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2026/03/09

立原道造草稿詩篇 (空つ風の高臺に……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (空つ風の高臺に……)

 

空つ風の高臺に

かうして二人で立つてゐると

屋根の向うの夕燒に

小さく富士が見えてゐる

 

語らひは疲れの外に流れ去り

ただ眺めてゐる靄もない町の空

積み重なつた屋根の下に

煌めくままに燈がともり

 

立原道造草稿詩篇 (春が來たなら……)

立原道造草稿詩篇 (春が來たなら……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。

 さて。本詩の底本を見て戴きたい。そこでは、二行目が、

   *

本のかげに小さな椅子に腰かけて

   *

となっている。これは、流石に、驚いた。しかし、注記には、何も書かれていない。まず、躓き、しかし、一瞬、『春、極小の小人に変じた道造が、「本のかげに小さな椅子に腰かけて」……とメルヘン風に詠み始めたものか?』と思ったのだが、しかし、以下を読んでも、そんなニュアンスは全く認められない。而して、この詩、以前に電子化した記憶が微かにあったので、調べたところ、二〇一六年六月に、所持する一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)を元に、恣意的に正字化したものであるが、そこでは、

☆ちゃんと「木」になっている

のである。

 さて。杉浦明平氏は、本底本全集の編者の一人である。しかも、本注記の末尾の担当編集委員自体が、杉浦氏自身が書かれているのである。

 しかし、だ! 国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集」(角川書店版の旧版及び新版とも)を横断検索しても、

この草稿詩篇は、総てが、「本」になっている

のである!

 この原稿は底本の注記を見ても、喪失とは書かれていない。とすれば、

★杉浦氏が岩波文庫版「立原道造詩集」を編集され、原稿を再々度、確認されるまで、「木」の判読の誤り、或いは、旧全集から新全集まで、延々と続いた誤植であった

ということになるのである。或いは、失礼乍ら、

★旧全集のものを、再検証し切れずに、うっかり、そのまま――安易に――旧全集から移したものではないか?

と疑わざるを得ないのである。そう疑うのは、再検証して、やっぱり、「本」であったのなら、ここに、せめても、訂正注として、

――原記では、二行目冒頭の「木」は「本」であるが、「木」の誤記と認め、特異的に訂した。――

とされたはずだから、である。既に、杉浦氏は白玉楼中の人となられているから、判らない。或いは、新版の後刷には、それが語られてあるのかも知れない。

★無論、私は「木」と書き変えた。

 

  (春が來たなら……)

 

春が來たなら 花が咲いたら

木のかげに小さな椅子に腰かけて

ずつと遠くを見てくらさう

そしてとしよりになるだらう

僕は何もかもわかつたやうに

灰の色をした靄のしめりの向うの方に

小さなやさしい笑顏を送らう

僕は餘計な歌はもう歌はない

手をのばしたらそつと花に觸れるだらう

 

春が來たなら ひとりだつたら

 

立原道造草稿詩篇 (日暮に近い部屋のなかで……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  (日暮に近い部屋のなかで……)

 

日暮に近い部屋のなかで、鉛筆が僕を傷つけた。色褪せた紙に、僕は詩を書いてゐた。亂れた心に復讐をするために。

 

僕が書ける日、平和は僕をとめた。

弱さがお前に書かすのだと、强くなれと。

詩が書けない日、言葉は僕を妨げた。

そこにお前はゐないのだと、町へ行けと。

 

夕日が窓を消えて行つた。

九つの星に僕はたづねよう。生きるといふことを。そのなかで歌ふことを。

 

 

[やぶちゃん注:この第一聯の表現には、道造のアンビバレンスな心理が反映されている。第二聯を読むなら、第一聯の、表面的には、「亂れた」僕の「心に復讐をするために」、「鉛筆が僕を傷つけた」と読めるのだが、実は、ここには、無意識裡に、道造自身が「亂れた心に復讐をするために」「僕は詩を書いてゐた」というニュアンスが読み解けるからである。傷心のロマンス詩人であると思われている立原道造は、実際には、詩を「亂れた心に復讐をするために」自虐的に「詩を書いてゐた」のではなかったか? 私はそれこそが、詩人立原道造の内実であったのではなかったか?

「九つの星」注記では、『占星術の九曜星』(くようせい/くようぼし:「くよう」は歴史的仮名遣では「くえう」)『か。』とする。小学館「日本国語大辞典」の「九曜」に拠れば、『日・月・火・水・木・金・土の七曜星に、羅睺(らご)星と計都(けいと)星を加えたもの。本来は、インドの天文学で九惑星として数えあげた名称で、日本には、密教の星辰信仰を介して知られるようになり、陰陽(おんよう)家が、人の生年月などに配当して運命を占った。九曜星(くようせい)。九曜の星。九星(きゅうせい)。』とする。道造は、建築家であるが、当初、第一高等学校理科甲類に進学した時は、天文学を志望していた。星に疎い私でさえ、九曜星は漢文と民俗学への興味から、よく知っていたから、確かに、「九つの星」と言えば、まず、それを想起はする。しかし、ここで道造が、九曜星を指しているというのは、どうも胡散臭い。日没後の星空を見上げた彼が、実際の九つの星を見上げて、かく、表現したとするのが自然である。但し、九つからなる星座は、存在しない。前後の草稿の並びから、これを昭和九年の晩秋と仮定すると、この時、彼は東京にいる。季節的に、はっきりと見える星座はオリオン座の七星であるが、晴天であれば、オリオンの内側に等級の低い星が見えるから、それを見上げたと仮定するのが、最も無難かと、素人の私は考えた。星に詳しい方のご意見を拝聴したい。]

立原道造草稿詩篇 踊子は

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこに、『原記最終行は消去されて次の言葉が続く。』として消去した一文が記されてあるので、それを【初稿】として復元した。]

 

【初稿】

 

  踊子は

 

踊子はなぜ踊るのか知らなつた。それはサアカスの音樂のなかの踊子だつた。動物のかはりに、積木のかはりに。

 

人たちは慰むことが出來た。束の間は笑ふことが出來た。

 

踊子は靴を鳴らした。月曜日に日曜日の着物を着てゐた。それから疲れた。

 

 

【決定草稿】

 

  踊子は

 

踊子はなぜ踊るのか知らなつた。それはサアカスの音樂のなかの踊子だつた。動物のかはりに、積木のかはりに。

 

人たちは慰むことが出來た。束の間は笑ふことが出來た。

 

踊子は靴を鳴らした。月曜日に日曜日の着物を着てゐた。

 

 

[やぶちゃん注:私は、この場に道造と一緒にいたデジャヴを持ってしまう人種である。さればこそ、私は、断然、初稿を支持する。]

2026/03/08

立原道造草稿詩篇 風琴を聞く女

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  風琴を聞く女

 

暮れやすい雨にあかりがともされて

一きは切ない心の歌をうたつたが

あの風琴は繰り返して飽きなかつた

おそらく故鄕の歌だつたのだらう

 

一輪に紅い花を凋れる前に髮にとめ

ぢつと眼をとぢてゐるその姿が

黑い上衣の襞に搖れて立ちあがつた

窓に凭ると眼は暗がりが映つた

 

呼びあつて風琴の歌はまた繰返した

この一日かうして終つたと

雫に濡れた窓に人の心が眞似をした

また一日かうして終つたと

 

立原道造草稿詩篇 船

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  船

 

湖に洋燈を浮べて夏の日を

つなぎとめたお前の心から

夢もなく滑つて行つたのは

つかの間の藻のいたづらら

 

お前はうつろ眼に

靑空を山々の形をうつし

溢れる思ひには身を任さなかつた

朽ちないまま 冷やかに

急流を行く日ばかり

はかない願ひにかぞへてゐた

 

立原道造草稿詩篇 昨日

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  昨日

 

消えた言葉は追ふのはよさう

消えた言葉は私のものだ

どこに どこに やさしい言葉

 

消えた言葉は空にゐる

一日 雲とうたつてゐるのは

どこに どこに 私の言葉

 

さがしに行つた人たちと

耳をすすますなら 私は行かう

 

消えた言葉は私のものだ

また 朝から日暮れまで

 

立原道造草稿詩篇 鴉の歌

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  鴉の歌

 

奪はれた日から 私はうたつた

私はここに立つてゐる そして汚れた

私は夕燒を呼んでゐる 今こそあれがいりようなのだ

 

私は夜と一しよにゐたい

木の風と 私はかくすものと

そして私は夜をにくまう あれは一面に黑いから

 

私は燒けて そこから生れる

夕燒ばかりがいりようなのだ

私は呼んでゐる 奪はれてはならない 私は呼んでゐる

 

[やぶちゃん注:今朝、未明に起きて、この詩について、既に二時間半の間、この第一聯の二行目の「汚れた」を「よごれた」と読むか、「けがれた」と読むかで、迷い続けた。最初、一行目を受けて、私は、無条件反射で、「けがれた」と読んだ。しかし、即時に、ふと、暗い書斎で(私の書斎の室内灯は八カ月前から豆電球を除いてショートしている。パソコン使用には問題がなく、机にあるスタンドで十分なので、直していない)、『道造が、いままで「けがれ」と読んだことがあったかな?』と頭を傾げたのだった。まず、私の「立原道造」(現在、三百三十八件。目ぼしい詩篇は概ね電子化したが、私は物語物は殆んど電子化していない)で調べると、「けがれ」は見当たらない。所持する幾つかの彼の詩集の中には、編者がルビを振ったものがあるが、それらにも、存在しなかった(ブログ記事の初期は、それらをほぼ、全部を電子化しているから、落ちはない)。次に、国立国会図書館デジタルコレクションにある全ての彼の全集で全文検索を「穢」の単漢字を調べたが、「穢」の使用は全くなかった。次に「けがれ」で調べたが。使用例はなかった。「汚」の漢字は、彼は好んで詩句に用いている。しかし、それらは殆んどが物理的・比喩的な用法での、「よごれる」の意の用法でしか見出せなかった。これを確認し終わった時に、山影から陽が射していた(道造好みの朝焼けであった)。以上から、私は、道造は「穢」の漢字、「けがれ」の文字を生理的に嫌っていたと断言してよいと思われる(全文検索には書翰も含まれる)。されば、この「そして汚れた」も「そして よごれた」と読んでよいと結論づけた。識者で、使用例があるとなれば、御教授戴きたい。

2026/03/07

立原道造草稿詩篇 雨

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来るが、そこには、『草稿消失 角川書店版第二巻』とあり、『全集に於ける隣接詩との関連に拠り、ここに置いた。』とある。旧全集(一九五八年版)の当該部は、ここである。]

 

  雨

 

雨といふに、飛行機がとぶ。

窓をあければ――

八つ手の若葉。

どこからか子供の聲がする。

 

立原道造草稿詩篇 窓

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこには、抹消した第二行と第三行の間にある一行が記されてあるので、それを【初稿】として復元した。]

 

【初稿】

 

  窓

 

坐つて 黙つてゐた

 

たつたひとりであつた

 

ほほ笑んだ顏ばかりであつた

 

空がかがやき雲が過ぎるとき

 

ちひさな 似た神々であつた

 

寢床まで月がさすことがあつた

 

風吹くな と祈つてゐた

 

 

【決定草稿】

 

 

  窓

 

坐つて 黙つてゐた

 

たつたひとりであつた

 

空がかがやき雲が過ぎるとき

 

ちひさな 似た神々であつた

 

寢床まで月がさすことがあつた

 

風吹くな と祈つてゐた

 

立原道造草稿詩篇 擒(とりこ)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  擒(とりこ)

 

風がとほくを過ぎるときに

 

身體をかたくして 僕は 手を垂れてゐる

 

家畜の眠りのまはりの洋のやうに

 

かすかな響が僕を包んだ――

 

 

[やぶちゃん注:「身體」は「しんたい」と読んでおく。道造なら、「からだ」と読ませるつもりであれば、必ず、ルビを振ると考えるからである。]

立原道造草稿詩篇 曇天

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年の『制作時付記を持つ』(月は表示なし)とある。]

 

  曇天

 

雨降るな

 

風吹くな

 

旅であらうに

 

龜よ 汝(おまへ)の脊に手をおきつ

 

道は遙かに白かろき

 

 

[やぶちゃん注:「おきつ」の「つ」は、古語の完了の助動詞の終止形で、所謂、通常、「……つ、……つ」の形で、「……したり、……したり」という複数の動作が並立的に行われるそれであるが、ここでは、後の動作が存在しない全くの破格法である。或いは、古語・現代語共通の「つつ」の後の「つ」を脱字してしまったものかも知れない。しかし、最終行の末文のフレーズ「白かろき」は明らかに擬古文であるから、詩人の亀に言いかけた一連のものであると読む以外にはおかしいから、前のこの「つ」も、古語の破格のそれであると読むのが、自然である。しかし、表現としては、ぎくしゃくしていて、全くのアウトである。

 さて。これと、直前の「天の誘ひ」の二篇は、道造としては、詩的実験を試みたものと思われる。「天の誘ひ」の漢文と最終行末尾の「歸らず」の擬古的手法といい、本篇の「つ」と「白かろき」の使用で、通性が強い。しかし、正直、この二篇は、道造の詩としては、異様で、失敗であると思う。

立原道造草稿詩篇 天の誘ひ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時付記を持つ』とある。]

 

  天の誘ひ

 

それは哀しみに似てゐたが

 

人は知らぬ顏をして

 

日の暮れるのを待つてみた

 

――万事休矣

 

あたふたと旅仕度をした

 

かがやく雲と月は歸らず

 

 

[やぶちゃん注:「矣」は漢文の助字で置き字で読まない。全体は「ばんじきゆうす」(ばんじきゅうす)と読む。]

立原道造草稿詩篇 晩秋

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時付記を持つ』とある。]

 

  晩秋

 

ゆく雲が何をうたつたか

 

おまへのあちらに人の世がある

 

本棚の隅に見つけた

 

歌は窓を破り逃げ去つた

 

もう誰とも會はなかつらう

 

立原道造草稿詩篇 黃昏へ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時付記を持つ』とある。標題は「たそがれへ」と読みたい。]

 

  黃昏へ

 

茂みの小鳥は年老いた

 

緑は 空は 色移つた

 

誰がうたふだらうか けふ僕のよろこびを

 

歌は翼を日に煌かせ

 

弱年の掌を飛び去つた

 

立原道造草稿詩篇 落葉

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時付記を持つ』とある。]

 

  落葉

 

踊子の掌に 光が

それが消えると

踊子の掌に 光が

 

その上に それが消え それがかげり

光のなかを 踊子が

そればかり そればかり

光のはてを 掌が

ただもう搖れざはめく掌を

光が 光が

 

立原道造草稿詩篇 十一月一日の朝

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。それに拠れば、昭和九(一九三四)年十月の『制作時記を持つ』とある。この詩、道造としてはやや珍しい文語表現の混じったものであるが、正直、いただけない。]

 

  十一月一日の朝

 

人は並木のかげを行き

吐く息は美しく頰を染め

そのあとを幾つも幾つも水玉が流れぬ

 

窓はすきとほり

笑はない子供等のそばに

雲がそれを眺めぬ……

 

家鴨と鶴が飛び去れり

水音に池は濡れしが

誰もその低い呟きを聞かず

 

立原道造草稿詩篇 風の話

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  風の話

 

そんなことを言ふのはおかしかつた

僕らは まじめな顏で言ひあつてゐた

風が見えないことを

 

最初の子供は 風が埃のそばに見えることを言つた

誰にもその考へは氣にいらなかつた

 

次の子供は 風が枝のそばにばかり見えることを言つた

その子は木のぼりを考へた 葉がそよいだ

 

僕らはみんなで言ひあつた

そしてたいとう最後の子供が言つた

あれは見えなくてよいことを

 

 

[やぶちゃん注:これは少年期の道造の回想の再構築ではない。そこにいる「僕」は青年になった道造である。そうして、こうした道造マジックこそ、彼が真のpuer eternus――プエル・エテルヌスとして生きた詩人であることを証明する。虐められてばかりいた僕が、遂になれなれなかったプエル・エテルヌスに……。]

立原道造草稿詩篇 夜

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこには、『第二聯の「――』を字空けで連投する『使用は、昭和10年3月の「枯木と風の歌」(第一巻所収)などにも見られる。』とある。この「枯木と風の歌」は、既に、二〇一五年十月六日に電子化してある。しかし、それは、底本として昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」を用いたのだったが、今回、調べたところ、この中村氏が拠ったものが、角川書店の旧全集(ここ〈一九五七年版〉/先行版はここ〈一九五〇年版〉)を底本にしたもので、そこでは、この第四聯の最終行が「 …… …… ……」になっていたのであるが、後の新全集(一九七一年刊)を見たところ、当該部(ここ)は以上のように、「―― ―― ―― ―― ――」になっていることを発見した。されば、そこを修正し、中村氏がルビを振った部分四箇所もカットし、さらに、Unicode導入以前の仕事であるので、正字不全があったのも修正しておいたので、見られたい。因みに、この草稿の創作時期は、昭和九(一九三四)年に想定されている。]

 

  夜

 

僕にはどうしてもわからない

どうしてあんなにいそぐのか

そして或る時はしづかなのか

風のことが

 

窓をとざして

僕は聞いてゐる

さうして いつまでも

―― ―― ―― ―― ――

 

2026/03/06

立原道造草稿詩篇 海峽

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  海峽

 

搖れながら あかりは風に消えて行つた

窓の外に 船はどこにゐるのだらうか

 

女たちは抱きあつて 昨日を呼んでゐた

(朝になつたら あれは歸だらうか)

 

誰もが祈ることを思はなかつた

風が叫び返した 波は白く炎のやうに散つてゐた

 

骸骨は 崩れたらうか――

女たちは 泣くすべを呼びつづけた

 

立原道造草稿詩篇 旅

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。]

 

  旅

 

海は燕の歌をきいた――

日がはじまり 碑がをはり かうして

越えてゐる私の羽根には力があるのだ

私は疲れた阿呆鳥とはちがふのだらう

私はいさましく越えて行く 私は信じてゐると……

この小さな生物は海にいつかはその身を投げはしないか

 

海は絕えずうたつてゐた 呟きだつた

或る日 それは夏だつた

燕はたうとう海を越えきつた 海は忘れてゐた

白い波頭でその行方を見送りながら 繰返した

これはあまりに小さく 私はあまりに大きいと――

明るくはてしない晝であつた 似た雲があつた

 

立原道造草稿詩篇 白

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここで視認出来る。そこには、『「――三四・九月」の制作時付記を持つ。』とある。]

 

  白

 

海への道だつた やさしいことだつた

しやべりながら はしやぎながら しづまりながら

それは明るい時だつた

 

おまへの耳に日が搖れ

濡れた木の間を光が洩れ

うすらいでゆく霧だつた 霧は空の色だつた

 

やさしいことだつた――

僕には夢があつた 笑ひがあつた

海には朝の船がとほい港に旅立つて行つた

 

 

[やぶちゃん注:道造の得意な過去形の失恋詩篇である。彼が詠む時、孰れも、気障を全く感じない。そこに私は惹かれる。私は多くの教え子の結婚式に招かれたが、そこでは、多くは、長い退屈な賛辞はせず、いろいろな詩を朗読した(私は国語教師時代、自ら『朗読七割、授業三割。』と嘯いていた)。数回、道造の詩も詠んだ。しかし、彼等は、それが、失恋の詩であることを知らなかった。道造の失恋詩には、失恋の持つ永遠の瞬間の至福があるからに他ならないのである。私も、この詩を、嘗つて愛した女性に贈ることとする。]

2026/03/05

立原道造草稿詩篇 夏へ

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから、次のコマで視認出来る。そこには、『前掲』『鉛筆書き初稿「旅裝――K停車場で」』(ここは前の注記から正式な標題を示した)『とほぼ同文である。』とし、『昭和11年3月「ゆめみこ」発表の「夏へ」の原型。』とある。

★この注記中にある『ほぼ同文である』が気になる。「ほぼ」とあるのだから、違いがあるのである。しかし、底本全集には、いくら探しても、その鉛筆書きである初稿「旅裝――K停車場で」は、載っていないのである。恐らくは、標題(注記の殆んどでは、単に原題を「旅裝」のみとなっているのも、実は、甚だ、気になっているのである)・字配・表字(判読不能を含む)・「てにをは」の異体・誤字その他と有意な違いではないと判断されたものなのだろうが、やはり、気になるのである。因みに、調べてみたところ、『郷土作家研究』(通号二十八号・二〇〇三年七月発行)に載る野村聡氏の論文『立原道造「旅装」の考察--草稿詩との比較による解読の試み』に、その初稿が載るのではないかと思ったが、ネット上では直接の閲覧が出来ない(国立国会図書館に依頼すれば、閲覧可能だが、私は、現在、諸事多忙なれば、その余裕がない)。もし、私のブログの読者で、その論文を所持しておられる方が居られれば、その論文に原型が載っているのであれば、それを教えて下されば、誠に有難い。その関係上、最初に掲げたものを【草稿第二稿】とした。

☆本草稿を元にした発表された「夏へ」は、実は、私は、本全集の編者であられる杉浦民平氏の編になる岩波文庫版に載るものを、ここで、二〇一六年に公開しているのだが、恣意的に私が正字に直したものであり、杉浦氏はルビを附加されておられるので、改めて、ここで【雑誌『ひめみこ』掲載の決定稿】として、底本全集の「第一卷 詩集I」の「夏へ」を底本にして、改めて電子化した。但し、同巻の編者注に(ここの左丁下段三行目以降)、その発表されたものを、改めて、道造が手書き(推定)で、公開誌に訂正を入れたものが存在し、実は、同全集の本文は、編者によって、その訂正版で示されてあるのである。この「訂正」というのが、単なる雑誌編者の誤りなのか、発表後に道造が気に入らなくなって、発表誌に書き込んだものなのかは、その注記では明確ではない。そこで、最後に、【発表詩に後に自筆(推定)で書き変えた決定稿(推定)】として附すこととした。

 

【草稿第二稿】

 

  夏へ

 

ここにかうして待つてゐる 或る時の

僕の少年 僕の祕密

僕の知らない 誰かの出發

 

人はハンカチをふるだらう

すると窓からほほ笑むだらう

さうしてどこかに行くだらう

 

さう 僕は 帽子用意した

それから紙よりも白いシヤツを

さうしてさがしさがしに行くだらう

 

プラツトフオームで手をふつた 或る時の

僕の昨日 僕の少年

あの人のゐない 幾つも幾つもの出發

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、第三聯の頭の「さう」は、下の字空けからも判る通り、自分自身に改めて再確認をして、決意を示した「さう」(そう)である。]

 

 

【雑誌『ひめみこ』掲載の決定稿】

 

  夏へ

 

こゝにかうして待つてゐる、或る時の

僕の少年 僕の祕密……

さうして僕の 知らない人の 誰かの出發

 

人は ハンカチをふつてゐる

人は お辭儀をする

さうしてどこかに行くだらう――

 

(さう 僕は 帽子用意した

それから紙よりも白いシヤツを

さうしてさがしさがしに行くだらう)

 

プラツト・フオームで手をふつた

或る時の

僕の昨日

僕の少年……あれから

あの人だけゐない すぎた幾つもの出發

 

 

【発表詩に後に自筆(推定)で書き変えた決定稿(推定)】

 

  夏へ

 

こゝにかうして待つてゐる、或る時の

僕の少年 僕の祕密……

さうして僕の 知らない人の

忘れた 誰かの とほい出發

 

人は ハンカチをふつてゐる

人は 窓からほほゑむ

人は お辭儀をする

さうしてどこかへ行くのだらう――

 

(さう 僕は 帽子を用意した

それから紙よりも白い肌衣を

さうしてさがしさがしに行くだらう)

 

プラツト・フオームで手をふつた 或る時の

僕の昨日、僕の少年……あれから

あの人だけゐない すぎた幾つもの出發

 

2026/03/04

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 目録・山草類 上卷・尾人參

 

Higeninjin

 

ひげにんじん 髭人參【俗稱】

       小人參【俗稱】

尾人參

       自此一種也俗

       以爲大人參之

       髭細根者非也

 

△按尾人參朝鮮中華共有之蔓生而與人參一類異種

 者也高一二寸葉似人參而小蔓出於莖布地至𠙚生

 根如草石蠺樣取其蔓根爲藥纖者似萆薢髭故名髭

[やぶちゃん注:「蠶」は、原本では「グリフウィキ」のこれ(上部の「天天」が「夫夫」)だが、表示出来ないので、正字で示した。]

 人參毎唐船皆將來之稱小人參性堅實其功勝於大

 人參之浮虛者

 

   *

 

ひげにんじん 髭人參【俗稱。】

       小人參《しやうにんじん》【俗稱。】

尾人參

       自《おのづか》ら、此れ、一種なり。俗、

       以《もつて》、「大人參の髭細根」と爲るは、

       非なり。

 

△按ずるに、尾人參は、朝鮮・中華、共に、之れ、有り。蔓生《つるせい》して、人參と一類異種なる者なり。高さ、一、二寸。葉、人參に似て、小《ちさ》く、蔓(つる)。莖より出《いで》て、地に布《し》き、至る𠙚に、根≪を≫生ず。「草石蠺(ちやうろぎ)」の樣《さま》のごとし。其蔓根《つるね》を取《とり》て、藥と爲《なす》。纖(ほそ)き者は、「萆薢(ところ)」の髭(ひげ)に似《にる》。故《ゆゑ》、「髭人參」と名《なづ》く。毎《まい》、唐船《たうせん》、皆、之《これ》、將《も》ち[やぶちゃん注:「將」の字には「持ち送る」の意がある。]來《きた》る。「小人參」と稱す。性、堅實にして、其功、「大人參」の浮虛《ふきよ》なる者に勝(《ま》さ)る。

 

