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2021/06/22

日本山海名産図会 第四巻 河鹿

 

   ○河鹿(かしか)

諸國に「かしか」とさすもの、品類(ひんるい)、すくなからず。或ひは「魚」、或は「蛙なり」ともいひて、ひとの口には唱ふといへども、慥かに「かじか」と云ふ名を、古歌、又、古き物語等(とう)に見ること、なし。唯(たゞ)、連歌の季寄(きよせ)、「溫故日録(おんこじつろく)」に、「杜父魚(とふぎよ)」・「カシカ」として、なんの子細も見へず。八目の部に出だせるを見るのみなり。其の余(よ)、又、俳諧の季寄等に、近來(きんらい)、注釋を加えし物を出だせしに、「三才圖會」などの俗書につきて、「ごり」・「石伏」などに、決して、古書・物語等を引き用ゆるにおよばず。又、貝原氏(うぢ)、「大和本草」の「杜父魚」の条にも、「河鹿」として、『古歌にもよめり』といふは、全く筆の誤りなるべし。案ずるに、「かしか」の名目は、是れ、俳諧師などの口ずさみにいひはじめて、恐らくは、寛永前後の流行(りうこう)なるを、西行の歌などゝいへるを作り出だして、人に信ぜさせしにもあるべき。既に俗傳に、西行、更級(さらしな)に住みけるときによめり、とて、

 山川に汐(しほ)のみちひはしられけり秋風さむく河鹿(かしか)なく也

是れ、何の書に出だせる哥(うた)ともしらず。されども、或る人に就きて、此哥の意(こゝろ)を尋ぬれば、「『かしか』は汐の滿ちぬる時は、川上にむかひて、『軋々(ぎぎ)』となき、汐のひく時は、川下に向かひて『こりこり』と鳴く。」とは答へき。されば、解く處、「ゴリ」・「キヽ」など云ふ魚をさすに似て、いよいよ、昔の證據にはあらず。水中に聲(こへ)ある物は、蛙・水鳥の類(るい)ならて、古へより、吟賞(きんしやう)の例(れい)を、きかず。されども、西行は哥を隨意につらねたるひとなれば、ものに當つて、いかゞの物をよめりとも、あながちに論ずるには及ばねども、若(も)しくわ[やぶちゃん注:ママ。]、偽作(ぎさく)なるべし。又、『「萬葉集」の歌なり』とて【一說に「落合(おちあひ)の瀧」とよみて、大原に建禮門院の御詠(こえい)と云いつたふ。】

 山川に小石ながるゝころころと河鹿(かしか)なくなる谷の落合(おちあひ)

是れ又、「萬葉集」にあること、なし。其の余、他書に載せたるをも、きこへす。又、「夫木集」二十四「雜六」岡本天皇御製とて、

 あふみちの床の山なるいさや川このころころに戀つゝあらん

この「ころころ」といふにつきて、『「かしか」の鳴くによせしなり』なと、いひもてつたへたり。是れ又、誤りの甚しきなり。是れは「萬葉集」第四に、

 あふみちの床の山なるいさや川けのころころは戀つゝあらむ

とありて、「代匠記(たいしやうき)」の注に、『「け」とは「水氣(すいき)」にて、「川霧」なり。「ころころ」とは、唯、「頃」なり。「ねもころころ」とよみたる例(れい)のごとし。』と見へて、かならず、「かしか」の歌には、あらざるなり。歌は、かゝることどもにて、かたがた、さだかならずといへども、今、さしてそれを定むべき「かしか」の證もなければ、今は、魚にもあれ、むしにもあれ、たゞ、流行に從ひて、秋の水中(すいちう)に鳴くものを、「河の鹿(しか)」になすらへて、凡(およ)そ「かしか」といはんには、强く妨(さまた)けも、あるまじきことながら、さもあらぬ物によりて、詠歌などせんこそ、いと、口おしからめ。さらば、まさしく古きを求めんとならば、長明「無明抄」にいへる「井堤(いで)の蛙(かはず)」こそ、いまの「かしか」といふには、よくよく當れり。

○其文に曰、

[やぶちゃん注:以下「云々」までは、底本では全体が一字下げ。]

井堤の蛙は外(ほか)に侍らず、たゞ、此の井堤の川にのみ、侍るなり。色黑きやうにて、いと大きにあらず、よのつねのかへるのやうに、あらはに、おどりありくことなとも侍らず、つねに、水にのみすみて、夜(よ)更(ふく)るほどに、かれが鳴(なき)たるは、いみじく心すみて、物あはれなる聲にて侍る云々。

是れ、今、洛には八瀬(やせ)にもとめ、浪花(なには)の人は、有馬「皷(つゞみ)が瀧」の邊(へん)に捕る物、即ち、「井堤の蛙」に同物にして、今の「かしか」なる事、疑かふべくもあらず。

されば、和歌には「かわつ」とよみて、「かしか」とは、よまざる也。「かしか」の名は彌(いよいよ)俳言といふに愆(あやま)ちなかるべし。昔、「井堤のかわづ」をそゝろに愛せしことは、書々に見たり。今、八脊(やせ)・有馬・井堤に取るもの、悉く、其の聲の、

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの寛政一二(一八〇〇)年版では、ここから二ページ分が、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の文政一三(一八三〇)年と異なる。しかし、そこはジョイントがちょっとおかしく、突如、平安後期の保元年間(一一五六年~一一五九年)頃に公家で六条家流の歌人であった藤原清輔が著した歌論書「袋草紙」の能因法師絡みの数奇者の話の引用(私の所持する「新日本古典文学大系」版とはかなり原文が異なっている。そもそもがここで蒹葭堂が引用書名が示さないというのも甚だ不審である。この奇体なエピソードは「山吹や井手を流るる鉋屑 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)」で知っていた)になっており、その次の次の頁の最後で、以上の最終部と相同形で、「今、八脊(やせ)・有馬・井堤に取るもの、悉く、其の聲の」で次の頁に続いている。ところが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」ではこの二ページ分が全くない(当該部のHTML画像)のである。ところが、国文学研究資料館底本の前年をクレジットする寛政十一年版では、やはりこの二ページ分は存在しないのである。奇怪であるが、ともかくも、以下、底本の国立国会図書館デジタルコレクションのそれを視認して電子化する。加工データとしている「ARC書籍閲覧システム」(寛政一一(一七九九)版・立命館ARC蔵画像)の同巻でもこの二ページ分は全く存在しない。「云々」までは、底本では全体が一字下げである。]

帯刀の長節信(ちやう ときのぶ)は數竒(すき)の物なり。始めて能因に逢ひ、相ひ互ひに、感(かん)、有り。能因云、「今日見参(げんさん)の引出物(ひきでもの)に見るべきもの、侍り。」とて、懷中より、錦の帒(ふくろ)より銫屑(かんなくづ)を取り出だし、「是れは吾が重寳にて、長柄(ながら)の橋造りの時の、鉋屑なり。」といへば、時に、節信、喜悦、甚はだしくて、これも懐中より帋(かみ)につゝみる物を取り出だせり。是れを開きて見るに、かれたる「蛙(かはず)」なり。「是れは『井堤(いで)の蛙』に侍り。」と云へり。共に感歎して、各(おのおの)、懷にして退散す。今の世の人々、嗚呼とす

是れ、かわりなくも、古きを弄(もてあそ)ひし風流人(ふうりうじん)の一癖(へき)なり。長柄(なから)の橋は、既に「古今集」に「世の中にふりぬるもの津の國の長柄の橋と我(われ)となりけり」と、又、「蛙(かはつ)なく井堤の山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」と、同「古今」春の下に見へたるより、「かはずなく」をもて、「井堤」の冠辞(かんじ)にをけるの、はしめとするによりて、古(いにし)へより、「かはつ」のやうもかはりしとおもふも、是、俗意(ぞくゐ)なり。「後拾遺」の秋、

                良暹法師

 みかくれてすたく蛙の諸聲にさわきそ渡る井堤の浮草

この風情は「いての蛙(かはづ)」の諸聲に鳴(な)ぎ[やぶちゃん注:ママ。]立てて、すだき、さわぐの、かまびすきに似たり。是れによりて、今古(こんこ)の変遷を察するに、井堤(いで)をよむことは、ふるく、「萬葉」、人丸(ひとまる)よりはじまり、「蛙(かはづ)」を詠み合はせとすること、古くは小町・貫之が家(いへ)の集に見えたり。又、良暹(りやうせん)は祇園の別當にして、母は實方(さねかた)朝臣(あそん)家(いへ)の童女白菊(しらきく)といひし者にて、是れ、一条院前後の人にて、詠みし「蛙(かはづ)」も「いて」のことのなりしを、長明の時までは、皆、大凡(おほうよそ)三百年二百年を經(へ)しかは、大いなる「井堤(いで)の川」も、年月に埋(うづ)もれ、又、山陰(さんいん)の茂樹(もじゆ)に覆(おゝ)はれ、至つて陰地(いんち)となり、蛙も形色(けいしよく)・音聲(おんせい)を、あらためしとは見へたり。是れを、いかんとならば、只今も、常(つね)のかはずをもて、陰地(ゑんち)の池、あるひは、野中(のなか)の井(い)などに放(はな)てば、月を經て、色、黒く変して、聲も改ること、試みて、しれり。故に今、八脊(やせ)・有馬・井堤(いで)に取るもの、悉く、其の聲の、[やぶちゃん注:ここが前と相同の部分で、しかも見開きの改頁の最終行なのである。あるにもあらず。かならず、閑情(かんせい)に鳴く物は、又、其のさまも異(こと)なる所あり。是れ、蝦蟇(かま)の一種類にして、蒼黒色(さうこくしよく)也。向ふの足に水かきなく、指先、皆、丸く、淸水にすみて、なく聲、夜(よる)は「こま鳥」に似て、「ころころ」といふがごとく、六、七月の間(あひた)、夜(よる)、一時(とき)に一度、鳴けり。晝も、なきて、鵙(もず)の聲の如し。尤も足早くして、捕ふにやすからざれば、夏の土用の水底(すいてい)にある時をのみ、窺ひて、捕れり。今、魚をもて、其物に混ぜしは、かの「かしか」の俳言より、「かはつ」の昔をわすれ、元より、長明の程よりは、幾たびの変世(へんせい)に下(くだ)り來て、近來(きんらい)、「かしか」の名のみを、きゝ覺へ、かの川原・谷川に出でて、「ごり」・「ぎゝ」の聲を聞き得て、鳴く處も、おなしければ、「是れぞ『かしか』なり」と、おもひ定めしより、乱れ苧(お)のもとのすぢをこそ、失なはれぬるやらん。

 

 再考

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

加茂眞淵「古今打聽(こきんうちきき)」に云、『かはづは「萬葉」にも「祝詞(のつと)」にも、一名(いちめう)「谷潛(たにくゞ)」とて、山河に住みて、音の、いとおもしろき物なり。今も、夏より秋かけて鳴く故に、「萬葉」には、秋の題に出だせり。いまの田野陂澤(はたく)にすみて、うたてかしましき物には、あらず。後世は、もはら、さるものをのみよむは、いにしへの歌をしらざるなり。「萬葉」に ┌─おもほゑす來ませし君を佐保川の蛙(かはず)きかせてかへしぬるかも とよめるをもても、音のおもしろきをしらる。今の、俗に「かしか」といふ物も、いにしへの「かはづ」なるべし。さて、それは、春には、いまだ、なき出てずして、夏のなかばより、秋をかねて、鳴くなり。』云々。

○愚案に、「谷(たに)クヽ」のこと、さして、「蛙なり」といふ引証を得ざれば、姑(しばら)く一說とすべし。山河(やまかわ)にすみて、音(こへ)おもしろき、と、めでゝいへるは、いかさま、「萬葉」のをもむきには見へたれども、一編中、必ず「秋なり」とも、さだめがたし。これ古質(こしつ)の常にして、種類の物を、あながちにわかつことなく混じて、同名に詠む事、其の例(れい)、すくなからず。されども、㐧六 ┌─おもほへずきませる君を佐保川のかはづきかせてかへしつるかも 又、蛙によせたる戀哥(こひうた)に ┌─朝霞(あさかすみ)鹿火屋(かひや)が下になく蛙(かはす)こへだに聞かは我(われ)戀(こひ)めやは といふなどは、秋なくものをよみて、尤も、題も秋なり。又、「後選集」雜四、「かはづをきゝて」との端書(はしかき)にて、我宿(わがやど)にあひやとりしてなくかはづよるになればやものはかなしき 是れも秋の物とこそ聞きゆれ。又、「萬葉」 ┌─佐保川の淸き川原(かはら)になく千鳥(ちとり)かはづとふたつわすれかねつも なと、みな、こえをめでし、とは聞こへはべる。「かはづなく吉の川」、「蛙(かはづ)なく六田の淀(よど)」、「かはづなく神奈備川(かみなみかわ)」、「かはづなく淸川原(きよきかはら)」なとにて、とかく山河(やまかは)の淸流にのみ、詠み合はせて、田野の物をよみたること、「萬葉」一編にあること、なし。元より、井堤(いて)を詠むは、「古今集」に見へて、「六帖(ろくてう)」にも載せし哥なり。かたかた、「かじか」は蛙(かはず)にして、名は俳言(はいご)たることを知るべし。

[やぶちゃん注:以下一行空きで、全体は底本では頭の「○」のみが二字半目の位置で突き出て、本文全体は三字半下げ位置で揃っている。何となく、字は小さめである。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を確認されたい。但し、底本は刷が薄く見難いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該画像の方もリンクさせておく。]

 

○形、幷に、聲のおもしろきことは、前に云ふごとし。

 カジカといふ名は俗語にして、哥に詠むことなし。

 もし、よまば、カハヅとよむべし。「萬葉」を證とす。

[やぶちゃん注:以下「万葉集」の引用。一行空きで「前書」(但し、これは「万葉集」では歌の「後書」である)と歌の間も)は底本では本文位置から一字下げているが、逆に歌(二行)は本文位置から上に一字分突出している。底本は訓点(読みは歌を含めてべったりとカタカナでルビのように張り付く)附きであるが、まず、返り点・記号(。)のみのものを底本通りの一行文字数で示し、その後に私が続けた訓読文にしたものを示す。なお、底本ではこの下部に後に掲げたカジカガエルの挿絵が載る。]

 

内匠寮。大屬。按作。村主。益人聊設飲饌

長宦佐為王未ㇾ及日斜王既還歸於

ㇾ時益人怜惜不ㇾ厭之歸仍作此歌

 

不所念來座君乎佐保川乃河蝦不令聞

還都流香聞

 

○やぶちゃんの書き下し文

 内匠寮(たくみのれう)、大屬(をおさくはん)、

 按作村主益人(くらつくりすくりますひと)、

 聊(いささ)か、飲饌を設け、以つて、

 長宦(ちやうくわん)佐為王(さゐわう)に、

 饗(きやう)す。

 未だ、日(ひ)、斜(なゝ)め

 及(な)らずして、王、既(すて)に

 還-歸(かへ)る。時に、益人、

 厭(いと)はず、歸(かえ)るを、

 怜-惜(うれ)え、仍(よつ)て此の歌を作る。

 

不所念(おもほえす) 來座君乎(きませるきみを) 佐保川乃(さほかはの) 河蝦不令聞(かはづきかせず) 還都流香聞(かへしつるかも)

 

Kajika

 

[やぶちゃん注:以下、底本では「諸國に河鹿といふ魚」の図と解説が続くが、以上の「河鹿」が長い上に、先に示した底本の特異な挿入部もあるので、ここで切って注することとする。

 本篇を読み解くには、まず、「第四巻 鮴」(ごり)を読んでおく必要がある。ここで蒹葭堂は古書をつまびらいて、かなり迂遠な路程を巡る煩を厭わず、結論として、鳴く「河鹿」は、

両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri

であるという、正しい真相に辿り着いている。

「連歌の季寄(きよせ)」連歌・俳諧で季詞(きことば)を大切にするが、句作の参考にするために、そうした現在の季語相当の語句を集めたものを「季寄」と呼ぶ。一般には俳諧歳時記の小型のもので、季詞を四季別(現在のように「新年」の部を立てるものもある)に分類し、月別に分け、さらに時候・人事・宗教行事・動植物などに分けて配列し,簡単な説明や例句を付したものもある。古くは連歌・俳諧の作法書に付されているものが多い。

「溫故日録(おんこじつろく)」江戸前期に書かれた連歌作法書。杉村友春作。古いものでは延寳四(一六七六)年の識を記す。『「杜父魚(とふぎよ)」・「カシカ」として、なんの子細も見へず』早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書のこちらの「葉月」の条下に(右頁一行目)、確かに「杜父魚(カジカ)」と、ただ出るだけである。

「八目」月別の「葉月」で陰暦八月の部の意か。

「三才圖會」寺島良安の「和漢三才圖會」のことであろうが、蒹葭堂如きが「俗書」呼ばわりするとは! 気に入らねえな! 「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」の「石斑魚(いしぶし)」の項などを指していよう。そこでは「河鹿」は挙げてはいないが、「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の第二項の「黃顙魚(ごり/かじか)」の読みを与えている。そこで私は「ごり」をまず、

淡水産カジカ類カサゴ目カジカ科のカジカ Cottus pollux

及び、

ウツセミカジカ Cottus reinii

及び、アユカケ Cottus kazika

を比定候補とした。そうして鳴き声を立てるとする、明の李時珍の「本草綱目」の叙述するものの正体として、『一読、「軋軋」の車の軋(きし)る時の音、少なくともこれは擬音語としては『キーキー』、『ギーギー』(中国音は「yà yà」であるが)で、この叙述は、釣り上げた際に、腹鰭の棘とそれを支えている基底部分の骨をこすり合わせて、「ギーギー」と低い音を出す、

ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps の仲間(ギギ Pelteobagrus nudiceps は日本固有種であるから、ギバチ属 Pelteobagrus の仲間というのが正確)

に相応しい。そうしてこの正当性は』先にリンクさせた『「黄顙魚」等の考証でも明らかになった。また付け加えるならば、この「吾里」(ごり)という呼称はもしかすると、ギギの音を聞き違えたものとも思われる。そもそも、この「吾里吾里」(ごりごり)という声自体が、「加之加」(かじか)の異物同名ともなり、その声と混同されもしたと思われる、

両生綱無尾目カエル亜目アオガエル科カジカガエル亜科のカジカガエル Buergeria buergeri

等の鳴き声を誤認したものではなかろうか)』と注した。この古い私の見解を私は今以って修正する必要を感じない。

『貝原氏(うぢ)、「大和本草」の「杜父魚」の条』「大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」である。しかし、それを読めば判る通り、蒹葭堂の読みは恣意的で、自分が指弾し易いように受け取っているに過ぎないことが判る。益軒は、『此の魚を「河鹿(カジカ)」と云ふ〔とする〕說あり。夜、なく。故に名づく。古哥にもよめり。一說、「ゴリ」の大なるを、「河鹿」と云ふ。「ゴリ」・「杜父魚」、同類なり』であって、益軒は一部で「杜父魚」(私は益軒が名指すのは本邦の条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux と断じている)を「河鹿」とする説、と呼ぶ地方があり、大型の「ゴリ」個体を「河鹿」と呼ぶ説や地方があるとまっとうな(現在でもこれは――確かな事実――なのである)言っているに過ぎないのである。蒹葭堂、喧嘩の売り方が汚ねえやい!

『「河鹿」として、『古歌にもよめり』といふは、全く筆の誤りなるべし』だからね! お前さんが後でばかばか引いているように「かじか」なる正体不明の何かは、いっぱい、古歌に読まれているというだけの、素朴なフラットな事実を益軒は言っているわけよ!

『「かしか」の名目は、是れ、俳諧師などの口ずさみにいひはじめて、恐らくは、寛永』(一六二四年~一六四五年)『前後の流行(りうこう)なるを、西行の歌などゝいへるを作り出だして、人に信ぜさせしにもあるべき』この蒹葭堂の謂いは傾聴すべき部分はあるように思う。則ち、博物学的に「かじか」という動物が何物であり(狭義の昆虫類か、魚か、両生類か)、それを確かに名指すと同時に示す(現代風に言えば種を同定比定する)という、インキ臭いアカデミックな鉄則などなかった時代に、俳諧連歌の風流仮想生物として「かじか」が誕生したという可能性は大いにあり得るということである。

「山川に汐(しほ)のみちひはしられけり秋風さむく河鹿(かしか)なく也」如何にも嘘臭さプンプンである。出典や相似歌を確認出来ない。ただ、調べていたところ、瀧澤馬琴の文政七(一八二四)年閏八月七日の小泉蒼軒宛「令問愚答」に、

   *

前問。越後の地名に「鮖」といふ字を「カジカ」とよませ候。此字も物に御見當り候ハヾ、御知らせ奉願候。

答。「鮖」ハ、全く土俗の造り字にて、田地に用る「圦」[やぶちゃん注:「圦樋(いりひ)」の略。土手の下に樋(とい) を埋め込んで水の出入りを調節する装置。一種の水門のこと。]字などゝ同格なるべし。今俗のカジカといふ物に二種あり。その一ハ魚なり、山河の水中に住ミ、好て砂石の間に隱れて、よく鳴くもの也。これを今、俗は「カジカ」といへども、古來よりの和名ハ、「イシブシ」といふ。「鮖」といふ魚、これ也。「和名抄」に、「鮖『食經』云、性、伏沈シテ石間者也。」「和名伊師布之(イシブシ)」。この魚、方言、多し。山城以西ハ、「ゴリ」といふ。「石ゴリ」とも云。水中に在て、「ゴリゴリ」と鳴くを名とす。魚の形ハ、些シ沙魚(はぜ)にも似て、沙魚より大きく、又、少し鯸䱌(フグ)にも似たり。「字考」にハ、「䱌」を「伊」の部にも、「加」の部にも収めて、「いしぶし」ともよませ、「かじか」とも訓じたり。種俗の稱呼に從ふのミ。この魚の和名を「石伏(イシブシ)」といひ、今、俗ハ「カジカ」ともいふにより、土俗の「カジカ」の正字をしらぬもの、私に魚に從ひ、「石」に從ハして、「鮖」の字を作り出して、「カジカ」と讀するのミ。これ「圦」字などゝおなじく、近來、土俗の造り字なること疑ひなし。「カジカ」の言ハ「河鹿」也。『「かじか」の歌、西行にあり。』などゝいふ者あれども、そら言也、信ずベからず。近來の俗稱にて、「カジカ」ハ「蛙」の聲よきもの也。形ハ「蛙」と異なること、なし。只、手足の指、よのつねの物とおなじからず、

Kajikaasi

指の先ニ、如此、まろきものあり。山川にありて鳴くに、その聲、淸朗也。いにしヘハ、これをも「かハづ」といへり。『万葉集』に、嗚く聲を憎むがごとくよみたるは、よのつねの水田に住る「かハづ」也。又、「かハづ聞さえ[やぶちゃん注:「で」の誤りか。]かへしつるかも」など詠て、その聲を愛(めづ)る心によめるハ、今、いふ、「かじか」なるよし、先輩、既にいへり。いづれも、「かハづ」といヘバ、紛るヽゆゑに、近來、その聲よきものを、「かじか」と呼べり。その聲、聊、鹿に似たれバ、「カジカ」の言ハ「河鹿」也。山城にハ、嵯峨・宇治等の山川にあり。大和にハ、よし野にあり。近江以東、奥幷ニ松前にあるものハ「䱌」にて、眞の「河鹿」にあらず。方言にも、又、さまざまにて、松前にてハけしからぬ名に呼ぶよし、松前の波響大夫、いへり。「河鹿」、幷に「石伏」の圖ハ、近來の印本「山海名產圖會」に出たり。披きて閲し給へかし。

   *

と、本書まで紹介してある(以上は「馬琴書翰集成一」(柴田光彦編・二〇〇二年八木書店刊のグーグルブックスのこちらを参考に漢字を恣意的に正字化し、記号も増やして示した。カジカガエルの足の図はスクリーン・ショットで取り込み、トリミングしたものである)。

「ゴリ」多様な種を指す。「大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ」の私の注を参照されたい。

「キヽ」ギギ。条鰭綱ナマズ目ギギ科ギギ科Bagridae のギギの仲間を指す。「大和本草卷之十三 魚之上 𫙬※魚 (ギギ類)」の私の注を参照されたい。

「ならて」「ならで」。

『「落合(おちあひ)の瀧」とよみて、大原に建禮門院の御詠(こえい)と云いつたふ』京都府京都市左京区大原草生町(おおはらくさおちょう)の焼杉谷川と西田谷川が合流する地点(グーグル・マップ・データ)にある瀧で、建礼門院の御歌、

 ころころと小石流るる谷川のかじかなくなる落合の瀧

で知られている。

『「夫木集」二十四「雜六」岡本天皇御製とて』『あふみちの床の山なるいさや川このころころに戀つゝあらん』日文研の「和歌データベース」で確認。「夫木抄」巻二十の「雜二」に読人不知として、

 あふみちのとこのやまなるいさやかはけのこのころはこひつつもあらむ

とある。これは蒹葭堂が示す通り、「万葉集」巻第四に載る一首で(四八七番)、

   *

 淡海路(あふみぢ)の

     鳥籠(とこ)の山なる

   不知哉(いさや)川

        日(け)のころごろは

      戀ひつつもあらむ

   *

で、後書に、

   *

右は、今案(かむが)ふるに、高市崗本宮(たけちのをかもとのみや)と、後(のち)の崗本宮と、二代二帝、各々、異(こと)なり。ただ「崗本天皇」といへるは、未だその指(さ)すところを審(つばひ)らかにせず。

   *

とあるのだが、中西進氏は講談社文庫版「万葉集」で、歌意からは斉明天皇(推古天皇二(五九四)年~斉明天皇七(六六一)年)とする(今一人の「崗本天皇」は斉明天皇の夫舒明天皇(五九三年?~六四一年))。蒹葭堂の言う通り、この「日(け)​のころころ」は鳴き声の「コロコロ」や「ゴロゴロ」なんぞではなく、今日「この頃」の意であることは言うまでもない。

「代匠記(たいしやうき)」「萬葉代匠記」(まんやうだいしやうき)。江戸前期の「万葉集」の注釈書。契沖が徳川光圀の依頼を受けて、下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)に代わって著したもの。貞享末年(一六八八年)頃に初稿本が成り、さらに光圀から写本や注釈書類が与えられたり、貸し出されて、「万葉集」の校本作りが進められ、本文研究とともに元禄三(一六九〇)年に精撰本が完成した。初稿本は平仮名、精撰本は片仮名で書き、惣釈に於いて「万葉集」の書名・作者・品物・地理・音韻・枕詞等を概説し、巻順に、ほぼ全歌と漢詩文・題詞左注・目録等について、約三千箇所に及ぶ本文訓読を改訂した(この内の約二千の条々は現在も定説とされて有効である)。さらに内外の典籍を博引旁証して語句・歌意や作者作意の解明を試み、精密な注釈を加えてある。仙覚の「万葉集註釈」、鹿持雅澄(かもちまさずみ)の「万葉集古義」と並び称され、中世の古今伝授と異なり、文献による実証主義にたつ近代的手法は古典注釈史上、画期的とされる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

『「ねもころころ」とよみたる例(れい)のごとし』これは「万葉集」巻第十一に載る一首(二四〇〇番)、

 いで如何に

   ここだはなはだ

  利心(とごころ)の

      失(う)せなむまでに思ふ戀ゆゑ

の古訓、

 いで如何に

   ねもころころに

  利心の

      失するまで念(おも)戀ふらくの故

辺りを指しているか。「ねもころころに」は「ねんごろ」の古形である「懇(ねもこ)ろ」の強調形或いは韻律操作とするか。孰れにせよ、鳴き声では、確かに、ない。

『長明「無明抄」にいへる「井堤(いで)の蛙(かはず)」』「無明抄」は鴨長明の歌論書。建暦元(一二一一)年十月以降から鴨長明が没する(建保四(一二一六)年閏六月)までの間と推定されている。「大和本草卷十四 陸蟲 山蝦蟆(やまかへる) (カジカガエル)」の私の注で当該箇所「井手の山吹幷(ならびに)かはづ」全文を電子化してある。

「井堤の川」現在の京都府綴喜(つづき)郡井手町(いでちょう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。古来より、山吹と蛙(かはづ)の名所として知られており、歌枕として多くの和歌に歌われた。

「八瀬(やせ)」京都市左京区八瀬野瀬町附近。

『有馬「皷(つゞみ)が瀧」』兵庫県神戸市北区有馬町にある鼓ヶ滝」

「愆(あやま)ち」「愆」は音「ケン」で、「誤る・過(あやま)つ・過ち・罪・咎」の意がある。

「八脊(やせ)」前の「八瀬」に同じ。

「帯刀の長節信(ちやう ときのぶ)は數竒(すき)の物なり。始めて能因に逢ひ……」以下、文中に注で入れた通りだが、再度、言っておくと、前振りなしに、突然、平安後期の保元年間(一一五六年~一一五九年)頃に公家で六条家流の歌人であった藤原清輔が著した歌論書「袋草紙」の能因法師絡みの数奇者の話の引用が始まる(この奇体なエピソードは「山吹や井手を流るる鉋屑 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)」で知っていたし、怪奇談集の「谷の響 四の卷 一 蛙 かじか」でも電子化している)。私の所持する「新日本古典文学大系」版とはかなり原文が異なっており、そもそもがここで蒹葭堂が引用書名が示さないというのも甚だ不審である。この前までは必ず引用書目を出しているからである。しかも他の版本に見られない内容である。しかも、驚くべきことに、二頁目がダブりを示しながらも、次の頁にすんなり繋がっている点である。されば、底本のこの不思議な二頁分は、実は本書の元原稿分が、そのまま刷られたものである可能性が強いように思われる。蒹葭堂は理由は判らないが、この二頁分を、初摺りの直後にカットすることにして別に原稿を渡したが、一部で、その元版が刷られて、誤って刊本に綴じ込まれてしまったのではないか? と私は考えている。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の版本当該部(PDF・55コマ目)視認して、電子化する。カタカナはひらがなに直し、漢文脈部分は訓読し、一部の送り仮名を打った。読みは「新日本古典文学大系」版で補った。

   *

 加久夜(かくや)の長(をさ)の刀帯(たてはき)節信(ときのぶ)は、數竒(すき)の者也。始めて能因に逢ひて、相ひ互ひに、感(かん)、有り。能因が云はく、

「今日、見参の引出物に、見すべきもの、侍り。」

とて、懐中より、錦の袋(ふくろ)を取り出だす。其の中に、銫屑(かんなくず)一筋(ひとすぢ)あり、示して云はく、

「是れは、吾が重寳也。長柄(ながら)の橋造りの時の、『鉋くつ』なり。」

と云々。

 時に、節信、喜悦、甚しくて、又、懐中より、帋(かみ)に褁(つつ)める物を、取り出だせり。之れを開きて見るに、かれたる「かへる」なり。

「是れは『井堤(ゐで)のかはづ』に侍り。」

と云へり。

 共に感歎して、各(おのおの)、懐にして、退散す。今の世の人々、「嗚呼(をこ)」と稱すべきか。

   *

こちらで注しておくと、「加久夜の長の刀帯節信」は「新日本古典文学大系」版では『加久夜(かくや)の長(をさ)の帯刀(たてはき)節信(ときのぶ)』である(但し、編者にようる補正)。藤原姓。生没年未詳。「新日本古典文学大系」版脚注では、『「加久夜」は鹿児矢か。鹿などを射る矢。「帯刀」は』『舎人帯刀の略で、帯刀して東宮を護衛する役。その長を「帯刀の長」といい、本文の「長に帯刀」とあるのは同意か。不詳』とある。「今日、見参の引出物」今日、かくもお越し下さった記念の贈り物。但し、見せるだけの「引き出物」であり、最後にはそれぞれが自分の宝物を懐に入れて別れている。「長柄の橋」は淀川の支流であった旧長柄川に架かっていた橋。歌枕として著名。現在、淀川に架橋する長柄橋があるが、往古とは河川流域が異なり、ここに出る長柄橋がどこにあったかは、不明である。『かれたる「かへる」』ミイラになった蛙。

「世の中にふりぬるもの津の國の長柄の橋と我(われ)となりけり」「古今和歌集」巻第十七「雜歌上」の詠人不知の一首(八九〇番)。表記に問題なし。

「蛙(かはつ)なく井堤の山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」「古今和歌集」巻第二「春歌下」の詠人不知の一首(一二五番)。

 かはづなく

   ゐでの山吹

  ちりにけり

     花のさかりに

        あはましものを

で問題ない。

『「後拾遺」の秋』「良暹法師」「みかくれてすたく蛙の諸聲にさわきそ渡る井堤の浮草」「後拾遺和歌集」巻第二「春下」にある良暹法師(りやうぜん(りょうぜん) 生没年不詳:平安中期の僧で歌人。出自・経歴もほぼ不明。蒹葭堂が記すように、一説によると、父は彼と同じ比叡山の天台僧、母は藤原実方(?~長徳四(九九九)年)家に仕えていた童女(めのわらわ)白菊だったとも言われる。祇園社(現在の八坂神社)別当となり、その後、大原に隠棲し、晩年は雲林院に住んだとされている。一説に康平年間(一〇五八年~一〇六五年)に六十五歳ぐらいで没したともされる。「良暹打聞」という私撰集を編んだと伝えるが、現存しない)の一首(一五九番)、

   *

   長久二年弘徽殿女御家歌合に、

   「かはづ」をよめる

 みがくれて

   すだく蛙の

  諸聲(もろごゑ)に

     さわぎぞわたる

       池(ゐけ)の浮草

   *

であるが、前書の長久二(一〇四一)年の「弘徽殿女御家歌合」では、第五句が蒹葭堂の示すのと同義の「井手の浮草」となっている。この一首、蛙の集(すだ)き鳴き騒ぐその声に、池の浮草が揺れるさまを描いて聴覚と視覚が相俟って新鮮である。

『井堤(いで)をよむことは、ふるく、「萬葉」、人丸(ひとまる)よりはじまり』蒹葭堂の自信に満ちた謂いを受けて調べてみたが、柿本人麻呂の「万葉集」の歌に、そのような歌は見当たらない。敢えて挙げると、巻第十一にある一首(二七二一番)、

 玉藻刈る

   井堤(ゐで)のしがらみ

  薄(うす)みかも

     戀の淀める

        我が心かも

があるが、この「井堤」は明らかに一般名詞の流れをせき止める柵(しがらみ)と同義のもの。但し、万葉仮名が「井堤乃四賀良美」であり、これが井手の地名と解釈され、歌枕化したであろうことは、想像に難くはない。

『「蛙(かはづ)」を詠み合はせとすること、古くは小町・貫之が家(いへ)の集に見えたり』両歌集を持ってはいるが、調べる気は全くない。悪しからず。

「一条院」一条天皇の在位は寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年。

「試みて、しれり」蒹葭堂が「試みて」観察実証した、というのである。アッパレ!

「其の聲の、あるにもあらず」意味がよく判らない。所謂、他の蛙のかまびすしさと比べ、鳴いていても、それが気にならない、だから「あるにも」かかわらず、「あらず」と見做し得るほどに気にならない、不思議な安静感を醸し出すと言っているか。

「閑情(かんせい)」「かんじやう」(かんじょう)が普通。心静かな気持ち、もの静かな心持ちを言う。

「蝦蟇(かま)」普通はガマガエルであるが、ここは広義のカエルの意。

「蒼黒色(さうこくしよく)」「向ふの足に水かきなく、指先、皆、丸く」両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri は、性的二型で♀の方が♂よりも大きく、オスの体長は三・五~四・四センチメートルであるの対し、♀は四・九~八・五センチメートルもある。孰れも河原の石のような体色をした保護色で、♂は体の表面が平滑で石に紛れて見えにくいが、♀はさらに加えて体表に小さな疣があり、河原以外の場所でも目立たない姿をしている。「向ふの足」は対峙した際にこちらを向いている前脚のことであろう。前脚には後脚のようには蹼(みづかき)が発達せず、その代わり、長い指の先に大きな吸盤が発達している(オタマジャクシは口が吸盤状に発達している)。

『「こま鳥」に似て、「ころころ」といふがごとく』笛の音か、野鳥の囀りのような美声で、音写は難しいが、「フィフィフィフィ」に時にそれが圧縮されて「ルルルルルル」に聴こえるような連続音に近い。たっぷり聴けるmono-氏のYouTube の「カジカガエル 癒される鳴き声(奈良県 黒滝村)Song of Kajika Frogsがよい。因みに、蒹葭堂の似ているとする「駒鳥」(スズメ目ヒタキ科コマドリ属コマドリ Luscinia akahige )の鳴き声はこちら(「日本野鳥の会」の「BIRD FAN」)。

「鵙(もず)」スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius Bucephalus 。鳴き声はこちら(同前)。

『加茂眞淵「古今打聽(こきんうちきき)」』国学者加茂真淵(元禄一〇(一六九七)年~明和六(一七六九)年)の「古今和歌集」の注釈書「古今和歌集打聽」。天明五(一七八五)年序。

「祝詞(のつと)」祝詞(のりと)に同じ。「青空文庫」の喜田貞吉「くぐつ名義考 古代社会組織の研究」に祝詞の中に「谷蟆」又は「谷潜」(ここでの「谷潛(たにくゞ)」)が出現することが記されてある。但し、「万葉集」に「たにくぐ」が出るのは、巻第五(八〇〇番)と巻第六(九七一番)で、孰れも台地を支える神聖なる地神のシンボルとしてのガマガエル=ヒキガエル(種は「大和本草卷十四 陸蟲 蟾蜍(ひきがへる) (ヒキガエル)を参照)を指しており、「カジカ」とは全く縁がないので、引かない(万葉サイトは腐るほどあるから御自身で探されたい)。『「萬葉」には、秋の題に出だせり』というのも、後者では当て嵌まるものの、前者では無効である。大体、「題」というマニエリスム的用語自体が「万葉集」には馴染まないと私は思う。さらに、ヒキガエルは「うたてかしましき物には、あらず」というのには、私は、否定しないまでも、賛同しない。「カジカ」と「ヒキガエル」の鳴き声は同一のものではないからであり、ここで真淵は万葉時代以降の蛙の鳴き声をそれこそマニエリスムとして一つにして処理しようとする無茶をしようとしているように思われるからである。因みに、「たにくぐ」とは、渓谷で「くぐくぐ……」と鳴く何者かの謂いであろう。そのオノマトペイアは、これ、それをそう表現した人間だけにしか、その声は明確に出来ず、従って、我々は、それを厳密に同定することは不可能である。

「陂澤(はたく)」「陂」は河川の土手。「澤」は沼沢や氾濫原。

「おもほゑす來ませし君を佐保川の蛙(かはず)きかせてかへしぬるかも」本「河鹿」本文パートの最後に掲げられた「万葉集」巻第六の村主益人(すぐりのますひと)の一首である(一〇〇四番)。蒹葭堂はどうも表記にブレがあり、直後でも性懲りもなくまた、「おもほへずきませる君を佐保川のかはづきかせてかへしつるかも」と引くし、最後の万葉仮名には「不所念(おもほえす) 來座君乎(きませるきみを) 佐保川乃(さほかはの) 河蝦不令聞(かはづきかせず) 還都流香聞(かへしつるかも)」と、また、ブれている。面倒なので、講談社文庫版の中西進のそれを参考に、正字化してここで出してしまおう。

   *

  按作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)の歌一首

思ほえず來ましし君を佐保川の河蝦(かはづ)聞かせず歸しつるかも

   *

この「佐保川」は奈良県北部の奈良市・大和郡山市を流れる川。ここ。以下、後書。引き上げて繋げた。

   *

内匠大屬(たくみのだいさくわん)、按作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)、聊(いささ)か、飮饌(いんせん)を設(ま)けて、以ちて、長官佐爲王(かみさゐのおほきみ)に、饗(あへ)せしに、日(ひ)、斜(くた)つに及ばずして、王、既に還-歸(かへ)れり。時に、益人、厭(あ)かずして歸(かへ)るを、怜-惜(を)しみ、仍(よ)りて此の歌を作れり。

   *

この「内匠」は中務省に属する神亀五(七二八)年に新設された内匠寮(ないしょうりょう)で、天皇家の調度品や儀式用具などの製作を担当した。「大屬」は長官。

「朝霞(あさかすみ)鹿火屋(かひや)が下になく蛙(かはす)こへだに聞かは我(われ)戀(こひ)めやは」「万葉集」巻第十の一首(二二六五番)。

   蝦(かはづ)に寄せたる

 朝霞(あさかすみ)

     鹿火屋(かひや)が下に

  鳴くかはづ

        聲だに聞かば

    我れ戀ひめやも

この「鹿火屋」は田畑を鹿や猪などから守るために火をたく番小屋。一説に、稲の穂先(かひ)を収める小屋ともいう説もあると言う。

『「後選集」雜四、「かはづをきゝて」との端書(はしかき)にて、我宿(わがやど)にあひやとりしてなくかはづよるになればやものはかなしき 是れも秋の物とこそ聞きゆれ』

 

「萬葉」「佐保川の淸き川原(かはら)になく千鳥(ちとり)かはづとふたつわすれかねつも」巻第七の一首(一一二三番)、

 佐保川の

   淸き川原に

  鳴く千鳥

     蛙(かはづ)と二つ

    忘れかねつも

これは確かにカジカガエルと詠む。

「かはづなく吉の川」「万葉集」巻第十の一首(一八六八番)、

 河蝦(かはづ)鳴く

      吉野の川の

  瀧の上の

   馬醉木(あしび)の花ぞ

          はしに置くなゆめ

「蛙(かはづ)なく六田の淀(よど)」「万葉集」巻第九の絹(きぬ:女性名と思われる)の一首(一七二三番)、

   絹(きぬ)の歌一首

 河蝦鳴く

    六田(むつた)の川の

   川楊(かはやぎ)の

        ねもころ見れど

           飽かぬ川かも

ロケーションの「六田(むつた)の川」は奈良県吉野郡大淀町北六田(きたむだ)にあった「六田の渡し」。「ねもごろ」は「楊」の「根」に「懇(ねもこ)ろ」を掛けたもの。

「かはづなく神奈備川(かみなみかわ)」「万葉集」巻第八の厚見王(あつみのおほきみ:奈良時代の官吏。天平勝宝六(七五四)年の太皇太后藤原宮子の葬儀の御装束司(みそうぞくし)となり、翌七年には伊勢大神宮奉幣使を務めた)の一首(一四三五番)、

 蝦(かはづ)鳴く

      甘南備川(かむなびかは)に

    影見えて

       今か咲くらむ

      山吹の花

「かはづなく淸川原(きよきかはら)」「万葉集」巻第七の一首(一一〇六番)、

 かはづ鳴く

     淸き川原を

  今日見ては

      何時(いつ)か越え來て

         見つつ思(しの)はむ

「六帖(ろくてう)」(ろくぢよう)は平安時代に編纂された私撰和歌集「古今和歌六帖(こきんわかろくじょう)」。成立時期や撰者はともに不明であるが、大よその目安として、天禄から円融天皇の代の間(九七〇年から九八四年の間)に成立したとされており、撰者については、紀貫之・兼明親王・具平親王・源順の撰とする説がある。]

2021/06/21

芥川龍之介書簡抄86 / 大正七(一九一八)年(一) 十通

 

大正七(一九一八)年一月一日・田端発信・菅忠雄宛(葉書)

忠雄さんは何時までそちらにお出でですか僕は來週中でも鎌倉へ行つてさがして下すつた家を見たいと思ひます

頓首

 

[やぶちゃん注:この三月一日で、芥川龍之介満二十五歳。先の最後の松岡譲宛書簡の注で既に述べた通り、龍之介が思いの外、人にちゃっかりしっかり頼るタイプであることが判る。但し、この時に紹介された物件は気に入らず、一月三十日にも菅虎雄の紹介で鎌倉の借家を数軒見て回ったが、気に入らない。結婚時点(翌二月二日)でも新居は決まっておらず、二月七日頃にも探しに行き、二月二十六日まで新居が決まった(新全集宮坂覺年譜に拠る)。ここで後に掲げる書簡も参照のこと。]

 

 

大正七(一九一八)年一月十九日・田端発信(推定)・京都市加茂松原中ノ町八田方裏 井川恭樣・一月一九日 芥川龍之介

 

女の名は

   加茂江(カモエ)(下加茂を紀念するならこれにし給へ)

   紫乃(シノ)(子)

   さざれ(昔の物語にあり復活していゝ名と思ふ)

   茉莉(マリ)(子)

   糸井(イトヰ)(僕の友人の細君の名 珍しい名だが感じがいゝから)

これで女の名は種ぎれ男の名は

   治安

   樓蘭(二つとも德川時代のジヤン、ロオランの飜譯 一寸興味があるから書いた)              

   哲(テツ)。 士朗。(この俳人の名はすきだ)

   俊(シユン)。山彥。(原始的詩歌情調があるぜ)

   眞澄(マスミ)(男女兼用出來さうだ)

そんなものだね

書けと云ふから書いたがなる可くはその中にない名をつけて欲しい この中の名をつけられると何だかその子供の運命に僕が交渉を持つやうな氣がして空恐しいから

僕は來月に結婚する 結婚前とは思へない平靜な氣でゐる 何だか結婚と云ふ事が一のビズネスのやうな氣がして仕方がない

僕は子供が生れたら記念すべき人の名をつける 僕は伯母に負つてゐる所が多いから女だつたら富貢子 男だつたら富貴彥とか何とかつけるつもりだ 或は伯母彥もいいと思つてゐる そのあとはいい加減にやつつけて行く 夏目さんが申年に生まれた第六子に伸六とつけたのは大に我意を得てゐる 實は伯母彥と云ふ名が今からつけたくつて仕方がないんだ

この頃は原稿を皆斷つてのんきに本をよんでゐる 英國の二流所の作者の名を大分覺えた

   爪とらむその鋏かせ宵の春

   ひきとむる素袍の袖や春の夜

   燈台の油ぬるむや夜半の春

   葛を練る箸のあがきや宵の春

   春の夜の人參湯や吹いて飮む

この間運座で作つた句を五つ錄してやめる

   井 川 君           龍

  二伸 奧さんによろしく 產月は何時だい 今月かね

[やぶちゃん注:太字はルビ。本文内の( )表記と区別するために、かくした。宛名は本来は改姓後の恒藤恭であるべきだが、龍之介はこの語も暫くずっと「井川恭」と記し続ける。この辺りに彼の「井川恭」に対する同性愛感情の残痕を私は嗅ぐ。龍之介が「恒藤恭」と記すのは、実にこの翌年の大正八年五月十九日附書簡(葉書・旧全集書簡番号五二七)以降である。発信の一月十九日は日曜日であるので、田端(推定)とした。親友恒藤恭の妻雅が妊娠し、その子の名を彼が龍之介に命名を頼んだ、その返信。翌二月十五日に雅は男児を出産、「信一」と名づけられた。

「僕は來月に結婚する」日付を明らかにしていない理由は次の松岡譲書簡に記されている。

「士朗。(この俳人の名はすきだ)」江戸時代後期の医師で俳人の井上士朗(寛保二(一七四二)年~文化九(一八一二)年)。尾張国春日井郡守山村(現在の愛知県名古屋市守山区)

生れ、医師として活動する傍ら、加藤暁台(きょうたい)門下の高弟として、暁台没後の尾張俳壇を主導し、「寛政の三大家」の一人に数えられた。私は師の暁台は好きだが、士朗は月並化が激しく、好きな句はない。

「伯母」芥川フキ。彼女への芥川龍之介の尊崇偏愛が見てとれる。

「ビズネス」ビジネス。business

「伸六」夏目漱石の次男でジャーナリスト・随筆家夏目伸六(明治四一(一九〇八)年~昭和五〇(一九七五)年)。当該ウィキによれば、『東京市牛込区(現在の東京都新宿区)早稲田南町に生まれる。伸六の上に姉』四『名と兄がいた。漱石は、名前を「申年に生まれた』六『番目の子ども」ということで「申六」とする予定だったが、「先生、いくらなんでも人間の子供ですから、ニンベンをつけて『伸』にしましょう」と漱石の弟子である小宮豊隆から言われ、「伸六」となった』とある。

「運座」俳諧の一座で、連衆(れんじゅう)一同が一定の題について句を作り、互選・選評する会。文政年間(一八一八年~一八三〇年)に始まり、天保年間(一八三〇年~一八四四年)頃から流行したが、その後途絶え、明治になって正岡子規が再興、日本派俳人の定式となった。]

 

 

大正七(一九一八)年一月二十二日・東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣・書留印・消印二十四日・一月廿二日 橫須賀汐入五八〇 芥川龍之介

 

手紙見た 久米はうつちやつて置くがいゝ

僕の結婚はいづれ通知する 公務の關係と家事の關係で日どりはまだはつきりしない 大體きまつてゐるがまぎわへ來て變るかも知れない とにかく來月である事は事實だ 但これも久米始め誰にも公表してない 僕の細君と學校との關係上結婚の完る[やぶちゃん注:「をはる」か。]前に公にしたくないからだ

伺しろくだらない用が多くつてうるさくつて仕方がない その中で小說を書くんだからやり切れないよ こいつ一つ書いちまへばあとは書いても書かなくつてもいゝんだと思つてそれを樂しみに書いてゐる

久米には實際こまつたものだと思ふよ この頃あいつの創作上の問題に關係してしみじみさう思つた 結局匙をなげるのかなとも思ふ とにかく惡い所を愈惡く出して來た事は確だ もう何と云つても仕方がない 以上

   松岡讓樣        芥川龍之介

  二伸 金をうけとつてくれ この中へ封入したから

[やぶちゃん注:芥川龍之介が親しい友人にさえ結婚式の日取りをぎりぎりまではっきりさせなかった大きな理由は、夏目筆子と松岡譲及び久米正雄のぐちゃぐちゃしたゴシップを勘案(というか、嫌気がさして)してのことと思われる。特に親友久米のことを慮っていたようである。実際には二月二日日曜日の結婚式の後に田端の天然自笑軒で開かれた披露宴には菊池寛・江口渙・池崎忠孝に久米正雄が出席している。

「金をうけとつてくれ」前年の十二月十四日の松岡宛書簡に出た謎の「グレエフエ」の代金か。

 

 

大正七(一九一八)年一月二十三日・横須賀発信(推定)・塚本文宛

 

だんだん二月二日が近づいて來ます 來方が遲いやうな氣も早いやうな氣もします もう正味二週間だと思ふと驚かずにはゐられません 文ちやんはどんな氣がします

僕は當日の事をいろいろ想像してゐます さうして 少し不安な氣もしてゐます 何だかまだ身仕度も出來ないうちに眞劍勝負の場所へひつぱり出されたやうな氣がしない事もありません しかしそれよりも嬉しい氣がします

文ちやんは御婚禮の荷物と一しよに忘れずに持つて來なければならないものがあります それは僕の手紙です 僕も文ちやんの手紙を一束にして持つてゐます あれを二つ一しよにして 何かに入れて 何時までも二人で大事にして置きませう だから忘れずに持つてゐらつしやい

何だかこれを書いてゐるのが間だるつこいやうな氣がし出しました 早く文ちやんの顏が見たい 早く文ちやんの手をとりたい さう思ふと二週間が眼に見えない岩の壁のやうな氣がします

今これを書きながら 小さな聲で「文ちやん」と云つて見ました 學校の敎官室で大ぜい外の先生がいるのです

ん 小さな聲だからわかりません それから又小さな聲で「文子」と云つて見ました 文ちやんを貰つたら さう云つて呼ばうと思つてゐるのです 今度も誰にも聞えません 隣のワイティングと云ふ米國人なぞは本をよみなが居睡をしてゐます さうしたら急にもつと大きな聲で文ちやんの名を呼んで見たくなりました 尤も見たくなつた丈で實際は呼ばないから大丈夫です 安心してゐらつしやい

唯すにも文ちやんの顏が見たい氣がします ちよいとでいゝから見たい氣がします それでそれが出來ないからいやになつてしまひます

當日品川から田端まで車で來るのは大へんですねずゐぶん長い譯でせう 尤も車の外に仕方がありません 自働車は動阪から先へ來られないから。僕なら途中の車の中で居睡りをしちまひさうです。自笑軒へ行つてからはずゐぶん極(きま)りが惡るさうで これには少し閉口してゐます 文ちやんは平氣ですか しかし一生に一度だから極りの惡い位は我慢したければなりませんね 兎に角それが皆二週間たつと來るのです 當日お天氣がいゝといゝですね 何だかいろんな事が氣になります

暇があつたら返事を書いて下さい 頓首

    一月廿三日      芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣

  二伸 學校へはまだ行つてゐるの?

[やぶちゃん注:婚礼時点では、塚本文はまだ満十七歳であった(誕生日は七月四日)。]

 

 

大正七(一九一八)年二月一日・東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣・二月一日 龍(葉書)

 

おたづねに從ひ御返事する

僕は明日結婚する 細君は當分うちに置いて僕だけ橫須賀で下宿ずまひをするつもり

鎌倉にはまだ適當な借家が見つからない

とにかく貧乏で悲觀してゐる

これが僕の書いた唯一の結婚通知狀だ この後も書かないだらうと思ふ 頓首

  (二伸 約束上成瀨へもよろしくしらせてくれ給へ)

 

 

大正七(一九一八)年二月十三日・横須賀発信・薄田淳介宛

 

拜復 朶雲奉誦、問題の性質上學校の首席敎官とも一寸相談して見ましたが大體差支へあるまいといふ事ですから條件第一で社友にして下さい齟齬するといけないから念の爲その條件を下へ書きます

一、雜誌に小說を發表する事は自由の事

二、新聞へは大每(東日)外一切執筆しない事

三、右二、を大每(東日)紙上で發表して差女へない事但その文中「公務の餘暇なる」字を入れる事(勿論社友と云ふ事でなく執筆を新聞では大每に限ると云ふ事を發表するのです)

四、報酬月額五十圓

五、小說の原稿料は從前通り

これでよかつたらその旨田端四三五私宛返事して下さいいけない場合も同樣田端宛御一報願ひます 又目下讀賣の依賴で七枚ばかりの小品を一つ同社の爲に書きましたがこれは契約前のものとお見なし下さい多分今度の日曜附錄にのる筈です小說は私の結婚でちよいと中斷されましたもう四五日待つて下さい早速送ります 以上當用のみ末ながら色々御盡力の御禮を申上げます 頓首

    二月十三日      芥川龍之介

   薄田淳介樣

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜によれば、カットしたが、一月三十一日附の薄田書簡で、社友への誘い(イコール、専従作家としての出発の可能性を示唆するものである)を受け、許諾しており、『日付は不明だが、この日以前にも、薄田上京の折に』社友扱いについて『依頼していた』とあり、この書簡について、『海軍機関学校から辞任の内諾を受けたため』に書かれたものとする。但し、これは辞任への布石であって、実際の毎日新聞社社員(出勤義務無し)の内定と機関学校辞任は翌大正八年の二月下旬から三月末日(三十一日に正式に退職)であった。

「朶雲奉誦」(だうんはうじゆ)の「朶雲」は唐の軍長官であった韋陟(いちょく) は五色に彩られた書簡箋を常用し、本文は侍妾に書かせ、署名だけを自分でして、自ら「陟の字はまるで五朶雲(垂れ下がった五色の雲)のようだ」と言ったという「唐書」「韋陟伝」の故事から、他人を敬って、その手紙をいう語。従ってこの四字熟語は返信にのみ用いる。

「七枚ばかりの小品」「南瓜」(リンク先は「青空文庫」(新字旧仮名)。大正七年二月二十四日附『讀賣新聞』発表の一人称(対話者はいるが、出てこない)の語り物。芥川龍之介の作品では珍しいものである。]

 

 

大正七(一九一八)年二月十五日・井川恭宛(封筒欠)

 

御長男の生まれたの祝す 御母子の健康を祈りながら

   春寒く鶴を夢みて產みにけむ

    二月十五日      芥川龍之介

   井 川 恭 樣

   仝 雅 子 樣

 

 

大正七(一九一八)年三月十一日・京都市外下鴨松原中ノ丁八田方裏 井川恭樣・三月十一日 田端四三五 芥川龍之介

 

拜啓

御祝の品難有う 今日東京へ歸つて拜見した

うちはやつと見つかつたが引越すのは多分今月廿日頃になるだらうと思ふ 鎌倉でも亂橋と停車場との中間にある寂しい通りだ 間數(まかづ[やぶちゃん注:ママ。])は八疊二間 六疊一間 四疊二間 湯殿 臺所と云ふのだから少し廣すぎる が蓮池があつて芭蕉があつて一寸周圍は風流だ もし東京へ來る序ででもあつたら寄つてくれ給へ 番地その他はまだ僕も知らない いづれ引越しの時通知する

例の通り薄給の身だからこれからも財政は少し辛(つら)いかも知れないと思つてゐる 兎に角人間は二十五を越すと生活を間題にするやうになると云ふよりは物質の力を意識し出すやうになるのだ だから金も欲しいが 欲しがつてもとれさうもないから別に儲ける算段もしないでゐる

學校の方はいゝ加減にしてゐるから本をよむ暇は大分ある この頃ハムレツトを讀んで大に感心した その前にはメジユア フオアメジユアを讀んでやつぱり感心した 僕の學校は一體クラシツクスに事を缺かない丈が便利だ バイロンのケインなんぞは初版がある 古ぼけた本をよんでゐるのは甚いゝ その代り沙翁のあとで獨譯のハムスンを讀んだから妙な氣がした 新しいものもちよいちよい瞥見してゐる あんまり面白いものも出なさうだね

その中に(四月頃)出張で又京都へゆくかも知れない 谷崎潤一郞君が近々京都へ移住するさうだ さうして平安朝小說を書くさうだ 僕は今度はゆつくり寺めぐりがしたいと思つてゐる

あとは後便にゆづる

末ながら雅子樣によろしく

別封は前に書いたが出さずにしまつたものだ 以上

    三月十一日          龍

   井 川 恭 樣

[やぶちゃん注:「御祝の品」芥川龍之介と文の結婚への贈答品。

「メジュア フオアメジュア」シェークスピアの戯曲「尺には尺を」(Measure for Measure :一六〇四年初演)。シノプシスは当該ウィキを見られたい。前注した「南瓜」にもシェークスピアへの言及が出現する。

「クラシツクス」classics。ここは西洋の古典作品の意。

「バイロンのケイン」イングランドの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron 一七八八年~ 一八二四年)の戯曲「カイン」(Cain )は、一八二一年出版された、所謂、レーゼドラマ(Lesedrama:上演を目的とせず、読まれることを目的に書かれた、脚本形式の文学作品)の代表として知られる。旧約聖書のカインとアベルの物語をカインの視点から描いたもの。

「ハムスン」ノルウェーの小説家クヌート・ハムスン(Knut Hamsun 一八五九年~一九五二年)。一九二〇年に一九一七年作の田園生活を讃美した小説「土の恵み」(Markens Grøde :ドイツ語訳 Segen der Erde :英訳 Growth of the Soil )でノーベル文学賞を受賞して世界的名声を得たが、侵攻してきたナチスを支持し続けたため、戦後、名誉失墜した。この時、龍之介が読んだドイツ語訳の作品は不明だが、「土の恵み」かも知れない。

「後便」少なくとも、底本の岩波旧全集には後便らしきものはない。次の恒藤恭宛は八月六日附まで、ない。]

 

 

大正七(一九一八)年三月十三日・横須賀発信・菅忠雄宛(葉書)

 

うちを御知らせ下さいまして難有うございます が、松岡先生のお出でになつたと云ふ家にもうとりきめてしまひましたから仕方がありませんあすこは井戶水を樋で引き便所も二つ建てましてくれるさうです 來週中にはひきこしますからさうしたらお遊びにお出で下さい先生によろしく 頓首

[やぶちゃん注:恩師とその息子にさんざん探させておいて、これだ。新婚の新居だから拘ったのは判るが、芥川龍之介のこういうさらっと言い過ごすところは、私はちょっと厭な感じだ。菅父子もちょっと可哀そうだ。

「松岡先生」不詳。]

 

 

大正七(一九一八)年三月三十一日・田端発信・岡榮一郞宛(葉書)

     左記へ移轉致候

    四月一日

神奈川縣鎌倉町大町字辻 小山別邸内

               芥川龍之介

  二伸君の宿所を忘れたまゝだから德田さんの御厄介になります鎌倉へ遊びに來ませんか女房持になつたつてさう見限るものぢやありません

[やぶちゃん注:この数日前の三月二十九日、芥川龍之介は鎌倉に転居した。宮坂年譜によれば、『当初は伯母フキも同居したが、翌月中旬には田端に帰る。フキは、以後も時々鎌倉を訪れた』とある。場所は現在の鎌倉市材木座一丁目の元八幡(鶴岡八幡宮の元宮である由比若宮)の南東直近のの中央附近である(グーグル・マップ・データ)。既に述べた通り、私の父方の実家は北西二百メートル余りの直近にある。この「辻」というのは、鎌倉時代にここに「車大路」と「小町大路」との辻があったことに由来する。の横須賀線を渡った北直近に「辻の薬師」がある。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 教恩寺/長善寺/亂橋/材木座」の「長善寺」(この雑誌発刊時には横須賀線敷設のために廃寺となっているので、この項立てはおかしい)の項を見られたい。

「岡榮一郞」(明治二三(​一八九〇)年~昭和四一(一九六六)年)は劇作家。石川県生まれ。東帝大英文科卒。芥川の一年先輩。大正二(一九一三)年に漱石山房に出入りし、木曜会を通じて芥川龍之介や久米正雄との交友も始まり、大正五年の漱石の死去に際しては、芥川らとともに葬儀の受付を担当している。大正六年頃から芥川との書簡の往復が増加し、それと共に「我鬼窟」の常連となった。劇作は芥川の勧めによるとされる。後の大正十四年には芥川の紹介で芥川の同級生野口真造の姪綾子と結婚し、芥川は夫婦で初めて媒酌人を務めたが、この結婚は不調で(姑との関係悪化)、翌年十二月に離婚した。芥川はこのことでかなり神経を悩ますこととなった。

「德田さん」作家徳田秋声。彼は岡の叔父(筑摩全集類聚版脚注に拠る。「岡栄一郎」のウィキでは『遠縁』とする。叔父は遠縁ではないから、或いは叔父というのは誤りかも知れぬ)であった。]

2021/06/20

日本山海名産図会 第四巻 蛸・飯鮹

 

Tako1


Tako2

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。一枚目のキャプションは「豫刕長濵章魚(よしうなかはまたこ)」。脚が掌の外にはみ出るほどの中型の蟹を蒲鉾板大の木片につけたものを餌としているのが判る。二枚目は「越中滑川之大鮹(えつちうなめりかはのおほたこ)」である。浮き出ている胴頭部だけで三メートルはあり脚を伸ばした長さは九メートルほどはあるか。漁師に非常に長い柄と刃を備えた大鉈で切断されて、舟に載り掛けている脚の先だけでも、向こうの舷側に垂れているようだから、実長は二メートル近そうだ。これは所謂「大蛸」の異名を持つタコ類最大種の頭足綱八腕形目マダコ科ミズダコ属ミズダコ Enteroctopus dofleini と思われ、現在の最大記録は体長九・一メートル、体重二百七十二キログラムであるから、遜色ない。海上の孤独な死闘(といってもミズダコがこのように沖の海面に浮上して舟を襲うことは特撮映画以外ではあり得ない。但し、水中や岩礁帯で身体に絡みつかれることはある)を遠目に、それと対照的な手前の街道筋の穏やかな日常が対位法的に興味深い効果を生んでいる。或いは、家の隙間から覗いている黒牛だけが、それを知って見ているようで、実に面白い。]

 

   ○章魚(たこ)【一名は「梢魚(せうきよ)」、又、「海和尚(かいおしやう)」、俗に「蛸(たこ)」に作るは、「梢(せう)」の音(おん)をもつて二合(にがう)せるに似たり。】

諸州にあり。中にも播州明石に多し。磁(やきもの)の壺(つほ)、二つ、三つを、縄にまとひ、水中に投じて、自(おのづか)ら來たり入(い)るを、常とす。磁器(じき)、是れを「蛸壺」と称して、市中(しちう)に花瓶(くわへい)ともなして用ゆ。蛸は壺中(こちう)に付きて、引き出だすに、やすからず、時に壺の底の裏を、物をもつて搔き撫づれば、おのづから出て、壺を放(はな)ること、速(すみや)かなり。○伊豫長濵には、此の魚(うを)、甚だ多き故に、「張蛸(はりたこ)」として市に出だすなり。是れは「スイチヤウ」と云ふ物を以つて取るに、壹人に、五、六百、壹艘(いつそう)には千、二千に及ふ。「スイチヤウ」とは、四寸に六寸許りの小片板(こいた)の表の端(はし)に、釣を二つ付け 表に「ズ蟹(かに)」の甲をはなし、足許(あしもと)をのこし、石を添へて、二所(ふたところ)、苧(お)にて括(くゝ)りたるを、三つ許り、長さ四、五十尋の苧糸(おいと)に付けて、水中に投ずれば、鮹は蟹の肉を喰はんとて、板の上に乘るを手ごたへとして、ひきあぐるに、岸近く、或(ある)は水際(みつきは)などに至りて、驚き逃げんと欲して、かの釣(つりばり)にかゝるなり。泉刕、亦、此の法を以つて小鮹(こたこ)を採るには、烏賊(いか)の甲・蕎麦(そば)の花などを、餌とす。長刕赤間關(あかまのせき)の邊(へん)には、船の艫先に(へさき)に篝(かゞり)を焚けば、其の下、多く集まりて、頭(かしら)を立てて踊り上るを、手をもつて摑み、手の及ばざる所は、打鎰(うちかき)を用ゆ。手取(てとり)の丹練、尤も妙なり。

○鮹は、普通の物、大ひさ、一、二尺許りにして、又、小蛸(こたこ)なり。京師(けいし)にて、十月のころ、多く市に售(う)るを「十夜蛸(じうやたこ)」と云ふ。漢名「小八(せうはつ)」・「梢魚(せうぎよ)」、又、「絡蹄(らくてい)」と云ふ。大ひなる物は「セキ鮹(たこ)」と云う。又、北國邊(ほつこくへん)の物、至つて大ひなり。大抵、八、九尺より、一、二丈にして、やゝもすれば、人を卷き取りて食ふ。其の足の疣(いぼ)、ひとの肌膚(きふ)にあたれば、血を吸ふこと、甚はだ、急にして、乍(たちま)ち斃(たを)る。犬・鼡(ねつみ)・猿・馬(むま)を捕るにも、亦、然り。夜(よる)、水岸(すいがん)に出でて、腹を捧(さゝ)け、頭(かしら)を昂(あをむ)け、目を怒らし、八足(そく)を踏んて走ること、飛ぶがごとく、田圃(たばた)に入りて、芋を堀りくらふ。日中にも、人なき時は、又、然り。田夫(でんぷ)、是れを見れば、長き竿(さほ)を以つて、打ちて獲(う)ることもあり、といへり。「大和本草」に、但馬の大鮹、松の枝を纏ひし蟒(うはばみ)と爭ふて、終(つい)に、枝ともに海中(かいちう)へ引き入れしことを載せたり。

○越中冨山滑り川の大鮹は、是れ亦、牛馬(きうば)を取り喰らひ、漁舟(ぎよせん)、覆(くつかへ)して、人を取れり。漁人(ぎよにん)、是れを捕らふに、術(じゆつ)、なし。故に舩中に空寐(そらね)して待てば、鮹、窺ひ、寄りて、手を延べ、舩のうへに打ちかくるを、目早(めはや)く、鉈(なた)をもつて、其の足を切り落とし、速やかに漕ぎかへる。其の危うきこと、生死(せうし)一瞬の間(あいだ)に関(あづか)る。誠に壯子(さうし)の戰塲に赴き、命を塵埃(ぢない)よりも輕んずるは、忠、又、義によりて人倫を明らかにし、或ひは、天下の暴𢙣(はうあく)を除かんがためなり。されども、鮹の足一本にくらべては、紀信(きしん)・義光(よしみつ)か義死といへども、あわれ、物の數には、あらずかし。

 右、大鮹の足を、市店の簷下(のきした)に懸くれば、長く垂れて、地にあまれり。又、此の疣一つを服して、一日の食(しよく)に抵(あ)つとも足(た)れり、とすなり。この余の種類、人のよく知る處なれば、こゝに畧す。

○「鮹の子」は、岩に產み附けるを、「やり子」といひて、糸すぢのごとき物に、千萬の數を連綿す。是れを塩辛として「海藤花(かいとうくわ)」と云ふ。

○「タコ」とは、手多きをもつて、号(なづ)けたり。「タ」は「手」なり。「コ」は「子」にて、頭の禿(かむろ)によりて、猶(なを)「小兒」の儀なり。

 

Iidako

 

[やぶちゃん注:同じく国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「高砂望潮魚(たかさこいひたこ)」。巻貝(赤螺)の殻を用いた漁法がよく判る。]

 

   ○飯鮹【○漢名(かんめう)「望潮魚(ほうてうきよ)」。】

攝・泉・紀・播州に多し。中にも播州高砂を名產とす。是れ、鮹の別種にして、大きさ、三、四寸にすぎず。腹内(ふくない)、白米飯(はくまいいひ)の如き物、充滿す。「食鑑」に云はく、『江東、未(いま)た此の物を見ず。安房・上総などに、偶(たまたま)是れありといへども、其の眞(しん)をしらず。』とぞ。

○漁捕(ぎよほ)は、長さ、七、八間のふとき縄に、細き縄の一尋許りなるを、いくらもならび付けて、其の端(はし)每に、赤螺(あかにし)の壳(から)を括りつけて、水中に投(たう)す。潮(しほ)のさしひきに、波、動く時は 海底に住みて、穴を求(もと)る[やぶちゃん注:ママ。「もとむ」の脱字であろう。]が故に、かの赤螺に隱る。これを、ひきあぐるに、貝の動けば、尙、底深く入りて、引き取るに用捨なし。

[やぶちゃん注:「スイチヤウ」当初、「垂釣」かと思ったが、その場合の歴史的仮名遣は「すいてう」である。そうなると、仕掛けの板に思い到った。これは丁半博奕の際の、コマ札に似ている。されば、「垂丁」或いは「水丁」ではなかろうか。これならば「すいちやう」で歴史的仮名遣として正しくなる。

「ズ蟹」甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica 「大和本草卷之十四 水蟲 介類 津蟹(モクズガニ)」を参照されたい。

「苧(お)」「鰤」の「苧縄(をなわ)」を参照されたい。

「四、五十尋」尋の江戸時代のそれは正確な規定値がないが、明治時代の換算では一尋は約一・八一八メートルとされた。但し、一尋を五尺(約一・五一五メートル)とすることもあるという。「四十尋」は前者換算で四十七・二四メートル、後者で六十・〇六メートル半となる。「五十尋」前者で九十・九メートル、後者で七十五・七五メートル。

「打鎰(うちかき)」「打ち鉤(かぎ)」。魚介類を引っ掛けて捕ったり、運んだり、ぶら下げたりするための鉄の鉤。

「十夜蛸(じうやたこ)」「(お)十夜」は浄土宗で旧暦十月六日から十五日まで十日十夜行う別時念仏(念仏の行者が特別の時日・期間を定めて称名念仏をすること)のこと。十日十夜別時念仏(じゅうにちじゅうやべつじねんぶつえ)が正式な名称で、十夜法要とも言う。天台宗に於いて永享二(一四三〇)年に平貞経・貞国父子によって京都の真如堂(正式には真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)。京都市左京区にある天台宗寺院)で始められたものが濫觴とされるが(現在でも真如堂では十一月五日から十五日まで十夜念仏が修せられている)、浄土宗では明応四(一四九五)年頃に、鎌倉の光明寺で観誉祐崇が初めて十夜法会を行ったのを始めとする。十夜は「無量寿経」巻下にある「此に於て善を修すること、十日十夜すれば、他方の諸佛の國土において善をなすこと、千歲するに勝れたり」という章句による(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。調べてみると、京都の真如堂のお十夜法要の際、「十夜蛸」の店が出るという複数の記載があった。このタコがマダコであるかどうかは、確認出来ないが、まあ、マダコでよかろうかい。

『漢名「小八(せうはつ)」・「梢魚(せうぎよ)」、又、「絡蹄(らくてい)」と云ふ』「本草綱目」では「章魚」で「舉魚」「𠑃魚」「石距」を掲げる(但し、「石距」は通常のタコとは異なる種としている)。なお、別に「鮹魚」を立項するが、これはタコではなく、「江湖に出づ。形、馬の鞭に似て、尾、兩岐、有り鞭鞘(べんしやう[やぶちゃん注:鞭の先につける細い革紐。])のごとし。故に名づく。」とあり、淡水産の細長い魚類かと思われる。蒹葭堂は、ここは「大和本草卷之十三 魚之下 章魚(たこ) (タコ総論)」に拠っている(リンク先で「本草綱目」を電子化してある)。益軒はそこで、『○「小八梢魚(くもだこ)」、「八梢魚(たこ)」に似て、小なり。俗名「絡蹄〔(らくてい)〕」【「東醫寳鑑」。】。「本草」、「章魚」〔の〕「集解」に、時珍曰はく、『石距も亦、其の類〔(るゐ)〕なり。身、小にして、足長』〔と。〕これ、「足ながだこ」なり。』と述べている。私は、そこで、「絡蹄」については、「絡蹄」の「絡」は「まといつく・からむ・からまる」で、「蹄」は「ひづめ」で、タコの吸盤を喩えたかとし、この「足ながだこ」をマダコ科 Callistoctopus 属テナガダコ  Callistoctopus minor に比定している。

「セキ鮹(たこ)」「石鮹」か。一石(=十斗=百升=一千合)の「石」(こく)で「一石もある大田だこ」の意ではあろう。漢語の「石距」由来ではあるまい。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚(たこ)」・「石距(てなかだこ)」・「望潮魚(いひたこ)」でも、かなり詳しい注を附してあるので、是非、そちらも参照されたい。

