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2024/07/16

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 櫸

 

Sinasawagurumi

 

けやき    櫸柳 鬼柳

       【今介夜木】

【音拒】 【倭名抄訓久奴

       木者非也】

キユイ

[やぶちゃん注:「櫸」は「欅」の異体字。原本では、「グリフウィキ」のこれ((つくり)の下部の横画が、三本ではなく、二本のもの)であるが、表示出来ないので、最も近い「櫸」を使用した。]

 

本綱欅樹最大者髙五六丈合二三人抱其葉謂柳非柳

謂槐非槐其實如楡錢之狀其材紅紫作箱案之類甚佳

嫩皮取以緣栲栳及箕唇土人采其葉爲甜茶

木皮【苦大寒】 治時行頭痛療水氣斷痢安胎止姙婦腹痛

△按櫸生深山中形狀如上說其大者十五六丈其材帶

 紅紫色麁理堅實而凡堂城之柱牮用之經歳不蚟或

 作盌𣾰䰍爲飮食噐最上品作案几及階梯之板皆佳

 也伹不宜水濕耳出於四國西國𠙚𠙚日向之產爲良

 陶弘景曰皮似槐而葉如櫟檞者卽久奴木矣源順𢴃

 此以櫸爲久奴木訛也櫸有三種眞櫸石櫸槻櫸也其

 材有少異

石櫸   木理麁於眞櫸甚堅硬匠人勞于鐁錐

槻【和名豆木乃木】 木理麁似硬不硬不良材唐韻曰堪作弓

 俗曰槻櫸蓋檀弓槻弓古者多用弓乎

  夫木關守か弓にきるてふ槻の木のつきせぬ戀に我おとろへぬ顯季


 はだつ

 波太豆  波太豆毛利

△按其材似櫸今多用澤胡桃或波太豆爲板僞櫸

  六帖我戀はみやまにおふるはたつもりつもりにけらし

                     あふよしもなく

[やぶちゃん注:最後の一首の終句は「あふよしもなし」の誤り。訓読では訂しておいた。]

 

   *

 

けやき      櫸柳《きよりう》 鬼柳

         【今、「介夜木《けやき》」。】

【音「拒」】  【「倭名抄」、「久奴木」と

          訓《くん》ずるは、非なり。】

キユイ

[やぶちゃん注:「櫸」は「欅」の異体字。原本では、「グリフウィキ」のこれ((つくり)の下部の横画が、三本ではなく、二本のもの)であるが、表示出来ないので、最も近い「櫸」を使用した。]

 

「本綱」に曰はく、『櫸樹《きよじゆ》、最も大なる者、髙さ、五、六丈。二・三人抱《がかへ》、合《あふ》べし。其の葉、「柳《やなぎ》」と≪似ると≫謂ひて、柳に非ず、「槐《えんじゆ》」と≪似ると≫謂ひて、槐に非ず。其の實《み》、楡(にれ)の錢(み)の狀《かたち》ごとし。其の材、紅紫にて、箱・案(つくへ[やぶちゃん注:ママ。])の類に作るに、甚だ、佳なり。嫩《わかくやはらか》なる皮、取りて、以つて、栲栳《かうらう》[やぶちゃん注:東洋文庫割注に『(竹や柳を曲げて作った器)』とある。]、及び、箕《みの》≪の≫唇《くち》の緣(ふち)にす。土人、其の葉を采りて、甜茶(あま《ちや》)と爲《な》す。』≪と≫。

『木皮【苦、大寒。】 時-行《はやり》頭痛を治し、水氣《すいき》を療ず。痢を斷《たち》、胎《たい》を安《やすん》じ、姙婦の腹痛を止む。』≪と≫。

△按ずるに、櫸《けやき》は、深山の中に生ず。形狀、上の說のごとし。其の大なる者、十五、六丈。其の材、紅紫色を帶び、麁《あらき》理《きめ》≪は≫、堅實にして、凡そ、堂・城の柱・牮(うし[やぶちゃん注:ママ。この漢字は「支える柱」「つっかえ棒」=「つっぱり」の意であるから、私は「つつぱり」と訓じたく思う。])≪に≫之れを用ひて、歳《とし》を經て、蚟(むしい)らず。或いは、盌(わん)[やぶちゃん注:「椀」に同じ。]に作る。𣾰《うるし》を䰍(ぬ)りて、飮食の噐《うつは》と爲≪して≫、最も上品≪たり≫。案-几《つくえ》、及び、階-梯《はしご》の板に作≪るも≫、皆、佳《よ》し。伹《ただし》、水濕《すいしつ》、宜《よろ》しからざるのみ。四國・西國、𠙚𠙚《しよしよ》より出づる。日向《ひうが》の產、良《りやう》と爲す。陶弘景曰はく、『皮、槐に似て、葉、櫟-檞(とち)のごとし。』と云ふ[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]は、卽ち、「久奴木《くぬぎ》」か。源順《みなものとのしたごう》、此れに𢴃《よ》りて、「櫸(けやき)」を以つて、「久奴木」と爲《す》るは、訛《あやまり》なり。櫸、三種、有り。「眞櫸(まけやき)」・「石櫸《いしけやき》」・「槻櫸《つきけやき》」なり。其の材、少異《しやうい》有り。

石櫸 木理(きめ)、眞櫸より麁《あら》く、甚だ、堅硬≪たり≫。匠-人《だいく》、鐁《やりがんな》・錐《きり》≪を使ふに≫勞《らう》す。

槻(つき)【和名「豆木乃木《つきのき》」。】 木理、麁く、硬《かたき》に似て、硬からず。良材ならず。「唐韻」に曰はく、『弓(ゆみ)≪を≫作るに堪《たへ》たり。』≪と≫云≪ひ≫[やぶちゃん注:「云」は送り仮名位置にかなり大きめに打たれている。但し、中近堂版では、「云」はない。]、俗、「槻櫸(つきけやき)」と曰《い》ふ。蓋し、「檀弓(まゆみ)」・「槻弓(つきゆみ)」≪てふ語、あれば≫、古-者(いにしへ)、多《おほく》、弓に用ひしにや。

 「夫木」

   關守が

     弓にきるてふ

    槻《つき》の木の

       つきせぬ戀に

        我《われ》おとろへぬ 顯季


 はだつ

 波太豆  波太豆毛利《はだつもり》

△按ずるに、其の材、櫸(けやき)に似≪る≫。今、多《おほく》、「澤胡桃(《さは》ぐるみ)」、或いは、「波太豆《はたつ》」≪の材を≫用ひて、板と爲し、櫸に僞《いつは》る。

  「六帖」

    我《わが》戀は

       みやまにおふる

      はたつもり

          つもりにけらし

           あふよしもなし

 

[やぶちゃん注:これは、久々に――完全アウト――である(附録の「波太豆(はだつ)」を除く)。時珍の「櫸」と、良安が考え、我々もそれと考えるところの

「ケヤキ」ではない――全く分類学上も遙かに異な縁も所縁もない完全な別種――

なのである。繰り返す。ここで時珍が記している「櫸」は、現代の日本人の誰もが、それと考え、良安もそれと誤認している、

双子葉植物綱バラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata

ではなく、

――★現代中国語では、ケヤキを「榉树」(繁体字「欅樹」)とし、別名でも「櫸木」と書きはするが、時珍の時代のそれは、「ケヤキ」ではないのである)――

現代の中文名を、

枫杨(繁体字「楓楊」

とし、別名は、

「水麻柳」及び「柳」(繁体字「欅柳」)

である、中国中南部原産の落葉高木である、

◎双子葉植物綱マンサク亜綱クルミ目クルミ科サワグルミ属シナサワグルミ Pterocarya stenoptera

を指すのである。ネット上の記載は、殆んどが、極めて貧困である。私の最も信頼する「跡見群芳譜」の「しなさわぐるみ(支那沢胡桃)」で、別名(東洋文庫訳は「本草綱目」引用部分の本文の初出「欅」の箇所に『欅(きょ)』とし、割注して『(クルミ科カンポウフウ)』とするのだが、異名で出しているのはいただけない)「カンボウフウ」の漢字表記が漸く判った。「嵌寶楓」である別名を記載していない多くの学術的な植物記載をした方々よ、ちゃんと漢字表記を添えるべし! それが判らないのなら、安易に異名・別名を列挙するべきではないと私は思うのである。だって、一体、どれだけの日本人が「かんぼうふう」という字から正確な漢字名を想起出来るか、考えてみれば判ることだそれによれば、『漢語別名』を他に(カタカナの半角は全角にした)、

水麻柳(スイマリュウ,shuimaliu

麻柳

蜈蚣柳(ゴコウリュウ,wugongliu

元寶楓(ゲンホウフウ,yuanbaofeng

大葉柳(タイヨウリュウ,dayeliu

欅柳

嵌寶楓

馬尿騒

とあり、『臺灣・華東・河南・陝西・兩湖・兩廣・四川・貴州・雲南に分布』するとし、大切な一言、『葉は有毒』がある。『中国では、あるいは日本でも、各地で街路樹とする』とあり、『中国では、枝・葉を薬用にする』ともあった。なお、さらに調べたところ、

本邦に移入されたのは、明治時代とする(次のリンク先)ので、良安は知るべくもない種

であった。さても、恐らく、学術上の完璧に近い記載は、MOMO氏のサイト『「野山の草花・木々の花」植物検索図鑑』の同種のページである(画像も八枚ある)。以下に引用する。『中国原産で、公園樹や街路樹として植栽される落葉高木』。『樹高は』二十五~三十メートル、『幹径』は一メートルに『達する。樹皮は灰褐色で縦に深く裂けて剥がれる。葉は互生。長さ』二十~三十センチメートルの『の偶数羽状複葉。葉軸には』、普通、『ヌルデのような翼がある。小葉は』五~十『対』、『付き、長さ』四~十センチメートルの『長楕円形で無柄。先端は鈍く、基部は左右不相称。縁には先端が内側に曲がる鋸歯がある。雌雄同株。花期は晩春。雄花序も雌花序も垂れ下がり、小さな花が多数付く。雄花序は黄緑色で、長さ』五~七センチメートル。『雄花の苞は披針形で、上部の両側に小苞が付き、先端にやや赤味を帯びた花被片が』一『個付く。雄蕊は苞の下面に付く。雌花序は長さ』五~八センチメートル。『雌花の花柱は』二『裂して反り返り、柱頭は紅色で小さな突起が多い』。『花期は』五『月』。『果実は堅果。果穂は長さ』二十~三十センチメートル。『堅果には小苞が発達した翼があり』、七~八『月に熟す。翼はサワグルミ』(サワグルミ属サワグルミ Pterocarya rhoifolia )『に比べ細長く、長さ約』二センチメートルで、『堅果は径』六~七センチメートル。『サワグルミとの差異で特徴的なものは』、『葉軸に翼があることで、サワグルミには翼がない』。『明治時代初期に渡来した』とある。当該日本語のウィキは貧しくて見るに堪えない。原産地の「維基百科」も、この程度で失望だったが、一つ、そこに安徽省での地方名として「蜈蚣柳」(「むかでやなぎ」だ!)とあるのは、同種の若い果実の多数ぶら下がった写真を見ると、これ! 私には、ナットクだった!

 なお、当然の如く、良安は評で、ケヤキとして記載してしまっているので、当該ウィキを引かざるを得ない(注記号はカットした)。本邦では『ツキ(槻)ともいう。日本では代表的な広葉樹の一つで、枝ぶりが整った樹形が好まれて植栽や街路樹にも使われる。材は建築材として良材で、寺社建築によく使われる』。『和名「ケヤキ」の由来は、「ケヤ」は古語で「すばらしい」という意味があり、「けやしの木」が転訛したものだといわれる。中国名は「櫸樹」』。『朝鮮半島、中国、台湾と日本に分布し、日本では本州、四国、九州に分布する。山野に生え、丘陵から山地、平地まで自生する』。『自然分布の他に、人の手によって街路や公園、人家のまわりにも植えられたものもよく見られる。日本では特に関東平野に多く見られ、屋敷林に使われることが多い。北海道には自然分布はないが、函館や札幌などの都市部で、庭園樹や公園樹として植えられたものもある』(私は勤務した横浜翠嵐高等学校の大木が最も印象に残る)。『落葉広葉樹の高木で、高さ』十五~二十五『メートル』『になり、大きなものでは幹径』三メートル、『高さ』三十~五十メートル『ほどの個体もある。開けた場所に生える個体は、枝が扇状に大きく斜めに広がり、独特の美しい樹形になる。樹皮は灰白色から灰褐色で、若木のうちは滑らかで横長の皮目があるが、老木になるとモザイク状や鱗片状、あるいは大きく反り返って剥がれるなど、剥がれ方は一様ではなく、幹の表面はまだら模様になる。一年枝は褐色で無毛、ジグザグ状に伸びて皮目がある』。『花期は』四~五『月ごろ。開花は目立たないが、葉が出る前に本年枝に数個ずつ薄い黄緑色の花が咲く。雌雄同株で雌雄異花。本年枝の下部に数個ずつ雄花が、上部の葉腋に』一~三『個の雌花がつき、雄花と雌花をつけた短い枝を「着果短枝」という。花後に長枝が伸びて、本葉が出る』。『葉は互生し、葉身は長さ』三~十『センチメートル』『 の卵形から卵状披針形で、葉縁にある鋸歯は曲線的に葉先に向かう特徴的な形であり、鋸歯の先端は尖る。葉の正面はざらつく。春の新緑や秋の紅葉(黄葉)が美しい樹木でもある。都市部ではあまり鮮やかに紅葉せず黄褐色から褐色になって落葉してしまうが、寒冷地では個体によって色が異なり、黄色・橙色・赤色など色鮮やかに紅葉する。若木や徒長枝の葉は大きく、赤色に紅葉する傾向が強い。紅葉は褐色を帯びるのが比較的早く、落ち葉もすぐに褐色になる』。『果期は』十『月。果実は長さ約』五『ミリメートル』『の平たい球形をした痩果で、秋に暗褐色に熟す。小枝についた葉が翼となって、果実がついたまま長さ』十~十五センチメートルの『小枝ごと木から離れ、風に乗って遠く運ばれて分布を広げる』。『冬芽は互生し、小さな卵形で暗褐色の』八~十『枚の芽鱗に包まれており、横に副芽を付けることがある。枝先には仮頂芽がつき、側芽は枝に沿わずに開出してつく。冬芽の横には、しばしば副芽がつく。冬芽のわきにある葉痕は半円形で、維管束痕が』三『個ある』。『葉の裏と柄に短毛の密生する変種をメゲヤキ』(漢字表記不詳: Zelkova serrata f. stipulacea )『という』とあるが、一説に、このメゲヤキは、中国固有種であるトウゲヤキ Zelkova schneideriana (中文名「大叶榉树」)と同一種とする見解がある(則ち、それなら、外来種ということになる)。『箒を逆さにしたような樹形が美しく、街路樹や公園樹としてよく親しまれ、防火や防風の目的で庭木などとしてもよく植えられる。特に関東地方での利用が多い。巨木が国や地方自治体の天然記念物になっていることがある。朝鮮半島では、ケヤキの春の若葉を茹でて食べることもあり、餅にも入れられる』。『日本の材としては、ジャパニーズ・ウイスキーの樽に使われることで有名なミズナラ』(ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属ミズナラ Quercus crispula var. crispula )『とともに、導管を塞ぐ「チロース」』(tylose・tylosis)『と呼ばれる物質が発達しており、水を通さない。そのため、材は狂いが少なく湿気に強いのが特徴で、幅広い用途に使われる。木目が美しく、磨くと著しい光沢を生じる。堅くて摩耗に強いので、家具・建具等の指物に使われる。日本家屋の建築用材としても古くから多用され、神社仏閣などにも用いられた。ケヤキ材からは仏像も作られる。現在は高価となり、なかなか庶民の住宅には使えなくなっている』。『寺社建築に盛んに使われるようになったのは、縦引き鋸が使われ出した室町時代以降のことである。ヒノキやスギは縦に割って使うことができたが、ケヤキの材はかたく、割るのは困難であったためである。材の強度は、ヒノキとは反対に伐採後から次第に低下していくといわれ、薬師寺東塔に使われたケヤキ材は』千二百『年を経過していて、破断状態にあったという。広葉樹、特にケヤキは道管が環状に並んで』、『年輪がはっきりと見える板となり、年輪幅が広い方がかたくて、重い良材となる』。『チロースが発達しているので、伐採後も長い間導管内に水分が閉じ込められたままになる。そのため、伐採してから、乾燥し枯れるまでの間、右に左にと、大きく反っていくので、何年も寝かせないと使えない。特に大黒柱に大木を使った場合、家を動かすほど反ることがあるので大工泣かせの木材である。また、中心部の赤身といわれる部分が主に使われ、周囲の白太は捨てられるので、よほど太い原木でないと立派な柱は取れない』。昭和一五(一九四〇)年、『戦時色の強まった日本では、用材生産統制規則により特定の樹種について用途指定を実施。ケヤキ材の使用用途については軍需、内地使用の船舶、車両用に限られることとなった』とある。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「(ガイド・ナンバー[086-21b]以下)からのパッチワークである。但し、検索する場合は、

「欅」

ではなく、

「櫸」

の異体字を用いているので、注意されたい。

「柳《やなぎ》」中国語では、ヤナギの中でも枝が垂れる種群を「柳」、枝が垂れない種群を「楊」と称している。名にし負うお馴染みのヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica は中国原産である。

「槐《えんじゆ》」バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。先行する「槐」を参照されたい。

「嫩《わかくやはらか》なる」読みは東洋文庫のルビを参考にした。

「箕《みの》≪の≫唇《くち》の緣(ふち)」日本のケースだが、ウィキの「箕」によれば、『先端部の強度を高め滑らかな表面にするために桜皮を編み込んだものもある』(愛知県豊田市の例)とあった。

「甜茶(あま《ちや》)と爲《な》す」現在も中国で行われている。中文の「百度百科」の「枫杨茶」を見られたい。画像もある。

「時-行《はやり》頭痛」読みは東洋文庫のルビを採った。

を治し、水氣《すいき》を療ず。痢を斷《たち》、胎《たい》を安《やすん》じ、姙婦の腹痛を止む。』≪と≫。

「蚟(むしい)らず」虫が食い込んで食害することがない。

「䰍(ぬ)りて」この漢字は、音「キュウ」で、「漆・赤黒い漆」或いは「漆を塗る」の意。

「陶弘景曰はく、『皮、槐に似て、葉、櫟-檞(とち)のごとし。』と云ふは、卽ち、「久奴木《くぬぎ》」か」「本草綱目」の「櫸」の「集解」の冒頭で『弘景曰櫸樹山中處處有之皮似檀槐葉如櫟槲人多識之』とあるのを引用したもの(「漢籍リポジトリ」のそれとは表字が異なるが、同一種である)。従って、対象植物が異種であるから、無効である。さらに、「櫟-檞」「櫟槲」を良安は「トチ」としているが、この「櫟-檞」「櫟槲」は、

ムクロジ目ムクロジ科トチノキ(栃の木・橡の木)属トチノキ Aesculus turbinata

ではなく、

ブナ目ブナ科コナラ属ナラガシワ(檞櫟)Quercus aliena

である。更に良安は、「久奴木《くぬぎ》」を候補種として挙げているが、これまた、ナラガシワと同属であるが、異種の、

コナラ亜属クヌギ Quercus acutissima

なのであり、彼は、致命的に多重錯誤に堕ちてしまっているのである。最早、植物百科事典の項としては、シッチャカメッチャカのレッド・カードで、退場するしかないヒドさに至ってしまっているのである。なお、東洋文庫訳では、梁の武帝に抜擢された医師・科学者にして道教の茅山派の開祖でもあった陶弘景(四五六年~五三六年)の引用元は、「名醫別錄」(「神農本草經」の薬三六五種に、漢・魏以来の名医が用いた薬三百六十五種を加えた漢方書。全三巻)とする。

『源順《みなものとのしたごう》、此れに𢴃《よ》りて、「櫸(けやき)」を以つて、「久奴木」と爲《す》るは、訛《あやまり》なり。』漢字表記に問題があるが、順の「和名類聚鈔」の「卷第二十」の「草木部第三十二」の「木類第二百四十八」にある(国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年の板本のここの左丁の最後)、

   *

釣樟(クヌギ) 「本草」に云はく、『釣樟、一名は「鳥樟」【音「章」。和名「久沼木」。】』。

   *

とあるのを指す。「本草」は「本草和名」で、深根輔仁(ふかねのすけひと)の撰になる日本現存最古の薬物辞典(本草書)。「輔仁本草」(ほにんほんぞう)などの異名がある。当該ウィキによれば、『本書は醍醐天皇に侍医・権医博士として仕えた深根輔仁により』、『延喜』一八(九一八)年に『に編纂された。唐の』「新修本草」(高宗が蘇敬らに書かせた中国最古の勅撰本本草書。陶弘景の「神農本草經集注」(しんのうほんぞうきょうしっちゅう)を増訂したもの)を『範に取り、その他漢籍医学・薬学書に書かれた薬物に倭名を当てはめ、日本での産出の有無及び産地を記している。当時の学問水準』の限界のため、『比定の誤りなどが見られるが、平安初期以前の薬物の和名を』、『ことごとく記載しており』、且つ、『来歴も明らかで、本拠地である中国にも無い』所謂、『逸文が大量に含まれ、散逸医学文献の旧態を知る上で』も、『また』、『中国伝統医学の源を探る上でも貴重な資料である』。本書は、後の『丹波康頼の』知られた「医心方」にも『引用されるなど』、『後世の医学・博物学に影響を与えた。また、平安時代前期の国語学史の研究の上でも貴重な資料である』。後、永らく、『不明になっていたが、江戸幕府の医家多紀元簡が紅葉山文庫より上下』二『巻全』十八『編の古写本を発見し』、『再び世に伝えられるようになった。多紀元簡により発見された古写本の現時点の所在は不明であるが、多紀が寛政』八(一七九六)年に『校訂を行って刊行し』、六『年後に民間にも出された版本が存在する他、古写本を影写した森立之の蔵本が台湾の国立故宮博物院に現存する』とある。さて。にしても、ここで良安が『訛《あやまり》なり』とブチ挙げているのは、全体の良安自身の大訛(あやまり)を知ってしまったからには、寧ろ、哀れとさえ感じられるのである。

『櫸、三種、有り。「眞櫸(まけやき)」・「石櫸《いしけやき》」・「槻櫸《つきけやき》」なり。其の材、少異《しやうい》有り』ウィキの「ケヤキ属」を見ても、本邦にケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata の別種・亜種・江戸時代当時の品種のものは見当たらない。個人サイトの「一枚板比較」の「ケヤキ(欅)の一枚板」に、『欅(ケヤキ)は、日本を代表するニレ科ニレ属の広葉樹です。欅(ケヤキ)は海外でも人気がある樹種で、海外では「ジャバニーズゼルコバ」』(Japanese zelkova)『の名で親しまれています。日本の気候は、世界でも稀な四季があるため、ケヤキに美しい杢目が出やすいという特徴がある点も海外からも人気の樹種である理由の一つです。ケヤキの杢目には、最高峰である如輪杢をはじめ、玉杢などの種類がよく出ます。また、ケヤキには青ケヤキと赤ケヤキがあります。欅(ケヤキ)の心材は、オレンジに近い褐色で、辺材は黄色に近い褐色をしています』。『欅(ケヤキ)には、青ケヤキと赤ケヤキがあります。青ケヤキは、年輪幅が大きく若い木なのに対して、赤ケヤキは、年輪幅が小さい樹齢が高い木になります』とあり、以下、豊富な写真で、「欅(ケヤキ)の杢目の種類」項が続くので見られたい。但し、されば、私は、この「三種」というのは、木材にした際の材質上の個体の別に過ぎないのだと思ったのだが、さにあらずで、

「眞櫸」はケヤキ

であろうが、

「石櫸」は、これ、ケヤキとは同じニレ科Ulmaceaeの、ニレ属アキニレ Ulmus parvifolia の異名

なのであった。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、別名は『イシゲヤキ(石欅)』『カワラゲヤキ(河原欅)』が挙げられており、『東アジアから東南アジアに分布し、河原など水辺や湿ったところに生えることが多い。秋に花が咲き、晩秋に黄葉と実がなるのが特徴。性質は強健で、公園樹や街路樹として植栽もされる』。『和名「アキニレ」は「秋楡」と書き、これは初秋に花が咲き、晩秋に実がつくという生態的特徴からきているといわれる。「ニレ」の語源は、樹皮を剥がすとヌルヌルし、それを意味する古語「ぬれ」が転訛したものとされる。別名』『イシゲヤキやカワラゲヤキ』は、『形態的特徴、特に樹形や樹皮の様子がケヤキ( Zelkova serrata )に似ていること、イシ、カワラは木材が石のように硬いこと、生息地として河原を好むことからきている』とあった。『英名は樹皮の特徴をつかんだ lacebark elm(滑らかな樹皮のニレ)や分布地に因む Chinese elm(中国のニレ)、中国名は「榔楡」』である。『学名の種小名 parvifolia は「小さい葉」の意味で、ニレ属としては葉が小さめであることに由来する』。『中国大陸の広い範囲と朝鮮半島、インドシナ半島、日本、台湾に分布。日本では東海地方以西の本州、四国、九州で主に西日本に分布する。比較的水辺を好み谷の斜面下部や川沿いなどの肥沃湿潤な土地でよく見られる』。『落葉広葉樹の高木で、樹高』十三~十五『メートル』『直径』六十センチメートル『程度に達する。最高樹高』三十メートルを『超えるハルニレ』(春楡)『( Ulmus davidana var. japonica )』(単に「ニレ」と言った場合は、学術的には、この「ハルニレ」を指す)『に比べると小型で、葉も小さい。樹皮は灰褐色で小さな皮目があり、ハルニレのように縦に深く割れず平滑で、同じ科のケヤキ( Zelkova serrata、ニレ科ケヤキ属)の樹皮のようにまだらに剥がれる。樹皮が剥がれ落ちた跡は、灰緑色や淡橙色が混じり、特徴的な外観をもつ。別名のイシゲヤキ、カワラゲヤキはこれらの樹皮の特徴が語源である。一年枝は赤褐色で短毛があり、ニレ科共通でジグザグ状に伸びる(仮軸分枝)』。『葉は互生し、葉身は長さ』二~六『センチメートル』『弱と小さめで』、『倒卵型から長楕円形、普通の葉基部は左右非対称、葉縁には鋸歯があり二重鋸歯と呼ばれるタイプであるが、本種の葉は普通の鋸歯に見えることがしばしばある。ハルニレと比べると葉は小さい。秋には黄葉し、黄色や赤褐色に染まって、実が熟すころには落葉する。葉が地上に落ちると』、『やがて』、『褐色に変化する』。『開花時期は』九『月ごろ』で、『本年枝の葉腋から、淡黄色の両性花を束生する。花粉は風によって散布する風媒花である。花の咲く時期に特徴があり、ハルニレのように春に開花する種類が多いニレ属の中でも』、『珍しい秋開花の種で、和名の由来にもなっている。このような秋に開花する種は日本のニレ属で本種が唯一、世界的に見ても』、『本種の他にアメリカ南部に』二『種が知られるのみである』。『果期は』十一『月。果実は翼果で、長さ』七~十三『ミリメートル』『の楕円形の実は』、『晩秋には淡褐色に熟す。翼果は冬でも残ることがある』。『冬芽は卵形で小さく』、四、五『枚の芽鱗に包まれており』、『やや毛がある。横に副芽をつけることもある。枝先には仮頂芽をつけ、側芽は枝に互生する。花芽は一年枝につく。葉痕は半円形で、維管束痕が』三『個』、『つく』。『他のニレ類と』ともに『街路樹などに利用される。強健な性質で、日本では北海道南部まで植栽できる。ニレの並木は特に欧米で盛んであるが、欧米のニレはアジアから侵入したニレ立枯病』(黴(かび)の一種である真核生物ドメイン菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱ディアポルテ亜綱 Diaporthomycetidaeオフィオストマ目 Ophiostomatalesオフィオストマ科オフィオストマ属の内、現在は三種( Ophiostoma ulmi Ophiostoma himal-ulmiOphiostoma novo-ulmi )が原因菌として判っている)『に弱く』、『大量枯死が問題化している。本種は』、『この病気に対して特に高い抵抗性を見せるために、在来ニレの代替種として、もしくは抵抗性雑種の親木として利用されることがある。ただし、ファイトプラズマ』(細菌ドメインテネリクテス門Tenericutesモリクテス綱Mollicutesアコレプラズマ目Acholeplasmatalesアコレプラズマ科Acholeplasmataceaeファイトプラズマ属 Phytoplasma )『を病原とし』、『葉の黄化と萎縮を特長とするelm yellow病(和名未定)には比較的弱いとされる』。『日本の他のニレ属共通で』、『樹皮を結って縄にしたり、内樹皮を叩いて潰して接着剤として使ったという』とあった。一方、

「槻櫸《つきけやき》」については、ケヤキの別名

であるから、これは、前に示した個体の材質上の違いに過ぎないことが判った。而して、良安が大上段に振り被って挙げている「槻(つき)」=「豆木乃木《つきのき》」も、同じくケヤキであって、異なる種ではないことが判明した。

「匠-人《だいく》」東洋文庫訳のルビを採った。

「鐁《やりがんな》」「槍鉋」とも書き、「やりかんな」とも訓ずる。反った槍の穂先のような刃に、長い柄を付けた鉋で、突き摺るようにして、木材を削る。室町時代に現在知られる鉋(=台鉋)が現れるまで広く用いられ、今日では桶・簞笥作りで使う「前鉋」(まえがんな)が、この一種である。私も見たことがないものだったので、グーグル画像検索「やりがんな」をリンクさせておく。

「唐韻」唐代に孫愐(そんめん)によって編纂された「切韻」(隋の文帝の六〇一年の序がある、陸法言によって作られた韻書。唐の科挙の作詩のために広く読まれた。初版では百九十三韻の韻目が立てられてあった)の修訂本。七五一年に成ったとされるが、七三三年という説もある。参照した当該ウィキによれば、『早くに散佚し』、『現在に伝わらないが、宋代に』「唐韻」を『更に修訂した』「大宋重修広韻」が『編まれている』。『清の卞永誉』(べんえいよ)の「式古堂書畫彙考」に『引く』中唐末期の『元和年間』(八〇六年八月~八二〇年十二月)の「唐韻」の『写本の序文と各巻韻数の記載によると、全』五『巻、韻目は』百九十五『韻であったとされる。この数は王仁昫』(おうじんく)の「刊謬補缺切韻」に『等しいが、韻の配列や内容まで等しかったかどうかはわからない』。『蒋斧旧蔵本』の「唐韻」『残巻(去声の一部と入声が残る)が現存するが、韻の数が卞永誉の言うところとは』、『かなり異なっており、元の孫愐本からどの程度の改訂を経ているのかは』、『よくわからない。ほかに敦煌残巻』『も残る』。「説文解字」の『大徐本に引く反切は』「唐韻」に依っており、かの「康熙字典」が、「唐韻」の『反切として引いているものも』、「説文解字」大徐本の『反切である』とある。

「檀弓(まゆみ)」これで、ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus var. sieboldianus の樹種を指す。当該ウィキによれば、『材質が強い上によくしなるため、古来より弓の材料として知られ、名前の由来になった』。『この木で作られた弓のことや、単なる弓の美称も真弓という』とある。

「夫木」「關守が弓にきるてふ槻《つき》の木のつきせぬ戀に我《われ》おとろへぬ」「顯季」既注の「夫木和歌抄」に載る藤原顕季の一首で、「卷二十九 雜十一」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で14017)。

「はだつ」「波太豆《はたつ/あけび》」「波太豆毛利《はだつもり》」今一つ信頼している植物サイト「GKZ 植物事典」のアケビのページに、「古名」の項に「ハタツ(波太豆)」とあった。だが……しかし……アケビ科Lardizabaloideae 亜科Lardizabaleae連アケビ属アケビ Akebia quinata は、蔓性落葉低木だ。良安は「其の材、櫸(けやき)に似≪る≫」と言ってるから、これは、違うのだ! さらに調べるうちに、これは、次の和歌から、「はたつもり」=「畑つ守」で、これは植物名で(以下の和歌では「積もり」を導いたに過ぎない)、

ツツジ目リョウブ(令法)科リョウブ属リョウブ Clethra barbinervis

であることが判った。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『リョウブ科 Clethraceaeの落葉小高木で』、『北海道から九州、中国、台湾までの山林に分布している。夏に長い総状花序に白い小花をたくさん咲かせる。若葉は山菜とされ、庭木としても植えられる。別名、ミヤマリョウブ、チャボリョウブ、リョウボ(良母)、サルダメシ、古名でハタツモリ。中国名は髭脈榿葉樹』。『高さは』七~九『メートル』『になる。樹皮は表面が縦長な形に薄く剥げ落ちて、茶褐色と灰褐色のまだら模様で、滑らかな木肌になる。樹皮がサルスベリ(ミソハギ科)のように剥げ落ちるので、「サルスベリ」と呼ぶ地方もある。若木の樹皮は灰褐色。一年枝は細く、枝先で星状毛が残る。樹皮はナツツバキにも似る』。『葉は長さ』十『センチメートル』、『幅』三センチメートル『ほどの楕円形から倒披針形で、先が尖り、葉縁には細かい鋸歯がある。葉の形はサクラに似ている。葉の幅は葉先に近い方で最大になる。表面にはつやがなく、無毛または微毛を生じる。葉は枝先にらせん状に互生するが、枝先にまとまる傾向が強い。新葉は』、『やや赤味を帯びる。秋には紅葉し、日光の当たり具合によって、黄色、橙色、赤色、赤褐色などいろいろな色になり、日当たりのよい葉は鮮やかな橙色から赤色になる。落ち葉は褐色に変わりやすく、乾くとすぐに縮れる』。『花期は真夏』(六~九月で『枝先に長さ』十五センチメートル『くらいの総状花序を数本出して、多数の白い小花をつけ、元の方から咲いていく。花弁は白く』五『裂する。果実は蒴果で』三『つに割れる。球形の果実は、秋に褐色に熟す。葉が散ったあと、冬でも長い果序がぶら下がってよく残る』。『冬芽は側芽は互生するが』、『小さくて』、殆んど『発達せず、頂芽は円錐形で芽鱗が傘状に開いて落ち、毛に覆われた裸芽になる。葉痕は三角形や心形で、枝先に集まる。維管束痕は』一『個』、『つく』。『北海道南部から本州、四国、九州、済州島、中国、台湾に分布する。低地や山地、丘陵の雑木林の中や、斜面などに自生する。日当たりのよい山地の尾根筋や林縁に多い。平地から温帯域まで広く見られるが、森林を構成する樹種というより、パイオニア的傾向が強い。庭木としても植えられている』。『リョウブ属には数十種あり、アジアとアメリカ大陸の熱帯・温帯に分布する』。『家具材や建材、庭木などに用いられる』(☜)。『春に枝の先にかたまってつく若芽は山菜になり』、『食用にする。採取時期は、暖地が』四『月、寒冷地は』四~五『月ごろが適期とされる。若芽は茹でて水にさらし、細かく刻んだものを薄い塩味をつけて、炊いた米飯に混ぜ込んでつくる「令法飯」などの材料にする。そのほか、おひたし、和え物、煮びたし、汁の実にしたり、生のまま天ぷらにする。昔は飢饉のときの救荒植物として利用されたといわれる。ただし、一度に多く食べ過ぎると』、『下痢を起こす場合がある』。『また』、五『年に一度しか採取できないが』、『ハチミツが市場に出ることも』あり、『結晶化せず、香り高い』。『令法という名は、救荒植物として育て蓄えることを法で決められたからといわれるが、花序の形から「竜尾」がなまったとの説もある。ハタツモリは畑つ守などの字が当てられるが、語源ははっきりしない』とある。

「六帖」「我《わが》戀はみやまにおふるはたつもりつもりにけらしあふよしもなし」「古今和歌六帖」のこと。既出既注。日文研の「和歌データベース」の「古今和歌六帖」で確認した。「第六 木」のガイド・ナンバー「04317」である。]

2024/07/15

「疑殘後覺」(抄) 巻三(第三話目) 人玉の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

巻三(第八話目)

   人玉《ひとだま》の事

 いかさま[やぶちゃん注:副詞で「全く以って・確かに・本当に・実際」などで、意味があるというよりも、語りの発語として「さてもまた」と言った感じであろう。]、人の一念によつて、「しんい」[やぶちゃん注:「瞋恚」。仏教で三毒十悪の一つとする「自分の心に逆らうものを憎み怒ること」。]のほむらと云《いふ》ものは、有るに儀定たる[やぶちゃん注:ならわしとして確かに存在するものとされていること。]由、僧俗ともに、その說、おほし。

 しかれども、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]目に見たる事のなき内は、うたがひ、おほかりし。「がんぜん」にこれを見しより、後生《ごしやう》を、ふかく、大事に、おもひよりしなり。

 これとひとつ事に思ひしは、人每《ひとごと》に人玉といふものゝ有《ある》よしを、れきれきの人、歷然のやうにの給へども、しかと、うけがたく候ひしか[やぶちゃん注:「確かに存在するとは、受け入れがたく感じている者もあるであろうかとは思われる。」。]。

 北《ほく》こくの人、申されしは、越中の大津の城とやらむを、佐々内藏介《さつさくらのすけ》、せめ申されしに、城にも、つよく、ふせぐといへども、多勢のよせて[やぶちゃん注:「寄せて」ではなく、「寄せて」と私は採る。]、手痛くせめ申さるるゝほどに、城中、弱りて、すでに、はや、

「明日は打死《うちじに》せん。」

と、おゐおゐ[やぶちゃん注:ママ。後半は底本では踊り字「〱」。「追ひ追ひ」。]、「いとまごひ」しければ、女・わらんべ、なきかなしむ事、たぐひなし。まことにあはれに見えはんべりし。

 かゝるほどに、すでに、はや、日もくれかゝりぬれば、城中より「てんもく」[やぶちゃん注:天目茶碗。口径は十一~二十一センチメートルだが、通常は十三センチメートル前後が多い。掌に載る大きさである。]ほどなるひかり玉、いくらといふ、數《かず》かぎりもなく、とびいでけるほどに、よせしゆ[やぶちゃん注:「寄せ衆」。]、これをみて、

「すはや、城中は、「しによういゐ」[やぶちゃん注:ママ。「死に用意」。]しけるぞや。あの人玉のいづる事を、みよ。」

とて、われもわれも、と見物したりけり。

 かゝるによりて、

「『かうさん』して、城をわたし、一命をなだめ候やうに。」

と、さまざま、あつかひをいれられければ[やぶちゃん注:降伏開城についての種々の条件交渉を示してきたので。]、内藏介、此《この》義にどうじて[やぶちゃん注:「同じて」。同意して。]、事、とゝのふたり。

「さては。」

とて、上下《かみしも》、よろこぶ事、かぎりなし。

 かくて、その日も暮れければ、きのふ、とびし人玉、又、ことごとく、いづよりかは、いでけん、城中、さして、とび、もどりけり。

 これをみる人、いく千といふ、かずをしらず。

 ふしぎなることども也。

[やぶちゃん注:「越中の大津の城とやらむを、佐々内藏介《さつさくらのすけ》、せめ申されし」「大津の城」「大津」は「魚津」の誤り。現在の富山県魚津市内にあった平城。「小津城」の別名があったので、それを誤認したか。講談社「日本の城がわかる事典」によれば、建武二(一三三五)年に、『椎名孫八入道によって築城されたと伝えられている。室町時代の越中国守護の畠山氏に仕え、越中の東半分を勢力下に収めた守護代の椎名氏の居城・松倉城の支城となった。戦国時代、椎名康胤は越中国西部を領有する半国守護代の神保氏の攻勢により苦境に立った際、越後の上杉謙信の傘下に入ることで危機を逃れた。その後、康胤は謙信から離反して越中の一向一揆衆と手を結び、甲斐の武田信玄に与した。このため、椎名氏は謙信に攻められて越中から追放され、魚津城には謙信の部将河田長親が城代として入城した。その後、越前と加賀を制圧した織田信長の軍勢が越中に侵攻し』、天正一〇(一五八二)年には、『越後の前線拠点となった魚津城を舞台に』、『柴田勝家率いる織田方の大軍との間に激戦が繰り広げられた』(「魚津城の戦い」)。『攻城戦が始まって間もなく城は落ちたが』「本能寺の変」が『起こり、信長が討ち死にしたことから』、『織田軍は撤退し、上杉勢により』、『奪回された。翌』天正一一(一五八三)年、『魚津城は態勢を立て直した佐々成政』(ここに出る「佐々内藏介」(天文五(一五三六)年~天正一六(一五八八)年:安土桃山時代の武将。尾張出身。織田信長に仕え、朝倉義景攻略や石山本願寺の一向一揆へ攻撃を行い、越中富山を与えられた。しかし「本能寺の変」後は、豊臣秀吉と対抗し、「小牧・長久手の戦い」で降伏した。秀吉の「九州征伐」後、肥後の領主となったが、秀吉に、失政による肥後一揆の責任を咎められ、切腹を命じられた。なお、彼の通称は「内藏介」ではなく、「内藏助」である)『により』、『再び包囲され、須田満親は降伏して開城。上杉氏による魚津城の支配は終わり、富山城を居城とする成政の持ち城となった。その後、成政は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と対立して、秀吉に攻められ、越中における基盤を失い、肥後国(熊本県)に国替えとなった。成政が去った後、魚津城は前田氏の持ち城となり、青山吉次などが城代をつとめたが、元和の一国一城令により廃城となったとみられている。しかし、加賀藩は城を破却することなく、松倉城同様、米蔵や武器庫として利用し、城郭としての機能を存続させた。城跡には、明治の初めごろまでは堀や土塁などが残されていたが、現在、遺構はほとんど失われてしまっている。城跡は大町小学校(本丸跡)や裁判所などの敷地となっている』とある。魚津城跡はここ(グーグル・マップ・データ)。]

2024/07/14

「疑殘後覺」(抄) 巻二(第八話目) 亡魂水を所望する事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

巻二(第八話目)

  亡魂、水を所望する事

 備州谷野《やの》と云《いふ》所に、介市太夫《かいいちたいふ》と申すもの、夜念佛《よねぶつ/よねんぶつ》に「さんまい」を、まはる事あり。

[やぶちゃん注:「備州谷野」岩波文庫の高田氏の脚注に、『備後甲奴(こうぬ)郡矢野郷。現広島県上下町付近』とある。現在の広島県府中市上下町(じょうげちょう)矢野(グーグル・マップ・データ航空写真)。かなり、山深い地区である。

「夜念佛」夜に念仏を唱えて回向すること。

「さんまい」「三昧」。墓場。]

 そうじてゐ中[やぶちゃん注:「田舍」。]には、「念佛の行」と申《まうし》て、うちにては、さのみ申さず、宵より、夜のあくるまで、「さんまひ[やぶちゃん注:ママ。]」を、かね[やぶちゃん注:「鉦」。]、うちたゝきて、念ぶつして、とをり[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 あるとき、谷野の「さんまい」を、石濱勘左衞門といふ人、ようの事、有《あり》て、夜中過《すぎ》にとをり[やぶちゃん注:ママ。]けるに、石塔、又、「そとば」[やぶちゃん注:「卒塔婆」。]のかげより、年の比《ころ》、はたちばかりにもあるらんとみゆる、「女ばう」の、身には、しろき「かたびら」を、きて、あたまは、をどろ[やぶちゃん注:ママ。「棘(おどろ)」。草木・棘(茨(いばら)が乱れ茂っているいるさま。ミミクリーでまさに「亂れ髪」のことをも言う。]のごとく、みだしたるが、

「この石塔に、あふて、ねがわくは、水を、一くち、たび[やぶちゃん注:「賜び」]候へ。」

とぞ、こい[やぶちゃん注:ママ。「乞ひ」。]にける。

 勘左衞門は、これを見て、

「なんでう、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]は、まよひもの[やぶちゃん注:「迷いひ者」。ここでは、「亡靈」「幽靈」の意。]ゝ人を、たぶらかさんとて、きたるにこそ。」[やぶちゃん注:「なんでう」本来は「何(なん)でふ」が正しい。ここは、感動詞で「何をほざくか! とんでもない!」と、相手の言い分を強く否定する用法である。]

とて、かたな、ひんぬいて、うちければ、物にてもなく、うせたりける。

 それより、あしばやに、そこを、のきて、やどにかへりてより、ふるひつきて、わづらふほどに、はじめは、「おこり」[やぶちゃん注:「瘧」。マラリア。]のやうにありしが、後《のち》、次第におもく成《なり》て、百日をへて、うせたりける。

 この事を、介市太夫は、きゝて、

「さらば。」

とて、かね、うち、くびにかけて、よひより、かの「さんまい」へぞ、ゆきにける。

[やぶちゃん注:「かね、うち、くびにかけて」意味は判るが、言い方として、しっくりこない。「鉦、首に懸けて、打ち」と語る(書く)つもりが、ヅレを生じたものと思われる。]

 あんのごとく、くだんの「女ばう」、いでゝ、いふやうは、

「いかに。ありがたき御念佛《おんねんぶつ》のこゝろざしに侍るものかな。それにつきて、たのみ申《まうし》たき事の候。我、しゝたるきざみに[やぶちゃん注:臨終のその折に。]、あたりに出家も候はず。又、道心[やぶちゃん注:ここは、僧ではないが、仏道に帰依する人の意であろう。]もなきによりて、かみをすらず[やぶちゃん注:「剃(す)らず」。]、そのまゝ『めいど』へ、おもむきしによりて、ながき『ざいごう[やぶちゃん注:ママ。「罪業(ざいごふ)」。]』となりて、うかむ『よ[やぶちゃん注:「世」。]』候はねば、御けちゑん[やぶちゃん注:ママ。「結緣」。ここは「仏教徒による確かな供養」と同義。]に、このかみを、すりてたび候はゞ、『ぶつくわ[やぶちゃん注:「佛果」。ここは「成佛」と同義。]にいたらん事、うたがひなし」

とぞ、申《まふし》ける。

 介市、これをきゝて、

「それこそ、ふびんのしだいなり。やすきことなれども、これに、『かみすり』[やぶちゃん注:「剃刀」。]、なければ、あすのよ、きたりて、すりをろして、えさすべし。」

と申ければ、

「あら、ありがたし。其儀ならば、のど、かはき申《まうし》候まゝ、水を、一口、たび候へ。」

と、いへば、

「こころへ[やぶちゃん注:ママ。]たる。」

とて、はるばる、谷へ行《ゆき》て、「たゝきがね」に、すくふて、亡魂にぞ、あたへける。

 のみて、よろこぶ事、かぎりなし。

 さて、うちわかれて、宿《やど》にかへり、さぶらひしゆ[やぶちゃん注:「侍衆」。]に申しけるは、

「かやうなるふしぎこそ候はね。夕《ゆふ》さり[やぶちゃん注:明日の「夕方」の意。]、まいり[やぶちゃん注:ママ。]て、かみをすり申候あひだ、まつだい[やぶちゃん注:「末代」。]の物語に、よそながら、御けんぶつ、あれ。」

と、かたりければ、

「これこそ、おもしろき物がたりなれ。」

とて、さぶらひしゆ、

「われも、われも、」

と、ゆきて、こゝかしこに、かくれ、ゐにけり。

 さて、介市太夫は、夕べの時分よりも、おそく、ゆきて、念佛しければ、あんのごとく、「女ばう」は、いでむかひけり。

 介市は、これをみて、

「さあらば、是《これ》にて、するべし。」

とて、さて、かしらを、とらへて、念佛を申《まうし》、すゝむる、すゝむる、そろり、そろりと、するほどに、「しのゝめ」も、やうやう、しらみわたり、よこ雲も引《ひき》ければ、人々、四方八方より、たちかゝり、これをみるに、夜は、ほのぼのと、明《あけ》わたりけり。

 さて、介市太夫は、かみをする、かみをする、と、思へば、二尺ばかり有《あり》ける五輪のかしらに、つたかづらのはい[やぶちゃん注:ママ。]まとはり、苔《こけ》の「むしろ」[やぶちゃん注:「莚」。五輪塔の空輪以下を苔がびっしりと覆っていたことを言ったもの。]たるにてぞ、ありける。

 この「かづら」を、よ、ひとよ、「かみすり」にて、すりおとせしなり。

 人人《ひとびと》、

「あるべき事にこそ。」

とて、たけき武士《もののふ》も、これをみて、菩提心ぞ、深くなりにける。

 是にて、成佛しけるにや、かさねて、この「さむまひ[やぶちゃん注:ママ。]」へ、ゆきけれども、そのゝちは、いでざりけり。

[やぶちゃん注:武士らの登場からみて、この介市太夫なる人物は、相応の武将の屋敷に雇われている仏教徒であったことが判る。この話、私は、その場にいたような錯覚を起こした。素敵な怪奇談、というより、往生譚である。]

「疑殘後覺」(抄) 始動 / 巻二(第七話目) 岩岸平次郎蛇を殺す事

[やぶちゃん注:「疑殘後覺」(ぎざんこうかく)は、所持する当該書を抄録する岩波文庫「江戸怪談集(上)」(高田衛編・校注・一九八九年刊)の高田氏の解説によれば、十六世紀末『当時の伽の者によって筆録された』『雑談集』(世間話集)で、『戦国武将をめぐる挿話や、戦陣の間に行われた世間話のありようをうかがうにふさわしい資料として貴重』なもので、『写本』で『全七巻七冊』で全八十五話から成る。『編著者』は『識語』に『愚軒』とあり、そこに「文祿五年暮春吉辰」(「吉辰」は「きつしん」で、「辰の日」ではなく、単に「吉日」の意であるので、これが正しいとすれば、豊臣政権最初の改元年であった文禄の五年三月(グレゴリオ暦で一五九六年三月二十九日から四月二十七日。なお、「文禄」は、この文禄五年十月二十七日(グレゴリオ暦一五九六年十二月十六日)に「慶長」に改元されている)の間に識されたことになるが、当該ウィキによれば、『実際の成立年代は』、『やや下るものと見られている』とあり、『それぞれの話は』、『登場人物が語る「咄」として語られており、内容も怪談・奇談・笑話・風俗話と多岐にわたる』。『実在の人物も多く登場するが、関東・東北・九州の大名は』、『一切』、『登場』せず、『豊臣秀吉に関しては』、『絶賛に近い形で紹介されるが、織田信長については酷評されている』とある。戻って、高田氏は、『原本の成立の時期は、ほぼこの時期』、『文禄年間(一五九二―九六)と考えて妥当と思われる』とされ、『著者愚軒については不詳だが、豊臣秀次側近衆にかかわりのある』「伽の者」『のひとりでああったかとも思われる』と述べておられ、この書は、所謂、「怪奇談集」ではなく、『収録された怪談も、まだ怪談として自立しているのではなく、あくまでも世間話の一端として行われたものであった。近世期』の『怪談集』『以前の〈怪談〉の姿を見るべく、あえて本巻に収録した』とある。

 さて、私は「怪奇談」以外の本書の諸篇を電子化するつもりは、全くない。そもそもこの時代の歴史には、殆んど興味がない上に、秀吉は大嫌いだからである。そこで、私は、岩波文庫が採用抄録した「疑殘後覺」からの十二篇を電子化することとした。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの『續史籍集覽』第七冊(近藤瓶城(へいじょう 天保三(一八三二)年~明治三四(一九〇一)年:漢学者で『史籍集覽』の刊行者)編・昭和五(一九三〇)年近藤出版部刊。リンク先は巻第一巻の「目錄」冒頭)を視認して電子化注することとした。なお、時間を節約するため、上記岩波文庫版の本文をOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴くこととし、その高田氏の脚注も参考にさせて貰うこととした。ここに御礼申し上げる。

 なお、各標題には通し番号がないので、整理するために、標題の前に、私が丸括弧で「巻二(第七話目)」というふうに添えておいた。

 本底本は戦前のもの乍ら、漢字の一部は新字体相当のものが、かなりある。と言うより、漢字表記が極めて少ない。それは忠実に示した。無論、「ひらがな」であるために却って読み難くなっている箇所には、割注で、漢字表記(正字)を示す割注を入れた。また、濁点は全く打たれていないが、これは、余りにも読み難いので、私の判断で濁点を附した。但し、「は」は「ハ」で記されてあるが、「は」で起こした。

 底本には句読点が、一切、ないため、甚だ読み難いので、私の独断で句読点を打ち、字下げ・改行・改段落・記号を自由に追加してある。

 読み(ルビ)は附されていない。私が必要と感じたところには、《 》で読みを添えた。

 踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字表現とした。

 以下の初回の篇は、原書の「巻第二」の「岩岸平次郎虵を殺す事」(同巻の「目錄」では「蛇」は「虵」となっている)で、ここからである。]

 

巻二(第七話目)

  岩岸平次郎、蛇を殺す事

 美濃國へ、「岩成《いはなり》」かた[やぶちゃん注:「方」。]より、用の事、ありて、くだりけるが、山中、ふかくいりて、やうやう、山をうち越え、平の[やぶちゃん注:「平野(ひらの)」。一般名詞。]に、いでけるに、谷のかたはらより、「まむし」の、きたりて、なごりもなく、とびかゝるほどに、「わきざし」を引《ひき》ぬいて、ほそくびを、

「ちやう。」

と切り、きりすまして、なにの事もなく、そろそろと、ゆくほどに、岩村といふ在所に付(つき)にける。

[やぶちゃん注:「岩成」岩波文庫で高田氏は『備後国深津郡岩成郷。現』広島県『福山市内』とされる。この辺りなのだが(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)、ちょっと「美濃國」とは距離が離れ過ぎていて、私には、気になる。と言っても、江戸以前に遡る「岩成」或いは「石成」の地名は、ピンとくるものも、ないのだが。一瞬、愛知県春日井市岩成台(いわなりだい)を考えたが、「ひなたGPS」で見ると、戦前の地名には「岩成」の影も形もないので、違う。

「なごりなく」「名殘もなく」。高田氏の脚注に、『容赦なく、いきなり、の意』とある。

「岩村」岐阜県恵那市岩村町(いわむらちょう)。]

 こゝにて、客僧[やぶちゃん注:ここは修行僧の意。]の、あとより來けるが、いふやうは、

「なふなふ、それへ、おはします旅人、御身は、今日《けふ》、殺生《せつしやう》を、し給ふか。」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「なふなふ」「なうなう」が正しい。感動詞「なう」を重ねた「呼びかけ」の言葉。「もしもし」。平安中期には既にあった語である。]

あらそう[やぶちゃん注:ママ。]べきにあらざれば、

「なかなか。道に蛇のありて、我をさゝん[やぶちゃん注:「刺さん」。蛇が「咬む」ことを「刺す」と称するのは、ごく一般的な表現である。]とするほどに、たちまちに、いのちを、とどめて候。」

と申《まうす》。

「げにも。さあると、みへて候。御身のいのちは、こよひのほどと、おぼしめせ。あけなば、いのちを、とられたまふべき。」[やぶちゃん注:最後は詠嘆の連体中止法。]

と、いへり。

 平次郎、大《おほい》に、おどろき、

「それは、何として、死ぬべき。」

と、いふ。

 客僧の、いはく、

「あまり、いたはしく候へば、御命《おいのち》を救ふて、まいらせん。」

と、いふ。

平次郎、

「それは。かたじけなし。」と云《いふ》。

「さあらば、『やど』へ、つき給へ。宿《やど》にて、事を行ひはんべらん[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申せば、

「もつとも。」

とて、打《うち》ぐして、岩村の宿へぞ、付《つき》にける。

 やがて、きやく僧は、行ひをして、そのゝち、いふやうは、

「これの、汲みをく[やぶちゃん注:ママ。]水桶《みづをけ》を、たれ人《ぴと》も、いらひ給ふな。あした、あけて、底を見給へ。いさゝかも、こよひ、この水を、のみたまはゞ、たちまち、うせたまはん。」

と、いふほどに、

「かしこまる。」

とて、おきにける。

[やぶちゃん注:「行ひをして」ある修法(しゅほう)を執り行い。

「たれ人《ぴと》も、いらひ給ふな」「貴殿は勿論のこと、その外の人であろうと、誰(たれ)も、この水槽に触れたり、弄(もてあそ)んだりさせては、なりませぬぞ!」。]

 さて、夜あけて見ければ、水桶のそこに、へびのあたま、め[やぶちゃん注:「眼」。]を、見いだしながら[やぶちゃん注:眼球を飛び出させた状態で。]、しして、ゐたりけり。

「これは。さても、ふしぎなる事かな。」

と、いへば、きやく僧、

「さればこそ。昨日《きのふ》、御身のあゆみ給ふあとより、このくび、ひたもの[やぶちゃん注:副詞。「無暗に」。]、とひて[やぶちゃん注:「跡(と)ひて」。跡(あと)を追って。]、つけてゆくほどに、さてこそ、それがし、蹟ひしなり」といふほどに、「さてもふしぎなる事かな。御かげによりて、いのち、ひろひ申す。この水は、さだめて、どくすい[やぶちゃん注:「毒水」。]にて候はん。」

と、いへば、客さう、

「『をけ』ともに、谷へ、すて給へ。」

と、あるほどに、

「かしこまる。」

とて、ふかき「ふち」へぞ、ながしにける。

 かならず、「しう心[やぶちゃん注:ママ。「執心(しふしん)」。]」ふかき、「どくはみ」[やぶちゃん注:「毒蛇(どくはみ)」]なれば、かやうの事は、よく聞《きき》おくべき事なり。

 このあたま、はい[やぶちゃん注:ママ。「灰(はひ)」。]にやきて、ちらせしなり。

 おそろしき事どもなり。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 訶黎勒

 

Mirobarannoki

[やぶちゃん注:上部に種子三個体が描かれてある。]

 

かり ろく 訶子《かし》

 

訶黎勒

 

ヲヽリイレツ

 

本綱訶子生西域今嶺南皆有而廣州最盛樹似木槵而

花白子形似巵子橄欖青黃色皮肉相着七八月實熟時

收之以六路者爲佳六路者卽六稜也【或多或少者是𮦀路勒也】皆圓

[やぶちゃん注:「𮦀」は「雜」の異体字。]

而露文【或八路至十三路者號榔精勒濇不堪用】未熟時風飄墮者謂之

隨風子

嶺南風俗有佳客至則用新摘訶子五枚甘草一寸破之

水煎若新茶賞之今亦貴此湯然煎之不必盡如昔時之

法也

訶子【苦酸温】 止腸澼久泄赤白痢消痰下氣化食實大腸

 伹同烏梅五倍子用則收斂同橘皮厚朴用則下氣同

 人參用則能補肺治咳嗽【伹欬嗽未久者不可驟用之爾】

[やぶちゃん注:割注の「欬」は「咳」の異体字。]

 

   *

 

かり ろく 訶子《かし》

 

訶黎勒

 

ヲヽリイレツ

 

「本綱」に曰はく、『訶子《かし》は、西域に生《しやう》ず。今、嶺南、皆、有りて、廣州、最も盛《さかん》なり。樹、木槵(つぶのき)に似て、花、白し。子《み》≪の≫形、巵子(くちなし)・橄欖《かんらん》に似、青黃色。皮・肉、相《あひ》、着く。七、八月、實、熟する時、之れを、收《をさむ》。六路の者を以つて、佳なりと爲す。六路とは、卽ち、六つ稜(かど)なり【或いは、≪それより≫多き、或いは、少き者、是れ、「𮦀路勒《ざつろろく》」なり。】。皆、圓《まろ》くして、文《もん》を露はす【或いは、八路≪より≫十三路に至る者、「榔精勒《らうせいろく》」と號す。濇《しぶく》≪して≫、用ひるに堪へず。】。未だ熟せざる時、風に飄《ただよひ》て、墮《おつ》る者、之れを、「隨風子」と謂ふ。』≪と≫。

『嶺南の風俗に、「佳客、至ること有れば、則ち、新たに、『訶子』五枚を摘(むし)り、用ひ、「甘草」一寸≪とともに≫、之れを破りて、水≪にて≫煎じ、「新茶」のごとく、之れを賞(もてな)す。」≪と≫。今、亦、此の湯、貴《たふと》ぶ。然≪れども≫、之れを煎≪ずる法(はう)は≫、必≪ずしも≫盡《ことごと》く、昔時《せきじ》の法のごとくならざるなり。』≪と≫。

『訶子【苦、酸。温。】 腸澼《ちやうへき》・久泄《きうせつ》・赤白痢《せきはくり》を止め、痰《たん》を消し、氣を下《くだ》し、食を化《くわ》し、大腸を實《じつ》す。伹《ただし》、「烏梅《うばい》」・「五-倍-子《ふし》」と同じく用ひれば、則ち、收斂《しうれん》す。「橘皮《きつぴ》」・「厚朴《かうぼく》」と同じく用ふれば、則ち、氣を下す。「人參」と同じく用ふれば、則ち、能《よく》、肺を補して、咳-嗽《がいそう/せき》を治す【伹し、欬嗽《がいそう/せき》の、未だ、久しからざる者、之れを、驟《にはかにし》て用ふるべからざるのみ。】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「訶黎勒」「かりろく」「訶子《かし》」は、

双子葉植物綱フトモモ目シクンシ科 Combretaceae(中文名「使君子」)モモタマナ属ミロバランノキ(英語:myrobalan/中文名:「訶子」) Terminalia chebula 、及び、その果実と、その生薬名

を指す。「維基百科」の「訶子」(画像もある)を見ると、『元来はアラビア語』(ラテン文字転写)『Halilehで、この語は「本草綱目」の解釈に拠れば、サンスクリット語で「天主が持ち来れるもの」の意である』というようなことが書いてあるようだ。分布は、『ベトナム・ラオス・カンボジア・タイ・ミャンマー・マレーシア・ネパール・インド、及び中国の雲南省に分布する。標高八百~千八百四十メートルの高地の疎林に植生する』とあり、『高さ三十メートルになり、灰黒色から灰色の樹皮を持ち、葉は互生、又は、ほぼ対生で、楕円形から長楕円形を成し、腋窩又は末端に穂状花序があり、円錐花序を形成することもある。硬い核果は、卵形、或いは、楕円形を成し、青色で、無毛。成熟すると、濃い茶色に変わる。開花期は五月、結実期は七月~九月』とある。而して、この実は、『一般的に使用される漢方薬、及び、チベットの生薬剤であり、腸を収斂させ、肺を引き締め、咳を和らげる効果があり、一般的に使用される処方としては、「有真人養臟湯」等などがある』とする。なお、変種の微毛訶子 Terminalia chebula var. tomentella が、『ミャンマーと雲南省に分布する』ともあるので、これも比定種に入れる必要がある。因みに、日本語の同種のウィキは存在しない。しっかりした邦文のページは、「国際農林水産業研究センター JIRCAS)」公式サイト内の「タイ地域野菜データベース」の「Terminalia chebula Retz. (Combretaceae)」のページであろう。それによれば(以下はタイでの個体群の総説であることに注意)、『中型、高さは最大』二十五メートル、『見た目が様々な落葉樹』で、『幹は通常は短く』、『円筒形、長さ』五~十メートル。『樹冠は円形、枝は広がる。樹皮は通常は縦方向の亀裂が生じており、木質の鱗片を持つ。小枝は錆色の絨毛またはほぼ無毛』。葉は『互生葉または対生葉、単葉、薄く』、『革質、卵形または楕円状倒卵形、』七~十二センチメートル『×』四~六・五センチメートル、『基部は円形、葉先は鈍形からやや鋭形、全縁、葉裏は短毛。葉柄の長さは最大』二センチメートル、『葉身の基部に腺が』二『本』ある。花序は『穂状花序が腋生』し、『長さ』五~七センチメートル、『単一花序または稀に穂状円錐花序』。花は『直径約』四ミリメートル、『黄色がかった白色』で、『不快な匂いを放つ』。萼は五裂し、花冠は『なし』。雄蕊は十本で、『伸び出ている』。子房は『下位』にあり、一『室』のみ。果実は、『倒卵形または長楕円状楕円形の核果』で、『長さ』は二・五~五センチメートルで、『大よそ』五『角形』を成す。『成熟すると』、『黄色からオレンジ色がかった褐色』に変じ、『無毛』とある。伝統薬の薬効としては、『喉の痛み, 腎機能低下』の改善が挙げられ、「機能性」の項には、『抗酸化活性』・『肝保護作用』・『神経保護作用』・癌『細胞株に対する細胞毒性』・『抗糖尿病活性』・『抗炎症作用』とある。『機能性成分』は『フラボノイド』・『タンニン』・『フェノール酸』とする。以下、『標高千五百メートル『までの落葉混交林に分布』し、『粘土質から砂質まで』、『様々な土壌で育つ。種子播種により繁殖する。種子休眠は核(stone)を長時間発酵させるか、または胚を損傷させることなく核の広がった端部を切り取り、その後』、『冷水に』三十六『時間さらすことで打』ち『破』ることが『できる。果実は雨期の終わりに収穫される』。『鮮な果実は生で、または保存食として「サモー チェー イム(果実のシロップ漬け)」に利用される。乾燥した果肉に含まれるタンニンの量は平均して』三十~三十二『%である』とあった。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「訶黎勒」(ガイド・ナンバー[086-18a]以下)からのパッチワークである。

「西域に生ず」東洋文庫の後注で、『訶子は南方の植物である。『新註校定国訳本草綱目』(春陽堂)の木島正夫氏の注によれば、「その產地は中國南部、ベトナム、タイ、ラオス、ビルマ、インドなど南方地域であり……」とある。すれば』、『ここの西域に産するは』、『誤りであろう。『本草綱目』の訶黎勒の項にも西域の文字はない。伝写の際の誤りであろうか。』と述べておられる。

「木槵(つぶのき)」双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科ムクロジ属ムクロジ Sapindus mukorossi 先行する「無患子」を参照。

「巵子(くちなし)」リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ Gardenia jasminoides の異名漢字表記。その強い芳香は邪気を除けるともされ、庭の鬼門方向に植えるとよいともされ、「くちなし」は「祟りなし」の語呂を連想をさせるからとも言う。真言密教系の修法では、供物として捧げる「五木」(梔子・木犀・松・梅花・榧(かや:裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera )の五種の一つ。

「橄欖《かんらん》」ムクロジ目カンラン科カンラン属 カンラン  Canarium album ウィキの「カンラン科」によれば、『インドシナの原産で、江戸時代に日本に渡来し、種子島などで栽培され、果実を生食に、また、タネも食用にしたり油を搾ったりする。それらの利用法がオリーブ』(シソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea )『に似ているため、オリーブのことを漢字で「橄欖」と当てることがあるが、全く別科の植物である。これは幕末に同じものだと間違って認識され、誤訳が定着してしまったものである』とある。

「嶺南」中国の南部の南嶺山脈(「五嶺」)よりも南の地方を指す古くからの広域地方名。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当する。部分的に「華南」と重なっている。地方域は参照したウィキの「嶺南(中国)」にある地図を見られたい。

「甘草」マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza当該ウィキによれば、『漢方薬に広範囲にわたって用いられる生薬であり、日本国内で発売されている漢方薬の約』七『割に用いられている』とある。

「腸澼《ちやうへき》」東洋文庫の割注に『不節制による腹痛下痢』とある。

「久泄《きうせつ》」同前で『慢性下痢』とある。

「赤白痢《せきはくり》」前項「没石子」の最終注参照。

「烏梅《うばい》」東洋文庫の割注に『半熟の梅の実を採り』、『煙で黒くいぶしたもの』とある。

「五-倍-子《ふし》」東洋文庫の後注で、『塩麩子(ぬるで)の木の葉に寄生した細虫が、中に入ってつくった小毬(虫部卵生類參照のこと)。』とある。「塩麩子(ぬるで)」はムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis である。私は既に「和漢三才圖會」の「蟲部」は、ブログのこちらで、総て、電子化注してある。従って、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 五倍子 附 百藥煎」を参照されたい。

「橘皮《きつぴ》」(キッピ)は、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana や、ミカン属ウンシュウミカン Citrus unshiu などの成熟果実の果皮を乾燥したもので、漢方では、理気・健脾・化痰の効能があり、消化不良による腹の張りや、吐き気、痰多くして胸が苦しい際に用いられる。

「厚朴《かうぼく》」時珍の言うそれは、モチノキ(黐の木)目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis である。これに同定比定した私の考証は、先行する「厚朴」の冒頭注を、必ず、参照されたい。

「人參」言わずもがなであるが、所謂、「朝鮮人蔘」(ちょうせんにんじん)、標準和名は「御種人蔘」(おたねにんじん)、セリ目ウコギ(五加木)科トチバニンジン(栃葉人参)属オタネニンジン Panax ginseng である。]

2024/07/13

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 没石子

 

Motusekisi

[やぶちゃん注:上部に、虫瘤(むしこぶ:後注参照)が、三個体、描かれてある。]

 

もしくし   無食子

       黑石子

没石子    麻荼澤

 

モツ シツ ツウ

 

本綱没石子生波斯及大食國呼稱摩澤樹樹髙六七丈

圍八九尺葉似桃而長三月開花白色心微紅子圓如彈

丸初青熟乃黃白蟲蝕成孔其樹一年生拔屢子大如指

長三寸上有叚中仁如栗黃可敢次年則生無食子間年

[やぶちゃん注:「叚」は「本草綱目」では(「漢籍リポジトリ」のこちらの「無食子」の項の「集解」の一節。ガイド・ナンバー[086-17a]の七行目後半を見よ)、「股」である。東洋文庫訳では、『段』として右傍注でママ注記を打ち、割注で『(段)』とする。「叚」では意味がとれないので、「股」で訓読する。

互生也異產如此大明一統志云出三佛齋國没石子樹

如樟開花結實如中國茅栗

子【苦温】治赤白痢益血和氣安神烏髭髮凡合他藥染鬚

 造墨家亦用之【凡使勿犯銅鐵並被火驚】

 

   *

 

もしくし   無食子《むしよくし》

       黑石子《こくせきし》

没石子    麻荼澤《まとたく》

 

モツ シツ ツウ

 

