮の雲に

 

まちがへたまゝの散步道

消えてしまつたとほい後悔

あゝ けふも

おまへが誘ふそらだのみ

 

[やぶちゃん注:「そらだのみ」ネイティブでない読者のために注すると、「空賴み」で「頼みにならないことを頼みに思わせること・あてにならない期待をさせること」の意で、古語であり、平安時代中期に既に使われている。]

立原道造草稿詩篇 (大きな空洞の……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (大きな空洞の……)

 

大きな空洞の前で僕は指を折つてゐた

 

たそがれて 花は甘い香をたれこめ

コルクの色した諦めは月の形に地平のあたりでけむつてゐた

 

僕は愚かな年齢の後で何か呟いてゐた

 

立原道造草稿詩篇 幼年時

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  幼年時

 

ぼくらは土掘つて 荒地の隅に

泉をつくりたのしむのだつた

 

さう ぼくらは瓦の祕密をもつてゐた

十字架なんかでなかつたけれど

枯木の根もとに埋めておいた

ぼくらは每日夕陽みるまで

丘のぼり丘くだり笑つてゐた

白い月の形だつてあつたのだ

 

それはほつそりした秋だつた

ぼくらばかりの思ひ出だつた

 

[やぶちゃん注:私が馬鹿なのか、初めて、立原道造の詩篇で意味が判らないものに出くわしてしまった。『「お墓ごっこ」かな?』とは思うたのだが……どなたか、判り易くお教え下され。]

立原道造草稿詩篇 悲歌 第三

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこには、『表題に拠り、『散步詩集』に収録されるべき「悲歌」のヴァリエーションと考えられる。』とある。現在知られている彼の『散步詩集』は、私の「散步詩集 (全)   立原道造」を見て戴ければ判るが、「悲歌」という詩篇は存在しない。

 さて、読者の中には、この「散步詩集」が出版社から発行された詩集であると勘違いしている読者がいるかも知れないが、リンク先の私の冒頭注で示した通り、『底本の杉浦氏の解説によれば、原本は手書きで昭和七(一九三二)年から翌年の、第一高等学校時代(満十七から十九歳)にかけて詠まれた詩篇で、『発行所人魚書房と記して、友人に贈ったもの』とある』とある通り、これは、道造が手作りで作成した私家版なのである(私は、幸い、先年、連れ合いの療養がてら、軽井沢に遊んだ際、「軽井沢高原文庫」で現物を見ることが出来た)。「立原道造記念会」公式サイト内の「風のたより No.4:立原道造作品・本文復刻『散歩詩集』の紹介」を見られたいが(復刻版画像他有り)、『復刻版『散歩詩集』(神保家所蔵本)の原本は、1933』(昭和8)『年の夏に制作されたもので、形状は、一枚漉耳付鳥の子紙に濃淡8色で手書きされ、410葉が未綴のまま耳付和紙の畳紙に収められています。ただし、目次に記載されている第五詩「悲歌」の本文が欠けています。』と、この「悲歌」の脱落が解説されている。而して、本底本の『散步詩集』の「編注」の『『散步詩集』 神保幸太郎所蔵本』(ここと、ここ)を見ると、同詩集には、『目次として青、赤、緑、黄、黒色絵具で右より、「散步詩集/内容・見出し/魚の話/村の詩・朝・晝・夕/食後/日課/悲歌」と縱に列記した一葉』があるとあり、そこでは、『制作時』(これは詩の創作ではなく、手作り詩集の制作の意である)『は昭和9年1月4日付、杉浦明平宛書簡に拠り、昭和8年12月下旬と想定する』とある。さらに、『なお神保本とは別に、テキストと同じ用紙で絵入りの「村の詩・朝」「同・夕」および後出「草稿篇」の「口笛を吹いている散步者よ」と「噴水」が立原家に遺っている。』とある。そうして、問題の「悲歌」について、『本テキストの構成は目次に詩五篇を示しているが、どうしてか「悲歌」の本文を欠いている。これを埋めるものとして、「散步」と用紙・体裁から「口笛を吹いてゐる散步者よ」』(「立原道造草稿詩篇 口笛を吹いてゐる散步者よ」を見よ)『をそれと考えることが出来ないわけではないが、決定的裏付けが見当らず、ただここで言えることは後出「草稿篇の「悲歌 第三』(ここの以下がそれ)『のモチーフに関わるものであろうということだけである。』とあるのである。]

 

  悲 歌 第三

 

人間はときどき死んでゐたり食事をしたりした。ランプをつけるとそのあかりの下でたのしさうにほゝゑみあつたり編物をしたりした。

僕はいつか以前にひとりの少女を知つてゐた。その人は脣といふもので何かやさしい言葉をつぶやいた。それから僕によいものをたくさん與へた。あゝ、いま僕はおぼえてゐる。その少女は人間だつたと。

 

[やぶちゃん注:「ひとりの少女」これは、金田久子である。底本同全集第六巻の「年譜」に拠れば、道造満十四歳(彼は大正三(一九一四)年七月三十日生まれ)の昭和三(一九二八)年十一月三日に『初めて』『同級生金田敬の家を訪ねて、金田の妹久子(小学校六年生)を知り、ひそかな思慕を寄せるようになる。』とある女性である。昭和四年の項に、『この夏ころから、翌五年にかけての一時期、級友金田敬らと麻雀に熱中する。と同時に金田の妹、久子に対する思慕の情がいよいよ高まる。「をとめあり。/麻雀の牌もて坐り居し/かの姿をば我は忘れず」(「葛飾衆」)。』とあり、昭和五年三月二十九日の条に『金田敬の家を訪問。久子か顔を見せなかったので失望する。』とし、同年六月の条に、『十二日、久子に京都で買った絵封筒を送る。十八日、久子から礼状をもらう。』、同『十月、〈久子への愛〉を記念する自選第一詩集『水晶簾』は、前年の十二月ごろから執筆され、このころまで書きつがれたものと思われる。所収作品は、総じて白秋の影響下に成った詩群である。』とある。これは、同全集第六巻の『「水晶簾」詩稿 山木祥彥自選第一詩集 昭和四年十二月――五年十月頃』がある。「山木祥彥」は一高時代に短歌を投稿する際に使用していた雅号である。それに先立つ、『自選 葛飾集 山木祥彥自選第一詩集 昭和三年十二月――昭和四年十一月頃』の『葛飾集 (昭和四年二月より八月に至る歌)』のここに、久子を詠み込んだ、

   *

片戀は夜明淋しき

夢に見し久子の面影

 頭にさやか。

   *

があり、「葛飾以後」のここに、

   *

○心より久子を慕ふ我が心

  常に夢みむ。――

  いかなる夜にも。

   *

と、ここに、

   *

ゆくりなく

久子とあひしかへりには

中空の月のかげさやか。

   *

と、ここに、

   *

戀すてふ我名は悲し。

我が思ふ久子も知らず

 ひとり苦しむ。

   *

がある。他にも、彼女を詠み込んだ詩篇があるが、正直、私には、面白みも何もないので(そもそも私は短歌が嫌いなので、以上も拾うのが苦痛であった)、見たい方は、御自分で検索に「久子」「ひさこ」を掛けて見られたい。悪しからず。この一篇に、朝三時から六時間ばかり、やり続けてしまった。]

2026/02/16

立原道造草稿詩篇 夏の死

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  夏の死

 

僕は知つてゐる……

 

樹かげの草に寢てゐると

まはりに「いつか」がやつて來るのを

 

日なたがかげへ逃げながら

草の葉の上にやすんで行くのを

 

(空ぢゆうにとほいとほい空色)

 

みじかいいのちとよろこびのあとで

もうなんにもないことを

 

僕はいまではよく知つてゐる

 

立原道造草稿詩篇 靑空

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  靑空

 

森にはあるにきまつてゐる

小鳥がとまつてうたふとき

風がとほつて行くときに

わざとわき見をしたり 意地わるさうに知らん顏したりする

臆病ないつぽんの枝が……

けれどその枝は知つてゐる ほかの梢や葉たちのずつと向うに

靑い何かゞゐることを

そこには誰かゞ住むことを

森にはあるにきまつてゐる こんなひとりぼつちの木の枝が

 

立原道造草稿詩篇 室內

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  室內

 

貝殼のなかで

窓ばかり思ひ呆け けふ一日

くらしてしまつた

あかりをともすと

ほら 指先でおまへが眼ばたきをしてゐる

 

《マンマン! いいばんよ

誰か窓でしやべつて行く

 

本の頁に

ほら おまへがのこした指紋がその言葉をきいてゐる

 

[やぶちゃん注:第二連の「《」の「閉じる」がないのはママ。

「思ひ呆け」これは「おもひほうける」と読み、歴史的仮名遣でも、かく、読む。

「眼ばたき」は「まばたき」であるが、一般には、「瞬き」で「まばたき」と表記するのが普通であり、かく表記するのは、通用表現ではない。

「マンマン」これはフランス語の「母」=“maman”の音写である。道造は、この頃、独自にフランス語の勉強をしていた。ただ、フランス語のそれは音写としては、現行では、圧倒的にアルベール・カミュ(Albert Camus  一九一三年~一九六〇年)の「異邦人」(‘ L'Étranger’ )冒頭の“Aujourd'hui, maman est morte.”(「今日(きょう)、ママンが死んだ。」)で人口に親炙している。但し、同作は一九四二(昭和一七)年五月十九日に発表した作品であり、道造の没後三年後のことである。]

立原道造草稿詩篇 (とほい外國の……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに記された編者の独立詩篇とした推定を、良し、とした。但し、前の「(かなしみは……)」の詩篇との饐えた臭いの通性から、詩篇的イメージに強い関連性を嗅ぎとるものでは、ある。

 

  (とほい外國の……)

 

とほい外國の樂屋町をさまよひ步いて、或る日僕は不思議な香料や屍の腐る藥のにほひを嗅ぎまはつた。

僕の靴はすりきれて底がやぶれた。行きつくとぼうぼうとした海があつた。僕は口笛を吹きながら身を投げた。一しようにだらしない形の形の綠色の魚が沈んだ。

 

立原道造草稿詩篇 ((かなしみは……))

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。

 

  ((かなしみは……))

 

 (かなしみはなかつたさうな)

 

 葬列のやうにはれやかに

 町すぎるよろこびに群たちだ!

 

 あまりを消せよ 窓をとざせ

 おまへの部屋で その薄明(うすらあかり)は

 おまへに 眼鏡をかけさせる

 おまへは見るだらう 圓い頭を

 おまへの名を呟いた人生を

 

 (かなしみはなかつたさうな)

 

 日が暮れれば靄がひろがり

 

 日なたには雜草がしげり

 みんな正しい一日だつたと

 おまへは信じるがいい。

 

 (もう かなしみはなかつたさうな)

 

[やぶちゃん注:私は、一読、偏愛するベルギーの画家ジェームズ・アンソール(James Ensor 一八六〇年~一九四九年)の死の匂いを漂わせた仮面たちの絵を思い出させた。御存知ない方に、グーグル画像検索“james ensor paintings mask”をリンクさせておく。]

立原道造草稿詩篇 二十歲

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『生年を一歳とする数え方では、立原の二十歳は昭和8年(一高在学最終学年)に当たる。』とある。則ち、この底本の前記草稿詩篇の底本の順列は、必ずしも時系列に従っては、いないのである。これは、読者は、道造が軽井沢体験をしているか、未体験であるかの違いが、問題になることに、注意されたいということである。但し、「立原道造記念会」公式サイト内の「立原道造略年譜」に拠れば、彼が軽井沢に初めて滞在したのは、昭和九(一九三四)年の『夏、初めて軽井沢を訪問し、以後、毎夏、信濃追分の油屋に滞在する。』とある。しかし、実は、同年の、その項の前に、『東京帝国大学工学部建築学科入学。自宅の居室を屋根裏部屋に移す。」とあるのが、本詩篇に関わって、私には強く着目されるのである。則ち、この詩篇の「この部屋」というのが、素直に読んだ時、強い違和感を与えるからである。彼が、それまでの家の自室から、別なところに「部屋」を「屋根裏部屋」に移した後であったとすると、その違和感が、完全に解消される、と、私は感じるからである。寧ろ、「二十歲」は、近現代の成人としてのそれであり、以上の編者のように、これを数え年の意味ではない、母から距離を置いた――一己の存在のニュアンスで用いているのだ――と採るべきではなかろうか? 識者の御叱正を俟つものである。

 

  二十歲

 

 或るとき僕がかなしさうな顏をするから母はこの部屋へはいつて來る。すると僕は見てしまふ、母の顏にある耳や脣を。……いつか母はもうゐない。この部屋に母のにほひをのこしなながら、影法師を忘れながら、もう大丈夫といふやうに。けれど、母よ。いま僕が見てゐるのは、あなたのために形のわからなくなつたそのかなしみと、書き損じたまゝくらした他人(ひと)のくらし! あなたはそれなのに安心してランプのかげに僕の着物をお裁縫する。

 

[やぶちゃん注:個人的には、標題の「二十歲」は「はたち」と読みたい。

「母」すでに注で述べたが、道造は、母とめさんの存命のうちに、結核で逝去している。道造が母を詩篇で語る際、ある種の有意な翳りが含められてあるが、それが、如何なる道造の内心にある母存在(母意識)と、どのような関係するのかは、私自身、道造の父母についての評論を全く読んでいないので、不明である。悪しからず。因みに、底本全集第六巻の詳細な「年譜」を見ても、そうした記載は、私には読み込めなかった。]

2026/02/15

立原道造草稿詩篇 噴水

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、原稿は『《ハガキ判耳付局紙》』(「はがきはん/みみつき/きょくし」と読む)に書かれてある、とある。

 この「ハガキ判耳付」とは「手漉き和紙耳付き楮葉書」を指し、この場合の「耳」とは、表現の印象とは異なり、機械的に切ったような直線の「耳」ではない、裁断していないそのままの紙端のことを指す。最後の「局紙」は、明治八(一八七五)年に製紙部門である大蔵省抄紙局(おおくらしょうしょうしきょく:現在は「財務省国立印刷局」)に八名の紙漉き工が技術指導に招かれ、研究の結果、新技法による紙幣用紙の製造に成功した。則ち、この抄紙「局」が新たに開発した「紙」を指す。紙質が緻密で、印刷適性と耐久性に優れ、紙幣や株券として高い評価を得ていた高級紙を指す。

 以下、『昭和9年10月制作の物語「メリノの歌 第一章」の結びに採用。』とあり、『第一枚目は第二聯で終る。三聯の一行アキは「メリノの歌」に従った。』とある。則ち、底本の行空きは、草稿とは異なるものであることが判明するので、それを、草稿では、復元することとした。

 最後に、『ブルー一色で絵と本文を書いている。形態から『散步詩集』制作時と同時と想定される。ここの置いたのは前項「日課」』(私が電子化注した前回の「日課」である)『と同じ理由に拠る。』とあった。されば、絵は画像を見られない分、より原文に近づけるため、【草稿】では、文字をブルーにすることとした。

 而して、「メリノの歌」の「第一章」の結びを「決定稿」と捉え、適切と思われる同箇所を最後に示すこととした。底本は、同全集の第二巻「物語」の「メリノの歌」のここである。同「メリノの歌」全篇は、ここから。]

 

【草稿】

 

 噴水

 

僕がひとりで噴水を見てゐると

誰かがやつぱりそばにゐる

明るい空が水の上で搖れながら

 

それで 顏を見合せて

僕たちはつい一しよに笑つてしまふ

 

色のついた空が

搖れながら噴水の頂上で

いつの間にか雲のやうに散つてゐる

僕はひとりで噴水を見てゐると

 

 

【決定稿(「メリノの歌」の「第一章」の末部分)】

 

メリノは黒い帽子をかぶつてゐた。それが突然、彼に似合つて見えだした。彼は冬のマントにしづかにしつかり身を包むと、講演に出かけて行つた。

 あゝ、こゝでなら、誰でもたのしく日をおくれる。芝生の向うにあかるい建物が、その上に小さな貝殼を浮べたまゝ、誰でもその雲を見さへすれば、あゝたのしく日をおくれる!

 メリノは何も見なかつた。ベンチの固い木の上の腰かけたきり、しづかな息をついてゐた。ときどき眼をとぢたりひらいたりした。すると、彼には、心の奥から、今のかなしみとすこしも關係のない消えさうな音樂がひゞくのだつた。

 

      噴 水 の 歌

 

   ⦅僕がひとりで噴水を見てゐると

   誰かが やつぱりそばにゐる

   明るい空が水の上で搖れながら

 

   それで 顏を見合はせて

   僕たちはつい一しよに笑つてしまふ

 

   色のついた空が

   搖れながら 噴水の頂上で

   いつの間にか雲のやうに散つてゐる

 

   僕がひとりで噴水を見てゐると

 

[やぶちゃん注:標題「噴 水 の 歌」のポイント落ちはママ。詩の冒頭の「⦅」の閉じるがないのはママ。

 因みに……この電子化を……僕の満六十九歳の記念とする……

2026/02/14

立原道造草稿詩篇 日課

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、特殊な書き方の共通性から、昭和八(一九一三)年十二月の直前に想定される詩篇であり、前の「よい本を讀んだ晩」から「だめな男」の詩群の『中間に置かれるべきであるが』、編集上の規定である『用紙分類上、ここ置いた』とある。さらに、『テキストは一部の一字アキの場所に小鳥や草花の絵を入れているが、印刷実現が困難なので』、『除き、編者の判断により適当に一字アキとした。』とある。また、本草稿は『『散步詩集』中の「日課」の二稿』で、『初稿は『昭和八年ノート』の7月2028日の詩群中の「日課」』であるとあった。そこで、まず、ノートのそれを同全集第六巻の「雜纂」の当該部の「日課」を【初稿】とし、次に本草稿を【改稿草稿】とし(草稿の画像がないので、私も適当に冒頭の「葉」の字を大きくしただけである)。最後に決定稿である『散步詩集』(リンク先は私の電子化注)の「日課」の当該部を配しておいた。但し、リンク先のそれは、編者杉浦明平氏によって「囀り」にルビが振られているため、底本の全集の当該部で確認し、カットしておいた。なお、この推定時期は、まさに初めて軽井沢に避暑した時期であるから、ここに描かれる自然や村落は、そこである。

 

【初稿】

 

  日 課

 

 たそがれ色をしたはがきに、人の寂しい營みを筆で染めては互に知らせあつた。

 そして僕はかう書くのがおきまりだつた。――ぼくはたのしい、故もなくぼくはたのしい。と。

 きれいな草原があつてそこにはいつもよい日かげができ、蟲などもゐず、小鳥たちの程よい音樂まである。僕はたびたびそこへ行つてた。きつと靑い空や雲の色がうつつて、それで僕はかう書くのがおきまりだつた――ぼくはたのしい、故もなしにぼくはたのしい、と。

 

 

【決定草稿】

 

  日 課

 

葉書に ひとの營みを 筆で染めては 互に知らせあつた。そして僕はかう書くの

  がおきまりだつた。僕はたのしい、故もなくたのしい と。

 空の下にきれいな草原があつて 明るい日かげに浸され 小鳥たちの囀りを通してとほい靑く住んだ色が覗かれる。僕はたびたびそこへ行つて短い夢を見たり ものの本を讀んだりして 每日の午后を くらした。

 郵便配達のこの村に來る時刻で ある

 僕の寢そべつてゐる頭のあたりに 百合が咲いてゐる時刻である。

 

 

【決定稿『散步詩集』中の「日課」の部分】

 

  日課

葉書にひとの營みを筆で染めては互に知らせあつた

そして僕はかう書くのがおきまりだつた 僕はたの

しい故もなく僕はたのしいと

空の下にきれいな草原があつて明るい日かげに浸さ

れ小鳥たちの囀りの枝葉模樣をとほしてとほい靑く

澄んだ色が覗かれる 僕はたびたびそこへ行つて短

い夢を見たりものの本を讀んだりして每日の午後を

くらした 僕の寢そべつてゐる頭のあたりに百合が

咲いてゐる時刻である

郵便配達のこの村に來る時刻である

きつとこの空の色や雲の形がうつつて それでかう

書くのがおきまりだつた 僕はたのしい故もなしに

僕はたのしいと

 

立原道造草稿詩篇 だめな男

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  だめな男

 

 太陽が或る日、目をさましたら、地球になつてゐた。地球は月になつてゐた。それも細い三日月に。あゝ、なんといふへまをしたことだらう。世の中の人たちは皆困り、町の辻々に集まつて心配さうな顏をした。女・子供などはもう泣き叫んでゐたのである。

 そのとき、ひとりの男が或るバルコンでパイプをくはへながら、

 「三日月といふものは、夕方の風や女の子の靴などとおなじにたいへんよいものだ。」と、呟いた。

 人たちは非常におこり、そののんきな奴を殺してしまつた。するとのんきな奴の死骸は蝙蝠傘のやうなものにかはつた。

 

立原道造草稿詩篇 冬

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  冬

 

僕のマントは肩がすこしやぶけてゐる

步いてゐると 太陽が

そこへとまつて 蝶のやうに

身體のなかを覗きこむ

 

      ★

 

穴のあいた靴は重い かなしみのやうに

僕は步きながらそれを見るのがきらひですだからいつも 梢の先の雲や小鳥を眺めては 僕はひとりで散步する

 

      ★

 

疲れて歸つた部屋に ランプのかげで

レモンがしぼんでゐた

 

      ★

 

僕のシヤツは日なたの町の風のにほひを持つてゐる 胡桃色の今日の風の

 

[やぶちゃん注:第二聯の二行目の「僕は步きながらそれを見るのがきらひですだからいつも」の「きらひです」の後に一字空けがないはママである。]

立原道造草稿詩篇 朝

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  朝

 

子供は額をキラキラさせてゐる

子供は掌にピストルを持つてゐる

子供はきつと笑つてゐるのにちがひない

子供がゐると あたりの空氣は

何か鳥のやうに羽搏いてゐる

よい花のにほひもするやうだ

子供はひそひそとしやべつてゐる

子供はどこからとなくやつて來るのだ

 

立原道造草稿詩篇 日曜日

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  日曜日

 

日曜日は寢坊しよう

胡桃色の光が流れ おもてで朝はもう何かやつてゐる

僕は天井の筯を眺めたり とほい物音や話聲を聞いたり しばらく寢床のなかで ぼんやりとしてゐよう

 

   ★

 

日なたにはいつも春がゐるのだ――

この前 會つた貧乏な永遠もそんなことをいつてゐたつけ

爪でもきらうね あれは何といふ雲だらう 日なたにゐると

僕の額に風がきらめいて春をおいて行く

 

立原道造草稿詩篇 (何かが掌を……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (何かが掌を……)

 

何かが掌をおいてゆくと

この悲しみが僕らにのこる

僕は何を信じよう

 

こんなに爐が赤く燃えてゐると

僕の頰もこんなに赤く燃えてゐると

どうして僕はお前に知らせられよう

お前の指はつめたくすきとほり

僕のたよりをあそこで待つてゐるのに

僕にはそれが見えるのに

 

[やぶちゃん注:注記には、『第一聯は物語「間奏曲」(昭和9年3月制作・第三巻所収)に採用。』とあった。その「間奏曲」は同巻のここからで、当該箇所はここ。表記に違いがあるので、参考のために、前後の部分を入れて電子化しておく。

   *

 彼の過去とすこしも似てゐないこの部屋の秩序。――煤けた壁と、丸太のまゝむき出しにさう高くない天井と、部屋の一隅に金具の錆びた暖爐と。そこには彼らしいものは何一つありはしなかつた。こはれかゝつた椅子や木のテーブルの彫りつけてあるハアトの型だの頭文字は彼のものではありはしなかつた。それなのに彼の考へに戾つて來る昔の部屋は何だろう。

 ……別れた日にあの部屋の卓子の上には書きさしの詩があつた。

 

  君が掌をおいて行くと

  このかなしみが僕らにのこる

  僕は何を信じよう

 

 こんなエレジイの一片があれにはたしかに書いてあつた。あれは一體どうしたかしら。出來てはゐなかつたがもうそのつゞきを書くことは出來ない。目にはありあり見えてゐてもその部屋は彼からずつととほいのだ。

 二度と歸れないといふ考へは村の旅行でもちつとも信じられなかつた。この部屋にゐる自分にはそれがすこしは信じられることだけれど、あのときはまるきり信じられなかつた。

   *

この引用内の「卓子」は「テーブル」と読んでいよう。]

立原道造草稿詩篇 (小鳥よ……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。太字は底本では「﹅」の傍点。]

 

  (小鳥よ……)

 

小鳥よ お前はあんまり

僕のうたに來すぎました

 

お前がうたをついばむために

明るいらいふのすぎた思ひ出は

お前の嘴に傷ついてゐる

 

だが僕は信じられない も一度

おだやかな日 おまえが來ることを

 

立原道造草稿詩篇 風の話

立原道造草稿詩篇 風の話

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  風の話

 

 この夕燒からひとすぢ流れ

 波を打ち 赤く搖られ

 身體のなかに波が搖れ

 搖れ 搖られ

 枯れ葉 やさしくふるへ

 あゝなぜいつもかうなんだか

 暗がりの水を眺め

 

 ――たそがれの小川のほとりで、こんなことを、僕は通りすがりに、風が吹いてゐるのを耳にした。それから僕は風のやうな心が僕のなかで育つてしまつたのを知つてゐる。

 

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(六)寒天の說(その1)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。]

 

  (六)寒天の說

寒天は本邦にて、菓子職(くわししよく)、及び、割烹家(りやうりか)の用に供し、缺く可らざるの品(しな)たり。加之(しかのみならず)、海外へ輸出する水產物の中(うち)にて、重要のものとす。此品(このしな)は、石花菜(てんくさ)を煮て、凝(こヾら)せし瓊脂(ところてん)を寒天(かんてん)に曝(さら)して、凍(こヾら)せたるものなり。

[やぶちゃん注:「石花菜(てんくさ)」アーケプラスチダ界 Archaeplastida 紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae に属する海藻類の総称。私の電子化注では、複数あるが、まんず、かなりの拘りで注をやらかした「大和本草卷之八 草之四 海藻類 心太 (ココロフト=トコロテン)」がよいであろう。転写すると、膨大になるので、リンクに留める。

 

「漢語抄」・「和名抄」に『大凝菜(こヽろふと)』あり。「本朝式」にハ、『凝海藻(ぎやうかいさう)を『古留毛波(こるもは)』と訓ず。「延喜式」に、上總(かずさ)より『凝海藻(ぎやうかいさう/こるもは)』、阿波より『凝海菜(ぎやうかいさう/こるもは)を貢獻す』とあり。又、同書、「主計式諸國輸調(かぞへしきしよこくゆてう)」に『凝海藻(ぎやうかいさう)を奉(さヽ)げたる事、每國(まいこく)四十斤(しじうきん)[やぶちゃん注:二十四キログラム。]、内膳の所須月科(いかよるつき)四斤八兩(しきんはちりやう)』とあり。「賦役令(ふやくれい)」の輸雜物(ゆざうぶつ)の部にも、『凝海藻(こるもは)一百二十斤[やぶちゃん注:七十二キログラム。]』を載(のせ)たり。然(しか)るに、「大和本草」に『石花菜(せつくわさい)』、今、按ずるに『心太(こヽろぶと)』なるべし。『國俗、『ところてん』と稱す。』とありて、寬永の頃には、『ところてん』の名も、ありて、此漢名に充(あて)たり。是より、さき、慶長・元和の頃には、是等の稱なかりしと見へ[やぶちゃん注:ママ。]、「多識篇」には、『石花菜は南蠻美留(なんばんみる)なり。』と、せり。此他(このた)、貞享(ていけう[やぶちゃん注:ママ。「じやうきやう」が正しい。])以後の書には、『石花菜』を『こヽろぶと』又は『ところてんくさ』と訓せり。「書言字考」・「和漢三才圖會」の『石花菜』の部に『小凝菜(こヾりくさ)』の名を載せたれども、是は「漢語抄」の『小凝菜(せうぎやうさい)』、「崔氏食經(さいししよくきやう)」の『海髮(かいはつ)』にして、「倭名鈔」に『以木須(いきす)』と訓じ、「延喜式」に、志摩より貢獻する所の別物のものなり。而して、近世に至りて、一般に、『石花菜』の字を用ひ、俗に『天草(てんくさ)』、『寒天草(かんてんぐさ)』と稱し、又、『ぶとさう』・『ぶとのり』といふ地方もあり。また「和名鈔」に、俗に『心(しん)』・『太(たい)』の二字を用ひ、『古々呂布止(こヽろぶと)』と、いひ、「庭訓往來(ていきんわうらい)」にも、『西山(にしやま)の心太(こヽろぶと)』とあるを、『こヽろたい』、又、『こヽろてい』と訓し、『こゝろてん』『ところてん』と轉訛(てんくわ)したり。此『ところてん」を畧して『てん』といふより、『寒天』、或(あるい[やぶちゃん注:ママ。])は『干天』の名あるに至れり。然(しか)るに、これに充つる漢字なきにより『凍瓊脂(とうけいし)』と名づけたるは、「製品圖說」を編むの時に、あるなり。但し、淸俗は『洋菜(ヤンツアイ)』と稱せり。

[やぶちゃん注:『「漢語抄」・「和名抄」に『大凝菜(こヽろふと)』あり』これの「漢名抄」は「和名類聚鈔」の孫引きである。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の「卷十七」の「菜蔬部第二十七」・「海菜類第二百二十六」の当該部を視認して、推定訓読して示す。

   *

大凝菜(コヽロフト) 「本朝式」に云《い》はく、「凝海藻は【「古留毛波(こるもは)」。俗に、「心太」二字を用ひて、「古々呂布止」と云ふ。】、「楊氏漢語抄(やうしかんごしやう)」に云はく、『大凝菜』。」と。

   *

而して、「漢語抄」は、ここに出た「楊氏漢語抄」で、別名「桑家漢語抄」(そうかかんごしょう)とも言い、奈良時代(八世紀)の成立とされる漢語辞書であるが、散佚して残っておらず、「和名類聚鈔」等に逸文で残るのみである。

「本朝式」「延喜式」に同じ。当該ウィキによれば、延喜五(九〇五)年に醍醐天皇の命により、藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は』、彼の弟『藤原忠平が編纂に当たった』。後、「弘仁式」・「貞觀式」(じょうがんしき)と、『その後の式を取捨編集し』、延長五(九二七)年に完成した』。『その後』、『改訂を重ね、康保』四(九六七)年『より施行された』とある。

「主計式諸國輸調」「延喜式」の巻二十一から二十三に該当する箇所で、「主計寮」(国の組織の財政・税収を担当)が管轄した部署を指し、諸国の調・庸・中男作物(ちゅうなんさくもつ:令制で、中男(「養老令」で十七歳以上二十歳以下の男子を指す。「大宝令」では「少丁」(しょうてい)と称した)に課した租税。養老元(七一七)年以降、調副物及び中男の「調」を廃止して、中男の「雑徭」(ぞうよう:令で定められた歳役のほかに、国司によって公民に課せられた労役。年齢を分けて、土木工事などに従わせたもの)により、中央官司や封主の必要物品を調達させた)などの物品貢納に関する規定を記した重要部分。国家的な食料や特産品の生産・物流・保管に関する古代法典の基礎史料。

「内膳」内膳司。宮内省に属し、天皇などの食事の調理・毒味などを司った。奉膳(ぶぜん)二名・典膳六名・令史一名・膳部四十名などから構成された。長官である奉膳には高橋・安曇両氏がなり、二氏以外の長官の場合は内膳正(ないぜんのかみ)と称した。

「所須月科(いかよるつき)」一ヶ月に必須な資材料。

「四斤八兩」二・五五キログラム。

「賦役令(ふやくれい)」東洋文庫版では、校訂者によって『〔『令義解』第二巻〕』という挿入附注がある。

『「大和本草」に『石花菜(せつくわさい)』、今、按ずるに『心太(こヽろぶと)』なるべし。『國俗、『ところてん』と稱す。』とあり』先に紹介した「大和本草卷之八 草之四 海藻類 心太 (ココロフト=トコロテン)」を見よ。

「多識篇」本草辞書。林羅山編。全五巻。明の林兆珂が「詩経」中の動植物を分類して注を施した「多識篇」に倣ったもので、「本草綱目」から物の名を抜き出し、万葉仮名で和訓を施したもの。「羅山林先生文集」の「多識編跋」に、「壬子之歲本草綱目を拔き寫して附するに國訓を以てす」とあり、慶長一七(一六一二)年の著述であることが判る。配列は「水部門」から「蔴苧(おま)門」までの部門別。版本に寛永七(一六三〇)年古活字版さ三巻本があるが、翌寛永八年に、諸漢籍から、異名を抜き出して追加し、万葉仮名に片仮名ルビを施し、五巻に仕立て直した整版が出た。以上は国立国会図書館デジタルコレクションの解題・抄録に拠ったが、そこには、当館本は慶安』二年(一六四九)『版で、寛永』八『年版の覆せ彫りである。本草学者白井光太郎の「白井氏蔵書」の印記あり』とあり、当該部はここの六行目で、「菜部」第二に配されてある。推定訓読すると(「留」の字は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、近い異体字である「畱」で示した。「異名」は黒地で白抜きだが、太字に換えた。また、注意されたいのは、「瓜」は漢字の「うり」ではなく、「爪」の異体字であることである。

   *

石花菜【今、案《あんず》るに「菜南蛮美畱」。】異名璚枝(キツシ) 雞瓜菜(ケツ《サウナ》)

   *

「貞享」一六八四年から一六八八年まで。徳川綱吉の治世。

「書言字考」近世の節用集(室町から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種。「せっちょうしゅう」とも読む。漢字熟語を多数収録して読み仮名を付ける形式を採る)の一つである「書言字考節用集(しょげんじこうせつようしゅう)」のことか。辞書で十巻十三冊。槙島昭武(生没年未詳:江戸前中期の国学者で軍記作家。江戸の人。有職故実や古典に詳しく、享保一一 (一七二六) 年に「關八州古戰錄」を著わしている。著作は他に「北越軍談」など)著。享保二(一七一七)年刊。漢字を見出しとし、片仮名で傍訓を付す。配列は語を意味分類し、さらに語頭の一文字をいろは順にしてある。近世語研究に有益な書。

『「和漢三才圖會」の『石花菜』の部に『小凝菜(こヾりくさ)』の名を載せたれども、是は「漢語抄」の『小凝菜(せうぎやうさい)』、「崔氏食經(さいししよくきやう)」の『海髮(かいはつ)』にして、「倭名鈔」に『以木須(いきす)』と訓じ、「延喜式」に、志摩より貢獻する所の別物のものなり』私のサイト版の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「ところてん 石花菜」を見よ。しかし、そこでは、私は、この部分を問題としていない。近いうちに、補注する。なお、ここで河原田氏が「別物」と指摘する種は、現在の「イギス」で、

紅藻綱スギノリ目イバラノリ科イバラノリ属カズノイバラ(鹿角茨) Hypnea cervicornis 

を指す。★而して、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見ても、本種を「寒天」に加工するという記載は、ない。河原田氏の指摘は正しい。珍しく(失礼)、河原田氏の考証が冴える!