「水岸(すいがん)に出でて、腹を捧(さゝ)け、頭(かしら)を昂(あをむ)け、目を怒らし、八足(そく)を踏んて走ること、飛ぶがごとく、田圃(たばた)に入りて、芋を堀りくらふ。日中にも、人なき時は、又、然り。田夫(でんぷ)、是れを見れば、長き竿(さほ)を以つて、打ちて獲(う)ることもあり、といへり」これはタコのかなり知られた怪奇談であるが、私は完全に都市伝説の類いであると断じている寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚」にも、『一、二丈ばかりの長き足にて、若し、人及び犬・猿、誤りて之れに對すれば、則ち、足の疣、皮膚に吮着(せんちやく[やぶちゃん注:吸着。])して、殺さざると云ふこと無し。鮹、性、芋を好(す)き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ。其の行(あり)くことや、目を怒(いか)らし、八足を踏みて立行(りつかう)す。其の頭、浮屠(ふと[やぶちゃん注:ここは僧侶の坊主頭のこと。])の狀のごとし。故に俗に章魚(たこ)坊主と稱す。最も死し〔→死に〕難し。惟だ、兩眼の中間[やぶちゃん注:ここに脳に当たる神経叢があるので正しい仕儀である。]を打たむには、則ち、死す。』とあるが、そこで私は次のように注した(古い仕儀なので、一部を修正・省略した)。これを修正する意志は私には全くない

   *

「性、芋を好き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ」は、かなり人口に膾炙した話であるが、残念ながら私は一種の都市伝説であると考えている。しかし、タコが夜、陸まで上がってきてダイコン・ジャガイモ・スイカ・トマトを盗み食いするという話を信じている人は結構いるのである。事実、私は千葉県の漁民が真剣にそう語るのを聞いたことがある。また一九八〇年中央公論社刊の西丸震哉著「動物紳士録」等では、西丸氏自身の実見談として記されている(農林水産省の研究者であったころの釜石での話として出てくる。しかしこの人は、知る人ぞ知る、人魂を捕獲しようとしたり(弁当箱に封じ込んだが、開けて見ると消えていたともあった)、女の幽霊にストーカーされたり、人を呪うことが出来る等とのたまわってしまう人物である。いや、その方面の世界にいる時の私は実はフリークともいえるファンなのだが)。実際に全国各地でタコが畠や田んぼに入り込んでいるのを見たという話が古くからあるのだが、生態学的にはタコが海を有意に離れて積極的な生活活動をとることは不可能であろう。心霊写真どころじゃあなく、実際にそうした誠に興味深い生物学的生態が頻繁に見受けられるのであれば、当然、それが識者によって学術的に、好事家によって面白く写真に撮られるのが道理である。しかし、私は一度としてそのような決定的な写真を見たことがない(タコ……じゃあない、イカさまの見え見え捏造写真なら一度だけ見たことがあるが、余程撮影の手際の悪いフェイクだったらしく、可哀想にタコは上皮がすっかり白っぽくなり、そこを汚なく泥に汚して芋の葉陰にぐったりしていた)。これだけ携帯が広がっている昨今、何故、タコ上陸写真が流行らないのか? 冗談じゃあ、ない。信じている素朴な人間がいる以上、私は「ある」と真面目に語る御仁は、それを証明する義務があると言っているのである。たとえば、岩礁帯の汀でカニ等を捕捉しようと岩上にたまさか上がったのを見たり(これは実際にある)、漁獲された後に逃げ出したタコが、畠や路上でうごめくのを誤認した可能性が高い(タコは「海の忍者」と言われるが、海中での体色体表変化による擬態や目くらましの墨以外にも、極めて数十センチメートルの大型の個体が、蓋をしたはずの水槽や運搬用パケットの極めて狭い数センチメートルの隙間等から容易に逃走することが出来ることは頓に知られている)。さらにタコは雑食性で、なお且つ、極めて好奇心が強い。海面に浮いたトマトやスイカに抱きつき食おうとすることは十分考えられ(クロダイはサツマイモ・スイカ・ミカン等を食う)、さらに意地悪く見れば、これはヒトの芋泥棒の偽装だったり、禁漁期にタコを密猟し、それを芋畑に隠しているのを見つけられ、咄嗟にタコの芋食いをでっち上げた等々といった辺りこそが、この伝説の正体ではないかと思われるのである。いや、タコが芋掘りをするシーンは、是非、見たい! 信望者の方は、是非、実写フィルムを! 海中からのおどろどろしきタコ上陸! → 農道を「目を怒らし、八足を踏みて立行す」るタコの勇姿! → 腕足を驚天動地の巧みさで操りながら、器用に地中のジャガイモを掘り出すことに成功するタコ! → 「ウルトラQ」の「南海の怒り」のスダールよろしく、気がついた住民の総攻撃をものともせず、悠々と海の淵へと帰還するタコ! だ!(円谷英二はあの撮影で、海水から出したタコが、突けど、触れど、一向に思うように動かず、すぐ弱って死んでしまって往生し、「生き物はこりごりだ」と言ったと聴く)。

   *

『「大和本草」に、但馬の大鮹、松の枝を纏ひし蟒(うはばみ)と爭ふて、終(つい)に、枝ともに海中(かいちう)へ引き入れしことを載せたり』前掲大和本草卷之十三 魚之下 章魚(たこ) (タコ総論)」に、『○但馬にある「大ダコ」は甚大なり。或いは牛馬をとり、又、夜泊の小舟に手をのべ、行人〔(かうじん)〕の有無をさぐると云ふ。又、夜、ひかる。丹後熱(あつ)松の海にて、蟒(うはばみ)と章魚とたゝかひ、ついに[やぶちゃん注:ママ。]蟒を、うみへ引き入る。蟒、傍(かたはら)の木にまきつきたれども、松の枝、さけて、引〔(ひき)〕しづめらる。今に、松、殘れりと云ふ。諸州にて、「大だこ」、人をとる事あり。』とある。

「越中冨山滑り川の大鮹は、是れ亦、牛馬(きうば)を取り喰らひ、漁舟(ぎよせん)、覆(くつかへ)して、人を取れり。……」有り得ません。但し、怪奇談としては、汎世界的に人気がある。私の一番のお勧めは、私の「佐渡怪談藻鹽草 大蛸馬に乘し事」である。他に、蛇が蛸に化生する話も(類感呪術的である)枚挙に暇がないほどある。やはり私の「佐渡怪談藻鹽草 蛇蛸に變ぜし事」或いは「谷の響 二の卷 三 蛇章魚に化す」をお読みになられたい。大和本草卷之十三 魚之下 章魚(たこ) (タコ総論)」では、「義殘後覺」(ぎざんこうかく:愚軒(事績未詳。豊臣秀次の側近の「お伽の者」の一人かとも推定されている)の作になる雑談集。写本七巻。識語に文禄五(一五九六)年暮春吉辰とある)の巻四の「大蛸の事」を電子化してもある。

「𢙣」「惡」の異体字。

「紀信(きしん)」紀信(?~紀元前二〇六年か紀元前二〇四年か?)は秦末の武将。漢の劉邦に仕えた。紀元前二〇七年の有名な「鴻門の会」で、劉邦が項羽から逃れた際、樊噲・夏侯嬰・靳彊(きんきょう)らとともに参軍として劉邦を護衛した。紀元前二〇四年の夏六月、項羽率いる十万の軍勢が滎陽城(けいようじょう)の漢軍を包囲し(「滎陽の戦い」)。兵粮が尽き、落城寸前に陥った時、陳平は劉邦に対して、紀信が劉邦に扮して楚に降服する振りをして、その隙に劉邦が逃亡する策(「金蟬脱殻(きんせんだっかく)の計」)を進言した。紀信はその献策を受け容れ、間もなく、劉邦は陳平ら数十騎とともに滎陽城を脱出した。囮となった紀信は項羽によって火刑に処された(当該ウィキに拠った)。

「義光(よしみつ)」2021621日改稿】当初、『不詳』としたが、いつも情報を頂戴するT氏より、これは「太平記」第七巻の「吉野城軍事」(吉野の城(しろ)軍(いくさ)の事)に出る村上彦四郎義光である、という御指摘を受けた。『「尊卑分脈」「梅松論」では村上彦四郎義日、「梅松論」別本は「義暉」』(孰れも「よしてる」と読む)として出、護良親王を祀った『鎌倉宮の摂社「村上社」の祭神』となっている、とお教え下さり、「国立国会図書館デジタルコレクション」の「太平記」巻第七の村上彦四郎義光が自らを大塔宮を演じて凄絶な自死に至るシーン(ここの右頁左から三行目以降。自害は次のコマの左頁の四行目以下)、及び「村上義日」で出る「国立国会図書館デジタルコレクション」の「新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集」の系図(ここの左頁のほぼ中央)、さらに「村上彦四郎義日」で出る「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」の写本「梅松論」(書写年代は文明二(一四二〇)年)の(ここの中央の改頁の前後)、及び「村上彥四郞義暉」で出る「国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「梅松論」(日本歴史文庫)の当該部(左頁後ろから五行目)も紹介して下さった。ウィキの「村上義日」によれば、村上義光=村上義日=義暉(?~元弘三/正慶二年閏二月一日(ユリウス暦一三三三年三月十七日)は、『父は信泰。弟に国信および信濃村上氏棟梁の信貞。子に朝日、義隆。官位は従五位下、左馬権頭。通称は彦四郎。大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)に仕え、鎌倉幕府との戦い元弘の乱における吉野城の戦いで、次男の義隆と共に討死した。史料上は数行の記述が残るのみだが』、「太平記」では「村上義光」の『表記で登場し、印象的な活躍が描かれ、護良親王の忠臣として知られるようになった』(以下で「太平記」から別に私が示した)。『明治時代に従三位を追贈され、鎌倉宮村上社の祭神となった』。『村上義日(義光)に関する数少ない史料は、洞院公定編』の「尊卑分脈」であり、また、「梅松論」にも『名が見える』。諱は「尊卑分脈』」「梅松論」ともに、『「義日」の表記で記されるが』「梅松論」の別写本(「群書類従」版底本)では『「義暉」の表記が用いられている』(上記二種のリンク先がそれぞれに相当する)。『通称は彦四郎』(「尊卑分脈」・「梅松論」上巻)。「尊卑分脈」に『よれば、位階は従五位下で、官職は写本の系統によって左馬権頭とするものと右馬権頭とするものがある』。『信濃村上氏は、河内源氏の祖源頼信の次男源頼清を祖とする名門で』、「尊卑分脈」に『よれば義光の父は村上信泰とされる』。『また、国信・信貞(のち信濃村上氏棟梁)という弟と、朝日・義隆という子がいた』。『後醍醐天皇と鎌倉幕府との戦い』である「元弘の乱」(一三三一年~一三三三年)『が始まると、前半戦で敗北し』、『一度は姿をくらました護良親王(後醍醐天皇の皇子)は、後半戦で再び姿を現し、吉野城に籠城した』。『これに対し』。元弘三年/正慶二(一三三三)年の『初頭、鎌倉幕府は大将大仏高直・軍奉行工藤高景・使節二階堂貞藤(道蘊)らを将とする軍を編成』、閏二月一日、『二階堂軍の攻撃によって吉野城は落城した』。「尊卑分脈」に『よれば、この』時、『義日とその次男の義隆が討死した』とし、『義日は』「梅松論」上巻でも、『吉野城で落命した護良親王側の将として名が言及され』ている。『後述する』「太平記」に於ける『忠臣伝説が著名だが、実際には』、「吉野城の戦い」『以前の村上父子の動向ははっきりしない』。『本来、村上氏は信濃国(長野県)の御家人であり、また』、『御内人(北条得宗家の被官)として、幕府の事実上の権力者北条氏とも親しかった有力氏族』であった。にも拘わらず、『父子がいつ』、『いかなる経緯で護良親王の側近となって、吉野城で戦死したのか、歴史的実像は不明である』。『一説によれば、鎌倉時代には義日の系統は村上氏の傍系だったので、勢力拡大を目指して護良親王に接近したのではないかともいう』。明治四一(一九〇八)年、『従三位が追贈された』。『奈良県吉野郡吉野町大字吉野山にある墓所と伝えられる場所は一時』、『荒廃していたが、のち整備された』。『また、鎌倉宮村上社の祭神となった』。「太平記」では「元弘の変」の頃、『笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉(ぐぶ)した』九名の一人として『「村上義光」として登場する』。「太平記』巻第五の「大塔宮熊野落事」(大塔宮(おほたふのみや)熊野落ちの事)で、『道中、十津川郷で敵方の土豪・芋瀬(いもせ)庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞うが、芋瀬は「幕府へ面子を立てる為、通すかわりに名のある臣を一人二人、もしくは一戦交えた事を示すために御旗を寄越せ」と返答してきた。そこで供奉し』ていた九名の内の一人、『赤松則祐(あかまつそくゆう)が親王の御為と名乗り出て「主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、これこそが臣下の道。殿下の為に、この則祐、敵の手に渡ったてもかまわない」と言った。しかし、供奉し』ていた別の一人、『平賀三郎が「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはいけない。御旗を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬庄司の立場も守れる」と言い、親王はこれを聞き入れて大事な錦の御旗を芋瀬庄司に渡して、その場を乗り越えた。 遅れてやってきた義光も芋瀬庄司に出くわすが、そこには錦の御旗が翻っていた。義光は激昂し』、『「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを!」と、敵方に奪われた御旗を取り返し、旗を持っていた芋瀬の下人をひっつかみ』、四~五丈(約十二~十五メートル)ほど『かなたに投げつけた。義光の怪力に恐れをなし』、『芋瀬庄司は言葉を失い、義光は自ら御旗を肩に懸』けて『親王一行を追いかけ』、『無事に追いついた』。『護良親王は「赤松則祐が忠は孟施舎(もうししゃ)が義のごとく、平賀三郎が智は陳平が謀略のごとし、そして村上義光が勇は北宮黝(ほくきゅうよう)の勢いをもしのぐ」と三人を褒め称えた。(注:孟施舎と北宮黝は古代中国の勇者。陳平は漢王朝の功臣)』。続いて、先にリンクで示した「太平記」巻第七の「吉野城軍事」。遂に『幕府方の二階堂貞藤が』六『万余騎を率いて吉野山に攻め入った。護良親王軍は奮戦するも、いよいよ本陣のある蔵王堂まで兵が迫った。親王は』「最早これまで」と、『最後の酒宴を開いていたが、そこへ義光がやってきて親王を説得し』、『落ち延びさせる。義光は幕府軍を欺くため、親王の鎧を着て』、『自ら』、『身代わりとなって』、「天照太神(てんせいだいじん)の御子孫、神武天王より九十五代の帝(みかど)、後醍醐天皇第二の皇子、一品(いつぽん)兵部卿親王尊仁(そんじん)、逆臣の爲に亡ぼされ、恨みを泉下(せんか)に報ぜん爲に、ただ今、自害する有樣を見置いて、汝等(なんぢら)が武運、忽ちに盡きて、腹をきらんずる時の手本にせよ。」『と叫び、切腹して自刃した。この時、自らのはらわたを引きちぎり』、『敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、うつぶせに』『なって絶命した』、『という壮絶な逸話が残る』。『なお、子の義隆も義光と共に死のうとしたが、義光はこれを止め親王を守るよう言いつけた。その後、義隆は親王を落ち延びさせるため奮闘し、満身創痍とな』って『力尽き、切腹し』、『自害した』。『村上義日(義光)の墓と伝えられる墓が、蔵王堂より北西約』一・四キロメートルの『場所にある』(奈良県観光公式サイト「あをによし」の「村上義光墓」で画像と国土地理院図での位置が判る)。『案内板によると』、『身代わりとなって蔵王堂で果てた義光を北条方が検分し、親王ではないと知って打ち捨てられたのを』、『哀れと思った里人がとむらって墓としたものだという。墓には玉垣に囲まれた宝篋印塔と、向かって右に大和高取藩士内藤景文が』天明三(一七八三)年に『建てたとされる「村上義光忠烈碑」がある。なお、子の義隆の墓は蔵王堂より南』一・五キロメートル、『勝手神社から下市町才谷へと抜ける奈良県道』二百五十七『号線沿いにある』(ここ。グーグル・マップ・データ)とある。最後に、T氏に心から御礼申し上げる。

「やり子」語源不詳。「鎗子」で鎗の穂先をカバーするふさふさの毛物に擬えたか。

「糸すぢのごとき物に、千萬の數を連綿す」木村宏氏の「キムヒロのページ」の「幡多の海」に産みつけられたそれの写真が見られる。

「海藤花」ウィキの「海藤花」によれば、海藤花(かいとうげ)とし、『タコの卵から製される食品。兵庫県明石市の名産』。『ケシ粒大の卵粒がつらなり、たれさがるのがフジの花房に似ることから、江戸時代に明石藩の儒者』梁田蛻巖(やなだぜいがん 寛文一二(一六七二)年~宝暦七(一七五七)年:江戸中期の漢詩人。名は邦美、蛻巖は号。旗本の家臣の家柄に生まれ、江戸で育った。十一歳で幕府の儒官人見竹洞に入門し、新井白石や室鳩巣などと交流した。元禄六(一六九三)年に加賀藩に儒者として仕えたが、間もなく辞し、美濃の加納藩や播磨の明石藩に出仕した。晩年までには漢詩の大家として敬仰されるようになり、明石で没した)『によって「海藤花」と命名された』。『最初は蛸壺の中に産みつけられたのを「すぼし」にした。のちに塩漬けにもされるようになって、胎卵もしぼりとられるようになった。麹塩漬けにもするが、長くもつのは立て塩漬けである。塩出しをして三杯酢にしたのが最も酒にあうという。ざっとゆでて吸い物におとしたり、みりん醤油で甘露煮風に煮詰めたりする』とある。但し、「海藤花」は私の知る限りでは、以下のイイダコの房状卵塊を言うと心得ている(マダコよりも粒が大きい)。

『「タコ」とは、手多きをもつて、号(なづ)けたり。「タ」は「手」なり。「コ」は「子」にて、頭の禿(かむろ)によりて、猶(なを)「小兒」の儀なり』サイト「松蔭先生の蛸あらかると―語源と伝説」に、『「タコ」の語源については諸説あるが、江戸末期の「私語私臆鈔」には、「たこは多股からきている」と記されている。また、「和名抄」では、タコを「海蛸子(かいしょうし)」とあらわしている。ちなみに、「蛸」は本来はクモのことで、海に棲むクモという意味から「海蛸子」とあらわされ、それが省略されて蛸一字でタコと呼ぶようになったのだという。別の文献では、タコは手の多いことからテココラ(手許多という漢字をあてた)といわれ、これが転訛したものであるという説、あるいはタコはキンコやマナマコなどと同類の海鼠(なまこ)の類であり、手があることから手海鼠(テナマコ)とされ、それがやはり転訛してタコと呼ばれるようになったという説もある。いずれにせよタコの姿態、すなわち八本の手をもったことが語源に深く関わっているわけである』とある。

「飯鮹」マダコ属Octopus 亜属イイダコ Octopus ocellatus『栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 アカダコ(スナツカミ)・イイダコ』の私の注を参照されたい。

「望潮魚(ほうてうきよ)」「ぼうちょうぎょ」は蟹のシオマネキを「望潮蟹」と呼ぶのと同じく、海浜の岩礁の浅瀬などで、イイダコが移動したり、泳ぐさまを潮を招くように見立てたものと思われる。

「播州高砂」現在の兵庫県高砂市の海浜。

『「食鑑」に云はく、『江東、未(いま)た此の物を見ず。安房・上総などに、偶(たまたま)是れありといへども、其の眞(しん)をしらず。』とぞ』「本朝食鑑」の「鱗部之三」の「蛸魚」の項に附録する。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここの右頁一行目から。「江東」は関東のこと。但し、イイダコは北海道南部以南の日本沿岸域から、朝鮮半島南部・黄海・中国沿岸域に至る、東アジアの浅海に広く分布しているので、人見の謂いは解せない。最大でも三十センチメートルにしかならないので、こんなチンケなちっこいもの、江戸っ子は食べなかったというだけの話であろう。

「七、八間」十二・七三~十四・五四メートル。

「赤螺(あかにし)」腹足綱吸腔目アッキガイ科 Rapana 属アカニシ Rapana venosa

「壳(から)」「殼」の異体字。]

ブログ1,550,000アクセス突破記念 梅崎春生 亡日

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十一月号『光』初出。翌年の講談社刊の作品集「餓ゑの季節」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。文中に注を附した。

 標題は私は亡日(ぼうじつ)と読みたい。所謂、陰陽道が元の易暦で凶日とされる一つに「往亡日(おうもうにち)」があるが(外出を忌み、特に出発・船出・出征・移転・結婚・元服・建築などに不吉な日とし、一年に十二日ある)、どうも「もうにち」は響きが悪く、本作の題名としては、出征絡みではあるが、それを象徴するほど意味を持つようには思われない。彼の「幻化」と同じで、これはシンボライズされた「失われた日」であり、「失われた太陽」「失われた日々」の意であるように思われるのである。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが今朝、1,550,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021620日 藪野直史】]

 

   亡  日

 

 エンジン扉(ドア)が暑苦しいおとをたてて、いっせいに閉じた。停車中しばらくしゃべりやめていた座席の老人が、それにうながされたように甲高い声で叫び出した。

「だから日本は神国というのじゃ。あらぶる神々のしろしめす国じぅあ。二千六百年もつづいた尊いくにがらじゃ」

 乗客のからだを揺って、がたんと電車は動き出した。歩廊の号笛がふたつ重なって、ホオムをへだてた向う側の線の電車も、これと同時に動き出すのが窓硝子ごしに見えた。老人は防空服の小柄な肩をいからして、あたりを見廻しながらしゃべりつづける。その眼は義眼のようにへんにキラキラして、そのくせ視線は何ものもとらえていないらしかった。真中からふたつに割れたあの厭な恰好の大きな国民帽を、此の老人はしなびた頭にのせていた。両掌で弁当箱のふたを支えていて、その中には砕いた氷の破片がなかば溶けかかっていくつも乗っていた。老人は言葉の合間にそのひとつを口に含むと、銅板を小槌でたたくような声でまた忙がしげにしゃべり出すのだ。[やぶちゃん注:「国民帽」グーグル画像検索「国民帽」をリンクさせておく。]

「……それで神風が吹かんというのか。そんなに吹いてはたまらんわい。いつもわしが言うとるではないか。あれはけんこんいってきということじゃ。建国祭の旗がばたばたじゃ。そら、真珠湾の特別攻撃隊じゃ……」

 此の暑いのに脚絆(きゃはん)を巻いたり、防毒面包をさげたり、モンペを着けたりしている乗客たちは皆、言いようのない冷淡な無感動な顔つきで、老人のくるった饒舌(じょうぜつ)を聞き流している。私は扉口の脇によりかかって、老人の座席を視野の端にぼんやり入れながら汗づく眼を見ひらいてした。

 電車は次第に速度を増して、歩廊の端を切捨てるように走りぬけ、線路の砂利の上に明確な陰影を飛ばし始めたと思うと、先刻駅を同時に発車した向うの線路の車体が、吸いよせられるように見る見るこちらに近寄って来て、そして三尺ほどの幅をへだてて平行して走り出した。それはぴったり同じ速度に重なった。向うの車体の内部が手に取るように近く眺められた。そこにはこちらと同じ服装の人々が、腰かけたり吊皮に下っていたりした。誰もこちらに注意をはらっていなかった。ただ無関心に揺られていた。腰かけに立って外を眺めている子供がひとり、興味深そうにこちらを眺めているだけだった。頭の鉢のひらいた五つ位の子供であった。何を思ったのか両掌を窓枠に支えて、顔を窓硝子に押しつけた。……顔が白っぽくへんにふやけて、アルコオル漬の胎児みたいになる。そしてそれは動く。鼻がひらたくつぶれて、なまなましい皮の断面になって行く。子供は押しつけたそのままの顔で、或る表情になった。……一一つの車体はきしみながら同じ速度で奔(はし)りつづけた。同じ方向に行く線ではない。しばらく雁行してそこらあたりから九十度の角度に分れて行く筈であった。それは私も知っている。しかしその束の間の併行の中で、向うの車の無心な子供や大人が、ゆるぎなく連結されたみたいに、私の位置と同じ速力で動いている。ある生理的な不安がふと私をとらえた。その不安は急激に私の肉体にひろがって来る。白いエナメル塗りの把手(とって)をにぎりしめたまま、私はそれに堪えようとする。――

 その瞬間、むこうの薄墨色の鋼鉄の車体はちょっと振動して、そのまま少しずつ下にずれて行くらしい。等高にあった窓々が、一寸、二寸とさがって行く。それは沈下して行く世界のように、窓硝子に畸形な子供の顔を貼りつけたまま、皆おなじ姿勢のまま沈んで行く。一尺。二尺。そしてぐっと沈み込むと、灰色にすすけた車の屋根、平たい通風孔、折り畳まれたパンタグラフ。その彼方にはすでに家家の黒い屋根が連なり見えて、視野からふりおとすように此の同伴者のすがたは消えてしまう。重復した音の流れが急に単一の轟音にかわり、そのあいだを老人の甲高い声が縫って聞えて来る。

「それが蝙蝠(こうもり)傘の骨じゃ。墓場のしきみの匂いじや。やがて空から火が降って来るぞ。みんなみんな火の中に凍えてしまうぞ」

 老人は口に含んだ氷片を勢よくはき出した。氷は床をすべって私の足もとでとまり、やがて紙のように薄くなり、そのまま透明に溶けてしまった。私はそれを眺めていた。片掌で把手を支え、片掌で内かくしを確めていた。あんな薄い紙片なのに、布地をへだてても核のように探りあてられる。それはまるで内臓の痛みのようだ。

 ――今朝私は此の紙片を受取った。それを私にわたしたのは年寄りの郵便脚夫みたいな男であった。受取った瞬間に私はその紙片が何であるかをはっきりと察知した。その男の身振りがそれを教えたからである。動悸(どうき)をおさえながら私はそれを開いた。薄い印刷面に、私の名前と参集すべき年月日だけがにじんだインクで書きこまれてあった。末尾のひときわ大きい活字は、佐世保鎮守府という活字だった。[やぶちゃん注:召集令状は各役所役場の兵事係吏員が応召者本人に直接手渡しするのが普通であった。中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、梅崎春生は東京市教育局教育研究所の雇員(こいん)であった昭和十七年、陸軍対馬重砲隊に召集されたが、軽度の気管支カタルであったのを肺疾患と診断されて即日帰郷となり、その年一杯、療養生活を楽しんで、職に復したものの、昭和十九年三月には、『徴兵をおそれて教育局を辞職、東京芝浦電気通信工業支社に入社。一ヵ月勤務したが、役所と違って仕事がきついので三ヵ月の静養が必要であるとの診断書を医者に頼んで書いてもらい、月給だけ貰って喜んでいたところ、六月、海軍に召集され、佐世保相ノ浦海兵団に入団』することとなったとある。]

(そうするとこの俺が、海軍水兵になるという訳だな)

 先刻から数十度も考えたこのことを、また意識にあたらしく浮べながら、私はぼんやり車中を見渡していた。何故みんなこんなに沈欝な顔をしてゆられているのだろう。ひとりひとりが自分の内部に折れこんだような表情をつくって、まるで仮面で外気を拒否しているようだ。あの防毒マスクを腰に下げた会社員風の男も、その隣のだぶだぶのモンペを着けた四十女も、あるいはここに寄りかかっている私も同じかも知れないのだ。それは同じなのだ。あの狂老人の言葉を、私もつめたく聞き流しているではないか。顔にわらいも浮べず、軽蔑のいろを浮べることすらしていないのだ。私はただ私のことだけ考えている。私の運命を一瞬にして変えた此の紙片すら、此の乗客たちにとっては老人の叫び声ほどの重量もありはしないのだ。

 電車ががたんと揺れて曲路(カーブ)に入るらしい。壁ぎわの床においた私の酒瓶を、私は足でぐっと支えた。いっぱい詰った酒瓶の実質的な重量感が、私の足首をやわらかく押しもどして来る。壁板に背をささえて、私は眼を窓外にはなっていた。ふと気がつくと、二百米ほどの遠方を再び高架線となって、先刻沈下した電車が微かな傾斜を奔(はし)りのぼるらしい。ひとつの車体だけでなく、七八輛の全長として眺められた。それに群がり乗った人々の姿は、もはや遠く豆粒ほどの大きさであった。そのむこうに家々がかすみ、家並の果てる彼方に巨大な積乱雲が立ちのぼり、白くあかるくかがやいていた。黄金色にはじける太陽の直射光の下を、その電車は音もなく、淡黝(あわぐろ)い柩(ひつぎ)をいくつもつらねたように、遠く線路のかなたに小さくなって行った。窓硝子だけが陽を反射してチカチカと光った。そのきらめきすらだんだん小さく幽かになって行く。まるで遠い昔に帰って行くように。……

 荒涼とした孤独の感じが、それを眺めたとき波紋のように私の胸いっぱいにひろがってきた。

 

 改札のふきんには、なにか酢に似た匂いがうすくただよっていた。私から受取った切符を指にまきつけ、その若い女駅員は視線を私の酒瓶におとし、なんだと言うような表情をした。駅のスピイカアが時々思い出したように、きしんだ声をはり上げる。

 「今日は防空服装日であります。皆さま。今日は防空服装日であります」

 駅前のアスファルトがやわらかく轍(わだち)のあとを残していた。斜陽がじりじりとそれを照りつけていた。踏切を渡って曲ると、道はしばらく線路に沿ってつづく。道の右手は二間ほどの崖になっていて、その下を線路が青黒く走っていた。蓖麻(ひま)が生えている。そして左手は雑草地となって来る。此の道をいままで私は何度か通った。通るたびにある抵抗がある。そして今日も。私は手にした酒瓶をわざと勢よく振りながら歩いた。今朝受取った召集令状を区役所に提示し、出征用酒配給切符を貰い、そして酒屋から現物を手に入れる。今日の昼はそのことで終ったのだ。何かいらいらしながら、私は役所や酒屋をかけまわっていたのだが、こうやって手に入れてしまうと、不思議にそれは落着いた重さとなって、私の腕にしっとりとしずみ込んで来る。たのしい酩酊(めいてい)の予感さえ、いま私にはあるのだ。しかしそれは感官の皮膚面だけのことだ。いらだつものは胸の奥の奥に折れ曲り、そこで眼をくらく光らせているのだ。ある終末的な感じに耐えながら、私はしらずしらず崖の縁をあぶなく歩いていた。遠く電車の音がレエルを伝ってにぶく羽音のようにひびいて来る。額の汗はふいてもふいてもしたたり落ちた。[やぶちゃん注:「蓖麻(ひま)」下剤「蓖麻子(ひまし)油」でしられるキントラノオ目トウダイグサ科トウゴマ属トウゴマ Ricinus communis の異名。種子には猛毒であるリシン(Ricin)が含まれている(解毒剤なし)。推定で東アフリカ原産とされる。]

 二町ほどもあるくと、やがて左手の雑草地が尽きるところ、小さな屋根が見えて来る。あれが天願氏の家である。近づくにしたがって屋根のトタンの照返しが、黒くぎらぎら眼を射たりした。その小さな庭の伸び切った玉蜀黍(とうもろこし)のかげに、椅子に腰かけた裸の男が見える。頭をうつむけて何か手を動かしているらしい。草いきれの小径をよぎり、破れた背戸を押したとき、気がついたように背を起した。

 「なんだ」と私はすこしおどろいた声を出した。「居たんですか。居ないのかと思った」

 ふと呆けたような眼付になって天願氏は立ち上った。かぶさった髪のしたの顔。裸の上半身は何か見ちがえるほど肉の落ちた感じであった。立ち上った膝から竹屑が散って地面に落ちた。けずり上げたのは一尺ほどの細い筆筒らしい。掌に握っているのは、よく磨ぎすまされた鋭い形の鑿(のみ)である。なにか対峙(たいじ)するように私は背を堅くして、じっと天願氏を眺めていた。大儀そうなわらいが天願氏の頰に一寸浮んだ。[やぶちゃん注:「天願氏」戦前の小説「風宴」(昭和一四(一九三九)年八月号『早稲田文学』発表。リンク先は「青空文庫」)にも登場するが、これは五高時代以来の友人で作家の霜多正次(大正二(一九一三)年~平成一五(二〇〇三)年:元日本共産党員)である。がモデルとされる。但し、彼は昭和十五(一九四〇)年に応召し、外地を転戦した後、ブーゲンビル島に配属され、日本の敗色が濃厚となった昭和二十年五月、オーストラリア軍に投降して、捕虜となったから、設定は全くの架空である。]

「居ないのかと思う位なら、何故訪ねて来るんだね」

 かすめるような視線が一瞬私の手の酒瓶におちて、台所の引手に身体を入れながら天願氏が私をふりかえった。

「玄関から上れよ。それとも井戸端で身体をふくかね」

「磯さん。磯さん」家の中からそんなこもったような声がした。その弱々しい調子にふと私は耳をとめた。それは夫人の声にちがいなかった。なだめるような男の声が、やはり障子の内側でした。押えた声音であったけれども若々しい響きであった。声はそれだけで止んだ。

 玄関に廻るとよごれた下駄箱に、骨の折れた古傘や火たたきが立てかけられ、紙袋から洩(も)れた防火砂が土間にざらざらこぼれていた。そこに無造作に脱ぎ捨てられた一足の靴のそばに、私は靴の紐を解いた。革と汗の臭いがただよった。それは私の靴からであった。私のと並んだその靴は、今日おろしたかと思えるほど真新しくて、形から言えばあきらかに軍隊用のものだった。私は何故となく自分の靴を土間のすみにかたよせた。足音をふと忍ばせて部屋に入ると、もはや天願氏は黒い大きな卓を前にして欝然とすわっていた。卓の上には空の湯呑がふたつ置かれていた。私はその前にきちんとすわり、暫く経って背後から酒瓶を引寄せ、湯呑にふたつともトクトクと酒を満たした。[やぶちゃん注:「火たたき」火叩き。消火用具で、竹竿の先に三十センチメートルほどに切った縄の束を付けたもの。これで叩いて火を消す。空襲時の火災のためのもの。]

「今日はいろいろお願いがあってね、何からしゃべっていいか、先ず、僕の荷物をね、しばらくあなたの家にあずかって貰いたいと思ってね、そう思って今日はやって来たんですよ」

 そう言いながら私は湯呑のなまぬるい酒をすこし含んだ。天願氏は無精鬚のはえかけた顔をややのり出して、探るような視線で私の方をしばらく見詰めていた。

「荷物って。何故?」

「布団や机、そんなものです」

「ふん」天願氏は湯呑をとりあげて、ゆっくりした動作で半分ほど飲んだ。「どこかに逃げるんだな。故郷にかえるのかい」

「あなた、そこにいるのは誰?」

 それは隣室から夫人の声であった。それと一緒に唐紙(からかみ)ががたがたと少し開いて、窓かけをおろした青暗いその部屋から、白い服を着たわかい男がぬっとこちらに入って来た。部屋のすみに膝をついてすわった。眼鼻だちはつめたい程ととのっているくせに、どこか変に粗暴な感じのする男だった。

「やはり医師を呼ばんければいけませんな。天願さん。それはあんたの責任だ」

 若い男は両掌をきちんと膝の上にそろえて、上目使いに天願氏をみつめながら低い声でそんなことを言った。こんなに暑いのに此の男はきちんと服を着ていると思うと、すこし身じろいだとたんに微かな音が鳴って、それは男の腰に下げられた短剣の鞘(さや)であった。男はそう言いながら卓上にふと不審気な視線をはしらせた。

「呼ばなくちゃいけないと僕も思うよ」

 天願氏は押えたような声でそう答えた。そして語尾を曖昧(あいまい)にぼかしたまま、また湯呑をとりあげた。

「奥さんにもお話しておいたが、私も四五日中に出撃するかも知れません。こんなことは秘密だが、こんな場合だから特に申上げるのです」

 唐紙がなかば開いたままになっていて、そこから見えるむこうの部屋の一部に私は気をうばわれていた。床がしいてあって、その上に夫人が布団によりかかってすわっているらしかった。うすぐらい中でその顔はお面のように蒼白であった。そして夫人は私の姿を認めたらしい。

「ああ、あんたなのね」あえぐような弱い声であった。身体を少し傾けながら「お酒をのんでるのね。わたし病気になってしまったのよ」

 何かしめつけられる思いで私はその声を聞いた。眼をそこから外らして私は卓の方に手を伸ばした。

「もちろん生還は考えてはいない。だから後に心を残したくないのです。そんなことは皆でやってくれなければ――」

「それは僕の責任じゃないよ」と天願氏はさえぎった。

「医者に見せたがらないのは僕じゃない。鳥子だよ」

「それは別間題です」

 男はふいに傲慢な口調になった。それから変な沈黙が来た。瓶を傾けて酒を注ぐおとが大きくひびいた。

「それで」と私は耐えきれないで誰にともなくそんな言葉を口に出した。「御病気なんですね。何時ごろからです」

「もう半月位前だ」沈欝な声で天願氏はそう言った。「そこの道で、暗いものだから線路におっこちてしまった」

 そして脾腹(ひばら)を打ったのだという。鋭い眼付でじっと見詰めていた若い男は、天願氏がとぎれとぎれその事情を話している途中でふと立ち上った。では、と言ったらしかった。部屋を出て行ったと思うと玄関の板の間に剣鞘がふれる音がし、暫くすると表の方に出て行く靴の音がした。

「――電車が丁度走って来た処でね、危く轢(ひ)かれるところだった。急停車したからたすかった」

「だって電車には前燈がついていたのでしょう?」

「そりや点いているだろうさ。何故?」

「では道は暗くなかった筈だ」

 天願氏はいきを引くようにして暫くだまった。湯呑の残りをぐっとあおった。

「暗かったのか、前燈に目がくらんだのか、それは僕は知らない。とにかく近所の人がせおって来て呉れたんだ。それから鳥子はずっと寝ているんだ」

 へんにつめたい顔になって天願氏は隣室の方を顎でしゃくった。

 それから暫く酒を湯呑に注いでは飲み注いでは飲んだ。そのあいまに堅いするめの脚をしきりに嚙んだ。隣室と境の唐紙は半ば開いたままになっていて、夫人はまた床に横になったらしい。私の眼からは今、うすい夏布団が体の形にふくらんでいるのが見えるだけである。私たちの会話は聞えないのか、それはじっと動かない。何かしゃべることが沢山あるような気持がするが、さて口に出そうとすると何も言うことはなかった。湧きあがるむなしいものを押えながら、奥歯で鯣(するめ)をしきりに嚙んだ。明日は荷物をまとめて天願氏のところに運びこむ。明後日は赤だすきなど肩にかけて、見送りもなくひっそりと東京を離れてしまう。それでもう帰って来ることはないだろう。私は水兵服を着こみ軍艦に乗せられ、遠い南の海で戦争し、やがて静かに青い海に沈んで行く。何もかもそれで終る。青じろくふやけた私の屍の中に、赤や青や斑の魚たちが巣をつくってしまうだろう。ぼんやり私はそんな想像に堪えながら、また瓶から酒を注ぎたしては飲んだ。ようやく酔いが熱く身体のすみずみに廻って来た。[やぶちゃん注:実際の梅崎春生は敗戦まで九州地区を転々とした内地勤務であった。]

「どうも少し変なんだ」と暫くして赤くなった顔をあげて、天願氏がぽつんと言った。まるで前からの話のつづきみたいな具合だった。「なんだかぼんやりして、役所に出たって面白くないもんだから、近頃はずっと休んでいるんだが、うちにじっとしているとへんに退屈でね。昨日はひとりで浅草に遊びに行ったのさ。おどろいたねえ、普通の日だというのに満員だ。男の歌手が舞台に出て来てね、気取った声で勇ましい軍歌をうたったよ。皆聞いてるような聞いてないようなぼんやりした顔で舞台を眺めているんだ。その中にいて、だんだん不安になって来た位だ。何のためにみんな木戸銭払って入って来ているんだろう。うたい終ると平土間の片すみから、ようハイクラス、という掛声がかかったよ。それでも誰も笑いなんかしない。歌い手もしろうとっぽい笑い方しながら引込んで行ったんだが――」[やぶちゃん注:「役所」梅崎春生に教育研究所への就職を世話したのは霜多であったから、彼も東京の役人(教育関係)であったものと考えられる。]

 湯呑をかざして西陽(にしび)にすかすようにした。

「ハイクラスだなんて、きっと国民酒場のウイスキイのレッテルでも思い出したんだよ。しかし何故そんなことばかりを僕は覚えているんだろう」

「それで」と私も調子を合せるように訊ねた。「それはそれとしてもね、先刻の若者はあれは海軍の士官?」

「そうなんだ」天願氏はちょっと厭な顔をしてうなずいた。「鳥子の遠縁にあたるというんで、近頃しょっちゅうやって来るのさ。東京通信隊付の海軍少尉さ。あれで学徒出陣と自称しているんだがね」

「学生上り、にしては一寸いやなところがありますね」

「近頃の学生って皆そんなもんだよ。変に悟ったような恰好で、その癖おそろしく俗才に長(た)けていてさ。あれでマルスに来ていたと言うんだが、君は覚えていないか?」

 珈琲(コーヒー)の香や莨(たばこ)の煙や、壁にかけたロオランサンの模写や、鉢植のかげから音楽が流れていたマルスの店を、私は今あざやかに思い出していた。そこでは角帽の学生たちが眼鏡をひからせながら珈琲をのんだり、ハイボールを飲んでいたりした。その二階のきたない部屋で、若い私達はひそかに何度も会合した。階段のところに見張りを立て、私達は熱心に議論したり、仕事を打合せたりした。天願氏と相知ったのも此の二階の一室だった。天願氏は錆(さ)びた特徴のある声で、常に私達をリイドした。此の会合がだんだん不活潑になって来たのは何時頃のことだろう。そして、私がそれから次第に情熱を外(そ)らして行ったのは。――世の中がなんだか変な具合になって来て、マルスが丸巣と改名させられたり、大学の軍事教練が必須課目となった頃から、私はむしろ階下に入りびたって酒ばかり飲むような男になっていた。その頃の仲間もみな四散し、昔のことなど忘れたような顔付で、常凡な会社員になったり、地方の中学教師になって行ったりした。生きていることがくるしく、私は毎夜マルスに通った。酒をのんだり、そこの女の顔をながめることが、その頃の私の唯一の生甲斐だった。取残されたという意識が、はなはだしく私を駆りたてていた。――そこの女に心から惚れていたのかどうか、私は今でもわからないのだ。しかしその給仕女の顔を見ると胸が押しつけられるような気がした。何時からこんな気持になったのか、それも覚えていなかった。私が丸巣の扉を押して入って行くと、何も言わないうちに黙って強い酒を注いで呉れた。めったに笑顔を見せない冷たい感じのする女だった。酒をのみながら私は遠くの卓から眺めているだけであった。その女の冷たい感じがどこか人を牽くらしく、その取巻の中に先刻の若い男の顔もあったような気もする。しかもそれもはっきりしていない。――ある夜、長い間の盥(たらい)廻しから出て来た天願氏をつれて、私は丸巣の扉をくぐった。天願氏は蒼くやつれて、変に元気をなくしていた。うしろめたい気持があって、私はしきりに天願氏に強い酒をすすめ私も飲んだ。酔ってから、あの女をぼくは好きなんですよ、と天願氏にささやいた。天願氏はきらきら光る眼でその女の方をじっと眺めていた。――それからどんな経過やいきさつがあったのか、私は全然知らない、二箇月も経(た)たないうちに天願氏は、その鳥子という給仕女と結婚したのだ。それから三年経つ。

 今更自分の気持をいたわってもしかたがないとは思いながら、酔いが廻って来るにつれて妙な感傷が私を領し始めていた。事態がこんなにせっぱつまっているのだから、沢山やるべきことが残っているような気がするのに、西陽(にしび)がかんかんあたる此の小さな部屋でぼんやり酒を飲んでいるということが、変にぴったりしない奇怪なことに思われだした。膜をへだてて撫でるように、真の感覚から遠ざかったものがある。時折私は思い出したように隣室をぬすみ見ながら、天願氏と調子の合わない会話をぽつりぽつりと交していた。天願氏は酔いが廻るにつれて、沈みこんでいた何ものかが表面にいらいらと浮び出るらしかった。

「近頃なんだか神経衰弱のような気味があるんだよ」天願氏は鯣(するめ)の胴を無意味にひきさきながら言った。「しきりに故郷のことばかり頭に浮んで来るのだ。僕の生れた石垣島という処はまことに大風の吹く島で、家はみんな鯣のように平たく地面に這ったような形なのだ。がじまる。びんろうじゅ。僕の生家は大きな家で、おやじが六十九にもなって、まだ生きている。ひとつ家に、おふくろとお妾と、ぼくの兄弟や甥たちが、ごちゃごちゃに、しかも仲良く住んでいるんだ。お互に愛情をもちながら平和に暮しているんだ。僕はそんな愛情が鎖のように重くて、若いときその島を飛び出したんだが、東京のように人と人の間が乾いた風土も始めのうちは面白かったけれど、近頃はもうやりきれなくなった。他人がどんなことを考えているか判らないということは、君、おそろしいことだよ」[やぶちゃん注:モデルとされる霜多は沖縄県国頭郡今帰仁村に生まれである。「がじまる」バラ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus macrocarpa 。沖縄ではこの大木に妖精キジムナーが棲むことで知られる。「びんろうじゅ」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu 。噛み煙草に似た使われ方をする嗜好品としての実、「ビンロウジ(檳榔子)」で知られる。]

「歳のせいですよ」と私はわらった。

「歳のせいだけでもないらしい」天願氏は渋い顔でこたえた。「だいいちそんなに僕は年寄りじゃない。まだこれでも四十だよ。四十になってぼんやり何にも判らないでいるのだ。ああ、ちょっと」掌を上げて耳をすますような恰好をした。「聞えるだろう。あれが」

 屋根の上でなにか軽いものをころがすような丸い断続した音がした。ぐるる。ぐるる。ぐるるる。そして止んだ。天願氏は手を伸ばして、畳の上にころがっていた先刻の竹の筒をひろいあげた。

「夕方になるといつもやって来て啼くんだ。あれは鳩なんだよ」

 鳩の啼声(なきごえ)がまた短くおちて来た。

「あの鳩を射落してやろうと思ってね、今日は昼からこれをつくったんだ。吹矢のつもりだよ。でももう此の吹矢を使う気持はなくなった。吹矢で鳩をおとせるものか。そんなこと判っていながら僕はせっせと此の竹筒をけずっていたんだよ。げずり上げた処に君がやって来たんだ。だから今安心して僕はのんでいる。いい酒だね、これは。よくこんな酒がいまどき手に入ったもんだね」

「――召集が来たんです。先刻言いそびれたけれど」

 湯呑を口に持って行こうとした手がはたと止って、天願氏は赤くにごった瞳でじっと私を見つめた。鳩の声が、ぐるぐるる、とおちて来た。窓におろしたすだれのむこうで、大きな夕陽がいま沈むらしかった。

「鳥子」しばらくして天願氏がかすれた声で呼んだ。「召集が来たってさ」

「聞いたわ」

 弱々しい声が隣から戻って来た。夫人はそして床の上に起きなおるらしい。湯呑をぐっとあおると、天願氏はまた酒瓶の方に手をのばした。

 

 陽が沈むと少し風が出たらしく、玉蜀黍(とうもろこし)の葉がさやさやと鳴り始めた。そのむこうの線路を電車が屋根だけ見せて時々走って行った。身体はすっかり酔っているくせに、皮膚だけがしらじらと醒めている感じだった。私達は何だか大きな身振りをしてしゃべり合っていた。こんなに酒をのむのも今夜だけだという気持が、なにか私をかなしくさせていた。天願氏は役所の仕事のことをしきりに話していた。天願氏のかかりというのは、国民学校の教員たちを道場につれて行って、みそぎをさせたり、講話を聞かせたりするのが仕事であるらしかった。

「霊火の行(ぎょう)というのがあるんだ。午前二時頃広場のまんなかに火を焚(た)いて、皆でそれを取巻くんだ。他愛もない話だよ。拝火教のたぐいさ。どんなことをするかというと、白い紙に自分の懺悔(ざんげ)や祈願を書きしるして、折りたたんだやつを順々に火の中に投げこんで行くという趣向なんだ。僕は火のそばにいてね、風に外れて燃えないままのやつを、此のあいだ三枚ばかり拾い上げたんだ。先生どもは皆深刻な顔付で投げこんで行く。どんなことを書いているかと、つまり僕はふと好奇心をおこしたわけなんだ」

 天願氏の舌はすこしずつもつれるらしかった。

「そして道場に戻ってそっと開いて見たんだ。どんなことが書いてあったと思う。何にも書いてないのだ。全然の白紙だった。三枚とも」

 惨めなわらいが天願氏の頰にうかび上って来た。

「それは想像できるな。で、天願さんはまさかそれ以来役所を休んでいるという訳じゃないでしょうね」

「いやなことを聞くんだな。いまさら俺にそんな感傷はないよ」

「ほんとうに無意味なことをやるもんですね。大人たちは」ふとにがいものが胸におちて来て、私は独白のようにそう呟いた。天願氏の顔は酔いのために少し蒼ざめて、やせた頰のあたりは凝(こ)ったように動かなかった。

「無意味だと思うかね」

「思うわ。無意味じゃないのですか、そんなことは」

 暫く卓の上に視線をおとして、やがてしみじみした声になった。

「僕の友達は皆、いまはいいところになっていてね。君には判るまいが、日本が必ず敗北すると信じていながら、それで八紘一宇(はっこういちう)の宣伝なんかしているやつも居るんだよ。もっともこいつも役人なんだがね。八紘一宇なんてそんな馬鹿げたことを、当人は毛ほども信用してやしないのだ」[やぶちゃん注:「八紘一宇」「日本書紀」に神武天皇が大和橿原(かしはら)に都を定めた際の神勅に「六合(くにのうち)を兼ねて以って都を開き、八紘(あめのした)をおほひて宇(いへ)と爲(せ)んこと、また、よからずや」とあるのに基づく。それは「八紘爲宇」の文字であるが、昭和一五(一九四〇)年八月、第二次近衛内閣が「基本国策要綱」で大東亜新秩序の建設を謳った際、「皇國の國是は八紘を一宇とする肇國(ちようこく)の大精神に基」づくと述べた(「肇國」は「建国」の意)。これが「八紘一宇」という文字が公式に使われた最初で、これ以降、「教学刷新評議会」で「國體觀念をあきらかにする敎育」を論ずる中などで頻繁に使用された。日蓮宗の「国柱会」の田中智学もしばしばこの文字を使った。すべて「大東亜共榮圏の建設、ひいては世界萬國を日本天皇の御稜威(みいづ)の下に統合し、各々の國をして其の處を得せしめんとする理想」の表明であったとされる(小学館「日本大百科全書」を参考にした)。]

「しかしあんただって」私は湯呑を傾けて、酒がつめたく食道を流れおちるのを感じながら言った。「同じことですからね。あなただって日本が勝つとは思っていないですよ」

「そう。俺は思わないさ」

「そして心にもない錬成を、罪もない教師たちにやっている」

「君はそう思うだろう」少し経って天願氏は沈痛な声で言った。「――そんなこと俺にはどうでもいいんだよ。何でもないことなんだよ、俺には」

「――此の戦争がどんな意味で起りどんな具合に終るか、それを私に教えて呉れたのはあなたですからね、四年前」

「戦争には行きたくないだろうな」低い声で天願氏が私に聞いた。眼はまっすぐ私に向けられ、きらきらと光っていた。「行きたくないと言っても、もう遅いけれども」

 崖の下を轟(ごう)と電車が走りぬけ、パンタグラフのあたりから眼も醒めるようなうつくしい火花がチカチカと散りおちた。すだれ越しに私の眼はそれをぼんやりとらえていた。ある感傷が切なく私をよぎっていた。あの電車にのり、そして今夜中に遠いところに行ってしまう。どこか見知らぬ田舎町に下車して、名前を変えて一生そこの住人として暮して行く。此の感じが俄に現実性のあるものとして、私の胸を一瞬ゆすって来た。頭をあげて、私はまた口の中に酒を流しこんだ。意識がようやく四方に乱れて行くのが自分でも判った。

「白紙を燃しに来るあの教師たちの深刻そうな顔を考えると、俺はなんだかこわくなって来るよ。判っているつもりで、俺には何にも判っていないのだ。街をあるいていて、君は皆の顔がおそろしくないかね」

「おそろしい。そんな感じともちがうけれども――」私は先刻の、向う側の電車のことを想い出していた。あの水の乾上った水族館みたいな、硝子越しにうごめくひからびた人人の影を。そして窓に貼りついた病理標本の蠟(ろう)細工みたいな子供の顔が、突然あざやかに記憶によみがえって来た。

「先刻電車の中でね、氷を食ってる老人がいましたよ。何だか変なことをしゃべっていてね」そして私は口をつぐんだ。あの感じを言いあらわそうとすることが、へんに面倒になって来たのだ。天願氏はしかしそれには気もとめないらしかった。鯣(するめ)のくちばしを歯にくわえて、かりかりと嚙んだ。[やぶちゃん注:「鯣(するめ)のくちばし」タコ・イカの顎及びそこに付随する顎板。「カラストンビ」(烏鳶)のこと。]

 表の方から入って来る堅い靴の音がした。そして土間を踏む音が響いて、何かいう声がつづいた。

「どなた?」

 隣の部屋で夫人が立ち上るらしい。湯呑をおくと天願氏はすこしよろめきながら、玄関の方に出て行った。床柱に頭をもたせて私は眼をつむった。瞼のうらに紅い筋が入乱れて、身体がしんしんと奈落におちて行くような気がした。(俺は何のために今日此の家に訪ねて来たのだろう。自分のさしせまった情況を天願氏に聞いて貰いたかったのか?)

 天願氏が無縁のものであることは、数年前から私はすでに感じていたことであった。私と天願氏をつなぐものは、もはや古い交情の惰性にすぎなかった。時折私が此の家をおとずれたのは、あるいは自分の脱落した感興を、私は天願氏の上に確めたかったのかも知れなかった。あさっては東京を去るというのに、しかし今私は何を確めようとするのか。ふと玄関の会話に聞耳を立てた。

「では行って参ります。お元気で。銃後の守りを果して下さい」

 それはあの若い士官の声だった。姿を見ないせいかその声は妙に暗くひびいて来た。それから天願氏が低い声で何か言うのが聞えた。扉を開く音がして、やがて再び靴の音が遠ざかって行った。しばらくして天願氏が何か包みをもって部屋にもどって来た。卓の前にゆっくりすわった。

「こんなものを呉れたよ」

 紙が破けて軍隊用らしい莨(たばこ)が畳にこぼれ出た。なにかぎょっとして私はふりむいた。半ばひらいた唐紙に身体をもたせて、白い寝衣を着た夫人がこちらを見おろしていた。障子におちかかる黄昏のいろのせいか、顔色は紙のように光がなくて、白い寝衣におおわれた腹のあたりがへんにふくらんだ感じだった。夫人はそのままくずれるように敷居の上にすわった。

「召集ですってね。みんな次々行ってしまうのね」

 それだけ言うのさえも大儀そうだった。眼が暗くくぼんで、ふと見違えるような衰えかたであった。

「磯がいま戻って来たんだ。出撃だと言っていたから、これが最後なんだろう。お前によろしくと言ったよ」

「それも聞いていたわ。私玄関に出ようと思ったのよ。そしたらもう行ってしまった」

「出なくてもよかったんだよ」

 天願氏の声はへんにやさしかった。畳にこぼれた莨を口にもって行く指が、小魚の腹のようにぶるぶるふるえていた。夫人が天願氏をちらと眺めたその視線は、なにか氷のようにひややかだった。天願氏は黙って腕をのばして電燈をひねった。薄色の花のように燈の光が散った。

「崖からおちたって、どうしたんです」視線を夫人から外(そ)らしながら、私は低い声で聞いた。「磯少尉の言草じゃないけれど、やはり医者にお見せになったがいいですよ」

「おっこちたのよ」と夫人は肩を大きくうごかした。「歩いているとね、ふらふらっとして、それっきりなの。気がついたら線路の上にいて、皆で大さわぎしていたわ」

 線路の上に横たわっている夫人の姿が、私の想像の中でありありと浮んで来た。その想像の中では、夫人はやはり真白な衣服をつけていた。青ぐろい線路が白い夫人の身体をつらぬいて走っていて、何かひやりとするような危惧の予感が一瞬私の胸をはしった。天願氏の錆びた声がふと憎しみの響きをおびて沈黙をやぶった。その声もすでに呂律(ろれつ)があやしく乱れていた。

「死ぬ時期が来なければ、人間は死なないものだよ」

「それはそうよ」と夫人がつめたい調于でそれに答えた。

「あたしだって、まだ憎まれながら生きているんですものねえ」

 背をもたせたまま私は内ポケットの辺を指で探った。酔っていてもそれははっきり感じ当てられた。酔いのための動悸がその紙片の下で打っていた。すべてむなしいものが此処のあたりから発するのかと思うと、何か嗜虐的な快感が毒のように手足の先までひろがって来た。掌で頭を押えて天願氏が私の方にむきなおった。

「あの道を歩いて来ると、必ず崖のふちを歩きたくなるのは何故だろう?」

「あなたにこれを上げるわ。これがあたしのせんべつよ」

 夫人の掌に白い小さなかたまりが見えて、弱々しい声であった。衣(きぬ)ずれがさらさらと鳴った。それは小さな布の人形であった。天願氏の視線が動いて、食い入るようにそれをとらえたらしかった。私はそれを受取って、燈の方にかざして見た。

「かわいい人形じゃないか」

 押しつぶされたような声で天願氏が言った。人形は小豆ほどの顔に、ちゃんと眼鼻をつけていた。マッチの棒の太さの脚が、裾からわずかに伸びていた。

「有難う」

 ふと瞼のうらが熱くなるような気がして、それを胡麻化(ごまか)すために私は身体をねじり、床柱の脇にそれをぶらさげようとした。具合よく人形には紐(ひも)がついているのだった。

「ニュース映両でみたのよ。みんなそんなものを腰に下げたりしているわ。だからいま思いついたの」

「多分ぼくが貰う餞別はこれっきりですよ」

 天願氏はかすれた声で短い笑い声を立てた。

 夫人はそのまま立ち上るらしい。燈のまわりを飛び廻っていた大きな燈取虫が畳に堅い音をたてて落ちた。そして畳の上に置かれた鑿(のみ)の刃の上に足音を立てて這い上った。鑿の刃が燈の光を反射してキラリと光った。夫人の白い後姿は消えるように次の間にかくれた。

「奥さんは――」私は声をひそめて確めるつもりで天願氏に問いかけた。「おめでたじゃないのですか」

 掌で頭をおさえたまま、天願氏はじっと酒瓶の方をみつめていた。もはや酒は僅かしか残っていなかった。私の言ったことが聞えたのかそれも定かでなかった。呆(ほう)けたような表情がふとゆがむと、天願氏はまたゆっくり顔を私にむけた。

「今日は何か用事があったのかね」

「だから荷物をたのみに来たんですよ。でも考えてみると、貴方も迷惑な話でしょうね」

「迷惑じゃないが、どちらでも良いんだよ」

「どのみち東京に戻って来れる見込もないから、僕もどうでもいいのです」

 燈の影で天願氏のかおは、言いようもなく苦渋(くじゅう)にみちた暗い表情であった。とつぜん声をおとして私にささやいた。

「――君は今日鳥子にあいに来たんだろう」

 背筋をつらぬく深い悲哀が、突風のように私をおそった。私は顔をうつむけたまま、湯呑をつかんだ自分の手にじっと視線を固定させていた。私は自分の手がふるえ、そして湯呑の底が卓に音を立てるのを聞いた。額から血の気が引いて行くのがわかった。私はしばらくそれに耐え、それから顔を上げた。再び天願氏のひそめた声が耳に来た。

「それならそれでも良いのだよ。俺は責めている訳じゃない」

「僕は荷物をたのみに来たんです」

「そりゃそんな積りもあっただろうさ。しかしそんなことを俺は言っているんじゃない。俺はもう鳥子と別れようかと思っているのだ。夫婦というのは形だけで、今は何でもありゃしないんだ。鳥子だってそんなことを考えているんだ。鳥子は俺をにくんでいるんだ。君には判らないいろんなことがあるんだよ。あの夜だって鳥子はふらふらと落っこちたと自分で言うのだけれども……」

「僕は荷物をたのみに来たんですよ。ほんとに」私は天願氏の話をさえぎって、同じことを繰り返した。「僕はそんなことにもう興味をなくしているんだ」

 そうか、と天願氏は低くつぶやくように言った。そして突然ぎらぎらと濁った眼を私に固定した。それは憤怒のいろでいっぱいに見開かれていた。

「俺は君をにくむよ」押えた烈しい声であった。「今日君が意味なくやって来たということだけで、俺は君をにくむ」

 私は頰をかたくしたまま天願氏の肩越に、今玉蜀黍(とうもろこし)のむこうを走って行く電車の屋根の大きな青白いスパアクのいろを追いかけていた。それは地上のものでない美しさであった。スパアクが二三度つづくと、電線から花火のように火の粉が散り、そして闇がふかぶかとかえって来た。風が吹く音が静かに聞えて来た。天願氏も私から視線をそらし、ふと弱々しい眼付になって窓をふりかえった。電車の号笛が遠くなりひびいた。次第にあるひとつの感情が私の心の中ではっきり形を定めて来たのである。私は莨(たばこ)をいっぽん拾い上げると、マッチをすった。あのマルスの薄汚ないせまい一室で天願氏と始めて会った記億から、フィルムを巻き取るように次々と記億がいま私の胸にうかんで来た。

(俺も此の男をずっと前から憎んでいたのではないか?)

 にがいものが胸にあふれた。今更そんなことを考えついても何になるだろう。他人を愛していようと憎んでいようと、いまの私にとっては、現在という時間は既に遠い過去なのだ。あの紙片を受取った瞬間から、私の生きている現在は死んでしまった。湯呑に残った冷たい液体をぐっとのみほすと、私はなにか兇暴なものを押えかねて、ぐっと卓の下に脚を伸ばした。伸ばした膝のあたりにくりくりと触れる硬いものがあった。身体を曲げて私はそれにふれた。それはあの竹の筒であった。私はそれを握りしめた。

 なにか感応するように、天願氏はぎくりと振返った。そして私の掌の竹筒を見た。あおざめた頰に冷酷な感じのするうすわらいがぼんやり浮び上って来た。

「鳥子が線路におっこちたのは、あれは自殺するつもりだったんだよ。きっと」

 抑揚のない調子だったので、なにかあたりまえのことを言っているように聞えた。天願氏の眼は私にむいているのだが、何故か遠いところを眺めているような眼付だった。さっきの電車の中の老人の眼付に、それはそっくりだった。

「自分が死ねば、俺を困らせることが出来ると思ったに違いないのだ」

 そう言いながら、天願氏の手は卓の抽出しを開いて、何か白い小さなものをかさかさとつまみ出した。円錐(えんすい)形に紙を巻いた、それは吹矢の針らしい。腕が伸びて私の竹筒をつかんだ。

「そんなことを考えるのはお止しなさい」

「――あの翌朝、俺はそこに行って見たんだ。線路のわきに夜露にぬれて、見覚えのあるあいつの腰紐がおちていた。それは輪になっていた。拾い上げると堅く結んであったのだ。何のために輪にむすんだのだろう。膝のあたりをくくったんだろうと俺は直感した。裾などが乱れないようにね。あいつはそんなことを考える女なんだ。何故あいつが死のうとするのか。俺は何にも知らない。何も見ない。見たって何も感じはしないのだ」

 天願氏の声はだんだん努力するような押えた口調になり、額から脂汗がしきりに滲み出て来た。指は絶間なくうごいて、針を筒の中に押しこむらしかった。

「しかしそんなことはどうでもいいのだ。俺がいちばん厭なのは、そんな鳥子を、俺がどうにもしないで放っておくより仕方のないことなんだ。つまり俺には何も判らなくなっているんだ。俺は自分の気持さえ判らなくなっているんだよ。今日も磯がやって来たのに、俺はあのかんかん日の当る裏庭で、一所懸命になって竹筒をこしらえていた。汗がむちゃくちゃに背中から流れた。しかし俺は、此の吹矢で射落される鳩の恰好をしきりに想像しながら、之を削っていた――」

 天願氏は急に言葉をやめて、凝結したような眼付をひとところに定めた。ある予感が突然つめたく私をおびやかした。私は天願氏の視線を追いながら身体をよじった。

 床柱のかげに白い小さな人形がふらふらと風に揺れていた。それは絞首台に下げられた人間の形にも見えた。ふと視野がぼやけると白い小さな人の形は二重にも三重にもみだれ散った。私はその瞬間、錯乱に傾こうとするものを必死に耐えていた。滲んだ視野の中で、天順氏は竹筒をゆるゆると唇に持って行くらしい。燈にかげった天願氏の顔は、仮面のように青白く表情をうしなっていた。私はひとつの終末のように、白い人形がするどい吹矢針で柱にぬいつけられる瞬間を、そしてその瞬間の戦慄を予覚しながら、次第に身体を天願氏の方に乗り出して行った。

2021/06/19

日本山海名産図会 第四巻 八目鰻

 

Yatumeunagi

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。キャプションは「諏訪湖八目鰻(すはのうみやつめうなき) 赤魚(あかうを)を採(と)る」であるが、「赤魚」(「石斑魚」=ウグイ)は描き込まれていない。所謂、「手繰り網」である。]

 

   ○八目鰻(やつめうなき)

江海、所々、是れ、有り。就中(なかずく)、信刕諏訪の海(うみ)に採る物を名產とす。上諏訪・下諏訪の間(あいだ)一里許りは、冬月、氷、滿ちて、其の厚さ、大抵、二、三尺に及ぶ。其の寒極まる時は、かの一里ばかりの氷の間に、あやしき足跡つきて、一條の道をなせり。是れを「神のおわたり」と号(なづ)けて徃來の初めとす。此の時に至りて、鰻を採れり。先つ、氷のうへに小家(こや)を營むなり。是れを建つるに、火を焚きて、穴を穿ち、其の穴に柱を立てて、漁子(れうし)の休(いこ)ふ所とす。又、䋄、或は縄を入るべきほどほどをはかり、處々(ところどころ)を穿(うが)つにも、薪(たきゝ)を積み焚き、延繩(はへなは)を入れ、共餌(ともゑ)を以つて釣り採る事、其の數、夥(おひたゝ)し。氷なき時は、「うなぎ搔(かき)」を用ゆ。又、此の海に「石斑魚」多し。一名(めう)「赤魚」又「赤腹」とも云ふ。是れは「手操䋄(てくりあみ)」を竹につけて、氷の穴より、入れ、外の穴へ通して、採る也。

附記

○「本草綱目」に『鱧(れい)』といふは、『眼(め)の傍(かたはら)に七ツの星あり』といふに付きて、今、此の魚に充てたり。或云、「今も漢渡(からわた)りの『鱧』は一名(めう)『黒鯉魚(こくりぎよ)』と云ひて、形、鰡(ほら)に似て小さく、鱗、大きく、眼の傍に七ツの星あり。全身、脂黒色(しこくしよく)にして、深黑色(しんこくしよく)の斑点(まだら)あり。華人、長嵜に來り、是れを『九星魚』といふ。」。然れども、星は七ツなり。和產にあることなし。恕庵先生、八目鰻に充てたるは、誤りなり。

近來(きんらい)、「南部にて、一種、首に七星(しちせい)ある魚を得て、土人、『七星魚(しちせいぎよ)』といふ。是れ、本条の『鱧(れい)』のたぐひにや否や、未だ其の眞(しん)を見ず」と云々。「本朝食鑑」に說くところの「鱧」は、『涎沫(ゑんまつ)多く、狀(かたち)、略(ほゞ)鰻鱺(うなき)或ひは海鰻(うみうなぎ)の類(たぐ)ひにて、大いなるもの、二、三尺餘り、背に白㸃の目の如き物は九子(きうし)あり。故に「八目鰻」と号(なづ)く。其の肉、不脆(もろからず)。細刺(こほね)多くして、味、美ならず。唯(たゞ)藥物の爲に採るなり』と云々。案ずるに、「本草」の「鱧」の条下に疳疾(かんしつ)を療(りやう)ずることを載せざれば、「鱧」は「鱧」にして、此の「八目鰻」と別物なる事、明かなり。又、「食鑑」に云ふところは、疳疾の藥に充てゝ、此の八目鰻なること、疑ひなくいひて、「鱧」の字に充てたるは、誤りなるべし。所詮、今の「八ツ目鰻」、疳疾の藥用にだにあたらは、漢名の論は無用なるへし。

[やぶちゃん注:「生きた化石」である、

脊椎動物亜門無顎上綱(円口類=無顎類) 頭甲綱ヤツメウナギ目ヤツメウナギ科 Petromyzontidae

に属する生物で、北方系種である。体制が似ているために「ウナギ」の呼称がつくが、生物学的には、タクソン上、魚上綱に含まれないため、魚ではないとする見解さえあるが、では、その習性から魚に付着して体液を吸引する魚類寄生虫とするのも、私には馴染まない気がする。複数種が知られるが、本邦の場合、食用有益種としては、同科の、

ヤツメウナギ目 Petromyzontiforme のカワヤツメ(ヤツメウナギ)Lampetra japonica (変態後の成体の口は吸盤状で顎に骨がなく、大形の魚の外部に吸着、鋭い歯で皮膚を食い破り、口の中にある一対の口腔腺(こうこうせん)からランヘリデン(lanpheridin)という粘液を出し、これで、寄生主の血液の凝固を防ぐとともに、赤血球や筋肉を溶かして摂餌する寄生種である。このため、サケ・マス類などの有用魚に致命的な被害を与えることがある)

スナヤツメ Lethenteron reissneri(幼生のアンモシーテス(Ammocoetes)期は眼がなく、ミミズのように見え、デトリタスや藻類などを食べているが、四年後の秋に成体になり、十四〜十九センチメートルで変態して眼が現れるものの、一方で体内の消化系が消滅してしまい、翌春の産卵期を過ぎて死ぬまで、本種は何も食べない。春に産卵するや、そこで寿命を終えてしまう非寄生種である)

に限られる「大和本草卷之十三 魚之下 八目鰻鱺(やつめうなぎ)」を見られたい。但し、ここでは諏訪湖を名産とするが、長野県水産試験場環境部武居菫氏の論文「諏訪湖魚類目録を検証する」PDF・『陸水学会甲信越支部会報』第三十三号所収(二〇〇七年十二月発行))によれば、カワヤツメ・スナヤツメともに現在は諏訪湖では絶滅している模様である。

「江海、所々、是れ、有り」種によって降海型と陸封型に大別される。カワヤツメは降海型で、変態した若魚は二~三年、海を回遊し、繁殖期になると、再び河川を溯上する。スナヤツメは陸封型で、秋に変態した後、翌年の春から初夏の繁殖期までの、生涯の残りの期間も河川下流の淡水域で過ごす。現在、太古にカワヤツメの一部が何らかの理由で陸封され、分化したものと考えられている。

「上諏訪・下諏訪」諏訪湖の東岸を上諏訪、北岸を下諏訪と呼称する。グーグル・マップ・データを参照されたい。この間の湖岸は実測で四キロメートル(「一里許り」)ほどある。

「神のおわたり」所謂、琵琶湖で知られる「御神渡り」である。ウィキの「諏訪湖」によれば、『冬期に諏訪湖の湖面が全面氷結し、氷の厚さが一定に達すると、昼間の気温上昇で氷がゆるみ、気温が下降する夜間に氷が成長するため「膨張」し、湖面の面積では足りなくなるので、大音響とともに湖面上に氷の亀裂が走りせりあがる』。『この自然現象を御神渡り(おみわたり)と呼び、伝説では上社の男神が下社の女神のもとへ訪れに行った跡だという。御神渡りが現れた年の冬には、無形民俗文化財に指定されている御渡り神事(みわたりしんじ)が、八剱神社の神官により諏訪湖畔で執り行われる。御渡り神事では、亀裂の入り方などを御渡帳(みわたりちょう)などと照らし、その年の天候、農作物の豊作・凶作を占い、世相を予想する「拝観式」が行われる。古式により「御渡注進状」を神前に捧げる注進式を行い、宮内庁と気象庁に結果の報告を恒例とする。尚、御神渡りはその年の天候によって観測されないこともあるが』、『注進式は行われ、その状態は「明けの海(あけのうみ)」と呼ぶ』。『御神渡りは、できた順に「一之御神渡り」、「二之御神渡り」(古くは「重ねての御渡り」とも呼んだ)、二本の御神渡りが交差するものは「佐久之御神渡り」と呼ぶ。御渡り神事にて確認・検分の拝観がなされる』。『御神渡りは湖が全面結氷し、かつ氷の厚みが十分にないと発生しないので、湖上を歩けるか否かの目安の一つとなる』。但し、『氷の厚さは均一でなく、実際に氷の上を歩くのは危険をともなう』。『平安末期に編纂された』西行の歌集「山家集」に『「春を待つ諏訪のわたりもあるものをいつを限にすべきつららぞ」と記されていること』、室町時代の応永四(一三九七)年、『諏訪神社が幕府へ報告した文書の控え』である「御渡注進狀扣」に「當大明神御渡ノ事」と『あることから、古くは平安』『末期頃には呼称があったとされている』とある。

「共餌(ともゑ)」釣糸の上と下に針を結び、そこに同じ餌を付けたものを言う。

「うなぎ搔(かき)」長い柄の先に鉤(かぎ)を付けた道具。泥の中を掻いて、鰻を引っ掛けて捕る。

「石斑魚」「赤魚」「赤腹」条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis のこと。「大和本草卷之十三 魚之上 ウグヒ (ウグイ)」を参照されたい。先の武居氏の論文に、湖の深層に生息し、五~八月頃、河川に遡上して石礫に産卵するが、『近年』、『著しく減少』とあり、危ぶまれる。

「手操䋄(てくりあみ)」であるが、図の画面の下方のそれはまさに「竹につけて、氷の穴より、入れ、外の穴へ通して、採る」手法を描いていて面白い。

『「本草綱目」に『鱧(れい)』といふ』「本草綱目」の巻四十四の「鱗之三」に(囲み字は太字に代えた)、

   *

鱧魚【「本經上品」。】

釋名 蠡魚【「本經」。】・黑鱧【「圖經」。】玄鱧【「埤雅」】・烏鱧【「綱目」。】鮦魚【音「同」。「本經」。】・文魚【時珍曰はく、『鱧、首、七星、有。夜、北斗に朝(てう)し、自然の禮、有り。故に之れを「鱧」と謂ふ。又、蛇と氣を通じ、色、黑し。北方の魚なり。故に「玄」「黑」の諸名、有り。俗に「火柴頭魚」と呼ぶ。卽ち、此れなり。其の小なる者、「鮦魚」と名づく。蘇頌が「圖經」に「毛詩」の諸註を引きて、『「鱧」は、卽ち、「鯇魚」と謂ふは誤れり。今。直きに削り去りて辯正を煩はさず。』と。】

集解 【「别錄」に曰はく、『九江・池澤に生ず。取るに、時、無し。』と。弘景曰はく、『處處に、之れ、有り。言はく、「是れ、公蠣蛇(こうれいだ)の化する所なり。然れども亦、相生の者も有り。性、至つて死に難し。猶ほ、蛇の性、有るなり。」と。時珍曰はく、『形、長く、體、圓(まど)かにして、頭・尾、相ひ等し。細き鱗、玄色。斑㸃の花文(くわもん)有り。頗る蝮蛇に類す。舌、有り、齒、有り、肚、有り、背・腹に鬛(ひれ)有りて、尾に連(つら)なる。尾、岐、無し。形狀、憎むべく、氣息、鯹(なまぐさ)く惡し。食品として卑(ひ)なる所とす。南人、之れを珍とする者の有り。北人、尤も、之れを絕つ。道家、指して、水厭[やぶちゃん注:水の咒(まじな)いか。]を爲す。齋籙[やぶちゃん注:占術を行うことか。]に忌む所なり。』と。】

肉 氣味 甘、寒。毒、無し。瘡(かさ)有る者は食ふべからず。人をして瘢白(はんぱく)[やぶちゃん注:「はたけ」のような皮膚疾患か。]ならしむ【「别錄」に、源曰はく、『小毒、有り。益、無し。宜しく之れを食ふべからず。』と。宗奭(そうせき)曰はく、『能く痼疾を發す。病ひを療することも亦、其の一端を取るのみ。』と。】

主治 五痔を療し、濕痺・面目浮腫を治す。大水を下す。【「本經」に弘景曰はく、『小豆に合はせ、白く煮て、腫滿を療す。甚だ効あり。』と。】大小便・壅塞氣を下す。鱠に作(な)し、脚氣・風氣の人、食して良し。【孟詵。】妊娠の水氣有るを主(つかさど)る【蘇頌。】

[やぶちゃん注:以下、「附方」が続くが、処方出来る病態・作用のみの見出しを示す。]

 十種水氣死に垂たる

 一切氣を下す

 腸痔の下血

 一切の風瘡

 兒を浴して痘を免(まぬか)る

腸及び肝 主治 冷敗瘡中に蟲を生ずるもの【「别録」】、腸、五味を以つて炙り、香にして痔瘻及び蛀骭瘡(ちゆうかんさう)に貼(てん)ず。蟲を引きて盡くるを度(たびたび)爲せり【「日華」】。

膽 氣味 甘、平。「日華」に曰はく、『諸魚の膽、苦(も)し惟(た)だ、此の膽の甘くせば、食ふべし。異なりと爲すなり。臘月、收め取りて陰乾す。主治 喉痺、將に死えんとする者に、少し許りを㸃じ入るれば、卽ち、差(おさ)ふ。病ひの深き者の水に調(ととの)へて之れを灌(そそ)ぐ。』【「靈苑方」。】と。

   *

興味深いのは、この次の項が「鰻鱺魚」(ウナギ)だということで、以上の記載から見ても、ヤツメウナギ類を書いていることは明白である。なお、言わずもがなであるが、現行では本邦では「鱧」は「はも」で、条鰭綱ウナギ目ハモ科ハモ属ハモ Muraenesox cinereus を指す。同じニョロニョロ系であるのは面白い。「大和本草卷之十三 魚之下 鱧魚(れいぎよ)・海鰻(はも) (ハモ・ウツボ他/誤認同定多数含む)」の私の注も、この漢字の問題を浮き彫りにしてあるので、参考になろう。

「黒鯉魚(こくりぎよ)」こりゃ、アカンて! ただの黒いコイやないかい!