「本綱」に曰はく、『没石子《もつせきし》[やぶちゃん注:私は標題にある「もしくし」という読みをここで使用することに激しい違和感がある。この読みは、恐らく「没石子」の「没」に、異名の「無食子」の「食子」を繋げた「没食子(もつしよくし)」の音を、「もっしょく」に転じ、その音の中の「促音」と「拗音」をカットした縮約であろうと考えているからである。則ち、この「没石子」の読みとしては、正しくないと考えるからである。実際に、ネットで手に入れた、本邦の信頼出来る漢方の方剤で採録している漢字と読み方の一覧表でも、「没石子丸」は「モツセキシガン」と読まれているからである。但し、注で示すが、漢方での名前は「ショクモクシ」(植物名ではなく、ブナ科ナラ属の若枝のつけ根に蜂の一種が寄生して生じた虫瘤(むしこぶ)を乾燥したもの)ではある。だからと言って、当時の日本の本草家や医師が、この漢字文字列で、普通に「シヨクモクシ」と読んでいたというのは、何となく嘘臭いとしか思えないからである。]波斯(パルシヤ)[やぶちゃん注:ペルシャ。]、及び、大食國(だしよくこく)[やぶちゃん注:アラビアやトルコ等のイスラム教徒の国家群。]に生《しやう》ず。呼びて、「摩澤樹《またくじゆ》」と稱す、樹の髙さ、六、七丈、圍《めぐり》、八、九尺。葉、桃に似て、長し。三月、花を開き、白色≪なり≫。心《しん》≪は≫、微《やや》紅≪なり≫。子《たね》、圓《まろく》して、彈丸のごとし。初め、青く、熟せば、乃《すなはち》、黃白≪たり≫。蟲、蝕《むしばみ》、孔《あな》を成《な》≪せり≫。其の樹、一年は、「拔屢子《ばつるし》」を生ず。大いさ、指のごとく、長さ、三寸。上に股、有り、中の仁《たね》、栗のごとく黃にして、敢《く》ふべし。次の年は、則ち、「無食子」を生ず。年を間(へだ)て≪て≫、互《たがひ》に生ず。≪「拔屢子《ばつるし》」と「無食子」と、≫異產《いさん》≪すること≫、此くのごとし。「大明一統志」に云はく、『三佛齋(さぶさい)國に出づる。没石子の樹、樟(くす)のごとく、花を開き、實を結ぶ。中國の茅-栗(しばぐり)のごとし。』≪と≫。

『子《み》【苦、温、】赤白痢《せきはくり》を治す。血を益し、氣を和《なごま》せ、神《しん》[やぶちゃん注:「神經」。]を安《やすんじ》、髭《ひげ》・髮《かみ》を烏《くろ》くす。凡そ、他藥と合《あはせ》、鬚《ひげ》を染《そ》む。造-墨-家(すみや)にも、亦、之れを用ふ【凡そ、使ふに、勿銅鐵≪にて≫犯し、並びに、火に驚かせること、勿《な》かれ。】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、解説本文の中で、『没石子(ブナ科モッショクシ)』としてあるが、ブナ科に和名「モッショクシ」などという種は存在しないから、この割注はアウトである。既に割注で述べた如く、これは、諸辞書を総合すると、「もっしょくし」「ぼっしょくし」と読み、「食べられない果実」の意であって、植物名ではなく、

小アジア産のブナ目ブナ科ブナ属 Fagus ・同ブナ科 Fagaceaeのコナラ亜科コナラ属コナラ属 Quercusのカシ類・同コナラ属コナラ亜属 Quercus の内で落葉性の広葉樹の総称であるナラ類の若枝に、膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目タマバチ上科タマバチ科タマバチ属のタイプ種であるインクタマバチ Cynips gallaetinctoriae が、産卵の際、刺すことによって生ずる虫癭(ちゅうえい:虫瘤)

を指す漢語であり、直径は約二センチメートルセンチほどの球状を呈し、タンニン酸やインクの原料となる

とあった。遂に「和漢三才圖會」の木本類の項目に植物ではないものが、登場した最初である。しかし、まあ、個人ブログらしい「iroai.jp」の「染色における没食子(もっしょくし)」――ドン!――と掲げられている四つの巨大な実と見紛う画像(「Wikimedia Commons」のもの)を見るなら、こりゃ、何かの樹の実だと思うことは、止むを得ないとは思うね。ご覧あれ。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「無食子(ガイド・ナンバー[086-17a]以下)からのパッチワークである。

「大明一統志」複数回既出既注だが、再掲すると、明の全域と朝貢国について記述した地理書。全九十巻。李賢らの奉勅撰。明代の地理書には先の一四五六年に陳循らが編纂した「寰宇(かんう)通志」があったが、天順帝は命じて重編させ、一四六一年に本書が完成した。但し、記載は、必ずしも正確でなく、誤りも多い。「維基文庫」の同書の「卷九」の「三佛国【在占城国南五日程其朝自广以达于京を見ると、「土産」の項に(表記に手を加えた)、

   *

没石子【樹如樟开花結實如中国茅栗】

   *

とあった。「茅-栗(しばぐり)」はブナ目ブナ科クリ属モーパングリ Castanea seguinii のことである。「維基百科」の「茅栗」によれば、『別名を「野栗子」(江蘇省・浙江省)、「毛栗」(南京・湖南省)、「毛板栗」(湖北省)としても知られ、中国の固有種である。中国本土の武陵山脈南斜面以北から大別山脈以南に広く分布し、標高四百メートルから二千メートルの丘陵地や山腹の低木に植生する』とある。

「赤白痢《せきはくり》」東洋文庫の後注に、『温熱の毒のため、腸内に気が滞り、また腸壁が傷つけられ、ときには白く、ときには赤い血』に『膿のまじった下痢をする症』状とある。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十四 ねずみのふくを取報來り死事 / 「善惡報はなし」正規表現オリジナル注~了

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。本篇は、第二参考底本は最初の四行分のみが視認出来る他は、それ以降は下部が大幅に破損してしまっているため、第一参考底本を参考に電子化するしかなかった。なお、本篇を以って、「善惡報はなし」は終っている。]

 

 㐧十四 ねずみのふくを取《とり》、報(むくい)來り、死(しぬる)事

〇都とうじの邊(へん)にて、さる農人(のうにん)、はたを、うちけるに、土手(どて)より、ねずみ、一つ、出《いで》て、錢(ぜに)を一文(《いち》もん)、をきて[やぶちゃん注:ママ。「置きて」。以下同じ。]、もとのあなへ、かへりぬ。

 其次(《その》つぎ)に、また、一つ、出て、みぎのごとく、錢を、をきて、かへりぬ。

 䑕(ねづみ)、五、六十も出《いで》て、次㐧次㐧《しだいしだい》、ならぶる。

 此男、ふしぎに思ひ、見る所に、

「ひた」

と持《もち》て出《いづ》る。

『いかさま、とらばや。』

と、おもひ、やがて、かきよせ、皆、取《とり》てけり。

 又、ねずみ、出《いで》て、錢の、なき事を、ふしぎさうにして、かへり、一つのねずみ、ちいさき「つぼ」を、一つ、くわへ[やぶちゃん注:ママ。「啣(くは)へ」。]出《いで》て、をのれと[やぶちゃん注:ママ。]、手を、「つぼ」の中へ、さし入《いれ》て、かへる。

 次㐧次㐧[やぶちゃん注:後半は原書では、踊り字「〱」。]、出《いで》て、手をさし入て、かへる。

 此男、つくづく、みて、

『ふしぎをする事かな。』

と、おもひ、

『いか成《なる》事か、しつらん。』

と、おもひ、をのが[やぶちゃん注:ママ。]手を、さし入てみるに、別の事なく、それより、家に、かへりしが、其ゆび、何(どこ)ともなく、次㐧に、くさり入《いり》て、四、五日の中《うち》に、手くびより、くさり、おちけり。

 家(か)しよく、ならずして、後には、乞食と也《なり》[やぶちゃん注:漢字はママ。]、終《つひ》に、としへて、かつゑ、死《しに》けり。

「扨《さて》は。鼠の『むくひ』なり。」

と、人、口〻《くちぐち》に、いひあへり。

                 萬屋庄兵衞【開板】

[やぶちゃん注:最後の「【開板】」は二行割注で、第一参考底本では、右から左に横書になっており、全体が、下二字上げインデントである。

「家(か)しよく」「家職」(=家業:この場合は農耕)を考えるが、私は「稼穡」(穀物を植えることと収穫すること。 則ち、農業)の方が、しっくりくるように感じられた。本書では、漢字の当て字も稀にあり、多くの漢字とすべき部分が、読者の便を考えて、ひらがなにしてある箇所が甚だ多いから、「稼穡」でもよいと考えている。

 なお、第一参考底本の吉田幸一氏の巻末の本書の解題のここ(右ページ)によれば、本書が『諸国咄的怪異小説であ』り、ロケーションは、東は『常陸、下総、下野』、北陸は『能登、佐渡』、西は『備州、石見、九州の筑後にまで及んでゐる』ことから、不詳の作者について、『仏教的な因果応報譚であることゝ併せて、諸国』『遍歴の経験をもつた僧侶の著述であらう』と推定され、『各はなしは聞書の形式をとり、その敍述の方法といひ、内容といひ』、『正三』(しょうさん)『道人の聞書たる「因果物語」と似てゐる。或ひは』(ママ)『「因果物語」を模した作品と言つても過言でないと思ふ』と述べておられることを附記しておく。因みに、そこで吉田氏が示された、鈴木正三「因果物語」は、片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版を底本として、このブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」で、既に二〇二二年十月に全電子化注を終えているので、未読の方は、どうぞ。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十三 同行六人ゆどの山ぜんじやうの事幷内一人犬と成事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の「ぜんじやう」(「禪定(せんぢやう)」:ここは、「修験道に於いて、白山・立山などの高い霊山に登って行う修行」を指す)はママ。]

 

 㐧十三 同行(どうぎやう)六人、ゆどの山(さん)、ぜんじやうの事幷《ならびに》内《うち》、一人、犬と成《なる》事

○寬文元年[やぶちゃん注:一六六一年。]の事成《なる》に、「あふみ」のもの、三人、丹波(たんば)のもの、二人、「かわち」のもの、一人、以上、六人、同道(どうだう)にて、ゆどの山へ、あがりける。

[やぶちゃん注:「ゆどの山」湯殿山。現在の山形県鶴岡市、及び、同県西村山郡西川町にある、標高千五百メートルの山。月山・羽黒山とともに「出羽三山」の一つとして修験道の霊場である。ここ(国土地理院図。「出羽三山」を南北(南に湯殿山と月山、北に羽黒山)に入れた)。]

 元來(もとより)、「れいげん」あらたなる[やぶちゃん注:「あらたかなる」に同じ。]山なれば、いづれも淸淨(しやうじやう)けつさい[やぶちゃん注:「潔齋」。]なり。

 いづれも、をよそ[やぶちゃん注:ママ。]、坂(さか)、過半(かはん)あがると、おぼしき内に、江州(がうしう)のものゝうち、一人、かつて、見えず。

 をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、ふしぎの思ひを、なしける所に、いづくともなく、白き犬、一つ、來りて、さきだつて、ゆく。

 何《いづ》れも、山を、めぐるに、此犬も、ともにはなれずして、

「ひた」

と、付《つき》まとひて、行く。

 扨《さて》、「大日御はうぜん」[やぶちゃん注:湯殿山の別当寺であった両部大日如来を祀った湯殿山大日坊。明治になって、おぞましき廃仏毀釈の結果、湯殿山は没収され、さらに焼き討ちで焼失、昭和一一(一九三六)年に規模を縮小して移転している。その現在地の東南東直近の、この第十二代景行天皇の皇子であった御諸別皇子(みもろわけのおうじ)の陵墓に植えた県指定天然記念物の樹齢千八百年の老杉「皇壇(おうだん)の杉」(グーグル・マップ・データ)のある位置にあった。]に參りて、それより下向(げかう)しけるにも、かの犬、離れず。

 いづれも、一人、見えざる事を、いよいよ、ふしぎにおもふ所に、くだんの犬、人の、物いふごとく、いひて、

「かたがたは、一人、見えざる事を、『ふしん』し給ふ事、もつとも也。其《その》見えざるは、我《われ》也。はづかしながらかたり參らせん。我、親に不孝の『つみ』、あり。其《その》『いしゆ』[やぶちゃん注:「意趣」。]は、親、ぞんしやう[やぶちゃん注:「存生」。]の時、さまざまの『なんぎ』[やぶちゃん注:「難儀」。]にあはする事、たびたびなり。されば、いつしやう[やぶちゃん注:「一生」。]の内、一日もやすからしめず。よろづにさからひ、こゝろに、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、親とおもふ事も、なく、ある時はあつかう[やぶちゃん注:「惡口」。]し、『いつまで、ながらへありけるぞ、はやくさり給へかし。』と、おもひ、かくのごとくの『ねんりよ』[やぶちゃん注:「念慮」。]、ふかくして、其むくひによりて、今、此《この》山にて、犬と、なりたり。我身の事は、身よりいだせる『とが』[やぶちゃん注:「咎」。]なれば、せんかた、なし。されども、心にかかる事は、故鄕(こきやう)にありつる妻子(さいし)の、なげかん事、ふびんに候。『われは、業力(ごうりき[やぶちゃん注:ママ。])の犬となりて、山に、ひとり、とゞまる也。我《わが》あと、ねんごろに、とふて、くれよ。』と、かたりて、たべ。なごり、おしく[やぶちゃん注:ママ。]候。」

と云ひて、きなるなみだ[やぶちゃん注:「黃なる淚」。嘆き悲しんで流す涙。多く、獣の涙に言う語で、既に南北朝期の「太平記」に用例がある。]を、

「はらはら」

と流して、猶、山深く、入《いり》にける。

 いづれも、あはれにおもひ、皆、なみだをぞ、ながしける。じせつ[やぶちゃん注:「時節」。その時の彼の境涯の有様。]とは申《まうし》ながら、こきやうにて、「いぬ」ともならずして、此の山に詣でて、「いぬ」となりける事こそ、ふしぎなれ。

 さればこそ、「しやうじやうけんご」の御山へ、不孝(ふかう)むざん[やぶちゃん注:「無慚」。]のともがらが、さんげ[やぶちゃん注:「懺悔」。]の心もなき身として、「ぜんぢやう」するこそ、もつたいなし。かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、世の、みせしめに、やがて、むくひの犬と、なさしめ給ふ。

 あさましき次㐧ならずや。をそるべし、をそるべし[やぶちゃん注:ママ。後半は原本では踊り字「〱」。]。

 此のはなし、少しも、僞(いつは)りなき、よし。

[やぶちゃん注:この一篇、ロケーションもさりながら、私は、最後の道話を除いて、モノクロームの強いリアルな映像を見るような、静謐乍ら、強い印象を与える傑作と思う。個人的には、これが全話柄の内の白眉と言えると感じた。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十二 わきざし衣類をはぎ取うりあらはれ死罪にあふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の読み「いるい」はママ。]

 

 㐧十二 わきざし・衣類(いるい)をはぎ取《とり》、うり、あらはれ、死罪(しざい)に、あふ事

○三河の人、遠江(とをとをみ)へ、ゆきけり。

 兩国(りやうごく)のさかい[やぶちゃん注:ママ。]にて、ある「ばかもの」ありて、此男を、をし[やぶちゃん注:ママ。]ふせて、きる物[やぶちゃん注:「着る物」。]・「わきざし」まで、はぎ取て、すぐに、三河へゆき、さる「ふるてや」[やぶちゃん注:「古手屋」。古着や古道具を売買する店。]へ、はいりて、此二《ふた》いろを、うりけり。

 亭主、出合《いであひ》、きる物・わきざしを見て、

『是は。まさしく、我子の「わきざし」・きる物なり。さては。かれが、はぎ取《とり》て、きたるらん。』

と、おもひ、

「其方は、いか成《なる》人にて、いづくへ、とをり[やぶちゃん注:ママ。]給ふ。」

と、とへば、

「それがしは、是より、はるか、をんごくのものにて候が、國本(くにもと)へ、かへるべき「ろせん」[やぶちゃん注:「路錢」。]に、さしつまり、是を、うる也。」

と、こたへける。

 ていしゆ、きゝて、

「もつとも。さも、あるらん。かふて参らせん。きる物の事は、べちに、めきゝも、いらず候。わきざしは、我ら、ぞんぜぬ事なれば、人に見せて、其後、きわめ申さん。是に、しばらく待《まち》給へ。」

とて、さけを、いだし、すゝめなどし、すかさゞるやうに、もてなし、扨《さて》、亭主は、となりへ、ゆき、

「しかじかの事あり。」

と、かたれば、

「さらば。」

とて、何《いづ》れも「ちゐん」かた[やぶちゃん注:ママ。「知音(ちいん)方」。]、彼是(かれこれ)、四、五人ばかり、來りて、まづ、此ものを、かこみをき[やぶちゃん注:ママ。]て、さまざま、せんぎしけるに、此もの、

「しさい、なき。」

よしを、たつて、あらそひける。

「さらば。」

とて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、奉行所ヘ、うつたヘける。

 奉行所にて、いろいろ、がうもん[やぶちゃん注:「拷問」。]にあひ、やがて、白狀しける。

「さては。僞(いつは)りもなき、とがにん也。」

とて、其まゝ、死罪に、おこなはれける。

 かやうなるむくひは、世に、おほき事也。其衣類・わきざし、他所へも持(もち)てゆかずして、なんぞや、其ぬしのもとへ、持参する事は、是、いふばかりなき天罸なり。をそるべし、をそるべし[やぶちゃん注:ママ。原本は後半は踊り字「〱」。]。

 是は、「とをとをみ」の人の、はなし也。

[やぶちゃん注:本文には、書かれていないが、古手屋の主人の子の安否が記されておらず、主人も、生存を頼みとするなら、奉行所に突き出す前に、それをこそ、糺すであろうに、それが行われておらず、奉行所も詮議一決で死罪としているところから、この息子は殺されているものと推測される。本書は、全体に、そうした肝心のリアルな人情・感情表現の部分に、欠落があるものが、先行する話に於いても、かなり目立つ。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十一 妄㚑とくみあふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

  㐧十一 妄㚑(まうれい)と、くみあふ事

○近年(きんねん)、「あふみ」在所(ざいしよ)、其人の名も失念しける。

 邪見のものにて、其さとのものどもは、いふに及(およば)ず、りんがう[やぶちゃん注:「隣鄕」。]のものまでも、にくみそねむ下人に、左介と申《まうす》もの、あり。

 四、五才の比より、飼(かい[やぶちゃん注:ママ。主家(恐らく先代の主人だろう)が養っていたことを言う。])をきたるものなり。

 ある時、此佐助、すこしの、あやまりあるを、主人、ふくりう[やぶちゃん注:「腹立」。]のあまりに、まくらを、もつて、なげうちけるに、あたるとひとしく、聲をも、たでず、死(しに)けり。

[やぶちゃん注:「まくら」。状況から見て、完全な「木枕」であろう。籾殻などを布で包んだ円筒状のものを木製の台の上に乗せたものもあるが、基部のそれは、固い安定の良い相応の大きさの木材で出来ていたから、直近から投げ、頭部を直撃すれば、打ち所によっては、死んでも、おかしくはない。]

 其後、此下人、口おしく[やぶちゃん注:ママ。]や、おもひけん、よなよな、來(きたつ)て、せむる事、たへがたし。

 主人、あまり、「めいわく」し、いろいろ、「きたう」し、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、「やふだ」[やぶちゃん注:「屋札」。岩波文庫の高田氏の脚注に、『戸口や窓にはる御符』とある。]を、をし[やぶちゃん注:ママ。「貼(お)し」。]けるに、是に、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]てや、四、五日も、來らず。

 ある夜、用ありて、うらへ、出《いで》ければ、何ともしれず、うしろより、

「ひた」

と、だく[やぶちゃん注:「抱く」。]。

「あつ。」

と、おもひ、ふりかへりて、引《ひつ》くみ、

「どう」

と、おちて、其まゝ、絕入(たへいり[やぶちゃん注:ママ。])けり。

 下部のものが、此おとを聞《きき》て、やがて、火をたてゝ、見ければ、主人、石を、一つ、いだきて、ふしける。

「こは、いか成《なる》ありさまや。」

と、ひきたて見ければ、息、たへけり[やぶちゃん注:古典では、先の「絕入(たえいる)」ともに、まず、気絶・失神止まりの様態を指す。ここも、それ。]。

 をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、おどろき、いしやを、よび、さまざましければ、やうやう、いき、つきけり。

 其後、六十日ほどして、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]死(しに)けり。

「さては。左助が妄㚑、きたりて、とりころしける。」

と、人、くちぐちに、いひて、のしりけり。

 此はなしは、寬文四年の事也。

[やぶちゃん注:「寬文四年」閏五月があったので、グレゴリオ暦で一六六四年一月二十八日から一六六五年二月十四日まで。]

2024/07/12

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十一 妄㚑とくみあふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

  第十一 妄㚑(まうれい)とくみあふ事

○近年(きんねん)、「あふみ」在所(ざいしよ)、其人の名も失念しける。

 邪見のものにて、其さとのものどもは、いふに及(およば)ず、りんがう[やぶちゃん注:「隣鄕」。]のものまでも、にくみそねむ下人に、左介と申《まうす》もの、あり。

 四、五才の比より、飼(かい[やぶちゃん注:ママ。主人が養っていたことを言う。])をきたるものなり。

 ある時、此佐助、すこしの、あやまりあるを、主人、ふくりう[やぶちゃん注:「腹立」。]のあまりに、まくらを、もつて、なげうちけるに、あたるとひとしく、聲をも、たでず、死(しに)けり。

[やぶちゃん注:「まくら」。状況から見て、完全な「木枕」であろう。籾殻などを布で包んだ円筒状のものを木製の台の上に乗せたものもあるが、基部のそれは、固い安定の良い相応の大きさの木材で出来ていたから、直近から投げ、頭部を直撃すれば、打ち所によっては、死んでも、おかしくはない。]

 其後、此下人、口おしく[やぶちゃん注:ママ。]や、おもひけん、よなよな、來(きたつ)て、せむる事、たへがたし。

 主人、あまり、めいわくし、いろいろ、「きたう」し、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、「やふだ」[やぶちゃん注:「屋札」。岩波文庫の高田氏の脚注に、『戸口や窓にはる御符』とある。]を、をし[やぶちゃん注:ママ。「貼(お)し」。]けるに、是に、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]てや、四、五日も、來らず。

 ある夜、用ありて、うらへ、出《いで》ければ、何ともしれず、うしろより、

「ひた」

と、だく[やぶちゃん注:「抱く」。]。

「あつ。」

と、おもひ、ふりかへりて、引《ひつ》くみ、

「どう」

と、おちて、其まゝ、絕入(たへいり[やぶちゃん注:ママ。])けり。

 下部のものが、此おとを聞《きき》て、やがて、火をたてゝ、見ければ、主人、石を、一つ、いだきて、ふしける。

「こは、いか成《なる》ありさまや。」

と、ひきたて見ければ、息、たへけり[やぶちゃん注:古典では、まず、気絶・失神止まりの様態を指す。ここも、それ]。

 をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、おどろき、いしやを、よび、さまざましければ、やうやう、いき、つきけり。

 其後、六十日ほどして、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]死(しに)けり。

「さては。左助が妄㚑、きたりて、とりころしける。」

と、人、くちぐちに、いひて、のしりけり。

 此はなしは、寬文四年の事也。

[やぶちゃん注:「寬文四年」閏五月があったので、グレゴリオ暦で一六六四年一月二十八日から一六六五年二月十四日まで。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十 いせ參宮の者をはぎ天罸の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧十 いせ參宮の者をはぎ天罸の事

○明曆[やぶちゃん注:一六五五年~一六五八年。]の比、「はりま」の「ひめぢ」より、十四、五成《なり》むすめ、しのびて、たゞ一人、さんぐうしけるが、ちいさき「かねぶくろ」を、とりいだして、みちすがら、ひた物、ぜにを、かいける。

[やぶちゃん注:『明曆の比、「はりま」の「ひめぢ」より、十四、五成《なり》むすめ、しのびて、たゞ一人、さんぐうしける』これは「抜け参り」と呼ばれるものである。後には、「御蔭参り」と呼ばれるようになった、幕末の「ええじゃないか」と同じ、一種の集団ヒステリーとまでは言えないが、爆発的な多数の人間が、主家や親に断りを入れずに、伊勢参宮をするという、宗教的な突発的信仰行動である。梗概はウィキの「お蔭参り」が読み易いが、私は『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「松坂友人書中御陰參りの事」』以下で、詳細に記しているので、ご存知ない向きは、是非、読まれたい。後には、犬や豚が単独で参詣するという、驚くべき事実もあったのである。私の「譚海 卷之八 房州の犬伊勢參宮の事」や、「耳囊 卷之九 奇豕の事」を見られたい。

「かいける」「掛(懸)く」(「かい」は「かき」のイ音便ととる)には、「複数のものを数えて加える」の意があるから、「数えていた」という意であろう。]

 「つち山の九郞次郞」といふもの、京都へのぼり、下りに、「みなくち」の邊(へん)にて、此むすめの、かねぶくろを見て、[やぶちゃん注:「つち山」後の文で判るが、地名で、現在の滋賀県甲賀市土山地区である。以下の水口の南西方の広域である。「みなくち」現在の滋賀県甲賀市水口町(みなくちちょう:孰れもグーグル・マップ・データ)。]

『何とぞして、とらん。』

と、おもふ心、付て、それより、道づれに成《なり》て、わらんべの事なれば、みちすがら、さまざまの事を、いひをどし、すかしなどして、ゆくほどに、我家、ちかく成《など》ほどにて、此男、申やう、

「こなたは、わらんべ一人の事なれば、むさとしたる宿(やど)にとまり給はゞ、かならず、はがれ[やぶちゃん注:所謂、「身包み剥がれる」ことを指す。]給はん。さなくば、ころして、其かねを、とるべし。我、みちづれしたるこそ、さいはい[やぶちゃん注:ママ。]なれ。つち山にては、我らが所に、御やどめされ候へ。余人(よじん)に宿をかり給はゞ、心もとなく候。」

と、

「ひた」

と、をどし[やぶちゃん注:ママ。]て、つゐに、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]が家に、とまらせけり。

 扨《さて》、かれ[やぶちゃん注:娘。]がもちけるかねを、うかゞひ、よく、ねいりたる時分に、さがし出し、とりて、わづか、ぜに、一貫ばかりのあたい程、のこしをけ[やぶちゃん注:ママ。]り。

[やぶちゃん注:「ぜに、一貫」正規には一貫は銭一千文であるが、江戸時代には、実際には九百六十文が一貫とされた。現在の二千四百円程度に当たる。]

 むすめ、よあけ、おきて、かねぶくろを、みれば かね、わづかあり。

『こは、いかゞ。』

と、おもひ、ていしゆにむかひ、

「しかぐかの事候。こよい[やぶちゃん注:ママ。]の事なれば、よも、よそへは、ゆかじ。わづかのこり候やう、ふしぎにおぼえ候。何と候や。」

「此方には、しらず候。もし、みちにても、おとし、給はぬか。よく、おぼえ給へ。」

と、いへば、此むすめ、さめざめと、なきくどきけるは、

「うらめしの事かな。此かねなくしては、さんぐうする事、ならず。又、國本《くにもと》へ、かへらん事も成《なる》まじければ、とやせん、かくや、」

と、あんじ、

「何とぞして、此かねの、出るやうにして、給はれ。」

と、なき、くどきければ、亭主、大きに、いかつて、いふやう、

「なんぢがかねのなき事を、我、しるべきやう、なし。はやはや、いでされ。」

と、大(だい)のまなこを、いからして、おどしければ、此いきをい[やぶちゃん注:ママ。]に、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]、なくなく、そこを、たち出《いで》てけり。

[やぶちゃん注:以上の経緯を見るに、この宿の主人は、確かに「つち山の九郞次郞」の親族か姻族の経営になるものであり、しかも、この主人もまた、「つち山の九郞次郞」の同じ穴の貉、「グル」であることが判明するのである。]

[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ、第二参考底本はここ。]

 其後、此男、大ぶんのかねを、ぬすみ取《とり》て、是を、もとでとして、「あふみ」の「かづら河《がは》」へ、ゆき、大ぢしんにあふ[やぶちゃん注:ママ。]て、山ぞこへ、うちうめられて、古鄕(こきやう)へ、また二度(《ふた》たび)とも、かへらざりける。

 あらた成《なる》かな[やぶちゃん注:霊験あらたかなる。]太神宮(だいじんぐう)へ、さんけいするものゝ、ろせん[やぶちゃん注:「路錢」。]を、ぬすみし天ばつにて、おもひよらざる、かつら河の山下のつちとぞ、なりにけり。

 古(いにしへ)、今(いま)に、いたるまで、參宮者の物を、盗(ぬすみ)、ばつをうるもの、おほし。

 をそれ[やぶちゃん注:ママ。]、つゝしむべき事也。

 是は、これ、ひとゝせ、道中にて、もつぱら、人ごとに、いひあへり。

[やぶちゃん注:『「あふみ」の「かづら河《がは》」』近江と言っているので、原文の「かつら河」は「葛川」と採れる。琵琶湖の西岸の、この滋賀県大津市の南北の葛川地区である(グーグル・マップ・データ)。調べてみると、明暦が終わって(明暦四年七月二十三日(グレゴリオ暦一六五八年八月二十一日)、万治を経た、寛文二年五月一日(一六六二年六月十六日)巳の刻から午の刻(午前九時から午後一時頃)、琵琶湖西岸の花折断層北部と若狭湾沿岸の日向断層を震源とする、二つの連動する地震が発生している。マグニチュード七・五前後と推定されるこの地震で、震源の近江国・若狭国を中心に、京都・大坂まで広域が被災した。参考にした「滋賀県文化財保護協会」公式サイト内の「ヨミモノ シバブン シンブン」の「新近江名所圖会 第198回 江戸時代の大地震―寛文地震とその痕跡-大津市葛川町居町・葛川梅ノ木町」(「葛川」の地名に注目!!!)によれば(北原治氏の記事)、『とくに琵琶湖岸の軟弱地盤に立地した膳所城では多くの石垣が崩れ、櫓や門などが破損・崩落し、再建にあたっては本丸と二の丸の間の堀を埋めて新たな本丸とするなど、縄張りそのものを変更しなければならないほどの大きな被害を受けました。また、現在の大津市浜大津一帯にあった幕府の大津蔵屋敷ではすべての蔵が破損したほか、彦根城でも』五百から六百『間の石垣が崩れるなどの被害が知られています』。『しかし、こうした琵琶湖周辺の被害は、震源付近の安曇川上流部の被災状況に比べれば』、『ずっと軽微なものといえるかもしれません。高島市朽木にあった旗本朽木氏の陣屋が倒壊し、元領主の朽木宣綱を圧死させた激震は大規模な山崩れ「町居崩れ」を引き起こし』、二『つの村を消し去っていたからです』。『かつて、大津市葛川明王院の北約』一・五キロメートル『の安曇川沿いには榎村と町居村のという』二『つの村がありました。これらの村は地震にともなう奈良岳の崩壊によって、一瞬にして土砂に埋まったのです。これにより両村の』五百六十『名もの村人が生き埋めになって死亡しました。町居村では』三百『人の村人のうち、生き残った者がたったの』三十七『名であったと伝わっています』。『村を襲った大量の土砂は』、『安曇川の流れを堰き止めて天然ダムを造り、新たな災害を発生させました。崩れた土砂は安曇川の流れを完全に堰き止め、湛水面積』四十八『万』平方メートルにも『及ぶ、巨大な天然ダムを出現させたのです。これにより』、『隣村の坊村は集落の大部分が水没しました』。「明王院文書」に『よると、葛川明王院の境内まで水位が達し、坊村の屋敷などが残らず』、『流失したと記されています。地元の言い伝えによると、明王院の本堂(重要文化財)の石段が下から三段目まで水没したとされます』。『さらに、恐れていたことが起こってしまします』十四『日後の』六『月』三十『日午前』九『時頃、最大湛水量』五百九十『万』立方メートルに『達した天然ダムが崩壊したのです。その結果、朽木谷などの安曇川下流域が洪水に襲われました。高島市朽木岩瀬にある志子淵(しこぶち)神社は、この時の洪水によって社殿を流されたため、現在の場所に移ったと伝わっています』。『寛文地震の被害状況を今に伝える「町居崩れ」跡は大津市葛川梅ノ木町にあります。江若交通町居バス停から国道』三百六十五『号線を北に』八百メートル『ほど進むと』、『道の東側に山頂付近から山の斜面をえぐるような大きな谷地形があります。これが「イオウハゲ」と呼ばれる「町居崩れ跡」です。崩壊長約』七百メートル『・最大幅』六百五十メートル『比高』三百六十メートル『・推定崩落土砂量』二四〇〇『万』立方メートルに『及ぶ大規模な山崩れの痕跡が現在も確認できます』。『また、この対岸には、高さ』百メートル『ほどの低い丘陵が川へ向かって伸びていますが、この小山は崩落した土砂が谷を堰き止めて造った天然ダムの一部です』。『ここから川の上流に目を転じて、はるか遠くに見える家並みが』、『当時』、『水没した葛川坊村ですが、天然ダムは坊村を越えて、さらに上流の中村付近まで達しました。現地で災害の痕跡を見ていただければ、当時起こった寛文地震の被害の大きさを理解できると思います』。『被災した町居村は災害の後、生き残った』三十七『名の村人により、現在の地へ移転して再建されました。旧村は集落のはずれにある観音寺の北側であったと伝わっています。なお、観音寺には、旧村跡から掘り出された宝篋印塔が移築されています』とあり、現在の被災地の跡地の写真が載るので、是非、見られたい。これは、寛文末年から四年後に実際発生した激甚地震とその後に続いた大災害である。この怪奇談、多くの読者は、さっと読んで、そんな悲惨な地震が、事実、あったことを検証しようとは、あまり思わないだろう。私のマニアックな癖で、調べてみて、愕然とした。江戸時代の、この地震を知っている庶民は、この一篇を読んで、恐れ戦いたことは、間違いない。本書の開板は元禄一〇(一六九七)年以前と推定されているから、この災害から三十五年以内の刊行である(因みに、この作者は不詳だが、関西の人間であったであろうことが、感じられるのである)。――則ち――この話は、当時の恐るべき悲惨極まりない現実のカタストロフを交えた「都市伝説」となっている――のである!!!

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 木欒子

 

Mokugenji

[やぶちゃん注:二図が上下にあり、右手上方に、上の図のキャプション「今云菩提樹葉」(今、云ふ「菩提樹」の葉)、右手下方に下の図のキャプション「三才圖會所ㇾ圖」(「三才圖會」の圖せる所)とある。この際、「三才圖會」の原本画像を以下に示し、解説文も電子化しておく。画像はこちら(解説ページ「明代の図像資料」)の「三才圖會データベース」の画像(東京大学東洋文化研究所蔵。清刊本(槐蔭草堂藏板))のものを用いた(トリミングした)の、ここと、ここ。特に画像の使用制限は書かれていない。

 

Ranka1

 

Ranka2

 

   *

 欒華

欒華生漢中川谷今南方及都下園圃中或有枝葉似木

※而薄細花黄似槐而稍長大子殻似酸漿其中有實如

熟豌豆圓黒而堅堪爲数珠五月採其花亦可染黄味苦

寒無毒主目痛淚出傷背消目腫

[やぶちゃん注:「※」=「(へん)「木」+(つくり){《上》「共」+《下》「土」}。以下の「本草綱目」と対照させると(時珍の引用は「別錄」。前漢の成帝の治世の時、数名の学者の協力を得て、宮廷の秘府の蔵書の校定に従事した劉向(りゅうきょう)が、一つの書物毎に、篇目を個条書きにし、内容を掻い摘んで作成した書籍解題である)、この漢字、「槐」を指すように読める。]

   *

読めない字があり、部分的に自信がない箇所もかなりあるが、自然勝手流で、訓読を試みておく。

   *

 欒華(らんくわ)

欒華は、漢中の川谷(せんこく)に生ず。今、南方、及び、都下の園圃(ゑんぽ)の中にあり。或いは、枝葉、有り、木※に似て、薄く、細し。花、黄なり。槐(えんじゆ)に似て、稍(やや)、長し。大いなる子(み)の殻(から)、酸漿(ほおづき)に似、其の中に、實(たね)、有り。熟したる豌豆(えんどう)のごとし。圓(まろ)く、黒にて、堅し。数珠(じゆず)と爲(な)すに、堪へたり。五月、其の花を採り、亦、黄に染むべし。味、苦(く)、寒。毒、無し。目の痛みて、淚、出でて、背(うら)に傷(きず)せるを、主(つかさど)り、目の腫(はれ)を消す。

   *]

 

むくろじ  欒華

     【和名無久礼混迩之

        俗云無久呂之】

木欒子

      附

       菩提樹

モツロワン ツウ

 

本綱此樹生山中園圃間或有之葉似木槿而薄細其花

黃似槐而稍長大子殻似酸漿其中有實如熟豌豆圓黑

堅硬謂之木欒子堪爲數珠其花五六月可收以染黃甚

鮮明未見入藥

華【苦寒】 治目痛腫合黃連作煎療目赤爛

△按

木欒子【無患子之一類異種】別有菩提樹者葉似椋又似桑葉

 而厚靣深翠背淺青三四月將花時別出莖生新葉以

 蔽其莖黃青色微似菠薐草葉抽於其半腹莖稍開花

[やぶちゃん注:「稍」は「梢」の誤記か誤植である。訓点では訂した。]

 四五朶黃色而小甚香芬花散結實中子如豌豆成簇

 一房二十粒許淡黒色用爲數珠蓋葉與子之樣大竒

飜譯名義集云菩提樹卽畢鉢羅樹也昔佛在世髙數百

尺屢經殘伐猶髙四五丈佛坐其下成等正覺因謂之菩

提樹焉莖幹黃白枝葉青翠冬夏不凋光鮮無變毎至涅

槃之日葉皆凋落須之故

 此菩提樹者異品而非今菩提樹乎形狀大異

 

   *

 

むくろじ  欒華

     【和名、「無久礼混迩之《むくろじし》」。

        俗、云ふ、「無久呂之《むくろじ》」。】

木欒子

      附《つけた》り。

      「菩提樹《ぼだいじゆ》」。

モツロワン ツウ

 

「本綱」に曰はく、『此の樹、山中に生ず』≪るも≫、『園圃≪にも≫、間《まま》、或≪いは、≫之れ、有り』。『葉、木槿(むくげ)に似て、薄細《うすくこまやか》なり。其の花、黃にして、槐《えんじゆ》に似て、稍《やや》、長大なり。子《み》≪の≫殻、酸漿《ほうづき》に似、其の中に、實《たね》、有り、熟≪せる≫豌豆《ゑんどう》のごとく、圓《まろ》く、黑く、堅硬なり』。『之れを「木欒子《もくらんじ》」と謂ふ』。『數珠《じゆず》に爲るに堪へたり』。其の花、『五、六月に收《をさ》むべし。以つて、黃を染めば、甚だ、鮮-明(あざや)かなり』。『未だ藥に入≪るるを≫見ず。』≪と≫。

『華《はな》【苦、寒。】』『目の』、『腫れ』・『痛を』『治す』。『黃連《わうれん》と』『合《あは》して、煎《いり》作《なして》、目≪の≫赤《あかく》爛(たゞるゝ)を療ず。』≪と≫。

△按ずるに、木欒子《むくろじ》【「無患子《つぶ》」の一類≪にして≫異種なり。】、別に「菩提樹」と云ふ者[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、有り。葉、「椋(むく)」に似、又、「桑《くは》」の葉に似て、厚く、靣《おもて》、深翠(《ふか》みどり)、背《うら》、淺≪き≫青。三、四月、將に花(はなさか)んとする時、別≪に≫、莖を出《いだ》し、新葉を生じて、以つて、其の莖を蔽(をほ[やぶちゃん注:ママ。])ふ。黃青色、微《ちと》、菠薐草(はうれんさう)の葉に似て、其の半腹《なかはら》を抽(つきぬ)いて、莖の梢に、花を開く。四、五朶《ふさ》≪ありて≫、黃色にして、小さく、甚だ香-芬(かんば)しく、花、散りて、實を結ぶ。中の子《たね》、豌豆(えんどう)のごとく、簇《むれ》を成《なし》、一房、二十粒許《ばかり》。淡(うす)黒色なり。用ひて、數珠と爲す。蓋し、葉と子《たね》の樣(ありさま)、大《おほい》に、竒(めづら)し。

「飜譯名義集」に云はく、『菩提樹は、卽ち、「畢鉢羅樹《ぴつばらじゆ》」なり。昔、佛《ブツダ》、在世≪の時≫、髙さ、數百尺、屢(しばしば)[やぶちゃん注:原本では踊り字「〱」のみがある。]、殘伐《ざんばつ》を經て、猶《なほ》、髙さ四、五丈《たり》。佛、其下に坐して、「成等正覺(じやうとうしやうがく)」ある[やぶちゃん注:ママ。]。因りて、之れを「菩提樹」と謂≪へり≫。莖・幹、黃白、枝・葉、青翠。冬・夏、凋(しぼ)まず、光《かがやき》、鮮(あざや)かに、變ずること、無し。『涅槃《ねはん》の日』に至る毎《ごと》に、葉、皆、凋落《しぼみお》ち、須-之(しばらくあり)て、故(もとの)に復(かへ)る。』≪と≫。

 此の菩提樹は、異品にして、今の「菩提樹」に非ざるか。形狀、大いに、異《い》なり。

 

[やぶちゃん注:この「木欒子」は、日中で異なる。それを、良安は認識しておらず、致命的なミスとして、冒頭の和訓に「むくろじ」とやらかしてしましているように見えるが、さにあらず! 後で、彼は自身の評で、『「無患子《つぶ》」の一類≪にして≫異種なり』と言っているからである。中国では、「木欒子」は、前の「無患子」で注した通り、

双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科モクゲンジ属モクゲンジ Koelreuteria paniculata

である。本邦で、新潟県・茨城県以西の本州・四国・九州の低地・山地に自生し、庭木としても植えられ、しばしば寺や神社にも植えられているところの、それは、ムクロジ科 Sapindaceaeの異属異種である、

ムクロジ科ムクロジ属ムクロジ Sapindus mukorossi

である。これは、良安の意識の中で、前の「無患子」を「ムクロジ」であろうと踏んでいるために、かく、「異種」と言えたのである。さらに言えば、ここで別の異名として、「菩提樹」というトンデモ異名が出現していることに、強い違和感を覚え、「木欒子」は、まず、これは、「菩提樹」(アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana 正しくは、良安の言っている、この「菩提樹」は、「本草綱目」にはこの三字熟語では掲載されていない(後の引用参照)。あるのは、前の「無患子」の「釋名」に中に『菩提子』と出るだけである。しかも、これは『釋家取爲數珠故謂之菩提子』と出るのであって、「菩提樹の種(たね)」の意ではなく、仏教徒が数珠にするから、「仏陀に所縁の種」と言っているだけで、真正の狭義のインドの「菩提樹」という木を、実は、指していないのである。それは、後の「菩提樹」の注で示す)ではないという、傍系の別個検証に力を入れ込んだに過ぎない。さらに言っておくと、小学館「日本大百科全書」の「モクゲンジ」を引く(読みはカットした)。『落葉高木。オオモクゲンジともいう。高さ約』十『メートルに達する。葉は互生し、奇数羽状複葉。小葉は卵形で先はとがり、不ぞろいの深く切れ込む鋸歯がある。夏、枝先に円錐花序をつくり、小さな黄色花を多数開く。萼片は』五『枚で』、『大きさは不等、花弁は』四『枚、雄しべは』八『本、雌しべは』一『本。蒴果は三角状卵形で長さ』四~五『センチメートル、果皮は薄く』、三『片に裂け、球形で径約』七『ミリメートルの黒色で堅い種子を出す。日本の一部の地域に野生するが、多くは栽培されたものが逸出したと考えられる。朝鮮半島、中国北部および東北部に分布する。名は、ムクロジ(ムクロジ科の別植物)の中国名である木患子を誤ってモクゲンジにあてたため、木患子の日本語読みであるモクゲンジになったという。種子を数珠に使用する』(最後の太字下線は私が附した)とあり、近代の植物学者でさえ、和名命名の際、トンデモ命名をしてしまっていたことが判明するのである。良安を馬鹿には出来ない。

 続いて、同種の「維基百科」の「欒樹」を見ると、別名を『燈籠樹・黑葉樹』とし、『風化した石灰岩によって生成されたカルシウム・ベースの土壌に植生する。耐寒性は、ない』。『中国固有種で、黄河流域及び長江流域の下流域に分布し』、中国北部最大の水系である『海河流域以北では稀で、珪素』(Si)『を主成分とする酸性赤土地域では生育出来ない』。本種は『春に発芽し、秋に早く落葉するため、毎年、成長期間が短く、樹形が捩じれており、あまり成熟することが樹木である。種子は幾つかの小型家電製品や、工業用油を搾るのに使用可能である。但し、景観には優れた木である』。『初夏に小さな黄色い花を咲かせ、花が散ると、木が黄金色になるため、花が咲いた後には英語で「金雨樹」』(goldenrain tree)『と呼ばれている』。『皮質蒴果』(さくか:果実のうち、乾燥して裂けて種子を放出する裂開果の中の一形式。果皮が乾燥して、基部から上に向って裂けるものを指す)で、『小さな黒い球形の種子が入っている。円錐形の蒴果は中空で、中国の提灯に似ているため、「提灯の木」とも呼ばれる』。本種の『花は黄色染料として利用される』、この樹の『葉は緑色であるが、白い布を一緒に煮ると、黒く染まることから、俗に「烏葉子樹」とも呼ばれ、葉は黒色染料として利用される』と言った内容記載がある。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「欒華(ガイド・ナンバー[086-16b]以下)からのパッチワークである。短い記載なのだが、良安が、如何にテツテ的継ぎ接ぎをしているかということを、訓読では、明示してみた。本文は以下である(多少、手を加えた)。

   *

欒華【本經下品】

集解【别録曰欒華生漢中川谷五月采恭曰此樹葉似木槿而薄細花黄似槐而稍長大子殻似酸漿其中有實如熟豌豆圓黒堅硬堪爲數珠者是也五月六月花可収南人以染黄甚鮮眀又以療目赤爛頌曰今南方及汴中園圃間或有之宗奭曰長安山中亦有之其子謂之木欒子携至京都爲數珠未見入藥】

 氣味苦寒無毒之才曰决明爲之使主治目痛淚出傷眥消目腫本經合黄連作煎療目赤爛【蘇㳟】

   *

「木槿(むくげ)」中文で言うこれは、本邦のアオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus ではない。フヨウ属は中文名で「木槿屬」であるから、Hibiscus属レベルに留まり、種を断定することは出来ない。委しい私の考証は、先行する「莢蒾」を見られたい。

「槐《えんじゆ》」バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。先行する「槐」を参照されたい。

「酸漿《ほうづき》」ナス目ナス科ホオズキ属ホオズキ変種ホオヅキ Alkekengi officinarum var. franchetii 。日中同種。「維基百科」の同種「掛金燈」では、学名を Physalis alkekengi var. francheti とするが、これはシノニムである。

「豌豆《ゑんどう》」マメ目マメ科マメ亜科エンドウ属エンドウ Pisum sativum 。日中同種。

「黃連《わうれん》」キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica の髭根を殆んど除いた根茎を乾燥させたもの。

「菩提樹」アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana これについての不審は、ウィキの「ボダイジュ」を引くと、氷解する(注記号はカットした)。『別名はコバノシナノキ。中国原産』(☜:ブッダの菩提を樹下で得たその木だとしたら、ゼッタイ的におかしいでしょ?)『で、中国名は南京椴。日本では寺院などに植えられる』。『落葉広葉樹の高木。高さは』三十『メートル』『にもなる。樹皮は暗灰色から暗茶褐色で、縦に浅く裂ける。若木の樹皮は滑らかで、小枝には密に細毛がある。葉は広卵形で、裏面と葉柄には毛がある。花期は』六『月頃で、葉の付け根から花序を出して、芳香がある淡黄色の花を下向きに咲かせる』。『冬芽は薄茶色の短毛があり、オオバボダイジュ(学名:  Tilia maximowicziana )よりもやや小さい。枝先には仮頂芽がつき側芽よりも大きく、長さ』五『リメートル』『ほどの卵球形で芽鱗』二『枚に包まれる。側芽は枝に互生する。葉痕は円形で、維管束痕が』三『個つき、葉痕の両脇に托葉痕がある』。『日本へは』、十二『世紀に渡来したといわれ、臨済宗の開祖明菴栄西が中国から持ち帰ったと伝えられる。日本では各地の仏教寺院によく植えられている』。『釈迦は菩提樹の下で悟りを開いたとして知られるが、釈迦の菩提樹は本種ではなく』、『クワ科』Moraceaeの『インドボダイジュ』(印度菩提樹:バラ目クワ科イチジク属インドボダイジュ Ficus religiosa )『という別の種である。中国では熱帯産のインドボタイジュの生育には適さないため、葉の形が似ているシナノキ科の本種を菩提樹としたと言われる』(太字は私が附した)。『また』、『フランツ・シューベルトの歌曲集』「冬の旅」第五曲の「菩提樹」(‘ Der Lindenbaum ’)に『歌われる菩提樹は』、『本種ではなく』、『近縁のセイヨウシナノキ』『である』とあるのである。ブッダが菩提を得たそれは――「ボダイジュ」でなく――全然、明後日の――完全な目タクソンで異なる異種――「インドボダイジュ」――なのである。

「椋(むく)」バラ目アサ科ムクノキ属ムクノキ Aphananthe aspera

「桑《くは》」バラ目クワ科クワ属 Morus の数多い種の総称。

「菠薐草(はうれんさう)」ナデシコ目ヒユ科アカザ亜科ホウレンソウ属ホウレンソウ Spinacia oleracea

「飜譯名義集」宋代の梵漢辞典。全七巻の他、全二十巻本もある。南宋の法雲の編。一一四三年成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類し、字義と出典を記したもの。「大蔵経データベース」で確認したところ、このまことしやかな引用は、継ぎ接ぎ得意の良安が造り上げたものであって、同一の文章はどこにもない。「菩提樹」は二回、「畢鉢羅」も二回出るが、この内容を語っている箇所は前後にもない。非常に長い内容のものを、良安流パッチワークで、正直、デッチアゲと言われてもしゃあないものである。ちょっと、ガックりきたわ。或いは、二十巻本にあるのかなぁ? 調べられんわ。悪しからず。因みに、この内容は、かの玄奘三蔵の「大唐西域記」を元にして書かれたものである。

「殘伐《ざんばつ》」現在の「造林学」用語では、最初の伐採時に、少数の立木を母樹として残し、そこからの天然下の種によって更新を図る伐採法を指し、稚樹の定着後。残された木は伐採される、とあった。

「成等正覺(じやうとうしやうがく)」修行者である菩薩が、仏の悟りである等正覚を成就すること。迷いを去って、完全な悟りを開くことを言う。

「涅槃《ねはん》の日」一般にブッダ入滅日は、南伝仏教でインド暦の二番目の月が「ヴァイシャーカ月の満月の日」と定められていることから、一般的に二月十五日とされている。因みに、その日は、私の誕生日である。]

2024/07/11

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧九 女金銀をひろいぬしにかへす事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の「ひろい」はママ。]

 

 㐧九 女、金銀を、ひろい、ぬしに、かへす事

○「するが」の「ふちう」に、さる人、下女を、一人、つかひけり。

[やぶちゃん注:駿河国の旧国府がおかれた場所で、現在の静岡市葵区の静岡中心市街地にほぼ相当する(グーグル・マップ・データ)。]

 武州より、ある人、京都へ上り、木佛(もくぶつ)を、一たい、あんぢ[やぶちゃん注:ママ。]、さる寺へ、「きしん」申《まうす》べきために、のぼり、「するが」の「ふちう」に、一宿(《いつ》しゆく)しける。

 金子(きんす)五十兩、さいふに入《いれ》、立《たち》ざまに、うちわすれ、出《いで》て、京へつきて、かのふくろを、もとむるに、なかりけり。

「こは、いかに。」

と、おどろきて、

「はるばる、のぼりたる『かひ』も、なき事かな。此かね、なくては、『大ぐはん』の望(のぞみ)、かなひがたし。いかゞすべき。」

と、あんじ、わづらひける。

『正《まさ》しく、「ふちう」の宿(やど)にて、おとしつる。』

と、たしかに、おぼゆ。

『引《ひき》かへし、くだりたりとも、とても、くれまじ。しよせん、くだらぬは、しかじ。」

と、おもひ、

「とかく、佛《ほとけ》の御緣(えん)、うすき、いはれならん。」

と、ふかく、なげきしが、されども、當所(たうしよ)のやどに、くだんのとをり[やぶちゃん注:ママ。]を、具(つぶさ)に、かたりければ、宿(やど)の、いはく、

「心やすかれ。それがし、御望(《おん》のぞみ)を、かなへ參らせん。金銀、なくとも、あんぢ[やぶちゃん注:ママ。これは用法としては、おかしい。「安(やすん)じ」で、「安心して」の意であろう。]給へ。」

と申ける。

 此人、いよいよ、よろこび、やがて、おもふまゝに、つくり奉りて、其まゝ、もりて[やぶちゃん注:大切に所持して。]、くだりける。

 又、「ふちう」の宿(やど)へ、よりて、何んとなく、をと[やぶちゃん注:ママ。「音」。]を、すまして、きく所に、なにの「しさい」も、なくして、やゝありて、下女、ぜんを持《もち》て出《いで》、ひそかに、よりて、申やう、

「こなたには、御のぼりの折《をり》から、何にても、わすれ給ひたる物や、ある。」

と問(とふ)。

 此人、

「されば。此はしらの折《をれ》くぎに、ふくろを、一つ、かけをき[やぶちゃん注:ママ。]、とらずして、上り、京都にて、おもひ付《つき》、はるばるの道なれば、かへりて、とふべきやうも、自由(じゆう)ならず、うち過《すぎ》ぬ。」

と、申ければ、下女、かの、ふくろを、取出《とりいだ》して、

「此事にてや、あるらん。」

と、申せば、此人、

「扨《さて》も。ありがたき心ざしなり。」

とて、四、五兩、とりいだし、下女に、くれける。

 下女の、いはく、

「をろか[やぶちゃん注:ママ。]の人の心や。此かねを、すこしにても、うくる心のあらば、何事にか、此ふくを参らすべき。すこしも、申《まうし》うくる事、おもひも、よらず。まして、ほとけ、ざうりうの、かねなり。」

とて、とるべき気色(けしき)あらざれば、此人、

『扨は。世の中の「けんじん」とは、かやうのものをや、いふやらん。此女は、世に、また、たぐひなきものかな。』

と、おもひ、宿(やど)のあるじに、此下女(げぢよ)を、もらい[やぶちゃん注:ママ。]、武州へ、ぐして、くだり、我子に引合(ひきあはせ)ける。

 此女、來りてより、家、とみ、さかヘ、はんじやうする事、なゝめならず。

 さてこそは、『正直は、一たんの「ゑこ」[やぶちゃん注:ママ。「依怙」。たまたまの一時の頼り。]にあらず。つゐに[やぶちゃん注:ママ。]は、天の「あはれみ」を、うくる。』と、いふは、是なるべし。

 世に、人、おほしといふとも、「むよく」のものは、まれならん。一たんのよくを、はなるれば、「一しやう」のたのしみを、うくる。『げんせ、あんをむ、ごしやう、ぜんしよ。』也。

[やぶちゃん注:「げんせ、あんをむ、ごしやう、ぜんしよ。」「現世安穩後生善處」。「法華經」の「藥草喩品(やくさうゆほん)」から。『「法華経」を信ずる人は、現世(げんせ)では、安穏(あんのん)に生きることができ、後生(ごしょう)では、よい世界に生まれるということ。』。]

 おほくは、一たんの「よく」に、まよひ、現當(げんたう)二世(《に》せ)ともに、大《おほ》ぞんを、うる事、「がんぜん」の「きやうがい」なり。たれか、是を、あらそはん。はづベし、はづべし。

[やぶちゃん注:「現當(げんたう)二世(《に》せ)」現在世(げんざいせ)と当来世(とうらいせ)の二つの世。この世と、あの世。「現當兩益(げんたうりやうやく)」(現世の利益と当来(来世)の利益)の意にも用いる。単に「現當」「現未」とも言う。]

 此物がたりは、「あべ河」より、元三(げんさん)と申《まうす》人、上りて、はなされけり。近年(きんねん)の事也。

 

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧八 女の一念來て夫の身を引そひて取てかへる事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の「引そひて」は、岩波文庫の高田氏の脚注に、『引き削いで。ひっかいて。』とある。されば、「ひつそひて」の読みの方がいいのかとも思ったが、岩波版本文では、『引きそひて』と補正しておられるので、「ひき」と読んでおいた。但し、エンディングの肝心のシーンのそれは、送り仮名は「かいて[やぶちゃん注:ママ。]」なので、快く、「ふつかいて」と読んでおいた。]

 

 㐧八 女の一念、來《きたつ》て、夫(をつと)の身を、引《ひき》そひて、取《とり》てかへる事

○丹刕(たんしう)の田邊に、さる商人(あきびと)あり。

 每年(まいねん)、「えちぜん」の「ふくい[やぶちゃん注:ママ。]」へくだり、半年(はんねん)ばかりづゝ、ゐては、上りけり。

[やぶちゃん注:「丹刕(たんしう)の田邊」高田氏の脚注に、『京都府舞鶴市中心部の古名。』とある。ウィキの「舞鶴市」によれば、『元来』、『この地域は「田辺」と呼ばれていたが、明治時代に山城(現・京田辺市)や紀伊(現・和歌山県田辺市)にある同名の地名との重複を避けるため、田辺城の雅称である「舞鶴城」より「舞鶴」の名称が取られた』。『田辺城が「舞鶴城」の別名を得たのは、城型が南北に長く、東の白鳥峠から眺めるとあたかも鶴が舞っている姿のように見えるからであるとされている』とあった。

『「えちぜん」の「ふくい」』現在の福井県福井市。]

 ある時、「たなべ」にある妻(つま)を、見がぎりすてゝ、「ふく井(ゐ)」に居住(ゐぢう)しける。

 何《いづ》れも、常に遊ぶ、「ちいん」[やぶちゃん注:「知音」。親友。]がた、うちよりて、さる女房を、ひきあはせけり。

 此男(をとこ)、此女に、ほだされ、国元(くにもと)の事を、露(つゆ)もおもひいだす事、なくして、うちすぎぬ。

 しかるに、「たなべ」にありける女房、夫、ひさしく、のぼらず、剩(あまつさへ)、「たより」だにも、なければ、

「とや、し給ふ、かくや、しつらん、」

と、あんじ、わづらふ所に、ある人、來りていふやう、

「其方は、「ふくゐ」のやうすは、いまだ、きゝ給はぬか。すぎつるはるのころ、さるかたより、にあはしき妻(つま)を、もちたれけるよし、ほのかに、きゝつる。しからば、たよりなきこそ、どうり[やぶちゃん注:ママ。]也。」

と申《まうし》ける。

 女房、此のよし、つくづく、きゝ、大きにおどろき、

「かく、あるべきとは、おもひもよらず。『今日(けふ)は、おとづれ[やぶちゃん注:「書信」。]、あらん、あすは、たよりを、きかん。』と、あけくれ、おもひ、くらしける、心のほどの、をろかさ[やぶちゃん注:ママ。]よ。さても、世中《よのなか》に、女の身ほど、はかなき物は、なし。たとい[やぶちゃん注:ママ。]、『ふくゐ』に、とゞまるとも、それは、夫(をつと)のある事也。さりながら、我は、かほどまで、すてられんとは、夢にも、知らず。あら、口おし[やぶちゃん注:ママ。]や、はらたち[やぶちゃん注:「腹立ち」。]や、」

と、おきふし[やぶちゃん注:「起き臥し」。]ごとに、「しんい」[やぶちゃん注:「瞋恚」。怒り怨むこと。]の「ほむら」[やぶちゃん注:「焰(ほむら)」。]をこがしける。

 いちねんの𢙣鬼(あくき)となり、「ふくゐ」へ、ゆき、よなよな、夫を、せめける。

 おそろしといふも、をろか[やぶちゃん注:ママ。]なり。

 かの㚑(れう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])の來らんとては、大きに「やなり」して、いづくともなく、きたつて、夫のまへに、ひざまづき、ちのなみだを、ながし、ひたもの、うらみを、いひては、つく「いき」をみれば、まさしく、ほのほをはきけり。

 夫、せんかたなくて、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、みこ・山ぶすをよびて、いのりするといへども、かつて、其《その》しるし、なし。

 ある「ちしき」のいはく、[やぶちゃん注:「ちしき」。「知識」。善知識。徳の高い僧。]

「さやうに㚑(れう)の來《きた》るには、「きやうかたびら」を、きて、ふし給はゞ、別の「しさい」、あるまじ。とてもの事に、それがし、かきて參らせむ。」

とて、そくじに、あそばし、たびけり。

 日《ひ》、くるれば、かの「かたびら」を取《とり》て、うちかづき、ふしける。

 㚑(れう)、來《きたり》ては、この「かたびら」にをそれ[やぶちゃん注:ママ。]て、ちかづかずして、とをく[やぶちゃん注:ママ。]ひかへて、たゞ、うらめしげに、うちながめて、また、

「はらはら」

と、なきて、かへる。

 

Ikiriyo

[やぶちゃん注:第一参考底本はここ、第二参考底本はここ後者の妻の生霊(いきりょう:彼女は生きている(亡くなったという語りは、どこにもない)から、この「妄㚑」は生霊である)の頭の上に烏帽子のような形があるもの、及び、彼女の持ち物のような太刀・長刀(なぎなた)、吹き出す(垂れるほうではない)血糊は、総て、落書であるので、注意されたい。彼女は、一般に死者を示す例の額の三角の巾、「天冠」(てんかん・てんがん:地方により「頭巾」(ずきん)」「額烏帽子」(ひたいえぼし)「髪隠し」等とも呼ぶ)をつけているが、だからと言って、彼女が死霊(しりょう)であるわけではない。謂わば、生きている彼女が、夫を怨んで、自らの霊を引き出し、夫の元へ、恨みを成就するためには、自ら、生きながら、「天冠」を装着することで、それを行使することが出来ると言えるのだ、と私は思うのである。なお、第二参考底本では、この「天冠」に明確に「シ」の字が書かれてあるのだが、これは、私は落書小僧(実際には、今までの落書の上手さや、書き放題の落書の内容が、相応に本文から離れて、ちょっと憎く――時にはセクシャルな内容かとも思われるものがあった――書けているのを考えると、青年の可能性が高いと考えている)の書いたものと考えている。但し、岩波版でも、中央に有意な「●」があるように見え、第一参考底本のそれでも、「●」はあるように見える。但し、「シ」ではないと思う。そもそも、ここに何かを書くこと自体、まず、私は見たことがない。絵師は、謂わば、この彼女が、実体ではなく、生霊であることを示すためのサーヴィスで、「天冠」を書いてしまったのではないかと思っている。或いは、絵師は出来上がったものを眺めて、死霊に見えてしまうことに気づき、敢えて、中央に「●」を打って差別化したと、解釈出来ようか、とも思われた。

 

 夫、

『うれしき事。』

に、おもひしが、ある時、ゆだんして、ふしたるうへに、そと、置きて[やぶちゃん注:着ずに、ちょっと体にひっかけておいたままで。]、よねんなく、ねけるが、件(くだん)の㚑(れう)、きたつて、「うらみ」、かずかず、いひ、

「あら、にくや、」

といふこゑ、耳に、つきとをり[やぶちゃん注:ママ。]て、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ける。

「はつ。」

と、おもひて、見れば、あたりに、血、ながれけり。

「こは、いかに。」

と、いひて、我身を見れば、ゆんで[やぶちゃん注:左手。]のもゝ[やぶちゃん注:「腿」。]を引《ひつ》かいて、ゆきぬ。

 はじめの程は何(なん)ともなかりしが、次㐧に、いたみ、出《いで》て、いくほどなくして、死(しに)けり。

 『にくし。』と思ふ一念、來(きた)りて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、をつとを、殺しけり。

「此はなし、僞(いつは)りなき。」

よし、「大せいもん」[やぶちゃん注:「大誓文」。既出既注。]にて、「ふくゐ」の人の、かたりける。

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧七 なさけふかき老母果報の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧七 なさけふかき老母、果報の事

○洛陽(らくやう)[やぶちゃん注:京都。]に、七十あまりの老母、あり。

 つねに、しもべのものどもに、なさけ、ふかくして、かん天のあさ、さむき時は、二度(《に》ど)、つかふべき事あれば、一度、つかふ。三ども、つかはんとおもふ時には、二度、つかひ、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、下人の内、一人にても、わづらへば、手づから、何にても、こしらへ、くはせ、萬事(ばんじ)に、じひぶかくましましけり。

 ある時、子息のいはく、

「かく、さむき時なるに、なにとて、みづから、ひえくるしび給ふ事、もつたいなし。向後《かうご》、さやうのわざを、なし給ふ、いはれ、なし。かならず、やめ給へ。」

と、いさめられければ、老母、こたへて、いはく、

「いや、下人も、みな、人の子なり。あさ、さむき時なれば、はらを、あたゝさせて、其くらうを、ゆるめん。」

との、事也。

 子の、いはく、

「老母、としおひ給ひて、かく、いやしきわざを、いとなみ給ふ事、さかさまなる『おこなひ』なるべし。其上《そのうへ》、かん天[やぶちゃん注:「寒天」。]に、あさ、とく、ひえ給ふ事、くらう[やぶちゃん注:「苦勞」。]も、いかばかり。感冒(かんぼう)の病(やまひ)も、はかりがたし。たゞ、ねがはくは、やめ給ヘ。」

と申されければ、老母、こたへて、

「つとめて[やぶちゃん注:これは副詞で、「決して・ゆめゆめ・强ひて」の意。]、是をなすに、あらず。我、たのしぶところなれば、かんき[やぶちゃん注:「寒氣」。]を、くらうにも、おぼえず。もし、しゐて[やぶちゃん注:ママ。]やめなば、我心、やすかるべからず。」

とて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、やめず。

 とし、九十二まで、目も、よくして、たつしやなり。

 男子(なんし)・女子(によし)、共に、八人、もてり。

 男子(なんじ[やぶちゃん注:ママ。])四人は、人の「つかさ」をして、ふつき[やぶちゃん注:「富貴」。]・はんじやうなり。

 女三人は、大名・かうけ[やぶちゃん注:「高家」。]の妻と、なれり。

 老母のたのしみ、あげて、かぞへがたし。

 つねに、情(なさけ)あれば、果報も、またまた、同じ。

 つみを、おこなひては、つみに、おちゐる[やぶちゃん注:ママ。]。善を、みては、すゝみ、あくを、みては、しりぞく。

 此ことはり[やぶちゃん注:ママ。]を、よく、わきまへずんば、口おしかる[やぶちゃん注:ママ。]べし。

 

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧六 下人生きながら土にうづむ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧六 下人、生きながら、土に、うづむ事

 下野の国[やぶちゃん注:現在の栃木県。]に、さる人、一人の下人を、つかひけり。

 しかれば、此《この》下人、すこしの、しそこなひ、ありて、牢人《らうにん》しけり。

 ある人、來りていはく、

「うけたまはれば、其方《そのはう》は、大きなる『むふん別者』にて、あり。すこしのあやまりは、たが身のうへにも、ある事也。其上(《その》うへ)、『をん』をみて、『をん』を知らぬは、木石(ぼくせき)にもひとしかるべし。其身、さやうに立身(りつしん)し給ふも、且(かつ)は、かれが『をん』ならずや。たとひ、まんまんの事[やぶちゃん注:我が儘なこと。この場合は、主人のそれを指す。]、ありとも、まづ、此度(《この》たび)は、かへし、つかはれよ。もし、ないないの一義(いちぎ)[やぶちゃん注:旧主家の内の事で、外部に知られては、困る事柄を指す。]、他所へ聞えなば、身のうへ、大事成《なる》べし。しかれば、かれを、あしくする事は、あるまじき事也。」

と、たつて申《まうし》ければ、此人、此ことはり[やぶちゃん注:ママ。「斷」「理」或いは「道理」の意であるから、「ことわり」が正しい。]におれて、やがて、よびかへしけり。

 下人、かへりて、四、五日ほどして、主人へ申《まうす》やう、

「それがしには、五七日《ごひちにち》[やぶちゃん注:三十五日間。]、御いとまを給はり候へ。在所(ざいしよ)へ、參りたく候。」

と。

 主人、聞《きき》て、

『さては。きやつ[やぶちゃん注:「彼奴」。]は、とても、奉公、せまじ。』

と思ひ、いとまを取《とる》と心へ[やぶちゃん注:ママ。「心得」。]、

『もし、いとまをくれなば、又、余人(よじん)を主(しゆ)に取《とり》、つゐに[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]は、日比《ひごろ》の大事[やぶちゃん注:内々にしており、外へ洩れては、甚だ不味い事柄。]を、かたるべし。さもあらば、後《のち》には、主君へ、もれなん時は、我《わが》一命(いちめい)は、なく成《なる》べし。しよせん、きやつが、ある內は、むつかしし。ころさばや。』

と、おもひ、やがて、かれを、めして、「うら」に、三間(げん)[やぶちゃん注:五・四五メートル。]ばかりの「あな」を、ほらせ、よき時分(じぶん)に、かの下人を、うしろより、

「はた」

と、つきおとし、うへより、土(つち)を、はね込み[やぶちゃん注:「撥ね込み」。]、なんなく、「つち」にうづみけり。

 今は、心、やすし。たれ、はゞかる者の、あらざれば、「うちとけがほ」に見えけるが、其後《そののち》、かの、うづまれし男、よるよる[やぶちゃん注:「夜夜」。]、來(たたり)て、せめける。

 あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、みこ・やまぶしを、めして、いのらするといへども、やまず。

 かくする事、三十二日目に、つゐに、妄㚑(まうれい)に、とりころされける。

 きく人ごとに、

「下人のむくひなり。」

と、いひあへり。

 此《この》物がたりは、寬文貳年四月七日の事也。

 名(な)も、ところも、くはしくは、しるさず。

[やぶちゃん注:「寬文貳年四月七日」主人が、とり殺された日時であろう。グレゴリオ暦では、一六六二年五月二十四日に当たる。逆算すると、下人の妄霊の出現は、旧暦三月六日(グレゴリオ暦四月二十四日)となる。]

2024/07/10

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 無患子

 

Mukuroji

[やぶちゃん注:右手下方に、種子三個の拡大図が添えられてある。]

 

つぶ    桓  噤婁

      木患子

無患子 肥珠子

      菩提子

     鬼見愁 油珠子

[やぶちゃん字注:「桓」は(つくり)の中部と下部が「且」となっているが、このような異体字はないので、正字とした。「婁」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、「婁」とした。]

 

