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2023/03/21

大手拓次譯詩集「異國の香」 うた(ギユスターブ・カアン)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  う た カアン

 

おおはなやかなきれいな四月、

おまへの陽氣な唄のこゑ、

白いリラ、 さんざしの花、 枝をもれくる黃金(こがね)の日ざし、

でもわたしに何であろ、

可愛い女は遠くへはなれ、

北國のさ霧のなかにゐるものを。

 

おおはなやかなきれいな四月、

二度の逢瀨はつれないゆめよ、

おおはなやかなきれいな四月、

かあい女がまたやつてくる。

リラの花、 黃金(きん)の日ざしの花かざり、

もう、 わたしは有頂天、

 

はなやかなきれいな四月。

 

[やぶちゃん注:ギュスターヴ・カーン(Gustave Kahn 一八五九年~一九三六年)はフランスの詩人。サイト「鹿島茂コレクション」の「18,19世紀の古書・版画のストックフォト」のこちらによれば、メッス生まれ。国立古文書学校を卒業後、四年間、アフリカに滞在した。その後、パリで『ヴォーグ』(La Vogue:「流行・人気」の意)、『独立評論』(Revue independante)の『両誌で、編集者としてアルチュール・ランボー、ジュール・ラフォルグらの作品を積極的に紹介し、また、自ら』も、詩人として「自由詩」(Vers libre)を『実践することで当時の文学運動の中心的存在となった。また美術批評も多く残しており、紹介文を書いている』美術評論家『フェリクス・フェネオン Felix Feneon』(一八六一年~一九四四年)『とともに後期印象派の画家たちを擁護した』とある人物である。幾つかのフランス語の単語で検索したが、原詩は遂に見当たらなかった。

「リラ」フランス語「Lilas」。モクセイ目モクセイ科ハシドイ属ライラック Syringa vulgaris のこと。紫色の花がよく知られるが、白いものもある。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。

「さんざし」「山査子・山樝子」で落葉低木のバラ目バラ科サンザシ属 Crataegus。タイプ種はサンザシ Crataegus cuneata同前(属名)でリンクを張っておく。]

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 足高蜘の變化の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。本篇の挿絵は、その岩波文庫版からトリミング補正したものである。]

 

     足高蜘(あしたかぐも)の變化(へんげ)の事

 

Asidakagumonokai

 

[やぶちゃん注:上では、右上端にあるキャプションが完全に切れて映っていないが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで見ると、「ある山里にて大也くもばける事」と読める。]

 

 ある山里に住みける者、いと靜かなる夕月夜に、慰みに出でたるに、大きなる栗の木の叉(また)に、六十許りになる女(をんな)、鐵漿(かね)をつけ、髮のかすかに見えたるを、四方に亂し、彼(か)の男を見て、けしからず、笑ふ。

 男、肝(きも)を消し、家に歸りて後(のち)、少しまどろみけるに、さきに見えける女、現(うつゝ)のやうに遮(さへぎ)りける故、心凄くて、起きもせず、寢もせで、ゐたる所に、月影に、うつろふ者、あり。

 晝、見つる女の姿、髮の亂れたる體(てい)、少しも變はらず、恐ろしさ、比(たぐひ)なくて、刀(かたな)を拔きかけて、

『いかさま、内(うち)に入りなば、斬らんずるものを。』

と、思ひ設(まう)けてゐたる所に、明障子(あかりしやうじ)をあけて、内に入りぬ。

 男、刀を拔き、胴中(どうなか)を、かけて切つて落としたり。

 化け物、斬られて弱るかと見えしが、男も、一刀(かたな)切つて、心を取り失ひける時、

「や。」

といふ聲に驚き、各(おのおの)、出であひ見るに、男、死に入りてぞ、ゐたりける。[やぶちゃん注:気絶・失神したのである。]

 やうやう、氣をつけられ、舊(もと)の如くになりにけり。

 化け物と覺しき物は無かりしが、大(だい)なる蜘蛛の足ぞ、切り散らしてぞ、侍る。

 かかる物も、星霜(せいさう)經(ふ)れば、化け侍るものとぞ。

[やぶちゃん注:「足高蜘」挿絵の右上には巣の網が描かれてあり、変化の原様態の形状を描いたそれを見るに、私は節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Trichonephila clavata をモデルとするものであろうと推理する。なお、現在の本邦には、クモ目アシダカグモ科アシダカグモ属アシダカグモHeteropoda venatoria がおり、現在の本邦に棲息する徘徊性のクモとしては最大種で、人家に棲息する最大級のクモとしてもよく知られるそれがいる。我が家では昔からの馴染みで、若い頃、深夜、寝ていたところ、顔に掌大の彼が登り、その八つの脚のクッと構えた感じが顔面全体で、ありありと感じられて、眼を覚まし、大乱闘の末、外に逃がしたこともあった。しかし、本篇の蜘蛛は、このアシダカグモでは、ないのである。何故なら、江戸時代にはアシダカグモは本邦いなかったからである。当該ウィキによれば、『原産地はインドと考えられるが、全世界の熱帯・亜熱帯・温帯に広く分布している』。『アシダカグモは外来種で、元来は日本には生息していなかったが』、明治一一(一八七八)年に『長崎県で初めて報告された』。『移入した原因としては、輸入品に紛れ込んでいた可能性が考えられる』とあるのである。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 九番 黃金の臼

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

   九番 黃金の臼

 

 昔、橫田村(今の遠野町)に孫四郞といふ百姓があつた。或日の朝、草苅りに物見山へ行つて、嶺(ミネ)の沼のほとりで草を苅つて居ると、不意に、孫四郞殿、孫四郞殿と自分の名を呼ぶ者があつた。誰かと思つて四邊を見たが人影もない。これは俺の心の迷ひだべと思つて、なほも草を苅り續けて居るとまた孫四郞殿、孫四郞殿と呼ぶ聲がする。初めて氣がつくと、沼のほとりに美しい女が立つて、こちらを手招ぎをしていた。孫四郞はこれは魔えん魔神(マシン)のものではないかと思つて魂消(タマゲ)て見て居ると、女は笑ひかけて、私は大阪の鴻ノ池《こうのいけ》の娘であるが、先年この沼へ嫁に來てから永い間實家(サト)の方サも便りをしたことがない。お前樣は近い中《うち》に伊勢參宮に上(ノボ)ると謂ふから、その序《ついで》にこの手紙を私の實家(サト)へ屆けてクナさいと言つて、一封の手紙を出した。そして大阪の鴻ノ池に往く路筋(ミチスヂ)や、いろいろな事を斯うしろあゝしろと敎へた。そしてこれは、ほんのシルシばかりだが道中の饌だと言つて錢百文を渡したうへ、この錢は皆んな使はないで一文でも二文でも殘して置くと、翌朝にはまた元の通りに百文になつてゐるから必ず少しは殘して置けと言ひ聞かせた。孫四郞は賴まれるまゝに女から手紙と錢百文を受取つて其の日は家に歸つた。

[やぶちゃん注:「橫田村(今の遠野町)」現在の岩手県遠野市のこの中央附近であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「物見山」現在の遠野町市街地の南背の遠野市綾織町下綾織にある物見山(同前)。標高九百十六メートル。

「大阪の鴻ノ池」大坂の富商。寛永二(一六二五)年に初代善右衛門が海運業を始め、主として諸侯の運送等を引き受け、のち両替商として大をなした。

「魔えん」「魔緣」は、厳密には、仏教に於いて正道を妨げる障魔となる悪縁(三障四魔)を指すが、同時に、特にそうした仏道修行を妨げる魔王である第六天魔王波旬(他化自在天)をも指し、さらに広義には、所謂、慢心した山伏らが変じた妖怪としての天狗、即ち、魔界である天狗道に堕ちた者たちの総称としても用いる。ここは「悪鬼」の謂いであろう。

「道中の饌」「饌」は「供え物・飲食すること」で、音は「セン・サン」であるが、「ちくま文庫」版では『餞(はなむけ)』とある。その方が、躓かない。]

 それから間もなく村の衆どもに、伊勢參宮に往くべえという話が持ちあがり、話が順々に進んで、孫四郞もその同行の丁人に加つて上方へのぼつた。ところが沼の女からもらつた錢が、ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に幾何《いくら》使つても使つても翌朝はもとの通りになつて居た。さうして漸く大阪に着いて諸所を見物してから、俺は一寸用達《ようた》しに行つて來ると言つて、同行に別れて物見山の女に敎はつた通りの道を行つた。すると一々樹木の立つてゐる樣や山の樣子が女の言つた通りであつた。山の中に入つて行くが行くが行くと、廣い池があつた。此所だと思つて、池のほとりに立つてタンタンタンと三度手を叩くと、一人の若い女が池の中から現はれた。孫四郞は俺は奧州の遠野といふ所の者だが、物見山の沼の姉樣から斯謂《かういふ》手紙を賴まれて來た。受取つてケてがんせと言つて出すと、その女は手紙を手に取つて見てから、ひどく喜んで、お前樣のお蔭で永年逢はない妹が無事で居ると謂ふことが分つて、これ程嬉しいことはない。この返事を遣《や》りたいから暫時(シバラク)待つてクナさいと言つて、其儘池の中に入つて行つたが、直ぐに一封の手紙を持つて來て、これをまた物見山の沼の妹のもとへ持つて行つて貰ひたいと言つた。孫四郞が心よく賴まれると、女はさもさも嬉しさうに禮を言つて、お前樣は私の爲めに同行に遲れたのだから是から馬で送つて上ませう。一寸(チヨツト)待つてクナさいと言つて、するすると水の中に入つて行つたが、直ぐに一疋の葦毛馬を引いて來て、さアこれに乘つて行きなさい。そして同行に追(カツ)ついたら此馬を乘り捨てるとよい。さうすれば獨りでに此所へ歸つて來るからと言つた。孫四郞は女に言はれるままに馬に乘つた。すると女は、目を瞑(ツム)つて開(ア)くなと言ふ。何もかにも女の言ふが儘にして居ると、馬は二搖(ユ)り三搖り動いて脚を止めた。孫四郞が目を開いて見ると、同行は目の前の道中の茶星で憩《やす》んで居る處であつたから、孫四郞は馬から下りた。すると馬はそのまゝもと來た道へと駈け戾つたやうであつたが、ヒラツと見えなくなつた。

 同行の者等は驚いて、孫四郞お前は何處さ行つて來てア、彼《あ》の馬は何所から乘つて來たと口々に尋ねた。また其所の茶店の亭主も、お前樣の行かれたと謂ふ路に入つた者に今迄一人として戾つて來た者が無いから今も其話をして心配して居たところだつた。お前樣はどんな所へ行つて來たと頻りに仔細を問ふた。けれども孫四郞はただ夢のやうで、何が何だか一向分らないと言つて何にも言はなかつた。一同はともかくも孫四郞が無事に歸つて來たことを喜んだ。そうして[やぶちゃん注:ママ。]伊勢參宮も無事にすまして遠野に歸つた。

 孫四郞は鴻ノ池の主(ヌシ)から、ことづかつた手紙を持つて物見山の沼へ行つた。そしてタンタンタンと三度手を打つと、いつかの女が出て來た。孫四郞はお蔭で無事に參宮して來たことの禮を言つた後、お前樣の手紙を鴻ノ池の姉樣に屆けると、この手紙を、よこしたと言つて手紙を渡した。女は大層喜んで、この手紙を讀んで姉と逢つたと二つない喜びだ。これも是も皆お前樣のお蔭だ。けれども何もお禮に上《あげ》る物はないが、この挽臼《ひきうす》を上るから大事にしろ。この挽臼は一日に米一粒づゝ入れて一回轉(ヒトカヘリ)廻(マワ)せば、金粒が一つづゝ出る。決して一カエリの上、廻すなと言つて、小さな石の挽臼をくれた。そして女は沼の中に入つて行つてしまつた。

 孫四郞はその挽臼を大事に神棚に上げて、每日、米一粒入れて廻しては金粒一個(ヒトツ)づゝ出して、次第次第に長者になつた。ところが或日、夫の留守に其の妻が、家の人はこの臼コから獨りで金を取つて居るが、おれもホマツをすべと思つた。それには何時(イツ)も彼時(カツ)もさう勝手には出來ないから、一度にうんと金粒を出さうと思つて、ケセネ櫃《びつ》から米を大椀で一盃持つて來て、ザワリと其の挽臼に入れて、ガラガラと挽き廻した。すると挽臼はごろごろと神棚から轉び落ち、主人が每朝あげた水をこぽして、自然に小池となつて居た水溜りに滑り入つて見えなくなつてしまつた。

  (この譚は「遠野物語」にも話し、また別話ではあるが物見山の沼の譚は「老媼夜譚」にも採錄してある。ただし本話は内容が變つているから又採記錄した。決して重複ではないのである。[やぶちゃん注:丸括弧閉じるがないのはママ。]

  (孫四郞の末孫と謂ふのが、今現に遠野町にいる池ノ端(ハタ)と謂ふ家である。挽臼の轉び入つたと謂ふ池もあつたが、明治二十三年のこの町の大火の時に埋沒して今は無いとのことである。)

  (同譚の類話は氣仙郡廣田村の五郞沼から八郞沼と云ふに手紙を持つて行つて、萬年臼という黃金を挽き出す寶臼《たからうす》をもらつて歸つたと謂ふ男の話もある。大正十一年五月九日。釜石尾崎《をさき》神社社司山本若次郞氏談話。)

[やぶちゃん注:最後の附記は三条とも全体が二字下げのポイント落ちである。本話は同一の起源に基づく伝承が、附記の最初にある通り、「遠野物語」の「二七」に記されてある。

「ホマツ」「穗末」で、「豊饒の残りに与(あず)かること」の意であろう。

「ケセネ櫃」柳田國男の「食料名彙」(初出『民間傳承』昭和一七(一九四二)年六月~十二月)の「ケシネ」の条に(国立国会図書館デジタルコレクションの「定本 柳田國男集」第二十九卷(一九七〇筑摩書房刊)を視認して示した)、

   *

ケシネ 語原はケ(褻)の稻であらうから、米だけに限つたものであらうが、信州でも越後でも又九州は福岡・大分・佐賀の三県でも共に弘く雑食の穀物を含めていふことは、ちやうど標準語のハンマイ(飯米)も同じである。東北では発音をケセネまたはキスネと訛つていふ者が多く、岩手縣北部の諸郡でそれを稗のことだといひ、又米以外の穀物に限るやうにもいふ土地があるのは(野邊地方言集)、つまりは常の日にそれを食して居ることを意味するものである。南秋田郡にはケシネゴメといふ語があって、是は不幸の場合などの贈り物に、布の袋に入れて持つて行くものに限つた名として居る。さうして其中には又粟を入れることもあるのである。家の経済に応じて屑米雜穀の割合をきめ、かねて多量を調合して貯藏し置き、端から桝又は古椀の類を以て量り出す。その容器にはケセネギツ、もしくはキシネビツといふのもある。ヒツもキツも本来は同じ言葉なのだが、今は一方を大きな箱の類、他は家屋に作り附けの、落し戶の押入れのやうなものゝ名として居る地方が東北には多い。九州の方のケシネは甕に入れ貯藏する。之をケシネガメと謂つて居る。

   *

とある。ここでは、「米を大椀で一盃持つて來て」とあるから、米櫃である。

『「老媼夜譚」にも採錄してある』同書の「四番 黃金丸犬」を指す(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本当該部)。

「明治二十三年」一八九〇年。

「氣仙郡廣田村」現在の陸前高田市広田町(ひろたちょう:グーグル・マップ・データ・。以下同じ)。沼の名は確認出来ない。

「大正十一年」一九二二年。

「釜石尾崎神社」岩手県釜石市平田にある尾崎(おさき)神社。三陸海岸総鎮守を名乗り、当該ウィキによれば、『当社縁起によると、日本武尊が東征の折の足跡の最北端であり、最終地点が尾崎半島であり、その足跡の標として半島の中程に剣を建ておかれたものを、土地の人々が敬い祀った事が当社の起こりであり、祭神は日本武尊であるとされる』とある。]

2023/03/20

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 三 怨念深き者の魂迷ひ步く事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。本篇の挿絵は、その岩波文庫版からトリミング補正したものである。]

 

     三 怨念深き者の魂迷ひ步く事

 

 會津若松といふ所に、「いよ」と云ふ者、有り。

 彼(かれ)が家に、色々、不思議なる事多き中に、まづ、一番に、ある日の酉の刻[やぶちゃん注:午後六時前後。]に、大きなる家を、地震の搖(ゆ)る樣(やう)に、動かす。

 次の日の同じ時に、何とは知らず、家の内へ入り、裏口の戶を叩き、

「初花(はつはな)、初花。」

と、よばはる。

 主(あるじ)の女房、聞きつけて。

「なんぢ、何ものなれば、夜中に來たり、斯くは云ふぞ。」

と叱(しか)らる。

 ばけもの、叱れて、右の方(かた)に、又、口、有りけるが、折りしも、戶をあけおきけるに、其所(そこ)へ、きたりける。

 

Iyokewnokaii

 

[やぶちゃん注:上では、右上端にあるキャプションが完全に切れて映っていないが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで見ると、「おんねんふかき者のたましいまよふ事」と読め、また、家の女房が右手に持つ「御祓箱」(以下の本文に出る)の蓋の上には、「太神宮」の文字が書かれているのもはっきりと判る。なお、この「御祓箱」とは、中世から近世にかけて、伊勢神宮の御師(おんし:「御師」(おし)は特定の社寺に所属して、その社寺への参詣者や信者の求める護符の配布や祈禱、或いは、実際の参拝時の案内及び宿泊などの世話をする別当僧や神職を指すが、特に伊勢神宮の場合のみ、差別化して「おし」と呼ぶ)が、毎年、諸国の信者に配って歩いた伊勢神宮の厄除けの大麻(たいま:本来は「おおぬさ」と読むが、「ぬさ」とは「木綿・麻」などを指す。「大麻」とは、お祓いに用いられる用具である細い木に細かく切った紙片をつけた「祓串」(はらえぐし)を指す)を納めた小箱。「はらへ(え)ばこ」とも呼ぶ。]

 

 その姿を見れば、肌には、白き物を著(き)、上には、黑き物を著て、いかにも色白き女房、髮を捌(さば)き、内へ入(い)らんとしけるを、あるじの女房、

『これは、只事ならず。』[やぶちゃん注:後に助詞の「と」が欲しい。]

思ひて、御祓箱(おはらひばこ[やぶちゃん注:ママ。])の有りけるを、取りいだし、

「汝、これに、恐れずや。」

とて、投げつけければ、其のまゝ消えぬ。

 三日目には、申の刻[やぶちゃん注:午前四時前後。]許りに、かの女房[やぶちゃん注:ここは変化の女のこと。]、臺所の大釜の前に來りて、火を焚きて、ゐたり。

 うちの者ども、これを、

「いかに。」

と騷ぎければ、又、消え亡(う)せぬ。

 四日めの晚のことなるに、鄰(となり)の女房、裏へ出でければ、彼(か)の女、垣(かき)に立ちそひ、家の内を見入(みい)れてゐたりけるを見付けて、肝(きも)を消し、

「鄰の化物こそ、こゝに、居て候へ。」

と呼ばはれば、化物、いひけるは、

「汝が所へさへ行かずば、音もせで、ゐよ。」[やぶちゃん注:「お前の所には、さらさら行く気はないのだから、五月蠅い声を挙げずに、黙って、おれよ。」の意。中古以来の「ずは」(「~でなくて」、或いは打消の順接仮定条件を示す「もし~でないならば」。打消の助動詞「ず」の連用形+係助詞「は」か、接続助詞「ば」とする説もある)が近世初期に打消の確定条件に転用されてしまった慣用表現である。真正の物の怪の、抑制した制止であり、それが、また、なかなか、キョワい!]

と云ひて、又、消え亡せぬ。

 五日めの事なるに、臺所の庭に來て、打杵(うちきね)をもつて、庭を、

「とうとう」

と、打ちて、𢌞る。

「此の上は、御念佛(ごねんぶつ)ごとより外の事は、有るまじ。」

とて、さまざまの祈りをぞ、初めける。

 眞に神明(しんめい)・佛陀の納受(なふじゆ)有る故か、其の次の日は、來(きた)らざり。

「すべて、ばけ物、こゝに來(きた)る事、五たびなり。此の上は、何事も、あらじ。」

と、いひもはてぬに、虛空(こくう)より、女の聲にて、

「五たびには、限り候はじ。」

と呼ばはりける。[やぶちゃん注:追い打ちをかける凄みのあるキレのある台詞である。なかなか、心理戦に長けた物の怪と見える。]

 扠(さて)、其の夜(よ)の事なるに、いつも、主の女房、いねざま[やぶちゃん注:「寢ね態」で「就寝する頃合い」の意。]になれば、蠟燭を立ておきけるを、彼(か)の化け物、姿を現はして、蠟燭を、吹き消しぬ。

 主(あるじ)の女房、肝を消し、絕入(ぜつじゆ)[やぶちゃん注:失神。気絶。]する折りも、有り。

 七日めの夜は、女夫(めをと)臥したる枕許に立ち寄り、頭(あたま)どちを、寄せがまちにし、其の上、夜(よる)の物を、裾よりまくり、冷(つめた)き手にて、足を撫でければ、夫婦(ふうふ)の者は、魂(たましひ)を消すのみならず、しばし、物ぐるはしくなりける、とぞ。

[やぶちゃん注:この波状的な怪異の襲来は、なかなかに名品と言える。特に、六日目の物の怪の本領発揮の巧妙な仕儀も、確信犯で、人間どもを油断させるための巧妙な手段であって、実は出現はしなかったのは、「神明・佛陀の納受」のお蔭でも何でもなく、サウンド・エフェクトだけで、震えあがらせているところなど、実にホラーとしての勘所を、逆に押さえているとさえ言えるのである。さても、本書の後に怪奇談を書く作者なら、これを再話しない手は、ない。「諸國百物語卷之一 四 松浦伊予が家にばけ物すむ事」がそれである。ただ、この話、虚心に読むと、「いよ」というのが、女の名のように錯覚させる(ただ、冒頭「彼(かれ)の家」とあるから、男主人が「いよ」なんだろうとは思うのだが)。確かに再話のように、旦那の通り名が「伊予」なのだろうかも知れぬが、本篇は、最後まで「いよ」の家の主人の姿が、これ、まともに見えてこないのでる。七日目の閨房のシーンでも、夫の映像が浮かばないように意図的に描かれているように感ずる。ここに何らかの作者の隠された意図、或いは、特別なある心理上の拘りがあるように思われるのだが、その核心は、私には、未だよく判らないのである。或いは、霊が呼びかける「初花」(女房の名ではないことは、彼女の反応からみて間違いない)という言葉に何かヒントがあるような気がする。

「寄せがまちにし」「寄せがまち」は「寄せ框(がまち)」で、商家などの入り口の取り外しが出来る敷居のことで、昼間は外しておき、夜、戸を閉める時に取り付けるようにしたもの指す。岩波文庫の高田氏の注によれば、『寄框のように直角に頭を突き合わせること』とある。]

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 二 老女を獵師が射たる事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。本篇の挿絵は、その岩波文庫版からトリミング補正したものである。]

 

     二 老女を獵師が射たる事

 

 伊賀國(いがのくに)なんばりといふ所より、辰巳(たつみ)[やぶちゃん注:南東。]にあたりて、山里あり。

 かの所に、夜な夜な、人、ひとりづゝ、失せぬ。

「如何なる事にか。」

と、皆人(みなひと)、不審しあへり。

 其の村に獵人(かりびと)の有りけるが、ある時、夜(よ)に入り、山に入らんとしける所に、山の奧より、年(とし)、百にも及びなんとおぼしき老女、髮には雪をいたゞき、眼(まなこ)は、あたりも、輝き、さもすさまじく出できたる。

 

Roujyokariudouti

 

[やぶちゃん注:以上では右端上にあるキャプションが完全にカットされて見えないが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの単体画像で、『伊賀の国なんばりといふ所にての事』と読める。]

 

 獵人は、

『何者にてもあれ、矢つぼは、違(たが)へじ。』

と、大かりまたを持つて、胴中(どうなか)を射通(いとほ)す。

 射られて、いづくともなく、逃げうせぬ。

 獵人は、前々なかりし不思議に逢ひしかば、まづ、其の夜は歸りぬ。

 夜明(よあ)けて、彼(か)の物、射たる所を見ければ、道もなき山の奧を、かなたこなたと、血(のり)を引きける程に、それをしるべに求めければ、我が在所の方(かた)へ有り。

 不思議に思ひ、見れば、莊屋(しやうや)が家(いへ)の、後ろなる小家(こいへ)のうちへ、ひき入(い)りたり。

 さて、莊屋かたへ行き、

「ちか頃(ごろ)、率爾(そつじ)なる事ながら。」[やぶちゃん注:後に引用の助詞「と」が欲しい。]

過ぎし夜の事共(ことども)、ねんごろに語りければ、莊屋、不思議にたへかね、

「此の家は、我等が母のゐ所(どころ)にて侍るが、夕べより、『風の心地。』とて、我にも逢はで、事の外、うめきゐられ候ふが、心もとなく候。」

とて、行きて見れば、家のあたり、戸口より、血(のり)、したゝかに、引きたり。

 いよいよ、怪しみ、

「押し入りて、見ん。」

とすれば、雷電(らいでん)の如く、鳴り、はためきて、母は、家の内より、拔け出でぬ。

 件(くだん)の矢は、食ひ折りて、軒(のき)にさしてぞ、有りける。

 さて、ゐたる跡を見れば、夥しく、血(のり)、流れ有り。

 牀(ゆか)を、はづし、此處彼處(こゝかしこ)を見れば、人の骨、山の如し。

 それより、在所の者共、山々へわけ入りて、見れば、深山(しんざん)の奧に、大(だい)なる洞(ほら)あり。

 此の洞のうちに、古狸(ふるだぬき)の大きなるが、胸板(むないた)を射貫(いぬ)かれながら、死してぞ、ゐたりける。

 これを案ずるに、莊屋の母をば、疾(と)く食ひ殺し、我が身、母になりてぞ。

[やぶちゃん注:「伊賀國なんばり」岩波文庫版では本文で『南張』とあり、注に、『現在の三重県志摩郡』とある。但し、ここは逆立ちしても絶対に「伊賀國」ではないから、これは筆者の誤りであろう。現在は合併により、三重県志摩市浜島町南張(はまじまちょうなんばり)である(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。当該ウィキによれば、『南張メロンの栽培や酪農が展開される農業地域であるとともに、南張海水浴場を擁する海の町でもある』とあり、どうも変な感じがする。同町の集落拠点は完全に南端の英虞湾の入口の南の海岸であって、そこの「辰巳」は海である。百歩譲って、東の、海に迫った山間部のここに当たるか。しかし、寧ろ、この話、内陸の伊賀の方が遙かに相応しい。「ひなたGPS」で戦前の地図で伊賀地方を調べたが、「南張」はない。ただ、三重県西部の伊賀地方に含まれる名張市(なばりし)が目に止まったここは南東部はガッツり、山間地である。私はここを真のロケ地としたい。実は、本話を転用した「諸國百物語卷之三 十八 伊賀の國名張にて狸老母にばけし事」では御覧の通り、名張になっているのである。さらに、そちらでは、『東京学芸大学紀要』湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(ネットでPDFでダウン・ロード可能)で、やはり、ロケーションを三重県名張市と規定しておられる。さらに湯浅氏は先行する非常に知られた、「今昔物語集 第二十七卷」の「獵師母成鬼擬噉子語第二十二」(獵師の母、鬼と成りて子を噉(くら)はむと擬(す)る語(こと)第二十二)を挙げておられる(私は微妙にそれを原拠とすることには躊躇する)のを受けて、それも電子化してある。さらに、そこで類話として別に掲げてある、「伽婢子卷之九 人鬼」や、「宿直草卷四 第一 ねこまたといふ事」も電子化注済みであるので、参照されたい。

「大かりまた」「大雁股」。既出既注。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 八番 山神の相談

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     八番 山神の相談

 或る時、六部《ろくぶ》が或村へ來て、山神の御堂に宿つて居た。眞夜中に人語がすると思つて眼を覺ますと、山神と山神とで話をしていた。今夜は行かなかつたな。あゝ、お客があつて行かなかつたが首尾は如何《どう》だつた。うん、母(アンバ)も子(ワラシ)も丈夫だ。それで何歲(ナンボ)までかな、イダマスども七歲(ナヽツ)までだ。そしてチヨウナン(釿《てうな》)で死ぬ……

 六部は何の話かと思つて聽いて居た。其の後七年經つて、六部が又其の村へ行くと、在る家で大工であつた親父が、子供を傍《そば》に寢かして置いて仕事をして居たが、子供の寢顏に虻(アブ)がタカツたので、手に持つてゐた釿で追ひ拂はふとして子供の頭を斬り割つたと云つて大騷ぎをして居るところであつた。

 六部は七年前の御堂での山神樣達の話を思ひ出して、あゝ神樣達はこの事を言つたのだなアと始めて思ひ當つた。

  (田中喜多美氏の御報告分の二、摘要。)

[やぶちゃん注:「六部」「六十六部」の略で、本来は全国六十六ヶ所の霊場に、一部ずつ納経するために書写された六十六部の「法華経」のことを指したが、後に、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚僧のことを指すようになった。別称を「回国行者」とも称した。本邦特有のもので、その始まりは、聖武天皇(在位:七二四年~七四九年)の時とも、最澄在世(七六六年~八二二年)の頃とも、或いは、ずっと下って鎌倉時代の源頼朝・北条時政の時代ともされ、定かではない。実際には、恐らく鎌倉末期に始まったもので、室町を経て、江戸時代に特に流行し、僧ばかりでなく、民間人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲・脚絆、甲掛(こうがけ:履き物に添える補助具。主に足の甲を保護するためのもので、形は足袋によく似ているが、底はない。材料は白若しくは紺の木綿で、強度を増すために刺子にすることが多い。これをつけるのは草鞋を履く時で、甲に紐を巻きつける際、甲や側面に擦り傷がつくのを防ぐ)、股引をつけ、背に仏像を入れた厨子を背負い、鉦や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。彼らは、地域社会では異邦人・異人であり、各地に、迎えておいて、騙して殺害して金品等を奪ったが、その後に生まれた子が殺した六部の生まれ変わりで、仇(あだ)を成すといったタイプの「六部殺し」怪奇譚でも知られる(当該ウィキを参照されたい)。

「イダマスども」東北地方及び岩手方言で「いだましねえども」で「惜しい(傷ましい)ことだけれども」の意。

「チヨウナン(釿)」歴史的仮名遣「てうな」は現代仮名遣で「ちょうな」。大工道具の一つ。「手斧」と書く方が一般的。柄の先が曲がっていて、先に平らな刃が柄に対して左右に伸びた形で付けた、小型の鍬のような形をした斧に似た刃物。木材の表面を平らに仕上げるために、初めに「荒削り」をするのに用いる。「ちやうな(ちょうな)」は「ておの」が転訛したもの(講談社「家とインテリアの用語がわかる辞典」を主文に用いたが、使用している絵と画像は「広辞苑無料検索」のこちらの写真がよい)。

「田中喜多美」既出既注。]

2023/03/19

「曾呂利物語」正規表現版 卷二 / 目録・一 信心深ければ必ず利生ある事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

曾呂利物語卷第二目錄

 

  一 信心深ければ必ず利生(りしやう)ある事

  二 老女を獵師が射たる事

  三 怨念深きものの魂(たましひ)迷ひありく事

  四 足高蜘(あしたかぐも)の變化(へんげ)の事

  五 行(ぎやう)の達したる僧には必ずしるし有る事

  六 將棊倒(しやうぎだふ)しの事

  七 天狗鼻(はな)つまみの事

  八 越前國(ゑちぜんのくに)鬼女(きぢよ)の由來の事

 

 

     一 信心深ければ必ず利生ある事

 南郡興福寺の衆徒、なにがしの律師とかや、いふ人、有り。

 又、かすが山の麓に、「しのやの地藏堂」とて、靈驗あらたなる地藏、おはしけり。

 彼(か)の律師、年月、步みを運びけるが、ある日、少し紛(まぎ)るゝこと有りて、日、已に暮れて、酉(とり)の終り[やぶちゃん注:午後六時半過ぎ。]よりぞ、詣でける。

 道芝の露、拂ふ人もなくて、心凄(こゝろすご)きところに、何處(いづく)より來りけるともおもえず、一人の稚兒(ちご)、忽然として、佇みたり。

「いかなる人にておはしければ、こゝには御入(おい)り候ぞ。」

ちごのいはく、

「そなた、いづ方へ通らせたまふぞ。まづ、わが方(かた)ざまへ、入(い)らせたまへ。こゝのほどこそ、わらはが庵にて候へ。」

といふ。

「いや、これは、地藏へ參り候へば、それへは、參るまじき。」

といふ。

 ちご、重ねて、

「まづ、立ちよらせ給へ。」

とて、強ひて、手をとりてゆく。

 月かげに、色あひ、定かならねど、蘭奢(らんじや)の匀(にほ)ひなつかしく、いとあてなる裝(よそほ)ひに、覺えず、心ときめきして、やがて、誘はれ行くかと思へば、程なく、かの家に至りぬ。

 彼(か)の體(てい)、世の常ならず、宮殿・樓閣なり。

『不思議や。此の邊(へん)には、斯樣(かやう)の家居(いへゐ)は、なかりつるものを。』

と思ひたれば、衆從眷屬(しゆじゆけんぞく)、あまた出であひ、いろいろにもてなし、酒宴、さまざまなり。

 あるじの稚兒も醉(ゑ)ひ、客の僧も醉ひ臥しぬ。

 夜(よ)、ふけぬれば、たゞ假臥(かりぶし)とは思ひながら、行くすゑまでのかね言(ごと)も淺からずこそ契りける。[やぶちゃん注:「かね言」「予言(かねごと)」で、「前もって言っておいた言葉」、則ち、若衆道の「互いの睦びの約束の言葉」である。]

 曉方に、ふと、夢さめて、あたりを見れば、ともし火、かすかにして有りけるに、かの稚兒、繪にかける鬼(おに)の形(かたち)なり。

 恐ろしとも、いはん方、なし。

 扠(さて)、ぬき足して、次の座敷を見れば、こゝに臥したるもの、十人ばかり、皆、鬼なり。

『いかゞして、拔け出でん。』

と、かたがた、見まはしけれども、隙間も無く、造り續けたる家なれば、もれて出づべきやうも、なし。

 

Tigooniinusinjin

[やぶちゃん注:「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入した。右上端のキャプションは、「しん心ふかきゆへ利生をゑたる事」である。]

 

 まづ、緣の戶をあけて見れば、彼(か)の律師が飼ひける犬、何處(いづく)より來(きた)るともなく、尾を振りて、出で來りぬ。

『不思議なること。』

に思ひぬ。

 彼の犬、僧の裾を、くはヘ、門外へ出でぬ。

 宵に稚兒に逢ひたる所に、引きて行く。

 僧は、つくづくと、犬を守り、

「汝は禽獸なれども、主(しう)を守る心、奇特(きどく)さよ。此の世ならぬ緣なれば、當來(たうらい)は、必ず、佛果菩提に至るべし。」

と、いうて、常に持ちたる念珠を、頸にかけてぞ、放しける。

 未だ、夜(よ)深ければ、僧は、それより、地藏堂へ詣でけり。

 暫く拜し、歸らんとしけるが、本尊を見れば、犬の頸に掛けたる珠數の、かゝりてぞ、侍りける。

「年月、每日怠らず、詣で侍りしが、其の日は、暮に及びしが、道にて稚兒に迷ひし事、犬の導きつる事、地藏の化現(けげん)にて、たうしんの眞諦(しんたい)を示し給ふにや。」

と、信心、肝(きも)に銘じしかば、いよいよ、步みを運びけるとかや。

「今生、後生、たのもしかりける悲願かな。」

と、感淚を押へかねてぞ。

[やぶちゃん注:個人的には、この話、好きだ。

『かすが山の麓に、「しのやの地藏堂」とて、靈驗あらたなる地藏、おはしけり』興福寺の東方が春日大社であるが、「地藏堂」は不詳。荒木又右衛門が試し斬りをしたと伝えられる、鎌倉時代の作の石地蔵で「首切り地蔵」が春日山の東方の谷のかなり奥にあるが、堂はない(グーグル・マップ・データ。実測、四キロメートルだが、半分は登攀路である)、軽々に比定は出来ない。

「紛(まぎ)るゝこと」ちょっと手のかかる仕事があって。

「蘭奢」ここは単に類い稀れなる奥床しい香の香りを喩えて言ったものであろう。狭義のそれについては、そうさ、「小泉八雲 香 (大谷正信訳)」の「ランジヤタイ」の私の注でもお読み下され。

「たうしんの眞諦(しんたい)」「眞諦」は、仏教で唯一無二の真実にして平等の不変の真理を指す。「たうしん」は「當身」であろうか。化現(けげん)でも垂迹でもないところのそのまま(等身)の「絶対の実体」に相「当」する物「身」の意か。]

早川孝太郞「三州橫山話」 鳥の話 「鷹の眼玉」・「鷹を擊つ方法」・「鷹の羽藏」・「クラマの鷹」・「鷄を襲ふ鷹」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○鷹の眼玉  鷹の眼玉は黃疸の藥と云つて珍重しますが、又、眼病の靈藥とも謂ひます。これを用うるには、藥鑵に水を入れ火に掛けて、其上に眼玉を糸で吊るして置くと、水が煮立つにつれて、湯氣が懸つて、眼玉から垂れた滴で、中の湯が黃色に染まるから、其を飮ませると謂ひます。

[やぶちゃん注:これは、本邦の鳥類ピラミッドの頂点に位置する猛禽であること、希少であること、及び、多分に類感呪術的な要素(黄疸は直ちに眼球の黄色となって示されること・鷹の遠くを見通せる視力こと)からの伝承であろう。成分上からそれらに実際効果があるとは全く思われない。エキスの抽出法も如何にも怪しい呪的な方法ではないか。但し、ウィキの「鷹」によれば、『縄文時代の遺跡からは』、『タカ類の骨が発掘されており、当時は人間の食料であったと考えられている』とある。なお、「鷹」は新顎上目タカ目 Accipitriformesタカ科 Accipitridae に属する鳥の内で、比較的、大きさが小さめの種群を指す一般通称である。同前のウィキによれば、オオタカ(タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis:(和名は「蒼鷹」「大鷹」で、由来は前者で、羽の色が青みがかった灰色を呈することからの「あをたか」が訛ったものに由来する)・ハイタカ(ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus:灰鷹・鷂)・クマタカ(クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensi:角鷹・熊鷹・鵰)などが知られる種である。タカ科に分類される種の中でも、比較的、大きいものを「鷲」(わし:Eagle)、小さめのものを「鷹」(Hawk)と呼び分けてはいるが、これは明確な区別ではなく、古くからの慣習に従って呼び分けているに過ぎず、生物学的区分ではない。また、大きさからも明確に分けられているわけでもなく、『例えば』上記の『クマタカはタカ科の中でも大型の種であり大きさからはワシ類といえるし、カンムリワシ』(タカ科カンムリワシ属カンムリワシ Spilornis cheela)『は大きさはノスリ』(タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus)『程度であるからタカ類といってもおかしくない』とある。より詳しくは、古い私のリキの入った「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)」を参照されたい。]

 

 ○鷹を擊つ方法  鷹を擊てば、其家が一代續かぬと謂ひます。獵師が鷹を擊つ方法だと云つて、こんな話があります。ます不断《ふだん》[やぶちゃん注:ママ。]鷹の休む樹を見つけて、其傍に穴を掘つて、其には脫け穴を造つて置いて、樹の枝には鷹の好む兎や猿の肉を吊るして置いて、穴に隱れて待つてゐる内、鷹が來ると、其肉を一口喰べて見て、二日目には提げて行かうとするものださうですから、其處の呼吸を計つて、ドンと放すが否や、鐵砲を放り出して、後《うしろ》をも見ず脫穴《ぬけあな》へ身を避けると謂ひます。必ず雌雄二羽居るもの故、片々《かたがた》の鷹が擊つと殆ど同時に穴の口へ襲つて來ると謂ひます。

[やぶちゃん注:「必ず雌雄二羽居る」鳥は詳しくなく、これが、どの種を指しているか不詳だが、「必ず」というのは私には、到底、信じられない。]

 

 ○鷹の羽藏  鷹の羽藏《はねぐら》を發見すれば、夫婦差向《さしむか》いで、一代左團扇で暮せるなどゝ謂つたさうですが、それは深山の岩石の聳えてゐるやうな所に、岩と岩との間の雨や風のかゝらぬ所に、きれいに羽が積重ねてあると謂ひます。鷹は自分の體から脫けた羽は、みんな其處へ持つて行つて藏《しま》つて置くので、其を見つけた時は、鷹の留守にそつと出掛けて行つて、積んである下から少し宛拔いて來るのださうです。四十年ばかり前鳳來寺山にあるのを發見した者があつたさうですが、遠くからは羽の積んであるのが見えてゐても、險しい場所で近づく事が出來なかつたさうです。

[やぶちゃん注:聞いたことがないし、ネット検索でも掛かってこない。そのような習性はタカ類にはないであろう。]

 

 ○クラマの鷹  明治二十年頃のこと、北設樂《きたしたら》郡名倉村の鎭守の森へ、鳥とも獸ともつかぬ、奇怪なものが來て、樹の枝に留まつた盡《まま》[やぶちゃん注:漢字はママ。]、昵《じつ》としてゐて、幾日經つても動かないので、村のものが怪しんで鐵砲で擊殺《うちころ》して見ると、それは大變年を老《と》つた鷹で、羽に鞍馬と云ふ文字が現れていたと云ひました。

[やぶちゃん注:「明治二十年」一八八七年。

「北設樂郡名倉村」横山の真北の十四キロほど先の、現在の愛知県北設楽郡設楽町(「ひなたGPS」の戦前の地図で「名倉村」を確認出来るが、現在は地名として残っていない)。Geoshapeリポジトリ」の「愛知県北設楽郡名倉村」の旧村域を見るに、完全に現在の設楽町と一致することが判る。設楽町役場はこの中央(グーグル・マップ・データ航空写真)。かなりの山間地である。

「羽に鞍馬と云ふ文字が現れていた」白羽の中の黒羽の交りが「鞍馬」の崩し字に見えたと感じたのであろうことは、想像に難くない。「鞍馬」は天狗の本拠地であり、一般には鳶が眷属だが、鷹もそこに連なっていると考えたとしても、意外ではない。]

 

 ○鷄を襲ふ鷹  鷄が鷹に襲はれた時は、必ず雄が殺されて、雌は助かると謂ひますが、それは雄が雌を庇護《かば》つて、鷹と鬪ふからだと謂ひます。山口文吉と云ふ人が、鷹と鬪鷄と盛《さかん》に格鬪してゐるのを實見した時は、三十分も爭つてゐる中《うち》、鬪鷄の勢《いきおひ》が猛烈なため、鷹も諦めて逃げて行つたさうです。最も其は小さなマグソ鷹だつたと謂ひます。

 私が子供の頃、家の鷄の雄が鷹に襲はれた事がありまして、家のものが發見した時は、もう背中を喰破《きふやぶ》つて、其處から腸を引出して持つてゆきましたが、鷄は昵《じつ》と地に坐つた儘、未だ生きてゐました。

[やぶちゃん注:「鬪鷄」ニワトリ(鳥綱キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリGallus gallus domesticusの♂を使用するが、特に一品種である軍鶏(シャモ)が闘鶏用として知られた(もとは江戸期にタイから輸入された種であるとされる)。

「マグソ鷹」「馬糞鷹」でハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属チョウゲンボウ Falco tinnunculusの差別異名である。当該ウィキによれば、和名の『語源は不明だが、吉田金彦は、蜻蛉(トンボ)の方言の一つである「ゲンザンボー」が由来ではないかと提唱している』。『チョウゲンボウが滑空している姿は、下から見ると』、『トンボが飛んでいる姿を』髣髴『とさせることがあると言われ』、『それゆえ、「鳥ゲンザンボー」と呼ばれるようになり、いつしかそれが「チョウゲンボウ」という呼称になったと考えられている』とあり、また、『学名の「Falco tinnunculus」はラテン語でFalcoが「鎌」に由来し、tinnunculusが「チンチンと鳴く」を意味する』とあった。『全長は』♂が約三十三センチメートル、♀が約三十九センチメートルで、『翼を広げると』六十五~八十センチメートル になる。体重は♂で百五十グラム、♀で百九十グラム程度あり、性的二型である。『羽毛は赤褐色で黒斑があ』り、♂の『頭と尾は青灰色』であるのに対し、♀は『褐色で翼の先が尖っている。ハヤブサ科の中では最も尾が長い』とある。]

「曾呂利物語」正規表現版 十 狐を威してやがて仇をなす事 / 卷一~了

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     十 狐(きつね)を威(おど)してやがて仇(あた)をなす事

 

 ある山伏、「大(おほ)みね」より、かけ出で、ある野を通りけるに、こゝに、狐、晝寢してゐたりけるを、立ちより、耳の元にて、ほらの貝を、したゝかに吹きければ、狐、肝(きも)を潰し、行き方(がた)知らず、逃げにけり。

 其の後(のち)、山伏は、猶、ゆきけるが、

『いまだ未(ひつじ)の刻ばかりにや。』[やぶちゃん注:午後二時前後。]

と思ふ頃、空、かき曇り、日、暮れぬ。

 不思議に思ひ、道を急ぎけれども、野、遠くして、とまるべき宿も、なし。

 ある三昧(さんまい)に行きて、火屋(ひや)の天井に上がりて、臥しにけり。[やぶちゃん注:「三昧」火葬場。「火屋」同じく火葬場の意であるが、ここは敷設するお堂か、遺体を一時置いておく控えの小屋(霊安室)であろう。]

 かかりける所に、何處(いづこ)ともなく、幽(かすか)に、光り、あまた見えけるが、次第に近づくまゝに、よく見れば、其の三昧へ、葬禮するなり。

 凡そ、二、三百人もあらんとおぼしくて、その、てい、美々しく、引導など、過ぎて、やがて、死骸に、火をかけ、各(おのおの)、かへりぬ。

 山伏は、

『折りしもあれ、かかる所に來たりぬる事。』

と思ふに、やうやう、燒けぬべき所、死人(しにん)、火の中より、身ぶるひして、飛びいで、あたりを、

「きつ」

と見まはしけるが、山伏を見つけて、

「何者なれば、そこにおはしますぞ。知らぬ道を、ひとり行くは、おぼつかなきに、我と共に、いざ、給へ。」

と、山伏に飛びかゝりければ、そのまゝ山伏は、消え入りぬ[やぶちゃん注:気絶した。]。

 やゝしばらく有りて、やうやう、氣をとり直し見れば、いまだ晝の七ツ時分[やぶちゃん注:定時法で午後四時前後。]にて、しかも三昧にても、なかりけり。

 さてこそ、貝に驚きし狐の意趣とは、知られけり。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収。ネットでPDFで入手可能)によれば、「今昔物語集」の巻第二十七の「於播磨國印南野殺野猪語第三十六」(播磨國(はりまのくに)印南野(いんなみの)にして野猪(やちよ)を殺したる語(こと)第三十六)を先行する原話として挙げておられる。主人公は飛脚であり、最終的に真相は猪が彼を化かしたという点では異なるが、中間部の展開のコンセプトは明らかに酷似しており(「今昔」のそれはもっとシークエンスが細かく長い)、本篇の原拠の一つであることは疑いようがない(但し、本篇の山伏の法螺貝の悪戯と、それへの狐の仕返しという部分は、私は非常に面白い構成と感じている)。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、電子化されたものが読める。また、「諸國百物語卷之一 六 狐山伏にあだをなす事」は本篇の完全な転用である。

「大みね」大峰山(おおみねさん)。奈良県南部にある山脈で、狭義には山上ヶ岳(さんじょうがたけ:グーグル・マップ・データ)を指し、そこは修験道の聖地として知られる。]

「曾呂利物語」正規表現版 九 舟越大蛇を平らぐる事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今までは、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入してきたが(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)、裏映りを消すために補正すると、薄くなるか、全体が黄色くなるかで、今一つ気に入らない。そこで、状態がかなりいい、上記岩波文庫版に挿絵の載るものは、それを画像で取り込み、トリミング補正することとした(今回はそれである)。

 なお、標題は「船越(ふなこし)、大蛇(だいじや)を平(たひ)らぐる事」である。]

 

     九 舟越大蛇を平らぐる事

 いつの頃にか有りけん、淡路國(あはぢのくに)に、「舟越」とて、弓矢を取つて、名を得し有りけり。

 彼の知行所に、

「大蛇、住みける。」

といふ池あり。

 廣さ二町四方[やぶちゃん注:約二百十八メートル四方。]も有るべし、眞(まこと)に凄まじき池の心(こゝろ)なり。[やぶちゃん注:「心」ここは様子・有様・雰囲気の意で用いている。]

 しかるに、每年、人御供(ひとごく)をそなふること、久し。怠りぬれば、必ず、洪水し、多くの田畠(たはた)、損じけり。[やぶちゃん注:「人御供」人身御供(ひとみごくう)。]

 さるによつて、今も在所の女を、一人(ひとり)づつ、池の中に牀(ゆか)をして、供ヘ置けば、大蛇、來たりて、是を、とる。

 舟越、つくづく思ふやう、

『かくしつつ、はてはては、我が知行所に、女といふもの、たゆべし。縱(たと)ひ、さなきとて、我が領する下(もと)に、斯樣(かやう)の事あらんを、いかで、打捨(うちす)てては置くべき。いかさまにしるしを見せでは、適(かな)ふまじ。』

と思ひ、重籐(しげどう)の弓に、山どりの尾にて矧(は)いだる大(おほ)かりまた一つがひ、あし毛の馬に、うち乘つて、かの池を、さして行く。

 馬の太腹(ふとばら)、ひたるほど、乘りこみて、大音聲(だいおんじやう)にて、のたまひけるは、

「抑(そもそも)、我ならで、此の池に、主(ぬし)有るべき事、心得ず。そのうへ、地下(ぢげ)の女子(によし)を御供にとる、供へざれば、洪水して、多くの田地を損ふ事、かれこれ、以つて、奇怪なり。まこと、此の池の主たらば、只今。出でて、我と、勝負をあらはせ。」

と、高らかにこそ、呼ばはつたれ。

 その時、水の面(おもて)、俄に騷ぎ、鳴動すること、やゝ久しうして、たけ一丈ばかりなる大蛇、いで、角を振りたて、紅(くれなゐ)の舌をいだして、舟越を目掛けて、かゝりける。

 待ち設(まう)けたる事なれば、矢、ひとつ、打番(うちつが)ひ、其の間(あひだ)、十四、五間(けん)[やぶちゃん注:二十五・五~二十七・三メートル。]もあるらんとおぼしき頃、

「もと筈(はず)、うら筈、一つに、なれ。」

と、よつぴき、

「ひやう」

と放つ。

 此の矢、誤またず、大蛇の口に、

「つつ」

と、入る。

 乙矢(おや)を射る間のあらざれば、駒を、はやめて、逃げ來たる。

 大蛇は、のがさじと、追つかくる。

 

Bueihunakosi

 

[やぶちゃん注:以上では切れてみえないが、「国書データベース」で確認すると、キャプションは「ふなこし大しやたいらく事」と読める。]

 

 舟越、我が屋に驅け込み、門を、

「はた」

と、たてければ、門の上へ、及びかゝる所を、内より、乙矢(おとや)を放ちければ、手ごたへして、

「はた」

と當たり、さすが大兵と云ひ、二の負ひ手、なじかは以つて、たまるべき、門の上に及びながら、大蛇は、忽ち、死してけり。

 されども、舟越も其のまま、氣を、とり失ひ、三日(か)めに、空しくなる。

 かの葦毛(あしげ)の駒(こま)も、死にけるとかや。

[やぶちゃん注:ダイナミックでリアリズムがある悲壮なる英雄の大蛇退治譚である。この話、以前に電子化注した後代の「老媼茶話 武將感狀記 船越、大蛇を殺す」と同話であり、そちらで、この舟越なる人物について、私なりにモデルを比定してあるので(知人の指摘を受けて二〇二三年三月二十日に修正した)、是非、読まれたい。なお、湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収)では、類話について、膨大なそれらを掲げておられるので、興味のある方は、一読を強くお薦めするものである。

「重籐(しげどう)の弓」「滋藤」とも書き、「しげとう」とも読む。弓の束(つか)を黒漆塗りにし、その上を籐(とう)で強く巻いたもの。大将などの持つ弓で、籐の巻き方などによって多くの種類がある。正式には握り下に二十八ヶ所、握り上に三十六ヶ所を巻く。参照した「goo辞書」のこちらに、当該の弓の図があるので見られたい。

「矧(は)いだる」竹に羽をつけて矢を作ることを言う。

「大(おほ)かりまた」大雁股。「雁股」は鏃(やじり)の一種で、先端を二股にし、その内側に刃をつけたもの。飛ぶ中・大型の鳥や、走っている鹿や猪などの足を一矢で射切るのに用いる。ここはそれを矢の先に装着した矢を言う。参照した「コトバンク」の「精選版 日本国語大辞典」のこちらに、その鏃をつけた矢の先の図があるので、参照されたい。

「一つがひ」同一の大雁股の矢二本。

「もと筈(はず)、うら筈」岩波文庫版の高田氏の注に、『弓の兩端の弦(つる)をかける所。弓を射る時、上になる方を末筈』(うらはず)、『下になる方を本筈』(もとはず)『という』とある。ここは、強力に弓を引いて射て、大蛇を仕留めるための窮極の勲(いさおし)である。

「乙矢」第二番目に射る矢のこと。

「二の負ひ手」同前の高田氏の注に、『二つの重い傷』とある。無論、大蛇の受けたそれである。

「なじかは」副詞で、ここでは「どうして~か、いや、~ない」で反語の意を表わす。「なにしにかは」→「なにしかは」→「なんしかは」→「なじかは」と変化・縮約されて出来た語。]

「曾呂利物語」正規表現版 八 狐人にむかつてわびごとする事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした(本篇は載らない)。本篇はここから。]

 

     八 狐人にむかつてわびごとする事

 寬永八年ひつじのとし、關東武藏國(むさしのくに)、さる御方(おんかた)さまの屋敷に、植込あるため池、あり。

 そのうちに、白鴈(はくがん)を放し飼ひおかるゝ所に、狐、これを取りはべりしかば、あるじの殿(との)、腹(はら)を立て、近習の人々にまうし付けらるゝは、

「かひ鳥(どり)を、狐めが、とる事、にくき仕合(しあはせ)なり。明日は、うゑこみの中を狩り、きつね、穴にあらん程に、盡く、殺せ。」

と、云ひつくる。

 人々、

「かしこまる。」

と申す。

 しかれば、其の夜(よ)、宿直(とのゐ)する人の夢に、

「殿の御飼ひなされ候(さふらふ)鳥を、植込に住ひする狐がとりたるとて、御腹立遊ばし候事、御尤もに候へども、さりながら、さにはあらず、他の狐がわざなり。すなはち、成敗して差上げ候はんまゝ、明日(あす)の狐狩は、御赦し給ふやうに賴み奉る。」

由、現(うつゝ)の如く見えしかば、

『ふしぎなる夢を見申したるものかな。』

と思ひながら、かくともいはで、其の日は暮れぬ。

 扠(さて)、その日は、殿に、客人(まらうど)、しげく有りしかば、狐狩も、沙汰なくて過ぎぬ。

 又、其の夜(よ)の夢も、同じく見えて、

「情(なさけ)なき事よ、ゆうべの程、御詫言(おわびこと)を申すに、訴へも給はらぬことよ、御客人あればこそ、昨日の命は助かりたれ、明日は、すでに、御成敗、きはまりぬ。」

と、二夜(ふたよ)まで、有り有りと見えしかば、餘りの事の不思議さに、御前(ごぜん)に參り、此の由を、こまごまと、申し上ぐる。

 殿も、

「今夜、不思議の夢を見つるなり。さらば、まづ、今日の狩をば、やめよ。」

と宣(のたま)ひける。

 扠(さて)、明くるつとに、大きなる狐、五匹を殺して、緣に、もておくと、なん。

 これは、昔物語のたぐひにはあらぬを、不思議なるまゝに書きつけ侍るとぞ。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収)によれば、これは鎌倉中期に成立した説話集「古今著聞集」の「變化」の中の一章「大納言泰通、狐狩を催さんとするに、老狐夢枕に立つ事」を先行類話として挙げておられる。古典テクスト・サイト「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、電子化されたものが読める。

「寬永八年ひつじのとし」寛永には、八年辛未(一六三一年)と、二十年癸未(一六四三年)がある。

「白鴈(はくがん)」カモ目カモ科マガン属ハクガン Anser caerulescens 。カナダ北部・アラスカ州・ウランゲリ島・シベリア東部で繁殖し、冬季になると、北アメリカ大陸西部へ南下して越冬するが、日本には、越冬のため、極く稀れに冬鳥として飛来する。

「つと」「つとめて」の縮約。早朝。夜明け方。]

「曾呂利物語」正規表現版 七 罪ふかきもの今生より業をさらす事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした(本篇は載らない)。なお、本篇には挿絵があるので、国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入した。

 

     七 罪ふかきもの今生(このじやう)より業(ごふ)をさらす事

 

 宮古(みやこ)[やぶちゃん注:京都。]北野近(ちか)うに慳貪(けんどん)なる女、あり。まことに、善根なる心ざしは露ほども無(な)うして、惡業(あくごふ)は須彌(しゆみ)の巓(いたゞき)にも越えつべし。

 さるつれあひの男、用の事有りて、一條戾橋(でうもどりばし)の邊(へん)を、曉方(あかつきがた)に通りしが、橋の下に死人(しにん)の有りけるを、老女が、引き裂き、引き裂き、食ひけるを、よくよく見れば、我が子の母なり。

 

Hitokuihaha

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは、「罪ふかき者今生ゟごうをさらす事」である。]

 

 不思議といふも愚かにて、急ぎ、我が屋に立ちかへり、母の、いまだ、臥して有るを、起しければ、驚き、起きあがりて、

「さてさて、おそろしき夢を見つる中(うち)に、嬉しくも、おこさせ給ふものかな。」

といふ。

「いかなる夢を見給ひつる。」

と謂へば、

「橋の下に、死人のあるを、引きさきて食ふと思ひしが、夢心にも、『こは、淺ましきことかな。』と思ひしながらも、食ふは嬉しき心地ぞかし。」

といふ。

 程なく、彼のもの、身まかりにけるが、今生の罪業深かりしかば、來世はさこそと思ひやるさへ、不便(ふびん)なり。

[やぶちゃん注:同時期に出版されたもので、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十七 人の魂、死人を喰らふ事 附 精魂寺ヘ來る事」』は展開部のコンセプトに強い類似性が認められる。また、後発の「諸國百物語卷之一 五 木屋の助五郎が母夢に死人をくひける事」は明らかに本篇の転用である。なお、『西原未達「新御伽婢子」 人喰老婆』は、京都が舞台で、橋の袂に「人喰姥(ひとくひうば)」が出現するというコンセプトが親和性を持っている(以上は総て私の過去の電子化注である)。

「さるつれあひの男」「我が子の母なり」という表現が、私には妙に躓く。「さる」には、この女が複数の男と関係を持っていたことを暗示しておきながら、家にいる子は、確かにこの男の「我が子」であり、産んだのは、妻であるという変なニュアンスを嗅がせるためであろうか?