「鰡(ほら)」ボラ目ボラ科ボラ Mugil cephalus「大和本草卷之十三 魚之下 鯔魚(なよし) (ボラ・メナダ)」を参照されたい。まあねえ、河川の中流域まで遡上はするがねぇ、ヤツメウナギとボラのどこが似とる言うとんのや?

『華人、長嵜に來り、是れを『九星魚』といふ。」。然れども、星は七ツなり。和產にあることなし。恕庵先生、八目鰻に充てたるは、誤りなり』「九子(きうし)」ヤツメウナギ類の鰓孔は、眼の後方やや離れた位置に体幹に平行に七つあるが、鼻が頭の背面に一つだけあり、これを加えると、九つになるのである。ウィキの「ヤツメウナギ」によれば、ドイツ語でも、これに基づき、「ヤツメウナギには九つの眼がある」と考え、「九つの眼」を意味する「ノインアウゲン」(Neunaugen)と彼らを呼んでいる、とある。間違っとるのは、恕庵先生やない! 蒹葭堂! 御前やねん! 「恕庵先生」は江戸中期の本草学者の松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年)。名は玄達。恕庵は通称。怡顔斎(いがんさい)と号した。京都出身。儒学を学び、古典の動植物を理解するため稲生若水(いのうじゃくすい)に師事し、奥義を究めて本草学の大家となり、医学にも精通した。質素な生活とは対照的に、多数の蔵書を国書と漢書に区分し、二棟の大書庫に収め、学者の面目に徹した。享保六(一七二一)年には幕府に招かれ、薬物鑑定に従事した享保一一(一七二六)年には蘊蓄を傾けや「用薬須知」(ようやくすち)五巻を著した。これは動植物の品類・形態・産出状況・方言などを記載し、博物学的本草学の価値を高めた名著とされる。他にも「本草一家言」・「食療正要」・「桜品」・「菌品」など貴重な著書が多数ある。小野蘭山・戸田旭山ら、著名な門人も多い。

『「本朝食鑑」に說くところの「鱧」は、『涎沫(ゑんまつ)多く、狀(かたち)、略(ほゞ)鰻鱺(うなき)或ひは海鰻(うみうなぎ)の類(たぐ)ひにて、大いなるもの、二、三尺餘り、背に白㸃の目の如き物は九子(きうし)あり。故に「八目鰻」と号(なづ)く。其の肉、不脆(もろからず)。細刺(こほね)多くして、味、美ならず。唯(たゞ)藥物の爲に採るなり』と云々』「本朝食鑑」巻之九の「鱗部之三」の「江海無鱗三十七種」の「鱧」。国立国会図書館デジタルコレクションのここ

『案ずるに、「本草」の「鱧」の条下に疳疾(かんしつ)を療(りやう)ずることを載せざれば、「鱧」は「鱧」にして、此の「八目鰻」と別物なる事、明かなり。又、「食鑑」に云ふところは、疳疾の藥に充てゝ、此の八目鰻なること、疑ひなくいひて、「鱧」の字に充てたるは、誤りなるべし。所詮、今の「八ツ目鰻」、疳疾の藥用にだにあたらは、漢名の論は無用なるへし』ぐちゃぐちゃだね、蒹葭堂! 「疳疾を療ずる」とは出典は何だ?! 何故、出さない?! 多分、高い確率で、君の言っている見解は「誤り」だぜ! 蒹葭堂! 御前の杜撰に俺は、正直、怒りを感ずるね。]

『自由と孤独と怠惰そして憂鬱――それが僕の全財産だった』

『自由と孤独と怠惰そして憂鬱――それが僕の全財産だった』
 Drieu  La Rochelle / Louis Malle
            " LE FEU FOLLET "

2021/06/18

日本山海名産図会 第四巻 鱒

 

Masu

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。キャプションは「越中神道川之鱒(えつちうしんとうかわのます)」。「道」はママ。岐阜県及び富山県を流れる神通川(じんずうがわ・じんづうがわ・じんつうがわ)を「神道川」と呼んだ事実はないと思われるので、誤字であろう。]

 

   ○鱒(ます)

海鱒(うみます)・川鱒(かわます)二種あり。川の物、味、勝れり。越中・越後・飛驒・奧州・常陸等(とう)諸國に出づれども、越中神道川の物を名品とす。卽ち、「䱒(しほびき)」として納め來たる。形は、鮭に似て、住む處もおなしきなり。鱗、細く、赤脉(せきみやく)、瞳を貫き、肉に、赤刺(こほね)、多し。是れを捕るに、「乘川網(のりかわあみ)」といふて、橫七尺、長さ五尋の袋䋄(ふくろあみ)にて、上にアバを付け、下に岩をつけて、其の間(あひだ)、わづか四寸許りなれども、アバは浮き、イハは沈みて䋄の口を開けり。長き竹を、網の兩端に付けて、竹の端(はし)をあまし、人、二人づゝ乘りたる「スクリ船」と云ふ小船二艘にて、䋄をはさみて、魚の入(い)るを待ちて、手早く引きあげ、兩方より、しぼり寄するに、一尾(び)、或は、二、三尾を得るなり。魚は、流れに向ふて游(ゆ)く物なれば、舟子(ふなこ)は逆櫓(さかろ)をおして、扶持(ふち)す。

○鱒の古名は「腹赤(はらあか)」と云ふ。「年中行司」、腹赤の熟(にへ)を奏す歌に、

   初春の千代の例(ためし)の長濱に釣れる腹赤(はらあか)も我君(わかきみ)のため

毎年(まいねん)正月元日、天子に貢(こう)す。若(も)し、遲參の時は、七日に貢す。是れ、「日本紀(にほんき)」景行天皇十八年、玉杵名(たまいな)の邑(いう)より渡る、と云ふ時に、海人の献(たてまつ)りし例(れい)を以て、今に不絕(たへず)、貢(みつ)ぎ奉れり。故に是れを「熟(にへ)の魚(うを)」とも云へり。長濱は、其の郡中にして、又、長渚(ながす)とも云ふ。

○「和名抄」には、「鰚魚(はらか)」又、「鱒」と二物(ぶつ)に別かてり。「鰚(はらか)」は字書に見る事なし。國俗なるべし。或云、今、元日に腹赤の奏を、御厨(みくり)に於いて鮭を用ゆることもあれば、若し、鱒・鮭ともに「腹赤」といふも、知るべからず。

○鮭の子を「ハラヽゴ」と云ふは、「腹赤子(はらあかご)」の轉にも有るか、と云へり。 又、稻若水(たうじやくすい)は、『鱒は、卽ち、淵魚(ゑんぎよ)にして、俗にヲヒカハと云ふ物なり』とも、いへり。されば、「和名抄」に二物に分かてる物、其の故、しかるや。かたがた、さだかならず。尙、可ㇾ考(かんがうべし)。「ヲヒカハ」ゝ、腹赤き魚也。

[やぶちゃん注:私は「大和本草卷之十三 魚之上 鱒 (マス類)」で細かく考証したが、その冒頭注で、

   *

「鱒」の指す「マス」とは、現在でも特定の種群を示す学術的な謂いでは、実はない。広義には、サケ目サケ科Salmonidae に属しながらも、和名の最後に「マス」が附く魚、又は、日本で一般にサケ類(ベニザケ・シロザケ・キングサーモン等)と呼称され認識されている魚以外の、サケ科の魚を総称した言い方であり、また、狭義には以下のサケ科タイヘイヨウサケ属の、

サクラマス Oncorhynchus masou

サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae

ニジマス Oncorhynchus mykiss

の三種を指すことが多い。また、「マルハニチロサーモンミュージアム」のQ&Aでは、英語圏では原則的には『淡水生活をおくるものをトラウトtrout(日本語訳はマス)、海に降るものをサーモンsalmon(日本語訳はサケ)と呼び、サケの仲間を区別して』いるとし、『日本語でも、サケ属の中で降海する種にはサケを、サケ科の中で淡水生活をおくる種にはマスと付けた名称が使われてい』るとするのだが、その言葉の直後で、その区別は洋の東西を問わず、かなり曖昧である、とも言っている。

   *

ここでの記載も、産地が明記されていても、また、「海鱒(うみます)・川鱒(かわます)二種あり」と断定して言っていても、特定種への同定は軽々には出来ないように思われるが、しかし、現在の富山名産の「鱒寿司」に使用されているのは、サクラマス Oncorhynchus masou とされる。

「䱒(しほびき)」しっかり塩をまぶした正統な塩漬けである。「大和本草卷之十三 魚之下 (しほうを) (塩漬け)」を参照されたい。

「鮭」条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科サケ属サケ(又はシロザケ)Oncorhynchus keta大和本草卷之十三 魚之上 鱖魚 (サケ)」を参照。

「赤脉(せきみやく)、瞳を貫き」瞳と言っているのが不審であるが、これは鰓から尾鰭にかけての体側部に、赤から赤紫色の太い縦縞の模様があるニジマスのことを言っているようには読める。

「乘川網(のりかわあみ)」この呼称は現行では残っていないようである。

「アバ」浮き。

「岩」後の「イハ」とともに錘(おもり)のこと。古くは実際の岩を用いた。

「スクリ船」語源不詳。本来は古式の刳り舟で「素刳り舟」だったのではないかと思うのだが、図のように二艘で挟んで鱒を「掬う」様子からは「すくり」は「掬ふ」の転訛のようにも感じられる。

と云ふ。小船二艘にて、䋄をはさみて、魚の入(い)るを待ちて、手早く引きあげ、兩方より、しぼり寄するに、一尾(び)、或は、二、三尾を得るなり。魚は、流れに向ふて游(ゆ)く物なれば、舟子(ふなこ)は逆櫓(さかろ)をおして、扶持(ふち)す。

『「年中行司」、腹赤の熟(にへ)を奏す歌に』『初春の千代の例(ためし)の長濱に釣れる腹赤(はらあか)も我君(わかきみ)のため』出典不詳。当初、平安時代の「年中行事絵巻」かと思ったが、復刻の現存品には詞書がない。「熟(にへ)」は「贄(にへ)」で、元来は神に供える神饌であるが、天皇の食膳に供されるために諸国から調進される食物をさすそれに転じたものであろうが、「熟」は誤字や当て字ではなく、塩にしっかり漬けて「熟(な)らしたもの」の謂いを含んだ換字であろう。

『「日本紀(にほんき)」景行天皇十八年、玉杵名(たまいな)の邑(いう)より渡る、と云ふ時に、海人の献(たてまつ)りし』景行天皇十八年(西暦機械換算八八年)の六月の条に、

   *

癸亥六月辛酉朔癸亥。自高賴縣渡玉杵名邑。時殺其處之土蜘蛛津頰焉。

   *

とある。「玉杵名(たまいな)の邑(いう)」とは現在の熊本県玉名市(たまなし)の菊池川周辺か。玉杵名大橋(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に名が残る。

「長濱は、其の郡中にして、又、長渚(ながす)とも云ふ」前の玉名市の西に接する海浜の熊本県玉名郡長洲町(ながすまち)であろう。

『「和名抄」には、「鰚魚(はらか)」又、「鱒」と二物(ぶつ)に別かてり。「鰚(はらか)」は字書に見る事なし。國俗なるべし』「和名類聚抄」の巻十九の「鱗介部」第三十の「龍魚類」第二百三十六の三丁目に、

   *

鰚魚(ハラカ) 「辨色立成」に云はく、『鰚魚【「波良可」。音「宣」。今、按ずるに、出づる所、未だ詳らかならず。「本朝式」に「腹赤」の二字を用ゆ】。』と。

   *

とし、後の七丁目に、

   *

鱒(マス) 「七卷食經」に云はく、『鱒【「慈」「損」の反。】一名は「赤魚」【和名「万須」。】』と。「兼名苑」に云はく、一名は「鮅」【音「必」。】。鯶に似て、赤目なる者なり。

とある。「鰚」は一説に鮸(にべ:スズキ目スズキ亜目ニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii )、一説に鱒の別名とする。「辨色立成」は奈良時代八世紀の成立とされる字書であるが、散佚して原本はない。「兼名苑」唐の釈遠年撰とされる字書体語彙集だが、散佚。「鮅」鱒或いはカワムツ(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinae カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii )を指すとされる。「鯶」クセノキプリス亜科ソウギョ(草魚)属ソウギョ Ctenopharyngodon idellus を指す。中国原産だが、明治時代に人為移入された。

「稻若水(たうじやくすい)」江戸中期の本草学者稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)。名は宣義、若水は号であったが、自ら稲若水(とうじやくすい)と改名した。儒医稲生恒軒を父として江戸に生まれ、元禄六(一六九三)年、加賀藩主前田綱紀に儒者・本草家として召し出された。「庶物類纂」一千巻の編述を志し、綱紀の後援のもとに作業を始めたが、三百六十二巻を完成しただけで惜しくも没した。これは中国文献にある動植物の記事を集録したもので、名物学・博物学の傾向が強い本草書である。

「ヲヒカハ」コイ科クセノキプリス亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus 。]

譚海 卷之四 水戶光圀卿水練幷前身を知り給ふ事

水戶光圀卿水練幷(ならびに)前身を知り給ふ事

○黃門光圀卿水戶入部のとし、中川と云(いふ)湊にてはだかにて舟より水中ヘ入給ふ、近從騷動大形(おほかた)ならず。第三日の朝水上にうかび出、壺を一つ抱(かかへ)て出られたり。其壺今に年々宇治へ詰茶にのぼせられ、「中川」とて第一の祕器なりとぞ。又其年水戶御領の神社佛閣の内陣をひらかせ、自ら殘りなく拜せられ、祕佛といへども自身鍵を明(あけ)御覽ぜられしに、何の八幡宮とかやの御戶牢(かた)くとざしてあかざりつるを、山中雲平といふ士に仰(おほせ)有(あり)て明(あけ)させられしとき、覺えず脇指(わきざし)はしりぬけて、雲平右の手を切落したり。それより雲平御奉公をやめ隱居せしとぞ。光圀卿の前身「高野ひじり光國」といふものなるよし、たしかなる證を水戶に得給ひ、則(すなはち)埋骨の地に寺をたて、公儀へ御朱印地に御願(おんねがひ)有、免許の後(のち)無二亦寺(むにやくじ)と號せるとぞ。

[やぶちゃん注:「黃門光圀卿」常陸水戸藩第二代藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年:よく言われる黄門は古代の国政を掌った太政官中納言の唐名黄門侍郎の略。光圀は没する十年前の元禄三(一六九〇)年に員外権中納言に任ぜられたことによる)稱代藩主徳川頼房三男。水戸城下柵町(さくまち:現在の水戸駅周辺に当たる茨城県水戸市宮町の内。南東に接して旧名の柵町が残る)の家臣三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれた。光圀は強烈な儒教崇拝の排仏派で(父以降の藩主の葬送は儒式で行われ、墓地も独特な石棺と廟であり、茨城県常陸太田市瑞龍町の瑞龍山にある墓域(グーグル・マップ・データ航空写真拡大。以下同じ)には一般人は立ち入ることが出来ない)自身の発案になる生涯ただ一度の長旅(「水戸黄門」は真っ赤な嘘で、藩内は精力的に巡検しているが、他には日光東照宮・勿来・熱海ぐらいしか行っちゃいないのである)である鎌倉への途次、六浦では石製地蔵像を縛って引き倒し、損壊して歓喜するなどの乱暴狼藉を働いており、「大日本史」「新編鎌倉志」(私はサイトのこちらで全篇を電子化注してある。また、その濫觴である「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)の電子化注もブログで完遂している)などの指揮は高く評価するが、人間的にはかなり異常行動(辻斬りや成敗と称した家臣の殺人を含む。ここでの山中雲平の脇差が走り抜けて右手を切断というのもすこぶる怪しい)の見られる近づきになりたくない人物である。詳しくは当該ウィキなどを参照されたい。

「入部」最初に彼が水戸城に入ったのは寛永九(一六三二)年(翌寛永十年十一月に世子と決められた)だが、藩主としてではなく、しかも数え五歳であり得ない。寛文元(一六六一)年七月二十九日、父頼房が水戸城で死去しており、この時が、最初の入部で数え三十四である(正式な藩主就任は八月十九日)。元禄三(一六九〇)年十月十四日に六十三で隠居しているから、その間の二十回ほどの参勤交代の、まあ、初期の話であろう。

「中川と云(いふ)湊」茨城県ひたちなか市和田町の那珂川河口の那珂湊港であろう。但し、こんな海辺は正規の参勤交代のルートではないはずである。まあ、彼ならやりかねないことではある。

「第三日の朝水上にうかび出」それはないでショウ?!

「壺」「其壺今に年々宇治へ詰茶にのぼせられ」『「中川」とて第一の祕器なり』「中川」は採取した地をつけた壺の名。壷の現存は不詳。

「何の八幡宮とかや」不詳。言い方から、知られた水戸八幡宮ではあるまい。リンクの北西にも八幡神社がある。

「山中雲平」不詳。

『光圀卿の前身「高野ひじり光國」といふものなるよし』うへぇエ!?! ホンマにいいんかいな? 黄門はん? 排物の権化が「高野聖」たぁお釈迦さまでも御存じあるめえ!

「たしかなる證を水戶に得給ひ」現存する。次の注の「妙経筒碑文」がそれらしい。

「無二亦寺」茨城県ひたちなか市市毛に日蓮宗一乗山無二亦寺として実在する。公式サイトのデータによれば、寛文五(一六六五)年の当時の藩主徳川光圀公の命により、次代の第三代綱条(つなえだ)公の代に建立された寺とあり、「縁起」PDF)によれば、『無二亦寺が創建されたのは、この地から青銅製の経筒が出土したいわれによる。高さ』十二センチメートル『ほどで 』、六『角形』のそれ『には、数十字が刻みこんであり』、『光圀という人が法華経一部を納めたことが記されていた。当時、現在の常陸太田市に久昌寺を建てるなど、日蓮宗に手厚い保護を加えていた徳川光圀は、このことを聞いて一寺を建立することを思いたった。』元禄一〇(一六九七)年に六十『石の地が除地として寄せられ』、『伽藍を造営したが、開堂は光圀の生存中に間に合わず』、元禄一四(一七〇一)年の『春に供養された』とあり、「妙経筒碑文」の写しの写真がある。一行目末から『本化宗者常陸人光圀納妙經之筒也』とあるのが判る。「本化(ほんげ)宗」は日蓮宗に同じ。末尾クレジットは『寶永四年丁亥』で一七〇七年である。さらに、『その翌年の元禄』十五年に『日遙が第二住職として入寺すると、藩の命令によって市毛・津田・田彦に住む者は全て無二亦寺の檀家に定められた。同時に、市毛の鹿島、吉田両明神は三十番神に、津田の鹿島明神も三十番神に、田彦の熊野三社権現は七面大明神に、それぞれ定められた上で、無二亦寺の支配にまかせられた』。『このようにみてくると、無二亦寺は水戸の徳川家と深い関係を持ち、神社を寺にとりこむことに成功した点が注目される。その信仰は、現世利益の祈禱という面がもとから相当に強かったようである』(これは昭和五〇(一九七五)年発行の「勝田市史」(民俗編)からの引用らしい)とある。『本尊は宗門で定める十界曼荼羅を掲げ、日蓮上人の木像を安置する』。『開山は京都本圀寺の僧であった日輝で』、『江戸時代には、水戸藩の保護を受けて栄えたが、幕末に徳川斉昭が断行した棄仏毀釈によって廃寺になり』、明治一〇(一八七七)年『頃にようやく再建された』とある。私としちゃあ、斉昭がやらかした気持ちは腑に落ちるね。尊崇する黄門公の瑕疵に他ならないからね。]

2021/06/17

甲子夜話卷之六 33 又、彌五右衞門の事

6―33 又、彌五右衞門の事

此彌五右衞門も一ふしある人也けり。ある時組同心使に參りたるを、扣居候樣にとて留め置、やがて自ら出て逢ひ、近頃、倅弓稽古精出し候が、御役弓の手前見たきよし申候。一矢射て見せられ候へと所望ありし。折よく其同心かねて誂たる弓鞢を、途中より取りて懷中に有しかば、其まゝ射て見せけるに、彌五右衞門手を拍て、さすが御役弓勤ほど有て鞢も用意ありしとて、誠に感賞し、有合の袴地とり出して同心に與へしと也。この頃の卸先手衆、いかにも人物の揃ひたる事ども也き。

■やぶちゃんの呟き

 うん! 何とも言えず、いい話だな! 好きだな!

「又、彌五右衞門の事」前の「6-32 御先手柘植五太夫、天野彌五右衞門申分の事」を受けたもの。

「扣居候樣に」「ひかへをりさふらふやうに」。

「倅」「せがれ」。

「御役」「おやく」。「御役目」。相手を敬ってその務めを指して一人称に代えた語。先の話柄で天野は「御先手組」(先手鉄砲組・先手弓組の併称)の鉄炮頭であることが判る。そちらで出した氏家幹人「武士道とエロス」(講談社現代新書一九九五年刊)によれば、当時の弥五右衛門の屋敷は『下谷稲荷町(現在の台東区東上野三丁目の内)』とあった。「古地図 withMaFan」で調べたところ、ズバり! 上野駅直近の下谷稲荷裏手の路次の奥詰めの西側にあった。現在の下谷神社の境内地の東北の角附近である。

「誂たる」「あつらへたる」。注文しておいた。たまたま、その日、上司天野への使いに行く途中にその店があり、それを受け取って、天野の屋敷に出向いたというのである。

「弓鞢」「ゆみゆがけ」或いは「ゆみかけ」と読む。「弓懸」「弽」「韘」などとも書く。弓を射る際に、手指が痛まないようにするために用いる革製の手袋のこと。左右一対になっているものを「諸(もろ)ゆがけ」、右手(馬手)にのみ着けるものを「的ゆがけ」、右手の拇指(おやゆび)以下の三指だけに着けるものを「四掛(よつかけ)」という。参照した精選版「日本国語大辞典」に挿絵がある

「拍て」「うちて」。

「弓勤」「ゆみづとめ」。

「有合」「ありあひ」。予備として備えてあるもの。

「袴地」「はかまぢ」。袴を仕立てるための布地。

芥川龍之介書簡抄85 / 大正六(一九一七)年書簡より(十七) 七通

 

大正六(一九一七)年十二月一日・東京市下谷區櫻木町一七 池崎忠孝樣・十二月一日 龍(葉書)

 

   Que m’importe que tu sois sage

   Sois belle et sois triste.

           C. Baudelaie

   徂く春の人の名問へばぽん太とぞ

     その人の舞へるに

   行けや春とうと入れたる足拍子

     その人のわが上を問へるに

   暮るるらむ春はさびしき法師にも

   われとわが睫毛見てあり暮るる春

     一九一七年日本の詩人思を日本の校書に寄するの句を錄す

 

[やぶちゃん注:これは既にサイトの「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句 (明治四十三年~大正十一年迄)」で電子化しているが、二〇〇六年のユニコードのない時代の初期作成で、HTML横書版・HTML縦書版・PDF縦書版という膨大な量(五種×3)であるため、表記に不満があっても、致命的でない限り、なかなか全体の大修正が出来ないので、困っている(ビルダー上で追加を繰り返したものであって、完本としての文章データの元版は元々存在しない。私は今現在、最も芥川龍之介の俳句を、誰よりも漏らさず――二〇一〇年岩波文庫刊加藤郁乎編「芥川竜之介俳句集」よりも、である――収録しているものと自負している)。今回、少しHTML版の上記書簡は少し補正したが、ここでも改めて載せることにした。

冒頭のフランス語はシャルル・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire 一八二一年~一八六七年)が一八六一年五月に発表した「悲しきマドリガル(恋歌)」( Madrigal triste )――現在は名詩集「悪の華」(Les Fleurs du mal :一八五七年初版)の続編・補遺に含まれる一篇の一節、第一スタンザの冒頭の二行(二行目には三行目へのジョイントがあるので正確には)である。但し、正確に引くなら、

 Que m'importe que tu sois sage?

 Sois belle! Et sois triste! Les pleurs

である(Les pleurs は全体の韻と意味の流れから、三行目へのジョイントとして前送りされたものである)。意味は、

 どんなにお前が貞淑であろうと、それが何になる?

 ただ美しくあれ! 悲しくあれ! 涙は

といった意味である(「貞淑であろうと」は私の感覚で、他に「大人しくあろうと」「賢かろうと」等の訳が当てられてある)。私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の旧全集「未定詩稿」の最後に附した私の注で原詩総てを示してあるので参照されたい。実は、芥川龍之介の自死の後、彼の未定稿の定型詩篇未定稿が夥しく発見され、それが後友人佐藤春夫によって整理され、芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」(初出は昭和六(一九三一)年九月から翌年一月までに発行された雑誌『古東多万』(ことたま:やぽんな書房・佐藤春夫編)第一年第一号から第三号に掲載したものを、佐藤自身がさらに整理し、二年後の昭和八年三月二十日に岩波書店より芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」として刊行されている。龍之介はこのボードレールの詩が、既にこの頃から大好きで、遂にあの世にまで、それを口ずさみながら、去って行ったのであった。

「徂く春」(ゆくはる)と読み、「往く春」と同義。季節の移ろいとともに、さすがその面影に射している芸妓「ぽん太」(明治二一(一八八〇)年~大正一四(一九二五)年:この当時なら満三十七。但し、これは想像の句であると私は今は踏んでいる)の老いをも示唆する。一九八八年近代文藝社刊の中田雅敏「俳人芥川龍之介 書簡俳句の展開」で中田氏は「ぽん太」について『明治二十四年』(一八九一)『新橋玉の家から雛妓おしゃくとして出、早くから嬌名を馳せていたが、一時落籍され』、『座敷に出なかった。再び高座に上ったのは大正七年頃』(☜)『という。いつも洗い髪のようにさっぱりした髪型でほんのりと色気をただよわせていたという』とある。彼女は新橋「玉の家」の名妓初代「ぽん太」のことで、本名を鹿島ゑ津子といった。今紀文鹿島屋清兵衛がこれを落籍するも、後に清兵衛は没落、それでも踊・寄席に出ては家計を支え、世に「貞女ぽんた」と称されたという。ウィキの「鹿島ゑ津子」に詳しく、彼女の写真もある。森鷗外の「百物語」は、この御大尽時代の清兵衛がモデルであるとされ、尾崎紅葉や齋藤茂吉も彼女に魅せられた。恐らく、芥川のこの句は、尊崇した歌人茂吉の大正三年の歌集『あらたま』に所収する、

  かなしかる初代ぽん太も古妻の舞ふ行く春のよるのともしび

辺りをインスパイアした仮想句(実際に初代「ぽん太」の舞を見たのではない)と考えられる。私は実はずっと、芥川龍之介が実際に「ぽん太」の舞いを見たものと解釈していたが、中田氏の引用と齟齬すること、そもそもがこの時の芥川龍之介が新橋辺りで芸妓を揚げてというシチュエーションを考えにくいことから仮想とした。容易に仮想出来るほどに、文人連中には、この「ぽん太」は超有名人であったのである。

「行けや春」の句については、田中氏は作家福原麟太郎の次の文を引用されておられる。『北州は踊の方ではむつかしいものになっているようだが』、『ぽん太は何の苦もなくさらっと踊ってみせた。それが実に美しかった。浮世の垢をすべて洗い落としたような爽やかな踊りで、踊りはああでなくてはならない』(出典未詳)。ここに出る「北州」は「ほくしゅう」と読み、清元の曲名である。「北州千載歲壽」で「ほくしゅうせんざいのことぶき」と読む。蜀山人の作詞で、「北州」とは江戸の北、吉原を指す。遊廓吉原の年中行事と風物を詠んだ佳品の名曲である。「ぽん太」は事実、踊りの名手であったとされる。これもまた、仮想句とせざを得ない。

「暮るるらむ」の句は、上記本で中田氏は、夏目家への出入りも禁じられて、寂しく郷里の福島へ帰った久米正雄(明治二四(一八九一)年~昭和二七(一九五二)年:彼の生国は長野県上田市であったが、父由太郎(江戸出身)は町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)の校長として上田に赴任し、そこで正雄が生まれた。しかし、父は明治三一(一八九八)年(正雄七歳)に小学校で起きた火災によって明治天皇の御真影を焼いてしまった責任を負って割腹自殺した。このため、正雄は母幸子の故郷福島県安積郡桑野村に移って育った。因みに母方の祖父立岩一郎は安積原野開拓に尽力した開拓出張所長で、後に桑野村の村長を務めた。以上はウィキの「久米正雄に拠った)を気づかっての句と解しておられる。

「校書」は芸妓に同じ。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月六日・年次推定・久米正雄宛(葉書)

 

拜啓 八目午後二時半と三時との間に銀座カツフェパウリスタにて落合ひたし返事待つ大至急 以上

 

[やぶちゃん注:前の松岡宛が十一月一日附、十一月九日には久米が横須賀を訪れ、泊まっている(思うに、後の十二月十二日の塚本文宛書簡からは、ここで夏目筆子との破談が久米自身から語られたように思われる)。この二日後の十二月八日(土曜)には、神楽坂「末よし」で行われた夏目漱石の一周忌の会があり、龍之介は勿論、松岡や久米を出席しており、翌日の午前十時、漱石の祥月命日に茗荷谷至道庵で行われた一周忌法要(導師釈宗演)に出て、午後には雑司ヶ谷に墓参している。ところが、この日の『東京日日新聞』に、実は既に破局している久米正雄と夏目筆子のことがゴシップとして書かれてしまう。この会合指示だけの書面の字背には、そうした複雑して世間の噂に振り回されている彼ら三人(しかしその原因はその三人の中にこそ責任はそれぞれに気持ち悪い感じで重くある)に対して、自分も半ば巻き込まれた事件でもあり、友達たちを何とかしようとする龍之介の動きが見える。

「岩波版新全集」の「彼 第二」(私の偏愛する作品。リンク先は私の注附きのサイト版)で三島譲氏は明治四四(一九一一『年一二月に京橋区南鍋町二丁目(現、中央区西銀座六丁目。グーグル・マップ・データ)開業、他のカッフェと異なって女給を置かず、直輸入のブラジルコーヒーを飲ませる店として名高く、文士の常連も多かった。店内には自動オルガンを備え、五銭の白銅貨を投入すると自動的に演奏した。「グラノフォン」(gramophone:英語)は蓄音機の商標名であるが、この自動オルガンを指していると思われる』とあるが、銀座直営店は大正二(一九一三)年開店らしく、現在、場所を変えて同じ銀座に現存する。同社の公式サイトの「作品の中のパウリスタ」に「彼 第二」が引用され、『カフェーパウリスタの真前が時事新報社でした。時事の主幹は文壇の大御所と言われた菊池寛です。その菊池に原稿をとどけるために芥川龍之介はパウリスタを待ち合せの場として利用しました。龍之介の小説の中によくパウリスタが登場するのはこの理由です』とある。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月八日・田端発信・薄田淳介宛

 

拜啓 新年號を二つ書くので大分くたびれますからなる可く〆切るのはおそくして下さい出來るなら來年へ少しはみ出したいのですが、題は「開化の殺人」としておいて下さい或は「踏繪」と云ふのになるかも知れませんが、なる可く暇を澤山下さい原稿料よりも書く暇の長い方が難有いのですだから外の人の原稿をとつて私のがおくれてもいいやうにゆとりをつけて置いて下さいその點をよろしく願ひます 以上

    十二月八日      芥川龍之介

   薄 田 樣 侍史

 

[やぶちゃん注:「薄田淳介」(すすきだじゅんすけ 明治一〇(一八七七)年~昭和二〇(一九四五)年十月九日)は詩人・随筆家として知られる薄田泣菫の本名。岡山県浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町連島字大江)生まれ。岡山県尋常中学校(現在の県立岡山朝日高校)中退後、明治二七(一八九四)年上京し、上野書籍館(帝国図書館の別称)に通いながら、漢学塾二松學舍(現在の二松學舍大学)で学んだ。明治三十年に帰郷し、幾つかの詩を作って、『新著月刊』に泣菫の雅号を用いて投稿、後藤宙外・島村抱月らに絶賛され、掲載された。翌年早くも第一詩集「暮笛集」を刊行、雑誌『小天地』を編集しながら、『明星』などに詩を載せ、その後も詩集「ゆく春」・「白羊宮」など、古語や漢語を多用した詩風で、蒲原有明とともに泣菫・有明時代を築き、島崎藤村・土井晩翠以後の明治後期の詩壇を背負って立った詩人であった。明治の終わり頃から、一時、小説に興味を移したものの、結局、随筆に転じ、詩作を離れた。国民新聞社や帝国新聞社に勤めた後、大阪毎日新聞社に入り、大正四(一九一五)年、『大阪毎日新聞』に「茶話」の連載開始した。参照したウィキの「薄田泣菫」によれば、『これは「茶を飲みながら喋る気楽な世間話」と言う意味で、古今東西の噂話、失敗談、面白おかしい話を幅広く紹介して』好評を博した。ここでは芥川龍之介担当の文芸部記者としての原稿催促への返書であるが、この二年後の大正八(一九一九)年には、大阪毎日新聞社学芸部部長に就任し、龍之介は自分から、特別社員として迎えて欲しい旨を彼に頼み、それを受けて招聘、彼に多くの文章発表の場所を与えた人物でもあった。

「新年號を二つ書く」「首が落ちた話」(同日『新潮』。脱稿は大正六年十二月四日)と「西鄕隆盛――赤木桁平に與ふ――」(一月一日『新小説』発表。大正六年十二月十五日に既に脱稿している)。嘘とは言わないが、「二つ」というのは弁解ためにする語として使っているわけである。

『「開化の殺人」としておいて下さい或は「踏繪」と云ふのになるかも知れません』「開化の殺人」は十一月下旬に書き始めているが、結局、『大阪毎日新聞』には五月一日から二十二日まで(同社の系列誌『東京日日新聞』には五月二日から二十二日まで)で、かの名作「地獄變」が連載された。「開化の殺人」は大正七年七月の『中央公論』臨時増刊「秘密と開放号」に発表された。「踏繪」は題名と「開化の殺人」の内容からみて、「開化の殺人」の別題とは思われない。また、現在、同名の作品や未定稿も存在しない。事実、篠崎美生子氏の論文『「芥川」をつくったメディア―『大阪毎日新聞』の小説戦略―』PDF・『恵泉女学園大学紀要』第二十六号所収・二〇一四年二月発行)の中に、この大正六年末に『大阪毎日新聞』に掲載された広告記事「新春の本紙を飾る文藝的作品」(十二月二十九日夕刊と翌三十日夕刊の分割記事)では、芥川の「踏繪」が『その筆頭に』「『踏絵(長篇)芥川龍之介』」として『掲げられている』とあり(引用元にあるものを参考に、恣意的に漢字を正字化し、記号も変えた)、

   *

芥川氏の「踏繪」は囊日[やぶちゃん注:「なうじつ(のうじつ)」。先日。]本紙に掲載したる「戲作三昧」と同じく、題材を斯の作家が最も得意とせる旧幕時代に選びて精彩ある描寫の筆を揮ひたるもの、人物生動して肌斷たば血も迸るべし。

   *

とあって、所謂、芥川龍之介の切支丹物となるべき作品であったようである。惜しくも、書かれることなく、構想のみに終わったものと思われる。後は書簡の翌大正七年五月十五日の薄田宛の中で、『「踏繪」は中々出來ません元来春の季題だから初夏になつては駄目らしい』とちゃらかして、『傾城の蹠』(あなうら)『白き繪踏かな』の自作句を添えている。寛永五(一六二八)年から安政四(一八五七)年まで長崎奉行所では毎年正月、「踏み絵」を行うことが正月行事の一つであったことから、「絵踏」は春の季語とされている。

 

 

大正六(一九一七)年十二月十日・田端発信・久米正雄宛

 

君のことが日々に出てゐるのを見た(ボクの事も出てゐるが)あんまりいい氣なもんぢやない菅さんに敎へられて往來で新聞を買つてよんだんだが實際妙な氣がした××さんもあゝなると少し氣の毒だね

ボクは心臟の調子が惡いので一枚もかかずにしまつた肺の方は少しも掛念ない由大に安心した但喉は大分こはしてゐる煙草は當分のめない

何しろ世の中はでたらめなものだな

   木枯らしやどちへ吹かうと御意次第

    十二月十日          龍

   久 米 正 雄 樣

 

[やぶちゃん注:「君のことが日々に出てゐる」前の前の書簡の私の注参照。

「菅さん」菅虎雄。

「××さん」「筆子」であろう。この伏字は岩波の元版全集の編者による仕儀と思われる。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月十一日・発信元不明・空谷先生 侍史・十二月一日 芥川龍之介

 

拜啓

漱石先生遺墨出來候間御眼にかけ候 ゆるゆる御覽下さる可く候 小生未風流地獄の業を脫せず廿日頃までは呻吟致す可くよろしく御同情願上候 頓首

    十二月十一日     我 鬼 生

   空 谷 先 生 梧右

 

[やぶちゃん注:発信元不明としたが、この日は水曜であるから、恐らくは横須賀発信である。海軍機関学校の年末休業は十二月二十日からで、年表上では二十日に田端に帰っている。

「空谷」芥川家と龍之介の主治医下島勲(龍之介検死担当者)。田端の芥川家の近くに住んでいた。

「我鬼生」の署名は、現存する資料の中で最も古い「我鬼」と記したものである。もともと俳号として考え、その後、盛んに署名したお気に入りの号で、実際、この十二月の上旬から使用し始めていたようである。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月十二日・横須賀発信(推定)・塚本文宛

 

あたりません 文ちやんの手紙が來たのはボクが朝飯をたべてゐる時でした 貧弱なまづい朝飯です 飯を一時見合せて手紙をよみました

ごぶさをしたのはボクの方です この前の手紙に返事を書きませんでしたから。しかしそれは例の通り目のまはる程忙しかつたのですから かんにんして下さい

久米は可哀さうです 門下生が反對したばかりでなく××さんも久米がきらひになつてしまつたのですからね その位なら始から好意を持たなかつた方がいいのです 久米は今飯も食へない程悲觀してゐます 破談になつた時は橫須賀のボクの所まで來て、いろいろ泣き言を云ひました 實際あんな目にあつたらたまらないだらうと思ひます

早くいいお嫁さんを見つけてやりたいと思ひますが 中々でさ云ふ人がありません この間フランスのピエル・ロティと云ふ人の小說をよんだらアフリカヘ行つてゐるフランスの守備兵が、故鄕の許嫁が外の人に片づいてしまつたのに悲觀して、とうとう戰死してしまふ話がありました

シエクスピイアが“Frailty, the name is woman!”と云つたのは有名です 坪内さんはこれを「脆きものよ汝の名は女なり」と譯しました 女と云ふものの當てにならない事を云つたのです

××さんでも守備兵の許嫁でもオフェリアでも皆さうです だから文ちやんもお氣をつけなさい 明日にもボクがいやになる事だつてないとは云へません さうしたらどうでせう やつぱりボクも久米のやうに悲觀するでせうか

兄さん御夫婦はさぞ仲がいいでせう。一體兄さんのやうに生まれついた人が一番いい良人になれるのです しかし今に逆襲してやりませう(五十江さんの顏はもうすつかり覺えました)見せつける方法をいろいろ今から考へてお置きなさい

事によると久米が東京にゐなくなるので ボクもこれから寂しくなるやうな氣がします こないだ久米の所へ行つたら 机の上に××さんの寫顏がのつてゐました まだ忘れられないのでせう あとで聞いたら何でも手紙を一本に寫眞を二枚に瀨戶物の小さな人形を一つだけ××さんに貰つたのださうです さうしてそれを見せてくれました

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集編者により、ここに『[削除]』とある。]

試驗がすんだら暮のうちに遊びに來ませんか 一人でも來られるでせう かへりには送つてあげます

文ちやんの事を考るとうれしいやうなかなしいやうな氣がします さやうなら

    十二月十二日  龍 之 介

   文 子 樣 粧次

 

[やぶちゃん注:「あたりません 文ちやんの手紙が來たのはボクが朝飯をたべてゐる時でした」文が送った書簡に、この手紙を読むのはきっと機関学校からお帰りになってからのことでしょう、みたようなことを書いたのであろう。

「××さん」夏目筆子。この伏字も岩波の元版全集の編者による仕儀と思われる。私は一緒に並べられたオフェリアが可哀そうだと思うね。

「フランスのピエル・ロティと云ふ人の小說をよんだらアフリカヘ行つてゐるフランスの守備兵が、故鄕の許嫁が外の人に片づいてしまつたのに悲觀して、とうとう戰死してしまふ話がありました」ウィキの「ピエール・ロティ」にある、ピエール・ロティ(Pierre Loti 一八五〇年~一九二三年)が一八八一年に書いた、セネガルでの一兵士の物悲しい冒険の記録「アフリカ騎兵」(Le Roman d'un spahi :「スパイ(アルジェのフランス人騎兵隊の呼称)の物語」)と思われる。仏文の当該ウィキを参照されたい。

「シエクスピイアが“Frailty, the name is woman!”と云つた」Hamlet)一六〇一年頃に書かれたと推測されるシェイクスピア作の五幕の悲劇「ハムレット」の第一幕第二場の知られた台詞。当該ウィキによれば、『これは、ハムレットが』、『夫の死後』、『すぐに義理の弟であるクローディアスと再婚した母・ガートルードに対』して言い放った『批難の台詞である。日本語では』坪内逍遙などが『「弱き者よ、汝の名は女」と訳したものがよく知られている』が、『この訳文では弱き者とは』、『即ち』、『保護すべき対象を指し、レディーファーストの意と誤解をしばしば招くことがあり、坪内も後に「弱き者」を「脆(もろ)き者」と再翻訳している。なお、この台詞は当時の男性中心社会の中で、女性の貞操観念のなさ、社会通念への不明(当時のキリスト教社会では、義理の血縁との結婚は近親相姦となりタブーであった)などがどのように捉えられていたかを端的に表す言葉としても有名である』とある。

「兄さん」山本喜誉司。

「五十江さん」以前にも注したが、山本の妻の名であるが、「五十枝」の誤りか。どっちが正しいのか、迷ってくる。芥川龍之介は名前の記憶の思い込みが激しく、誤ったものを何度も後で繰り返す癖がある。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月十四日・横須賀発信・松岡讓宛(葉書)

 

手紙みた十二月號にろくなものはないらしいボクの名を騙つて雄辯で金をとつた奴がゐる黑潮でかたらうとしたやつと同一人だ物騷で仕方がない戲作三昧は土曜にかへつたら送る休みは二十日からだ奧さんが菅さんへ來られると云つたが二十日か二十一日に來られると一しよに東京へかへれて甚都合がいいんだがなその旨奥さんに言上してくれボクは九日以來ノドをひどくこはして悲觀してゐる夜は完く出られない煙草も當分のめない新年の新小說へは西鄕隆盛と云ふへんてこなものを書いたから出たらよんでくれ新潮は「首を落す話」で失敬したどうもウハキをしてゐるやうな氣がしてくだらなくつていやだ來年はベンキヨウしたい僕は最近橫須賀の藝者に惚れられたよそれを小說に書かうかと思つたが天下に紅淚を流す人が多いからやめにした愈來年から鎌倉へ定住する東京へ來いとすすめてくれた先輩もあるが(グレエフエはいくらだつたいこんど拂ふ)

   湘南の梅花我詩を待つを如何せむ

 

[やぶちゃん注:「雄辯」雑誌名。講談社が大日本図書を発行元として明治四三(一九一〇)年二月創刊(昭和一六(一九四一)年終刊)した、現在の講談社の元となった雑誌である。

「黑潮」雑誌名。太陽通信社発行で大正五(一九一六)年十一月創刊。大正六年三月にはこの雑誌に「忠義」を、九月一日には「二つの手紙」を発表している。この偽物、たいしたタマだ。

「奥さん」夏目鏡子。

「紅淚」ここは「美しい女性の流す涙」の意の美称。

「愈來年から鎌倉へ定住する」この四日後の十二月十八日の同じ松岡宛書簡(推定横須賀発信)で、『十九日に東京へ歸らうと思ふ 鎌倉へは借家を見にゆくからその後出直してももいい』とある。これは塚本文との結婚の日程が固まったことを受けての愛の巢探しで、鎌倉に決定しており、実は菅虎雄とその長男忠雄にもまたしても(最初の鎌倉の下宿は菅虎雄の紹介)家探しを依頼しており、実際には彼らのおんぶにだっこだったようで、大正七年一月初旬には菅親子が探した借家候補が見つかっている(新全集宮坂年譜。以下も同じ)。二月二日土曜に塚本文と結婚後、二月二十六日までに鎌倉の新居が決まり、三月二十九日に転居している。

「グレエフエ」ドイツ人名で“Gräfe”か。但し、誰なのか、はたまた小説名なのか、不詳。識者の御教授を乞うものである。]

2021/06/16

伽婢子卷之七 繪馬之妬

 

伽婢子卷之七

 

   ○繪馬之妬(ゑむまのねたみ)

 

Emasito

 

[やぶちゃん注:底本の昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のそれをトリミング補正して用いた。かなり清拭に時間をかけた。女主人は立膝をして、その上に左腕を載せて顎を支えており、今の感覚からは、あまり行儀はよく見えない(但し、戦国以前の女性の立膝はごく当たり前である)。拝殿の画面の右端の下にあるのが商人の旅の荷と笠である。拝殿の下に最初に登場する直衣(のうし)の男(被っているのは戦国期には武家に普通であった折烏帽子である)が地面に坐っている。「新日本古典文学大系」版脚注では、これは本篇の「主君」であり、拝殿にいる左の女性が、その「主君の女房」と記すのだが、この見解、私にはどうも解せない。主君が折り烏帽子で、地べたに座って、拝殿に女房を上がらせておいて、黙って待っているというのは、設定として頗るおかしいと思うからである(以下、続きは本文での注に譲る)。左上方が本殿で、その右端の軒に懸かっている白い長方形の板(右上方が斜めにカットされている)のようなものが絵馬であろう。「絵が描いてないじゃん?!」という不服は当たらぬ。普通、絵馬は神に捧げるものであるから、本殿を向いていて、こちらが裏で白いのは不審ではないからである。しかし、それでも、「今はこっちに向いて軒下に掛けてるのを見たぞ!」と文句を言おうなら、私は、こう、応じてやろう。「その絵の中の総ては、今まさに、そっくり、この挿絵の現実として飛び出しているのだよ。だから、真っ白でいいのさ。絵師の洒落た粋な計らいとこそ言うべきものなのではないかね?」と。なお、同解説には、『御香の宮の絵馬堂は近世期、拝殿の右側、本地堂との並びにあった(都名所図会五・御香宮)』とある(所持する同書で確認した。確かにその通りではある。但し、これは室町後期の設定である)。]

 

 伏見の里「御香(ごかう)の宮」は、神功皇后の御廟(みべう)也。もとより、大社(〔たい〕しや)の御神なれば、諸人、あゆみを運び、あがめまつる。常に宿願あるともがらは、繪馬を掛け、湯を參らせて、祈り奉るに、願ふ事、むなしからず。この故に、神前にかけ奉る繪の、かず多く、繋馬(つなぎむま)・挽馬(ひきむま)・帆かけ舟・花鳥草木、又、其中に美女の遊ぶ所なんど、樣々の繪あり。

 文龜年中に、都七條邊の商(あき)人、奈良に行〔ゆき〕かようて、商賣する者あり。九月の末つかた、奈良を出〔いで〕て、京に歸りける。

 秋の日のならひ、程なくひくれて、小椋堤(をぐらつゝみ)を打ちこえて、伏見の里に付きたれば、はや、人影もまれになり、狐火(きつね〔び〕)は、山際(やまぎは)に輝き、狼の聲、くさむらに聞こえしかば、商人、物すごく覺えて、「御香の宮」に立入り、夜を明かさむとす。

 拜殿に臥(ふし)て、肱(ひぢ)を枕とし、冷(さやか)なる松風の音を今夜(こよひ)の友と定め、幽かなる御灯(ごとう)の光をたよりとして、暫く、まどろみければ、人、あり、枕元に立寄りて、驚ろかす。

 商人、起き上がりて、見れば、靑き直衣(なほし)に、烏帽子着(き)たる男、ありて、いふやう、

「只今、止事(やごと)なき御方、こゝに遊び給ふ。少し傍(かたはら)へ立のきて休み給へ。」

といふ。

 商人、

『心得ぬ事。』

と思ひながら、傍にのきて見居たれば、美女一人、女(め)の童(わらは)を召しつれ、拜殿に昇る。

 むしろの上に、錦のしとねを敷き、灯火(ともしび)かゝげ、酒・さかな、取り出し、かの女、かたはらを見めぐらし、商人、うづくまり居たるを見て、少し打ち笑ひ、

「如何に、そこにおはするは、旅人なりや。道に行暮れて、それならぬ所に夜を明かすは、侘しきものとこそ聞くに、何か苦しかるべき、こゝに出て、遊び給へ。」

といふに、商人、嬉しくて、恐れながら、這出つゝかしこまる。

「只、近く寄て、打解け、酒飮み給へ。」

とて、しとねの上に呼びて、打向ひたる氣はひ、誠に太液(たいえき)の芙蓉、未央(びやう)の柳、芙蓉はおもての如く、柳は眉に似たり、といひけむ楊貴妃は、昔語りに聞き傳ふ。一たび、かへりみれば、國を傾け、二たび、かへりみれば、城を傾く、と云ひし李夫人は、目に見ねば、そも、知らず。

『これは。如何なる人のこゝにおはしけむ。如何なる緣ありて、此座には、つらなるらん。夢か、夢にあらざるか、知らず。』

我ながら、魂(たましゐ)浮かれて、更にうつゝとも、思はれず。

 女の童も、十七、八、其顏かたち、ならべてならず、眉墨の色は、遠山(とほ〔やま〕)の茂き匂ひを、ほどこし、白き齒は、雪にもたとふべし。腰は絲を束(たば)ねたるが如く、指は筍(たかんな)の生出〔おひいで〕たるに似たり。物いふ聲、いさぎよく、言葉、さすがに、ふつゝかならず。

 主君の女房、盃、とりて、商人にさしければ、覺えず、三獻(こん)を受けてのみければ、女の童、箜篌(くこう/コキウ[やぶちゃん注:右/左のルビ。])を取出して、彈く。

 女房は、東琴(あずまごと)、取出〔とりいだ〕させ、柱(ことぢ)たてならべ、調子、とりて、さゝやかに歌うて彈(ひき)けるに、商人、魂、飛び、心、消えて、數盃(すはい)を傾け、其の比(ころ)、世にはやりし「波枕」と云ふ歌をうたふ。

 聲、よく調(とゝの)ほり、曲節(ふし)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]おもしろきに、琴(きん)・箜篌(くこう)のしらべを合はせければ、雲井に響き、社頭にみちて、梁(うつばり)の塵も飛ぶばかり也。

 商人、大〔おほき〕に醉(えひ)て、ふところをさぐるに、白銀花形(びやぎんくわがた)く)の手箱あり。

 之れを、女房に奉る。

 又、玳瑁(たいまい)の琴爪一具を包みて、女の童に與へ、手をとりて、握りければ、女の童、

「爾(にこ)」

と、笑ひて、手をしめ返しけるを、主君の女房、見つけて、妬(ねた)む色、外に現れつゝ、

 あやにくにさのみなふきそ松の風

   我(わか)しめゆひし菊のまがきを

とて、そばにありける盃の臺(だい)をとりて、女の童が容(かほ)に投げつけしかば、破れて、血、流れ、袂(たもと)も衣裏(えり)も、くれなゐになりければ、商人、驚きて、立上がると覺えし、夢は覺めたり。

 夜あけて後(のち)、懸け並べたる神前の繪を見るに、錦のしとねの上に、美しき女房、琴を彈き、其の前に、女の童、箜篌(くこう)を彈きける。

 其のかたわらに、靑き直衣(なおし)に、烏帽子、着たる男、坐して有り。

 女の童のかほ、大に破れたる痕(あと)あり。

 夢のうちに見たりける容(かほ)かたちに、少しも違(たが)はず。

 疑ひもなく、この繪に書きたる女の、夢に戯ふれ遊びけるが、繪にも情(じやう)のつきては、女は物妬(〔もの〕ねたみ)ある事、こゝに知られたり。

 そもそも、この繪は、誰人〔たれひと〕の筆といふ事を、知らず。

[やぶちゃん注:「御香の宮」京都府京都市伏見区御香宮門前町(ごこうぐうもんぜんちょう)にある御香宮神社(ごこうのみや(ごこうぐう)じんじゃ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『伏見地区の産土神で』、『神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇』の他、『六神を祀る。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集める』。『初めは「御諸神社」』(みもろじんじゃ)『と称した。創建の由緒は不詳であるが』。貞観四(八六二)年に『社殿を修造した記録がある。伝承によると』、『この年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。この湧き出た水は「御香水」として』現在も湧いている。『全国にある「香」の名前のつく神社は、古来、筑紫国の香椎宮との関連性が強く』、『神功皇后を祭神とする当社は最も顕著な例である』とある。「新日本古典文学大系」版脚注には、『秋の祭礼は十月九日。境内では諸芸能の興行も行われた』とある。

「湯を參らせて」所謂、「湯立神事(ゆだてしんじ)」「湯立神楽(ゆだてかぐら)」のことであろう。大釜に湯を沸かし、笹を熱湯に浸して、それを身に振りかけて、その年の吉凶を占ったり、無病息災・五穀豊穣を願うもので、今も全国各地の神社で行われいる。

「文龜年中」一五〇一年から一五〇四年まで。室町幕府将軍第十一代足利義澄。

「都七條」現在の七条通り。「平安条坊図」で確認されたい。

「小椋堤(をぐらつゝみ)」現在の京都府宇治市小倉町(おぐらちょう)附近にあった巨椋池の堰堤。「今昔マップ」を見るのが一番。彼はここから北へ伏見の里を縦断し、宇治川を渡り。「御香の宮」の近くまで来たが、完全に日暮れて、人気なく、妖しい狐火や、ごく近くの叢から狼の声も聴こえてきたので、急遽、宮に仮泊まりすることとしたのであった。「御香の宮」から「七条通り」中央位置までは、実測で九キロメートル弱はある。

「驚ろかす」商人を目覚めさせた。

「靑き直衣(なほし)」一般には公卿の平常服。令制の朝服付属としては正式には冠を被るが、略式では烏帽子でよかった。また、位階によって色が決められた位袍(いほう)ではない雑袍(ざっぽう)であったから、特に色は自由であった。室町期には将軍もこの格好を日常服とした。

「心得ぬ事」このような夜更けに、かくも人離れした場所であるから、不審に思ったのである。

「太液(たいえき)の芙蓉、未央(びやう)の柳、芙蓉はおもての如く、柳は眉に似たり」中唐の詩人白居易の著名な「長恨歌」の貴妃亡き後の一節。「太液芙蓉未央柳 芙蓉如面柳如眉」(太液(たいえき)の芙蓉(ふよう) 未央(びあう)の柳 芙蓉は面(おもて)のごとく 柳は眉(まゆ)のごとし)。全篇は私の『白居易「長恨歌」原詩及びオリジナル訓読・オリジナル訳附』を見られたい。「太液」太液池。中国の歴代王朝の宮殿にあった池の名。漢代には長安城外の未央宮(漢の長安城内南西隅にあった宮城。前漢の高祖の時、紀元前二〇〇年から丞相の蕭何(しようか)が中心となって築き、恵帝から平帝までの皇帝が皇居とした。東闕・北闕・前殿を始め、宣室殿・温室殿・清涼殿などの多数の殿閣・武庫・太倉等があったと伝える。王莽(おうもう)の時に廃され、後漢末に修復され、その後の前趙・西魏・唐代にも修復された。遺跡は陝西省西安市北西郊にあり、宮牆はおよそ東西二・三キロメートル、南北二キロメートルもあった)内に、唐代には大明宮内に、明・清代には北京の西苑内にあった。「長恨歌」は当代朝の皇帝玄宗を憚って、主人公を「漢皇」としてある。

「一たび、かへりみれば、國を傾け、二たび、かへりみれば、城を傾く、と云ひし李夫人」「李夫人」(生没年不詳)は前漢の武帝の夫人(側室)。楽人李延年・将軍李広利(司馬遷は彼の嘘が大きな理由となって宮刑に処せられた)らは彼女のお蔭で出世した兄である。兄延年は歌舞を得意とし、既に武帝に侍していたが、そこで「北方有佳人 絕世而獨立 一顧傾人城 再顧傾人國 寧不知傾城與傾國 佳人難再得」(北方に佳人有り 絕世にして獨立す 一顧(いつこ)すれば 人の城を傾け 再顧すれば 人の國を傾く 寧(いづく)んぞ傾城(けいせい)と傾國(けいこく)とを知らざらんや 佳人は 再び得難し)という歌曲を歌い舞った。これが実は延年の実の妹のことであることを聴いた武帝が宮室へ迎え入れて寵愛したのであった。しかし、病いのために若くして亡くなった。武帝は彼女を失った悲しさのあまり、夫人の面影を求め、方術士に命じ、西海聚窟(しゅうくつ)州にある香木反魂樹(はんごんじゅ)から名香「反魂香」を製造させ、この香を薫じた煙の中に夫人の姿が現われたという話でも有名である。

「女の童も、十七、八、其顏かたち、ならべてならず、眉墨の色は、遠山(とほ〔やま〕)の茂き匂ひを、ほどこし……」言わずもがなであるが、以下はこの「女童(めのわらわ)」を描写したもので、さればこその桃源郷が破られる嫉妬の伏線というわけである。ここでは読者自身が、好色な商人の目線と一体化し、彼女のあらゆる部分を拡大して見ることになる、すこぶる映像的に優れた伏線パートと言える。

「腰は絲を束(たば)ねたるが如く」所謂、柳腰でしなやかな肢体を形容したもの。

「筍(たかんな)」タケノコ。

「いさぎよく」清らかに澄み渡って、けがれがなく。

「三獻(こん)」「さんごん」とも。中世以降の酒宴の礼法で、一献・二献・三献と酒肴の膳を三度変え、その度に大・中・小の杯で一杯ずつ繰り返し、併せて九杯の酒を勧めるもの。

「箜篌(くこう/コキウ)」現在は「くご」と読むことが多い。東洋の弦楽器の一つで、琴(きん:現在の琴とは全くの別物)に似た「臥(ふせ)箜篌」、ハープによく似た「竪(たて)箜篌」、先端に鳳首の装飾を施した「鳳首箜篌」があったが、早くに滅びた。

を取出して、彈く。

「東琴(あずまごと)」これは本邦の和琴(わごん)。

『其の比(ころ)、世にはやりし「波枕」と云ふ歌』不詳。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本話の原拠である五朝小説「靈鬼志」の「勝兒」の中の『「浪蹙波、翻倒溟渤」の句に拠ったか』とある。

「梁(うつばり)の塵も飛ぶばかり也」歌が上手いことの喩え。本書の巻頭の「竜宮の上棟」で既出既注

「醉(えひ)て」読みは元禄版。ママ。

「白銀花形(びやぎんくわがた)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『しろがね(銀)の花形』(はながた)『細工を施した手箱(小物入れ)』おある。

「玳瑁(たいまい)」一属一種のカメ目ウミガメ科タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata の甲羅を用いた、本邦が最も品位の技術を持つ鼈甲細工の原料とされた。私の妻の三味線の撥も合成樹脂の本体に先の部分を鼈甲を張り付けたものである。無論、象牙製が一番いいのだが、現在、象牙の撥は数百万円するだろう。

「主君の女房」挿絵の注でも疑義を呈したが、私はこれはここでは「女の童」の仕える「主君」である「女房」の意であると採る。拝殿の下に控えているのは、その女主人の公家に仕える公家侍である。例えば、事実、公家方でも、夫が早く病死して、未亡人が男児が元服するまで女主人としてあった場合は幾らもあったし、名門の場合には、娘或いは養子を得るまで、女主人が長く仕切ったケースもある。だから――「主君」である「女房」――に私は何らの違和感も感じないのである。ダメ押しで言っておくと、そもそもが最初に直衣の男は商人に、「只今、止事(やごと)なき御方、こゝに遊び給ふ。少し傍(かたはら)へ立のきて休み給へ。」って実に丁寧に言いかけている。そこで彼は女だけでなく、この商人にさえも尊敬語を使っている。だいたいからして、妻のことを「止事(やごと)なき御方」って主君が言うかね?

「あやにくにさのみなふきそ松の風我しめゆひし菊のまがきを」整序すると、

 生憎(あやにく)にさのみな吹きそ松の風

      我が締め結ひし菊の籬(まがき)を

「生憎(あやにく)」は感動詞「あや」+形容詞「にくし」の語幹から生じた副詞で、意に反して不都合なことが起こるさま。現在の「あいにく」と同じ。「締め」には美しく紐で「〆め」って造った菊の籬のそれに、女童が商人が握った手を秘かにぎゅっと「締め」返して恋慕に応じたことを掛けている。「吹き」には「拭き」を掛けて、濃厚に手と手を拭き合わせるさまに掛けてあるようにも、また、私が「占め」るべきはずだった男という含みもあれば、嫉妬の炎はいやさかで、よりインパクトが強くなるように私は詠んだ。言うまでもなく、「籬」は古代の恋愛の際の「歌垣(うたがき)」を意識したものである。

「衣裏(えり)」「襟」に同じ。

「繪にも情(じやう)のつきては、女は物妬(〔もの〕ねたみ)ある事、こゝに知られたり」「さても、これを以って、たとえ、たかが絵であっても、そこに描かれたのが、情欲にかられること多き、罪深き「女」であればこそ、もの妬(ねた)みをすることがある、ということがはっきりしたのである」。作者の浅井了意は浄土真宗の僧であるから、こうした謂いをしても何らの疑問は感じない。そもそも、色情を最初に持ったのは、えげつない商人の男の方である。彼がそうしたものを自ら戒めていなかったことこそが、この桃源郷の崩壊の元凶なのである。]

日本山海名産図会 第四巻 鮴

 

Gori1

Gori2

Gori3

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。最初の図のキャプションは「加茂川鮴捕(かもはごりとり)」(「加茂川」は京の鴨川のこと)、二枚目は「加賀淺野川之鮴捕(かがあさのかはのごりとり)」。「淺野川」は石川県金沢市の富山県(南砺市刀利)との県境に位置する順尾山(ずんおやま:標高八百八十三メートル。グーグル・マップ・データ。以下同じ)付近に源を発し、北流して金沢市街地を貫流して、ニホンかい直近の河北潟南西の金沢市湊で大野川に合流する川である。三枚目は「豫刕大洲石伏(よしうおおづいしふし)」。「豫刕大洲」とは現在の愛媛県大洲市で、図の川は同市を貫流する肱川(ひじかわ)かと思われる。]

 

   ○鮴(こり)【字書に見ることなし。姑(しばら)く俗に從がふ。一名、「鮻」【イシフシ】。】

山城賀茂川の名産なり。「大和本草」に、『二種あり。一種は腹の下に、丸き鰭あり。其の鰭、平(へい)なる所ありて、石に付(つ)けり。是れ、眞物(しんぶつ)とす。膩(あぶ)ら、多し。羹(あつもの)として、味、よし。形は「杜夫魚(とふぎよ)」に似て、小さく、背に黑白(くろしろ)の文(もん)あり。一名(めう)、「石伏」と』云〻。是れ、貝原氏(うぢ)の粗說なり。尤も、「一物なり」とはいへども、形、小異あり。尙、下(しも)の圖に見るべし。

○漁捕(ぎよほ)は、筵(むしろ)二枚を繼(つ)ぎて淺瀨に伏せ、小石を多く置き、一方の兩方の耳を、二人して持ちあげゐれは、又、一人、川下より、長さ三尺余りの撞木(しゆもく)を以つて、川の底を、すりて、追ひ登る。魚、追はれて、筵の上の小石に付き、隱るを、其侭(そのまま)、石ともに、あげ、採るなり。是れを「鮴押(ごりおし)」と云ふ。

○又、加賀淺野川(あさのかは)の物も名産とす。是れを採るに、賀茂川の法に同しく、「フツタイ」・「板おしき」と、其の名を異(こと)にするのみ。「フツタイ」は割りたる竹にて大なる箕(みの)のごとき物を、賀茂川の筵のかわりに用ひ、「板おしき」は竪五尺・橫三尺ばかりの厚き板を、竹にて挾み、下に足がゝりの穴あり。是れに足を入れて、上の竹の余りを手に持ち、石間(いしま)をすりて、追ひ來たる事、前に云ふごとし。

○又、里人などの、納凉に乘じて、河邊に逍遙し、この魚を採るに、人々、香餌(かうゑ)を手の中に握り、水に掬(きく)し、

「ゴリ。」

と呼べば、魚、群れて、掌中に入るなり。又、籃(かご)にて、すくひ採ることも有るなり。是れをしも、未熟の者にては、得やすからず。清流淺水(あさみづ)といへども、見へがたき魚なり。

○「和名抄」に「ゴリ」を出さず。「䱌」を「いしふし」として、『性、石間に伏し沈む』。

[やぶちゃん注:「䱌」の字は底本では(へん)と(つくり)の間に縦に一画が入る。「䱌」は国字で魚の「イシブシ」を指す。]

○「※」は「チヽカフリ」。𩺟に似て、黑點あり[やぶちゃん注:「※」=「魚」+(「肅」の下部を「用」に代えたもの。「鱐」の略字か。但し、この字は「干し魚・不明の魚の名・魚の脂(あぶら)」と国字で「鯱(しゃちほこ)」の意である。]。○𩸒魚(かうぎよ)「カラカコ」。『𩺟に似て、頰(ほ)に鉤(こう)を著ける物なり』と注せり。案ずるに、文字に於ては適當とも云いがたし。和訓義(わくんぎ)に於ては、「いしふし」、石に伏して、今、「コリ」・「石伏」といふに、あたれり。○「ゴリ」は、鳴く聲の「ゴリゴリ」といふによりて、後世の名なるべし。○「チヽカフリ」は、「チヽ」は「土(つち)」にて、土をかぶり、「蒙(かくる[やぶちゃん注:判読に自信がない。])」との儀なるべし。されは、「杜父魚(とふぎよ)」に、ちかし。人の音(こへ)を聞けば、砂中(さちう)に頭(かしら)をさして、碇(いかり)のごとくす。一名、「砂堀鯋(すなほりはぜ)」とも云ふ。「カラカコ」は「頰(ほう)に鉤(こう)を付けたる」の名なり。鉤の古名「カコ」とも云へり。「カラ」の義、未ㇾ詳(つまびらかならず)。○或ひは云、「聲(こへ)有る魚は、必ず、眼を開閤(かいかう)す。是れまた、一奇なり」とす。されども、其の實(じつ)をしらず。○又、是等、皆、所の方言に「かしか」とも云へり。尙、辨說、有り。下(しも)の「かしか」の條に見るべし。

[やぶちゃん注:蒹葭堂が冒頭で引き、実は本文でもそれを下敷きにして書いたと思われる箇所が有意にある、貝原益軒の「大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ」の本文と私の考証注を参照にされたいが、「ゴリ」という標準和名の種はおらず、ゴリ(鰍・杜父魚・鮖・鮴)は一般的には、典型的なハゼ類の形をした複数の淡水魚群を指す一般名・地方名である。考証迷走はリンク先を見られたいが、最終的に私が有力候補として指名したのは、

スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae ヨシノボリ属 Rhinogobius

の仲間である。なお、益軒は別に「大和本草附錄巻之二 魚類 吹 (「ゴリ」類或いはカジカ・ウツセミカジカ等)」を立項しており、これも参考になろう。

「鮴(こり)」国字。但し、海水魚のメバルを指す漢字で、標題に示すものとしては、誤りである。思うに、ゴリ類が川底の砂石の下に隠れ潜むのを「休」んでいる「魚」として使用したものかも知れない。

『「鮻」【イシフシ】』読みは、小文字の割注にさらに小文字で割注として入っている。この「鮻」は漢語で、後に出る「鯋」と同字である。「鯋」は「不名の魚の名・鮫(鱶)・砂吹(すなふき)=鯊(はぜ)」で、最後のそれで一致を見る。国字として淡水魚の「いさざ」=チチブ(ゴビオネルス亜科チチブ属 Tridentiger )を指すのも広義の「ゴリ」類と一致する。

「杜夫魚(とふぎよ)」現行では、日本固有種で北海道南部以南の日本各地に分布し、「ドンコ」の異名でも知られる、条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux の異名とされることが多い。このカジカも広義の「ゴリ」の一種である。

「石伏」現在では、同じく広義の「ゴリ」の一種、ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科ウキゴリ属ウキゴリ Gymnogobius urotaenia の異名とすることが多い。

「粗說」要約。

「形、小異あり。尙、下(しも)の圖に見るべし」第一図の「加茂川鮴捕」のことを指して仰るのですが、そこの魚は、皆、ほぼ同じ大きさなんですけど? しかもこの魚、どれもこれも二本の触角を有して描かれてあって、これじゃ、ナマズにしか見えへんのですけど?! 蒹葭堂先生!?! ここでしか言えないので、附言しておくと、京の鴨川で行われた「ゴリ漁」の対象種は少なくとも近代にあっては、ヨシノボリ属カワヨシノボリ Rhinogobius flumineus に同定されている。しかし、カワヨシノボリにはこんな触角は、ない!