本綱菩提子生髙山中樹髙大枝葉皆如椿葉對生【或曰葉似

欅柳葉】五六月開白花結實大如彈丸狀如銀杏及苦楝子

生青熟黃也老則文皺黃時肥如油煠之形其蔕下有二

小子相粘承之實中一核堅黑正圓如珠釋子取爲念珠

殻中有仁如榛子仁【味辛䐈】可炒食相傳以此木爲噐用以

厭鬼魅俗名爲鬼見愁【昔有神巫曰瑶㲘能符劾百鬼得鬼則以此木爲棒棒殺之】

子皮【卽核外肉也微苦有小毒】 治喉痙硏納喉中立開澣垢靣䵟

△按無患子【俗云無久呂之今俗云豆布】其樹膚似山茶花木葉似椿

 及𣾰葉凡一椏十二三葉對生開小白花其子殻黃皺

 蔕下二小子及中黑核之形色皆如上所說其黑核頂

 有微白毛俗名呼豆布其小者爲念珠大者童女用代

 錢或𮢶一孔植小羽以小板鼓上之則頡頑以爲遊戱

 稱之羽子正月弄之也取鬼見愁之義乎其子皮煎汁

 洗衣能去垢又漬水以管吹則泡脹起以爲戱【俗云奢盆】

 無久呂之卽木欒子畧也誤爲無患子之名乎

 

   *

 

つぶ    桓《くわん》  噤婁《きんろう》

      木患子《ぼくくわんし》

無患子 肥珠子《ひしゆし》

      菩提子《ぼだいし》

     鬼見愁《きけんしう》 油珠子《ゆしゆし》

 

「本綱」に曰はく、『菩提子、髙山の中に生ず。樹髙、大にして、枝・葉、皆、椿(ヒヤンチユン)の葉のごとく、對生≪す≫【或いは曰はく、「葉、欅(けやき)・柳の葉に似る。」≪と≫。[やぶちゃん注:この良安の訓読は誤りである。ここは分離せずに「欅柳(きよりう)」であって、中国では、現在は、双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属コゴメヤナギ Salix dolichostyla ssp. serissifolia を指す。但し、これより、四つ後の「欅(けやき)」に異名として「欅柳」と出るのであるが、「本草綱目」の「欅」はバラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata ではなく、東洋文庫訳割注には、『(クルミ科カンポウフウ)』とあり、これは、異名で、中国原産のマンサク亜綱クルミ目クルミ科サワグルミ属シナサワグルミ Pterocarya stenoptera を指すらしい。その項で、考証する。]】。五、六月、白花を開き、實《み》を結ぶ。大いさ、彈丸のごとく、狀《かたち》銀杏、及び、苦-楝(あふち)の子(み)のごとし。生《わかき》は青く、熟せば、黃なり。老いる時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、文《もん》、皺(しは)す。黃なる時、肥えて、油煠(あぶらげ)の形のごとし。其の蔕《へた》の下、二≪つの≫小≪さき≫子≪み≫、有り、相《あひ》粘《ねん》じて、之れを承《う》く、實の中に、一つ、核《たね》あり、堅く黑くして、正圓なること、珠《たま》のごとし。釋子《しやくし》[やぶちゃん注:仏教徒。]、取りて、念珠と爲す。殻の中、仁《じん》、有り、榛(はしばみ)≪の≫子《み》≪の≫仁のごとし【味、辛、≪氣は≫䐈《シヨク》[やぶちゃん注:「䐈」は、音「シヨク(ショク)」で、「粘る・粘つく・べとつく」の意。]。】。炒りて食すべし。相《あひ》傳ふ、「此の木を以つて、噐《うつは》≪の≫用と爲せば、以つて、鬼魅を厭《おさへつける》。」≪と≫。≪故に≫、俗、名づけて、「鬼見愁《きけんしう》」と爲す【『昔、神巫《かんなぎ》、有り、「瑶㲘(《やう》く)」と曰《い》≪へり≫。能く、百鬼を符劾《ふがい》す[やぶちゃん注:霊的な御符を以って責めること。]。鬼《き》を得れば、則ち、此の木を以つて、棒と爲し、棒もて、之れを殺す。』≪と≫。】。』≪と≫。

子皮《しひ/たねのかは》【卽ち、核《たね》の外《そと》≪の≫肉なり。微《やや》、苦、小毒、有り。】。』『喉《のど》≪の≫痙《しびれ》を治す。硏《けん》して、喉の中に納《いる》≪れば≫、立《たち》どころに、開く。垢《あか》を澣(あら)へば、靣䵟(をもくさ[やぶちゃん注:ママ。「靣(=「面」)䵟」(音「メンカン」)は顔のシミを言う語。])を去る。』≪と≫。

△按ずるに、無患子【俗に云ふ、「無久呂之《むくろじ》」。今、俗、云ふ、「豆布《つぶ》」。】は、其の樹膚《きはだ》、「山-茶-花(つばき)の木」に似、葉、椿(ヒヤンチユン)、及び、𣾰《うるし》の葉に似る。凡そ、一≪つの≫椏《きのまた》≪に≫、十二、三葉《やう》、對生《たいせい》す。小白花《しやうはくくわ》を開く。其の子《み》≪の≫殻《から》、黃《き》≪の≫皺《しは》≪ありて≫、蔕《へた》≪の≫下の二≪つの≫小≪とさき≫子《み》、及び中の黑≪き≫核《たね》の、形・色、皆、上に說《と》く所《ところ》のごとし。其の黑き核≪の≫頂《いただき》≪には≫、微白《ややしろき》毛、有り。俗に呼んで、「豆布《つぶ》」と名づく。其の小さき者は、念珠と爲し、大なる者は、童女、用ひて、錢《ぜに》に代《か》ふ[やぶちゃん注:遊び(商売遊びか)の際の銭の代わりにする。]。或いは、一≪つの≫孔《あな》を𮢶(ほ)り、小さき羽《はね》を植へて[やぶちゃん注:ママ。]、小さき板を以つて、之れを、鼓(う)ち上《あぐ》れば、則ち、頡-頑(とびあがり、とびあがり)、以つて、遊戱(たはぶれ)と爲す。之れを、「羽子(はご)」と稱す。正月、之れを、弄(もてあそ)ぶは《✕→「は」は不要。》なり。「鬼見愁」の義を取るか。其の子《たね》の皮、汁≪に≫煎じて、衣を洗へば、能く、垢を去る。又、水に漬けて、管《くだ》を以つて、吹けば、則ち、泡《あは》、脹《ふく》れ起≪こり≫、以つて、戱《たはむれ》と爲す【俗に云ふ、「奢盆《シヤボン》」。】。「無久呂之」は、卽ち、「木欒子(もくれんじ)」の畧なり。誤りて、「無-患(つぶ)≪の≫子《み》」の名と爲るか。

 

[やぶちゃん注:総標題の「無患子」と良安がチョイスした時珍の記載について言えば、日中共通で、

双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科ムクロジ属ムクロジ Sapindus mukorossi

である。良安も、久しぶりに、本邦のムクロジと「本草綱目」の記載内容が一致するのに、甚だ安心したようで、彼自身の評も、とても余裕が感じられる自由な記載となっている。これは、ここまでの木本類の、日中の比定種が異なる鬱々とした森林のルング・ワンダリングの中では、特異点と言えるだろう。しかし乍ら、細かいことが気になる悪い癖のある杉下右京みたような御仁は、「ここで異名に『菩提子《ぼだいし》』を挙げているのは問題がある。」とツッコむかも知れない。但し、因みに、それは多くの読者がチラと頭を過ったであろうところの、

――「菩提樹」が、現代中国語の一解説によれば、アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana を意味しているから――ではない。

私が考えているのは、日中辞典で「菩提子」を引くと、あるものでは、

――ムクロジの、比較的、近縁種である「木患子」=モクゲンジ属モクゲンジ Koelreuteria paniculata を意味すると載るから――である。

無論、「本草綱目」の「無患子」の「釋名」の頭で「桓」「木患子」「噤婁」「肥珠子」「油珠子」「菩提子」「鬼見愁」と順に七つのムクロジの漢名を掲げており、しかも、この「菩提子」の他、「木患子」「肥珠子」「油珠子」の四つは、そもそもが、この「本草綱目」で正式に掲げられた異名なんだわさ(博物学的には、自分が正式命名したというのは、自分で自分に勲章を与える感じなんだろうが、本草学の中では、同一種に複数の名があるのは、混乱を招く元であり、よろしくない)。だから、良安に責任はないわけだ。しかも、時珍は他に、「集解」の中で、良安が引いた、「釋家取爲數珠故謂之菩提子」で使用しているだけなのである。従って、これは、確かにムクロジを指しているのである。――と言うかさ、実は、次の項の「木欒子(もくろじ)」つーのがさ、モクゲンジなんよ。――右京さんよ……。ウィキの「ムクロジ」を引く(注記号はカットした)。『東アジアから東南アジア・インドの温帯域に分布し、日本では寺社に植栽された巨木も見られる』。十『枚前後の偶数の小葉を持つ大型の羽状複葉で、秋は黄色に紅葉する。果実は石鹸代わりになり、soapberryとも呼ばれる。種子は羽根つきの羽根の玉に使われる』。『和名「ムクロジ」の由来は、実や種子に薬効があることから、中国名(漢名)で「無患子」といい、それを日本語で「ムクロシ」の読みを当てて、それが転訛したとされる。別名、ムク、シマムクロジ、ムニンムクロジ、セッケンノキともよばれる』。『ムクロジは』一七八八『年にドイツのヨーゼフ・ゲルトナー』(Joseph Gärtner 一七三二年~一七九一年:植物学者・医師)の「植物の果実と種子について」( De Fructibus et Seminibus Plantarum )で、『 Sapindus mukorossi という学名が与えられたが、種小名 mukorossi は日本語の俗称、つまりまさに「ムクロジ」の名に基づいたものであると考えられる。その後』、『ポルトガルの』イエズス会宣教師で、古生物学者・医師・植物学者であった『ジョアン・デ・ルーレイロが』、一七九〇『年に』「コーチシナ植物誌」( Flora Cochinchinensis )で記載した Sapindus abruptus 、イギリスのウィリアム・ロクスバラ』(William Roxburgh 一七五一年~一八一五年:スコットランドの医師・植物学者で、長年、インドの植物や気象の研究を行ったことで知られる)が、『ベンガル地方で見つけ』、『報告した Sapindus detergens 、ヒマラヤ地域やネパール、シレットに見られた Sapindus acuminatus 』、一九三五『年に日本の』『津山尚』(つやまたかし 明治四三(一九一〇)年~平成一二(二〇〇〇)年:植物学者)が『小笠原諸島母島の旧北村付近で採取された標本を基に『植物学雑誌』上で記載した Sapindus boninensis は、後にいずれも S. mukorossi のシノニムとして扱われるようになった』。『インドから東アジアの温帯およびインドシナにかけて分布し、具体的にはネパール、インド(旧ジャンムー・カシミール州、ヒマーチャル・プラデーシュ州、ウッタラーカンド州、アッサム州を含む)、ミャンマー、タイ、ラオス、ベトナム、中華人民共和国(海南省、南中央部、南東部)、台湾、朝鮮、日本(南西諸島、小笠原諸島、火山列島を含む)に自生し、パキスタンやジョージアにも持ち込まれている』。『日本では新潟県・茨城県以西の本州、四国、九州で見られる。低、あるいは山地に自生する。日本では、庭木にも植えられ、しばしば寺や神社に植えられている』。『落葉広葉樹の高木で、樹高は』七~十五『メートル』『ほどになり、中には』二十メートルを『超える巨木になる。樹形は逆円錐形になる。雌雄同株。樹皮は黄褐色で平滑、老木になると』、『裂けて』、『大きく剥がれる。一年枝は、太くて無毛、皮目が目立つ』。『葉は互生し』、四十~七十『センチメートル』『の偶数羽状複葉で、小葉は』八~十六『枚』、『つき、先端の小葉はない。小葉は長さ』七~十五センチメートル、『広披針形で全縁。葉軸に対して』、『小葉は完全な対生ではなく、多少』、『ずれてつく。晩秋になると葉は黄葉する。鮮やかな黄色から、次第に色濃くなって、葉が散るころには縮れながら』、『褐色が強くなる。枯れ葉も黄色を帯びた明るい褐色で、目立つ。ムクロジ目』Sapindales『の樹木は紅葉が鮮やかなものが多い』。『花期は』六『月ごろで、花は淡緑色で、枝先に』三十センチメートル『程度の大きな円錐花序となって』、『多数』、『咲く。花は直径』四~五ミリメートルで、『雄花には』八~十『個の長い雄蕊、雌花には短い雄蕊と雌蕊がある。花穂はほとんどが雄花である』。『果期は』十~十一『月ごろで、果実は直径』二センチメートルの『球形で、液果様で黄褐色に熟して、落葉後でも』一『月ごろまで残っている。果実のなかに黒くて大きな球状の種子を』一『個』、『含む』。『冬に落葉すると、葉痕の面は蝋質感があり、中央がやや色づいていて、維管束痕が』三『個あることから、笑った顔や猿の顔のようにも見える』(よしゆき氏のサイト「松江の花図鑑」の「ムクロジ(無患子)」のページがよい。多数の写真がある。猿顔のそれは「▼2011年3月5日 冬芽 城山公園」にある。拡大可能。ホンマ、猿やで!)『冬芽は葉痕に比べるとかなり小さい円錐形で、副芽を下に付ける。仮頂芽は側芽より小さく、芽鱗は』四『枚』、『つく』。『果皮はサポニンを含み、サポニンには水に溶かすと泡立つ成分があり、サイカチ同様』、『石鹸代わりに用いられる。種子は』、『かたく、数珠や羽根突きの羽根の元にある黒い玉の材料にされる』。『ムクロジの黒い果実の皮を、漢方薬では延命皮と称している。女性用避妊具として利用された』とある。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の四項目にある「無患子(ガイド・ナンバー[086-15a]以下)からのパッチワーク。

「椿(ヒヤンチユン)」ツバキではないので、要注意。双子葉植物綱ムクロジ目センダン科 Toona 属チャンチン Toona sinensis である。委しくは、先行する「椿(ちやんちゆん)」を、必ず、参照されたい。

「苦-楝(あふち)」中国では、狭義には、双子葉植物綱ムクロジ目センダン科センダン属トウセンダン  Melia toosendan を指す。本邦のセンダン Melia azedarach var. subtripinnata も含めてよい。先行する「楝」を参照のこと。

「油煠(あぶらげ)」の「煠」は、音「ヨウ・ チョウ・ソウ・ ジョウ」(現代仮名遣)で、意味は「やく・油で炒める・水で茹でる」の意。良安は現代の「油揚げ」の意で読みを振っているようである。

「『昔、神巫《かんなぎ》、有り、「瑶㲘(《やう》く)」と曰《い》≪へり≫。能く、百鬼を符劾《ふがい》す。鬼《き》を得れば、則ち、此の木を以つて、棒と爲し、棒もて、之れを殺す。』とあるのは、唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した「酉陽雜俎」(二十巻・続集十巻・八六〇年頃成立)の「續集」の「卷十 支植下」からである。原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、当該部の電子化されてある。私は、同書を東洋文庫版の今村与志雄訳注で所持する。当該部の訳を、まず、引用する。

   《引用開始》

 無患木は、焼くと、たいへん、香りがよく、悪気よけになる。一名、噤婁(きんろう)といい、一名、桓(かん)という。

 むかし、瑶(よう)※[やぶちゃん注:「月」(へん)+「毛」(つくり)。]という不思議な力をそなえた巫(みこ)がいた。符(ふだ)をつかって百鬼を退治し、魑魅(ちみ)を捕虜にして、無患木でこれを撃ち殺した。世人は、きそってこの木を取って、道具をつくり、それでもって鬼を追いはらった。そこで無患木という。

   《引用終了》

そして、「無患木」と「瑶(よう)※」について、今村氏の注が附されてある。前者では、同じくムクロジに比定同定され、「本草綱目」の異名も並べておられ、最後に『俗に鬼見愁というのは、道教の分野で禳解方に用いるからであり、仏教界で取って数珠にするから菩提子という』とある。この「禳解方」(じやうかいはう)とは、さまざまな災厄や魑魅魍魎から守るための厄払いの道教の術式を言う。而して、大切な部分なので、「瑶(よう)※」の注は全文を示す。

   《引用開始》

 案ずるに、晋の崔豹(さいひょう)の『古今注』下によると、「むかし、宝毦(じ)という名の不思議な力をそなえた巫(みこ)がいて、符でもって百鬼を退治した。鬼をつかまえると、この木で棒をつくり、鬼をなぐり殺した。世人はこの木は鬼たちにこわがられていると伝え、競ってこの木を取って器具をつくり、邪鬼をはらった。だから無患という」(『古今注・中華古今注・蘇氏演義』一九五六年四月、商務印書館刊、上海)。この条は、後唐の馬縞(こう)の集『中華古今注』下(左氏『百川学海』甲集)に収め、それでは、巫の名を「珤(ほう)※[やぶちゃん注:先の引用の字と同じ。以下も同じ。]」としている。巫の名が、時代によってかわって伝えられていたのであろう。『酉陽雑俎』の「瑶※」は、そのことを裏書きしている。

   《引用終了》

とあった。さて、良安も、今村先生も、一貫して「みこ」と読みを附しているので、この「神巫《かんなぎ》」は女性のそれであり(そもそも本邦では男性のシャーマンは「覡(げき)」と区別される)、所謂、「巫女」(ふじょ)であったことが確定出来るのである。

「山-茶-花(つばき)の木」ここは、本邦の椿(つばき=藪椿:ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica )でよい。少なくとも、中国語で「ツバキ」は「山茶花」「日本椿花」などと表記され、言っておくと、ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属サザンカ Camellia sasanqua は、日本固有種で、ご覧の通り、ツバキの仲間であって、両者は、よく似ており、判別は素人には難しい。花の散り方がツバキは丸ごと、ポトッと落ちるに対して、サザンカはパラパラと一枚ずつ落ちる。通常のツバキは香りがないのに対し、サザンカは香り豊かである。最後に、実の違いがある。椿の実はツルツルしているが、サザンカのそれは毛があり、ツバキは子房に毛がないのに対し、サザンカのそれには、毛があるのである。

「𣾰《うるし》」ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum 。先行する「𣾰」を参照されたい。

「奢盆《シヤボン》」シャボン・サボン。石鹸。スペイン語の「jabón」(音写すると、「ハボン(ヌ)」に近い)の古い発音からか。

「木欒子(もくれんじ)」割注したが、次項を俟たれたい。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧五 女房下女をあしくして手のゆびことごとく虵になる事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧五 女房、下女を、あしくして、手のゆび、ことごとく虵(へび)になる事

○紀州三原(みはら)といふ所に、さる夫婦、ありけり。

[やぶちゃん注:「紀州三原(みはら)」不詳。実は、岩波文庫の高田衛先生の脚注には、『現在の和歌山県田辺町の古名』と書かれてあるのだが、今回、それを見て、『え!?! そうなんだ?』と最初はびっくりした。なぜなら、私は、田辺所縁の「智の巨人」南方熊楠の著作を幾つか、ブログ・カテゴリ「南方熊楠」他で電子化注しているのだが、「紀州俗傳」等でも、「三原」という旧地名は、全く出てこないからだった。而して、ネットで調べてみたが、現在の田辺市が、古く「三原」と呼ばれていたという事実は、全く検索に掛ってこないのだ。国立国会図書館デジタルコレクションの「和歌山縣田邊町誌」(田邊町誌編纂委員会編・昭和四六(一九七一)年多屋孫書店刊。但し、扉のヘッドを見れば、判る通り、これは昭和五年に編纂が行われた原書の戦後の再刊物である)も調べたが、地名の変遷記載には、「三原」は、一ヶ所も、ない、のだ。私は、結果して、同書の「一〇、地名」を管見し、「みはら」という発音に似たものがないかどうかも、調べた。しかし、ない。高田先生は、如何なる資料に基づいて、この明確な注を附されたのだろう? 私は読書の中で、十代後半より、先生の書物には、かなり親しんでいるのだが、お訊ねする伝手も、ない。されば、「不詳」とせざるを得ないのである。

 下女を、一人、つかひけり。

 此の下女、みめかたち、すこし、よかりけり。

 夫(をつと)、つねづね、かれに、なさけらしきふり、ありけるを、此《この》女房、大きにねたみ、そねみ、男、他行《たぎやう》しけるあとにては、いろいろ、なんだいを、いひかけては、かしらのかみを、つかみ、ふせては、やがて、やずり[やぶちゃん注:不詳。岩波文庫でも高田衛氏は、『脱字か。不詳。』とされる。「ひきずり」辺りか?]、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、かなはざる手わざを、させ、ゑせざれば、五つの手の指を、「かなづち」をもつて、うちひしぎ、時ならず、「せいし」[やぶちゃん注:「誓紙」。夫にこの仕打ちを語らないという誓約文書である。]をかゝする事、度〻(たびたび)に及べり。

 たびかさなれば、程なく、わづらひ付《つき》、つゐに[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]死《しし》けり。

 女房、

「今は、こゝろやすし。心にかゝるもの、なければ、みち、ひろし。」

とて、よろこびあへる[やぶちゃん注:独りで、何度も、繰り返し、喜んだのである。]事、かぎりなし。

 

Yubihebi

[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ、第二参考底本はここ。後者は、落書、多数で、何故か、女房の顔を潰してあるが、指先が蛇に変じた様子が、最もはっきり見える。]

 

 ある時、此女房、指を、わづらひいだし、さまざま、れうじ[やぶちゃん注:ママ。「療治(れうぢ)」。]するに、次㐧次㐧に、あしくなりて、後(のち)には、ゆびのさき、ことごとく虵《へび》のごとくなりて、くちを、あき、

「へらへら」

と、「した」のやう成《なる》物を出《いだ》し、ともに、

「ひた」

と、まつはり、或ひは[やぶちゃん注:ママ。]、くひあひ、其《その》くはれけるゆびの、いたむ事、五躰(ごたい)しんぶん[やぶちゃん注:「身分」。五体(頭・首・胸・手・足。また、頭・両手・両足。漢方では、筋・血脈・肌肉(きにく)・骨・皮とする)全身の節々。]も、さけ、はなるゝかとおぼえて、くるしき事、いふばかり、なし。

「あら、くるしや、かなしや、」

といふ事、五十日ばかり、なやみて、つゐに、死(しゝ)けり。

 むくひ、しなじな、世におほしといへども、かやうの因果は、「ぜんだいみもん」、ためしなき事也。

 未來[やぶちゃん注:来世。]はうたひもなき「じやどう」[やぶちゃん注:ママ。「虵道(じやだう)」。蛇の住む世界の意だが、「邪道」に掛けているのであろう。]ならん。

 是は、わかやまの、「入(にう)かい」と申《まうす》房主(ばうず)[やぶちゃん注:「坊主」に同じ。]の、かたられける。

 

2024/07/09

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧四 鰐れうしのくびを取事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。「鰐」は無論、サメのこと。推定種は後注で。]

 

 㐧四 鰐(わに)、れうしのくびを取《とる》事

○能登うらに、三郞大夫といふ猟師あり。

 つねに、親に「ふかうのもの」にて、れうに、いでゝ、「うを」を、とらざれば、ふくりうして[やぶちゃん注:ママ。「腹立(ふくりふ)して」。]、かへりては、親に、つらくあたり、ある時は、つえ[やぶちゃん注:ママ。]をもつて、おやを、うちなやます事、度々(たびたび)に及べり。

 食物(しよくもつ)に付《つき》ても、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]は、たくさんにくひて、親には、おしみ[やぶちゃん注:ママ。]、時〻《ときどき》には、くれず。

 ある時、れうに出《いで》ける。ころしも、六月中旬の事なるに、ねむたくして、ことに、小舟(せうせん)の事なれば、ふなばたに、うちもたれ、かうべを、水ぎはまで、さげて、よねんなく、ねけるに、かの鰐といふうを、うきあがつて、れうしの首(くび)を、

「ふつ」

と、くひ切《きり》て、しづみけり。

 舟中(せんちう)は、只(たゞ)一人の事なれば、しる人も、なし。

 もとより、ぬし、なければ、此ふね、ゆられゆくを、とも[やぶちゃん注:「友」。]猟師の、見付(み《つけ》)て、家に、かへり、妻子(さいし)に、

「かく。」

と、かたる。

 妻子、大きに、おどろき、此しだいを、目代(もくだい)へ、ありのまゝに、申《まうし》あぐる。

 奉行、うらのものどもを、めして、「けんだん」[やぶちゃん注:「検斷」。]あるに、しるしなくして、其ぶんにて、うちすぎぬ。

 四、五日ありて、さる人、「わに」を、つりけるが、其大きさ、五ひろばかりも、あるらん。はまベに、つりあげて、はらを、あげて[やぶちゃん注:ママ。「開けて」。]、見ければ、くだんのれうしの首(くび)、有《あり》。

「扨こそ、鰐のくひける。」

と、しれり。

 日比(ひごろ)、親に、ふかうのともがらなるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、おもい[やぶちゃん注:ママ。]ざる「いぬ死(じ)に」[やぶちゃん注:多分、「死」の読みの「じ」は有意に上の方にあることから、「じに」と彫るところを、落したものと推定される。]、あへり。

 因果のどをり[やぶちゃん注:ママ。「道理(だうり)」。]、かくのごとし。

 此はなしは、加賀衆《かがしゆ》の、かたりける。

 寬永中ごろの事也。

[やぶちゃん注:「五ひろ」「尋」(ひろ)は、両手を左右に広げた際の幅を基準とする身体尺。当該ウィキによれば、『学術上や換算上など抽象的単位としては』一『尋を』六『尺(約』一・八『メートル)とすることが多いが、網の製造や綱の製作などの具体例では』一『尋を』五『尺(約』一・五『メートル)とする傾向がある』とあり、昔のそれは、当時の一般人の身長から後者を採るべきかと思う。それで換算すると、約七・五メートルになる。「人食いザメ」としてよく知られる大型のサメは、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias で、当該ウィキによれば、『現在』、『広く』言われている、実際の『最大全長は』六~六・四メートル『である』が、『推定値ながら、台湾沖やオーストラリア沖などで、切り落とされた頭部の大きさなどから』、『全長』七『メートル以上、体重』二トン五百『キログラム以上と推定される個体が捕獲されたことがある』とあるので、事実なら、本種としておこう。

「寬永中ごろ」寛永は二十一年十二月十六日(グレゴリオ暦一六四五年一月一三日)までであるから、寛永八年(正月元旦は同じく一六三一年二月一日)から寛永十四年(同じく一六三八年二月十三日まで)が相当する。事実ならね。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧三 一じやうばう執心の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

  第三 一じやうばう、執心(しうしん)の事

○寬永年中に、佐渡の國「はも」といふ所に、「いちじやうばう」と申《まうし》て、ありける。

[やぶちゃん注:「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。徳川家光の治世。

『佐渡の國「はも」』現在の佐渡市羽茂(はもち)地区(グーグル・マップ・データ)であろう。小佐渡の沢崎鼻や宿根木のある半島の、中間部分に当たる。]

 せんざい[やぶちゃん注:「前栽」。]に柹(かき)の木を、うへて、とし比(ごろ)、是を、あひ[やぶちゃん注:ママ。]しけるが、「むじやうへんめつ」[やぶちゃん注:「無常變滅」。]のならい[やぶちゃん注:ママ。]とて、死(しゝ)けり。

 ある時、弟子の房主(ばうしゆ)、此木を、

「きりて、たきゞに、せん。」

とて、きりてけり。

 扨《さて》、わりて、見るに、中に、くろく、文字(もんじ)、あり。

 ふしぎにおもひ、よく見れば、

「いちじやう房」

といふ、文字、なり。

 あやしくおもひ、なから[やぶちゃん注:「半ら」。木の真ん中の辺り。]、

「ひた」

と、わりけるに、わるごとに、文字、ありけり。

「是は。いか成《なる》事ぞ。」

と、いふに、

「房主、ぞんじやう[やぶちゃん注:「存生」。]の時、おしく[やぶちゃん注:ママ。「惜(を)しく」。]おもひ、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、其心、さいごまで、おもひつめて、死《しし》けり。其執心、木の中に、とゞまりける。」

と、きく人ごとに、申《まうし》あへり。

 あさましき心也《なり》。

 是《これ》は、近年の事也。

 山科の人、佐渡に、久しく、すみ、上《のぼ》りて、かたられける。

[やぶちゃん注:実は、佐渡市羽茂(はもち)地区の羽茂大崎(はもちおおさき)に、嘗つてあった法乗坊(歴史的仮名遣では「はふじやうばう」)という寺の跡地に、大木の「江戸彼岸」の桜(双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属シダレザクラ変種・品種エドヒガンCerasus itosakura var. itosakura f. ascendens :日本に自生する十種、或いは、十一種あるサクラ属の基本野生種の一つ)の大木があることで有名である。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「さど観光ナビ」の「法乗坊のエドヒガン」に、『法乗坊跡地で茅葺屋根の建物に寄り添うように枝を拡げています。樹齢は』二百五十年から二百六十『年と伝わり、根元周り』六・九メートル、『樹高』二十一メートル、『枝張りは東西南北ともに』二十六メートルに『およびます。地元の人々からは「法乗坊の種蒔き桜」と呼ばれ、農作業の目安として親しまれています』とある。作者は、この事実を知っていたと思われ、本話に柿として転用したのであろう。私は佐渡好きで、三度、行っているが、この桜は見ていない。四度目は、是非、見たく思っている。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 肥皂莢

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ひさうけう

 

肥皂莢

 

 

本綱肥皂莢生髙山中其樹髙大葉如檀及皂莢葉五六

月開白花結莢長三四寸狀如雲實之莢肥厚多肉內有

黑子數顆大如指頭不正圓其色如𣾰而甚堅中有白仁

如栗煨熟可食十月采莢氣味【辛温微毒】 治風濕下痢便血瘡癬腫毒【相感志言肥皂莢水死金魚辟馬螘麩見之則不就亦物性然耳】

 

   *

 

ひさうけう

 

肥皂莢

 

 

「本綱」に曰はく、『肥皂莢、髙山の中に生ず。其の樹、髙く、大≪なり≫。葉、檀(まゆみ)、及び、皂莢(さいかし[やぶちゃん注:ママ。前項でも標題で「さいかし」とする。])の葉のごとし。五、六月、白花を開き、莢≪さや≫を結ぶ。長さ、三、四寸。狀《かたち》、「雲實《うんじつ》」の莢のごとく、肥厚して、肉、多し。內《うち》に、黑≪き≫子《たね》、數顆《すうくわ》、有り。大いさ、指の頭のごとく≪して≫、正圓《せいゑん》ならず。其の色、𣾰《うるし》のごとくして、甚だ、堅し。中に、白≪き≫仁《じん》、有≪りて≫、栗のごとし、煨《うづみやき》し、熟して[やぶちゃん注:十分に灰の中に埋み焼きにして。]、食ふべし。十月、莢を采る』≪と≫。『氣味【辛、温。微毒。】 風濕《ふうしつ》[やぶちゃん注:リウマチ。]・下痢・便血・瘡《かさ》・癬《くさ》[やぶちゃん注:湿疹。]・腫毒を治す【「相感志」に言はく、『「肥皂莢水《ひさうけうすい》」は金魚を死≪なせ≫、馬螘《バギ/おほあり》[やぶちゃん注:大蟻。]を辟《さ》く。麩《むぎこ》、之れに見《まみ》≪えても≫、就《つ》かず[やぶちゃん注:付着しない。]。則ち、亦、物性の然《しかれ》るのみ。』≪と≫】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、「本草綱目」本文中に最初に出る「肥皂莢」に割注して、『(マメ科シャボンサイカチ)』とあるが、これは、正規の和名ではない。当該種は、

マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科 Caesalpinioideaeギムノクラドゥス(中文名:肥皂莢)属 Gymnocladus 肥皂莢(中文名)Gymnocladus chinensis

である。正式和名はないと思われる(ある植物の百科事典を標榜するサイトでは、この学名を添えながら、トンデモ種同定をしていて、スイセンの一種としているのには、空いた口が塞がらなかった。致命的キズ物であるので、当該サイトと当該記事は伏せる。学名で検索すると、頭に出るから、すぐ判ってしまうが。また、ある学術資料(クレジット一九九二年附)では、このギムノクラドゥス(肥皂莢)属を『アメリカサイカチ属』とするのを見つけたが、これが、もし正式和属名とならば、甚だ、おかしいと思う。同属は五種であるが、アメリカの中西部・北部産の種は一種のみであり、残りの他の四種(本種を含む)は、中国中部・中国南東部(広西)・インド・ベトナム・ミャンマーだからで(英文ウィキの「 Gymnocladus を参照した)、謂わば、「洋頭東區肉」になっちまうからである)。閑話休題。以上を確定出来るデータは、「維基百科」の「肥皂莢」で、同種の英文ウィキには、俗名を“soap tree or Chinese coffeetree”とする。「石鹸(シャボン)の木」・「中国の珈琲(コーヒー)の木」である。そこには、『中国中部原産』とし、『葉は大きな二回羽状の複葉で、最初は紫色、後に緑色に変化する』と書かれてある。なお、東洋文庫訳の『シャボンサイカチ』もいただけない。言うまでもなく、素人は容易にサイカチ属 Gleditsia の一種と間違えるからである。この「肥皂莢」の前項が「皂莢」とくりゃあ、猶更だ! 私のような素人は、東洋文庫を読んで、『シャボンサイカチ』を百パー、サイカチ属だと思うね。当時(私は初版で所持しているが、刊行は一九九〇年で、三十四年前だ)、調べても、本種の日本語記載は、殆んど、出てこなかっただろうからね。今だって、信用し得たのは、私がネットの植物譜で最も信頼するサイト「跡見群芳譜」の「まめ(豆)」だけだったもの。二箇所に現われる。部分引用しておく。学名は斜体になっていないのは、ママである。

   《引用開始》

シロップ属 Guilandina(鷹葉刺屬)世界の熱帯・亜熱帯に約19種

   シロップ G. bonduc(Caesalpina bonduc;刺果蘇木・臺灣雲實・老虎心)

   G. dioica(Gymnocladus dioica;北美肥皂莢)

   ハスノミカズラ G. major(Caesalpina major, C.globulorum, C.jayabo)

   G. minax(Caesalpina minax, C.morsei;

      喙莢鷹葉刺・喙莢雲實・南蛇簕・蓮子簕・石蓮簕・苦石蓮)

      『中国本草図録』Ⅰ/0115

      『中薬志Ⅱ』105-106 『全国中草葯匯編』上/582 『(修訂)中葯志』III/550-551

   Q. nuga(Caesalpina crista;華南雲實)

Gymnocladus(肥皂莢屬)

   G. chinensis(肥皂莢) 『全国中草葯匯編』下/385

   《引用終了》

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の項目にある「皂莢」(ガイド・ナンバー[086-14a]以下)からのパッチワーク。

「檀(まゆみ)」双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus Blume var. sieboldianus 。先行する「檀」を参照。

「皂莢(さいかし)」ここは中国のそれであるから、双子葉植物綱マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ属トウサイカチ(唐皂莢)Gleditsia sinensis で、本邦の「さいかし」=「さいかち」は、サイカチ属サイカチ Gleditsia japonica となる。前項「皂莢」参照。

「雲實《うんじつ》」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科ジャケツイバラ属ジャケツイバラ Biancaea decapetala の別称。当該ウィキを見られたい。本種は有毒植物とされるが、同ウィキには、『有毒植物』とのみあるだけで、具体記載がないのは、マズいね。昔から、海藻・海草類でお世話になっている鈴木雅大氏の素敵なサイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」の同種のページに、『毒性成分は不明ですが』、『果実に毒があり』、『誤食すると中毒を起こすそうです。』とあった。

「相感志」「相感志」は「物類相感志」で、元は宋の蘇軾が書いた百科事典であるが、それを、彼の弟子かと思われる賛寧が撰した「東坡先生集物類相感志」であるらしい。

『「肥皂莢水《ひさうけうすい》」は金魚を死≪なせ≫、馬螘《バギ/おほあり》[やぶちゃん注:大蟻。]を辟《さ》く。麩《むぎこ》、之れに見《まみ》≪えても≫、就《つ》かず』サイカチと同じで、この種もサポニン(saponin)を多く含む。サポニンは、動物類の、特に魚類系には、広汎に有意な毒性を持つ(それを防衛武器として持っているのが、有名なナマコ類である)。麦粉が附着しないのも、その界面活性作用による。近代まで、よく用いられた漁法「毒揉み」には、サポニンを含む植物が、山椒や胡桃(くるみ)に次いで、よく用いられた。そうさな、脱線だが、「毒揉み」と言えば、『「想山著聞奇集 卷の參」 「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」』が忘れられんね。未読の方は、是非。お薦めである。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 目錄・㐧二 我子をすいふろに入ていり殺事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。「すいふろ」は「水風呂」。]

 

  第二 我子(わがこ)を「すいふろ」に入《いれ》て、いり殺(ころす)事

○去(さる)さぶらい、子を、二人、もちける。

 兄は、十一、次は、八つになりける。

 或時、父、

「つよく、せつかん、せん。」

とて、すいふろを、こしらへさせ、二人の子どもを入(いれ)、上(うへ)に、ふたを、し、大き成《なる》石(いし)を、をき[やぶちゃん注:ママ。]、我《われ》と下知して、ゆのしたを、ひた物[やぶちゃん注:副詞。「無暗に」。]、たかせ、ほどなく、二人ともに、いりころしけり。

 二人の子もりが、是を、みて、大きに、かなしめども、親(おや)のしはざなれば、せんかたなし。

 扨《さて》、主人、下人を、めして、いはく、

「なんぢら、此事を、ずいぶん、他言(たごん)する事、なかれ。もし、外《そと》より、しれなば、一〻《いちいち》[やぶちゃん注:ことごとく。]、曲事(くせごと)なり[やぶちゃん注:「処罰ものだ!」の意。]。」

と申付《まうしつく》る。

 下〻(したした)も、我子を、よしなき事に、ころすほどの主人なるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、後日(ごにち)を、をそれて[やぶちゃん注:ママ。]、みな、口を、とぢけり。

 しかれども、「天しる、地しる。」なれば、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]は、主君へ、もれ聞《きこ》へ[やぶちゃん注:ママ。]、主君の、いはく、

「もつとも、我子なれば、せつかんするも、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]也。しかしながら、せつかんの品(しな)[やぶちゃん注:程度。レベル。]こそ、おほけれ。ことに、一人ならず、二人の子を、いりころすといふ事、前代未聞、めづらしきせつかんの仕樣(しやう)ならずや。たゞし、本性(ほんしやう)のものゝ、なすわざに、あらず。扨《さて》は、狂氣(きやうき)のものなりと、おぼゆ。しかれば、さやうのものに、大分(だいぶん)のふちをくれ、何かせん。いそぎ、出《いだ》さるべし。」[やぶちゃん注:「本性」第二参考底本では、『木性』であるが(ルビは『ほんしやう』)、誤刻であるので、第一参考底本を採用した。]

と、仰付《おほせつけ》られたり。

 さて郡内(ぐんない)のうちは、申《まうす》に及《およば》ず、きんごく[やぶちゃん注:「近國」。]までも、せかれ、二度(ふたゝび)、奉公ならずして、ある山ざとヘ、引《ひき》こもりけり。

[やぶちゃん注:「せかれ」不詳。「急かれ」「塞(堰)かれ」「背かれ」などを考えたが、ぴったりくる意味が見当たらない。第二参考底本で、別な判読も試みたが、しっくりくるものはない。]

 されども付《つき》したがふものとては、二人の「子もり女」ばかりなり。

 あさましき次㐧也。

 後(のち)には、二人の女、心を合《あはせ》、主人一人、すてをき[やぶちゃん注:ママ。]、ちりぢりに、おちうせぬ。

「かなしきかな、一《いつ》しん[やぶちゃん注:「一身」。]と成《なり》て、たれを、たのむべき便(たより)もなく、後には、乞食(こつじき)となりて、因果をさらしける。」

と、申《まうし》つたゆ[やぶちゃん注:ママ。]。

 されば、世にすむともがらは、かりにも、法(はふ)にもれたる事を、せまじき物かな。主(しゆ)あるものは、其主のとがめ、あり。あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、民・百姓(たみひやうくしやう)は、地頭(ぢとう)・奉行といふものありて、是より、罪をたゞす。それぞれのわかち、あれば、とかく、わがまゝを、ふるまふ事もならず。もし、又、内證(ないせう[やぶちゃん注:ママ。])にて、「とが」を行へば、人しれず、天ばつを、うくる。何事も、𢙣事(あくじ)は、内外(ないげ)ともに、よくよく、つゝしむべき事也。

[やぶちゃん注:「地頭」江戸時代、地方知行地(じかたちぎょうち)を持っていた、幕府の旗本や、私藩の給人(きゅうにん)の通称。小領主。また、一地域の領主の俗称。]

2024/07/08

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 目錄・㐧一 酒屋伊勢としごもりの事幷太神宮ぢごくを見せしめ給ふ事

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 目錄・㐧一 酒屋伊勢としごもりの事幷太神宮

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

善惡報はなし 五之目錄

 

㐧 一 酒屋(さかや)伊勢(いせ)としごもりの事幷《ならびに》太神宮(だいじんぐう)

    夢中(むちう)に地獄(ぢごく)を見(み)せ給ふ事

㐧 二 我子(わがこ)をすいふろに入(いれ)いりころす事

㐧 三 一乘坊(いちぜうばう)執心(しうしん)の事

[やぶちゃん注:読みの「ぜう」はママ。「じよう」のままでよい。]

㐧 四 鰐(わに)に猟師(れうし)首(くび)をとらるゝ事

㐧 五 女房下女(げぢよ)をあしくして手(て)のゆびことご

    く虵(へび)に成《なる》事

㐧 六 下人(げにん)生(いき)ながら土(つち)にうづまるゝ事

㐧 七 情(なさけ)ふかき老母(らうぼ)果報(くわはう)の事

㐧 八 女の一念(ねん)來(きたつ)て夫(をつと)の身(み)をそぎ取《とる》事

㐧 九 女金銀(きんぎん)をひろゐしにかへす事

[やぶちゃん注:「ひろゐ」はママ。]

㐧 十 參宮(さんぐう)の女をはぎ天罸(てんばつ)の事

第十一 妄㚑(まうれい)とくむ事

[やぶちゃん注:「くむ」は「組む」で、「取っ組み合いをする」の意。]

第十二 衣類(いるい)わきざしをはぎ取《とり》うりあらはるゝ事

第十三 同行(どうぎやう)六人ゆどの山(さん)禪定(ぜんぢやう)の事

    一人犬(いぬ)となる事

第十四 䑕(ねずみ)のふくをとり報(むくい)來りて死(しぬる)事

 

 

善惡報はなし卷五

 㐧一 酒屋、伊勢參宮の事太神宮、ぢごくを見せしめ給ふ事

○洛陽に、さる酒屋、いせへ、「としごもり」しけるが、其夜(《その》よ)、太神宮、ゆめのうら[やぶちゃん注:「中」に同じ。]に御つげましまして、いはく、

「なんぢ、是まで參る心ざし、實(まこと)にゝたれども、なんぢは大き成《なる》、つみ、あり。しさいは、さけに、水(みづ)を、まぜて、うり、または、うしろぐらき、あたいをとる事、非道にあらずや。もし、「ゑしんさんげ」[やぶちゃん注:「𢌞心懺悔」。「𢌞心」は「仏教の教えを信じて心を誠の善へと向け換えること」。]して、今より、しんじつのおもひに、ちうして、れんちよく[やぶちゃん注:「廉直」。]に、をこなふ[やぶちゃん注:ママ。]に、をゐて[やぶちゃん注:ママ。]は、めでたかるべし。とてもの事になんぢに未來生所(みらいのしやうじよ)を、みせん。いざ、我に付《つき》て、來《きた》るべし。」

と、の給ふ。

[やぶちゃん注:「としごもり」「年籠り」。大晦日の夜に社寺に参籠し、新しい年を迎えることを言う。]

 

[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ、第二参考底本はここ。太神宮の服装は唐服で違和感があり、さらに、後者では、前者では判らない太神宮の頭頂部の飾りが、何んと! 五輪塔であることが、判る!

 

 かしこまつて、ゆく時、大き成《なる》もりのうちへ、ゆくに、何かはしらず、大の男二人、大き成《なる》かまを、すへて、たき[やぶちゃん注:「焚き」。]ける。

 酒屋、とふていはく、

「是は、何と申《まうす》いはれありて、かやうに、かまを、すへ、たき給ふや。」

二人の男(おとこ[やぶちゃん注:ママ。])、こたへて、いはく、

「さればこそ。是は大ぢごくのうち也。また、此かまをたく事、別のしさいに、あらず。此所ヘは、『ゑんぶだい』[やぶちゃん注:「閻浮提」。仏教で「人間世界・現世」と同義。]にて、酒を、つくり、水を、まぜて、うり、あたい[やぶちゃん注:ママ。]を、よくに、とる者、『しやば』[やぶちゃん注:「娑婆」。]のえん、つきて後、此所《ここ》へ來り、此かまの中に入、たごう[やぶちゃん注:ママ。「多刧(たごふ)」。極めて長い時間。永劫に同じ。]の間、かしやく[やぶちゃん注:「呵責」。]する。」

と、こたへける。

 此人、つくづくと、きゝて、

『扨は。我事(《わが》こと)也(なり)。』

と、おもひ、をそろしき[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]事、かぎりなくて、そこを、いそぎ、はしり出《いで》、

『神前に、かヘる。』

と、おもへば、夢、さめぬ。

 をそろしき事、身のけもよだつて、おぼえけり。

 さてしもあらざれば[やぶちゃん注:「「然てしも有らず」。連語。副詞「さて」+副助詞「しも」(強調)+ラ変動詞「あり」未然形+打消の助動詞「ず」で、「そのままにしておくわけには、とても、いかない」「かくしてばかりでは、とても、いられない」の意。]、とくとく、下向(げかう)し、家に、かヘり、妻子に、夢のつげ、一〻《いちいち》、かたり、 兄弟・しんるい[やぶちゃん注:ママ。]には、ふかく、かくし、後には、

「此商買(しやうばい)しかるべからず。」[やぶちゃん注:古くは「商賣」は、かくも書いた。]

とて、よなる[やぶちゃん注:「他(よ)なる」。別な。]商買を、しける。

「今生(このじやう)は、とても、かくても、一たんの[やぶちゃん注:ただ仮初の。]いとなみなり。未來[やぶちゃん注:来世。]こそ、をそろしけれ。ありがたくも、太神宮、御つげ、ましまさずば、此どんよくの業力(がういき[やぶちゃん注:ママ。])ふかき我らが、何として、さんげの心に、ぢうす[やぶちゃん注:「住す」。]べきや。夢中に、ぢごくを見せしめ給ふ、しからずば、いよいよ、罪惡、ぢんぢう[やぶちゃん注:ママ。「甚重(じんぢゆう)」。]にして、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、かの、かまのうちに、おち入《いり》、ごくねつの、ほのほに、身《み》を、こがさん物を。かたじけなくも、御じひの御つげをかうぶる事、よろこびの中の、よろこび、こうがう[やぶちゃん注:「曠劫」か。]の大慶(たいけい)、何事か、是《これ》に、しかんや。」

と。いよいよ、しん[やぶちゃん注:「信」。]を、はげましける。

 是は、近年の事なれば わざと其名を、しるさず。

「『いせとしごもり』は、寬文三年極月(ごくげつ)下旬の事なり。」

と、きこゆ。

[やぶちゃん注:「寬文三年極月(ごくげつ)下旬」グレゴリオ暦では一六六四年一月十八日から、同一月二十七日(寛文四年元旦)に当たる。但し、主人公が自宅へ帰ったのは、元日の未明であろう。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷四 㐧八 妄霊來てかたきをたゝき殺事 / 卷四~了

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧八 妄霊(まうれい)來(きたつ)てかたきをたゝき殺(ころす)事

○爰(こゝ)に瀨助(せすけ)と申《まうす》もの、あり。國(くに)・所(ところ)、失念しける。

 かれが女房、みめかたち、たぐひなき美女の聞えありけり。

 さる代官、なひなひ[やぶちゃん注:ママ。「内〻」。]、見をき[やぶちゃん注:ママ。]て、ほしくおもひぬれども、みち[やぶちゃん注:方途。]なければ、せんかたなくて、ありけるが、つくづくとおもひ出《いだ》して、かれがかたへ行く、みこ[やぶちゃん注:「巫女」。]をたのみ、なかだちさせて、文《ふみ》をつかはしければ、瀨助、かたく、せいしけるにより、中〻、手にだにもとららざれば、

「とやあらん、かくやあらん、」

と、日を、をくり[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 折ふし、瀨助、少し、法(はう)を、そむきける事、ありしを、わきより、うつたへけり。

 其《その》罪(つみ)の「ひやうぢやう」[やぶちゃん注:「評定」。]ありしを、此代官、きゝつけて、

『さいはい[やぶちゃん注:ママ。「幸(さひはひ)」。]の折がらなり。』

と思ひ、かろき「とが」を、おもくいひなして、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、西国へ、ながさるゝ道にて、はかなくなりけり。

 代官、いよいよ、

『嬉しき事。』

に思ひ、扨《さて》は、ねがふ所のみち、ひろくなりて、女の母に、金銀、おほく、とらせ、やがて、うばひとりて、けり。

 此女も、つねづね、瀨助。つよくあたる事を、ふそくに思ひしが、今はふせぐ[やぶちゃん注:「防ぐ」。遮り留める。]ものもなく、代官にしたがひ、「かいらうどうけつ」[やぶちゃん注:「偕老同穴」。]のちぎり、あさからざりしが、此女、代官の家に行きし日より、瀨助がおもかげの、かたはらにあるやうに見えて、心ぐるしき事、かぎりなし。

 女、夫(をつと)の代官に、

「かく。」

といへば、ある山ぶしをよび、さまざま、いのり、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、神明(しんめい)に「きたう」しけれども、其《その》しるしなく、ある夕ぐれに、瀨助、來《きたつ》て、「つえ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]」をもつて、代官を、うしろより、うちける。

 代官、

『あつ。』

と思ひ、ねぢかへりて[やぶちゃん注:「捩ぢ返りて」。]見ければ、瀨助、正(まさ)しく、杖をもつて、かさねて、又、うたんとするを、やがて、代官、とびかかつて、くまんとすれば、其まゝ、きへ[やぶちゃん注:ママ。]て、うせぬ。

 かく、する事、度〻(たびたび)に及びければ、ほどなく、わづらひつき、いくほどなくして、「だいくわん」、死《しに》けり。

「瀨助、つえをもつて、うちけるあと、代官のせなかに、死期(しご)まで、黑く、みへ[やぶちゃん注:ママ。]ける。」

と、申《まうし》あへり。

 其後《そののち》、女房も、いかほどなくして、死《しに》けり。

 「ざんげん」[やぶちゃん注:「讒言」。]をもつて、人を罪におちいらしめしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、ほどなく、其むくひ、來りて、剩(あまつさへ)二人ながら、取《とり》ころされけり。

 「ゐんが」[やぶちゃん注:ママ。「因果(いんぐわ)」。]の程こそ、をそろし[やぶちゃん注:ママ。]けれ。

 是は、

「寬文九年秋のころの事也。」

と、うけたまはる。

[やぶちゃん注:「死期(しご)」岩波文庫の高田衛氏の脚注には、『ここでは死後のこと。』と注されておられるが、敢えてこう言うべき理由は、私は、ない、と思う。そもそも「死期」には、「死に際」までで、「死後」の意はなく、また、葬儀の際の遺体の背中を見たとするシーンの追体験なんぞよりも、臨終を迎えるその時まで、ずっと、背に黒ずんだ傷痕があって、そのために苦しみ続けた代官のシークエンスを想起させるリアルな映像こそが、因果応報の有様を伝えて、申し分のない残酷さの駄目押しとなっていると考えるからである。

「寬文九年秋のころ」グレゴリオ暦では、一六六九年七月二十八日から十月二十四日に相当する。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 皂莢

 

Saikati

[やぶちゃん注:上部に、幹から生えた枝が変化した鋭い棘の挿入画像があり、キャプションが「皂⻆子」とあり、下方には、右から左に同じように挿入画像があり、順に恐らくは未熟の莢果(豆果)が描かれてあり、「懸刀」と右上にキャプションがある。その左には「猪牙」とキャプションして、「懸刀」より小さな莢が描かれてあるが、これは想像するに、熟した莢果(豆果)の捩じ曲がる前のそれと思われる。而して、その左にキャプション「皂⻆」(「⻆」は角の異体字)があり、その左にあるのは、その莢の中から採った種子(豆)が描かれてある。主幹の木肌にしっかり刺枝が描かれてもいる。]

 

さいかし  皂𧢲  鳥犀

      雞栖子 懸刀

皂莢   【俗云左以加之

      皂⻆子之訛成】

さうけう

ツア゚ウキツ

[やぶちゃん字注:𧢲は「肉」ではなく、やはり「角」の異体字である。

 

本綱皂莢樹其葉如槐葉瘦長而尖枝間多刺夏開細黃

花結實有三種【一種】小如猪牙【一種】長而肥厚多脂而粘

【一種】長而瘦薄枯燥不粘以多脂者爲佳其樹多刺難上

采時以篾篐其樹一夜自落亦一異也有不結實者樹鑿

一孔入生䥫三五斤泥封之卽結莢人以䥫砧槌皂莢卽

自損䥫碾碾之久則成孔䥫鍋㸑之多爆片落豈皂莢與

䥫有感召之情邪其實見有蟲孔而未有蟲形伹狀如草

葉上青蟲微黒難見爾

皂莢【辛鹹温有小毒】 入手太陰陽明經兼入足厥陰治風木之

 病吹之導之則通上下諸竅服之則治風濕痰喘腫滿

 殺蟲塗之則散腫消毒搜風治瘡【惡麥門冬畏人參苦參】

 鬼魘不寤【皂莢末刀圭吹之能起死】 自縊將死【皂莢末吹鼻中】水溺卒

 死一宿者尙可活【紙褁皂莢末納下部卽須臾出水卽活】

皂⻆子【辛温】 通風熱大腸虛秘治瘰癧及瘡癬【圓堅硬不蛀者可用

 以瓶煮熟剥去硬皮一重取向裏白肉兩片去黃以銅刀切晒其黃則消人腎氣也】

皂⻆剌【辛温】 一名天丁能引至癰疽潰處甚驗葢治風殺

 蟲功與皂莢同伹其銳利直逹病所爲異耳

△按皂莢江州攝州之産良信州者次之皂⻆子之子與

 刺同音故藥肆呼刺稱吏

 

   *

 

さいかし  皂𧢲《さいかく》   烏犀《うさい》

      雞栖子《けいせいし》 懸刀《けんたう》

皂莢   【俗、云ふ、「左以加之」。

      「皂⻆子」の訛《なまり》なり。】

さうけう

ツア゚ウキツ

[やぶちゃん字注:𧢲は「肉」ではなく、やはり「角」の異体字である。

 

「本綱」に曰はく、『皂莢樹《さうけふじゆ》は、其の葉、槐《えんじゆ》のごとし。瘦≪せて≫長く尖《とが》り、枝の間《あひだ》に、刺《とげ》、多く、夏、細かな黃花《わうくわ》を開く。實《み》を結ぶこと、三種、有り。【一種は、】小さくして、猪《ゐのしし》の牙《きば》のごとく、【一種は、】長くして、肥厚《ひかう》≪し≫、脂《あぶら》、多くして、粘(ねば)る。【一種は、】長くして、瘦≪せて≫、薄く、枯燥《こさう》≪して≫、粘らず。脂、多き者を以つて、佳なりと爲《な》す。其の樹、刺、多くして、上《のぼ》り難し。采る時、篾(たけのわ)を以つて、其の樹に篐(わい)れ[やぶちゃん注:この漢字は、音「コ・ク」で、訓で「たが」(=「箍」)であって、「たが」は「緩んだり、外れたりしないよう、固定するための輪状のもの。割った竹を縄状・帯状に編み、輪状にしたものや、帯状の金属を輪状にしたものがあり、木の板などを組んで作る樽・桶などの外側に嵌めて固定するなどに使う」ところの「たが」である。動詞では、「しっかりと束ねる・しっかりと纏める」の意であるから、この読みは、竹の「輪」を木に『たわめて廻しかける』ことを言い、それを「入れ」と言っているものと判断した。判読がおかしいと思われる御仁は、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の活字本の当該部(右ページ後ろから二行目上部)を見られたい。確かに『ワイレ』と訓点が振られてあるのである。東洋文庫訳も、ここは、『篾(たけのわ)を樹にまわしておくと、』と訳してあるのである。]、一夜にして、≪刺、≫自《おのづから》落つ。亦、一異なり。實を結ばざる者、有≪れども≫、樹に、一≪つの≫孔《あな》を鑿(ゑ)りて、生䥫《なまがね》[やぶちゃん注:充分には鍛錬されていない鉄。]、三、五斤[やぶちゃん注:明代の「一斤」は五百九十六・八二グラムであるから、一・七九〇~二・九八四キログラム。かなりの量だ。]、之れを、泥にて封ずる時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、卽ち、莢を結ぶ。人、䥫《てつ》の砧(あて)[やぶちゃん注:「砧(きぬた)」。]を以つて、皂莢を槌(う)つ≪と≫、卽ち、≪砧の方、≫自《おのづから》損ず。䥫碾《てつうす》にて、之を、碾《てんす》ること、久≪しければ≫、則ち、≪碾の底に≫、孔《あな》、成《なる》。䥫鍋《てつなべ》にて、之れを、㸑《たく》時≪は≫、多≪く≫、爆《ばく》し、片落《へんらく》す[やぶちゃん注:鉄鍋が、爆裂し、バラバラになって、崩れ落ちる。]。豈に、皂莢と䥫と、「感召《かんしやう》の情(じやう)」、有るや[やぶちゃん注:「邪」は「耶」と同じく、疑問詞の用法がある。]。其の實、蟲孔《むしのあな》、有るを見れども、未だ、蟲≪の≫形、有らず。伹し、狀《かたち》、草の葉の上の青蟲のごとく、微《やや》黒にして、見へ[やぶちゃん注:ママ。]難きのみ。』≪と≫。

皂莢【辛鹹、温。小毒、有り。】 手の太陰陽明經に入り、兼《かね》て、足の厥陰に入りて、「風木《ふうぼく》」の病《やまひ》を治す[やぶちゃん注:「五行思想では「風」は「木」に属す。「風」は疾患としては、「風邪・中風(ちゅうぶう)・瘧(おこり:マラリア)・ハンセン病」を指す。]。之れを吹きて、之れを導(みちび)く時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。以上は、「粉末にした皂莢を、匙に盛って、患者の口から体内に吹き入れて、それを疾患部位に到達させれば、」の意。]、則ち、上下の諸竅《しよけつ》を通ず。之れを服せば、則ち、風濕《ふうしつ》の痰喘《たんぜん》・腫滿《しゆまん》を治し、蟲を殺す。之れを塗れば、則ち、腫を散じ、毒を消す。風《ふう》を搜《さが》し≪捕え≫、瘡《かさ》を治す【「麥門冬《ばくもんたう》」を惡《い》み、「人參」・「苦參《くじん》」を畏る。】。」≪と≫。

『鬼魘《きえん》≪の爲めに≫寤《さめ》ざる≪もの≫【皂莢の末《まつ》、刀圭《たうけい》[やぶちゃん注:薬を盛るための匙(さじ)。]≪に盛りて≫、之れを吹く。能《よ》く、死≪より≫、起≪こす≫。】』≪と≫。『自縊(くびくゝり)て、將に死《し》せん≪とするもの≫【皂莢の末、鼻の中へ吹く。】』≪と≫。『水に溺(おぼ)れ、卒死して、一宿《ひとよ》する者、尙を[やぶちゃん注:ママ。]、活《い》《かす》べし【紙に、皂莢の末を褁《つつ》み、《遺體の》下部に納むる時、卽ち、須《すべか》らく、臾《しばらく》≪ありて≫、水、出でて、卽ち、活《いきかへら》す。】』≪と≫。

『皂⻆子《さうけふし》【辛、温。】』『風熱・大腸の虛秘を≪治して≫通じ≪させ≫、瘰癧《るいれき》[やぶちゃん注:結核菌感染による頸部リンパ節の慢性的な腫れのこと。]、及び、瘡《かさ》・癬《くさ》[やぶちゃん注:湿疹。]を治す【圓く、堅硬≪にして≫、蛀《むしくは》ざる者、用ふべし。瓶を以つて、煮熟し、硬皮≪の≫一重《ひとへ》を剥ぎ去り、裏を向け、白肉≪の≫兩片を取り、黃《わう》を去り、銅≪の≫刀を以つて、切り、晒《さら》す。其の黃、則ち、人の腎氣を消すなり。】。』≪と≫。

『皂⻆剌《さうけふし》【辛、温。】 一名、「天丁」。能く、引《ひき》て[やぶちゃん注:漢方で、薬が患部によく到達することを言う。]、癰疽(ようそ)の潰(つぶ)れる處に至りて、甚だ、驗《げん》、あり。葢《けだ》し、風《ふう》を治し、蟲を殺す≪の≫功、皂莢と同じ。伹し、其の、銳利≪にして≫、直《ただち》に病所に逹するを、異と爲《な》すのみ。』≪と≫。

△按ずるに、皂莢、江州・攝州の産、良し。信州の者、之れに次ぐ。「皂⻆子」の、「子」と「刺」と、同音故《ゆゑ》に、藥肆《くすりみせ》に「刺」を呼んで、「吏《り》」と稱す。

 

[やぶちゃん注:「皂莢」は、日中で、種レベルで異なる。中国のそれは、

双子葉植物綱マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ属トウサイカチ(唐皂莢)Gleditsia sinensis

であるが(旧体系分類ではマメ目 Fabalesではなく、ネムノキ科 Mimosaceaeである)、中文名は「唐皂莢」ではなく、正しき「皂莢」であり、しかも、中国原産である(「アジア原産」とするネット記載もある)。「維基百科」の当該種「皂莢」を見られたい(そこでは『中國特有植物』で、これは中国固有種であることを示す)。本文の全体に亙って、如何なる項目でも、薬剤効果を語っていないものはなく、しかもそれとは別に、「藥材鑑定」の項があり、しかも、「棘刺」・「不育果實」(本篇中の「猪牙」のこと)・「果實」に分けて、様態と効能をコンパクトに判り易く纏めていて、素晴らしい。一方、本邦の種は、

サイカチ属サイカチ Gleditsia japonica

である。中文名は「山皂莢」である。但し、以下にあるように、中国にも自生する当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名はカワラフジノキ』(「河原藤木」)。『漢字では皁莢、梍と表記するが、本来』、『「皁莢」はシナサイカチを指す。幹に特徴的な棘がある』。『樹齢数百年というような巨木もあり、群馬県吾妻郡中之条町の「市城のサイカチ」や、山梨県北杜市(旧長坂町)の「鳥久保のサイカチ」』(ここ。グーグル・マップ・データ。但し、ここのサイカチは現在まで雄花だけが咲き、豆果はつかない。樹齢は案内板では四百十年だが、環境庁「日本の巨樹・巨木林 甲信越・北陸版」によれば、二百年から二百九十九年とする。前者なら、安土桃山から江戸初期に当たり、後者なら、江戸中期となる)『のように県の天然記念物に指定されている木もある』。『和名サイカチは、生薬のひとつである皁角子(さいかくし)に由来し、「皁」は黒、「角」は莢を表わしている。中国名は、山皁莢である』。『日本では中部地方以西の本州、四国、九州に分布するほか、朝鮮半島、中国に分布する』(本種の「維基百科」の「山皂莢」には、『分布は日本・朝鮮、及び中国大陸の江西・安徽・河北・浙江・遼寧・江蘇・河南・湖南。山東等の地』とあるから、時珍の記載には本種も含まれると考えてよい。それが、恐らく「三種」と彼が言う中に含まれている)。『山野や川原に自生する。実や幹を利用するため、栽培されることも多い』。『落葉高木で、幹はまっすぐに延び、樹高は』十二~二十『メートル』『ほどになる。樹皮は暗灰褐色で皮目が多く、古くなると』、『縦に浅く裂ける。幹や枝には、枝が変化した大きくて枝分かれした鋭い棘が多数ある。葉は互生または対生する。短い枝では』一『回の偶数羽状複葉、長枝では』一、二『回の偶数羽状複葉で、長さ』二十~三十『センチメートル 』。『小葉は、長さ』一・五~四センチメートル『ほどの長楕円形で』八~十二『対』、『もつ』。『花期は初夏』の五~六月頃で、『若葉の間から伸びた長さ』十~二十センチメートル『ほどの総状花序を出して、淡黄緑色の小花を多数つける。花は雄花、雌花、両性花を同じ株につけ、花弁は』四『枚で楕円形をしている』。『果期は秋』の十~十一月頃で、『長さ』二十~三十センチメートルで『ねじ曲がった灰色の豆果をぶら下げてつける。鞘の中には数個の種子ができる。種子は大きさは』一センチメートル『ほどの丸い偏平形。冬になると熟した黒い果実(莢)が落ちる』。『冬芽は互生し、半球状や円錐形で棘の下につく。短い枝にできる冬芽は、複数集まってこぶ状になる。側芽の鱗片は』四~六『枚。葉が落ちた痕にできる葉痕は、心形や倒松形で維管束痕は』三『個ある』。『木材は建築、家具、器具、薪炭用として用いる』。『莢にサポニンを多く含むため、油汚れを落とすため』の『石鹸の代わりに、古くから洗剤や入浴に重宝された。莢(さや)を水につけて手で揉むと、ぬめりと泡が出るので、かつてはこれを石鹸の代わりに利用した。石鹸が簡単に手に入るようになっても、石鹸のアルカリで傷む絹の着物の洗濯などに利用されていたようである(煮出して使う)』。『豆果は皁莢(「さいかち」または「そうきょう」と読む)という生薬で去痰薬、利尿薬として用いる。種子は漢方では皁角子(さいかくし)と称し、利尿や去痰の薬に用いた。また』、『棘は皁角刺といい、腫れ物やリウマチに効くとされる』。なお、『豆はおはじきなど子供の玩具としても利用される』。『若芽、若葉を食用とすることもある』。『サイカチの種子にはサイカチマメゾウムシという日本最大のマメゾウムシ科の甲虫の幼虫が寄生する。マメゾウムシ科はその名前と違って、ゾウムシの仲間ではなく、ハムシ科に近く、ハムシ科の亜科のひとつとして扱うこともある。サイカチの種子は硬実種子であり、種皮が傷つくまではほとんど吸水できず、親木から落下した果実からはそのままでは何年たっても発芽が起こらない。サイカチマメゾウムシ』(コウチュウ目多食(カブトムシ)亜目ハムシ(葉虫)上科ハムシ科マメゾウムシ(豆象虫)亜科 Megabruchidius 属サイカチマメゾウムシ Megabruchidius dorsalis )『が果実に産卵し、幼虫が種皮を食い破って』、『内部に食い入った』際、『まとまった雨が降ると、幼虫は溺れ死に、種子は吸水して発芽する。一方、幼虫が内部に食い入った』時に、『まとまった雨が降らなければ』、『幼虫は種子の内部を食い』尽し、『蛹を経て』、『成虫が羽化してくることが知られている』。『サイカチの幹からはクヌギやコナラと同様に、樹液の漏出がよく起きる。この樹液はクヌギやコナラの樹液と同様』、『樹液食の昆虫の好適な餌となり、カブトムシやクワガタムシがよく集まる。そのため、カブトムシを「サイカチムシ」と呼ぶ地域も』ある。『クヌギやコナラの樹液の多くはボクトウガ』(木蠹蛾:鱗翅目ボクトウガ科ボクトウガ亜科ボクトウガ属ボクトウガ  Cossus jezoensis )『によるものであるという研究結果が近年』、『出ているが、サイカチの樹液を作り出している昆虫はまだ十分研究されていない』。『また』、『サイカチは』「万葉集」』の『中にも詠まれている』とある。これは、「卷第十六」の、「高宮王(たかみやのおほきみ)の、數種(くさぐさ)の物を詠める歌二首」の一首目(一八五五番)で、

   *

 皂莢尒 延於保登禮流 屎葛 絕事無 宮將爲

 皂莢(ざうけふ)に

  延ひおほとれる

        屎葛(くそかづら)

      絕ゆることなく

         宮仕(みやつかへ)せむ

   *

この読みは、今西進氏の読みに従った。「屎葛」は、本邦の在来種である、リンドウ目アカネ科アカネ亜科ヘクソカズラ連ヘクソカズラ属 Paederia 亜属ヘクソカズラ Paederia scandens 。知らない方は、当該ウィキを見られたい。高岡市伏木の旧実家の裏山の二上山の跋渉では、しばしば、閉口した。

 なお、本篇の引用部は後半が漢方生剤の処方記載となっているので、「株式会社ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「皂莢(ソウキョウ)」の記載(記者は神農子氏)を、総て、引用させて戴く。

   《引用開始》

 基源:マメ科(Leguminosae)のトウサイカチ Gleditsia sinensis Lam. の未熟果実および成熟果実を乾燥したもの。

 日本各地に分布するマメ科植物のうち木本植物は、ハリエンジュやネムノキなどそれほど種類は多くありません。サイカチ Gleditsia japonica はその中でも形態にひときわ特徴がある種です。高さ20メートルにも及ぶ高木で、幹には枝分かれをした大型のとげが無数に付いているのが他の植物にはない特徴です。葉はマメ科植物に多く見られる羽状複葉で 6〜12 対の小葉を付けています。花は初夏に総状花序状に大量に咲かせますが、高木であるうえ淡黄色のためあまり目立ちません。豆果は扁平で長さ 30 センチほど、広線形でねじれます。豆果は濃紫色に熟し、10〜25個の扁平で楕円形、約1センチの種子を入れています。サイカチは朝鮮半島、中国にも分布しています。一方、中国には近縁種のトウサイカチ Gleditsia sinensis も分布しています。サイカチによく似ていますが小葉が 5〜6対、豆果がねじれないという点で異なっています。生薬「皂莢」の原植物はこのトウサイカチです。

 皂莢の名称について、『本草綱目』には「莢の樹が皂(くろ)いからかく名付けたのである」とあります。また『名医別録』には「猪牙の如きものが良し。九月、十月に莢を採って陰乾したもの」と、品質に関する記載があります。「猪牙」という表現からも皂莢の原植物は豆果がねじれていないトウサイカチであることがわかります。また『神農本草経集注』には「長さ尺二のものが良い」とあります。一方、「猪牙」と「尺二」が良いという記載に反して『新修本草』には「この物に三種あって、猪牙皂莢が最下である。その形は曲戻、薄悪で、全く滋潤がなく、垢を洗っても去らない。その尺二のものは粗大で、長く虚して潤いがない。長さ六七寸にして円く厚く、節が促って真っ直ぐなものならば皮が薄く肉が多く、味は濃くて大いに好ましい」という記載があります。このように品質に関する議論は種々あるようですが、『国訳本草綱目』の注釈には「現在の中国では猪牙皂[やぶちゃん注:シナサイカチのこと。]を最良品として薬用に供している」と比較的近年の記載があります。