「一條戾橋」既出既注。]

「曾呂利物語」正規表現版 六 人をうしなひて身に報ふ事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今までは、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入してきたが(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)、裏映りを消すために補正すると、薄くなるか、全体が黄色くなるかで、今一つ気に入らない。そこで、状態がかなりいい、上記岩波文庫版に挿絵の載るものは、それを画像で取り込み、トリミング補正することとした(今回はそれである)。

 

     六 人をうしなひて身に報ふ事

 

 津の國大坂に、「兵衞(ひやうゑ)の次郞(じらう)」とかや云ふもの、有り、いろを好む心、ふかうして、召使(めしつか)ひける女を、忍びて、褄(つま)を重ねけり。

 本妻は、例(れい)より、物(もの)ねたみ、いとはしたなくて、かく、雨夜(あまよ)のものがたりに、左馬頭(さまのかみ)がゆびを食ひきりしには、猶、こえたり。

 さるに、なにがし、他行(たぎやう)のひまに、かの女を、とらへ、井(ゐ)のうちへさかさまにおとし、ふしづけにこそしたりけれ。

 なにがし此の事、夢にも知らず、月頃(つきごろ)すごしけるに、一人(ひとり)の寵愛の男子(だんし)有りけるが、以ての外に勞(いたは)りけるを、色々、養生・祈念・祈禱をしけれども、其のしるし、なし。[やぶちゃん注:「以ての外に勞(いたは)りけるを」尋常でない重い病気に罹ってしまったので。]

 其の頃、「あまのふてらやの四郞右衞門」といふ針(はり)たて[やぶちゃん注:針医(はりい)。]、天下無雙の聞え有りけるを、招き、一日、二日のうち、養生す。

 ある夜(よ)、月のあきらかなるに、四郞右衞門、緣に出(で)て有りけるが、何處(いづく)ともなく、いとあてやなる女、きたりて、四郞右衞門にうちむかひ、さめざめと泣きゐたり。

 不思議なることに思ひ、

「いかなるものぞ。」

と、尋ねければ、

「恥かしながら、此の世を、去りしものなり。あるじの北の方、あまりに情(なさけ)なきことの有りしにより、うらみ申しに、來りたり。其の子は、何と針をたて給ふとも、さらに甲斐、あるまじ、いそぎ、そなたは歸りたまへ。さなくば、眼前にうきめを見せ侍らん。」

と云ふ。

 四郞右衞門、肝(きも)をけし、

「さては、亡靈にて有りけるかや。たゞし、如何(いか)やうの恨みぞ。其方の跡をば、ねんごろにとぶらはせ侍らんに、恨みを、晴らし給へ。」

といふ。

「いやとよ、此の子を取り殺さでは、おくまじ。」

とて、歸らんとするを、餘りの不思議さに、袖を控へ、

「さるにても、いかなる恨みの侍るぞ。」

といへば、

「しかじかの事、さふらひし。」[やぶちゃん注:以下の頭に「と、」を入れたい。]

折檻は世の常、あまりに情なき事ども、ありのまゝにぞ語りける。

 

Hitowokorositeminimukuu

 

[やぶちゃん注:キャプションは以上では切れて確定的には読めないが、最も状態のよい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該画像(これは残念ながら許可なくして使用は出来ない)を見るに、「ひとをころし身にむくう事」と判読出来る。]

 

 扨(さて)、女は、たけ、一丈もあるらんと思(おぼ)しくて、そらざまに生(お)ひたち、髮は白がねの針をならべたる如く、角さへおひて、朱(しゆ)まなこ、牙(きば)を嚙みたる有樣、たとへて、云はん方も、なし。[やぶちゃん注:ここで亡霊は瞬時に鬼形(きぎょう)に変じているのである。]

 四郞右衞門、一目見(めみ)、あはせて、そのまま消え入り侍りしが、あるじ、來たりて、[やぶちゃん注:「一目見、あはせて」(ひとめみ)で、「一瞬、その亡霊と目を見合わせた途端」の意。]

「此は、いかに。」

と、やうやう、助けものして、事の仔細を問ひければ、

「かやうかやうの姿を、一目見しより、夢うつつともわきまへず、たえ入り候。」

といふ。

 猶も、委しく尋ぬれば、はじめ、終はり、事(こと)こまかにぞ語りける。

 兵衞の次郞、これを聞き、

『いかゞすべき。』

と思ひ患(わづら)ひ、又、一兩日のほど過ぎて、四郞右衞門を呼びに遣(つか)はし、

「いかゞすべき。」

と談合しけるが、又、其の夜、四郞右衞門が枕上に來り、

「如何に言ふとも、かなふまじ。日こそ隔たるとも、一門眷屬、次第々々に取りて、北の方に、思ひ知らせん。」

と、いふかと思へば、屋根より、大磐石(だいばんじやく)をおとしけるが、彼(か)の子は、微塵に碎けて、亡(う)せぬ。

 母は、月花(つきはな)とも眺めしひとり子(ご)を、かく恐ろしき事にして、歎き悲しみ侍りしが、それより打續(うちつゞ)き、母の一門、盡(ことごと)く滅びて、つひには、母、重き病(やまひ)の牀(とこ)にふす。

 人に憂き目を見せければ、かかりける事、有りとは、昔物語にこそ聞きしが、今も有ることにこそ。

[やぶちゃん注:本篇は「諸國百物語卷之五 十一 芝田主馬が女ばう嫉妬の事」で、コンセプトを転用しつつ、よりリアルに換骨奪胎している。

「雨夜(あまよ)のものがたりに、左馬頭(さまのかみ)がゆびを食ひきりし」非常に知られた「源氏物語」の「帚木」(ははきぎ)の帖の、光源氏(数え十七歳)が色好みに覚醒する、所謂、「雨夜の品定め」の中の、左馬頭の経験談を指す。サイト「源氏物語の世界 再編集版」のこちらの冒頭がそれ(原文・二種の現代語訳附き)。私の教師時代のシノプシスのダイジェスト・プリントから引く。

   *

◇左馬頭の経験談――「指喰(ゆびく)いの女」(嫉妬深い女)――若い頃に付き合った女がいたが、これが、あまりに嫉妬深く、わざと薄情な素振りを見せたところが、「女も、えさめぬ筋(すぢ)にて、指(および)ひとつ、引き寄せて、喰ひはべりし」。その後、ちょっと意地を張って会わぬうちに、亡くなってしまった。気の毒をした。

   *

「ふしづけ」「柴漬け」と書く。体を簀巻きなどにして、水に投げ入れること。元は拷問や刑罰・私刑としてあった。

「あまのふてらやの四郞右衞門」岩波文庫版の高田氏の注に、『不詳。地名であろう。尼野江寺か』とある。但し、そちらの本文は『あまのふてら四郎右衛門』である。

「いやとよ」「否とよ」で感動詞。元は感動詞「いや(否)」+連語「とよ」。「いや! そうではない!」「いや! 違う!」と言った感じで、相手の発言を強く否定する際に発する語。

「助けものして」岩波文庫版の高田氏の注に、『正気づかせて』とある。「ものす」で他動詞(サ変)で「(ある動作を)する」の意の代動詞。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 七番 炭燒長者

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。太字は底本では傍点「﹅」。]

 

   七番 炭燒長者

 

 或る所に、隣同志の仲の良い父(トヽ)共があつて、木を伐りに山へ行き、其處の山神の御堂に入つて泊つて居ると、二人は言ひ合はしたやうに、同じ夢を見た。その夢は、自分等が泊つて居る御堂へ何處からか多勢の神々が寄り集つて、がやがやと何事か相談し合つてゐるところである。其の中の一人の神樣が、やいやい此所《ここ》の主の山神が見えぬが如何《どう》したと言つた。これは本當に可笑しい、如何したのだらうと言ひ合つて居る所に、外から其の山神が還つて來た。如何した、何處へ行つて居たといふ神々の問ひに、山神の言ふには、留守にして居て濟まなかつた。實は此の下の村に、お產があつたものだから、それを產ませてから來ようと思つて、思はず暇をつぶしたが、先づ何れも無事で此の世の中に又二人の人間が出たから喜べと言ふ。神々は、それはよかつた。して產れた子は男か女かと問ふと、山神は男と女だ、隣合つて一緖だつたと言つた。そうか、そして其の子供等の持運《もちうん》は如何だつた。そうさ、女の兒の方は鹽一升に盃一個と言ふ所だが、男の兒は米一升しか持つて居なかつたと言ふ。緣は、と又神々が訊いた。緣か、緣は初めは隣同志だから二人を一緖にしようと思ふが、とにかくそうして置いてから復(マタ)考へてみようと言つた…と思うと不圖《ふと》二人の父(トヽ)は目を覺《さま》した。そしてその夢を言ひ合つて互に不思議に堪えられず、まだ夜も明けなかつたが、共々家へ歸つた。家へ歸つて見ると、夢の通り兩方に男と女の兒が產れて居た。

 二人の子供は大きくなつて、夫婦になつた。其の家は俄に富み榮えて繁昌した。その女房は、神樣から授つたやうに、一日に鹽一升を使ひ盃が手から放れないで、出入の者にザンブゴンブと酒を飮ませた。それだから其の家の門前はいつも市のやうに賑かであつた。夫はそれを見てひどく面白くなかつた。何でもかんでも湯水のやうに使ふても、こんなに物がたまるのだから、妻が居《を》らなかつたら此上どんなに長者になれるか知れないと考へて、或る日妻を追出《おひだ》した。妻は泣いて詫びたけれども遂に許されなかつた。

 妻は夫の家を出て、何處といふ目的(アテ)もなしに步いて行つたが、其の中に日が暮れた。腹が空いてたまらぬので、路傍の畑に入つて大根を一本拔いて食べようと思つて、大根を拔くと、其の跡(アト)から佳い酒の香りがして水が湧き出した。それを掬つて飮むと水ではなくて酒であつた。妻はお蔭で元氣を取り返して、斯う歌つた。

   古酒(フルサケ)香(カ)がする

   泉の酒が湧くやら

 そして自分で自分に力をつけて、道を步いて行つた。すると向ふの山の方に赤い灯の明りが見えた。女房はそれを目宛(メアテ)に辿つて其處へ行つて見ると、一人の爺が鍛冶をしてゐた。女房は火の側へ寄つて行つて、今夜泊めてクナさいと言つた。爺は見らるゝ通りの貧乏だから、とても泊めることは出來ぬと答へた。すると女房は、お前が貧乏だと言ふなら、世の中に長者はあるまい。見申《みまを》さい、この腰掛石や敷石や臺石を、これを何だと思ひますと言ふと、爺はこれはただの石だと言つた。否々これは皆《みな》金だ、金だから町へ持つて行つて賣《う》ンもさいと女房が敎へた。

 爺は翌日其の中の一個を町へ持つて行つて見た。町では[やぶちゃん注:底本は「見た 町 は」であるが、「ちくま文庫」版で訂した。]何處でもこれは大したものだ。とてもこれに引換へるだけの金(カネ)を爺一人で背負つて行けるものではないと言はれた。さう言はれる程の多くの金を爺は叺《かます》に入れて背負つて歸つた。山の鍛冶小屋の附近は一體にそれであつたから、爺と女房は忽ちに長者となつた。そしてまた女房の方では、土を掘ると前のやうに酒が湧き出たので、これも酒屋をはじめ其の山は俄に町となつた。女房の先夫は、ひどく貧乏になつて、息子と二人で薪木《たきぎ》を背負つて其の町へ賣りに來たりした。

  (和賀《わが》郡黑澤尻町《ころさはじりちやう》邊にある話、家内の知つていた分。)

[やぶちゃん注:「炭燒長者」譚は日本各地に伝承される長者譚である。私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の「柳田國男 炭燒小五郞がこと」(全十二回分割)を参照されたい

「和賀郡黑澤尻町」現在の岩手県北上市黒沢尻(グーグル・マップ・データ)。

「家内」私は佐々木喜善の詳細年譜を所持しないが、この謂いからは彼の妻女はその黒沢尻の出身であったのであろう。]

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「鹽を好む山犬」・「馬には見える山犬の姿」・「煙草の火と間違へた山犬の眼」・「水に映る姿」 / 山の獸~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○鹽を好む山犬  山犬のことを山ノ犬、オイヌサマなどと謂ひ、これに後《あと》をつけられることを送られると謂ひます。夜《よる》山道などを通つて送られた時は、御禮に門口へ鹽を置くと謂ひます。又送つて來る時は轉んだら喰べようと云ふから、轉ばぬ用心が第一とも謂ひます。五十年ばかり前に亡くなつた早川孫三郞と云ふ男は、山犬に送られた事があつたと云ふ事ですが、其時、お禮に門口へ鹽を出したら、姿を顯はして喰べたと謂ひます。送る時は人の後から隨つて來ないで、路に沿つた木立の中を、時折肢音《あしおと》をさせて來ると謂ふ事です。

 又山犬は火を嫌ふから、夜道をする時は、切火繩《きりひなは》を持つて步くものと言います。

 山犬は、山の神に誓言《せいごん》して、枯草に鳴いて、靑山には鳴きませんと言つたから、夏は鳴かぬと謂ひます。これを山の神の御誓言と云ふさうです。

[やぶちゃん注:ここで言う「山犬」「山ノ犬」「オイヌサマ」は、本邦の近代までの民俗社会では、これらは「野犬」(のいぬ/やけん:哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属オオカミ亜種イエイヌ Canis lupus familiaris。私は犬が野生化した個体や、その個体群を、恰も生物種のように「ノイヌ」と表記することに反対である)ではなく、「狼信仰」で霊験を持つとも考えられた、絶滅近かったニホンオオカミ(イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax:確実な最後の生息最終確認個体は明治三八(一九〇五)年一月二十三日に奈良県吉野郡小川村鷲家口(わしかぐち:現在の東吉野村大字小川(グーグル・マップ・データ))で捕獲された若いオスである。著者早川孝太郎氏は明治二二(一八八九)年の生まれである)を原則的には指すので、注意が必要である。「山犬」「豺」(やまいぬ)という呼称も非常に古くからあるが、これは野犬ではなく、ニホンオオカミの別名である可能背が高いとする説が有力である。但し、ごく最近、我々が絶滅させてしまったニホンオオカミの標本のDNA解析が行われ、それが、ニホンオオカミと野犬の雑種であることが判明しており、高い確率で、近代までには、既にしてニホンオオカミと野生化したイエイヌの雑種群が広く存在していた(している)可能性が高いようには思われる。

「鹽」野生や飼育している草食動物が盛んに自然塩水や岩塩・海水塩などを摂取することは知られているが、肉食動物の場合は得物である草食動物の血液や骨から塩分を摂取するので、動物摂取が上手く行っていない場合を除いて、ニホンオオカミが積極的に置かれた塩を食べることはないはずである。野生の草食性或いは雑種摂取の動物が舐めたのを誤認したと考える方が妥当であろう。

「切火繩」適当な長さに切った火縄。火縄銃に点火する以外に、煙草に火をつけたりするほか、時間を計るのにも回して火が消えぬようにしつつ、携帯して用いた。]

 

 ○馬には見える山犬の姿  馬方が夜にかけて稼げば、大變利益があるけれど、馬が山犬を怖れて瘦せると謂ひます。またびつしより汗を搔いてゐるなどとも謂ひます。

 早川柳策と云ふ男が、暮方鳳來寺村の長良と云ふ所から馬を曳いて來て、村を出離《ではな》れて、ふだん山犬が出ると云ふ噂のある、行者樣《ぎやうじやさま》と云うふ處へさしかゝると、突然馬が手綱を振切《ふりき》つて、もと來た道を馳せ歸つたと謂ひました。馬は人家の前で、村の者が捕へて吳れたと云ひましたが、未だ人の顏がぼんやり見える程の時刻だつたさうです。

[やぶちゃん注:「長良」であるが、次の話にも出るのだが、これは「長樂」の誤りではなかろうか。旧鳳来寺村には「長良」はなく、「長樂(ながら)」ならあるからである。「ひなたGPS」のこちらを見て戴くと、現在も地名として生きていることが判る。

「行者樣」先行する「行者講」に出た「行者樣と呼んでゐる石像」と同じであろう。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の右の方の『(萬燈山)』の麓の道がカーブする南東の山側部分に『行人石像』とあるのがそれであろう。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)になくてはならないはずだが、見当たらない。ストリートビューでも確認出来ない。]

 

 ○煙草の火と間違へた山犬の眼  ある煙草好きの男が、海老《えび》へ行く街道を急用があつて夜中に步いて行く途中で、長良と云ふ處を出離れて玖老勢《くろぜ》へ越す杉林の中で、煙草の火を切らしてしまつて、煙草を煙管《きせる》へ詰めたまゝ口に咥《くは》へ行くと、行手に煙草を喫つてゐるらしい火が一ツ見えるので、急いで近づいて行つて、どうぞ火を一ツと、煙管を差出すと、それは山犬の眼であつたのに仰天して、其處に尻餅を撞《つ》いて氣絕してしまつたと謂ひますが、山犬の方でも閉口して傍の草叢へ飛込んだと謂ふ話があります。

[やぶちゃん注:「海老」橫山からは北方の山間部である新城市海老(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「長良」前条の私の注を参照されたい。

「玖老勢」新城市玖老勢(同前)。南西側で横川と一部が接する。]

 

 ○水に映る姿  遠江の山住樣《やまずみさま》や、春野山は山犬の神樣だと謂つて、狐憑《きつねつ》きなどのある時は、幾日間と期間を定めてお姿を借りて來ると謂ひます。其折は豫《あらかじ》め神主に依賴すると神主が、神樣に御都合を伺つて、行くと仰しやれば、初めてお札を渡すので、それを受取つたら決して後《うしろ》を見ないで、どんどん歸つて來るのだと謂ひます。もし後を見返ればお犬樣が歸つてしまうと謂ひます。それで途中川などがあつて、橋を渡つたり、渡し船に乘つた時などは山犬の姿が水に映つて見えると謂ひます。

 家へ着くと、山犬が先づ其屋敷を三度廻るものと謂ひますが、八名郡の山吉田村字畑中と云ふ處のある家で迎へて來た時は、姿は見えないで、門口で三聲恐ろしい聲で吠へた[やぶちゃん注:ママ。]と謂ふ事です。

[やぶちゃん注:「遠江の山住樣」狼を神使とする、横山からは東北に直線でも四十キロ離れた、静岡県浜松市天竜区水窪町(みさくぼちょう)山住の山中にある山住神社(同前)。

「春野山は山犬の神樣」同じく天竜区の春野町(はるのちょう)花島(はなじま:同前)の峻険な花野山の山頂に立つ行基開山と伝える埜山大光寺(はるのさんだいこうじ)。横川からほぼ東に直線で約四十一キロ離れる。本堂の前に狼が左右に配されてある(同サイド・パネル)。御茶農家八蔵園の鈴木猛氏のサイト内の「春野の観光」の「春埜山大光寺 山犬」に、左右合成の写真とともに、『春埜山大光寺の山犬です。この地には神様の使いである動物である、狼=山犬信仰があります。昔は焼畑をしていましたが、猪やウサギなど野生動物の害がありました。狼はその害を防いでくれる、代わりに山の民は塩をある場所に置いたといわれます。お互い姿は見せずとも、そこには信頼がおかれていたといいます』。『逆に信頼を裏切ると、その仕返しはたいへんなものだったそうです。この風土が受け継がれたものなのか、現在』で『もおもしろいのは、この地に暮らす山の民の気質で、人からうけた信頼はとことんかえすけれども、信頼を裏切られるとたいへんなのだそうです。山に生きる術が狼信仰として残り、それが今でもみなの心に息づいているということでしょう』とあった。また、サイト「寿福@参道」内の「狼神話 春埜山大光寺(はるのさんだいこうじ)」には、 『地元の人たちから「お犬様」と呼び親しまれている大光寺は、曹洞宗、神仏混交の修験の山として知られています。春埜山は秋葉山と対になり、奥の院である山住神社』(☜)『の里宮であったという説もあります。大光寺の本堂前には、狼の狛犬が控えていて、ここが修験道の狼信仰の山であったことがうかがえます』。『守護神の太白坊は春埜山に住む天狗であると言われ、本尊である三尊天を守護するとされています。また、その眷属である狼を派遣し、信者の祈願成就を助けるとのことです』。『大光寺の開山は、養老』二(七一八)年に『行基菩薩がこの山頂に庵を開いたことが始まりとされています。境内には行基菩薩お手植えと伝えられる、樹齢』千三百『年の春野杉があり、県の天然記念物に指定されています。寛文年間』(一六六一年~一六七三年)『には一時』、『無人となったこともありましたが』、後に『復興し、明治の神仏分離令のときにも神仏習合を通し』(あっぱれ!)、『今日に至っています』とある。

「狐憑きなどのある時は、幾日間と期間を定めてお姿を借りて來る」旧民俗社会の獣類の頂点にニホンオオカミがいたことがよく判る。

「八名郡の山吉田村字畑中」この中央附近が旧山吉田地区(グーグル・マップ・データ)。]

2023/03/18

「曾呂利物語」正規表現版 五 ばけ物女になりて人を迷はす事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今までは、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入してきたが(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)、裏映りを消すために補正すると、薄くなるか、全体が黄色くなるかで、今一つ気に入らない。そこで、状態がかなりいい、上記岩波文庫版に挿絵の載るものは、それを画像で取り込み、トリミング補正することとした(今回はそれである)。

 

     五 ばけ物(もの)女(をんな)になりて人を迷はす事

 ある人、奉公の心ざし有りて、加賀國(かかのくに)へ罷りけるが、町屋に宿(やど)を借りてぞ、ゐたりける。

 かのあるじの息女、みめ美しく、形、優(いう)に侍るが、彼(かの)の者、物の隙(ひま)より見そめ、ひたすら思ひ沈みて、召し使ひける侍(さぶらひ)に、いひあはせて、色々、さまざま、心ざしの淺からぬ由(よし)、つたへければ、女も、いつしか、心、とけて、たがひに、むつまじくなりにけり。

 もとより、人目を忍ぶ事なれば、夜ふけ、人しづまりて後(のち)、かの男のもとへ通ひ侍りしが、ある夜(よ)、女、をとこのねやに有りながら、又、あるじのあたりにも、彼(か)の女の聲しけるを、なかだち、

『怪し。』

と思ひ、あるじのあたりヘ、何となく音(おと)づれて見れば、紛(まぎ)るゝ所も、なし。

 

Bakemonoonnaninaru

[やぶちゃん注:以上の岩波版では右上端のキャプションが見えないが、「国書データベース」で確認すると、「ばけ物女に成て人まよはす事」と確認出来る。]

 

 あまりの不審さに、なにがしの許(もと)へ行き、かたかげへ呼び寄せ、

「かかる事の侍る。」

由、ささやきければ、怪しみて、

『いかさま、我が心をたぶらかさんと、變化(へんげ)の物の態(わざ)にてぞ、あるらん。』

と思ひ、何となう、もてなすやうにして、とりて、引きよせ、一刀(ひとかたな)、させば、

「あつ。」

と云ふ聲のうちより、姿は、見えずなりにけり。

 さて、夜明けて、血をとめて、見れば、二里ばかり行きて、山、有り、山、又、山をわけ入りて見れば、大いなる岩あなの中(なか)に、かの女の姿をしてぞ、ゐたりける。

 日數(ひかず)すぎ行くまゝに、常の死人(しにん)の如くに、涸(か)れゆきぬ。

 主の娘も、恙(つゝが)なし。

 如何なる事とも、わきまへかねたる事どもなり。

[やぶちゃん注:本篇をほぼそのまま転用したものに、「諸國百物語卷之二 六 加賀の國にて土蜘女にばけたる事」ある。

「とめて」求めて。跡を追って。]

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「ノシ餅を運ぶ鼬」・「鼬の鳴聲」・「カマイタチ」・「鼬の最後屁」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○ノシ餅を運ぶ鼬  正月の切餅を鼬が自分の巢へ運ぶ時は、スーと云ふやうな聲を盛《さかん》に立てると謂ひます。それは鼬が嬉しくて立てるのだと言ふ人もありました。早川安太郞と云ふ男が、夕方畑の道を步いてゐると、行く手から白い布のやうな物が地を這つて來るので、足元へ近づいてから、不意に怒鳴ると、其處から鼬が飛び出して逃げて行つたと謂ひます。白い布のやうに見えたのは、伸餅《のしもち》であつたさうです。鼬が自分の體で餅を冠つて持つて來たのだらうと謂ひました。鼬は餅に限らず何でも自分が見つけただけは、全部巢へ運んでしまつて最後に屁をかけておくと謂ひます。

[やぶちゃん注:「鼬」食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela に属する多様な種群を指す。本邦には四種七亜種ほどが棲息するが、タイプ種は日本固有種のニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsiで、本州・四国・九州・南西諸島・北海道(偶発的移入)である。実は、本邦では古くから、キツネやタヌキと同様に化けるとも言われ、妖怪獣の一種に数えられた。後に出るイイズナも同属である。詳しい博物誌は私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」を読まれたい。

「最後に屁をかけておく」所謂、「イタチの最後っ屁」であるが、これは彼らの食性による糞の臭い、及び、肛門の周辺にある強い液体を噴射する臭腺に拠るものである。詳しくは有害動物駆除会社の公式サイト「駆除PLUS」の「イタチの最後っ屁やふんの悪臭・対策について解説」が判り易く詳しい。]

 

 ○鼬の鳴聲  鼬の鳴聲で吉凶を占ふ風習があつて、一聲鳴《ひとこゑなき》は凶事の前兆と謂ひます。又鼬が行く手を橫ぎつた時は、行先に凶事がある故、三步後《うしろ》に退《さが》つて呪文を唱へて行くものと謂ひます。呪文は後《あと》に記す。

[やぶちゃん注:「呪文は後に記す」本書の末尾に『○種々な咒ひの歌』の条があり、そこに、

   *

鼬が行手《ゆくて》を橫切つた時は、三步後《うしろ》に戾つて、

 イタチ道チ道チカ道チガヒ道、ワガユク先ハアラヽギノ里、と三度唱へて行く。

   *

とあるのを指す。]

 

 ○カマイタチ  カマイタチは旋風に乘つて橫行し、人の生血《いきち》を吸ふと謂ひます。又飯綱《いひづな/いづな》ともいつて、昔飯綱師が弟子に傳授の時、封じ方を傳へなかつた爲め橫行《わうかう》して惡者になつたと謂ひます。別の說では、飯綱師ではなく、尾張鍛冶とも謂ひます。

[やぶちゃん注:「カマイタチ」この妖怪というか、奇怪な現象については、私は、散々、書いてきたので(中学時代、「カマイタチだ」とする事件の現場に私は居合わせた経験がある)、特にここでは注記しないが、「耳嚢 巻之七 旋風怪の事」及び「想山著聞奇集 卷の貮 鎌鼬の事」等の私の注を参照されんことを望む。

「飯綱」これは、一応、実在する動物としては、ネコ目イヌ亜目イタチ科イタチ属イイズナ Mustela nivalis の標準和名に当てる。この「妖怪獣」や民俗伝承についても、私は、複数回、注してきたので、例えば、「柴田宵曲 妖異博物館 飯綱の法」、及び、「老媼茶話巻之六 飯綱(イヅナ)の法」の本文及び私の注を読んで戴けると幸いである。なお、「早川孝太郎研究会」の当該箇所(PDF)には、以下の注記がある。『飯綱(いづな)は、飯繩とか伊豆那とも書かれる』。『人間に憑くといわれる妖獣で、狐憑き(狐の霊につかれること)の1種。体長9~12㎝くらいの鼬のような小動物。毛は柔らかく、尾は箒のようで尾先がふつくらとしている』。『4本の脚が互い違いに並んでおり、指は5本、手と耳は人間に似ている。民間宗教家のような特殊な人間の命令で動くもので、憑きものとしては犬神やくだ狐ほど一般的ではないという。人間にとり憑いた場合、その人は狂つたように何かを口走り、やたらと大食いになるが、水に溺れさせると飯綱は逃げるとされる。お金に憑くと勝手に増えるともいう』。『飯綱の正体はコエゾイタチであるらしい』(コエゾイタチ(小蝦夷鼬鼠)は前に掲げたイイズナの異名)。『飯綱を使役することができ、使役するものを飯綱使い、操る方法を飯綱の術といい、山伏や呪術師が利用していた』とある。]

 

 ○鼬の最後屁《さいごつぺ》  鼬の屁は最後の斷末魔に出すと言つてこれに當てられたが最後、犬でも顏色が變ると云ひますが、ある男が厩の傍で鼬を撲《なぐ》つたら屁を出して、その爲め馬が三日ばかりは糧馬を喰べなかつたと謂ひます。

 私が子供の頃、鼬捕りの箱で鼬を捕つた時、中にゴトゴト藻搔いてゐる奴を、其儘池の中へ沈めて殺した事がありましたが、後で引き出した時は、更に臭ひはなかつたやうでした。

 八名郡大野町の生田福三郞と云ふ人の噺に、若い頃、鼬寄せをした時に寄つた鼬は東京の兩國橋の下で生れたと謂つたさうですが、其折鼬の乘移《のりう》つてゐると云ふ男が、水を所望するので、茶碗に入れて與へると、恰《あたか》も鼬が水を飮む格好をして飮んださうです。殘りの水を後で其生田と云ふ人が飮まうとすると、其水が鼬の最後屁と少しも違はぬ匂ひがしたさうです。よく視ると、茶碗の緣が黃色く染まつてゐたさうです。居合《ゐあは》した數人の者に嗅がして見たさうですが、誰しも辟易とせぬものはなかつたと謂ひました。

[やぶちゃん注:早川氏の自身の体験に基づく強烈な二段落目が素晴らしい。机上で安易に勝手な推論を建てて自己満足に酔っているどこかの学者連中とは違って、実に説得力のある確かな「語り」ではないか。これこそが、本来の民俗学のあるべき原点である。生物学と同じでフィールド・ワークこそが要(かなめ)である。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 Nereid(アレクサンドル・ブーシキン)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  Nereid ブーシキン

 

タウリスの黃金の岸辺に接吻する白綠の波にあひだに、

私は海の女神を見た、 曙が空のはてにひらめくとき。

私はオリーブの木の間にかくれて吐息をつかうとした、

この若い半神の女神が海のうへにのぼるとき。

彼女のわかい白鳥のやうに白い胸は高まる水の上にみえ、

彼女のやはらかい髮の毛から浮める花環のなかに泡をしぼり出す。

 

[やぶちゃん注:二行目末は底本では、何かが打たれているようだが、甚だ薄く、句点か読点かは不明である。取り敢えず、四行目に倣って句点を配した。作者は言うまでもないが、ロシア近代文学の嚆矢とされる大詩人アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(Александр Сергеевич Пушкин/ラテン文字転写:Aleksandr Sergeyevich Pushkin 一七九九年~一八三七年)である。恐らくは、英訳からの重訳と思われる。ロシア語の原詩と英訳が載るこちらの英文サイトをリンクしておく。

Nereid」英語音写は「ネレイド」。ギリシア神話に登場する海に棲む女神たち、或いはニンフたちの総称。「ネーレーイス」「ネレイス」(以上、単数形)「ネーレーイデス」「ネレイデス」(以上、複数形)と呼ばれる。当該ウィキによれば、『彼女たちは「海の老人」ネーレウスとオーケアノスの娘ドーリスの娘たちで』、『姉妹の数は』五十『人とも』百『人ともいわれ』、『エーゲ海の海底にある銀の洞窟で父ネーレウスとともに暮らし、イルカやヒッポカムポス』(神獣で半馬半魚の海馬)『などの海獣の背に乗って海を移動するとされた』とある。

「タウリス」Taurus(英語の音写は「トォーラス」)。西洋の占星術で「黄道十二宮」(the signs of the zodiac:獣帯(じゅうたい)とも言う)の「牡牛座」(おうしざ:金牛宮(きんじゅうきゅう))を指す。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 唄(ジョン・リチャード・モーアランド)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

    モーアランド

 

かなしみをもてわれをとらへ、 いましめよ、

なほも、 恐れをもてわが心を 刺(さ)せよ、

もえあがるよろこびのちさきほのほを

なみだもて消せよ。

 

汝(な)が知れるかぎりの敏(さと)き手だてを試みよ、

すべてのたくみなるわざを用ゐよ………

されど されど わが心のなかのうたごゑを

なれはとめえじ!

 

[やぶちゃん注:アメリカの詩人・作家ジョン・リチャード・モーアランド(John Richard Moreland 一八七八年~一九四七年)はバージニア州ノーフォークで生まれで、同地で没した。一九二一年に詩誌『poetry』を創刊している。原詩は探し得なかった。

「用ゐよ」はママ。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 若い女のやうな春(ローラ・ベンネット)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  若い女のやうな春 ベンネツト

 

おほきく眼をひらいた街のかなたに

子を產んだ若い女のやうな春が

ためらひがちな足どりでやつてきた。

鋼(はがね)のやうな冷(つめ)たい霙がふり、

さけたみどりの莖のやうに吹きあれた風も

もはや たえだえになり、

その眼のかげにかくれてゐる

ヒヤシンス色の夜のとばりも

菫と薔薇とのおぼろのなかに消えうせる。

 

[やぶちゃん注:Laura Bennettで探してみたが、人物も詩篇も見出せなかった。識者の御教授を乞う。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 六番 一目千兩

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

     六番 一目千兩

 

 昔、奧州に一人のヤモメ男があつた。何とかして金儲けをしたいと思つて居た。そのうちに盆が來たので、蓮の葉を江戶へ持つて行つて、一儲けしやうと考へた。田舍で蓮の葉を買い集めると恰度《ちやうど》船で三艘あつた。それを江戶のお盆に間に合ふやうにと急いだが、江戶に着いてみると、昨日で盆が過ぎたと云ふところだつたので落膽した。

 男は甚だ困つたが、思ひきつて殿樣に謁見に及んで、私は今度奧州から美事な蓮の葉を運んで來ましたが、昨日でお盆が濟んで不用なものになりました。何卒もう一度御盆のやり直しを、殿樣から御布令《おふれ》して頂きたうございますと願ひ出た。すると殿樣は御聽き上げになつて、家來を集めて、今度奧州から珍しい蓮の葉が屆いたから、改めて又盆をしろと布令出させた。三艘の船の蓮の葉が、一艘一千兩づつに賣れて忽ちのうちに男は三千兩の大金を儲けた。

 その頃、日本中で一番美しいと云はれる女が江戶に居たが、なかなか人に顏を見せなかつた。一目見ると千兩と云ふ莫大な金が入るから、誰も三度見たことが無かつた。ただ女の居間の障子がスウと開いてすぐパタンと閉めたきりで千兩と云ふのだから、皆呆れて歸つて行くのであつた。

 奧州の男も、國の土產(ミヤゲ)に一度見て歸りたいと思い、その女の所へ出かけて行つた。まづ千兩出して賴むと障子が兩方ヘスウと開いて、忽ちバタンと閉まつた。成程女の顏は花のやうに美しかつたが、どうも夢のやうではつきり見えなかつたので、もう千兩出して賴むと、また先刻の通りであつた。それでも猶諦めかねて、三度目にまた千兩出して賴むと、またスウト障子が開いたが、今度は女が笑つて居た。けれども男は持つてゐた三千兩の金をば皆無くしてしまつたので、これからどうして國へ歸つたらよかろうかと思案して居ると、女が出て來て、お前さんはどうしてそんなに思案顏して居るかと言つた。男は俺はもう一文も無いので奧州へ歸る工夫をして居ると言ふと、女は今迄二度までは見てくれても、三度まで妾《わらは》を見てくれた者がないのにお前さんは持ち金全部を出して見てくれた、それで私はお前さんの氣象に惚れた、どうか私を女房にして奧州へ連れて行つて下さいと言つた。そして女の持ち金全部を持つて、共に奧州に歸つて長者となつた。

  (岩手郡雫石《しづくいし》村、田中喜多美氏の御報告の一《いち》、摘要。)

[やぶちゃん注:「岩手郡雫石村」岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう:グーグル・マップ・データ)。

「田中喜多美」(明治三三(一九〇〇)年〜平成二(一九九〇)年:佐々木より四つ年下)は岩手県雫石町出身の民俗学者・郷土史家。尋常高等小学校を卒業後、高等科に進学するものの、家庭の事情により退学、農業に従事しながら、全くの独学で勉学読書に励んだ。後に岩手県教育会・岩手県庁に勤務し、岩手県の歴史と文化についての研究・振興に多大な功績をあげた(サイト「神奈川大学 国際常民文化研究機構」のこちらに拠った)。]

「曾呂利物語」正規表現版 四 一條もどり橋のばけ物の由來の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入する(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)。なお、この図は底本(保護期間満了)にもあり、底本のものも手を加えずに並べて参考に供した。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     四 一條もどり橋のばけ物の由來の事

 いつの頃にか有りけん、

「都(みやこ)、『もどりばし』の邊(へん)に、よなよな、變化(へんげ)のもの、有り。」

と、いひわたる事、あり。

 こゝに、そのかみ、名(な)ある武士(ぶし)、その頃は、世を憂きものに思ひて、洛中に徘徊して侍りしが、ゆたかなる餘慶(よけい)にて、今に所狹(ところせ)きさまなりしが、此の事を聞き、

『さるにても、いかなるものぞ。見屆け侍らん。』

と思ひ、ある夜(よ)、かの橋の邊(ほとり)に棧敷(さじき)を打ちて、妻女諸共(もろとも)に、行きて、密(ひそ)かに待ちてぞ、ゐられける。

 さる程に、常に立ち入りし座頭の有りけるが、其の夜(よ)しも、來たりて、

「殿(との)は。」

と問へば、

「しかじかの事。」

と云ふ。

「『人、多くては、化物(ばけもの)、來(きた)らじ。』とて、「上下(うへした)、二、三人して、坐(おは)して侍る間(あひだ)、御伽(おとぎ)に參られよかし。」

と、いひければ、

「尤(もつと)もの御事(おんこと)なり。さらば。」

とて、彼(か)のさじきに行きぬ。

 何某、なのめならず、悅び、宵の程は、「平家」など語らせて慰みけるが、夜更けて、人、靜まりぬれば、夫婦(ふうふ)ながら、ことの外、眠くなりて、

「ばけもの見ん事も、なるまじき。」

と、互(たがひ)に、起こし、制するほどこそあれ、後(のち)には性根(しやうね)を失ひ、我(われ)かの氣色(けしき)にて、うかうかと、ねぶりけり。

 かかる所に、二人のなかへ、彼(か)の座頭、飛びかゝり、長き手を、さしのべて、頭(かしら)をおさへける。

 

Kumonokai

 

Teihokumonokai

 

[やぶちゃん注:前者が「国書データベース」のものを補正したもの、後者が底本(『近代日本文學大系』第十三巻 怪異小説集・昭和二(一九二七)年刊)のもの(補正せず)。右上端のキャプションは「条もどりはしばけ物の事」(「一」はなし)である。]

 

 男、驚き、

「得たりや、かしこし。」

と、起きあがり、太刀に手を掛けんとすれども、網にかゝれる如くにて、手足に搦(から)まり侍るを、漸(やうや)うに押しくつろげ、相傳(さうでん)の「來國光(らいくにみつ)」を以つて、拂ひ切りにぞ、したりける。

 化物、一刀(ひとたち)、きられて、少しひるむ所を、續けさまに、五刀(いつかたな)、剌して、さて、火を點(とも)し見給へば、手足は龍(りよう)の如くにて、長さ一丈三尺五寸、かしらは、繪にかける酒顚童子(しゆてんどうじ)の如くなり。これぞ、蜘(くも)といふ蟲の、功(こう)[やぶちゃん注:ママ。]を經て、人をばかかしけるなり。

 其の後(のち)、橋にさらして、諸人(しよにん)に、これを見せけるとぞ。

[やぶちゃん注:「一條もどり橋」怪奇出来(しゅったい)にこれほど恰好なロケーションはない。そもそもが「橋」自体が古代の民俗社会に於ける「異界との通路」であった。当該ウィキによれば、『一条戻橋(いちじょうもどりばし)は、京都市上京区の、堀川に架けられている一条通の橋で』、『単に戻橋ともいう』(ここ。グーグル・マップ・データ)。延暦一三(七九四)年の『平安京造営に際し、平安京の京域の北を限る通り「一条大路」に堀川を渡る橋として架橋された。橋そのものは何度も作り直されているが、現在も当時と同じ場所にある。平安中期以降、堀川右岸から右京にかけては衰退著しかったために、堀川を渡ること、即ち』、『戻り橋を渡ることには特別の意味が生じ、さまざまな伝承や風習が生まれる背景となった』。『「戻橋」という名前の由来については』、「撰集抄」巻七で、延喜一八年十二月(ユリウス暦やグレゴリオ暦換算でも既に九一九年)に『漢学者三善清行の葬列が』、『この橋を通った際、父の死を聞いて』、『急ぎ』、『帰ってきた』、『熊野で修行中の子浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返り、父子が抱き合ったという』。「平家物語」の「剣巻」には、『次のような話がある。摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行った。綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされる』。『戻橋は橋占の名所でもあった』。「源平盛衰記」巻十に『よれば、高倉天皇の中宮建礼門院の出産のときに、その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。このとき』、十二『人の童子が手を打ち鳴らしながら』、『橋を渡り、生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったという。その童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。安倍晴明は十二神将を式神として使役し家の中に置いていたが、彼の妻がその顔を怖がったので、晴明は十二神将を戻橋の下に置き、必要なときに召喚していたという』。『戦国時代には』、『細川晴元により』、『三好長慶の家臣和田新五郎がここで鋸挽きにされ、安土桃山時代には豊臣秀吉により』、『島津歳久と千利休が梟首された』(後者には異説がある。リンク先参照)。『また』、『秀吉のキリスト教禁教令』下の慶長二(一五九七)年には、『日本二十六聖人と呼ばれるキリスト教殉教者は、ここで見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地長崎へと向かわされた』。『嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は嫁が実家に戻って来てはいけないという意味から、この橋に近づかないという慣習がある。逆に太平洋戦争中、応召兵とその家族は無事に戻ってくるよう願ってこの橋に渡りに来ることがあった』とある。あらゆる時代を通じて、ここは霊界との通底器であったのである。

「世を憂きものに思ひて、洛中に徘徊して侍りしが、ゆたかなる餘慶(よけい)にて、今に所狹(ところせ)きさまなりし」「この世をつまらぬものと感じつつ」も、「嘗つての先祖の名声の余香もあり、また、その余禄で、経済的には苦労はない」ものの、どうもそうした自負心も残っておればこそ、世間的には過去の人のように思われているであろうことを考えると、「何やらん、精神的に気詰まりな内心を抱えていた」と、所謂、主人公の心理的に複雑にして微妙な不安定さが捩じれた形で意識的に示されてあり、それが怪奇への偏頗な嗜好を促しもし、ひいては、物の怪が手を出しやすい𨻶が生じていることをも、前触れているのである。

「我か」「我か人か」の略。意識が朦朧として、見当識が消失していることを言う。

「來國光」鎌倉後期の相模国で活動した刀工新藤五国光(しんとうご くにみつ 生没年不詳)の作になる名刀。

「酒顚童子」大江山の鬼、酒呑童子(しゅてんどうじ)のこと。当該ウィキを参照。]

「曾呂利物語」正規表現版 三 女のまうねんは性をかへても忘れぬ事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入する(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした(但し、本篇は収録していない)。]

 

     三 女(をんな)のまうねんは性(しやう)をかへても忘れぬ事

 年ごろ行ひたる僧の有りけるが、いかゞ思ひけん、一人(ひとり)の女に戯(たはむ)れて還俗(げんぞく)しはべる。かくて、年月(としつき)過ぎけるが、かの僧、

「つくづくと來(こ)し方思ひつゞくれば、一たび、出家の身となりて、うけがたき人身(じんじん)をうけながら、空しく三途(さんづ)に歸らんこと、返す返すも、口惜しけれ。」

とて、あたり近き所に貴(たつと)きひじりのおはしますに、よくよく申して、又、行ひすましてぞ、ゐたりける。

 されども、彼(か)の女、をりをり、彼(か)の寺に行き、とぶらひ侍る。

 僧、

『うとましきこと。』

に思ひながら、かの女、日頃も、けしからず、心たけきものなりければ、やうやうに、いひ宥(なだ)めて過ぎけるが、ある時、僧、いたはり出(いだ)しけるが、かねて友なる僧に語りけるは、

「かの女、我をたづね來らば、『物まうでをし侍る。』と、いひてたまはれ。」

と、いひあはす。

 案の如く、彼(か)の女、來りて尋ねければ、

「その人は、昨日(きのふ)、物まうでの心ざし有りて、何處(いづく)へやらん、出でたまふ。」

といふ。

 女、すこし、けしき變りて、歸りぬ。

 扨(さて)、其の後(のち)、僧は涅槃に入(い)りぬ。

 さる程に、日頃、存じの事なれば、院主(ゐんしゆ)の坊、かの女の方(かた)へ、

「しかじか。」

と、いひつかはす。

 いそぎ、女、來りて、少しも歎くけしきもなく、いひけるは、

「彼の僧は、五百生(しやう)以前より、われわれが、敵(かたき)なり。かの者の成佛すべき所をば、色々に形を變(か)へ、身を變じて、障礙(しやうげ)をなして、妨(さまた)げ侍る。此のたび、死目(しにめ)に逢ふならば、往生を遂げらせまじきものを。」

と、怒りけるが、そのたけ、二丈ばかりも有るらんとおほしき[やぶちゃん注:ママ。]、鬼神(きじん)となりて、口より、火焰(くわえん)をいだし、天に、あがり侍る。

 

Onnakijinn

[やぶちゃん注:右上端のキャプションは「女のもうねん生をかへてもふかき」である。後注を参照されたい。]

 

 しばし、雲のすきに、ひらめきて、つひに見えずなりにけり。

 かかることは、佛(ほとけ)も說きおき給ふとかや。恐れて、みづから愼むべきこと、とぞ。

[やぶちゃん注:「まうねん」妄念。

「性(しやう)をかへても」この「性」は挿絵のキャプションの「生」の方がしっくりくる。本文にある通り、実に五百回、「生」まれ変わっても、この僧を「敵(かたき)」としてきた執拗(しゅうね)き怨霊(「鬼神」化さえしている)であったのである。女であることから、性別を「變へても」とり憑き続けたとも読めてしまうのであるが、ここは「女は」と頭にあることから、仏教の古くからの性差別である「変生男子」(へんじょうなんし)説(女は男に生まれ変わらないと成仏は出来ないとするもの)が意識の底にあることが判り、彼女は恨みの余り、五百回、女に生まれ変わって、かの僧の前世にもずっと祟り続けてきたのだ、と考えるのが妥当であるように思われる。

「いたはり出(いだ)しける」「勞はり出だしける」で、「(重篤な)病いを煩(わずら)い始め、」の意。

「二丈ばかり」六メートル超。]

「曾呂利物語」正規表現版 二 女の妄念迷ひ步く事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、「国文学研究資料館」の「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)を最大でダウン・ロードし、補正(裏映りが激しいため)した上で、適切と思われる位置に挿入する(本篇には挿絵があり、ここ(左丁)がそれである)。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。]

 

     二 女の妄念迷ひ步く事

 越前の北の莊(しやう)といふ所に、ある者、

「上方へ、まだ、夜(よ)をこめて、上る(のぼ)る。」

とて、「さはや」といふ所に、大いなる石塔、有りける。

 その下より、鷄(にはとり)、一つ、たちて、道におるゝ。

 月夜影(つきよかげ)に、よくよく見れば、女の首、なり。

 彼(か)の男(をとこ)を見て、けしからず、笑ふ。

 

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[やぶちゃん注:右上端にキャプションがあり、「ゑちぜんの国北庄にての事」とある。]

 

 男、少しも騷がず、刀をぬきて、切つてかゝれば、そのまま、道筋をかへて、上(うへ)のかた、よりくる。

 續いて追ふほどに、府中の町(まち)「かみひぢ」といふ所まで、追ひつけて見れば、ある家の窓より、うちへ飛び入る

『不思議なること。』

に思ひ、しばし、立ちやすらひて、内(うち)の樣(やう)を聞けば、女房の聲にて、男を起(おこ)し、

「あら、おそろしや、只今(たゞいま)の夢に、『「さはや野」を通りしが、男一人(ひとり)、我を斬らんとて、追ふ程に、これまで、逃げける。』と思へば、夢、さめぬ。汗水(あせみづ)になりし。」

などいひて、大息(おほいき)ついて、語る。

 門(かど)にある男、此(ここ)の由(よし)を聞き、戶を叩き、

「聊爾(れうじ)なる申しごとにて候へども、申すべき事あり、開けさせ給へ。」

とて、内に入り、

「たゞ今、おひ參らせ候(さふらふ)は、我等にて候。扨(さて)は、人間(にんげん)にて渡らせ給ひけるか。罪業(ざいごふ)の程こそ、あさましけれ。」

とて、通り侍る。

 女も、身の程をなげき、

「此のありさまにては、男に添ひさふらふことも、心うし。」

とて京へのぼり、北野(きたの)眞西寺(しんせいじ)に取りこもり、ひとへに後世(ごせ)をぞ、祈りける。まことに、あり難きためしにぞ。

[やぶちゃん注:所謂、妖怪としての「轆轤首」ではなく、睡眠中に首が抜け出るという夢中体験をするそれ(中国由来の妖怪では「飛頭盤」(ひとうばん)という名もある)である。江戸時代にはメジャーな妖怪として持て囃されるようになるが、本篇はそうした首抜け女のケースの比較的古層の一篇と言えるもので、妖怪というよりも、ここに出るように「生霊の首が抜けて飛ぶ因果な忌まわしい病気」と認識されていた記載も江戸期を通じて、実は、甚だ多いのである(そうした噂の轆轤首女の実話ハーピー・エンド譚「耳嚢 巻之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」もお薦めである)。私の怪奇談でも、枚挙に遑がないが、纏めたものとしては、「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」がよろしかろう。なお、「轆轤首」を真に日本の妖怪(但し、そこに出るそれは強い渡来の「飛頭盤」の色彩が濃厚である)として周知せしめた名品は「小泉八雲 ろくろ首  (田部隆次訳) 附・ちょいと負けない強力(!)注」以外にはないと考えている。

「越前の北の莊」福井城跡がある、現在の福井県福井市(城があったのは同市大手。グーグル・マップ・データ)の旧称である越前国足羽(あすわ)郡北ノ庄。後に「福居」と改め、さらに「福井」となった。

「まだ」ここは「さらに」の意。

「さはや」岩波文庫版では「沢谷」。しかし、現行の福井県の福井市南部に「沢谷」の地名は見当たらない(以下の展開から福井県南部でなくてはならない)。

「鷄(にはとり)、一つ、たちて、道におるゝ」言わずもがな、「鷄」がひょいと現れて、道に降りてきた「ように見えた」のであって、誤認であり、それが生きた女の首だったという、主人公の順視認の視線を用いた誤認と、怪異出来(しゅったい)の転換点である。

「けしからず」「異しからず・怪しからず」。「けし」の打消形ではあるが、この場合は打消の意味ではなく、「変である」ことの強調形として添えられたもの。「いかにも怪しく・異様に・不気味な感じで」の意。

「道筋をかへて、上(うへ)のかた、よりくる」抜刀して斬ろうとしたのに驚いた生首が、それを避けるために、空中の「より」高い「上(うへ)」の「かた」(方)に「寄」せて飛び来たった(逃げた)という謂いである。

『府中の町(まち)、「かみひぢ」といふ所』福井県の府中であるなら、現在の越前市(グーグル・マップ・データ)の旧称である。岩波文庫(同書のルビについては歴史的仮名遣ではないので注意)では本文を『府中の町上比志(かみひじ)』とするが、現行地名に「比志」はなく、「ひなたGPS」で戦前地図も閲したが、ない。但し、本篇を殆んど転用した「諸國百物語卷之二 三 越前の國府中ろくろくびの事」の注で、私は、湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」(『東京学芸大学紀要』二〇〇九年一月発行第六十巻所収。ネットでPDFで入手可能)から、『「かみひぢ」は「上市」』で、『「上市」は福井県武生市上市町か(現在の越前市武生柳町・若竹町)』というのを引用してある。ただ、柳町はここ若竹町はここであるが、両者はかなり離れている(グーグル・マップ・データ)。なお、本篇の類話として湯浅氏は先の「諸國百物語」の他に、「太平百物語」の「卅六 百々茂左衞門ろくろ首に逢し事」も類話として挙げておられる。同書も私は全電子化注を終わっているので、リンク先を見られたい。

「さはや野」岩波文庫は『沢谷野(さわやの)』。先の不詳の地である「澤谷」の「野」原。

「聊爾(れうじ)なる」元は「考えのない軽率な行為」を指すが、ここは,謙辞で「ぶしつけ乍ら」「失礼では御座るが」の意。

「人間にて渡らせ給ひけるか」「渡る」は中世以降に「せ給ふ」「せおはします」などとともに用いて、「ある」「居る」の尊敬語となった。「正真正銘の人間でいらっしゃいましたか!」「~あられましたか!」。

「北野(きたの)眞西寺(しんせいじ)」北野天満宮の東直近にある、現在の京都府京都市上京区真盛町(しんせいちょう)の天台宗真盛山西方尼寺(さいほうにじ:グーグル・マップ・データ)。寺伝によれば、文明年間(一四六九年~一四八七年)に真盛を開山として大北山の地に尼僧の道場として建立され、永正年間(一五〇四年~一五二一年)に現在の地に移って、「西方寺」と改めた。本尊阿弥陀如来像は椅子に腰かけた中品中生の印を結ぶ珍しい仏像であり、重要文化財指定の「絹本著色観経曼荼羅図」は大和当麻寺の中将姫所縁の著名な「綴織観経曼荼羅」(当麻曼荼羅)を鎌倉時代に転写したものである。また、境内には秀吉の北野大茶会に於いて、千利休が用いたとされる「利休の井」が残る(以上は「京都市上京区」公式サイト内の「上京区の史蹟百選/西方尼寺」の記載に拠った)。]

2023/03/17

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「狐の穴」・「屋根へ登る狐」・「蠟燭を奪る狐」・「人を化す法」・「仇をされたのだらうと云ふ話」・「化かされて絹糸を燒いた噺」・「氣樓を見せた狐」・「クダ狐」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○狐の穴  私の子供の頃には、人家に近い木立の中などに幾ケ所も狐の穴があつて、それが一ケ所に六ツもかたまつてあつたもので、冬になると、芋穴の芋を掘り出したり、每晚のやうに鷄を襲つたりしたものです。雪の降つた朝には、必ず狐の肢跡《あしあと》が家の圍りに續いてゐました。其狐の穴が、何時となしに埋まつてしまつて、この二十年來、めつきり狐が居なくなつたと謂ひます。

 狐は仇をする獸だと謂つて、狐に惡戲をしたり、陰口などつくと、アタン(仇)をすると謂つて怖ろしがつたものでした。又狐の糞を踏むと、足が痛くなると云つて、子供の時など足が痛いなどゝ言へば、どんな所を步いたとか、狐の糞を踏んだのではないかなどゝ訊かれたものでした。

 

 ○屋根へ登る狐  夜《よる》狐が人家の棟に登ると、眠つてゐる者が魘《うな》されると言つて、夜梯子を屋根に立て掛けておくことを戒めました。又狐が鷄を捕る時は、外に居て戶の𨻶や節穴から鷄の巢を覗いて、法を使ふので、鷄が巢から飛出して捕られるのだとも謂ひました。又ある所で、子供が夜泣きをして仕方がないので、或晚男がそつと裏口へ廻つて見てゐると、狐が裏の椽側《えんがは》へ登るとはげしく子供が泣いて、下に降りると靜まるので、其狐を追拂ふと、夜泣きが止んだなどの噺がありました。

 

 ○蠟燭を奪《と》る狐  狐は火を灯《とも》すと云ひます。狐の火は、靑い色をしてゐるとも、又特に赤い色をしてゐて、輝きがないとも謂ひますが、狐は油や蠟燭を好むから、夜《よる》油を持つて步くと、不思議に奪られたり零《こぼ》したりすると謂ひます。又提灯を灯して步く時、前に提げると蠟燭を奪られるから、後《うしろ》に背負へばいゝなどと謂ひます。村の早川虎造と云ふ男は、若い頃、惡い狐の住んでゐると云ふ馬崩れと云ふ處を通る時、いつか持つていた提灯をカゾー(楮《かうぞ》)の株とすり替へられながら、家迄持つて來ました、[やぶちゃん注:読点はママ。]そして家の者に言はれる迄は、其が明るいと思つてゐたと謂ひました。

[やぶちゃん注:「馬崩れ」後の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十四 狸の怪と若者』に『村を出離れて、長篠へ越す途中の、馬崩れの森は、田圃を三四町[やぶちゃん注:凡そ三百二十八~四百三十六メートル。]過ぎた所に、一叢大木が茂つて居て、日中でも薄氣味の惡い處だつた。こゝからずつと長篠の入口迄山續きになるのである。此處にも又惡狸が居て、通る者を時折嚇すと言うた。或は又山犬も惡い狐も出ると言うて、何れにしても問題の場所だつたのである。自分などの此處を通つた經驗でもさうであるが、暮方など未だ明るい田圃道から、暗い森の中へ足を運んで行と[やぶちゃん注:ママ。「ゆくと」。]、地の下へでも入るやうで自づと心持迄滅入つて來る。又反對に暗い森の中から、田圃道へ出るとホツとするが、それだけに何だか後から引張られでもするやうに不氣味を感じたものである。そんな譯でもあるまいが、田圃の手前の、村の取付にある家へは、以前は夜分眞蒼になつた男が、時折驅込んで來たさうである』と、より詳しく説明されてあり、私はそこに附した注で、「馬崩れの森」について、『この中央附近(グーグル・マップ・データ航空写真)の寒狭川左岸の道と思われる。現在の横川地区南端辺りからこの森の辺りまではまさに四百メートルほどに当たる』と比定した。

 

 ○人を化す法  狐が人を化《ばか》すには、尻尾で化すと云ひますが、人間の方が用心深くて化す機會のない時は、足許へ近づいて、足袋の紐を解いて、人間が足袋の紐を結んでゐる𨻶に化すとも謂《いひ》ます。

  明治三十年頃、村の早川德平と云ふ家に下男をしてゐた留吉と云ふ男が出遇《であ》はせた事ださうですが、それは盆の十五日の夜、友達と三人連《づれ》で豐川稻荷へ參詣に出かけて眞夜中頃、途中の本野ケ原《ほんのがはら》と云ふ處迄來ると、傍の畑の中に若い女と、男が二人風呂敷包《づつみ》を背負つて、三人共《とも》尻を端折《はしよ》つて妙な恰好をして步いてゐるので、不審に思つて、其處に立つて、煙草を喫ひながら見てゐると、近くの畑の肥溜《こえだめ》の屋根に白い狐がゐて、頻りに尾を振つてゐた。初めて狐に化かされてゐるのだなと感づいたので、三人して大きな聲で怒鳴ると、狐は其處に人がゐることを知らずにゐたのか、丸くなつて逃げて行つたさうで、化かされてゐた連中も正氣に還つたと云ふことでした。だんだん譯を聞くと、この人達は近くの一鍬田《ひとくはだ》村の者で、若い女が嫁に行くので、父親と下男とが仕度の着物を豐川の町へ買ひに行つた歸りを、その畑の中が一面の川に見えて、どうしても其處が渡り切れなかつたので、そこで尻端折りをしたのださうです。其時、若い女の尻を端折つた股の所に大きな痣《あざ》らしいものがあつて、月の光で明瞭に見えたと云ひました。

[やぶちゃん注:「明治三十年」一八九七年。

「豐川稻荷」ここ(グーグル・マップ・データ)。曹洞宗圓福山妙厳寺の境内にある。

「本野ケ原」現在の愛知県豊川市本野ケ原(グーグル・マップ・データ)。

「一鍬田村」現在の愛知県新城市一鍬田(同前)。]

 

 ○仇をされたのだらうと云ふ話  早川丑太郞と云ふ男は現在五十幾歲になつて、長篠驛に出て俥夫をしてゐますが、此男が十三四の折、隣村へ使ひに行つて還りに、途中迄は、確かに歸つて來たと思つたのが、どう間違へたのか道が判らなくなつて、山から山と一晚迷つて步いて、翌朝、遠くの山へ朝日が映つたのを見て初めて正氣づいて家へ歸つたと謂ひましたが、よくよく考へて見ると、前日、裏の山に新しく出來た狐の穴に獵師を案内して見せた爲めに、其穴の狐が仇をしたのだらうと云ふとでした。同じ男が、二十歲位の時、近くの峯村へ仕事に行つて、夕方仕事が濟んでから、其家の、狐が憑いてゐると云ふ婆さんの枕邊へ行つて、子供の頃狐に化《ばか》された腹癒《はらい》せに、散々狐の惡口を言つて、俺を化かせるものなら化かして見ろ、と言置《いひお》いて、夜遲くなつて暇《いとま》を告げて歸つて來ると、途中分垂(ブンダレ)と云ふ處の橋を渡る時、半は[やぶちゃん注:ママ。「半ば」。]渡つてふと氣がついて見ると、自分の立つてゐる所は黑く川に見えて、橋は白く傍に架かつてゐるやうに見えるので、これはと思つて其方《そつち》へ足を運ぶと、忽ち川の中へ落ちたと謂ひます。起上《おきあが》らうとすると、何者かゞ上から押へつけてゐるやうで、身動きが出來ないので、一生懸命怒鳴りながら懷中のマツチを探つてゐると、やつと體が輕くなつたので、早々《さうさう》川から這出《はひだ》して、づぶ濡れになつて歸つて來たと謂ひました。

[やぶちゃん注:「峯村」現在の愛知県新城市市川峯か(グーグル・マップ・データ)。

「分垂(ブンダレ)と云ふ處の橋」現在、新城市門谷下分垂の地名があるから、この地区か(グーグル・マップ・データ航空写真)。この地区には一箇所橋がある(同前)。]

 

 ○化かされて絹糸を燒いた噺  これは母から聞いた噺《はなし》でしたが、某と云ふ男が、十一月のこと、新城《しんしろ》の町へ用足しに出かけて、歸りに紺屋《こうや》へ寄つて、正月の仕着《しきせ》に織る絹の染糸《そめいと》を受取《うけと》つて、風呂敷に包んで背負つて、日の暮れ暮れに、須長《すなが》と云ふ村へさしかゝつた邊りで、子供を背負つた年增女と道連れになつたので、種々《いろいろ》と秋の收穫の話などしながら步いてゐる中《うち》に、奇麗な芝草の續いた原へ出たので、こんな所は無かつた筈だと不思議に思つてゐると、女が、大層奇麗な草原ですから草履を脫いで步きませうと云つて自分から脫いだので、男も同じやうに脫いで步いてゐると、大分寒くなつたやうですから、其處《そこ》らで焚火をしませうと、女が言ひながら、何處からともなく、一抱《ひとかかへ》の杉の枯葉を持つて來たので、其男が袂からマツチを出して火をつけて、共に溫《あつ》たまつてゐる中《うち》に、とろとろ眠氣《ねむけ》を催ほして、其儘眠つてしまつたところが、暫くしてから體中がぞくぞく寒いやうに感じて眼を覺《さま》すと、もう夜が明けて朝日がチラチラと射してゐるのに、氣がついて見ると、女の姿はなくて、自分は眞白《まつしろ》に霜の降りた田圃の中に寢てゐるのであつた、傍には紺屋から持つて來た絹糸が黑く灰になつて、燃殘《もえのこ》りが五寸許り、束になつてゐたと云ふことでした。杉の枯葉と思つて燃《もや》したのは現在自分が背負つてゐた絹糸だつたのかと、口惜しがつて、燃殘りの糸を持つて、他人に見られない中《うち》にと急いで歸つて來たさうですが、奇麗な芝草の原と思つて步いたのが、石ころの道でもあつたのか、足の裏が赤く腫れ上つて、痛くて步かれなかつたと謂ひます。其男の名は記憶してゐませんが、今から三十年ばかり前の事ださうです。

[やぶちゃん注:「須長」愛知県新城市須長(グーグル・マップ・データ航空写真)。

 以下は底本ではポイント落ちで全体が二字下げ。]

この噺を狐に化かされたとするには、少し疑問があつた、果して狐に化かされたものか、どうか、狐の方で化したとも何とも言つてゐる譯でなく、又化かした狐を見たのでもなく、狐に惡戲をされる覺《おぼえ》もないので、人の方で勝手に化かされたと信じてゐて、疑へば何か譯がわからなくなりますが、本人も狐に化かされたのだと信じ、又村で噺をして狐に化かされたのだと云つても疑問を抱く者もない程ですから、假に狐の部へ入れておきました。次の噺も同じ事です。

 

 ○氣樓を見せた狐  これも狐に化かされたのだと一般に信じてゐる事で、狐だと云ふ確證のない噺です。

 十四五年前の事、村の集會の歸りの者が、夜更けてから、掘割と云ふ處を通りかゝると、橋の傍の險しい崖の上で、頻りに信經を唱へる聲がするのを聞咎《ききとが》めて、尋ねて行つて見ると、早川モトと云ふ七十餘歲の老婆が、狐に化かされて、其處へ迷ひ込んだと云つてゐたさうです。其老婆に其折の模樣を尋ねたところが、何でも日の暮方、隣村から歸つて來て、あの邊《あたり》が自分の家だと思ふ所迄來ると、路は皆目判らなくなつて、山の裾に奇麗な二階家がずつと列んでゐて、其の家に悉く灯がついて、中では笛や太鼓で賑かに何事か唄つてゐる聲が手にとるやうに聞えるので、必定《ひつぢやう》狐の惡戲と思つて、其場に座り込んで眞經を唱へ始めたのだと云ふことでした。

[やぶちゃん注:「信經」「眞經」はママ。後の『日本民俗誌大系』版では、孰れも『心経』であるから、「心經」(「般若心経」)が正しい。

「氣樓」は蜃気楼のこと。

「掘割」不詳。]

 

 ○クダ狐  狐に管狐と云ふ一種があつて、單にクダともクダン狐とも謂ひます。鼬《いたち》によく似て、鼬より體が小さく、毛の色が心持ち黑味を帶びてゐると謂ひます。

 狐使ひの家などで使ふのはこの類で、種々な通力《つうりき》を持つてゐると謂ひますが、これに、白飯に人糞をかけて喰べさせると、通力を失つて馬鹿になると謂ひます。

[やぶちゃん注:「クダ狐」「管狐」については、「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始めて聞く飯綱の法」の私の「飯綱(いづな)の法(はう)」の注を参照されたい。私の「想山著聞奇集 卷の四 信州にて、くだと云怪獸を刺殺たる事」には図も出る。他にも私の記事では管狐は常連である。]