「フツタイ」ブッタイ。漁具の画像と解説が嬉しい、㈶四万十川財団編の「四万十川の漁具 平成14年度」PDF)の「雑漁具」の14ページに写真と解説がある。『竹ひごを簾(す)状に編み、一方を閉じて柄をつけ、一方を広げて入口にした漁具。笹を束ねたホテや足でゴリをおどして、ブッタイに追い込む』とある。この前には「ゴリのウエとタテズ」(「ウエ」は筌(うけ)のことで、「タテズ」は「立(縦)て簾(す)」)の写真と解説がある。必見! 私は確かにこの漁具のことを「ぶったい」と呼称するのを、複数の地域で聴いているのだが、その語源が今以って判らない。御存じの方は切に御教授を乞うものである。

「板おしき」漢字表記不詳。形状からは「おしき」は「折敷」ではないし、歴史的仮名遣なら「をしき」である。恐らくは「板押し木(ぎ)」ではなかろうか。

『香餌(かうゑ)を手の中に握り、水に掬(きく)し、「ゴリ。」と呼べば、魚、群れて、掌中に入るなり』名指すことによる呪的縛りが加えられた面白い漁法である。

『「和名抄」に「ゴリ」を出さず。「䱌」を「いしふし」として、『性、石間に伏し沈む』』(「䱌」の字は底本では(へん)と(つくり)の間に縦に一画が入る。「䱌」は国字で魚の「イシブシ」を指す)「和名類聚抄」には、巻十九「鱗介部第三十」の「龍魚類第二百三十六」に、

   *

䱌(イシフシ) 崔禹錫が「食經」に云はく、『䱌【音「夷」。和名「伊師布之」。】、性、伏沈して石間に在る者なり。』と。

   *

とある。「䱌」は漢語としてはフグを指す。中国には世界で唯一、淡水産フグがいる。

「𩺟」「康熙字典」に「玉篇」を引き、『鯸、䱌魚。又、河魨、一名鯸鮧』とある。この「河魨」「鯸鮧」は孰れも広義の「フグ」である。

「黑點あり」これはトラフグを想起させる。

「𩸒魚(かうぎよ)」「カラカコ」。カジカ類の異名と思われる。サイト「真名真魚字典」の「を見られたい。但し、蒹葭堂は一歩踏み込んで、最後に『「カラカコ」は「頰(ほう)に鉤(こう)を付けたる」の名なり。鉤の古名「カコ」とも云へり』という名推理を働かしている。これはちょっと脱帽だ。次の注のアユカケと直結するからである。

『頰(ほ)に鉤(こう)を著ける』鰓蓋に棘がついている。これは直ちに、広義の「ゴリ」の一種であるカジカ属アユカケ Cottus kazika を想起させる。日本固有種で、体長は五~三十センチメートル程度で、大型個体が出現する。「カマキリ」という異名を持ち、胸鰭は吸盤状ではなく、分離している。鰓蓋には一対の大きい棘と、その下部に三対の小さい棘を持ち、和名は、この棘に餌となる鮎を引っ掛けるとした古い伝承に由来するものである。

「和訓義」書名ではなく、和訓の意義の意で採った。

『「ゴリ」は、鳴く聲の「ゴリゴリ」といふによりて、後世の名なるべし』益軒も「大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ」で、『其の大なる者、夜に至りて鳴く。其の聲、淸亮にして愛すべし。土人、之れを「河鹿(カジカ)」と謂ふ』などと言っている。無論、「ゴリ」類は孰れも鳴かない。これは所謂、両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri の誤認であろう(江戸時代にはカジカガエルは鳴き声の美しさがもて囃され、贈答なんぞもされていたのだが、知らぬ人は知らぬものなのである。ある動物の鳴き声を全く別の生き物に誤認していた例は、江戸期の随筆にも、多数、登場する。いい例が螻蛄(ケラ)の鳴き声を蚯蚓(ミミズ)とした例で、これは近代に至るまで民間では長く信じられていた。お時間のある方は「北越奇談 巻之五 怪談 其三(光る蚯蚓・蚯蚓鳴く・田螺鳴く・河鹿鳴く そして 水寇)」を読まれたい)。いやいや、とすれば、この鳴くと誤認されている「ゴリ」は、それこそ「其の味、極美」の、ほれ! 蛙じゃない「カジカ」、カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux なんじゃぁ、ないのかなぁ?

『「チヽカフリ」は、「チヽ」は「土(つち)」にて、土をかぶり、「蒙(かくる[やぶちゃん注:判読に自信がない。])」との儀なるべし』この考証も素晴らしい。思わず、賛同したくなる。

『下(しも)の「かしか」の條』本巻頭尾の「○河鹿(かじか)」(底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該部)を指す。実はそこで、蒹葭堂は鳴くのは始めっからカジカガエルだと判っていたのではないかと思わせる。やらかして呉れるじゃん、蒹葭堂!

2021/06/15

芥川龍之介書簡抄84 / 大正六(一九一七)年書簡より(十六) 塚本文宛二通

 

大正六(一九一七)年・十一月六日・横須賀発信・塚本文宛

 

拜啓

今夜は色々御馳走になりました おかあさまによろしく 御禮を申上げて下さい

汽車に乘りながら ちよいちよい文ちやんの事を思ひ出して、橫須賀へ着くまで、非常に幸福でした 僕が文ちやんに「僕の手紙はよみにくいでしよ」と云つたら 文ちやんが「えゝ」と云つたでせう。その時僕には 素直なうれしい心もちがしました 今でも思ひ出すと してゐます。

こんど五十枝さんに會つたら 何が大に羨しいんだか よく聞きただして置いて下さい

この手紙はうまく、文ちやんの旅行にゆく前に屆けばいいがと思ひながら、書きました 頓首

    十一月五日夜     芥 川 生

   塚 本 文 子 樣

 

[やぶちゃん注:この日(金曜日)、芥川龍之介は塚本文を高輪の自宅に訪ね、夕食をともにした後、横須賀へ戻った。「文ちやんの旅行」とあるが、不詳。跡見女学校の修学旅行か?]

 

 

大正六(一九一七)年十一月十七日・橫須賀発信(推定)・塚本文宛

 

拜啓

旅行中度々手紙を難有う十日の朝は五時や五時半ではまだ寐むくつて大船を通つたのも知らずに寐てゐはしませんでしたか ボクはちやんと眼をさまして文ちやんの事を考へましたさうして「くれびれたでせう」と云ひました

それでも文ちやんは返事をしないで ボクのゐる所を通りこしてしまつたやうな氣がします 丁度久米が來てとまつてゐたので、ボクは彼を起さないやうに そうつと起きて 顏を洗ひに行きました 黃いろくなりかかつた山の上にうすい靑空が見えて 少しさびしい氣がしました さうしでもう文ちやんは橫濱位へ行つてゐるだらうと思ひましたその時分はもう文ちやんも眼がさめてゐたのにちがひありません ボクが「お早う」と云つてからかつたらボクをにらめたやうな氣がしましたから

こんどお母さんがお出での時ぜひ一しょにいらつしやい その時ゆつくり話しませう 二人きりでいつまでもいつまでも話してゐたい氣がします さうして kiss してもいいでせう いやならばよします この頃ボクは文ちやんがお菓子なら頭から食べてしまひたい位可愛いい氣がします 噓ぢやありません 文ちやんがボクを愛してくれるよりか二倍も三倍もボクの方が愛してゐるやうな氣がします

何よりも早く一しよになつて仲よく暮しませう さうしてそれを樂しみに力强く生きませう これでやめます 以上

    十一月十七日         龍

   文 子 樣

 

[やぶちゃん注:ごちそうさま! 龍之介!]

芥川龍之介書簡抄83 / 大正六(一九一七)年書簡より(十五) 松岡譲宛

 

大正六(一九一七)年・消印十一月一日・東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣・AKUTAGAWA

 

ここに二人の許嫁の男女がある さうしてそれが如何なる點でも幸福だとする その時その許嫁の男がこんど久米の書いたやうな小說を書いたとする――としてもその間には何の波瀾も起らなくはないだらうか だから久米のあれを發表したと云ふ事は周圍とかフイアンセとかに對する眼があいてゐないと云ふ愚によるのだ が、周圍は存外わかつてゐたかも知れない 同時にそれ丈フイアンセに對しては盲目同樣ぢやなかつたらうか こんな考へ方をするとあいつが氣の毒にもなつて來る

それから又あいつがあんなものを書くのは實際以上に幸福な自分を書いて慰めてゐると云ふ事もありさうな氣がする これはフイアンセに對して盲目なのと矛盾するかも知れない しかし盲目ならんとする努力と見れば矛盾ではなくなるだらう 强いて自分を幸福に書いて自ら慰めると云ふ事には多少の同情がない事はない 僕は君にわかれてからこんな二つの考へ方であいつをよりよく見る事が出來さうな氣がして來た さうしてさう見る事が義務のやうな氣もして來た それは愚だし愚だけに腹が立つがさう見ればあいつに對する好意だけは失はれずにすみさうに思ふよ 愚の方ぢや我々もいつどんな愚をやるか知れないからね

しかし愚は愚だね 歸つてあの小說を見たら又しみじみさう思つたよ 僕は君に話した通り純粹にはあの件の成立を喜んでゐないからそれだけあの小說を發表した結果にしても冷淡になり得られるのだがそれにしても愚なのでがつかりする

何か變動が起るかも知れないし又起りさうだがその原因はやつぱり自然に背いた罰だと思ふ どうもあの事を考ヘるとへんに不安になつていけない

十一月になつたら三土會前に來ないか 一日ゆつくり遊びたいから

   讓   君           龍

 

[やぶちゃん注:「フイアンセ」夏目漱石の長女筆子。ウィキの「松岡譲」によれば、『漱石の長女筆子の愛を巡って、親友の久米正雄と離反』し、『久米の求婚を内諾した筆子が松岡に変心したのを知り、久米に黙ったまま付き合』っていた。『大学卒業』『の翌年』の大正七(一九一八)年四月二十五日に『筆子と日比谷大神宮で結婚、精養軒で披露宴を行なう。その結婚式当日』、『朝日新聞』の『一面に久米を中傷するかのような記事が掲載される。これは松岡が書かせたものだとされている。この記事が逆効果を』生んで、『世間は久米に同情、相対的に松岡が悪者になる。義母である鏡子に執筆を禁じられていた松岡は反論の機会を失う。また』、『この件に関して沈黙する必要』の『なくなった久米も』、『この件で負った苦悩を吐露した作品を執筆』し、『特に』大正一一(一九二二)年の「破船」は『注目された。この作品発表後』、『松岡の長女が「あんな悪い人の子供と遊んではいけない」と目の前で連れ去られ、松岡はそれを久米のせいだと復讐心を燃や』した。『長女の件を新聞で語った上で、自身からの視点で筆子との恋愛を描いた』「憂鬱な愛人」を執筆したが、『大々的な宣伝にも関わらず』、『同作品は話題にならなかった。松岡は更に知人に長女だけを預けて』、『久米に会わせるなどをしたという』。『なお』、「憂鬱な愛人」では、『筆子への恋心を描きながらも、後に筆子が愛したのは自分であると知らされたと語るなど』、『この件に関しての松岡の発言には一貫性がない』。『なお』、『久米は早い段階で松岡に話し合いを求める手紙を書いたり』、『電話を掛けたりしたが、松岡が応じることなく』、『そのまま関係は断絶していた』。『戦時中は生まれ故郷の新潟に一家で疎開。住宅難の戦後は一家で雨漏りのするお堂に転がり込む日々であった。そこすら追い出された時は』、『妻の筆子が住む場所を求めて奔走』した。なお、『この時期、生活苦から』、『学生時代の友人である芥川龍之介からの手紙を売却』している。『久米正雄とは断絶状態であったが』、『戦後の』昭和二一(一九四六)年に和解した]。『この和解は戦後新潟に来た久米を松岡が訪ねたこと』がきっかけであった。『しかし自身の評伝を書いた関口には』、『和解後の久米を揶揄するような手紙を書いており、松岡が久米を心から許したわけでは無かった事が伺える。松岡は漱石山房の再建を熱望したが、他の門下生の協力が得られなかった。久米と再会したときに真っ先にこの件への協力を呼び掛け』ている。『なお』、『久米と筆子の件は、筆子の母である鏡子が漱石亡きあと家に男手が欲しいために結婚を強制させたと筆子の娘である半藤茉莉子が著書で語っている』。『また、久米と筆子の婚約期間中』、『久米を中傷する怪文書が夏目家に届く事件が起こった。久米にこの手紙について問い質しにきた鏡子に付き添った松岡が』、『その手紙を預かる。松岡は後にその手紙を書かされたという女性が反省して訪ねてきたので』、『目の前で焼いたと記する』。『しかし松岡の評伝を書いた関口は保管されていたというこの手紙を読んだと記しており、真相が分からない状態にある』とある。ぐちゃぐちゃで、気持ち悪(わり)イ……。

「三土會」広津和郎・谷崎潤一郎・芥川龍之介・江口渙・赤木桁平・松岡譲・久米正雄・山本有三・佐藤春夫・加能作次郎ら当時の新進作家たちが親睦会として、この大正六年の九月十五日に上野の森の五條天神社脇にある「韻松亭」(現存する。ここ。グーグル・マップ・データ)で第一回が催された。他に本郷の燕楽軒や万世橋駅の上にあったミカドを会場とした。名称は第三土曜日を定時開催としたことによる。筑摩全集類聚版脚注では、『岩野泡鳴が主導した文学グループ』とするが、これは「十日会」の誤りである(「十日会」には後に芥川龍之介も参加している。そうして、そこで、ファム・ファータル秀しげ子と出逢うことになるのである)。]

芥川龍之介書簡抄82 / 大正六(一九一七)年書簡より(十四) 塚本文宛

 

大正六(一九一七)年十月三十日・横須賀発信・塚本文宛

 

手紙を難有う 返事を書かなかつたのは この土日月の三日のうちに高輪へ上るつもりでゐたからです それが又行かれなくなつてしまひました そこで早速これを書きます

土曜の午後東京へかへるとまづ時事新報の友だちをたづねて用をすませそれから神田へ行つて賴んで置いた本を本屋で買つて夜七時頃うちへ歸りました すると客が殆同時に來て 俳句の話を遲くまで邦聽させられました 日曜日は朝まだ飯を食つてゐるうちに 上野山淸貢君(素木しづと云ふ女の小說家がゐます その人の御亭主です)が久米の紹介狀を持つてやつて來て 油繪を買つてくれと云ふのです 上野山君は肺病だしその繪にもバクテリアがくつついてゐさうで 難有くはないのですが 事情が如何にも悲慘なので とうとう一枚買ふ約束をしました(上野山君の事はあとで書きます)それが歸ると一時間たたない中に谷崎潤一郞君が赤いチョッキに黑の背廣を着てやつて來ました さうしてゆつくり尻を据ゑて盛に繪の話や小說の話をしました 一しよに飯を食つて それからお八つを食べて歸つたのですからちよいと六時間ばかりゐた譯です それから今度は僕の方が外へ出る支度をして本鄕の畔柳さんの所へ學校の用と私用とを兼ねて行きました そこに六時位までゐてすぐに芝へ行きました 丁度弟が旅行から歸つた所なので色々話をしてゐる中に十時頃になりましたから 泊る事にしました 月曜の朝は午前十時頃から本鄕の後藤末雄君のうちで帝國文學會の會合があるので 僕も委員とか何とかになつてゐますから 朝早く芝を出て後藤君の所へ行きました そこで晝飯を御馳走になつてゐると 遲れて來た江口渙君が僕と話をしたいと云ふのですが 僕には江口君の所へ行つてゐる時間も僕の所へ來て貰ふ時間もないので「ぢや步きながら話しませう」と云つて本鄕から田端まで步きながら いろんな事を聞いたり話したりしました それからうちへ歸つて一時間ばかり晝寐をして湯にはいるともう彼是五時です だから又橫須賀へ歸らなければなりません そこで飯を食つて洋服に着換へて大急ぎで新橋へかけつけました

 僕の三日間はこんな風にして慌しく立つてしまひました 又何時もこんな風に慌しく立つてしまふのです が、來週の三日のうちには上るつもりです(多分月曜日の午後から)さうしないと僕もさびしいから

寫眞ありがたう 圓い方がよくとれたと思ひましたから あれを貰ひました ああ云ふ形をしてああ云ふ顏をした西洋の畫があります 誰の何と云ふ畫だか覺えてゐないが 伊太利か何かのルネッサンス頃の畫です 男でも何でもよろしい 私はあれで結構です 五十江さんもあの圓い方のがよくとれてゐますね あの人の顏は昔のお雛樣に似てゐます

兄さんがこの間滿州から匪賊の首を斬る所の畫はがきをくれました 斬つてしまつた所です 滿州は野蠻ですね。あんな野蠻な所を旅行してかへつて來て文ちやんに叱られては可哀さうです 寫眞をとつてかくしてゐる方が惡いのだから 叱るのはおよしなさい 僕もそのうちにうつすつもりです が、無精だから何時になるかわかりません

さうさう上野山君の事を書くのでしたね 上野山君と素木さんとは兩方とも肺が惡くつて結婚したので猶惡くなつたのださうです 子供が二人ばかりあつて二人共やつぱり同じ病氣です 素木さんは結核性の何かで足を一本切りましたから 一本足です それで細君の小說も 御亭主の畫もうれないものですから暮しはひどく苦しいらしいのです 何でも茅ケ崎に家を持つてゐた時には家賃が滯つて 二人別々に遊びに出るやうなふりをして逃げて來たさうです ですから勿論夜具ふとんから家財は一切向うへとられてしまつたのです 上野山君は畫かきをやめて印刷所の職工になつて 月々二十圓づつとらうとしたさうですが それも口がなくてなれないらしいのです ああなるとたまりませんね それでも上野山君は非常に素木さんを愛してゐるやうです 或は寧 崇拜してゐるやうです 大分同情しました

それにしても僕たちの生活は幸福にしたいと思ひます うちはやつぱり鎌倉にあればいいと思つてゐます どうせ小鳥の巢みたいなものだから小さな家でよろしい 日あたりがよくつて 風さへ通ればそれで結構です さうしたらほんとうに落着けるでせう それが樂しみです

時々不良の女みたいな女流作家や作家志望者に遇ふとしみじみ文ちやんがあんなでなくつてよかつたと思ひます 作家にはああ云ふ種類の女と結婚してゐる人が大ぜいあります 僕には氣が知れません 文ちやんは何時までも今のやうでゐて下さい さうすると そのおかげで僕も餘程高等になれます

これでやめます 僕を思ひ出して下さい

    十月三十日      芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣

 

[やぶちゃん注:「この土日月の三日」カレンダーを見ると、大正六年十月三十日は火曜日で、その直前の二十七・二十八・二十九日を指していることが判る。

「時事新報の友だち」菊池寛。彼は大正五(一九一六)年七月に京都帝大文科大学文学部を卒業(在学中は同大教授となっていた上田敏に師事した。卒業論文は「英國及愛蘭土の近代劇」)後、上京、成瀬正一の父(「十五銀行」頭取)の縁故で『時事新報』社会部記者となっていた。既に見た通り、この大正六年に高松藩旧藩士奥村家出身の奥村包子(かねこ)と結婚していた。この二年後の大正八年、『中央公論』に「恩讐の彼方に」を発表し、好評を得、執筆活動に専念するために『時事新報』を退社している。

「上野山淸貢」(きよつぐ 明治二二(一八八九)年~昭和三五(一九六〇)年:芥川龍之介より三歳年上)は洋画家。北海道札幌郡江別村(現在の江別市)生まれ。北海道師範学校図画専科(現在の国立北海道教育大学)修了。龍之介は今にも喀血して倒れそうな悲惨な様子に描いているが、彼は七十で老衰で亡くなっている。

「素木しづ」(しらきしづ 明治二八(一八九五)年~大正七(一九一八)年一月二十九日)は小説家。札幌生まれ。昆虫学者素木得一の妹。庁立札幌高等女学校(現在の北海道札幌北高等学校)卒業後、結核性関節炎が悪化し、右足を切断。大正二(一九一三)年、小学校から同窓生だった森田たま(後に作家・随筆家・政治家となった)に数日遅れて森田草平門下に入り、同年、処女作「松葉杖をつく女」を、翌年「三十三の死」を発表して、新進女流作家としての地位を築く。この二年前の大正四年に上野山清貢と結婚し(婚姻届を出したのは二年後のこの大正六年であった)、年末に子供をもうけた。しかし、この手紙の書かれた僅か三ヶ月後、肺結核のために伝染病研究所で亡くなっている。満二十二の夭折であった。

「畔柳さん」英語学者で第一高等学校教授であった畔柳芥舟。既出既注

「弟」新原得二。当時、満十八。

「後藤末雄」既出既注

「帝國文學會」筑摩全集類聚版脚注に、『雑誌「帝国文学」』(大正四年十一月に芥川龍之介の「羅生門」が発表された雑誌)『の編集会議。帝国文学は文科学術雑誌で明治二十八』(一八九五)『年一月創刊、大正九年一月終刊。大日本図書発行。東大出身者および学生の研究発表機関』とある。

「男でも何でもよろしい」その写真の文を誰かが見て、「男みようだ」と言ったのを、龍之介への手紙に文が書いたのであろう。

「五十江さん」山本喜誉司の妻と思わる五十枝の誤記であろう。

「兄さん」文の叔父で龍之介の幼馴染みの親友山本喜誉司。既出既注。

「匪賊」(ひぞく)は本来は「集団を作って掠奪・暴行などを行う賊徒」を指す語であるが、日本では特に近代中国に於ける非正規の武装集団(ゲリラ)を卑称する言葉として用いられた。現代の中国人はこの語を日本人が使用する際には、一種の嫌悪的なアレルギを持っているので、注意されたい。

「うちはやつぱり鎌倉にあればいいと思つてゐます」龍之介と文の新婚生活が、一時期、鎌倉でなされたことは既に書いた。龍之介は晩年、その鎌倉での蜜月を、最も幸せだった、と述懐している。]

大和本草諸品圖下 ヲキニシ・蝦蛄 (オキニシ類・シャコ) / 「大和本草」水族の部――大団円!――

 

Last

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

ヲキニシ

 辛螺ニ似テカド多シ大ナル

 ハ長サ六七寸アリ味不辛

○やぶちゃんの書き下し文

をきにし

 辛螺〔(からにし)〕に似て、かど、多し。大なるは、長さ、六、七寸あり。味、辛〔(から)から〕ず。

――――――――――――――――――

蟲類

[やぶちゃん注:前の「ヲキニシ」の右下部に囲み字横書(右から左)で「蟲類」と記されてある。これは広義の「蟲類」(博物学では昆虫類だけでなく、広く無脊椎動物を含む謂い。実際、「大和本草巻之十四」の「水蟲 蟲之上」(私がこのブログ・カテゴリ『「大和本草」水族の部』で最初に開始したのが、「海参」(ナマコ)に始まるまさにそこであった)には蝦蛄」が含まれている)で、その「蟲類」パートの附録図が下図の「蝦蛄」から始まるという意味であろう。この後には、省略した左頁の陸生の虫の二図(「金蟲(キンチウ)」と「トビムシ」(これは湿気の強い場所に棲むとある))と続き(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像。次も同じ)、最後は漢方生薬になりそうな「虎牙」(トラの牙(きば)の図)で「大和本草」全巻が終わっている。]

蝦蛄

 和名シヤクゲ又曰シヤコ

 本書載ㇾ之

○やぶちゃんの書き下し文

蝦蛄

 和名「しやくげ」、又、曰〔ふ〕、「しやこ」。本書に之れを載す。

[やぶちゃん注:「ヲキニシ」は、

腹足綱前鰓亜綱盤足目ヤツシロガイ超科 オキニシ科オキニシ属オキニシ Bursa bufonia dunkeri

或いは、オキニシ科 Bursidae の一種

であろう。小学館「日本大百科全書」の奥谷喬司先生の記載を元に記す(軟体動物を専門とされる奥谷先生の著作もごっそり持っている。先生が監修された「新編 世界イカ類図鑑 ウェブ版」は感動的!)。房総半島以南の岩礁潮間帯から水深二十メートルほどの所に棲息する。殻高七センチメートル、殻径五センチメートルに達し、殻は厚く、重くゴツゴツしていて、多少、背腹方向に扁平に潰れている。殻の左右に太い縦肋があり、後溝は明らかである。殻表は黄白色の地に途切れ途切れの黒色帯があり、隣り合う縦肋と縦肋の間には丸い瘤(こぶ)の列がある。殻口は丸く、殻口内は黄色い。外唇内壁には小瘤(しょうりゅう)がある。前水管溝は、多少、曲がり、後溝は細い管状である。厴(へた)は黄褐色の楕円形で、核は中央に寄っている。生体時は、普通、石灰藻で覆われ、著しく汚れているので、岩礁と見分けにくい。

「蝦蛄」は甲殻亜門軟甲綱トゲエビ亜綱口脚目シャコ上科シャコ科シャコ Oratosquilla oratoria 「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蝦蛄」を参照されたい。

   *

 さても。二〇一四年一月二日に「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」から始動して、実質五年半(二〇一六年と二〇一七年の二年間は三件のみで休眠状態)かかったが、遂に自分でも納得出来る形で、カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』を完遂した。実は、二〇二〇年九月十三日の「大和本草卷之十三 魚之下 ビリリ (神聖苦味薬)」で、一度、カテゴリの後に「【完】」を打ったのだが、半年後に、「諸品圖」を思い出し、それをやろうとしかけたところで、他にも「附錄」巻にも水族がごっそりあるのに気づき、そこから芋蔓式に、水棲哺乳類の脱漏等が、ぼろぼろ、ぼろぼろ、浮塵子の如く湧き出てきて、そこにまた、「水草類」なども気になり始め、結局、ずるずる、ずるずる、今日の今日までかかってしまった。ここまで付き合って下さった奇特な読者の方々に心より御礼申し上げる。 心朽窩主人藪野直史 敬白]

大和本草諸品圖下 海ホウザイ・クズマ・ヨメノ笠・辛螺 (ウミニナ或いはホソウミニナ・クロフジツボ・ウノアシ・レイシガイの一種か)

 

Kai9

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

海ホウザイ

 其形河卷子(ニナ)[やぶちゃん注:三字へのルビ。]ノ如シ

  河ニアルヲホウザイト云

○やぶちゃんの書き下し文

海ほうざい

 其の形、「河卷子(にな)」のごとし。河にあるを、「ほうざい」と云ふ。

――――――――――――――――――

クズマ

  仰ケル圖殻アツシ肉小也

 

俯圖

 

     仰圖

――――――――――――――――――

ヨメノ笠 ヨメノ皿トハ別ナリ

 内ニ肉少アリヨメノ皿ト云

         物ニ似タ

 ヨメノ笠ノ仰圖   リ海邊

         岩ニ付ケ

         リ

 ヨメノ笠ノ俯圖

○やぶちゃんの書き下し文

よめの笠 「よめの皿」とは別なり。内に、肉、少しあり。「よめの皿」と云ふ物に似たり。海邊の岩に付けり。

[やぶちゃん注:以下、キャプション。]

         「よめの笠」の仰圖

         「よめの笠」の俯圖

――――――――――――――――――

辛螺

[やぶちゃん注:今回は四種とも平凡社刊の下中弘氏編集・発行の「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年刊)の「貝原益軒」での波部忠重先生の同定に全面的に拠った。

「海ホウザイ」は、お馴染みのウミニナ(海蜷)で、

腹足綱吸腔目カニモリガイ上科ウミニナ科ウミニナ属ウミニナ Batillaria multiformis

或いは同属の、

ホソウミニナ Batillaria cumingii

で、波部先生は形はホソウミニナ型であると述べておられる。ウィキの「ウミニナ」によれば、『ウミニナよりも貝殻の膨らみが弱く円錐に近いこと、殻口が小さく円形で滑層瘤がないこと、石畳模様のきめが細かいことなどで区別するが、ウミニナと似た個体も多く同定が難しい』とある。流石は波部先生! 「ほうざい」の語源は不詳。但し、この円錐形の形と関係があることは間違いなく、所謂、仏塔(スツゥーパ)を思わせるところから、仏法の宝、「宝財」が元かと思ったりはした。ウィキにはしかし、『人や地域によってはこれらのウミニナ類を食用にする。日本ではこれらが豊富に得られる瀬戸内地方から九州にかけての地域でよく食べられ、例えば佐賀県では「ホウジャ」、長崎県では「ホウジョウミナ」などと総称し』、『塩茹でなどで食べる。食べる際は五円硬貨の穴で殻頂を折り、殻口から身を吸う。また台湾などではこの類を』「燒酒螺」『と総称し、ピリ辛味に調理したものなどが街中でも売られる。食用以外には肥料としてそのまま畑に撒く人もいる』とあり、これだと、「豊穣」「豊饒」辺りの転訛とも思われる。因みに、ヤドカリを備前や久留米で「ほうざいがに」と呼んでいるが、これは背負った貝殻を主体とした異名と思われ、もう少し調べてみる価値がありそうだ。『河にあるを「ほうざい」と云ふ』は、軟体動物門腹足綱吸腔目カニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina などのこと。「大和本草卷之十四 水蟲 介類 河貝子」を参照。

「クズマ」は、波部先生がズバリ、

節足動物門汎甲殻亜門マルチクラスタケア上綱 Multicrustacea 六齢ノープリウス綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目無柄(フジツボ)目フジツボ亜目クロフジツボ上科クロフジツボ科クロフジツボ属クロフジツボ Tetraclita japonica

に同定されておられる。高さ四センチメートルで、底面の直径五センチメートルに達するフジツボでも大形種で、岩礁の潮間帯上部に群れをなして附着し、クロフジツボ層を形成する。本州北部より九州南端まで分布する。急な円錐形で、厚い四枚の周殻から成るが、境界がはっきりしないことが多い。殻口は円形で、小形個体では小さいが、老成すると、大きくなる。殻の内部には多数の管状の穴があり、温度調節に役だっていると考えられる。地方によっては軟体部をみそ汁の実にする(小学館「日本大百科全書」の武田正倫先生の解説に拠った。武田先生は十脚甲殻類を中心とした動物分類系統学が御専門で、その著作を私は非常に多く所持しており、よくお世話になる)。私は函館で食べたが、えも言われぬ旨さであった。なお、今回の学名はしばしば参考にさせて戴いている鈴木雅大氏の優れた学術サイト「生きもの好きの語る自然誌」の同種のページのもの(生態写真が六枚有る)を使用させて貰った。「クズマ」という異名の語源は不詳。調べてみたが、ネット上にはこの呼称は見当たらない。

「ヨメノ笠」は流石に私でも図とキャプションから、

冠輪動物上門軟体動物門腹足綱笠型腹足亜綱カサガイ目(Order Patellida)コカモガイ(ユキノカサガイ)上科コカモガイ(ユキノカサガイ)科パテロイダ属ウノアシ Patelloida saccharina lanx

と判った。これも鈴木氏の上記サイトの同種のページの学名を用いた(生態写真が六枚有る。素晴らしい接写だ!)。殻長四センチメートル、殻径三センチメートル、殻高一センチメートルに達する。殻は笠形で、殻頂は少し前方に寄り、そこから通常は七本の強い放射肋が出ており、その先端は突き出て、星形になっている。この形が水鳥のウミウ(鳥綱カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus )の蹼(みずかき) に似ていることから、「鵜の足(脚)」の名がある。殻表は黒青色、内面は乳白色で頂部は黒褐色、軟体の足は黄色を帯びる。北海道南部以南に普通に見られ、太平洋・インド洋に広く分布し、潮間帯の岩磯にすむ。一定の場所に棲み、潮が引くと、そこから這い出して餌を漁り、再び元の場所に戻る帰巣性がある(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。酷似した標準和名にキャプションで出てくる「大和本草卷之十四 水蟲 介類 ヨメノサラ(ヨメガカサ)」で既出の「ヨメガカサ」があるが、同じコカモガイ(ユキノカサガイ)上科 Lottioidea ではあるものの、全くの別種なので注意されたい。

「辛螺」は、「にし」或いは「からにし」と読んでいると思うが、波部先生が、

腹足綱 Muricoidea 上科アッキガイ科 Rapaninae 亜科レイシガイ属 Reishia

の『レイシガイの一種か』とされる(代表種はレイシガイ Reishia bronni (レイシア・ブロンニ))。推定同定された波部先生の執筆になる、平凡社「世界大百科事典」の「レイシガイ」の記載を表記の一部を変え、補足データを加えて、引用させて戴く。「茘枝貝」 は殻の高さ六センチメートル、幅四センチメートルに達するが、普通は高さ四センチメートルほどである。灰黄白色で黒斑があり、堅固で太い。巻きは六階で、各層に二本、大きい体層には四本の太い肋を巻くが、肋上に強く大きい瘤状の節がある。その形が植物のレイシ(双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ Litchi chinensis )の実に似ているので、この名がある。殻口は広く大きく、内側は黄橙色。外縁は殻表の肋に応じて湾曲する。厴(へた)は革質。房総半島と男鹿半島以南、台湾まで分布し、潮間帯から水深二十メートルまでの岩礁に棲む。夏季、岩の下側やくぼみに、多数、集合して産卵する。透明な短い棒状の卵囊を、多数、固めて産みつけるが、卵が黄色なので全体が黄色に見える。肉食性で、岩に付着しているフジツボやカキなどを好んで食べるので、カキ養殖の害貝として嫌われる。肉は食べられるが、辛くて、不味い。外套膜の鰓下腺(さいかせん)の粘液は日光にあてると、紫色になるので、本邦では古くから貝紫(かいし)として知られ、嘗て志摩の海女はこの粘液で手拭いなどを染めたという。近似種で北海道南部以南に分布し、潮間帯の岩礁に棲息するイボニシ R. clavagera はこの種に似るが、殻は黒みが強く、瘤も弱い(ここまでが波部先生の主文。なお、同じく貝紫の原材料として知られたイボニシは、嘗ては別属とされて、ais ­ais clavigera であったが、一九七一 年に Reishia 属に移されている)。他にクリフレイシ(栗斑茘枝)Reishia luteostoma がいる。]

大和本草諸品圖下 ワレカラ・梅花貝・アメ・(標題無し) (ワレカラ類他・ウメノハナガイ・ヒザラガイ類・ミドリイシ類)

 

Kai8

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

ワレカラ 海中ノ藻スム小貝ナ

リ古歌ニヨメリ色淡黒大キサ

三四分ニ不過其殻(カラ)ワレヤスシ

ミゾガイ。井  ガイナトニ似テ

ナリ

藻ハ。ナゴ    ヤト云淡靑

色カハケバ紫色ナリ日ニ※(サラ)セバ

白色可ㇾ食性不好或曰松葉ト云藻ニモ此貝アリ松藻ク乄莖大也

[やぶちゃん注:「※」=「月」+「慕」。「曝」の誤字としか思えない。訓読ではそれに代えた。]

○やぶちゃんの書き下し文

われから 海中の藻に、すむ小貝なり。古歌に、よめり。色、淡黒、大きさ、三、四分に過ぎず。其の殻(から)、われやすし。「みぞがい」・「ゐがい」などに似て、小なり。此の藻は、「なごや」と云ふ。淡靑色。かはけば、紫色なり。日に曝(さら)せば、白色。食ふべし。性、好からず。或いは曰はく、『「松葉」と云ふ藻にも此の貝あり』〔と〕。松藻は長くして、莖、大なり。

――――――――――――――――――

梅花貝

 形小ナリ長五分許

 

  ヲモテニ文アリ

 

        ウラ白

――――――――――――――――――

アメ

長一寸餘海邊ノ岩ニ付ケリ

ウラニ肉アリ食ヘバ味甘シ肉ノ

色微紅シ

生ニテモ

煮テモ

食フ

[やぶちゃん注:以下は、下方の図のキャプション。]

    アメノ背ノ甲也

    節段ノ文アリ

○やぶちゃんの書き下し文

あめ

長〔(た)け〕一寸餘り。海邊の岩に付けり。うらに肉あり。食へば、味、甘し。肉の色、微〔(かすか)に〕紅し。生にても、煮ても、食ふ。

   『「あめ」の背の甲なり』

   『節〔(ふし)の〕段の文〔(もん)〕あり』

――――――――――――――――――

 

海中所ㇾ生スル色白珊瑚琅玕

之類如ㇾ樹有而數寸ナル

        其質玉石之

         類如ㇾ花

           者非

          ㇾ花似

           莖端

○やぶちゃんの書き下し文

海中の〔→に〕生ずる所〔のもの〕。色、白〔し〕。珊瑚・琅玕〔(らうかん)〕の類。樹のごとし。小さくして數寸なる者、有り。其の質、玉石の類〔なり〕。花の如きは、花に非ず。莖の端に似〔たり〕。

[やぶちゃん注:「ワレカラ」ここで貝と言っているが、無論、現在のワレカラは、貝類ではなく、節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類である。代表種は、

ワレカラ科ワレカラ属マルエラワレカラCaprella acutifrons

トゲワレカラ Caprella scaura

スベスベワレカラ Caprella glabra

 などである。しかし、益軒は、大和本草卷之十四 水蟲 介類 ワレカラ」の本文でも、「われから」を微小貝で「殻の一片なる螺」(殻が一片しかない巻貝)という奇体な表現で示しているのである。現行、江戸以前の本邦での「われから」を、現在のワレカラ以外の生物に比定している記載や人物を私は知らないが、しかし、私は実は、本当に中古以降から見られる古文献の「われから」と近代以降の生物学的な「ワレカラ」がイコールであると考えることに、ある種の躊躇を感じている。「伊勢物語」第五十七段(モデルの在原業平は元慶四(八八〇)年没であるから、原「伊勢物語」自体はそれ以降の成立であるが、内容自体は無論、それ以前に遡る内容である)、

   *

 むかし、男、人知れぬもの思ひけり。つれなき人のもとに、

  戀ひわびぬ海人(あま)の刈る藻に宿るてふ

     われから身をもくだきつるかな

   *

や、それを受けて、物語の一つに挿入として再現される、同書の六十五段の女の詠む一首、

   *

  海人の刈る藻に住む蟲のわれからと

     音をこそ泣かめ世をば恨みじ

   *

が、最も時間的に古い使用事例となる。何故なら、この歌は「古今和歌集」(原初版は延喜五(九〇五)年奏上)の巻第十五「戀歌五」に(八〇七番)、典侍(ないしのすけ)藤原直子(なほいこの)朝臣の歌として出るからである彼女は生没年未詳であるが、貞観一八(八七四)年従五位下、延喜二(九〇二)年正四位下に上っている。典侍は従四位下以上でなくてはなれないからである。「枕草子」(ほぼ全体は長保三(一〇〇一)年成立)の、「虫尽くし」の章段の冒頭に、

   *

 蟲はすずむし、ひぐらし、蝶、松蟲、きりぎりす、はたおり、われから、ひを蟲[やぶちゃん注:蜉蝣(かげろう)のこと。]、ほたる。

   *

などが現在、古典籍に出る最古の使用例であるが、これらから、遅くとも九世後半には既に「われから」が海藻にくっついて生活している虫(広義の海産小型生物)であることを、ろくに浜遊びをしたこともない京の上流階級の人間たちが、実際に乾燥した現物の「われから」の死骸を見て知っており、現に「われから」と名指していたと考えねばならない。「われから」が「我から」を導き出すための序詞であるなどということには、和歌嫌いの私は冷淡であるが、博物学的興味からは、非常に惹かれるのである。「われから」は即物的には「割殻」「破殻」(或いは「から」を殻だけの中身が「空(から)」と採ってもよい)であろう。古代より献納された乾した海藻類や塩蔵されたそれらに、ミイラとなった細いワレカラが附着しているのを見たら、まず、当時(とすれば、「われから」という固有名詞はなくとも、遙か古代に於いて虫或いは貝と認識されていたことになる。私はその認知は縄文時代まで遡ると考えている)の都の貴賤総ては、それを、海藻に棲んでいる虫の死骸(バッタかナナフシをごくごく小さくした虫)、或いは、中身のなくなった貝の殻と考えたことは想像に難くない。しかし、これは「われから」=「ワレカラ」等式ありきの垂直的思考であり、立ち止まって考えてみれば、或いは「われから」は、ごく小さい奇体な海老みたような今の「われから」類ではなくて、本当に貝――一時期或いは終生を海藻の藻体上に匍匐して生活していた微小貝類であった――可能性を考えてみる必要はあるのではないか? と私は思うのである。それは、後の(貝原益軒は寛永七(一六三〇)年生まれで、正徳四(一七一四)年に没している)、江戸後期に活躍した博物学者栗本丹洲(宝暦六(一七五六)年~天宝五(一八三四)年)や毛利梅園(寛政一〇(一七九八)年~嘉永四(一八五一)年)の図譜を電子化してきた経験から、そう感ずるのである。例えば、丹洲の「栗氏千蟲譜」巻七及び巻八より抜粋した私のサイト版「蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ 蠲 丸薬ムシ 水蚤」の三つの別な図に出る「ワレカラ」を見られるがよい。三つ目のそれでは、まさに本「大和本草」の虫説が記されて、丹洲はそれを否定していないのである。因みに、二枚目の「われから」はナナフシ型ではなく、ワラジムシ型で、ワレカラではないのである。そこで、私はこれを海岸に打ち上がった海藻に附着していた海浜性の虫と捉え、四年前に、補正注をし、

   *

下に海藻(種不明)に付着したワレカラ八個体の図。これは形状からこの図が正確なら、これが打ちあがった海藻に附着しているものであれば、

甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ハマトビムシ科 Talitridae

ハマトビムシ類の仲間と考えてよいと思うが、転載図である上に、図のスケールが不明(海藻が同定されれば、スケールのヒントにはなると思われるが)なため、体長十五ミリメートルの一般種の、

ハマトビムシ科ヒメハマトビムシ属ヒメハマトビムシ Platorchestia platensis

であるか、体長二十ミリメートルの大型種の、

ヒメハマトビムシ属ホソハマトビムシ Paciforchestia pyatakovi

であるかは不明である。但し、これが海中に浸った状態のものを描いたとすると(当時の博物画の場合はちょっと考えにくい。そのような生態描写の場合は、そうした注記をするものである。但し、これは写しの写しだからこれはその作業の実際を写した丹州自体が知らないものと思われる)、海浜の砂地及び砂中にしかいないハマトビムシは無効となり、それに形状が近く、海中の藻場で藻に附着している種ということになる。その場合は例えば、

フクロエビ上目端脚目モクズヨコエビ科モクズヨコエビ属フサゲモクズ Hyale barbicornis

などのモクズヨコエビ科 Hyalidae の仲間

などが想定出来る。

   *

と大真面目に「非ワレカラ説」をぶち上げているのである。さらに、毛利梅園の「梅園介譜 ワレカラ」をまず見て貰おう。「しっかり、ワレカラじゃん!」と言うなかれ。本文をよく読みなさい。冒頭から、『藻に住む虫の「ワレカラ」とは、別なり。藻にすむ「ワレカラ」は小貝なり。貝の部に出(いだ)す』と書いてあるのだ! それが、「梅園介譜 小螺螄(貝のワレカラ)」だ! その絵がこれだ! くっついているのは? どうだい? ワレカラなんぞじゃないよ! 明らかに微小な巻貝なのだよ! 残念乍ら、梅園の絵のそれは、モズクに附着する六個体が描かれてあるが、私は微小貝の知見に乏しいので、それ以上に進むことは遠慮した。其の専門の方に見て貰って同定して戴ければ幸いと思っている。よろしくお願い申し上げるものである。キャプションによれば、「大きさ、三、四分」で九ミリメートルから一・二センチメートルで、「みぞがい」(先に倣えば、淡水の二枚貝であるイシガイ科イケチョウガイ属イケチョウガイ Hyriopsis schlegelii )或いは「ゐがい」(イガイ目イガイ科イガイ Mytilus coruscus )などをごく小さくような感じとする。しかし、ということは、このキャプションを書いた者は「われから」を明確な二枚貝と認識していたことを示すことになる。以下、「なごや」とは、益軒のフィールドである九州地方で、紅色植物門紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla に代表されるオゴノリ科Gracilariaceae のオゴノリ類を言う方言である。「大和本草卷之八 草之四 ナゴヤ (オゴノリ)」参照。『「松葉」と云ふ藻』「松藻」は本邦では褐藻植物門褐藻綱ヒバマタ亜綱イソガワラ目イソガワラ科マツモ属マツモ Analipus japonicus 及びイトマツモ Analipus filiformis・グンジマツモ Analipus gunjii の三種が知られる。「大和本草卷之八 草之四 松藻(マツモ)」参照。

「梅花貝」斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ツキガイ超科ツキガイ科ウメノハナガイPillucina pisidium の異名。殻長約七ミリメートルの微小貝で、梅の花弁に似ている。表面は白色又は淡黄色。北海道南部以南の水深約三十メートルまでの内湾の砂泥地に棲息する。学名でしばしばお世話になっているMachiko YAMADA氏の「微小貝データベース」のこちらで大きな画像が見られる。

「アメ」所謂、「ヒザラガイ」(膝皿貝)、海岸の岩場の上に張りついて動きを殆んど見せないように見える(多くは夜行性であるため)、比較的扁平な体で、背面に一列に並んだ八枚の殻を持っており、現生の軟体動物では節足動物のような体節制を思わせる姿を持った生物であるヒザラガイ類である(但し、「アメ」という異名はネット上では確認出来なかった。或いは、軟体部の飴色の「あめ」か?)。但し、あれは実際には体節ではなく、「偽体節」であるとされている。軟体動物門多板綱 Polyplacophora 新ヒザラガイ目 Neoloricata に属する。現生種(約八百三十種)はサメハダヒザラガイ亜目サメハダヒザラガイ科 Leptochitonidae・マボロシヒザラガイ亜目マボロシヒザラガイ科マボロシヒザラガイ属 Choriplax・ウスヒザラガイ亜目ウスヒザラガイ科 Ischnochitonidae・同ヒゲヒザラガイ科 Mopaliidae・同サケオヒザラガイ科 Schizochitonidae・同クサズリガイ科 Chitonidae・ケハダヒザラガイ亜目ケハダヒザラガイ科 Acanthochitonidae・同ケムシヒザラガイ科 Cryptoplacidaeで、本邦では現世種で約百種が知られる。参考にしたウィキの「多板綱」によれば、『現生の軟体動物では最も多くの殻を持つ』。『体が偏平で、下面は広い足となっていて基盤に吸着する点は腹足類と同じであり、特にアワビやウミウシのように全体が偏平なものはそれらと似ていなくも無いが、内部構造等には重要な差異があり』、全く『別個の分類群となっている』。『特徴的な形態を持つため、中国語ではスッポンに例えた石鼈(シービエ)という名が使われてきたが、日本にも様々なものに例えた地方名がある』。『福岡県の志賀島では「イソワラジ」と呼び』、『山口県萩市では』、『岩から剥がしたときに丸まる習性から』、『老人の背中になぞらえて「ジイノセナカ」「ジイノセナ」「ジイノセ」「オジノセ」「バアノセナ」「ジイとバア」「ジイジイババアバア」などと呼ばれる』。『島根県の隠岐では「オナノツメ」』『と呼ぶほか、「ハチマイ」「ハチマイガイ」(八枚貝)と呼ぶ地方も多数ある』。『全体に楕円形等の形をしており、多少細長いものもあるが、いずれも輪郭はほぼ滑らか。左右対称で腹背方向に偏平、背面はなだらかな丸みを帯びる。背面に感覚器など特に目だった構造は無い。大きさは全長数』センチメートル『程度のものが多いが、最大種のオオバンヒザラガイ』ケハダヒザラガイ亜目 ケハダヒザラガイ科オオバンヒザラガイ属オオバンヒザラガイ  Cryptochiton stelleri 『は普通で』二十センチメートル、時に四十センチメートルにも達する超大型種で世界でも最大種である(リンク先に写真有り。かなり強烈なので自己責任でクリックされたい)。『背面は厚い外皮に覆われ、刺や針、鱗片などが並んでいる。その配列に体節のような規則的な繰り返しが見られることが多い。刺は集まって刺束を形成することがあり、これもやはり』、『対をなして規則的に並ぶ』。『正中線上には、前後に並んだ』八『枚の殻板(shell plate)がある。最も前の殻板を頭板、最後尾のものを尾板、その間のものを中間板と言う。殻板は密接して並び、前端は前の板の下になった瓦状の配置をするが、互いにやや離れている例もある。殻周辺の部分を肉帯(girdle)という。このように殻が前後に分かれているので、この類は体を腹面方向に大きく折り曲げることができる。背中に向けても多少曲がるが、左右にはあまり曲がらない。ただし殻がやや離れていて細長いケムシヒザラガイ』(ケハダヒザラガイ亜目ケムシヒザラガイ科ケムシヒザラガイ属ケムシヒザラガイCryptoplax japonica )『などは左右にもかなり大きく曲がる』。『腹面の周辺部は背面の続きになっているが、中央には広く平らな足があり、その間にははっきりした溝がある。この溝は外套腔に当たる部分で、外套溝(pallial groove)と呼ばれる』。『足は腹足類の足によく似ており、粘液で覆われ、その面で岩などに吸着することができ、またゆっくりと這うことができる。足の前端の溝の間からはやや突き出した口があり、一部の種ではその周辺には触手状突起が並ぶ。この部分が頭部であるが、目や触角は無く、歯舌が発達している』。『足の側面側の外套溝には鰓があり、これは足の側面全体に対をなして並ぶものと、その後方部の一部だけにあるものとがある。鰓の数は』六『対から』八十八『対に達するものまであり、対をなしはする』ものの、『殻の配置等との対応関係は無い。また、同一種でも数にやや差があったり、左右で同数でないことも珍しくない。足の後端の後ろに肛門が開く』。『この類には、外面に目立った感覚器がない。しかし、実際には殻表面に多数の穴が開いており、これが感覚器として機能している。穴には大孔と小孔があり、ここに内部から枝状器官 (aesthete)と呼ばれる物が入り込んでいる。大孔には大枝状器官(macroaesthete)、小孔には小枝状器官(microaesthete)がはいっており、後者は前者の分枝にあたり、一つの細胞のみからなる。これらはさまざまな感覚をつかさどると考えられるものの』、『詳細は不明であるが、少なくとも光受容の機能をもつとされる。また』、『一部の群では』、『この部分にレンズを備えた殻眼をもつ』。『その他、肉帯や外套膜の下面などにも小さいながらもさまざまな感覚器がある』。『消化管は口から続く咽頭、やや膨大した胃、細長く旋回した腸からなる。口腔の底面には歯舌があり、表面には磁鉄鉱を含む小さな歯が並んでいる。また胃には腹側に』一『対の肝臓がつながる』。『循環系はよく発達した心臓と血管からなる。心臓は体後方の囲心腔に収まり』、一心室二心房を『持つ。血管は心臓から両側に伸び、体の側面側を鰓に沿って前に向かう前行大動脈となる』。『排出器は腎管系で、左右』一『対を持つ。体の両側面近くを前後の走り、前半部が内臓の間に細かい枝を出し、後方では囲心腔に』漏斗『状の口を開く。中程から外への口が外套溝に向かって開く』。『神経系は主要なものが』、『体の側方を前後に走る側神経幹と、その内側をやはり前後に走る足神経幹であり、前方では口周辺にいくつかの神経節や神経連合によってつながるが、脳と言えるほどのまとまりはない。それより後方では上記の都合』二『対の神経幹がほぼ平行に走り、それらの間にほぼ等間隔に神経連合があるため、ほぼ』梯子状『神経系となっている』。『生殖系については、基本的には雌雄異体である。消化器の背面側に生殖巣が』一『つあり、左右』一『対の管を介して外套溝に口を開く』。『軟体動物はその発生などから環形動物との類縁性が主張され、また』、『環形動物は体節制の観点から節足動物と近縁と考えられていたことがある。これを認めると』、三『群は近縁であることになるので、軟体動物も本来は体節制を持っていて』、二『次的にそれを失ったものではないかとの推測があった。その根拠の一つがこの類の構造である。ただし、軟体部には体節はない。軟体部にも体節(に似た構造)が見られるのは、現生の軟体動物では単板綱のネオピリナ類』(現生貝類で正真正銘の唯一の「一枚貝」類である「生きた化石」軟体動物門貝殻亜門単板綱 Monoplacophora Tryblidiida Tryblidioidea 上科ネオピリナ科 Neopilinidae 。最初の発見は一九五二年でパナマ沖の深海底で、ネオピロナ属ネオピリナ Neopilina galatheae と命名された。現在は七属二十種ほどが知られている。そもそもがこの単板類は古生代カンブリア紀からデボン紀に栄えた原始的形態をもつ軟体動物であった。「大和本草附錄巻之二 介類 片貝(かたがひ) (クロアワビ或いはトコブシ)」の私の注を参照)『とその近縁種のみである』。『確かに背面の殻の並びは甲殻類の背甲(例えばダンゴムシ』節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目 Oniscidea、或いはワラジムシ亜目 Ligiamorpha 下目 Armadilloidea 上科ワラジムシ科 Porcellio 属ワラジムシ Porcellio scaber )『を思わせ、刺束を持つものでは』、『その配列もこれと連動する。また』、『内部では殻と筋肉の配列が連動しており、やはり』、『強く体節制を示唆すると取れる。しかし、鰓は対をなしてはいるものの、殻の配置とは無関係であり、またその対も完全なものではない。内部では神経系が』梯子状では『あるが、その区切りは』、『他の臓器とは必ずしも連動していない。また』、『体腔は限定され、また』、『排出器にも体節制を思わせる特徴はない。節足動物との類縁性が否定されたこともあり、近年では軟体動物は環形動物と近縁ではあるが、両者が分化した後に環形動物で独自に体節制が発達した、という考えに傾きつつあるようである』。『卵は寒天質の皮膜に包まれた紐状に海中に放出され、体外受精する。特別な配偶行動は知られていないが、一部の種で繁殖期に集まったりする例は知られている。卵割は全割で螺旋卵割が明瞭』である。『卵の中でトロコフォア幼生』(Trochophore larva:担輪子。軟体動物や環形動物の幼生期に見られる形態名)『の形を取る。トロコフォアは球形に近く、その繊毛帯の後方の背面側に殻を、腹面側に足を分化することで親の形に近くなる。この状態で孵化したものはその繊毛帯で遊泳するプランクトン生活を行う。この状態をベリジャー幼生』(veliger larva:軟体動物に広く見られる幼生の形態名。被面子。通常はトロコフォア幼生の次段階に与えられる)『としたこともあるが、一般のそれとは異なり、トロコフォアとほとんど変わらない。やがて繊毛帯より前の部分は次第に縮小して頭部となり、幼生は底性生活を始める。なお、この頃までの幼生は腹面の頭部近くに』一『対の眼を持つが、その後消失する。また、殻については最初から』八『枚が形成される例もあるが、当初は』七『枚で、最後に尾殻が追加されるものが多い』。『殻の』内、七『枚が先に生じる点は、無板類』(軟体動物門無板綱 Aplacophora。深海底に棲む蠕虫。代表種はサンゴノホソヒモ科カセミミズ属カセミミズ Epimenia verrucosa 。綱名から判る通り、殻を一切持たない)『において発生途中で』七『枚の殻の痕跡が見られるとの観察があり、両者の系統関係を論じる際に重視された経緯がある。ただし、無板類での観察は、その後認められず、疑問視されている』。『すべて海産で、一部には潮間帯の干潮時には干上がるような場所に生息するものもあるが、ほとんどはそれ以下に住み、深海に生息する種もある。岩やサンゴ、貝殻などの固い基盤の上に付着している。砂や泥の上で生活するものはほとんどいない。基盤上をはい回り、歯舌でその表面のものを嘗め取るようにして食べるのが普通である。多くは草食性で付着藻類を食べるものが多いが、より深い水域ではヒドロ虫類』(刺胞動物門ヒドロ虫綱 Hydrozoa)『やコケムシ類』(外肛動物門 Bryozoa。淡水産よりも海産種が多く、潮間帯から深海にまで分布する。微小な個虫が、多数集まって樹枝状・鶏冠状・円盤状などの群体を形成する。群体は石灰質又はキチン質を含んでおり、硬く、岩石や他の動植物に付着する。それぞれの個虫は虫室の中に棲んでいる)『を食べるもの、雑食性のものも知られる。肉食性の種でババガセ』(ウスヒザラガイ亜目ヒゲヒザラガイ科ババガセ属ババガセ Placiphorella stimpsoni )『などは動かずに口の部分を浮かせて物陰を作り、そこに潜り込む小動物を捕食する』。『多くは夜行性で、昼行性の種は少ないとされる。運動は緩慢で、ゆっくりと這う。一部では決まった場所に付着し、移動後もそこに戻る帰巣性が知られている。また、特定の基質と結び付いて生活するものも知られ、ある種の海藻の上に付着するもの、海綿の群体の上に生活するもの、深海底に沈んだ材木に付着するものなどがある。熱水鉱床に出現するものも知られる』。『岩に張り付く際には、体が殻に覆われてはいないが』、『その表面は丈夫であり、また殻の配列も曲げられるため、岩の表面やくぼみにぴったりした形になって張り付くので、非常に剥がしづらい。剥がした場合には腹面を折り曲げるようにして丸くなる。その様子はダンゴムシ』(ワラジムシ亜目Ligiamorpha 下目 Armadilloidea 上科オカダンゴムシ科 Armadillidiidae のダンゴムシ類。或いは、同科オカダンゴムシ属オカダンゴムシ Armadillidium vulgare )『にやや似ている』。『分布域としては世界に広くあるが、特にオーストラリア周辺に多いとされ、日本近海はむしろ種数が少ないという』。『ヒザラガイ類は一般的に小柄なものが多く、生息場所によってはカビのような臭みの強いものがおり、また採集や処理が面倒なことから』、『他の多くの地域では食品として重要なものではなかった。食用とすることは可能で、筋肉質の足が発達しており』、『アワビなど磯の岩場に張り付く巻貝類と似た感覚で食べられ、生息条件の良い場所のものは海藻の旨味を凝縮したような風味がある』。本邦のヒザラガイの代表的な一種であるウスヒザラガイ亜目クサズリガイ科ヒザラガイ属ヒザラガイ Liolophura japonica 『などは、鹿児島県奄美群島の喜界島では「クンマー」という呼び名で呼ばれる高級食材であり、茹でたあと』、『甲羅(殻)を取り、酢味噌和えや煮付けや炒め物で食べられることが多い。また、台湾の離島蘭嶼の東海岸ではタオ語で bobowan と呼ばれ』、『食用にするが、乳児のいる女性は食べてはいけないとされている』。『喜界島以外の奄美群島では、「グズィマ」「クジマ」』『などと呼ばれ、まれに食用にされる寒流域のオオバンヒザラガイは』、『大型で』、『肉質も柔らかく、その生息域では重視された』。『アイヌやアメリカ先住民(アレウト族など)は古くから食用としており、前者では』、『アワビとの間の住み分け由来話の伝承があるなど、注目されていたことが分かる』(これは後述する)。『アイヌ語では「ムイ」という』。『また、オオバンヒザラガイの殻の』一枚一枚は『蝶の様な形をしている事から、襟裳岬では「蝶々貝」と称して土産品として売られている』とある。残念なことに、私は未だ食したことがなく、何時か必ず食べたく思っているのだが、茸本朗(たけもとあきら)氏のサイト「野食ハンマープライス」の「ヒザラガイで割とリアルに死にかけた話:野食ハンマープライス的 自然毒のリスクプロファイルを見ると、かなり重篤なアレルギー症状が出る場合があることが判る。アレルギー体質の方はやめた方がよい。

 さて、私の大好きな、アイヌに伝わるムイ(オオバンヒザラガイ)とアワビとの間の戦いと住み分けの物語である。ここでは、まず、室蘭市の公式「ふるさと室蘭ガイドブック」(PDF)から引用する。「85」ページにある「銀屏風とムイ岩の伝説」である。注意が必要なのは、ロケーションで、神話であるだけにスケールがワイドであることである。「銀屏風」の方は室蘭市の絵鞆岬のここ(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)で、「ムイ岩」は「銀屛風」そこから南に直線で約七十キロメートルほども離れた函館の東方亀井半島の南の函館市浜町に属する武井の島」である。島の全景は対岸にある「武井の島展望台 (憩いの丘公園)」のサイド・パネルの写真がよい。なお、ここで登場するアワビはロケーションから腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビ Haliotis discus discus の北方亜種とされるが、同一種説もある) と考えてよい。

   《引用開始》

 銀屏風には「チヌイェピラ」(彫刻してある崖)というアイヌ語地名がついていました。絵鞆町に近い方がポン(小さなという意味)チヌイェピラ、マスイチ浜に近いほうがポロ(大きなという意味)チヌイェピラです。そして、その白い断崖が波に洗われて出来た小さな島を、アイヌは「ムイ」(箕(み)という意味で大きなザルのこと)と言っていました。

 昔、チヌェカムイ(アワビの神)とムイカムイ(箕の神)が、勢力争いのために、ここで戦ったことがあります。この戦いで、ムイカムイは箕で砂をかき集め立派なチャシ(砦)を築いて立てこもり、チヌエカムイは貝で砂を集めてチャシを作りました。箕と貝では砂を集める量が比べものにならず、アワビの神のチャシは貧弱なものでした。結局、アワビの神は箕の神に負けて逃げ出してしまうのですが、この時に流した涙が岩を削り、その跡がポンチヌイェピラとポロチヌイェピラ、そして、箕の神のつくったチャシが箕の形をした「ムイ岩」だと言うのです。

 なお、ムイとは、赤褐色の体内にウロコ型の 8 枚の貝殻を持つ貝の一種で、アワビを貝の中から抜いたようなものです。大きいものは、体長 40cm にも達します。

   《引用終了》

ここでは大事な住み分けの部分が示されていない。そこで、オオバンヒザラガイの写真(軟体部に埋もれている八枚の貝殻も見られる。なお、こちらはまず問題なく見られるので、大丈夫)や生態学も含めて非常によく書かれある、「北海道大学」公式サイト内の「水産学部水産科学院 北方圏貝類研究会」の函館市の都市伝説のものを引くと(コンマを読点に代えた)、

   《引用開始》

 函館市の戸井町にある戸井漁港の沖合に武井ノ島(むいのしま)という岩礁がある。ムイとはアイヌ語で箕(みの)を意味し、岩礁の名前の由来は、箕に似ていることに由来すると考えられている。昔, この海域にムイ(オオバンヒザラガイ)とアワビが雑居していたが、アワビは貝殻で武装していないオオバンヒザラガイのことを骨なしの意気地なしと軽蔑していたが、ムイのほうも固い岩のような家をかぶって這い回り、話をかけても、顔も見せずに返事をしないアワビを頑固者として毛ざらつけていた[やぶちゃん注:「毛嫌いしていた」の意?]。これが原因となって両方の間に戦いを起こした。海底での戦いは容易に勝負が決まらずお互いの損得が多いので、話し合いの結果、仲直りをし、このムイの岩礁を境にして西はアワビの領地、 東はムイの国として住むようになった。

   《引用終了》

というのである。私はこの話を、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 別巻2 水棲無脊椎動物」(一九九四年平凡社刊)の「ヒザラガイ」の項の「民話・伝承」更科源蔵・更科光共著「コタン生物記」(初版は一九七六~一九七七年法政大学出版局刊)の要約で知り、非常に興味を持った。そこで、その部分を引用させて戴く(コンマ・ピリオドは句読点に代えた)。

   《引用開始》

 北海道のアイヌは、オオバンヒザラガイのことをムイとかメヨとかケロとよぶが、渡島半島戸井町のアイスのあいだには、次のような伝説が伝わる。昔、同地の海に、オオバンヒザラガイ(メヨ)とアワビがいっしょにすんでいた。しかしアワビは、オオバンヒザラガイを〈骨なしの意気地なし〉といって馬鹿にしていた。このヒザラガイは、貝のくせに殼がなく、武装をしていないからだ。ところがヒザラガイはヒザラガイで、岩のような重いものをかぶって這いまわり、話しかけてもなんの反応もないアヮビを頑固者だときらっていた。そしてとうとう、この反目がこうじて両者のあいだで戦いがはじまったが、なかなか勝負が決まらない。そこでムイ(箕の意)という岩礁を境に、西側をアワビの領地、東側をヒザラガイの領地と定め、別々にくらすようになったという。なお北海道には、これと似たような伝説が各地で語りつがれている。アワビとヒザラガイは、形状はそっくりなのに、アヮビには殼があり、ヒザラガイにはない。またアワビが岩礁地帯に生息しているのに対し、オオバンヒザラガイは砂地の海底にいる。そこで上記のような伝説によって、これらのちがいを説明づけようとしたらしい(更科源蔵・更科光《コタン生物記》)。

   《引用終了》

これで私のヒザラガイの偏愛の憂鬱は完成した。

 

さて、●最後の標題のないそれ●は、骨軸が硬いことから、

刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イシサンゴ目ミドリイシ科 Acroporidae 或いはミドリイシ属 Acroporaの一種、又は同属のエダミドリイシ Acropora squarrosa ・ツガミドリイシ Acropora quelchi

かと思われる。但し、この絵に描かれた個体は、その死骸骨格の漂着物であろう。白色というのも、それで納得出来るからである(但し、キャプションを書いた人物は「花」という表現から生体も現認しているか、生体を知っている者から話を聴いたものであろう)。小学館「日本大百科全書」の「ミドリイシ みどりいし/石蚕 緑石」他によれば、イシサンゴ類のなかではもっとも繁栄している属で、世界中の暖海に約百五十種が分布し、サンゴ礁を形成する造礁サンゴのなかでも、最も造礁性の高い仲間である。ムカシサンゴ亜目 Astrocoeiina のなかで、隣接する莢の間に発達する骨格を持ち、それが多孔性であるミドリイシ科に属する。莢壁の内外に内莢と外莢を欠くことで、アナサンゴ類 Astreopora と区別され、中軸個虫を持つことで、コモンサンゴ類 Montipora から区別される。生時の色彩は多くは褐色であるが、緑色・緑褐色・青色・紫色などがある。群体の形状も変化に富み、樹枝状・卓状・板状・被覆状・塊状などがある。多くの種では群体上方に枝を出し、その先端に中軸個虫を餅、枝の側面には中軸個虫より小さな側生個虫が全面に密生する。各個虫の莢は骨格表面から円筒状に突出する。莢内には十二枚の隔壁があり、そのうち六枚は大きい。主としてインド洋から西太平洋及び西インド諸島の暖海サンゴ礁に分布し、サンゴ礁を形成するイシサンゴ類の最大のグループであり、暖海においては一年間に数センチメートルの成長がみられる。日本では房総半島以南に分布する。この類の内、高い枝状となる種はシカツノサンゴと総称され、卓状となる種はテーブル・サンゴと総称される。代表種であるミドリイシ Acropora studeri は、千葉県の館山湾以南の太平洋からインド洋までのサンゴ礁の浅海に最も普通に産する種で、岩礁側面に柄部で付着し、その上面に平板状の群体を形成し、各枝は短く水平方向に伸び、先端はやや斜め上方に立ち上がり、下面では各枝は成長に伴って互いに癒合する。全体としてはm岩面につく棚状の群体となるところからタナミドリイシの別名がある。近縁種に、卓状の群体となるエンタクミドリイシA. leptocyathus と、クシハダミドリイシA. pectinata が本州中部以南に分布する。エンタクミドリイシは卓状に広がった枝間がほとんど骨格によって埋められるが、クシハダミドリイシは柄部付近を除いて、枝の間は癒着しない。また、枝状の小塊となるエダミドリイシ、ツガミドリイシや、被覆状のオヤユビミドリイシ A. humilis 、ナカユビミドリイシ A. digitifera などが、本州中部以南に分布する、とある。キャプション中の「琅玕」とは、『「大和本草卷之三」の「金玉土石」類より「珊瑚」 (刺胞動物門花虫綱 Anthozoa の内の固い骨格を発達させるサンゴ類)』の注で書いたが、「大和本草」では、その「珊瑚」の後に「靑琅玕」として条立てしており、その「大和本草」の「靑琅玕」では、漢籍でも、その起原を海産と主張する者、陸産(陸地或いは山中から出土)する者の意見の錯綜が記されてあり、珊瑚由来とする説もあって、益軒も困って、陸・海ともに産するのが妥当であろうと終わっている。しかし、現在、少なくとも、本邦では「翡翠石」(ヒスイ)の最上質のもの、或いは「トルコ石」又は「鍾乳状孔雀石」或いは青色の樹枝状を呈した「玉滴石」と比定するのが妥当と考えられている(個人サイト「鉱物たちの庭」の「ひすいの話6-20世紀以降の商名と商流情報メモ」に拠った)。]

2021/06/14

大和本草諸品圖下 カウ貝・子安貝・ニシ・山椒貝 (テングニシ・ホシダカラの断面図・チリメンボラ・不詳)

 

Kai7

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

カウ貝

 其肉可ㇾ食

 ニシト相似

 テ長シ

――――――――――――――――――

子安貝内靑白色有

甚鮮美形如光螺

 

子安

一者上與ㇾ此  不同

[やぶちゃん注:以下、図のキャプション。時計回りに翻刻する。]

與ㇾ腹不ㇾ通

橫三寸

長三寸五分

腹ノ内

介甲㴱紅有〔二〕微文〔一〕

梁白

○やぶちゃんの書き下し文

子安貝 腹の内、靑白色。光、有りて、甚だ鮮美。形、光螺のごとし。別に子安貝と稱する者、有り。此れと〔は〕同じからず。

[やぶちゃん注:以下、図のキャプション。時計回りに翻刻する。]

「腹と通ぜず。」

「橫三寸。」

「長〔(た)け〕三寸五分。」

「腹の内。」

「介甲、㴱紅〔の〕微文〔(びもん)〕、有り。」

「梁〔(はり)〕、白し。」

――――――――――――――――――

ニシ

 カウ貝ト相似タリカウ貝

 ヨリ短シ二者共ニ可ㇾ食

 ニシノカフニ

 鹽ヲミ

 テヽ燒テ

 存ㇾ性牙齒ニ

 ヌル久シテ堅固ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

ニシ

「かう貝」と相ひ似たり。「かう貝」より短し。二者共に食ふべし。「にし」のかふに、鹽を、みてゝ、燒きて、性を存し、牙齒〔(ぐわし)〕に、ぬる。久しくして、堅固なり。

――――――――――――――――――

山椒貝

其形似山椒色紅其大亦

ニ乄山椒而頗小ナリ海濵ニ

アリ漁家小兒ノ痘瘡ヲ病ニ

コレヲ   俯圖

水ニ

浸シテ    仰圖

洗フ其後

袋ニ入テ守トス其大如ㇾ圖

○やぶちゃんの書き下し文

山椒貝

其の形、山椒に似〔て〕、色、紅。其の大〔いさも〕亦、山椒のごとくにして、頗る小なり。海濵にあり。漁家、小兒の痘瘡を病むに、これを水に浸して洗ふ。其の後、袋に入れて、守〔(まもり)〕とす。其の大〔いさ〕、圖のごとし。

[やぶちゃん注:以下、キャプション。]

   俯圖

    仰圖

[やぶちゃん注:「カウ貝」腹足綱前鰓亜綱新腹足目テングニシ科テングニシ Hemifusus tuba 大和本草卷之十四 水蟲 介類 甲貝(テングニシ)参照。

「子安貝」平凡社刊の下中弘氏編集・発行の「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年刊)の「貝原益軒」では、貝類の大家波部忠重先生は、『「子安貝」とあるが、一般に言われているコヤスガイとはまったく異なる。このような貝は見当たらない』と断じておられるが、私は甚だこの謂いに疑義を感ずるものである(先生の監修された複数の貝類図鑑を私は所持し、今までさんざんお世話になっているので、心苦しいが)。無論、この図のまんまのような貝は確かにない。しかし、これが「子安貝」の断面図であると採るならば(私は最初からそう断じた。但し、私は勿体ないので、実際にタカラガイ類を切断して見たことはない)、これは確かにタカラガイ科 Cypraeidaeの貝の断面図を、正確ではないものの、多方向から見たそれを一図に圧縮したものとして、見ることが出来るのである。例えば、halyfavo氏のブログ「土佐の海から―海の貝―」の「ヤクシマダカラ断面」の「ヤクシマダカラ断面(3)」の写真を見られたい。ここでは螺層の画面上の下部を残しているが、その部分を手で隠し、さらに画面右の内部の螺層断面を螺層であったとイメージして描くならば、この図と私はすこぶる一致してくると思う。また、東京大学総合研究博物館」の「小石川分館特別展示」「貝の建築学」の佐々木武友氏の解説の「図5 タカラガイ科の殻 」にあるハナマルユキダカラ(タカラガイ科コモンダカラ属ハナマルユキ Erosaria caputserpentis ) の「I」の断面写真も非常に参考になる。さらに、キャプションで「腹の内、靑白色」とし、「光、有りて、甚だ鮮美。形、光螺のごとし」とするのを、後者はタカラガイの殻表面を述べているものとすれば、これも非常に腑に落ちる。「腹と通ぜず」とは、大きく湾曲した貝殻の上面と内部中央の螺層を成す殻軸との間に、大きな空洞があって左右でしか繋がっていないことを言っているととれば、難なく納得出来る。「梁〔(はり)〕、白し」とするが、カメオ細工で知られるように、貝表面は薄く削ぐに従って多色を呈するものがタカラガイには多いが、その全体を断面として横から見た場合に多色層が虹のように見えるかと言えば、私は圧倒的に貝殻の内側の圧倒的な下方基底部は白く見えると推理する。而して、「橫三寸」「長〔(た)け〕三寸五分」という有意な大きさ、さらに「介甲、㴱紅〔の〕微文〔(びもん)〕、有り」と読むに至って、この元となったタカラガイは、タカラガイ類で最も馴染み深い、

腹足綱吸腔目タカラガイ科 Cypraeinae 亜科 Cypraeini 族タカラガイ属ホシダカラ Cypraea tigris

と同定比定することに何らの躊躇を感じない。なお、同種の殻の表面は一般に「黒斑模様」と称されるが(和名は「星宝」で、殻表の黒斑を星に見立てたもの)、実際には個体によって表層が全体に暗褐色の強いものや、筋状の紅色などの紋がある個体も甚だ多いのである。学名のグーグル画像検索をみられるがよい。なお、「別に子安貝と稱する者、有り。此れと〔は〕同じからず」とあるが、これは先のこちらで、「子安貝」として出してしまった(私の推定で腹足綱ヤツシロガイ上科ヤツシロガイ科ヤツシロガイ属ヤツシロガイ Tonna luteostoma ・同属のウズラガイ Tonna perdix )経緯を受けたものである。但し、安産のお守りとして、出産時に握っていても割れない可能性が高いのはタカラガイ類を嚆矢とすることは言うまでもないのだが、この「竹取物語」以来の、馴染みのある魅力的な名は、容易に他の巻貝に転嫁して、握らないお守りとなったと私は考えている。なお、益軒は「大和本草卷之十四 水蟲 介類 貝子」でタカラガイ類を出しているものの、多くの文化で古代の貨幣の代わりとされた例は引くものの、「子安貝」としては、それを遂に比定していない。

「ニシ」図の貝が、ずんぐりとしており、殻頂が尖塔化していない点で、腹足綱前鰓亜綱新生腹足上目新腹足目アッキガイ上科アッキガイ科チリメンボラ亜科チリメンボラ属チリメンボラ Papana bezoar に同定する。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの画像を見られたい。本種は古来、「貝紫」としての染料が採取出来るものの一つに数えられてきた、決してマイナーな貝ではない。さればこそ、確認は出来なかったが、民間薬として歯痛や歯槽膿漏(キャプションのニュアンスは後者)の妙薬として用いられたというのは腑に落ちる。なお、この薬の製法の、『「にし」のかふに、鹽を、みてゝ、燒きて、性を存し』というのは、読み解くのに注意が必要である。これは、この「螺(にし)」(チリメンボラ)の「甲(かふ)」=「厴」(へた:巻貝の殻口を閉じる板状の蓋)に「鹽を、みてゝ」(この謂いがよく判らない。「塩を満たして」か。或いは「鹽ヲモミテ」(塩を以って揉んで」の誤記かとも思った。ともかくも「しっかりと塩をまぶして」の意でとっておく)、素早く焼いて、本来のこの貝の持っている有益な性質を損なうことなく、即座に歯に塗り付けること、と言っているものと思う。

「山椒貝」不詳。当初、名前と色から、腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズ超科リュウテンサザエ科サンショウガイ亜科サンショウガイサンショウガイ Homalopoma nocturnum

或いは同属の、

チグササンショウガイ Homalopoma incarnatum

でよかろうと思ったが、先の「彩色 江戸博物学集成」の「貝原益軒」では、かの波部先生が、『不明。現在サンショウガイと称している小型の貝とも異なる』と断じておられるので、ここは流石に御大のそれに従うこととした。但し、波部先生は、やや、図を信用し過ぎておられる可能性があるとは思う。]

大和本草諸品圖下 石ワリ貝・タチ貝・ツベタ貝・シリタカニナ (穿孔貝の一種・タイラギ(図は無視)・ツメタガイ及びその近縁種・バテイラ)

 

Kai6

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

石ワリ貝

 石中ニアリワリテトル

――――――――――――――――――

タチ。貝

  大ナリ

[やぶちゃん注:「。」はママ。「タチ(貝)」の意味か。]

――――――――――――――――――

ツベタ貝

 螺ノ類ナリ味頗ヨシ

 肉堅シ薄キフタアリ

――――――――――――――――――

シリタカニナ

[やぶちゃん注:「石ワリ貝」キャプションから、岩礁等に穴を開けて棲息し、採取するには穿孔物を破砕せねばならない二枚貝の穿孔貝の一種としてよいが、図からは同定が出来ない。知られた種でこの図の形に多少近いのは、

斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イシマテ属イシマテ Lithophaga curta

異歯亜綱オオノガイ目ニオガイ亜目ニオガイ超科ニオガイ科ニオガイ属ニオガイ Barnea manilensis

ニオガイ科 Zirfaea 属ニオガイモドキ Zirfaea subconetricta

であろうか。他に四センチメートルにもなる大型の、

オオノガイ目ニオガイ亜目ニオガイ超科ニオガイ科カモメガイ属カモメガイ Penitella kamakurensis

がいるが、この貝は、白色で横長の楕円形を成し、殻表面を見ても特異的に前後部が明らかに分かれて見え、両殻ともに強く丸く膨れ、その前域には独特の粗い鑢(やすり)のような刻線を有していて、私には巨大な蛾の蛹のように見える奇体な形態をしているから(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種の画像を参照)、この図からは完全に除外される。そうそう、西インド諸島から北アメリカ東岸に分布し、柔らかい泥岩の中に穿孔する英名 angel wing 、ニオガイ科 Scobinopholas 属テンシノツバサガイ(天使の翼貝)Scobinopholas costata の殻長十数センチメートルの美品も一組持っていたが、これも教え子にあげてしまって今はない。あれは少し惜しかったな。大事にして呉れ給え。

「タチ。貝」図がまるで合わないが、名前からは即座に、水中の砂地や砂泥地に殻頂(蝶番のある尖った方)を下にして、海底に突き「立」つようにして棲息する、

斧足綱翼形亜綱イガイ目ハボウキガイ科クロタイラギ属タイラギについては、長くタイラギ Atrina pectinata

を想起した。事実、地方によってタイラギは「タチガイ」(立貝)と呼ばれている。但し、この図の不審は、先に示したイソシジミワスレイソシジミのように、蝶番と靭帯が殻頂外側に後方へ有意に出張っているのが激しく描かれている点である。一応、図を無視して名前だけで同定した。

「ツベタ貝」腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ属ツメタガイ Glossaulax didyma 及びその近縁種大和本草卷之十四 水蟲 介類 光螺(ツメタガイ)を参照されたい。他に『武蔵石寿「目八譜」 ツメタガイ類』や、『毛利梅園「梅園介譜」 片津貝(ツメタガイ)』も、是非、どうぞ。特に前者は彩色が素晴らしい。

「シリタカニナ」ややスマートに描き過ぎだが、名前は「シッタカ」のもとで、腹足綱古腹足亜綱ニシキウズ上科クボガイ科コシダカガンガラ属バテイラ亜種バテイラ Omphalius pfeifferi pfeifferi に同定してよい。因みに「バテイラ」は「馬蹄螺」である。]

2021/06/13

大和本草諸品圖下 淡菜(イガイ)・白(シラ)貝・大貝(オホカイ)・紫貝(ムラサキカイ) (イガイ・サラガイ或いはアラスジサラガイ・不詳(ヒメシラトリ?)・ウチムラサキ)

 

Kai5

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

淡菜(イガイ)

 一名東海夫人

――――――――――――――――――

白(シラ)貝

 扁ク有橫文味不ㇾ美

 殻白色橫條多シ其ノ條

 甚細也無雜色純白也

○やぶちゃんの書き下し文

白貝(しら〔がひ〕)

 扁たく、橫文〔(わうもん)〕有り。味、美〔から〕ず。殻、白色、橫條〔(よこすぢ)〕、多し。其の條、甚だ細きなり。雜色、無し。純白なり。

――――――――――――――――――

大貝(オホカイ)

 海邊ニ多ク生ス橫一寸七

 八分長二

 三寸橫

 紋ノ條(スヂ)

 多シ

 食シテ

 味不ㇾ美カラ

 亦白貝ノ類ナリ

――――――――――――――――――

紫貝(ムラサキカイ)

筑紫ノ海ノ㴱キ處ニアリ稀也

[やぶちゃん注:「㴱」は「深」の異体字。]

色紫也肉多クシテ殻ノ内ニ

ミテリ

味甚

ヨシ

三月

捕ㇾ之

ヨコニ細

ナルスヂ多シ

[やぶちゃん注:「淡菜(イガイ)」斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ Mytilus coruscus大和本草卷之十四 水蟲 介類  淡菜(イガイ)」、及び、大和本草附錄巻之二 介類 淡菜 (イガイ)」参照。言うべきことは、そちらで総て、言ってある。図はよろしい。単簡ながら、特徴は押さえている。現物を見て描いたと思われる。

「白貝(シラ〔ガヒ〕)」異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ科サラガイ属サラガイ Megangulus venulosus

或いは同属の、

アラスジサラガイ Megangulus zyonoensis

である。私もキャプションに賛同する。私は美味いと思わない。図は全体を丸く描き過ぎで、成長脈もはっきり描き過ぎて、膨らみが見た目、大きく感じられるのが難点。もっと平たい。「皿貝」だもの。

「大貝(オホカイ)」図の貝形が妙に歪んで気持ちが悪く、不詳。万一、キャプション通りに、前の「白貝」=サラガイ類の仲間であるとして、ニッコウガイ科 Tellinidae で調べてみると、この、見た目の地味さ、一見して殻に変形が多いところから、辺縁が欠損したり、殻頭部表面が剥離したりする傾向のある種で、どこか妙に薄汚れた印象からは干潟などに多そうで、そうしたマイナー・イメージを重ねて至ったのは、例えば、

ニッコウガイ科シラトリガイ亜科シラトリガイ属ヒメシラトリ Macoma incongrua

などが挙げられるかも知れぬ。より相応しい種があれば、御教授願いたい。

「紫貝(ムラサキカイ)」先般、「アマリガイ」の候補の一つにした、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科 Saxidomus 属ウチムラサキ Saxidomus purpurata をここで単独候補で挙げておく。

大和本草諸品圖下 潮吹貝(シホフキガヒ)・彌勒貝・コブシガニ・石𧉧(カメノテ/シイ) (オニアサリ・イソシジミ或いはウスレイソシジミ・コブシガニ・カメノテ)

 

Kai4

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

潮吹貝 シホフキガヒ

 味美文理高低有條理

 如一在二海濵ニ一吹テㇾ潮ヲ而

 起ㇾ波

 故名ツク

 形不

 ㇾ大

○やぶちゃんの書き下し文

潮吹貝 「シホフキガヒ」。

味、美し。其の文理〔(もんり)〕高低〔ありて〕、條理あり、葛〔(くづ)〕の籠のごとし。海濵に在り。潮を吹きて、波を起こす。故〔に〕名づく。形、大きからず。

――――――――――――――――――

彌勒貝

 小蛤長不ㇾ滿ㇾ寸河海ノ間

 生于沙中與ㇾ蜆同類ニ

 シテヤヽ小ナリ色淡褐殻(カラ)

 薄シ無ㇾ文

 煮食ヘシ

 又頗大ナル

 アリ長一寸

 五六分味ヤヽマサレリ

○やぶちゃんの書き下し文

彌勒貝〔(みろくがひ)〕

 小蛤〔(しやうがふ)なり〕。長〔(た)け〕、寸に滿たず。河海の間〔の〕沙中に生ず。蜆と同類にして、やゝ小なり。色、淡褐。殻(から)、薄し。文〔(もん)〕、無し。煮〔て〕食ふべし。又、頗る大なるあり、長〔け〕、一寸五、六分、味、やゝまされり。

――――――――――――――――――

コブシガニ

――――――――――――――――――

𧉧(カメノテ/シイ[やぶちゃん注:右/左ルビ。]

[やぶちゃん注:「潮吹貝(シホフキガヒ)」和名で「シオフキ」を標準和名するものは異歯亜綱マルスダレガイ目バカガイ超科バカガイ科バカガイ亜科バカガイ属シオフキ Mactra veneriformis がいるけれども、図が正しいとするなら、こんなゴツゴツではなく、同心円肋を持ってはいるが、平滑でつるんとしていて、シオフキはあり得ない。「潮吹」は如何にも愛称度の高い異名であって、アサリを初めとして、多くの種で異名としてある。しかし、この図の通りのものを選ぶとなると、私は、貝全体が丸みを帯びて、両殻ともにふっくらとしており、殻表の放射肋と成長線が孰れも強く、それらが交差する部分で強く外へ膨らむという特徴から、

マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科カノコアサリ亜科オニアサリ属オニアサリ Protothaca jedoensis

と同定してよいように思われる。小学館「日本大百科全書」によれば、北海道南部から本州を経てフィリピンにまで分布し、岩礁の間に溜まっている砂礫底に潜入して生活している。殻長五センチメートル、殻高四センチメートルに達し、殻は円形で厚く、殻表には太い放射肋が三十から三十五本あり、成長脈によって区切られる。殻の地色は灰褐色で、その上に褐色の不規則な色斑がある。内面は白く、蝶番部に三個の主歯と前側歯がある。腹縁は細かく刻まれている。漁獲対象になるほど多産しないが、採取できる土地では食用にされるとある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの画像を見て戴くと、この図との相同性がお判り戴けるものと思う。

「彌勒貝」は、かなり困った。「ミロクガイ」の異名を持つ種としては、リュウキュウサルボウ亜科 Anadarinae の知られたアカガイ・サルボウガイ(益軒一派のフィールドである有明海で同種が「ミロクガイ」と呼ばれていることはFacebookの「島根大学水産資源管理センター」の投稿記事で確認した)・ハイガイがいるが、彼らは皆、殻が厚い。仕方なしに、この奇体な放射肋と成長脈と、おっぱい状の左右の殻の蝶番の手前の膨らみを眺めているうち、その左右のおっぱいの向こう側に、何やらん、有意な突起があることに気づいた。これは! 見たことがあるぞ!

