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2024/09/17

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 同  長濱村三平蘇生

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

     長濱村三平蘇生

 

 先年、長濱(ながはま)、住居(すみをる)、橫田何某(なにがし)の家に、召仕(めしつかひ)の者、三平と云(いふ)者あり。

 或時、傷寒(しやうかん)を煩ひ死(しし)ける故、日傭(ひやとひ)に云附(いひつけ)、長濱の砂原(すなはら)へ葬(はふり)ける。

 良(やや)久(ひさしく)して後(のち)、三平、來りける。

 家內の者は、夜更(よふけ)て、三平、來(きたり)ける故、

「幽霊也(なり)。」

とて、甚(はなはだ)、おぢけるに、

「幽霊に非らず、實(まこと)に蘇生したるもの也。一旦、熱にとぢられ、絕(たえ)たるを、砂の中へ埋(うづ)みたる故、熱、覚(さめ)て、蘓生(そせい)したる。」

と也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「長濱村」現在の高知市長浜(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「傷寒」急性の熱性疾患。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 天牛蟲(かみきりむし)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      天 牛 蟲(かみきりむし)

 

 此の蟲の觸角は馬鹿に長い。此の本の中に挾んで置かうと思ふと、それを胴の方に曲げなければならない。

 

[やぶちやん注:「博物誌」には、ない。臨川書店一九九五年刊の「ジュール・ルナール全集」第四巻の「葡萄畑の葡萄作り」の末尾には先の「雄鷄」以降については『『博物誌』(第5巻所収)にそのまま収録されているので、ここではタイトルだけあげておく。』とし、揭げたタイトルの中には「カミキリ虫」というのが含まれている。しかし、当該第五巻の「博物誌」にも、その注にも、また第五巻のその他にも、「天牛蟲(かみきりむし)」に相当するものは所収していない。摩訶不思議と言わざるを得ない。ルナールがカットしたものらしい。原文を示しておく。

   *

 

     LE CAPRICORNE

 

   Cet insecte a les antennes si longues, que pour le mettre dans ce livre, il faut les lui rabattre sur le côté !

 

   *

この“capricorne”(音写「キャプリコォロン」)という単語はフランス語では、一般的な第一義はカミキリムシ類(ギリシャ語で「長い触角を持つ虫」が語源)を指し、第二義でアジア産のカモシカ、更に第三義では、星座十二宮の「山羊(やぎ)座」を指す。但し、この単語では、特定種を指すことはできないので、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae どまりである。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 螢

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      

 

 一體、なに事があるんだらう。もう夜の九時、それに、あそこのうちでは、まだ明りがついてゐる。

 

[やぶちゃん注:後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「螢」』はボナールの挿絵はない。「螢」の種はそちらの注を見られたい。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 猫

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      

 

 わたしのは鼠を食はない。そんなものを食ふ氣にはならないらしい。つかまへても、それを玩具《おもちや》にするだけである。

 遊び飽きると、命を助けてやる。それから、どこかへ行つて、尻尾の輪の中にすわると、罪の無ささうな顏をして、空想に耽る。

 然し、爪傷(つめきず)がもとで、鼠は死んでしまふ。

 

[やぶちゃん注:私のルナール初体験は中学二年の秋に読んだ明治図書中学生文庫十四の倉田清氏の「にんじん」である。「にんじん」には圧倒的な感動を覚えたのだが、同書の末に「付録」として載せられた「博物誌」の抜粋(ボナールの挿絵添えにも惹かれた。特に鼠へのペーソスとともに記憶に刻まれたのは、この「猫」であった。程無く、芥川龍之介のシニカルなアフォリズム「侏儒の言葉」(リンク先は私のブログ・カテゴリ『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)【完】』。サイト一括版の本文のみの『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』もある)に嵌まったのであった。されば、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「猫」』は私の人生の、文学的一大転回点のスプリング・ボードであったと言ってよいのである。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 壩齒花

 

Muresuzume

 

はしくは  錦鷄兒

壩齒花 醬瓣子

 

農政全書云壩齒花生山野閒亦人家園宅閒多栽葉似

枸𣏌子葉而小毎四葉攅生一處枝梗亦似枸𣏌有小刺

開黃花狀類雞形結小⻆

△按未識如此樹蓋雞形二字中閒有冠字乎

 

   *

 

はしくは  綿鷄兒《めんけいじ》

壩齒花 醬瓣子《しやうべんし》

 

「農政全書」に云はく、『壩齒花、山野の閒に生ず。亦、人家≪の≫園宅≪の≫閒≪に≫、多く栽《う》ふ[やぶちゃん注:ママ。]。葉、「枸𣏌子《くこし》」の葉に似て、小《ちさ》く、四葉《よつば》毎《ごとに》[やぶちゃん注:返り点はないが、返して訓じた。]、一處に攅-生(あつまり《しやう》)ず。枝・梗(くき)も亦、「枸𣏌」に似て、小≪さき≫刺《とげ》、有り。黃花を開く。狀《かたち》、雞《にはとり》≪の≫形に類して、小≪さき≫⻆を結ぶ。』≪と≫。

△按ずるに、未だ此のごとくなる樹を識らず。蓋し、「雞形」の二字の中閒に、「冠」の字、有るか。

 

[やぶちゃん注:これは「綿鷄兒」で、「維基百科」の「錦雞兒」により、一発で判明した。

双子葉植物綱マメ目マメ科ムレスズメ属ムレスズメ Caragana sinica

である。Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「ムレスズメ 群雀」のページによれば、別名『キンジャクカ、キンジャクジュ』で、花期は四~五月で、『落葉低木』で、樹高は一~二メートル。中国からの『帰化種』。『ムレスズメはマメ科ムレスズメ属の観賞用の栽培種』であり、『中国原産で日本には江戸時代』の文政九(一八二六)年『に渡来し』(「梅園草木花譜」の「春三」に拠る)、そこ『に金雀児樹(ムレスズメ)、金雀花(キンジャククア)、金雀樹(キンジャクジュ)と記載されている』とある。『樹皮は暗褐色。当年小枝は無毛。葉は羽状又はときに掌状』で、四『小葉。葉柄と葉軸は長さ』は七ミリメートル~一・五(或いは二・五センチメートル。『脱落性又は宿存性。小葉の葉身は倒卵形』から『長円状倒卵形』を呈し、『長さ』は一~三・五センチメートル『×幅』〇・五~一・五センチメートル、『しばしば、先の対が最も大きく、先は円形で微突形。花は単生。花柄は長さ約』一センチメートル、『中間に関節がある。咢筒は鐘形、長さ』一・二~一・四センチメートル。『花冠は黄色、長さ』二・八~三センチメートル。『旗弁』(きべん:マメ類の花によく見られる蝶形花(ちょうけいか)の、上方にある一枚の花弁を指す。旗を立てたような形なのでかく称する)『は狭倒卵形、爪部は短い。翼弁は基部に耳があり、爪部は拡大部とほぼ同長。竜骨弁は広く鈍い。子房は無毛。豆果は円筒形、長さ』三~三・五センチメートル。『果期は』七『月』とある。『ムレスズメ属』 Caragana は、『低木』、『又は』、ごく『まれに高木』で、『托葉は小さく、脱落性又は宿存性、刺状。葉は偶数羽状複葉、葉軸は最終の小葉の対を超えて伸びるか』、『又は』、『葉軸が縮小して』、『見たところ掌状』を呈し、『小葉は』四~二十『個。葉柄と葉軸は宿存性又は脱落性、宿存するときは』、『しばしば』、『木質で刺状になる。小葉の葉身は全縁、先は』、『しばしば、尖頭』を成し、『花は腋生、普通、単生だが、ときに』二~五『個、束生する。花柄は関節がある。小苞は無く又は』一つから『多数ある。咢は筒形又は鐘形』で、五『歯、外側の』二『個は普通、小さく、基部は袋状又は袋状でない。花冠は黄色、まれに紫色~帯ピンク色~白色、旗弁はときに淡黄色又は橙赤色、翼弁と竜骨弁は』、『しばしば、耳形』を成す。『雄しべは』二『体雄しべ 』(九+一)。『子房は類無柄、まれに、柄がある』。『世界に約』百『種があり、温帯のアジア、ヨーロッパ東部に分布する。中国には』六十六『種ある』とある。以下、「ムレスズメ属の主な種と園芸品種」で、以下のムレスズメを含む(それはカットした)十一種が挙げられて、それぞれ解説がなされてある。

・オオムレスズメ(大群雀)Caragana arborescens (『中国、モンゴル、ロシア、カザフスタン原産。中国名は树锦鸡儿』)

Caragana densa (『中国原産。中国名は密叶锦鸡儿』)

Caragana frutex(『中国、モンゴル、ロシア、カザフスタン、ヨーロッパ東部原産。中国名は黄刺条锦鸡儿』)

Caragana jubata (『中国、モンゴル、ロシア、インド、ブータン原産。中国名は鬼箭锦鸡儿』)

・マンシュウムレスズメ(満州群雀)Caragana manshurica(『朝鮮、中国、ロシア原産。中国名は东北锦鸡儿』)

・コバノムレスズメ(小葉の群雀)Caragana microphylla (『中国、モンゴル、ロシア原産。中国名は小叶锦鸡儿』)

・コムレスズメ(小群雀)Caragana rosea (『中国原産。中国名は红花锦鸡儿』)

・ヒメムレスズメ(姫群雀)Caragana stenophylla (『中国、モンゴル、ロシア原産。中国名は狭叶锦鸡』)

・ウスリームレスズメ aragana ussuriensis (『中国、ロシア原産。中国名は乌苏里锦鸡儿』)

・リョウトウムレスズメ Caragana zahlbruckneri (『中国原産。中国名は金州锦鸡儿』)

なお、当該ウィキは記載が貧困であるが、特に『ムレスズメは、アセチルコリンエステラーゼ阻害活性を示すスチルベノイド三量体のα-ビニフェリンや、プロテインキナーゼC阻害剤のミヤベノールC』、『また』二『つのスチルベン四量体コボフェノールAとカラシノールB』『を含むことで知られる』とある。但し、これは同種の英文ウィキを翻訳したものに過ぎず、著者が化学的知識を以って判って書いたものではないものである。なお、「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年であるから、良安は評言通り、本種を知るべくもなかったのである。

「農政全書」明代の暦数学者でダ・ヴィンチばりの碩学徐光啓が編纂した農業書。当該ウィキによれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎』十二『年』(一六三九年)『に刊行された』とある。光啓は一六〇三年にポルトガルの宣教師によって洗礼を受け、キリスト教徒(洗礼名パウルス(Paulus))となっている。以下は、同書の「第五十六 荒政」(「荒政」は「救荒時の利用植物群」を指す)にある。「漢籍リポジトリ」のここの、ガイド・ナンバー[056-13b] に、

   *

壩齒花 本名錦鷄兒又名醤瓣子生山野間中州人

家園宅間亦多栽葉似枸杞子葉而小每四葉攢生一

處枝梗亦似枸杞有小刺開黄花狀類鷄形結小角兒

味甜

  救飢 採花煠熟油鹽調食炒熟喫茶亦可

   *

とあった。]

2024/09/16

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 同  山狸(国立公文書館本「山狸(ネコマタ)」)

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。標題は「やまたぬき」「やまだぬき」と読みたくなるが、実は、本文には、以下の通り、底本では、本文中で「山猫」とし、それに「(ネコマタ)」とルビする。国立公文書館本の「目録」(6)、及び、本文では、「山狸(ネコマタ)」とする。]

 

      山 狸

 田㙒浦、村木佐藏(むらきすけざう)・木屋茂七(きやもひち)、其外(そのほか)一兩人[やぶちゃん注:一人か二人。]、言合(いひあは)せ、要用(えうよう)有(あり)て、奈半利鄕(なばりがう)北川の庄屋へ行(ゆき)しが、夜に入(いり)、宿本(やどもと)を立(たち)て、「鳫(かり)が森」といふ難所を登り、峠へ至りける時、何かはしらず、

「フウ。」

と言(いふ)聲と、ひとしく、大風(おほかぜ)、來(きたり)て、四、五丁(ちやう)[やぶちゃん注:これは「松明(たいまつ)」の数詞。]の松明を、吹消(ふきけ)しぬ。

 初(はじめ)、吹消す時、松明の光に面(ツラ)を見しに、そのすさまじきこと、譬(たとふ)るに、もの、なし。

 二つ目(め)[やぶちゃん注:両目。]とも不見(みえず)、地に伏しけるが、別事(べつじ)なければ、夜中に、北川へ行着(ゆきつき)ぬ。

 里俗、言(いふ)、

「『鳥が森[やぶちゃん注:ママ。]』ゟ(より)、野根山へ、『猫股(ねこまた)』の通ふ道、有り。」

と、いへり。

「たまたま、山猫(ネコマタ)を見るもの、あり。牛(うし)程(ほど)有(あり)て、形は、画(か)ける虎に似て、尾の、長き物也。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:「田埜浦」複数回既出既注。幡多(はた)郡黒潮町田野浦(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。「田㙒村」と切ってしまうと、「木佐藏」が如何にも、通称としては異例な通称となるし、並列の人物が「木屋茂七」とちゃんと姓(らしき物)を添えている以上、「村木」で姓と採った。

「奈半利鄕北川」土佐湾を隔てた対称位置にある現在の安芸郡北川村

「鳫が森」後で「鳥が森」と出るのと同じ山名と判断される。高知県では、山名を「~森」とするものが多く認められるので、これは一般名詞の「森」ではなく、山岳のピーク名であることは間違いない。但し、現行の北川村村内には、孰れも見当たらない。しかし、例えば、北川村の深い山林部には、現在も「高善森」や「鐘ヶ龍森」の名を持つ山が現認出来る(「ひなたGPS」のこちらを見よ)から、私の勘でしかないが、この「鳫が森」か「鳥が森」かに相当する山は、この同一の山地の中の古いピーク名であるように感じられると述べておく。

「夜中に、北川へ行着ぬ」これは、その「鳫が森」(個人的には「鳥が森」はダサいと感じる)から、かなり時間をかけて下っていることがわかるから、現在の北川村役場が置かれてある北川村野友甲(のともこう)附近ではないかと推理する。

「猫股(ねこまた)」=「山猫(ネコマタ)」=「山狸(ネコマタ)」は私の怪奇談その他には、あまた出るメジャーな妖怪(妖獣)であるが、「山狸」というのは初見である。幾つかめぼしいもながあるが、取り敢えず、「想山著聞奇集 卷の五」の「猫俣、老婆に化居たる事」の本文と私の注をお読みあれ。

 なお、以前に紹介した、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐鄕土民俗譚」(寺石正路著・昭和三(一九二八)年日新館書店刊)の「第廿一 山猫並怪獸」の章の、「其七十六 怪獸」の最後の一段に載るのだが、底本とも、国立公文書館本とも異なる有意な表記・表現であることから(恐らくは二本とは異なる「南路志」の写本によるものと思われる。但し、この「土佐鄕土民俗譚」は、写本筆者ではなく、編集者によって、恣意的に操作されている――もっと悪く言うと――かなりすんなり読めるように勝手に辻褄合わせをして弄(いじく)られている疑惑が大いにあるように私には思われる)、特別に以下に視認して電子化しておくこととする。読みは総て底本に拠るものである。

   *

 昔安藝郡田野(たの)村村木佐藏(むらきさざう)、木屋茂七(きやもひち)、外一兩人所町[やぶちゃん注:ママ。意味不明。]ありて、北川鄕(きたがはがう)の庄屋(しやうや)へ行き夜に烏(かいす[やぶちゃん注:ママ。])ガ森(もり)といふ難所を通りにづうづうといふ聲とひとしく大風來り四五本の炬火(たいまつ)を消す初吹消時、炬火(きよか)の光に面を見しに二た目と見られぬ恐しき怪物(かいぶつ[やぶちゃん注:ママ。])にて暫し地に伏しけるが別事なければ夜中に北川へ行着きぬこれは烏ガ森より野根山へ猫又(ねこまん[やぶちゃん注:ママ。])の通ふなりと言傳へらる。

   *

確かに、田野は北川村の南西直近で、土佐湾に面しているからね、ロケーションとしては、如何にも直近なんだけど……どうも……それ以外の表現が、ねぇ、ちょっと、ネェ…………

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 同  宝暦六年赤氣

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。この条、横罫外に頭書(かしらがき)して、『可削』(「削るべし」)とある。]

 

      宝暦六年赤氣

 

 宝暦六年十月戌刻(いぬのこく)頃、赤氣(せきき)、髙知ゟ(より)子丑(ねうし)の方(かた)に當り、山を打越(うちこし)、一面に赤く、其中に篠(しの)を何百も立並(ててなら)べたる如く、赤筋(あかすぢ)、有(あり)て、自然(おのづ)と消(きゆ)る。

「東國・西國、見る所、同じ。」

と、いへり。此年、江戶大火、外に別事なかりし。

 

[やぶちゃん注:「宝暦六年」「子年十月戌刻頃」宝暦六年丙子(ひのえね)で、グレゴリオ暦では一七五六年。同旧暦同年十月一日は十月二十四日相当で、この月は大の月で旧暦十月三十日は十一月二十一日相当である。「戌刻」は午後七時から八時まで。しかし、一ヶ月もの間、毎夜、この異様な赤光(しゃっこう)現象が起こることは、まず、あり得ないから(あれば、公的記録に必ず載る。しかも、後二「東國・西國、見る所、同じ」とあり、この記載が事実ならば、本州・四国・九州全域の広域で確認されたということを意味するが、それなら、ごっそり各地で記されていなければならないが、そのような同時多発的な広域での目撃記録は見出せない)、日付、或いは、数日間の日付が示されていないのは、この手の記載としては、価値が認められない。その辺りが、頭書の「可削」となっているものと思う。私が筆者なら、確実に採用しない。

「赤氣」は現代仮名遣「せっき」と読み、空に現れる赤色の雲気。天体現象としては、彗星やオーロラとされ、また、別に、地震の先触れとしての発光現象(一説に地殻変動により地中で発生した電気の放電によるものともされるが、解明されてはいない。よく知られる直近のものは、一九九五年一月十七日に発生した阪神淡路大震災で、直前に夜間発光現象の目撃情報がある)ともされる。オーロラのそれらしい本邦の最古の記載は「日本書紀」で、「卷第二十二推古天皇紀」に「十二月庚寅朔、天有赤氣、長一丈餘、形似雉尾。」とある。私のブログ記事では、「赤氣」を語った怪奇談が複数あるが、纏まった優れた記事は、まず、「甲子夜話卷二十 29 壬午年白氣の事幷圖 / 甲子夜話卷二十 37 壬午の秋夜、赤氣の圖」を嚆矢とする。そこでは、まず、「白氣」現象が発生、それを「壬午九月十四日」(文政五年/グレゴリオ暦一八二二年十月二十八日)とし、僅か八日後の文政五年九月二十二日(グレゴリオ暦一八二二年十一月五日)に「赤氣」が発生したことを観察したもので、静山自筆のスケッチも添えてある。これは、オーロラ現象とまず採れるが、この一八二二年には、かのハレー彗星に次いで周期彗星と断定された「エンケ彗星」(Comet Encke)が、この五カ月前の六月二日、シドニー天文台で観測されている。纏まったもので最もお薦めなのは、ズバり、『柴田宵曲 妖異博物館 「赤氣」』である。天文論文も幾つか見たが、この宝暦六(一八八二)年のオーロラ現象記録は確認出来なかった。但し、「国立極地研究所」公式サイト内の『日本の古典籍中の「赤気」(オーロラ)の記載から発見された宇宙変動パターンの周期性と人々の反応に関する記述』の中の、『図2. 過去1400年の日本史を通して「赤気」のイベント数を示した図』』(棒グラフ)を見て戴きたいが、まさに1700年から1800年にかけて日本史上では、二番目のピークが示されていることから、本篇の記載はイカサマではないと考えてよい。なお、有名な「ハレー彗星」があるが、それが接近したのは、一七五九年で、三年もずれており、違う。オーロラ現象と見てよかろう。先年も、北海道で目撃されている。

「子丑の方」北北東。

「篠(しの)」篠竹。スズダケ、アズマネザサなどの、細い竹や笹の俗称。

「此年、江戶大火」まず、「宝暦の大火」という大規模な江戸の火災災害はない。この年の知られた江戸の火事は、宝暦六年十一月二十三日(グレゴリオ暦一七五六年一二月十四日)に連続して発生した「大学火事」と「青山六道火事」の連続大火のことである。詳しくは、サイト「防災情報新聞」の「周年災害」の『○江戸宝暦612月「大学火事、青山六道火事」と連続大火、火元落首で皮肉られる(260年前)』を見られたい。]

2024/09/15

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 岩燕

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      岩   燕

 

 その日の夕方は、魚が一向かゝらなかつた。然しわたしは、稀な興奮をもつて歸つた。

 わたしが釣竿を垂れてゐると、一羽の岩燕《いはつばめ》その上に止まつた。

 これくらゐ派手な鳥はない。

 それは、大きな靑い花が長い莖の先に咲いてゐるやうだつた。竿は重みでしなつた。わたしは、岩燕に樹と間違へられた、それが大《おほい》に得意で、息を殺した。

 怖がつて飛んで行つたのでないことはうけ合ひである。一本の枝から別の枝に跳びうつるつもりでゐたにちがひない。

 

[やぶちやん注:最終段落の「一本の枝から」の「枝」は、底本では「杖」となっている。言わずもがなであるが、明らかな誤植であるからして、特異的に訂した。

 さて、「岩燕」であるが、和名で言うそれは、スズメ亜目ツバメ科ツバメ亜科イワツバメ属イワツバメDelichon dasypus であるが、そもそも、イワツバメはヨーロッパには分布しないから(当該ウィキを参照されたい)、あり得ない。原文は“LE MARTIN-PÊCHEUR”であって、これは、現在の大きな仏和辞典でも、しっかり「カワセミ」=ブツポウソウ目カワセミ科カワセミ亞科カワセミAlcedo atthis としていて、フランス語の「イワツバメ」は、“Hirondelle de fenêtre”(「穴の燕」の意)、或いは、“Hirondelle de Bonaparte”で、間違えようがないと思ったのだが、実は英語の全く同じ綴りの“martinは、「尾が有意に角ばっているツバメの種・個体」を“swallow”と区別して、かく記すことが判明した。辞書では、通常、総ての生物種を指す単語までは載せきれないから、岸田氏は、これが如何なる種なのか判らなかったのであろう。そこで、後半の“pêcheur”は、“pêche”で「魚釣り」の意であることから、英語の“martin”と重ねるなら、海岸の岩場などに、泥と枯れ草を使って巣を作る……『うん、イワツバメか!』と当て込んで、かく訳してしまわれたものと思われる。岸田氏の訳は後の岩波文庫版「ぶどう畑のぶどう作り」でも、残念なことに、「岩燕」のままであるが、後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「かはせみ」』では表題・本文ともに「かわせみ」に正しく変更されてある。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 楊櫨

 

Utugi

 

[やぶちゃん注:二図。右下方は上に「山楊櫨」(やまうつぎ)の、左は上に「箱根楊櫨」(はこねうつぎ)のキャプションがある。]

 

うつぎ  空疏

     【和名宇豆木】

楊櫨

     疏通也中空

     能通故名

   曰卯花者宇豆木花

   之畧也非寅卯之卯

本綱楊櫨所在皆有生籬垣間其子爲莢

△按楊櫨有數種山空木箱根空木唐空木三葉空木共

 山中有之人植籬垣者山空木箱根空木也皆中空故

 名空虛木凡揷之能活伹樹無刺又無結赤子者

山宇豆木 高𠀋許皮白肌㴱青心正白而中空甚堅用

[やぶちゃん注:「㴱」は「深」の異体字。]

 爲樽槽之橽最佳或匠人削之爲木釘其葉團長【末尖】

 四月開小白花成簇可愛俗云卯乃花是也結子狀似

 狗椒青黤色不熟而自凋

箱根空木 高𠀋許皮白中空不甚堅葉皺似粉團花之

 葉而團尖有細齒㴱綠色四月開花單瓣狀は盞白與

 赤相襍成簇花落而朶尚存青色寸許似莢【箱根山多有之故名】

                           相模

  見渡せは浪のしからみかけてけり卯の花さける玉川の里

唐空木  葉山小於山空木花亦不美

三葉空木 葉似山空木而開四瓣白花攅簇毎三葉抱

 梗對生摘葉陰乾煎服能治隔噎此樹人家稀

 

   *

 

うつぎ  空疏《くうそ》

     【和名、「宇豆木」。】

楊櫨

     「疏」は「通」なり。中空《ちゆうくう》にして、

     能く通ずる故《ゆゑ》、名づく。

  「卯《う》花《はな》」と曰ふは、「宇豆木の花」の

   畧なり。「寅《とら》・卯《う》」の「卯」に非ず。

「本綱」に曰はく、『楊櫨≪の≫所在≪は≫、皆、有り。籬垣《まがき》の間に生じ、其の子《み》、莢《さや》を爲す。』≪と≫。

△按ずるに、楊櫨に、數種、有り。「山空木(《やま》うつぎ)」◦「箱根空木《はこねうつぎ》」◦「唐空木(たう《うつぎ》)」◦「三葉空木(みつば《うつぎ》)」、共に、山中に、之れ、有り。人、籬垣(まがき)に植《うう》る者は、「山空木(やまうつぎ)」・「箱根空木」なり。皆、中空なる故、「空虛木(うつ《ぎ》)」と名づく。凡そ、之れを揷(さ)して[やぶちゃん注:挿し木にして。]、能く活《かつ》す。伹《ただし》、樹に、刺《とげ》、無く、又、赤き子《み》を結ぶ者、無し。

[やぶちゃん注:「◦」は右下に「。」で打たれてあるのを、中央に移動した。]

山宇豆木 高さ、𠀋ばかり。皮、白く、肌、㴱青《ふかきあを》。心《しん》[やぶちゃん注:木の幹。]、正白にして、中《なか》、空(うつろ)にて、甚だ、堅《かた》し。用≪ふるに≫、樽(たる)・槽(ふね)の「橽(のみ)」[やぶちゃん注:樽や桶の下部の排出口の栓(せん)。]と爲して、最も佳し。或いは、匠-人《たくみ》、之れを削りて、「木釘《きくぎ》」と爲す。其の葉、團《まろ》く長し【末、尖《とがれ》り。】。四月、小≪さき≫白花を開き、簇《むれ》を成し、愛すべし。俗、云ふ、「卯の花」、是れなり。子《み》を結び、狀《かたち》、「狗椒(いぬざんしやう)」に似《にて》、青黤《あをぐろき》色。熟せずして、自《おのづか》ら凋む。

箱根空木(はこねうつぎ) 高さ、𠀋ばかり。皮、白《しろく》、中空《ちゆうくう》。甚だ≪しくは≫堅からず。葉、皺(しは[やぶちゃん注:ママ。])みて、「粉團(てまり)」の花の葉に似て、團《まろく》、尖≪りて≫、細かなる齒、有り、㴱綠色《ふかみどりいろ》。四月、花を開く。單-瓣《ひとえ》、狀《かたち》は、盞《ちよく》[やぶちゃん注:盃(さかずき)。]のごとく、白と赤と、相《あひ》襍(まじ)りて、簇《むれ》を成す。花、落ちて≪も≫、朶《ふさ》、尚《な》を[やぶちゃん注:ママ。]存《そん》し、青色≪を成し≫、寸ばかり。莢《さや》に似たり【箱根山、多く、之れ、有り。故に名づく。】。

               相模

  見渡せば

     浪のしがらみ

   かけてけり

       卯の花さける

            玉川の里

唐空木(たう《うつぎ》)は、葉、山空木より小さく、花も亦、美ならず。

三葉空木は、葉、山空木に似て、四瓣《しべん》の白き花を開き、攅-簇(こゞな)る。三葉毎《づつ》[やぶちゃん注:返り点はないが、返して読んだ。]、梗《くき》を抱《いだき》て、對生す。葉を摘(むし)り、陰乾にして、煎≪じて≫服《ふくす》。能《よく》、隔噎《かくいつ》を治す。此の樹、人家に稀《まれ》なり。

 

[やぶちゃん注:これ、「危険がアブないよ」(「処刑遊戯」の松田優作演じる鳴海昌平がエンデング・シークエンスで、森下愛子演じるアンティーク時計店の主人に忠告する台詞に真似て)レベルで、東洋文庫訳では、全く指摘していないが、私は疑問に感じて、取り敢えず調べたところ、「楊櫨」と「空木」「卯木」は――目タクソンで異なる全く類縁性がない異種――であることが判った。

「楊櫨」は双子葉植物綱マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属ツクシヤブウツギ変種半邊月 Weigela japonica var. sinica

である。「維基百科」の「半邊月」を見られたい。そこに別名として、「唐本草」から引用で「楊櫨」があるのである! そこには、『中国固有種』とあり、『江西省・四川省・広東省・安徽省・湖北省・貴州省・福建省・湖南省・浙江省・広西省など、中国本土の標高四百五十メートルから千八百メートルの地域に分布し、主に山腹の下層に生育する』とあった。但し、東京大学大学院理学系研究科附属植物園である「日光植物園」公式サイト内の「ツクシヤブウツギ」を見ると、原種であるツクシヤブウツギWeigela japonica は日本固有種のマークが附されてあり、『名前にツクシ(筑紫)が付くのは、九州北部で最初に発見されたことを意味します』とあった。

 一方、本邦の、私の好きな「卯の花」は、

ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata

である。同種の「維基百科」は「齒葉溲疏」である。まっこと! 「危ない……危ない……」(「椿三十郎」の伊藤雄之助演じる城代家老睦田弥兵衛の口癖(加山雄三演じる井坂伊織の口真似で)

 もそも「本草綱目」では、独立項「楊櫨」は確かに異様に短い。「漢籍リポジトリ」の「木之三」の「灌木類」の「楊櫨」([088-57b]以下)から引く(一部に手を入れた)。

   *

楊櫨【唐本草】

 集解【恭曰楊櫨一名空疏所在皆有生籬垣間其子為莢葉氣味苦寒有毒主治疽瘻惡瘡水煮汁洗之立瘥【唐本】】

 木耳

   *

ところが、実は、その前の「溲疏」(前項を参照されたいが、植物名未詳である)の中に、「楊櫨」の「集解」の中に「溲疏」の別名として「楊櫨」として挙げられ、以下、本文に二箇所、出現しているのである。されば、時珍は、実際には、この「楊櫨」自体、種として如何なるものであるか、実は知らずに立項している可能性が高いと言えるように思うのである。だから、独立項なのに、語りに全くパンチがなく、物謂いも霞が掛っているようではないか!?!

 まあ、ここでは、良安はその辺の事実に、知らんぷりをして、もくもくと本邦のウツギ(但し、以下の注で明らかにするが、「~ウツギ」と呼ばれる真正のウツギの類縁種、さらに、ウツギとは全く異なる種であることが追々判って頂けるであろう)を語っているわけだから、まずは、ウツギとして注を進めよう。

 当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『空木・卯木』。『アジサイ科』Hydrangeaceaeで、『別名はウノハナ。日当たりのよい山野にふつうに見られる』。『和名のウツギの名は「空木」の意味で、幹(茎)が中空であることからの命名であるとされる。花は卯月(旧暦』四『月)に咲くことからウノハナ(卯の花)とも呼ばれる。中国名は、齒葉溲疏』。『日本と中国に分布し、日本では北海道南部、本州、四国、九州に広く分布する。山野の路傍、崖地、林縁、川の土堤、人里など日当たりの良い場所にふつうに自生し、畑の生け垣にしたり』、『観賞用に庭に植えたりする』。『落葉広葉樹の低木で、樹高は』一~二・五『メートル』『になり、よく分枝する。樹皮は灰褐色から茶褐色で、老木は縦に裂けて短冊状に粗く剥がれる。若い樹皮は茶褐色で、縦に浅く裂ける。枝は生長すると髄が失われて中空になる。株立ちし、樹皮は灰褐色で、古くなると剥がれる。新しい枝は赤褐色を帯び、星状毛が生える』。『葉の形は変化が多く、長さ』五~十二『センチメートル』『の卵状長楕円形から卵状披針形になり、葉柄をもって対生する。葉身は厚く、星状毛が生えてごわごわした感じになる』。『花期は』五~七『月。枝先に円錐花序をつけ、直径』十~十五『ミリメートル』『の白い花を多くまとまってつけ、垂れ下がって咲かせる。普通、花弁は』五『枚で細長いが、八重咲きなどもある。雄蕊は長短』五『本ずつあり、花糸に翼がある。萼には星状毛が生える』。『果期は』九~十『月。果実は蒴果で、直径』四~六ミリメートル『の椀形のような球形をしている。果実の先端には花柱が残る。秋に熟すと』、三、四『裂し、冬でも枝に残っていることが多い』。『冬芽は対生し、卵形で星状毛のある芽鱗に包まれ、枝にも星状毛が密生する。ふつう、枝先に仮頂芽が』二『個』、『つき、芽鱗は』八~十『枚ある。冬芽のわきある葉痕は三角形で、維管束痕が』三『個ある』。『庭木として植えられる。また田畑の畔に植えられて、土地の境界の目印にされたりもする。幹は木釘に加工されて利用される』。『純白の花は「卯の花」とよばれて、古くから初夏のシンボルとして愛され、詩歌に詠まれて親しまれてきた。清少納言の随筆』「枕草子」『には卯の花と同じく初夏の風物詩であるホトトギスの鳴き声を聞きに行った清少納言一行が卯の花の枝を折って車に飾って帰京する話がある。近代においても唱歌』「夏は來ぬ」『で歌われるように初夏の風物詩とされている』。『慣用句「卯の花腐くたし」は』、五『月下旬の長雨を指し、卯の花(ウツギの花)を腐らすほどの雨を意味する。季語としては「花の雨」と「五月雨」との間で、俳句にも頻繁に使われる。ウツギの花言葉は、「思い出」「気品」とされている』。以下、「下位分類」の項で、『変種のビロードウツギ』( Deutzia crenata var. heterotricha )『の他、多くの品種がある』として、五種を挙げてあり、その後に『他属、他科の「ウツギ」』の項で、『ウツギ属に属する種の他にも、ウツギと名のつく木は下記のように数多く、花の美しいものや、葉や見かけがウツギに似たものなどがある。ウツギとは類縁関係が遠い科や属の異なる種でも、幹が中空な植物はウツギと呼ばれていることがある。民間信仰で、中空の枝を持つ植物は神との絆が強いと考えられ、神聖なものとされた。そのため』、『「○○ウツギ」と名のついたものがたくさんできたと考えられている』と述べ、六科の「~ウツギ」の和名を、十一種、挙げてある。

「山空木(《やま》うつぎ)」「コトバンク」の日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」によれば、別称として正規のウツギ及びハコネウツギ(後注する)以外に、五種の和名を記す。以下、その学名を記す。

○シソ目シソ科キランソウ亜科クサギ属クサギ Clerodendrum trichotomum var. trichotomum 当該ウィキを参照されたい。以下同じ)

○シソ目シソ科ムラサキシキブ属ムラサキシキブ Callicarpa japonica当該ウィキ。因みに、良安は先行する「鼠李」で、誤って、本種をそれに宛てている)

○バラ目アジサイ科アジサイ属ノリウツギ Hydrangea paniculata 当該ウィキ

○イラクサ目ニレ科ニレ属ハルニレ Ulmus davidiana var. japonica 当該ウィキ

○マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属タニウツギ Weigela hortensis当該ウィキ

「箱根空木《はこねうつぎ》」ウツギとは同一グループでは、全然、ない、マツムシソウ目 スイカズラ科タニウツギ属ハコネウツギ Weigela coraeensis であるので、注意されたい。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名でベニウツギ、ゲンペイウツギともよばれる。ゲンペイは源平で、すなわち花の色がはじめ白色だが、のちに紅色になることからそう呼ばれる。標準和名は、箱根に多いとして付けられた名であるが、箱根に限らず』、『日本列島の太平洋側に自生している。ウツギは漢字で卯木あるいは空木と書くが、卯木は卯月(陰暦』四『月、陽暦』『五月)に咲くからといわれ、空木は小枝が中空なのでその名がついたものである』。『日本の北海道南部から九州まで分布する。海岸近くに自生するが、公園樹や庭木、垣根などにも植えられる。「箱根」と名につくが』、実は、『神奈川県の箱根には自生しない』(太字下線は私が附した)とある。『落葉広葉樹の低木から小高木で、高さ』四『メートル』『になる。樹形はよく株立ちするが、老木になると主幹が太くなり、上方で枝がよく生い茂る。樹皮は灰褐色で、一年枝は褐色で縦長の皮目がある。枝は弓なりになって伸びるのが特徴的である。枝が古くなると灰褐色となり、稜ができる。葉は対生し、長さ』八~十六『センチメートル』『の広楕円形から広倒卵形で、裏面の葉脈に沿って毛がある。葉縁には鋸歯がある』。『花期は』五~七『月。枝先と葉腋に花を』一~三『個ほど咲かせ、白い花が次第に赤へと変化する。花冠は長さ』三十~四十『ミリメートル』『の漏斗状で、ニシキウツギに似ているが、花冠の筒部は中央から急に太くなる点で異なる。果期は』十~十一『月。果実は長さ約』三センチメートル『ほどある』。『冬芽は、芽鱗が多数つき、頂芽が側芽より大きく、側芽は枝に伏生する。側芽のわきにつく葉痕は、三角形や倒松形で維管束痕が』三『個』、『つき、両側から稜が出る』とある。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。

「唐空木(たう《うつぎ》)」これは、ウツギと同属のウツギ属トウウツギ Deutzia parviflora である。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。

「三葉空木(みつば《うつぎ》)」これは、全然、ウツギとは別種の、ムクロジ目ミツバウツギ科ミツバウツギ属ミツバウツギ Staphylea bumalda である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『三葉空木・三つ葉空木・省沽油』(最後は中文名)で、『山地の沢沿いなどに生える。若葉はゆでて山菜として食用にされる』。『和名「ミツバウツギ」の由来は、小葉が』三『枚ある複葉で、ウツギに似た白い花をつけることから名付けられている。別名で、コメゴメ、コメウツギ、コメノキ、ハシウツギなどがある。関東地方や東北地方の地方名で「ハシギ」「ハシノキ」ともよばれており、かつて箸に利用されたことによる』。『日本の北海道・本州・四国・九州・沖縄に分布するほか、朝鮮半島、中国』を含む『東アジア一帯に分布する。平地から山地、特に低山帯に多く分布する。原野、川の縁、やぶなどの山地寄り、山麓の山林の樹木下でよく見られ、雑木に混ざって生える。適度に湿った土地では、日当たりのよい場所にも生える』。『同属は北半球の温帯に』十『種ほど分布する』。『落葉広葉樹の低木で、高さ』二~五『メートル』『になる。樹皮は灰褐色で縦の筋が入る。細くて長い灰褐色の枝がたくさん出て、茎はウツギと同様に中空となる。枝の元には枯れた小枝が何本も残っている。一年枝は褐色や紫褐色で、無毛で皮目がある。葉は小葉が』三『枚ずつ』、『つく』。三『出複葉で、枝の節ごとに長い葉柄を持って対生する。小葉は先が尖った卵形から長卵状楕円形で、葉縁に細かな鋸歯がある』。『花期は初夏』の五~六月頃で、『花は枝先に円錐花序をなして、筒型の白い花が穂状になって、垂れ下がるように咲』か『せる。花は水平に完全には開くことはなく半開きの状態であるが、花弁・がく(各』五『枚)とも白く、よく目立つ。果実は偏平で先の尖った軍配のような形をした蒴果で、シワがあり、二股の風船のような形に例えられる。秋に熟して、先端は』二、三『裂する。冬でも果実が枯れ姿で枝に残っていることもある』。『冬芽は広卵形や半球形の鱗芽で無毛、芽鱗は栗褐色で』二『枚』、『つく。枝先に仮頂芽が2個つき、側芽が枝に対生する。葉痕部分は膨らんでいて目立つ。葉痕は半円形で、維管束痕は』三~九『個』、『つく』。『新芽や若葉、蕾は食用になる。採取時期は、関東地方以西など暖地が』四~五『月ごろ、東北地方以北など寒冷地が』五~六『月ごろとされ、伸び始めた新芽を摘み取る。梅雨入りするころにはアブラムシ』(有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea に属する「アブラムシ」類でアリマキ(蟻牧)とも呼ぶ)『が発生して、食用には適さないという。若芽は茹でて水にさらし、おひたし、ごま・酢味噌などの和え物、煮物、炒め物、煮びたしにする。また生で天ぷら、汁の実、油炒めにしたり、細かく刻んで炊き上がった米飯に混ぜて蒸らし、混ぜご飯(菜飯)にもできる。蕾はさっと茹でて、三杯酢、寒天寄せ、すまし汁の浮き実にする。食味は、柔らかい葉にはアクやクセがなく上品な味わいで、老若を問わず好まれると評されている』。『かつては、材から箸や櫛、木釘に利用された』とある。

「橽(のみ)」当初、「飲み口」が原義かと思ったが、「デジタル大辞泉」に、「のみ」(衣袽・船筎・𦀌・袽)で、『ヒノキやマキの内皮を砕いて柔らかくしたもの。舟や樋(とい)などの材の継ぎ目につめこんで』、『水漏れを防ぐのに用いる』ものとし、別に「のめ」「まいはだ」と読むとあった。この初出例として「太平記」の第三十三巻の「新田左兵衞佐(さひやうゑ)義興(よしおき)自害事」に、『矢口の渡りの船の底を二所(ふたところ)を彫(ゑ)り貫いて、のみを差し』を引いてある。Santalab氏のブログ「Santa Lab's Blog」の『「太平記」新田左兵衛佐義興自害事(その9)』が、原文(新字正仮名。但し、当該部の歴史的仮名遣には誤りがある)と現代語訳があるので、見られたい。所持する『新潮日本集成』の「太平記」第五巻(山下宏明校注・昭和六三(一九八八)年刊)の「のみ」の頭注に、『船の底に設けた排水用の穴にさし込む栓。関西では酒樽などにつける栓をも言う。』とあったので、すっきりした。寺島良安は出羽能代(一説に大坂高津)の商人の子として生まれたが、後に大坂に本拠を移し、大坂城入医師となり、法橋に叙せられている。なお、所持する「言海」を見ると、「のみくち」に『吞口』として、『樽ニ、孔』(あな)『ヲ穿チ、塡』(は)『メ込ミ置キテ酒醬油ナド出ス口トスル管、栓ニテ拔キ差シス、注口 管注』(下線は底本では二重右傍線)とあったが、酒はまだしも、醬油をそこから飲むというのは、おかしく、やはり、以上の防水材が原義と推定される。「呑口」は、たまたま一致したものであり、漢字が極めて稀な字であることから、転訛したものと思われる。

「狗椒(いぬざんしやう)の花」「犬山椒」は、双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属イヌザンショウ変種イヌザンショウ Zanthoxylum schinifolium var. schinifolium 当該ウィキによれば、『果実を煎じた液や葉の粉末は漢方薬に利用される』。『樹皮や果実を砕いて練ったものは湿布薬になる』とある。グーグル画像検索「イヌザンショウの花」をリンクさせておく。

「粉團(てまり)」キク亜綱マツムシソウ目レンプクソウ科ガマズミ属ヤブデマリ変種ヤブデマリ Viburnum plicatum var. tomentosum 当該ウィキに花の画像がある。

「箱根山、多く、之れ、有り。故に名づく」前掲引用で示した通り、箱根山には自生しない。最初の命名が優先される結果の和名であろう。

「見渡せば浪のしがらみかけてけり卯の花さける玉川の里」「相模」これは「後拾遺和歌集」の「卷三 夏」に載る(一七五番)、「百人一首」の六十五番の「恨み侘びほさぬ袖だにあるものを戀にくちなむ名こそ惜(を)しけれ」で知られる、平安後期の歌人の相模(生没年不詳:長徳四(九九八)年頃から康平四(一〇六一)年以降か)の一首である。

   *

  正子(まさこ)內親王の、繪合(ゑあはせ)し

  侍(はべり)ける、かねの册子(さうし)に、

  書き侍ける

見わたせば

    波のしがらみ

  かけてけり

      卯の花さける

           玉川の里

   *

「正子內親王」は後朱雀天皇皇女。「かねの册子(さうし)」銀箔を張った冊子を指す。

「隔噎《かくいつ》」東洋文庫の割注に、『(食物がつかえてのどを通らない症)』とある。]

2024/09/14

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 同  奇怪

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから前篇の同ロケーションで直続き。]

 

      同(おなじく) 奇怪

 

 或(ある)人、㙒根山にて、極月(ごくげつ)[やぶちゃん注:旧暦十二月。]廿日(はつか)、小鳥打(ことりうち)に山中を徘徊せしが、小鳥も、此日(このひ)者(は)、不見(みえず)。

 山(やま)、深く、入(いり)しに、女(をんな)壹人(ひとり)、木賊色(とくさいろ)の打掛(うちかけ)して、轉鄕(あちら、むかひ)て、立(たち)たり。

『是(これ)ぞ、『山姬(やまひめ)』ならん。』

とて、見捨(みすて)て、かへりし、と也。

 

[やぶちゃん注:「木賊色」木賊(維管束植物門大葉植物亜門 Euphyllophytina 大葉シダ植物綱 Polypodiopsida トクサ亜綱トクサ目トクサ科トクサ属トクサ Equisetum hyemale )の茎のような黒、或いは、青みがかった濃い緑色。

「山姬」「山女(やまをんな)」とも。本邦の山中に住む女の妖怪。人の血を吸って死に至らしめるなどの言い伝えなどが全国各地に広く残る。ウィキの「山姫」にやや詳しく載る。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 野根村魔所

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

     野根村魔所(ましよ)

 㙒根山は、國中(くになか)の髙山(かうざん)と覺ゆ。

 一とせ、岩佐へ行(ゆき)しは、四月の初(はじめ)也。

「遲櫻の盛(さかり)也。」

とて、人々に誘れて、安倉峠(あぐらたうげ)へ、花見にゆきしに、東は甲浦山(かんおうらやま)、南は羽根・吉良川山(きらがはやま)の谷々の遲櫻は、降積(ふりつも)る雪のごとく、北は、柳瀨山、見え、安倉の在所を見落[やぶちゃん注:ママ。](みおろ)しぬ。

 扨(さて)、甲浦山を打越見(うちこしみ)れば、阿波の二子島、手近(てぢか)く見へ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、東南に當り、紀伊路・熊㙒崎までも見へぬ。

 南の海原(うなばら)に鯨の鹽吹上(ふきあぐ)る抔(など)、見へて、景色、いはん方なし。

 鳥の聲、珎敷(めづらしく)、常に三宝鳥(さんぱうてう)・水乞鳥(みづこひどり)抔(など)も居(を)るとかや。

「かゝる髙山なれば、徃古(わうこ)は『魔所』と云へる所も多かりし。」

とぞ。

 今、御殿の有所(あるところ)を「鳥越」といふ。

 魔所を開(ひらき)て、御殿を建(たて)られしが、其頃は、常に、空中に人聲(ひとごゑ)し、或(あるい)は、機織(はたおり)・紡車(クルマ)の音抔、有(あり)。

 御殿の門(もん)を、夜毎(よごと)に、弐、三町[やぶちゃん注:二百十八~三百二十七メートル。]が外(そと)へ、取除ヶ有之由(とりのけ、これ、ある、よし)。

 依之(これによつて)、重き御祈禱、有(あり)、御殿の下へ、壺、一つ、門の方(かた)ヘ、一つ、埋め玉ひしより、かゝる怪異も止みけるとかや。

 

[やぶちゃん注:「野根村」既に何度も出た野根山街道を東に下った旧野根村。「ひなたGPS」の戦前の地図で「野根村」の表示北西と南東で確認出来る。かなり広域な(但し、内陸部は殆んどが山間である)村域であったことが判る。現在の東洋町(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)全域と、ほぼ一致するようである。同町内に今も「野根」を冠した「野根甲」・「野根乙」・「野根丙」地区がある。

「㙒根山」同じく既出のここ

「岩佐村」現在の安芸郡北川村安倉(あぐら:グーグル・マップ・データ航空写真)。野根山街道の中の全き山間地であるが、藩政時代には番所が置かれた。南西で谷を隔てて野根山(同前)がある。恐らく、「岩佐」は非常に古い広域村名と思われ、今回、「ひなたGPS」の戦前の地図で「野根山」を拡大してみたところ、山頂から南西に少し下った尾根部分に「岩佐」の地名を見出すことが出来た。現在は、鬱蒼たる森林で林道は確認出来るが、人家はない(航空写真)。しかし、「ひなたGPS」をさらに拡大して見ると、「岩佐」の直下のせまい尾根の上部分の、地区境界の線の東北と南西の箇所に接近して人家の記号が打たれてあるのが判った。これを見るに、野根山街道の側道で、ここにこそ、抜け道を警備する番所があった痕跡ではなかろうか?

「甲浦山」「ひなたGPS」の戦前の地図の『甲(カンノ)浦町の北後背の標高『196.3』のピークか。

「羽根」「ひならGPS」の野根山の南西に、南西に下る渓谷があり、その川が羽根川である。

「吉良川山」この山名は見出せないが、高知県室戸市北西部に吉良川町乙と吉良川町甲があるので、この地区の広域の中の有意なピークであろう。

「柳瀨山」これは思うに、方角から見て、現在の高知県安芸郡馬路村魚梁瀬(やなせ)のどこかのピークと推定される。

「阿波の二子島」現在の甲浦(かんおうら)の中の南東海上にある、高知県と徳島県の県境界に存在する無人島の二子島である。「ひなたGPS」で確認されたい。注意が必要なのは、そこから東北直近(直線で約五キロメートル)の、徳島県海部郡海陽町の那佐湾の湾奥にある二つの無人島も、これまた、同名の二つの無人島「二子島」があるので、混同されないように!

「熊㙒崎」これは、現在の和歌山県東牟婁郡串本町にある紀伊半島最南端の潮岬(しおのみさき)のことを指していよう。

「三宝鳥」「姿のブッポウソウ」で知られるブッポウソウ目ブッポウソウ科ブッポウソウ属ブッポウソウ Eurystomus orientalis の異名。「三寶(寳・宝)」は、仏教で、最も尊ばねばならぬ「仏・仏の教えを説いた経典・その教えをひろめる僧」を指す「佛法僧」であり、これは「仏の教え・仏法」を指し、「三尊」とも言う。しかし、ということは、「声のブッポウソウ」、フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus sunia も、ここには、いる、と考えなくてはいけない。この、とんだ「鳥違い」が判明したのは、驚くべきことに、昭和一〇(一九三五)年のことであった。何度も書いているが、「小泉八雲 仏教に縁のある動植物  (大谷正信訳) /その3」をリンクさせておく。その私の注の冒頭のそれを見られたい。

「水乞鳥」カワセミ科ショウビン亜科 Halcyoninae ヤマショウビン属アカショウビン(赤翡翠) Halcyon coromanda の古い異名。小学館「日本国語大辞典」の初出例は「日本紀略」の正暦元(九九〇)年の条を挙げる。

「紡車(クルマ)」この読みは底本にはなく、国立公文書館本(44)にあったものを採用した。「糸巻き車」のことである。黒澤明の「蜘蛛巣城」を思い出すな。

「御殿」不詳。安倉地区に限定してよいなら、星神社となる。「北川村観光協会」公式サイト「きたがわさんぽ」の「木積(こつも)の星神社」に、『ひっそりと神秘的な雰囲気の魅力ある場所にある星神社。すぐ下の岩屋様には磨崖仏があります』。『星神社の境内にある観音堂には妙見菩薩立像と両脇仏があり、伝説の残るつり鐘があります。また、天狗の伝説は有名です』とあり、サイト「アソビュー!」の「木積星神社」には、『星神社』としつつ、旧『金宝寺観音堂』とあり、二『年に』一『度、奇数年の正月』八『日に行われる【お弓祭り】は千年余の昔から悪魔退散、五穀豊穣を願って一度も絶えることなく続く地域をあげての盛大な伝統行事』であり、また、同神社の『【お弓祭り】は高知県無形文化財にも指定されて』おり、『羽織、袴で正装した射手』十二『人が独特のスタイルで』、一千八『筋の矢を通すその様は時代絵巻そのもので』ある、とある。……天狗……悪魔退散……一千八筋の矢を通す……この神社の感じが濃厚にしてきた…………]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 囁き

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。以下の標題は“murmures”で「ささやき」である。因みに、後の“ Histoires Naturelles ”(「博物誌」)では、“AU JARDIN”(「庭で」)と改題しており、以下で注するように、内容・表現にも有意に違いがある。なお、男女がはっきりと判る台詞を発している場合は、それぞれの名詞の性に、概ね、従っているようだが、内容により、岸田氏は臨機応変に性に応じていることが判る。]

 

      囁   き

 

鋤。――サクサクサク…………稼ぐに追いつく貧乏なし。

鶴嘴。――お前はいつでもさう云ふが、おれだつてそれくらゐのことは云つてゐる。

[やぶちゃん注:「鶴嘴」の台詞は“ MURMURES ”の原文でも“Tu dis toujours ça, mais moi aussi.”(「君はいつもそう言うけどさ、僕も、そうだよ。」)となっていて、捻りが入っており、明らかに「博物誌」の“AU JARDIN”の方の單純な“Moi aussi.”とは異なる。ちなみに、この冒頭の「鋤」の台詞の原文“Fac et spera.”は、フランス語ではなく、ラテン語で、“Fac”は「作れ・實行せよ」、“et”は「そして」、“spera”は「望め・期待せよ」の意である。岩波書店一九九八年刊の辻昶訳「博物誌」の「庭にて」の注によれば、これは『「なすべきことをなして、あとは天にまかせよ」という意味』で、『イギリスのプロテスタント殉教者アスキュー(一八二一~四六)の言つた言葉。またフランスの著名な出版者アルフォンス・ルメールが編集した本の表紙に記したことわざ』だそうである。一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」の当該部(全体は「庭にて」)はには、ラテン語の原文の台詞とした上で、続けて丸括弧割注のように『(人事を尽して天命を待つ)』とある。]

 

 

花。――今日は日が照るか知《し》ら。

向日葵《ひまはり》。――えゝ、あたしさえその氣になれば。

如露《じようろ》。――さうは行くめえ。おいらの量見《りやうけん》一つで、雨が降るんだ。

[やぶちゃん注:「知ら」は、当て字ではない。小学館「日本国語大辞典」によれば、『「かしらぬ」のうち』、『「知らぬ」の語義が希薄になり』、『江戸時代前期に疑問の意味を表わすようになった。相手に直接質問するのではなく、自分が知らないということを表わすことに中心があり、相手が答えられないことを聞いたり、話し手限りの発話で、疑いだけを表わしたりすることができた』。その後、『明治時代に入ってから』、『語形は「かしらん」、さらに「かしら」へと移行し、現代に至った。現代では』、『どちらかといえば』、『女性らしい言い回しとなっている』とある。

「向日葵」原文では“Le tournesol.(トゥルヌソル)であるが、この綴りは、まさに実際のヒマワリの一定時期の向日性に基づく単語形成であって、「向きを変える・ターンをする」の意の動詞“tourner”(トゥルネ)と、「太陽」を意味する名詞“soleil”(ソレイユ)を合成して作ったものであり、フランス語では“soleil”自体にも「ヒマワリ」の意がある(ヒマワリは“grand soleil”(グロン・ソレイユ)とも言われる)。さればこそ、日本語でも容易に判る通り、向日葵の台詞は、まさに自称そのものの――「太陽を自在に動かせる」という不遜な「自惚れ」に嵌まっている――のである。

「如露」小学館「日本国語大辞典」によれば、『ポルトガル語』の『jorro』(ネットでブラジルの方二人の発音を聴いたが、音写すると「ジョフゥ」或いは「ジョホゥ」であった)=『「水の噴出」からか』とある。

「量見」「料簡・了簡・了見」とも書くが、以上の三つの漢字表記の場合は歴史的仮名遣は「れうけん」となる。

 なお、如露の台詞は、この“MURMURES”の原文では“Pardon, si je veux, il pleuvra.”で、そっけなく終止しているのに對し、「博物誌」の“AU JARDIN”の方では、“Pardon, si je veux, il pleuvra, j'ôte ma pomme, à torrents.”(悪いけどな、「雨が降る」としたらな、儂(わし)が丸(まあ)るいこいつを外してな、ざあざあ降りってことになるだぜ。)で一捻りの面白さが加味されている。この“pomme” が原義は「林檎(りんご)」であるが、「リンゴに似たような丸い、球状のもの」の意で、“arrosoirpomme d'arrosoir”(ジョウロの口(に附ける半球状の散水器))を指す。因みに、佃裕文訳「博物誌」の当該部は、『そいつはごめんよ、降るも降らぬも、この俺さまの胸先三寸、おいらの蓮の実を外せば、土砂ぶりと来らあ』と粋な意訳になっている。]

 

 

薔薇の木。――まあ、なんてひどい風。

後見人。――わしがついてゐる。

[やぶちゃん注:「後見人」原文は“ Le tuteur. ”で、第一義の①は法律用語で、確かに「後見人」であり、同②に俗語で「保護者・後ろ楯(だて)」であるものの、第二義として造園用語として「支柱・添え木」の意がある。改版では、流石に『添え木』と改訳している。]

 

 

野苺《のいちご》。――なぜ薔薇には棘(とげ)があるんだらう。薔薇の花なんて食べられやしないわ。

生簀(いけす)の鯉。――うまいことを云ふぞ。だからおれも、人が食《くい》やがつたら、骨を立てゝやるんだ。

薊(あざみ)。――さうねえ、だけど、それぢやもう遲すぎるわ。

[やぶちゃん注:「野苺」は誤訳の類いである。「木苺」ならよい。原文は“ La framboise. ”で、これは、双子葉植物綱バラ目バラ科バラ亜科キイチゴ属 Rubus の種群を指すからである。「野苺」はバラ亜科 Rosoideae Potentilleae Fragariinae 亜連オランダイチゴ属エゾヘビイチゴ Fragaria vesca (北半球に広く分布する種)指す。

「なぜ薔薇には棘(とげ)があるんだらう」「河津バガテル公園」公式サイト内の「棘のお話」によれば、『バラの棘は樹皮が変化したものと言われて』おり、『品種によって色々な形があ』って、『小さいものとか、大きいもの、沢山あるものや』、『そうでもないもの』もあるとある。棘の役割は、『茎や枝の転倒を防ぐフック的な役割では、という説もあり』、『バラの原種の多くは、ツル性の植物で、ひとりで立ち上がることができ』ないため、『トゲを周囲にひっかけ』て『絡めれば』、『上に伸びていくことができる』という。『あとは、草食動物から実を守るためとも言われてい』る『が、しかし』、『最大の敵と思われる昆虫には』、『全くの効果』がないとし、けれども、『最大の敵でありながら、繁殖するためには必要な昆虫たちが香りにつられ』て『やって』きて、『この昆虫たちが受粉の手助けをしてくれてい』る。『多少葉っぱや花びらは食われようと、それ以上に繁殖を選択し、子孫を残すための犠牲なので』あろうかとあり、これは、『親が、子どもを育てるのに身を粉にして働くのと同じなのかもしれ』ない、と締め括っておられる。ALSで十三年前に亡くなった私の母は、大のバラ好きであった。今も、私の家の方の柵に白い薔薇が咲く。画家であることを、終生、拘って、一般の社会常識に何かと反するのを好んで旨とし、母を終生、悩ませた、今年三月に亡くなった父――幼少期に結核性左肩関節カリエスに罹患した私――何か、しみじみとしたものが、湧いてきた。

「鯉」条鰭綱コイ目コイ科コイ属コイ Cyprinus carpio だが、特にヨーロッパ原産(特にドナウ川とヴォルガ川)のニシキゴイ Cyprinus carpio carpio としておく。]

 

 

薔薇の花。――あんた、あたしを綺麗だと思つて。

黃蜂(くまばち)。――下の方を見せなくつちや。

薔薇の花。――おはいりよ。

[やぶちゃん注:「黃蜂(くまばち)」あまりよい訳とは言えない。原文は“ Le frelon. ”で、これは、膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科スズメバチ属モンスズメバチ Vespa crabro である。上野高敏(九州大学大学院農学研究院生物的防除研究施設)の公式サイト内の「モンスズメバチ」に詳しいが、そこには、『本種はユーラシア大陸に広く分布し、日本列島は分布域の東端にあたります。我が国では、北海道、本州、四国、九州の平野部から低山帯に棲息します』。『地域ごとに特徴的な斑紋パターンを示すため、多数の亜種が記載されており、日本産は亜種 flavofasciata Cameron(『黄色い帯のある』の意)に属します』とあり、『その学名である Vespa crabro ですが、世界で最初に命名されたスズメバチゆえ、なんと『 Vespa 』は『蜂』の意で、『 crabro 』は『スズメバチ』の意です。学名的には、これこそスズメバチってところでしょうか』。『ヨーロッパを代表するスズメバチであり、かつ同地域最大の社会性ハチ目昆虫となります』。『ヨーロッパでは、本種に』三『箇所刺されると死ぬと信じられていたそうです。実際にはそんなに毒性は強くありませんが、過度の恐怖心から巣を片っ端から除去した結果、個体数の著しい減少を引き起こしてしまった地域があり、ヨーロッパの一部では絶滅危惧種となっています』。『現在では、国によって保護種となっています。ドイツでは、本種を殺すと最大で』五『万ユーロ(』五百『万円以上!)の罰金だそうな』とあった。人によっては、スズメバチの類は、皆、ミツバチを襲う肉食性であると思い込んでいる方も多いが、空けたジュースのボトルに入り込んで吸引するように、『夏の時期、広葉樹の樹液に集まってくる個体をよく見かけます。また熟した果物や花の蜜を餌とします』とあり、花から蜜を舐める働き蜂の写真も添えられてある。而して、『本種はユーラシア大陸に広く分布します』。十『亜種程度が知られていますが、個体変異があることと』、『地域によっては中間型が出るので、亜種の区分はしばしば明確でないようです。私もこの辺の分類はよくわかりません』と述べられ、十二亜種が掲げられてある。その内、フランスに分布するものは、 ssp. vexator (『分布:イギリス、ヨーロッパ南部産(頭部が黄色)』)・ssp. germana (『分布:ヨーロッパ西部(ドイツ、フランス、スイス、スペイン、イタリア北部、ポーランド、ハンガリー、オーストリアなど)』が該当する。モンスズメバチは複数のネット記載で、オオスズメバチ・キイロスズメバチ(先月、業者に駆除して貰った巣が彼奴(きゃつ)であった)に次いで、攻撃性・毒性ともに高く、危険なスズメバチであると記されている。さらに、岸田氏の「黃蜂(くまばち)」は、別に、二重によろしくない。漢字の「黃蜂」は、本邦では、一般的に、スズメバチ上科スズメバチ科アシナガバチ亜科 Polistinaeのアシナガバチ類を総称する名であることで相応しい漢字名ではないこと、さらに、ルビの「くまばち」は、確かに、地方方言で、スズメバチ類を指す語として有意にあるものの、温和な性質で、に毒針があるが、当該ウィキによれば、『巣に近づいたり、個体を脅かしたりすると刺すことがあるが、アナフィラキシー』・『ショック』(anaphylaxis shock)『が出なければ』、『たとえ』、『刺されても重症に至ることは少ない』とある、ミツバチ科マバチ亜科クマバチ族クマバチ属 Xylocopa(本邦には五種棲息する。タイプ種は、Xylocopa violacea )のクマバチ類(私は物心ついてより、常に「くまんばち」と呼んでいる)を指す語であるから、相応しくないのである。

 

 

壁。――なんだらう、背中がぞくぞくするのは?