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「老婆を喰殺した狸」・「狸の腹鼓」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここ。]

 

 ○老婆を喰殺した狸  字池代の大久保と云ふ山に住んでゐた狸は全身白毛の古狸で、近くの深澤と云ふ處の路に出て、坊主に化けて人を嚇すなどと謂ひましたが、明治の初め頃、こゝに近くの早川孫總と云ふ家で、老婆を一人留守に置いて柴刈に出かけたあとで、此狸が婆さんを喰殺《くひころ》して、山へ持つて行つたと云ひました。翌日山を探すと、婆さんの頭と肢が、離ればなれの處にあつたのを拾つて來て埋めたなどゝ謂ひました。此老婆は眼が不自由で、いつも緣側に日向ぼつこをしてゐたさうです。

 

 ○狸の腹鼓  山へ仕事に行っていると、狸が呼ばると謂つて、タンタンと音して、向ひの山で木を伐つては、ホイと呼ぶのに、うつかり返事をすると、それは狸だつたので仕事を中止して歸つたなどゝ謂ひました。

 人間でいえば苦しそうな聲で、ホーイと幽かに呼ぶとも謂ひます。夜一人でゐる時は、狸が呼ぶから、うつかり返事してはならないとも云ひました。

 夜《よる》狸と呼び交はして、自在の茶釜を飮み干したとか、木魚を返事の代りに叩いて夜《よ》を明かしたなどの噺《はなし》は、幾つも聞いたものでした。

 狸の腹鼓は、月夜のものと謂ひますが、八名《やな》郡七鄕《ななさと》村の生田三省という人の實驗した話によると雨の降りさうな、眞つ暗な夜、破れた太鼓でも敲くやうな音を時々させたと謂ひます。最もこれは檻の中に飼つてある狸だつたさうですが、同じ男が、鳳來寺の山中で、雨夜に聞いた腹鼓も同じやうな音だつたさうです。

 狸と貉《むじな》とは一寸見別《みわ》けがつかないさうですが、冬は跂《あし》を見れば直ぐわかると謂ひます。狸の跂にはアカギレ(皸傷)が一面に切れてゐると謂ひます。

[やぶちゃん注:「八名郡七鄕村」旧南設楽郡鳳来町、現在の愛知県新城市七郷一色附近。完全な山間部(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「狸と貉」「一寸見別けがつかない」と言っているからには、この狢(むじな)というのはタヌキ(哺乳綱食肉目イヌ科タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoides)と同義である。ムジナという標準和名の動物は存在しない。地方によっては、アナグマ(食肉目イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakum)やハクビシン(食肉目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata:私は十中八九、近代の外来種と断じている)を「ムジナ」と呼んでいるケースもあるが(但し、彼らは素人でもタヌキとは容易に弁別出来る)、圧倒的に「ムジナ」は「タヌキ」である。ウィキの「たぬき・むじな事件」を見られれば判る通り、戦前までは、ムジナというタヌキに似た別種が存在すると猟師たちでさえ思っていた事実錯誤がある。

「跂《あし》」この漢字は「あし」とは読めない。音は「キ・ギ」で、訓は「つまだてる」「はう」。意味は「つまだつ・つまさきだつ・踵(かかと)を上げて遠くを見る」或いは「這う・這って歩く」の意味しかない。

 なお、狸については、早川孝太郎の「猪・鹿・狸」の「狸」パート(全三十一章)が非常に詳しいので読まれたい。

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「猿の祟り」・「猿のキンヰ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから

 初篇の標題及び本文中の「崇り」の二箇所はママ。「祟り」(たたり)の誤植であろう。]

 

 ○猿の崇り  猿は、昔は空模樣でも變はりそうなときに、幾十となく群れて來て、栗や黍を荒らしたものださうで、其中の一ツは必ず小高い處に立つて、物見の役を勤めて居たと云ひます。山で椎茸を培養する時は、猿が來て喰べて仕方がないと云ふ事を聞きました。

 北設樂郡のタナヘと云ふ處の源次と云ふ男の話に、若い頃獵師をしてゐた時、或る朝早く山へ獵に行くと、松の大木《たいぼく》に大きな猿が居るのを見かけて擊つた處が、相憎《あひにく》急所を外れたので、猿が松の枝に隱れてしまつたので、腹を立てゝ其木に登つて行つて山刀《やまがたな》を振上げて斬らうとすると、其猿が腹を指さしては、片一方の掌で拜むを用捨なく打殺《うちころ》して持つて歸ったところが、それは子持猿《こもちざる》であつたさうです。其年から不幸が續いて、家内が八人と、馬を十三匹失つても未だ不幸が續くのは、まつたく彼《か》の折の猿の崇りだと言つてゐました。

[やぶちゃん注:「北設樂郡のタナヘ」『日本民俗誌大系]版では、『タナエ』となっているが、ウィキの「北設楽郡」の沿革の旧村名には、この発音と思しいものは見出せない。「ひなたGPS」で戦前の地図の旧郡域を調べたが、やはりそれらしいものは発見出来なかった。識者の御教授を乞う。]

 

 ○猿のキンヰ  猿のヰも、猪のヰと同じやうに、人體に効能のあるものださうですが、其中にも猿のキンヰと云ふのがあつて、これは非常に老年な猿でなくてはないと云ひます。鳳來寺村字玖老勢《くろぜ》の丸山鐵次郞と云ふ男が、若い頃鳳來寺の山で擊つた猿には、このキンヰがあつたと云ひました。黃金色《こがねいろ》をしてゐて、入梅にも決して黴《かび》が生へなかつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「キンヰ」「金膽」。「猪のヰ」とともに先行するこちらの「シシの井(猪の膽)」の私の注を参照されたい。

「鳳來寺村字玖老勢」愛知県新城市玖老勢(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

「曾呂利物語」正規表現版電子化注始動 / 「曾呂利はなしはし書」・「卷第一目錄」・「一 板垣の三郞高名の事」

「曾呂利物語」正規表現版電子化注始動 / 「曾呂利はなしはし書」・「卷第一目錄」・「一 板垣の三郞高名の事」

[やぶちゃん注:以前からやりたかった江戸前期の、江戸前期の怪奇談集の濫觴の一つと言える「曾呂利物語」(そろりものがたり)の電子化注を始動する。「曾呂利物語」は仮名草子で寛文三(一六六三)年刊で全五巻。当該ウィキによれば、『妖怪などの登場するはなしを集めた奇談集で』、『編者は不明。おとぎばなしの名手として当時知られていた安土桃山時代の人物』で豊臣秀吉の御伽衆として知られる『曽呂利新左衛門』(当該ウィキの初代を参照されたい)『の名を題名に借用しており』(無論、仮託である)、先行する「曽呂利狂歌咄」などを『意識したものと見られる。古くから』「曽呂利物語」の『名で広く知られるが』、『これは内題で、外題簽には』「曾呂利快談話」である(後に示す早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像の表紙を見られたい)。但し、『巻第一の』以下に示す「はし書」には「曾呂利はなし」とも『あって一定はしていない』。また、『ひろく普及した後刷』本では「曾呂利諸國話」と『いう題が付けられている』とある。「諸國百物語」は『本書と似た主題の』怪奇談集で『あるが、その内容には本書を典拠としたと見られる同一素材のものが』二十『話以上あ』り、「諸國百物語」が『巻頭の第一話としてあつかっている話』(私の「諸國百物語 附やぶちゃん注 始動 / 諸國百物語卷之一 一 駿河の國板垣の三郎へんげの物に命をとられし事」を指す)『も、本書の第一巻第一話と同じもの(剛胆をほこる板垣三郎が妖怪たちによって命をとられる話)で、その影響は大きい』とある。因みに私は、そこに出る「諸國百物語」(第四代将軍徳川家綱の治世の延宝五(一六七七)年四月に刊行された、全五巻で各巻二十話からなる、正味百話構成の真正の「百物語」怪談集。この後の「百物語」を名打った現存する怪談集には実は正味百話から成るものはないから、これはまさに怪談百物語本の嚆矢にして唯一のオーソドックスな正味百物語怪談集と言える全電子化注を二〇一六年にこちらで完遂している。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認する(驚いたのだが、底本が拠ったものの書誌が解題その他に示されていない。以下の各種を比較しても有意にひらがな表記が多いもので、以下の早稲田大本・立教大本と同じ後刷本であろうと思われる)が、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にし、さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、「国書データベース」にある立教大学池袋図書館の「乱歩文庫デジタル」所収の画像(使用許可がなされてある)をダウン・ロードして適切と思われる位置に挿入する。但し、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録する(同書の底本は国立国会図書館本で後刷本で合本三冊本)ものは、OCRで読み込み、加工データとした。

 読みは底本は本文内は総ルビに近いが、読みが振れるもの、難読と判断したもののみのみに限った。踊り字は生理的に厭なので正字化する。読み易さを考え、句読点や記号を適宜、変更・追加し、段落を成形した。注はストイックに附すが、前掲の「江戸怪談集(中)」にある注は、必要と感じたものに就いては、引用させて貰うこととする。頭の標題は先に示した早稲田大学図書館「古典総合データベース」の表紙の題題簽を出した。【二〇二三年三月十七日始動:藪野直史】]

 

   曾呂利快談話 

 

曾呂利はなしはし書

 

 人の心を慰むることわざ、限りなくさまざまなれども、貴賤貧富のさかひありて、心に任せぬもて遊び事(ごと)又多し。其の中に上(かみ)がかみより下(しも)まで隔てなきたのしみは、見るもの聞く事を口にまかせ語りなぐさむに如くはなし。爰(こゝ)に、天正の頃ほひ、曾呂利と云へる雜談(ざうだん)の上手(じやうず)あり。大樹(たいじゆ)秀吉公に召されて、常にかれを愛したまふ。其の詞(ことば)のたくみに花やかなる事は、齊(せい)の田辨(でんべん)が天口(てんこう)の辯、晉の裴頠(はいき[やぶちゃん注:「き」はママ。正しくは「ぎ」。])が林藪(りんそう)の詞(ことば)にも超えたり。まことにすさまじき事を論じては、目に見えぬ鬼神も速早(すは)こゝに出できたる心地にうしろこそばゆく、艷(えん)に哀れなる事を談ずれば、たけき武士もよわよわと淚もろし。その辯舌博覽の名譽なる事は、壺中(こちう)の天地をこめ、瓢簞(へうたん)より駒(こま)を出(いだ)せし術にも過ぎたり。ある夜大樹のまへにておどろおどろしき事を語れろのたまふに、十づゝ十に及べり。近習(きんじふ)の人々是れを書きとめしに、年久しく反故(ほご)にまじはり、多くは散り失せぬ。わづかに殘りしをかいやり捨つるも惜(を)しと、其の品(しな)にたぐへる物がたりの不思議なるを一つ二つ加へて、今また書き改むるもの歟。

[やぶちゃん注:同書の端書(序文)。

「天正」一五七三年から一五九二年までであるが、秀吉の御伽衆となって以降だから、「本能寺の変」より後と思われ、天正一〇(一五八二)年より後の話であろう。

「齊の田辨が天口の辯」不詳。識者の御教授を乞う。

「晉の裴頠が林藪の詞」裴頠(はいぎ 二六七年~三〇〇年)は西晋の政治家で思想家。当該ウィキによれば、『ある時、楽広』なる人物が、『裴頠と清談を行』ったところ、『彼を言い負かしたいと思ったが、裴頠は豊富な知識と巧みな話術を有していたので、楽広は笑ってごまかすばかりで』、『答えることが出来なかった。世の人は』、それを聴き、『裴頠の事を言談の林薮』(対象とする知識が多く集まっていることを指す語。「淵藪」に同じ)『であると称えたという』とある。

 以下、巻第一の目録。左ページから本文が始まる。]

 

 

曾呂利物語卷第一目錄

 

一 板垣の三郞高名の事

二 女のまうねん迷ひありく事

三 女のまうねん生(しやう)をかへても忘れぬ事

四 一條もどり橋の化物(ばけもの)の由來の事

五 ばけもの女になりて人を迷はす事

六 人を亡(うしな)ひて身に報ふ事

七 罪(つみ)ふかきもの今生(このじやう)より業(ごふをさらす事

八 狐(きつね)人にむかひてわびごとする事

九 船越(ふなこし)大蛇(だいじや)をたひらぐる事

十 狐を威してやがて仇(あた)をなす事

 

 

曾呂利物語卷第一

 

     一 板垣の三郞高名の事

 

 駿河國(するがのくに)大(おほ)もり、「今川藤(いまがはふじ)」と聞こえし人、府中に在城し給ひけるが、ある夜のつれづれに、家の子・らうどうを集め、酒宴、數刻に(すこく)及ぶ時、

「さても。たれれか、有る。今夜、千本(せんぼん)の上の社(やしろ)まで行(ゆ)いて來たらん。」

と、のたまひければ、ひごろ、手がらを現はす者、多しといへども、これは聞ゆる魔所なれば、あへてまゐらんといふ者、なし。

 爰(こゝ)に甲斐國(かひのくに)の住人に「板垣の三郞」とて、代々、弓矢をとつては、隱れなき勇者、あり。

「すなはち、私(わたくし)こそ、參り候はん。」

と、申しあぐる。

 大森、なのめにおぼしめして、やがて、しるしを、たぶ。

 板垣は、大剛(たいがう)の者にて、少しも恐るゝけしきなく、殿中より、すぐに、千本へぞ、參りける。

 頃は九月中旬の事なれば、月、いと白く、木(こ)の葉、ふり敷き、物すさまじき森のうちを過ぎて、石だんを通りけるが、杉の木の上より、小さきもの、一つ、ひらめきて、足もとへ落ちけるが、あやしみて、これを見るに、ヘぎ、一枚なり。

『かかる所に、何とて、有りけるぞ。』

と思ひながら、蹈(ふ)み割りてこそ、通りけれ。

 われたる音の山彥(やまびこ)にこたへ、夥(おびたゞ)しく聞えけるを、不審に思ひながら、別の事もなくて、上(うへ)のやしろの前にて一禮して、しるしの札(ふだ)をたて置き、歸りしが、いづくともなく、白き、ねりの一重を被(かづ)きて、女房、一人、來(きた)れり。

『扨(さて)は。音に聞きつる變化(へんげ)の物、わが心をたぶらすらん。』

と思ひ、走りよりて、被きたるきぬを、引きのけて見れば、大(おほ)いなる目、一つ、有りて、振分髮(ふりわけがみ)の下(した)よりも、ならべたる角(つの)、おひたるが、薄化粧に、鐵漿(かね)、くろぐろと、つけたり。恐ろしとも云はん方なし。

 されども、板垣、少しもたゞよはず、

「何ものなれば。」

とて、太刀(たち)をぬかんとすれば、かき消す如くに、失せぬ。

 不審なる事ながら、せんかたもなく、立ちかへり、大もりの前に參り、

「しるしを立てて歸りさふらふ。御檢使(ごけんし)をたてて、御らん候へ。」

と申し上ぐる。

「まことに、板垣にてなくば、恙(つゝが)なくは、歸らじ。」

と、一同に感じあへり。

「扨(さて、何事にも、あひ候はぬか。」

と、御尋ね有りければ、

「いや、何語も怪しき事は、御ざなき。」

と申す。

 かかりける所に、座敷も、隈(くま)なき月の夜(よ)なるが、俄(にはか)に、かき曇り、ふる雨、車軸を流しける。

 酒宴、興を失ふをりふし、虛空(こくう)にしはがれ聲(ごゑ)して、

「いかに、板垣。前に、我等が腹を、何(なに)とて、踏みわりけるぞ、懺悔(さんげ)、せよ。」

と、よばはりける。

 其の時、おのおの、まとゐして、

「見申(みまう)したる事あらば、御前(ごぜん)にて、申し上げよ。」

と、めんめん、せめければ、板垣、千本にての有り樣、殘さず、申し上ぐる。

 然(しか)れども、雨風(あめかぜ)、猶、やまず、稻妻、夥しく、神(かみ)さへ、鳴りて、殿中、もの騷がしければ、

「いかさま、此の體(てい)にては、板垣を、とられなんと、覺ゆ。」

とて、唐櫃(からびつ)の中(なか)に入れ、各々(おのおの)、番をして、夜(よ)の明くるをぞ、待ちゐたる。

 さて、いかづちも、次第に、やみ、天の光(ひかり)も、はれ行きて、五更も明け行けば、

「板垣を、出(いだ)せ。」

とて、櫃の蓋(ふた)を、取りて、見れば、忽然として、何も、無し。

「これは。いかなる事。」

と、みな人(ひと)、奇異の思ひをなす所に、又、虛空より、二、三千人の聲して、

「どつ」

と、笑ふ。

 走り出(いで)て見れば、板垣が首を、緣上(えんうへ)に、落としてけり。

 かかる不思議も、有ることに、こそ。

[やぶちゃん注:「板垣の三郞」不詳。

「駿河國大(おほ)もり」不詳。但し、以下の「千本」の位置が判るので、その周辺(現在の静岡市葵区の南部。グーグル・マップ・データ)ということになる。

「千本」岩波文庫の脚注に、『靜岡市の賤機(しずはた)山の古称。古く山頂に祠があった』とあることから、駿府城跡の北北西にあるそれと判る(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「なのめに」「斜(なの)めに」。平安から中世前期の原義は「おざなりだ」「ありふれて平凡」だ」の意であったが、中世以降になると、「なのめに」の形で、「並一通りでなく、格別に」の意の「なのめならず」と同義に用いるようになった。

におぼしめして、やがて、しるしを、たぶ。

「ヘぎ」檜(ひのき)や杉などの木材を薄く剝いだ板、「へぎ板」、或いは、それで製した「折敷(をしき)」を指す。岩波版脚注では、ただ前の意のみを載せるが、ここは、そんなちんまい板切れではおかしくも不思議にも不審にも思われないから、断然、後者のへぎで出来た「折敷」でとるべきである。

「たゞよはず」「漂はず」。この場合の「漂ふ」は「落ち着かない」の意で、「怯(ひる)むことなく」の謂いである。

「まとゐ」「圓居」(まどゐ)で、「車座になって」の意。

「神(かみ)さへ」雷(かみなり)さえも。

「いかさま」「如何樣」。副詞で「きっと・確かに・(自分の判断であることを示して)どう見ても」の意。

「五更」午前三時から五時までの間。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 五番 尾張中納言

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

   五番 尾張中納言

 

 美女の繪姿を見て、さう云ふ女を探して千日の旅をした男があつた。その繪姿が尾張の國のお城に一枚、生家に一枚、日本國中に一枚ある。其の男は或る日床屋に一枚あるのを見て、五十兩出して其れを求めた。

 それから其の女を探し尋ねて日本國中を步いた。尋ね倦(アグ)んで山中に迷入《まよひい》つた。道を迷つて山中の孤(ヒトツ)屋にたどり着いた。其の家の門前に男禁ずと云ふ立札があつた。其の家には老婆が一人居た。其の家に泊つた。其の老婆の顏が繪姿の女の顏に似てゐたので譯を糺して訊くと、其の人の娘だと言つた。其の娘は今は尾張の國のお城の中に居ると言つた。

 男は尾張の國のお城に忍び込んだ。外門《そともん》には番人が八人、三《さん》の門には赤鬼丸と云ふ犬が居てなかなか入れなかつた。また人間一人入れば一の花が二つ咲くと云ふ花園もあつた。

  其の男は中納言になつた。(この間の内容は話者が忘れて居て、どうしても思ひ出せなかつた。)[やぶちゃん注:二字下げはママ。]

 (大正十年十一月三日、村の犬松爺の話の中の一《いち》。)

[やぶちゃん注:この話、非常に興味深いのだが、中途部分の大事な転回点が失われているのは非常に惜しい。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 四番 蕪燒笹四郞

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

    四番 蕪燒笹四郞

 

 或る所に蕪燒《かぶやき》笹四郞といふ極く貧乏な、そのくせ、働き嫌ひな男があつた。日々每日(ヒニチマイニチ)蕪ばかり燒いて食つて居るので、誰言ふとなくさう謂ふ名前がついて朋輩どもも見るに見兼て居た。

 或る日の夕方何處から來たか一人の旅の女が、笹四郞の家の玄關に立つて、今晚一夜泊めてクナさいと言つた。笹四郞は俺の所には食ふ物も飮む物も無いから、外の家さ行つて宿を乞ふて見ろと言つた。すると其女は、例へ飮むものも無くてもよいからどうか泊めてクナさいと言つてきかなかつた。笹四郞も仕方がないから、ほんだら泊れと言つた。女は其晚泊つたが、それから其翌日も其次の日も立つフウがなかつた。さうして笹四郞と夫婦になつた。

 其女は極く々々利巧な才智のある女であつた。良人がさうして每日蕪ばかり燒いて食つて居るのを見て、これは困つたことだ。何とかして一人前の人間にしたいものだと思つて、自分の衣類や髮飾等を賣拂つて旅金《りよぎん》を作り、これこれ此金を持つて何處へでもいゝから行つて一仕事して來てがんせ。そのうち私は此家に待つて居るからと言つた。笹四郞もそんだら俺もさうするからと言つて家を出て行つた。ところが其日の夕方ぶらりと家へ戾つて來た。そして俺はどうしてもお前が戀しくて旅には出られないから還つて來たと言つた。それでは私の繪姿を畫《か》いてやるからそれを持つて行つたらよいと言つて、女房は自分の姿を繪に畫いて夫に渡した。

 笹四郞は女房の繪姿を持つて再び旅に出た。途中も女房が戀しくて堪らず、懷中(フトコロ)から繪姿を出して見い見い行つた。そして或る峠の上でまた出して擴げて見て居ると、ぱツと風が吹いて來て姿繪をバエラ吹き飛ばしてしまつた。笹四郞はこれは大變だと思つて、泣くばかりになつて其處邊《そこらへん》をいろいろと探してみたけれども、如何《どう》しても見付からなかつた。仕方がないから復《また》女房の許へ戾つて來た。女房はお前がそれほど妾《わらは》を戀しいなら何處へも行かないで、家で草鞋《わらぢ》でも作つて居てがんせと言つた。笹四郞は喜んでそれではさうすべえと言つて、女房の側《そば》にいて、每日々々草鞋を作つて居た。[やぶちゃん注:「バエラ」「ばっと」のオノマトペイアの方言であろう。]

 笹四郞が女房の繪姿を風に攫はれた翌日、所の殿樣が多勢の家來を連れて其の峠を通つた。高嶺に登つて眺めると餘り景色がよいものだから、四邊の景色に見惚れて居た。すると或る木の枝に美しい女の繪姿が引懸つてゐるのを見付けた。あれは何だ。あれを取つて來いと家來に言ひつけて、手元に取り寄せた。殿樣はそれを見て、世にも斯んなに美しい女があるものか、誰か此女を見知つて居るものはないかと言つた。すると家來のうちに、それは此峠の下の蕪燒笹四郞と云ふ者の女房であると言ふ者があつた。それでは其女を見たいと言つて俄に用事を變へて、笹四郞の家へ寄つた。寄つて見ると、其の女房は繪姿にも增さる美女であつたので、厭(ヤンタ)がるのを無理やりに自分の駕籠に入れて、お城へ連れて行つた。

 笹四郞はたつた獨りになつて心配して居た。其所へ朋輩が來て、笹四郞お前は何をそんなに心配顏をして居ると言つた。笹四郞は斯々《かくかく》の譯だ、ナゾにすべえと言ふと、朋輩はそれでは俺の言ふ通りにして見ろと言つて、ある智惠を授けた。

 笹四郞はその翌日、ボテ笊《ざる》に柿や梨の實等を入れて擔いで、梨や柿やアとフレながら殿樣のお城へ行つた。笹四郞の女房はその聲を聽きつけて、はてはて自分の夫の聲に似たなアと思つて、柿賣の男を見たいと殿樣に言つた。何でもかんでも女房の言ふことは聽く殿樣だから、そんだらその柿賣をお庭に廻せと家來に言ひつけた。女房は柿賣り[やぶちゃん注:ここ以降では「り」を送っている。]の入つて來たのを見ると如何にも自分の夫であつたので思わず莞爾(ニツコリ)と笑つた。[やぶちゃん注:「ボテ笊」「ボテ」は「ぼてふり(棒手振り)」の略で、その「てんびん棒」で擔(かつ)ぐ笊籠を言う。]

 今迄どんなに機嫌を取つても、なぞな事をしても、笑顏を見せなかつた女が初めて笑つたので、殿樣はこれは此女はあんな裝(フウ)な物賣りの姿が氣に入るんだなと思つた。そこで喜んで、こりや柿賣屋お前の衣物も道具も皆此方《こつち》さ寄こせと言つて、笹四郞から衣物《きもの》だの物賣り道具などを取上げて御自分の體に着たり持つたりした。それから自分の立派な衣裳をば笹四郞に着せて、自分の居座《ゐぐら》にすわらせた。そして御自分で柿の入つたボテ笊を擔いで、はい柿や梨やアと物賣りのまねをして、庭中《にはぢゆう》を彼方此方と步いた。それを見て女房は大層可笑しく思つて體を屈めて笑つた。すると殿樣はまた大きに興に乘つて、果ては道化《だうけ》たまねまでして、いよいよ大聲に叫んで、屋敷の中を彼方此方と步き廻つた。其時笹四郞は女房に敎へられて斯う聲をかけた。狼籍者がまぎれ込んだア。早く外へ追ひ出せ追ひ出せと言つた。其の聲を聞きつけて多勢《おほぜい》の家來共が走《は》せて來て、厭がる殿樣を城の外に追ひ出した。

 さうして笹四郞夫婦はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]其のお城の殿樣となつた。

  (同前の三)

[やぶちゃん注:「王子と乞食」型の昔話である。柳田國男は「炭燒小五郞が事 八」及び同「一〇」でも、この話に言及している(リンク先は私のブログの電子化注)。

「同前」はと、前の前の話柄の附記(情報提供者その他)を指示する。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 濕氣ある月(アンリ・バタイユ)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

 濕 氣 あ る 月 バタイユ

 

洗濯場の灰色の玻璃窓から、

そこに、 秋の夜の傾くのを見た。

誰かしら、 雨水の溜つた溝に沿うて步いてゆく、

旅人よ、 昔の旅人よ、

羊飼が山から降る時に

お前の行く所に急げよ。

お前の行く所に竃(かまど)火は消えてゐる。

お前がたどりつく國には門が閉ざされてゐる。

廣い路は空しく、 馬ごやしの響(ひびき)は恐ろしいやうに逡くの方から鳴つて來る、

急いで行けよ。

古びた馬車のともしびが瞬いてゐる、

これが秋だらう。

秋はしつかりとして、 ひややかに眠つてゐる、

厨房(くりや)の底の藁の椅子の上に、

秋は葡萄の蔓(つる)の枯れた中に歌つてゐる。

此時に、 見出されない屍、

靑白い溺死者は波間に漂ひながら夢見てゐる。

起り來る冷たさを先づ覺えて、

深い深い甕(かめ)のなかに隱れやうと沈んでゐる。

 

[やぶちゃん注:アンリ・バタイユ(Henry Bataille 一八七二 年~一九二二年)はフランスの詩人で劇作家。ニーム生まれ。美術学校に入り、画家を志したが、二十二歳で文学に転じた。一八九五年、詩人としての処女詩集「白い部屋」(La Chambre blanche)を出し、「美しき航海」(Le Beau Voyage一九〇四年)などを発表したが、評価されず、後に戯曲転校して成功を収め、当該ウィキによれば、『第一次世界大戦前のフランス劇壇の流行児となった』。『生前は』、『現代生活における愛や感情の危機を描いてもてはやされたが、今日では』、『彼の言う「正確なリリシズム」なるものが、不健康な主題や』、『あいまいな境遇を』、『ロマン的な虚飾で飾り立てたものに過ぎないと見なされて』おり、彼の『作品が上演されることは』、『ほとんどない』とある。原詩は発見出来なかった。

 最終行の「隱れやう」はママ。

 なお、本篇は原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年岩波文庫刊)に収録されているのであるが、明かに有意に本篇とは異なった原稿に拠ったものと思われるものであるので助詞・表記(「ゐる」の一部が複数「る」となっている)・句読点・改行違い・行空け(原氏のそれは三連構成。但し、これは原氏が原詩に基づいて行った仕儀の可能性が高いが、そのままそれを採用する)と、明確な異同が、多数、ある)、以下に、以上の本篇をベースとして、その復元(原氏のそれは新字体)を試みる。

   *

 

 濕 氣 あ る 月 アンリ・バタイユ

 

洗濯場の灰色の玻璃窓から、

そこに、 秋の夜の傾くのを見た。

誰かしら、 雨水の溜つた溝に沿うて步いて行く、

旅人よ、 昔の旅人よ、

羊飼が山から降りる時に

お前の行く所に、 急げよ。

 

お前の行く所に竃(かまど)火は消えてゐる。

お前のたどりつく國には門が閉ざされてゐる。

廣い路は空しく、 馬ごやしの響(ひびき)は恐ろしいやうに逡くの方から鳴つて來る。 急いで行けよ。

古びた馬車のともしびが瞬いてる、

これが秋だらう。

 

秋はしつかりとして、 ひややかに眠つてる、

厨房(くりや)の底の藁の椅子の上に、

秋は葡萄の蔓(つる)の枯れた中に歌つてる。

此時に見出されない屍、

靑白い溺死者は波間に漂ひながら夢見てる。

起り來る冷たさを先づ覺えて、

深い深い甕(かめ)のなかに隱れようと沈んでゐる。

 

   *]

2023/03/16

大手拓次譯詩集「異國の香」 郡の市場(ミンナ・イルビング)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  郡 の 市 場 イルビング

 

馬と騾馬、 牛と羊、

犬小屋のなかの犬、 檻(をり)のなかの豚、

ひよつこと鳩、 北京鴨(ぺきんがも)、

七面鳥に鵞鳥にほろほろてう、

りんごと梨とさつまいも、 穀物

めづらしい寳石のやうに綺麗なジエリー、

黃色い南瓜(とうなす)と薄荷棒(はつかぼう)、

郡(ぐん)の市場へおいでなさい。

ぴゆるぴゆる、 ひんひん、

めえめえ、 わんわん、

けつこう、 こつこ、 チユーチユー、 ギヤーギヤー、

もうもう、 クウクウ、 またゴウルゴウル、

けえけえいふ角笛、 とキーキーいふ車のわだち、

よろこんで大さわぎする叫びこゑ、

『おい、 そりやじやうだんだよ、 君』

大笑ひと、 いちやつきと、 レモン水、

郡の市場へおいでなさい。

 

[やぶちゃん注:巻末の目次に「ミンナ・イルビング」とあるのだが、ミンナ・アーヴィングでMinna Irvingの綴りで調べると、同名で生没年の異なる女性詩人がいるのだが、当該詩篇を見出せず、お手上げ。

「騾馬」哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus  。♂のロバ(ウマ属ロバ亜属アフリカノロバ 亜種ロバ Equus africanus asinusと♀のウマの交雑種の家畜、北米・アジア(特に中国)・メキシコに多く、スペインやアルゼンチンでも飼育されている。逆の交配(♂のウマと♀のロバの配合)で生まれる家畜をケッテイ(駃騠:ウマ属ケッテイ Equus caballus × Equus asinus)と呼ぶが、ケッテイと比較すると、ラバは育てるのが容易であり、体格も大きいため、より広く飼育されている。私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 騾(ら) (ラバ/他にケッティ)」を参照されたい。]

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「獵師に追はれた鹿」・「鹿の鳴音」・「鹿笛」・「タラの芽と鹿の角」・「鹿の玉」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○獵師に追はれた鹿  鹿が獵犬に追はれて、頭の角をベツタリ背に寢せて、ヒーヒー鳴きながら、逃げ場を失つて、人家の軒などを通つて遁げて行くのを、昔はよく見かけたと云ひますが、子供の頃、長畑と云ふ所の畑の道を、大きな鹿が驅けてゆくのを實見した事がありましたが、畑を隔てた路をば、獵師が筒口を鹿に向けて、走つてゐました。

 又ある時、字神田と云ふ所の街道で、子供が道の傍《かたはら》に積んである材木の上に乘つて遊んでゐると、鹿が獵師に追はれて、其道を走つて來て、子供連《れん》の傍を通り拔けて、川の中へ飛込んだと云ひました。すると其處に、川狩の人夫が材木を流してゐて、鳶口で其鹿を打ち殺したなどゝ云ひました。

[やぶちゃん注:「長畑」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「神田」ここ(同前)。]

 

 ○鹿の鳴音  猪に比べて、鹿の方は、非常に數も少なく、現今では、最早や鹿の鳴聲も聞かれないさうです。

 鹿はカンヨーと鳴くと云つて、鹿の事を別に、カンヨーとも呼んでゐました。子供の頃丘の上に登つて、カンヨー來い、々々と續けて呼んでは、そら鹿が來たなどゝ言つて吾先きに丘の下に逃げ込むやうな遊びをしたものでした。橫山の字追分と云ふ所の向ひの山で日の暮方よく鳴くと云ひますが、キヨーと闇を透して物凄く響くと云ひます。或人の說ではキヨーと鳴く聲が、雄の聲と、雌の聲と一緖になつて、初めてカンヨーと聞えるのだとも云ひました。

[やぶちゃん注:ワンダーフォーゲル部の顧問をしていた頃、丹沢での夜営のテント内でよく聴いた。

「追分」ここ(同前)。]

 

 ○鹿笛  獵師が持つ鹿笛を造るについて、こんな話があります。それは蟇《ひきがへる》の皮が最もいゝと云つて、先づ最初に成るべく大きな蟇を見つけて、其皮を剝いで逃がしてやると云ひます。そして一年經つてから、又同じ蟇を見出して二度目の皮を剝ぐと云ひます。かくして皮を剝ぎ剝ぎ、同じ事を六年繰返して、七年目に出來た薄い皮を剝いで、其皮で造つた鹿笛を吹けば、如何に狡猾な鹿でも、其音に誘はれて來ると謂ひます。皮を剝がれる蟇の方でも心得たもので、皮を剝がれ出して、三年目頃からは、皮を剝がれるべく、剝がれた場所へ、自分から出掛けて待つてゐるなどと謂ひます。

[やぶちゃん注:「蟇《ひきがへる》」の読みは、『日本民俗誌大系版のルビを参考にした。本邦では、両生綱無尾目アマガエル上科ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル亜種ニホンヒキガエル Bufo japonicus japonicus亜種アズマヒキガエル Bufo japonicus ormosus が棲息するが、横山の位置では後者の分布域である。詳しくは、私の「大和本草卷十四 陸蟲 蟾蜍(ひきがへる) (ヒキガエル)」を参照されたい。]

 

 ○タラの芽と鹿の角  春、若芽のふく時に、鹿が山にあるタラの芽を喰べると、角が落ちると謂ひます。山などで、時折拾うことのあるのは、さうした時落ちたのだと謂ひます(タラの芽は春、蕨と同じ頃出るもので、一面トゲのある棒のやうな莖から房々とした芽が出て、食用にします)。タラの芽と鹿についてはこんな話もありました。

 鹿が親に別れるとき、親鹿に、自分の角が大切と思つたなら、どんなに美味《うま》さうに見えても、タラの芽ばかりは喰べるなと、吳々《くれぐれ》も戒められたのを、春芽のふく頃、タラの芽を見ると、如何にも美味さうなので、恐々《こはごは》一口食べて見ると、其味のよさが忘れかねて、次から次と喰べて、あの見事な角がポツクリと落ちたのに、初めて、親の戒めを破つた事を後悔して、非常に悲しんで、其時は聲をあげて鳴くと云ひます。

[やぶちゃん注:セリ目ウコギ科タラノキ属タラノキAralia elata の若芽。私の大好物で、嘗つてやはり丹沢の本棚・下棚の谷の入り口で採取して湯がいて味噌あえにして食った時の味が忘れられない。なお、ここに言うような鹿の角を落とす作用は、無論、ない。本邦産のシカの内、ここは哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科シカ属ニホンジカ Cervus nippon。亜種分類ではホンシュウジカ Cervus nippon aplodontus )となるが、角は♂特有のもので、毎年三月頃になると、自然に根元部分から脱落して新しく生え替わるものである。]

 

 ○鹿の玉  鹿の玉と云ふものがあつて、大變年を老《と》つた鹿の胎内にあるもので、この玉を中にして鹿の同類が澤山集まつて遊ぶのだと謂《いひ》ますが、人間の家に此玉を持つて居れば、金銀が自然と集まつて來ると謂ひます。又金銀がすつかり集つてしまふと、其玉が、中から段々崩れて來るとも謂ふさうです。八名郡舟著《ふなつけ》村[やぶちゃん注:「著」はママ。]字乘本の、金原某と云ふ家にあるのを實見したことがありましたが、鷄の卵の大きさで、極めて輕いものでした。淡紅色をしてゐて、草などの纖維を永い間搗き固めたとでも言つたもので、表面がつるつると滑かなものでした。獵師から買ひ取つたと聞きましたが、二個あつて、一個は、未だ完全に玉になり了《おほ》せないやうに、半ば崩れたやうでした。

[やぶちゃん注:「鹿の玉」「鮓荅」(さとう)或いは「へいさらばさら」「へいたらばさる」と呼ぶ、広く各種の獣類の胎内に生じた結石、或いは、悪性・良性の腫瘍や、免疫システムが形成した異物等を称するものである。詳しくは、私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」を参照されたい。

「八名郡舟著村字乘本」新城市乗本(グーグル・マップ・データ航空写真)。前にも示したが、繰り返すと、「ひなたGPS」の戦前の地図で見ると、村の名の由来となった山の表記は「舩着山」で村名は「船着村」、本書で先行する箇所でも「船着村」とするので、誤字か誤植の可能性が疑われる。

 なお、鹿については、後発の『早川孝太郞「猪・鹿・狸」 鹿』(全十九章)がより詳しい(こちらからどうぞ)。

佐々木喜善「聽耳草紙」 三番 田螺長者

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。]

 

    三番 田螺長者

 

 昔、或る所に大層な長者どんがあつた。田地、田畠、山林、原野もあり餘るほどあつて、村の人達からは彼所《あそこ》の長者どんでは何も不自由だと謂ふことを知らないこツたと云はれてゐた。

 所がその長者どんの田を作つて居る名子(ナゴ)の中に、其の日の煙《けぶ》りも立てゝ行けぬほどの貧乏な夫婦があつた。夫婦ははア四十も越して居たが、子供と云ふものがない。夜などは嘆いて、ナゾにかして子供を一人欲しいもんだ。吾が子と名の付いたもんだら、ビツキ(蛙)でもいゝ、ツブ(田螺)でもいゝ。さう言つて御水神樣へ詣つて願掛けをした。御水神樣は水の神樣であるから百姓には此れ位ありがたい神樣はないのであつた。[やぶちゃん注:「名子」中世以降、荘園領主や有力名主に隷属した下層零細農民。農繁期には領主・名主の農地耕作などを手伝い、農閑期には山林労働に従事したりして生活を支えた。「脇名百姓」(わきみょうびゃくしょう)「小百姓」(こびやくしょう)などと、荘園によって呼び名が色々あった。なお、地方によっては、近世に至っても、本百姓に隷属している者もあった(主文は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 或日のこと、女房は田の草取りに行つてゐて、いつものやうに日なが時なが、御水神樣もうし、其所《そこ》ら邊りにゐる田螺のやうな子供でもよいから、どうぞ俺ラに子供を一人授けて賜(タ)もれや、あゝ尊度(トウタ)い々々々と思つたり言つたりしてゐると、急に腹が痛くなつて、なやなやめいて來た。忍耐(ガマン)すればする程痛みが增して來るので、遂々《たうとう》耐(タマ)りかねて家ヘ屈(コヾ)み々々歸ると、夫は心配して、いろいろと介抱をしたが、どうしても直らなかつた。お醫者樣を賴みたいにも金はなし、はてナゾにしたらよからうと思つた。近所に幸ひコナサセ產婆(婆樣)があつたから、少し筋道は違ふと思つたけれども、賴んで來て診て貰ふと、婆樣はこれは普通(タヾ)の腹痛ではない。女房(ガカ)が身持ちになつて、兒どもが生れるところだと言つた。それを聞いて夫婦は喜んで、にわかに神棚にお燈明を上げたりなどして、一心に安產させて下さいと願ふと、やや一時(ヒトトキ)あつて、一匹の小さな田螺(ツブ)が生れた。[やぶちゃん注:「コナサセ產婆」岩手の方言で「ナサ」は同氏「なす」で「産む」の意であり、その使役形で「子を産まさせる者」。「產婆」の畳語である。]

            ×

 生れた田螺の子には皆驚いたが、これは何でも御水神樣の申し子だからと云ふので、お椀に水を入れて、其の中へ入れ、神棚に上げて、大事にして育てゝ居たが、不思議なことに、其の田螺の子は生れてから二十年にもなるが、少しも大きくならなかつた。それでも御飯などは普通に食べるが物は一聲《ひとこゑ》も言へなかつた。

 或る日のこと、齡取つた親父は、大家(オホヤ)の長者どんに納める年貢米を馬につけながら、さてさて切角《せつかく》御水神樣から申し子を授かつて、やれ嬉しやと思ふと、あらう事かそれが田螺の息子である。田螺の息子であつて見れば何の役にも立たない。俺は斯うして一生働いて妻子を養はなければなるまいと歎くと、それでは父親(トヽ)々々、今日は俺がその米を持つて行く…と云ふ聲が何所《どこ》かでした。父親は驚いて四邊をきよろきよろ見廻したけれども誰も居らぬ。不思議に思つて、そんな事を言ふのは誰だと云ふと、俺だ々々、田螺の息子だ。今迄長い間えらい御恩を受けたが、もうそろそろ俺も世の中に出る時が來たから、今日は俺が父親(トヽ)の代りになつて、檀那樣の所へ、年貢米を持つて行くと言つた。どうして馬を曳いて行けヤと訊くと、俺は田螺だから馬を曳いて行くことは叶はぬが、米荷の間に乘せてくれさへすれば、何の苦もなく馬を自由に曳いて行けると言ふ。父親は今まで物も云はなかつた田螺が物を云ひ出したばかりか、自分の代りに年貢米を納めに行くと謂ふのであるから大變驚いた。然しこれも御水神樣の申し子の言ふことだ。背いたなら又どんな罰《ばち》が當るかも知れないと思つて、馬三匹に米俵をつけて、言はれる通りに、神棚のお椀の中に居る田螺をつまんで來て、其の荷の間に乘せて遣ると、田螺は普通の人間のやうな聲で、それでは父親(トト)も母親(ガカ)も行つて來る。ハイどう、どう、しツしツと上手に馬どもを馭《ぎよ》して家のジヨノクチを出て行つた。

 父親は出しには出して遣つたが、息子のことが心配でならぬので、その後を見えがくれについて往くと、丁度人間がやるやうに水溜りや橋のやうな所をば、はアい、はアいと聲がけして、シヤン、シヤンと進んで行く。そればかりか美しい聲を張り上げて、ほのほのと馬方節《うまかたぶし》などを歌つて行くが、馬もその聲に足並を合はせて、首の鈴をジャンガ、ゴンガと振り鳴らし勇みに勇んで行く。往來や田圃に居る人達はこの有樣を見て驚いて、聲はすれども姿は見えぬとは此の事だ。あの馬は慥かにあの貧乏百姓の瘦馬に相違ないが、一體あの聲は何所で誰が歌つて居ることだと、不思議がつて眺めて居た。

 それを見た父親は大變に思つて、直ぐに家へ引返して、神棚の前に行つて、もしもし御水神樣、今迄は何にも知らなかつたものだから、田螺をあゝして置きましたが、大變ありがたい子供をお授け下されんした。それにつけても無事息災に向ふへ行き屆くやうに、あの子や馬の上を、どうぞお護り有(ヤ)つてクナさいと、夫婦で一心萬望《いつしんまんばう》神樣を拜んで居つた。

            ×

 田螺はそんな事には頓着なく、どんどん馬を馭して、長者どんのもとへ行つた。下男どもが、それ年貢米が來たと言つて出て見ると、馬ばかりで誰も人間がついて居ない。どうして斯う馬ばかり寄こしたベツて話して居ると、米を持つて來たから、どうか下(オロ)してケデがいと云ふ聲が馬の中荷の所でした。何だ誰がそんな所に居《ゐ》れヤ。誰もいないぢやないかと云つて、中荷の脇を覗いて見ると、小さな田螺が一ツ乘つて居た。田螺は俺はこんな體で馬から荷物を下すことが出來ないから、申譯ないが下してケデがい。俺の體も潰さないやうに、椽側《えんがは》の端の上にでもそつと置いてケテガムと言つた。下男どもは驚いて、檀那樣シ檀那樣シ田螺が米を持つて來《き》んしたと聞かせると、檀那樣も驚いていそいそ出て來て見れば、如何にも下男の云ふ通りであつた。そのうちに家の人達もぞろぞろと出て來て見る。そして皆々不思議なことだと話し合つた。

 其の中に田螺の指示で米俵も馬から下して倉に積み、馬には飼葉を遣り、田螺をば内に入れて御馳走を出した。お膳の緣《ふち》にタカつて居る田螺は、他人の目には見えぬが、お椀の御飯がまづ無くなり、其の次には汁物が、魚がと云ふ風に無くなつて、仕舞ひにはもう充分頂きんした、どうぞお湯をなどと云ふのであつた。檀那樣は、かねて御水神樣の申し子が田螺の息子だと云ふことは聞いて居たが、こんなに不思議な物とは思つて居なかつた。恰度人間のやうに物を言つたり働いたりするべとは居なかを思はなかつたので[やぶちゃん注:「居なかを」はママ。現行の衍文か、誤植であろう。]、これを自分の家の寶物にしたいと思つた。そして、田螺殿々々々お前の家と俺の家とはお互に祖父樣達《じいさまたち》の代から代々出入りの間柄の仲だ。俺の所に娘が二人居るが、其の中の一人をお前のお嫁に遣つてもよいと云つた。こんな寶物をたゞで家のものに、することは出來まいと思つたからであつた。

 田螺はそれを聽いて大層喜んで、それは眞實《まこと》かと念を押した、檀那樣は、本當だとも、二人の娘のうち一人を上げやうと堅い約束をして、其の日は田螺に色々な御馳走をして還した。

            ×

 父親母親は、田螺のこと、なんたら歸りが遲かベヤ、何か途中で間違ひでもなければよいがと案じて居るところに、田螺は三匹の馬を連れてえらい元氣で歸つて來た。そして夕飯時に、俺は今日長者どんの娘さんをお嫁に貰つて來たと云つた。父母はそんな事が有る筈がないと目を睜《みは》つたけれども、何云ふも御水神樣の中子の云ふことだから、一應長者どんに人を遣つて訊いて見べえと思つて、伯母を賴んで聞きに遣ると、田螺の云ふのは眞實のことであつた。

 そこで檀那樣は二人の娘を呼んで、お前達のうち誰か田螺の所にお嫁に行つてケろと言うと、姉娘は誰が蟲螻(ムシケラ)のところなんかさ嫁《い》く者があんべや、 [やぶちゃん注:字空けはママ。]俺厭《や》んだと云つてドタバタと荒い足音を立てゝ座を蹴立てゝ行つてしまつた。それでも優しい妹娘の方は、父樣(トヽ)が切角あゝ云ふて約束された事なんだから、田螺の所には私が嫁くから心配してがんすなと云つて慰めた。伯母はさう謂ふ長者どんからの返辭を持つて歸つて來て知らせた。

            ×

 長者どんの乙娘《おとむすめ》[やぶちゃん注:「下の娘」の意。]の嫁入り道具は、七疋の馬にも荷物がつけきれないほどで簞笥長持が七棹づつ、其の外の手荷物は有り餘るほどで、貧乏家にはそれが入れ切れないから、長者どんでは別に倉を建てゝくれた。聟の家には何にもない。親類も無いから、父母と伯母と近所の婆樣とを呼んで來て目出度い婚禮をした。

 花コよりも美しい嫁子を貰つて、父母の喜びは物の例へにも並べられない。それにまた娘が實の父母よりも親切に仕へる。野良へも出て働いてくれるので、前よりはずつと生活(クラシ)向きも樂になつた。これも皆神樣のお影だと云つて、父母は一生懸命に御水神樣を拜んで居た。

 其の中に月日が經《た》つ…お里歸りを何日にしやうと相談すると、やつぱり四月八日の村の鎭守の藥師樣の祭禮が濟んでからと謂ふことにした。さうして居る中に春になつた。花コも咲けば鳥コらも飛んで來て鳴くやうになつた。いよいよ四月八日のお藥師樣の御祭日になつた。

 娘は祭禮を見に行くとて、美しく化粧して、長持の中から綺麗な着物を出して着た。見れば見るほど天人とも例(タト)へられない。花コだとも例へられないほど美しい。仕度が出來上つてから、田螺の夫に向つて、お前も一緖にお祭を見に參りませうと言ふと、さうかそれでは俺も連れて行つてケ申せ。今日は幸ひお天氣もいゝから久しぶりで外の景色でも眺めて來るべなどと云ふ。そこで娘は自分の帶の結び目に夫の田螺を入れて、お祭禮場さして出かけて行つた。

 その途中も二人は睦ましく四方山《よもやま》の話をしながら行く。道往く人や行摺《ゆきず》りの人達は、あれあんなに美しい娘子が、獨りで笑つたり語つたりして行く。可愛想に氣でも違つたものだべなアと言つて眺めて行く。そんな風で二人は遂々《たうとう》お藥師樣の一の鳥居の前まで來た。すると田螺は、これこれ俺は譯あつて、これから先きへは入《はひ》れぬから、どうか道傍(ミチバタ)の田の畔の上に置いてケろ。そしてお前が一人で御堂に行つて拜んで來てケろ。そのうち俺は此所で待つて居るからと云つた。それでは氣をつけて烏などに見付けられないやうにして待つて居てクナさい。私は一寸行つて拜んで來るからと言つて、娘は御坂を登つて行つた。そして御堂に參詣して歸つて來て見ると、大事な良人の田螺が居なかつた。

 娘は驚いて、此所彼所《ここかしこ》と探して見たがどうしても見付からない。鳥が啄んで飛んで行つたのか、それとも田の中に落ちてしまつたかと思つて、田の中に入つて探したが、四月にもなつたから田の中には澤山の田螺がゐる…それを一つ一つ拾ひ上げて見るけれども、どれもこれも自分の夫の田螺には似もつかぬものばかり…

  田螺(ツブ)や田螺(ツブ)や

  わが夫(ツマ)や

  今年の春になつたれば

  烏(カラス)といふ馬鹿鳥に

  ちツくらもツくら

  剌されたか…

 と歌つて、田から田に入つてこぎ探して居るうちに、顏には泥がかゝり、美しい衣物《きもの》は汚れてしまひ、そのうちに日暮時ともなつて、祭禮の人達はぞろぞろと皆家路に還る。そして嫁子の態《さま》を見て、あれあれあんな綺麗な娘子が氣でも違つたか、可愛想な…と口々に云つて眺めて通つた。

 娘はいくら探しても夫の田螺が見つからぬから、これは一層《いつそ》のこと田の中の谷地眼(ヤチマナコ)の深泥(ヒドロ)の中さ入つて死んだ方がいゝと思つて、谷地マナコに飛び込もうとして居ると、後《うしろ》から、これこれ娘何をすると聲かけられる。振り向いて見ると、水の垂れるやうな美男が、深編笠をかぶつて腰には一本の尺八笛をさして立つてゐる。娘は今迄の事を話して、私は死んでしまうからと言ふと、其の美男はそれならば何も心配することはない。其許(ソナタ)の尋ねる田螺はこの私であると言ふ。娘はさうではないと言ふと、若者は其の疑ひは尤もだが、俺は御水神樣の申し子で今迄は田螺の姿で居たが、それが今日、お前が藥師樣に參詣してくれたために、斯のやうに人間の姿となつた。俺は御水神樣にお禮參りをして此所へ還つて來ると、お前が居ないので、今迄方々尋ねて居たのだと言つた。そこで二人は喜んで一緖に家へ歸つた。

            ×

 娘を美しいと思つたが、田螺の息子がまたそれにも增さるほどの美しい若者で、似合ひの若夫婦が揃つて家へ還つた。父親母親の驚きと喜びやうツたら話にも昔にもないほどである。直ぐに長者どんの方へも知らせると、檀那樣も奧樣(カヽサマ)も一緖に田螺の家へ來て見て、大喜びで、こんなに光るやうな息子を聟殿を、こんなむさい家には置かれないと言つて、町の一番よい場所どころに立派な家を建てゝ、其所で此の若夫婦に商業(アキナヒ)をさせることにした。ところが田螺の息子と云ふことが世間に評判になつて、うんと繁昌して忽ちのうちに町一番の物持ちとなつた。そして老いた父親母親も樂隱居をし、一人の伯母子も良い所ヘ嫁に行き、田螺の長者どんと呼ばれて、親族緣者みな喜び繁昌した。

  (同前の二。)

[やぶちゃん注:所謂、異類婚姻・貴種流離譚の大団円型一つで、姉妹で運命が異なる「猿の婿入り」型のモチーフも含まれていると言えよう。「田螺長者」譚の最も典型的な記載例である。小学館「日本大百科全書」によれば、『小さな動物の姿で生まれた人の冒険を主題にする異常誕生譚』『の一つ。子供のいない夫婦が神に子授けを願い、タニシを授かる。タニシは一人前の年齢になると、馬を引いて働く。長者と親しくなり、長者の娘を見そめる。米を袋に入れて持ち、長者の家に行き泊まる。米の袋をたいせつなものであるといって、長者に預ける。長者は、預かった米をなくしたら、なんでも好きなものをやると約束する。夜中に、タニシはその袋から米を出し、娘の口の周りに生米をかんだものをつけておく。翌朝タニシは、米の袋がなくなっていると騒ぐ。娘の口に米がついているので、約束どおり、長者はタニシに娘をやる。娘がタニシといっしょに祭りに行くとき、タニシがカラスにつつかれて田の中に落ちる。娘が泣いていると、タニシはりっぱな男の姿になって現れる。婚礼をやり直し、タニシの若者は栄え、長者になる。主人公をカエルにした類話も多い』。『小さなものが突然にりっぱな若者に変身し、幸福な結婚をするところに特色があるが、そうした物語形式は昔話や御伽草子』『の「一寸法師」と共通している。「田螺長者」には、打ち出の小槌』『で打つと一人前の若者になったという例もあり、「田螺長者」と「一寸法師」とは、ただの混交とは思えない全体的な交錯がある。朝鮮、中国、ビルマ(ミャンマー)など東アジアにも、主人公が他の巻き貝類やカエルやヘビになった類話がある。動物の殻や皮を脱ぎ捨てて人間になるという変身の趣向が語られているのが普通である。巻き貝が殻をもち、カエルやヘビが変態・脱皮をすることが、これらの動物がこの昔話の主人公になっている理由であろう。日本ではタニシを水神の使者とする信仰があり、この昔話は、そうした宗教的観念を背景にして成り立っていたらしい』とある。当該ウィキも三諸されたいが、そこには、『田螺の方から呼びかける例、子になるべき田螺を野外で偶然発見する例など』や、『田螺でなくカタツムリ(新潟・群馬)カエル(九州)サザエ(鳥取・岡山)ナメクジ(島根)などの例が存在する。また』、『人間への変化も殻の破壊、湯または水による変化、参詣による変化などがある』とある。

 なお、タニシ(腹足綱新生腹足上目原始紐舌目タニシ科Viviparidae に属する巻貝の総称。本邦にはアフリカヒメタニシ亜科 Bellamyinae(特異性が強く、アフリカヒメタニシ科 Bellamyidae として扱う説もある)の四種が棲息する)の博物誌は、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 田螺」や、「本朝食鑑 鱗介部之三 田螺」、及び、サイト版の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「たにし たつび 田螺」の項を参照されたい。

「同前」前回の「二番 觀音の申子」を指す。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 二番 觀音の申子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本はここから。「申子」は「まをしご」。]

 

    二番 觀 音 の 申 子

 

 或る所に爺樣と婆樣があつた。もはや六十にも餘る齡《とし》であつたが、子供がないので如何《どう》しても一人欲しいものだと日頃信心して居る觀音樣に行つて願かけをした。それから丁度百目目の滿願の日に、觀音樣が婆樣の枕神に立つて、お前たち夫婦に授ける子寶とては草葉《くさば》の下を探したとて、川原の小石の間を尋ねたとて無いのだけれども、餘り切ない願掛けだから、今度だけは聞いてやると云つた。それから當る十月(トヅキ)目になつて生れたのが玉のやうな男の子であつた。

 爺、婆の喜びは話の外(ホカ)で、爺樣は每日々々山から柴を刈つて來て、それを町へ持つて行つて賣つて、子供のためにいろいろなベザエモノ(菓子)類を買つて來たり、また自分等は三度々々の食物さへも控目《ひかへめ》にして子供大事と育てて居つた。けれども、どうにも斯うにも爺樣婆樣は段々齡を取つてしまつて、柴刈りも洗濯も出來なくなつたので、又二人は觀音樣へ行つて、觀音樣申し觀音樣申しお前樣から授かつた此の子の事で、あがりました。とてもこの爺イ婆二人は老いてしまつて、大事なこの子を育て上げることが叶はなくなつたから、どうか觀音樣が引き取つて育てゝクナさい。どうぞお願ひでありますと言つた。觀音樣も日頃の爺イ婆の心掛けを知つて居るものだから、あゝよいからよいからと言つて、其の子を引き取つて御自分の手許に置くことにした。

 さうはしたが實は觀音樣も差し當り何斯《なにか》にと困つて、まづ自分の上衣を一枚脫いで子どもに着せ、參詣人の持つて來て上げる僅かのオハネ米《まい》などで、如何《どう》やら斯うやら其の日其の日の事をば足《た》して許た。そして子どもには色々な學問諸藝を授けて居た。其の子どもは又何しろただの子どもでは無いのだから、利發なことは驚くほどで、一を聽いては十を知ると云ふやうな利口ぶりであつた。さうして觀音樣の許《もと》で二十の齡(トシ)まで育てられて居た。[やぶちゃん注:「オハネ米」「御刎米」で、「刎米」とは、江戸時代、貢米納入の際に品質不良のために受納されない米を指す。]

 或る日のこと、觀音樣は息子にむかつて、お前も二十《はたち》にもなつたし、俺の目から見ればそれで一通りの學問諸藝を授けたつもりである。このまゝ此所《ここ》に居つてもつまらないから、どうだこれから諸國を廻《まは》つて修業をして立身出世をしろ。そして老齡(トシヨリ)の爺樣婆樣を養へと言つた。さう云はれて息子も喜んで諸國修業の門出をした。

 息子は觀音樣から貰つた衣物を着て深編笠をかぶつて、尺八を吹いて廻國した。そしてそれから何年目かの或る日大層大きな町に差しかゝつて、その町の一番の長者どんの家の門前に立つて尺八を吹いて居た。すると其の隣りの小さな家から婆樣が出て來て、その笛の音色を聽いて居たが、なんと思つたか、息子の側《かたはら》へ寄つて來て、虛無僧樣ちょツと私の家サ寄つて憩《やす》んで行けと言葉をかけた。息子も疲れて居つたから、云はれるまゝに内ヘ入ると、婆樣はお茶や菓子などを取り出してもてなし、それから、これこれ旅の虛無僧樣、實はこの隣りの長者どんではこの頃若者一人欲しいと云つて居たが、何とお前樣が行つてみる氣はないかと言つた。息子も永い年月の間旅をして淋しかつたものだから、さう云ふ所があつたら、暫く足止めをしてみてもよいと思つたので、婆樣それでは行つてみてもよいと云ふと、婆樣は喜んで、さうかそれがよい。だがお前のその着物ではワリから、この着物と着替《きがへ》ろと言つて、一枚の粗末なボロ着物を取り出して息子に與へた。はいはいと言つて息子は婆樣の云ふ通りに、其のボロ着物に着代へて、婆樣に連れられて長者どんの館《やかた》に行つた。長者どんの檀那樣は息子に三八と云ふ名前をつけて、竃場《かまどば》の火焚き男に使ふことにした。三八は何事も檀那樣の云ふ通りに、はいはいと云つて、奉公大事に每日々々働いて居た。

 この長者どんの館には家來下人が七十五人あつた。それから分家出店《でみせ》が諸國諸方に七十五軒もあつた。檀那樣には娘が二人あつて姉をお花、妹をお照と云つた。或る時鎭守の祭禮に、檀那樣は娘二人を馬に乘せて遣《や》ると云ふたら、姉のお花はオラは馬に乘つてもよいと言つたが、妹のお照はオラは馬に乘るのがあぶなくて嫌だ、駕籠で往くと言つた。それで姉は馬に乘り、妹は駕籠で行くことにした。ところが向《むかふ》から深編笠をかぶつて尺八を吹いて來る若衆《わかしゆ》があつた。馬で行つた姉のお花はひよつと見ると、その人は水の滴りさうな美男(イイヲトコ)であつた。それからは祭禮を見ても何を見ても一向面白くなくなつた。お照の方は駕籠で行つたものだから何も知らなかつた。お花は其の日祭禮から歸ると、オラ案配(アンバイ)がワリますと言つて、下女に奧の間に床をとらせて寢てしまつた。

 父親母親は大層心配して、醫者山伏を每日のやう賴んで來て診《み》せるが、誰一人お花の病氣を直せる者がなかつた。すると或る夜、親たちのところに觀音樣が夢枕に立つて、心配するな娘の病氣は家族の中に想ふ男がある故(セイ)だから、其の者と一緖にすれば直ぐ治(ナヲ)ると云ふお告げがあつた。そこで長者どんでは三日三夜の間家來下男どもを休ませて、娘の御機嫌を伺ひさせることにした。

 七十五人の家來下男どもは、喜んで俺こそ之《こ》の長者どんの美しい娘樣の聟殿になるにいゝかと思つて、朝から湯に入つて顏を洗つて、一人々々奧の一間のお座敷に寢て居るお花の枕邊へ行つて、姉さま、お案配はナンテがんすと言つた。それでもお花は一向見るフリもしなかつた。其の中《うち》に皆伺ひ盡して後(アト)には竃の火焚き男の三八ばかりがたつた一人殘つた。アレにもと云ふ者もあつたが、何しろ俺達が行つてさへ一向見向きもしないのだもの、あんなに汚い男が行つたら、尙更御アンバイがワルくなるべたらと、皆して聲を揃へて笑つた。すると其所へ隣家の婆樣が來て、とにかくあの竃の火焚き男も遣つて見ろ、アレも男だものと云つた。そこで三八も俄に風呂に入つて髮を結つて、觀音樣から貰つた衣裝を出して着て、靜かに奧の間へ通ふると[やぶちゃん注:ママ。]、お花は一目見て顏を赤くして、何か聽えない位の聲で云つて、息子を放さなかつた。そして見て居るうちに病氣もすつかり直つた。

