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2024/10/16

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 冨𫮍高姥椎ノ木オサン婆々

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「とみざきのたかうば・しひのきおさんばば」と読んでおく。「山姥」は、私のものでは、「老媼茶話巻之五 山姥の髢(カモジ)」の私の注が、一番、宜しいと思う。他に『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山姥奇聞』もあるのだが、これは、内容がフラットな解説ではなく、柳田特有の癖で、自分の好きなフィールドに引き込んで語っているために、どうも妙な違和感がある。「山姥」の総論的内容を期待すると、失望するので、ご注意あれかし。前者でほぼ全文を引いたウィキの「山姥」を見ると、『高知県では、山姥が家に取り憑くと』、『その家が急速に富むという伝承があり、なかには山姥を守護神として祀る家もある』とあり、また、『宮崎県の』千二百『人の子を出産する山の女神』、『また』、『徳島や高知の昔話によると、山神の妻になった乙姫は一度に』四百四『人あるいは』九『万』九千『もの子を産んだと伝えられている。このように、非常に妊娠しやすいという特徴、異常な多産と難産であるという資質は、元来、山の神の性格であり、山姥が、山岳信仰における神霊にその起源を持つことを示している』とある。話柄内に入れ子型の話があるので、特異的に「――」を用いた。]

 

     冨𫮍高姥椎木オサン婆々

 土佐山郷橫平村に、岩窟(ぐわんくつ)、有り、「山婆が瀧」といふ。

 里人(さとびと)、傳へ言(いふ)、

「徃古(わうこ)、山婆(やまうば)、この所に住居(すみゐ)せし。」

とぞ。

 例祭、九月十七日に、「山婆祭り」を行ひける、とぞ。

 今、按(あんずる)に、「山婆」といふは、「鬼女」にても非(あらざ)るべし。强疆(がうきやう)[やぶちゃん注:人間離れした非常な強さを指す。]なる女(をんな)の、鹿(しし)を食とし、熊に組(くみ)、山犬を生捕(いけどる)などといふ類(たぐひ)なるべし。人も、恐れて、「山婆」と、いへるか。

 むかし、元親朝臣の時、「冨﨑の髙姥」といひしは、橫山孫太夫が妻、とかや。

 背、六尺余り、有(あり)ければ、「髙姥」といヘり。

 元親朝臣、阿州出勢(しゆつせい)の存立(ぞんじだて)[やぶちゃん注:深慮し、意を決すること。]ありけれども、國中(くになか)、凶年、打續(うつつづ)き、軍用、不足ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、延引成(えんいんな)りし所、此髙姥、元親朝臣の前に出(いで)て、いふ。

「誠に候哉(や)、傳承候(つたへうけたまはりさふら)へば、御軍用(おんぐんよう)、不足にて、阿州御出陣、御延引のよし。此(この)婆々(ばば)、金銀、貯へ持(もち)て候。願(ねがはく)は、御用を達し可申(まうすべし)。」

と、言上(ごんじやう)しければ、元親朝臣、その志を感ぜさせ玉ひ、許容ありければ、銀五貫目、さし上(あげ)し、とかや。

 髙姥は、中島村冨﨑と言所(いふところ)に居(をり)たる由(よし)。

 又、「髙姥が芋桶(いもをけ)」とて、今、浦戶の海部屋權助(かいふやごんすけ)、所持しけると也(なり)。水、三升斗(ばかり)入(はい)る杉桶(すぎを)なり。

[やぶちゃん注:「元親」長宗我部元親。「安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊」で既注。

『「冨﨑の髙姥」といひしは、橫山孫太夫が妻、とかや』Tikugonokami氏のサイト「長宗我部元親軍記」のこちらに、『高姥(生没年不詳)』『長宗我部元親の家臣・横山孫太夫の妻。身長が高く高姥と呼ばれていた』。天正三(一五七五)『年、元親が阿波に出兵するための軍資金が乏しく困っているのを知ると』、『芋桶に銀を入れて献上した。元親は』、『その銀を元手に阿波に出兵し』、『勝利している』とある。

「中島村冨﨑」高知県土佐市中島。「ひなたGPS」で、同地区の戦前の地図を調べたが、「冨𫮍」「冨﨑」の地名は見当たらなかった。

「浦戶」現在の高知市浦戸(うらど)。浦戸湾湾口の西岸の桂浜や上龍頭岬(かみりゅうずみさき)のある半島である。

「海部屋權助」不詳。ただ、「海部屋」は「理系の退職者」氏のブログ「気ままな推理帳」の「立川銅山(7) 海部屋平右衛門は、創始者海部屋権右衛門の孫であった」に『海部屋の創始者で』、『阿波国海部中村』『に住んでいた権右衛門は、阿波三好氏の後裔で、兄彦太郎の遺命により武士をやめ、慶長元年』(一五九六)『堺の南宗寺へ』行き、『住持沢庵和尚の俗弟子となり、和漢の産物を交易し』、『業』(なりわい)『とし』、『産を積んだ。海部郡出身の故を以て屋号を海部屋と称した。寛永元年』(一六二四)に『病歿した』が、『その子孫は商業に従事し、富豪を以て世に鳴り、支族』、『また』、『繁栄した』とあるから、その子孫、或いは、関係者ででもあったのかも知れない。]

 或人(あるひと)云(いはく)、

――寛文年中[やぶちゃん注:一六六一年から一六七三年まで。徳川家綱の治世。]、「椎の木のおさん」といふもの、幡多郡(はたのこほり)に有り。[やぶちゃん注:高知県の西南部に当たる広域の旧郡名。但し、当該ウィキによれば、今も、天気予報などで、「幡多地域」と呼ばれているとある。旧郡域はそちらの地図を見られたい。]

 是も强疆なる者にて、

「深夜に大山(おほやま)を行(ゆく)といへども、恐るゝ者の、無(なし)。」[やぶちゃん注:「大山」は固有名詞ではなく、「路程が長い、人気のない深山である大きな山」の意。]

と、いへり。

 往來の旅人を相手にして、暮しぬ。

 此婆々がいはれは、毛利壱岐守殿父子を、御當家に御あづかり被成(なされ)、壱岐守殿は、當國にて、死去、子息豊後守殿[やぶちゃん注:後注するが、「豊前守」の誤記。]は、久戶村[やぶちゃん注:後注するが、「久万村」の誤記。]に被居(をられ)ぬ。

 或時、旅人、來り、

「私(わたくし)義は、豊前國小倉の町人にて候。殿樣、此國に被成御座(なりおまさる)と承り候故、御機嫌伺(ごきげんうかがひ)に罷越(まかりこし)し候。」

と、申上(まうしあげ)ければ、豊後守殿、聞(きこ)しめし、

「遙々(はるばる)尋ね參り候段(さふらふだん)、奇特成(なる)もの也。其(それ)、町人の事なれば、苦しかるまじ。」

とて、對面被致(いたされ)けるに、豐前守殿、被申(まうさる)るは、

「汝は、何者ぞ。此方(こはう)にて、覚(おぼ)へ[やぶちゃん注:ママ。]ぬ。」

よし、被申(まうされ)ければ、

「私は、八百屋にて、常々、御臺所(みだいどころ)ヘ、八百屋物(やおやもの)、さし上(あげ)候者に御座候。『御機嫌伺上候樣に。』、親とも申付候故、參上仕候。」

と申ければ、

「成るほど、見た樣(やう)にも、ある。」

と被申(まうさる)。

 扨、家の侍へ被申候は、[やぶちゃん注:底本(ここの三行目)では、私が判読した「扨家の」の、右やや上から、朱で、『本ノマヽ』とある。「近世民間異聞怪談集成」は不思議なことに、この部分で、『扨、物主の』と判読しているのだが、逆立ちしても、絶対に、そうは読めない。一方、国立公文書館本83の左最終行上部)を見るに、私には「扨家の」と判読出来るように思われる。底本の筆写者は『物家の』と判読してしまって書いているのだと思う。それでは、意味が通らないから朱書を施したのだろう。またしても、「近世民間異聞怪談集成」のおかしな字起こしに遭遇してしまった。

「只今、聞(きける)とふり也。町人の事也(なり)。何か、くるしかるまじ。今夜(こよい)は、此方(このはう)にて、一宿させ、明日、戾し申度(まうしたし)。」[やぶちゃん注:「とふり」はママ。しかし、国立公文書館本83)を見ると、全体が「聞るか通り也」と判読出来るように思う。されば、ここは「聞(きこゆ)るが通(とほ)り也」と読めて、何ら問題がない。ダブルで、おかしいね、「近世民間異聞怪談集成」は……。

と、有(あり)て、留(とど)められける。

 無程(ほどなく)、夜に入り、

「国許(くにもと)の咄(はなし)、承り度(たし)。」

とて、御前へ被呼(よべらる)。

 誰(たれ)も居(をら)ぬ場合(ばあひ)を被見(みられ)、豊前守殿、被申けるは、「其方は、誰人(たれぴと)ぞ、我等は、實(まこと)に、しらず。」

と仰せければ、其時、

「私は、家里(いへさと)伊賀守と申者にて候。秀賴公の御使(おんし)に參り申候。秀賴公御意(ぎよい)に、近々、御籠城被成候間(ごらうじやうなされさふらふあひだ)、御味方に被參(まゐられ)候樣に。」

と、御口上(おんこうじやう)を申し上(あぐ)る御書(ごしよ)をさし出(いだ)し候へば、豐後守殿、御書を頂戴、有(あり)、

「奉畏侯(かしこまりたてまつりさふらふ)。」

と、御請(ごせい)、有(あり)て、翌日、歸り候節は、本(もと)の町人のあしらひにて、

「長途、路銀に致(いたし)候へ。」

と、文庫の內より、手づから、「こま銀」を、手に一杯、すくひ、賜り候よし。

 扨、夫(それ)より、豐前守殿は、內々、用意、有(あり)て、或夜、浦戶より、八反帆の舩を、津の崎【今の愛宕山也。】まで漕入(こぎいれ)させ、津㙒﨑のほとりにて、餞別の酒(さか)もりして、浦戶より、舩、出(いだ)して、大坂、豊前守殿、子息式部殿、籠城にて、父子ながら、討死せられける【家里氏子息の咄(はなし)の由(よし)也。】。

 扨、大坂籠城以後、段〻(だんだん)、御吟味有(あり)て、其節の勤番、山田四郎兵衞は、切腹す。

 浦戶の舩頭(せんどう)は、幡多(はた)へ御追放有(あり)て、此の「をさん婆々」は、幡多にて儲(まうけ)し舩頭が娘なり、とぞ。

 母は、その產に死し、舩頭も、無程(ほどなく)、死失(しにう)せて、娘は孤(みなしご)と成(なり)て、人の蔭にて[やぶちゃん注:ひとのおかげを以って。]、成長して、一生、寡(ヤモメ)にて、店屋、商(あきなひ)しける――とぞ。

 

[やぶちゃん注:「毛利壱岐守殿父子」「毛利壱岐守」は毛利勝信 (?~慶長一六(一六一一)年)。尾張出身で、本姓は森、初名は吉成、号は一斎。豊臣秀吉に仕え、天正一五(一五八七)年、豊前小倉六万石の城主となった。「関ケ原の戦い」で西軍に属し、敗れて、子の勝永とともに旧知の仲であった土佐高知藩主山内一豊に預けられ、配所で没した。以上は、主文は講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠ったが、詳しくは、当該ウィキを見られたい。その「子」は割注した通り、「豊後守」ではなく、「豊前守」であった毛利勝永(?~慶長二〇年五月八日(一六一五年六月四日))。毛利勝信の子で、初名は吉政。「関ケ原の戦い」で西軍に属し、敗れて、父とともに土佐高知藩主山内一豊に預けられたが、ここにある通り、慶長十九年、子の勝家とともに配所を脱走、大坂城に入り、翌年の「大坂夏の陣」で、落城の際に自殺した。同前であるが、詳しくは、当該ウィキを見られたい。

「久戶村」割注で述べた通り、「久万村」(くまむら)の誤記。確かにウィキの「毛利勝永」には、『勝永は高知城の北部の久万村で生活をし、折々に登城をすることもあった』とある。「久万村」は、以上から、調べたところ、現在の高知市にある、「東久万」・「西久万」・「南久万」・「中久万」に相当する地区である。「ひなたGPS」の戦前の地図に、列記した現在地名の箇所に大きく『久万』とあることで、間違いない。次の次の注で引用した先に、その中の「中久万」に蟄居中の屋敷跡があることが示されてあり、写真があるので、ストリートビューで探したところ、ここであることが判った!