 市販されている皂莢は乾燥した成熟豆果で、長い棒状で長さ15〜25 センチ、幅2.0〜3.5 センチ、厚さ 0.8〜1.4 センチ程度の扁平、時に少し湾曲しています。表面はでこぼこしており、赤褐色または紫褐色、灰白色の粉が付着しており、こすると光沢が生じます。両端はやや尖り、基部に短い果柄の跡があります。質は堅く、振ると音がします。中には扁平な種子が入っています。主産地は河北省、山西省、河南省、山東省などです。

 皂莢の薬能について、『湯液本草』では「皂莢は厥陰の薬である」と記載があります。強い去痰作用があるので湿痰が咽喉に滞まり詰まる時や、胸に痰がつかえ咳喘するときに用います。また上下の諸竅を通ずる作用があるので、中風で昏迷したり口がきけなくなったりしたときなどに応用されるようです。その用途は「去痰、利尿薬として、気管支炎の咳嗽、淋疾などに用いる。刺激作用があるので注意を要する。また民間では石鹸の代用、浴湯料に用いる」とあります。

 配合処方として『金匱要略』には「皂莢丸」の記載があります。皂莢と大棗の二味ですが独特の調製法です。「皂莢(1.0)の皮を去りバターを塗って火で炙り、末とし、蜂蜜で丸剤を作り、一回0.5ずつ大棗の果肉少量とともに湯の中にいれて混和し、日中三回夜一回服用する」とあります。咳逆上気を治し、安眠をはかる作用があります。大棗は皂莢の峻烈な作用を緩和する作用があるそうです。また皂莢、甘草、生姜による桂枝去芍薬加皂莢湯という、脾胃の気を行らせて[やぶちゃん注:「ゆきわたらせて」の意か。]、化膿性疾患の排膿を促し、肺癰を治す処方もあります。

 トウサイカチは果実以外にも種子(皂莢子、皂角子)、とげ(皂角刺)、樹皮または根皮(皂莢根皮)、葉(皂莢葉)などほとんどの部位が薬用に使用されます。『本草綱目』での文章記載量が他の生薬に比べても非常に多い事からもその重要性が推測できる古来の有用植物です。

   《引用終了》

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の項目にある「皂莢(ガイド・ナンバー[086-4b]以下)からのパッチワークだが、この項、「附方」は非常に長く、良安は、かなり苦心して、違和感のないように(というか、神経症的に)継ぎ接ぎしている。その部分を二重鍵括弧を挿入すると、バラバラ殺人事件のようなモザイク様になってしまうので、諦めた。

「烏犀《うさい》」小学館「日本国語大辞典」に、「烏犀角」(うさいかく)として、動物のサイの黒色の角(つの)を指し、『漢方で、子供の解熱剤に用いる。特に疱瘡には唯一の良薬とされた』とある。本「皂角子」=「猪牙」をミミクリーしたものであろう。

「雞栖子《けいせいし》」不詳。前後の感じからは、熟した赤い莢をニワトリの雄の鶏冠(とさか)に喩えたものか。

「懸刀《けんたう》」図の通りのミミクリー。

「槐」双子葉植物綱バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。先行する「槐」照。

「實《み》を結ぶこと、三種、有り。【一種は、】小さくして、猪《ゐのしし》の牙《きば》のごとく、【一種は、】長くして、肥厚《ひかう》≪して≫、脂《あぶら》、多くして、粘(ねば)る。【一種は、】長くして、瘦≪せて≫、薄く、枯燥《こさう》≪して≫、粘らず。脂、多き者を以つて、佳なりと爲《な》す。」私の乏しい知見では、この三首を比定し得ないが、一種目は、サイカチ・シナサイカチの両個体群の内の孰れかの個体変異で、「猪牙」に着目するなら、サイカチの方であり、二種目は、莢が長いこと、脂が多いこと、それが最上とされること等から考えてシナサイカチであろうと思う。三種目は、先の二種の個体変異でないとすれば、「維基百科」の「皂莢屬」の最後にリストが載る、同属の変種を含む十六種の前の二種を覗いた中に含まれている種である。但し、この中には北米原産の中国に自生しない種もいる。流石に、「莢・実が、長くて、痩せていて、薄く、枯れ乾いていて、粘りを持たない」という、その種を特定することは、私には、到底、不可能である。

「豈に、皂莢と䥫と、「感召《かんしやう》の情(じやう)」、有るや」東洋文庫訳には、『さても皂莢と鉄との間には感召の情があるのであろうか』とある。「感召」は「感応」というより、ここに書かれたトンデモ状況が事実とするならば、激しい危険な化学反応を激発するというべきであろう。

「手太陰陽明經」東洋文庫の後注に、『手の太陰肺経と手の陽明大腸経。手の太陰肺経は臍(へそ)の上方から出て大腸に、そこから上って胃の入口から肺へ。さらに咽喉から腕の内面を通って第一指の末端に至る。分脈は前腕手首から第二指の先端に至る。手の陽明大腸経は、手の第二指の先端からおこり、腕の外面を通って肩・くびのうしろから鎖骨上窩へ。そこから』、『肺へ入り』、『下って大腸に至る。分脈は鎖骨上窩から頰、下』の『歯へ入り、また出て』、『鼻孔のそばまで。』とある。

「足の厥陰」先行する「盧會」の私の注の「厥陰經《けついんけい》」の、東洋文庫の後注の中の、「足の厥陰肝経」の解説を参照されたい。

「上下の諸竅《しよけつ》」既に出た「九竅」。人の身体にある九つの穴。口・両眼・両耳・両鼻孔・尿道口・肛門の総称。

「風濕《ふうしつ》」漢方で、先の「風」、及び、「水」気の体内過剰によって生ずるとされる筋肉・関節などに起こる病気。

「痰喘《たんぜん》」喘息。

「腫滿《しゆまん》」水毒によって、手足や腹が浮腫(むく)むこと。

「麥門冬《ばくもんたう》」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科 Ophiopogonae 連ジャノヒゲ属ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus の根の生薬名。現行では、これで「バクモンドウ」と濁る。鎮咳・強壮などに用いる。

「人參」「朝鮮人參」。セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジン Panax ginseng

「苦參《くじん》」マメ目マメ科マメ亜科クララ連クララ属クララ Sophora flavescens の根又は外の皮を除いて乾燥したものを基原とする生薬。当該ウィキによれば、『利尿、消炎、鎮痒作用、苦味健胃作用があ』る、とする。なお、『和名の由来は、根を噛むとクラクラするほど苦いことから、眩草(くららぐさ)と呼ばれ、これが転じてクララと呼ばれるようになったといわれる』とあった。

『鬼魘《きえん》』邪鬼である夢魔のために魘(うな)されることを指す。

「水に溺(おぼ)れ、卒死して」この場合は、蘇生するのだから、心停止ではなく、心拍が著しく低下し、血圧が激しく下がり、代謝が殆んど見られなくなってしまった、重度の人事不省状態を指している。

「一宿《ひとよ》する者」一晩経過した者。

「紙に、皂莢の末を褁《つつ》み、《遺體の》下部に納むる時」これは、思うに、肛門から挿入する座薬である。

「風熱」これは、普通に風邪のによる発熱。

「大腸の虛秘」虚秘体質のこと。これは漢方で、身体が虚弱であり、便を押し出す力や、腸全体に潤いがなく、便秘となる体質・病態を言い、食欲不振・腹部や下腹部の膨満・腹痛・倦怠感・眩暈(めまい)・立ち眩(くら)み・動悸などの症状を伴うもの。

「腎氣」は漢方では、泌尿器・生殖器系を指す。この場合は、頻尿や、性欲の異常亢進、或いは、逆の性欲の激しい減衰を指していよう。

「癰疽(ようそ)」悪性の腫れ物。「癰」は浅く大きく、「疽」は深く狭いそれを指す。

「銳利≪にして≫」これは、「患部に鋭く迅速に到達して、見る間に効果を示すこと」を言っている。多分にこれは、実際の皂莢の木肌に生ずる鋭い刺の類感呪術の臭いが、濃厚である。

 この項、訓読文を作成するのに、延べ十時間近くを費やし、注は今朝四時過ぎから、今まで、正味、五時間は確実に、かかった。]

2024/07/07

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷四 㐧七 箱根にて死たるものにあふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧七 箱根にて、死《しし》たるものにあふ事

○わかさの者、武刕へ下りけるが、はこねの、「かしのき坂」をゆくに、かたはらを見れば、五、六でうじきほどの間《あひだ》、「くろけぶり」立《たて》て、もゆる所、ありけり。

[やぶちゃん注:「かしのき坂」岩波文庫で高田衛氏は『不詳。』の一言のみだが、不審。ここは、私は、よく知っており、若い頃に踏破したこともある。神奈川県足柄下郡箱根町畑宿にある橿木坂(かしのきざか)である。サイト「るるぶ&more.」のここに同坂のページがあり、地図もあって、『江戸時代の書物に東海道一番の難所と書かれた坂。つづら折りになった七曲りに沿って伸びている。あまりの苦しさに「樫の木の坂を越ゆれば苦しくてどんぐりほどの涙こぼるる」と歌われている』と短い解説がある。サイト「旧街道ウォーキング 人力」のここにも、『樫木坂 かしのきざか』のぺージがあり、「新編相模國風土記稿」『に「峭崖(高く険しい崖)に橿木あり、故に名を得」とある』とし、浅井了意の「東海道名所記」(リンク先では「東海道名所日記」と誤っている)には、「けわしきこと道中一番の難所なり。男、かくぞよみける。橿の木のさかをこゆればくるしくてどんぐりほどの淚こぼる」とあると記す。「新編相摸國風土記稿」の記載は、国立国会図書館デジタルコレクションのここ(昭和四(一九二九)年相武史料刊行会刊。左ページ後ろから四行目以降)で視認出来る。「東海道名所記」も同国立国会図書館デジタルコレクションの懐かしいガリ版刷の昭和堂版(昭和一一(一九三六)年刊)のここの左ページ冒頭で確認出来る。]

『あやしさよ。』

と、見る所に、もゆる中(なか)に、たけ、三、四、五尺ばかりの、くろき物、あり。

『ふしぎさよ。』

と、おもひながら、ゆく時、あとより、かれが名をいひて、ひたもの[やぶちゃん注:副詞。「無暗に」。]、よぶ。

 

Hakone

[やぶちゃん注:掲げた岩波版も珍しく状態がよい。第一参考底本はここ、第二参考底本はここ後者は、またまた、落書野郎が、黒い怨霊(火炎地獄で焼かれて黒炭(くろずみ)になっているものか)の右手に、わけ判らぬ(生前の姿か)亡霊一体を描いており、これが、また、かなり上手く描いているために、落書に見えず、二重体を持った霊かと見まごうものになっていて、ちょっと面白い。一見をお勧めする。

 

 此男、

『ここもとにて、我をよぶべきは、かつておぼえざれば、いか成《なる》ものやらん。』

と。ふりかへり見れば、くだんのもゆる中より、手を出して、

「ひた」

と、まねく。

 此男、しばらくそこにとゞまりて、

「なんぢ、いか成ものぞ。われに、何の用ありて、よぶや。」

 其時、かの、くろきものゝ、いふやうは、

「それがしは『えちぜん』の次郞作なり。三年いぜんに死《しし》たる事、なんぢも、しるべし。しかれば、我、『ぞんじやう』にありし時、小濱(をばま)にて、なんぢに、錢(ぜに)百文の、かし、あり。つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、汝、すまさざれば、我も、とらずして、打過《うちすぎ》ぬ。今、𠙚《ここ》にて、あひぬるこそ、さいはい[やぶちゃん注:ママ。]なれ。其錢を、すまし、くれよ。」

と、のゝしりける。

 此男、いかにも、おひぬる事、じつしやう[やぶちゃん注:「實正」、]おぼえながら、おしく[やぶちゃん注:ママ。]や思ひけん、きかぬがほにて、ゆきぬ。

 一町ばかりもゆくと、おぼゆが、俄(にはか)に、足、すくみて、一あしも、ひく事、ならず。

『こは。いか成《なる》事ぞ。』

と思ふ所に、むかふを、みれば、又、くだんのくろき男、出《いで》て、

「なんぢ、我いふ事をもちゐ[やぶちゃん注:ママ。]ず、ゆくや。只今、其錢を、すまさぬにをいて[やぶちゃん注:ママ。]は、たちまち、是《ここ》にて、取《とり》ころすべし。」

とて、ゆく道を、ふさぎければ、とをる[やぶちゃん注:ママ。]べきやう、ならざれば、ぜひなくして、錢、百文、取出《とりいだ》し、わたしければ、きへきへと[やぶちゃん注:ママ。「消え消え」。]、なりて、うせぬ。

 それより、此男、あし、かろくなりて、ゆきすぎぬ。

 かくのごとく成《なる》事をおもへば、今世(こんぜ)にて、人の物をおひぬれば、未來(みらい)[やぶちゃん注:「來世」に同じ。]にてかへすといふも、まことなるかや。

 此ものがたりは、則《すなはち》、此人のはなし也。

「僞りなき。」

とて、日天(につてん)を[やぶちゃん注:「おてんとうさま」に(誓って)。]「せいごん」[やぶちゃん注:「誓言」。]に入《いれ》て、語られける。

 

2024/07/06

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷四 㐧六 人をそにんして我身に報事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の「そにん」は「訴人」で「訴え出ること」の意。]

 

 㐧六 人をそにんして、我身に報(むくふ)事

○江州に、さる人、大名方(だいみやうがた)へ、下人に、狀(じやう)を、五、六通、もたせ、つかはしけるが、「かなや」の宿(しゆく)にて、何とかしたりけむ、文《ふみ》ども、おとしける。

[やぶちゃん注:『「かなや」の宿(しゆく)』東海道二十四番目の金谷宿。当該ウィキによれば、『現在の静岡県島田市金谷。大井川の右岸(京都側)にあり、牧之原台地が迫る狭隘な場所であるが、増水で大井川の川越が禁止されると、江戸へ下る旅客が足止めされ、島田宿と同様、さながら江戸のような賑わいをみせた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 此男、

「此ふみ、なくしては、武州へ、くだりても、せんなし。本国へ、かへるべきやう、もとより、ならず。とやせん、かくや、」

と、あんじ、わづらひしが、それより、すぐに、丹波のかたへ、ゆき、五、六年も、すみけり。

 市河(いちかわ[やぶちゃん注:ママ。以下、一部同じ。])藤十郞と申《まうす》もの、たんばへ、用ありて、ゆき、かの男を、見出(《み》いだ)し、かへりて、主人へ、ひそかに、申ける。

 主人、きゝて、やがて、其先(《その》さき)の主(しゆ)へ、斷(ことわり)、引(ひき)わたし、成敗(せいばい)しけり。

 此下人、さいごに申けるは、

「もつとも、我、あやまりあるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、かけおちしけり。なんぞや、傍輩(はうばい)の身として、我を、そにんする事、うらみても、猶(なを[やぶちゃん注:ママ。])、うらみあり。我、死《しし》て、三日のうちに、『をんれう[やぶちゃん注:ママ。「怨靈(をんりやう)」。以下同じ。]』と成《なり》て、市河を取《とり》ころさん物を。」

と、あしずり、はがみをなして、きられけり。

 ほどなく、かれがいひしに、たがはず、三日めに、市河(いちかは)が家に來りて、せめけり。

 市河も、はじめのほどは、さもなくて、次㐧《しだい》に、「をんれう」、つのりければ、おそろしく、おもひ、あるひは、そう・山ぶしなどを、よびて、いのり、きたうするに、かなはず。

 かの「をんれう」、來《きた》る時は、市河(いちかわ)が、あたまのけ、一すぢづゝ、「はりがね」などを立(たて)たるごとくに、

「すくすく」

と立《たち》けり。

 見る人、をそれ[やぶちゃん注:ママ。最後の繰り返しも同じ。]て、ちかづかず。

 とかくする事、廿日ばかりありて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、くるひ死(じに)に、しけり[やぶちゃん注:作者の書き癖。]。

 人を、そんじければ、たちまち、我身に、むくひけり。

 誠に、よしなき事を、口に、いひ、手わざする事を、よくよく、つゝしみ、をそるべし、をそるべし。

[やぶちゃん注:頭髪が針の如くに立ち上がるというところは、なかなかにオリジナリティとリアリティがあるシークエンスではある。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 合歡

 

Nemunoki

 

ねふりのき   合昏 夜合

 かうかのき  青裳 萠葛

        烏賴樹

合歡

        尸利灑樹【佛經】

        【和名㧠布里乃木

ハアン    又云加宇加乃木】

 

本綱合歡木似梧桐枝甚柔弱葉似皂莢及槐極細而繁

宻互相交結毎一風來輙自相解了不相牽綴五月花發

其花上半白下半肉紅散埀如𮈔爲花之異其綠葉至夜

則合也嫩時煠熟水淘亦可食此樹生山谷人家植於庭

[やぶちゃん字注:煠」は底本では「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ない。しかし、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の「合歡」の当該箇所(ガイド・ナンバー[086-3b]の最後から四字目)を見たところが、「煠」の字体で載っている(影印本画像も確認した)ことから、ここでは、特異的にこの字をここに当てることとした。この「煠」は、「焼く・茹でる・油で揚げる」の意である。但し、良安は「むし」(蒸し)と読んでいる。

除間使人不忿蓋云合歡蠲忿萱草忘憂

木皮【甘平】安五臟和心志令人歡樂無憂消癰腫續筋骨

 治折傷疼痛補陰之功甚捷長肌肉與白蠟同入膏用

 有神効 治撲損折骨法合歡皮【去粗皮炒黒色四兩】芥菜子【炒末

 一兩】每服二錢温酒臥時服以滓傅之接骨甚妙

 夫木秋といへは長き夜明すねふの木もねられぬ程にすめる月哉爲家

   晝はさき夜は戀ぬるかうかの木君のみ見んやわけさへにみよ

△按合歡木𠙚𠙚山谷有之和州多武峯最多其葉夜合

 如𪾶下畧稱㧠布乃木又有睡草秋開花【葉花狀與木同】晚眠

 

   *

 

ねぶりのき   合昏《がうこん》  夜合《やがう》

 がうかのき  青裳《せいしやう》 萠葛《ばうかつ》

        烏賴樹《うらいじゆ》

合歡

        尸利灑樹《しりさいじゆ》【佛經。】

        【和名、「㧠布里乃木」、

ハアン    又、云ふ、「加宇加乃木」。】

 

「本綱」に曰はく、『合歡木《がうくわんぼく》は、梧桐に似、枝、甚だ、柔弱《にうじやく》なり。葉、皂莢《さいかち》、及び、槐《えんじゆ》に似、極めて細くして、繁宻《はんみつ》なり。互《たがひ》に相《あひ》交結《かうけつ》し、一風《いつぷう》、來《きた》る毎《ごと》に、輙《すなは》ち、自《おのづか》ら相《あひ》解《と》け、了《しまひ》に、相《あひ》牽綴《けんてつ》せず。五月、花、發《ひら》く。其の花、上半《じやうはん》は白く、下半は、肉紅《にくべに》。散埀《さんじたれ》して、𮈔《いと》のごとし。花の「異」と爲《な》す。其の綠《みどり》の葉、夜に至る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、合《あは》す。≪葉、≫嫩《わかき》なる時、煠(む)し熟《じゆく》≪して≫、水に淘《よなぎ》[やぶちゃん注:「水洗いして不純物を取り除き」。]、亦、食ふべし。此の樹、山谷に生ず。人家、庭除《ていじよ》[やぶちゃん注:「庭」「除」ともに「にわ」の意。]の間《かん》に植(うゑ)、人をして忿(いか)らざらしむ。蓋し、云はく、「合歡は、忿りを蠲(のぞ)き、『萱草《わすれぐさ》』は憂(うれへ)を忘る。」≪と≫。』≪と≫。

『木皮《もくひ》【甘、平。】五臟を安《やすん》じ。心志《しんし》[やぶちゃん注:「心」に同じ。]を和らげ、人をして歡樂して、憂《うれひ》、無からしむ。癰腫《ようしゆ》を消し、筋骨を續《つな》ぎ、折-傷(うちみ)・疼痛を治す。補陰の功、甚だ、捷《すみやか》なり。肌肉《ひにく》を長《ちやう》ず≪ること≫、白蠟《はくらう》と同じ。膏《かう》に入れて、用≪ふれば≫、神効、有り。』≪と≫。『撲-損《うちみ》・折骨を治する法、「合歡皮《がうかんぴ》」【粗皮《あらかは》を去り、炒りて、黒色≪となすを≫、四兩[やぶちゃん注:明代の「一兩」は三十七・三グラム。]。】・「芥菜子(からし)」【炒りて末《まつ》≪となすを≫、一兩。】、每服二錢[やぶちゃん注:同前で三・七三グラム。]、温酒《ぬくみざけ》にして、臥す時、服し、滓《かす》を以つて、之れを、傅《つ》く。接骨(ほねつぎ)に、甚だ、妙なり。』≪と≫。

 「夫木」

   秋といへば

     長き夜明かす

    ねぶの木も

        ねられぬ程に

           すめる月哉 爲家

    晝はさき

      夜は戀ぬる

     がうかの木

         君のみ見んや

             わけさへにみよ

△按ずるに、合歡木《ねぶのき》、𠙚𠙚の山谷に、之れ、有り。和州、多武《とう》の峯《みね》、最も多し。其の葉、夜、合《あひ》て、𪾶(ねぶ)るがごとし。下畧して、「㧠布乃木」と稱す。又、「睡《ねぶ》り草《くさ》」有り。秋、花、開く【葉・花の狀《かたち》、≪「合歡」と≫、木、同じ。】。晚に眠る。

 

[やぶちゃん注:日中ともに、

双子葉植物綱マメ目マメ科ネムノキ亜科ネムノキ属ネムノキ Albizia julibrissin

である。私が幼少の頃より偏愛してきた花である。而して、青年の折りには、芭蕉の句を知ることで、運命的に惹かれていったのだった。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』を見られたい。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名、ネム、ネブ。山地や河岸などに生える。夜になると』、『小葉が閉じて垂れ下がる就眠運動を行うことが知られている』。『和名のネムノキは、「眠る木」を意味し、夜になると葉が合わさって閉じて(就眠運動)眠るように見えることに由来する。別名はネム。漢字名の「合歓木」は、葉が合うところからの名前で、中国においてネムノキが夫婦円満の象徴とされていることから付けられたものである』。『中国植物名(漢語)は合歓(ごうかん)』の『他に、馬纓花、絨花樹、合昏、夜合、鳥絨などの異名がある』。『日本の地方により、ネブノキ、ネブタノキ、コウカンボ、コウカンボクの方言名がある。このほか、方言語彙には次のようなものがある』。『ねむたぎ、ねぶたぎ(眠た木):宮城県、山形県、福島県などの一部』。『ねふりのき(眠りの木):京都府の一部』。『ねむりこ(眠り子):大分県、宮崎県の一部』。『イラン、アフガニスタン、中国南部、朝鮮半島、日本の本州・四国・九州・南西諸島に分布する。各地の山野、原野、河岸に自生する。北海道には自生しないが、植栽樹が道南地方で見られる。沖縄には近縁種のヤエヤマネムノキ( Albizia retusa )がある。どの地域でも、明るい砂地、特に川に近いところなどを適地とする』。『ネムノキ属は主として熱帯に』百五十『種ほどが分布するが、その中でネムノキは飛び抜けて耐寒性が強く』、『高緯度まで分布する。温帯で広く栽培され、一部で野生化している』。『落葉広葉樹の小高木または中高木。河原や雑木林に生え、高さは』六~十『メートル』『になる。生長は早いほうで、枝はやや太く、まばらに横に出て広がる。樹皮は灰褐色で皮目が多く、縦筋がある。皮目は横長になったり、縦に裂けることもある。一年枝は暗緑褐色で皮目が目立ち、ジグザグ状に曲がる。枝は折れやすい』。『葉は大型の』二『回偶数羽状複葉で』、二十~四十『片の小葉をつけ、朝は小葉が開いて夜に閉じることを繰り返す』。『花期は夏』(六~七月)で、『小枝の先から花柄を出して、淡紅色の花が』十~二十個、『集まって』、『頭状花序のようにつき、暑い日中を避けて夕方に開き、翌日にはしぼむ。萼は小さく、花冠は細い筒状で、ほとんど目立たない緑色で短く、上部が』五『裂する。そこから先の雄しべの花糸は淡紅色で長く、花の外にたくさん突き出て目立つ。香りは桃のように甘い。マメ科に属するが、マメ亜科に特徴的な蝶形花とは大きく異なり、花弁が目立たない』。『果実は豆果(莢果)で、広線形で細長く、扁平である。莢は長さ』十~十五『センチメートルの長楕円形で、中に長さ』十~十五『ミリメートルの楕円形の種子が』十~十五『個ほど入る。果実は』十~十二『月に褐色に熟す。豆果は冬でも枯れて残っている』。『冬芽は隠芽で葉痕に隠れており、葉痕の上に小さな副芽がつく。枝先につく仮頂芽は発達せず、側芽は枝に互生する。葉痕は三角形や半円形で、維管束痕は』三『個つく。春になるとひび割れて、隠れていた冬芽が見えてくる』。『陽樹であり、荒れ地に最初に侵入する先駆植物(パイオニア植物)の一種である。芽吹くのは遅いが、成長は他の木と比較すると』、『迅速である』。『ネムノキの就眠運動は、葉の付け根の膨らんだ部分に葉枕(ようちん)という細胞があり、昼と夜の気温の変化で内部圧力を変化させる仕組みにより葉を開閉する。周囲が暗くなると葉を閉じるが、光を当て続ける実験を行ったところ、体内時計による概日リズムに従って就眠することが判明している。また』、『夜でなくても、ひどく暑い日などにも葉の就眠運動が起こることもある』。『生長速度は速いほうで、日当たりの良い場所に植えて育てる。土質は全般で湿りがちな場所に、根を深く張る。種子は春蒔きする。植栽適期は』十『月中旬』から十一『月』、二『月下旬』から三『月』、六『月下旬』から七『月とされる。暖帯・熱帯性の植物で、高い気温を好み、陽樹であることから』、『日陰地は好まず、剪定を嫌う性質を持っている。施肥は』一~三『月に行う』とあるのだが、ここで一言言っておかないと、気が済まない。私が青年時代を過ごした富山県高岡伏木の元実家には、三メートルにもなる合歓の木があったが、その後、帰省しても、花が咲いたことがなかった。父母が現在の鎌倉に戻ったのは、その樹を植えて、十五年は経っていたが、遂に最後まで、合歓の花は咲かなかった(近年、ストリートビューで見たが、もう後地には、合歓の木はなかった)。最近になって、調べてみたところ、合歓の木は植えてから、花をつけるようになるのは、最低でも十年はかかるらしいのだ。さすれば、『今、猫額の庭に植えたとしても、私は、死ぬまで、合歓の花を見ることは、ないだろうなぁ。』と、私は、淋しい溜め息をついたのだった。『観賞用に庭園樹になるほか、街路樹としても使われる。材は、器具材や各種木工品として利用される。葉の粉末は抹香に使う。害虫駆除、鎮痛、家畜の飼料などにも利用される。塩害に強い特性から、日本では古くから海岸線の防風林として利用されている』。『枝が横に張り出す個性的な樹形と、涼しげな葉や刷毛を思わせる花の優美な印象から、観賞用に広い庭などに単独で植えて楽しまれる。若木の頃は足下の日当たりは良いが、生長するにつれて足下に日当たりは悪くなる。花の独特の形は観賞性が高く評価されているが、木の高い位置に花を多くつけるため、花を楽しむには建物の』二、三『階くらいの高い場所から眺められるような環境が必要となる』。『園芸品種に、枝が垂れる ‘シダレネムノキ’ 、銅紫色の葉をもつ ‘サマーチョコレート’ などの栽培種もある』。『河原に近い明るい砂地が生育に適し、マメ科に共通する性質をもつことから、砂防用に使われた例もある』。『中国医学では花を生薬として用い、夏に採取して天日乾燥したものを合歓花(ごうかんか)と称する。性は平、味は甘であり、精神安定や不眠解消の効果があるとされる。樹皮は合歓皮(ごうかんひ)と称する生薬で』、七~八月頃の、『樹皮が剥がれやすい時期に』、『幹や枝の一部から剥ぎ取って、表面の粗皮を取り除き、天日乾燥させたものである。樹皮にはタンニンが含有され、利尿・強壮・鎮痛効果があり、花と同様に不眠、不安に対する薬効もあるとされる』。『民間では花・樹皮ともに』一『日量』五~十『グラムを水』六百『㏄で半量になるまで煎じて』、三『回に分けて服用することで、ストレス性の不眠、不安によいと言われている。また関節痛や腰痛を目的に、樹皮』十~十五『グラムを水』四百『㏄で半量になるまで煎じ』、一『日』三『回に分けて服用する用法も知られている。さらに、打撲や挫傷には、合歓皮を黒焼きにして黄柏末(オウバクの粉末)を混ぜて酢で練り、冷湿布に用いる』。以下、最後の「近縁種」の項。

・『ギンネム( Leucaena leucocephala )』:『ギンゴウカン属の樹木で、標準和名はギンゴウカン。熱帯アメリカ原産で、ネムノキに似た白色球状の頭状花序をつける。日本では、沖縄や小笠原諸島に帰化している』。

・『タイワンネム( Albizia procera )』:『台湾に分布するネムノキの近縁種。花色は銀白色』。

・『オオバネムノキ( Albizia kalkora )』:『別名、チョウセンネムノキ。朝鮮に分布する。ネムノキと似ており、花色はピンク色』。

 「本草綱目」の引用は「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の二項目にある「合歡(ガイド・ナンバー[086-3a]以下)からパッチワークしたものである。

「烏賴樹《うらいじゆ》」由来不明だが、先の引用に「鳥絨」(ちょうじゅう:これは花を鳥の羽毛に喩えたものであろう)と混同されないように。こっちは、「烏」で「鳥」ではない。

「尸利灑樹《しりさいじゆ》【佛經。】」「大蔵経データベース」で検索したところ、「金光明最勝王經」に記載があり、「金光明最勝王經疏」・「翻譯名義集」・「金光明最勝王經註釋」・「孔雀經音義」・「祕藏金寶鈔」・「多羅葉記」に載ることが判った。「金光明最勝王經」の原典は、四世紀頃に成立したとされる大乗経典で、唐の義浄が自らインドから招来した経典を新たに漢訳したものが、これ。本邦では、「法華經」・「仁經」とともに護国三部経の一つに数えられる。

「梧桐」双子葉植物綱アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex 。先行する「梧桐」を参照されたい。

「皂莢《さいかち》」日中ともに、マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ(皂莢)属サイカチ Gleditsia japonica 。この次の項が「皂莢」である。

「槐《えんじゆ》」」双子葉植物綱バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。先行する「槐」照。

「繁宻《はんみつ》なり。互《たがひ》に相《あひ》交結《かうけつ》し、一風《いつぷう》、來《きた》る毎《ごと》に、輙《すなは》ち、自《おのづか》ら相《あひ》解《と》け、了《しまひ》に、相《あひ》牽綴《けんてつ》せず。」合歓の木の葉の生態を、撮影したような、言い得て妙の描出である!

「合歡は、忿りを蠲(のぞ)き、『萱草《わすれぐさ》』は憂(うれへ)を忘る。」』この引用は、「本草綱目」の「釋名」にあり、前に『嵇康養生論云』とある。三国時代の魏の思想家で「竹林の七賢」の一人である嵇(=嵆)康(けいこう 二二三年~二六二年:自然を尊び、礼教に批判的な言辞を多く残した。琴の名人としても知られた。最後は死罪を受けている。その経緯は当該ウィキを見られたい)の「養生論」。「文選」に所収する。短い。「維基文庫」のこちらで全文が見られる。「蠲」は音「ケン・ケイ・ケ」で中国の文語文で「免除する」の意がある。「萱草」は単子葉植物綱キジカクシ目ワスレグサ科ワスレグサ亜科ワスレグサ属ワスレグサ Hemerocallis fulva 、所謂、「カンゾウ」の名で知られるあれである。当該ウィキによれば、『広義にはワスレグサ属(別名キスゲ属、ヘメロカリス属)』『のことを指し、その場合は、ニッコウキスゲ(H. dumortieri var. esculenta)など』、『ゼンテイカ』(禅庭花: H. dumortieri var. esculenta )『もユウスゲ(H. Baroni var. vespertina)もワスレグサに含まれる。また長崎の男女群島に自生するトウカンゾウ(』(唐萱草)『 H. aurantiaca)などもワスレグサと呼ばれる』とあり、和名は『花が一日限りで終わると考えられたため』である。中国での異名に「忘憂草」がある。

「癰腫」悪性の腫れ物で、根が浅く、大ききなものを言う。

「筋骨を續《つな》ぎ、折-傷(うちみ)・疼痛を治す」昔、ここを読んだ時、私は、『これは本当にそんな神がかった接骨の薬効があるなんて考えられない。これって、合歓の木の葉の就眠運動の類感呪術だろう。』と、てっきり思い込んで、今日の今日まで、いたのだが、漢方サイトを見るに、中国の本草書には勿論、本邦の民間薬法にも、そうした治療法がしっかりと記されているのであった。しかし、それでも、どの成分が、実際に「骨接ぎ」や外傷を修復する効果があるのか、ちゃんと科学的に認め得る記載にも、探し方が悪いのか、逢着することがなかった。何方か、御教授願えると、恩幸、これに過ぎたるはない。

「白蠟《はくらう》」「虫白蠟」(insect wax)。別名「イボタ蠟」。シソ目(或いはゴマノハグサ目)モクセイ科イボタノキ属イボタノキ Ligustrum obtusifolium の樹皮上に寄生するイボタロウムシ(半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科イボタロウムシ Ericerus pela )の分泌する蠟。古くから蠟燭の原料や日本刀の手入れに用いられてきた。

「夫木」「秋といへば長き夜明かすねぶの木もねられぬ程にすめる月哉」「爲家」「夫木和歌抄」所収の一首。の「卷廿九 雜十一」にある一首。「日文研」の「和歌データベース」のこちらで確認した。ガイド・ナンバー「14079」が、それ。

「晝はさき夜は戀ぬるがうかの木君のみ見んやわけさへにみよ」これは、」「古今和歌六帖」(全六巻。編者は紀貫之、或いは、源順(したごう)とも言われる。草・虫・木・鳥等の二十五項、五百十六題について和歌を掲げた類題和歌集)。以下の一首は、日文研の「和歌データベース」で確認したが、そこでは、

   *

 ひるはさき-よるはこひぬる-かふくわのき-きみのみみむや-わけさへにみよ

   *

となっている。「第六 木」のガイド・ナンバー「04289」である。これは、「万葉集」の巻第八の「春の相聞」にある、「紀女郞(きのいらつめ)の大伴宿禰家持に贈れる歌二首」の二首目(一四六一番)だ。

   *

 晝は咲き夜(よる)は戀ひ寢(ぬ)る合歡木(ねぶ)の花君のみ見めや戲奴(わけ)さへに見よ

   *

「君」は一人称で自分をさす。「戲奴(わけ)」若者の意。上句は共寝に見立てて、下句で誘っているのである。

「和州、多武《とう》の峯《みね》」多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山(グーグル・マップ・データ)。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷四 㐧五 むよくのぢいうばの事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧五 むよくのぢい・うばの事

○洛陽[やぶちゃん注:京都。]に、七、八十ばかりの夫婦あり。

 「本願寺もんと」にて、つねに、ふうふづれにて、六条へ、まうでける。

[やぶちゃん注:「本願寺もんと」で「六條へ、まうでける」とあるので、浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 ある時、下向(げかう)しけるに、「ひがしのとうゐん」・「あやのかうじ[やぶちゃん注:ママ。]」の辻に、かね袋(ぶくろ)、一つ、おちて、あり。

[やぶちゃん注:『「ひがしのとうゐん」・「あやのかうじ」の辻』ここ。]

 ぢい、是を見て、一、二間[やぶちゃん注:一・八二~三・六四メートル。]、わきを、へりて[やぶちゃん注:「經りて」。距離をとって。]、とをる[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。

 うば、ぢいより、半町[やぶちゃん注:五十四・五五メートル。]ばかり、あとより、來り、是も、ぢいがごとく、わきを、とをる。

 それより、一町程ゆき、ぢい、うばを待居(まちゐ)て申《まうし》けるは、

「我、かたがた、今、くるみちに、ちいさき袋、おちて、ありつるが、さだめて、かねにて、あるべし。うばは、ひろい[やぶちゃん注:ママ。]給はざるが、心もとなく、おもふゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、『とはばや。』と、おもひ、是に、ひかへ候。」

と申。

 うば、聞《きき》て、

「されば、われらも見申て候が、あれは、こんぼん[やぶちゃん注:ママ。意味不詳。「今般」「今晩」かとも思ったが、私が最もしっくりくるのは、「根本」で、副詞の「本来」の意でとりたくは思う。]、おとしたりといふとも、『ぬし』、あれば、ひろいたりとも、其ぬし、いくばく、かなしかるべき。然《しかれ》ば、其なげきの『かね』を、我《わが》たからにせん事、『よしなし。』と、おもふゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、ひろはぬなり。」

と申けり。

 ぢい、もつとも、よろこび、うちつれ、家に、かへりけり。

 さるほどに、此《この》ふうふのものは、心、すなを[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]にして、何事につきても、人に、さからふ事なく、『人のためならば、我身を、くだきても、用にたてなん。』と、おもふ心、あり。

 あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、寺へ參るに 我より、あとに、參るものありて、「ざしき」、つみければ[やぶちゃん注:すっかり塞がっておれば。]、我は、のきて、其人を、我が跡に、をき[やぶちゃん注:ママ。]、われは、いづかたにも居(い[やぶちゃん注:ママ。])て、其人に、よく、「ちやうもん」を、さする。

 世に、人、おほし、といふとも、か樣のものは、まれなるべし。

 されば、かく、心すなをなるがゆへに、「とく」を得る事、たびたび也。

 此ふうふ、商賣(じやうばい[やぶちゃん注:ママ。])に、味噌(みそ)を、あきなふ。

 ある夕暮に、わかき男、白米、二、三升、もち來り、みそに、かへて、かへりぬ。

 其後《そののち》、此米を、めしにするに、いくたび取《とり》ても、つくる事、なく、ふうふ、ふしぎにおもひけるが、ある夜(よ)、神明(しんめい)、つげての給はく、

「なんぢ、ふうふ、ともに、つねに、正路(しやうろ)にして、佛(ほとけ)を、しんずる事、實(じつ)なるがゆへ、天帝より、『ふくぶん』をあたへ給ふ。取《とる》とも、くふとも、つきすまじ。なんぢ、子孫の世にならば、いよいよ、はんじやうすベし。」

と、あらたかに、御つげましましけり。

 夫歸、夢、さめ、ありがたくおもひて、それより、猶〻(なをなを[やぶちゃん注:ママ。])いつくしみけり。

 されば、末世(まつせ)にも、かやう成《なる》ありがたき人の、世に、ありければ、『上代(じやうだい)といふとも、賢(けん)ならず、末代なりとも、愚(ぐ)ならず。』とは、かやうの事をや、いふべし。

 此ものがたり、今、孫〻(そんそん)の代なるがゆへ、くはしくは、しるさず。

 

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 秦皮

 

Sinpi

 

しんひ     梣皮 樳木

とねりこのき  石檀 樊槻

        盆桂 苦樹

秦皮      苦櫪

      【和名止祢利古乃木

ツインヒイ  一云太無乃木】

 

本綱秦皮其木大都似檀枝幹皆青綠色葉細如匙頭虛

大而不光無花實皮有白㸃而不粗錯取皮漬水便碧色

書紙看之皆青色者眞也根似槐根

秦皮【苦微寒濇】厥陰肝少陽膽經藥也故治目病驚癎取其

 平木也治下痢崩帶取其收濇也治目之要藥也

△按秦皮樹丹波山中多有之

 

   *

 

しんぴ     梣皮《しんぴ》  樳木《じんぼく》

とねりこのき  石檀《せきたん》 樊槻《はんき》

        盆桂《ぼんけい》 苦樹

秦皮      苦櫪《くれき》

      【和名、「止祢利古乃木」。

       一《いつ》≪に≫云《いふ》、

ツインヒイ  「太無乃木《たものき》」。】

 

「本綱」に曰はく、『秦皮、其の木、大-都《すべ》て、檀(まゆみ)に似て、枝・幹、皆、青綠色。葉、細《こまか》にして、匙-頭(さじ)のごとし。虛大《きよだい》にして、光らず、花・實、無し。皮に、白㸃、有りて、粗-錯《あら》≪から≫ず。皮を取り、水に漬《ひた》せば、便《すなはち》、碧色《みどりいろ》≪たり≫。≪其の水を以つて、≫紙に書《かき》て、之れを看(み)れば、皆、青色なる者、眞《しん》なり。根、槐《えんじゆ》の根に似たり。』≪と≫。

『秦皮《しんぴ》【苦、微寒、濇《しぶ》≪し≫[やぶちゃん注:「澁」に同じ。]。】厥陰肝少陽膽經の藥なり。故に、目の病《やまひ》・驚癎を治するは、其れ、「木《もく》」[やぶちゃん注:五行の「木」。]を平《たひら》にするに、取るなり。下痢・崩《ながち》・帶《こしけ》を治するは、其の濇《しぶ》るを收《をさむる》≪ところの効能を≫取るなり。目を治するの要藥なり。』≪と≫。

△按ずるに、秦皮樹《とねりこのき》、丹波山中、多く、之れ、有り。

 

[やぶちゃん注:この「秦皮」は、漢方のそれは、基原植物が、複数、挙げられているため、

双子葉植物綱キク亜綱ゴマノハグサ目モクセイ科トネリコ属 Fraxinus

に留めておかねば、ならない。東洋文庫訳の割注では、この「本草綱目」の「秦皮」に割注して、『(モクセイ科オオトネリコ)』とするが、これは、正式和名、ヤマトアオダモ Fraxinus longicuspis であり、日本の中部・南部の山岳地帯を原産とする種であり(英文ウィキの同種のそれを見られたい)、この比定同定は「完全なアウト」であるので、注意されたい。本巻の訳者竹島淳夫氏は東洋史の研究者であって、植物学者ではないため、種同定に、しばしば致命的な誤りがあるので、注意が必要である。

 但し、良安が言い、本邦に分布するそれは、本邦原産の、

トネリコ属トネリコ Fraxinus japonica

であり、現行では、品種として、

デワノトネリコ Fraxinus japonica f. stenocarpa

ナガミトネリコ Fraxinus japonica f. intermedia

があり、他にもトネリコ属の別種が、複数、本邦には分布する(以下の引用を参照されたい)。最初に述べた、基原植物については、「豊橋市の漢方薬局 桃花堂」公式サイト内のこちらで、「基原」を、『モクセイ科Oleaceaeのトネリコ属植物Fraxinus rhynchophylla Hance, F. bungeana DC., F.paxiana Lingelsh.など』(☜)『の樹皮』とあることに拠る。この、

Fraxinus rhynchophylla の和名は「コウリョウトネリコ」、中文名は「白蠟樹」

Fraxinus bungeana の和名は「ヒメトネリコ」、中文名は「小葉梣 ・梣」

Fraxinus paxianaの和名は未詳で、中文名は「秦岭白蝋樹」「秦梣岭」

である。

 まず、トネリコ属については、平凡社「世界大百科事典」を引いておく(コンマは読点に代えた)。『モクセイ科の落葉高木で、北陸地方では田のあぜに稲架木(はざぎ)として植えられ、タモノキともいう。高さ』十五メートル、『直径』六十センチメートルに『達し、幹の樹皮は淡褐灰色を呈する。当年枝は太く、断面が四角く角張る。葉は対生し、奇数羽状複葉で、小葉は』五~九『個、長卵形で長さ』五~十五センチメートル。四~五『月、当年枝端に円錐花序をつける。雌雄異株で花に花冠はなく、雌花にはめしべとときに』二『本のおしべ、雄花には』二『本のおしべがある。秋に長さ』三~四センチメートルの『倒披針形の翼果ができる。中部地方から奥羽地方までの温帯の山間湿地に生える。トネリコとタモノキ』(トネリコ属ヤチダモ Fraxinus mandshurica )『は』、『ともに平安時代から古書に残された名であるが、前者は今日のアオダモ類』(アオダモ(コバノトネリコ)Fraxinus lanuginosa f. serrata 他)『をさし、後者は地方によっては』、全く異なる『ハルニレ』双子葉植物綱イラクサ目ニレ科ニレ属ハルニレ Ulmus davidiana var. japonica )『あるいはタブノキ』(クスノキ目クスノキ科タブノキ属タブノキ Machilus thunbergii )『に当てられることもある』。『トネリコ属Fraxinus(英名ash)』(同属については、ウィキの「トネリコ属」の「下位分類」に膨大なリストがある)『は北半球に約』七十『種があって、東アジア、北アメリカ、地中海地方に多い。いずれも材は環孔材で強く弾力があるので、野球のバットなど運動用具材として優れ、器具・建築・車両材などとしても賞用される。頂生花序をもつアオダモの仲間と側生花序をもつシオジの仲間がある。頂生花序を有するアオダモF.lanuginosa Koidz.は日本全土と南千島、朝鮮半島南部に分布し』、五『または』七『枚の小葉をもつ。これとマルバアオダモは小高木であるが、ヤマトアオダモは高木となる。前年枝に花序を側生するシオジF.spaethiana Lingelsh.は高さ』三十メートル『になり、小葉は』五~九『枚。栃木県から宮崎県に至る太平洋側の温帯山地の湿潤地に』、『ときに純林をつくる。ヤチダモF.mandshurica Rupr.var.japonica Maxim.は高さ』二十五メートル『になり、小葉は』七~十一『枚と多い。本州長野県以北、北海道、サハリンおよび朝鮮半島、中国北部からウスリー地方までの河岸や湿地付近の肥沃地に純林をつくる。これに近いセイヨウトネリコF.excelsior L.(英名ash、common ash)はヨーロッパと西アジアの産である』。大事な「神話、民俗」の項。『トネリコは北欧神話の中で重要な役割を果たしている。あらゆる木のうちで最も大きく、全世界の上に枝をひろげる宇宙樹イグドラシル』(Yggdrasill)『はトネリコである。主神オーディンはこの木に』九『夜の間、槍に傷つき、つり下がり、わが身を犠牲に捧げることで、ルーン文字を学んだという。また』、『神は、海岸を歩いているときに見つけたトネリコから人類最初の男性アスクAskrをつくったという』。『トネリコの木は、良質の土壌にめぐまれると堂々たる大樹に生長する。トネリコは家に陰を与えて保護し、子どもたちが独立するとき結婚の費』用『にあてられた。また木質が固く』頑丈『なことから、垂木や棍棒、槍の柄、雪靴を作るのに用いられた。このようなことから古人は畏敬の念をもってトネリコを見たのであろう。ドイツのレーン地方では、トネリコの開花期で豊作か凶作かを占い、トネリコがオークより早く咲くと凶作、遅く咲くと豊作だという。トネリコの若枝をさいて、その間から病気の子どもを通すとよくなるとも、雷から人を守るとも、蛇よけになるともいう。鉱脈を探ったり、水源を知るためにしばしば用いられる〈占い棒〉には、トネリコの若枝がよく使われるが、銅を見つけるのにとくによいという。南ドイツでは聖金曜日(復活祭前の金曜日)に切られたトネリコの枝は傷を治す力があると信じられているし、樹皮と葉をせんじて飲むと慢性リウマチや足指の痛風に効くといって今日でも用いる人がいる』。私は以上の「宇宙樹ユグドラシル」神話が大変好きである。当該ウィキもリンクさせておく。

 「本草綱目」の引用は「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の冒頭にある「秦皮」(かなり長い)からコンパクトにパッチワークしたものである。

「檀(まゆみ)」双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus Blume var. sieboldianus 。先行する「檀」を参照されたい。

「葉、細《こまか》にして、匙-頭(さじ)のごとし」グーグル画像検索「Fraxinus leafをリンクさせておく。

「虛大《きよだい》」「椿」で、東洋文庫訳は『木は大きく、材質は虚で、』と訳してあり、ここでも、前後を示すと、『木は大きく材質は虚で光らず』と、「虛」を、やはり、材質の方に振って訳してある。

「槐《えんじゆ》」バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。先行する「槐」を参照されたい。

「秦皮《しんぴ》」先の「豊橋市の漢方薬局 桃花堂」の記載に、『トネリコはモクセイ科の落葉樹です。和名の由来は、トネリコの樹皮に付着しているイボタロウムシが分泌する蝋物質にあります。この蝋を動きの悪くなった敷居の溝に塗って滑りを良くすることから、「戸に塗る木」とされ、これが転訛して「トネリコ」と発音されるようになったと考えられています』。『木材としては弾力性に優れ、割れにくいので野球のバットや建築資材などに使用されます。また、ギターなどの楽器にも加工されています』。『生薬として用いられる秦皮は下痢や眼の充血に用いられていますが、ヨーロッパや北アジアに分布するセイヨウトネリコは痛風の治療薬として知られています』。『異物同名品としてクルミ科のヒメグルミ』(      ブナ目クルミ科クルミ属ヒメグルミ(姫胡桃)Juglans mandshurica var. cordiformis )『に由来するものがありますが、こちらは正しいものではありません』。『「神農本草経(しんのうほんぞうきょう)」の中品に分類されています』。『熱を冷まして湿邪(しつじゃ)を除く清熱燥湿薬(せいねつそうしつやく)に分類され、同じような効能を持つ生薬に黄芩(おうごん)、黄連(おうれん)、黄柏(おうばく)、苦参(くじん)などがあります』。『大腸湿熱の下痢・裏急後重』(「しぶり腹」のこと)『に用いられます。代表的な漢方薬に、白頭翁(はくとうおう)と一緒に配合された白頭翁湯(はくとうおうとう)があります。湿熱の帯下には、黄柏などと一緒に使用します』。『肝熱による目の充血・腫脹や角膜混濁などに、単味の煎汁で洗眼するか、竹葉(ちくよう)や黄連などと一緒に煎服します』。『祛風湿』(きょふうしつ:関節(骨)や筋肉などに溜まった余分な水分を取り除く作用を持つ食薬)『の効能もあり、風湿痺痛』(リウマチの類)『にも用いられます』。『苦寒傷胃するので、胃腸が弱く少食の方には用いません』とあった。

「厥陰肝少陽膽經」東洋文庫の後注に、『目尻からおこり側頭部をのぼって頭角に行き、下って耳のうしろに至る。そこから頸(くび)を通って肩を過ぎ、鎖骨上窩(か)に入る。耳のうしろから分かれた支脈は耳中に入り、前に出て目尻に至る。もう一つは目尻から頰(ほお)・頸を下って鎖骨上窩から胸に入り、横隔膜を通って肝につらなり胆に帰する。さらに季肋(きろく)』(「季」は「末」の意味で、肋骨の下の部分を言う)『部から鼠径(そけい)部に下って股関節に至る。別の一つは鎖骨上窩から腋を下り、側胸部をめぐって股関節で先のものと合流。そして足の外側を下って足の第四指の末端に終る。厥陰肝経は槐の項の注』『参照。』とある。最後のそれは、「槐」の私の注の「肝經」を見られたい。

「驚癎」癲癇に同じ。

「木《もく》を平《たひら》にする」同じく、東洋文庫後注に、『厥陰肝経・少陽胆経はどちらも五行説では木に属する。よって木を平にするとは厥陰肝経・少陽胆経系の病を和らげて平癒させるという意味。』とある。

「崩《ながち》」赤帯下(しゃくたいげ)。子宮から血の混じった「おりもの」(帯下(こしけ/たいげ。以下の「帶《こしけ》」に同じ)。膣から出た粘性の液体で、色は透明か乳白色、或いはやや黄色みを帯びている)が長期間に亙って出る症状を指す。

「按ずるに、秦皮樹《とねりこのき》、丹波山中、多く、之れ、有り」これは、先に真っ先に掲げたトネリコ Fraxinus japonica である。]

2024/07/05

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷四 㐧四 猿の子をうしなひさるにころさるゝ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧四 猿の子を、うしなひ、さるに、ころさるゝ事

○えちぜんの「しの原」といふ所に、猿をつかふ者、あり。

[やぶちゃん注:『えちぜんの「しの原」』岩波文庫の高田衛氏の注に、『「越前」は加賀の誤り。現石川県江沼郡の内』とある。現在は石川県加賀市篠原町(しのはらまち)となっている(グーグル・マップ・データ)。]

 子を、一つ、うみけり。是を「てうあい」[やぶちゃん注:ママ。「寵愛(ちようあい)」。]する事、なゝめならず。

 猿の「ぬし」、

「『くわんじん』[やぶちゃん注:「勸進」。]に、つれて、いでん。」

と、すれど、子に、はなるゝ事を、かなしみて、いでざれば、女房、此の猿に申《まうす》やう、

「あんぢ、子に、はなるゝ事を、あかしめり。我、なんぢが、あへるまでは、あづかりをく[やぶちゃん注:ママ。]べし。心やすくおもひ、今日(けふ)より、「くわんじん」に出《いで》ざれば、われわれ、なんぢともに、かつゆる[やぶちゃん注:「渴ゆる」。]なり。」

と、人に、いひふくめるやうに、いひければ、畜生なれども、よく合点して、やがて、出《いで》けり。

[やぶちゃん注:「くわんじん」割注した通り、「勸進」なのだが、この場合は、辞書的な意味とはかけ離れた、被差別民であった大道芸人の中で用いられた、特殊な用法で使われたものである。岩波文庫の高田氏の注が、その肝心要(かんじんかなめ)の部分を、よく捉えている。以下である。『寺社や道端で芸をして金を稼ぐこと。』。]

 女房、子猿を「ふびん」がりて、うらへ、連れ出《だし》て、遊びけり。

 

4saru

[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ、第二参考底本はここ。後者は例によって落書きがあるが、「猿廻し」夫婦や、申の母子の顔がはっきりと視認出来る。ただ、トビは殆んど「化鳥」(けちょう)の様相であるし、母猿の顔も、正直、エモい。]

 

 折ふし、用の事ありて、内へ入り、暫くありしうちに、とび[やぶちゃん注:「鳶」。]、一つ、來て、かの猿を引《ひつ》つかんで、行(ゆき)ぬ。

 女房、是をみて、

『さてさて、「ふびん」[やぶちゃん注:「不憫」。]の事かな。おやざるの、かへりなば、さぞ、かなしまん。何とか、いひて、よかるべき。』

と、思ふうちに、おやざる、かへりけるに、女房、さるに、いふやう、

「汝が子を、けふ[やぶちゃん注:「今日」。]、とびにとられ、我もかわゆく[やぶちゃん注:ママ。]おもへども、せむかた、なし。」

といへば、此《この》さる、つくづくと聞《きき》て、かなしむけしき、見えけるが、物をも、食はず、二、三日は、うちふしけるが、ある夜、女房の、よくへいりたるを、みて、小刀(こがたな)を、もつて、「のどぶゑ」を、つききりけり。

 女房、こゑも、たてず、死《しし》けり。

 夫(をつと)、ねいりて、知らず。

 夜(よ)、明(あけ)れば、夫、おほきにおどろき、

「こは、いか成《なる》者の、しつらん。」

と、あはて、ふためきける。

 されども、女の一門に、

「かく。」

といひければ、皆、うちよつて、「せんぎ」[やぶちゃん注:「詮議」。]するに、

「夫(をつと)ならでは、しるべきもの、なし。」

といひて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、

「夫の、しわざ。」

にきはまりぬる所に、かの「さる」、がいしける小刀(こがたな)をもちて出《いで》、

「我《われ》が、ころしたり。」

と、いはぬばかり、さし出《いだ》す。

「扨《さて》は。きやつが、子を、うしなはれけるにより、其《その》「あだ」に、しつらん。」

と、「せんぎ」、きはまり、すでに夫は、死のなん[やぶちゃん注:「難」。]を、のがれける。

 「ちくしやう」の「こゝろ」にも、我子《わがこ》をうしなはれ、「むねん」におもひ、其《その》「あだ」を、なしける。「ちくしやう」の手にかゝる事も、みな、是《これ》、因(いんぐわ)のむくひ、なるべし。死のゑん[やぶちゃん注:「緣」。]、むりやう[やぶちゃん注:「無量」。]なれば、いか成《なる》時、いかやうの死を、うけんも、いざ、しらず。心[やぶちゃん注:第二参考底本のこれ(左丁一行目下方)は、「心」の崩し字としても、かなり変わったもので(「へ」の字のようなものを、ズラして、上下に完全にバラしてある字体)、迷ったが、第一参考底本に従い、「心」の崩しと決した。]もとなき「きやうがい」[やぶちゃん注:「境涯」。]也。

 此《この》はなしは、少《すこし》も、僞(いつは)りなきよし、さる、たつとき上人《しやうにん》の物がたり也。明曆(めいりやく)の比(ころ)の事なる、よし。

[やぶちゃん注:「明曆(めいりやく)年中」一六五五年~一六五八年。第四代徳川家綱の治世。但し、通常は「めいれき」と読む。]

ブログ開始より十九年経過

 私が本ブログを書いたのは、二〇〇五年七月五日であった。初回の記事は「ナナの死」であった。この月、私は仕事中、右腕の掌の根本の橈骨を粉砕し、入院・手術をした。かなり、ナーヴァスにメラコリックになった。同月の全投稿をリンクしておく。

 この月は、多数の俳人の句の電子化に入れ込んでいたが、正直、当時の私は――現在のような膨大な分野の電子化注を私がやることを、全く予測していなかった――と言ってよい。そうさな、今、現に、おっぱじめてしまったカテゴリ『「和漢三才圖會」植物部』なんぞは、当時の私は、百%、脳内になかったことであり、今の私のそれを見たら、「けったいなことやってまんな? いつまで続けられるかね? 植物音痴のあんたに?」と吐くことは、火を見るより、明らかだ。

 まあ、奇特な読者の方々よ、

――今日只今でブログ・アクセスは2,188,468である――

向後も、どうぞ、よろしく、おつき合いのほど、お願い申し上げるものである。

 

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷四 㐧三 女夫の田地を盜天罰の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧三 女《をんな》、夫(をつと)の田地(でんち)を盗(ぬすみ)、天罰(てんばつ)の事

 石見(いはみ)の国、「ちぶ里《り》」の近りんに、さる百姓あり。

[やぶちゃん注:「ちぶ里」これは、現在の隠岐諸島の一島である知夫里島(ちぶりじま)しか考えられないが(グーグル・マップ・データ)、同島は過去に於いても「石見の国」の領地であったことは、ない。江戸時代は天領であった。作者は、そうした知識を欠いており、この話自体の真実性が、冒頭から喪失していると言わざるを得ない。なお、私は十四年前に、隠岐諸島全島を連れ合いとともに、旅したが、自然の景観に最もうたれたのは、この知夫里島であった。隠岐に行かれる際には、必ず訪れることを強くお勧めするものである。一つだけ悔いがあるのは、アメフラシを食べることが出来なかったことである。私の『畔田翠山「水族志」 (二四八) ウミシカ (アメフラシ)』を参照されたい。

 夫婦の中(なか)、ことに、むつまじかりけり。

 ある時、夫、ささめごと[やぶちゃん注:ここは「男女の閨(ねや)での睦言(むつごと)」の意であろう。]に云ひけるは、

「我、もし、死にたりとも、汝、必らず、兩夫(りやうふ)に、まみゆる事、なかれ。もし、又、汝、我より、さきだつとも、われも、かならず、よの妻を、もつまじ。」

と、たがひに、いひかはしければ、女、こへていはく、

「何をか、のたまふ。百年までも、ともに老《おい》なんとこそ、おもふ中《なか》なるに、こは、いまはしき事を、のたまふ物かな。」

と、云ひける。

 其後、とし月を、へて、夫、病(やまい[やぶちゃん注:ママ。])を、うけて、惱み、みづから、

『本ぶく、あるまじき事。』

を覺えて、女房にむかひ、

「いつぞや、ささめごとにいひし事、忘れ侍るにや。今は、はや、おさなきものもあれば、いよいよ、我、なきあとをも、さまさず[やぶちゃん注:「冷まさず」。「亡き夫への愛情を冷ますことなく」の意。]して、おさなき[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]ものゝ「うしろみ」[やぶちゃん注:ここは「子どもをしっかりと養育すること」を指す。]をもし、すこしの田畠(たはた)などもあれば、ずいぶん、かせぎ、いとなみ給へ。且(かつ)は、一子がためと、おもはれかし。」

と申せば、女房、有無(うむ)の「へんじ」もなくして、かほ、うちあかめて、さしうつむき、かなしみける。

 夫、やまひ、日〻に、おもりて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]死にけり。

 ほどへて、女、夫が言葉に、そむき、おさなき子を、人に、くれて、其身《そのみ》は、他所(たしよ)へ、ゆき、とづきぬ[やぶちゃん注:ママ。原本では「嫁(とつ)ぎぬ」。]。

 ある時、夫[やぶちゃん注:無論、「新しい夫」である。]の「るす」に、女房、「ねま」へ入《はいり》、すこし、まどろみけるが、いづくより來《きた》るともなく、犬、一つ、文(ふみ)をくはへ、來り、女房の前にをき[やぶちゃん注:ママ。]、かきけすやうに、うせぬ。

 女房、此《この》文を取《とり》てみければ、我《わが》名付(なづけ)也[やぶちゃん注:彼女宛の書状だったのである。]。

 ふしぎに思ひ、ひらき見けるに、まへの夫の自筆也。其ことばにいはく、

「汝と我と十五年 既に契りし夫婦也 我が家財でんちまでを いか成《なる》しさいありて ぬすみ取《とり》て 人の財とする それのみならず 一子を捨てゝ あらため 余人(よじん)へとつぐ事 うらみても 猶(なを[やぶちゃん注:ママ。]) うらみあり 子のためにしては まつたく 母にあらず 妻にあらず 人非人(にんひにん)のふるまひ いふにことばなし 此《この》いきどをり[やぶちゃん注:ママ。]をさんず[やぶちゃん注:「散ず」。]べし」[やぶちゃん注:「人の財とする」とあることで、女が先夫の全遺産を、総て、奪取し、それを持って、再婚したことが知られる。]

と、こまごまと、かきて、あり。

 女、これをよみ、氣もたましゐ[やぶちゃん注:ママ。この部分、岩波文庫では『肝魂』と漢字化するが、賛同出来ない。]をうしなひ、遍身(へんしん)より、あせを、ながし、其《その》まゝ、目まひて、たへ[やぶちゃん注:ママ。「絕え」。]入《いり》けり。

 其後は、よごとに、妄靈(まうれい)、來りて、此女を、ひた物[やぶちゃん注:「直物・頓」で「ひたすら」の意。]、せめけるに、俄(にはか)に、此女、身のあつき事、いふばかりなく、もだへ、こがれて[やぶちゃん注:「焦がれて」。焼け焦げるような感覚が頻りにして。]、せんかたなくて、「たらい[やぶちゃん注:ママ。「盥(たらひ)」。]」に水を入《いれ》、つかるに、其水、たちまち、湯(ゆ)となる。

 取りかへ、取りかへする事、一日に、百度(《もも》たび)に及べり。

 のちには、河(かは)にひたりけれども、川水(《かは》みづ)までも、湯と、なりけり。

「あら、あつや、かなしや、」

といふほどこそあれ、三十日ばかりありて、つゐに、くるひ死(じに)に[やぶちゃん注:この言い方は違和感があるが、この筆者の書き癖である。]、しけり。

 夫の「ゆひごん[やぶちゃん注:ママ。]」をちがへ、剩(あまつさへ)、代々の家とくを盗(ぬすみ)、他の「たから」となしける「天ばつ」の程こそ、をそろしけれ[やぶちゃん注:ママ。]。今生(こんじやう)より、「せうねつ」・「大せうねつ」[やぶちゃん注:この世にありながら、「焦熱」地獄と「大焦熱」地獄の苦しみを受けることを言う。]の「ほのほ」に身をこがしける。

「未來(みらい)の『くわほう』[やぶちゃん注:「来世(らいせ)の果報」の意。]は、さぞ、あるらん。」

と、怖れざらん人は、なし。

 此のはなしは、慶安の比の事也と申《まうし》つたゆる。

[やぶちゃん注:「慶安の比」一六四八年~一六五二年。徳川家光・家綱の治世。]

「想山著聞奇集 卷の五」の「にち蜂の酒、幷へぼ蜂の飯の事 附、蜂起の事」の不詳とした「にち酒」に養蜂家の方からメールを戴いたものを転載した

七年前に電子化注した「想山著聞奇集 卷の五」の「にち蜂の酒、幷へぼ蜂の飯の事 附、蜂起の事」(リンク先は満杯になったブログ・カテゴリ「怪奇談集」の一篇)の中で、不詳とした「にち酒」について、養蜂家の方からメールを戴いたものを、転載したので、是非読まれたい。

2024/07/04

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷四 㐧二 不孝の女母に犬のふんをすゝむる事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

  第二 不孝の女母に犬のふんをすゝむる事

○洛陽(らくやう)七條邊(《しち》でうへん)に、きはめて「ふ孝(かう)」のむすめ、あり。

[やぶちゃん注:「洛陽七條邊」現在のJR京都駅の北直近の東西に走る「七条通」(グーグル・マップ・データ)。]

 とし老《おい》たる母、ことに、目も見えざりければ、此母をあつかはん事を、うとましくおもひ、

『母を、何とぞして、ころし、我身も、自由、ならん。』

と、おもひ、ある時、めしに、「いぬ」のふんを、まぜて、母に、すゝめけり。

 母、是を、くひけるが、何とやらん、にほひ、あしくおぼへ[やぶちゃん注:ママ。]て、心ち、あしかりければ、

『邪見のむすめ、いかなる事を、したるらん。』

と、おもひ、くふふりして、かくしをきて[やぶちゃん注:ママ。]、となりの人の、きたりけるに、ひそかによびて、かのめしを見せけるに、

「是は。いぬの、ふん也。」

と申《まうし》ける。

 母、大きに、なげき、

「扨も、世にあさましきものは、我身也。只一人のむすめを、もつといへども、きはめて、ふかうのものにて、つらくあたるのみならず、朝夕(てうせき)の食(しよく)をだに、おもふやうにも、くるゝ事、なく、あまさへ、いぬのふんを、まぜて、あたふる事、かへつて、天命につきなん事の、ふびん也。我身の事は、くるしからず、ふかうのものと申《まうす》ながらも、まことは、『をんあい』の道を、おもひ、ゆくすゑを、あはれに、かなしくおもふは、親の『じひ』なりと、いはぬ人こそ、なかりけれ。」

 いくほどなくて、母、つゐに[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]死《しし》けり。

 其《その》「一しうき」の内に、此むすめ、母の、むくひ、來り、俄(にはか)に、犬のごとく、はひありき、物をくふにも、犬のくふごとくに、口(くち)、さしつけて、くひけり。

 あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、いぬの、なく「まね」をし、つゐに、くるひ死《じに》に、しけり。

 ぜんあくのむくひは、谷(たに)に、こゑをあぐるに、ひとし。されば、おやの、子をば、かなしむは、「じひ」より、をこれ[やぶちゃん注:ママ。]りと、しるべし。親の「ばつ」は、天意(てんい)より、あたへ給ふ。たれか、是を、あらそはん。をそるべし、をそるべし[やぶちゃん注:ママ。]。

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷四 目錄 / 㐧一 慈悲ふかき房主の事幷いざり念仏といふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

善惡報はなし四之目錄

㐧一 慈悲(じひ)ふかき房主(ばうず)の事いざり念仏(ねんぶつ)といふ事

㐧二 不孝(ふかう)の女(むすめ)に犬(いぬ)のふんをすゝむる事

㐧三 夫(をつと)の田地を盗(ぬすみ)天罸(てんばつ)の事

㐧四 女房猿(さる)にころさるゝ事

㐧五 むよくのぢいうばの事

㐧六 人を訴人(そにん)して我身に報(むくふ)事

㐧七 箱根(はこね)にて死たるものにあふ事

㐧八 妄霊(まうれい)來(きたつ)て夫(をつと)女をたゝき殺(ころす)事

 

善惡報はなし・卷四

 㐧一 じひふかき房主(ばうず)の事幷《ならびに》いざり念仏といふ事

○遠江(とをとをみ)の国に、宗角(そうかく)と申《まうす》房主あり。

 じひ、ふかくして、つねに三河・とをとをみ、兩國のさかい[やぶちゃん注:ママ。]へ出《いで》て、日〻《ひにひに》に、ゆきゝの人の、になひもてる荷物をば、牛馬につけし上荷などを取《とり》て、たとへば、三里の逍を、一里づゝ、はこびて、人馬(じんま)のたすけとし、又は、ようせうの子共などの、まよひたるあれば、それをひろひ取て、我屋に、そだてをき[やぶちゃん注:ママ。]、ぬし、いづれば、わたしぬ。

 

[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ、第二参考底本はここ。孰れも、よいが、後者は、例の落書野郎が、勝手に、旅人の左手に抜身の太刀を描いているので(御丁寧に鞘まで附け足しているのだ!)、よろしくない。こいつ、一種の変態だな!