異歯亜綱ザルガイ目シオサザナミ科イソシジミ属イソシジミ Nuttallia olivacea

や、同属のワスレイソシジミ Nuttallia obscurata

に認められる、蝶番と靭帯が殻頂外側に筒状に後方へ有意に出張っているそれじゃないか? 「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のイソシジミと、ワスレイソシジミのページの画像を見られたい。また、イソシジミの詳しいデータは、こちらの岡山県」公式サイト内の「軟体動物」の専門的な図鑑データの「イソシジミ」を見られたい(PDF32コマ目・原書606ページ・福田宏氏執筆)が、そこに「イソシジミ」の別名として「ミロクガイ」を確認出来、また、現在の岡山県笠岡市神島(こうのしま)で、戦前、「ホトケガヒ」と呼ばれていたともあるのである。

「コブシガニ」これは干潟の水際に棲息する、節足動物門甲殻十脚(エビ)目エビ亜目カニ下目コブシガニ科マメコブシガニ属マメコブシガニ Pyrhila pisum でよい。当該ウィキによれば、小柄な蟹で、♂で甲長二・二センチメートル、甲幅二・一センチメートル程度で、『コブシガニ科』Leucosiidae『に共通の特徴として、甲羅は丸っこく』、『背面に盛り上がり、歩脚は短めで』、『目窩と目柄はいずれも小さい』。『本種ではその背甲が丸く』、『胃域と前鰓域の表面に小さな顆粒がまばらにある。肝域はその縁沿いに小さな顆粒が列をなしており、その後方は角があって左右に張り出している。なお』、『肝域が菱形の面を囲む形となるのは本種の含まれる属の特徴である』。『背甲の周辺部にも顆粒が並ぶ。背甲の前縁から後縁へは丸く滑らかに続く』。前縁部下方の『出水孔は中央に隔壁があって左右が接する。生きている時の色は変異が大きく、暗灰色、暗褐色などの地色に』、『白い大きな斑紋を持つものもあり、また歩脚には白褐色の横縞がある』。『甲羅は固く、また腹綿も固く、腹面は白い』。『鋏脚も歩脚もやや細長い』。『鋏は丈夫で強く、長節の上下の縁と、それに背面の基部付近中央寄りに顆粒が並ぶ。腕節の外側の縁に顆粒が並んで稜線を作る。掌部は幅が広く』、『やや扁平になっており、外側の縁に』一『列、背面に』二『列の顆粒の列がある。指部は掌部とほぼ同じ長さであり、その噛み合わせには小さな歯が並び、両方の指はどちらも先端が鋭くなっている』。『日本では岩手県から南の九州、奄美大島まで知られる。国外では朝鮮海峡、黄海、東シナ海に分布する』。但し、『本種がアサリの放流に伴って』、『非意図的に放流されている実態もあり、その分布が拡大しているとの報告がある』。『内湾性の潮間帯、砂泥や砂礫泥の底質に生息する』、『いわゆる内湾の干潟に生息する種である』。また、『河口域にも出現し、それらの環境では普通種である』。『しかし』、『実際に個体群を調査したところ,多くの場所で干潟での生活は』、一年の内、『一定期間に限られていた。例えば福岡では』四『月下旬から』九『月中旬にかけての』六『ヶ月に限られ,残りの季節は潮下帯の深い場所で過ごす』。『地域によって多数個体が見られる場所もあれば』、『個体数が少なくて保護の必要性が論じられている地域もある』『干潟の潮間帯に生息し、干潮時には波打ち際や水たまりで徘徊しているのが観察される』。『歩く際には前に進み、その速度は遅い』。『博多湾での観察では小型で殻の薄い二枚貝、ホトトギスガイ Arcuatula senhousia やユウシオガイ Moerella rutila 等が捕食されていた。アサリの稚貝が餌となっていた例もあった。また』、『アサリやマテガイの死体が殻を開いて露出したものを食べているのも観察された。他にイトゴカイ科』Capitellidae『のものが砂で出来た棲管ごと食べられていた。砂に鋏を差し入れて餌を探索する様子も観察された。このような観察例より』、『本種が肉食性であり、特に小型の二枚貝を中心に捕食すること、また大型貝類を捕食する能力はないものの、その死体の肉は利用するものと推定している。本種が多く食べているのが見られたホトトギスガイは本種の見られない冬季に数を増すことから』、『本種の捕食圧が』、『その個体数に影響する可能性も指摘している。他方、水産上の有用種であるアサリに対してはその影響は低いものと見ている』。『初夏に繁殖期を迎え、雌を抱え込んだ雄がよく見られるようになる』。『この雄が雌を後ろから抱え込む行動は多くのカニで確認されており、交尾の前後に行われるため『交尾前ガード』および『交尾後ガード』と呼ばれる。カニの種によっては交尾前ガードが重要なものと交尾後ガードが重要なものがあり、マメコブシガニの場合は後者である。実験条件下では交尾前ガードの多くが数分程度であったのに対し、交尾後ガードは最長』三『日続いた。そのため』、『干潟で観察されるマメコブシガニのガード行動は』、『多くの場合』、『交尾後ガードであると考えられる』。『抱卵は』六~八『月に行われ、幼生ではゾエア』zoea『が』三『期ある。ゾエアは額棘のみを持ち、背棘と側棘を持たない』。『同属の種は日本にも他にあり、特にヘリトリコブシ P. heterograna はよく似ている。本種より背甲の背面に顆粒が少なくて正中線上や縁取り部に限られることで区別出来る。またこの種は砂泥質の浅い海底に生息し、本種の生息する波打ち際よりは沖に見られる』。『コブシガニ科のものは』、実は『一般には』、『より深い海に見られるものが多く、干潟に見られるものは少ない』。『背甲の側面に大きなこぶがあるものが見られ、これは寄生性の等脚類である』甲殻亜門軟甲綱等脚目ウオノエ亜目エビヤドリムシ上科エビヤドリムシ科 Apocepon 属『マメコブシヤドリムシ Apocepon pulcher が鰓室に寄生しているものである』とある。このマメコブシヤドリムシの画像は三浦知之・宇都宮美樹・北嶋雄太・富岡宏共著の「海産甲殻類に寄生する等脚目エビヤドリムシ上科に関する宮崎県での初めての記録(予報)」(PDF・『宮崎大学農学部研究報告』二〇一四年三月発行)の図1で見られる。エビヤドリムシ上科の種群は殆んど性的二型で♀の方が大きいことが判る。ネットがなかったら、私は生涯、エビヤドリムシのカラー画像など見ることはなかったであろう。

「石𧉧(カメノテ/シイ)」節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下(フジツボ)綱下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ Capitulum mitella 大和本草卷之十四 水蟲 介類 石蜐(カメノテ)」参照。『栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 カメノテ』と、『毛利梅園「梅園介譜」石蜐(カメノテ)』もお楽しみあれ。]

大和本草諸品圖下 子安貝・海扇・マガリ・紅蛤 (ヤツシロガイ或いはウズラガイ・イタヤガイ・オオヘビガイ・ベニガイ)



Kai3

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

子安貝

横四五寸長同内※殻厚

[やぶちゃん注:「※」=「氵」+「闊」。]

水六合許

光彩〔一〕

者亦稱

子安貝

同各異

物也其

圖見于後

○やぶちゃんの書き下し文

子安貝

横、四、五寸、長〔(た)〕け、同じ。内、※〔(ひろ)く〕、殻、厚し[やぶちゃん注:「※」=「氵」+「闊」。]。水、六合許りを容るる。別に光彩有る者、亦。「子安貝」と稱す。同〔じくして〕、各〔(おのおの)〕、異物なり。其の圖、後に見ゆ。

――――――――――――――――――

海扇 ホタテ貝シヤクシ貝

○やぶちゃんの書き下し文

海扇〔(うみあふぎ)〕 「ほたて貝」。「しやくし貝」。

――――――――――――――――――

マガリ

海邊岩

生ス其

曲ス

肉在

味頗

名未〔ㇾ〕

○やぶちゃんの書き下し文

まがり 蠣〔(かき)〕の類。海邊〔の〕岩に付きて生ず。其の殻、屈曲す。肉、其の中に在り。味、頗る好し。其の漢名、未だ知らず。

――――――――――――――――――

紅蛤

 其殻極其長不ㇾ過

 寸橫七八分

○やぶちゃんの書き下し文

紅蛤〔(べにがひ)〕

 其の殻、極めて薄し。其の長〔(た)け〕、二寸に過ぎず、橫、七、八分。

[やぶちゃん注:「子安貝」は見るからにコヤスガイ=「タカラガイ」類ではない。独特の螺肋の紋様と、大きさと、水の容量をしめす(これは巻の緩いタカラガイ類では相応しい表現とは思われない)ところから見て、通常の別な腹足類(巻貝)で、恐らくは、

腹足綱ヤツシロガイ上科ヤツシロガイ科ヤツシロガイ属ヤツシロガイ Tonna luteostoma

か、

同属のウズラガイ Tonna perdix

辺りが推定される。前者は貝蒐集を本格的に始めた高校時代、殻高十センチメートルを越える美しい個体標本を知人の蒐集家から貰って持っていたのだが、秘かに憬れていた学校の高卒の新任の事務員のお姉さんにプレゼントしてしまった。ヤツシロガイの学名のグーグル画像検索を示しておく。

「海扇〔(うみあふぎ)〕」は「ホタテ貝」とあるが、放射肋がはっきり見え、翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科 Mizuhopecten 属ホタテガイ Mizuhopecten yessoensis ではない。「シヤクシ貝」という異称からも、これは、

イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans

である。和名は、左殻が扁平で赤褐色を呈し、この放射肋と色が、木の板で葺いた家屋(板屋)の屋根にミミクリーしたもの現在も別名を「ヒシャクガイ」(無論、柄をつけて貝柄杓としたからである)呼ぶ。「大和本草卷之十四 水蟲 介類 海扇も参照されたい。

「マガリ」は、「蠣〔(かき)〕の類」とするが、誤りで(不定形で、そう捉えた気持ちは判る)、図と「屈曲す」とあるから、

腹足綱オオヘビガイ科オオヘビガイ属オオヘビガイ Serpulorbis imbricatus

である。当該ウィキによれば、『岩石の上に殻を固着させて生活する。巻き方は不規則で、時にほぐれた形にもなる』。『岩の上に殻を固着させて成長するため、岩の形などによってその形は多少変わる』。『おおよそでは成貝で殻径』五センチメートル、殻高二センチメートル『程度になる。殻口の径は老成貝で』一・五センチメートル『程度。固着して後は』、『次第に殻の径を増しながら巻き上がってゆく形になり、上から見ると』、『左巻きに見える。ただし巻かずに伸びてしまった形で育つ例もある。なお殻口部分はそこまで巻いてきた殻の上に乗るか、または多少基盤を離れて立つ傾向がある』。『螺管断面が半円形から円形で、表面には幾筋かの瓦状の螺肋と多数の糸状の螺肋がある。殻の表面は淡灰褐色で、殻口の内面は白い』。『殻は巻き上がっているので』、『見た目は左巻きに見え、これを超右巻き(Superdextral)という』。『活動として殻から肉体を出すことはなく、せいぜい頭が見える程度である。摂食方法としては粘液を分泌してそれを水中に網状に広げ、これに引っかかったデトリタス等を回収して食べる』。『網となる粘液は足から分泌される』。『食べる際は粘液ごと回収してしまう』。『繁殖時は夏で、卵の入った袋を殻の入り口の内側につるす』。『卵はこの嚢内で孵化し、ベリジャー幼生』(veliger larva)『となって泳ぎ出る』。『胎殻は右巻き』『で滑らかで光沢がある』。『なお』、『繁殖には他家受精が必要であるが、本種は集団を作らない。つまり他個体と接触する方法がない。受精に関しては雄が精子のカプセルを放出し、雌が粘液の糸で絡め取ってそれを回収、体内で受精が行われる、との報告がある』という。『日本では北海道以南、それに台湾と中国に分布する』。『生息地は沿岸岩礁の潮間帯で』、『波当たりの弱い岩場やタイドプールでよく見られる』。『日本本土ではどこでも普通だが、奄美ではこれに代わってリュウキュウヘビガイ S. trimeresurus が出現する』。但し、『この種は四国南部からも知られる』、また、『殻に薄紫や褐色の斑があるソメワケヘビガイ』S. dentiferus 『も紀伊半島以南に分布する』。『なお、別属のフタモチヘビガイ Dendropoma maximum は殻に蓋を持』ち、『紀伊半島以南に見られる』。『本種の死んだ殻は岩の上にパイプ状の構造を作ることになり、岩表面の構造を複雑化し、他生物が利用することで種多様性を高める効果がある。ナベカ』(スズキ目ギンポ亜目イソギンポ科 Omobranchini 族ナベカ属ナベカ Omobranchus elegans )『やクモギンポ』(ナベカ属クモギンポ Omobranchus loxozonus )『が産卵床として利用することが知られている』。『コケギンポ』(スズキ目コケギンポ科コケギンポ属コケギンポ Neoclinus bryope )『では二枚貝に産卵する例もあるが、本種の殻を利用する率が高い。またこの種では雄が卵の保護を行うが、その際に雄が殻口から頭部だけを出すと、頭についている皮質の突起が周囲の付着生物と紛らわしく見え、一種の隠蔽の効果を持っているとみられる』。『また』、『本種の殻の隙間にはゴカイ類などが住み着いている。その中には本種が出して栄養分を集める粘液を食べるものがあると考えられる』。ゴカイ科Perinereis 属『クマドリゴカイ Perinereis cultrifera は実験室内の観察で本種が粘液を引き戻して摂食する際に』、『殻口に出てきて、その一部を摂食することが観察された。これは一種の盗み寄生と考えられる。他にもゴカイの』一『種 Nereis sp. やシリス科』の『種 Ophisthosyllis sp. が同様の行動を取っているらしいことも観察されており、同様の関係を持っている可能性がある。これらのゴカイ類の摂食が本種の栄養にどれほど影響があるかなどは未知である』。『一般に広く利用されるものではないが、肉は食べれば』、『美味であり、食用とする地域がある』。『ハンマーや鏨などを使って剥がす必要があるが、茹でたところで』、『殻の口のところを割ってから口からすすり込むと』『、食べやすく、粘液が多くとろりとした舌触りと甘みのある貝独特のうまみが絶品とのことである』。私は牡蠣の大きな個体に附着していたものを茹でて食べた経験があるが、確かに非常に美味いものであった。

「其の漢名、未だ知らず」現在、中文名では「大蛇螺」であるが、これは近代の本邦の和名からの逆輸入であろう。

「紅蛤〔(べにがひ)〕」は形状と名とキャプションから、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ科ベニガイ Pharaonella sieboldii

である。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。私の遠い昔の記憶の中の紅貝だ……「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 19 産物」で、拘って同科の近縁種を列挙してある。]

日本山海名産図会 第四巻 燒蛤幷ニ時雨蛤

 

  ○燒蛤(やきはまぐり)幷ニ時雨蛤(しぐれはまぐり)

勢刕桑名冨田(とみた)の名物なり。松のちゝりを焚きて、蛤の目番(めそろひ)の方(かた)より燒くに、貝に柱を殘さず、味、美なり。

○時雨蛤の制は、たま味噌を漬けたる桶に溜りたる浮き汁(しる)に、蛤を煮たる汁を合はせ、山椒・木耳(きくらげ)・生姜等(とう)を加えて、むき身を煮詰たるなり。遠國(をんごく)行路の日をふるとも、更に鯘(あざ)れること、なし。○溜味噌(たまみそ)の制は、大豆を、よく煮て、藁に裏(つゝ)みて、𥧄(かまど)の上に懸け 一月許りにして、臼に搗き、塩を和(くわ)して、水を加ゆれば、上、すみて、溜まる汁を、醬油にかへて用ひ、底を味噌とす【是れを以つて、魚を煮るに、若(も)し稍(やゝ)鯘れたる魚も、復して、味、よし。今も官驛(くわんえき)の日用とす。】

[やぶちゃん注:図はない。斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria 或いは、ハマグリ属チョウセンハマグリ Meretrix lamarckii(本邦では房総半島以南の太平洋側及び能登半島以南の日本海側に分布する。外来種ではないので注意。「チョウセン」は日本人が真正のものと異なるものに付けたがった悪しき和名に冠する補助語であり(カムルーチの異名のチョウセンドジョウのような正しい棲息地の一つであるケースもあるにはある)、私は差別的なものを感じるので、これこそ改名すべきものであると強く考えている)の調理法二種。

「勢刕桑名冨田(とみた)」「とみだ」と濁るのが正しい。「富田(とみだ)の焼き蛤」として現在の三重県四日市市富田附近(グーグル・マップ・データ(以下同じ)。周辺に「東富田町」「富田浜町」「南富田町」「富田栄町」「西富田町」「西富田」の町名を確認出来る)の名物郷土料理であった。江戸時代、朝明(あさけ)郡富田(旧東富田村・西富田村)は桑名藩領であったため、同郡は「桑名の焼き蛤」と呼ばれるようになった。旧東富田村から富田一色港(「富田」地区の南東沿岸に「富田一色町」の名が残る)までの塩役運河などの水運業が発達していて(近代初期のそれが「今昔マップ」のここで確認出来る)、桑名藩領富田六郷(東富田村・西富田村・富田一色村・天ヶ須賀村・松原村・蒔田村)として桑名宿と四日市宿の中間に位置する「間(あい)の宿(しゅく)」、「立場(たてば)」(立場は本来は「駕籠を担ぐ際に杖を立てた所」という意味で、駕籠舁きや荷方人足の休憩所を言った)として、旅籠や茶店が軒を並べ、焼き蛤を「桑名の」として名物としたのであった。ウィキの「富田の焼き蛤」によれば(なかなか私好みの徹底して説明しないと気が済まない筆者らしく、気に入った。その分、「俺ならこう書く」として以下、かなり、手を入れさせて貰った。太字部がやぶちゃんのオリジナルである)、『江戸時代は盛んであったが、現在では焼き蛤料理は富田地区には存在しない』。『東海道五十三次の桑名藩の桑名と天領の四日市にそれぞれあった宿場、桑名宿と四日市宿には』、『本陣』(大名・旗本・幕府役人・勅使・宮門跡らが宿泊に利用したが、宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多く、一般人の利用は出来ず、そういう意味では旅宿とは言えない)・『脇本陣』(本陣に次ぐ身分の高い者や大名が宿泊する宿)』・『旅籠』(はたご:『一般の旅人が宿泊する宿)』があったが、桑名宿(本陣跡:三重県桑名市船馬町(せんばちょう)。ここ)と、四日市宿(本陣跡:三重県四日市市北町(きたまち)。ここ)の間(実測で十四キロメートルほど)の中間位置に『小向立場⇒松寺立場⇒富田立場⇒羽津立場⇒三ツ谷立場の』五『つの立場があった。富田の焼き蛤が焼き蛤の中では』、『一番有名で』(本家本元の桑名地区ではなく、である)では、「富田の焼き蛤」を特に桑名藩領であることを誇示して、『富田ではなく』、「桑名の焼き蛤」と呼んだのであった。「富田の焼き蛤」を詠んだ句としては、宝井其角の句(「延命冠者」(元禄一〇(一六九七)年)、

   濱店求有(ひんてんきうゆう)

 蛤のやかれてなくや時鳥(ほととぎす)

が知られ(其角の自選句集「五元集」(延享四(一七四七)年)には、「桑名にて」の前書がある。「蛤」は春の季詞であるが、ここは「時鳥」で夏である)、これは、其角が中町の旅籠尾張屋の店先で詠んだものが知ら(個人ブログ「紗蘭広夢の紗らり筆まかせ」の「明治の標柱と富田の焼き蛤」富田の焼き蛤の看板」の写真を確認した)る。『現在』、『その句碑が富田浜に残されている』(ここ)。「富田の焼き蛤」は『伊勢参りの参拝客と江戸~京都間の東海道の旅人をひきつけた。伊勢神宮に行く伊勢参りの人々は、富田の立場で休憩して焼き蛤を食べるのを一生で一度の旅の楽しみにしていた。揖斐川・木曽川・長良川の木曽三川の河口では豊富な大河の恵みにより』、『良質の蛤が育ち、伊勢湾を漁場とする近隣の富洲原地区の富田一色村の漁師から塩役運河で運搬されて富田に供給されていた。中世の富田城の領主、南部氏は伊勢神宮から、富田御厨(みくりや)と呼ばれていた』。『御厨とは神宮に捧げる食べ物の供給地のことで、富田一色の漁民は蛤などを伊勢神宮に供え物として捧げることにより』、『伊勢湾の漁業権を得ていた。歌川広重は』「東海道五十三次(狂歌入東海道)」に『富田立場を描き、その浮世絵には』、

 乘り合(あひ)のちいか雀のはなしにはやき蛤も舌をかくせり

『と詠まれた舌切り雀と貝の舌を結び付けた狂歌が記されている』(これは、乗り合い舟の婦女子(「ちいか」は京言葉で「お嬢さん」)らが京雀の見本の如くぺちゃくちゃ五月蠅くお喋りするのに「舌切り雀」の話を掛けて、桑名の蛤も思わず驚いて舌(斧足や水管)を引っ込めちまう、と皮肉ったのであろう)。『十返舎一九が執筆した』「東海道中膝栗毛」では、富田で登場人物の喜多八による騒動が起きて』おり、

   *

富田(とみだ)の立場にいたりけるに、爰(こゝ)はことに燒蛤の名物、兩側に、茶屋、軒をならべ、往來を呼び立つる聲にひかれて、茶屋に立寄り、

   *

『とあり、弥次郎兵衛と喜多八の旅人』二『人が富田の焼き蛤でめしの昼食を食べたのはいいが、熱い焼き蛤が喜多八のへその下に落ちてやけどするはめになり、

   *

  膏藥はまだ入れねども蛤のやけどにつけて詠むたはれ歌

   *

『という狂歌がラストシーンである』(昭二(一九二七)年有朋堂書店刊「東海道中膝栗毛」を本文電子化の参考にした。ここから(右ページ九行目中途から)。挿絵もあってなかなか楽しい。最後の狂歌は膏薬を入れる器が蛤を用いたこと以外に、女性の臍の下の「蛤」(会陰)をも匂わせたバレ句でもあろう)。『江戸時代の東海道五十三次には何か所か松並木があった。富田付近も松並木であり、松毬(まつかさ、松ぼっくり)を燃料にする江戸時代の桑名藩領の富田地域民の知恵も面白い歴史研究となっている。江戸時代の歴史史料である』「本朝食鑑」では、『蛤の食べ方について「焼くが最上である。煮るが次である。辛子酢や生姜酢で生であえるのが良い」とされている。さらに、「焼いて食べるには、松ぼっくりの火が最良であり、蕨火炭火を使用するのがそれに次ぐ第」二『番目の方法である」と記述されているが、その理由については同書中に面白い説明がある。「およそ伊勢国の桑名藩である通称伊勢国桑名の伊勢湾の海の焼き蛤が良いとされているが、中でも最高級品である桑名藩領富田の焼き蛤について、富田の土地の人々の間では松ぼっくりで焼くと味が良くなり、蛤で食中毒する危険性がなくなると言われている。また、松が枯れそうになった時に、富田の焼き蛤数個を砕いて根のまわりの溝に入れて土をかぶせておけばだんだんと蘇る。あるいは、焼き蛤の煮汁を冷まして溝に入れておくのが良い」旨が記述され、富田の焼き蛤と松の木は元々相性が良いか』、『天性を持っているとしている』とある。以上は、国立国会図書館デジタルコレクションの「本朝食鑑」の原本のここの左頁の行目から、次の頁の右七行目までが相当する。漢文であるが、丁寧な訓点が附されてあるので、容易に読める。

「松のちゝり」松毬(まつかさ)・松ぼっくりのこと。「ちちりん」「ちんちら」とも呼ぶ。

「蛤の目番(めそろひ)の方(かた)」恐らく、竹箸で挟んだ蛤の蝶番の部分火に翳すことを言って居よう。序でに言い添えれば、その前に靭帯部を切り落としておけば、ガバと開かずに、旨味の汁も逃げ出さない。開きかける前に、側面に戻し、開きかけた際に、反対にすることで、上手く焼け、貝柱も残らず離れる。

「時雨蛤」当該ウィキによれば、『時雨蛤(しぐれはまぐり)は、むき身にした蛤の佃煮の一種。蛤の時雨煮。「志ぐれ蛤」と表記されることもある。三重県桑名市の名産とされる』。『時雨蛤はボイルした蛤のむき身を、生引溜(きびきたまり)を沸騰させたハソリ(大鍋)に入れ、「浮かし煮」と呼ばれる独特な方法で煮て作られる』。『その際、風味付けに刻んだ生姜を加える』。『もとは「煮蛤(にはまぐり)」と呼ばれたが、松尾芭蕉の高弟、各務支考が「時雨蛤」と名付けたと言われている』。『蛤業者の初代・貝屋新左衛門が、近くに住む俳人の佐々部岱山(ささべたいざん)に煮蛤の命名を依頼したが、佐々部から相談を受けた師匠の各務支考が』十月の『時雨の降り始める頃から』、『煮蛤が製造されるため、時雨蛤と命名したとされる』。『時雨蛤の発祥は揖斐川河口の赤須賀漁港(桑名市)近辺で』、『江戸時代の元禄年間』(一六九〇年頃)『から製造されるようになった』。『時雨蛤にすることで蛤の風味とともに保存性が高まり、土産物として全国的に高い人気を誇った』。『諸国の名物珍味を紹介した料理書』「料理山海郷」(りょうりせんがいきょう)(寛延二(一七四九)年刊)や、『日本各地の名産の製造方法等を調査した』本書「日本山海名産図会」(寛政一一(一七九九)年刊)や、)に桑名の名産として時雨蛤が紹介されている』とある。「料理山海郷」のそれ(巻之一の巻頭)を「日本古典籍ビューア」で視認して電子化する(但し、これは後の文政二 (一八一九)年の再板本である)。

   *

   桒名時雨蛤

小蛤(はまぐり)むき身(み)を、ざつと、ゆで、笊(いかき)へあけ、なを、よくさらし、赤味噌のたまりをにへゝたし、山升[やぶちゃん注:山椒。]のかわ、短冊(たんざく)に切、麻(あさ)の実(み)を入れ、右のはまぐりを入なり。

   *

「たま味噌」「玉味噌」。一般には、煮た大豆を搗き砕いて、麹と塩を混ぜて丸めた味噌玉を指す。また、大豆や蚕豆(そらまめ)を煮、搗き砕き、麹と塩を混ぜて大きな団子に丸め、藁苞(わらづと)に包み、炉の上などに一~二年置いて熟(ねか)させた味噌を指す。ここは以下に記される通り、後者。

「山椒」ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum

「木耳(きくらげ)」菌界担子菌門真正担子菌綱キクラゲ目キクラゲ科キクラゲ属キクラゲ Auricularia auricula-judae当該ウィキによれば、学名の『属名はラテン語の「耳介」に由来する。種小名は「ユダの耳」を意味し、ユダが首を吊ったニワトコ』(マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属セイヨウニワトコ Sambucus nigra であろう)『の木からこのキノコが生えたという伝承に基づく。英語でも同様に「ユダヤ人の耳」を意味するJew's earという。この伝承もあってヨーロッパではあまり食用にしていない』とある)。

「生姜」単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ショウガ Zingiber officinale

「鯘(あざ)れる」魚肉などが腐る。

「官驛(くわんえき)」幕府が公に認めた宿駅。「立場」などは含めない。]

2021/06/12

大和本草諸品圖下 アマリ貝・蚌(ドフカヒ)・カタカイ・鱟魚(ウンキウ) (アリソガイ或いはウチムラサキ・イケチョウガイ或いはカラスガイとメンカラスガイとヌマガイとタガイ・ベッコウガサとマツバガイとヨメガカサ・カブトガニ)

 

Kai2

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

アマリ貝

筑前州宗像郡蓑生(フ)浦ノ

空(ウツセ)貝古歌ニ所ㇾ詠スル

空殻也海

中淺處

大也其

肉味ヨシ西土ノ人

アマリ貝ト云

長四寸橫三寸三分ホドアリ

○やぶちゃんの書き下し文

あまり貝

筑前州宗像郡、「蓑生(〔みの〕ふ)の浦の空貝(うつせ〔かひ〕)」〔と〕古歌に詠ずる所〔の〕、空殻〔(あきから)〕なり。海中、淺き處に在り。大なり。其の肉、味、よし。西土の人、「あまり貝」と云ふ。長〔(た)〕け四寸、橫三寸三分ほどあり。

――――――――――――――――――

蚌(ドフカヒ)

是與ㇾ馬刀一其形似而大也

琵琶湖多シ他

邦ニモ稀

ㇾ之其小ナル

者馬刀

ト云和

名ミゾ

貝處々ニ

多シ蚌ト其

形相似タリ只   有大小而已

○やぶちゃんの書き下し文

蚌(どぶかひ)

是れ、「馬刀〔(みぞがひ)〕」と、其の形、似て、大なり。琵琶湖、多し。他邦にも稀れに、之れ、有り。其の小なる者、「馬刀」と云ふ。和名「みぞ貝」。處々に多し。「蚌〔(どぶがひ)〕」と其の形、相ひ似たり。只、大・小、有るのみ。

――――――――――――――――――

カタカイ ヨメノサラ二物著

海岸石傍

而生二物

         俯圖

皆然片貝

最味美ヨメノ

サラハ䗩ナリ老  仰圖

蜯牙ハカタカイト

云福州府志

似䗩而味厚

名牛蹄以ㇾ形

○やぶちゃんの書き下し文

かたかい 「よめのさら」〔と〕一類二物。海岸〔の〕石〔の〕傍らに著〔(つ)〕きて、生ず。二物、皆、然り。「片貝」、最も、味、美し。「よめのさら」は「䗩」なり。「老蜯牙」は「かたかい」と云ふ。「福州府志」に曰はく、『䗩〔(セキ/シヤク)〕に似て、味、厚し。一名、「牛蹄」。形を以つて名づく』と。

[やぶちゃん注:以下、指示キャプション。]

         俯圖

         仰圖

――――――――――――――――――

鱟魚(ウンキウ) カブトガニ

 其形狀載テ在本書

 葢諸州所

 稀ニ有

 物

 

Kabutoganinakamuragakuenban

 

[やぶちゃん注:以前に、『大和本草卷之十四 水蟲 介類 鱟 附「大和本草諸品圖」の「鱟」の図 参考「本草綱目」及び「三才圖會」の「鱟」の図 一挙掲載!』で載せたのだが、それは国立国会図書館デジタルコレクションの別の版本の「大和本草」の図(旧蔵者の書入れがなかなかに面白く、本図には、もろに『図アシヽ』と批判されてある)を裏写りを消すために補正し過ぎて、セピア色の斑が生じて甚だ不満足であった。そこで、底本の中村学園大学図書館蔵本画像PDF)の22コマ目を拡大表示させ、それをスクリーン・ショットし、さらにそれをトリミングし、周囲やカブトガニ図の中や周縁の汚れも徹底的に清拭した上、実はそちらでは欠損している頭胸部の甲の前面の箇所を恣意的にソフトで補って示したものを、上に掲げた。このご当地キャラ「かぶとがに君」的ブットビのシュールな図を紹介する私の憂鬱はこれを以って完成されたと考えている。]

 

○やぶちゃんの書き下し文

鱟魚(ウンキウ) 「カブトガニ」

 其の形狀、載せて、本書に在り。葢〔(けだ)〕し、諸州、稀〔(ま)〕れに有る所〔にして〕、異物と爲〔(な)〕す。

[やぶちゃん注:「アマリ貝」現在の和名に「空貝(うつせ〔かひ〕)」に近いものとしては、

腹足綱異鰓上目後鰓目無楯亜目ウツセミガイ上科ウツセミガイ科ウツセミガイ属ウツセミガイ Akera solute

はあるが、これはタクソンの後鰓目 Opisthobranchia から判る通り、ウミウシに代表される、無殻であるか、或いはごく小さな殻片痕跡である彼らの中でも、有意な貝殻を持つ種の一つである。巻の非常に緩い波で風化した巻貝の殻のような口の大きく開いた螺状殻を有する。外国産種の、繊細なキャラメル・ロール菓子を思わせるものを二つほど持っていたが、教え子にあげてしまった。「私が標本業者から買うほどいいのか?」と思われる方のために学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。それを見れば、判る通り、生体時は、その軟体部は薄い繊細なその殻からはみ出して体が「あまり」出たような様子を呈するのである。さればこそ、「あまり貝」の名にも、私は反応して、ウツセミガイを想起したに過ぎない。生態や分布などは当該ウィキを見て戴きたいが、一つだけ言っておくと、この何か物哀しい和名は無論、「空蟬貝」であるが、「うつせみ」の語自体が、実際には、そう簡単ではない。所属していた今はなき「相模貝類同好会」(創設者の一人間瀬欣彌氏は私の父の友人)一九九七年発行の「貝の和名」(会報『みたまき』特別号)によれば(コンマを読点に代えた)、殻高三センチメートル内外で、『淡褐色で殻の非常に薄い貝。殻はコメツブガイ』(腹足綱後鰓亜綱頭楯(ブドウガイ)目ナツメガイ超科ヘコミツララガイ科コメツブガイ属 Retusa )『類を大型にしたような形をしているが、生きている状態を見れば、殻の退化したした種類の多いウミウシに近いことが判る。日本産は』一科一属一種で、『「うつせみ」とは「うつしおみ(現臣)」の約「うつそみ」が転訛した語で、本来の言葉の意味は「この世に生きている人間」「人間の生きているこの世」のことなのであるが、「空蝉」の当て字が用いられるようになったことから「蝉の抜け殻」そして「虚脱状態」を意味するようになった。この貝の名は、殻が薄く壊れやすい状態から蝉の抜け殻を連想して名付けられた名。別名ミナワガイというが、「みなわ」』(歴史的仮名遣「みなは」)『とは「水の泡」のこと。こちらも薄く壊れやすい膨らんだ殻からの連想』とある。ここでことわっておくと、薄い枕のような形のウツセミガイを話の枕にしたのは、不詳とするのが実はいやで、あくまでキャプションから、穿って強引に示したものに過ぎず、この貝の図は。これまた、そのウツセミガイなどでは毛頭ないわけではある。

 しかし、かと言って、「古歌に詠ずる所〔の〕、空殻〔(あきから)〕」、「空貝(うつせ〔かひ〕)」、則ち、非生物学的な広汎な「空しい死骸の空(から)の殻(から)」を指しているのか? というと、これまた、そういうわけではなく、ここでは、あくまで、はっきりと、「筑前州宗像郡」の「蓑生(〔みの〕ふ)の浦」(現在の福岡県福津市西福間にある福間海岸(グーグル・マップ・データ)に比定されている)の『海中、淺き處に』棲息し、しかも有意に大きく、『其の肉、味、よし。西土の人、「あまり貝」と云ふ。長〔(た)〕け四寸、橫三寸三分ほどあり』とする貝なのである。図が正しくその種を描いているとなら、私は貝殻表面の激しく粗い成長輪脈から、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科 Saxidomus 属ウチムラサキ Saxidomus purpurata

を直ちに最有力同定候補として想起した。「あまり貝」の「あまり」は、或いは同種がしばしば長い水管を突き出したまましており、身も厚いので、貝から「余って」はみ出ているの謂いで、納得は出来る(あくまで私の勝手な語源推理なので注意されたい)。しかしそれを語源とするとなると、斧足を垂らしているバカガイ上科バカガイ科バカガイ属バカガイ Mactra chinensis も候補に浮上してくることになるが、ここは珍しく絵師を庇って、バカガイの殻は光沢があり、つるつるであるから退けることとする。

『「蓑生(〔みの〕ふ)の浦の空貝(うつせ〔かひ〕)」〔と〕古歌に詠ずる』これは、「後拾遺和歌集」の巻第十八の「雜四」の馬内侍(むまのないし 生没年未詳:一条天皇中宮定子にも出仕した)の一首(一〇九七番)、

    そらごと歎き侍り侍りける頃、

    語らふ人の、絕えて音(おと)し

    侍らぬにつかはしける

 うかりける身のうの浦のうつせ貝(がひ)

     むなしき名のみ立つは聞ききや

である。新日本古典文学大系版では、この「身のうの浦」について、『「うかりける身」から続けていう。蓑生の浦。八雲御抄では石見国とする』が、『契沖は筑前国かとする』とあり、後者の比定地が先の場所である。但し、平凡社刊の下中弘氏編集・発行の「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年刊)の「貝原益軒」では、貝類の大家波部忠重先生は、これを、

マルスダレガイ目バカガイ超科バカガイ科バカガイ亜科アリソガイ属アリソガイ Coelomactra antiquata

に推定比定され、『中国では西施舌という。唐の玄宗皇帝が山東省青島近くの名勝地を訪れ、この貝の料理を食べたとき、その美味を賞して西施舌と名付けたという。彼が』その時既に、『楊貴妃を知っていたら、楊貴舌としたかもしれない。肉は美味とあるが淡白。日本では誤ってミルクイガイ(ミルガイ)』バカガイ科オオトリガイ亜科ミルクイ属ミルクイ Tresus keenae )『にあてているが、これは誤りである』とある。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、殻長十一・五センチメートル、殻高九・五センチメートル、殻幅五・五センチメートルに達する大型種で、殻は三角形状で、殻頂部がよく膨らみ、薄質で脆い。殻頂部は帯青紫色で、殻皮は薄く、帯褐色で成長脈に沿って明らかである。殻内面も青紫色を帯び、噛み合せの歯は、殻頂の下に大きい弾帯受けがある。軟体の足は白色。食用となる。太平洋側は房総半島以南、日本海側は男鹿半島以南。また、中国大陸に分布し、浅海の細砂底にすむ。唐の玄宗皇帝がこれを食し、その美味を賞して、傾国の美女にあやかって西施舌(シーシーシャ)と名づけた、とあり、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種の画像を見るに、確かに、この図と強く一致する。されば、これを第一候補とする。

蚌(ドフカヒ)「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蚌」で示した通り、当初、これは以下の四種を指すと考えた。

斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイ属カラスガイCristaria plicata 

琵琶湖固有種である同属のメンカラスガイCristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)

イシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する大型のヌマガイ Sinanodonta lauta(ドブガイA型)

同属の小型のタガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)

である。ただ、解説内で用いている「馬刀〔(みぞがひ)〕」が厄介で、例えば、「大和本草附錄巻之二 介類 馬刀(みそがい) (×オオミゾガイ→×ミゾガイ→○マテガイ)」で大いに振り回された。その二の舞はやる気がないので、どうぞ、そちらをお読みあれ。そもそもが、「ミゾガイ」を考え出すと、「オオミゾガイ」も「ミゾガイ」も「マテガイ」も総て海産であり、ここでの話が無効になるのである。しかも、それらは貝の外観がこんなゴツゴツの岩の塊りなんぞではないのだ。さればこそ、「馬刀」は、その読みの「みぞがい」から「溝貝」であり、例えば、四種の後者の「沼貝」や「田貝」と同系列のカラスガイ類も含めた異称と採るべきである。実際、僕らが小さな頃は、湖にも沼にも溜池にも田にも底を流れる川にも小川にも溝にも彼らは普通にいたのである。先に示した「彩色 江戸博物学集成」の「貝原益軒」では、波部先生がこれを、

イシガイ科イケチョウガイ属イケチョウガイ Hyriopsis schlegelii

とされ、『淡水真珠養殖の母貝とされるが、現在は個体数が激減して利用できない状態になっている。琵琶湖特産で、霞ヶ浦にも移植されているが、中国にはこれに似た』同属の『ヒレイケチョウガイ』(Hyriopsis cumingii )『がすむ』とある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のイケチョウガイの画像を見ると、独特の変形部が、この図とよく一致するように思われ、「琵琶湖に多し」という叙述がそれを示唆する。なお、和名は「池蝶貝」でリンク先で、『貝殻を広げた形が蝶(チョウ)を思わせるため』とあった。但し、益軒は「他邦に稀に、之れ、有り」としていることから、上記の四種も同定候補として附した。

「カタカイ」「ヨメノサラ」を以って「一類二物」としたのは卓見である。前者は「片貝」で「カタガイ」でよく、所謂、岩場に附着するお馴染みの笠型の貝殻を持つ腹足綱始祖腹足亜綱笠形腹足上目カサガイ目 Docoglossa 或いはヨメガカサ科 Cellana にカサガイ類の総称であろう。敢えて代表種として後のヨメガカサ以外に限定するなら、

腹足綱前鰓(始祖腹足)亜綱カサガイ目カサガイ目ヨメガカサガイ科ヨメガカサガイ属ベッコウガサ Cellana grata

同属で大型(約七センチメートル)の、

マツバガイ Cellana nigrolineata

などであろう。後者は、現在は、

ヨメガカサガイ科 Cellana 属ヨメガカサ Cellana toreuma

の異名である。事実、彼らは美味い。なお、標準和名のカサガイ Cellana mazatlandica は殻長九センチメートルに達する大型種であるが、小笠原諸島の固有種で(天然記念物指定)、容易に我々が見ることは出来ない。

『「よめのさら」は「䗩」なり』この漢字は単漢字としては「蟾蜍・蝦蟆・蝦蟇」、則ち、ヒキガエル類の総称であるが、古くからカサガイ類(総称)をも指していたものらしい。「大和本草卷之十四 水蟲 介類 ヨメノサラ(ヨメガカサ)」参照。

『「老蜯牙」は「かたかい」と云ふ』「大和本草附錄巻之二 介類 片貝(かたがひ) (クロアワビ或いはトコブシ)」を参照されたいが、そこではもっと大きなそれらを比定した。「牛蹄」「形を以つて名づく」とあるから、私は漢籍のそれは、こんなちんまいカサガイ類とは思わないということである。

「福州府志」清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。前のリンク先の私の注を参照。

「鱟魚(ウンキウ)」節足動物門鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus『大和本草卷之十四 水蟲 介類 鱟 附「大和本草諸品圖」の「鱟」の図 参考「本草綱目」及び「三才圖會」の「鱟」の図 一挙掲載!』に言った以外のことを書く必然性を私は感じない。]

大和本草諸品圖下 鎌倉小榮螺・波遊 (サザエ・オキアサリ或いはコタマガイ) / 「大和本草」水族の部 正真正銘最終部突入!

 

Kai1

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像の左頁をトリミングした。右頁は前回の「エツ」である。遂に言った傍から数々追加した「大和本草」水族の部の正真正銘の最終部に突入する。本図を含めて十図で終わる予定である。]

 

鎌倉小榮螺

 

 

   面

 

ㇾ此

○やぶちゃんの書き下し文

鎌倉小榮螺

 

背の形[やぶちゃん注:以下とともに図のキャプション。]

 

面の形

 

此〔(か)〕くごとく、左に顧みる。

――――――――――――――――――

波遊 倭名

アサリニ似テ大也其文亦多

品色亦多

品黒色モ

アリ味ア

サリニ勝ル

介中

上品其形

大小

○やぶちゃんの書き下し文

波遊〔(なみあそび)〕 倭名。「あさり」に似て、大なり。其の文〔(もん)〕、亦、多品、色〔も〕亦、多品、黒色もあり。味、「あさり」に勝る。介中の上品と爲す。其の形、大小有り。

[やぶちゃん注:「鎌倉小榮螺」は通常の腹足綱古腹足目サザエ科リュウテン属 Turbo サザエ亜属 Batillus サザエ Turbo cornutus 或いは Turbo (Batillus) cornutus である。「大和本草卷之十四 水蟲 介類 榮螺」を参照されたいが、そこで益軒は、『鎌倉の海に左顧(まき)の榮螺あり、下の半邊のみありて小なり。めぐりに角あり。いづれも左の方に顧〔(まく)〕る』と述べているのだが、この図は逆立ちしても、通常の右巻き個体の図であり、『此〔(か)〕くごとく、左に顧みる』というキャプションは不審である。これを見ても、絵を描いたのは益軒でないことは明白である。

「波遊〔(なみあそび)〕」「大和本草卷之十四 水蟲 介類 淺利貝」には、『「波遊」あさりに似て、殻(から)、厚し。味、淡美。殻に花紋あり。甚だ美なり。又、花紋無きもあり。大なるは長さ一寸計りあり、小蛤なり』と出るが、この「波遊」(なみあそび)の古名は、文字通り、砂浜海岸の波打ち際で、「打ち寄せ退く波に合わせて遊ぶように、砂中に潜ったり、出たりするところの貝」の意で、よく見かけるお馴染みの、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目フジノハナガイ超科フジノハナガイ科ナミノコガイ属ナミノコガイ Donax cuneatus

或いは、

フジノハナガイ科フジノハナガイ属フジノハナガイ Chion semigranosa

その他の同様の行動を示す貝類の総称であったと私は考えている。本種をひっくるめて、小型のそれらを「ナミノハナガイ」としてしまう方が貝類蒐集家の中にさえいるが、これは異名であり、二種は近縁種ではあるものの、別種である。しかし、ナミノコガイは最大殻長でも二・五センチメートル、フジノハナガイに至っては一・七センチメートルほどで、凡そここに書かれている『「あさり」に似て、大なり』とは齟齬する。マルスダレガイ目マルスダレガイ科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum は標準四センチメートル、最大で六センチメートルにはなる(但し、ナミノコガイもフジノハナガイも、身を味わうことは難しいが、とても美味い出汁が取れる)。そこで、アサリよりも大きく、殻の色や模様に変異が多く、しかも肉味もいいものとなると、

マルスダレガイ科リュウキュウアサリ亜科マクリディスクス属オキアサリ Macridiscus multifarious

或いは同属の、

コタマガイ Macridiscus melanaegis

が当該する。オキアサリは最大殻長六センチメートル前後、コタマガイは七センチメートルほどと有意に大きく、肉も美味である。ウィキの「コタマガイ」によれば、一時期(一九七〇年代半ば。本種が茨城県・千葉県で大発生した際)、コタマガイはハマグリ(マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria )の偽物として流通してもいたという。にしても、またしても、この図は同定のヒントにさえならない愚劣なものである。]

2021/06/11

大和本草諸品圖下 鰣魚(エツ) (エツ) / 「諸品圖」の魚類パート~了

 

Etu1

 

Etu2

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのここ画像をトリミングした。魚体図のみをさらにトリミングし、横にして示しておいた。キャプションの原文復刻は長いので、初めから続けて示した。]

 

鰣魚(エツ)

本書ニ載タリ大河ノ下(シモ)潮(ウシホ)ノ通スル處ニアリ河魚ナリ長六七寸大ナルハ八九寸バカリ橫ハヾ一寸餘首(カシラ)短ク目小シナリ目ハ口(クチ)ノ傍(ソハ)ニ近シヒレ處々ニアリ色頗白シ尾ハナマヅノ如ク小ニ扁(ヒラ)シ肉ニ脂(アフラ)少有口(クチ)ノ廣キコト鰷如シ背ハ淡(ウス)黒シ其餘ハ白シ夏間多シ大鼓ナドノナリ物ヲヲソル雷ニヲソル是ヲトラントテハ漁人大鼓ヲタヽキ船ハタヲタヽギ[やぶちゃん注:ママ。訓読では訂した。]板ヲウチナラシ一方ニ追ヨセテアミニシテ引ヨセトル此魚小ナル橫骨甚多シ乾(ホ)シテカハケルハ其骨外ニアラハレ見ユム子ニコトニ骨出たる處橫ニ多クアラハレ見ユ處々鯵ノウロコノ如シ腹下ニカドアリ是鰣魚ナルベシ此魚味ヨキ故ニ彭淵材カ五恨ノ一ニ鰣魚ニ骨多キヲ恨ムトイヘリ此魚諸州ニマレニアリ京江戶大坂ニハ在モヤスラン未見肉ヲ細ク切水ニ入ヨクモミアラヒテ油ヲ去ベシツヨクモンデモクダケズ味カロクヨシ多ク食シテ害ナシサシミナマスニシテヨシヤキテモ食ス上品ナリ

○やぶちゃんの書き下し文[やぶちゃん注:長いので、段落を成形した。]

鰣魚(エツ)

 本書に載せたり。

 大河の下(しも)、潮(うしほ)の通ずる處にあり。河魚なり。長〔(た)け〕、六、七寸、大なるは、八、九寸ばかり。橫はゞ、一寸餘〔(あまり)〕。首(かしら)、短く、目、小〔(ちいさ)〕しなり。目は、口(くち)の傍(そば)に近し。ひれ、處々にあり。色、頗る白し。尾は「なまづ」のごとく、小に〔して〕、扁(ひら)し。肉に、脂(あぶら)、少し有り。口(くち)の廣きこと、鰷〔(あゆ)の〕ごとし。背は淡黒(うす〔ぐろ〕)し。其の餘は白し。

 夏〔の〕間、多し。大鼓などの「なり物」を、をそる。雷に、をそる。是れをとらんとては、漁人、大鼓をたゝき、船ばたをたゝき、板を、うちならし、一方に追ひよせて、あみにして、引きよせ、とる。

 此の魚、小なる橫骨、甚だ多し。乾(ほ)してかはけるは、其の骨、外にあらはれ、見ゆ。むねに、ことに、骨、出でたる處、橫に多くあらはれ見ゆ。處々、鯵のうろこのごとし。腹〔の〕下にかどあり。

 是れ、鰣魚なるべし。此の魚、味よき故に、彭淵材〔(はうゑんざい)〕が「五恨〔(ごこん)〕」の一つに、「鰣魚〔(しぎよ)〕に骨多きを恨む」といへり。

 此の魚、諸州に、まれに、あり。京・江戶・大坂には在るもやすらん、未だ見ず。

 肉を細く切り、水に入れ、よく、もみあらひて、油を去るべし。つよくもんでも、くだけず。味、かろく、よし。多く食して、害、なし。さしみ・なますにして、よし。やきても、食す。上品なり。

[やぶちゃん注:図の魚体から見て、条鰭綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科エツ亜科エツ属エツ Coilia nasus で間違いない。「大和本草卷之十三 魚之下 エツ」を、まず、参照されたい。何故かと言うと、本邦での棲息域は筑後川河口域を中心とした有明海の湾奥部汽水域にほぼ限られている(産卵時には河口から十五キロメートル以上の純淡水域まで遡る)有明海特産魚だからである。私も生魚を見たことがないし、食したこともない。だから、キャプションで「此の魚、諸州に、まれに、あり。京・江戶・大坂には在るもやすらん、未だ見ず」とあるのは、当たらずとも遠からずなのであって、益軒及びその弟子たちは福岡藩がオリジナルなフィールドであり、日常的にエツを見かけることが出来たエツについて観察し、その漁法風俗・食味を知ることに関しては、「悦(エツ)」に入ってよい、すこぶる稀に幸せな環境にあったのである。諸州は佐賀・長崎・熊本と考えれば、問題なく、京都・江戸・大坂には持ち込まれること自体が、まず、なく、私が未知であるのと変わらず、エツという魚がいること自体を、九州を除く当時の圧倒的多数の日本人は認知していなかったのである。それを敏感に感じ取った、この図とキャプションを担当した筆者(私はこの「大和本草諸品圖」のキャプションは益軒の指示を受けつつ、弟子の誰かが書いたものである可能性が高いように思われる。この妙に詳しいせせこましい記載と図の強引な吊るし乾しのような押し込み方がそれを示唆していると思うのである。益軒自身が書いたものなら、もっと読み易く大きく配置したと思うし、そうでないからこその圧縮と私は感じるのである)の渾身の仕事と読むものである。というより、これは、現在に至るまで、世界的に見ても(中国にも同種や近縁種が棲息しているというが、研究は殆んど成されていないようである)、優れた博物的図説と言って構わないと感ずるものである。学名のグーグル画像検索をリンクさせておくが、既知の同じ魚形の種を私は想起出来ない。

「鰣魚」残念乍ら、この漢名及び以下の漢籍に基づく『彭淵材〔(はうゑんざい)〕が「五恨〔(ごこん)〕」云々の一節は、総てこれ、エツではない。ニシン亜目ニシン科シャッド亜科テヌアロサ属鰣魚(和名なし)Tenualosa reevesii である。当該ウィキによれば(そこでは「仮称」として「鰣魚」を出して「ジギョ」と読んでいるが、私は「シギョ」と読んだ。それは「鰣」の音の「ジ」は中国の中古音を元にした呉音(仏教用語に多い)であり、漢音では本邦の官用の基本音である「シ」であるからに過ぎない)、『中国周辺の固有種』で、本邦には棲息しない。『ジギョは、通常』、『海水の上層で回遊している魚であるが』、四月から六月に『なると、長江、銭塘江、閩江、珠江など、中国の川の下流域に産卵のために遡上し、かつ脂が乗っているため、季節的に現れる魚との意味から「時魚」と称し、古来珍重されてきたが、標準和名は付けられていない。明治時代の』「漢和大字典」には『「鰣」に「ひらこのしろ」の注が見られるなど、ヒラコノシロやオナガコノシロと記した字書、辞書、料理書もあるが、根拠は不明』。魚のヒラは『ニシン目ヒラ科ヒラ亜科』Pelloninae『に分類され、コノシロは』ニシン科『コノシロ亜科』Dorosomatinae『で近縁種とはいえず、魚類学、水産学の書籍で使っている例は見いだせない。なお、国字の「鰣」は「ハス」と読むが、これは全く異なるコイ科』Cyprinidae『の魚である』(クセノキプリス亜科 Oxygastrinae ハス属ハス Opsariichthys uncirostris )。『広東省では「三黎」、「三鯠」(広東語 サームライ)と称する。古名に「魱」(ゴ、hú)、「鯦」(キュウ、jiù)、「當魱(当互)」、「魱鮥魚(河洛魚)」がある』。『学名は何度も変更されており、シノニムに』、Alosa reevesii Hilsa reevesii Macrura reevesii などがある。『いずれも、reevesii(レーベシー)という種名が入っているが、東インド会社の茶の鑑定人で』、一八一二年に広東を訪れ、この魚の記録を残した』イギリスの博物学者ジョン・リーヴス(John Reeves  一七七四 年~一八五六年)『の名にちなむ』。『一般的に成魚は、雄が体長』四十センチメートル前後、体重一・三キログラム程度、♀で体長五十センチメートル前後、体重二キログラム程度であるが、最大六十センチメートル以上に『なるものもある。体色は銀灰色で、背側が黒っぽく、腹側が白っぽい。体は長いひし形に近く、V字型の長い尾鰭を持つ』。『中国周辺の黄海南部から、台湾、フィリピン西部にかけての海域に生息する。春に淡水域まで遡上した成魚は』、五月頃に『産卵した後、海に戻る。一尾で』二百『万粒程度の卵を産む。産卵後』一『日程度で孵化し、稚魚は淡水域で数ヶ月育ち、秋の』九~十月に『海に移動する』。三『年で成魚となるといわれる』。『長江流域を中心に、かつて、年間数百トン獲れ』、一九七四年には千五百トンを『超えたともいわれる。当時は湖南省の洞庭湖や、さらに上流でも捕獲できたが、乱獲によって』一九八〇『年代には年間』一『トン未満となり、幻の魚と呼ばれるようになった。このため、資源が枯渇するのを防止すべく、中国政府は』一九八八『年に国家一級野生保護動物に指定し、現在は捕獲を禁じている』。『春の、産卵時期より早い』四月末から五月頃が『旬で、脂がのっている。川を遡上する途中で、餌はあまり取らないため、上流になるほど』、『脂は落ち、風味も下がるとされる。新鮮なものを、蒸し魚とすることが好まれた。鱗は取らず、湯で表面の臭みを洗ってから、塩などで下味をつけ、ネギなどの薬味を乗せて蒸し、後でたれをかけた「清蒸鰣魚」にする場合と、ブタの網脂で覆い、シイタケ、タケノコ、金華ハムなどを乗せて、鶏がらスープをかけて蒸す場合がある。また、醤油と砂糖を使った煮物や、鍋料理などにも用いられた。鱗を取らないのは、鱗が柔らかくて脂がのっているためとされるが、旧暦の端午の節句を過ぎると硬くなり』、『食べられなくなる』。二十『世紀には、特に長江流域の鎮江市から南京市辺りの名物料理とされた』。『現在、中国ではジギョの捕獲が禁止されているため、中国で養殖された別属のアメリカシャッド』(American shad:中国語「西鰣」:ニシン目ニシン科シャッド亜科 Alosinae アロサ属アメリカシャド Alosa sapidissima )『が「鰣魚」と称して流通しているが、少量にすぎず、しかも高価である』。『後漢の』「説文解字」に「鯦、當互也」の記載があり、「爾雅」の「釋魚」にも「鯦、當魱」という記載がある。孰れも本魚を指すと考えて問題はない。『明以降には皇帝への献上品として用いられた。南京は産地であって新鮮なものが食べられたが、北京に都が移ると』、『輸送が難しくなり、腐敗が始まって臭くなったため、「臭魚」とも呼ばれた』。『清の書籍には具体的な産地や調理法の記録も多くなる。浙江省紹興周辺の言葉を集めた』清の范寅(はんいん)の「越諺」(えつげん)には、『「厳瀬、富陽の物が良く、味が倍加する。滋味は鱗と皮の間にある。」と記載されている』。北宋の料理書「中饋録」(ちゅうきろく)には、『「わたは取るが』、『鱗は取らず、布で血を拭き取り、鍋に入れて、花椒、砂仁、醤、水、酒、ネギを加えて和え、蒸す。」と具体的に書かれている』。清の医師陸以湉(りくいてん)の医書「冷廬雑識」(れいろざっしき)には、『「杭州で鰣魚が初物として出回る時には、富豪がこぞって買いにやるため、値が高く、貧乏人は食べられない。」との記述がある。また、清の詩人袁枚』(えんばい)は、かの食通本「随園食単」の『「江鮮単」で、エツ類』(★!☜!★「川魚の部」。その最初に「刀魚(タオユイ)の煮方二種」が挙げられ(小骨の多さが、バッチリと語られてあり、その処理法も載るる!)、その後に「鰣魚(シイユイ)」の調理法が続いているのである。これを見ても、両者が別種であることは一目瞭然なのだ!)『と同様に甘い酒の麹や醤油と共に蒸したり、油をひいて焼くのが良い、風味が全くなくなるので、間違ってもぶつ切りにして鶏肉と煮たり、内臓や皮を取って調理してはならない、と述べている』とある。

『彭淵材〔(はうゑんざい)〕が「五恨〔(ごこん)〕」の一つに、「鰣魚〔(しぎよ)〕に骨多きを恨む」といへり』。彭淵材(生没年未詳)は北宋の官人文人。彼がある時、自身が世にあってある五つの恨み言の命数として「一恨時魚多骨 二恨金橘帶酸 三恨蓴菜性冷 四恨海棠無香 五恨曾子固不能詩」(「金橘」はキンカン。「曾子固」は北宋の散文家で、唐宋八大家の一人に数えられる曾鞏(そう きょう 一〇一九年~一〇八三年)を挙げたことをいう。恐らく、前に引かれた「隨園食單」の謂いからも、鰣魚もエツと同じように美味いけれども、小骨が異様に多いと読めるのである。]

大和本草諸品圖下 アラ・白ハヱ・米ツキバヱ・黃鯝魚(アブラハヤ)・石バヱ (クエ或いはマハタ或いはタマカイ・オイカワ・カワムツ或いはヌマムツ・アブラハヤ・カマツカ)

 

9

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

アラ 海魚也

未ㇾ知漢名口廣

淡黒長一二

尺アリ味淡

美無ㇾ脂肉白

寒月多

倭ノ婦人

科流醫金瘡ニ以要藥トス血ヲ治シテ且血ヲ活ス

○やぶちゃんの書き下し文

アラ 海魚なり。未だ漢名を知らず。口、廣し。淡黒〔にして〕、長さ、一、二尺あり。味、淡美〔にして〕、脂、無し。肉、白し。性、良し。寒月、多し。倭の婦人科流の醫、金瘡〔(きんさう)〕に、以つて、要藥とす。血を治して、且つ、血を活す。

――――――――――――――――――

白ハヱ

凡ハエノ

類多

白ハエハ

常ノハ

ヱナリ

 

米ツキバヱ

兩ワキニ黒

ヂ一アリ背マ

  ルシ味ハ

    白ハ

   ヱニ同

○やぶちゃんの書き下し文

白はゑ

凡そ、「はえ」の類、多し。「白はえ」は、常の「はゑ」なり。

 

米つきばゑ

兩わきに、黒きすぢ、一つあり、背、まるし。味は「白はゑ」に同じ。

――――――――――――――――――

黃鯝魚(アブラハヤ)

小池ナトニ一處ニ

多シ又黒斑アルモノ

アリ

山州賀茂川ニ

アリモロコト云

本書ニ載タリ

西土ニテアブラメ

又アブラハヱト云

油色ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

黃鯝魚(あぶらはや)

小池などに、一處に多し。又、黒斑あるもの、あり。山州賀茂川にあり、「もろこ」と云ふ。本書に載せたり。西土にて「あぶらめ」、又「あぶらはゑ」と云ふ。油色なり。

――――――――――――――――――

石バヱ

首小ニ口ワキニヒゲアリ鰌(ドヂヤウ)ノ

ヒゲニ似タリ

腹黃白色

五六寸

ヒレノサキ

尾ノサキ黃

赤色常ニ

岩間ニアリテ

不ㇾ出

○やぶちゃんの書き下し文

石ばゑ

首、小に〔して〕、口わきに、ひげあり。鰌(どぢやう)のひげに似たり。腹、黃白色、長〔(た)〕け、五、六寸。ひれのさき、尾のさき、黃赤色。常に岩間にありて、出でず。

[やぶちゃん注:「アラ」「大和本草卷之十三 魚之下 アラ (アラ或いはクエ)」で同定に苦労した。考証経緯はそちらを見て戴くとして、そこで私は、

第一同定比定候補 スズキ亜目ハタ科ハタ亜科アラ属アラ Niphon spinosus

第二同定比定候補 ハタ亜科ハタ族マハタ属クエ Epinephelus bruneus

(補欠)ハタ族マハタ属マハタ Epinephelus septemfasciatus

としたが、この絵が正しく描かれているとすれば、実は本巻での最有力候補のアラは早々に外れることとなる。吻部が以下の二種に比して有意に突出して尖がっているからである。クエもマハタに比すると、尖がっており、口先の感じはマハタに近く思われるが、魚体表面のおどろおどろしい感じは断然、クエである。されば、ここでは「クエ或いはマハタ」とした。但し、「倭の婦人科流の醫、金瘡〔(きんさう)〕[やぶちゃん注:刃物による切り傷。]に、以つて、要藥とす。血を治して、且つ、血を活す」(何故、「金瘡」に限定しているのに、婦人科医のみが薬とするのか、ちょっと判らない。婦人の「血の道」症候群と関わるとしても、やはり解せない)この漢方上の特異点を調べたところ、魚体がマハタに似る、

マハタ属タマカイEpinephelus lanceolatus

当該ウィキの記載に、『内臓や皮が、漢方薬になると信じられていることもある』とあったので、これも候補に加えることとした。

「白ハヱ」さても、ここ以下の四種は、所謂、河川の中上流域に棲息する、比較的、流線形の体型を持った複数種を表わす「ハエ」=「鰷」=「鮠」=「ハヤ」の一群とみてよい。「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」で総論を示したが、再掲すると、狭義の「ハヤ」類(現在でも「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinae ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

クセノキプリス亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

クセノキプリス亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称と考えてよい。但し、地方によっては、それらと魚体の似たものや、アユの小型・中型なども指すことは認識しておかないといけない。而して、この「白ハヱ」(キャプションは「ハエ」を代表する種としている)は何かと言えば、地方名で「ハヤ」「ハエ」と呼ばれることが多い、

コイ科クセノキプリス亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

として、最も問題がないと私は考える。「大和本草卷之十三 魚之上 ヲイカハ (オイカワ)」を参照されたい。

「米ツキバヱ」この名前に悩まされたが(現行ではこの異名は殆んど生きていない。但し、とある学術記載に「コメツキバエ科」というのを見出してびっくりしたが、この科名は他に認められなかった)、ここは珍しくも図とキャプションが救ってくれた。「兩わきに、黒きすぢ、一つあり」である。この両体側中央に縱紋を持つのは、

クセノキプリス亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

或いは、同属種(嘗ては同種として分離されていなかった)の、

カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

である。「大和本草卷之十三 魚之上 ヲモト (カワムツ或いはヌマムツ)」を参照されたい。

「黃鯝魚(アブラハヤ)」ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri 「大和本草卷之十三 魚之上 モロコ (アブラハヤ)」を参照。

「石バヱ」鬚と底棲から、条鰭綱コイ目コイ科カマツカ亜科カマツカ属カマツカ Pseudogobio esocinus 大和本草卷之十三 魚之上 カマツカ」を参照されたい。狭義の「ハヤ」類には含まれないが、他の「ハヤ」類の棲息域がだぶるので、広義の「ハヤ」と呼んで何ら問題はない。]

大和本草諸品圖下 マヽカリ・サヾヱワリ・フナシトギ・ワカサギ (サッパ・ネコザメ・コバンザメ・ワカサギ)

 

8

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

マヽカリ

是コノシロノ

類也ウロコ

コノシロヨリ

小也味ト

臭ハ似

タリ海魚

ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

まゝかり

是れ、「このしろ」の類〔(るゐ)〕なり。うろこ、「このしろ」より、小なり。味と臭〔(にほ)ひ〕は似たり。海魚なり。

――――――――――――――――――

サヾヱワリ

海魚フカノ

類モダマニモ

味相似テ

ヨシ形與

說ハ見ハス

本書

○やぶちゃんの書き下し文

さゞゑわり

海魚「ふか」の類。「もだま」にも、味、相ひ似て、よし。形、諸魚と異れり。說は本書に見〔(あら)〕はす。

――――――――――――――――――

フナシトギ

[やぶちゃん注:以下、上・下図のキャプション。右から左書き。]

   仰 圖       俯 圖

――――――――――――――――――

ワカサギ

形ハエニ

目口ハエト

味美

春最好其

香ハ鰷ニ

似テヨシ長五

六寸河魚也

○やぶちゃんの書き下し文

わかさぎ

形、「はえ」に似て、目・口、「はえ」と異れり。味、美〔(よ)〕し。冬・春、最も好し。其の香〔(かをり)〕は鰷〔(あゆ)〕に似て、よし。長さ、五、六寸。河魚なり。

[やぶちゃん注:「マヽカリ」この「飯借(ままか)り」の異名(加工品)でよく知られるニシン目ニシン亜目ニシン科ニシン亜科サッパ属サッパ Sardinella zunasi

である。本巻に立項されていない。当該ウィキによれば、酢漬や「ママカリ寿司」などの「ママカリ」料理(「あまりの美味さに飯が進んでしまい、家で炊いた分が足りなくなって、思わず、隣家に飯を借りに行くほどの旨さ」に由来する)は岡山県の郷土料理として良く知られる。別に「ハラカタ」の異名があるが、これは、『腹部の鱗が硬く発達していることに由来する』。『全長は』十~二十『センチメートルほどで、体は木の葉のように左右に平たい。背中よりも腹が下に出ている。体色は背中側は青緑色、体側から腹側までは銀白色をしている。他のニシン目魚類に比べ、鱗が硬く発達していて落ちにくい』。鮨の「シンコ」「コハダ」で知られる『コノシロ』(ニシン科コノシロ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus )『とは外見や生息域が似ているが、体の側面に黒い点線がないこと、背びれの最後の軟条が長く伸びないことなどで区別できる。また、ヒラ』(ニシン科ヒラ属ヒラ Ilisha elongata )『という魚も』棲息域ともに、『よく似ているが、こちらは成魚の全長が』四十『センチメートル以上と』、『より大型になる』。『東北地方以南から黄海、東シナ海の沿岸域に分布し、内湾や河口の汽水域に群れを作って生息する。マイワシやニシンのような大規模な回遊は行わず、一生を通して生息域を大きく変えることはない。プランクトン食性で、プランクトンを水ごと吸いこみ、鰓耙(さいは)で濾しとって食べる。繁殖期は初夏で、直径』二『ミリメートルほどの浮遊卵を産卵する。冬にはやや深場へ移る』。『刺し網や投網などの沿岸漁業で漁獲される。また晩夏から秋にかけて防波堤のさびき釣りの好対象である。釣りあげたサッパには、後頭部あたりの体表にフナムシのような虫が寄生していることがある。これはウオノエ科』Cymothoidae(「うおのえ」は「魚(うを)の餌(ゑ)」。魚類の口腔内に好んで寄生する巨大な種がおり、それを餌と誤認した和名)『の甲殻類で、本種に好んで寄生するサッパヤドリムシ』節足動物門甲殻亜門軟甲綱等脚目ウオノエ亜目ウオノエ上科ウオノエ科ウオノギンカ属サッパヤドリムシ Anilocra clupei )『である。外見は不気味であるが、人間には無害である』。『日本では、おもに瀬戸内海沿岸や有明海沿岸で食用にされる』。『小骨が多いが』、『淡白な味で、塩焼き』、『から揚げ、酢締め、刺身などで食べられる。中でも酢締めは小骨も気にならず、美味な惣菜や寿司ネタとなるのでよく知られた食べ方である。また、三枚おろしにして皮を剥いだ刺身は身が締まっており、さっぱりとした味である。サッパの名は、淡白でさっぱりとした味に由来する。サッパの酢締めは、かつては「光もの」として江戸前寿司でもネタにされたが、戦後になって使われなくなったという』。地方名は『ママカリ(瀬戸内海沿岸地方)、ワチ(広島県・香川県)、ハラカタ(関西地方)、ハダラ(佐賀県)など』。

「サヾヱワリ」は「榮螺割」で、ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus の異名としてよく知られる。立項はないが、大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))で、益軒は破格の詳述と高評価をしている。引用する。

   *

○「さゞいわり」と云ふ魚あり。「ふか」の類なり。頭、大に、両目の上のきはに、たてに、かど各々、すぢありて、首、方(けた)なり。細き齒、多し。腮〔(あぎと)〕は、よこに五つ、きれたり。両鼻あり。背に鰭に、各々、大なる刺ありて、尖れり。口は腮の下にあり。両わきに大なるひれあり。腰にも小なるひれあり。尾は小さき岐(また)あり。凡そ常の魚の形にかはれり。皮に「さめ」あり。色、斑〔(まだら)〕なり。薄く切り、酒の糟を加へ、羹〔(あつもの)〕として食す。又、指身〔(さしみ)〕にして、最も、よし。「つのじぶか」に、まされり。

   *

この食味の好評はすこぶる特異点で、現在では食用サメとして挙げられることはない(私も食べたことはない)。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページに料理が載るので参照されたい(そこでも漁師の評判は劣悪ではある)。なお、ぼうずコンニャク氏はそこで「和漢三才図会」の記載について、『「栄螺破魚」があるがネコザメに当てはまらない。西日本でのネコザメの呼び名を別の魚に誤って当てたのかも』と言っておられるのにはちょっと疑問がある。「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」(リンク先は私の古い電子化注)のそれは以下である(一部の気に入らない部分に手を加えた)。

   *

さゞいわり  正字、未だ詳らかならず。

榮螺破魚

△按ずるに榮螺破魚、形・色、藻伏魚に似て、頭、圓く肥え、脊中沙有り。其の齒、河豚(ふくとう)魚のごとし。齒、能く榮螺を咬み食ふ。故に之を名づく。春、西海より出づ。肉の味、淡甘。筑前に多く有り。

[やぶちゃん注:現在、「サザエワリ」の異名を持つ種としては、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ上目ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ Heterodontus japonicus (私がまず思い浮かべるの断然こっちである。その理由は以下にも記す「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鱣」の項にある「猫鱣」を参照されたい)及び軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ上目テンジクザメ目オオセ科オオセ Orectolobus japonicus である。頭部が丸く肥えているという表現からは、圧倒的に前者ネコザメが一致する(オオセは魚体全体が扁平で、頭部も平たく潰れて横に広い)。但し、ここには食用に供するの記載があり、そうした食用度と言う点では、後者のオオセの方が、現在でも複数の地方で食用とされていることから、オオセに軍配が上がりそうだが、ネコザメも「一日一魚」というサイトの「ネコザメ」の項を見ると(リンク連絡の義務を明示しているのでリンクは張らない)、『淡白で刺身に向いている』らしいとし、『川口祐二さんの「サメを食った話」によると、前志摩地方では今でも祝いの席に「さめなます」は欠かせないという。大きな釜に湯を煮立てておいて、そこに生きたままのサメをザブンと入れ、皮をむき、身をうすく細かく切ってさらに湯引きをし、氷水で締め食べるようである。サメの洗いとでもいおうか、湯引きというか、もともと「なます」とは魚の肉を細かく切ったものをいうそうであるから、さめなますは文字通り、サメの刺身である。このさめなますはネコザメに限るという』と記すので、ネコザメに同定したいのであるが、実は良安は「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鱣」の項に「猫鱣」の柱を立てて「大いさ、三~四尺。頭の形、猫に似、扁たく、身、虎斑〔(とらふ)〕の文有り。齒有り。味、佳からず。」と記すことになる(又は先に記した)。それでも、私は「圓く肥え、脊中沙有り」という語が、明白な軟骨魚のネコザメを示すように思えてならないのである。良安は全ての魚種について実見している訳ではなく、聞書が多いと思われる(でなければ稀に見られる「私も見た」風の記述はしないと思われる)。但し、では、

 軟骨魚類のネコザメ=「藻伏魚」=スズキ目ベラ科のコブダイ(カンダイ) Semicossyphus reticulatus

の等式が成立するのかと迫られると、似ていないと引かざるを得ないのである(共通するのは生息場所ぐらいか)。やはり「藻伏魚」は再考の余地ありか?