「『ぶとさう』・『ぶとのり』」孰れも、ネット及び国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても出てこないが、「太藻・太草」・「太海苔」と想起は出来る。

「製品圖說」東洋文庫版の編者注に、『『日本製品図説』のこと。明治六年(一八七三)のウィーン万国博覧会、明治九年(一八七六)のフィラデルフィア万国博覧会等、開国後の国際情勢に沿って、『日本製品図説』(内務省蔵板)は、明冶一〇年、高井鋭一の編輯、山中市兵衛緒言、小田行蔵参訂、狩野雅信絵写で出版された。』とあった。

「凍瓊脂(とうけいし)」「大阪医科薬科大学」公式サイト内の「高槻 寒天雑話 其の三【2015年6月8日】高槻 寒天雑話 其の一」に、『寒天発明の経緯はどのような根拠をもって語り継がれているのでしょうか。寒天ハンドブックによれば、「凍(こおり)瓊脂(ところてん)の説(桂香亮著、大日本水産会報告書)」に以下の記述があり、「年一年より盛大に至りし元治初年頃より世の変遷に依り大に盛衰ありと雖も美濃長右衛門なる者は今(明治6年)に於いてこの業を営めり・・・」とあることから、明治6』(一八七三)『年頃に美濃家を訪ねて古文書などを調査しての記述であると思われるので、信憑性が高いとしています。』として、引用がある。これは、全体が講座での講演が元で、全五回に分かれており、非常に有益な内容である。さて、引用を調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本水產會報告・第十六」(大日本水產會発行・明治一六(一八八三)年六月刊/本登録でないとアクセス出来ないので注意)のここで、当該部を見出せたので、そこから正規表現で引用する。

   *

     沿革

夫れ凍瓊脂製造の濫觴と唱へ來るや明曆年間島津大隅守幕府へ參勤の途次山城國紀伊郡伏水驛御駕籠町(美濃長左衞門十一世の祖)美濃太郞左衞門なる者方へ休泊ありたりき一日 太郞左衞門石花菜を煮詰め以て膳部の一味に供し其殘余を棄却せしに沍天嚴寒[やぶちゃん注:上記引用では、講演者による『コテンゲンカン』と読みがある。])の候忽[やぶちゃん注:同前で『タチマチ』と読みがある。]氷結しては宛も干物の如き凝質に化せり於是太郞左衞門甚奇異の想ひを起こし百方工夫を運らし形狀(長方形)を作爲し以て瓊脂[やぶちゃん注:底本では、「瓊」の字の(へん)が「月」になっているが、表示出来ない。これは上記引用では「瓊」となっており、これは原著の誤植と断じて、訂した。]の干物と名く食物の一部に置くと云ふ降て[やぶちゃん注:「くだりて」。]萬治年間歸化の僧隱元なる者寒中に製するを以て之を寒天と稱すと云ふ爾來諸國へ販賣し(現今支那に多く輸出す)明和年間迄ハ伏水特有の名產たりしが是より經年同業者增加し遂に二十戶余に及ひ[やぶちゃん注:ママ。]攝、丹地方に廣まる年一年より盛大に至りしが元治初年頃より世の變遷に依り大に盛衰ありと雖も美濃長右衞門なる者は今に於いてこの業を營めり而して我京都府管內即ち城丹二國にて製造する高左の如し但五十年を平均にし其槪略を擧ぐ

 山城製造高凡十余萬斤

  此代價凡金壹萬余圓

 丹波國製造高凡二十余萬斤

  此代價凡金三萬余圓

     製造法

元種石花菜を淸川に線滌し日光に晒すこと凡一週間にして後之を石臼に入れ水に浸して搗くこと三四百杵(石花菜の善惡に依りて杵數の不同あり)搗終て之を大籠に入れ又水に浸し大杓を以て之を攪拌し[やぶちゃん注:妙な切れ方であるが、ここで、製造法は終わっており、以下、突如、明治元年から八年までの国外への輸出額・代価の話に移っている。

   *

「洋菜(ヤンツアイ)」白水社「中国語辞典」に、「洋菜」があり、『yángcài』(イァン・ツァィ)で、『⦅通称⦆名詞  寒天.≒琼脂,石花胶,洋粉⦅通称⦆.』とあった。]

2026/02/13

立原道造草稿詩篇 夜曲

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  夜曲

 

あかりを消したふかい町に

やさしい何かゞ眠つてゐる

 

そこは谷間のやうな月のかげ

 

誰も知らない小さな寢床に

ひとがめいめい眠つてゐる

 

そこは栗色のランプのひかり

 

しめつた夜のなかをひつそり

けむりのやうに風のやうに

僕は ひとりで 過ぎて行く

 

立原道造草稿詩篇 切拔畫

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこには、『「ゆめみこ」(昭和11年3月刊)発表の「切拔畫」(第一巻所収)の初稿。』とあった。そこで、同全集の『第一卷 詩集I』の当該部を【決定稿】として示した。なお標題は「きりぬきゑ」であろう。なお、『ひめみこ』は短歌雑誌で、道造が第一高等学校に入学した昭和五(一九三一)年、そこで出会った知友松永茂雄が主宰した「ユメミコ会」に立原も参加していた。この雑誌は「新古今和歌集」の再評価をした歌誌として知られ、道造は同科刕の幾つかを現代語訳してもいる。]

 

  切拔畫

 

 日が落ちると 空は着物を脫いで

 鳩の時計に《もう夜》とそつと敎へる

 

 ランプから 小さな星が飛び出して

 町の部屋たちをめいめいに光らせる

 

 ⦅僕の部屋よ おやすみ⦆といひながら

 もう子供はひとりづゝ消えて行つた

 

 夜といふのは このはなしです

 このかなしみは僕をよろこばす

 

[やぶちゃん注:二箇所の括弧の使用した表記タイプが、各個で異なるのはママ。発している対象存在(前者は「空」、後者は幻想の「子供」たち)が異なるものだから、論理的には、納得出来る。しかし、初読時には、殆んどの読者は、「何故? 括弧が違うのだろう?」という物理的な反射的停滞が起こってしまうのは明白であり、詩を味わう上では、失敗であると私は思う。]

 

 

【決定稿】

 

  切拔畫

 

 日が落ちたので 空は着物を脫ぐと

 鳩の時計に⦅もう夜よ⦆とそつと敎へる

 

 ランプから 小さな星がとびだして

 めいめいに町の部屋たちを光らせる

 

 ⦅僕の部屋よ おやすみ!⦆と

 子供はひとりづゝ消えて行つた――

 

 夜といふのはこのはなしです

 このかなしみは僕をよろこばす

 

[やぶちゃん注:初稿の持っていた問題部分が、綺麗に変更されていて、よい。]

立原道造草稿詩篇 眠りのなかで

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。

 なお、この詩篇の前にある「(かなしみは……)」は(ここ)、本ブログ・カテゴリ「立原道造」のここで、既に電子化してある。これは、同カテゴリを創始するきっかけ(創始は当該詩篇電子化の二日後)となったものであるため、追記を添えて、そのままにしておいた。私の偏愛する一篇であるので、必ず、見られたい。

 

  眠りのなかで

 

窓から 月がさしてゐた

部屋はぢいつとやすんでゐた

(さうだつた 僕はそれを知つてゐる)

あかりのかげで小鳥が羽搏いてゐた

そこには花粉がキラキラ散つてゐた

さうして 黑い帽子に額をかくし

僕は やさしい顏をしてゐた

僕は 何だか夢を見てゐた

(僕はそれを知つてゐる)

 

[やぶちゃん注:「ぢいつと」小学館「日本国語大辞典」に拠れば、仮名遣『いは、古くは「じっと」が多く、江戸期から明治にかけて「ぢっと」も多くなる。』とあった。]

2026/02/12

立原道造草稿詩篇 よい本を讀んだ晩 

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、ここからの草稿は、昭和八(一九三三)年十一月から翌年の一月頃と想定されるとあった。本詩篇に就いては、『題のみが鉛筆書きで、恐らく跡から付けられたものであろう』とあった。]

 

  よい本を讀んだ晩

 

ほらね あそこにも日があたつてゐる白い壁

何だか ちらちら搖れてゐる かげろふ

あゝ 明るい過去(持てあましてゐたのに)

お魚のやうにだまつて木が立つてゐる

やさしい生涯の花が咲いてゐる

 

僕はふるさとへ歸つて行かうね

さうして夜は ランプの下で 笛を吹かうよ

あゝ 明るい未來(持てあましてゐたのに)

何だか ちらちら搖れてゐる かげろふ

川がひとすぢ流れてゐる もう原つぱの夕燒

 

[やぶちゃん注:「ふるさと」道造は東京都中央区生まれであるが、彼の語る、この「ふるさと」は、そことは思われない。と言って、軽井沢に初めて馴染んだのは、大学在学中の昭和九(一九三四)年七、八月のことであり、そこを比定するわけにも、ゆかない。最も確実ものとしては、「立原道造記念会」公式サイト内の「立原道造略年譜」にある、大一三(一九二四)年十月の項に、『この夏から一高卒業まで、御岳山での避暑をほぼ恒例とする。』とあるのが、ロケ地の有力候補となろう。]


されば、この「ふるさと」とは、詩人が想起した「こころのふるさと」ととるべきものであると、私は思う。]

立原道造草稿詩篇 (永い午後に……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

   (永い午後に……)

 

 永い午後に

町のどこよりここでは

太陽はやさしく人の肩を光らせ

とほい雲に

空のどこよりもここでは

風はしづかに時間とじやれて

 

散りしいた木の葉を焚けば

園丁の古い口笛に

秋のどこよりもここでは

煙はうつすら色づいて

 

立原道造草稿詩篇 クリスマスのおぢいさん

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこには、『『散步詩集』中の「村の詩・晝」の初稿。二稿はノート用方眼紙に「晝」と題して飾り字風にペンで本文を筆記してゐる。』として、全文が載り、最後に『(『散步詩集』直前の制作と想定)』とあった。これは、調べてみると、底本の全集の本文としては、正式に載らず、こうした注記内で示していることが、他で(本底本の前の、ここの左丁の上段の「村の詩 朝・晝・夕」の注記)も確認出来た。そこで、これを【二稿】として、再現しておいた。決定稿である『散步詩集』中の「村の詩・晝」は、私の「散步詩集 (全)   立原道造」から、当該部分を含む三連から成る「村の話 朝・晝・夕」の全部を抜粋して最後に置いた。また、注記には、最後に『二稿の第三、四行は物語「夏の死」中に採用している。』とあった。私は、道造の創作物語・小説を電子化していないので、底本の同全集の「第三卷 物語」の「夏の死」の当該箇所(ここ。右丁の後ろから七・八行目)をリンクするに留める。

 

【初稿】

 

  (クリスマスのおぢいさん……)

 

クリスマスのおぢいさん

この村の郵便配達

ポオルは咳をしてゐます

ヸルジニイは花を摘んでます

 

 

【二稿】

 

  晝

 

この村の郵便配達

ポオルは咳をしてゐる

ヸルジニイは花を摘んでます。きつと大きな花束に出來るでせう

この景色を小さな箱に入れませう

 

 

【決定稿『散步詩集』中の「村の詩 朝・晝・夕」部分】

 

  村の話 朝・晝・夕

村の入口で太陽は目ざまし時計

百姓たちは顏を洗ひに出かける

泉はとくべつ上きげん

よい天氣がつづきます 

 

郵便配達がやつて來る

ポオルは咳をしてゐる

ヸルジニイは花を摘んでます

きつと大きな花束になるでせう

この景色は僕の手箱にしまひませう 

 

虹を見てゐる娘たちよ

もう洗濯はすみました

眞白い雲はおとなしく

船よりもゆつくりと

村の水たまりにさよならをする 

 

2026/02/11

立原道造草稿詩篇 ポオルとヸルジニイ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  ポオルとヸルジニイ

 

殖民地の空 掌の貝殼!

 

ポオルとヸルジニイも死ぬでせう

支那の易者が言ひました

 

黑ん坊は パンを食べ

つぐみは 彼らの巢に眠り

岩の上に 虹がある

 

さて 足音をしのばせませう

二人の子供は死にました

あまりにひどい夕立だつたから

 

[やぶちゃん注:「ポオルとヸルジニイ」フランスの植物学者で、作家でもあったジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエール(Jacques-Henri Bernardin de Saint-Pierre 一七三七年~一八一四年)が、一七八七年に発表した悲恋小説Paul et Virginie(現行では一般に「ポールとヴィルジニー」と音写される)。彼が読んだのは生田春月訳(大正六(一九一七)年刊)の「ポオルとヸルジニイ」か、昭和九(一九三四)年岩波文庫刊木村太郎訳の「ポオルとヴィルジニイ」ででもあろうか(リンクは国立国会図書館デジタルコレクション。視認出来る。書名表記から見て生田訳であろう)。嘗ては、よく読まれた恋愛小説で、私も十代の終りに読んだが、最早、その内容も、すっかり忘れてしまっていた。因みに、道造は、この作品が好きだったようで、「鮎の歌   立原道造   (Ⅳ)」と、「散步詩集 (全)   立原道造」でも触れている。なお、注記には、『立原は昭和8年の夏季休暇中、原文で読むことに努めている』とあった。因みに、昭和八(一九三三)年時、道造は第一高等学校理科甲類の最終学年であった。彼は、天文学を志して進学したのだったが、翌年、東京帝国大学工学部建築学科へ入学したのであった。

立原道造草稿詩篇 季節

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  季節

 

 ……いつのま間にか、秋がそつと卓子の上にのつかつてゐる。そのまはりにのみ夕燒がしてゐる。瘠せた樹木がゆつくり煙草を吸つてゐる。仔犬がミルクを嘗めてゐる。

 

  僕は外へ出たがらない。けれど、

  田舍の町へ、森の中の村へ葉書する。

  僕には、秋が九月にはじまる、と。

  さうして夜は六時にはじまる、と。

 

  だが――。

  この黃昏は、曆と時計のいたづらぢやないかしら。

 

[やぶちゃん注:「卓子」「テーブル」と読んでいよう。但し、私がブログ・カテゴリ「立原道造」で電子化注したものには、「卓子」の漢字も、「テーブル」も使用されていないので、正確な表記は判らない。作家によっては、「テエブル」と表記する場合があるからである。]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その18) / 鱶鰭の說~(図版13) / 鱶鰭の說~了

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。この図版の鱶鰭は幾つかの図に縦・横の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りした。なお、これを以って、「鱶鰭の說」を終わる。主に図の補正に、甚だ、時間を食ってしまった(延べ四十四日)が、やって見れば、相応に、いい仕事が出来たと私は思っている。まず、この図を、大真面目に人力で清拭しようという閑人は、僕の後には、恐らく出てこないだろうから、である。

 

【図版13】

 

Fka13

 

■「つまくろふか四枚揃鰭」

[やぶちゃん注:ページ上方の総標題。まず、第一に言っておかなくてはならないのは、これは、現代の種である、

軟骨魚綱メジロザメ目メジロザメ科メジロザメ属ツマグロ(端黒)Carcharhinus melanopterus ではない

ことである。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。この種は、『インド太平洋熱帯域のサンゴ礁で最も豊富なサメの一つで、主に浅瀬に生息する』。『インド太平洋熱帯・亜熱帯域全域の沿岸で見られ』、『インド洋西部では南アフリカから紅海、マダガスカル・モーリシャス・セイシェル。東部ではインドから東南アジア、スリランカ・アンダマン諸島・モルディブ。太平洋では、中国南部・フィリピンからインドネシア・オーストラリア北部・ニューカレドニアに加え、マーシャル諸島・ギルバート諸島・ソシエテ諸島・ハワイ諸島・トゥアモトゥ諸島のような多数の海洋島にも分布する。いくつかの資料とは矛盾するが、日本からの確実な記録はなく』(☜★)、『日本産とされる標本は実際には台湾産のようであると考えられてきたが、2017年に八重山諸島の西表島から得られた標本をもとに初めて日本での生息が確認された。2019年に黒島研究所も同諸島に属する黒島で夏に幼魚が多く捕獲されていることを確認し』、『標識調査を行っていることを発表した』という記載で明白々である。しかし、ネット上の記事で、この正体を、素人が容易に知り得る記事は、殆んど、ないのである。

 では、明治一九(一八八六)年刊の本書に出現した、この正体は何か? それは、私が、本邦の江戸、及び、近代の魚類の異名を確認するに、最も信頼しており、検索も容易な国立国会図書館デジタルコレクションの宇井縫藏氏の著になる「紀州魚譜」(昭和八(一九三二)年淀屋書店出版部刊・三版)のここの右丁の、

『ヒロアンコウザメ 廣鮟鱇鮫 Scoliodon laticaudus Müller & Henle.)』

で、明らかである(この本を知ったのは、ブログ・カテゴリ『「畔田翠山「水族志」」』の注作業で、である)。そこでは、宇井先生は、

『〔方言〕 ツマグロ(田邊・串本・屋・和歌浦)、ハタグロ(太地)』

とされてある。而して、この「まくろふか」とは、現在の、

メジロザメ目メジロザメ科トガリアンコウザメ属トガリアンコウザメ Scoliodon  macrorhynchos の異名

なのである。漢字名は「尖り鮟鱇鮫」である。この学名は、以下で引用するウィキの「トガリアンコウザメ」の学名(シノニムを含む。なお、そこでは、宇井先生の示した Scoliodon laticaudus Müller & Henle, 1838 をトップに掲げている)と一致しないが、サイト「川のさかな情報館」の「トガリアンコウザメ属」で確認したものを示した。但し、そこには最後に、『なお,実際に日本に本種が分布するかは不明である.生息水深はよくわかっていない(Weigmann 2016)』と附記がある)。

 以下、ウィキの「トガリアンコウザメ」から引く(注記号はカットした)。『インド洋・西太平洋の熱帯に生息し、大きな群れを作る。体長72cmで平たい吻が特徴。餌は小魚や無脊椎動物。魚類の中では最も発達した胎生。雌は毎年、6か月の妊娠期間を経て6-18匹の仔を産む。人には無害。漁業上の重要種で、IUCNは保全状況を準絶滅危惧としている』。『1838年、ドイツの生物学者ヨハネス・ペーター・ミュラーとヤーコプ・ヘンレによってSystematische Beschreibung der Plagiostomenに記載された。ホロタイプはフンボルト博物館所蔵の42cmの剥製と推定される[2]。属名Scoliodonは古代ギリシャ語skolex(ミミズ)、odon(歯)、種小名laticaudusはラテン語latus(幅広い)、cauda(尾)に由来する』。『形態系統学・分子系統学のデータからは、本種はヒラガシラ属』( Rhizoprionodon :「平頭」)『と共にメジロザメ科の基底群を構成するとされる。さらに、解剖学的な類似は、始新世中期』『に他種から分岐したシュモクザメとの類縁も示唆している。2012年の分子系統解析では、ヒラガシラ属とともにトガリメザメとの類縁関係が示唆された』。『形態』は、『体は小さくずんぐりしており、幅広い頭と非常に平たいシャベル型の吻を持つ。眼と鼻孔は小さい。口角は眼のかなり後方に至り、溝は』、『あまり』、『ない。上顎歯列25-33、下顎歯列24-34。個々の歯は鋸歯のない、細く剣状で斜めの尖頭を持つ。胸鰭は短くて幅広く、第一背鰭は胸鰭より腹鰭に近い。第二背鰭は臀鰭よりかなり小さく、背鰭間に隆起はない。背面はブロンズグレー、腹面は白。鰭の色は体より暗い。最大74cmだが、不確実な記録では1.2mというものもある』。『インド太平洋西部に分布し、タンザニアから南アジアで見られる。深度10-13mの沿岸の岩礁底に生息する。かつては東南アジア・ジャワ島・ボルネオ島・台湾・日本など西部太平洋海域にまで生息するとされたが、2010年の研究結果より、同海域に住む個体群はボルネオトガリアンコウザメであると確認された。近縁のボルネオトガリアンコウザメはマレーシア・スマトラ島・ボルネオ島の河川下流域からも報告があるが、塩分濃度のデータがないため』、『オオメジロザメのように淡水に耐えられるのかは不明である』。『個体数が多い所では、よく大きな揃った群れを作る。餌は主にアンチョビ・サイウオ科・ハゼ・テナガミズテングなどの小型硬骨魚。時折』、『エビ・カニ・コウイカ・シャコなども食べる』。『条虫Ruhnkecestus latipi 、回虫の幼生などの寄生虫が知られる』。『排卵時の卵は直径1mm程度で、直径3mm程度から栄養を母体に頼るようになる。胎盤との結合は卵黄嚢から形成され、特異な柱状構造とガス交換を行う毛細血管網・長い付属物を持つ。胎盤組織は"trophonematous cup"という構造物で子宮壁に接し、母体の血流から栄養が送りこまれる。これは魚類での胎盤性胎生として最も発達したものである』。『雌は年に一度繁殖する。妊娠期間は6か月で出生時は12-15cm。産仔数6-18。雄は24-36cm、雌は33-35cmで性成熟し、それに達するまでに6か月-2年かかると推定されている。寿命は雄で5年、雌で6年』。『人には無害である。刺し網・延縄・底引き網・罠・トロール網・釣りなどで零細・商業漁業共に広く捕獲されている。肉は他魚の釣り餌として、鰭はふかひれとして、粗は魚粉として用いられる。また、肉を氷酢酸で処理し』、『粉末状ゲルとすることで、サプリメント・生分解性フィルム、ソーセージの皮などにも用いられる』。『重要種だが』、『漁業統計データは』、『ない。1996年の報告では、中国市場で、また』、『北オーストラリア漁業で見られる最も一般的なサメだった。インド・パキスタンでも大量に漁獲され、インドのある都市では1979-1981年にかけて年平均823t漁獲されていた。カリマンタン島などで刺し網により混獲もされている。繁殖周期が短く多少の漁獲圧には耐えられるが、繁殖力自体は低いためIUCNは保全状況を準絶滅危惧としている。沿岸性のため、沿岸の開発による影響も無視できない』とあった。]

 

■「明治十六年

  水産博覽會の時、

  『廣業商會』出品。」

[やぶちゃん注:これは、図の中央に配されてあるキャプション。

「廣業商會」ずっと前の「河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その13)」の最初の注で解説しておいた。]

 

■「鱶鰭『つまくろふか』背鰭」

 「肥前國《ひぜんのくに》平戸産。」

 

■「『つまくろふか』胸鰭・左」

 「一尺。」

 「中央、五寸二分。」

 

[やぶちゃん注:これは、左側の胸鰭で、まさに裏側の感じが、今までの図中、もっとも正確に描かれている。

「一尺」は、左胸鰭の前方部分に書かれているが、わざわざ、図の中に破線で十字型の指示線が引かれてあるので、ここは、そのスケールであると採っておく。]

 

■「『つまくろふか』

  胸鰭・右」

  「一尺。」

[やぶちゃん注:ここにも破線で十字型の指示線が引かれているが、左上から右下に降ろしてあるそれは、前図と異なって、腹部に近い位置に下がっている。しかし、この線の方のキャプションは、ない。この胸鰭の根に近いスケールを書き忘れたものと思われる。

 

■「つまくろふか」

 「尾鰭。」

 「背骨、末《すゑ》。」

[やぶちゃん注:キャプションは逆立ちして記してある。]

 「壹尺壹寸。」

 「二尺壹寸。」

[やぶちゃん注:これは、同種の複数の実体画像を見るに、これは、背骨の終わりの部分を含んだ尾鰭の切断部を描いたもので、右側が正体位の下方に相当するものと考えられる。

 

■「靑ふか」

 「背鰭。」

 「二個。青。」

[やぶちゃん注:何故か、唐突に、ここにネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus の胸鰭が置かれてある。意味不明。最後の「二個青」もわからんちん。]

2026/02/10

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その17) / 鱶鰭の說~(図版12)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。この図版の鱶鰭は一図に縦の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りした。この図版は優れもので、

ネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus

を例に挙げて、各鱶鰭の等級を、ヴィジュアルに判り易く、子細にビシッと解説している。これを本文で文章に拠って示したとすると、恐らく私は、永久にそれを理解し得なかったと断言出来るのである。逆に、この図のキャプションを判り易く電子化するのは、なかなか大変であった。

 

【図版12】

 

Fuka12

 

■「あをふか」

[やぶちゃん注:まず、図の上方にアオザメの全体が描かれあり、それぞれの鰭に「鱶鰭」としての等級号がキャプションされている。ここでは、漫然に各「號」を時計回りや同逆回りに列挙しても、判り難い。そこで、以下、等級を降順に示し、その「ひれ」が、どの部位であるかを説明してゆくこととした。

 

「壹號《いちがう》」

「壹號」

[やぶちゃん注:これは、二箇所にあるので注意が必要。

 一つは、サメの腹部の中央の下の「腹びれ」(二対)を指示している。但し、図の関係上、反対側(右手)のそれは、描かれていない。

 一方、サメの腹部の後部の下の「尾びれ」の根から後方に下がっている「尾びれ」の部分のみを指示している。]

 

「二號《にがう》」

「貳號《にがう》」

[やぶちゃん注:これも、二箇所にあるので注意が必要。

 一つは、サメの頭部の終わりの直後に下がっている「胸びれ」(二対)を指示している。但し、図の関係上、反対側(右手)のそれは、描かれていない。

 一方、差別化して呉れている「貳號」のそれは、サメの背部頭部の少し後ろにある正統の「背びれ」を指示している。]

 

「三號」

「三號」

[やぶちゃん注:これは、二箇所にあるので注意が必要。一つは、腹の最も後部の下に一つだけある「尻びれ」を指示している。

 一方、サメの背部の「尾びれ」の前方ある「背びれ」の後ろにある「第二背びれ」を指示している。]

 

「四號」

[やぶちゃん注:これは、尾鰭の内、前の「壹號」相当の後方から分岐して上部に伸びている「尾びれ」部分を指示している。

 私には、どの「ひれ」が上品なのかは、よく判らないが、調べたところ、先般、紹介した「フカヒレと中華食材の専門卸 中華・高橋」公式サイト内の「フカヒレ散翅(ほぐし)ふかふか散翅」のページの「部位」が簡潔にして判りが良いと感じたので、見られたい。]

 

■「甲   毎尾込《まいをこ》ミ

  日本産 百斤五十両」

 「肉骨ヲ去ル。」

 

■「乙   毎尾込《まいをこみ》

   百斤三十四両」

 「肉骨、付《つき》。」

 

「此《この》甲・乙二鰭ハ、精粗《せいそ》を示

 すも、此《これ》にて甲圖ハ、肉付《にくつき》

 を、切棄《きりすて》たるも、此《この》乙圖ハ

 肉付を着《つ》けたるも、此《これ》なり。

 必《かなら》ず、肉付を切棄《きりすつ》るを、「よ

 ろし」とす。」

[やぶちゃん注:図中央の二つの「鱶鰭」製品「甲」「乙」二図のキャプション。最後の解説は、図のやや左上方に附した、二図の解説文。この「甲」「乙」は単に図に附したものではなく、製品の良し悪し(無論、「甲」が上)の等級を示していることは、解説文から明らかである。なお、この二図の形状と、「毎尾込」という謂いから、この図は最高級の「壹號」相当である「腹びれ」の図であり、それに同一の「壹號」である「尻びれ」を、それに合わせて「込み」で、最上級商品として売ったことを意味していよう。

 さればこそ、この「両」というのは、清国の当時の通貨単位である。「銀錠」と呼ばれる銀の塊の質量を測り、それに基づいて貨幣としての価値を決定したところの、「銀両」=「テール」と呼ばれるものである。「百斤」は六十キログラムであるから、肉・骨を除去した「甲」は、「乙」一・四七倍の値段である。

 以下、最下段の文字表。

 

■「鱶鰭」

  「毎尾分にて、

   『拾斤』と見る

   内譯《うちわけ》。」

 

 「第 一 号  貳 斤  毎斤、代、四匁五分。」

 

 「第 二 号  五 斤  仝《どう》 三 匁。」

 

 「第 三 号  壹 斤  仝     二 匁。」

 

 「第 四 号  貳 斤  仝    壹匁五分。」

 

 「合《あはせて》、每《まい》百斤、代、二十九両。」

   「伹《ただし》、毎尾分《まいをぶん》ハ、

    銀、毎尾分ハ、銀貳両九匁ノ割《わり》。」

[やぶちゃん注:事実上の清が支払った金額が、当時や現在に換算して幾らに相当するかは、悪いが、知りたいあなたが、調べて戴きたい。そこまで、オンブニダッコはする気は、ない。悪しからず。]

2026/02/09

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その16) / 鱶鰭の說~(図版11)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。この図版(これ以降は、「図版12」を除き、総てが、鱶鰭の製品用に切り取ったものである)の鱶鰭は幾つかの図に縦・横の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りした。特に下方に配された竹籠には、致命的な橫白線が入っていたので、自然に見えるように、かなり気を使って補正した。恐らく、原版と比較しない限りは、気づかれないであろうと存ずる。なお、ここは、「いてう」なるサメの鰭の四図と、それらから裁断した製品二種の加工品を入れた竹籠が下方に描かれてある。なお、今回は、左右上下の二重罫線を、総て、かットした。罫線があると、その内外の汚損を清拭うのに、倍近い時間が掛かるからであった。残りも、同様に処理することとする。

 

【図版11】

 

Fuka11

 

■「いてう」「尾鰭。」

        「對島國《つしまのくに》産。」

 「百六十目。壹斤《いつきん》、

  價《あたひ》五十五錢。」

  「長《ながさ》、壹尺壹寸。」

  「八寸。」

[やぶちゃん注:最後の「八寸」は尾鰭の下の短い方の下方の先端までの長さを指す。

この「いてう」については、既に、「鱶鰭の說(その1)」の「いつちやう」の私の注で考証してある。そこでは、

ネズミザメ目ネズミザメ科ホホ(ホオ)ジロザメ属ホホ(ホオ)ジロザメ Carcharodon carcharias

と、

メジロザメ目メジロザメ科イタチザメ属イタチザメ Galeocerdo cuvier

を挙げておいたが、鱶鰭の高級品となると、圧倒的に後者であることが、ウィキの「イタチザメ」の記載で明確に記されてあるので、決まりであり、対馬産であることも、分布から問題ない。

「百六十目」「目」は「匁(もんめ)」に同じであるから、六百グラムである。

「壹斤」同じく六百グラム。]

 

■「仝《どう》 胸鰭、二《ふたつ》ノ一《ひとつ》。

                   「裏。」

  「全形、七寸。」

   「四寸五分。」

[やぶちゃん注:敢えて、「全形」と頭に附けているのが、気になる。今までのものでは、鰭の前方の曲線にスケールのみが記されてあったからである。私が考えたのは、この場合は、附け根の切り口から、鰭の先端までの直線でスケールを示しているのではあるまいか、という気がした。しかし、左の中央にある、同一個体の反対の胸鰭の図には、前方の曲線の中央に、ただ「七寸」とある。されば、この「全形」には拘る必要は、ない、ように感じられた。]

 

■「仝。

   背鰭。」

  「淡黑色《たんこくしよく》

   の者。」

[やぶちゃん注:この左部分の背部の断面がよく判るように描いてある。今までの図ではなかった立体的に捉えることが出来る描き方で、よい。特に、背鰭を支えている細かな軟骨群が綺麗に周回していることが判るのである。]

 

■「仝。

   胸鰭 二ノ一。」

  「表。」

      「七寸。」

 

■「きんひれ」

 「ぎんひれ」

[やぶちゃん注:これは、「金鰭」「銀鰭」で、「フカヒレと中華食材の専門卸 中華・高橋」公式サイト内の「フカヒレ散翅(ほぐし)ふかふか散翅」のページの画像と解説で納得出来た。そこに「広東式散翅」とあり、『金糸と金糸の間のゼラチン質を丁寧に取り除いていますので、すっきりとした料理に最適です。』とあり、「上海式散翅」には、『金糸と金糸の間のゼラチン質を適度に残しているので白湯などを使った濃厚な料理に最適です。』とあって、まさに前者が「金鰭」で、後者が「銀鰭」であると思う。]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その15) / 鱶鰭の說~(図版10)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。この図版(これ以降は、「図版12」を除き、総てが、鱶鰭の製品用に切り取ったものである)の鱶鰭は幾つかの図に縦・横の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りした。なお、このページの鱶鰭四個体は、総て、一頭のサメから切り出したものである。

 

【図版10】

 

Fuka10

 

■「やじふか」 「上等品。」

  「一名、そこふか。」

        「一尺四寸。」

        「尾鰭一枚。」

[やぶちゃん注:「やじふか」「そこふか」これは、何度も出ている、

軟骨魚綱メジロザメ(目白鮫)目メジロザメ科メジロザメ属メジロザメ(別名ヤジブカ:こちらを正式和名とする記載もあるが、「BISMaLが『メジロザメ/ヤジブカ』とするのに従った。後者の由来は、調べた限りでは、「親父鱶(おやじぶか)」の縮約のようである) Carcharhinus plumbeus

である。但し、「そこふか」という異名は、ネット上にも、国立国会図書館デジタルコレクションでも確認出来なかった。しかし、メジロザメは、基本的に海底附近で生活しており、「底鱶」(推定)という異名は、自然ではある。