蜥蜴《とかげ》。――おれだい。

[やぶちゃん注:これは、後の「博物誌」では、独立項として、「庭にて」よりも遙か前に 「蜥蜴」として載っている。『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蜥蜴」』を参照されたい。本篇の、いや、「博物誌」の中でも、三本指に入るであろう名アフォリズムである。]

 

 

蜜蜂。――さ、元氣を出さう。あたしがよく働くつて誰でも云つてくれる。今月の末には、賣場の取締になれるといゝけれどなあ。

[やぶちゃん注:底本では、「末」は「未」となっているが、誤植と断じて、特異的に訂した。

「蜜蜂」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属セイヨウミツバチ Apis mellifera 

「賣場の取締」は原文では“chef de rayon”で、まず、一義的には、“rayon”は「蜜蜂の蜂窩・蜜房(みつぶさ)」を指す語である。但し、それが二義的に、「本棚の棚の板」から、「百貨店等のディスプレイ」、「賣り場」の意へと転化して、“chef de rayon”で「売場主任」の意で用いられるようになった言語的な意味変化の経緯をもパロッているのである(これは岩波書店一九九八年刊の辻昶譯「博物誌」の「庭にて」の注を一部參考にした)。]

 

 

堇《すみれ》。――おや、あたしたちはみんなアカデミイの徽章《きしやう》をつけてるのねえ。

白い堇。――だからさ、なほさら、控へ目にしなくつちやならないのよ、あんたたちは。

葱(ねぎ)。――おれを見ろ、おれが威張つたりするか。

[やぶちゃん注:「堇」キントラノオ目スミレ科スミレ属 Viola sp.。なお、ヨーロッパで広く見られ、古くから香水の栽培もされている知られた種は、スミレ属ニオイスミレ Viola odorata である。詳しくは当該ウィキを見られたいが、そこに『聖母マリアの控えめさと誠実さを象徴する花であり、ヨーロッパでは葬儀の際に墓石に撒く習慣があった』とあった。『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」には、このスミレに訳者注があり、『謙譲を象徴』とある。

「アカデミイの徽章」原文は“d’académie”で、これは、臨川書店版全集の佃裕文氏の訳では『橄欖章』とあり、訳者注で、これはフランスの「教育功労章二等勲章」を指すとある。これは“Ordre des Palmes académiques”で、当該ウィキによれば、これは当時の勲章の意匠は、英知・平和・豊穣・栄光の象徴たる「オリーブ」(橄欖)の木と、成功の象徴たる月桂樹をデザインしたものであったが、現在は棕櫚(シュロ)の枝二本に変えられている。当時の「オフィシエ」二等の徽章の画像がある。さらに、勲章のリボンはヴァイオレット(菫色)である。

「葱」原文“ Le poireau. ”。これは言わずもがなであるが、本邦のネギ(単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ネギ  Allium fistulosum var. giganteum )ではなく、地中海原産のネギ属の一種である「リーキ」(英語:leek)=「ポワロー」(フランス語:poireau:ネイティヴの音写をすると「ポォワファオ」)=「セイヨウネギ」(意訳であって和名ではない) Allium ampeloprasum を指す。近年、市場でもよく見かけるようになり、「ポロねぎ」「ポワロ」の名が馴染みになってきている。臨川書店版全集注によれば、『俗語で農事功労章も意味する』とある。これは“ Ordre du Mérite Agricole ”である。フランス語の当該ウィキがあり、そこに「この徽章は、リボンからぶら下がる白いエナメルの星形で構成されており、そのリボンの大部分が緑色を呈しているため、『ネギ』“Poireau”(前の「葱」の注参照)というニック・ネームが付けられた。『ポワローを付ける』という表現は、この受賞した勲章のリボンの色に由来する。」といった内容が書かれてある。ただ、他の勲章に比べると、相対的にそれほど名誉的価値のあるものでもなかったらしく、この“Poireau”という呼び名も田舎の農業人に相応しいという「けなし」のニュアンスも感じられる。事実、以下の「葱」の台詞「あたしをごらん。あたしが威張つたりして?」という部分対し、辻氏は注して、『大した価値のある勲章ではないので、ポロねぎのこの気負った言葉はこっけいである』という辛口の字背をも透かしておられるのである。また、興味深いのは「堇」と「白い堇」と「葱」の会話の中の「葱」が、その台詞から、ここでは男性となっているのに対して、「庭のなか」では明白な女性となって『葱――あたしをごらん。あたしが威張つたりして?』言ってる点である。フランス語の性としては原文の見出しの定冠詞でも一目瞭然だが、葱は“le poireau”で男性名詞である。前の二人の〈菫〉〈白い菫〉が女性であるから、変化を持たせる上でも男性である方が、より、面白いとは思う。但し、これはあくまで訳者の遊びの領域とは思われる。]

 

 

アスパラガス。――あたしの小指は、あたしになんでも云ふの。

[やぶちゃん注:底本では、実は「アスパラカス」であるが、誤植と断じて濁音にした。原文は“ L’asperge. ”(音写「ラスパルジュ」)で、以下の“Mon petit doigt me dit tout.”の台詞を直訳すると、「私の小指は私に総てを教えてくれる。」という意味である。辻昶訳一九九八年岩波文庫刊「博物誌」では、これについて、辻氏は、『この表現はフランスで、子供にむかって、おまえが隠していることを知っているぞ(顔に書いてあるぞ)と言って白状させるときに使う。アスパラガスは小指に似ているので、ルナールはこんな言葉を言わせているのである。』と注しておられる。岸田氏の「博物誌」の「庭のなか」では、解釈の異なる、

   *

アスパラガス――あたしの小指に訊(き)けば、なんでもわかるわ。

   *

という訳になっており、これは遙かに、ここのものよりも、よい出来になっている。]

 

 

菠薐草(はうれんそさう)。――酸模(すかんぽ)つて云ふのはわたくしのことです。

酸模(すかんぽ)。――うそよ、あたしが酸模よ。

[やぶちゃん注:サイト版「ぶどう畑のぶどう作り」では、

   *

〈菠薐草〉と〈酸模〉の会話は、両種の葉がよく似ていることに加えて、スイバ(スカンポ)の意の“oseille”という単語に、別に卑俗語として「銭・おぜぜ・お足」といつた金の意味があることから、ホウレンソウは鉄分(金属)を多く含むことに加えて、更に自ら福を呼び込むために金のシンボルたる“oseille”を詐称したいというニュアンスが込められている(これは岩波書店一九九八年刊の辻昶訳「博物誌」の「庭にて」の注を一部参考にした)。

   *

と注したが、今回は、自律的に、これらの語をディグし、以下のように添えることとする。

「菠薐草(はうれんさう)」原文“ L’épinard. ”。ナデシコ目ヒユ科アカザ亜科ホウレンソウ属ホウレンソウ Spinacia oleracea 。我々の世代までは「ポパイ」の影響で、エネルギの源のように思っている者が多いが、ホウレンソウの灰汁の主成分はシュウ酸(HOOCCOOH)であり、多量に摂取し続けた場合は、鉄分やカルシウムの吸収を阻害したり、シュウ酸が体内でカルシウムと結合し、腎臓や尿路にシュウ酸カルシウム(Calcium oxalate CaC2O4 、又は、(COO2Ca )の結石を引き起こすことがあるので、要注意である(注意記載は当該ウィキを参照した)。なお、フランス語には、成句で“mettre du beurre dans les épinards”(直訳:「ホウレンソウにバターを塗る」)で「金を増やす・暮らしを豊かにする」という比喩表現がある。ルナールはそれを暗に嗅がしているらしい。

「酸模(すかんぽ)」ナデシコ目タデ科スイバ属スイバ Rumex acetosa 。私は「すっかんぽ」と呼び、幼少の時から、田圃周辺や野山を散策する際に、しょっちゅう、しゃぶったものだった。なお、「すかんぽ」は本邦では、若芽を食用にすると、やはり酸っぱい味がするナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ変種イタドリ Fallopia japonica ver. japonica の別名でもあるが(ヨーロッパにも帰化している)、原文の“ L’oseille. ”(ロオザィエ)は、言わずもがなだが、真正の「スイバ」を指している。なお、同じくフランス語には、俗語で“la faire à l'oseille à qn.”で「人を騙す」・「人に辛い思いをさせる」の意があるので、ルナールは前のホウレンソウのそれに、さらにこの卑語をも、二重写しさせて楽しんでいるものと思われる。

 

 

馬鈴薯《ばれいしよ》。――あたし、子供が生まれたやうだわ。

[やぶちゃん注:「馬鈴薯」双子葉植物綱ナス目ナス科ナス属ジャガイモ Solanum tuberosum 。南アメリカのアンデス山脈原産。さて、「馬鈴薯」は、ここでは、女性となっているのに対し、「博物誌」の「庭のなか」では『馬鈴薯――わしや、子供が生まれたやうだ。』と、明白な男性となっている。馬鈴薯 “la pomme de terre” (「大地の林檎」の意)は冠詞で判る通り、女性名詞である(ちゃんと言うと、“pomme”も“terre”も孰れも女性名詞なのである)。ここでは、その訳の意外的な諧謔性から言えば、単語としての性を無視し、「庭のなか」のように男性とした方が、圧倒的に面白い訳となっていると私は思う。女性では当たり前で、さっと読み過ぎて忘れるが、「おっさん」の台詞ということで、眼が吸い込まれ、永く忘れられないアフォリズムとなる。無論、これも、あくまで訳者の遊びの領域であるのだが。]

 

 

林檎の木(向い側の木に)。――梨、梨、梨、梨、その梨をこさへたいんだ、おれは。

[やぶちゃん注:「バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica 。このアフォリズムは、訳が充分でない。原文は、“Le pommier (à son voisin d’en face). — C’est ta poire, ta poire, ta poire,… c’est ta poire que je voudrais produire.”で、逐語訳すると、「林檎の木(向かいの隣人に)。―― 君の梨だよ、君の梨、君の梨、……僕が育てたいのはね、君の梨なんだ。」である。岸田氏も削ぎ過ぎた訳と思われたのであろう、改版では、『お前さんの梨(なし)さ、その梨、その梨、……お前さんのその梨だよ、わたしがこさえたいのは。』と改訳しておられる。なお、サイト版「ぶどう畑のぶどう作り」では、『〈林檎の木〉が頻りに言う「お前さんの梨」であるが、岩波書店』一九九八『年刊の辻昶譯「博物誌」の「庭にて」の注等によれば、フランス語の梨“poire”には卑俗語として「頭・腦天」「顏・面(つら)」といった意味があって、「梨」に「顏」を掛けているとするようである(實際に辻氏はここの訳で「梨」に「かお」というルビを振っている)。ただ、“poire”には』、『やはり卑俗語として「間拔け・頓馬」の意味もあり、そうした「阿呆面(づら)・馬鹿面」といつた惡意も込められていないとは言えないやうにも思われる。』と注した。これは特に変更する必要はないと思う。]

 

 

樫鳥《かしどり》。――のべつ黑裝束で、見苦しい奴だ、黑つぐみつて。

黑つぐみ。――知事閣下、わたしはこれしか着るものがないのです。

[やぶちゃん注:この対話は「博物誌」では「くろ鶫(つぐみ)!」の項として独立している。〈樫鳥〉“ Le geai. ”が〈黑つぐみ〉“ Le merle. ”のことを「見苦しい奴」と言うのであるが、ここの原文はズバり、“villain merle”で、“villain”は「百姓・平民」という意味から、形容詞化して「卑しい・下賤な」の意となった卑称語であり、“villain merle”は、これで「不愉快な男・醜い男」を意味する。]

 

 

分葱(わけぎ)。――くせえなあ!

韮(にら)。――きつと、また石竹(せきちく)のやつだ。

鵲《かささぎ》。――カカカカカ……。

蟇《ひきがへる》。――何を云つてやがるんだ、あの女は。

鵲。――歌を唱《うた》つてるのよ。

蟇。――クアツク。

[やぶちゃん注:底本では「韮」は「菲」(音「「ヒ」。意味は「薄い・粗末な・つまらない」及び「芳しい・香(かぐわ)しい」)となっているが、誤植と断じ、特異的に訂した。

「分葱(わけぎ)」原文の“ÉCHALOTE”(イシヤラォゥト)でお判りの通り、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属タマネギ変種エシャロット Allium cepa var. aggregatum 。タマネギの一種であることから、知られるニンニク(後出)・リーキ(前出)・チャイブ(別名セイヨウアサツキ(西洋浅葱): Allium schoenoprasum var. schoenoprasum )・ラッキョウ( Allium chinense )などは、総て近縁種である。

「大蒜(にんにく)」同前でネギ属ニンニク Allium sativum 

 

「クアツク」原文“couac”は、「クワック!」という音で、これは通常、鴉の鳴き声を示す擬音語である。また。これには、音樂用語で「調子外れの音」の意味があるので、〈鵲〉の歌への皮肉とも言えるかも知れない。訳文では示し得ないフランス語の深いウィットがあるのである。]

 

 

二羽の鳩。――おいで、ポツポ……おいで、ポツポ……おいで、ポツポ。

[やぶちゃん注:原文は“Les deux pigeons. — Viens mon grrros, viens mon grrros, viens mon grrros…..”である。この訳は、ちょっとうまく出来ているとは、正直、言えない。臨川書店一九九四年刊の『ジュール・ルナール全集』第五巻の佃裕文氏の訳「博物誌」の当該部は、鳩の鳴き声のオノマトペイアに、ルビで仏文の和訳をつけるという、面白い趣向で訳されてある。こうである――

   *

二羽の鳩――ヴィヤンモングルルロ(おいでよ、ねえ、さ、きみ)……ヴィヤンモングルルロ(おいでよ、ねえ、さ、きみ)……ヴィヤンモングルルロ(おいでよ、ねえ、さ、きみ)……

   *

「博物誌」の注で岸田氏自身が記しているやうに、これは、鳩の鳴き聲である“mon grrros”(モン・グルルロ)は、戀人の男に女が呼びかける「モン・クロ」“mon cœur”に掛けているのであるが、この訳では、その感じが、フランス語を知らない読者には、これ、全く理解されない。]

 

土龍《もぐら》。――靜かにしろ、やい、上のやつ。仕事をしているのが聞こえやしねえ。

[やぶちゃん注:標題は“ La taupe. ”で、モグラは女性名詞だが、台詞のキツさから、男の怒号としてやったものであろう。仮にヒステリーの女性のそれとして訳したら、ちょっと地下から響く迫力が伝わらないので、この方が、トレビァンだ。なお、本篇は「博物誌」では、「鵲」(と「蛙」)のシチュエーションの中に、解消的に発展して、取り込まれてしまうのだが、ここでは、舞台が先行する自然景観全体へと広がっており、上の木立の〈鵲〉と直上の〈蟇〉のそれぞれの声、それに対位法的にからまってくる別の木立の〈鳩〉の声を〈土龍〉が受ける構造となり、ポリフォニックな効果的配置となつていると言える。ちなみにこの“MURMURES”の原文では、鵲は“Cacacacaca.....”と鳴き、「博物誌」の鵲は“Cacacacacaca.”と鳴いている。岸田氏の訳の「カ」の数は、それに、それぞれ、ちゃんと律儀に対応しているのである。ただ、〈土龍〉の「仕事をしてゐるのが聞こえやしねえ。」という訳文(岸田訳「博物誌」も、ほぼ同じで「仕事をしているのが聞えやしねえ」である)には、実は、以前から違和感を感じ続けている。土龍自身が自分のしている仕事の中に、耳で聞き取らなければならない重要な何かがあって、それが聞こえないじゃないか! と怒つているという訳文であるが、その土龍が聞き分けねばならぬ「何か」というのが不分明だからである。臨川書店一九九五年刊「ジュール・ルナール全集」の佃裕文氏の訳では、『もう仕事も出來ねえじやないか!』、岩波書店一九九八年刊の辻昶氏の訳では『仕事の打ち合わせができないじゃないか!』と訳してある。前者は、五月蠅いこととの因果関係性が示されていない。後者が自然体で、よい、と私は思う。]

 

 

蜘蛛。――法律の名によつて、封印を貼りつけます。

[やぶちゃん注:ここでは他の台詞と同じく“Au nom de la loi, j'appose mes, scellés.”と一人称直接話法であるが、「博物誌」では、独立項「蜘蛛」の二つ目のアフォリズムとなって、さらに、三人称となって客観表現となり、“Toute la nuit, au nom de la lune, elle appose ses scellés.”「一晚じゅう、月の名によつて、彼女は封印を貼(は)りつけている。」と印象がすっかり変っている。]

 

 

羊。――メエ……メエ……メエ……。

牧犬《ぼくけん》。――然《しか》しも糞《くそ》もない。

[やぶちゃん注:原文は以下。

   *

 Les moutons. — Mée… Mée… Mée…

 Le chien de berger. — Il n’y a pas de mais.

   *

「博物誌」では、独立項「羊」の最後に、添えるように、辛うじてアフォリズムとして配されてあり、「牧犬」の台詞は原文自体が、“Il n'y a pas de mais !”で、エクスクラメンション・マークを用いている(「ぶどう畑のぶどう作り」の翻訳では初版・改版ともに(特に初版)岸田氏は訳に際しては、「?」や「!」を自身の判断で加えることは、まず、していない)。「博物誌」の岸田氏の戦前版では、まず、羊の台詞(鳴き声)を、総てに「しかし」と訳し、それに「(メエ)」のルビを打つ形に変更しており、牧犬の台詞には、「然し」に「(メエ)」のルビを打ち、「然し(メエ)も糞もねえ!」とされておられる。後の岸田氏の改版の「ぶどう畑のぶどう作り」の方では、流石にフランス語を知らない読者には、半可通で、不親切であることが気になられ、羊の台詞の直下にポイント落ちで、『(訳者注。メエは mais に通じ「しかし」の意)』と、岸田氏としては特異的に割注を施しておられ、こちらの方が読者にはベストである。]

 

[やぶちゃん注:底本では、台詞が二行以上に及ぶ場合は頭の一字空けがなされているが、ブラウザでの不具合を考えて行っていない。本作は「博物誌」の「庭のなか」と似るが、ルナールの原文自体が、意味内容の相違を伴う有意な相違が隨所に認められる。それは配置や訳のみではなく、原典自体の有意な改稿としてあるのである。臨川書店一九九五年刊の「ジュール・ルナール全集」第四巻の「葡萄畑の葡萄作り」の末尾には、先の「雄鶏」以降については、『『博物誌』(第5巻所収)にそのまま収録されているので、ここではタイトルだけあげておく。』とし、この「囁き」を所収しないのであるが、途中の注で私が述べたように、これだけ多くの有意な相違点と、カットされたり、別な独立項に組み込まれたりしている以上、これを『そのまま収録』しているとは、逆立ちしても言えないのである。全集としてのテクスト校訂の観点から見ても、私は極めて不適切な行為であると断ずる。担当訳者が異なっていることに拠る意思疎通不全と弁明しても、ルナールを愛する読者は、一人残らず、激しく不満を持つことは、火を見るよりも、明らかだからである。

 なお、臨川書店一九九五年刊「ジュール・ルナール全集」第五巻の「博物誌」の「庭にて」の項の訳者佃裕文氏の注によれば、この初出は、一八九九年二月號の雜誌『ヴォーグ』で、題名は「博物誌、リュシアン・ギトリーに』であり(Lucien Germain Guitry(一八六〇年~一九二五年)は当時のフランス劇壇の名優。ルナールと親交があつたか)、そこではドレフュス事件等の当時の政治狀況を反映した、動植物達の対話で締め括られている、とする。そこでは削除された台詞が、すべて、当該注で、復元されて訳されていて、非常に興味深いのであるが、これは、それを探し出し、訳して下さった、佃氏の翻訳の御苦労考えると、安易な引用は出来ないと感ずるので、控える。興味のある方は、同書三六一~三六二ページを、是非、參照されたい。

 なお、最後に、ちょっと淋しいことを言っておく。私が最も偏愛する芥川龍之介の作品に「動物園」というお洒落なアフォリズム集がある。大正九(一九二〇)年一月及び十月発行の雑誌『サンエス』に分割掲載され、後に第五短篇集『夜來の花』(大正一〇(一九二一)年新潮社刊:中国特派の直前の出版)に所収されたものである。私の電子テクストでは、十六年前、同僚に頼まれて、読書会用に新字新仮名で電子化したものを、正字正仮名でサイト版にして二〇〇六年二月に公開したものがあるので、見られたいが、これは私には、本ルナールの「囁き」、及び、「博物誌」を引き写したかと思われるアフォリズムが満載なのである。この岸田氏の「葡萄畑の葡萄作り」(大正一三(一九二四)年刊)より、少し前の発表であるから、恐らく、龍之介は、多分、「博物誌」の英訳本のそれを読んでいたものと思われる(龍之介は英語が専門でドイツ語も守備範囲であったが、フランス語を読みこなすのは、やや苦手であったと思われる)が、インスパイアと好意的に採るよりも、ルナール好きの私としては、ただ少しばかり龍之介特有の強いシニカルは感じられるものの、ルナールの作品の亜流にしか見えないのである。そもそも、この時期、芥川龍之介は、短い生涯の中で停滞期にあったことは、専門家がはっきりと認めていることであり、ルナールのそれを、大いに参考にして、手っ取り早く、悪く言えば、お手軽に書いた作品という印象を与える作品なのである。吉田精一も『ルナアルほどの鋭さがない』(「芥川龍之介」昭和一七(一九四二)三省堂刊)と言っている。芥川龍之介自身、大正八(一九一九)年十一月十八日附佐々木茂索宛書簡で、『SSSへ小品動物園を送つた輕薄浮薄なのにつき君の如き博雅の君子はなる可く見ないやうにしてくれ給へ但し原稿料はなる可くよくしてくれるやうに斡旋してくれ給へ、尤もちよいとうまい所もある』と書いている。この言い方は、完全なオリジナルな発想ではないことを暴露したものと私は感じるのである。だから、残念なのである。未読の方は、是非、読まれたい。

2024/09/13

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 溲疏

 

Tyousenkuko

 

ちやうせんくこ 俗云朝鮮枸𣏌

 

溲疏

     本草李當之以溲

     疏楊櫨爲一物故

     和名亦訛爲一物

 

本綱曰溲疏樹形似楊櫨樹高𠀋許皮白中空時時有節其

子八九月熟赤色似拘𣏌子必兩兩相對樹有剌

△按朝鮮枸𣏌枝葉花皆似枸𣏌而子亦如枸𣏌畧大八

 九月熟赤色樹有刺而中空山中則髙𠀋許者亦有

 

   *

 

ちやうせんくこ 俗、云ふ、「朝鮮枸𣏌」。

 

溲疏

     「本草」に、李當之《りたうし》、

     「溲疏《そうそ》」・「楊櫨《やうろ》」

     を以つて、一物《いちもつ》と爲す。

     故《ゆゑに》、和名にも亦、訛《あや

     まり》て、一物と爲す。

[やぶちゃん注:東洋文庫訳では「楊櫨」に対して『うつぎ』とルビを振っているが、私は従えない。「本草綱目」から引用である以上、ここでは、同一種を指すかどうか分からないうちは、用心して、音で読むべきと考えるからである。]

 

「本綱」に曰はく、『溲疏樹《そそうじゆ》は、形、「楊櫨《やうろ》」に似て、樹の高さ、𠀋許《ばかり》。皮、白≪く≫、中空《ちゆうくう》にして、時時《ときどき》、節《ふし》、有り。其の子《み》、八、九月に熟す。赤色≪にして≫、「拘𣏌《くこ》」の子に似て、必≪ず≫、兩兩《ふたつながら》、相對《あひたい》す。樹に、剌《とげ》、有り。』≪と≫。

△按ずるに、朝鮮枸𣏌は、枝・葉・花、皆、「枸𣏌」に似て、子(み)も亦、枸𣏌のごとく、畧《ちと》、大≪きく≫、八、九月、熟して、赤色≪たり≫。樹に、刺、有りて、中空《ちゆうくう》なり。山中には、則ち、髙さ、𠀋許《ばかり》の者も、亦、有り。

 

[やぶちゃん注:自力考証しようとしたが、以上の複数の漢字で中文サイトを調べても、見当たらないばかりでなく、項目標題の「溲疏」で調べると、悉く、

双子葉植物綱バラ亜綱バラ目アジサイ科ウツギ属 Deutzia の多数の種

が、わらわらと、ぞくぞく、出て来るばかりである。されば、出来れば使いたくないないのだが、初版原本を牧野富太郎が植物部を校定し、後に『新註校定国訳本草綱目』第九冊(鈴木真海訳(初版をスライドさせたもの)・白井光太郎(旧版監修・校注)/新註版:木村康一監修・北村四郎(植物部校定)・一九七五年春陽堂書店刊)の当該部を見るしかなかった何で使いたくないかって? 私は、牧野富太郎が大嫌いだからである。彼は南方熊楠が高く評価されるのを、「彼は正式な論文を書いていない」として、相手にしなかったからである。牧野は、熊楠が、ずっと以前から、海外で、英語で、驚異的なグローバルな論文群を、既に、多数、発表していることを全く知らなかっただけの話に過ぎなかったのである国立国会図書館デジタルコレクションのここで当該部を視認出来る。しかし、そこでは、本文の標題「溲疏」の項目下方に、旧版で牧野が同定比定したものを、そのままに以下のようにして、北村は補注もしていない(学名が斜体でないのはママ)。

   *

 和 名 未  詳

 學 名 未  詳

 科 名 未  詳

   *

である。

 しかし、良安は附言で、明らかに時珍の言う「朝鮮枸𣏌」=「朝鮮枸杞」という、「枸杞」とは異なる外見上、似ているが、別な「クコ」の別種、或いは、「クコ」の変種・品種が日本に存在するように明記しているのである。

 然るに、例えば、名にし負う「朝鮮枸杞」の名から、韓国語の「クコ」相当のページを見たが、クコ Lycium chinense 以外の狭義の「クコ」でない種、変種・品種の記載は、一切、記載がなかった。また、「維基百科」の「枸杞屬」には、前種クコ以外に十種が挙がっているが、各個の内、独立ページがあるものの六種には、朝鮮半島を分布とする記載は認められなかった。最後に、英文のクコ属相当のページには、全世界の百一種もの種がリストされているが、同様に、独立ページがあるものを総て確認したが、前種クコ以外に、中国・朝鮮半島・日本に分布する種はなかった。これ以上、私には、やりようがない。

 而して、「本草綱目」の「朝鮮枸杞」も、良安の言う本邦の「朝鮮枸杞」も、私は、単に、

双子葉植物綱ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense の見かけ上の変異個体、或いは、病的に変形した病的個体(群)

であると、私は断定するものである。因みに、東洋文庫も一切だんまりで、割注も何も、ない。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「溲疏」([088-57a]以下)が独立項である。以下に全文を掲げる(不審があったので、影印本で一部を補正した下線は、私が、次の注のために附した)。

   *

溲疏【本經下品】

 釋名巨骨【别錄】

 集解【别錄曰溲疏生熊耳川谷及田野故坵墟地四月采當之曰溲疏一名楊櫨一名牡荆一名空疏皮白中空時時有節子似枸杞子冬月熟赤色味甘苦末代乃無識者此非人籬援之楊櫨也恭曰溲疏形似空疏樹高丈許白皮其子八九月熟赤色似枸杞必兩兩相對味苦與空疏不同空疏即楊櫨其子為莢不似溲疏志曰溲疏枸杞雖則相似然溲疏有刺枸杞無刺以此為别頌曰溲疏亦有巨骨之名如枸杞之名地骨當亦相類方書鮮用宜細辨之機曰按李當之但言溲疏子似枸杞子不曽言樹相似馬志因其子相似遂謂樹亦相似以有刺無刺為别蘇頌又因巨骨地骨之名疑其相類殊不知枸杞未嘗無刺但小則刺多大則刺少耳本草中異物同名甚多況一骨字之同耶以此為言尤見穿鑿時珍曰汪機所斷似矣而自亦不能的指為何物也】

 氣味辛寒無毒【别錄曰苦微寒之才曰漏蘆為之使】主治皮膚中熱除

 邪氣止遺溺利水道【本經】除胃中熱下氣可作浴湯【别錄】【時珍曰按孫真人千金方治婦人下焦三十六疾承澤丸中用之】

   *

先に示した『新註校定国訳本草綱目』第九冊の当該部はここの冒頭。但し、その前に、「枸杞地骨皮」の「集解」の中に、以下の記載がある(同前。[088-50b]の六~七行目)。

   *

馬志注溲疏條云溲疏有刺枸杞無刺以此為别溲疏亦有巨骨之名如枸杞之名地骨當亦相類用之宜辨或云溲疏以高大者為别是不然也今枸杞極有高大者入藥尤神妙

   *

同じく『新註校定国訳本草綱目』第九冊の当該部はここ(左ページ後ろから五行以降)

『「本草」に、李當之《りたうし》、「溲疏《そうそ》」・「楊櫨《やうろ》」を以つて、一物《いちもつ》と爲す』これは、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の、さらに後の「牡荆」([088-59b]以下)の「集解」の途中([088-60a]の六行目の途中から)に出現する(同前)。

   *

李當之藥錄言溲疏一名楊櫨一名牡荆理白中虚斷植即生按今溲疏主療與牡荆都不同形類乖異而仙方用牡

   *

同じく『新註校定国訳本草綱目』第九冊の当該部はここ(右ページ七行以降)

「李當之」中文の「Baidu 百科」によれば、三国時代の知られた医師で、著名な名医華佗の弟子。古典について殆んど知識がなかったが、神農の古い古書を研究し、特に医学に熱心であった、とある。

「楊櫨」同じく『新註校定国訳本草綱目』第九冊の当該部はここからだが、ご覧の通り、和名・学名・科名は総て『未詳』である。遂に、全く不詳の植物が出現したのである。

2024/09/12

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 象

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      

 

 それは、若いダニエルが象の見まはりをする時刻である。

 いつもの見物が彼を待つてゐた――勞働者、兵卒、娘、放浪者、それから外國人。

 「さ、好い顏をして見ろ」ダニエルは、指を擧げて云ふ。

 象は、一度ではうまく行かなかつた。重くるしいからだを、やつと起したかと思ふと、前に倒《たふ》れる。そして鼻を鳴らす。

 「もつと上手に」ダニエルは突慳貪《つつけんどん》に云ふ。すると、象は檻《をり》よりも高く立ち上る。そして恐ろしい、どえらい、太古時代の唸(うな)りを發する。あたりの空氣は水晶のやうにひゞり[やぶちゃん注:「罅(ひび)」に同じ。]がはひる[やぶちゃん注:ママ。]。

 「さうだ」ダニエルが云ふ。

 象はもう四本の脚《あし》で立つてもいゝのである。鼻を眞直ぐに擧げて、口を開《あ》けてもいゝのである。ダニエルは、その中に、遠くから麵麭《パン》のかけらを投げ入れる。狙ひがうまいと、麵麭のへた[やぶちゃん注:「端っこ」の意と採れるが、如何なる辞書にも載らない、一般的でない言い方である。]が、黑い、爛《ただ》れた口の奧で音を立てる。つぎに、手のひらへのせて、一つ一つ野菜の切屑《きりくず》を與へる。ざらざらした、しかし銳敏なその鼻が栅の間を行つたり來たりする。そして、丁度、象が、その中で息を吐いたり吸つたりしてゐるやうに、曲つたり伸びたりする。

 糸で引つ張つてあるやうな薄い耳が、滿足げに飜《ひるがへ》る。然し、小さな眼は、相變らずどんよりしてゐる。

 最後にダニエルは、紙で包んだ美味(うま)いものを口の中へ投げ込む。その紙包みは、納屋の拔穴《ぬけあな》を猫が通るやうにはひつて[やぶちゃん注:ママ。]行く。

 

 象はたつたひとりになると、家の留守番をしてゐる村の老いぼれ爺《じじい》のやうなものである。彼は戶の前で、からだを曲げ、ぼんやり鼻をぶらさげて、靴を引《ひき》ずつてゐる。

 上の方へ穿《は》きすぎた股引《ももひき》の中に殆どからだが隱れ、そして、その股引から、紐のはしがだらりと垂れてゐる。

 

[やぶちやん注:本篇は、後の「博物誌」には、ない。臨川書店一九九五年刊の「ジュール・ルナール全集」第四巻の「葡萄畑の葡萄作り」の末尾には、先の「雄鷄」以降については『『博物誌』(第5巻所収)にそのまま収録されているので、ここではタイトルだけあげておく。』とし、掲げたタイトルの中には「象」も含まれている。しかし、該当第五巻の『博物誌』にも、その注にも、また第五巻の解説にも「象」が載っていないことへの注記が、どこにも、ない。摩訶不思議と言わざるを得ない。ともかくも、ルナールが削除したことは間違いない。これは叙述から、彼の動物の芸に対する憐憫の思いから書かれたものであることは明白であり、その動物虐待への「ノン!」の主張表明であるが、それへの嫌悪が、ルナールの中で、後、より深刻にイメージされてしまった結果、削除されたものと私は思う。私は幼少期から、動物園や水族館の芸を見る都度、面白いと思いながら、同時に、終わった後、ある種のやるせないペーソスを感じるのを常としてきた。だから、大人になってからは、自分から見ることはなかった(最後に自律的に見たのは、二十三の時だった。短期間の興行であったことから、殆んどの人は知らない、江ノ島水族館でのラッコの芸だった。鎌倉に訊ねてきた私を愛した高校時代の後輩の女性に見せるためだった。その後は、教員最後の高校の遠足の引率で金沢八景シーパラダイスで見たイルカ・ショーが事実上の最後だ。嘗つての教え子の一人が飼育員だったから、敢えて見た)。特に象は幼稚園の時、サーカスで見たのだが、芸をしながら、糞をボロボロと零しているのを見て、幼な心に、強く、悲惨に感じたのを忘れない。

原文を掲げておく。

   *

 

       L’ÉLÉPHANT

 

   C’est l’heure où le jeune Daniel fait sa visite à l’éléphant.

   Son public ordinaire l’attend : l’ouvrier, le soldat, la fille, le vagabond et l’étranger.

   Fais le beau, dit Daniel, un doigt levé.

   L’éléphant ne réussit pas du premier coup. Il se dresse à peine, pesamment, retombe et grogne.

   Mieux que ça, dit Daniel d’un ton sec.

   Il se dresse alors plus haut que la grille, et terrible, énorme, antédiluvien, il pousse un barrit dont l’air est fêlé comme du cristal.

   Bien ! dit Daniel.

   L’éléphant peut se remettre à quatre pattes et, la trompe droite, ouvrir la bouche. Daniel y jette, de loin, des morceaux de pain et, quand il vise avec adresse, la croûte sonne au fond du palais noir et gâté. Puis il offre, au creux de sa main, une à une, des épluchures. La trompe rugueuse et délicate va et vient entre les barreaux, se ferme et se déroule comme si l’éléphant aspirait et soufflait dedans.

   Les oreilles minces, tirées par quelque ficelle, planent de satisfaction, mais le petit œil reste morne.

   Pour finir, Daniel jette à la bouche le papier qui enveloppait les bonne choses et qui passe comme un chat par une chatière de grange.

 

   L’éléphant seul n’est plus maintenant qu’un pauvre vieux de village qui garde la maison. Il traîne ses chaussons devant la porte, courbé, tête vide, nez bas. Il disparaît presque dans sa culotte trop remontée et, derrière, un bout de corde pend.

   *

「さ、好い顏をして見ろ」原文は“Fais le beau”で、「見栄えを、良くしなよ!」という意である。後の岸田氏の改版では、「さ、ちんちんだ」で、直後に続く動作から、言い得て妙である。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 岩佐村三亟竒事

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。占卜で前話と連関する。]

 

      岩佐村三亟(さんきよく)竒(きなる)事

 岩佐に、三亟と云(いふ)召仕(めしつかひ)の者、風與(ふと)[やぶちゃん注:副詞の「ふと」。「不圖」とも当字する。]、行方(ゆくへ)、不知(しれざり)しかば、每日、鉦・太鼓にて尋(たづね)しに、九日振(ここのかぶり)に、大釜(おほがま)の後(うしろ)へ來りしを見付(みつけ)て捕へ、色々、介補(かいほ)して、正氣に成(なり)ける。

 前は、一文不通(いちぶんふつう)の者成(なり)しが、戾りて後(のち)は、文字を覺へ[やぶちゃん注:ママ。]、「小學」抔(など)をも、よみ、或(あるい)は、卜(うらなひ)をしけるに、見通しに合(あは)せける。

 平常、山中にて行掛(ゆきがか)りに伏(ふし)けるに、山犬抔、近付(ちかづく)事、なし。

「『四方(しはう)からめ』といふ事を習(ならひ)たる。」

由。

 人々、不審を、し、

「誰(たれ)に習(ならひ)たるや。」

と尋(たづね)ければ、

「形を見る事、なし。松の枝の上に居(ゐ)て、障子のやうに覺へたるが、一重(ひとへ)を隔(へだて)て、物(もの)、習ひし。讀物(よみもの)抔(など)、致しぬ。食物(くひもの)は、『しきみ』の葉に包み、白き團子(だんご)の樣(やう)なるものを、一日に、三つ宛(づつ)被下給(くだされたま)へ[やぶちゃん注:ママ。]たる。」

と言(いひ)し、とかや。

 

[やぶちゃん注:「岩佐村」現在の安芸郡北川村安倉(あぐら:グーグル・マップ・データ航空写真)。以前の話に出た野根山街道の中の全き山間地である。但し、藩政時代には番所が置かれた。

「三亟」この名が、ちょっとハマり過ぎで、話しとしては、眉唾の類いを疑わせる。「三極」で、これは、とんでもない名前で、元来、宇宙の万物を意味する「天・地・人」=「三才」の意だからである。この事件以降に、かく綽名で呼ばれたというなら、まだ、納得出来なくはないが、凡そ山間の庄屋等の雇人が名乗る名前では、到底、あり得ないからである。

「風與(ふと)[やぶちゃん注:副詞の「ふと」。「不圖」とも当字する。]、行方(ゆくへ)、不知(しれざり)しかば、每日、鉦・太鼓にて尋(たづね)しに」近世以前の民俗社会で、ごく普通に行われた、共同体(村落・町屋)の中から行方不明になった者を捜索する極めてオーソドックスなやり方である。市街地でも行われた。鉦・太鼓は基原としては邪気を払うことがルーツであるが、共同体辺縁外延にも失踪事実が効果的に伝わり、実利性が認められる捜索方法である。

「大釜(おほがま)の後(うしろ)へ來りし」不詳だが、山間部の大きな岩の後ろ、或いは、扇状・羽状に山肌が抉られている地形の奥、といった地域呼称の地名と思われる。「ひなたGPS」の戦前の安倉の周縁を見ると、二ヶ所ほど、ピークから崩れたような有意に大きな崖狀地名が視認出来る。

「介補(かいほ)」介抱。

「一文不通(いちぶんふつう)」文盲。

「小學」宋の朱熹の門人であった劉子澄(しちょう)が編纂した初学者用漢文教科書。全六巻。一一八七年(鎌倉幕府成立直後の文治三年相当)成立。日常の礼儀作法・格言・善行などを古今の書から集めたもの。江戸時代に用いられた。

「見通しに合(あは)せける」占った予言が、後の事実等と合致した。

「四方(しはう)からめ」「四方搦め」で、一種の結界、目には見えない防御シールドを巡らして、害獣害虫及び邪気をシャット・ダウンする法であろう。

「『しきみ』の葉」双子葉植物綱アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum の葉。シキミは、仏事に於いて抹香・線香として利用されることで知られ、そのためか、別名も多く、「マッコウ」「マッコウギ」「マッコウノキ」「コウノキ」「コウシバ」「コウノハナ」「シキビ」「ハナノキ」「ハナシバ」「ハカバナ」「ブツゼンソウ」などがある。最後の「カウサカキ」は「香榊」で、ウィキの「サカキ」によれば、上代にはサカキ(ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica )・ヒサカキ・シキミ・アセビ・ツバキなどの『神仏に捧げる常緑樹の枝葉の総称が「サカキ」であったが、平安時代以降になると「サカキ」が特定の植物を指すようになり、本種が標準和名のサカキの名を獲得した』とある。サカキは神事に欠かせない供え物であるが、一見すると、シキミに似て見える。名古屋の義父が亡くなった時、葬儀(臨済宗)に参列した連れ合いの従兄が、供えられた葉を見て、「これはシキミでなく、サカキである。」と注意して、葬儀業者に変えさせたのには、感銘した。因みに、シキミは全植物体に強い毒性があり、中でも種子には強い神経毒を有するアニサチン(anisatin)が多く含まれ、誤食すると死亡する可能性もある。シキミの実は植物類では、唯一、「毒物及び劇物取締法」により、「劇物」に指定されていることも言い添えておく。

「白き團子(だんご)の樣(やう)なるものを、一日に、三つ宛(づつ)被下給(くだされたま)へたる。」これは所謂、「神隠し」様の失踪をし、後に帰還し、自ら「天狗に引かれて修行を受けた」と語る、数多ある、天狗やら神仙に攫われた話しの一つである。最も知られるのは、平田篤胤の代表的神道書の一つとして知られる「仙境異聞」(全二巻・文政五(一八二二)年刊)で、七歳の時、寛永寺の境内で出逢った神仙杉山僧正に誘われて天狗(幽冥)界を訪れ、彼らから呪術を身につけたという少年寅吉(下谷池の端で夜駕籠渡世をする庄吉の弟。後にそちらで高山白石平馬の名を授かる)からの聞書きをまとめたものである。別名「仙童寅吉物語」とも言う。私は若い時から、複数の版本で読んできたが、妄想作話型ではなく、意識的詐欺がパラノイアに高じたものとして、現在は全く評価しない。篤胤は彼を最初に保護していた雑学者山崎美成(よししげ)から強引に引き連れ、数年住まわせて聴き取りを行っている。ファナティクな篤胤は仕方がないにしても、馬琴を怒らせて絶交されてしまう若造ブイブイ高慢の美成がマンマと騙されているのは、痛快ではある。柳田の言うように、寅吉の語る一見整然とした異界の体系は閉鎖系自己完結型であり、検証のしようが一ヶ所もない点で(疑問や不審を問うと寅吉は決まって不機嫌になり、黙ってしまうのであった)、お話にならないのである。そうした類話を民俗学的に紹介した、私の『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 天狗の話』を見られたいが、柳田國男は明治の科学的ゴースト・バスター井上圓了を嫌っており、分析がフォークロア擁護に偏向していて、今一、好きになれない。寧ろ、個人的には、柴田宵曲が、淡々と怪奇談を紹介した「妖異博物館」の中の「天狗の誘拐」の「(1)」「(2)」「(3)」がお薦めである。それ以外にも、私のブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅰ」や、同「怪奇談集Ⅱ」にもワンサカあるが、ある程度読むと、ステロタイプに飽きてくるので、紹介はこれに留める。]

2024/09/11

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 蟻と鷓鴣

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。標題は「ありとしやこ」。]

 

      蟻 と 鷓 鴣

 

 一匹の蟻が、雨上りの轍(わだち)の中に落ち込んで、溺れやう[やぶちゃん注:ママ。]としてゐた。その時、一羽の鷓鴣の子が、丁度水を飮んでゐたが、それを見ると、嘴《くちばし》で拾ひ上げ、命を助けた。

 「此の御恩はきつと返します」と蟻が云つた。

 「わたし達はもうラ・フオンテエヌの時代にゐるのではありません」と懷疑主義者の鷓鴣が云ふ「勿論あなたが恩知らずだと云ふのではありません。が、わたしを擊ち殺さうとしてゐる獵師の踵《かかと》に、あなたはどうして食い附くことができます。今時の獵師は素足で步きませんよ」

 蟻は、餘計な議論はしなかつた。そして、急いで、仲間の群《むれ》に加はつた。仲間は、一列に並べた黑い眞珠のやうに、同じ道をぞろぞろ步いてゐた。

 處が、獵師は遠くに居なかつた。一本の樹の蔭に、橫向きになつて寢てゐた。彼は、件《くだん》の鷓鴣が、刈つた秣《まぐさ》の間で、ちよこちよこ、餌を拾つてゐるのを見つけた。彼は立ち上つて、擊たうとした。すると、右の腕がむずむずする。鐵砲を構え[やぶちゃん注:ママ。]ることができない。腕が、ぐつたり垂れる。鷓鴣は獵師が取り直すのを待つてゐない。

 

[やぶちゃん注:「鷓鴣」まず、和名「シャコ」は、狭義には、キジ科キジ亜科Phasianidaeシャコ属Francolinusに属する鳥を言い(本属は本邦には棲息しない)、広義には、キジ科の中のウズラ( Coturnix 属)よりも大きく、キジ( Phasianus 属)よりも小さい鳥類をも言う。但し、原作では“perdreau”(ペルドロー)とあり、これは一般的に、フランスの鳥料理で、キジ亜科ヤマウズラ Perdix (本属も本邦には棲息しない)、及び、その類似種の雛を指す語である(親鳥の場合は「ペルドリ」“perdrix”)。食材としては“grise”(グリース。「灰色」という意味)と呼ぶヤマウズラ属ヨーロツパヤマウズラ Perdix perdix と、“rouge”(ルージュ。「赤」)と呼ぶアカアシイワシャコ Alectoris rufa (同属もキジ亜科)が挙げられ、特にフランス料理のジビエ料理でマガモと並んで知られる後者が、上物として扱われることが、昨年の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蟻」』の注の再検討の最中に新たに知り得たので、特にお知らせしておく。

「ラ・フオンテエヌ」十七世紀のフランスの詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ(Jean de la Fontaine 一六二一年~一六九五年)。「イソップ寓話」を元にした「寓話詩」( Fables :一六六八年刊)で知られる(有名なものに「北風と太陽」「金のタマゴを産む牝鶏」などがある)。辻昶訳一九九八年岩波文庫刊「博物誌」では、注があり、その『『寓話詩』のなかに、おぼれかかったありを救ったはとを、ありがあとですくって恩返しをする話がある(二の一二)』とある。

 なお、この話は、“ Histoires Naturelles ”(初版は一八九四年)の一九〇四年版で採録されたものの、一九〇九年版では削除されている(一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」の後注に拠った)。ルナールは、あまりに寓話臭さが強過ぎるので、後年、気に入らなくなってしまったものかも知れない。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 枸𣏌

 

Kuko

 

くこ    地骨 拘棘 苦𣏌

      天精 甜菜 地仙

枸𣏌  枸檵 西王母杖

      仙人杖  羊乳

      却老【和名沼美久須里

ケ゚ウ キイ     俗云久古】

[やぶちゃん字注:「𣏌」は「杞」の異体字。以下同じ。]

 

本綱拘杞春生苗其莖幹高四五尺作叢此物小則刺多

大則刺少大者高𠀋餘其葉如石榴葉軟薄堪食六七月

生小紅紫花隨結紅實形微長如棗核【陝西及甘州之產爲上】甘州

者子圓如櫻桃暴乾緊小少核乾亦紅潤甘美如葡萄可

作果食異于他處者搾油㸃燈明目

苗葉【苦甘凉】 除煩益志補五勞七傷去皮膚骨節閒風消

 熱毒散瘡腫作飮代茶

枸𣏌子【甘】 堅筋骨耐老除風去虛勞補精氣治心病心

 痛腎病消中滋腎潤肺

 四神丸【治腎經虛損眼病昏花或雲瞖遮睛】枸𣏌子一斤【好酒潤透】分作四分

 四兩【用蜀椒一兩炒】四兩【用脂麻一兩】四兩【用小茴香一兩炒】四兩【用川棟肉一兩

[やぶちゃん字注:「棟」は「楝」の誤刻。訓読では訂した。]

 炒】㨂出枸𣏌加熟地黃白术白茯苓【各一兩爲末】煉𮔉丸服用

[やぶちゃん字注:[やぶちゃん字注:「𮔉」は「蜜」の異体字。「术」は「朮」の異体字だが、紛らわしいので、訓読では正字の「朮」に代えた。「煉」は「グリフウィキ」のこれだが((つくり)が「東」)、表示出来ないので、「煉」とした(後も同じ)。以上の通り、本項では、(つくり)が「柬」であるべき異なった漢字が、悉く、「東」となっていることから、これは良安の誤りではなく、版の彫師が勝手にそうしてしまった可能性が大である。先行するものの多くはちゃんと「柬」となっているからである。


 ぢこつひ

地骨皮  枸𣏌根皮也

        【似物形狀者爲上】

氣味【廿淡寒】 入足少陰手少陽經解有汗骨蒸肌熱瀉腎

[やぶちゃん注:「蒸」は底本では、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、「蒸」で示した。]

 火降肺中伏火退熱補正氣治吐血療金瘡凡下焦肝

 腎虛熱者宜之

【世人伹知用黃岑黃連若寒以治上焦之火黃蘗知母苦寒以治下焦陰火謂之補陰降火久服致傷元氣而不知枸𣏌地骨皮甘寒平補使精氣𭀚而邪火自退之妙惜哉】

[やぶちゃん字注:「若」は「若い」のそれではなく、「苦」の異体字である。紛らわしいので、訓読文では、「苦」に代えた。「𭀚」は「充」の異体字。]

地仙丹 春采拘𣏌葉【名天精草】夏采花【名長生草】秋采子【名拘杞子】冬

 采根【名地骨皮】並陰乾酒浸【一夜】晒露【四十九晝夜】待乾爲末煉

 𮔉凡如彈丸大毎朝晚各用一丸細嚼以百沸湯下之

[やぶちゃん字注:「𮔉」は「蜜」の異体字。]

【伹無刺味甜者宜用有刺者服之無益】能除邪熱明目輕身一老人服之

 壽百余行走如飛髮反黒齒更生陽事强徤

[やぶちゃん字注:「徤」「健」の異体字。]

△按枸𣏌【苟起二音俗云久古】地骨皮豫州今治之產良阿州次之

蔓拘𣏌 似蔓而枝靱垂如倭連翹樣其子多而大美

 

   *

 

くこ    地骨《ぢこつ》 拘棘《くきよく》

      苦𣏌《くき》  天精

      甜菜《てんさい》 地仙《ちせん》

枸𣏌  枸檵《くけい》 西王母杖《さいわうぼぢやう》

      仙人杖  羊乳《やうにゆう》

      却老《きやくらう》

      【和名、「沼美久須里《ぬみくすり》」、

ケ゚ウ キイ     俗、云ふ、「久古《くこ》」。】

[やぶちゃん字注:「𣏌」は「杞」の異体字。以下同じ。]

 

「本綱」に曰はく、『拘𣏌、春、苗《なへ》を生《しやうず》。其の莖・幹、高さ、四、五尺、叢《むらがり》を作《なす》。此の物、小きは、則ち、刺《とげ》、多く、大なる時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、刺、少し。大≪なる≫者、高さ𠀋餘。其の葉、石榴《ざくろ》の葉のごとく、軟≪かにして≫薄《うすく》して、食ふに堪へたり。六、七月、小≪さき≫紅紫≪の≫花を生じ、隨《したがひ》て、紅《あかき》實を結ぶ。形、微《やや》長くして、棗《なつめ》の核《たね》のごとし【陝西《せんせい》、及び、甘州《かんしう》[やぶちゃん注:現在の甘粛省。]の產、上と爲《な》す。】。甘州の者は、子《み》、圓《まろ》く、「櫻桃(ゆすら)」のごとし。暴乾《さらしほ》≪せば≫、緊《しまりて》、小《ちいさく》≪なれり≫。核《たね》、少《すくなく》、乾《かはき》ても、亦、紅《くれなゐ》≪にして≫、潤《うるほひ》、甘美≪にして≫、葡萄のごとし。果《くだもの》と作《な》して食《くふ》。他處《よそ》の者に異《こと》な≪れ≫り。油を搾(しぼ)り、燈《ともしび》を㸃《ともし》、目を明《あきらか》にす。』≪と≫。

『苗葉《なへば》【苦甘、凉。】 煩《わづらひ》を除き、志《こころざし》を益し、五勞七傷を補《おぎな》ふ。皮膚・骨節の閒《かん》の風《ふう》を去り、熱毒を消し、瘡腫《さうしゆ》を散じ、飮《のみもの》と作《なして》、茶に代《か》ふ。』≪と≫。

『枸𣏌子《くこし》【甘。】』『筋骨を堅《かたく》し、老《おい》≪に≫耐《たえ》、風《かぜ》を除き、虛勞を去り、精氣を補し、心病・心痛・腎病≪の≫消中《しやうちゆう》を治す。腎を滋《やしなひ》、肺を潤《うるほ》す』≪と≫。

『「四神丸《ししんぐわん》」【腎經《じんけい》の虛損・眼病≪の≫昏花《こんくわ》、或いは、雲-瞖《かすみめ》≪して≫、睛《ひとみ》の遮《さへぎ》≪られし≫を治す。】。「枸𣏌子」一斤[やぶちゃん注:五百九十六・九二グラム。一斤は十六両(一両は三・六三グラム)相当。]【好き酒に潤透《よくひたす》。】≪を≫分《わけ》て、四分《しぶん》と作《な》し、四兩【「蜀椒《しよくしやう》」一兩を用ひて、炒る。】、四兩【「脂麻《しま》」を用ふること、一兩。】、四兩【「小茴香《しやうういきやう》」一兩を用ひて、炒る。】、四兩【「川楝《あふち》」の肉、一兩を用ひて、炒る。】。≪而して、≫枸𣏌を㨂出《えらびいだし》、加「熟地黃《じゆくぢわう》」・「白朮《びやくじゆつ》」・「白茯苓《びやくぶくりやう》」【各、一兩、末《まつ》と爲《な》す。】≪を≫、𮔉(みつ)[やぶちゃん注:砂糖を溶かしたもの。]に煉《ね》りて、丸《ぐわん》≪に≫して、服す。


 ぢこつひ

地骨皮  枸𣏌の根の皮なり。[やぶちゃん注:これは良安の添え書き。]

       『【物の形狀に似たる者、上と爲す。】』≪と≫。

『氣味【廿、淡寒。】』『足の少陰≪經≫・手の少陽經に入り、有汗《ゆうかん》≪の≫骨蒸《こつじよう》の肌熱《ひねつ》を解《かい》し、腎火《じんくわ》を瀉《しや》し、肺中《はいちゆう》の伏火《ふくくわ》を降《くだ》し、熱を退《しりぞ》き《✕→け》、正氣《しやうき》を補し、吐血を治し、金瘡《かなさう》を療ず。凡(すべ)て、下焦《げしやう》・肝腎の虛熱の者、之れ、宜《よろ》し。』≪と≫。

【世人《せじん》、伹《ただ》、「黃岑《わうごん》」・「黃連《わうれん》」の苦寒を用ひて、以つて、上焦の火《くわ》を治して、「黃蘗《わうばく》」・「知母《ちも》」の苦寒を以つて、下焦の陰火を治す。之れを、「補陰降火」と謂ひて、久しく服せば、元氣を傷《きず》つくることを致《いたす》≪といふ事となるは≫、知《し》んぬ。而≪れども≫、枸𣏌・地骨皮は、甘寒平補にして、精氣をして、𭀚《み》たし、邪火、自《おのづか》ら、退《しりぞ》くの妙≪あるを≫、知らず。惜しいかな。】[やぶちゃん字注:「𭀚」は「充」の異体字。なお、以上の割注は「本草綱目」にはなく、引用ではなくて、良安の薬方に附いての注意喚起を期した補正注記である。

『地仙丹《ぢせんたん》』『春、拘𣏌の葉【「天精草《てんせいさう》」と名づく。】を采り、夏、花【「長生草《ちやうさせいさう》」と名づく。】を采り、秋、子《み》【「拘杞子《くこし》」と名づく。】を采り、冬、根【「地骨皮」と名づく。】を采る。並《いづれも》、陰乾《かげぼし》にして、酒に浸すこと【一夜。】、露《つゆ》≪に≫晒《さら》[やぶちゃん注:返り点はないが、かく読んだ。]すこと【四十九、晝夜。】、乾くを待ちて、末《まつ》と爲し、煉𮔉《ねりみつ》[やぶちゃん注:練り飴。]にて、凡そ、彈丸の大いさのごとく≪に成し≫、毎《まい》朝晚(あさばん)、各《かく》、一丸を用≪ふ≫。細《こまか》に嚼《か》み、「百沸湯《ひやくたうゆ》」[やぶちゃん注:何度も沸騰させた湯。]を以つて、之れを下《のみくだす》【伹《ただし》、刺《とげ》、無く、味、甜《あま》き者、宜しく用ふべし。刺、有る者、之れを服すも、益、無し。】。能く、邪熱を除き、目を明《あきらか》にし、身を輕くす。一老人、之れを服して、壽《よはひ》百余≪に至り≫、行≪き≫走≪ること≫、飛ぶがごとく、髮、黒に反《かへ》り、齒、更に生(は)へ、陽事[やぶちゃん注:精力。]、强徤なり。』≪と≫。

[やぶちゃん字注:「徤」「健」の異体字。]

△按ずるに、拘𣏌【「苟《ク》」・「起《キ》」の二音。俗に云ふ、「久古」。】・地骨皮、豫州[やぶちゃん注:「伊予國」。]今治の產、良し。阿州[やぶちゃん注:「阿波國」。]、之れに次ぐ。

蔓枸𣏌(つるくこ) 蔓《つる》に似て、枝、靱(しな)へ、垂れて、倭《わ》の連翹《れんぎやう》の樣《さま》のごとし。其の子《み》、多くして、大きく、美なり。

 

[やぶちゃん注:「枸𣏌」=「枸杞」は日中ともに、

双子葉植物綱ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense

である(「維基百科」の「枸杞」も確認した)。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『東アジア原産のナス科クコ属の落葉低木。荒れ地などに見られ、夏から秋にかけて薄紫色の花を咲かせて、秋に赤い果実をつける。有用植物で、食用や薬用に利用される。北アメリカなどにも移入され、分布を広げている。別名、ウルフベリー』(wolfberry)・『ゴジベリー』(goji berry)。『中国植物名は枸杞(拼音: gǒuqǐ)』。『和名クコは、漢名に由来する。漢名(中国名)で「枸杞」と書き、中国の古書に「枸橘(カラタチ)』(日中同一。双子葉類植物綱ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Citrus trifoliata )『のようなとげがあり、杞柳(コリヤナギ)のように枝がしなやかに伸びるので、枸杞と名付けられた」との記述がある』。『日本の地方により、アマトウガラシ、オニクコ、カラスナンバン、カワラホウズキ、キホウズキ、シコウメ、ノナンバンなどの方言名でも呼ばれている』。『英名のゴジベリーの名が逆輸入され、日本の園芸店でもゴジベリーの名で流通することも多い』。『日本全域(北海道・本州・四国・九州・沖縄)、朝鮮半島、中国、台湾に分布する。平地に分布し、山地には見られない』。『日当たりのよい原野、河川堤防、土手、海岸、市街地や農耕地帯の道ばたなどのやぶに自生しており、人の手が加わりやすく、高木が生えきれない環境によく生える。ある程度』、『湿り気のある水辺の砂地を好む。庭などで栽培もされる。日本では、土手や道ばたのやぶでよく見られるが、かつて一時の漢方薬ブームで頻繁に採取され、見かける数が少なくなった』。『高さ』一~二『メートル』『の落葉広葉樹の低木。暖地では半常緑化している。株元から茎が何本も立ち上がり、弓状に垂れ下がってやぶ状になる。茎は細長く伸びて直立せず、枝は長さ』一メートル『以上、太さは数ミリメートル 』から一『センチメートル』『ほどで、よく分枝して細くしなやかである』。三~四『月ころに芽吹き、枝には葉と、葉の付け根に』一~二センチメートル『程度の棘が互生する。葉身は、長さ』二~四センチメートル『程度の』、『やや先が尖った楕円形から倒披針形で、革質で縁がなめらかで、数枚ずつ集まるように枝から出る。垂直方向以外に地上にも匍匐茎を伸ばし、枝先が地に接すると発根して、同様の株を次々と作って繁茂する』。『葉は、長さ』二~四センチメートル『の倒披針形か長楕円形の全縁で、束生して数個が集まり、葉質は厚く、軟らかで無毛である。葉の付け根には、しばしばとげ状の小枝が生える』。『開花期は晩夏から秋』の七~十一月『で、葉腋から』一~四『個の細い花柄を出し、直径』一センチメートル『ほどの小さな薄紫色の花が咲く。花は鐘形で、花冠は』五『裂する。花から』五『本の長い雄しべが出て、目立つ』。『果実は液果で、花が終わると』、九『月ころに結実し、長径』一~二・五センチメートル『ほどの楕円形で、晩秋に橙紅色に熟す。果実の中に種子が』二十『個ほど入り、一つの種子の大きさは』二『ミリメートル』『弱ほどで、腎円形や楕円形で平たく、種皮は淡褐色で浅い網目模様があり、ざらつき感がある』。『性質は丈夫であり』、『月ころに、しばしばハムシの一種トホシクビボソハムシ』(有翅昆虫亜綱甲虫目カブトムシ亜目ハムシ科クビボソハムシ亜科クビボソハムシ属 Lema decempunctata )『の成虫や幼虫が葉を強く食害したり、何種類かのフシダニ(クコフシダニ』(鋏角亜門クモガタ綱フシダニ科アセリア属 Aceria kuko 他『)が葉裏に寄生して虫癭だらけになったりするが、それでもよく耐えて成長し、乾燥にも比較的強い。また、アブラムシ』(有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea に属する「アブラムシ」類でアリマキ(蟻牧)とも呼ぶ)『がついたり、うどんこ病』(子嚢菌門不整子嚢菌綱ウドンコカビ目ウドンコカビ科に属する「うどん粉病菌」。同菌は個々の対象植物体に特化している種が多い)『にかかることも多い』。クコは『一旦』、『定着すると匍匐茎を伸ばして増え続け、数年後には』、『まとまった群落となることが多い。挿し木で簡単に育つ』。『非常に有用な植物で、葉や果実が食用、茶料、果実酒、薬用などに、また根は漢方薬に用いられる。萌芽力が強くて剪定にも耐えるため、庭園樹や生け垣に利用されることがある。挿し木や株分けで、容易に繁殖することができる』。『赤く熟した果実には、ベタイン、ゼアキサンチン、フィサリンなどが含まれ、強壮作用があり、乾燥させたクコの実をホワイトリカーに漬けこんで健康酒としてクコ酒にするほか]、生食やドライフルーツでも利用される。薬膳として粥の具や杏仁豆腐のトッピングにもされる』。『また、柔らかい若葉も食用にされ、軽く茹でて水にとってアクを抜き、お浸し、和え物、油炒め、クコ飯、ポタージュ、佃煮や、生のまま汁の実、天ぷらに調理されたり、サラダや料理のトッピングに利用される。若葉の採取時期は、暖地が』四~五『月ごろ、寒冷地は』五~六『月ごろが適期とされる。アク抜きの際に、水にさらす時間が短いと、葉の色が茶褐色に変色する。若芽は茹でるとよい香りがして、コクのある味わいが楽しめる。成葉は天日で干してお茶代わりにする』。『クコの果実は枸杞子(くこし)、根皮は地骨皮(じこっぴ)、葉は枸杞葉(くこよう)という生薬である。ナガバクコ(学名: Lycium barbarum )も同様に生薬にされる。採取部により、三者三様の生薬名があるが、強壮薬としての効用は同じで、組み合わせで利用されている。葉は』六~八『月ころ、果実と根皮は秋に採取して、水洗いしたものを天日で乾燥させる。葉には、ベタイン、ベータ・シトステロールグルコシド、ルチンなどが含まれ、毛細血管を丈夫にする作用があるといわれる。根皮には、ベタイン、シトステソル、リノール酸などが含まれ、果実とともに滋養強壮の目的で漢方薬に配剤されている』。『民間では、果実、根皮、葉それぞれ』が『服用』されることが『知られている。果実は、食欲がなく下痢しやすい人に合わないことが多く、根皮・葉は冷え症の人に対して禁忌とされている』。『ワルファリンとの相互作用が報告されている。食品素材として利用する場合のヒトでの安全性・有効性については、信頼できるデータが見当たらない』。しかし、薬理効果としては、『血圧や血糖の低下作用、抗脂肪肝作用などがある。精神が萎えているのを強壮する作用もあるとされている。また、視力減退、腰や膝がだるい症状の人、乾燥性のカラ咳にもよいといわれている』。『地骨皮』は『抗炎症作用、解熱作用、強壮、高血圧低下作用などがある。清心蓮子飲(せいしんれんしいん)、滋陰至宝湯(じいんしほうとう)などの漢方方剤に配合される。クコ茶としても親しまれる。糖尿病で夜になると寝汗をかき、足の裏がほてる人によいともいわれている』。『枸杞葉』は『動脈硬化予防、血圧の低下作用などがある。茶料としてクコ茶にする』。以下、「食用」の項。『若芽、葉茎、果実のいずれも食用や果実酒とする。春』(四~六月)『の若芽は、先端の』十センチメートル『を摘み取って、茹でて水にさらし、和え物やお浸しにしたり、生のものをよく洗って天ぷらや炒め物、汁の実として調理される。夏から秋にかけての葉も食用にでき、茹でてお浸しや和え物、生のまま天ぷらにしたり、煮付けて炊いた飯に混ぜて、クコ飯にできる』。九~十『月ころのよく熟れた果実は、よく洗ってホワイトリカーに漬け込み、果実酒にする。葉や根は細かく刻んで乾燥させ、クコ茶として飲用する』。『また、スーパーフードとして商業的に販売されており、「食べる目薬」』(☜:本項で複数回示される効能である)『などと標榜されている』とあった。

 なお、ウィキの「クコ属」を見たところ、「種」の「日本に分布する種」には、クコ以外には、一種、

アツバクコ(ハマクコ) Lycium sandwicense

挙げられているあるが、そこには、『小笠原の父島列島・母島列島・聟島列島、沖縄の北大東島・南大東島、ハワイ諸島に分布する』とあって、凡そ良安の知り得るフィールドではないので、除外してよい。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「枸杞地骨皮」(並置標題)の非常に長い記載からのパッチワークである([088-50a]以下)。