「豊前國小倉の町人にて候」毛利勝信は天正一五(一五八七)年に、豊前国の二郡(規矩郡・高羽郡)と、小倉六万石を与えられている

「家里伊賀守」「筑後守」氏のサイト「大坂の陣絵巻」の「毛利勝永」のページに、慶長一九(一六一四)『年のある日、勝永の元に旧領の小倉の商人と名乗る男が訪ねてくる(父の勝信は』既に三年前に『亡くなっていた)。しかし、その正体は豊臣家の家臣・家里伊賀守であった。彼は秀頼の「大坂に入城して力を貸せ」と言う言葉を伝える。親子二代で豊臣家に大恩ある勝永が断わるわけがなく』、『喜んで』、『その話を受け、海を渡って大坂城に入った』。「冬の陣」では』、『二ノ丸西方の西ノ丸西と今橋を受け持っていたが、勝永は大した活躍もできずに和平を迎えている』。翌年五月の「夏の陣」『では、真田幸村・後藤基次らと共に、大和路の別働隊を叩くために出撃した。ここで勝永と幸村は霧の為に約束の場所の国分への到着が遅れてしまい、単独で戦闘に挑んだ後藤基次隊の壊滅の原因を作ってしまう(道明寺の戦い)』。『幸村はこの時、自分を責め、「このまま自分も後藤隊のように突撃する」と勝永に言うが、逆に「遅参は貴殿のせいではない。どうせ死ぬなら、明日、秀頼様の前で戦って討ち死にしましょう」と励ましている』。『【家康の首を求めて】この戦いの翌日、勝永はまたも真田幸村と共に茶臼山に布陣する。ここで秀頼の出撃を待ち出馬と同時に攻撃を開始する予定であったが、秀頼の出馬取り止めと敵の進撃スピードが早かったため』、『乱戦に巻き込まれる(天王寺・岡山での最終決戦)』。『毛利隊はまず本多忠朝』(ほんだただとも)『隊と戦うが、死を覚悟した毛利隊は』、『疾風の如き活躍で敵の大将・忠朝を討ち取った。本多隊を破った毛利隊は、次から次へと徳川軍を撃破して家康の本陣に突入するが』、『家康本人は真田隊に追いたてられ』、『逃げた後で、もぬけの殻であった。勝永達はそこで家康の姿を捜すが』、『見つける前に徳川軍の新手が現れ』、『結局は撤退する他なくなってしまう。そこでも勝永は見事に大坂城に撤退すると、山里曲輪で秀頼の首を介錯した後に自害した』とある。また、最後に『ちなみに当時は『毛利』と書いて『もり』と読んでいたようなので、字だけが変わって読み方は同じだったみたいです。以上、豊臣家のために尽した毛利勝永でした』と擱筆しておられる。]

2024/10/15

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 柏尾山観音

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「かしをやまくわんのん」と読んでおく。現在の高知市春野町芳原にある(グーグル・マップ・データ航空写真)。「高知市」公式サイト内の「文化財情報 有形文化財 観音正寺観音堂」によれば、『この寺は、約』千百年『年前に行基が観音像を刻み、柏尾山(かしおやま)山頂に安置し、堂を建てて「観正寺(かんしょうじ)」としたのがはじまりといわれています。その後、堂は火災にあい、長宗我部元親』(本文にも出る、国司家一条氏を追い出し、土佐を統一して、その後、各地の土豪を倒し、四国を統一した戦国大名。詳しくは、「安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊」の私の注を見られたい)『が信仰した時期には一時移転したこともありましたが、再び柏尾山の麓に戻りました。その後寺は廃れていましたが、土佐藩二代藩主山内忠義が「観音正寺(かんのんしょうじ)」として再興したと伝えられています』。『観音堂は円柱』が四方に配された『三間』(五・四五メートル)四方の『仏堂であり、正面は正方形につくられています。内部は外陣と内陣にわかれ、内陣には円柱二本を建て禅宗様の仏壇もかまえています。江戸時代初期の建立とみられ、蟇股(かえるまた)や頭貫(かしらぬき)・木鼻(きはな)は』、『つくり方や材料まで含めて立派なものです。なかでも、蟇股の中に彫られた宝相花』(ほうそうげ:通常は「宝相華文(もん)」と言う。中国の唐代、日本では奈良から平安時代に盛行した文様で、八弁の先の尖った花で、インドの花文が東漸につれて複雑華麗になった)『ウメ・タチバナ・ボタン・モモ・ビワ・フジなどの植物の彫刻は、傑作として高く評価されています』とある(上記グーグル・マップ・データのサイド・パネルの教育委員会の説明版の画像を参考にして、一部、文章がおかしい箇所を、判り易く書き変えた)。「蟇股」・「頭貫」・「木鼻」については、栃木県宇都宮市の寺社建築を手掛ける「株式会社カナメ」公式サイトの中の、「蟇股」はここ、「頭貫」はここの「32」で、「木鼻」はここで、非常に判り易く解説されてある。]

 

     柏尾山観音

 慶長五年、盛親、關ケ原陣に登られし時、常に信じ玉ふ柏尾山の観音へ參詣ありけるに、既に、十四、五丁[やぶちゃん注:一・五三~一・六四メートル。]に至る所に、観音堂より、白布、廿𠀋[やぶちゃん注:六十・六〇メートル。]斗(ばかり)、髙く立上(たちあが)りぬ。

 盛親を初め、供の靣〻(めんめん)、不思議におもひ、目を放さず、守(まも)り、近づくまゝに、是を見れば、布には、あらで、白雲、靉靆(あいたい)たり[やぶちゃん注:棚引いているのであった。]。

 漸々(やうやう)に、ちかく成(なる)うちに、観音の尊像、現(げん)じ、行衞(ゆくへ)も知らず、失玉(うせたま)ふ。[やぶちゃん注:「現じ」は底本では「現し」。「近世民間異聞怪談集成」では、そのまま活字としているから、「あらはし」と読んでいるのであろうが、私は断じてそうは読まぬと断ずる。]

 上下(かみしも)、奇異のおもひをなす所に、観音堂より、黑煙(こくえん)を巻ひて、燃へ[やぶちゃん注:ママ。]出(いで)たり。

 諸人(しよにん)、驚(おどろき)て、息(いき)をばかりに、蒐付(あつまりつけ)ければ、はや、一時(いつとき)に灰燼(くわいじん)とぞ成(な)りにける。

 是れ、盛親、滅亡の「しるし」なり。

 

[やぶちゃん注:実は最後の「蒐付(あつまりつけ)ければ」は、どうもピンと来ないし、読みも「蒐」の字からは、ちょっとズレるのが気に入らないでいる。この「蒐」の字は、結局、「近世民間異聞怪談集成」が判読した字を用いたのであるが、底本(右丁後ろから二行目冒頭)も、国立公文書館本82:右丁後ろから二行目の中央やや下)も、どうも「蒐」の字のようには、私は見えない。当初は「莵」と判読して、「莵付」で「とつき」とでも読もうと思ったが、それも当て字に過ぎて、どうもいけない。何方か、まず、漢字の判読、而して、読みをお教え下さるよう、お願い申し上げるものである。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 藤天蓼

 

Matatabi2

 

[やぶちゃん注:右下方にマタタビの実の図が添えられてある。]

 

またゝび   今云末太太比

 

藤天蓼

       【有三種中其

        木天蓼小天

        蓼之二品不

        多有】

 

本綱藤天蓼生江南淮南山中作藤蔓葉似柘花白子如

棗許無定形中瓤似茄子味辛噉之以當薑蓼

枝葉【辛温有小毒】 治癥結積聚風勞虛冷

子【苦辛微熱】 治𮚆風口靣喎斜氣塊女子虛勞

[やぶちゃん字注:「𮚆」は「賊」の異体字。]

△按藤天蓼備中伊豫遠州和州丹波山中多有之今人

 家亦植之其蔓蒼黒葉似柘及櫻桃葉而皺三四月開

 小白花狀似梅花而小結實伹有雌雄雌者實狀如五

 倍子而青色雄者實狀如棗人採其嫩葉合酸未醬食

 之猫常喜食之如視此樹則抓穿根食皮爲之枯凡病

 猫食天蓼子起也人又盬漬食之

 

   *

 

またゝび   今、云ふ、「末太太比」。

 

藤天蓼

       【三種、有≪る≫其の中《うち》、

        「木天蓼《もくてんれう》」・「小天

        蓼《しやうてんれう》」の二品は、

        多≪くは≫有らず。】

 

「本綱」に曰はく、『藤天蓼、江南[やぶちゃん注:現在の江蘇省・浙江省。]・淮南《わいなん》[やぶちゃん注:現在の安徽省中部の淮南市を中心とした広域。]の山中に生ず。藤蔓(《ふじ》づる)≪の樣なる蔓≫を作《な》す。葉、「柘(やまぐは)」に似、花、白し。子《み》、「棗《なつめ》」許《ほど》のごとく≪にして≫、定《さだま》れる形、無し。中の瓤(み)[やぶちゃん注:「綿(わた)」。]、茄子に似て、味、辛し。之れ≪を≫噉《く》らふ。以つて、薑(はじかみ)・蓼(たで)に當《あ》つ[やぶちゃん注:~のようなものとして食物(香辛料)に当てる。]。』≪と≫。

『枝・葉【辛、温。小毒、有り、】』『癥結積聚《ちようけつしやくじゆ》・風勞虛冷《ふうらうきよれい》を治す。』≪と≫。

『子【苦辛、微熱。】』『𮚆風口靣喎斜《ぞくふうこうくわしや》・氣塊《きくわい》・女子≪の≫虛勞を治す。』≪と≫。

[やぶちゃん字注:「𮚆」は「賊」の異体字。]

△按ずるに、藤天蓼《またたび》は、備中[やぶちゃん注:現在の岡山県西部。]・伊豫[やぶちゃん注:愛媛県。]・遠州・和州・丹波≪の≫山中、多く、之れ、有り。今、人家にも亦、之れを植う。其の蔓、蒼黒。葉、「柘《やまぐは》」、及び、「櫻桃(ゆすらむめ)」の葉に似て、皺(しは)み《✕→む》。三、四月、小≪さき≫白≪き≫花を開く。狀《かたち》、梅の花に似にて、小《ちいさ》し。實を結ぶ。伹《ただし》、雌雄、有り、雌なる者の實は、狀、「五倍子《ふし》」のごとくして、青色。雄≪なる≫者の實は、狀、棗のごとし。人、其の嫩葉(わか《ば》)を採り、酸未醬《すみそ》[やぶちゃん注:酢味噌。]に合《あはせ》て、之れを食す。猫、常に、喜んで、之れを食ふ。此の樹を視る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、根を抓穿(かき《うが》)ち、皮を食ふ。之れが爲《ため》に、枯《かる》る。凡そ、病≪める≫猫、天蓼子《またたびのみ》を食へば、起《たつ》なり。人、又、盬《しほ》漬に《つけ》て、之れを食ふ。

 

[やぶちゃん注:これは、前項の「木天蓼」全くの同種で、

双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygama

であるので、そちらの私の注を見られたい。全くの同一種であることは、中文サイト「腾讯网」の「木天蓼是什么神奇植物?」の「木天蓼是什么?」の条に、『木天蓼为猕猴桃科植物木天蓼(Actinidia polygama (Sieb. et Zucc.) Mip.)的枝叶。分布于我国北、西北及西、山、湖南、湖北、四川、浙江、云南等地。』(学名が斜体でないはママ)とし、『味辛,性温。肝、肾经。具有祛除湿,温止痛,症瘕的功效。治半身不遂,寒湿痹,腰疼,疝痛,症瘕聚,气痢,白癞风等病症。』とした後に、『别名:天蓼、藤天蓼、』(☜)『天蓼木、金枝、葛枣猕猴桃。』『猫猫的虫果也是木天蓼的物。在每年三到五月的候,在木天蓼花开之前,有固定品种昆虫在花蕾中卵,并形成了凹凸不平的旋状果,而非正常的椭圆形果种虫干燥后可用作人类草,同来欣快感。』とあることで、確認出来た。