「一尺四寸」四十二・四センチメートル。これは、メジロザメの尾鰭の長い上部の、その上方部のスケールである。]

 

■「尾鰭の切らざるもの。」

  「壹尺六寸。」

  「壹尺三寸五分」

[やぶちゃん注:前者が、右の上方の縁(へり)の長さで、後者が左の下方の縁の長さということになるが、両者の長さが、センチメートル換算で七センチ六ミリしか違わないというのは、メジロザメの尾鰭の形状から、尾鰭を切っていないそのままのものと言っていることから、これは、絶対にあり得ないのである。メジロザメの尾鰭は前の図で見た通り、遙かにずっと長いのである! 不審である。当初、尻鰭の誤りかと思ったが、形状が違い過ぎる。識者の御教授を乞うものである。

 

■「背鰭一枚。」

  「六寸五分。」

  「九寸五分。」

[やぶちゃん注:数値は、前者は、体部に接続していた箇所の切り取った部分のスケールで、右下方にひっくり返って斜めに下から書かれてある。後者は図の上方で、この部分が背鰭の前方部である。スケールは左から右に書かれてある。]

 

■「胸鰭。」

  「二枚の一。」

  「六寸。」

  「壹尺壹寸五分。」

[やぶちゃん注:下方の腹部からかなり乱暴に切り出したその傷の様子と、鰭の後方(図では右手に当たる)の鰭の薄くなっている感じから見て、恐らく、左の胸鰭を引っ繰り返して描いたものと推定する。数値は、前者が、腹部に着いていた部分の長さで、後者は胸鰭の前方部の長さである。]

 

■「肥前國《ひぜんのくに》

  東松浦郡《ひがしまつうらのこほり》

  呼子《よぶこ》産。」

[やぶちゃん注:これは、本図版の左部分の罫線(底本画像では、ご覧の通り、「のど」の部分が真っ黒になって罫線が消えて存在しない)の右に沿って、上下に一行で書かれてある。則ち、前の前の「背鰭一枚」の図の左端にある。

「肥前國東松浦郡呼子」現在の佐賀県唐津市呼子町。]

立原道造草稿詩篇 (中學一年生は……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (中學一年生は……)

 

中學一年生は誰でも手帳を持つてゐる

明るい一日を書きとめるために

今日 小鳥屋で鸚鵡が僕の惡口をいひましたと

 

中學一年生は誰でも手帳を持つてゐる

明るい未來を書きとめるために

もうぢき冬がさよならし町にも春が來るでせうと

 

曲りくねつた一行をいつか汚くゴムが消す

もう僕たちは誰でも手帳を持つてゐない

 

[やぶちゃん注:私は、この詩が、好きだ。]

立原道造草稿詩篇 公園で

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『後出の「噴水」の原型である。鉛筆書きであるが、』ここで一纏まりの草稿類として採用したそれらと『書体が酷似するので敢えてここに置いた』とある。無論、後の「噴水」で原型として再掲する。]

 

  公園で

 

僕が 噴水を見てゐると

飛沫の向う側に

人が噴水を見てゐる

 

ここの午後は町のどこより

太陽が人の脊中をやさしく光らせ

しづかに時間が風とじやれてゐる

 

立原道造草稿詩篇 或る朝

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  或る朝

 

 目がさめると、どうも具合がへんなんで、右の眼をとぢると、そこにある景色は、僕の眠つた部屋とすこしちがつてゐる。第一、窓の外の空はきれいすぎるし、それに天井には並の反射が搖れてゐる。だが、左の眼をとぢると、やつぱりいつもの着物だとか壁にぶら下つた僕の描いた鷄と向日葵の繪だとかよく見えるのである。よくよくへんなので、もう一ぺん右の眼をとぢたら、今度は、僕の身體が自然に天井の方へ浮き上がつてしまつた。それで、僕は、まだ眠りが半部のこつてゐるんぢやないないかしらと思ひながら、仕方なしに起きあがつたのである。

 

戦前に逆戻りした日本に完全に失望した――

戦前に逆戻りした日本に完全に失望した――

2026/02/08

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その14) / 鱶鰭の說~(図版9)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。この図版(これ以降は、「図版12」を除き、総てが、鱶鰭の製品用に切り取ったものである)の鱶鰭は幾つかの図に縦・横の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りした。なお、このページの図は、総てが、同一個体から採った鰭である。しかし、サメの種を示す解説が全く含まれていないので、種は判らない。私はサメ類には全くの素人であり、鰭の形から種同定をすることは不可能である。或いは、種を名指すことが可能な方が、おられるかも知れない。御教授戴けると、幸いである。

 

【図版9】

 

Fuka9

 

■「尾鰭」

 「肥前國《ひぜんのくに》

  北松浦郡《きたまつうらのこほり》

  小値賀海《おぢかうみ》産。」

    「壹尺三寸五分。」

[やぶちゃん注:図の右側に、尾鰭の長い上部の先端からの尾鰭付け根部分の切り口までのサイズ。凡そ四十一センチメートル弱。]

        「八寸。」

[やぶちゃん注:図の尾鰭付け根部分の切り口の下に、切断された部分のサイズ。二十四・二センチメートル。]

 「表面、灰色なり。」

 「明治十六年水産博覽會

  の時、尼野栄太郞、出品。」

[やぶちゃん注:出品者の姓の「尼」の字は、「匕」が「七」の「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、「尼」とした。

「北松浦郡小値賀海」長崎県の五島列島北部の、小値賀島と周辺の島々を行政区域とする長崎県北松浦郡(きたまつうらぐん)小値賀町(おぢかちょう)周辺の海を指していよう。「小値賀海」という呼称は、ネットには掛かってこない。

 なお、冒頭注でああは言ったが、個人的には、この尾鰭の形状からは、メジロザメ(目白鮫)目メジロザメ科メジロザメ属メジロザメ(別名ヤジブカ:こちらを正式和名とする記載もあるが、「BISMaL」が『メジロザメ/ヤジブカ』とするのに従った)ではないかと内心は思っている。]

 

■「胸鰭」

  「二枚の一。」

 

■「同」

[やぶちゃん注:明らかに左の胸鰭であるので(従って、正面は裏側である)、左下の図を、ここに配した。]

 

■「背鰭」

 

立原道造草稿詩篇 夜

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  夜

 

 林檎が一つ

ころがつてゐる

 

煤けランプのくらいかげのなかを

 

立原道造草稿詩篇 霧

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  霧

 

街燈の光ですかしてみると、その男は、

ポケツトに大きな壜を持つてゐた。――

なかには、鷄が一羽かくれてゐる。

 

立原道造草稿詩篇 日曜日

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  日曜日

 

散步する人は手にシグナルを持つてゐる

「秋」は雲の手巾をポケツトにいれてゐる

 

[やぶちゃん注:「手巾」私のブログ・カテゴリ「立原道造」には、現在、二百四十二篇の作品を電子化しているが、詩句の中に使用されるものは、「ハンカチ」が五作品、「ハンケチ」が一作品である。この内、後者は現在進行中の前期草稿篇の「(四月の空は……)」の【初期形】での使用で、【改稿形】で「ハンカチ」に書き変えてある。従って、「ハンカチ」の読みの可能性が強いと判断する。]

2026/02/07

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その13) / 鱶鰭の說~(図版8)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。この図版(これ以降は、「図版12」を除き、総てが、鱶鰭の製品用に切り取ったものである)の鱶鰭は幾つかの図に縦・横の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りした。なお、このページの図は、上部の二個体の右から左、次いで中部の一個体、最後に下部の右から左の順で示した。キャプションの内、左中央の内容は、私は、左下段の図に対する解説であると採った。さらに、ここでは、右下一個体を除いてサメの種を示す解説が全く含まれていないので、種は判らない。私はサメ類には全くの素人であり、鰭の形から種同定をすることは不可能である。或いは、種を名指すことが可能な方が、おられるかも知れない。御教授戴けると、幸いである。

 

【図版8】

 

Faka8

 

■「鯊鰭《ふかひれ》四枚揃」

 「明治十六年、水産博覽會へ、

  東京・小田原町、林清吉、出品。」

[やぶちゃん注:「鯊鰭《ふかひれ》」本パートの最初の「鱶鰭の說(その1)」は、昨年末に公開したものだから、既に私の注を忘れている読者も多かろうから、部分再掲しておく。

   *

「鯊(ふか)」漢字は誤りではない。「鯊」は本邦では、通常、「はぜ」(=脊索動物門脊椎動物亜門条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科 Gobiidaeの類の総称)と読むことが一般的であるが、漢語としては、第二義で「さめ」(無論、和語)、或いは、「ふか」(=サメ類(軟骨魚綱板鰓亜綱 Elasmobranchii)の特に大きいものの俗称だが、「さめ」と同義としても用いるケースは多い。学術的な言い分けではない。

   *

「東京・小田原町」江戸時代の日本橋北詰めで、現在の日本橋室町一丁目附近で、江戸では、後に日本橋魚河岸となり、魚市場の賑わいで知られ、後に築地に移転した。「中央区観光協会特派員ブログ」の『江戸日本橋の「小田原」って?』で、江戸時代の配置図(電子的に新規整序されたもの)と現在の地図が配置されており、ビジュアルに確認出来る。

 なお、この「明治十六年、水産博覽會へ」「出品」が、以下の四図の鰭にも適用されるのかどうかは、判らない。しかし、であれば、それ以外のキャプションの始めに、前に同じであることを示すキャプションが示されねばおかしいから、私は、そうは理解しない。

 

■「胸鰭二枚」

     「壱枚を略す。」

 「一四枚の一《ひとつ》。」

 

■「尾鰭」

  「四枚の一。」

[やぶちゃん注:以下は、図の下方から右上方に、四十五度傾斜で、斜めに、逆立ちで書かれてある。]

 「背骨の際《きは》より、切放《きりはな》ちたる切口《きりくち》。」

[やぶちゃん注:「尾鰭」の下には、薄く「四一」の字が確認出来る。思うに、「四」枚の「一」と書いたが、それでは意味が通らない上に、下の空隙が狭いので、消し、左行で、かく、書き換えたもの、と推理する。]

 

■「白鱶鰭《しろふかひれ》」

 「長門國《ながとのくに》

  厚狹郡《あさ/あづさのこほり》

  埴村(はづ《そん》)。」

[やぶちゃん注:この村の名のルビは誤りである。「はぶそん」が正しい。「そん」の音読みは、ウィキの「埴生」(はぶ)の「近現代」の「行政区域の変遷」の記載に拠った。但し、「そん」であれば、河原田氏は「はづそん」とルビすると推定されるから、彼は「はづそん」と読んでいる思われる。

 さて。ここでは、唯一、「白鱶」と表記しているから、これのみ、

メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus

に同定出来る。

 

■「此《この》壱鰭《いちひれ》ハ、尾の下部に

  ある分岐にして、脊骨《せぼね》

  の末《すゑ》、眞《まこと》の尾と

  切放《きりはな》つなり。」

[やぶちゃん注:本来の尾鰭の一部を切り離して加工したものであって、完全なる尾鰭ではないことを注意喚起しているのである。]

立原道造草稿詩篇 夜曲

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  夜曲

 

ベンチがこんなに滿員なのは

郵便局のせゐでせう

とかく夏の夜に公園の

ひとりぼつちの微風は

茂みのかげで遠慮する

 

[やぶちゃん注:「夜曲」(ドイツ語:Serenade, Nachtmusik /イタリア語:serenata /フランス語:sérénade の訳語)セレナーデ。セレナータ。セレナード。夜、恋人の窓辺などで歌い、又は、奏でられた愛の歌。後に、演奏会用歌曲・器楽曲に発展した。日本語では「小夜曲・夜曲」(以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。」

立原道造草稿詩篇 市場

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。「市場」は「いちば」であろう。]

 

  市場

 

 襦袢の下には 生姜

 それから麒麟とにほひあらせいとう

 風見がまはり 寶石に瑕がある

 字引は 言葉の市場です

 瘠せた男が時計の打つのを數へてゐる

 五つ鳴つたら 五つ言葉を買ひませう

 

立原道造草稿詩篇 秋

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『原型はノートの』昭和七(一九三二)年の『9月5日のページの「秋」。』とし、同全集「第六卷 雜纂」のここからである。初稿は「☆」を入れた二パートになっている。]

 

【初稿】

 

  秋

 

パン屋の店先に

黑犬とパン屋の主人がゐる

ポストがある ポストは赤い

 

僕は身輕に町に浮かんでゐた

蜃氣樓のなかの人のやうに――

魔術は四つ角がしてくれる

冬へ電報を打たねばならない

そろそろ靑空がこはれはじめると

 

     ☆

 

硝子屋が町を通りますから

靜かに眠つていらつしやい

 

 

【決定草稿】

 

  秋

 

 パン屋の店先に黑犬とパン屋の主人がゐる。ポストがある。ポストは赤い。

 僕は、間ちがへて身輕に町に浮かんでゐた――蜃氣樓のなかの人のやうに。ありありと時間が見える。⦅冬へ電報を打たねばならない⦆町の靑い空を硝子屋が町を通りすぎる。この手品はそのせゐだ。

 

2026/02/06

立原道造草稿詩篇 蟲の午後  七章

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『原型はノートの』昭和七(一九三二)年の『8月6~14日中の「蟲の午後」。』とし、同全集「第六卷 雜纂」のこれである。さらに、『原記は「六章」となっているが、同一の書き方による短詩が七篇あるので、立原の誤記と考え改めた。即ち、第一枚目第二行に総題「蟲の午後 六章」があり、詩題は第四行目に記している。そして第二枚目かた第八枚目まではすべて第三行目に詩題を置き、書体も同じである。』とある。編者の修正を採用した。]

 

【原型】

 

 

  蟲の午後

 

   螢

 

陽氣な螢は赤い襟卷をして けれどお前のマント

それは年よりじみる程お前黑すぎる

 

   蟻

 

 足の多すぎた牡牛に似てゐる黑い顎 黑い頰 黑い角

 

   虻

 

 お前のよんでゐる法律の本

 ときどき大工たちのやうにお前は空と喧嘩することもある

 

   蛇

 

 原つぱの中の急行列車!

 

   かまきり

 

 これは原つぱの作曲家

 草色のフロツクコートを 澄まして

 未來派の散步をする

 どうしてなかなか紳士です

 

   ばつた

 

 原つぱの艷歌師 ヴアイオリンの𥡴古

 お前が一番音樂はまづいやうです

 

   虻

 

 ひとりで本を讀んでゐたら 誰かがはなしながらやつて來る おや ききおぼえのある聲 ふりかへつてみれば 何だ お前ぢやないか

 

   蜂

 

 《白い壁 蜜と花粉 東風と朝の雲

  居心地のよい住居です》

 

 そんな貸家にお前は住んでゐる

 

[やぶちゃん注:「東風」は「ひがしかぜ」でよい。「こち」では、この場合、前の二つの対句のリズムを乱す。]

 

   蜂

 

 或る日帽子のなかに ひつそり蜂が死んでゐた それがあんまりきれいだつたので 僕にはこの帽子が僕のものでないやうな氣がした

 

 

【草稿決定稿】

 

 

  蟲の午後   七章

 

   蛇

 

 原つぱの中の急行列車!

 僕を連れて

 叢の郵便局へ……

 

   虻

 

 しよつちゆう讀んでゐる法律の本

 ときどき大工たちのやうに喧嘩することもある

 

   蟻

 

 黑い顎

 黑い角

 お前の顏が

 黑い牡牛に似てみえる

 

   蜂

 

 《白い壁

  蜜と花粉

  この百合の花が

  けふの私のすまひです》

 

    螢

 

 螢は赤い襟卷をして

 けれどお前のマント

 としよりじみて見える程

 それはお前に黑すぎる

 

    蛾

 

 霧のなかには古い心が住む

 うつとりと夜の灯をともすな

 灯のそばにおとぎ話がやつて來る

 おとぎ話は黑い蛾である

 

[やぶちゃん注:「灯」の読みは、全体の音律から考えて、間違いなく「ひ」である。]

 

   かまきり

 

 これは原つぱの作曲家

 草色のフロツクコートに 澄まして

 未來派風の散步をする

 どうしてなかなか紳士です

 

 

[やぶちゃん注:これは、まず、ジュール・ルナールの「博物誌」(Jules Renard  Histoires Naturelles ”:私の最新版の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)』をリンクしておく)が念頭にあろうかと思われるであろう。道造は、フランス語も勉強し始めていた時期であり、彼が、原文(かなり平易なフランス語である)で読んだであろうという推測は、別段、無理はない。しかし、私は、彼が親しくして貰っていた堀辰雄の師匠である芥川龍之介の、もろに「博物誌」を真似た、「動物園」(大正九(一九二〇)年一月、及び、十月発行の雑誌『サンエス』に分割掲載され、後に『夜來の花』に所収された。リンク先は私のサイト版である)をお手本にしたものとする方が、正確であると考える。道造は芥川龍之介を愛読してもいたからである。芥川の「動物園」は、私は、如何にもの「博物誌」の引き写し部分等、複雑な心境になる小品であり、芥川の作品の中では、特異的に高く評価しないものでは、ある。されば、道造のこれは、カリカチュアとして面白いには面ものの、龍之介のそれよりも、さらに、やはり、高くは、買えない。彼自身も、そうした後ろめたさがあったからか、実際の発表詩群には、含まれていない。但し、【初稿】の最後の「蜂」は、道造らしい、いい一篇と評価するものである。

立原道造草稿詩篇 一日

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『初稿はノートの』昭和七(一九三二)年の『8月1日のページの「一日」(ほぼ同文)で、本稿を二稿とし、『散步詩集』中の「一日」となる。』とあり、初稿は同全集「第六卷 雜纂」のこれである。それを【初稿】とし、而して、決定稿の『散步詩集』(全)(二〇一六年六月十三日電子化注済み。但し、Unicode導入前で正字不全があるので、引用では、修正した。また、底本ではポイントの操作がなされてあるので、見かけ上で似たような形に変えてある。必ず、リンク先の注を見られたい。正確な字配は、同全集の「第二卷」の当該部もリンクさせておく。それに拠って、旧電子化物には、編者のルビ挿入があることが判ったので、そこで今一度、検証して、直した)中の「一日」の当該部分を最後に示した。「一日」は、「ひとひ」でもいいが、私は、「いちにち」と読みたくなる。お好きな方で、どうぞ。]

 

【初稿】

 

  一日

 

そこはよい見晴らしであつたから、靑空の一ところをくりぬいて皿をつくり

僕たちは雲のふらいなどを料理し

用意して來たパン、果物の類を食べ

景色を眺めてはたのしい食欲を充した

日かげには大きな百合の花が咲いてゐて

その花粉と蜜は僕たちの調味料だつた

さてこのささやかな食事のあとで

きれいな草原にねころぶと

僕の切り拔いた後に晝の月があつた

それをあなたはハンカチに包んで

大切さうにうちへ土產にした

 

 

[やぶちゃん注:「一ところ」私は「ひとつところ」と読みたい。

ふらい」底本では、傍点「﹅﹅﹅」であるが、太字とした。

「類」私は「たぐひ」と読みたい。

「充した」「みたした」。]

 

 

【決定草稿】

 

  一日

 

 そこはよい見晴らしであつたから、靑空の一ところをくり拔いて皿をつくり、僕たちは雲のフライなどを料理し、麺麭、果物の類を食べ、景色を眺めてはたのしい食欲を充した。日かげに大きな百合の花が咲いてゐて、その花粉と蜜は僕たちの調味料であつた。

 さて、このさゝやかな食事のあとで、きれいな草原にねころぶと、僕の切り拔いたあとに晝間の月があつた。それを、あなたはハンカチに包んで大切さうにうちへ土產にした。……

 

 

【『散步詩集』の決定稿部分】

 

 

  食後

 

そこはよい見晴らしであつたから靑空の一とこ

   ろをくり拔いて人たちは皿をつくり雲のフ

ライなどを料理し麺麭・果物の類を食べたのしい食

欲をみたした日かげに大きな百合の花が咲いてゐて

その花粉と蜜は人たちの調味料だつたさてこのささ

やかな食事の後できれいな草原に寢ころぶと人の切

り拔いたあとの空には白く晝間の月があつた

 

立原道造草稿詩篇 惡い季節

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『『初稿はノートの』昭和七(一九三二)年の『8月1日のページの「《忘却》」(異文)。』とあり、それは同全集「第六卷 雜纂」のこれである。それを【初稿】として示すこととした。]

 

【初稿】

 

  忘却 

 每日の霧のなかで僕の見るものといつては隣りの杉の木と僕の掌と小鳥たちの聲、蝶の羽根やガラスのびんが見えることもある。ときどき花火があがつたり、時計が鳴つたりする。カレンダアはびしよぬれで、いつの間にか羅馬數字の七月がどこかへ行つてしまつてゐる。濡れたカレンダアからいつの間にかVが立ち去つた。

 

 

【決定草稿】

 

  惡い季節

  每日の霧のなかに僕の見るものといつては隣りの杉の木と僕の掌と小鳥たちの聲ときどき花火があがり時計が鳴る蛾の羽根やガラスの壜がすき通り濡れたカレンダアからいつの間にか算用數字の七月が立ち去つた

 

 

[やぶちゃん注:実に素敵だ! 彼にタルコフスキイの‘Солярис’を見せてやりたかった!!!

2026/02/05

立原道造草稿詩篇 峠

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『初稿はノートの』昭和七(一九三二)年の『7月30日のページの「《峠》」(異文)。』とあり、それは同全集「第六卷 雜纂」のこれである。それを【初稿】として示すこととした。]

 

【初稿】

 

  《峠》

 

谺は僕を呼んだ。僕は母を呼んだのに。この白い驛標はどこの家庭への距離も知らせない。

山峽の間から煙があがる(のぼる)。それが僕に時間を告げる。人たちが洋燈(ランプ)の下に明るい夜を作るため、一しよう(せはしく/今忙しく)懸命働く時間を、――

 

もう僕は雲のやうに自由でない。その雲さへ、蜩の聲に乘り、ああ、せかせかと空を立ち去る!

 

 

[やぶちゃん注:「谺」こだま。

「驛標」「えきひやう(えきひょう)」。鉄道駅のホームなどに設置されている駅名が書かれた案内標識のこと。これは、言うまでもなく、雲の換喩である。だから、そこには文字がないのである。

「一しよう(せはしく/今忙しく)懸命」これは「一生懸命」。但し、歴史的仮名遣は「いつしやう」でなくてはならない。因みに、これも言うまでもなく、「一生懸命」は誤った慣用語で、「一所懸命」が正しく、であれば、「一しよ」が正しい。]

 

 

【草稿決定稿】

 

  峠

 

谺は僕を呼んだ。僕は母を呼んだのに。

この白い道しるべはどこの家庭への距離も知らせない。

 

まだかげらぬとほい平野よ、そして麓の小さな村々。

峽間から煙があがる。それが僕に時間を告げる。人たちが洋燈の下に明るい夜を作るためいま忙しい時間を。

 

もう僕の時間は雲のやうに自由でないだらう。

その雲たちさへ蜩の聲に乘り、あゝ、せかせかと空を立ち去る!

 

 

[やぶちゃん注:草稿決定稿は、遙かに意識的な粉飾部が削がれ、空漠の遠景がくっきりと描かれている。私は、この決定草稿を読んだ瞬間に、ALSで、大震災の後、たった独り、江ノ島を見下ろす峠にあった真っ暗な未明の病室で亡くなった私の母を思い出した……涙が落ちた…………。――但し――総ての所持する彼の本の年譜を見ても、彼の母親が、彼の生前に亡くなったとする記事が、存在しない。底本の全集の年譜も確認したが、やはり、なかった。則ち、この詩は、生きている実母への郷愁であることが判った。]

2026/02/04

立原道造草稿詩篇 夜

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『ノートの』昭和七(一九三二)年の『7月28日の頁の「夜」(異文)を原型に持つ。』とあり、それは同全集「第二卷 詩集II」のこれである。それを【初稿】として示すこととした。]

 

【初稿】

 

  夜

 

 睡眠者は彼のまはりにZを撒き散らす。

(昔の頃の活動の漫畫。)そして、彼の夢のなかで、坂が傾いて、陽があたつてゐる。

 

 夜は、まるく刳り拔かれ、そこに、蛾や、蜻蛉が集まつてゐる。そのあたりに、別の夢がひろい海と貝殼をひろげてゐる。

 

 がやがやとはなし聲が聞えてゐる。

 

 

【決定草稿】

 

  夜

 

眠りと夢がしづかに嚙み合つてゐる。齒車のやうに。

銅の坂が傾いて、陽があたつてゐる。

その傍に、牢屋がひろげられ、貝殼たちが海の深みへ滑つて行く。

がやがやと人の聲がする、薔薇の茂みのかげからのやうに。

 

 

[やぶちゃん注:初稿について。

「睡眠者は彼のまはりにZを撒き散らす。」は「(昔の頃の活動の漫畫。)」で判る通り、舶来のアニメーションの中で、英語の鼾(いびき)を指す擬音表現“ Z-Z-Z! Z-Z-Z!…… ”を指している。

「蜻蛉」は、若い読者や、ネイティヴでない読者の方のために附しておくと、この場合の読みは、「とんぼ」ではなく、「かげらふ(かげろう)」と読み、昆虫綱有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea上目カゲロウ(蜉蝣)目Ephemeroptera に属する多くの種群を指す。生物学的に、より細かい記載は、私の「生物學講話 丘淺次郞 第十九章 個體の死(4) 三 壽 命」の私の注を見られたい。]

立原道造草稿詩篇 散步

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『初稿はノートの』昭和七(一九三二)年の『7月2028日のページの詩群中にある、』とし、それは同全集「第二卷 詩集II」のこれである。さらに『初稿の詩句との関連に拠り、二稿と判断されるものがあ』るとして、全文引用がされてある。どうも、これは、同全集では、それを活字化されていないものであるからこそ、ここにわざと引いているのだと理解した。そこで、それを【第二稿】として示すこととした。前二稿は無題である。]

 

【初稿】

 

 風景さへ僕には信じられなかつた。肋骨に指をしづかに觸れては、散步に出かける時間ををはかつた。それは、森のなかに誰でもがする一つの風習である。(だつた)。僕は衰へたかげを、作りなほさうとつとめて、このはかない營みにさへ心を喜びを見つける。そしていつか僕は日每の曆さへ信じなくなつてゐた。

 

【第二稿】

 

肋骨に指をしづかに觸れては散步の時間を知る。森のなかのひとつの習はしだ。

風車を廻す風たちの速さで日蔭のそこここを步きまはる。

人々は每日の曆をもう信じない。

 

 

【決定草稿】

 

  散步

 

肋骨に指をしづかに觸れては散步の時間を知る。

風車をまはす風たちの速さで村のそこここを步きまはる。

 

立原道造草稿詩篇 口笛を吹いてゐる散步者よ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『初稿はノートの』昭和八(一九三三)年の『7月2028日のページの詩群中にあり(無題・異文)で、本稿は二稿で、ハガキ判耳付局紙』(「抄紙局製の紙」の意。ミツマタを原料とする、丈夫で、艶のある上質の紙。明治八(一八七五)年に大蔵省抄紙局が設けられ、明治一八(一八八五)年頃、手漉き紙として作られたが、後に機械漉きとなり、今日では、財務省印刷局の他に民間でも製紙され、証券・株券・賞状・辞令用紙などに用いられる。以上は所持する小学館「日本国語大辞典」(初版)、及び、「デジタル大辞泉」をカップリングした)『に水彩で風景画を描き、本文を赤で筆記したものを決定稿とする。決定稿については詩集『日曜日』の解説で触れた。本篇と異なるところは、第二行の「あなた」を「君」と修正し、句読点を持たない点である。』とある。しかし、同全集の「第二卷 詩集II」の解説を見ると、これは、「日曜日」のそれには、なく、続く『『散步詩集』 神保光太郞所蔵本』のここにある(下段)。そこには、『*本テキストの構成は目次に詩五篇を示しているが、どうしてか「悲歌」の本文を欠いている。これを埋めるものとして、書名の「散步」と用紙・体裁から「口笛をふいてゐる散步者よ」をそれと考えることが出来ないわけではないが、決定的裏付けが見当らず、ただここで言えることは後出「草稿篇」の「悲歌 第三」のモチーフに関わるものであろうということだけである。従って本集の目次に「悲歌」は挙げなかった。』(以下略)とある。「悲歌 第三」は、同全集第二卷の、ここで、視認出来る。しかし、ここで言っている『「草稿篇」の「悲歌 第三」のモチーフに関わるものであろうということ』とある。しかし、私が馬鹿なのか、この解説、全く理解出来ない。暫く、再考したく思う。ともかくも、冒頭にあるノートのそれを【初期形1】・【初期形2】の二つを示し(ここと、恐らくここ。孰れも無題)、【決定草稿】を示す。]

 

【初期形1】

 

口笛を吹いてゐる散步者よ

あなたは立り去りうたが殘る

この森の小鳥の聲とまじらずに

この森の木のかえのそこここに

やがてこのならはしが 僕に

口笛と小鳥たちとをわからなくする(?)

 

[やぶちゃん注:傍線は底本では右傍線。]

 

【初期形2】

 

口笛を吹いて家に帰る

 

[やぶちゃん注:「帰」の字体はママ。]

 

 

【決定草稿】

 

  口笛を吹いてゐる散步者よ

 

口笛を吹いてゐる散步者よ

あなたは立り去りうたがのこる

この森の小鳥の聲とまじらずに

この森の木のかげのあちこちに。

やがてこのならはしが 僕に

口笛と小鳥たちとをまちがひさせる。

 

Facebookのグループ‘La senda del haiku’に招待されて入会した

今朝、Facebookのグループ‘La senda del haiku’に招待され、入会した。先月、私の鈴木しづ子の資料がアルゼンチンのコルトバ大学院から出版された書籍で紹介されたことに関連してのことである。スペイン語は出来ないが、俳句に興味のある世界中の方の疑問や資料紹介要請に応じられれば、幸いである。ユビキタス、万歳!!!