 其の時息子の美しい男ブリを見て、妹のお照もあの人を自分の聟樣にしたいと云つて床に就いた。親々もそれには困つて、これは如何(ナゾ)にしたらよいかと息子に相談した。すると息子はそれでは斯《か》うしなさい。庭前(ニハサキ)の梅の木の小枝にアレあの通り雀がとまつて居りますが、あの小枝を雀がとまつたまゝ飛ばさぬやうに手折《たを》つて來た方を妻に貰ひませうと言つた。

 親たちは姉妹を呼んで其の事を話すと、それではと云つて早速妹娘が庭前に駈け下《お》りて、梅の木の側《そば》に行くと、雀はブルンと飛んで行つてしまつた。妹は顏を眞赤にして戾つて來た。

 その𨻶にまた雀が飛んで來て元の梅の木の小枝にとまつた。今度は姉娘が降りて行くと、雀はそれを喜ぶやうに、チユツチユツと鳴いて、そして枝コをパリツと折つても飛ばなかつた。それを其のまゝ持つて來て息子の手に持たせた。二人は目出度く夫婦の盃事《さかずきごと》をした。其の後息子は鄕里(クニ)から爺樣婆樣を呼び寄せて、觀音樣の云つた通りに親孝行をして孫《まご》繁《し》げた。それこそ世間に名高い三八大盡《さんぱちだいぢん》と呼ばれる長者となつた。

 それから妹のお照の方にも、其の中《うち》に良緣があつて、分家になつてこれも相當榮えて繁昌したと云ふことである。

  (遠野町《とほのまち》、小笠原金藏と云ふ人の話として松田龜太郞氏の御報告の一《いち》。大正九年の冬の採集の分。)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧の佐々木の補注は、底本では、全体が二字下げのポイント落ちである。本篇は典型的な貴種流離譚のハッピー・エンド譚である。

「小笠原金藏」不詳。

「松田龜太郞」不詳。

「大正九年」一九二〇年。]

佐々木喜善「聽耳草紙」(正規表現版)始動 / 序(柳田國男)・凡例・「一番 聽耳草紙」

 

[やぶちゃん注:以前からやりたかった佐々木喜善の「聽耳草紙」を正規表現で電子化注を始動する。本書は昭和六(一九三一)年二月、三元社から刊行された佐々木の故郷遠野に伝わる民話を採集した昔話集成の一つで、全百八十三章からなり、再録された話は実に三百三話に上り、佐々木の「遠野物語」(「佐々木の」としたことについては後述する)を含めて五冊ある代表的な昔話集では、最大の話数を誇るものである。「ちくま文庫」版「聴耳草紙」の益田勝実氏の「解題」によれば、本書を読んだ小説家宇野浩二は『このように面白いものは類をみないとまで賞め』た、とある。現在、ネット上には全電子化はなされていない。

 佐々木喜善(ささききぜん 明治一九(一八八六)年十月五日~昭和八(一九三三)年九月二十九日:名は「繁」とも称した)は民俗学者で作家。既に「遠野物語」電子化注の冒頭で述べたが、今回、新たにブログ・カテゴリとして「佐々木喜善」を設けるに当たって、それを概ねそのまま転写する。ウィキの「佐々木喜善」によれば、『一般には学者として扱われるが』、『佐々木自身は、資料収集者であり』、『学者ではないと述べている』。『オシラサマやザシキワラシなどの研究と』、四百『編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される』。『岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。祖父は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。その後、上京して哲学館(現在の東洋大学)に入学するが、文学を志し』、『早稲田大学文学科に転じ』、明治三八(一九〇五)年頃より、『佐々木鏡石(きょうせき)の筆名で小説を発表し始め』た。明治四一(一九〇八)年頃、『柳田國男に知己を得、喜善の語った遠野の話を基に柳田が『遠野物語』を著す。このとき、喜善は学者とばかり思っていた柳田の役人然とした立ち振る舞いに大いに面食らったという。晩年の柳田も当時を振り返って「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と語っている』。明治四三(一九一〇)年に『病気で大学を休学し、岩手病院へ入院後、郷里に帰る。その後も作家活動と民話の収集・研究を続ける傍ら、土淵村村会議員・村長』(在任期間は大正一四(一九二五)年九月二十七日から昭和四(一九二九)年四月四日)『を務め』たが、『慣れない重責に対しての心労が重なり』、『職を辞』した。『同時に』、『多額の負債を負った喜善は』、『家財を整理し』、『仙台に移住』、『以後』、『生来の病弱に加え』、生活も困窮、満四十六歳で持病の腎臓病のため、病没した。『神棚の前で「ウッ」と一声唸っての大往生だったという』。彼に与えられた『「日本のグリム」の名は、喜善病没の報を聞いた言語学者の金田一京助によるもの』である。また、大正八(一九一九)年、『「ザシキワラシ」の調査のために照会状を出して以来』、二年ほど、「アイヌ物語」『の著者である武隈徳三郎と文通があ』り、また、かの宮沢賢治(私はリンク先で宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版・附全注釈を完遂している)『とも交友があった』。昭和三(一九二八)年、賢治の童話「ざしき童子のはなし」(詩人尾形龜之助(私はリンク先その他で彼の多くの電子化を手掛けている)主宰の雑誌『月曜』(大正一五(一九二六)年二月号に掲載された)の『内容を自著に紹介するために手紙を送ったことがそのきっかけで』、その後、昭和七(一九三二)年には、喜善が『賢治の実家を訪れて数回』、『面談し』ている。『賢治は当時既に病床に伏していたが、賢治が居住していた花巻町(現:岩手県花巻市)と遠野市の地理的な近さもあり、晩年の賢治は』、『病を押して積極的に喜善と会っていたことが伺われる』。喜善は『幼少期から怪奇譚への嗜好があり、哲学館へ入学したのは井上円了の妖怪学の講義を聞くためだった』から『という。しかし、実際は臆病な性格だったらしく、幼少時、祖父から怪談話を聞いた夜は一人布団に包まってガタガタ震えていたこともあった。また、巫女や祈祷師にすがったり、村長をつとめていた際も』、『自身の見た夢が悪かったため出勤しないなどの行動があった』。明治三六(一九〇三)年『にはキリスト教徒となるが』、後、昭和二(一九二七)年には『神主の資格を取得』、二年後の昭和四年には、『京都府亀岡町(現:亀岡市)の出口王仁三郎』(おにさぶろう)『を訪問し、地元に大本教』(おおもときょう)『の支部を作っている。また、佐々木は一般に流布しているイメージのような「素朴な田舎の語り部」ではなく、モダン好みの作家志望者であり、彼が昔話の蒐集を始めるようになったのは、作家として挫折したためである』。主な著作に昔話集「紫波(しわ)郡昔話」「江刺郡昔話」「東奥異聞」「農民俚譚」「聴耳草紙」「老媼夜譚(ろうおうやたん)」、研究及び随筆としては「奥州のザシキワラシの話」「オシラ神に就いての小報告」「遠野手帖」「鳥虫木石伝」他がある。以上の引用に出た、晩年の柳田が「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」というのは、「遠野物語」成立に就いて、しばしば語られるエピソードであるが、これ自体が、柳田が本書を自作の代表作と自負し、それを正当化するために述べた言い訳としか私には思われない。実際、後の佐々木の本書「聴耳草紙」や「老媼夜譚」を読むに――「遠野物語」など、とても書けそうもない、方言丸出しで、それが直せそうもないレベルの人品をそこに見ることは全く不可能――である。勿論、柳田が聴き取りを整序するに、『漢文訓読体に近い独特の』『文語文体を採用した』ことが『他に類を見ない深い陰影に富んだ独特の文学的世界を獲得し』(「ちくま文庫」版全集の永池健二氏の「解説」より)得た事実は、認めよう。しかし――柳田國男は狭義の文学者・作家ではなく――農務官僚・貴族院書記官長・枢密顧問官などを歴任した――辛気臭くお上のご機嫌を伺うことままある官僚――であり、民俗学なんたるやの右も左も判らない時代の多分に権威的な民俗学者の一人に過ぎない。また、私は、彼と折口信夫の間には、性的象徴問題を民俗学で扱うことについて、意図的に制限しようというような密約があったのではないかとずっと疑っている。実際に南方熊楠は柳田國男のそうした偏頗を鋭く批判している。それほど、本邦の民俗学は、現在でも未だに、どこか妙に一般的に非現実的に健全に過ぎ、嘘臭く、漂白剤の臭いがする。私は彼の一部の考察には面白さ(但し、都合の悪い事例を除いて仮説を構築するという学者としては許されない資料操作も多々ある)を感じ、「蝸牛考」や「一つ目小僧その他」等の電子化注もこのカテゴリ「柳田國男」で手掛けてきたが、柳田國男の文体や表現が――文学的に洗練されているとは私は逆立ちしても思わない――。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の原本(リンク先は扉)を視認する。但し、所持する「ちくま文庫」版「聴耳草紙」(一九九三年刊)をOCRで読み込んだものを加工データとして使用する。

 踊り字「〱」「〲」は生理的に受けつけないので正字化する。ルビがないもので、読みが振れると判断したものは、《 》で歴史的仮名遣で推定の読みを添えた。不審箇所は「ちくま文庫」版を参考にした。注はストイックに附す。一日一章以上の電子化注を心掛けるが、それでも総てを終わるのには半年はかかる。【二〇二三年三月十六日:藪野直史】]

 

 

 

 佐佐木喜善著

 

  

 

        東 京 

 

[やぶちゃん注:以上は扉。表紙は底本では作り直してあるため、判らない。ネット画像で原本表紙を探したが、新版(昭和八(一九三三)年中外書房刊)のものしか見当たらなかった。全体が薄い罫線に囲まれてある。標題の下地に老翁が大きな樹の根元にしゃがんでいる絵がやはり薄色で描かれてある。

 以下、柳田國男の序文。底本ではここから。]

 

 

   

 

 佐々木喜善君のこれ迄の蒐集は本になつただけでも、すでに三つある。その三つのうち一番古いのは「江剌郡昔話」であつて、これは我々の仲間では紀念の多い書物である。二十二年程前、初めて佐々木君が遠野の話をした時分には、昔話はさ程同君の興味を惹いてゐなかつた。遠野物語の中には、所謂「むかしむかし」が二つ出てゐるが、二つとも未だ採集の體裁をなしてゐなかつた。それが貴重な古い口頭記錄の斷片であるといふ事はずつと後になつて初めて我々が心づいたことである。それから十年餘りしてから我々が松本君と三人で、東北の海岸を暫く一緖に步いたことがある。その時に丁度佐々木君は江剌郡から來ている炭燒きと懇意になつて、しばしば山小屋へ出掛けて、いくつかの昔話を筆記してきたといふ話を私にした。それは非常に面白いから出來るだけもとの形に近いものを公けにする方がいゝと、いふことを、私が同君に勸請したのもその時である。それから二年過ぎて、私が外國に遊んでゐる間に「江刺郡昔話」が出版せられた。新たに「江剌郡昔話」を取出して讀んでみると佐々木君が、先づ第一に、聞いた話の分類に迷つてゐる事がよくわかる。口碑と言つている中には、社寺や舊家の歷史の破片と共に昔話から變形したものもまじつてゐるのだから、今の言葉で言へば傳說にあたるものである。それから民話と言つてゐる部分は近頃何人かゞ實見した話として傳へられてゐるのだから、直接「むかしむかし」の中に入れられないのは當然だが、これとても又「むかしむかし」と内容の一致があつて何人かゞ「むかしむかし」からこれへ移入したといふ事が想像出來る。そしてこれが、我々が興味を以て考へようとしている世間噺といふものである。世間噺は新聞などの力で事實と非常に近くなつたけれども、以前は交通が不便で、そうそうは噺の種もないから、勢ひ古くからの文藝がその中へまぎれこんでゐたのである。東北といふ地方は、何時までも昔話を子供の世界へ引渡さずに大人も參加して樂しんでヰた結果昔話がより多く近代的な發達を經てゐる、[やぶちゃん注:句点はママ。]この事實が、この本で可成りはつきり證明された。その事實に最も多く參加した盲法師、すなわち奧州で「ボサマ」と言つてゐるものの活動の後を跡づけてみようと私が思つた大いなる動機は此處にある。

 「ボサマ」の歷史は近頃になつてから、全く別の方面からも、おひおひ知られて來たけれども、純粹なフォークロアの方法によってゞも、東北地方でなら調《しらべ》ることが出來る。例へば南部で言ふ「ガントリ爺」が、我々のお伽噺の「花咲爺」になつてくる迄の經過は、あちらではこれを文藝として改造した作品が現に殘つてゐるのだから、可成り具體的にその過程を說く事が來る[やぶちゃん注:ママ。「出來る」の脱字。誤植であろう。]。「ボサマ」は人を喜ばせるのが職務だから、或程度迄の繰返しを重ねると今度は意外なつくりかへ若しくは後日譚の方へ出て行かうとする。眞面目であつた話をやゝ下品な滑稽へ持つて行かうとする。從つて話題が發達してくる。同時にこれを聞く者の態度も幼少な子供等とは違つて、少しも、昔ならそんな事があつたかも知れんといふやうな信仰を持たずに、これを純空想の作品として受け入れやう[やぶちゃん注:ママ。]とする、卽ち今日の落語なり滑稽文學なりの文字以前の基礎をつくつてしまつたのである。大げさに言ふなら、今日の文藝と昔の文藝との間に橋をかけたやうなものだとも言へる。半分以上類似したやうな話でもこの意味から、出來るだけ多く集めてみやう[やぶちゃん注:ママ。]とした理由が、初めて此處に生じた。それには恰度佐々木君のやうな飽きずに何時迄も集められる蒐集家が非常に役立つた。

 佐々木君も初めは、多くの東北人のやうに、夢の多い銳敏といふ程度まで感覺の發達した人として當然あまり下品な部分を切り捨てたり、我意に從つて取捨を行なつたりする傾向の見えた人であつた。それが殆んど自分の性癖を抑へきつて、僅かばかりしかない將來の硏究者のためにこういふ客觀の記錄を殘す氣になつたのは、決して自然の傾向ではなく、大變な努力の結果である。

 これ迄普通に鄕里を語らうとしてゐた者のしばしば陷り易い文飾といふものを、殊にこの方面に趣味の發達した人が、己をむなしふして捨て去つたといふ事は、可成り大きな努力であつたと思はれる。問題は、將來の硏究者が、こういふ特殊の苦心を、どの程度迄感謝する事が出來るかといふ事にある。私は以前「紫波《しは》郡昔話集」「老媼夜譚《らうあうやたん》」が出來た時にも、常にこの人知れぬ辛苦に同情しつゝ、他方では、同君自身の文藝になつてしまひはせぬかと警戒する役に廻つてゐた。もう現在では、その必要は殆んど無からうと思ふ。能《あた》ふべくんば、この採集者に若干の餘裕を與へて、これほど骨折つて集めて來たものを、先づ自分で味ふやうにさせたい事である。それには、單純な共鳴者が此處彼處《ここかしこ》に起るだけでなく、この人と略々《ほぼ》同じやうな態度を以て、將來自分の地方の「むかしむかし」を出來るだけ數多く集めてみる人々が、次々に現れ來ることである。

 

   昭 和 五 年 十 二 月

           柳  田  國  男

 

[やぶちゃん注:個人的には、「自分のことを棚に上げてよく言うぜ!」とカチンとくるところが、複数箇所あるが、それは冒頭の私の鬱憤でお判り戴けるであろうから、敢えて指示や注はしない。

「江剌郡昔話」郷土研究社『炉辺叢書』の一冊として大正一一(一九二二)年に刊行されたもの。昔話二十話・民話十話・口碑四十六話から成る。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本を視認出来る。

「松本君」松本信廣(のぶひろ 明治三〇(一八九七)年~昭和五六(一九八一)年)は民俗学者・神話学者。事績は当該ウィキを参照されたいが、そこにも書かれている通り、彼は戦中に『「大東亜戦争の民族史的意義」を唱え、南進論を主張』し、一九三〇『年代に、大日本帝国が南進政策を展開しはじめると、日本神話と南方の神話の類似を指摘する松本の研究は、日本が南方に進出し、植民地支配を正当化する根拠を示すという点で、政治的な意味を持つようにな』った結果を惹起しており、好きでない。

「紫波郡昔話集」郷土研究社『炉辺叢書』で大正一五(一九二六)年に佐々木が刊行した岩手県紫波(しわ)郡の民譚集。同旧郡域は当該ウィキの地図を見られたい。

「老媼夜譚」同じく佐々木が郷土研究社『郷土研究社第二叢書』の一冊として昭和二年に刊行した、岩手県上閉伊(かみへい)郡で採取した昔話集。全百三話を収録する。]

 

 

      凡 例

 今度の昔話集は私の一番初めの「江刺郡昔話」の當時(大正十一年頃)集めた資料から、つい最近までの採集分をも交へて、一つの寄せ集めを作つて見たのである。

 分類と索引とを附けたかつたが、これは兩方ともかなり復雜[やぶちゃん注:ママ。]な技術と經驗とを要するので、俄には出來さうも無いから後日のことにした。實はこれくらゐの話集をせめてあと一二册も纏め、話數の千か或はそれ以上も集めて見て始めて可能な仕事である。私はこれまでに五百六十餘種の說話を土から掘り起して明るみに出したと思ふけれどもそれは重《おも》に東北の陸中の中央部に殘存して居たものを集めて見たに過ぎなかつた。この興味が全國的に盛んになつて、方々の山蔭の里や渚邊《なぎさあたり》の村々に埋れてゐる昔話が千も二千も現はれ來《きた》る其日もさう遠くはあるまいと感じて居る。その曉に於てこそ充分に比較硏究と分類方法とが餘薀《ようん》なく執《と》らるべきであらう。

 この集には百八十三番、凡そ三百三話ばかりの話を採錄して見た。話の中《うち》全然從來の所謂昔噺と云ふ槪念からは遠い、寧ろ傳說の部類に編入すべきもの、例へば諸々の神祠の緣起由來譚らしいものや、又簡單至極な話、例へば「土食い婆樣」其他の話のやうな、單に或老人が土を食つて生きて居《を》つたと謂ふやうなものも取つた。私は殊更にこれだけの物をも收錄して見た。これは私の一つの試みであつた。私の考へでは或一部の說話群の基礎根元をなした種子が、或は斯う云ふものではなかつたのではあるまいかと謂ふ想像からで、これらの集合や組立てでもつて、一つの話が構成され且成長されたかのやうな暗示もあつたからである。

 又一方、際無し話のやうな、極く單純な、ただ言葉の調子だけのやうなものをも出來るだけ採錄した。一部の昔話の生のまゝの形が暗示される材料であるからであつた。

 斯うして見ると、或觀方《みかた》によつて分類して行つたならば、ほんの四五種類の部屬に配列することが出來ると思ふ。例へば、

 1 自然天然の物を目宛《めあて》に語り出した話の群。

 2 巫女や山伏等が語り出した說話群。

 3 座頭坊の語り出した話の群。

 4 話と傳說の中間を行つたもの、或は傳說と話との混合

   がまだ整頓しきれずに殘つてゐる話の群。

 5 及び普通の物語と云ふものの類。

 である。なほ又これを細別して見たなら、幾つかの部屬ができるであらう。例へば、子守唄的な語りものから、單純な調子のみの語りもの、動物主人公の話から、和尙小僧譚、愚かしやかな者の可笑しな話の群、輕口噺のやうな部類、又別に生贊譚型、冒險譚型、花咲爺型、瓜子姬型からシンデレラ型、さうして緣起由來譚から、普通の物語と云ふやうにもなり、或は考へやう觀方の相異では、どんなにも分類配列することが出來やうと思ふのである。

 然し私はこの集では、ただ重に便利上《べんりじやう》話の中の主人役とか、又は内容の多少似寄つたものを、比較的近くに寄せて配列して見たに過ぎなかつた。だから餘りに暢氣《のんき》な整理の仕方であると云ふ謗《そし》りはまぬかれぬであらう。

 此集中の話で特に私の爲に御面倒を見て御報告をして下された方々の分には、一々御芳名を明かにして置いた。何の記號もない分は私の記憶其他である。

 なほ此集を世に出すに當つて、貴重なる資料を下された諸兄に、さうして亦特に私の爲に序文を書いて下された柳田先生及び三元社の萩原正德氏に一方ならぬ御世話になつたことを、玆《ここ》に謹んで御禮を申上げる次第である。

 

   昭和六年一月

 

               佐 佐 木 喜 善

 

[やぶちゃん注:以下、底本では目次となるが、これは総ての電子化注が終わった後に附すこととする。

 以下、本文に入る前の標題ページ。]

 

 

  本書を柳田國男先生に捧ぐ

 

 

    聽 耳 草 紙     佐 佐 木 喜 善

 

 

     一番 聽耳草紙

 

 或る所に貧乏な爺樣があつた。今年の年季もずうツと押詰まつたから、年取仕度《としとりじたく》に町仕《まちつか》ひに行くべと思つて野路を行くと、路傍(ミチバタ)の草むらの中に死馬(ソマ)があつて、それに犬どもがズツパリ(多く)たかって、居た。それを此方(コツチ)の藪の蔭コから一疋の瘦せた跛狐(ビツコキツネ)が、さもさもケナリ(羨し)さうに見て居たが、犬どもが怖(オツカナ)いもんだから側(ソバ)に近寄りかねて居た。それを見た爺樣はあの狐がモゼ(不憫)と思つて、しいツしいツと言つて、犬共(イヌド)ば追(ボ)つたくツて、死馬の肉を取つて狐に投げて遣つた。さウれ、さウれそれを食つたら早く山さ歸れ、お前がいつまでもこんな所に居るのアよくないこツた、と言つて聽かせて町へ行つた。

 その歸りしなに、爺樣が小柴立ちの山の麓を通りかゝると、今朝の瘦狐が居て、爺樣々々俺ア先刻(サツキ)から此所《ここ》で爺樣を待つて居た。ちよツと此方(コツチ)に來てケてがんせと言つて、爺樣の袖を食わへて引張るから、何をすれヤと言つてついて行くと、其山のトカヘ(後(ウシロ))の方さ連れて行つた。其所《そこ》まで行つたら狐は、爺樣々々一寸(チヨツト)眼(マナグ)を瞑《つむ》つて居てゲと言ふ。爺樣が眼を瞑つて居ると、狐は爺樣眼開(ア)けてもええまツちやと言ふから開(ア)くと、爺樣はいつの間にかひどく立派な座敷に通つて居た。そこへ齡取《としと》つた狐が二匹出て來て、今朝ほどア俺所(オラトコ)の息子が大層お世話になつてありがたかつた。俺達はこんなに齡取つてしまつて、ハゲミに出るにも出られないで每日每日斯うやつて家にばかり居ります。その上に息子が片輪者で困つて居ります。今夜の年越もナゾにすべやエと心配して居ると、爺樣のお影で、まづまづ上々吉相の年取りも出來て結構でござります。そのお禮に爺樣に何か上げたいと思ふけれども、御覽の通りの貧乏暮しだから大したことも出來ぬが、これを上げます。これは聽耳草紙と謂ふもので、これを耳に當てがると、鳥や獸や蟲ケラの啼聲囀聲《さへづりごゑ》まで、何でもかんでも人の言葉に聽き取られる。これを上げるから持つて歸つてケテがんせと言つて、一册の古曆《ふるごよみ》ほどの草紙コを爺樣の前に出した。爺樣はそんだら貰つて行くと言つて喜んで、その本コを手さ持つて、又先刻の跛狐に送られて野原の道まで出て、家へ歸つた。

 正月ノ二日の事始めの日の朝であつた。爺樣は朝(アサマ)早く起きて、東西南北を眺めわたすと、吾が家の屋棟《やむね》の上に一羽の烏がとまつて居た。すると又西の方から一羽の烏が飛んで來てカアカアと鳴いた。こゝだ、あの草紙コを試して見る時はと思つて、爺樣は急いで家の中さ入つて、古草紙コを出して來て耳さ押し當てゝ聽くと、烏共の言ふ言葉が手に取るやうによく解つた。その言ふことは、どうだモラヒ(朋輩)どの、此頃に何か變つたことアないかアと言ふと、西から來た烏は、何も別段珍しい話もないが、此頃城下の或る長者どんの一人娘が懷姙したが、それが產月になつても兒どもが生れないので、娘が大變苦しんで居る。あれは何でもない、古曆と縫針(ハリ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]とを煎じて飮ませれば兒どもも直ぐに生れるし苦痛(クルシミ)もなくなるものだのに、人間テものは案外淺量(アサハカ)なもので、そんなことも知らないと見える。はてさてモゾヤ(哀れ)なものだよ、カアカアと言つた。

 爺樣はそれをすつかり聽き取つて、これはよいこと聽いたもんだ。婆樣やエ婆樣やエ俺ア烏からよいこと聽いたから、これから城下さ行つて八卦《はつけ》置いて來るから仕度《したく》せえと言つて、婆樣に旅仕度して貰つて、城下町さして出かけて行つた。行つて見ると、其家は聞きにも增さつて立派な長者どんであつた。如何にもその長者どんの一人娘は難產で四苦八苦の苦しみをして居ると云ふことを、町さ入ると直ぐ聞いた。行つて見ると、屋方《やかた》には多勢《おほぜい》の醫者や法者《はふしや》が詰めかけて額を寄せて居るけれども、何とも手の出しやうがなくて、只うろうろしてばかり居た。そこへ汚い爺樣が行つて、私は表の立札の表について參つた者だが、お娘御樣が難產でござるさうな、この爺々が安產おさせ申上ますべえと言つた。あまり身成りが汚いものだから、其所に居た連中が、こんな百姓爺々に何が出來るもんかと、皆馬鹿にして居た。けれども長者どんでは、若《も》しやにかられて爺樣を座敷へ通すと、爺樣は六尺屛風を借りてぐるりと立廻《たちまは》し、その中に入つて、唐銅火鉢《からかねひばち》にカンカンと火を熾《おこ》して貰ひ、それに土瓶を借りてかけて、持つて行つた古曆と縫針(ハリ)とを入れてぐたぐたに煎《せ》んじて、娘に飮ませた。すると直ぐに娘の苦しみが拭(ヌグ)ふやうに取れて、おぎやア、おぎやアと、玉のやうな男の兒を生み落した。

 さあ長者どん一家の喜びは申すに不及《およばず》、上下と喜び繁昌して居るうちに、其所に居つた多勢の醫者や法者は何時《いつ》去るともなしに、一人去り二人去りして、遂々《たうとう》散り散りばらばらに立つて皆居なくなつて居た。そこで爺樣は長者どんから大層なお禮を貰つて、家へ歸つて榮えて活(クラ)したと。ハイハイどんど祓《はら》ひ、法螺《ほら》の貝ツコをポウポウと吹いたとさ。

  (昭和二年四月二十日、村の字《あざ》土淵《つちぶち》足洗川《あしあらひ》の小沼秀君の話の一《いち》。私の家に桑苗木を堪えに來て居て[やぶちゃん注:「堪え」はママ。「ちくま文庫」版は『植え』。正しくは歴史的仮名遣で「植ゑ」。漢字は誤植。]、デエデエラ野と云ふ山畠のほとりに憩《やす》みながら語つた。私は話の筋としてはさう珍しくなく、曩《さき》の老媼夜譚第二十三話聽耳頭巾と系統を同じくするものではあるが、便宜上これを第一話に置いて直ちに、これを此集の名前にした。)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧の佐々木の補注は、底本では、全体が二字下げのポイント落ちである。

「法者」民間の呪術者。山伏や巫女(みこ)のような連中を指す。

「昭和二年」一九二七年。

「村の字土淵足洗川」現在の岩手県遠野市土淵町土淵六地割にある地名(グーグル・マップ・データ)。

「小沼秀」不詳。

「デエデエラ野」佐々木喜善の生家の西直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。現行では「デンデラノ(野)」と表記される。

「老媼夜譚第二十三話聽耳頭巾」国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここで視認出来る。]

2023/03/15

大手拓次譯詩集「異國の香」 野のチユーリツプ(ヒルダ・コンクリング)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  野のチユーリツプ コンクリング

 

鬼百合の葉のやうにまだらがあり、

まつくろい頸飾(くびかざ)りをつけたチユーリツプを

(そこにはみどりの覆ひをもつてゐる)

神樣はこしらへたのだ、

また、 神樣は動いてゆく寶石のやうな氷河をつくつた、

神樣は日にかがやく眞赤な雲のやうなチユーリツプをもつくつた。

けれど私にはわからないよ、

どうして、 それが花になつたり、

また大きな夢のやうな氷河になつたりするのか?

 

[やぶちゃん注:作者のついては、前回の私の注を参照されたい。本篇は、前回の詩篇と同じく、彼女の詩集「Shoes of the wind」の「Wild Tulip」である。以上の原著の当該部を参考にして原詩を引く。

   *

 

   WILD TULIP

 

Mottled like the tiger-lily leaf,

With black necklace clinging,

( Of course it has a green cloak I )

God has made a tulip.

He made the glacier like a moving jewel.

He made the tulip

Like a red cloud lighted by the sun.

I wonder how it feels to make a flower

Or a glacier like a great dream !

 

   *]

大手拓次譯詩集「異國の香」 古い眞鍮の壺(ヒルダ・コンクリング)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  古い眞鍮の壺 コンクリング

 

ふるい眞鍮の壺が隅のはうにゐてちかちかひかり、

臺所の鍋(パン)にむかつてしかめつつらをしてゐる。

強情な王樣のやうに

ぢつとすわりこんで不氣嫌な顏をして……

私が見えなくなると

ほかの者を追ひつかふ。

あの壺は女神(めがみ)からもらつた賜なのだ。

私はどうしたらいいだらう?

 

私がほしいといへば、

壺はお米を煮てくれる。

お汁(つゆ)がほしいといへば、

それもこしらへてくれる。

あいつは魔怯だ、

けれど始終ぶつぷつつぶやいてゐる。

あいつさへゐなければ、

私の小屋(こや)もほんとに樂しく愉快なのだけれど、

窓のそとにはウイスタリアの花がひろびろと咲いてゐて……

私はどうしたらいいだらう?

 

壺はフライパンに

鈎(かぎ)の上にとまれといひつけた……

それからきぴしいこゑで

ほかの鍋(パン)にもいひつけた……

みんな私のこぢんまりした臺所で

幸福にくらせるのに!

敎へてください――きつと貴方はそつと敎へてくれるにちがひない――

私はどうしたらいいだらう?

 

[やぶちゃん注:詩人ヒルダ・コンクリング(Hilda Conkling 一九一〇年~一九八六年)については、本書巻末の目次の名の後に、『(十三歲の少年詩人)』とある(編者の逸見享氏による書き入れか)。私は知らなかったし、日本語で検索をかけても、誰も書いていない。名前の英文綴りを適当に調べて検索したところ、英文ウィキのこちらで、発見した。而して、この詩人は「少年」ではなく、「少女」である。大手拓次は昭和九(一九三四)年四月十八日に亡くなっているが、その時点でも彼女は二十四歳である。そのウィキによれば、彼女の父はマサチューセッツ州ノーサンプトンにあるスミス大学の英語の助教授で、ヒルダはニューヨーク州生まれ。父親は彼女が四歳の時に亡くなっている。未だ幼い四歳から十四歳にかけて、その詩の殆んどを作り、彼女自身は、それらを自分では書き留めていなかった。しかし、彼女の母親が会話の中に出てくるそれらの詩篇をその場で、或いは後で記憶をもとに書き留めておいた、とある。ヒルダが大きくなるにつれ、母は詩を記録することをやめ、また、ヒルダ自身、成人になってからは、自ら詩を書いたことも知られていない、とある。ヒルダの詩の殆どは自然に関わるもので、時には単に説明的なものもあれば、ファンタジーの要素が混じったものもある。他の多くのテーマは、母親への愛、物語や空想、彼女を喜ばせた写真や本を対象としているが、これらのテーマの多くは独立してあるのではなく、絡み合っていている、とある。彼女は、植物や動物の描写にしばしば比喩を利用している、ともあった。ヒルダの詩が収められた三冊の詩集は、彼女の生前に出版されており、「幼い少女の詩」(Poems by a Little Girl :一九二〇 年刊。アメリカの古典復興への回帰を主唱したイマジスト派の女流詩人エイミー・ローレンス・ローウェル(Amy Lawrence Lowell 一八七四 年 ~一九二五 年)の序文附き)・「風の靴」(Shoes of the Wind:一九二二 年刊)、「銀の角」(Silverhorn:一九二四年) がそれである。彼女の詩は、二種の詩のアンソロジーにも採られてあり、彼女については、詩を含め、その最初の詩集以前に、多くの雑誌に掲載された、ともある。第一詩集に載る彼女ポートレートはこれである。しかし、「Internet archive」の彼女のページを見るに、他にも著作があることが判る。

 さて、そこで調べてみたところ、本篇は、詩集「Shoes of the wind」の「The old brass potであることが判った。原著の当該部を参考にして原詩を引く。

   *

 

   THE OLD BRASS POT

 

The old brass pot in the comer

Shines and scowls at the kitchen pans;

Like a stubborn king

He sits and frowns . . .

Orders them about

When I’m not looking.

He was a gift from the fairy queen . .

What can I do ?

 

He boils rice when I want it,

Makes broth when it is needed.

He is magic

But he growls all day.

Without him it would be pleasant and comfortable

In my little cottage

With wistaria growing over the open windows . . .

What can I do ?

 

He tells the frying pan

To stay on its hook . . .

He shouts at the other pans

In a gruff voice . . .

They all might be so happy

In my cozy kitchen !

Tell me . . . but you must whisper . . .

what can I do ?

 

   *

「ウイスタリア」(wistaria)は「wisteria」と同じで、「藤」、マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属 Wisteria のフジ類を指す。本邦で愛されるフジ(ノダフジ) Wisteria floribundaとヤマフジ Wisteria brachybotrys は日本固有種であるが、アメリカにはアメリカ固有種のアメリカフジ Wisteria frutescens が植生するから、それである。]

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「雨夜を好む猪」・「要心深い猪」・「昔の猪と今の猪」・「シシの井(猪の膽)」・「猪の牙」・「猪と鹿」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○雨夜を好む猪  猪は闇の夜を好んで出ると云ひますが、殊に雨のそぼ降る夜などは、好等の書入《かきい》れ時だと謂《いひ》ます。

[やぶちゃん注:確かに、猪は雨の夜を好まない傾向はない。猪については、後の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪』(本カテゴリで全十九章)も参照されたい。

「好等」ママ。「奴等」の誤植か。]

 

 ○要心深い猪  猪は田甫《たんぼ》へ近づいてからは、極く靜かに要心深く步いて、崖を飛降りたり、堀を越したりする時のほかは、滅多に肢音《あしおと》を立てぬと云ひます。矢トーなどにかゝるのは、崖などを飛降りる時、かゝるのだと云ふ人もありました。又、田圃へ入る時でも、田圃に最も近い茂みの中から來ると云ひます。たとひ其處が大變な𢌞り道でも。

[やぶちゃん注:「田甫」前にもあったが、ここでは後を「田圃」と書いており、誤植の可能性が疑わられる。

「矢トー」前回の注を参照されたい。]

 

 ○昔の猪と今の猪  猪も明治三七八年頃には、殆ど出なくなつて、猪の害と云ふものを聞かなくなりましたが、それもほんの僅かな期間で、明治四十年頃から、再び出始めた猪は、古老の話によると、四五十年來、なかつたと云ふ程出るやうになつて、畑の甘藷を堀[やぶちゃん注:ママ。]つたり、軒端に積んで置いた稻を喰べたなどゝ云ひました。それに其頃出る猪は、性質なども昔とは一變したやうに、出る場所は大槪きまつてゐたものが、殆ど想像もつかぬ所へ出たり、又、巾が四尺以上もある人間の道路などは、決して橫切らなかつたものが、そんな事は平氣で、涉《わた》つて步いて[やぶちゃん注:ここに読点が欲しい。]出る處がさつぱり見當がつかないと云ひます。

 昔の猪は夜の間、田や畑を荒して、晝間は附近の山の中に寢て居たもので、女が草刈りに山へ行つたら、猪がボロー(雜草や蔓草などが亂れ茂つた處)に鼾《いびき》をかいて寢てゐたとか、男が日が暮れてから山に仕事をしてゐたら、猪が子供を連れて其處へ出かけて來たのに、吃驚して逃げて來たなどゝ云ふ話もありました。近來の猪は、遠く十里も十五里もの奧山から、峯傳ひに來て、夜が明けぬ間に歸つてしまふので、昔のやうに、擊つ事が出來ないと、獵師が話しました。

 猪も每年少なくなつて行くと云ひますが、現今でも時々出て、なかなか油斷はならないと云ひます。

[やぶちゃん注:猪も生存のために学習し、習性が人間の都市社会にさえ適応していることは、昨今の市街地での騒動でも明白である。猪を侮ってはいけない。そもそも、彼らは非常に頭がいい。猪が家畜化された豚は、まず、調教しても芸が出来ないが、猪は芸が出来る。昔、妻と行った「天城いのしし村」(二〇〇八年十一月三十日閉園)が懐かしいな。

「明治三七八年」一九〇四、五年。]

 

 ○シシの井(猪の膽)  シシのヰは、人間の體に、非常な效能のあるものと言つて、貴重なものとされてゐました。瀕死の病人などでも、これを飮んで囘復しないのは、よくよく壽命がないものだと云つてゐました。

 獵師の家には、何時でも貯へてありましたが、普通の家でも大切に保存してゐる家がありました。私の家などでも、シヽのヰや、油を、昔は獵師の家から歲暮に貰つものださうです。

[やぶちゃん注:「シシの井(猪の膽)」「シシのヰ」猪胆(ちょたん:乾燥した猪の胆囊)は中国古代から漢方薬として用いられている。本邦でも珍重されたことは、『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 十四 猪買と狩人』や、同「猪 十五 猪の膽」を読んでも判る。但し、その乾燥品で急性E型肝炎を発症したケースがネット上で確認出来るので、注意されたい。]

 

 ○猪の牙  猪の牙は魔除けになると云つて、大切に藏《しま》つてある家がありました。

[やぶちゃん注:これは猟師やマタギらの古来からの習慣でもある。牙だけでなく、毛や鬣(たてがみ)が魔除けになるといって、現在、ネットでも販売されている。]

 

 ○猪と鹿  猪はどんな急所を擊つても、決して一度では斃れぬと云ひますが、鹿の方は、屛風を倒すやうに、見事に倒れると謂ひます。又、手負《ておひ》猪は次第に山深く遁げ入り、手負鹿は、段々里近く、水のある所へ出て來るものと謂ひます。

早川孝太郞「三州橫山話」 山の獸 「猪のソメ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

     山 の 獸

 

 ○猪のソメ(案山子《かかし》)  秋の彼岸過から、猪が田や畑へ出て作物を荒らすと云つて、山に沿つた處には、頑丈な栅や陷穽《おとしあな》や、長い堀などが造つてありましたが、私が物心覺えた明治二十八年頃なども、山峽《やまかひ》の田圃へ稻を喰ひに出ると言つて、其處へ作る稻は、猪の喰べにくいやうに、特に髯《ひげ》澤山な種類を作つたりして、いろいろと防ぐ工夫を考案したものでした。

 藁人形のソメ位では猪の方で承知してゐて、更に感じないので、材木の片端を穿《うが》つて穴を造つて、木の中心へ心棒を通し、水車の出來損ない見たいなものを拵へて、これに筧《かけひ》で水を流しかけて、水が穴に滿ちると、重量で下つて、水を明けてしまつて、材木が舊《もと》の位置へ返る時、片端が後《うしろ》に置いてある臺の板を、バタンと音して打つ仕掛《しかけ》などもありました。これをボツトリと謂つて、昔しは、これに杵《きね》をつけて、粟や稗《ひえ》を搗いたものだと謂ひます。これを田の傍《かたはら》の澤に設けておきました。

 又自分達が、石油の臭ひが嫌い[やぶちゃん注:ママ。]なところから思ひついて、これをボロに浸して竹の先に結びつけて畔《あぜ》に幾ケ所も立てゝ、これなら如何《いか》な圖々しい猪でも、臭いのに閉口するだらうなどゝ云ひました。臭いものではこの外に、女の髮の毛を燃《もや》して竹に揷んで立てたり、又ボロを繩になつて、其端に火をつけて、一晚、黃臭《きなくさ》い匂ひを漂はしておくのもありました。

 カンテラに火を灯して、高く竿の先に吊るして、暮方から夜の明方まで、田甫[やぶちゃん注:ママ。「田圃」(たんぼ)。]の中に灯しておくのもありました。來る晚も來る晚も灯して置いたら猪の方で覺えてしまつて、カンテラの點《とも》つて居る傍で稻を喰べて行つたなどと云ふ話もありました。

  矢トーと言ふのは昔からやつた事ださうですが、靑竹を三尺ほどの長さに切つて、先を尖らせて火にあぶつて一層銳くして、猪の來る路へ、矢來のやうに立て置くものでした。これに猪がかゝつて、五寸ほど血を滲ませておいて行ったのを實見した事がありました。

 昔から行《おこな》つた事で、完全に効力があつたのは、田から田へ鳴子《なるこ》を引き渡して、田の畔に晚小屋を造つて、每晚、其處に寢泊りして、爐に向つてホダを燃しながら、夜通し其綱を引いて居るものでした。近い頃、字《あざ》相知の入《いり》と云ふ所の田甫へ每晚この鳴子の綱を引きに出て居た男が、たつた一晚風邪を引いて番小屋を休んだら、其晚に猪が出て、一度に稻を喰べられたなどゝ云ひました。

[やぶちゃん注:「ソメ(案山子)」非常によく書けてあるウィキの「かかし」によれば、『「かかし」の直接の語源は「嗅がし」ではないかとも言われる。鳥獣を避けるため』、『獣肉を焼き焦がして』、『串に通し、地に立てたものもカカシと呼ばれるためである。』『これは嗅覚による方法であり、これが本来のかかしの形であったと考えられる。また、「カガシ」とも呼ばれ、日葡辞書』(十七』『世紀に発行された外国人の手による日本語辞典)にもこちらで掲載されている。またカカシではなく』、『ソメ(あるいはシメ)という地方もあり、これは「占め」に連なる語であろう』とあり、「ソメ」に納得した。また、そこ以下に『「案山子」という字をあてる理由について、以下のような記述が北慎言(きたちかのぶ:北静盧(きたせいろ 明和二(一七六五)年~嘉永元(一八四八)年)は江戸中期の民間学者。慎言は本名)「梅園日記」』(弘化元・二(一八四五)年)にあるとして引かれているものも甚だ興味深いものである。なお、後の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 五 猪の案山子』も参照されたい。早川氏手書きの絵も見られる。また、「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、『最近は、猪と猿の害が特にひどくなって困っています。当時のように夜通し番をする訳にもいかず、ラジオをかけたり、爆竹を鳴らしたり、番犬を繋いだり、いろいろするのですが結局最後には慣れてしまいます。触れるとショックが来る、この電気柵が効果があって、今では殆んどの田圃に柵があります』。『(柵が無い田圃に這入られる)』と写真入りで注があるので見られたい。

「明治二十八年」一八九五年。

「髯《ひげ》」穀類で禾(のぎ)の尖ったもの、多いものを指すのであろう。

澤山な種類を作つたりして、いろいろと防ぐ工夫を考案したものでした。

「材木の片端を穿《うが》つて穴を造つて、木の中心へ心棒を通し、水車の出來損ない見たいなものを拵へて、これに筧《かけひ》で水を流しかけて、水が穴に滿ちると、重量で下つて、水を明けてしまつて、材木が舊《もと》の位置へ返る時、片端が後《うしろ》に置いてある臺の板を、バタンと音して打つ仕掛《しかけ》などもありました」所謂、「鹿威し」である。「ボツトリ」は落ちる音に基づくか。

「矢トー」「矢塔」「矢戸」辺りか。後の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 三 猪の禍ひ』で詳しく語られてあるが、そこでは、『ヤトオは本來オトシアナの中に立てゝ、陷ちた猪を突刺すための物の具であつたが、別に崖の下垣根の内等にも置いて、獲物を捕る事にも使つた。單に猪を嚇す爲めの、防禦の具に用ひたのは、せつない時の思付であつたかも知れぬ。それをつくる矢竹の茂りが、山の處々に、未だ忘れたやうに殘つてゐた』とあり、それだと、「矢塔」が相応しい感じはする。

「相知の入」現在の横川相知ノ入(よこがわあいちのいり:グーグル・マップ・データ)。]

早川孝太郞「三州橫山話」 種々な人の話 「湯に入らぬ男」・「馬に祟られた男」・「木の葉を喫ふ男」・「死ぬまで繩を綯つた男」 / 種々な人の話~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○湯に入らぬ男  山口伊久と云ふ男も、魚を捕る事が好きで、夏は、鮎瀧へ行けば、如何なる日でも居ると云ひました。どんなに煆《や》けつくやうな炎天でも、ぢつと身動きもしないで、鮎を捕つてゐると云ひました。いつも股引に脚絆を肌から離さず、湯には一年も二年も入らぬと云ふ評判でした。それでゐて顏の色はいつも艶々してゐました。餘り家計が豐かでもないのに、百姓は嫌《いや》だと云つて、夏《なつ》川へ行くほかは、山へ行つて、木を伐つたりかわたけをとつたり、又はフシの實を探したりしてゐました。家の中は奇麗に掃除して塵一本もないやうにして、多くは炉に向つてぢつと坐つてゐました。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」(以下の注の引用では「●」)。

「山口伊久」「やまぐちいきう」と読んでおく。

「鮎瀧」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川に「鮎滝」の指示がある。グーグル・マップ・データでもポイントされてあり、サイド・パネルにも、多数の写真がある。この説明板の写真が一番読み易い。それによれば、ここでの独特の鮎の漁法(山口伊久の釣り方はこれではないようにも見えなくはないのだが)について、『この瀧の瀑布を二間』(約三・六四メートル)『余跳躍し遡上する鮎を、二間お竹竿の先に付けた笠網(被(かぶ)り笠)を両手で把持氏し、瀧壺の巌頭に待ちうけて、魚が空中い飛躍する一瞬にこれを掬(すく)い捉(と)る漁法(鮎汲みともいう)に因み、瀧川三之瀧(たきがわさんのたき)の愛称となったことによる』とあり、以下、非常に細かい江戸時代からの、この流域の開発や鮎漁の歴史等、非常によく書かれてある。この瀧遡上の写真は現地にある説明版の写真を写したものであるが、これは壮観である。網代網漁の鮎漁は見たことがあるが、如何にもいやらしく可哀そうで厭だが、ここのこの鮎の雄姿は、なかなか見られない。

かわたけ」担子菌門イボタケ目 マツバハリタケ科コウタケSarcodon aspratus の異名。「皮茸」「革茸」であろう。独特の芳香を持ち、傘上には大きな鱗片が並ぶ。傘裏には長さ五ミリ程度の針状突起が並んで、寧ろ裏側の方が革っぽい。傘の径はしばしば三十センチメートルに達する。乾燥と全体的に黒くなり、より皮革に似る。松茸より希少ともされ、美味である。

「フシの實」「フシ」は「五倍子」で、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis の葉にヌルデシロアブラムシ(半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科ゴバイシアブラ属ヌルデシロアブラムシ Schlechtendalia chinensi)が寄生すると、大きな虫癭(ちゅうえい)を作る。虫癭には黒紫色のアブラムシが多数詰まっており、この虫癭はタンニンが豊富に含まれていうことから、古来、皮鞣(かわなめ)しに用いられたり、黒色染料の原料になる。染め物では空五倍子色(うつぶしいろ:灰色がかった淡い茶色。サイト「伝統色のいろは」こちらで色を確認出来る)と呼ばれる伝統的な色を作り出す。インキや白髪染の原料になるほか、かつては既婚女性及び十八歳以上の未婚女性の習慣であったお歯黒にも用いられた。また、生薬として「五倍子(ごばいし)」あるいは「付子(ふし)」と呼ばれ、腫れ物や歯痛などに用いられた。主に参照したウィキの「ヌルデ」によれば、『但し、猛毒のあるトリカブトの根「附子」も「付子」』『と書かれることがあるので、混同しないよう注意を要する』。さらに、『ヌルデの果実は塩麩子(えんぶし)といい、下痢や咳の薬として用いられた』とある。ここの「實」は前者の虫癭でとってよかろうが、後者の実際の実も採っていたではあろう。]

 

 ○馬に祟られた男  ハヤセの梅と云ふ男が、三月神樂の連中に混ざつて必ずやつて來ました。始終口から涎《よだれ》を流してゐる、五十格好の赤ら顏の男でした。馬が死んだ、赤馬が死んだぞと言ふと、自分の二の腕に喰ひついて、泣きながら、聲の主を追ひかけて行きました。その爲め二の腕はいつも赤く腫れ上つてゐました。遠江の者で實家は、中々の物持だと云ふう事ですが、馬の祟りで氣狂ひになつと云ふ事でした。其後死んだと云つて來なくなりましたが、近くの物持の家へ生まれ替つて來たとも云ひました。

[やぶちゃん注:面白がって誰彼が彼にそう呼び掛けてやらせたのだろうが、私はあたかもその場にいたかのようなフラッシュ・バックを起こし、「ハヤセの梅」が、自身の二の腕にガブッツと噛みつくモノクロームの映像が切なく見えてくるのである。]

 

 ○木の葉を喫ふ男  山口豐作と云ふ男は、三年前に亡くなりましたが、大變つましい男で、十年ほど前までは、石油を使ふのは勿體ないと云つて、昔のまゝの松を、明《あか》しに燃《もや》していました。煙草が好きで、ふだん口から煙管《きせる》を離しませんでしたが、煙草が官營になってからは、買つては喫《の》まないで、秋、霜が來てから、山へ行つて種々《いろいろ》な木や草の葉を採つて來て、煙草のやうに、繩にはさんで、天井に吊るして置いて、其れを刻んで喫んでゐました。

 山牛蒡《やまごばう》の葉や、虎杖《いたどり》の葉や、蕗の葉、ゴード茨《いばら》の葉などが喫めると言ひました。桑の魯桑《ろさう》と云ふ種類も色が奇麗だと云ひました、赤松の葉を煮出して、石の上で叩くと刻煙草《きざみたばこ》のやうになる事も其男から聞きました。

[やぶちゃん注:「三年前」大正一〇(一九二一)年十二月で、序文のクレジットは「大正十年八月」であるから、大正七年となろう。

「煙草が官營になってから」正式には明治三七(一九〇四)年七月に施行された「煙草専売法」以降となる。

「山牛蒡《やまごばう》」正式和名のそれは多年草の双子葉植物綱ナデシコ目ヤマゴボウ科ヤマゴボウ属ヤマゴボウ Phytolacca acinosa 或いはPhytolacca esculenta で、日本全土及び東アジアの温帯に分布し。人家付近に植生する。根は肥大し、円柱形。茎は太く、直立し、高さ一メートル内外となり、大型で楕円形の葉を互生する。六〜八月、茎の頂きに長さ五~十二センチの総状花序が直立する。花は白色で径約八ミリ、花弁はなく、萼片は五枚。果実は扁球形の液果で、黒紫色に熟し、果穂も直立する。果汁は紫色。有毒植物であるが、葉は食用となる。近縁のヨウシュヤマゴボウPhytolacca americanaは北米原産で、花穂や果穂は下垂する。市街地には、この方が普通に見られる。但し、「山牛蒡の漬物」として販売され、寿司屋等で呼ぶそれは、キク目キク科アザミ属モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis・オニアザミ(鬼薊)Cirsium borealinipponense・キク科ヤマボクチ属オヤマボクチ(雄山火口)Synurus pungens の根であることは、あまり知られているとは思われない。但し。ここでは「山牛蒡の葉」と言っているので、真正の前者ヤマゴボウであろう。

「虎杖《いたどり》」ナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ Fallopia japonica。私などは別名のスカンポ(酸模)の方が親しい。当該ウィキによれば、『春』『の紅紫色でタケノコ状の新芽・若い茎はやわらかく、「スカンポ」などと称して食用になり、根際から折り取って採取して皮をむき山菜と』し、また『やわらかい葉も食用にされ』る。『新芽は生でも食べられ、ぬらめきがあり珍味であると形容されている』。『かつては子供が外皮をむいて独特の酸味を楽しんだ』(私もよくやった)。『この酸味はシュウ酸で、多少のえぐみもあり、そのまま大量摂取すると』、『下痢をおこす原因になり、健康への悪影響も考えられ注意が必要となる』。『山菜として採った新芽は外皮を取り除いて生食するか、かるく湯通しして灰汁を抜き、酢の物、油炒めにして醤油・塩・胡椒で味付けしたり、短冊状に切って肉や魚などと一緒に煮付けにして食べられている』。『また、塩漬けにして保存し、食べるときに水にさらして塩抜きして食べられている』(これも美味い)とある。

「蕗」キク亜綱キク目キク科キク亜科フキ属フキ Petasites japonicus。私の建て替える前の裏庭には鬱蒼と茂り、よく近所のおばさんが貰いに来たものであった。

「ゴード茨《いばら》」不詳。識者の御教授を乞う。

「魯桑《ろさう》」バラ目クワ科クワ属マグワ Morus alba 品種ロソウMorus alba var. multicaulis(或いはMorus multicaulis)。中国浙江省の原産で、ログワ・マルグワ・モチグワなどとも呼ばれる。幹は根際で分枝し、叢生する。葉は長さ十五~三十センチメートルで、短楕円形で、浅い鈍鋸歯があり、上面は平滑で光沢がある。養蚕のため、本邦で栽培されるクワは、この種の園芸品種が多く、特に三倍体が多い。

「赤松」球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツPinus densiflora。松脂があるから、香りはあるであろう。]

 

 ○死ぬまで繩を綯《な》つた男  私の祖父の弟で、遠江の堀の内に居た夏目周吉と云ふ男は五年前に亡なりましたが、若い時から律義者で、又大變な儉約家であつたさうです。

 若い頃、親類の家に厄介になちてゐる時など、盆と正月に、𢌞禮《くわいれい》に行くのに、家を出る時は着物に羽織を着て出掛けても、途中、村を出放《ではな》れて家のない所へ來ると、早速羽織を脫いで、棒切を拾つて其先に引掛《ひつか》けて、其をかついで行つて、人家のある處にさしかゝると、再び其羽織を着て步いたと云ひました。盆に𢌞禮する時などは、村はづれの村の入口迄、着物を脫いで、矢張棒の先に引掛けて、褌《ふんどし》一ツになつて步いて來たさうです。祖母がよく言つて笑ひましたが、七十幾歲になつて、私の家へ每年墓參りに來るのに、其男が二十《はたち》の年に、叔母から貰つた着物を着て來ると云ひました。

 此男が年を老《と》つて、死期が近づいた二三年は、ボケてしまつて、朝起きると、其日の天候を家の者に訊いて、三州へ墓參りに行かなくてはならないと、一人諾《うなづ》いては土閒へ降りて草鞋《わらぢ》を造るのが日課であつたさうですが、草鞋に緖を附けるのを忘れてしまつて、二尺ほどもある長い草鞋を幾つも作つたと言ひました。

 いよいよ臨終と云ふ日には、床の中で其日の天候を訊いて、手に唾をつけては、頻りに繩を綯ふ眞似をしてゐて、最後に息を引取る迄、其手附は休《や》めないで、安らかに息を引取つたと云ひます。

[やぶちゃん注:何か面白くも、ペーソスを滲ませたいい話である。芥川龍之介が読んだら、きっと褒めたに違いない。

「五年前」(大正五(一九一六)年頃。

「遠江の堀の内」現在の静岡県藤枝市堀之内。]

2023/03/14

薩摩家豐臣秀賴公の眞蹟進獻の事 附江戶赤坂山王權現神職の事

 

[やぶちゃん注:読点・記号を追加し、段落を成形した。「あん人、生きとってごわした!」トンデモ話である。]

○享保年中、薩摩家老猿渡某、江戶へ出府して、老中松平左近將監殿宅ヘ參じ、

「ひそかに申上る用事にて、出府致(いたし)たる。」

由、申ければ、對面ありし時、猿渡、墨塗の箱、封印したるを指出(さしいだ)し、

「薩摩守、申上候。在所にて、去年、彼(かの)人、死去仕候に付、かやうのもの、所持致し候ても、却(かへつ)て御當家(ごたうけ)の御恥辱にも相成可ㇾ申儀と、恐(おそれ)ながら奉ㇾ存候間、ひそかに返上仕候。仍(よつ)て持參致し候。」

由、演說せしかば、右の箱を、左近將監殿、御請取在(あり)て、卽刻、登城あり、右の次第、言上に及(および)しかば、有德院公方樣[やぶちゃん注:吉宗。]、開封、御覽有しに、豐臣家へ、東照宮より遣(つかは)されたる「起鐙文」也。

「秀賴、十五歲に及ばば、政務の事、返し、屬せらるべき。」

よしの文言とぞ。

 何の上意もなく、只、

「彼(かの)人、何歲にて死去ありしや。子孫も在しや。委敷(くはしく)承候やうに。」

上意あり。

 左近將監殿、歸宅の後、猿渡をめされ、御尋ありしに、

「彼人、去年百三拾七歲にて、死去いたされ候。百廿一歲のとき、男子、出生に付(つき)、當時、存命いたし罷在候。其以前も、男子壹人、出生いたし在ㇾ之候得共(さうらえども)、死去いたし、當時、存命のものは、壹人に御座候。外に、女子、三人在レ之候。何れも家老どもへ、緣組いたし候。」

よし申ければ、右の通り上聞に達せしに、

「來春、薩摩守、參勤のせつ、右の男子、同道いたし候やうに。」

と上意にて、猿渡、歸國せり。

 翌年、薩摩守殿、右男子、同道にて、參勤ありしよし、言上に及びければ、何となく御目見得仰付られ、則(すなはち)、右の男へ、新知(しんち)五百石、賜はり、赤坂山王の神主(かんぬし)に仰付られ、「樹下民部(きのしたみんぶ)」と名を下され、子孫、今に相續せり。

 しかれば、大坂落城のとき、豐臣内府は、薩摩へ落(おち)られたるものか。

 但(ただし)、百三拾七歲まで存命の事、めづらしき事也。「樹下」は、則、「木下」の意なり、とぞ。

[やぶちゃん注:「彼人」底本の竹内利美氏の注に、『豊臣秀頼は大坂落城の際、実は死亡せず、ひそかに薩摩に脱出し、そこで余生を終えたという話は、かなりひろく流布していた。その一例である。この話は起請文や』、『その子孫民部のことまで添えられ、百三十七歳という高齢さえもっともらしくきこえる。なお』、『老中松平左近将監は、佐倉の領主松平乗邑』(のりさと)『である』とあった。]

江戶淺草觀世音幷彌惣左衞門稻荷繪馬額等の事 附湯島靈雲寺・神田聖堂・音羽町護國寺・品川東海寺。角田川興福寺・淺草御藏前閻魔堂額の事

 

[やぶちゃん注:だらだら羅列で読み難いので、特定的に句読点を変更・追加し、記号を加え、段落を成形した。額や絵馬や絵の名数で、一向に興味がないし、労多くして益無しと断じ、気になった一箇所のみの他には注しないことにした。読みだけは検証して附した。悪しからず。]

○金龍山淺草寺境内彌惣左衞門稻荷の社頭に、寬永年中奉納せし繪馬あり。菱川某の繪にて、境町芝居の圖をゑがきたり。其頃の芝居の、但今(ただいま)、見るが如し。三階の棧敷(さじき)あり、戲者(ぎしや)の風俗も甚(はなはだ)古質(こしつ)なるもの也。此外に寶永の比の繪馬、社頭に多し、めづらしき觀物(みもの)也。

 又、同所二王門外に「地主(ぢしゆ)の稻荷」といふ有(あり)。是(ここ)にも元祿年中の繪馬あり。力士一人、碁を圍みたる體(てい)にて、甚(はなはだ)猛勇にみゆ。側(かたはら)に少人(しやうにん)、麻上下(あさがみしも)にて傍觀の體(てい)をゑがけり。「駒形若者中奉納」としるし在(あり)。今時(こんじ)の無類(むるゐ)の者の物數寄(ものずき)とは、格別に變りたる事に覺ゆ。

 また、本堂觀世音の階(きざはし)の上にかけたる額、華人の筆にて「觀音堂」と楷書し、左右に本朝の年號と、「福縣昌郡」の姓名をしるしたり。筆勢(ひつせい)、みつベき物也。

 山門に「淺草寺」と、八分(はつぷん)にて書(かき)たるは、三國堂海堂といふ人の書たるよし。又、今時の物にあらず。

 又、湯島靈雲寺本堂のうしろ成(なる)堂に、「寶瞳閣」(ほうどうかく)と楷書にて書たる額あり。華人の書なり。大字にて殊に組、妙、也。

 又、神田聖堂の正面に「大成殿」(たいせいでん)とある額は、常憲院公方樣の御筆也。「仰高入德門杏檀」の額は、竹内殿筆蹟のよしを云(いふ)。

 其外、東叡山護國院の額、音羽町護國寺の額、何れも、みつべし。護國寺地内、護持院諸堂の額は、みな、隆光僧正の筆也。是又、見るべきもの也。

 又、品川東海寺の壁は、探幽法印、「加茂競馬」をゑがきたり。是は、「臺德院公方樣、御居間の繪のよし。」を云傳(いひつた)ふ。其外、張付板戶の畫、見所、おほし。諸堂の額は洋庵和尙の筆と云へり。

 又、隅田川興福寺方丈に「獅子吼(ししく)」と書たる額あり。「興福寺開山の師匠の墨蹟にて、中華より書(かき)てこしたり。」と、いへり。此書、殊に天骨(てんこつ)を得たるもの也。同じ書院に明の趙瑞圖(ちやうずいづ)が、「西舍黃梁夜舂」と書たる懸物、在。又、見るべし。そのほか、本所囘向院の額、藏前閱魔王殿の額、みつべきものなり。

 [やぶちゃん注:「八分」「八分體」(はっぷんたい)で、「書道専門店大阪教材社」の公式サイト内のこちらによれば、『隷書の書体の一つ』とあり、『素朴な要素を残す古隷から発展し、波磔』(はたく:波のようにうねって見える線を言う)『をもつ装飾的な要素が備わった書体で』、『横画を強調』し、『文字が横長という特徴があ』るとある。『名前の由来は諸説あ』るものの、『八の字を書くように横画の用筆で、逆入筆し、収筆で跳ね上げるところから』、『このように呼ばれてい』るとあった。

大手拓次譯詩集「異國の香」 薔薇の連禱(レミ・ド・グールモン)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

 

   薔 薇 の 連 禱 グルモン

 

         ――上田敏氏の譯し落した部分から――

 

 靑銅の色の薔薇の花、 太陽に灼(や)かれた煉粉、 靑銅の色の薔薇の花、 烈しい投槍がお前の肌にあたつて潰(つぶ)れる、 僞善の花、 無言の花。

 

 火の色の薔薇の花、 背いた肉のために特別な坩堝(るつぼ)、 火の色の薔薇の花、 おゝ子供の時の同盟者の天命、 僞善の花、 無言の花。

 

 肉色の薔薇の花、 魯鈍な、 健康の滿ちた薔薇の花、 肉色の薔薇の花、 お前は吾等に非常に赤い又溫和な酒を飮ませて、 そそのかす、 僞善の花、 無言の花。

 

 櫻色の繻子の薔薇の花、 凱旋した唇の優美な寬大、 櫻色の繻子の薔薇の花、 彩(いろど)つたお前の口は吾等の肉の上に、 迷想(めいさう)の葡萄色の印章を置いた。

 

 處女の心の薔薇の花、 まだ話したことのない、 ぼんやりした淡紅色(ときいろ)の靑年、 處女の心の薔薇の花、 お前は吾等に何も言はなかつた、 僞善の花、無言の花。

 

 すぐり色の薔薇の花、 汚辱と可笑(をか)しい罪惡の赤い色、 すぐり色の薔薇の花、 人々がお前の外衣(うはおほひ)を大層皺(しわ)にした、 僞善の花、 無言の花。

 

 夕暮の色の善薇の花、 退屈に半ば死んだ人、 晚霞の煙、 夕暮の色の薔薇の花、お前は勞れたお前の手を接吻しながら戀わづらひをする、 僞善の花、 無言の花。

 

 紫水晶の薔薇の花、 朝の星、 司敎の慈愛、 紫水晶の善薇の花、 お前は信心深い、 やはらかい胸の上に眠る、 聖母マリアに捧げた寶玉、 おゝ玉のやうな修道女、 僞善の花、 無言の花。

 

 濃紅色の薔薇の花、 羅馬敎會の血の色の薔薇の花、 濃紅色の薔薇の花、 お前は戀人の大きい眼を想ひ出させる、 彼女の靴下留めの結び目にひとりならずお前をさすだらう、 僞善の花、 無言の花。

 

 法王の薔薇の花、 世界を祝福する御手から水そそぐ薔薇の花、 法王の薔薇の花、 黃金お前の心は銅のやうである、 空しい花冠の上に珠となる淚は、それはクリストのおなげきである、 僞善の花、 無言の花。

 僞善の花。

 無言の花。

 

[やぶちゃん注:レミ・ド・グールモン(Remy de Gourmont 一八五八年~一九一五年)はフランスの批評家・詩人・小説家。ノルマンディーの名門の出身で、カーン大学に学び、後、パリの国立図書館司書となるが、免官された。『メルキュール・ド・フランス』(Mercure de France)誌に載せた論文「愛国心という玩具」(Le Joujou patriotisme:一八九一年四月)の過激な反愛国主義的口調のためであった。その頃、今一つの不幸が彼をみまう。「真性皮膚結核(true cutaneous tuberculosis)」の「尋常性狼瘡(ろうそう)(lupus vulgaris)」(皮膚結核の一型。病態により違いがあるが、私がネットで確認出来たものでは、かなり激しい顔面の特に頬に出現することが多い、不整形の強い紅色を呈した凹凸が生じ、ひどくなると顔が崩れたように見える)という病いが醜い跡を顔に残して、一層の孤独幽閉の生活を強いられたからである。この二つの出来事と重なり合って始まる彼の文学活動は、象徴主義的風土と充実した生の現実、知的生活と感覚的生活、プラトニックな恋愛と官能的恋愛の間を、絶え間なく微妙に揺れ動きつつ、バランスを保った。有名な「シモーヌ」(Simone, poème champêtre:一九〇一年)詩編を含む「慰戯詩集」(Divertissements. Poèmes en vers:一九一二年)、二十世紀を見事に先取りした作品「シクスティーヌ或いは頭脳小説」(Sixtine, roman de la vie cérébrale:一八九〇年)、そして、特に傑作とされる「悍婦(アマゾーヌ)への手紙」(Lettres à l'Amazone:一九一四年)等、孰れも前記のテーマに沿っている。批評家としての彼は、「観念分離」なる用語を用いて、観念、或いは、イメージの月並み部分を排除することを説いたが、実をいうと、例の反愛国主義的論文も、それの一例であった。批評での知られた作品が多い(以上は小学館「日本大百科全書」を主文に用いた)。

 本詩篇の原形は彼の最初期の詩篇で、一八九二年『メルキュール・ド・フランス』社刊の「薔薇連禱」(Litanies de la rose)の一部である。但し、所持する一九六二年岩波文庫「上田敏全訳詩集」(山内義雄・矢野峰人編)の「解題」に従うなら、上田が行った抜粋訳は同社の一八九六年刊の‘Le Pèlerin du silence, contes et nouvelles’(「沈黙の巡礼者、物語と短編小説」)に載る版を元にした訳で大正二(一九一三)年一月発行の北原白秋編集の文芸誌『朱欒(ザンボア)』(三ノ一)に発表されたものである。原詩全体はフランス語サイトのこちらにある四十八連(冒頭の「Fleur hypocrite,」と下げの「Fleur du silence.」、及び最後の「Fleur hypocrite,」と「Fleur du silence.」を独立一連と数えた)からなるものが初版のものである。上田敏の訳した分は、彼の訳詩集「牧羊神」(上田の死から四年後の大正九年十月に金尾文淵堂から刊行)に載り、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから視認出来るが、六十三連を数える。読み難ければ、「青空文庫」のこちらに、概ね正字化(残念ながら、題名が「薔薇連祷」なのは鼻白んだ)されてあるので見られたいが、異様に連数が多いのはやはり、「沈黙の巡礼者、物語と短編小説」に載る版をもとにしているからであろうか。そちらの後発版の原詩を探す気には、もう、なれない。悪しからず。

 なお、以上の本文では、一箇所だけ、操作を加えた。それは第七連目の「晚霞の煙、 」の箇所である。この「晚霞の煙」は底本では行末にきており、読む分には改行で意識上では無意識にブレイクが入って違和感がないのであるが、以下に示す岩波の原子朗氏の版では、「晚霞の煙、」となっているのである。これは物理的に、底本の版組が、行末に禁則処理としての読点を打てない組版であったが故に、かくなったものと考えられるからである。そもそも「晚霞の煙夕暮の色の薔薇の花、」では、詩句として全く以って成立していない。されば、「、 」を挿入したものである。

「すぐり色」「赤い色」と続くから、これはユキノシタ目スグリ科スグリ属フサスグリ Ribes rubrum ととる。漢字では「房酸塊」で、当該ウィキによれば、『ヨーロッパ原産。果実の色が赤色の系統をアカスグリ(赤すぐり、レッドカーラント)、白色の系統をシロスグリ(白すぐり)と呼ぶ。黒色のクロスグリ(カシス)は別種である。別名としてフランス語由来でグロゼイユ(Groseille)とも』あり、まさに上記の初版詩篇にもこの一連はあった。

   *

Rose groseille, honte et rougeur des péchés ridicules, rose groseille, on a trop chiffonné ta robe, fleur hypocrite, fleur du silence.