「沼美久須里《ぬみくすり》」小学館「日本国語大辞典」によれば、「ぬみぐすり」「ぬみくすね」とし、『植物「くこ(枸杞)」の古名』とし、「十卷本和名類聚鈔」を初出とするが、別に植物の芍薬(ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora 、或いは、その近縁種も含む)の古名ともする。

「石榴《ざくろ》」日中ともに、フトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ Punica granatum

「棗《なつめ》」バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis (南ヨーロッパ原産、或いは、中国北部の原産とも言われる。伝来は、奈良時代以前とされている。

「櫻桃(ゆすら)」前にも出たが、この良安の読みは――完全なるハズレ――であるので、注意。本邦で「ゆすら」と言った場合は、

×バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa当該ウィキによれば、『中国北西部』・『朝鮮半島』・『モンゴル高原原産』であるが、『日本へは江戸時代初期にはすでに渡来して、主に庭木として栽培されていた』とある)

を指すが、中国語で「櫻桃」は、

サクラ属カラミザクラ Cerasus pseudo-cerasus(唐実桜。当該ウィキによれば、『中国原産であり、実は食用になる。別名としてシナミザクラ』『(支那実桜)』・『シナノミザクラ』・『中国桜桃などの名前を持つ。おしべが長い。中国では』「櫻桃」『と呼ばれ』、『日本へは明治時代に中国から渡来した』とあるので、良安は知らない

である。「維基百科」の「中國櫻桃」をリンクさせておく。

「油を搾(しぼ)り、燈《ともしび》を㸃《ともし》」クコの実の油を灯油に用いたという記載はネット上では見出せなかった。但し、多くの食用油でも高温で着火はするから、あり得ないことではないか。何時か、「クコの実油」を買ってきて、やってみるに若くはないか。

「煩《わづらひ》」東洋文庫に割注して『(熱気があって頭が痛む症)』とあった。調べたところ、これは「說文」に出ていた。

「志《こころざし》」精神・神経。

「五勞七傷」東洋文庫の後注に、『心労・肝労・脾労・肺労・腎労など五臓が疲労し、それによって陰寒・陰萎・裏急・精漏・精少・精清・小便苦尿の病症の出ること。』とあった。「裏急」は腹直筋の緊張が下腹部にまで及ぶ腹痛で、前に同訳で『しぶり腹』としていた。「精清」は精液が薄いことか。「小便苦尿」は排尿障害か。

「皮膚・骨節の閒《かん》の風《ふう》」これは広義のリウマチを指すものと思われる「消中《しやうちゆう》」東洋文庫の後注に、『便秘し、小便は黄赤になって頻尿になる。精血が傷つけられておこる。』とある。

「四神丸《ししんぐわん》」五行思想の四神に基づく命名である。「漢方と鍼灸 誠心堂薬局」公式サイトのここに「四神丸」があり、

   *

 効果効能 下痢、食欲不振、消化不良、腹痛、足腰のだるさ、四肢の冷え

 配合生薬 肉豆蔲(ニクズク)、補骨脂(ホコツシ)、五味子(ゴミシ)、呉茱萸(ゴシュユ)

 出典    《証治準縄》に記載がある。

 方意と構成 脾と腎を温めて下痢を止める「二神丸」と、腸を温めて収斂させる「五味子散」を合わせたものが四神丸である。

 脾腎を温めて益する補骨脂が主薬であり、同じく脾腎を温め下痢を止める肉豆蔲 <温腎暖脾・渋腸止瀉>、寒邪(冷えの病邪)や水湿を去る呉茱萸<温中散寒・除湿> 、収斂して下痢を止める五味子がこれを補佐する<酸斂固渋>

   *

とあったが、「配合生薬」は、各個、調べて見たが、孰れもクコ基原のものではない。というより、ここで時珍が挙げた基原植物は孰れも、厳密には、当てはまらない。古方か。

「腎經《じんけい》」足の少陰腎経。「翁鍼灸治療院」公式サイトのこちらによれば、『腎経は脾経の三陰交穴で交わるという説と』、『生理周期を月信と言い、この経穴が生理不順に有効的という意味の説もある』とあった。

「昏花《こんくわ》」東洋文庫の後注に、『熱毒で花弁のようなかげりが瞳に出て、視力のなくなること。』とある。

「蜀椒《しよくしやう》」双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ Zanthoxylum piperitum の果皮が「花椒」「蜀椒」と呼ばれて健胃・鎮痛・駆虫作用を持つ。日本薬局方ではサンショウ Zanthoxylum piperitum及び同属植物の成熟した果皮で種子を出来るだけ除去したものを生薬山椒としている。

「脂麻《しま》」現行の中国語ではシソ目ゴマ科ゴマ属 Sesamum を指す。

「小茴香《しやうういきやう》」セリ目セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare 。現在は英語の「フェンネル」(Fennel)の方が通りがよい。我が家の猫額庭にも二メートルにもなるものが鎮座ましましておる。食用には、ほぼ全草が用いられるが、薬用には果実が使用される。通常は「茴香」であるが、全く異なる、一般に中華料理で知られる「八角」=アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属トウシキミ Illicium verum を「大茴香」と呼ぶことから、区別して「小茴香」とも呼ぶ。但し、ウィキの「トウシキミ」(唐樒)によれば、『トウシキミの果実は、ふつう』八『つの角をもつ星形をしているため八角とよばれ』、『また』、『その風味がアニス(セリ科)とも似ているため、スターアニス(star anise)ともよばれる』。『また』『、この風味はウイキョウ(茴香、セリ科)にも似ているため、果実または植物そのものは八角茴香』『や大茴香ともよばれる』。『ウイキョウやアニスは系統的にはトウシキミと縁遠いが、精油としてアネトール』(anethole:芳香族化合物の一種)『をもつ点で共通している』という点では、縁があるのである。

「川楝《あふち》」「楝」「おうち」は、日中ともに、

双子葉植物綱ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach var. subtripinnata

である。

但し、中国では、漢方薬の基原植物としては、同属の、

トウセンダン  Melia toosendan

である。詳しくは、先行する「楝」を見られたいが、今回、「維基百科」の「苦楝」を精査したところ、「用途」の箇所に『稱川楝素(Toosendanin)』という記載を見出せた。

「熟地黃《じゆくぢわう》」生地黄を酒と一緒に蒸して作った生薬。但し、酒が含まれるため、性は寒が殺がれて温に近くなる。

「白朮《びやくじゆつ》」は中国原産で本邦には自生しない双子葉植物綱キク目キク科オケラ属オオバナオケラ Atractylodes macrocephala の根茎を乾したものを狭義の基原とする浙江省などで生産されるものを指す(草体の画像はサイト「東京生薬協会」の「季節の花(東京都薬用植物園)」の「オオバナオケラ」を見られたい)。ここはそれである。なお、本邦では、別に、日本の本州・四国・九州、及び、朝鮮半島・中国東北部に分布する同オケラ属オケラ Atractylodes lancea を基原とするものを、特に「和白朮」と呼ぶが(草体の画像は当該ウィキを参照)、現行では、この二種を一緒にして「白朮」と称している。効能は、主として水分の偏在・代謝異常を治す。従って、頻尿・多尿、逆に小便の出にくいものを治す、と漢方サイトにはあった。

「白茯苓《びやくぶくりやう》」「茯苓」は菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa を基原とした生薬名。ウィキの「マツホド」によれば、アカマツ(球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora)・クロマツ(マツ属クロマツ Pinus thunbergii)等のマツ属 Pinus の植物の根に寄生する。『菌核は伐採後』二~三『年経った切り株の地下』十五~三十センチメートルの『根っこに形成される。子実体は寄生した木の周辺に背着生し、細かい管孔が見られるが』(oso(おそ)氏のキノコ図鑑サイト「遅スギル」のこちらで画像で見られる)、『めったには現れず』、『球状の菌核のみが見つかることが多い』。『菌核の外層をほとんど取り除いたものを茯苓(ブクリョウ)と呼び、食用・薬用に利用される。天然ものしかなかった時代は、松の切り株の腐り具合から』、『見当をつけて』、『先の尖った鉄棒を突き刺し』、『地中に埋まっている茯苓を見つける「茯苓突き」と言う特殊な技能が必要だった。中国では昔から栽培されていたようだが』、一九八〇『年代頃より』、『おがくず培地に発生させた菌糸を種菌として榾木に植え付ける(シイタケなどの木材腐朽菌と同様の)栽培技術が確立され、市場に大量に流通するようになって価格も下がった。現在ではハウス栽培で大量生産されて』おり、『北京では茯苓を餅にしてアンコをくるんだ物が「茯苓餅」または「茯苓夾餅」の名で名物となっている。かつては宮廷でも食された高級菓子で、西太后も好物だったという。現在は北京市内のスーパーでも購入することができる』。『薬用の物では、雲南省に産する「雲苓」と呼ばれる天然品が有名であるが、天然物は希少であるため』、殆んど『見ることはできない』。『日本は』、『ほぼ全量を輸入に頼っていたが』、二〇一七年に『石狩市の農業法人が漢方薬メーカーの』「ツムラ」(「夕張ツムラ」)との『協力で、日本初となるハウス量産に成功した』とある。『菌核の外層をほとんど取り除いたものは茯苓(ブクリョウ)という生薬(日本薬局方に記載)で、利尿、鎮静作用等があ』り、『多くの漢方方剤に使われ』ているとあった。而して、「白茯苓」であるが、「ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「茯苓(ブクリョウ)」を見たところ(コンマを読点に代えた)、『茯苓は古来』、『「赤茯苓」と「白茯苓」の』二『種があったことが記されています。陶弘景が「赤は瀉し,白は補う」としたのが』、『その最初ですが、李時珍は「赤は血分に入り、白は気分に入るもので、それぞれ牡丹皮や芍薬の場合と同じ意義である」とし、薬効的にはそれほど大差はないと考えています。赤・白の差はおそらく肉質の色であると考えられますが、これについても未だ定説がないようです。実際の市場品には純白に近いものからかなり着色したものまであります。今後の研究が待たれます』とあった。

「物の形狀に似たる者」これは如何にも動物或いは人骨に形状が似た根の塊りの意であろう。

「足の少陰≪經≫」東洋文庫の割注に『(腎経)』とある。則ち、「足の少陰腎經」が正しいことになる。先行する「肉桂」の私の注を見られたい。

「手の少陽經」東洋文庫の後注に、『手の薬指からおこり腕を上って肩に行き、鎖骨上高から乳房の中間に行き、そこで心包』(しんぽう:漢方で言う心臓と、それらを取り巻く包括的なものを指す。一般に「心肺と関連するものは心包にあり」と言われる)『につながり、腹部に至って三焦』(既出既注だが、再掲すると、三焦(さんしょう:漢方医学で六腑の一つとされるものの、「三焦」に限っては、機能はあるが、特定の臓器形態を持たないとされる。現行の知見では「リンパ管」「リンパ系」が相似的対象と考えられている)の内、「上焦」は鳩尾(みぞおち)より上部の「心・肺」を、「中焦」は鳩尾から臍に至る、主として胃部にあたる部分で「脾・胃」を、「下焦」は臍から下の部位に当たり、腎・膀胱・大腸・小腸などを支配するとされる、漢方の全くの仮想臓器である)『に帰する。支脈は乳の間から鎖骨上高に行き、頂部に上り、そこから耳』の『後に達し、耳の上をまわって頰(ほお)から目の下に行く。もう一つの支脈は耳』の『後から耳中に入り、耳の前に出て頰に行き目尻に終る。足の少陰腎経は巻八十二肉桂の注』『参照』とある。最後の部分は前注のリンク先を見られたい。

「有汗《ゆうかん》」強い発汗を伴うことの意であろう。

「骨蒸《こつじよう》」東洋文庫の後注に、『骨蒸身体内部に熱があり、骨が蒸されるように感じる。結核の主要症状の一つ。』とある。

「腎火《じんくわ》」体内の火熱を冷ます機能が弱くなっているために、相対的に生じる内熱は「虚火」であり、これを「腎火」とも称する。

「黃岑《わうごん》」キク亜綱シソ目シソ科タツナミソウ属コガネバナ Scutellaria baicalensis の根の周皮を取り除き、乾燥させたもの。

「黃連《わうれん》」小型の多年生草本である、キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica 及び同属のトウオウレン Coptis chinensisCoptis deltoidea の根茎を乾燥させたもの。

「黃蘗《わうばく》」ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ変種キハダ Phellodendron amurense var. amurense 。先行する「黃蘗」の私の注を見られたい。

「知母《ちも》」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ハナスゲ属ハナスゲ Anemarrhena asphodeloides の根茎の生薬名「知母」。当該ウィキによれば、『中国東北部・河北などに自生する多年生草本』『で』、五~六『月頃に』、『白黄色から淡青紫色の花を咲かせる』。『根茎は知母(チモ)という生薬で日本薬局方に収録されている』。『消炎・解熱作用、鎮静作用、利尿作用などがある』。「消風散」・「桂芍知母湯」(ケいしゃくちもとう)・「酸棗仁湯」(さんそうにんとう)『などの漢方方剤に配合される』とある。

「齒、更に生(は)へ」、前の歯が抜けた結果、それまで押さえつけられて、出てこれなかった「親知らず」が、すんなりと生えてきただけのことであろう。たまたま、先般、公開した『「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 長岡郡山田村與樂寺住持之歯』で同じ見解を示した。

「蔓枸𣏌(つるくこ)」クコの個体の内、蔓状に枝が茂っている(よく地面を這っている個体を見かける)ものを言っているに過ぎない。

「連翹《れんぎやう》」本邦でで言うシソ目モクセイ科Forsythieae連レンギョウ属レンギョウ Forsythia suspensa は、中国原産で、江戸初期に植物体は渡来している。しかし、中国の漢方生薬「連翹」の基原植物は、一般には、中国原産の同属シナレンギョウ Forsythia viridissima の成熟果実を、一度、蒸気を通したのち、天日で乾燥したものを指すとされる。生薬扱いしたのは、良安がわざわざ「倭の連翹」と言っているからで、実際の植物体としてのシナレンギョウを見ていないから、かく言わざるを得ない、ということは、当然、植物体ではなく、加工された果実の生薬としての生薬体で比較していると、とるしかないのである(シナレンギョウの日本への渡来は大正末期である)。では、日本に在来種のレンギョウ属はいないかというと、中国地方の、代表的なカルスト台地である岡山県北西部の阿哲台(あてつだい:深草縁夫氏のサイト「日本すきま漫遊記」の「岡山・水車と鍾乳洞を巡る(6日目)」に載る地図を見られたい)、広島県北東部の帝釈台(阿哲台の南西にある広島県庄原市東城町(とうじょうちょう)帝釈未渡(たいしゃくみど:グーグル・マップ・データ)にある)といった石灰岩地の岩場などに選択的に植生するヤマトレンギョウ Forsythia japonica と、小豆島のみに植生するショウドシマレンギョウの二種があるのであるが、孰れも、現在、絶滅危惧種に指定されている。私は、良安が言っているものが、正規の在来種の分布が非常に限定されているヤマトレンギョウやショウドシマレンギョウであるとは思えないのである。少なくとも、この在来種二種を良安が実際に現認したとは、私には、まず、絶対に思えない。但し、以上の記載で最も参考にさせて戴いた「公益社団法人日本薬学会」公式サイト内の「シナレンギョウ」のページには、全く異なる基原植物説の追加記載があって、『中国の古い本草書には「湿り気のあるところに生育している草本植物」との記載があることから,連翹はオトギリソウ科のオトギリソウやトモエソウの仲間を指すという説もあります』とあることを言い添えておく。オトギリソウは、キントラノオ目オトギリソウ科オトギリソウ属オトギリソウ Hypericum erectum であり、トモエソウは、同じオトギリソウ属トモエソウ Hypericum ascyron である。なお、以上の記載には、別にサイト「Arboretum」の「ヤマトレンギョウ」のページも参考にした。]

2024/09/10

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 鶸(ひわ)の巢

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

     (ひわ)  の  巢

 

 庭の櫻の叉になつた枝の上に、鶸の巢があつた。見たところ、それは綺麗なまん丸によくできた巢で、外側は一面に毛で固め、内側はまんべんなく生毛(うぶげ)で包んである。その中で、四つの雛が卵から出た。わたしは父にかう云つた。

 「あれを捕つて來て、自分で育てたいんだけれどなあ」

 わたしの父は、これまで度々《たびたび》、鳥を籠に入れて置くことは罪惡だと說いたことがある。が、今度は、多分同じことを繰り返すのがうるさかつたのだらう。わたしの向つて一口も返事をしなかつた。數日後、私は彼に云つた。

 「しようと思やわけないよ。はじめ、巢を籠の中に入れて置くの。その籠を櫻の木に括《くく》りつけて置くだらう。さうすると、親鳥が籠の目から食ひ物をやるよ。そのうちに親鳥の必要がなくなるから」

 わたしの父は、此の方法について、自分の考へを述べようとしなかつた。

 さう云ふわけで、わたしは籠の中に巢を入れて、それを櫻の木に取り附けた。わたしの想像は外《はづ》れなかつた。年を取つた鶸は、靑蟲を嘴《くちばし》にいつぱい咬《くは》へて來ては、わるびれる樣子もなく、雛に食はせた。すると、わたしの父は、遠くの方から、わたしと同じやうに面白がつて、彼等の花やかな往《ゆ》き來《き》、血のやうに赤い、また硫黃《いわう》のやうに黃色い色の飛び交ふ樣を眺めてゐた。

 或る日の夕方、わたしは彼に云つた。

 「雛はもう可なりしつかりして來たよ。放しといたら飛んで行つてしまふぜ。親子揃つて過ごすのは今夜つきりだ。あしたは、家の中へ持つて來る。僕の窓へ吊《つる》しとくよ。世の中に、これ以上大事にされる鶸はきつとないから、お父さん、さう思つてゐておくれ」

 わたしの父は、此の言葉に逆はうとしなかつた。

 翌日になつて、わたしは、籠が空になつてゐるのを發見した。わたしの父も、そこにゐた。わたしのびつくりしたのを見て知つてゐる。

 「もの好きで云ふんぢやないが」――わたしは云つた。「どこの馬鹿野郞が此の籠の戶を開けたのか、そいつが知りたいもんだ」

 

[やぶちゃん注:「鶸」「父」等については、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鶸(ひわ)の巢」』の私の注を見られたい。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 森田日向占

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

     森田日向(もりたひうが)占(うらなひ)

 森田日向は、拍子(ひやうし)を聞(きき)て占(うらなふ)に、十にして、九つは、能(よ)く合(あは)せたり。

 若き時は、木履屋町(ぼくりやてう)に居(をり)て、商(あきなひ)ける故、「木履太夫(ぼくりだいふ)」と異名を呼(よば)れぬ。

 門前に、用水の流(ながれ)、有(あり)て、大松を、二本、植(うゑ)、此松の本(もと)にて、每朝、垢離(こり)を取(とり)て、祈禱をする。

 第一、御上々(おんうへうえ)の御長久(おんちやうきう)を祈念する事、數(す)十年、一日も怠らざりし事、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]て、

『奇特。』

に被思召(おぼしめされ)、於御郡方(こほりがたにおいて)、御褒詞(ごほうし)に預(あづか)りぬ。

 或時、久松屋久助(ひさまつやきうすけ)方(かた)へ來り、咄(はなし)の序(ついで)に、いふ。

「人の卜(うらなひ)をすれども、未(いまだ)、我身(わがみ)の卜を不仕(つかなつらず)。手を打(うち)て給(たまは)れ。占ふて、見ん。」

といふ。

 久助、手、拍(うち)ければ、幾つも、うたせて、能く聞(きき)、卜(うらなひ)て、いふ。

「扨々(さてさて)、殘多事也(のころおほきことなり)。何も不殘(のこらず)候。古松(ふるまつ)、一本、殘るべし。」

と、いひしとかや。

 是より、十ヶ年も過(すぎ)、豊(ゆたか)に暮して、終(をは)りぬ。

 其子(そのこ)も、業(なりはひ)を續(つづ)て、卜(うらなひ)けるが、親に劣りて、段々、衰微せしが、寛政七年乙卯(きのとう)八月、大洪水、眞如寺橋、臺(だい)、押切(おしきり)、潮江上町(しほえかみてう)、數(す)十軒、流失、溺死、數人、有(あり)。

 日向が家も流れ、子も、一人、溺死して、十年前に占ひしごとく、松、一本、殘れり。

 

[やぶちゃん注:「森田日向」不詳。

「木履屋町(ぼくりやてう)」この町名の読みは、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名勝志」訂正第三版(寺石正路著・昭和五(一九三〇)年富士越書店刊)の「高知市」のパートのここに(左ページの後ろから四つ目の「」の項。下線は底本では「●」の右傍点)、

   *

木履屋町通(ぼくりやてう[やぶちゃん注:左ルビ。]) 播磨屋橋(はりまやばし)より潮江橋(うしほえばし)に至る昭和三年道路を擴張し電車を通し北は鐵道高知驛より南は棧橋(さんばし)に至る高知市中第一の文化道路(ぶんかだうろ)たり。

   *

という記載で判明した。現在、この(グーグル・マップ・データ)、「JR四国高知駅」北口から「はりまや橋」を経て、「潮江橋」を渡り、南東方向に向かう「とさでん桟橋線」の終着駅「桟橋通五丁目駅」までのルートを指している。少なくとも、潮江橋までは「はりまや通り」と記されている。ここが、旧「木履町」と考えられる。

「寛政七年乙卯八月」

「眞如寺橋」現在ある天神大橋(グーグル・マップ・データ)の前身であろう。この附近は、今までの複数篇で、「眞如寺」・「潮江天滿宮」を含め、さんざん検証してきた場所である。

「潮江上町」現在の高知市天神町(てんじんまち:グーグル・マップ・データ)。潮江橋南詰西直近。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 五加

 

Ukogi

 

むこぎ    文章草 追風使

       五花 五佳 白刺

五加     木骨 𧲣𣾰 𧲣節

       金鹽

       【和名無古木

ウヽ キヤアヽ    今宇古木】

[やぶちゃん字注:「𧲣」は「豺」の異体字。]

 

本綱五加以爲藩蘺春生苗又于舊枝上抽條葉莖葉俱

青作叢赤莖高三五尺上有黒剌葉生五釵作簇者良也

三四葉者最多爲次每一葉下生一刺三四月開白花結

青子至六月漸黒色其根若荊根皮黃黒肉白色其葉作

蔬食去皮膚風濕

五加皮【辛温】 根皮也治疝氣腹痛療躄益精堅筋骨釀酒

 飲治風痺四肢攣急仙家最重之造酒用根皮去骨莖

 葉亦可也以水𤋎汁和麹釀米加遠志更良【遠志爲使惡玄参】

[やぶちゃ字注:「𤋎]は「煎」の異体字。]

△按五加挿枝能活其根爲藥者阿波丹波之產良金剛

 山之者次之

 

   *

 

むこぎ    文章草 追風使

       五花《ごくわ》 五佳 白刺《はくし》

五加     木骨《もくこつ》 𧲣𣾰《さいこく》 𧲣節

       金鹽《きんえん》

       【和名、「無古木《むこぎ》」、

ウヽ キヤアヽ    今、「宇古木《うこぎ》。】

[やぶちゃん字注:「𧲣」は「豺」の異体字。]

 

「本綱」に曰はく、『五加《ごか》、以≪つて≫、藩蘺《ませがき》と爲《なす》。春、苗を生《しやう》じ、又、舊枝(ふる《えだ》)の上に、條葉《えだは》を抽《ぬきんで》て、莖・葉、俱《とも》に青し。叢《むらがり》を作《な》す。赤≪き≫莖≪にて≫、高さ、三、五尺。上に黒き剌《とげ》、有《あり》。葉、五釵《ごさ》≪を≫生じ、簇《むれ》を作《なす》者、良《りやう》なり。三《みつ》、四葉《よつば》の者、最《もつとも》、多し《✕→きを》、次と爲《なす》。一葉《ひとは》每《ごと》[やぶちゃん注:「每一葉」は三字熟語の「-」の記号が入るが、私の判断で返して読んだ。]の下《つけね》[やぶちゃん注:東洋文庫訳のルビを採用した。]に、一刺《いつし》を生ず。三、四月、白≪き≫花を開き、青≪き≫子《み》を結ぶ。六月に至りて、漸《やうや》く、黒色≪たり≫。其の根、「荊(いばら)」の根のごとく、皮、黃黒《きぐろ》≪く≫、肉、白色《なり》。其の葉、蔬《そ》[やぶちゃん注:「蔬菜」。]と作《な》して食へば、皮膚≪の≫「風濕《ふうしつ》」[やぶちゃん注:現在のリウマチ。]を去る。』≪と≫。

『五加皮《ごかひ》【辛、温。】』『根の皮なり。疝氣・腹痛を治し、躄(こしぬけ)を療す。精を益し、筋骨を堅くす。酒に釀(つく)り、飲めば、風痺《ふうひ》・四肢≪の≫攣急《れんきふ》[やぶちゃん注:四肢の筋肉が引き攣(つ)ってしまい、運動不能となる症状。]を治す。仙家《せんか》、最も之れを重《おもん》ず。酒に造るに、根の皮を用ひ、骨《ほね》[やぶちゃん注:根の主幹部分。]を去る。莖・葉も亦、可なり。水を以《もつて》、𤋎汁《せんじじる》≪となして、≫麹《かうぢ》を和して、米を釀(かも)す。「遠志《をんじ》」を加へて、更《さらに》良し【「遠志」≪は≫「使《し》」と爲す。「玄参《げんさん》」を惡《い》む。】。』≪と≫。

△按ずるに、五加、枝を挿して、能く、活(つ)く。其の根、藥と爲すは、阿波・丹波の產、良し。金剛山《こんがうさん/ざん》の者、之れに次ぐ。

 

[やぶちゃん注:「五加」は、

双子葉植物綱バラ亜綱セリ目ウコギ科ウコギ属 Eleutherococcus

の総称である。しかし、「維基百科」の「五加属」には二十種が列記されてあり、その内、

Eleutherococcus divaricatus

のみ、中文名がない。調べてみると、「三河の植物観察」の「ケヤマウコギ 毛山五加木」のページで、

ウコギ属ケヤマウコギ Eleutherococcus divaricatus

とあり、シノニムとして Acanthopanax divaricatus が並置されている。別名を「オニウコギ」とし、『在来種』であって『北海道、本州、四国、九州、朝鮮』とあって中国には分布しないらしい。良安の言う「五加」の有力候補の一つとなる。

 而して、そ「維基百科」の「五加属」の殆んどは、中国固有種であるのだが、「刺五加 Eleutherococcus senticosus 」がアジア北東とシベリア一帯に分布し、

「异株五加 Eleutherococcus sieboldianus 」とあるのが、日本及び中国の安徽省等に分布する

とあった。この

 Eleutherococcus sieboldianus は和名「ヒメウコギ」

で、当該ウィキには、『中国原産で、日本各地にも分布する』。『日本へは古い時代に中国から薬用として渡来し』、『救荒植物として民家の垣根や庭などに植えられていたが』、『近年は庭木としてあまり植えられておらず』、『やぶ、荒れ地、山麓などに野生化したものが見られる』とあった。因みに、東洋文庫訳の解説内の「五加」に『(ウコギ科ヒメウコギか)』と推量割注がしてあるが、

日中で共通する種であるから、複数のウコギ類の中で、このヒメウコギが、矛盾を生じない最有力候補の一つ

ではあることになろう。

 ところが、学名の属名に問題があることが、最後になって発覚したのである。「日本メディカルハーブ協会」公式サイト「MEDICAL HERB LIBRARY メディカルハーブ事典」の「Plant Doctorエゾウコギの植物学と栽培」によれば、『 Eleutherococcusという属名は、かつてはウコギ属ではなくエゾウコギ属に充てられ、その当時のウコギ属はAcanthopanaxであり、ウコギ属とエゾウコギ属とは別属に分類されていました』。しかし、『その後、エゾウコギ属をウコギ属Acanthopanaxに含める分類が発表されましたが、Eleutherococcusという属名がAcanthopanaxよりも早く命名されていることから、ウコギ属の属名としてはEleutherococcusを用いるべきとする考えが定着しました』。『現在、World Flora Online』(注に『The Plant Listを引き継ぐかたちで、ミズーリ植物園、ニューヨーク植物園、王立植物園エジンバラ、王立植物園キューの』四つの『植物園によって』二〇一二『年に立ち上げられ』、二〇二〇『年から公開されている植物リストのオープンアクセスデータベース』とあった)『ではAcanthopanaxEleutherococcus(ウコギ属)のシノニムとされ、消滅しています。一方で、日本を含む東アジアではエゾウコギを含むウコギ属の学名としてAcanthopanaxが長く用いられてきたことから、日本の図鑑では今でもこの属名を採用しているものが多く見られます』とあったので、

ウコギ属は、 Eleutherococcus ではなく、 Acanthopanax とするのが正しい

と読める。因みに、このページを発見したのが、この冒頭注を書き終わろうという、一番、最後だったのだが、そこには『表1Eleutherococcus(エレウテロコックス属、ウコギ属)の主要な植物』という項で、恐ろしく膨大な各種データが詳細に書かれている。ウィキの「ウコギ属」何するものぞ! という素晴らしい記載である(その当該ウィキには属名変更の記載はどこにもないのだ!!)。是非、そちらの詳細な種の説明を読まれたい。まあ、しかし、取り敢えず、ウィキの「ウコギ属」を引いてはおく(注記号はカットした)。『落葉性の高木または低木。葉は長枝に互生し、短い枝には束生する。普通』五『枚、ときに』三『枚の小葉からなる掌状複葉で、小葉の縁には鋸歯がある』。五~六『月頃に、短枝の先に花柄を出して、多数の花を散状につける。幹には鋭い棘があり、エゾウコギは細い棘を密生する。多くは雌雄異株で、日本を含む東アジアに約』四十『種知られる。ヒメウコギは、日本のは雌株だけで、果実はつかない』。『日本で一般にウコギと称される植物は、別名でムコギ、ヒメウコギともよばれている中国原産の種で、生け垣などにされる落葉低木である。日本で昔は栽培されていた種とみられているが、一部は野生化している。栽培は、前年に伸びた枝を切り取って、春先の発芽前に挿し木して、梅雨期に日当たりと水はけのよい土地に植えて、肥培される』。『平安時代中期に編纂され、現存する日本最古の薬学書に列する本草学辞典』「本草和名」『(ほんぞうわみょう)、同じく日本最古の漢和対訳百科事典に列する』「和名類聚抄」『(わみょうるいじゅしょう)の解説によれば、ウコギは中国原産と見られる外来種の五加(ウーチァ)であると記されており、現在使用されるウコギの和名漢字「五加木」「五加皮」はこれに由来している。また』、「本草和名」『では牟古岐(むこぎ)と読ませたヒメウコギが紹介されている』。『ヒメウコギやヤマウコギは薬用植物として、根の皮部を五加皮(ごかひ)と称して生薬にする。この根の皮は鎮痛、強壮、強精に用いられ、ホワイトリカーに漬けて、五加酒(五加皮酒)にもできる。五加皮は秋の落葉期に掘り採った根を水洗いし、皮を剥いで刻み、天日乾燥して調製したものである。腰以下を温める効果があり、民間療法では、関節痛、腰痛、インポテンツ、足のむくみに』『水で煎じて』『服用する用法が知られている。根の皮の成分にメトキシサリチルアルデヒドを含み、特有の芳香を発散し、その他パルミチン酸、リノール酸などの脂肪油を含んでいる』。『ウコギ(ヒメウコギ)の新芽は食用にでき、軽く茹でて和え物やお浸しに、生の若葉を刻み入れた炊き込みご飯(ウコギ飯)などに調理されたり、硬くなった葉を天日乾燥して茶料にできる。 ウコギ科Araliaceae『に分類される他属同様、ウコギ属の数種も可食種として古来より広く民間利用された植物の』一『つであり』、慶長八(一六〇三)年『発刊の』「日葡辞書」『でもVcoguiとして「根は薬用に、葉は和え物に、幹は酒に用いる」と記されている事実からもそれを窺い知れる。また、幹に棘を持つ性質から垣根としても普及しており』、元禄四(一六九一)年『に松尾芭蕉門人にして蕉門十哲の』一『人に数えられる立花北枝が発刊した俳諧書』「卯辰集」(うたつしゅう)に、『李東を号する俳人が「おもしろき盗みや月のうこぎ垣」と詠んだ句が収められている』。『莫大な借金返済と国庫潤滑に生涯を捧げた米沢藩第』九『代当主上杉治憲(後の上杉鷹山)の財政改革に端を発し、折からの凶作に伴う飢饉を予見して特命を帯びた』家臣『莅戸善政』(のぞきよしまさ)『が実践・執筆した野食指南書』「かてもの」にこそ』、『万能植物たるウコギは紹介されなかったが、生育条件に適していた地の利を活かしてそれに準ずる食材確保の目的で生垣に利用するよう奨励した。これにより、山形県米沢市では今でも生垣を備える一般家庭の大半でヒメウコギを常育し、春から初夏にかけて新芽を摘んで食べる文化が根付いている』。以下、「ウコギ属の種」の項があるが、先に示した「日本メディカルハーブ協会」公式サイト「MEDICAL HERB LIBRARY メディカルハーブ事典」の「Plant Doctorエゾウコギの植物学と栽培」の方が詳しく、全面信頼も出来るので、カットする。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「五加」の記載のパッチワークである([088-47a]以下)。

「文章草」意味不明。但し、「本草綱目」で名づけた別名である。

「追風使」同前。これは「圖經本草」(北宋の嘉祐六(一〇六一)年に大常博士蘇頌(そしょう)が完成し、翌年に刊行された薬図と解説からなる全二十巻の勅撰本草書に載る名である。

「五花」同前。これは「炮炙論」出典とする。六朝時代の五世紀に修治法を集大成した「雷公炮炙論」(らいこうほうほうしゃろん)。

「五佳」同前。「本草綱目」での別名。

「白刺」全く同前。

「木骨」前掲「圖經本草」出典。

「𧲣𣾰」「神農本草經」出典。「𧲣」=「豺」の漢字は、中国では食肉目イヌ科ドール属ドール Cuon alpinus を指す。和異名は「アカオオカミ」。何故、この漢字を使ったかは不明。棘(とげ)と関わるか。

「𧲣節」「別錄」出典。漢の成帝の治世の時、数名の学者の協力を得て、宮廷の秘府の蔵書の校定に従事した劉向(りゅうきょう)が、一つの書物毎に、篇目を個条書きにし、内容を掻い摘んで作成した書籍解題。

「金鹽」「本草綱目」では出典を「仙經」とあるので、出典は道教の経典のようである。

「藩蘺《ませがき》」既に何度もこの漢字表記と読みで良安はルビしている。小学館「日本国語大辞典」では『はんり』として、『藩籬・籬・樊籬』と示し、特にそのまま、総て『まがきの意』とする同辞典で、「藩」は『かきね、かこいの意』とする。

「五釵《ごさ》」葉をつける小枝が先で五つの股に分かれるということで、「五加」の「五」はこれに由来すると考えてよい。

「荊(いばら)」これは特定植物を指すのではなく、棘(とげ)のある木の総称。

「疝氣」漢方で「疝」は「痛」の意で、主として下腹痛を指す。「あたばら」などとも言う。

「躄(こしぬけ)」この漢字は本来は「足萎え」で、足の立たないことを指すので、「腰抜け」は重なるとも言えなくないが、腰は正常でも、両足が不自由である障碍者を指すという意味では、相応しくない和訓である。

「風痺《ふうひ》」東洋文庫訳に割注で、『(全身だるく』、『痛みがあちこいに走る症)』とある。

「仙家《せんか》」羽化登仙を最終目標とする道士。

「遠志《をんじ》」ヒメハギ科 Polygalaceae の多年草であるマメ目ヒメハギ科ヒメハギ属イトヒメハギ Polygala tenuifolia (糸姫萩)の根の漢方生薬名ウィキの「イトヒメハギ」によれば、『中国東部から東北部原産。花期は』五~七『月頃で淡藍色の花を咲かせる』。『開花期の根は遠志(オンジ)という日本薬局方に収録された生薬であり、去痰作用がある。帰脾湯、加味帰脾湯、人参養栄湯などの漢方方剤に使われる。脳の記憶機能を活性化し、中年期以降の物忘れを改善する効果もある』とある。なお、生薬としての「オンジ」の独立したウィキもあるので、見られたいが、そこに漢方名について、『オンジ(遠志)は古来より物忘れなどに効果があるとされ、初心を呼び起こし、志を遠くに持つための薬草として、「志が遠大になる」ことから名づけられたと言われている』とあった。

「使《し》」主になる漢方生薬の効果を助ける副薬物を指す。

「玄参《げんさん》」ウィキの「ゴマノハグサ」(シソ目ゴマノハグサ科ゴマノハグサ属ゴマノハグサ Scrophularia buergeriana )の「利用」の項に、『根を乾燥させたものを漢方薬で玄参(ゲンジン)といい、のどの病気に薬にするという』『が、ゴマノハグサの中国名は、北玄參という』。(☞)『真正の玄参は、同属のオオヒナノウスツボ』(大雛の臼壺: Scrophularia kakudensis )『に近いScrophularia ningpoensis 』『(中国名、玄參)』『の根をいう』とあった。「維基百科」で検索したところ、同学名を挙げた「玄参」を見出せた。それによれば、『ゴマノハグサ属には約二百種が存在する。北半球の開けた森林地帯に自生し、植物体は背が高く、大きな分岐した花序に紫・薄緑、または黄色の花が咲く。昔は痔の治療に使用されていたため、英語名は「痔草」』(英文名は記されていない。”hemorrhoid grass”か?)『を意味する。中国の浙江省と四川省に分布する』とあった。

「金剛山《こんがうさん/ざん》」「葛城嶺」(かづらきのみね)・「金剛山地」とも呼ぶ。現在の奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境界にある、標高千百二十五メートルの山地。グーグル・マップ・データ航空写真で示しておく。]

2024/09/09

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 豚と眞珠

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      豚 と 眞 珠

 

 草原に放すが否や、豚は食ひはじめる。その鼻は決して地を離れない。

 彼は柔らかい草を選ぶわけではない。一番近くにあるのにぶつかつて行く。鋤鍬《すきくは》のやうに、または盲《めくら》の土龍《もぐら》のやうに、行き當たりばつたりに、たゞ前へ前へと押して行く。よく鼻が草臥《くたび》れない。

 それでなくても漬樽《つけだる》のやうな形をした腹を、もつと丸くすることより考へてゐない。天氣がどうであらうと、そんなことは一向おかまひなしである。

 肌の生毛(うぶげ)が、正午の陽ざしに燃えやう[やぶちゃん注:ママ。]としたことも平氣なら、今また、霰《あられ》を含んだあの重い雲が、草原の上に擴《ひろ》がりかぶさらうとしてゐても、そんなことには頓着しない。

 鵲(かさゝぎ)は、それでも、彈機(ばね)仕掛けのやうな飛び方をして逃げて行く。七面鳥は生籬《いけがき》の中に隱れてゐる。そして、幼々《よはよは》しい仔馬は柏《かし》の木蔭に身を寄せてゐる。

 然し、豚は食ひかけたものゝある所を動かない。

 彼は一口も殘すまいとする。

 彼は、いくらか大儀になつたらしく、尻尾を振らない。

 雹《ひやう》がからだにパラパラと當ると、やうやく、それも不承々々唸《うな》る。

 「うるせえやつだな、また眞珠をぶつけやがる」

 

[やぶちゃん注:本篇の訳は、随所で、岸田氏による、意訳ではなく、確信犯で(やや恣意的とも言える)、日本人に判りやすいものに書き変えられている。例えば、

・第三段落の『漬樽《つけだる》のやうな形をした腹』というのは、原文では“un ventre qui prend déjà la forme du saloir”で、『既に塩漬けに(家で)使う壺のような形になってしまっている腹』の意である。

・第四段落の『霰《あられ》を含んだあの重い雲が、』は、“gonflé de grêle,”で、これはエンディングのシークエンスの『雹』と同じ“grêle”が用いられている。但し、この単語は第一義に「雹」であるが、「霰」をも指す語ではある。フランス語の「雹」相当のウィキは“Grêle”であり、「霰」相当のウィキは“Neige roulée”(「巻いた雪」「ロール状になった雪」「丸めた雪」意)で、後者は二語で、使い勝手は、ちょっと悪い。ルナールなら、ここで「霰」としようと思ったとしても、使わない気はする。ともかくも、岸田は確信犯で、『霰』として、敢えて最後の方を『雹』と訳したのである。それは『眞珠』の洒落を最大限に「大きな真珠」=『雹』を読者に与えるためで、優れた確信犯の訳なのである。

「豚と眞珠」この題名に就いては、一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」の注によれば(そこでは標題は『豚に真珠』)、『「豚に真珠」(値うちのわからぬものにりっぱな物をやっても無意味である)ということわざ(『新約聖書』「マタイによる福音書」(七の六)をもじったもの』とある。「ウィキソース」の永井直治氏の一九二八年訳「マタイ傳聖福音(新契約聖書) 」第七章第六節を引く。

   *

犬に聖なるものを與ふる勿れ。また豚ぶたの前に汝等の眞珠を投ぐる勿れ。恐らくは彼等これをその足にて蹈みつけ、ふり返りて汝等を裂かん。

   *

「鵲(かさゝぎ)」スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica 。ルナールの作品にはよく登場する。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵲(かささぎ)」を参照されたい。

「七面鳥」キジ目キジ科シチメンチョウ亜科シチメンチョウ属シチメンチョウ Meleagris gallopavo 『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「七面鳥」』の私の注を見られたい。

「幼々《よはよは》しい」としか読めない。通常は、これで「うひうひしい」だが、それでは意味が通らないので、改版が『弱々(よわよわ)しい』としていることから、かく読んだ。これも一種の岸田風の個人的表現である。

「柏《かし》」これはフランスであるから、双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ族 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata とすることは出来ない。本邦のお馴染みの「カシワ(柏・槲・檞)」は日本・朝鮮半島・中国の東アジア地域にのみ植生するからである。原文では“chêne”で、これはカシ・カシワ・ナラなどのブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称である。則ち、「オーク」と訳すのが、最も無難であり、特にその代表種である模式種ヨーロッパナラ(ヨーロッパオーク・イングリッシュオーク・コモンオーク・英名は common oakQuercus robur を挙げてもよいだろう。

 なお、後の「博物誌」では、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「豚」』のパートの後に同じく『豚と眞珠』の標題で添えてある。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 牝牛

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。標題は「めうし」。]

 

      牝   牛

 

 これがいゝ、あれがいゝと、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]探しあぐんで、彼女には名前を附けないでしまつた。彼女のことはたゞ「牝牛」と呼ばれる。そして、それが一番彼女に應《ふさ》はしい名前であつた。

 それに、そんなことはどうでもいゝ、彼女は食ふものだけのものは食ふのだから――靑草で御座れ、乾草で御座れ、野菜で御座れ、穀物で御座れ、麵麭や鹽に至るまで、何んでも欲しいだけ食つた。何に限らず、何時《いつ》でも彼女は二度づゝ食つた。吐き出してまた食うのだから[やぶちゃん注:反芻を指す。]。

 彼女がわたしを見つけると、輕い細《ほそや》かな足取りで、割れた木靴を引つかけ、肌の皮を、白靴下のやうに脚《あし》の邊《あたり》に張り切らせて走つて來るのである。彼女は、わたしが何か食ひものを吳れると思ひ込んでやつて來るのである。彼女の姿を見てゐると、わたしは、その度每《たびごと》に、『さ、おあがり』と云はないではをられない。

 然し、彼女が呑み込むものは、脂肪にはならないで、みんな乳になる。一定の時刻に、乳房が一杯になり、眞四角になる。彼女は乳を永く溜めて置くと云ふことができない――永く溜めて置く牝牛もあるが――護謨のやうな四つの乳首から、一寸おさへただけで、氣前よくありつたけの乳を出してしまふ。彼女は足も動かさなければ、尻尾も振らない。が、その大きな柔らかな舌で、乳を搾る女の背中を舐めるのである。

 獨り暮しであるにも拘はらず、盛《さかん》な食慾が彼女の退屈を忘れさせる。最近に生み落した犢(こうし)のことを思ひ出して、啼くやうなことも稀れである。たゞ、彼女は人の訪問を悅ぶ。額の上ににゆつと生えた角、一筋《ひとすぢ》の涎《よだれ》と一《ひ》とすべの草とを垂らした、御馳走に飽きたらしい唇とで、愛想よく迎へるのである。

 怖いものなしと云ふ男達は、そのはぢ切れさうな腹を撫でる。と、女どもは、こんな大きな獸(けもの)がそんなにおとなしいのを見て驚く。そして、彼女の愛撫だけには、まだ氣をゆるさないにしても、それがどんなに樂しいかと云ふことについて空想をめぐらすのである。

 

[やぶちやん注:この最終段落は、改版では、『こわいものなしという男たちは、そのはち切れそうな腹を撫でる。と、女どもは、こんな大きな獣(けもの)がこんなにおとなしいのを見て意外に思う。それで、まだ用心をしなければならないのは、例の愛撫だけということになる。そして彼女らは幸福の夢を描くのである。』で、未だ、日本語としては、やや、ぎくしゃくしている。原文がルナールによって改訂増補されており、補正決定版の戦前の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「牝牛」』の訳では、『男たちは、怖(こは)いものなしだから、そのはち切れそうな腹を撫でる。女どもは、こんな大きな獸(けだもの)があんまりおとなしいので驚きながら、もう用心するのも、じやれつかないやうに用心するだけで、思ひ思ひに幸福の夢を描くのである。』となっていて、この方が自然体で、すんなりと、意味が採れる。以下に、本底本の原文を示しておく。

   *

     LA VACHE

   Las de chercher, on a fini par ne pas lui donner de nom. Elle s’appelle simplement « la vache » et c’est le nom qui lui va le mieux.

   D’ailleurs, qu’importe, pourvu qu’elle mange ! et l’herbe fraîche, le foin sec, les légumes, le grain et même le pain et le sel, elle a tout à discrétion, et elle mange de tout, tout le temps, deux fois, puisqu’elle rumine.

   Dès qu’elle m’a vu, elle accourt d’un petit pas léger, en sabots fendus, la peau bien tirée sur ses pattes comme un bas blanc, elle arrive certaine que j’apporte quelque chose qui se mange, et l’admirant chaque fois, je ne peux que lui dire : Tiens, mange !

   Mais de ce qu’elle absorbe elle fait du lait et non de la graisse. À heure fixe, elle offre son pis plein et carré. Elle ne retient pas le lait, — il y a des vaches qui le retiennent, — généreusement, par ses quatre trayons élastiques, à peine pressés, elle vide sa fontaine. Elle ne remue ni le pied, ni la queue, mais de sa langue énorme et souple, elle s’amuse à lécher le dos de la servante.

   Quoiqu’elle vive seule, l’appétit l’empêche de s’ennuyer. Il est rare qu’elle beugle de regret au souvenir vague de son dernier veau. Mais elle aime les visites, accueillante avec ses cornes relevées sur le front, et ses lèvres affriandées d’où pendent un fil d’eau et un brin d’herbe.

   Les hommes, qui ne craignent rien, flattent son ventre débordant ; les femmes, étonnées qu’une si grosse bête soit si douce, ne se défient plus que de ses caresses et font des rêves de bonheur.

   *]

2024/09/08

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 比江村百姓狼之毒

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。狼の恐ろしさの関連で前話と直連関する怪異譚である。特に冒頭に第一話は、ちょっと聞いたことがない悲惨な結末である。]

 

      比江村百姓狼之毒(おほかみのどく)

 比江村の百姓、先年、大旱(おほひでり)にて、夜分に、田へ、水を仕掛(しかけ)に行(ゆき)、田に臥(ふし)て居(をり)ける。

 其所(そのところ)は、山に近き所にて、尋常、夜分、狼(おほかみ)など來りける。

 右の者、臥(ふし)たる上を、山犬(やまいぬ)、來り、飛越(とびこ)しに、

『何やら、「ひやり」と、かゝりし。』

と、覺へ[やぶちゃん注:ママ。]しに、半身(はんしん)、痒(シビレ)、口、噤(つぐ)み[やぶちゃん注:喋ることが出来ず。]、手足も、半身、屈(カヾミ)て、用に不立(たたず)、世渡(よわたる)手業(てわざ)も難成(なしがたく)して、終(つひ)に乞食と成(なり)けると也。

「惣(そう)じて、山犬に逢ふたる時、つまづき轉(ころば)ぬが、肝要也。山犬、跡(あと)・先(さき)へ行(ゆき)、若(もし)も、ころびぬれば、必ず、其上を、飛(とび)またぎ、小便を、しかくる。」

と、いへり。

「小便、かゝれば、一躰(いつたい)、すくむ。」

と也。

 又、

「穢火(ゑくわ)を食して[やぶちゃん注:「穢れた火」ではなく、「穢れたもの(四足獣や蛇等であろう)を焼いて喰らって」の意であろう。]、山中を行けば、山犬、付(つく)る。」

と、いふ。

「先年、幡多郡(はたのこほり)上山の鄕士北次郞左衞門と云(いふ)者、穢火を食ふて、宿(やど)へ歸(かへり)けるに、山犬、三、四疋も、附來(つききた)り、跡へ、成(なり)、先へ、なりて、自分の家近くまで、附來(つけきたり)けるが、自分の犬、吠(ほえ)ければ、附(つき)、のきける。」

と也。

 

[やぶちゃん注:またしても、「近世民間異聞怪談集成」の判読のレベルの低さに呆れた。「噤み」の「噤」の字を、「喋」と起こしている。意味を考えても、読めないのは中学生でも判るぞ! しかも、崩し字は非常に綺麗なもので、国立公文書館本を見ても(42)、崩し字とは言えないはっきりした「噤」である。こんなのは、古文書のド素人でも間違えない! どう逆立ちしたら、こんな字起こしが出来るんダッツーの!!!

「比江村」現在の高知県南国市(なんこくし)比江(ひえ)。

「水を仕掛(しかけ)に行(ゆき)」これは、水を水路から引く仕事ではなく、周縁の百姓が水路を操作して盗みにくるの夜警するための行動であろう。

「幡多郡(はたのこほり)上山(かみやま)」複数回既出既注だが、再掲すると、「幡多郡」は高知県の西南部に当たる広域の旧郡名。但し、当該ウィキによれば、今も、天気予報などで、「幡多地域」と呼ばれているとある。旧郡域はそちらの地図を見られたい。その「上山(かみやま)」は、現在の高知県の四万十川上流の山間部に位置する、概ね大部分は、現在の高知県高岡郡四万十町(しまんとちょう)昭和や、その南東直近にある高知県高岡郡四万十町大正などを含む広域山間部の旧称である。]

「鄕士」これも再掲する。土佐藩では、藩の武士階級として「上士」・「郷士」という身分制度があり、「郷士」は下級武士で、暮らし向きも、ひどく貧しいものだった。但し、後の幕末の、土佐勤王党の武市半平太や坂本龍馬などの志士が現れている。

「北次郞左衞門」不詳。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 﨑之濵鍛冶之祖母

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。標題は「さきのはま、かぢの、そぼ」と訓じておく。]

 

     﨑之濵鍛冶之祖母

 野根山(のねやま)の伏木といふ大木、近年、倒(たふ)れて、今に、有(あり)。

 此(この)木は、昔、奈半利(なばり)の女、㙒根(のね)へ行(ゆき)、道半(みちなかば)にて產(さん)せし時、飛脚、行(ゆき)かゝりて、產婦を、揚げ置(おき)し木也。

 山犬(やまいぬ)、夥敷(おびただしく)來りし時、飛脚、山犬を、悉く、切伏(きりふせ)ければ、山犬が云(いふ)、

「﨑濵の『鍛冶(かぢ)が婆々(バヾ)』を呼來(よびきた)れ。」

と言(いひ)しより、須臾(しゆゆ)の內(うち)に、大(おほ)山犬、來りしを、是をも切(きり)たりしより、此女、難を遁(のがれ)つる事、昔咄(むかしばなし)に言傳(いひつた)へし事也。

 其(その)鍛冶が居宅(きよたく)の跡、﨑濵、田中に、「石ぐろ」にしてあり。

「今、鍛冶が子孫は、絕(たへ)て、なけれども、其血緣(けちえん)のもの、男女(なんによ)とも、一躰(いつたい)の毛(け)、逆(さかさ)に生(はえ)る。」

と、いへり。

 手の毛を、下へ撫(なづ)れば、逆立上(さかだちあが)り、上へ撫れば、順(したがふ)なる。」

と、いふ。

「『鍛冶が婆々』の、血緣(けちえん)の、しるし。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:「﨑之濵」現在の室戸市佐喜浜町(さきはまちょう:グーグル・マップ・データ)。

「野根山」佐喜浜町の現在の町界を、少し、北へ抜けた、安芸郡北川村(きたがわむら)弘瀬(ひろせ)にある標高九百八十四メートルの野根山(グーグル・マップ・データ)。「ひなたGPS」の国土地理院図の方で標高を調べた。ここは、山犬(絶滅したニホンオオカミと思われる)に襲われるほどの山中であるが、実は、ここには。非常に古くからある旧「野根山街道」があるのである。平凡社『日本歴史地名大系』によれば、この街道は『高知城下から東行して海岸沿いに阿波国に至る土佐街道(東街道)のうち、野根山(九八三・四メートル)を越える奈半利(なはり)』(本文に出るところの現在の安芸郡奈半利町(なはりちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ))『から』、『野根』(現在の高知県安芸郡東洋町(とうようちょう))『までの』山越えの『街道をいう。「土佐幽考」は「自奈半利村至野根甲浦、通阿波国那賀郡宍喰村、坂路也、山中行程十里高峻凌雲」と記す』。『野根山越の道は古く、「続日本紀」養老二年(七一八)五月七日』の『条に「土左国言、公私使直指土左、而其道経伊与国、行程迂遠、山谷険難、但阿波国、境土相接、往還甚易、請就此国、以為通路、許之」とあり、この時』、『土佐国府への官道が阿波国から直接土佐に入るルートに変更された。そのルートは異説もあるが、野根山を越える』、『のちの土佐街道(東街道)ともされる。この道も延暦一五年(七九六)には廃され、のちの北山(きたやま)越の土佐街道(北街道)にあたるルートに代えられた』。『しかし以後も』、『野根山越の道は使用されており、承久三年(一二二一)土御門上皇が』「承久の乱」の朝廷方の敗北によって、自ら望んで配流となった『土佐国畑(はた:幡多)』(伝承地はここ)『へ流される途中』、『雪にあい、難渋した折に「うき世にはかゝれとてこそ生まれけめことはり知らぬ我涙かな」と詠じた』(「増鏡」)『のも、野根山越の途中とするのが通説である』とあった。ここに、街道の「一里塚」・「お茶屋場」・「塚ノ塔」の史跡がポイントされている。

「伏木」読み不詳。「ふしき」或いは「ふせぎ」か。伝承内容からは「防ぎ」も利かした後者か。

「鍛冶が婆々(バヾ)」老いた雌の狼であろう。四国には狐は自然分布していなかったとする説が永く支配的であったが、どうも現在では、少数の個体群が自然分布していることが確認されている。但し、本土のような狐憑きの伝承は四国には少ないと思われ、その代りに、古くから「犬神憑き」が、よく知られているのである。狼と野犬は、民俗社会では、明確に弁別されていたわけではないので、相互転換は普通に意識の中で行われていたものと思う。

「﨑濵、田中」現在の佐喜浜町には「田中」という地名はない。「ひなたGPS」の戦前の地図も調べたが、見当たらない。とすれば、これは或いは地名ではなく、一般名詞の「でんちゆう」ではあるまいか? そうすると、以下の「石ぐろ」が、「石畔(畦・壠)」であって、「土の代わりに石を盛り上げた田の境・あぜ」、或いは、「他の中の石で以って小高くなった場所」の意で、躓かないのである。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 國澤杦右衞門祖母掌文

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。「杦」は「杉」の異体字。標題は「くにざはすぎゑもん、そぼ、てのひらのもん」と訓じておく。]

 

      國澤杦右衞門祖母掌文

 

 國沢杦右衞門の祖母、掌に、「。。」、如此(このごとき)、紋(もん)に似たる、白き文(もん)、有(あり)。

 然(しか)るに、此婦人、國沢氏へ嫁(か)してより、段〻、家、富(とみ)、繁昌(はんじやう)したる故(ゆゑ)、家の「紋」に用ひられし、と也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「國沢杦右衞門」不詳。但し、土佐藩士には、長宗我部家から分かれた「國澤氏」はある。

「。。」は底本では「◦」が正三角形の頂点に配された形。家紋では「三つ星」と呼ぶ。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 南天燭

 

Nanten

 

なんてん   南燭草木 南燭

        惟那木 男犢

南天燭    猴菽草 牛筋

        鳥飯草 染菽

ナンテン チヨツ   墨飯草 楊桐

 

本綱南燭是木而似草故稱草木之王人家多植庭除間

此木至難長初生三四年狀若菘菜之屬亦頗似巵子二

三十年成大株葉不相對似山礬光滑味酸凌冬不凋枝

莖微紫大者高三四尺而甚肥脆昜摧折也七月開小白

花結實成簇生青九月熟則紫色內有細子其味甘酸小

兒食之取汁漬米作烏飯食之健名之青精飯或云其子

赤如丹

枝葉【苦酸濇】 止泄除睡强筋益氣力久服長年令人不饑

子【酸甘】 強筋骨益氣力固精駐顔

△按南天燭【俗云南天】𦘕譜名闌天竹其葉儼似竹生子成穗

[やぶちゃん字注:「𦘕」は「畫」の異体字。]

 紅如丹砂經久不脫植之庭中可避火災甚驗亦可入

 糖𮔉供食

[やぶちゃん字注:「𮔉」は「蜜」の異体字。]

 原生山中故性惡濕糞之茶煎滓或注米泔水亦可也

 種子能生其子朱赤色剥皮內白如大豆肉爲二片未

 見紫色內有細子者近頃出子白南燭以爲珍凡用南

 燭葉布於饙飯以檜葉布於饅頭饋之皆以無毒也凡

 此樹雖難長而山陽地有大木作州土州之山有長二

 𠀋余太周一尺二三寸者作枕俗謂邯鄲枕【邯鄲枕事見中華卷】

 以希有之物稱之耳遠州一宮滿山皆南天實盛甚美

 

   *

 

なんてん    南燭草木《なんしよくさうもく》

        南燭

        惟那木《ゐなぼく》

        男犢《だんとく》

南天燭    猴菽草《こうしゆくさう》

        牛筋《ぎうきん》

        鳥飯草《うはんさう》

        染菽《せんしゆく》

        墨飯草《ぼくはんさう》

ナンテン チヨツ   楊桐《やうとう》

 

「本綱」に曰はく、『南燭《なんしよく》は、是れ、木にして、草に似《にる》。故《ゆゑ》、「草木《さうもく》の王《わう》」と稱す。人家に、多く庭除《ていじよ》[やぶちゃん注:庭。或いは、庭と階段。]の間に植《う》≪う≫。此の木、至つて、長《ちやう》じ難《がたし》、初生、三、四年は、狀《かたち》、「菘菜《しような》」の屬のごとく、亦、頗《すこぶ》る、「巵子(くちなし)」に似《にる》。二、三十年にして、大≪きなる≫株と成《なる》、葉、相《あひ》對《たい》せず。「山礬《さんばん》」に似《に》、光滑にして、味、酸《すつぱし》。冬を凌ぎ、凋まず。枝・莖、微《やや》紫。大なる者、高さ、三、四尺にして、甚だ、肥《こえ》、脆《もろく》、摧折《くだけを》れ昜《やす》し。七月、小≪さき≫白花を開き、實を結ぶ。簇《むらがり》成し、生《わかき》は青。九月、熟すれば、則ち、紫色。內《うち》に細≪かなる≫子《たね》、有り。其の味、甘酸にして、小兒、之れを食ふ。汁を取りて、米に漬け、「烏飯《うはん》」と作《な》して、之を食ふ。健《すこやか》なり。之れを「青精飯《せいせいはん》」と名づく。或いは、云ふ、「其の子《み》、赤きこと、丹《に》のごとし。」と。』≪と≫。

『枝葉【苦酸、濇《しぶし》。】』『泄《せつ》[やぶちゃん注:下痢。]を止め、睡《ねむけ》を除き、筋骨を强くし、氣力を益し、久≪しく≫服すれば、長年《ながいき》し、人をして饑《うゑ》ざらしむ。』≪と≫。

『子《み》【酸甘。】』『筋骨を強くし、氣力を益し、精を固(かた)くし、顔《かほ》を駐《とど》む[やぶちゃん注:正常な状態に保つ。東洋文庫訳では『つやつやする』と訳す。]。』≪と≫。

△按ずるに、南天燭《なんてんしよく》【俗に云ふ、「南天」。】は、「𦘕譜《ぐわふ》」に、『闌天竹《らんてんちく》』と名づく。其の葉、儼《たしか》に竹に似《に》≪て≫、子《み》を生《しやう》≪じ≫、穗を成す。紅《くれなゐ》なること、丹砂《たんしや》のごとし。久≪しきを≫經《へ》て、脫(を[やぶちゃん注:ママ。])ちず。之れを、庭≪の≫中に植≪うれば≫、火災を避く。甚だ、驗《げん》あり。亦、糖𮔉《たうみつ》を入れて、食に供す。[やぶちゃん字注:「𮔉」は「蜜」の異体字。]

 原(もと)、山中に生ず。故《ゆゑ》、性、濕《しつ》を惡《い》む。之れに糞《つちか》ふ[やぶちゃん注:肥料を与える。]に、茶の煎滓《せんじかす》、或いは、米≪の≫泔水《とぎじる》を注《そそ》ぐ≪も≫亦、可なり。子《み》を種(まひ[やぶちゃん注:ママ。])て、能く生ず。其の子《み》、朱赤色。皮を剥(は)げば、內《うち》、白≪く≫、大豆《だいず》の肉のごとく、二片と爲《な》る。未だ、紫色にて、內に細≪き≫子《たね》有つ者を見ず。近頃《ちかごろ》、子(み)白の南燭を出《いだ》す。以つて、珍と爲す。凡そ、南燭の葉を用ひ、饙飯(こはめし)に布(し)き、檜の葉を以つて、饅頭《まんぢゆう》を布きて、之れを饋《おく》る。皆、無毒を以つてなり。凡そ、此の樹、長《ちやう》じ難しと雖も、山陽の地には、大木《たいぼく》、有り、作州《さくしう》・土州《としう》[やぶちゃん注:「美作(みまさかの)國」・「土佐國」。]の山に、長さ、二𠀋余、太(ふと)さ≪の≫周(めぐり)、一尺二、三寸の者、有り。枕《まくら》に作り、俗、「邯鄲《かんたん》の枕」と謂ふ【「邯鄲の枕」の事は、「中華」の卷に見ゆ。】。希有《けう》の物を以つて、之れを稱するのみ。遠州《ゑんしう》、「一の宮」は、滿山《まんざん》、皆、南天にして、實《み》の盛り、甚《はなはだ》、美なり。

 

[やぶちゃん注:この項、東洋文庫版では、珍しく後注で、詳細な種同定に係わる内容を載せる(当該書は訳の中で種名まで出すことは、思いの外、少なく、科止まりの割注で示すことが甚だ多い(中国・本邦ともに標準種名と、本文の漢字や読みがほぼ一致する場合、特にそうした簡略処理で済ましている部分が甚だ多い)。以前にも言ったが、日本最初の百科事典の全訳でありながら、ちゃんと標準種名を示さないのは、根本的に不備極まりない仕儀である)。頭の「注一」は省略した。

   《引用開始》

 南燭 『国訳本草綱目』で牧野博士は南燭にシヤクナゲ科シヤシヤンボをあてておられる。しかし、難波恒雄氏は『花とくすり――和漢薬の話』(八坂書房)で、「ナンテンを中国で南天燭、南天竺、あるいは南天竹などと称していたものと思われる」とし、『本草綱目』の図はシャシャンボに似ているが、ナンテン(メギ科)に七も似ており、記事は明らかにナンテンを指していると思われるから、牧野富太郎博士が南燭にシャシャンボをあてているのは信じがたい、とされている。ちなみに北村四郎氏によれば『新註校定国訳本草綱目』の頭注で、『本草綱目』の南燭の記事の中には、ナンテンの説明(蘇頌の説)とシャシャンボの説明(時珍の説)とが混在していると指摘されている。

   《引用終了》

最初の牧野富太郎が植物部を校定したそれは、国立国会図書館デジタルコレクションでは見ることが出来ないが、後の『新註校定国訳本草綱目』第九冊(鈴木真海訳(旧版をスライドさせたもの)・白井光太郎(旧版監修・校注)/新註版:木村康一監修・北村四郎(植物部校定)・一九七五年春陽堂書店刊)の当該部が、国立国会図書館デジタルコレクションのここで視認出来る。そこでは、本文の標題「南燭」の下方に、旧版で牧野が同定比定した(学名が斜体でないのはママ)、

   *

 和 名 しやしやんぼ

 學 名 Vaccinium bracteatum,  Thumb.