2026/02/03

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その12) / 鱶鰭の說~(図版7)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。この図版(これ以降は、「図版12」を除き、総てが、鱶鰭の製品用に切り取ったものである)の鱶鰭は幾つかの図に縦の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りした。

 

【図版7】

 

Fuka7

 

■「よしさめ四枚一揃《よんまいひとそろへ》」

 「よしざめ。五枚の一脊鰭《いちせびれ》。」

      「一尺二寸。」

[やぶちゃん注:これは、★標題の四枚全てではなく、この背鰭一枚一図のみである。それ以外の以下の図は、ちょっと見難いもので、一纏めの同個体から採った五枚物の「セット物」の図が、右下一枚と、中央に二枚であるので、注意されたい。なお、「よしさめ」と「よしざめ」の表記の混淆はママである。されば、これは、「よしさめ」「よしざめ」から「葦鮫」で、漢字で「葦切鮫」と書く、鱶鰭の高級品としても知られる、

メジロザメ目メジロザメ科ヨシキリザメ属ヨシキリザメ Prionace glauca

であるとしてよかろう。

 

■「よしさめ。五枚の一《ひとつ》。」

   「長崎の名「いちやう」。尾鰭。」

 「よしさめ。五枚の一。」

   「胸鰭。二《ふたつ》の一。」

   「八寸。」

[やぶちゃん注:右下の図の右側にあるキャプションと、中央上方の図の右手のキャプション。ここは、恐らく左の胸鰭であり、鰭のカーブした前方部のスケールである。因みに、スケールは、いちいち換算すると、面倒なので、自分で計算されたい。一尺はセンチメートルで三十・三、一寸は同三・〇三、一分(ぶ)は同〇・三である。]

   「四寸。」

[やぶちゃん注:同前の図の下方の図。同前図の体部に接続していた切り口の箇所(右側)のスケール。]

「よしざめ。五枚の一。」

   「胸鰭。二の一。」

   「八寸二分。」

[やぶちゃん注:胸鰭(表面の漢字から、恐らく右胸のそれ)の前部のスケール。次は、中央下のキャプションで、図はその上にある。]

 「よしさめ五枚ハ、長﨑廣業商會支店

  より、十六年、水産博覽會種出品なり。

  但《ただし》、一枚を欠く。」

[やぶちゃん注:ということは、ここの図は三枚しかないので、残る現存した一枚は図には出していないということにある。どうも、このページの図は、ちょっと正確に理解するのに、思いの外、時間が掛かってしまった。

 さて、問題は、種である。河原田氏が、ここに並べる以上、同じく、

メジロザメ目メジロザメ科ヨシキリザメ属ヨシキリザメ Prionace glauca

であろうと思ったが、一応、調べてみる必要があると考え、国立国会図書館デジタルコレクションで「よしざめ」で検索したところ、孫福正編「鄕土の生物方言調査」(昭和八(一九三三)年宇治山田市敎育會刊)のここに『よしざめ』の項があり、『あぶらざめ』の方言とし、『北日本にのみ產す』とあった。これは、

ツノザメ目ツノザメ科ツノザメ属アブラツノザメ Squalus suckleyi

であるのだが、この種が、鱶鰭の高級品として扱われるというのは、ちょっと私にはクエスチョンであった。アブラツノザメの鱶鰭は、よく知られた種としてのブランドである。私は、断然、前と同じくヨシキリザメに比定するものである。

 

■「尾長鰭二枚」

 「十六年、水産博覽會、筑前福岡

  伊﨑浦《いざきうら》、村田治六、出品。」

[やぶちゃん注:左の二つの図。以上は左中央部に解説されたもの。]

   「脊鰭。」

[やぶちゃん注:これは右の胸鰭である。]

   「胸鰭。」

   「壹尺三寸。」

   「六寸。」

[やぶちゃん注:スケールは前者が胸鰭の前部の長さ。こちらは同前で右胸鰭ということになろう。

「筑前福岡伊﨑浦」これは、現在の福岡市中央区伊崎、及び、その東にある西公園に相当する。現在は干拓により、海浜ではないが、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、しっかりと「伊崎浦」となっている。

 さて、「尾長」であるが、これは、

ネズミザメ目オナガザメ科オナガザメ属マオナガ(真尾長/オナガザメ) Alopias vulpinus

である。BISMaLの同種の和名は、マオナガのみである。現行では、同種の胸鰭は鱶鰭として加工されているが、前鰭以外に、背鰭も出るものの、それも使用出来ようから、問題なし、と私は認識する。]

立原道造草稿詩篇 よいもの

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『初稿はノートの』昭和八(一九三三)年の『7月18日のページの「よいもの(異文)」。』とある。同全集の「第六卷 雜纂」のここにあるので、それを【原型】として示した。]

 

【原型】

 

  よいもの

ピストルのなかの薔薇の花

星圖と蜥蝪とランプたち

雨の降る日の草入水晶 縞瑪瑙

よりわけよいのは

眞夜中の時計 途中で消える田舍道

 

【決定草稿】

 

  よいもの

星圖と蜥蝪にランプたち

ピストルのなかの薔薇の花

雨の降る日の草入水晶

とりわけよいのは

眞夜中の時計 ぜんまい仕掛けのカレンダア

 

 

立原道造草稿詩篇 新月のメモ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『第一行は』昭和八(一九三三)年の『ノートの中の1、2月制作の「〈夕方〉」(異文)を、第二、三行は同じく「新月のメモ」』(実際には『☽月のメモ』の表記である。不親切である)『(異文)を原型に持つ。』として指示する。これは、同全集の「第六卷 雜纂」のここ83ページ)と、少し後のここ88ページ)に当該する。そこで、この二つに分離された原型を仮に前者を「原型α」(題名を含めて五行詩)、後者を「原型β」としてカップリングして【原型α+β】として示し(内部で別々であることが判るようにした)、草稿の一篇を【改稿草稿】として示した。

 

【原型α+β】

  【*原型α】

 

  <夕方>

夕方の空は

空にひろげた

佛蘭西の旗

色褪せる

 

  【*原型β】

 

  ☽月のメモ

1、夕燒の空で書き損じた積分記號

2、月の一片を薄く切る

3、…………

 

【改稿草稿】

 

  (☆夕方の空は……)

☆夕方の空は空にひろげた佛蘭西の國旗

☆月の一片を薄く切る

☆夕方の空で書き損じた積分記號

☆月が僕よりも瘠せてゐる

 

立原道造草稿詩篇 學校

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに、ノートの「學校1」・「學校2」の原型を『(異文)』として指示するが、実際に同全集の「第六卷 雜纂」を見ると、ここの最終行(ここにあるのは標題『學校――』のみ)からで、次のページには、『1』『2』『3』がある。従って、この三パートから成る全部を「原型」と見做し、初めに起こし、草稿の二篇を、後に一緒にして配した。

 

【原型】

 

  學校――

 

    1

彼等のテニスは上手にシヤンパンをぬかない

 

生徒たちの裸の腕を 赤土のコートを

太陽がよごしてゐる

 

    2

學校の時計よ お前は

早くまはつたり遲くまはつたりする

このお前のわるいくせが

ときどき生徒を怠け者にする

 

    3

ここでは僕たちは生徒たちだ

 

 

【改稿草稿】

 

  學 校 1

 

彼等のテニスは上手にシヤンパンをぬかない

 

生徒たちの裸の腕を 赤土のコートを 太陽がよごしてゐる

 

 

  學校 2

 

學校の時計よ お前は

早くまはつたり遲くまはつてみたりする

このお前のわるいくせが

ときどき生徒を怠け者にする

 

[やぶちゃん注:……道造よ……男はね、年を重ねると……早く廻ったり、遅く廻ったりするどころか……タイム・マシンの如く……初恋や、その後の学び場で逢った恋人たちとの時間を巻き戻して……毎日毎日、反芻するようになるんだよ……私が、そうだからね…………]

2026/02/02

立原道造草稿詩篇 病

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『昭和7年8月31日付・畠山重政宛書簡に紹介の「―或る詩」を原型とする。そこでは第二聯の第一、二行が「……一月過ぎて。/(ガラスに映る、死の姿)」とあるが、この詩句の改作に拠り本稿の制作時を8年春と推定する。』とある。これは、このパートの注記の冒頭に、現行草稿の解説に使用原稿紙を『江川書房製四百字詰草稿』とし、『物語「短篇二つ」(第三巻所収)中の昭和8年春頃と想定する「日曜日」(江川書房製同種草稿)の初期書体との酷似に拠って』『区分した』とするのに基づく解説である。また、『*第一聯第一行 ママ〈埃りが黃かつた〉』とある。以上から、底本全集の「第五卷 書翰」のここを視認し、「原型」を示した。それは、その長い書簡のパート記号『III』の冒頭おかれているのであるが、その一行目に七字下げで『―或る詩』とあって始まり、『III』はこの詩とクレジットのみで終わっている。この『―或る詩』という表現は、一見、書簡の本文(「或る詩をお目にかけます。」の意)であるかのように見えるのであるが、この有意な字空けを見るに、未だ標題は附していない「無題」というニュアンスを感じさせるから、それを添えておいた。無論、クレジットも添えた。]

 

【原型】

       ――或る詩

 プラツトフオームで、手をふつた。それから、埃りが黃かつた。尾灯(テールライト)は赤かつた。

(それが君との別れだつた。)

 

……一月すぎて、

(ガラスに映る、死の姿。)

今度は僕が出發だ。見送る誰もなく。時間が廻つてゐる。身體の內部よ、ハガキよ、睡眠よ。

 

⦅サヨナラ……オワカレダ

 空が動き出す、不器用な足取りで。

 暫くすれば、僕は去るであらう。

 暫くすれば、僕は去るであらう。

          (一九三二・八・一四)

 

[やぶちゃん注:第一連の「黃かつた」はママ。私は「きいろかった」と読んでしまうが、或いは道造は「きかった」「きいかった」と読んでいるのかも知れない。第二連の「一月」は「ひとつき」とも「いちがつ」とも読めるが、改稿版は「一年」であるから、第一連の時制からの有意な時間的経過があるからこその「今度は僕が出發だ」の台詞となり、何より「時間が廻つてゐる」という謂いからも、後者の「(翌年の)一月」であってこそ、腑に落ちる構造にはなっている。しかし、必ずしも、それが絶対正解ではあるまい。この原型では、僅か「ひとつき」であっても、作者の心理的変容は自らの「出發」をたった「ひとつき」で決意させるものであったのだろう。さればこそ、ここは、当初は「ひとつき」であったと私は読む。寧ろ、そこに作者の、やるせない孤独な「出發」が示されるとも言えるからである。改稿では、そうした有意な「一年」という時間をしっかりと提示してこそ、読者には、論理的にも納得させるに効果的であると考えたのでは、あるまいか。それを受けて、改稿では「春の空」に変えたのであろう。しかし、「死の姿」の凄絶感の方が「出發」の覚悟をよく示す点で、私は、こちらを支持するものではある。第三連の「⦅」の「⦆」が最後にないのは、ママである。]

 

【改稿形】

 

  病

 

プラツトフオームで手をふつた それから埃りが黃かつた 尾灯(テール・ライト)は赤かつた

(それが君との別れだつた。)

 

……一年すぎて

(ガラスに映る 春の空)

今度は とほう出發だ 見送る誰もなく 時計のなかで時計が廻つてゐる

 

言葉――千度それは囁かれる

さよなら ハガキよ 睡眠よ

 

暫くすれば 僕は去るであらう

暫くすれば 僕は去るであらう

 

[やぶちゃん注:決定稿の方が、「死の姿」の直截的な翳(かげ)が消失した結果、全体のリズムは、時計の音のように単調に字背で聴こえて、ブルージーな統一した詩想とはなっている。確かに、後者は抒情詩として、洗練されては、いる。しかし、私の好みとしては、粗削りの原型の方が、圧倒的に好きである。知られたダンディな詩人道造ではない、粗野な彼の心傷を確かに感じられるからである。

 なお、「病」とあり、原型で「死の姿」と出るが、彼が結核に感染しているのが、はっきりと自覚し得るのは、昭和一三(一九三八)年以降のことであるから、この「病」「死の姿」はそれを指すものではない。但し、彼は、旧制中学時代の十四歳の時に、当時の「精神衰弱」に罹患したとされ、病跡学的には心身症に罹患していたと言った見解も見られる。私は嘗つて『日本病跡学雑誌』をずっと購読しており、そこで、立原道造関連のそれらを、複数、所持している。興味のある方は、「つくばリポジトリ」のここで、木山祐子氏の博士論文「立原道造の病跡学的研究 : 結核患者としての側面」(二〇一八年発行・PDF)がダウンロード出来るので見られたい。纏まっていて、非常によい。

立原道造草稿詩篇 絕望が僕を摑んだ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『テキストは題名の位置(第二行目)に☆印を置いている。』とあるが、原稿を見ないと、『第二行目』の意味が採れない。或いは題名は二行に分けて書かれているということか。不親切である。]

 

  絕望が僕を摑んだ

 

 絕望が僕を摑んだ……四つの壁、四つの入口、四つの窓。僕は無暗に書いた、手さぐりで。僕の書いた字はすぐに讀めなくなる。僕はあはてだす。

 

 ――善と惡。惡と善。

 僕の行つた惡と僕の怠つた善!

 

 風はとほいが、嘗つてあつたやうに、歌はたのしくない。砂の上の文字。心は小さい、風はとほい。

 

 これから先僕はうたふかうたはぬかどちらかにすぎないだらう!

 過去が僕をたじろかせるだけなのだ。

 

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その11) / 鱶鰭の說~(図版6)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。この図版(これ以降は、「図版12」を除き、総てが、鱶鰭の製品用に切り取ったものである)の鱶鰭は殆んどに縦と横の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りしようとしたが、縦は何とか出来たが、横の直線のそれは、黒でかなり潰してみると、見るからに私が施したことが判ってしまい、不自然になると私には思われたので、涙を呑んで、ごく一部に留めた。

 

【図版6】

 

Fuka6

 

■「目白さめ」「鰭。」「『ひらかしら』といふ。」

 「目白鮫四枚揃《よんまいそろへ》。」。

  「胸鰭。」

  「同上。」

  「同背鰭。」

  「同尾鰭。」

[やぶちゃん注:上から下へ全四図。第二図は、「同上」として、形状と図の様子から、上の裏の図である。文字通り、前の図版5に出た、

メジロザメ(目白鮫)目メジロザメ科メジロザメ属メメジロザメ Carcharhinus plumbeus 

である。

 しかし、二つ目の「同上」の図の鰭に、右の鰭の先端部から、左の下方の鰭の根の端まで、「−−−−−−−−−−−−−−−」の破線が引かれてあるのに着目されたい。これについて

――その対象「鱶鰭」を加工する際の本格的な乾燥処理法前の最も重要な鰭の基部の背の部分の肉を除去する作業についての注意書き解説――

が、

★このページの左端にある

のである。そこには、

★「− − − − − − − − − − 印《しるし》より、肉付《にくつき》を、能《よく》、切り捨て、乾《ほ》すべし。此肉を、捨てされ[やぶちゃん注:ママ。打消の「ざれ」である。]ば、則ち、蟲喰《むしくひ》となりて、大《おほい》に品位を落《おと》せり。」

とあるのである。なお、「蟲」の字は、スレが激しいため、画像調整を行っても、全く判らなかった。痕跡から推理して「蟲」とした。別な字を比定出来る方は御教授下さると嬉しい。

 

■「五物《いつつもの》揃《そろひ》の鰭」

 「腹、左右≪の≫鰭≪の≫一《ひとつ》。」

 「はら鰭《びれ》。」

 「左右≪の≫胸鰭(わきひれ)≪の≫二《ふたつ》の一《ひとつ》。」

 「二≪つの≫背鰭《せびれ》≪の≫一枚。」

 「一《ひとつ》の背鰭≪の≫一枚。」

[やぶちゃん注:種名がないが、右の一列と大差ない形状であるので、同じくメジロザメとしてよいだろう。

 

2026/02/01

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(五)鱶鰭の說(その10) / 鱶鰭の說~(図版5)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。この図版(これ以降は、「図版12」を除き、総てが、鱶鰭を切り出した部分図である。但し、製品としての乾燥を行う前の図であるので注意されたい)の鱶鰭は殆んどに縦の白いスレが入っており、甚だ、気になったため、違和感が生じないように考えて、線状の白をランダムに黒塗りしておいた。

 

【図版5】

 

Fuka5

 

■「䑕ふか」

  「背鰭。」

[やぶちゃん注:これは、

ネズミザメ目ネズミザメ科ネズミザメ属ネズミザメ Lamna ditropis

である。]

 

■「ふか」

 「䑕」「尾鰭。」

[やぶちゃん注:同前。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「地方名・市場名」に、『ネズミ』・『ネズミザメ』とし、『青森県八戸、福島県、福井県敦賀市、東京』を挙げてある。]

 

■「青ふか」

   「胸鰭。」

[やぶちゃん注:これは、

ネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus

である。]

 

■「めじろ」

  「胸鰭。左。」

[やぶちゃん注:本文で注したように、これは、

メジロザメ(目白鮫)目メジロザメ科メジロザメ属メジロザメ Carcharhinus plumbeus (別名ヤジブカ:こちらを正式和名とする記載もあるが、「BISMaLが『メジロザメ/ヤジブカ』とするのに従った)

である。]

 

■「めじろ」

  「胸鰭。右。」

[やぶちゃん注:同前の右胸鰭。但し、となると、「裏返し」にして描いてあることになる。生体画像を見ると、胸鰭の下の方の色は、上側が青いのに対し、白いが、恐らく「鱶鰭」に加工するために切り出し、時間が経ったものの色は、表と大差ないもの変ずるのであろうか。私はそうした加工前の現物の加工過程前の画像を見たことはないのだが、ちょっとクエスチョンな感じはする。

 

■「青ふか」

  「尾鰭。」

[やぶちゃん注:三つ前と同前。]

「和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 目録・山草類 上卷・人參」の原文・訓読文のみフライング

実は、「和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 目録・山草類 上卷・人參」は、かなり前に、原文と訓読文は電子化している。桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」の電子化注に入れ込んでしまったため、一昨日から注に入ろうと思っていたところが、「漢籍リポジトリ」が作動していないために、ちょっと、やる気が折れてしまった。それでも、本日、注に入ろうと思うが、ものがものだけに、注に恐ろしく時間が掛かると踏んでいる。されば、ここで原文と訓読文のみを示して、暫く、お茶を濁しておく。悪しからず。

   *

[やぶちゃん注:草体の根に繋がる上部地下茎から上の草体図の上に、明らかに異なる種の二つの根茎部の二図。]

 

 

にんじん  人薓 人䘖

      海腴 神草

人參   黃參 地精

      鬼葢 土精

ジン スヱン 皺面還丹

[やぶちゃん字注:「𮑵」原本では、「氵」+(「𮑵」―「氵」)であるが、この字形を用いた。「面」は中央の「はしご」状の部分の上部が欠落した「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、通常の「面」とした。]

 

本綱人參爲藥切要與甘草同功有人參𠙚上有紫氣揺

[やぶちゃん字注:「揺」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、通常の「揺」に代えた。]

光星散而爲人參實神草也根有手足靣目如人者爲神

生上黨【今潞州也】山谷及遼東【髙麗乃朝鮮也】者爲最上春生苗多於

深山背陰近椵樹【似桐甚大】下濕潤𠙚初生小者三四寸許一

椏五葉四五年後生兩椏五葉未有花莖至十年後生三

椏年深者生四椏各五葉中心生一莖俗名之百尺杵三

四月有花細小如粟蕊如絲紫白色秋後結子或七八枚

如大豆生青熟紅自落

朝鮮人參猶來中國互市亦可收子於十月下種如種菜

法秋冬采者堅實春夏采者虛軟非地產虛實也僞者皆

以沙參薺苨桔梗采根造作亂之【沙參體虛無心而味淡荷芭體虛無心而味甘桔梗體堅有心而味苦人參體實有心而甘微苦】近有以人參先浸取汁自啜乃

晒乾復售謂之湯參不任用

人參生時背陽故頻見風日則昜蛀納新噐中入細辛與

參相間收之宻封可經年不壞一法用淋過竃灰晒乾鑵

收亦可

凡用時宜隔紙焙之【熟用則氣温生用則氣凉】並忌鐵噐伏苓爲之使

反藜蘆畏五靈脂惡皂莢黒豆【人參可去蘆不去則令人吐蘆者頭耑莖之根】

 得升麻則補上焦之元氣瀉肺中之火

 得茯苓則補下焦之元氣瀉腎中之火

 得黃茋甘草則除大熟瀉陰火補元氣

 得麥門冬則生脉 得乾薑則補氣

凡血脫者用人參益氣則血自生藥品之聖也

△按人參可用不可用之病症本草諸家之辨論區區也

 共不可徧執今時亦然焉一槪有泥其功不詳虛實而

[やぶちゃん字注:「槪」は原本では、「槪」の(つくり)の下に、さらに「木」のある字体であるが、こんな異体字は見当たらないので、かく、した。]

 動則人參多入用者稱之人參醫師

 凡人靣白或黃或青黧悴者皆脾肺腎不足可用也靣

 赤或黒者氣壯神強不可用也

 凡脉之浮而芤濡虛大遲緩無力沉而

 無力者皆虛而不足可用也若數有力者

[やぶちゃん注:「」は今でいう「・」相当の記号である。訓読では、それに代える。]

 皆火鬱內實不可用也蓋此說可以爲的𢴃也

朝鮮人參 朝鮮北韃靼南境有大山名白頭山自然生

 人參爲最上其葉花與和人參相似而實異初青熟赤

 圓如南天實其根似胡蘿萄而白色使甘草汁蒸乾黃

 色亦益其味頭𨕙有橫文體重實而中亦潤黃者爲上

 經年者大愈佳似人形者亦百斤中有一二本此雖有

 神而不甚佳出於咸鏡道者潤白透通爲極上最鮮

判事人參 是亦白頭山之產出於韃靼而未知修治良

 方故功稍劣

蝦手人參 右同蓋韃靼土地水不清毒多故其富儫者

[やぶちゃん字注:「儫」「豪」の異体字。]

 常浸人參於井中用其水更採出人參販之故帶飴色

 而尾耑曲似蝦形所謂湯人參之類乎

唐人參 卽中𬜻之產山西之潞安【古之上黨】北京之永平雲

 南之姚安共爲上而下種植成故功不如朝鮮自然生

 者其大者俗呼曰唐大

小人參 非大人參中擇出者而本自一種小者其根長

 一二寸許猶罌粟與美人草近年不來俗以尾人參稱

 小人參者非也

凡大人參老者則大而功勝嫩者小而力劣焉體輕虛色

 枯白者俗謂浮虛人參無効

 

   *

 

にんじん  人薓(《にん》じん) 人䘖《にんがん》

      海腴《かいゆ》 神草《しんさう》

人參   黃參《わうじん》 地精《ちせい》

      鬼葢《きがい》 土精《どせい》

ジン スヱン 皺面還丹《しゆうめんかんたん》

 

「本綱」に曰はく、『人參は、藥《やく》の切要《せつえう》[やぶちゃん注:極めて重要な対象であること。]と爲す。甘草《かんざう》と功を同《おなじう》す。人參、有る𠙚《ところ》、上に、紫《むらさき》の氣、有り、揺光星《やうくわうせい》の≪光≫、散じて、人參と爲《な》る。實《まこと》に神草《しんさう》なり。根に、手・足・靣《おもて》・目《め》、有《あり》て、人のごとくなる者を『神《しん》』と爲《なし》、上黨【今の潞州《ろしう》なり。】の山谷、及《および》、遼東《りやうとう》【髙麗。乃《すなはち》、朝鮮なり。】の者、最上と爲《なす》。春、苗《なへ》を生ず。深山の背陰《はいいん》[やぶちゃん注:北向きの日陰。]椵樹《かじゆ》【桐に似て、甚だしく、大なり。】に近き下(ほとり)≪の≫、濕潤の𠙚《ところ》に多し。初生、小《ちさ》き者、三、四寸許《ばかり》。一椏《ひとまた》≪に≫五葉。四、五年にして、後《のち》、兩椏《ふたまた》五葉を生ず。未だ、花・莖、有らず。十年後《のち》に至《いたり》て、三椏《みつまた》を生ず。年《とし》深き者は、四椏《よつまた》を生ず。各(《おの》おの[やぶちゃん注:原本ではルビがない代わりに、送り仮名に踊り字「〱」がある。])、五葉≪を≫中心に、一莖《いつけい》を生ず。俗に、之を、「百尺杵《ひやくしやくしよ》」と名《なづ》く。三、四月、花、有り、細小にして、粟《あは》のごとく、蕊《しべ》、絲《いと》のごとし。紫白色。秋の後《のち》、子《み》を結ぶ。或《あるひ》は、七、八枚《たり》。大豆のごとく、生《わかき》は青く、熟《じゆくせ》ば、紅《くれなゐ》んして自《おのづから》落《おつ。》』≪と≫。

『朝鮮人參《は》、猶《なほ》、中國に來《きたり》て、互市《ごし》す[やぶちゃん注:「互市」は中国諸王朝と北辺・西辺諸国との陸上貿易を指す語。後注参照。]、亦、可なり。收子《み》を十月に收め、種《たね》を下《おろ》し、菜《な》を種《うう》る法《はう》のごとくにして、秋・冬、采《と》る者≪は≫、堅《けん》にして實《じつ》し。≪對して、≫春・夏、采る者≪は≫、虛にして軟《やは》らかなり。地產の虛・實には、非《あら》≪ざる≫なり。僞《いつは》る者、皆、沙參《しやじん》・薺苨《せいねい》・桔梗《ききやう》を以《もつ》て、根を采り、造り作(な)し、之≪を≫亂《みだ》す≪ものなり≫【沙參は、體《たい》、虛《きよ》、無心《むしん》にして、味、淡《あはし》。荷芭は、體、虛、無心にして、味、甘《あまし》。桔梗は、體、堅《けん》、心、有りて、味、苦《にがし》。人參は、體、實《じつ》にして、心、有りて、甘《あまく》、微《やや》苦《にがし》。】。近《ちか》ごろ、人參を以て、先《ま》づ、浸《ひた》して、汁を取り、自《みづから》啜《すゝ》り、乃《の》ち、晒乾《さらしほ》して、復た、售(う)る。之を「湯參《たうじん》」と謂ふ≪も≫、用に任《た》へず。』≪と≫。

『人參、生《しやう》ずる時、陽《やう》[やぶちゃん注:太陽。陽光。]を背《そむ》く。故《ゆゑ》、頻《しき》りに、風・日を見る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。ここは「強い風・過剰な太陽光を受けた際には」の意。]、則《すなはち》、蛀(むしいり)、昜《やす》し。新≪しき≫噐《うつは》の中《うち》に納め、細辛《さいしん》と參《じん》[やぶちゃん注:「人參」。]とを、相間(あひはさみ)に[やぶちゃん注:細辛の間に人参を挟み込んで。]、之を收《をさ》め、宻封して、年を經て、壞《くわ》≪れ≫ざる一法≪として≫、淋過《りんくわ》≪し≫たる竃《かまど》の灰[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、『水をそそぎ』、濾『過』(ろか)『した竃(かまど)の灰』とある。後注を見よ。]を用《もちひ》て、晒乾《さらしほし》、鑵《くわん》に收《をさむ》るも亦、可なり。』≪と≫。

『凡《およそ》、用《もちふ》る時、宜《よろしく》、紙を隔《へだて》て、之≪を≫焙るべし【熟して用れば、則ち、氣、温《おん》なり。生《なま》にて用れば、則ち、氣、凉《れう》なり。】。並《ならび》に[やぶちゃん注:孰れの場合でも。]、鐵噐を忌む。伏苓《ぶくりやう》、之《これ》が、使《し》[やぶちゃん注:既に何度も出た「引薬」の意。反応を効果的に進めるための補助薬。]たり。藜蘆《れいろ》に反《はん》し、五靈脂《ごれいし》を畏《おそ》れ、皂莢《さうきやう》・黒豆《くろまめ》を惡《い》む。【人參、「蘆(ろ)」を去るべし。則ち、人をして吐かしむ。「蘆」とは、頭《かしら》の耑莖《たんけい》の根≪なり≫。】』≪と≫。

『升麻《しやうま》を得れば、則《すなはち》、上焦の元氣を補ひ、肺中の火《くわ》を瀉《しや》す。』≪と≫。

『茯苓を得れば、則、下焦の元氣を補ひ、腎中の火を瀉す。』≪と≫。

『黃茋・甘草を得れば、則、大熟を除き、陰火を瀉し、元氣を補ふ。』≪と≫。

『麥門冬を得れば、則、脉《みやく》を生ず。』≪と≫。『乾薑《かんきやう》を得れば、則、氣を補す。』≪と≫。

『凡《およそ》、血脫(《ち》たり)[やぶちゃん注:出血が続いている患者のこと。]の者には、人參を用て、氣を益する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則、血、自《おのづか》ら、生《しやう》ず。「藥品の聖《せい》」なり。』≪と≫。

△按ずるに、人參、用ふべきと、用ふべからざるの病症、本草諸家の辨論、區區(まちまち)なり。共《とも》に、徧執《へんしふ》すべからず。今時《こんじ》も亦、然《しか》り。一槪に、其《その》功に泥(なづ)んで、虛實を詳《つまびらか》にせずして、動(やゝも)すれば、則《すなはち》、人參、多く入用《いれもちひ》る者、有《あり》。之を「人參醫師《にんじんいし》」と稱す。

凡そ、人の靣《おもて》、白く、或《あるい》は、黃《き》、或は、青黧(《あを》ぐろ)く悴(かじ)けたる者[やぶちゃん注:生気がなくなって如何にも衰える者。]、皆、脾・肺・腎、不足なり。用《もちふ》べきなり。靣、赤、或は、黒き者は、氣、壯(さか)んに、神《しん》[やぶちゃん注:神経。]、強く、用ふべからざるなり。

 凡そ、脉《みやく》の浮《ふ》にして、芤《こう》[やぶちゃん注:東洋文庫版訳の割注に『脈は浮』(ふ)『か』、『沈』(ちん)『で中ほどは空虚』とある。]・濡《じゆ》[やぶちゃん注:同前で『(細くて弱い)』とある。]・虛大・遲緩、力《ちから》無く、沉《ぢん》にして、遲《おそし》・濇《しぶる》・弱《よはし》・細《ほそし》・結《むすぼほる/むすぼる[やぶちゃん注:結滞すること。]》・代《とどこほる》≪容態《ようだい》にて≫、力《ちから》、無き者は皆、虛にして、不足なり。用《もちふ》べしなり。若《も》し、弦《つよきはる》・長《ながし》・緊《きつし》・實《つよし》・滑《なめらか》・數(さく)[やぶちゃん注:]≪にして≫、力《ちから》、有る者は、皆、火鬱內實《くわうつないじつ》なり[やぶちゃん注:AIのものしか出てこないのだが、取り敢えず、掲げておく。漢方に於いて、ストレスなどで生じた熱(「火」)が体「内」に籠もり(「鬱」)、それが消化器や体幹に実熱(「実」証の熱)として溜まっている状態を指す。イライラ・怒りっぽい・逆上(のぼ)せ・顔面紅潮・便秘・口腔内の苦みなどの熱症状が強く出るもの。後注で再検証する。]。用≪ふ≫べからざるなり。蓋し、此說、以て、的𢴃《てききよ》[やぶちゃん注:「極めて的(まと)を得たもの。]と爲《なす》べし。

朝鮮人參 朝鮮の北、韃靼(だつたん)の南境《みなみさかひ》に、大山《おほやま》、有り、「白頭山(はくとう《さん》)」と名《なづ》く。自然と、人參を生ず。最上なり。其の葉と花は、和人參《わにんじん》と相《あひ》似て、實(み)は、異《こと》なり。初《はじめ》は青く、熟≪せば≫、赤《あか》≪く≫圓《まろ》≪く≫、南天の實《み》のごとし。其《その》根、胡蘿萄(にんじん)に似て、白色。甘草の汁をして、蒸乾《むしほ》≪せば≫、黃色ならしめ、亦、益《えき》す。其味、頭《かしら》の𨕙(めぐ)り、橫文《わうもん》、有り。體《たい》、重く、實《じつ》≪に≫して、中《なか》も亦、潤《うるほひ》黃《き》なる者を、上《じやう》と爲《なす。》年を經る者は、大にして、愈(《いよ》いよ[やぶちゃん注:送り仮名に踊り字「〱」がある。])、佳《よ》し。人の形に似たる者も亦、百斤[やぶちゃん注:六十キログラム。]中、一、二本、有り。此《これ》、「神《しん》」[やぶちゃん注:極めて珍しいもの。]、有《ある》と雖も、而≪れども≫、甚だ≪には≫佳《か》ならず。咸鏡道(かがんどう[やぶちゃん注:ママ。])より出《いづ》者は、潤《うるほひ》≪て≫白《しろく》、透通(すきとほ)り、極上と爲《なす》。最《もつとも》、鮮(すくな)し。

判事(ハンス)人參 是《これ》も亦、白頭山の產にして、韃靼より出《いづ》る。而≪れども≫、未だ、修治の良方を知らず。故《ゆゑ》に、功、稍《やや》、劣れり。

蝦手(えびで[やぶちゃん注:ママ。])人參 右に同じ。蓋し、韃靼の土地は、水、清《きよ》からず、毒、多し。故《ゆゑ》、其《その》富儫《ふがう》の者は、常に、人參を井中《ゐちゆう》に浸《ひた》し、其水を用ふ。更に、人參を採出《とりいだ》≪し≫、之を、販(う)る。故《ゆゑ》、飴色(あめ《いろ》)を帶《おび》て、尾の耑(はし)、曲(まが)り、蝦の形に似たり。所謂《いはゆ》る、「湯人參」の類《たぐひ》か。

唐人參《たうにんじん》 卽ち、中𬜻の產。山西(サンスイ)の潞安《ろあん》【古への上黨《じやうたう》。】北京(ポツキン)の永平(ヨンピン)、雲南(イユンナン)の姚安(テウアン)、共(とも)に、上と爲《なし》て、種を下《くだ》し、植成《しよくせい》す。故に、功、朝鮮の自然生《じねんしやう》の者に、如《し》かず。其《その》大なる者、俗、呼《よん》で、「唐大《たうだい》」と曰ふ。

小人參《しやうにんじん》 大人參の中より擇出《えらびいだ》し者に≪は≫非ずして、本《もと》、自《おのづか》ら一種の小《ちさ》き者≪なり≫。其《その》根、長さ、一、二寸許《ばかり》。猶《なほ》、罌粟(けし)と美人草《びじんさう》と≪の≫ごとし。近年、來らず。俗、「尾人參(ひげ《にんじん》)」を以て、「小人參《しやうにんじん》」と稱《しやう》≪するは≫、非なり。

凡そ、「大人參」≪の≫老する者は、則《すなはち》、大にして、功、勝《まさ》れり。嫩(わか)き者は、小にして、力《ちから》、劣る。體《からだ》、輕虛《けいきよ》にして、色、枯白《こはく》[やぶちゃん注:ひねこびて白くなったもの。]なる者を、俗、「浮虛人參(ぶく《にんじん》)」と謂《いふ》≪も≫、効、無し。

立原道造草稿詩篇 眠れない夜

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  眠れない夜

 

    I

重い空氣 鉛の手 ピストルが鳴る

僕の身體を透明な選手たちがつき拔ける

 

    II

時々 眠りが惡い方法(しかた)でちがつた景色を覗かせる しかしそれはけちん坊の海のやうにすぐと僕を裸で夜のなかにほうり出す

 

眠られない夜は 驢馬の鈴の音がする

 

[やぶちゃん注:「ほうり出す」はママ。歴史的仮名遣は「はふり出す」が正しい。]

 

立原道造草稿詩篇 黃昏

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。「黃昏」の読みであるが、私が、私のブログ・カテゴリ「立原道造」で電子化した作品の中で(現在二百二十五件)、「黃昏」を詩篇内で用いたものを総て確認したが、ルビがないものが殆んどで、而して、二篇で「たそがれ」をルビしている。音の「くわうこん(こうこん)」を用いているものは一つもない。ひらがなの「たそがれ」は多く用いている。されば、これは「たそがれ」と読むべきである。

 

  黃昏

 

一日の最後の光線が庭にさよならする

灯りがはいる 窓を閉める

 

僕の生活が見つからなくなる 僕のなかで動いて

 ゐる幾人もの微小な僕 ひとりの僕は僕の脊中を 僕

 の掌を僕の脣を 彼等は互に彼等を知らない

 

僕は眼をとぢる

まだ暮れない地平に靑い旗がある

 

[やぶちゃん注:この第二連は、底本では二行で書かれてあり、二行目は一字下げになっている。この一字空けは、フレーズ中の一字空欄ではあり得ない(それをそのまま字空けとすると、その部分は「ひとりの 僕は僕の脊中を」となって、リズムが崩れるから、絶対に違うのである)。しかし、私のブログ・ブラウザでは、下手をすると、読者が判読を誤る形で勝手に改行されてしまうので、ブラウザで字のポイントをやや上げた表示にしても、おかしくならないように、三行に変えておいた。]

立原道造草稿詩篇 いたづら書き

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

   いたづら書き

 

節穴をとほつて

朝が障子にいたづら書きをする

⦅寢坊なひとよ

これはお前の似顏です⦆ と

 

 

 

2026/01/31

立原道造草稿詩篇 ばかな太陽

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  ばかな太陽

 

曇りつづきの或る日、僕の小さな部屋へ入つて來る、太陽が机の上や壁を見まはしながら。よろこんで僕は、掌を開いたり閉ぢたりする。埃りがある。洋燈のホヤがある。やがて彼はカレンダア(僕の破るのを忘れてゐたカレンダア。)彼は呟く、⦅おや今日は日曜なのか……⦆そしてぢきに歸つて行つてしまう、自分の日曜日を休息するために。(まちがひだとは知らないで。)

 

 

 

立原道造草稿詩篇 曆

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこには、『詩集『日曜日』中の初稿。』とある。而して、最終決定稿は、私の「日曜日 (全)  立原道造」から部分を引いた。]

 

【草稿】

 

  曆

 

貧乏な天使が 小鳥に變装する

枝に來て それはうたふ

わざとたのしい唄を

すると庭がだまされて小さい薔薇の花をつける

 

       ☆

 

感冒(かぜ)をひいて 「春」が咳をする

 

その名のかげで曆は時々ずるをする

けれど人はそれを信用する

 

 

【決定稿「日曜日」の当該部】

 

  曆

 

貧乏な天使が 小鳥に變裝する

枝に來て それはうたふ

わざとたのしい唄を

すると庭がだまされて小さい薔薇の花をつける

 

名前のかげで曆は時々ずるをする

けれど 人はそれを信用する

 

立原道造草稿詩篇 田園詩

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこには、『「i」が「代数ノート」中に原型を持ち、また「iii」は同ノートの中の「田園詩」を初稿とし、それらの組合せにより本篇は制作されているが、再び詩集『日曜日』の制作に当り「iii」を独立した詩篇として採っている。因みに「iii」に緑色鉛筆で丸印が付けられている。』とある。そこで、同全集の「第六卷 雜纂」の二箇所を、「i」の原型をここ(左丁四行目)から発見し、次に、「ii」「iii」の原型をここ(標題「田園詩」のもの)右丁で見つけた(前者は後者より後にある)。而して、最終決定稿は、私の「日曜日 (全)  立原道造」から部分を引いた。都合、四ヴァージョンを示した。]

 

【「代数ノート」の「i」の原型】

 

(家々のランプは街道からとほい)だからこの村に沿つて闇は暗くかがやき出す、

 

 

【「代数ノート」の「田園詩」原型】

 

  田園詩

 

    ☆

小徑が林のなかを行つたり來たりする、

落葉も踏みながら、暮れやすい一日を。

    ★

ツバメは空を切りひらく。空の後ろでは、別の空が用意されてゐる。彼等のこの努力のおかげで僕のところへ別の季節がやつて來る

 

 

【改稿】

 

  田園詩

 

    i

 

 家の洋燈は街道からとほい。だからこの村に沿つて、夜は闇よりも暗くかがやきだす。

 

 

    ii

 

 子供も犬もこはがらない。こはがつてゐるのは空だけだ。

 

 

    iii

 

 小徑が、林のなかを行つたり來たりしてゐる、落葉を踏みながら、暮れやすい一日を。

 

【「日曜日」決定稿(部分)】

 

   田園詩

小徑が、林のなかを行つたり來たりしてゐる、

落葉を踏みながら、暮れやすい一日を。 

 

[やぶちゃん注:個人的には、彼が採用しなかった草稿の「i」の「家の洋燈は街道からとほい。だからこの村に沿つて、夜は闇よりも暗くかがやきだす。」という一行は、私は最後の「だからこの村に沿つて、夜は闇よりも暗くかがやきだす。」のフレーズが詩的に映像的で、とても惜しいと感じるものである。

2026/01/30

立原道造草稿詩篇 旅行

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。決定稿「日曜日」中の「旅行」部分は、私の「日曜日 (全)  立原道造」から引いた。]

 

  旅行

 

この小さな驛で 鐵道の栅のまはりに夕方がゐる 着いて僕はたそがれるだらう

 

……路の上にしづかな煙のにほひ 僕の一步がそれをつきやぶる 森が見える 畑に人がゐる

この村では鴉が鳴いてゐる

 

 

やがて僕は僕を平な固い黑い寢床の上に眠らせるだらう 洋燈の明りに すぎた今日を思ひながら

 

僕の一步が僕を疲れさす!