 

 かやうのわざをして、一生、年月(としつき)を、をくり[やぶちゃん注:ママ。]けり。

 ある時、あしを、わづらひ、ぎやうぶつゐ[やぶちゃん注:ママ。意味不明。これ、「ぎやうぶつゑ」で、「行・佛會」で、「仏道修行と仏会」の意か。]に、かなはずして、後(のち)には、いざり、ありきけり。

とし比《ごろ》、なす所のしよさも、ならず、道のほとりに、いほりを、かまへ、念佛一《いつ》ざんまいと成《なり》けり。

[やぶちゃん注:「念佛一《いつ》ざんまい」「ひたすら、念仏三昧に勤しむこととなった。」の意であろう。]

 其比(《その》ころ)、女《をんな》わらんべのことばに、「いざりねんぶつ」とぞ云《いひ》あへり。

 同国(どうこく)にある人、信州、「ぜんくわうじ」[やぶちゃん注:善光寺。]へ、まふで、一七日《ひとなぬか》、「つや」、申《まふし》けるに、七日目のまんずる夜(よ)の、御《おん》じげん[やぶちゃん注:「示現」。仏・菩薩が、衆生済度のために種々の姿に変じて、この世に現われることを言う。]に、いはく、

「なんぢ、はるばる、是まで、としまいり[やぶちゃん注:ママ。「年參(まゐ)り」であろう。毎年、定期に参詣して通夜をすること。]する心ざし、せつなり。かさねて參らんとおもはゞ、なんぢが同國の内(うち)に、「いざりねんぶつ」といふもの、あるべし。かれが、まへゝ、參るべし。しからば、我《わが》まへゝ、參るに、ひとしかるべし。」

と、あらたに、御《おん》つげ、ましましけり。

 夢、さめ、ありがたくおもひ、国に、かへりて、

「さるもの、ありや。」

と、人に尋《たづぬ》るに、其《それ》、かくれなし。

「扨は。如來(によらい)の御つげ也。」

とて、其身一代の、やしなひをぞ、をくら[やぶちゃん注:ママ。]れける。

 さるほどに、此《この》「いざり念佛」と申ものは、日比(ひごろ)の善心、しんじつなるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、佛智(ぶつち)に叶(かな)ふもの也。ぜんを、なして、善に、かへるとは、かやうの事をや、いふらん。現在を見るときは、當來(たうらい)は、猶、ありがたかるべし。

 是は、寬永年中の事かと、おぼゆ。毛頭(もうとう)、僞(いつは)りなき、よし。

[やぶちゃん注:「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。徳川家光の治世。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧十三 女あひしうにより虵となる事 / 卷三~了

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。「あひしう」はママ。言わずもがなだが、「愛執(あいしふ)」の誤りである。この後半の最終部分は、第二参考底本が破損しているため、第一参考底本に拠った。]

 

 㐧十四 女、あひしうにより、虵(じや)となる事

○正保年中に、かまくらのぞう坊[やぶちゃん注:濁点はママ。「僧坊」。]に、みめかたち、すぐれ、世にたぐひなき「ちご」、あり。

[やぶちゃん注:「正保年中」一六四四年から一六四八年まで。徳川家光の治世。]

 ある人のむすめ、此「ちご」を、こひて、やみふしけり。

 母に、

「かく。」

と、つげしらせければ、かの「ちご」が父母も、さいわい[やぶちゃん注:ママ。]、しる人なりけるまゝに、此よし、互(たがい[やぶちゃん注:ママ。])に申《まうし》あはせて、時〻、「ちご」を、かよはしけれども、しんじつの志(こゝろざし)も、なかりけるにや、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]、うとくなりゆくほどに、女、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、おもひ死《じ》にしけり。

 父母、かなしみて、

「かの『こつ[やぶちゃん注:「骨」。]』を、『ぜんくはうじ[やぶちゃん注:ママ。「善光寺(ぜんくわうじ)」。]』へ、をく[やぶちゃん注:ママ。]らん。」

とて、箱に入《いれ》て、をき[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]けり。

 其後、此「ちご」も、又、病付(やみつき)て、物ぐるはしく成《なり》ければ、一間(ひとま)成(なる)所に、をしこめ[やぶちゃん注:ママ。]てをくに、人と、物がたりするこゑ、しけるを、あやしみて、父母、物のひまより、見けるに、大きなる虵(へび)と、むかひて、

「ひた」

と、物がたりしけるかと思へば、ほどなく、死(しに)けり。

 やがて、入棺(にうくわん)して、「わかみや」の、にしの山にて、さう[やぶちゃん注:「葬」。]するに、棺の中に、大きなる虵、ありて、「ちご」と、まとはりたり。

 やがて、虵と共に、さうしてけり。

 かの父母、

「むすめが『こつ』を、善光寺へ送るべし。」

とて、二つに、取《とり》わけ、

「半分は、鎌倉の、ある寺へをく[やぶちゃん注:ママ。]らん。」

として、見ける時に、「こつ」、小虵(こへび)になりたるも、あり、なから[やぶちゃん注:半分。]ばかり、成《なり》かかりたるも、あり。

 をそろし[やぶちゃん注:ママ。]といふばかりなし。

 此事を、其の父母の、ある「そう」に、くはしく、かたり、

「『けうやう』して、たべ。」[やぶちゃん注:「けうやう」はママ。「供養(くやう)」の誤読であろう。]

とて、たのまるゝよしを、さる人の、かべごしに、きゝて、

「まつたく、いつはりなき、はなし也。」

と、たしかに、はなされける。

 近年の事なるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、名もうけたまはりしかども、わざと、爰には、かゝざる也。

 此物がたりは、おほく、當世の事をしるすゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、其所、その名をば、はゞかりて、申さず。

 しかしながら、めづらしきはなし成《なる》がゆへに、しるす也。

[やぶちゃん注:本篇の主文は、「諸國百物語卷之三 十七 渡部新五郞が娘若宮の兒におもひそめし事」の、ほぼ、そのままの転用である(最後の部分は本書で附された、今までの諸篇の終りにあった、まことしやかな「実話である」ことのダメ押し添えである)。「諸國百物語」は第四代将軍徳川家綱の治世、延宝五(一六七七)年四月に刊行された、全五巻で各巻二十話からなる、正味百話構成の真正の「百物語」怪談集である。因みに、この後の「百物語」を名打った現存する怪談集には実は正味百話から成るものは一つもないから、これはまさに怪談百物語本の嚆矢にして唯一のオーソドックスな正味百物語怪談集と言えるのである。但し、著者・編者ともに不詳である。リンク先では、誰にも負けない(鎌倉史研究をしている自負から)私の詳細なオリジナル注(原拠「沙石集」も電子化注してある)を附してあるので、そちらを、是非、読まれたい。そちらで注したことは繰り返さない。]

2024/07/03

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧十三 死たるもの犬に生るゝ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧十三 死(しゝ)たるもの、犬に生(うま)るゝ事

○江州守山(もりやま)のきん鄕(がう)に、甚六といふもの、あり。

[やぶちゃん注:「江州守山」現在の滋賀県守山市(グーグル・マップ・データ)。]

 かれは、一生の間、けんどん・ぐち[やぶちゃん注:「慳貪・愚癡」。]にして、家内(けない)のものに、つれなくあたりけるが、俄(にはか)に、わづらひ付《つき》て、ほどヘて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]死(しに)けり。

 甚六、しゝてより、あくる年より、いづくより來《きた》るともなく、犬、一つ、來りて、すみけり。

 或時、ぬすみぐらひをしけるによつて、よめ、つえ[やぶちゃん注:ママ。]をもつて[やぶちゃん注:『以て』で採る。]、たゝきければ、此《この》犬、人のごとく、物いひて、

「我は是、なんぢが『しうと』[やぶちゃん注:「舅。]なり。我、『ぞんじやう』にありし時、人に、物を、おしみ[やぶちゃん注:ママ。]、家人に、つれなくあたり、もとより、乞食(こつじき)・『ひにん』にだに、一鉢(《いつ》ぱつ)の心ざしもなく、けんどん・邪心にして、先祖の『とむらひ』をだにも、なさず、只、『てうぼ』[やぶちゃん注:「朝晡」。「朝暮」に同じ。ここは、副詞的に用いて「朝から日ぐれまで・あけくれ・いつも」の意。]、おしく、ほしく[やぶちゃん注:ママ。「惜(を)しく、欲(ほ)しく」。]おもふばかりにて、かりにも、人に、ほどこすこと、なければ、何をもつて、一つとして、是を『ぜんこん』[やぶちゃん注:「善根」。]とせんや[やぶちゃん注:反語。]。しかれば、其《その》『ぐち』のむくひによつて、今、『ちくしやう』のかたちを、うけたり。なんぢ、我をうつこと、なかれ。かく、うたれて、『はぢ』をかくうへは、此家を、さるべし。」

と、いひて、はしり出《いで》ぬ。

 よめ、是をきゝ、大きにおどろき、やがて、いだきとめて、のきのしたに、かれが「へや」を、つくりて、をし[やぶちゃん注:ママ。]入れければ、よろこび入《いり》て、さるべききしよく[やぶちゃん注:「氣色」。]も、なし。

 每日、おやに食をあたふるごとくにして、やしなひけり。

 其心ざし、せつなれば、つねに、此へやを、はなれずして、外(ほか)へ出《いづ》る事なく、人間の、家にすむごとくにぞ、ありける。

 一、二年ほどありて後、ゆきがたしらず、うせぬ。

 まことに、きだい[やぶちゃん注:「稀代」。]、ふしぎの事也。

 それ、主人の、下人につれなきは、「ぐち」より、おこれり。

 いかんとなれば、「ぐち」なる時は、貴賤一躰(きせん《いつ》たい)の理(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])を、わきまへず、「とくしつりがい」[やぶちゃん注:「得失利害」。]の道理を、しらざるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、下人をば、犬・にはとりのごとく思ひ、あなどり、「とくしつ」の念、おもければ、其くるしみを、いたはり、あはれまず、はげしく、つかひ、なやまし、少しのあやまりあれば、すさまじく、あたりぬ。

 されば、「ぐち」は、「ちくしやう」の心なり。「ぐち」の心得、たくましく、家人に、つれなき報(むくひ)に、「いぬ」と、生れぬること、むべなり。つゝしむべし、はづべし。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 莢蒾

 

 

Kyoumei

 

けうめい  擊迷 羿先

      孩兒拳頭

莢蒾

 

キツ ミイ

 

本綱莢蒾生山林中其葉似木槿及楡柞小樹其子如䟽

[やぶちゃん字注:「䟽」の「疏」の異体字。]

溲兩兩相對而色赤味甘皮堪爲索葢此槿榆之類也

枝葉【甘苦】下氣消穀煑汁和米作粥飼小兒甚美

農政全書云孩兒拳頭【一名莢蒾】作小樹葉似木槿而薄

又似杏葉頗大薄澀枝葉間開黃花結子似溲疏兩兩切

並四四相對共爲一攅生則青熟則赤色味甘苦

 

   *

 

けうめい  擊迷 羿先《げいせん》

      孩兒拳頭《がいじけんとう》

莢蒾

 

キツ ミイ

 

「本綱」に曰はく、『莢蒾』、『山林の中に生ず。』。其の『葉、木槿(むくげ)、及び、楡《にれ》・柞《ははそ》に似て、小樹≪なり≫。其の子《み》、䟽溲(やまうつぎ)のごとく、兩兩(ふたつ、ふたつ)≪に≫相《あひ》對して、色、赤。味、甘し。』。『皮、索(なは)と爲すに堪へたり。』。葢し、此れ、槿(まゆみ)・『榆(にれ)の類なり。』≪と≫。

『枝葉』『【甘、苦。】』『氣を下《くだ》し、穀《こく》を消す。汁に煑て、米に和《まぜ》、粥《かゆ》に作≪る≫。小兒≪を≫飼《やしな》≪ふに≫、甚だ、美《よし》。』≪と≫。

「農政全書」に云はく、『「孩兒拳頭」』≪は≫、『【一名「莢蒾」。】』『小樹を作《な》し、葉、木槿《もくきん》に似て、薄く、又、杏《あんず》の葉に似て、頗る、大きく、薄≪く≫、澀《しぶ》り[やぶちゃん注:滑らかでなく。]、枝葉の間に、黃花を開き、子《み》を結ぶ。「溲疏《しゆそ》」に似《に》、兩兩《ふたつながら》、切《きれ》≪て≫並びて、四つ、四つ、相《あひ》對し』、『共に、一《ひと》攅(こゞなり)となる。生《わかき》は、則《すなはち》、青く、熟せば、則《すなはち》、赤色≪たり≫。味、甘苦。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:最初に言っておくと、今回は、引用された「本草綱目」及び「農政全書」の原文(総て後掲する)が短いものであったため、始めての試みだが、厳密に、良安がパッチワークした箇所を、総て、二重鍵括弧で示してみた。これによって、如何に良安が《引用のツギハギ名人》であることが判るであろう

 さて、この見たこともない「莢蒾」というのは、何者か? というと、日中の違いはなく、

双子葉植物綱マツムシソウ目ガマズミ科ガマズミ属ガマズミ Viburnum dilatatum

である。中文と一致することは、「維基百科」の「莢蒾」で明らかである。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『山地や丘陵地の明るい林や草原に生える』。『和名「ガマズミ」の語源は諸説あり、赤い実という意味の「かがずみ」が転訛したもの、果実を頬張ると噛まずに種を吐き出すため「かまず実」の説がある』(よく判らないが、ヒトが、十分に熟した果実を口に含むと、そのまま舌で潰して、果肉汁を味わい、即座に種子をぺっと吐き出すからということか?)。『また、昔は熟した赤い果実を染料に使ったので「染め」がゾメからズミへ転訛したと説く人もいる』(語源説は国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらの方が遙かに詳しく、読み応えがある)。『別名はアラゲガマズミ、ヨスズ、ヨソゾメ、ヨツズミ、ヨウゾメともよばれる。中国名は「莢迷」「莢蒾」(きょうめい)』。『日本、朝鮮半島、中国などの東アジア地域に分布し、日本では北海道南西部、本州、四国、九州に分布する。平地から山地、丘陵地に分布し、雑木林や山野の日当たりのよい場所に自生する』。『落葉広葉樹の低木で、樹高』二~四『メートル』『程度となる。樹皮は灰褐色。若い枝は星状毛や腺点があって、灰緑色で楕円形の皮目も多い。古枝は灰黒色で皮目がある』。『葉は対生し、長さ』六~十五『センチメートル』『程度の円形や卵形から広卵形で、葉縁に細かい鋸歯がある。表面には羽状の葉脈がわずかに出っ張り、凹凸がある。表面は脈上にだけ』、『毛があり』、『触るとざらつくが』、『裏面では腺点や星状毛などが多い。秋には紅葉し、橙色からやや淡い赤色、時に複数の色が混じるが、紅葉初期は紫色が残って周辺部が黒ずむことも多い』(太字下線は私が附した。以下も同じ)。『花期は』五~六『月』で、『本年枝の先に散房花序を出して、白い小さな花が平頭状に多数咲く。花は直径約』五『ミリメートル』『で、花冠は深く』五『裂する。雄蕊は』五『個』。『果期は晩夏から秋にかけて』(九~十月)。『果実は直径』六ミリメートル『程度の球形で、赤く熟して食用できる。果実は最終的に晩秋のころに表面に白っぽい粉をふき、この時期がもっとも美味になる。冬になっても、赤い果実が残っていることがある。果実はヒヨドリやメジロなどの小鳥に食べられて運ばれ、排泄物と一緒に種子が散布されて分布域を広げる』。『冬芽は卵形で粗い毛が多く生え、紅色を帯びた芽鱗は』四『枚ついて、外側の』二『枚は小さい。枝の先端につく頂芽は、よく頂生芽を伴ってつけている。枝の側芽は対生し、頂芽よりも小さい。冬芽わきに残る葉痕は、倒松形やV字形で、維管束痕は』三『個つく』。『近縁のコバノガマズミ(Viburnum erosum Thunb.)やミヤマガマズミ(Viburnum wrightii Miq)の葉は比較的細長く先端が尖った楕円形であるので、区別できる(しかし』、『葉は変異が多いため、区別しにくいこともある)』。『秋以降の果実は食べられ、ワイン色が美しい果実酒になる。材は丈夫なことから、鎌や鍬など農具の柄に用いられる。染料や油も採られる。枝は柔らかく折れにくいので、昔から何かを束ねる時に使った。枝をよって縄をつくり、刈柴などを手際よくまとめた』。『果実は甘酸っぱく食用になる。初秋には酸味が強くて生食できないが、秋が深まると』、『透明感が出て甘くなる。ダイコンやカブなどの浅漬けを漬ける時に一緒に用いられ、「赤漬け」は長野県戸隠村でよく行うもので』、『紅色に染まり、実の酸味がついた大根漬けとなる。生食するほか、ジュースやキャンディ、酢、ポン酢、果実酒、ジャム、ゼリー、健康ドリンクなどに商品化されている。鮮やかな赤色に完熟した果実は、焼酎やホワイトリカーに漬け込んで』三『か月以上たてば』、『果実酒になり、ほぼ半年で実を取り出すと退色しない。同属のコバノガマズミ』( Viburnum erosum )・『ミヤマガマズミ』( Viburnum wrightii var. wrightii )・『ヤブデマリ』( Viburnum plicatum var. tomentosum )・『オオカメノキ』( Viburnum furcatum )『なども同様に利用することができる』。『丈夫でよく分枝するため、庭木として観賞用に植樹されることもある』。『果実は「莢蒾子」(きょうめいし)とよんで、赤く熟した果実をとって薬用にする。果実を焼酎に漬けて果実酒にすると、疲労倦怠、動脈硬化予防などの薬用効果もある。ガマズミの薬酒は、果実を乾燥したもの、熟した生果実のどちらでもよ』い。但し、『妊婦は』禁忌とされる、とあった。

 さて、冒頭で言った通り、二種の引用元の原文を、以下に示す。ここでは、良安がカットした箇所に傍線を引くことにした。まず、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の掉尾にある「莢蒾」から(やや整序した)。

   *

莢蒾【「唐本草」】

釋名擊迷【「詩疏」】羿先【同上】

 集解【恭曰莢蒾葉似木槿及榆作小樹其子如疏溲兩兩相對而色赤味甘陸璣詩疏云檀榆之類也所在山谷有之藏器曰北土山林中皮堪爲索】

枝葉氣味甘苦平無毒主治三蟲下氣消穀煮汁和米作粥飼小兒甚美【「唐本」】作粥灌六畜瘡中生蛆立出【藏器】

   *

次に、「農政全書」(同書については、「楸」で既出既注)の当該は、同書の「第五十五 荒政」(「荒政」は「救荒時の利用植物群」を指す)の「漢籍リポジトリ」のここの、ガイド・ナンバー[055-7b] (やや整序した)以下。

   *

孩兒拳頭 本草名莢蒾一名擊蒾一名弄先舊不著所出州土但云所在山谷多有之今輝縣太行山山野中亦有其木作小樹葉似木槿而薄又似杏葉頗大亦薄澁枝葉間開黄花結子似溲疏兩兩切並四四相對數對共爲一攅生則靑熟則赤色味甘苦性平無毒葢檀榆之類也其皮堪爲索

  救飢 採子紅熟者食之又煮枝汁少加米作粥甚美

 玄扈先生曰詩疏云斫檀不得得繫迷卽此木也

   *

私が、やや気になったのは、「本草綱目」の「北土」と限定していることであった。しかし、「維基百科」の「莢蒾」を見ると、中国での分布を、『河南省・広東省・四川省・広西チワン族自治区・浙江省・河北省・江蘇省・陝西省・湖南省・雲南省・安徽省・貴州省』福建省・湖北省・江西省などの中国本土の』『標高二百メートル以上の高地に植生する』とあるから、特に有意に中国の北部というわけではないので、カットした方が、かえって躓かなくてよかったと思われる。そもそも、「北」の地方と限定しているのは、盛唐の本草学者陳蔵器一人だけである。

「擊迷」「迷」はただの音通であろうが、語義不詳。

「羿先《げいせん》」同前。ただ、「羿」は中国の伝説で有名な弓の名手であり、「楚辞」の「天問篇」の注などでは、彼が、太陽を射落とした話が載る。ふと思ったのは、ガマズミの赤い小さな実を、羿が弓を引いて射抜く、その先にある小さな赤い的の中心を想起したか、或いは、「楚辞」に従い、羿が射抜いた天空の遙か先で燃える太陽を比喩したものか、などと妄想した。

「孩兒拳頭《がいじけんとう》」「孩兒」は中国語で三歳ぐらいまでの幼児を指し、その握った拳の頭は、赤ん坊の場合、薄く赤みを帯びることから、ミミクリーしたものか。

「木槿(むくげ)」これは私が読んだのではなく、良安が敢えて振っているのである。既に前回の「檀」の注で述べたが、良安は「木槿」を本邦で言う、アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus と断定してしまっているのである(因みに、属名から判る通り、「槿」はハイビスカスの仲間である)。しかし、フヨウ属は中文名で「木槿屬」であるから、属レベルに留まり、種を断定することは出来ないのである。そもそもが、ウィキの「フヨウ属」によれば、『北半球各地の熱帯・亜熱帯、一部の温帯に分布し、原種(野生種)は約』二百五十『種』とあるから恐れ入ったが、ンなもんじゃないぞ! 「維基百科」の「木槿屬」を見てみい! そっちじゃ、四百二十一種が承認された種として並んでいるだけじゃなく、最後の「栽培品種」では、『多くの交配品種があり、二〇一六年三月現在、『国際園芸科学協会』傘下の『国際品種登録事務局』から委託を受けて、一万八千九百九十一種の品種の登録と命名が行われている。登録名がなく、未知の品種も多く、新しい品種も次々と登場していることから、一般人が触れる機会も多く、比較的、認知度が高い』とさえあるのだ!!

「楡《にれ》」これも、本邦の日本産である俗称で「ニレ」と呼ばれる、イラクサ目ニレ科ニレ属ハルニレ Ulmus davidiana var. japonica ではなく、バラ目ニレ科ニレ属 Ulmus どまりである。

「柞《ははそ》」東洋文庫訳は『くぬぎ』とルビを振っているが、これは、私は誤りと断ずる。何故なら、「くぬぎ」(櫟)は標準和名で、

ブナ(椈)目ブナ科コナラ(小楢)属コナラ亜属クヌギ Quercus acutissima

一種を指してしまうからである。では、どう読めばいいか? いいのが、あるんだよ! 古語に! 「ははそ」だ! 但し、現行の辞書類等では、「ははそ」は、

ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ Quercus serrata

と比定するものが多いようだ。しかし同時に、古語の場合は、範囲が広く、クヌギ以外にも、

コナラ亜属ミズナラQuercus crispula var. crispula(日中辞典でも「柞」の意味の複数種に以上に二種に加えてある)

コナラ亜属ナラガシワ Quercus aliena

などを含めて呼んだ、とも書かれてあり、いやいや、誤って、

コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata

を指していうこともある、とあるんだ。ここで、私は是非とも良安先生に、「ははそ」とルビを振って貰いたかったのである。

「䟽溲(やまうつぎ)」これは――本文電子化の際に――おかしい――と感じた。確かに、「本草綱目」の影印本を見ても、「䟽溲」とあるのだが、東洋文庫訳では、『溲䟽(しゅうそ)(灌木類)』となっていたからである。しかも、これは、東洋文庫の誤植(錯字)ではない証拠に、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版を見てみると、ここは、

反転した「溲䟽」で活字化されている

のだった。しかも、ネットで、この、

「䟽溲」で調べてみても――これ――全然――ない――

のだ。出るのは、

(?)ひっくり返った――「溲䟽」――ばかり

なのだ。そこで、私は、あることに気づいて、試みに、

「漢籍リポジトリ」で――反転させた「溲䟽」で文字検索をしてみたところ――結果は――、これだ

一つだけ、「本草綱目」があるが、それは、ここではなく、「本草綱目」の「卷三上」の「百病主治藥上」の、「濕【有風濕寒濕濕熱】」の中の、『溲䟽【皮膚熱胃中熱】』という部分であった(「漢籍リポジトリ」のここのガイド・ナンバー[015-25b]の七行目。リンク先はその部分に飛んでくれる)。因みに、

「漢籍リポジトリ」の検索で、「䟽溲」を検索すると――驚くなかれ!?!――ゼロ――なのだ!

ここまで読んだ素朴な読者は、

(?)「でもさ、何で、この『莢蒾』の中の『䟽溲』が、検索で上がってこないの? おかしいでショウが!?!」

とツッコミを入れる御仁がいるだろう。それは、

☞……実は……電子化が……影印本の一行字数に忠実に行われているから!

なのである。則ち、

☞……電子化では……ちゃんと「䟽溲」となってはいる……が……「䟽」が行末で……「溲」は改行されて次行の頭に分離されているから!

なのである。而して、

(!)この「漢籍リポジトリ」の機械検索機能では――ベタ・データの文字列で調べるのではなく――ページで電子化された文字列のみを――忠実に――探すために――「䟽」が行末で――「溲」は改行されて分離されている――それだけのために――この「䟽溲」の検索結果は「ゼロ」になってしまう

のであると推定されるのである。

★「漢籍リポジトリ」の電子化データで改行されて分れている「䟽」「溲」は――熟語認識をしない――★

ということなのだ、と気づいたのである。……ここに至るまで、実に二時間を要した…………(ト深い溜息をつく)。

さて、問題は、

★★この致命的誤刻は、何時まで続いたのか?

だ! 私は、国立国会図書館デジタルコレクションにある、二つの「本草綱目」を調べてみた。まず、

★★!――明の万暦一八(一五九〇)年板本の当該部はここだが(右丁五行目罫・右行下から五字目)――なんと! 誤ったままの「疏溲」で刻されてあるのである!

而して、活字本は、どうか?

★★!!――大正五(一九一六)年刊の、多紀鶴郎・永島忠編・半田屋出版部出版「補註 本草綱目 下ノ卷一」はここだが(左ページ後ろから二行目の下から十二字目)――驚くべきことに! 同じく! やはり! 誤ったままの「疏溲」で刻されてしまってあるのである!!

これによって、驚くべきことが判る! 則ち、

★★★!!!――江戸時代の本草学のバイブルであった「本草綱目」のこの部分は――一貫して!――誤った「疏溲」のまま読まれ、認識していたのであり、しかも近代に至っても――時珍の刊行から三百二十年後でも――未だ、誤ったママに出版されいた事実が判明したのである!!!

 閑話休題。これだけ苦労したが、何のことはない、「溲䟽」は、私が、その花を偏愛する、

ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata

のことである。「維基百科」の当該種のその標題は、『齒葉溲疏』となっている。私の迂遠にして徒労な右往左往にお附き合い戴き、有難く存ずるものである。

「槿(まゆみ)」双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus Blume var. sieboldianus である。先行する「檀」の私の注の冒頭部を見られたい。

「榆(にれ)」同前で、考証済み。本邦の日本産である俗称で「ニレ」と呼ばれる、イラクサ目ニレ科ニレ属ハルニレ Ulmus davidiana var. japonica ではなく、バラ目ニレ科ニレ属 Ulmus どまりである。

「木槿《もくきん》」同前であるが、再掲しておく。本邦で言うアオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus を指すことになるように見えてしまうが(因みに、属名から判る通り、「槿」はハイビスカスの仲間である)、しかし、フヨウ属は中文名で「木槿」であるから、属レベルに留まるとせねばならない。

「杏《あんず》」バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属アンズ変種アンズ Prunus armeniaca  var. ansu

「葉、木槿《もくきん》に似て、薄く、又、杏《あんず》の葉に似て、頗る、大きく、薄≪く≫、澀《しぶ》り」これ、説明するよりも、。当該ウィキにある、この写真の葉を見ると、文句なく、判る。何とも言えない「しぼ」の感じがある。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧十二 生ながらうしと成て死事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。この話、分量がそれなりにあり、主人公が異形の姿となって伊勢参宮をしようとするというシークエンスが、私の電子化注した怪奇談の中では、かなり異様なオリジナリティを漂わせていて、ここまでの本書の、先行類型が多い中にあっては、かなり印象的な話であると感じている。高田衛先生が「江戸怪談集(上)」で採用されなかったのが、ちょっと疑問でさえあるのである。或いは、単に分量が大きいという編集上の制約があったのかも知れない。

 

 㐧十二 生(いき)ながら「うし」と成《なり》て死(しする)事

○明曆(めいりやく)[やぶちゃん注:一六五五年~一六五八年。第四代徳川家綱の治世。]の比、大和(やまと)の「山べ」といふ所の近所(きんじよ)に元久(げんきう)と申《まうす》もの、あり。

[やぶちゃん注:『大和(やまと)の「山べ」といふ所』「大和國」の旧郡山辺郡。旧郡域は当該ウィキの解説と地図を見られたい。]

 あくまで愚痴(ぐち)にして、むり・ひほう[やぶちゃん注:「無理・非法」。法に外れることを敢えてやること。]のものなり。

 しかれば、兄弟・親類・他人は申《まうす》に及《およば》ず、うとみ、ちかづくもの、まれなれば、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]、ちなみ[やぶちゃん注:「因み」。親しい交わり。]をなすもの、一人も、なし。

 只、「あくぎやく人《にん》」と、いはぬ人は、なし。

 朝夕(てうせき)の食物《くひもの》には、「うし」を、ころして、くひけり。

 ある時、つま、「くわいにん」しけるが、一度に、子を、三人、うみぬ。

 三人の子、おもては、人にて、手足は、みな、「うし」のひづめなり。

「こは、いか成《なる》事やらん。」

と、あきれはて、三人、共に、をし[やぶちゃん注:ママ。「押し」。]ころして、すてぬ。

 又、かさねての、さんにんも、同じ子を、うめり。

 夫婦、此事を、ふかく、なげきて、佛神へ、きせい、申《まうし》、

「子孫、はんじやう、なさしめ給へ。」

と、いのりけるが、ある夜(よ)の夢に、神明(しんめい)、つげて、の給はく、

「なんぢ、子孫のはんじしやうを、いのる事、をろか[やぶちゃん注:ママ。]なり。其ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]は、おほくの『うし』を、ころし、其むくひによりて、みな、うむ所の子、『うし』のかたちなり。はやく、「あくしん」を、ひるがへし、きうに[やぶちゃん注:「急に」。]、「ゑしんさんげ」の心をもつて、後世(ごせ)ぼだいを、もとむべし。しからずば、死《しし》て、『大ぢごく』に、おちて、『たごう』の間、「かしやく」のせめ、ひま、あるまじ。」[やぶちゃん注:「ゑしんさんげ」「𢌞心懺悔」。邪悪な心を悔い改め、仏の教えのままに従うことを言う。「たごう」「多劫」。「永劫」に同じ。]

と、あらたに、御つげ、ましましたり。

 元久、夢、さめ、

『こは、ふしぎの告(つげ)かな。』

と、おもひ、三十日ばかりも、萬《よろづ》、つゝしみ、をそるゝ[やぶちゃん注:ママ。]おもひを、なしけるが、次㐧次㐧、うすく成《なり》て、後(あと)には、猶、つみ、ふかくぞ、なりにけり[やぶちゃん注:係助詞「ぞ」の連体形の結びがないのは、ママ。]。

 ある時、元久、いせ參宮を、俄《にはか》に、おもひ立《たち》て、日限(にちげん)をとり、參りけるが、宮川《みやがは》までは、つゝがなかりしが、河、うちこへ[やぶちゃん注:ママ。「打ち越え」。]、二、三町も、ゆくとひとしく、兩眼《りやうがん》に、きり[やぶちゃん注:「霧」。]、ふりかゝり、さりながら、盲目のふぜいなれば、前後(ぜんご)を、さらにわきまへず。

[やぶちゃん注:「宮川」現在の伊勢市街の南西を貫流する宮川(グーグル・マップ・データ)。伊勢神宮の禊川(みそぎがわ)であった。]

「こは。いか成事やらん。」

 なげきかなしみて、參るべき「ねん」[やぶちゃん注:「念」。]もなくなりて、しばらく、そこに、とゞまりて、つくづく、おもひけるは、

『いやいや、此ていにて、さんけいは、成《なり》がたし。在所(ざいしよ)へ、とくとく、かへるべし。』

と、思ひさだめ、行(ゆき)きの人に、「大和のかたは、いづくぞ。」と、とはん、とすれども、舌、こはりて[やぶちゃん注:「强(こは)りて」。強張って固くなり。]、物、いはれず。

 かしこに、まよひ、立(たち)けるを、さんけいのかたがた、是をみて、

「あら、ふしぎや、是《これ》にやすらふおのこを見れば、かたちは、人にゝて、かしらは、『うし』也。扨も、めづらしきものゝ、ありけるは。」

と、いふほどこそあれ。

 さんけいの人〻、かれがまへに、ぐんじゆす。

 

[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ、第二参考底本はここ。後者には、例の落書があるので注意。右下方に破損もある。]

 

 元久、いよいよ、心、みだれ、かたちは、變ずる、眼(まなこ)は、くらく、いづくを、そこと、しらざるが、されども、

『「やまと」のかたは、そなたぞ。』

と思ひし心を「つえ[やぶちゃん注:ママ。]」として、なくなく、下向しけるに、「すゞかの山」を、うちこへ[やぶちゃん注:ママ。]、「つち山」まで、來りける。

「つち山」と、「みなくち」の間にて、ほのかに、まなこ、見え出《いづ》る。

[やぶちゃん注:『「すゞかの山」を、うちこへ、「つち山」まで』『「つち山」と、「みなくち」の間にて』このグーグル・マップ・データの右下端に、三重県と滋賀県の間の「鈴鹿峠」があり、そこを北に下ると、滋賀県土山町(つつやまちょう)地区に入り(赤ポイント)、さらにそこを西北西に下ると、琵琶湖に注ぐ最長河川である野洲川(やすがわ)にぶつかる辺りが、水口町(みなくちちょう)地区である。]

 されども、かたちは、かはらず、されども、在所へかへりて、内へいれば、下部のものをはじめ、妻、大きに、おどろき、さはぎ、

「こは、いか成ものゝ、來りけるぞ。」

と、みな、にげさりて、あたりへ、ちかづくものも、なし。

「元久なり。」

と、こたへければ、

「扨は。さやうにましますか。」

 物ごしは、かはらざれば、妻、大きになげき、

「こは、いか成ありさまぞや。」

 げんきう、こたへ、宮川にての、ありさま、一〻《いちいち》、かたるに、妻、

『さては、神明の、御ばつ也。』

とぞ、おぼえける。

 それより、元久、ほどなく、わづらひ付《つき》、十日ばかりありて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、死《しし》けり。

 かなしきかな、一生の間、「ふじやう」[やぶちゃん注:「不淨」。]の身をもち、殊に、𢙣心(あくしん)、ふかくして、神前を、けがさんとすれば、たちまち、神罰、れきぜん也。『げんざいのくわ[やぶちゃん注:「果」。]を見て、過去[やぶちゃん注:「前世」。]・未來[やぶちゃん注:「來世」。]をしる。』といふ事は、かくのごときの事なるべし。つゝしむべし、をそる[やぶちゃん注:ママ。]べし。

「此はなし、いつはり、なき。」

よし、「めうき」といふ「びくに」[やぶちゃん注:「比丘尼」。]の、「せいぐわんじ」にて、かたられける。

[やぶちゃん注:「せいぐわんじ」誓願寺か。奈良県御所(ごせ)市柏原(かしはら)に浄土真宗本願寺派であるが、事績が判らないのと、山辺郡からは、ちょっと南に離れる。奈良に限定しないのであれば、京都市中京区新京極通にある浄土宗西山深草派総本山深草山誓願寺が知られる。同寺の公式サイトのこちらによれば、この寺は、当初、奈良にあったが、鎌倉初期に京都一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移り、その後、天正一九(一五九一)年、豊臣秀吉の寺町整備に際して現在の三条寺町の地に移っており、古くは清少納言・和泉式部、また、秀吉の側室松の丸殿が帰依したことにより、「女人往生の寺」として名高く、また、『源信僧都は当寺にて善財講を修し、一遍上人も念仏賦算を行な』っており、『平安時代後期、法然上人が興福寺の蔵俊僧都より当寺を譲られて以降、浄土宗になり、現在は法然上人の高弟・西山上人善恵房證空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山で』あるとする名刹である。江戸時代の関西系の人々なら、「誓願寺」であるのならば、まず、この浄土宗の聖地である、この寺を第一に想起するであろう。しかし、寺名を漢字表記を示していないから、この寺と安易に比定することは出来ない。]

2024/07/02

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 檀

 

Mayumi

 

まゆみ   檀【善木也】

      【字從亶亶

       者善也】

      【和名萬由三】

タン

 

本綱檀有黃白二種葉皆如槐堪爲飮皮青澤肌細而膩

體重而堅狀與梓榆莢蒾相似也至夏有不生者忽然葉

開當有大水農人候之以占水旱號爲水檀也檀木堪作

杵棇鎚及斧柯

一種髙五六尺四月開花正紫其根如葛

 苔のむす岩かきまゆみ色深しこれを嵐にしらせすもかな顯輔

[やぶちゃん注:この歌の第二句「岩かきまゆみ」は「岩かげまゆみ」の誤りである。訓点では、訂した。]

△按檀結實如楝子而小成簇生青熟淡赤裂內有紅子

 三四粒其葉至秋紅

 

   *

 

まゆみ   檀【「善木」≪の意≫なり。】

      【字、「亶《せん》」に從ふ。

       「亶」は「善」なり。】

      【和名「萬由三」。】

タン

 

「本綱」に曰はく、『檀、黃白の二種、有り。葉、皆、槐(えんじゆ)のごとく、≪茶のごとくに≫飮《まんと》爲《す》るに、堪へたり。皮、青くして、澤《かがやか》し。肌、細かにして、膩《なめらか》。體《たい》、重くして、堅し。狀《かたち》、梓-榆《しゆ》・莢蒾《きやうめい》と相《あひ》似たり。夏に至≪るも≫、生《しやう》ぜざる者、有りて、忽然として、葉、開けば、當《まさ》に、大水《おほみづ》、有るべし。農人、之れを候(うかゞ)ひて、以つて、水《すい》・旱《かん》を占なふ。號して「水檀《すいたん》」と爲《な》すなり。檀の木、杵(きね)・棇(やまおふこ)・鎚(つち)、及び、斧柯(をのゝゑ)と作るに堪へたり。』≪と≫。

『一種、髙さ、五、六尺。四月、花を開く。正紫。其の根、葛《くず》のごとし。』≪と≫。

              顯輔

 苔のむす

    岩かげまゆみ

   色深し

  これを嵐に

      しらせずもがな

△按ずるに、檀、實を結ぶ≪こと≫、楝(あふち)の子(み)のごとくにして、小さく、簇《むらがり》を成《な》す。生《わかき》は青く、熟せば、淡赤。裂けば、內《うち》に、紅《くれなゐ》≪の≫子《たね》、三《みつ》、四粒《よつぶ》、り。其の葉、秋に至りて、紅《くれなゐ》なり。

 

[やぶちゃん注:「檀」は、日中ともに、

双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus Blume var. sieboldianus

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『日本と中国の野山に自生する。淡紅色の果実は熟すと』四『つに裂けて、中から赤い種子が現れる。秋に果実と種子、紅葉を楽しむ庭木としても親しまれ、盆栽に仕立てられることもある。果実は有毒であるが、春の新芽は山菜として利用される』。『和名「マユミ」の由来は、昔この木から弓が作られたことに因む。別名ヤマニシキギ(山錦木)、カンサイマユミ、オオバマユミ、エゾオオバマユミ、ユミノキともよばれる。地方により、マキ、マヨメ、キノメ、アカイベベともよばれる』。『日本の北海道・本州・四国・九州の屋久島まで、および日本国外では南千島、サハリン、朝鮮半島南部、中国に分布する。丘陵地や山地、低地などの尾根・山野・明るい低木林に自生する。各地の野山に生えるほか、庭にも植えられる』。『落葉広葉樹の低木から小高木。樹高は』三~十『メートル』。『よく枝分かれをして』、『こんもりと茂った樹形を見せる。樹皮は灰白色で、幹には縦の裂け目が入り、老木になると』、『割れ目が深くなって目立ち、剥がれるようになる』。一『年目の枝は、しなやかで』、『稜があり、暗緑色をしているが、日光の当たる方向は暗紅色を帯びる』。『葉は対生で、葉身は楕円形で、幅の広いものや狭いものなど』、『変化に富み、葉縁に細かい鋸歯があり、葉脈がはっきりしている。芽は丸々としているが、近縁種のツリバナ』(ニシキギ属ツリバナ Euonymus oxyphyllus var. oxyphyllus )『は新芽が鋭く尖っている。秋には紅葉し、真っ赤になるものもあるが、クリーム色や橙色、ピンク色など淡めの色に紅葉することがある。紅葉は単純な赤色になることは少なく、くすんだ朱色やサーモン』・『ピンク色が多いことが特徴で、しばしば葉脈部分やそれ以外に、緑色や紫褐色、黄褐色を帯びて独特の模様をつくる。紅葉期は葉が枝から力なく垂れ下がり、早々に落葉する』。『開花時期は晩春から初夏』で五~六月。『雌雄異株』で、『花色は薄い緑色で目立たず、新しい梢の根本近くに』四『弁の小花がいくつもつく』。『果期は秋で、雌株には夏に果実が枝にぶら下がるようにしてつき、小さく角ばった』四『裂の姿で、秋に熟すとふつう淡紅色に色づく。果実の色は品種により白、薄紅、濃紅と異なるが、どれも熟すと果皮が』四『つに割れ、鮮烈な赤い種子が』四『つ現れる。市販のマユミは雌木しか出回っていないが、雌木』一『本で果実がなる。冬は鮮やかだった色が抜けたような果実が枝に残る。実がかなり遅くまで残るので、秋と冬にはヒヨドリやメジロが食べに来る』。『冬芽は枝に対生し、卵形で枝と同色で縁に毛の生えた芽鱗』八~十二『枚に包まれている。葉痕は半円形で、白くて目立ち、弧状の維管束痕が』一『個つく』。『剪定をする場合は落葉中に行う。成長は早い。若木のうちに樹形の骨格を作り、分枝させたら、その後の強い剪定は避ける。切り詰めすぎると花と果実がつかない。根が浅く、根元が乾燥しすぎると弱り、果実が落ちる。水分条件さえ良ければ剛健で、病害虫はあまり発生しない』。『材質が強い上によくしなるため、古来より弓の材料として知られ、名前の由来になった。この木で作られた弓のことや、単なる弓の美称も真弓という。和紙の材料にもなったが、楮にとって代わられた。材は狂いが少なく、細工物に使われ、現在では印鑑や櫛の材料になっている』。『新芽は山菜として利用される。採取時期は暖地は』三~四『月、寒冷地は』四~五『月が適期で、生長した葉は灰汁が強いため、芽吹いたばかりの若芽や若葉が摘み取られる。生のまま天麩羅や、茹でておひたし、和え物、油炒め、葉飯、汁の実、細かく刻んで佃煮などにする』。『ただし、果実は有毒で』、『種子に含まれる脂肪油には薬理作用の激しい成分が含まれており、少量でも吐き気や下痢、大量に摂取すれば』、『筋肉の麻痺を引き起こすため、種子は食べてはならない。また、成葉を食べると下痢をするといわれている』とあった。なお、「維基百科」の同種のページでは、現代の中文名は「西南衛矛」とある(学名がそこでは、Euonymus hamiltonianus となっているが、そこに「異名」(これは“synonym(シノニム)の中文表記である )。「衛矛」はニシキギ目 Celastralesの中文名である。平凡社「世界大百科事典」のニシキギ(ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属ニシキギ Euonymus alatus )によれば、『ニシキギの枝に羽がついているのが』、『矛の刃や矢羽を思わせるため』、『古代中国では』「衛矛」『と呼ばれた。古和名では』「おにのやがら」『とも』称し、『鬼を殺したり』、『呪咀によって取り憑(つ)いた虫も除くとされていた。また室町時代の』辞書「壒囊抄」(あいのうしょう)には、『陸奥(むつ)国の風として,恋文を書くかわりに』、『枝を』一『尺ほど切っておもう女の家の門に立てたとある。女は承知のしるしにそれを家に取り入れ』、『取り入れぬ場合は拒絶を意味した』。しかし、『それでも男が立て続け』、それが『千束に達すると恋が成就する場合もあった。また枝についた羽状のコルク質の部分を古代から薬用にしている。適応症は子宮からの大量下血や血の道の病気』や、『乳汁の不足』、『皮膚病で』、『解毒にも用いる』とある。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「槐」(ガイド・ナンバー[085-40a]以下)からである。記載は短いので、以下に、整序して示しておく。

   *

檀【「拾遺」】

釋名【時珍曰朱子云檀善木也其字從亶以此亶者善也】

集解【藏器曰按蘇恭言檀似秦皮其葉堪為飲樹體細堪作斧柯至夏有不生者忽然葉開當有大水農人候之以占水旱號為水檀又有一種葉如檀高五六尺生高原四月開花正紫亦名檀樹其根如葛頌曰江淮河朔山中皆有之亦檀香類但不香爾時珍曰檀有黄白二種葉皆如槐皮青而澤肌細而膩體重而堅狀與梓榆莢蒾相似故俚語云研檀不諦得莢蒁莢蒾尚可得駁馬駁馬梓榆也又名六駁】

 皮 色青白多癬駁也檀木宜杵楤鎚器之用

 皮及根皮 氣味辛平有小毒主治皮和榆皮為粉食可斷穀救荒根皮塗瘡疥殺蟲【藏器】

   *

『「亶」は「善」なり』平凡社「普及版 字通」によれば、「まこと・まことに」、「ゆたか・あつい・てあつい・おおきい」、「つくす」の意などを載せ、『声義の通ずる字で、大なり、尽す、信なり、厚なりなどの訓がある』とある。

「槐(えんじゆ)」双子葉植物綱バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 前項参照。

「≪茶のごとくに≫」そのままでは、躓くので、東洋文庫訳を参考に挿入した。

「梓-榆《しゆ》」不詳。宋代の訓詁書では「朴」(モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata )とするが、先行する「厚朴」でのシッチャカメッチャカを考えると、私は、ちょっとそれに比定することは出来ない。【二〇二五年七月三日追記】次の注がひっかかって、ちょっと、気になったため、次の「莢蒾」の「本草綱目」の記載を覗いたところ、「集解」に、『恭曰莢蒾葉似木槿及榆』とあるのを発見した。これが正しいなら、これも、二字熟語ではなく、「梓」と「楡」という意味の可能性が考え得る。しかし、これまた、当時の中国語では「梓」は、既に先行する「梓」で考証した通り、双子葉植物綱シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata 、或いは、キササゲ属トウキササゲ Catalpa bungei 、又は、キントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ属アカメガシワ Mallotus japonicus の複数種を指す。一方の「楡」は、同前で、本邦の日本産である俗称で「ニレ」と呼ばれる、イラクサ目ニレ科ニレ属ハルニレ Ulmus davidiana var. japonica ではなく、バラ目ニレ科ニレ属 Ulmus どまりである。しかし、恭の言うそれは、「槿」であるから、本邦で言うアオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus を指すことになるように見えてしまうが(因みに、属名から判る通り、「槿」はハイビスカスの仲間である)、しかし、フヨウ属は中文名で「木槿」であるから、属レベルに留まるとせねばならない。やっぱり、一筋縄では、いかない。また、後の幾つかの項で、再考証せざるを得ない。

「莢蒾《けうめい》」これは次項である。考証していないが、まんず、これは、マツムシソウ目ガマズミ科ガマズミ属ガマズミ Viburnum dilatatum でよいようだ。

「棇(やまおふこ)」山枴(やまおうこ)。山仕事に用いる天秤棒。武器にもなる。

「鎚(つち)」打撃部分が金属製のハンマーの柄。

「斧柯(をのゝゑ)」斧の柄。

「葛《くず》」マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ亜種クズ Pueraria lobata subsp. lobata 。私は、三月の後半、父の亡くなる前後、自宅の斜面に蔓延っていたクズをテツテ的に伐採した。今年は出るまいと、タカをくくっていたが、鬱蒼として手を出せなかった、斜面下の一メートル分の無駄地から、ニョロニョロと伸び上がって、二階のベランダまで、這い上がって来やがった。もう、蚊・蜈蚣・雀蜂から青大将の出るむんむんのこの時期には、手が出せない。次の冬になったら、掃討作戦を、またぞろ、繰り広げねば、ならぬわい……。

「顯輔」「苔のむす岩かげまゆみ色深しこれを嵐にしらせずもがな」これは「夫木和歌抄」所収の一首。の「卷十五 秋六」にある一首。「日文研」の「和歌データベース」のこちらで確認した。ガイド・ナンバー「06079」が、それ。

「楝(あふち)」双子葉植物綱ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach var. subtripinnata 。先行する「楝」を参照。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧十二 繼母子を殺て土に埋事たちまちむくふて其身も殺さる事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧十二 繼母(けいぼ)、子を殺(ころし)て、土に埋(うづむ)事、たちまち、むくふて、其身も殺《ころ》さる事

○能登國、新川(にゐかは[やぶちゃん注:ママ。])といふ所の近邊に、さる商人(あき《びと》)あり、其身は、つねに、他国しける。

[やぶちゃん注:「能登國、新川(にゐかは)」「能登國」は「越中國」の誤り。旧「新川郡(にいかはのこほり)」は、現在の上新川郡及び下新川郡で、現在の富山県の東半分を占める広域である。当該ウィキの地図で確認されたい。]

 はじめの妻(つま)の子と、後(のち)のつまの子と、二人、もてり。

 夫(をつと)、他行(たぎやう)しければ、此繼母、邪見のものにて、まゝ子を、にくみ、 あしくあたる事、いふばかりなし。

 或時、をつと、一年ばかり、上方にありけるうちに、まゝ子を、ひそかに、ころして、 手づから、うらに、あなを、ほり、うづみけり。

 弟が、此よしを見をきて[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、其後、父、国より、かへりて、兄が事をとふに、母、こたへて、

「されば、きのふのひるほどに、出《いで》けるが、いまだ、かへらず。さだめて、をぢ・をばのかたへも、ゆきつらん。ふしぎさよ。」

と、さながら、あきれたるていに、もてなす。

 夫、

「さらば。」

とて、兄弟共《ども》のかたをたづぬるに、其《その》ゆきがた、しれず。

 をつと、

『扨は。きやつが、いづくへも、うりやるか、さなくば、ひそかに、ころしけるか。いかさま、しさい、あるべし。』

と、おもひながら、四、五日も、うちすぎぬ。

 あるとき、母、弟を、とらへ、大きに、てうちやく[やぶちゃん注:ママ。「打擲(ちやうちやく)」。]しける。

 弟、其にくしみにや、父がそばへより、こゞゑになり、

「兄が事を、見をきければ、かやうかやう。」

と、つぐる。

 夫、

「さては。」

とて、其うづみし所を、いはせ、ほり出《いだ》し、見ければ、何、うたがふ所のあるべき、兄が「しがい」に、まぎれなければ、やがて、所の奉行へ、うつたへ、其まゝ、死罪に行はれ候へば、因果のだうり、かくのごとし。

 終には、天命、のがれがたく、剩(あまつさへ)、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]が子に、「あだ」されし事、扨は、天帝、其子に、みことのりありて、其とがを、あらはし、たちまち、害に、あはしめ給ふ。かげに、かたちの、したがふごとく、おそるべし、おそるべし。

 

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧十 三賢人の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。本篇の冒頭の部分三行は、第二参考底本の終りの部分が破れて、欠損しているので、第二底本のものを、一部で使用した。

 

 

 㐧十 三賢人(《さん》けんじん)の事

○寬文元年ころ、備州(びしう)の内の山さと、在所の名を失念(しつねん)しける。

[やぶちゃん注:「寬文元年」この年が閏八月があったため、一六六一年一月三十一日から一六六二年二月十八日まで。徳川家綱の治世。]

 此所に、母子三人あり。ひんにして、世をわたるもの共、ありけり。

 二人の子共、他行《たぎやう》しけるひまに、となりのもの、來りて、母に「はぢ」をあたふるのみならず、さんざん、てうちやくして、かへりぬ。

 二人の子共、かへりける。

 母、あまり、ふくりう[やぶちゃん注:ママ。「腹立(ふくりふ)」。]して、ありのまゝにかたるを聞《きき》え、

「母の『はぢ』を、すゝがん。」

ために、となりのものを、せつがい[やぶちゃん注:「殺害」。]しぬ。

 すぐに、目代[やぶちゃん注:代官。]へ、ゆき、[やぶちゃん注:ここはマズい。主語に「兄」が絶対に必要。

「しかじかの事にて候。母と弟《おとと》には、とが、なし。我一人を、はやく、とがに行(おこな)ひ給へ。」

と申《まうす》。

 又、弟が、あとより、ゆき、申やう、

「兄(あに)と母とには、とが、なし。我こそ、『とがにん』にて候。我を、がいし給ヘ。」

といふ。

 目代、母をめして、くはしく、とひ給ふに、母の、いはく、

「いやいや、二人の子共には、とが、なし。我身にこそ、とがの候へ。子共は、しらぬ事にて候へば、ねがはくは、只、わればかりを、とがに行ひたべ。」

と云《いふ》。

 目代、きゝ給ひて、彼是(かれこれ)、ろんじ、何れを、どれと、いふべき義も、なし。

「たゞたゞ、二人の子の中、一人を、ちうすべし。たゞし、母がことばに、よるべし。」

とて、母に、

「かく。」

と仰せらるゝ。

[やぶちゃん注:目代の台詞は、「この場合、ただただ、二人の子のうち、一人を誅するのが、適当である。但し、母が、それについて、どう判断するかに、拠るべきである。」の意であろう。]

 母、申さく、

「弟(をとゝ[やぶちゃん注:ママ。])をめし取《とり》て、兄をば、たすけさせ給ヘかし。」

と申。

 奉行の、いはく、

「人の親の、子を、おもふならひ、おほくは、いとけなきを、あいするに、なんぢは、いかなれば、弟を、すつるぞ。」

と、とひ給へば、母の、いはく、

「さればこそ、弟は我《わが》實子(じつし)也。兄は繼子にて候。兄父(けいぶ)、命おはり[やぶちゃん注:ママ。]し時、『なんぢ、かならず、我子のごとく、はごくむべし。』と申しかば、其ことばを、わすれがたきゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、かれを、たすけんと、おもふ。我子なれば、弟をば、參らすべし。」

と、申ときに、奉行、大きに、かんじ給ひて、

「扨は、一門の中に、三賢、あり。一室の内に、三義、あり。」

とて、二人ながら、母共(とも)に、たすけられしと也。

 『我身を、わすれて、我身、まづしく、なさけ、ふかく、義、有《あり》て、其名を得る。』とかや。人をおもふは、我身を、おもふなり。かくのごときの道理をしらずして、なさけなく、義をわするゝ人は、人のかわ[やぶちゃん注:ママ。]をきたる、「ちくしやう」なるべし。よくよく、心得べき事也。

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧九 馬をとらんとて人を殺むくふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。本篇の最後の部分は、第二参考底本の終りの部分が破れて、欠損しているので、第二底本のものを、一部で使用した。

 

 㐧九 馬(むま)をとらんとて、人を殺(ころし)、むくふ事

○西國にて、さる武士の下人、主(しゆ)のしたしき人の下人の、よき馬を、もちけるを、ほしくおもひけれども、我物ならざれば、せんかたなく、或時、つねに、ねんごろせしものを、一人、かたらひ、野中(のなか)にて、夜陰(やゐん)に、馬、とり、引《ひき》おとして、なわ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]を、かけける。

 此もの、

「こは、いかなることやらん。」

と、いへば、

「されば、主人の仰《おほせ》なり。なんぢが「うつて」に、參りたり。」

と云《いふ》。

 此男の、いはく、

「それは、ひが事成《なる》べし。我は、何のとがも、なきものを。いかに。」

と、いへども、きゝも入《いれ》ず、りふじんに、おさへて、くびを、うつ。

 うちすてゝ、かれが馬を、取《とり》て、かへりぬ。

 しかれども、此男、うちふせられて、たへ[やぶちゃん注:ママ。]入《いり》ける[やぶちゃん注:失神したことを言う。]が、いきあがりて[やぶちゃん注:「生き上りて」。蘇生して。]、くびを、さぐりて見るに、別の事なく、いたゞきを、打《うち》はつりたれども、何のしさいもなく、なわつきながら、主(しゆ)のもとへ、はしりかへりて、

「しかじか。」

と申《まうし》ければ やがて、かのしたしき人のかたへ、くだんのむねを、申つかはしければ、夜の中《うち》に、二人ともに、からめて、參る次第を、くはしく尋《たづぬ》るに、別の「ぎ」なく、ありのまゝに、一〻、申あぐる。

「さればこそ。」

とて、

「くだんの、きられし男をもつて、野の中にて、きるべし。」

とて、二人、一度(《いち》ど)に、切(きら)れけり。

 かなしきかなや、前の夜の「あくぎやう」、はや、次のあさ、報ひけるこそ、ふしぎ也。

「因果、れきぜんの、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]は、まのあたりなり。」

と、皆人(みな《ひと》)、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]ぬは、なし。

 此はなしは、さしあひあるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、名も所も、しるさず。

 [やぶちゃん注:ちょっと判り難いが、「くびを、うつ。」という部分は、大まかに「頭部を斬る」の意であって、斬首したのではなく、

「くびを、さぐりて見るに、別の事なく、いたゞきを、打《うち》はつりたれども、何のしさいもな」かった、則ち、頭部の頂きの箇所の上皮を外傷したに過ぎなったのである。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧八 じひある人海上をわたるに舟破損しかめにたすけらるゝ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧八 じひある人、海上をわたるに、舟、破損し、かめにたすけらるゝ事

○或(ある)人、「わかさ」の「小濱(をばま)」にて、子共、四、五人あつまり、「かめ」を、一つ、取《とり》て、うちころさんとするを、此人、ゆきあはせ、子共を、すかし、「かめ」を、とつて、うみへ、はなちやりけり。

[やぶちゃん注:『「わかさ」の「小濱(をばま)」』現在の福井県小浜市(グーグル・マップ・データ)。]

 ある時、此人、商賣のために、北国ヘ下りけるが、すなはち、「をばま」より、舟に、のりけり。

 折ふし、風、はげしくして、すでに、ふね、くつがへしけり。

 「かこ」をはじめ、船中(せんちう)の人〻、五、六十、かい中[やぶちゃん注:「海中」。]の「みくづ」[やぶちゃん注:「水屑」。]と成《なり》うせぬ。

 

Kame

[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ第二参考底本はここ。汚損が激しいが、後者の方がよい。五匹のカメの「浮き橋」が細部まで観察出来る。カメには、総て、実在しない耳状突起が描かれているが、これは江戸期のカメの挿絵では、しばしば見られるもので、恐らくは、カメ類の大型の一部は、民俗社会(恐らく東アジアの広域で)では、どこかで「龍類」との通性を持った「霊獣」としてて認知されていたからではないかと、私は考えている。例えば、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」でさえ、「龜類」の終りの奇ガメ三種には、「緑毛龜(みのがめ)」・「攝龜(へびくいがめ[やぶちゃん注:ママ。])」・「賁龜(=三足龜(みつあしのかめ))」の三種には、奇体な「耳」が描かれており、それは、甲羅を持ったポスト龍の様相を示しているのである。但し、後者では、溺死した人々の体や、複数の海上の死者の足が、例の落書野郎によって黒くベタ塗りにされている。さらに言うと、足は四本もあるが、原画では右の二本のみが描かれているのであって、左の短い足首二本は、落書で追加したものである。奥の伏せた上半身を塗ったのは、まずかったと思うが、屹立する四本の黒い足の群れは、怪奇談の雰囲気を、逆に、よく助けていると言えよう。

 

 中にも、かの「かめ」をたすけし人ばかり、只、一人、のこり、何のしさいもなくて、むかふまでは、一里ばかりもあるらんと、おもふみなとへ、

「さらさら」

と、平地(へいち)をゆくがごとくして、なんなく、うちあがりけり。

 されども、ふしぎのおもひをなし、跡を、かヘり見ければ、「かめ」ども、いく千万といふ、數しらず、「かう」[やぶちゃん注:「甲」。]を、

「ひし」

と、きしぎは[やぶちゃん注:「岸際」。]まで、ならべ、うちつゞき、ゐけり。

「扨《さて》は、『かめ』の、我をたすけけるよ。」

と、うれしくて、小濱にて、「かめ」一つ、たすけし事を、おもひ出《いだ》し、「をんどく」[やぶちゃん注:「恩德」。]のほどを、おもひけるが、人の、物をしらぬは、「ちうるい[やぶちゃん注:ママ。「蟲類(ちゆうるゐ)」。]」にも、はるかに、をとれ[やぶちゃん注:ママ。]り、と知《しる》べし。

 此はなしは、「わかさ」の人の、かたられける。

 明曆比《ごろ》の事也。

「明曆」一六五五年~一六五八年。第四代徳川家綱の治世。]

2024/07/01

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧七 房主の一念虵と成て木をまく事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧七 房主(ばうしゆ)の一念、虵(へび)と成《なり》て木をまく事

〇慶安[やぶちゃん注:一六四八年~一六五二年。]の比、いづみの国、「ひね」といふ所の南にあたつて、寺、あり。ことに、しんごん宗にてありけるが、此房主、つねに、宻柑(みかん)の木を、あいして、み、なりても、つゐに[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]とる事なく、もとより、人にも、くれず、是を、てうはう[やぶちゃん注:「重寶」。]しける事、かぎりなし。

[やぶちゃん注:『いづみの国、「ひね」』旧和泉国日根郡(ひねぐん)。現在の大阪府の南西端の貝塚市の一部・泉佐野市・泉南市・阪南市と、泉南郡熊取町(くまとりちょう:以下「町」は「ちょう」と読む)、田尻町、岬町が相当する広域である。「南にあたつて」を文字通り採るならば、最南端の泉南郡岬町にある古刹の真言宗御室派宝珠山光明寺理智院が有名ではある。]

 ある時、わづらひ出《だ》し、ことに、老病にて、つゐに死(しに)けり。

 十日ばかりありて、かの宻柑の木に、五、六尺ばかりもあらんと思ふ、虵、來りて、木を、まとひけり。

 𠂖子(でし)[やぶちゃん注:「𠂖」は「弟」の異体字。]のばうず、是を、をい[やぶちゃん注:ママ。「追(お)ひ」。]ちらすれども、いづくよりきたるともなくしては、又は、來りて、まとひ居(ゐ)ける。

 或時、でしの房主、うちころして、すてけるが、また、同しやうなる虵、來りけり。

 二、三度も、ころしけれども、うせず。

 ある夜(よ)、𠂖子の夢に、先僧(せんそう)、まのあたり、來りて、

「我、あさましくも、せんざい[やぶちゃん注:「前栽」。]の宻柑の木を、すねん[やぶちゃん注:「數年」。]、あいせし『しうじやく[やぶちゃん注:「執着。」]』、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、おはる[やぶちゃん注:ママ。]まで、つきずして、其「しうしん[やぶちゃん注:「執心」。]」、蜜柑の木にありしを[やぶちゃん注:逆接の確定条件。「~のに」。]、汝、つらくあたりし事、うらめしさよ。ねがはくは、あの木を、いつまでも、『我を見る』と思ひて、『てうほう』し、たべ。生〻世〻《しやうじやうせぜ》[やぶちゃん注:「生まれ変わり、死に変わりを繰り返して経る、多くの世、」の意の仏語。]、うれしとおもふ事、わすれまじ。」

と、夢中(むちう)に、つげけると、也《なり》。

 をそれ[やぶちゃん注:ママ。「恐れ」。]ても、をそるべきは、「しうじやく」の「ねんりよ」[やぶちゃん注:「念慮」。]なるべし。

[やぶちゃん注:先僧の夢中の告げは、甚だ、鼻白むものである。執着により蛇に変じた彼は、結果して、最早、破戒僧であり、弟子の師でも何でもない。されば、弟子僧は、毅然として、蛇を済度してやる以外にはなく、それでも、かの異蛇が蜜柑の木に、からみつくとなら、寧ろ、蜜柑の木を伐り倒し、再度、厳しく引導を渡すのが、唯一の法式であると、私は思う。

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧六 にはとりの玉子を取むくふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧六 にはとりの玉子を取《とり》むくふ事

○「同国」の内に、さるわかき女ありけり。

[やぶちゃん注:「同国」前話を受けるのであるが、美濃国か、下野国か、判らぬ。一応、前者で採っておく。]

 我子、あまり、てうあい[やぶちゃん注:ママ。「寵愛」は「ちようあい」でよい。]のあまりに[やぶちゃん注:前にある「あまり」は衍字っぽい。]、庭鳥(にわとり)を、おほく、かひて、其玉子を、あまた、ころし、我子に、くはする事、數しらず。

 ある時、女の夢に、一人の女房、きたりて、我子のふしたる、まくらもとに、うちよりて、世に、うらめしげなるふぜいにて、

「なさけなくも、わらはが子を、あまた、ころし給ふは、何事ぞや。其方ばか、子をおもひ給ふか。鳥類・ちくるい[やぶちゃん注:ママ。]までも、何れか、我子をかなしまぬは、なし。せんなき事を、し給ふ物かな。いまに、おもひしり給はん。あら、なさけなや。うらめしや。」

と、云《いひ》て、なみだを、

「はらはら」

と、こぼして、

「たはたは」

と、立てかへりけるを見れば、「にはとり」なり。

 また、次の夜も、きたりて、うちうらみ、なきて、かへりしが、其子、ほどなく、わづらひ付、ひたと、「にはとり」のなくまねをしける事、三十日ばかりりして、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、くるひ死にしたり。

「是は、」『にはとり』の、むくひなり。」

と みな、きく人ごとに、いひあへり。

 此はなしは、近年の事也。

[やぶちゃん注:「たはたは」当初、「たはたは」の誤刻(両参考底本は、ともに後半は踊り字「〱」)かと思ったが、或いは、確信犯で、ニワトリの霊のそれ故に、わざとひっくり返したともとれなくは、ない。そうすれば、直後の「にはとり」の語が出るまで、読者は、この「たはたは」に奇異感覚を持ち続けるからである。私は、膨大な量の怪奇談をブログで電子化注してきたが、異界から出現する物の怪や幽霊が、現世の人間のとは、異なる言語表現をするケースを、かなり体験しており、その中の殆んどは、明らかに誤植・誤刻ではなく、作者が異界を判り易く読者に知らせる手法として、まさに確信犯で作者・編者がわざと記していると思ったものが、甚だ、多いからである。

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧五 身をうり母をやしなふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧五 身をうり、母を、やしなふ事

○寬永年中(くわんゑいねんぢう)の事か、とよ。

 其比(《その》ころ)、世間、きゝんにて、うらうら、さとさとまでも、おほく、うヘ死(じに)けり。

[やぶちゃん注:「寬永年中」「きゝん」となると、寛永一七(一六四〇)年から同二〇(一六四三)年にかけて発生した江戸初期最大の「寛永の大飢饉」である。委しくは、当該ウィキを見られたいが、そこに、寛永十八年の『初夏には畿内、中国、四国地方でも日照りによる旱魃が起こったのに対し、秋には大雨となり、北陸では長雨、冷風などによる被害が出た。その他、大雨、洪水、旱魃、霜、虫害が発生するなど』、『全国的な異常気象となった。東日本では太平洋側より日本海側の被害が大きく、これは後の』「天保の大飢饉」に『似た様相であ』った『という』。『不作はさらに翌』十九『年』『も続き、百姓の逃散や身売など飢饉の影響が顕在化しはじめると、幕府は』、漸く、『対策に着手した。同年』五『月、将軍徳川家光は諸大名に対し、領地へおもむいて飢饉対策をするように指示し、翌』六『月には』、『諸国に対し』、『倹約のほか』、『米作離れを防ぐために煙草の作付禁止や身売りの禁止、酒造統制(新規参入、在地の酒造禁止および都市並びに街道筋での半減)、雑穀を用いるうどん・切麦・そうめん・饅頭・南蛮菓子・そばきりの製造販売禁止、御救小屋の設置など、具体的な飢饉対策を指示する触を出した』。しかし、『寛永』十九『年末から翌』二十『年』『にかけて餓死者は増大し、江戸をはじめ』、『三都への人口流動が発生した。幕府や諸藩は飢人改を行い、身元が判別したものは各藩の代官に引き渡した。また』、『米不足や米価高騰に対応するため、大名の扶持米を江戸へ廻送させ』、三『月には田畑永代売買禁止令を出し』ている。『大飢饉の背景としては』、一六三〇『年代から』一六四〇『年代における東アジア規模での異常気象のほか、江戸時代初期の武士階級の困窮、参勤交代や手伝普請、将軍の上洛や日光社参などのように、武断政治を進めるための幕府や藩の多額の出費、年貢米を換金する市場の不備など』、『様々な要因が挙げられる』。『幕府は武士の没落を』、『驕りや奢侈によるものととらえ』、「武家諸法度」『などで倹約を指示していた』。而して、『武士の困窮は』、『百姓に対するさらなる収奪を招き、大飢饉の下地になったと言われる』とあった。]

 みのゝ国[やぶちゃん注:現在の岐阜県南部、及び、愛知県の東北の、ごく一部。]に、まづしき母子、ありけり。

 もとより、たよりもなきものどもにてありければ、

『かゝる世にありて、うへ死(じに)、又は、乙食(こちじき)し、心うき事を、みんよりは、身をうりて、母をたすけばや。』

と思ひて、母に、此《この》やうを、ひそかにかたる。

 母、聞《きき》て、

「一人、もちける子、也。ことに、かうかう[やぶちゃん注:「孝行」。]の心ざしありければ、片時(へんし[やぶちゃん注:平安後期以降より、あり、のちのちまで、清音であった。])も、かれ[やぶちゃん注:娘を指す語り手の第三人称。]に、はなるゝ事を、かなしめり。

「縱(たとひ)、かつゑ[やぶちゃん注:「餓ゑ」。]、しするとも、なんぢとともに、はつ[やぶちゃん注:「果つ」。]べき。」

と 母、ゆるさねば、ちからなく、しかれども、

『今、一たんのなげきありて、わかるゝ共、命あらば、又も、母にあひもやせん。』

と、おもひさだめ、母には、ふかく、かくし、身をうりしあたい[やぶちゃん注:ママ。]を、母に、わたし、なくなく、わかれ、あづまのかたへぞ、ゆきける。

[やぶちゃん注:「一たん」第一参考底本では、『一だん』であるが(右ページ後ろから二行目上方)、第二参考底本では、『一たん』である(左丁後ろから七行目行頭)。後者の改題本は、かなり、多く、濁点を打っていないものの、ここは、「一段」では、いかにもおかしい。ここは「一旦」であろう。されば、後者を採用して清音とした。

 されども、下野國(しもつけのくに)[やぶちゃん注:現在の栃木県。]のなにがしといふものゝ手へ、買(かい[やぶちゃん注:ママ。])とられ、數日(すじつ)を、をくる[やぶちゃん注:ママ。]ほどに、はや、三、四年ぞ、くらしける。

 されば、世の中の人には、おもひ、たへやらず。[やぶちゃん注:この一文、私は、どう訳したらいいか、判らない。識者の御教授を乞うものである。単に、「そんなわけであるから、世間の普通の人々には、想像だに出来ない(辛い)年月であった。」というのなら、「たへやらず」は、私には不適当な気がする。そもそも、この娘、以下を見れば判る通り、所謂、苦界に落ちたのではなく、非常な分限者に、下女として売られたのであるからして、大上段に構えた謂いは、ますます合わないのである。]