 「本草綱目」の引用も、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「木天蓼」([088-77b]以下)のパッチワークであるが、ここで、良安は、引用書で「木天蓼」で一括されている項から、わざわざ、分離して別項を立ててしまい、しかも、「本草綱目」の解説も、以下に示すように、殆んどの部分は、時珍ではない先達の本草学者たち(陳蔵器ほか)が記載した内容引用部の多くを、わざわざ、ここに当てて、あたかも、「本草綱目」が二種を同属別種ででもあるかのように書いたように、良安は改竄して部分引用した上、挿絵さえも、明らかに異なる同じ仲間の別種であるかのように描いてしまっているのである。しかも、良安の解説は、その違いを自分の表現では語っていない、というか、二つの項目名の下の和名でどちらも同じ「マタタビ」であることを指示しているという、甚だ不審な、今までなかった摩訶不思議な分離項記載となってしまっているのである。ともかく、「本草綱目」の「木天蓼」の項を総て掲げなくてはなるまい。良安が引用した部分を下線で、カットした記載者提示部分に太字で示した(「漢籍リポジトリ」のものの一部の表記に手を加えた)。

   *

木天蓼【唐本草】  校正【併入拾遺小天蓼】

釈名【時珍曰其樹高而味辛如蓼故名又馬蓼亦名大蓼而物異】

集解恭曰木天蓼所在皆有生山谷中今安州申州作藤蔓葉似柘花白子如棗許無定形中瓤似茄子味辛噉之以當薑蓼藏器曰木蓼今時所用出山南鳯州樹高如冬青不凋不當以藤天蓼爲注既云木蓼豈是藤生自有藤蓼耳藤蓼生江南淮南山中藤着樹生葉如梨光而薄子如棗卽蘇恭以爲木天蓼者又有小天蓼生天目山四明山樹如巵子冬月不凋野獸食之是有三天蓼俱能逐風而小者爲勝頌曰木天蓼今出信陽木高二三丈三月四月開花似柘花五月采子子作毬形似檾麻子可藏作果食蘇恭所說自是藤天蓼也時珍曰天蓼雖有三種而功用彷彿蓋一類也其子可爲燭其芽可食故陸機云木蓼爲燭明如胡麻薛田詠蜀詩有地丁葉嫩和嵐采天蓼芽新入粉煎之句

枝葉氣味辛溫有小毒治癥結積聚風勞虛冷細切釀酒飮【唐本】

附方【舊一新二】天蓼酒【治風立有奇效木天蓼一斤去皮細剉以生絹盛入好酒三斗浸之春夏一七秋冬二七日毎空心日午下晚各溫一盞飮若常服只飮一次老幼臨時加減 聖惠方】氣痢不止【寒食一百五日采木蓼暴乾用時爲末粥飮服一錢 聖惠方】大風白癩【天蓼刮去粗皮剉四兩水一斗煎汁一升煮糯米作粥空心食之病在上吐出在中汗出在下泄出避風 又方天蓼三斤天麻一斤半生剉以水三斗五升煎一斗去滓石器慢煎如餳每服半匙荆芥薄荷酒下日二夜一一月見效 聖惠方】

小天蓼氣味甘溫無毒主治一切風虛羸冷手足疼痺無論老幼輕重浸酒及煮汁服之十許日覺皮膚間風出如蟲行【藏器】

發明【藏器曰木天蓼出深山中人云久服損壽以其逐風損氣故也藤天蓼小天蓼三者俱能逐風其中優劣小者爲勝】

氣味苦辛微熱無毒主治賊風口面喎斜冷痃癖氣塊女子虛勞【甄權】

根主治風蟲牙痛搗丸塞之連易四五次除根勿嚥汁【時珍濟出普】

   *

これでは、多くの一般読者は全体を読むのを諦めるであろうからして、例の国立国会図書館デジタルコレクションの『新註校定国訳本草綱目』第九冊(鈴木真海訳(旧版をスライドさせたもの)・白井光太郎(旧版監修・校注)/新註版:木村康一監修・北村四郎(植物部校定)・一九七五年春陽堂書店刊)の当該部「木天蓼」をリンクさせておくので、そちらの現代語訳を見られたい。少しだけ、大事な部分を引用すると、「藏器」の引用部で、「藤天蓼」に就いて、『木蓼』を解説している中で、『藤天蓼を以て註說するは當らない。木蓼というふからには藤生であらう筈はない。これ以外に自ら』(おのづから)『藤蓼といふものがあるので、藤蓼は江南、淮南の山中に生じ、藤が樹に著いて生え、葉は梨やう』『で光つて薄く、子は棗のやうなものだ。卽ち、蘇恭が木天蓼としたそのものである。又、小天蓼といふのがあつて、天目山、四明山に生じ、樹は巵子のやうで冬期にも凋まない。野獸がこれを食ふ。かく三種の天蓼があつて、いづれも能く風』(疾患としての風邪)『を逐ふものだが、小さきものが勝れてゐる。』とある。これは、前項の「木天蓼」で述べなかったが、そこの項目標題下に ドン! と物々しく置かれた『木天蓼』・『小天蓼』・『藤天蓼」という『三種』というのは、別種や亜種ではなく、地方名か、異なる成長期の個体の呼び名か、単なる個体変異(群)であると断定してよいのである。

「柘(やまぐは)」良安先生のルビは、アウトである。先行する「柘」で散々ぱら、比定同定に苦しんだ結果、私がほうほうの体(てい)で辿り着いた、「柘」の正体は、

双子葉植物綱バラ目クワ科クワ属ヤマグワ Morus austrails ではなく、

〇双子葉植物綱バラ目クワ科ハリグワ連(ハリグワ属一属のみの短型連)ハリグワ属ハリグワ Maclura tricuspidata が「柘」の正体だった

からである。

「棗《なつめ》」バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis (南ヨーロッパ原産、或いは、中国北部の原産とも言われる。伝来は、奈良時代以前とされている。

「茄子」ナス目ナス科ナス属ナス Solanum melongena 。脱線だが、私の「老媼茶話 群居解頤曰(嶺南の茄子の大樹)」は、ちょいと、面白いぞ。

「薑(はじかみ)」漢方生薬としては「良姜」で、ショウガ目ショウガ科ハナミョウガ属 Alpinia の根茎を乾したものを指すが、ここは、生の、或いは、酢漬けのそれである。

「蓼(たで)」「檉柳」で既出既注だが、再掲すると、ナデシコ目タデ科 Polygonaceae、或いは、旧タデ属 Polygonum でやめておいた方が無難かと思う。本邦では、単に「蓼」と言った場合、狭義には(私は、最初のイヌタデを想起するが)、

タデ科 Polygonoideae タデ亜科 Persicarieae 連 Persicariinae 亜連イヌタデ属イヌタデ  Persicaria longiseta

或いは、より一般的には、

同属ヤナギタデ Persicaria hydropiper

を指すのであるが、「維基百科」を見ると、タデ科は「蓼科 Polygonaceae」で問題ないのだが、タデ属(但し、現在はタデ属はなくなり、現在は別名の八属に分れている。しかし、それを問題にし出すと、中国のずっと過去の種同定には、ますます辿りつき難くなってしまうのでタデ属で採った)を見ると、「萹蓄属」とあり(但し、別に「蓼属」ともする)、また、本邦のヤナギタデは「水蓼」とあったからである(日中辞典も同じ。因みに、イヌタデ属は「長鬃蓼」「馬蓼」である)。

「癥結積聚《ちようけつしやくじゆ》」東洋文庫の割注に『(腸にできる塊。腸腫瘍)』とある。

「風勞虛冷《ふうらうきよれい》」東洋文庫の割注に『(風邪で咳嗽(せき)・ねあせなどがあり、身体が衰弱するもの)』とある。

「𮚆風口靣喎斜《ぞくふうこうくわしや》」東洋文庫の割注に『(痛風で口や顔がけいれんして歪(ゆが)むこと)』とある。

「氣塊《きくわい》」よく判らんが、漢方「氣滯」があり、体内の「気」のめぐりが滞(とどこお)ることを指すから、それが、放置されて、重度の状態である塊りとなって、経脈を塞いでしまう病態を指すか。

「虛勞」東洋文庫の割注に『(疲労・栄養不良による衰弱)』とある。

「柘《やまぐは》」ここは、バラ目クワ科クワ属ヤマグワ Morus bombycis でよい。既に述べているが、本邦の「柘」は、古名で二種を指し、今一つは、ツゲ(柘植)目ツゲ科ツゲ属ツゲ変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica であるので、和文で本邦に植生する植物を漢字のみで蘂した場合は、注意が必要である。

「櫻桃(ゆすらむめ)」複数回既出既注。バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa 。うす甘い、サクランボに似た味のする赤い実で知られる。詳しくは、当該ウィキを見られたい。

「五倍子《ふし》」これも複数回既出既注。白膠木(ぬるで:ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis の虫癭(ちゅうえい)。本プロジェクトの冒頭の「柏」の注を見られたい。]

2024/10/14

山之口貘の処女詩集「詩集 思辨の苑」の「序文」の『佐藤春夫「山之口貘の詩稿に題す」』(初版・正規表現版)

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いた。当該部はここ。]

 

   山之口貘の詩稿に題す

 

家はもたぬが正直で愛するに足る靑年だ

金にはならぬらしいが詩もつくつてゐる。

 

南方の孤島から來て

東京でうろついてゐる。風見みたいに。

 

その男の詩は

枝に鳴る風見みたいに自然だ しみじみと生活の季節を示し

單純で深味のあるものと思ふ。

 

誰か女房になつてやる奴はゐないか

誰か詩集を出してやる人はゐないか

 

     一九三三年十二月二十八日夜 

 

                   佐 藤 春 夫

 

[やぶちゃん注:さても……私が何をおっ始めようとしていることは、もう、お判りであろう……。判らん方は、このブログの欄外のリンク「山之口貘」(私のブログ・カテゴリ)の一番下の記事を、どうぞ!]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 峯寺観音

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。「峯寺観音」「ぶじくわんのん」と読み、現在の南国市(なんこくし)十市(とおち)にある四国八十八箇所第三十二番札所の真言宗豊山派八葉山(はちようざん)求聞持院(ぐもんじいん)禅師峰寺(ぜんじぶじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。本尊は十一面観世音菩薩。この寺の北西近くに「石土池」(地元でも「いしどいけ」「いわつちいけ」「いしづちいけ」等と呼ばれ一定しない。池の南に「石土神社」(いわつちじんじゃ)があるが、これは決定打にはならない。神社名を尊び、土地名などとずらすのは、ごく一般的であるからである)があるが、冒頭の「十池」は、その池であろう。地元の方の証言に、「十市の池」とも呼び、その場合「とおちのいけ」と呼んでいるという記事があったので、その「市」が落ちたものであろう。]

 

     峯寺観音

 昔、「十池(といけ)」の池に、大蛇(だいじや)、すめり。

 或時、蛇の骸(むくろ)より、火、出(いで)て、燃(もゆ)る事、三日にして、骨のみ、有り。

 其ほねを、村のもの、集めをく[やぶちゃん注:ママ。]に、或夜、夢、見る。

 一人の女、來りて、

「吾は是(これ)、峯寺(ぶじ)の觀音也。此所(ここ)の池中に、住(すく)事、久し。千年の後、骨中(こつちゆう)より、火、出(いで)て、身を、燒く。今、汝が拾ふ所の燒骨(しやうこつ)を、禪師峰寺(ぜんじぶじ)に納(をさ)むべし。骨は、此山(このやま)に止(とどま)り、心は南方無垢世界(なんはうむくせかい)に遊行(ゆぎやう)する。」

と語(かたり)て、南の天に飛揚(ひやう)す。

 其頭(そのかしら)に戴(いただ)く所のものは、皆、佛面(ぶつめん)なり。

 峯寺の僧に、此旨(このむね)を、つぐ。

 僧の云(いはく)、

「今年正月十八日、七、八歲斗(ばかり)の少女、來りて、『十』の字を書(かき)て、去(さる)。又、一女、來(きたり)て、『一』の字を書(かき)て去る。又、一女、來(きたり)て、[やぶちゃん注:「*」で挟んだ部分は、国立公文書館本81)の右丁一行目下方から、二行目下から二字目までで補った。]『面』の字を書(かき)て去る。如此(かくのごとく)、十一人[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」では、この「十一人」を『土人』と起こす。確かに「土」に似ている。しかし、先の国立公文書館本では、はっきりと『十一』と書かれてある。而して、この僧の証言を小学生が見ても、「土」に見えるのは、「十一」がくっ附いたものと理解する。この編者・判読者は、ちゃんと話を通して読めば、「十一」であることは明白だ。どうして、この低レベルの誤判読を放置プレイしてしまっているのだ!?! 何度も言うが、心底、呆れ果てたぞ! 印税、戻して、全面改正し直せ! 馬鹿野郎!]の少女、各(おのおの)、一字を、書(かき)、去る。十一字を並べ見るに、