 科 名 しゃくなげ科(石南科)

   *

が記されてあり、罫外頭注に、

   *

 南燭 時珍のは、シャシャンボである。陳嶸『中国樹木分類学』[やぶちゃん注:作者は「ちんこう」と読む:南京・中華農學會一九三七年刊。]九六七ページに寒節[やぶちゃん注:「寒食(節)」のことであろう。古く中国で、冬至から百五日目は風雨の烈しい日として、火断ちをして、煮炊きせずに物を食べた風習。また、その期間。]葉で飯を染めるのはこれであるという。

蘇頌のはナンテンである。『紹興本草』の江州南燭の図はナンテンである。(北村)

   *

とある。「蘇頌」(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)は北宋の科学者で宰相。「本草圖經」等の本草書があった(原本は散佚したが、「證類本草」に引用されたものを元にして作られた輯逸本が残る。時珍は彼の記載を「本草綱目」で、かなり引用している。

 また、難波恒雄「花とくすり――和漢薬の話」(一九八一年八坂書房刊)の当該部も国立国会図書館デジタルコレクションの「ナンテン」の項で視認出来る(当該部分は右ページの八行目以降)。難波氏は同所では、牧野のシャシャンボ説を誤りとし、ナンテンに比定同定している。

 以上から、「本草綱目」自体は、一部に、

△双子葉植物綱ツツジ目ツツジ科スノキ属シャシャンボ Vaccinium bracteatum

の記載と思われるものがあるものの、総体と、良安の認識は、

◎キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica

であると言ってよいだろう。ああっ! 『東洋文庫』! 総ての項で、こうした後注を附して欲しかったなぁ! そうしたら、注の苦しみが半減以下になったのに!!

 まず、「ナンテン」のウィキを引く(注記号はカットした)。同種は一属一種であり、『中国原産で、日本には江戸期以前に伝わった。庭木として植えられ、冬に赤くて丸い実をつける。乾燥させた実は南天実(なんてんじつ)として咳止め伝統医薬とされる』。『和名ナンテンの由来は、中国語の音読み。「南天」は南天竺(なんてんじく)からの渡来の意味で、南天竺とも、南天燭(なんてんしょく)とも、南燭とも書く』(しかし、これでは中国原産がおかしいことになる。「ブリタニカ国際大百科事典」では、『インドおよび中国の原産』とあり、また、フランス語の同種のウィキ(珍しく英語の当該種のウィキがない)では、『東アジア・ヒマラヤ・日本原産』とし、「維基百科」の同種の「南天竹」では、現原産を『中国・日本』するが、孰れも最後の「日本」はアウトだな)。『漢名(中国植物名)は、冬に目立つ赤い果実から灯火を連想して南天燭、また葉や幹の姿が竹に似ることから南天竹(なんてんちく)と名付けられた』。三『枚の葉が特徴的で、古い別名で「三枝」と書いてサエグサと読ませた、あるいはサエグサに「三枝」の字を当てたと和歌山県の博学者、南方熊楠が述べている』(これは南方熊楠の「七月に花咲く庭木」(大一四(一九二五)年七月二十九日から三十一日まで『大阪每日』に連載)正冒頭の「南天」の一節である。国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右ページ二行目以降)で視認出来る。なお、万一、同図書館に本登録しておられない方のために、サイト「私設万葉文庫」の『南方熊楠全集』6(新聞随筆)・一九七三年平凡社刊)で電子化された同随筆の全文が読めることを言い添えておく)。『学名の属名 Nandina は、和名のナンテンがそのまま訛って用いられた。英名の Sacred Bamboo (セイクレッド・バンブー)は、細い幹が株立ちしている様子からの連想、あるいは中国で「聖竹」ともいうところからの直訳とみられている』。『学名の命名者は』一七八一『年に、スウェーデンの植物学者カール・ツンベルク』(Carl Peter Thunberg 一七四三年~一八二八年)『によるものであるが、日本国外の植物学者で日本のナンテンを初めに知り、記録したのはドイツのエンゲルベルト・ケンペル』(エンゲルベアト・ケンプファー Engelbert Kämpfer 一六五一年~一七一六年)『であった。ケンペルはヨーロッパに日本を紹介した』「日本誌」(‘ Geschichte und Beschreibung von Japan ’)『の原著者として知られる人物で』一六九〇年(元禄三年)『に来日して』二『年間』、『滞在したが、ナンテンの記録は発表されなかった』。一七七五年(安永四年)『にスウェーデン人のツンベルクが、表向き』、『当時』、『認められていたオランダ人医師という名目で来日し、その後』、「日本植物誌」(‘ Flora Japonica ’)『を出版した際にケンペルの記録と図を用いた。これが初めてヨーロッパにナンテンが紹介されたものとされている』。『日本では茨城県以西の本州・四国・九州の暖地、山地渓間に自生(古くに渡来した栽培種が野生化したものだとされている)し、観賞用に庭木としてや玄関前などに植えられるなど、栽培されている』。『原産地(中国)のほか、中国南部からインドまで分布する』(正確な原産地指示、遅過ぎ!)。『常緑広葉樹の低木。樹高は』一~三『メートル』『ぐらい、高いもので』四~五メートル『ほどになり、株立ちとなる。幹は叢生し、幹の先端にだけ葉が集まって付く独特の姿をしている。樹皮は褐色で縦に溝がある』。『葉は互生し』、三『回』三『出羽状複葉で、小葉は広披針形で先端が少し突きだし、葉身は革質で深い緑色、ややつやがあり、葉縁は全縁。葉柄の基部は膨らみ、茎を抱く。羽軸、小羽軸に関節があり、園芸種では形や色に変化がある。秋になって葉が黄色、次いで朱色、そして紅色に染まったものも美しく、冬に葉が赤くなる品種もある』。『花期は初夏』の五~六月頃で、『茎の先端の葉の間から、円錐花序を上に伸ばし』、六『弁の白い花を多数つける。雄しべは黄色で』六『本、中央の雌しべには柱頭に紅色が差す』。『果期は晩秋から初冬にかけて』の十一~十二月で、普通は『赤朱色、ときに白色で、小球形の果実をつける。果実は初冬に熟し、果皮は薄く、破けやすい。実の白いものはシロミノナンテンという園芸種で、これもよく栽培されている。果実は鳥に食べられることで、種子が遠くに運ばれて分布を広げる』。『冬芽は赤褐色で鞘状の葉柄基部に包まれているため、ほぼ直接見ることは出来ない。春になると、この葉柄基部が膨らんで、葉芽や花芽を伸ばしてくる』。『日本の庭木としては一般的で、住宅の庭や大きな庭園にも使われる。常緑の葉と赤い果実の色彩が妙で、冬の庭園に彩りを与えている。園芸種も豊富にある。生け花の花材としても用いられる』(私の今の家の旧家の時、裏庭にあって、幼少期から見慣れていたので、好きな樹となった)。『乾燥させた実は薬用として用いられ』、『南天実(なんてんじつ)として咳止め伝統医薬とされる。成分はドメスチン、イソコリジン。和薬(局方外生薬規格)で漢方薬ではない』。『平らに広がった複葉全体の感じが見栄えすることから、料理のあしらい、掻敷(かいしき)に好まれる。料理のあしらいに使われるのは、単に葉の美しさというだけに留まらず、笹の葉と同様に毒消しの意味が大きいとされる』。『材質は堅硬だが』、『生長が遅く』、『太材が得られないため』、『木材として流通することは少ない。しかし読みを「難転」「難を転じる」と解釈して縁起木とされて』、『箸や杖が作られる。また塊根状の地下部分から茶入れ、棗など工芸品が作られる。 まれに大きく育った幹を床柱として使うことがあり、鹿苑寺(金閣寺)の茶室、柴又帝釈天の大客殿などで見られる』。『日本の本州(関東以南)の寒冷地以外では露地植えできるため、庭木として庭先などでよく見られる。繁殖は挿し木で増やすことができ、春の萌芽前に挿すか、梅雨時期に株分けを行う。種子を採り蒔きすれば、容易に発芽する』。『江戸時代に様々な葉変わり品種が選び出された園芸種が盛んに栽培された。古典園芸植物として現在も錦糸南天など』、『一部が保存栽培されている。白い果実をつけるシロミナンテン』( Nandina domestica 'Shironanten')『は薬用に喜ばれ』、『希少価値がある』。『オタフクナンテン』( Nandina domestica 'Otafuku-nanten')『(葉がやや円形なのでオカメナンテンとも)は、葉が鮮やかなに紅葉しやすく実がつかないのが特徴で、高さも』五十センチメートル『程度しか伸びないことから』、『庭園や街路樹としてよく用いられる』。『葉は、南天葉(なんてんよう)または南天竹葉(なんてんちくよう)という生薬で、健胃、解熱、鎮咳などの作用がある。葉に含まれるシアン化水素は猛毒であるが、含有量はわずかであるために危険性は殆どなく、食品の防腐に役立つ。このため、彩りも兼ねて弁当などに入れる。古くは薬用として下痢止め、あるいは吐剤として不消化物を食べたときに使うなどされた。熊本県旧飽田町(現熊本市南区)では、すり潰したナンテンの葉の汁を濾したものを小麦粉の生地に加えた麺料理「しるかえ」を作る。もっとも、これは薬用でなく、食あたりの「難を転ずる」というまじないの意味との説もあり、当初から、殺菌効果があると分かって赤飯に添えられたり、厠(手洗い)の近くに植えられたのかは定かではない』(そうそう! 昔の家の南天は文化便所の外に茂っていたな)『実は、南天実(なんてんじつ)または南天竹子(なんてんちくし)といい』、十一月~十二『月から翌』二『月にかけて』、『実が成熟したときに、果穂ごと切り取って採取し、天日で乾燥して脱粒する。果実に含まれる成分としては、アルカロイドであるヒゲナミン・イソコリジン・ドメスチン(domesticine)・プロトピン・ナンテニン(nantenineo- methyldomesticine)・ナンジニン(nandinine)・メチルドメスチンや、配糖体のナンジノシド(nandinoside)などの他、種子には脂肪油のリノール酸・オレイン酸・フィトステロールや、プロトピン、フマリン酸などが知られている。鎮咳作用をもつドメスチンは、温血動物に対して多量に摂取すると、大脳、呼吸中枢の麻痺作用があり、知覚や運動神経にも強い麻痺を引き起こすため、素人が安易に試すのは危険である。また、近年の研究でナンテニンに気管平滑筋を弛緩させる作用があることが分かった。また、ナンジノシドは抗アレルギー作用を持ち、これを元にして人工的に合成されたトラニラストが抗アレルギー薬及びケロイドの治療薬として実用化されている。脂肪油のリノール酸は、コレステロールの血管への沈着を防ぎ、動脈硬化の予防に役立つ。赤い実も白い実も成分は同じで、薬効は変わらない』。『知覚神経の局所麻酔、運動神経の麻痺作用があることから、鎮咳に有効とされていて、民間療法では、咳、百日咳、二日酔いに南天の実』を『服用する用法が知られている』。但し、喘息の『咳には南天実だけでは止められないので、専門医の指導で漢方薬を用いる必要がある。のどの渇き、黄色い痰の出る人に良いと言われているが、ナンテンは毒性も併せ持つため用量に注意が必要となり、また身体が冷える人への服用は禁忌とされている。扁桃炎や口内炎、のどの痛みには、うがい薬代わりに南天葉』を『煎じた』『液でうがいに用いる。湿疹には、葉を』五十『グラムほどを布袋に入れて、浴湯料として風呂に入れる。かつて、民間では船酔いにナンテンの葉を噛んでいた』。『毒成分』は『ナンテニン、ナンジニン、メチルドメスチシン、プロトピン、イソコリジン、ドメスチシン、リノリン酸、オレイン酸』で、『毒部位』は『全株、葉、樹皮、実、新芽』。『毒症状』は『痙攣、神経麻痺、呼吸麻痺』とある。『「ナンテン」を「難転」すなわち「難を転ずる」とみて、縁起の良い木とされた』。『花言葉も「福をなす」である』(。『俳句では、南天の花は仲夏の季語、実は三冬の季語とされる』。本種は、『縁起物として』、『「(難を転じて)福をもたらす、(災い転じて)福となす」と続けて、福寿草や葉牡丹と一緒に鉢植え(根を張るように)にしたものを、正月の飾り花として床の間に飾る習慣や、安産祈願の贈りものとされていた。 赤い色にも縁起が良く厄除けの力があると信じられ、江戸後期から慶事に用いるようになったという』。『江戸期の百科事典』「和漢三才圖會」『には』、『「南天を庭に植えれば火災を避けられる」とあり、赤い実が逆に「火災除け」として玄関前に庭木として、縁起木として鬼門または裏鬼門に、あるいは便所のそばに「南天手水」と称し葉で手を清めるため』、『植えられた』。『南天の箸を使うと病気にならないという言い伝えがあり、幼児のお食い初めに使われるといわれる。贈答用の赤飯にナンテンの生葉を載せているのも、難転の縁起からきている』。『邯鄲の枕は唐の沈既済』(しんきさい)『の小説』「枕中記」の『故事の一つであるが、その枕はナンテンの材でつくったとされる。ここから枕の下にナンテンの葉を敷いて寝ると悪夢を払うという言い伝えがある。日本では床にナンテンを敷いて妊婦の安産を祈願したり、武士が出陣前に床に差して、戦の勝利を祈願するためにも使われた』。『活け花などでは、ナンテンの実は長持ちし』、『最後まで枝に残っている。このことから一部地方では、酒席に最後まで残って飲み続け、なかなか席を立とうとしない人々のことを「ナンテン組」という』(これは知らなかった!)。

 さて、次いで、聴き馴れない「シャシャンボ」も同前で当該ウィキを引いておく。漢字表記は『南燭・小小坊』で、『別名は、ナガバシャシャンボ、シャセンボ』。『漢字表記では「小小坊」と書くが』、『これは当て字で、シャシャンボの実際の語源は古語のサシブ(烏草樹)が訛ったものである』。『日本の関東地方南部・石川県以西の本州、四国、九州、沖縄と、朝鮮半島南部、中国、台湾に分布する。暖地の海沿いに生え、やや乾燥したところに多く見られる。庭木としても植えられる。佐世保の地名の由来ともいわれる』。『常緑広葉樹の低木または小高木。日本のスノキ属の植物には小柄なものが多い中で、かなり大きな樹木になるものである』。『枝は当初は細かい毛があるが、やがて無毛となり、白くなる。葉は長さ』二・五~六『センチメートル 』『の楕円形、やや厚い革質で表にはつやがあり、葉脈は』、『ややくぼむので、表面に網目状の溝があるように見える。葉裏の主脈上に小さな突起がある。葉縁には細かい鋸歯がある』。『花期は』七『月頃で、白色の鐘形の花が鈴なりになって咲く。花序は総状で、前年の枝の葉腋から出て、やや横向きに伸び、多数の小さな葉が付いている。果実は直径』五『ミリメートル』『ほどの球形の液果で、黒紫色に熟すと白い粉が吹いて食べることができる。これは同属のブルーベリー類と同じく、アントシアニンを多く含む』とある。因みに、「維基百科」の同種の標題は「南で、こりゃ、ナンテンと混同して、チョーヤバいわ。「」は「燭」の簡体字だもん!

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「南燭」の記載のパッチワークである([088-45a]以下)。

「猴菽草」この「菽」(シュク)はマメ。豆類の総称。ナンテンの実の形からであろう。

「鳥飯草」本文にも「烏飯」と出るが、東洋文庫訳の割注に『道術家』(羽化登仙することを最終目的とする道教の道士)『の食物という』とある。

「菘菜《しような》」う~ん、現代中国語では、こりゃ、アブラナ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種ハクサイ Brassica rapa var. glabra 'Pe-tsai' だが、およそ、おかしいなぁ。あと、アブラナ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種タイサイ Brassica rapa var. chinensis が中文異名で「小菘菜」なんだが、これって、本邦のインゲンサイやで? ナンテンとは、孰れも似ているとは、逆立ちしても言えん! 判らん! 識者の御教授を乞う!

「巵子(くちなし)」双子葉植物綱リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ品種クチナシ Gardenia jasminoides f. grandiflora (以上は狭義。広義には Gardenia jasminoides )。先行する「巵子」を参照されたい。

「山礬《さんばん》」双子葉植物綱カキノキ目ハイノキ科ハイノキ属 Symplocos 。本邦産の代表種はハイノキ Symplocos myrtacea ではあるが、限定は出来ない。先行する「山礬」を見られたい。

「青精飯《せいせいはん》」「山梨県立図書館」公式サイト内であろうところの、「レファレンス事例」と思しい「赤飯にナンテンの葉を入れるのはなぜか。」という質問への回答に、『赤飯を贈るときにナンテンの葉を敷く風習は、江戸時代にはあった。赤飯にナンテンの葉を敷くのは、1.ナンテンを難転(難を転ずる)の意とする、2.ナンテンの葉の薬効により食物の腐敗を防ぐ、3.青精飯(せいせいはん)との関連による、などの説がある。』とあり、以下の「調査過程」に(一部引用)、

   《引用開始》

■『世界大百科事典』(平凡社 1988)で「赤飯」を引くが、ナンテンについては記載がない。「ナンテン」「強飯(こわめし)」の項を見るが記載なし。

■『日本民俗大辞典』上(吉川弘文館 1999)で「赤飯」「強飯」を引くが、ナンテンの葉については記載なし。この時、まだ下巻は発行されていず、「ナンテン」については未調査。

■『図説江戸時代食生活事典』(日本風俗史学会編 雄山閣出版 1978)の総索引で「赤飯」を引き、「小豆」の項を見ると、「江戸期の学者によると……。吉事や祝儀に用い、ナンテンの葉を敷くのがならわしであった」とあるが、その理由は記載されていない。

■『古事類苑』植物部一(吉川弘文館 1971)で「南天燭」の項を見るが、関連の記載なし。『広文庫』第14巻(物集高見著 広文庫刊行会 1919)で「南天燭」の項を見ると、「……又仙方に南燭の汁にて飯を製する方ありて、其の名を青精飯という、其の色瑠璃のごとくにてめでたき薬なり、今時人の許に飯を送るに南天の葉を敷くも此の縁なるべし」(「夜光璧」)、「今の俗、赤豆飯を贈るに、南天の葉を志くハ、青精飯の遺意なるべし」(「乗穂録」)とある。また、「……又夏日食物を貯へておくに、南天の葉を掩ひ、下にも葉を志けバ、食物腐る事なく味変ぜず……」(「故実叢書安齋随筆」)などの記載あり。

■「青精飯」について調べる。『大漢和辞典(修訂版)』12巻(諸橋轍次著 大修館書店 1986)によると「青精」は南燭の異称で、青精飯は「……四月八日、南天の枝葉を採って搗いた汁に米を浸し、蒸して乾燥したもの。久しく服用すれば顔色を好くし寿を増すといふ」とある。

   《引用終了》

とあった。

「𦘕譜」東洋文庫の巻末の「書名注」によれば、『七巻。撰者不詳。内容は『唐六如画譜』『五言唐詩画譜』『六言唐詩画譜』『七言唐詩画譜』『木本花譜』『草木花譜』『扇譜』それぞれ各一巻より成っている』とあった。

「糖𮔉」砂糖を水に溶かしたもの。

「邯鄲の枕」私が異様に偏愛する作品「枕中記」。私のサイト版の膨大な堆積物である『黃粱夢 芥川龍之介 附 藪野直史注 + 附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈 + 附 同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」 他』を見られたい。全部を精読するには、半日はかかります。お覚悟を――

『「邯鄲の枕」の事は、「中華」の卷に見ゆ』「卷第六十二本」の「廣平府」の「邯鄲枕(かんたんのまくら)」国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版で示しておく。まあ、前のリンク先をお読みになられたあなたには、全く必要ないと存じます。

『遠州、「一の宮」』遠江国一宮である小國神社(グーグル・マップ・データ)。しかし、いくら調べても、この神社のある山が、全山、南天が生えているという話は、ネット上には、全く見当たらないんですけど?

2024/09/07

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 種﨑浦神母社威霊

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   種﨑浦(たねざきうら)神母社(いげのやしろ)威霊(ゐりやう)

 宝氷四年丁亥十月四日の大地震、民屋、轉動、浦々、津浪、入(いり)て流死(ながれじに)數千人(すせんにん)、山岳崒(さんがくすい)[やぶちゃん注:「崒」は「嶮しい」の意。]、崩し、髙山(かうざん)は、忽(たちまち)、谷と成(なり)、深谷(しんこく)は陵(をか)と成(なる)。

 中(なか)にも、種﨑浦は、一草一木(いちさういちもく)、不殘(のこらざり)しに、「神母(ヲイゲ)の社(やしろ)」【イヤガハナ。】のみ、只(ただ)、一社(いつしや)、のこれり。

 

[やぶちゃん注:「種﨑浦」この「種崎」は、浦戸湾の入り口の東北から延びた岬の先端部の高知市種崎(たねざき)である(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。但し、同地区には、「神母の社」に相当するものは、現在は見当たらない。なお、次の注も参照されたい。

「神母(ヲイゲ)の社」ブログ「note」の絢@高知氏の「神母の大楠の下で」によれば(改行多数のため、繋げさせて貰ったが、非常に情感に富んだ素敵な文章なので、総て引用させて戴いた)、『神母と書いて、「いげ」と読む。農耕神、水の神、らしい。神母、いげは、高知県特有の読み方らしい。神母神社という神社が、県内に複数ある。字が先か、音が先かはわからない。でも、母とつくから、女神さまのイメージなんだろうか、とも思う。生命を産み育てる大地の女神』。(以下、「香美市移住定住促進センターブログ」の『いなかみライフ』の『神秘的な地名「神母ノ木」』より引用と最後にある)『香美市地域をご案内していると、「神母ノ木」の読み方を聞かれることがあります。ここは「いげのき」と読みます。この地名が歴史に登場してくるのは江戸時代の文化年間』(一八〇四年から一八三〇年まで)で、『地名の由来は諸説あり、神秘的な雰囲気があるからか、由来について新聞で論戦が繰り広げられたこともありました。この地には「神母(いげ)神社」という神社があります。「神母」と呼ばれる神様は、稲の神、稲を作る田んぼの水の神。その名の由来は、「イ=稲、ゲ=毛で稲の意味」や「池(イケ)⇒イゲ=井」から来ているという説が有力なようです。高知県内には「おいげさん」』(本文の「ヲイゲ」という読みの「ヲ」は「御(お)」のズラしであろう)『と呼ばれる社や祠は』四百『以上あるそうですが』(☜!)、『「神母」は高知特有の単語らしく、日本民俗学の大家である柳田國男も注目したという記録がありました。そして、御神木はその神社の境内にある楠の大木。高さ』十五・五メートル、『枝張り』十九・五メートル、『根回り』五・七メートル、『樹齢』五百『年以上と推定されています』(これは調べたところ、高知県香美市土佐山田町神母ノ木の神母神社である)。一『本の木なのに、まるで森のような迫力があり、香美市指定の天然記念物に指定されています。地名が歴史に登場してくるのは今から』二百『年ぐらい前の話。なので、それよりはるか昔より』、『農耕の神として祀られ、地名にまで関わってきたのではないか、と思わざるを得ません。』(引用終了)『おいげさんとはどうやら、俗に言うお稲荷さんのような存在らしい。稲魂神(ウカノミタマノカミ)、オオゲツヒメ、保食神(ウケモチノカミ)。豊受大神(トヨケノオオカミ)。いろんな想像ができる。神母ノ木という地名の場所に、大きなクスノキがあるのは知っていたが、実際見たことはなかった。近いからいつでも行けると思い、そのまま行かずに三年、ここまできた類だ。このたび』、『県内でもわりと遠くにすむ友達が、所用でこの辺りを通り過ぎるので一緒に行こうと誘ってくれた。地域外の人の気になる場所は地元の人ほど行かない、というのは』、『ままあることだ。樹齢』五百『年あまりと伝えられる大きなクスノキは』、『ふきさらしの河川敷のそばに、御神木らしいのに』、『しめ縄もなく、その、あるがままに立っていた。清々しいほどに、あるがままで、開けっぴろげで、大きな優しい木陰を作っていた』(以下に画像四葉有り)。『上の写真の灰色の人間が私』百六十五センチメートル『である。大きさが想像していただけるだろうか。後ろの青い鉄橋の下に細く青く見える水面は、物部川』(ものべがわ)『という、実はとても大きい川である。わざわざ、ここに来たいといってくれた友達に感謝である。こんなに気持ちのいい場所を知らずに』、『近くで暮らしていた。不覚…』。『河原とは、古来から誰の土地でもない。水が溢れれば、流される場所に、個人の所有物を置く人はいない。不安定である。でも、自由でもある。誰がきても、いい。場所は、たっぷりある。唄っても、おどっても、昼寝しても、釣りをしても、本を読んでも、絵を描いても、青春を叫んでもいい。当初アウトローの文化であった歌舞伎小屋は河原に立つモノだったそうな。歌舞伎役者は河原者と呼ばれたらしい。アートが好きなその友達が唄おうと言ってくれたので、ごくささやかな声で一緒に唄っていたら、ウグイスや他の鳥のさえずりも聞こえた。一緒に唄っているみたいで、楽しかった』。五百『年もの間、この木の下で、沢山の人が唄っただろう。沢山の人を見つめていただろう。こんな守られた風でもない開けた場所で、よくぞ生きていてくれましたと、大きなクスノキに手を合わせた』とあった。試みに、「神母神社」で検索すると、高知市、及び、その周辺の南国市(なんこくし)・高岡郡・須崎市・土佐市に、実に二十にも及ぶ「神母神社」が確認出来る。@高知氏が述べられているように、これが、所謂、田の神(=山の神)系の産土神であるのであれば、これ以外にも、ポイントされていない現存する旧「神母」を祀る像がある可能性は極めて高く、或いは、明治のおぞましき一村一社政策によって、強引に移されて合祀させたもの、或いは、近代化の中で祀られずに消えていった「神母の社」も多かったものと推定されるから、前の種崎地区にも、そのような形で扱われたそれが、あったとして、何ら、おかしくはない。「ひなたGPS」の戦前の「種﨑」地区を見ると、中央の「浦戶灣」側の「」記号の位置には、現行は神社はないから、これも一つの候補となるやもかもしれない。或いは、現在の種崎にある種崎天満宮の位置は、戦前の位置とは半島の南東に移動しており、或いは、前の消えた神社を含め、この天満宮に合祀された可能性も大いにありそうな話ではある。

なお、絢@高知氏が引用の中で言及されている柳田國男の関心を示した記載というのは、或いは、明治四四(一九一一)年十月十一日夜発信の南方熊楠宛書簡の末尾で、まさに本書を挙げて(国立国会図書館デジタルコレクションの「柳田国男南方熊楠往復書簡集」(飯倉照平編・一九七六年平凡社刊)のここを視認した。太字は底本では傍点。なお、所持する平凡社の「南方熊楠選集」別巻の同往復書簡集には所収していなかった)、

   *

 昨年、土佐の風土記の『南路志』をよみ候に、かの国にては、神母とかきてイゲと呼ぶ神祠きわめて多し。他の国にてはあまり多くきかず。これにつきて何か御心あたりは無之や、伺い上げ候。

   *

というのを指すかと思ったが、さらに調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの柳田国男著の「分類祭祀習俗語彙」(神社本庁編・一九六三年角川書店刊)の「神名集」のここ(左ページ六行目以下)に(太字はママ)、

   *

オイゲサマ  高知県の各地でまつられる小祠。神母と書いている。長岡郡稲生村(現・南国市)ではオサバイサマと同じ神ともいうが、社は別になっている。女の神のことという(大阪民俗談話会報二)。また同村では、神無月にはオイゲサマとコンピラサマが残っているとう。オイゲサマの祭日は旧十月三日、コンピラサマは十月十日である。この二神は疱瘡を病んで器量が悪くなったから、御留守をするのだという(民間伝承一〇ノ一)。人家や田畑の傍に点在する小祠で、周りに樹木があるのが多く、それをイゲバヤシという。組でまつる。新田にありて本田になくニイタサマと呼ぶ小祠と性格は似ているから、開墾に際してまつったものと考えられる(民間伝承二ノ三)。『伊勢浜荻』一に、物忌の夕饌が終わって館へ帰るまでの間に、物を聞いて吉凶を占う風があり、それをタシケヲキクまたはオイゲヲキクといったことが見えている。

   *

と、纏まった記載があったので、こちらであろう。

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 雄鷄

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。これらは、後の「博物誌」に結実するものの初期形であり、私は昨年、ブログ・カテゴリ『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「樹々の一家」(+奥書・奥附) / 「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)』(全六十八記事)を電子化注しているが、それは、昭和一四(一九三九)年白水社刊の「博物誌」のものを底本としたものであるので、記載の違いや、順列・表現に有意に大きな違いがあるので、電子化する。

 

      雄   鷄

 

       

 

 每朝、泊り木から飛び降りると、雄鷄《をんどり》は「もう一つの」がやつぱりあそこに居るかどうかを見た――「もう一つ」はやつぱりそこにゐる。

 

       

 

 雄鷄は地上のあらゆる競爭者を征服したいと云つて鼻を高くしてもいゝ――が、「もう一つの」、それは手の屆かない處にゐる、勝ち難き競爭者である。

 

       

 

 雄鷄は叫びに叫ぶ。呼びかけ、挑《いど》みかけ、脅《おど》しつける――然し「もう一つの」は、きまつた時間にでなければ答へない。で、それも答へるのではない。

 

       

 

 雄鷄は見得《みえ》を切る。羽を膨《ふく》らす。その羽根は見苦しくない、或るものは靑く、或るものは銀色――然し、「もう一つの」は、蒼空のたゞなかに、目(ま)ばゆいばかりの金色。

 

       

 

 雄鷄は自分の雌鷄《めんどり》をみんな呼び集める。そしてその先頭に立つて步く。見よ、彼女らは殘らず彼のもの、どれもこれも彼を愛し、彼を畏《おそ》れてゐる――が、「もう一つの」は、燕どもがあこがれの主《ぬし》。

 

       

 

 雄鷄はわが身知らずである。彼は、處きらわず、戀の句點を打ちまはる。そして、金切聲を張り上げて、一寸したことに凱歌を奏する――然し、「もう一つの」は、折りも折り、新妻を迎へる。空高く、村の婚禮を告げ知らす。

 

       

 

 雄鷄は妬《ねた》ましげに蹴爪《けづめ》の上に伸び上つて、最後の決戰を試みやう[やぶちゃん注:ママ。岸田氏の思い込みの誤用の癖。]とする。その尾は、劍《つるぎ》が刎(は)ね上げるマントの襞(ひだ)そのまゝである。彼は、鳥冠(とさか)に血を注いで戰ひを挑む。空の雄鷄は殘らず來いと身構える[やぶちゃん注:ママ。]――然し、嵐に面(おもて)を曝《さら》すことさへ怖れない「もう一つの」は、此の時、微風に戲れながら相手にならない。

 

       

 

 そこで、雄鷄は、日の暮れるまで躍起となる。彼の雌鷄は一羽一羽歸つて行く。彼は獨り、聲を囁《か》らし、へとへとになつて、既に暗くなつた中庭に殘つてゐる――が、「もう一つの」は、太陽の最後の焰を浴びて輝き渡り、澄み切つた聲で、平和な夕(ゆうべ[やぶちゃん注:ママ。])のアンジエルユスを歌つてゐる。

[やぶちゃん注:「囁《か》らし」はママ。「嗄らし」が正しい。「囁」という字は、①に「ささやく」で、②で「言いかけておいて止める・口が動くだけで言葉がはっきりしないさま」の意があり、③で、反対に「べらべら喋(しゃべ)る・喧(かまびす)しい」の意もある。現行、一般に圧倒的に①の用法が殆んどである。②・③の意味は、結果して「声が嗄(か)れる・しゃがれる」ことにはなるのだが、「囁」自体には「声がしゃがれる」とい意はないから、誤用と言わざるを得ない。事実、後に岸田氏は、ここを『嗄らし』と訂している。

「アンジエルユス」Angélus(アンジェリュス:ネイティヴを音写すると「アォンジュリュス」が近い)の鐘。天使(“Angelus”はラテン語で天使の意)によって聖母マリアに受胎告知がなされたことを祝す祈り(朝・正午・夕べの三度、鐘の音とともに行う)で、同時に、この時を告げる鐘の音をも指す。名は、この祈文の初めにある「主の御使(みつかい)」(Angelus Domini)に由来する。Otium氏のブログ「エスカルゴの国から」の「アンジェリュスの鐘」によれば、教会は一日に三度、『この鐘を響かせます』として、①『朝、起きる時間を告げる』(午前六時頃)、②『昼、ご飯を食べに帰るのを促す』(正午頃)、③『夕方、仕事を終えるのを告げる』(午後六時頃)とあり、『なぜアンジェリュスと呼ぶのか?』の項に、『このときのミサのお祈りの言葉が「天使」で始まるからと聞いたことがあります。天使は、フランス語ではangeですが、ラテン語ではangelus』で、『お祈りの初めの文章は、天使がマリアに受胎を知らせる受胎告知の場面で、こんな文章だそうです』。『ラテン語』で『Angelus Domini nuntiavit Mariæ』、『フランス語訳』で『Lange du Seigneur apporta lannonce à Marie』とあって、『私が聞き慣れているアンジェリュスは、まず鐘が』三『つ鳴りだし、ほんの少し時間を置いて、また』三『つ鳴り、それから鐘が賑やかに鳴り響く、というもののように思います』とあって、鐘の音を動画で聴くことも出来る。

 さて。以上を読んで、最早、幼少の読者以外は、「もう一つの」「雄鷄」が教会の上にある「風見鶏」であることは、明白に理解されるであろう。

 ところが、後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「雄鷄」雄鶏(おんどり)』では、冒頭に長い一章があり、そこで、先に、そのネタバレを最初にやらかしてしまっている。

 因みに、本書の本篇では、段落番号はローマ数字であるが、後の「博物誌」では、原文でも、通し番号はなく、「博物誌」は「八」の「そこで、雄鷄は、日の暮れるまで躍起となる。」の冒頭一文が独立連となっているため、全九連構成になっており、(上記リンク債先の最後の原文を参照されたい)。「博物誌」の本原文(標題は“COQ”。本書“ LE VIGNERON DANS SA VIGNE ”では“LE COQ”)は、改行はあるが、空行がない。更に第五連の冒頭部分“Le coq rassemble ses poules, et marche à leur tête.”(「博物誌」の当該訳詞の「雄鷄は自分の雌鷄(めんどり)をみんな呼び集める。そしてその先頭に立つて步く。」の部分)で改行されて独立しているために(リンク先の私の「博物誌」テクストの原文を參照)、都合、全部で十のパートからなつているのである。

 私は、サイト版の「ぶどう畑のぶどう作り」の当該項に注して、『両訳文での大きな相違点はライバルの風見鶏を指す『「もう一つの」』で、これは「博物誌」では「相手」となる。『「もう一つの」』は如何にも特異的限定的な表記・表現で「相手」の方が自然で、正体の漸層的理解から言つてもより生き物的な「相手」の方が効果的と言える』と注したが、今回、よく考えてみると、この初出では、ネタバレがない分、読者が、次第に生きている「雄鷄」に対する、「もう一つの」の括弧書きの「雄鷄」なるものが、何であるかを、最終章「八」で字背に於いて示唆させている構成の方こそが、遙かにアフォリズムとしての卓抜な感動的装置となっていることに、甚だ、共感出来たのであった。「相手」もいいが、「もう一つの」の物質的指示の方が、素直に読んでいる騙され易い読者に対しても、『それは生きている「雄鷄」ではないのでは?』というヒントを親切に暗示しているのだと納得されたのである。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 狗骨南天

 

Hiraginanten

 

ひらぎなつてん 俗稱

 

狗骨南天

 

 

△按近頃自賀州山中出異樹其木身皮枝狀似南天燭

 葉亦不甚厚有南天葉樣而有五尖刺兩兩相對一朶

 十二三葉三月開小黃花夏結實似狗骨子而黒色乃

 狗骨與南天相半者

[やぶちゃん注:「ひらぎなつてん」はママ。訓読では、「ひいらぎなんてん」に補正する。]

 

   *

 

ひいらぎなんてん 俗稱。

 

狗骨南天

 

 

△按ずるに、近頃、賀州《がしう》[やぶちゃん注:「伊賀國」。]の山中《さんちゆう》より、異樹を出《いだ》す。其の木、身皮・枝の狀《かた》ち、「南--燭(なんてん)」に似て、葉も亦、甚《はなは》だ≪は≫厚からず。南天の葉の樣(さま)、有(あり)て、五《いつつ》≪の≫尖(とがり)の刺(はり)、有り。兩-兩《ふたつながら》、相對《あひたい》して、一朶《ひとえだ》、十二、三葉≪あり≫。三月、小≪さき≫黃花を開き、夏、實を結ぶ。狗骨(ひ《い》らぎ)の子《み》に似て、黒色なり。乃《すなはち》、狗骨(ひ《い》らぎ)と、南天と、相半《あひなかば》する者なり。

 

[やぶちゃん注:これは、当時、中国から移入されて広がっていた、

双子葉植物綱キンポウゲ目メギ科メギ亜科メギ連メギ亜連メギ属ヒイラギナンテン Berberis japonica

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記『柊南天』、『別名でトウナンテン、チクシヒイラギナンテン』(「チクシ」は「筑紫」か「千櫛」か?)『ともよばれている』。常緑広葉樹の低木。古い木の幹にはコルク質がある。葉は奇数羽状複葉で、互生し、小葉は硬く、ヒイラギの葉に似た粗い鋸歯はとげ状となる。常緑で落葉はしないが、冬に赤銅色になる部分があり、紅葉のようになる』。『開花時期は』三~四『月』で、『春先に総状花序に黄色い花をつける。花弁は』六『枚あり』、九『枚の萼片も黄色であるので、全体が花弁のように見える。その中にある雄しべは、昆虫などが触れることによる刺激で内側に動いて、花粉をなすりつける』。『果実は液果で、秋に青く熟す』。『中国南部、台湾、ヒマラヤ原産』(☜)。『中国から日本に渡来したのは』十七『世紀末の江戸時代といわれる。人手によって植栽もされ、庭でもよく見られる』。『庭や公園などでよく栽培される。果実を実生として、果肉をとり、植える。果実は食用ではない』。『ヒイラギナンテン属』『には約』六十『種あり、中国から北米・中米にかけて分布する。小葉の細長いホソバヒイラギナンテン』(メギ属ホソバヒイラギナンテン Berberis fortunei )『もよく栽培されている』とある。但し、原産地を以上のように述べているが、「維基百科」の同種のページ「台湾十大功劳」(「」は「労」の簡体字)を見ると、標題に名にし負うように、明確に『原台湾』とはっきり書いてある。しかし、『中国大陸中南部、台湾原産で、日本へは天和(てんな)~貞享(じょうきょう)』(一六八一年~一六八八年)『ころに渡来した。耐寒性はやや弱く、関東地方以西の本州で庭に植え、いけ花に使う。名は、ナンテンの仲間で、葉がヒイラギに似ることによる。近縁のシナヒイラギナンテン』 Berberis bealei 『は中国中部原産で、全体にヒイラギナンテンより大形で耐寒性があり、生育がよい。またホソバヒイラギナンテン』 Berberis fortunei  『は中国原産で、小葉は長披針(ちょうひしん)形で』、五~九『枚が対生し』、九『月』頃、『総状花序に黄色の小花を開く。ともに繁殖は実生』、『挿木、株分けによる。』とある。また、そちらでは異名多く、『老鼠子刺、榕樣南燭、狗骨南天、山黃柏、刺黃柏、黃心樹、鐵八卦、天鼠刺、黃柏、角刺茶、華南十大功勞、日本十大功勞』を挙げている。なお、「十大功劳」はメギ属 Berberis の中文名で、「維基百科」の「十大功劳属」によれば、『同属の植物は民間薬用植物として非常に有名であり、根・茎・葉などの器官が薬として利用され、優れた薬効があるため』とあった。因みに、そちらで『十大功勞屬 Mahonia 』となっているのは、旧分類で「ヒイラギナンテン属 Mahonia 」に区分されていたもので、現行ではメギ属のシノニムである。なお、本書の成立は正徳二(一七一二)年であるから、渡来から三十年で、良安の謂いを素直に受け取るなら、何故か知らぬが、畿内では、伊賀地方に、多く、植栽されたようである。伊賀忍者と関係はありそうには見えぬ。

「南--燭(なんてん)」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica 。次項が「南天燭」である。

「狗骨(ひ《い》らぎ)」先行する「狗骨」を参照されたいが、ここで良安の言っているのは、本邦の「柊」、則ち、シソ目モクセイ科モクセイ連モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus なのであるが、そちらの「本草綱目」からの引用での「狗骨」は、「矢羽柊黐」で、双子葉植物綱バラ亜綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属ヤバネヒイラギモチ Ilex cornuta であって、異なるので注意されたい。

2024/09/06

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 鸛知凶事

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

     鸛(こふ)知凶事(きようじをする)

 佐川の土居の前に有る杉の二股の所へ、先年、鸛、巢をかけて、子を育(そだて)ける。

 或日(あるひ)、俄(にはか)に、巢を、かへける。

 見る人ごとに、怪(あやし)みけるが、翌日、右の木へ、雷(かみなり)、落(おち)かゝりける、と也(なり)。

 又、先年、松下孫四郞、福井村に在宅して居(を)られし時、或(ある)夕暮に、鸛、巢を、かへけるに、數日(すじつ)の內に、大雨にて、右の木を吹折(ふきをり)けると也。

「鸛の、巢を、髙く、かくる年は、風、吹かぬ。」

といふ事、よし有(ある)事にこそ。

 

[やぶちゃん注:「鸛」博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸛(こう)〔コウノトリ〕」を見られたいが、「本草綱目」の引用にも、『天を仰ぎて號鳴〔せば〕、必ず、雨、有ることを主〔(つかさど)〕る。』とある。

「佐川の土居」読みは判らないが、取り敢えず「さがはのどゐ」と読んでおく。「Geoshapeリポジトリ」の「国勢調査町丁・字等別境界データセット」の「高知県佐川町乙島の土居」(佐川町は「さかわちょう」と読む。字(あざ)地名は、やはり判らないが、「おとしまのどい」と読んでおく)とあるのが、そこであろう。グーグル・マップ航空写真の、この中央部分が、そこである。

「松下孫四郞」不詳。

「福井村」現在の高知市福井町。高知城の北西で、かなり近い。現在は丘陵頭頂部を除いて住宅地になっているが、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、丘陵の麓にポツポツと家が点在する程度で、北の一部は湿田である。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 小髙坂村地中之鰻

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

     小髙坂村地中之鰻

 明和三年、小高坂(こだかさか)「森の明神」の南協、松村貞之丞方に新敷(あたらしき)井を掘(ほり)ける。

 七輪(しちりん)を入(いる)る程の[やぶちゃん注:井戸の直径であろう。]、深き井戶也。

 底より、水、夥敷(おびただしく)涌出(わきで)ける。

 砂を、上(うへ)へ、揚(あげ)けるに、砂の中より、五、六寸斗(ばかり)の鰻、出(いで)ける、と也。

 

[やぶちゃん注:「明和三年」一七六六年。徳川家治の治世。

「小高坂森の明神」この地名(村名)は現在は残っていない。「ひなたGPS」の戦前の地図にある。高知城の真西直近である。この明神社は、現在の高知大学教育学部附属中学校の前身である、高知師範学校の女子部附属中学校が高知市の旧春野町に建設されるため(「ひなたGPS」のここであろう)、西直近の、現在の高知県高知市山ノ端町にある若一王子宮(グーグル・マップ・データ)に移転・合祀されているようである。

「松村貞之丞」不詳。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 安喜郡田野浦地藏

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。「安喜郡田野浦」の郡名は「安藝郡」の誤りか。安芸郡田野町は土佐湾に面している(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。しかし、「田野浦」なら、高知県の土佐湾の安芸郡の西南西の対称位置にある幡多(はた)郡黒潮町田野浦がある。「をどり谷」(「踊り谷」?)の地名も、「ひなたGPS」で双方を調べたが、見当たらない。しかし、「大野山」というのが出るが、田野町の地名に「ひなたGPS」で見出せた。グーグル・マップ航空写真で、ここである。中央東に低い丘陵があり、北西方向にやや高い丘陵がある。郡名の誤りとなら、ここの周辺がロケーションである可能性が高いように思われるところだが、「西福寺」は見出せないものの、同寺の「境內田野浦の方に「田野浦大師堂」というのがあるので、如何ともし難い。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。]

 

      安喜郡田野浦地藏

 

 安㐂郡(あきのこほり)田㙒浦へ、寛延[やぶちゃん注:一七四八年から一七五一年まで。徳川家重の治世。]の頃、漁人(ぎよじん)の網に、かゝり、地藏の像を引上(ひきあげ)しに、御長(おんたけ)、二丈[やぶちゃん注:六・〇六メートル。]斗(ばかり)も有(あり)ければ、

「佛頭ばかりを安置せん。」

とて、堂、建立し、廚子(づし)に安置す。

 厨子の寸尺、麁念[やぶちゃん注:ここは「大雑把な計測」の意。]、有(あり)けん、地藏の耳、つかへて、不入(いらざり)しかば、大工源作といふもの、耳を削(けづり)て、安置せし、と也。

 佛頭、凡(およそ)五尺斗(ばかり)、佛體は、久敷(ひさしく)積置(つみおき)たりしを、近年、大㙒山へ埋(うづ)メぬ。

 其所(そこ)を、今、「をどり谷」といふ。

 地藏堂は、西福寺の境內、大師堂の脇に有(あり)。

 異國より、流來(ながれきた)りしものならん。

 大工源作は、耳を削し祟りや有(あり)けん、子に痴獃(アホウ)[やぶちゃん注:「獃」は「呆」の古い字体。]、生(うま)れ、次子(じし)は癩(らい)を病(やみ)て、家、斷絕せし、と也。

 

[やぶちゃん注:「癩」については、何度も注してきた。その中でも最も古い記事である「耳囊 卷之四 不義の幸ひ又不義に失ふ事」の私の「癩」の注を読まれたい。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 公御判

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。「公御判」は「おほやけごはん」と読んでおく。この篇の本文冒頭には罫外に二行割注で『可削』(けづるべし)という除外指示がなされてある。理由は不明だが、この「龍泉院」とは、土佐藩六代藩主山内豊隆(やまうちとよたか 延宝元(一六七三)年~享保五(一七二〇)年(享年四十八)/在位:宝永三(一七〇六)年より没年まで)の戒名であるから、最後の不吉な占いを述べているためであろう。因みに、当該ウィキによれば、彼『は無能であり、兄が登用した山内規重や谷秦山、深尾重方などを次々と処罰してゆき』、時に、宝永四(一七〇七)年十月四日に発生した「宝永地震」で、千八百四十四人(十月二十六日時点での数)の『死者を出すという惨事に見舞われた』『ため、地震の救済に務めながら』「宝永の改革」と『呼ばれる藩政改革に着手したが、効果はなかった。地震の翌年、震災対応のため』、『老中土屋相模守の便宜により』、『豊隆は参勤交代を免除されたが、襲封以来の初の参勤であることと』、『母の病気の見舞いという』、『もっともらしい理由をつけて、震災対応も「大方手合仕」』(おほかたてあはせつまつる)『として、宝永』五『年』年『内に江戸に参勤している。しかし、この大震災が短期間で復興するはずがなく、その行動も土佐藩政史上に名君が少ないとされる一因とされる』とあり、『先代からの重臣たちを次々と粛清したことから』、『評判が悪く、土佐藩随一の暗君と言われている』とあるので、自業自得である。因みに、本書は文化一〇(一八一三)年成立である。]

 

      公 御 判

 

 龍泉院樣、

「御判を占はせられ候樣(さふらふやう)に。」

被仰出(おほせいだされ)、御近習(ごきんじゆう)の面々も、判をすえ[やぶちゃん注:ママ。「据う」(ワ行下二段活用)であるから「すゑ」が正しい。]、御判と一つにして、數々(カズかず)、取集(とりあつ)め、丸山藤助、新橋付(づき)、言合(いひあはせ)、江戶の吉川左內方(かた)へ、持參して、見せければ、左內、手水(てうづ)、つかひ、口、すゝぎて、右の判を、掌(てのひら)にのせ、一枚づゝ、一覽しけるに、數々の內(うち)にて、御判をば、床の方、神前(しんぜん)、有(あり)し方(かた)へ、持參(もちまゐ)りて、三度(みたび)、戴き、神前にさし置(おき)、

「扨(さて)。いづれもへ申樣(まうすやう)、御判は外(ほか)の判と一つになる御判にて無御座(ござなき)候。是は、御主人か、又、外(ほか)より御賴(おんたの)まれ有之(これあり)候はゞ、御歷々方(おれきれきがた)の御判と見へ申(まうす)。一國の主(あるじ)とも申(まうす)人の御判にて候。」

と申故(まうすゆゑ)、孰(いづれ)も、おどろきぬ。

「御判の吉凶、如何可有哉(いかがあるべきや)。」

と問(とふ)。

 左內、答へけるは、

「隨分、能き御判にて、御繁昌被成(ならるる)と見え申(まうす)。しかし、こゝに、一つ、不思義[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]なる事、御座候。御家(おんけ)に障礙(しやうがい)をなす事ありて、一旦、御繁昌被成候(なられさふらふ)ても、難(なん)、續(つづき)候。此所(このところ)は、拙者如きの祈禱抔(など)の、及ぶ所にて無御座候。」

とぞ、申(まうし)ける。

 不思義成(なる)事也。

 

[やぶちゃん注:「丸山藤助」不詳。

「新橋付」意味不明。

「吉川左內」不詳。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 ピン

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]

 

     ピ   ン

 

 彼女の許婿《いひなずけ》が戰爭に出掛ける時、ブランシユは、彼にピンを一本贈つた。彼はそれを大事に取つておくと誓つた。

「あなたが、これを僕に下さるのは、きつと、僕があなたを忘れないやうにでしせう」と、ピエールが云ふ。

 「いゝえ」――彼は云ふ「あなたがあたしを忘れないつて云ふことは、もうちやんとわかつてるんですもの」

 「それなら、このピンを持つてゐると、僕に運が向くつて云ふんでせう」

 「いゝえ、あたし、そんな御幣《ごへい》かつぎぢやないの」

 「まあ、よござんす、それはどうでも」――ピエールは云ふ「これがあなたからの贈物であり、あなたが僕を愛して下さる、たゞそれだけで僕は滿足です」

 「あたし、あなたを愛しゐますわ」――ブランシユは云ふ「でも、あたしのピンは、何かあなたの御役に立つことがあつてよ」

 それはさうと、戰場で、ピエールは、左の腕に彈丸(たま)を受けて、その腕を切斷しなければならなかつた。

 「ブランシユはあゝ云ふ女だから」彼は云つた「きつと、氣を利かして、早く結婚したいと云ふだらう」

 彼は後送された。彼の最初の訪問はブランシユの家であつた。彼は、生き殘つたことに誇りを感じながら、いそいそと路の上を步いてゐると、何氣なく自分の空《から》の袖に氣がついた。彼はそれをぢつと見つめてゐた。

 袖は平たくなつてぶらりと下《さが》つてゐる。でなければ、だらしなく右左へゆれてゐる。さうかと思ふと、獸《けもの》の尻尾《しつぽ》のやうに跳ね返つてゐる。

 「いくらかまわないと云つても、此の扮(なり)では一寸滑稽だ」ピエールは云つた。

 殘つてゐる方《はう》の手で、彼はその袖をつまみ上げ、二つに折つて、きちんと肩のところへピンで留めた。

 

[やぶちゃん注:「戰爭」本書の刊行された一八九四年以前、フランスが当事者として戦った戦争は「普仏戦争」だけである。一八七〇から七一年に於いて、プロイセンとフランスの間で発生した戦争で、ビスマルクの巧妙な策略によりプロイセンが連戦連勝し、結果、フランスは賠償金を支払い、アルザス=ロレーヌの大部分を割譲することとなった。パリ開城直前、ベルサイユでドイツ帝国の成立が宣言されている。これによりドイツは統一を完成し、フランスは第二帝政が消滅、第三共和政が成立している。この時、ルナールは未だ六~七歳であった。ルナール自身には戦争体験はない。徴兵は一八八四年、二十歳の時、徴兵検査を受けているが、審査委員会で徴兵延期とされ、翌一八八五年十一月、二十一歳の時、条件付きの志願兵として、ブールージュ駐屯第九十五戦列連隊に入隊し、一年間の平時の兵役をしてはいる(以上は所持する臨川書店一九九九年刊の『ジュール・ルナール全集』の最終巻第十六巻所収の年譜に拠った)。ああ! アルフォンス・ドーデの「風車小屋便り」の「最後の授業」を思い出す。多分、六年生の「国語」の教科書で読んだ。同じく五年生の時の教科書に載っていたナサニエル・ホーソンの「いわおの顔」(私のブログ記事『ナサニエル・ホーソン「いわおの顔」について』を参照されたい)とともに、小学生時代、授業で最も感動した二篇であった。孰れも、光村図書出版の教科書だった。なお、調べたところ、現在は二篇ともに教科書には採用されていない。「最後の授業」は史実では、同地は歴史的にドイツ系のアレマン人の流れを汲むアルザス人が殆んどであり、フランスの国粋主義イデオロギーをあからさまに描いた偏向作品として、無惨にも、教科書から永遠に排除されてしまった。私はまさに、小学五、六年の頃、読書に本格的に目覚めていた。また、当時の担任であられた並木裕先生(本来の専門は書道)が、個人的に読書感想文や随筆文を書くことを頻りに個人指導され、それらが『小学生新聞』に少なくとも十度近く掲載され、作文への自信を固めたのを忘れない。「最後の授業」は、まさに、小学校卒業直後に富山高岡市伏木に引っ越したことが、作品に打たれた大きな理由だったと言ってよい。中高時代も、教師たちの勧めで、感想文で何度も朝日新聞社賞なども頂戴した。私は、その頃は、心理学を専攻したかった(小学校上級生以降、ジグムント・フロイトの愛読者であった)が、結局、心理学科は総て落ちて、滑り止めの國學院大學文学科に進み、神奈川県の高等学校の国語教師に落ち着いた。その根っこは、小学五年生の時、青年の知人から贈られた小泉八雲の「怪談・奇談」(田代三千稔(みちとし)訳・角川文庫昭和四二(一九六七)年三十三版)や、以上を始めとする教科書の作品群が発火点であった。]

2024/09/05

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 肥つた子供と瘠せた子供

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。「肥(ふと)つた」というルビが、初出部でなく、後に振られてあるのは、ママである。]

 

      肥つた子供と瘠せた子供

 

 公園の同じ並木道、鳩とつぐみが親しげに入りみだれてゐる、その中に、二人の婦人が隣り合つて腰をおろしてゐた。お互に識らない同士であつた。が、二人とも、一人の子供を連れてゐた。薔薇色の着物を着た婦人は、肥(ふと)つた子供を、黑い着物を着た婦人は瘠せた子供を連れてゐる。

 始めのうち、彼女らは、口を利かないで、互に見合はせてゐた。そのうちに、それとなく相方《さうはう》から躙(にじ)り寄つた。

 「坊や、赤ちやんにぶつかるよ」

 「坊や、赤ちやんに砂掬《すなすく》ひを貸しておあげ、兄《にい》さんみたいに」

 突然、黑衣の婦人は、堪へ兼ねて、蕎薇色の婦人に聲をかけた。

 「まあ御立派《ごりつぱ》な赤ちやんですこと、奧さま」

 「有がたう御座います、奧さま。みなさんがよくさう仰しやつて下さいますんですよ。いくらさう仰しやられても、こればかりは聞き倦きませんの。でも、母親の眼で見ますと、自分の子ですもの、どうしても贔屓眼《ひいきめ》つて云ふものがありましてね」[やぶちゃん注:「贔屓眼《ひいきめ》つて云ふもの」は底本では「贔屓眼つね云ふもの」となっている。「ね」は意味が通らないので、誤植と断じ、改版を元に「て」に代えた。]

 「そんな、あなた、いくら御自慢なすつたつてよう御座んすわ。綺麗でまぶしいやうですもの。見てゐるだけでも好《い》い心持ちになりますわ。あのしつかり締つた肉附《にくづき》、生(なま)でたべてもよう御座んすわね。どうでしせう、笑靨《ゑくぼ》がいつぱい、どこにもかしこにも。おてゝあんよ、恐ろしいやうですわ。百年は大丈夫ですわね。まあ、あのかんかんの房々《ふさふさ》して輕さうだこと。失禮ですけれど、なんぢや御座いませんか、やつぱり鏝(こて)をおかけになるんでせうね、そさうでせう、奧さま」[やぶちゃん注:「かんかん」「髪」の幼児語。]

 「いゝえ、奧さま、そんな、わたくし、子供の頭にかけて誓ひますわ、そんな勿體《もつたい》ない、汚《けが》らわしい、鏝(こて)なんか、髮の毛に對して申しわけがあるものですか。生れたときから、あれなんで御座ひますわ」

 「さうでしせうとも、奧樣、ほんとにね、おしあはせですわね、お母さまが。心の底からお羨しく思ひますわ」

 二人の婦人はそばに寄りそつた。その間《あひだ》、瘠せた子供が、輕《かろ》うじて呼吸(いき)をしながら、地上に投げ出されてゐた。黑衣の婦人は肥(ふと)つた子供を抱き上げて、重さを測つたり、あやしたり、眺め入つたり、そして、眼を見張つて「まあ、なんて重いんでしょう、ほんとに、なんてまあ重いんでしょう」を繰り返していた。[やぶちゃん注:「輕《かろ》うじて」は読みは私が附したが、改版で『かろうじて』となっている。しかし、この漢字は誤りである。「かろうじて」は「辛うじて」で「辛(から)くして」の音変化したものだからである。恐らくは岸田氏の書き癖と思う。彼には、歴史的仮名遣の勘違いや、当て字が、しばしば見られる。]

 「褒めて頂いてよろこんでますわ」薔薇色の婦人は云つた「でも、あなたの赤ちやんはおとなしくつてゐらつしやるやうですわね」

 黑衣の婦人は、がつかりして、淋しく笑つた。自分がかうまで一生懸命になつてゐるのに、その報酬なら、もつと何んとかした挨拶が聞きたかつた。眞面目な平凡なお愛想より、氣の利いた空御世辭《からおせじ》の方がましだとさへ思つた。もう諦めてはゐるものゝ、彼女は、まだ心のうちで嘆いてゐるやうに見えた。

 薔薇色の婦人はそれと見てとつた。機轉の利《き》かなかつたことが恥かしく、それに心底(しんそこ)は優しい彼女は、瘠せた子供を膝の上に抱き取り唇の先を押しあて、勿體らしくかう云つた。

 「奧さま、こんなこと、あなたがお母さまだから申すんぢやありませんよ、でも、わたくし、あなたの赤ちやんも、大變御立派だと思ひますわ、かう云ふ風《ふう》なたちの赤ちやんとしてはね」

 

[やぶちゃん注:本篇は珍しく、改版では、細部で、かなり改訳した箇所が多くある。悪意があるわけではなく、語彙が足りず、しかも、普通に母としての子へのエゴイスティックな偏愛を持っている「薔薇色の婦人」と、これまた、全く同じような内的双方向性のない「黑衣の婦人」との、無限遠心的なチグハグな空言葉の応酬の干乾びたループの始終を再現するのに、岸田氏は、かなり苦心したものと見える。

「つぐみ」原文は“Merle”は、私の辞書では、確かに『鶇(つぐみ)』とあるのだが、スズメ目ツグミ科ツグミ属Turdusはフランスでは種が多く、かく、名指しただけでは、種同定は出来ない。実は、ルナールの作品には、盛んに「鶇」が出て来るのだが、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「くろ鶇(つぐみ)!」』で私は、『クロツグミ Turdus cardisは名の割には、腹部が白く(丸い黒斑点はある)、「のべつ黑裝束で」というのに違和感がある。これは「クロツグミ」ではなく、が全身真黒で、黄色い嘴と、目の周りが黄色い同じツグミ属のクロウタドリTurdus merulaではないかと思われる』と注した。その程度に、ルナールの言う種をこれと名指すのは、至難の業なのである。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 衞矛

 

Nisikigi

 

にしき木  鬼箭 神箭

くそまゆみ

衞矛    【和名久曽末由美

       俗云古波末由美】

 

ヲイ イユイ   又云錦木

[やぶちゃん注:「鬼」は「グリフウィキ」の異体字の第一画がないこれだが、表示出来ないので、正字で示した。以下同じ。]

 

本綱衞矛生山谷平陸未嘗見也成叢春長嫩條條上四

面有羽如箭羽視之若三羽爾其葉青狀似野茶對生三

四月開碎花黃綠色結實大如冬青子其莖黃褐色人家

多燔之遣祟削取皮羽入藥

[やぶちゃん注:「祟」は、実は「崇」の字であるが、ルビで『タヽリ』と振っていることから、正しい漢字で示した。]

氣味【苦寒】治婦人崩中下血除邪殺鬼毒消風毒腫

 鬼瘧日發【鬼箭穿山甲燒灰二錢半爲末毎以一字發時㗜鼻】

[やぶちゃん注:この行の「鬼」は正しく「鬼」である。「㗜」は「嗅」の異体字である。]

△按衞矛條四𨕙如箭羽其葉至秋紅葉靣色如丹而青

[やぶちゃん注:「𨕙」は「邊」の異体字。「丹」は底本では。第三画が「﹅」ではなく、第四画を突き抜けて下まで伸びた縦画であるが、表示出来ないので、「丹」とした。]

 赤相襍如錦故俗曰錦木結子一朶二顆尖小正紅信

 州野州山谷有之古歌所謂錦木與此不同【其錦木有奧州】

                           能因

  後拾遣 錦木は立なから社朽にけれけふの細布むぬあはしとや

 

   *

 

にしき木  鬼箭《きせん》 神箭《しんせん》

くそまゆみ

衞矛    【和名、「久曽末由美《くそまゆみ》」。

       俗、云ふ、「古波末由美《こばまゆみ》」。】

 

ヲイ イユイ   又、云ふ、「錦木《にしきぎ》」。

 

「本綱」に曰はく、『衞矛、山谷に生ず。平陸《へいりく》[やぶちゃん注:平地。]には、未だ嘗つて見ざるなり。叢《むらがり》を成す。春、嫩《わかき》條《えだ》を長《ちやう》ず。條の上、四面、羽《はね》、有り。箭羽《やばね》のごとく、之れを視れば、三つ羽《ばね》のごとしのみ。其の葉、青く、狀《かたち》、「野茶《やちや》」に似《にて》、對生す。三、四月、碎《くだ》≪たる≫花を開く。黃綠色。實を結ぶこと、大いさ、「冬青(まさき)」の子《み》のごとし。其の莖、黃褐色。人家、多く、之れを燔《やき》て、祟(たゝり)を遣《おひやる》。皮羽《ひう》[やぶちゃん注:樹皮の翼状になっている部分。]、削-取《けづりとり》て、藥に入《るる》。』≪と≫。

『氣味【苦、寒。】婦人≪の≫崩中《ほうちゆう》≪の≫下血を治す。邪を除き、鬼毒《きどく》を殺し、風毒腫を消す。』≪と≫。

『鬼瘧《きぎやく》、日《ひ》に日に[やぶちゃん注:原本では送り仮名が『〻ニ』となっている。]、發《を》くるに[やぶちゃん注:ママ。「發=起」(お)こるに、の意。]、【鬼箭・穿山甲《せんざんこう》、灰に燒きて、二錢半、末《まつ》と爲して、毎《まい》、一字を以つて、發《はつ》する時、鼻に㗜《か》ぐ《✕→がす》。】。』≪と≫。

△按ずるに、衞矛《にしきぎ》の條《ゑだ[やぶちゃん注:ママ。]》、四𨕙《しへん》、箭《や》羽の《はね》のごとく、其の葉、秋に至り、紅葉、靣色《めんしよく》、丹《に》のごとくして、青≪と≫赤、相《あひ》襍(まじ)り、錦《にしき》のごとし。故《ゆゑ》、俗、「錦木」と曰ふ。子《み》を結≪ぶに≫、一朶《ひとふさ》≪に≫二顆《くわ》。尖《とが》り、小≪さき≫正紅《せいこう》。信州・野州≪の≫山谷≪に≫、之れ、有《あり》。「古歌に、所謂《いはゆ》る、「錦木」は、此れと≪は≫、同じからず【其の「錦木」は奧州に有り。】。

 「後拾遺」

   錦木は

     立ちながら社(こそ)