 此主人と申《まうす》は、國中(くにぢう)に其名を得る「うとく人(じん)」なりといへども、五十にあまるまで、世繼(よつぎ)なく、此事を、心うくおもひ、養子を尋《たづぬ》るに、思ひのまゝならず、有(ある)は、心を、しらず。[やぶちゃん注:「最後の一文は、「或(ある)は、主人が心(の内なる、其の不滿なる)心を、(誰(たれ)も)知らず。」の意であろう。たいそう金持ちの余裕に満ちている主人が、実は、世継ぎのないことを、激しく悩み、苦しんでいるなどとは、思わない、ということであろう。或いは、跡継ぎのないことは、普通に知れるのであるから、『いい気味だ!』と、内心、舌を出している意地悪い連中もゴマンといることは言うまでもない。]

「とやせん、かくや、」

と、あんじ、ふうふ、たがい[やぶちゃん注:ママ。]に心を合せ、かの買(かい[やぶちゃん注:ママ。])とりたる「わつぱ」[やぶちゃん注:「童」(わっぱ)で、「年少の奉公人」のこと。子供を卑称する語からの転。]を、「やうし」に、しける。

 其年も暮(くれ)、あくる春にもなれば、母のゆくゑを、たづねんため、下人、せうせう、うちつれ、二たび、古鄕(こきやう)へ、かへり、母のあり所を、たづねもとめ、たいめんし、

「下野へ、ぐして、かへり侍る。」

と申傳(《まうし》つた)ゆなり。

 すぢなきものが、かくのごとく成《なる》事は、「親かうかう」の「實(まこと)」、あるいは、「いはれ」なるべし。古今(ここん)にいたるまで、たれか、是を、あらそはん。

[やぶちゃん注:本書の道話的性質上、仕方がないが、この最後の添え書きも、えらく事大主義的な物言いに過ぎ、孤独にタイピングしている私は、逆に、かなりシラケる感じがする。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 槐

 

Enjyu

 

ゑんじゆ  櫰【音懷】

      【和名惠爾須】

【音回】

      槐黃中懷其

      美故三公位

      之倭三公者

      左大臣右大

      臣内大臣也

 

本綱槐虛星之精老槐生火生丹其神異如此槐之言歸

也古者聽訴於槐下使情歸實也其生也季春五日而兎

目十日而䑕耳二旬而葉成初生嫩芽可代茶其木堅重

有青黃白黑色四五月開黃花六七月結實其花未開時

狀如米粒其實作莢連珠中有黑子以子連多者爲好葉

細而青綠者伹謂之槐 葉大而黑者名櫰槐 晝合夜

開者名守宮槐 有數種而功用不言有別

實【苦寒】 肝經氣分藥也治證與桃仁同十月上巳日採

 槐子去皮納新甁中封口二七日初服一枚再服二枚

 日加一枚至十日又從一枚起而復始明目使髮不落

 延年益氣力【又有法】

槐花【苦平】以染黃色甚鮮又陽明厥陰血分藥治五痔一

 切血症凉大腸【未開時采收陳久者良入藥炒用】

枝葉【苦平】洗痔及陰囊下溼痒八月斷大枝俟生嫩蘖煮

 汁釀酒療大風痿痺甚効。

△按槐揷枝能生昜長有雌雄而雄者開花無子並其材

 堅實橒文美可以作噐盒古今醫統云人家庭院門逕

 宜栽之脩剪圓齋不數年長盛如蓋夏中綠陰可愛滿

 院清芬也

 

   *

 

ゑんじゆ  櫰【音「懷」。】

      【和名「惠爾須《ゑにす》」。】

【音「回《クワイ》」。】

      槐は、黃中《わうちゆう》に、其の

      美を懷《いだ》く。故(ゆゑ)、三公、

      之れ≪を≫位《くらゐ》にす。倭の三

      公は、「左大臣」・「右大臣」・「内大臣」

      なり。

 

「本綱」に曰はく、『槐《くわい》は虛星の精≪なり≫。老≪たる≫槐、火《くわ》を生じ、丹《たん》を生ず。其の神異、此くのごとし。「槐」の言(ことば)、「歸」なり。古-者(いにしへ)、槐の下に、訴へを聽く。情《じやう》をして實《じつ》に歸せしむなり。其の生《しやう》ずることや、季春五日にして、兎《うさぎ》の目《め》、十日にして、䑕《ねずみ》の耳、二旬[やぶちゃん注:二十日。]にして、葉、成る。初生、嫩《わか》なる芽(め)、茶に代《か》ふべし。其の木、堅≪く≫重≪くして≫、青・黃・白・黑色、有り。四、五月、黃花を開く。六、七月、實を結ぶ。其の花、未だ開かざる時、狀《かたち》、米粒のごとし。其の實、莢《さや》を作《な》し、連珠《れんしゆ》す。中に、黑≪き≫子≪たね≫、有り。子、連《つらな》り、多き者を以つて、好《よし》と爲《な》す。葉、細《さい》にして、青綠なる者、伹《ただ》、之れを、「槐」と謂ふ。葉、大にして黑き者を「櫰槐《くわいくわい》」と名づく。』≪と≫。 『≪葉を、≫晝《ひる》、合はし、夜、開く者を、「守宮槐《しゆきうくわい》」と名づく。』≪と≫。 『數種、有りて、功用、別《べつ》有ることを、言はず。』≪と≫。

『實【苦、寒。】 肝經氣分の藥なり。治證《ぢしやう》、「桃仁《たうにん》」と同じ。十月上巳《じやうし》の日[やぶちゃん注:陰暦十月の最初の巳の日。]、槐≪の≫子《み》を採り、皮を去り、新しき甁の中に納《い》れ、口を封ずること、二七日《ひたなぬか》[やぶちゃん注:十四日。]にして初服《しよふく》、一枚、再服、二枚、日(ひにひ)に[やぶちゃん注:訓点では踊り字「〱」に「ニ」を打つ。]、一枚、加≪へ≫、十日に至≪りて≫、又、一枚より起《おこし》て、復た、始《はじむ》る。目を明《あきらかに》し、髮をして落ちざらしむ。年《とし、》延び、氣力を益す【又、法、有り。】。』≪と≫。

『槐花【苦、平。】以つて、黃色を染め、甚だ鮮(あざや)かなり。又、陽明厥陰≪の≫血分の藥≪にして≫、五痔、一切≪の≫血症を治す。大腸を凉《すずやかに》す【未だ開かざる時、采收《さいしゆ》[やぶちゃん注:「採収」に同じ。]し、陳久《ちんきゆう》≪なる≫[やぶちゃん注:古くなった。]者、良し。藥に入≪るるには≫、炒《い》≪りて≫用ゆ。】。』≪と≫。

枝葉【苦、平。】痔、及び、陰囊の下、溼(しめ)り痒(かゆ)きを洗ふ。八月、大枝を斷(き)り、生《しやう》ずるを俟《まち》て、嫩-蘖(わかめ)[やぶちゃん注:「蘖」はこれで「ひこばえ」と訓ずる。樹木の切り株や根本から萌え出づる若い芽のことである。]を、汁に煮、酒に釀(つく)り、大風痿痺(たいふうゐひ)を療す。甚だ、効あり。

△按ずるに、槐、枝を揷して、能く生《しやう》じ、長《ちやう》じ昜《やす》し。雌雄、有りて、雄なる者、花を開かず、子《み》、無し。並≪びに≫、其の材、堅實にして、「橒文(もく《め》)」[やぶちゃん注:「木目」に同じ。]、美なり。以つて、噐《うつは》・盒[やぶちゃん注:この漢字は訓ずるなら、「ふたもの」(蓋附きの器)とも、「さら」(皿)とも読める。]を作るべし。「古今醫統」に云はく、『人家・庭院《ていゐん》[やぶちゃん注:「母屋の前にある庭」。]・門逕《もんけい》[やぶちゃん注:門から玄関に至るエントランス。]≪に≫、宜しく之れを栽うるべし。剪《きり》脩《をさめて》、圓《まどかなるやうに》齋《ひとしくす》[やぶちゃん注:以上の四字は、原本では、二字ずつを「-」で熟語として、一切の訓点はないが、そのまま音読みしたのでは、半可通にしかならないので、特異的に、一切、無視して上記のように勝手に訓じた。]。數年《すねん》ならざるに、長盛《ちやうせい》≪し≫、蓋(がい)[やぶちゃん注:「ふた」の意。]のごとし。夏≪の≫中《うち》、綠陰≪となりて≫、愛しつべし。滿院《まんゐん》、清芬《せいふん》なり。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「槐」は、日中ともに、

双子葉植物綱バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum (シノニム: Sophora japonica L. (1767)

である。最初に言っておくと、学名の二つ(シノニムは御覧の通り、最初に、かのリンネが命名したものである)の種小名は孰れも「日本の」の意であるが、エンジュは中国原産である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『中国原産。日本には古くに渡来し、花蕾や莢は生薬にして役立てられた』。『古くから台湾、日本、韓国などで植栽されている。日本へは』八『世紀』(飛鳥時代から奈良時代を経て平安初期相当)『には渡来していたとみられ、和名は古名えにすの転化したもの。別名でニガキとよばれることもある。中国植物名は槐』(中文音写「フゥアィ」)『または槐樹(かいじゅ)』(同前で「フゥアィシゥー」)『である。街路樹によく使われ、公園や学校などの庭木としても植えられる』。『マメ科の落葉高木で、樹高は』五~十五『メートル』『になる。成木の樹皮は暗灰白色で、細かく縦にはっきりと裂ける。若木の樹皮は濃緑色で、皮目がある。一年枝は暗緑色で、無毛または短毛がある』。『葉は奇数羽状複葉で互生し、小葉は』五~十『対あり、長さ』三~五『センチメートル』『の卵形で先端は尖り、全縁で、表面は緑色、裏面は緑白色で短毛があり』、『フェルトのようになっている。小葉は、対につくか、交互につくかは変異があるため、個体によりばらつきがある。よく似る植物にイヌエンジュ』(マメ科イヌエンジュ属イヌエンジュ Maackia amurensis )『があるが、イヌエンジュよりも葉は細身で、小葉の枚数は多い』。『花期は』七~八『月で、枝先の円錐花序に細かい白色の蝶形花を多数開き、蜂などの重要な蜜源植物となっている。花の咲き方は、ややまばらに咲く』。『果期は』十~十一『月。豆果の莢は長さ』五~八センチメートルで、『種子と種子の間が著しく、数珠のように大きく』、『くびれる。枝には豆果が残り、裂開せずに冬でもねばつく。種子はヒヨドリ等の果実食鳥により散布されるため、唐突に雑木として生えてくることもある』。『冬芽は葉柄内芽で、膨らんだ葉跡基部に隠れるように一部だけが露出しており、濃褐色の毛に覆われている』。『仮頂芽はあまり発達せず、測芽は互生する』。『また、シダレエンジュ(Styphnolobium japonicum var. pendulum、シノニム Sophora japonica var. pendula )という枝垂れる変種があり、公園などに植栽される』。『エンジュの幹は』黴(かび)の一種(担子菌門Basidiomycotaサビキン亜門Pucciniomycotina)である『さび病菌に寄生されると、こぶ状に膨らむ』。『街路樹として使われるほか、新芽は茶の代わりに、蕾と種子は染料になる。乾燥させた蕾や莢果は止血作用から伝統薬として使われる』。『日本をはじめ、中国や韓国でも街路樹として珍重されて』おり、『公園や庭園にも植えられている。韓国の世界遺産のひとつである昌徳宮には、大きなエンジュの木が植えられている。日本では中国での「縁起の良い木」とされるゆえんから、庭木として鬼門の方角や玄関先に植えることがある』。『花を乾燥させたものは、槐花(かいか)、蕾を乾燥させたものが槐花米(かいかべい)または槐米(かいべい)という生薬で、止血作用がある。莢を乾燥して生薬にしたものは槐角(かいかく)と称し、止血剤や高血圧に用いられる。花、蕾は』六~八『月、果実は』八~九『月に採集して天日乾燥して調製される』。『エンジュに含まれるルチンはサプリメントとして利用されている。抽出されたトロキセルチンは静脈瘤などの静脈疾患用医薬品として海外で利用されることがある』。『花・蕾にはルチンを多く含有する。他に、ゲニスタチンと』、『その配糖体のゲニステイン、ケンフェロール、ソフォリコシド(Sophoricoside)などが検出されている。アルカロイドのシチシンを含む』。『民間療法では、痔や目の充血に』、『花、蕾、果実を乾燥させたものを』、『水で煎じて』、『服用する用法が知られる。熱をとって止血する薬草として知られ、出血が主なときは花や蕾がよく、腫れが主なときは果実がよいといわれている』。『木質は堅硬で、中国では馬車や荷車、造船にも用いられる重要な木材であった。日本では釿(ちょうな)の柄として用いられる』。但し、『現在「エンジュ」の名で床柱などの美観材として流通しているのは別種のイヌエンジュで、本来のエンジュの方はこの面では』殆んど『顧みられていない』。『中国では、かつて朝廷の庭にエンジュが植えられていたことから、エンジュを品格の高い木として、また「出世の木」として大切にしており、「末は大臣に」と親は子に期待して、三公の位を「槐位」と称した。日本では、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第』三『代征夷大将軍である源実朝の』「金槐和歌集」という書名は、『実朝が右大臣の位にあったので「槐」の字を用い、さらに鎌倉の金偏をとって「金槐」としている』。何ども述べているが、中国では、神聖にして霊の宿る木として、志怪小説にも、よく出る。なお、ネットを調べていると、エンジュの異名を、我々がよく知っている「ニセアカシア」とする記載を見かけたが、これは、とんでもない誤用である。「ニセアカシア」とは、北アメリカ原産のマメ亜科ハリエンジュ属ハリエンジュ Robinia pseudoacacia の異名であるので、注意されたい。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「槐」(ガイド・ナンバー[085-34a]以下)からである。全体はかなり長い。

『和名「惠爾須《ゑにす》」』「ゑにす」は「槐子」或いは「槐樹」が和語化したものとされているようである。

「槐は、黃中《わうちゆう》に、其の美を懷《いだ》く」エンジュの白色の蝶形花の中央がぼうっと黄色を帯びるのを指していよう。

「三公、之れ≪を≫位《くらゐ》にす」東洋文庫の後注に、『周の時代、朝廷の庭に三本の槐を植え、そこを三公(太師・太傅(ふ)・太保)のつく位置とした』とある。

「虛星の精」虚宿(きょしゅく/とみてぼし)。二十八宿の一つ。北方玄武七宿の第四宿で距星(それぞれの星宿の中で、西端に位置する比較的明るい星)は「みずがめ座β星」。ウィキの「虚宿」を見られたい。それと一緒に、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版「和漢三才圖會」の卷第二 天部」の「虛」を読めば、概ね、如何なる対象を支配するかは、判明する。私は今では、天文には殆んど興味を持っていないので、それを電子化する可能性は、零に近い。

「老≪たる≫槐、火《くわ》を生じ、丹《たん》を生ず」この「火」を五行の「火」(の象徴表現)かと思って、ネット検索しているうちに、「桜美林大学学術機関リポジトリ」内の寺井泰明氏の論文「槐の文化と語源」(『桜美林論考 人文研究』巻七・二〇一六年三月発行・PDF)を発見した。非常に素晴らしい内容であるから、エンジュ好き(私はそうである)の方は是非ともお薦めである。そこに、『虚宿には虚星や司命など多くの星官があり、その虚星が動揺すれば死喪哭泣があるとされる』。『これは槐の持つ陰の気に通じる』。『槐の神秘性は、原始以来の火との関係や樹陰の醸す雰囲気、或いはその生長力に始まり、薬効や各種の民間伝承が加わって、長い時間をかけて様々な信仰へと発展してきたことが分かる』とされ、「本草綱目」から、まさに良安が引いた箇所(以下は「漢籍リポジトリ」のものを使用した)、

   *

周禮秋取槐檀之火淮南子老槐生火天𤣥主物簿云老槐生丹槐之神異如此藏器曰子上房七月收之堪染皂

   *

を引かれ、『こうした神秘の雰囲気は小説、説話や様々な故事となって人口に膾炙し、今日に伝わる』と書かれた後、私の大好きな中唐末の李公佐の夢の中で槐安國に至る唐代伝奇「南柯記」を紹介されておられる。さらに、『槐の老木・大木が作る樹陰は民を育む天の賜物、あるいは“天” そのものであった』。『それが天命を受けた“天子” に置き替えられれば』、『為政者の政治姿勢を象徴し、延いては宮殿・宮苑の重要樹ともなる。一方、民間にあっては、樹陰の持つ神秘性や火との関係が冥界との関係を想起させ、神異譚とな』ったとされる。而して、実は、以上の前の部分で、この「老槐」の「火」について、言及されておられるのである。

   《引用開始》[やぶちゃん注:注記号は省略した。]

 そもそも、槐材は乾燥すると発火しやすいという性質があるらしい。『淮南子』氾論訓に、次のような一節がある。―雌雄陰陽が接して鳥が雛を産み、獣が子を生じても、人は怪しまない。水に蛖蜄(大きな貝)、山に金玉が生じても、どちらも貴重品ではあるが、人は怪しまない。老槐が火を生じ、死体の血が鬼火を放っても、どちらも不気味な怪異現象であるが、やはり人は怪しまない。しかし、木に畢方(木の精)が生じ井戸に墳羊(土の精)が現れると人はこれを怪しむ。なぜなら、それらについて見聞することが少なく知識が浅いためである。――

 この論の展開からすれば、老槐が火を生じることは、日常茶飯事ではないにしても、それほど驚き怪しむほどのことではない。それは、死体が鬼火を発するのと同程度に起こり得ることであった。槐も「老槐」であれば乾燥が進んでいて、強風による揺れや摩擦などで発火しやすかったのかも知れないし、大木は落雷を受けやすかったのかも知れない。ともかく、槐が火を生ずることはそれほど珍しいことではなかった。それで、冬の「改火」にも用いられたのであろう。ただ、ここで老槐の生ずる火が死体の燐火と並べて挙げられているところを見ると、槐火に怪異を感じたり、或いは敬畏の念を抱いたりすることがあったのかも知れない。『荘子』にも、陰陽の気が錯行して雷電が生じ、雨中の火が大槐を焼くことが人生の比喩として記されているが、なぜ槐が比喩となるのか。槐は大樹となり、雷が落ちやすいというだけなのか。思うに、雷が落ちるとは神が降臨することである。槐と天(神)との特別の関係が背景にあるようにも思われる。槐は「改火」の儀式に用いられる以前から、信仰の対象であった可能性は高い。そもそも火を起こす木であるということは、人間にとって既に十分に神秘的であり、畏敬の対象となって良いが、或いは、因果の順序が逆で、燃えやすいという理由以外の、何か別の理由から神聖視され、そのために「改火」に用いられるようになったのかも知れない。いずれにせよ、遅くも『論語』や『周礼』の舞台となる社会にあって、槐は既に神聖視されていたと思われる。

   《引用終了》

されば――実際に老いた槐が燃える――のである!――而して――霊木が燃えれば、そこには「鍊丹」が起こるのではないか?! 仙道術で用いる不老不死の仙薬である「丹」が得られるということだ、と、私には思われるのである。だからこそ、直後に「其の神異、此くのごとし」と続くことが、すこぶる納得されるのである。

『「槐」の言(ことば)、「歸」なり』同前の寺井氏の論文には、「6.字形・字音・語源」があり、そこには六つの説が纏められており、「 槐=帰」が以下のように記されてある。

   《引用開始》[やぶちゃん注:注記号は省略した。]

 『春秋元命苞』に「樹槐 聴訟其下」とあり、注に「槐之言 帰也 情見帰実也」とあることは既に述べたが、この考え方は『太平御覧』や『本草綱目』などにも引用され、広く受容された。

 槐は『説文』に言うとおり鬼声であり、鬼は同じ『説文』に「所帰」とあるから、槐を「帰」で説明する声訓も成り立つ可能性はある。しかし、それは「鬼」が人の死後に帰する所としてあったからで、情の帰する所といった意味を持っていたわけではない。いにしえ槐樹の下で民の訴えに耳を傾けたとするのは政治の理想の実践であり、現実にもあって良いことである。ただ、それが槐樹の下であるのは、情を実に帰せしめるためであったとの理由付けは如何にも観念的で、儒家思想が形成されてからの付会に見える。『五雑組』や『本草綱目』も、この〈槐=帰〉の説は〈槐=鬼〉や〈槐=懐〉の説の後に並べて示すのみで、語源説として全面的に支持しているとは思えない。

   《引用終了》

と寺井氏の評価は低い。確かに、如何にも話が合い過ぎていて、逆に信じ難いと言える。

「古-者(いにしへ)、槐の下に、訴へを聽く。情《じやう》をして實《じつ》に歸せしむなり。」東洋文庫の後注に、『『春秋元命苞』に、「樹ㇾ槐聴訟其下」とあり、注に、「槐之言歸也、情見歸ㇾ実也」とある。』とあった。「春秋元命苞」(しゅうんじゅうげんめいほう)は前漢末から後漢初期にかけて書かれた緯書(いしょ:漢代に儒家の経書を神秘主義的に解釈した書物群)の一つである魏と漢の学者によって注釈された「春秋魏」(「魏書」)の一つ。宋代に書かれた。作者不詳。

「季春」晩春で、旧暦の三月に相当する。

「櫰槐《くわいくわい》」同前の寺井氏の論文の「6.字形・字音・語源」には「⑶ 槐=懐」があり、以下のように記されてある。

   《引用開始》[やぶちゃん注:注記号は省略した。]

 槐の語義あるいは語源を「懐」で説明するのは『周礼』鄭注以来のことであった。ただ、その「懐」の捉え方は一つではない。無論、鄭注の「槐之言懐也 懐来人於此 欲與之謀」という文言をそのまま捉えて、人(民衆)に慕い集まらせて倶に語らう機運を醸す木とする解釈が代表である。但しこの解釈は、槐が何故に人を惹きつけるのか、魅力の原点は何かといった〈槐=懐〉説の根本問題を明確にはしていない。召伯の故事から樹陰の魅力を想起することは可能であるが、召伯の政治姿勢から槐に魅力が生じたとするのでは、語源説としては成り立たない。なぜなら、政治倫理や政治姿勢が問われるようになるのは文明が相当に開けてからのことで、文字も出来ていない原始にあって、懐と言わしめた根拠とはなり得ないからである。この意味では、王安石の「中に其の美を懐く」として臣下の政治倫理を象徴するという解釈も、語源説としては失格である。

 このように、「懐」を槐の語源とするには、槐の何が人を「懐」けるのかが改めて問題となる。本稿冒頭に記した槐の一種「櫰」について、「櫰」にはそもそも懐(念思)の義があり、壊・敗にも通じるから黒みを帯びた槐を「櫰」と称するという説がある。槐(櫰)は黒い(或いは暗い)から壊であり懐であるという解釈である。即ち、樹陰の魅力が人を懐けるのである。この説の妥当性は分からないが、ただ、槐陰の懐かしさ、樹陰が人を惹きつけるということは、大陸の厳しい自然を生きる人々を顧慮した時、分かりやすい。召伯がなぜ樹陰に宿ったことを考え合わせると、槐の魅力が浮かび上がるように思われる。

   《引用終了》

前に言った私の疑惑を別な言い方にするならば、先の説や、この説には、所謂、辛気臭い「載道」説に拠っており、訓詁学的な意味に於けるリアルな「言志」的なものが感じられないのである。

「守宮槐《しゆきうくわい》」調べたところ、既に古く「和名類聚抄」の「巻二十」の「草木部第三十二」の「木類第二百四十八」に以下のように載るのを見出した。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板本のここを視認して訓読した。

   *

槐(ゑにす) 「爾雅集注《じがしつちう》」に云はく、『葉、小にして、青きを、「槐」【音「廻」。和名「惠爾須」。】と曰ふ。葉、大にして黑きを「櫰《くわい》」【音、「懐」。一音、「瓌」。】と曰ふ。葉、晝《ひ》るは、合《あは》し、夜は、開く。之れを「守宮槐」謂ふ。』と。

   *

思うに、この「守宮」は百%「ヤモリ」のことである。私の家には、実に三十年以上の長きに同居する数代に上るヤモリの一族がいる。ほぼ、二、三日に一度は、夜、或いは、未明、トイレの窓に姿を見せる。この名は、昼は閉じてじっといて、夜になると、むくむくと広げる槐の葉を、まさしくヤモリの習性にミミクリーした謂いである。「維基百科」の「槐」には異名に「家槐」がある。これは、明らかに、「家」を「槐」の「木靈」が「守」ることを意味していると考えるものである。

「肝經」東洋文庫の後注に、『身体をめぐる十二経脈の一つ。足の厥陰肝経。足の拇指からはじまり、大腿内部をのぼって陰部へ入る。ついで下腹部を通り肝に入り、胆から側胸部に分布し、気管喉頭から眼球に達し頭頂に出る。支脈は眼球から頰・肩をめぐる。もう一つは肝から肺に入り、ついで胃のあたりまで下がる』とある。

「桃仁《たうにん》」言わずもがな、桃の実の核(たね)。生薬として知られ、主として血液の停滞・下腹部の膨満して痛むものを治すとされる。

「陽明厥陰≪の≫血分の藥」東洋文庫の後注に、『十二経脈のうち手の陽明大腸経、足の陽明胃経。手の厥陰心包経、足の厥陰肝経。それぞれの血の変調に係わる病症の薬』とある。

「五痔」東洋文庫の「丁子」の割注に、『内痔の脈痔・腸痔・血痔、外痔の牡痔・牝痔をあわせて五痔という』とあったが、これらの各個の症状を解説した漢方サイトを探したが、見当たらない。一説に「切(きれ)痔・疣(いぼ)痔・鶏冠(とさか)痔(張り疣痔)・蓮(はす)痔(痔瘻(じろう))・脱痔」とするが、どうもこれは近代の話っぽい。中文の中医学の記載では、「牡痔・牝痔・脉痔・腸痔・血痔」を挙げる。それぞれ想像だが、「牡痔・牝痔」は「外痔核」・「内痔核」でよかろうか。「脉痔」が判らないが、脈打つようにズキズキするの意ととれば、内痔核の一種で、脱出した痔核が戻らなくなり、血栓が発生して大きく腫れ上がって激しい痛みを伴う「嵌頓(かんとん)痔核」、又は、肛門の周囲に血栓が生じて激しい痛みを伴う「血栓性外痔核」かも知れぬ。「腸痔」は穿孔が起こる「痔瘻」と見てよく、「血痔」は「裂肛」(切れ痔)でよかろう。

「大風痿痺(たいふうゐひ)」東洋文庫の割注に、『(風邪がひどく』、『手足がなえ』、『しびれる症)』とある。

「剪《きり》脩《をさめて》、圓《まどかなるやうに》齋《ひとしくす》」割注した通りだが、因みに、東洋文庫訳では、『きれいに円く剪(き)りととのえる』とある。

「滿院《まんゐん》、清芬《せいふん》なり」東洋文庫訳では、『庭一杯に清らかな香りが満ちる』とある。]

2024/06/30

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧四 虵女をおかす事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧四 虵(へび)、女をおかす事

 

 其比、寬永元年[やぶちゃん注:一六二四年。]に、河内(かはち)の「しき」と云《いふ》所の山里に、五八郞と申《まうす》もの、ありけり。

[やぶちゃん注:『河内の「しき」』河内国(かわちのくに)志紀郡(しきのこおり)。現在の大阪府八尾(やお)市志紀町(しきちょう)はここだが(グーグル・マップ・データ)、「山里」と言っているから、ここ近辺ではあり得ず、旧志紀郡の内、明らかな山間部は、ずっと東の奈良県に接する八尾市の一部、及び、その南に接する柏原(かしわら)市が該当する。この中央の南北附近である(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 かれが他行《たぎやう》のひまに、妻、ひるねして、ひさしく、おきも、あがらず。

 其間《そのあひだ》に、をつと、かへり、「ねや」へ、入《いり》て見ければ、五、六尺ばかりなる虵、まとはりて、口さし付《つけ》て、臥したり。

 夫(をつと)、大きに驚きて、つえ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]を持(もち)て、うちはなちて、申《まうし》けるは、

「『おやのてき』『宿世(しゆくせ)のてき』と、いひつれば、しさいにおよばず、せつがい[やぶちゃん注:「殺害」。]すべきなれども、今度ばかりはゆるす也。かさねて來《きた》る事あらば、命をたつべし。」

と、いひて、つえにて、すこし、うちなやまして、すてける。

[やぶちゃん注:岩波文庫の高田氏の脚注に、『不詳。女親(子をなした妻)を犯した敵は終生かけての敵、の意のことわざか。』とあった。]

 

Hebi_20240630073101

[やぶちゃん注:第一参考底本はここ第二参考底本はここ。後者は、這い上がり、鼻先に鎌首を接しかけている蛇が、明確に視認出来る。夫がその蛇を杖で引っ掛けて、今しも、払いのける瞬間を、スカルプティングした瞬間を描いてある。

 

 其の後《のち》、五、六日ありて、家内(かない)の男女(なんによ)、おどろき、さはぐ。

「何事やらん。」

と、とへば、

「虵の、おほくきたり候。」

と云《いふ》を、

「つ」

と、出《いで》て見ければ、一、二尺ばかりの虵、かしらをならべ、すきまもなく、四方《しはう》をかこみて、庭のきはまで、來《きた》る。

 それより、少《すこし》づゝ、大き成《なる》虵、次㐧次㐧に、つゞき、いき千万といふ數(かず)を、しらず。

 はてには、一丈二、三尺もあるらんとおぼしき虵、左右(さう)に、五、六尺ばかりなる虵、十ばかり、具して來《きた》る。皆、かしらをあげ、舌をうごかし、物いはざるばかり也。

[やぶちゃん注:「一丈二、三尺」三・〇六~三・六四メートル。本邦の最大種である青大将(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora )で間違いない。全長で三メートル超は稀れであるが、生体で這っている際の伸長で、そう見えたのであろう。私の家にも、このところ、よく出現する。連れ合いや、向かいの奥方が、遭遇して、驚愕しているから、二メートルは優にある個体らしい。私は大の蛇好きなのだが、残念ながら、未だ、そ奴には出逢っていない。]

 女房は、「きもだましゐ[やぶちゃん注:ママ。「膽魂(きもだましひ)」。]」もなきていにて、『今は、こうよ。』とみえし所に、夫、申《まうし》けるは、[やぶちゃん注:「『今は、こうよ。』とみえし所」同じく、高田氏の「今は、こうよ」の注に、『今は命もたえるかと。』とある。]

「なんぢらは、何として、かく、あつまり來《きた》るぞ。女のふしてゐけるを、虵のおかしたる事、まのあたり、見しが、宿世(しゆくせ)の『てき』なるうへ、命をたつベかりしを、『じひ』をもつてたすけて、『かさねて來らば、命をたつべし。』とて、つえにて、すこし、うちなやめ、すてたる事、侍りき。此《この》『事はり[やぶちゃん注:ママ。]』を、めんめん、よく、ききわけ、それがしがひが事とばし[やぶちゃん注:「ばし」は副助詞で強調。]、思ひて來《きた》るか。『人畜、ことなり。』といへども、物の道理は、よも、かはり侍らじ。妻を、おかされて、はぢがましき事にあひぬれども、『なさけ』ありて、命をたすけながら、猶、ひが事に成《なし》て、よこさまに損ぜられん事こそ、むざん成《なる》次㐧にて侍れ。此《この》事、「めうしゆ三ぼう[やぶちゃん注:ママ。「冥衆三寶」。]」も、ちけん[やぶちゃん注:「知見」。]をたれ、天神地祇(てんじんちぎ)・ぼんわう・たいしやく[やぶちゃん注:「梵王・帝釋」。]、四大(しだい)天わう・日月《じつげつ》せいしゆく[やぶちゃん注:「星宿」。]も、御《ご》せうらん[やぶちゃん注:ママ。「照覽(しやうらん)」。]あるべし。一事《ひとこと》も、きよげん[やぶちゃん注:「虛言」。]、なし。」[やぶちゃん注:以下、私にはいらないが、若い読者のために、高田氏の脚注を纏めて示しておく。『冥衆 梵天・帝釈・閣魔王のような目に見えない神々』・『梵王帝釈 梵天王と帝釈天』・『四大天王 持國天・增長天・広目天・多聞天、いわゆる四天王』・『日月星宿 太陽や月や星など、廣く宇宙に散らばっています神々』。]

と、只、人に向つて申《まうす》やうに、いひければ、大虵をはじめ、かしらを、一度(ど)に下げて、大虵のそばにい[やぶちゃん注:ママ。]たる、くだんの虵とおぼしきを、一かみ、かみて、引《ひき》かへる。

 是をみて、殘る虵共、一口づゝ、かみて、

「みそみそ」[やぶちゃん注:めちゃくちゃ。ぐちゃぐちゃ。]

と、かみなして、山のかたへ、みな、かくれぬ。

 其後《そののち》は、別のしさいも、なかりけり。

 さかさかしく[やぶちゃん注:「賢賢しく」。賢いさま。高田氏は『理性的に』と脚注する。]、道理を申《まうし》のべて、わざわい[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]をのがれけるこそ、かしこくも、おぼえけれ。道理をも申のべずして、とかく、ふせがん、とするならば、ゆゆしきわざわいなるべし。そうじて[やぶちゃん注:ママ。]、物の命を、さうなく[やぶちゃん注:無造作に。]がいする事、よくよく、つゝしむべし、つゝしむべし。

 此のはなし、河内より來《きたる》る商人《あきびと》、僞りなきよし、大せいごんをもつて、かたり侍る。

[やぶちゃん注:「商人《あきびと》」読みは、本書の前例に従った。

「大せいごん」「大誓言」。既出既注の「大せいもん」(「大誓文」)に同じ。神仏に誓って間違いないという証文のこと。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧三 女房女のはらみたる腹をやき破事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題「㚑(れう)」の読みはママ。]

 

 㐧三 女房、女の、はらみたる腹を、やき破(やぶる)事

 攝刕大坂にをゐて[やぶちゃん注:ママ。]、ある「うとく」[やぶちゃん注:「有德」。ここは「裕福」の意。]成《なる》ものあり。

 かれが、おもひ入《いれ》たる女、ありけり。はらみけるに、女房、夫(をつと)のるすをうかゞひ、外にありけるを、たばかり、むかひよせ、一間成《なる》所へ、をし[やぶちゃん注:ママ。]こめて、二、三人、下部の男を、めして、手、とり、あし、とらせて、「火のし」[やぶちゃん注:熨(ひのし)。炭火の熱で皺をのばす柄杓形の道具。現在のアイロン相当。]をもつて、かの、はらみたるはらを、のしける。

 ふくれ、ひわれて[やぶちゃん注:「乾割れて」。]、しゝむら[やぶちゃん注:「肉」。]、どろけきれて[やぶちゃん注:焼け爛れ溶(とろ)け、破れて。]、見へ[やぶちゃん注:ママ。]けり。

 わづかに、いきばかり、かよひける時、母のもとへ、かへしつかはす。

 のり物より、いだきおろしけるに、其《その》まゝ、いき、たへ[やぶちゃん注:ママ。]にけり。

 母、是を見(《み》る)より、大きになげきて、心のあらぬまゝに、やがて、はしりまはり、もろもろの「やしろ」にまうでゝ、おめき、さけび、「やしろ」を、たゝき、をどりあがり、をどりあがりて、

「我が子のかたきを、とりて給はれ。」

と、いのり、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、神前の「いき木」[やぶちゃん注:「生き木」。]に、釘(くぎ)を、うちなどして、さまざま、のろひ、母も、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、おもひ死(じに)に、しけり。

 ほどなく、二人の㚑(れう[やぶちゃん注:ママ。])、日〻に、きたりて、彼(かの)女房を、せむる事、いふばかりなし。

 やがて、やみつき、さまざま、口ばしり、身躰(しんたい)、やすからずして、「かみそり」をもつて、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]がはらを、きりやぶり、そくじ[やぶちゃん注:「卽時」。]に、死(しに)うせぬ。

「それよりして、其家、代〻、㚑、たへ[やぶちゃん注:ママ。]ず。」

と、聞ゆ。

 しかるべきものゝ身のうへなれば、くはしくは、しるさず。

 とかく子細をしらぬ身なれば、中〻《なかなか》[やぶちゃん注:呼応の不可能の副詞。「とても・決して(~ない)」。]、其《その》とが[やぶちゃん注:「咎」。]あるべからず。たゞ、人に、因果の道理を、しらしめんがためなり。人のとがを、しるさんには、あらず。されば、人をそんずるは、我身をそんずる事をしらずして、自他の分別、かたく[やぶちゃん注:いっかな、出来ず。]、愛執(あいしふ)の念りよ、ふかきならひは、かへすがへす、をろかに[やぶちゃん注:ママ。]まよへる、心成《なる》べし。

 [やぶちゃん注:なお、次の話の冒頭が、「其比、寬永元年に、河内の……」となっていることから、この話は寛永元(一六二四)年の出来事と読める。]

2024/06/29

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧二 無益の殺生の事幷㚑來りて敵を取事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題「㚑(れう)」の読みはママ。]

 

 㐧二 無益(むやく)の殺生の事靈(れう)來りて敵(かたき)を取(とる)事

○慶安年中、春の比、「さが」の邊(へん)に、さる牢人、あり。

 下人、とりにげしけれども、少分《しやうぶん》の事なるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、尋(たづぬ)る事もなく、其のぶんにて、うち過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「慶安年中」一六四八年~一六五二年。徳川家光・家綱の治世。

「牢人」浪人に同じ。岩波文庫の高田氏の脚注に、『主を持たぬ武士。中には私領を持つ土豪もいた』とある。

「さが」京都の嵯峨野。現在の京都府京都市右京区の、この附近(グーグル・マップ・データ)。

「とりにげ」同じく高田氏のそれに、『何らかの物を無断で持ちさること』とある。

「少分]同前で、『些細なこと。「小部分、またはわずかな物」(『日葡辞書』)』とある。]

 一兩年[やぶちゃん注:一、二年。]ほども過ぎて、「とうじ」に居(ゐ)けるよし、「さが」へ聞え、やがて、家老の心得にて、

「かさねての爲もあり。」

とて、からめ取りて來り、主人へ、此のよし、うつたへければ、主人のいはく、

「よしよし。少分の事也。其上、年數(ねんす)へし事なれば、はなちやるべし。」

と仰せらるるを、家老、

『わたくしに、殺さん。』

とや、思ひけん、二、三日も、からめをき[やぶちゃん注:ママ。]て、ひそかに、かくして、害(がい)しけり。

[やぶちゃん注:「とうじ」「東寺」。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

高田氏脚注に、『京都市の南部にある真言宗の大寺院。犯罪者が逃げ込めば俗権力の手はおよばないのが普通であった。』とあった。

「かさねての爲もあり」同前で、『今後のこともあり、みせしめに、の意。』とあった。されば、家老は忖度をし、彼の言を、そのままには受け取らず、『お前の判断で如何ようにも処分致せ。私は関知せぬぞ。』という含みとして受け取ったのである。]

 此もの、さいご[やぶちゃん注:「最期」。]に申《まうす》やう、

「さてさて、うらめしや。上(かみ)よりは、御じひ、ましましてたすけ給ふに、なんぞや、家老の、わたくしにころし給ふ事、いはれなし。ぜひ、我、三日の内にはをんれう[やぶちゃん注:ママ。「怨靈(をんりやう)」。]となつて來り、おもひしらせん物を。」

とをどりあがり、

「あら、口おしや[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いひ、齒をならし、ねぢかへり[やぶちゃん注:怒りに、体をはげしく捩じ曲げて。]、

「はた」

と、睨みしまなこ、さながら、すさまじくおぼえけり。

[やぶちゃん注:家老は、忖度であることをおくびにも出さず、あくまで「御君は、許してやれと仰せになった。しかし、それでは、示しがつかぬ。おのれの処断として、不届き千万なれば、お前を殺すのだ。」と言い放ったことが判る。]

 うたれて後《のり》、其《その》にらみしまなこ、家老の、おもかげに立《たち》、起おきふに見えて、すさまじき事、かぎりなし。

 ある時は、そら[やぶちゃん注:「上」の意。]を見れば、天井にうつりてみへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、したには、「たゝみ」にあるやうにみへ、まどろめば、夢中(むちう)に來りて、せめけり。

 としても、かくしても[やぶちゃん注:高田氏脚注に『どんな事をしても』と注する。]此《この》おもかげの、はなれざれば、或は、みこ・かんなぎをめして、さまざま、きたうなどしけれども、其《その》しるし、なし。

 ほどなく、やみつき、うつゝにも、

「あれ、あれ、見よ、又、來《きた》れり。」

などゝ、いひては、其まま、をどり出《いづ》る事、三十日ばかり、なやみ、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、狂死(くるひじ)に、しけり。

「一たび、上(かみ)より、情(なさけ)ありて、たすかりけるを、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]が、わたくしをもつて、殺す事は、何事ぞや。にくしと思ふ一念、來りて、とりころしける。はやくも、むくひのきたる物かな。」

と、人、口々(くちぐち)に申《まうし》あへり。

[やぶちゃん注:さて。真相はどちらであったか、これは、断定出来ない。字面上だけを見るなら、この「牢人」である主君は、あっさりしており、僅かな横領であったから、実際に、許してやれ、と言ったようには、確かに、見える。事実、下人の怨霊の恨みは、主君に向いては、全く発動していない。しかし、翻って、家老の死罪執行の後の重い精神障害と狂死を考えると、実は、この主人を家老は、長年、相応に捩じれた精神の持ち主と考えており、常に、『その言葉の裏の裏まで見通さぬと、いけない、いや、自分もどうなるか判らないという点でも、危ない。』と思い込んで来た、いや、事実、主人は、そうした異常性格者であった可能性も否定出来ないからである。寧ろ、斟酌と忖度の結果として、狂死した、家老こそが、フラットに考えた際、最も哀れであるように、私には感じられるのである。

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 「目錄」・㐧一 不淨の者あたご山にて鹿にかけらるゝ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 

善惡報はなし三之目錄

 

㐧 一 不淨(ふじやう)の者(もの)あたご山(さん)にて鹿(しゝ)にかけらるゝ事

㐧 二 無益(むやく)の殺生(せつしやう)の事㚑(れう)來(きたつ)てかたきをとる事

[やぶちゃん注:「れう」はママ。]

㐧 三 女房(によばう)はらみ女の腹を(はら)を燒破(やきやぶる)事

㐧 四 虵(へび)來て女を犯(をかす)事

[やぶちゃん注:「をかす」はママ。]

㐧 五 身をうり母を養(やしなふ)事

㐧 六 庭鳥(にはとり)の玉(たま)子をとりてひくふ事

㐧 七 房主(ばうず)の一念(ねん)虵(へび)に成木(き)をまとふ事

㐧 八 慈悲(じひ)ある人海上(かいしやう)にてかめにたすけららるゝ事

㐧 九 馬(むま)をとらんとて人を殺(ころし)むくふ事

㐧 十 三賢人(さんけんじん)の事

㐧十一 繼母(けいぼ)まゝ子(こ)を殺(ころし)土(つち)に埋(うづみ)あらはるゝ事

㐧十二 生(いき)ながらうしとなりて死(しぬる)事

㐧十三 死(しゝ)て犬(いぬ)に生(うま)るゝ事

㐧十四 女の愛執(あいしう)虵となる事

[やぶちゃん注:第二参考底本では、この後に『㐧十五』と「第十六」の項があるが(それぞれ下に標題あり)、これ、明らかに、例の落書野郎が書き加えたもので、位置もおかしく、字も汚い。無論、本文に当該話はないので、カットする。]

 

 

善惡報はなし卷三

 

 㐧一 ふじやうのものあたご參詣し坂にて鹿(しゝ)にかけらるゝ事

○都のほとり、ふかくさの近邊に、三平と申《まうす》もの、あり。

 しゝを、にて、くらひしかまにて、食(めし)をたかせ、くふて、あたごへ、まいりけるが、

『坂、三、四町ほども、あがらん。』

とおもふ程にて、俄に、まなこ、かすみて、あしもと、くらく成て、身、えわかず。

[やぶちゃん注:「ふかくさ」「深草」。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「鹿(しゝ)」これは鹿(シカ)ではなく、猪(イノシシ)である。挿絵でも、そうなっている。終りのカタストロフからも、シカではない。

「あたご」愛宕山。現在の京都府京都市右京区嵯峨愛宕町にある山及び愛宕神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。古くから信仰の山であった。私は山麓の参道入口にある「鮎茶屋平野屋」が大のお気に入りで、二度、行っている。「怪奇大作戦」の実相寺昭雄監督の名作「京都売ります」以来、ずっと訪ねたかった料理屋である。]

 しかれども、我身のふじやう成《なる》事を、夢ほども、おぼえず、ひたと、ふしぎをたてゝ[やぶちゃん注:「ただ、ひたすら、『不思議じゃ。』という思いをしつつも、」の意か。]、あがるほどに、とび、一つ、來つて、かれがあたまを、けて[やぶちゃん注:「蹴て」。]ゆきぬ。

[やぶちゃん注:「とび」「鳶」。タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳶(とび) (トビ)」の私の注を、是非、読んでいただきたいのだが、実は、愛宕神社の神使は、猪なのである。そして、その後、鳶も神使として加わったのだが、私は鳶の参入は、戦国時代以前に遡れるかどうかには、疑問を持っている。ともかくも、この話では、その二つの神使が、ともに撃退に活躍している点が、甚だ面白いのである。]

 此男、

『あら、ふしぎや。今の、けてゆきしは、正(まさ)しく「とび」と、おぼゆ。いな事を、しつる物かな。』

と、おもふばかり、くにもならずして、ひたあがりに、あがる。

 又、うしろより、一つ、來りて、けてゆく。

『是は、いかに。』

と、ふりかへり見る所に、さながら、目には見えずして、いづくより來《きた》るともなく、とび、二、三十ばかり、きたつて、八方より、ける。

 

[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ、第二参考底本はここ。後者がよい。但し、後者で二羽の鳶が刺されて、血を吹き出しているように見えるのは、例の落書である。第一参考底本と比較すれば、一目瞭然である。そもそも、原画では三平は、刀を抜いていないのだ! そう、左手が突き出している刀自体も、奴(きゃつ)が書き足したものなのだ!

 

 此男、さきへも、あとへも、ゆきやらずして、其まゝ、そこにとゞまりゐて、つえをもつて、とびを、はらはんとしけるうちに、むかふより、大の鹿《しゝ》、一つ、かけ來《きたつ》て、此男を、ひつかけ、おとしける。

 なにかは、たまるべき、すせんじやう[やぶちゃん注:「數千丈」。言うまでもなく、誇張表現。]の、はるかの谷へ、かけおとしけるが、みぢんになつてぞ、はてにけり。

 あはれといふも、をろか[やぶちゃん注:ママ。]也。

 つたへきくにも、魔山(まさん)なれば、淸淨《しやうじやう》のうへにも、しやうじやうにあるべきに、なんぞや、しゝを、にたるなべにて、三日も立(たゝ)ざるうちに、ふじやうの食(じき)をして、まいる[やぶちゃん注:ママ。]くせものなれば、たちまち、けころされしは、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]なり、と申ける。

 されば、佛神へ參らざるばつは、あたらずして、參りて、ばつをうくるもの、世に、おほし。

 とかく、しん・不信心の二つに、よるべし。よくよく、つゝしむべし。おそるべし、おそるべし。

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷二 㐧十二 れうし虵をがいし頓死する事 / 卷二~了

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧十二 れうし、虵(へび)をがいし、頓死(とんし)する事

○下野(しもつけの)國さむ川と云《いふ》所の近鄕(きんがう)に、大小の「うつぼ」あり。

[やぶちゃん注:「下野(しもつけの)國さむ川」旧下野国にあった舊寒川郡(さむかはのこおり)。現在の小山(おやま)市の一部で、ここの、同市を南北に貫流する「思川」(おもいがわ)の西岸に相当する(グーグル・マップ・データ)。

「うつぼ」半ば枯れた木の洞(ほら)のこと。]

 此中より、大虵《おほへび》の、「かしら」を、さし出《いだ》したるをみて。れうし、矢をもつて、木に、いつけて、行《ゆき》けり。

 ぬまの邊(ほとり)を、とをり[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 水(みづ)の上に、およぐ物、有《あり》。

 みれば、大虵の、一丈ばかり成《なる》が、くびに矢をおひ、水の上を、およぎ來《きた》るを、待《まち》うけて、終(つゐ)に[やぶちゃん注:ママ。]、いころしけり。

 其まゝ、家へ、かへらずして、狂死(くるひじに)に、しけり。[やぶちゃん注:この後の助詞「に」は、ない方が躓かない気がするのだが、以降、しばしば見られるので、筆者の癖と思われる。

 よくきけば、

「何のやしろとかやの、神にて、まします。」

よし也。所の名(な)も、宮の名も、失念し侍り。

 かやうに、せんなき事、世に、多し。

 おそるべし。

「善惡報はなし」二之終

[やぶちゃん注:最後はママ。改題本で「續御伽ばなし」の筈が、初版本の書名のままになっている。版木の使い回しが、はっきりバレでいる。

 因みに、第二参考底本では、ここが最後だが、第二巻の裏表紙裏に、例の落書が、この最終篇を考えて、おどろおどろしく描かれている。これ、ちょっと意想外のボーナスを貰った感じで、正直、「落書野郎奴(め)、やって呉れたじゃあ、ねえか!」と、褒めたくなったこと、頻り。

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷二 㐧十一 盲目の母をやしなふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧十一 盲目の母をやしなふ事

○津国(つのくに)、「多田(たゞ)のまんぢう」のしやたう[やぶちゃん注:ママ。「社頭」。]ぞうりうの時、人夫、食物《しよくもつ》、たはら、おほく、つみかさねてをきけり。

[やぶちゃん注:『「多田(たゞ)のまんぢう」の』「しや」は、現在の  兵庫県川西(かわにし)市多田院多田所町(ただどころちょう)にある多田神社のこと(グーグル・マップ・データ)。清和源氏興隆の礎を築いた源満仲を筆頭に源頼光・源頼信・源頼義・源義家を祀る。「まんぢう」は「滿仲」を敬意を込めて音読みしたものである。]

 ある時、たはらを、一つ、ぬすみ取《とり》て、にげゝるを、とらへてみれば、十六、七ばかり成《なる》わつばなり。

[やぶちゃん注:「わつば」現在、当たり前のものとして半濁音の「」表記法は、江戸時代には、必ずしも一般的であったとは言えない。ウィキの「半濁音」によれば、『ポルトガル人宣教師によりキリシタン文献に導入されたのが最初とされる』とある。但し、江戸時代の口語としては、臨機応変に半濁音の発音をちゃんとしていたであろうから、ここも半濁音で読み替えてよい。]

 奉行、是をみて、

「なんぢは、いか成《なる》ものぞ。」

と、とはれければ、わつば、こたへて、いはく、

「それがしは、あれにみへたる山のふもとに、まかりあるものにて候が、まづしく、かひなきものにて、殊に盲目の母を、一人、持て候が、たきゞを取て、はるか成《なる》里に出《いで》て、かへりて、母を、やしない[やぶちゃん注:ママ。]はぐゝみ候へば、身もつかれ、ちからも、つきて。はかばかしくたすけ、心やすくすぐるほども侍らねば、『此たはらを取て、はゝをたすけばや。』と、おもふばかりにて、かゝる「ふたう」を、つかまつりて、はぢをさらし候こそ、先業(せんごう)[やぶちゃん注:ママ。前世(ぜんせ)の業(ごう)で盲目になったという意で、歴史的仮名遣は「せんごふ」が正しい。]までも、今更、はづかしく、口おしく候。」

と申《まうし》て、

「さめざめ」

と、なきければ、奉行も、ことのしさいをきゝ、あはれにおもはれけれども、實否(じふふ[やぶちゃん注:ママ。])をしらんがために、此わつばが申狀《まうしじやう》につきて、母が居所を、たづねにつかはすに、つかい[やぶちゃん注:ママ。]、尋ねゆき、見ければ、山のふもとに、ちいさき「いほり」あり。

 人をとしければ[やぶちゃん注:「人音(ひとおと)しければ」(人がいるような音がしたので)の誤りか。]、たちより、

「何成《いかなる》人ぞ。」

と問《とふ》に、うちに、こたへけるを見るに、盲目也。

 かれが、いはく、

「すみわびて、此山のふもとにゐて、たきゞを取《とり》て、里に出《いで》て、はぐゝむしそく[やぶちゃん注:「子族(しぞく)」か。]、わらはの候を、たのみて、露の命を、おくり侍る也。きのふ、いでて、今日《けふ》も、かへらず、いかゞしける、おぼつかなく待《まち》くらす也。」

と、かたるを聞《きき》て、使《つかひ》、かへりて、有《あり》のまゝに、申上《まうしあぐ》る。

 奉行、

「扨は。僞り、なし。なんぢ、かさねての、しをき[やぶちゃん注:「仕置き」。]のために[やぶちゃん注:処罰するための詮議のために。]、大小によらず、くせ事にも行《おこなは》んずれども[やぶちゃん注:「安易に罪の軽重を斟酌することなく、不正行為を致さんしたことは明白であるが故に、御政道に則り、厳しく断罪するところであるが」。]、おやに孝あるもの。其上、盲目のはゝを、やしなふ上は、命(いのち)を、たすくるなり。」

とて、あまさへ、五、六年もすぐるほど、はうびを、もらい[やぶちゃん注:ママ。]、かへりけり。

「孝行の心ざし、まことなれば、天のめぐみ、有て、命までも、たすかりけるこそ、ありがたき次㐧也。」

と、皆、きく人ごとに、かんじける。

 

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷二 㐧十 与四郞の宮をうちたやす事

 

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。流石に、改題本では、総て確実に「与」であったので、「與」の字では表示しなかった。]

 

 㐧十 与四郞の宮(みや)を、うちたやす事

○關東の内に、「与四郞のみや」と申《まうし》て、あり。

[やぶちゃん注:「与四郞の宮」不詳。]

 每年(まいねん)、夏の比、此みやの神事なり。當番にあたるもの、たいこを、になふやくなり。

 あるもの、やくにあたりしかども、何かといひて、其やくをも、つとめず、あまさへ、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]が家に引《ひき》こもり、出《いで》ざれば、せんかたなくて、わきより[やぶちゃん注:別の者が。]、つとめ、漸〻(やうやう)、神事を、すましける。

 

[やぶちゃん注:挿絵がある。第一参考底本はここ第二参考底本はここ。後者を見られたい。但し、遠景の山の眉毛・目・鼻・口や、障子のそれは、例の旧蔵者による落書であるので注意。

 

 其あくる夜、かれがまくらもとへ、五、六尺ばかりの虵(へび)、五、六十ばかり、來(きた)つて、「かしら」をならべ、なみい[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]たり。

 此おとこ、もとより、邪見のものなれば、

「扨《さて》は、きなふ[やぶちゃん注:ママ。]、我、神事をつとめざるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、与四郞めが、ともを、かたらひ、我に、あだをせんがために來《きた》ると、おぼゆ。やすからぬ事かな。」

とて、みな、一〻《いちいち》に、うちころしてぞ、すてけり。

 又、次の夜も、同じほど來《きたつ》て、まへの夜のごとく、なみいけるを、一つも、のこさず、うちころすに、同じごとくに來《きた》る事、三日三やが間に、ころすところの虵、をよそ[やぶちゃん注:ママ。]、五、六百もあるらん。

 此男、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、四日目に、くるひじにゝ[やぶちゃん注:ママ。]しける。

 其後《そののち》、此みやへ、「ゆ」を、たびたび、參らするに、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、有無のへんたふ[やぶちゃん注:ママ。]なければ、

「さては。かのばかものが、うちたやしけるか。」

と、皆人《みなひと》ごとに、いひあへり。

[やぶちゃん注:「ゆ」不詳。小学館「日本国語大辞典」に接頭語として「神聖な」「正常な」の意が挙げられてあるので(そういえば、「ゆつ玉串」という用法があるな)、神に捧げる供物、或いは、神託を乞い願うためのそれを言っているようである。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 楝

 

Ourennjyu

 

わうれんじゆ

 

黃楝樹

 

 

農政全書云黃楝樹生山野中葉似初生椿樹葉而極小

又似楝葉色微𭘧黃開花紫赤色結子如碗豆大生青熟

亦紫赤色葉味苦

 

   *

 

わうれんじゆ

 

黃楝樹

 

 

「農政全書」に云はく、『黃楝樹、山野の中に生ず。葉、初生の椿樹(ヒヤンチユン)の葉に似て、極小。又、楝《あふち》の葉に似、色、微《やや》黃を𭘧ぶ。花を開≪けば≫、紫赤色。子《み》を結≪べば≫、碗豆《ゑんどう》の大いさのごとし。生《わかき》は、青く、熟せば、亦、紫赤色≪たり≫。葉の味、苦し。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「黃楝樹」は、

双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科カイノキ属カイノキ Pistacia chinensis

である。「維基百科」の当該種「黃連木」には、別漢名として、『腦心木・爛心木・楷木・黃連茶・孔木・楷樹』が挙げられているばかりだが、中文繁体字のサイト「A+醫學百科」のここに、

「黃楝樹」があり、そこでは、別名を「黃連木」として、「來源」にPistacia chinensis の学名を明記している

から、間違いない。なお、東洋文庫では、どこにも本種を掲げていない。何度も言うが、百科事典の訳で、当該種を比定同定せずに済ますのは、一発退場レッド・カードである。「何、考えてんの?」と呆れるばかりである(さればこそ、植物ド素人の私が、このプロジェクトをやることの僅かな意義があろうかとも言えるのであるが)。以下、当該ウィキから引く(注記号はカットした)。『カイノキ』(『楷樹、楷の木』)は、『同じウルシ科のピスタチオ』(カイノキ属ピスタチオ Pistacia vera )『とは同属で近縁。別名カイジュ、ランシンボク(爛心木)、トネリバハゼノキ、ナンバンハゼ(南蛮櫨)、クシノキ(孔子の木)、オウレンボク、トネリコバハゼ』。『カイノキは、直角に枝分かれすることや小葉がきれいに揃っていることから、楷書にちなんで名付けられたとされる。別名のクシノキは、山東省曲阜にある孔子の墓所「孔林」に弟子の子貢が植えたこの木が』、『代々』、『植え継がれていることに由来する。また、各地の孔子廟にも植えられている。このように孔子と縁が深いことから、学問の聖木とされる』。『また、科挙の進士に合格したものに楷の笏を送ったことから、その合格祈願木とされていた』。『落葉広葉樹の高木。雌雄異株で、樹高は』二十~三十『メートル』、『幹の直径は』一メートル『ほどになる』。『葉は互生し、偶数羽状複葉だが、奇数の葉が混じることがある』とも言われるらしい。『小葉は』五~九『対で、倒卵披針形で、濃い緑色をしている。秋には美しく紅葉し、透き通るような赤色から橙色、しばしば黄色が入り』、『グラデーションになる』。『花は円錐花序で』、四~五『月に葉に先立って花を咲かせる。雄花は淡黄色、雌花は紅色を呈する』。『秋には』五、六『ミリメートル』『 の赤い球形の果実を房状につける。果実は熟すると紫色になる』。『中国原産。東アジアの温暖な地域に自生する。日本には』、大正四(一九一五)『年に孔林で採られた種子が伝えられ、東京都目黒区の林業試験場(現在の林試の森公園)に植えられた』(ということは、良安は原木を知らないということである)。『夏には大きな木陰を提供し、秋には美しく紅葉することから、街路樹、公園や庭園などに植えられる。俗に「学問の木」とされ、稀に学校に植えられたり、盆栽にされる』。『若葉には特異な芳香があり、茶の代用にされるほか、野菜としても食用にされる』。『材質は堅く、心材は鮮黄色で木目が美しい。優良な家具材であり、船材、杖、碁盤などに用いられる』。『種子の』四十二・二六『%が油からなっており(仁部分の油含有率は』五十六・五『%)で、燃料やバイオディーゼル燃料に使用するため栽培されている』とあり、以下、「カイノキ属」として、カイノキを含む十五種が挙げられてある。但し、中文でざっと調べたところでは、中国に同属の異種が自生する記載は、見当たらなかったから、複数種を掲げる必要はないように思われた。

「農政全書」明代の暦数学者でダ・ヴィンチばりの碩学徐光啓が編纂した農業書。当該ウィキによれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎』十二『年』(一六三九年)『に刊行された』とある。光啓は一六〇三年にポルトガルの宣教師によって洗礼を受け、キリスト教徒(洗礼名パウルス(Paulus))となっている。以下は、同書の「第五十四 荒政」(「荒政」は「救荒時の利用植物群」を指す)「木部」にある。「漢籍リポジトリ」のここの、ガイド・ナンバー[054-13b] に、

   *

黄棟樹 生鄭州南山野中葉似初生椿樹葉而極小又似楝葉色㣲帶黄開花紫赤色結子如豌豆大生青熟亦紫赤色葉味苦

  救飢 採嫩芽葉煠熟換水浸去苦味油鹽調食蒸芽曝乾亦可作茶煮飲

   *

とあった(附帯する影印本画像を確認して、表記が正しいことを確認したので、そのままコピー・ペーストした)。

「椿樹(ヒヤンチユン)」良安が中国音を、わざわざ附していることに安堵する。先行する「椿」で見た通り、双子葉植物綱ムクロジ目センダン科Toona属チャンチン Toona sinensis である。

「楝」詳しくは、前項「楝」の私の注を見られたいが、双子葉植物綱ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach var. subtripinnata、及び、トウセンダン  Melia toosendan を指す。

「碗豆《ゑんどう》」マメ目マメ科マメ亜科エンドウ属エンドウ Pisum sativum 。中国語でも同一種を指すので、安心してルビを振った。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷二 㐧九 じひある人とくを得る事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。挿絵はない。]

 

 㐧九 じひある人、とくを得る事

○正保元年六月中旬の事成《なる》に、東寺(とうじ)に、さる、「うりつくり」あり。

[やぶちゃん注:「正保元年六月中旬」グレゴリオ暦一六四四年七月十三日から二十二日までに相当する。

「東寺」寺はここ(グーグル・マップ・データ)。]

 其日、うりばたけへ見𢌞けるに、三十ばかりの男、かね袋(ふぐろ[やぶちゃん注:ママ。])を、一つ、持(もち)て來り、うりを、一つ、二つ、所望し、くふて、たちざまに、かのふくろを、わすれ、ゆきぬ。

 うりつくり、其ふくろを取《とり》て、

「是は、最前(さい《ぜん》)の人の、おとしてや、ゆきつらん。我、是を取てかへりなば、おとしたる人、さぞ、うらめしかるべし。人のなげきの、こもれるかねをとりて、何かせん。かへしあたへんには、しかじ。」

と、おもひて、かしこを見れば、此おとこ、いきをきつて、かけ來り、うりぬしに、むかつて、

「しかじかの事あるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、道より、おもひ付《つき》、參り候。それにあらば、給はれ。」

といふ。

 「うり」ぬし、

「さればこそ、其方のかね成《なる》か。『さだめて、とりに來られん。』と、最前より、是《ここ》に、ひかへ候。」

とて、くだんの袋(ふくろ)を、わたしける。

 此男(おとこ[やぶちゃん注:ママ。])、申やう、

「あまり、御心ざしの過分、云《いふ》ばかりなく覺え申候。則《すなはち》、此ふくろの内を、すこしにても、御禮のために、しんじ參らすべけれども、是は、これ、人にわたすかね也。御宿(《おん》やど)を見置《みおき》て、追付(をつつけ[やぶちゃん注:ママ。])、御禮申さん。」

と、よろこびてこそ、かへりけれ。

 扨《さて》、四、五日もありて、うりぬしが宿(やど)を、たづね、たいめんし、

「此比《このごろ》の御れいに參りて候。すこしにて、はづかしく候へども、心ざしばかりに參らする。」

とて、錢(ぜに)五百文、さし出す。

 亭主、申《まうす》やう、

「さればこそ。此れいを申うくるほどならば、何《なん》とて、みぎのかねを、かへすべきや。おもひもよらず候。とくとく、取《とり》て、かへられよ。」

とて、

「ずん」

と、立《たつ》て、のきけるが、此男も、をんどく[やぶちゃん注:ママ。「恩德(おんどく)」。]のためを思ひ、二百文、「むしろ」[やぶちゃん注:「莚」。]のしたへ、さし入て、かへるに、ほどへて、女房、見付《みつけ》、取出《とりいだ》す。

 夫、もとより、ひよく[やぶちゃん注:「非欲」。]のものなるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、かやうのぜにを、一せんにても、身に付(つく)る事を、めいわくにおもひ、其錢を、のこらず、持《もち》て、寺〻へ、まいり、佛前へ、まき、或は、非人(ひんん)に、くれ、漸〻(やうやう)、あまりたる錢廿文、ありけるが、あるふるかねみせ[やぶちゃん注:「古鐵店」。金物屋。]に、「ふるわきざし」[やぶちゃん注:「古脇差」。]のありしを、まきあまれる廿文にて、かいとり、是は、孫(まご)のかたへ、とらせ、

「木(き)わりにも、させん。」

と、おもひ、取《とり》てかへりしを、かれが一子、「ほんあみ」に奉公しける。

[やぶちゃん注:「ほんあみ」数寄者光悦が一般には知られるが、元来、本阿弥家は刀剣の鑑定と研磨を業とした。その初祖は妙本。生没年から、正保ならば、本阿弥光甫である。]

 さる時、來り、此「木わりわきざし」を取《とり》てかへり、こしらへて、金廿枚にうり、其かね、親がもとへ、もち來り、

「此ほどの木わり、是ほどのかねになり候。」

とて、おやに、わたす。

 おやども、きもをけし、さらに誠《まこと》とは、おもはざりしかども、まぎれなければ、其ぶんにて、うちすぎぬ[やぶちゃん注:その徳分を是(ぜ)として受け取って、暮らした。]。

 さればこそ、「しんあれば、とくあり。」[やぶちゃん注:「『信』あれば、『德』あり。」。信仰の心を持つ者は行いに徳がある。また、信仰する人には神仏の加護により御利益があるの意。]とは、かやう事をや、いふらん。其身は田夫野人(でんぶやじん)なれども、正直(しやうじき)の一念あるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、天道(てんだう)より、ふくぶんを、あたへ給ふ。うら山しき心ならん。

2024/06/28

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 楝

 

Outi

 

あふち    苦楝

       實名金鈴子

       俗云雲見艸

【音練】

 

俗云

 せんたん

 

本綱楝髙丈餘其長甚速三五年卽可作椽葉宻如槐而

長三四月開花紅紫色芬香滿庭有雌雄雄者無子根赤

有毒服之使人吐不能止時有至死者雌者有子根白微

毒其子正如圓棗又小鈴生青熟黃色

 歳時記言蛟龍畏楝故端午以葉包粽投江中𮁨屈原

[やぶちゃん字注:「𮁨は「祭」の異体字。」]

 今俗五月五日取葉佩之辟惡也

川楝子【苦寒有小毒】 導小腸膀胱之熱因引心包相火下行

 故熱厥心腹痛及疝氣爲要藥

苦楝根皮【苦微寒微毒】 宜用雌者治蚘蟲利大腸治小兒諸

 瘡燒灰傅之

△按楝其子入藥中𬜻四川產佳故名川楝子如川芎

 川鳥頭之類亦然其材微赤色有橒比於桐比於欅

 軟可以旋箱此樹昜生昜長故多栽塘堤

  新古今あふちさく外面の木陰露落て五月晴るゝ風渡る也忠良

  藻鹽山遠き軒端にかゝる雲見草雨とはならてとくそ暮ぬる

[やぶちゃん注:最初の一首は第四句目が「五月雨晴るゝ」の脱字である。訓読では訂しておいた。]

 

   *

 

あふち    苦楝《くれん》

       實《み》を「金鈴子《きんれいし》」と名づく。

       俗に云ふ、「雲見艸(くもみぐさ)」。

【音「練」。】 

 

俗に云ふ、

「せんだん」。

 

「本綱」に曰はく、『楝《れん》、髙さ、丈餘。其の長ずること、甚だ速《はやき》なり。三、五年にして、卽ち、椽(たるき)に作るべし。葉、宻《みつ》にして、槐《えんじゆ》のごとくにして、長し。三、四月、花を開く。紅紫色、芬香《ふんかう》、庭に滿つ。雌雄、有り。雄なり者、子《み》、無く、根、赤く、毒、有り。之れを服すれば、人をして吐かせ、止むること能はざる時、死に至る者、有り。雌なる者、子、有り、根、白く、微《やや》、毒あり。其の子、正《まさ》に圓《ま》るき棗《なつめ》のごとし。又、小鈴(《こ》すゞ)のごとく、生《わかき》は、青く、熟すれば、黃色。』≪と≫。

『「歳時記」に言《いは》く、『蛟龍《かうりゆう》、楝を畏る。故に、端午に、葉を以つて、粽《ちまき》に包み、江中《こうちゆう》に投じて、屈原を𮁨《まつ》る。今、俗、五月五日、葉を取り、之れを佩(お)びて、惡を辟《さ》く、となり。』≪と≫。』≪と≫。

『川楝子(せんれんし)【苦、寒。小毒、有り。】 小腸・膀胱の熱を導(みちび)き、因つて、心包《しんはう》の相火《さうくわ》を引く。下行する故、熱厥《ねつけつ》・心腹痛、及び、疝氣、要藥と爲《な》す。』≪と≫。

『苦楝根皮《くれんこんぴ》【苦、微寒。微毒。】 宜しく雌の者を用ふべし。蚘蟲《くわいちゆう》を治し、大腸を利し、小兒の諸瘡に《✕→を》治す。灰に燒きて、之れを、傅《つく》。』≪と≫。

△按ずるに、楝、其の子、藥に入《いるる》。中𬜻(もろこし)の四川の產、佳《よ》し。故に、「川楝子《せんれんし》」と名づく。「川芎《せんきゆう》」・「川鳥頭《せんうず》」の類《るゐ》のごときも、亦、然《しか》り。其の材、微《やや》赤色、橒(もく≪め≫)、有り。桐に比すれば、堅く、欅(けやき)に比すれば、軟(やはら)かにして、箱に旋(さ)すべし。此の樹、生(は)へ昜《やす》く、長じ昜し。故《ゆゑ》、多く、塘-堤《つつみ》に栽《う》ふ。

  「新古今」

    あふちさく

      外面《そとも》の木陰

     露落《おち》て

         五月雨《さみだれ》晴るゝ

        風渡る也

               忠良

  「藻鹽」

    山遠き

      軒端にかゝる

     雲見草《くもみぐさ》

         雨とはならで

        とくぞ暮《くれ》ぬる

 

[やぶちゃん注:「楝」「おうち」は、日中ともに、

双子葉植物綱ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach var. subtripinnata