 

 

【「日曜日」決定稿(部分)】

 

  旅行

 

この小さな驛で 鐵道の栅のまはりに

 夕方がゐる 着いて僕はたそがれる

 だらう

 

……路の上にしづかな煙のにほひ

 

僕の一步がそれをつきやぶる 森が見

 える 畑に人がゐる

この村では鴉(からす)が鳴いてゐる

 

やがて僕は疲れた僕を固い平な黑い寢

 床に眠らせるだらう 洋燈(ランプ)の明りに

 すぎた今日を思ひながら

 

[やぶちゃん注:草稿の「洋燈」は、以下の決定稿のルビ附加から考えて、当初から、「ランプ」と読んでいると考えてよいだろう。また、【決定稿】の方は、字配は底本に従った。「洋燈」の「ランプ」はルビであるので、本来の下インデントは同じである。]

立原道造草稿詩篇 過失

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  過失

 

死の速力が僕をつきぬける。僕は、その場に打ち倒される。……

 

日暮れて行く街、風、光線。

 

短い不動――

僕は、やがて起きあがる。

僕は、步きだす。僕の一步は、その一步を。僕はすべて忘却しながら。

 

立原道造草稿詩篇 《夜》

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。「夜」の太字はママ。なお、本ブログの記事名は太字に出来ない。

 

  《

 

眠りの時間が、僕を追ひ越す。

 

身體を滿してゐる牛だのランプだの枯枝だの⋯⋯

 

僕は裸で夜とぶつかる!

 

 

[やぶちゃん注:前の「ハンカチ」の後注で述べた通り、注記に従うと、この詩篇と、前の「ハンカチ」は同一の紙に書かれているのだが、この紙には『下部に』

 

多すぎる童話的要素

キリコの繪のやうになれ!

 

『の鉛筆書きのメモを下部に持つ。』(本詩文の筆記の色は、ここの注記でブルー・ブラックとある)とある。まず、この二篇への自己批判と採ってよいだろう。しかし、この詩篇は、十全にシュールレアリスム然としている。

立原道造草稿詩篇 ハンカチ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  ハンカチ

 

星のある夜の空を壁紙にした人があるさうだが僕の友だちは靑い晝間の空を手巾にこしらへてポケツトに持つてゐる。丸い形に切り取つたのだが、ちようど太陽のあるあたりだつたらうつて。

 

[やぶちゃん注:「ちようど」はママ。

「手巾」は言うまでもなく「ハンカチ」と読んでいる。

 注記に従うと、この詩篇と、次の「夜道」は同一の紙に書かれているのだが、この紙には『下部に』

 

多すぎる童話的要素

キリコの繪のやうになれ!

 

『の鉛筆書きのメモを下部に持つ。』(本詩文の筆記の色は、ここの注記でブルー・ブラックとある)とある。まず、この二篇への自己批判と採ってよいだろう。老婆心乍ら、「キリコ」は「切子」ではないよ、「形而上絵画派」を興し、後の「シュールレアリスム」に大きな影響を与えたイタリアの画家ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)だ。個人的には、ダリと比べると、接近して実物の作品を見ると、遙かに筆が雑で、見られない代物であり、私は全く評価しない。]

立原道造草稿詩篇 黃昏

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。題名「黃昏」は音では「くわうこん(こうこん)」であるが、訓の「たそがれ」と読みたい。]

 

  黃 昏

 

片假名の⦅リ⦆と

平假名の⦅り⦆が 似てゐるやうに

昨日と今日は僕には每日おんなじだ

 

役立たずな夕方よ

一日を終らせるためにだけ

空は夕燒して 金星がある

 

僕は さがしに行かう

新しい夜を別なかげを

 

三日月よりも 風がいい

 

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、第三連の「新しい夜を別なかげを」は「新しい夜を 別なかげを」と字空けが欲しい。]

2026/01/29

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その9) 「京店と北堀時代」(そのⅤ) 〔雜事〕・「小泉八雲略傳」・奥附 / 桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」~了

[やぶちゃん注:底本では、ここの右丁最終行から。]

 

       〔雜    事〕

 

〔桑原〕 八雲先生の御手醫者は誰れでしたか。

[やぶちゃん注:「御手醫者」「おていしや(おていしゃ)」は「お抱え医師・出入り医者」のこと。主に江戸時代に用いられた語である。]

〔高木〕 先生も奥樣も極めて壯健で、一同もお醫者の見舞はありませんでした。

〔桑原〕 先生と奧樣と御同棲當時は談話が和英チヤンポンで隨分滑稽なことがあつたろうと想像しますが、御記憶のことはありませんでしたか。

〔高木〕 先生は何時も和英對譯の字引をお持ちでして、それでどうかこうか用事が片付きました。しかし間違いは每々のことでして、込み入つた用談は、大槪西田先生がお立ち合いのようでした。

〔桑原〕 八雲先生は自分が眼が惡く、その平癒囘復を祈るため先生自身が、每月一畑藥師に月詣りをされたという珍聞を聞きますが、それはほんとうでしたか。

〔高木〕 先生が一畑藥師に參詣されましたことは、富田旅館時代に一度あつたと聞きますが、その後はありません。しかし先生の眼のために月詣りには私の母が先生の代參として月一度は必らず參詣致しました。勿論これは奥樣の御指示でした。

〔桑原〕 先生の日常生活は極めて規則正しく、時間勵行であつたように聞きますが、どんな風でした。

[やぶちゃん注:「勵行」は「れいかう(れいこう)」で、「決めたこと・決められたことをその通りに実行すること」を言う。]

〔高木〕 先生の時間勵行と几帳面なことは、まことに間違いないことでありました。その一例を今思い出しましたから申しましよう。

 何日頃かはつきり致しませんが、或る日、私がお風呂の焚き付けを始めていました際、フト私は每晩定刻に先生に差上げます朝日ビールの殘りが殆んどなくなつていたことを思出しました。ところが早や時間がないためにこれは大變なことをしたと狼狽し、私は風呂焚きの際とて跣足[やぶちゃん注:「はだし」。]でオマケに尻はしおりながらその儘で駈出して[やぶちゃん注:「かけだして」。]、大橋詰の山口藥店まで約十町許りを往復して、呼吸も絕えだえで漸く時間通りに先生に朝日ビールを差上げることが出來ました。これとても別段先生より叱られるのが恐ろしいという意味は少しもなく、ただ當時先生の過程萬事が時間勵行に仕付られていた習慣から、我知らず飛び出した次第で、途中行遇う人々が私のこの風體[やぶちゃん注:「ふうてい」。]を何んと見たであろうかと、後年この事を子供等に話しまして笑いましたことでした。

[やぶちゃん注:「尻はしおり」「尻端折(しりはしを(しりはしおり)」で、現行は「しりはしょり・しりっぱしょり・しりばしょり」と表記・発音することが一般的である。走るために着物の裾を捲(まく)り上げ、帯の後ろに挟んで留めることを指す。]

(桑原) 先生の文章は何れも苦心推敲の末で、度々書直しをされたと伺いますが、定めて澤山の書損い[やぶちゃん注:「かきぞこなひ(かきぞこない)」。]があつたと思いますが、その反古はどうなりましたか。

[やぶちゃん注:「反古」この聴き取りが行われた時代では「ほぐ」が普通である。漢字は「反故」とも書き、「書・画などを書き損じて不用となった紙」を指す。但し、「ほご・ほうご・ほうぐ」とも呼んだり、書いたりした。しかし、「コトバンク」の「精選版 日本国語大辞典」の「反故の語誌」に拠れば(私の所持する「日本国語大辞典」は初版で、この記載はない)、

   《引用開始》

1 )奈良期に「本古紙」〔正倉院文書‐天平宝字四年(七六〇)六月二五日・奉造丈六観世音菩薩料雑物請用帳〕、「本久紙」〔正倉院文書‐天平宝字六年(七六二)石山院牒〕の表記で見えるのが古い。また、「霊異記‐下」には「本垢」とあり、当初の語形はホゴ・ホグ、あるいはホンク(グ)であったと考えられる。

(2)平安期の仮名文では「ほく」と表記されることもあるが、ホンクの撥音無表記とも見られる。「色葉字類抄」には「反故 ホク 俗ホンコ」とあり、鎌倉時代においては、複数の語形があったこと、正俗の意識があったことなどが分かる。

(3)「日葡辞書」の「Fongo(ホンゴ)」の項に「Fôgu(ホウグ)と発音される」との説明があるところから、中世末期においてはホウグが優勢であり、近世になってからもホウゴ・ホンゴ・ホゴ・ホング・ホグなどとともに主要な語形として用いられている。

   《引用終了》

とある。別の項で、同辞典に、

   《引用開始》

「反故」「反古」を表わす語形は数が多く、そのいくつかは同時代に並行して用いられている。ホグ・ホゴの語形も古くからあったが、特に近代になって有力となった。明治・大正期の国語辞書の多くは、「ほぐ」を主、「ほご」を従として項目を立てており、「ほご」の語形が一般的になったのは比較的最近のことである。

   《引用終了》

とあったことから、私は「ほぐ」を採用した。]

〔高木〕 每朝先生の書齋の反古籠を掃除すると、澤山の書き損ないの反古がありましたが、それは皆な每日の風呂焚きなどに使いまして。一枚も殘りませんでした。

〔桑原〕 先生は奧樣と每日二人連れで外出されましたか。

〔高木〕 海水浴場のような所へは何時も御同行でした。また買物には大慨御一緖でした。しかし神社、佛閣、舊蹟、名所と申す所へは、西田先生の御同行の方が多かつたように思います。

〔桑原〕 これでまず私が考えていたことは八百さんより大槪伺つた積りですが、次に登志さんに伺いますが、何か平素お母さんが茶飮み話に當時の珍話をなさつたことで今日伺うた外に何にか御氣付のことはありませんか。

〔高木登志〕 ただ今母より申上ました外には、別段心當ることはありませんがただ一つ母よりきゝましたことに、或る時白魚の吸物を召上がつた時、フト先生は椀の蓋を開けたまゝ靜かに耳を傾けておられましたが、奧樣に向つて、「この魚泣く」と申されました。奧樣はそれは魚が泣くのではありません。入れ物が漆器で、餘り熱い汁を入れたためで、どうかすると、こんな音がするものですと說明され、先生もようやく納得され、あとで皆々大笑いになつたことがあつたとのことでした。

[やぶちゃん注:「白魚」は、この場合は「しろうを(しおうお)」と読み、条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinaeシロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii である。これは、語り出すと、エンドレスになるので、まず、私の「大和本草卷之十三 魚之上 麵條魚(しろうを) (シロウオ)」を見て戴き、それで、理解された上で、「日本山海名産図会 第四巻 白魚」の本文(作者に誤認箇所があるので注意されたい)を通読され、誤認を指弾した私の迂遠な注を見られたい。]

〔桑原〕 白魚が泣いたと先生がいぶかつた話は、過日岸崎豐子さんにも伺いました。また豐子さんが、家族と共に年を鰹て自宅に歸られたちようどその日に、八雲先生が熊本より上京の途中に松江に立寄り、西田先生と共に松江の舊居を懷かしみ、訪問されたことなども伺いましたが、これらは既に或る人の著書に出ていますので私はただ今は伺いませんでした。

[やぶちゃん注:「岸崎豐子」いろいろと、ネット及び国立国会図書館デジタルコレクションで検索したが、遂に、この人物の正体や記事に行き当たることはなかった。識者の御教授を乞うものである。

〔高木〕 ただ今登志が申したことも實際ありました。しかしこの外に何分五十年の昔のことで忘れたことも澤山ありましようが、兎に角自分の覺えていたことは、御尋ねのついでに皆申上げました。マーこの上は私には種切れと申す次第であります。

〔桑原〕 お二人にはまことに長時間御迷惑をかけました。どうも松江時代の八雲先生の私生活の記錄というものが、簡略に過ぎたり、間違つているように私は氣がついて伺つた次第ですが、お蔭でいろいろの點がはつきり致しました。誠に有難うございました。厚く御禮申上げます。

 

[やぶちゃん注:これを以って、本書の本文は終わっている。

 以下、添えられた「小泉八雲畧傳」である。底本では、ここから。順に言うと、人名の日本語音写表記に、まず、問題がある。続く、生地の島の名も同じく問題があり、さらに、その領有国も誤っていたりする大きな誤りがあるので、注意されたい。そうした誤りは、後注で示す。

 

 

   小 泉 八 雲 畧 傳

 

 小泉八雲は西曆一八五○年(嘉永三年)六月二十七日ギリシヤの一島サンタ・マウラ(リユウカデイヤ)に生れた。父はアイルランドの軍醫少佐チヤールスブツシュ・ハン、母はローザ・テシマである。三歲の時父母に伴われてアイルランドのダブリン府に歸つたが、その翌年父母合意の離緣となり、母はギリシヤに歸つた。その後八雲は大叔母の手に養育され、十七歲の時またも不幸にも父に死別し、ついで大叔母なる人も破產してしまつた。幼時は家庭に學び、十四歲で英國ダルハムのアシヨウ・カレツヂに入學し、その後フランスのイーヴトーに於ける學校に轉じたが、二十歲の時米國に向つて流浪の旅に上り、まずシンシナチーに着き、ここでは一面非常な生活苦と鬪い、一面苦學を積んだ。二十五歲の時はじめて新聞記者となり「鞣皮所の殺人」「都市の鳥目觀」を書いてようやく時の人に認められた。二十八歲で南部ニユー・オルレアンズに移り、ここでも新聞社に勤めて「チタ・ラスト島の話」という創作によつてあまねく文名を認められるに至つた。

[やぶちゃん注:「ギリシヤの一島サンタ・マウラ(リユウカデイヤ)」ウィキの「レフカダ島」に拠れば、『レフカダ島 (レフカダとう、ギリシア語: Λευκάδα / Lefkada、ギリシア語発音: [le̞fˈkaða])は、イオニア海(地中海の一部)に位置するギリシャ領の島。地理的・行政的なイオニア諸島地方に属する。最大の都市はレフカダ (Lefkada (city)) 』で、『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はこの島の出身であり、「ラフカディオ」の名はこの島の名から採られている』とし、注に『「ラフカディオ・ハーン」の名で知られているが、本名は「パトリック・ラフカディオ・ハーン」であり、「ラフカディオ」(レフカズィオス=レフカダ島の)はミドルネームである』とある。『ギリシャ共和国西部、行政的なイオニア諸島地方(ペリフェリア)のほぼ中央部に所在する、イオニア諸島では4番目に大きな島で』、『北西方向に』、『やや離れてケルキラ島・パクシ島があり、南にケファロニア島とイタキ島がある。島の北東端に、島で最大の都市であるレフカダの市街が位置しており、狭い水路によって本土と区切られている。本土とは土手道と浮き橋によってつながっている』。『島の南端にはレフカタス岬がある』とする。但し、『1797年、ナポレオン』Ⅰ『世によってヴェネツィア共和国は終焉を迎え、レフカダ島を含むイオニア諸島はフランス領イオニア諸島となった。1799年にはロシア海軍が諸島を占領し、1800年にロシアとオスマン帝国が設立した共同保護国・七島連合共和国(イオニア七島連邦国)の一部となった。1807年のティルジット条約によってイオニア諸島はフランス帝国の支配下に戻されたが、1809年以降イギリスの攻勢にさらされた。レフカダ島は1810年、イギリスによって占領されている。1815年の第二次パリ条約によって、イギリスの保護国としてイオニア諸島合衆国(United States of the Ionian Islands, Ηνωμένον Κράτος των Ιονίων Νήσων)が樹立され、レフカダ島もその一部となった』とあり、『186462日にイオニア諸島はギリシャ王国に引き渡された』とあり、小泉八雲が生まれた時、レフカダ島はイギリス領であったのである。しかし、笠原氏の本書が刊行された時点では、ギリシャ王国であり、一九二四年に一度、共和国となったが、一九三五年の王制復活を経て、一九七三年に現在の共和国となった経緯があるので、まず、本文の「ギリシヤの一島」という謂いは、本書刊行時点に於ける言い方としては、誤りではない。

「父はアイルランドの軍醫少佐チヤールスブツシュ・ハン」(Charles Bush Hearnチャールズ・ブッシュ・ハーンここは恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の銭本健二・小泉凡編になる「年譜」の音写を採用した。なお、私は、今まで、出生から来日までのラフカディオ・ハーンについて、注したことがない。されば、以下、この年譜を大いに引用させて戴くこととなったことをお断りしておく。なお、私が示す時はは当時の本名の「ハーン」ではなく、一貫して「八雲」とすることとした)は、同年譜に、彼は『アングロ・アイリッシュの旧家の出で、ダニエル・ジェームズ・ハーンの長男として、一一八一八年にアイルランドに生まれ』、小泉八雲が生まれた『当時』は『ギリシヤ駐在の第四』十『五ノッティガム歩兵連隊の軍医補であった』とあり、八雲の書簡記載の中に、『英国七』十『六連隊の軍医少佐であったというハーンの記憶』『は、父の弟ロバートとの混同による』とあった。

「母はローザ・テシマ」(Rosa Antoniou Cassimati:ローザ・アントニオ・カシマチ/音写は同前。セカンド・ネームの英文転写したものは、中国語の「維基百科」の「小泉八雲」にあるものに従った)。同年譜に、彼女は『セリゴ島(現地呼称キシラ)の旧家の出で、父アントニーの娘として、一八二三年に生まれる』とあり、以下、『ハーン誕生にいたる両親の関係』が年譜式に続く。一八五〇年『十月』に、父チャールズ・ブッシュ・ハーンが『英領西インド諸島への赴任を命じられ、ドミニカに到着する。数カ月の後、グラナダに転属する。ハーンは父が西インド諸島にいたことは、一八九一年に異母妹アトキンソンと文通をするまでは知らず、そこにいた時、前に見たことがあるという奇妙な霊感「既視感」』(フランス語: déjà-vu:デジャ・ヴュ)『に襲われたという』。『この間、ローザとハーンはサンタ・モウラで暮らす。「そういうわたくしに、ある場所と、ある不思議な時の記憶がある……」ではじまる「夏の日の夢」(『東の国から』)の美しい追憶部分で、「むかし、遠い遠い日のこと、山の奥の峯と峯のあいだの峡谷に、浄らかな日をおくっていたころ」と回想されているのは、この頃のことである。』とある。これは、私の『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集「東の國から」(正字正仮名版)始動/ 献辞・田部隆次譯「夏の日の夢」』の「四」の途中で語られる以下である。

   *

 私は或場所と不思議な時の事を覺えて居る、そこでは日と月は今よりもつと大きく、もつと明るかつた。この世の事か、いつか前の世の事か、私には分らない。ただ私はその空は遙かにもつと靑く、そして地に近かつた事、――赤道の裏の方へ走る汽船の帆柱の上に近いと思はれる程であつた事を知つて居る。海は生きてゐて、いつも話をした、――そして風が觸れると私は嬉しさに叫んだ。以前山の間に住んでゐた聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]日に、一二度私は同じ風の吹いて居る事をただ暫らく夢想した事がある、――しかしそれはただ記憶であつた。

   *

 年譜に拠れば、翌一八五二年の項に、『ローザとハーンをダブリンに送り届ける仕儀は、父チャールズの『二人の弟、特にパリに住』んでいた三男の『画家リチャードが』その『最終的役割を受け持った』とあり、同年『八月一日(日)午前七時、リチャードに伴われて、母と子』は『ハーン家に到着』した。『当時のハーン家は、ダブリンの北部の高級住宅地ロウアー・ガーディナー通り四八番地にあり、チャールズの母エリザベスが娘ジェーン夫婦と住んでいた』とある。しかし、この年譜の最後には、母子のダブリンへの移転に就いて、『歓迎の気持ちとうらはらに、当時のアイルランドにおける厳しいカトリック教徒とプロテスタントの宗教的・政治的対立は、プロテスタント旧家としてのハーン家にカトリックに近いギリシア正教を信ずるローザが同居することが、だんだん難しくなる不二木を生み出した』とある。

 翌一八五三の『十月八日(土)、』父『チャールズが』勤務地であったグラナダから『ダブリンに到着する』とあり、その後に、八雲の書簡からの引用があり、『「乳が連隊とともに帰還した時、父が私を一緒に馬の背に乗せてくれたことを私は憶えています。赤いコートと縞入りのズボンの多数の士官と一緒の晩餐の席、子供の私は食卓の下を這いまわって軍人さんの脚をつねてまわった」』とある。しかし、翌日の条に、『ハーン家において再会した一家が食卓を囲』んだが、早速、『その夜、チャールズとローザのあいだに激しいあらそいがあった』(父チャールズの妹(三女)スーザンの日記に拠るとする注記がある)とある。この年の最後に、『暗い北海の風土を嫌い、英語もたどたどしいローザは精神が不安定となり、時に激しい発作にかられて二階から身を投げようとしたり、子供に当たったり、暗く沈むことが多くなった。チャールズはボートベロー兵舎近くの村ダンドラムに母子を住まわせた』。『小泉セツは後年、E・ウェットモア夫人』(エリザベス・ビズランド・ウェットモア (Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年)はアメリカの著名なジャーナリスト・編集者で、ニューオーリンズで新聞社『ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット』( New Orleans Times Democrat )に勤めた際、既に記者メリカ在住中の小泉八雲と知り合い、以降、生涯、親交を結び、八雲の没後には、英語による伝記を執筆したことでも知られる。詳しくは、当該ウィキを見られたい)『に、生前のハーンの言葉を次のように伝えている。「私、四歳[やぶちゃん注:恐らく数えで答えている。]の時でしたと思います。ある日、大層いたずら致しました。ママさん立腹で、私の顏を打ちました。その時、私ママさんの顔をよく見ました。髪の毛の黒い、大きな黒い眼でした。日本人のような小さい女、ママさんを覚えたようです」』とある。なお、小泉八雲ははっきりした母ローザの面立ちの記憶を持っていなかった。この回想は、そうした一瞬のカットの瞬時映像のそれである。実際、後の八雲は、親族とは殆んど関係を持たなかったが、翌年に生まれる八雲の実弟に手紙して、何とかして母の写真を探し出して貰うことを頼んでいる。実は――怒った母の黒い眼の映像だけ――が彼の唯一の「母の記憶」であったのである。

 而して、翌一八五四年四月二十一日、チャールズは「クリミア戦争」に従軍したが、その時、『ローザは懐妊していた』のであった。そして、『初夏、』ローザは『ハーンを』を可愛がって呉れた親族の女性『ブレナンの援助でセリゴ島に帰』った。ローザは、その島で八月十二日に、八雲の実弟ダニエル・ジャームズ・ハーンが生まれた。同年末尾には、『ローザには子供を見棄てるつもりはなかった。ハーンは弟ジェームスに手紙を書いて、「母に対する不実な言葉を信じてはいけない。母はできるだけ君を愛したのだ。どうしようもなかったのだ」と慰めている』とある。

 一八五五年は解説のみであるが、小泉八雲の生活史の中でも最も重要な箇所であるので、前掲年譜から全文を引く。

   《引用開始》

一八五五年(安政二年)五歳

 父母と離れて、大叔母ブレナン[やぶちゃん注:父の母エリザベスの妹で、カトリックに改宗した未亡人サラ・ホームズ・ブレナン(Sarah Holmes Brenane)。]のもとで生活をする。繊細で、神経質な幼年時代を回想して、後年まで強い印象を残しているのは、恐怖の体験であった。「私が子供の時、悪夢が私にとっては実際の形状と明瞭さを帯びて現われた」[93106]。夢魔の恐怖は後に、自伝的断片「夢魔の感触」「(『明暗』)で詳細に語られる。夜の世界は十歳の頃までつづく。

 また楽しい想い出として、「ブレーネン大叔母の許に居た間は年々誕生日には御馳走され、蠟燭を立てて祝って貰った。それで六月二十七日が自分の誕生日である事をよく記憶している。誕生日がすむと間もなく、海岸へ大叔母に連れて行かれるのが例であった」【小泉一雄(一九五〇)九一―九二】。海岸はウォーターフォード州のトレモアや、ウェールズのバンゴー、そして叔母キャサリン・エルウッド夫人の住むメイヨー州ラウ・コリップ地方であった。「私は少年の頃に人々から『君は会場に乗り出すことはできない、そんなひどい近眼では……』と忠告されて、大いにだだをこねて泣き叫んだ」[9520]。

   《引用終了》

ここに出た『自伝的断片「夢魔の感触」「(『明暗』)」とは、一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された来日後の第七作品集“ SHADOWINGS (名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ・第二パート“ JAPANESE STUDIES (「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“ FANTASIES の第五話目に配された作品で、原題は“ NIGHTMARE-TOUCH (「夢魔の接触」)である。私の「小泉八雲 夢魔觸 (岡田哲藏譯)」を見られたい。但し、この岡田氏の訳は佶屈聱牙で、今一つ、好きになれない。なお、以上に出る重要な大叔母は、八雲の祖父の妻で、姻族に当たるので、同年譜の下方に出る『ラフカディオ・ハーン系図』には載らない。

 続く一九五六年(八雲六歳)では、父チャールズがダブリンに帰宅し、その途中、彼は、嘗つての恋人(未亡人)に偶然、逢った。この女性はアリシア・ゴスリン・クロフォードという名で、ギリシャに行く前、彼が求婚したものの、相手の両親が反対したために諦めた人物であった。されば、彼は、再び、『彼女との結婚を求めて、ローザとの離婚をはかることになる。大叔母はこれに反対した。この頃、父に連れられて、「髪の毛がきらきら光った、全身白いドレスをまとった」「天使のように美しい」婦人に会った時の思い出が』書簡にあるとし、『クロフォードの意地の一人ウェザオール夫人は、この頃会ったハーンの様子について、「長く細い黒髪を顔の両側に垂らし、飛び出た近視の眼をして、夢見るような放心した表情をして、人形をしっかり握っていた」という』とある。

 翌一八五七年(八雲七歲)の一月一日、『新離婚・結婚訴訟法が発効し、離婚申し立てが容易にな』り、『これにもとづいて、チャールズによって』ローザとの『結婚無効の申し立てがなされ、受理される』とあり、七月十八日、チャールズは先に示したアリシアと結婚している。結婚式の『証人の一人は弟リチャードである』とある。そこに、『ハーンはリチャードについて、「大きなひげをはやしていたこと、つげのこまをくれたこと、大叔母が彼のパリでの生活ぶりを嫌っていたこと」を憶えている』とある。リチャードは画家であった。『大叔母はローザとの離婚を怒り、チャールズを遺産相続人からはずし、彼への貸金(六〇〇ポンド以上)を返済させた』とあり、それに続いて、『七月、トレモアの海岸で夏を過ごしている時、海岸であったのが、父を見た最後である。障害で五度会っただけという』とあり、その後の、八月四日の記事の後に、八雲の母のことが記されてある。『〔ローザはセリゴで船会社オーストリア・ロイドの代理人であったジョン・カバリーニと結婚する。〕』とあった。ここには、まだ、八雲が憶えている話が載るのだが、先に進まないので、涙を呑んで、やめることとした。

 一八五八年(八雲八歳)の項の第二段落。

   《引用開始》

 ハーンの学校前の少年時代は、夏の明るい幸福感に満ちた短い日々と、冬の暗い恐怖につつまれた長い夜々の交代であった。家族じゅうでウェールズのバンゴーで過ごし、はなやかな避暑地の社交のなかで可愛がられ、カーナボンの城を訪れ、時にはコイント出の乳母と二人きりで、東洋の珍品あふれた航海者の別邸で過ごしたこともあった[9475]。また叔母やキャサリン・エルウッド[やぶちゃん注:祖父ダニエル・ジェームズの長女。父ジェームズより二十歲年下。]の住むメイヨー州コングの町で、従兄たちと三四七エーカーの農園で遊んだ様子が、「ひまわり」(『怪談』)という作品で、ウェールズに場所を移し変えて語られている。「夏の日の夢」(『東の国から』)の追憶の場面の多くは、エルウッド夫人を中心としている[9444]【ケナード(一九一二)三三――三四、四一】ともいわれ、また地中海を母とともに渡った時の原風景ともいう。そして長い冬の雰囲気は、大叔母の厳格きわめる宗教的訓練と合わせて、恐怖の叫びと嫌悪に満ちていた。「カズン・ジェーン」と呼ばれた少女の生と死は、ハーンの体験の一つの極となる(「私の守護天使」、「偶像崇拝」、「本意なき精霊たち」)。「一八五八年から母のことはきいていない」[9002]。

   《引用終了》

『「ひまわり」(『怪談』)』原題“ HI-MAWARI ”は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things ”。来日後の第十作品集)の十六話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。私の「小泉八雲 日廻り (田部隆次譯)」を見られたい。

『「夏の日の夢」(『東の国から』)』来日後の第二作品集「東の國から」(原題は“ OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)本篇「夏の日の夢」(原題“ THE DREAM OF A SUMMER DAY ”。「或る夏の日の夢」)は、本書が初出ではなく、これ以前の明治二七(一八九四)年七月二十八日発行の英字新聞『ジャパニーズ・ウィークリー・メイル』紙( Japanese Weekly Mail )に投稿したものである。私の『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集「東の國から」(正字正仮名版)始動/ 献辞・田部隆次譯「夏の日の夢」』を見られたい。

「私の守護天使」と「偶像崇拝」は、国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集 第十二卷」(昭和二(一九二七)年第一書房刊)のここの「自傳斷片」で、二篇を田部隆次氏の訳で続けて視認出来る。

一八五九年(八雲九歳) 冒頭に『大叔母ブレナンが生活の中心をダブリンのアパー・リーソン通り七三番地に移す』とあり、その後に、のちに大変なことになる大叔母ブレナンの相続関係の記載が載るが、引用が膨大になるので略す。

 ここで一八六三年(八雲十三歳)まで飛ばすと、八雲は『九月九日』、『ダラム市近郊のウショー』(Ushaw)『にある聖カスバート校』(St Cuthbert's College)『に入学する。聖職教育を目的とし、当時三百人の生徒が在学していた』。『ハーンはその厳正な宗教教育に反発し、聖書の真理に疑問を投げかけ、告解で女性の誘惑を求めていると語り、ギリシアや北欧神話を題材にした文学を愛読するなど、活発な生徒として自由な精神を養った』とある。

 一八六四年(八雲十四歳)の十一月一日の記事を部分引用する。『学校の教科はラテン語中心で、わずかなギリシア語、英語、そして知識中心の古代史、地理数学であった。ラテン語、ギリシア語、数学が不得手で、フランス語も後年の翻訳を予想させるものはなかったが、英語は三年間クラスのトップクラスだった』とあり、『学校ではいつも「パディ」と呼ばれていた。家族のこと、住まいのことを語りたがらなかった。「彼は後になると旧家のあいだもウショーを去ることは決してなかった」』とし、『集団的ゲームに関心をしめさなかった』とある。