 「河豚魚」は硬骨魚綱フグ目 Tetraodontiformes フグ科 Tetraodontidae。但し、ネコザメの歯は、人の大臼歯状の歯がそれぞれに癒合して石畳様になっており、噛み砕き潰す能力に特化している。フグの場合は、上下各二枚の左右の中切歯状の歯が、それぞれ吻部中央で癒合して裁断機並みの鋭さを呈しており、すっぱりと噛み切るに相応しい形状をしている。因みに、フグ目及び科の学名“Tetraodonti-” はギリシャ語由来で「四枚の歯を持つもの」の意である。]

   *

わざと、頭に配されてある、図を外した。これがぼうずコンニャクが「ネコザメではない」と一蹴した致命的な箇所なのである。図はこれだ。

 

Sazaiwari

 

確かに。たまらんわ! これは敢えて言うなら、妙な等式で示したコブダイの頭部が突出しない若魚に似ているとは言えると思うのである。口直しに、私の『毛利梅園「梅園魚譜」 ネコザメ』、或いは「栗本丹洲 魚譜 ネコザメの子 (ネコザメの幼魚)」をどうぞ! 「もだま」は恐らく「藻玉」で、ジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo などに代表されるサメ類の総称(但し、益軒の場合はスマートなエイ類も含まれる)。

「フナシトギ」は条鰭綱スズキ目コバンザメ科コバンザメ属コバンザメ Echeneis naucrates

(「サメ」とつくが「鮫」とは全く無縁なので注意)である。「大和本草附錄巻之二 魚類 ふなしとぎ (コバンザメ)」で立項しているが、個人的には先般、電子化した『栗本丹洲「栗氏魚譜」より「小判鮫」 (コバンザメ)』を強くお薦めする。恐らく世界中のコバンザメの博物画では最上位にランクされるものと思われるものである。解説もいい。

「ワカサギ」条鰭綱キュウリウオ目キュウリウオ科ワカサギ属ワカサギ Hypomesus nipponensis 大和本草卷之十三 魚之上 ワカサギで立項済み。「はえ」は「はや」に同じで、複数の淡水魚の種を総称する語。さんざん注してきたので、もう言わない。「鰷〔(あゆ)〕」この字は現行では前の「はや」と読むのが一般的だが、古くは「鮎」を指すことも多かった。益軒は専ら「あゆ」と訓じているようである。本来は河川の中上流で素早い動きをする概ね流線形の淡水魚は、十把一絡げに「はや」だったものと私は推測している。]

2021/06/10

芥川龍之介書簡抄81 / 大正六(一九一七)年書簡より(十三) 松岡譲宛

 

大正六(一九一七)年十月二十五日(消印)・東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣・ヨコスカ市汐入五百八十尾鷲梅吉方 龍(葉書)

 

Houjyouwomamoruhitobito

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介画。底本の岩波旧全集よりトリミングした。]

 

「每日」に馬琴が出だした 插畫でボクの書いた人間が出てくるのはへんな氣のするもんだ出來は或部分は甚惡い しかしちよいちよい傑作な所もある もう一つ書けと云ふから書かうかと思つてゐるがそれにしてもそれは新年ヘだ

早く法城を守る人々の顏が見たいな ボクにあの小說を書かせればこんな插畫をかくよ[やぶちゃん注:以下、底本の岩波旧全集では二行でポイント落ち。](西田さんの本をよんだか フヂヲカ曰二千五百年の名著だとよみたいがムヅカシさうでいかん)

円光のある中外を送つたよ

奧さんはまだかへらないかい かへつたら菅さん行をすすめて一しよに來ないか 湘南の秋光は中々いいよ 僕は小閑を得ると汽車でわざわざ逗子鎌倉へゆくが一人ではつまらない

   雁は見ず墮落(オロ)せと聲を聞く夜にて

 

[やぶちゃん注:『「每日」に馬琴が出だした』この十月二十日から『大阪毎日新聞』に「戲作三昧」の連載が開始されていた(十一月四日まで)。

「插畫でボクの書いた人間が出てくるのはへんな氣のするもんだ出來は或部分は甚惡い しかしちよいちよい傑作な所もある」この後半部は自作の小説への自己批評ではなく、筆心のある龍之介の挿絵に対する批評であろう。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の石割透氏の本作の解説によれば、挿絵は一回(=一章)ごとに描かれており、『作者は名越国三郎と推測される』とある。名越国三郎(生没年未詳)は大正・昭和前期の挿絵画家で、アール・ヌーボーや世紀末美術の影響をうけた独自な作風で、探偵小説やユーモア小説の挿絵に活躍、代表作に大正一五(一九二六)年『サンデー毎日』連載の江戸川乱歩作「湖畔亭事件」などがある(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「法城を守る人々」松岡譲作の長編小説。『文章世界』十一月号で連載を開始した。国立国会図書館デジタルコレクションで三巻に分かれた初刊行本が読める。

「西田さん」哲学者西田幾多郎(明治三(一八七〇)年~昭和二〇(一九四五)年)。筑摩全集類聚版脚注によれば、『ここでは、「自覚に於ける正観と反省」(大正六年十月刊)をさす』とあるが、これは「自覺に於ける直觀と反省」(大正六年十月六日岩波書店刊)の誤りである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。

「フヂヲカ」一高以来の友人で哲学者となった藤岡蔵六。複数回既出既注。

「円光のある中外」筑摩全集類聚版脚注に、『生田長江の戯曲「円光」の掲載された総合雑誌「中外」。この中外は創刊号(大正六年十月)である。同誌は大正八年四月頃終刊』したとある。三幕物で大正六年九月作。国立国会図書館デジタルコレクションの「生田長江脚本集」(大正年緑葉社刊)のここから読める。

「奧さん」夏目漱石の長女筆子。

「菅さん」菅虎雄。

「雁は見ず墮落(オロ)せと聲を聞く夜にて」この句、以前から今一つ句意が腑に落ちない。識者の御教授を乞うものである。]

大和本草諸品圖下 鮪(シビ)・江豚(イルカ)・スヂガレイ・カセブカ (マグロ類・イルカ類・セトウシノシタ・シュモクザメ)

 

7

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

鮪(シビ)

――――――――――――――――――

江豚(イルカ)

――――――――――――――――――

スヂガレイ シマガレイ

形扁(ヒラク)與鰈魚

相似爲

一長數寸

口甚小ナリ

相近而復

ナリ橫文十

數條兩端有

ㇾ鬣而遍腹白

文理味與ㇾ鰈同 爲海魚〔一〕尾小而黃

○やぶちゃんの書き下し文

すぢがれい 「しまがれい」。形、扁(ひら)く鰈魚〔(かれい)〕と相ひ似、一類と爲す。長さ、數寸、口、甚だ、小なり。目、相ひ近くして、復た、小なり。橫文〔(わうもん)〕十數條。兩端〔に〕鬣〔(ひれ)〕有りて、遍〔(あまね)〕く連なる。腹、白く、文理〔(もんり)〕無し。味、鰈と同じ。海魚と爲す。尾、小にして黃〔なり〕。

――――――――――――――――――

カセブカ

橫ハ縱(タテ)ニ比ス

レハ少短シ橫ノ

兩端ニ目アリ

是フカノ類

味亦同形

狀甚異ナリ

 

[やぶちゃん注:中央にケッタイな噴飯物のデフォルメ図。突き出た上下部分に「○」を打ってご丁寧に両方に「眼」と書く。頭部先に口らしき切れ込みがあり、尾は辛うじて鮫らしい感じの形。文字を消して右に九十回したら、隠れキリシタンの秘密のクルスかと見紛うトンデモ博物図譜である。]

 

其形狀

婦女ノ布ノ

經緯ヲ卷

トコロノカセ

ト云器ニ似

タリ

○やぶちゃんの書き下し文

かせぶか

其の橫は縱(たて)に比すれば、少なし、短し。橫の兩端に、目、あり。是れ、「ふか」の類〔(るゐ)なり〕。味〔も〕亦、同じ。形狀、甚だ、異なり。其の形狀〔は〕婦女の布の經緯〔(たていとよこいと)〕を卷くところの、「かせ」と云ふ器〔(き)〕に似たり。

[やぶちゃん注:「鮪(シビ)」はマグロ類。種は「大和本草卷之十三 魚之下 シビ (マグロ類)」を参照。

「江豚(イルカ)」はイルカ類。種は「大和本草卷之十三 魚之下 海豚(いるか)」を参照。この図、胸鰭・背鰭・腹鰭・尻鰭・尾鰭があって鰓孔まである! これは世界中の誰が見ても、ただの魚で、イルカと判る人は一人もいません! 絵師に話した相手もイルカを見たことがなかったんだろうねぇ……呆れ果てたわ……

「スヂガレイ」は図で少し考証し甲斐があった。結論を言うと、これは図から、棘鰭上目スズキ系カレイ目ウシノシタ亜目ササウシノシタ科セトウシノシタ属セトウシノシタ Pseudaesopia japonica

と同定する。酷似した横紋を持つ種にササウシノシタ科シマウシノシタ属シマウシノシタZebrias zebrinusがいるのだが(学名が名にし負うて凄いぞ!)、こちらは左右の連なる鰭(背鰭と尻鰭)が尾鰭の基部で結合して尾鰭がぼてっと繋がったようになっているのに対し、セトウシノシタは、僅かにその両軟条が一瞬、完全に切れて、改めて尾鰭として優雅に突き出ているのである。この図はそれをよく(初めて褒めた!)描いてあるからである。恐らくは、珍しく現物を見て描いたものと思われ、鰓孔の線もいい加減でない。快哉! 「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」WEB魚図鑑」のセトウシノシタをそれぞれリンクさせておいた。前者によれば、和名は『瀬戸牛舌』で、『瀬戸内海に多いウシノシタの仲間という意味』とあり、棲息域は『水深』百『メートル前後の砂泥地』で、分布は『北海道室蘭、津軽海峡〜東北地方沿岸、千葉県館山〜九州南岸の太平洋沿岸、新潟県佐渡〜九州西岸の日本海・東シナ海沿岸、瀬戸内海、東シナ海大陸棚斜面』及び『朝鮮半島南岸、台湾』とする。異名は「ウシノシタ」「シマウシノシタ」「シマシタ」「ゾウリガレイ」が挙がっている。本巻では、「大和本草卷之十三 魚之下 比目魚(カレイ) (カレイ・ヒラメ・シタビラメ)」及び「大和本草卷之十三 魚之下 鞋底魚(くつぞこがれい) (シタビラメ・ムシガレイ・ヒラメ)」で言及した。後者の方が詳しい。

「カセブカ」は、或いは、後に出る衝撃のカブトガニ(既にここで出したが)のそれよりもシュールかも知れん! 「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」及び、「大和本草附錄巻之二 魚類 フカノ類 (サメ類)」で「かせふ(ぶ)か」として言及している。「カセブカ」はメジロザメ目シュモクザメ科シュモクザメ属 Sphyrna の別名で、本邦産種は(シュモクザメという標準和名種は存在しない)、

シロシュモクザメ Sphyrna zygaena

ヒラシュモクザメ Sphyrna mokarran

アカシュモクザメ Sphyrna lewini

の三種である。「かせぶか」の漢字表記は「挊鱶」で、「桛(かせ)」とは、紡(つむ)いだ糸を巻き取るH型やX型の器具で、頭部の形状をそれに見立てたもの。このキャプションが言っているのもそのことである。]

伽婢子卷之六 死難先兆 / 伽婢子卷之六~了

 

   ○死ㇾ難先兆(なんにしすのせんてう)

 

Sisurunanizentyou

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」)のものを用いた。]

 

 享德(かうとく)年中に、細川右京大夫勝元が家人〔けにん〕、磯谷(いそのや)甚七といふもの、晝寢を致しけり。

 其の妻、面(おもて)に出〔いで〕たれば、誰とも知れざる人、右の手に、太刀を引きそばめ、左の手に、磯谷が首を、ひつさげて、走り出て、去りけり。

 妻、大〔おほき〕に驚き恐れて、内に入〔いり〕て見れば、磯谷は、前後も知らず、臥(ふ)して、あり。

 妻は、胸、つぶれ、手足、なえて、只、夢の如くに覺えたり。

 かくて、驚かしければ、磯谷、ねふりを覺まし、起きあがり、

「我れ、夢に、或る人、それがしの首、うちきりて、もち去る、と、みたり。怪しくも、心にかゝる也。」

とて、やがて、山臥(〔やま〕ぶし)を雇ひ、「夢ちがへの法」を、おこなはしむ。

 其月の末に、主君勝元が、將軍家に御いきどをりをかうぶる事ありて、是れを陳(ちん)じ申さんが爲に、とがを家人におふせて、是非なく磯谷が首を切らせ、これをもつて我身の科(とが)をのがれたり。

 

 

伽婢子卷之六終

[やぶちゃん注:「享德(かうとく)年中」歴史的仮名遣は「きやうとく」が正しい。一四五二年から一四五五年まで。室町幕府将軍は足利義政。

「細川右京大夫勝元」(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年)室町中期の武将。室町幕府管領。右京大夫(うきょうのだいぶ)。一時、武蔵守を兼ねた。細川持之(もちゆき)の子。嘉吉二(一四四二)年に十三歳で細川宗家を継ぎ、摂津・丹波・讃岐・土佐守護を兼任。文安二(一四四五)年、僅か十六歳で管領となり、幼少の将軍義政を助けた。前後三回延べ二十年あまりに亙って管領に在任した。山名宗全(持豊(もちとよ))の娘を妻とし、宗全と結んで、畠山氏の内争に干渉したが、次いで、政所執事伊勢貞親と結んで、赤松氏の再興を助け、斯波義敏・畠山政長を援助して、斯波義廉(よしかど)、畠山義就(よしなり)を援助する宗全と対立することとなり、遂に味方の諸大名を京都に結集させ、応仁元(一四六七)年、約十一年に及ぶ「応仁の乱」の口火を切ってしまった。勝元は将軍義政を擁し、東軍の総大将として宗全の率いる西軍と戦ったが、勝敗が決しないうち宗全が没し、勝元もその約二ヶ月後のに病没してしまった。生活は華美であったが、和歌・絵画・犬追物を嗜み、医術を研究し、また、妙心寺の義天玄承・雪江宗深に参禅、京に龍安寺、丹波に龍興寺を創建してもいる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「磯谷(いそのや)甚七」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「廿八日、徳本すでに建仁寺の西来院に居て政長に家督を継しむ。勝元これをめしつれて将軍家の御前にまかり出る。しかるに今度の事いきどをりふかくおはしましければ、勝元その家人磯谷(いそやの)某が所ㇾ為なりとて、これが首を切て陳じ申す(本朝将軍記・義政・享徳三年八月)』とある。この「本朝將軍記」は本書の筆者浅井了意の作であるが、史実としてあったらしい事件があるようである。

「驚かしければ」寝ている磯谷を起こしたところ。

磯谷、ねふりを覺まし、起きあがり、

「我れ、夢に、或る人、それがしの首、うちきりて、もち去る、と、みたり。怪しくも、心にかゝる也。」

「夢ちがへの法」悪夢を見た際、それが正夢とならぬように咒(まじな)いをすること。

「其月の末」先の注記載が事実なら、享徳三(一五四五)年八月の末ということになる。]

伽婢子卷之六 白骨の妖恠

伽婢子卷之六 白骨の妖恠

   ○白骨(はくこつ)の妖恠(ようくわい)

 

Hakkotunoyoukai

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」)のものを用いた。怪異のさった直後を描いたもの。佐太は向こう鉢巻きを締めており、両足の膝の下にある黒い部分から以下に脛巾(はばき:足の脛を保護するためのゲートル)を履いていることが判る。彼は隠棲者で庵に住んではいるが、別に正規の出家をした者ではなく、最初にも述べられている通り、生活のために柴を京の町で売って歩いていたのだから、腑に落ちる姿である。画面の右手に、そのボテ振りに振り分けられた柴の菰巻きが、突き立て刺した杖に支ええられて、立てかけてある。本文は単に塚と言っているが、崩れたそれは、絵を見るに、五輪塔、或いは、最下部の華飾りや傘の四角の盛り上がりからは宝篋印塔のようにも見える。絵師にとっては、ただの土饅頭では、崩れた様子が描きにくかったのであろう。]

 

 長間(ながまの)佐太は濃(ぢよう)州の者也。文龜丙寅(ひのへとら)の年、公方の軍役(ぐんやく)に驅(から)れて、京都に上り、役、果てゝ後も、國に歸らず。

 わすれてもまた手にとらじあづさ弓

   もとの家路をひきはなれては

と詠じて、道心、おこし、都の北、柏野(かしはの)のかたほとりに、草の庵〔いほり〕を結び、さすがに乞食(こつじき)せんもあまりなれば、北山に行〔ゆき〕て、柴といふものを買い受けて、都に出〔いで〕て、賣(うり)しろなし、少しの利を求め、餅(もちひ)くひ、酒、かうて、打飮みつゝ、庵にかへる時は、尻、うちたゝき、歌、うたひ、或る時は、房(てら)に行て、庭の塵(ちり)を掃治(さうぢ)し、佛前の塧(ほこり)をはらひ、日、暮(く)れて、道、遠ければ、堂の軒に、夜をあかし、明〔あく〕れば、又、柴をになひ、賣りけり。

 澁染(しぶそめ)の帷子(かたびら)一重(ひとへ)だに、肩・すそ、破れ侍れども、心にかゝるすべもなし。

 土岐成賴(ときなりより)が家人〔けにん〕石津(いしづ)の某(なにがし)といふものは、同國のよしみを以つて、小袖ひとつ・錢三百文を與へて、

「時々は、こゝへおはして、食事をも受け給へ。」

といふ。

 佐太、是れをとりて、庵に歸りしが、四、五日ありて、錢も小袖も、皆、返して、いふやう、

「物をたくはゆるといふは、妻子のある人にとりての事ぞや。我は、思ひ離れて、妻子も、なし。身ひとつは、行先を泊りと定め、食事は、あるにまかせ、物事に心をとゞめねば、樂しさ、いふばかりなし。然るを、此小袖・錢を庵におきぬれば、外に出ては、『早く歸らん』と思ひ、出る時には戶をたて、『盜(ぬす)人にとられじ』と、用心に、隙間なく、此の程のたのしみ、ことごとく、うせはてたり。只、これ程の物に心をつかはれむは、誠に淺間しからずや。」

とて、返し侍べり。

 或る日、北山に赴き、歸るさ、遲く、蓮臺野(れんだいの)にさしかゝりては、夜半ばかりと覺ゆ。

 道のかたはらに、ひとつの古塚(ふるつか)ありて、俄かに、兩方にくづれ、開(ひら)けたり。

 佐太は、心、もとより、不敵にして、力も强かりければ、少しも驚かず、立〔たち〕とまりて、みれば、内より、ひかり出〔いで〕て、あたり迄、輝く事、松明(たいまつ)の如し。

 一具の白骨ありて、頭(かうべ)より足まで、全く、つゞきながら、肉もなく、筋(すぢ)も見えず。

 只、白骨のみ、かうべ・手足、つらなりて、臥し(ふし)てあり。

 其外には、何も、なし。

 この白骨、俄かに、

「むく」

と起き上がり、佐太に、

「ひし」

と、いだきつきたり。

 佐太は、したゝか者なれば、力にまかせて、突きければ、のけさまに、たふれて、頭(かしら)・手足、

「ばらばら」

と、くづれちり、重ねて動かず。

 火の光も消えて、くらやみになりたり。

 如何なる人の塚とも、知れず。

 次の日、行て見れば、白骨、くだけ、塚、くづれてあり。

 後に、佐太は、其の終はる所を、知らず。

[やぶちゃん注:「長間(ながまの)佐太」不詳。

「濃(ぢよう)州」美濃国。

「文龜丙寅(ひのへとら)の年」文亀(一五〇一年~一五〇四年)年中に丙寅の年はない。

「公方の軍役(ぐんやく)」文亀元(一五〇一)年六月十日に室町幕府第十一代将軍足利義澄は大内義興(よしおき)の討伐令を発布してはいる。

「わすれてもまた手にとらじあづさ弓……」特に元歌は認められない。

「柏野(かしはの)」現在の京都府京都市北区紫野下柏野町(グーグル・マップ・データ。中央下方)他辺り。岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の注によれば、『古くは蓮台野に続く広野で墓地でもあった』とある。ここから北に紫野、そして画面中央上方に、古くからの京の葬送地(火葬場)として知られ、最後の怪異のロケーションとなる蓮台野(地名としては北区紫野東蓮台野町が残る)がある。

「塧(ほこり)」底本の漢字であるが(音「アイ」)、これは「険(けわ)しい」の意でおかしい。元禄版はひらがなで「ほこり」である。「新日本古典文学大系」版では、『壒』(音「アイ」)とあって納得した。これは「土煙」とか「塵(ちり)」の意だからである。

をはらひ、日、暮(く)れて、道、遠ければ、堂の軒に、夜をあかし、明〔あく〕れば、又、柴をになひ、賣りけり。

「澁染(しぶそめ)」「しぶぞめ」で、柿渋で染めること。「新日本古典文学大系」版脚注には、『青い柿の渋い汁でそめたもの。色は黄味の灰赤』とある。

「帷子(かたびら)」裏をつけない布製の衣類の総称。夏は直衣(のうし)の下に着す下着相当である。

「土岐成賴(ときなりより)」(嘉吉二(一四四二)年~明応六(一四九七)年:「しげより」とも読む)は室町時代の武将。一色義遠(よしとお)の子。一説に饗庭(あえば)元明の子とも。土岐持益(もちます)の養子となり、美濃守護を継いだ。「応仁の乱」では西軍の山名持豊(もちとよ)方に加わり、乱後は足利義視・義材(よしき:後の義稙(よしたね))父子を伴って美濃へ戻った。明応四(一四九五)年、「船田合戦」で跡継ぎに長男政房を推す守護代斎藤利国に敗れて隠居した。

「石津(いしづ)の某(なにがし)」不詳だが、美濃国には石津郡があるから、或いは元はそこの出の国人であった可能性が高い。

「小袖」現在の和服のもととなった袖口の小さく縫い詰めてある衣服。室町頃には身分を問わず、普段着の上着となっていた。

「錢三百文」当時でも、たかだか現在の千三百円ほどでしかない。

「歸るさ」名詞。帰る時。

「一具」一揃い。

「筋(すぢ)」肉に比べて比較的腐りにくい腱。或いは髪の毛一筋をもなかったことを言うのかも知れない。

「したゝか者」「强(健)か者」で、強く勇猛な者の意。

「のけさまに」仰向けに。

「重ねて」二度とは。

「後に、佐太は、其の終はる所を、知らず」何となく仙化(せんか)したようなニュアンスである。]

日本山海名産図会 第四巻 白魚

 

Sirauo

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。キャプションは「西宮白魚(にしのみやしろうを)」。]

 

  ○白魚(しろうを)【「大和本草」に『鱠殘魚(くわいさんぎよ)』といふて前說(ぜんせつ)、『キスコ』といふ說を非(ひ)せり。】

攝州西宮(にしのみや)の入江に、春、二、三月の頃、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]の間に、五所(いつところ)ばかり、藁小屋(わらこや)を作り、両岸(りやうきし)同しく、犬牙(くひちがひ)に列(つら)なり、罶簄(やな)の橛(くひ)[やぶちゃん注:底本では「木」(へん)ではなく、「扌」に見えるが、こちらで採った。]を川岸より、一、二間[やぶちゃん注:約一・八二から三・六四メートル。]許り、打ち出し、是れに水を湛(たゞよ)はせ、潮(しほ)の滿つるに、魚、登り、引潮に下(くだ)るの時、此の橛の間に聚まるを待ちて、かねて、柱の頭に穴して、䋄の綱を通はせ、穴に小車(こくるま)をかけて、引きて、網の上下(あげおろし)をなす。䋄は、蚊屋の布の四手(よつで)にて、橛の傍、魚の聚まる方(かた)におろし置きて、時々、是れをあげて、杓(しやく)の底を、布にて張りたる儻(たま)にて、すくひ採るなり。尙、圖のごとし。○案ずるに、此の法、古(いにし)へ、宇治川の「網代木(あしろき)」に似たり。網代木は、橛を、二行に、末廣く、䋄を打ちたるやうに打ちて、其の間へ、水と共に、氷魚(ひお)も湛(たゞよ)ひ留(たま)るを、網代守(あしろもり)、䋄して採れり。「萬葉集」に、

 武士(ものゝふ)の八十宇治川の網代木にいさよふ波の行衞(ゆくへ)しらずも

是れ、水のたゞよふを、詠めり。案ずるに、白魚(しろうを)・氷魚(ひを)、又、三月比(ころ)、海より多く上(のぼ)る。「麵條魚(とろめさこ)」、又、「シロウヲ」ともいひて、俗に、『「鮎(あゆ)」の苗(こ)なり』と云ふもの、ともに、三種、皆、同物別種の物にて、春は「塩さかひ」に生じ、「氷魚」は冬、湖中、波、あらき、さかひ、宇治川田上(たなかみ)に生する事、其の理(り)、一なり。又、「ドロメ」は「鮎(あゆ)」の苗(こ)なり。鮎は年魚(ねんぎよ)にして、年限(としかぎり)の物なれば、上に子を孕みて、身、重き故に、秋、海をさして落ちて、「塩(しほ)さかひ」に產めり。故に江海(こうかい)より登りて、したひに、生長す。是を、浪花、川口にとること、纔[やぶちゃん注:「わづか」。]十日ほとの間なり。又、「チリメンザコ」、「チリメン小アユ」は、則ち、「麵條(どろめ)」の塩干(しほほし)なり。此の物、東武に、なし。「本朝食鑑」に、『白魚(しろうを)は氷魚(ひを)の大(おほ)いなる物なり。江海の中(うち)に生(せう)し、春に至つて、海に登り、二、三月の際(あいた)、子を水草・沙石(させき)の間(あひだ)に生み、其の子、長じて氷魚(ひを)となり、江海に至つて、又、長(ちやう)して、白魚となる』と云ふは、無覺束(おぼつかなき)説なり。

○備前平江(ひらへ)・勢刕桑名等の白魚(しろうを)は、立䋄(たてあみ)、又、「前がき」をもつて、取り、桑名の立網は、長(たけ)七丈、下垂(たれ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]三丈斗(はか)り、䋄の目、一步(ふ)ばかり。「アバ」は桶にて、「イハ」は鈆(なまり)なり。七人宛(づゝ)乘りたる舩五艘、沖より、䋄を入れて、五艘を舫(もや)ひ繋(つな)きて、礒(いそ)へ漕ぎよするなり。䋄の長さ、百尋許りにして、一䋄に獲ること、大凡(およそ)二石許り。魚、澤山なるゆへに、貨(う)るに、升(ます)をもつて、はかる。又、「目差(めさし)」といひて、竹に多く刺し連ねたる物、此の地の產なり。䋄する所は、赤すが・濱地藏・龜津(かめつ)・福嵜(ふくさき)・豊田(とよた)・一色(いつしき)などに採れり。此の間(あひだ)、三里の海路(かいろ)にして、其の中(なか)に橫枕(よこまくら)といふ所は、尾刕・勢刕のさかひなり。尾刕の方(かた)には、白魚(しろうを)なく、桑名の方には蠣(かき)なし。偶(たまたま)得るとも、味、必ず、美(び)ならず。人、是れを一竒(いつき)とす。案ずるに、是れ、前にいへる「潮(しほ)さかひ」なり。元、伊勢の海は、入江にして、桑名福嶌(ふくしま)は、則ち、川口(かはぐち)なり。上は木曾川にて、其の下流、爰(こゝ)に落つる。西宮に生ずる、其の理(り)、同し。

○一種、「鰯(いはし)の苗(こ)」といふ物、「鵞毛※(いささ)」と云ふ[やぶちゃん注:「※」=「月」+「廷」。]。又、潮水(しほみつ)に產するに、同物あり。一名(めう)「サノホリ」と云ふて、冬月(ふゆ)、採る也。若刕にも、似たる魚、有り、「アマサキ」と云ふ。仲冬(ちうとう)より、初春に至る。又、筑前に「シロウヲ」といふ物、小にして、長さ一寸ばかり、腹の下に、小黑(こくろ)き點、七つあり、大小に抱(かゝは)らず。

[やぶちゃん注:これは、基本、

条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae シロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii

の記載である。孰れも河口付近の汽水域に棲息し、捕獲漁法も似ているが、現在の流通に於いては、条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科シラウオ属シラウオ Salangichthys microdon が混同されることはないのだが、古くはそんな和名の区別はなかったし、この蒹葭堂の記載でも後に行くほど、怪しい臭いが充満してくるし、いや、現代でも、一般人だけでなく、地方によっては、シロウオ漁専門の漁業者自身がシロウオを「シラウオ」と呼んでいたり、シロウオ漁を解説するのに「白魚」を「しらうおりょう」としている現実がある。蒹葭堂が引いている貝原益軒の「大和本草」であるが、まず、益軒はシロウオとシラウオの区別をちゃんとしてはいる。

「大和本草卷之十三 魚之上 麵條魚(しろうを) (シロウオ)」

と、

「大和本草卷之十三 魚之上 鱠殘魚(しろうを) (シラウオ)」

で明らかである。但し、蒹葭堂が引いている方は、実は後者で、既にしてその冒頭から、実は誤っている(益軒に弁別をちゃんと認識していない)ことに注意しなくてはならないし、これとは別に、蒹葭堂の叙述の中にも、両者を混同していると思われる箇所があるので注意が必要である。因みに、俳諧の読み込まれた「白魚」は混淆甚だしく、しかも判別は殆んど不可能に近いと言える(基本、シラウオ漁と食文化が比較的東日本に多く、江戸で詠まれたそれは圧倒的にシラウオを指すことが多いと思われる。)。なお、他に、益軒も、周の武王の船に飛び入ったことで知られる「白い魚」を考証する以下では、とんでもないことになっているのも確認されたい。

「大和本草卷之十三 魚之下 白魚 (混沌にして同定比定不能)」

また、和歌山県有田郡湯浅町町役場の公式サイトのこちらでは、当地のシロウオとシロウオ漁を語りつつ、簡潔に判りやすく両者の違いも画像入りで示してあるので参照されたい。正直、私はシロウオは漢字で「素魚」とし、シラウオは「白魚」とすればよかったのにと考えている。

『「大和本草」に『鱠殘魚(くわいさんぎよ)』といふて前說(ぜんせつ)、『キスコ』といふ說を非(ひ)せり。「大和本草卷之十三 魚之上 鱠殘魚(しろうを) (シラウオ)」』で詳しく注しておいた。「鱠殘魚」はしかし、古代の黄河中流で「白魚」を本邦の魚種として考証しようとすることが基本・土台どころか、地殻・プレートのレベルで大間違いなのである。「キスゴ」はスズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス(鱚)類、或いは同科キス属シロギス Sillago japonica の別名である。話にならない。「一昨日来いや!」って部類である。

「攝州西宮(にしのみや)」現在の兵庫県西宮市。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のシロウオのページに(山口県萩での四手網漁の写真もある)、『『日本山海名産図絵』には〈西宮 白魚〉があって、絵図には間違いなくシロウオ漁である』とある。但し、この書の書誌を引用よりも前の所で、本書が元本とした宝暦四(一七五四)年に板行された物産図会「日本山海名物圖會」(平瀬徹斎編著・長谷川光信画)の書誌データを誤って記載している。「日本山海名物圖會」には「白魚」は載らない(国立国会図書館デジタルコレクションで確認済み)

「犬牙(くひちがひ)」「けんが」。この意味の用法がある。

「罶簄(やな)」「簗(やな)」(川の瀬などで魚をとる仕掛けの一つ。木・竹を並べて水を一か所に流すようにし、そこに来る魚を、斜めに張った簀(す)などに受けて捕らえる装置)に同じだが、所謂、「やな」でも、魚をとらえるための広義の漁具や装置の総称である(本邦では「梁」というと、川の中に足場を組んで、木や竹で簀の子状の台を作った梁(やな:狭義)という構造物を設置し、泳いできた魚がかかるのを待つ漁法を指すことが多い)。「罶」は音「リウ(リュウ)」で、原義は古代の竹籤(たけひご)で編んだ籠のことで、単漢字でも魚を捕らえるための漁具を意味し、「簄」(音「コ・ゴ・コウ」)は本邦では「えり」(「魞」とも書く)で、河川・湖沼・内湾に於いて葦簀(よしず)や竹垣を魚道に迷路のように張り立てることで魚を自然に誘導して捕らえる定置漁具(琵琶湖のものが有名)を指す。

「橛(くひ)」「杭」に同じ。この漢字には「棒杭(ぼうぐい)」の他、「切り株」や馬具の轡(くつわ:馬の口に銜(くわ)えさせるもの)」の意がある。

「湛(たゞよ)はせ」湛えさせておいて、その場に漂わせ、の意であろう。

「蚊屋」「蚊帳」に同じ。

「杓(しやく)」柄杓。

「儻(たま)」攩網(たもあみ)。

「網代木(あしろき)」狭義には網代(川の瀬に設ける魚捕りの設備。数百の杭を、網を引く形に打ち並べ、その杭に経緯(たてぬき:縦網とぬき網(横網))を入れ、その終端に筌(うけ:河川・湖沼・​浅海の水底の魚道の要衝に敷設し、魚類の行動生態を利用してその中に陥穽させて捕獲する漁具)などを備えた簗のようなもの。冬、京都の宇治川で、氷魚(ひお:後述)を捕えるのに用い、それが古来より著名であった)を支えるために、水中に打った杭を指すが、和歌では音節数の関係で単に網代全体の意で用いることが多く、ここでもそれ。網代は参照したネットの「精選版 日本国語大辞典」のそれを参照されたい。

「氷魚(ひお)」読みはママ。「ひを」が正しい。「ひうを」の縮約。鮎の、体に色素細胞がまだ殆んど現われていない稚魚のことを指す。長さは二、三センチメートルに過ぎず、呼称は殆んど無色半透明で、死ぬと白濁することによる。秋から冬にかけて琵琶湖で漁れるものが有名で、古来、詩歌俳諧によく詠まれた。

「網代守(あしろもり)」上のリンク先の図に描かれてある。

『「萬葉集」に……』巻第三の柿本人麻呂の一首(二六四番)、

   柹本朝臣人麿の近江國より上り來し時に、

   宇治河の邊(ほとり)に至りて作れる歌一首

 もののふの

    八十氏河(やそうぢがは)の

   網代木(あじろぎ)に

  いさよう波の

       行く方(へ)知らずも

「もののふの八十」はこの歌などで知られる「氏(うぢ)」を導く序詞で、「氏」に「宇治」を掛けた。後に「もののふの」は枕詞となった。物部麻呂一族の行く末の不安、ひいては人の無常を詠んでいる。

「麵條魚(とろめさこ)」「大和本草卷之十三 魚之上 麵條魚(しろうを) (シロウオ)」では、正統のシロウオを指しているので問題はないが、「とろめさこ」とは、恐らく、「半透明で細長い「とろん」とした麺のような小さな雑魚(ざこ)」を意味しており、これは、例えば私の好きな「のれそれ」(アナゴ類(新鰭亜綱カライワシ上目ウナギ目アナゴ亜目アナゴ科 Congridaeのレプトセファルス(Leptocephalus)幼生。Leptocephalus はラテン語で「Lepto(小さい)」+「Cephalus(頭)」の意。ウナギ目 Anguilliformesなどを含むカライワシ上目 Elopomorpha に分類される魚類の幼生魚の学術名)などこそ、こう呼ぶに相応しいと思っている。なお、「のれそれ」はその柔軟な魚体から「伸(の)り反(そ)り」の変化した語かともされる。

「塩さかひ」河川河口付近の海水と淡水の交わる「潮境」のこと。

「宇治川田上(たなかみ)」大津市田上地区。或いはそこを貫流する大戸(だいど)川の別称「田上川」。「たがみがわ」とも称し、「谷上川」とも書く。宇治川の上流瀬田川に合流する。

『「ドロメ」は「鮎(あゆ)」の苗(こ)なり』各地で古くから複数の全く異なる魚種の稚魚を「いさざ」や「どろめ」などの呼称で呼ぶ傾向がある。鮎でも稚魚をかく呼ぶ地方があるか。但し、現行では「ドロメ」という標準和名のそれは、スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae アゴハゼ属ドロメ Chaenogobius gulosus であり、高知などではイワシ類の稚魚を指す。

「鮎は年魚(ねんぎよ)にして、年限(としかぎり)の物なれば」ウィキの「アユ」によれば、通常、『産卵を終えたアユは』一『年間の短い一生を終えるが、広島県太田川、静岡県柿田川などの一部の河川やダムの上流部では』、『生き延びて越冬する個体もいる』。『太田川での調査結果からは、越年アユは全て雌である。また、再成熟しての産卵は行われないと考えられている』とあり、「飼育」項には、『観賞魚として水槽内で飼育した場合は成熟までに至らないケースが多いため』一『年から』三『年は生きる』とある。

「浪花、川口」大阪湾奥の淀川などの河口付近の意。

「チリメンザコ」「縮緬雜魚」。ウィキの「ちりめんじゃこ」によれば、『ちりめんじゃこ(縮緬雑魚)は、イワシ類[やぶちゃん注:条鰭綱ニシン目ニシン亜目 Clupeoidei の中の複数種の流通上の人為分類である。](カタクチイワシ・マイワシ・ウルメイワシ・シロウオ・イカナゴなど)の仔稚魚(シラス)を食塩水で煮た後、天日などで干した食品』。『ごく小さな魚を平らに広げて干した様子が、細かなしわをもつ絹織物のちりめん(縮緬)を広げたように見えることからこの名前がついた』。『魚そのものはシラスといい、固く干さない状態のものはその名で呼ばれることもある』。『収量が多く、油分の少ないカタクチイワシ』(条鰭綱ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonicus )『の仔魚が用いられることが多い。ちりめんじゃこの体長は一般に』三センチメートルに『満たないものを指し、より大きいものは「カエリ」と呼ばれることがある』とある。「シロウオ」も入っているから、まあ、いいか。

『「本朝食鑑」に……』国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここの「集解」の冒頭部の継ぎ接ぎだが、確かに全体を読むと、「無覺束(おぼつかなき)説なり」とぼやきたくはなる内容である。

「備前平江(ひらへ)」「平井」の誤り。現在の岡山県岡山市中区平井。必死で「平江」で探したが、どこにもなかった。ところが、多数のフレーズで検索するうち、「岡山市電子町内会」のサイトの『「ふるさと平井」シリーズ№5』の「平井の白魚」に、『岡山の白魚が有名なのは随分古くからである。醍醐朝の頃』(九〇〇年前後)『の書物に備前国貢進物として「押(おし)年魚」「煮塩(にしお)年魚」とある。この年魚こそ白魚のことで「押年魚」とは乾かした白魚、「煮塩年魚」は白魚の塩物のことである。白魚はおよそ』千『年も前から備前の名物だったことがわかる。また食鑑(しょくかがみ)という本には「備前の平江(平井のこと)』(☜!)『、伊勢の桑名に多し」と書いてあり、東備郡村誌の平井村の項に「冬に至ればシラウオ多し、味他処の産に勝る」と記されている。寺小屋で使われた教科書備前往来にも「額が瀬の蜆(しじみ)、平井の白魚」とある。白魚は古くから平井の特産物だったようである』とある。しかし、ここに問題が生ずる。後でこの筆者は『なおよく似た発音の魚にしろうおと呼ばれるものがあるが、これはハゼ科の魚で生態などはよく似ているが全く異種のものである』あるとあるからである。則ち、ここ備前平井で獲れたのは、シロウオではなく、シラウオであったのである。而して並置される「勢刕桑名」で獲れるのも、同じくシラウオであって、ここに蒹葭堂は致命的に両種を混同していることが明白となってしまうのである。

「立䋄(たてあみ)」水中に錘(後の「イハ」(岩))で沈めて、桶の「アバ」(浮き)で支え立てる「建て網」。

「前がき」「前搔き」で、攩網様のものか。

「百尋」既に述べたが、「尋」の江戸時代のそれは正確な規定値がないが、明治時代の換算では一尋は約一・八一八メートルとされた。但し、一尋を五尺(約一・五一五メートル)とすることもあるという。前者換算で約百八十二メートル、後者で約百五十一メートルとなる。規模が大きい。

「二石」米俵五俵分。

「貨(う)る」「賣る」に同じ。

「赤すが」現在、三重県桑名市赤須賀元赤須賀が、揖斐川河口に近い右岸にある。

「濱地藏」赤須賀の南に接する桑名市地蔵

「龜津(かめつ)」不詳。順列から揖斐川右岸の旧地名であろう。

「福嵜(ふくさき)」不詳だか、揖斐川河口右岸のこの附近に福江・福地の地名が見出せる。

「豊田(とよた)」揖斐川河口から四キロメートル弱離れた位置に、三重県三重郡川越町豊田ならあるが、ここだけが離れるのはおかしいので、桑名市内の旧地名の可能性が高い。

「一色(いつしき)」前の赤須賀地区の西に桑名市一色町がある。

「橫枕(よこまくら)」三重県桑名市長島町横満蔵(よこまくら)のことであろう。現在、木曽川・長良川・揖斐川に挟まれた輪中の河口近くにある。この輪中は上流部で愛知県(「尾刕」)と三重県(「勢刕」)の県境となっている。

「桑名福嶌(ふくしま)」三重県桑名市福島。以下は、現在と当時の河川の経路が異なるので、問題ない。

『「鰯(いはし)の苗(こ)」といふ物、「鵞毛※(いささ)」と云ふ』(「※」=「月」+「廷」)「いさざ」は「魦」と書き、シロウオの別名でもあるに、蒹葭堂の混乱は元に戻らないでいる。

「サノホリ」不詳。識者の御教授を乞う。「さのぼり」であるなら、田植えの終わりに田の神を山に送る祭りであるが、時節が合わない。

「アマサキ」不詳。識者の御教授を乞う。

『筑前に「シロウヲ」といふ物、小にして、長さ一寸ばかり、腹の下に、小黑(こくろ)き點、七つあり、大小に抱(かゝは)らず』福岡は現在もシロウオ漁が盛んである。]

2021/06/09

大和本草諸品圖下 クチミ鯛・ナキリ・オフセ・クサビ (フエフキダイ・ギンポ・オオセ・キュウセン)

 

6

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

クチミ鯛

 口尖色淡黒

 味與ㇾ鯛相似

 較(ヤヽ)劣(ヲト)

○やぶちゃんの書き下し文

くちみ鯛

口、尖り、色、淡黒。味、鯛と相ひ似て、較(やゝ)劣(をと)る。

――――――――――――――――――

ナキリ

 海魚也

 尺餘首如ㇾ鰷

 身ハ鰻鱺ノ如ニ

 シテ橫扁シ味

 不ㇾ美肉硬シ

○やぶちゃんの書き下し文

なきり

 海魚なり。尺餘り。首、鰷〔(あゆ)〕のごとく、身は鰻鱺〔(うなぎ)〕のごとくにして、橫扁〔(わうへん)〕し、味〔は〕美〔(うま)から〕ず、肉〔も〕硬し。

――――――――――――――――――

ホフセ

フカ。サヽエワリ。モダ

マノ類ナリ遍身ウス

子ズミ色ナリ黒

㸃多シ腹白口※

[やぶちゃん注:「※」=「氵」+「闊」。]

鬣(ヒレ)大小三所ニ

アリ。ヒゲアリナ

マヅノ如目ノ傍ニ

耳穴アリ其

強(ツヨク)シテ死ガタシ

 

身ヲ切

𪜈猶動

熱湯

以ユビ

キテ指(サシ)

 身(ミ)

 トス

味ヨシ

形コチニモ蟾ニモ似タリ

○やぶちゃんの書き下し文

ほふせ

ふか。「さゞえわり」・「もだま」の類〔(るゐ)〕なり。遍身、うすねづみ色なり。黒㸃、多し。腹、白く口※〔(ひろ)〕し[やぶちゃん注:「※」=「氵」+「闊」。]。鬣(ひれ)、大小、三所〔(さんしよ)〕にあり。ひげ、あり、「なまづ」のごとし。目の傍〔ら〕に、耳〔の〕穴、あり。其の性、強(つよく)して、死にがたし。身を切れども、猶ほ、動く。熱湯を以つて、ゆびきて、指身(さしみ)とす。味、よし。形、「こち」にも、蟾〔(ひきがへる)〕にも、似たり。

――――――――――――――――――

クサビ 海魚ナリ

 長五六寸ニ

 不過身薄

 目ノフチ白シ

 兩傍ノ中(ナカ)

 筋黒シ味

 美

○やぶちゃんの書き下し文

くさび 海魚なり。長さ、五、六寸に過ぎず、身、薄く、目のふち、白し。兩傍の中筋(なか〔すぢ〕〕、黒し。味、美〔(よ)〕し。

[やぶちゃん注:「クチミ鯛」は、「大和本草附錄巻之二 魚類 クチミ鯛 (フエフキダイ)」で考証した通り、

スズキ目スズキ亜目フエフキダイ科フエフキダイ亜科フエフキダイ属フエフキダイ Lethrinus haematopterus

でよい。

「ナキリ」は魚体と和名の「菜切り」(「菜切り庖丁」のミミクリー)という名から、

スズキ目ゲンゲ亜目ニシキギンポ科ニシキギンポ属ギンポ Pholis nebulosa

大和本草卷之十三 魚之下 ナキリ (ギンポ)」で比定済み。この「味〔は〕美〔(うま)から〕ず、肉〔も〕硬し」とキャプションに書いた奴は、不幸にしてギンポの天ぷらを食ったことがない哀れな輩である(リンク先も参照)。ここで首が「鰷〔(あゆ)〕」(一般には複数の魚類を指す「はや」と読むのが現行のこの漢字の常道だが、ここでは「大和本草卷之十三 魚之上 鰷魚 (アユ)」で「アユ」と訓じていることや、「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」でも、寺島良安はアユに、この「鰷」の字を当てていることから、「あゆ」と読んでおいた)似ていると言っているが、どこがどう似ているのか、ぜひとも筆者と対決したいものだ。秘かに本巻と比較して、「鰌」(どじょう)とするところを誤っているのではないか? されば、この下手な絵(絵の才能のない私でさえももっと正確には描ける)、キャプションも、益軒の正真正銘の不肖の弟子の書いたものとすれば、頗る納得出来るわけである。

「オフセ」実は既に、「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」の「をほせ」の注で、このキャプションも電子化した上で、慎重に考証済みであるので、そちらを見られたい。「ふか」=サメ類の、

板鰓亜綱テンジクザメ目オオセ科オオセ属オオセ Orectolobus japonicus

である。オオセは「なまづ」「蟾〔(ひきがへる)〕にも、似たり」なんどと言われている通り、頭部はヒキガエルを押し潰したような体型で、尚且つ、奇体な突起物が多く、迷彩色のような紋様も含め、「異形(いぎょう)」と言うべき魚の一つと言える(但し、私は好きである。学名のグーグル画像検索を示しておく)。「さゞえわり」は「榮螺割り」で、ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus の異名としてよく知られる。「もだま」は恐らく「藻玉」で、ジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo などに代表されるサメ類の総称(但し、益軒の場合はスマートなエイ類も含まれる)。

「クサビ」これは珍しく図を見て、

スズキ目ベラ亜目ベラ科カンムリベラ亜科キュウセン属キュウセン Parajulis poecilopterus

と即座に断じた。「味、美〔(よ)〕し」には大賛同する。キス釣りの外道としてよくかかる虹色の鮮やかな魚で、色の関係で好まぬ人が多いように思われるが、焼いて食うと、実はまことに美味いのである。因みに、「キュウセン」は「九線」で、♀に九本の縦縞が見えることに由来する。ここに出る「くさび」は体型から「楔(くさび)」のミミクリーである。]

伽婢子卷之六 蛛の鏡

 

   ○蛛(くも)の鏡(かゞみ)

 

Kumonokagami

 

[やぶちゃん注:同じく底本の昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」の見開き二ページ分の大きなそれをトリミング補正して用いた。妻は勇敢に柄の長い鉞(まさかり)を肩にする。向こうの妻の右橫にいるのが息子であろう。]

 

 永正年中の事にや、越中の國砺並(となみ)山のあたりにすむ者あり。常に柴をこり、山畑を作り、春は蠶(かひこ)を養うて、世を渡る業(わざ)とす。蠶する比〔ころ〕は、猶、山深く入〔いり〕て、桑の葉を買ひもとめ、夏に至れば、又、山中の村里を尋ねめぐり、糸帛(いとわた)を買ひあつめ、諸方に出〔いだ〕し、あきなうて、利分(りぶん)を求む。

 山より、山をつたひて、深く分入〔わけいる〕ところ、谷、深く、水、みなぎりて、渡りがたき所、多し。或は、藤葛(〔ふぢ〕かづら)の大綱(〔おほ〕づな)を引渡し、苔の兩岸の岩根・大木に、つなぎ置く。道行(ゆく)人、この綱に取つき、水を渡る所もあり。然らざれば、みなぎる水、矢よりはやくして、押し流され、岩角(〔いは〕かど)に當りて、くだけ、死す。或は、東の岸より西の岸まで、葡萄蔓(ぶどうづる)の大綱を引張り、竹の籠(かご)を懸け、道行〔みちゆく〕人を、是れに乘せ、向ひより、籠を引寄する。その乘(のる)人も、みづから、綱(つな)をたぐりて、傳ひ渡る。もし、籠の緖(を)、きれおつれば、谷の逆(さか)卷く水に流れ、岩に當りて、死する所もあり。

 五月の中比、砺並の商(あき)人、糸帛を買ふために、山中、深く赴きしに、さしも險しき谷に向ひ、岸は屛風をたてたるが如く、水は藍(あゐ)をもむに似て、大木、はえ茂り、日影もさだかならぬに、谷のかたはらに、徑(わたり)三尺ばかりの鏡、一面(〔ひと〕おもて)あり。

 其の光り、輝きて、水にうつりて見えたり。

「かのもろこしに聞えし、楊貴妃帳中の『明王鏡(みやうわうきやう)』、汴州(へんしう)張琦(ちやうき)が『神恠鏡(しんくわいきやう)』といふとも、これには、まさらじ。百練(〔ひやく〕れん)の鏡、こゝに現れしや、天上の鏡のおちくだれるや、いかさまにも靈鏡なるべし。岩間を傳ひて、取りて歸り、德、つかばや。」

と思ひ、其あり所を、よく見おほせて、家に歸り、妻に物語りければ、妻のいふやう、

「いかでか其谷かげにさやうの鏡あるべきや。たとひありとても、身に替へて寶を求め、跡

に殘して何にかせむ。もし、足をあやまち、水に落ち入らば、悔(くや)むとも、甲斐なからん。只、思ひとまり給へ。」

といふ。

 商人、いふやう、

「更に、あやまち、すべからず。未だ人の見ざるあひだに、早く、とりをさめて、德つかばや。」

とて、夜の明くるを、

「遲し。」

と、刀を橫たへ、出〔いで〕て行く。

 妻、こゝろもとながりて、召使ふ男一人、我子と共に三人、鐵垢鑓(さびやり)・鉞(まさかり)なんど、もちて、跡より、追ふて行く。

 山深く入て、谷に向へば、白き光り、輝き、まろく、明らかなる大鏡(〔おほ〕かゞみ)あり。

 商人、谷の岩かどを傳ひ、其光のあたり近く行〔ゆく〕かと見れば、大音あげて、さけび呼ぶ事、只、一聲にて、音も、せず。

 妻と子と、驚きて、谷にくだりければ、商人は蠶の繭の如く、糸にまとひ包まれて、大なる蜘蛛の、黑色なるが、取り付きて、あり。

 三人のもの、立〔たち〕かゝりて、鑓にて、つきおとし、鉞(まさかり)にて、切〔きり〕倒し、刀を以つて、糸を割(さき)破りしかば、商人は、頭(かしら)の腦(なう)、おちいり、血、流れて死す。

 その蜘蛛の大〔おほい〕さ、足を伸べたるかたち、車の輪の如し。

 妻子、なくなく柴をつみ、火を鑽(き)りて、蜘蛛(くも)を燒きければ、臭き事、山谷に滿ちたり。

 夫(をつと)の尸(かばね)をば、とりて、歸り、葬(さう)しけり。

 其かみより、鏡に化(け)して、をりをり、人をたぶろかし、とりけるとぞ。

[やぶちゃん注:「永正年中」一五〇四年~一五二一年。室町幕府将軍は第九代足利義澄・足利義稙(よしたね)。永正四(一五〇七)年、幕府の権力を掌握していた細川氏(京兆家)の内部対立から、細川政元が暗殺されるという「永正の錯乱」が勃発、これを契機として、畿内では将軍家を巻き込んで各勢力が対立・衝突する「両細川の乱」が始まった。

「越中の國砺並(となみ)山」富山・石川県境にある山地。北方の宝達丘陵と南方の両白山地との間にあり、標高は最高地点で二百七十七メートル。越中と加賀を結ぶ通路が開け、倶利伽羅峠は軍事の要衝でもあった。北陸道は尾根沿いに通っていた。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「糸帛(いとわた)」絹糸と木綿(きわた)。或いは前者。

を買ひあつめ、諸方に出〔いだ〕し、あきなうて、利分(りぶん)を求む。

「葡萄蔓(ぶどうづる)」ブドウ目ブドウ科ブドウ属ヤマブドウ Vitis coignetiae やブドウ属

エビヅル変種エビヅル Vitis ficifolia var. lobata などの蔓。

「大綱を引張り、竹の籠(かご)を懸け、道行〔みちゆく〕人を、是れに乘せ、向ひより、籠を引寄する」所謂、「籠渡し」である。

「商(あき)人」「あきびと」「あきんど」「あきうど」と多様に読め、確定は出来ない。元禄版でもこの熟語に対する全部の読みは出てこない。

「鏡一面」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)には、ここに注して、『「越中国礪波郡といふ処に袴腰と云ふ山あり。ここにも石室ありて中に一鏡及び室中に石の書籍あり。(略)市右衛門と云ふ者、此の室中に入りて遂に還らず」(『広大和本草』別録、下一)』とある。

「楊貴妃帳中の『明王鏡(みやうわうきやう)』」「新日本古典文学大系」版脚注には、『鍾馗(しょうき)の精霊が楊貴妃の病魔を退治するために、玄宗皇帝をして枕もとの几帳に立て添えさせたという鏡(謡曲・皇帝)』とするが、楊貴妃絡みでこの名の鏡は私は聴いたことがない。後代の作話であろう。

「汴州(へんしう)」「べんしゅう」で、中国の南北朝時代から五代十国時代にかけて現在の河南省開封市一帯に設置された州名。

「張琦(ちやうき)が『神恠鏡(しんくわいきやう)』」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注も『不詳』とする。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」で本篇のこれを質問した事例が載るが、やはり、鏡も張琦(この名は中国史には複数出る)は不詳としている。

「德、つかばや。」「一つ、金儲けをしたいもんだ。」の意。

「刀を橫たへ」「横にして身に帯びる・携える」の意。

「頭(かしら)の腦(なう)、おちいり」頭部(ずぶ)損傷(「ER]さ。)。頭蓋骨が割れて脳漿が飛び散り、脳も損壊して崩れ出ていたのである。大蜘蛛の強力な牙で抉られたものであろう。合掌。]

伽婢子卷之六 遊女宮木野

 

   ○遊女宮木野(みやぎの)

 

 宮木野は、駿河の國府中(ふちう)の旅屋(たびや)に隱れなき遊女也。眉目(みめ)かたち、うつくしく、手、よくかきて、哥の道に心をかけ、情の色、ふかゝりければ、近きあたりの人、これをしたひ、風流のともがら、ことごとく、これになれざるを、うらみとし、好事(かうじ)のもの、みな、これにちぎらざるを、恥とす。此故に、

「中古このかたには、たぐひなき遊女(ゆうぢよ)なり。」

とて、いにしへの虎御前(とらごぜん)になぞらへ、力壽(りきじゆ)にくらべて、たかき、いやしき、おなじ心に、もてはやしけり。

 八月十五夜、若き人々、此家に入り來て、月をもて、あそび、歌よみけるに、宮木野、かくぞ、いひける。

 眺むればそれとはなしに戀しきを

   くもらばくもれ秋の夜の月

 いく夜われおしあけがたの月影に

   それと定めぬ人にわかるゝ

此歌、

「まことに。我身にとりて、さもあらめ。」

と、一座のともがら、或は、笑ひ、或は、感じけり。

 其座にありける人の中に、藤井淸六といふ者あり。先祖は國司の家人〔けにん〕にて、京家〔きやうけ〕の者なりしが、此所に住みつきて、地下〔ぢげ〕にくだり、田地、あまた持ちて、冨み榮え、今その末(すゑ)に及ぶまで、府(こう)の間(あひた)には、「冨裕の人」といはれ、殊更、淸六は、風流を好み、情深き者也。父は、むなしくなり、母一人、あり。みづから、妻もなく、ひとりすみて、いとゞ物かなしき秋の月に嘯(うそふ)き、今宵(こよひ)しも、此座につらなり、宮木野が此歌を聞くに、見めかたちといひ、才智、かしこきに、めでゝ、旅やのあるじに、價(あたい)多く出して、宮木野を、こひうけて、妻とせり。

 藤井が母、是れを聞〔きき〕て、

「府中には、人にもさがらぬ家督(かとく)なれば、『如何ならん、名もある人の娘をも迎へて、我〔わが〕新婦(よめ)とも見ばや』とこそ思つるに、遊女を妻とせむは、これ、本意(ほい)なけれども、よしや、我子の見るべき面倒を、今は如何にいふとも、詮なし。早く、呼入れよ。」

とて、家に迎へとりて見るに、みめかたち、美しきのみならず、心ざま、優にやさしかりければ、母、限りなく喜び、

「たとひ、大名・高家(かうけ)の娘なり共、生れつき、人がましからずは、何にかせむ。この女は、如何なる人の末にも侍べれ、たぐひなき女の道、知れる人ぞや。我子の、まどひ、めでけるこそ、ことわりなれ。」

とて、世に、いとほしみ、かしづきけり。

 宮木野は、今は、ひたすら、姑(しうとめ)につかふること、我がまことの母の如く、孝行の道、更にたぐひすくなうぞ、行ひ、つとめける。

 京都に叔父あり。淸六が母のため、弟(おとゝ)也。頻りに、心地、煩ひしかば、死ぬべく覺えて、人をくだして、いひけるやう、

「淸六を、のぼせ給へ。いひおくべき事、侍り。」

といふに、母、かぎりなく悲しく思ひ、

「急ぎ上りて見よ。みづから、女の身なれば、飛立〔とびたつ〕ばかりに思へ共、そも、かなはず。和殿(わとの)は男なれば、何か苦しかるべき。その有樣、見屆けて給(たべ)。」

といふ。

 淸六、

「いかゞすべき。」

と案じわづらふ。

 宮木野、いふやう、

「老母の思ひ給ふところ、此たび、京に上らずば、ひとつには、みづからに心とゞまりて叔父の事を忘れたりといはん。ふたつには、母の心にそむく不孝の名を受け給はん。只、上り給へ。さりながら、老母、すでに年高く、病〔やまひ〕、多し。君、はるばるの都に行き給はゞ、昔の人のいひ置きし、『事をつとむる日は多く、親につかふるの日は少なし』とかや。西の山の端(は)に入〔いり〕かゝる月の如く、弱り給ふ母なれば、必ず、一足(〔いち〕あし)も早く、歸り給へ。」

とて、すでに門出の盃〔さかづき〕とりかはして、又、逢ふべき道ながら、わりなき中はしばしの別れも悲しく覺えて、宮木野、なみだをうかべて、

 うたてなどしばしばかりの旅の道

   わかるといへば悲しかるらむ

と詠じければ、淸六も、かくぞ口すさびける。

 つねよりは人も別れを慕ふかな

   これやかぎりの契りなるらむ

とて、淚にむせびければ、母、きゝて、

「あな、いまいまし。やがて歸るべき道を、是れまで名殘(なごり)ををしみける事よ。」

とて、出したてゝ、京にぞ、上(のぼ)せける。

 すでに都にのぼりしかば、叔父(をぢ)、ことの外に、いたはり、つゐに、はかなくなりぬ。子、ありけれども、いとけなく侍べりしかば、妻の一族(ぞく)に財寳(ざいほう)ことごと預(あづ)け、

「此子、よくそだて給へ。」

とて跡の事、とりまかなひ、それより、やがて、國にかへりくだらんとせし處に、諸國のうちみだれたちて、所々に關(せき)をすへ、往來の人を通路(つうろ)せさせず。あるひは、國ならび、鄕(がう)つゞき、たがひに出あふて、軍(いくさ)する事、每日に及べり。

 淸六も、心のまゝに道をも過ぎ得ず、旅やより、旅やにうつり、ここかしこ、せしほどに、一年あまりに、なりけり。

 もとより、通路、たやすからねば、たがひにたよりを絕へて、生死(いきしに)の事も、聞えず。

 

Miyagino1

 

[やぶちゃん注:以下、今回の挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のそれを用いた。清六の母を看病する宮城野。手前の下女の傍にあるのは薬を煎ずるための風炉と薬罐。]

 

 さる程に、府中の母は、我が子の久しく歸らざるを、心もとなく、朝夕に戀ひ悲しみ、

「かゝるべしとだに知るならば、のぼすまじき事にて侍べりしを、悔(くや)しくも遣はして、生(いき)たりとも、死(しに)たりとも、聞ざる事こそ、悲しけれ。」

とて、只、泣きになきつゝ、重き物思ひのやまひとなり、床に臥して、日をかさぬ。

 宮木野、これに事(つか)へて、夜晝(よるひる)の別かちもなく、藥といへ共、みづから、まづ飮(のん)で後に參らせ、粥といへども、みづから、煮て進め、神佛に祈り、

「我が身を替りにして、姑(しうとめ)の病をいやし給へ。」

と祈りけれども、更にしるしなし。

 半年ばかりの後、今ははや、此世の賴みもなくなりければ、姑、すなはち、宮木野をよびて、

「我が子、すでに都に赴き、世のみだれに、道、せばくして、久しく便りなし。我、又、重き病に苦しむを、新婦(よめ)として、我に仕へ給ふ事、誠の子といふとも、如何でかくあらん。孝行なる事、世にたぐひなし。今は心に殘る事もなし。此恩を報ぜずして、命、むなしくなる也。和君、必ず、子を產み給はん。我は、孫をも見ずして、死なむ。其子、和君に孝行なる事、又、今、和君の、我に仕へて、こまやかなる如くなるべし。あなかしこ、天道物知る事あらば、此言葉、たがふべからず。」

とて、そのまゝ絕へ入りて、よみがへらず。

 宮木野、悲しみ深く、淚の落つる事、雨の如し。

 葬禮の事、取りまかなうて、七日々々のとふらひ、其の分限に過〔すぎ〕たる此物思ひに、髮、かじけ、はだへ、瘦せて、よその見るめも、あはれに覺えし。

 

Miyagino2

 

[やぶちゃん注:武田信玄の軍兵が宮城野らを凌辱せんと屋敷に押し入り、また強奪をするさまを描く。]

 

 永祿十一年、武田信玄、駿州に發向して、府(ふ)の城にとりかけ、民屋(みんおく)に火を放ちて、燒きたてければ、今川氏眞(うぢざね)は、落ちうせらる。

 武田方の軍兵(ぐんべう)、家々に亂れ入〔いり〕て、亂妨分捕(らんばうぶんどり)して、狼藉、いふばかりなし。

 宮木野が眉目(みめ)かたち美しかりければ、軍兵ども、捕(とり)ものにして、犯(おか)し汚(けが)さんとす。

 宮木野、奧深く逃げこもり、みづから、縊(くび)れて、死に侍べり。

 兵共、その貞節をあはれみ、家のうしろの柹の木の本に、埋(うつ)みけり。

 いくほどもなく、駿府(すんぷ)は武田の手にいりて、しづかになり、道、ひらけて、通路たやすく、海道の諸大將も和ぼくせし比〔ころ〕なれば、藤井淸六、やうやうにして、國にかへりければ、駿府のありさま、替りはて、我家〔わがや〕には、人も、なし。

 柱、傾(かたふ)き、軒、崩れ、草のみ、茂く、あれまさり、老母、宮木野は、いづち行〔ゆき〕けむとも、知る人、なし。

 門に出〔いで〕て見れば、年比〔としごろ〕めし使ひける男、出來(きた)れり。

 是れを、よびて尋ぬるに、

「老母、いたくわづらひ給ひけるを、宮木野、『我身に替らん』と、神佛に祈り、晝夜(ちうや)、付き添ふて看病せしに、其の甲斐なく、果て給ふ。其後〔そののち〕、武田信玄のために府中を追ひおとされ、今川氏眞公は、行方〔ゆきがた〕なし。宮木野は、『敵軍(てきぐん)の手に身をけがされじ』とて縊(くび)れ死(しに)給ふを、兵ども、其の貞節を感じて、後の柹の木(こ)もとに埋みし。」

と語るに、藤井、かなしさ、限りなく、血の淚を流し、なくなく、かばねを掘り起こして、見れば、宮木野が顏かたち、さながら、生きてあるが如く、肌(はだへ)の色、おとろへず。