である。

但し、中国では、漢方薬の基原植物としては、同属の、

トウセンダン  Melia toosendan

も挙げられてあるので(終りの方の注で後述する)、「本草綱目」の方では、そちらも挙げておく必要がある。以下、当該ウィキの「センダン」を引く(注記号はカットした)。『別名としてアフチ、オオチ、オウチ、アミノキなどがある。薬用植物の一つとしても知られ、果実はしもやけ、樹皮は虫下し、葉は虫除けにするなど、薬用に重宝された』。なお、『香木の栴檀はインドネシア原産のビャクダン』(双子葉植物綱ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album )『のことを指し、センダンのほうは特別な香りを持たない』。『順応性の高い種であり、原産地のヒマラヤ山麓のほか、中国・台湾・朝鮮半島南部』及び『日本などの乾燥した熱帯から温帯域に分布する。日本では、本州(伊豆半島以西)、伊豆諸島、四国、九州、沖縄に分布する』。『温暖な地域の、海岸近くや』、『森林辺縁に多く自生する。庭木や公園、寺院、街路樹にも植えられていて、しばしば植えられたものが野生化もしている』。『落葉高木で、樹高は』五~二十『メートル』『ほどで、成長が早い。枝は太い方で、四方に広がって伸び、傘状あるいは、エノキに雰囲気が似た丸い樹形の大木になる。成木の幹は目通り径で約』二十五『センチメートル』『ほどになる。若い樹皮は暗緑色で楕円形の白っぽい皮目が多くよく目立つが、太い幹は黒褐色で樹皮は縦に裂け、顕著な凹凸ができる。夏の日の午後は梢にクマゼミが多数止まり、樹液を吸う様子が見られる』。『葉は』二『回奇数羽状複葉で互生し、一枚の葉全体の長さは』五十センチメートル『以上ある。小葉は』三~六センチメートルの『長さがあり、葉身は先が尖った卵状楕円形で革質で薄い。葉縁に浅い鋸歯があり、さらに大きく切れ込むことがある』。『花期は初夏(』五~六『月頃)で、本年枝の葉腋から花序を出して、淡紫色の』五『弁の花を多数、円錐状につける。花序の長さは』十~二十センチメートルで『花弁は長さ』八~九『ミリメートル』『で、表が白色、裏が薄紫色で』、十『個ある雄しべは濃紫色をしている。花は美しさが感じられ、アゲハチョウ類がよく訪れる。なお、南方熊楠が死の直前に「紫の花が見える」と言ったのはセンダンのことだったと言われている』。『果期は秋』十月頃で、『果実は長径』十七ミリメートル『ほどの楕円形の核果で、晩秋』(十~十二月頃)に『黄褐色に熟す。秋が深まり』、『落葉しても、しばらくは梢に果実がぶら下がって残るため』、『目立つ。果実は果肉が少なく核が』一センチメートル『前後と大きく、上から見ると星形をしている。果実はヒヨドリやカラスなどの鳥が食べに訪れ、種が運ばれて空き地や道端に野生化することもある。しかし』、界面活性作用が細胞膜を破壊し、赤血球を破壊する溶血作用を持つ『サポニン』(saponin)『を多く含むため、人や犬が食べると』、『食中毒を起こし、摂取量が多いと死亡する』。』『冬芽は落葉後の葉腋に互生し、半球状で細かい毛で覆われている。葉痕は倒松形やT字形で、維管束痕は』三『個あり、白くて大きいので』、『よく目立つ。冬芽がついた枝先には、星状毛が残ることもある』。『葉や木材には弱い芳香がある。背が高い上に、新芽・開花・実生・落葉と季節ごとの見かけの変化も大きく、森林内でも目立ちやすい』。『樹木は、街路樹、庭木、公園樹に植えられている。枝は横に大きく被さるように出ることから、街路樹としての機能性に優れている。材は建築・器具用材、家具にもなり、下駄の材や、仏像彫刻に使われたこともある。ミンディ』(Mindi)『材と書かれているのはこのセンダンのこと。ケヤキの模擬材として使われることもある。また核(種子)は数珠の珠にする』。『材を林業として利用する場合は、苗を植えて』十五~二十『年で木材に製材できる。このため』、『日本の熊本県天草市では、中山間地域にある耕作放棄地の活用策として植林されている』、『果実は生薬の』「苦楝子(くれんし)」、若しくは、「川楝子(せんれんし)」と『称して、ひび、あかぎれ、しもやけに外用し、整腸薬、鎮痛剤として煎じて内服した。樹皮は生薬の苦楝皮(くれんぴ)と称して、駆虫剤(虫下し)として煎液を内服した。樹皮には苦味成分があり、漁に使う魚毒にも使われた。葉は強い除虫効果を持つため、かつては農家において除虫に用いられていた』。『沖縄県に自生するセンダンの抽出成分が、インフルエンザウイルスを不活化させることが報告された』。また、『同成分ががん細胞のオートファジー(自食作用)を促進させ、死滅させること』が判っており、現在、七十『種類の』癌で『センダンの抗』癌『作用』が『確認』されている。本種の、その効『用は、マウス実験、犬への投与で実証され』ている、とあった。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「(ガイド・ナンバー[085-30b]以下)からである。

「苦楝」センダンの中文の「維基百科」のタイトルが「苦楝」である。

「金鈴子」同前の中国語の異名の中に「金鈴子」がある。因みに、中国語の音写をすると、「ヂィンリィンヅゥ」。

「雲見艸(くもみくさ)」すたこら氏のブログ「すたこらの雁書」の「雲見草(クモミグサ)・・栴檀(センダン)」によれば、『遠目には紫雲がたなびいているように見えることに由来します』とあった。因みに、その前に、センダンの和名について、『名前は果実が丸く数が多いことから千珠(センダマ)の意味で、転訛したものです』と記しておられ、目から鱗であった。

「椽(たるき)」「垂木」とも書く。棟から軒に渡して屋根面を構成する材料。下から見えるものを「化粧垂木」。見えないものを「野垂木」と称する。社寺では二重に用いることが多く,上のものを「飛檐(ひえん)垂木」、下のものを「地垂木」と呼ぶ。

「槐《えんじゆ》」マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。中国原産で、当地では神聖にして霊の宿る木として志怪小説にもよく出る。日本へは、早く八世紀には渡来していたとみられ、現在の和名は古名の「えにす」が転化したもの。因みに、次の次の項が「槐」である。

「棗《なつめ》」バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis (南ヨーロッパ原産、或いは、中国北部の原産とも言われる。伝来は、奈良時代以前とされている。

「歳時記」「荊楚歲時記」。南朝梁(六世紀)時に、江陵(湖北省)の宗懍(そうりん)によって著された荊楚地方(揚子江中流域の現在の湖北省・湖南省一帯)の年中行事記。原名は「荊楚記」であったともされる。七世紀になって、隋の杜公瞻(とこうせん)が注釈を附し、「荊楚俊時記」という書名とされるとともに、原書の内容が補足された。その内容は、正月年始の行事に始まり、「競舟」(けいしゅう)などの民俗行事、灌仏会(かんぶつえ)などの仏教関連の行事や諸種の風俗・習慣・民間信仰に至るまでのさまざまな範囲に及ぶ(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「蛟龍」中国古代以降の想像上のポスト龍の一種。水中に潜み、機縁を得て、雲雨に逢うと、それに乗じて、天上に昇って龍になるとされる。「蛟」は和訓では、「みづち」と読む。

「屈原を𮁨《まつ》る」戦国時代の楚の憂国の政治家にして詩人の屈原(紀元前三四三年頃~紀元前二七八年の旧暦五月五日頃)。秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとしている懐王を必死で諫めたが、受け入れられず、楚の将来に絶望し、洞庭湖に注ぐ長江右岸の支流汨羅(べきら)で入水自殺した。懐かしいね、私の好きな「楚辭」の「漁父(ぎよほ)の辭」だ。サイト「WIKIBOOKS」の「高等学校古文/散文・説話/漁父辞」をリンクさせておく。ただ、屈原というと、反射的に私が直ぐに思い出すのは、決まって大学時代に故吹野安先生の漢文学演習で屈原の「漁父之辞」を習った際、先生が紹介してくれた、この大田蜀山人の、

 死なずともよかる汨羅に身を投げて

          偏屈原の名を殘しけり

である(第五句は「と人は言ふなり」とするものが多いが、私は吹野先生の仰ったものを確かに書き取ったものの方で示す。私は先生の講義録だけは今も大事に持っているのである)。東洋文庫の後注では、『楚の忠節な政治家屈原は讒言(ざんげん)に遭って流謫(るたく)され、国を憂えて五月五日、汨羅(べきら)に入水自殺した。人々は彼を哀れんで、この日になると粽を江中に投げて屈原を祭ったが、水中の蛟竜がそれを取って食べてしまう。そこで蛟竜に奪われないように、蛟竜の恐れる楝の葉を、粽を入れた筒に挿して水に投ずるようになったという話。』とある。

「心包《しんはう》の相火《さうくわ》」同前で、『心包は心を包んでまもるもの。心を君主とすると心包はそれをまもる宰相にあたる。心・心包ともに五行説では火に配当される。それで心の君火・心包の相火という。』とある。

「熱厥《ねつけつ》」東洋文庫訳の割注に、『四肢』が『冷え、体』に『は熱があり』、『口がかわく病症』とある。

「疝氣」漢方で「疝」は「痛」の意で、主として下腹痛を指す。「あたばら」などとも言う。

「苦楝根皮《くれんこんぴ》」「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱 」の「クレンシ・クレンピ(苦楝子・苦楝皮)」に詳しいので、見られたい。なお、冒頭で私がトウセンダンを挙げたのは、東洋文庫訳の割注で、本「楝」を『トウセンダン』と同定比定していることから、このページを見出し、センダンと並べた次第である。

「蚘蟲《くわいちゆう》」前注で示したリンク先には、『現在の『中華人民共和国薬典』には、「川楝子」としてトウセンダンの成熟果実が、「苦楝皮」としてトウセンダンあるいはセンダンの樹皮および根皮が収載されています。果実は駆虫、鎮痛薬として、疝痛、脘腹脹痛、回虫症による腹痛などに応用し、樹皮および根皮は駆虫薬として内服し、また疥癬などの皮膚疾患に外用されます。回虫駆除効果は樹皮より根皮の方が高く、採集時期は冬もしくは春の発芽前がよいとする報告があります。一方、苦楝皮には毒性があり、めまい、頭痛、睡気、むかつき、腹痛などを引き起こします。重い中毒の場合には、呼吸中枢の麻痺、内臓出血、中毒性肝炎、精神異常、視力障害などがあらわれることがあります。また、苦楝子にはより強い毒性があるとされ、これらの服用には慎重な注意が必要です』。『日本では民間的にセンダンの果実、樹皮、根皮などが利用され、ひび、あかぎれ、しもやけに果実をすりつぶした汁あるいは酒で煎じた汁をつける、耳が腫れて痛む場合に果実をすりつぶして綿に包んで耳の中へ入れる、回虫の駆除に樹皮を煎じて飲む、口内炎に根皮を煎じた汁でうがいをする、疥癬に根皮を酒で煎じて塗るなどの方法が知られています』。『また、インド伝統医学アーユルヴェーダでは、同属のMelia azadirachta L.(英名:Neem)の樹皮、葉、果実などあらゆる部位を薬用にし、皮膚病、泌尿障害の治療や、解熱剤、駆虫剤として用いられています。インドでは、Neemは日常の生活衛生にも取り入れられ、やわらかい小枝は歯ブラシとして利用されます。その他、歯磨き粉や石鹸などにも利用されています。また、『ネパール・インドの聖なる植物』によれば、Neem には悪霊を追い払う力があるとされ、産屋の戸口の外でNeem の葉や枝を焚き、煙で悪霊が部屋に入り込むのを防ぐ風習のあることが記されています』。『厄除けに関しては、陶弘景が「五月五日に葉を取っておび、悪を避ける」と記しているように、中国でもセンダンの仲間に邪気を払う力があると信じられていました。日本でも端午の節句にセンダンの葉を菖蒲のように軒に挿したりしたと伝えられています』。『このように日本、中国、インドで、センダンの仲間が同じように駆虫薬また厄除けに利用されてきたことは、伝承医学の起源や伝播を考えるとき、たいへん興味深く思われます』とあり、回虫を始めとするヒト寄生虫の駆除薬としての、非常に古い歴史があること、さらに、民俗社会での霊薬とする古代からの風習があったことが判り、非常に興味深かった。

「川芎《せんきゆう》」センキュウ。セリ科の草木。その根茎が頭痛などの薬剤になる。薬用として栽培された』とある。当該ウィキによれば、『中国北部原産で秋に白い花をつける』『多年草』(セリ目セリ科ハマゼリ属)『センキュウCnidium officinaleの根茎を、通例、湯通しして乾燥したもので』、『本来は芎窮(きゅうきゅう)と呼ばれていたが、四川省のものが優良品であったため、この名称になったという。日本では主に北海道で栽培される。断面が淡黄色または黄褐色で、刺激性のある辛みと、セロリに似た強いにおいがある。主要成分としてリグスチリド』(Ligustilide)『などがあげられる』。『現在の分析では鎮痙剤・鎮痛剤・鎮静剤としての効能が認められ、貧血や月経不順、冷え性、生理痛、頭痛などに処方されて』おり、『漢方では』「当帰芍薬散」に『配合され』、『婦人病』、所謂「血の道」の『薬として』、『よく用いられる』とあった。

「川鳥頭《せんうず》」猛毒植物として知られるキンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属ハナトリカブト Aconitum carmichaelii を基原とする古い漢方生薬名と思われる。同種は「カラトリカブト」の異名がある。当該ウィキによれば、『ハナトリカブトの各部分には非常に強い有毒成分が含まれており、歴史的には矢に塗る毒として用いられ、塊根を加熱して毒性を減らしたものは「附子(ぶし)」や「烏頭(うず)」として鎮痛や強精などの目的で生薬として用いられてきた』とある。

「新古今」「あふちさく外面《とのも》の木陰露落《おち》て五月雨《さみだれ》晴るゝ風渡る也」「忠良」「新古今和歌集」の「卷第三 夏歌」の前大納言粟田口忠良(ただよし)の一首(二三四番。「をちて」はママ)、

   *

  百首歌たてまつりし時

 あふちさくそともの木(こ)かげ露をちて

   五月雨(さみだれ)はるゝ風わたるなり

   *

前書の「百首歌」は「五十首歌」の誤りで、建仁元(一二〇一)年二月の「老若五十首歌合」である(以上は所持する「新日本古典文学大系」版の本文と脚注を参考にした)。

「藻鹽」「山遠き軒端にかゝる雲見草《くもみぐさ》雨とはならでとくぞ暮《くれ》ぬる」「藻鹽」は「藻鹽草」で、室町時代の連歌用語辞書。二十巻。連歌師宗碩(そうせき 文明六(一四七四)年~天文二(一五三三)年)の著。永正一〇(一五一三)年頃の成立。連歌を詠むための手引として、天象・時節・地儀・山類・水辺・居所・国世界・草部・木部・鳥類・獣類・虫類・魚類・気形・人倫并異名・人事・雑物調度・衣類・食物・言詞の二十項目に分類して、歌語などを集めたもの。国立国会図書館デジタルコレクションの「藻しほ草」(室松岩雄校訂・明治四四(一九一一)年一致堂書店刊)のここ(左ページ下段の「樗十九」(「あふち」の別字)の五行目「雲見草」で、

   *

 山遠き軒はにかゝる雲見草雨とはならてとくそくれぬる

   *

と、視認出来る。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷二 㐧八 あくぎやくの人うみへしづめらるゝ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧八 あくぎやくの人、うみへしづめらるゝ事

○寬文元年、秋の中ばに、「かゝの浦」より、北國へ、くだるふね、あり。

[やぶちゃん注:「寬文元年」は閏八月があるので、秋の半ばとなると、グレゴリオ暦では、一六六一年の七月二十六日から十月二十二日までが「秋」となるので、中秋は、八月四日から九月十四日辺りに相当する。

「かゞの浦」岩波文庫の高田氏の脚注に、『不詳。若狭湾の加尾の浦か。』とある。確かに、私も「加賀」では、既に「北國」であるから、漠然と、ずっと南の地域を感じていた。高田氏の指示されるのは、現在の福井県小浜市加尾(かお)浦で、宇久(うぐ)浦の東にあり、北は西小川(にしおがわ)浦で、西は若狭湾に面する漁村である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 舟中に、をよそ[やぶちゃん注:ママ。]、三、四十人ばかり、のりけり。

 二、三里もいづべきとおもふ折ふし、此ふね、俄に、すはりて、跡へも、先へも、ゆきやらず。

 かこ[やぶちゃん注:「水手(かこ)」。船頭。]をはじめ、舟中の人〻、

「こは、いかなる事やらん。」

と、あはて、ふためく所に、しばらくありて、かしこを見れば、其長(たけ)、五ひろ[やぶちゃん注:「五尋」。ここは海上であり、通常の「一尋」(両手を広げた人体尺で一・八メートル)よりも、短い漁業で使う一・五メートルで換算すると、七・五メートル。]ばかりもあるらんとおぼしき、鰐(わに)[やぶちゃん注:サメ。]と云《いふ》物、五、六十ばかり、ふねの前後(ぜんご)を、うちかこみてぞ、みへ[やぶちゃん注:ママ。]にける。

 人〻、大きにおどろき、手に手に、ろ・かい[やぶちゃん注:ママ。「櫓・櫂」。]を、ひつさげ、

「うちちらさん。[やぶちゃん注:「打ち散らさん」。]」

と、ひしめく所に、かこ、一人、すゝみ出《いで》て、申《まうす》やう、

「いやいや、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、ちからわざには、叶《かなふ》まじ。是は、別(べち)の「ぎ」[やぶちゃん注:「義」。]にては、あるまじ。むかしも、此のうらにて、鰐、人を見入《みいり》、其《その》舟、何としても、うごかず、七日七夜《なにぬかななよ》、すはりけるに、舟中に、五、六十人も、ありつる中《うち》、物に、よく心得たる人、ありて、云《いふ》やうは、

『是は、定而《さだめて》、此舟中の人々の中に、鰐の見入ある人、あるべし。たれといひては、名(な)ざゝれず。とかく、めんめんのはながみを、うみへ、おとして見給へ。其かみを、わにの取りたるを、しるべにして、其の人を、うみへ、おろし、「わに」に、とらせん。』

『尤《もつとも》。』

とて、一人づゝ、かみを、おとしけるに、十四番目にあたりて、津国(つのくに)[やぶちゃん注:摂津の国。]の「なにがし」といひし人のかみを、取《とり》けり。

『扨は。』

とて、いたはしながら、うみへ入《いれ》ければ、舟は、つゝがなく、はしりける、と、ふるき人のはなしを聞をけば、定而(さだめて)、是も、さやうの「ぎ」なるべし。めんめんの、はながみを、入《いれ》てみ給へ。」

といふ。

「さらば。」

とて、めんめんに、おとしける中にも、一人は、かみをも、おとさず、只、よそごとのやうにして、うそぶいて、い[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 人〻、申《まうす》やう、

「何《いづ》れも、かく、なんぎに、あひ、身命(しんみやう)あやうき時節なるに、其方《そのはう》は、何と、おもひ入れ給ふぞ。何れも、のこらず、かみをおとしけるに、其方ばかり也《なり》。はやはや、おとし給へ。」

と、せめける時、せんかたなく、おとしけるに、おつるよりも、はやく、引《ひき》こみける。

 

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[やぶちゃん注:岩波文庫の挿絵は、同書の挿絵の中では、状態が良い方である。三尾の「鰐」が描かれているが、この担当した絵師、実際のサメを見たことがなかったと思われ、想像で描いた結果、ナマズみたような奇怪な触手が口の左右に生えており、サメには認められないビラビラの胸鰭も附いていて、これ、怪奇感を、いやさかに煽って、甚だ面白い。いやいや、こんなのが、六十匹もおったら、こりゃ、「おとろしけない! でぇ! 第一参考底本はここ第二参考底本はここ。でも、やっぱり、後者がいいね。

 

「扨は。いたはしく候へども、其方を、うみへ、おろし申さん。一人に大勢は、かへがたし。かくご、あれ。」

と、口〻(くち《ぐち》)に申せば、此男、大きに、いかり、

「中〻《なかなか》。我に、『うみへ入れ。』とや。何のしさいに、入《いる》べき。おもひもよらず候。『ぜひに、いれん。』と思ふ人あらば、すゝみて、是へ、出《いで》給へ。」

とて、「わきざし」に、手を、かくる。

[やぶちゃん注:「中〻《なかなか》」同じく高田氏の脚注に、『他人の言葉を反発的に受ける語。何だと。何を。』とある。古語辞典では、「なかなか」、ここまで明快な解説は、ないぞ! こね野郎!]

 人〻、大ぜい、おりかさなつて、

「何といふとも、いはせまじ。」

と、手取《てとり》、あしとり、なんなく、うみへ、しづめけるが、其のまゝ、舟は、ゆるぎ出《いで》、じゆんぷうに、「ほ」を、さしあげ、ゆくほどに、舟中の人〻、死のなんを、のがれつゝ、皆、一同に、喜び、うたをぞ、うたひける。

 中にも、かのうみへ、しづみしものゝゆくゑ[やぶちゃん注:ここは「過去の素性」の意。]を、よく、しりたる人、ありていはく、

「かれは、あくぎやくのものにて、おほくの人を、ころし、或は、女・わらんべを、たばかりては、他国へ、うりなどせしむくひ、今日《こんにち》、來(きたつ)て、うみにしづみしなり。」

と、かたれば、きく人、にくまざるは、なし。

「『このはなし、いつはりなき。』よし、『大せいもん』[やぶちゃん注:「大誓文」。神仏に誓って間違いないという証文。]を入《いれ》、同じ舟に、のり合《あひ》て、見申《まうす》。」

よし、越後の人の、かたられける。

 

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷二 㐧七 ごりんより血の出る事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。「ごりん」は言わずもがな、「五輪塔」のこと。挿絵はない。]

 

 㐧七 ごりんより血(ち)の出《いづ》る事

 越前つるがのきんがうに、じやうど寺(でら)あり。

 ある時、はかの、ごりんのだいの、あはせ目より、血のながるゝ事、おびたゞし。

 此の妄者(まうじや)[やぶちゃん注:「亡者」。]を、いかなるものぞといふに、難產にて、死せる女の「はか」なりと、知れり。

 此事、かくれなければ、見物、寺内にぐんじゆ[やぶちゃん注:「群衆」。]す。

 後《のち》には、門をとぢて、出入《でいり》、なかりけり。

「血の出《いづ》る事、つねは、いでずして、其妄者の名日[やぶちゃん注:二種の参考底本ともにママ。「命日」。]ごとに出る。」

と、いひあへり。

 住持も、是に迷惑し、其比《そのころ》、「たいをう」、修行し、其《その》近鄕にましましけるを、住持、いそぎ、しやうじ申《まうし》て、くだんのとをり[やぶちゃん注:ママ。]を語り給へば、「たいをう」、

「いとやすき事也。」

とて、そくじに止め給ふと、聞ゆ。

 それより、かさねて別(べち)の子細、なかりし、となり。

 かやうのはなしは、前代未聞、ためしなき事也。

 比は、明曆(めいりやく)元年の事也。

 此の事は、深く愼しむ事なるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、くはしくは、しるさず。

[やぶちゃん注:「たいをう」「卷二 㐧一 𢙣念の藏主火炎をふく事」に登場した、法力ある僧である。

「明曆元年」一八五五年。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷二 㐧六 れうし、虵に命をとらるゝ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。挿絵はない。]

 

 㐧六 れうし、虵(へび)に命(いのち)をとらるゝ事

 正保元年六月中旬の事なるに、西近江、高嶋近き在所(ざいしよ)に、れうし[やぶちゃん注:「獵師」。]あり。

[やぶちゃん注:「正保元年六月中旬」グレゴリオ暦一六四四年八月十三日から二十三日相当。

「西近江、高嶋」琵琶湖西北岸一帯の旧郡名。現在の滋賀県高島市の大部分(旧滋賀郡志賀町の一部であった琵琶湖西岸高島市南端に当たる鵜川は除く)(孰れもグーグル・マップ・データ)。]

 山より、道に、死《しし》たる「きじ」一つ、あり。

 取《とり》てかへり、やがて。料理(れうり)[やぶちゃん注:動詞「れうる」の連用形。]、火鉢ヘかけてやきけるが、いつのまにか來《きた》るらん、五、六尺もあるらん虵、一すぢ、來つて、「ひばち」の向ふに、くび、もつたて[やぶちゃん注:「持つ立て」。持ち上げるようにして立てて。]、やきける鳥を、目がけ、ゐける。

 れうし、是を見て、

『殺すも、いかが。』

と、おもひ、二、三度ばかり、取《とり》て、すてけるが、また、きたつて、右のごとくにし、此の度(たび)は、火鉢のまはりを、ひためぐりに、めぐりけり。

 れうしも、ふしぎにおもひ、

『きやつは、いかさま、此《この》鳥にしうしん[やぶちゃん注:「執心」。]や、ありて、來るか、やすからぬやつかな。』

とて、やがて、ひつ取《とり》て、二つに引《ひつ》さき、

「ずんずん」

に、きつて、是をも、ともに、やく時に、何とかしたりけん、火鉢の火、飛んで、れうしがふところへ、火、一つ、とび入《いる》。

 獵師、

「はつ。」

と、おどろき、はらはんとするまに、此火、五ざう[やぶちゃん注:「五臟」。]へかけこみ、其のまま。絕入《ぜつじゆ》しけるが、其のあと、大きに、ひろくなりて、三十日ばかり、なやみ、つゐに[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]死《しし》けり。

「虵のとりたるきじを、れうし、知らずして、取《とり》て來りしが、其鳥に、しうしん、はなれず、れうしのあとを、をふ[やぶちゃん注:ママ。]てゆき、つゐには、獵師、虵に命をとられけるか。」

と、みな人ごとにぞ、いひあへり。

 名も所も、失念ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、しるさず。

 

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷二 㐧五 人をころしかね取むくひをうくる事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。挿絵はない。]

 

 㐧五 人をころし、かね取《とり》、むくひをうくる事

〇下總国(しもうさのくに)「ちば」といふ所に、賣買(ばいばい)しける者、有、他所《よそ》より、日〻《ひび》に、かねを取《とり》に來《きた》るもの、あり。[やぶちゃん注:「ちば」言わずもがな、現在の千葉市。]

 亭主、内〻、

『かれをころし、かねを取《とる》べき。』

と、おもふ心、いでき、或時、かの男、かね三、四十兩、もちて、きたる。

 ていしゆ、よろこび、いつならぬ奧へ、しやうじ、大きに、さけをしゐて、ゑひふさせ、ひそかに、しめころし、其夜に、「しがい」をかくし、

「おもひのまゝに、しすましたり。」

と、よろこび、いさみしが、ほどなく、のどけ[やぶちゃん注:「喉氣」。]を、わづらひ、くつう、ひつぱくする事、いふばかりなし。

 醫者を、よび、れうぢ[やぶちゃん注:「療治」。]しけるが、ある時、いしやばかり、座敷に、只一人ゐけるが、いづくより來《きた》るともしらず、いろ、あをざめたるやせ男、一人、きたり、醫者にむかつて、申《まうす》やう、

「我は、これの亭主に、しめころされしものなるが、かたきをとらんため、のどをふさぐなり。むくひの病《やまひ》なれば、其いじゆつ、せんなき事にて、あるべし。只、いそぎ、かへり給へかし。」

と云《いふ》。

 いしや、こたへていはく、

「それは、もつともなり。さやうにあらば、ともかくも、其方のことばに、したがふべし。さりながら、めいどの事は、いかに。」

と、尋ねければ、

「さればこそ、ぢごく、りんゑ[やぶちゃん注:ママ。「輪𢌞(りんね)」。]のさた、すこしも、いつはり、なし。」

と云。

 醫者、また、問《とひ》て、いはく、

「我等、かやうに、ひんなるは、いかなるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]にや。」

といふ。

 㚑(れい)、こたへていはく、

「其方、前世(ぜんせ)にて、とんよく、ふかくして、人の物を、かすめ取、くれべき事[やぶちゃん注:相手に与えるべき場合も。]にも、『我物。』とて、人に遣《つかは》し[やぶちゃん注:対処し。]、一りう[やぶちゃん注:「一兩(いちりやう)」の誤刻であろう。]にても、ほどこすといふ事なくて、たゞ、けんどん[やぶちゃん注:「慳貪」。]の業力《がふりき》にひかるゝゆへ[やぶちゃん注:ママ。]なり。」

と、かたりて、きへ[やぶちゃん注:ママ。]うせぬ。

 されば、人を、がいして、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]が、ためにせんと、おもふといへども、ふと[やぶちゃん注:第一参考底本では『布面』とするが、第二参考底本を見るに、字面(じづら)は「布図」と判読できることから、かく読んだ。]、其身のそこなひと成《なる》ときは、我身を、おもはざる也。いにしへより、今にいたるまで、人のたからを我物にせんと思ふやから、其身の害とならぬは、なし。よくよく、おもひしりて、おそるべし、おそるべし。

[やぶちゃん注:この一話、標題と内容が、なにやらん、医者の方に、ズレてしまっている。]

2024/06/27

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷二 㐧四 れんちよくの女冨貴に成事

 

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。挿絵は、第一参考底本はここ第二参考底本はここ。無論、後者を見られたい。手前の嫁の前にある舛が大舛、舅の方にあるものが、小さな舛であろう。

  㐧四 れんちよくの女冨貴(ふうき)に成《なる》事

○洛陽(らくやう)に、さる商買人《しやうばいにん》、あり。[やぶちゃん注:「洛陽」ここは「京都」の意。]

 子に家をわたし、我は、ゐんきよぜんとしたくして[やぶちゃん注:「隱居然と仕度して」。]、舛(ます)を、二つ、取出《とりいだ》して、よめに、むかつて、いはく、

「なんぢ、今日《けふ》よりして、家を、わたす也。然《さ》れば、此《この》ちいさき舛にては、人に、わたし、大きなるますにては、おさむ[やぶちゃん注:ママ。]べし。」

とて、其「うけとり」・「わたし」のやう、くはしく、をしへければ、よめ、つくづく、聞《きき》て、いはく、

「さやうに、むつかしき所帶(しよたい)ならば 我、『さいばん』[やぶちゃん注:「裁判」。一般の商売に於ける正・不正の認識・判断を指す。]いたす事、かつて成《なし》がたかるべし。さあらば、我には、いとまを給はりて、家にかへらん。」

と、申《まうす》。

 舅《しうと》、おどろき、

「なんぢ、さやうにいひし心ねは、いかに。」

と、問《とふ》。

 よめ、こたへ、いはく、

「さればこそ、其方の兩舛をつかひ給ふ所、さりとては、天道にそむきぬれば、かならず、天のせめ、のがれがたくして、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]は、此家、やぶるゝのみならず、子孫までも、其むくひ、のがれがたかるべし。ぜひ、われに、さいばんさせんと、おぼしめさば、向後《かうご》、兩舛を、やぶり給へ。」

と。

 「しうと」の、いはく、

「扨も。女のちゑうすき事の、はかなさよ。『とくぶん』を得る事をしらずして、『いな。』といふ。然らば、なんぢ、はからひに、まかせをく[やぶちゃん注:ママ。]。ともかくも。」

と云《いふ》。

 よめの、いはく、

「さ候はゞ、其兩ます、つかひ給ふ年數(ねんす)は、いくばく成《なる》ぞや。」

 舅、こたへて、

「されば、廿四、五年余(よ)。」

と申。

 よめ、申けるは、

「今より二十四五年の間、ちいさな舛にて取《とり》、大きなる舛にて出《いだ》し、今までの『とが』を、つぐのひてのち、舛一つに、し給はゞ、とゞまりて、家を、うけ取《とる》べし。」

と云。

 しうと、聞て、

「それは、なんぢが『さいばん』にまかするうへは、ともかくも。」

と云て、家を、わたしける。

 よめ、うけ收《をさめ》て、「れんちよく」して、家を、おさめ[やぶちゃん注:ママ。]ぬれば、其家、日〻《ひび》に、さかへ、男女《なんいよ》、六人まで、うめり。

 子共、成人(せいじん)するにまかせ、次第次第に、それぞれの「かとく」、つぎ、一つとして、何事につきても、ふそくなくして、子孫の「はんじやう」、いふばかりなし。

 されば、よのつねの人の「こゝろへ」には、

『むさぼる時は、財、あつまる。むさぼらざれば、財、あつまりがたし。』

とおもふもの、世に、おほし。「むさぼる」といふとも、財、あつまりがたし。たゞ、「れんちよく」は、かならず、財を、うしなはず。「とんよく」には、「がき」のむくひ、あるべし。「れんちよく」には、ふうきの報《むくひ》あり、となん。たれも、「とんよく」のけがれ、あるまじ[やぶちゃん注:「廉直に生きる者には」という条件文。]。舅、はじめは、兩舛の「とんよく」によつて、たから、あつまるとも、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]は、まどはんずれども、よめの、「れんちよく」にして、家の、いよいよ、とめるをみる時は、兩ますの「とんよく」によつて、ふくぶんのおとれる事を、くゐ[やぶちゃん注:ママ。]ぬべし。されば、

『「とんよく」の人は、ひん[やぶちゃん注:「貧」。]のもとひ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。「基(もとゐ)」。]也。「れんちよく」の人は、ふつきのもとひなり。』

と、古人のことばを、守るべし。

 此はなし、今(いま)、世にすめる人のうへなれば、くはしくは、のべがたし。

 

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷二 㐧三 馬のむくひ來りて死事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。挿絵はない。]

 

  㐧三 馬《むま》のむくひ來りて死(しする)事

○江州大津邊に、平作と云《いひ》て、馬をつかひ、世をわたるもの、あり。

 年比(としごろ)、つかひし馬をしなせて、せんかたなく、野邊(のべ)に、すてけり。

 其次のとし、かの馬を、すてしのべを、とをる[やぶちゃん注:ママ。]に、されたるほねを、あしにて、けまはして[やぶちゃん注:「蹴𢌞して」。]いふやう、[やぶちゃん注:「されたる」「曝(さ)れたる」で、「長い間、風雨や太陽に曝(さら)されて、色褪せたり、朽ちたりする」ことを言う。]

「扨〻、きやつに、數年(すねん)、なんまんの『まぐさ』を、くはれ、おもふやうにも、つかはず、にくきやつが、『しかばね』かな。」

と、いひて、ひた物《もの》[やぶちゃん注:「直(頓)物」で副詞。「むやみに」の意。]、けちらしけるが、何とかしたりけん、「むかふずね」に、ほね、一つ、けたて[やぶちゃん注:「蹴立て」。誤って蹴りたてて、自分の向こう臑(ずね)にしたたか、ぶつけてしまったのである。]、そくじ[やぶちゃん注:「卽時」。]に、たふれ、絕入(たへいり[やぶちゃん注:ママ。])けるが、しばらくありて、やうやう、いきつき、やどにかへり、さまざま、れうぢ[やぶちゃん注:「療治」。]するに、叶(かなは)ず、次㐧次㐧に、疵(きず)、くさり入《いり》、いくほどなくて、死(しに)けり。

 きく人ごとに、

「むまの報《むくひ》か。」

と、いひあへり。

[やぶちゃん注:現実的に言えば、この男の感染したのは、明らかに破傷風である。家畜類では、馬が最も感受性が高く、よく発症することが知られている。病原体は、細菌ドメインのフィルミクテス門Firmicutesクロストリジウム綱Clostridiaクロストリジウム目クロストリジウム科クロストリジウム属クロストジウム・テタニ Clostridium tetani という嫌気性大型桿菌で、傷口から侵入すると、空気に触れない体内に入ることで増殖し、その排出毒素は、世界最強の毒素の一つとして知られ、各種シナプスを遮断し、重い痙性麻痺によって筋肉拘縮が起こり、死に至る。ワクチン接種以外には予防法は難しく、治療法も破傷風免疫グロブリンの投与による毒素中和の対症療法しかなく、致死率は十~三十%と高い。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷二 㐧二 女房死て馬に生るゝ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。挿絵はない。]

 

 㐧二 女房死《しし》て馬《むま》に生《うま》るゝ事

〇正保年中の比、三州、衣(ころも)と云《いふ》所に、ある商人(あきびと)あり。

[やぶちゃん注:一六四四年から一六四八年まで。徳川家光の治世。

「三州、衣(ころも)」現在の愛知県豊田市挙母町(ころもちょう)か(グーグル・マップ・データ)。]

 母、死《しし》て、ある夜の夢に、其子に、つげていはく、

「我、存生(ぞんしやう)にありし時、米やのかねを、負(をい[やぶちゃん注:ママ。])すまさゞるが、いま、其家の『ろば』となりて、是を、つぐなふ事、數年《すねん》也。我を買ふものあらば、うりなんと云《いふ》。なんぢ、母を、おもはゞ、すみやかに來りて、命を、たすけよ。所は、何といふ所の町の米やなり。」[やぶちゃん注:「何といふ所」作者が意識的に特定出来ないようにぼかした表現。]

と、さだかに、かたる、と、おもへば、夢、さめぬ。 

 其子、

「何(なに)、ゆめの事也。」

と、いひて、うちすてぬ。

 又、次の夜も、くだんのとをり[やぶちゃん注:ママ。]、ありありと告(つげ)けるに、

「扨は。ふしぎ也。」

とて、おどろき、其米屋を、たづねゆきて、何となく、とふに、夢に露もたがはずして、

「此ろば、一兩四錢に、ねなつて[やぶちゃん注:「價(ね)」に「成つて」。]、すでに、わたすべきに、きわまりぬ。」

と云(いふ)。折ふし、子の手まへに[やぶちゃん注:手元には。]、わづか五錢ならでは、なし。

「とやせん、かくや、」

と、あんじ、かへりて、親類に、夢のありさまを、かたるに、

「扨は。あはれ成《なる》ことなり。何《いか》ほどにても、用次第に參(まいら[やぶちゃん注:ママ。])せん。其馬《むま》を、もとめ給へ。」

と、すゝむる。

 子、うれしくおもひ、又、米やがかたへゆき、かれが云《いひ》けるほどに、ねを、きはめをきて、扨、ろばのもとへ、ゆきみれば、ろ馬《ば》、此ものをみるとひとしく、なみだをながし、なつかしげなる風情(ふぜい)にて、物をいはぬばかりなり。

 みる人、あはれにおもはざるもの、なし。

 扨、一兩四錢に、かい[やぶちゃん注:ママ。]取《とり》てかへり、やしなひ、ころしけり。[やぶちゃん注:「ころしてけり」は言うまでもなく、「亡くなるまで、世話をし、看取ってやった」の意である。]

 とかく、人は、男女(なんによ)ともに、「とんよく」[やぶちゃん注:「貪欲」。仏教用語の清音を採った。]ふかきものは、かく、「ちくしやう」の躰(あい)にうまれ、報(むくい)のほどを、あらはすと、みへ[やぶちゃん注:ママ。]たり。「れんちよく」[やぶちゃん注:「廉直」。心が清らかで私欲がなく、正直なこと。]の人には、かくのごときの果《くわ》をあらはす事、あるべからず。たとへば、よき「ち」に、よき「たね」を、まくがごとし。かやうの道理を、ごく、分別、あらんかし。

 此はなしは、三州の人の、かたらるゝ、いつはりなき、よし。

[やぶちゃん注:米屋主人は、生前の母が残してしまった未払いの代金を負っているのであるから、当然以上に、決していた馬(驢馬)代以上に請求してもよい筈であるが、この息子の夢の話を聴いて、同じ値段でよいと申し出たのであろう。この話には、悪しき心の持ち主がいない、清々しい怪談と言える。先行する酷似する話(使用表現もほぼそっくり)「卷一 㐧十 𢙣念のものうしに生るゝ事」の二番煎じ感を持たないのは、その徹底した全体の映像の清涼感ゆえと言えると私は思う。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 菜盛葉

 

Saimorinba

 

さいもりは 五菜菜

       正字未詳

菜盛葉 【俗云左以毛利波】

 

△按木葉似桐而小髙一二丈五月出花穗似麹六月結

 實有毛似麹而攅生秋黃熟山人用葉盛食物代噐皿

 故名菜盛葉其木不堪材用鳥啣其子遺屎昜生

 葉【苦甘】 治小兒胎毒草瘡入五香湯用又煎葉汁染皂色

 

   *

 

さいもりば 五菜菜《ごさいさい》

       正字、未だ詳かならず。

菜盛葉 【俗、云ふ、「左以毛利波」。】

 

△按ずるに、木・葉、桐《きり》に似て、小さく、髙さ、一、二丈。五月、花穗を出だし、麹に似、六月、實《み》を結び、毛、有り、≪これも、又、≫麹《かうぢ》に似て、攅(こゞな)り≪に≫生《しやう》じ、秋、黃(きば)み、熟す。山人《さんじん》、葉を用ひて、食物を盛る。噐《うつは》・皿に代《か》ふ。故《ゆゑ》、「菜盛葉(さいもり《ば》)」と名づく。其の木、材用に堪へず。鳥、其の子《み》を啣(ふく)んで、屎《くそ》を遺《のこし》、生(は)へ昜《やす》し。

 葉【苦、甘。】 小兒の胎毒・草-瘡《くさ》を治す。「五香湯《ごかうたう》」に入れて用ひ、又、葉を煎じて、汁≪となし≫、皂(くろ)色を染《そむ》る。

 

[やぶちゃん注:これは、

キントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ属アカメガシワ Mallotus japonicus の別称

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『主に山野に生え』、『葉と種子は染料、樹皮は健胃の生薬になる。別名ゴサイバ(五菜葉)』。『和名「アカメガシワ」の由来は』、『春にでる若葉が』『鮮紅色であること』と、『葉がカシワのように大きくなることから命名されたといわれる。「カシワ」の語源は、葉を食べ物を蒸すときに使ったことから「炊(かし)ぐ葉」が転訛したものである』。『カシワが生育していない地域では、この木の葉をカシワの葉の代用として柏餅を作ったことからアカメガシワと呼ぶようになったとの説もある。地方によって、ゴサイバ、アカガシワなどともよばれている。別名のゴサイバ(五菜葉)は、この植物の葉で食べ物を持ったことがその由来である。古名は楸(ひさぎ)。中国植物名(漢名)は、野梧桐(やごどう)という』。『日本の本州の岩手・秋田県以南、四国、九州、沖縄、国外のアジアでは』、『朝鮮半島、台湾、中国の南部に分布する。日本では二次林に多く、山野、平地、川の土手に自生し、山野の林縁、道端、ヤブなど明るいところによく生えている、典型的なパイオニア植物である。暖帯から亜熱帯産の植物であるため寒さに弱く、日当たりを好み生長が早い。古来は熱帯性植物であり、落葉性を身につけることで温帯への進出を果たしたものと見られる』。『落葉広葉樹の小高木から高木。樹高は』五~十『メートル』『に達する。幹は黄褐色から暗灰色で』、『やや赤みを帯びる。樹皮は灰褐色で若木は縦方向に裂け目が入り、のちに網目状に裂ける。若い枝は、淡灰褐色で太く、星状毛が密生する。春の芽吹きや若葉は、鮮やかな紅色をしており』、『美しく、星状毛が密生する』。『葉は赤く長い葉柄をつけて互生し、形は倒卵状円形から菱型状卵円形で先端は尖り、若い木では浅く』二、三『裂する。葉身の長さは大きいもので』二十『センチメートル』『ほどあり、葉柄を含めると葉の長さは』三十センチメートル『ほどになる』。三つの『大葉脈があり、分岐点に腺体がある。裏に黄色の腺点があってアリが集まることもある。葉が茂る初夏のころでも、枝先には芽吹いたばかりの赤い葉がある。秋には鮮やかな黄色に黄葉して』、『よく目立ち、葉柄だけ赤色に染まる』。『花期は初夏』六~七月で、『雌雄異株。枝先の円錐花序に白色の小さな花を多数つけ、雄株の雄花には黄色の葯が目立つ。雌株の雌花序は、雄花序よりも小さくて花数が少なく、花弁はなく』、『赤い花柱が見える。果実は蒴果で、軟針がある三角状偏球形で径』八『ミリメートル』『ほどの大きさがあり、花序に多数つく。果実には』、『やわらかいトゲが生えており、秋』、九~十月頃に『褐色に熟すと』、三、四『裂して』、同数『個の黒紫色の種子を出し、冬でも枝に残っていたり、果序ごと木の下に落ちていることもある。種子はほぼ球形で、光沢がある黒色をしており、種皮は薄くて剥がれやすい』。『冬芽は淡褐色の星状毛が密生する裸芽で、頂芽は大きく幼い葉が集まり、互生する側芽は卵形で小さい。葉痕は大きく、ほぼ円形で、維管束痕が多数輪状やU字形に並ぶ』。『木の根は生命力が強く、シュート』(Shoot:茎と、その上にできる多数の葉からなる単位で、維管束植物の地上部をなす主要器官。「苗条」(びょうじょう)「芽条」「葉条」「枝条」とも呼ばれる)『を生じて繁殖する。また、種子は高温にさらされると』、『発芽しやすくなり、伐採や森林火災により』、『森林が破壊されると』、『一気に繁殖する』。『成分』として、『苦味質(ベルゲニン、ルチン)、タンニン(ゲラニイン)、マロツシン酸、マロチン酸が含まれている』。『材は軟らかく、床柱・下駄・薪炭に用いる。種子と葉は染料になる』。「日本薬局方」に『記載の生薬で、樹皮は野梧桐(やごどう)、葉は野梧桐葉(やごどうよう)と称する健胃剤となる。葉は夏に採取して水洗いし』、『後に天日乾燥させ、樹皮は秋に採取して細かく刻んで乾燥させることにより、調製される。樹皮を煎じたものは初期の胃潰瘍、十二指腸潰瘍、胃酸過多症に効果があるとされるほか、葉の乾燥品を風呂に入れて入浴すると、あせもに効能があるとされる。民間療法では、葉・樹皮』を『水』『煎じて』、『服用する用法が知られている。また、果実の軟針は駆虫剤に用いる。若葉は食用となり、和え物や』、『おひたしとする』。『同属のものとしては』、『八重山諸島以南に分布するウラジロアカメガシワ M. paniculatus があり、外見は似ているが、葉の裏が真っ白である。この種は東南アジアからオーストラリアに渡る分布を持つ。またより北(トカラ列島以南)まで見られるクスノハガシワ M. philippensis は、葉が硬くて細長く、毛も少ないため見た目はかなり違う印象である。また、沖縄にはヤンバルアカメガシワ Melanolepis multiglandulosa がある。一見はアカメガシワに似るが、より大きく膜質の葉を持つ。果実の穂をぶら下げる姿は独特』である。同科の『別属だが』、『一見似た樹種にオオバベニガシワ Alchornea davidii がある。中国原産の落葉低木で、若葉が鮮紅色で美しく、庭木にされる。葉は網状の葉脈が目立つ。また』、『これと同属のアミガサギリ A. liukiuensis が南西諸島に自生する』とあった。

「攅(こゞな)り≪に≫生《しやう》じ」「攅」の字は「集める・集まる・群がる」の意。東洋文庫訳では、『群生し』とある。

「小兒の胎毒」乳幼児の頭や顔にできる皮膚病の俗称。母体内で受けた毒が原因と思われていた。現代医学では、「脂漏性湿疹」・「急性湿疹」・「膿痂疹(のうかしん)性湿疹」などに当たる。

「草-瘡《くさ》」皮膚に発症する「できもの」・「爛れ」などの総称であるが、特に乳児の頭や顔にできる湿疹・「かさ」を指すことが多い。

「五香湯《ごかうたう》」不詳。漢方の正規の配剤名ではないように思われる。それは、既定の処方に安易に「入れて用いたりする」というのは、医師の良安のらしからぬ謂いとなるからである。寧ろ、民間の薬湯の通名ではなかろうか。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷二 目錄・㐧一 𢙣念の藏主火炎をふく事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

善惡報はなし二之目錄

 

㐧 一 𢙣念(あくねん)の藏主(ざうず)火炎(くわゑん)をふく事[やぶちゃん注:「藏主(ざうず)」本来は、寺院にあって「経蔵」(きょうぞう)を管理する僧を指すが、ここは普通に一般の「出家した者・僧」の意。]

㐧 二 女死(しゝ)て馬(むま)に生(うま)るゝ事

㐧 三 馬(むま)のむくひ來(きた)りて死(しす)事

㐧 四 れんちよくの女冨(とみ)栄(さかえ)る事

㐧 五 人をころし金銀(きんぎん)を取(とり)報(むくひ)をうくる事

㐧 六 獵師(れうし)虵(へび)にころさるゝ事

㐧 七 五りんより血(ち)の出《いづ》る事

㐧 八 あくぎやくの人うみへしづむ事鰐(わに)といふ𩵋(うを)にとらるゝ事

㐧 九 慈悲ある人利生(りしやう)ある事

㐧 十 与四郞の宮(みや)うちたへす事[やぶちゃん注:これは、二種の参考底本ともに、本文の標題は「与四郞の宮(みや)うちたやす事」となっており、内容からも「たやす」が正しいので、これは誤刻である。改題本でも同じということは、改題本刊行に際して、原版木をそ題名の部分のみ新刻しただけであることが、これで判明する。

㐧十一 盲目(もうもく)の母(はゝ)をやしなふ事

㐧十二 れうし虵(へび)をがいし忽(たちまち)頓死(とんし)する事

 

 

善惡報はなし卷二

 

 㐧一 𢙣念ある藏主火炎をふく事

〇明曆の比、らくぐわい[やぶちゃん注:「洛外」。]に「たいをう」と云《いふ》僧あり。諸國を修行し給ふが、或時、たんばぢ[やぶちゃん注:「丹波路」。]を通(とを[やぶちゃん注:ママ。])り給ふに、折ふし、行(ゆき)くれ、道もなき、「人ざと」とをき山中なれば、宿(やど)をとるべきもなくて、

「とやせん。」

と、しばらく立《たち》やすらふ所に、はるかむかふの山ぎはにあたつて、ともし火、かすかに見ゆる。

 かしこにゆきて、戶を、

「ほとほと」

と、おとづれ給ふ。

 あるじのぢい[やぶちゃん注:「爺」。]が、たち出《いで》、

「いかなる人やらん。」

と云《いふ》。

 そうのいはく、

「されば、それがしは、旅のざうずなるが ゆき暮(くれ)て候《さうらえ》ば、一夜をあかさせてたべ。」

 ぢい、聞《きき》て、

「やすきほどの事に候ヘども、此屋には、こよいかぎりの病人の候。物やかましく候とも、かんにん[やぶちゃん注:「堪忍」。]あらば、入《いり》給へ。」

とて、庭(にわ[やぶちゃん注:ママ。])のかたすみを、かしけり。

 たいをう、物さびしさに、念珠をくりてましますが、

『よゐ[やぶちゃん注:ママ。「宵(よひ)」。]の病人は何ものぞ。』

と見る所に[やぶちゃん注:見てみたところが。]、七十ばかりのばゝなるが 夜半すぎに、つゐ[やぶちゃん注:ママ。]に死(しゝ)けり たゞ、夫婦の事なれば、たれあつて、なにかと申《まうす》人も、なし。

 しばらくして、ぢい、申《まうし》けるは、

「それにましますしゆぎやうじや[やぶちゃん注:「修行者」。]、さいぜん、申たる病人は、それがしが女(つま)にて候が、只今、はてゝ候。御らんじ候ごとく 此山中に、夫婦ならでは、又、むつまじきものもなく候。『あはれ』と、とはせ給へ。此山のあなたにこそ、子共、あまた、もちて候。かれらにしらせたく候。御そうるすをたのみ申《まうす》。」

と、いひて、其身は、うらみちさして、ゆくほどに、

『はや、じこくも、うつりぬ。』

と、おもふ時分に、いづくより來《きた》るともしれず、其長(たけ)、六尺あまりもあるらんとおぼしき入道、來りて、かの死人のふしける所へ、

「つつ」

と、より、火(くわ)ゑんを、ふきかけ、食(くは)んとする事、度〻《たびたび》也。

 

[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ第二参考底本はここ。例によって、断然、後者がよい。

 

 たいをう、見給ひて、

『きやつは、房主(ばうず)の、よろこぶ一念の、來《きた》るぞ。』

と、おもひて、

「つつ」

と、より給ひ、死人《しびと》を、おさへ、「じゆず」をもつて、かの入道を、二つ、三つ、うち、佛號をとなへ給へば、かきけすやうに、うせぬ。

 其後《そののち》、ぢいと、同道して來《きた》る房主をみれば、さいぜん來る「ばうず」也。

 たいをう、ふびんに思ひ給ひ、かの「ばうず」を、ひそかに、かたはらヘ、よびて、くだんのむねを、具(つぶさ)に、かたり給ふ。

 此房主、さんげして、いはく、

「扨は。さやうの事の、ありつるこそ、はづかしくは候ヘ。今夜(こんや)、此死人の事を申來《まうしきた》るを、よろこび、『扨は、斎(とき)ふせを、たぶべき、うれしさよ。』と、おもふ一念、候へつるが、さだめて、其心の、きたりつらん。あら、あさましの我心《わがこころ》や。」

と、なみだを、

「はらはら」

と、ながし、

「扨〻、御そうは、佛のさいたん[やぶちゃん注:「再誕」であろう。]にてありつらん。かやうのわざを見給ふうへは、貴(たうと)き御心入《おんこころいれ》とぞんじ候。しからば、今日《こんにち》より御そうの弟子に、まかり成(なり)、ともに『しゆぎやう』いたさん。」

と、やがて師㐧(してい)のけいやくをぞ、しける。

 是は、正《まさ》しき、たいをう、かたり給ふ。

 名所(などころ)を、ふかくつゝみ給ふゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、かくのごとく也。

[やぶちゃん注:「たいをう」不詳。彼は後の「卷二 㐧七 ごりんより血の出る事」にも登場するが、岩波文庫の高田氏の注でも、『不詳』とする。漢字表記も宗派も不明である。

「斎(とき)ふせ」僧侶に布施として捧げる食物や物品・金銭を広く「齋料(ときれう)」と呼ぶ。それであろう。但し、「斎(齋)布施」という熟語は、畳語であり、まあ、あってもおかしくはないが(泉鏡花の「草迷宮」の「十五」の終りにある)、あまり見かけない。]

2024/06/26

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 赬桐

 

Higiri

 

たうぎり  赬【音稱】

       【赤色再染也

        今云唐桐】

赬桐

 

ひきり

 

本綱赬桐生江南身青葉圓大而長髙三四尺便有花成

朶而繁紅色如火無實爲夏秋榮覌

[やぶちゃん字注:「覌」は、底本では、「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、これを用いた。而して、この字は「觀」の異体字である。]

△按赬桐近年來於薩州屋玖島植庭園愛之葉大五六

 寸許而微皺其花深紅色有臭樹之花樣性甚畏寒故

 冬則藏根株包藁至春移栽于地或植於盆賞花

 

   *

 

たうぎり  赬《てい/ちやう》【音「稱」。】

       【赤色の「再染(やしほぞめ)」なり。

        今、云ふ「唐桐《たうぎり》」。】

赬桐

 

ひぎり

 

「本綱」に曰はく、『赬桐《ていとう》は、江南に生ず。身、青く、葉、圓《まろ》く、大にして長し。髙さ、三、四尺。便《すなはち》、花、有り、朶《はなぶさ》≪を≫成して、繁《しげ》く、紅色。火のごとく、實《み》、無し。夏秋の榮覌《えいくわん》と爲《せ》り。』≪と≫。

[やぶちゃん字注:「覌」は、底本では、「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、これを用いた。而して、この字は「觀」の異体字である。]

△按ずるに、赬桐、近年、薩州の屋玖(やく)の島より、來《きた》り、庭園に植《うゑ》て、之れを愛す。葉の大いさ、五、六寸許《ばかり》にして、微《やや》皺(しわ)あり。其の花、深紅色。「臭樹(くさぎ)」の花の樣(ありさま)、有り。性、甚だ、寒を畏《おそ》る。故《ゆゑ》、冬は、則ち、根株を藏(かく)し、藁に包む。春に至りて、地に移し栽《う》ふ。或《あるいは》、盆に植《うゑ》て、花を賞《しやう》す。

 

[やぶちゃん注:「赬桐」は、

シソ目シソ科キランソウ亜科クサギ属ヒギリ Clerodendrum japonicum

である。「維基百科」の「赬桐」も同種である。良安の示す漢字音には、ちょっと問題がある。「廣漢和辭典」を見るに、音は『テイ』と『チョウ(チャウ)』であり、「稱」(ショウ)とは音通でない。現代中国音では「赬」は「チァン」であり、「稱」は「チェン」で、やはり音通でない。そして、「赬」の意味は、単に「赤い・赤色・薄い赤」の意しかない。而して、同辞典では、「爾雅」の「釋器」を引き、そこに、良安が標題下で割注した『再ムル。』が引かれている。

 ヒギリの当該ウィキを引いておく。『花が美しいことから古くから栽培されてきた』。『落葉性の小低木』『背丈は』一メートル『程度になる。葉は対生で長い葉柄があり、葉身は卵円形で先端が尖り、基部は心臓形となり、その形はキリに似る。葉の長さは』十七~三十センチメートルで、『縁には細かい鋸歯が並び、葉表は深緑色で裏面には黄色い短い腺毛を密生する』。『花期は夏から秋で、枝先に大きな円錐花序を伸ばし、赤い花を多数つける。花序は長さ』三十~五十センチメートルに『なるが、その花軸から花柄、萼や花冠と全てが赤い』。『萼は卵円形で』五『裂し、花冠と同じ赤色。花筒は長さ』二センチメートル、『先端は』五『裂して平らに開き、やはり真っ赤。雄蘂は』四『本、柱頭と共に花筒から突き出し、伸びて先端が上を向く』。『和名は緋桐で、別名にトウギリ(唐桐)がある』。『原産地は東南アジア』で、『中国南部からインド北部にかけて自生している』。『九州南部で植栽され、時に野生化してみられる』。『古くから栽培され、暖地では庭園に植えられることもある』。『日本への渡来は古く』、「花壇地錦抄」(植木屋伊藤伊兵衛(三之丞)著の草花図譜。元禄八(一六九五)年刊)に『出ている。恐らくその渡来は延宝年間』(一六七三年~一六八一年)『と言われる。耐寒性は強くないので』、『栽培は暖地に限られるものの、東京でも暖かい場所では藁囲い程度で冬越し出来る例もある』。『繁殖には根伏せが利用出来る。根を』二十センチメートル『程度切り取って』、『土をかけておくと』、『発根し』、『芽が出る。これは自然な状態でも起きるもので、暖地では親株の周囲に伸びた根から不定芽が生じて集団を作るのが見られるという』と、以上の記載と、完全に一致する。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「海桐」(ガイド・ナンバー[085-29b]以下)の「集解」の後半から、ほぼ忠実に引いている。

「榮覌《えいくわん》と爲《せ》り」「榮觀」。東洋文庫訳では、『見事な眺望となる』とある。

「屋玖(やく)の島」屋久島。連れ合いが足が悪かったので、ウィルソン株は断念したが、三十代の時、二泊した。いい島である。

「臭樹(くさぎ)」クサギ属クサギ変種クサギ Clerodendrum trichotomum var. trichotomum 。委しくは、当該ウィキを見られたい。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷一 㐧十三 女房下女をころす事幷大鳥來りてつかみころす事 / 卷一~了

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。本篇を以って「卷一」は終っている。]

 

 㐧十三 女房、下女をころす事幷《ならびに》大鳥(だいてう)來りて、つかみころす事

○同年の比、江州、北の郡(こほり)に、さるもの、有(あり)。

[やぶちゃん注:「江州、北の郡」最後に注意書きするように、単に近江の国の北にあった某「郡」とぼかしてあるのである。]

 田畠(たはた)・山、おほく、もち、下人、あまたあり、何《いづ》れも、かれを、うら山《やま》ざらんもの、なし。

 或時、京より、妻(つま)、むかへけるが、下女を、一人、つれ來《きた》る。

 ことに、此女房、すぐれて「ねたみ」ふかき、邪見のもの也。

 夫(をつと)、かの下女に、つねに、情(なさけ)らしくありけるを、女房、大きに、下女を、にくみ むちうち、なやましけり。

 としへて、かの下女、はらみけるけしき、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、

「さればこそ。かく、おもひつれ。」

とて、かの下女を、はだかになして、地に、あをのけ、はらみたる「はら」を、下人どもに、いひ付《つけ》て、ひた物[やぶちゃん注:副詞。「無暗に」。]、ふませける。

 下人どもも、いたはしく思ひながら、主人の仰《おほせ》なれば、是非なくして、ふむほどに、四、五日ありて、終(つゐ[やぶちゃん注:ママ。])に、ふみころせり。

 其後《そののち》、一年ほどありて、女房、「くわいにん」しけるが、何となく、なやみて、次第に、おもく成《なり》ぬ。

 其折から、かの女の㚑《れい》、來りて、おもかげに立《たち》て[やぶちゃん注:目の前に姿が浮んで。]、なきさけび、近付(ちかづき)よつて、手をもつて、女房の「はら」を、つく、と、おぼゆるに、其まゝ、「はら」、しきりに、いたくなりて、やがて、「さん」を、しける。

 「石がめ」のやう成《なる》物を、五つ、うめり。

[やぶちゃん注:「石がめ」日本固有種の、爬虫綱カメ目イシガメ科イシガメ属ニホンイシガメ Mauremys japonica 。挿絵の左下方に、五匹、描かれてある。ヴィジュアルに、私の『毛利梅園「梅園介譜」 龜鼈類  龜(亀の総説と一個体) / ニホンイシガメ』をリンクさせておく。]

 

[やぶちゃん注:本篇には挿絵がある。第一参考底本はここ第二参考底本はここである。後者は、またまた落書があるが、出生した異形の五体のカメ型胎児(というより、そのまんま)が描かれ、細部もよく見える。

 

 そばにありける人〻、大きに、おどろき、さはぎ、

「こは、いかに。」

と、ひしめく所へ、何くともなく、大鳥、七、八つ、「さん」[やぶちゃん注:「棧」。]のあたりへ來り、「は」[やぶちゃん注:「羽」。]を、たゝき、とびまはる。

 人〻、おどろき、

「わつ。」

と、いひて、にげさりけり。

 時に此鳥、女ばうを、ひつつかみ、「こくう」に、あがり、はるかのそらより、おとしけるに、みぢんになつて、うせにけり。

 されば、「しつと」の邪見、世に品〻(しなじな)ありといへども、かゝる「あくぎやく」[やぶちゃん注:「惡虐・惡逆」。]は、又、ためしなき事也。

 めづらしき事なれば、又、報《むくい》も、かくのごとし。

 此はなしは、今、世に、すむ人の身うへなれば、名所(などころ)を、わざと、しるさず。

 

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷一 㐧十二 死したる子來り繼母をころす事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。本篇には挿絵はない。]

 

 㐧十二 死したる子來り、繼母(けいぼ)をころす事

 ちくごの山下(やました)と云《いふ》所に、舛屋安兵衞と云《いh》もの、あり。

[やぶちゃん注:岩波文庫の高田氏の脚注に、『現熊本県玉名郡岱明町山下のあたり』とある。現在は熊本県玉名市岱明町(たいめいまち)山下。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 はじめの妻(つま)の子を「五郞助」と云ひ、のちの妻の子を「四郞三郞」と、いひけり。此の繼母、あくまで邪見(じやけん)の者にて、我子は、いとをしみ[やぶちゃん注:ママ。]、まゝ子を、にくみ、そねみ、つらくあたる事、いふに、おろか也。

[やぶちゃん注:「四郞三郞」知ってる人には五月蠅いだけだが、これで一人の名前である。説明するのも阿呆くさいので、Q&Aサイト「Yahoo!JAPAN知恵袋」の高武蔵守師直氏の回答をリンクさせておく。]

 もとより、此安兵衞、「ちゑ」、くらく、氣よはきものなれば、繼母、はゞかる所もなく、心にまかせて、「ざんあく」[やぶちゃん注:「慘惡」。]を、はたらきぬるに、まゝ子の五郞助を、さいなむ事、あげて、かぞへがたし。

 かく、さいなむ事、年(とし)久しくあり。

 五郞助、十七のとし、終(つゐ[やぶちゃん注:ママ。])に、かつやかし[やぶちゃん注:「渴つやかし」。高田氏脚注に『飢死にさせ。』とある。]、ころしてけり。

 母、大きによろこび、

「今は、思ひのまゝなる世中《よのなか》なり。」

と、よろこぶ所に、五郞助、死《しし》て、廿日あまりして、俄に、家の内に、聲(こゑ)、ありて、いはく、

「我は、是《これ》、五郞助が怨㚑(をんれう[やぶちゃん注:ママ。])也。われ、罪なきに、繼母に、がいせられぬれば、此《この》むねん、終《つひ》に晴れやらず。我を、さいなむごとくに、汝と子とを、なやまし、ころすべし。いかに、まゝ母、思ひしれ。」

と云《いふ》聲、まさしく、五郞助、世にありし時の物ごしに、露(つゆ)も、たがはず。

 家内のものども、おどろき見れども、其のすがたは、見へず。

 かやうに、いひし事、たびたび也。

 まゝ母、きもをけし、みこ・かんなぎ、或は、僧を、あつめ、さまざまのそなへ物などをして、わびぬれども、あざわらふ聲のみして、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、「家なり[やぶちゃん注:「家鳴(やな)り」。]」、おびたゞしくして、たちまち、家をくつがへすかと、うたがはる時も、あり。

[やぶちゃん注:「みこ・かんなぎ」孰れも「巫女」「巫」と漢字表記する。特に二種に区別はなく、生霊・死霊(しりょう)と交感し、その意中を伝えることを職業とする、特定寺院や神社に所属しない民間の呪術者を指す。特にこの二つで呼称されるのは、その殆んどが女性である(男性の場合は区別して「覡」(げき)とする場合がある)。恐らくは、神社に付属していた神前で神楽を奏する処女の舞姫である「神巫(いちこ)」からきた呼称とされている。

 また、或時は、

「家を、やき、ほろぼさん。」

と、いひて、火を出《いだ》し、家を一塵(《いち》ぢん)となさんとする事も、あり。

[やぶちゃん注:「一塵」同じく高田氏の脚注に『一摑みの灰。』とある。]

 大をん[やぶちゃん注:「大音」。]にて、

「我を、ころして、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]が子を世にたてんとおもふとも、只今、おや子もろともに、とりころさん。」

といふこゑ、しきりにして、終(つゐ[やぶちゃん注:ママ。])に、四郞三郞、六才にて、死《しし》けり。

 母は、

『怨㚑、來りて、たゝく。』

と見へしが、一月ほどして、「うら口(ぐち)」にて、ころび、血を、はきて、死《しし》けり。

 かなしきかな、報《むくい》、れきぜん、あらはれ、親子ともに、ほどなく、取《とり》ころされし事、おそれても、おそれ、有《あり》。

 此《この》はなしは、正保(しやうはう)年中の事也。

[やぶちゃん注:「正保年中」一六四四年から一六四八年まで。徳川家光の治世。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 海桐

 

Simagiri

 

しまぎり  刺桐

      【今云島桐】

海桐

 

本綱海桐生南海山谷中葉大如手作三花尖皮若梓皮

黃白色而堅靭可作繩入水不爛其木有巨刺如欓樹文

理細緊而性喜折裂三月開花赤色照映三五房凋則三

五復發其實如楓子

△按海桐工匠以旋箱僞白桐然木理縱文微似椹木理

 劣於白桐矣畫譜云海桐花細白如丁香而嗅味甚惡

 遠觀可也據此則花色白蓋有赤白二種乎

 

   *

 

しまぎり  刺桐《しとう》

      【今、云ふ、「島桐」。】

海桐

 

「本綱」に曰はく、『海桐《かいとう》は、南海の山谷の中に生ず。葉の大いさ、手のごとし。三花《さんくわ》≪の≫尖《とがり》を作《な》す。皮、「梓《し》」のごとく、皮は、黃白色にして、堅く、靭(しな)へて、繩に作るべし。水に入れて、爛(たゞ)れず。其の木、巨《おほき》なる刺(はり)、有りて、欓樹《たうじゆ》のごとく、文-理(きめ)、細く緊《しまり》て、性、喜んで、折れ、裂く。三月、花を開く。赤色。照(て)り映(かゝや)く、三、五房≪あり≫。凋(しぼ)む時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、三、五、復た、發(ひら)く。其の實《み》、「楓子《ふうし》」のごとし。』≪と≫。

△按ずるに、海桐(しまぎり)、工匠、以つて、箱に旋(さ)し、「白桐。」と僞る。然《しか》れども、木-理《きめ》、縱文、微《やや》、椹(さはら)の木の理(きめ)に似て、「白桐」に劣れり。「畫譜」に云はく、『海桐の花、細白。「丁香《ちやうかう》」のごとくにして、嗅味《しうみ》、甚だ惡《あ》し。遠く觀て、可《か》≪なる≫べし。』≪と≫。此れに據れば、則ち、花の色、白し。蓋し、赤・白、二種、有るか。

 

[やぶちゃん注:この「海桐」というのは、沖縄で知られる、私の好きな赤い花を咲かすところの、

双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科デイゴ属デイゴ Erythrina variegate