    朽(くち)にけれ

           けふの細布(ほそぬの)

         むぬあはじとや

                 能因

 

[やぶちゃん注:「衞矛」=「錦木」で日中ともに、

ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属ニシキギ Euonymus alatus 、或いは、品種ニシキギ Euonymus alatus f. alatus

である(「維基百科」の同種の「矛」(「」は「衞(衛)」の簡体字)を参照されたい)。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『庭木や生垣、盆栽にされることが多く、樹皮は薬用となる。別名、ヤハズニシキギ。カミソリノキとも呼ばれるが、これは茨城県や栃木県(塩谷郡、日光市)の方言名であった』。「名称」の項に『和名「ニシキギ」の由来は、真っ赤で鮮やかな紅葉の美しさを錦に例え、「錦の木」となり転訛したことによる。別名ヤハズニシキギ。日本の地方によって、キツネノカミソリなど、以下のような方言名が存在する』として十五の異名が列挙される。『日本の北海道・本州・四国・九州のほか、国外では中国』(☜前掲の「維基百科」の方では『中国東北部』・『青海省・チベット自治区・海南省・新疆ウイグル自治区・広東省、及び、中国本土のその他の地域にも』広く『分布する』とある)、『アジア北東部に分布し、低地や丘陵地、山地の山野に自生する。秋の紅葉を楽しむため、庭木としてもよく植えられる。紅葉が見事で、ニッサ』(別名「ニッサボク」:双子葉植物綱古生花被亜綱(離弁花類)セリ目ヌマミズキ科 Nyssaceaeヌマミズキ属 Nyssa sinensis )『・スズランノキ』(双子葉植物綱ツツジ目ツツジ科ツツジ科オキシデンドルム属スズランノキ Oxydendrum arboreum  )『と共に世界三大紅葉樹に数えられる』。『落葉広葉樹の低木で、高さは』一~四『メートル』『になる。樹皮は灰褐色で縦に筋がある。枝は緑色かときに紅紫色で、若い枝では表皮を突き破ってコルク質で、節ごとに十字対生して、板状の』二~四『枚の翼(よく)が発達する。翼は細い幹にも低く残り、幹には翼の痕が残っていることが多い。なお』、『野生の個体などで、翼が出ないもの品種もあり、コマユミ( E. alatus f. ciliatodentatus 、シノニム E. alatus f. striatus 他)と呼んでいる』。『葉は対生し、葉身は長さ』二~七『センチメートル』『の倒卵形から広倒披針形で、葉縁には細かい鋸歯があり』、同属の『マユミ』(ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus var. sieboldianus )『やツリバナ( Euonymus oxyphyllus )よりも小さい。枝葉は密に茂る。秋になると、葉は緑色から紫褐色を経て』、『赤色に紅葉し、マユミやツリバナなどニシキギ科』Celastraceae『の植物の中でも最も赤色が鮮やかになる傾向がある。日当たりのよい場所では真っ赤に染まるが、日当たりが悪いとピンク色になり、更に日陰では淡いクリーム色になる。紅葉し始めのこりは』、『緑色が混じり、しばしばグラデーションになる』。『花期は初夏』(五~六月)『で、葉腋から集散花序を出して、淡黄緑色で小さく、あまり目立たない』四『弁の花を』一個から『数個つける。果実は蒴果で、楕円形をしており、秋の紅葉するころに赤く熟すと果皮が割れて、中から橙赤色でほぼ球形をした、仮種皮に覆われた小さい種子が露出する。これを果実食の鳥が摂食し、仮種皮を消化吸収したあと、種子を糞として排泄し、種子散布が行われる』。『冬芽は枝に対生して、緑色の長卵形で多数の芽鱗に包まれ、ときに褐色に縁取られる。頂芽は頂生側芽を伴う。葉痕は半円形で、維管束痕は弧状で』一『個』、『つく』。『栽培は容易で、繁殖は播種または挿し木で行う。播種は秋に採取した種子をすぐに蒔き、挿し木は枝を』十~十五センチメートル『に切って挿し、乾燥させないようにビニールで覆う』。『紅葉を美しくするために西日を避けた日当たりの良い場所に植える。剪定は落葉中に行う。よく芽を付ける性質なので、生垣の場合は強く剪定してもよい』。『秋の紅葉が鮮やかで、庭園樹、盆栽、公園樹によく用いられる。材は細工物に使い、特に良質の版木になる。樹皮は薬用となり、かつて和紙を作るのに用いられた』。『日本では民間薬として、秋に採取した果実や、初夏に採った樹皮(翼)、根を用いていて、それぞれ天日で乾燥させる』(この後に続けて、『中国には無く、漢方では使用されない』とするが、「本草綱目」に、以上の通り、処方が記されてあり、「維基百科」の同種の「卫矛」にも薬用植物関連のサイトにリンクが張られているので誤りである)。「黒焼き用の枝葉は、アルミ箔に包んで焼き、黒い炭にして砕いて粉末にする」(この製法も引用された「本草綱目」と類似する)。『打撲の鎮痛、消炎、とげ抜きの薬として用いられる。打撲・生理不順』(この対症も引用された「本草綱目」とよく類似する)『には樹皮・果実は』一『日量』三~百『グラムを水』三百~六百『ccで半量に煎じ』、三『回に分けて服用する用法が知られている。とげ抜きの場合は、黒焼きを米のりと練って、紙につけて貼ると、とげが出るので引き抜く。身体を冷やす作用がある薬草のため、妊婦への使用は禁忌とされる』とあった。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「衞矛」の記載のパッチワークである([088-42b]  以下)。

「鬼箭」グーグル画像検索「Euonymus alatus 鬼箭」をリンクさせておく。

「くそまゆみ」小学館「日本国語大辞典」に「くそまゆみ」で立項し、『屎檀・衛矛』と漢字を当て、『植物「にしきぎ(錦木)」の古名』とし、引用例は「新撰字鏡」で、同書は平安初期末から中期始めの昌泰年中(八九八年~九〇一年)に昌住が撰。部首索引の漢字辞書で、和訓を持つ最古のものである。お洒落でないが、いたく古い異名ということになる。

「古波末由美《こばまゆみ》」サイト「図鑑.jp」のここに、前に示したニシキギの変品種コマユミのページがあり、その「別名」に『ヤマニシキギ、コバマユミ』(「小葉檀」:これはニシキギの異名でもある)『、コバノコマユミ、ホソバコマユミ、ソガイコマユミ』とおあった。

「野茶《やちや》」これは、なかなかムズい。日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」では、一項で、『野茶(ヒサカキ)』と読み、『 Eurya japonica 』とし、『ツバキ科の常緑低木・小高木』で『園芸植物』としつつ、別に、『野茶 (ノチャ)』とし、『ヒメハギ科の常緑多年草』で『薬用植物』の『ヒメハギの別称』とする。前者は、

ツツジ目モッコク科ヒサカキ属ヒサカキ変種ヒサカキ Eurya japonica var. japonica

である。同種は中国にも分布する。また、古い分類体系では、ツバキ科Theaceaeに分類されていたが、それを踏襲している同種の「維基百科」の「柃木」では、ツバキ科の中文名を「山茶科」とする。一方、後者は、

バラ亜綱ヒメハギ目ヒメハギ科ヒメハギ属ヒメハギ Polygala japonica

で、やはり中国にも分布するしかし、本邦のウィキで葉の写真を比較すると、ニシキギはこれで、葉の辺縁に明確な鋸歯があり、ヒサカキはこれで、同じく鋸歯があるのに対し、ヒメハギは「岡山理科大学生物地球学部生物地球学科」の「旧植物生態研究室(波田研)のホームページ」内の「植物雑学事典」のヒメハギのページで葉の拡大写真を見ると、鋸歯は全くない(解説にも明記されてある)。されば、この「野茶」はヒサカキを指すと考えてよいように思われる。また、現代中国で「野茶」が何かを「日中辞典」で引いてみたが、出てこなかったのだが、参考項目にあった日中韓辭典硏究所刊「中英英中専門用語辞典」の「野茶子」を見たところ、“eurya fruit”とあった。これはまさに「ヒサカキの実」の意であるから、これで断定していいと判断した。

「冬青(まさき)」この和訓は完全アウト。中国の「冬青」は、双子葉植物綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis であり、本邦のニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus ではない。詳しくは、先行する「冬青」の私の注を見られたい。

「婦人≪の≫崩中《ほうちゆう》≪の≫下血」東洋文庫訳の割注に、『(至急出血・こしけ)』とある。「こしけ」=「帯下(たいげ)」は既注だが、平凡社「百科事典マイペディア」の「帯下(たいげ)」を引いておく(コンマは読点に代えた)。『〈おりもの〉〈こしけ〉とも。女性性器の分泌物をいう。色調によって白帯下、黄帯下、赤帯下と呼ぶ。白帯下は腟(ちつ)内膜上皮、黄帯下は白血球、赤帯下は赤血球の混入による』。正常な『生理的帯下は』、『白帯下に属し、透明または白色(下着につくと黄色になる)で、排卵期、妊娠時、性的興奮時にふえる。健康時の腟帯下はデーデルライン腟杆(かん)菌が含まれ、腟内が酸性に保たれて、細菌の侵入を阻止している(腟の自浄作用)』。一方、『病的帯下は』、『トリコモナス』(メタモナス門 Metamonadaトリコモナス綱トリコモナス目トリコモナス科トリコモナス属 Trichomonas の原虫(アメーバ様生物)の一種)『の寄生、カンジダ』(菌界子嚢菌門半子嚢菌綱サッカロミケス目サッカロミケス科カンジダ属 Candida は酵母様の菌類の一群で、その内の病原性を有するカンジダ・アルビカンスCandida albicans 。本来はヒトの体表・消化管・女性生殖器の膣粘膜に普通に棲息する常在菌で、多くの場合は何ら影響も与えないものだが、体調が悪い時などに、病変を起こす日和見感染の原因となる)『や雑菌、淋(りん)菌などの感染、性器の炎症、糜爛(びらん)、ホルモン分泌の衰えや悪化,腫瘍』『などによって起こる。治療に際しては、単に分泌物を排除、吸収させることよりも、原因を治療することが重要』である、とある。

「鬼毒」漢方で、鬼神に憑(と)りつかれたかと思われるような奇妙な病気の病原の漠然としたものの病原を指す。必ずしも狭義の精神・神経障害だけを指すのではなく、一般的な臨床に於いて、原因が定めにくい特異な病態のものを広く指すようである。

「風毒腫」「風毒」は漢方で、脚気(かっけ)、又は、筋肉・関節の痛みや、運動障害を起こす病気を広く指すが、ここは、それによって生じた判断された「腫れ物」で、発赤・疼痛を伴うものを言う。

「鬼瘧《きぎやく》」東洋文庫の割注に、『(はげしく狂乱する「おこり」。』とある。「おこり」(=「瘧」)は、熱誠マラリアのこと。重篤になると、高熱によって脳が溶け、狂乱状態になることがある。平清盛の末期の狂乱は、まさにその病態の教科書みたようなものである。

「穿山甲《せんざんこう》」既出既注だが、再掲しておくと、哺乳綱ローラシア獣上目鱗甲(センザンコウ)目センザンコウ科センザンコウ属  Manis の模式種で、中国を含む東アジアに広範に棲息するミミセンザンコウ Manis pentadactyla のうろこ状の甲状になった角質の表皮。当該ウィキによれば、体長は五十四~八十センチメートル程で、体重は二~七キログラム。前肢は力強く、鋭い爪を持つ。また、尾は筋肉質であり、巻き付けて、物を摑むことが出来る。頭部から背面、尾の先端にかけて茶~黄色の鱗で覆われている。『夜行性であり、単独で行動する。生活圏は地上及び樹上。動きは機敏で、巧みに樹に登る。力強い前肢と尾は樹上生活に適応した結果である。また、前肢は土を掘る事にも適応し、これで主食のアリやシロアリを探す。そして、長い舌を使ってこれらの昆虫を舐めとる』。『外的に襲われた際は』、『身体を丸めて身を守る』ことがよく知られている。『中華人民共和国やベトナムでは食用とされたり、鱗が皮膚病・乳の出が良くなる・癌などに効能がある漢方薬になると信じられている』。『食用や薬用の乱獲により、生息数が激減している』。『採掘・水力発電用のダムや道路建設による生息地の破壊、交通事故、イヌによる捕食による影響も懸念されている』。中国では一九六〇年~一九九〇年『代にかけて、生息数の』八十八~九十四%も『減少したと推定されている』とある。同種個体は古くは「鯪鲤」(りょうり)と呼ばれた。私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類   寺島良安」の「鯪鯉(りやうり) 穿山甲(せんざんかう) [センザンコウ]」も見られたい。

「二錢半」明代の量単位の「一錢」は三・七三グラム。約九・三八グラム。

「毎《まい》、一字を以つて、發《はつ》する時、鼻に㗜《か》ぐ《✕→がす》』「一字を以つて」の意味が判らない。東洋文庫訳では、『発作の起こるごとに一嗅(かぎ)ずつ鼻に嗅(か)がせる』とある。

「野州」「上野國(かうづけのくに:現在の群馬県)」と「下野(しもつけのくに:現在の栃木県)」。

『古歌に、所謂《いはゆ》る、「錦木」は、此れと≪は≫、同じからず【其の「錦木」は奧州に有り。】』というのは、別な木を指すという意味ではない。ご存知の方には、釈迦に説法だが、小学館「日本国語大辞典」から引くと、『昔、奥州で、男が恋する女に会おうとする時、その女の家の門に立てた』人工的に彩色した『五色にいろどった一尺(約』三十『センチメートル)ばかりの木』を指す。『女に応ずる意志があれば、それを取り入れて気持を示し、応じなければ』、『男はさらに繰り返して、千本を限度として通ったという。また、その風習』を指すものである。以下の能因の和歌の「錦木」は、まさに、そのラヴ・コールのそれを詠み込んだものである。

「後拾遺」「錦木は立ちながら社(こそ)朽(くち)にけれけふの細布(ほそぬの)むぬあはじとや」「能因」「後拾遺和歌集」撰者は藤原通俊。応徳三(一〇八六)年成立。その「卷第十一 戀一」所収(出所は不詳)。六五一番。能因法師(永延二(九八八)年~?)は平安中期の僧侶で歌人。「中古三十六歌仙」の一人。俗名は橘永愷(たちばなのながやす)。当初は「融因」で、後に「能因」と号した。和歌を藤原長能(ながとう)に学び、歌道師承の先蹤と言われ、和歌の道に深く傾倒した。自撰家集「能因法師集」・私撰集「玄々集」・歌学書「能因歌枕」等がある。「けふの細布」は「狹布の細布」で、現代仮名遣では「きょうのほそぬの」。「せばぬの」とも言う。同義語を二つ重ねたもの。歌語として「今日」をかけ、また、幅もせまく、丈(たけ)も短くて胸を覆うに足りないところから、「胸合はず」「逢はず」の序詞とする(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

2024/09/04

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 寳石

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]

 

      寶   石

 

 フランシイヌは散步をしてゐる。何も考へてゐない。その時、突然、彼女の右足が左足を追ひ越すことを拒《こば》む。

 そこで彼女は、植え[やぶちゃん注:ママ。]つけられたやうに、深く板をおろしたやうに、飾窓《かざりまど》の前を動かない。

 彼女は窓硝子に姿を映したり、又は、髮の毛を直したりする爲めに止《とま》つたのではない。彼女の眼は一つの寳石に注がれてゐるのである。彼女は執念深く、その寳石を見つめてゐる。それで、若し、その寶石に翼が生えてゐたら、獨りでに、蛇に見込まれた蛙のやうに、それが指環ならフランシイヌの指に、襟留《えりど》めなら胴着の胸に、またそれが耳飾りなら、彼女の耳たぼに、そつと飛び附いて來るだらう。

 それがもつとよく見えるやうに、彼女は眼を半分つぶつて見るのである。また、せめてそれが瞼《まぶた》の下にぶらさがるやうに、彼女は、眼をすつかりつぶるのである。彼女は眠つてゐるやうに見える。

 然《しか》るに、窓硝子のうしろに、店の奧から來た一本の手が現はれる。袖口から出てゐるその手は、白く、華奢《きやしや》な手である。それは、巧みに鳥籠の中にはひる[やぶちゃん注:ママ。岸田氏の癖。]手のやうに思はれた。その手は慣れてゐる。ダイヤモンドの焰にやけどもせず、居睡りをしてゐる樣々な石が目を覺さないやうに、その間を拔けて通る。そして、胸をおどらせながらそれを見つめてゐるフランシイヌに、あなたの好きな方《かた》を一寸失禮しますと云はんばかりに、すばしこく指の先で件《くだん》の寶石を搔《か》つ浚《さら》つて行く。

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 姉妹敵

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。標題の「姉妹敵」だが、岩波文庫改版では「きょうだいがたき」とルビするので、「きやうだいがたき」と読んでおく。]

 

      姉  妹  敵

 

 彼女らは、牛乳入りの珈琲《コーヒー》を、ちびちびと、急がずに飮んでゐた。その時、マリイはアンリエツトに云つた。

 「あんたは行儀よく飮むつて云ふことができないのね」

 アンリエツトは、むつとして、下を向いた。と、頤《あご》がすぐに三重《さんぢゆう》になる。それほど彼女はふとつてゐた。下を向くと、胴着の上に汚點(しみ)がついてゐる。なかなか言ひ返さうとしない。テエブルの上に茶椀を置いて、一《い》つ時《とき》、庭の樹を眺めてゐる。凋落の兆(きざ)しを眺めてゐる。

 「おつしやいよ、意地わるね」やがて彼女は云つた。「あんたには、こんな粗相《そさう》はできつこないのね。珈琲を零《こぼ》しても、みんな、ぢかに床(ゆか)の上に落ちてしまふから」

 「あたしが瘠せてるつて、ちやんと云つたらどう」

 「さうぢやないの、でも、あんたの胸は、あたしの見たいに邪魔にならないつて云ふの。あたしさう思ふわ」

 「ぢや、較べて見ればわかるわ」

 さう云つたかと思ふと、二人は、臂《ひぢ》と臂とをすれすれに、くつついて並んだ。息を吸ひ込む。そして、橫眼で、どちらが餘計張り出してゐるかを見て見るのである。

 「降參した。」アンリエツトが云ひかける。

 「第一、あんたは踵《かかと》の髙い靴をはいてるんですもの」――マリイが云ふ「あうだ、いゝことを考へた。その茶椀をもつて、こつちへ來て御覽なさい」

 アンリエツトは、云はれるまゝに、マリイの後《あと》について行く。彼女らは二人の寢室にはひつて[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。岸田氏の癖である。]、戸の閂《かんぬき》をおろす。

 着物に皺《しは》の寄る音、釦《ボタン》が飛んで轉がる音、紐がこすれる音が聞こえる。長い間、彼女らは笑はないで、こそこそ話をしてゐる。やがて、はつきりした聲で、

 「そらね、あたしの、緣(ふち)までいつぱいよ」――マリイが云ふ。

 「ぢや、あたしのは、はひりもしない。お茶椀がはじけちやうわ」

 鍵の孔《あな》に陽《ひ》が照つてゐるかと思はれるほど、くつきりと白い頸《くび》をあらはにむき出して、二人の姉妹敵は、たれ憚らず、牛乳入り珈琲の茶碗で、乳の大きさを測つてゐる。

 

[やぶちゃん注:「見たいに」これは誤りではない。近現代の比況の助動詞「みたいだ」(形容動詞型活用)は、第一義「性質や状態が他の何かと似ていることを表わす」が、これは近世語の「見たやうだ」の変化したものだからである。

『「降參した。」』“— Te rends-tu ? demande Henriette.”であり、「?」がないと、読者は躓く。改版では、ちゃんと『降参した?』としてある。但し、改版は前半部が逐語的に露わに訳されてあるのだが、こちらは、姉妹がこれから何をするかが、ボカされてあって、却って、漸層的にラストのエロティクなシークエンスを引き出す形を採っており、この初版の方が、全体としては成功していると思っている。

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 稅金

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]

 

      稅   金

 

 「條文がちやんとあります」收稅官吏はノワルミエに云つた。

 『一八八九年七月十七日附法令、第三條、第三項。嫡子タルト庶子タルトヲ問ハス、生存セル七子ヲ有スル父及《オヨビ》母ハ人頭《ニントウ》並《ナラビニ》動產ニ對スル課稅ヲ免セラルルモノトス』

 「いゝか」家に歸つて、ノワルミエは妻に向つて云つた「われわれはもう六人子供がある。七人目をこしらえよう。稅金を拂はなくつてもいゝ」

 確かなことが二人に勇氣を與へた。既に彼等は他の多くのものよりも不幸《ふしあは》せでないやうな氣がした。ノワルミエは殆ど每日働いた。彼は乞食もした。それだけではない、どうかすると肉や馬鈴薯を盜んで來た。それでも彼の律義者《りちぎもの》であることに變りはなかつた。

 また膨れ出した彼の妻は、がらんどの家にいても、からだを休める暇《ひま》がなかつた。それで子供は一人も死ななかつた。彼等の慘めな生活が、最も激しい狀態に陷つた頃、七番目の子供が救《すくひ》の手のやうにやつて來た。ノワルミエは、ほツとして、悠然とかう繰り返した。

 「まあいゝ、稅を拂はんのだから」

 處が、翌年の課稅として金九法《フラン》五十仙《サンチーム》納入すべしと云ふ新しい白箋《はくせん》を受け取つた。

 「條文がちやんとあります[やぶちゃん注:底本は「あます」。脱字と断じて訂した。]」また收稅官吏は云つた。

 『一八九〇年八月八日附法令、第三十一條。一八八九年七月十七日附大藏省令、第三條。第三項ハ次ノ如ク改正ス。嫡子タルト庶子タルトヲ問ハス、生存セル停年未滿ノ七子ヲ有スル父及母ニシテ十法以下ノ人頭動產稅ヲ課セラルルモノハ、此ノ課稅ヲ免除セラルルモノトス』

 「そらね[やぶちゃん注:底本は「そうね」。誤植と断じ、訂した。]、なるほど、九法五十仙の稅金を納めるので、つまり十法以下だ。それから、なるほど嫡子として生存せる七人の實父には違ひないが、その七人はみんな底本の竹内利美氏の後注に、『』とある停年未滿ではない。長男のシヤルルは二十一歲になつた、卽ち停年に達したわけです。さう云ふ譯だから、何《なん》にもなりません」

 ノワルミエは此の言葉を、死んだ馬のやうに、どんよりした顏附をして聞いてゐた。

 「な、おい」彼は妻に云つた「おれには、ちやんとわかつてるんだ。やつら、わざわざ變へやがつた。さうよ、それにきまつてら」

 どうして、彼女は、あんまりびつくりして、わかるどころの騷ぎではなかつた。彼の方も、收稅官吏の云ひ分を妻に說明して聞かせるにつれて、だんだん、わかり方がぼんやりして來た。

 「何んだつて」妻は叫んだ「七人ゐて、それが、こんだ六人と同じことだつて。ぢや、每年、死ぬまで九法五十仙出すのかい。そんなことがあるものかね。第一、子供の年が殖えたからつて、あたしたちのせいぢやないぢやないか」

 長い間、ノワルミエは考へ込んでゐた。

 「どうだ、おい」彼はやつと口を開いた「おれやいゝことを考へた。勘定にはひら[やぶちゃん注:ママ。]ない子供の代りをこしらへたらどうだ。稅金の方ぢや停年未滿つてやつが要《い》るんだから、そいつをすぐ一人こしらへてやろうぢやないか」

 

[やぶちやん注:「がらんど」「がらんどう」(江戸後期に用例あり)の縮約。明治中期には一般に使用されていた。

「停年」まあ、この語は「ある特定の年齢に達すること」を言うから、誤りとは言えないが、使用法としは、「定年退職」を想起するように、相応しい用法ではない。岩波文庫の改版では「丁年」と改訳しており、その方が正確である。「丁年」は、最近は用いられないが、二十歳(現行は満で)=成人を指す語である。「丁」の「盛ん・強い」という意から生じたものと思われるが、別に「丁」は、唐代の制度では、二十歳から五十九歳までの労働可能な男子を言ったようであるから、その使用として、後者語原と考えた方がよかろう。

「こんだ」「今度」の音変化した俗語。江戸中期には既にあった。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 幡多郡伊与木郷庄屋不閉門

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   幡多郡(はたのこほり)伊与木郷(いよきがう)庄屋(しやうや)不閉門(へいもんせず)

 幡多郡伊与木郷の庄屋は、代〻、門を戶(とざ)す事ならず、戶、指(させ)ば、自然(おのづ)と、明(あき)て、有(あり)【外輪(そとわ)の門の戶、勝手口入口の戶、二ケ所也。外(ほか)は、戶、有(あり)。】。

 或夜(あるよ)、試(こころみ)に錠(ぢやう)をおろし置くに、夜中に、聲、有(あり)。

 誰(たれ)とも不知(しれず)、

「何(なに)とて、戶を、さしたるぞ、明(あけ)よ。」

といふ。

 終(つひ)に、戶を、はづしおけり。

 或時、亭主、門を、戶ざし、守り居(をり)たるに、夜中(よなか)、少(すこし)の間(あひだ)、その所をはづしたる內(うち)に、戶は、明(あけ)て、有(あり)。

 夫故(それゆゑ)、其後(そののち)は、夜分、戶を、さゝず、と也(なり)。

 然(しか)るに、

「盗人(ぬすびと)、入(いる)る時は、『立(たち)ずくみ』に成(なり)て、不動(うごかず)。」

と、いへり。

 又、庄屋の宅、座敷のうちに、人(ひと)、寢(いぬ)る事(こと)不成(ならざる)間(ま)、あり。

 若(もし)、寢(いぬ)る時は、丑刻(うしのこく)ばかり、遠きより、刀戦(かたないくさ)の音、す。

 次㐧(しだい)に、近付(ちかづき)て、此(この)座敷に入(い)る。

「形は見へず、寢(いね)たるもの、惣身(さうみ)、すくみて、絕入(たえいら)んとす。」

と、いへり。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡伊与木郷」近現代の行政合併が著しく、非常に判り難くなっているが、「コトバンク」の平凡社「日本歴史地名大系」の「伊与木郷」の記載に、『現佐賀町の佐賀地区を除く伊与喜(いよき)川流域と土佐湾岸を含む地域をいい、中村街道が伊与喜川沿いに通る。』とあるのが、参考になる(但し、既に佐賀町は消滅して大合併し、現在は広域の幡多郡黒潮町(くろしおちょう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)となっている)。現在の行政地名の高知県幡多郡黒潮町佐賀は、ご覧の通り、広域だが、前記の記載に従うなら、少なくとも、現在の伊与喜川河口の左岸の佐賀市街地区は旧「伊与木鄕」には含まれない。しかし、前記の『佐賀地区を除く伊与喜(いよき)川流域と土佐湾岸を含む地域をいい、中村街道が伊与喜川沿いに通る』という記載からは、この現在の広域の「佐賀」地区の内、国道五十六号の走る附近及び伊与喜川流域の沿岸、さらには、現在の佐賀地区と、その周辺の地区の土佐湾沿岸部の一部も、旧「伊與喜鄕」であったと考えなくてはならない。更に、黒潮町佐賀の北に接する現在の黒潮町伊与喜も、当然、旧「伊與喜鄕」である。されば、旧「伊與喜鄕」は非常な広域であったと考えられる。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、「伊與喜」はここで、その東北の山中部分に「佐賀村」とあり、明治のこの頃は、大きな佐賀村の中に吸収されてしまっているように見える。しかし、ウィキの「佐賀町」によれば、明治二二(一八八九)年四月一日に、『町村制の施行により、佐賀村・藤縄村・熊井村・中野川村・伊与喜村・市野々川村・不破原村・荷稲村・川奥村・拳ノ川村・橘川村・市ノ瀬村・鈴村・熊野浦村・小黒野川村の区域をもって佐賀町が発足』とあり、次いで、昭和一五(一九四〇)年十一月三日に、『佐賀村が町制施行して佐賀町となる』とあるのだが、この記載、不審がある(太字下線を附した部分)。この部分は「佐賀村」の誤りと解さないと辻褄が合わないからである。なお、戦前の地図を見ると、伊與喜地区から、北西のかなりの山間部に「伊與喜川」が分流していることが判ることから、この「伊與喜鄕」は、林業を生業としていた郷であったと推定してよいように思われグーグル・マップ・データ航空写真の現在の「伊与喜」を添える。ほぼ九十五%以上が山林である)、この主人公の「庄屋」は、まさに伊与喜川を使って、木材を狭義の河口にある佐賀地区に搬送していた林業者の元締めであったと考えるのが自然である。実際、現在も伊与喜に南で接する、ここ(伊与喜川左岸)に「黒潮町森林組合」の事務所(地図上では「幡東森林組合」だが、前に示した組合名はストリートビューのここで視認出来る)があるのである。以上から、この庄屋の家があった地区も、私はグーグル・マップ・データ航空写真の、この中央の南北の伊与喜川右岸の地区内にあったものと推理するものである。

 なお、当初、私は、この怪異を、「山の神」由来か、と思ったが、刀剣で争う音がするという部分に着目すれば、これ、ありがちな天狗の怪異とするよりも、何らかの武士の怨念を感じさせ、室町の戦国期か、織豊時代、この附近での武家同士の戦さがあったか、或いは、もっと遡って、平安末期・鎌倉時代初期の落ち武者等の怨念話等を考える方が妥当であろうか。

2024/09/03

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 吉利子樹

 

Lonicera-modesta

 

きりししゆ  急䕷子科

 

吉利子樹

 

農政全書云吉利子樹生荒野中科條髙五六尺葉似野

桑葉而小又似櫻桃葉而小其枝葉閒開五瓣小尖花碧

玉色其心黄色結子如椒粒大兩兩並生熟則紅味甜

 

   *

 

きりしじゆ  急䕷子科《きふびしか》

 

吉利子樹

 

「農政全書」に云はく、『吉利子樹、荒野の中に生ず。科條《かでう》[やぶちゃん注:東洋文庫訳では『木枝』と訳してある。]、髙さ、五、六尺。葉、「野桑《のぐは》」の葉に似て、小さく、又、「櫻桃(ゆすら)」の葉に似て、小さし。其の枝葉の閒に、五瓣《ごべん》の小≪さき≫尖《とが》≪れる≫花を開く。碧玉色《へきぎよくしよく》。其の心《しん》[やぶちゃん注:幹枝の芯。]、黄色。子《み》を結び、椒(さんせう)≪の≫粒(つぶ)の大いさのごとし。兩兩《ふたつながら》、並《ならび》生《はえ》、熟すれば、則《すなはち》、紅《くれなゐ》にて、味、甜《あま》し。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:この「吉利子樹」は(「急子科」では見当たらない)、

双子葉植物綱マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属ロニセラ・モデスタ Lonicera modesta

である。和名は不詳(恐らくは、ない)。中文名は「下江忍冬」で、同種の「維基百科」のページに、『中国固有種』とし、別名として、『吉利子(浙江天目山)』とあった。また、シノニムとして、Lonicera modesta var. lushanensis を挙げてあった。学名のグーグル画像検索で樹の全体画像を見ようと思ったが、殆んど、花と葉の部分画像であり、複数のものを見た結果、スイカヅラ属に多い蔓性木本で低木であろうことが判明した。

 この引用書である「農政全書」は、何度も既出既注だが、再掲すると、明代の暦数学者でダ・ヴィンチばりの碩学徐光啓が編纂した農業書である。当該ウィキによれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎』十二『年』(一六三九年)『に刊行された』とある。光啓は一六〇三年にポルトガルの宣教師によって洗礼を受け、キリスト教徒(洗礼名パウルス(Paulus))となっている。

 以上の引用は、同書の「第五十五 荒政」(「荒政」は「救荒時の利用植物群」を指す)の巻末にある。「漢籍リポジトリ」のここである。良安は記載をそのままに完全に引いてある。

 なお、「コトバンク」の日外アソシエーツの「動植物名よみかた辞典 普及版」のここで、この「吉利子樹」を『ウスノキ・ウグイス』を指すとし、『学名』 Vaccinium hirtum 、『ツツジ科の落葉低木』で『高山植物』と記載してあったが、これは、ツツジ目ツツジ科スノキ亜科スノキ属ウスノキ(標準学名)Vaccinium hirtum var. pubescens:(広義学名) Vaccinium hirtum ということになるものの(当該ウィキをリンクさせておく)、この種は日本固有種で、中国には自生しないので、本記載とは全く関係が、ない。

「櫻桃(ゆすら)」この良安の読みは――完全なるハズレ――であるので、注意。本邦で「ゆすら」と言った場合は、

×バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa当該ウィキによれば、『中国北西部』・『朝鮮半島』・『モンゴル高原原産』であるが、『日本へは江戸時代初期にはすでに渡来して、主に庭木として栽培されていた』とある)

を指すが、中国語で「櫻桃」は、

○サクラ属カラミザクラ Cerasus pseudo-cerasus(唐実桜。当該ウィキによれば、『中国原産であり、実は食用になる。別名としてシナミザクラ』『(支那実桜)』・『シナノミザクラ』・『中国桜桃などの名前を持つ。おしべが長い。中国では』「櫻桃」『と呼ばれ』、『日本へは明治時代に中国から渡来した』とあるので、良安は知らない

である。「維基百科」の「中國櫻桃」をリンクさせておく。

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 商賣上手の女

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]

 

      商賣上手の女

 

 マリイマドレエヌは白木《しらき》のテーブルの後《うし》ろで貧乏ゆすりをしてゐる。そして、相手をそらさない笑顏を作りながら、熱心に手眞似身振りをして喋舌《しやべ》り續ける。彼女は、人參、大根、葱、トマトをすすめ、それからハンケチの底で莢《さや》をむいた豌豆《えんどう》、籠《かご》に入れた鳥類《てうるゐ》を薦めるのである。

 値切るものがあると、彼女は、おとなしく、それで、しつこく頑張るのである。機敏に眼を働かして、品物を撰《よ》る指の怪しげな働き方を監視し、いざとなれば、素早く、意地のきたない蠅を追ふやうに、その指を撥《は》ね退《の》けようと身構え[やぶちゃん注:ママ。]てゐる。

 すると、彼女の裳《もすそ》[やぶちゃん注:スカート。]の中で、時には嗄(しやが)れた叫び聲、時にはまた激しい羽ばたきが聞こえる。マリイマドレエヌは一方の脚《あし》にからだの重みをかけるやうに、からだを屈めるのである。

 「あばれてゐるんですよ」――彼女は言う。「まだ時間があります。ひどくしちやいけませんからね、さうすると血が出てしまふんです。ですから、そつと踏んでゐるんです。それで羽ばたきをしなくなつたらやめるんです。あんまりはやく殺してしまつちやいけませんからね。頭に傷をつけると、買手がないでせう。だから、木靴《きぐつ》を脫いでするんです。こら」

 マリイ•マドレエヌは一寸《ちよつと》裳をまくつて見せる。そして、今、相手が買つたばかりの家鴨《あひる》の嘴《くちばし》を見せる。兩手は品物を賣る爲めに明けて置かなければならないので、彼女は足でそれを絞め殺してゐるのである。

 

[やぶちゃん注:「それからハンケチの底で莢をむいた豌豆、」原文は“petits pois fraîchement écossés au fond d’un mouchoir,”で、これは、訳すなら、「ハンカチの底にある、皮をむいたばかりのエンドウ豆、」である。岩波文庫改版では、『それから莢(さや)をむきたての豌豆(えんどう)をハンケチへ入れて見せ、』と改訳している。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 犬の散步

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]

 

      犬 の 散 步

 

 日曜日每《ごと》に、晝食を濟ますと、バルジエは彼の妻に云つた。

 「どれ、一まはりして來よう。お前は子供らを連れて、どこかへ行くがいゝ。おれは、おれの方で、犬を連れて行くから」

 「だつて」と、妻は云ふ「なんなら、みんな一緖に行きませうよ」[やぶちゃん注:「云ふ」の後には句読点はない。連続した台詞として確信犯の処理と私は思う。以下も同じ。]

 「犬は無闇《むやみ》に走るからなあ」――バルジエは答へる「お前たちはとてもおれたちについて來れまい。まあ、しつかり遊んで來い。さあ、ピラム」

 ピラムが、外の空氣が吸へる嬉しさに、敷石の上で雀躍《こをどり》をしていると、バルジエは、

 「好い天氣だなあ。こら、こら、息が切れるぞ。時間は充分ある」

 先づ彼は角の宿屋兼カフエーの店にはひる[やぶちゃん注:ママ。]。そして、ピラムをテーブルの脚にしつかり結い[やぶちゃん注:ママ。]つける。それから、自分は、一人の老友の前に座を占める[やぶちゃん注:ここは底本では「占ある」であるが、誤植と断じて、訂した。]。ゲームを始める爲めに彼の來るのを待つてゐたのである。

 主人が骨牌《カルタ》をやつている間、ピラムはぢつとしてゐる。脚を舐《な》める。人が通つて、その脚を踏まうとすると引込《ひつこ》める。虻《あぶ》を嚙み殺す。嚏《くさ》みをする。さうして、誰《たれ》も恨まずに、かまふものもなく眠つてしまふ。

 時間がたつ。夕方の七時が鳴らうとする。と、パルジエは熱に浮かされたやうに時計を見上げる。彼の妻と子供たちはもう歸つてゐるだらう。夕食の膳《ぜん》ごしらへが出來てゐるだらう。

 「もうあと二度つきり」彼は云ふ。

 それがすむと、

 「決戰、それで歸るとしよう」

 それがすむと、

 「吊合戰《とむらひがつせん》、これでやめ」[やぶちゃん注:「吊」は「弔」の俗字である。]

 それから、中腰になり、始める前から指に汗をかいて、彼はまた、云ふ。

 「さ、早く、これで愈々おしまひ」

 今度はおしまひである。パルジエはピラムをほどいてやる。そして、少し汗をかく爲めに、家まで飛んだり跳ねたりして行く。それが、犬を散步させて歸つて來たのである。

 

[やぶちゃん注:「ピラム」原綴“Pyrame”。臨川書店一九九五年刊の『ジュール・ルナール全集』第四巻の「葡萄畑の葡萄作り」の訳者柏木隆雄氏の「ピラーム」の注によれば(本篇への注は、これ一箇所のみ)、『ローマ神話で自分の婚約者がライオンに殺されたと早合点した青年の名からとった』もので、『十七世紀テオフィル・ド・ヴィオーの悲劇で知られるが、犬にはこうした神話の英雄の名がよくつけられる。』とある。この神話はウィキの「ピューラモスとティスベー」に詳しく(ラテン文字:Pyramus et Thisbē)、同フランス語のウィキ“Pyrame et Thisbé”もある。因みに、「にんじん」でも、父ルピック氏の飼い犬の名もまた、“Pyrame”なのである。私の『「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「犬」』を見られたい。

「好い天氣だなあ。こら、こら、息が切れるぞ。時間は充分ある」この部分、岩波文庫改版では、『「しっ! こら、こら、息が切れるぞ。時間は十分ある」』と改訳している。原文の冒頭部は、“Beau !”である。極めてよく使う形容詞で、「美しい・綺麗な」の意だが、第二義的に、ここで岸田氏が訳した「晴れた」の意味がある。しかし、この場合は、それらとは全く別な用法であることは、明らかであり、この初版訳のこの台詞全体は、正直、日本語としても躓かざるを得ない訳である。この“Beau !”は、“!”を打っていることで判るように、ある注意喚起を起させるシグナルであり、まさにその後の訳「こら、こら、息が切れるぞ。時間は十分ある」という部分が、喜んで、はしゃぐパルジエの犬ピラムへの「落ち着かなければ駄目だ!」という軽い叱責であることは明白なのである。この場合の“Beau”は、「立派な・優れた」の意の中の、ある状態・雰囲気が「大きい・強い・激しい・酷(ひど)い」といった意味の内、ネガティヴに傾いた、批判的なニュアンスを含んだ用法なのである。岸田氏は、それに気づき、正しい表現に改正訳したのである。

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 靑い木綿の雨傘

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。標題は「あをいもめんのあまがさ」。]

 

      靑い木綿の雨傘

 

 彼等は、樹の茂みを見かけ、草原の中を走つた。彼等は路を離れたばかりであつた。しかし、その樹の茂みまでは、まだ遠かつた。ポオリイヌとピエールはこれ以上先へは行けなかつた。戀心に頭がくらんで、草原のまんなかに、赤ちやけた草と陽《ひ》に褪せた花の中へ、からだを投げ出した。ポオリイヌが大きく擴げた雨傘の陰に二人はからだを投げ出した。

 路に人影が見えないと、靑い木綿の雨傘は動かないでゐる。[やぶちゃん注:底本では、この一文は行頭から始まっているが、誤植と断じ、一字空けを施した。]

 處で、誰かゞ一人やつて來た。

 ポオリイヌは、いきなり指の先で傘の柄《え》を𢌞し出す。その間、ピエールは何もせずにゐる。

 雨傘は、風車のやうに、おとなしく、柄を水平に、骨の先だけがぐるぐる𢌞るのである。その𢌞り方は、如何にも相手を脅迫するやうに、何事かと眼を丸くしてゐる旅行者の足取りに合せて、それが遲ければ遲く、步を早めれば早く𢌞るのである。

 傘は二人の戀人を匿《かく》し、保護し、その透《すか》し入りの影で二人を覆つてゐる。と云ふのは、太陽の白い針が、そこかしこ、孔《あな》を明けてゐるのである。

 やがて、止まる。

 旅行者は、いつ時はツとしたが、氣を取り直して道を急ぐ。燒けつくやうな熱さに、知らず知らず腰を屈めると、組み合はされた四ツの足だけが、傘からはみ出してゐた。

 

[やぶちゃん注:本篇は、一九七三年岩波書店刊の岩波文庫のものと比較すると、第一段落の前半部が、有意に改訳されてあることが判る。そちらの第一段落を以下に示す。

   *

 彼らは、路を離れるといきなり、原っぱをつっ切って、茂った木立ちのほうへ走って行こうとした。ところが、その木立ちは、あんまり遠すぎてなかなか行き着けそうにない。ポオリイヌとピエエルはもうこれ以上行くことはできない。恋心に頭がくらんで、草原のまんなかに、赤ちゃけた草と陽(ひ)に褪(あ)せた花の中へ、からだを投げ出した。ポオリイヌが大きく拡げた雨傘の蔭に二人はからだを投げ出した。

   *

この原文は、

   *

   Ils n’ont que le temps de quitter la route, pour courir par le pré, vers les arbres épais. Mais les arbres sont encore trop loin. Pauline et Pierre ne peuvent plus aller. Ils se laissent tomber, défaillants d’amour, au milieu du pré, dans l’herbe rousse et les fleurs grillées, sous le parapluie de Pauline qu’elle ouvre tout grand.

   *

であって、逐語的な訳としては、この初版の方が、遙かに正しい。しかし、恋人たちの、はやる気持ちのリズムを映像的に効果的に表わすには、改訳版の方が、より良い、と言えると私は思う。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 髙岡郡龍村無盗賊

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

   髙岡郡(たかをかのこほり)龍村(りゆうむら)無盗賊(たうぞくなし)

 髙岡郡龍村は、世に「龍・鳴無(おとなし)」と並べ稱する霊地也。

 鎭守の神、末世(まつせ)といへども、威靈、衰へざるにや、一在所(いちざいしよ)に、昔より、盗賊、なく、正直を守りける。

 若(もし)、盗(ぬすみ)をすれば、忽(たちまち)に、神罰を蒙りぬ、といふ事、眞實(まこと)に、おもひ、恐(おそれ)けるにや。

 或(あるい)は、田畑へ、ゆき、農業をする者、鎌・鍬(くは)の類(たぐゐ)、一切の農具を遣(つか)ひ、日、暮(くれ)ぬれば、其所(そこ)に置(おき)て、宿へ、歸(かへる)。

 翌日、行(ゆき)て、又、遣ひぬるに、盗む、といふ事、なし。

 山本武兵衞、先年、普請役にて、彼(かの)地にて、大勢、人夫を遣ひ、暮(くれ)に及(およん)で、歸る時に、鐵道具を集(あつめ)させ、歸らんとするを、在所の役を勤(つとむ)るもの、右の趣(おもむき)を、いふ。

「『我々、請合申(うけあひまうす)。』由(よし)にて、其儘(そのまま)に置申(おきまうし)ける。」

と、直(ぢき)に物語、有りし。

 此事、「胎謀記事」に見へたり。

 

[やぶちゃん注:「髙岡郡龍村」「ひなたGPS」の戦前の地図のここで、「龍」の地名が確認出来る。現在は近現代の行政区画変更により、高知県土佐市宇佐町(うさちょう)竜(りゅう)となっている。グーグル・マップ(以下無指示は同じ)のここで、拡大すると、ここ。西から延びている複雑な形状をした横浪(よこなみ)半島の先端部である。平凡社「日本歴史地名大系」の「竜村」によれば、『竜岬付根の入江に面する半農半漁の小村。北は井尻(いのしり)村、西は浦ノ内村』(うらのうちむら:現在は須崎(すさき)市)で、『近年、横浪黒潮ライン』(半島の南側を走るこれ)『と宇佐大橋』(ここ)『の開通により、井尻・宇佐と直結した。集落南方に広さ四万平方メートルの湿原』「蟹(かに)ヶ池」(別名「七葉の池」)があり(同航空写真)、『西南山麓に四国霊場』三十六『番札所青龍寺』(しょうりゅうじ:ここ)『がある。近年、関(せき)ノ裏(うら)で』(高知県の公式遺跡報告書を見ると、『竜遺跡』とし、所在地を『土佐市竜関ノ裏』とするが、この地名では如何なる地図でも確認出来ない。試みに「ひなたGPS」で検索にこの地名を入れたところ、ここにポイントされた)、『七世紀の集落遺跡が発見されたが、これは古代海部のもので、蟹ヶ池周辺で水稲耕作も行っていたとみられる(土佐市史)』。『天正一七年(一五八九)の宇佐郷地検帳にみえる「竜ノ村」はすべて「青龍寺分」で、四八筆の農耕地のうち四〇筆まで青龍寺の手作地または脇坊分』とあった。

「鳴無」先の地図で、わざと入れて判るように配したのだが、横浪半島の根の方の北側の、須崎市浦ノ内(うらのうち)鳴無(おとなし)にある鳴無神社(おとなしじんじゃ)を指す。この神社のウィキがあり、『参道が海に向かって延びており、「土佐の宮島」とも称される』とあって、「龍村」と同じく、古くから海人族(あまぞく)の信仰の霊地であったことが窺われる。「須崎市観光協会」公式サイト内の「鳴無神社」のページが、写真や動画が豊富なので、是非、見られたい。

「山本武兵衞」土佐藩士には五家の「山本」姓がある。

「胎謀記事」前に既出既注だが、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名家系譜」(寺石正路著・昭和一七(一九三二)年高知県教育会刊)のここに、書名と引用が確認出来る。土佐藩史・地誌のようである。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 享保十二未年大災

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   享保十二未年(ひつじどし)大災(たいさい)

 享保十二未年二月朔日(ついたち)、大火、御城(ごじやう)燒失(しやうしつ)、火本(ひもと)、越前町(えちぜんまち)、中程(なかほど)西側、伊㙒辺丈助(いのべじやうすけ)。

 同二日、大火、丈助、南、鄕辰三郞(がうたつさぶらう)、土藏の家根(やね)より出火。

 丈助・辰三郞兩家の間に、黑岩儀、平宅(ひらや)、有(あり)。兩日の大火に遁(のがれ)て、無恙(つつがな)し、とぞ。

 

[やぶちゃん注:この二日の火事は、前日の隣りの「伊㙒辺丈助」の家の出火の際、強い西風で煽られて(だから、高知城に延焼したのである)、火種の一部が、火災時に発生した火勢が起こした旋風に乗って、南方向に飛び火し、「鄕辰三郞」の「土藏」の屋根の瓦の間に落ち込み、時間をかけて、翌日、彼の家根下から、再度、燃え上がったものと思われる。間にあった「黑岩」の家は、平屋であったことが幸いして、火炎が高い位置で完全に飛び越して、幸いにも延焼を全く免れたのである。

「享保十二未年二月朔日」享保十二年丁未(ひのとひつじ)。グレゴリオ暦で一七二七年三月二十三日相当。

「越前町」高知城の西直近の高知市越前町(グーグル・マップ・データ)。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 馬醉木

 

Asebi

[やぶちゃん注:この絵、花の描き方が如何にも下手である。] 

 

あせぼのき

      阿世美

馬醉木  俗云阿世保

 

あせみ

 

△按馬醉木生山谷高者二三𠀋小者一二尺皆枝葉茂

 盛其葉狹長微鋸齒淺綠色硬而攅生於枝椏九十月

 出花芽春開小白花作房結子亦作房一子中細子多

 人家庭砌植之以賞四時不凋相傳馬食此葉則醉故名

                          俊賴

  取つなけ玉田橫野のはなれ駒つゝしかけたにあせみ花さく

[やぶちゃん注:最後の一首は、下句に誤りがあり、「つつしのしたにあせみさきけり」が正しい。訓読では訂した。]

 

   *

 

あせぼのき

      阿世美《あせび》

馬醉木  俗に云ふ、「阿世保《あせぼ》」。

 

あせみ

 

△按ずるに、馬醉木《あせび》は、山谷に生ず。高き者、二、三𠀋、小《ちさ》き者、一、二尺。皆、枝葉、茂≪り≫、盛≪んなり≫。其の葉、狹長《さなが》≪にして≫、微《やや》、鋸齒≪ありて≫、淺綠色。硬(こは)くして、枝椏《えだまた》に攅生《さんせい》す[やぶちゃん注:群生する。]。九、十月、花芽(《はな》め)を出《いだ》す。春、小≪さき≫白≪き≫花を開き、房を作≪なし≫、子《み》を結ぶ。亦、房≪ふさ≫を作《つくり》、一≪つの≫子《み》の中≪に≫、細≪かなる≫子《たね》、多≪し≫。人家≪の≫庭-砌《にはさき》に、之れを植《うゑ》て、以つて、賞す。四時、凋まず。相《あひ》傳ふ、「馬、此の葉を食へば、則ち、醉《ゑ》ふ。故に名づく。」≪と≫。

                    俊賴

  取りつなげ

   玉田(たまだ)橫野(よこの)の

       はなれ駒(ごま)

     つゝじのしたに

           あせ

みさきけり

 

[やぶちゃん注:本種は私の好きな樹である(なぜ好きなのかは、よく判らないが、あの一見豊かに見える花房を触ると、思いの外、軽くカサカサして虚ろな感じがするギャップにネガティヴに惹かれるとだけ言っておこう)、

双子葉植物綱ツツジ目ツツジ科スノキ(酢の木)亜科ネジキ(捻木・捩木)連アセビ(馬酔木)属アセビ亜属アセビ亜種アセビ Pieris japonica subsp. japonica

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『常緑性の低木である。別名アシビ。本州・四国・九州に自生し、観賞用に植栽もされる場合もある。有毒植物』。『和名「アセビ」は漢字で「馬酔木」と書き、葉にグラヤノトキシンⅠ(GrayanotoxinⅠ:別名「アセボトキシン」(Asebotoxin)。当該ウィキによれば、『レンゲツツジ、アセビ、ネジキなどのツツジ科の植物の全草に含まれている。日本産のハナヒリノキ』(ツツジ目ツツジ科イワナンテン属ハナキリノキ(嚏の木)Leucothoe grayana )『から発見・命名された』。『グラヤノトキシンは細胞膜上のNaイオンチャネルに結合して興奮と脱分極を継続させ、カルシウムイオンを流入させるため』、『骨格筋や心筋の収縮を強め、結果』、『期外収縮などを起こす。迷走神経を刺激した後に麻痺させる作用も持つ』。『ホツツジ』(本邦の北海道南部・本州・四国・九州に普通に分布するツツジ科ホツツジ属ホツツジ Elliottia paniculata )『などの蜜に含まれるグラヤノトキシンが蜂蜜から検出されることがあり、問題となっている。このことはギリシャ・ローマ時代から知られており、大プリニウス、ストラボン、クセノフォンらは著書の中で』、『ツツジ属植物の蜜に由来する蜂蜜による中毒を記録に残している』。『また、上記の含有する植物を食べることによる家畜の中毒死も問題となる』とある)などの有毒成分が含まれることから、ウマが葉を食べれば毒に当たって苦しみ、酔うが如くにふらつくようになる木というところからついたとされる。「馬酔木」はアセビを指す漢字名として定着しているが、本来は別の植物だともいう説もある』。『別名で、アシビ、アセボともよばれる。アシビは古名の一つで、一説では「悪し実」ではないかとされる。地方名でヒガンノキともよばれており、春彼岸のころにアセビが花盛りで、仏前の供花にもされることに由来する』。『学名の属名 Pieris(ピエリス)は、ギリシャ神話に登場する詩の女神の名前である』。『アセビは日本列島の本州(山形県以西)、四国、九州や、中国に分布する』(中文名は簡体字で「马醉木」で同じ)。『主に山地に自生する。やや乾燥した環境を好む。庭にも植えられる』。『有毒植物であり、葉に限らず、全体に有毒成分が含有される。このため、多くの草食動物はアセビを食べるのを避け、食べ残される。そのため、草食動物の多い地域では、この木が目立って多く生育している場合がある』。『アセビが不自然なほど多い地域は、草食獣による食害が多いことを疑うこともできる。例えば、奈良公園や春日山では、ニホンジカが他の木を食べ、この木を食べないため、アセビが相対的に多く見られる』。『常緑広葉樹の低木から小高木で、樹高は』一・五~五『メートル』『ほどになる。自生するものは』、『かなり大きいものもあり、樹齢』百『年から』二百『年になる老木も多く見られる。樹皮は褐色で、縦に細く裂けて』、『やや』、『ねじれ、ネジキに似る。若枝は緑色で、はじめのうちは毛があるが、のちに無毛となる』。『葉は枝の先に束になって互生し、長さ』三~八『センチメートル』『の長楕円形から倒披針形で、葉縁には鋸歯がある。葉身は深緑色で厚い革質、表面に艶がある。芽吹きは赤く映えてよく目立つ』。『花期は早春から晩春』(三~五月)で、『早春になると枝先に』十センチメートル『ほどの房になった円錐花序を垂らし、白い壷状の花を』、『多数』、『咲かせる。花は長さ』五~六『ミリメートル』『ほど。雄蕊は』十『本で』、二『個の角を持ち』、『毛深い。なお、園芸品種には、ピンクの花を付けるアケボノアセビ(ベニバナアセビ)』( Pieris japonica f. rosea )、『花が上向きに咲くものにウケザキアセビ』( Pieris japonica f. antrosa )『がある』。『果期は秋』(九~十一月)。『果実は直径』五~六ミリメートル『の偏球形で、秋に熟す。実や葉は有毒である』。『冬芽は枝先に穂状につく。花芽は穂状で花期が近づくと目立ってくる。葉芽は卵形や円錐形で、多数の芽鱗に包まれている。葉痕は円形で維管束痕が』一『個見える』。『アセビは、日本で庭木、公園樹として植栽されるほかに、花を咲かせる盆栽としても利用される。常緑の灌木で垂れる花房が美しく、虫がつかないことから庭園の植栽樹として重宝されている。暖かい地域では、道路の中央分離帯の植栽樹に使われることがある』。『また、アセビが有毒植物である事を利用し、その葉を煎じてその液を植物に撒いて殺虫剤として利用されている。古くは葉の煎汁がシラミ、ウジ、菜園の虫退治に用いられた。そこで、アセビの殺虫効果を、自然農薬として利用する試みもなされている』。『アセビの有毒成分として、グラヤノトキシンI(旧名アセボトキシン・アンドロメドトキシン)、アセボプルプリン、アセボインが挙げられる。中毒症状は、血圧低下、腹痛、下痢、嘔吐、呼吸麻痺、神経麻痺が挙げられる』。『なお、ニホンジカが忌避する植物であるため、シカの生息密度が高く食害を受け易い森林では、アセビをシキミ』(樒:アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum 。シキミは全植物体に強い毒性があり、中でも種子には強い神経毒を有するアニサチン(anisatin)が多く含まれ、誤食すると死亡する可能性もある。シキミの実は植物類では、唯一、「毒物及び劇物取締法」により、「劇物」に指定されている)『など共に混植する試みが行われた事例も有る』。「万葉集」『にも』『アセビを詠んだ歌が』十首あり、『山の枕詞である「あしびきの」がアセビ(あしび)と結びつけられて論じられて』おり、『日本人が古くから親しんできた木で』、『アセビの花を愛でた歌人の面影を示す歌が多く』、「万葉集」の成立した奈良時代末期ごろまでには、庭園にアセビが植栽されて観賞されていたとみられている』。以下、「万葉集」より二首。独自に校訂した。

   *

磯の上(うへ)に生(お)ふる馬醉木(あしび)を手折(たを)らめど見すべき君がありと言はなくに

(卷第二・百六六番/大津皇子の遺体を葛城(かづらき)の二上山(ふたかみやま)に改葬した時に、大伯皇女(おおくのひめみこ)が悲しんで作った二首の二首目)

   *

池水に影さえ見えて咲きにほふ馬醉木の花を袖(そで)に扱入(こき)れな

(卷第二十・四五一二番/大伴家持)

   *

以下、「アセビ属」の種十種が列記されるが、見るに、ここには必要がないと判断し、カットした。

「取りつなげ」「玉田(たまだ)橫野(よこの)のはなれ駒(ごま)つゝじのしたにあせみさきけり」「俊賴」既注の「夫木和歌抄」に載る源俊頼の一首で、「卷三 春三」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「01008」)。「あせみ」が「あしび」の古語である。]

2024/09/02

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 水甕

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。標題は「みづがめ」。]

 

      水   甕

 

 ジエロオムは八十になつた。

 彼は食ふだけの貯へはあるので、空氣を吸ふためにしか外へは出ない。日に一時間か二時間、病みついてなほらない脚《あし》を外に曳きずつて行くのである。彼が役に立つことゝ云つては、裏庭の井の水が渴れた時に、森の泉まで行くことだけであつた。

 彼は水甕を綱で括《くく》つて、それを手で提げて行く。サマリイの女のやうに肩に乘せることはしない。

 泉まで來ると、彼は先づ自分の喉を潤《うるほ》す。彼は冷えたところをその日の分だけ飮む。水甕に一杯を、うちで待つてゐるほかのものが飮めるやうに、さうするのである。彼は水甕を取り上げる。そして家に戾る。彼はゆつくり步く。その步き方の遲さは、杖を突いてゐるからでもあるが、水甕の水が少しも零《こぼ》れないほどである。

 彼が、喉を渴《かは》かして待つてゐるうちのものにそれを渡すとき、一滴も零さなかつたと云つて威張《いば》ることができるのである。

 たゞ、その水甕の水は、泉がそれほど遠くないのに、道で少し微温(ぬる)くなつた。

 

[やぶちゃん注:「サマリイの女」原文は“les Samaritaines”で「サマリアの女たち」であるが、知られる「新約聖書」に現われることで知られ、ここもそれを洒落たものである。“Samaria”(サマリア)は古代イスラエルの首都であつたが、アッシリア王サルゴンⅡ世の侵略を受けて紀元前七二一年に陷落の後、アッシリアから移民が入り込み、そこに殘つていたイスラエル人との間に混血を生じ、後、その土地の人々は「サマリア人」と称せられるようになった。彼等の宗敎は、アッシリアの土着信仰にユダヤ敎が混淆したもので、ユダヤ人はイスラエルの血を穢した存在として、サマリア人を忌避し、迫害した。「ヨハネの福音書」第四章によれば、ユダヤを去ってガリラヤへと戻ろうとしたイエスは、このサマリアの街シカルを通り掛かったが、弟子たちは食物を買いに町へ行き、彼は疲れ、「ヤコブの井」と呼ばれた井戸端に、独り、座つていた。その時、一人のサマリアの女が、辛(つら)い水汲みのため、この井戸へとやってきた。イエスは、女に、丁寧に、「水を飮ませて下さい。」と請うた。普段なら、異敎徒として蔑視されるはずの女は、驚く。イエスは優しく諭した。「この水を飮む者は、誰でも、また、渴く。しかし、私が与える水を飲む者は、決して、渴かない。私が与える水は、その人の中で、泉となり、永遠の命に至る水が、湧き出る。」 と。女は、イエスが救世主であると知り、二日の滞在の内に、シカルの多くのサマリア人たちが、イエスに帰依したと伝える。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 七面鳥になつた男

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]

 

      七面鳥になつた男

 

 七面鳥の飛ぶのを仕事のやうに見てゐたジヤツクフエイは、或る日、獨りでかう云つた。

 「おれだつて飛べないわけはない。翼さへあれやなんでもない。なに、おれが賴めば、おれの七面鳥が、どれか翼を貸してくれるだらう」

 處で、まづ彼は、腕で空氣を擊つ練習をした。彼のまはりに、風と埃とが起るほど早く、腕で空氣をうつのである。

 足の方はどうかと云ふと、足は獨りでに步いてゐる。これも泳ぐ時のやうに使へばいゝわけである。

 そこで彼は、死にかけてゐた一羽の七面鳥をつかまへて、その翼を引拔いた。それから、それをしつかり臂《ひぢ》に括りつけて、愈々一大飛躍を試みやうとした。

 彼は草原の中で、自分の七面鳥が逃げ狂ふ間を、走り𢌞り、跳ね上りした。翼を拔かれた七面鳥は、血で眞つ赤になつて、渦を卷いてゐた。時々彼は尻餅を搗いた……試にしである[やぶちゃん注:ママ。「試しに」の誤植。]。

 「これでよし」彼は云つた「さあ、一つやつて見るか」彼は川岸の一本の古柳を選んだ。幹の節《ふし》くれを傳つて容易に登ることができる。枝を拂つた頭が、丁度自然の小さなプラツトフオームになつてゐた。

 下には、濁つた川が深い眠りを眠つてゐるやうに見えた。そして、寄つてはすぐ消える輕い皺は、夢を見て笑つてゐるのかと思はれた。

 「若しおれが、最初一囘飛び損なつても」ジヤツクは言つた「水浴びをするだけのことだ。痛かつたところで知れたもの、上等な寢臺の上へ落ちるのと違ひはない」

 準備ができた。

 七面鳥の群《むれ》は、ゴロゴロ啼きながら、彼の方に首を伸ばしてゐた。そして、翼を拔かれた七面鳥は、草叢の中で息を引取らうとしてゐた。

 「いゝち!」と、ジヤツクは柳の木の上に立ち上つて、臂を擴げ、踵《かかと》をそろへ、眼を、やがて舞ひ上らうとする雲の彼方に注いで、云つた。

 「にいツ!」と、また彼は、長く息を吸ひ込んで云つた。

 「さん」は云はないで、決然として空中にからだを投げ出した。空と水との間に飛び込んだ。七面鳥の番をしてゐたジヤツクフエイの姿を、それから見たものはなかつた。

 

[やぶちゃん注:「七面鳥」『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「七面鳥」』の本文と私の注を見られたい。なお、その「二」のパートは本作の後の方に出てくる。

「柳」原文は“saule”。本邦の場合は、殆んどの読者が「しだれ柳」、キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica、をイメージしてしまうが、フランスの場合、一般的な柳は、セイヨウシロヤナギ Salix alba であろう。フランスの「Van den Berk UK Limited」公式サイト内の同種のページに多数の画像があるので、見られたい。まず、我々の想像し得る「柳」とは、ほぼ埒外の形状である。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版始動 / 力持ち

[やぶちゃん注:本篇は一八九四年(本邦では「日清戦争」が起こった明治二十七年相当)に「にんじん」の出版に次いで、同名の題で「土地の便り」及び「エロアの控え帳」の二篇と合わせて、文芸雑誌『メルキュール・ド・フランス』(‘ Mercure de France ’)で知られる同名出版者から三百部限定で刊行された(一九〇一年に増補再版されている)。底本は、日本で最初に翻訳された、岸田國士譯の国立国会図書館デジタルコレクションの大正一三(一九二四)年四月春陽堂刊の総標題「葡萄畑の葡萄作り」初版を用いた。ここが標題ページで、本文「力持ち」は、ここから。

 傍点「﹅」は太字に代え、私の注を一部に附したが、その際、原文はフランス版ウィキペディアの“Jules Renard”にリンクされたテクスト・サイト“Gallica”のPDFファイル版“LE VIGNERON DANS SA VIGNE”を、また「雄鶏」以降の「博物誌」の初稿ともいうべき複数項目については、私が、新たに、昨年末に各個電子化注(原文附)した『「博物誌」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)』を参考にした。また、所持する臨川書店一九九五年刊の『ジュール・ルナール全集』第四巻所収の同作(柏木勇隆雄氏訳)も参考にする。最後のものは、必ず、引用を明記する。