 一八六五年(八雲十五歳)には、『「少年の頃、芝生に横になり、夏の青空を見上げて、その中に溶け込み、その一部になりたかった。こんな空想には汎神論の愚劣と邪悪を説いた宗教主任教師に意図せざる責任があると思う。私はこの時、弱冠十五歳にして汎神論者となった。私の想像は私を誘って大空を遊び場とするだけではなく、空そのものになりたかった」(「偶像礼拝」)』と八雲の言葉のみが、ある。この「偶像礼拝」は、一八五八年の箇所で示したものと同名であるが、これ、何度読み返しても、以上の引用と一致するような文章部が、全く見出せない。実は私は恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』(全十五巻)を所持していないので、何んとも、答えようがない。取り敢えず、先程、古書店に、急遽、全巻揃いを購入契約した。入手後に確認して追記をするので、今少し、お待ちあれかし。【2016年1月30日追記】同著作集を入手したが、豈図らんや、全く、解決に至らなかった。私は、複数のプロジェクトを並行して作業しており、これに何時までも熟考する暇がない、向後も、気にかけては、おく。何か、御存知の方は、是非、御教授下さると、助かる。

 一八六六年(八雲十六歳)には、『九月、第三学年への進級に失敗する。寄宿舎、教室、図書室その他、学校生活すべてにわたって友人たちから隔てられる。』とあり、この年、『「ジャイアンツ・ストライド」と呼ばれるゲームで、飛んできたロープの結び目で左眼を打つ(友達の拳ともいう)』とある。この“giants stride”とは、私の鎌倉市立玉縄小学校にもあった「回転遊木(かいてんゆうぼく)」と呼んでいた「回旋塔」で、それは円形のグリッドであったが、ここで言うのは、繩或いは鎖が上からぶら下がっていて、そこに吊り輪があり、それを摑んで複数の者が回転する遊戯である。英文サイト“ Sweet Americana Sweethearts ”の“The Giant Stride by Shanna Hatfield)がよい。例画像四種の最後の二枚が、最も近いものである。この遊技は、少なくとも本邦では、現在、危険な遊具として禁止され、まず、見ることは、ない。事実、私の小学校では、私が五、六年の時、幼稚園児の女の子が、これにぶら下がっている最中、中央の回転軸塔が根元から折れ、遊具全体の下敷きとなって亡くなっている。新聞に、優しかった亀井教頭先生が警官か記者に説明している写真と記事が、新聞の湘南版のページに載っていたのを強く記憶している。続けると、『ダブリンで手術をするが』、『失敗し、左眼を失明する』』とあり、『「私は左眼を失って恐ろしく醜くなっています」』と書簡で述懐している。これが、後天的な身体的ハンディとして彼の生涯の心傷(トラウマ)として沈殿したことは言うまでもない。なお、この年の『十一月二十一日』、『父チャールズがマラリアを病んで除隊し、インドより帰国する途中、スエズ運河を通過』中、『船上で死去』し、『水葬される』とあった。ともかくも、八雲のウィキにある通り、『父親には』終始、『嫌悪感を、母親には生涯に渡って思慕の念を抱いていたという』とあるのは、全くの真実である。謂わば、これこそが、彼が背負った最大の心傷として、生涯を貫き刺したのである。なお、ここに本文ウィキの『1866年 まだ片目を失明して間もない16歳頃の写真』というキャプションのあるものを、以下に掲げておく。無論、パブリック・ドメインである。

   

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 一八六七年(八雲十七歳)九月、大叔母ブレナンが、『ほとんど全部の資産を』突如、失ってしまう。八雲曰く、『「私の親戚の一人の相場師のために金持ちから貧乏になって」』、『「ロンドンの』『冒険家に破産された」』、『財産も没収された」』『と記しているように、ハーンはこの間の経過をくわしく知っていた』とある。

 さればこそ、同年『十月二十八日』、『聖カスパート校を学期中途』の『人文学の第三学期』に『退学』している。八雲曰く、『「カトリックの学校(複数形)で数年たいへん不幸な日を送った」』と回想し、『「英国の学校は乱暴で諸運教育にふさわしくない。頑固な宗教的保守主義が無益な修業を課す」』と述べている。この後に編者の長い補論がある。引用しないが、是非、読まれたい。

 以下、年譜は細かに続くが、ここは、八雲のウィキの『フランスの神学校で教育を受け、この時期にフランス語が得意になる。アイルランドに戻り、イギリスで3番目に歴史が長い名門大学 ダラム大学』(Durham University)『で教育を受けた後、1869年に渡米』したという引用で、ここの注を閉じる。ともかくも、彼は、心的には、この時点で、すっかり独りぼっちのVagabond (フランス語:音写「ヴァガボン」:放浪者)となってしまうのである。

 

 三十八歲の時ハ-パー書肆の文學寄書家として西印度マルチニーク島に航し、一たんニユーヨークに歸つたが、翌明治二十三年三月(西曆一八九〇年)四十一歲の時同書肆の依囑によつて東洋の日本に向い、四月十三日橫濱に上陸した。八月の末松江に着き、松江中學の敎師となり、その翌年二月頃小泉節子と結婚してはじめて家庭の人となつた。斯くて明治二十四年十一月、松江中學校敎師を辭して熊本第五高等學校に轉任し、ついで明治二十七年十月熊本高等學校を辭して神戶クロニツクル社記者となり、翌年の秋歸化して小泉家入夫[やぶちゃん注:「にふふ(にゆうふ)」。]の手續を完了して小泉八雲となつた。明治二十九年八月東京文科大學講師となり、明治三十六年三月まで敎鞭をとり、明治三十七年四月旱稻田大學に轉職したが、同年九月二十六日、心臟麻痺のため五十五歲をもつて東京府下豊多摩郡西大久保村二六五番地の寓居に歿した。墓は東京市外雜司ヶ谷墓地にある。戒名は正覺院殿淨華八雲居士である。

[やぶちゃん注:以下は、前注の終わりと同じく、簡便にするために、本邦の小泉八雲のウィキと、英文の“Lafcadio Hearn”のそれを参考に、恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の「年譜」で補足して箇条型で示す。私が日本語を文を加工したので、引用符は、一部を除いて、その「年譜」からの引用以外には、附さない。

一八六九年(十九歳) リヴァプールからアメリカ合衆国のニュー・ヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く。そこで『印刷やヘンリー・ワトキンを知り、仕事を教えられ、やっと夢を織る場所が与えられる。公立図書館で毎日のように本を読』むようになる。書簡に拠れば、『「暇を見ては本を読み、物語を書きました。書いた作品はもうとうにつぶれた安っぽい週刊誌に載りました。原稿料は一度ももらえませんでした」』とあり、『「十九歳から二十一歳までのあいだ、懐かしい『ボストン・インベスティゲーター』』(“ Boston Investigator ”)『に寄稿していた」』とあり、物書きとしての小泉八雲のルーツは、ここにあるようである。

一八七〇年(二十歳) 『この頃、シンシナティのユニテリアン』協会(the American Unitarian Associationのユニタリアニズム(Unitarianism)とは、キリスト教の正統派の教義の中心とされる「三位一体(父と子と聖霊)」の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称を指し、イエス・キリストを宗教指導者として認めるが、彼の神としての超越性は否定する思想で、一般のキリスト教会は「異端」とする。同協会は一七九六年に、イギリスからアメリカに移住したジョゼフ・プリーストリーが、ペンシルバニア州フィラデルフィアで知識人十二人を指導して最初のそれを創設した。後、一九六一年に「アメリカ・ユニテリアン協会」は「アメリカ・ユニヴァーサリスト教会」と合併、「ユニテリアン・ユニヴァーサリスト協会」を設立している)『の牧師トマス・ヴィーカーズの指摘秘書として、周三ドルの報酬で』、『おそらくフランス語の翻訳の仕事をする』とあり、また、この年には、『ボストンの週刊誌「ボストン・インベスティゲイター」に「フィアット・ルクス」(「光あれ」の意)の筆名で投稿する。』とある。

一八七一年(二十一歳) 『一月十三日』、大叔母『サラ・ブレナンが卒中でトレモアで死去する。「私は五〇〇ポンドの年金を遺言書で受け取ることにあっていた。⋯⋯』が、しかし、ブレナンが信頼していた遺産相続を担当した人物からは、手紙で、『私に送るものがたくさんあるなどと言い、自分が唯一の遺言執行人になったと言いながら、遺言書につては一言も触れていなかった。⋯⋯手紙を書いたが、たぶん不興をかったのであろう、二度と連絡はなかった』』と書簡にある。八雲は受けるべき正当なものを総て横領されたのであった。この年、とある『印刷所で通信係をする』とある。

一八七二年(二十二歳) 『この年の初め頃、「シンシナティ・トレード・リスト」誌』(“ Cincinnati Daily Enquirer”)『の創刊に当たって共同所有者兼編集者』の『編集助手となる』とある。八雲はこの時知るまでもないが、『五月二十五日』、『母ローザがコルフ島の国立精神病院に入院する。その死まで退院することはなかった』とある。『夏頃』、ある『出版者の植字工兼校正係となる』とあり、それによって『その地方の印刷業組合の一員に加えられていた』とある。『十一月、「シンシナティ・インクワイヤラー」紙の編集室を訪ね、主筆ジョン・A・コッカレルに会う。持ち込み原稿に金を払うこともあると言われ、編集者の机に現行を置くと草々に立ち去ったという』(コッカレル自身の一八九六年の書籍に拠る)とあり、『以後、同誌の有力な寄稿者となる』とあり、最後に、現在、分かっている同紙に彼が執筆した記事の数が、この年から一八七五年六月までで三分割で記されており、それは計二百五十三篇に登ることが判る。まさに本格的な「物書きハーン」となっていたのである。

一八七三年(二十三歳) 『九月以降、不定期的であるが、文学の新刊書評、美術の展覧会評を書くようになる』とある。また、『この年の終わり頃、自由恋愛の㸃商社ヴィクトリア・ウッドフルに共鳴する。十二月には神霊術への関心を深め、N・B・ウルフ博士『現代神霊術の驚くべき事実』を読み、占星術師ラファエ夫人などいかがわしい占師の詐術を実見し、あばくようになる』とあり、また、『カトリックの活動が社会問題化する中で、宣教師たちの活動を冷たい眼で見ていた』と記す。

一八七四年(二十四歳) 『この年の初め頃、インクワイアラー社に正式社員となり』、先の『校正係をやめる。コッカレルの事務所に机を与えられる』とあり、また、『この頃、競争紙「ガゼット」の記者ヘンリー・E・クレイビール炉の交友がはじまる。また、フランス文学の翻訳に没頭し、視力が一層弱くなる』と記す。また、この年の中『頃、墓地や骸骨など、恐怖趣味に関する探訪を試みる。また、画家の友人フランク・デュベネックの誘いによって、女性の裸体美、理想美を求めて』、『アトリにでかけ、モデル嬢を文章でデッサン』したりしている。『十一月七日』、猟奇的な殺人事件『「タン・ヤード事件」』が起こり、『友人と』『ともに現場へ駆けつけたハーンの記事は、その恐るべき事件の詳細を描ききって、センセーションをひき起こし、記者としての名を確立する』とある。この事件は、「小泉八雲記念館」のInstagramのここで、解説を見ることが出来る。なお、本文に出る

「鞣皮所の殺人」(なめしがはじよのさつじん(なめしがわのさつじん))

というのが、この「タン・ヤード事件」の記事で、「年譜」の下段(八雲の著作欄)に、初回が十一月九日掲載の『「皮革制作所殺人事件」』以下に連載された記事名が確認出来る。

一八七五年(二十五歳) 『下宿で料理人をしていた』アルシア・マティ・フォリー(Alethea "Mattie" Fole)『と結婚を考えるようになる』。彼女は『一八五四年二月四日、ケンタッキー州メイスヴィルで白人農場主と奴隷女』性『のあいだに生まれ』た。『一八六八年八月』に『男児』『を出産』しており、相手は『スコットランド人という』。以下、彼女及びハーンの関係について、十六項目もの証言が載っている。しかし、オハイオ州では、当時、黒人との結婚は違法であった。二人の正式な結婚届け出が受理された形跡はない。結婚式は、最初に頼んだ牧師から拒絶され、次に依頼した黒人牧師が司式を行った。しかし、『二人の同棲生活は数カ月で破綻』した。マティとの結婚も一因となり、ハーンは『七月、インクワイアラー社を退社する』(英文ウィキでは「解雇される」とある)。『八月』、インクワイアラー社のライバル会社だった『「シンシナティ・コマーシャル」紙』(“ Cincinnati Commercial ”)『に寄稿を』始めて、『十二月から翌年の三月までのあいだに、同誌の正規の記者になる。』末尾に、一八七五年九月から一八七八年四月までの寄稿数が記されており、合計百六十四篇である。また、『他に風刺画の挿絵多数』と付記されてある。なお、本文に出る、

「都市の鳥目觀」

というのは、「年譜」の下段に一八七五年五月二十六日に『「尖塔に登って」』とある記事が、それであることが判った。それが判明したのは、国立国会図書館デジタルコレクションで検索を繰り返す中で見出した小泉八雲著・佐藤春夫譯「尖塔登攀記 小泉八雲初期文集」(白水社昭和九(一九三四)年刊)の中の表題作名に拠ってで、★ここから、読むことが出来る。これも、と言うより、一冊総てを、後に電子化注したく思っている。

一八七六年(二十六歳) 『四月下旬のある日、パーティで地元の医師の妻エレン・R・フリーマンと会い、エレンの息子が集めている考古学の蒐集品の展示会についての記事を書くことを依頼される。このことをきっかけに親密な手紙のやりとりがはじまり、贈り者をしたり自宅に誘うなど、夫人の積極的な愛情がハーンにそそがれる。ハーンは適当な距離を置きながらも、深みにはまることを避けつづけるが、十月頃、藤Kなら送られた写真に対して、ハーンが残酷な批評をしたことから、ハーン宛の手紙がすべて送り返され、二人の交際は終わった』とある。この年の記事はこれのみである。

一八七七年(二十七歳) 「年譜」冒頭に、『夜業の合間に、一律商業図書館にこもってゴーチェの物語の翻訳をはじめる』とある。而して『この秋、マティとの関係が破局を迎える』として、経過が記されてあり、『マティはハーンを捨てて町を出、ハーンもその留守にこの街を出る決心をして、十月のある日、コマーシャル社を退職』した。その後、シンシナティの公害による目への悪影響を避け、ニューオーリンズへ向かった。「年譜」では、その途中のメンフィスでの記載が、かなり語られてある。ニューオーリンズ着は十一月十二日で、その後、なかなか就職活動が上手くいかなかった。

一八七八年(二十八歳) 『ニューオリンズの伝説の教父アントワーヌの聖なる棕櫚(しゅろ)の樹の発見、クレオールの俗謡の収集と翻訳、そして旧市街の人々の生活を描くことに熱中し、東洋や西欧の物語の翻訳、創作にいそしんでいたが、デング熱(骨痛熱)にかかる。そして、三月、四月と不本意な政治的記事を書いて、かろうじて食いつないでいう。体が衰弱し、視力がひとく衰えてくる。』とあり、続いて、『「石のような盲目」にたって、金もなく、友もなく、医者に運ばれた。友はただ一つ』、『回転拳銃だけで、医者が治療に失敗したら使うつもりだったという』と凄絶な記載がある。『四月、「コマーシャル」』紙』『の通信員を辞める』が、事実としては、『稿料の遅れのことから、激しいやるとりののち』、『解雇された』のであった。病気の方は、「瓢簞から駒」で、『五月』、『骨痛熱にかかったことで黄熱病はまぬがれ』、マラリアもドイツ人の薬剤師にゴマ油をどっさり飲ませられて治り、骨痛熱の再発にはレモン汁をすすって耐えぬく』『など、荒っぽい治療で病気を克服して』いった、とある。しかし、五月から六月に至り、『困窮の極』み『に到る』とあって、書簡には「『二日に一度くらい五セントの食事――明はどこに宿をとらせてもらおうかと案じ煩うこともあるぐらいだ」』と記している。辛くも、『六月十五日』、知人の世話で『ニューオリンズ・アイテム社』(日刊紙“ Daily City Item ” を発行)『で副編集者の職を得る』とあり、仕事は『一日三時間、事務所につめて、記事を書き、校正をする、後は自由な時間という職場』で、『ハーンにとって天国であった』とある。

一八七九年(二十九歳) 『「アイテム」』社『で副編集者として健筆をふるうにつれ、ハーンの力量は認められるが』、『負担も多くな』った。昇給したものの、『勤務時間は』十『七時間にも及ぶようにな』った。彼には『新聞記者以外によって生活の安定を得たいという思いは、貧窮の最中の前年二月頃からあった。そこで、彼は、皮算用で、百ドルの貯金を目論み、『三月二日』、『なんでも五セントのレストラン「不景気屋」を開店する』に至った。経営するも、見事に失敗、『三月二十三日』には『閉店する。』但し、『相棒が売り上げ金を逃げ出したからである』とは、ある。この後に、編者による彼のクレオール文化関連等の論考がある。非常に鋭いものである。是非、見られたい。

一八八〇年(三十歳)の「年譜」の最後に『五月以後、ハーンは「アイテム」紙だけではなく』、同地の『「デモクラット」紙』(日刊紙“ Times Democrat ”)にも投稿をはじめている。ハーンの記者としての評判が高く、一つの新聞にとどめえなかったとも言える。しかしそれではなく、ニューオリンズにおける新聞界再編の動きがはじまっていて、ハーンもその動きに乗っていたと考えられる。「デモクラット」紙の記事は、いずれもフランス文学の翻訳か「海外情報」のコラム名によるはなやかな新しい文学の紹介である。」とある。

一八八一年(三十一歳) 『十二月二十八日』、『「タイムズ」紙と「デモクラット」紙の合併が発表される』とあり、八雲は『「タイムズ・デモクラット」の文藝部長として、日曜版を中心に執筆する』とあり、最後に一八八二年から一八九四年十月までの彼の寄稿数がか示されており、その総計は、実に四百九十三篇である。

一八八二年(三十二歳) 「年譜」冒頭に『ハーンの関心が東洋関係の神話や文学に集中されるようになる。』とある。『十一月、東洋の伝説集(後の『飛花落葉集』)をスクリプナー、オズグッド者に出版を依頼する』とある。『十二月』本邦のウィキでは、ここに、『この時期の彼の主な記事は』、『ニューオーリンズのクレオール文化、ブードゥー教など』であったとする。また、この年、彼にとって後半生に於いて重要な人物となる才媛との邂逅があった。『この冬、エリザベス・ビスランド』(Elizabeth Bisland :後に結婚し、Wetmore 姓を名乗る)『を知る。「死んだ恋人」を読んで心を引かれ、ジャーナストを志してニュー』・『オリンズにやってきた十八歳の才気ある美少女は、その時「タイムズ・デモクラット」の婦人記者であった』とあるのが、その人である。彼女については、邦文ウィキを参照されたい。以下、一年、飛ばす。

一八八四年(三十四歳) 「年譜」冒頭に、『この年から八六年までの三年間は、これまで培ってきた才能が一斉に開花し出し、民俗学という広大な分野を与えられて、その主題も生きてくる。だんだんと新聞を翻訳発表の場に利用し、まとまったテーマはゆっくりと時間をかけて、雑誌に発表するようになるが、その前の最も充実した一時期である。六月の『飛花落葉集』の出版』(オズクッド社刊)『は一つの目標を達成し』、メキシコ湾にある『グランド島での』八月末から一ヶ月余りに亙った『夢のような休暇ののち、ハーンは創作のなかに大きく踏み込んでゆく。まさに転換の年である』とある。

一八八五年(二十五歳) 「年譜」冒頭に、『一月から二月にかけて、ハーバー社のために』ニュー・オーリンズで開催された万国『博覧会の記事を書くことに忙殺される。特に日本館の美術および教育に関する展示品七〇四点が興味を引き』、『医学者高峰譲吉と出会い』、『日本政府から派遣されていた』農商務省官僚『服部一三と緊密な交渉かった』とある。本邦のウィキは、これを前年の項に記しており、誤りである。この年の四月から五月上旬にかけて、友人とフロリダ旅行に出たが、『旅行中』、『マラリアにかかり、帰宅後』、『発熱して、二週間』、病床に臥す。この時、看護して呉れた人々の中に『洗濯女のルイーズ・ロッシュ』がいたが、五月の項の終わりに、八雲は『博覧会の時に見た日本を取材してみたい思いがあり』(☜重要!)、『一方で、民族音楽の宝庫である西インド諸島への憧れ』『が交錯する』とあり、それについて、先の看護してくれた『ルイーズ・ロッシュは豊かな民謡の伝承者であった』とあるのも、見逃せない。

一八八六年(二十六歳) 「年譜」冒頭に『この年は『チタ』の執筆に集中した年であり、その創作にかえる意欲が高揚した気分をもたらし、新聞への寄稿も充実安定している』と記す。「チタ」は‘ Chita: A Memory of Last Island ’(彼が推敲に拘った結果、大きくズレ込み、一八八八年四月刊行となった)で、後年、多くの作品とカップリングされ、「仏領西インドの二年間」(‘ Two Years in the French West Indies ’: 一八九〇年刊)の中に組み入れられた。

一八八七年(三十七歳) 「年譜」に『二月、新聞記者生活をやめ、ハーバー社の寄稿者として作家生活に入る決心をする』とある。『六月五日』、『シンシナティ時代の記者仲間テニュスン、そしてビスランドに会』い、『成長したビスランドの美しさに魅了され』たとある。『七月上旬の日曜日〔十日か〕、夜明けにイースト・リヴァ四九埠頭から、バラクータ号でトリニダットに向け』、第一回目の西インド諸島への旅に『出発する』。その後、多島海の島々を廻り、『サン・ピエール』(Saint-Pierreここ。グーグル・マップ・データ)『に腰を据える。青い海、美しい混血の娘、夢のような町で過ごす。トリニダットでは、クーリーの村の娘たちがするような腕環を銀細工師に造らせ、ビスランドへの贈り物にする』とある。彼のビスランドへの恋情は、モノホンと言う感じが、既に、する。九月中旬、ニュー・ヨークに着く。九月末、一回目の『西インド諸島旅行の原稿が七〇〇ドルで売れ、これをもって、すぐにサン・ピエールに引き返す支度にかかる』とあり、『前の旅では』、『行く先々で写真を買わなければならなかったこと、混血の人々の分類、特にその髪型に関心をもっていたことから、カメラの必要を考え、一〇六ドルを出して』『「ディクラティブ」という当時の最高級品』を『購入する』とある。『十月二日』、再び『バラクータ号に乗船、サン・ピエールに向かう。会わずに出発するハーンをなじるビスランドに、署名の別れの手紙を書くが、最後まで会うことはしなかった』とある。彼女の方も、まんざらではない感じがするが、寧ろ、八雲の素直でない様子には、私は、女性に対する根本的な、ある種のアンビバレントなものを強く感じる。十二月の記載に、大枚を払った『カメラを十分に使いこなせず、とうとう地元の写真屋と契約する。カヌーと少年の話、高地の墓、熱帯の森と神社』(信仰の聖なる建造物とでもしないと、激しい違和感がある)『など、興味を引く題材を小品に仕上げようとする』とある。最後の部分で、編者が、滞在中の彼の女性関係について纏めている。『マルティニーク滞在中のハーンの身近にある女性の姿を伝えているのは、モン・ルージュに移ってから』津人『宛に書かれた十二月五日の手紙である。――私には、町に一人の「肉体美」(ドドン)』(現地語であろう)『がいるので、女はいらないと書いている』とし、最後に、『ハーンが借りた山小屋の老主人カプレスには、ハーンに山を案内してくれた背の高い息子イエベと、オレンジの肌の娘アドウがいた。この娘や、下宿先の娘などとの恋愛説もあるが、これらの女性たちは、ハーンの身辺を知る身近な人々であったと理解するだけで十分だろう。』と締め括っている。因みに、私の所持する恒文社版平井呈一「小泉八雲作品集」(全十二冊・一九六四年~一九六七年・所持するのは総て初版である)の「仏領西インドの二年間 上」(全原題は‘ Two Years in the French West Indies ’)の「洗濯女」の一節に、『背の高いカプレス』が、洗濯に来た十八、九の娘たちに、いたずら半分に声をかけるシークエンスがある。この『カプレス』は青年と思われるが、実際には、カプレスの子イエベがモデルであろう。小泉八雲は、来日後の作品でも、わざと実際の名前を、別な名や性別に書き換える傾向が、随所に見受けられる。それは、実在のモデルを判らなくして、特定されないようにする優しい配慮の働きでもあるのである。さて、西インド諸島滞在は、翌々年の四月まで続いた。

一八八九年(三十九歳) 二月に「ユーマ」(‘ Youma, the Story of a West-Indian Slave ’)を脱稿している。「年譜」に拠れば、『五月一日』、『ニュー』・『ヨーク行きの船に載る』とあり、同月五日にはアメリカに着いていた。『十月中旬、ビスランドの自宅』『で弟妹と一緒に夕食をとる。ビスランドへの恋心がつのる。』とある。以下、余りにも注が長くなったので、ウィキの「小泉八雲」の年譜で簡略化する(注記号はカットした)。

一八九〇・明治二十三年(四十歳) 『ネリー・ブライと世界一周旅行の世界記録を無理やり競わされた女性ジャーナリストのエリザベス・ビスランド(アメリカ合衆国でのハーンの公式伝記の著者)から旅行の帰国報告を受けた際に、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかを聞き、ハーンが生涯を通し憧れ続けた女性でもあり、年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬していたビスランドの発言に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意する。なお、来日の動機は、このころ英訳された古事記に描かれた日本に惹かれたとの説もある』。『ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り、44日横浜港に着く。その直後、トラブルにより契約を破棄する。横浜では、1887年にハーンが『ハーパース・バザー』に発表した「Rabyah's Last Ride」の熱烈な読者だった在日英国人学校ビクトリア・パブリック・スクール校長のチャールズ・ハワード・ヒントンがハーンを家に招き』、『同校での教職も与えたが、ヒントンの妻がハーンの隻眼を嫌がり決別する。なお、ヒントンの妻のマリーは、数学者ジョージ・ブールと』、『やはり』、『数学者のマリー・エベレスト・ブール(エベレスト山の由来となったジョージ・エベレストの姪)との間の娘である。このときのハーンの教え子にエドワード・B・クラークがいる』。『7月、アメリカ合衆国で知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡旋で、島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられる』。『830日、松江到着』。

一八九一・明治二十四年(四十一歳) 『1月』、『一人住まいのハーンの家に、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子(186824 - 1932218日)が住み込み女中として雇われる。二人はすぐに惹かれあい結婚する。同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川』(ひかわ)『郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(1940年、国の史跡に指定)』。『11月、チェンバレンの紹介で、熊本市の第五高等中学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師となる。長男・一雄誕生。熊本転居当時の家は保存会が解体修理を行い、小泉八雲熊本旧宅として復原され、熊本市指定の文化財とされた』。

一八九四年・明治二十七年(四十四歳) 十月、『神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する』。

一八九六年・明治二十九年(四十六歳) 『東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職』。『日本に帰化し』(「小泉八雲」として入籍したのは二月十日)、『「小泉八雲」と名乗る。秋に牛込区市谷富久町(現・新宿区)に転居する(1902年の春まで在住)』。

一八九七年・明治三十年(四十七歳) 『 二男・巌』(いわお)、『誕生』。

一八九九年・明治三十二年(四十九歳) 『清』(きよし)、『誕生』。

一九〇一年 ・明治三十四年(五十一歳) 『妻セツの養家である稲垣家を二男・巌に継がせるため、巌を義母・トミの養子にする』。

一九〇二年・明治三十五年(五十二歳) 三月十九日、『西大久保の家に転居する』。

一九〇三年・明治三十六年(五十三歳) 『東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)、長女・寿々子誕生』。

一九〇四年・明治三十七年(五十四歳) 三月、『早稲田大学の講師を務め』たが、同年

九月二十六日、『狭心症により』、『東京の自宅にて死去、満』五十四『歳没。戒名は』「正覺院殿淨華八雲居士」。『墓は東京の雑司ヶ谷霊園』にある。私は、神奈川県高等学校国語教諭を拝命した翌日、雑司ヶ谷の夫婦塚に墓参に行っている。]

 

 節子夫人との間にて一雄、巖、淸、鈴の三男一女あり、日本のために書いた著書は十一種の多きに及び、大正四年日本に盡した功勞によつて從四位を追贈された。

[やぶちゃん注:「大正四年」一九一五年。]

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。上中央に金津氏の切り絵があるが、私には如何なる意匠であるのか判らない。当初、家紋のように見えたが、しっくりくるものがない。小泉家の家紋は「鷺紋」であるが、全然違う。見た限りでは、非常にデフォルメされた花瓶かとも思った。左右に大小の葉が四葉、突き出ているからである。しかし、その上の花らしきものは、私には、凡そ、如何なる種であるか判らなかった。識者の御教授を乞うものである。]

 

 

 50.00

昭和25年5月25日印刷・昭和25年6月1日発行・昭和27年5月1日第2版

昭和28年10月 1 日第3版 ・ 著者 桑原羊次郞・發行者 三宅美代治 (松江市

殿町383)  ・印刷者 宮井一雄(松江市殿町383) ・印刷並發行所 山陰新報

   社(松江市殿町383)・定價1册50円・送料8円

 

[やぶちゃん注:最上部の金額は、上記の金津氏の切り絵と同じ紺色で印刷されており、奥附は赤である。奥附の上方の三行は左右が均等貼付で、最終行のみが左合わせになっている。ブラウザでは、上手く原本通りに合わせるのが面倒なので、以上の見せかけ配置とした。

 最後に――ここで私が注した来日以前の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の半生の年譜は、恒文社「ラフカディオ・ハーン著作集」の年譜を引きながら、ネット上で、記事として読めるものとしては、かなり、しっかりとしたものにした積りである。総て、視認でパッチワークしたので、誤りがあるかも知れない。おかしな箇所を発見された方はお教え下さい。

2026/01/27

立原道造草稿詩篇 謎々

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  謎々

 

天使が 僕に謎をかける

⦅右が明るくなつたり

 左が明るくなつたりするものなあに?

⦅ランプの傘――僕が答へる

 森の外側 たそがれ時の 窓硝子

⦅いいえ みんなちがひます

 私の齲齒なのです と

さうして彼は口をあけてみせる

すると なかには

寢坊のすきな中學生がゐる

 

[やぶちゃん注:「齲齒」は音では「うし」であるが、無論、「むしば」と読みたい。]

立原道造草稿詩篇 唄

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。而して、決定稿である詩集『日曜日』は、既にブログで2016年6月13日に「日曜日 (全)   立原道造」として電子化注してあるので、そこから、冒頭の箇所を転写して示しておいた。但し、決定稿では、単に「洋燈」に「ランプ」のルビが打たれている以外は同じである。

 

  唄

 

裸の小鳥と月あかり

郵便切手とうろこ雲

引出しの中にかたつむり

草の上にはふうりんさう

 

太陽と彼の黑ん坊

帆前船と彼の洋燈

昔の繪の中に薔薇の花

 

僕は ひとりで

夜が ひろがる

 

【決定稿】

 

  唄

 

裸の小鳥と月あかり

郵便切手とうろこ雲

引出しの中にかたつむり

影の上にはふうりんさう

 

太陽と彼の帆前船

黑ん坊と彼の洋燈(ランプ)

昔の繪の中に薔薇の花

 

僕は ひとりで

夜が ひろがる

 

[やぶちゃん注:「ふうりんさう」私は、「風鈴草」と言うと、うっかり、偏愛する

双子葉植物綱キキョウ目キキョウ科ホタルブクロ(蛍袋/火垂る袋)属ホタルブクロ Campanula punctata var. punctata

を想起してしまう植物に弱い人種であるが、辞書では、本邦では、

キク亜綱マツムシソウ目オミナエシ科カノコソウ(鹿の子草・纈草)属カノコソウ Valeriana fauriei

とする。しかし、この植物は、私には、それを連想するべくもない。而して、現行では、「風鈴草」は、植物学上は、地中海沿岸地方に原産する植物から改良された観賞用植物であるカンパニュラ属 Campanula の名で呼ぶ、

ホタルブクロ属フウリンソウ(風鈴草)Campanula  medium

を指示する。ウィキの「カンパニュラ」の「栽培種」によれば、『この仲間では最もポピュラーな植物。草丈2mくらいになる二年草だが、秋まきで翌春開花する一年草に改良された品種もある。花色には青紫・藤色・ピンク・白などがあり、上手に育てると、花径10cm近い花が数十輪咲く。標準和名は「フウリンソウ」だが、園芸上は「ツリガネソウ(釣鐘草)」と呼ぶことが多い。』とある。

「太陽と彼の黑ん坊」言わずもがなであるが、まず、後に並置されるフレーズから考えて、「黑ん坊」は「太陽」に対する光らない「月」の換喩であろう。]

立原道造草稿詩篇 (風が⋯⋯)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。初期形と注記に従い、修正前の原型も示した。しかし、この注記を見るに、【修正形】の内容は、全く同じであるから、取り敢えず、「1」のパートが存在しないものとして起こした。ただ、だったら、「1」がなく、「2」の本文だけが、記されてあるという注記を附すのが普通であるのにそれがないのは、或いは、「1」「2」が存在し、編集者が「2」パートの部分をうっかり、修正形と同じものを誤って記した可能性を排除出来ない(既に先行するもの中に注の誤りを私は発見している)。而して、決定稿である詩集『日曜日』は、既にブログで2016年6月13日に「日曜日 (全)   立原道造」として電子化注してあるので、そこから、冒頭の箇所を転写して示しておいた。

 

【初期形】

 

≪小鳥屋の店で 日が暮れる

≪果物屋の店で 夜になる

≪郵便局で あかりがともる

風が時間を知らせて步く 方々に

 

 

【修正形】

 

  (風が⋯⋯)

 

    1

 

風が お客に買ひに來る

 

けれどもみんなどこかへ行つたので

花が 店番をしてゐます

 

 

    2

 

≪小鳥屋の店で 日が暮れる

≪果物屋の店で 夜になる

≪郵便局で あかりがともる

風が時間を知らせて步く 方々に

 

 

【決定稿】

 

 

  風が‥‥

 

《郵便局で 日が暮れる

《果物屋の店で 燈がともる

 

風が時間を知らせて步く 方々に

 

 

[やぶちゃん注:修正形の「1」の冒頭のフレーズ「風が お客に買ひに來る」は、如何にも、意味が採れず、誰もが躓くであろう。不審である。

2026/01/26

立原道造草稿詩篇 田舍で

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  田舍で

 

    I

 

日曜日の落葉は自轉車に乘つてゐる

 

 

    II

 

朝の月が煙草を吸つてゐる

 

 

    III

 

日向に僕が眠つてゐる

いつまでも陽はかぎらない

         (幼年)

 

2026/01/25

立原道造草稿詩篇 古典的な夜

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。同全集の「第六卷 雜纂」のここを元に、初期形を示した。初期形は無題である。]

 

【初期形】

 

  (ためらひながら……)

 

ためらひながら月が魔法使の身振りで光をひろげる、眠つた花の平和の上に、小鳥は時々眼をさます、巢のなかで飛ぶ眞似をするために。(それは夢が重い手を彼等におくからだ。)希臘の彫刻よりも美しい風が吹きすぎる。雲が地上におりて來る。

 時間はとまることなく步いて、そして見つける、すべての綠色は菫色であることを、

 

 

【改稿】

 

  古典的な夜

 

いつもの仕方で氣むづかしい夜が落ちた。……

 

月がためらひながら魔法使ひの身振りで光をひろげる、眠つた花たちの眠りの上に。小鳥はときどき眼をさます、巢のなかで飛ぶ眞似をするために。(それは夢が重い手を彼等におくからだ。)希臘の彫刻よりも美しい風が吹きすぎる。雲が地上におりて來る。時間はとまることなく步いてそして見つける。すべての綠色は菫色であることを。

 

 誰の夢にも句讀點はない。

 

[やぶちゃん注:「希臘」読み方であるが、私の立原道造の電子化で、一件、確認出来た。「もし鳥だつたら」の冒頭で、『もし鳥だつたなら、ギリシヤの柱のてつぺんで、朝日の歌をうたはう。橄欖(オリーブ)に包まれた神殿に隅まで明るい朝日、そのなかで、死ぬまで心をはりつめて。』とあった。従って、ここは「ギリシヤ」と読んでおく。

立原道造草稿詩篇 チユーリツプは

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『*第一、第二詩はそれぞれノート中に初稿(ほぼ同文)を持つが、第二詩が、左面第二行目より起句されえいるので、一連の組詩と見做した。』とあり、さらに、『*第一詩は⑴ノートの中の下書き、⑵本稿、⑶詩集『日曜日』跋文の順に変化する。因みに本稿では詩集に採用の印らしく、緑色鉛筆の丸印がある。「彼」を「彼女」に修正。』とあった。同全集の「第六卷 雜纂」のここを元に、初期形を示した。

 当初、ノートの初稿の「彼」は自身のことかも知れないと考えたが、二行目は改稿と同じく「僕」を用いていることから、編者の誤字とする変更を受け入れることとした。

 なお、詩集『日曜日』は、既にブログで2016年6月13日に「日曜日 (全)   立原道造」として電子化注してあるので、そこから、跋文相当の箇所を転写して示しておいた。

 

【初期形[やぶちゃん注:ノートの順列のままで示した。]】

 

  成 長

 

僕の部屋よ お前は誰より

いちばん僕を愛してゐる

けれどこの窓を入つて來られるのは北風だけだ。

 

     ◇

 

僕の年齡は僕をひきとめない

夜になると僕はお前のランプにさようならする

 

     ◇

 

僕の手は僕の形をしてゐなけれいけない

いつも

僕の部屋へ入つて來られるのは 北風だけだ

 

  •  

 

チユーリツプは咲いたが、彼女は笑つてゐない、

風俗のおかしさ、花笑ひと僕は紙に書く

 

 

【改稿】

 

  チユーリツプは

 

チユーリツプは咲いたが彼女は笑つてゐない……

風俗のおかしみ ⦅花笑ふ⦆と僕は紙に書きつける

 

   ☆

 

けちん坊の海と格鬪せよ

これは僕の受け取つた命令だ

 

   ☆

 

僕の手は僕の形をしてゐなければいけない いつも!