[やぶちゃん注:本稿は、「本草綱目」に引用がない。そして、前回の「卷第九十二之本 山草類 上卷・人參」で予告した通り、良安が言っているような一類異種では、ない。

 「金澤 中屋彦十郞藥局」の「●髭人参(ひげにんじん、ヒゲニンジン)、毛人参(けにんじん、ケニンジン)」に拠れば(一部を太字にした)、『健康食品、髭人参は神農本草経の上品に収載され、古くからもっとも珍重された補剤です。その根が人の形ににているからつけられたといわれています』とあり、基原を前項と同じ『ウコギ科のオタネニンジン』=セリ目ウコギ科トチバニンジン(栃葉人参)属オタネニンジン(御種人蔘)Panax ginseng 『の細根を除いた根(白参、生干人参)。または』、『これを軽く湯通しして(御種人参、雲州仕立て)乾燥したもの。人参はその調整法により「白参」と「紅参」に大別できる。もっとも雲州仕立てのような中間型もある。白参は直参、半曲参、曲参にわけられる。日本産、開城人参などは直参、豊基人参は半曲参、錦山人参は曲参で、そのほか生産地により数種の形の人参がある。紅参は細根をつけたまま蒸しあげ乾燥したもの(日本産紅参)と、細根を除去し』、『圧力をかけて乾燥したもの(北鮮、韓国産紅参)とがある』。「産地」の項には、『日本(長野、福島、島根;栽培)、韓国、北朝鮮、中国、ロシア(栽培、野生品はきわめてすくない。)』とする。「成分」の項に、『精油0.05%(β-エレメン、パナキシノール、パナキシドール、ヘプタデカー1-エンー46ジインー39ジオール、サポニン配糖体約4%(ギンセノシドなど)、糖類約5%を含む)』とある。「処方例」として、『白虎加人参湯、生姜瀉心湯、小柴胡湯、人参養栄湯、理中丸など。』が挙げられてあり、「用法・用量」に『煎剤、丸剤、散剤。10.53.0グラム。』とする。そして、「同類生薬」として、『広東人参:アメリカニンジンの根を乾燥したもので、カナダ、北アメリカに産する。別名を「西洋参」「花旗参」などともいう、成分としてサポニン配糖体 5%、を含み、用途は人参と同様に用いる。』とし、さらに、『三七人参:サンシチニンジンの根を乾燥したもので、「田七人参」「田三七」などともいう。中国雲南省、広西壮族自治区およびベトナム北部に産する。成分としてサポニン配糖体38%を含み、その主成分はギンセノシドである。』とある。

 さて、この最後の二種については、前者が、

トチバニンジン属アメリカニンジン Panax quinquefolius

であるが、これは、当該ウィキに拠れば、『北アメリカ原産であ』るとあり、この種は「広東人参」の異名があるものの、これは、近代に『広州や香港を経由して』アメリカから『輸出されていたことに因む』ものである。同種の「維基百科」の「花旗参」の記載を見ても、近代以前に中国に持ち込まれたとする記載はないから、これは、良安がここで言っている「尾人參」では、あり得ない。

  しかし、後者は、

トチバニンジン属サンシチニンジン(三七人参)Panax notoginseng

という同属(=同属種)の別種である。「維基百科」の同種のページは単に「三七」である。本邦の当該ウィキに拠れば、『中国南部原産』とし、「別名」として、『田七人参(でんしちにんじん)』は『広西省の田陽』(ここ。グーグル・マップ・データ。次も同じ)や『田東』(ここ)『で産することから、「田」の字が冠される』とし、また、『金不換(きんふかん)』という別異名に就いては、『金に替えられないほど価値が高いという意味』とある。しかし、「歴史」の項に、『おそらく、原産地では古くからその薬効が知られていたものと思われるが、中国の医学に組み入れられた歴史は浅く、16世紀に李時珍が著した薬学書』「本草綱目」『が初出』とし、『別名「金不換」の通り、中国では長らく国外輸出が禁止されていたが、近年、日本をはじめ、世界各国に輸出されている』とあった。

 さても、「本草綱目」初出というのは、実に「草之一 卷十二上【山草類上三十一種】」の末尾に置かれていた。「維基文庫」のここである。以下に示すが、「維基文庫」版は正字では電子化されていない(誤字も多くある)ので、以下に、それを加工データにして、国立国会図書館デジタルコレクションの万曆一八(一五九〇)年序板の当該部で校訂して示すこととする。一部の表示出来ない異体字は、同字であることを確認の上、「維基文庫」の字を採用した。句読点は意味を採るのに有効なので、やはり採用した。なお、後者のデジコレの方には、追加部分がある。

   *

三七【綱目】

(釋名)山𣾰【綱目】金不換【時珍曰、彼人言其葉左三右四、故名三七、盖恐不然。或云本名山𣾰、謂其能合金瘡、如𣾰黏粘物也、此說近之。金不換、貴重之稱也。】

(集觧)時珍曰、生廣西、南丹諸州畨峒深山中、采根暴乾、黄黒色。團結者、狀畧似白及、長者、如老乾地黄、有節。味微甘而苦、頗似人參之味。或云、試法、以末糝豬血中、血化爲水者乃真。近傳一種草、春生苗、夏高三、四尺。葉佀[やぶちゃん注:「似」の異体字。]菊艾而勁厚、有龜岐尖。莖有赤稜。夏秋開黄花、蕊如金絲、盤紐可愛、而氣不香。花乾則吐絮如苦絮。根葉味甘。治金瘡折傷出血、及上下血病、甚效。云是三七、而根大如牛蒡根、與南中來者不類、恐是劉𭔃[やぶちゃん注:「寄」の異体字。]奴之属、甚易繁衍。

根(氣味)甘、微苦、温、無毒。(主治)止血散血定痛、金刃箭傷、跌撲杖瘡、血出不止者、嚼爛塗、或爲末摻之、其血卽止。亦主吐血衄血、下血血痢、崩中經水不止、産後惡血不下、血運血痛、赤目癰腫、虎咬蛇傷諸病(時珍)。

(發明)時珍曰、此藥近時始出、南人軍中用為金瘡要藥、云有竒[やぶちゃん注:「奇」の異体字。]功。又云、凡杖撲傷損、瘀血淋漓者、隨即嚼爛、罨之即止、靑腫者、即消散。若受杖時、先服一、二錢、則血不衝心、杖後、尤宜服之。産後服、亦良。大抵此薬氣温、味甘微苦、乃陽明、厥陰血分之薬、故能治一切血病、與麒麟竭、紫𨥑[やぶちゃん注:「礦」の異体字。]相同。

(附方)【新八】吐血衄血【山𣾰一錢、自嚼、米湯送下。或以五分、加入八核湯。 瀕湖集簡方】赤痢血痢【三七三銭、硏末、米泔水調服。卽愈。 同上。】大腸下血【三七硏末、同淡白酒調一、二銭服、三服可愈。加五分入四物湯、亦可。 同上。】婦人血崩【方同上。】產後血多【山𣾰硏末、米湯服一銭。 同上。】男婦赤眼【十分重者、以山𣾰根磨汁、塗四圍。甚妙。 同上。】無名癰腫【疼痛不止、山𣾰磨米醋調、塗即散。已破者、硏末乾塗。】虎咬蛇傷【山𣾰硏末、米飮服三銭、仍嚼塗之。 並同上。】。

葉(主治)折傷跌撲出血、傅之卽止、靑腫、經夜卽散、餘功同根【時珍。】。

   *

★則ち、良安は自身の持つ「本草綱目」で、これを見たはずなのだが、「和漢三才圖會」には、全文で「三七」を国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版を★全文検索しても

――影も形も――ない――

のである。この事実は、取りも直さず、

★✕以上の引用の如く――江戸中期に――このサンシチニンジンが本邦に輸出された可能性は――ない――✕★

と考えてよい、ということになる、と私は断定するものである。

 而して、ということは、

良安が言っている朝鮮・中華から齎されたそれは、オタネニンジン(チョウセンニンジン)の成長不全個体の製品である

と断定するものである。

「草石蠺(ちやうろぎ)」シソ目シソ科オドリコソウ亜科イヌゴマ属チョロギ Stachys sieboldii 。詳しくは、当該ウィキを見られたい。私は、秋田県の温泉で、同種の塊茎を塩漬けにしたものを食べて以来、好物となった。

「萆薢(ところ)」本邦では「野老」で「ところ」と読ませる。これは、ユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の蔓性多年草の一群を指す。詳しくは、当該ウィキを見られたい。]

立原道造草稿詩篇 春風の歌 / 【私の独断でカップリングした同全集「下書き草稿篇」に配されてある詩篇】(海には波には……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから、次のコマで視認出来る。この原稿群は『一部の作品は』昭和九(一九三四)年『9、10月の制作時付記を持』つとする。この「春風の歌」は、この年の春の情景を謳っているが、まずは、この年の春の海浜での体験を詠んだものと採っておく。注記には、第二聯の初稿が記されているので、それを、【初稿】して電子化した。なお、私は「春風」は「はるかぜ」と読みたい。

 次に、注記には、この詩稿「春風」の草稿が書かれている原稿の『裏面に次の「夏へ」の鉛筆書き初稿「旅装――K停車場で」および無題詩断片(海には波は…第六巻所収)がある。』とあった。そこで、そちらを見たところ、それは「第六卷 雜纂」の「下書き草稿篇」のパートに入っていた。ここである。しかし、それは私には、この「春風の歌」と強い親和性があるものと読めた。そこで、私の独断で、この後に、それを、「春風の歌」とカップリングして、「(海には波は……)」として掲げることとした。恐らく、私の読者は、この詩を、何故、「下書き草稿篇」に入れたのだろうと、訝る方もあろうと思う。私もそう思った。だから、ここに配することとした。取り敢えず、編者が最終巻の「下書き草稿篇」で前解説をしている箇所をリンクさせておく(下段に当該詩の解説がある)。

 

【初稿】

 

  春風の歌

 

私はいつか流れて行つた

繪のやうな綠のなかを

たつたひとつのの人の言葉を

運んで行くと 人は誰でも受け取つた

ありがたうとほほ笑みながら

 

夢から晝へ きらめく枝のなかを

私は 每日のやうに靑い空を

駈けてゐた 晝から夜へ

沈丁が咲いてゐた 麥がのびてゐた

私はいつかひとりだつた

 

 

【決定稿】

 

  春風の歌

 

私はいつか流れて行つた

繪のやうな綠のなかを

たつたひとつのの人の言葉を

運んで行くと 人は誰でも受け取つた

ありがたうとほほ笑みながら

 

夢から晝へ 駈けてゐた

私は 每日のやうに靑い空を

菜が咲いてゐた 川が溢れてゐた

私はいつかひとりだつた

 

 

[やぶちゃん注:個人的で恐縮だが、私は菜の花が頗る好きだ(もっと好きなのは紫雲英(ゲンゲ)だ)。だから、決定稿が好きだ。]

 

 

   ☆

 

 

【私の独断でカップリングした同全集「下書き草稿篇」に配されてある詩篇】

 

 

  (海には波は……)

 

海には波は白く炎のやうに散つてゐた

すばやい虹の雲が走りすぎた

鷗が追つてゐた――

艪はあはただしく波を切り

舟は濡れた水脈をひいてゐた

 

 

[やぶちゃん注:「水脈」は、断然、「みを」と読む。]

2026/03/03

立原道造草稿詩篇 (かなしいまでに……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (かなしいまでに……)

 

かなしいまでにとほくを見て

眼よ おまへは泪をひたかくしてゐた

 

明るい雲の流れる街に

ボロの軒下を拾つて步き

おまへはひとをさがしあぐんだ

つれなかつたひとを

 

耳よ おまへのなかに老いたかなしみが

潮騒をうたひ とほい靄の夜をささやいた

 

夕暮れて 夕暮れは汚れた城のやう

荒れた草生にひとを待つてゐた

おまへは 來ないひとを

足音を

 

ながいこと さうして私はさまよつた

驢馬の步みよりまだ愚かしく

私は さうして ほほゑむだ

 

耳よ 眼よ

私は さうして ほほゑむだ

かつて愛したものの形は消えるまで

 

 

[やぶちゃん注:やはり漢字の読みが気になる。「眼」は全体を読み終わると、「まなこ」では、音律が上手くなく、結果的に浮いてしまい、おかしい。これは「め」であろう。

「草生」は「くさふ」と読む。草原に同じい。]

立原道造草稿詩篇 (眼をつむり……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (眼をつむり……)

 

眼をつむり それでも

葉の重なりが見えるのだ

暗いギザギザが消えないのだ。

人は己を 疲れたといひ 瘠せたといひ

それが己をイライラとさせ

己れの顏は汚れてしまふのだ。

闇のなかでおろおろとしてゐる顏

ギザギザの葉つぱに嚙みつかれ

どうすることもならない顏、

それでも己はしつこく眼をつむり

己の顏を瞶めてしまふのだ。

 

 

[やぶちゃん注:「己」(「己れ」も含む)は「おれ」と読んでいよう。

「瞶めて」「みつめて」。]

立原道造草稿詩篇 晩夏

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  晩夏

 

つめたい風が袖口をめぐつてゐた。僞はるために詩を書いた。秋とは何だつたらう。秋が來て、何をするのだつたらう。霧のふかい日がつづいた。明日ばかり算へてゐた。ギリシヤ神話をよんでゐた。門口で郵便配達に會釋をした。稀に旅人のやうに、道を瞶めてゐた。夢を見た。燈のまはりを蛾が羽ばたいてゐた。

 

[やぶちゃん注:妙に、漢字の読みが気になってしまった。「明日」は「あす」か? 「あした」か?……「瞶めて」は「みつめて」で良かろう……「燈」は「ひ」だろうな、「ともしび」では音数律に停滞が起きるからな……――「明日」を国立国会図書館デジタルコレクションで底本の全集を横断して検索したが、どこにも道造はルビを振っていなかった。結論としては、「今日」は「けふ(きょう)」であるから、想定されるのは対応する「あす」だろうが、「霧のふかい日がつづいた。明日ばかり算へてゐた。」というフレーズを音声にしてみると、実は「あすばかりかぞえていた」という音律は――如何にも――微妙に――よろしくないことが判る。「あしたばかりかぞえていた」で初めてリズムが合うのである。私は詩語音声として「あした」を採るものである。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「臼祖母巖」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点を附加した。標題は、珍しく「臼祖母」の部分のみに『うすばゝ』(この場合は「うすばば」と読まないとおかしい)のルビがある。「巖」は、本文内容を考えるに、「いはほ」ではなく、「いは」と読むと推定した。]

 

 「臼祖母巖(うすばゝ《いは》)」 志駄郡《しだのこほり》瀨戶新屋村[やぶちゃん注:旧志郡内で、現在の藤枝市瀬戸新屋(グーグル・マップ・データ)であるが、実際には、現在の藤枝市南駿河台3丁目13-4の南向いのここ(グーグル・マップ・データ航空写真拡大)で、ストーリートビューのここ。後注も参照のこと。]にあり。傳云《つたへいふ》、

「當村鏡池《かがみいけ》は小池也。傍《かたはら》に巨巖《きよがん》あり、『臼祖母岩《うすばばいは》』と號《なづ》く。其形《そのかた》ち、人の口を開くに似たり。もし、此石に足をふるゝ者あれば、必《かならず》、瘧疾《ぎやくしつ/おこり》を患《わづら》ふ、云云《うんぬん》。」。

 毒石《どくせき》にや。

 

[やぶちゃん注:この石、現存する。場所であるが、個人サイトと思しい「志太の石碑・石仏めぐり」の「祠」の「うすんばあさん(姥神様) 子供の咳病平癒に霊験あらたかとされた巨岩と黒松」が、詳しい(国立国会図書館デジタルコレクションのリンクも完備している。但し、二〇二〇年二月で更新がないので、保存された方が無難である)。そこに、

   《引用開始》

 姥神様の祠の後ろに大きなくぼみがある岩が鎮座しており、そのかたわらに石祠と杉と黒松が立っています。この岩が姥神様こと「うすんばあさん」の御神体で、黒松は2代目の御神木です。うすんばあさんとは、「臼のばあさん」が訛ったもので、岩のくぼんだ形が臼に似ているためそう呼ばれていました。江戸時代に編まれた『駿河記』などには「臼祖母巌」として取り上げられています。

 元は現在調整池となっている烏帽子山北側の山沿いにありましたが、昭和50年(1975年)頃に始まった駿河台の宅地造成のため現在地に移転しました。旧地にあった頃には、先代の御神木黒松が岩をまたいで生えており、これらを一体のものとして祀っていたそうです。また、この前に「姥の鏡田」という清水が湧く水田がありました。

 旧地にあった先代の御神木黒松は、樹齢350年以上・樹高21mほどという立派なものでしたが、戦後間もなく火災にあい被害を受けてしまったそうです。現在地に移転する際に先代御神木の一部をとって移したものが、現在の御神木です。

 うすんばあさんは子供の咳に霊験があるとされ、足蹴にする者があれば必ず瘧疾(熱病)を患うともいわれていました。かつては多くの参詣者があり、近隣だけでなく遠州からわざわざ訪れる人もいたそうです。満願のお礼参りには竹筒に入れた酒を供えました。例祭日は43日とのことです。

 うすんばあさんが咳にご利益があるとされた由来は不明ですが、『駿河記』には「其形人の口を開きたるに似たり」とあり、案外そんなところから連想されてご利益が生まれたのかもしれないと想像しました。

 説明看板によると、旧地は調整池のほとりにそのまま残っているということです。しかし、調整池へ下りる道が封鎖されているため、おそらく立入禁止と思われます。なお、昭和59年(1984年)発行のゼンリン住宅地図には、この調整池に「姥ヶ池」というキャプションが付いていました。

 説明看板の設置者が瀬戸新屋町内会なのは、うすんばあさんの旧地が元は瀬戸新屋地内だったためと思われます。現在も南駿河台の南側に瀬戸新屋の飛地がありますが、昭和の初め頃には現・緑の丘付近と烏帽子山の東麓から富洞院あたりまでが瀬戸新屋に含まれていました。

   《引用終了》

さても、同ページの下方のゼンリン地図等が機能しないので、グーグル・マップ・データで調べたところ、サイト主が述べておられる『うすんばあさんの旧地』の『調整池のほとり』というのは、現在の航空写真では、ここの、地番「14」が打たれてある箇所で、私がストーリートビューのここの南東直近であることが判った。その後者の画像を見ると、現在の「うすんばあさん」の社には、角のフェンスが外されてあり、参拝することが出来るようになっていることが判るのである。

 なお、現在の「うすんばあさん」という呼び名は、推定だが、江戸後期から近代の庶民の呼称と思われる。その辺りを伺えるのが、リンクが機能する国立国会図書館デジタルコレクションの靜岡縣志太郡役所編になる「靜岡縣志太郡誌」(大正五(一九一六)年刊)の、ここの『【姥神御神木】(靑島村)』の項である。当該部を起こす(字空け・字配等は再現していない)。

   *

【姥神御神木】(靑島村)

所在地     瀨戶字壠川。

地上五尺の周圍 一丈五寸。

大約の樹高   十二間。

大約の樹齡   三百五十年。

傳說記錄の大要

往古より姥神御神木と稱し、巨巖を踏跨て[やぶちゃん注:「ふみまたぎて」。]樹に別に御神体[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]なく、只この巨巖と大松とを以て御神体とするが如し。巖は正面中央窪くして。其の形臼に似たるを以て、「臼ンバーサン」と云ふ。駿國雜志には、臼祖母巖とあるは此巖の如し。前に水田あり、內に形圓き[やぶちゃん注:「まろき」。]荒田あり、芦生立て[やぶちゃん注:「おひたちて」。]、古來之を御鏡田[やぶちゃん注:「おんかがみだ」。]と稱す。此の姥神は、小兒の咳疾(俗にシーラシヤアキと云ふ)に靈驗ありとて、近鄕は勿論、遠く遠州地方より參詣者多し。中古[やぶちゃん注:これは、日本文学史のそれではなく、漠然に「その時代からある程度隔たった昔・なかむかし」の意。]迄は每年三月三日祭典を行ひしも、今は祭典を行はず。立願果しに竹の筒に酒を入れて供ふること昔と同じ。

   *

「瘧疾」厳密には「わらはやみ」=マラリアを指すが、この場合は、流行性感冒等を広く指しているように思われる。]

2026/03/02

立原道造草稿詩篇 食料品店で

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。その注記には、『原記には』『消去された第二聯がある(現第二聯は第三聯である)。』として、消去された文章が記されているので、まず、それを【初稿】として復元し、最後に【決定稿】を示すこととした。]

 

【初稿】

 

  食料品店で

 

壜の肩のところに扇風機が映つて、しづかにそれはまはつてゐた。僕はぼんやりと見てゐた、壜のなかにも風が吹いて、葡萄酒の波が立つのだと。

 

子供たちは日本の饅頭の山のまはりを、遊んでゐた。ぬすみぎいて、僕は、その子たちがお饅頭の插話を澤山知つてゐるのに感心した。幾つもの知らない花束を過ぎて行つた葬列。空腹の時刻。……

 

僕は鑵詰の名を讀みながら、ポケツトのなかに銅貨を算へた。それから、美しい鑵詰の城を眺めてゐた。このなかには鰯の死骸があつてそれが銀色に光る美しい工たちなのだらうと。

 

 

[やぶちゃん注:「ぬすみぎいて」「竊(盗)み聴いて」。

「插話」「さうわ」。饅頭を素材にした昔話・民話のようなものを指していよう。

「幾つもの知らない花束を過ぎて行つた葬列」この一文は修飾関係が上手くない。]

 

 

【決定稿】

 

  食料品店で

 

壜の肩のところに扇風機が映つて、しづかにそれはまはつてゐた。僕はぼんやりと見てゐた、壜のなかにも風が吹いて、葡萄酒の波が立つのだと。

 

僕は鑵詰の名を讀みながら、ポケツトのなかに銅貨を算へた。それから、美しい鑵詰の城を眺めてゐた。このなかには鰯の死骸があつてそれが銀色に光る美しい工たちなのだらうと。

 

[やぶちゃん注:二篇を比べてみると、結果的に原第二聯を総て削除したのは、取り敢えずは、前の注で述べたように、使用語・表現にやや難があるから、正解では、あろう。しかし、「子供たち」を登場させなかった決定稿は、何か、やや暗いモノクロームの映像に道造が立って眺めるシークエンスに終始してしまっていて、残念な気もしてくる。なお、「扇風機」から、このロケーションは軽井沢と断じてよかろう。

立原道造草稿詩篇 電話の口笛

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。その注記には、最終行に消去された文章が記されているので、まず、それを【初稿】として復元し、最後に【決定稿】を示すこととした。]

 

【初稿】

 

  電話の口笛

 

 僕はむちやくちやに自動電話のなかにはいり、受話器を外し口笛を吹いてゐた。交換手が何度も然るのが聞えた。僕は平氣であつた。

 ある日、僕が用事があつて電話をかけた。なかなか出て來ない相手を待つてゐると、口笛がしよつちゆう聞えてゐた。僕は、僕が向うの電話口でまた出たらめにうたつてゐのだと思ひ出した。すると電話口で人を待つてゐる方のこちら側の僕がだんだん消えはじめた。やがて手に持つてゐたコーモリ傘と風爐敷包だけがそこに殘つた。

 

 

【決定稿】

 

  電話の口笛

 

 僕はむちやくちやに自動電話のなかにはいり、受話器を外し口笛を吹いてゐた。交換手が何度も然るのが聞えた。僕は平氣であつた。

 ある日、僕が用事があつて電話をかけた。なかなか出て來ない相手を待つてゐると、口笛がしよつちゆう聞えてゐた。僕は、僕が向うの電話口でまた出たらめにうたつてゐのだと思ひ出した。

 

立原道造草稿詩篇 初秋

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。表題は「しよしゆう」と読んでおく。底本全集で横断して調べたが、読みを附したものは見当たらなかった。]

 

  初秋

 

夜、窓をひらくと、あたらしい油繪具のにほひがぷんとした。近所に繪描きのアトリエなどある筈もないので不思議に思ふと、明るい月が隣の家の屋根に繪を描いてゐるのだ。仕事を邪魔してはわるからうと、窓をとぢてゐたら、やがて一なすりばかり、こつちの窓のガラスにも、水銀色を塗つて行つてくれた。それが、夜が更けて來ると、どうもレモンのやうなにほひがする。僕は頰に掌をあて、しづかな顏で嗅いでゐる。

 

立原道造草稿詩篇 (夜(や)ぶん、くらいあかりが……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (夜(や)ぶん、くらいあかりが……)

 

夜(や)ぶん、くらいあかりがともると、僕は、ひとのところにばかり行つた。それは古びた宿の、昔は殿樣の部屋だつた。その部屋にもくらいあかりがともり、やたらに蟲が障子にぶつかつた。だのに僕はこゝでならちつとも哀しくないのだと信じた。僕はビスケツトばかり食べ、ひとが何か言つてくれるのを待つた。ひとは何も言はなかつた。

眠る時間が來るとお時儀をして歸つた。

 

床をのべて、そのなかに眼をとぢた。あかりはもうつけないで、季節はづれの蛙の聲に、一刻(とき)の汽車の唄に眼をとぢてゐた。

 

 

[やぶちゃん注:注記に、「古びた宿」について、『信濃追分の旧・脇本陣「油屋」のこと。』とある。ここである(グーグル・マップ・データ)。現在は、イベント会場「文化磁場油や」となっている。同サイトのこちらを見られたい。それに拠れば、『江戸時代は中山道・追分宿の脇本陣であり、昭和になってからは文士の宿(「油屋旅館」)として、多くの文士・知識人が訪れ、執筆した旅館でした。』とある。