 実は私は、十六年前の二〇〇八年十二月十三日に、サイト版で、一九七三年岩波書店刊の岩波文庫「ぶどう畑のぶどう作り」(第十刷・改版。初版は昭和一五(一九三八)年刊。新字新仮名)を公開しているが、やはり、初版の正字正仮名を電子化したいもの、と、ずっと思っていた。父の逝去から五ヶ月が経過し、未だ後始末はエンドレス状態だが、そうした、なんとなく落ち着かない気分を紛らわすために、大好きなルナアルの作品を、今日より、再開することに決した。

 本底本は、ルビが非常に少ない。されば、一部の読みが振れると判断した箇所には、私の推定で《 》で歴史的仮名遣の読みを添えた。

 また、底本では、直接話法が改行されているが、その場合、岸田氏は、一字下げをしている。また、鍵括弧の台詞の終りには句読点は、ない。それらは、そのまま再現した。

 岸田氏は、しばしば、歴史的仮名遣を誤る。これは、もう一種の思い込みによる誤用で、岸田氏の作品では、頻繁に見られる癖であり、恐らくは校正係が指摘したこともあろうが、直すことはなかったようだ。私のタイプ・ミスと思われるのは厭なので、執拗(しゅう)ねくママ注記を附した。

 なお、原文は、今回は附さずに、おく。原文との対比は、時間が異様に掛かり、他にやっているルーティンの電子化注に、甚だ、支障が生ずるためである。]

 

 

   葡萄畑の葡萄作り

 

 

     力  持  ち

 

 誰《たれ》もその男の云ふことを信じようとはしなかつた。が、彼が、腰掛を離れ、足を踏み鳴らし、昂然と頭を上げて棒切れの積んであるところへ行く、その落ち着き拂つた樣子で、强さうな男だとは、誰も見て取つたのである。

 彼は一本の長い、丸い薪《まき》を取り上げた。それは一番輕さうなのではなく、その中で、一番重いやつに違ひなかつた。その棒には、おまけに、節くれや、苔や、古い雄鷄《をんどり》のやうに蹴爪までついてゐた。

 先づ、その男は、その棒ぎれを振り𢌞して、そして怒鳴つた。

 「見たまえ、諸君、こいつは鐵の棒よりも固い。處が、吾輩は、かく申す吾輩は、それを膝で二つに折つて御目にかける。マツチ棒のやうに折つて御目にかける」

 此の言葉に、男も女も、敎會堂でのやうに、一齊に伸び上つた。新婚のパルジエ、半聾《はんつんぼ》のペロオ、それから噓を吐《つ》かせることの出來ないラミエなどが、そこにゐた。パブウもいた。さうさう、カステルも、そのカステルならかう云ふかも知れない――平生、夜の集りなどで、めいめい力自慢の話をし合つて、次から次へ人を驚かした評判の連中は悉くそこにゐたと。

 その晚は、彼等は笑はなかつた。それはたしかだ。彼等は既に、身動きもせず、口を緘《つぐ》んだまゝ、その力持ちを感心して見てゐるのである。彼等のうしろでは、寢てゐる子供の鼾《いびき》が聞こえる。

 その男は、彼等を全く威壓したと見て取つた。こゝぞとばかり、彼は傲然と身構え[やぶちゃん注:ママ。]た。膝を曲げた。そして、悠々と薪を取り上げた。

 暫くの間、それを、力瘤《ちからこぶ》を入れた兩腕の先に振つてゐた。――多くの眼が輝いてゐた。人々の口が息づまるやうに開いてゐた。――彼は薪を膝にあてた。えい! やツ! 掛け聲もろとも、脚《あし》が折れた。

 

[やぶちゃん注:「薪」原文は“bǔche”で、「まき・たきぎ」の意であるが、どうも、最も重い一本を選ぶ際、「たきぎ」という日本語は、私の認識では、どうも気軽に持てる細い感じがするので、敢えて「まき」と訓じた。

「パブウ」原文は“Papou”であるから、「パプウ」が正しい(正確に音写すると「パプ」)。誤植であろう。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 幡多郡有岡村眞靜寺本尊

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

   幡多郡(はたのこほり)有岡村(ありをかむら)眞靜寺(しんじやうじ)本尊

 幡多郡有岡村、眞靜寺は、徃昔(わうじやく)、有岡村の地頭民部少輔といふ人、事の緣(えん)、有(あり)て、上京せしに、元亨元年[やぶちゃん注:一三二一年。]、日像(にちざう)上人、法華弘通(ほつけぐづう)[やぶちゃん注:日蓮宗を普及させること。]の爲(ため)、洛中に於(おい)て、說法、有(あり)しが、民部少輔、其法席(ほふせき)に臨(のぞみ)て、度々(たびたび)、聽聞(ちやうもん)し、感情の餘りに、改宗す。

 既に歸國に臨て、云(いはく)、

「願(ねがは)くは、師、吾(わが)土佐國へ下向(げかう)し玉(たま)はれ。我が舘(たち)を施し、一寺を建立して、師を開山に仰ぎ奉らん。」

と、いふ。

 日像上人、宣(のたま)ひけるは、

「汝、精舎建立(しやうじやこんりふ)の志(こころざし)、願(ぐわん)あらば、我(われ)、必(かならず)、下るに不及(およばず)。本尊、授与(じゆよ)すべし。」

とて、則(すなはち)、「曼荼羅(まんだら)」を書(かき)て、賜りぬ。

 民部少輔、國にかへり、一寺を建立す。

 今の眞靜寺、是也。

 然(しかる)に、昔は、伽藍にて有(あり)しが、永祿前後の亂世に、いつとなく、荒廃し、彼(かの)「曼荼羅」も、行方(ゆくへ)、知れざりしに、寛永年中[やぶちゃん注:一六二四年~一六四四年。]、中村大火、有(あり)、市中(いちなか)、不殘(のこらず)、燒亡する中(なか)に、一軒、怪(くわい)、有(ある)にして、燒殘(やきのこ)りぬ。

 不思義[やぶちゃん注:ママ。]の訳(わけ)にて、公義より、穿鑿(せんさく)有(あり)しに、

「何の火の守(まもり)も無之(これなき)。」

由(よし)。

「倂(しかしながら)、年久敷(としひさしく)、寺より預り居(をり)候。」

由にて、彼(かの)「曼荼羅」を差出(さしいだ)す。

 依之(これにより)、忠義公[やぶちゃん注:底本では、名の前に尊敬を示すための二字字空けがある。土佐藩第二代藩主山内忠義(在位:慶長一〇(一六〇五)年~明暦二(一六五六)年)。]、御上覽被遊(あそばされ)、

「奇特の事。」

に被思召(おぼしめされ)、新(あらた)に、表具、御仕替(おんしかへ)あり。則(すなはち)、御書附(おんかきつけ)を被添(そへられ)、再(ふたたび)、眞靜寺へ、御寄附(おんきふ)、有(あり)ける。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡有岡村」現在の高知県四万十市有岡(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「眞靜寺」ここ当該ウィキによれば、日蓮宗有岡(ありおか)山真静寺。『四国最初の法華道場として日蓮宗宗門史跡に指定されている。旧本山は、京都妙顕寺』。建武三(一三三六)年、『肥後阿闍梨日像の開山で』、『檀越民部小輔の開基により建立』された。『上洛した地頭民部小輔が居館を寄進して』、『日像筆の題目本尊を祀り』、『寺に改めた』とし、「文化財」の項には、「県指定文化財」として、『真静寺文書』と『真静寺三十番神板絵』のみが挙がっているが、「コトバンク」の平凡社「日本歴史地名大系」の「真静寺」には、『有岡集落の北部山麓にある。有岡山本城院と号し』、『日蓮宗。本尊十界大曼荼羅。かつては京都妙顕寺末』。『創建は元亨元年(一三二一)と伝え、檀越は有岡の領主有岡民部少輔という。「土佐州郡志」に「昔年有岡村領主有岡民部少輔ト云者、崇尊妙顕寺日像上人、因造此寺、当時堂宇壮麗僧舎若干、本尊釈迦、日像刻之」といい、「又有釈迦多宝二仏、其背後記曰、施主豊州若森ノ地頭上総守妙福寺左衛門尉為安、康安己巳歳十二月十二日」と記す』とあって、創建年に違いがあり、ここに出た曼荼羅も、本尊として現存するように書かれてある。

「有岡村の地頭民部少輔」上記以外に事績は見当たらない。

「日像」 (文永六(一二六九)年~康永元(一三四二)年)は鎌倉末・南北朝時代の日蓮宗の僧。京都妙顕寺の開創者。別名は経一麿、号は龍華院、通称は肥後阿闍梨。下総(千葉県)の豪族平賀忠晴の子。日朗の弟。日蓮、日朗に従い、永仁二(一二九四)年に入洛後は、たびたび京都を追われながら、大いに宗義を広めた。著書に「三秘蔵集」「宗旨弘通鈔」等がある(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「永祿」一五五八年~一五七〇年。天皇は正親町天皇、室町幕府将軍は足利義輝・足利義栄・足利義昭。最早、戦国時代である。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 黐樹

 

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[やぶちゃん注:三種の黐木(もちのき)の図。右に『眞黐(マモチ)』とキャプションした一樹、左に『鐵黐(クロカ子』(ガネ)『モチ)』とキャプションした一樹、中央下部に低木の『江戸黐』(えどもち)とキャプションした一樹が描かれてある。]

 

もちの木   黐【音癡】

        黐膠所以黏

黐樹      鳥者

        俗云止利毛知

   其樹有數種

 

△按黐樹在深山葉大不結子者爲黐佳【結子者爲黐少其色亦惡】

 木葉似女貞而薄光澤雖四時不凋只二三分落葉四

 五月開細白花結子正圓熟紅色大如大豆而攅生剥

 其木皮浸水爛舂之濾於流水去皮渣則如麪筋而甚

 稠粘人用粘鳥雀謂之黐膠【止利毛知】紀州熊野多出之

江戸黐 葉狹長添枝茂如楊梅之葉樣四時不凋栽庭

 園佳其子同于眞黐而數多抱莖攅生【又名朝鮮黐】

[やぶちゃん注:「數」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、「數」とした。]

黑鐵黐 似江戸黐而葉畧扁其子不甚輝

[やぶちゃん注:「輝」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、通用の「輝」とした。]

 

   *

 

もちの木   黐《もち》【音「癡《チ》」。】

        黐膠(とりもち)は鳥を黏(さ)す

黐樹      所以(ゆゑん)の者なり。

        俗に云ふ、「止利毛知《とりもち》」。

     其の樹《き》、數種、有り。

 

△按ずるに、黐樹《もちのき》、深山に在《あり》て、葉、大きく、子《み》を結ばざる者、「黐《もち》」と爲して、佳《よ》し【子を結ぶ者は、黐と爲≪なすとも≫、少なく、其の色も亦、惡《あ》しし。】。木・葉、「女貞《いぬつばき=ひめつばき=さざんか》」に似て、薄く、光澤あり。四時、凋まざると雖も、只《ただ》、二、三分《ぶ》≪は≫、落葉す。四、五月、細≪き≫白≪き≫花を開き、子を結ぶ。正圓《せいゑん》にして、熟≪せば≫、紅色。大いさ、大豆のごとくして、攅生《さんせい》す[やぶちゃん注:集まって生ずる。]。其の木の皮を剥(は)ぎて、水に浸し、爛《ただらか》して、之れを舂《つ》き、流水に濾(こ)して、皮≪の≫渣《かす》を去れば、則ち、麪(ふ)の筋《すぢ》のごとくにして、甚《はなはだ》、稠-粘(ねば)る。人、用ひて、鳥雀《てうじやく》を粘(さ)す。之れを「黐-膠(とりもち)」と謂ふ【「止利毛知《とりもち》」。】。紀州熊野より、多く、之れを出《いだす》。

江戸黐《えどもち》 葉、狹長《さなが》く、枝に添《そひ》て、茂り、「楊梅《やうばい/やまもも》」の葉の樣《さま》のごとし。四時、凋まず。庭園に栽《うゑ》て、佳し。其の子《み》、「眞黐《まもち》」に同《おなじく》して、數《かず》、多く、莖を抱《いだき》て、攅生す【又、「朝鮮黐《てうせんもち》」と名づく。】。

黑鐵黐(くろがねもち) 「江戸黐」に似て、葉、畧(ちと)、扁(ひらた)く、其の子、甚だ、輝(て)らはず。

 

[やぶちゃん注:良安のオリジナル項目であるが、所謂、「鳥黐」を採る樹木は、本邦では、三種どころではなく、ウィキの「鳥黐」によれば、日本では、『原料は地域によって異なり、モチノキ属植物(モチノキ・クロガネモチ・ソヨゴ・セイヨウヒイラギなど)やヤマグルマ、ガマズミなどの樹皮、ナンキンハゼ・ヤドリギ・パラミツなどの果実、イチジク属植物(ゴムノキなど)の乳液、ツチトリモチの根など多岐にわたる』とある。但し、そこで、『日本においてはモチノキあるいはヤマグルマから作られることが多く、モチノキから作られたものは白いために「シロモチ」または「ホンモチ」、ヤマグルマのものは赤いために「アカモチ」「ヤマグルマモチ」、イヌツゲから得たものは「アオモチ」と呼ばれ』、『鹿児島県(太白岩黐)、和歌山県(本岩黐)、八丈島などで生産されていた』とあることから、まず、

良安の言う「眞黐(まもち)」は、双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra

であることが判った。

 一方、最後に良安が確信を以って、別に条を立てたところの、

「黑鐵黐(くろがねもち)」は、まず、何し負うところの、モチノキ属クロガネモチ Ilex rotunda

としてよいであろう。

 最後に残った「江戸黐」は、ちょっと手間取った。辞書類では、まず、独立した見出しとして見当たらなかったからである。一つだけ、「Weblio 辞書」の日外アソシエーツの「季語・季題辞典」の『江戸黐』『エドモチ(edomochi)』の項に、『モチノキ科の常緑小高木。五月ごろ、黄緑色の小さい花が咲く』とし、『季節 夏』、『分類 植物』とあったので、少し心強くなった。それは、当該辞典は新しいもので、こうした叙述をしているからには、特定の種であることを意識して記載されたものであろうと踏んだからである。そこで、良安が、『葉、畧(ちと)、扁(ひらた)く、其の子、甚だ、輝(て)らはず』と特徴を記している点に着目した。ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra の葉の形状は、この画像(リンク先は当該ウィキの葉の画像)である。そこで、以上に上がった「黐」を採取出来る種群の葉を見たところ、残る種で、本邦に普通に分布するものでは、ソヨゴの葉(「ソヨゴ 葉」のグーグル画像検索)と、ヤマグルマの葉が、ヤマモモの『狹長』な感じと一致することが判った。しかし、どっちが、より、葉が似ているかと言えば、私の印象では、ヤマグルマ(同前の画像)の方が、ヤマモモに似ていると感じられた(ソヨゴの葉は葉の幅が明らかに広く、「狹長」と言うには、ちょっと、長さが足りないのである)。しかも、ウィキの「黐」では、『日本においては』、『モチノキあるいはヤマグルマから作られることが多』いと言っていることから、

「江戸黐」(えどもち)はヤマグルマ目ヤマグルマ科ヤマグルマ属ヤマグルマ Trochodendron aralioides

であると比定することとした。まず、ウィキの「モチノキ」を引く(注記号はカットした)。本邦の漢字表記は『餅の木・黐の木・細葉冬青』。中文『名は、全緣冬青』(『別名』は『全緣葉冬青』。『別名ホンモチ、単にモチともよばれる。 和名は樹皮から鳥黐(トリモチ)が採れることに由来する』。『日本では東北地方中部以南(宮城県・山形県以西)の本州、四国、九州、南西諸島に分布し、日本国外では朝鮮半島南部、台湾、中国中南部に分布する。沿岸の山地や、暖地の山地に自生す。葉がクチクラ層と呼ばれるワックス層に覆われていることから』、『塩害に強く、寒気の強い内陸では育ちにくいため、暖かい地方の海辺に自生する。人の手によって、庭などに植栽もされる』。『常緑広葉樹の中高木。雌雄異株で、株単位で性転換する特性がある。樹皮は灰色で、皮目以外は滑らか。一年枝は緑色で無毛である』。『葉は互生するが、枝先は』、『やや輪生状に見える。葉身は長さ』四~七『センチメートル、幅』二~三センチメートル『の楕円形・倒卵状楕円形で、革質で濃緑色をしている。葉は水分を多く含んでいる』。『開花期は春』四月頃『で、雄花・雌花ともに直径約』八『ミリメートル』『の黄緑色の小花が、葉の付け根に雄花は数個ずつ、雌花は』一、二『個ずつつける。花弁はうすい黄色でごく短い枝に束になって咲く。雄花には』四『本の雄蕊、雌花には緑色の大きな円柱形の子房と退化した雄蕊がある』。『果実は直径』一~一・五センチメートル『の球形の核果で、内部に種子が』一『個ある。はじめは淡緑色だが、晩秋』十一『月』『に熟すと』、『赤色になり、鳥が好んで食べる。果実の先端には浅く裂けた花柱が黒く残る。実は冬まで残り、長く枝に残るものは黒くなる』。『冬芽のうち、花芽は雄株・雌株ともに葉の付け根につき、雄株のほうが花芽は多い。頂芽は円錐形で小さい。葉痕は半円形で、維管束痕は』一『個』、『つく』。『モチノキにはモチノキタネオナガコバチ』膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目モンオナガコバチ科 Torymidae Macrodasyceras hirsutum )『という天敵が存在する。このコバチは夏に発育中の種子の中に産卵し、幼虫と成って越冬する。幼虫は実の色を操作する能力があり、秋になれば』、『本来』、『赤くなる実を緑のままにすることで、実が鳥に食べられる事態を避ける。鳥に食べられる事によって繁殖するモチノキにとって、コバチの産卵は繁殖の妨げとなる』。『モチノキは花粉を受粉しなくても種子を形成し、果実まで成熟することができる能力があり、調査によって未受精の種子は全体の』三『割に及ぶことが判明している。コバチは受精した種子にしか産卵しない特性があり、時間と労力をかけて産卵管を挿入しても、未受精の種子だった場合は産卵せずに抜いてしまう。未受精の果実は発芽しないため』、『繁殖の役には立たないが、産卵に無駄なコストをかけさせることでコバチの繁殖を妨害する対抗手段となっている』。『日なたから半日陰地に、土壌の質は適度な湿度を持った壌土に、根を深く張る。成長は遅い方である。植栽適期は』、二『月下旬』~四月、六『月下旬』~七『月中旬』、『もしくは』、四~七『月上旬』、『または』、九『月中旬』~十『月中旬に行うとされる。剪定の適期は』三『月中旬』~五『月中旬とされる。施肥は』一~二『月に行う。茂りすぎて風通しが悪くなると、カイガラムシ』(半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科 Coccoidea)『が寄生して、スス病』(サイト「For your LIFE」のこちらに詳しい)『が多発する恐れがある。枝配りを行って、さまざまな形に仕立てることができる』。『樹皮から鳥黐(トリモチ)を作ることができ、これが名前の由来ともなった。まず春から夏にかけて樹皮を採取し、目の粗い袋に入れて』、『秋まで流水につけておく。この間に不必要な木質は徐々に腐敗して除去され、水に不溶性の鳥黐成分だけが残る。水から取り出したら』、『繊維質がなくなるまで臼で細かく砕き、軟らかい塊になったものを流水で洗って』、『細かい残渣を取り除くと』、『鳥黐が得られる。モチノキから得られる鳥黐は色が白いため、ヤマグルマ』(後述する)『(ヤマグルマ科』Trochodendraceae)『を原料とするもの(アカモチ)と区別するために「シロモチ」または「ホンモチ」と呼ぶことがある』。『材は堅く緻密であるので、細工物に使われる』。『刈り込みに強いことから』、『公園、庭などに植栽される。また、防火の機能を有する樹種(防火樹)としても知られる』。『日本では』、『古くから』、『庭に欠かせない定番の庭木として親しまれ、さまざまな形に仕立てることができるため』、『玉仕立て』(刈り込んで芯を止め、側枝を出させ、その後、丸くなるように刈り込んでゆく刈り方。刈込回数が多く、手間がかかる仕立て方であり、蔓性の樹木類には適さない)『にするほか、列植』(れっしょく)『して目隠しにも利用してきた。潮風や大気汚染にも耐えるため、公園樹としてもよく用いられる』。『御神木として熊野系の神社の中にはナギ』(私の好きな「梛」(なぎ)の木で、裸子植物門マツ綱ナンヨウスギ目マキ科ナギ属ナギNageia nagi )『の代用木として植えている場合がある』とあった。

 次いで、「クロガネモチ」(同前)。漢字名『黒金餅』。『別名、フクラシバ、フクラモチともよばれる。中国名は、鐵冬青。和名クロガネモチは、モチノキの仲間で、若い枝や葉柄が黒ずんでいることから名づけられた』。『日本の本州(茨城県・福井県以西)・四国・九州・琉球列島に産し、日本国外では台湾・中国・インドシナまで分布する。暖地から亜熱帯のやや気温の高い地域の山野に生え、日なたから半日陰地を好み、やや日陰地にも耐える』。『低地の森林に多く、しばしば』、『海岸林にも顔を出す』。『常緑広葉樹』の『中高木に分類されるものの、自然状態での成長は普通』十『メートル』『程度にとどまり、あまり高くならない。生長の速さは遅い。株は』一『本立ちで、ふっくらした樹形になる。樹皮は緑がかった灰白色や灰褐色で、ほぼ滑らかで、多数の小さい皮目がある。若い茎には陵があり、紫っぽく色づくことが多い。一年枝は褐色を帯びる。春』四『月に新芽を吹き、葉が交替する』。『葉は互生し、深緑色のなめらかな革質で表面は光沢があり、裏面は淡緑色。葉身は長さ』五~八『センチメートル 』『の楕円形』、若しくは、『広楕円形で、先端は尖り』、『やや波打つことが多く、葉縁は全縁』。『花期は』五~六『月で雌雄異株。当年枝の葉腋から花序をつくって、淡紫色や白色の小さな』四つから六つの『弁花を咲かせる』。『果実は核果で、直径』五~六『ミリメートル』『ほどの球形をしており、秋に多くの実が集まってつく。雌雄異株のため雌株だけ果実がつき』、十一月から二『月に真っ赤に熟して春まで枝に残る。果実はモチノキに似るが、より小さい』。『冬芽は葉のつけ根につき、側芽、頂芽とも小さい』。『しばしば』、『庭木として用いられ、比較的』、『都市環境にも耐えることから、公園樹、あるいは街路樹として植えられる。実の赤さはモチノキよりも際立って見える。樹勢が強いことから、生け垣にも仕立てやすい。「クロガネモチ」が「金持ち」に通じるから』、『縁起木として庭木として好まれる地域もある。西日本では野鳥が種を運び、庭等に野生えすることがある』。

 最後に同前でヤマグルマを引く。本種は一科一属一種で、『別名、トリモチノキともよばれ、トリモチが取れることで知られている東アジア特産の被子植物の木本である』。『日本では、本州(山形県以南)、四国、九州、琉球、伊豆諸島に、東アジアでは、台湾、朝鮮半島南部に分布する』。『常緑広葉樹』の『高木であり、高さは』二十『メートル』『に達するものもある』。『葉は、長さ』二~九『センチメートル』『の葉柄をもって枝先に互生し、車状に輪生する。葉身は厚みがある広倒卵形から狭倒卵形で、長さ』五~十四センチメートル、『幅』二~八センチメートル、『表面は皮質で光沢があり、裏面は粉白色を帯びる。葉先は尾状に尖り、基部はくさび形で、縁の上部に波状鈍鋸歯がある』。『花期は』五~六『月。枝先に長さ』七~十二センチメートル『の総状花序を出して』、十~二十『個ほどまとまった黄緑色の花をつける。花の直径は約』一センチメートル『で、萼片はない。秋に種子をつけ』、十一~十二『月に褐色に熟す』。『ヤマグルマは他の広葉樹と異なり、針葉樹と同じく』、『仮道管によって水を吸い上げる機構を持つため、寒気の強い亜高山帯や乾燥した岩場、豪雪地帯でも適応できる』。『生態的には岩角地や』、『その上部の岩の露出しがちな尾根など、空気の動きのある場所を好む。 イワナンテン』(ツツジ目ツツジ科イワナンテン属イワナンテン Leucothoe keiskei )『やイワイタチシダ』(岩鼬羊歯:シダ植物門シダ綱ウラボシ(裏星)目オシダ(雄羊歯)科オシダ属 Dryopteris saxifraga )『と同時に現れやすい。場所によってはヒナスゲ』(雛菅:単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属ヒナスゲ Carex grallatoria )『などもセットで見られる。常緑樹としては標高の高いところにも出現するが、南部低地でも見られ、生態分布が非常に広い。 往々にして生きた樹木の上に溜まった土や苔から発芽し、着生する姿も見られる』。『冬季はアセビ』(馬酔木:ツツジ目ツツジ科スノキ亜科ネジキ連アセビ属アセビ亜属アセビ亜種アセビ  Pieris japonica subsp. japonica )『イワナンテンなどと同様、場所により』、『葉が裏に巻き、だらしなく下垂しているのを見ることも多い。これは葉をつけたまま冬を乗り切るさまざまな植物、スイカズラ』(マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica )『などでも見られる』。『陰樹で、非常に生長が遅く』、『手入れがしやいことから』、一『戸建て住宅の植栽に使用される』。『東北地方中部から沖縄の地域にかけて植栽可能で、植栽適期は』、三『月』、六~七『月』九~十『月』『とされる』。『トリモチが取れることからヤマグルマを「もちのき」と呼ぶ地方がある』とある。

「女貞《いぬつばき=ひめつばき=さざんか》」かく読みを振ったのは、良安は第一に「いぬつばき」と読み、第二に、異名として「ひめつばき」(姫海石榴)と読んでいると判断したこと、そしてこれは、現在の「さざんか」(山茶花)を指すことから、かく振ったものである。それは先行する「女貞」で、私がさんざんか、基! さんざん、産みの苦しみで解読した事実に基づくので、そちらの私の注を参照されれば、納得されると存ずる。

「鳥雀《てうじやく》」スズメを代表とする人里近く集まる小鳥の総称。既出既注。

「楊梅《やうばい/やまもも》」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra 。「やうばい」は外していいかも知れない。既に「楮」で『ヤマモヽ』と振っているからである。

「朝鮮黐《てうせんもち》」現在は、このヤマグルマの異名は、死語のようである。]

2024/09/01

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 潮江村天滿宮牽牛之繪馬

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。「鰐口(わにぐち)」は私の『「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」』を参照されたい。「潮江村(うしほえむら)」(現代仮名遣「うしおえむら」)は既出既注だが、再掲すると、高知市市内の鏡川(かがみがわ)河口南岸の地区で、浦戸(うらど)湾奥部の近世以来の干拓地である。「ひなたGPS」で示しておく。「天滿宮」は複数回既出の「眞如寺」が、東に動かして寺を建てた、現在の「潮江天満宮」(グーグル・マップ・データ)のことである。]

 

   潮江村天滿宮牽牛之繪馬

 潮江村、天滿宮に、牽牛・織女の繪馬、有(あり)。

 此繪馬の訳(わけ)は、天滿屋何某(なにがし)といふ者、銀五百目を失ひぬ。店に有(あり)ける銀なれば、

「手代(てだい)の業(わざ)にもや。」

と、疑ひける。

 手代も、訳、立(たて)がたく、其夜(そのよる)より、天神宮へ、通夜(つや)し、七日(なぬか)に及(および)ける。

 夜(よる)も、宵より參籠(さんろう)し、朝(あした)、下向(げかう)の時、門(かど)に、水溜桶(みづためをけ)、有(あり)て、上に、竹の簀(すのこ)を置(おき)、石を、其上(そのうへ)にのせて有(あり)しを、取散(とりちら)し有(あり)ければ、不審に思ひ、立寄(たちより)見れば、桶の中へ、五百目、封のまゝ、入有(いれあり)し、とぞ。

 

[やぶちゃん注:尻切れ蜻蛉である。思うに、疑われた手代が無実の罪を晴らして呉れたということで、絵馬を奉納したというのだろうが、何故、それが牽牛・織女の絵馬なのか、判然としないからである。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 幡多郡戶內村鰐口

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。「鰐口(わにぐち)」は私の『「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」』を参照されたい。]

 

   幡多郡(はたのこほり)戶內村鰐口

 幡多郡山田の內、戶内(へない)村の年寄、久米右衞門といふ者、鰐口を所持せり。其銘にいふ。

 奉施入有井庄八幡宮鰐口一口 應永第十三八月十五日敬白 願主満盛

 此鰐口は、入㙒村、加茂八幡宮の鰐口と見ゆ。

 昔(むか)し、盜賊、奪來(うばひと)りて、戶內村へ捨置(すておき)しを、久米右衞門先祖、拾ひ取りて、今に所持せり。

「此鰐口を、他家(たけ)へ納置(をさめお)けば、必(かならず)、鳴動す。」

と、いへり。

 久米右衞門は舊家にて、古文書、數通(すつう)、所持せり。

 

[やぶちゃん注:「現在の高知県宿毛市平田町(ひらたちょう)戸内(へない:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「奉施入有井庄八幡宮鰐口一口 應永第十三八月十五日敬白 願主満盛」訓読しておく。

   *

施入奉(ほどこしいれたてまつる) 有井庄(ありゐのしやう) 八幡宮鰐口一口(ひとくち) 應永第十三丙戌(ひのえいぬ)八月十五日敬白 願主満盛(まんせい)

   *

「有井庄」は、恐らく、以下の入野の加茂八幡宮から東北方向に当たる、現在の幡多郡黒潮町有井川(ありいがわ)地区を指す旧称と思われる。「應永第十三丙戌(ひのえいぬ)八月十五日」はグレゴリ暦で一四〇七年十月六日相当で、室町幕府第四代征夷大将軍足利義持の現役時代の治世。「満盛」は「勢いがさかんなこと」で、「繁盛」を言祝ぐ意であろう。

「入㙒村、加茂八幡宮」現在の高知県幡多郡黒潮町(くろしおちょう)入野(いりの)。戸内の東北東二十キロメートル圏内。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 小野村百姓古法眼画

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ「古法眼(こほふげん)」(現代仮名遣「こほうげん」)とは、一般には、「父子ともに法眼に補せられた場合、その区別をするために父を指していう称」であるが、特に個人を指す場合、知られた室町後期の絵師で狩野家二代目の、正信の子狩野元信(文明八(一四七六)年~永祿二(一五五九)年)を指す。また、村名の「小野」の読みの「この」は、この通りで、現行の地名でも「おの」ではなく、「この」である。

 

   小野村百姓古法眼(こほふげんが)画

 先年、桐間家(きりまけ)の知行所(ちぎやうしよ)、吾川郡(あがはのこほり)小㙒(この)村の百姓の居宅、度々(たびたび)、夥敷(おびただしく)鳴動する事、有(あり)。

 始(はじめ)は、肝を、つぶしけるに、家內(かない)の者は聞馴(ききなれ)、更に怪(くわい)ともせず、打過(うちすぎ)ぬ。

 或時、廻国の執行者(しゆぎやうじや)[やぶちゃん注:ここでは「𢌞國の修行者」に同じ。]、來りて、一宿しける。

 其折柄(そのをりから)、如例(れいのごとく)、家、鳴(なり)ければ、執行者、驚き怪(あやし)みて、亭主に問(とふ)。

「いかなる事にて、家、鳴(なる)や。」

と、いふ。

 亭主、

「しかじか。」

のよし、語りける。

 執行者、聞(きき)て申(まうし)けるは、

「拙者、內々(ないない)、占ひを致すもの也。」

とて、吉凶を占(うらなひ)て、申(まうす)は、

「此家に、大切なる掛物類(かけものるゐ)、有(ある)べし。是(これ)を、打捨置(うちすておか)れぬる故(ゆゑ)、か樣(やう)に怪異あり。其(その)掛物を、何方(いづかた)へぞ、大身成(たいしんなる)方(かた)へ、讓(ゆず)られ、然(しか)るべし。しからば、此後(こののち)、家鳴り、止むべし。」

と云(いふ)。

 亭主、聞(きき)て、

「我等方(われらかた)に、左樣(さやう)の掛物類、無し。床(とこ)に、『十三佛』の掛物、有るまで也(なり)。」

と、いふ。

 執行者、聞(きき)て、

「其(その)『十三佛』成(なる)べし。見せられよ。」

と云(いふ)。

 亭主、

「安き事也。」

とて、見せける。

 幾年(いくとせ)か、狹(せば)き家の內(うち)に掛(かけ)て置(おき)、ふすぼりぬれば、何とも、見分難(みわけがた)し。

 されども、外(ほか)に何も無きならば、

「是成(これなる)べし。其許(そのところ)、地頭(ぢとう)あらば、此譯(このわけ)を申(まうし)て、地頭へ、上(あげ)らるべし。」

と申ける。

 亭主、

『實(げに)もや。』

と、思ひけん、則(すなはち)、將監殿(しやうげんどの)へ差上(さしあげ)けるに、

『奇特(きどく)。』

に思ひ玉(たま)ひ、褒美(ほうび)として、米を、二俵(にひやう)、被下(くだされ)ける。

 其後(そののち)、將監殿より、表具師(へうぐし)久六(【法體生計(ほつたいせいけい)といふ。】を呼(よび)て、

「此掛物、痛まぬ樣(やう)に、念を入(いれ)、洗ひ候樣(さふらふやう)に。」

云聞(いひきかせ)られける故、能(よく)洗ひげれば、大槪(たいがい)、繪形(ゑのかたち)、見へ[やぶちゃん注:ママ。]けるに、菅神(すがじん)[やぶちゃん注:菅原道真が御霊信仰で神霊となった天神のこと。]の尊像にて有(あり)ける。

 夫(それ)より、上方(かみがた)へ目利(めきき)に遣(つかは)されけるに、「古法眼(こほふげん)」の筆に極(きはま)り、彼家(かのいへ)の重寶(じゆうはう)と成(なり)けると也。

 又、同じ頃、同所の百姓、枯木に鳥のとまりたる、古き繪を持(もち)たる者、あり。

「是も、何(なん)ぞ、御用にも可立(たつべき)ものにや。」

と、云(いひ)て、將監殿へ差上(さしあげ)ければ、是も「古法眼」に極りて、同(おなじ)く、俵子(たはらご)を賜はりけると也。

 此事、黑田氏、物語にてありし。

 右天神(てんじん)の掛物は、今に、兵庫殿、尊崇(そんすう)にて、虫干(むしぼし)にも、居間にて、自身、手入(ていれ)し給ふ、とぞ。

 此事(このこと)、「胎謀記事(たいぼうきじ)」に見へたり。

 

[やぶちゃん注:「桐間家」知られた土佐藩家老の家柄である。

「吾川郡(あがはのこほり)小㙒村」現在の高知県吾川郡いの町(ちょう)小野この:グーグル・マップ・データ)。

「十三佛」これは、中国で作られた偽経による、ヴァラエティに富んだ地獄思想の冥途の裁判官である十王思想を中心として、その本地仏とする如来・菩薩・明王を対応させ、それらが、十三回の追善供養(初七日から三十三回忌)をそれぞれ司るものとし、主に掛軸にした絵を、法要を始めとして、諸仏事に於いて飾って、仏事をした、本邦の室町時代に独自に形成された日本仏教の風習に用いられる絵図である。十王と本地仏の対称と供養(当該十王の審理忌日)の表はウィキの「十三仏」を見られたい。その室町期の「十三佛圖」の掛軸の画像もある。

「地頭」江戸時代、旗本や各藩の地行所の領主のことを、かく、呼んだ。但し、彼らは、領有するものの、余程のことがあっても、領主自身が、その領地に出向くことは、まず無く、必要な実務対応は、総て部下が行った。

「將監殿」「將監」は、本来は近衛府の判官(じょう)の官名であるが、戦国から江戸時代にかけては、相応の地位にある武家の自分の名乗りに、よく使われた。土佐藩家老を歴任した桐間家の当主は、代々、幕末まで「桐間將監」を名乗っている。

「表具師」表具(紙や布を糊で張り付けること)を専業とする職人。掛物などの表具をする十四世紀末の裱褙師(ひょうほいし)が前身。十七世紀から、掛物のほかに屏風の張付や巻物の表具も行うようになり、十三世紀からあった経師(きょうじ:古くは、経や絵図等を書き写す職人のことを指したが、後に障子・襖・壁・天井などに紙や布を張る職人のことを言う)の仕事と重なり、表具師・表具屋と経師・経師屋は同じ業態となった。表具師は建具の襖や障子の紙張り・張り替えもするようになった。居職(いじょく:自宅で依頼された仕事をすること)が主である。

「法體生計」僧形であるが、一般の工人として生業を行って暮らしていることを言う。絵師・俳諧師等には多かった。

「黑田氏」土佐藩の黒田勝吉・黒田健家系図が残る。

「兵庫殿」不詳。しかし、以上の本篇の流れから見て、家老桐間家の誰かの名乗りと読める。調べてみたところ、土佐藩士で、大和流弓術の師範で、維新後の自由民権家宮地茂春の曾祖父であり、かの坂本龍馬の大叔父にあたる宮地信貞のウィキの、「補注」の「10」に、「潮江天満宮棟札」から、元禄二年八月二十一日(グレゴリオ暦一六八九年十月四日)、『大願主・土佐太守四位侍従松平土佐守藤原朝臣豊昌公。奉行・山内彦作信和、桐間兵庫義卓』(☜)、『孕石小右衛門元政、岡田嘉右衛門。作事役・島田三郎兵衛敦正。庄屋・宮地五助茂久』とあった。本書の完成は文化一〇(一八一三)年で百二十四年後であるが、桐間家の後裔が「兵庫」を名乗った可能性は強いと思われる。なお、「潮江村(うしほえむら)」(現代仮名遣「うしおえむら」)は既出既注だが、再掲すると、高知市市内の鏡川(かがみがわ)河口南岸の地区で、浦戸(うらど)湾奥部の近世以来の干拓地である。「ひなたGPS」で示しておく。

「胎謀記事」前に既出既注だが、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名家系譜」(寺石正路著・昭和一七(一九三二)年高知県教育会刊)のここに、書名と引用が確認出来る。土佐藩史・地誌のようである。]

2024/08/31

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 狗骨

 

Hiiragimoti

 

ひいらぎ  貓兒刺

      倭爲杠谷樹

狗骨   【和名比々良木】

      俗用柊字【音中】

      【柊本椎之名

       也】

ウクオツ

 

本綱狗骨樹肌白如狗之骨爲凾板旋盒噐甚佳其葉有

五刺如猫之形【猫之之字疑當作爪字】故名猫兒刺有木※在葉中

[やぶちゃん字注:「※」は、上部が「凶」の第三画を除去し、第一画を、下方の「虫」の第一画と第六画に完全に繋げた奇体な文字で、同一のものを見出せない。しかし、これは、「グリフウィキ」のこれの、下方の二つの「虫」を一つにしたものであり、所謂「虻」(アブ)の字の異体字と採れる(東洋文庫訳でも『虻』とする)。当初、訓読では、「蝱」で示そうと思ったが、躓くだけなので、「虻」の異体字と判る「」とすることにした。実際、「漢籍リポジトリ」の当該部では、「」となっている。以下同じ。

卷之如子羽化爲※又曰其樹如女貞肌理甚白其葉長

二三寸青翠而厚硬有五刺⻆四時不凋五月開細白花

結實如女貞九月熟時緋紅色皮薄味甘其核有四辨人

采其木皮煎膏以粘鳥雀謂之粘黐

本草必讀曰十大功勞葉【一名䑕怕草】。江南人毎取樹汁熬

黐其葉似蒲扇有五⻆⻆尖有刺取其葉置䑕穴旁則䑕

不敢出入故名䑕怕又取其葉【焙乾研末】治䑕膈病【妙】

 鼠隔病【人前竟不飮食凡物食毎于宻地偷取食之家人有見者則畏而置焉肌瘦靣黃色悞食䑕殘物中毒患此症服藥鮮効唯用此藥有奇驗

△按狗骨樹肌白滑堅以堪爲筭珠或象戱碁子甚美亞

[やぶちゃん字注:「筭」は「算」の異体字。]

 于黃楊其大者作板可旋盒然性難長大木希也

 續日本紀文武帝の大寳二年獻杠谷樹長八尋

 等以爲希有之物其葉四時不凋厚硬有五稜如剌有

 雌雄其刺柔者爲雌九月開小花碎白色結子小青色

 五月熟黒色似䑕李女貞之軰而大如小蓮子

 俗閒立春節分夜揷枝葉於門窓添以海鰮頭爲追儺

 之用魍魎怖其尖刺不可敢近之義乎

                             爲家

  夫木 世の中は數ならすともひいらきの色に出てはいはしとそ思ふ

 此云柊葉有五⻆而實黒也黐樹葉無⻆而實赤也如

 本草說者似二物相混不知柊汁亦爲黐乎

 

   *

 

ひいらぎ  貓兒刺《びやうじし》

      倭《わ》に、「杠谷樹《ひひらぎ》」と爲《な》す。

狗骨   【和名、「比々良木《ひひらぎ》」。】

      俗、「柊」の字を用ふ。【音「中」。】

      【「柊」は、本《もと》≪は≫、「椎(つち)」の名

       なり。】

ウクオツ

[やぶちゃん注:「ひいらぎ」の歴史的仮名遣は「ひひらぎ」だが、近世以前に「ひいらぎ」という表記が一般化していたかも知れない、という記載が小学館「日本国語大辞典」の「ひいらぎ」「柊」の項にあった。]

 

「本綱」に曰はく、『狗骨樹《くこつじゆ》は、肌、白く、狗《いぬ》の骨のごとし。凾(はこ)の板に爲《なす》。盒噐(ぢうばこ)[やぶちゃん注:「重箱」。]に旋《めぐら》さす≪に≫、甚だ、佳《よ》し。其の葉、五≪つの≫刺《はり》、有り、猫の形のごとし』≪と≫。【「猫」の字、疑ふらくは、當《まさ》に「爪」の字に作るべし。】[やぶちゃん注:この割注は良安に挿入である。]『故に、「猫兒刺(ねこのはり)」と名づく。「木䖟《もくばう》」、有り、葉の中に在り、之れを、卷きて、子(み)のごとく、羽化して、䖟(あぶ)と爲《なる》。又、曰はく、「其の樹、『女貞《ぢよてい》』のごとく、肌-理(きめ)、甚≪だ≫、白く、其の葉、長さ、二、三寸。青翠《あをみどり》にして、厚≪く≫硬≪し≫。五《いつ》の刺⻆(はりかど)、有《あり》。四時、凋まず。五月、細≪き≫白花を開き、實《み》を結ぶ。『女貞』のごとし。九月、熟する時、緋紅色。皮、薄く、味、甘し。其の核《たね》、四辨《しべん》、有り。人、其の木の皮を采りて、煎《せん》≪じて≫、膏≪と成し≫、以つて、鳥雀《てうじやく》を粘(さ)す。之れを『粘黐(とりもち)』と謂ふ。」≪と≫。』≪と≫。

「本草必讀」に曰はく、『「十大功勞葉」【一名、「䑕怕草《そはくさう》」。】、江南の人、毎《つね》に、樹の汁を取《とり》、黐《とりもち》に熬《いる》。其の葉、「蒲扇《ほせん》」に似て、五《いつつ》≪の≫⻆《かど》、有り。⻆の尖《とが》りに、刺《はり》、有り。其の葉を取りて、䑕穴《めづみあな》の旁《かたはら》に置けば、則ち、䑕、敢へて出入《でいり》せず。故《ゆゑ》≪に≫、「䑕怕《そはく》」と名づく。又、其の葉を取り【焙《あぶ》り乾≪かし≫、研末《けんまつ》す。】、「䑕膈病《そかくびやう》」を治す【妙なり。】。』≪と≫。

『「䑕膈病」は【人前≪にては≫、竟《つひ》に飮食せず、凡そ、物、食ふに、宻《ひそか》≪なる≫地、毎《ごと》に、偷(ぬす)み取りて、之れを食ふ。家人、見る者、有≪れば≫、則ち、畏《おそれ》て、置く。肌、瘦せ、靣《おもて》、黃色≪なり≫。悞《あやまりて》、䑕の殘-物(わけ)[やぶちゃん注:「分・譯」で、「食べ残しの食物・食い残し」の意がある。]を食《くひ》、毒に中《あた》り、此の症《しやう》を患《わづらふ》。服藥、効、鮮《すく》なし。唯《ただ》、此の藥を用ひて、奇驗《きげん》、有《あり》。】』≪と≫。[やぶちゃん注:これは「本草必讀」に載るものか。「本草綱目」には、ない。]

△按ずるに、「狗骨樹」は、肌、白く、滑かに、堅し。以≪つて≫、筭珠(そろばんのたま)[やぶちゃん字注:「筭」は「算」の異体字。「算盤の玉」。]、或いは、象戱碁子(しやうぎのこま)[やぶちゃん注:将棋や囲碁の駒・碁石のこと。]に爲《す》るに堪《た》ふ。甚《はなはだ》、美にして、黃-楊(つげ)に亞(つ)ぐ。其《その》大きなる者は、板に作り、盒(はこ)を旋《めぐら》さすべし。然《しか》れども、性、長《ちやう》じ難《がた》く、大木《たいぼく》、希れなり。

 「續日本紀」に、『文武帝《もんむてい》の大寳二年[やぶちゃん注:七〇二年。]、杠谷樹(ひいらぎ)長さ、八尋(やひろ)なるを獻《けんず》る』≪と≫。是等《これら》は、以つて、希有《けう》の物と爲《なす》。其の葉、四時、凋まず。厚≪く≫硬≪く≫、五稜、有りて、刺《とげ》のごとし。雌雄、有り。其の刺、柔《やはらか》なる者、雌と爲《なす》。九月、小≪さき≫花、開≪き≫、碎《こまかなる》白色≪たり≫。子《み》を結≪び≫、小≪さく≫、青色≪たり≫。五月、熟して、黒色≪たり≫。「䑕李《そり》」・「女貞」の軰《やから》に似て、大いさ、小《ちさ》き蓮(はす)の子(み)のごとし。

 俗閒《ぞくかん》、立春≪の≫節分の夜《よる》、枝葉《えだは》を門≪や≫窓に揷して、添《そふ》るに、海-鰮(いはし)の頭《あたま》を以≪つてす≫。「追儺(ついな)」の用《よう》と爲《な》す。「魍魎《まうりやう》、其の尖《とがれる》刺《とげ》に怖《おそれ》て、敢へて近《ちかづ》くべからず。」の義か。

                  爲家

  「夫木」

    世の中は

       數《かず》ならずとも

      ひいらぎの

       色に出(いで)ては

           いはじとぞ思ふ

 此《ここ》に云ふ「柊(ひいらぎ)」は、葉に、五≪とつの≫⻆《かど》有りて、實《み》、黒なり。「黐樹(もちの《き》」は、葉に、⻆、無くして、實、赤し。「本草」の說《せつ》のごときは、二物《にぶつ》、相《あひ》混《こん》ずるに似《にた》り。知らず、柊汁《ひいらぎじる》も亦、黐(もち)に爲《つく》るか。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫の後注に、『中国でいう狗骨はモチノキ科のヒイラギモチで『本草綱目』はこれについて説明しているのに、良安は狗骨をモクセイ科のヒイラギとみて説明している。混同しているのは良安の方ということであろうか。』とある通り、良安が「狗骨」に「ヒイラギ」の訓を当てているのは、致命的誤りである。この「ヒイラギモチ」は別名で、正しい標準和名は「ヤバネヒイラギモチ」(矢羽柊黐)であり、良安は引用で、「狗骨」とするが、「漢籍リポジトリ」[088-42a])でも、「維基文庫」のものでも、項目標題は「枸骨」であり、これは、「矢羽柊黐」、

双子葉植物綱バラ亜綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属ヤバネヒイラギモチ Ilex cornuta

である。なお、「維基百科」の「枸骨」を見ると、『ヨーロッパ・アメリカ・朝鮮、浙江省・江蘇省・湖南省・江西省・雲南省・湖北省・上海・安徽省等の中国本土に分布し、標高百五十メートルから千九百メートルの地域』の、多くは『丘の中腹や丘の低木』として『植生している』とあり、本邦には自生しないが、現行では各地で植栽されている。特に、多くの記載に載るが、国内で出回っているクリスマスで盛んに装飾される「クリスマス・ホーリー」は、実はヤバネヒイラギモチが殆んどであるそうである。本来の「クリスマス・ホーリー」はヨーロッパ原産のモチノキ属セイヨウヒイラギ Ilex aquifolium  である。但し、調べたところ、ヤバネヒイラギモチが本邦に渡来した時期は明治時代であり、良安は全く知らない種なのである。

 一方、良安が評言で疑義を述べ、自身の同定にほぼ全体に自信を以って示しているのは、我々には、極めてお馴染みの、

シソ目モクセイ科モクセイ連モクセイ属ヒイラギ 変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus

である。しかし、その同定は誤りであったのである。

 ヤバネヒイラギモチは、「葉と枝による樹木観察図鑑」の同種のページが図版・写真も豊富で、よい。引用させて頂く。『①分布等:日本各地で植栽。中国東北部~朝鮮南部原産の常緑低木。雌雄異株。高さ』三~五メートル『になる。枝はよく分岐し著しく横に広がる。樹皮は灰白色で平滑』。『②分類:広葉樹(直立性)』。『単葉』・『不分裂葉』で、『互生』。鋸『歯あり』、『単鋸歯』。『側脈は葉縁に達しないか』、『不明瞭』で、『歯は葉身の全体にある』。『常緑性』。③葉は互生し、葉身は長さ』四~八センチメートル、『幅』二~三センチメートル『の亀甲状で四角張る。葉柄は』二~六ミリメートル。『先端は鋭く尖り、基部は円形。葉縁の角ばった先端は棘状の』鋸『歯となり、葉縁は裏側に反る。成木や上の枝では棘の数が少なく、老木では葉の先端のみが尖り』、『他は全縁となる。多くの栽培品種があり葉の形も変異が大きい』。『④質は厚い革質で硬い。表面は濃緑色で光沢があり、裏面は淡緑色で、両面とも無毛』。『⑤花期は』四~六『月。前年枝の葉腋から散形花序を』出し、二~八『個の花を束生する。花は白色~淡黄色で、直径約』六ミリメートル、『短い柄をもち、花弁と萼片は』四『個。雄花には雄しべが』四『個。果実は核果。直径』八ミリメートルから一・二センチメートルの『球形で』、十一~十二『月に赤く熟す』。『⑥類似種:同属の「セイヨウヒイラギ」』( Ilex aquifolium )、『「アメリカヒイラギ」』( Ilex opaca )、『モクセイ科の「ヒイラギ」に似るが、見分け方は「類似種の見分け方」参照』(同図鑑内リンク)。『⑦名前の由来:「矢羽ヒイラギモチ」の意で、ヒイラギのような鋭い鋸歯があり、矢羽根のような葉の形であることから。別名のシナヒイラギは、ヒイラギに似ていて、原産地が中国(支那:シナ)であることから』。ヤバネ『ヒイラギモチ』、別名『ヒイラギモドキも、同様にヒイラギのような鋭い鋸歯があることから』とある。

 なお、ここでは、良安は確信犯(しかし、誤りである)で柊(ひいらぎ)について述べている訳だし、実際にヤバネヒイラギモチとは、外見等の類似性があること、本邦での魔除けの民俗が語られている点で面白く読んだので、ここでは、「ヒイラギ」のウィキを引いておく(注記号はカットした)。漢字表記は『柊・疼木・柊木』。『常緑小高木』。『冬に白い小花が集まって咲き、甘い芳香を放つ。とげ状の鋸歯をもつ葉が特徴で、邪気を払う縁起木として生け垣や庭木に良く植えられる』。『和名ヒイラギは、葉の縁の刺に触るとヒリヒリと痛むことから、痛いという意味を表す日本語の古語動詞である「疼(ひひら)く・疼(ひいら)ぐ」の連用形・「疼(ひひら)き・疼(ひいら)ぎ」をもって名詞としたことによる。疼木(とうぼく)とも書き、棘状の葉に触れると痛いからといわれている』。『別名でヒラギともよばれる。学名の種小名は「異なる葉」を意味し、若い木にある棘状の葉の鋸歯が、老木になるとなくなる性質に由来する』。『台湾と日本に分布する』(☜:「維基百科」の同種の「柊でも、「產地」の項に、『原産台湾以及日本本州(關東地方以西)、四國、九州、琉球山地』とあるので、ヤバネヒイラギモチとは対称的に中国には自生しない。『日本では、本州(福島県・関東地方以西)、四国、九州(祖母山)、沖縄に分布する』。『山地に生育する』。『樹高は』四~八『メートル』。『葉は対生し、葉色は濃緑色。革質で光沢があり、長さ四~七』『センチメートル』『の楕円形から卵状長楕円形をしている。その葉縁には先が鋭い刺となった鋭鋸歯がある。葉の形は変異が多く、ほとんど鋸歯がないもの、葉の先だけに鋸歯がつくもの、鋸歯が粗いもの、トゲが尖っているものまでさまざまである。若樹のうちは葉の棘が多いが、老樹になると葉の刺は次第に少なくなり、縁は丸くなって先端だけに棘をもつようになる。葉の鋭い棘は、樹高が低い若木のうちに、動物に食べられてしまうことを防いで』、『生き残るための手段と考えられている』。『花期は』十『月中旬』から十二『月中旬。葉腋に直径』五『ミリメートル』『ほどの芳香のある白色の小花を多数密生させる。雌雄異株で、雄株の花は』二『本の雄蕊が発達し、雌株の花は花柱が長く発達して結実する。花は同じモクセイ属のキンモクセイ』(モクセイ属モクセイ変品種キンモクセイ Osmanthus fragrans var. aurantiacus f. aurantiacus )『に似た芳香がある。花冠は』四つに『深裂して、裂片は反り返る』。『実は長さ』一・二~一五センチメートル『の楕円形になる核果で、はじめは青紫色で、翌年』六~七『月に黒っぽい暗紫色に熟す。そして、その実が鳥に食べられることにより、種が散布される』。以下の「品種」の項はここでは不要と考え、カットした。『陰樹で半日陰を好む性質があり、日陰の庭でも植栽可能である。生長のスピードは遅い』方『で、乾いた土壌を好み』、『砂壌土に根を深く張る。極端な排水不良地や痩せ地でない限り、場所を選ぶことはほとんどない』。『低木で常緑広葉樹であるため、盆栽などとしても作られている。殖やし方は、実生または挿し木による。植栽適期は』、柔軟性があり、三~四『月』、六~七『月上旬』、九『月中旬』から十『月中旬とされ、堆肥を十分に入れて植える』。一~二『月は寒肥として有機質肥料を与える。剪定適期は』、四『月と』七『月とされる』。『ヒイラギは、庭木の中では病虫害に強い植物である。しかし、甲虫目カブトムシ亜目ハムシ上科『ハムシ科』Chrysomelidaeテントウノミハムシ属ヘリグロテントウノミハムシ Argopistes coccinelliformis『に食害されることがある。この虫に寄生されると、春に新葉を主に、葉の裏から幼虫が入り込み、食害される。初夏には成虫になり、成虫もまた葉の裏から食害する。食害された葉は枯れてしまい、再生しない。駆除は困難である。防除として、春の幼虫の食害前に、農薬(スミチオン、オルトランなど)による葉の消毒。夏の成虫は、捕獲駆除。冬に、成虫の冬眠を阻害するため、落ち葉を清掃する。ヘリグロテントウノミハムシは、形状がテントウムシ(』よく見かける益虫である『二紋型のナミテントウ』(甲虫亜目ヒラタムシ下ヒラタムシ上科テントウムシ科テントウムシ亜科テントウムシ族 Harmonia 属ナミテントウ Harmonia axyridis )『やアカホシテントウ』(テントウムシ亜科アカホシテントウ属アカホシテントウ Chilocorus rubidus )『によく似ていて、「アブラムシを食べる益虫」と間違えられ、放置されやすい。ヘリグロテントウノミハムシは、テントウムシ類より』、『触角が太く長く、また跳躍力が強く、人が触ると』、『跳ねて逃げるので見分けがつく』。『花は冬に咲き香りがよく、庭木として』、『よく植えられる。葉に棘があるため、防犯目的で生け垣に利用することも多い』。『幹は堅く、なおかつしなやかであることから、衝撃などに対し強靱な耐久性を持っている。このため、玄翁と呼ばれる重さ』三キログラム『にも達する大金槌の柄にも使用されている。特に熟練した石工はヒイラギの幹を多く保有し、自宅の庭先に植えている者もいる。他にも、細工物、器具、印材などに利用される』。『古くから邪鬼の侵入を防ぐと信じられ、庭木に使われてきた。厄除けの思想から、昔は縁起木として門前に植えられてきた。家の庭には表鬼門(北東)にヒイラギ、裏鬼門(南西)にナンテン』(キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica )『の木を植えると良いとされている(鬼門除け)。また節分の夜にヒイラギの枝に鰯の頭を門戸に飾って邪鬼払いとする風習(柊鰯)が全国的に見られる。「鰯の頭も信心から」という言い方があるのはこれによる』。『似たような形のヒイラギモクセイは、ヒイラギとギンモクセイ』(モクセイ属モクセイ変種ウスギモクセイ品種ギンモクセイOsmanthus fragrans var. aurantiacus f. aurantiacus )『の雑種といわれ、葉は大きく縁にはあらい鋸歯があるが、結実はしない』。『クリスマスの飾りに使うのはセイヨウヒイラギ( Ilex aquifolium )であり、ヒイラギの実が黒紫色であるのに対し、セイヨウヒイラギは初冬に赤く熟す。「ヒイラギ」とあっても別種であり、それだけでなくモチノキ科に分類され、本種とは類縁的には大きく異なる。ヒイラギは葉が対生するのに対し、セイヨウヒイラギでは葉は互生するので、この点でも見分けがつく』。『その他、ヒイラギの鋭い鋸歯が特徴的なため、それに似た葉を持つものは「ヒイラギ」の名を与えられる例がある。外来種ではヒイラギナンテン( Berberis japonica )(メギ科)がよく栽培される。他に琉球列島にはアマミヒイラギモチ( Ilex dimorphophylla )(モチノキ科)、ヒイラギズイナ( Itea oldhamii )(スグリ科)』(キンポウゲ目メギ科メギ亜科メギ連メギ亜連メギ属ヒイラギナンテン Berberis japonica(引用先で以下にある『 Ilex aquifolium 』はシノニムであり、以下、叙述が学術的に不審なので、中略する)『ほかに、鋭い鋸歯を持つものにリンボク』(バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属リンボク  Prunus spinulosa )『があり、往々にしてヒイラギと間違えられる。また、ヒイラギを含めてこれらの多くは幼木の時に鋸歯が鋭く、大きくなると次第に鈍くなり、時には鋸歯が見えなくなることも共通している』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「骨」([088-42a]以下)の「釋名」と「集解」の主要部殆んどである。この項自体が、短い。

「杠谷樹《ひひらぎ》」「續日本紀」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの『國文六國史』「第三 續日本紀」(上・中/武田祐吉・今泉忠義編/昭和九(一九三四)年大岡山書店刊)の「續日本紀」卷第二の「天の眞宗豐祖父の天皇 文武天皇」の文武天皇大寶二年正月八日の条に、

   *

造宮職(ざうぐうしき)、杠谷樹(ひゝらぎ)を獻(たてまつ)る。長さ八尋(やひろ)。【俗に「ひゝらぎ」[やぶちゃん注:原文「比比良木」。]と曰ふ。】

とあり、次のコマの同年三月十日の条に、

   *

従七位(しようしちゐ)の下秦(げはた)の忌寸廣庭(いみきひろには)、杠谷樹(ひゝらぎ)の八尋桙根(やひろほこね)を獻る。使者(つかひ)を遣はして伊勢の大神宮(おほかむみや)に奉らしむ。

   *

とある。良安の評言にも出る「八尋」の「尋」(ひろ)は、両手を左右に広げた際の幅を基準とする身体尺で、当該ウィキによれば、『学術上や換算上など抽象的単位としては』一『尋を』六『尺(約』一・八『メートル)とすることが多いが、網の製造や綱の製作などの具体例では』一『尋を』五『尺(約』一・五『メートル)とする傾向がある』とあり、古代のそれは、当時の一般人の身長から後者を採るべきかと思う。それで換算すると、約十二メートルとなる。しかし、現存するものを見ても、四百年でも七メートルであり、これは献上物であるから、少し誇張があると考えるべきである。因みに、良安の言っているのは、これで、上記の後者の記事であることが判る。

『「柊」は、本《もと》≪は≫、「椎(つち)」の名なり』この「椎」は「つち」という訓から判る通り、樹木のブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis のシイ類を指しているのではなく、物を打つ道具としての「槌」を指すので、要注意。

『「木䖟《もくばう》」、有り、葉の中に在り、之れを、卷きて、子(み)のごとく、羽化して、䖟(あぶ)と爲《なる》』これは、双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目Brachyceraに属するミズアブ下目 Stratiomyomorpha・キアブ下目 Xylophagomorpha・アブ下目 Tabanomorpha・ハエ下目 Muscomorpha (これは一部)の所謂、「アブ」類である。なお、これを読む方々は、無意識に、葉にアブが産卵して……と読むであろうが、そうではない可能性が高い。民俗社会で永く信じられた、「化生」(かしょう)である。何の機序もなく、突如、出現する非科学的生物発生(古い博物学での「自然発生」である)を指している。

「女貞」先行する「女貞」を参照。そこでは、時珍も種を混同してしまっているので、必ず見られたい。

「鳥雀《てうじやく》」スズメを代表とする人里近く集まる小鳥の総称。

「粘黐(とりもち)」鳥黐(とりもち)。「耳嚢 巻之七 黐を落す奇法の事」の私の注を参照されたい。

「本草必讀」東洋文庫の巻末の「書名注」に、『「本草綱目必読」か。清の林起竜撰』とある。なお、別に「本草綱目類纂必讀」という同じく清の何鎮撰のものもある。この二種の本は中文でもネット上には見当たらないので、確認出来ない。

『十大功勞葉」【一名、「䑕怕草《そはくさう》」。】』これは、ここに入れるべきものではない、大アウトである。良安が直接引用したのが、何かは判らないが、「漢籍リポジトリ」で、一つだけ見つけた。明の繆希雍(びょうきよう)の「先醒齋廣筆記」のここの「極木」の項に、

   *

極木一名十大功勞一名猫兒【殘俗呼光菰櫪】黒子者是紅子者名樞木亦可用取其葉或泡湯或為末不住服譚公亮患結毒醫用五寶丹餌之三年不效仲淳云五寶丹非完方也無紅鉛靈柴不能奏功時無紅鉛姑以松脂鉛粉麻油調敷應手而減公亮先用喬伯珪所贈乳香膏止痛生肌甚㨗及用此二味功效彌良乃知方藥中病不在珍貴之劑也

  又方

銀硃【三錢】輕粉【三錢】白占【三錢】黄占【三錢】用麻油【三兩】先將二占化勻調前藥末攤成膏貼之戒房事必效

   *

とある。さらに調べたところ、完全アウトの決定打が見つかった。前にも使った中文サイトの「A+醫學百科」の十大功勞葉」だ! そこでは基原種の学名と中文名を、

Mahonia bealei (闊葉十大功勞)(検索したとことろ、和名は「シナヒイラギナンテン」)

Mahonia fortunei (細葉十大功勞)(同前で「ホソバヒイラギナンテン」)

Mahonia japonica  (華南十大功勞)(同前で「ヒイラギナンテン」)

と、三種、掲げている。以上の三種は、

キンポウゲ目メギ科メギ亜科メギ連 メギ亜連メギ属 BerberisMahonia はニシノニム)

であって、モチノキ目モチノキ科モチノキ属ヤバネヒイラギモチ Ilex cornuta とは、縁も所縁もないのである。リンク先には強力な学術的記述があるが、これら三種がヒイラギモチと関係性があることは、どこにも書かれていない。但し、別名に「老鼠刺」があり、この名はヤバネヒイラギモチと同属のモチノキ属ペルニーヒイラギ Ilex pernyi の中文異名でもある点ぐらいか(「維基百科」の「猫儿刺」を見よ。中国固有種である)。

「蒲扇《ほせん》」これは本邦で言う(中国でも)「芭蕉扇」である。本邦のものは、単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビロウ属ビロウ変種ビロウ Livistona chinensis var. subglobosa の葉で作ったものが多いが、中国のものは、タイプ種のビロウの方で作るようである。

「其の葉を取りて、䑕穴《めづみあな》の旁《かたはら》に置けば、則ち、䑕、敢へて出入《でいり》せず。故《ゆゑ》≪に≫、「䑕怕《そはく》」と名づく」これは、物理的に、そのトゲトゲの葉をたっぷりネズミの穴に詰め込んでおけば、ネズミは厭がるだろうということのように見えるが、別に、実の形が鼠の糞に似ているという、類感呪術的なもののようにも思われる。