   *

である。

 但し、どうも、拓次の本詩集の本篇は、不全なものであるらしい。原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年岩波文庫刊)に載るものは、二十三連あるからである。以下に本底本詩集に合わせて恣意的に概ね正字化し、操作(原氏のもので添えられてある一部の読みを添えた。これは拓次が振ったもので、読みが振れると判断されたものを原氏がチョイスして挿入したものである。拓次の原稿は概ね漢字にルビを振ってあるのだそうである)を加えたものを以下に示す。原氏のそれでは、各連の頭が行頭で、二行目に及ぶ時は、二行目以降は総て一字下げであるが、ブログではブラウザの不具合が生ずるので無視し、本詩集と同様にした。而して、これは初版のフレーズやコンセプトと概ね一致を見る

   *

 

   薔 薇 の 連 禱 グルモン

 

         ――上田敏氏の譯し落した部分から――

 

 靑銅の色の薔薇の花、 太陽に灼(や)かれた煉粉、 靑銅の色の薔薇の花、 烈しい投槍がお前の肌にあたつて潰(つぶ)れる、 僞善の花、 無言の花。

 

 火の色の薔薇の花、 背いた肉のために特別な坩堝(るつぼ)、 火の色の薔薇の花、 おゝ子供の時の同盟者の天命、 僞善の花、 無言の花。

 

 肉色の薔薇の花、 魯鈍な、 健康の滿ちた薔薇の花、 肉色の薔薇の花、 お前は吾等に非常に赤い又溫和な酒を飮ませて、 そそのかす、 僞善の花、 無言の花。

 

 櫻色の繻子の薔薇の花、 凱旋した唇の優美な寬大、 櫻色の繻子の薔薇の花、 彩(いろど)つたお前の口は吾等の肉の上に、 迷想(めいさう)の葡萄色の印章を置いた。

 

 處女(をとめ)の心の薔薇の花、 まだ話したことのない、 ぼんやりした淡紅色(ときいろ)の靑年、 處女の心の薔薇の花、 お前は吾等に何も言はなかつた、 僞善の花、無言の花。

 

 すぐり色の薔薇の花、 汚辱と可笑(をか)しい罪惡の赤い色、 すぐり色の薔薇の花、 人人がお前の外衣(うはおほひ)を大層皺(しわ)にした、 僞善の花、 無言の花。

 

 夕暮の色の善薇の花、 退屈に半ば死んだ人、 晚霞(ゆふやけ)の煙、 夕暮の色の薔薇の花、お前は勞(つか)れたお前の手を接吻しながら戀わづらひをする、 僞善の花、 無言の花。

 

 あをい薔薇の花、 虹色の薔薇の花、 シメールの眼の花の怪物、 あをい薔薇の花、 お前の瞼(まぶた)をすこしお開(あ)け、 お前はお前が人に見られるのが怖いのか、 眼のなかの眼シメールよ、 僞善の花、 無言の花。

 

 みどりの薔薇の花、 海の色の薔薇の花、 女怪(シレーヌ)の臍(へそ)、 みどりの薔薇の花、 波のやうにゆらゆらする又物語めいた寶玉、 指がお前に觸れたなら、 そのままお前は水になる、 僞善の花、 無言の花。

 

 紅玉色の薔薇の花、 龍の黑い額に咲いた薔薇の花、 紅玉色の薔薇の花、 お前は帶の留金にすぎない、 僞善の花、 無言の花。

 

 朱色の薔薇の花、 溝のなかに寢ころんでゐる戀された田舍娘、 朱色の薔薇の花、 牧者はお前を熱望し、 また牡山羊はお前を食べた、 僞善の花、 無言の花。

 

 墓場の薔薇の花、 屍から發散する冷氣、 全く可愛らしい淡紅色(ときいろ)の墓場の薔薇の花、 美しい腐敗の心持の好い薰、 お前は食物(たべもの)の風(ふり)をする、 僞善の花、 無言の花。

 

 暗褐色の薔薇の花、 陰鬱な桃花心木(アカジウ)の色、 暗褐色の薔薇の花、 正しい悅び、 智慧、愼重と豫知、 お前は赤い眼で吾等を視る、 僞善の花、 無言の花。

 

 罌粟色(けしいろ)の薔薇の花、 一樣な娘達のリボン、 罌粟色の薔薇の花、 少さい人形の名譽、 お前は愚かか狡猾か、 少さい兄弟の玩具(おもちや)よ、 僞善の花、 無言の花。

 

 赤と黑との薔薇の花、 怠惰と祕密の薔薇の花、 赤と黑との薔薇の花、 お前の怠惰とお前の赤は德をつくる讓和(じやうわ)のなかに靑白くなつた、 僞善の花、 無言の花。

 

 石盤色の薔薇の花、 ぼんやりした德の鼠地(ねずぢ)の浮彫(うきぼり)、 石盤色の薔薇の花、 お前は、 年とつた寂しい長椅子にのぼり、 そのまはりに花をひらく、 夕暮の薔薇の花、 僞善の花、 無言の花。

 

 芍藥色の薔薇の花、 豐かな庭の謙讓な虛榮、 芍藥色の薔薇の花、 風は偶然にお前の葉を捲きあげるばかりだ、 それでお前は不滿ではなかつた、 僞善の花、 無言の花。

 

 雪のやうな薔薇の花、 雪とそして鵠(はくてう)の羽の色、 雪のやうな薔薇の花、 お前は雪が脆いことを知つてゐて、 お前はもつとめづらしい時でなければお前の鵠の羽をひらかない、 僞善の花、 無言の花。

 

 透明な薔薇の花、 輝く泉の色が草のなかから噴き出る、 透明な薔薇の花、 Hylas(イラス)はお前の眼を愛した事から死んだ、 僞善の花、 無言の花。

 

 蛋白石の薔薇の花、 おお、 女部屋の匂ひのなかに寢かされたトルコ皇后、 蛋白石の薔薇の花、 變らない愛撫のけだるさ、 お前の心は、 滿足した不德の深い平和を知つてゐる、 僞善の花、 無言の花。

 

 紫水晶の薔薇の花、 朝の星、 司敎の慈愛、 紫水晶の善薇の花、 お前は信心深い、 やはらかい胸の上に眠る、 聖母マリアに捧げた寶玉、 おお玉のやうな修道女、 僞善 の花、 無言の花。

 

 濃紅色の薔薇の花、 羅馬(ローマ)敎會の血の色の薔薇の花、 濃紅色の薔薇の花、 お前は戀人の大きい眼を想ひ出させる、 彼女の靴下留めの結び目にひとりならずお前をさすだらう、 僞善の花、 無言の花。

 

 法王の薔薇の花、 世界を祝福する御手から水そそぐ薔薇の花、 法王の薔薇の花、 黃金お前の心は銅のやうである、 空しい花冠の上に珠となる淚は、それはクリストのおなげきである、 僞善の花、 無言の花。

 僞善の花。

 無言の花。

 

   *

二箇所の「少」(ちひ)「さい」の漢字表記はママ。

「シメール」は、初出の以下に出る。

   *

Rose bleue, rose iridine, monstre couleur des yeux de la Chimère, rose bleue, lève un peu tes paupières : as-tu peur qu'on te regarde, les yeux dans les yeux, Chimère, fleur hypocrite, fleur du silence !

   *

この「Chimère」は生物学の「キメラ細胞」(chimer:同一の個体内に異なる遺伝情報を持つ細胞が混じっている状態及びそうした生物個体)の語源であるギリシア神話に登場するハイブリッドの怪物キマイラ(Chimaira)のフランス語である(音写は「スィメール」)。

「女怪(シレーヌ)」も初出に出る。

   *

Rose verte, rose couleur de mer, ô nombril des sirènes, rose verte, gemme ondoyante et fabuleuse, tu n'es plus que de l'eau dès qu'un doigt t'a touchée, fleur hypocrite, fleur du silence.

   *

sirènes」はギリシア神話で同じみの歌声で船乗りを誘惑する人魚型妖怪「セイレン」。音写は「シレェーヌ」。

「桃花心木(アカジウ)」初出の以下。

   *

Rose brune, couleur des mornes acajous, rose brune, plaisirs permis, sagesse, prudence et prévoyance, tu nous regardes avec des yeux rogues, fleur hypocrite, fleur du silence.

   *

acajous」(アカジュゥ)はマホガニーのこと。高級家具材・楽器材として知られるムクロジ目センダン科マホガニー属 Swietenia は北アメリカのフロリダや西インド諸島原産で、心材は赤み掛かった色をしている。

「讓和」相手のことを思いやり、譲る気持ちがあれば、双方の利益が調和し、互いに幸せになることが出来る状態を指す。出雲大社に伝わる教えにある語だが、それを拓次は知っていて使ったものかどうかは判らぬ。

「鵠(はくてう)」平安以来の白鳥(はくちょう)の古名。「くひ」「くくひ」。広義の「白鳥」(鳥綱カモ目カモ科ハクチョウ属 Cygnus 或いは類似した白い鳥)の古名であるが、辞書によっては、ハクチョウ属コハクチョウ亜種コハクチョウ Cygnus columbianus bewickii ともする。本邦ならそれだが、初出は以下。

   *

Rose neigeuse, couleur de la neige et des plumes du cygne, rose neigeuse, tu sais que la neige est fragile et tu n'ouvres tes plumes de cygne qu'aux plus insignes, fleur hypocrite, fleur du silence.

   *

フランス語の「cygne」(スィーニャ)は、ここではまず、ハクチョウ属オオハクチョウ Cygnus cygnus であろう。

Hylas(イラス)」初版のここ。

   *

Rose hyaline, couleur des sources claires jaillies d'entre les herbes, rose hyaline. Hylas est mort d'avoir aimé tes yeux, fleur hypocrite, fleur du silence.

   *

Hylas」(ユーラス)はギリシア神話のヒュラース。ヘーラクレースに仕え、彼に愛された美少年。しかしヘーラクレースに従って黄金の羊を求めるための「アルゴ探検隊」に参加したものの、美しさ故に泉のニンフに攫われて失踪したとされる。

「蛋白石」「opale」(オパァル)で「オパール」のこと。初版の以下。

   *

Rose opale, ô sultane endorrnie dans l'odeur du harem, rose opale, langueur des constantes caresses, ton cœur connaît la paix profonde des vices satisfaits, fleur hypocrite, fleur du silence.

   *

この「トルコ皇后」は「sultane」(シュルタンナ)、トルコ語で「厳しく立ち入ることが管理された女性の居室」を言う「ハレム」で寝ているオスマン・トルコ皇帝の妻を指す。]

早川孝太郞「三州橫山話」 種々な人の話 「鯉龜」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここ。]

 

 ○鯉龜  鯉龜《こひがめ》と云ふ爺さんは、本名を早川龜太郞と謂つて、もう六年程前に亡くなりましたが、ふだん魚を捕つたり、籠を慥《こしら》へたりしてゐました。無論百姓もしましたが、村の生砂神《うぶすながみ》の神主の代理もやつてゐました。屋敷の内へ池を造つて鯉を飼つてゐたので、鯉龜と云ふ渾名《あだな》がついたと聞きました。夏は無論のこと、冬、人の魚を餘り捕らぬ時に、大仕掛《おほじかけ》な事をして魚を捕つて行くので、他の村へ行くと、橫山のポンがきたと云はれたさうでした。此爺さんが一生の中《うち》に、一番大きいと思はれる魚を捕つたのは、長篠の水神下《すいじんした》と言ふ所で、夜網にかゝつた鱸《すずき》で、筵を縱に折つて包んでも、未だ頭と尻尾が出てゐたと云ふことでした。鳥の大きな奴は、熊鷹《くまたか》の大きいのを見た事があるが、何分空を高く飛んでゐるので、判然《はつきり》とは言へないが、其あとに隨つてゆく、澤山の鳥や鳶《とび》が普通の鳶と小雀位の比較に見えたと云ひました。二囘許り宙を𢌞つて北の方へ飛んで行つたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「村の生砂神」既出既注

「ポン」前回で既出既注。

「長篠の水神下」現在の愛知県新城市能登瀬壱輪(のとせひとわ)にある水神宮(白岩温泉)の宇連川(うれがわ)の下流であろう(グーグル・マップ・データ)。この附近は「ひなたGPSの戦前に地図を見ると、広域の「長篠村」であったことが判る。

「鱸」鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。この場所は、豊川を下って実に五十キロメートルも上流の山間であるが、スズキはいる。多くの海水魚が、分類学上、スズキ目 Perciformes に属することから、スズキを海水魚と思っている方が多いが、海水域も純淡水域も全く自由に回遊するので、スズキは淡水魚であると言った方がよりよいと私は考えている。海水魚とする記載も多く見かけるが、では、同じくライフ・サイクルに於いて、海に下って稚魚が海水・汽水域で生まれて川に戻る種群を海水魚とは言わないし、海水魚図鑑にも載らないウナギ・アユ・サケ(サケが成魚として甚だしく大きくなるのは総て海でであり、後に産卵のために母川回帰する)を考えれば、この謂いは、やはり、おかしいことが判る。但し、生物学的に産卵と発生が純淡水ではなく、海水・汽水で行われる魚類を淡水魚とする考え方も根強いため、誤りとは言えない。というより、淡水魚・海水魚という分類は既に古典的分類学に属するもので、将来的には何か別な分類呼称を用意すべきであるように私には思われる。私の「大和本草卷之十三 魚之上 河鱸 (スズキ)」も参照されたい。

「熊鷹」タカ目タカ科クマタカ属クマタカ亜種クマタカ Nisaetus nipalensis orientalis。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 角鷹(くまたか) (クマタカ)」を見られたいが、全長は♂で約七十五センチメートル、♀で約八十センチメートル。翼開長は約一メートル六十センチメートルから一メートル七十センチメートルに達し、本邦に分布するタカ科の構成種では、大型であることが、和名の由来(熊=「大きく強い」の意)である。

「鳶」タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus。タカ科の中では比較的大型であり、全長は六十~六十五センチメートルほどで、ここに出るカラスより一回りは大きい。翼開長は一メートル五十から一メートル六十センチメートルほどになるから、よほど、このクマタカは大物であったことが判る。]

早川孝太郞「三州橫山話」 種々な人の話 「昔を語る老爺」・「一本足の男」・「水潜りの名人」・「ポン」・「犬をつれて山にゐる男」・「山小屋へ鹽を無心に來た女」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。

 ここには近代に残っていた世間との関係を基本的には絶って、山中に棲んでいた山の民たちをリアルに描いていて、非常に興味深い。]

 

 ○昔を語る老爺  字瀧川《たきがは》の瀧川兼松という老爺は、七年前に亡くなりましたが、記臆のよい男で、一度聞いた事は必ず忘れぬと云ふ程で、瀧川と橫山の昔の事は、どんな事でも知らぬ事はなかつたさうで、酒が好きなので、酒を呑ませると、樂しさうに昔の事を諄々《じゆんじゆん》と話して聞かせたと云ふことです。家が貧しくて、悲慘な最後を遂げたと云ふ事ですが、此老人に、一度ゆつくり遇つて、話を聞く機會のなかつた事を殊に殘念に思ひます。

 記臆が確かと思つた事は、日露戰爭の始まつた當時、露西亞の内地から石伯利《シベリア》地方の地名や、又人名などを、明瞭に暗誦してゐるのに、子供心に驚いた事がありました。

[やぶちゃん注:「瀧川」横山の北部分の寒狹川の対岸の字名。グーグル・マップ・データではここであるが、「ひなたGPS」で戦前は「瀧川」と表記したことが判る。]

 

 ○一本足の男  村の者が山雀(やまがら)と呼んでゐた爺さんは、一本足に下駄を履いて、釣竿と魚籠《びく》を持つて、前の寒狹川に釣りをしてゐました。

 岩から岩を、山雀が撞木《しゆもく》を渡るやうな格好で飛んで步くので、山雀と云ふ名前があるとも云ひました。夏は餘り見かけた事を聞きませんが、冬の寒い日にはよく見かけました。今其處《そこ》にゐたと思つたら、もう五六町も川上で見たなどと云ひました。親しく口を聞いたことも聞きません。又里の道を步いてゐるのを見掛た事も聞きません。川に沿つて、何處かへ行つたやうです。久しぶりに今日は山雀を見たなどと云つてから、もう來なくなりました。

[やぶちゃん注:横山の村人と一切の交流を持たず、村落内の道も歩かないこの爺さん、片目も不自由だったら、これはまさに現実の「一本だたら」ではないか!(妖怪のそれは当該ウィキを参照)

「山雀」ここは人の綽名であるが、鳥類のそれのタイプ種はスズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ亜種ヤマガラ Parus varius variusである。詳しくは、博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 山雀(やまがら) (ヤマガラ)」を参照されたい。]

 

 ○水潜りの名人  シヨウビン(翡翠《かはせみ》のこと)と呼ぶ爺さんは水潜りの名人で、村で溺死人の死體が見つからぬ時は、最後は必ず此爺さんが賴まれて來ました。水底に潜つて行つて、三十分間位は浮んで來なかつたさうです。其間に川底で二囘呼吸をするとも謂ひました。何處の者とも判らず、村に近く、何處かしらに遊んでゐたものださうですが、三四年前村に身投げ女があつて其死體の知れなかつた時、村の者が段々尋ねて岡崎迄行つて聞くと、十年程も前に死んでしまつたと謂ふ事でした。

 シヨウビンは、ポンだと云ふ人もありました。

[やぶちゃん注:「シヨウビン(翡翠のこと)」ここに出るのは、早川氏の「翡翠」への言い換えからみて、ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis としてよいだろう。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴗(かはせび)〔カワセミ〕」を見られたい。「しょうびん」は古語の「そに(青土)」(広義の美しい羽色)が「そび」となり、而して「しようび」→「しょうびん」と変じたものとされ、「かはせみ」の「せみ」は、同じ「そに」が「しよに」となり、以下、「そな」→「せな」→「せみ」と転訛したものとされている。但し、現在の標準和名ではカワセミ科ショウビン亜科ヤマショウビン属アカショウビン Halcyon coromanda などに使用されている。本邦で普通に見られる(但し、なななか見られないが)カワセミ類は、カワセミ科ヤマセミ亜科ヤマセミ属ヤマセミ Megaceryle lugubris の以上三種のみである。]

 

 ○ポン  夏から秋にかけて、ポンが前の寒狹川の河原に來て、幾組も天幕を張つてゐました。又これをポンスケとも謂ひました。日が暮れてから急に雨が劇しく降つて來て、河の水が大變增へたから、ポンの天幕はどうしたらうなどゝ云つて、行つて見ると、もう何處へ行つたのか、影も形も見えませんでした。男は每日魚や龜を捕り、女はヤス(笟)を賣つて步いたり、乞食をして步いたりしてゐました。

 ポンが來ると、私たちが散々荒らしてしまつて、鰻など一ツだつてゐないと思ふやうな、小さな流れから、幾つでも鰻を捕へました。鰻の穴を探すにも、眼で見ないで手で探るやうでしたが、針を穴に入れてやつたと思ふとすぐさげ出しました。

 一年每に減つて行つて、近來では、天幕を張つてゐるのを更に見かけなくなつたと謂ひます。

[やぶちゃん注:「ポン」所謂、「さんか(山窩)」の異名。「ブリタニカ国際大百科事典」から引くと、定住することなく、山間水辺に漂泊生活をした日本の漂泊民の差別呼称で、九州以東から関東にかけて居住していた。「セブリ」と呼ばれるテント又は仮小屋に住みながら、移動生活をおくり、男はスッポン・ウナギなどの川魚の漁獲をし、女は箕(み)・笊(ざる)・籠(かご)などの竹細工製造を生業とした。嘗つては「オゲ」「ノアイ」「カンジン」「ポンス」或いは「河原乞食」などと蔑称された。「山窩」の称も、その由来は明らかではないが,前身が中世の傀儡師(かいらいし/くぐつし) であるとする説が有力である。人口も調査困難のため、明確にされておらず。昭和二四(一九四九)年九月の「全日本箕作製作者組合」結成時には約一万 四千人とされたが、実数はこれを上回ったと考えられる、とある。敗戦後には急速に姿を消した。]

 

 ○犬をつれて山にゐる男  村の者から犬乞食と呼ばれてゐた男は、小さな犬を幾つも連れて步いてゐましたが、人の門に立つて乞食をしたことは聞きません。或日此男が山から出て來たのを見て、鈴木智惠松と云ふ男が、何の爲めに犬を連れてゐるのかと聞いたら、寒い晚に蒲團の代りにすると答へたさうです。瘦せ型の背の高い男で、眼白(めじろ)や山雀(やまがら)などを一ツの籠に澤山入れて提げてゆくのを見たなどゝ謂ひました。しばらく犬乞食を見ないなどゝ云ふと、ひよつこり山道を步くのを見たとも云ひました。

 近來《ちかごろ》は、滅多に見なくなつたと謂ひますが、二三年前立派な服裝をして、豐橋の町を通つたのが、犬乞食に違ひなかつたと謂ふやうな話を聞きました。

[やぶちゃん注:「眼白」スズメ目メジロ科メジロ属メジロ Zosterops japonicus であるが、本邦で見られるのは五亜種。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 眼白鳥(めじろどり) (メジロ)」を参照されたい。]

 

 ○山小屋へ鹽を無心に來た女  出澤村《すざはむら》の鈴木戶作と云ふ男の話でしたが、或時北設樂郡の山小屋で仕事をしてゐる處へ、木の葉などを綴り合せたボロボロの着物を着た女が、鹽を無心に來たから、何處の者だと聞くと、紀州だと答へたさうです。

 又或る男は同じやうな姿をした坊主が、鹽を無心に來たのに出遇つたと謂ひました。

[やぶちゃん注:「出澤村」現在の新城市出沢(すざわ:グーグル・マップ・データ航空写真)。横山の中央部の寒狹川を隔てた右岸で殆どが山間である。

「北設樂郡」旧郡域は当該ウィキの地図を見られたいが、横山地区の北部一帯と考えてよい。]

早川孝太郞「三州橫山話」 種々な人の話 「五十里を一日に步いた男」・「無い物無しの店」・「日本三家」・「俵に入れたヒヨーソク(秉燭)」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○五十里を一日に步いた男  長篠村字内金《うちがね》の久保屋と云ふ家は今もありますが、此家の先代の主人は、體格も特に勝れてゐたさうで、道を步くのが殊に早く、商用で、長篠から名古屋へ二十五里の道を、一日に往復したと云ひます。その當時を記憶してゐる者の話に、三度笠を胸にあて、其笠が下に落ちない位の早さに步いたと云ひます。此人には種々變つた話があつて、次のやうな事も此人の代の事ださうです。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、この久保屋(望月家)についての詳しい注が載り、関連写真が四葉載るので、是非、見られたい。その説明の『現在は JR 飯田線と国道 151 号線が久保屋の敷地を貫通して』(☜)おり、『右は旧国道、その先が施所橋・左手は飯田線がある』。『現在残っている土地だけでもかなり広い。往時はこの付近一帯は全て久保屋の土地だったとのこと』とあることと、そこに載る写真から、この元の「久保屋」望月氏の敷地は、現在の愛知県新城市長篠施所橋(ながしのせしょばし)と新城市長篠段子(ながしのだんこ)を含むこの中央附近であったと推定される(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。

「内金」「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、ここは以前は内金(村)の内にあったらしいことが推定出来る。現在の新城市長篠内金は、まさに上記二地区の間の東北に貫入する形であるのである。

「二十五里の道を、一日に往復した」五十里は百九十六・三六三キロメートルで、単純計算(二十四で割る)だと実に時速八・一八キロメートルとなる。]

 

 ○無い物無しの店  この家は萬《よろづ》雜貨商で、主としては米の賣買をやつてゐたさうですが何《いかなる》品に依らず、お客から尋ねられて、無いと云ふ事が嫌い[やぶちゃん注:ママ。]だとあつて、如何なる品でも無いのものはなかつたと云ひます。

 それについての話ですが、或時近くの作手《つくで》村で、太神樂《だいかぐら》の獅子の面や其他の付屬品が入用とあつて、村の總代の者が、遙々名古屋から大阪まで尋ね𢌞つた所が、そんな物の出來合は無いと斷はられて、歸途再び名古屋の商人の許に立寄ると、もしや長篠の久保屋と云ふ家には持合せがあるかも知れないが、若《もし》一[やぶちゃん注:ママ。「し」の誤植かと思ったが、後の『日本民俗誌大系』版では、「万一」となっている。]其處に無ければ、例へ江戶迄尋ねてもないと敎ゑられ[やぶちゃん注:ママ。]、半信半疑で歸つて來て、久保屋を尋ねると、幾組御入用かと訊かれて、面喰つたと云ふ事です。事實此家には三組迄揃つてあつたと云ひます。[やぶちゃん注:この話は「江戶」と出るから、江戸後末期のことらしい。]

  村の者などが買物に行つても、品物は一ツ宛藏から出して來て見せ、これでは少し小さいなどゝ云はうものなら、度外れた大きな物を出して來て困らせたさうです。ある時、夕立に遇つた男が、傘を買ひに飛込んで行つて、出して來た傘を見て、今少し大きい奴が欲しいと云つたため、直徑が二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]もある大傘を出して來たので、困つてしまつて、これはまた少し過ぎると云ふと、そんな勝手を言ふ人には賣りませんと云はれて閉口したと云ふ話があります。傘に限らず、何でも度外れた大きな物から豆のやうに小さい物迄悉く用意してあつて、奉公人が又此主人の變つた氣象をよく受けてゐたさうです。

[やぶちゃん注:「作手村」旧村域は、このポイント部を大きく含む「作手~」と地名がつく広域。]

 

 ○日本三家  この家が又圖拔けて大きな建物で、矢張其當時の主人が建てたものださうですが、村の者が、日本に三つの大きな家があると謂つて、日本三家の一ツだなどと云つてゐました。屋根の鬼瓦の高さが九尺あつて、これを屋根へ載せた時は、二尺角の欅《けやき》の柱が曲がつたなどと云ひました。此鬼瓦が、川を隔て、八名郡の小川村の、菅沼と云ふ家の鬼瓦と瞰合《みあ》つてゐて、菅沼家の鬼瓦が負けて其家は絕えず病人が出來て、遂に沒落したなどゝ云ふ話もありました。

 この人は長篠から、北設樂郡の川合へ通ずる四里の道路を、獨力で開拓したと云ふ事です。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には、この豪壮な家について、『久保屋は屋号で苗字は望月と言います。長篠望月の本家は望月清重さん宅で、久保屋は九代(約 270 年)』(元文(一七三六年~一七四一年前後。徳川吉宗の治世)年間頃)『ほど前に分家したとのことです。こんな田舎に何故そんな大きな家があったのかと不思議に思って尋ねたところ、この辺りは明治の中ごろまで、豊川を舟で運ばれてきた物資がここで陸揚げされ、伊那街道を通り飯田へと向かう物流の拠点であったそうです。久保屋は言わばミニ廻船問屋だったのです』とあり、ここで語られてある望月家(久保屋)の「一の蔵の鬼瓦」の現存品の写真もある。]

 

 ○俵に入れたヒヨーソク(秉燭)  先代の沒後、現今の主人が家政を整理した時、藏に幾十年となく納めてあった品を殆ど賣拂つたと云ひますが、今日は瀨戶物、明日は傘の日と云ふ具合に、一つの品物を朝から晚まで賣つたと云ひます。酒樽などは、同じやうな樽を、三日も續けてつ糶たと云ふことでした。[やぶちゃん注:「つ糶た」はママ。これは誤植で「糶つた」で「糶」(音「チョウ」)は「競売・せり」の意であるから、「うつた」「せりうつた」であろうと思ったが、後の『日本民俗誌大系』版では、「糶(せ)った」となっていた。]

 數年前私が此家を訪ねた時、店に(現今の店は、昔の物置と云ふ事です)昔女が髮油の容器に用いた陶製の油壺が、ずつと五十程も埃に埋れて並んでゐるのを見て、珍らしいと言ふと未だ藏にもありますと言つて、見せて吳れましたが、俵に入れて昔のまゝになつてゐて、傍《かたはら》に、燈明に使う秉燭が、これも俵に入れて三俵程ありました。

 六七年前現在の主人が縣會議員の候補に立つた時の話に、投票の前日運動員に出した提灯が、何百張となく全部同じ形で、それが又同じ時代に張替へたらしい古さであつたと謂ひました。此提灯が、相手方を壓迫して勝利を獲たなどと云ひました。

[やぶちゃん注:「ヒヨーソク(秉燭)」「秉燭」(歴史的仮名遣は「ひやうそく」。「ひやう(ひょう)」も「そく」もともに呉音。現代仮名遣「ひょうそく」)は「秉燭」(へいしよく(へいしょく))とも呼ぶ(但し、「へいしょく」の場合は、「火の灯し頃」で、「夕方」の時刻を意味する場合もある)。灯火器具の一つ。油皿の中央に臍(ほぞ)のようなものがあるものや、皿の一部を片口にするものなど、様々なものがあるが、それに灯心を立てて点火する多様なものを広く指す。単独で使う場合もあるが、行灯のように内部に油皿を置き、これに菜種油などの植物性油を溜め、灯心を入れて点火する。この灯心を皿の中央に立てるように工夫したものも、「秉燭」(ひょうそく)と呼ぶ。これは、普通の油皿よりも火持ちがよく、しかも、油が皿裏に廻ることもないので、多くは掛行灯などに使用された。「タンコロ」とも呼んだ(HIMOROGI文化財Wiki」の当該項に拠った。写真が三葉ある。「秉燭」のグーグル画像検索もリンクさせておく)。「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)にも写真と丁寧な解説があるので、見られたい。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 赤穗郡高田の鄕石に小鷹の形有事 / 「西播怪談實記」電子化注~完遂

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。挿絵は新底本のものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した(底本の挿絵については国立国会図書館本の落書が激しいため、東洋大学附属図書館本が使用されている)。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。なお、底本には、最後の部分(「立寄(たちより)て、一見(いつけん)せしまゝ、」以下)の影印画像があるが、特に必要を感じないので、画像としては載せなかった。但し、電子化では底本の活字に拠らず、その画像を元に字の大きさや位置を再現した。

 途中で底本が変わるハプニングがあったが、以上を以って、「西播怪談實記」の電子化注を終わる。]

 

 ○赤穗郡(あかほごほり)高田(たかだ)の鄕(ごう)石(いし)に小鷹(こたか)の形(かたち)有(ある)事

 赤穗郡高田の鄕に、石、在(あり)。道の、少(ちと)、上なり。但(ただし)、西國(さいこく)の順路には、あらず。佐用郡(さよごほり)より、赤穗郡加里屋(かりや)へ行(ゆく)路(みち)なり。

 

Kotaka

 

 此石に、小鷹の形、あり。架(ほこ)にすはりて居(い)る形にして、足組(へを)等(とう)あり。

 則(すなはち)、其所(そのところ)を「小鷹」といへり。

 天和(てんわ)の比(ころ)とかや、淺野内匠頭殿、刈屋(かりや)の御城主たりし時、石工(いしや)に仰付(おほせつけ)られ、彼(かの)小鷹の石を、切(きり)とらせ給ひ、御前栽(ごせんざい)へ、移(うつさ)れし、とや。

 然(しかる)に、幾程(いくほど)なくて、御庭(おんには)の鷹の形は、消失(きへうせ)て、こなたの石の切口(きりくち)に、又、元のごとく、形、あらはれたり。不思議といふも、おろかなり。

 以前は、小鷹の形、ありありと、みへて、直庵(ちよくあん)が筆跡も及ばれぬ勢(いきほひ)なりしが、近年(きんねん)は、少(ちと)、苔、生(をい)て、間近く寄(よら)ざれば、さだかには、見へず、とかや。

 彼邊(かのへん)、往來の人は立寄(たちより)て見るべし。

 予も、先年、其邊へ、まかりしかば、立寄(たちより)て、一見(いつけん)せしまゝ、其趣《そのもむき》を書《かき》つたふもの也。

 西播怪談實記 四

    以上前編終 後編跡より出申候

      播陽佐用住

       春名忠成集錄 

  寶曆四年申戌仲秋吉

     書 肆 定栄堂藏

 

[やぶちゃん注:「赤穗郡高田の鄕」「Geoshapeリポジトリ」の「兵庫県赤穂郡高田村」で旧村域が確認出来る。現在の兵庫県赤穂(あこう)郡上郡町(かみごおりちょう)高田台(たかただい)周辺まで限定出来るか(グーグル・マップ・データ)。但し、「小鷹の石」は現存しないようである。

「架(ほこ)」この一字で「たかほこ」とも読む。「鷹槊」。鷹狩の鷹をとまらせておく木。春は梅、夏は樫、秋は檜、冬は松を用いる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「足組(へを)」「攣」「綜緒」と書く。現代仮名遣では「へお」。鷹の足に附ける紐。鷹狩の際、鷹を飛ばせるまで、足に結びつけておく紐。足緒(同前)。

「赤穗郡加里屋」「苅屋」現在の赤穂城跡の近くに分布する「加里屋」「上仮屋南」「上仮屋北」「加里屋中州」等の広域地区であろう。

「天和(てんわ)」一六八一年から一六八四年まで。徳川綱吉の治世。而して後の「淺野内匠頭殿」は、かの「赤穂事件」の浅野長矩である。当該ウィキから当該年代の部分を引いておく。天和元(一六八一)年三月、『幕府より江戸神田橋御番を拝命』し、翌年三月には、『幕府より朝鮮通信使饗応役の』一『人に選ばれ、長矩は、来日した通信使の伊趾寛(通政大夫)らを』八月九日に『伊豆三島(現静岡県三島市)にて饗応した』。天和三年二月には、『霊元天皇の勅使として江戸に下向予定の花山院定誠』(かさんのいんさだのぶ)『・千種有能』(ちくさありよし)『の饗応役を拝命し』、三『月に両名が下向してくるとその饗応にあたった。このとき』、『高家・吉良義央が勅使饗応指南役として付いていたが、浅野は勅使饗応役を無事務め上げている。なお』、『この際に院使饗応役を勤めたのは菰野藩主・土方雄豊であった。雄豊の娘は後に長矩の弟・浅野長広と結婚している。この役目の折に浅野家と土方家のあいだで縁談話が持ち上がったと考えられる』。『勅使饗応役のお役目が終わった直後の』五『月に阿久里と正式に結婚。また』、『この結婚と前後する』五月には、『家老・大石良重(大石良雄の大叔父、また浅野家の親族)が江戸で死去している。大石良重は若くして筆頭家老になった大石良雄の後見人をつとめ、また幼少の藩主浅野長矩を補佐し』、二『人に代わって赤穂藩政を実質的に執ってきた老臣である』。『しかしこれによって長矩に藩政の実権が移ったとは考えにくい。長矩は依然』、『数え年で』十七『歳』『であり、国許の大石良雄も』、『すでに筆頭家老の肩書は与えられていたとはいえ、数え年で』二十五『歳にすぎない。したがって藩の実権は大石良重に次ぐ老臣・大野知房(末席家老)に自然に移っていったと考えられる』。『この年の』六月二十三日(八月十五日)に、初めて(☜)『所領の赤穂に入り、大石良雄以下』、『国許の家臣達と対面した。以降、参勤交代で』一『年交代に江戸と赤穂を行き来する』こととなった。同年(一六八四)年八月二十八日、『又従兄の稲葉正休』(まさやす)『が江戸城にて、堀田正俊に刃傷に及ぶ。正休はその場にて老中らに斬殺される。長矩、遠慮の儀を老中・戸田忠昌へ伺ったところ「然るべき」との指図あり出仕遠慮した』とある。これから考えると、本話柄が事実であるなら、教義に限定するならば、天和三年六月二十三日から天和四年二月二十一日(グレゴリオ暦一六八四年四月五日)の貞享への改元までの、赤穂在城の折りに限定出来ることになる。

「直庵」安土桃山から江戸初期にかけての絵師曽我直庵(?~慶長年間(一五九六年~一六一五年)没)のことか。当該ウィキによれば、『狩野永徳、長谷川等伯、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人であるが、その画力に比べて史料が少なく、謎が多い絵師である』。『生い立ちや経歴は不明だが、作品の年記や着賛者の在世年代によって』、十六『世紀後期から』十七『世紀初頭に「蛇足六世」を名乗って堺で活躍した』。『水墨画や漢画の手法を取り入れた豪快な筆致で、鷹図などの鷙鳥画や花鳥画に優れた作品を残した』。『曽我二直菴は息子か、少なくとも直庵の画系を継いだことは間違いない。他に弟子とされる画人に、田村直翁がいる』とある。彼は多くの架鷹図(かようず)を描いている。但し、曽我二直菴(?~ 明暦二(一六五六)年以降没)は直庵から印章を継承しており、「直庵」と記すこともあった(法号も「直庵順蠅」)し、師と同じく架鷹図も書いているので彼を候補の一人とはなろう。

「後編跡より出申候」底本の「近世民間異聞怪談集成」の北条伸子氏の「解題」を見ると、本「西播怪談實記」は、同書底本の『五冊本を含め、五種の版が存在する。刊年未詳の四冊本は、五冊本の同版刷本である。また続編『世説麒麟談』四冊を加えて八冊本とするものもある』とある。調べると、「世説麒麟談」は「せせつきりんだん」と読み、宝暦一一(一七六一)年に板行されており、同じ春名忠成の作である。「国文学研究資料館」の「国書データベース」のこちらで、その「世説麒麟談」の巻三を視認出来る。ざっと見るに、文章の書き方(特に各章末部の決まり文句の評言)等も確かに正編に一致している。

「寶曆四年申戌仲秋」「仲秋」は陰暦「八月」で、グレゴリオ暦では一七五四年九月十七日から十月十五日に当たる。

「書 肆 定栄堂」大坂・定栄堂。主人は吉文字屋市兵衛。]

2023/03/13

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 城の山唐猫谷にて山猫を見し事附リ越部の庄といへる古跡の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○城(き)の山(やま)唐猫谷(からねこだに)にて山猫を見し事附越部(こしべ)の庄(せう)といへる古跡(こせき)の事

 佐用郡佐用村の大工に三大夫といひしもの、在(あり)。其業(わざ)に委(くはしく)して、名を、近鄕にしられけり。

 享保年中の事なりしに、龍野御城下(たつのごじやうか)の近在に、恩德寺といへる靈地あり。此普請を請合(うけあひ)て滯留す。

 折しも、三月三日、休日なれば、中間(なかま)の大工、近所の者共、七、八人、誘合(さそいあい)て、

「『城(き)の山(やま)』を、見物せん。」

とて、出立(いでたち)けり。

 是(これ)は建弘の比(ころ)、赤松黨、暫(しばし)、楯籠(たてこもり)し陣所(ぢんしよ)にして、今に、其跡、現然たり。

 元來(もとより)、山、嶮岨(けんそ)にして、殊更、「魔所」といひ傳へぬれば、往(ゆく)人、希(まれ)なり。

 觜崎(はしさき)の船渡(ふねわたし)より、西に當れる山、則(すなはち)、「城の山」なり。後(うしろ)の方(かた)は、岩石、峨々(がゝ)と嶙(そびへ)て、鳥ならでは、かよふべくもなく、物すごき所也。

 爰に「唐猫谷」とて、岩と岩との間、谷、切(きれ)て、數十丈、諸木、兩方より生茂(はへしげり)て、中(なか)は見へず、たゞ、谷の面影のみ、見ゆる。

 右、連中にて、三大夫、人に先立(さきだち)て、彼(かの)唐猫谷の頭(かしら)にいたるに、猫、一つ、岩の上に居《ゐ》たり。

 三大夫、

「里遠き深山(しんざん)に、猫の居《を》る事、不思議なり。」

と、見ゐたるに、跡より、來(き)つどふ人音(ひとおと)に、谷へ、入《いり》て、失(うせ)ぬ。

 其容(そのかたち)、世の常にして、少(ちと)、大(おほき)く、尾は、長く垂(たれ)たり。

 尤(もつとも)、瘦(やせ)ては見へしかど、目の光、甚(はなはだ)、强し。

 三大夫、跡よりの面々に、

「しかじか。」

のよしを語れば、

「是、必(かならず)、山猫なるべし。」

と恐(おそれ)あへりけり。

 かくて、荒々(あらあら)見物して、麓に下(をり)て、棵子(わりご)・小竹筒(さゝゑ)抔(など)つかふて、越部の古跡に詣でつゝ、暮方に恩德寺に歸(かへり)て、住持の僧に、猫の次第を語るに、住持の曰、

「昔より、『唐猫谷に、猫、居る。』と、いひ傳ヘぬれど、常に往還(わうへん[やぶちゃん注:ママ。])する人もなく、適々(たまたま)、見物に行(ゆく)人ありても、猫を見る人は、なし。されば、彼(かの)谷を『唐猫谷』といふ事、猫の居るゆへに名附(なづけ)しか。又は、古來の名にして、自然(しぜん)と猫の住(すみ)けるにや。其來由(そのらいゆ)を、しらず。」

となん、咄(はなせ)しとかや。

 三大夫、歸て、予に物語の趣を書傳ふもの也。

 爰(こゝ)に越部の庄は、揖西郡(いつさいごほり)にして、則(すなはち)、「城の山」の麓なり。此(この)御墓所(おんはかしよ)は、「市(いち)の保(ほ)村」といへる所にして、村翁(そんをう)、語(かたり)つたヘしは、「俊成卿(しゆんぜいきやう)の墓」共《とも》いひ、又は、「阿佛(あぶつ)の墓」とも、いへりしに、寬延三年三月、觜崎村、石井氏何某(いしいうぢなにがし)、上京の折から、禁裏御築地(おんついぢ)の邊(へん)、徘徊して、上冷泉家(かみれいぜいけ)の家司(けし)に近付(ちかづき)、

「播州越部の者。」

のよしを語(かたり)、御墓所の事を演說(ゑんぜつ)せしかば、右の家司、卽(すなはち)、中納言家へ申達(《まをし》たつ)しけるよしにて、爲村卿(ためむらきやう)、直(すぐ)に御對面有(あり)て、委(くはし)く御尋(おんたづね)なされけるに、御家(おんいへ)の御記錄に、ひしと、合申(あい《まをす》)に付《つき》、家司安藤喜内(あんどうきない)をもて、念比(ねんごろ)に御饗應なされ、御香奠(ごかうでん)とも、下され、御染筆(ごしんひつ[やぶちゃん注:ママ。])を下(くだ)し給ふ。

 

  花のゝちみやこをすみうかれて

  野中の淸水をすくとて

   皇太后宮大夫俊成女(こうたいごうぐうたゆふしゆんぜいのむすめ)

 わすらるゝもとの心のありがほに

     野中のし水かげをだに見じ

 

 又、安藤喜内より、書記(しよき)して、わたさるゝは、

 

越部禪尼(こしべのぜんに) 五條三位俊成卿御女(ごじやうのさんい[やぶちゃん注:ママ。]しゆんぜいきやうおんむすめ) 京極中納言定家卿御妹(きやうごくちうなごんていかおんいもと)也(なり) 官女(くわんぢよ)ニテ八條院三條(はちでうのいんのさんでう)申(まをす) 出家後(しゆつけのゝち) 住越部(こしべにすむ) 仍(よつて)申越部之禪尼(こしべのぜんにとまをす) 御忌日(ごきにち) 二月六日 件(くだん)の御墓前(おんはかしよ[やぶちゃん注:ママ。])は驛路(ゑきろ)よりは南西(みなみにし)の山際(やまぎは)にして 觜崎(はしざき)の宿(しゆく)と平野村(ひらのむら)の間(あいだ)なり

 

[やぶちゃん注:最後の「御染筆」と「書記」されたものは、底本では二つとも、全体が二字下げであるが、ブラウザでの不具合を考えて、引き上げてある。和歌の前書・作者・和歌も改行を加えた。句読点は原書を想定して、字空けとした。この二種は特異的に読みを総て附した。特に二箇所は前後を空けた。

「城(き)の山(やま)」第一巻の「新宮水谷何某化物に逢し事」で既出既注であるが、再掲する(地図リンクの位置を少し変えた)。たつの市新宮町(しんぐうちょう)の南にある城山城跡(きのやまじょうせき)のある山サイト「西播磨遊記」の「城山城跡」に、『播磨の守護職赤松満祐が時の将軍、足利義教を京の自邸で殺害した「嘉吉の乱」』(一四四一年)『の舞台』で、『京都から播磨に引き揚げた満祐は、山名持豊(宗全)等の率いる二万の追討軍を迎えて各地に戦った末、ここを最後の拠点とし』た『が、遂に戦況の挽回はならず、満祐以下』五百『余名は』、『この山城で非業の最後を遂げ』たとある。また、『山頂の供養塔付近から約』百メートル『ほど行くと、神話の伝説を持つ亀の池があ』るともあった。思うに、最初のリンクを見られたいが、如何なる伝説かは判らなかったが、「亀岩」・「亀の池」へ向かうピークに「亀山(きのやま)」があり、これが元の「きのやま」であったものを、後に城が建ったことから「城」にも代替させたものであろう。

「唐猫谷(からねこだに)」兵庫県立歴史博物館公式サイト内の「ひょうご伝説紀行―妖怪と自然の世界―」の「近世西播磨の怪談」の本書の紹介記事の中に、「城山城跡搦手への登山口 (唐猫谷)」とキャプションする写真があるのだが、この写真位置が判らなかった。しかし、しみけん氏のブログ「播磨の山々」の「兵庫県たつの市の城山城(きのやまじょう)跡縦走」に載る、地図に「唐猫谷」の記載があり、そこは「亀山」のずっと北の新宮町市之保(いちのほ:後に出る「市(いち)の保(ほ)村」である)から入る、この附近の谷(グーグル・マップ・データ航空写真)であることが判明した。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。

「龍野御城」現在のここに龍野城跡がある(グーグル・マップ・データ)。

「恩德寺」現在のここに同名の浄土宗の寺があるが、ここか(グーグル・マップ・データ)。

「建弘」不審。こんな元号は本邦にはない。私年号にもない。似たものも、赤松党の時代にないので、何を誤認したものかも判らない。

「觜崎(はしさき)の船渡(ふねわたし)」新宮町觜崎の南端に「觜崎宿と寝釈迦の渡し」という史跡があるが(グーグル・マップ・データ)、ここであろう。

『「俊成卿(しゆんぜいきやう)の墓」共《とも》いひ、又は、「阿佛(あぶつ)の墓」とも、いへりし』これは、現在、「てんかさま(越部禅尼の墓)」として、グーグル・マップ・データにポイントされてあるものである。サイド・パネルで説明板が読め、「たつの市」公式サイト内の「市内の指定・登録文化財」の「てんかさん」に、『新宮町市野保(いちのほ)にある祠(ほこら)で』、「千載和歌集」の『選者である藤原俊成(ふじわらのとしなり・しゅんぜい)の孫娘』(☜)『にして』、「新古今和歌集」の『選者である藤原定家(ふじわらのさだいえ・ていか)の姪、越部禅尼(こしべぜんに)の墓と伝えられ、禅尼は越部でその生涯を終えたとされている』。『祠には鎌倉時代後期と思われる阿弥陀如来(あみだにょらい)の石仏が納められ、人々の信仰を集めている』とある。トンデモ・レベルだが、俊成の墓とか、同時代の阿仏尼の墓という誤認伝承も、まあ、後注に示すように、誤認が誤認を生んだとして、判らぬではない。

「寬延三年」一七四八年から一七五一年まで。徳川家重の治世。

「上冷泉家」原型である冷泉家は藤原定家三男であった大納言藤原為家の四男の、権中納言冷泉為相(母は阿仏尼)を祖とする。この辺りの公家の話には興味が湧かない。ウィキの「冷泉家」をリンクさせるに留める。

「播州越部の者。」

「中納言家」「爲村卿(ためむらきやう)」不詳。第十三代下冷泉家の当主に冷泉為栄(ためひで)、第十四代冷泉為訓(ためさと)がいるが、このどちらかであろう。前者は最終官位が權中納言、後者は大納言。「村」と誤りそうなのは後者か。

「安藤喜内」不詳。あんまり調べる気も起らぬ。

「うかれて」「憂かれて」であろう。「いやになって」。

「すく」「好く」。

「わすらるゝもとの心のありがほに野中のし水かげをだに見じ」この歌、不詳。

「平野村」現在の新宮町平野(グーグル・マップ・データ)。市之保の北直近。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 眞盛村山伏母が亡靈によつて狂し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○眞盛村(まさもりむら)山伏(やまぶし)母(はゝ)が亡靈によつて狂(くるい)し事

 佐用郡眞盛村に大行院(だいぎやういん)といへる山伏、在(あり)。

 母は遠州濱松の產なり。

 享保年中の事なりしに、大行院、所用に付(つき)、作州へ行(ゆき)けるが、其跡にて、母、急病によつて、死去す。

 近所に一家(いつけ)もなく、元來(ぐはんらい)、貧しきものなれば、村中、寄合(よりあひ)て、死骸を莚(むしろ)に包(つゝみ)て、後(うしろ)の山際に堀埋(ほりうづみ)けり[やぶちゃん注:「堀」はママ。]。

 葬禮の儀式、引導の僧もなく、湯灌(ゆくはん)さへ、せざれば、聞(きく)人、あはれに思ひけり。

 然所(しかるところ)に、山伏も、ほどなく歸宅して、急死の容須(ようす)[やぶちゃん注:ママ。]、幷(ならびに)、其儘、埋(うづみ)し事をきゝて、歎悲(なげきなか)しみけれども、再葬(さいそう)にも及《およば》ず、打過《うちすぎ》ける。

 其比(そのころ)、佐用、笠屋喜右衞門といふもの、山脇(やまわき)村、慈山寺(じさん《じ》)へ【山脇と眞盛と、相隔《あひへだつ》る事、三町。】、張物細工に行《ゆき》て滯留(たいりう)し、玄關に臥居(ふしい)たりけるに、夜半の比、玄關の前より、

「申《まを》、申、」

といふ聲、鹽(しほ)から聲(こゑ)にて、

『いかなるものにや。』

と、戶の内より、

「誰(た)そ。」

と問(とへ)ば、

「生國(せうこく)は遠州濱松のものなるが、いかに、我子(わがこ)の留守なればとて、『ゆくはん』もせず、貧敷(まづしき)身なれば、『葬送の儀式』とは、おもはねども、せめて、御經(おんきやう)の一ツ卷(くわん)も、讀誦して下されかし。犬猫を埋(うづみ)たるやうなる事、近比、口惜(くちをし)。是《これ》を、お賴申(たのみ《まをし》)たく、參《まゐり》たり。」

といふ。

 喜右衞門、住持の寢間へ行(ゆき)て、

「しかじか。」

の樣子を、いへば、

「不便(ふびん)なる事なり。」

とて、起出(をきいで)て見れば、山伏なり。

 かゝる所へ、大勢の聲にて、どさめき[やぶちゃん注:「どよめき」の原本の誤記であろう。但し、ママ注記は底本にはない。]來(く)るを見れば、眞盛村のものにて、住持に、いふやう、

「大行院、今日(こんにち)、歸(かへり)しが、晚方(ばんかた)より、狂氣の如(ごとく)になり、口ばしる樣子、『母が死靈』と存(ぞんじ)、銘々(めいめい)、寄合(よりあい)、すくめ置(をき)候所、いつの間(ま)に、ぬけ出參(いでまいり)侯哉(や)。連歸(つれかへり)申べし。」

といふ。

 住持、

「委細、聞屆(きゝゞけ)たり。能々(よくよく)、とぶらひ得(ゑ)さすべし。」

とて、歸(かへ)され、翌日、住持、彼(かの)埋(うづみ)し所へ行(ゆき)て、讀經し、念比(ねんごろ)に、とぶらひつゝ、卒塔婆(そとば)など立(たて)ければ、死靈(しりやう)も、坐(しづまり)て、其後(そのゝち)は、何の子細もなかりしとかや。

 右、喜右衞門は、予が町内にて、殊に滯留の中の事なれば、直(じき)に見聞(けんぶん)せし次第を、物語の趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「佐用郡眞盛村」現在の兵庫県佐用郡佐用町真盛(グーグル・マップ・データ)。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。

「作州」美作国(みまさかのくに)。現在の岡山県美作市・勝央町(しょうおうちょう)・奈義(なぎ)町・美咲(みさき)町・津山市・鏡野(かがみの)町・真庭(まにわ)市・新庄村(しんじょうそん)・西粟倉村(にしあわくらそん)・久米南(くめなん)町を含む岡山県北エリアに相当する。佐用郡の西の、この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「山脇(やまわき)村」佐用町山脇。真盛地区の佐用川の対岸(左岸)。

「慈山寺」佐用川川畔に現存する。真言宗。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 出合村孫次郞死し不思議の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。挿絵は新底本のものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した(底本の挿絵については国立国会図書館本の落書が激しいため、東洋大学附属図書館本が使用されている)。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

 ○出合(であい)村孫次郞死(しせ)し不思議の事

 揖東郡(いつとうごほり)出合村に、孫次郞といふて、年、四十斗(ばかり)の男なるが、年比(としごろ)、京・大坂(おほざか)に通(かよい)て、小間物を商ひけり。

 年は享保の半(なかば)、五月十七日の事なりしに、近所を迥(まは)りて、

「私(わたし)事、明後十九日に上方へ罷登り申侯間、何にても、御用仰付《おほせつけ》られ下さるべし。」

と、いふて、歸(かへり)けるが、既に其日も暮(くれ)て、翌(あくれ)ば、十八日の朝未明に、隣(となり)へ行(ゆき)て、戶を叩(たゝ)く。

 亭主、

「誰(た)そ。」

と、いへば、

「孫次良《まごじらう》[やぶちゃん注:ママ。]なるが、我を、今日、連(つれ)に來(く)るもの、在(あり)。恐(おそろし)き事、限(かぎり)なし。いかやうともして、隱して給(たまは)れ。」

といふ。

 亭主、

『亂氣(きやうき)。』[やぶちゃん注:ママ。]

と思ひ、

「成程(なるほど)、心得たり。後程(のちほど)、來(こ)られよ。」

と、いへば、宅(たく)へ歸(かへり)て、脇差・鎌を腰に指(さし)、二階へ上(あが)る。

 妻子(さいし)も心得ず、跡より上りて見れば、窓を、切破(きりやぶ)て、差覗(さしのぞき)て居れば、

「何を、し給ふ。」

と問(とへ)ば、

「けふ、我を連に來るもの在。何方(いづかた)より來るぞ、見てゐる。」

と答ふ。

 それより、二階を下(をり)れば、妻子も、常ならず思ひて、續(つゞい)て下(をり)るに、孫次郞は、又、彼(かの)隣へ行(ゆき)て、

「早々、隱し給れ。」

と、いへば、

「心得たる。」

とて、戶棚を明(あく)れば、這入(はいいり)、片隅に小成(ちさくなり)て居《ゐ》けるが、出《いで》て、いふやう、

「戶棚の中にも、身の毛彌竪(よだち)て、ゐる事、叶(かなは)ず。櫃(ひつ)へ入(これ)て、其上に、居《ゐ》て給れ。」

と、いふによりて、則(すなはち)、櫃を取出(とりいだ)し、入(いれ)けるに、大(だい)の男の、小(ちさ)くゞまりて、入(いり)けるぞ、不思議なれ。

 然所(しかるところ)に、妻子、連(つれ)に來たりければ、櫃共《とも》に、下部(しもべ)に、かゝせて、送りけり。

 

Ransin

 

 かくて、妻子、櫃のうへへ、上居(あがりい)て、番をしけるに、ほどなく、未の刻も下(さが)る[やぶちゃん注:午後二時から三時の間。]斗(ばかり)なるに、櫃の中にて、

「きやつ。」

といふ聲に、驚き、蓋(ふた)を明(あけ)て見れば、黑血(くろち)を吐(はい)て、死(しん)でゐければ、妻子、泣悲(なきかな)しむこゑに、近所のものも、走寄(はしりより)て見るに、聊(いさゝか)も、疵は、なかりしと也。