『十一面觀音菩薩止此山』

と、有(あり)。奇異の恐れをなすといへども、世の人に語るとも、信ぜざるのみにあらず、我を疑ふべし。」

と、他(ほか)にもらさず、過(すご)しぬ。

 後世(ごぜ)、自然に、其(その)妙(みやう)、有るを、待所(まつところ)に、はやくも、在世の內に符節を合(がつ)するに、

「靈瑞、難有(ありがた)し。」

と感淚して、池中の蓮葉(はすのは)を以(もつて)、蛇骨(じやこつ)を包み、宝殿を作り、納(をさ)む。是より、此池、逐年(ちくねん)[やぶちゃん注:「年々」に同じ。]、淺く成(なり)て、昔、「百𠀋が淵」と唱ふ所も、知人(しるひと)、なし。

 

[やぶちゃん注:個人ブログ「あれこれある記」の「石土神社 石土洞」に、『断崖下部の洞窟は石土洞または蛇穴(じゃあな)と呼ばれ、男蛇・毒蛇という雌雄の大蛇が住んでいるとか。洞窟の高さは低いものの、奥は深くてどこまで続いているか誰も知らない(大蛇がいて確かめられない)とか』とあり、さらに、『ふしぎなはなし-「昔、峯寺(32番札所 禅師峰寺)の住職が犬を飼っていて、犬が迷った時のために首輪にお寺の山号を書いた札を吊るしていたそうな。ある日、蛇穴に逃げ込んだウサギを追いかけて入ったまま2日たっても3日たっても戻らなかったそうな。そうするうちに伊予の国(愛媛県)吉田藩の領内のとある洞窟の入り口で、ウサギをくわえたままの犬の死骸が見つかり、その首輪にはなんと、峯寺の山号が書かれた札がついていたそうじゃ」』と別な奇異伝承を紹介されており、『他にも石鎚山や讃岐(香川県)の萩原寺』(ここ。グーグル・マップ・データ。直線で北北東五十キロメートル弱もある)『まで続いているという伝説もあってなかなかミステリアスです』とあった。写真も豊富なので、是非、読まれたい。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 安喜郡【中山郷】中之川村藥師

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。「安喜郡【中山郷】中之川村」は、現在の安芸郡安田町(やすだちょう)中ノ川(なかのかわ)である。但し、現在のこの地区には寺院や祠は、同地区のグーグル・マップ・データ航空写真上(以下同じ)では、見当たらない。但し、同地区に南で接する別所に「北寺」と言う寺院があり、当該ウィキによれば、真言宗豊山派金剛山弘泉院北寺(別名・瑠璃光寺)で、『本尊薬師如来』(☜)『をはじめとする平安時代中期の特徴を持つ仏像』九『躯が国の重要文化財の指定を受けている』(総て国重要文化財)とあった。これであろう。九「中山郷」には、孰れの地区も含まれるからである。]

 

     安喜郡【中山郷】中之川村藥師

 安喜郡中山郷中の川村に、藥師堂、有(あり)。

 藥師尊像、三尺斗(ばかり)、脇士(わきじ)、左右に立(たち)給へり。

 此堂、元祿年中、破壞に及んで、小堂を造營して、既に安置するに臨(のぞみ)て、大工、髙さの寸尺、云違(いひちが)へけん、臺座、閊(つか)へて、入(いり)ざりければ、臺座を、半ば、より除(のけ)て、安置せし、とかや。[やぶちゃん注:最後の意味は、「台座の下部の半分(通常は仏像の台座の最下部は安定を考えて最も広い)を切り削って安置した」ということであろう。]

 其年の冬、大工㐂平次(きへいじ)、沐浴(もくよく)せしに、誤(あやまり)て、熱湯にて、足を洗ひければ、次第に、痛み出(だ)して、いろいろ、療治すれども、年を經て、不癒(いえず)、その脚(あし)、腐りて、終(つひ)に死せり。

 其子、銀丞(ぎんのじよう)と云(いふ)者、或時、名村にて、舩細工(ふなざいく)をせし折柄(をりから)、舩に乘り損(そん)じて、片足を折(をり)て、箕踞(ナゲダシ)となる。大工業(だいくのなりはひ)も不成(なさざり)ければ、貧しく暮(くら)ける、と也(なり)。子孫、今、安田浦に在(あ)り。[やぶちゃん注:「名村」先に示した中ノ川地区の西の峰を越えた比較的近い位置に、現在の安芸市の南東を下る「名村川」がある。而して「ひなたGPS」の国土地理院図で、この名村川を下って見ると、名村川の中ほどに「名村」の地名を見出せる。グーグル・マップ・データ航空写真の拡大画像では、ここで、僅かな人家が確認出来る。但し、現在の、この名川の流れストリートビューで見たところ、岩が、多数、点在する比較的細い渓流であるので、凡そ、小舟で下れるようなものではない。しかし、事故の際の描写を、「舩細工をせし折柄、舩に乘り損じて、片足を折」ったとするのだから、この「名村」は川を下った、「名村川」河口の安芸市下山であるこの附近の、漁師の所に出向いて「舩細工」仕事をしていたと考える方が、しっくりくる。「箕踞(ナゲダシ)」音「キキヨ」(キキョ)の原義は、「農具の箕(み)のような形に両足を前へ投げ出して踞(しゃが)む、座る。」ことを指す。非礼な座り方とされ、「箕坐(きざ)」とも呼び、軽慢傲慢な振舞の比喩にも使う。ここは、片足が全く役にたたなくなって、据わる際に、畳むことが出来なくなって、片足を投げ出して座るようになってしまったことを指す。「安田浦」ここ。]

 扨(さて)、又、むかし、中㙒川村[やぶちゃん注:ママ。]は廿軒斗(ばかり)の在所にて、山中の事なれば、佛の名をだに、しらず、堂の、傷にあれば[やぶちゃん注:「に」はママ。]、藁(わら)などにて、繕(つくろ)ひ置(おき)けるが、次㐧に、荒廃して、雨の凌(しの)ぎ、なく、藥師は、其儘、ぬれさせ給ひ、數(す)十年、雨にぬれて、佛像、木目(きめ)、髙く、晒(さらし)ける、とぞ。[やぶちゃん注:木像に雨水が染み込んで、表面を浸食し、本来の在用木の木目が露わになったことを指す。]

「此時、漸〻(やうやう)、衰微して、廿軒有りし家數(やかず)も、殘り少(すくな)く、田畠、荒(あれ)ける故(ゆゑ)、庄屋より、百姓を入れて、取り立(たて)けるに、初めは、わづかの家數なりしが、藥師を信ずる加䕶や有(あり)けん、次㐧に、此村、繁榮し、ことし、文化四年の春、此村より、六、七百目、出銀(いだしぎん)して、藥師堂を、新(あらた)に建立(こんりう)して、入佛供養(にゆうぶつくやう)を遂(とげ)ける。」

と、大庄屋淸岡氏の話也。

 此堂の仏器は、皆、南京燒(なんきんやき)なり。[やぶちゃん注:「中国の清朝期に作られた景徳鎮の民窯磁器の総称。江戸前期に中国の南京方面から渡来した。単に「南京」とも呼ぶ。]

2024/10/13

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 安井村氷室明神

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。]

 

     安井村氷室明神

 吾川郡(あがはのこほり)安井村の氷室明神(ひむろみやうじん)は、天滿天神にて、御神體は、髙さ、六、七寸なる木像にて在(ましま)しける。[やぶちゃん注:恐らくは吾川郡仁淀川町(よどがわちょう)土居(どい)にある安居氷室天神社(グーグル・マップ・データ)であろう。]

「その製造の神妙なる事、いはんかたなし。」

とぞ。

 此深山に鎭座在(ましま)し事、其來由(らいゆう)、知(しる)人、なく、社(やしろ)も、年ふりて、蕪絕(ぶぜつ)に及(および)けるが[やぶちゃん注:「雑草が茂って荒れ、人の参詣も絶えていたが、」。]、寛文年中、所の庄屋三郎右衞門といふものゝ枕神(まくらがみ)[やぶちゃん注:ママ。勢いで、「枕上」を誤記したものであろう。]に立(たた)せ玉ひぬ。

 三郎右衞門、驚駭(オドロキ)恐れて、急ぎ、一村の者どもを催(ものほ)して新(あらた)に社(やしろ)を建立(こんりふ)して、毎年十一月廿五日に祭禮を行ひける。

 此宮、林の中、小隴(こやま)[やぶちゃん注:「隴」は「丘」の意。]有(あり)。

 此(この)小山、鳴(なる)事あり。

 其時は、土居(どゐ)・安井兩村の者ども、競行(きそひゆき)て、聞(きく)事也。

「其(それ)、山北(やまのきた)の方(かた)にて鳴(なく)時は、其(その)妖(えう)[やぶちゃん注:災(わざわ)い。]、必ず、安井村に有(ある)也。若(もし)、南の方にて鳴る時は、土居村に、妖、あり。」

とて、大(おほき)に、恐れ愼(つつしみ)て、祈禱抔(など)する事也。

「是は、神の告知(つげし)らせ給ふ所にて、昔ゟ(より)、愆(アヤマツ)事、なき。」

と、いへり。

 又、此宮林(みやばやし)の神木(しんぼく)は、枯枝、朽(くち)たる葉、假(たと)へ、風折(かぜをれ)にても、一枝一葉(いつしちえふ)、採去(とりさ)るもの、あれば、其人、忽(たちまち)、神罰を蒙(かうむ)る、とかや。

 神のをしみ玉ふ事、甚(はなはだ)しければ、里人(さとびと)も、恐れ愼(つつしむ)、とかや。[やぶちゃん注:以下は底本でも改行されている。]

 玉木翁の話にいふ、

「攝州、安井村の天滿宮の神躰(しんたい)は、菅神(くわんじん)の自(みづから)彫(ほら)せたまふ所の木像也。徃昔(わうじやく)、難波(なには)の浦[やぶちゃん注:以上の「江」(「え」=「へ」)の助詞は国立公文書館本(78)で補った。]、浪に流れ寄(より)玉ひし神像にて、安居に鎭座在しけるが、應仁年中より、天下、一同、乱世と成(なり)て、神社・佛閣、荒廃に及(および)ければ、此天滿宮も、破壞に及(および)て、既に、屋根より、雨露(あめつゆ)洩落(もれおち)て、御神體、ぬれさせ給ひければ、里人も、是を、恐歎(おそれなげき)て、

『何とぞ、雨の當(あたら)せ給はぬやうに。』

とて、桧笠(ひのきがさ)を着(つけ)奉りぬ。[やぶちゃん注:「攝州、安井村の天滿宮」は大阪府大阪市天王寺区逢阪(おうさか)にある安居神社(グーグル・マップ・データ)であろう。当該ウィキによれば、『菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息(安井)をとったためにその名がついたという伝承がある』とある。]

 太閤秀吉公、天下一統の後、神社の御改(おんあらた)め、有(あり)ける中(うち)に、此(この)安井の天滿宮は、徃古(わうこ)より、御造營の譯(わけ)有(あり)て、繕修(ぜんしゆ)、有(あり)ける故、神主、下遷宮(しもせんぐう)するに、桧笠を取除(とりの)けれども、固く取られざりける。

 神主、

『不思義の事。』

に、おもひ、

『倂(ならびに)、神慮に叶(かなひ)たる事にもや。』

と、其まゝにて下遷し、程なく、社(やしろ)、成就しければ、笠を、めさせながら、遷(うつ)し奉りぬ。

 その頃まで、近衞龍山公、傳へ聞(きこ)しめして、住吉御參詣の爲(ため)、難波(なには)に下らせ玉ひ、其節(そのせつ)、安井に御參拜ありて、神主を召して、扉を開かせて、拜し玉ひぬるに、兼(かね)て聞(きこ)しめしたるに不違(たがはず)、笠を召してありし故、龍山公、仰られけるは、

『是は下賤の着仕(きつかまつ)る笠と申(まうす)物に候。御着(おんき)ぶるし候へども、冠(かんむり)をさし上可申(まうすべし)。』

とて、召(めし)たる笠を、取り玉へば、笠は、取れけるに、其跡へ、御自分の冠を着せ奉られける、とかや。[やぶちゃん注:以下、一字下げ。再現した。]

 愼(つつしみ)て考(かんがへ)れば、彼(かの)

 社(やしろ)も安井といふ。此國にも安井村にて、

 倶(とも)に、神體は木像にて在(ましま)しける。

 若(もし)、天神の自(みづから)、彫刻の、御神躰に

 ては無きかと、爰(ここ)に記(しる)し置きぬ。

[やぶちゃん注:「近衞龍山公」近衛前久(さきひさ 天文五(一五三六)年~慶長一七(一六一二)年)は戦国時代から江戸初期にかけての公卿。]