『「䑕膈病」は【人前≪にては≫、竟《つひ》に飮食せず、凡そ、物、食ふに、宻《ひそか》≪なる≫地、毎《ごと》に、偷(ぬす)み取りて、之れを食ふ。家人、見る者、有≪れば≫、則ち、畏《おそれ》て、置く。肌、瘦せ、靣《おもて》、黃色≪なり≫。悞《あやまりて》、䑕の殘-物(わけ)[やぶちゃん注:「分・譯」で、「食べ残しの食物・食い残し」の意がある。]を食《くひ》、毒に中《あた》り、此の症《しやう》を患《わづらふ》。服藥、効、鮮《すく》なし。唯《ただ》、此の藥を用ひて、奇驗《きげん》、有《あり》。】』これは非常に興味深い叙述であり、原文を是非とも見たいのだが、残念だ。通常、単に「膈病」と言った場合は、物理的に食べ物が通らなくなる病気で、現行の胃癌・食道癌などに当たるとされ、本邦では「膈(かく)の病ひ」とよく言われた。しかし、ここで語られている病態はそれではない。明らかに精神病疾患である。所謂、心身症或いは心気症の摂食障害である。黄疸症状のようにも見えるが、或いは、偏食による見かけ状のもので、身体を拭かない結果かも知れない。こうした総合病態が子細に叙述されているのは、そうそう見かけない。鼠の糞を食べるのも、憶測ではなく、異食行動として十分あり得るものである。同じような症状を記したものを見つけたら、ここに追記したい。

「䑕李《そり》」先行する「鼠李」を参照。但し、良安のそれは誤って、シソ目シソ科Lamiaceaeムラサキシキブ属ムラサキシキブ Callicarpa japonica に同定しているから、それを指す。

「俗閒《ぞくかん》、立春≪の≫節分の夜《よる》、枝葉《えだは》を門≪や≫窓に揷して、添《そふ》るに、海-鰮(いはし)の頭《あたま》を以≪つてす≫」「鰯の頭も信心から」(「一旦、信じてしまえば、どんなものでも有難く思える」ことの譬え。江戸時代、節分に鬼除けのために玄関先に鰯の頭を吊るす習慣があり、それに由来するという説が有力な諺)の「柊鰯(ひいらぎいわし)」である。当該ウィキを引くと、『節分に魔除けとして使われる、柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿したもの。西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいう』。『柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。日本各地に広く見られる』。『平安時代には、正月の門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「なよし」(ボラ)の頭を刺していたことが、土佐日記から確認できる』(この基原風習は、江戸時代に始まったことではないので注意)。『現在でも、伊勢神宮で正月に売っている注連縄には、柊の小枝が挿してある。江戸時代にも』、『この風習は普及していたらしく、浮世絵や、黄表紙などに現れている。西日本一円では節分にいわしを食べる「節分いわし」の習慣が広く残る。奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。福島県から関東一円にかけても、今でもこの風習が見られる。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに豆柄(まめがら。種子を取り去った大豆の枝。)が加わる』。『また、奈良県吉野町では、一本だたらを防ぐため節分の日にトゲのある小枝に焼いたイワシの頭を刺して玄関に掲げるという』。『鬼を追いはらう臭いを立てるために、ニンニクやラッキョウを用いることもある』とある。私は中学生時代に民俗学に興味を持ち、早くにその風習自体は知識としては知っていたが、鎌倉・東京都練馬区・富山県高岡市・渋谷区下目黒に住んだが、自宅では、それをしたのを見たことがないし、各地でも、正月にそれを見た記憶は、残念ながら、一度しかない。その一度は、富山の新湊市の高校時代に所属していた演劇部の顧問の先生の家に招かれた際であった。

「追儺(ついな)」当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『大晦日』『に疫鬼や疫神を払う儀式、または民間で節分などに行われる鬼を払う行事。儺(だ、な)』、或いは、『大儺(たいだ、たいな)、駆儺』(くだ)、『鬼遣(おにやらい。鬼儺などとも表記)、儺祭(なのまつり)、儺遣(なやらい)とも呼ばれる』。『中国で宮中で行われる辟邪の行事として、新年(立春)の前日である大晦日に行われていた。日本でも大陸文化が採り入れられた過程で宮中で行われるようになり、年中行事として定められていった。儺人(なじん)たちと、方相氏』(元は中国周代の官名であるが、本邦に移されて、宮中に於いて年末の追儺(ついな)の儀式の際に悪鬼を追い払う役を担う神霊の名。黄金の四ツ目の仮面をかぶり、黒い衣に朱の裳を着用して矛と盾を持ち、内裏の四門を回っては鬼を追い出した。見たことがない人のためにグーグル画像検索「方相氏」をリンクさせておく)『(ほうそうし)、それに従う侲子(しんし)』(方相氏に従う童子のことを指す。紺の布衣(ほい)・朱抹額(まっこう)を着けている。「振子」「小儺(しょうな)」とも言う)『たちが行事を執り行う。儺という字は「はらう」という意味があり、方相氏は大儺(たいな、おおな)、侲子は小儺(しょうな、こな)とも称され』、『疫鬼を払う存在とされている』。『中国で行われていた儀式(大儺などと称される)では、皇帝らの前で方相氏と数おおくの侲子たちによって疫鬼たちを恐れさせる内容の舞がおこなわれた後、その鬼たちを内裏の門から追い出して都の外へと払った。方相氏は』、四『つの目をもつ四角い面をつけ、右手に戈、左手に大きな楯をもつ方相氏が熊の皮をかぶり、疫鬼や魑魅魍魎を追い払うとされている。侲子たちは黒い衣服をまとっており、子供たちがその役をつとめた』。『日本での大儺(のちに追儺と呼ばれるようになる)は、儺人は桃と葦でつくられた弓と矢をもち、方相氏・侲子たちは内裏を回り、陰陽師が鬼に対して供物を捧げ祭文を読み上げる。方相氏たちが鬼を追いやって門外に出ると鼓を鳴らして鬼たちが出たことを知らせ厄払いをする。その後も都の外へ外へと四方に鬼たちを払い出すための行事があわせて行われた。しかし平安時代には、鬼たちに対して用いられる役割を持っていた桃と葦の弓矢を、方相氏・侲子たちに向かって使っていた描写も年代が進むにつれて見られるようになり、彼ら自身が儀式のなかで鬼を示す役割に変化していったと見られている。侲子たちは官奴がその役にあたるとされており』、『青紺色の衣服をまとう。追儺のおりに、春や秋の司召(つかさめし)の除目の際に漏れた者を任官することも行われ』たことから、『これを追儺の除目、追儺召除目とも』言った。『宮中行事であった追儺は、鬼を払う内容から』、『節分(太陰暦でいえば大晦日に行われる行事であり、同義』であった『)の豆まきなどの原形のひとつであるとも考えられている。しかし』、『豆まきについては』、『日本での追儺の儀式には組み込まれておらず、鬼を打ち払う他の行事から後の時代に流入をしたものである』。『追儺は鬼ごっこ(鬼事)の起源ともされる。民俗学者の柳田國男は伝統的な子供の遊戯は大人の真似によって生じたものとし、もとは神の功績を称える演劇を子供が真似たという説を唱えた。現在、民俗学では鬼ごっこの起源が追儺や鬼やらいにあるという意見が主流であるが、一方で』、『追う者と追われる者の鬼の役割が正反対だとする多田道太郎による反対論もある』(個人的には、神話・伝承に於ける二項対立の構造は常に正邪の相違で決定されることはなく、相互に立場が逆転するのは当たり前のことであり、私はおかしいとは思わない。以下に語られる逆転現象も、まさにそれを証明している)。『中国では』「論語」『に「儺」の語が見られる。古い時代には大晦日のみにおこなわれるものとは語られておらず、年間に三度おこなわれるかたち(三時儺)が執られていたりもした』。「隋書」に『よると』、『隋王朝ではこの方式を採用していたようで、年に三度(春・秋・冬)行われている。六朝時代ごろに大晦日とされるかたちが出来たと見られている。唐以後は行事に用いられる人数も増大してゆくようになったが、宋の時代には方相氏たちによる舞は失われて、武人や鍾馗などが儀式に登場するようになった』。『宮中のほかに』、『民間でも同様の疫鬼を追い払う儀式がおこなわれており、儺戯などと呼ばれており』、『現代も中国各地で民間行事として受け継がれてもいる』。『日本の文献では』「續日本紀」に『見られる』『天下諸國疫疾、百姓多死、始作二土牛一大儺』(慶雲三(七〇六)年十二月晦日の紀事)『という疫鬼払いをするために行われた記述が古いものとして挙げられる。日本の大儺でも用いられ始めた桃や葦の弓矢は、中国の儀式でも魔除けの効果をもつ武具として用いられていたものだが、後漢までの文献に見られる形式であり、それが伝来して固定化したものであるといえる』。「三代實錄」には、『追儺での方相氏役として関東地方から身長が』六『尺』三『寸』(約一・九〇メートル)『以上の者を差し出させたこと』が貞観八(八六六)年五月十九日の記事『など』に『見える』。『宮中での年中行事としての追儺は』、『鎌倉時代以降は衰微してゆき、江戸時代には全く行われなくなった』一方、『熟語としての「追儺」や「鬼やらい」は宮中儀式を離れて、鬼を追い払う節分の行事全般の呼称として幅広く一般で用いられるようになり、節分の豆まきを称する熟語としても使用されるようになった』。九『世紀ごろには、桃の弓や祭文の用いられ方の変化などから、儀式の中で目に見える存在として登場することは』なかった『鬼を追う側であった方相氏』『や侲子(儺)が』、『逆に、目に見える鬼として追われるようなかたちに儀式がうつりかわっていく様子が見られ、それと同時に』、『儺(鬼)を追い払うといった意味で「追儺」という名称が日本で独自に発生していったと考えられている。追儺という呼び方は』、「延喜式」等に『その使用が見ることが出来るが、それ以前の』「内裏式」等では』、『大儺が用いられている。また方相氏たち「儺」の役割をもつ存在が日本の宮中儀式のなかで「鬼を払う者」から「鬼」へ役割が替わったことは』、「公事根源」等の文献で、『方相氏を「鬼」であると表現している点などからも』、『うかがうことが出来る』。『歴史学者の神野清一』(じんのきよかず)『や三宅和朗』(みやけかずお)『は、方相氏が追儺以外の行事(葬送の行事)にも魔除けの意味で用いられていたことを挙げ、死にまつわる点をもっていたことが』、『方相氏を「鬼」と見る変化が宮中で起きたのではないかと論じている』。『日本では平安時代(』十一『世紀頃)から宮中以外でも公家・陰陽師・宗教者などを中心に追儺の行事を実施する者が増加してゆくことにより、各地の寺社にも儺と関連した行事が根付いていった。それらの中には現在も修正会』(しゅしょうえ)『・修二会』(しゅにえ)『をはじめとした節分の行事としておこなわれているものもある。寺社での鬼遣・追儺の行事には、鬼のほかに毘沙門天などが登場したりもする』。『古式を復活させ』、『方相氏の面が用いられる追儺式を行っている寺社もあるが、地方の寺社や民間で行われてきた鬼やらいや節分の行事に疫鬼として登場するのは鬼の面をつけた(一般的なかたちの)鬼であることが多い』とある。

「夫木」「世の中は數《かず》ならずともひいらぎの色に出(いで)てはいはじとぞ思ふ」「爲家」既注の「夫木和歌抄」に載る藤原為家の一首で、「卷二十八 雜十」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「14074」)。但し、そこでは、

   *

よのなかは-かすならすとも-ひひらきの-いろにいてては-いはしとそおもふ

   *

となっている。

「黐樹(もちの《き》」双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra 。先行する「檍」の私の注の同種の記載を見られたい。

「柊汁《ひいらぎじる》も亦、黐(もち)に爲《つく》るか」前掲のセイヨウヒイラギからは鳥黐が作れるが、同種は明治期に渡来したものであり、ヒイラギから採取できるという記載は確認できなかった。]

2024/08/30

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 潮江村入道谷毒氣

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。ロケーションの「潮江村(うしほえむら)」(現代仮名遣「うしおえむら」)は既出既注だが、再掲すると、は高知市市内の鏡川(かがみがわ)河口南岸の地区で、浦戸(うらど)湾奥部の近世以来の干拓地である。「ひなたGPS」で示す。但し、潮江村の「淨眼寺山(じやうがんじさん/やま)」も、その「東」の「入道谷(にうだうだに)」も、それが「麓」にあるという「千躰山(せんたいさん/ざん/やま)」も、三つの名総て、戦前の地図でも、見出せない。ネットでも検索に掛ってこない。最後の注で、広域ロケーションの推理を示す。

 

   潮江村入道谷毒氣(どくき/どくけ/どつき)

 潮江村、「淨眼寺山」の東を「入道谷」と云(いふ)。「千躰山」の麓也。

 安永の頃、此所(このところ)に娶婦(ヤモメ)の老女(らうぢよ)、小(ちさ)き家居(いへゐ)して居(を)りける。[やぶちゃん注:「安永」一七七二年から一七八一年まで。徳川家治の治世。]

 此老女は、川田氏に年久敷(としひさしく)勤(つとめ)ける故、其家より、少(すこし)の扶持(ふち)、來(きた)り、一人(ひとり)、住(ぢゆう)しける。[やぶちゃん注:「川田氏」土佐藩の郷士。 土佐藩では、藩の武士階級として「上士」・「郷士」という身分制度があり、「郷士」は下級武士で、暮らし向きもひどく貧しいものだった。但し、後の幕末の、土佐勤王党の武市半平太や坂本龍馬などの志士が現れている。]

 其頃、塩屋崎に傳助と云(いふ)もの、有(あり)。妻を迎(むかへ)て、末子(ばつし)もなかりしが、或日、父と物爭ひし、終(つひ)に、夫婦ともに追出(おひだ)されぬ。[やぶちゃん注:「塩屋崎」「ひなたGPS」のここ。前に出た「眞如寺」の後背の「眞如寺(筆山)」の南西麓の田の広がる町屋。現在の高知市塩屋崎町(しおやざきまち)(グーグル・マップ・データ)。「末子もなかりしが」傳助が嫡子で、弟もいないのに。]

 傳助、當時、行(ゆく)べき所やなかりけん、彼(かの)老女が方へ行(ゆき)て、その次㐧(しだい)を語り、

「親父が、機嫌(きげん)の直(なほ)る迄、四、五日、宿(やど)を貸したまはれ。」

と賴(たのみ)ければ、常に心安き傳助なれば、氣の毒におもひ、夫婦とも、老女が方(かた)に置(おき)ける。

 その夜(よ)、日暮(ひぐれ)て後(のち)、老女が愛する猫、外(そと)にて喰合(くひあふ)音[やぶちゃん注:何かと噛み合う、争そう音。]、しければ、傳助が妻、走り出(いで)て見るに、猫は、松の木の枝に登り居(をり)ける故、物干棹(ものほしざを)にて追(おひ)おろし、猫は、內(うち)へ、歸(かへり)ければ、女房も、內へ這入(はひり)ぬ。

 暫(しばし)して、傳助を呼(よび)て、いふ。

「氣分、𢙣(あし)し。背を、撫(なで)て給はれ。」

と言ける故、傳助、立寄(たちより)、撫さすり抔(など)する內に、手足、なえて、轉(コロ)び伏(ふし)けるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、傳助、驚き、

「水を吞(のま)せん。」

とて、立上(たちあが)りけるが、忽(たちまち)、傳助も、手足、軟(ナヘ)て、無言(ことばなく)し、夫婦共(とも)に、轉(ころ)び合(あひ)ける。[やぶちゃん注:「軟(ナヘ)て」漢字は当て字。「萎へて・痿へて」が普通。]

 老女は、囲庵裏(イロリ)の緣(ふち)に、假寐(うたたね)して居(ゐ)けるが、是も、目まひして、氣分、𢙣敷(あし)ければ、傳助を、呼(よび)かけながら、立上(たたちあが)らんとするに、手足、なえて、其儘(そのまま)、倒(たふ)れ伏(ふし)ぬ。

 三人(みたり)ながら、咽のかはく事いはん方なし。[やぶちゃん注:「囲庵裏(イロリ)」漢字表記はママ。「圍爐裏」「居爐裏」が一般的だが、これらも当て字であり、語源の定説は、ない。有力な一説は、「いろ」が、「圍爐」で、「爐を圍む」の意であり、「裏」は当て字とするものである。]

 傳助、轉(ころび)て、漸(やうやう)、水桶(みづをけ)の邊(あたり)までは、行(ゆき)しかども、水を吞不得(のみえず)して伏居(ふしゐ)たりぬ。

 爰(ここ)に、淸水庵(せいすいあん)の道心(だうしん)、庵室(あんじつ)は退轉(たいてん)して、當時、千体山の麓(ふもと)東側の山中(さんちゆう)に小(ちさ)き家、有りて、借宅(しやくたく)して暫(しばらく)居(をり)けるが、老女が茶吞友(ちやのみとも)にて、朝毎(あさごと)、吞(のみ)に行(ゆき)ける。

 此朝(このあさ)も、いつものごとく、起出(おきいで)て、老女が方へ行(ゆき)たれども、未(いまだ)、戶指(とざし)て有(あり)ければ、

『今朝(けさ)は、老女が長寐(ながね)するよ。』

と、おもひ、立歸(たちかへ)りぬ。

 暫(しばし)して、

「起(おき)もや、す。」

と、又、行(ゆき)たりしが、戶指(とざ)し有(あり)ければ、不審に思ひ、戶を扣(たたき)て見れども、返事もせざれば、

『必定(ひつぢやう)、老女、病(やみ)ての事成(なる)べし。』

と、外ゟ(そとより)、戶を明(あけ)、見けるに、三人、身を不叶(かなはず)して、轉びあふ[やぶちゃん注:ママ。]て、伏しけるを見て、驚き、其邊(そのあたり)の人を、呼(よび)集め、來りて、介補(かいほ)し、藥を求(もとめ)て、服させければ、老女は、頓(やが)て、正氣に成(なり)、四、五日の内に快氣し、傳助は、十四、五日の後(のち)、快(こころよ)く、女房は、廿日余り、煩(わづら)ひて、快復せしとかや。[やぶちゃん注:「身を不叶(かなはず)して」「を」の箇所を、国立公文書館本34)を見ると、「も」である。「も」の崩し字には、「を」に酷似するものがあるので、底本の筆写者が誤認したものである。「近世民間異聞怪談集成」も「も」に補正傍注してある。]

「猫も、久敷(ひさしく)、物、不食(くはず)して、伏(ふし)ける。」

とぞ。

 三人ながら、

「夢のやうに有(あり)つる。」

と、始終を語りぬ。

 如何成(いかなる)毒氣にか有(あり)けん。

 

[やぶちゃん注:これは、間違いなく、囲炉裏の不完全燃焼による一酸化中毒である。猫と三人の皮膚は、恐らくピンク色を呈しつつあったと思われる。猫が戸外で何物か(猫かそれ以外の狸(木に登れる)辺りの野生動物。木に登れない狐は、当時、四国には棲息していなかったと考えられる)と争そったという偶然が、何らかの物の怪の齎(もたら)す瘴気(しょうき)として誤認されたものである。

 なお、以上の老女の住まいと、お茶のみ友だちの道心が近くに住んでいることから考えると、どうも、この『潮江村、「淨眼寺山」の東を「入道谷」と云(いふ)。「千躰山」の麓也』というのは、「眞如寺山(筆山)」の南西後背でないとおかしい。「ひなたGPS」の戦前の地図を見るに、その辺りには、相応のピークがあるのに、山名が記されていない。ところが、国土地理院図の方を見ると、塩谷崎町の南西直近にある163メートルのピークには、「皿ヶ峰」の名が附されてある。近世、こうした峰に名前がない方がおかしいから、この「皿ヶ峰」、或いは、その南の、現在の「嘆きの森」(グーグル・マップ・データ航空写真:名の由来は、「カメラ屋ケンちゃん」氏のブログ(失礼ながら、ブログ標題が異様に長い上、コピー出来ないため、カットした)の「高知市内にあるハイキングコース上の「嘆きの森」について・・・」を参照されたい。明治までのコレラ感染で亡くなった「コレラ墓」があり、敗戦の前月のアメリカによる高知市空襲での犠牲者が葬られた地であるそうである)、又は、さらにその南にある「土佐塾中学・高等学校」のある丘陵辺りを南限とする範囲に、本篇に広域ロケーションはあったと考えるのが、自然なようである。

2024/08/29

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 冬青

 

Masaki

 

まさき  凍青

     俗云末左木

     言正青木畧

冬青   俗用柾字

     又云玉豆波木

トラン ツイン

 

本綱冬青是乃女貞之別種也葉圓不尖五月開細白花

結子如豆大紅色伹以葉微團而子赤者爲冬青葉長而

子黒者爲女貞也冬青木肌白有文作象齒笏其葉堪染

緋其嫩芽𤉬熟水浸去苦味洗調五味可食

[やぶちゃん注:「𤉬」は「煠」(「焼く・炒める・茹でる」の意)の異体字で、原本では、「グリフウィキ」のこれ((つくり)が「棄」の字体)の中間部が「世」となった字体であるが、表字出来ないので、最も近いと判断した「𤉬」とした。]

子及木皮【甘苦凉】 浸酒去風虛補益肌膚皮其葉燒灰治

 癉瘃滅瘢痕殊効

△按冬青其葉冬亦正青光澤團長而不尖有輭鋸齒夏

 開小白花秋結子生青熟紅自裂中有白子揷枝昜活

 堪爲藩籬長出翹楚伐揃能茂盛相傳云用葉燒灰酒

 服治金瘡及竹刺入肉者伹不知食其嫩芽或用葉染

 緋色也然乎否

 

   *

 

まさき  凍青《とうせい》

     俗、云ふ、「末左木《まさき》」。

     言ふ心は、「正青木(まさあをき)」の畧なり。

冬青   俗、「柾」の字を用ふ。

     又、云ふ、「玉豆波木《たまつばき》」。

トラン ツイン

[やぶちゃん注:「心」は送り仮名にある。]

 

「本綱」に曰はく、『冬青、是れ、乃《すなはち》、「女貞」の別種なり。葉、圓《まどか》にして、尖らず。五月、細《こまやかな》白花を開き、子《み》を結ぶ。豆の大いさのごとし。紅色。伹《ただし》、葉、微《やや》團《まろく》して、子の赤き者を以つて、「冬青」と爲《な》す。葉、長くして、子、黒き者、「女貞」と爲すなり。「冬青」の木肌、白く、文《もん》、有り。象齒笏(ざうげのしやく)に作る。其の葉、緋に染《そむ》るに堪(た)へたり。其の嫩芽(わかめ)、𤉬(む)し熟《じゆく》≪し≫、水に浸し、苦味(にがみ)を去り、洗《あらひ》、五味[やぶちゃん注:「鍼・苫・酸・辛・甘」を指す。]を調へて、食ふべし。』≪と≫。

『子及《および》木の皮【甘苦、凉。】 酒に浸《ひたし》≪たる物は≫、風虛[やぶちゃん注:東洋文庫後注に『産後などで臓腑・気血の弱っているところに冷氣をうけておこる。』とある。ちょっと不親切だ。その結果として発生する全身に及ぶ虚弱状態というべきである。]を去り、肌膚《きひ》≪の≫皮を補益す。其の葉、灰に燒≪きて≫、癉-瘃(しもはれ)[やぶちゃん注:腫れあがった重い凍傷。]を治し、瘢痕(みつちや)[やぶちゃん注:現代仮名遣「みっちゃ」で、「天然痘の瘢痕(あばた)が多いこと」を指す語。]を滅(け)す≪こと≫、殊に効あり。』≪と≫。

△按ずるに、冬青《まさき》は、其の葉、冬、亦、正青(まさあを)く、光澤《つや》≪ありて≫、團長《まるなが》にして、尖らず、輭(やはら)かなる鋸齒、有り。夏、小≪とさき≫白≪き≫花を開き、秋、子《み》を結ぶ。生《わかき》は、青く、熟≪せば≫、紅。自《おのづから》、裂けて、中《うち》≪に≫、白≪き≫子《たね》、有り。枝を揷≪せば≫、活《かつ》≪し≫昜《やす》し。藩籬《ませがき》と爲るに堪へたり。長く、翹-楚(すわい[やぶちゃん注:木の枝や幹から、真っ直ぐに細く長く伸びた若い小枝を指す語。「すわえ」「ずわい」「すわえぎ」とも読む。])を出≪だす≫。伐《き》り揃《そろへ》≪れば≫、能く茂≪り≫、盛《さかん》≪たり≫。相傳《あひつたへ》て、云《いふ》、「葉を用ひ、灰に燒き、酒にて服≪せば≫、金瘡《かなさう》、及び、竹、刺《さして》、肉に入る者を治す。」≪と≫。伹《ただし》、知らず、其の嫩芽《わかめ》を食い[やぶちゃん注:ママ。]、或いは、葉を用ひて、緋色(ひいろ)に染むることや、然《しか》るや、否≪や≫。

 

[やぶちゃん注:良安が最後に不審を述べているので判る通り、良安の種同定は誤っている。中国で言う「冬青」「凍青」は、

双子葉植物綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis

である。小学館「日本大百科全書」によれば、『モチノキ科』Aquifoliaceae『の常緑高木。高さは』十『メートルに達する。幹は灰褐色、若枝は緑色で稜(りょう)がある。葉は厚く、長卵状楕円(だえん)形、長さ』七~十三『センチメートル、低い鋸歯(きょし)がある。花は』六『月、葉腋(ようえき)から出た集散花序につき、淡紫色。雌雄異株。核果は球形、径約』六『ミリメートルで、赤く熟す。静岡県以西の本州、四国、九州、』(☜)及び、(☞)『中国に分布し、山地に生える。美しい実が多くなるのでこの名がある。材は器具材とし、樹皮から』「とりもち」『や染料をとる』とある。英文ウィキの同種の記載には、『ベトナム・中国南部・台湾・日本中部、及び、南部原産』とし、『冬青は伝統的な中医学で使われる五十種の基本生薬の一つであり』、『血行を促進し、鬱血や、熱と毒物を取り除くとされている。狭心症・高血圧・葡萄膜炎・咳・胸部鬱血・喘息などの症状を改善するとされている。同種の根は、皮膚感染症・火傷・外傷に局所的に、直接、塗布することが可能』である。『中国やヨーロッパの多くの都市で街路樹として使用されてい』るとあるのだが、不思議なことに中文ウィキは存在しない。なお、挿絵であるが、これは、良安の筆になるであろうからして、ナナメノキの特異的な形状の葉では、到底、なく、マサキの姿である。

 一方、良安が思い込みで訓じてしまった、本邦で言う「冬青(まさき)」「末左木(まさき)」「正青木(まさをのき)」「玉豆波木《たまつばき》」(最後のそれは、ネズミモチの異名、及び、椿(つばき)の美称)は、目タクソンで異なる、

ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus

である。良安の勝手な思い込みの方を詳述する気は、ない。当該ウィキでも、「コトバンク」の辞書でも、お好きなものを見られたい。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「冬青」([088-41a]以下)のパッチワークである。

『「女貞」の別種なり』前項「女貞」の私の注で示した通り、「本草綱目」の記載も甚だ錯誤がある。その記載では、まず、第一義では、現在の、

双子葉植物綱シソ目モクセイ科オリーブ連イボタノキ属トウネズミモチ Ligustrum lucidum

を指しているが、後の部分では、同じモクセイ科 Oleaceaeではあるが、異なるトネリコ属 Fraxinusである、

モクセイ科トネリコ属シナトネリコ Fraxinus chinensis

に特異的な性質(白蝋を生ずること)を記載してしまっているのである。これは、所謂、汎世界的に主流であった古典的博物誌に於いての、大まかな外見上の類似による種(群)同定による弊害である。

「象齒笏(ざうげのしやく)」「笏」は官人が公式な行事などの折り、束帯を着用する際、右手に持った薄い板を指す。「さく」とも呼んだ。サイト「e國寶」の「牙笏 げしゃく」によれば、『象牙のほかに櫟(いちい)』(裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata )、『桜などの木が材として用いられた。板の内側に必要な事項を記して、儀式の最中に参照できるようにするのが本来の目的だが、後には威儀を正すための持物として使われることが多くなったようである。なお』「延喜式」『には、牙製の笏は五位以上の高官が用いる、と定められており、この骨製の笏も牙笏に準じて用いられたものであろう』とある。しかし、「戸隠神社宝物館」公式サイトの「戸隠神社青龍殿」のこちらの「牙笏」によれば、『笏の素材はアフリカ象の牙で、牙笏と呼ばれるものは、日本に六枚しかない(象牙製が他に正倉院に二枚、大阪の道明寺に菅原道真の遺品と伝えられる一枚、鯨の骨製も牙笏と呼ばれ正倉院に一枚、元は法隆寺にあって現在は東京国立博物に一枚ある)。 本品は「通天笏」と呼ばれる正倉院御物と大きさが同じであり、双子の一つと思われる』。『なぜ戸隠に伝わるのか夢をかき立て、江戸時代に顕光寺の別当であった乗因は持統天皇奉納と伝える』とあった。中国は印材・装飾品・美術品等の材料として、シルクロードを通して、古くから象牙を手に入れていた。

「藩蘺(ませがき)」小学館「日本国語大辞典」では『はんり』として、『藩籬・籬・樊籬』と示し、特にそのまま、総て『まがきの意』とする同辞典で、「藩」は『かきね、かこいの意』とする。

「藩蘺(ませがき)」既出既注だが、再掲しておくと、小学館「日本国語大辞典」では『はんり』として、『藩籬・籬・樊籬』と示し、特にそのまま、総て『まがきの意』とする同辞典で、「藩」は『かきね、かこいの意』とする。]

2024/08/28

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 同鄕荒瀨村黑白水

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。前までと同じく、雨乞繋がりである。「同鄕」は前篇の「韮生鄕(にらうがう)」を指す。]

 

   同鄕(どうがう)荒瀨村黑白水(こくびやくすい)

 同鄕、五百藏村(いおろうら)、新田へ、かゝる、井本(ゐもと)は、荒瀨村(あらせ)也。大成(おほきなる)岩の下より、水、出(いづ)る也。

 此水(みづ)、旱魃(かんばつ)のしるしには、必(かならず)、白水(びやくすい)、流出(ながれいづ)る。

 又、洪水のしるしには、黑水(こくすい)出(いづ)る也。

 是を見て、里人、祈禱をする事也。

 

[やぶちゃん注:「五百藏村」前篇で既出既注。

「井本」水源。

「荒瀨村」現在の河北町有瀬(あらせ)「ひなたGPS」で確認。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 韮生鄕美良布社隆鐘

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。前までと同じく、前回の雨乞繋がりである。]

 

   韮生鄕(にらうがう)美良布社(びらふのやしろ)隆鐘(ふりがね)

 韮生鄕、大川上美良布社(おほかはびらふのやしろ)に「降鐘(フリガネ)」と云(いふ)物、二つ、有(あり)。

「古(いにし)へ、五百藏村(いおろむら)へ、天(てん)より、降(ふり)たる。」

と云(いふ)。

 故に、世人(せじん)、「降鐘」と云侍(いひはべ)る由(よし)。

 半鐘(はんしよう)の形にして、兩方に、耳、有(あり)、半鐘より、大き也(なり)。

 「雌鐘(めすがね)」・「雄鐘(をすがね)」といふ。

 旱魃(かんばつ)の時、此(この)鐘を、大川(おほかは)に「膳が石」と云有(いふあり)【小川村の通り也(なり)。】、水中(すいちゆう)也(なり)[やぶちゃん注:この「なり」は宛て漢字であろう。並立助詞の「~なり、~なり、」で。「水中なりとも、岸辺なりとも、」の意で採る。]、其所(そのところ)へ、すへて、諸人(しよにん)、雨乞(あまごひ)を、すれば、忽(たちまち)、雨、降(ふる)也。

 「膳が石」といふは、膳を、一束(いつそく)[やぶちゃん注:百膳。]程、ならべたる如き石也。

 

[やぶちゃん注:「韮生鄕、大川上美良布社」この大川上美良布神社は、現在の香美市香北町韮生野(にろう)のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にある。なお、そこから北西直近の高知県香美(かみ)市香北町(かほくちょう)美良布(びらふ)のここに同神社の御旅所がある。これは「香美市」公式サイトの「大川上美良布神社の御神幸」によれば、『毎年』十一『月』三『日に大川上美良布神社において実施されています』。『神社の御祭神が行列を組んで』、『御旅所の神明宮を往復する秋祭りをオナバレといい、江戸時代末期には「奈波連」と読んだことが知られています』。『現在の神幸行列は、江戸時代の文政年間(』一八二〇『年頃)香北町太郎丸にあった文化人・竹内重意が「美良布神社奈波連」として記録した姿に近いと考えられています』。『行列に参加する人が持つ持ち物の中に「文化元年(』一八〇四)『年)」の記述があり、江戸時代末期に神幸の行事が行われていたことは確実ですが、いつの時代から行われていたのかは明らかではありません』。『高知県指定無形民俗文化財です』とある。本書の成立は文化一〇(一八一三)年であるから、この祭礼と御旅所は既に存在していた。

「五百藏村」現在の香美(かみ)市香北町(かほくちょう)五百蔵(いおろい)。

「小川村」現在の高知県香美市香北町小川

「大川」小川地区が左岸に当たる雄物川。

「膳が石」確認出来ない。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 久礼㙒村雨乞

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。前までと同じく、前回の雨乞繋がりで、それ以前の龍譚とも関連する。]

 

   久礼㙒村(くれのむら)雨乞(あまごひ)

 久礼㙒村に、阿彌陀堂、有(あり)。其所(そのところ)を「圓滿寺」と云(いふ)。昔、圓滿寺、有(あり)て、今は退轉也。此阿彌陀は、則(すなはち)、本尊也。

 境内に、池、有(あり)、「阿彌陀が池」と云(いふ)。

 此堂に、鍔口(わにぐち)、有(あり)。

「旱魃(かんばつ)の時、鍔口を、『阿彌陀が池』へ入(いれ)て、雨乞をすれば、忽(たちまち)、雨、降(ふる)。」

と、いふ。

 其鍔口の銘。

「一宮庄上久礼㙒禪樂寺 文安元甲子八月日円滿 大工 攝州 瓦森末」[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」は「州」を『列』と字起こしして、補正傍注で『(州)』としているが、これは崩し字の知識が足りない。これはれっきとした「州」の崩し字(「人文学オープンデータ共同利用センター」の『「州」(U+5DDE日本古典籍くずし字データセット』)である。

 

[やぶちゃん注:「久礼㙒村」現在の高知県高知市久礼野(グーグル・マップ・データ)。

「阿彌陀堂」跡地も現存しないので、場所不明(池も残ってないか)。但し、平凡社「日本歴史地名大系」の「久礼野村」によれば、『三谷(みたに)村の北東にあ』った『山間の村。土佐郡に属し、「土佐州郡志」は「東西二十五町余南北一里余」「其土黒」と記し、属村として入定谷(にゅうじょうだに)村をあげる。村の中央の盆地部を周囲の谷水を集めた久礼野川が西流し、北西の入定谷より流れ出る入定谷川と合流、さらに西流して重倉(しげくら)川と合流する』と記した後に、『文安元年(一四四四)八月日付久礼野村阿弥陀堂鰐口銘(古文叢)に「一宮庄上久礼野」とみえ、中世は一宮(いっく)庄に含まれていたと思われる』とあった。

「一宮庄上久礼㙒禪樂寺 文安元甲子八月日円滿 大工 攝州 瓦森末」訓読しておくと、「いつくみやしやう かみくれの ぜんらくじ ぶんあんがん(年)かつしはちがつにちゑんまん(「吉日」に同じ) だいく せつしう かはらもりすゑ」。「禪樂寺」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、寺の記号は同地区には見当たらない。国土地理院図の方でも、ない。一つ、先の引用にも出るが、同地区の西北の山間に「入定」(にゅうじょう)という地名があるのは、気になる。「文安元甲子八月」は室町時代の、義政が征夷大将軍に就任する前の六年の空位状態の初年で、グレゴリオ暦換算で同八月は一四四四年九月二十一日から十月二十日に相当する。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 幡多郡下山橘村雨乞

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ前回の雨乞繋がりで、それ以前の龍譚とも関連する。]

 

   幡多郡下山橘村雨乞(あまごひ)

 幡多郡下山の内楠[やぶちゃん注:「目録」は「橘」で、国立公文書館本(31)でも本文を「橘」とし、「近世民間異聞怪談集成」では、補正傍注『(橘)』を附す。]といふ所に、「白岩權現」といふ神あり。

 雩(あまごひ)をするに、不思義[やぶちゃん注:ママ。]に、雨、降る。

 渕の上の岩を「白岩」といふ。其渕に船を浮べ、棚を拵(こしらへ)、祭る、よし。

 神主は、

「右の白岩に、穴(あな)、有(あり)、其穴に這入(はひいり)て、祈念をする。」

由。

 神、納受(なうじゆ)あれば、黑き蛇、出(いで)て、川を渡り、棚の上へ、あがりけるに、果して、雨、ふる也。

 与州[やぶちゃん注:「伊豫國」の通称。]ゟ(より)、權現の石を盗む故に、盗まれぬやうに、制しければ、今は、石を借りに來(きた)る。」

と、いふ。

「桐の箱へ入(いれ)、借(か)せば、金子(きんす)を添(そへ)て、戾し來り、禮を云ふ。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡下山の内楠」(「楠」✕→「橘」○)この部分は、いろいろと調べてみると、最も妥当な読み方は、

   *

幡多郡(はたのこほり)、下山(しもやま)の内(うち)、「楠(くすのき)」といふ所に、

   *

と判断される。ウィキの「幡多郡」によれば、「旧高旧領取調帳」の中に、「下山上分」・「下山下分」があるとする。後、この二つの地区は、現在の四万十市に編入されており、また、「下山下分」には「橘村」が存在したことが判明する。而して、探してみると、現在の高知県四万十市西土佐橘(にしとさたちばな:グーグル・マップ・データ)であることが判る。

『「白岩權現」といふ神あり』さて、前注を受けて、同一箇所を「ひなたGPS」を見ると、戦前の地図のここに「橘」とあり、そのすぐ下に神社記号があり、その四万十川の対岸にも神社があることが判る。国土地理院図の方でも、この二つは健在で、同じ場所にある。そこで、グーグル・マップで、ここを拡大してみると、この対岸の方の神社が「白岩神社」であることが判った。右岸の方は「八坂神社」。ストリートビューのここで、鳥居が見え、そこに「白岩神社」の文字が視認出来た。而して、この二つの神社は関係があり、「橘の神輿渡し」という祭りが現存することも判った。「日本観光振興協会」公式サイト内のこちらによれば、『西土佐橘地区で毎年』十『月』二十九『日に行われているお祭で』、『八坂神社を出発した神輿』(=御神体)『が舟に乗り、白岩神社のある対岸まで渡』る、とあった。則ち、この二社は、孰れも水神を祀っているものと推定される。四万十川周辺には、古くから、広く水神信仰が盛んであるようであるから、それは「雨乞い」と密接な関係を持っているわけである。グーグル・マップの「白岩神社」の画像はここだが、残念ながら、「石」や「穴」らしきものの画像はなかったが、恐らく、神社名からして、御神体自体が岩であり、本篇の記載から見ると、それが複数個、存在するのではなかろうか? 今一つの「八坂神社」のグーグル・マップ・データの画像もリンクさせておく。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 西寺半鐘

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ前回までの龍巻奇談と親和性がある。]

 

   西寺(にしでら)半鐘(はんしよう)

 西寺の半鐘は、模樣に、諸魚を鑄(い)たる由。

「旱魃(かんばつ)の時は、山上(さんじやう)の池に入(いり)て、雩(アマゴイ[やぶちゃん注:ママ。])する也。若(もし)、降(ふら)ざれば、磯(いそ)へ入るに、忽ち、浪、立(たち)て、雨、降(ふる)。」

と、いふ。

 又、阿州、鈴ヶ森觀音の境内に、寺、有(あり)。此寺の茶釜の模樣も、諸魚を鑄付(いりつけ)たる、と也。

 此茶釜は、徃古(わうこ)より、磨(みが)く事、不成(ならず)。

 或時、旅人、來(きたり)て、いふ。

「聞及(ききおよび)し茶釜也(や)。模樣、分り不申(まうさず)、見ずして歸るも、殘(なごり)多(おおき)也(なり)。」

とて、鼻紙を、水にぬらし、ふきけるを、寺主(てらぬし)、見付(みつけて)、驚(おどろき)て云(いはく)、

「此釜を磨く時は、忽(たちまち)、風波に及(およぶ)故(ゆゑ)、古(いにしへ)より、磨(みがく)事、なし。足下(そつか)、今、是を、ふきたり。早く、下山し玉(たま)へ。必(かららず)、怪(あやし)み、有(ある)べし。」

と云(いひ)ければ、彼(かの)男(をとこ)も、驚き、急(いそぎ)て、下山するに、俄(にはか)に、空、かき曇(くもり)、雷(かみなり)、鳴(なり)て、道半(みちなかば)より、大雨(おほあめ)、降來(ふりきたり)、漸(やうやう)、下山しける、とぞ。

 

[やぶちゃん注:「西寺」「西寺怪異」で既出既注。再掲すると、「西寺」は室戸岬の西の根方にある第二十六番札所金剛頂寺(こんごうちょうじ)の別称。これは、室戸岬で、岬の先端部にある第二十四番札所最御崎寺ほつみさきじ)を「東寺」と呼び、その対称名である(孰れもグーグル・マップ・データ)。

「雩」音「ウ」。この漢字は「夏の旱(ひで)りの時に、舞い踊り祈る雨乞いの祭礼」を指すほかに、「空に架かる虹」をも指し、これは別名「螮蝀」(ていとう)・「蝃蝀」(せつとう)とも呼ぶが、「虹」は古来、民俗社会では「龍」の一種と考えられていた。

「山上の池」「ひなたGPS」で国土地理院図を見ると、同寺の後背には、全部で四つの池を確認出来る(西側の垂直三角形の下方の流れにあるそれは数えない)ものの、東側の二箇所は、地図上の形状でも判る通り、グーグル・マップの航空写真で見ると、人工的に堰き止めて作ったもので、「山上」でもないので、除去出来る。小さな丸い池が、手前にあり(こちらはグーグル・マップの地図では示されていない)、奥に少し大きな池がある。しかし、グーグル・マップの航空写真のここで、中央の下方と上方で、確認出来るので、小さな方も明らかに現存する。なお、「ひなたGPS」の等高線を見るに、高さは同じである。個人的には手前の小さな丸い方が、映像的には「旱りの雨乞い」で入るに、いい感じはする。

「阿州、鈴ヶ森觀音」現在の板野(いたの)郡松茂町(まつしげちょう)長岸(ながぎし)にある、慶長七(一六〇二)年に阿闍梨継果(けいか)を開山として建立された阿波国の福聚山(ふくじゅさん)無量院觀音寺か? 本尊は十一面観世音菩薩(公式サイトの「沿革」に拠った)である。しかし、この観音を「鈴ヶ森觀音」と呼んだ記載は、ネット上には見当たらない。識者の御教示を乞うものである。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 潮江村之龍

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。前回の龍巻奇談の続き。]

 

   潮江村(うしほえむら)之(の)龍(りゆう)

 宝暦七年七月廿六日、暴風、洪水し、其上(そのうへ)、潮(うしほ)、入來(いりきたり)て、浦々、破損、多かりし。

 其頃、利幾屋(りきや)五右衞門と云(いふ)者、本御藏前(もとおくらまへ)北側東角(ひがしかど)に居(をり)て、潮江にて、農業をし、此年も稻作しければ、風(かぜ)、氣遣(きづか)ひ、

「潮江へ、立越(たちこし)、可居(をるべし)。」

とて、急(いそぎ)、行(ゆき)けるが、眞如寺橋(しんによじばし)、下り、越戶へ至りける時、わいた風、方(かた)、變り、大風(おほかぜ)、吹來(ふききたり)、

『黑雲(くろくも)、一村(ひとむら)[やぶちゃん注:「一叢」。]、すざまじく、舞下(まひくだ)るよ。』

と、覺へ[やぶちゃん注:ママ。]しが、忽(たちまち)、卷上(まきあげ)られける。

 「天神の馬場」を西へ、眞如寺の「黑門通り」の「馬場」の堤(つつみ)へ落(おち)て、正氣を失ひける折節(をりふし)、潮江(うしほえ)の者、見付(みつけ)て、來(きた)り、肩に掛(かけ)、風雨、漸(やうやく)、しのぎ、人家へ連來(つれき)て、介補(かいほ)[やぶちゃん注:「介抱」に同じ。]せし、とかや。

 兩足、折れて、暫(しばらく)煩(わづら)ひけるが、後(のち)、快(こころよ)く、杖にて、往來せし也。

 眞如寺本堂の破損は、此時の事也。

 五右衞門も、龍に卷かれたる物ならん。

 

[やぶちゃん注:「潮江村」(現代仮名遣「うしおえむら」)先行する「吉田甚六宅光物」のロケーションで既出既注であるが、これは、高知市市内の鏡川(かがみがわ)河口南岸の地区(JR四国の高知駅の真南一キロメートル附近から、「潮江橋」を渉った鏡川右岸の広域の旧地名で、浦戸(うらど)湾奥部の近世以来のかなり広い干拓地である。まず、「ひなたGPS」で示す。行政地名としての「潮江」はないものの、グーグル・マップ・データのここで「潮江」を冠した城跡・天満宮や施設が確認出来る。

「本御藏前」不詳だが、旧高知城内の東のここ(グーグル・マップ・データ)には、土佐藩の重要な産業であった紙及び筆を貯蔵する「長崎蔵」があった(「高知市」公式サイト内の『高知市広報「あかるいまち」』の『歴史万華鏡コラム』(二〇二二年三月号)の「高知城と長崎蔵」を参照されたい)。但し、ここは城内であるから、当時の市街地で、屋号まで持つからには、相当に富裕とは思われるが、農民が城内に住もうはずはないから、私はこの蔵の前身が、この城の東の端に置かれており、その東側の町屋を「御藏前」と呼んでいたのではないかと推定した(後に「元御藏前」となる)。位置的にも潮江地区に近く、極めて自然である。

「眞如寺橋」恐らく、「ひなたGPS」の国土地理院図の「天神大橋」の前身の橋名であろう(明治の廃仏毀釈で、名を「潮江天満宮」(グーグル・マップ・データ)の方にズラして、以下に記すように復讐を果たしたのであろう)。その別当寺であろう(後文を見よ)直近東に現在の曹洞宗日輪山真如寺がある(南の後背の山は「真如寺山」というが、通称は、ご覧の通り、「筆山」である)。この寺は、山内一豊が遠江国掛川領主であった頃、当時、そこにあった真如寺の在川禅師へ参禅し、後に彼の土佐入封に伴い、慶長六(一六〇一)年、在川を開山として当地に伽藍を建立、真乗寺と名付けたのに始まる。当地には潮江天満宮があり、天満宮を西方に移して跡地に建造したと伝える。真乗寺は、その後、山内氏の菩提寺として栄え、二代忠義の時、真如寺と改称した。本書「南路志」によると、境内には惣門・座禅堂・鐘楼堂・本堂・客殿・庫裏・御霊殿・浴室などが立並び、回廊が廻(めぐ)らされ、塔頭に香積(こうしゃく)院・興陽(こうよう)軒・般舟(はんじゅ)院があった(以上の真如寺の詳細部分は平凡社「日本歴史地名大系」に拠った)。

「越戶」「ひなたGPS」の両地図を調べて見たが、この名はなかった。しかし、以下の「五右衞門」が吹き飛ばされた経緯を示す地名の順序から位置関係から考えると、彼の田圃は、「眞如寺山(筆山)」を東に回り込んだ「塩屋崎」等の鏡川河口の広い田圃ではなく、逆の西方向であろうと踏んだ。すると、山の北西の麓に「河瀨」(前のリンク地図はそこを中心に配した)の地名を見出した。ここには「神田川」という小流れが東北方向に流れて、鏡川に注いでいる。「越戶」という地名は、一般に川の分流地や、水域が何かを乗り越える地区を指すから、この附近ではないかと考えた。なお、ここには既に明治の段階で「湿田」の地図記号が打たれてある。

2024/08/27

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 同郡柏島之龍

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。「同郡(どうこほり)」は前回と同じ、「幡多郡(はたのこほり)」を指す。「柏島」「柏嶋」の混淆はママ。]

 

     同郡柏島(かしはじま)之龍(りゆう)

 柏嶋役(かしはじまやく)、山本伴藏、勤(つとめ)の內(うち)、書中に申越(まうしこし)ける由。

「去月(いんぬるつき)、中頃(なかごろ)、柏島、『いなや』、北の海にて、龍の、潮(うしほ)を卷上(まきあげ)たるを、見申候。

 扨々(さてさて)、すさまじきものにて御座候。

 間もなく、帶をはへ[やぶちゃん注:「這へ」であろう。]たる如く、雲の中より、黑き雲、三つ、四つ、降(くだ)り、海上(かいじやう)より、余程、間(あひだ)、有之(これあり)候に、下(した)ゟ(より)、夥敷(おびただしく)浪立(なみだち)、無程(ほどなく)、上の雲と一つに成(なり)、潮(うしほ)を卷上(まきあぐ)る事、煙(けむり)の如く、顯然(けんぜん)と、見へ申候。

『當浦(たううら)にては、珍敷(めづらしき)事。』

の由(よし)、浦の者ども、申候。

 遙(はるか)沖中(おきなか)へ鰹釣(かつをつり)に出(いで)候者は、偶々(たまたま)、逢申(あひまうす)者も有之(これある)、由。其時は、否迯也(にげられざるなる)由[やぶちゃん注:「否」はママ。]。鳥(とり)抔(など)、卷込(まきこみ)、死申(しにまうす)由に候。」

 先年、御疊方(おたたみがた)、孫助と云(いふ)者、御用にて、浦傳(うらづたひ)して、甲浦(かんのうら)へ行(ゆき)ける。

 或(ある)浦にて、宿(やど)へ着(つき)ければ、能(よく)、肴(さかな)を料理して、孫助を饗應しけるに、亭主、申(まうし)けるは、

「此肴は、不思義成(なる)事にて、不慮に有合(ありあはせ)候。昨日(きのふ)、この沖にて、龍、潮(うしほ)を卷上(まきがえ)候て、此邊(このあたり)へ、夥敷(おびただしき)魚を、空より落(おと)し、存不寄(ぞんじよらず)、魚を、取申(とりまうし)たる。」

由、語(かたり)ける、と、也。

 

[やぶちゃん注:「柏島」現在の高知県幡多郡大月町(おおつきちょう)にある柏島(かしわじま):グーグル・マップ・データ)。現在は二基の橋で陸と続いているが、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、渡船場があり、陸繋島ではなかったことが判然とする。但し、古い石堤が島の陸側に存在することから、調べてみたところ、大潮の干潮時のみ、海の中から道が現われ、渡渉が可能であることが判った。

「いなや」漢字表記等も全く不詳だが、グーグル・マップ(以下、無指示は同じ)をよく見てみると、実は地名としての高知県幡多郡大月町柏島は、柏島の陸側の岬部分も行政地名で「栢島」であることが判り、しかも、そのここに、まさに「竜ヶ浜キャンプ場」があるのを発見した。さすれば、この冒頭の「栢島」は島を指すのではなく、この現在の陸と島の広域を指す「栢島」であると考えられ、ここが現在、「竜ヶ浜」と呼ばれているのは、本篇とは偶然ではないと考えられるのである。ここは、まさに、地区としての「栢島」地区の北の湾の周辺の旧広域地名を指すのではないだろうか?

「御疊方」土佐藩の作事方(さくじかた:城及び官庁の殿舎・家屋などの建築・修繕を司る役方)で、畳を専門に扱う奉行方のことであろう。江戸幕府のそれらがよく知られているが、一部の大名の藩でも、存在した。

「甲浦」これは、現在の高知県安芸郡東洋町(とうようちょう)甲浦(かんのうら)であろう。ロケーションが遙か東の端になるが、寧ろ、柏島とここは、当時の土佐藩の東西の国境という点で、対称をなし、不審な感じは、寧ろ、私にはしない。龍が東西を抑えているのだ! まさにそれこそ「龍馬」じゃないか!!

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 女貞

 

Tounezumimoti

 

[やぶちゃん注:図には二つの樹木体が並べて描かれてあり、左手のものが、キャプションにある「本草必讀」のものであろう。而して、上部には、葉の裏表の図が、二つ、並べて描かれ、右手には、葉の『靣』(おもて)を描き、『深青』色をしていることをキャプションで示し、左手には、葉の『裏』(うら)が描かれ、『色』は表に比して『淺』い青とし、恐らくは表も裏も『文理』(もんり:葉脈)は『明』(あきら)かであるとキャプションしたものと思う。「本草必讀」は、東洋文庫の巻末の「書名注」に、『「本草綱目必読」か。清の林起竜撰』とある。なお、別に「本草綱目類纂必讀」という同じく清の何鎮撰のものもある。この二種の本は中文でもネット上には見当たらないので、確認出来ない。]

 

いぬつばき 貞木 冬青

      蠟樹

女貞   【和名太豆乃木】

      俗云䑕乃久𭦌

      【又云狗都波木

       又云䑕黐】

ねずみのふん

ねすみもち

[やぶちゃん字注:「𭦌」は「曾」の異体字。左端に和訓名が並ぶのは特異点である。]

 

本綱女貞木凌冬而青翠有貞守之操故名之因子自生

最昜長其葉似冬青樹及狗骨木而厚長綠色靣青背淡

長者四五寸五月開細花青白色九月實熟黒似䑕李子

而纍纍滿樹冬月鸜鵒喜食之木肌皆白膩立夏前後取

蠟蟲之種子褁置枝上半月其蟲化出延緣枝上造成白

蠟民間大𫉬其利與冬青樹同名物異

實【苦温】補中安五臟養精神強陰明目黑髮除百病乃上

 品無毒妙藥也葉【微苦】除風散血消腫定痛諸悪瘡及

 口舌生瘡腫脹者皆佳

△按女貞木葉似海石榴而無鋸齒故名姫海石榴其子

 圓長初青熟正黒似䑕屎鸜鵒喜食之伹葉長不過二寸

 其文理不出于端與他葉異也而本草曰長四五寸者

 和漢之異然乎又造成白蠟者未知然乎否

 

   *

 

いぬつばき 貞木《ていぼく》 冬青《とうせい》

      蠟樹《らうじゆ》

女貞   【和名「太豆乃木《たづのき》」。】

      俗に云ふ、「䑕乃久𭦌《ねずみのくそ》」。

      【又、云ふ、「狗都波木《いぬつばき》」。

       又、云ふ、「䑕黐《ねずみもち》」。】

ねずみのふん

ねずみもち

 

「本綱」に曰はく、『女貞《ぢよてい》の木、冬を凌《しの》ぎて、青翠《あをみどり》≪たり≫。「貞守の操(みさを)」、有り。故に、之に名づく。子《み》に因《より》て自生す。最も長《ちやうじ》昜《やす》し。其の葉、「冬青(まさき)」に樹、及び、「狗--木(ひいらぎ)」に似て、厚≪く≫、長≪く≫、綠色≪たり≫。靣《おもて》、青、背、淡《あはし》。長き者、四、五寸。五月、細≪やかなる≫花を開く。青白色。九月、實、熟して、黒く、「䑕李子(むらさきしきぶ)」に似て、纍纍《るいるい》として、樹に滿《みつ》。冬月、鸜鵒(ひよどり)、喜《よろこび》て、之れを食ふ。木の肌、皆、白≪く≫膩≪なめらかなり≫。立夏の前後、蠟蟲《らうむし》の種子《しゆし》を取り、褁《つつみ》て、枝の上に置《おき》、半月にして、其の蟲、化《くわ》して、出《いで》て枝の上に延緣(ひきのぼ)り、「白蠟《はくらう》」を造成《つくりな》す。民間、大いに、其の利を𫉬《とり》、「冬青樹《とうせいじゆ》」と、名を同じくして、物、異《い》なり。』≪と≫。

『實【苦、温。】中《ちゆう》[やぶちゃん注:漢方で言う「脾胃」。]を補し、五臟を安んじ、精神を養ひ、陰を強くし、目を明《あきらか》≪にし≫、髮を黑≪くし≫、百病を除く。乃《すなは》ち、上品≪にして≫無毒の妙藥なり。葉【微《やや》苦。】風《かぜ》を除き、血を散じ、腫《はれもの》を消し、痛みを定《さだ》め、諸悪瘡、及び、口・舌≪に≫瘡を生じ、腫脹≪せる≫者、皆、佳《よ》≪し≫。』≪と≫。

△按ずるに、女貞木、葉、「海石榴《つばき》」に似て、鋸齒、無き故《ゆゑ》、「姫海石榴(ひめつばき)」と名づく。其の子《み》、圓長《ゑんちやう/だゑん》≪にして≫、初《はじめ》、青、熟≪せば≫、正黒にして、䑕《ねずみ》の屎《くそ》に似≪て≫、鸜鵒《ひよどり》、喜て、之れを食ふ。伹《ただし》、葉≪の≫長さ、二寸に過ぎず、其の文理《もんり》、端《はし》に出でず。他《ほか》の葉と異《こと》なりて、「本草」に、『長さ、四、五寸の者』と曰ふ≪は≫、和漢の異《い》、然《しか》るか。又、『白蠟に造成《つくりな》すと云ふは[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、未だ知らず、然《しか》るや、否や。

 

[やぶちゃん注:これは現代の植物種では、まず、中国の「女貞」自体からして、全く異なる二つの樹種を指し、しかも、良安の言う「姫海石榴」が、これまた、現代では、異なるツバキ科 Theaceaeの二種を指すという、時珍も、良安も、神経症的に錯綜した状態にあるように読めてしまうのである。良安の評言も異種であることは判っているようである。順を追って、示す。

 まず、中国で言う「女貞」は、第一に、

〘「本草綱目」①〙双子葉植物綱シソ目モクセイ科オリーブ連イボタノキ属トウネズミモチ Ligustrum lucidum

を指すが、第二に、同じモクセイ科 Oleaceaeではあるが、異なるトネリコ属 Fraxinusである、

〘「本草綱目」②〙シソ目モクセイ科トネリコ属シナトネリコ Fraxinus chinensis

をも指し、しかも、「本草綱目」も、その二種が、混在して一種として記されてしまっているのである。時珍が混同してしまっている致命的な部分は、『「白蠟《はくらう》」を造成《つくりな》す』の箇所で、これは、後者にのみ見られる現象なのである。

 一方、良安の言う、「姫海石榴」というのも、現行の本邦では、同じツバキ科 Theaceaeながら、異なる樹種二種を指す。但し、良安が言っている「姫海石榴」は、

〘良安「姫海石榴」〙ツツジ目ツバキ科ツバキ連ツバキ属サザンカ Camellia sasanqua

である。これは、良安が『葉、「海石榴《つばき》」に似て、鋸齒、無』し、と言っていることが、決定打となる。しかし、現在、実は、「姫海石榴」を名にし負うている種が、本邦にはあり、それは、

〘現在の植物学上の「姫海石榴」〙ツバキ科ヒメツバキ属ヒメツバキ Schima wallichii

である。但し、この後者のヒメツバキは、当該ウィキによれば、『日本では小笠原諸島(硫黄諸島を除く)と、奄美以南の琉球列島に分布する。国外では東南アジアや東部ヒマラヤにまで分布する』とあり、分布の限定地は、凡そ、当時、良安が実見し得るフィールドの外であるから、良安自身が、この二種を混同しているわけではないので、問題はないと言ってよい。従って、この現代の真正の「ヒメツバキ」は以下では説明しないので、上記リンクを読まれたい。

 まず、〘「本草綱目」①〙のトウネズミモチLigustrum lucidum当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『唐鼠黐』。『常緑広葉樹の高木』。『葉は楕円形で厚く光沢があり、ネズミモチ』(イボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum )『よりも大きく、葉脈が透けて見える。花期は』六~七『月頃で、枝先にネズミモチよりも大きな円錐形の花序を出して、黄白色の花を多数咲かせる』。『果実は』十二『月頃に紫黒色に熟す』。『トウネズミモチの場合、葉裏を光に透かしてみると』、『葉脈の主脈も側脈も透けて見えるが、ネズミモチの方は、主脈が見えるものの』、『側脈は見えないので判別できる。また、果実はともに楕円形であるが、トウネズミモチの方が球形に近く、ネズミモチはやや細長い。また、総じてネズミモチの方が樹高が低い』。『中国中南部原産。日本では明治時代初期渡来した』(☜:良安は本種トウネズミモチを全く知らないのである)、『帰化植物』。『大気汚染公害に強いことから、都市部を中心に公園緑化樹などに利用される。よく目にする生け垣の利用は、国産の近縁種ネズミモチが殆どである』。『漢名を女貞といい、果実を干したものは女貞子(じょていし)と称する生薬で、ネズミモチ同様に強壮剤にする』。『近年、鳥に依る糞の被害も拡大し、問題視されている。急速に日本各地に広がりだしているため、侵略的外来樹木としても注意が必要である(要注意外来生物)』とある。

 次に、白蝋が採取される、〘「本草綱目」②〙のシナトネリコ Fraxinus chinensis 当該ウィキを引く(同前)。漢字表記『支那梣』(中文名は「維基百科」の同種によれば、「白蜡」で異名「梣」「白荆」「青榔木」とあり、見逃せないのは、そのページのヘッドに、同属(「女貞属」)への「見よ見出し」が出ていることから、このシナトネリコを「女貞」と思って、このシナトリネコのページを見る人が多いことを裏付けている。則ち、現代中国でも時珍の如く混同している人が多いことを示していることに気づかれたい『モクセイ科トネリコ属の植物の一種。中国では白蝋樹(はくろうじゅ、パイラーシュー)と呼ぶ。伝統的な中国医学では樹皮を秦皮(しんぴ)』(この生薬名は日中で古くから非常に知られたものである)『と呼び、痢疾に対する処方とする』。『落葉喬木で、樹高は』十~十二メートル『に達する。樹皮は灰褐色で縦に裂ける。奇数羽状複葉でその長さは』十五~二十五センチメートル、『葉柄は』四~六センチメートル。『葉軸は真っ直ぐ張り、上面には浅い溝がある。小葉は通常』五~七『枚、倒卵長円形から披針形、葉縁は整正鋸歯である。円錐花序は頂生および側生し、長さ』八~十センチメートルで、『下垂する』。四~五『月にかけて開花し』、七~九『月にかけて披針形で扁平な翼果をつける。雌雄異株で、雄花と雌花は別の個体に生じる。雄花は密集し、萼は小さく釣り鐘状、長さは約』一ミリメートル、『花冠はなく、葯は花糸と同等の長さ。雌花はまばらで』、『萼は大きく』、『桶状』をなし、『長さは』二~三ミリメートルで、『浅く』四『裂し、花蕊は細く長く、柱頭は』二『裂する』。『ベトナム、朝鮮半島および中国大陸の南北各省に分布し』(☜本邦には自生しないので、良安は本種を知らないのである)、『海抜 』八百~千六百メートル『の地域に生育する。湿潤を好み、成長が早く、山地の雑木林の中に多く生える。中国での栽培の歴史は古く、分布も広い。特に中国西南部各省での栽培が最も盛んである。貴州省西南部の山間部の栽培種は枝葉が特に広く大きく、常に山地にあって半野生状態を呈する』。『シナトネリコの材は強靭で、家具、農具、荷車、合板などの製造に適している。樹皮は、中国伝統医学において秦皮(しんぴ、チンピー)と呼ばれ、内服では解熱、下痢、長血・おりものに、外用では目の充血・腫れ・痛み・かすみ目・角膜混濁に処方される。主成分はエスクレチン』(Aesculetin)『およびフラキセチン』(fraxetin:この二種は、桜の葉に代表される植物の芳香成分の一種であるクマリン(coumarin)の誘導体及び化合物である)。『中国では、白蝋虫(イボタロウムシ)を接種して養殖し、白蝋(イボタ蝋)を採集する。白蝋樹の名はここに由来する。また』、『シナトネリコは、痩せ地や旱魃に耐え、軽度の塩鹹地でも生育することができ、成長も早いため、砂漠緑化における固砂樹種に適している』とある(なお、「イボタロウムシ」は説明すると、異様に長くなってしまうので、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 五倍子 附 百藥煎」の私の注の「蠟蟲の蠟子」を見られたい)