 かくて、翌日、葬送をしけるに、何の故障(こしやう)もなく、野邊の煙(けぶり)となし果(はて)けるとかや。

「右、孫次良は、常々、親へ不孝、其上、我(わが)剛强(がうきやう)にまかせて、人にも恥辱をあたへければ、村中は勿論、近鄕よりも、憎(にくみ)し。」

と也。

 其餘(そのよ)の隱惡(いんあく)はしらねども、終(つい)に、かゝる怪死に及ぶ。

 後世(こうせい)の人、愼(つゝしま)ざるべきや。

 右は、其節、其近村(きんむら)に滯留したる吳服屋、此邊(このへん)へも、來たりて、物語の趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:病態は、重い追跡妄想を伴う、恐らくは統合失調症と思われるが、黒い血を吐いて死んでいるところは、重篤な胃潰瘍或いは胃癌も併発していたものか。

「揖東郡(いつとうごほり)出合村」不詳。「出合村」自体が見当たらない。揖東郡であれば、現在の揖保郡太子町(全域)、及び、姫路市の一部、たつの市の一部に相当するものと思われるが、判らない。識者の御教授を乞う。

「享保の半(なかば)」享保は二十一年まであるので、享保一〇(一七二五)年前後。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 佐用角屋久右衞門宅にて蜘百足を取し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。

 今回は、視認する対象を判り易くするために、ダッシュと改行を多用した。]

 

 ○佐用角屋(すみや)久右衞門宅にて蜘(くも)百足(むかで)を取(とり)し事

 佐用郡(さよごほり)佐用邑(むら)に角屋久右衞門といひしもの、在(あり)。

 年は享保の初つ方、ある夏の夕暮の事成(なり)しに、行燈(あんどう)[やぶちゃん注:底本自体が「燈」を用いている。]の側に煙草を吞(のみ)、寄來(よりく)る蚊を團(うちは)をもて、打拂(うちはらい)、打拂、涼みてゐたりけるに、

――二寸斗(ばかり)の百足、這出(はいいで)て、行燈に上(のぼ)る

を、元來(もとより)、おほやうなる生質(むまれつき)の男にて、取(とつ)て捨(すて)んともせず、見てゐるに、

――頓(やが)て、行燈の上の隅なる蜘の巢に這懸(はいかゝれ)ば、

――蜘、走出(はしりいで)て、取懸(とりかゝ)つて見るに、百足なれば、

――遠(とほい)から[やぶちゃん注:名詞的用法で、相対的に「遠い方(かた)から」の意であろう。]、脚(あし)を差出(さしいだ)して、いぎを附(つけ)てみれども、こたへず。[やぶちゃん注:「いぎ」「威儀」であろう。威嚇の姿勢である。]

――百足は、蜘の巢に、足をまつはれて、跡へも、先へも、得這(ゑはは)ず、たゝそやり迥(まはり)て居けるに、

――蜘は、走退(のき)て、行方(ゆきかた)しれずなりぬ。[やぶちゃん注:「たゝそやり」意味不明。底本にはママ注記はない。しかし、見知った単語にはない。「ただ、そやりて」か。「そやる」というのは、「座る」の訛りで、「そこにじっとしたままで」の意か。判らぬ。識者の御教授を乞うものである。]

 久右衞門、思ふやう、

『百足なれば、いかんともする事ならずして、迯(にげ)たるなるべし。』

と、猶、見ゐたる所に、

――初の蜘、

――少(ちと)、大ぶりなる蜘と、二つに成(なり)て歸(かへり)、

――兩方より、いぎにて、卷(まか)んとして、一つの蜘、尾の方(かた)より、足を出して、いぎを付(つけ)んとすれば、

――百足、尾の方へ、反歸(そりかへ)れば、其儘、迯退(にげのく)を相圖に、

――一つの蜘頭の方より、いぎを付(つく)れば、跡へ反戾(そりもど)れば、又、尾の方より付る。

「初のほどは、百足の勢(せい)、强(つよく)、中々、取(とり)うべきとも、見へざりしが、段々に、いぎを付て、後(のち)には、百足の、みヘぬほどに、卷(まき)て、念(ねん)なふ、取(とり)てけり。」

と、久右衞門、直(ぢき)の物語の趣を書つたふもの也。

 按(あんずる)に、小(ちさ)蜘、風情さへ、友を雇來(やとひき)て、二つして、取(とる)、智惠、在(あり)。人は、萬物の靈にして、天地に次(つげ)ども、愚(ぐ)なるものと知(しる)べし。

[やぶちゃん注:珍しく、筆者の感懐の評言が載る。細部の描写も見事である。

「享保初つ方」享保は二十一年まであり、一七一六年から一七三六年まで。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 片嶋村次郞右衞門と問答せし狐死し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○片嶋(かたしま)村次郞右衞門と問答せし狐(きつね)死(しせ)し事

 揖西郡(いつさいごほり)片嶋村に、次郞右衞門といふもの有(あり)しが、不幸にして妻子を先立(さきだて)、本卦(ほんけ)の年に及(および)ても寡(やもめ)にて、獨住(ひとりずみ)をし、元來(もとより)、貧しけれども、「苦し」ともおもはず、垣生(はにふ)の小屋[やぶちゃん注:ママ。「埴生の小屋」で、「土間の土の上に莚(むしろ)などを敷いただけの小さな家。或いは、土で塗っただけの小さい家。転じて、広く「みすぼらしい粗末な家」の意。]に起臥(をきふし)、心に任せつゝ、昼も枕を高くし、夜(よる)は峰に棚引(たなびく)橫雲を限(かぎり)に遊びありけども、盜(ぬすみ)せぬ身は、人にも、とがめられずして、世をわたりし。

 然(しか)るに、享保初つ方の或夏の事成《なり》しに、晝の暑(あつさ)につかれて、まだ、宵より臥(ふし)けるが、表の方(かた)の窓より、

「次郞右衞門の、うん、つくよ。」

といふ。

 次郞右衞門、眼(め)を、すりすり、

『是(これ)、若きものゝ、たはぶれならん。』

と思ひければ、

「己(おのれ)こそ、うん、つくよ。」

と、いへば、又、外より、

「次郞右衞門の、うん、つくよ。」

と、いふて、互《たがひ》に、負(まけ)じおとらじと、いひ合《あひ》て、時を移す。

 次郞右衞門、夢ともなくうつゝともなく、思ふやう、

『人ならば、同じ事を、操返(くりかへ)し、操返し、いふて、時を移べきやう、なし。是、人には、あらじ。必定(ひつじやう)、狐なるべし。『いひまけては、死ぬる。』と聞傳(きゝつた)ふれば、まけては、ならぬ。』

と、起直(をきなを)りて、

「うんつくよ、うんつくよ、うんつく、うんつく、うんつく、」

と、せりかけ、せきかけ、いひかくれば、外よりは、律儀に、始終、

「次郞右衞門の、うん、つくよ。」

(と)いふにより[やぶちゃん注:「(と)」は底本編者の補訂。]、迥遠(まはどほ)なれば、終(つい)に、いひまけ、後には、何の音もせねば、次郞右衞門、思ふやう、

『偖(さて)は。いひ負(まけ)て歸(かへり)けるにや。』

と、相手なければ、心もたゆみ、頻(しきり)にねぶくて、其儘、打臥、夜の明(あけ)たるもしらず、臥(ふし)ゐたり。

 時に、表の戶を叩(たゝき)て、

「次郞右衞門、次郞右衞門。」

といふ聲に、目を覺して、

「誰(た)そ。」

と、いへば、外より、

「稀有(けう)の事あり。早く、起(をき)られよ。」

といふに、おどろき、次郞右衞門、帶もせずして、立出(たちいづ)れば、

「是、見られよ。狐、窓の下に、死(しゝ)て、あり。いかなるゆへにや。」

といふに、次郞右衞門、有(あり)し子細を語れば、聞(きく)人、橫手を打し、とかや。

「此段(このだん)、何(なに)とやらん、邪氣亂(じやけらな)事ながら、世にいひつたふ通(とをり)、『狐といひ合(あい)ては、まけし方(かた)、死ぬる。』といふ事、寔(まこと)なるにや。」

と、予が知音(ちいん)の人、物語(ものかたり)の趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:「物ぐさ太郎」系の話として面白い。「言上げ」を負けずに応じることで難を遁れるというのも、民俗社会の常套的手法であるが、類い稀なる応酬で勝利したところが、いい。

「揖西郡(いつさいごほり)片嶋村」現在の兵庫県たつの市揖保川町(いぼがわちょう)片島(かたしま:グーグル・マップ・データ)。

「本卦(ほんけ)の年」「本卦還りの年」で還暦のこと。

「享保初つ方」享保は二十一年まであり、一七一六年から一七三六年まで。

「迥遠(まはどほ)」「𢌞(まは)り遠(どほ)い」、則ち、「まわりくどい」の意の名詞形であろう。

「邪氣亂(じやけらな)事」「じゃけらな」。語源は未詳。漢字は当て字である。「取るに足りないこと」を指す。江戸初期の造語か。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 段村火難の時本尊木に懸ゐ給ふ事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○段村(だんむら)火難(くはなん)の時(とき)本尊(ほんぞん)木に懸(かゝり)ゐ給ふ事

 享保年中の事成(なり)しに、佐用郡段村に、出火、有《あり》て、類燒、五、六軒なり。

 其内に、長兵衞といひし農夫、眞宗にて、「後世者(ごせしや)」とも沙汰するほどのもの成(なり)けるが、火本(ひもと)の隣(となり)にて、殊に曉の事なれば、とかふする内に、火、移(うつり)、家内、漸(やうやう)、起出(おきいで)たれども、周章迥(あはてまはり)て、得(ゑ)働(はたら)かず、家財、殘らず、燒失しけり。[やぶちゃん注:「得(ゑ)」は呼応の不可能の副詞「え」の当て字。読みは誤り。]

 然(しかれ)ども、長兵衞、家財の燒(やけ)し事は、一言(《いち》ごん)も、「惜(おし[やぶちゃん注:ママ。])し」と、いはず、只、本尊を初(はじめ)、佛壇の燒(やけ)にし事のみ、いふて、本意(ほい)なき風情なりしが、程なく、火も治(おさまり)、翌日は、近村よりも、大勢、合力(がうりよく)にきたりて、灰(はい)を片付(かたづけ)けり。

 長兵衞裏の畑(はたけ)の隅に、大なる柹木(かきのき)有《あり》ければ、其下にて、人足、煙草を吞(のみ)て居(い)けるが、ある人足、柹木を見上(みあげ)て、

「こは、不思議や。佛樣の懸てゐ給ふ。」

と、いふて、急(いそぎ)、長兵衞に告(つぐ)れば、走寄(はしりより)て見るに、年來(ねんらい)、御馳走(ごちさう)申《まをし》たりし本尊なれば、感淚を流し、卷奉(まきたてまつ)りて、其村の一家(いつけ)の方(かた)へ、預置(あづけをき)ける。

 是を聞(きく)人每(ごと)に、奇異の思ひを成(なし)、段村へ行(ゆき)て拜み奉り、彌(いよいよ)、佛恩を悅(よろこび)けり。

 其後(そのゝち)、普請(ふしん)、出來立(できたち)、佛檀[やぶちゃん注:ママ。]も相調(あいとゝのい)ければ、迎入(むかへいれ)奉りて、今に御馳走申《まをす》事、他念なし、とかや。

「寔(まこと)に、不思議の靈佛。」

と、沙汰せし趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「段村」現在の兵庫県宍粟(しそう)市山崎町(たまさきちょう)段(だん)であろう(グーグル・マップ・データ)。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。

「後世者(ごせしや)」ひたすら、極楽往生を願う人のこと。「ごせにん・ごせびと・ごせもの」とも呼ぶ。浄土宗・浄土真宗の信徒。

「御馳走」ここは「心を込めて信心し申し上げること」を言う。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 德久村小四郞を誑むとせし狐の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○德久村(とくさむら)小四郞を誑(たぶらかさ)むとせし狐(きつね)の事

 佐用郡(さよごほり)西德久村(にしとくさむら)に、彌三右衞門といひて、古き農家あり。

 享保初方(はじめかた)の事なりしに、惣領の小四郞、部屋ずみたりし時、夜更て、折々、門の戶、明(あく)音、しければ、

『盜賊にや。』

と、心を附(つけ)て見れば、戶は明(あい)て在(あり)ながら、何の子細も、なし。

 かくする事、度々(たびたび)成(なり)しが、後(のち)には、折にふれて、小四郞、部屋より見馴ぬ女、朝、とく、立出(たちいで)て歸(かへる)を見し家來も有(あり)ければ、元來(もとより)、若き小四郞なれば、いつしか、浮名、立(たち)て、誰(たれ)いふとしはなけれども、小四郞耳(みゝ)へも、

「しかじか。」

のよし、入(いり)ければ、

「こは、露も覺(おぼへ)なき身の、かく、あだ名の立(たつ)事、いぶかし。いかさま、此ほど、門の戶の明(あい)てある事、たゞならず。若(もし)や、化生(けしやう)のものゝ、仕業にや。」

と、彌《いよいよ》、油斷もせずして居《をり》たりけるが、比《ころ》は、水無月の半(なかば)にて、晝は、あつさの凌難(しのぎがた)ければ、

『朝、とく、行(ゆき)て、作物を見ん。』

と思ひ、また、東雲(しのゝめ)に起出(をき《いづ》)るに、蚊帳(かや)の外に、純子(どんす)・繻子(しゆす)などにて仕立たるやうなる、くゝり枕、壱つ、在(あり)。

「こは。ふ思議[やぶちゃん注:ママ。]なり。かゝる枕の、我(わが)部屋に有(ある)べきやう、なし。日比の浮名、是ならん。」

と、枕刀(まくらがたな)を、手早(てばや)に拔(ぬき)て切付(きりつく)れば、消(きへ)て、跡なく成(なり)しが、折ふし、家來は、

「朝、草を刈(かり)に行(ゆく)。」

とて、打連(うちつれ)て、門口(もんぐち)へ出(いで)たりけるが、

「座敷より、狐が出《いで》たるは。」

と、銘々(めいめい)に、棒を振(ふり)て追(をい)ければ、狐は、後(うしろ)の山へぞ迯入(にげいり)ける。

 其後(そのゝち)は、戶の明(あく)事もなく、自然(しぜん)と、浮名も、止(やみ)けるよし。

 予が緣家(ゑんか)にて、直(じき)に聞侍(きゝはべ)る趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「佐用郡(さよごほり)西德久村」現在の兵庫県佐用郡佐用町西徳久(グーグル・マップ・データ)。

「享保初方」享保は二十一年まであり、一七一六年から一七三六年まで。

「惣領の小四郞、部屋ずみなりし」ここでの「部屋住み」は「総領」=嫡男ではあるが、未だ家督を相続していないことを言っている。

「純子(どんす)」通常は「緞子」(どんす)と書く。織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして、紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた以下に出る「繻子」(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出したものを指す。「どんす」という読みは唐音で、本邦には室町時代に中国から輸入された織物技術とされる。

「後の山」現在の「西徳久」をグーグル・マップ・データ航空写真で見ると、この地区の、北西の、地区の殆んどの部分が山間であったことが判る。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 螢(ラビンドラナート・タゴール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

   タゴオル

 

わが空想はほたるなり

闇にまばたく

うるはしき光の點點

 

みちのべのすみれのこゑは

心なきながしめをいざなはず

まばらにありて つぶやけるのみ

 

ほのぐらきうつらうつらの心のひまに

夢こそは その巢をつくれ

日の旅人のおとしゆきにしかけらもて

 

春は枝々に花びらをまきちらす

すゑの果(み)をむすぶにあらで

ひとときの移り氣に咲く花びらを

 

地のまどろみの手よりのがれたる悅びは

あまたたび 木の葉のなかに驅(か)けり入り

ひもすがら 空のかなたにをどるなり

かりそめの わがことのはも

としつきの波のうへにぞ かろやかにをどるなり

おもかりしわが難行(なんぎやう)の

いや果(は)つるとき

 

こころの底のかげろふは

うすきつばさの生(お)ふるがに

はや わかれわかれに舞ひゆけり

しづかなる ゆふべのそらヘ

 

胡蝶は月を敎へず

瞬間(またたき)の數をかぞへて

生(い)くる時ゆたかなり

 

[やぶちゃん注:「詩聖」と称されたラビンドラナート・タゴール(ベンガル語/ロビンドロナート・タクゥル ヒンディー語/ラビーンドラナート・タークゥル 英語/Rabindranath Tagore 一八六一年~一九四一年)はインドの詩人・思想家。一九一三年にはその詩集「ギタンジャリ」によってノーベル文学賞を受賞した(アジア人で初のノーベル賞受賞者)。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。本詩篇の原詩は、一九二八年に本人が自ら英訳して出版した詩集「蛍」(Fireflies:ニュー・ヨークのマックミラン社刊)の冒頭部である。「Internet archive」のこちらで英訳原本が視認出来る。英文原詩の相当箇所は以下である。そこでの本文はここから、ここまでの八連である。

   *

 

   Fireflies   Rabindranath Tagore

 

My fancies are fireflies,—

Specks of living light

twinkling in the dark.

 

The voice of wayside pansies,

that do not attract the careless glance,

murmurs in these desultory lines.

 

In the drowsy dark caves of the mind

dreams build their nest with fragments

dropped from day’s caravan.

 

Spring scatters the petals of flowers

that are not for the fruits of the future,

but for the moment’s whim.

 

Joy freed from the bond of earth’s slumber

rushes into numberless leaves,

and dances in the air for a day.

 

My words that are slight

may lightly dance upon time’s waves

when my works heavy with import have

gone down.

 

Mind’s underground moths

grow filmy wings

and take a farewell flight

in the sunset sky.

 

The butterfly counts not months but moments,

and has time enough.

 

   *

一部の連構成は勿論、訳もかなり拓次の確信犯で改変が行われている。但し、私は第三文明社刊の「タゴール著作集」の詩集部(二巻)を所持するが、そこで(第二版巻「詩集Ⅱ」一九八四年刊)の大岡信の訳を見るに、同じ版を訳したとすれば、それも、甚だ不審な箇所があって、原文に即するとなら、寧ろ、拓次の訳の方が腑に落ちたことを言い添えておく。]

――七十二年目の花幻忌に――原民喜「心願の國」(昭和二八(一九五三)年角川書店刊「原民喜作品集」第二巻による《特殊》な正規表現版)

 

[やぶちゃん注:原民喜は昭和二六(一九五一)年三月十三日午後十一時三十一分、国鉄中央線吉祥寺駅―西荻窪駅間の鉄路に身を横たえて自死した。満四十五歳であった。本「心願の國」は彼の死後、二ヶ月後の同年五月号『群像』に初出し、書籍では底本とした以下の角川書店版作品集に初めて収録された。

 国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で正字正仮名版の昭和二八(一九五三)年角川書店刊の「原民喜作品集」第二巻の画像が入手出来たので、当該作を見たところ、本書の「心願の國」はその編纂委員によって、他では見られない驚きのエンディングを示していることが判明した。まず、誰にも想像出来ないものであり、しかもそれは確信犯の仕儀である。人によっては、こうした処理やり過ぎだ、と思うかも知れない。私は、しかし、冷徹な全集・作品集の書誌学的厳格は、当の民喜自身が最も嫌ったものだったのではないかと思う。白玉楼中の人となったダダイスト民喜は、この終りを読んで、悪戯っぽい笑みを浮かべたに違いないと感ずる。されば、これは、大いにあっていいものだ、と私は思うのである。これは、是が非でも、電子化したいと感じた。

 当該部はここから。加工データとして、所持する青土社版「底本 原民喜全集Ⅱ」の「心願の国」本文(新字正仮名)他を加工データとした。

 本文終りの方にある「灝氣」は「かうき(こうき)」と読み、「広々として澄み渡った大気」の意。

 ネタバレにならぬように、ここでは、ここまでにしておく。兎も角も、お読みあれかし。――七十二年目の花幻忌の未明――【二〇二三年三月十三日 藪野直史】]

 

 

 心 願 の 國

 

 

 <一九五一年 武藏野市>

 

 夜あけ近く、僕は寢床のなかで小鳥の啼聲をきいてゐる。あれは今、この部屋の屋根の上で、僕にむかつて啼いてゐるのだ。含み聲の優しい銳い抑揚は美しい豫感にふるへてゐるのだ。小鳥たちは時間のなかでも最も微妙な時間を感じとり、それを無邪氣に合圖しあつてゐるのだらうか。僕は寢床のなかで、くすりと笑ふ。今にも僕はあの小鳥たちの言葉がわかりさうなのだ。さうだ、もう少しで、もう少しで僕にはあれがわかるかもしれない。……僕がこんど小鳥に生れかはつて、小鳥たちの國へ訪ねて行つたとしたら、僕は小鳥たちから、どんな風に迎へられるのだらうか。その時も、僕は幼稚園にはじめて連れて行かれた子供のやうに、隅つこで指を嚙んでゐるのだらうか。それとも、世に拗ねた詩人の憂鬱な眼ざしで、あたりをぢつと見まはさうとするのだらうか。だが、駄目なんだ。そんなことをしようたつて、僕はもう小鳥に生れかはつてゐる。ふと僕は湖水のほとりの森の徑で、今は小鳥になつてゐる僕の親しかつた者たちと大勢出あふ。

 「おや、あなたも……」

 「あ、君もゐたのだね」

 寢床のなかで、何かに魅せられたやうに、僕はこの世ならぬものを考へ耽けつてゐる。僕に親しかつたものは、僕から亡び去ることはあるまい。死が僕を攫つて行く瞬間まで、僕は小鳥のやうに素直に生きてゐたいのだが……。

 

 今でも、僕の存在はこなごなに粉碎され、はてしらぬところへ押流されてゐるのだらうか。僕がこの下宿へ移つてからもう一年になるのだが、人間の孤絕感も僕にとつては殆ど底をついてしまつたのではないか。僕にはもうこの世で、とりすがれる一つかみの藁屑もない。だから、僕には僕の上にさりげなく覆ひかぶさる夜空の星星や、僕とはなれて地上に立つてゐる樹木の姿が、だんだん僕の位置と接近して、やがて僕と入替つてしまひさうなのだ。どんなに僕が今、零落した男であらうと、どんなに僕の核心が冷えきつてゐようと、あの星星や樹木たちは、もつと、はてしらぬものを湛へて、毅然としてゐるではないか。……僕は自分の星を見つけてしまつた。ある夜、吉祥寺驛から下宿までの暗い路上で、ふと頭上の星空を振仰いだとたん、無數の星のなかから、たつた一つだけ僕の眼に沁み、僕にむかつて頷いてゐてくれる星があつたのだ。それはどういふ意味なのだらうか。だが、僕には意味を考へる前に大きな感動が僕の眼を熱くしてしまつたのだ。

 孤絕は空氣のなかに溶け込んでしまつてゐるやうだ。眼のなかに塵が入つて睫毛に淚がたまつてゐたお前……。指にたつた、ささくれを針のさきで、ほぐしてくれた母……。些細な、あまりにも些細な出來事が、誰もゐない時期になつて、ぽつかりと僕のなかに浮上つてくる。……僕はある朝、齒の夢をみてゐた。夢のなかで、死んだお前が現れて來た。

 「どこが痛いの」

と、お前は指さきで無造作に僕の齒をくるりと撫でた。その指の感觸で目がさめ、僕の齒の痛みはとれてゐたのだ。

 

 うとうとと睡りかかつた僕の頭が、一瞬電擊を受けてヂーンと爆發する。がくんと全身が痙攣した後、後は何ごともない靜けさなのだ。僕は眼をみひらいて自分の感覺をしらべてみる。どこにも異狀はなささうなのだ。それだのに、さつき、さきほどはどうして、僕の意志を無視して僕を爆發させたのだらうか。あれはどこから來る。あれはどこから來るのだ? だが、僕にはよくわからない。……僕のこの世でなしとげなかつた無數のものが、僕のなかに鬱積して爆發するのだらうか。それとも、あの原爆の朝の一瞬の記憶が、今になつて僕に飛びかかつてくるのだらうか。僕にはよくわからない。僕は廣島の慘劇のなかでは、精神に何の異狀もなかつたとおもふ。だが、あの時の衝擊が、僕や僕と同じ被害者たちを、いつかは發狂ささうと、つねにどこかから覘つてゐるのであらうか。

 ふと僕はねむれない寢床で、地球を想像する。夜の冷たさはぞくぞくと僕の寢床に侵入してくる。僕の身躰、僕の存在、僕の核心、どうして僕はこんなに冷えきつているのか。僕は僕を生存させてゐる地球に呼びかけてみる。すると地球の姿がぼんやりと僕のなかに浮かぶ。哀れな地球、冷えきつた大地よ。だが、それは僕のまだ知らない何億萬年後の地球らしい。僕の眼の前には再び仄暗い一塊りの別の地球が浮んでくる。その圓球の内側の中核には眞赤な火の塊りがとろとろと渦卷いてゐる。あの鎔鑛爐のなかには何が存在するのだらうか。まだ發見されない物質、まだ發想されたことのない神祕、そんなものが混つてゐるのかもしれない。そして、それらが一齊に地表に噴きだすとき、この世は一たいどうなるのだらうか。人人はみな地下の寶庫を夢みてゐるのだらう、破滅か、救濟か、何とも知れない未來にむかつて……。

 だが、人人の一人一人の心の底に靜かな泉が鳴りひびいて、人間の存在の一つ一つが何ものによつても粉碎されない時が、そんな調和がいつかは地上に訪れてくるのを、僕は隨分昔から夢みてゐたやうな氣がする。

 

 ここは僕のよく通る踏切なのだが、僕はよくここで遮斷機が下りて、しばらく待たされるのだ。電車は西荻窪の方から現れたり、吉祥寺驛の方からやつて來る。電車が近づいて來るにしたがつて、ここの軌道は上下にはつきりと搖れ動いてゐるのだ。しかし、電車はガーツと全速力でここを通り越す。僕はあの速度に何か胸のすくやうな氣持がするのだ。全速力でこの人生を橫切つてゆける人を僕は羨んでゐるのかもしれない。だが、僕の眼には、もつと悄然とこの線路に眼をとめてゐる人たちの姿が浮んでくる。人の世の生活に破れて、あがいてももがいても、もうどうにもならない場に突落されてゐる人の影が、いつもこの線路のほとりを彷徨つてゐるやうにおもへるのだ。だが、さういふことを思ひ耽けりながら、この踏切で立ちどまつてゐる僕は、……僕の影もいつとはなしにこの線路のまはりを彷徨つてゐるのではないか。

 

 僕は日沒前の街道をゆつくり步いてゐたことがある。ふと靑空がふしぎに澄み亙つて、一ところ貝殼のやうな靑い光を放つてゐる部分があつた。僕の眼がわざと、そこを撰んでつかみとつたのだらうか。しかし、僕の眼は、その靑い光がすつきりと立ならぶ落葉樹の上にふりそそいでゐるのを知つた。木木はすらりとした姿勢で、今しづかに何ごとかが行はれてゐるらしかつた。僕の眼が一本のすつきりした木の梢にとまつたとき、大きな褐色の枯葉が枝を離れた。枝を離れた朽葉は幹に添つてまつすぐ滑り墜ちて行つた。そして根元の地面の朽葉の上に重なりあつた。それは殆ど何ものにも喩へやうのない微妙な速度だつた。梢から地面までの距離のなかで、あの一枚の枯葉は恐らくこの地上のすべてを見さだめてゐたにちがひない。……いつごろから僕は、地上の眺めの見をさめを考へてゐるのだらう。ある日も僕は一年前僕が住んでゐた神田の方へ出掛けて行く。すると見憶えのある書店街の雜沓が僕の前に展がる。僕はそのなかをくぐり拔けて、何か自分の影を探してゐるのではないか。とあるコンクリートの塀に枯木と枯木の影が淡く溶けあつてゐるのが、僕の眼に映る。あんな淡い、ひつそりとした、おどろきばかりが、僕の眼をおどろかしてゐるのだらうか。

 

 部屋にじつとしてゐると凍てついてしまひさうなので、外に出かけて行つた。昨日降つた雪がまだそのまま殘つてゐて、あたりはすつかり見違へるやうなのだ。雪の上を步いてゐるうちに、僕はだんだん心に彈みがついて、身裡が溫まつてくる。冷んやりとした空氣が快く肺に沁みる。(さうだ、あの廣島の廢墟の上にはじめて雪が降つた日も、僕はこんな風な空氣を胸一杯すつて心がわくわくしてゐたものだ。)僕は雪の讚歌をまだ書いてゐないのに氣づいた。スイスの高原の雪のなかを心呆けて、どこまでもどこまでも行けたら、どんなにいいだらう。凍死の美しい幻想が僕をしめつける。僕は喫茶店に入つて、煙草を吸ひながら、ぼんやりしてゐる。バッハの音樂が隅から流れ、ガラス戸棚のなかにデコレイションケーキが瞬いてゐる。僕がこの世にゐなくなつても、僕のやうな氣質の靑年がやはり、こんな風にこんな時刻に、ぼんやりと、この世の片隅に坐つてゐることだらう。僕は喫茶店を出て、また雪の路を步いて行く。あまり人通りのない路だ。向から跛の靑年がとぼとぼと步いてくる。僕はどうして彼がわざわざこんな雪の日に出步いてゐるのか、それがぢかにわかるやうだ。(しつかりやつて下さい)すれちがひざま僕は心のなかで相手にむかつて呼びかけてゐる。

 

 我我の心を痛め、我我の咽喉を締めつける一切の悲慘を見せつけられてゐるにもかかはらず、我我は、自らを高めようとする抑壓することのできない本能を持つてゐる。(パスカル)

 まだ僕が六つばかりの子供だつた、夏の午後のことだ。家の土藏の石段のところで、僕はひとり遊んでゐた。石段の左手には、濃く繁つた櫻の樹にギラギラと陽の光がもつれてゐた。陽の光は石段のすぐ側にある山吹の葉にも洩れてゐた。が、僕の屈んでゐる石段の上には、爽やかな空氣が流れてゐるのだつた。何か僕はうつとりとした氣分で、花崗石の上の砂をいぢくつてゐた。ふと僕の掌の近くに一匹の蟻が忙しさうに這つて來た。僕は何氣なく、それを指で壓へつけた。と、蟻はもう動かなくなつてゐた。暫くすると、また一匹、蟻がやつて來た。僕はまたそれを指で捻り潰してゐた。蟻はつぎつぎに僕のところへやつて來るし、僕はつぎつぎにそれを潰した。だんだん僕の頭の芯は火照り、無我夢中の時間が過ぎて行つた。僕は自分が何をしてゐるのか、その時はまるで分らなかつた。が、日が暮れて、あたりが薄暗くなつてから、急に僕は不思議な幻覺のなかに突落されてゐた。僕は家のうちにゐた。が、僕は自分がどこにゐるのか、わからなくなつた。ぐるぐると眞赤な炎の河が流れ去つた。すると、僕のまだ見たこともない奇怪な生きものたちが、薄闇のなかで僕の方を眺め、ひそひそと靜かに怨じてゐた。(あの朧氣な地獄繪は、僕がその後、もう一度はつきりと肉眼で見せつけられた廣島の地獄の前觸れだつたのだらうか。)

 僕は一人の薄弱で敏感すぎる比類のない子供を書いてみたかつた。一ふきの風でへし折られてしまふ細い神經のなかには、かへつて、みごとな宇宙が潛んでゐさうにおもへる。

 

 心のなかで、ほんとうに微笑めることが、一つぐらゐはあるのだらうか。やはり、あの少女に對する、ささやかな抒情詩だけが僕を慰めてくれるのかもしれない。U……とはじめて知りあつた一昨年の眞夏、僕はこの世ならぬ心のわななきをおぼえたのだ。それはもう僕にとつて、地上の別離が近づいてゐること、急に晚年が頭上にすべり落ちてくる豫感だつた。いつも僕は全く淸らかな氣持で、その美しい少女を懷しむことができた。いつも僕はその少女と別れぎはに、雨の中の美しい虹を感じた。それから心のなかで指を組み、ひそかに彼女の幸福を祈つたものだ。

 

 また、暖かいものや、冷たいものの交錯がしきりに感じられて、近づいて來る「春」のきざしが僕を茫然とさせてしまふ。この彈みのある、輕い、やさしい、たくみな、天使たちの誘惑には手もなく僕は負けてしまひさうなのだ。花花が一せいに咲き、鳥が歌ひだす、眩しい祭典の豫感は、一すぢの陽の光のなかにも溢れてゐる。すると、なにかそはそはして、じつとしてゐられないものが、心のなかでゆらぎだす。滅んだふるさとの街の花祭が僕の眼に見えてくる。死んだ母や姉たちの晴着姿がふと僕のなかに浮ぶ。それが今ではまるで娘たちか何かのやうに可憐な姿におもへてくるのだ。詩や繪や音樂で讚へられてゐる「春」の姿が僕に囁きかけ、僕をくらくらさす。だが、僕はやはり冷んやりしてゐて、少し悲しいのだ。

 あの頃、お前は寢床で訪れてくる「春」の豫感にうちふるへてゐたのにちがひない。死の近づいて來たお前には、すべてが透視され、天の灝氣はすぐ身近かにあつたのではないか。あの頃、お前が病床で夢みてゐたものは何なのだらうか。

 

 僕は今しきりに夢みる、眞晝の麥畑から飛びたつて、靑く焦げる大空に舞ひのぼる雲雀の姿を……。(あれは死んだお前だらうか。それとも僕のイメージだらうか)雲雀は高く高く一直線に全速力で無限に高く高く進んでゆく。そして今はもう昇つてゆくのでも墜ちてゆくのでもない。ただ生命の燃燒がパツと光を放ち、既に生物の限界を脫して、雲雀は一つの流星となつてゐるのだ。(あれは僕ではない。だが、僕の心願の姿にちがひない。一つの生涯がみごとに燃燒し、すべての刹那が美しく充實してゐたなら……。)

 

佐々木基一への手紙   

 ながい間、いろいろ親切にして頂いたことを嬉しく思ひます。僕はいま誰とも、さりげなく別れてゆきたいのです。妻と別れてから後の僕の作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だつたやうな気がします。

 岸を離れて行く船の甲板から眺めると、陸地は次第に点のやうになつて行きます。僕の文学も、僕の眼には点となり、やがて消えるでせう。

 去年、遠藤周作がフランスへ旅立つた時の情景を僕は憶ひ出します。マルセイユ號の甲板から彼はこちらを見下ろしてゐました。棧橋の方で僕と鈴木重雄と冗談を云ひながら、出帆前のざわめく甲板を見上げてゐたのです。と、僕にはどうも遠藤がこちら側にゐて、やはり僕たちと同じやうに甲板を見上げてゐるやうな氣がしたものです。

 では御元気で……。

 

U……におくる悲歌   

濠端の柳にはや綠さしぐみ

雨靄につつまれて頰笑む空の下

 

水ははつきりと たたずまひ

私のなかに悲歌をもとめる

 

すべての別離がさりげなく とりかはされ

すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ

祝福がまだ ほのぼのと向うに見えてゐるやうに

 

私は步み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ

透明のなかに 永遠のかなたに

 

 

[やぶちゃん注:言わずもがな、「心願の國」の本文は『ただ生命の燃燒がパツと光を放ち、既に生物の限界を脫して、雲雀は一つの流星となつてゐるのだ。(あれは僕ではない。だが、僕の心願の姿にちがひない。一つの生涯がみごとに燃燒し、すべての刹那が美しく充實してゐたなら……。)』で終わっている。

 ここで、その次に出る「佐々木基一への手紙」は底本全集(青土社版全集も)の編者の一人にして、友人で義弟(貞恵夫人の弟)の文芸評論家佐々木基一(大正三(一九一四)年~平成五(一九九三)年)への遺書の一部である。但し、所持する青土社版全集(新字正仮名)の「遺書」パートのそれは、以下の通りで、異なる。

   *

 

 佐々木基一宛

 

 ながい間、いろいろ親切にして頂いたことを嬉しく思ひます。僕はいま誰とも、さりげなく別れてゆきたいのです。妻と別れてから後の僕の作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だつたやうな気がします。

 岸を離れて行く船の甲板から眺めると、陸地は次第に点のやうになつて行きます。僕の文学も、僕の眼には点となり、やがて消えるでせう。

 今迄発表した作品は一まとめにして折カバンの中に入れておきました。もしも万一、僕の選集でも出ることがあれば、山本健吉と二人で編纂して下さい。そして著書の印税は、原時彦に相読させて下さい。

 折カバンと黒いトランク(内味とも)をかたみに受取つて下さい。

 甥(三四郎)が中野打越一三 平田方に居ます。

 では御元気で……。

 

   *

編者の一人であるから、何とも言えないが、やはり、以下の前年の遠藤周作のフランス遊学出帆のシークエンスがあってこそ、前文の謂いが、明確に映像化されるから、確かに、遺書にはそれがあったと考えるのが、自然である。或いは、佐々木は、この角川版でやらかした驚天動地の「心願の國」との一般常識から言えば、とんでもない掟破りのカップリング底本の目次には「心願の國」としかないから、やはり確信犯の編者らの共同正犯である。因みに編纂委員は扉の裏のここにある通り、「佐藤春夫・坪田讓治・中島健藏・伊藤整・丸岡明・山本健吉・佐々木基一」である。因みに、その左ページには民喜自筆の、現在、原爆ドームの側に建つ絶唱「碑銘」(私のブログ記事で碑の写真もある。また、その初期形も「原民喜・昭和二五(一九五十)年十二月二十三日附・長光太宛書簡(含・後の「家なき子のクリスマス」及び「碑銘」の詩稿)」で電子化してある)の詩が書かれてある)というこの仕儀を後に後悔し、青土社版では遺書の全公開も、かくつまらなくカットして控えてしまったようにも感じられるのである。

 次に「U……におくる悲歌」であるが、これは、初出は昭和二六(一九五一)年七月細川書店刊の「原民喜詩集」であるが、実はこの詩は「U」こと祖田祐子さん宛遺書と、友人の詩人藤島宇内宛遺書に同封された(青土社全集Ⅲの編者注記に従った)詩篇あった。しかも、祖田祐子さんは晩年の民喜が最後に想いを寄せていた女性でもあったのである。現行、一般にこの「悲歌」と標題する詩篇は彼女に捧げられた惜別の一篇であったと考えるべきものとされている。彼女宛ての遺書本文を青土社版で示す。

   *

 祖田祐子氏宛

 

 祐子さま

 とうとう僕は雲雀になつて消えて行きます 僕は消えてしまひますが あなたはいつまでも お元気で生きて行つて下さい

 この僕の荒凉とした人生の晩年に あなたのやうな美しい優しいひとと知りあひになれたことは奇蹟のやうでした

 あなたとご一緒にすごした時間はほんとに懐しく清らかな素晴らしい時間でした

 あなたにはまだまだ娯しいことが一ぱいやつて来るでせう いつも美しく元気で立派に生きてゐて下さい

 あなたを祝福する心で一杯のまま お別れ致します

 お母さんにもよろしくお伝へ下さい

 

   *

以上の冒頭に出る「雲雀になつて」……これについては、まず、同じく遠藤周作宛て遺書を示す。

   *

 

 遠藤周作氏宛

 

 これが最後の手紙です。去年の春はたのしかつたね。では元気で。

 

   *

この「去年の春」が「雲雀」と直結するのである。遠藤の文章を引くことが出来ないのが甚だもどかしいのだが、彼女と遠藤との春の玉川でのボート遊びの民喜の思い出(『新潮』昭和三九(一九六四)年五月発行に載った遠藤周作「原民喜」に詳細が描かれる。私は盟友民喜を追懐した周作の一篇を民喜論の第一の名品と信じて止まない。教員時代、一度だけ、この全文を生徒に朗読したことがある。恐らく、こんなことをした国語教師は今も昔もそう多くはあるまい、と思う)の中の民喜の肉声『ぼくはね、ヒバリです』『ヒバリになっていつか空に行きます』という呟きに、総てが、ダイレクトに繋がるのである。「遙かな旅 原民喜 附やぶちゃん注 (正規表現版)」も参照されたい。]

2023/03/12

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 姬路外堀にて人を吞んとせし鯰の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。挿絵は新底本のものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した(底本の挿絵については国立国会図書館本の落書が激しいため、東洋大学附属図書館本が使用されている)。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

 ○姬路外堀にて人を吞(のま)んとせし鯰(なまず)の事

 姬路元鹽(もとしほ)町の裏借家(うらしやくや)に、太郞兵衞といひて、其日暮(そのひぐらし)のもの在(あり)しが、其妻、洗濯ものをして、三左衞門殿堀(《さんざゑもんんどの》ほり)へ【是は、往昔《そのかみ》、池田家領地の時、輝政公、掘《ほら》せ給ふによつて、號す。】、すゝぎに行(ゆき)て、先へすゝぎしは、前なる石の上に置(おき)て、跡なるを、すゞき[やぶちゃん注:ママ。底本にママ注記がないのは不審。]居《をり》けるに、沖(おき)の方(かた)より、水波(みづなみ)、すさまじく立來(たちき)て、段々と、磯の方へ、寄來(よりく)る。

 

Onamazu

 

 女、初(はじめ)のほどは、

「獺(かはうそ)などの、魚(うを)を取(とる)にや。」

と、見ゐたりけるに、我(わが)前近く寄(よる)をみれば、何かはしらず、波の中に、大(おほき)なる口を明(あけ)、たゞ一吞(のみ)と、目懸(めがけ)し勢(いきほい)に、膽(きも)を潰し、何(なに)かを、捨置(すておき)、迯退(にげのき)て、跡をみれば、彼(かの)石の上に置(おき)たる、白き浴衣(ゆかた)を、引(ひつ)くはへて、沖の方へぞ、歸(かへり)ける。

 女、走歸(はしりかへり)て、夫に、

「かく。」

と告(つげ)れば、太郞兵衞、行(ゆき)て、捨置(すておき)たる洗濯もの・桶・酌(しやく)などを、取集(とりあつめ)て歸(かへり)しが、此事、專(もはら)、沙汰有(あり)けるに、或人の曰、

「是は三左衞門殿堀の主(ぬし)といひ傳へたるが、二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル。]斗(ばかり)有(ある)、鯰なり。我も、去年(きよねん)、堀の邊(ほとり)へ凉(すゞみ)に行《ゆき》て、初《はじめ》て見たり。子どもなど、堀の邊へは、遣(つかはす)まじき事なり。」

と、いひしとかや。

「此事、正德年中の事也。」と、我(わが)知音(ちいん)の人の、物語せし趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「姬路元鹽(もとしほ)町」兵庫県姫路市元塩町(もとしおまち:グーグル・マップ・データ)。姫路城の南東直近。

「三左衞門殿堀(《さんざゑもんんどの》ほり)」「是は、往昔《そのかみ》、池田家領地の時、輝政公、掘《ほら》せ給ふによつて、號す。」既出既注だが、再掲しておく。現在、店名に「三左衛門堀」を冠した店がこの附近に集中している。姫路本町地区からは南南西二キロほど離れている。流石に姫路城の濠ではない。ここは実際に兵庫県姫路市三左衛門堀(さんざえもんほり)西の町(にしのまち)という地名である。池田輝政は姫路藩初代藩主。彼の別名は「三左衞門」であった。事績は当該ウィキを見られたい。ここでは「沖」と言い、「磯」と言っているからには、この堀(濠)は、江戸時代には、かなり広さのあるものであったようである。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、東の市川の流れの半分から三分の一ほどの堀幅があることが判る。

「獺」日本人が滅ぼしてしまった食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon。博物誌は「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を見られたい。

「鯰」本邦の代表種は条鰭綱新鰭亜綱骨鰾上目ナマズ目ナマズ科ナマズ属マナマズ(ナマズ)Silurus asotus でこれは東アジア広域に渡って分布し、本邦では現在では(益軒は箱根以東に棲息しないとするが)沖縄などの離島を除く全国各地の淡水・汽水域に広く分布している。但し、その体長は六十~七十センチメートル程までで、一メートルを超える個体自体、聴いたことがない。誤認とは言え、この話柄のそれはデカ過ぎる。淡水で、一メートル程度まで大きくなり、獰猛な種というと、外来種のスズキ目タイワンドジョウ亜目タイワンドジョウ科タイワンドジョウ属カムルチー Channa argus がおり、近年、江戸時代にも既に進入していたことが確認されているらしいから、水鳥を襲ったりするので、白い浴衣を噛んで引きずり込む辺りは、そっちの方が頗る相応しい気がする。なお、マナマズの他には、日本固有種である三種が棲息する。それらは私の「大和本草卷之十三 魚之上 鮧魚(なまづ) (ナマズ)」を参照されたい。

「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 宍粟郡鹿が壺の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○宍粟郡(しそうごほり)鹿(しか)が壺(つぼ)の事

 宍粟郡皆河村(みなごむら)の内に「鹿が壺」といふ所、在《あり》。安志村(あんじむら)より三里半、山奧、揖西郡(いつさいごほり)林田(はやしだ)へながるゝ川上の留(とまり)なり。

 爰(こゝ)に、凡(およそ)十四、五丈[やぶちゃん注:約四十二~四十五メートル半。]、面(めん)の平岩(ひらいわ)、在(あり)。其上を、谷水、ながるゝ也。

 此岩に、大(おほき[やぶちゃん注:ママ。])、寸、水甁(みづがめ)、又は、茶碗のごとき、自然の穴、あり。

 其數、三、四拾斗《ばかり》なるが、深何(なに)ほどとも、しれず。

 此穴に、何(なに)にても、入(いる)時は、三日の内に、大風雨、發(おこり)て、洪水を成(なし)、民家を損ず。

 よつて、人を、禁ず。

 其迥(まは)り、二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]餘、大(おほい)に生繁(はへしげり)て、其所(そのところ)のものとても、行(ゆか)ず。

 是《これ》によつて、「鹿が壺」と尋(たづぬ)るものには、村中、堅(かたく)申合(《まをし》あはせ)て、其所を敎(おしへ)ず、とかや。

 或說には、

「昔、『いさゝ尾(を)』といへる鹿、此岩窟にすみて、『其(その)伏(ふし)たる跡』とて、鹿の形、今に、ありありと、みゆる。長(たけ)二丈斗《ばかり》とかや。則(すなはち)、此所の山神(さんじん)と現(あらは)る。然後(しかりしのち)、『鹿が壺』と、いひつたへたる。」

となり。

 往年、能化(のうけ)、魚崎(うをさき)の西福寺(さいふくじ)へ、『鹿が壺』の事を、委細に語る人、ありしに、つくづくと聞給ひ、

「其所は、必《かならず》、仙境なるべし。」

と、いはれしとかや。

 寔(まことに)、餘國(よこく)にも類希(たぐいまれ)なる怪地にして、自然(しぜん)も、

「人、行《ゆく》時は、必、凶事、有《あり》。」

と、聞及ぶ趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「宍粟郡皆河村(みなごむら)の内」「鹿が壺」現在の兵庫県宍粟郡安富町(やすとみちょう)皆河(みなご:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。但し、「鹿が壺」は現存するが、そこの上流域の林田川の左岸の分岐した谷川にあり、ここは、すぐ河村に近いものの、現在は兵庫県姫路市安富町関の内に相当する。サイド・パネルに多数の写真があり、その解説板に日本でも有数の一枚板の岩盤に生じた甌穴で、最大のものが、この「鹿が壺」であるとあり、別の解説板では、その甌穴の形が上から見ると、鹿が寝そべった形に似ていることからの命名とあり、その『「底無し壺」には主が住んでいてそれは赤い蛇だとか、竿を入れると大雨が降るなどの伝説があ』るとあったが、今は、普通に観光地となっているようである。

「安志村」林田川中流にある山間の盆地である兵庫県姫路市安富町安志(あんじ)。

「揖西郡(いつさいごほり)林田」兵庫県姫路市林田町

「能化」一宗派の指導的地位にある長老・学頭などを称する語。

「魚崎の西福寺」兵庫県神戸市東灘区魚崎北町のこちらに現存する浄土宗妙楽山歓喜光院西福寺。

「自然(しぜん)も」(知れる者は)おのづから。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 殿町の醫師化物に逢し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○殿町(とのまち)の醫師(いし)化物(ばけもの)に逢(あい)し事

 佐用郡(さよごほり)殿町といへる所に、三村何某(みむらなにがし)といへる醫師、在(あり)。

 寶永年中の、ある卯月下旬の事なりしに、所用に付(つき)て金近(かねちか)村へ行《ゆき》しに、又、菴(いほり)村へ行て、内談せざれば、濟(すま)ざるによつて、直(すぐ)に、菴村へ山越(《やま》ごへ)をして行《ゆく》【其間、壱里。】。

 元來、此道は九折(つゞらをり)なるが、古木(こぼく)、生繁(はへしげり)て、いと心すごき所なり。前々より、

「化物、出《いづ》る。」

と、いひ傳へけれども、三村、血氣、盛なる比《ころ》なれば、敢(あへ)て恐(おそろ)しとも、おもはず、持(もち)し鐵炮に、火繩を取添(とりそへ)て立出(たちいで)、山路(《やま》ぢ)に懸る比は、申の刻[やぶちゃん注:午後四時前後。]斗《ばかり》なれば、

「菴村へは、暮(くる)るべし。」

と、指急(さしいそげ)共《ども》、新樹、蒼々(そうそう)として、空に覆(おゝひ)、朽殘(くちのこり)たる木(こ)の葉の、埋果(うづみはて)たる細道なれば、はかどらず。

『今は、半(なかば)も過(すぐ)べし。』

と思ふ時、日は、西の山の端に、入《いり》ぬ。

 かくて、何となく、物恐(ものおそろし)く成行(なりゆけ)ば、

『世上の噂の、化物、出《いづ》るにや。』

と、持たる火繩を、ほどきて、數多(あまた)に切(きり)わけ、十筋(とすじ)斗にして、火を移し【大切の場にて、火繩を數多にする事、嗜《たしなみ》也。】、

『出《いで》なば、鐵炮にて打《うた》むものを。』

と、しづしづと、あゆみ行《ゆく》。

 此勢(いきほひ)にや恐(おそれ)けん、何《なに》も目にはみへざりけるが、林の中にて

「アハ、アハ、」

と高わらひしたる聲、耳の底へぬけて、恐(おそろし)さ、いはん方なし。

 難なく、菴村へ着(つき)て、暫(しばし)は、物も、いはざりけるを、亭主、早く、さとりて、

「今日、御出の道は、名ある所なるが、何(なに)にも、逢(あい)給はざりけるや。」

と、念比(ねんごろ)にとふに付《つき》て、

「しかじか。」

のよしを語れば、亭主、聞《きき》て、

「されば、去々年(おとゝし)、我(わが)一家(いつけ)のもの、

『用事、有て、平福(ひらふく)へ行(ゆく)。』

とて、其妻にいふやうは、

『今日、用談、濟ざれば、滯留すべし。晚方、迎(むかい)を差越(さしこす)に及《およば》ず。』

と、いふて、平福へ行しに、先方(さきがた)、金近(かねちか)へ行(ゆき)て、留守成(なり)ければ、直(すぐ)に跡を追ふて、金近へ行、對談し、要用(ようやう)、濟(すみ)しかば、山越(やまこへ)に當村(とうむら)へ歸(かへる)に、ほどなく晚方(ばんかた)になりけるに、向(むかふ)より來(く)るもの、在(あり)。近寄(ちかより)てみれば、召遣(めしつかい)の牛飼(うしかい)にて、

『旦那樣、お迎(むかい)に參《まゐり》たり。』

といふ。

『大儀なり。』

と答て、

『我(われ)、此道、不案内(ぶあんない)也。其方(そのかた)は金近ものなれば、よく存(ぞんじ)たるべし。案内すべし。』

といふて、先に立行(たてゆき)、つくづくと思ふやう、

『我、今朝、出《いで》し時、迎(むかい)を指留置(さしとめをき)たり。其上、此道を歸(かへる)事は、平福にて、俄分別(にはかふんべつ)なれば、しるべきやう、なし。此奴(このやつ)、必定(ひつぢやう)、聞及(きゝおよび)し化物なるべし。近寄(ちかよつ)て、切(きる)べし。萬一、寔(まこと)の牛飼なれば、是非もなし。』

と、心中に一決して、折を窺(うかゞふ)に、とかく二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル。]ほどづゝ、隔(へだゝ)て[やぶちゃん注:ママ。底本では「へだゝりて」の脱字とする。]、手寄(てより)ざりしを、透(すき)を見合(みあはせ)、走懸(はしりかゝり)て切付(きりつく)れば、

『きやつ、きやつ、』

と、いふて、林の中へ迯(にげ)こみぬ。脇差の切先(きつさき)に、少(すこし)、血、付(つき)たりけるが、難所の林の中なれば、尋(たづね)むやうもなく、當村(とうむら)へ歸(かへり)て、我に、始終を咄けるが、偖(さて)は、其節の疵、薄手にて、今日、又、其元(そこもと)を、おびやかせしよ。」

など、語けるよし。

 近比(ちかごろ)、右、三村氏に參會(さんくはい)せしに、右の始末を語(かたり)、

「今に、彼(かの)笑ひ聲、耳に止(とゞま)りて、思ひ出《いづ》るも、身の毛も、彌竪(よだつ)。」

と、きこへぬる趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「殿町(とのまち)」「ひなたGPS」の二画面画像で国土地理院図の地名に確認出来る(逆に戦前の地図には載らない)。

「寶永年中」一七〇四年から一七一一年まで。

「金近」同じく前の「ひなたGPS」を南東に動いた位置の尾根を越えた南部分に「奥金近」と、その西南に「口金近」と、現旧ともに地名で確認出来る。

「菴村」は「殿村」の北のここにある(同前)。金近から庵に至る山越えというのは、同前でこの戦前の地図の南北を越えて行くわけであるから、昼間ならまだしも、夕刻からは、甚だしんどいルートと思われる。なお、怪事の起こった場所は、その庵へ向かう北部分と限定出来るから、グーグル・マップ・データ航空写真のこの附近が怪異ロケーションと考えてよかろう。]

早川孝太郞「三州橫山話」 種々な人の話 「馬の道具で働いた男」・「動いた位牌」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 

       種 々 な 人 の 話

 

 ○馬の道具で働いた男 四十年ばかり前に亡くなった、早川定平と云ふ男は、何事も我慢な事(大きいとか、恐ろしいとか云ふやうな意味)が好きで、ある時、村で橋普請をする時、二丈に餘る巨大な橋桁の、谷に落かけたのを、俺一人で上から支へてゐるから、者共は全部下の谷へ𢌞れと云つて頑張つたなどゝ云ひます。また若い頃、材木商の元締(代人《だいにん》[やぶちゃん注:代理人。名代(みょうだい)。]のこと)をしてゐた時、五月百姓の忙しい時期に、川狩《かはがり》の人夫を集めに𢌞つた所が、一人も應じる者のないのに業を煮やして、最後、村の山口豐作と云ふ男を賴みにゆくと、これも家内中麥敲《むぎたた》きの最中なので、斷はられて、其麥を敲くのに何程《なにほど》の時間がかゝるかと訊いて、そんな者は俺が一人で敲いてやると云つて、敲き臺の前に立つて、次から次へ、まるで阿修羅の荒れるやうに、滅多矢鱈に敲いて、僅か半時《はんとき》ばかりの間に、家内中が、全《まる》一日かゝる麥を敲き落として了つて、さあ行って吳れと言つて、連れて行つたと云ひます。[やぶちゃん注:「川狩の人夫を集めに𢌞つた」川漁を生業とする連中たちに材木運びを頼もうとしたという意であろう。「全《まる》」の読みは、『日本民俗誌大系』の当該部のルビに基づいて振った。]

 其豐作と云ふ男の話でしたが、普通の男が一度に麥束を二把宛持つて敲くのに、一度に五六把も抱へて、次から次へ敲きまくるので、あたりへ近寄れなかつたばかりか、其麥の跳ね飛んだ一粒が、あつけに取られて見てゐる足へ當つたのが、肉へめり込むやうに痛かつたさうです。後に殘つた麥藁は、目茶目茶になって、何の役にも立たなかつたと云ふことでした。

 又此男が秋田圃《あきたんぼ》に麥を播くとき、稻株の土を萬鍬《まんぐは》で振り落とすのに、普通の萬鍬では充分な力が出せぬと云つて、五月田植に、馬に植代《うゑしろ》を搔かせる萬鍬を持つて、振り囘したさうですが、其萬鍬の先にかゝつて跳ね飛された稻株の一ツが、傍《かたはら》に働いてゐた其男の母の橫腹を打つて、其爲めに母は一時氣絕したと云ふ事です。

[やぶちゃん注:「萬鍬」元は「馬鍬」(まぐは・うまぐは)で、それが訛って「まんぐは」となり、別漢字を当てたもの。「まんが」とも呼ぶ。農具の一つ。一メートルほどの横木の下部に、何本もの鉄の歯を附けたもの。牛馬に牽かせて、すき起こした田畑を掻き馴らすのに用いる。「馬歯(うまは)」とも呼んだ。ただ、ここでは、「普通の萬鍬」と区別してことが判るから、「普通の」というのは、「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)に写真が載る、「仙波穀機」(せんばこき)のようなコンパクトなものが前者で、定平が用いたそれは、大きなそれであって、大橋寿一郎氏のサイト「石黒の昔の暮らし」(「石黒」は新潟県柏崎市高柳町石黒)の「マングワ」のようなものと考えられる。]

 

 ○動いた位牌  此男に弟が一人あつて、其兄弟仲の惡かつた事は、又特別で、隣り合つて家を持ちながら、たゞの一日でも喧嘩の絕えた日はなかつたと云ひます。

 この我慢な男も病氣には勝てなかつたと見えて、四十を一期《いちご》として亡くなつたと云ひますが、死ぬ一日前迄、兄弟喧嘩は續いたと云ひました。其後あとに殘つた弟がつくづくと兄弟不和の淺間しかつた事を考へて、思ひ立つて、兄の位牌に向つて念佛を唱へると、感應あつてか位牌がガタガタと、明かに動いたと云ひます。其男は七十餘歲となつて現存してゐて、この話をしましたが、先代は今一倍我慢な人だつたさうです。

 

大手拓次譯詩集「異國の香」 STANCES(ジャン・モレアス)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。「🦋」は底本では、もっと白抜きのシンプルなものである。同じものがないので、ワードで使用可能なこれに代えた。]

 

 STANCES モレアス

 

わたしの愛してゐる薔薇は日每に葉がおちる

季節がきても、 あたらしいとび色の芽は見えない

そよ風はいつまでもいつまでもふいてゐたのだけれど。

これはね、 あの流れをさへもこほらせる

無慈悲な北風のしわざだよ。

 

よろこびよ、なぜお前はさうこゑをおほきくしたいのか

また憂鬱にひたつてゐる絃(いと)を

わたしの指のしたにさそうて、 わけもなくお前がくるときに

それはたいへんないたづらだといふことを、 おまへはちつとも知らないのか

 

     🦋

 

墓場のわきをゆくやうにかなしみながら

  谷のうつろのなかをとほつていつたとき

おちてくる木の葉のために黃金色(こがねいろ)にかざられた

  あのいたましい北風よ

北風はなにを話しかけたのか

  美しい果物や花をゆすぶつてゐる小枝に

十一月の太陽に、 おそ咲きのあけぼのに

  わたしのたましひに、 わたしのこころに。

 

     🦋

 

わたしはあらしの風とともに野原のなかをあるいた

あをじろい朝にひくい雲のしたに。

いううつの鴉はわたしの旅をみおくり

らひさな水たまりのなかには、 わたしの足おとがひびけた。

 

むかうのはてに電(いなづま)はそのほのほをはしらせ

さうして北風はそのながい嘆息をつのらせた

けれどもあらしは、 わたしの魂にはあんまりよわすぎた

たましひはその鼓動をもつて雷鳴(かみなり)を消してしまふから。

 

秦皮(とねりこ)の黃金色(こがねいろ)の剝皮(むけかは)と楓とで

秋はそのかがやく獲物をつくつた

鴉はつねにむじやうなる翔(かけ)りをつづけて

わたしの運命にかげをなげながらわたしのあとについてきた。

 

[やぶちゃん注:ジャン・モレアス(Jean Moréas 一八五六年~一九一〇年)はギリシャのアテネ生まれの象徴主義の詩人。当該ウィキによれば、『今日よく知られているのは通称であり、本名はヨアニス・A・パパディアマンドープロス』『という。フランス語で作品を書き、パリ』『を活動の拠点とした。サン=マンデ(フランスのイル=ド=フランス地域圏に当たるヴァル・ド・マルヌ県)で』亡くなったとあり、一八八六年九月十八日附の日刊新聞『フィガロ』(Le Figaro)に「象徴主義宣言」(Le Symbolisme)を『掲載し、実質的に象徴主義を定義・提唱した人物である』ともあった。フランス語の彼のウィキの方が遙かに詳しい。

「ひびけた」はママ。「響けた」で「響きた」「響いた」。

 以上の詩は、ワン・セットのものではなく、モレアスが一八九九年から一九〇五年に一度、纏められて刊行された詩集「スタンース」(Stances:フランス語で「同型の詩節から成る悲劇的叙情詩」を指す)の中から恣意的に大手拓次が選んだものと思われる。原詩集はフランス語の「Wikisource」にあるが、私の乏しいフランス語力では、各詩篇を具体的に同定して指摘する力はないので、原詩は示せない(少し試みたが、百%これだと断定出来る詩句を見出せないように感じたので、やめた)。ただ、この詩集、フランス語の彼のウィキでは、一八九九年から一九〇一年に書かれ、死後の一九二〇年に完全版が出ている。しかも、所持する原子朗氏の一九七八年牧神社刊の「定本 大手拓次研究」に載る大手拓次が所蔵していた「フランス語蔵書目録」では、二四三ページに『Jean MORÉASLStancesMercure de France,1920)』とあるので、その最終版でないと原詩は載っていない可能性も高いようにも思われる。悪しからず。

 なお、原子朗氏の岩波文庫「大手拓次詩集」(一九九一年刊)では、読点・改行違い・行空け・読み(ルビ)等の表記が異なる箇所が有意にあるので、以上の正字化の本文を用いつつ、そちらの異同を含むそれを以下に示しておく。読点の後の字空けはナシにした。蝶々マークはないので、そちらの「*」に代えた。

   *

 

 STANCES モレアス

 

わたしの愛してゐる薔薇は日每に葉がおちる、

季節がきても、あたらしいとび色の芽は見えない、

そよ風はいつまでもいつまでもふいてゐたのだけれど。

これはね、あの流れをさへもこほらせる無慈悲な北風のしわざだよ。

 

よろこびよ、なぜお前はさうこゑをおほきくしたいのか、

また憂鬱にひたつてゐる絃(いと)を

わたしの指のしたにさそうて、わけもなくお前がくるときに、

それはたいへんないたづらだといふことを、おまへはちつとも知らないのか。

 

     *

 