 藤井は、もだえ。こがれ、絕へ入、絕へ入、歎け共、甲斐なし。

 それより、母の墓と、ひとつ所に葬りつゝ、墳(つか)に向ひて、花香〔けかう〕たむけて、口說(くどき)けるやう、

「君は、平生、才智、かしこく、心の、色、深し。人に替りて、身のおこなひ、よく、道を守れり。たとひ死すとも、世の常の人には、同じからず。されば、久しく、音づれの絕しも、我が咎(とが)ならず、心にまかせぬ浮世のわざ也。黃泉(よみぢ)の底までも、物知る事、あらば、一たび、我にまみえ給へ。」

とて、明〔あく〕れば、墓にゆき、暮(く)るれば、家に歎きて、二十日ばかりに及ぶ。

 

Miyagino3

 

[やぶちゃん注:清六の仕草は、宮城野の霊の来訪を、手を打って喜んだ瞬間を意味している。]

 

 月、くらく、星、あらはなる夜、藤井、ひとり、灯(ともしび)かゝげて、坐しければ、宮木野が姿は、影の如くにして、出來(〔いで〕きた)り、

「君が心に念願する所を感じて、司錄神(しろくじん)に、いとまを乞うて、現はれ來〔きた〕る。」

とて、始終(しじう)の事共、なくなく、物語して、すごすごと、立居たり。

 藤井、これを見るに、悲しみ、今更にて、わが老母に孝行ありし事、其身を殺して、貞節をまもりし事まで、感じて、泣きければ、宮木野、いふやう、

「みづから、もとより、官家高門(かんけかうもん)の娘にあらず。あだに、はかなきながれの身となり、人に契りて、心をとゞめず、明がたに別れて、名ごりも、知らず。色をつくろひ、花を飾りて、旅人に眩(てら)ひ、ひさぎ、身は、さながら、路(みち)の上(ほとり)の柳、垣(かき)のもとの花、ゆきゝの人に手折(たを)られむ事を思ふ。姿をなまめき、言葉をたくみにして、きのふの人を送りては、今日の客(かく)を迎へ、西より下れば、西なる人の婦(め)となり、東より上れば、東(あづま)の人の妻となり、うきたる舟の、よるべ定めぬ契りをかはし、すみつきがたき戀にのみ、月日を送りしを、君に逢ふて、まことの妻となり、昔の習はしを捨てゝ、正しき道を、おこなはんとす。思ひかけず、かゝる禍ひに逢ふ事も、前世の、むくひ也。さりながら、貞節孝行の德により、天帝地府(ちふ)、我れを變じて、男子(なんし)となし、今、鎌倉の切通しに、冨裕の家、あり。『高座(たかくら)の某(なにがし)』と名づく。君、こゝに來り給へ。明日、生れ侍べる也。君に逢はゞ、笑ひ侍べらん。これを、しるしとし給へ。」

とて、霧の如く、きえうせたり。

 藤井、いよいよ歎きながら、七日の後、鎌倉に行〔ゆき〕て、高座(たかくら)の某が家に尋ね入〔いり〕て、

「此間〔このあひだ〕、生れし子や、ある。子細、侍べり。見せて給(た)べ。」

といふに、まづ、

「胎内に廿月あり、生れてより今に至り、夜晝(よるひる)なきて、聲、絕〔たえ〕ず。」

とて、出〔いだ〕し見せしかば、此〔この〕子、

「莞尓(にこ)」

と笑ひて、それより、なきやみて、又、聲、たのしめり。

 藤井、ありのまゝに物語しつゝ、一族の契約して、往來(ゆきゝ)の音信(おとづれ)、たえず、といふ。

[やぶちゃん注:「駿河の國府中(ふちう)」中世に起った汎用呼称で、国衙を中心に都市化した国府の所在地の呼称。後に城下町となって繁栄した、この駿河の府中=駿府(すんぷ:現在の静岡市)や、甲斐府中(甲府市)が特に知られる。

「旅屋(たびや)に隱れなき遊女也」駿府の宿駅の宿屋附きの遊女。本話は戦国時代であるから江戸時代のような遊郭に限定禁令はない。

「中古このかたには」そう遠くはない昔に遡って今に至る中にあって。ちょっと昔から今に至るまで。この「中古」は歴史学や文学で言うそれではなく、「中頃」の謂い。

「虎御前(とらごぜん)」(安元元(一一七五)年~寛元三(一二四五)年)は相模国大磯の遊女。和歌にも優れ、容姿端麗であったという。「曾我物語」で著名な女性。兄の曾我十郎祐成の愛人として登場し、曾我兄弟が仇討ちの本懐を遂げて世を去った後、兄弟の供養のために回国の尼僧となったと伝えられる。「曾我物語」のルーツは彼女によって語られたものともされる。これは後、「踊り巫女」や「瞽女」などの「女語り」として伝承されてゆき、やがて能や浄瑠璃の素材となって、「曾我物」と総称する歌舞伎などの人気狂言となった。

「力壽(りきじゆ)」井淡浪文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)に『京都粟田口の伝説的遊女』で、義経の忠臣であった佐藤兄弟の弟『佐藤忠信の愛人』として知られる。

「眺むればそれとはなしに戀しきをくもらばくもれ秋の夜の月」高田氏前掲書に拠れば、これは「金葉集」巻第七「戀上」の藤原基光の一首、

 眺むれば戀しき人の戀しきに曇らば曇れ秋の夜の月

の改変で、高田氏は、『作りかえの面白さと、恋しい人が定まっていない遊女の悲しみとがうかがわれる』と述べておられる。

「いく夜われおしあけがたの月影にそれと定めぬ人にわかるゝ」これは同前で、「新拾遺集」巻第十二「戀二」の一首、

 幾夜われおし明け方の月影にことわりならぬ物思ふらむ

の改変とある。

「我身」発言者ではなく、両歌の内容が遊女である宮城野の自身の心にダイレクトに通っていることを賞賛しているのである。

にとりて、さもあらめ。」

「京家〔きやうけ〕の者」京都の征夷大将軍家の直参の武士。

「地下〔ぢげ〕」ここでは以下から農民。それも耕作は小作人に任せた富農である。

「府(こう)」国府駿府のこと。以前の注の「国府台(こうのだい)合戦」で見るように、国府の置かれた「國府臺(こふのだい)」のように、また、旧国府の置かれた場所を「国府」と書いて「こふ」(私の住んだ富山県高岡市伏木に「古国府(ふるこふ)」の地名がある)と当て読みすることは全国的に見られる。

の間(あひた)には、「冨裕の人」といはれ、殊更、淸六は、風流を好み、情深き者也。父は、むなしくなり、母一人、あり。みづから、妻もなく、ひとりすみて、いとゞ物かなしき秋の月に嘯(うそふ)き、今宵(こよひ)しも、此座につらなり、宮木野が此歌を聞くに、見めかたちといひ、才智、かしこきに、めでゝ、旅やのあるじに、價(あたい)多く出して、宮木野を、こひうけて、妻とせり。

 藤井が母、是れを聞〔きき〕て、

「よしや」「縱しや」。副詞。「仕方ない! まあ、いいわい!」。不満足ながらも、承認する謂い。

「我子の見るべき面倒」遊女を妻に迎えたことによって、息子清六が抱えることにきっとなるに決まっていると母の考えるところの、悪しき評判やごたごた。

を、今は如何にいふとも、詮なし。早く、呼入れよ。」

「人がましからずは、何にかせむ」「人がまし」は「いかにも人並みらしい・相当の人物らしい」の意。「生まれつき、人としての品格が性悪(しょうわる)なものであったなら、これ、どうにもならぬ。」。

「更にたぐひすくなうぞ」これまた、まず、他に類を見ること、稀なるほどに。

「みづから」複数回既出既注。「自ら」であるが、ここは「妾(わらは)・私」で自称の人称代名詞。中古からあって、古くは男女ともに用いたが、近世では女性語となった。

「此たび、京に上らずば、ひとつには、みづからに心とゞまりて叔父の事を忘れたりといはん。ふたつには、母の心にそむく不孝の名を受け給はん。只、上り給へ。」「万一、京の叔父さまのところへお参りなされなければ、一つには、妾(わらわ)に心が惹かれておる故に、叔父さまのことを無情にも忘れたと、お母さまには、これ、ご非難なされるやも知れませぬ。。二つには、母さまのみ心に背くことで、世間から親不孝者としても非難されることとおなりになりましょう。どうか、迷わず、上京なされませ。」。

「さりながら」は、「老母、すでに年高く、病〔やまひ〕、多し。君、はるばるの都に行き給はゞ、昔の人のいひ置きし、『事をつとむる日は多く、親につかふるの日は少なし』とかや。西の山の端(は)に入〔いり〕かゝる月の如く、弱り給ふ母なれば」こそ、「必ず、一足(〔いち〕あし)も早く、歸り給へ」へダイレクトに掛かる

「うたてなどしばしばかりの旅の道わかるといへば悲しかるらむ」「新日本古典文学大系」版脚注に、歌意を記して、『嘆かわしいことに、ほんのしばしの旅なのに、別れと聞くと』、『なぜ』、『悲しくなるのでしょう』とある。「うたて」は副詞を名詞化したもので「いやなこと」。岩波文庫もこちらも原拠を示さない。

「つねよりは人も別れを慕ふかなこれやかぎりの契りなるらむ」「新日本古典文学大系」版脚注には、『「題林愚抄・恋二・別恋・近衛前関白(康暦二』(一三八〇年)『内裏廿首』を原拠とする。この歌集は以前にも原拠として出たが、安土桃山から江戸前期の成立。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たるが出来た。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「23」コマ目、HTMLだと、ここの左頁の終わりから8行目で、完全に同じであることが判る。

「旅や」「旅屋」。「旅夜」も嗅がせていよう。

「其の分限に過〔すぎ〕たる此物思ひに」この「其の分限に過〔すぎ〕たる」は前の弔いの物理的なそれではなく、義母を失った一般世間の嫁が抱くところの悲しみを遙かに超えて嘆いたことを意味し、以下の実際の身体の変化に続くものである。

「かじけ」「かじけ」は不審。「かしぐ」の誤りであろう。本来は「悴(かし)く」と清音であったが、近世には「かしぐ」と変じた。「やせ衰える・みすぼらしくなる・やつれる・草木や花などがしおれる」で、最後の意を髪のつやがなくなったことを比喩する。

「永祿十一年、武田信玄、駿州に發向して、府(ふ)の城にとりかけ、民屋(みんおく)に火を放ちて、燒きたてければ」ウィキの「武田信玄」によれば、永禄一一(一五六八)年十二月、『遠江での今川領分割を約束した三河の徳川家康と共同で駿河侵攻』『を開始し、薩垂山で今川軍を破り(薩埵峠の戦い)、今川館(後の駿府城)を一時占拠する。江尻城(静岡県静岡市)を築城』した。『信玄は駿河侵攻に際して』、『相模北条氏康にも協調を持ちかけていたが、氏康は今川氏救援のため出兵して』、永禄十一年中に、『甲相同盟は解消され』、『北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び』、『武田領国への圧力を加えた。さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し』、永禄十二年五月、『徳川家康は今川氏と和睦し、徳川家康は駿河侵攻から離脱した』。『この間、織田信長は足利義昭を奉じて上洛していた。信玄は信長と室町幕府の第』十五『代将軍に就いた足利義昭を通じて』、『越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み』、永禄十二年八月には『上杉氏との和睦が成立』する。『さらに信玄は越相同盟に対抗するため、常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など北・東関東の反北条勢力との同盟を結んで後北条領国へ圧力を加え』、永禄十二年十月には、『小田原城を一時包囲』した。この『撤退の際に、三増峠の戦いで北条勢を撃退』、『これにより』、永禄十二年の『第三次駿河侵攻にて、後北条氏は戦力を北条綱重の守る駿河の蒲原城に回せず、これを落とすことに成功した』。『こうした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じた』。永禄十二年末、『信玄は再び駿河侵攻を行い、駿府を掌握し』、『また、永禄年間に下野宇都宮氏の家臣益子勝宗と親交を深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗に感状を贈っている』とある。

「今川氏眞(うぢざね)」(天文七(一五三八)年~慶長一九(一六一四)年)は駿河の戦国大名。今川義元の子。天文 二三 (一五五四)年、今川義元・武田信玄・北条氏康の間で同盟が成り、氏康の娘が氏真の妻となった。永禄三(一五六〇)年五月、義元が「桶狭間の戦い」で敗死した跡を継ぎ。駿河・遠江・三河を領有したが、暗愚であったため、同家に寄食していた信玄の父信虎は、氏真の家臣瀬名・葛山・朝比奈らとともに、氏真を退けようとしたが、かえって駿河から追放されてしまう。氏真は同七年、徳川家康と戦って、三河を失った。同十年、信玄は父信虎からすすめられて兵を駿河由比に出した。氏真は部将鹿原安房守に命じ、薩埵峠にこれを防いだが、利なく、家臣が信玄に内応したため、続いて氏真の全軍も破られ、まもなく府中も落されて、遠江掛川城に逃れ、朝比奈泰能を頼った。信玄の駿河侵入とほぼ時を同じくして、徳川家康は遠江攻略に着手し、同十二年正月、氏真の掛川城を包囲した。同年五月、徳川・北条の和が成り、氏真は、掛川から北条支配下の伊豆戸倉に移された。後、氏真は北条氏政と不和になり、逃れて家康を頼った。天正一〇(一五八二)年三月、駿府は、武田氏を滅ぼした信長の手によって家康に加封された。氏真は蹴鞠をよくし、後、京都へ赴き、豊臣秀吉に扶持され、後に出家したが、次いで家康に仕え、子孫は江戸幕府の高家となって、品川氏を称した(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。 「新日本古典文学大系」版脚注によれば、氏真は、『母が武田信玄の姉、娘が信玄の長男義信の正室という二重の婚姻関係にあった』ともある。

「海道」東海道。

の諸大將も和ぼくせし比〔ころ〕なれば、藤井淸六、やうやうにして、國にかへりければ、駿府のありさま、替りはて、我家〔わがや〕には、人も、なし。

 柱、傾(かたふ)き、軒、崩れ、草のみ、茂く、あれまさり、老母、宮木野は、いづち行〔ゆき〕けむとも、知る人、なし。

 門に出〔いで〕て見れば、年比〔としごろ〕めし使ひける男、出來(きた)れり。

 是れを、よびて尋ぬるに、

「老母、いたくわづらひ給ひけるを、宮木野、『我身に替らん』と、神佛に祈り、晝夜(ちうや)、付き添ふて看病せしに、其の甲斐なく、果て給ふ。其後〔そののち〕、武田信玄のために府中を追ひおとされ、今川氏眞公は、行方〔ゆきがた〕なし。宮木野は、『敵軍(てきぐん)の手に身をけがされじ』とて縊(くび)れ死(しに)給ふを、兵ども、其の貞節を感じて、後の柹の木(こ)もとに埋みし。」

「口說(くどき)けるやう」歎きごとを漏らして言うことには。

「心の、色、深し」人としての真心や奥床しさが深い。

「音づれ」清六自身からの音信。

「司錄神(しろくじん)」既注であるが、再掲すると、地獄の書記官の一人。一般には「倶生神(ぐしょうじん)」と呼ばれる、個々の人間の一生に於ける善行と悪行の一切を記録し、その者が死を迎えた後に、生前の罪の裁判者たる地獄の十王(特に本邦ではその中の閻魔大王に集約されることが多い)に報告するという書記官で、有名どころでは、他に「司命神(しみょうじん)」などがいる。

「眩(てら)ひ」誇示自慢して、ひけらかし。

「ひさぎ」(身を)売り。

「鎌倉の切通し」「新編鎌倉志卷之一」(私の古い電子化注)の「鎌倉七鄕・七口」に、『【鶴岡記錄】に云、鎌倉の谷七郷鄕(ヤツシチガウ)とは小坂鄕(コサカノガウ)・小林(コバヤシ)の鄕[やぶちゃん注:現在の鶴岡八幡宮の所在地から十二所に及ぶ旧地名。]・葉山(ハヤマ)の鄕・津村(ツムラ)の鄕・村岡(ムラヲカ)の鄕・長尾(ナガヲ)の鄕・矢部(ヤベ)鄕を云なり。鎌倉の七口(ナヽクチ)とは名越切通(ナコヤノキリトヲシ)・朝夷名切通(アサイナノキリトヲシ)・巨福路坂(コフクロサカ)・龜谷坂(カメガヤツサカ)・假粧坂(ケワイサカ)・極樂寺(ゴクラクジ)の切通・大佛(ダイブツ)の切通、此外に小坪(コツボ)切通、稻荷坂(イナリサカ)あり。稻荷坂は十二所村(ジフニシヨムラ)より、池子村(イケコムラ)へ出る坂也』とあり、「鎌倉攬勝考卷之一」(同じく私の古い電子化注)の「四至地形」に、『鎌倉入口に切拔道七口とはいえども實は九ケ所あり』とし、後に「○切通坂」の項を設け、『鎌倉入口に切通路七所ありと【東鑑】にも見へたるゆへ、土人等七口と唱ふれども、實は切拔路九ケ所あり』と注して、各切通(坂)を個別に挙げて詳述しているので見られたい。

「高座(たかくら)の某(なにがし)」不詳。私は鎌倉史を研究しているが、この姓は聴いたことがない。

「七日の後」「新日本古典文学大系」版脚注には、即座に出発していないことを訝り、『七夜』(おひちや:誕生から七日目の夜に赤子の健やかな成長を願って行う祝い。平安時代から続く古い民俗行事で、この日、初めて、生まれた子に名前をつけ、人として認める儀式)『の産養(うぶやしない)の風習に従ったものか』とある。

「まづ」「新日本古典文学大系」版では、高座某の台詞の発語としているが、私は採らない。

「胎内に廿月あり」転生の霊異を示すもの。

「聲、たのしめり」初めて、満ち足りたように、喜びの初声(うぶごえ)を挙げたのである。確かな宮城野の転生であることを、正しく示したもの。

「一族の契約して」高座家と一族の契りを結んで。]

2021/06/08

芥川龍之介書簡抄80 / 大正六(一九一七)年書簡より(十二) 六通

 

大正六(一九一七)年九月十三日・田端発信・菅忠雄宛

 

あなたは私にあやまる必要も何もありません弟は小町園が宿屋だと云ふ事を知らなかつたのですさうして私が小町園の女中と關係でもあるやうに思つたのです(あなたもさう思つてゐたかも知れませんさう思ふと苦笑が出ます)しかし私がその誤解を解きました。だからもう心配する事も何もないのです

私は來年結婚します勿論さう云ふ前に、外の處女と關係する程墮落してはゐませんその邊も御安心なさい。機關學校の敎官と作家とを區別しなくともいいのです。

あなたがゐなくなつて淋しくなつたしするから[やぶちゃん注:ママ。]、私は橫須賀へ轉居します先は橫須賀市汐入尾鷲梅吉方です明日移ります 日曜にでもひまがあつたら、遊びにいらつしやい。

    十三日夜       芥川龍之介

   菅   樣

  二伸ツルゲネフだけは私の持つてゐる全集の一册ですからなくならないやうに氣をつけて下さいこれはよく御願ひします

 

[やぶちゃん注:大正六年九月十三日は木曜日で、平日である。前回の最後の注でも書いたが、この書簡にもある通り、この翌日の九月十四日に芥川龍之介は鎌倉からの十月十四日に横須賀市汐入五八〇番地尾鷲梅吉方の二階(八畳)に転居している(現在の横須賀市汐入町三丁目一附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ということは、この転居前日には、夜、田端へ帰ったか、転居を名目に海軍機関学校を休んだ(無論、金曜も)ものと察られる。

「菅忠雄」(明治三二(一八九九)年~昭和一七(一九四二)年)は既出既注。芥川龍之介の一高時代の恩師で、鎌倉に移った際にも世話になったドイツ語学者で書家の菅虎雄の長男で、鎌倉滞在中、英語の家庭教師をして貰った芥川を慕っていた。この当時、満十八歳。

「弟」先のリンク先の大正六(一九一七)年二月九日・消印十六日・鎌倉発信・京都市外下鴨村八田方裏 井川恭宛書簡に『菅さんと時々書談をやる 菅さんの子供とは親友になつた 皆お母さんのないせいか人懷しい』とあり、「皆」とあるので、忠雄には弟がいたことが判る。因みに、芥川龍之介はこの時、満二十五歳である。

「小町園」鎌倉にあった料亭兼旅館。この附近(同名のフランス料理店は旧「小町園」(昭和七(一九三二)年頃には廃業)から譲り受けたもの)に庭園付きの広大な敷地であった。鎌倉滞在中も、ここで複数回、小宴を催しているようである(先立つ五月二十四日附の東京本郷の池崎忠孝(作家赤木桁平の本名)宛葉書では、池崎に語り合おうと鎌倉に誘っているが、その場所として『小町園にしよう』と最後に名前だけを記している。これは龍之介が何度もここを使っている証左である)。そもそも、夏目漱石が死去した大正五年十二月九日の土曜には芥川龍之介主催の宴会が、この小町園で催される予定だったのである(角川書店「夏目漱石文学全集」別巻の年譜に拠る)。さらに、芥川龍之介が文との新婚時代を過ごした場所は、この附近でごく近く、さらに言っておくと、私はこの旧小町園辺りには非常に詳しい。何たる因縁か、私の父方の実家は、この旧小町園と新婚の芥川龍之介邸との中間点に当たるところにあるからなのである。ここでの菅忠雄の弟の猜疑は誤解であったことは確かかとも思われる(断言は出来ない。例えば、前回の最後の注でも述べたように、文と婚約後でも、私は人妻佐野花子に龍之介は恋情を抱いていたと確信しているからである。当時に限らず、今現在であっても芥川龍之介に惚れる女性は多い。しかし、それ以上に、芥川龍之介の方にこそ、女たちに直ぐに惚れやすい致命的な悪癖(私は自分自身のことを考えると、『こんなことは言えない』という忸怩たる思いはするのであるが)があったのである)。しかし……最後に言っておこう――この小町園の亭主のところに、翌大正七年、新妻が来る。婚姻後――「野々口豊(ののぐちとよ)」――と名乗った。この女性こそ――晩年の芥川龍之介と非常に深い関りを持つこととなる――龍之介が晩年に愛した女の一人――なのである。自死の昭和元(一九二六)年十二月三十一日から昭和二(一九二七)年一月二日まで、芥川龍之介は「小さな家出」(彼の中では野々口豊を道連れにした心中が想起されていた可能性が頗る高い)をしているが、その先は――この小町園だったのである――。私の片山廣子や佐野花子の追跡と同様、アカデミックな芥川龍之介研究者は品行方正で、まず、この手のゴシップ系研究には手を出さない(まことにインキ臭い厭な感じである)。さても、興味のある方は、歯科医の高宮檀氏の書かれた「芥川龍之介の愛した女性――「藪の中」と「或阿呆の一生」に見る」(彩流社二〇〇六年刊)を強くお薦めする。そこでは、「藪の中」の「眞砂」のモデルとも言える龍之介にとっての忌まわしい方の「ファム・ファータル」たる秀しげ子との不倫(後に芥川龍之介は激しく倦厭するようになった、自死するまで彼女は龍之介をしばしば平然と訪ねている)とともに、この野々口豊が、驚くべき緻密さで追跡されている。

 

 

大正六(一九一七)年九月十九日・橫須賀発信・塚本文宛

 

拜啓

手紙を難有う 一咋日東京でよみました 何だか催促をしたのが 少しすまないやうな氣がしてゐます

學校と小說と兩方一しよぢや 實際少し仕事が多すぎます だから將來は 一つにする氣もあります もありますぢやない 氣が大にあるのです 勿論一つにすれば 小說ですね 敎へると云ふ事は 一體あまり私の性分には合つてゐないのです 希望を云へば 若隱居をして、本をよんだり小說を書いたりばかりしてゐたいんですが、さうも行きません が、いつか行かさうと思つてゐます

文ちやんは何にも出來なくつていいのですよ 今のまんまでいいのですよ そんなに何でも出來るえらいお孃さんになつてしまつてはいけません そんな人は世間に多すぎる位ゐます

赤ん坊のやうでお出でなさい それが何よりいいのです 僕も赤ん坊のやうにならうと思ふのですが 中々なれません もし文ちやんのおかげでさうなれたら、二人の赤ん坊のやうに生きて行きませう

こんどの家は お婆さんと女中と二人しかゐない家です 橫須賀では可成な財產家ださうです 僕の借りてゐるのは 二階の八疊で家は古くてら、落着いた感じのする所です お婆さんは大分年が遠いので 話をすると必とんちんかんになります 今朝も僕が「もう七時でせう」と云つたら「ええ ぢきこの先にございます」と云ひました

七時を何と間違へたんだか いくら考へて見てもわかりません

横須賀の方が 學校には便利ですが、どうも所があまりよくありません だから家は鎌倉にある方がいいだらうと思ふのですが どうでせう 横須賀にゐると、いろんなおつきあひや何かがうるさいですよ どうもおつきあひと赤ん坊生活とは兩立しさうもありません 僕はつきあひ下手ですからね

今日朝の十時に 僕の學校の本間と云ふ武官敎官がなくなりました 四日ばかり寢て死んでしまつたのです それが體のいい 丈夫な人なので 餘計驚きました 病氣は敗血症ださうです 僕はこれから その御葬式の時に校長がよむ弔辭を作らなければなりません 大分厄介です 以上

               芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣 粧次

  二伸 返事は書かなくつてもいいんです

  三伸 轉居先 橫須賀市汐入五百八十尾鴛梅吉方

 

[やぶちゃん注:「敗血症」sepsis(セプシス)。種々の細菌の感染症に於いて、先ず、病巣が形成され、そこから病原菌が多量に血液の中に侵入して起る全身感染症を指すが、原発巣がどこにあるか明らかでないことが多い。類似の経過を辿って血中に細菌が侵入しても、全身症状を伴わない場合は区別して「菌血症」と呼ぶこともあるが、同義語と考えてよい。

「御葬式の時に校長がよむ弔辭を作らなければなりません 大分厄介です」後の私小説風の保吉(やすきち)物の一つである「文章」(初出『女性』(大正一三(一九二四)年四月発行))はこれを素材の一つとしている(「青空文庫」のこちらで読めるが、新字新仮名である)。主人公「堀川保吉」は「海軍××學校」で「英吉利語の譯讀を敎へて」おり、その亡くなった人物は「本多少佐」で「科長と呼ばれる副校長」の「藤田大佐」から弔辞の代筆を頼まれている。但し、小説の中に出る「何とかほろ上人」は「きりしとほろ上人」のことであるが、これは大正八年の作品で、痛烈に書かれた「N氏」の時評『「海軍××學校敎官の餘技は全然文壇には不必要である」』というのは、この書簡より前の大正六年五月十三日附『読売新聞』に載った中村孤月の時評の言葉であるように、素材は継ぎ接ぎで、正統な私小説ではない。というか、芥川龍之介は恐らく生涯、あくまでストーリー・テラーを自負しており、一見、私小説に見えるものであっても、その殆どは緻密に計算し尽くされた創作であったと私は断ずるものである。]

 

 

大正六(一九一七)年・消印九月二十日・横須賀発信・東京市下谷區上野櫻木町十六 池崎忠孝樣(葉書・底本の岩波旧全集の葉書裏面の画像(活字化されていない)を添付)

 

19170921akutagawatenkyotuuti

 

  轉居

橫須賀市汐入五百八拾

尾鷲梅𠮷芥川龍之介

   傚魏華岳太華夫人廟碑體

 

[やぶちゃん注:「傚」呉音「ゲウ(ギョウ)」・漢音「カウ(コウ)」。「コウ」と読んでいよう。訓は「ならう」でここでは「字を真似る」の意。

「魏華岳太華夫人廟碑」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 

大正六(一九一七)年九月二十三日(「午」とある)・田端発信・江口渙宛(葉書)

 

今日二科會及院展を見たり惡歌三首を以て恭しく江口大人の粲正に供す

  梅原君の椿

まつぴるま椿一本光りたれ赤はぽたぽた靑はぬるぬる(倣北原白秋調)

  安井君の女

ふくだめる脾腹の肉のうごかずば命生けりと誰か見るべき(倣齋藤茂吉調)

  山村君の八朔

夕月はほのかに白し八朔の遊女がふめる外八文字(倣吉井勇調)

 

[やぶちゃん注:この日は日曜日で、第四回二科展(九月九日より同三十日まで開催)及び第四回院展(九月十日から同三十日)に出かけた。

「粲正」「さんせい」と読む。筑摩全集類聚版脚注によれば、『詩を示してお笑いぐさとし、正していただくの意』とある。「粲」には「笑うこと」の意がある。

「梅原」梅原龍三郎。既出既注

「安井」安井曾太郎。既出既注

「山村」山村耕花(明治一九(一八八六)年~昭和一七(一九四二)年)は東京生まれ。本名は山村豊成。東京美術学校日本画選科明治四〇(一九〇七)年卒。尾形月耕に師事。初期文展に出品して名を認められ、この前年の大正五年の第三回院展に「業火と寂光の都」を出品、同人に推された。第八回文展に「お杉お玉」、第四回院展にここに出る「八朔」、第八回院展に「江南七趣」、改組第一回文展に「大威徳明王」などを、次々と出品し、また「烏合会」・「珊瑚会」にも作品を発表した。版画や風俗人物画を得意とし、大正中期から錦絵版画の制作も始め、また、谷崎潤一郎の「お艶殺し」、邦枝完二「歌麿」装幀・挿絵も手がけた(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「八朔」筑摩全集類聚版脚注に、『八月一日。この日吉原の遊女』らは『白』無垢『を着る』とある。モノクロームであるが、「東文研アーカイブデータベース」のこちらで当該作が見られる(サイズ大)。]

 

 

大正六(一九一七)年九月二十八日・横須賀発信・塚本文宛

 

文ちやん

もう十一時すぎだが 奮發してこの手紙を書きます

第一にクリスマス・カロルの作者ですね あれは Charles Dickens と云ふ人です、チヤアレス・ディツケンスですね 近代の英國で一番えらい小說家です クリスマス・カロルの外にもあゝ云ふクリスマスを題材にした話を二つ三つ書いてゐますが あれが一番傑作だつたのです 原文は中々むづかしいから 文ちやんの英語ぢや少しよみかねるでせう 八洲さんにもどうかと思ひます 中學の五年の讀本よりはむづかしい位ですから。ディツケンスはこれでおしまひ。

七時は成程質屋ですね 僕も質をおきさうに見られたと思ふと、心細い。一體無精なので、身なりがへんだから時々いろんなものに間違へられます こないだ學校の敎官をたづねたら、女中に市役所の收稅吏だと思はれました

學校ばかりやつて、小說をやめたら、三年たたない中に死んでしまひますね 敎へる事は大きらひです 生徒の顏を見ると うんざりするんだから仕方がありません その代り原稿用紙と本とペンとインクといい煙草とあれば それで僕は成佛します 勿論その外に文ちやんがゐなくつちや駄目ですよ

この頃僕の所へいろんな人が訪問します。それも初對面の人がですね。殊に昨日は、工廠の活版工をして小說を書いてゐる人と 小說家志望のへんな女學生とがやつて來ました。それから僕は意見をしてやりましたね「小說なんぞ書くもんぢやない 況やそれを職業にするもんぢやない」と云ふやうな事を云つて。

彼等は唯世間で騷がれたさに 小說を書くんです そんな量見で書いて 何がかけるものですか 量見そのものが駄目なんですからね あんな連中に僕の小說がよまれるんだと思ふと實際悲觀してしまひます 僕はもう少し高等な人間の高等な精神的要求を充す爲に書いてゐるんですがね

もう十年か二十年したら さうしてこの調子でずつと進んで行けたら 最後にさうなる事を神がゆるしたら僕にも不朽の大作の一つ位は書けるかも知れません(が、又書けないかも知れません。何事もなるやうにしかならないのですから。)さう思ふと、體の隅々までに、恍惚たる悲壯の感激を感じます。世界を相手にして、一人で戰はうとするやうな勇氣を感じます 況やさう云ふ時には、天下の成金なんぞ何百人一しよになつて來たつて びくともしやしません さう云ふ時が僕にとつて一番幸福な時ですね

僕が高輪へ行くよりも文ちやんの方で田端へいらつしやい 月曜日の午後學校のかへりに來るんですね さうすると僕が橫須賀へ歸りかたがた ちやんと高輪まで送つてあげます これは僕が發明したのだが、中々うまい計畫でせう

それから僕の所へ來たからつて、むづかしい事も何もありやしませんよ あたりまへの事をあたりまへにしてゐさへすればいいんです だから文ちやんなら、大丈夫ですよ 安心なさい

いや寧[やぶちゃん注:「むしろ」。]文ちやんでなければうまく行かない事が澤山あるのです 大抵の事は文ちやんのすなほさと正直さで立派に治ります それは僕が保證します 世の中の事が萬事利巧だけでうまく行くと思ふと大まちがひですよ、それより人間です ほんとうに人間らしい正直な人間です それが一番强いのです

この簡單な事實が、今の女の人には通じないのです 殊に金のある女と利巧な女とには通じないのです だから彼等には 幸福な生活が營めません。そんな連中にかぶれない事が何よりも必要です

僕もほしいものが澤山あるのでこまります とれる金を皆本にしても まだよみたい本や買ひたい本があるのですからめ。が、これは何時まで行つても際限がなささうです 一しよになつたらお互に欲しいものを我慢し合つて、兩方少しづつ使ふのですね 競爭で買つちやすぐ身代限りをしてしまひます

時々思ひ出して下さい さうしないと怒ります 頓首

    九月廿八日      芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣

 

[やぶちゃん注:「クリスマス・カロル」ヴィクトリア朝時代を代表するイギリスの文豪で、特に下層階級を主人公として弱者の視点から社会諷刺したものを多く発表したチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens 一八一二年~一八七〇年)を、世界的に有名にした、主人公の守銭奴エベネーザ・スクルージ(Ebenezer Scrooge)がクリスマス・イヴに体験する霊現象によって人間性を復帰する風刺小説「クリスマス・キャロル」(A Christmas Carol )。一八四三年刊。]

 

 

大正六(一九一七)年十月九日・橫須賀発信・塚本文宛

 

文ちやん

先達は田端の方へ御手紙を難有う 皆よろこんでゐました

僕は風見舞に上りたいと思つてゐたのですが、やつぱり多忙に妨げられて この前の日曜もこんどの日曜も 外ヘ出ずにしまひました 學校の用とボクの用とが澤山たまつてゐるのです

ヨコスカは割に平氣でした 山に圍まれてゐるせいでせう 被害も鎌倉や逗子ほどではありません ボクのうちも瓦が二三枚落ちただけです いや五六枚かな どつちにしても大した事はありません

今日兄さんから手紙が來てその中に兄さんが立つ時に 文ちやんと五十枝さんとでうつした寫眞があるから 一枚强奪し給へと書いてあります 兄さんの勸告通り 强奪しますから さう思ひなさい が 强奪は野蠻だからなる可く穩和な手段をとりたいと思ひます どうです 一枚くれませんか こつちへ送つて。文ちやんが田端へ持つて來て下されば、猶難有いけれど、どうです。ほんとうは寫眞も欲しいけれど、それより文ちやんに會ひたくなりました。これは小さな聲でそうつと云ふのです。外の人に聞えるといけません。會つて、話をする事もないけれど、唯まあ會つて、一しよにゐたいのです。へんですかね。どうもへんだけれど、そんな氣がするのです。笑つちやいけません。それからまだ妙なのは、文ちやんの顏を想像する時、いつも想像に浮ぶ顏が一つきまつてゐる事です。どんな顏と云つて 云ひやうがありませんが、まあ微笑してゐる顏ですね。その顏を僕はいつか高輪の玄關で見たのです。さうしてそれ以來その顏にとつつかれてしまつたのです。文ちやんの顏の澤山ある表情の中で、その一つが頭へこびりついちまふと云ふのはへんでせう。へんだけれど事實です。僕は時々その顏を想像にうかべます。さうして文ちやんの事を苦しい程强く思ひ出します。そんな時は、苦しくつても幸福です

ボクはすべて幸福な時に、一番不幸な事を考へます さうして萬一不幸になつた時の心の訓練をやつて見ます その一つは文ちやんがボクの所へ來なくなる事ですよ。(そんな事があつたらと思ふだけです。理由も何もなく。)それから 伯母が死ぬ事です。この二つに出會つても ボクは取亂したくないと思ふのですね。が、これが一番むづかしさうです。もし兩方一しよに來たら、やり切れさうもありません。

もう遲いから(午前一時)、やめます。文ちやんはもうねてゐるでせう。ねてゐるのが見えるやうな氣がします.もしそこにボクがゐたら、いい夢を見るおまじなひに そうつと眶(まぶた)の上を撫でてあげます 以上

    十月八日夜

   塚 本 文 子 樣

 

[やぶちゃん注:「兄さん」既に述べた通り、塚本文の叔父で、龍之介の幼馴染みにして親友の山本喜誉司。

「五十枝さん」読みは「いそえ」か。筑摩全集類聚版脚注に『山本喜誉司の妻か』とある。

「伯母」芥川フキ。この謂いから、芥川龍之介が如何にこの伯母を愛していたかが、窺われる。]

大和本草諸品圖下 ムツノ魚・扁鰺(ヒラアヂ)・笛吹魚・目白鯛 (ムツ(図のみから)・マアジ(地方名)・ヤガラ類・メイチダイ)

 

5

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

ムツノ魚

 泥海ニ多シ

  味不ㇾ美キラ

○やぶちゃんの書き下し文[やぶちゃん注:「美」の送り仮名が不審なので推定で訂して訓読する。]

むつの魚

 泥海に多し。味、美〔(よ)〕からず。

――――――――――――――――――

扁鰺(ヒラアヂ)

アヂニ似テ

扁(ヒラ)シ無ㇾ鱗

尾ニ近シテ

連鱗アル

事モ

常ノ

アヂノ如シ

味美海魚也

連鱗ナキモアリ

――――――――――――――――――

笛吹魚形似鰻鱺(ウナキ)而圓

長可一二尺口數寸口如ㇾ鬣(ヒレ)

  者アリ知シ身小ニシテ圓シ

   目大也

 

尾ノ末ノ

岐ヨリ

又絲筋ノ如ナル長キ小尾アリ其長キコト五六寸在長崎之海

[やぶちゃん注:以下、左の魚体の間の小文字の転倒文。]

      目ヨリ口マテ五六寸

  其間兩ワキハ不ㇾ開只口サキノ

  ミ開ケリ目ヨリ口マデノ大

  サモ身ト同シ目ヨリ口マデ

      肉ニハ非ス

○やぶちゃんの書き下し文[やぶちゃん注:ご覧の通り、キャプションが甚だ読み難いので、訓読する。]

笛吹魚〔(ふえふきうを)〕 其の形、鰻鱺(うなぎ)に似て、圓〔(まろ)〕く、長さ、一、二尺〔ある〕べし。其の口、數寸。口の傍〔(かたはら)〕に鬣(ひれ)のごとき者、あり。知〔(しれ)〕じ。身、小にして、圓し。目、大なり。尾の末の岐〔(また)〕より、又、絲筋のごとくなる、長き小尾あり。其の長きこと、五、六寸。長崎の海に在り。

[やぶちゃん注:以下、左の魚体の間の小文字の転倒文。]

目より口まで、五、六寸。其の間〔の〕兩わきは開かず、只、口さきのみ、開けり。目より口までの大〔い〕さも、身と同じ。目より口まで、肉には非ず。

――――――――――――――――――

目白鯛

肩高橫※

[やぶちゃん注:「※」=「氵」+「闊」。]

鬃魚ナリ兩傍

紫斑其目白

○やぶちゃんの書き下し文

目白鯛

肩、高く、橫、※〔(ひろ)〕し[やぶちゃん注:「※」=「氵」+「闊」。]。「紅鬃魚〔(こうそうぎよ)〕」と異なり、兩傍に、紫斑、有り。其の目、白し。

[やぶちゃん注:「ムツノ魚」は、図だけを見ていると、

スズキ目スズキ亜目ムツ科ムツ属ムツ Scombrops boops

でいいかな? と思うのだが――ムツの成魚は深海性だが、幼魚は沿岸域に棲む……しかしだ、「泥海」には、無論、いない! こんな魚体で泥海干潟なんかにいる奴はいないぞ!?……って、このキャプションが不審、というより、これって、えらい困らされた「大和本草卷之十三 魚之下 むつ (考えに考えた末にムツゴロウに比定)」と同んなじゃん! 図だけでむっとして「ムツ」で終わる!

「扁鰺(ヒラアヂ)」は、「ヒラアジ」の名を含むのは、

スズキ亜目アジ科マブタシマアジ属クロボシヒラアジ Alepes djedaba

がいるものの、当該種は暖海性で、当時の九州でも見かけた可能性は低いから、これは、ただの、

アジ科アジ亜科マアジ属マアジ Trachurus japonicus

の地方名(「大和本草卷之十三 魚之下 鰺 (アジ類)」参照)である可能性が甚だ高い。ただ、ここで、「連鱗、なきも、あり」というのはアジ類ではあり得ない。恐らくは、

ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ニシン亜科サッパ属サッパ Sardinella zunasi

辺りの誤認であろう。

笛吹魚」は魚体の特徴を珍しくよく描き、解説も甚だ読み難いものの、よく語られてあるので、「大和本草卷之十三 魚之下 鮹魚 (ヘラヤガラ・アカヤガラ)」と合わせて、

トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヘラヤガラ科ヘラヤガラ属ヘラヤガラ Aulostomus chinensis

アカヤガラ Fistularia petimba

アオヤガラ Fistularia commersonii

に同定してよい。

目白鯛」は、「目白」に疑問はあるが、側扁して体高があること、体側が紫色を帯びること、眼に特徴があること(幼魚や小型には身体を横に走る黒い帯が目にも通る。これが「目一」の由来)、

スズキ目スズキ亜目フエフキダイ科ヨコシマクロダイ亜科メイチダイ属メイチダイ Gymnocranius griseus

に比定しておく。

「紅鬃魚」既出既注。ここでは広義のごくオーソドックスな魚体のタイ類を指している。メイチダイは「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見れば判る通り、赤みが有意に薄いのである。

大和本草諸品圖下 ヲコゼ・皮籠海豚(カハゴフグ)・クサイ・カイメ (オニカサゴ・ハコフグ或いはイトマキフグ・ミノカサゴ或いはハナミノカサゴ・サカタザメ)

 

4

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

ヲコゼ ヲコシ

――――――――――――――――――

皮籠海豚(カハゴフグ)

其ノ形似

籠(ゴ)長崎

――――――――――――――――――

クサイ     其ノ形狀

漢名未ㇾ詳   如ㇾ此大

海魚也     不ㇾ過

巨魚   寸一其䰇(ヒレ)

        多如ㇾ此

        他魚

○やぶちゃんの書き下し文

クサイ

漢名、未だ詳らかならず。海魚なり。巨魚に非ず。其の形狀、此くのごとし。大いさ、數寸〔(すすん)〕に過ぎず。其の䰇(ひれ)、多きこと、此くのごとし。他魚に異れり。

――――――――――――――――――

カイメ モダマ。ツノジノ類

形甚コチニ

似タリ味ハ      カイメノ

コチニ不ㇾ似     腹

モダマニ似

タリ

能煮

スミソ

ニテ食フ

○やぶちゃんの書き下し文

かいめ 「もだま」。「つのじ」の類〔(るゐ)〕。形、甚だ「こち」に似たり。味は「こち」に似ず。「もだま」に似たり。薄く切り、能く煮て、「すみそ」にて食ふ。

           「カイメ」の腹

[やぶちゃん注:「ヲコゼ」は、「大和本草卷之十三 魚之下 をこぜ (オニオコゼ)」及び、「大和本草附錄巻之二 魚類 ヲコゼ (オニオコゼ)」の表記から、

条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科(又はオニオコゼ科)オニオコゼ亜科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus

でよい。直上から描かれていて、顔が剽軽過ぎて、刺されたら、危険であるという事実が全く伝わらない。こんな博物画は失格である。『毛利梅園「梅園魚譜」 鬼頭魚(オニオコゼ)』リアルなそれを見習うべくんばあらず!

「皮籠海豚(カハゴフグ)」は、「大和本草附錄巻之二 魚類 かはごふぐ (イトマキフグ或いはハコフグ)」の表記から、

フグ目ハコフグ上科ハコフグ科ハコフグ属ハコフグ Ostracion immaculatus

或いは、

フグ目フグ亜目イトマキフグ(糸巻河豚)科イトマキフグ属イトマキフグ Kentrocapros aculeatus

でよい。同前で、『毛利梅園「梅園魚譜」 ハコフグ』の、絵(えー)を、見いな! あんた、益軒先生の弟子を名乗る(推定)資格なしやで!

「クサイ」は、魚体が派手だから、流石に、下手な絵からでも(「大和本草」本文には独立項には出来ない)、

カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科ミノカサゴ亜科ミノカサゴ属ミノカサゴ Pterois lunulata

と判る。当該ウィキによれば、『和名の蓑笠子は、ミノカサゴの鰭を蓑や菅笠になぞらえたもの。また、刺された際の痛みの強さから』、『さまざまな地方名を持ち、広島県では「ナヌカバシリ(七日走り)」(「痛みに耐えかねて」七『日間走り回る」の意)』、『三重県では「マテシバシ」(「うっかり触らないように』、暫く『待て」の意)』、山口県では「キヨモリ」(「平清盛のように、派手な衣装の下に武器を隠している」の意)』『などと呼ばれる』。『体長は』二十五~三十センチメートル程度で、ここにある通り、魚体自体は大きくはない。しかし、長く伸びた鰭で、海水中では、実長さより大きく見え、目立つ(これ自体が警戒形態となっている)。『背鰭を中心に毒を持つ』。『腹鰭の間に』も剣状の棘条(実際に「ツルギ」と呼ぶ)があるので、こちらも注意が必要である。棘傷による『死亡例もある。毒の種類は混合毒。刺されると、患部は赤く腫れ上がり、指曲げ不能、めまい、発熱、発汗、頭痛、吐気、手足麻痺、呼吸困難などを引き起こす』。『外敵だけでなく、ミノカサゴの仲間に対しても毒性を持つ』(この毒性を書いていない点でも博物図として致命的に失格である)。『貝類や、甲殻類、小魚などの小動物を捕食する』。『夜行性で、昼間は珊瑚や岩場の影に潜んでいる』。ミノカサゴ亜科 Pteroinae のミノカサゴ類は、この鰭が非常に美しいのだが、孰れもこの猛毒を持っており、英名総称では ‘Lionfish’(鰭をライオンの鬣に擬えたものであろう)と呼ばれ、本邦にも駿河湾以南の岩礁やサンゴ礁域に棲息する、

ハナミノカサゴ Pterois volitans

などは、“Devil firefish”という、いかにもありがたくない名を頂戴している。『太平洋の南西部とインド洋にかけて、日本では北海道の南部以南の沿岸部の岩礁に生息する』(大学時代、佐渡出身の先輩がひどく恐れていたのを思い出す)。『優雅に泳ぐさまとは対照的に攻撃的な魚で、ダイビング時の水中撮影などでしつこく追い回すと』、『激昂』して『人に向かってくることがあるので要注意』で、『煮付けなど食用として加熱する料理に使われることもあるが、狙って釣れるような魚ではなく、数が揃いにくいため』、『市場には出回らない』とある。

「クサイ」語源不詳。ふと思ったのは、双子葉植物綱マンサク亜綱イラクサ目イラクサ科イラクサ属イラクサ Urtica thunbergiana (漢字表記は「刺草」「蕁麻」。茎や葉の表面の毛のような棘があり、その基部にはアセチルコリンとヒスタミンを含んだ液体の入った嚢があり、トゲに触れ、その嚢が破れて皮膚につくと、強い痛みを感じ、皮膚炎を発症する)の転倒縮約で、「海の刺草(いらくさ)」が「くさ」「い」となったものではなかろうか?

「カイメ」は、独立項としてはなく、「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」及び「大和本草附錄巻之二 魚類 フカノ類 (サメ類)」、また、「大和本草附錄巻之二 魚類 エイノ類 (エイ類)」の記載に似ているものとして「かいめ」の名が出るところの、

エイ上目サカタザメ目サカタザメ科サカタザメ属サカタザメ Rhinobatos schlegelii

である。それぞれで考証して注も附してあるので、それらを参照されたい。

「もだま」メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo の異名として知られるが、ここは広義の「鮫」の謂い。「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」で考証済み。但し、以上の上目タクソンで判る通り、サカタザメは「サメ」ではなく、「エイ」である。

「つのじ」これはホシザメ或いはメジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus の異名としてもあるのであるが、それ以上に実は、「サメ」とは遠い昔に分かれてしまった、現行の生物学上は狭義の「サメ」ではない、軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギギンザメ類(軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目 Chimaeriformes 或は代表種ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma)の異名として、現在も広汎に見られる呼称である(「大和本草附錄巻之二 魚類 フカノ類 (サメ類)」の私の注を参照)。しかし、サカタザメは、明らかにエイを左右に縮めた形態で、孰れとも似ているとは私は思わない。

『薄く切り、能く煮て、「すみそ」にて食ふ』サカタザメの食味は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページがよい。よく似て、酢味噌和えとするのは、サメ・エイ類のアンモニア臭を避けるため。彼らは他の魚類とは異なり、体内に尿素を貯め込むことで体内の浸透圧と、海水との浸透圧をほぼ等しくしているからで、尿素は加水分解でアンモニアに変じるからである。]

2021/06/07

大和本草諸品圖下 馬ヌス人・赤(アカ)魚・寶藏鯛・久鯛 (チカメキントキ・カサゴ・クロホシフエダイ・イシダイ)

 

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[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

馬ヌス人

本書緋魚ノ條下ニ載ㇾ之可ㇾ考

 紅色細鱗

 䰇尾似

 紅鬃(タイ)

 魚

 向ㇾ上

 味亦

 似ㇾ鯛

○やぶちゃんの書き下し文

馬ぬす人

本書、緋魚の條下に之れを載す。考ふべし。紅色。細鱗。䰇〔(ひれ)〕・尾、紅鬃魚(たい)に似、口、上に向く。味、亦、鯛に似る。

――――――――――――――――――

赤(アカ)魚 又モウヲト云

海中尺餘其色紅多

白少口※目大ニ乄而高首大

[やぶちゃん注:「※」=「氵」+「闊」。]

未小シナリ肉軟

脂少味美

病人可      是亦本

無ㇾ毒     書緋魚

俗赤魚      下ニノス

略シテ      身半以

アコト云     下小

○やぶちゃんの書き下し文

赤(あか)魚 又、「もうを」と云ふ。

海中に在り、長さ尺餘り。其の色、紅、多く、白、少なし。口、※〔(ひろ)〕[やぶちゃん注:「※」=「氵」+「闊」。]く、目、大にして、高し。首、大〔なるも〕、未[やぶちゃん注:「末」(すゑ)の誤記か。]小〔(ちいさ)〕しなり。肉、軟かに、脂、少し。味、美〔(よ)〕し。病人、啖〔(く)〕ふべし。毒、無し。俗、「赤魚」を略して、「あこ」と云ふ。是れ亦、本書「緋魚」の下に、のす。身〔の〕半〔(なか)ば〕以下〔は〕小さし。

――――――――――――――――――

寶藏鯛 海魚ナリ

其ノ口囊ノ口ヲ括ル

ガ如シ偏鄙ノ人帶ル

ㇾ腰火打囊ヲ寚

藏ト云此魚ノ

口似タリㇾ之形與

紅鬃魚(タイ)相似タリ

遍身淡白色

○やぶちゃんの書き下し文

寶藏鯛 海魚なり。其の口、囊の口を括〔(くく)〕るが如し。偏鄙の人、腰に帶〔(おぶ)〕る「火打囊〔(ひうちぶくろ)〕」を「寚藏〔(ほうざう)〕」と云ふ。此の魚の口、之れに似たり。形、紅鬃魚(たい)と相ひ似たり。遍身、淡白色。

――――――――――――――――――

久鯛

海魚

紅鬃魚

黒㸃〔一〕

色與

鯽不

味美ナルヿ

紅鬃

或斜

紋三四條

○やぶちゃんの書き下し文

久鯛

海魚と爲す。其の形、紅鬃魚〔(たひ)〕のごとし。黒㸃、多し。淡色。海鯽〔(ちぬ)〕に相ひ似ず。味、美なること、紅鬃魚のごとし、或いは、斜めに、紋、三、四條の者、有り。

[やぶちゃん注:まず、最初に底本としている中村学園大学図書館蔵本目次ページの同定比定を見ると、それぞれ、『○馬ヌス人(ちかめきんときだい)』、『○赤魚(モウオ、かさご)』、『○宝蔵鯛(ころだい)』、『○久鯛(ひげだい)』となっている。確かに、最初の「馬ヌス人は「紅色」『口、上に向く。味、亦、鯛に似る」とする部分が、特に、この種の口が有意に上を向いているという点で、しかも全身が紅色であったとなら(正直、図は無視して、である)

スズキ亜目キントキダイ科チカメキントキ属チカメキントキ Cookeolus japonicus (一属一種)

だ! と思うわず、膝を叩いたのであった! 「緋魚の條下に之れを載す。考ふべし」という語が、しみじみ、聴こえたものであった。私は「大和本草卷之十三 魚之下 緋魚 (最終同定比定判断はカサゴ・アコウダイ・アカメバル)」で、かなり、同定比定に手間取った。しかもそこには、本文で『筑紫の方言に「馬ぬす人」と云ふ魚あり』と出、そこで私は、

   *

サイト「みんなの知識 ちょっと便利帳」の「魚(魚介類)の名前と漢字表記」のこちらに、「アコウダイ」の項に『ウマヌスビト、アコウ、アコ』とある。また、ネット検索で見出した「Ⅲ 魚等にかかわる漢字」(PDFの表中に『アカウオ 馬盗人(ウマヌスビト)』とある。この「アカウオ」とは、カサゴ亜目メバル科メバル属アラスカメヌケ Sebastes alutus を指すから、何ら問題はない。但し、同種はオホーツク海から太平洋沿岸、青森県から宮城県の太平洋沿岸でしか捕獲されない。しかし、「アカウオ」は近代以前は「アコウダイ」の異名としても少しもおかしくない。いや! ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「アコウダイ」異名に、東京都などで「アカウオ」「赤魚」が載り、『赤いメバル類の総称。後にアラスカメヌケや輸入ものの赤いメバル類の呼び名に変わる』とある。則ち、赤いメバル類或いは、もっと広くカサゴ類の赤みの強い種群はやはり嘗て「アカウオ」と普通に市場で呼ばれていたのである。

   *

として、『「馬盗人」という命名への由来への根拠はひどく気にはなる。由来を探し得なかったのが気に懸かる。識者の御教授を乞うものである』としつつも、考察を終えてしまったのである。しかし、今、改めて上記のアコウダイの画像を見ると、「緋」と呼ぶには赤みが薄いし、何より、ここで言っている、「口が有意に上を向いている」と言うには、下顎がつき出したシャクレになってはいても、「上を向いている」とは絶対に言えない。合致度はやはり、チカメキントキである。而して、群馬県前橋市岩神町の鮮魚店「養田鮮魚ブログ」の「チカメキントキ鯛」の投稿に、『金目鯛に似ていますが、違います。金時鯛です。金時鯛だけじゃないですが、地方でも色々な呼び名がありまして』、『神奈川県三崎でキンメ、和歌山県でキントキ、高知県でキントウジまたはカネヒラ』、『福岡県でウマヌスット、鹿児島県でセマツダイと呼ばれる』。『福岡のウマヌスットて馬盗人てこと?なんで?(笑)』(とあるので、この方も語源はお判りならないらしい)。『実はこの魚本種の金時鯛ではなくて、正式名称は「近眼金時鯛」といいます』とあった。

「紅鬃魚(たい)」この「鬃」は「馬の鬣(たてがみ)」を意味する語で、背鰭の派手な棘鰭を指して広義の「タイ」類を、ここでは、指している。但し、益軒は本文の別なところで、しばしばカサゴ類をも、この名で呼んでおり、次の項と濃厚に繋がってくるのである。

 次に「赤(アカ)魚」「もうを」だが、この異名も多くの種に当てられていて、なかなか名前からは厳しい。ただ、「目、大にして、高し。首、大〔なるも〕、未[やぶちゃん注:「末」(すゑ)の誤記か。]小〔(ちいさ)〕しなり」、眼が大きくてしかも側面の高い位置についている、首が太い(図から考えると、口吻部を大きく開いて、鰓を広げることが出来るグループと判断できる)が、体幹は尾部に向かうに従って急激に細くスマートになると言っているようだ。これによく当て嵌まるのは、

カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科 Scorpaenidae(メバル科 Sebastidae)カサゴ属カサゴ Sebastiscus marmoratus

である。当該ウィキによれば(太字下線は私が附した)、『和名は、頭部が大きく、笠をかぶっているように見えることから起こった俗称「笠子」に由来すると考えられている』(頭大尾小に合致)とあり、また、『体色は普通、赤色から褐色地に不規則な形状の薄色斑が見られるが、体色や模様は生息環境や個体により変異がある。近縁のメバルに比べて相対的に体の断面が丸く側扁は弱く、眼が小さく、口が大きい』。『浅い所に棲むカサゴは』、『岩や海藻の色に合わせた褐色をしているのに対し』(これは「藻魚(もうを)」の呼称に合致する)、『深い所に棲むカサゴは鮮やかな赤色である』(「緋魚」に合致)。『赤色光の吸収と残留青色光の拡散が起こる海中、すなわち青い海の中では、赤色系の体色は環境の青色光と相殺されて地味な灰色に見えるため、これは保護色として機能する。赤い光は海の深い所まで届かないので、赤い色をしたカサゴは敵や獲物から見つかりにくい。これは深海における適応の一つで、実際、深海生物には真っ赤な体色のものが多く見られる』とある。「大和本草卷之十三 魚之下 緋魚 (最終同定比定判断はカサゴ・アコウダイ・アカメバル)」でも私も、最終的にカサゴに最大有力候補として辿り着いている。

 次の「寶藏鯛」であるが、これはまず、「大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)」に『○「寳藏鯛」 常に鯛より身薄く、味、淡くして、よし。色、淡白、紅ならず。尾に近き處、黑㸃、多し。牙は口中にかくれて、口より見ゑず[やぶちゃん注:ママ。]。尾に岐(また)、なく、直ちに切れたるがごとし。常の鯛に異れり』と登場し、私は、注で、『体が扁側し、尾に近い位置に明白な黒点があり(但し、益軒はそれが多くあると言っているのが悩ましいのだが)、さらに歯が「口中にかくれて」いて、普通の状態では見えない(これが大事!)『尾に岐(また)』がなく(中央の凹みと上下の伸長が全くない)『直ちに切れたるがごと』き尾鰭を持つ点で、これは、

スズキ目スズキ亜目フエダイ科フエダイ属クロホシフエダイ Lutjanus russellii 

と断定していいように私は思う。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のクロホシフエダイのページを是非、見られたい。そこに上顎上顎の口内のイッテンフエダイ(同属のフエダイ属イッテンフエダイ Lutjanus monostigma)との比較画像がある。上顎の近心部の前歯がクロホシフエダイにはないのだ! なお、ぼうずコンニャク氏の解説によれば、本種は『シガテラ毒を持つ確率の高い魚』とある。要注意!』同定比定した。後に、『畔田翠山「水族志」 ホウザウダヒ (クロホシフエダイ)』でも再考証したが、これを変更する気は今もない。なお、底本目次の比定するのは、

スズキ亜目イサキ科コロダイ属コロダイ Diagramma picta

である。拙い図を信じ、キャプションの「其の口、囊の口を括〔(くく)〕るが如し」というのを見ると、例えば、単独で「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のコロダイのページの写真を見ていると、ふと、「それかも?!」と感じたりするかも知れない。でも、「このコロダイの口って、そんなに特異か?」って私は疑問を持つ。「こんなの、普通に沿岸で釣れるメジナなんかと同じじゃん!」と叫びたくなる。しかも、「寚藏〔(ほうざう)〕」(「寚」は「寶・寳・宝」の異体字)と呼んだ『腰に帶〔(おぶ)〕る「火打囊〔(ひうちぶくろ)〕」』を調べてみるに、所謂、古典的な巾着袋で、口の部分を抜き貫いた紐できゅっと絞ったもの、おでんの餅巾着見たようなものなのだ。それをぶら下げた風俗画を見たところが、全体が火打ちの重さで下がってしまい、口の部分は尖がった突き出たものとなるのだ。さればこそ、私は、クロホシフエダイを譲る気はなくなったのである。

 はい、最後の「久鯛」。「鯛に似ている」、「黒点が多い」、「全体に淡い色」で、「海鯽〔(ちぬ)〕」(クロダイ)全然似ていない(種を語るのに「似てない」というのは頗る厭な感じだよな!)、「味は鯛のように甚だ美味い」、時に「斜めに、紋、三、四條の者、有り」とくる。この中で、最大のヒントはただ一箇所、最後の縞模様だよな。図はやっぱり役に立たないが、敢えて言うと、この縞は橫縞で斜めについているのじゃないかねぇ? 絵師さんよ? とすればだ、

スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ Oplegnathus fasciatus

の幼魚・若い成魚なんじゃないかね?]

芥川龍之介書簡抄79 / 大正六(一九一七)年書簡より(十一) 塚本文宛三通

 

大正六(一九一七)年九月四日・鎌倉発信・塚本文宛

 

文ちやん     九月四日鎌倉海岸通にて

この二三日伯母が鎌倉にゐて、今東京へかへりました、それを送つて歸つて來たさびしい心もちで、この手紙を書きます 何だかこの手紙を書かなければ、このさびしさがなくならないやうな氣がするから、書くのです

先日は失禮しました

あの時、文ちやんが倫理の先生に叱られた話をしたでせう あれが大へん嬉しかつたのです 何時でもあゝ云ふやうな心もちでゐなければいけません 叱るのは叱る先生の方が間違つてゐるのです あれで一生通せれば立派なものです どんな人の前へ出ても 恥しい事はありません 何時までも ああ云ふやうに正直でお出でなさい 知らないものは知らないでお通しなさい それがほんとうの人間のする事です イカモノの令夫人や令孃には、いくらめかし立てても、ほんとうの人間のする事は出來ません あの話を聞いた時に、僕は嬉しいと同時に敬服しました

但しほめても、自慢をしちやいけません

それからもう一つうれしかつたのは、伯母が文ちやんの正直なのに大へん感心してゐた事です、あとで文ちやんから手紙が來た時などには、淚をこぼしてうれしがつてゐました 正直な人間には 正直な人間の心がすぐに通じるのです 不正直な世間がどうする事も出來ないやうな心が、動かされるのです 僕も伯母と一しよに 僕たちの幸福をうれしく思ひました。文ちやんも一しよに、うれしく思つて下さい

最後に 八洲さんと三人で停車場へ行く途中で、女の人がすれちがふ時に 相手を偸むやうにして見る話をしたでせう あの時文ちやんがさうしないと云つたのが又 うれしかつたのです

これは皆世間の人から見たら、つまらない事をうれしがつてゐると思ふやうな事かも知れません しかし さう思ふだけ、世間の方が墮落してゐるのです 人間の價(ね)うちはつまらない事で一番よくわかります 大きな事になると、誰でも考へてやりますから、さう露骨に下等さが見えすきません しかしつまらない事になると、別に考へを使はずにやります 云ひかへると、自然にやります そこでいくら隱さうとしても その人の價うちが知らず知らず外へ出てしまふのです。だからその人の價うちがわかると云ふ點から云へばつまらない事は、反つてつまらない事ではありません 僕は今までに さう云ふつまらない事から曝露される男の人や女の人の下等さを、いやになる程見て來ました さうしてさう云ふ人間が、鼻につく程しみじみいやになつてしまひました。世間には實際そんな人間がうぢやうぢや集つてゐるのです。

お互に利巧ぶらず えらがらず 靜に幸福にくらして行きませう さうする事が出來たら、人間としてどの位高等だかわかりません

この頃はいろいろ 持つべき家の事を考へてゐます どうせ貧乏人だから 碌な暮しは出來ませんよ よござんすか

風が吹いて 海が鳴つてゐます 松も鳴つてゐます 月夜ですが、雲があるので、光がさしません 電燈には絕えず 蟲がとんで來ます ここまで書いたら、やつと少しさびしくなくなりました、

お母樣によろしく 先日の御手紙のお禮をよく申上げて下さい それから休み中に一度上りたかつたのですが、忙しかつて[やぶちゃん注:ママ。]それも出來なかつた御詫も 序に御傳へ下さい

こないだ八洲さんから 繪はがきを頂きました。その字が去年一の宮で頂いた繪はがきの字にくらべると 非常にうまくなつてゐたのに大に感心しました、これは實際大に感心したんですから、文ちやんからよくさう云つて下さい

この一日に入校式で、僕はフロツクでシルクハツトをかぶりました さうしたらフロツクは消毒法を施さなかつたせいか、チョツキのボタンが黴びてゐました

これでやめます 龍

 

[やぶちゃん注:「伯母」フキ。

「八洲」塚本八洲(やしま 明治三六(一九〇三)年三月八日~昭和一九(一九四四)年)。塚本文の弟。長崎県生まれ。書簡当時は満十四歳。父善五郎が戦死したため、母鈴の実家であった本所の山本家(龍之介の親友山本喜誉司の父母)に家族と身を寄せていた。一高に入学し、将来を期待されたが、結核に罹患、大正一三(一九二四)年頃に喀血し、翌年の三度目の喀血の際には、芥川は、芥川家主治医下島勲(龍之介検死担当者)と塚本家に駆けつけて見舞っている。結局、快方に向かわず、没年まで闘病生活を送った。大正一五(一九二六)年には療養のために鵠沼に移住したが、この転地が芥川最晩年の鵠沼滞在のきっかけとなっている。]

 

 

大正六(一九一七)年九月五日・鎌倉発信・塚本文宛

 

手紙が行きちがひになりました

今文ちやんの手紙を見ましたから、又之を書きます

夏目さんの話は誤解の起り易い話だから 僕は誰にも話した事がありません 唯兄さんにだけは 前から何も彼も話し合つてゐる仲なので、その話をしました さうしてその話は誰にも(勿論お母さんや文ちやんにも)默つてゐろと云ひました そんな事を僕が得意になつてゐるやうに思はれるが嫌だつたからですそれを話してしまつたのは、兄さんが惡いのです 今度あつたら小言を云つてやります 約束を守らないのは 甚いけません

夏目さんの方は向うでこつちを何とも思つてゐない如く こつちも向うを何とも思つてゐません[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集にはこの後に編者傍注『〔削除〕』があり、及び岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)でも『〔以下削除〕』となっており、岩波新全集でも復元されていないようである。或いは既に原書簡は行方不明となっているものか。]

僕は文ちやんと約束があつたから 夏目さんのを斷るとか何とか云ふのではありません 約束がなくつても、斷るのです

文ちやん以外の人と幸福に暮す事が出來ようなぞとは、元より夢にも思つてはゐません、僕に力を與へ 僕の生活を愉快にする人があるとすれば、それは唯文ちやんだけです だから僕には文ちやんが大事です 昔の妻爭ひのやうに、文ちやんを得る爲に戰はなければならないとしら[やぶちゃん注:ママ。]、僕は誰とでも戰ふでせう さうして勝つまではやめないでせう それ程に僕は文ちやんを思つてゐます 僕はこの事だけなら神樣の前へ出ても恥しくはありません 僕は文ちやんを愛してゐます 文ちやんも僕を愛して下さい

愛するものは何事をも征服します 死さへも愛の前にはかなひません

僕が文ちやんを何よりも愛してゐると云ふ事を忘れないで下さい さうして時々は僕の事を思ひ出して下さい 僕は今みぢめな下宿生活をしてゐます しかし文ちやんと一しよになれたら 僕は僕に新しい力の生まれる事を信じてゐます さうすれば 僕は何も怖いものがありません

唯 僕は文ちやんが僕の所へ來たら、文ちやんのお母樣が嘸さびしくおなりだらうと思ひます さうしてそれがお氣の毒です 文ちやんもさう思ふでせう 僕はそれがほんとうにお氣の毒です

それから安井夫人が文ちやんに幾分でも面白かつたのは 何よりです 且那樣の安井仲平と云ふのは 德川時代の末にゐた大學者の安井息軒先生です 息軒先生のお子さんは今一高の漢文の先生をしてゐられます(四十五六でせう)安井夫人はえらいですね 僕はああ云ふ人の方が、今の女學者よりどの位えらいか知れないと思ひます

又長くなつたから これでやめます

ひまがあつたら 手紙を書いて下さい

    九月五日午後     芥川龍之介

   塚本文子樣

 

[やぶちゃん注:「夏目さんの話は誤解の起り易い話」新全集宮坂年譜に、この手紙について、『夏目筆子(漱石の長女)の婿侯補として芥川が話題に上ったことについて、塚本文に釈明の手紙を書く』として、以上の書簡の一部を示し、その後に参考資料として、同年十二月九日附『東京日日新聞』の記事(恐らく文芸欄)が示されてある。漢字を恣意的に正字化して示す。『漱石氏の後嗣に就ては其死の前後から久米正雄君が長女筆子さんの女婿として夏目家を嗣ぐべく門生間に噂され之を慶賀したのは若い漱石門下の連中で森田草平、安倍能成、小宮豐隆君等の第一級門生は「久米の樣な後輩が夏目家の株を奪ふのは不快だ」と非常な反對で之に対抗する(中略)芥川龍之助氏も一時矚目の的となつたが氏には既に妻たるべき人がある』と書かれてある。また、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「漱石の娘筆子と久米・松岡」には、

   《引用開始》

 漱石が死んだ時長女の筆子は満一七歳の女学生、長男の純一は一〇歳(他に子供は四人)といずれも幼く、鏡子夫人としては何かにつけて家政の相談役、援肋者が必要で、それが漱石の命日にちなんだ九日会の集まりであり、さらに死後も続けられた本曜会であった。

 初めはともかく、定期的に集まることのできる者は限られ、必然的に定職のない久米や松岡が顔を出すことが多く、子供達との接触も深くなっていった。

 久米は惚れっぽい男で、いつでも誰かに恋をしないではいられない〈恋愛病患者〉だった。

 これに配するに長女の筆子はコケティッシュなところのある娘で、たちまち二人の間は燃え上がり、久米は求婚を鏡子夫人に申出る。それを聞いた古い門下生達からは芥川ならよいが、久米ではという反対もあったが、夫人から猶予つきながら内諾を与えられた。

 ところが大正六年の夏から家庭教師ということで旧友の松岡譲が夏目家に同居するに及んで筆子の気持は松岡に移ってしまい、久米には冷たくなる。挽回をはかって久米は自らを婚約者にしたてた小説「一挿話」を発表すると、夫人の激怒を買い、六年一〇月内諾は解消され、翌七年四月松岡と筆子は婚約し、結婚した。当時ジャーナリズムの話題となった[やぶちゃん注:以下略。引用が全文にならないようにするために残り僅かであるが、カットした。]

   《引用終了》

とある。筑摩全集類聚版脚注では、『芥川が夏目家の令嬢の第一候補に擬せられた。文子は自分が龍之介の将来を妨げるのではないかと考え、身を引こうとしたことを指す』と突っ込んで注してある。因みに、夏目筆子は明治三二(一八九九)年五月三十一日生まれで、当時満十九歳、塚本文は明治三三(一九〇〇)年七月四日生まれで一年一ヶ月ほど年下であった。

「兄さん」塚本文の叔父で龍之介の幼馴染みで親友の山本喜誉司(明治二五(一八九二)九月十七日生まれ)。龍之介の方が六ヶ月早く生まれているものの、少年期より山本を慕い、同性愛感情も濃厚で、非常に親密であったから、姪である文に対して、自身の強い親愛を込めて、「兄さん」と呼称しているものと考えられる。

「安井夫人」森鷗外の小説。大正三(一九一四)年四月『太陽』に発表。後、作品集「堺事件」に収録された。国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここから視認出来る。トビウオ氏のブログ「空も飛べる魚になりたい」の「【精読】森鴎外『安井夫人』自立する女性を描いた文学 -平塚雷鳥との親交を通して-」が、判り易く纏まっている。

「安井息軒」(そっけん 寛政一一(一七九九)年~明治九(​一八七六)年)は日向国宮崎郡清武郷(現在の宮崎県宮崎市)生まれの儒学者。名は衡、息軒は号、仲平は字(あざな)である。日向飫肥(おび)藩儒安井滄洲(そうしゅう)の子。二十六歳で昌平黌に入り,松崎慊堂(こうどう)に学んだ。一時、飫肥藩校助教などを務めたが,後、昌平黌教授となった。漢・唐の古注を尊び、清の考証学を好んだ。嘉永六(一八五三)年のペリー続くプチャーチンの来航に際し、「海防私議」を著わし、時事を説いた。注釈書に「左伝輯釈」・「管子纂詁」があり、文集「息軒文鈔」「息軒遺稿」など著作も多い。

「息軒先生のお子さん」石割氏の注に、『実際には孫に当たる、漢学者の安井小太郎』とある。安井小太郎(安政五(一八五八)年~昭和一三(一九三八)年)は江戸生まれで、父中村貞太郎が尊皇攘夷運動で捕縛され、江戸伝馬町にて獄死し、母方の祖父であった安井息軒に引きとられた。島田篁村・草場船山に学んだ後、明治一五(一八八二)年に東京大学に入学、卒業後、学習院・一高・大東文化学院などの教授を歴任した。

「四十五六でせう」実際には数えで六十である。]

 

 

大正六(一九一七)年九月十三日・鎌倉発信・塚本文宛

 

この前の私の二通の手紙はとどかなかつたのではないでせうか

實は文ちやんの手紙が來るかと思つて、心まちに待つてゐました。私の手紙がとどかなかつたか、文ちやんのがとどかなかつたかと思つて 少し心配してゐます

私は近い中に 橫須賀の方へ轉居するつもりです、(今週中に)ですから、轉居先がわかるまでは、田端の方へ誰の手紙でも貰ふ事にしてゐます もし書けたら書いて下さい さうしないと さびしい

   星月夜鎌倉山の山すすき穗に出(で)て人を思ふころかも

    九月十三日夜     芥川龍之介

   塚本文子樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介は、この翌日の十月十四日に横須賀市汐入五八〇番地尾鷲梅吉方の二階(八畳)に転居している。通勤時間を減らすことが目的とは思われる(私は他にも動機があったと考えている。それは、前に述べた同僚教官佐野慶造の新妻佐野花子の近くに住むという秘かなそれである)。現在の横須賀市汐入町丁目一附近である(グーグル・マップ・データ)。]