2024/10/12

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 木天蓼

 

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きまたゝび      木天蓼

           小天蓼

木天蓼        藤天蓼

         有三種【功用彷彿】

モツ テン リヤウ 【和名和太々比

          俗云末太々比】

 

本綱木天蓼生山谷中高二三𠀋如冬青不凋三四月開

花似柘花五月采子子作毬形似檾麻子可藏作果食又

爲燭明如胡麻 小天蓼樹如巵子冬月不凋野獸食之

 

   *

 

きまたゝび      木天蓼

           小天蓼《しやうてんれう》

木天蓼        藤天蓼《とうてんれう》

         【≪以上、≫三種、有《(あり》

          功用、彷彿《はうふつ》≪たり≫。】

モツ テン リヤウ 【和名、「和太々比《わたたび》」。

          俗、云ふ、「末太々比《またたび》」。】

[やぶちゃん注:「彷彿」は「極めてよく似ていること」の意。]

 

「本綱」に曰はく、『木天蓼《もくてんれう》は、山谷の中に生ず。高さ、二、三𠀋。「冬青(まさき)」のごとくして、凋まず。三、四月、花を開く。「柘(やまぐわ[やぶちゃん注:ママ。])」の花に似《にる》。五月、子《み》を采る。子、毬《まり》を作《なし》、形、「檾麻《いちび》」の子に似《にて》、藏《をさめ》て、果《くわ》[やぶちゃん注:「菓子」。]と作《な》して、食ふべし。又、燭《ともし》と爲《な》して、明《あきらか》なること、胡麻《ごま》のごとし。』≪と≫。『小≪さき≫天蓼の樹、「巵子《くちなし》」のごとく、冬の月、凋まず、野獸、之れを食ふ。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「木天蓼」は日中ともに、

双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygama

である。「維基百科」の同種は「葛枣猕猴桃」で、別名で「木天蓼」を出している。

 以下、当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名ナツウメ(夏梅)ともいう。山地に生える。夏に白い花が咲くころに、枝先の葉が白くなるのが特徴。果実は虫こぶができることもある。ネコの好物、鎮痛・疲労回復の薬用植物としてもよく知られている』。『和名のマタタビの由来については、古くは』深根輔仁撰による日本現存最古の薬物本草書「本草和名」(延喜一八(九一八)年に『「和多々比」(わたたひ)』と出、「延喜式」(九二七)年に、『和太太備』『(わたたび)の名で見える』。『また、長い実と平たい実と二つなるところから、「マタツミ」の義であろうとい』い、『「また」とは』「ふたつ」の)『意味、「つ」は助字、「び」は實(み)に通じるとされる』。『アイヌ語の「マタタムブ」からきたというのが、現在』は『最も有力な説のようである。「マタ」は「冬」、「タムブ」は「亀の甲」の意味で、虫』癭(ちゅうえい)『になった果実が』癩『病の患部のようになるのに対して呼んだ名前であろうとされる。一方で、深津正の「植物和名の研究」(一九九九年八坂書房刊)『や知里真志保』が一九六一年に亡くなる最後まで、手を入れて、未完に終わった編著「分類アイヌ語辞典」(一九七五年平凡社刊)に『よると』、『「タムブ」は苞(つと、手土産)の意味であるとする』。『俗説として「疲れた旅人がマタタビの実を食べたところ、にわかに精気がよみがえり、また旅(マタタビ)を続けることが出来るようになった」という説話がよく知られる。しかし、マタタビの実にそのような薬効があるわけでもなく、旅人に好まれたという周知の事実があるでもなく、また「副詞+名詞」といった命名法は一般に例がない。むしろ「またたび」という字面から「また旅」を想起するのは非常に容易であることから、後づけ的に考案された典型的民間語源と考えるのが妥当である』。『別名に、カタシロ、コヅラ、ツルウメ、ツルタデ、ナツウメ、ネコカズラ、ネコナブリ、ネコナンバン、ハナマタタビともよばれている。マタタビの花が蕾の時に、マタタビタマバエ』(有翅昆虫亜綱新翅下綱内翅上目ハエ目長角亜目ケバエ下目キノコバエ上科タマバエ科 Pseudasphondylia 属マタタビミタマバエ Pseudasphondylia matatabi 『が産卵すると、その花は咲かないで、でこぼこしたいわゆるハナマタタビ(虫癭)になる。中国植物名(漢名)は、葛棗獼猴桃、葛棗子、木天蓼(もくてんりょう)と称される』。『日本、朝鮮半島、中国などの東アジア地域に分布し、日本では北海道、本州、四国、九州に分布する。山沿いの平地から山地に分布し、特に山麓、原野、丘陵、礫地に多。湿り気のある山地の沢沿いや山と山のくぼみ、林縁に自生する。往々にして、足場の悪いところに自生している。近縁種の』同属の『ミヤママタタビ(学名: Actinidia kolomikta )は、北海道から本州の近畿地方以北に分布し、マタタビより標高のある山地に多く見られる』。『落葉つる性の木本。茎は蔓になり、よく枝分かれして、他の木に絡みついて長く伸びる。太いつるの樹皮は暗灰褐色で、縦や横に割れる。枝は褐色で、白い縦長の皮目がつく。一年枝は毛があるが、のちに無毛になる。蔓を切ってみると』、『白い随が詰まっていて』、同属の『サルナシ(学名: Actinidia arguta var. arguta )とは異なる。葉は蔓状の枝に長い葉柄がついて互生し、葉身は先が尖った長さ』二~十五『センチメートル』『の卵形から広卵形、あるいは楕円形で、葉縁に細かい鋸歯がある。初夏の花期になると、葉の一部または全面が白くなる性質がある』。『花期は』六~七『月。雌雄異株であるが、ときに両性花をつける。花は雄花・雌花とも芳香があり、ウメに似た径』二センチメートル『ほどの白い』五『弁花を下向きに咲かせる。雄株には雄蕊だけを持つ雄花を、両性株には雄蕊と雌蕊を持った両性花をつける。花弁のない雌蕊だけの雌花をつける雌株もある』。『果実は』二~二・五)『のフットボール様の細長い楕円形で』、『先は尖り、晩秋に黄緑色から橙色になり軟らかに熟す。ふつう、マタタビの果実は熟してから落下する。しばしば、虫こぶの実(虫癭果)がマタタビミバエ、もしくはマタタビノアブラムシ(マタタビアブラムシ)』(有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科タマバエ科Asphodylia 属マタタビアブラムシ Asphodylia matatadi )『の産卵により形成され、偏円形で凸凹している』。一『本の木のほとんどが中癭果の場合も少なくなく、強風や強雨のあと、正常な実が熟す前に落ちやすい』。『冬芽は互生するが、葉痕上部の隆起した部分(葉枕という)に隠れていて先端だけが少し出ている半隠芽である。葉痕は円形や半円形で、維管束痕が』一『個』、『つく』。『効果に個体差はあるものの、ネコ科の動物はカ等に忌避効果を持つネペタラクトール、及び揮発性のマタタビラクトンと総称される臭気物質イリドミルメシン、アクチニジン、プレゴンなどに恍惚を感じることで知られている。イエネコがマタタビに強い反応を示すさまから「猫に木天蓼」という諺(ことわざ)が生まれた。ライオンやトラなどネコ科の大型動物もイエネコ同様』、『マタタビの臭気に特有の反応を示す』。『日本では「猫に木天蓼」という諺があるように、その効果はてきめんで、葉、小枝、実などマタタビならなんでもよく、はじめは舐めたりかじっているネコも、そのうち顔を擦り付けたり、地面に転がり、中には陶酔境に浸るものもいる』。『ネコがマタタビを大好物とすることは古くから知られており』、正徳四(一七一四)『年に出版された貝原益軒の農業指南書』「菜譜」にも『記されて』おり、『浮世絵』「猫鼠合戰」には『マタタビでネコを酔わせ腰砕けにするネズミの様子が描かれるなど、江戸時代には「マタタビ反応」は「マタタビ踊り」とも言われ、既に大衆文化に取り込まれていた』。一九五〇『年代には』本邦の天然物化学の第一人者であった『目武雄』(さかんたけお)『らの研究によって、マタタビ活性物質は「マタタビラクトン」と呼ばれる複数の化学成分であると報告されていた。マタタビ反応はネコ科の動物全般に見られるが、なぜネコ科動物だけにこの反応が見られるのか、また、マタタビ反応の生物学的な意義についてはこれまで不明であった』。『岩手大学は』二〇二一年一月二十一日、『科学雑誌『Science Advances』に、名古屋大学・京都大学・英国リバプール大学との共同研究で、ネコのマタタビ反応が蚊の忌避活性を有する成分ネペタラクトール』Nepetalactol『を体に擦りつけるための行動であることを解明したと発表した。本研究では、まずマタタビの抽出物からネコにマタタビ反応を誘起する強力な活性物質「ネペタラクトール」を発見。さらにこの物質を使ってネコの反応を詳しく解析し、マタタビ反応は、ネコがマタタビの匂いを体に擦りつけるための行動であることを突き止めた。また、ネペタラクトールに、蚊の忌避効果があることも突き止め、ネコはマタタビ反応でネペタラクトールを体に付着させ』、『蚊を忌避していることを立証した。ネペタラクトールは、蚊の忌避剤として活用できる可能性があるとしている。この研究チームによる』二〇二二年六月『の発表によると、マタタビ反応で葉を噛むことにより、葉からの蚊の忌避物質(ネペタラクトールとマタタビラクトン類)の放出量が』十『倍以上に増えることも判明した』。『栽培は果実のつく雌株を選んで行う。両性花がある株を挿し木する。果実、若芽、若いつるの先は食用になる。果実は、漬物や健康酒用には青みが残るもの、生食には橙色に熟したものを利用する。近縁のミヤママタタビも同様に利用できる。猫が好む植物であるため、猫よけの金網囲いが必要になる』。『夏から秋にかけて果実を採り、虫えいになっていない正常な果実であれば』、『食用に利用する。若い実はヒリヒリと辛く渋みと苦味があり、ふつう生では食べないが、橙黄色に完熟すると甘くなりそのまま生で食べられる。まだ青味が残る未熟な果実であれば、塩漬け、味噌漬け、薬用酒(マタタビ酒)などにして利用される。半年以上塩漬けしたものを塩抜きして、天ぷらや甘酢漬け、粕漬けなどにする。果実酒』にも造る。『焼酎漬けしたマタタビの実は、そのまま食べても良い。なお、キウイフルーツもマタタビ科』Actinidiaceae『であり、果実を切ってみると同じような種の配列をしていることがわかる』。『春から初夏にかけて若芽やつる先を摘み取り、塩を多めに入れて茹でて、水にさらしてアク抜きする。若芽やつる先は、おひたしや和え物、油炒め、椀種、生のまま天ぷらにもする。葉は、おひたしにして食べる』こと『があるが、アレルギーを生じる事がある。花は酢の物に利用する』。『蕾にマタタビミタマバエまたはマタタビアブラムシが寄生して虫こぶ(虫えい)になったものは、漢方で木天蓼(もくてんりょう)という生薬である。正常な果実は、虫えいに比べてすこぶる薬効が劣るといわれている』。七『月中旬から』十『月ごろに、果実、虫こぶを採取して、一度熱湯に約』五『分ほど浸したあと、天日乾燥させて調製される。効能は、鎮痛、保温(冷え性)、強壮、神経痛、リウマチ、腰痛、中風などに効果があるとされる』。『民間療法では、木天蓼の粉末を』『煎じて』『服用する用法が知られている。また、虫えいでつくった果実酒は強精、強壮剤として用いられる』。『布袋に入れて浴湯料として用いられ。保温効果から患部が冷えたり、身体を冷やすと悪化する腰痛などによいと言われているが、暑がりの人や身体がほてる人、患部が熱い人への服用は禁忌とされている』。『また、ネコの病気にもよいともいわれており、マタタビをネコに与えてしゃぶらせると、酔ったようになるが』、『元気になる。かつて山村では、ネコの具合が悪くなると、マタタビの絞り汁を与えて舐めさせたという。急を要するときは、つる先と葉を揉んで』、『液をつくるが、ヘチマ水のようにつるの根元で切って一升瓶に挿しておくと、多いときは』一『日で』一『本分ほどとれ、ネコ以外にも人間の胃腸薬(民間薬)にしたといわれる。ネコのマタタビ反応や、病気の回復はマタタビの中に含まれているマタタビラクトン他の成分によるとされる』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「木天蓼」([088-77b]以下)のパッチワークである。