「お時儀」注記に『ママ〈お時儀〉。』とある。確かに、小学館「日本国語大辞典」に『じ‐ぎ』に漢字表記を『辞宜・辞儀』とし、『① 挨拶(あいさつ)すること。頭を下げて礼をすること。また、その礼。おじぎ。』とし、初出例として『「Iiguiuo(ジギヲ)トトノエル」』とし「日葡辞書」(慶長八(一六〇三)年~同九年)を引く。続いて、『② (「時宜」「時儀」から転じた用法)遠慮すること。辞退すること。また、その遠慮。おじぎ。時宜。』とし、初出例として、『作右は母にじぎもなく、さいつさされつ式作法。』とし、浄瑠璃「心中万年草」元禄一四(一七一〇)年を挙げてある。しかし、道造が好んだ芥川龍之介の小説に「お時儀」があり、私には全く違和感はない。]

2026/03/01

立原道造草稿詩篇 旅情歌 I

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  旅情歌 I

 

マツチの箱にはコーモリ傘の繪が貼つてありました。

夜汽車のなかで――。

僕は、前に坐つた人の煙草を吸ふのをぼんやり眺めて居りました。

「これはもう、旅は終りに近く

窓に町があかりをつけて

暗い火かげをあはたゞしくちらつき……」

僕は手帳に書きました、用事を思ひ出した人のやうに。

櫛いれてゐる少女が、ビスケツトを食べながら、窓ばかり眺めて居りました。

「あ、知らない人つきり、これはもう……」

 

[やぶちゃん注:因みに、標題には「I」とあるが、II以降は存在しない。

注記には、「旅は終りに近く」に『昭和9年9月1日付・杉浦明平宛書簡中の「旅の終り」と呼応する。(8月22日、福江の杉浦家を訪問)。』とある。「福江」というのは、現在の田原市西部福江町(ふくえちょう)で、渥美半島の先に近い三河湾に面している(グーグル・マップ・データ。なお、独身時代の私は出不精で、殆んど一人旅をしたことが殆んどなかったが、二十六歳の時、伊良湖に遊んだことがある)。以上の書簡は、底本の全集の「第六卷 書翰」のここ(右ページ上段の後ろから七行目から下段にかけて)で、当該部を引用すると、頭には一字下げで「*」が附されて、以下、一字下げで以下が始まる(全体が一字下げ)。

    ※

旅の終り 樂しかつたね――ああほのとに樂しかつたよ。しづかな海の面、言葉は散りながら、とほくの島の燈臺になつたんぢや、ないかしら。――あんなに、ささやかな喜びが、まあ、こんなに大きく思はれる。僕は汽車にのりおくれ、のりおくれたばつかりに田舍町を散步した。だのに、其處には昨日の海はにほはずに、僕は窓から慌しく外を慌しく消える村々を眺める。それから、日暮れの一日おくれた海の面を。

   ※

また、同全集「第六卷 雜纂」の「年譜」を見るに、昭和九(一九三四)年満二十歳の『八月二十一日、追分』(軽井沢)『を発ち、上松(あげまつ)(長野県西筑摩郡植松町)におもむく。上松には生田勉が滞在中のはずであったが逢えず、空しくそこに一泊し、その足で愛知県渥美半島の福江(渥美郡渥美町福江)に杉浦民平を訪れて、二十三日帰京。

   ※

とあった。]

立原道造草稿詩篇 風

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  風

 

――僕は……

果物屋なんかと

花屋なんかの

ある町を通つたら

なんでいつもはこんな不幸なんだか

あかりがつく時分は

もう次の町に行つてるんだ

赤ん坊が泣いてるんだ……

 

早すぎる足 見えない足 風がガラスにきかせて行つた 窓がうたつた

 

町では誰も風や星の言葉に氣がつかないが

一人がいつでもかなしい氣持で聞いてやつてゐた

 

[やぶちゃん注:このイメージを軽井沢に比定しては、いけない。これらの詩群の創作時は、彼の軽井沢経験は、この年の夏であるからである。]

立原道造草稿詩篇 白痴

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、論拠はカットするが、「白痴」から「食料品店で」までの八篇が書かれたのは、『本用紙の使用上限を8月25日と想定し得、使用全期間を9月中と限定できると思われる』とある。]

 

  白痴

 

何が書かれてあつたのか

カーテンのなかのこと お前の寫眞

公園で 音樂をきいた 驢馬がいた

――ナスターシヤ みんなおこりぽかつたね

 

かなしみ 光がキラキラした あれは くらい海だつた――かなしみなどともういふな

齒のなかに 樺色の流れがある それつきり

またあとで 讀みなほさう

 

[やぶちゃん注:注記に、標題に就いて、『フョオドル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキイ(一八二一―一八八一)の長編小説『白痴』(一八七四)。ナスターシャ』(ナスターシヤ・フィリッポヴナ・バラシコーワ)『は』、『その女主人公。立原は昭和9年2月15日付國友則房』(底本では、「房」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので通常字で示した。なお、この頃は、満二十歳で、翌三月に一高を卒業している。)『宛書簡で読了のことを伝えている。』とあった。底本の同全集の「第六卷 書翰」のここで視認出来る(左の上段の中頃の部分)。但し、ここを読むと、道造はドストエフスキイの作品を最初に読んだのが、この「白痴」だったことが判る。また、「第六卷 雜纂」の年譜の当該部を見ると(年齢は数えで示されてある)、『このころ、チェホフの小説「決鬪」を読み』、『感動する』とあるが、この書簡の冒頭にも「決闘」を読んで『傑作だお思ふ』と述べている。私は、チェーホフよりも、遙かにドストエフスキイの方が好きだ。というより、チェーホフで感動した作品は、殆ど、ない。道造は、所謂、偏執的文体が嫌いだったと推定される。なお、同巻の注記に(ここの右ページ上段の後ろから三行目から下段にかけて)、道造が読んだ、「決鬪」は『小山内薫訳・昭和7年8月・春陽堂世界名作文庫刊。』と断定しており、「白痴」については、『大正以後の翻訳は米川正夫訳・昭和8年・全4冊・新潮文庫。』と記してある。私の所持する「ドストエフスキイ全集」も米川氏の全訳である。]

2026/02/28

本日はお雛祭りのため これにて閉店

十九回目の連れ合いの女友達(御一人を除いて私の嘗つての元同僚だった知人たち)四人に拠る十九回目の私の家でのお雛祭りのため、これにて閉店。

私は幼稚園の頃から、お雛さまが大好きである。例の、連れ合い(名古屋出身)の古い大きな五段・御殿附きの鄙人形(十二畳の四分一弱を占拠する)を一日かけて、一昨昨日に飾り上げた。今回は、人形の綻びも手前で修復したので、最も美しい見栄えとなった――

立原道造草稿詩篇 鉛筆のマドリガル

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに示された言い方を、やや厳密に言い換えると、既に先行して電子化した「(僕の口ぐせによると……)」の第一聯の部分、

   *

僕の口ぐせによると

僕はいつでも困つてゐた

そんな筈はないんだが

   *

が、本詩の第二聯の冒頭に、そのまま使用されており、さらに、第四聯は、やはり先行する「(昨夜は おそく……)」の、最初のソリッドな四つの聯、

   *

昨夜は おそく

步いて町を步いて歸つたが

あかりは僕のそばにゐた

あかりは僕からとほかつた

 

ひとつの窓はとぢられて

あまりおそいこの時刻には

誰も顏を出してゐなかつた

誰にも歌をうたはせないために

 

だけれど僕はすこしうたつてみた

それはたいへんまずかつた

僕はあはてて歸つて行つた

 

昨夜は おそく步いたが

あれはたしかにわるかつた

僕の脊中はだいぶくらかつた

   *

が初稿である(「まずい」はママ)。以上のように、先行する詩の一部を改稿して援用しているため、今までもように【初稿】として示すことが出来ないので、前注で示しておいた。

 なお、標題の中の「マドリガル」は先行する秋のマドリガルで既注。]

 

  鉛筆のマドリガル

 

夕方くらくて町で人かげを見た 僕はまちがへた

長いこと お前がこゝで待つてゐたと ほんとだらうか。

 

    ☆

 

僕の口ぐせによると

僕はいつでも困つてゐた

そんな筈はないんだが

(からつぽの帽子を机にのせて

僕はしばらくぼんやりする)

窓はすばらしい天氣だつたが

もし僕がそこへ出て行くなら

あの靑空はきれいすぎるだらう

(出かける仕度をしたつきり

机の上に頰杖をついてゐる)

どうしていつもかうなんだらう

 

    ☆

 

幾日も會はないまゝに 或る日は思ひ 思はぬまゝに

僕は裏切つた 僕を お前を それから僕を

どうしたらよいか知らないくせに ぢつとしてゐた

ずるかつた――お前は待つてゐた きつと

 

    ☆

 

昨夜は おそく

步いて 町を歸つたが

ひとつの窓はとぢられて

誰も顏を出してゐなかつた

僕に歌をうたはせないために

だけれど僕はすこしうたつてみた

それはたいへんまづかつた

僕はあはてて歸つて行つた

昨夜はおそく 步いたが

あれはたしかにわるかつた

あかりは僕からとほかつた

僕の脊中はくらかつた

 

    ☆

 

ねむがりの僕が或る晩おそく散步に出かけたら

それきりなのさ 僕は橋の上でぼんやり水を見てゐた

それから水の上に長いかげを搖らしてあかりがゐた――それつきりなのさ

 

[やぶちゃん注:「幾日も會はないまゝに 或る日は思ひ 思はぬまゝに」「幾日も會はないまゝに 或る日は思ひ 或る日は思はぬまゝに」の省略表現。

「それから水の上に長いかげを搖らしてあかりがゐた」「ゐた」は擬人法。]

2026/02/27

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「大蛇」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点を附加した。「□□」の欠字は、底本では長方形で凡そ二字分。]

 

 「大蛇」 志駄郡《しだのこほり》[やぶちゃん注:前項と同じく、「志太郡」が正しい。]瀨戶新屋村[やぶちゃん注:現在の藤枝市南部の、藤枝駅の北西直近にある瀬戸新屋(グーグル・マップ・データ)。]にあり。傳云《つたへいふ》、

「當村鳥帽子山[やぶちゃん注:「ひなたGIS」で確認出来る。現代の瀬戸新屋直近の北西に烏帽子山がある。]の後《うしろ》、一の谷・二の谷・三の谷と稱する地、あり。一の谷と二の谷の際《きは》に小瀧《こたき》ありて、旱魃にも、水、かれず。傍《かたはら》に洞《ほら》あり。

 或時、里童《さとわらは》兩三人、夏草刈《なつくさがり》に此谷に至るに、洞中《ほらうち》に鼾《いびき》の音《おと》す。其響《ひびき》、雷《かみなり》の如し。草刈等、怖《おそれ》て、走り去る。

 後《のち》、茲《ここ》に遊べる小童《こわらは》、同郡《こほり》水上村□□山萬福寺【曹洞。】に集《あつま》り居《をり》て、此事を語る。

 住僧【姓名を失す。】云《いはく》、

「是は、巨蟒《うはばみ》の巢窟成《なる》べし。斯《かく》の如きものは、後歲《こうさい》、必《かならず》、災《わざはひ》を、なさん。既に先證《せんしやう》あり。我に一法《いつはふ》、あり。」

とて、不動尊の前に幣《ぬさ》を建《たて》、一七日《いちしちにち》[やぶちゃん注:七日間。]、修法《しゆほふ》し、彼《かの》幣を、一の谷の洞口《ほらぐち》に押立《おしたて》て、去る。

 然《しか》るに、一夜、風雨、甚《はなはだ》、强く、一の谷、山、崩る[やぶちゃん注:「こと」が欲しい。]數十間《すじつけん》[やぶちゃん注:一間は十八・一八メートルであるから、六掛けで百九メートル。現在は同山の北東部は宅地化しているものの、「ひなたGIS」の戦前の地図を見るに、旧烏帽子山背後に、その程度の崩壊が起こったとしても違和感はない。]、小瀧水《こたきみづ》、燥《かはき》て、落ちず。

 此時、蛇《じや》、他《ほか》に去る。

 是《これ》、近歲《きんさい》の事也《なり》。云云《うんぬん》。」。

 

立原道造草稿詩篇 卑怯の歌

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  卑怯の歌

 

雨に濡れて立つてゐる あれは人だ

あれはかなしんでゐるが出たらめだ

 

傘を曲げマントをとほしづぶづぶに雨

寒さが骨に滲み 足がたはみたはみ

 

脣を嚙んでゐるだらう だがあれは歌ふ

誰も憎まない歌を その裏切りを

 

風が雨を橫に倒す 頰が濡れた 顏が

流れたまゝ 雫は人に日が暮れた

 

あれはかなしんでゐるが だめだ

あれはあゝしてやがては朝を見るだらう

 

[やぶちゃん注:第四聯の最後の「雫は人に日が暮れた」は論理的な構文としては、躓く。しかし、この躓きは、私の場合、本詩篇の救いのないブルージィな雰囲気の中で、最も、直感的に瞬時に感受し得た。この一篇、道造の詩の中でも、救いのないブラックな作品と感じる。いや、だから、好きだ。何故か?……これはまさに……この私自身の半生への……突き出された「宣告」だからである⋯⋯]

立原道造草稿詩篇 黃昏の歌

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。表題は「たそがれのうた」と読みたい。]

 

  黃昏の歌

 

日が暮れかゝると かうであつた

窓で白い顏の人が 星の形した棒で

くらがりを測つてゐた 低い聲で

はてしない數字の群を 讀んでゐた

 

町は靄のなか あかりはともり

まじめくさつ顏の 水平は自轉車で

子供用のの靑塗りの 低い自轉車で

とほくの壁から 姿を消し

 

母たちが戶口に立つと 呼び交しながら

子供の群は どこかに逃れ

旗の手を町の夕燒を しづかに休め

日が暮れかゝると かうだつた

 

[やぶちゃん注:「旗の手」は、この詩の全シチュエーションが、軽井沢をロケーションとしているものではないかと私には直に思われ、さすればこそ、これは、今の「旧軽井沢銀座通り」の商店の幟(のぼり)であろうと、全く、躓かずに、想起出来た。異論がある方は、御意見を乞うものである。]

立原道造草稿詩篇 歸りの電車を待つ間

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  歸りの電車を待つ間

 

町外れの停車場で立つてゐると

そばを通つて行くものがあり それが呟いた

僕はその言葉をきかなかつたけれど

あれは多分は雨風だつたらう

あれの聲は低かつた それにあはてゝ立ち去つた

言葉をすつかり忘れたけれど

あれは僕に敎へたのだらう

お前は人に裏切られたのだと

お前はそれに氣がつかないと

僕は濡れて立つてゐた(電車はなかなか來なかつた)

僕は脣を嚙みながら 誰も憎まない歌をうたつてゐた

雨風はまた僕のそばに來ないやうに

雨風は心に怒りを沸かせないやうに

あゝ 卑怯者

靑い電車は見事であつた

 

[やぶちゃん注:この詩、立川道造の詩として、多くの人に読んで貰いたい一篇として、ここにちゃんと電子化し得たことを幸いに思うものである。

立原道造草稿詩篇 物尺の歌

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。「物尺」は「ものさし」と読む。一般には漢字熟語では(辞書に於いては)、「物差」「物指」が普通である。老婆心乍ら、「糎」は「センチ」。「洋燈」は「ランプ」と読んでいよう。「慌しく」は「あわただしく」。]

 

  物尺の歌

 

暮れかゝる室內に測るのであつた

机は七五糎 洋燈は四〇糎 花は三糎

もう目盛は蒼い夕闇の色にかくれてゐた。

だのに慌しく 呟きながら讀むのであつた

ペン軸は二〇糎 本箱は九糎 窓は一六三糎

はてしない數字の群がりを このにせの大きさを

物尺の冷えた膚にしつかり指で抑へてゐた

(物尺は暗がりで星形の棒となるのであつた)

椅子は九一糎 僕は五糎

いつまでも いつまでも 三二糎

 

[やぶちゃん注:この詩、妙に……孤独に……好きだ…………。]

立原道造草稿詩篇 秋の歌

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  秋の歌

 

あたらしい金ボタンをつけた大學生は誰よりもたのしかつた

ポケツトに薔薇のやうなハンカチなんて それは昔のならはしだつた

枯れ葉そのまゝ胸をおこして步きさへすれば

秋晴れの午后など誰よりもすばらしい姿に見えた

 

立原道造草稿詩篇 鏡

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  鏡

 

床屋は

頭の上に

シヤボンで

駝鳥や塔を作つてくれる

 

不意に輕くなつた僕よ

僕にはもうまづしげなひげがない

だから步きにくい

きれいな顏は

似あはない

 

2026/02/26

立原道造草稿詩篇 (もつとたのしくて……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、これは、「(床屋は……)」に始まった詩群の最終詩で、『原記は表題代りに☆印を置く。』とし、『なお本詩群は前項詩群と同面にあって、下から上への逆方向に書かれているので独立の詩群とした。また、最終詩句「お祭りはをはつた」は本詩群に対して丁字型に書かれている。』とある。而して、終わりに、『この「包装紙」詩群は書体から見るに、時間を置いて制作されたものではなく、即興的に一気に書かれたと思われる。』と後記してある。この最後の意見は、この詩群全体を読んでも、納得出来る見解と言える。

 なお、実は、本底本は、基本を、詩篇本文を印刷一字下げで活字化しており、二行になる場合、編者が、はっきりと二行書きにして、一行目から続く場合には、前後の開始位置から一字上に記す体裁を採用している。しかし、例えば、この詩群のように、あらゆる方向からランダムに書かれている詩稿の場合、そうした厳密な書式が、容易に判然と出来るとは、私は、全く思っていない。また、そうした全集編集の中で、そうした規定を持たせることが、道造の意志とは全く以って無関係であると私は判断し、今まで、そうした規定を無視して電子化している。しかし、ここでは、途中で、一箇所だけ、そうした特異的操作が行われている関係上、そこを除き、他の部分を一字下げで示すこととした。

 

  (もつとたのしくて……)

 

 もつとたのしくてよいでせう

 明るい色に塗りませう

 わるい筆だがかまはずに

 もつとたのしく描きませう

 

 これはお前の似顏です

 似てない姿がとりえです

 

       ☆

 

 二十一歲の下手な繪描きは

 木曜日每に水彩畫をこしらへ

 そのあとですつかり困つた あまり下手であつたであつたから 彼は何かを諦めてしまつたやうなかなしみであつた 雨が降つえも繪を描いて

 木曜日の晩每くらい町を步いてゐた

 

       ☆

 

  お祭がをはつた

 

 

[やぶちゃん注:……道造よ……最後の台詞……いいね……僕のブログの合言葉……君の好きなフランス語……“ La fête est finie. ”…………

河津桜リベンジその他

連れ合いは、ここのところ、音声訳のボランティアの主力メンバーになってしまい、忙しくなり、先週の河津桜リベンジの彼女の撮った写真が、今日になって、やっと手に入った(私は携帯で写真を撮ることは全く無い)ので、以下に掲げる。

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――私は実は河津桜より菜の花が好き――


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……ずっと昔、湯河原の二部屋限定の温泉宿に泊った……風呂で逢った老人の背中を洗って差上げたが、翌日、帰る際、宿の主人に聴いたら、その老人は、当時の現役の日本銀行総裁だった!……その夕食に、巨大なるキンメダイの煮付を二尾出されて、翌朝食にも、それが出て、「もう三十年は食わんでいい。」と連れ合いに言明した……それから十五年ほどして、網代に遊び、港を散歩した。冷凍倉庫がずらずらと並んでいたが、入庫のために、空いていた。そこには、恐るべき数のキンメダイの冷凍物が、ギッシりと入っていて、ゲッソりしてしまい、「もう、ゼッタイ、キンメダイは、食わん!」と宣言した……この度(たび)、熱川の「伊豆ホテル」で出たのが、上のキンメの煮付であった。実にまさに三十年振りであった……ところが! これが、驚天動地の旨さだったのだ! 私は海産生物フリークであり、観察するだけでなく、食する際にも私的な拘りがある。則ち、可食し得る部分は、一かけらも残さずに平らげるのである。この時も、非常に注意深い調理がなされてあって、目玉・鰭・鱗は勿論、総ての骨格も小骨の破片一つ残さず平らげた。否、美味しく食べられた。汁も啜った。流石に、配膳係の男性が、何も入ってない綺麗になった深皿を見て、思わず「……残さず……お食べになったのですか?……」と唖然としていた。それほど、美味かったのである!……ちと、宿泊料は高いが、自信を以ってお薦めする! 水深1・25㎝の深湯露天風呂も、これまた、六十肩のほぐし運動するに、超優れモノであった!

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早朝の部屋から見える伊豆大島に掛かる「天使の梯子」

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連れ合いが誰もいない女湯の深湯露天内から写したもの。

このホテルは、熱川の駅から延々と山へと登ったところにある。



和漢三才圖會卷第九十二之本 山草類 上卷・人參

[やぶちゃん注:草体の根に繋がる上部地下茎から上の草体図の上に、明らかに異なる種の二つの根茎部の二図。形状から、右が、後で示すメインのオタネニンジン(=チョウセンインジン)でよいとして、左は本邦でお馴染みのニンジン、或いは、野生種のノラニンジンの属性を残し持っている品種であろうか、と推定しておく。但し、良安の評言の部分を見ても、現在の通常種である普通のニンジンへの言及は、殆んどゼロである。

 

Tyousenninjin

 

にんじん  人薓 人䘖

      海腴 神草

人參   黃參 地精

      鬼葢 土精

ジン スヱン 皺面還丹

[やぶちゃん字注:「𮑵」原本では、「氵」+(「𮑵」―「氵」)であるが、この字形を用いた。「面」は中央の「はしご」状の部分の上部が欠落した「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、通常の「面」とした。]

 

本綱人參爲藥切要與甘草同功有人參𠙚上有紫氣揺

[やぶちゃん字注:「揺」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、通常の「揺」に代えた。]

光星散而爲人參實神草也根有手足靣目如人者爲神

生上黨【今潞州也】山谷及遼東【髙麗乃朝鮮也】者爲最上春生苗多於

深山背陰近椵樹【似桐甚大】下濕潤𠙚初生小者三四寸許一

椏五葉四五年後生兩椏五葉未有花莖至十年後生三

椏年深者生四椏各五葉中心生一莖俗名之百尺杵三

四月有花細小如粟蕊如絲紫白色秋後結子或七八枚

如大豆生青熟紅自落

朝鮮人參猶來中國互市亦可收子於十月下種如種菜

法秋冬采者堅實春夏采者虛軟非地產虛實也僞者皆

以沙參薺苨桔梗采根造作亂之【沙參體虛無心而味淡荷芭體虛無心而味甘桔梗體堅有心而味苦人參體實有心而甘微苦】近有以人參先浸取汁自啜乃

晒乾復售謂之湯參不任用

人參生時背陽故頻見風日則昜蛀納新噐中入細辛與

參相間收之宻封可經年不壞一法用淋過竃灰晒乾鑵

收亦可

凡用時宜隔紙焙之【熟用則氣温生用則氣凉】並忌鐵噐伏苓爲之使

反藜蘆畏五靈脂惡皂莢黒豆【人參可去蘆不去則令人吐蘆者頭耑莖之根】

 得升麻則補上焦之元氣瀉肺中之火

 得茯苓則補下焦之元氣瀉腎中之火

 得黃茋甘草則除大熟瀉陰火補元氣

 得麥門冬則生脉 得乾薑則補氣

凡血脫者用人參益氣則血自生藥品之聖也

△按人參可用不可用之病症本草諸家之辨論區區也

 共不可徧執今時亦然焉一槪有泥其功不詳虛實而

[やぶちゃん字注:「槪」は原本では、「槪」の(つくり)の下に、さらに「木」のある字体であるが、こんな異体字は見当たらないので、かく、した。]

 動則人參多入用者稱之人參醫師

 凡人靣白或黃或青黧悴者皆脾肺腎不足可用也靣

 赤或黒者氣壯神強不可用也

 凡脉之浮而芤濡虛大遲緩無力沉而

 無力者皆虛而不足可用也若數有力者

[やぶちゃん注:「」は今でいう「・」相当の記号である。訓読では、それに代える。]

 皆火鬱內實不可用也蓋此說可以爲的𢴃也

朝鮮人參 朝鮮北韃靼南境有大山名白頭山自然生

 人參爲最上其葉花與和人參相似而實異初青熟赤

 圓如南天實其根似胡蘿萄而白色使甘草汁蒸乾黃

 色亦益其味頭𨕙有橫文體重實而中亦潤黃者爲上

 經年者大愈佳似人形者亦百斤中有一二本此雖有

 神而不甚佳出於咸鏡道者潤白透通爲極上最鮮

判事人參 是亦白頭山之產出於韃靼而未知修治良

 方故功稍劣

蝦手人參 右同蓋韃靼土地水不清毒多故其富儫者

[やぶちゃん字注:「儫」「豪」の異体字。]

 常浸人參於井中用其水更採出人參販之故帶飴色

 而尾耑曲似蝦形所謂湯人參之類乎

唐人參 卽中𬜻之產山西之潞安【古之上黨】北京之永平雲

 南之姚安共爲上而下種植成故功不如朝鮮自然生

 者其大者俗呼曰唐大

小人參 非大人參中擇出者而本自一種小者其根長

 一二寸許猶罌粟與美人草近年不來俗以尾人參稱

 小人參者非也

凡大人參老者則大而功勝嫩者小而力劣焉體輕虛色

 枯白者俗謂浮虛人參無効

 

   *

 

にんじん  人薓(《にん》じん) 人䘖《にんがん》

      海腴《かいゆ》 神草《しんさう》

人參   黃參《わうじん》 地精《ちせい》

      鬼葢《きがい》 土精《どせい》

ジン スヱン 皺面還丹《しゆうめんかんたん》

 