 

 

【詩集『日曜日』の最後に配された「跋……」の詩形】

 

  跋(ばつ)‥‥

 

      チユウリツプは咲いたが

      彼女は笑つてゐない

      風俗のをかしみ

      《花笑ふ》と

      僕は紙に書きつける

             ……畢(をはり)

 

[やぶちゃん注:本来、詩集『日曜日』のそれは、字配とポイント落ちがあるが、今回は、字下げのみを施しておいた。]

立原道造草稿詩篇 成長

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。それにある同全集の「第六卷 雜纂」のここを元に、初期形を示した。]

 

【初期形】

 

  成 長

 

僕の部屋よ お前は誰より

いちばん僕を愛してゐる

けれどこの窓を入つて來られるのは北風だけだ。

 

     ◇

 

僕の年齡は僕をひきとめない

夜になると僕はお前のランプにさよならする

 

     ◇

 

僕の手は僕の形をしてゐなければならない

いつも

僕の部屋へ入つて來られるのは 北風だけだ

 

 

【改稿形】

 

  成 長

 

僕の部屋よ お前は誰より

いちばん僕を愛してゐる

けれどこの窓を入つて來られるのは北風だけだ

僕の年齡は僕をひきとめない

夜になると いつも僕は

お前のランプにさよならする

 

立原道造草稿詩篇 (四月の空は……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。それにある同全集の「第六卷 雜纂」のここを元に、初期形「田舍」を示した。]

 

【初期形】

 

  田 舍

 

四月の空は

ひばり色

ハンケチ程の

雲がある

 

 

【改稿形】

 

  (四月の空は……)

 

四月の空は

雲雀色

 

ハンカチ程の雲がある

2026/01/24

立原道造草稿詩篇 (飛びながら小鳥が……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。それにある同全集の「第六卷 雜纂」のここを元に、初期形を示した。]

 

【初期形】

 

  (飛びながら小鳥が……)

 

飛びながら小鳥が見る馬の形は僕たちの知つてゐるそれとまるでちがふ それは時計の代りをするのだ 小鳥は程よい時間を見はからつて枝におりてやすむ

 

 

【改稿】

 

  (飛びながら小鳥が……)

 

飛びながら小鳥が見る樹の形は僕たちの知つてゐるそれとまるでちがう それは彼等の日時計なのだ 小鳥たちは程よい時間を見はからつて枝におりて休息する

 

 

[やぶちゃん注:【初期形】の「馬」はママ。しかし、「馬」ではどうも以下に繋がらない。実は「木」の崩し字は、時に、下方で下手に崩れると「馬」の崩しに似てくるから、この「馬」は「木」であり、編集部が判読を誤ったと私は判断する。]

立原道造草稿詩篇 一日

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。それにある同全集の「第六卷 雜纂」のここを元に、初期形を示した。]

 

【初期形】

 

  一 日

 

    ①

空氣にふれてゐる僕の顏、僕の掌の面積 一日の僕の仕事……

    ③

千の後悔が、手をおいた。はげしい疲勞が僕を切る。僕を支へる僕の形。僕を立ち去る僕の形。

 

 

【改稿】

 

  一 日

 

     i

空氣に觸れてゐる僕の顏 僕の掌の面積 一日の僕の仕事

 

 

     ii

 

望遠鏡をあてて 僕がゐる

望遠鏡をあてて 僕は苦しい

 

 

     iii

 

脱いだ着物はきたなかつた

脫いだ着物は僕を眞似る 風のやうに見えない空氣と摑みあふ風のやうに

 

 

     iv

 

聞きなれた聲が何か言つてゐる 千の後悔 僕の不幸はけれど小さい

 

 

[やぶちゃん注:初期形の「③」はママ。]

立原道造草稿詩篇 夜曲

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  夜 曲

 

魚よ クラゲよ 花たちよ

液體空氣の海のなかで

ぼくは身投げをしました

これから仲よく致しませう

 

2026/01/23

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その8) 「京店と北堀時代」(そのⅣ) 〔交友〕

[やぶちゃん注:底本では、ここの右丁最終行から。]

 

       〔交    友〕

〔桑原〕 根岸邸で先生は來客の時は酒を酌みかわし、流行の改良節を唄われて興に入られたと書物にありますが、それはほんとうでしたか。

[やぶちゃん注:「改良節」花酒爺氏のブログ「歌謡遺産 歌のギャラリー」の「改良節」に、『明治二十年代、時の新語「改良」を冠して』、『はやった演歌・俗謡をいう』。『当時、西を向いても東を見ても斬新を誇示する改良だらけであった。その風潮がいかにすさまじかったか』は、『ここでは割愛するが、『団団(まるまる)珍聞』明治二十一年一月十四日号の投書紹介記事が伝えている。歌謡界とて』、『その例に洩れなかったのである』。『ちなみに流行には』、『お堅い箏曲ですら「改良唱歌」という名目のもとに、何曲も新作されたほど派生唄乱造時代であった』とあった。『【例歌】』の冒頭の『改良節』『土取利行』の『弾き唄い』とある歌詞は、

   *

♪野蛮の眠りの覚めない人は、自由のラッパで起こしたい、開化の朝日は輝くぞ、さましておくれよ長の夢、ヤツテケモツテケ改良せえ改良せえ。

♪思ふ一念岩をも通す、軒のしずくを見やしやんせ、国民一致の力なら、条約改正何のその、鷲でも獅子でも鯨でも、すこしも恐るゝ事はない、ヤツテケモツテケ改良せえ改良せえ。

   *

とあった。この標題の「改良節」はリンクが張られており、「YouTube」のototatchinuru18氏の「改良節・久田鬼石(詞曲)/土取利行(唄・演奏)」で、唄と歌詞(画像)が視聴出来る。そこの解説には、『改良節(詞曲:久田鬼石) 土取利行(唄・三味線・太鼓)

「ダイナマイト節」と同様、壮士演歌草創期の唄で、久田鬼石の作。「夜が明けたとか、目をさませとかしきりにいっているのは、一に民衆の自覚如何にかかっているとうったえたわけだろう。まことに初歩的教訓である。作者久田鬼石はみちばたの教師といったところだが、後年教育界に入ったと云うのもむべなるかなと思う」添田知道』とあった。

「流行の改良節を唄われて興に入られたと書物にあります」複数、確認出来る。まず、直記載で伝聞でないものとしては(以下は、総て国立国会図書館デジタルコレクションの当該部へのリンクである)、「小泉八雲全集第一卷」(第一書房昭和一二(一九三七)年刊)の『月報』の冒頭にある根岸磐井氏の「松江における小泉八雲」の、居間の項(以下全文)で、

   *

 玄關を上つて行けば南に面した四疊があつて其北側に拾疊の間がある。此れは先生の居室で居ながら三方に庭が見えると悅ばれた處である。先生は常に窓際近く座を占めて、蟬の聲に耳を傾けたり庭を眺めながら夫人と歡談し或は來客に應接し、時には所謂「お友達」と酒を酌み交しつつ拳や歌に興ぜられ、自らも當時流行の俗歌「改良節」を唄はれたこともあつた。

   *

とある。次に、以上より前の、雑誌『住宅と庭園 新年號』(第三卷第一號・昭和一一(一九三六)年発行)の藤島亥治郞「小泉八雲の松江の家」の「4」の根岸邸の借宅の客間に就いての記載(右丁中段の後ろから四行目より)に、『八雲はこの間を居間兼客間とし、三方に岩が見えると悅び、「お友達」と酒を酌み拳や歌に興じ、時には當時流行の改良節を唄ひ、澤山の煙管を座右に置いて取り換へ取り換へ之を吸つたと云はれる』とあった。

 正直、前者の根岸氏のそれは、先に引用して考証した如く、事実ではない内容が現に見受けられ、信用出来ない。また、藤島氏の記載も、『月報』以前に根岸氏が同内容を書いたものに基づくと考えて間違いない。

 なお、私の目が止まったものに、岡戶武平(をかどぶへい)氏の講談社の『日本小說新書』(叢書名の「小說」に注意)の「小泉八雲」(昭和一八(一九四三)年講談社刊)の「第三章 出雲の神」の「二」の、ここ(左丁二行目)に出るものがあった。当該段落のみ引用する。

   *

 一たん消した臺ランプをもう一度點けて、枕もとへ近づけた。まだ、夜更(よふ)けに間があるとみえて、大橋を渡る人の足音がからころと聞こえたり、船着場(ふなつきば)にもやつてゐる船の上から改良節が聞えたり、和多見の遊廓からにぎやかな三味線の音と、それに合せて歌う安來節が聞えて來りした。[やぶちゃん注:「和多見の遊廓」現在の和多見町の売布(めふ)神社の西側にあった。]

   *

この本の末尾の『覺書』の最後に岡戶氏は、『○本篇中に引用(いんよう)した八雲の原著中にある文章は、すべて小泉八雲全集(第一書房版)から收錄(しうろく)した。但し、原文に倣(なら)つて作者が創作したものも多少はある。以上。』と記しておられる。――私は、この創作映像部にこそ、「はった!」と横手を打ったのである!

――小泉八雲が、京店の桑原氏邸の借宅で、大橋川から聴こえてくる「改良節」を聴くともなく聴いていた――という「事実伝聞」こそが、この「誤りの伝説」へと変形したものであろう――

と直感したのである。異論のあられる方は、何時でも相手になる。

〔高木〕 私の知る限りでは、來客は極めて少なく、從つて生徒さんなぞの遊びに見えました時には、酒を出すということは極めて少なく、當時同邸訪問の御方は敎師では西田千太郞樣この方が一番比較的に多くありましたが、西田先生にすら會つて酒食を供したことはない位に存じています。何分先生の御用は大槪學校で辯じたものでしよう。

 生徒さんでは、今私が思い出すのは、小豆澤八三郞さんというお方でした。

 先生が自宅で酒興中に、改良節を唄われたというのは間違いでしよう。それは生徒さんに改良節や日本歌謡を唄わせて喜んで聽かれたことの間違でありましよう。

[やぶちゃん注:「當時同邸訪問の御方は敎師では西田千太郞樣この方が一番比較的に多くありましたが、西田先生にすら會つて酒食を供したことはない位に存じています」この事実は、一応、八雲の家では酒の饗応は、まず、なかった、という推定箇所は正しいと思われる。但し、銭本健二・小泉凡編「年譜」の明治二三(一八九〇)年十月二十一日(火曜)に『学校の帰途、西田千太郎宅に立ち寄り、酒飯のもてなしを受ける』とあり、西田の誘いで、西田宅で饗応を受けた事実は、ある、のである。西田(彼は松江中学の教頭・校長代理であった)は、しかし、この直後に喀血している。僅か六日後の十月二十七日(月曜)、八雲は、『喀血して伏している西田千太郎を、人力車で見舞い行く』とあるからである。

〔桑原〕 外國人が根岸邸を訪問したことはありませんでしたか。大學敎授の獨逸人でフロレンツと申す人が、先生を尋ねた時、先生がこれを宣敎師と誤つて面會を謝絕した所が、段々フロレンツ敎授の說明で敎授が親日家で日本語、日本文學に造詣深い人だということがわかり、座敷に通し終日談話されたと或る本にありますが、御記憶はありませんか。

〔高木〕 先生はまことに交際ぎらいなお方でした。內外人共にあまり面會はありませんでした。別して外國人には一切あわれなかつたようでした。

 しかしただ今外國人のことを伺いまして、よくよく囘想致しますと、一度そんなことがありました。あの外國人さんがその先生であつたかもしれません。初めは先生が斷然謝絕せよとのことでことわりましたが、後で玄關で先生とその外国人とがお話しがあり、御居間に通してお話がはずみ、それから御兩人で大社參拜にお出掛けになつたように存じます。

[やぶちゃん注:「大學敎授の獨逸人でフロレンツと申す人」「お雇い外国人」として来日したドイツの言語学者・日本学者・文学者であったカール・アドルフ・フローレンツ(Karl Adolf Florenz 一八六五年~一九三九年:小泉八雲より十五年下)。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『テューリンゲン州のエアフルトに生まれた。1883年から1886年までライプツィヒ大学でドイツ語学、比較言語学、東洋諸言語を学び、中国語とサンスクリットをゲオルク・フォン・デア・ガーベレンツ』(Hans Georg Conon von der Gabelentz:一八四〇年~一八九三年)『に師事した。博士の学位を得た後、ベルリン大学で井上哲次郎』(安政二(一八五六)年~昭和一九(一九四四)年):哲学者。号は巽軒(そんけん)。筑前の医家の生まれ。東大卒業後、明治一五(一八八二)年(この年に共同執筆で刊行した「新體詩抄」で『新体詩運動』の一詩人としても本邦の近代詩に名を残した)から大正一二(一九二三)年、母校で哲学を講じた。一八八四年から一八九〇年、ドイツに留学し(ハイデルベルク大学・ライプツィヒ大学・ベルリン大学)、帰国後は『ドイツ観念論』の紹介に努め、『円融実在論(現象即実在論)』を説いて東西思想の統一を試みた。また、「教育勅語」の権威を背景に、キリスト教を攻撃し、天皇制国家主義のイデオローグとして重きをなした]『に日本語を学び、このときに有賀長雄』(万延元(一八六〇)年~大正一〇(一九二一)年:法学者・社会学者。専門は国際法)『の面識を得ている』。『日本政府の招聘により』明治二二(一八八九)年『に東京帝国大学に雇われ』、『ドイツ文学及びドイツ語の教鞭を執り、後にはドイツ文献学や比較言語学も教えた。また、同時期に』「日本書紀」『や日本の古典文学をドイツ語に翻訳したり、日本文化を研究する等、日本とドイツの関係を向上させた』。明治三二(一八九九)『年に東京帝国大学はフローレンツに外国人として初めて文学博士の学位を贈っ』ている。大正三(一九一七)年『に任期満了となり』、『帰国した。帰国後はハンブルク植民地研究所(ハンブルク大学の前身の一つ)の日本研究の教授として』一九三五『年まで教鞭を執った』。『主な著作物』として、‘ Geschichte der japanischen Litteratur ’(「日本文学史」一九〇六年)、‘ Dichtergrüsse aus dem Osten : japanische Dichtungen ’(「東の国からの詩の挨拶」一八九四年:ドイツ語に翻訳された分類式日本詩歌集で、三島蕉窓・鈴木華邨・新井芳宗・梶田半古・枝貞彦画の『ちりめん本』(この「ちりめん本」には小泉八雲も後期に作品を執筆している)で、好評を博し、英訳本も出た)。

「宣敎師と誤つて面會を謝絕した」ご存知とは思うが、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は徹底したキリスト教嫌いであった。ハーンのフル・ネイムは“ Patrick Lafcadio Hearn ”であるが、ファースト・ネイムのアイルランドの守護聖人聖パトリック(ラテン語:Sanctus Patricius /アイルランド語:Naomh Pádraig/英語:Saint Patrick) に因んだそれを、八雲は終生、サインに用いなかった。

 フローレンツの小泉八雲面会は、銭本健二・小泉凡編「年譜」に拠れば、明治二四(一八九一)年七月の以下に記載がある(参考文献割注部は殆んどの方に無意味であるが、そのまま写した)。

   《引用開始》

 七月八日(水)正午、東京帝国大学文科大学教師のドイツ人、カール・フローレンツが汽船米子丸にて松江に到着し、ただちにハーン宅に投宿する【広瀬(一九七六)一五八】。西田千太郎が、フローレンツに面会のために訪問する【西田(一九七六)一一四】。

 七月九日(木)、「山陰新聞」に、フローレンツが来松し、ハーン宅に投宿の記事が掲載される【広瀬(一九七六)一五八】。

 七月十日(金)、午前中、フローレンツをともない中学校へ行き、西田千太郎と会談する。午後、西田千太郎をハーン宅に招き、晩餐をもてなし、快談して時を過ごす【西田(一九七六)一一五】。

 七月十一日(土)、西田千太郎がフローレンツを迎えに来る【同書、一一五】。教育会で西田千太郎の通訳によるフローレンツの講演を聴き、その後、フローレンツ、西田らと師範学校女子部の生徒と歓談する【板東(一九八六b)一七八―七九】。さらに中原倶楽部で教育会の主催により、フローレンツ、中山弥一郎、西田千太郎らとともに賓客として招かれ、饗応を受ける【西田(一九七六)一一五】

 七月十三日(月)、フローレンツが師範学校女子部の生徒に書籍を贈ることを希望しているので、その件で相談があるとのハーンからの手紙[9137]に応じ、夜、西田千太郎が書籍商を伴って訪問する。シャンペンを飲み、夜半になって西田千太郎が帰宅する【同書、一一五】。

   《引用終了》

以上の後の七月十五日分はフローレンツに触れていないのでカットする。

   《引用開始》

七月十六日(木)、西田千太郎が訪れ、フローレンツと三人で松江城の天守閣に登り市内を散歩する。望湖楼でフローレンツの饗応を受ける。

   《引用終了》

二日分を同前の理由でカットする。

   《引用開始》

七月二十二日(水)、西田千太郎がフローレンツに出雲音図の写し、出雲言葉を集めたものなどを渡すために訪問するが、同氏は大社に行って不在。西田に昼食をもてなす【西田(一九七六)一一五―一六】

七月二十四日(金)、午後、フローレンツが大社より帰る。同氏の西田千太郎、斎藤熊太郎、木村牧(中学校長)に帰松と別れの挨拶をするために出かけるが、最初に立ち寄った斎藤宅で料理屋に案内されてもてなしを受け、帰宅は十二時半から午前一時頃となる[91―40]。

七月二十五日(土)、西田千太郎がフローレンツに会うために訪問する。フローレンツと西田と一緒に松崎水亭(中原町)に行き、フローレンツが米子へ出発するのを西田とともに見送る【同書、一一六】。

   《引用終了》

「御兩人で大社參拜にお出掛けになつたように存じます」これは以上の年譜から、誤記憶である。

立原道造草稿詩篇 正午

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。注記に『ノート中のに原型を持つ』とあった。同全集の「第六卷 雜纂」のここを元に、初期形を示した。初稿は無題。]

 

【初稿】

 

鷄よ

お腹がすくと

お前は自分のかげを食べてしまう

自分の時計を持たない まちがへた時間にうたひだす

 

 

【第二稿】

 

  正 午

 

鷄よ お腹がすくと

お前は自分のかげを食べてしまう

だからかげは先刻より長くない

お前をなぞつてすこしある

 

[やぶちゃん注: 「しまう」は、二箇所とも、ママ。]

立原道造草稿詩篇 夕方

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  夕 方

 

町にピアノが沈んでゐる

 

立原道造草稿詩篇 或る――

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  或る――

 

右の眼が帽子をかぶつて

どこかへ行つてしまつた

その後に茸が生えてゐる

 

2026/01/22

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その7) 「京店と北堀時代」(そのⅢ) 〔習癖〕

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]

 

       〔習    癖〕

〔桑原〕 先生は每日大槪何時に御起牀で何時頃御寢みになりました。

〔高木〕 先生は每日午前八時頃に御起牀で洗面はいつも臺所でした。お寢みは每晩十時頃でそれまでは書齋で何かお書きになつていました。

〔桑原〕 學校への御出勤は每日何時頃でいつ頃にお歸りでしたか。

〔高木〕 先生は每日大槪午前八、九時頃お出かけで、二時間位の御授業であつたように存じますので、晝までで大槪御歸邸でありました。

〔桑原〕 先生が煙草ずきの癖は周知ですが、その外に常人にない癖はありませんでしたか。

〔高木〕 別段他に癖と申してはありませんが、一つもつとも先生の嫌いなことは、割木をた時の煙は非常にお嫌いでした。そのために炊事は一切割木を用いませんで、すべて木炭を使いました。朝の牛乳を温めますにも勿諭炭火で、先生のお目覺め前に温ておきます。また午飯夕飯も他所より取寄せましたのも、實は先生が焚火を好まなかつたためであります。ただ寒中は炭火で室內を暖めました。

〔桑原〕 每日の風呂も炭火でしたか。

〔高木〕 勿論炭火です。先生の風呂は每日のことで、極めて微温湯で、かつ入浴時間が極めて早くいわゆる烏の行水でした。

[やぶちゃん注:このページの左下には、金津氏の、八雲の裸足の足を、かなり歯の高い、太い緖に嵌めた切り絵があり、右下の下駄の後ろの歯の後部に「足駄」と文字を切ったものが添えてある。]

〔桑原〕 「松江に於ける小泉八雲」中に、先生は煙草の火がなくなつた時は伺時も江之島土產の法螺貝を吹いて合圖をされたとありますが、どうでしたか。

〔高木〕 これはたしかに東京住居の時との混線でありまして、松江では奧樣の江之島土產の法螺貝なぞ見たこともなく、また奥樣が江之島においでのこともありませんでした。

[やぶちゃん注:当該書は、先に注で示した国立国会図書館デジタルコレクションの「出雲に於ける小泉八雲」(再版・八雲會昭和六(一九三一)年刊)の誤りで、ここの「煙草」で、確認出来る。「煙草」のここ(左ページにある段落)からで、

   *

 煙草盆は陽が消ゑ[やぶちゃん注:ママ。]易いからと云ふので夏も火鉢を用ゐられた。先生の座右器具の中に一つの大なる法螺貝がある。此れは夫人の江の島土產であつた。先生は「私の肺は强いから斯んな太い音が出る」と云つて頰を膨らして面白がつて吹かれる。そして之を吹くのが大層樂みであつた。夫人は煙草の火を絕やさぬやう常に注意を怠られななかつたが、若しも偶々火がなくなりでもすると、時こそ到れと豫ての約束に隨ひ、長く大きく波を打たせるやうにして吹かれる。そして火の消へ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]た時は兎に角、消へ掛けた時にもブーブー鳴り出す。平素家中は息つまるやう靜肅に保たれて居る處へ、夜間など突拍子な音が遽に[やぶちゃん注:「にはかに」。]鳴響くので、「夫れ貝が鳴る」と皆の頰に微笑が漂ふ。

   *

が当該部で、更に、後の「松江に保存されてゐる遺品」にも、ここ(左丁八~九行目)に、

   *

法螺貝。江ノ島土產で、煙草の火のなくなつたとき女中を呼ぶのに用ゐられたが、先生は之を吹くのが大層樂みであつた。

   *

とある。確かに、小泉八雲が来日した直後の明治二三(一八九〇)年四月上旬に、鎌倉・江の島を巡っており、来日してから書いた名作 ‘ Glimpses of unfamiliar japan ’に“ Chapter Four A Pilgrimage to Enoshima ”があり、当該訳は、私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」の、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一二)~(一五)』の「一五」から、「一六」と、「一七」「一八」、そして、「一九」が江ノ島パートであるので、見られたい。私は、鎌倉及びその周縁の研究をしているが、特に江ノ島については、最も一家言ある江ノ島通であり、また、私の青春の思い出の地でもある。

八雲の当該本文には法螺貝は出てこないが、八雲がこの時、江ノ島内の土産物屋で売られていた法螺貝を購入した可能性は高いとは、断言出来る。だが、それは「可能性」でしかない。――しかし、以上の根岸磐井の語りは、全く信じられない。高木さんが、法螺貝の奇体な響きを全く記憶していないというのは、八雲が、かの根岸邸の借宅で、それを吹いたことはないことを明確に示している。高木さんの言うように、セツさんは、少なくとも、江ノ島に婚姻直後から熊本へ移るまでの間に、江ノ島に旅した事実はない。恐らく、後に、遺品として松江に八雲所蔵の江ノ島の法螺貝が齎されたことと、セツさん以下、御子息らの東京での法螺貝吹きの話を聴き、根岸の借宅で法螺貝を吹いたという、まさに「法螺話」を面白可笑しく創作したとしか、私には思えないのである。

 いや!

 真相の決定打は、小泉八雲の研究者なら、誰もが、読んでいるはずの、セツさんの「思ひ出の記」で、とっくの昔に、この根岸氏の大嘘はカタがついていなくては、凡そ、おかしいのである!

 国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集 別册」(昭和一二(一九三七)年第一書房刊)の当該部を引用する。

   *

 書齋のテーブルの上に、法螺貝が置いてありました。私が江の島に子供を連れて參りました時、大層大きいのを、おみやげに買って歸つたのでございます。ヘルンがこれを吹きますと、太い好い音が出ました。『私の肺が强いから、このような音』といつて喜びました。『面白い音です』と言つて、頰をふくらまして、而白がつて吹きました。それから煙草の火のなくなつた時に、この法螺貝を吹くと云ふ約束を致しました。火がないと、これをポオー、ウオーと云ふやうに、大きく波をうたせるようにして、長く吹くのです。さう致しますと、臺所までも聞えるのです。內を極靜かにして、コツトリとも音をさせぬやうにして居るところです。そこへこの法螺貝の音です。夜などは殊に面白いのでございます。私は煙草の火は絕やさないやうに、注意をしてゐましたが、自分で吹きたいものですから、少しでも消えるとすぐ喜んで吹きました。如何に面白いと云ふので、書齋の近くに持つて參つて居りましても、吹いてゐるのでございます。この音が致しますと、女中までが「それ、貝がなります」と云つて笑ひました。

   *

 一言、言っておく。桑原氏の本書を「問題がある」とする「小泉八雲研究家」がいると言い、今も、その亡霊が、この優れた関係当事者へのインタビューをメインとする貴重な秀作を不当に棄損している。創作だらけの根岸氏の作品をさておいて、である。そこには、多くのアカデミストの疾患である、私が最も嫌悪する民間研究者の業績を「知って知らんぷりする」のと同様の腐ったキナ臭さを感じるのである。

〔桑原〕 先生が書齋で起稿に沒頭しおられる時は、その室には奧樣でも決して入ることは出來ず、先生より何か合圖があるまでは誰れも這入る[やぶちゃん注:「はいる」。漢字「這」は、この場合、当て字である。]ことは全く出來なかつたと傳えますが、そんなに嚴重でしたか。

〔高木〕 これは熊本や東京時代、御子供樣、御兩親樣にて家族が澤山御同居時代のことかも知れませんが、松江では先生方御兩人と私の三人暮しで、先生の御勉强中には奧樣も私も何かなし差控えて容易に御書齋に入らなんだ程度でありました。

〔桑原〕 先生は南國に生れた人で、暑中などでも久しく庭に御出でても平氣だつたと聞きますが、どうでしたか。

〔高木〕 先生は暑氣ということは決して苦になさらず、お好きでした。太陽直射の下で、庭の飛石や荒砂の上で大の字なりに仰向けになつて平臥しておいでのことは每々[やぶちゃん注:「まいまい」。]でした。それ程日光はおすきでした。

 

立原道造草稿詩篇 朝

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  朝

 

早起の太陽や風に氣に入られるために町の四つ角で 花々が時計の代りをする

 

――どこのうちでも手紙ををよんでる時間です……

 

立原道造草稿詩篇 正 午

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。而してそこに、『ノート中の「正午」(ほぼ同文)を初稿とする。』とあったので、それ(第六巻のここ)を前に配した。]

 

【初稿】

 

  正 午

 

日向の猫は眼を閉じる

それは彼女が靑空をきらひだからだ

そしていつの間にか眠つてしまう

 

 

【第二稿】

 

  正 午

 

日向の猫は 眼をとぢる

それは彼女が靑空をきらひだからだ

そしていつの間にか眠つてしまう

 

立原道造草稿詩篇 春

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  春

 

いつも大切にポケツトの中にしまつておく時間が見えなくなつてゐたので友達のところへ借りに行くと友達が時間を貸してくれた

それは古ぼけてゐたのでその日から僕は憂鬱になつた

 

2026/01/21

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その6) 「京店と北堀時代」(そのⅡ) 〔食事と嗜好品〕

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]

 

       〔食事と嗜好品〕

 

〔桑原〕 先生の食事について伺いますが、朝晝晚の三食のお献立につき覺えておられることをお話し下さいませ。

[やぶちゃん注:このパートの左下には、金津氏の、書見台が切り絵で描かれてある。恐らく木製の二つの太い脚を持つ一体型の台(中央に穴が空いている)の上に本を載せるための左右に開いた薄い板(材質は不明。中央は凹んで居るものであろう)あり、そこに本が開いて置かれてある。その板の右手の下から、やや太い金属と思われるものが波打って手前にくねくねと延びており、その頭に球状(恐らく木製)の開いたページを押さえるものが附属しているものである。このような書見台は、私は見たことがないが、西洋式のものと推定はされるものである。]

〔高木〕 先ず朝食のことを申しますと、朝は牛乳二合と生卵五個が先生の常食でありました。午飯は市内殿町の今の曰本銀行支店のある所に昔[やぶちゃん注:読点が欲しい。]曳野旅館、當時はこれをしやれて曳野ホテルと申しておりましたが、この旅館より先生夫夫婦の食事を每日運びました。その献立は何んとかいうような特別の註文はなく、しかし先生は多く煮〆物[やぶちゃん注:「にしめもの」。]を愛せられ、また卵を使つた日本料理なぞがお嗜き[やぶちゃん注:「おすき」。]でした。

 夕飯は必らず洋食でありまして、まず珈琲、パンなどを加えて五品[やぶちゃん注:「ごしな」。]位の料理でありまして、その一皿は必らずビフテキでした。この洋食は松江市材木町の西洋料班店魚才こと鐮田才次より取寄せました。

[やぶちゃん注:「市內殿町」「殿町」は「とのまち」と読む。現在の松江市殿町。塩見縄手の向かい、松江城址から、現在の島根県庁の南側の京橋川まで。「ひなたGIS」の戦前の地図の中央にある銀行記号がそれであろう。

「曳野旅館」「YAHOOJAPANニュース」の株式会社プレジデント社の「PRESIDENT Online」の本年一月十六日配信の『23歳とは思えない妻・セツの我慢強さ…「ばけばけ」と全然違う、小泉八雲の"わがまま放題"な新婚生活の中身』に、本書を紹介された上で、『昼食は、曳野旅館から毎日届けられた。この旅館は、現在は市の複合施設「カラコロ工房」(旧日本銀行松江支店)が建っている場所にあった。』とあったので、前注の通り、殿町のここに存在したことが確認出来た。]