 次に〘良安「姫海石榴」〙サザンカ Camellia sasanqua (同前)。本邦の漢字表記は『山茶花』(中文名は「茶梅」)。『常緑広葉樹』『の小高木』。『別名では、オキナワサザンカともよばれる。童謡「たきび」の歌詞に登場することでもよく知られる。 神戸市の市の木にもなっている』。『漢字表記の「山茶花」は中国語でツバキ類一般を指す山茶に由来し、サザンカの名は山茶花の本来の読みである「サンサカ」が訛ったものといわれる。もとは「さんざか」と言ったが、音位転換した現在の読みが定着した。ツバキ属の一種であるが、ツバキ(ヤブツバキ)よりも花がやや小形であることから、ヒメツバキ』(☜)『やコツバキなどの別名もある』。『樹皮は淡灰褐色で表面は平滑である。樹皮が灰白色のツバキに対して褐色を帯びている。一年枝ははじめ紅紫色で毛が生えている。葉は長さ』二~五『センチメートル』『程度の鋸歯のある楕円形でツバキよりも小さく、やや厚くツヤがあり、互生する』。『花期は、秋の終わりから初冬にかけての寒い時期』(十~十一月)で、『枝の先に』五『枚の花弁の花を咲かせる。野生の自生種では花色は部分的に淡い桃色を交えた白色であるのに対し、植栽される園芸品種の花の色は、濃い紅色や白色やピンクなど様々である。花の奥には蜜があり、花粉の授受は昆虫と鳥の両方に頼っている。サザンカの開花はツバキよりも早い晩秋で、花弁が』一『枚ごとに散るので、ツバキとの見分けのポイントになる。また、サザンカの子房には毛があるが、ツバキにはない。花の付き方もやや異なり、ツバキが葉の裏側について葉陰で咲かせることが多いのに対し、サザンカは』、『むしろ』、『葉の表面側に付いて、目立ちやすい』。『果期は翌年の』九~十『月。花が咲いたあとに直径』二センチメートル『程度の球形の果実がつく。果実の表面には短い毛が生えていて、開花の翌年の秋に表皮が』三『つに裂けて、中から』二、三『個の黒褐色をした種子が出る』。『冬芽は葉の付け根につき、花芽や葉芽はツバキに似るが全体に小ぶりである。花芽は広楕円形で白い毛があり、夏頃に見られる。葉芽はやや平たい長卵形で毛があり』、五~七『枚の芽鱗に包まれている』。『冬の季語にされるなど、サザンカには寒さに強いイメージがあるが、開花時期に寒気にさらされると』、『花が落ちること、四国・九州といった暖かい地域が北限である事などから、原種のサザンカは特に寒さに強いわけでは無い。品種改良された園芸種には寒さに強く、真冬でも花を咲かせる品種も少なくない』。『サザンカ、ツバキ、チャノキなどのツバキ科の葉を食べるチャドクガ』(鱗翅目ドクガ科ドクガ属チャドクガEuproctis pseudoconspersa )『が知られている。この毒蛾の卵塊、幼虫、繭、成虫には毒針毛があり、触れると皮膚炎を発生させる。また、直接触れなくても、木の下を通ったり風下にいるだけでも』、『毒針毛に触れ、被害にあうことがある』『自生種は、日本の本州山口県、四国南西部から九州中南部、南西諸島(屋久島から西表島)などに、日本国外では台湾、中国、インドネシアなどに分布する。山地に自生するほか、人手によって植栽されて庭でもよく見られる』。『なお、ツバキ科の植物は熱帯から亜熱帯に自生しており、ツバキ、サザンカ、チャは温帯に適応した珍しい種であり、日本は自生地としては北限である』。『ツバキと共に、代表的な冬から早春の花木で、庭木として人気が高く園芸種も多数あり、生垣によく利用される。サザンカもツバキも、ヨーロッパ、イギリス、アメリカで愛好され、多くの園芸品種が作出され、現在も多くの品種が作り出されている。ちなみに多くの言語でもサザンカと呼ばれている。種子からは油が採れる』以下、「栽培品種」の項があり、三群が示されてあるが、省略する。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「女貞」([088-39a]以下)のパッチワークである。

「冬青《とうせい》」この場合は「女貞」の異名。次項が「冬青」であるが、そこで詳細に考証するが、時珍の示すそれは、現行の「冬青」と異なり、トウミズネモチでもないもので、良安はそちらで種同定を誤っている。ざっくり言うと、「本草綱目」のそれは、モチノキ目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis である。

「蠟樹《らうじゆ》」先に示した通り、シナトネリコ Fraxinus chinensis を指す。

「太豆乃木《たづのき》」これもアウトである。これは、マツムシソウ目ガマズミ科ニワトコ属ニワトコ亜種ニワトコ Sambucus racemosa subsp. sieboldiana の異名である。

「䑕乃久𭦌《ねずみのくそ》」これもマズい。現行では、先に示したイボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum の不名誉極まりない卑称異名である。

「狗都波木《いぬつばき》」「犬椿」。同じくネズミモチの異名。「犬」は本邦の植物名では、「本家本元に似ながらも違う嘘臭いもの」で、「役にたたない」のニュアンスも持つ卑称接頭語である。

「貞守の操(みさを)」「堅く正しい節操を守り続けること」の意。一年を通じて葉が青々と茂っていることをそれに喩えたもの。

「狗--木(ひいらぎ)」このルビはアウト。「ひいらぎ」は「柊」で、本邦の昔から、我々に馴染みのある、シソ目モクセイ科モクセイ連モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus であるが、ヒイラギは台湾と日本(北海道を除く)に分布し、中国には植生しないからである。では何かというと、バラ亜綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属ヤバネヒイラギモチ Ilex cornuta で、本種は当該ウィキによれば、『中国東北部、朝鮮南部に自生』するとあり、御丁寧に、『名前に「ヒイラギ」が付くが、ヒイラギはモクセイ科』Oleaceae『で』、『本種とは全く別の植物である』とある。「維基百科」の同種のページ「枸骨」にも、『ヨーロッパ、アメリカ、北朝鮮、浙江省、江蘇省、湖南省、江西省、雲南省、湖北省、上海、安徽省など中国本土に分布し、標高百五十メートルから千九百メートルの地域に生育』するとあって、こちらのヤバネヒイラギモチは、逆に日本には自生しないのである。

「䑕李子(むらさきしきぶ)」完全アウト。中国の「李(子)」は本邦の「ムラサキシキブ」ではない。前回の「鼠李」の私の注冒頭の考証部を参照されたい。

「鸜鵒(ひよどり)」またしても、アウトである。スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis ではなく、スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardis であると私は考えている。私の拘りは別として、そもそも、良安は自己矛盾を示しているのである。それは、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵯(ひえどり・ひよどり) (ヒヨドリ)」で、良安は自身の評で、冒頭『按ずるに、鵯の形、鸜-鵒(つぐみ)に似て、尾、長く、蒼灰色。』と、はっきりそこでは「ツグミ」とルビを振っているからである。なお、ネットでは、圧倒的に「鸜鵒」をスズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus に同定しているようだが、それはそれで、鳥類学的に正しいのであろうけれども(私は鳥類も冥い。嘗つては「日本野鳥の会」にも入っていたが、それは連れ合いの家族会員として入っていたに過ぎない)、私は、「和漢三才圖會」を読み、注を附す際には、「本草綱目」での李時珍の認識、及び、良安の意識の中での認識を第一優先しているのであり、当時の彼らが、現在のどの種と考えていたかを考証するのが、私の「和漢三才圖會」での、第一義的に重要な「立ち位置」であるからして、ハッカチョウ説を五体投地して拝み奉って譲る気は、全く「ない」のである。何より、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鸜鵒(くろつぐみ) (ハッカチョウとクロツグミの混同)」を見て戴いても、良安に意識錯誤が手に取るように見えるのである。是非、参照されたい。いや、無論、そこで私は、抜かりなく「ハッカチョウ説」も紹介してあるのである。

2024/08/26

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 同郡小浦之怪異

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。「同郡(どうこほり)」は前回と同じ、「幡多郡(はたのこほり)」を指す。]

 

   同郡小浦(こうら)之(の)怪異

 「瀨尾氏筆記」に云(いはく)、

『幡多郡宿毛(すくも)の内、「大嶋(おほしま)」の向ひに「小浦」といふ、有(あり)。此辺(このあたり)に、「鹿崎(しかざき)」といふ磯山(いそやま)、有(あり)。

 大嶋の漁人(りよじん)、諸用有(あり)て、父子とも、小浦へ行しに、舟をば、鹿崎につなぎ置(おき)て、暮時、彼所(かのところ)に來り、歸らんと、おもふ折(をり)に、一人(ひとり)の仙人とおぼしきが、立(たち)て居(を)れり。

 其姿、髮は、「おどろ」を戴き、「しゆろう」の如く、荒々敷(あらあらしく)て、眼(まなこ)、光り、手足の爪、長く、髮をかくなと[やぶちゃん注:「と」はママ。「近世民間異聞怪談集成」では補正右傍注が『お』とする。成程、「音」で躓かない。]、

「がりがり」

いふて、此人に向ひ、笑ふ故に、漁人も言葉をかけしに、都(すべ)て荅(こたへ)る事もなく、只、笑ふのみ也。

 しばし、立(たち)て、山に歸らんとするさま、手前に小川の有(あり)しが、それを一足(いっそく)に、またぎて、向(むかひ)の山の、はげしき峯を、步(あゆ)み行(ゆく)事、平地のごとし。

 間(あひだ)に、木(こ)の實を取(とり)て、喰ふて、又、笑ふ。

 しばらくして、山に入れり、と。

 その人に、あひて、直(ぢき)に話せるを、しるす。

 あやしき事也。

 

[やぶちゃん注:「瀨尾氏筆記」先行する「海犬」にも出たが、不詳。但し、土佐藩士系図に「瀬尾」は二家ある。

『「大嶋」の向ひに「小浦」といふ、有』高知県宿毛市小筑紫町内外ノ浦(こづくしちょうないがいのうら)。「ひなたGPS」の戦前の地図で、「小浦」の旧地名が確認出来る。「大島」は、その西北西の宿毛湾を隔てた湾奥にある大きな島(住所は宿毛市大島)である。因みに、戦前の地図でも、既に陸と道路(片島を経由)で繋がっているのが判る。

『「鹿崎」といふ磯山』やはり、「ひなたGPS」で「小浦」の北北西直近に「鹿崎」の地名が確認出来る。思うに、その二箇所の間を挟む、則ち、「小浦」の北の後背部が国土地理院図で見ると、五十三メートルの独立ピークがあり、その鹿崎側の麓は、岩礁帯の記号が振られていて、グーグル・マップ・データ航空写真で見ても岩礁であり、ストリートビューのこれで、確かにそれが視認出来る。古くは現代の田ノ浦漁港はなく、則ち、ピークの東北部を除く部分が岩礁であったと考えてよい。父子は鹿崎に舟を舫(もや)っておいたのだから、仙人は、このピークから鹿崎方向へ、ほいほいと軽い足で歩み、国土地理院図の水準点5.6の南にある、この小川(ストリートビュー)を一足で越えたのであろう(この川幅は、短く見積もっても、河口部で五メートル、少し遡っても、三メートルはある)。而して鹿崎の地名の記された箇所のここの斜面(ストリートビュー)を尾根に向かって軽々と一気に駆け上ったと私は考える。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 幡多郡沖之嶋怪異

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

   幡多郡(はたのこほり)沖之嶋(なかのしま)怪異(かいい)

 「沖嶋」住(ぢゆう)、三浦氏、家僕(かぼく)、近年、沖嶋(おきのしま)の山中にて、異形(いぎやう)の物に逢(あひ)たる由。

 早朝、山へ、薪(たきぎ)を取(とり)に行(ゆき)けるに、山の尾崎(おさき)に、朝日に向ひ、立(たち)たるもの、有(あり)。

 ふと、見たるに、其尺、八尺[やぶちゃん注:二・四八メートル。]斗(ばかり)も有(ある)べし。

 火の如く赤き、髮を被(カブ)りて、立(たち)て居(をり)けるを見るに、身の毛、よだちて、二目(ふため)と見る事も怖敷(おそろしく)、地に伏(ふし)て居(をり)、良(やや)久敷(ひさしく)して、少し、首を擡(モタゲ)て見れば、何地(いづち)へ行(ゆき)けん、不知成(しらずなり)ければ、速足(ハヤあし)を出(いだ)して、山下(やました)へ迯歸(にげかへ)ける、と、なむ。

 飯沼半吾宅にて、右の僕(しもべ)、中川半右衞門に咄ける、と也。

 寛延二年八月十六日の事也。大方(おほかた)、「狒〻(ヒヽ)」成(なる)べし。深山には、たまたま、出(いで)て、人を害(そこな)ふ、と、いふ。

 又、谷氏の説には、

「四熊(シクマ)也。」

と云(いふ)。

 又、

「『猩〻《ひひ》』にても、可(あるべし)有。『猩〻は、髮、長く、色、赤き。』由(よし)。仁獸(じんじゆう)にて、物を不害(がいせず)。」

と、云へり。

 此(この)事、「胎謀記事」に見へたり。』。

 

[やぶちゃん注:前々篇前篇と同じく、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐鄕土民俗譚」(寺石正路著・昭和三(一九二八)年日新館書店刊)の「第廿一 山猫並怪獸」の章の、「其七十六 怪獸」の第三段落に本篇が載る。

「沖嶋」現在の島嶼住所である高知市宿毛市沖の島町にある「沖の島」(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『宿毛湾港』『から南西へ約』二十五キロメートル離れた『太平洋上に浮かぶ離島・有人島である。標高』四百四メートル『の妹背山』(いもせやま)『を中央に頂き、水量豊かな谷川がある。全島が花崗岩で形成されて』おり、『海岸部は大部分が断崖絶壁であり』、『平地は少ない』。『また、周りには透明度』三十『メートルの海が広がり、日本一の魚種の宝庫といわれている』とあり、また、この島は、『島内に令制国』時代『の国境があり、土佐国』と『伊予国にまたがってい』た、当時は特殊な島であったのである。

「山の尾崎」山の背の筋の端。尾根の先頭。

「飯沼半吾」土佐藩に飯沼半吾・飯沼友衛家系図が残る。

「中川半右衞門」不詳。

「寛延二年八月十六日」グレゴリオ暦一七四九年九月二十七日。

「狒〻(ヒヽ)」「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類 寺島良安」では、引用された「本草綱目」で、李時珍は、「猩猩」を、現在の真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科オランウータン(旧ショウジョウ)属 Pongo を想定していることは明らかである。無論、本邦にいるべくもない。次の、「四熊(シクマ)」も「ヒグマ」の近代(明治期)までの古称で、無論、違う。言わずもがなだが、ロケーション、及び、身長の高さ・赤毛の髪というところから、密入国した宣教師、或いは、難破した南蛮船乗組員の成れの果てと見て取れる。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 安喜郡馬路村怪獣

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   安喜郡(あきのこほり)馬路村(うまぢむら)怪獣(あやしきけもの)

 宝暦年中、安㐂郡馬路村に、怪敷(あやしき)獸、出(いづ)る。

 面(おもて)は、猫の如く、惣身(さうみ)、灰毛(はひげ)也。

 胴の丸(まろ)さ、五、六尺[やぶちゃん注:一・五二~一・八二メートル。]にして、長(ながさ)、七、八尺[やぶちゃん注:二・一二~二・四二メートル。]もありけるに、手足、無し。

腹行(ふくかう)する。

 髙き所か、岩抔(など)有(あり)て、行詰(ゆきづま)る時は、立(たち)て、先へ倒(たふ)れる、と也。

 里俗、名付(なづけ)て、「たてがへし」と、いふ。

 今、按(あんずる)に、「法華經」「譬喩品(ひゆぼん)」に、『更受蟒身(ヤマカヾチ)其形長大ニ乄五百由旬聾騃無足ニ乄蜿轉腹行』云〻。

 

[やぶちゃん注:前篇と同じく、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐鄕土民俗譚」(寺石正路著・昭和三(一九二八)年日新館書店刊)の「第廿一 山猫並怪獸」の章の、「其七十六 怪獸」の第二段落に本篇が載るが、上記の最終段落部はカットされている。また、この怪獣については、本記載以外のネット上の情報は皆無である。叙述を見るに、「猫」の顔や、「灰」色の「毛」に覆われていること、胴の廻りがえらく大きいことに目をつぶると、運動様態からは巨大な蛇であることは間違いない。この「ヤマカガチ」は漢字表記するなら、「山酸漿(やまかがち)」であり、「酸漿(かがち)」は鬼灯(ほおづき)の熟した赤い実が原義だが、これはそれを、上古以来、「ヤマトノオロチ」よろしく、爛々と輝く「山」中の蟒(うわばみ)=大蛇の二つの眼に喩えたものである。ただ、「カガチ」は必ずしも大蛇でなく、蛇の古名として用いられてきた経緯があり、ここで言っておくと、ヤマカガシ(爬虫綱有鱗目ナミヘビ(並蛇)科ユウダ(游蛇)亜科ヤマカガシ(赤楝蛇・山楝蛇)属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus )の語源は、これである。但し、認識が甘い人が多いが、ヤマカガシはニホンマムシ同様、立派な毒蛇である。ヤマカガシは「後牙類」(口腔後方に毒牙を有する蛇類の総称)で、奥歯の根元にデュベルノワ腺(Duvernoy's gland)という毒腺を持っている。出血毒であるが、血中の血小板に作用して、かなり速いスピードで、それを崩壊させる。激痛や腫脹が起こらないため、安易に放置し勝ちであるが、凝固機能を失った血液は、全身性の皮下出血を引き起こし、内臓出血から腎機能低下へ進み、場合によっては脳内出血を引き起こして、最悪の場合は死に至る。実際に一九七二年に動脈のヤマカガシ咬症によって中学生が死亡する事故が発生している。深く頤の奥で咬まれた場合は、至急に止血帯を施し、医療機関に直行する必要がある。水辺を好み、上手く泳ぐことも出来る。私は昔、富山の高岡市伏木の家の裏山の中型の貯水池で、悠々と中央を横切って泳ぎ渡る彼を見て、惚れ惚れしたのを忘れない。因みに、私は蛇好きで、全く平気の平左である。閑話休題。しかし、本篇の怪物級の蛇のモデルを「ヤマカガシ」に同定してはいけない。ヤマカガシの体長は一メートル二十センチメートル辺りまでで、匍匐する際に体を延ばしても、せいぜい見かけ上、一・五メートルほどに見える程度である。本邦に棲息する蛇の中で最も長くなるのは、ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora で、最大二メートルであるから、この「ヤマカガチ」のモデルは、百%、アオダイショウである。実は、つい先日、私の家の斜面に巣を持っているらしい巨大個体とやっと対面したが(前の月、私の連れ合いや、向かいの奥さんを道端で驚かしていた奴だ)、正味二メートルあった(彼らは、よく、体を、文字通り、奇麗に蛇行させて這うので、その時も二メートル超えかと、当初は思った)。ただ、この「髙き所か、岩抔(など)有(あり)て、行詰(ゆきづま)る時は、立(たち)て、先へ倒(たふ)れる」という匍匐行動は、本種や、ニホンマムシ・ヤマカガシでも普通に見られる運動形式である。というより、獲物や敵対動物(ヒトを含む)に対して、攻撃をかけたり、威嚇するために普通に行うものである。

「安喜郡馬路村」現在の高知県安芸郡馬路村(うまじむら:グーグル・マップ・データ)。この地名を聴くと、私は、ここを訪れたことがあった亡き親友永野広務(識字ボランティアとして行ったインドから帰国後、熱性マラリアによる多臓器不全で二〇〇五年四月に急性した)が、この村の名を懐かしそうに、何度も、「とっても、いい所だよ!」と語っていたのを、何時も思い出す。

「宝暦年中」一七五一年から一七六四年まで。徳川家重・家治の治世。

「たてがへし」これは、私は「縱(竪)返し」ではなく、「楯返し」のように思われる。

『「法華經」「譬喩品(ひゆぼん)」に、『更受蟒身(ヤマカヾシ)其形長大ニ乄五百由旬聾騃無足ニ乄蜿轉腹行「近世民間異聞怪談集成」では『聳験』となっているが、これは二字とも判読の誤りで、「聾騃」である。国立公文書館本27)を見れば、はっきりと判る。というより、実際に「法華經」の「譬喩品」の当該部を調べれば、一目瞭然なのだ。編者は、それを怠って崩し字を誤判読しているのだ。私は文字列が読めないので、「大蔵経データベース」で見たところ、この誤りを数分で発見出来た。この本、当時(二〇〇三年)、一万八千円もしたのに、原典に当たることをしていない、この初歩的ミスの為体は、何だ! と、大いに叫びたい気になったので、ここに晒しておく。それに直して、推定訓読すると(前に述べた通り、「やまかがし」ではおかしいのでこのルビは採用しない)、

   *

更(さら)に蟒(うはばみ)の身を受く。其の形、長大にして、五百由旬(ゆじゆん)[やぶちゃん注:三千五百キロメートル。]、聾(つんぼ)にて、騃(おろ)かして、無足(むそく)にして、蜿轉(ゑんてん)腹行(ふくかう)す。

   *

言っておくと、これは、仏法を信じない衆生が、死後、輪廻転生する具体例を掲げてゆく一節である。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 豊永郷下土居村怪獣

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   豊永郷(とよながう)下土居村(しものどゐ)怪獣(あやしきけもの)

 寬保二戌(みづのえいぬ)年六月、豊永郷下の土居村に、怪敷(あやしき)獸(けもの)、出(いづ)

 頭(かしら)は、牛の如く、大(き)さ八尺廽(まはり)[やぶちゃん注:頭部の廻り二メートル四十二センチメートル。]も有(ある)らんと、みゆ。

 首より上は、毛、赤く、又、角も、なし。

 首より下は、又、毛、黑し。

 胴の廽り、弐(に)丈[やぶちゃん注:六・〇六メートル。]も有(ある)らん。

 背は、くゞみ、手は短く、足は長し。

 人の如く、立(たち)ても、步む也。

 村の小川へ來り、深き所にて、水を浴(あび)ては、川原(かはら)へ、上(あが)り、休む。

 終日(ひねもす)、如此(かくのごとく)す。

 力(ちから)も、强きものと見えて、岩肌を起(おこ)す。

 村の者、恐れて、三町[やぶちゃん注:三百二十七メートル。]斗(ばかり)、隔(へだて)て見るに、獸(けもの)、一日(いちにち)、有(あり)。

 翌日、隣村(となりむら)へ行(ゆき)、又、一日、有(あり)て、他村(ほかのむら)へ行(ゆき)、次㐧次㐧に、他(ほか)へ行(ゆき)て、終(つひ)に行方不知(ゆくへしれず)と也(なり)。

 一説に、𫪉龜の類(たぐひ)也。

 勝賀瀨山(しやうがせやま)にも、折々、出(いづ)る、と也。

「旱(ひでり)、續けば、出(いで)て、川辺(かはべ)に、のぼるもの也。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:「豊永郷(とよながう)下土居(しものどゐ)村」現在の長岡郡大豊町(おおとよちょう:グーグル・マップ・データ)の旧豊永郷。近世では、現在の大豊町の内、北西部を除く大部分の地域を指す。「下土居村」は「ひなたGPS」の戦前の地図で確認でき、国土地理院図では、現在は「東土居」と「西土居」に分かれて地名が存続している。現在の土讃線「豊永駅」を含む吉野川上流右岸である。ロケーションは、さらに拡大した、この東土居と西土居の間に流れる「南小川」(みなみおがわ:両地図で明記されてある)が吉野川に流れ込む箇所である。

「寬保二年六月」グレゴリオ暦一七四二年七月二日から七月三十日相当。

「牛の如く」妖獣「川牛」がある。私の『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(22) 「川牛」(2)』の本文及び私の注を見られたい。そこでは、以下で述べるように、この妖獣の正体をニホンスッポンに同定している

「翌日、隣村(となりむら)へ行(ゆき)、又、……次㐧次㐧に、他(ほか)へ行(ゆき)て」先の地図で判る通り、下土居が吉野川への合流点であるから、まず、この南小川を遡上して、姿を消したということである。この川は概ね、グーグル・マップ・データ航空写真で示すと、国道四百三十九号(概ね右岸)に沿って流れがあり、京柱峠(きょうばしらとう)の手前で南東に折れたところ(小桧曽山(こびそやま)北西麓)が源流である。ざっくりと流域距離を実測してみたところ、十四・五キロメートルはある。但し、この川には十三の分流があるので、そのどこかに潜り込んだ可能性もある。

「𫪉龜」実は、これは、「近世民間異聞怪談集成」を採用したのだが、底本では、上部に「口口」を並べ、「一」を引いたように見え、国立公文書館本27)に至っては、それを「龜」に下方で合体させた一字のように書かれてある。ネットでも「𫪉」の読みさえも判らず、万事休すであったが、調べるうち、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐鄕土民俗譚」(寺石正路著・昭和三(一九二八)年日新館書店刊)の「第廿一 山猫並怪獸」の章の、「其七十六 怪獸」の冒頭の第一段落に、本篇が載るのを見出し、そこでは『羆(ひぐま)の類なりしか』(文末表現の微妙な相違が気になる)とあった。しかし、狭義のヒグマは北海道にしかいないから、これはツキノワグマということになる(現在は、徳島県三好市東祖谷菅生(ひがしいやすげおい)にピーク(千九百九十五メートル)を持つ剣山(つるぎやま)周辺にしか生息していない四国では絶滅危惧種である。しかし、この漢字の下部(一字として考えた場合)は「熊」の崩し字では絶対になく、やはり「龜」である。また、本篇を現代誤訳したものが、サイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典の壺」の「豊永郷の怪獣」としてあるが、そこでは、『これは鼈(すっぽん)の仲間で』となっている。鼈の異体字にこの奇体な漢字はないが、叙述全体からは、「首より上は、毛、赤」いとか、「首より下は、又、毛、黑」いとし、「胴の廽り、弐(に)丈」という辺りに不審部分もあるが(沖縄県読谷村の「沖縄ハム総合食品」のスッポン養殖場で、甲長四十センチメートルで、体重七・九六キログラムが見つかっている)が、そもそも村人は恐れてかなり遠くから観察したものであるから、カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis の超大型個体を見間違えたとするのが、最も現実的ではあると思われる。

「勝賀瀨山(しやうがせやま)」既出既注であるが、再掲しておくと、現在の高知県吾川(あがわ)郡いの町(ちょう)(三村が二〇〇四年に合併して、その中の「伊野村」の名を継承して、ひらがな化したもの)の勝賀瀬地区。「勝賀瀨山」の山名は確認出来ないが、同地区内のピークとしては、「ひなたGPS」の国土地理院図の「602.8」が有力候補となろう。しかし、ここは四十一キロメートル以上南西に離れており、両地区の水系は繋がっていない。但し、ニホンスッポンは、陸上でも驚くべき速さで、長い距離を陸歩行出来る文字通り「怪獣並み」の離れ業をすることが可能であり、やや離れた別個の水系群を繋ぎながら遡って、この吉野川上流まで来ることは「絶対にない」とは、断言は出来ない。まあ、別な巨大個体とする方が現実的ではあるが。それに、古くから食用にされたニホンスッポンの近世の怪奇談は、実はかなりメジャーによくあるのである。絵入りの私の「北越奇談 巻之五 怪談 其五(すっぽん怪)」を見られたい。

2024/08/25

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 威德院全元嘉瑞

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   威德院全元(ゐとくゐんぜんげん)嘉瑞(かずい)

 常通寺、脇寺、威德院、百年前の住僧を「全元」と云(いひ)、手習(てならひ)、子供、數々、指南す。

 梶浦孫作【今の孫作、祖父。】・瀨尾有閑【今の五郞衞門、祖父。】・森与兵衞【佐兵衞、祖父。】抔、手習に行(ゆき)し、と也。

 或時、庭の梅の木を、小蛇(こへび)、はひ上(のぼ)り、見る內に、尾の先、木の梢を、はなれける所に、須臾(しゆゆ)にして、寺中(てらうち)、大風(おほかぜ)にて、龍、起(のぼ)りける。

 其(その)折柄(をりから)、全元、長谷(はせ)へ登る支度(したく)最中成りしが、全元、甚(はなはだ)滿足にて、

「拙僧、長谷へ登る折から、かゝる嘉瑞の有(ある)事、直事(ただごと)に、あらず。我等、出世(しゆつせ)する瑞相也。」

とて、常通寺の現住「嚴唱法印」を初め、五臺山、其外(そのほか)、寺中(じちゆう)、數々、請招(せいせう)し、饗膳(きやうぜん)を取繕(とりつくろ)ひ、奔走し祝(いはひ)ける、と也。

 其後(そののち)、長谷へ登り、數年(すねん)、勤學(きんがく)、螢雪の功にて、昇進し、後には、「小池坊」の僧正に成(な)られける。

 右の梅、今、寺の式臺の前に、古木(こぼく)と成(なり)、朽(くち)て折(を)れけるに、近年、其根より、芽、立出(たちいで)て、存(そん)す、となり。

 

[やぶちゃん注:「常通寺、脇寺、威德院」「常通寺」は現在の高知市大膳町の東北部(現在の高知県立盲学校附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であろう)にあった真言宗賢法山(けんほうざん)悉地院(しっちいん)常通寺。本尊は千手観音。京都岩倉観勝寺(いわくらかんしょうじ:南禅寺南方直近の大日山の、この辺り)末寺。本書「南路志」によれば、元は岡豊(おこう:現在の南国市岡豊町(おこうちょう:この同町名を冠する複数の地区)にあり、賢法山悉地院安祥寺と称して、聖武天皇の御願によって行基が建立したとされる。その後、退転していたが、天文三(一五三四)年、長宗我部国親が再興し、仏殿・法堂・庫裏・僧堂・山門・総門・鐘楼・方丈等の七堂伽藍を建立、同十五年、国親の父兼序(かねつぐ)の菩提所とし、寺名も、その法号「覚誉常通」に因んで常通寺としたとされる。その後、長宗我部氏が大高坂(おおたかさ/おおたかさか)に築城を始めると(高知城の前身)、常通寺も石立(いしたて)村岩戸(いわど)に移り(現在の高知城南西の鏡川右岸の高知市石立町(いしたてちょう))、さらに山内氏入封後の寛永五(一六二八)年。小高坂(こだかさ)村(現在の高知城西方直近の高知市山ノ端町(やまのはなちょう))に移ったとする(平凡社「日本歴史地名大系」の「常通寺跡」の記載を、私が大幅に手を加えた)。「威德院」も当然、現存しない。

「全元」不詳。「百年前」とあるから、本書の完成は文化一〇(一八一三)年であるから、機械換算すると、正徳二(一七一二)年で、将軍は徳川家宣(同年十月病没)の治世。時代の家継の宣下は翌年三月。

「梶浦孫作【今の孫作、祖父。】」不詳。

「瀨尾有閑【今の五郞衞門、祖父。】」不詳。但し、土佐藩士系図に「瀬尾」は二家ある。

「森与兵衞【佐兵衞、祖父。】」不詳。但し、同前で、森与平が一家ある。

「長谷」知られた奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派総本山豊山(ぶさん)神楽院(かぐらいん)長谷寺(はせでら)

「嚴唱法印」不詳。

「小池坊」長谷寺の本坊の別称。サイト「中世歴史めぐり」の「長谷寺 本坊」によれば、『本堂と谷を挟んだ南の高台にある』。『長谷寺復興のため豊臣秀長に招かれた専誉が入山した』天正一六(一五八八)年『の創建』で、『本坊は小池坊と呼ばれるが、専誉が根来寺の学頭時代の住居だった坊舎の名を受け継いでいるのだという』。『当初は本堂近くにあったが、第八世快寿が現在地に移』し、寛文七(一六六七)年、『四代将軍徳川家綱の寄進で再建』された。『護摩堂は三代将軍徳川家光の側室桂昌院の願いで造営されたのだという』。後、明治四四(一九一一)年『に焼失』し、『現在の建物は』大正八(一九一九)年『から』大正十三年『にかけて再建されたもの』であるが、『本坊・大講堂・大玄関及び庫裏・奥書院・小書院・ 護摩堂・ 唐門及び回廊・中雀門・土蔵・設計図面が重要文化財に指定されている』とあった。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 鼠李

 

Kuroumemodokimurasakisikibu

 

[やぶちゃん注:図は良安の評言の最後にあるように、「和」のキャプションがある右手のそれが、本邦の「紫式部」のそれで、左下方のそれが、「漢」のキャプションがある、中国の「鼠李」の図である。どこから引き出した絵かは書かれていないが、明らかに「三才圖會」の「鼠李」からの模写と思われる。注の最後を参照されたい。]

 

むらさきしきぶ 山李子  楮李

        烏巢子  牛李

鼠李      烏槎子  皂李

        鼠梓   椑【音卑】

チユイ リイ  【苦楸亦名䑕梓

        與此不同】

 

本綱䑕李生道路𨕙木高七八尺葉如李伹狹而不澤其

[やぶちゃん注:「𨕙」は「邊」の異体字。]

子於枝上四𨕙生生時青熟則紫黒色至秋葉落子尙在

枝又云其實附枝如穗人采其嫩者取汁刷染綠色

䑕李子【苦涼微毒】 治痘瘡黑䧟及出不快或觸穢氣黑䧟古

 昔無知之者惟【錢乙小兒直訣】必勝膏用之䑕李子黑熟者入

 砂盆擂爛生絹捩汁用石噐熬成膏收貯令透風毎服

 一皂子大煎桃膠湯化下如人行二十里再進一服其

 瘡自然紅活入麝香少許尤妙【如ム生者以乾者爲末水熬成膏也】

皮【苦微寒】 治大人口中疳瘡發背萬不失一䑕李根薔薇

 根各細切濃煎【忌鐵】盛銅噐重湯煎待稠瓷噐收貯毎少

 含嚥必瘥【忌醬醋油膩及肉】如發背以帛塗貼之神効

△按鼠李【俗云紫志木布】高五六尺葉似枔葉而畧團薄枝柔垂

 四月開小花毎葉間有花淺紫色結實紫色秋落葉後

 其子如穗遠視之則似萩花此與本草䑕李註相當也

 伹所圖之形狀略異故別出圖

 

   *

 

むらさきしきぶ 山李子《さんりし》 楮李《ちより》

        烏巢子《うさうし》 牛李《ぎうり》

鼠李      烏槎子《うさし》  皂李《さうし》

        鼠梓《そしん》 椑【音「卑《そ》」。】

チユイ リイ  【「苦楸《くしう》」も亦、「䑕梓《そしん》」

        と名づく《も》、此れと同じからず。】

 

「本綱」に曰はく、『䑕李《そり》、道路の𨕙《ほとり》に生ず。木の高さ、七、八尺。葉、李《すもも》のごとし。伹《ただし》、狹《せばく》して、澤《うるほ》はず。其の子《み》、枝の上、四𨕙《しへん》に生ず。生《わかやか》なる時、青く、熟する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、紫黒色。秋に至りて、葉、落ち、子、尙を[やぶちゃん注:ママ]、枝に在り。又、云ふ、「其の實、枝に附きて、穗のごとし。人、其の嫩《わかき》者を采り、汁を取《とりて、》刷《すり》≪て≫、綠色を染む。」≪と≫。』≪と≫。

『䑕李子《そりし》【苦、涼。微毒。】』『痘瘡≪の≫黑《くろく》䧟(くぼみ)≪たるもの≫、及び、出《いで》て快《こころよ》からざる≪もの≫、或いは、穢《けがれたる》氣に觸れて、黑《くろく》䧟《くぼめる》を治す。古-昔《いにしへ》、之れ、知る者、無し。惟《ただ》【錢乙《せんいつ》の「小兒直訣《しやうにちよくけつ》」。】、「必勝膏」≪のみ≫、之れを用ふ。䑕李子の黑く熟する者、砂盆(すりばち)に入れ、擂(す)り、爛《ただら》かし、生絹《すずし/きいと》にて、汁を捩《ねじりしぼり》、石噐を用ひて、熬《いり》て、膏と成し、收貯《をさめたくは》へ、風《かぜ》を透(とを[やぶちゃん注:ママ。])さしめ、毎《つねに》、一《ひとつの》皂子《くろきみ》の大《おほい》さ≪の量を≫、「桃膠湯《たうかうたう》」を煎じて、服す。化下《くわげ》≪すること≫[やぶちゃん注:いろいろ調べたが、意味不明。無理矢理、「一回目の服用が、体内で変化を加え、それが鎮まったステージに至るところの、」の意味で採ってみた。]、人≪の≫行《ゆくこと》、二十里[やぶちゃん注:明代の一里は五百五十九・八メートルであるから、十一・一九六メートルであるから、二時間二十分程。]如(ばか)り≪の時(とき)の後(のち)≫、再たび、一服を進《すすむ》。≪然(さ)れば、≫、其の瘡《かさ》、自然に、紅《あかく》活《いきいき》≪となれり≫。麝香、少許《すこしばかり》を入れて、尤《もつとも》妙≪なり≫【如(も)し、生《なま》の者、無《なく》んば、乾したる者を以つて、末《まつ》と爲《な》し、水にて熬《い》り、「膏」に成すなり。】。』≪と≫。

『皮【苦、微寒。】』『大人≪の≫口中≪の≫疳(はくさ)[やぶちゃん注:現代中国語の「疳」には、そのような用法はないが、進行した「歯槽膿漏」のことか。]、背を《✕→》發≪せる≫瘡を[やぶちゃん注:ここはそのままでは到底読めないので、勝手に返して読んだ。]治す。萬《まん》に一《ひとつ》を失はず。䑕李の根・薔薇の根、各《おのおの》細切《ほそくきり》、濃《こく》煎《せんじ》【鐵を忌む。】、銅噐に盛り、重湯《おもゆ》≪に≫煎≪じて≫、稠(ねば)るを待≪ちて≫、瓷噐《じき》[やぶちゃん注:磁器。]に收め貯へ、毎《つねに》、少≪し≫、含-嚥(ふく)む。必《かならず》、瘥《いゆ》【醬《ひしほ》・醋《す》・油-膩《あぶら》、及び、肉を忌む。】如(も)し、發《せるが》、背ならば、帛《きぬ》を以つて、之れを塗-貼(はりつ)くる。神効≪あり≫。』≪と≫。

△按ずるに、鼠李【俗に云ふ、「紫志木布《むらさきしきぶ》」。】高さ、五、六尺。葉、「枔(びさゝぎ[やぶちゃん注:ママ。])」の葉に似て、畧《ほぼ》、團《まろ》く、薄し。枝、柔《やはらかに》垂れ、四月、小≪さき≫花を開く。葉の間、毎《つね》に、花、有り、淺紫色。實を結び、紫色。秋、落葉の後《のち》、其の子《み》、穗のごとく、遠く、之れを視れば、則ち、萩《はぎ》の花に似たり。此れ、「本草」≪の≫「䑕李」の註≪と≫、相≪ひ≫當《あた》≪る≫なり。伹《ただし》、圖する所《ところ》の形狀、略《ちと》、異《こと》なり。故に別に圖を出《いだ》す。

 

[やぶちゃん注:これは、良安が、和漢の図の違いを気にして並べた如く、「鼠李」と「紫式部」とは、残念ながら、全くの別種である。

○「鼠李」は、双子葉バラ目クロウメモドキ科Rhamnaceae(東洋文庫の本文解説初回の「鼠李」に附した割注は、この『(クロウメモドキ科)』である)

或いは、その下のタクソンである、

クロウメモドキ連Rhamneae

まで下げるか、或いは、属レベルの、

クロウメモドキ(黒梅擬:中文名「鼠李」)属 Rhamnus

或いは

中文名を「鼠李」とする Rhamnus davurica同学名のグーグル画像検索をリンクさせておく)

のクロウメモドキ類であり(「維基百科」の「鼠李科」及び「鼠李属」には驚くべき数の種群と種が羅列されてある)、とても絞ることが出来そうもない。取り敢えず、英文ウィキの“ Rhamnus davurica の記載を示しておくと、『中国・朝鮮・モンゴル・東シベリア・日本を原産とする。北米には、現在、外来種として分布している』。『本種は一般的なクロウメモドキ類と似ているが、茎は、より太く、葉も、より長い。原産地では、高さ十メートルに達する』。『葉は対生し、原産地では長十三センチメートル、幅六センチメートルに達する』。『雄花は長さ一センチメートル弱で、雌花は、それより、少し小さい。果実は核果で、種子が二つ入っている』。『原産地である中国では、運河の縁などの湿った場所に植生している』とある。

 一方、

「紫式部」は、シソ目シソ科Lamiaceaeムラサキシキブ属ムラサキシキブ Callicarpa japonica

である(東洋文庫の後注では、本種を『クマツヅラ科』Verbenaceaeとするが、これは古い「クロンキスト体系」(Cronquist system)や「新エングラー体系」(modified Engler system 又は updated Engler system)での旧分類である)。

 但し、

前のクロウメモドキの種群は、種によって、中国にも日本にも分布するし、ムラサキシキブも日中ともに分布する

しかし、今回は、クロウメモドキが、とんでもなく種が多いことから、両方を学術的に語ることが、かなり難しい。何故かというと、中国側の「鼠李」(クロウメモドキ類)を問題なく種同定することが、甚だ困難であるからである。これは、例えば、「コトバンク」の「日本大百科全書」と「ブリタニカ国際大百科事典」の項を見て貰っても、判る。前者は、

『北海道と本州の日本海側に分布する』。『漢方では干した果実を鼠李子(そりし)と称し、下剤とする。クロウメモドキ属は北半球を中心に約』百『種があり、日本には』七『種が分布する』

とする一方、後者では、

『日本特産』

と断言してしまっているからである。

 さらにぶっちゃけ、私的なことを言い添えておくと、私は二十代の頃、行きつけの飲み屋の老主人の美しい若い奥方から、ムラサキシキブの成長した若木を頂戴し、昔の今の家の猫の額の庭に植え、相応に大きく育てて、花も実も賞翫した経験がある関係上、どうしても語りたい欲求が異様に強く働いてしまうからである。しかし、それでは、「本草綱目」のクロウメモドキと解説のバランスが、とれなくなってしまう。ここは、懐かしい遠い記憶を抑えて、ウィキの「ムラサキシキブ」をリンクさせるに留めることとした。悪しからず。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「䑕李」([088-37b]以下)のパッチワークである。

「苦楸《くしう》」「中國哲學書電子化計劃」の「楸」の「康熙字典」の項に、『《曹植·名都篇》走馬長楸閒。又苦楸。』とあるのを見れば、これは、シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属トウキササゲ Catalpa bungei としたい。そう時珍がそう認識している可能性が、先行する「𣾰」の中にあることを、私が注で指摘している。

「李《すもも》」バラ目バラ科スモモ亜科スモモ属 Prunus

「錢乙《せんいつ》」(一〇三五年~一一一七年)は北宋後期の小児科医で、中国では「小児医学の鼻祖」と呼ばれている。

「小兒直訣《しやうにちよくけつ》」「小兒藥證直訣」が正式書名で、錢乙の著作中、唯一現存する小児科学書。東洋文庫版の巻末の書名注によれば、『上巻、脈證治法(小児の病の種類と症状)、中巻、記嘗所治法(実際の諸症の治療例)、下巻、諸方(薬)から成る』とある。

「必勝膏」中文(繁体字)のサイト「A+醫學百科」の「必勝膏」をリンクさせておく。ざっと見る限りでは、幼児の皮膚腫瘍疾患の性質(たち)のよくないものへの対症薬のようである。

「砂盆(すりばち)」擂鉢。この読みは東洋文庫のルビを採用した。

「桃膠湯《たうかうたう》」「株式会社癒雅 BtoB」の薬膳販売専用サイトのこちらによれば、『天然桃膠』『桃の樹膠』『天然植物コラーゲン』とし、『桃膠(とうきょう)とは桃の木から分泌された半透明の樹脂のことです。「桃の花の涙」とも言われ、古くから美容に貴重な薬膳食材です』。『桃膠(とうきょう)とは桃の木から分泌された半透明の樹脂のことです』。『日本ではあまり知られてないようですが、「桃の花の涙」とも言われ、中国では古くから仙薬として用いられており、滋養強壮や老化防止、特に美容効果が高い貴重な薬膳食材です』。『天然の桃の樹脂は真珠の粒ぐらいの大きさがあり、綺麗な琥珀色のものが一般的です。癒雅の桃膠は成分流出しないよう、桃の木から採った樹脂を直ぐに天日干しさせ無添加に仕上げております』。『水で戻すと』、十『倍ぐらいになります』。『白キクラゲや牛乳とあわせてデザートスープやドリンクを作る場合が多いです』。『味が優しくプリプリの食感で美味しい「桃膠」はいかがでしょうか』とある。なお、私は現代仮名遣で「とうこうとう」と読んでいる。このサイトの「とうきょう」の「きょう」は「膠」の呉音「キョウ(ケウ)」で読んでいる。私は、通常、漢字の音は、仏教用語等の特別な条件がない場合、迷わずに、漢音で読むことにしているための違いに過ぎない。

「其の瘡《かさ》、自然に、紅《あかく》活《いきいき》≪となれり≫」これは、瘡が潰れて陥没し、根を持って腫瘍化或いは壊死化しかけていたものを、正常な肌色に回復させることを言っていると採る。

「麝香」雄のジャコウジカ(鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus に七種が現生する)の腹部にある香嚢(こうのう:麝香腺)から得られる分泌物を乾燥したもので、主に香料や薬の原料として用いられてきた。甘く粉っぽい香りを持ち、香水の香りを長く持続させる効果があるため、香水の素材として古くから重要なものであった。また、興奮作用・強心作用・男性ホルモン様作用といった薬理作用を持つとされて、本邦でも伝統的な秘薬として使われてきた。ジャコウジカ及び麝香の詳しい博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

 

少許《すこしばかり》を入れて、尤《もつとも》妙≪なり≫【如(も)し、生《なま》の者、無《なく》んば、乾したる者を以つて、末《まつ》と爲《な》し、水にて熬《い》り、「膏」に成すなり。】。』≪と≫。

「圖する所《ところ》の形狀、略《ちと》、異《こと》なり。故に別に圖を出《いだ》す」既に述べた通り、例の「東京大学」内の「三才図会データベース」の画像をトリミングして示す。絵の方は、かなり汚損を清拭した。

   

 

Sori1

 

Sori2

   *]

2024/08/24

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 濱田吉平幽霊

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

   濱田吉平幽霊

 先年、浜田六丞(ろくじよう)と云(いふ)者、有(あり)。

 延宝二年の頃、茨木平右衞門、安喜浦(あきのうら)嶋村、甚太夫、六人[やぶちゃん注:ママ。後注参照。]、浦々、銀取役に、橫目(よこめ)兼帶、不斷(ふだん)、浦〻、廽(まは)りし處、浜田六丞、吉井、平右衞門等(ら)、馴合(なれあ)ひ、公義の銀米(ぎんまい)を以(もつて)、手廽仕(てまはしつかまつる)處(ところ)、顯(あらは)れ、牢舍(らうしや)え、被仰付(おほせつけられ)、翌年、六月迄、色々、御吟味の上にて、右の者共、死刑に被仰付(おほせつけられ)ぬ。其身は勿論、子㐧(してい)迄も刑戮(けいりく)せられける。

 

[やぶちゃん注:ここで、複数の不審な疑問箇所を私なりに明らかにするために、ソリッドに注をする。長くなったので、前後を一行空けた。

「延宝二年」は一六七四年。家綱の治世で、土佐藩は第四代藩主山内豊昌(とよまさ)であった。藩主就任から僅か五年目の横領事件で、豊昌は剣術の達人であり、武術を奨励した人物であるから、この苛烈な処罰は納得出来る。

「安喜浦嶋村、甚太夫」ここで私が、読点を挿入したのには、慎重な配慮によるものである。これは、普通に読むなら、「安喜浦」の姓名が「嶋村甚太夫」とする人物の姓名と読まれるに違いない。しかし、そうすると、忽ち、以下で注する不整合が生じることになるのである。それに気づいた私は、前の二人は藩士であり、最後のこの「甚太夫」は、「安喜浦」の「嶋村」という村の、村内で村方役人を仰せつかった庄屋格の人物の名であろうと判断したのである。しかし、そのためには、江戸時代に、この「安喜浦」(あきのうら)に「しまむら」と読める村名がなくては、ならない。まず、「安喜浦」であるが、これは、旧「高知縣安藝町」であった現在の土佐湾に面した安芸(あき)市の江戸時代の海浜部を指す。平凡社「日本歴史地名大系」の「安喜浜村」によれば、正確には、当時は「安喜濱村(あきはまむら)」で、『安芸川河口付近は海上輸送の拠点ともされ、高知城下以東の政治・経済の中心地であ』った。『村名は』、『近世は安喜浜と記される場合が多いが、明治七年(一八七四)に安芸浜に統一された』とあった。そこで、調べてみたところ、ウィキの「安芸市」の「市町村合併と行政区域の変遷」の明治四(一八七一)年九月に実施された安芸郡行政区画全三十四区の中の、安芸郡第二十四区に含まれる村に『島村、別役村』(太字は私が附した。以下も同じ)を見出せた。次いで、明治二二(一八八九)年四月に行われた行政区画の町村制切り換え・合併のリストに、『奈比賀村、入河内村、黒瀬村、大井村、古井村、島村、別役村』が「東川村」(ひがしがわむら)となったことが判明する。そこでリンクされたウィキの「東川村(高知県安芸郡)」を見ると、『現在の安芸市の北東部、伊尾木川』(いおきがわ)『の上流域にあたる』とあった。そこで、今度は「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、ここで「東川村」を確認出来た。旧地図の東北部と南西部に「東川村」とあることから、かなりの広域の山深い一帯であることが判る。因みに、同じ箇所をグーグル・マップ・データの航空写真で見ると、この中央の南北の鬱蒼たる大森林地であることが判明する。点在する地名から、この地区は伊尾木川を導線として木材を切り出す生業に従事していた村落群であったと推定出来る。されば、この「甚太夫」は、そうした林業業者の元締めであったと考えてよかろうと思う。

「六人」「近世民間異聞怪談集成」で「六」を『(三)』とする補正傍注がある。国立公文書館本の当該部(24)では、正しく「三人」である

「銀取役」各種の漁村・農村・山村の農民を束ねている連中から、営業許可料その他を徴収する役目であろう。

「橫目(よこめ)兼帶」目付に同じ。武家の職名で、諸士の行動を監察し、その不正を摘発する役職。その役も兼任しているのだから、横領・汚職はやり放題ということになる。

「吉井」突如、出る姓名で、一見、不審だが、これこそが、「甚太夫」の姓と採れば、問題がない。

「銀米(ぎんまい)」役料・手数料ばかりでなく、農村の米の年貢米をも横領していたのである。

「牢舍え」江戸時代を通じて、かなり高い確率で、「へ」の代わりに用いられるので、最早、誤りとは言えない。

「子㐧(してい)」「㐧」は「弟」の異体字。当時、極悪な犯罪では、血縁者の連座は必然であった。

 

 然(しか)る處、六丞㐧(おとと)、濱田吉平(きちへい)と云(いふ)者、有(あり)、浪人にて有(あり)ける。

 男振(をとこぶり)、能(よき)若者にて、弓を、よく射(い)ける故、紀州へ弓修行に行(ゆき)、彼(かの)地に居(をり)ける故か、吉平事(こと)は、何の御構(おかまひ)も無く打過(うちすぎ)けるに、吉平、於紀州(きしうにおいて)、右の事を聞(きき)、甚(はなはだ)、不安(やすからず)思ひ、師匠へ斷(ことわり)を遂(とげ)て、國に歸(かへり)、陸目附役・橫山源兵衞方へ參(まゐり)、申(まうし)けるは、[やぶちゃん注:「陸目附」不詳。但し、古文書を見ると、確かに「陸目付」「御陸目付」という役職が、複数、確認出来る。読みは「をかめつめ」か。役職内容はよく判らぬが、古文書では、幕府から遣わされた人物にも、その肩書があるから、相当に藩内でも高位の目付であると知られる。]

「私(わたくし)義、濱田六丞㐧、吉平と申(まうす)者にて候。兄事(こと)、重き科(とが)を以(もつて)、死刑に被仰付奉(おほせつけたてまつられ)恐入(おそれいり)候。私義者(は)、他國に居(をり)申(まうす)都而(とて)、存不申(ぞんじまうさず)、此頃(このごろ)、於紀州承申候(きしうにおいてうけたまはりまうしさふらふ)故(ゆゑ)、急(いそぎ)、罷歸(かまりかへり)候。私義も、如何樣共(いかやうとも)可被仰付(おほせつけらるべし)。」

と屆(とどけ)ける。

 右、源兵衞より、此趣(このおもむき)、早速(さつそく)、及言上(ごんじやうにおよび)けるに、志(こころざし)を感じ思召(おぼしめし)て、成敗(せいばい)を、御赦(おゆる)し、切腹被仰付(おほせつけられ)、直(ただち)に、源兵衞、檢使にて、切腹致(いたし)ける。

「切腹の時、脇差の刄合(はあひ)を見申(みまうす)。」

由(よし)にて、

「自(みづか)ら股(また)を、一刀、試み、見事に、切腹致し、無殘所(のこすところなき)手際成(なり)し。」

と也(なり)。

 然(しかる)に、翌日、晝頃(ひるごろ)、源兵衞宅へ、案内(あない)乞ふ者、有(あり)て、申樣(まうすやう)、

「私義は、濱田吉平にて候。昨日者(さくじつは)御苦勞掛申(かけまうし)、忝存候(かたじけなくぞんじさふらふ)。申殘候(まうしのこしさふらふ)事、有之(これあり)、參(まゐり)候。」

と、申入(まうしいれ)ける。

 源兵衞、甚(はなはだ)、あやしく思ひけれども、吉平に、紛(まぎ)れなし。

 吉平、申けるは、

「只今、參候(まゐりさふらふ)事、別の事にあらず。紀州の師匠より、弓の許可の一卷を差越可申(さしこしまうすべく)、左候(ささふら)はゞ、封(ふう)のまゝ、火中(くわちゆう)、被成可被下候(なされくださるべくさふらふ)。右の段、申殘候故(まうしのこしさふらふゆゑ)、參(まゐり)候。」

と申ける故、源兵衞、

「如何にも。得其意候(そのい、えてさふらふ)。」

と請合(うけあふ)。

 扨(さて)、源兵衞、申けるは、

「水漬(みづづけ)を參(まゐり)候へ。」[やぶちゃん注:「水漬」「水飯(すいはん)」。柔らかく炊いた飯を、冷水で洗って、白っぽくふやかしたもの。夏の食用とした。「みづめし」「水づけ」「水飯漬け」とも言う。]

とて、檜物屋(ひものや)より、新敷(あたらしき)榧(ヘギ)を取寄(とりよせ)、新敷茶漬碗に、水漬をして、先ヘ、塩を添(そへ)て、出(いだ)しけるに、二杯迄、喰ひ、歸(かへり)ける、と也。[やぶちゃん注:「檜物屋」原義は、檜物(ひもの:檜(ひのき)の薄板を円形に曲げて作った器を作る職人。後には、一般に「わげもの」(曲げ物)を広く称した)を作り売る家、また、それを生業とする者を指すが、次の展開から、その原材料である薄板を取り寄せたのである。「榧(ヘギ)」「經木(きやうぎ)」。に同じ。木材を薄く削ったもので、食品の包装などに使用する。やや厚めの厚経木は曲げ物などに使用され、ヒノキ・スギなどが多く使用された。昔、これに経文を書いたことから、この名が出たとされる。ここでは、前者。後で「先ヘ、塩を添て」とある「塩」を置いたのが、「先」が「へぎ」、薄板を指しているのである。驚くべき正確にしてリアルな描写ではないか!

 勝手に、下橫目(したよこめ)・五右衞門【平尾弥五右衞門の事也。】、同役、淸太夫【内田喜兵衞事。今の喜兵衞、祖父也。】、兩人、相詰(あひつめ)て居(をり)けるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、吉平、歸る跡を、慕ひ行(ゆき)けるに[やぶちゃん注:秘かに尾行して行ったところ。]、橫山氏は浦戶町(うらどちやう)に居(をり)けるに、門(かど)を出(いで)て、「𣟧屋(ひしや)」が橫町(よこちやう)を、南へ、行(ゆき)ける。龍見長庵(たつみちやうあん)宅の、椎の木の本(もと)にて、見失ひける。

 𣟧屋は、昔、浦戶町、北の土手緣(どてぶち)に居(をり)たり。

 右、濱田六丞抔の科人は、淡輪四郞兵衞(たんなわしろべゑ)、下役也。

 此事(このこと)、「胎謀記事(たいぼうきじ)」に出(いづ)。

 

[やぶちゃん注:久しぶりに、実際にあった怪奇実話を読んで、非常に満足している。これは、稀れに見る、江戸の、徹頭徹尾、実録怪奇記録物で、ここまでリアルに書かれたものは、私の膨大な怪奇談の中でも、並び得るそれは、ちょっと見かけない。凄い!!!

「橫山源兵衞」サイト「四国インターネット」のこちら(検索での標題は「諸侍を方便討つ事」)の解説に出る『土佐介良』(けら)『城』(ここ:グーグル・マップ・データ)『主の横山氏の一族』の後裔であろう。

「平尾弥五右衞門」不詳。

「淸太夫【内田喜兵衞事。今の喜兵衞、祖父也。】」不詳。

「淡輪四郞兵衞」(?~元禄八(一六九五)年)は土佐藩家老で儒者であった野中兼山に認められ、万治元(一六五八)年、土佐高知藩の郷士となった。明暦かた万治年間の宇和島藩との境界争いでは、兼山を助けて働き、総浦奉行を務めた。著作に「淡輪錄」などがある。名は重信。姓は「たんのわ」とも読む(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」他に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名家系譜」(寺石正路著・昭和一七(一九三二)年高知県教育会刊)のここでは「たんな」と振る。

「浦戶町」現在の高知市浦戸(うらど)。浦戸湾湾口の西岸の桂浜や上龍頭岬(かみりゅうずみさき)のある半島である。

「𣟧屋」不詳。

「龍見長庵」不詳。

「𣟧屋は、昔、浦戶町、北の土手緣(どてぶち)に居(をり)たり」吉平の霊が消えた場所が、よく特定出来ないのが、残念だが、「浦戶町、北の土手緣」となると、「ひなたGPS」で見ると、この中央附近で、そこから「南へ行」ったとあるが、戦前の地図を見ると、その真南は「南浦」という地名になって、その先は土佐湾、それも――湾のド真ん中――なのである! 陸から海へ歩いて黒潮寄せる南海へ姿を消す亡霊というエンディングも、これまた、見事ではないか!

「胎謀記事」同前の書のここに、書名と引用が確認出来る。土佐藩史・地誌のようである。

 さらに、いろいろ調べている内、最後に国立国会図書館デジタルコレクションで、トンデモない関連記事を見つけた。「皆山集」『土佐之国史料類纂』第六巻 (社会・民俗(一)篇)編集委員平尾道雄他・一九七三年高知県立図書館刊)の「第十章 怪異談」のここにある「三、濱田基地平亡霊ノ事」である(右ページ終りに「四、井上新蔵好春御不審のケ条を受神ニ祈願得免事」とあるのは、誤って印刷してしまったもので、これは、次の次のページの頭にあるべきものである。その証拠に、「552」ページの最後は「553」ページの初行と繋がっている)。さて、これは、冒頭に「心の錦」からの抄出とあるのだが、内容の大枠は、本篇と完全に一致する。しかも、次のページ(「554」)には、本記事を『此事甚怪異成事誠しからす』(ず)『思ふ人有へけれとも』(べけれども)『慥成事成』と記し、『平尾老人ニ一座して直説聞たり』と記すのである! この『平尾老人』とは、当然、本文に出る亡霊を追跡した『下橫目』の『五右衞門』『平尾弥五右衞門』その人であるのだ! そこには、まず、前に須崎吉平が紀州から舟で、現在の高知県須崎市に着き、目的を土地の役人に正直に語って、私を搦め捕って高知へ送って下さい、と言ったところ、その誠実に打たれ、『からめるに及事ニあらす』(ず)『横山源兵衛方へ送状遣し可候間直々被参候と申からめさ』(ざ)『るよし尤成事也』とあるのである!! そして――その後には――官庁にあった書簿が記されてあるのだ!――この浜田六丞ら三人の処罰は『延宝六年卯六月刎首獄門ニ懸候事』とあり、吉平は、吉井平右衛門の子『吉井兵四郎』とともに『同年切腹被仰之』とあるのである!!!

 なお、この作品、私の好きな怪談作家田中貢太郎が「義人の姿」という題で現代語訳しているのだが、大昔に読んだので記憶になかった。というより、前半に部分を完全にカットして、生きている吉平が横山を訪ねてくるところから始まっており、今回、再読してみたが、この原古文を読んだリアルさは、望むべくもなく、ただの平板なクソ怪談目的の駄訳に終始していて、全く、ダメだ。因みに、「青空文庫」のこちらでそれは読める

2024/08/23

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 篠之實

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   篠之實(しののみ)

 享保庚戌(かのえいぬ)年、當國、所々(しよしよ)の山㙒(さんや)に、篠に実のなる事、夥(おびただ)し。

 其実、薏苡仁(ズヽダマ)の如し。可食(くふべし)。

 土民、寡婦・老幼(らうやう)となく、手毎(てごと)に、袋(ふくろ)・筐(はこ)やうのもの、携(たづさへ)て、取事(とること)、夥敷(おびただしき)事也。

 前代未聞也。

 其(その)取收(とりをさむ)る事、多きは、二、三石[やぶちゃん注:三百六十一~五百四十一リットル。]に及ぶ。

 農夫・嫠婦(リふ)[やぶちゃん注:「寡婦」に同じ。]、臨時の利德を得る事、勝(かつ)て[やぶちゃん注:ママ。「嘗て」「曾て」。]計(かぞ)ふべからず。

「是(これ)、畢竟(ひつきやう)、凶荒(きやうくわう)の兆(きざし)。」

と、古老の考(かんがへ)也。

 秋に至(いたり)、篠、悉く、枯(かれ)たり。

 

[やぶちゃん注:「篠」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科メダケ属メダケ Pleioblastus Simonii 。「ブリタニカ国際大百科事典」を引く(コンマを読点に代えた)。『イネ科のメダケ属の』一『種。関東南部以西、四国、九州に分布し、山野、河岸や海辺などに生える常緑のタケ。別名が多く』、『カワタケ、ナヨタケ、ニガタケなどと呼ばれる。地下茎で繁茂し、藪となって群生する。稈は高さ』六センチメートル『ほどになり、中空の円筒形で、上部は密に分枝し、節は低く、節』の『間は長い。葉は掌状に枝先から斜めにつく』。時折り、『開花をみるが、のちに枯死する。稈』(かん:十目に幹に当たる部分の学術用語)『は軟らかで粘性が強いので、ざる、うちわの骨。笛、建築用材に用いられる』とある。千葉県の「野田市」公式サイト内の「草花図鑑」の「メダケ(女竹)(イネ科メダケ属)」の解説PDF)が写真もあり、お薦めである。私は、今、住んでいる場所から、小学校卒業した三月、富山県高岡市伏木に転居したが、その直前の三月初め、家の傍の崖に密生していたメダケの大群落が花を咲かせたのを見た。実を食べた(味は覚えていない)。皆、枯れてしまった。

「享保庚戌年」享保十五年で、グレゴリオ暦一七三〇年。

「薏苡仁(ズヽダマ)」「數珠玉」は、私の好きな草で、イネ科ジュズダマ属ジュズダマ変種ジュズダマ Coix lacryma-jobi var. lacryma-jobi 当該ウィキを見られたい。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 吉田甚六宅光物

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   吉田甚六宅光物(ひかりもの)

「元祿十三年己卯(つちのとう)十月四日の夜、潮江村(うしほえむら)、吉田甚六、垣(かき)の下より、光物、出(いで)、一宮(いつく)をさして、飛(とび)ける。」

と也。

「初(はじめ)、其邊(そのあたり)、鳴る事、甚敷(はなはだしく)、牛の吼(ほゆ)るが如し。怪(あやし)みて見ける內(うち)、火玉(ひのたま)、出(いで)ける。其(その)音、雷(かみなり)の如く、照り渡(わたり)、數刻(すこく)の間(あひだ)、不消(きえざり)し。」

とかや。

「其火玉の出(いで)たる所、餘程、焦(こげ)ける。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:これは、所謂、「球電」と呼ばれる科学的には未だ解明されていない現象であろう。当該ウィキを参照されたい。

「元祿十三年己卯十月四日」元禄十三年は「庚辰(かのえたつ)」で元前年禄十二己卯年の誤りである。同年十月四日は、前月に閏九月があったため、グレゴリオ暦では一六九九年十一月十四日である。

「潮江村」(現代仮名遣「うしおえむら」)は高知市市内の鏡川(かがみがわ)河口南岸の地区で、浦戸(うらど)湾奥部の近世以来の干拓地である。「ひなたGPS」で示す。

「一宮」現在の高知市一宮(いっく)である。グーグル・マップ・データで、中央下に潮江地区を配し、そこから東北方向にあった