「本綱」に曰はく、『人參は、藥《やく》の切要《せつえう》[やぶちゃん注:極めて重要な対象であること。]と爲す。甘草《かんざう》と功を同《おなじう》す。人參、有る𠙚《ところ》、上に、紫《むらさき》の氣、有り、揺光星《やうくわうせい》の≪光≫、散じて、人參と爲《な》る。實《まこと》に神草《しんさう》なり。根に、手・足・靣《おもて》・目《め》、有《あり》て、人のごとくなる者を『神《しん》』と爲《なし》、上黨《じやうたう》【今の潞州《ろしう》[やぶちゃん注:現在の山西省長治市潞州区。ここ(グーグル・マップ・データ)。]なり。】の山谷、及《および》、遼東《りやうとう》【髙麗。乃《すなはち》、朝鮮なり。】の者、最上と爲《なす》。春、苗《なへ》を生ず。深山の背陰《はいいん》[やぶちゃん注:北向きの日陰。]椵樹《かじゆ》【桐に似て、甚だしく、大なり。】に近き下(ほとり)≪の≫、濕潤の𠙚《ところ》に多し。初生、小《ちさ》き者、三、四寸許《ばかり》。一椏《ひとまた》≪に≫五葉。四、五年にして、後《のち》、兩椏《ふたまた》五葉を生ず。未だ、花・莖、有らず。十年後《のち》に至《いたり》て、三椏《みつまた》を生ず。年《とし》深き者は、四椏《よつまた》を生ず。各(《おの》おの[やぶちゃん注:原本ではルビがない代わりに、送り仮名に踊り字「〱」がある。])、五葉≪を≫中心に、一莖《いつけい》を生ず。俗に、之を、「百尺杵《ひやくしやくしよ》」と名《なづ》く。三、四月、花、有り、細小にして、粟《あは》のごとく、蕊《しべ》、絲《いと》のごとし。紫白色。秋の後《のち》、子《み》を結ぶ。或《あるひ》は、七、八枚《たり》。大豆のごとく、生《わかき》は青く、熟《じゆくせ》ば、紅《くれなゐ》にして自《おのづから》落《おつ。》』≪と≫。

『朝鮮人參《は》、猶《なほ》、中國に來《きたり》て、互市《ごし》す[やぶちゃん注:「互市」は中国諸王朝と北辺・西辺諸国との陸上貿易を指す語。後注参照。]、亦、可なり。子《み》を十月に收め、種《たね》を下《おろ》し、菜《な》を種《うう》る法《はう》のごとくにして、秋・冬、采《と》る者≪は≫、堅《けん》にして實《じつ》し。≪對して、≫春・夏、采る者≪は≫、虛にして軟《やは》らかなり。地產の虛・實には、非《あら》≪ざる≫なり。僞《いつは》る者、皆、沙參《しやじん》・薺苨《せいねい》・桔梗《ききやう》を以《もつ》て、根を采り、造り作(な)し、之≪を≫亂《みだ》す≪ものなり≫【沙參は、體《たい》、虛《きよ》、無心《むしん》にして、味、淡《あはし》。荷芭は、體、虛、無心にして、味、甘《あまし》。桔梗は、體、堅《けん》、心、有りて、味、苦《にがし》。人參は、體、實《じつ》にして、心、有りて、甘《あまく》、微《やや》苦《にがし》。】。近《ちか》ごろ、人參を以て、先《ま》づ、浸《ひた》して、汁を取り、自《みづから》啜《すゝ》り、乃《の》ち、晒乾《さらしほ》して、復た、售(う)る。之を「湯參《たうじん》」と謂ふ≪も≫、用に任《た》へず。』≪と≫。

『人參、生《しやう》ずる時、陽《やう》を背《そむ》く[やぶちゃん注:太陽の光りを嫌って背を向ける。]。故《ゆゑ》、頻《しき》りに、風・日を見る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。ここは「強い風・過剰な太陽光を受けた際には」の意。]、則《すなはち》、蛀(むしいり)、昜《やす》し。新≪しき≫噐《うつは》の中《うち》に納め、細辛《さいしん》と參《じん》[やぶちゃん注:「人參」。]とを、相間(あひはさみ)に[やぶちゃん注:細辛の間に人参を挟み込んで。]、之を收《をさ》め、宻封して、年を經て、壞《くわ》≪れ≫ざる一法≪として≫、淋過《りんくわ》≪し≫たる竃《かまど》の灰[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、『水をそそぎ』、濾『過』(ろか)『した竃(かまど)の灰』とある。後注を見よ。]を用《もちひ》て、晒乾《さらしほし》、鑵《くわん》に收《をさむ》るも亦、可なり。』≪と≫。

『凡《およそ》、用《もちふ》る時、宜《よろしく》、紙を隔《へだて》て、之≪を≫焙るべし【熟して用れば、則ち、氣、温《おん》なり。生《なま》にて用れば、則ち、氣、凉《れう》なり。】。並《ならび》に[やぶちゃん注:孰れの場合でも。]、鐵噐を忌む。伏苓《ぶくりやう》、之《これ》が、使《し》[やぶちゃん注:既に何度も出た「引薬」の意。反応を効果的に進めるための補助薬。]たり。藜蘆《れいろ》に反《はん》し、五靈脂《ごれいし》を畏《おそ》れ、皂莢《さうきやう》・黒豆《くろまめ》を惡《い》む。【人參、「蘆(ろ)」を去るべし。則ち、人をして吐かしむ。「蘆」とは、頭《かしら》の耑莖《たんけい》の根[やぶちゃん注:頭の端の茎の根。]≪なり≫。】』≪と≫。

『升麻《しやうま》を得れば、則《すなはち》、上焦の元氣を補ひ、肺中の火《くわ》を瀉《しや》す。』≪と≫。

『茯苓を得れば、則、下焦の元氣を補ひ、腎中の火を瀉す。』≪と≫。

『黃茋・甘草を得れば、則、大熟を除き、陰火を瀉し、元氣を補ふ。』≪と≫。

『麥門冬を得れば、則、脉《みやく》を生ず。』≪と≫。『乾薑《かんきやう》を得れば、則、氣を補す。』≪と≫。

『凡《およそ》、血脫(《ち》たり)[やぶちゃん注:出血が続いている患者のこと。]の者には、人參を用て、氣を益する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則、血、自《おのづか》ら、生《しやう》ず。「藥品の聖《せい》」なり。』≪と≫。

△按ずるに、人參、用ふべきと、用ふべからざるの病症、本草諸家の辨論、區區(まちまち)なり。共《とも》に、徧執《へんしふ》すべからず。今時《こんじ》も亦、然《しか》り。一槪に、其《その》功に泥(なづ)んで、虛實を詳《つまびらか》にせずして、動(やゝも)すれば、則《すなはち》、人參、多く入用《いれもちひ》る者、有《あり》。之を「人參醫師《にんじんいし》」と稱す。

凡そ、人の靣《おもて》、白く、或《あるい》は、黃《き》、或は、青黧(《あを》ぐろ)く悴(かじ)けたる者[やぶちゃん注:生気がなくなって如何にも衰える者。]、皆、脾・肺・腎、不足なり。用《もちふ》べきなり。靣、赤、或は、黒き者は、氣、壯(さか)んに、神《しん》[やぶちゃん注:神経。]、強く、用ふべからざるなり。

 凡そ、脉《みやく》の浮《ふ》にして、芤《こう》[やぶちゃん注:東洋文庫版訳の割注に『脈は浮』(ふ)『か』、『沈』(ちん)『で中ほどは空虚』とある。]・濡《じゆ》[やぶちゃん注:同前で『(細くて弱い)』とある。]・虛大・遲緩、力《ちから》無く、沉《ぢん》にして、遲《おそし》・濇《しぶる》・弱《よはし》・細《ほそし》・結《むすぼほる/むすぼる[やぶちゃん注:結滞すること。]》・代《とどこほる》≪容態《ようだい》にて≫、力《ちから》、無き者は皆、虛にして、不足なり。用《もちふ》べしなり。若《も》し、弦《つよきはる》・長《ながし》・緊《きつし》・實《つよし》・滑《なめらか》・數(さく)[やぶちゃん注:]≪にして≫、力《ちから》、有る者は、皆、火鬱內實《くわうつないじつ》なり[やぶちゃん注:AIのものしか出てこないのだが、取り敢えず、掲げておく。漢方に於いて、ストレスなどで生じた熱(「火」)が体「内」に籠もり(「鬱」)、それが消化器や体幹に実熱(「実」証の熱)として溜まっている状態を指す。イライラ・怒りっぽい・逆上(のぼ)せ・顔面紅潮・便秘・口腔内の苦みなどの熱症状が強く出るもの。後注で再検証する。]。用≪ふ≫べからざるなり。蓋し、此說、以て、的𢴃《てききよ》[やぶちゃん注:「極めて的(まと)を得たもの。]と爲《なす》べし。

朝鮮人參 朝鮮の北、韃靼(だつたん)の南境《みなみさかひ》に、大山《おほやま》、有り、「白頭山(はくとう《さん》)」と名《なづ》く。自然と、人參を生ず。最上なり。其の葉と花は、和人參《わにんじん》と相《あひ》似て、實(み)は、異《こと》なり。初《はじめ》は青く、熟≪せば≫、赤《あか》≪く≫圓《まろ》≪く≫、南天の實《み》のごとし。其《その》根、胡蘿萄(にんじん)に似て、白色。甘草の汁をして、蒸乾《むしほ》≪せば≫、黃色ならしめ、亦、益《えき》す。其味、頭《かしら》の𨕙(めぐ)り、橫文《わうもん》、有り。體《たい》、重く、實《じつ》≪に≫して、中《なか》も亦、潤《うるほひ》黃《き》なる者を、上《じやう》と爲《なす。》年を經る者は、大にして、愈(《いよ》いよ[やぶちゃん注:送り仮名に踊り字「〱」がある。])、佳《よ》し。人の形に似たる者も亦、百斤[やぶちゃん注:六十キログラム。]中、一、二本、有り。此《これ》、「神《しん》」[やぶちゃん注:極めて珍しいもの。]、有《ある》と雖も、而≪れども≫、甚だ≪には≫佳《か》ならず。咸鏡道(かがんどう[やぶちゃん注:ママ。])より出《いづ》者は、潤《うるほひ》≪て≫白《しろく》、透通(すきとほ)り、極上と爲《なす》。最《もつとも》、鮮(すくな)し。

判事(ハンス)人參 是《これ》も亦、白頭山の產にして、韃靼より出《いづ》る。而≪れども≫、未だ、修治の良方を知らず。故《ゆゑ》に、功、稍《やや》、劣れり。

蝦手(えびで)人參 右に同じ。蓋し、韃靼の土地は、水、清《きよ》からず、毒、多し。故《ゆゑ》、其《その》富儫《ふがう》の者は、常に、人參を井中《ゐちゆう》に浸《ひた》し、其水を用ふ。更に、人參を採出《とりいだ》≪し≫、之を、販(う)る。故《ゆゑ》、飴色(あめ《いろ》)を帶《おび》て、尾の耑(はし)、曲(まが)り、蝦の形に似たり。所謂《いはゆ》る、「湯人參」の類《たぐひ》か。

唐人參《たうにんじん》 卽ち、中𬜻の產。山西(サンスイ)の潞安《ろあん》【古への上黨《じやうたう》。】北京(ポツキン)の永平(ヨンピン)、雲南(イユンナン)の姚安(テウアン)、共(とも)に、上と爲《なし》て、種を下《くだ》し、植成《しよくせい》す。故に、功、朝鮮の自然生《じねんしやう》の者に、如《し》かず。其《その》大なる者、俗、呼《よん》で、「唐大《たうだい》」と曰ふ。

小人參《しやうにんじん》 大人參の中より擇出《えらびいだ》し者に≪は≫非ずして、本《もと》、自《おのづか》ら一種の小《ちさ》き者≪なり≫。其《その》根、長さ、一、二寸許《ばかり》。猶《なほ》、罌粟(けし)と美人草《びじんさう》と≪の≫ごとし。近年、來らず。俗、「尾人參(ひげ《にんじん》)」を以て、「小人參《しやうにんじん》」と稱《しやう》≪するは≫、非なり。

凡そ、「大人參」≪の≫老する者は、則《すなはち》、大にして、功、勝《まさ》れり。嫩(わか)き者は、小にして、力《ちから》、劣る。體《からだ》、輕虛《けいきよ》にして、色、枯白《こはく》[やぶちゃん注:ひねこびて白くなったもの。]なる者を、俗、「浮虛人參(ぶく《にんじん》)」と謂《いふ》≪も≫、効、無し。

 

[やぶちゃん注:一向に、「漢籍リポジトリ」の一月からの不通が回復しないので、仕方がないから、「維基文庫」の「本草綱目」の「草之一 卷十二上 山草類上【三十一種】」に当たることにした。しかし、これが不本意なのは、原本画像が並置されていないことと、活字起こしが必ずしも信用出来ないからである。

 まず、本篇は、明らかに、薬用を主眼とした「人參」であるから、所謂、チョウセンニンジン(朝鮮人蔘)であって、その主解説の種は、本邦でお馴染みのセリ目セリ科ニンジン属ニンジン(ノラニンジン:野良人参/野生種)Daucus carota亜種ニンジンDaucus carota subsp. sativus ではなく、

セリ目ウコギ科トチバニンジン(栃葉人参)属オタネニンジン(御種人蔘)Panax ginseng

である。平凡社「世界大百科事典」(初版)の「チョウセンニンジン(朝鮮人参)」」から引く(コンマは読点に代えた)。『根を薬用とすることで著名なウコギ科の多年草。ヤクヨウニンジン(薬用人参)とも呼ばれ、江戸幕府の薬園に栽培したのでオタネニンジン(御種人参)ともいう。また単にニンジンともいうが、野菜のニンジン(人参)とはまったく別種である。年数を経たものは草丈約60cmとなり、茎の頂部に長い葉柄をもち、5小葉からなる掌状葉を46枚輪生する。夏季、茎頂から1本の細長い花茎をのばし、先端の散形花序に淡黄緑色の小さい花をつける。秋季に、小さい球形の果実が赤色に熟する。根は年々ゆっくりと肥大し、発芽後数年を経過した株では、長さ1020cm、太さ23cmに肥大する。先は指ほどの太さで数本に分岐し、この形が人間の体に似るので人参という。中国東北地方や朝鮮に分布するが、薬用植物として栽培もされる。野生のものは生長が遅く、成分が強いとされ、高価なものである。古くは、根の形が人体に似たものほど薬効が高いとされ珍重された』。『また』、『日本での栽培は、享保年間(171636)に始まり、長野、島根、福島などで良品を産出する。栽培は冷涼で湿潤、かつ弱光条件を好むので、東西に畝を作り、覆いをして北側だけをあけて、陽光を調節する。11月に種子をまくか、別途に苗を養成して移植する。播種(はしゅ)後4年ないし7年で収穫する。洗って細根をとりさり、そのまま、あるいは漂白し、乾燥したものが白参(はくじん)で、白っぽい色をしている。掘ってからよく洗い、細根をとりさって蒸して、天日あるいは弱い火力乾燥をしたものが茶色の紅参である。このほか糖液につけてから乾燥した糖参などいろいろな調製法がある』。以下、「薬用」の項。『人参は毒性がほとんどなく、万病に効果があるとされる。根にはサポニン、配糖体であるギンセノサイド類、ステロイド、ビタミン B 群、コリンなどが含まれる。他の生薬と配合して滋養、強壮、強心、強精、健胃、鎮静薬として賞用され、新陳代謝機能の低下に賦活薬として用いる。含有エタノールエキスは副腎皮質機能を強化し、大脳皮質を刺激してコリン作動性を増強し、血圧降下、呼吸促進、インシュリン作用増強、赤血球数やヘモグロビン増加の効果がある。またギンセノサイド類には DNA 合成促進作用、中枢抑制作用、中枢興奮作用、溶血防御作用、溶血作用など、ときによって相反する薬効を示す諸物質が含まれる。アメリカ東部産のアメリカニンジン P.quinquefolia L.(英名 American ginseng)も薬用に利用され、チョウセンニンジンに劣らない薬効があるとされ、広東人参(洋参)と呼ばれる。また三七人参』(サンシチニンジン)『は P. notoginseng (Burk.) F. H. Chen の地下部で、主として止血、鎮痛、消炎、近年は強心、肝疾患などに、竹節人参はトチバニンジン P.japonicum C. A. Mey. の根茎で、去痰、解熱、健胃に用いられる』。以下、「歴史」の項。『朝鮮では高麗人参ともいう。日本の正倉院の宝物にも見えるように、古来、不老長寿、万病の薬として漢方では最高の位置を占めた。朝鮮の特産物として人参は王室への進上物や中国への貢納には』、『必ず』、『含められ、また日朝貿易でも主力商品となり』、時『には対外交易において銀貨の代用物とされた。朝鮮では採取量がふえるにつれて、山中に自生する人参の枯渇が心配され、人工栽培が14世紀末には開城で本格化したことが、李時珍』の「本草綱目」『などに記載されている。以来、開城人参が有名になった。一度栽培した土地では地味が消耗するため、数十年』、『人参栽培はできない。今日では開城のほか、江華島や忠清南道錦山などで大量に栽培され、海外への輸出も多い。栽培種の達参(ポサム)より』、『自生の山参(サンサム)のほうが』、『はるかに貴重とされているが、山参を見つけるのは難しく、親の病を治すための山参採りの孝行話は古くから数多い。山参採取を業とする人々はシムマニとよばれ、身を浄めて入山し、隠語を使い合って山参を探す。両江道、平安道、江原道などでは今日でも山参採取が続けられている』。『日本でも江戸時代には朝鮮人参の需要が高まり、人工栽培も行われ、また』、『人参の専売権をもつ人参座』(にんじんざ)『が成立した。人参は高価であったため、近世には〈人参飲んで首くくる〉という成句が、身分不相応な出費のために身を滅ぼすことのたとえにされたほどである』。『日本で朝鮮人参の栽培が初めて成功したのは1728年(享保13)、日光今市の御薬園においてであったという』(「国指定名勝会津松平氏庭園 御薬園」公式サイトの「御薬園の始まりと歴史」に拠れば、この年に、『対馬藩が献上した60粒余を日光山に栽培したのが成功し、種子が実りました。そのため日光山麓今市市に栽培場をつくらせるようになりました』とあった)『その後の発展には本草学者田村藍水の努力が特筆される。37年(元文2)、幕府より種子を拝領して試植して以来、彼は《人参譜》《人参耕作記》《参製秘録》などを著してその普及に寄与した。国産物の薬効に対する疑問には、藍水の弟子平賀源内の編になる《物類品賦(ひんしつ)》に反論が見える。広東人参も47年(延享4)以降、清国商人の手で到来していた。これは実は、1710年代にイエズス会士ラフィトー J. F. Lafitau16811740)がカナダで発見したアメリカニンジンが、フランス東インド会社によって中国広東に輸出されたものであった。フランス本国でも』、『このころには朝鮮人参(その大半はおそらくアメリカニンジン)が知られていたようで、《百科全書》に L. C. de ジョクールが1項をさいて論じているほか、ginseng の語は62年』、『アカデミー・フランセーズによって公認されている』。『なお』、『薬効高く形が人間に似る朝鮮人参には、中国では古来さまざまな伝説が語られているが、特に《大唐三蔵取経詩話》や明刊本《西遊記》に見える人参、人参果を、西洋での類似の妖草マンドラゴラ伝説のアラブを介した東漸と関連づける説(中野美代子《孫悟空の誕生》1980ほか)は傾聴に値しよう』とある。また、当該ウィキ(標題は「オタネニンジン」)で補完すると(注記号はカットした)、「名称」の項に、『本種は元来「人蔘」と称され、中国、朝鮮半島、および日本で旧くから広く知られる薬草であった。枝分かれした根茎の形からヒトの姿が類推されて名称の由来とされる』。『10世紀前半の「和名類聚鈔」の『巻20「草類」に、人参に関して和名が「加乃仁介 久佐」(カノニケ草)と記される』とある。

 ここで、同書の「卷二十」の「草木部第三十二」の「草類第二百四十二」のそれを、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七 (一六六七)年板の当該部で視認して、推定訓読すると(標題下のものはルビの右/左)、

   *

人參(カノニケクサ/クマノイ)  「本草」に云はく、『「人參《にんじん》」、一名は「神草《しんさう》」【和名、「加乃仁介久佐《かのにけくさ》」。一名、「久末乃伊《くまのい》」。】』≪と≫。

   *

ここに出る「くまのい」という和訓は、お馴染みの「熊の膽(胆)」で、クマの胆汁を乾燥したものを指す語で、古くより、中国で用いられ、本邦でも、飛鳥時代から利用されてきた経緯から、「神効を持つ霊薬」として並称され、名も転用したものと思われる。ウィキに戻す。

   *

『朝鮮語では漢字語の「인삼」を多用し、特に貴重な野生物を「山蔘」(산삼)と称する。別の固有語名称で「シム」(심)もあるが、現代朝鮮語では職業「山蔘採取者」の意味で「シンマニ(朝鮮語版)」(심마니)、感嘆詞で「良いものを見つけた」の意味で「シンバッタ」(심봤다!)、などが僅かに残る。中国東北部では「木槌」「洗濯棒」の意味で「棒槌」(bàngchuí)と称する』。「御種の由来」の項。『「御種人蔘」が冠する「御種」(おたね)は由来が諸説伝わる』。

・『江戸時代の3代将軍徳川家光の時代に、関東地方の日光で栽培に成功し、江戸幕府が各藩に「種子」を与えて「御種人参」と称した』。

・『江戸幕府の8代将軍徳川吉宗が対馬藩に命じて朝鮮半島で種子と苗を入手させ、試植、栽培して』、『結実後に各地の大名に種子を分け与えて栽培を奨励し、これを敬って「御種人参」と称した』。

さても、『日本国内で栽培成功以前の「人蔘」は、朝鮮半島から輸入した』。以下、「人蔘とニンジン」の項。『元来「人蔘」は本種を指したが、江戸時代以降に舶来野菜として広まったセリ科の根菜“胡蘿蔔”(こらふ、現代のニンジン』(セリ目セリ科ニンジン属ニンジン(ノラニンジン)Daucus carota亜種ニンジンDaucus carota subsp. sativus)『は、本種と同じく肥大化した根茎を使用するため、類似視して「せりにんじん」など称した』。『「せりにんじん」は時代が進むと基本野菜として広く普及し、「にんじん」と称する事例が多くなった。時代とともに医学が西洋化すると』、『本種の使用例は減少し、日本語で「人蔘」は「せりにんじん」を指すことが一般となった』。『のちに区別を明らかにするため、本種は明示的に拡張した「朝鮮人蔘」と称することが一般となった(レトロニム)。』(retronym[:ある語の意味が、時代とともに拡張・変化した場合に、古い意味の範囲を特定的に表わすために、後から考案された語のことを指す語)。『戦後に日本の人蔘取扱業者は、輸入元の大韓民国で忌避される「朝鮮」を避けて「薬用人蔘」と称したが、後年に「薬用」は薬機法に抵触すると行政指導を受けて「高麗人蔘」へ切り替えた』とある。

 最後に、例によって、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱 | 人参(ニンジン)」(起原は、オタネニンジン Panax ginseng C.A.Meyer (ウコギ科 Araliaceae)の根とする)をシメとして引用して総論を終わる。

   《引用開始》

 人参は中国医学の中で最も有名な生薬といっても過言ではないでしょう。世界中にジンセンの名前で知れわたっています。

 人参は『神農本草経』の上品に収載され、古来補薬として珍重されてきました。もとは朝鮮民族の薬物であって、陶弘景も高麗のものが最も品質が良いと記載しています。このようないきさつから、中国では古来品不足であったことが考えられ、根の形が似ている多くの偽物が出回っていたようです。宋代の『図経本草』にも4種類の異なった図が描かれ、それぞれ科も異なるまったく違った植物と思われます。その中で品質が良いとされている上黨(今の山西省路安)産の人参(路州人参)の図が正品であるオタネニンジンを描いたものと判断されますが、現在ではその地には産しません。

 偽物が多かったためか、人参には興味ある真偽鑑別法が記載されています。『図経本草』に「言い伝えによると、上黨の人参を試すには二人の人間を同時に走らせ、一人には人参を口に含ませ、そうして3〜5里も走ると人参を口に含まなかったものは必ず大きく喘ぐが、含んでいた者の気息はごく自然である。これが真物の人参である」というものです。

 人参は日本でも古くから有名であったようで、江戸時代には病身の親のために身売りしてまで入手したという話はよく耳にします。人参はそれほど優れた効果があったものと考えられますが、近年ではそうした劇的な効果があったということを聞きません。人参の化学成分や薬理学的な研究は世界中でなされていて、おそらくあらゆる生薬の中で飛び抜けて報告数が多いのではないかと思われますが、未だにそれらしい有効成分が見つかってはいないようです。現代人は昔に比べると栄養状態が良くなり、以前のような人参適応者がいなくなってしまったことが理由であるとする考え方もありますが、ただ、以前すばらしい薬効があるとされていた人参はまぎれもなく野生人参で、今われわれが使用している人参はまぎれもない栽培人参である事実を忘れてはならないでしょう。

 現在わが国では福島県、長野県、島根県などでオタネニンジンの栽培をしていますが、近年は安価な中国産に押されぎみで、産地は価格の低迷にあえいでいるようです。一方、産地では品質に関しては分岐せずにすっと伸びた胴長のものが好まれていますが、これは紅参として輸出する際の規格に左右されているのであって、薬効の多少とは関係がありません。実際、形が悪くてもより大きなものほど単位重量あたりのエキス含量は多い傾向にあるようです。以前はヒトの形をしたものに神効があると信じられてきましたが、今ではそのようなものは加工面で嫌われています。これも時代の流れでしょうか。現在市場では栽培年数の長くて大型のものが良質品として取り扱われています。

 また加工面では、そのまま乾燥した「生晒参」(生干し人参)、軽く湯通しして外皮を剥ぎ取って乾燥した「白参」、内部の色が変色するまで湯通しした「御種人参」、長時間蒸してから乾燥した「紅参」などがあり、日本薬局方では前3者を「人参」とし、「紅参」と区別しています。その他、中国では氷砂糖汁に漬けた後に乾燥した「糖参」があります。