「冬青(まさき)」前にも何度か出たが、再掲すると、バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属ソヨゴ Ilex pedunculosa当該ウィキによれば、『和名ソヨゴは、風に戦(そよ)いで葉が特徴的な音を立てる様が由来とされ、「戦」と表記される。常緑樹で冬でも葉が青々と茂っていることから「冬青」の表記も見られる』。但し、『「冬青」は常緑樹全般にあてはまることから、これを区別するために「具柄冬青」とも表記される。中国植物名でも、具柄冬青(刻脈冬青)と表記される』とある。なお、東洋文庫訳では、割注で『(灌木類。ナナメノキ)』とする。この「ナナメノキ」は、モチノキ目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis の異名で、中文ウィキの「冬青属」相当では、確かに狭義の「冬青」をナナミノキに宛ててはある。となれば、厳密には現代では、日中で同属異種ということになるが、明代に、それを確然と区別していたとは、私には思われないので、これ以上、ディグはしない。

「柘(やまぐわ)」良安先生のルビは、アウトである。先行する「柘」で散々ぱら、比定同定に苦しんだ結果、私が、ほうほうの体(てい)で辿り着いた、「柘」の正体は、

双子葉植物綱バラ目クワ科クワ属ヤマグワ Morus austrails ではなく、

〇双子葉植物綱バラ目クワ科ハリグワ連(ハリグワ属一属のみの短型連)ハリグワ属ハリグワ Maclura tricuspidata が「柘」の正体だった

からである。

「檾麻《いちび》」アオイ目アオイ科イチビ属イチビ Abutilon theophrasti 当該ウィキによれば、『インド、西アジア原産』。『現在ではアジア、南ヨーロッパ、北アフリカ、オーストラリア、北アメリカなど、世界の熱帯~亜寒帯に広く外来種として帰化している』。『日本には中国を経由して古代に伝来し繊維植物として利用されていたと考えられ、江戸時代には栽培の記録もあるが』、『古代から栽培されていた種と、現在日本全国に帰化植物として定着している種とは遺伝的に別系統である可能性が指摘されている』。『侵入植物としてのイチビは、日本では』、一九〇五年に『初めて定着が確認され、現在は』、『ほぼ』、『日本全国に分布』し、『現在では利用法の多くが廃れ、もっぱら』、『畑地に害を与える雑草として知られる』とある厄介者になってしまっている。詳しくは、そちらを見られたい。

「巵子《くちなし》」複数回既出既注。リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ Gardenia jasminoides 。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 𮅑樹

 

Toujyu

 

かうしゆ

 

𮅑樹

 

農政全書云𮅑樹生山谷中高𠀋餘葉似槐葉而大却頗

軟薄又似檀樹葉而薄小開淡紅色花結子如菉豆大熟

則黃茶褐色其葉味甜

 

   *

 

かうじゆ

 

𮅑樹

 

「農政全書」に云はく、『𮅑樹は山谷の中に生《しやう》≪ず≫。高さ、𠀋餘。葉、槐《えんじゆ》の葉に似て、大にして、却《かへつて》、頗《すこぶる》、軟《やはらか》に≪して≫薄し。又、檀(まゆみ)の樹≪の≫葉に似て、薄く小《ちいさ》し。淡紅色の花を開く。子を結≪び≫、菉豆《ろうとう》の大《おほいさ》のごとし。熟≪せば≫、則ち、黃茶褐色。其の葉の味、甜《あまし》。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:困ったもんだ。「𮅑樹」「𮅑」で検索すると、日本語では、私の本巻の「目録」が掛るばかりだ! 「維基百科」も「維基文庫」も掛かってこない! 東洋文庫でも、科も挙げていない。「中國哲學書電子化計劃」で「𮅑」で検索してもアウトだった。所持する「廣漢和辭典」にも載らない。中文サイトで漢字としては、複数、掛かってくるものの、意味(植物名)を示す記事は皆無であった。されば、遂に、正体不明とする他はない。識者の御教授を乞うものである。

「農政全書」何度も注しているが、「枯れ木も山の賑わい」で、再掲すると、明代の暦数学者でダ・ヴィンチばりの碩学徐光啓が編纂した農業書。当該ウィキによれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎』十二『年』(一六三九年)『に刊行された』とある。光啓は一六〇三年にポルトガルの宣教師によって洗礼を受け、キリスト教徒(洗礼名パウルス(Paulus))となっている。以下は、同書の「第五十四 荒政」(「荒政」は「救荒時の利用植物群」を指す)の「木部」にある。「漢籍リポジトリ」のここの、ガイド・ナンバー[054-37b]  に(字に補正を加えた)、

   *

𮅑樹 生輝縣太行山山谷中其樹髙丈餘葉似槐葉而大却頗軟薄又似檀樹葉而薄小開淡紅色花結子如菉豆大熟則黃茶褐色其葉味甜

  救飢 採葉煠熟水浸淘淨油鹽調食

   *

「槐」マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。中国原産で、当地では神聖にして霊の宿る木として志怪小説にもよく出る。日本へは、早く八世紀には渡来していたとみられ、現在の和名は古名の「えにす」が転化したもの。

「檀(まゆみ)の樹」日中ともに、双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus var. sieboldianus 。先行する「檀」を参照されたい。

「菉豆《ろうとう》」「綠豆」で、これは双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科ササゲ属ヤエナリ Vigna radiata の種子の名である。「維基百科」の同種は「绿豆」である。要は、我々が食べている「もやし」の種だ! 注することが貧しいので、当該ウィキを引いてお茶を濁しておく(注記号はカットした)。『食品および食品原料として利用される。別名は青小豆(あおあずき)、八重生(やえなり)、文豆(ぶんどう)。英名から「ムング豆」とも呼ばれる。アズキ ( V. angularis ) とは同属。 グリーンピースは別属別種のエンドウ』(マメ亜科エンドウ属エンドウ Pisum sativum )『の種子』。『インド原産で、現在はおもに東アジアから南アジア、アフリカ、南アメリカ、オーストラリアで栽培されている。日本では』十七『世紀頃に栽培の記録がある』。これには、注釈があって、『一時』、『日本では縄文時代にすでに渡来していたといわれていたが、現在では』、『この時代の遺跡からの出土種子はアズキ』(マメ亜科ササゲ属アズキ変種アズキ Vigna angularis var. angularis )『の栽培化初期のものとみなされており、リョクトウの縄文時代栽培は否定されている』とあった)。『ヤエナリは一年生草本、葉は複葉で』三『枚の小葉からなる。花は淡黄色。自殖で結実し、さやは』五~十センチメートル、『黄褐色から黒色で、中に』十~十五個『の種子を持つ。種子は長さが』四~五ミリメートル、『幅が』三~四ミリメートル『の長球形で、一般には緑色であるが』、『黄色、褐色、黒いまだらなどの種類もある』。『日本においては、もやしの原料(種子)として利用されることがほとんどで』、『ほぼ全量を中国(内モンゴル)から輸入している』。『中国では、春雨の原料にする』『ほか、月餅などの甘い餡や、粥、天津煎餅のような料理の材料としても食べられる。北京独特の飲料としてリョクトウからデンプンを採る際の上澄みを原料に、これを発酵させた豆汁がある』。中国の『凉粉』(りょうふん:北京の夏のおやつで、緑豆で作った「ところてん」状のものを切って、その上に酢・ニンニク・ゴマのペースト・醬油などをまぶして食べるもの)『の原料にも使われる』。『朝鮮半島では』十六『世紀前半の』韓国最古の調理書「需雲雜方」に、『リョクトウのデンプンを水溶きして加熱し、これを孔をあけたヒョウタンの殻に入れて、孔から熱湯にたらし麺状にして水にさらす食品が記載されている』。一六七〇『年頃の』朝鮮時代の張桂香撰になる料理書「飮食知味方」『では、同様な製法で麻糸のようにした食品を匙麺(サミョン)として記している。また、伝統的にリョクトウデンプンはネンミョンのつなぎとして利用されていた。 咸鏡道ではリョクトウのデンプンのみを使った』「押しだし麺」『がある。中国と同様に餡にするほか、水に漬けた上ですり潰したものを生地としてチヂミの一種ピンデトッにしたり、デンプンを漉しとってムㇰという寄せものにする。リョクトウから作ったムㇰをノクトゥムㇰ(ノクトゥ=緑豆)と呼び、特にクチナシの実で着色したものをファンポムㇰ、着色しないものをチョンポムㇰと呼ぶ。なお、朝鮮語ではこのリョクトウにちなんで、デンプンのことを一般的に「ノンマル」(녹말=綠末、「緑豆粉末」の略)と呼ぶ』。『香港やシンガポール、ベトナムでは、甘く煮て汁粉の様なデザート(広東料理の糖水、ベトナムのチェーなど)にすることが多く、それを冷やし固めたようなアイスキャンディーもある。リョクトウの糖水を緑豆湯または緑豆沙、リョクトウのチェーをチェー・ダウ・サイン(Chè đậu xanh)と呼ぶ』。『緑豆糕(りょくとうこう)と呼ばれる、木型に入れて成形した菓子は、ベトナムのハイズオン』(ここ。グーグル・マップ・データ)『や中国の北京、桂林などの名物となっている』。『インドやネパール、アフガニスタン、パキスタンでは、去皮して二つに割ったリョクトウをダール(豆を煮たペースト)にする。リョクトウと米を炊きあわせた米料理(キチュリなど)は、南アジアから中央アジアにかけて広く食べられている。南インドでは、ドーサに似たクレープ状の軽食ペサラットゥ』『が作られる』。『また、漢方薬のひとつとして、解熱、解毒、消炎作用があるとされる』。『リョクトウには、血糖値の上昇を抑制する効果のあるα-グルコシダーゼ阻害作用がある』とある。糖尿病歴十年になんなんとする私だから、せいぜい、「もやし」、食うかな。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 甲殿村住吉大明神

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「かふどのすみよしだいみやうじん」と訓じておく。当該の住吉神社はここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

     甲殿村住吉大明神

 文明三年[やぶちゃん注:一四七一年。室町幕府将軍は足利義政。]の頃、吾川郡甲殿の海中に、夜毎(よごと)に、光物(ひかりもの)しければ、里人(さとびと)、怪(あやし)みて、夜〻(よよ)、窺見(うかがひみ)けるが、次㐧(しだい)に海岸に近(ちかづ)きければ、漁人、取り上(あげ)、是を見るに、古き器物(うつはもの)也。其(その)器物の中には、神像二体、鏡二面、有(あり)ける故、

「如何(いか)さま、是は、神社、破壞して、流れ來(きた)れるにこそ有(ある)べけれ。」

とて、里人、集(あつま)り、地を撰(えらび)て小祠(せうし)を建(たて)て、村の產神(うぶすな)に祝祭(いはひまつ)りけるが、其後(そののち)、神主に垂(の)り移らせ玉ひて、告(つげ)て宣(のたま)はく、

「吾は、住吉四所大明神(すみよしししよだいみやうじん)也。泉州『堺の浦』に跡を垂(たる)る事、數千載(すせんざい)に及べり。然(しか)るに、此頃(このごろ)、波の爲に衝(ツカ)され、社(やしろ)、頽廃(タイハイ)して、靈宝(れいはう)、悉(ことごと)く、流漂(ながれただよ)へり。此國は、隨緣(ずいえん)の地(ち)成(な)るにより、爰(ここ)に來(きた)れり。吾、猶、衆生の禍災(くわさい)を除き、人をして、祈願を充(ミタ)しめんと、おもへり。特(とく)には、小兒、疱瘡の難を消除(せうぢよ)して、福壽(ふくじゆ)を保(ほ)す[やぶちゃん注:「守る」に同じ。]べし。又、吾、大手の湊口(みなとぐち)に居(をり)て、常に魔障(ましやう)の來(きた)るを防護すべし。早く、吾祠(わがほこら)を、湊口に、建てよ。凡(およそ)、吾をいのるものは、紙の羽(はね)の矢を作り、吾が社內(やしろうち)に納(をさ)めよ。其(その)矢を以て、魔障の來(きた)るを、射て、退治すべし。里人等(ら)、他日(たじつ)、社(やしろ)へ來(きたり)て、試(こころみ)よ。必(かならず)、其矢、なかるべし。是、吾、魔を射るの證(しやう)とすべし。又、甲殿の一村にて、蛙(かはづ)を河水(かはみづ)に棲(スマ)すまじ。是(これ)、わが戒(いましむ)る所也(なり)。」