のことである。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『インド、マレー半島などの熱帯アジア、オーストラリアが原産。日本では沖縄県(あるいは奄美大島)が生育の北限とされている』。『鹿児島県奄美群島でも加計呂麻島の諸鈍海岸で約』八十『本の並木道となっているなど、あちこちでデイゴの大木が見られるが、交易船の航海の目印とするため等で沖縄から植栽されたものといわれる』。『極めて丈夫で、生長がとても早い樹である。花は深紅色の総状花序。花期は沖縄では』三『月から』五『月頃である。ただし、デイゴの開花度は植栽されている場所や植物の個体によって異なり、同一個体の中でも位置や枝によってかなり差異がある』。『葉は全縁の三出複葉。葉身は広卵形ではっきりした葉脈があり、長い葉柄を持つ。落葉樹であり』、『本来は開花に先立って落葉するが、沖縄では落葉しないままのデイゴも多く、北限に近い亜熱帯で湿潤な気象環境などの影響により』、『結果的に落葉しないまま非開花状態となっていると考えられている』。『観賞用や緑化庇蔭樹として利用されるほか、漆器(琉球漆器)の材料としても使われる』。『デイゴの生育に関しては、台湾方面から飛来・帰化したとされるコバチ』(膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目コバチ上科ヒメコバチ科Eulophidae)『の一種』Tetrastichinae亜科 Quadrastichus 属『デイゴヒメコバチ ( Quadrastichus erythrinae )による被害が相次いでいる』。『学名の属名 Erythrina(エリスリーナ)はギリシア語の「赤い」という言葉の意味からきており、デイゴの花の明るい赤色に基づく。英名を coral tree(コーラル・ツリー)といい、花の赤色を珊瑚に見立てたものである』。『デイゴの和名の由来はよく分かっておらず、一説には「大空」が訛ってデクと言ったことからの名だという説もある。デイゴの名称(和名や学名)は歴史的に混乱がみられたと指摘されている』。琉球国の本草学者『呉継志の』「質問本草」(天保八(一八三七)年写本)には(但し、作者は別に尚穆・尚温王代の御典医であった島袋憲紀(舌瘡の治療法で知られる島袋憲亮(唐名「晏孟徳」の養子)説の他、実在しない架空の人物とする説もある)、『「梯姑」「デーグ」「デイコ」とあるが、漢字の読み方および方言名の呼び方の文字化については研究者で意見が分かれる。また』、「沖縄物産誌」・「中山物産考」・「質問本草」等、『古書に由来する呼称は、デイグ、デイコ、デーグ、デーゴの』四『つで、デイゴはこれらには含まれていない』。『学名も学者によって同一でなく、園芸書によってまちまちだったと指摘されている』。『なお、海紅豆(かいこうず)が別名とされることが多いが、これは別種のアメリカデイゴ』 Erythrina crista-galli 『(鹿児島県の県木)のことである』とある。『沖縄県外では奄美群島のほか、小笠原諸島にも自生しており、現地ではムニンデイゴやビーデビーデ、南洋桜(なんようざくら)などとも呼ばれる。ただし』、『この小笠原諸島のデイゴを本種とは別のムニンデイゴ( Erythrina boninensis )という固有種であるとする説もかねてより存在している』。『ハワイ産のシロバナデイゴ( Erythrina variegata f. alba )も沖縄県に導入され、デイゴより早く咲くことが知られる』。『沖縄県の県花でもあり』、一九六七年に『県民の投票によって「沖縄県の花」として選定された』。中文の同種のウィキ「刺桐」によれば、福建省泉州市の市の花に選定されているとある。『オオゴチョウ』(マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科 Caesalpinia 属オウコチョウ Caesalpinia pulcherrima :中文名「黃胡蝶」)『サンダンカ』(リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科 サンタンカ属サンタンカ Ixora chinensis :中文名「仙丹花」)『とともに沖縄県の三大名花に数えられる。沖縄本島の那覇空港を出たところや、那覇市内に続く道筋にはデイゴの並木が続いている』。『デイゴが見事に咲くと、その年は台風の当たり年で、天災(干ばつ)に見舞われるという言い伝えがある(THE BOOMの楽曲「島唄」の歌詞にも書かれている)』(YouTubeの「THE BOOM―島唄(オリジナル・ヴァージョン)」が視聴でき、歌詞はここで視認できる)。『また、県内では「やしきこーさー(屋敷壊さー)」とも呼ばれることもあるが、これは根の力が強く、家の近くに植えると』、『根が伸びて家を傾かせてしまうからであるという』。『琉球大学で学生が配る合格電報の文面は「デイゴサク」となっている』とあった。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「桐」(ガイド・ナンバー[085-29b]以下)から。

 

「欓樹《たうじゆ》」ムクロジ目ミカン科サンショウ属カラスザンショウ変種カラスザンショウ Zanthoxylum ailanthoides var. ailanthoides 。本邦にも自生する。委しくは当該ウィキを見られたいが、そこに『樹皮は灰褐色で、短くて鋭いトゲがあり、老木ではいぼ状になってトゲの痕が残る』。『若い枝は緑色や紅紫色で無毛で、枝にもトゲが多い』とあった。「楓子《ふうし》」ユキノシタ目フウ科フウ属フウ Liquidambar formosana 。本邦の「楓」(かえで)ではないことは、既に「楓」で注した。

「箱に旋(さ)し」「旋」の「廻らす・回す」の意を「加工する」に転用したものであろう。

「白桐」「桐」で既出の双子葉植物綱シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa

「椹(さはら)」マツ綱ヒノキ目ヒノキ科 ヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera

「畫譜」既出既注

「丁香《ちやうかう》」Clove。フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum

「蓋し、赤・白、二種、有るか」「維基百科」の「刺桐」に『刺桐白花品種』の画像がある。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷一 㐧十一 人をねたむ女の口より虵出る事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧十一 人をねたむ女の口より、虵(へび)、出《いづ》る事

 

 江州、「くりもとのこほり」に、松兵衞と申《まうす》もの、あり。

[やぶちゃん注:『江州、「くりもとのこほり」』近江国北部の郡名。滋賀県旧栗太郡で、現在の草津市・栗東市の全域、及び、大津市の一部(瀬田川以東)と守山市の一部に相当する。旧郡域は当該ウィキの地図を参照されたい。]

 かれが女房、ねたみふかき女なり。

 ある時、夫(をつと)、「ぎやうずい」し、下女に、せなかを、ながさせける。

 女房、大きにいかり、男の「るす」を、うかゞい[やぶちゃん注:ママ。]、此下女が兩手のゆび、やきゝり[やぶちゃん注:「燒き切り」。]、おひいだしけり。

 ある時、此女ばう、「ひるね」しけるに、何ともしれず、兩手のゆびを、

「しか」

と、さしける[やぶちゃん注:「刺しける」。]。

 女、おどろき、あたりを、みれども、なにのわざとも、しれず。

 そのゆび、次㐧次㐧に、いたみ、大きにはれ、くさり、たゞれて、おちけり。

 それにも、こりず、今一人の下人・下女、聲、よくて、歌、うたふを、

「夫、おもしがりける。」

とて、「した」を、はさみ出《いだ》して、きりて、けり。

 程へて、此女ばう、俄《にはか》に、「した」、こばりて、物云《いふ》事、かなはず。

 是を、かなしみて、あるたつとき「そう」のかたへゆき、一〻《いちいち》、くだんのとをり[やぶちゃん注:ママ。]を「さむげ[やぶちゃん注:ママ。「さんげ」。「懺悔」。]」して、

「此の『ぜつごん』[やぶちゃん注:「舌言」。]かなひ候やうに、『きたう』して、たべ。」

と、いひける。

 僧のいはく、

「それ、其方《そのはう》の『あくぎやく[やぶちゃん注:「惡逆」。]』により、下人のゆびをきり、したを、ぬき給ふ『むくひ』、すでにあらはれ來り。『しつと』の邪心」(じやしん)、はなはだしく、其《その》『した』、終《つひ》には、きれて、おつべし。」

と申さるれば、此女、ふかくなげき、

「何とぞして、物、いはるゝやうに『きたう』して給はり候へ。」

と、五躰《ごたい》を、「ち[やぶちゃん注:「地」。]」になげて、かなしみける。

 

111

[やぶちゃん注:第一参考底本はここ、第二参考底本はここ後者では、落書がかしこに見られるものの、僧の姿や、女房が口から蛇を半ば出だしているシーンがはっきりと視認出来る。

 

 其時、「そう」、「かんたん[やぶちゃん注:「肝膽」]」をくだき、いのらるゝとき、かの女ばうの口より、あかき虵、一すぢ、はひ出《いで》、なかば、内に、とゞまりぬ。

 僧、こゑを、はげまして、きうに[やぶちゃん注:「急に」。]いのり給へば、くだんの虵、ち[やぶちゃん注:「地」。]に落(おち)、行(ゆき)がたしらず、うせにけり。

 それよりして、此女、今までの「あく心」を、くひ[やぶちゃん注:ママ。]、かへして、「じひ」ふかくぞ、なりたりける。

 此はなしは、明曆年中の事也。

[やぶちゃん注:「明曆年中」一六五五年~一六五八年。第四代徳川家綱の治世。]

 

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷一 㐧十 𢙣念のものうしに生るゝ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。本篇には挿絵はない。]

 

  㐧十 𢙣念のもの、「うし」に生《うっま》るゝ事

○尾州に、酒を商《あきなふ》もの、あり。

 しゝて[やぶちゃん注:「死して」。]、むすこの夢に、つげて云《いはく》、

「我は、存生(ぞんしやう)にありし時、ちいさき舛(ます)にて、『さけ』を、うり、大《おほ》き成《なる》舛にて、あたい[やぶちゃん注:ママ。]をとる事、數年(すねん)なり。其報《むくい》により、『うし』に生《うま》れ、同國、春日部(かかべ[やぶちゃん注:ママ。])と云《いふ》所の庄屋、『市助』と申《まうす》ものゝ家につかはれ、田をたがやし、くつうせし事、なゝめならず。」

と、かたると、みて、夢、さめぬ。

 むすこ、まことしくおもはれざれども、さだか成《なる》ゆめのつげなれば、ふかく、なげき、其近所の者に、

「其方《そのはう》のあたりに、かやうかやうのもの、ありや。うしなども、持《もち》けるか。」

と問《とふ》に、

「さも候。」

とて、くはしくかたるをきけば、夢に、すこしも、たがはず。

 むす子[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、市助が家を尋ね行《ゆき》、

「うしを、もとめ得て、かへらん。」

と請(こふ)。

 庄や、

「やすき事也。」

とて、「うしべや」へ、同道しければ、

「此うし、すぐれたる『人づき』にて、つかふもの、一人ならでは、なかりし。」

[やぶちゃん注:「と云へる」ぐらいを入れておきたい。]が、此むす子を、みて、なれなつくのみならず、淚を、ながしける。

[やぶちゃん注:「人づき」両参考底本ともに「人つき」であるが、濁音で採った。「人付(ひとづき)」で、この場合は、「素直に人間の言いなりになること」の原義を、否定の意に転じた「いっかな、人間に馴れず、使い勝手の劣悪な人嫌いの牛であること。」の意であろう。]

 むす子、立《たち》よりければ いよいよ、此うし、かしらを、うなだれ、ねぶりて、只(たゞ)、ものいはざるばかりのありさまなり。

 むす子、則《すなはち》、あたい[やぶちゃん注:ママ。]を、わたし、買(かい[やぶちゃん注:ママ。])とり、家に、かへり、やしなひ、ころしてけり。[やぶちゃん注:「ころしてけり」は言うまでもなく、「亡くなるまで、世話をし、看取ってやった」の意である。]

 「とんよく[やぶちゃん注:そのまま仏教用語の清音の方を採った。「貪欲」。]」の人、かくのごとし。死《しし》て、ほどなく、「ちくしやう」の身を、うけ來りて、因果のほどをあらはし、むす子につぐる程の「つうりき」は、あるまじけれども、且(かつ)、神明《しんめい》の、かれに告(つげ)給ふと、おぼゆ。何《いづ》れも、世間、「とんよく」の人は、かく、あらはれざるか。二つのうちに、もるゝ事、なし。たゞ、かりにも、非道を、よくよく、「ぎんみ」すべし。

[やぶちゃん注:「二つ」「神明」は神道の神々を指すが、江戸以前の神仏習合にあっては、「神佛」の両義が混淆しているから、それを分けて「神と仏」で「二つ」と言ったものであろう。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷一 㐧九 商人人の目をくらまし己も盲目に成事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の「己(をのれ)」と「盲目(まうまく)」の読みはママ。本篇には挿絵はない。] 

 

  㐧九 商人(あきびと)、人の目をくらまし、己(をのれ)も盲目(まうまく)に成事

〇明曆の比、常州多河(たが)といふ所に、さる商人あり。

 しよ[やぶちゃん注:「諸」。]商物に、いろいろ手苦勞(てぐらう)をし、人の「まなこ」をくらます事、數年(すねん)なり。

 ある時、大分の「にせ物」をして、「ぎんみ」にあひ、すでに「くせ事《ごと》」に、あふべきにきはまりしを、相手、なさけあるものにて、其なむ[やぶちゃん注:「難」。]をの、がれける。

 さる時、下人に、少《すこし》の「とが」ありしが、大分のやうに、いひかけ、引《ひき》よせて、兩眼(りやうがん)を、やきつぶして、おひ出す。

 ある時、女房、「くわいにん」しけるが、程なく、虵(へび)を、うめり。

「こは、いかゞなり。」

と、おどろきさはぎ、みれば、目、しゐ[やぶちゃん注:ママ。「盲(し)ひ」。後も同じ。]たる虵也。

 やがて、うちころして、すてぬ。

 かさねての、「さん」にも、また、かくのごとし。

「いか成《なる》事やらん。」

と、なげき、かなしむ。

 ある夜の夢に、神明(しんめい)、つげて、の給はく、

「なんぢ、商賣につき、人のまなこを、くらまし、或は、とがなき人の、眼(まなこ)を、つぶす事、其うらみ、はなはだ、つくる事、なし。妻のくわいにんをもつて、よく、思ひしるべし。ほどへて、なんぢ、盲目となるべし。」

と、あらたに、つげましましけり。

 然《され》ども、此告(つげ)を、ことゝもせず、猶、罪、ふかくぞ、なりけれ[やぶちゃん注:ママ。]。

 ある時、此男、一里ばかり他行《たぎやう》しけるに、いづくともしらず、「つぶて」、來つて、「ゆんで」[やぶちゃん注:左。]のまなこに、

「ひし」

と、あたる。

 其いたむ事、五たいも、はなるゝばかりに、おぼえて、のちには、終(つゐ[やぶちゃん注:ママ。])に、兩眼(《りやう》がん)ともに、しゐけり。

 それ、人として、善𢙣の道理を、わきまへしらぬは、くちおしき[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]事也。されども、神明は、人を、すて給はずして、あらたに御づけ[やぶちゃん注:両参考底本ともにママ。「御告げ」。]、ましましけるを、しらざる心のほどこそ、口おしけれ。

 

2024/06/25

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷一 㐧八 女の口ゆへ夫死罪に行るゝ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の「ゆへ」はママ。「故」で「ゆゑ」でなくては、おかしい。本篇には挿絵はない。]

 

  㐧八 女の口ゆへ、夫(をつと)、死罪に行《おこなは》るゝ事

○關東がたに、さるもの、夫婦(ふうふ)あり。

 飢(うへ[やぶちゃん注:ママ。])に及び、せんかたなく、國境(くにざかひ)へ出《いで》て、「きりはぎ」して、金銀・衣𫌏(いしやう)を、たくさんに取《とり》て、らくらくと、渡世を、をくる[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「きりはぎ」「切剝」。人を斬りつけて、衣服を剥ぎ取ったり、財物などを奪い取ったりすること。 「強盗」に同じ。]

 ある時、ふうふ、口論し出《いだ》し、互(たがひ)に、うつつ、うたれ、𢙣口(あつこう)のあまりに、女房、申《まふす》やう、

「をのれ[やぶちゃん注:ママ。]は、にくきやつかな。我を、かやうに、ちやうちやくする事、たびたび也。今なりとも、かのことを、いはゞ、たちまち、はりつけに、せん。」[やぶちゃん注:「うつつ、うたれ」これは、思うに、「打つつ、打たれつ」の錯字ではなかろうかと私は疑っている。「はりつけに、せん」は「磔にされん」とあるべきところではあるが、売り言葉に買い言葉で、罵倒し合う状態としては、私には違和感はない。]

と、のゝしるを、折ふし、目付衆(めつけしゆ)、通り合《あひ》、此一言をきゝて、内へ入《いり》、

「なんぢ、只今、かの事といひしことは、いか成《なる》事やらん。まつすぐに申べし。もし僞(いつは)りなば、『がうもん』せん。いかに、いかに。」

とせめ付《つけ》て、とふ。

[やぶちゃん注:「目付衆」この「目付」は、正規の狭義の職名ではなく、恐らく、関八州の治安を担当した「火付盗賊改方」の末端で、犯罪監察のために実動して市街・村落等を見回っていた与力・同心であろうと思われる。「がうもん」言わずもがなだが、「拷問」。]

 此女、何とも返荅(へんたう)に、つまり、さしうつむいて、ゐける。

 しかれども、

「申さねば、ならず。」

して、終(つひ)に、ありのまゝに、申上《まふしあげ》る。

「扨は。くせものは、きやつなり。」

とて、やがて、夫婦ともに、死罪に行《おこなは》れけり。

 報《むくい》とは申ながら、女の一言《ひとこと》にて、あまさへ、我身ともに、うしなはれし事、前代未聞の手本に、女は、きゝをき、かりにも、むさと、したる口を、きくまじき事也。縱(たとへ[やぶちゃん注:ママ。])、何ほど、はらの立(たつ)事ありとも、ふかく、つゝむべき事は、いはざるが、よし。されば、三寸の舌をもつて、五尺の身を、はたす、と云《いふ》事、ある時は、何事も、よくよく、つゝしむべし。

[やぶちゃん注:「きゝをき」「聞(或いは「聽」)き招(を)き」であろう。「聞(聴)かれるのを招き寄せ」(てしまう)の意と思われる。

「むさと」「むざと」と濁点を附してもよい。副詞で、「軽率にことをするさま・うっかりと」の意。

「つゝむ」「包む」。内に隠す。

「はたす」「果たす」。死に果てる。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷一 㐧七 かに女の命をたすくる事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

  㐧七 「かに」、女の命(いのち)をたすくる事

○寬永年中(ねんぢう)、六月中旬の比、江州、文五郞と申《まうす》ものあり。

 かれが、むすめ、なさけ、ふかく、じひありて、やり水の中に、ちいさき「かに」のありけるを、常に、やしない[やぶちゃん注:ママ。]けり。

 とし久しく、食物を、あたへけり。

 此むすめ、みめかたち、よろしかりけるを、虵(へび)、おもひかけて、或時、男(おとこ[やぶちゃん注:ママ。])にへんじ、來りて、親に、こひて、

「妻(つま)にすべき。」

よしを、いひて、かくす事なく、

「虵なる。」

よしを、ありのまゝに、いひける。

 父、此事をきゝ、返事なくして、たゞ、なげき、かなしみて、むすめに、此やうを、かたる。

 むすめ、心あるものにて、

「ちからおよばぬ事也。我身の『ごう報[やぶちゃん注:ママ。「業報(がうほう)」。]』にてこそ、候らはめ。『かなはじ』と仰《おほせな》らるゝならば、一つは、『親かうかう』のためにて侍る我身の、いたづらにくちはつる事は、うらみとも、さらにおもはず候。」

と、打《うち》くどき、なくなく、申ければ、父、かなしくおもひながら、「ことはり[やぶちゃん注:ママ。]」に、をれて、約束して、日どりまでぞ、しける。

 女、日比《ひごろ》、やしなひし「かに」ゝ、例(れい)の物をくはせて、いひけるは、

「年比(としごろ)、なんぢを、あはれみ、やしなひつるが、今は其日數(ひかず)も、はや、いくほどあるまじきこそ、あはれ也。かゝる『ふしやう』[やぶちゃん注:「不祥」で採る。「不詳」では程度が低過ぎる。]にあひて、虵に思ひかけられて、我は、いづくへ、とられてゆかんずらん。又も、やしなはずして、やみなん事こそ、ふびんなれ。」

とて、さめざめと、なく。人と物がたりするやうにいひけるを聞《きき》て、此《この》「かに」、物も、くはで、はひさりぬ。

 其後、かの「やくそく」の日、虵ども、大小、あまた、家の庭にはひ來りしは、おそろしなんど、いふばかりなし。

 爰(こゝ)に、また、山のかたより、「かに」、大小、いくらといふ數しらず、はひ來り、此虵を、一〻《いちいち》、皆、はさみころし、

「むらむら」

として、はひのきける。

 其後は、何の子細もなかりけり。

 されば、「虫(ちう)るい[やぶちゃん注:ママ。]」なりといへども、「をんどく[やぶちゃん注:ママ。「恩德」。]」のほどを、よく、しりて、おほくの虵共をころし、其なんを、すくふに、人間、なさけしらざるは かにゝは、はるかに、をとれりと、知《しる》べし。

[やぶちゃん注:本篇には挿絵がある。岩波文庫は本篇を採用していない。第一参考底本では、ここにあり、第二参考底本では、ここにあるが、後者は例の落書が激しく、障子の下や、縁側にぐちゃぐちゃ書いており、消した跡もあって、見るに堪えない。ひどいのは、娘の母親の顔(元々、左袖で顔を隠しているのだが)を、明らかに確信犯で塗り潰している。この落書を書いた餓鬼は、きっと母親嫌いだったんだろうなと思ったわい。

 さて。この話は、酷似した先行作品が複数ある。私のものでは、「諸國百物語卷之四 十二 長谷川長左衞門が娘蟹をてうあひせし事」で、挿絵まで、配置がよく似ている。同類話は「日本靈異記」や「日本法華驗記」に遡り、「今昔物語集」他にも、ワンサカ、ある。その辺りも読まれたい方は、私は、「南方熊楠 蟹と蛇」の注で、それらを神経症的に総て、正字正仮名で電子化してあるから、どうぞ、いらっしゃい。かなりの分量なので、心して読まれたいがね。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 油桐

 

Sinaburagiri

 

あぶらぎり 罌子桐

      虎子桐

油桐

      荏油桐

だま    【阿布良岐利

       又云太末】

 

[やぶちゃん字注:「罌子桐」の「罌」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、異体字の以上を用いた。東洋文庫でも、この字体を用いている。また、通常、当時の中国音を配してある箇所に、ひらがなで和名の「だま」を配しているのも、本書では、極めて異例である。

 

本綱油桐枝幹花葉並類岡桐而小樹長亦遲花亦微紅

伹其實大而圓毎實中有二子或四子大如大風子其肉

白色味甘食之吐逆【得酒卽解】人多種蒔收子貨之爲油入𣾰

家入艌船用爲時所須其油似荏油有僞者惟以篾圈蘸

起如鼓靣者爲眞

桐子油【甘微辛寒有大毒】 傅惡瘡塗䑕咬處又能辟䑕治酒皶

 赤鼻桐油入黃丹雄黃傅之

△按油桐江州濃州多種之搾油大津油家販之其効同

 荏油煉成代𣾰用名桐油𣾰可以塗五色常𣾰不能塗

 白色也又加松脂塗船槽不水漏名知也牟塗

 造桐油𣾰法 桐油【一合】宻陀僧【二錢】滑石【五分】白礬【三分】以文火煉之竪起燈心不仆爲度其青色【綠青】黃【藤黃】赤【朱或辰砂】白【白粉】黑【油煙煤】加所好者塗之【貯之盛竹筒安水中則不涸乾】

 

   *

 

あぶらぎり 罌子桐《あうしとう》

      虎子桐《こしとう》

油桐

      荏油桐《じんゆとう》

だま    【「阿布良岐利《あぶらぎり》」、

       又、「太末《だま》」と云ふ。】

 

「本綱」に曰はく、『油桐は、枝・幹・花・葉、並《ならび》に岡桐《こうとう》に類す。而して、小なり。樹、長ずること、亦、遲し。花≪も≫亦、微《やや》紅《くれなゐ》なり。伹《ただし》、其の實、大にして、圓《まろ》し。實の中、毎《つね》に、二《ふたつ》≪の≫子《たね》、或いは、四《よつ》≪の≫子、有り。大いさ、「大風子《だいふうし》」のごとし。其の肉、白色。味、甘≪なれども≫、之れを食へば、吐-逆《はきもど》す【酒を得ば、卽ち、解す。】。人、多く、種、蒔≪き≫、子を收めて、之れを貨(う)る。油と爲《な》して、𣾰家(ぬし《や》)に《→の用に》入≪れ、又、≫、艌船《ねんせん》[やぶちゃん注:「艌」は「船の隙間に詰めて水漏れを防ぐ」の意がある。]の用に入≪るる等≫、時に爲めに[やぶちゃん注:時と使用法によって。]、須(もち)ひらる。其の油、「荏《え》の油《あぶら》」に似≪る故に≫、僞る者、有り。惟だ、篾(たけ)の圈(わ)を以つて、蘸(ひた)し起《おこし》≪たる時、≫鼓靣《つづみおもて》のごときなる者を、眞と爲《な》す。』≪と≫。

『桐の子油《たねあぶら》【甘、微辛、寒。大毒、有り。】 惡瘡に傅(つ)け、䑕《ねずみ》、咬《かみ》たる處に塗る。又、能く䑕を辟《さ》け、「酒--赤-鼻(ざくろばな)」を治す。≪その際には[やぶちゃん注:『「酒皶赤鼻」に処理する折りには』の限定条件と思われる。]、≫桐油≪に≫「黃丹《わうたん》」・「雄黃《ゆうわう》」を入れて、之れを傅(つ)く。』≪と≫。

△按ずるに、油桐、江州・濃州、多く、之れを種《う》ゑ、油を搾(しぼ)り、大津の油家(あぶらや)に、之れを販(う)る。其の効、「荏の油」に同じく、煉成《れんせい》≪して≫、𣾰《うるし》に代《か》へ、用ひて、「桐油𣾰(とうゆうるし)」と名づく。以つて、五色《ごしき》に塗るべし。常の𣾰は、白色に塗ること、能はざるなり。又、松脂《まつやに》を加へて、船槽《せんさう》に塗れば、水、漏(も)れず。「知也牟塗(チヤンぬり)」と名づく。

「桐油𣾰」を造る法 桐油【一合。】・宻陀僧(みつだそう)【二錢[やぶちゃん注:江戸時代の一錢は三・七五グラムで、七・五グラム。]。】・滑石【五分《ぶ》。[やぶちゃん注:一分は三十七・五ミリグラムで、十八・七五ミリグラム。]】・白礬《はくばん》【三分。】、文火《とろび》を以つて、之れを煉る。燈心に竪-起(たて)て、仆《たふ》れざるを、度《ど》と爲《な》す[やぶちゃん注:良い製品のそれを作る処理の限度とする。]。其の青色≪とせん時は≫【綠青《ろくしやう》。】、黃≪とせん時は≫【藤黃《きわう》。】、赤≪とせん時は≫【朱、或いは、辰砂。】、白≪とせん時は≫【白粉《はらや》。】、黑≪とせん時は≫【油煙《ゆえん》の煤《すす》。】≪とを以つて≫、好む所の者を加へて、之れに塗る【之れを貯《たくは》ふに、竹の筒に盛り、水中に安《やすん》ずれば、則ち、涸-乾《かは》かず。】。

 

[やぶちゃん注:「油桐」は、中国のそれは、基原植物を中国原産の、

双子葉植物綱キントラノオ目トウダイグサ科ハズ亜科 アブラギリ連アブラギリ属シナアブラギリ(オオアブラギリ)Aleurites fordii

とし、本邦の場合は、江戸前期に中国から渡来した、

同属アブラギリ Vernicia cordata

である。

オオアブラギリは「国立研究開発法人 森林研究・整備機構 森林総合研究所 九州支所」公式サイト内の『樹木園 > 「九州支所樹木園」樹木名索引 > シナアブラギリ』を引用しておく。『落葉高木。樹皮は灰白色でなめらかである。老樹ではいくぶん粗』造『となる。葉は互生し、心臓形または心卵形をなし全緑である。葉柄は長く、やや紅色で葉柄のもとに』二『個の密腺がありこれに柄がない。雌雄異株または同株。集散花序を出し、表面白色、下面紅色の花を開く。果実は球形で』一~三『個つき』、『外皮は』、『初め緑色、のち暗褐色となる。中に』三~五『個の種子がある』。『中国原産で』、『中国では揚子江南部各省で盛んに栽培されている。日本では関東地方南部以西の暖地で栽培されている』。『桐油として優良である。油絵、提灯などに用いるが』、『食用とはならない。材は床板、下駄材などとする』。『和名シナアブラギリは「支那油桐」の意で、油桐(日本油桐)に対しての名である』。『開花時期』は四~五月で、『果実成熟期』は九~十月とある。比較的、記載が豊富な英文の当該種のウィキをリンクせておく。

 本邦のアブラギリは当該ウィキを引く。『落葉高木。種子から桐油(きりゆ、tung oil)と呼ばれる油を採取して塗料などに用いる。東アジア産のアブラギリやシナアブラギリはAleurites 属から分離してVernicia 属とすることもある』。『西日本と中国に自生し、また栽培もされる。葉の形はキリに似る。葉の基部には柄のついた蜜腺が』一『対ある。花は』六『月頃咲き』、五『弁で白く』、『径』三センチメートル『ほど、円錐花序をなし』。『よく目立つ。果実は円い蒴果』(さくか:カプセル:capsule:果実の中で、乾燥して裂けて種子を放出する裂開果の内の一形式。果皮が乾燥して、基部から上に向って裂ける。アサガオ・ホウセンカなどはこの例で、 蒴果の内、果皮が蓋のように上にはずれるものを「蓋果」といい、マツバボタン・スベリヒユ等がそれ。また、角(つの)状に尖っていて、内部が二室に分れているものを「長角果」(アブラナ・クレオメ等)と称し、基本構造は同じであるが、長さの短いものを「短角果」(ナズナ等と呼ぶ。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『で』六『個の大きな種子を含み、秋に熟す』。『種子から採れる桐油は不飽和脂肪酸を多く含む乾性油であるため、塗料や印刷インキ、油紙の材料として盛んに使われた』。但し、『エレオステアリン酸』(Eleostearic acid)『など』、『毒性を持つ不飽和脂肪酸を含むため、食用にはできない』。『別名ドクエ(毒荏)といい、これは古くから種子の油を食用や塗料用として用いたエゴマ(荏)と対比した名前である』。『現在は油の原料としてアブラギリでなく』、『中国原産のシナアブラギリ』『を使う。これはアブラギリより大型で、葉の蜜腺には』、『柄がなく』、『直接』、『つく。この油は中国などから多く輸入されて家具の塗料などに使われている』。『近年、バイオディーゼルの供給源として注目されているナンヨウアブラギリ』(ナンヨウアブラギリ属ナンヨウアブラギリ Jatropha curcas )『は本種とは別属の樹木である』。『台湾で『桐』という字はアブラギリを指す。台湾を代表する植物である』。『なお』、『古来』、『中国における桐は主にアオギリ』(アオイ目アオイ科 Sterculioideae亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex )、『梧桐』『を指し、日本で好まれるキリ(キリ科)』(シソ目キリ科 Paulowniaceae)『のいずれともアブラギリは』、『ごく遠縁の別樹種である』とある。この最後の問題は、先行する「梓」以下、ここまでで、十全に日通の種の違いを含め、注してきたものである。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「罌子桐(ガイド・ナンバー[085-28a]以下)から。因みに、「罌子桐」はアブラギリの中国語の古い呼称である。中文の「シナアブラギリ」(この和名は差別和名として「オオアブラギリ」に変えるべきだろうな)のウィキ(題名は「油桐」だが、書いてあるのはそっち)をリンクさせておく。そこに俗名として「罌子桐」が挙げられてある。因みに、良安は中国音を添えていないので、現代中国語の音写で示しておくと、「油桐」は「イォウトォン」である。

「岡桐《こうとう》」先行する「岡桐」を参照。

「大風子」二回ほど既出既注だが、再掲しておくと、大風子油(だいふうしゆ)のこと。当該ウィキによれば、キントラノオ目『アカリア科(旧イイギリ科)ダイフウシノキ属』 Hydnocarpus 『の植物の種子から作った油脂』で、『古くからハンセン病の治療に使われたが、グルコスルホンナトリウムなどスルフォン剤系のハンセン病に対する有効性が発見されてから、使われなくなった』とあり、『日本においては江戸時代以降』、「本草綱目」『などに書かれていたので、使用されていた。エルヴィン・フォン・ベルツ、土肥慶蔵、遠山郁三、中條資俊などは』、『ある程度の』ハンセン病への『効果を認めていた』とある。

「𣾰家(ぬし《や》)」漆塗り師のこと。現在も特に同加工をする人を、「塗師」で「ぬし」と呼んでいる。

「篾(たけ)」この「篾」は、音は漢音で「 ベツ」、呉音「メチ」。日中辞典には、タケ・アシ・コウリャン殻などの皮を細く割ったもの、とある。

「蘸(ひた)し起《おこし》≪たる時、≫」この漢字は、「さっとつける・まぶす・軽く漬けて取り出す」の意であるから、どっぷりと長く漬けてはいけないのであるからして、訳を「蘸(ひた)し起《おこし》」と、わざと読点を「蘸(ひた)し」を打たなかった。「漬けたら、直ぐに、引き上げ」の意であることに注意しないといけない。

「鼓靣《つづみおもて》のごときなる者」まさしく、前に注した「蒴果」、「カプセル」でんな!

「酒--赤-鼻(ざくろばな)」「石榴鼻」。小学館「日本国語大辞典」から引く。『鼻の頭が赤くふくれ、ぶつぶつで、石榴の実を割ったように見えるもの。皮膚の毛細血管が拡張、潮紅し、毛穴が広がってにきびのようになり、重症の場合は大小のかたまりができる。酒を飲む人に多い。酒鼻(ささばな)。酒皶(しゅさ)。酒皶鼻(しゅさび)。あかはな。にきみばな。』とあった。引用例は家光の頃の作品であるから、江戸前期には、既にあった語である。

「黃丹《わうたん》」漢方で「鉛丹(エンタン)」の別名。鉛を熱して赤褐色に酸化させた生薬。成分は四酸化三鉛(しさんかさんなまり:Pb3O4)効能は明らかでないが、外用薬(塗り薬)で、皮膚の化膿症・湿疹・潰瘍・外傷・蛇による咬傷などに用いると漢方サイトにはあった。

「雄黃《ゆうわう》」「牛黃圓」に同じ。牛の胆嚢に生ずるとされる黄褐色の胆石である牛黄を主剤としたを丸薬。

「荏の油」シソ目シソ科シソ亜科シソ属エゴマ Perilla frutescens の実から得られる「エゴマ油」のこと。当該ウィキによれば、英語“Perilla oil”。『焙煎した荏胡麻の種子から圧搾した油はナッツのような香ばしさがあり、食用油として使用される。焙煎していない荏胡麻の種子を圧搾した物は』、『食用以外の用途、例えば』、『油絵具のバインダーや木製品・革製品のオイルフィニッシュワニスなどの目的で使用される』。『エゴマ油は脂肪酸の豊富な供給源と考えられており、飽和脂肪酸と不飽和脂肪酸の両方を含む。エゴマ油に含まれる飽和脂肪酸は、主にパルミチン酸』『とステアリン酸』、『不飽和脂肪酸は、オレイン酸』・『リノール酸』・『γ-リノレン酸』・『α-リノレン酸』・『アラキジン酸』『となっている』。『エゴマ油はオメガ3脂肪酸』と『オメガ6脂肪酸成分』『が』『他の植物油と比較して多く含まれている』とあった。

「知也牟塗(チヤンぬり)」本来のそれは、狭義には、「瀝青塗」(チャンぬり)と呼ばれ、瀝青(チャン:天然のアスファルト・タール・ピッチなど、黒色の粘着性のある物質の総称。また、石炭を加圧下でベンゼンを用いて抽出したときの抽出物。チャン。ビチューメン。ビチューム)を塗ること。また、その塗り物を指すが、ここは、その色から、広義に本邦で、近世の和船や唐船の船体・綱具などに用いる濃褐色の防腐用塗料で、松脂・油・蜜陀僧(本文の後に出るが、ここで注しておくと、一酸化鉛PbOのこと。普通、黄色の粉末であるが、橙赤(とうせき)色のものもある)・軽粉などを、混ぜ合わせ、熱して作ったそれを指す。

「滑石」珪酸塩鉱物の一種で、フィロケイ酸塩鉱物(Phyllosilicates)に分類される鉱物、或いは、この鉱物を主成分とする岩石の名称。世界的には「タルク(talc:英語)」のほか、「ステアタイト」(Steatite:凍石)・「ソープストーン」(Soapstone:石鹸石)・「フレンチ・チョーク」(French chalk)・「ラバ」(Lava:原義は「溶岩」。本鉱石は変成岩である)とも呼ばれる。Mg3Si4O10OH2。水酸化マグネシウムとケイ酸塩からなる鉱物で、粘土鉱物の一種(当該ウィキ他に拠った)。

「白礬《はくばん》」天然明礬(カリ明礬石製)を温水に溶かして冷やしたもの。

「藤黃《きわう》」「𣾰」でも出ており、注したが、再掲しておくと、「きわう」の読みを含め、不審。東洋文庫訳でも注を附さない。「藤黄」は現代仮名遣で「とうおう」で、サイト「Premium Japan」の「日本の伝統色を知る」の「藤黄」には、『東南アジアを原産とするオトギリソウ科の常緑高木・海藤(ガンボージ)から出る植物性の顔料で染めた、暖かみのある鮮やかな黄色。その歴史は大変古く、奈良の正倉院に収蔵されている出陳宝物「漆金薄箔絵盤(うるしきんぱくえのばん)」にも藤黄色が使われて』おり、『古名として「しおう」とも呼ばれてい』るとあった。この「海藤(ガンボージ)」は英語“gamboge”で(カンボジア由来)、インドシナに分布するキントラノオ目オトギリソウ科 Hypericaceae(新体系APGではフクギ科Clusiaceae)フクギ属ガンボジ Garcinia hanburyi 、及び、その近縁種から採取される、濃い黄色の顔料を指す。日本語ウィキは存在せず、英文当該ウィキ(顔料の方)が詳しい。言わずもがなだが、本邦には自生しない。

「辰砂」」水銀と硫黄とからなる鉱物。深紅色又は褐赤色で、塊状・粒状で産出する。水銀製造の原料、また、赤色顔料の主要材料とされる。漢方では、消炎・鎮静薬などに用いる。「丹砂」「朱砂」とも呼ぶ。

「白粉《はらや》」東洋文庫訳は『おしろい』とルビするが、採らない。少なくとも、この前の添加物は、はっきりとした薬剤基原物だからである。「輕粉(けいふん)」「粉白粉(こなおしろひ)」とも呼ぶ。「伊勢白粉」のこと。白粉以外に顔面の腫れ物・血行不良及び腹痛の内服・全般的な皮膚病外用薬、さらには梅毒や虱の特効薬や利尿剤として広く使用された。伊勢松坂の射和(いざわ)で多く生産された。成分は塩化第一水銀Hg₂Cl₂=甘汞(かんこう)であり、塗布でも中毒の危険性があり、特に吸引した場合、急性の水銀中毒症状を引き起こす可能性がある。現在は使用されていない。]

2024/06/24

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷一 㐧六 商人盗人にころさるゝ事幷犬つげしらする事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。本篇には挿絵はない。]

 

  㐧六 商人(あきびと)盜人(ぬす《びと》)に殺さるゝ事、幷《ならびに》犬、つげ、しらする事

〇近江、「ちの」と云《いふ》所に商人あり。

 極月(ごく《げつ》)下旬、上方ゟ《より》金銀をとりてかへるに、其《その》鄕内《がうない》に、あぶれもの、二人、有り。此《この》商人の「かね」を取《とり》てかへるをうかゞひ、うばはんために、二人、かたらひ、在所(ざいしよ)はづれに出《いで》て、待《まち》けるが、折ふし、のばら[やぶちゃん注:「野原」。]の事なれば、たとへ聲をたつるとも、在所、ほど遠し。

[やぶちゃん注:「在所(ざいしよ)はづれ」村外れ。]

 かしこに待ちて、歸るを、難なく、双方より、うちよつて、さし殺し、金銀、おもひのまゝに、取《とり》て、則《すなはち》、死骸を、あたりの木の下(した)にうづみ、さらぬていにて、かへりぬ。

 此《この》ころされしものゝ妻(つま)、夫(をつと)、年内(ねんない)かへ歸らざる事、ふしぎにおもひ、

「とやあらん、かくや、しつらん。」

と、あんじ、わづらひしが、爰(こゝ)に、をつと、つねに、犬を飼(かひ)置きけるが、正月五日の夜(よ)、くだんの犬、女房の夢に、告げていはく、

「其方《そのはう》の夫、かへり給はぬ事、ふしんし給ふは、尤《もつとも》也。いつまで待《まち》給ふとも、まちがひ[やぶちゃん注:「待ち甲斐」。]あるまじ。盗賊の手にかゝり、うたれ給ふ。死骸(しがい)は、野はづれの、木の下に、いれて、あり。」[やぶちゃん注:「かへり給はぬ事」実は両参考底本では、孰れも「給はん事」となっている。岩波文庫では、高田氏の『意によって改』とあるのに従って手を加えた。]

と、まさしくつぐるとおもへば、夢、さめぬ。

 妻、不思議に思ひながら、うち過《すぎ》ぬ。

 又、次の夜も、同し夢なり。[やぶちゃん注:「おなし」という読みは、今もあるので、濁点は打たなかった。]

 妻、いよいよ、ふしぎに思ひ、やがて、夢にみし所へゆき、たづね見けるに、土(つち)、かきあげし所、あり。

 ほりかへして見るに、うたがひもなき、夫の「しがい」也。

 妻、ふかくなげゝど、其のかひ[やぶちゃん注:「甲斐」。]、なし。

 程過《ほどすぎ》て、かの盜賊二人の内に、一人、わたくしの押領(をふれう[やぶちゃん注:ママ。])有《あり》て、奉行所にて、「がうもん」[やぶちゃん注:「拷問」。]にあひしが、くだん[やぶちゃん注:「件」。]の事まで、いちいち、白狀しけり。[やぶちゃん注:「押領」他人の物品・所領などを、力ずくで奪い取ること。歴史的仮名遣は「わうりやう」。]

「扨《さて》は。ぢうぢう、『いたづらもの』かな。」

とて、今一人も捕へられ、ともに、死罪に、あひけり。

[やぶちゃん注:「いたづらもの」岩波文庫では、編者が『悪漢(いたづらもの)』と漢字表記に代えてある。しかし、第一参考底本も、第二参考底本(右丁後ろから三行目)ともに、「いたづらもの」というひらがな表記である。]

 「ちくしやう」といへども、かく、「死(し)しよ」を、よく、知りてつぐるに、人間の、物を知らざるこそ、「ちくしやう」にも、をとれり。「因果れきぜん」の「どをり[やぶちゃん注:ママ。]」[やぶちゃん注:「道理」。]、おどろくべし。

[やぶちゃん注:私は、ちょっと不満なのは、飼っている犬を連れて、遺体を見つけるというシークエンスになっていないことである。そうすると、犬の報恩奇談として、映像のリアリズムがよりよく出るのに、惜しいな、と感ずるからである。

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷一 㐧五 しやうぢきの人寳を得る事

 

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。本篇には挿絵はない。]

 

  㐧五 しやうぢきの人寳(たから)を得る事

○河内(かわち)の国いし川と云《いふ》所に、いやしき夫歸あり。餅をうりて、世をわたりけり。

[やぶちゃん注:「河内(かわち)の国いし川」旧河内國石川郡。大阪府南河内郡の全域、及び、富田林市の一部(概ね新堂・富美ケ丘町・寿町・錦ケ丘町・常盤町・富田林町・山中田町・東板持町・佐備・龍泉・甘南備より北東)に相当する。郡域は参照したウィキの「石川郡」の地図を見られたい。]

 有《ある》時、道のほとりに出《いで》て、もちを、うりけるに、袋(ふくろ)を、一つ、ひろひけり。

 みれば、金(きん)六兩あり。

 ふうふ、ともに、むよく成《なる》ものにて、家に取《とり》てかへらず。

「此主(ぬし)、いかばかり、なげき給ふらん。我らは、かしよくあれば、ぜにゝ、ことも、かゝず。いざ、ぬしを尋ねて、かへさん。」

とて、あまねく、ふれければ、やがて、主(ぬし)、出《いで》て、もらいける。

[やぶちゃん注:「かしよく」「家職」家業。生業(なりわい)。「ふれ」「觸れ」。郡衙一帯に「拾い物」の「お触れ」を告げること。]

「扨〻《さてさて》、過分成《なる》心ざし、申《まうす》べきやうもなく候。あまりかたじけなく候まゝ、此内、二兩は其方《そのはう》へ參らせん。」

といふ。

 夫婦、申やう、

「いやいや、其《その》二兩をもらい[やぶちゃん注:ママ。]申《まうす》ほどならば、 此六兩を、何の用に、其方へかへし申さん。」

と云《いふ》。

「いや、あまり、ふうふの人〻、心のせつなるにかんじ、ぜひとも、參らせん。」

とて、取出《とりいだ》ししが、其間《そのあひだ》に、おもひかへし、おしくや、思ひけん、

「扨〻、此金《このかね》は、右(みぎ)、七兩、ありつるに、今、六兩かへし給ふやうは、さては、一兩、かくし給ひつらん。」

と云。

 夫婦、聞《きき》て、

「さる事は、しらず。もとより、六兩、あり。一兩、かくすほどならば、六兩を、皆、其方へ、かへすべきや。」

と。

 互(たがい[やぶちゃん注:ママ。])に、ろんじて 國守(くにのかみ)へ、兩人、出《いで》て、たいけつす[やぶちゃん注:「對決す」。]。

 目代(もくだ)、ちゑ、ふかく、ましまして、仰《おほせ》らるゝには、

「ふうふともに、正直のものにて、あり。一兩をかくすほどならば、六兩ながら、皆、我物(わがものに)こそ、しつらん。今、なんぢが、おとしたるは、七兩ならば、扨は、此かねは、なんぢが、かねには、あらず。其七兩あるを、もとめて、とるべし。さすれば、是は、別(べつ)のかねなり。夫婦のもの、取《とる》べし。」

とて、給はりけり。

 心、なをければ、天のあたへを、かうぶりけり。ふたう成《なる》ものは、をのがたから成《なれ》ども、よこしまなる心をもつて、人を、かすめば、めうのとがめにて、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]がたからを、うしなふ事、よく心得べし。おそるべし、おそるべし。

[やぶちゃん注:「ふたう成もの」「太うなる者」。欲が出て、ずうずうしい者。

「めうのとがめ」。「めう」は「みやう」の誤りで、「冥(みやう)の咎め」で、「神仏の咎め」の意である。

 この話、所謂、後の「大岡政談物」の「三方一兩損」の類話と言ってよい。「三方一兩損」と、その当該類話は、私の『小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (6ー2) 三比事に書かれた特種の犯罪方法 二』を見られたい。ただ、私は、この話に酷似したものを、過去に電子化している記憶があるのだが、どうしても探し得ない。見つけたら、追記する。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 梧桐

 

Gotou_20240624115301

 

ごとうぎり  櫬【音親】

        五同桐

        【以字音呼

梧桐     一名青如狼狸】

 

ウヽトン

 

本綱梧桐似桐而皮青不皵其木無節直生理細而性緊

葉亦似桐而稍小先滑有尖其花細蕋堕下如醭其莢長

三寸許五片合成老則裂開如箕謂之櫜鄂其子綴於櫜

鄂上多者五六少者二三子大如胡椒其皮皺伹晩春生

葉早秋卽凋其木昜生鳥啣子墮輙生其生山石間者用

爲樂噐更鳴響也古稱鳳凰非梧桐不棲豈亦食其實乎

遁甲書曰梧桐可知日月正閏生十二葉一邊有六葉從

下數一葉爲一月至上十二月有閏十三葉其小者爲閏

 百敷や桐の梢に住む鳥の千とせは竹の色もかはらじ 寂蓮

青桐 卽梧桐之無實者又似青桐葉有椏者名𣗐桐

△按梧桐其子大如胡椒正圓故諸書謂丸藥大可如梧

 桐子者是也

 或書云推古帝時參河國山有神代桐木長四十九丈

 太三十二尋枝過半枯中有虛洞本有洞口龍住時發

 雲霧依曰桐生山【又云霧降山】

 

   *

 

ごとうぎり  櫬【音「親」。】

        五同桐《ごとうぎり》

        【字の音を以つて、呼ぶ。

梧桐     一名、「青如狼狸(あをによろり)」。】

 

ウヽトン

 

「本綱」に曰はく、『梧桐、桐に似て、皮、青く、皵(あらかは)あらず。其の木、節《ふし》、無く、直《ちよく》に生ず。理(きめ)、細かにして、性、緊《かた》し。葉も亦、桐に似て、稍《やや》、小なり。先、滑《なめらか》んして、尖《とが》り、有り。其の花、細き蕋《しべ》、堕下《おちさが》りて、醭《かび》[やぶちゃん注:「黴」。]のごとく、其の莢《さや》、長さ、三寸許り。五片、合し、成《な》る。老する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、裂開《さけひらき》て、箕(みの)のごとし。之れを「櫜鄂(かうがく)」と謂ふ。其の子《み》、「櫜鄂」の上に綴(つゞ)り、多き者、五、六、少なき者、二つ、三つあり。子の大いさ、胡椒のごとく。其の皮、皺(《し》は)む。伹《ただし》、晩春、葉を生じ、早秋、卽ち、凋《しぼ》む。其の木、生《は》へ昜《やす》く、鳥、子《み》を啣(ふく)みて、墮《おと》せば、輙《すなは》ち、生ず。其の山石の間に生ずる者を、用ひて、樂噐と爲《な》す。更に鳴響《めいきやう》≪する≫なり。古《いにし》へに稱す、「鳳凰は、梧桐に非ざれば、棲まず。」と。豈に、亦、其の實を食すか。「遁甲書」に曰はく、『梧桐は日月《じつげつ》・正閏《せいじゆん》を知るべし。十二葉を生じ、一邊に、六葉、有り。下より一葉を數《かぞ》へて、一月と爲し、上、十二月に至る。閏《うるう》有れば、十三葉≪生じ≫、其の小さき者、閏と爲す。』≪と≫。』≪と≫。

 百敷(ももしき)や

       桐の梢に

     住む鳥の

        千とせは竹の

             色もかはらじ 寂蓮

『青桐は、卽ち、梧桐の實の無き者なり。又、青桐に似て、葉に椏《また》の有る者を、「𣗐桐《えいとう》」と名づく。』≪と≫。

[やぶちゃん注:良安の和歌の挿入があるが、以上の「青桐」の一節は、「本草綱目」の引用であり、こうした書き方は、本書では特異点と言える。

△按ずるに、梧桐は、其の子の大いさ、胡椒のごとく、正-圓(まんまる)なり。故に、諸書に、『丸藥の大いさ、梧桐≪の≫子《み》のごとくにす。』と謂ふ≪は≫、是れなり。

 或書に云はく、『推古帝の時、參河國の山に、神代の桐の木、有り。長さ、四十九丈、太さ、三十二尋《ひろ》、枝、過半、枯れ、中に、虛洞《うつろなるほら》、有り。本《ねもと》に、洞の口、有り。龍、住んで、時〻《ときどき》[やぶちゃん注:原本の左下の訓点の踊り字は「〱」。]、雲霧《くもきり》を發す。依りて、「桐生山(きりふ《やま》)」と曰ふ。』と【又、「霧降山《きりふりやま》」と云ふ】。

 

[やぶちゃん注:「梧桐」は、日中ともに、

双子葉植物綱アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex

であるので、種同定の問題はない。本邦では「青桐」とも表記する。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名ではケナシアオギリともよばれる。和名の由来は、キリ科のキリ(桐)』(キリはシソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa であり、種としては全く近縁性はないので注意)『が「白桐」とよぶのに対して、幹肌が青緑色で大きな葉がつく様子がキリに似ることから名付けられている。中国名の梧桐(ごとう)』中文の音写は「ウートゥン」)『も日本ではよく知られている。公園樹、街路樹に利用される』。『中国南部・東南アジア原産。日本では沖縄、奄美大島に自然分布し、日本国外では中国、台湾、インドシナに分布する。暖かい地域の沿岸地に生える。日本へは極めて古くに渡来し、広く各地に植えられて本州、四国、九州にも分布し、伊豆半島や紀伊半島などの暖地に野生化した状態でみられることもあるが、多くは街路樹や庭木などにして植えられる』。『落葉広葉樹の高木で、樹高は』十~二十『メートル』『になり、幹は直立する。幹や枝の樹皮は緑色で、小枝は太い。若木の樹皮は緑色で滑らかだが、生長と共に灰褐色を帯びて縦に浅い筋が入るようになる。春に芽吹いて、赤色の芽を勢いよく伸ばしていく』。『葉は互生し、大きな葉身に長い葉柄がついて全体の長さは』四十~五十『センチメートル』『にもなり、葉身は薄く卵形で掌状に浅く』三~五裂だが、通常は五裂である。『葉身の基部は心臓形で、縁に鋸歯はない。芽吹きはじめの葉は大きく、幼葉の表面、葉枝に淡い赤茶色の軟らかい毛があり、よく目立つ。秋には黄色に紅葉し、柄つきのまま落葉する。紅葉はやや薄い黄色に色づき、褐色を帯びるのが比較的早い』。『花期は初夏から夏』の五~七月で、『枝先に大形の円錐花序を出して、黄白色の雄花と赤色の雌花が混じり』、五『弁の小花を群生する。がく片は』五『個で、花弁はない』。『果実は蒴果で草質、秋』九~十月頃に『熟すが、完熟前に子房が』五『片に裂開し、それぞれ』一『片の長さが』七~十センチメートル『ほどある舟の形のような裂片(心皮)になる。その葉状の舟形片の縁辺に、まだ緑色のエンドウマメ(グリーンピース)くらいの小球状の種子を』一~五『個ほど付ける。種子は球形で径』四~六『ミリメートル』で、『のちに黄褐色から茶色に変化し、表面に皺があり硬い。冬でも、さやが割れて縁に丸い種子を付けた実を見ることができる』。『冬芽は枝の先端に頂芽を』一『個つけ、側芽は互生する』。『頂芽は径』八~十五ミリメートル『ほどある大きな半球形で、ビロード状の赤茶色の毛が密生した』十~十六『枚の芽鱗に包まれている。側芽は球形で小さく、枝に互生する。葉痕上部に托葉痕がある。葉痕はほぼ円形で大きく、小さな維管束痕が多数ある』。『よく水を吸い上げて、火に強い性質があ』り、『生命力が強く、潮水や潮風などの塩害や、大気汚染にもよく耐える』。『庭木、公園樹、街路樹にする。アオギリが庭木や街路樹によく使われるのは、その耐火性にあり、過去の震災においても』、『火災の延焼を食い止めた例もたくさんあった。樹皮の繊維は強健で、粗布や縄の材料にする。まっすぐな幹は建材などに用いられ、材を楽器、下駄などとするが、耐久性は低い。種子は古くは食用にされ、太平洋戦争中には炒ってコーヒーの代用品にした』。『栽培は、主に春に発芽前の若枝を長さ』三十『センチメートル』『ほどに切って、挿し木して育成される』。『種子は』「梧桐子」(ごとうし/ごどうし[やぶちゃん注:後者がウィキ記載。漢方サイトでは「ごとうし」の方が優勢だが、漢方記事には「ごとうし」の読みも確認出来る。])と『呼ばれる生薬として用いられ、胃痛、下痢の薬効作用がある。葉は浮腫、高血圧、コレステロールの低下などの民間薬として用いられ、初夏に採って洗い、陰干ししたものを』用いる。以下、「文化」の項。『中国の伝説ではアオギリの枝には』十二『枚の葉がつくが、閏月のある年には』十三『枚つくといわれた。また中国では鳳凰が住む樹とされた。伏羲がはじめて桐の木を削って古琴を作ったという伝説がある(ただしアオギリかキリか不明)』。『中国人の季節感と深い関係があり、七十二候のひとつに「桐始華」(清明初候)がある。またアオギリの葉が色づくのは秋の代表的な景色であり、王昌齢「長信秋詞」』の「其一」に『「金井梧桐秋葉黄」の句がある。また白居易「長恨歌」には「秋雨梧桐葉落時」という』。『日本では、広島の「被爆青桐」は有名で、爆心地から』一・三『キロメートルの地点で被爆して半身が焼け焦げたが、再び芽を出して人々に勇気を与えた』。『平和記念公園に移植されて、焼けた傷を包み込むように生長を続け、毎年多くの種子を成し、平和を願う生命力のシンボルとしてその種子が全国に配られる』。以下に「アオギリ属」が本種を除くと、四種が挙げられてある。日中で、それらの違いはあるであろうが、そこまで調べる気は、私には、ない。中文のウィキ「梧桐」をリンクさせておく。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「梧桐(ガイド・ナンバー[085-27a]以下)からだが、最後の「青桐」の記載は、前の「桐」の項の「集解」([085-25a])からの転用である。それもあってか、和歌を挟むという仕儀があったのだと思う。良安の神経症的な一面の精神分析が出来るように私には思われた。

「青如狼狸(あをによろり)」不詳。「本草綱目」には載らない。ネットで上質のイタチ(「狼」は鼬を指す)の毛とアルビノのタヌキの毛を混ぜた、コシのしっかりした筆に「狼狸」があった。

「皵(あらかは)あらず」幹の表面には、ざらついた外皮がない。恐らくは、これ、別種である「桐」の木肌との比較で、時珍が述べたものと思われる。伝統的な博物誌の見かけ上の観察法である。

「櫜鄂(かうがく)」「櫜」は「弓矢や武器を入れておく袋」の意で、「鄂」は恐らくは、この場合、「臺・萼」と同義で「うてな」(花の「がく」)の意であろうと思われる。

「遁甲書」「奇門遁甲」で知られる「遁甲」は方術の一つで、神仙の術や一種の占星術・暦制による吉凶判断をすること。委しくはウィキの「奇門遁甲」を見られたい。

「百敷(ももしき)や桐の梢に住む鳥の千とせは竹の色もかはらじ」「寂蓮」は「夫木和歌抄」の「卷十五 秋六」にある一首。「日文研」の「和歌データベース」のこちらで確認した。ガイド・ナンバー「06085」が、それ。

  *

ももしきや-きりのこすゑに-すむとりの-ちとせはたけの-いろもかはらし

  *

「𣗐桐《えいとう》」「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、清の愛新覺羅弘歷の「續通志」に『𣗐桐狀似青桐葉有椏人取皮以漚絲』とあった。

「或書に云はく、『推古帝の時、參河國の山に、神代の桐の木、有り。長さ、四十九丈、太さ、三十二尋《ひろ》、枝、過半、枯れ、中に、虛洞《うつろなるほら》、有り。本《ねもと》に、洞の口、有り。龍、住んで、時〻《ときどき》、雲霧《くもきり》を發す。依りて、「桐生山(きりふ《やま》)」と曰ふ。』と【又、「霧降山《きりふりやま》」と云ふ】」出典不詳。識者の御教授を乞う。「三十二尋」「尋」(ひろ)は、両手を左右に広げた際の幅を基準とする身体尺。当該ウィキによれば、『学術上や換算上など抽象的単位としては』一『尋を』六『尺(約』一・八『メートル)とすることが多いが、網の製造や綱の製作などの具体例では』一『尋を』五『尺(約』一・五『メートル)とする傾向がある』とあり、古代のそれは、当時の一般人の身長から後者を採るべきかと思う。それで換算すると、約四十八メートルになり、それでも現行のアオギリとしては、高過ぎる。上古の神木・大木は伝承上、驚くべき高さであるから、まあ、しょうがない。「桐生山」については、東洋文庫の後注に、『愛知県南設楽郡にある鳳来寺山(煙巌山)のことか』とあった。「声の仏法僧(ブッポウソウ)」=コノハズクで知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。旧名「煙巌山」は「えんがんさん」だが、寺である鳳来寺の山号は「えんごんざん」であるらしい。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷一 㐧四 親の報子共三人畜生の形をうくる事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

  㐧四 親の報(むくひ)、子共三人、畜生の形(かたち)をうくる事

 

〇慶安年中[やぶちゃん注:一六四八年~一六五二年。]、秋の比《ころ》、西國みまさかの久米(くめ)といふ所の山里に、兄弟三人して、母一人を、まはりまはりに、はごくみけるが、此の三人のものども、あくまで、母に不孝にして、養ふ事を、むやくしく[やぶちゃん注:「無益しく」。「腹立たしく」。]おもひ、或時、三人、一所に、うちよりて、母に「どく」を與へ、殺すべき内談をぞ、しける上(うえ[やぶちゃん注:ママ。])、二人して、「どく」をあたへけるに、母、「うん」、つよくして、死せざりしが、末子(ばつし)が手にて、終に(つゐ)に[やぶちゃん注:ママ。]殺しけり。

[やぶちゃん注:「西國みまさかの久米(くめ)といふ所」美作国の旧久米郡。現在の岡山市・北区の一部(旭川以東のうち建部町福渡以北)・津山市の一部(吉井川以南)・久米南町の全域・美咲町の大部分に相当する。参照したウィキの「久米郡」の旧郡地図を見られたい。]

 三人の者、

「今は、おもひの『ねん』[やぶちゃん注:「念」。]、はれたり。けふ[やぶちゃん注:「今日」。]よりしては、苦に成《なる》もの、一人も、なし。」

と、よろこびけり。

 其後《そののち》、十日ばかりして、白晝(はくちう)、俄(にはか)に、そら、かきくもり、ひとつ、「かみなり」、とゞろきて、「いなづま」、ひかり、「むらさめ」、おびたゞしくして、まなこも、くらむばかりなりけるが、三人のもの共《ども》、「かうべ」は、もとのごとくにて、かたより下は、一人は「牛」と成《なり》、一人は「犬」となり、今一人は「馬」と成《なり》ぬ。

 

14

 

[やぶちゃん注:岩波文庫からトリミング補正した。雷公の顔が認知出来ないが、獣に化した不孝三兄弟はmかなりはっきりと視認出来るので、大判で示した。第一参考底本ではここであるが、以上と同じ画質である。しかし、第二参考底本のここでは、雷公の顔の細部がはっきりと視認出来るので、超お勧めである。

 

 此の事、かくれなければ、見物、ぐんじゆする事、其《その》家に、みてり。

 かく、「はぢ」を、さらす事、月をかさねて、終(つゐ)に[やぶちゃん注:ママ。]命(いのち)さへ、たへにけり。

 かく、親に不孝なるをさへあるに、あまさへ[やぶちゃん注:「剩(あまつさ)へ」に同じ。]、ころす程の「五ぎやく」のもの、誠《まこと》に、今生(こんじやう)にて、「ちくしやう」のかたちを、うくる事こそ、理(ことわり)也。

 まして、未來[やぶちゃん注:「來世」に同じ。]の事は申《まふす》に及《およば》ず。

 しかるに、此の三人、「ちくしやう」の心得、たくましきによつて、上帝(じやうてい)、雷公(らいこう)に「みことのり」して、「かは」を、はぎ取《とり》、「ちくしやう」の本躰(ほんたい)をあらはし、人の「かは」を、はりたる「ちくしやう」どもを、こらしめ給ふ物也。

 それ、不孝のともがらは、今生(こんじやう)にて、畜生のかたちを變ぜずとも、當來(たうらい)、「ちくしやう道(だう)」に、おつべき事、よく、心得べき物也。おそるべし、おそるべし。

[やぶちゃん注:「五ぎやく」「五逆」。この場合は、仏教の正規のそれで、五種の最も重い罪を指す。一般には「父を殺すこと・母を殺すこと・阿羅漢(応供(おうぐ)。尊敬・施しを受けるに値する聖者)を殺すこと・僧の和合を破ること・仏身を傷つけること」を指し、一つでも犯せば、無間地獄に落ちると説かれる。

「上帝」天の神。

「當來」仏語。「当然、来るべきの時」の意で、「来世」(らいせ)を指す。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷一 㐧三 繼母娘を殺す幷柱に蟲喰ひ歌の事

 

  㐧三 繼母(けいぼ)、娘(むすめ)を殺す幷《ならびに》柱(はしら)に「虫くひ歌」の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。本篇は挿絵はない。]

 

 江刕(がうしう)北郡(きたのこほり)「水《みづ》ほ」と云《いふ》所の近鄕(きんがう)に、理助と申《まふす》者、娘、一人、持ちけるが、繼母にて、朝夕(てうせき)、此の娘に、つらくあたる。

[やぶちゃん注:『江刕(がうしう)北郡(きたのこほり)「水ほ」』岩波文庫の脚注に『近江国野洲』(やす)『郡水保村』とする。ここは、現在の滋賀県守山市水保町(みずほちょう)である(グーグル・マップ・データ)。「琵琶湖大橋」の東岸に細長く東南に伸びる地区である。

「繼母」(第二参考底本では、既に第一回で言った通り、ここでも一貫して「継母」の表記)は標題で「けいぼ」と読んでおり、本文でもルビはないので、硬い音の「けいぼ」と読まざるを得ないが、個人的には私は、心中では自動的に「ままはは」と読みかえてしまう。]

 誠に、世の中の邪見なる事は、色こそかはれ、いか成《なる》遠國遠里《ゑんごくゑんり》までも、「まゝ子」を、ねたみ、さいなむ心、さだまれる所也。

[やぶちゃん注:「邪見」サンスクリット語で「悪しき見解」という意味の語の漢訳。仏教では「見」という語を、しばしば、「特に誤った見解」の意味に使い、根本煩悩の一つに数える。これには「薩迦耶見」・「辺執見」・「邪見」・「見取見」・「戒禁取見」の五つの「五見」があり、孰れも誤った見解であるが、特に因果の道理を否定する見解は最も悪質であることから、それを特に「邪見」と言う(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ただ、本書の中では、文字通り、「邪(よこし)まな心を持った者」に意味で用いることの方が、多い。

 或る日、理助、十日ばかりの用有りて、他鄕(たがう)に有りける内に、かのむすめ、十六の、七月十六日の夜の事なりしに、折ふし。鄕内(がうない)にをどりはじまり、老若男女(らうにやくなんによ)、うちまじはり、をどりける。

 繼母、此のをどりに、ことよせ、さるばかものを、たのみ、むすめを、ひそかに、ころして、山中ふかく、すつる。

 其後《そののち》、夫(をつと)、かへりて、

「むすめは、いかに。」

と問《とふ》。

 妻、答へて云《いふ》やう、

「さればこそ、むすめは、當(たう)十六日の夜、をどりに出《いで》けるが、今に歸らず。うけ給はれば、さる男と、かたらひ、かみみち、さして、行きけるよし、皆、くちぐちに申《まふし》けるが、さもこそあらん、日比《ひごろ》、おもしろきふりあれども、『いかなり。』ともと思ひしが、今、思ひあたり候。」

と誠しやかに申《まふし》ける。

[やぶちゃん注:「かみみち」「上道」。京へ向かう道。

「おもしろきふりあれども」「何とも奇妙・不審な素振りがあったけれども」。]

 夫、

『さも、あるらん。』

とは、思ひながらも、

『繼母の中なれば、何國(いづく)へも、うりけるか、さなくば、追出《おひいだ》して、かく、我をたばかるやらん。』

と、心もとなくおもひ、一子なれば、明暮(あけくれ)、こひしくおもひしが、はや、其の年もくれ、明(あくる)秋の比にもなれば、理助、或《ある》夕ぐれの入《いり》あひばかりの事なるに、寢屋(ね《や》)に入《いり》、すぎにしむすめの事を思ひ出し、淚(なみだ)にしほれ、ゐたりしが、析ふし、柱に、「むしくひ」、あり。ふしぎに思ひ、立ちより、是を、うつし、みるに、歌、なり。

[やぶちゃん注:第二参考底本の「淚」の読みは(右丁下から九字目)、超拡大して見ても、明らかに『みなだ』と誤刻されている。特異的に訂した。

  「朽(くち)はつるつらき繼母(けいぼ)のしわさこそ

    長きなみたのうらみなりけれ」

と、かやうに、「蟲くひ」、あり。

[やぶちゃん注:和歌本文は例式に従い、そのままに、濁点は打たずにおいた。]

 理助、

「扨《さて》は。娘をころしけるに、うたがひなし。」

とて、やがて、女を一間成《なり》所へをし[やぶちゃん注:ママ。]こめ、せめ付《つけ》て、とふに、女、あまりけめとはれ、せんかたなくて、ありのまゝに申《まふし》ける。

 其《その》まま目代(もくだい)[やぶちゃん注:代官。]へ、うつたへ、やがて、死罪(しざい)に行ひけり。

 とかく、『𢙣心をなしても、人はしるまじき。』と思へども、天罰(てんばつ)のがれがたく、つゐには[やぶちゃん注:ママ。]、其身も一年の内に害《がい》にあへり。

 心ある人、たれか、おそれざらんや。

2024/06/23

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 岡桐

 

Okagiri

 

おかぎり     紫花桐

岡桐

 

 

本綱岡桐文理細而體性堅亦生朝陽之地不如白桐昜

長其葉三角而圓大如白桐色青多毛而不光且硬微赤

亦先花後葉花色紫其實亦同白桐而微尖狀如訶子而

粘房中肉黃色與白桐皮色皆一伹花葉小異體性堅慢

不同爾又有冬月復花者

桐葉【苦寒】 治癰疽發背大如盤臭腐不可近者桐葉醋

 蒸貼上退熱止痛漸漸生肉収口極驗秘方

 外面なる桐の廣葉に雨落て朝け凉しき風の音哉爲家

[やぶちゃん注:標題の「おか」はママ。「目録」でも、そうなっていた。]

 

   *

 

おかぎり     紫花桐《しくわとう》

岡桐

 

 

「本綱」に曰はく、『岡桐《こうとう》、文理《もんり》、細《こまやか》にして、體性、堅し。亦、朝陽《てうやう》の地に生ず。白桐《はくとう》の長《ちやう》じ昜《やす》きにしかず。其の葉、三角《みつかど》にして、圓《まろく》、大いさ、白桐のごとく、色、青。毛、多くして、光からず。且(そのう)へ、硬(こは)く、微赤≪たり≫。亦、花を先にし、葉を後《あと》にす。花の色、紫なり。其の實《み》も亦、白桐に同じくして、微《やや》、尖り、狀《かたち》、「訶子《かし》」のごとくして、粘《ねん》す。房中《ふさうち》の肉、黃色なり。白桐と、皮≪の≫色、皆、一《い》つ≪なり≫。伹《ただ》、花・葉、小異《しやうい》≪ありて≫、體性≪の≫堅慢《けんまん》、同じからざるのみ。又、冬月、復た、花さく者、有り。』≪と≫。

『桐葉【苦、寒。】 癰疽(ようそ)、背に發し、大いさ、盤(さら)のごとく、臭-腐(くさ)く≪して≫近づくべからざる者を治す。桐葉≪は≫、醋《す》≪にて≫蒸《む》≪したるを≫、上に貼(は)る。熱を退≪けて≫痛みを止め、漸漸(ぜんぜん)に、肉を生《しやう》じ、口を収《をさむる》。極《きはめ》て、驗《げん》あり。秘方≪なり≫。』≪と≫。

 外面(そとも)なる

   桐の廣葉に

  雨落(おち)て

        朝け凉しき

          風の音哉

                爲家

 

[やぶちゃん注:「岡桐」(こうとう:個人的には、心情として良安が和訓を附している気持ちは判らぬではないが、「本草綱目」のそれであり、ここは「コウトウ」と音読みしておかないと、今までのようにトンデモ異種である可能性を排除出来ないからであるは平凡社「普及版 字通」によれば、種名ではなく、「桐油」(とうゆ/きりあぶら)「を作る桐」とある。ウィキの「桐油」(きりあぶら)によれ