〔桑原〕 先生はお酒を召上りましたか、日本酒ですか、洋酒でしたか。

〔高木〕 先生は夕食後には必らず朝日ビールを二本づゝ飮まれました。そのビールは當時松江大橋詰の山口卯兵衞藥店だけににあつたかと思います。始終朝日ビールを何ダースか買置きまして每晩差上げました。

 先生のお肴は實に妙なものでして、每晚朝朝日ビール二本それをお飮みになりますと、必らずその後で、今は松江に見當りよせんが黃金牡丹と申しまして、卵黃製で黃色の花辯の中央が紅色になつていました。誠に柔らかい菓子を五六個食べられました。結局ビールのお肴が菓子という譯です。大體先生は菓子は何んでも食べられました。

[やぶちゃん注:「アサヒビール」「アサヒグループホールディングス」公式サイト内の「歴史・沿革」に拠れば、明治二二(一八八九)年十一月に『朝日麦酒株式会社(現アサヒグループホールディングス株式会社)の前身である大阪麦酒会社設立』とし、『日本麦酒醸造会社、札幌麦酒会社も相前後して創立され、日本のビール産業の興隆期を迎える』とあって、『鳥井駒吉、社長に就任』とする。一八九一年十月、『吹田村醸造所(現アサヒビール吹田工場)竣工』があり、翌一八九二年五月に『「アサヒビール」発売』とあって、そこに『「アサヒビール」の発売広告』の写真があり、そこのラ楕円ベルには、最上部に右から左に『アサヒビール』とカタカナ書きで記されてある。小泉八雲が松江に着いたのは、明治二三(一八九〇)年八月三十日に松江着、根岸邸への転居は明治二四(一八九一)年六月二十二日であるから、九カ月を待って、初めて「アサヒビール」を飲んだことになる。但し、それ以前に、八雲が上陸した横浜や、神戸の外国人居留地からも舶来のビールの入手は可能ではあった。

〔桑原〕 先生は日本酒を家庭では常用されませんでしたか。

〔高木〕 日本酒は用いません。もし家庭で先生が日本泗を飮んだと記す書物があれば、それは日本人のお客の時に限ることなので、それも私の記憶ではまことに少ないことでした。大體に酒食を出したお客は餘りありませんでした。

〔桑原〕 先生は鮮魚の刺身を食べられたと聞きますが、それはほんとうですか。

〔高木〕 私の知る限りでは、先生は魚は煮付と燒魚何れも喜んで食べられましたが、刺身を上がつたことは餘りなかつたと思います。お嫌らいであつたのでしよう。

[やぶちゃん注:このページの左下には、金津氏の切り絵で急須(蓋の上を跨ぐ竹らしき取っ手附きである)の図がある(注ぎ口は右)。左内に「土びん」の文字が切られてはいっている。]

〔桑原〕 先生の煙草嗜き[やぶちゃん注:「すき・ずき」。]は有名なものですが、を巻煙草は吸いませんでしたか。

〔高木〕 先生の煙草は葉卷と日本の刻み煙草に限つていました。煙管は日本出來[やぶちゃん注:「でき/しゆつらい(しゅつらい)」。高木さんの直話であるので、私は「でき」と読みたい。]のもの三四十本ありまして、何れも[やぶちゃん注:「どれも・いずれも」。]羅宇[やぶちゃん注:「らう」。]の長いもので一、二囘吸うと直ちに他の煙管と取換えて吸われる癖でした。私がこの三四十本の煙管の掃除をやりましてこれを一つの箱に收めて置きました。ただ今八雲記念館にある煙管棚は、東京移轉後に出來たものかと思います。

〔桑原〕 先生は小鳥とか、犬猫とかを飼つておられましたか。

〔高木〕 先生は實に小蟲[やぶちゃん注:「こむし」。]すら愛護して無益に殺生することを好まれなかつたばかりでなく、無益の殺生に對しては非常に憤慨しておられましたことは全く事實です。先生は松江在住中には小鳥とか猫犬は飼われませんでした。ただ一度[やぶちゃん注:「いちど」。]時の島根縣知事の籠手田さんの御孃さんから鶯を一羽貰われましたことがありまして、その飼い方には少々困られていました。それはわれわれ曰本人が鶯に對して懷くやうな責重觀念が先生にはなかつたためでもあつたでしよう。その日その日の世話なち飼拵[やぶちゃん注:「かいごしらへ」。餌や水や鳥籠の清掃。]などは一切私がやりましたが、熊本へ出發以前にどこかお讓りになつたようです。

 この鶯について一つの思い出があります。それはこの鶯が餌を取換える時かに籠の口を開けた際に逃げ出しまして、先生は知事の令孃より貰つたものを逃したとて大いに殘念に思われました。ところが永年[やぶちゃん注:「ながねん」。]籠に飼馴して[やぶちゃん注:「かひならして(かいならして)」。]あつたと見えまして、その夕方幸い鳥籠の口が明いたままであつたので、鶯がチヤンと籠の中にいるではありゑせんか。先生も奧樣も非常にお喜びになつたことがありました。

〕 小泉八雲全集第三卷「神國の首都松江」の四に「ほー、け、けう!」と題して鶯を禮讃してあるが、八雲先生も鶯を珍重されたに違いないがただ飼養法に困られたものと見える。

[やぶちゃん注:「島根縣知事の籠手田さんの御孃さん」当時の島根県知事籠手田安定に就いては、初回で注をしてある。「御孃さん」は籠手田淑子(本名は「よし」であるが、公的記録や自称では「淑子」としたらしい)。生年は明治五(一九一六)年らしい(「人事電信錄」の記載)。とすれば、八雲と逢った時は、十八歳前後である(因みに、小泉セツさんは慶応四年二月四日(グレゴリオ暦一八六八年二月二十六日生まれ)である)。NHKドラマ「ばけばけ」では、恋のライバルとして登場したが、私は、小泉八雲の事績の中でも、個人的に全く興味を持ったことがない。従って、今までも、調べたこともない。現在でも、調べたい気持ちはサラサラ、ない。取り敢えず、ここで注せざるを得ないので、ざっと、彼女の記載のある記事を見渡してみたところ、「@Niftyニュース」の『だから小泉八雲は「知事のお嬢様」を選ばなかった…朝ドラ・セツの「恋敵」が起こした前代未聞のスキャンダル【2025年12月BEST】』が、『多くの私の記事の読者が、まあ、半分は理屈上では納得するに値する、一応は、豊富な記載内容では、あるな。本当か、どうかは判らぬが……』とは感じたので、リンクを張っておく。引用はしない。それに不満なら、もっと面白おかしく、作られたドラマに深掘りしたい諸君を惹きつけるキワものは、わんさか、あろう。どうぞ、御勝手に捜されたい。

  犬は飼つておられませんでした。近所の犬が每々[やぶちゃん注:「まいまい」。]遊びに來る程度で、飼犬としては記憶がありません。

  猫は私が京店に奉公致していた頃に湖水べりで、近所の子供が小猫をいじめていたのを先生が見つけ、それを綿に包み懷に抱いて愛撫され、根岸邸移轉の節も、先生御夫婦と小猫とで引移りました。その後小猫がだんだん成長しましたが、先生の愛撫方は非常なものでした。それにもかゝわらず、ある日その猫がどんなはずみか先生の手をひつかきまして、先生は非常に不快の色を致されましたが、この小猫は嫌いだということになり中原町の某[やぶちゃん注:「なにがし」。]にやられました。こんな風で松江在住中には生き物はあまり飼われませんでした。

[やぶちゃん注:なお、このページの左下には、金津氏の、下方の両脚の間に雲形型のような切込みが入った、かなり立派な和膳の切り絵が描かれている。]

〔桑原〕 「松江に於ける小泉八雲」中に、女中が或る時庭の池で蛙釣をやり、かつて怒つたことのない先生を怒らせたことがありますが、そんなことがありましたか。

[やぶちゃん注:当該書は、先に注で示した国立国会図書館デジタルコレクションの「出雲に於ける小泉八雲」(再版・八雲會昭和六(一九三一)年刊)の誤りで、ここの「動植物への愛」で、確認出来る。冒頭の段落にも蛙を庇う話が出ており、以上の話は、第三段落目の三行目下方から次の行にかけて出現する。]

〔高木〕 それは全く違います。私の記憶では先生が池の中の蛙を釣り上げてはまた放して喜ばれていたことです。卽ち刻煙草を少し糸につけて池に放たれました。これは每々のことで、女中が叱られたことは釣り上げた蛙をどうかしたのでしようが、今記憶致しませぬ。

 

立原道造草稿詩篇 少女

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、これは『草稿消失 角川書店版第一巻』からのデータである。]

 

  少 女

 

朝早かつたので 電車のなかで パンの焦るにほひがしてゐる

 

立原道造草稿詩篇 本(ヴァリエーション一篇を含む)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここここ(ヴァリエーションを含む)で、底本の注記はここから視認出来る。而して、この篇の次の次に同じ「本」という別な篇が配置されてあるが、明らかに、本篇のヴァリエーションであり、注記でも後者の「本」(但し、これは注記で『草稿消失』で『角川書店版第一巻』からの転載であるとする記載がある)に就いて、この『「本」は前前項の同題詩の異文と考え』たとするので、私はここに並置した。]

 

  本

 

星や月のあかるい夜道だつた。往來で、僕は、一册の本を拾つた。ところがうちへ歸るまでに迂闊にも中に書かれたことを落してしまつた。それで、翌朝早く行つてみたら、道端のなかで女王樣や道化役者や行列が牝羊だの孔雀だのと一しよになつてきれいな空氣のなかでさわいでゐた。

 

 

【ヴァリエーション】

 

  本

 

星や月のにほひのするやうな、あかるい夜道だつたので、往來で、僕は一册の本を拾つた。見れば、表紙に

 

  《何もしなかつた男の話》

 

と書いてある。おや、これは空想の中で出來上つてゐる僕の本ぢやないかしら? それにしてどこかへんなところがある。……

 とに角、うちへ持つて歸つてゆつくり見ようと思つたから、ポケツトにしまつた。

 

 さて、頁を繰ると、それは白紙だつた。きつと途中で中身だけ落した來たにちがひない。それでも、やつぱり現實では出來上つてゐない僕の本なのかな?……

 僕は、きまりがわるくなつてそれを本箱に隱してしまつた。

 

[やぶちゃん注:前者は「不思議の国のアリス」あたりをモチーフとしているものであろうが、オリジナリティが弱く、思いつきの在り来たりの平板なファンタジーとしか感じられない。

 一方、ヴァリエーション版は、ファンタジー色は抑制され、自身の人生への無力感に関わる心傷を投影した「白紙」が、強く映像に浮かび上がっていて、よい。コーダもカフカ的なニュアンスを彷彿して、好ましい。

 但し、実は、これ、注記に、『「本」のヴァリエーションは物語「夜に就て」(昭和1012月制作想定・第三巻所収)の「Ⅲ」に見ることが出来る。しかし、草稿の性格から昭和8年春を遡ることはない。ただ「夜に就て」が昭和7年8月制作の「自作短篇」<ゴンゴン>』(未発見)の発展作品と考えられることから、本篇を「ゴンゴン」から派生した作品と考えることは出来よう。昭和7年8月制作の「オメガ島異聞」(未発見)が昭和12年以後制作の「オメガぶみ」に変容発展するように、立原には一度得た詩想を忍耐深く培養して新しい作品に変様』[やぶちゃん注:ママ。]『させる独特の創作意識があったように思われる。』とあった。「夜に就て」はここから視認でき、「Ⅳ」パートから成るもので、「Ⅲ」はここからである。「オメガぶみ」の方は、同巻のここからで、全十四パートからなる。私は、彼の詩篇は、粗方、読んできたが、「物語」というのは、殆んど読んでいない。そのうち、電子化して見たく思った。]

2026/01/20

桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊) (その5) 「松江に於ける八雲の私生活」の「京店と北堀時代」(そのⅠ) イントロダクション・〔住居〕・〔衣服調度〕

[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]

 

        京店と北堀時代

 

 八雲は明治二十四午二月京店に移居し、住居すること四月餘であつた。しかして節子夫人を娶つた後、京店借宅の狹隘なのを厭い、同年五月北堀町根岸邸に移轉した。根岸邸にあること七ヵ月間、同年十一月十五日この邸に辭別して熊本市に向つて出發した。

[やぶちゃん注:ここにある、京店の移転に就いての現行の事実との齟齬は、先行する『(その2) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅠ)』の冒頭で既に注してあるので、見られたい。同じく、根岸邸への移転もまた、現在の事実とは、全く、異なる。恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の銭本健二・小泉凡編になる「年譜」に拠れば、根岸邸への転居は明治二四(一八九一)年六月二十二日である。明治二四(一八九一)年の当該部を引く。『六月二十二日(月)、士族屋敷、根岸千夫(たてお)』(ママ。正しくは「干夫」である。八雲会が管理されている「小泉八雲記念館」が、この旧旧居なのである。同館公式サイトのこちらのページを見られたい)『方(北堀町三一五番地)に、セツ、女中の高木ヤオ(高木令太郎の娘)、一匹の子猫とともに転居する。借家賃は三円【小泉セツ(一九六〇)】。正午、中学校に人力車をまわして西田千太郎を迎え、西洋料理をもてなす【西田(一九七六)一一三】。』とある。なお、松江に別れを告げ、熊本へ出発した年日時は問題ない。

 なお、このページには、金津氏の切り絵が左下方にある。爪除け(下駄の前に掛ける雨カバー)附きの高下駄が左に、右に洋靴(踵部分が厚く、さらにその上部も高く足首までカバーされた雪用の革靴と思われる)があり、二つの間(下駄先左と革靴右端が重なっている)に「髙足駄」と「靴」の切り絵が二つの絵を繋いである。例の「金津滋研究」のページにも載る。]

 八雲が京店に於て節子夫人と結婚して以來熊本に向けて出發當日まで、八雲に側近した高木八百刀自(當時六十七歲)について八雲の私生活の全貌を聽くため、昭和十五年(西曆一九四○年)四月二十八日より七月二十一日に至る三囘、髙木八百刀自並びに附添いとして同刀自の嫁女、同姓登志夫人を拙宅に招待し、左の問答をなした。

〔桑原〕 本日は遠路特にご老體のところ、私の熱意に動かされてご來駕を得たことは非常に感謝する次第であります。八雲先生の私的生活に就いて詳細を承りたいのですが、記事の都介上、特に京店時代のことは、お話し中にその時々ご注意を頂くことにして、先ず根岸邸に於ける生活樣式をお伺い致します。なお便宣上住居、衣服調度、食事、習癖、雜事の順序で伺います。

〔高木〕 何分五十餘年の昔のことでありまして、八雲先生が段々高名になられますに從い、常時の思い出を今日連れて來ました嫁などにも話していましたので、私の記憶の混雜していることなどは、この嫁に先年聽かしたところをもつて注意して貰うことにしてお話し致したいく存じます。

 

       〔住  居〕

 

〔桑原〕 八雲先生は富田旅館より明治二十四年二月京店にご移轉になりましたが、その家は今の何處の邊に當りますか。

〔高木〕 私の奉公致した時の八雲先生のお宅は、末次町通り卽ち京店の御掛屋(兩替店)の地內で、織原と申す人の借家でありまして、その位置は京店の本通りより左方御掛屋地內に入り、その前を左に行つた所卽ち湖水べりの家でありました。私が行つた時には、節子夫人ご結婚後間もない私の十八歲の時でした。

〔桑原〕 貴女は先生が根岸邸に移居された明治二十四年五月より約七カ月間同邸に居られたと承けたまりますが、先生のご居間、書齋等はどんな風でしたか。

[やぶちゃん注:この桑原氏の問いに着目されたい。彼は、それぞれの移転時期を確認するためではなく、京店の織原所有借家の位置と、根岸邸の居間や書斎の様子を答えるように仕向けていることに注意されたい。則ち、桑原羊次郞氏が、富田旅館時代の富田ツネさんから聴いた二回の転居の「時期」のことを信じ切って、ゼロから再確認することを省略したことが、極めて残念に感じられてならない。これは、独立した時期聴取ではない。こうした質問をされた際、八百さんは、枕に振られた年号を正しいかどうかと明確に確認し得るだろうか? 私は現在六十八歳だが、こうした第三者として、過去のことを問われた場合、この前振りの年号や月を、即座に、「間違っている」と指摘出来るとは思われないし、寧ろ、『うん、その頃だったかな。』と聴き流して、後の主問の方を、しっかり思い出して答えようとすることは、火を見るよりも明らかである。高木八百さんの年齢、さらに八百さんが以前に小泉八雲に就いて話した嫁の、より若い登志さんも同席であった以上、京店や根岸邸への転居が異なることは、或いは、まず、明確に検証する聴き取りが出来たのではないか? という気が強くしてならないのである。本書が『問題がある』という言い方がされるのは、主に聴き取った時制の問題が、後に明らかになった事実と齟齬するものがあるからに他ならないからであり、作者の恣意的な解釈や、小泉八雲やセツさんへの物言いにプライベートな微妙な問題があるからではない、と私には思われるからである。セツさんや一雄氏が本書を読んで不満や怒りを持ったから問題があるという情緒的短絡的風評は、事実誤認も甚だしい。小泉八雲の正確な時間的経緯を、時代時代の中で正確なものにしてゆく作業と、一部の「小泉八雲研究家」が評価しないという事実とは、全く以って、これ、別問題である。そうした過程の中の一つの道標として、本書は非常に価値ある作品である、と、私は断言出来るのである。

 なお、このページの左下方には、まさしく、先の『(その4) 「松江に於ける八雲の私生活」の「富田旅館時代」(そのⅢ)』で語られた八雲が愛した「〆飾り」(これは間違いなく〆飾りである)の金津氏の切り絵がある。やはり、先のページに描かれたものは、「〆飾り」ではないのだ。松江の方の御教授を、更に乞うものである。

〔高木〕 先生の書齋は北向きの前に池のある六疊敷(口繪圖面を參照[やぶちゃん注:ここ。])でありまして、中央の九疊の間はご居間兼客間でお寢み[やぶちゃん注:「おやすみ」。]になつたのもこの部屋でした。奥樣のご居間は北向の書齋の東際[やぶちゃん注:「ひがしきは(きわ)」。]の五疊半敷で、また、私の女中部屋は湯殿の側の二疊の部屋でした。

〔桑原〕 根岸邸の模樣はすべてそのままよく保存してあると聞いていますが、風呂場はただ今の風呂場と違いますか。臺所ではどうですか。

〔高木〕 風呂の場所も臺所も少しもかわりません。ただ昔は風呂桶が小判形の木製でありましたが、ただ今は鐵の五右衞風呂となつており、その他一切かわらないと存じます。

 

       〔衣 服 調 度〕

 

〔桑原〕 先生が學校へおいでの時は洋服でしたか、根岸君の著書には、學校より歸宅後は直ぐ和服に着かえられたとありますがどうでしたか。

〔高木〕 富田旅館や、熊本、東京でのお住居[やぶちゃん注:「すまひ(すまい)」と読んでおく。]の時のことは知りませんが、時候が寒い時は勿論ご歸宅になりましても、そのまま洋服で椅子に掛けておいでのことが度々ありまして、また洋服ですわつておいでたこともありましたので、和服ばかりではありませんでした。

 日々お召しになつたのは鼠色の洋服でした。夏服は白洋服でしたがその素地[やぶちゃん注:「そぢ(そじ)」。]は覺えません。先生は和服も一通りはお持ちで、たとえば單物[やぶちゃん注:「ひとへもの(ひとえもの)」。]と袷衣綿入[やぶちゃん注:「あはせわたいれ(あわせわたいれ)」。]とか、また紋付羽織[やぶちゃん注:「もんつきはおり」。]とか袴[やぶちゃん注:「はかま」。]とか一晴れ着の衣服は一通りご所持でした。

〔桑原〕 先生の帽子はどんな色でしたか。そうして足袋[やぶちゃん注:「たび」。]ははかれましたか。

〔高木〕 先生の帽子は茶色の中折帽[やぶちゃん注:「なかをればう(なかおれぼう)」。]で、足袋は白足袋でしたが、これは家庭內のことで、外出には靴ばきでした。

〔桑原〕 先生は寒中外套と襟卷を用いられましたか。また暑中は蚊帳[やぶちゃん注:「かや」。]の外に蚊遣線香[やぶちゃん注:「かやりせんかう(かやりせんこう)」。]のようなものを用いられましたか。

〔高木〕 先生は外套も襟卷もありませんでした。

[やぶちゃん注:このページには、左下方に金津氏の「てつびん」と、ひらがなを内側左上方に切り絵した、八角形の枠の中に把手・取り手蓋・注ぎ口附きの茶碗二つ合わせたような楕円型鉄瓶を切り入れたものがある。]

〔註〕小泉節子夫人・「思ひ出の記」小泉八雲第二四八頁の一駒[やぶちゃん注:「ひとこま」。]に[やぶちゃん注:ここの後から丸括弧まで引用。]出雲の冬の寒さには隨分困りました。學校では冬になりましても、大きい火鉢が一つ敎場に出る位のもので[やぶちゃん注:以下から、このページの最終行までは、植字工のミスで一字下げになっていない。]す。寒がりのヘルンは西田さんに授業中、寒さに困る事を話しますと、それならば外套を着て[やぶちゃん注:「きて」。]いて授業をなさいとのことでした。この時一着のオヴアーコートを持つていましたが、それは船頭の着るのだといつていましたが、それを着ていたのです。好みはあつたのですが、服裝などはその通り無雜作でかまいませんでした。(以上思ひ出の記)高木八百刀自の話と矛盾する如く見える。八百刀自は二月より十一月まで奉公していられたが、今八雲の外套は思ひだせぬといつた。

[やぶちゃん注:この「思ひ出の記」は、ページ数から、国立国会図書館デジタルコレクションの田部隆次著「小泉八雲」(大正三(一九一四)年早稲田大学出版部刊)のここであることが判った。当該段落の内に部分的にカットされている箇所があること、表記に違いがあることから、改めて全段落を引用しておく。

   *

 出雲は面白くてヘルンの氣に入つたのですが、西印度のやうな熱い處に慣れたものですから、出雲の冬の寒さには隨分困りました。その頃の松江にはストーヴと申すものがありませんでした。學校では冬になりましても、大きい火鉢が一つ敎場に出る位のものです。寒がりのヘルンは西田さんに授業中、寒さに困る事を話しますと、それならば外套を着ていて授業をなさいとの事でした。この時一着のオヴアーコートを持つて居ましたが、それは船頭の着るのだと云つて居ましたが、それを着て居たのです。好みはあつたのですが、服裝などはその通り無雜作でかまい[やぶちゃん注:ママ。]ませんでした。

   *]

〔桑原〕 先生の部屋に寒中の暖房裝置はありましたか。

〔高木〕 先生は二三月中は京店の宅でありましたが、ただ火鉢が一つあつたばかりで餘程寒氣には閉口しておられました。根岸邸では、五月頃よりでしたから先生の部屋に火鉢が一つあつたばかりでした。

[やぶちゃん注:私は、本当に高木八百さんが本当に「根岸邸では、五月頃よりでしたから」と言ったのかどうか、やや疑問がある。しかし、或いは、彼女が、桑原氏が質問で言った『明治二十四年五月より約七カ月間同邸に居られたと承けたまりますが』を受けて『五月頃よりでしたから』と応じたのだ、とも言えるかも知れない。考えてみるがよい。現在、小泉八雲とセツさんの結婚した日が、今、以て、判然としない理由の一つに、セツさんが旧暦で言ったする説があるのだ。ここで問題にされているのは、八百さん自身の話ではない、女中としての彼女に既に稀有の帰化した大作家のことを聴かれているのだから、事実は、六月だったけれど、五月と言い合わせた可能性は、十二分にあるのだ。いや、実際、八百さんは、正しく「六月頃よりでしたから」と言ったのだが、桑原氏が『「五月」の言い間違いであろう』と考えて「修正」した可能性もあるのである。しかし、この「変更」が事実だったとしても、桑原氏の贋造や嘘なのではなく――八百さんの記憶違い――として、「訂正」したものと採るべきことであり、桑原氏に責めは、私は、「ない」と考えるものである。

 こうしたことを、論って、桑原氏のこの本を誹謗する輩(やから)には、

「じゃあ、お前が! タイム・マシンで戻って! 再度、調べ直して来いよ!!!」

と指弾したいのだ!

――桑原氏の富田カネさんと、この八百さんへの、頗る貴重なインタビューは、誰もしなかった、稀有の偉業である――

と、私は、叫びたいのである!

〔桑原〕 先生は學校においでの時に手鞄をお持ちでしたか。

〔高木〕 手鞄は全然お持ちでありませんでした。何時も外出には日本の風呂敷でした。

〔桑原〕 ただ今八雲記念館にある椅子とテーブルはその當時よりありましたか。

〔高木〕 あの分をご使用になつていたのに間違いはありません。當時電燈がなかつたため、書生ランプで今記念館に陳列してある分に間違いありません。

[やぶちゃん注:「書生ランプ」まともな記載は、ネットでは見当たない。グーグルのAIの答えは、『「書生ランプ」とは、学生(書生)が読書や勉強のために使う、手元を照らすタイプの卓上照明を指し、一般的には石油ランプや、現代ではデスクライト(ブックライト)を指すことが多いですが、明治・大正時代の「ガス灯」や「石油ランプ」を指す場合もあり、レトロな雰囲気の小型照明全般を指すこともあります。昔の「書生」が使ったような、携帯可能で、温かみのある光(電球色など)を放つものがイメージされます。』とあった。AIよ! よく勉強した! 褒めて遣わす! なお、「八雲記念館 小泉八雲のランプ」のフレーズで調べたが、画像その他は掛かってこなかった。

 なお、この見開きページの左丁の左下には、金津氏の二枚目の洋椅子の切り絵図がある。右側中央に「椅子」の文字が附けてある。]

〔桑原〕 先生は和服姿で外出されたときゝますが、その時には靴の外に下駄とか木履[やぶちゃん注:「きぐつ」。]とかお用いになつたことはありませんでしたか。

〔高木〕 私が京店時代に奉公して以來先生は決して日本式の履物ははかれませんでした。外出には何時も靴でした。

〔桑原〕 根岸氏の「松江に於ける小泉八雲」第三十七頁によれば「先生は鼻緖をゆるめた竹の庭下駄をはいてこの庭を逍遙された。竹の庭下駄とは、太い竹を縱に半分に割り、それに蔓の鼻緖を立てたもの」とありますが、先生が松江到着當時、富田旅館滯在中、純粹の日本生活がたいとの執心により、日本下駄を試みられたが遂に不成功に終わつたとは、これまた同書第十七頁に「白足袋の上に下駄を履くのが大仕事で、家內總掛りであつた。しかし履いても直ぐ脫げるので、履き物は止むを得ず靴に變えられた」と記せられているのに對照すると、前後矛盾するように見えて、割り竹の下駄をはかれたとは私は全く信用が出來ませんがどうでしたか。

[やぶちゃん注:『根岸氏の「松江に於ける小泉八雲」』この作者は、小泉八雲が最後に松江で借りた根岸邸の当時の家主で郡長でもあった根岸干夫(たてお)の子息で、八雲の教え子にして、次の当主となった根岸磐井(元治元(一八六四)年~明治四四(一九一一)年)である。日本銀行勤務中、小泉八雲の「知られぬ日本の面影」に自邸が描かれていることを知り、故郷に戻って旧居を守り、後の小泉八雲記念館設立にも貢献した人物である。当該書は、国立国会図書館デジタルコレクションの「出雲に於ける小泉八雲」(再版・八雲會昭和六(一九三一)年刊:★やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションでは、前年の初版(横書)版があるが、ここでは、桑原氏の引用している部分の一部が確認出来ないので注意!)で確認出来る(但し、ノンブルは変わっているので役に立たない)。桑原氏が最初に指示しているのは、ここ(左ページ「39」の八行の部分(但し、『先生は鼻緖を緩めた竹の庭下駄を穿いて此庭を逍遙された。』の表記である)と、そのページの最後の『(註)』の内容を合成したものである(但し、『竹の庭下駄とは太い竹を縱に半分に割り夫れに蔓の鼻緖を立てたもの。』の表記である)。後に指示しているのは、ここ(左ページ「17」の後ろから四行目)である(但し、『白足袋の上に下駄を穿くのが大仕事で家內總掛りであつた。併し穿いても直ぐ脫げるので、履きものは止むを得ず靴に變へられた」』の表記である)。因みに、この根岸磐井氏の「松江に於ける小泉八雲」も、そのうち、是非、電子化したい著作である。]

〔高木〕 八雲先生が松江滯在中、そのような下駄をはかれたことは決してありません。殊更割竹の下駄なぞは、日本人でも老人なぞはあぶないようなものです。これはたしかに誤傳であります。

[やぶちゃん注:「割竹の下駄」私は、正に、太い竹を縦に半分に割ったものに緒を附けただけのシンプルなものを、幼少の頃、母の故郷で見たことがある。ネット検索では出てこないのだが……。]

〔桑原〕 それでは先生が根岸邸の庭を逍遙された時は靴ばきでありましたか。

〔高木〕 先生は靴も下駄もはかず、全く靴下ばかりで砂の上や飛石の上を逍遙されました。しかし根岸邸の前庭[やぶちゃん注:「まへには(まえにわ)」。]は荒島砂と申して大粒の大豆か小豆位の砂で、また後庭[やぶちゃん注:前に合わせて「おくには」と当て訓しておく。]は今こそ土庭[やぶちゃん注:「つちには(つちには)」。]ですが、當時は前面に一寸位の黑の玉砂利[やぶちゃん注:「たまじやり(たまじゃり)」。]が敷[やぶちゃん注:「しき」。]つめてありましたから、そのまま庭から座敷にあがられても、靴下で座敷を汚す[やぶちゃん注:「よごす」。]等のことはありませんでした。八雲自身の著書にも「庭には大きな樹はない。靑い石か一面に敷いてあつて中央に小池がある」と記している。

[やぶちゃん注:この最後の一文は、どうみても、高木さんの肉声ではない。恐らく、桑原氏が以下の註として書いたものを、うっかり、ここに配してしまったものと考えられる。

註一〕 著者はこの庭の砂に就き、最近根岸邸に至り、主婦に尋ねたところ同樣のことを伺つた。

註二〕 小泉一雄君の「父八雲を憶ふ」第二八七頁の一齣に燒津の濱で海にはいる僅かな道も、柔かな古布で草履を作つて貰い云々とあるのによつて察するに、先生は終生日本式の履物を使用し得ないことは明らかである。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』である当該書『父「八雲」を憶ふ』(小泉一雄著・昭和六(一九三一)年警醒社刊)の当該ページはここ。「四 海へ」の一齣。右丁の「二八八」ページの一行目以下にある。興味深い小泉八雲の身体(足)に就いてハンディに就いての記載があるので、前のページの段落開始箇所から、総てを引用する(小泉一雄氏の著作は既にパブリック・ドメインである)。

   *

 父は兩足の中指と藥指が重り合つた儘膠著してゐました。これは幼少の頃爪先の尖(とが)つた貴族的な靴のみを履かせられた結果だと申して、先の尖(とが)つた洒落靴のことを「野蠻の履物」といつて呪つてゐました。それ故父は先の幅廣な兵隊靴然たる靴を常に履いてヲました。縱ひフロツクの場合と雖もこれを履いて平然たるものでした。此の黑の兵隊靴然たる編上が二足ある他靴の持合せはなかつたのです。子供等にも下駄や草履を奬勵して、なるべく靴を履かせぬように仕向けました。足は頗る達者で二三里を步く位何とも思はぬ父でしたけれど、その足の裏は私等子供よりも遙かに柔かく、裸足で濱邊を步く事などはとても出來ぬ人でした。砂地が無く小石計りである燒津の濱では海へ這入るのにも小石を踏むで行く僅[やぶちゃん注:「わづか」。]の間が父に取つてはなかなかに苦痛でした。これを見兼ねて乙吉さんがなるべく柔かな古布を選び、それで草鞋[やぶちゃん注:「わらぢ」。]を編んで海岸行の時は父に履かせてくれました。而も海へ這入る時と海から上る時とには必ず父の手を執つて案內してくれました。

   *

ここに出てくる「乙吉さん」は、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」の私の冒頭注を見られたい。]

〔桑原〕 ついでに伺いますが、節子さんが結婚後はどんな服裝で、どんな髮でしたか。

〔高木〕 節子さんは終始日本服で、髷は丸髷で、實に立派な奧樣振りで大層先生の氣に入つでおりました。

〔桑原〕 八雲先生宅には、日本の日用家具はどんな風でした。

〔高木〕 食器、御膳、煎茶器、土瓶、鐵瓶その他日本家庭に必要な調度は一切揃つておりました。これは奧樣が日本人で、日本人の來客もありよく調つておりました。

〔桑原〕 先生の寢具はベツトでしたか。

〔高木〕 先生は日本式というので敷布團を澤山重ねてお寢みでした。

 

2026/01/19

立原道造草稿詩篇 午後

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここから視認出来る。なお、これ以降は、前の「(少年が……)」の最後に附した注を、必ず、読まれたい。]

 

  午 後

 

 陽は淡く雲を通して、その雲には風が絕え間なく鳴つてゐた。かげは乾いた土に衰へた僕を作る。

 ふと――どこかで海草のにほひがする!

 立ちどまつて、その奇妙な新鮮さに、注意深く嗅がうと、試みた。再び僕は知ることが出來ない。

 街道を、物憂い牛車が近づて來た。

 ――步きはじめねばならない。

 

 もうたそがれは近いだらう。

 

[やぶちゃん注:以下、概ね、ネイティヴでない読者のために注した。

「陽」「ひ」。

「海草」「かいさう」だが、厳密には「海草」は海産種子植物の被子植物門単子葉植物綱 Monocotyledoneae の種のみ示す(代表的な種はオモダカ(沢瀉・澤瀉・面高)目アマモ(甘藻)科アマモ属アマモ Zostera marina :別名リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(龍宮の乙姫の元結の切り外し))から、「海藻」とする方がよい。

「牛車」「ぎうしや」。凡そ古語の「ぎつしや(ぎっしゃ)」と物知り顔に読んだら、風流どころか、噴飯物である。]

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