 今や野生人参を入手することはきわめて困難になっていますので、研究はおろか少量を服用することすら困難ですが、人参は昔からすばらしい薬物とされてきただけに、さらなる薬効と品質に関する研究が進むことを私たちも期待しています。

 人参は中国医学の中で最も有名な生薬といっても過言ではないでしょう。世界中にジンセンの名前で知れわたっています。

 人参は『神農本草経』の上品に収載され、古来補薬として珍重されてきました。もとは朝鮮民族の薬物であって、陶弘景も高麗のものが最も品質が良いと記載しています。このようないきさつから、中国では古来品不足であったことが考えられ、根の形が似ている多くの偽物が出回っていたようです。宋代の『図経本草』にも4種類の異なった図が描かれ、それぞれ科も異なるまったく違った植物と思われます。その中で品質が良いとされている上黨(今の山西省路安)産の人参(路州人参)の図が正品であるオタネニンジンを描いたものと判断されますが、現在ではその地には産しません。

 偽物が多かったためか、人参には興味ある真偽鑑別法が記載されています。『図経本草』に「言い伝えによると、上黨の人参を試すには二人の人間を同時に走らせ、一人には人参を口に含ませ、そうして3〜5里も走ると人参を口に含まなかったものは必ず大きく喘ぐが、含んでいた者の気息はごく自然である。これが真物の人参である」というものです。

 人参は日本でも古くから有名であったようで、江戸時代には病身の親のために身売りしてまで入手したという話はよく耳にします。人参はそれほど優れた効果があったものと考えられますが、近年ではそうした劇的な効果があったということを聞きません。人参の化学成分や薬理学的な研究は世界中でなされていて、おそらくあらゆる生薬の中で飛び抜けて報告数が多いのではないかと思われますが、未だにそれらしい有効成分が見つかってはいないようです。現代人は昔に比べると栄養状態が良くなり、以前のような人参適応者がいなくなってしまったことが理由であるとする考え方もありますが、ただ、以前すばらしい薬効があるとされていた人参はまぎれもなく野生人参で、今われわれが使用している人参はまぎれもない栽培人参である事実を忘れてはならないでしょう。

 現在わが国では福島県、長野県、島根県などでオタネニンジンの栽培をしていますが、近年は安価な中国産に押されぎみで、産地は価格の低迷にあえいでいるようです。一方、産地では品質に関しては分岐せずにすっと伸びた胴長のものが好まれていますが、これは紅参として輸出する際の規格に左右されているのであって、薬効の多少とは関係がありません。実際、形が悪くてもより大きなものほど単位重量あたりのエキス含量は多い傾向にあるようです。以前はヒトの形をしたものに神効があると信じられてきましたが、今ではそのようなものは加工面で嫌われています。これも時代の流れでしょうか。現在市場では栽培年数の長くて大型のものが良質品として取り扱われています。

 また加工面では、そのまま乾燥した「生晒参」(生干し人参)、軽く湯通しして外皮を剥ぎ取って乾燥した「白参」、内部の色が変色するまで湯通しした「御種人参」、長時間蒸してから乾燥した「紅参」などがあり、日本薬局方では前3者を「人参」とし、「紅参」と区別しています。その他、中国では氷砂糖汁に漬けた後に乾燥した「糖参」があります。

 今や野生人参を入手することはきわめて困難になっていますので、研究はおろか少量を服用することすら困難ですが、人参は昔からすばらしい薬物とされてきただけに、さらなる薬効と品質に関する研究が進むことを私たちも期待しています。

   《引用終了》

 なお、「本草綱目」からの引用は、「草之一」の「人參」(リンク先は「維基文庫」の当該項)のパッチワークである。

「人薓(《にん》じん)」「廣漢和辭典」の「薓」の「解字」に拠れば、この「𣺎」という漢字は、『次第に増し加わるの意。年とともに根が成長する野菜』、旧の広義での『にんじん』のこととする。

「人䘖《にんがん》」東洋文庫訳では、『人銜(にんがん)』となっており、「維基文庫」でも『人銜』である。これは「神農本草經」の上品に収載されてあり、『人參、一名人銜、一名、鬼蓋』とあった。しかし、やはり、原本で確認しないで、良安や彫師の誤りとするわけには行かない。そこで、本邦の板本であるが、

「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」の寛文一二(一六七二)年刊の当該部

で検証した。やってよかった!

そこでは――慥かに――「人」――となっていたのである!

而して、この「」は「銜」の異体字であり、この漢字は、第一義が、馬の口に含ませて手綱を附ける金具である「くつばみ」「はみ」である。これは、「世田谷区」公式サイト内の「喜多見中通遺跡出土馬具(ばぐ)」に模式図があるが、左右に丸い輪が附いたものであり、

この半分を(朝鮮)人参の根の形に擬えたものではないか?

と私は判断する。

「海腴《かいゆ》」中文の「漢典」の「海腴」に『人参的别称』とし、使用例として、宋の蘇軾の詩「人參」から『玄泉倾海腴 白露洒天醴』が引用されていた。

「鬼葢《きがい》」前の前で注した通り、「神農本草經」で「人參」の別名である。ひねこびた奇体(≒「鬼」)な「葢」(ふた)のようなもので、想像を絶する神効(≒「鬼」)があるものという意味か。

「皺面還丹《しゆうめんかんたん》」意味を明らかにする記事を見出せなかったが、「『皺』だらけの人のような『面』(つら)をした根であるが、法術の仙『丹』に匹敵する神効を有するという意味に採ることが出来よう。

「甘草《かんざう》」先行する「甘草」を見よ。

「人參、有る𠙚《ところ》、上に、紫《むらさき》の氣、有り、揺光星《やうくわうせい》の≪光≫、散じて、人參と爲《な》る」「東洋文庫訳」では、『人参のある処では上に紫の気があり、揺光(ようこう)星(北斗七星の中の第七星)の光が散じて人参となる、という。』とある。

「椵樹《かじゆ》【桐に似て、甚だしく、大なり。】」「卷第八十七 山果類 櫠椵」を見られたい。そこで、さんざん、考証しても、種に辿りつかなかった。

「互市《ごし》」当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『互市(ごし)とは、中国の歴代王朝が国境地点にもうけた公認の対外交易場である。またここから転じて、明朝後期から清朝期にかけての、中国の対外貿易システムを指すこともある』。『漢代には、互市で南越や匈奴、鮮卑』(せんぴ:紀元前三世紀から中国北部と東北部に存在した騎馬民族。五胡十六国時代・南北朝時代には、大移動で南下し、華北の国々を征服、中国に前燕・北魏などの王朝を建てた)『と交易を行っていたことが確認されている。唐代では、対外貿易を行う海港を市舶とし、港における互市を管理させた』。『明朝は当初、海禁政策を取り、朝貢によらない私貿易を厳禁した。日明貿易で行われた勘合貿易は、中国側にとっては朝貢貿易の一環であった。しかし16世紀後半になると』、『後期倭寇により海禁政策は行き詰まり、朝貢によらない私貿易を容認した。これは次の清朝にも引き継がれ、朝貢体制の外側に、外交を伴わない形での互市体制が作られることになる。江戸時代の日本も互市体制のもとで清朝側と貿易を行った』。但し、『清朝は海禁を完全に解いて自由貿易を認めたわけではなく、様々な規制を設けて管理しようとした。その一つが』、『欧米との貿易を広州のみに絞った広東貿易体制である。だが』、『こうした規制の試みはアヘン戦争の敗戦とその結果の南京条約により、放棄されていった』とある。以下、「清代に互市が行われた主な地点」として、キャフタ(ロシア連邦を構成するブリヤート共和国の都市。ここ(グーグル・マップ・データ))・上海(江海関)・寧波(浙海関)・厦門(閩海関)・広州(粤海関)がリストされてある。

「薺苨《せいねい》」多年草本のキキョウ目キキョウ科ツリガネニンジン属ソバナ(岨菜・蕎麦菜・杣菜) Adenophora remotiflora当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『和名は「杣菜(そまな)」と漢字で書かれ、杣は木こりのことを指した言葉で、山道に生える菜の意味がある』。『日本では本州、四国、九州に、アジアでは朝鮮半島、中国に分布する。平地沿いの低山から山地の草原や林内、林縁、沢沿いなどの、やや湿った傾斜地などに、大小の集団を作って自生する』。『茎は』、『やや傾斜して直立し、高さは40 - 100センチメートル』『ほどになり、中空で折ると白い乳液が出る。乳液はキキョウほど強くはない。葉は茎に互生し、茎の下部につく葉には葉柄がある。葉柄のつく葉の形は広卵形で、花がつく茎の上部は広披針形になり、いずれも葉の先は尖り』、『基部はほぼ円形、縁は』、『はっきりした鋭い鋸歯状がある。ほとんど無毛で、若葉のときは強い光沢がある』。『花期は夏(8 - 9月ごろ)。枝の先が分かれて青紫色の円錐状に近い鐘形の花を』、『やや』、『まばらに咲かせる。大きい株になると』、『枝を数段に互生させ、多数の花をつける。花の』萼『片は披針状で全縁。雌しべは突出する。花冠の先は5裂し、先端は少し反り返る』。『春の出たばかりの黄色味を帯びている若い芽は、山菜として食用にされる。採取時期は関西以西が4月、関東地方が4 - 5月、東北・中部の寒冷地は5月ごろとされ、根元から摘んで採取する。さっと茹でて』、『水にさらし、おひたし、酢の物、ごま・酢味噌などの和え物などにし、生のまま天ぷら、汁の実にする。クセがほぼないため』、『さまざまな料理に使える。歯切れがよく』、『美味であり、飢饉の時には』、『蕎麦の代用品として主食同様に用いられたと推測される。花』も『軽く茹でて』、『酢の物にできる』とあった。

「細辛《さいしん》」双子葉植物綱コショウ目ウマノスズクサ(馬の鈴草)科カンアオイ(寒葵)属ウスバサイシン(薄葉細辛)Asarum sieboldii 、又は、オクエゾサイシン(奥蝦夷細辛)変種ケイリンサイシン(鶏林細辛)Asarum heterotropoides var. mandshuricum (後者は中国には分布しない)の根及び根茎を基原とするもので、漢方薬品メーカー「つむら」の公式サイト「Kampo View」の「細辛」に拠れば、『主として、胸部、横隔膜のあたりに病邪のとどまっているもの、水毒(水分の偏在)を治す』とある。

「淋過《りんくわ》≪し≫たる竃《かまど》の灰」この科学的な機序に就いては、石川英輔氏のエッセイ「土に還る(3)灰の行方」PDF)に詳しいので、見られたい。

「藜蘆《れいろ》」先行する「草類 藥品(5) 藥七情」の当該注を見られたい。

「五靈脂《ごれいし》」既注だが、再掲しておく。中国に棲息する哺乳綱齧歯目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista の糞を基原とした生薬。「金澤 中屋彦十郎藥局」公式サイト内のこちらによれば、『成分としてはビタミンA類、その他で』、『炒りながら』、『酢や酒を加え、乾燥したものがよく用いられる』。『かつては解毒薬として蛇、ムカデ、サソリ等に咬まれたときに外用した』とある。

「皂莢《さうきやう》」「卷第八十三 喬木類 皂莢」の私の注を見よ。

「升麻《しやうま》」キンポウゲ目キンポウゲ科サラシナショウマ属サラシナショウマ Cimicifuga simplex の根茎を天日乾燥させたもの。ウィキの「サラシナショウマ」によれば、これは、『発汗、解熱、解毒、胃液・腸液の分泌を促して胃炎、腸炎、消化不良に効果があるとされ』、各種『漢方処方に配剤されている』とあり、さらに、『民間では』、一『日量』二『グラムの升麻を煎じて、うがいに用いられる』とする。さらに、『なお、本種に似たものや、混同されて生薬として用いられたものなど、幅広い植物にショウマの名が用いられている』とある。最後の部分は、ウィキの「ショウマ(植物の名)」も参照されたい。

「上焦」漢方で六腑の一つとして措定される架空の臓器部分を言う「三焦」の一つ。「上焦」・「中焦」・「下焦」の三つからなり、「上焦」は「心臓の下、胃の上にあって飲食物を胃の中へ入れる器官」とされ、「中焦」は「胃の中脘(ちゅうかん:本来は当該部のツボ名)にあって消化器官」とされ、「下焦」は「膀胱の上にあって排泄をつかさどる器官」とされる。因みに、所謂、「病い、膏肓に入る。」の諺の「膏肓」とは、この「三焦」を指し、これらが人体の内、最も奥に存在し、漢方の処方も、そこを原因とする病いの場合、うまく届けることが困難であることから、医師も「匙を投げる」部位なのである。

「茯苓」先行する「茯苓」を見よ

「黃茋」これは、「黃芪(わうぎ)」とも書く。マメ目マメ科ゲンゲ属キバナオウギ Astragalus membranaceus の根を基原とする生薬。当該ウィキによれば、『止汗、強壮、利尿作用、血圧降下等の作用がある』とある。

「麥門冬」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科 Ophiopogonae 連ジャノヒゲ属ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus の根の生薬名。現行では、これで「バクモンドウ」と濁る。鎮咳・強壮などに用いる。

「乾薑《かんきやう》」「卷第九十二之本 目録 草類 藥品(1)」の私の注を見られたい。

「韃靼(だつたん)」タタール。蒙古系部族の一つ。八世紀に東蒙古にあらわれ、モンゴル帝国に併合された。宋では、蒙古を「黒韃靼」、オングート(同じくモンゴル帝国以前から元代にかけて存在した遊牧民族)を「白韃靼」と称し、明では、元滅亡後、北に逃れた蒙古民族を「韃靼」と呼んでいた。

「白頭山(はくとう《さん》)」白頭山(ペクトゥサン)は、朝鮮民主主義人民共和国の両江道と、中華人民共和国の吉林省の国境地帯にある標高二千七百四十四メートルの火山。別名を「長白山(ちょうはくさん)」とも言う。天池の両側に、朝鮮半島と中国東北部の最高峰がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。抗日ゲリラの拠点であったことから、革命の聖地とされる。

「判事(ハンス)人參」良安の言い方からみて、全く同一種であるようには読めないが、ネットで検索しても、出てこないから、正体は判らない。「国書データベース」の「和漢人參考」という本の、ここで、見つけた。謙齋の著で、滕(とう)玄順の補になる、文化九(一八一二)年板(浪華加賀屋善蔵)のもので、印記があり、旧蔵者の一人は、かの、森鴎外であった。その内容を見ると、これがあった。漢文(訓点附属)のまま、以下に示して、お茶を濁すこととした(「𧢲」「⻆」は「角」の異体字)。

   *

判事

西章云是人參也和俗稱半事舶上謂二羊𧢲參【非白條參羊⻆參也】形色最モ美ナリ黃潤明亮雖ㇾ可ㇾ充上黨參ニモ氣味俱薄不ㇾ如朝鮮朝鮮新山商人人僞稱

   *

「蝦手(えびで)人參」小学館「日本国語大辞典」に拠れば、読みは、『えびで‐の‐にんじん』で、漢字表記は『海老手人参』とあり、『朝鮮半島の白頭山に産するチョウセンニンジン。あめ色を帯び、曲がった形がエビに似ているのでいう。朝鮮人参。』とあり、初出例として、浄瑠璃の「博多小女郞波枕」(享保三(一七一八)年)の「上」から、『仕合すれび気の薬、海老(ヱビ)での人参(ニンジン)五箱で卅斤』を引いている。しかし、本「和漢三才図会」の全巻成立は正徳二(一七一二)年であるから、初出例としては、本書の方が百科事典でもあるから、正当に優に先行するものである。

「湯人參」「日本薬学会」公式サイトの「薬学用語解説」の「人参湯類 にんじんとうるい Ninjinto group」に、『漢方処方の分類で、「人参(にんじん)」を主薬とする処方群である。人参は健胃、強壮作用、免疫賦活作用などを有し、虚証の治療に重要な生薬であり、人参湯類の使用目標は「胃腸の気を補い、消化機能低下や冷えを改善するもの」と、共通している。代表的な処方である人参湯は、胃腸虚弱、冷え性、食欲不振、嘔吐、胃痛などに用いる。また、口中に薄い唾液がたまって気持ちが悪い場合にも用いられる。大建中湯(だいけんちゅうとう)は、血流を増し、消化管を刺激し、体を温め、消化管の緊張を調節するなどの作用があり、冷えによる腹痛、腹部膨満感がある場合に用いる。また、開腹手術後の腸閉塞(イレウス)の予防を目的として頻用されている。四君子湯(しくんしとう)は、胃腸虚弱で胃内停水があり、食欲不振で虚証で気力・体力が衰えた場合に用いる。六君子湯(りっくんしとう)は、四君子湯に陳皮(ちんぴ)と半夏(はんげ)を加えたものであり、応用範囲は四君子湯よりも広く、胃のもたれやうつ症状のある人に用いる。茯苓飲(ぶくりょういん)は、吐き気や胸やけ、げっぷ、食欲不振などの症状があり、胃腸内にたまったガスを容易に排出できない場合に用いる。』とあったが、この類いであろうか。

「唐人參《たうにんじん》」小学館「日本国語大辞典」に、『唐人参』に、『中国産の人参で朝鮮人参の類。』とし、初出例に雑俳の「うたゝね」(元禄七(一六九四)年)から、『客は聟唐人参の引肴』を引いてある。

「山西(サンスイ)」(拼音:以下同じ)Shānxī で、音写で「シァン シィー」である。

「潞安《ろあん》【古への上黨《じやうたう》。】」現在の山西省長治市(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)の内。

「北京(ポツキン)」Běijīngで、音写は「ペイジン」。当該ウィキの「北京の読み方」に拠れば(注記記号はカットした)、『日本では一般的に「ペキン」と読む。この読みは中国南部の方言の唐音に由来する歴史的な読み方である。1906年制定の郵政式アルファベット表記でもPekingと表記されている。 中国の共通語である普通話では、Zh-Beijing.ogg Běijīngと発音し、カタカナに転記すると「ペイチン」。英語では Beijing と表記し、 [beɪˈdʒɪŋ] 「ベイジン」と発音している。国連や北京市の公式サイトにおいても、Beijing を英語の名称として採用している。ただ』、『以前は英語圏でもPeking「ピーキン」という表記を多用していたこともあり、北京大学を英語で Peking University と表記するなど、その名残を残している』とあり、別に、『江戸時代の書物(江原某『長崎虫眼鏡』など)では、「北京」のふりがなは「ほつきん(発音はホッキン)」となっている。幸田露伴の小説「運命」では読みを漢音で「ほくけい」としている。諸橋轍次「大漢和辞典」では「ほくけい」「ぺきん」の二つの読みを併記している。「ほっけい」とも言う。』とあった。

「永平(ヨンピン)」Yǒngpíngで、音写は「イォンピィン」。現在の北京市永平小区の内か。

「雲南(イユンナン)」Yúnnánで、音写は「ユインナァン」。

「姚安(テウアン)」Yáoānで、音写は「ィアォ」。現在の雲南省楚雄イ族自治州にある姚安県(ようあんけん)。ここ

「小人參《しやうにんじん》 大人參の中より擇出《えらびいだ》し者に≪は≫非ずして、本《もと》、自《おのづか》ら一種の小《ちさ》き者≪なり≫。其《その》根、長さ、一、二寸許《ばかり》。」実は、次の項目が「髭人參」で、そこに『小人參』を俗称としてある。そちらで、細かに考証するが、今、即席に調べてみた限りでは、良安が「自ら一種の小き者」と言っているような、独立種ではないようである。則ち、チョウセンニンジンの細い根を除去した製品であり、単に処理工程がことなるだけの、同種の加工品を指しているものを指すものと断言してよい。

「猶《なほ》、罌粟(けし)と美人草《びじんさう》と≪の≫ごとし。」東洋文庫訳では、この箇所に訳者の割注があり、『(巻百三穀類、罌子粟および麗春花の項を見よ)』とある。しかし、その指示した巻は、実に本植物部プロジェクトの終わりから一つ前の巻なのである。しかも、二種(並んではいる)について、ここで、注釈をすることになると、またまた、膨大な時間と労力が必要になる。そこまでやることは、私には、たまらんチンの100乗で、無理である。そこで、取り敢えず、当該の二種の部分を、国立国会図書館デジタルコレクションで指示するに、留める。雑駁に言ってしまうと――同属ながら――似て非なるもの――なんである。「罌子粟」(こ奴は、キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum言わずもがなの阿片(アヘン)の元であり、本文内で「阿片」が小項目として記されてある)はここで、「美人草」(こちらは、可憐な「虞美人草」=であるケシ属ヒナゲシ Papaver rhoeas )はここである。

立原道造草稿詩篇 (昨夜は おそく……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『原記は表題代りに☆印を置く。』とし、『第一詩は後出「鉛筆のマドリガル」の第四詩の初稿。』とある。この「鉛筆のマドリガル」は、五コマ後のここから、視認出来る。]

 

   (昨夜は おそく……)

 

昨夜は おそく

步いて町を步いて歸つたが

あかりは僕のそばにゐた

あかりは僕からとほかつた

 

ひとつの窓はとぢられて

あまりおそいこの時刻には

誰も顏を出してゐなかつた

誰にも歌をうたはせないために

 

だけれど僕はすこしうたつてみた

それはたいへんまずかつた

僕はあはてて歸つて行つた

 

昨夜は おそく步いたが

あれはたしかにわるかつた

僕の脊中はだいぶくらかつた

 

      ☆

 

窓には雲が 次から次へと

僕には歌が……

 

それから今日は日がくれた

それから夜はでかけよう

 

もし中世の城であるならば

葡萄の葉かげで月かげで

 

僕はもつとうたふにちがひないが

僕はひとり步くきりだ

 

[やぶちゃん注:「まずい」はママ。歴史的仮名遣は「まづい」。

個人的には第一聯の二行目「步いて町を步いて歸つたが」の一行が躓く。私なら、「步いて 町を步いて歸つたが」とする。「步いて」のリフレインを自然なスラーとするには、それしかない、と、私は感ずるのである。いや、或いは、『道造は、そのように字空けをしているのではないか?』という編者の判読の誤りが、強く感じられるのである。

2026/02/25

立原道造草稿詩篇 (あの家では……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『原記は表題代りに☆印を置く。』とし、『第四詩は後出「秋の歌」の初稿。』とある。この「秋の歌」は、七コマ後のここから、視認出来る。]

 

  (あの家では……)

 

あの家では

子供が七歲と四歲だつたから

ブランコやスベリ臺もいるだらう

それから親たちには快いあかりと窓と

僕はすばらしい食堂を作つて上げよう

彼たちは每日あつまつてたのしい日暮れを

すごすやうに

僕はすばらしい家を作つてあげよう

 

      ☆

 

柱のそばで眼ばたきなんかしたつてだめだよ

ちやんと知つてるんだ

けふは僕は意地わるなんだ

いいさ いいさ もう行かないよ

僕はちやんときまつてるんだ

 

      ☆

 

借りた本は返しませう

汚さないやうにして お前の部屋に

ちひさいあかりは消しませう

それから僕は眠りませう お前の所に行くのです

 

      ☆

 

あたらしい金ボタンをつけた大學生は誰よりもたのしかつた

ポケツトに薔薇のやうなハンカチなんてそれは昔のならはしだつた

彼はそのまゝ胸をおこして步きさへすれば

秋晴れの午后なんか誰よりすばらしい姿に見えた

 

 

[やぶちゃん注:この四聯で続く一連の詩群と判断した編者に、私は、ここでは、納得出来る。ここには、幼児期から東京帝国大学工学部建築学科に入学するまでの道造の道程が、別にそれを傍観する第三者の建築士となって、彼の思い出の走馬燈として描かれていると感じとれるからである。

 道造は大正三(一九一四)年七月三十日生まれで、弟達夫は大正五年四月二十六日に誕生しており(実は道造誕生の前年一月に長男一郎が三歳で亡くなっている)、「子供が七歲と四歲だつたから」というのは、道造と達夫の年齢差が一致するのである(年齢は数え)。なお、大正八(一九一九)年、道造六歳の八月二十二日に父貞次郎が三十七の若さで亡くなっており(死因不詳)、参照した底本全集「第六卷 雜纂」の大正六年の年譜を見たところ、珍しく、母とめさんの記載があったので以下に引用する。父なき後、『道造を女手一つで育てた母とめは、「立原によく似た知的で背の高い、黒っぽいものをよく着」(大和勇三「立原道造の思い出」)ているようなひとであった。』とあった。]

立原道造草稿詩篇 (あの家では……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『原記は表題代りに☆印を置く。』とし、『第四詩は後出「秋の歌」の初稿。』とある。この「秋の歌」は、七コマ後のここから、視認出来る。]

 

  (あの家では……)

 

あの家では

子供が七歲と四歲だつたから

ブランコやスベリ臺もいるだらう

それから親たちには快いあかりと窓と

僕はすばらしい食堂を作つて上げよう

彼たちは每日あつまつてたのしい日暮れを

すごすやうに

僕はすばらしい家を作つてあげよう

 

      ☆

 

柱のそばで眼ばたきなんかしたつてだめだよ

ちやんと知つてるんだ

けふは僕は意地わるなんだ

いいさ いいさ もう行かないよ

僕はちやんときまつてるんだ

 

      ☆

 

借りた本は返しませう

汚さないやうにして お前の部屋に

ちひさいあかりは消しませう

それから僕は眠りませう お前の所に行くのです

 

      ☆

 

あたらしい金ボタンをつけた大學生は誰よりもたのしかつた

ポケツトに薔薇のやうなハンカチなんてそれは昔のならはしだつた

彼はそのまゝ胸をおこして步きさへすれば

秋晴れの午后なんか誰よりすばらしい姿に見えた

 

 