日本山海名産図会 第四巻 海膽

 

Uni

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「越前海膽(ゑちせんうに)」。]

 

  ○海膽(うに) 一名「霊羸子(れひるいし)」

是れ、塩辛中の第一とす。諸島にあれども、越前・薩摩の物、名品とす。殻、円(まろ)うして橘子(たちばな)のごとく、刺(はり)多くして、栗の毬(いか)に似たり。住吉・二見などの濱に、此の刺を削りて、小児(せうに)の弄物(もてあそびもの)とす。形、鐙兜(かぶと)に似て、其の口、殻の正中(まんなか)にあり。まゝ中(うち)に漆(うるし)して器物(きもつ)とす。肉は、殻に滿つることなく、甚た微少(すくな)くして膏(あぶら)あり。海人(かいじん)、塩に和(くわ)して酒殽(さかな)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]の上品とす。尤も黄に赤きを帯ぶるを、よしとす。大村・五島・平戸の產を賞す。紫・黃なる物は、薩摩島津の產なり。和潤(やはらか)にして、香芳(にほひ)、甚だ勝れり。越前の物は黏粘(ねばり)ありて、光艷(つや)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]も他(た)に超へたり。又、物に調味(てうみ)しては、味噌にかへて、一格の雅味あり。海膽・燒海膽・田樂なと、好事(こうず)に任せてしかり。

○漁捕(ぎよほ)は、海人(かじん)干泻(ひかた)に出で、岩間にもとめ、即ち、肉を採り、殻を去り、よく洗ひて、桶に収めて、亭長に送る。亭長、塩に和して售(う)る。

○「ウニ」とは「海膽(うに)」の轉じたるなり。又、一種、「兜貝(かぶとかひ)」と云ふ物、此種類にして、別なり。

[やぶちゃん注:棘皮動物門ウニ綱 Echinoidea の中で、本邦で主に食用に供される種は、

真ウニ亜綱ホンウニ上目ホンウニ目ホンウニ亜目オオバフンウニ科バフンウニ属バフンウニ Hemicentrotus pulcherrimus (北海道南端から九州。他に中国中南部沿岸と朝鮮半島南部に分布。本邦のウニの最上級品とされる)

オオバフンウニ属エゾバフンウニ Strongylocentrotus intermedius (北海道沿岸から太平洋側では相模湾、日本海側は山口県まで分布し、中国北部・ロシア沿海州から朝鮮半島に分布。本邦の流通では前のバフンウニと合わせて三分の二以上と圧倒的に占有している)

オオバフンウニ属キタムラサキウニ Strongylocentrotus nudus (太平洋側では襟裳岬から相模湾まで、北海道日本海沿岸から対馬沿岸まで。他にサハリン南部から朝鮮半島に分布)

オオバフンウニ科アカウニ属アカウニ Pseudocentrotus depressus (日本近海の固有種で、日本海側は津軽海峡、太平洋側は銚子を北限とする。他に済州島にも分布する。棘が赤みがかっている。但し、流通で「赤ウニ」と称している剝き物の場合は、上記のバフンウニやエゾバフンウニ(食用とする生殖腺が赤みがかっている)であることが多いので、注意は必要である)

ホンウニ亜目ナガウニ科ムラサキウニ属ムラサキウニ Heliocidaris crassispina (日本海側では青森県以南、太平洋側では茨城県以南。他に中国南東部沿岸や台湾にも分布する。関東で殻売りで出る安いものは概ね本種である)

ホンウニ目サンショウウニ亜目ラッパウニ科シラヒゲウニ属シラヒゲウニ Tripneustes gratilla (インド太平洋の熱帯海域に広く分布し、沖縄では普通、日本では南岸部に見られる。沖縄のウニは本種が一般的。近縁の毒(神経毒)叉棘で知られるラッパウニ Toxopneustes pileolus 同様に叉棘に毒を持つが、当該ウィキによれば、二〇〇八年の沖縄県に於ける海洋動物の被害状況報告では、本種によるものは一例だけとある。味はかなりいい)

である。私が食したものの中では、二〇〇九年八月の礼文島でのそれが最高だった。『漁協ウニ加工場。海洋生物を好む客也と日高女史言へば、漁労長、奥にウニの解剖図を取りに行かれ、厳かにウニを剖検す。綺麗に出だされし Aristotle's lantern を観察、生を食す(是は既に昨夜の夕食にて体験済)。親しく塩雲丹の製造法につきて質問するに、私的に昨日漬けた色悪きものの商品にならざるものの一夜漬けの塩雲丹、再び奥より出だし、下さる。一含み、我、生涯に於いて斯く美味なる雲丹を食ひたるは初めての事なり。又又稀有の体験』(「礼文利尻手帳」より)。

「海膽(うに)『一名「霊羸子(れひるいし)」』後で蒹葭堂は、『「ウニ」とは「海膽(うに)」の轉じたるなり』と言っているが、既注した大島廣先生の「ナマコとウニ――民謡と酒と肴の話――」(昭和五八(一九八三)年第三版)によれば、生体個体のウニは「海胆」「海栗」などと書くが、古くは「宇爾」「宇仁」などと漢字を当て、また、別称として広く使われた「ガゼ」には、古くは「加世」の漢字を当てていた。沖縄では「ガヅツ」と呼ぶ。『昔の本には霊羸子(れいらし[やぶちゃん注:蒹葭堂の「るい」は誤読。])(羸は裸の意。螺にも通じる)、棘羸(きょくら)、甲羅(こうら)、棘甲羸(きょくこうら)などと書かれ、さらに甲螺(『延喜式』)、霊螺子(れいらし)(『和名抄』)、石陰子(『本草和名』)などの字も見えるけれども、これらにはイガイやコヤスガイその他の海産巻貝の類が多く混同されていたようである』とある。既注の新井白石の「東雅」では「靈螺子(ウニ)」に於いて(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)、『ウニといひしは。ウは海也。ニは膽也。井[やぶちゃん注:「ヰ」に同じ。]といひニといふは轉語也。卽今俗にカブトカヒといふ亦類也』とある。しかし、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 別巻2 水棲無脊椎動物」の「ウニ」の記載によれば、荻生徂徠の「南留別志」(考証随筆。宝暦一二(一七六二)年刊。元文元(一七三六)年に「可成談」という書名で刊行されたが、遺漏の多い偽版であったため、改名した校刊本が出版された。題名は各条末に推量表現「なるべし」を用いていることによる。四百余の事物の名称について、語源・転訛・漢字の訓などを記したもの)や、江戸末期から明治にかけて編纂された国語辞書「和訓栞」(わくんのしおり:谷川士清(ことすが 安永六(一七七七)年~明治二〇(一八八七)年) 編)では(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『ウニは〈海丹(うに)〉の意だとしている。ここでいう丹とは、硫黄と水銀が化合してできた赤い土、つまり捺印する際に用いる朱(しゅ)の原料のこと』で、一部の種の『ウニの』赤みの強い『卵巣の色を朱に見立てた、とする説である』とある。個人的には「海丹」説を支持したくなる気はするが、であれば、昔より「に」には「丹」を当てていて良かったはずで、塩辛としてのそれが「雲丹」と別称されるようになるのは、大分、時代が下ってからのことと思われ、必ずしもそれが真説とは私は言い難いと感ずる。

「越前」福井の加工品としての「雲丹(うに)」はバフンウニを使う。

「薩摩」鹿児島のそれはムラサキウニを用いている。

「亭長」網元。或いは複数の漁船と漁師を管轄する水主(かこ)=船主。

『一種、「兜貝(かぶとかひ)」と云ふ物、此種類にして、別なり』これはカブトガニなんぞを考えては大外れで、ビーチ・コーミングをしたことがある人にはピンとくるはずである。則ち、ウニの死骸の棘が抜け落ちた本体部骨格である。如何にも鉢に星鋲を打った兜(かぶと)然としているではないか。新井白石は前掲の「東雅」「靈螺子(ウニ)」の最後の部分で、『其死して、殻枯れ刺脫けしあと。鍾乳に似て小しきなる者。此に星冑といふものヽ如くなれば、俗にカブトガヒといふ。これ石榼[やぶちゃん注:「セキコウ」。石で出来た酒樽の意。]といふものなるべし』とあるのは、目から鱗ではないか。]

2021/06/06

日本山海名産図会 第四巻 生海鼠(𤎅海鼠・海鼠膓)

 

 ○生海鼡(なまこ) 𤎅海鼡(いりこ) 海鼡膓(このわた)

是れ、殽品(かうひん)中の珍賞すべき物なり。江東にては、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤。西海にては、讃刕小豆島、最も多く、尙、北國(ほつこく)の所々(しよしよ)にも採れり。中華は、甚だ稀なるをもつて、驢馬(そば)の皮、又、陰莖を以つて作り、贋物(にせもの)とするが故に、彼(か)の國の聘使(へいし)、商客(あきひと)の、此(こゝ)に求め歸ること、夥(おびたゝ)し。是れは、小兒虛羸(せうにきよるい)の症に人參として用ゆる故に、時珍、「食物本草」には『海參』と号(なづ)く。又、奧刕金花山に採る物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「金海鼡(きんこ)」と云ふ。

 

Namako1

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのこの画像をトリミングした。後も同じ。キャプションは「讃刕海鼠捕(さんしうなまことり)」。浮いている海鳥が可愛い。]

 

○漁捕(ぎよほ)は、沖に取るには、䋄を舩の舳(とも)に附けて走れば、おのづから、入(い)るなり。又、海底の石に着きたるを取るには、即ち、「𤎅海鼡(いりこ)」の汁、又は、鯨の油を以、水面に㸃滴(てんてき)すれば、塵埃(ちり)を開きて、水中、透き明(とほ)り、底を見る事、鏡に向かふがごとし。然して、攩䋄(たまあみ)を以つて、是れを、すくふ。

 

Namako2

 

[やぶちゃん注:キャプションは「𤎅海鼠(いりこ)に制(せい)す」。絵師は海鼠一匹の細かい部分まで手を抜いていない。]

 

○𤎅(い)り乾(ほ)すの法は、腹中(ふくちう)、三條の膓(わた)を去り、數百(すひやく)を空鍋(からなべ)に入れて、活(つよ)き火をもつて、煮ること、一日、則ち、鹹汁(しほしる)、自(おのづ)から出(い)で、焦黑(くろくこげ)、燥(かは)きて硬く、形、微少(ちいさ)くなるを、又、煮ること、一夜(や)にして、再び、稍(やゝ)大きくなるを、取り出だし、冷(さ)むるを候(うがゝ)ひ、糸につなぎて、乾し、或ひは、竹にさして、乾(かわか)したるを、「串海鼡(くしこ)」と云ふ。また、大(おほ)いなる物は藤蔓(ふじつる)に繋ぎ、懸ける。是れ、江東及び越後の產、かくのごとし。小豆島の產は、大(おほい)にして、味、よし。薩摩・筑刕・豊前・豊後より出づるものは、極めて小なり。

○「和名抄」、『老海鼡(ほや)』と云ふ物は、則ち、「𤎅海鼡(いりこ)」に制する物、是れなりといへり。又、「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云ひて、斑紋(まだらのふ)あるものにて、是れ又、別種の物もありといへり。「東雅」に云、『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、「沙噀(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』。いずれ、是(ぜ)なることを知らず。されど、「海男子」は「五雜俎」に見へて、男根に似たるをもつて号(なづ)けたり。

○海鼡膓(このわた) 【「本朝食鑑」に、『或は俵子と称する』といふは誤まるに似たり。「俵子」は「虎子(とらこ)」の轉したるにて、たゞ、「生海鼡(なまこ)」の義なるべし。】

海鼡膓(このわた)を取り、清き潮水(しほみづ)に洗ふ事、數十遍(すじつへん)、塩に和して、是れを収むなり。黄色に光り有りて、琥珀のごとき物を、上品とす。黒み、交(まし)る物、下品なり。又、此の三色(みいろ)相ひ交(まじ)る物を、日影に向かふて、頻りに攪(か)きまはせば、盡(ことこと)く、変じて、黄色となる。或ひは、膓(わた)一升に鷄子(たまご)の黄(きみ)を、一つ、入れ、かきまはせば、味、最も美なり、ともいへり。徃古(むかし)は、此膓(わた)を以つて、貢(みつぎ)ともせしかども、能登・尾刕・參河のみにて、他國に、なし。是れ、まつたく黄色なるもの、稀なればなり【一種、膓の中に、色、赤黄(あかき)にて、のりのごときものあり。号(なづ)けて「海鼡子(このこ)」といふ。味、よからず。】

[やぶちゃん注:言っておくが、私はナマコとホヤ(蒹葭堂は誤って「老海鼡」の名を出してるに過ぎず、ここにはホヤ類の記載はない)についてはファナティクなフリークである。それを鼻でせせら嗤う御仁は、まず、ブログ開設の年に投稿した私の、

帰ってきた臨海博士 ナマコ・クイズ」

に挑戦されたい。必ず、全問答えた上で「解答篇」を見られたい。二問以上間違った場合は、私が天鈿女(あめのうずめ)のように、その嗤った君の口を裂く。次に、あなたの知っているナマコの種名を挙げてみて貰いたい。どれぐらい言えるだろう? マナマコ・アカナマコ(現在はマナマコの個体変異ではなく別種として分けるようになっている)・キンコ・シロナマコ・クロナマコ・ニセクロナマコあたりで止まる人が圧倒的に多いだろう。フジナマコ・バイカナマコや、前のクイズに出した種の近縁である長大種のオオイカリナマコも言えれば、これはもう、あなたもナマコ・フリークの仲間ではある。本邦産(深海産を除く)のナマコ種の総浚えした、

オリジナルな「ナマコ分類表」

もある。さて、私の博物誌ものでは、まず、大掛かりなものでは、サイト版の、

栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻八より)「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」

仙臺 きんこの記   芝蘭堂大槻玄澤(磐水)

がお薦めである。後者は古い電子化(二〇〇七年)であるが、特に遺愛のテクストである。他にナマコは、

「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」

に、ホヤは形態上から分離されて、

「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「老海鼠(ほや)」

に収録されている。この本文や私の注も私のネット時間の中では初期の仕儀である。博物画で楽しみたい向きには、

毛利梅園「梅園介譜」 海鼠

毛利梅園「梅園介譜」 海鼠(前掲分とは別図三種)

海産生物古記録集■4 後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載

神田玄泉「日東魚譜」 老金鼠(ホヤ)

毛利梅園「梅園介譜」 老海鼠

武蔵石寿「目八譜」 東開婦人ホヤ粘着ノモノ――真正の学術画像が頗るポルノグラフィとなる語(こと)――

がよく賞翫できるものであるはずである。ブログ版の博物学的記録では(ナマコ・ホヤの順に示す)、

海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載

海産生物古記録集■7 「守貞謾稿」に表われたるナマコの記載

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠(遂に最終パートに入った、記念すべき『「大和本草」水族の部』の最初)

博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載(これは「このわた」に特化していて、なかなか興味深い)

博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載(その追加分「華和異同」も別立てで電子化してある)

畔田翠山「水族志」 (二四七) ナマコ

海産生物古記録集■2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載

博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載

がある。以上で、私は、繰り返し、生物学上のナマコの記載をやってきた。されば、ここでまた、それを繰り返す愚はしないこととする。

「殽品(かうひん)」「殽」(音「コウ」)は「混じる・入り乱れる」、「倣う・模(かたど)る・真似をする」の意以外に、「骨付きの肉・料理・酒の肴(さかな)」の意がある。決して「肴」の異体字ではないので注意。

「尾張和田」「これは直感に過ぎないが、現在の愛知県知多郡美浜町布土和田(ふっとわだ:グーグル・マップ・データ)ではなかろうか? ここなら三河湾に面し、しかも次に出る名産地「三河柵の島」=佐久島(愛知県西尾市)は、ここから南東十三・二キロメートルの三河湾に浮かぶ島である。博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載を参照。

「武藏金澤」現在の神奈川県横浜市金沢区。

「中華は、甚だ稀なるをもつて、驢馬(そば)の皮、又、陰莖を以つて作り、贋物(にせもの)とする」おそらく、眉唾する人が多いであろうが、事実である。私はこの驚くべき中国で作られた偽物の話を古くから知っている。二十四の時、入手して貪るように読んだ動物学者(専門は棘皮動物)で博物史の研究でも知られる大島廣先生の「ナマコとウニ――民謡と酒と肴の話――」(初版昭和三七(一九六二)年。所持するのは昭和五八(一九八三)年第三版)で知って驚いたのである。それは実は、先に示した栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻八より)「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」の次の一節の一部引用(下線部分)の、それへの僅かな一文の解説だった。博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載に引用してある。嘘じゃねえよ、「本朝食鑑」の「海鼠」の「華和異同」を御覧な。私は何に驚いたかと言って、ナマコの偽物のために牛を殺し、その革どころか、陰茎まで使う中国人の気が知れなかったからである。「食のために、そこまでやるか!」と義憤を感じたからである。私の訓読文も添えた。

   *

注云閩中海参色獨白類撑以竹簽大如堂味亦淡劣海上人復有以牛革譌作之ノ語アリ此卽八重山串子ト俗称スルモノニシテ※甚薄劣下品ノモノナリ

[やぶちゃん字注:「※」=「口」の下に「未」。「味」。]

   *。

注に云ふ、『閩中、海参、色、獨り、白き類は、竹簽(ちくせん)を以つて撑(つ)けば、大きさ、堂のごとくなる。味、亦、淡にして劣たり。海上の人、復た、牛革を以つて譌(いつは)り、之れを作る有り。』の語あり。此れ、即ち、『八重山串子』と俗称するものにして、味、甚だ薄劣にして、下品のものなり。

   *

言っとくが、「八重山串子」で検索するのは、やめとき。俺のサイトしか引っ掛からんけの。

「小兒虛羸(せうにきよるい)」小児性の痩せ症。

「人參として用る」『「人参」と称して、このナマコを用いる』ということか。

『時珍、「食物本草」には『海參』と号(なづ)く』蒹葭堂さん、遂にやらかしちゃいましたね! 掟破りの孫引きですよ! これ、大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠

から無批判に引っ張ったんですよね? だって、間違ってるんだもん! そこで益軒は『李時珍「食物本草」の註に曰く、『海參は東南海中に生ず。其の形、蠶(かいこ)のごとく大なり。色黑く、瘣㿔(くわいらい)多し。一つ、種、長さ五、六寸なる者、表裏倶(とも)に潔く、味、極めて鮮美なり。功、補益を擅(ほしいまま)にす。殽品(かうひん)中の最も珍貴なる者なり。今、北人、又、驢皮及び驢馬の陰莖を以つて贋(いつは)りたること有り。狀味、略(ほ)ぼ相ひ同じと雖も、形、微(すこ)し扁を帶ぶる者は是なり。固(もと)より惡しき物なり。博識の者、知らざるべからず。味、甘鹹、平。毒、無し。元氣を補ひ、五臟六腑を滋益することを主(つかさど)る。三焦(さんせう)の比熱を去る。鴨肉に同じ。烹治(にをさ)めて之れを食へば、勞怯・虛損・諸疾を主る、猪肉に同じ。煮食(にく)へば、肺虛・欬嗽(がいそう)を治す。』と』あってね、どうです? あんたの書いた文章とそっくりじゃああ~りませんか! でね、李時珍の作品に「食物本草」なんてないんですよ! そこで私は以下のように注した。

   *

『李時珍「食物本草」』元の医家李東垣(りとうえん 一一八〇年~一二五一年:金元(きんげん)医学の四大家の一人。名は杲(こう)。幼時から医薬を好み、張元素(一一五一年~一二三四年)に師事し、その技術を総て得たが、富家であったため、医を職業とはせず、世人は危急以外は診て貰えず、「神医」と見做されていた。病因は外邪によるもののほかに、精神的な刺激・飲食の不摂生・生活の不規則・寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとする「内傷説」を唱えた。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると、百病が生じる」との「脾胃論」を主張し、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。後の朱震亨(しゅしんこう 一二八二年~一三五八年:「陽は余りがあり、陰は不足している」という立場に立ち、陰分の保養を重要視し、臨床治療では滋陰・降火の剤を用いることを主張し、「養陰(滋陰)派」と称される)と併せて「李朱医学」とも呼ばれる)の著(但し、出版は明代の一六一〇年)。但し、名を借りた後代の別人の偽作とする説もある。本草書のチャンピオン、明の李時珍は、「本草綱目」(五十二巻。一五九六年頃の刊行。巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種千八百九十二種、図版千百九枚、処方一万千九十六種に及ぶ)の作者としてとみに知られるが。不可解なことに、「本草綱目」には「海參」はおろか、ナマコと同定出来るものが載らない。というか、海産魚類の記載は誤りが多いのである。これは彼が中国内陸の湖北省出身で、そこから殆んど出ていないという事情によるものだが、とすれば、時珍が「食物本草」にこんな「海鼠」についての細かな注を附すことは出来なかったに違いないので、これは、筆者や書名を含めて、何か、激しい錯誤があるのではなかろうか?

   *

蒹葭堂さん、恥ずかしいですよ。

『奧刕金花山に採る物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「金海鼡(きんこ)」と云ふ』先の仙臺 きんこの記   芝蘭堂大槻玄澤(磐水)を参照。

「攩䋄(たまあみ)」「攩網(たもあみ)」に同じ。

『「和名抄」、『老海鼡(ほや)』と云ふ物は、則ち、「𤎅海鼡(いりこ)」に制する物、是れなりといへり』どうも蒹葭堂は引用の際の注意が非常に足りない。これは「和名類聚抄」をちゃんと確認していない、誤った又聴きを記したに相違ない。同書の巻第十九の「鱗介部第三十亀貝類第二百三十八」に「老海鼠」は「海鼠」の後に並ぶが、それを混同したトンデモ記事だからである。

   *

海鼠(コ) 崔禹錫の「食經」に云はく、『海鼠【和名「古」。本朝式に「𤎅」の字を加へて「伊里古」と云ふ。】は蛭に似て大なる者なり。』と。

老海鼠(ホヤ) 「漢語抄」に云はく、『老海鼠』【「保夜」。俗に此の「保夜」の二字を用ふ。】と。

   *

「東雅」既出既注国立国会図書館デジタルコレクションのこの「海鼠(こ)」

「適齋(てきさい)訓蒙圖會」「適齋」は不審。江戸前期の儒学者で本草学者の中村惕斎(てきさい 寛永六(一六二九)年~元禄一五(一七〇二)年:名は之欽(しきん))が撰した寛文六(一六六六)年書かれた図入り百科事典(類書)。全二十巻。これ以降の「訓蒙図彙」を称した書の嚆矢。国立国会図書館デジタルコレクションの「土肉」だが、「沙噀(しやそん)」ではなく、「さそん」で、「海參(かいじん)」とはあるが、「イリコ」とはしていない。「なまこ」とし、『乾(ほせ)る者に對して之を称す』となっており、不審。

「若水」江戸中期の医師・本草学者で儒学者であった稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)。出典未詳。

『「海男子」は「五雜俎」に見へて、男根に似たるをもつて号(なづ)けたり』巻九の「物部一」に、

   *

海參、遼東海濱有之、一名海男子。其狀、如男子勢然、淡菜之對也。其性溫補、足敵人參、故名海參。

   *

とある。「淡菜」はイガイの仲間。女性生殖器のミミクリー。

『「本朝食鑑」に、『或は俵子と称する』といふは誤まるに似たり』博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載を参照。

『一種、膓の中に、色、赤黄(あかき)にて、のりのごときものあり。号(なづ)けて「海鼡子(このこ)」といふ。味、よからず』私の大好物のバチコ(撥子)=クチコ(口子)、ナマコの生殖巣のみを抽出して、軽く塩をし、干して乾物にした「干しクチコ」のこと。形が三味線の撥に似るのが由来で、別に「コノコ」(海鼠子)とも呼ばれる。鮮烈な紅色の魅惑あるものである。小さい割に、目ん玉が飛び出るほど、高い。生を塩辛にした「生クチコ」もある。私に言わせれば、この蒹葭堂の嗜好、かなり、鼻白む。]

大和本草諸品圖下 筋魚・ウミゴ・江戶魚・ハラヲ (タカノハダ・アイゴ・オキエソ・フウライカジキ)

大和本草諸品圖下 筋魚・ウミゴ・江戶魚・ハラヲ (タカノハダ・アイゴ・オキエソ・フウライカジキ)

 

2

 

是亦 筋魚 ト云

 海魚也長不ㇾ過數寸

 與ㇾ上

 其文條

 縱橫不

 ㇾ同可ㇾ食

○やぶちゃんの書き下し文

是〔れも〕亦、「筋魚」と云ふ。海魚なり。長さ、數寸〔(すすん)〕に過ぎず。上に在る者と、其の文條〔(もんでう)〕、縱橫同じからず。食ふべし。

――――――――――――――――――

ウミゴ

 在ㇾ海ニ大サ不

 ㇾ過數寸ニ

○やぶちゃんの書き下し文

うみご

海に在り。大〔(おほい)〕さ、數寸に過ぎず。

――――――――――――――――――

江戶魚

 海魚ナリ大者

 不ㇾ過五六寸

 味佳目口

 與他魚

 如ㇾ所ㇾ圖

○やぶちゃんの書き下し文

江戶魚

海魚なり。大者、五、六寸に過ぎず。味、佳し。目・口、他魚と異〔(ことなる)〕こと、圖〔する〕所のごとし。

――――――――――――――――――

バウヲ

 長六尺ヨリ至

 一丈形狀

 ブリノ如

 味平淡

 七八月

 捕ㇾ之

 爲海魚

 對馬洲

 多

○やぶちゃんの書き下し文

ばうを

長さ、六尺より一丈に至る。形狀、「ぶり」のごとし。味、平淡。七、八月に之れを捕る。海魚と爲す。對馬洲に多し。

[やぶちゃん注:図は国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。

「筋魚」は特徴的な斜めになった縦縞模様から、

スズキ目スズキ亜目タカノハダイ科タカノハダイ(鷹の羽鯛)属タカノハダイ Goniistius zonatus

とみてよかろう。尾鰭に特徴的な白点紋が描かれていないのは、絵師が力不足で描けなかったからか(このレベルではそもそもが小さな白斑は描きようがあるまい)、或いは幼魚だからかも知れない。「大和本草卷之十三 魚之下 きこり魚 (タカノハダイ)」を参照。そこにリンクさせた栗本丹洲の図などと比較されたい。

「うみご」は、ちょっと体幹がぼよんと棒のように描かれているが(この絵師の悪い癖でもあるように思われる。解説文を添えるために縦方向の現物のサイズを縮小して、しかも枠内に小さくなく収めるという非博物図的な操作が疑われる)、名前の近似性からは、

スズキ目ニザダイ亜目アイゴ科アイゴ属アイゴ Siganus fuscescens

であろうか。「大和本草卷之十三 魚之下 鯘(あいのうを) (アイゴ)」を参照。但し、有毒で危険な太い棘条を有する背鰭・腹鰭・臀鰭を孰れも刈り込んだように短く描いており、アイゴとすれば、完全な博物画失格である。

「江戶魚」これはもう、面つきの飛び抜けた異形さと、体表の派手さから、

ヒメ目エソ科オキエソ属オキエソ Trachinocephalus myops

としてよいと思う。エソ科 Synodontidae のエソ類或いは種としてのエソについては、「大和本草卷之十三 魚之下 ゑそ (エソ或いはエソ類)」を見られたい。キス釣りの外道として釣り人には面構えが醜いので忌み嫌われる。

「はうを」魚体が有意にスマートであること、吻が有意に突き出ていることから、

スズキ目カジキ亜目 Xiphioidei のカジキ(梶木)類

かと思われるが、であれば、大きく描かれるはずの背鰭がまたしても刈り込まれた五分刈りみたようでショボく、なにより吻部の上下顎に細かな歯が描かれているのも悩ましい。「ハウオ」現在、カジキ亜目マカジキ科バショウカジキ(芭蕉梶木)属バショウカジキ Istiophorus platypterus の異名である(背鰭の巨大さから「葉魚」か)。しかし、バショウカジキを描くなら、小学生でもこんな描き方はしない(が……この絵師ならやりかねないし、特に話だけで実物を見ずに描いていたとなら……)と、好意的に解釈すると、私は、カジキ類の中でも、有意に体がスマートで小さく、吻も短いという外見からは、

マカジキ科フウライカジキ属フウライカジキ Tetrapturus angustirostris

が最も近いように思われる。当該ウィキを引いておく。『インド太平洋暖海域に分布する小型・外洋性のカジキである。日本での地方名としてスギヤマ(東京)などがある』。『成魚は全長』二メートル『ほど。カジキ類としては吻が短く、英名"Shortbill spearfish"(短い嘴のカジキ)はここに由来する。体は前後に細長く、体高は低い。胸鰭は腹鰭より短い。第一背鰭は基底が前後に長くて広いが、バショウカジキほど長大ではない。小型で吻が短く細長い外見から、他のカジキ類とは区別し易い』。『インド太平洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布し、稀に喜望峰を回り』、『大西洋へ抜ける個体もいる。日本では本州中部以南の暖流に面した海域に出現する。外洋表層を回遊し、日本近海産カジキ類の中ではクロカジキと並んで外洋性が強い。産卵期は冬で、水温』摂氏二十五度『前後の暖海域で産卵する』。『本種を特に狙う漁業はなく、マグロ延縄や曳縄(トローリング)で混獲される。日本産カジキ類では最も不味いとされ、他のカジキ類と比べて漁業価値は低いが、魚肉練り製品の原料として利用されることがある』とある。因みに、図には「対馬に多い」と解説にあるが、対馬では対馬海流のお蔭で(暖海性のカジキ類は日本海では少ない)、カジキ亜目マカジキ科マカジキ属マカジキ Kajikia audax が採れる。]

2021/06/05

日本山海名産図会 第四巻 堅魚(かつを)

 ○堅魚(かつを)

 

Katuo1

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした(以下同じ)。キャプションは「土刕鰹釣(としうかつをつり)」。餌の鰯の桶が見える。波除けの竹の簀(す)が舷側に着けられている。]

 

 

土佐・阿波・紀州・伊豫・駿河・伊豆・相摸・安房・上総・陸奧・薩摩、此の外、諸刕に採るなり。四、五月のころは、陽に向ひて、東南の海に群集(くんしゆ)して、浮泳(ふゑい)す。故に相摸・土佐・紀州にあり。殊に鎌倉・熊野に多く、就中(なかんづく)、土佐・薩州を名產として、味、厚く、肉、肥へ、乾魚(かつを)の上品とす。生食(なましよく)しては美癖(むまみさかる[やぶちゃん注:左ルビ。意味訓であるが、後半の判読は自信がない。])なり。阿波・伊勢、これに亞(つ)く。駿河・伊豆・相摸・武藏は、味、淺く、肉、脆(かろ)く、生食(せいしよく)には上とし、乾魚(かつを)にして、味、薄し。安房・上総・奧州は、是れに亞ぐ。

○魚品(きよひん)は、縷鰹(すぢかつを)・横輪鰹(よこかつを)・餅鰹(もちかつを)・宇津和鰹(うつわかつを)・ヒラ鰹(かつを)等(とう)にて、中にも縷鰹を真物(しんもつ)として、次に橫輪なり。此の二種を以つて、乾魚(ふし)に製す。東國(とうこく)にて小なるを「メジカ」といふ。

○漁捕(ぎよほ)は、網は稀にして、釣、多し。尤も、其の時節を撰(えら)はずして、つねに沖に出つれども、三月の初めより、中旬まてを初鰹(はつかつを)として、專ら、生食(せいしよく)す。五月までを「春節(はるふし)」として上品の乾魚(かつを)とす。八月までを「秋節(あきふし)」といふ。飼(ゑ)は鰯の生餌(いきゑ)を用ゆる。故に、先つ、鰯網を引く事も、常也。鰯、二坪ばかりの餌籠に入れて、汐潮水(しほみづ)に浸し、是れを、又、三石ばかりの桶に、潮水をたゝへて、移し入れ、十四、五石ばかりの釣舟に乘せて、一人、長柄の扚(しやく)[やぶちゃん注:漢字はママ。]を以つて、其の汐を汲み出たせは、一人は、傍(かたはら)より、又、汐を汲み入れて、いれかへ、いれかへて、魚の生(せい)を保(たも)たしむ。釣人(つりて)は一艘に十二人、釣さほ、長一間半、糸の長さ、一間ばかり。ともに常の物よりは太し。針の尖(とがり)に「かゑり」なし。舟に竹簀(たけす)・筵(むしろ)等の「波除け」あり。さて、釣をはじむるに、先つ、生きたる鰯を、多く、水上に放てば、鰹、これに附きて、踊り集まる。其の中へ、針に、鰯を、尾より、さし、群集(ぐんじゆ)の中へ投ぐれば、乍(たちまち)、喰ひ附きて、暫くも、猶豫(ゆうよ)のひまなく、ひきあげ、ひきあげ、一顧(いつこ)に數十尾(すしつび)を獲ること、堂に數矢(かすや)を發(はな)つがごとし。○又、一法に、水、淺きところに、自然(しせん)、魚の集まるをみれは、鯨(くじら)の牙(きば)、或ひは、犢牛(めうし)[やぶちゃん注:ママ。挿絵の附図では「雄牛(おうし)」とする。]の角(つの)の空(うつほ)の中へ、針を通し、餌(ゑ)なくしても、釣るなり。是れを「かける」と云ふ。【牛角(うしつの)を用ることは、水に入て、おのづから、光りありて、いわしの群(むれ)にも、まがへり。】○又、魚を集めんと欲する時は、おなじく、牛角(きうかく)に鷄(にはとり)の羽(は)を加へ、水上に振り動かせば、光耀(くわうよう)、尙を、鰯の大群に似たり。此の余(よ)、「天秤釣」などの法なとあれども、皆、是れ、里人(さとひと)の手すさひにして、漁人(あま)の所業(しわさ)にはあらす。

○又、釣に乘(じやう)ずる時、若(も)し、遠く餌を遂(おほ)ふて、鰹の群(むれ)、來(く)る時にあへは、自(おのづから)、船中に飛び入りて、其勢、なかなか、人力(しんりき)の防ぐ所にあらず。至つて多き時は、殆ど、舟を壓沈(しつま)す。故に、遥かに是れを窺ひて、急(いそ)き、船を漕(こ)き退(の)けて、其の過ぐるを待つなり。

 

Katuo2

 

[やぶちゃん注:キャプションは「海人釣舟迎て鰹魚を汀に屠る(かいしん、つりふねをむかへて、かつをを、みきはに、ほふる)」。風俗画としても優れている。左上に「鰹魚釣圖(かつをつりのづ)」とあって、釣針三種が附図(一番左のそれは、下部の鶏の細い羽毛の中に針が見える)。されてあり、そこに「此外(このほか)、釣針、多くあれども、たいてい、かくのごとし。雄牛(おうし)の角を用ゆ。」/「角の中へ鷄(にはとり)」の首毛(くびげ)を遏(と)め、針を付(つけ)、用ゆ。外に『てんひん針』も在(あ)り)」とある。]

 

Katuo3

 

Katuo4

 

[やぶちゃん注:上のキャプションは「蒸(む)して乾魚(かつを)に制(せい)す」、下は「乾魚(かつを)を(磨(みがき)て納(おさ)む」。]

 

○行厨蒸乾制鰹鮑(りやうりして、むしほし、かつおにつくる)  釣舟を渚によせて、魚を砂上に拗(ほ)り上ぐれば、水郷(すいきやう)の男女(なんによ)、老少を分かたず、皆、桶、又、板一枚、庖丁を持ちて、呼(よは)ひ集まり、桶の上に板を渡して俎(まないた)とし、先つ、魚の頭(かしら)を切り、腹を拔き、骨を除き、二枚におろしたるを、又、二ツに切りて、一尾(び)を四片となすなり。骨・膓(はらのこ)は、桶の中へ落し入れて、是れを、雇人(やとひど)、各々(それそれ)の得ものとして、別に賃(ちん)を請(うけ)ず。其膓(わた)を塩に漬け、「酒盗(しゆとう)」として售(う)るを、德用とするなり。○又、所によりて、行厨(りやうりば)を、一里ばかり、他所(たしよ)に構へ、大俎板(おほまないた)を置きて、兩人、向ひあわせ、頭(かしら)を切り、尾を攜(たつさ)へて、下げ切りとす。手練(しゆれん)、甚だ、早し。熊野辺(へん)、皆、然り。

○かくて、形樣(かたち)を、能き程に造り、籠にならべ、幾重(いくゑ)にもかさねて、大釜(おほかま)の沸湯(にへゆ)に蒸して、下の籠より、次第に取り出だし、水に冷し、又、小骨を去り、よく洗浄(あら)ひ、又、長五尺許りの底は、竹簀(たけす)の蒸籠(むしかご)にならべ、大抵、三十日許り、乾し暴(さら)し、鮫をもつて、又、削り作り、繩にて磨くを、成就(じやうしゆ)とす。「背節(せふし)」を上とし、「腹節」を次(つぎ)とす。背は上へ反り、腹は直(すく)也。贋(にせ)ものは、鮪(しび)を用ひて、甚だ腥(なまぐさ)し【乾かすに、あめふれば、藁火(わらひ)をもつて、籠の下より、水氣(すいき)を去るなり。冷やすに、水を撰(えら)めり。故に土佐には「淸水」といふ所の名水を用ゆる。故に名產の第一とす。】。

[やぶちゃん注:以下、底本では前の割注と同じポイントで全体が二字下げ(頭の「○」のみ上に突出。]

○或ひは云う、「『腹節』の味、劣るにはあらざれども、武家の音物(ゐんもつ)とするに、『腹節』の名をいみて、用ひられざるゆへなり。

[やぶちゃん注:以下、本文に戻る。]

○「鰹」の字、日本の俗字なり。是れは「延喜式」・「和名抄」等(とう)に『堅魚(かつを)』とあるを、二合して制(つく)りたるなり。又、「カツヲ」の訓義は、「東雅」に『「䰴魚(こつぎよ)」と云字音の轉なり』といへども、是れ、信じがたし。或云、「カツヲは『堅き魚』の轉にして、即ち、『乾魚』の事なるを、それに通じて、生物の名にも呼びならひたるなり」。○又、『「東醫寶鑑」に『松魚(せうぎよ)』を此魚に充てたり。此書は、朝鮮の醫宦(いかん)許俊(きよしゆん)の撰なるに、近來(きんらい)、又、朝鮮の聘使(へいし)に尋ぬれば、「『松魚』は此(こゝ)に云ふ『鮭』のこと」と、いへり。尤も、肉、赤くして、松の節のごとし。又、後に來(きた)る聘使に尋ぬるに、「古固魚(ここきよ)」の文字を此の堅魚(かつを)に充てたり。されど、是れも、近俗(きんぞく)の呼ぶ所とは見へたり。前に云う、『䰴魚』は、此(こゝ)に云う、『マナカツヲ』にして、一名『鯧(しやう)』、又、『魚游(きよいう)』と云ふ」と』。『是れ、舜水(しゆんすい)のいへるに、おなしくして、「マナカツヲ」を「魴」とかくは誤りなるべし』

○乾魚(かつを)は、本邦日用の物にして、五味の偏(へん)を調和し、物を塩梅(ゑんばい)するの主(しゆ)なり。元より、「カツヲ」の名もふるし。「萬葉集」長哥 水の江の浦島の子が堅魚(かつを)つり鯛つりかねて下畧  「萬葉」は聖武の御宇(みよ)の歌集なり。又、「延喜式」、民部寮に堅魚(かつを)・煎汁(いかり)を貢(こう)すること、見へて、「イカリ」は、今、「ニトリ」といふ物なるべし。尙、主計寮にも、志摩・相摸・安房・紀刕・土佐・日向・駿河・豊後より貢献の事も見へたり。○又、兼好「徒然草」に、

[やぶちゃん注:以下は底本では前に続いて始まりながら、次の行以下は二字下げにされてある。]

鎌倉の海にかつをと云う魚は、彼(かの)さかひには、さうなき物にて、このころ、もてなすものなり。それも鎌倉の年寄の申傳へしは、「此魚、をのれら、若かりし世までは、はかばか敷(しく)人の前に出(いだ)すこと、侍らざりき。頭(かしら)は下部(しもべ)も食(くら)はず、きりて、捨(すて)侍りし物なり」と申き。かやうの物も、世の末になれば、上(うへ)さままでも、入たつわざにこそ侍れと」

[やぶちゃん注:以下の一文は底本では本文で三字下げで、頭の「○」のみが突出している。]

○是れは、兼好の時代には、貴人(きにん)などの、生(なま)にて喰ひし事を、あやしみいふこゝろと見えたり。

[やぶちゃん注:以下、本文に戻る。]

○「鰹魚のタヽキ」といふ物あり。即ち、醢(ひしほ)なり。勢刕・紀刕・遠江の物を上品として、相州小田原、これに亞(つ)く。又、奧刕棚倉(たなくら)の物は、色、白くして、味、他(た)に越へたり。即ち、國主の貢献とする所なりとぞ。

[やぶちゃん注:「節」(「節」は殆んどない)の字は「竹」(たけかんむり)が「艹」(くさかんむり)なっているものが混在するが、「節」で統一した。私の大好物であるカツオの種としてのそれは、

スズキ目サバ亜目サバ科カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis

の一属一種であるが、本文では解説中にそうでない種も出る。なお、一般人がカツオと呼んで区別して認識していないものとしては、

サバ科ハガツオ属ハガツオ Sarda orientalis

サバ科スマ属スマ Euthynnus affinis

サバ科イソマグロ属イソマグロ Gymnosarda unicolor(本種にはマグロの名がかつくが、分類学上ハガツオに近縁で、魚体もカツオからそう離れていないので挙げておきたい)

サバ科ソウダガツオ属ヒラソウダガツオ Auxis thazard

サバ科ソウダガツオ属マルソウダガツオ Auxis rochei

の五種辺りを挙げておけばよかろう。カツオについては、私の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鰹(かつを)」の渾身注にとどめを刺す。種々の点で、有益な補塡になるので(というより、一読されれば、蒹葭堂がこれを参考にしていることは明らかである)、訓読文を引いておく。リンク先は古い仕儀なので、原本に再度当たって訂した。

   *

かつを

[やぶちゃん注:以下、標題下の釈名相当部。]

鰹【俗に「堅」「魚」の二字を以つて「鰹」と爲す。蓋し、「鰹」は、乃(すなは)ち「鮦(とう)」の大なる者にして、是れに非ざるなり。此の魚の脯(ほじし)、極めて堅硬、削用すべし。故に俗に呼びて「堅魚」と曰ふ。】

【和名、「加豆乎(かつを)」。】

[やぶちゃん注:以下、本文。]

△按ずるに、「鮪(しび)」[やぶちゃん注:マグロ。]の屬なり。狀(かたち)、「目黑(まぐろ)」に似て、圓く、肥え、頭、大、嘴(はし)、尖りて、鱗、無し。蒼黑色。光る膩(あぶら)有り。腹、白く、雲母泥(きらゝでい)のごとく、背に、硬き鰭、有り。尾の端に到るまで、兩片、鋸齒に似たり。尾に、岐、有り。其の肉、深紅、味、甘く温。背の上、兩邊、肉中、黑血肉、一條有り【之れを「血合(ちあひ)」と謂ひ、其の味、正肉にしかず。】。之れを釣るに、餌を用ひずして、牛角、或いは、鯨の牙を以つて、一瞬に數百を釣る。關東、殊に多く有り。

縷(すぢ)鰹 皮の上に縱(たつ)に、白き縷、三、四條有り。胾(さしみ)と爲し、芥醋(からしず)・未醬(みそ)に和して食ふ、甚だ佳し。之れを「真鰹(まがつを)」と名づく。節(ふし)に作りて、極上と爲す。

橫輪(よこわ) 皮の上、橫に、白斑四、五條有り。大いさ、一尺五、七寸、尾、極めて細き故、又、「尾纎(をほぞ)」と名づく。節に作り、縷鰹に亞(つ)ぐ。𩸆(ひしほ)に作り、味、甚だ佳し。俗に呼んで「須宇麻」と曰ふ。]

餅(もち)鰹 形・色、鰹に同じくして、肉、粘(ねば)る。頗(すこぶ)る飴のごとし。生・𩸆とも、味、佳ならず。

鰹節(ぶし) 鰹の肉を乾脯(ほし)たる者なり。漁人、之れを造るに、鮮(あたら)しき魚、頭尾を去り、膓(わた)を出だし、兩片と爲し、中骨を去り、復た、兩片の肉を割(さ)き、兩三條と作(な)し、以て煮熟し、取り出だし、曝し乾せば、則ち、堅硬(かた)くして、色、赤きこと、松の節のごとし。【故に「鰹節」と名づく。】本邦日用の佳肴(かかう)、五味の偏(かたより)を調和す。一日も欠(か)くべからざる者なり。土佐の產を上と爲す【俗に呼びて「投出節」と稱す。】。紀州熊野、之れに次ぐ。阿州・勢州、又、之れに次ぐ【「鮪脯(まぐろのほじし)」を以つて之れを偽る、肥大と雖も、味、杳(はるか)に劣れり。】。

煮取(にとり) 鰹節を造る時、其の液(しる)、滯(とどこほ)る者を取りて、之れを収む。黑紫色、味、甘美。

鰹醢(たゝき)【俗に「太太木」と云ふ。】 肉の耑(はし)及び小骨、敲(たた)き和して、醢(しほから)と爲し、紀州【熊野。】・勢州【桑名。】・遠州【荒井。】の者、上と爲し、相州【小田原。】、之れに次ぐ。奥州【棚倉。】の醢(しほから)、色、白くして、味、佳し。

酒盗(しゆとう) 鰹の膓(わた)を醢(しほから)と爲す。阿波より出づる者、名を得。肴と爲し、則ち、酒、益々、勸む。故に名づく。

「山家」いらこ崎に鰹釣舟ならび浮きて

      はがちの濱にうかびてぞ寄る

                 西行

   *

「乾魚(かつを)」鰹節。

「縷鰹(すぢかつを)」標準和名の真正の一属一種のカツオ Katsuwonus pelamis を指す。現在、魚類にあっては、体軸に沿って横に走る縞を「縱縞」と呼ぶが、それが本件でも通用するかどうかが問題となる。しかし、次の小項目の呼称が「横輪」(「輪」である以上、これは「魚体を一周する」の意である)であることに着目すれば、これはクリアされていると判断される。なお、この縦縞は生時には、殆ど見られないもので、死後に現れるとよく言われるが、実際には次項で述べる横縞同様、生時にあっても、興奮すると、出現する斑紋であるようだ。なお、この縦縞がカツオ Katsuwonus pelamis では腹部に現れ、ハガツオ属ハガツオ Sarda orientalis では背部に現れるので、容易に区別が出来る。

「横輪鰹(よこかつを)」恐らくはカツオ Katsuwonus pelamis の中型の大きさのものを言っているか。この横縞は、実はカツオに一般的に見られるもので、通常は目立たないが、興奮すると、浮き出してくるという(四条から十条程度)。この横縞は死ぬと消え、代わりに前項で示した縦縞がはっきり現れるという。

「餅鰹(もちかつを)」これもカツオ Katsuwonus pelamis 、死後硬直するまでの新鮮なカツオ(従って、身が柔らかく、餅のような食感がある)のことを指すか、もしくは、「味、佳ならず」という叙述からは、身がカツオより柔らかく、時間が経つと独特の薬品のような臭いを発するハガツオ Sarda orientalis を指している可能性もある。前者は、静岡県西部で現在も「モチガツオ」と呼称し、殆どが地元で消費されると聞く。

「宇津和鰹(うつわかつを)」「本朝食鑑」(医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したもの)の「鱗介部之三」の「鰹」の「集解」の末尾に、『海俗、所謂、鰹の小さき者を『渦輪』と曰ひ、最も小さきなる者を『橫輪』と曰ふ』とあった。国立国会図書館デジタルコレクションの板本のこちらの左頁終行から次の頁にかけてを参照されたい(訓読附漢文)。ここからやはり、これもカツオ Katsuwonus pelamis の大きさによる異称で、「横輪鰹」よりは大きなものを指すということになる。

「ヒラ鰹(かつを)」サバ科スマ属スマ Euthynnus affinis の異名。サバ科ソウダガツオ属ヒラソウダガツオ Auxis thazard の可能性もあるかも知れない。

「メジカ」二種のソウダガツオの別名で、特に関西での呼称。但し、マグロの幼魚もこう呼ぶ。所謂、「めじまぐろ」である。

「鰯」本邦で鰯と呼んだ場合は複数種を指す。標準和名のイワシという種は存在しない。詳しくは「大和本草卷之十三 魚之下 鰛(いはし) (マイワシ・ウルメイワシ・カタクチイワシ)」の私の注を見られたい。

「三石」五百四十リットル。ドラム缶二本半強。

「十四、五石」近世初期以来、一般に知られた「三十石船」は長さ十五メートル、幅二メートル、深さ五十五センチメートルであったから、その凡そ半分弱と見ればよかろう。

「かゑり」「返し」のこと。

「一顧(いつこ)に」僅かの間に。

「數十尾(すしつび)」「すじっび」。

「堂に數矢(かすや)を發(はな)つがごとし」通し矢をどんどん射るみたような感じだというのである。

「かける」「引っ掛ける」の意。

「天秤釣」「天秤」は釣りに使う仕掛けの部品の一つで、「道糸」と」「鉤素(はりす)」と「錘(おもり)」を接続し、糸の絡みを防ぐようにしたもの。主に投げ釣りで使われ、錘によって遠くに投げることが出来る。

「德用」美味い上に、非常に長く保存できることから、かく呼んだのである。

『土佐には「淸水」といふ所の名水を用ゆる』足摺岬のある足摺半島の根元の西の、高知県土佐清水市の「清水の名水」

「音物(ゐんもつ)」歴史的仮名遣は「いんもつ」でよい。贈答品。

「延喜式」古くからお世話になっているサイト「真名真魚字典」の「鰹」によれば、献上国などとしてだけでも、伊豆・壱岐・志摩・駿河・伊豆・相摸・安房・紀伊・阿波・土佐・豊後・日向などが堅魚を貢いでいる。

「和名抄」「和名類聚抄」の巻十九の「鱗介部第三十」の「龍魚類第二百三十六」に、

   *

鰹魚(カツヲ) 「唐韻」に云はく、『鰹【音「堅」。「漢語抄」に云はく、『加豆乎』。「式」の文(ぶん)に「堅魚」の二字を用ゆ。】は大鮦なり。大を「鮦」と曰ひ、小を「鮵【音「奪」。】」と曰ふ。』と。野王[やぶちゃん注:顧野王撰の「玉篇」か。]、『按ずるに、「鮦」【音「同」。】。蠡魚(れいぎよ)なり』と【「蠡魚」、下の文に見えたり。今、案ずるに、「堅魚」と爲すの義、未だ詳かならず。】。

   *

残念ながら、「蠡魚」はカツオではない。現在は、所謂、いろいろな意味で悪名高い(獰猛にして同種に寄生する有棘顎口虫類もヒトに感染すると最悪)淡水産の「雷魚」、スズキ目タイワンドジョウ亜目タイワンドジョウ科タイワンドジョウ属カムルチー Channa argus に比定されているようである

「東雅」既出既注ここが「堅魚(カツヲ)」の当該部だが、かなり長く、以下の部分は次のページの八行目以下。但し、また、前回と同じく、引用が違う。蒹葭堂は『「䰴魚(こつぎよ)」と云字音の轉なり』とするが、『亦、漢語抄を引て、䰴魚をコツヲといふ。本朝式用乞魚二字と註せり。コツとは乞の字の音を以て呼ぶなり。ヲは魚也。卽今マナカツヲといふもの是也』である。さらに新井白石は考証を続け、古えの「䰴魚」は『マナカツヲなる事、疑ふべからず』とする。ただ、彼は「マナ」を「真正」の意で採っており、所謂、現在のカツオとは縁も所縁もなく、全く似てもいないスズキ目イボダイ亜目マナガツオ科マナガツオ属マナガツオ Pampus punctatissimus を指しているわけではなく、モノホンのカツオだと言っているのである。そして最後に『カツヲとは。コツヲといふ語の轉ぜしなり。或は後俗この音の骨に同じきを避けし事。猶笏をよびてサクといふ如くなりけんも。知るべからず』と結んでいる。海産生物に弱点の多い漢籍に堂々巡りさせられていることに気づかない白石は、ちょっと可哀そうになってくる。さらにいえば、蒹葭堂は、『「東雅」に『「魚(こつぎよ)」と云字音の轉なり』といへども、是れ、信じがたし』と言い放っておきながら、その実、ここから後の部分は「『乾魚』の事なるを、それに通じて、生物の名にも呼びならひたるなり」辺りを除いて、実は白石の考証をそのまま引用していることが判り、かなり――相当に――イヤな感じ――なのである。

「東醫寶鑑」(とういほうかん/トンイボガム)は李氏朝鮮時代の医書。全二十三編二十五巻から成る。御医(王の主治医)であった許浚(きょしゅん)著。ウィキの「東医宝鑑」によれば、一六一三年に『刊行され、朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本を含めて広く流布した』とある。

「鯧(しやう)」現行では日本では先のマナガツオ Pampus punctatissimus に当てている。但し、中文で見ると、マナガツオは「銀鯧」である。

「魚游(きよいう)」この熟語が一種の魚類名であるという感じはしない。

「舜水(しゆんすい)」「朱舜水」(しゅしゅんすい 一六〇〇年~天和二(一六八二)年)は明の儒学者。江戸初期に来日。舜水は号で(郷里の川の名)、諱は之瑜(しゆ)。浙江省餘姚(よよう)の士大夫の家に生まれ、明国に仕え、祖国滅亡の危機を救わんと、海外に渡って奔走、長崎にも数度来たり、七度目の万治二(一六五九)年、長崎に流寓した。翌年、柳川藩の儒者安東省庵(せいあん)守約(もりなり)と会い、彼の知遇を受けた。水戸藩主徳川光圀が史臣小宅生順(おやけせいじゅん)を長崎に遣して、舜水を招こうとしたのはその数年後のことで、当初は応じなかったが、門人省庵の勧めもあり、寛文五(一六六五)年七月、六十六歳の時に水戸藩江戸藩邸に入った。以後、水戸を二度訪れたが、住居は江戸駒込の水戸藩中屋敷(現在の東京大学農学部)に与えられ、八十三歳で没するまで、光圀の賓師(ひんし)として待遇された。「大日本史」の編纂者として知られる安積澹泊(あさかたんぱく:後注参照)は、その高弟。墓は光圀の特命によって水戸家の瑞竜山墓地(現在の常陸太田市)に儒式を以って建てられた。舜水が水戸藩の学問に重要な役割を果たしたことが知られる(舜水のそれは朱子学と陽明学の中間的なもので、実学とでもいうべきものであった)。その遺稿は光圀の命によって「朱舜水文集」(全二十八巻)等に収められてある(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「魴」これは漢籍では淡水魚で、その料理を毛沢東が愛したとされる「武昌魚」、コイ科魴(中文名)属トガリヒラウオ Megalobrama amblycephala であろう。

「偏(へん)」偏(かたよ)り。

『「萬葉集」長哥 水の江の浦島の子が堅魚(かつを)つり鯛つりかねて下畧「第三巻 若狹小鯛・他州鯛網」の注で既に電子化した。

「煎汁(いかり)を貢(こう)すること、見へて」先の「真名真魚字典」の「鰹」に「延喜式」の引用部(総てではないので注意)に三ヶ所、「堅魚煎汁」の貢献が出る。そこでは献納元は駿河と伊豆である。「堅魚煎汁」は現在は通常は「かつおいろり」(現代仮名遣)と読むようである。平凡社「世界大百科事典」の「鰹節」最後の「利用」の項に(コンマを読点に代えた)、『カツオの煮干しをつくる』際の茹で汁は、『古くから堅魚匙汁(かつおいろり)とよばれて調味料とされていた。鰹節の名は室町時代から散見し、だし汁をとるのに用いられたことは明らかであり、「本朝食鑑」』『には土佐節、熊野節の名が見られる。ただし、この時期の文献の記載は、煮熟したのち』に、『曝乾(ばつかん)してつくるとだけになっており、いまのようなカビつけ法が延宝年間』(一六七三年~一六八一年)『に発見されたとする説は信用できそうである。鰹節は』「勝男武士」『などと書いてめでたいものとされ、祝儀のさいの引物(ひきもの)や結納品に使われる』とある。

『兼好「徒然草」に、鎌倉の海にかつをと云う魚は……』これも「第三巻 鮪(しび)」の注で既に電子化した。

『「鰹魚のタヽキ」といふ物あり。即ち、醢(ひしほ)なり』これは先のカツオの内臓の塩辛である「酒盗」と混同してしまっている。上手い「鰹のたたき」の作り方は、私のブログ最初期の投稿「鰹のたたきという幸福」をご覧あれ。騙されたと思ってやって御覧な、絶対、美味いで!

「奧刕棚倉(たなくら)」現在の福島県東白川郡棚倉町。内陸に位置するが、ここを支配していた棚倉藩は、飛び地として港湾地である平潟(茨城県北茨城市平潟町)を領地とし、そこが言わば、藩の表玄関の役割を持っていた。更に、仙台・三陸・松前の物産がこの平潟に集積した。平潟港の棚倉藩運上規定の「荷物出投」(物品税)が課せられた海産物の筆頭に鰹が挙げられている。さればこその、棚倉の鰹の塩辛なのであろう。]

日本山海名産図会 第三巻 牡蠣 / 第三巻~了

 

Kaki

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「廣島牡蠣畜養之法(ひろしまかきちくようのはう)」。当時の牡蠣養殖の様態がよく判る、優れた一枚である。]

 

○牡蠣(かき)一名 石花

畿内に食する物、皆、藝刕廣島の產なり。尤も名品とす。播刕・紀刕・泉刕等に出だすものは、大にして、自然生(しぜんせい)なり。味、佳ならず。又、武刕・參刕・尾刕にも出だせり 廣島に畜養(やしな)ひて大坂に售(う)る物、皆、三年物なり。故に、其の味、過不及(くわふきう)の論、なし。畜(やしな)ふ所は草津・尓保浦(にほうら)・たんな・ゑは・ひうな・おふこ等の、五、六ヶ所なり。積みて、大坂濱々(はまはま)に繋(つな)ぐ。數艘(すさう)の中に、草津・尓浦より出づる者、十か、七、八にして、其の畜養(ちくやう)する事、至つて多し。大坂に泊ること、例歲(れいさい)、十月より正月の末に至りて、歸帆す。

○畜養 畜(やしな)ふ所、各(おのおの)城下より一里、或いは三里にも沖に及べり。干潮(ひしほ)の時、泻(かた)の砂上に、大竹を以つて垣(かき)を結ひ列ぬること、凡そ一里ばかり、号(なづ)けて「ひび」と云ふ。高さ一丈餘(よ)、長一丁許りを「一口(くち)」と定め、分限に任せて、其の數(かず)、幾口(いくくち)も畜(やしな)へり。垣の形は、「へ」の字の如く作り、三尺余(よ)の隙(ひま)を、所々に明けて、魚、其間に聚まるを、捕る也。「ひゞ」は潮の來(きた)る每に、小き牡蠣、又、海苔(のり)の付きて殘るを、二月より十月までの間は、時々、是れを、備中鍬(ひつちうくわ)にて搔き落とし、又、五間、或いは十間四方許り、高さ一丈許りの、同しく竹垣(たけかき)にて、結(ゆ)ひ𢌞したる籞(いけす)の如き物の内の、砂中、一尺ばかり、堀[やぶちゃん注:ママ。]り埋(うづ)み、畜(やしな)ふこと、三年にして、成熟とす。海苔は「廣島海苔」とて賞し、色々の貝もとりて、中(なか)にも「あさり貝」、多し。

○蚌蛤(ばうがう)の類(るい[やぶちゃん注:ママ。])、皆、胎生・卵生なり。此の物にして、惟(ひとり)、化生(くはせい)の自然物(しぜんぶつ)なり。石に付きて、動くことなければ、「雌雄の道(みち)、なし。皆、牡(を)なり。」とするが故に、「牡蠣(ぼれい)」と云ふ。「蠣(れい)」とは其の貝の粗大なるを云う。石に付きて、磈礧(かさなり)、つらなりて、房のごときを、呼んで、「蠣房(れいばう)」といふ。初め、生ずるときは、唯(たゞ)一擧石(こぶしのいし)のごときが、四面、漸(やうや)く長じて、一、二丈に至る物も有るなり。一房(いちばう)每(ごと)に、内に、肉、一塊(いつかい)あり。大房(たいばう)の肉は、馬蹄(ばてい)のごとし。小さきは、人の指面(ゆび)のごとし。潮(うしほ)來れば、諸房、皆、口を開き、小蟲(こむし)の入るあれば、合せて、腹に充(み)つる、と云へり。又、曰、礒(いそ)にありて、石に付きて、多く重なり、山のごとくなるを「蠔山(がうさん)」と云ふ。離れて小なるを「梅花蠣(ばいくわれい)」と云ふ。廣島の物、是れなり。筑前にて、是れを「ウチ貝」といふは内海の礒(いそ)に在るによりてなり。又、「オキ貝」・「コロビ貝」と云ふは、石に付かず、離れて大(おほ)いなるを云へり。○又、「ナミマカシハ」と云ふあり。海濱に多し。形、円(ゑん)にして、薄く、小(せう)なり。外(そと)は赤(あか)ふして、小刺(はり)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]あり。尤も美なり。好事の者は、多く貯へて、玩覽(くわんらん)に備ふ。是れ、韓保昇が說く所、「※蠣(ふれい)」、是れなり[やぶちゃん注:「※」=「虫」+「膚」(但し、変体異体字と推定)。底本のここの右頁七行目冒頭]。歌書に「スマカシハ」といふは、「蠣壳(かきがら)」の事なり。又、「仙人(せんにん)」と云ふあり。其の殼に付く刺(はり)、幅(はば)廣きを云ふ。又、刺(はり)の長く一寸ばかりに、多く附く物を「海菊」と云ふ。又、むら雲(くも)のごとく、刺なきものも、あり。その色、數種(すしゆ)なり。右本草 諸房の說を採る。

○「カキ」といふ訓は、「カケ」の轉じたるなるべし。古歌に、

みよしのゝ岩のかけ道ふみならし とよめるは、いま、俗に「岳(がけ)」と云ふに同して云(いゝ)初めしにや。「物の闕(かけ)たる」と云ふも、其の意にて、ともに方圓(ほうゑん)の全(まつた)からざる義なり。

○此の殼を、やきて、灰となし、壁をぬること、「本草」に見へたり。

○「大和本草」に高山(かうさん)の大石(たいせき)に蠣殼の付きたるを論(ろん)して、擧げたり。これ又、「本草」に云ふ所にして、午山老人(こさんらうじん)の討論あり。いずれを是なりとも知らざれば、此(こゝ)に畧す。されども、「天地一元の壽數(しゆすう)改変の時に、付たる殼なり。」と云ふも、あまり、迂遠なる說也。

 

 

日本山海名產圖會巻之三終

[やぶちゃん注:メインは斧足綱翼形亜綱カキ(或いはウグイスガイ)目カキ上科イタボガキ科マガキ属マガキCrassostrea gigas であるが、本文中では他の貝類への言及もある。まずは、私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の三項目の「牡蠣(かき)」を見られたい。他にブログの「大和本草附錄巻之二 介類 蠣 (大型のマカキ・イワガキ)」「大和本草附錄巻之二 介類 「蠣粉」・「蚌粉」の用途 (カキ類及びハマグリ(限定は甚だ疑問)類の殻の粉末の用途)」も読解の助けになるはずである。因みに、私は強力なカキ・フリークで多くの外国でも食したが、最も美味しかったのは、アイルランドの田舎で自転車で売りに来ていた老婦人にその場で剝いて貰って食べた小さくて丸い幻しのヨーロッパヒラガキ Ostrea edulis であった。

「かき」和名のそれは、一説には「岩から搔き落とす」からとは言われる。

「石花」「牡蠣」とともに中文名。されば、本文で語られる♂しかいないという誤認も中国由来。合字の「硴」もある。

「草津」現在の広島県広島市西区の草津港を含む草津地区(グーグル・マップ・データ)。

「尓保浦(にほうら)」現在の草津の東方の広島県広島市南区の宇品海岸の、その東に仁保沖町(にほおきまち)があるが、ここは埋立地と思われ、その北の直近の、猿猴川右岸に仁保の地名があるので、この南の浦の旧称と考えられる。

「たんな」前の仁保の西側に広島県広島市南区丹那町(たんなちょう)及び丹那新町がある。

「ゑは」「草津」と「尓保浦」の中間点で、広島湾に臨む巨大な中州の先端部に広島県広島市中区江波(えば)本町がある。ここであろう。

「ひうな」広島市南区日宇那町(ひうなちょう)。先の仁保沖町に接した後背部で仁保の南。

「おふこ」これも前の日宇那町の西から奥へ広がる仁保島城跡を擁する広島市南区黄金山町(おうごんざんちょう)のことではあるまいか?

「城下」広島城下。

「ひび」漢字では「篊」と書く。「海苔ひび」でお馴染みであるが、小学館「日本大百科全書」に以下のようにある。『沿岸でノリを養殖する施設で、胞子を付着させて生育させるものをいう。古く、魚を捕獲するために海中に立てたひびにノリが着生したことから始まった。ナラやカシなどの樹枝、マダケやモウソウチクなどの竹類を用いた粗朶(そだ)ひび、網地を用いた網ひび、割り竹を簀子(すのこ)状に編んだ簾(すだれ)ひびがある。設置方法により、立体式、水平固定式、水平浮動式がある。現在はおもに網ひびが用いられ、これには水平固定式および水平浮動式がある。なお、粗朶ひびは、かつてはカキの採苗(種(たね)ガキ)に用いられていたが、現在ではホタテガイのひびなどが用いられており、これはひびとはいわず』、『付着器とよばれる』とあった。そうだ! 挿絵の牡蠣養殖の「粗朶ひび」こそが「ひび」のルーツだったのだ!

「一丈餘(よ)」三メートル超え。

「一丁」百九メートル。

「備中鍬(ひつちうくわ)」「びっちゅうぐわ」。当該ウィキによれば、『深耕や水田荒起に用いる鍬を改良した農具で』、『材料に』二股に分かれた『股木を利用した「股鍬」の一種』。『弥生時代から存在していた股鍬が改良されたもの。弥生時代のものは木製だったが、古墳時代になると鉄製のものも生まれた』。『刃の先が』二『本から』六『本に分かれているものを「備中鍬」と呼称した』。『「備中鍬」の名前で呼ばれるようになったのは江戸時代からで、別名に「万能」、「マンガ」などがある』。『歯が三本の備中鍬は三つ子、三本鍬、三本万能、三本マンガと呼び、歯が四本の備中鍬を四つ子、四本鍬、四本万能、四本マンガと呼んだ』。『刃の形状には、尖ったもの、角形、撥形がある』。『備中鍬は文化文政時代に普及』し、『平鍬と違い、湿り気のある土壌を掘削しても、金串状になっている歯の関係で歯の先に土がつきづらいのが利点』で、『粘土質の土壌や、棚田を耕すために使われた』。『また、馬や牛を所有することが出来ない小作農にもよく使われた』とある。辞書によれば、最も利用されたのは三本鍬であったとあるが、挿絵を見ると、刃が一般的な備中鍬より遙かに短く、概ね六本である。持ち上げて使用するためには、軽量であることが絶対条件であるから、甚だ腑に落ちる。

「五間」九・〇九メートル。

「籞(いけす)」「生簀」に同じ。

「廣島海苔」広島の海苔業者「丸徳海苔」公式サイトの「広島のりの歴史|多彩なくらしとともに」が詳しくて写真もあり、まことに素晴らしい! 私は、即座に保存した。

「蚌蛤(ばうがう)」ここは斧足(二枚貝)類の総称。

「此の物にして、惟(ひとり)、化生(くはせい)の自然物(しぜんぶつ)なり」無論、誤り。カキの仲間には雌雄同体の種と雌雄異体の種があり、マガキでは雌雄異体であるが、生殖時期が終了すると、一度、中性になり、その後の栄養状態が良いと♀になり、悪いと♂なるとされている(ウィキの「カキ(貝)」に拠った)。「本草綱目」でも、「本草綱目」の巻四十六の「介之二」「蛤蚌類」の冒頭に立項された「牡蠣」で(囲み字は太字に代えた)、

   *

景曰はく、「道家の方に、以(おも)へらく、左顧は是れ、雄。故に牡蠣(ぼれい)名づけ、右顧は則ち牝蠣(ひんれい)なり。或いは、突頭を以、左顧と爲す。」と。藏器曰はく、「天、萬物を生ずるに、皆、牝牡、有り。惟だ、蠣、是れ、鹹水に結成し、塊然として動かず。隂陽の道、何にか從ひて生ぜんや。」と。宗奭(そうせき)曰はく、「『本經』に左顧を言はず。止(た)だ、陶が說に從ひて、段成式も亦、云はく、『牡蠣は牡』と言ふ。雄を謂ふに非ざるなり。且つ牡丹のごとき、豈に牝丹有らんや。此の物、目、無く、更に何ぞ、顧盻(こべん)せんや。」と。時珍曰はく、蛤蚌の屬、皆、胎生・卵生有り。獨り、此れ、化生して、純雄にして、雌、無し。故に「牡」の名を得たり。「蠣」と曰(い)ひ、「蠔」と曰ふは、其の粗大なるを言ふなり。」と。

   *

最後に小文字で記している通り、蒹葭堂はこれをもとに書いている。

「小蟲(こむし)の入るあれば、合せて、腹に充(み)つる」当時、既に正しくイメージとしてプランクトン摂餌を理解していたことが判る。

「蠔山(がうさん)」海中に形成された牡蠣群の死骸の殻で出来た驚くべき大きさ(数十メートルでもあり得る)の山を「蠔山」(ごうざん:蠔は牡蠣(カキ)に同じ)と呼ぶ。

「梅花蠣(ばいくわれい)」「ウチ貝」「オキ貝」「コロビ貝」これらはマガキの異名である他に、他の種を含んでいる可能性もかなりある。例えば、「石に付かず、離れて大(おほ)いなる」というのは、イワガキ Crassostrea nippona を指している可能性が頗る高いように思われる。

「ナミマカシハ」カキ目 Ostreoida ではあるが、誰もカキの仲間とは認識していない、綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目ナミマガシワ上科ナミマガシワ科ナミマガシワ属ナミマガシワ Anomia chinensis である。岩や小石の他、他の中・大型の貝に附着して見かけることが多い。本種は左殻を表として、右殻を内側にして付着する。右殻には殻頂部に孔があり、石灰化した足糸が出る。因みに、マガキは左側の殻で付着する。但し、「形、円(ゑん)にして、薄く、小(せう)なり。外(そと)は赤(あか)」いというのはまさに本種を指して見事なのだが、「小刺(はり)あり」というのは解せない。附着上面の辺縁部に凹凸が生じる個体は多いが、針とは言い難く、左殻は薄く、その表面は寧ろ、滑らかであることが多い。「尤も美なり」かどうかは個人によるが、不味くはないらしい。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のナミマガシワのページに「ナミマガシワの塩ゆで」として『熱を通しても硬く締まらず、ふんわりとゆで上がる。身に甘みがあり、苦みはほとんどなく、甘味が強くとてもおいしい』とされつつ、『食用としていた地域はあるが』、『貝毒など危険性は皆無ではない。食べるときには自己責任で』と赤字表記がある。また、和名は「波間柏」で、「カシワ」(ブナ目ブナ科などの、外で器の代わりにする木の葉)を伏せたような形の貝殻という意とある。しかし、この貝、四~五センチメートルほどの小型の貝であり、食うほどに集めるのも厄介なもので、この蒹葭堂の味の評価は不審である。但し、「好事の者は、多く貯へて、玩覽(くわんらん)に備ふ」とあるのは、腑に落ちる。貝類蒐集家の中には、この貝殻の美しいものを集めるのが好きな者が多いからである。

「韓保昇」五代の後蜀の本草学者で翰林学士であった韓保昇(九三四年~九六五年)。これは「本草綱目」の「牡蠣」の「集解」の以下の記載に基づく。

   *

保昇曰はく、「又、※蠣、有り。形、短くして、藥用に入れず。」と。

(「※」=「虫」+「膚」(但し、変体異体字と推定))

   *

『歌書に「スマカシハ」といふは、「蠣壳(かきがら)」の事なり』不詳。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。識者の御教授を乞う。なお、「壳」は「殼」の異体字。但し、実は底本では中央の「几」の上の「一」が存在しない。

『「仙人(せんにん)」と云ふあり。其の殼に付く刺(はり)、幅(はば)廣きを云ふ』聴いたことがないが、腑には落ちる。有意に出た湾曲した殻の突起を、鶴に乗って空を飛ぶ仙人の翻る袂に喩えたものであろう。

『刺(はり)の長く一寸ばかりに、多く附く物を「海菊」と云ふ』同じくカキ目だが、カキとは認識しないイタヤガイ亜目イタヤガイ上科ウミギク(ガイ)科ウミギク(ガイ)属  Spondylus barbatus 。房総半島以南の水深二十メートルより浅い岩礁にセメント質で固着している。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの写真で判る通り、殻表面の葉条片が菊の花弁のように有意に突出する。殻色がオレンジや黄色に変異する個体(或いは近縁種か)が多く、やはり、貝類蒐集家の人気の貝である。私はあざとい自然の造形で好きではない。

「むら雲(くも)のごとく、刺なきもの」とだけ言われても、種同定は私にはできません。

「みよしのゝ岩のかけ道ふみならし」「古今和歌集」の巻第十八「雜歌下」にある「よみ人しらず」の一首(九五一番)、

 世にふれば

   憂(う)さこそまされ

  み吉野の

   岩のかけ道

      ふみならしてむ

「岩のかけ道」は蒹葭堂が『俗に「岳(がけ)」と云ふに同して』(最後は「同(おなじく)して」で「同じうして」に同じ)が言うように、削り取ったように直立する切り立った岩場に打ち込んで作った桟道のこと。まあ、この歌では「険しい山道」ほどの意であるが。「ふにならしてむ」は隠棲のポーズ。「踏み平(な)らそう」で山中に生きんとする宣言である。

『此の殼を、やきて、灰となし、壁をぬること、「本草」に見へたり』「大和本草附錄巻之二 介類 「蠣粉」・「蚌粉」の用途 (カキ類及びハマグリ(限定は甚だ疑問)類の殻の粉末の用途)」<