と、詫宣(たくせん)し玉ひぬ。[やぶちゃん注:というのは、「堺の浦」と言っていることから、住吉神社の南南西四キロメートル半離れたところにある住吉大社の御旅所(非常に古くからある)である「宿院頓宮(しゅくいんとんぐう)」(大阪府堺市堺区宿院町東のここ。グーグル・マップ・データ)を指すものと思われる。「大手の湊口」これは、「ひなたGPS」の戦前の地図から推理すると、これは甲殿川河口から入ってすぐの「菜切」地区の奥の両岸の「南」・「濱」の一帯に、漁師たちの舟留め場(湊)があったものと思われる。当該の住吉神社はまさに、遡上した場合、それらの地区の「大手」口に当たる位置にあるからである。

 里人、奇特の事におもひ、急ぎ、甲殿の湊口に、祠(ほこら)を新(あらた)に構營(かうえい)して、祈る者は、紙を以て、羽に代(かへ)て、矢に作り、是を、社内に納置(をさめおき)て、毎歲(まいとし)、年蓂(オホトシ)[やぶちゃん注:「蓂」を使う理由はよく判らないが、読みから、大晦日である。因みに、「蓂莢」と言う漢語があり、これは、古代中国の伝説的な聖王堯(ぎょう)の時代に生じたとされる瑞草で、毎月一日から十五日までは、毎日、一葉ずつ生じ、十六日以後は一葉ずつ落ちるという草で、その現象によって、暦を知ったとされるから、そこから「年替わり」の意で、使ったものかと思われる。]、一村、集(あつま)りて、開き見るに、神言(しんげん)の如く、其矢、なかりし、とぞ。

 昔、此事を疑ふ者、有(あり)て、矢を作り、封緘(ふうかん)をして、みづから、是を社內に納置(をさめおき)て、其年の終(おはり)に、里人とともに、宮籠(みやごもり)して、彼(かの)封したる矢を、取出(とりいだ)し、見るに、封は、そのまゝ有(あり)て、矢は、なかりし、と也(なり)。

 此者、初(はじめ)て疑(うたがひ)を、はらし、却(かへつ)て、信心を、おこしける。

 又、里人、

「或夜、深(ふけ)て靜成(しづかな)るに、海上、はるかに、矢の鳴行(なりゆく)音(おと)を聞(きき)し。」

とも、いへり。

 今に至るまで、此村に、かぎり、蛙の絕(たえ)て、生(しやう)ぜざるは、誠(まこと)、神の威德ならずや。

 

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 本川郷三岳山

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題「山內刑部」は「ほんがはがうみたけやま」と訓じておく。なお、国立公文書館本(75)では、冒頭に二行で頭書(朱書)して、『元本ニ如此書込アリ』『竒石ノ部ニ入ヘキカ』とある。]

 

     本川郷三岳山

 本川郷髙㙒・川崎二ヶ村の堺に、峻岩(タカヤマ)【髙山。元本(もとぼん)、如此(かくのごとく)書出(かきいだ)ス。】[やぶちゃん注:「峻岩(タカヤマ)」に対する右傍注。]、古木、繁り、路、極めて險難、其(その)髙峻成(かうしゆんなる)事、四國の中(うち)に髙山(かうざん)多しと云へども、此山に及ぶもの、なし。

 山中に、三つの岳(タケ)、有(あり)。夫故(それゆゑ)に「三嶽山」とも、いへり。

 其中の岳(たけ)を「立不動」といふ。髙サ十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]余也。不動の形にて、石の面(おもて)に火熖(くわえん)の文(もん)あり。晴天の時は、火熖の如く、赤く、又、曇り日(び)か、雨天の時は、其色、淡(ウス)紫色に変ずる、とかや。

「徃古(わうこ)、此所(ここ)に『三滝寺(みたきでら)』といふ、有(あり)。寺の礎(いしずゑ)、今、猶、殘れり。後(のち)に、与州[やぶちゃん注:「予(豫)州」の誤記。後も同じ。]石槌山(いしづちやま)へ引移(ひきうつ)す。」

と、いへり。

 今、按(あんず)るに、与州石槌山は、髙㙒村より、山路(やまぢ)、二、三里を隔(へだて)て、山續き也。徃古、此(この)三岳山を「奧院」と云(いひ)たる事も、あらん。斯(かか)る深山に、寺の有(あり)しも不審也。石槌山は、靈地にて、六月朔日(ついたち)より  十日迠(まで)、參詣をゆるせども、常は禁足の山也。鐵の鎖を手繰(たぐり)て登る山也。此三嶽山も、是に續(つづき)たる靈地成(なる)べし。[やぶちゃん注:「十日迠」の前の二字空けはママ。国立公文書館本(76:右丁五行目中央)でも一字空けがある。]

 

[やぶちゃん注:「本川郷髙㙒・川崎二ヶ村の堺」「三滝寺」旧本川郷の位置と、「三滝」の名から、「ひなたGPS」で調べたところ、現在の高知県土佐郡大川村川崎に「三瀧山」(戦前の地図)=「三滝山」(国土地理院図)を見出した(標高千百十・七メートル)。恐らくは、ここと、この山体にある東北の千百四十六メートルのピークと、東北東の九百二メートルのピーク辺りが、「三岳」の候補となろうかと思われる。ここと、後に出る石鎚山(最高峰は「天狗岳」で千九百八十二メートル。ここが、四国の最高峰である。愛媛県西条市と上浮穴郡久万高原町に跨る)との位置関係をグーグル・マップ・データ航空写真で示すと、これになる。三滝山から西南西、直線で三十・二四キロメートルで、四国山地内にあり、「石鎚山」「に續(つづき)たる」山と言って、問題はない。

「三滝寺」「石槌山へ引移す」石鎚山の来歴を調べたが、「三滝寺」という寺院があったとする資料はなかったが、ky_kochi氏のブログ「茶凡遊山記」の「野地峰(大川村)~拾遺編~」の「妃ヶ淵(きさきがぶち)」(グーグル・マップ・データでここ。三滝山の東北直線で、二・七キロ弱の位置にある)、『『本川郷風土記』によると、都で雨乞いの祈祷を命じられ、見事に雨を降らせた褒美として、禁中より二人の美女を賜った「釈聖善」という高僧がいた』。『この禁中のはからいを心外として都を去り、四国に渡った「釈聖善」は、先ず大北川の死霊寺、次に木屋野の三滝寺』(この記事によって、この寺は、三滝山の南の尾根、或いは、谷、又は吉野川川岸に実際にあったものと推定出来る。グーグル・マップ・データ航空写真を示しておく)『最後は石鎚山に移り』(これも本話と親和性が甚だ強い)、『石鎚信仰を始めたという』(こうなると、実は石鎚山の山岳信仰の根っこに、この「三滝寺」が関わっているという驚天動地の伝承であることが判る!)。『二人の美女は「釈聖善」を慕い、大川村「朝谷」に来て』、『釈聖善のことを尋ねたが、村人からそのような僧は知らないといわれ』、『世をはかなんだ二人は、それぞれ淵に身を投げて命を絶ったと伝えられ、上段の淵を「妃ケ淵」、下段の淵を「下女ケ淵」と呼ぶようになった、とのことである』とあった。「朝谷」は「あさたに」と読み、現在の土佐郡大川村朝谷(グーグル・マップ・データ航空写真)である。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 賣子木

 

Tisyanoki

 

ちさのき 買子木

     【和名

賣子木   加波知佐乃木

      俗云知左乃木】

 

 

マイ ツウ モフ

 

本綱賣子木生嶺南山谷中木高五七尺徑寸許春生嫩

枝條葉似𣐈而尖長一二寸俱青綠色枝稍淡紫色四五

[やぶちゃん字注:「𣐈」は「柹」=「柿」の異体字。]

月開碎花百十枝圍攅作大朶焦紅色隨花便生子如椒

目在花辨中黒而光潔毎株花裁三五個大朶爾

氣味【甘微鹹】 治折傷血內溜續絕補骨髓止痛【枝葉子同功】

 六帖我かことく人めまれらに思ふらし白雲深き山ちさの花

△按賣子木今謂知佐乃木者與此形狀大異

 知佐乃木𠙚𠙚山中有最丹波多之高者二三𠀋徑一

 二尺皮粉青白色老則淺褐色中心白其葉似梅嫌木

 葉而尖長二寸許靣青背淡冬凋春生三四月開花不

 碎而小白單辨似野梅花而朶稍長垂不作大朶伹毎

 二三攅生耳結實狀如小蓮子初青後黒殻堅肉白色

 山雀喜食之其材稠堅堪作枵杖又作傘之轆轤伐樹

 則嫩蘗生於株昜長採之作箕之緣

 

   *

 

ちさのき 買子木《ばいしぼく》

     【和名、

賣子木  「加波知佐乃木《かばちさのき》」。

      俗に云ふ、「知左乃木」。】

 

 

マイ ツウ モフ

 

「本綱」に曰はく、『「賣子の木」は、嶺南[やぶちゃん注:現在の広東省・広西省。]の山谷の中に生ず。木≪の≫高さ、五、七尺。徑《めぐ》り、寸許《ばか》り。春、嫩--條《わかえだ》を生ず。葉、𣐈《かき》に似て、尖《とが》り、長さ、一、二寸。俱《とも》に青綠色。枝の稍《さき》、淡紫色。四、五月に碎≪けたる≫花を開く。百≪枝≫・十枝、圍《かこみ》、攅《さん》して[やぶちゃん注:群がって。]、大≪きなる≫朶《ふさ》を作《な》し、焦《こげたる》紅色≪なり≫。花に隨《したがひ》て、便《すなは》ち、子《み》を生ず。子、椒《せう》の目(もく)[やぶちゃん注:双子葉植物綱コショウ目コショウ科コショウ属 Piper ・ナス目ナス科トウガラシ属 Capsicum ・ムクロジ目ミカン科サンショウ属 Zanthoxylum などの香辛系の植物のグループ(現在の分類学と同じ生物群のタクソン「目」と同じ使い方)を指すか、或いは、文字通り、「目」(め)のように丸いそれらの種群の「粒状の種(たね)」のことであろう。後者の方がすんなりと腑に落ちる。]の如し。花辨の中に在り。黒《くろく》して、光潔《くわけつ》なり[やぶちゃん注:澄んだ光りを放つような清らかさを言う。]。株《かぶ》毎《ごと》≪に≫[やぶちゃん注:ㇾ点はないが、返して読んだ。]、花、裁に、三、五個、大朶《おほふさ》のみ。』≪と≫。[やぶちゃん注:「裁」の読み方が判らない。「に」を無視するなら、「花の裁(やうす)」と読むなら、納得出来る。東洋文庫訳は『株ごとに三、五個の花がつく。』とある。]

『氣味【甘、微鹹《びかん》。】』『折傷《うちみ》≪して≫、血、內《うち》に溜《たま》るを治す。《骨の》絕《たち》たる[やぶちゃん注:「折れたのを」。]を續《つな》ぎ、骨髓を補ひ、痛《いたみ》を止《とむ》【枝・葉・子、功を同≪じくす≫。】。』≪と≫。

 「六帖」

   我がごとく

      人めまれらに

    思ふらし

       白雲深き

        山ちさの花

△按ずるに、「賣子木」は、今、「知佐乃木」と謂ふ者と、此れと、形狀、大いに異にして、[やぶちゃん注:この下の四字空けは、二つが、同じものでないことを示すためのものらしいので、そのまま改行しておく。]

「知佐乃木」は、𠙚𠙚《しよしよ》≪の≫山中に有り。最も、丹波、之れ、多し。高き者は、二、三𠀋、徑《めぐ》り、一、二尺。皮、粉《うすき》青白色。老する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、淺褐色。中心、白く、其の葉、「梅嫌木(うめもどき)」に似《にて》、葉、尖《とが》り、長さ、二寸許《ばかり》。靣《おもて》、青く、背《せ》、淡《あは》し。冬、凋ぼみ、春、生じ、三、四月、花を開く。花、碎けずして、小《ちさ》く、白《しろし》。單-辨(ひとへ)≪にして≫、「野梅《のうめ》」の花に似て、朶《ふさ》、稍《やや》長《ながく》垂《たる》る。大朶《おほふさ》を作《な》さず、伹《ただ》、毎《つねに》、二、三、攅生《むらがりてしやう》≪ずる≫のみ。實を結ぶ≪も≫、狀《かたち》、小≪さき≫蓮《はす》≪の≫子のごとく、初《はじめ》は、青、後《のち》、黒く、殻、堅《かたく》、肉、白色。山雀《やまがら》、喜んで、之れを食ふ。其の材、稠堅《ちうけん》[やぶちゃん注:ぎゅっと締まっていること。]にして、枵杖(をうこ[やぶちゃん注:ママ。「枴(あうこ)」(現代仮名遣「おうこ」)で、「山仕事に用いる天秤棒」のこと。])作≪るに≫堪《たへ》、又、傘≪を作る折り≫の轆轤《ろくろ》に作《な》す。樹を伐れば、則ち、嫩-蘗(わかばへ[やぶちゃん注:ママ。「若生(わかば)えの芽」の意。])、株《かぶ》より生《しやうず》。長《ちやう》じ昜《やすし》。之れを採りて、「箕(み)」の緣(ふち)に作《なす》。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫の後注で、『中国の売子木はアカネ科サンダンカ(サンタンカ)、日本のチシャノキはエゴノキ科。』とする。これに従うなら、