墓場のわきをゆくやうにかなしみながら

  谷のうつろのなかをとほつていつたとき

おちてくる木の葉のために黃金色(こがねいろ)にかざられた

  あのいたましい北風よ

 

北風はなにを話しかけたのか

  美しい果物や花をゆすぶつてゐる小枝に

十一月の太陽に、おそ咲きのあけぼのに

  わたしのたましひに、わたしのこころに。

 

     *

 

わたしはあらしの風とともに野原のなかをあるいた

あをじろい朝にひくい雲のしたに。

いううつの鴉(からす)はわたしの旅をみおくり

らひさな水たまりのなかには、わたしの足おとがひびけた。

 

むかうのはてに電(いなづま)はそのほのほをはしらせ

さうして北風はそのながい嘆息をつのらせた

けれどもあらしは、わたしの魂にはあんまりよわすぎた

たましひはその鼓動をもつて雷鳴(かみなり)を消してしまふから。

 

秦皮(とねりこ)の黃金色(こがねいろ)の剝皮(むけかは)と楓(かへで)とで

秋はそのかがやく獲物をつくつた

鴉はつねにむじやうなる翔(かけ)りをつづけて

わたしの運命にかげをなげながらわたしのあとについてきた。

 

   *]

西播怪談實記(恣意的正字化版) / 西播怪談實記四目録・姬路櫻谷寺の住持幽靈に逢し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、以下の「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

西播怪談實記四

 

一 姬路(ひめぢ)樓谷寺(ようこくじ)住持(ぢうじ)幽靈(ゆうれい)に逢(あひ)し事

一 殿町(とのまち)の醫師(いし)化物(ばけもの)に逢(あひ)し事

一 宍粟郡(しそうごほり)鹿(しか)が壺(つぼ)の事

一 姬路(ひめぢ)外堀(そとほり)にて人を吞(のま)んとせし鯰(なまづ)の事

一 德久村(とくさむら)小四郞を誑(たぶらかさ)んとせし狐(きつね)の事

一 段村(だんむら)火難(くはなん)の時(とき)本尊(ほんぞん)木(き)に懸(かゝり)ゐ給ふ事

一 片嶋(かたしま)村次郞右衞門と問答(もんどう)せし狐(きつね)死(しせ)し事

一 佐用(さよ)角屋(かどや)久右衞門宅にて蜘(くも)百足(むかで)を取(とり)し事

一 出合(であい)村孫次郞死(しせ)し不思議(ふしぎ)の事

一 眞盛(さねもり)村山伏(やまぶし)母(はゝ)が亡靈(ぼうれい)によつて狂(くるひ)し事

一 城(き)の山(やま)唐猫谷(からねこだに)にて山猫(やまねこ)を見し事附越部(こしべ)の庄(せう)といへる古跡(こせき)の事

一 赤穗郡(あかほごほり)高田(たかだ)の鄕(ごう)石(いし)に小鷹(こたか)の形(かたち)有(ある)事

 

 ○姬路櫻谷寺の住持幽靈に逢し事

 姬路櫻谷寺の住持は、佐用の產なりしが、後(のち)に隱居して、「閑居(かんきよ)」と、いへり。蹴鞠(しうきく)幷《ならび》に三面(さんめん)の達者にて、其名、近鄕に鳴(なる)。折々、佐用へも見へければ、予も、心安く、かたらひける。[やぶちゃん注:「三面」不詳。識者の御教授を乞う。以下、特異的に傍点を用いた。]

 ある時、雜談(ぞうだん)の次手(ついで)、咄(はなさ)れしは、

……寶永年中の事にて、我、住職たりし時、檀家の娘、十七、八なるが、久しく病の床に臥(ふし)て有(あり)けるを、折々は、問侍(といはべ)りけるに、或日、我を枕元に近付(ちかづけ)て、いふやう、

「みづから事、此度(このたび)は、迚(とて)も、本復(ほんぶく)は、得仕(ゑ《つかまつら》)ず。近き内に、死出の旅路に趣(おもむき)候べし。されば、兩親にをくれ申べき身の、かく、先立(さきだつ)事、我(わが)妄執の第一なる。」

などゝ、有增(あらまし)、事のきこへぬるは、いと哀なりき。我、いふやう、

「誰(たれ)とても、愛念の道は、さる事ながら、老少不定(ろうせうぶぢやう)の世のならひなれば、貴(たか)も、賤(いやし)きも、死の道斗《ばかり》は、力に及《およば》ず。此上は、後世(ごせ)、一通(ひととをり)に成《なり》て、臨終正念に往生をとげらるゝこそ、なき跡迄の、親への孝行とも、なるべし。」[やぶちゃん注:「後世、一通に成て」「御身自身の決められた後世(ごぜ)を正しく見据えて」の意か。]

と敎訓して、淨土の領解(りやうげ)、念比(ねんごろ)にいひ聞《きか》せ、十念を授(さづく)るに、娘も得心(とくしん)して、泪を流しけるが、それよりは、念佛、絕間(たへま)なくして、終(つい)に其曉(そのあかつき)に、むなしくなる。

 かくて、翌日、我(わが)、引導して、葬(ほうぶり)、其家の佛前へ、逮夜(たいや)に參《まゐり》て、夜更(よふけ)て、立歸(たちかへる。比(ころ)しも、彌生の廿日あまり、月もまた、出《いで》やらず、町々も、寢しづまりて、ひつそとしたるに、僕(ぼく)は挑灯(てうちん)、釣(つり)ながら、

「何とやら、今夜は、恐(おそろ)しく候。御急(《お》いそぎ)なさるべし。」

と、足早(あしばや)に行(ゆく)。

 我も、そゞろに急(いそぎ)しが、とある藪陰(やぶかげ)の築地(ついぢ)の本(もと)より、

「見しり給ふか。」

と、いふをみれば、髮を亂し、齒の眞白(まつしろ)なるが、

「完爾(につこ)」

と、笑ひしさまを見て、僕は、

「わつ。」

と、いふて、迯去(にげさり)ぬ。

 唯(たゞ)すり違(ちがい)の言葉斗《ばかり》にて、東西へ別れしが、彼(かの)娘の幽靈なるや、又は、狐などの、『拙僧をためしてみん。』とて、かくしたるにや、今に、いぶかし。……

と聞へぬる趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「姬路櫻谷寺」「姫路市Webマップ」のこちらによれば、雲城山桜谷寺であるが、明治期に東光(とうこう)中学校(明治八(一八七五)年に現在地に移転)及び姫路高等女学校(こちらの開校は明治四三(一九一〇)年 四月一日)建設に伴って廃寺となったとある。なお、その寺の観音堂に祀られていた十一面観音菩薩像を昭和四(一九二九)年に引き受けている心光寺は浄土宗であるから、桜谷寺も浄土宗であろう(主人公の僧の語りでも念仏が出てくる)。問題はその桜谷寺のあった場所であるが、姫路高等女学校は現在の兵庫県立姫路北高等学校でここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)であるのに対して、姫路市立東光中学校はここであって、敷地が広過ぎる。取り敢えずは、後者の地にあったものと推理しておく。その根拠は、高女はずっと後の開校であることと、「ひなたGPS」の戦前の地図では、中学の方の「文」記号はあるが、高女のある形跡は全く見当たらない(野原。当初は別な場所に置かれたものかも知れない)からである。

「寶永年中」一七〇四年から一七一一年まで。

「領解(りやうげ)」仏の教えを聞いて悟ること。

「十念」ここでは浄土宗と断定したから、導師が信者に「南無阿弥陀仏」の名号を唱えて授け、仏縁を得させることを指す。

「逮夜(たいや)」「大夜」とも書き、「宿夜」(しゅくや)とも呼ぶ。「大夜」とは「大行(だいぎょう:「死」のこと)の夜」を言う。また、一昼夜を「六時」(日没(にちもつ)・初夜・中夜・後夜・晨朝(じんじょう)・日中)に分けるが、その「日没時」を指すとも言われる。「逮」の原義は「明日に及ぶ」という意味であって、仏式の葬儀では「前夜」の意味に転用され、「葬式・年忌法要の前夜」の意に転用されている。

「すり違(ちがい)の言葉」当初、相互に意思疎通が全く出来ない状態を指しているかなどと穿ってしまったが、単にすれ違いざまの一瞬の向こうからの声掛けという意であろう。]

早川孝太郞「三州橫山話」 「凧揚げ」・「七月十三日」・「法歌」 / 冒頭第一パート~了

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○凧揚げ  五月に近づいてからは、風の方向が一定して來るものと謂つて凧を揚げましたが、初《はつ》の節句のある家へは、五月一日に村のものが集つて凧張りをやつて、それをお祝いに持つて行く風習がありました。凧の大きさは、大抵西の内紙六十枚だから百二三十枚で家の貧富によつて異なつてゐました。そして其を揚げるべく、晴れた日には、村の各戶から男が出て每日揚げに行きました。貰つた方の家では、煮〆や酒などを用意して、凧揚げの後を追つて步いて振舞ひました。丁度麥の收獲[やぶちゃん注:ママ。]の濟んだ頃で、畑がみんな取片附けられた跡を自由に飛步《とびある》いて揚げました。初の節句の家へは、知人や親戚などからも、鯉幟の外に凧を祝ひ物にするので、それをもみんな、手分けして揚げてやるのでした。

 晴れた日には、心地よい南風に送られて、次から次と大凧小凧が、空を覆つて揚つてゐて、其等が立てる樣々な唸りの聲に、心も自づと沸き立つやうで、年取つた男などでも、凧揚げの間は仕事が手につかないと謂ひました。大凧が切れたなどゝ謂つて、辨當持《べんたうもち》で遠くの村へ探しに行くものもありました。五月五日を最後として、其日は念入りな振舞があつて、日の暮れる迄名殘を惜しんだものでした。其日折惡しく雨が降つた爲め凧揚げが出來ない鬱憤に、村の重立《おもだ》つた者に糸をつけて、其が凧になつて座敷を踊り步いたなどの話がありました。

 五月六日の一日だけは、特に糸干(イトボシ)と云ふ名目で、揚げる事を許されてゐると謂ひましたが、其後は、どんな子供までが揚げない習はしで、田植が濟んで、村の農休みの日には、一日揚げても差支《さしつかへ》ないものと謂ひました。

[やぶちゃん注:「其日折惡しく雨が降つた爲め凧揚げが出來ない鬱憤に、村の重立《おもだ》つた者に糸をつけて、其が凧になつて座敷を踊り步いた」何故か、見もしないのに、懐かしさの擬似的なフラッシュ・バックが起こる。私は、凧揚げは、幼稚園児だった頃、大泉学園の家の隣りの空き地で、泣きながら、地面を引きずった記憶しかなく、揚げたことは、ないくせに、である。

「初の節句のある家」言うまでもないが、「初節句」(はつぜっく)で、子が生まれて最初に迎えるそれ。女児は三月三日、男児は五月五日がそれに当たる。]

 

 ○七月十三日 新竹《しんちく/しんだけ》にて花壺を拵へて、墓地や地の神や家の入り口に立てます。此日の夕方靈迎《りやうむか》へに墓地へ行つて、松火《たいまつ》を焚きました(佛に供へる松火は藁にて二ケ所結《ゆは》へ、神に供へるものは、三ケ所結《むす》ぶ)。其松火の火を持つて來て佛壇に移します。門の入口の道の傍《かたはら》には、新竹を六尺程の長さに切つて、枝を一ツ殘したものを立てゝ、其に松火を結びつけて、十五日夜迄每夜焚きました。これを高張《たかばり》と謂つて精靈《しやうりやう》に眼印《めじるし》と謂ひました。

 

 ○法歌  法歌《ほふか》は陰曆七月十五日の夜、新佛《にひぼとけ》のある家で行ふ一種の念佛踊りで、歌枕と音頭取りと、笛と鉦と太鼓から成立《なりた》つてゐて、鉦敲きの男と向ひ合つて、五尺程もある團扇《うちは》を背負つて胸に太鼓をつるした男が三人縱列に列んで、次にサヽラを背負つた男が續きます。其等の人々の裝束は、油紙を覆つた菅笠を冠つて、手甲《てつかふ》と脚絆《きやはん》をつけて、着物は腰のところでくゝし上げて膝の上あたり迄に短かく着て、紙の緖《を》の草履を履いてゐます。團扇は、背中に靑竹を三叉《みつまた》に組合せたものに、竹で支柱を立て、それへ魚の背鰭の向《むき》に縛りつけて、それを白木綿《しろもめん》で背負つてゐました。其團扇には紋が描いてあつて、先登《せんとう》が鷹の羽《は》で、あとは、丸に十や、カタバミなどでした。踊る時は、笛や歌枕の者は、列の側面に竝んでゐるものでした。

 盆が近づいて來ると、村の者は、每晚寺へ集つて、法歌の稽古をして、老人の差圖によつて、若い者は團扇を背負つては踊るので、背中へ、タコが出來たなどゝ云ひました。十四日の夜になると、寺から行列を調へて新佛のある家へ、練つて行きました。これを道行きと謂つて、五彩の萬燈《まんとう》を弓の柄に吊《つる》して先登に立ちました。これを露拂《つゆはらひ》と謂ひました。新佛のある家では、表に百八の松火を焚いて迎へます。多勢《おほぜい》の見物人を隨へた行列は靜かに繰り込んで來て、萬燈は表の一番上手に立てられます。それから歌枕の調子に合せて、團扇を背負つた者は、兩手で太鼓を敲きながら、鉦につれて足拍子をとつて、前後に進退して踊りました。其家の新佛によつて、歌枕が異なつてゐて、乳呑兒《ちのみご》を殘して逝《ゆ》いた若い母親の靈を慰める文句を哀れに歌ふ時などは、見物の女の淚を絞つたと謂ひます。わけて子供の爲めに塞《さい》[やぶちゃん注:ママ。後の『日本民俗誌大系』版では「賽」となっている。]の河原の歌枕などは、幾度聞いても、あかぬものであつたと謂ふ女もありました。

 一囘踊りが濟むと、團扇を下《おろ》して休みますが、其時に小豆粥の振舞が出て、裕福な家などでは、赤飯や酒などを出しました。此振舞に預かつてから今度は御禮と謂つて、オネリと云ふ踊りをやりましたが、これは身に何の道具も附けないで、各自が歌ひながら入り亂れて踊りました。この踊りにも巧拙があつて、樣々な假裝をして踊るもありました。オネリを始めると謂ふと、早速見物の中へ飛込んで、女の着物を借りて踊つたり、又前々から仕度して置いて、モヤ(薪)の束を背負つて、赤い腰卷一つて[やぶちゃん注:ママ。「で」の誤植。]踊つて見物をあつと謂はせたなどゝ謂ひました。[やぶちゃん注:太字傍線は底本では「傍点「﹅」。]

 此日橫山の南方に聳立《そび》えてゐる[やぶちゃん注:漢字はママ。]舟着山《ふなつけやま》の中腹の市川と云ふ村で、山一ぱいに鍋弦《なべづる》の形に萬燈を焚くので、其が明《あきら》かに眺められて、遙かに興を添へるやうでした。

 茶法歌《ちやほふか》と謂ふのは、三年忌に當る佛の爲め、簡單に踊るものでした。法歌も明治三十二三年頃迄は、每年行つたものでしたが、寺が燒けて道具を全部燒いてしまつたのを境に、行はれなくなりました。佐々木九左衞門と云ふ男が歌枕の上手で、又法歌の故實に詳しかつたさうですが、此男の亡きあとは、早川虎造と熊十と云ふ男が歌枕と音頭取であつたさうですが、今は熊十一人が、名殘を留めてゐるのみと云ひます。

[やぶちゃん注:早川氏がかく記されてより百二年が過ぎた。この如何にも素朴なオリジナリティに富んでいた横山独特の法歌や踊りは、これ、果して、今も伝承されているのであろうか。

「舟着山」既注であるが、再掲しておくと、現在の愛知県新城市市川山中(グーグル・マップ・データ)に船着山(ふなつきやま:現行の山名)があるが、ここは少なくとも豊川左岸までは旧舟着(ふなつけ)村であろうと思われる。「ひなたGPS」の戦前の地図では村名には「フナツケ」とあり、そちらでは、村名は「船着村」であるが、山は「舩着山」の表記となっている。

「明治三十二三年」一八九九年、一九〇〇年。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) 安川村佐右衞門猫堂を建し事 / 西播怪談實記三~了

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○安川村(やすかはむら)佐右衞門猫堂(ねこどう)を建(たて)し事

 佐用郡(さよごほり)安川村に佐右衞門といひし農民あり。

 元錄年中のある夏の事なりしに、旱(ひでり)續(つゞき)て、河水、絕々なれば、鮎は淵にぞ集(あつまり)ける。

 佐右衞門、網を持(もち)て行(ゆき)、元來、水練の達者にて、いかなる淵の底にもいたり、魚(うを)を手取(てどり)にもするほどなれば、其日も、多く取歸(とりかへり)て、料理して炙(やき)てゐたりけるに、手飼(てがい)の猫、中にも大きなる魚を串共(くし《とも》)にくはヘて、椽(ゑん)の下へ這入(はひ《いり》)て喰(くらひ)ければ、佐右衞門、大(おほき)に立腹してゐたりける所へ、又、出《いで》て取(とら)んとせしを、側(そば)に有合(ありあはせ)たる火吹竹をもて、打《うつ》に、猫の運や盡(つき)たりけん、唯、壱つにて、死(しに)ければ、佐右衞門、

「殺(ころさ)んともおもはざるに、不便(ふびん)や。」

とて、則(すなはち)、前の川原にぞ埋(うづ)みける。

 然(しかる)に、翌年、女房、安產して、七夜(しちや)に當るたそかれ時、納戶(なんど)に寢させ置(をき)ける赤子、

「きやつ。」

といふ聲に、おどろき、走行(はしりゆき)て見れば、瘦衰(やせおとろへ)たる猫、赤子をくはへ、椽の下へ迯入(にげ《いら》)むとせしを、急に追(をひ)ける故、猫は子を捨(すて)て、行方(ゆきかた)しれず成《なり》にけり。

 子は直(すぐ)に、息絕(いきたへ)けれども、

「若(もし)や。」

と、いろいろ、治療すれ共《ども》、蘇生せざれば、荼毘(だび)の用意して、泣々(なくなく)、野邊へぞ送(をくり)ける。

 其後(そのゝち)、彼(かの)猫を心懸(《こころ》かく)るといへども、終(つい)に見へず。

 中壱年して、又、安產すれば、初(はじめ)にこりて、油斷もせざりしが、ある夜(よ)の中(うち)に、行方、しれず。

「こは、いかに。」

と、家内のもの、驚周章(おどろきさはぎ)て、尋𢌞(たづねまは)れば、裏の畑に喰殺(くいころ)して、あり。

 佐右衞門、淚の𨻶(ひま)に齒喰(はがみ)すれども、せん方なく、かくてあるべきにあらねば、野邊に葬(ほうぶり)て埋(うづみ)ぬ。

 是より、

「猫の業(わざ)。」

と、決しぬれば、

「先年殺したる猫の亡魂、きたりて、恨(うらみ)をなすにや。」

と、專(もはら)、沙汰し侍りし。

 程なく、又、懷姙しければ、所々へ祈躊をたのみ、

「堅固ならしめ給へ。」

と立願(りうぎはん)しけるに、月、滿(みち)て、男子(なんし)出生(しゆつせう)すれば、彌(いよいよ)、延命の御符(ごふ)を戴せなどして、一家は、晝夜、かはるがはる、二、三人づゝ、小兒(せうに)の側(そば)を離(はなれ)ず、番をしけるが、ある夜(よ)、頻(しきり)に居眠(いねむり)て、覺(おぼへ)ず、まどろみけるが、

「はつ。」

と心附(《こころ》つき)て、小兒を、みれば、上にかづけ置(をき)たる單物(ひとへもの)、なし。

「南無三寶。」

と探(さぐり)みるに、小兒は子細もみへざれども、

「單ものゝ、とれてあるは、いぶかし。」

とて、能々(よく《よく》)氣を付(つけ)てみれば、身には、少(すこし)、煖(ぬくみ)あれども、息のかよはねば、急(いそぎ)、抱上(いだきあげ)て見るに、身の内に疵はなし。

 佐右衞門を起して、

「かく。」

と告(つぐ)るに、少(すこし)もおどろかずして、いふやう、

「今宵(こよひ)、夢を、みたり。瘦(やせ)たる猫、來たりて、手前(てまへ)に向(むかい)、

『我は、先年殺されし猫なり。今宵迄に三人、其方の子を取殺(とりころ)せども、猶、恨は、はれず。此後(このゝち)、幾人(いくたり)出來(いでき)て、たとへ、鐵(くろがね)の櫃(ひつ)に入置(いれをき)給ふとも、命をとらで、置べきか。』

ち、忿(いか)る體(てい)にせのびする、と、見へしが、搔消(かきけす)やうに失(うせ)けり。彌《いよいよ》、殺(ころし)たる猫の仕業、疑ふ所、なし。」

と、いへば、一家を初(はじめ)、是を聞もの、大(おほき)に恐(おそれ)て、

「此上は、追善供養して、彼(かの)猫の怨靈を、なだむべし。」

と相談一決して、小堂(せうどう)を建立して、彼(かの)菩提をとぶらひけるが、是《ここ》に、納受(のふじゆ)やしたりけん、其後(そのゝち)、出生の子、無難(ぶなん)に成長をとげて、今に、存命せり。

 予が近在の事にて、慥(たしか)に聞侍(きゝはべ)る趣を書傳ふもの也。

 按ずるに、都(すべ)て、怨念は、恐敷(おそろしき)ものなる中(うち)に、とりわけ、猫の恨をなせし事、古來、數(まゝ)、多し。鷄犬(けいけん)の主恩を報ぜし事、猫の其主(そのしゆ)に害をなせし類(たぐひ)、寔(まこと)に、同じ畜生ながら、其性(せう)、懸隔せり。

 

西播怪談實記三終

 

[やぶちゃん注:執拗(しゅうね)き猫の怨霊譚である。なお、本篇については、兵庫県立歴史博物館公式サイト内の「佐用安川の猫堂 魚を盗んだ猫のとむらい」に現代語訳が載り、他に、本書に載る他の猫絡みの怪奇談三篇を別ページ「化け猫」で梗概を記してあるので見られたい。但し、そこに載る一篇は先行する二巻所収の「六九谷村の猫物謂し事」であり、今一つは、次の最後の四巻の「城(き)の山(やま)唐猫谷(からねこだに)にて山猫(やまねこ)を見し事附《つけた》リ越部(こしべ)の庄(せう)といへる古跡(こせき)の事」の前半であるが、最初の記されてある、『現在のたつの市新宮町香山(しんぐうちょうこうやま)の伝説で』、『久太夫(きゅうだゆう)という村人が、飼っている鶏が毎晩夜鳴きをするのでよくないきざしと考え、村の前を流れる揖保川(いぼがわ)に捨てた。するとその鶏が、たまたま香山に商売でやってきて川原で昼寝をしていた塩商人の夢枕に立ち、「どこかへ行ってしまっていた久太夫の飼い猫が戻ってきて、久太夫の命をねらっている。自分はそれに気づいたので毎晩早鳴きをして猫を追い払っているのだ。」と告げた。商人はびっくりして久太夫にこのことを告げ、久太夫は猫を見つけて殺した、とされている』とある話柄は、前底本にも、また「近世民間異聞怪談集成」にも所収しない。後者の「解題」を見ると、本「西播怪談實記」は、同書底本の『五冊本を含め、五種の版が存在する。刊年未詳の四冊本は、五冊本の同版刷本である。また続編『世説麒麟談』四冊を加えて八冊本とするものもある』とあるから、最後に私が紹介した話は、それらのどこかに入っている話であろうと推察される。原文を見たいが、方途がない。残念である。

「佐用郡(さよごほり)安川村」現在の兵庫県佐用郡佐用町安川(グーグル・マップ・データ)。

「元錄年中」一六八八年から一七〇四年まで。

「河」同旧村域の川漁であるから、志文川(しぶみがわ)であろう(グーグル・マップ・データ)。]

2023/03/11

西播怪談實記(恣意的正字化版) 龍野林田屋の下女火の車を追ふて手幷着物を炙し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。挿絵は新底本のものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した(底本の挿絵については国立国会図書館本の落書が激しいため、東洋大学附属図書館本が使用されている)。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

 ○龍野(たつの)林田屋(はやしだや)の下女火(ひ)の車(くるま)を追ふて手《て》幷《ならびに》着物を炙(やき)し事

 揖東郡(いつとうごほり)龍野町に林田屋といへる、在(あり)。

 家產、豐にして、久しき商家なり。

 是《ここ》に、久しく出入(でいり)の姥(むば)あり。其娘をば、幼少より召つかひけり。

 享保年中の事なりしに、彼(かの)姥、來たりて、滯留せしが、風氣(ふうき)になやまされつゝ、日をへて、をもく[やぶちゃん注:「重く」。悪化し。]、元來、彼ものども、奉公する風情のものなれば、

「宿へ歸(かへり)て療治するとも、はかばかしからじ。」

と、主(あるじ)の何某(なにがし)哀(あはれ)みをかけて、良醫を招き、心を盡すといへども、其驗(しるし)もなく、熟氣(ねつき)[やぶちゃん注:ママ。以下でも同じ。]、いや、ましになりて、身心、惱亂すれば、娘、泣(なき)かなしみて、片時(へんじ)も側(そば)を去(さら)ず、看病のいとまには、念佛をのみ、すゝむるといへども、狂氣の如くなる熟病(ねつびやう)なれば、一言(いちごん)の稱名(せうめう)もきこヘず。

 かくて、次第次第に弱(よはり)つゝ、ある夕間暮(ゆふまぐれ)に、「今般(いまは)の時」とも見へしかば、傍輩(ほうばい)のものも、傳(つどい)[やぶちゃん注:ママ。]ゐて、口々に念佛をぞ、すゝめける。

 時に、娘、

「のふ、かなしや。母をのせて、いぬるは。」

と、いふて、周章(あはて)ふためき、なんぞ、止(とゞむ)る體(てい)に見へて、表のかたへ、走出(はしり《いづ》)ると否や、病人は、終(つい)に、事切(こときれ)たり。

 かくて、主の夫婦、ならびに、手代・下部(しもべ)の男女(なんによ)、

「なんと、娘、かなしみに堪兼(たへかね)て、狂氣しけるにや。」

と、表の戶口に追出(をいいで)て、止(とゞむ)るに、忽(たちまち)、氣絕しければ、口に水をそゝぎつゝ、呼生(よびいけ)られ、漸(やうやう)、正氣に成《なり》て、

「あら、熱(あつ)や。」

といふに、人々、おどろき、見れば、袖の下に、火(ひ)、付(つき)て、ふすぼりゐけるを、もみ消(けし)しに、右の手の内は、燒(やけ)たゞれてありけるをも、いとはず、母の死骸の側(そば)に行(ゆき)て、身もだへして泣(なき)ゐたりける。

 人々、娘に向(むかい)て、

「其方(そのかた)、先ほど、走出(はしり《いで》)たる時に、姥(むば)は、息、絕(たへ)たり。いかなる事にて、大事の臨終際(りんじうぎは)に走出たるや。」

と問(とふ)に、娘、漸(やうやう)に、顏を、もたげて、なみだを拭ひ、ふるいふるい、いひけるは、

「されば、先ほど、母が末期(まつご)と存《ぞん》ぜし時、何國(いづく)より來たるともしらず、繪に書(かき)し鬼(おに)の姿、思ひ出《いづ》るも、身の毛も、彌竪(よだつ)、頰(つら)[やぶちゃん注:ママ。特に違和感はない。]なるが、火のもゆる車を、引《ひき》きたりて、母を引狐(ふつつかみ)み、彼(かの)火の中へ投(なげ)こみ、表をさして引(ひき)て行(ゆく)を、『母を取返し度《たき》』一念にて、恐しともおもはず、追(をつ)かけ出(いで)、車に手を懸(かけ)て止(とゞめ)んとするに、引《ひき》もぎ、虛空(こくう)へ上(あが)ると迄は存ぜしが、其跡は、存ぜず。先(まづ)、母が死骸には、別條も、なかりけるよ。」

と、淚と共に申《まをし》けり。

 

Hinokuruma

 

「偖《さて》しも、あるべきにあらず。」

とて、主(あるじ)、心を附(つけ)て荼毘(だび)の事など、念比(ねんごろ)に取繕(とりつくろひ)て、翌朝(よくてう)、野邊に、をくりて、灰となしけるとかや。

 此段を聞(きか)ん人、少《すこし》も、疑心を懷(いだ)かず、五常の道は勿論、後生(ごせう)の市大事を心に懸(かく)べし。

 是、露も僞(いとぁり)に、あらず。慥(たしか)なる正說(せうせつ)の趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:孝行娘の、何とも言えず、涙を誘う話柄である。

「火の車」地獄にあって、火が燃えているとされる車。「火車」(かしゃ)の訓読み。獄卒が生前悪事を犯した亡者をこれに乗せ、責めたてながら、地獄に運ぶようすが、地獄を描いた絵巻などに描かれている。「火車」は私の怪奇談集にも枚挙に遑がないが、例えば、「多滿寸太禮卷第四 火車の說」の本文及び私の注のリンク先を見られたい。

「揖東郡(いつとうごほり)龍野町」現在の兵庫県たつの市市街であろう(グーグル・マップ・データ)。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。

「風氣(ふうき)」「風邪」以外に「腸内にガスが滞留する疾患」の他、「皮膚疾患の一種で、皮膚に赤い腫物ができて、痛くはないが、移動して痒みを覚える風腫」という疾患も指す。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) 早瀨村五助大入道に逢し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○早瀨村五助大入道に逢し事

 佐用郡(さよごほり)早瀨村に、五介といふもの、在《あり》。

 享保年中の事なりしに、久しく眼病を患(うれい)て、近鄕にて療治に預(あづかれ)ども、平癒せず、難儀に及(およぶ)所に、佐用、大工長右衞門といふものも、永々(ながなが)目を煩(わづらひ)てゐければ、互(たがい)に、さそひ合(あい)て、姬路へ行(ゆき)、暫(しばし)、滯留の中(うち)に順快(じゆんくはい)なれば、又、同心して、立歸(たちかへる)。

 比《ころ》は、十月半(なかば)なれば、姬路を、とく立出《たちいで》て、急ぐといへども、短日(たんじつ)なれば、林崎(はやしざき)といふ所より、暮(くれ)てたどりしに、漸(やうやう)、佐用の町端(まちはづれ)に成‘まり)て、五助、長右衞門が袖を引(ひき)て、

「今のを、みられしや。」

と、ふるひ聲にていへば、長右衞門は、

「何も、見ず。」

といふに、「沓懸(くつかけ)の、少(ちと)、上手(うはて)に【「沓懸」は道ノ字《あざ》。】、長(たけ)壱丈餘の大入道(おほにうどう)、立(たち)はだかりゐたる體(てい)、二目(ふため)とも見られず、あまりの恐さに、脇差を探(さぐり)て見るに、手、こゞまりて、少(すこし)も、働かず。足は、そなたにひかれて、漸(やうやう)に戾(もどり)しなり。」

と、大息を、つぎ、

「かゝる億病[やぶちゃん注:ママ。]にては、脇差持(もち)たりとて、何の役にか立(たつ)べき。自今以後(じこんいご)は、必、脇差をば、持(もつ)まじき事なり。」

と笑合(わらひ《あは》)し、となり。

 兩人(ふたり)とも、今に存命にて、直物語(ぢきものがたり)の趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「早瀨村」現在の兵庫県佐用郡佐用町早瀬(グーグル・マップ・データ)。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。

「林崎」佐用町林崎(グーグル・マップ・データ)。佐用の中心街から南東四キロほどの位置に当たる。

「沓懸」ルートから考えると、「ひなたGPS」の戦前の地図にある「佐用坂」の佐用町近くであろうと思われる。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) 佐用福岡氏化生のものに逢し事 江戸時代の第三種接近遭遇か?

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○佐用(さよ)福岡氏(ふくおかうぢ)化生(けせう)のものに逢(あい)し事

 佐用郡(さよごほり)佐用邑《むら》に福岡氏の人、あり。

 享保初《はじめ》つ方《かた》の事成《なり》しに、町内へ噺(はなし)に出《いで》て、夜も、いたく更て、立歸(たちかへる)。

 比《ころ》しも、二月の十日比なれば、月は、早(はや)、入果(いりはて)て、いと暗く、世間も、ひつそと、閑(しづか)に成て、我家(わがや)も近く戾(もどり)けるに、隣の壁(かべ)ねに、十二、三なる子、すげ笠(がさ)をきて、立《たち》ゐたれば、

『參宮の子共《こども》ならんか、夜更(よふけ)て、爰(こゝ)にひとり居《を》る事の、不便(ふびん)や。』

と思ひ、何心(なに《ごころ》)なく立寄(たちより)て、指覗(さしのぞけ)ば、彼(かの)子共、管笠、をきながら、地を壱尺斗《ばかり》、離(はなれ)て中(ちう)を行(ゆく)。

『こは、不思議。』

と見る内に、段々と高く上(あがり)て、終(つい)に隣の家の棟(むね)を越(こし)て、行方(ゆきかた)しれず、失(うせ)にけり。

 定(さだめ)て狐なるべけれども、失たるあと、

「ぞつ」

と、したりて、其まゝ歸《かへり》けるとなり。

 右の人、今に存命にて、物語の趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:三十センチも地面から離れた空中を移動し――隣りの家屋の甍を越えて消えた少年のように背が低い者――とくれば、元UFO研究家であった私に言わせれば、これ、現代なら、グレイ型宇宙人との遭遇にピッタりな話柄である。私が直ちに想起したのは、驚くべき第三種接近遭遇である一九八〇年十二月二十七日にイギリスのサフォーク州のイギリス空軍のウッドブリッジ基地近くの「レンデルシャムの森」で発生したUFO+搭乗者との遭遇事件である(基地に駐留していた米軍警備兵ら複数が目撃した)「レンデルシャムの森事件」(Rendlesham Forest incident)であった。イギリスでのUFO事件では最も知られたものである。知らない方は当該ウィキをどうぞ。UFO自体が小型で、米空軍基地司令官チャールズ・ホルト中佐が背の低い搭乗者三人(空中を浮遊)と会談したともされ、また、UFOは一瞬にして夜空にかき消えたとするものである。

「享保初つ方」享保は二十一年まであり、一七一六年から一七三六年まで。

「參宮」佐用町で由緒ある神社となら、佐用郡佐用町本位田(ほんいでん)にある佐用都比賣(さよつひめ)神社である(グーグル・マップ・データ)。創建は西暦七百年代(奈良・平安以前)で、「播磨国風土記」にも記載のある古社。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) 櫛田村不動堂の鰐口奇瑞幷瀧川の鱗片目の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、「河虎骨繼の妙藥を傳へし事」の冒頭注で述べた事情により、それ以降は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して示すこととする。凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。]

 

 ○櫛田村(くしだむら)不動堂の鰐口(わにぐち)奇瑞(きずい)幷《ならびに》瀧川(たきかは)の鱗(うろくず)片目(かため)の事

 佐用郡多賀村(たがむら)に善右衞門といひしもの、あり。農業のいとまには、材木を商ふて、大坂に通ふ事、久し。

 爰に隣(となり)村櫛田といふ所に、靈驗(れいげん)あらたなる瀧、在。

 里を離れて二十餘町、巖(いわほ)、屛風のごとく重(かさなり)、水の落(おつ)るは、千筋(ちすじ)のいとのごとくにして、凡(およそ)十丈を過(すぎ)たり。寔(まこと)に「飛瀧(ひりう)直下二千尺」ともいふべし。[やぶちゃん注:「飛瀧(ひりう)」は底本では『飛滝(ひりう)』とあって、ママ注記がある。なお、私が一貫してここで「滝」を「瀧」に書き換えている理由は、ロケーションである「櫛田」に近い瀧のある箇所は「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、「瀧谷」(☜)という地名表記になっていることに拠るものであり、私の趣味でそれにしている訳ではない(但し、私は「滝」は嫌いで、自分は使わないし、「瀧」が圧倒的に好みではある)のでお断りしておく。

 側(かたはら)側に、小堂を建て、聖德太子御作(おんさく)の不動の尊像を安置せり。

 享保の初方(はじめかた)、鰐口を寄進するものありて、彼(かの)善右衞門に、

「此鰐口を、調(とゝのへ)くれよ。」

といふ。

 善右衞門、元來、信仰の瀧なれば、共々に世話して、大坂にて八寸の鰐口を整(とゝのへ)、年號・施主の名を切(きら)せて持下(もちくだり)しが、比《ころ》しも、水無月のすゑ、

「暑(あつさ)を除(よけ)ん。」

と、明石へ、夜船(よふね)に乘(のり)けるに、摩耶(まや)の沖にて、俄(にはか)に白雨(ゆふだち)の、風に波を卷(まき)、船頭迄も、方角を失ひ、櫓(ろ)のたてばも、しどろなれば、皆、

「荷物を捨(すて)て、命を、たすからむ。」

と、船中(せんちう)、さはぎ立《たて》しが、此善右衞門も、雜物(ざうもつ)を捨(すて)て、鰐口斗《ばかり》を首(くび)に懸(かけ)、不動の眞言をくりて、[やぶちゃん注:「くりて」「繰りて」。くり返し唱えて。]

『この難を、助け給へ。』

と、一念に祈(いのり)しかば、何國(いづく)ともなく、火の、みへければ、船人(ふな《びと》)、力を得て、此火の方へ漕附(こぎつけ)しが、程なく、陸に着(つき)て上(あがり)けれども、雨、頻(しきり)に降(ふり)て、くらければ、いづこをさして行べきやうもなく、思ひわづらひけるに、鰐口より、光を放(はなち)て、道を照す事、明松(たいまつ)の如(ごとく)なれば、彌《いよいよ》、信心、肝(きも)にめいじ、乘合(のりあい)の人々も、此光(ひかり)に付(つき)て、「脇(わき)の濱」といふ所に着(つき)たるは、有難(ありがたき)事ども也。

 今に、善右衞門が子孫、彼(かの)瀧を信仰する事、一方《ひとかた》ならず、六月・八月の朔日・十五日には、諸人(しよにん)、參詣して、鰐口を打《うち》ならして、諸病を祈るに、奇瑞あり。

 爰(こゝ)に又、一つの不思議あり。

 其瀧川の鱗(うろくず)、休堂(やすみだう)より奧は、悉(ことごとく)、片目也。

 諸人、是を喰(くふ)事、なし。

 休堂より川下へ成(なり)ては、世の常の鱗なり。

「不動尊、片目ゆへに、かく。」

と、いひつたへたり。

 何分、休堂を堺(さかい)にて、わかちある事、不思議ならずや。

 予が近所にて、直《ぢき》に見聞《けんぶん》せし趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「櫛田村」以下の多賀に東北で接する佐用町櫛田(グーグル・マップ・データ航空写真)。同地区の山中には(近くまで自動車道がある)「飛龍の滝」(同前)があるが、これが本篇で言う「瀧」である。ストリートビューに糸田仁氏の定点三百六十度写真が一箇所ある。前のサイド・パネルには多数の写真があるのだが、失礼乍ら、こちらは、どれもあまり上手く撮れていない。「不動堂」は四阿風の隙間だらけのものが滝の直ぐ前にあってそれらしく、別なこの写真では祠の前面に鰐口がある。その当時のものであるかどうかは判らないが、新しいものではないようだ

「鰐口」仏具。私の『「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」』を参照されたい。図有り。

「佐用郡多賀村」現在の兵庫県佐用郡佐用町多賀(グーグル・マップ・データ)。

「材木商ふ」本書の作者も佐用村の材木商春名忠成(屋号は「那波屋」)であるから、親しい人物でもあったのかも知れない。

「二十餘町」二キロ百八十二メートル超。櫛田の町中から谷川沿いに実測すると、二・五キロメートルはある。

「摩耶(まや)の沖」現在の兵庫県神戸市灘区の六甲山地の中央に位置する標高七百二メートルの摩耶山(まやさん:グーグル・マップ・データ。西方に「明石」)見える神戸の大阪湾の沖合。

「不動の眞言」不動真言の小咒(しょうしゅ)は「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」である。

「火の、みへければ」不動明王の光背は大火炎模様が常套である。

「脇(わき)の濱」現在の兵庫県神戸市中央区脇浜(わきのはま)海岸通附近(グーグル・マップ・データ航空写真)であろう。拡大して貰うと判るが、まさに摩耶山の真南に当たる

「不動尊、片目」トンデモ誤り。中世以降の不動明王像の一つの特徴に「天地眼」(てんちげん:右目はかっと開いて天を見渡し、左目は地に向けて半眼にしているのを、誤認したものである。「片目の魚」となると、柳田國男の領分だが、これは誤認だから、リンクさせようがちょっとない。寧ろ、総てのそこの川魚が片目というのが興味深い(通常の民俗社会の「片目の魚」は魚種が限定されるのが普通)が、特定流域のみに多数種に集中するというのは、生物学的に見て、まず、あり得ないことである(棲息域が洞穴等の特殊環境ならまだしもだが)。

「休堂」瀧へのアプローチがそれなりにあるので、途中にあった休憩のための堂であろう。ストリートビューで見たところ、ここに飛龍の瀧への道標の石らしき古いものが二つ見出せる。ここに「休堂」があったのかも知れない(グーグル・マップ・データでは、この中央の川が西から東へカクッと交差しているカーブのところ)。

早川孝太郞「三州橫山話」 「お年取り」・「クチアケ」・「ニユウ木」・「モチ井」・「節分」・「田植の事」・「ウンカ送り」・「ギオン送リ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○お年取り  大晦日はお年取りと謂つて、年男は座敷の眞中に吳蓙を敷いて、其上で注繩[やぶちゃん注:ママ。「注連繩」の脱字。「しめなは」。]を綯《よ》つて、其にユズリ葉、裏白《うらじろ》を結びつけて、門口、神棚、佛壇、惠比須棚、立臼《たてうす》、竈 、厩 、井戶などに懸けて、地の神の祠や、墓地、山の神の祠、其他屋敷に近接した祠などがあれば其にもかけました。

 其をお祀りと謂つて、其が濟むと、家内揃つてお年取の膳を祝つて、それから神參りなどに出掛けました。

[やぶちゃん注:「ユズリ葉」ユキノシタ目ユズリハ科ユズリハ属ユズリハ Daphniphyllum macropodum subsp. macropodum の葉。当該ウィキによれば、『ユズリハは、新しい葉が古い葉と入れ替わるように出てくる性質から「親が子を育てて家が代々続いていく」ことを連想させる縁起木とされ、正月の鏡餅飾りや庭木に使われる』この三年ばかり、連れ合いの買ってくる門松の「ゆずり葉」がプラスチックになって、なにやらん、侘しい限りである。

「裏白」シダ植物門シダ綱ウラジロ科ウラジロ属ウラジロ Gleichenia japonica。和名は葉の表は非常に光沢(つや)があるが、裏面は粉を吹いて白っぽいことに由来する。当該ウィキによれば、『葉が正月飾りに使われ、注連縄、ダイダイの下に垂れ下げられている。ただし、その由来については、「裏が白い=共に白髪が生えるまで」という意味だと解釈されているが実際は不明である』とあった。

「惠比須棚」五穀豊穣・商売繁盛・大獵(漁)・子孫繁栄などを齎すとされる「えびす様」と「大黒様」との像を祀ってある神棚。本来の神棚とは別に作るのが普通。孰れもルーツは仏教以前の古代インドの神である。]

 

 ○クチアケ 十一日をクチアケと言って、この日朝早く田圃へ行って、(田のないものは畑)惠方へ向つて、三鍬程土を掘つて、其處へ其年の月の數程薄の穗を結へて立てゝ來ます。

[やぶちゃん注:農事開始の年初の民俗習慣。「口開け・口明け」などと表記する。]

 

 ○ニユウ木 十一日に山から櫟《くぬぎ》の木の直徑三四寸のものを切つて來て、其を一寸五尺ほどの長さに切つて、二ツ割りにする、これをもクチアケと謂ひました。そして十四日の朝、茄子の莖を燒いた炭を溶《と》いて、藤の枝の筆で割口へ、平年なれば十二月、閏年なれば十三月と書いて二つを一組として、家の出入口、神棚等、總て、大晦日注連繩を飾る場所に立てゝ、小豆粥を煮て、其頭に一匙宛のせて祭りました。十五日の朝は、それに雜煮を供へるのもありました。十五、十六と三日間祭つて、十七日の朝に取片附けました。あとの木は、屋敷の裏などへ積んでおきましたが、近い頃になつてからは、薪にして焚《た》く家もあつたと云ふことです。

 神棚、佛壇などに立てるものは、タマの木(桂)で丈五寸程の小さなものを造つて、橫に月の數程の線を引きました。

[やぶちゃん注:「ニユウ木」「乳木(にゆうもく)」由来か。本来は仏語で、護摩に用いる木を指し、乳汁の多い生木を用い、火勢を強めるものだが、一派には松・杉・檜などが用いられる。

「櫟」ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima であるが、何故、櫟なのかはよく判らない。ただ、昔から薪炭木として重宝されたことから、山村の横山では極めて身近な利用木として親しみがあった樹木ではあろう。

「タマの木(桂)」ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum は、当該ウィキによれば、『和名』『は葉の香りに由来し、落葉した葉は甘い香りを発することから、香りが出ることを意味する「香出(かづ)る」が名前の由来といわれている』とあり、また、材も『香りがよく、広葉樹の中では材質は腐りにくくて耐久性があり』、『軽くて柔らかく加工しやすい上、狂いがない特性を持っている』。『ヒノキの生えない東北地方では、木彫りの用材にもなった』とあって、さらに、本邦では、『直立する幹が仏像の一本づくりに使われたことから、カツラの前で手を合わせる習慣もある』とあった。]

 

 ○モチ井  正月十四日から十六日までをモチイと言って一四日には餅を搗き、再びお年取を祝ひます。この日、米の粉で團子、繭、綿の花、立臼、ふくら雀、粟穗、稻穗などの形を造って、野生の梅の枝にさして、神棚や臺所の柱にさして飾りました。これも十七日の朝迄おいて、其朝汁粉を煮て中に入れて食べました。

[やぶちゃん注:旧正月由来の儀式である。

「モチ井」「もちひ」が正しい「餅」をかく読む。「糯(もち)の飯(いひ)」が原義で「餅」に同じである。平安からある古語である。]

 

 ○節分  節分には、クロモジの枝に、煮干の頭をさし、それにアセボと云ふ木の枝を添へて、家の出入口にさしました。

 また籠を倒さに吊《つる》して、中に古簑《ふるみの》と笠を入れて、それを棒の先につけて、表に立てました。

 豆撒きの後、家内揃つて圍爐裡《ゐろり》の傍に集つて、豆を食べながら、豆で種々な占ひをしました。茶釜の中へ、豆を一握り程投げ込んで、其茶を汲み出して飮んで、豆が入つて來ると、其年幸福があるなどゝ謂ひました。又、オキョー葉といって、タマの樹の葉より少し大きな木の葉を採って來て、それに、火炭を載せて、葉に現はれる火のあとの形によつて、文字占《もじうらなひ》をやりました。如何にして占つたか記臆してゐませんが、鍋弦《なべづる》が出たなどゝ云つた事を記臆してゐます。

[やぶちゃん注:この前半の飾りは、ウィキの「節分」を見られたいが、その前者は一般に「柊鰯」(ひいらぎいわし)で知られる魔除けで、通常は柊の小枝と、焼いた鰯の頭を家の門口に挿した。ウィキの「柊鰯」によれば、『西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいう』とあり、『柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)』とある。後者は、「目籠」(めかご)と呼ばれるそれで、前の方のリンク先に、「目籠」の項があり、『千葉県では目籠を逆さまにして竹竿に吊るし、鰯の頭を大豆の枝に刺したものとヒイラギ・グミの枝を束ねて門口に刺し、鬼が近づかないようにする』。『静岡県の中西部では、目籠にハナノキとビンカを結び付けて竹竿に吊るし、軒先高くに掲げて鬼を払う「鬼おどし」と呼ばれる習慣がある』。『山梨県では、目籠とネズの枝をしばり付けた長い竹竿を庭先に立て、籠の目を鬼の目として豆を投げてこの目をたくさんつぶすと一年の災いや不幸が減少するという信仰があり、昭和』三十『年代まで盛んに行われていた』。『岐阜県恵那地方では、割り箸に刺したイワシの頭としっぽ、柊または馬酔木の枝を目籠に挿して、玄関に置く。鬼が玄関前で立ち止まり、籠の目を数え始めるとされる』(数えだしてきりがなくなって疲れ切り、侵入を禦ぐというのであろうか)。ここで早川氏の言っているものは、鬼に対抗する異形の一本足の物の怪のハリボテというニュアンスが強く感じられる。

「クロモジ」「黑文字」はクスノキ目クスノキ科クロモジ属クロモジLindera umbellata のこと。当該ウィキによれば、『特に生薬名はないが、枝と葉は薬用になり、材から爪楊枝』や箸『を作る』ことで知られ、爪楊枝の異名にもなっている。さらに近年、『抗ウイルス作用が知られ』るようにもなった。民俗社会では、そうした効用が素朴な知識として古くから意識されていたものであろう。

「アセボ」有毒植物として知られるツツジ目ツツジ科スノキ亜科ネジキ連アセビ属アセビ亜種アセビ Pieris japonica subsp. japonica の異名「馬酔木」(アシビ)の転訛。毒を以って鬼や凶を制するわけである。個人的にはあの小さな壺型の花が好きでたまらない。

「オキョー葉」は思うに「御經葉」であろう。古代インドに於いて紙がなかった頃、御経を木の葉に刻んだ貝葉経(ばいようきょう)があったが、それがルーツと思われる。Tobifudoson Shoboin氏のサイト「やさしい仏教入門」の「貝葉経」で実物の写真を見ることが出来る。頗る妖しい詐欺同前の「アガスティアの葉」(知らない方は当該ウィキをどうぞ)のように、葉に書かれる文字というのに人は神秘を感じ、惹かれやすく、騙されるのである(私は、まるまる一冊、その追跡と暴露を記した本を読んだ)。

「鍋弦が出たなどゝ云つた」意味不明。]

 

 ○田植の事  春苗代を作る事をフムと謂つて、鍬を使はないで、柴を足で田の底へ踏込みました。又苗代の肥《こや》しは、石菖を入れるものと謂つて、これを肥しにする風習がありました。石菖のやうな、腰のしつかりした苗の出來るやうに肥しにするのだと謂ひました。

 苗代に籾を播いて、家へ歸つて剃刀を使ふと、其籾が全部跳ね出してしまふと謂ひました。

 又、妻の姙娠中、新しく田の水口を切ると、生れる子供が三ツ口になると謂ひました。三ツ口のことをグチョーと謂ひました。

 田植の時、植代を造ることをカクと言つて、多く馬でカキました。馬を挽いて大騷ぎをしてやると豐作だと云ひました。シロカキには裸體の上に蓑を着て、足の脛《すね》に藁を結びつけました。馬の口をとるを、ハナドリと謂ひました。

 苗取りの時、苗を結《ゆ》へる藁は結切《むすびき》らぬものと謂つて、又これを切る事も土の中へ踏み込むことも禁じました。又苗を一ツの田に植へ[やぶちゃん注:ママ。]かけて、中止する事も厭《いと》ひました。植了《うゑをは》ると、皆の者が畦に立つて、見事だ見事だと謂つて譽めると豐作がとれると謂ひました。自分の家の田植が濟むと、他の家へ手傳《てつだひ》に行くものでしたがこれをお見舞と謂ひました。

[やぶちゃん注:「土の中へ踏み込むことも禁じました」ちょっと意味がとり難い。藁で結びきってしまった苗を持ってうっかり田地に立ち入ることを禁じたということか。

「見事だ見事だと謂つて譽めると豐作がとれる」祝祭系の予祝型共感呪術の典型である。]

 

 ○ウンカ送り  これは明治二七八年頃まで行つたさうですが、附近の村で、ウンカ送りをやつたと聞くと、早速《さつそく》村の者が遠江の秋葉山《あきはさん》へ行つて御火《おんひ》を火繩につけて迎へて來て、この火を高張提燈に移し、火繩は竹の先に揷《はさ》んで、其を先頭にして、太鼓、鉦、笛の鳴物入りで、幣帛《へいはく》を持つて田面《たづら》を拂ひながら、未だウンカ送りの濟まない村の境まで練《ね》つて行つて、其處で、幣帛を燒き捨てるのでした。

[やぶちゃん注:「虫送り」である。農作物に着く害虫を駆除・駆逐し、その年の豊作を祈願する呪術的農行事。「虫追い」とも言い、西日本では「実盛送り」「実盛祭(さねもりまつり)」など数多くの別名がある。詳しくは、参照した当該ウィキを見られたい。これは、同一地域では共時的行わないと、虫がまだやっていない地区へ移動してしまう限定おっぱなしタイプの呪術であるから、ここに出るような慌てふためいた仕儀が起こるのである。なお、「ウンカ」という標準和名を持つ生物、昆虫はいない。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚋子(ぶと)の「「浮塵子〔(ふじんし)〕」の注を参照されたい。

「明治二七八年頃」一八九四、五年。

「遠江の秋葉山」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端にある標高八百六十六メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。古くより修験道の聖地とされ、山頂近くに、「火防(ひぶせ)の神」として知られる「秋葉大権現」の後身である「秋葉山本宮秋葉神社」と、神仏分離令で分かれた「秋葉山秋葉寺(あきはさんあきはじ)」がある。まさに「火伏の神」であるからして、そこの火はあらたかな神火なのである。]

 

 ○ギオン送リ これは四十年程前迄行つたさうですが、六月七日の日に、大人は村の御堂に集つて祈禱をして、子供連《づれ》が幣帛の先に、其年の初小麥を紙に包んで結ひつけて、鉦太鼓で賑かに村境迄送り出して行つたと謂ひます。又六月十五日をギオンと謂つて、此日は一切川へ行く事を忌みました。ギオンには下駄の齒の跡の水溜りにもジヤが居ると謂ひました。

[やぶちゃん注:これも前の「虫送り」と同じ五穀豊穣に基づく悪霊退散の行事である。元来は、牛頭天王と素戔嗚尊を崇める神仏習合の祇園信仰がルーツである。

「ジヤ」「邪」。]

西播怪談實記(恣意的正字化版) 東本鄕村蝮蝎を殺し報の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたいが、前回の冒頭注で示した通り、前回より最後までは、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して続行する凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。

 なお、「蝮蝎(うはばみ)」は誤表記ではない。超巨大な大蛇「蟒蛇(うはばみ)」はこの漢字表記もする。所謂「まむし」と「さそり」ではあるが、それらは広く悪類獣の喩えとしてそれに当て字するのである。例せば、日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらのタイトルは「ウワバミ」としつつ、漢字表記を『蝮蝎』と当てており、出典は神谷養勇軒の説話集「新著聞集」(寛延二(一七四九)年刊)である。因みに本書は、宝暦四(一七五四)年刊である。]

 

 ○東本鄕村(ひがしほんごうむら)蝮蝎(うはばみ)を殺(ころせ)し報(むくひ)の事

 佐用郡東本鄕村、さる農夫の所持の田の邊(ほとり)に、榎(ゑのき)の古木(こぼく)在(あり)しが、眞(しん)[やぶちゃん注:「芯」。幹(みき)。]は朽(くち)て、皮斗《ばかり》のやうに見へけれども、年々、葉を出す事、若木にも替(かは)らざりけり。

 正德年中の事なりしに、其榎の邊(へん)に、いつ集(あつめ)しともなく、蜷(にな)のから、有(あり)しが、段々に、多く成(なり)て、めだつ斗(ばかり)にも成ければ、

「誰(たが)持(もち)きたりて、爰には、捨(すて)るにや。」

と、農夫も怪(あやし)み、人にかたりても、多(おほく)は、不審をぞ、なしにける。

 ある時、𢌞國(くわいこく)の僧、立寄(たちより)て、茶を所望してゐけるに、

「しかじか。」

の、よしを語るに、僧のいふやう、

「其榎には、必定(ふつでう)、蝮蝎(うはばみ)、住(すみ)たるなるべし。其蜷のからは、餌(ゑ)にしたる、から、なり。いかにといふに、其蝮蝎に、もろもろの小蛇(こへび)、蜷、壱つづゝ、くはへ來《きたり》て饋(おく)るもの也。」

と、いひければ、

「げにも。さもあらん。」

と、聞人每(《きく》ひとごと)に、恐(をそれ)て、彼(かの)榎の邊(へん)へは壱人《ひとり》も行《ゆく》もの、なし。

 夫(ふ)、つくづくと思ひけるは、

『秋田(あきた)には守(もり)を【「守」とは、菰莚《こもむしろ》などにて仕立《したて》、夜《よる》、行《ゆき》て、田を守《まもる》所なり。】懸(かけ)て、よなよな、行(ゆく)なり。それに、かく恐ては、難儀の事なれば、いで、燒殺すべし。』[やぶちゃん注:「秋田」は一般名詞で「秋の稔りの成った田」の意。]

と了簡を極(きは)め、彼榎の四方に、柴を積上(つみあげ)、火を放(はなち)けるに、餘煙(よゑん)、谷に滿(みち)て、終(つい)に榎も灰燼(くわいじん)となれば、人皆(《ひと》みな)、興(けう)を、さましける。

 しかれども、蝮蝎は、始終、目には見へねども[やぶちゃん注:ママ。「見えねば」が相応しい。]、

「定(さだめ)て、燒殺(やきころ)さるべし。」

と沙汰しけるとかや。

 かくて、一兩年、過《すぎ》て、秋、守(もり)を懸(かく)るに、燒失(やけうせ)たる榎の跡より、杖(つゑ)ほどなる若生(わかはへ)、二、三本、出(いで)けるを、こだてに取(とり)てかけ置(をき)けるが、ある夜(よ)、自身(じしん)に守に行(ゆき)て、前後もしらず、伏(ふし)ゐたりけるに、ほぐしの火、もえ出《いで》て、守に移(うつり)、一時(いちどき)に火に成(なり)ければ、とやかくする内に、惣身(そうみ)、燒(やけ)て、漸(やうやう)に這出(はひいで)、歸(かへり)て、色々と治療すれども、大疵(おほきず)なれば、叶(かなは)ずして、終(つい)に死《しに》けり。

 是を、きく人、

「疑(うたがい)もなき、蝮蝎の報(むくひ)ぞ。」

と沙汰しける趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:「佐用郡東本鄕村」「ひなたGPS」でも「東本鄕」は見当たらないので、現在の佐用町本郷(グーグル・マップ・データ航空写真)の東ととっておく。佐用町の中心地より東へ五キロほど行った山間の幕山川沿岸に当たる。

「一兩年」一、二年。

「ほぐし」「火串」。火をつけた松明(たいまつ)を挟んで地に立てる木。狭義には、夏場に、これに鹿などの近寄るのを待って射取ったりするものだが、ここは秋の夜の田守の照明用である。]

西播怪談實記(ここ以下は恣意的正字化版に変更) 河虎骨繼の妙藥を傳へし事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。しかし、前回の最後の注で述べた通り、これまで底本としてきた「国文学研究資料館」のこちらの写本は実は不全写本で、以下の巻三の七話と卷四総て(全十二話)が載っていない。私自身が完本写本と思い込んで始め、最近になって不完全写本であることに気づいたていたらくであった。しかし、ここで尻切れ蜻蛉で終わらせる気は、毛頭、ない。その昔は原本を見ることが出來ない時、歴史的仮名遣は温存している敗戦直後まで近現代小説でよくやったのだが、以降は、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」北城信子氏校訂の本文を恣意的に概ね正字化(今までの私の本電子化での漢字表記も参考にした)して続行することとする凡例は以前と同じで、ルビのあるものについては、読みが振れる、或いは、難読と判断したものに限って附す。逆に読みがないもので同様のものは、私が推定で《 》で歴史的仮名遣で添えた、但し、「巻四」の目録の読みについては、これまでと同様に総て採用することとする。歴史的仮名遣の誤りは同底本の底本である国立国会図書館本原本の誤りである。【 】は二行割注。挿絵は新底本のものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した(底本の挿絵については国立国会図書館本の落書が激しいため、東洋大学附属図書館本が使用されている)。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 今回は「……」を使用した。]

 

 ○河虎(かはとら)骨繼(ほねつぎ)の妙藥を傳へし事

 佐用郡、さる御家中より「骨繼の妙藥」を出《いだ》さる。其功、甚(はなはだ)多し。尤《もつとも》、世に、

「河虎の傳(でん)。」

とて、信仰せり。

 其所謂(いわれ)を聞(きく)に、寶永の比《ころ》とかや、七月下旬の事成《なり》しに、殘暑、强(つよく)して、駒も廏(うまや)に、けだへければ、野飼(のがい)のため、河邊へ出《いだ》し、木陰の小き柳に繫置(つなぎをき)たり。[やぶちゃん注:「けだへ」は見かけない語である。「けだちければ」なら、「蹴立ちければ」で暑さに上気した馬が、「後ろ足で蹴って起き上がって」「荒々しく立ち上がって」の意でとれるのだが。「氣絕(けだ)へ」なら、「暑さにやられて、ぐったりしてしまう」の意ともとれようか。]

 然(しかる)に、駒(こま)、何かはしらず、引《ひき》ずり歸(かへり)て、廠ヘ、一さんに走入(はしりいる)。

 仲間、

「何事やらむ。」

と、行《ゆき》てみれば、片隅に、猿のやうなるもの、手綱を身にまといて、かゞみ居《ゐ》る。

 


Kawatora

 

 駒は、向(むかい)の方にて、息を繼(つぎ)ゐたるを、柱に繫置、彼(かの)ものを、引出《ひきいだ》し、庭の柹(かき)の木に結付(ゆいつけ)て、能々(よく《よく》)みれば……

容(かたち)……猿に似て……猿にあらず……

頭上(づぜう)に……少(ちと)……窪みあり……

髮は……赤松葉のごとくにして……

……大《おほい》猿程なり……

「是、聞《きき》及ぶ河虎(かはとら)なるべし。」

と、寄々(より《より》)、評判の最中に、檀那、歸(かへり)て、件(くだん)の子細を聞《きき》、

「己(をのれ)、憎奴(にくきやつ)なり。此川筋(このかはすじ)にて、折々、人も失(うせ)るは、己(をのれ)が仕業(しわざ)なるべし。なぶり殺にしてくれん。」

と大(だい)の眼(め)をいからし、脇差を拔(ぬき)て、右の手を打落(うちをと)せば、河虎、

「しほしほ」

として、淚をながしていふやう、

「我、今日《けふ》、馬を淵へ曳入(ひきいれ)むとして、誤(あやまつ)て引(ひき)ずられきたりて、うきめにあふ。命(いのち)を助(たすけ)給へ。今より、御一門はいふに及(をよば)ず、當村(とうむら)の衆(しう)へ、少(すこし)も手を出《だ》すべからず。」

といへば、且那、

「其方を殺したりとて、躬(み)が手柄にもならねば、品(しな)により免(ゆる)しても、とらすべし。『誤證文(あやまりしやうもん)』を書(かく)べし。」[やぶちゃん注:「誤證文」「謝り證文」。所謂、「詫び証文」である。]

といふ。

 河虎、荅(こたへ)て、

「元來、物書事(ものかくこと)は、ならず。其上、手も、なし。免し給ひ、御慈悲に、先刻、切(きり)給ふ手も、御返し下され。」

といふ。

 且那、

「切たる手をかへしたりとて、繼(つぐ)事も成(なる)まじ。此方(このかた)に置(をき)て己(をのれ)とらヘし印(しるし)とせん。」

といへば、一向(ひたすら)頭(づ)を下(さげ)て、

「是非とも、御かへし下さるべし。罷歸《まかりかへり》候へば、今宵の中(うち)に元の如く繼(つぎ)申す。」

といふ。

 且那、「其藥(そのくすり)は己(をのれ)が調合するか。」

といへば、

「なるほど、拵(こしらへ)申す。」

といふ。

「しからば、手を戾すべし。其藥方(やくほう)を、我につたへよ。」

といひければ、

「命の代(かはり)なれば、安き事なり。」

とて、人をはらひ、密(ひそか)に祕藥(ひやく)を傳(つたふ)れば、念比(ねんごろ)に認(したゝめ)とりて、彼(かの)手を返し、河虎は川へ送(をくら)せけるが、其後(そのゝち)、其所(そのところ)にては、人も、失(うせ)ず。

「殊更、藥方、奇(き)にして、子孫に傳はりしは、此いはれ。」

と、聞《きき》ふれし趣《おもむき》を書《かき》つたふもの也。

[やぶちゃん注:「河虎」は「河童」類の中国由来(但し、本邦の河童とはヒト型形状の異種幻獣である。ウィキの「水虎」(すいこ)を参照されたい)の別名。「かはこ」とも読む。典型的な河童駒引譚である。私の「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(11) 「河童ノ詫證文」(2)」にも引用されてある。柳田國男のその「河童駒引」パートは、私のブログ・カテゴリ「柳田國男」で、ここを初回として全四十一分割で、電子化注してあるので、参照されたい。

「寶永」一七〇四年から一七一一年まで。徳川綱吉・家宣の治世。]

2023/03/10

西播怪談實記 下德久村法覺寺本堂の下にて死し狐の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本冊標題はここ。本文はここから(標題のみで本文はここから)。]

 

 ○牧谷《まきたに》村平右衞門《へいゑもん》狐火(きつね《び》)を奪(むはい[やぶちゃん注:ママ。])し事

 宍粟郡(しそう《のこほり》)牧谷村といへる所は、元來、山、深くして、土地、狹く、寔《まこと》の片山里《かたやまさと》なり。

 爰《ここ》に平右衞門といひし農民あり。

 正德年中のある七月の事成《なり》しに、夜更(よふけ)て、自用(しよう)に行《ゆき》、雪隱(せつちん)の下、谷川なれども、照《てり》つゝきたる殘暑にて、水も絕々(たへ《だえ》)なり。時に十間斗《ばかり》先にて、明松(たいまつ)をともすを、窓よりのぞきて見れば、狐火也。

 段々、谷川をつたひて、此方ヘ來《きた》るを見るに、蟹(あかにこ[やぶちゃん注:ママ。この読みは不詳。但し、サワガニを指すことは間違いない。])を、取《とり》て喰(くら)ひ、火は三味線の「ばち」のやうなるものを、口に、くはへて、ふれは[やぶちゃん注:「振れば」。]、火、とほる。

 平右衞門、つくづくと、是をみて、

『さても。重宝(でうほう)なるものなり。何とぞ、奪(むは)ひ取《とら》ん。』

と思ふ内に、はや、雪隱の眞下へ來《きたり》ければ、内より、平右衞門、

「わつ。」

と、いふて、飛出(とび《いづ》)るに、狐、大《おほき》に周章(しうせう)して迯(にけ)けるに、何やら、足本《あしもと》へ、

「からり」

と落(をと)しけるを、

「彼(かの)ものにや。」

と探𢌞(さくり《まは》)り、漸(やうやう)、取得(《とり》ゑ)てみれば、「ばち」に似て、牛の骨のやうなるものなり。

 開《ひらけ》る方《かた》を上(かみ)ヘして、ふれば、

「はつ」

と、もゆる事、小《ちさき》明松(たいまつ)の如く、細き方を上へすれば、忽(たち《まち》)、消(きゆ)る。

「是を所持すれば、烑燈(てうちん)・明松の入《い》るにこそ。」

と独笑(ひとりゑみ)して、大事に懸箱《かけばこ》に納《いれ》てぞ、伏《ふし》たりける。

 然るに、翌《あく》る夜、家内(かない)も寢しづまりて、平右衞門が寢間の戶を叩きて、

「今のを、返せ、返せ。」

と、二、三人斗《ばかり》の声にて、いへば、内より、

「返す事は、ならぬぞ。いね、いね。」

と、いふて、臥(ふし)ゐたり。

 又、翌夜(よくよ)は、二、三十人斗、きたりて、

「戾せ、戾せ、」

と、いふに、平右衞門、敵《てき》ものにて、そしらぬ體(てい)にて、臥(ふし)ゐたり。

 三夜《よ》めには、百四、五十人もきたるやうにて、家の四方を取卷(とりまき)、

「返せ、返せ、返さぬと怨(あた)を、なすぞ。」

といふに、家内《かない》のもの共、恐《おそろし》ければ、平右衞門、止事(やむを)を得ずして、彼ものを取(とり)出し、戶を明《あけ》て、

「返すそ、請取《うけと》れ。」

と、いふて、庭へ抛出(なけ《いだ》)し、戶をさして、入《いれ》けるが、其後《そののち》は、何の音も、せざりけり。

 されば、世閒にて、誰(たれ)慥(たしか)に見しものは、なけれども、

「狐火《きつねび》は、牛の骨なり。」

と、いひ傳へり。

「誠に、似たるものにて、骨には、あらす。」

と、佐用村の大工、三大夫といひしもの、

「牧村《まきむら》へ細工(さいく)に行《ゆき》て、右の平右衞門、直噺《ぢきばなし》を聞《きき》ける。」

とて、物語の趣を書傳者也《かきつたふものなり》。

[やぶちゃん注:類話を読んだことがない。オリジナリティ満載の「狐の火附け器」は面白い!