[やぶちゃん注:この四聯で続く一連の詩群と判断した編者に、私は、ここでは、納得出来る。ここには、幼児期から東京帝国大学工学部建築学科に入学するまでの道造の道程が、別にそれを傍観する第三者の建築士となって、彼の思い出の走馬燈として描かれていると感じとれるからである。

 道造は大正三(一九一四)年七月三十日生まれで、弟達夫は大正五年四月二十六日に誕生しており(実は道造誕生の前年一月に長男一郎が三歳で亡くなっている)、「子供が七歲と四歲だつたから」というのは、道造と達夫の年齢差が一致するのである(年齢は数え)。なお、大正八(一九一九)年、道造六歳の八月二十二日に父貞次郎が三十七の若さで亡くなっており(死因不詳)、参照した底本全集「第六卷 雜纂」の大正六年の年譜を見たところ、珍しく、母とめさんの記載があったので以下に引用する。父なき後、『道造を女手一つで育てた母とめは、「立原によく似た知的で背の高い、黒っぽいものをよく着」(大和勇三「立原道造の思い出」)ているようなひとであった。』とあった。]

立原道造草稿詩篇 (僕の口ぐせによると……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『原記は表題代りに☆印を置く。』とし、『第一、二詩は後出「鉛筆のマドリガル」の第二詩の初稿。』とある。この「鉛筆のマドリガル」は、七コマ後のここから、視認出来る。]

 

  (僕の口ぐせによると……)

 

僕の口ぐせによると

僕はいつでも困つてゐた

そんな筈はないんだが

 

      ☆

 

からつぽな帽子を机の上にのせて

僕はしばらくぼんやりしてゐる

窓はすばらしい天氣だつたが

もし僕がそこへ出て行つたなら

あの靑空は

出かける仕度をしたまゝ遠慮して

机の上に頰杖をついてゐる

どうして僕はだめなんだらうと

 

      ☆

 

木の葉が散つて來るのを見ると

それからあまりお天氣がよすぎると

だめな雨が靴の穴からしみ込むと

だから 僕は困つてばかりゐた

 

 

[やぶちゃん注:最終聯の四行は、全体が連続した意味を成すに至っておらず、前の部分とのジョイントもあまり良くない。思うに、「木の葉が散つて來るのを見ると」、「それからあまりお天氣がよすぎると」、「だめな雨が靴の穴からしみ込むと」の三行は、並置された候補三種である可能性が高いように感ずる。しかし、どれを採っても、今一つ、この聯内でのジョイント自身も上手くなく、冒頭から読んでいて、読者の殆んどは、この最終聯で澱(よど)みを感じないでは、いられない。寧ろ、最終行の頭の「だから 」を除去して読むと、そうした停滞感は、遙かに除去され、全体の詩としての完成度は上がるように私には思われる。]

2026/02/24

立原道造草稿詩篇 (床屋は……) / 《参考電子化》私の恣意に拠る二篇として分離 (床屋は……)・(机の寸法を……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、このパート(「(床屋は……)」から「(もつとたのしくて……)」までの五篇)は、原稿の判読が、かなり難しく、そのため、編者によって、やや恣意的に活字化されていることが判る。一部を引く。『用紙は本郷白山上の南天堂書店の包装紙で』、『本文は四ツ折にした各面に方向を違えて書かれている。連続関係についての編者の推定を避け、アトランダムに各面ごとに置いた。☆印ごとに一篇として読んでもいいであろう。』(☜注目!)『最後』に置いた詩の最終詩句『「お祭りはをはつた」の詩句は同一面上の「昨日は おそく」「もつとたのしくて」と別方向に他の文字より大きく』書かれて『あって、これが総題とも考えられる。いずれにせよ』、『これらの詩群は後出の作品の参考のために加えた。制作時は』「(もつとたのしくて……)」『の第二詩の「二十一歲」に拠り』、『昭和9』(一九三四)『年、更に』「(あの家では……)」『の第四詩の「秋晴れ」に拠って9月頃と想定する。』とある。本篇「(床屋は……)」の編者注には、『原記は☆印を第一詩の第四行上部に置いているので、詩群の最初とした。』とあり、さらに『第一詩は後出「鐘」の初稿。』とあるが、これは、調べてみたところが、底本の五コマ後の「鏡」★編者の誤植★であることが判明した。リンク先を見られたい。

 

  (床屋は……)

 

床屋は

頭の上に

シヤボンで

駝鳥や塔を作つてくれる

不意に軽くなつた僕よ

 

すこし步きにくい あまりきれいな歌になつたから

僕にはまづしげに生えた汚いひげが似あふんだが

 

      ☆

 

机の寸法を測つてからその上に本をのせてよんだ

この本には 澤山の文句がある 僕は おぼえない

(それからお前に會つたとき きかせるためにばかり 僕はおぼえる)

 

 

[やぶちゃん注:さて、この詩、虚心になって考えても、「☆」印の前後では、リリックとしての聯関性が、全く感じられない。されば、これは、独立した二篇と採るのが至当であると私は強く感じる。されば、仕切り直して、以下のように分離し、標題も独立させて示すこととした。私の恣意的な処置なので、比較出来るように、☆印を除去して罫線を引き、さらに、太字とした。異論がある方とは、何時でも議論しましょうぞ。]

 

 

  (床屋は……)

 

床屋は

頭の上に

シヤボンで

駝鳥や塔を作つてくれる

不意に軽くなつた僕よ

 

すこし步きにくい あまりきれいな歌になつたから

僕にはまづしげに生えた汚いひげが似あふんだが

 

 

 


 

 

 

  (机の寸法を……)

 

机の寸法を測つてからその上に本をのせてよんだ

この本には 澤山の文句がある 僕は おぼえない

(それからお前に會つたとき きかせるためにばかり 僕はおぼえる)

 

 

2026/02/23

立原道造草稿詩篇 (僕に まだしあはせも……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、第三聯目が大きく削除されて、決定稿では一行だけが残っていることが示されている。されば、【初稿】として全篇を復元した。]

 

【初稿】

 

  (僕に まだしあはせも……)

 

僕に まだしあはせも不幸もなかつた頃

(まちがへてはいけない それでもすべてはあつたのだ)

僕は 每晩出かけて行つた 町のあかりを算へるために

 

夜は方々からひろがり 空のてつぺんまでくらくなり

あのはてないなかで 一體いくつ燈がともつたらう

 

僕はとうとう知らないまゝに

むだに算へた

それから僕はあのなかにやつとひとつのかなしみを見つけた

だがもう一度 いはなくてはならぬだらう そのかなしみもうそだつた

 

      ☆

 

おまへはブリキの光るのを見たことがあるか

夜だ あかりの下で

人は あれをまでかなしいものだといつた

ほんとだらうか

 

      ☆

 

町に沿つて たとへば古いかなしみのやうに 足音は

規則正しく踏までてゐた このつかれた響のみ算へるために僕は每晩出かけたか

 

[やぶちゃん注:「とうとう」注記では、後の「とう」は踊り字「〱」であるが、ママである。歴史的仮名遣では「到頭」であるから「たうとう」でないとおかしい。]

 

 

【決定草稿】

 

  (僕に まだしあはせも……)

 

僕に まだしあはせも不幸もなかつた頃

(まちがへてはいけない それでもすべてはあつたのだ)

僕は 每晩出かけて行つた 町のあかりを算へるために

 

夜は方々からひろがり 空のてつぺんまでくらくなり

あのはてないなかで 一體いくつ燈がともつたらう

 

それから僕はあのなかにやつとひとつのかなしみを見つけた

 

      ☆

 

おまへはブリキの光るのを見たことがあるか

夜だ あかりの下で

人は あれをまでかなしいものだといつた

ほんとだらうか

 

      ☆

 

町に沿つて たとへば古いかなしみのやうに 足音は

規則正しく踏までてゐた このつかれた響のみ算へるために僕は每晩出かけたか

 

立原道造草稿詩篇 秋のマドリガル

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  秋のマドリガル

 

僕はお前をくららと呼ばう

 

お前は田舍のあの村の郵便函

お化粧もせずにあの新物店(みせ)の軒(のき)にゐた

手紙をいれに晝の日傘をさして

別莊のお孃さんが來ると ポストは怠け

 

僕はお前をくららと呼ばう

 

いろいろなことの思ひ出のために

そして僕の手紙をお前に 僕に

この夏の遠かつた雲に

秋 町で誰かの歸りを待ち侘びてゐたと

きつとそればかりをに認(したた)めよう

 

お前は 多分あの人だ

くららは靑い谷間で古い世紀を織つてゐた あれはお前だ

 

 

[やぶちゃん注:「マドリガル」(英語madrigal)イタリアのマドリガーレ(madrigale古くは、十四世紀のイタリアで栄えた詩形式及びこれに基づく多声楽曲であるが、これは直に廃れ、後にそれらとは全く無関係に同名称で十五世紀から十六世紀にかけてイタリアで発展した、主として無伴奏の重唱による芸術的な多声歌曲をも指すようになった。後者は「ルネサンス・マドリガーレ」とも呼ぶ)、及び、その影響を受けてエリザベス朝(一五五八年~一六〇三年)のイギリスその他の国で成立した歌曲の総称。ここはルネサンス・マドリガーレ及び最後のものを指すと考えてよい。ウィキの「マドリガーレ」によれば、『詩節が無く』、『リフレインも無い自由詩を用い、テキストの抑揚に併せてメロディーが作られた。感情表現を豊かにするためにポリフォニーやモテットの様式、模倣対位法、半音階法、二重合唱法などあらゆる音楽形式が採られ、多くの作曲家が作品を作った』。十七世紀に入ると、『カンタータに取って代わられたが、その後も幾人かの作曲家がこの形式の作品を残している』とし、「イングリッシュ・マドリガル」は『エリザベス朝イングランドの宮廷作曲家達によって、イタリアの形式を真似て作られたが、イタリア』のそれほどには『複雑で無く』、『和声を主体にした曲が多い』とある。

「くらら」注記に『立原の愛読したフランシス・ジャムFrancis Jammes 1868―1938.  の』詩集『 “De l’Angelus de l’aube à l’Angelus du soir. 1898”「暁の鐘から夕の鐘まで」中の“J’aime dans les temps”……(僕は愛するあの時の…)に歌われた少女クララ・デレブウズ』Clara d'Ellébeuse『に拠ると思われる。』とある。フランス語の「ウィキソース」のここで、全篇が原語で読める。]

立原道造草稿詩篇 (もう見えない……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (もう見えない……)

 

もう見えない もう見えない

風のやうに その人は

足を掌を 顏を持たない

小さな籠で町がかくしてしまつたのだ

宿なしを――誰も知らない屋根裏に

 

だがどうしよう 馬車のやうに

くらい窓で食べられない 藁なんか

その人の空腹の魂にいはせるだらう

おれだけ何も待つてゐないのだと

窓のやうな縞のある旗をふるのだと

 

もう見えない どうしよう

もう見えない どうしよう

くらいからだ 町があつた 人がゐた

それつきり 小さな籠がかくして行つた

 

立原道造草稿詩篇 眞晝

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに従って、標題変更を取り消し線で示した。]

 

  高原八月 眞晝

 

道は何度ものぼりくだり

その果ての落葉松の林には

靑く山脈が透いてゐる

僕はひとりで步いたが さうぢやない

あの山麓の向うの雲を 小さな雲を 指さした

僕の脊中はだいぶくらかつた

 

立原道造草稿詩篇 庭の少女

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  庭の少女

 

雲が少女を眺めてゐた、空で、高い空で、黃色な雲が。庭の眞晝、枝の軟風。

少女が眠つてゐた、樹かげで、しづかな少女が。

あれはそのまゝ、あれは子守唄、それは忘れた母の。眼をとぢるときこえる、あれはそのまゝ……。

 

2026/02/22

立原道造草稿詩篇 曙

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  曙

 

パンザの家にゐたが或る日疲れて僕は夢を見た

 らんかんに

 やんまがとまり

 耳の海鳴り

 山鳩の脊に

 水車ひねもす糸を紡ぎ……

夜が崩れた(膝までしか合はない寸法)窓のすべては僞りの花で飾られた

ぼんやり歪んだ地平線に 誰かはしやがんでゐた 人はまちがひをして その景色を眺めるだらうか それとも彼は知らなかつたのだらうか

風が吹いて王となつた 果して僕は夢を見た

 

[やぶちゃん注:「パンザ」不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの底本の全集全巻で検索したが、この詩篇の七十四篇後の無題の「(やつと欲しいものが……)」の最後に「パンザよ」と呼び掛けるのが見出せただけであった。]

立原道造草稿詩篇 (隣の部屋で……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (隣の部屋で……)

 

隣の部屋で何本もマツチを母がすつてゐた、何本もむだに。

僕はきいてゐた、母が蠟燭をともす音を、下手な音を。

 

もうぢき眠る。きつと眠る。――

だのに、待つてゐた、僕は。蠟燭が、子守唄が僕を眠らせに來るのを。

あれはいつの夜のことだつたらうか。

 

[やぶちゃん注:私には、ここには、隠れたエディプス・コンプレクスが潜んでいるように感じられてならない。]

2026/02/21

立原道造草稿詩篇 峽の歌

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。「峽」はネイティヴでない読者のために言っておくと、道造は、諸作品を鑑みるに、訓で「かい」と読んでいよう。「山と山とに挟まれた所」を指す。音では「ケフ(キョウ)」、訓では、別に「はざま」(挾間)とも読めるが、音は道造の詩語としてはあり得ず、「はざま」では、印象がダルになり、リズムも良くない。]

 

  峽の歌

 

光りながら消える水は

小さな渦卷きだ あれは白だ

空は靑く透いてその流れに

葉の姿を映してゐた

 

水を見てゐたのは誰だらう

お前だつたか 僕だつたか

 

消えながら光る水は

小さな淀みだ あれは靑だ

雲は白く透いてその飛沫(しぶき)に

鳥の形を映してゐた

 

水を見てゐたのは誰だらう

お前だつたか 僕だつたか

 

 

立原道造草稿詩篇 林道

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、ここ以降のものは、『下限は』昭和9年『9月と推定』している。また、本「林道」については、『昭和9年11月発表の「村ぐらし」の初稿。』とし、さらに、『元気表題は「林道・靜晝(眞晝)」。「林道」のみを赤鉛筆で囲っているので、それを表題とした。』とある。無論、それでよいと思うが、個人的には、道造が標題を迷った過程を再現したく思い、その部分を復元したいと思った。但し、赤で枠は出来ないので、「林道」自体を赤字とした。後に注記が示した決定稿は、既に私が電子化注した「村ぐらし   立原道造」がある。編者中村真一郎氏の注に、本篇は昭和九(一九三四)年『七月堀辰雄とともに追分に滞在した体験に基づく』とある。但し、リンク先は中村氏に拠って、読みが歴史的仮名遣で打たれている。されば、底本同全集の「第一卷 詩集I」の当該部で、確認し、全く読みはないことが確認出来たので、読みはカットした。さても、この「村ぐらし」は、私が、道造の詩の中でも、特に偏愛する一篇である。未読の方は、是非、全篇を読まれたい、ちゃんと、声を出して……。]

 

  林道・靜晝(眞晝)

 

 さびしい山道を息をはずませのぼつたことがあつた。道で會つたのは蟲捕りの道具を持つた老人であつた。彼は遠眼鏡(えんがんきやう)をあてて麓(ふもと)の高原を眺めてゐた。もつとのぼると峽(かひ)があつた。木の葉が、雲の形を透(す)いてゐた。その下の流れで足を洗つた。すると氣分がよかつた。草原に似た麓の林に、光る屋根が見えてゐた。またおなじ林道をくだつた。もう誰にも會はなかつた。しばらくすると村で鳴く鷄(にはとり)を聞いた。はるかな思ひがわき、すぐに消え、ただせかせかと道をくだつた。長かつた。

 

[やぶちゃん注:想定題候補の「靜晝」というのは、名詞として音読みするしかない。「せいちう」としか読めない。道造が標題として「ひるしづか」と読ませるなら、必ず、送り仮名を打つから、あり得ない。意味は「静かな昼」の意だが、見慣れない熟語で、音声も好かない。かと言って、「眞晝」という副題では、日中光が強いイメージによって、詩の内容が壊れる。さればこそ、「林道」は至当な選択である。]

 

 

【完成稿「村ぐらし」の当該部分】

 

 せかせか林道をのぼつたら、蟲捕り道具を持つた老人に會つた。彼は遠眼鏡をあてて麓の高原を眺めてゐた。もつとのぼると峽があつた。木の葉が、雲の形を透いてゐた。その下の流れで足を洗つた。すると氣分がよかつた。草原に似た麓の林に、光る屋根が見えてゐた。またおなじ林道をくだつた。もう誰にも會はなかつた。しばらくすると村で鳴く鷄を聞いた。はるかな思ひがわき、すぐに消え、ただせかせかと道をくだつた。長かつた。

 

2026/02/20

立原道造草稿詩篇 手紙

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに、『昭和9年8月19日付・杉浦明平宛書簡に第三聯を一行書きで紹介している。』とあった。「第五卷 書翰」の当該箇所を見ると(ここの左下段最終行から)、一行内の字間が存在しておらず、「通り」が「とほり」と平仮名表記になっており、最後を六点リーダになっているので、これは、初稿(部分)である可能性が高いと判断し、【書簡より】として、そのまま前に掲げた。]

 

【書簡より】

  *** <手紙> 秋袖口につめたい風がじやれ このさびしい追分け道で每日山羊が啼いてゐます 每日人がとほります 古びた次の村にまで……

 

 

【草稿】

 

  手紙

 

僕は 地球をあこがれてゐた

だのにそれが村外れの木ばかり照らす

いちばん不幸な太陽でした

 

おまへを待つて部屋にゐたから

これでそれでもさうなのでせうか

 

秋 袖口につめたい風がじやれ

このさびしい追分け道で

每日 山羊が啼いてゐます

每日 人が通ります 古びた次の村にまで

 

立原道造草稿詩篇 覺悟

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  覺悟

 

 血の管のなかで、色硝子が、波打つてゐるのがよく見える。ぼうぼうとした川沿ひの停車場が、乾いた田舍道があるのがよく見える。六月の夜が窓のところへかくれて行くのがよく見える。

 だまされまい。坂道の海をびしよ濡れの魚が白つぽく急ぐのがよく見える。

 

[やぶちゃん注:強迫性神経症症状を髣髴させる、興味深い一篇である。]

立原道造草稿詩篇 肉親

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  肉親

 

 どうかして向う側へ行つてみたいとその人は言つてゐた。部屋のこちらできいてゐるとうすぐらいランプの下でがやがやしているのがわかるのです。誰でもさうなのでせうが、その人はいつでもこちらの部屋にゐて目をひらゐたりとぢたりして椅子の上にゐた。向う側へ行つてみたいと考へてゐたのです。

 

 或るとき、やはり椅子の上にゐたけれど、その向う側のがやがやしたざはめきにまじつてひとが泣いてゐる聲がすゝり泣きみたいな節まはしできこえた。きつと水がこぼれてゐるのですう。それで、あかりを消しすつかり窓をとざし、長いこと考へえゐました。

 その人は向う側にも母がゐて子供たちのために羽ばたいたり、泣いたするのだと。

 

あくる日、靴をきれいにみがいて、靑空の下で散步しました。

 

[やぶちゃん注:最終行の行頭からの開始はママ。この散文詩の中に道造個人の両親に対する特異感情を分析しようとしても、私は、あまり成果を得られないと思っている(道造は、大正三(一九一四)年七月三十日生まれで、立原貞治郎・とめ夫妻の次男として東京市日本橋区橘町(現在の中央区東日本橋)に生まれた。家では、荷造用木箱製造を営んでいた。長男の一郎は前年に数え三歳で没していた。大正八(一九一九)年(年)、貞治郎が亡くなり、五歳で立原家の家督を継いでいる。母については、既に注で述べてある)。本篇は、道造の、所謂、「物語」の一つのシークエンスとして書き綴った試験的な断片であろうと推定される。]

立原道造草稿詩篇 (誰かゞ步く……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに拠れば、『原型はノート中にある(無題一篇。異文)』とある。「第六卷 雜纂」のここのそれを、【初稿】として示す。但し、この初稿は、八行であるが、二フレーズが平衡に二行配置されて、頭に二行に亙って丸括弧が、その上に、一つ、配されてある。ここでは、「┌」「└」を当てておいた。初稿は無題で以上のような特異記載であるので、無題のままで、示さなかった。

 

【初稿】

 

┌誰かゞ步く

└誰かゞ急ぐ

┌何も知らない

└休んでゐよう

┌草原のそれも

└ちひさな樹かげ

┌風が吹く

└葉がうたふ

 

 

【決定草稿】

 

  (誰かゞ步く……)

 

誰かゞ步く 誰かゞいそぐ

何も知らない 休んでゐよう

草原それもちひさな樹かげ

風吹く 葉がうたふ

 

立原道造草稿詩篇 (もう傍にゐないぼく……) / (さがすのはよさう……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに拠れば、『原型はノート中にある(無題二篇。異文)』とある。「第六卷 雜纂」のここからのそれを、【初稿】として示す。但し、次の草稿「さがすのはよさう」は、この初稿の二篇のモチーフをチョイスして、独立したものと明らかに採れるので、特異的にカップリングした。

 

【初稿】

 

  (もうそばにゐないぼく⋯⋯)

 

もうそばにゐないぼく

ひねくれた古靴よ

おまへは村外れの木ばかり照らす

いちばん不幸な太陽だつた

 

さがすのはよさう

天が 小さな部屋を與へたから

 

ほんのしばらく

光つて消えるこの空を眺めよう そこから

かなしい色をうつすぼくの眼に

 

  •  

 

うその山羊の脊骨よ

さがすのはよさう

もうそばにゐないぼく

おまへひとりが取り殘されて

 

 

【決定草稿】

 

  (もう傍にゐないぼく⋯⋯)

 

もう傍にゐないぼく

ひねくれた古靴よ

おまへは 村外れの木ばかり照らす

いちばん不幸な太陽でした

さがすのはよさう

もう傍にゐないぼく

尖つた山羊の脊骨でした

藪にかくれた小徑でした

おまへは……

もう傍にゐないぼく捨てゝ行かう

 

[やぶちゃん注:決定草稿の「傍」は初稿に従い、「そば」と読んでおく。]

 

 

  (さがすのはよさう……)

 

さがすのはよさう

天が小さな部屋を與へたから

ほんのしばらく 光つて消える

この空を眺めてゐよう そこから

かなしい色をうつす僕の眼に……

 

立原道造草稿詩篇 晝

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに拠れば、『第一行原記「消えさうな 村のひるすぎ」』とあり、編者はそれを、「村のひるさがり」と変えてある。「すぎ」に傍線が引かれているから、道造は表現に不適切なものと認識し、編者が勝手に「さがり」と変えたとしか考えられないが、これは、僭越以外の何物でもない。先行する別ヴァージョンが存在するのなら、文句はないが、そういう記事もない。私は、認めない。原記で示す。

 

  晝

 

消えさうな 村のひるすぎ

櫓の下で白い犬が待つてゐる

僕だらうか 風だらうか

搖れながら 搖れながら⋯⋯

 

[やぶちゃん注:「櫓」「火(ひ)の見櫓(みやぐら)」のことであろう。]

立原道造草稿詩篇 神津牧場

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに拠れば、この「神牧場・I」から「誰かゞ步く」までの七篇は、原稿の筆跡・紙の通性から同時期の創作であり、また、大部分が初稿を『昭和九年夏ノート』に載せることから、『制作時は同年8月中、下旬と想定する』とある。なお、この「神津牧場」は、初稿である『昭和九年夏ノート』の冒頭(「第六卷 雜纂」のここ)では、三篇(ローマ数字でパートが分かれる)が「神津牧場」のセットで一緒に記されているので、纏めて示すこととした。【決定草稿】は「I」は初稿と同文で、「II・「III」は改作されてある。特に「II」は大きく異なる。なお、II」の標題の「塲」はママである。

 

【初稿】

 

  神津牧場

 

    I

馴染まないランプのあかり ぼくの心

窓から 雲が流れこむ

牛が鳴いたら 牛が鳴いたら

膝かゝへ 眼をとぢる 眼をひらく

 

    II

降りこめて ぬかるんだ道を

すねて牛がとまる

牛追ひがそれを叱りつける

またのろくさと步きだすまで

 

    III

旅の窓

雲ぎれが運ぶ

靑い空

 

 

【決定草稿】

 

    神津牧場・I

 

馴染まないランプのあかり ぼくの心

窓から 雲が流れこむ

牛が鳴いたら 牛が鳴いたら

膝かゝへ 眼をとぢる 眼をひらく

 

 

    神津牧塲・II

 

おまへなかに牛が溶け

ぼくのまはりにおまへが溶ける

不思議な術を知つてゐる霧よ

おまへといつしよにさはいでゐたのは誰だらう

 

 

    神津牧場・III

 

旅の窓⋯⋯

雲ぎれが運ぶ

靑い空

遠い山

 

 

[やぶちゃん注:「神津牧場」群馬県甘楽郡(かんらぐん)下仁田町(しもにたまち)南野牧(みなみのまき:グーグル・マップ・データ)。県境を越えるが、軽井沢に近い。私も、既に述べた通り、小学生の時に軽井沢に避暑した際に遊び、今も、大きなジャージー種の牛の写真を撮って、今も持っている。当該ウィキに拠れば、『長野県北佐久郡志賀村(現在の佐久市志賀)出身の神津邦太郎で』、明治二〇(一八八七)年十二『月に開設された』。大正一〇(一九二一)年『に実業家田中銀之助に譲渡され』、昭和一〇(一九三五)年『に明治製菓(後に明治乳業)に経営権が渡った』。『その後』、昭和二〇(一九四五)年四月『に牧場を買い取った生糸商・石橋治郎八の篤志寄付を受け』、『財団法人化され』、後の二〇一三年四月一日、『公益認定を受け』、『公益財団法人神津牧場となっ』て、現在に至っている。同牧場公式サイトの『神津牧場「はじめて物語」』以下が、非常に良い。ご覧あれ。]

 

2026/02/18

立原道造草稿詩篇 初夏

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。そこに『「i」「ii」はそれぞれ一枚に書かれている。』とある。しかし、底本の行空けには、そうしたニュアンスが反映されていない行空けになっていしまっている。そこで、私が行空け数を変化させておいた。

 

  初夏

 

 

   i

 

 

 燕から薔薇の花へ

      ――ちいさな手紙

 

四つ角で電車の車掌と自動車の運轉手が會ひました

そこで帽子をとると二人は挨拶しました。〝今日は〟つて⋯⋯

しばらくして別れたのですが そのときはもうそよ風が吹いてゐました

 

 

 薔薇の花から燕へ

     ――その返事

 

それからわたしは咲きました

お手紙ありがたう おまへは摘むでせう 服の飾りにするために わたしの輕い花びらを

 

 

 

    ii

 

 

こんなお天氣のよい朝は

日除屋さんを呼んで來よう

 

風がシヤボンを塗りました

僕ら一しよに話をするために

《まだバラは咲きません

《眞珠色の靄つてほんとですね

 

それから僕らは出かけます

空は大きな日除です

 

 

[やぶちゃん注:「《」の「閉じる」がない用法はママ。

「日除屋さん」「ひよけやさん」。]

   *

これより、昨年、たった一輪しか見られなかった河津桜をリベンジするために――これより閉店敬白

立原道造草稿詩篇 空つぽな時刻

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『詩中の情景に拠り、東大建築科入学以後の作品と想定し得る。』とある。]

 

  空つぽな時刻

       ――ぼくの部屋

 

机が眺めてゐる 靑い空よ

ランプが煙草に火をともす

 

けれど その頃

ぼくはまだ學校で

汗を拭きながら圖に畫いてゐるでせう

だれも住まない大きな家を

風も椅子も

おまへもゐないつまらない部屋を

 

けれど そのまゝ此處は夜になる

獅子たちは塒に歸ります

ぼくの歸りを待たないで

 

[やぶちゃん注:「拭きながら」「ふきながら」。]

立原道造草稿詩篇 病

立原道造草稿詩篇 病

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『昭和9年4月20日付、國友則房宛書簡(第五巻所収)中に「未定稿(詩集《風景詩集》より)として異文がある。』とあるので、当該箇所を視認して、起こした。本草稿は昭和九(一九三四)年四月から五月頃と想定されているので、國友宛の方を【初稿】と措定して、前に置いた。完成度から見て、この措定は間違っていないと思う。]

 

【初稿】

 

   《病》

 

背中の破れた木曜日よ

僕が 死に挨拶したばつかりに

死の友だちは僕を嫉(ソネ)んで意地惡をする

(夜は黑い掌で金曜日にしてしまふ)

僕は熱を出すだらう

        未定稿(詩集《風景詩集》より)

 

 

【決定草稿】

 

  病

 

背中の破れた木曜日よ

僕が死に挨拶したばつかりに

死の友だちは僕を嫉んで意地惡をする

僕は熱を出すだろう

金曜日のやつて來るのを眺めながら

それから僕はうは言をいふだらう

曆が僕を裏切りはしないかと

 

立原道造草稿詩篇 (木の椅子に……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (木の椅子に……)

 

木の椅子に凭れてゐると

あゝ 僕は王樣

でもスペード

の王(キング)は老人だけれども

窓のところを通る靑空だつて 搖れてゐる雲だつて

みんな 僕の家來

壁に西洋風な銅板畫の町のなかで

風がきらめき お前たちが行列をする

 

この感傷よ! 掌は

しづかに僕の額を撫でて

後悔のかるい羽毛を傷つけながら

 

立原道造草稿詩篇 詩人がうたふ「春の唄」

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、別な用紙に初稿があり、本篇の第三聯以降が異なるとして、その異文部分のみを引用している。そこで、それに則り、【初稿】として示し、その後に、この【決定草稿】を示す。また、注の最後には、『物語「Ⅱ雲の女・詩人の出發のこと」の冒頭詩は本篇のヴァリエーションと考えられる。』とあったので、これを、【ヴァリエーション・物語「Ⅱ 雲の女・詩人の出發のこと」の冒頭詩】として、同全集の「第三卷 物語」の当該部を視認して示した。なお、最後のそれは、詩篇から一行空けで、『……呟きながら、詩人は步いてゐる。』の独立行で始まっている。]

 

  詩人がうたふ「春の唄」

 

町中の窓のところに

色鉛筆を削りながら

口笛吹き吹き風が行く

 

もう忘れてしまふ あの日向を

 

さあ出かけよう 笑ひながら マントを脫がう

 

けむつた春に挨拶するために

 

さあ出かけよう 笑ひながら

 

[やぶちゃん注:「日向」は「ひなた」と訓じていよう。]

 

 

【決定草稿】

 

  詩人がうたふ「春の唄」

 

土曜日に切花持つて

帽子の庇ひからして

春は遊びにやつて來る

 

もう忘れてしまふ 北風を

 

町中の窓のところに

色鉛筆を削りながら

口笛吹き吹き風が行く

 

もう忘れてしまふ あの日向を

 

さあ出かけよう

おもいマントは脫ぎすてよう

けむつた春に挨拶するために

 

[やぶちゃん注:「庇」「ひさし」。]

 

 

【ヴァリエーション・物語「Ⅱ 雲の女・詩人の出發のこと」の冒頭詩】

 

   土曜日の春は春のうちでいちばんよい春だ

   みんなであそびにやつて來る

   けむつた帽子に挨拶するために

   それからあとは忘れてしまふ

   もう唄なんか忘れてしまふ

 

[やぶちゃん注:この物語「Ⅱ 雲の女・詩人の出發のこと」は同巻巻末の注記によれば、昭和九(一九三四)年三~四月制作の作品である。一方、先行する二稿は、注記によって、同じ昭和九年三月頃に想定されてある。]

2026/02/17

立原道造草稿詩篇 夜に――

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、前の「雨」と同一の紙に書かれてある。]

 

  夜に――

 

鳩は小さな時計です ランプの蔭で

 

おまへは僕によく似てゐる

 

立原道造草稿詩篇 雨

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  雨

 

やさしい鳩たち

僕はくらい身體のなかで飼つてゐる

それなのに おまへらは不意に

僕をかなしませるために啼いてゐる

ネジの緩んだ時計の聲で

 

[やぶちゃん注:道造の草稿詩篇は、こういう短いのが、好き!!!]

立原道造草稿詩篇 冬

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、先の草稿で組詩の「冬」の二稿、とある。]

 

  冬

 

僕のマントは肩がすこしやぶけてゐる。步いてゐると、太陽がそこへとまつて、蝶のやうに僕の身體を覗きこむ。僕の部屋の小さな季節のにほひがありはしないかと。だが、そのせいか、

夜、寢間着に着換へながら、僕はいつでも日なたの町の風のにほひを思ひ出す。

 

[やぶちゃん注:「寢間着」は「ねまき」であるが、パジャマを想起してよいであろう。ブログ「ジャパンナレッジ」の「知識の泉」の小学館「日本国語大辞典」第二版の編者であられる神永曉(かみながさとる)氏の『 第291回 「寝巻」と「寝間着」』の解説が、流石に凄い! 全文を引用したいが、気が引けるので、ポイント部分を引用すると、但し、『この表記は当て字で、「寝巻」が本来の表記だったと思われる。室町時代の国語辞書『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』にも「寐巻 ネマキ」とある。「寐(び)」は、ねる、ねむるの意である』。『「ねまき」の語源はよくわからないのだが、江戸時代の国語辞書『俚言集覧(りげんしゅうらん)』に「寝纏の義」とあるように、寝るときに体に巻きつける衣類という意味があったのかもしれない』。『「寝間着」のほうは比較的新しい表記で、おそらく「寝間(=寝室)」で着用する衣類という意識で生まれたものであろう。古い用例はあまり見られずほとんどが明治以降のものである』。『たとえば、樋口一葉の『にごりえ』(1895年)の中にも、「これは此子の寝間着の袷(あわせ)、はらがけと三尺(さんじゃく)だけ貰って行まする」とある。「袷」は裏地のついている衣服のことで、貧しさゆえ就寝時に着る物はこれしかなかったのかもしれない』。『「寝巻」と「寝間着」の使い分けは厳密にはないと思われるが、「寝巻」は一般に浴衣(ゆかた)の形式の和服のものをいい、「寝間着」のほうはもっと広く室内着のようなものも含めて呼んでいるかもしれない』。『さらに表記に関して細かなことを言えば、「寝巻」だと語の構成は「ネ・マキ」だが、「寝間着」では、「ネマ・キ」になってしまう。また、「寝間着」の読みは「ネマギ」になる方が自然かもしれない。』とあった。]

立原道造草稿詩篇 夕暮の雲に

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、直前の「(大きな空洞の……)」と同じ紙に記されている、とある。内容的にも親和性がある。]

 

  夕暮の雲に

 

まちがへたまゝの散步道

消えてしまつたとほい後悔

あゝ けふも

おまへが誘ふそらだのみ

 

[やぶちゃん注:「そらだのみ」ネイティブでない読者のために注すると、「空賴み」で「頼みにならないことを頼みに思わせること・あてにならない期待をさせること」の意で、古語であり、平安時代中期に既に使われている。]

立原道造草稿詩篇 (大きな空洞の……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (大きな空洞の……)

 

大きな空洞の前で僕は指を折つてゐた

 

たそがれて 花は甘い香をたれこめ

コルクの色した諦めは月の形に地平のあたりでけむつてゐた

 

僕は愚かな年齢の後で何か呟いてゐた

 

立原道造草稿詩篇 幼年時

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  幼年時

 

ぼくらは土掘つて 荒地の隅に

泉をつくりたのしむのだつた

 

さう ぼくらは瓦の祕密をもつてゐた

十字架なんかでなかつたけれど

枯木の根もとに埋めておいた

ぼくらは每日夕陽みるまで

丘のぼり丘くだり笑つてゐた

白い月の形だつてあつたのだ

 

それはほつそりした秋だつた

ぼくらばかりの思ひ出だつた

 

[やぶちゃん注:私が馬鹿なのか、初めて、立原道造の詩篇で意味が判らないものに出くわしてしまった。『「お墓ごっこ」かな?』とは思うたのだが……どなたか、判り易くお教え下され。]

立原道造草稿詩篇 悲歌 第三

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこには、『表題に拠り、『散步詩集』に収録されるべき「悲歌」のヴァリエーションと考えられる。』とある。現在知られている彼の『散步詩集』は、私の「散步詩集 (全)   立原道造」を見て戴ければ判るが、「悲歌」という詩篇は存在しない。

 さて、読者の中には、この「散步詩集」が出版社から発行された詩集であると勘違いしている読者がいるかも知れないが、リンク先の私の冒頭注で示した通り、『底本の杉浦氏の解説によれば、原本は手書きで昭和七(一九三二)年から翌年の、第一高等学校時代(満十七から十九歳)にかけて詠まれた詩篇で、『発行所人魚書房と記して、友人に贈ったもの』とある』とある通り、これは、道造が手作りで作成した私家版なのである(私は、幸い、先年、連れ合いの療養がてら、軽井沢に遊んだ際、「軽井沢高原文庫」で現物を見ることが出来た)。「立原道造記念会」公式サイト内の「風のたより No.4:立原道造作品・本文復刻『散歩詩集』の紹介」を見られたいが(復刻版画像他有り)、『復刻版『散歩詩集』(神保家所蔵本)の原本は、1933』(昭和8)『年の夏に制作されたもので、形状は、一枚漉耳付鳥の子紙に濃淡8色で手書きされ、410葉が未綴のまま耳付和紙の畳紙に収められています。ただし、目次に記載されている第五詩「悲歌」の本文が欠けています。』と、この「悲歌」の脱落が解説されている。而して、本底本の『散步詩集』の「編注」の『『散步詩集』 神保幸太郎所蔵本』(ここと、ここ)を見ると、同詩集には、『目次として青、赤、緑、黄、黒色絵具で右より、「散步詩集/内容・見出し/魚の話/村の詩・朝・晝・夕/食後/日課/悲歌」と縱に列記した一葉』があるとあり、そこでは、『制作時』(これは詩の創作ではなく、手作り詩集の制作の意である)『は昭和9年1月4日付、杉浦明平宛書簡に拠り、昭和8年12月下旬と想定する』とある。さらに、『なお神保本とは別に、テキストと同じ用紙で絵入りの「村の詩・朝」「同・夕」および後出「草稿篇」の「口笛を吹いている散步者よ」と「噴水」が立原家に遺っている。』とある。そうして、問題の「悲歌」について、『本テキストの構成は目次に詩五篇を示しているが、どうしてか「悲歌」の本文を欠いている。これを埋めるものとして、「散步」と用紙・体裁から「口笛を吹いてゐる散步者よ」』(「立原道造草稿詩篇 口笛を吹いてゐる散步者よ」を見よ)『をそれと考えることが出来ないわけではないが、決定的裏付けが見当らず、ただここで言えることは後出「草稿篇の「悲歌 第三』(ここの以下がそれ)『のモチーフに関わるものであろうということだけである。』とあるのである。]

 

  悲 歌 第三

 

人間はときどき死んでゐたり食事をしたりした。ランプをつけるとそのあかりの下でたのしさうにほゝゑみあつたり編物をしたりした。

僕はいつか以前にひとりの少女を知つてゐた。その人は脣といふもので何かやさしい言葉をつぶやいた。それから僕によいものをたくさん與へた。あゝ、いま僕はおぼえてゐる。その少女は人間だつたと。

 

[やぶちゃん注:「ひとりの少女」これは、金田久子である。底本同全集第六巻の「年譜」に拠れば、道造満十四歳(彼は大正三(一九一四)年七月三十日生まれ)の昭和三(一九二八)年十一月三日に『初めて』『同級生金田敬の家を訪ねて、金田の妹久子(小学校六年生)を知り、ひそかな思慕を寄せるようになる。』とある女性である。昭和四年の項に、『この夏ころから、翌五年にかけての一時期、級友金田敬らと麻雀に熱中する。と同時に金田の妹、久子に対する思慕の情がいよいよ高まる。「をとめあり。/麻雀の牌もて坐り居し/かの姿をば我は忘れず」(「葛飾衆」)。』とあり、昭和五年三月二十九日の条に『金田敬の家を訪問。久子か顔を見せなかったので失望する。』とし、同年六月の条に、『十二日、久子に京都で買った絵封筒を送る。十八日、久子から礼状をもらう。』、同『十月、〈久子への愛〉を記念する自選第一詩集『水晶簾』は、前年の十二月ごろから執筆され、このころまで書きつがれたものと思われる。所収作品は、総じて白秋の影響下に成った詩群である。』とある。これは、同全集第六巻の『「水晶簾」詩稿 山木祥彥自選第一詩集 昭和四年十二月――五年十月頃』がある。「山木祥彥」は一高時代に短歌を投稿する際に使用していた雅号である。それに先立つ、『自選 葛飾集 山木祥彥自選第一詩集 昭和三年十二月――昭和四年十一月頃』の『葛飾集 (昭和四年二月より八月に至る歌)』のここに、久子を詠み込んだ、

   *

片戀は夜明淋しき

夢に見し久子の面影

 頭にさやか。

   *

があり、「葛飾以後」のここに、

   *

○心より久子を慕ふ我が心

  常に夢みむ。――

  いかなる夜にも。

   *

と、ここに、

   *

ゆくりなく

久子とあひしかへりには

中空の月のかげさやか。

   *

と、ここに、

   *

戀すてふ我名は悲し。

我が思ふ久子も知らず

 ひとり苦しむ。

   *

がある。他にも、彼女を詠み込んだ詩篇があるが、正直、私には、面白みも何もないので(そもそも私は短歌が嫌いなので、以上も拾うのが苦痛であった)、見たい方は、御自分で検索に「久子」「ひさこ」を掛けて見られたい。悪しからず。この一篇に、朝三時から六時間ばかり、やり続けてしまった。]

2026/02/16

立原道造草稿詩篇 夏の死

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  夏の死

 

僕は知つてゐる……

 

樹かげの草に寢てゐると

まはりに「いつか」がやつて來るのを

 

日なたがかげへ逃げながら

草の葉の上にやすんで行くのを

 

(空ぢゆうにとほいとほい空色)

 

みじかいいのちとよろこびのあとで

もうなんにもないことを

 

僕はいまではよく知つてゐる

 

立原道造草稿詩篇 靑空

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  靑空

 

森にはあるにきまつてゐる

小鳥がとまつてうたふとき

風がとほつて行くときに

わざとわき見をしたり 意地わるさうに知らん顏したりする

臆病ないつぽんの枝が……

けれどその枝は知つてゐる ほかの梢や葉たちのずつと向うに

靑い何かゞゐることを

そこには誰かゞ住むことを

森にはあるにきまつてゐる こんなひとりぼつちの木の枝が

 

立原道造草稿詩篇 室內

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  室內

 

貝殼のなかで

窓ばかり思ひ呆け けふ一日

くらしてしまつた

あかりをともすと

ほら 指先でおまへが眼ばたきをしてゐる

 

《マンマン! いいばんよ

誰か窓でしやべつて行く

 

本の頁に

ほら おまへがのこした指紋がその言葉をきいてゐる

 

[やぶちゃん注:第二連の「《」の「閉じる」がないのはママ。

「思ひ呆け」これは「おもひほうける」と読み、歴史的仮名遣でも、かく、読む。

「眼ばたき」は「まばたき」であるが、一般には、「瞬き」で「まばたき」と表記するのが普通であり、かく表記するのは、通用表現ではない。

「マンマン」これはフランス語の「母」=“maman”の音写である。道造は、この頃、独自にフランス語の勉強をしていた。ただ、フランス語のそれは音写としては、現行では、圧倒的にアルベール・カミュ(Albert Camus  一九一三年~一九六〇年)の「異邦人」(‘ L'Étranger’ )冒頭の“Aujourd'hui, maman est morte.”(「今日(きょう)、ママンが死んだ。」)で人口に親炙している。但し、同作は一九四二(昭和一七)年五月十九日に発表した作品であり、道造の没後三年後のことである。]

立原道造草稿詩篇 (とほい外國の……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこに記された編者の独立詩篇とした推定を、良し、とした。但し、前の「(かなしみは……)」の詩篇との饐えた臭いの通性から、詩篇的イメージに強い関連性を嗅ぎとるものでは、ある。

 

  (とほい外國の……)

 

とほい外國の樂屋町をさまよひ步いて、或る日僕は不思議な香料や屍の腐る藥のにほひを嗅ぎまはつた。

僕の靴はすりきれて底がやぶれた。行きつくとぼうぼうとした海があつた。僕は口笛を吹きながら身を投げた。一しようにだらしない形の形の綠色の魚が沈んだ。

 

立原道造草稿詩篇 ((かなしみは……))

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。

 

  ((かなしみは……))

 

 (かなしみはなかつたさうな)

 

 葬列のやうにはれやかに

 町すぎるよろこびに群たちだ!

 

 あまりを消せよ 窓をとざせ

 おまへの部屋で その薄明(うすらあかり)は

 おまへに 眼鏡をかけさせる

 おまへは見るだらう 圓い頭を

 おまへの名を呟いた人生を

 

 (かなしみはなかつたさうな)

 

 日が暮れれば靄がひろがり

 

 日なたには雜草がしげり

 みんな正しい一日だつたと

 おまへは信じるがいい。

 

 (もう かなしみはなかつたさうな)

 

[やぶちゃん注:私は、一読、偏愛するベルギーの画家ジェームズ・アンソール(James Ensor 一八六〇年~一九四九年)の死の匂いを漂わせた仮面たちの絵を思い出させた。御存知ない方に、グーグル画像検索“james ensor paintings mask”をリンクさせておく。]

立原道造草稿詩篇 二十歲

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、『生年を一歳とする数え方では、立原の二十歳は昭和8年(一高在学最終学年)に当たる。』とある。則ち、この底本の前記草稿詩篇の底本の順列は、必ずしも時系列に従っては、いないのである。これは、読者は、道造が軽井沢体験をしているか、未体験であるかの違いが、問題になることに、注意されたいということである。但し、「立原道造記念会」公式サイト内の「立原道造略年譜」に拠れば、彼が軽井沢に初めて滞在したのは、昭和九(一九三四)年の『夏、初めて軽井沢を訪問し、以後、毎夏、信濃追分の油屋に滞在する。』とある。しかし、実は、同年の、その項の前に、『東京帝国大学工学部建築学科入学。自宅の居室を屋根裏部屋に移す。」とあるのが、本詩篇に関わって、私には強く着目されるのである。則ち、この詩篇の「この部屋」というのが、素直に読んだ時、強い違和感を与えるからである。彼が、それまでの家の自室から、別なところに「部屋」を「屋根裏部屋」に移した後であったとすると、その違和感が、完全に解消される、と、私は感じるからである。寧ろ、「二十歲」は、近現代の成人としてのそれであり、以上の編者のように、これを数え年の意味ではない、母から距離を置いた――一己の存在のニュアンスで用いているのだ――と採るべきではなかろうか? 識者の御叱正を俟つものである。

 

  二十歲

 

 或るとき僕がかなしさうな顏をするから母はこの部屋へはいつて來る。すると僕は見てしまふ、母の顏にある耳や脣を。……いつか母はもうゐない。この部屋に母のにほひをのこしなながら、影法師を忘れながら、もう大丈夫といふやうに。けれど、母よ。いま僕が見てゐるのは、あなたのために形のわからなくなつたそのかなしみと、書き損じたまゝくらした他人(ひと)のくらし! あなたはそれなのに安心してランプのかげに僕の着物をお裁縫する。

 

[やぶちゃん注:個人的には、標題の「二十歲」は「はたち」と読みたい。

「母」すでに注で述べたが、道造は、母とめさんの存命のうちに、結核で逝去している。道造が母を詩篇で語る際、ある種の有意な翳りが含められてあるが、それが、如何なる道造の内心にある母存在(母意識)と、どのような関係するのかは、私自身、道造の父母についての評論を全く読んでいないので、不明である。悪しからず。因みに、底本全集第六巻の詳細な「年譜」を見ても、そうした記載は、私には読み込めなかった。]

2026/02/15

立原道造草稿詩篇 噴水

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、原稿は『《ハガキ判耳付局紙》』(「はがきはん/みみつき/きょくし」と読む)に書かれてある、とある。

 この「ハガキ判耳付」とは「手漉き和紙耳付き楮葉書」を指し、この場合の「耳」とは、表現の印象とは異なり、機械的に切ったような直線の「耳」ではない、裁断していないそのままの紙端のことを指す。最後の「局紙」は、明治八(一八七五)年に製紙部門である大蔵省抄紙局(おおくらしょうしょうしきょく:現在は「財務省国立印刷局」)に八名の紙漉き工が技術指導に招かれ、研究の結果、新技法による紙幣用紙の製造に成功した。則ち、この抄紙「局」が新たに開発した「紙」を指す。紙質が緻密で、印刷適性と耐久性に優れ、紙幣や株券として高い評価を得ていた高級紙を指す。

 以下、『昭和9年10月制作の物語「メリノの歌 第一章」の結びに採用。』とあり、『第一枚目は第二聯で終る。三聯の一行アキは「メリノの歌」に従った。』とある。則ち、底本の行空きは、草稿とは異なるものであることが判明するので、それを、草稿では、復元することとした。

 最後に、『ブルー一色で絵と本文を書いている。形態から『散步詩集』制作時と同時と想定される。ここの置いたのは前項「日課」』(私が電子化注した前回の「日課」である)『と同じ理由に拠る。』とあった。されば、絵は画像を見られない分、より原文に近づけるため、【草稿】では、文字をブルーにすることとした。

 而して、「メリノの歌」の「第一章」の結びを「決定稿」と捉え、適切と思われる同箇所を最後に示すこととした。底本は、同全集の第二巻「物語」の「メリノの歌」のここである。同「メリノの歌」全篇は、ここから。]

 

【草稿】

 

 噴水

 

僕がひとりで噴水を見てゐると

誰かがやつぱりそばにゐる

明るい空が水の上で搖れながら

 

それで 顏を見合せて

僕たちはつい一しよに笑つてしまふ

 

色のついた空が

搖れながら噴水の頂上で

いつの間にか雲のやうに散つてゐる

僕はひとりで噴水を見てゐると

 

 

【決定稿(「メリノの歌」の「第一章」の末部分)】

 

メリノは黒い帽子をかぶつてゐた。それが突然、彼に似合つて見えだした。彼は冬のマントにしづかにしつかり身を包むと、講演に出かけて行つた。

 あゝ、こゝでなら、誰でもたのしく日をおくれる。芝生の向うにあかるい建物が、その上に小さな貝殼を浮べたまゝ、誰でもその雲を見さへすれば、あゝたのしく日をおくれる!