「宍粟郡牧谷村」現在の兵庫県宍粟市山崎町上牧谷(かみまきだに)の周辺地区。佐用の東北東。可能性としては、南北に貫流する伊沢川沿いに家があったものと推察する。

「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。徳川家宣・家継の治世。

「自用(しよう)に行」「じよう」。私事(わたくしごと)。ここは便所に行くこと。

「雪隱(せつちん)の下、谷川なれども」文字通りの「厠」(かはや:川屋)で、恐らくは伊沢川に張り出した、下は川岸に開いた解放式の便所である。以下の叙述から、河原の様子が見えることから、かなり高い位置にあることが判る。こうした雪隠については、谷崎潤一郎の「厠のいろいろ (正字正仮名版)」を読むにしくはない。

「十間」約十八メートル。

「牧村」この周辺ではあろう(グーグル・マップ・データ)。「ひなたGPS」でここだが、特に「牧村」の表示は、もう、ない。

 なお、実は底本の本篇最後の部分には、ご覧の通り、

   *

 ○西播怪談實記三

   *

とあり、二丁空けると、また、例によって、

   *

 寛政十三年

   酉正月中旬写之

      上州碓氷郡八幡村

             矢口牧太郎

                書之

(以下は左丁下方)   拾□□□(落款カブリ)

   *

という筆写者の記名があって(□は判読不能字)、全巻が終わっている。「寛政十三年」は一八〇一年。本書の板行は宝暦四(一七五四)年であるから、四十七年後である。「上州碓氷郡八幡村」は群馬県高崎市八幡町(やわたまち:グーグル・マップ・データ)に相当する。「矢口政太郞」は不詳。

 ところが、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」では、まだ「巻三」は七話を残し、しかも「巻四」が、まだ、あるのである。全く以って私は大呆けで、電子化開始時に、底本が不完全であることを知らずに始め、最近になって、不全写本であることが判ったのであった。しかし、他にネットで視認出来るものはない。されば、以降は、北城信子氏校訂の上記「近世民間異聞怪談集成」の本文を恣意的に正字化(嘗つてはよくやった)して続行することとする。悪しからず。

早川孝太郞「三州橫山話」 「臼と土公神」

早川孝太郞「三州橫山話」 「臼と土公神」・

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○臼と土公神  家の入口を、は入つたところの土間をニハと謂つて、正面に立臼《たてうす》が二ツ据《す》えてありました。左手は座敷で、オヱだのオデヱだのと謂つて、右に厩《うまや》が設けてあつて、鷄の巢は多く厩の上に造つてありました。

 臼は北山御料林が伐り拂ひになつた度に各戶へ一組宛下されたものださうで、一ツでは餅を搗き、一ツは手杵《てぎね》で、粟や黍《きび》を搗くに用ひました。餅を搗く方が上手に据へてありました[やぶちゃん注:『日本民俗誌大系』第五巻版でも『据えてありました』であるが、思うに、「据へてありました」は「拵」(こしら)「へてありました」の誤りではなかろうか?]。

 臼を尊重する風習があつて、女が杵を跨げば何より重い罪だと云つて、過つて跨いだ時は、其杵を負つて、屋根棟を越えさせられるものと謂ひました。又子供が生れて、初めて母親の里へ連れて行つた時は、第一番に内いそぎをしない樣にと云つて、臼の中へ入れる風習がありました。

 臼の据わつてゐる奧に竈《かまど》が設けてあって、其處に土公神が祀つてありました。多くは其がカマ屋の大黑柱になつてゐるので、其柱にお札などを入れる所が造つてありました。竈のことをクドと謂ひました。土公神は鷄を好むと云つて、鷄を描いた繪などが柱に張つてありました。又松を供へるものとも謂ひました。

 萬歲は土公神を祭るものと謂つて、每年𢌞つて來る萬歲はきまつてゐて、それが來た時は先づ座敷に通して、盆に白米とオヒネリを添へて差出しました、[やぶちゃん注:ママ。]萬歲の方からは、火の用心の札だの惠比壽大黑の札を置いて行きました。奉祝萬歲樂などの文字を書いた札を置いてゆくのもありました。大澤佐重だの森下金太夫など、云ふ名を持つた萬歲が來ました。大澤佐重の僞者《にせもの》が來たなどと言つて騷いだ事がありました。

[やぶちゃん注:「左手は座敷で、オヱだのオデヱだのと謂つて」この「オヱ」「オデヱ」は推理に過ぎないのだが、「土間・庭に対して、畳の敷いてある座敷」を江戸時代に言った「御上」(おうへ(おうえ))の転訛したものではなかろうか?

「臼を尊重する風習があつて、女が杵を跨げば何より重い罪だと云つて」これには、恐らく性的な象徴関係が一面では強く作用しているものと思われる。「物事の逆さまなことの喩え」に「臼から杵」があるが、これは形状と使用法から「臼」は「女」、「杵」は「男」の象徴であって、これは「(男から女に言いよるのが普通であるのに)女から男に働きかけること」の意である。

「内いそぎをしない樣に」意味がよく判らない。家内で早々と亡くなったりしないようにの意か? いや、女性器の象徴たる臼に「戻す」ことで、出征時間を更新し、初潮の始まりをゆっくらとする儀式か? どなたか、御教授願いたい。

「土公神」当該ウィキによれば、「どくしん・どこうしん」とは、『陰陽道における神の一人。土をつかさどるとされ、仏教における「堅牢地神」(けんろうちしん=地天)と同体とされる。地域によっては土公様(どこうさま)とも呼ばれ、仏教における普賢菩薩を本地とするとされる』とし、『土をつかさどるこの神は、季節によって遊行するとされ、春はかまど(古い時代かまどは土間に置かれ、土や石でできていた)、夏は門、秋は井戸、冬は庭にいるとされた。遊行している季節ごとにかまどや門、井戸、庭に関して土を動かす工事を行うと土公神の怒りをかい、祟りがあるという』。『また、土公神は』「かまどの神(かまど神)」とも『され、かまどにまつり』、『朝晩に灯明を捧げることとされる。この神は、不浄を嫌い、刃物をかまどに向けてはならないとされる』とある。

「萬歲」「千秋万歳を言祝ぐ」の意で、新年を祝う歌舞、及び、その歌舞をする大道芸・大道芸人を指す。鎌倉初期以来、宮中に参入するものを「千秋万歳」(せんずまんざい)と呼び、織豊・徳川の頃には単に「万歳」と呼んだ。江戸時代、関東へ来るものは、三河国から出るので「三河万歳」、京都へは大和国から出るので「大和万歳」と称し、服装は、初めは折烏帽子・素袍(すおう)であったが、後には風折(かざおり)烏帽子に大紋(だいもん)の直垂(ひたたれ)を着、腰鼓(こしつづみ)を打ちながら、賀詞を歌って舞い歩いた(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「大澤佐重」不詳。萬歳師の著名な名か。識者の御教授を乞うものである。

西播怪談實記 下德久村法覺寺本堂の下にて死し狐の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本冊標題はここ。本文はここから。]

 

 ○下德久《しもとくさ》村法覚寺《ほふかくじ》本堂の下にて死(しせ)し狐の事

 佐用郡下德久村に法覚寺といへる眞宗の道場、在《あり》。

 正德年中の六月の事なりしに、住持、暑(あつき)に堪兼(たへかね)て、本堂に續《つづき》たる客殿(きやくでん)、凉しかりければ、書院の際(きわ)に、枕を取《とり》て休(やすみ)けるに、何所《いづこ》ともわかず、寄合(より《あひ》)、鳴(なく)聲の、かすかに、聞へけり。

 暫(しはし)ありて、餅をつく音も聞へけれは、

「さては。花足(けそく)をするならむ。村の中《うち》に、大病人も聞《きか》ざりしが、頓死など、しけるにや。」

と、世の無常も思ひ出られ、哀(あはれ)を催しながら、庫裡(くり)へ出て、

「誰(た)そ、村の中《うち》に、死けるや。」

と問(とふ)に、

「何の噂もなく、殊更、村の中に病人有《あり》とも、きかず。定(さため)て、晝寢の中《うち》に、夢を見給ふにや。」

と、口々に荅(こたへ)て、笑ければ、又、以前の書院へ立歸《たちかへり》て聞《きく》に、何の音もせざれば、

「堵は。我、少《すこし》の内にまどろみ、夢を見たるにや。」

と、其後は噂もせすして居《をり》けるに、翌、朝陰(あさかけ)に、前栽(せんさい)へ、供養の花を切《きり》に出《いで》けるに、本堂の北の側《がは》に、狐、壱ツ、死《しし》てゐければ、

「偖は。きのふの音は、是ならん。」

と、寺内(しない)のものを呼《よび》て見せ、後(うしろ)の山に埋(うつ)み、寺僧ども、「阿弥陀經」を讀誦(とくしゆ)して遣はしけるよし。

 予が檀那寺なれば、直噺(ちきはなし)をきゝける趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「法覚寺」兵庫県佐用郡佐用町下徳久に現存する(グーグル・マップ・データ)。

「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。

「華足」「花足」とも書く。ここでは「仏に供える餅」を指す。元々は、机や台などの脚の先端を、外側に巻き返して蕨手(わらびて)とした脚の附いた供え物を盛る器のことを指したものが、転訛したもの。

「朝陰」「朝影」。原義は「朝日の光り」で、朝日が射しかかってくる頃。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 秋(アルベール・サマン)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

   サマン

 

うづまく風は扉をたふし、

そのしたに森は髮のやうに身をもだえる。

かちあふ木々の幹は砂(いさご)の輾轉する海のひびきのやうに、

はげしい風鳴りをたかめてゐる。

 

おぼろな丘(をか)におりてくる秋は、

重い步みのうちにわたし達の心をふるへさせる。

そしてどんなにいたはしく萎れた薔薇のめめしい失望を、

かなしんでやるかをごらんなさい。

 

休みなくぶんぶんいつた黃金色の蜂の翔けりも沈默した。

閂は錆のついた門格子にきりきりとなる。

あを蔦(つた)の棚はふるへ、地はしめつてきた。

そして白いリンネルは圍(かこ)ひ地のなかに、 うろたへてかさかさとする。

 

さびれた庭は微笑する、

死がくるときに、 ながながとお前に別れをいふやさしい顏のやうに。

ただ鐵砧(かなしき)のおとか、 それとも、 犬のなきごゑか、

うつたうしくしめきつた窓ガラスにやつてくる。

 

母子草と黃楊(つげ)の樹の瞑想をさましつつ、

鐘はひくいねに檀家の人の心になりいでる、

また光りは苦悶のはてしない身ぶるひをして、

空のふかみに、ながいながい夜のくるのをきいてゐる。

 

このものあはれな長夜(ながよ)も明日(あす)になつたらかはるだらう、

すがすがしい朝とひややかな又うつけな朝と、

たくさんの白い蝶は葉牡丹(はぼたん)のなかにひらめきながら、

また物音はこころよい微風の中にさはやかになりながら。

 

それはさておき、 この家はお前のことを嘆きもしないで、

その木蔦と燕の巢とでお前をもてなしてくれる、

そして自分のわきに放蕩者のかへるのを待ちうけて、

ながい藍色の屋根の波にけむりをのぼらせる。

 

命(いのち)がやぶれ、ながれいで、もえあがるとき、

うき世のつよい酒にゑひしれて、

血の盃(さかづき)のうへにおもい髮の毛がたれかかれば、

よごれた魂はちやうど遊女のやうである。

 

けれども、 鴉は空のなかに數しれずむらがる、

そしてもはや、 さわがしい狂氣をすてて、

その魂は、旅人が歸り旅のみちすがら、

なじみの調度にめぐりあふたのしい嘆息をおしのける。

 

夏の花びらは花梗のうへに黑くしをれてゐる。

おまへの室にまたはひり おまへのマントを釘にかける。

水のなかの薔薇のやうなお前のゆめは、

仲のよいランプのあまい太陽にひらいてくる。

 

思ひにしづんでゐる時計では、

知らせの鈴(りん)がひそかに沈默の心をうつ、

窓ぎはの孤獨はその氣づかひをひろめてゆき、

かがみながら姊のやうにおまへの額に接物する。

これは申分のない隱(かく)れ家(が)だ、これは氣持のよい住居(すまひ)だ。

あつたかい壁の密室、ひまもない竃(かまど)、

そこで極めて稀なる越栗幾失兒(エリキシル)のやうに、

内心の生命(いのち)のうつくしい本質をつくりあげる。

 

そこに、 お前は假面と重荷とをとりのけることが出來る。

騷擾からはなれて、 いな虛飾から遠くのがれて、

いとしいものの匂ひを、 カーテンの襞(ひだ)のなかにあらはになつてゐる。

おまへの胸にばかりただよはせるために。

 

このときこそ、 心おきなく仕事にいそしんでまことの神を禮拜し、

神々しい身ぶるひがお前の年若さと淸らかさとを、

はればれとあらはすやうになつてくる。

秋はこのためにたぐひないよい季節である。

 

すべてのものはしづかに、 風は廊下の奧にすすりなき、

お前の精神はおろかなる鎖をたちきつた。

そしてうごかない時の水のうへに裸のままうなだれて、

そのふさはしい鏡のきれいな水晶に自分の姿をうつす。

 

それは消えかかつた火のわきの裸の女神(めがみ)である、

あたらしい空氣のなかに船出(ふなで)するぼんやりとした大きな船である、

肉感的な、また物思はしい接吻のするどい液(しる)と、

人に知られない水のうへの日沒である………

 

[やぶちゃん注:アルベール・ヴィクトル・サマン(Albert Victor Samain 一八五八年~ 一九〇〇 年 )は〈秋と黄昏(たそがれ)の詩人〉と称えられたフランス象徴派の詩人。リール生まれ。パリに出て文芸雑誌『メルキュール・ド・フランス』(Mercure de France)創刊に協力した。代表作に象徴派風の第一詩集「王女の庭で」(Au Jardin de l'Infante :一八九三年)、高踏派風の第二詩集「壺の肌に」(Au flanc du vase:一八九八年)がある。ボードレールから強い影響を受け、ヴェルレーヌの詩にも感化された、やや病的なエレジーを得意とした。

「閂」は「かんぬき」と読む。

 以下にフランス語サイトのこちらにある原詩を引いて示す。それのよれば、一八九四年十月、パリ南西近郊のイヴリーヌ県にあるマニー=レ=ザモーでの作。

   *

 

   Automne   Albert Samain

 

Le vent tourbillonnant, qui rabat les volets,

Là-bas tord la forêt comme une chevelure.

Des troncs entrechoqués monte un puissant murmure

Pareil au bruit des mers, rouleuses de galets.

 

L’Automne qui descend les collines voilées

Fait, sous ses pas profonds, tressaillir notre coeur ;

Et voici que s’afflige avec plus de ferveur

Le tendre désespoir des roses envolées.

 

Le vol des guêpes d’or qui vibrait sans repos

S’est tu ; le pêne grince à la grille rouillée ;

La tonnelle grelotte et la terre est mouillée,

Et le linge blanc claque, éperdu, dans l’enclos.

 

Le jardin nu sourit comme une face aimée

Qui vous dit longuement adieu, quand la mort vient ;

Seul, le son d’une enclume ou l’aboiement d’un chien

Monte, mélancolique, à la vitre fermée.

 

Suscitant des pensers d’immortelle et de buis,

La cloche sonne, grave, au coeur de la paroisse ;

Et la lumière, avec un long frisson d’angoisse,

Ecoute au fond du ciel venir des longues nuits…

 

Les longues nuits demain remplaceront, lugubres,

Les limpides matins, les matins frais et fous,

Pleins de papillons blancs chavirant dans les choux

Et de voix sonnant clair dans les brises salubres.

 

Qu’importe, la maison, sans se plaindre de toi,

T’accueille avec son lierre et ses nids d’hirondelle,

Et, fêtant le retour du prodigue près d’elle,

Fait sortir la fumée à longs flots bleus du toit.

 

Lorsque la vie éclate et ruisselle et flamboie,

Ivre du vin trop fort de la terre, et laissant

Pendre ses cheveux lourds sur la coupe du sang,

L’âme impure est pareille à la fille de joie.

 

Mais les corbeaux au ciel s’assemblent par milliers,

Et déjà, reniant sa folie orageuse,

L’âme pousse un soupir joyeux de voyageuse

Qui retrouve, en rentrant, ses meubles familiers.

 

L’étendard de l’été pend noirci sur sa hampe.

Remonte dans ta chambre, accroche ton manteau ;

Et que ton rêve, ainsi qu’une rose dans l’eau,

S’entr’ouvre au doux soleil intime de la lampe.

 

Dans l’horloge pensive, au timbre avertisseur,

Mystérieusement bat le coeur du Silence.

La Solitude au seuil étend sa vigilance,

Et baise, en se penchant, ton front comme une soeur.

 

C’est le refuge élu, c’est la bonne demeure,

La cellule aux murs chauds, l’âtre au subtil loisir,

Où s’élabore, ainsi qu’un très rare élixir,

L’essence fine de la vie intérieure.

 

Là, tu peux déposer le masque et les fardeaux,

Loin de la foule et libre, enfin, des simagrées,

Afin que le parfum des choses préférées

Flotte, seul, pour ton coeur dans les plis des rideaux.

 

C’est la bonne saison, entre toutes féconde,

D’adorer tes vrais dieux, sans honte, à ta façon,

Et de descendre en toi jusqu’au divin frisson

De te découvrir jeune et vierge comme un monde !

 

Tout est calme ; le vent pleure au fond du couloir ;

Ton esprit a rompu ses chaînes imbéciles,

Et, nu, penché sur l’eau des heures immobiles,

Se mire au pur cristal de son propre miroir :

 

Et, près du feu qui meurt, ce sont des Grâces nues,

Des départs de vaisseaux haut voilés dans l’air vif,

L’âpre suc d’un baiser sensuel et pensif,

Et des soleils couchants sur des eaux inconnues…

 

   *

「母子草」原詩の「immortelle」の訳だが、誤り。そもそもキク目キク科キク亜科ハハコグサ連ハハコグサ属ハハコグサ Gnaphalium affine (「ホウコグサ・ホオコグサ」の異名でも知られる)は、日本以外では中国・インドシナ・マレーシア・インドに分布する(本邦では全国的に見られるが、古代に中国か朝鮮から帰化したものと考えられている)が、フランスには自生しないから、まず、サマンはハハコグサ自体を知らない、見たことがないと考えてよいし、だいたいからして季節が合わない(「春の七草」の一つで、本邦では知らぬ人もあるまいが、学名画像検索をリンクさせておく)。 或いは、拓次の持つ辞典にそう誤解させるいい加減な記載があったのかも知れぬが、私の所持する辞書では、固有名詞では『麦藁菊(むぎわらぎく)』とする(因みにこの単語は一般名詞で「不滅の存在」「神」の意がある)。これは、キク目キク科ムギワラギク属ムギワラギク Helichrysum bracteatum であり、オーストラリア原産(以下も合わせてフランス語の当該ウィキに拠る)で、一八五〇年代にドイツで換喩植物として繁殖が行われ、多様な品種が生み出された。学名画像検索を示しておくが、比較するべくもなく、ハハコグサとは、赤の他人で似たところは微塵もないから、これは、やはりトンデモ語訳とするしかない

「越栗幾失兒(エリキシル)」「élixir」。音写は「エリィキスィール」。本来は「植物等から抽出精製した「精分」であるが、ここでは「霊薬・秘薬」の意。

 なお、例の原子朗編「大手拓次詩集」では、原詩に則り、十連目が二つに分離されている。以上の正規表現版を用いて、それを再現しておく。

   *

 

   サマン

 

うづまく風は扉をたふし、

そのしたに森は髮のやうに身をもだえる。

かちあふ木々の幹は砂(いさご)の輾轉する海のひびきのやうに、

はげしい風鳴りをたかめてゐる。

 

おぼろな丘(をか)におりてくる秋は、

重い步みのうちにわたし達の心をふるへさせる。

そしてどんなにいたはしく萎れた薔薇のめめしい失望を、

かなしんでやるかをごらんなさい。

 

休みなくぶんぶんいつた黃金色の蜂の翔けりも沈默した。

閂は錆のついた門格子にきりきりとなる。

あを蔦(つた)の棚はふるへ、地はしめつてきた。

そして白いリンネルは圍(かこ)ひ地のなかに、 うろたへてかさかさとする。

 

さびれた庭は微笑する、

死がくるときに、 ながながとお前に別れをいふやさしい顏のやうに。

ただ鐵砧(かなしき)のおとか、 それとも、 犬のなきごゑか、

うつたうしくしめきつた窓ガラスにやつてくる。

 

母子草と黃楊(つげ)の樹の瞑想をさましつつ、

鐘はひくいねに檀家の人の心になりいでる、

また光りは苦悶のはてしない身ぶるひをして、

空のふかみに、ながいながい夜のくるのをきいてゐる。

 

このものあはれな長夜(ながよ)も明日(あす)になつたらかはるだらう、

すがすがしい朝とひややかな又うつけな朝と、

たくさんの白い蝶は葉牡丹(はぼたん)のなかにひらめきながら、

また物音はこころよい微風の中にさはやかになりながら。

 

それはさておき、 この家はお前のことを嘆きもしないで、

その木蔦と燕の巢とでお前をもてなしてくれる、

そして自分のわきに放蕩者のかへるのを待ちうけて、

ながい藍色の屋根の波にけむりをのぼらせる。

 

命(いのち)がやぶれ、ながれいで、もえあがるとき、

うき世のつよい酒にゑひしれて、

血の盃(さかづき)のうへにおもい髮の毛がたれかかれば、

よごれた魂はちやうど遊女のやうである。

 

けれども、 鴉は空のなかに數しれずむらがる、

そしてもはや、 さわがしい狂氣をすてて、

その魂は、旅人が歸り旅のみちすがら、

なじみの調度にめぐりあふたのしい嘆息をおしのける。

 

夏の花びらは花梗のうへに黑くしをれてゐる。

おまへの室にまたはひり おまへのマントを釘にかける。

水のなかの薔薇のやうなお前のゆめは、

仲のよいランプのあまい太陽にひらいてくる。

 

思ひにしづんでゐる時計では、

知らせの鈴(りん)がひそかに沈默の心をうつ、

窓ぎはの孤獨はその氣づかひをひろめてゆき、

かがみながら姊のやうにおまへの額に接物する。

 

これは申分のない隱(かく)れ家(が)だ、これは氣持のよい住居(すまひ)だ。

あつたかい壁の密室、ひまもない竃(かまど)、

そこで極めて稀なる越栗幾失兒(エリキシル)のやうに、

内心の生命(いのち)のうつくしい本質をつくりあげる。

 

そこに、 お前は假面と重荷とをとりのけることが出來る。

騷擾からはなれて、 いな虛飾から遠くのがれて、

いとしいものの匂ひを、 カーテンの襞(ひだ)のなかにあらはになつてゐる。

おまへの胸にばかりただよはせるために。

 

このときこそ、 心おきなく仕事にいそしんでまことの神を禮拜し、

神々しい身ぶるひがお前の年若さと淸らかさとを、

はればれとあらはすやうになつてくる。

秋はこのためにたぐひないよい季節である。

 

すべてのものはしづかに、 風は廊下の奧にすすりなき、

お前の精神はおろかなる鎖をたちきつた。

そしてうごかない時の水のうへに裸のままうなだれて、

そのふさはしい鏡のきれいな水晶に自分の姿をうつす。

 

それは消えかかつた火のわきの裸の女神(めがみ)である、

あたらしい空氣のなかに船出(ふなで)するぼんやりとした大きな船である、

肉感的な、また物思はしい接吻のするどい液(しる)と、

人に知られない水のうへの日沒である………

 

   *]

西播怪談實記 姬路を乘物にて通りし狐の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本冊標題はここ。本文はここから。

 消息文は雰囲気を出すために句読点を打たなかった。]

 

 ○姬路を乘物にて通りし狐の事

 正德の年號も、まだ、初方《はじめつかた》の事なりしに、姬路の年行司所《ねんぎやうじどころ》へ、先觸《さきぶれ》壱通、到來す。其文に曰《いはく》、

「此度(このたひ) 御典藥(ごてんやく)木下雲菴(うんあん)壱人 肥前國長崎藥草御改爲(をんあらため)御用被遣(さしつかはさるゝ)付 御朱印 人足四人 被下置間(くたしをかるゝあいた) 員數(いんしゆ) 御證文(《ご》しや《う》もん)之通《とほり》 徃來共(わうらい《ども》) 宿々《しゆくじゆく》 無滯(とゝこをり《なく》)可差出者也《さしいだすべきものなり》 正德二年三月日」

 包紙(つつみ)の上に、

「御證文之写(うつし)」

と在《あり》、外壱通、在、其文に曰、

「覚《おぼえ》 人足四人 右者 此度 木下雲庵 藥草御改爲御用[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」では、ルビに『として』が添えられてある。] 肥前國長崎罷越侯付 被下候間 宿々 無滯差出可給候以上 辰ノ三月日 木下雲庵内《うち》 山本伴七(《やま》もとはん《しち》」

とある觸書、到來によつて、宿役《しゆくやく》のもの、人足、用意して待《まち》ゐたりける。

 然《しかる》に、翌日、出來《いでき》たる乘物、結講[やぶちゃん注:ママ。](けつかう)にして、醫者、年、五十斗《ばかり》に見へて、有髮(うはつ)なるが、乘物の内にて、卷臺(けんだい)に向居(むかいい)たり。

 其器量、宜(よろ)し。

 若黨・草履取・長刀持(なぎなた《もち》)狹箱(はさみばこ)、供𢌞(とも《まはり》)は三人也《なり》しか、狹箱には、

「御用」

と有《ある》札《ふだ》を立《たて》、正条《せいてう》の驛(しゆく)ヘ越《こし》にけり。

 かくて、三日後に、又、壱通、到來す。其文に曰、

「此間《このあひだ》 藥草御改爲御用[やぶちゃん注:同前で『として』とある。]醫師壱人從者(すさ)三人 肥前國長崎相下(あいくたり) 宿々 御朱印 人足にて 相通り候旨《むね》 粗(ほゝ)相聞《あひきこ》付 追々 遂(とげ)吟味(きんみ)候所 右之者共 狐而《て》 宿々 誑(たふらかし) 相通《あひとほ》候樣子 相聞候 此後(このゝち)右之共 罷歸候者(まかりかへり《さふらはば》) 搦捕(からめとり) 其所之者共 如何樣(いかやう)共《とも》可(へき)相斗(あいはかる)者也 月日 宿々」

と在《あり》。

 是を聞《きく》ものども、橫手(よこて)を打《うち》けるが、後《のち》に聞《きけ》ば、

「播州斗《ばかり》の事。」

と聞へし。

「跡よりの觸書《ふれがき》も、狐の仕業(しはさ)。」

と聞へて、觸出(ふれた)し・觸留《ふれどめ》もなく、二度、恂(ひつくり)しけるよし。

 聞つたふ趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:怪奇談というより、私の好きなニコライ・ゴーゴリの戯曲「検察官」(一八三六年初演)並みに面白い騙しの擬似テクニカル・ホラーである。事実あったこととすると、甚だ痛快ではないか!

「年行司所」都市の経済的に裕福な町衆や商工業者から選ばれた代表が、一年期限で務めた当該地区に於ける自治組織。

「御典藥(ごてんやく)」朝廷・将軍家及び大大名お抱えの医師。ここは幕府方のそれであろう。

「正德二年三月」壬辰。グレゴリ曆では一七一二年四月六日から五月五日までの間。

「宿役」年行司所の中の、宿の手配と接待を兼ねた担当者であろう。

「卷臺(けんだい)」「見臺」のことであろう。「書見臺」の略。書物を載せて読むための台。

「若黨・草履取・長刀持(なぎなた《もち》)狹箱(はさみばこ)、供𢌞(とも《まはり》)は三人也」ちょっと不審。「長刀持ち」と「挾箱持ち」は一緒に持つことは物理的に出来ないと思う。

「正条の驛(しゆく)ヘ越《こし》にけり」現在の兵庫県たつの市揖保川町正條(いぼがわちょうしょうじょう)にあった西国街道を横切る揖保川の東の「正條宿(グーグル・マップ・データ)へと向かった」の意。

「罷歸」この部分、「罷」は底本(右丁七行目下)では逆立ちしてもちょっと判読出来ないものであるが、「近世民間異聞怪談集成」に従って翻刻した。

「橫手(よこて)を打ける」思わず両手を打ち合わせる。意外なことに驚いたり、深く感じたり、また、「はた。」と思い当たったりしたときなどにする動作。

「恂(ひつくり)」この漢字は「まこと・まことに」「またたく・目がくらむ」の他に「怖れる・恐れ戦く」の意がある。「吃驚」に同じ。]

早川孝太郞「三州橫山話」 「變つた祠」・「地の神と墓地」・「門の入口」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○變つた祠  馬が死んで建てた馬頭觀音や、愛宕神の祠などは、路傍に一團宛になつて幾ケ所もありましたが、生砂神《うぶすながみ》の境内には、風の神の祠と云ふのがあります。字神田には、近年発電所工事の折に、慘死した二人の工夫の碑が建てられましたが、それには、風前頓悟信士、諸行寂定信士の文字がありました。

[やぶちゃん注:「馬頭觀音や、愛宕神の祠」先行する「張切りの松」の私の注を参照されたい。

「生砂神の境内には、風の神の祠と云ふのがあります」「生砂神」は既出既注であるが(現在の白鳥神社。グーグル・マップ・データ)、「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の右端の「生砂神社」の左に『風の神祠』とあるのが、それ。サイド・パネルの画像を見ても、それらしい位置にはないようであるが、或いは、現在の白鳥神社の左に小さな祠が見え、或いは、これかも知れない。

「神田」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。長篠発電所が視認出来る。「早川孝太郎研究会」の本篇には、『発電所から猿橋に下りる道の途中にある工夫の碑風前頓悟信士、諸行寂定信士の文字が読み取れます』とキャプションした、写真が載る。]

 

 ○地の神と墓地 何處の家にも、代々の墓地が屋敷の傍にあつて(多くは一段高い所)其傍に地の神が祀つてありました。其處には觀音の像や、南無阿彌陀佛と刻んだ碑や馬頭觀音の碑などが、五ツ六ツ位建つてゐました。

 家々の墓地は、現今は形ちのみで、死人のあつた場合は、村の共同墓地へ葬る規定ですが、四十九日の忌明《きあけ》が濟めば、埋めた所の土だけ持つて來て、代々の墓地へ引越してしまふので、其處には新しい碑も建ちますが、共同墓地には、今以て一つの碑も出來ない有樣です。それは現在の共同墓地が、未だ充分村のものに親しめない爲めもあつて、あの人一人あんな所へやつて置くのは可愛さうだなどゝ謂つて、一緖にする事も理由の一つで、また一つには參詣などに不便な點もあるらしいのです。

 何れの家にも、何々の屋敷址とか門あとゝいったものが屋敷の近くにあって、其等が畑の中や路の傍に、第二の地の神位《ぐらゐ》の待遇を受けてゐて、盆とか正月には、新しく花壺も立て替へられ、松火《たいまつ》も焚きました。

[やぶちゃん注:「現在の共同墓地」位置不詳。思うに、これは明治になって墓制が寺院や共同墓地に限定された結果生じた現象でることが判る。一般に両墓制は単墓制よりも古いとされるが、少なくともここ横山では、新しい。だから、共同墓地には碑を建てないのである。一部の民俗学者は、敷地内に死の穢れを齎すことを怖れて、埋葬を家屋外に配したという説には私は敢然と反対するものである。]

 

 ○門の入口 道路から屋敷へは入《い》る所は、家の神棚や佛壇と同じやうに、每朝線香を立てたり茶誦をしたりしました。道から門へ眞つすぐに入口をつけると、魔がさすとも謂ひました。家は普通主家《おもや》とカマ家《や》の二ツに別れて間に樋《とひ》が懸つてゐました。

[やぶちゃん注:「茶誦」「ちやじゆ(ちゃじゅ)」と読んでおく。見慣れない単語であるが、ある対象(屋敷神或いは祖先)に茶を捧げ、お祈りや感謝の言葉を誦(とな)えることであろう。住居の入口に神が宿り、家を守るという信仰は縄文時代から見られる極めて古層の信仰形態である。

「道から門へ眞つすぐに入口をつけると、魔がさす」沖縄の伝統的な家屋の門にある魔物除けの壁「ひんぷん」を想起させる。この中国の屏風由来とされる壁は、魔物が、直接、家の中に入ってこれないように配されるから、「魔がさす」(魔の視線が家屋の奥まで刺し通す・指し示して災いを齎す)という謂いが実にしっくりくる。

「カマ家」「竃家」で竃(かまど)がある厨房のことであろう。]

早川孝太郞「三州橫山話」 「水神樣」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここ。]

 

 ○水神樣 寒狹川の岸に、水神樣と呼んでゐる碑がありましたが、それには溺死亡粥の文字があって、每年七月十三日の日に川施餓鬼を行ひました。こゝの稍《やや》下寄りに、岩と岩とが、兩岸から出て、川幅が一間許《ばか》しにせばめられた處に、材木などを渡して橋をなしてゐる所を猿橋と謂つて、出水の折を除くと、村の交通機關になつてゐました。鳳來寺の寺記によると、昔、天武天皇の勅使が下向ありし時、此川に橋なく困難の處へ、何處《いづこ》ともなく無數の猿が來て枯木を川に渡して、勅使を渡し參らせし故、其處を猿橋と謂ふとあります。

[やぶちゃん注:「水神樣と呼んでゐる碑がありました」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の下方の右手、寒狹川左岸に『水神祠』とあるのがそれ。「猿橋」はグーグル・マップ・データ(航空写真)でポイントされているが、碑については、「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)に(写真二葉あり)、『昔の猿橋は、現在の橋の橋台のところに架かっていた。今の橋でも洪水時には水面より数メートル下に沈む。当時は出水の度にかけた丸太が流され交通止めになった』と記された後に、『水神様を探したのですが、見つけることが出来ませんでした』と附記があるので、現存しないようである。グーグル・マップ・データ「猿橋」のサイド・パネルにも写真が複数あり、別な写真に橋名板「猿橋」も現認出来る。

「溺死亡粥」「できしばうかゆ」と読んでおく。川での水死人の霊を弔う「川施餓鬼」で、その供養に粥を供えたり、流したりすることを言うのであろう。海で亡くなった者や入水自殺した者、及び、難産で亡くなった妊婦の霊を成仏させるために弔う、水辺で行なわれる仏事供養としての「水施餓鬼」に含まれる。通常は、経木を水に流したり、ほとりに竹や板塔婆を立て、それに布を張って、道行く人に水をかけて貰ったりもする。布の色が褪せるまでは亡霊は浮ばれないとされる。「流灌頂」(ながれかんじょう)とも呼ぶ。「小泉八雲 海のほとりにて  (大谷正信訳)」に祭壇の画像が載るので、是非、見られたい。

「鳳來寺」横山の東北直近の愛知県新城市門谷(かどや)字鳳来寺の鳳来寺山の山頂附近にある真言宗五智教団煙巌山(えんごんさん)鳳来寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は開山(大宝二(七〇二)年)の利修作とされる薬師如来で、古来、「峯の薬師」と呼ばれた。この山に多く棲息し、愛知県の県鳥であるコノハズク(フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus sunia 。「声の仏法僧(ブッポウソウ)」(「姿の仏法僧」と呼ばれる日本には夏鳥として飛来するブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウ Eurystomus orientalis との誤認で、この誤りが正されたのは昭和一〇(一九三五)年のことで、実に一千年にも及び、鳴き声を勘違いされてきた))でも有名。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「天武天皇」(?~朱鳥元(六八六)年)は第四十代天皇(在位:天武天皇二(六七三)年~朱鳥(しゅちょう/すちょう/あかみとり)元(六八六)年)。「勅使」とあるが、具体的には指示し難いものの、当該ウィキによれば、『天武天皇は』天武天皇一二(六八三)年十二月十七日に『難波京を置いた』が、彼は『都を二、三置くべきだと考え(複都制)』、『東にも副都を置こうとしたのか』、同一三(六八四)年二月二十八日に『信濃に三野王』(みぬおう/みのおう:敏達天皇の後裔で従四位下・治部卿)『と采女筑羅』(うねめのつくら:貴族。名は竹良・筑羅・竺羅とも表記される。姓は臣(おみ)で後に朝臣。位階は小錦下・後に直大肆・直大弐)を『視察の遣いとして派遣したが、そちらは着手に至らず終わった』とあるのが、横山を通過するという点で、一つの候補とはなろう。]

 

早川孝太郞「三州橫山話」 「セキの地藏」・「山の神」・「行者講」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○セキの地藏  字仲平の路傍に、村の者が、セキの地藏と呼んでゐる綿にくるまつた小さな石の地藏尊がありました。風をひいた時は、此地藏の綿を借りて來て、着物に縫ひ込んで置き、全快すると新しい綿を奉納する風習がありました。

[やぶちゃん注:「仲平」ここ(グーグル・マップ・データ)。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川へ『カラ澤』と『北澤』の中間の内地に『セキノ地藏』とある。ここは、現在のこのグーグル・マップ・データ航空写真の中央附近に当たるのであるが、ここは現在、国道二五七号部分が長い陸橋(橋名は「横山橋」)となっており、陸側の道も可能な部分を辿ってみたが、この地蔵は、残念ながら、現認出来なかった。しかし、「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)には注記と二枚の写真があり、まさにこの『横川字仲平・横山橋の下』に現存し、『今でもお参りする人があると見えて、お地蔵様は新しい綿に包まれています』とあった。何か、ホンワカとしてくる画像である。必見!]

 

 ○山の神  山の神の祠は、山には幾ケ所もありましたが、現今村で山の神の祠として祀つてゐるものは、字相知《あひち》の入《いり》にあるもので、他はみんな昔の祠だと云ひます。一月七日と十一月七日が山の神の祭日で、此日は仕事を休んで山の講の日待ちがありました。オトー(月番)に當つた家から、酒や五目飯の振舞があつて、山の神の爲めにある神代《かみしろ》から上つた年貢米は、オトーの家へ納まる事になつてゐました。

 月の七日は山の神の日と謂つて、此日は山へ入ることを忌む風習がありましたが、現今は行はれなくなりました。

 一月四日は初山と謂つて、此日は山へ入つて、一本でも木を伐るものと謂ひます。山の入り口で山の神を祭りますが、此時は、白紙を注連《しめ》のやうに裂いて、それを路傍の木の上に結びつけ、洗米や、小さな餅などを供へて、九字《くじ》をきりましたが、供物の代りに、木の葉などを供へて置くのもありました。

[やぶちゃん注:「相知の入」ここ(グーグル・マップ・データ)。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の左の方に『山ノ神祠』とある。ここはストリートビューが通っていないので現認出来ない。但し、同地図には他にも、左の中央やや右手の双耳峰の鞍部の下方に「山ノ神祠」が、右中央やや上の山の麓(『(字池代)』の谷の奥)にも『山ノ祠』とある。

「日待ち」決った夜に行う忌籠(いみこも)りの一つで、月の出を待つ「月待ち」に対するもので、現行では正月・五月・九月の中旬に行われることが多く、その夜は村人たちが当番の家に寄合って忌籠りし、翌朝、日の出を拝して解散する。「まち」は、元は「まつり」(祀り・祭り)の意と考えられており、本来は人々が集って神とともに共同飲食する神人共食に由来する「祭り」が、次第に「日を待つ」の意へと転訛したものと思われている。「夜籠り」は、もともと、厳しい斎戒を伴うものであり、その夜は各々の家の火を清め、当番宿では女を避け、総て、男子の手で行う決まりであった(現在、その風を守って居る地方もある)が、次第に庚申講などと同じく酒宴を伴う遊宴へと変化した。

「神代《かみしろ》」は私の推定読みだが、明かに稲の豊作を祈って特別に植えた神聖な田地を指していると考えた。所謂、「田の神」に捧げる「初穗」を収穫するためのそれである。

「九字」当該ウィキによれば、『道家に』よって、『呪力を持つとされた』九『つの漢字』を指す語。『西晋と東晋の葛洪が著した』「抱朴子」内篇巻十七「登渉篇」に、『抱朴子が「入山宜知六甲秘祝 祝曰 臨兵鬥者 皆陣列前行 凡九字 常當密祝之 無所不辟 要道不煩 此之謂也」と入山時に唱えるべき「六甲秘祝」として、「臨兵鬥者皆陣列前行」があると言った、と記されており、以後古代中国の道家によって行われた。これが日本に伝えられ、修験道、陰陽道等で主に護身のための呪文として』複数の九字が『行われた』。『この文句を唱えながら、手で印を結ぶか』、『指を剣になぞらえて空中に線を描くことで、災いから身を守ると信じられてきた』。但し、「抱朴子」の『中では、手印や四縦五横に切るといった所作は見られないため、所作自体は後世の付加物であるとされる(九字護身法)。また、十字といって、九字の後に一文字の漢字を加えて効果を一点に特化させるのもある。一文字の漢字は特化させたい効果によって異なる』とあり、以下、十種の例が載る。]

 

 ○行者講  村の中央の路傍から少し高い所に行者樣と呼んでゐる石像が祀つてありまして、昔は吉野の大峯山《おほみねさん》へ參詣の講社があつたさうで、現今では、一月と六月十一月の各六日の夜、行者講と云ふのを行ひます。オトー(月番)に當つた家では、各戶から白米三合宛を集めて、祭事が濟んでから膳部を振舞ひましたが、祭事をお勤めと云つて、其模樣は床の間へ祭壇を設けて、先達につれて、最初、我昔所造諸惡行《がしやくしよざうしよあくぎやう》云々の呪文を唱へ、次に哥詞《かし》といって、大峯參拜の順路を歌に詠んだものを唱へました。これは記臆してゐませんが、なかに、大峯の西の覗きに身を投げて彌陀の淨土へ行くぞうれしき、吉野なる黑染櫻……云々と言つたものがありました。それから山探しと云つて、吉野山附近一帶の神佛を唱へて、懺悔々々六根淸淨、大峯八大金剛童子、三丈本地南無釋迦藏王權現、一に禮拜《らいはい》南無行者大菩薩と二十一遍唱へて、次に念佛を百遍唱へました。

 行者講の外に、庚申講、伊勢講などの講もありましたが、庚申講だけは、集める米が五合で、オトーに當つた家へ一泊して、翌朝土產に、祭壇へ供へた小豆餅を二つ宛貰つて歸る事になつてゐました。

 これ等に用ふる神像や行事の次第を書いた書附などは總てオトーの家で、次の行事迄保管する規定になつてゐました。

[やぶちゃん注:「行者講」(ぎやうじやこう(ぎょうじゃこう))は大和の金峰山の蔵王権現を信仰し、奉加・寄進・参詣をする信者で構成される扶助団体。「山上講」(さんじょうこう)とも呼ぶ。

「行者樣と呼んでゐる石像」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の中央の右の方の『(萬燈山)』の麓の道がカーブする南東の山側部分に『行人石像』とあるのがそれであろう。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)になくてはならないはずだが、見当たらない。ストリートビューでも確認出来ない。

「吉野の大峯山」奈良県吉野郡天川村にある大峯山山上ヶ岳。山頂に修験道寺院である大峯山寺がある。平安初期以来、現在に至るまで女人禁制の寺として知られる。

「我昔所造諸惡行」「華厳経」四十巻本の「普賢菩薩行願品」(ふげんぼさつぎょうがんぼん)から採った偈文(げもん)。「懺悔偈」(さんげげ)が正式な呼称だが、「懺悔文」(さんげもん)と呼ばれることが多い。以上は第一句であるが、最後の「惡行」は誤りで、「惡業(あくごふ)」である。但し、これは筆者の誤りではなく、行者講で唱えられたものを写したものと推察する。なお、正しい全文は、

   *

我昔所造諸惡業(がしゃくしょぞうしょあくごう)

皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)

從身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)

一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

   *

参考にした当該ウィキによれば、第三句は禅宗系では『從身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)』とする旨の注記がある。

「庚申講」「北越奇談 巻之三 玉石 其七(光る石)」の私の「庚申塚」の注を参照されたい。

「伊勢講」伊勢参宮を目的とした講(寺社への参詣・寄進を主目的に構成された地域の信者の互助団体。旅費を積み立て、籤で選んだ代表が交代で参詣出来るシステムをとった)。中世末から近世にかけて大山講(現神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社)や富士講と共に盛んに行われた。]

2023/03/09

早川孝太郞「三州橫山話」 「ウマツクロイ場の松」・「馬捨場」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○ウマツクロイ場の松  萬燈山の麓に、村の馬繕場があって、其處に妙な形をした松が二株、道路を覆つてゐました。其松の下に馬喰《ばくらう》が腰をかけてゐて、家々から引き出して行つた馬の蹄を切つたものでした。明治三五六年頃、此松が伐られたと同じ頃に、馬繕ひもなくなりました・

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の右やや中央寄りの既出の『(萬燈山)』の下方(南西)麓の道を隔てたカーブの内側に『馬ツクロノ塲』とあり、その左に並んで『松二本』とある。グーグル・マップ・データ航空写真のこのカーブがそれである。

「明治三五六年」一九〇二、三年。]

 

 ○馬捨場  字長畑と云ふ所から、寒狹川に面した崖の上に、雜木林の中にありました。其處には、馬の白骨が澤山轉がつてゐて、村で馬が死ぬと、村中の者が出て、莚で覆つた死骸を舁いで行つて捨てました。夜になると皮剝ぎが來て、火を焚きながら皮を剝ぐと云ひました。

[やぶちゃん注:「長畑」ここ(グーグル・マップ・データ)。「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左下方の寒狹川の『鮎滝』(グーグル・マップ・データ航空写真)の左岸直近に『山捨塲』とある(リンク先の中央、現在の国道二五七号附近となろう。道の両側に農地や人工物があるので、ストリートビューは控える)。]

早川孝太郞「三州橫山話」 「村に缺けていた辨天樣」・「張切りの松」・「ヒチリコウの樹(木犀)」・「楠の柱の家」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○村に缺けてゐた辨天樣  字仲平にある辨天の祠《ほこら》は、矢張天明年間に建てたさうですが、最初の動機は、村に樣々な神樣の祠が一通り揃つたに拘らず、辨天樣だけが未だ缺けていたので、欲しくて堪らないで、豐川の三明寺《さんみやうじ》から迎へて來て祀つたものだと謂ひます。

[やぶちゃん注:「字仲平にある辨天の祠」「仲平」は横川仲平(グーグル・マップ・データ)「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左中央に『辨天祠』とあるのが、それ。現在、「滝坂弁財尊天」として国道四二〇号脇にある(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルに十枚の写真があるので見られたい。『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 狸 十二 狸か川獺か』でも言及されてある。

「天明年間」一七八一年から一七八九年まで。

「豐川の三明寺」愛知県豊川市豊川町(とよかわちょう)波通(はどおり)にある曹洞宗龍雲山妙音閣三明禅寺(グーグル・マップ・データ)。「豊川弁財天」の通称で知られる。]

 

 ○張切りの松  此辨天樣の祠の傍《そば》の路傍に、張切りの松と言ふのがあつて、此松に注連繩《しめなは》を張つて、村へ惡疫の入らぬ豫防をしたと謂ひます。此處には、馬頭觀音や、村中安全などの碑が立つてゐて、愛宕神《あたごがみ》の祠などもあつて、橫山の北の端になつてゐました。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左中央の「辨天祠」の道を隔てた山側に『張切の松』と『道祖神』とあって、その少し奥に『愛宕神祠』ともある。ストリートビューで国道四二〇号脇の「張切の松」のあった位置に表示版が認められ、その右手すぐ近くには、馬頭観音らしき石像を暗がりに垣間見ることも出来る。]

 

 ○ヒチリコウの樹(木犀)  字仲平にヒチリコウと云ふ大樹がありました。花の香りが、七里の遠くまで香ると謂つて、名があると謂ひました。夏菜莉花《まつりくわ》に似た黃色い花を持つて花の盛りには、風の吹き𢌞しによつて、約一里を隔てた長篠の小學校の邊りまで、其香が聞かれたと謂ひます。樹の下に立つと、眞《まこと》に咽《むせ》るやうで、無數の虻や蜂が集まつてゐて、黃《きい》ろい花のこぼれが、あたり一面に敷いたやうになつて、其上を步くのは惜しいやうだなどゝ謂ひました。明治三八九年頃、其頃盛《さかん》に流行し出した養蠶に香りが害があると謂つて伐り倒されてしまつて、あとは芽も出なくなりました。

[やぶちゃん注:「ヒチリコウの樹(木犀)」「七里香」で、ここでは双子葉植物綱シソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ属モクセイ変種キンモクセイ Osmanthus fragrans var. aurantiacus のことと思われる。但し、単に「木犀」と言った場合は、原種であるモクセイOsmanthus fragrans を指す(孰れも中国原産)。しかし、恐らく本邦で好まれ、最も分布を広げていて、香りが強いのは、圧倒的にキンモクセイであるから、そちらに比定しておく。また、「七里香」という別名は、現行では、双子葉植物綱フトモモ目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属ジンチョウゲ Daphne odora の異名として知られているので、注意が必要である。

「菜莉花」本邦には自生せず、インド・スリランカ・イラン・東南アジアなどに自生植生するモクセイ科 Jasmineae 連ソケイ(素馨)属 Jasminum のジャスミン類の内、概ねマツリカ(アラビアジャスミン) Jasminum sambac を指す。

「明治三八九年」一九〇五、六年。]

 

 ○楠の柱の家  この七里香の樹のあった家を仲平と呼んでゐて、隣の北平と云ふ家と共に、元祿年間に早川孫三郞と云ふ家から分れたと謂ひますが、一人は田地を所望した爲め、北平と云ふ所に、前に廣い畑を控へて屋敷を造り、一人は立派な家を望んだので、村一番の眺望のいゝ仲平に、全部楠《くすのき》の柱に樫の敷居で家を建て、分家したと謂ひますが、其建物が、十五六年前迄殘つてゐましたが、今は改築したのでありません。

[やぶちゃん注:「元祿年間」一六八八年から一七〇四年まで。]

西播怪談實記 佐用角屋久右衞門狐の化たるに逢し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本冊標題はここ。本文はここから。]

 

 ○佐用角屋久右衞門狐の化(はけ)たるに逢し事

 佐用郡佐用村に角屋久右衞門といひしもの、在《あり》。

 正德年中の事成《なり》しに、近村へ、商(あきない)に行《ゆき》て、たそかれ時に歸《かへ》けるが、大坪《おほつぼ》村の前に、川除(《かは》よけ)の土手、在(あり)、則(すなはち)、雲伯(うんはく)作(さく)の驛路(えきろ)なり。

 爰へ戾懸(もとり《かか》)るに、十間斗《ばかり》先にて、下《した》より、土手の上ヘ輕(かろ)輕と.飛上り、先へ行《ゆく》。

 黑羽織(《くろ》はをり)を着て、大(おほき)なる男なり。

 久右衞門、思ひけるは、

『さても、身輕なるもの也。追付(をつ《つ》き)見ん。』

と、足早に行《ゆけ》ば、彼《かの》男も足早に行。

 又、ゆるく行《ゆけ》ば、

「ゆるゆる」

と行《ゆく》に、心付《こころづき》て、

「偖(さて)は。狐なるべし。我を、たぶらかさんためにこそ。」

と、あざ笑(わらひ)て歸《かへり》しか、山平《やまひら》といへる村の前に、大《おほき》なる水門ありしが、其際(そのきは)にて、彼男、消失(きへうせ)けると否や、

「ぞつ」

と、したり。

「されば、目に見へたる中《うち》は、『狐』と心得、何ともなかりしか、消失《きえうせ》ると、身の毛も、彌竪(よたつ)斗《ばかり》なりしは、一方《ひとかた》ならぬ畜生なり。」

と。

 予か近所にて、折々、右の噺を聞ける趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:「正德年中」一七一一年から一七一六年まで。

「大坪村」「Geoshapeリポジトリ」の「兵庫県佐用郡佐用町佐用大坪」で旧地域が確認出来る。佐用町中心地の南直近の地域である。

「雲伯」(うんぱく)は令制国で言う出雲国(島根県東部)と伯耆国(鳥取県西部)の併称。かなり古い時代に作られた街道(出雲街道)ということになる。

「十間」十八・一八メートル。

「山平」「ひなたGPS」のここで、大坪のすぐ北の佐用中心街に接する佐用川左岸地域であることが判る(現在の国土地理院図にも地名として残る)。]

早川孝太郞「三州橫山話」 「夢枕に立つた淨瑠璃姫」

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 原本書誌及び本電子化注についての凡例その他は初回の私の冒頭注を見られたい。今回の分はここから。]

 

 ○夢枕に立つた淨瑠璃姫  明治三十年頃、村の早川熊十と云ふ者に、淨瑠璃姫が夢枕に立つて、自分を信仰して吳れゝば、總ての願ひを叶へてやると、三日續けてお告《つげ》があつたと謂つて、其一家の者が連立つて、北山御料林内の笹谷にある姫の祠《ほこら》へ參詣したのから噂を生んで、さかんに參詣者が殺到した事がありました。

 村の重立《おもだつ》た者は、每日辨當持で祠の周りに筵などを敷いて詰《つめ》かけて、參詣者に餅を出したりして、新しく賽錢箱を慥《こしら》[やぶちゃん注:ママ。ここまでくると、早川氏の慣用誤記と思われてくる。]へるやら、幟《のぼり》を新調するやら大變な騷ぎで、何處からともなく見も知らぬ坊主が來て、祠の脇に陣取つて、蠟燭を賣つたり祈禱を上げたりしました。縣道から祠に登る道なども、たちまち四尺ほどの廣さに踏み擴げられて、祈願の爲めの紙幟が、白く幾重にも兩側に續いて、喰物店や、お土產を賣る店が、軒を並べるやうになりました。祠が御料林の中にあるので、警察からは每日警戒の巡査が出張して來ました。

 明け方から暗くなる迄參詣の人は絕間なく續いて、山の後から越して來る道も新しく出來ました。押し繪の姫の人形などを奉納する女もあつて、早速それを間に合せのお姿にしたりしました。

 昔は祠に木彫のお姿が入れてあつたさうですが、村の者が、忘れてゐた頃に、橫山の地續きの村の者が、盜み出して自分の家に祀つてゐるのだと謂つて、今更のやうに口惜しがったのを聞きました。

 村では每晚遲くまで賽錢の勘定に忙しく、二十錢の銀貨があつた、一日に五十圓上がつたなどゝ言ひました。

 それがいつとなく淋《さび》れて行つて、一年後には、ぱつたり參詣者が跡を絕ちました。

 翌年の一月、賽錢の上りで麓で神樂を催ふて、挽囘策を講じましたが、更に効力はなかつたやうでした。

 古老の噺しでは、昔も斯樣な事があつて、此時の流行は、丁度三囘目だと謂ひました。

 五十年前迄は姫が結んでゐた庵《いほり》が、祠から少し降つた所に殘つてゐたのを記臆してゐるなどと謂ふ者もありました。

 傳說に據ると、姫は矢作《やはぎ》の兼高《かねたか》長者の娘で、奧州へ去つた義經の跡を慕つて來て、此處に庵を結んでゐて、果てたと云ひます。時折《ときをり》侍女を連れて芹を摘みに出た姿を里の者は見たと謂ひます。祠のある笹谷を少し山を登つた所をセリ場と謂つて、其處は姫が芹を摘んだ跡だとも謂ひます。姫が臨終の折の遺言に、寶物は全部笹谷の梅の木の根元へ埋めて置くと言つたと傳へて、村の者などは、正月の遊びの日などに、鍬を舁いで、梅の木を探しに行つた者もあつたさうですが、相憎《あひにく》笹谷には梅は一本もないと謂ひました。

 祠は石の小さなもので、天明年間に村の連中が建立したことが刻んでありますが、祠に乘つてゐる石垣は、村の早川孫平と云ふ者が、其後獨りで築いたと云ひます。其時、一人石垣を築いて意ゐると、何處からともなく、一疋の赤い蜘蛛が現はれて、石にとまつてゐるので、其日は仕事を中止して歸つて、翌日再び行つて築いてゐると、同じ蜘蛛が現はれたので、石垣の前通りのみを築いて、側面は出來上がらない儘、中止したと謂ひます。姫が夢枕に現はれたのは、其男の孫だそうで、石垣を築いて吳れた御禮に、姫が夢に現はれたのだらうと云ふやうな因緣話もありました。

 笹谷の麓に住む者の話では、現今も、時折、非常な遠方から、婦人病に御利益があると云つて、尋ねて來る女などがあるさうですが、祠へ通じた路なども、全然破壞されてしまつて、一寸近づけなくなつて居ります。

[やぶちゃん注:これについては、『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