 メリノは何も見なかつた。ベンチの固い木の上の腰かけたきり、しづかな息をついてゐた。ときどき眼をとぢたりひらいたりした。すると、彼には、心の奥から、今のかなしみとすこしも關係のない消えさうな音樂がひゞくのだつた。

 

      噴 水 の 歌

 

   ⦅僕がひとりで噴水を見てゐると

   誰かが やつぱりそばにゐる

   明るい空が水の上で搖れながら

 

   それで 顏を見合はせて

   僕たちはつい一しよに笑つてしまふ

 

   色のついた空が

   搖れながら 噴水の頂上で

   いつの間にか雲のやうに散つてゐる

 

   僕がひとりで噴水を見てゐると

 

[やぶちゃん注:標題「噴 水 の 歌」のポイント落ちはママ。詩の冒頭の「⦅」の閉じるがないのはママ。

 因みに……この電子化を……僕の満六十九歳の記念とする……

2026/02/14

立原道造草稿詩篇 日課

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。それに拠れば、特殊な書き方の共通性から、昭和八(一九一三)年十二月の直前に想定される詩篇であり、前の「よい本を讀んだ晩」から「だめな男」の詩群の『中間に置かれるべきであるが』、編集上の規定である『用紙分類上、ここ置いた』とある。さらに、『テキストは一部の一字アキの場所に小鳥や草花の絵を入れているが、印刷実現が困難なので』、『除き、編者の判断により適当に一字アキとした。』とある。また、本草稿は『『散步詩集』中の「日課」の二稿』で、『初稿は『昭和八年ノート』の7月2028日の詩群中の「日課」』であるとあった。そこで、まず、ノートのそれを同全集第六巻の「雜纂」の当該部の「日課」を【初稿】とし、次に本草稿を【改稿草稿】とし(草稿の画像がないので、私も適当に冒頭の「葉」の字を大きくしただけである)。最後に決定稿である『散步詩集』(リンク先は私の電子化注)の「日課」の当該部を配しておいた。但し、リンク先のそれは、編者杉浦明平氏によって「囀り」にルビが振られているため、底本の全集の当該部で確認し、カットしておいた。なお、この推定時期は、まさに初めて軽井沢に避暑した時期であるから、ここに描かれる自然や村落は、そこである。

 

【初稿】

 

  日 課

 

 たそがれ色をしたはがきに、人の寂しい營みを筆で染めては互に知らせあつた。

 そして僕はかう書くのがおきまりだつた。――ぼくはたのしい、故もなくぼくはたのしい。と。

 きれいな草原があつてそこにはいつもよい日かげができ、蟲などもゐず、小鳥たちの程よい音樂まである。僕はたびたびそこへ行つてた。きつと靑い空や雲の色がうつつて、それで僕はかう書くのがおきまりだつた――ぼくはたのしい、故もなしにぼくはたのしい、と。

 

 

【決定草稿】

 

  日 課

 

葉書に ひとの營みを 筆で染めては 互に知らせあつた。そして僕はかう書くの

  がおきまりだつた。僕はたのしい、故もなくたのしい と。

 空の下にきれいな草原があつて 明るい日かげに浸され 小鳥たちの囀りを通してとほい靑く住んだ色が覗かれる。僕はたびたびそこへ行つて短い夢を見たり ものの本を讀んだりして 每日の午后を くらした。

 郵便配達のこの村に來る時刻で ある

 僕の寢そべつてゐる頭のあたりに 百合が咲いてゐる時刻である。

 

 

【決定稿『散步詩集』中の「日課」の部分】

 

  日課

葉書にひとの營みを筆で染めては互に知らせあつた

そして僕はかう書くのがおきまりだつた 僕はたの

しい故もなく僕はたのしいと

空の下にきれいな草原があつて明るい日かげに浸さ

れ小鳥たちの囀りの枝葉模樣をとほしてとほい靑く

澄んだ色が覗かれる 僕はたびたびそこへ行つて短

い夢を見たりものの本を讀んだりして每日の午後を

くらした 僕の寢そべつてゐる頭のあたりに百合が

咲いてゐる時刻である

郵便配達のこの村に來る時刻である

きつとこの空の色や雲の形がうつつて それでかう

書くのがおきまりだつた 僕はたのしい故もなしに

僕はたのしいと

 

立原道造草稿詩篇 だめな男

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  だめな男

 

 太陽が或る日、目をさましたら、地球になつてゐた。地球は月になつてゐた。それも細い三日月に。あゝ、なんといふへまをしたことだらう。世の中の人たちは皆困り、町の辻々に集まつて心配さうな顏をした。女・子供などはもう泣き叫んでゐたのである。

 そのとき、ひとりの男が或るバルコンでパイプをくはへながら、

 「三日月といふものは、夕方の風や女の子の靴などとおなじにたいへんよいものだ。」と、呟いた。

 人たちは非常におこり、そののんきな奴を殺してしまつた。するとのんきな奴の死骸は蝙蝠傘のやうなものにかはつた。

 

立原道造草稿詩篇 冬

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  冬

 

僕のマントは肩がすこしやぶけてゐる

步いてゐると 太陽が

そこへとまつて 蝶のやうに

身體のなかを覗きこむ

 

      ★

 

穴のあいた靴は重い かなしみのやうに

僕は步きながらそれを見るのがきらひですだからいつも 梢の先の雲や小鳥を眺めては 僕はひとりで散步する

 

      ★

 

疲れて歸つた部屋に ランプのかげで

レモンがしぼんでゐた

 

      ★

 

僕のシヤツは日なたの町の風のにほひを持つてゐる 胡桃色の今日の風の

 

[やぶちゃん注:第二聯の二行目の「僕は步きながらそれを見るのがきらひですだからいつも」の「きらひです」の後に一字空けがないはママである。]

立原道造草稿詩篇 朝

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  朝

 

子供は額をキラキラさせてゐる

子供は掌にピストルを持つてゐる

子供はきつと笑つてゐるのにちがひない

子供がゐると あたりの空氣は

何か鳥のやうに羽搏いてゐる

よい花のにほひもするやうだ

子供はひそひそとしやべつてゐる

子供はどこからとなくやつて來るのだ

 

立原道造草稿詩篇 日曜日

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  日曜日

 

日曜日は寢坊しよう

胡桃色の光が流れ おもてで朝はもう何かやつてゐる

僕は天井の筯を眺めたり とほい物音や話聲を聞いたり しばらく寢床のなかで ぼんやりとしてゐよう

 

   ★

 

日なたにはいつも春がゐるのだ――

この前 會つた貧乏な永遠もそんなことをいつてゐたつけ

爪でもきらうね あれは何といふ雲だらう 日なたにゐると

僕の額に風がきらめいて春をおいて行く

 

立原道造草稿詩篇 (何かが掌を……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  (何かが掌を……)

 

何かが掌をおいてゆくと

この悲しみが僕らにのこる

僕は何を信じよう

 

こんなに爐が赤く燃えてゐると

僕の頰もこんなに赤く燃えてゐると

どうして僕はお前に知らせられよう

お前の指はつめたくすきとほり

僕のたよりをあそこで待つてゐるのに

僕にはそれが見えるのに

 

[やぶちゃん注:注記には、『第一聯は物語「間奏曲」(昭和9年3月制作・第三巻所収)に採用。』とあった。その「間奏曲」は同巻のここからで、当該箇所はここ。表記に違いがあるので、参考のために、前後の部分を入れて電子化しておく。

   *

 彼の過去とすこしも似てゐないこの部屋の秩序。――煤けた壁と、丸太のまゝむき出しにさう高くない天井と、部屋の一隅に金具の錆びた暖爐と。そこには彼らしいものは何一つありはしなかつた。こはれかゝつた椅子や木のテーブルの彫りつけてあるハアトの型だの頭文字は彼のものではありはしなかつた。それなのに彼の考へに戾つて來る昔の部屋は何だろう。

 ……別れた日にあの部屋の卓子の上には書きさしの詩があつた。

 

  君が掌をおいて行くと

  このかなしみが僕らにのこる

  僕は何を信じよう

 

 こんなエレジイの一片があれにはたしかに書いてあつた。あれは一體どうしたかしら。出來てはゐなかつたがもうそのつゞきを書くことは出來ない。目にはありあり見えてゐてもその部屋は彼からずつととほいのだ。

 二度と歸れないといふ考へは村の旅行でもちつとも信じられなかつた。この部屋にゐる自分にはそれがすこしは信じられることだけれど、あのときはまるきり信じられなかつた。

   *

この引用内の「卓子」は「テーブル」と読んでいよう。]

立原道造草稿詩篇 (小鳥よ……)

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。太字は底本では「﹅」の傍点。]

 

  (小鳥よ……)

 

小鳥よ お前はあんまり

僕のうたに來すぎました

 

お前がうたをついばむために

明るいらいふのすぎた思ひ出は

お前の嘴に傷ついてゐる

 

だが僕は信じられない も一度

おだやかな日 おまえが來ることを

 

立原道造草稿詩篇 風の話

立原道造草稿詩篇 風の話

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここから、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  風の話

 

 この夕燒からひとすぢ流れ

 波を打ち 赤く搖られ

 身體のなかに波が搖れ

 搖れ 搖られ

 枯れ葉 やさしくふるへ

 あゝなぜいつもかうなんだか

 暗がりの水を眺め

 

 ――たそがれの小川のほとりで、こんなことを、僕は通りすがりに、風が吹いてゐるのを耳にした。それから僕は風のやうな心が僕のなかで育つてしまつたのを知つてゐる。

 

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(六)寒天の說(その1)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。]

 

  (六)寒天の說

寒天は本邦にて、菓子職(くわししよく)、及び、割烹家(りやうりか)の用に供し、缺く可らざるの品(しな)たり。加之(しかのみならず)、海外へ輸出する水產物の中(うち)にて、重要のものとす。此品(このしな)は、石花菜(てんくさ)を煮て、凝(こヾら)せし瓊脂(ところてん)を寒天(かんてん)に曝(さら)して、凍(こヾら)せたるものなり。

[やぶちゃん注:「石花菜(てんくさ)」アーケプラスチダ界 Archaeplastida 紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae に属する海藻類の総称。私の電子化注では、複数あるが、まんず、かなりの拘りで注をやらかした「大和本草卷之八 草之四 海藻類 心太 (ココロフト=トコロテン)」がよいであろう。転写すると、膨大になるので、リンクに留める。

 

「漢語抄」・「和名抄」に『大凝菜(こヽろふと)』あり。「本朝式」にハ、『凝海藻(ぎやうかいさう)を『古留毛波(こるもは)』と訓ず。「延喜式」に、上總(かずさ)より『凝海藻(ぎやうかいさう/こるもは)』、阿波より『凝海菜(ぎやうかいさう/こるもは)を貢獻す』とあり。又、同書、「主計式諸國輸調(かぞへしきしよこくゆてう)」に『凝海藻(ぎやうかいさう)を奉(さヽ)げたる事、每國(まいこく)四十斤(しじうきん)[やぶちゃん注:二十四キログラム。]、内膳の所須月科(いかよるつき)四斤八兩(しきんはちりやう)』とあり。「賦役令(ふやくれい)」の輸雜物(ゆざうぶつ)の部にも、『凝海藻(こるもは)一百二十斤[やぶちゃん注:七十二キログラム。]』を載(のせ)たり。然(しか)るに、「大和本草」に『石花菜(せつくわさい)』、今、按ずるに『心太(こヽろぶと)』なるべし。『國俗、『ところてん』と稱す。』とありて、寬永の頃には、『ところてん』の名も、ありて、此漢名に充(あて)たり。是より、さき、慶長・元和の頃には、是等の稱なかりしと見へ[やぶちゃん注:ママ。]、「多識篇」には、『石花菜は南蠻美留(なんばんみる)なり。』と、せり。此他(このた)、貞享(ていけう[やぶちゃん注:ママ。「じやうきやう」が正しい。])以後の書には、『石花菜』を『こヽろぶと』又は『ところてんくさ』と訓せり。「書言字考」・「和漢三才圖會」の『石花菜』の部に『小凝菜(こヾりくさ)』の名を載せたれども、是は「漢語抄」の『小凝菜(せうぎやうさい)』、「崔氏食經(さいししよくきやう)」の『海髮(かいはつ)』にして、「倭名鈔」に『以木須(いきす)』と訓じ、「延喜式」に、志摩より貢獻する所の別物のものなり。而して、近世に至りて、一般に、『石花菜』の字を用ひ、俗に『天草(てんくさ)』、『寒天草(かんてんぐさ)』と稱し、又、『ぶとさう』・『ぶとのり』といふ地方もあり。また「和名鈔」に、俗に『心(しん)』・『太(たい)』の二字を用ひ、『古々呂布止(こヽろぶと)』と、いひ、「庭訓往來(ていきんわうらい)」にも、『西山(にしやま)の心太(こヽろぶと)』とあるを、『こヽろたい』、又、『こヽろてい』と訓し、『こゝろてん』『ところてん』と轉訛(てんくわ)したり。此『ところてん」を畧して『てん』といふより、『寒天』、或(あるい[やぶちゃん注:ママ。])は『干天』の名あるに至れり。然(しか)るに、これに充つる漢字なきにより『凍瓊脂(とうけいし)』と名づけたるは、「製品圖說」を編むの時に、あるなり。但し、淸俗は『洋菜(ヤンツアイ)』と稱せり。

[やぶちゃん注:『「漢語抄」・「和名抄」に『大凝菜(こヽろふと)』あり』これの「漢名抄」は「和名類聚鈔」の孫引きである。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の「卷十七」の「菜蔬部第二十七」・「海菜類第二百二十六」の当該部を視認して、推定訓読して示す。

   *

大凝菜(コヽロフト) 「本朝式」に云《い》はく、「凝海藻は【「古留毛波(こるもは)」。俗に、「心太」二字を用ひて、「古々呂布止」と云ふ。】、「楊氏漢語抄(やうしかんごしやう)」に云はく、『大凝菜』。」と。

   *

而して、「漢語抄」は、ここに出た「楊氏漢語抄」で、別名「桑家漢語抄」(そうかかんごしょう)とも言い、奈良時代(八世紀)の成立とされる漢語辞書であるが、散佚して残っておらず、「和名類聚鈔」等に逸文で残るのみである。

「本朝式」「延喜式」に同じ。当該ウィキによれば、延喜五(九〇五)年に醍醐天皇の命により、藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は』、彼の弟『藤原忠平が編纂に当たった』。後、「弘仁式」・「貞觀式」(じょうがんしき)と、『その後の式を取捨編集し』、延長五(九二七)年に完成した』。『その後』、『改訂を重ね、康保』四(九六七)年『より施行された』とある。

「主計式諸國輸調」「延喜式」の巻二十一から二十三に該当する箇所で、「主計寮」(国の組織の財政・税収を担当)が管轄した部署を指し、諸国の調・庸・中男作物(ちゅうなんさくもつ:令制で、中男(「養老令」で十七歳以上二十歳以下の男子を指す。「大宝令」では「少丁」(しょうてい)と称した)に課した租税。養老元(七一七)年以降、調副物及び中男の「調」を廃止して、中男の「雑徭」(ぞうよう:令で定められた歳役のほかに、国司によって公民に課せられた労役。年齢を分けて、土木工事などに従わせたもの)により、中央官司や封主の必要物品を調達させた)などの物品貢納に関する規定を記した重要部分。国家的な食料や特産品の生産・物流・保管に関する古代法典の基礎史料。

「内膳」内膳司。宮内省に属し、天皇などの食事の調理・毒味などを司った。奉膳(ぶぜん)二名・典膳六名・令史一名・膳部四十名などから構成された。長官である奉膳には高橋・安曇両氏がなり、二氏以外の長官の場合は内膳正(ないぜんのかみ)と称した。

「所須月科(いかよるつき)」一ヶ月に必須な資材料。

「四斤八兩」二・五五キログラム。

「賦役令(ふやくれい)」東洋文庫版では、校訂者によって『〔『令義解』第二巻〕』という挿入附注がある。

『「大和本草」に『石花菜(せつくわさい)』、今、按ずるに『心太(こヽろぶと)』なるべし。『國俗、『ところてん』と稱す。』とあり』先に紹介した「大和本草卷之八 草之四 海藻類 心太 (ココロフト=トコロテン)」を見よ。

「多識篇」本草辞書。林羅山編。全五巻。明の林兆珂が「詩経」中の動植物を分類して注を施した「多識篇」に倣ったもので、「本草綱目」から物の名を抜き出し、万葉仮名で和訓を施したもの。「羅山林先生文集」の「多識編跋」に、「壬子之歲本草綱目を拔き寫して附するに國訓を以てす」とあり、慶長一七(一六一二)年の著述であることが判る。配列は「水部門」から「蔴苧(おま)門」までの部門別。版本に寛永七(一六三〇)年古活字版さ三巻本があるが、翌寛永八年に、諸漢籍から、異名を抜き出して追加し、万葉仮名に片仮名ルビを施し、五巻に仕立て直した整版が出た。以上は国立国会図書館デジタルコレクションの解題・抄録に拠ったが、そこには、当館本は慶安』二年(一六四九)『版で、寛永』八『年版の覆せ彫りである。本草学者白井光太郎の「白井氏蔵書」の印記あり』とあり、当該部はここの六行目で、「菜部」第二に配されてある。推定訓読すると(「留」の字は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、近い異体字である「畱」で示した。「異名」は黒地で白抜きだが、太字に換えた。また、注意されたいのは、「瓜」は漢字の「うり」ではなく、「爪」の異体字であることである。

   *

石花菜【今、案《あんず》るに「菜南蛮美畱」。】異名璚枝(キツシ) 雞瓜菜(ケツ《サウナ》)

   *

「貞享」一六八四年から一六八八年まで。徳川綱吉の治世。

「書言字考」近世の節用集(室町から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種。「せっちょうしゅう」とも読む。漢字熟語を多数収録して読み仮名を付ける形式を採る)の一つである「書言字考節用集(しょげんじこうせつようしゅう)」のことか。辞書で十巻十三冊。槙島昭武(生没年未詳:江戸前中期の国学者で軍記作家。江戸の人。有職故実や古典に詳しく、享保一一 (一七二六) 年に「關八州古戰錄」を著わしている。著作は他に「北越軍談」など)著。享保二(一七一七)年刊。漢字を見出しとし、片仮名で傍訓を付す。配列は語を意味分類し、さらに語頭の一文字をいろは順にしてある。近世語研究に有益な書。

『「和漢三才圖會」の『石花菜』の部に『小凝菜(こヾりくさ)』の名を載せたれども、是は「漢語抄」の『小凝菜(せうぎやうさい)』、「崔氏食經(さいししよくきやう)」の『海髮(かいはつ)』にして、「倭名鈔」に『以木須(いきす)』と訓じ、「延喜式」に、志摩より貢獻する所の別物のものなり』私のサイト版の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「ところてん 石花菜」を見よ。しかし、そこでは、私は、この部分を問題としていない。近いうちに、補注する。なお、ここで河原田氏が「別物」と指摘する種は、現在の「イギス」で、

紅藻綱スギノリ目イバラノリ科イバラノリ属カズノイバラ(鹿角茨) Hypnea cervicornis 

を指す。★而して、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見ても、本種を「寒天」に加工するという記載は、ない。河原田氏の指摘は正しい。珍しく(失礼)、河原田氏の考証が冴える!

「『ぶとさう』・『ぶとのり』」孰れも、ネット及び国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても出てこないが、「太藻・太草」・「太海苔」と想起は出来る。

「製品圖說」東洋文庫版の編者注に、『『日本製品図説』のこと。明治六年(一八七三)のウィーン万国博覧会、明治九年(一八七六)のフィラデルフィア万国博覧会等、開国後の国際情勢に沿って、『日本製品図説』(内務省蔵板)は、明冶一〇年、高井鋭一の編輯、山中市兵衛緒言、小田行蔵参訂、狩野雅信絵写で出版された。』とあった。

「凍瓊脂(とうけいし)」「大阪医科薬科大学」公式サイト内の「高槻 寒天雑話 其の三【2015年6月8日】高槻 寒天雑話 其の一」に、『寒天発明の経緯はどのような根拠をもって語り継がれているのでしょうか。寒天ハンドブックによれば、「凍(こおり)瓊脂(ところてん)の説(桂香亮著、大日本水産会報告書)」に以下の記述があり、「年一年より盛大に至りし元治初年頃より世の変遷に依り大に盛衰ありと雖も美濃長右衛門なる者は今(明治6年)に於いてこの業を営めり・・・」とあることから、明治6』(一八七三)『年頃に美濃家を訪ねて古文書などを調査しての記述であると思われるので、信憑性が高いとしています。』として、引用がある。これは、全体が講座での講演が元で、全五回に分かれており、非常に有益な内容である。さて、引用を調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本水產會報告・第十六」(大日本水產會発行・明治一六(一八八三)年六月刊/本登録でないとアクセス出来ないので注意)のここで、当該部を見出せたので、そこから正規表現で引用する。

   *

     沿革

夫れ凍瓊脂製造の濫觴と唱へ來るや明曆年間島津大隅守幕府へ參勤の途次山城國紀伊郡伏水驛御駕籠町(美濃長左衞門十一世の祖)美濃太郞左衞門なる者方へ休泊ありたりき一日 太郞左衞門石花菜を煮詰め以て膳部の一味に供し其殘余を棄却せしに沍天嚴寒[やぶちゃん注:上記引用では、講演者による『コテンゲンカン』と読みがある。])の候忽[やぶちゃん注:同前で『タチマチ』と読みがある。]氷結しては宛も干物の如き凝質に化せり於是太郞左衞門甚奇異の想ひを起こし百方工夫を運らし形狀(長方形)を作爲し以て瓊脂[やぶちゃん注:底本では、「瓊」の字の(へん)が「月」になっているが、表示出来ない。これは上記引用では「瓊」となっており、これは原著の誤植と断じて、訂した。]の干物と名く食物の一部に置くと云ふ降て[やぶちゃん注:「くだりて」。]萬治年間歸化の僧隱元なる者寒中に製するを以て之を寒天と稱すと云ふ爾來諸國へ販賣し(現今支那に多く輸出す)明和年間迄ハ伏水特有の名產たりしが是より經年同業者增加し遂に二十戶余に及ひ[やぶちゃん注:ママ。]攝、丹地方に廣まる年一年より盛大に至りしが元治初年頃より世の變遷に依り大に盛衰ありと雖も美濃長右衞門なる者は今に於いてこの業を營めり而して我京都府管內即ち城丹二國にて製造する高左の如し但五十年を平均にし其槪略を擧ぐ

 山城製造高凡十余萬斤

  此代價凡金壹萬余圓

 丹波國製造高凡二十余萬斤

  此代價凡金三萬余圓

     製造法

元種石花菜を淸川に線滌し日光に晒すこと凡一週間にして後之を石臼に入れ水に浸して搗くこと三四百杵(石花菜の善惡に依りて杵數の不同あり)搗終て之を大籠に入れ又水に浸し大杓を以て之を攪拌し[やぶちゃん注:妙な切れ方であるが、ここで、製造法は終わっており、以下、突如、明治元年から八年までの国外への輸出額・代価の話に移っている。

   *

「洋菜(ヤンツアイ)」白水社「中国語辞典」に、「洋菜」があり、『yángcài』(イァン・ツァィ)で、『⦅通称⦆名詞  寒天.≒琼脂,石花胶,洋粉⦅通称⦆.』とあった。]

2026/02/13

立原道造草稿詩篇 夜曲

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。]

 

  夜曲

 

あかりを消したふかい町に

やさしい何かゞ眠つてゐる

 

そこは谷間のやうな月のかげ

 

誰も知らない小さな寢床に

ひとがめいめい眠つてゐる

 

そこは栗色のランプのひかり

 

しめつた夜のなかをひつそり

けむりのやうに風のやうに

僕は ひとりで 過ぎて行く

 

立原道造草稿詩篇 切拔畫

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。そこには、『「ゆめみこ」(昭和11年3月刊)発表の「切拔畫」(第一巻所収)の初稿。』とあった。そこで、同全集の『第一卷 詩集I』の当該部を【決定稿】として示した。なお標題は「きりぬきゑ」であろう。なお、『ひめみこ』は短歌雑誌で、道造が第一高等学校に入学した昭和五(一九三一)年、そこで出会った知友松永茂雄が主宰した「ユメミコ会」に立原も参加していた。この雑誌は「新古今和歌集」の再評価をした歌誌として知られ、道造は同科刕の幾つかを現代語訳してもいる。]

 

  切拔畫

 

 日が落ちると 空は着物を脫いで

 鳩の時計に《もう夜》とそつと敎へる

 

 ランプから 小さな星が飛び出して

 町の部屋たちをめいめいに光らせる

 

 ⦅僕の部屋よ おやすみ⦆といひながら

 もう子供はひとりづゝ消えて行つた

 

 夜といふのは このはなしです

 このかなしみは僕をよろこばす

 

[やぶちゃん注:二箇所の括弧の使用した表記タイプが、各個で異なるのはママ。発している対象存在(前者は「空」、後者は幻想の「子供」たち)が異なるものだから、論理的には、納得出来る。しかし、初読時には、殆んどの読者は、「何故? 括弧が違うのだろう?」という物理的な反射的停滞が起こってしまうのは明白であり、詩を味わう上では、失敗であると私は思う。]

 

 

【決定稿】

 

  切拔畫

 

 日が落ちたので 空は着物を脫ぐと

 鳩の時計に⦅もう夜よ⦆とそつと敎へる

 

 ランプから 小さな星がとびだして

 めいめいに町の部屋たちを光らせる

 

 ⦅僕の部屋よ おやすみ!⦆と

 子供はひとりづゝ消えて行つた――

 

 夜といふのはこのはなしです

 このかなしみは僕をよろこばす

 

[やぶちゃん注:初稿の持っていた問題部分が、綺麗に変更されていて、よい。]

立原道造草稿詩篇 眠りのなかで

[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここ、底本の注記はここから視認出来る。

 なお、この詩篇の前にある「(かなしみは……)」は(ここ)、本ブログ・カテゴリ「立原道造」のここで、既に電子化してある。これは、同カテゴリを創始するきっかけ(創始は当該詩篇電子化の二日後)となったものであるため、追記を添えて、そのままにしておいた。私の偏愛する一篇であるので、必ず、見られたい。

 

  眠りのなかで

 

窓から 月がさしてゐた

部屋はぢいつとやすんでゐた

(さうだつた 僕はそれを知つてゐる)

あかりのかげで小鳥が羽搏いてゐた

そこには花粉がキラキラ散つてゐた

さうして 黑い帽子に額をかくし

僕は やさしい顏をしてゐた

僕は 何だか夢を見てゐた

(僕はそれを知つてゐる)

 

[やぶちゃん注:「ぢいつと」小学館「日本国語大辞典」に拠れば、仮名遣『いは、古くは「じっと」が多く、江戸期から明治にかけて「ぢっと」も多くなる。』とあった。]

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