中国の「賣子木」は双子葉植物綱リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科サンタンカ属サンタンカ Ixora chinensis

となる。「維基百科」の同種のそれは「仙丹花」とし、別名を『還有紅繡球・買子木賣子木三段花』とするので、正しい。それに対して、

日本の「賣子木」はムラサキ目ムラサキ科 Ehretioideae 亜科チシャノキ(萵苣の木)属チシャノキ Ehretia acuminata

である。「維基百科」の同種は「厚壳树」である。良安は、ここでは、明らかに違った種であることを認識している点で、今までの完全アウトな評言や、ダンマリ放置プレーより、遙かに救われている。

 まず、ウィキの「サンタンカ」を引く(注記号はカットした。原産地の記載順序を変更してある)。『赤い花を』、『多数』、『纏めて』、『つけ、非常に美しい』。『中国南部からマレーシアにかけてを原産とする。現在では九州南部までに帰化した例がある』。『沖縄や久米島では古くより逸出して野生状態でも見られる』。『沖縄には古くに入り、沖縄と九州の一部では野生化している』。『常緑性の低木。樹高は』一~三メートル『になり、全株』、『無毛。節ごとに托葉があり』、三『角形か広』三『角形で』、『先端は針状に尖って突き出し、長さ』三~七ミリメートル。『葉は倒卵状楕円形で先端は尖らず、基部は次第に細くなって短い葉柄に続く。葉身の長さは』五~十三センチメートル、『幅は』二~六センチメートル『で、葉柄の長さは』一~四ミリメートル。『花は主に』七~八『月に咲くが、ほぼ通年に見ることが出来る。花序全体が紅色をしている。花序は茎の先端に出る集散花序で、多数をまとめてつける。萼筒は長さ』一ミリメートル、『先端が』四『つに裂けており、その裂片は広卵形で先端が丸く、長さ』一ミリメートル『ほど。花筒は長さ』二~三センチメートル、『幅』一ミリメートル『ほど、外面は無毛、花筒の内側には軟らかな毛を密生するが』、『外側の面は無毛。花筒の先端は』四『つの裂片に裂け、それぞれの裂片は倒卵円形で先端は丸くて長さ』五~七ミリメートル、『幅』四~六ミリメートル。『葯は細長く』、『葯は花筒から抜け出て』、『伸び出す。花柱は細長くて長さ』二・五~三・五センチメートル、『軟らかな毛がまばらにある。液果は横長の球形で縦向きに走る溝があり、長さ』四ミリメートル、『幅』五ミリメートル。『熟すと紅紫色になる。種子は径』三ミリメートルである。『名前はサンタンカは山丹花、別名をサンダンカ(三段花)といい、福岡』(一九九七年)『はその由来は不明としている。三段花については佐竹他』(同年)『は当て字であろうとしている』。『天野』(一九八二年)『は、昔、南中国の奥東潮州』(現在の広東省潮州市附近(グーグル・マップ・データ)か)『の黄という婦人がおり、彼女が潮州の仙丹山を通る際に簪を落とし、それがこの花に化し、それ以降仙丹山にはこの花が多い、という伝説を紹介している』。『現在では同属の多くの種が持ち込まれて流通しているため、園芸方面では学名仮名読みのイクソラがよく通じるという』。『サンタンカ属には世界の熱帯域に』三百から四百『種があり、日本の在来種はない。その中で本種が最も古くに日本に導入された種である。他によく栽培されているものとしてはベニデマリ I. coccinea が挙げられる。この種の変種であるキバナサンタンカ I. coccinea var. lutea も普及している。また』、『花の白いシロバナサンダンカ I. parvoflora は本種の白花ではなく別種である。また』、『より赤みが強く弁が細いダッフィー I. duffi も熱帯アジアで大型の庭木や生け垣に使われる』。『名前の上で似ているものにクササンタンカ Pentas lanceolata があり、花の様子などが似ていることからこの名があるが、別属であり、またこの種は熱帯アフリカ原産である』。『花が美しいことから観賞用に栽培される。薬用とされたこともある』。『沖縄では古くより栽培され、時に琉球の三名花の一つとされる。日本本土には江戸の中期(正保年間』(一六四四年~一六四七年)とも)に琉球から江戸に入ったと見られ、三段花と呼ばれた。坂上登の』「琉球植物志」(明和七(一七七〇)年刊)に『初めて出てくる他、岩崎灌園の』「本草圖譜」(文政一一(一八二八)年完成)に『図が出ている』。『園芸品種としては白花の 'Alba' や』、『濃橙色のディクシアナ 'Dixiana' が有名である』。『日光によく当てることが必要で、日射不足では軟弱になり、また』、『花付きが悪くなる。低温への耐性もあり』、摂氏五~八度『越冬出来るが、開花には』十五度『以上を必要とする』とある。

 次いで、ウィキの「チシャノキ(ムラサキ科)」を引く(注記号はカットした)。『和名は、若葉の味がチシャに似ていることから。また、樹皮や葉がカキノキに似ていることから、カキノキダマシともいう』。『花期は』六『月から』七『月で、枝先に小さな白い花を多数つける』。『樹皮にタンニン、アラントイン、蔗糖(スクロース)を含む。アラントインは地下部に多く、上に行くに従って減少し、葉には含まれない』。『中国・四国・九州の西日本。琉球諸島、台湾、中国、インド、オーストラリア』に分布し、『福岡県と高知県には、国の天然記念物に指定されている大木がある』とある。記載が貧しいので、小学館「日本大百科全書」のチシャノキを引いておく。『ムラサキ科(APG分類:ムラサキ科)』Boraginaceae『の落葉高木。樹皮は小鱗片』、『になって』、『はがれ、樹形および葉がカキノキに似るので、カキノキダマシともいう。葉は互生し、倒卵状長楕円』『形で』、『長さ』十~十七『センチメートル、先は短くとがり、基部はくさび形、縁(へり)に浅く切れ込む鋸歯』『がある。質はやや厚く、長さ』一・五~三『センチメートルの葉柄がある』。六~七『月、枝先に円錐』『花序をつくり、白色の小花を多数密に開く。花冠は深く』五『裂し、径約』五『ミリメートル。雄しべは』五『本。果実は球形で径』四~五『ミリメートル』、八~九『月、橙黄(とうこう)色に熟す。低地に生え、中国地方西部、四国、九州、沖縄、および中国中南部などに分布する』。『材は黄白色で、建築、家具、器具材とし、樹皮および材から染料をつくる。また』、『庭木にもする』。なお、『エゴノキ科のエゴノキ』(ツツジ目エゴノキ科 Styracaceaeエゴノキ属エゴノキ Styrax japonicus )『もチシャノキとよばれることがあり、歌舞伎』「伽羅先代萩」に『出てくるチシャノキはエゴノキのことである。チシャノキ属は世界の熱帯を中心に約』五十『種ある』とあった。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「賣子木」([088-76b]以下。非常に短い)のパッチワークである。

「六帖」「我がごとく人めまれらに思ふらし白雲深き山ちさの花」「古今和歌六帖」の「第六 木」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」のそれの、ガイド・ナンバー「04324」で確認した。

「梅嫌木(うめもどき)」モチノキ目モチノキ科モチノキ属ウメモドキ Ilex serrata 当該ウィキを参照されたい。

「野梅《のうめ》」バラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mume の山野に自生する自然種個体を指す。

「山雀《やまがら》」朝鮮半島及び日本(北海道・本州・四国・九州・伊豆大島・佐渡島・五島列島)に分布するスズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ亜種ヤマガラ Parus varius varius。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 山雀(やまがら) (ヤマガラ)」を見られたい。

「箕(み)」穀物の殻・塵などを除く道具。]

2024/10/11

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 山內刑部

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここの三行目三字目から。前の話に、字空けさえもなく、そのまま続いているが、全く異なる話である。標題「山內刑部」は「やまのうちぎやうぶ」と訓じておく。]

 

     山內刑部

 山內刑部は、豊州永原の人、一豊公(かずとよこう)[やぶちゃん注:かの山内一豊。底本では、敬意の字空け(二字分)が頭にある。]、御入國の節、知行二千五百石、外(ほか)に御代官料千石被下(くだされ)、都合、三千五百石にて。長岡郡(ながをかのこほり)本山(もとやま)土居(どゐ)[やぶちゃん注:これは「城・館(やかた)の周囲に、外敵から守る備えとして設けた土の垣(かき)」を指す語で、ここはその山城の麓の城屋敷のこと。私もしばしばお世話になる、強力な城郭研究の個人サイト「城郭放浪記」の「土佐本山土居屋敷」を見られたい。地図もある。]を預りて、其後(そののち)、本山にて病死す。[やぶちゃん注:この「山內刑部」は土佐藩家老永原一照(ながはらかつあき)の別名である。当該ウィキを見られたい。因みに、彼は、かの板垣退助の先祖である。但し、彼は尾張国生まれである。ただ、彼の『祖先は宇多源氏佐々木氏支流である山崎氏支流の永原氏』であり、この永原氏は、注で、『近江国野洲郡永原村を領して永原氏を称した』とある。にしても、「豊州」=豊前ではない。何か、錯誤がある。

 嫡子但馬(たじま)、俸祿・格式共(とも)、無相違(さういなく)、相續(さうぞく)し、室は毛利次郞九郞娘【豊前永原の城主也、】、毛利壹岐守殿、養育にて、當國に被居(をられ)候を、見性院殿(けんしやうゐんどの)【一豊公御室。】、御所望被遊(あそばされ)、但馬が妻に被遣(つかはさる)。別(べつし)て、御恩、厚かりしが、但馬、生得(しやうとく)、愚昧にして、朝暮(てうぼ)、殺生を好み、其上、奢恣(しやし)[やぶちゃん注:贅沢を恣(ほしいまま)にすること。]の行跡(ぎやうせき)、兼〻(かねがね)、思召(おぼしめし)にも不叶(かなはざり)し、とかや。[やぶちゃん注:ウィキの「永原一照」の「系譜」によれば、長男山内一長(?~寛永一七(一六四〇)年:金右衛門、後に但馬を名乗った)『家禄は』千二百五十『石』十六『人扶持』二『歩半で、元和』六『年』(一六二〇年)『に父が歿して後、その跡式を継いだが、元和』八『年』『(一六二二年)』、『大坂城石垣普請に対し』、『藩主より叱責を受けた。滝山一揆ののち善政を布いた父』『一照と異なり、領民からも不満の声があったため、同年』十二『月、所領を没収され、捨扶持』三十『石のみを与えられ』、二『人の子供を連れて佐川深尾家にお預けの身となる。寛永』一七(一六四〇)年二『月、名誉回復のされないまま』、『配流地の佐川で歿した』とある。]

 或時、但馬、殺生にゆかれし道にて、出家に行逢(ゆきあひ)ぬ。如何成(いかなる)意趣や有(あり)けん、其儘、出家を殺害(せつがい)せられける。

 夫(それ)より三年に及(および)て、元和六年庚(かのえ)中(うち)、忠義公、御在府の節、於江戶(えどにおいて)、「八幡」の二字、班(フ)に明白に[やぶちゃん注:底本には「に」はない。国立公文書館本74:左丁三行目)で補正した。]見ゆる、鷹一本、賣(うり)に出(いで)けるを、御買求被遊(おかひもとめあさばさる)。

 鷹の出所(でどころ)、御尋有(おたづねあり)けるに、

「土佐國、本山鷹(もとやまのたか)。」

の段(だん)、申上(まうしあげ)ければ、忠義公[やぶちゃん注:底本には、同前の字空けあり。]、被仰(おほせらるる)は、

「珍敷(めづらしき)鷹、領内より出(いづ)る事、甚(はなはだ)、不審也。手痛、詮義仕候樣(つかまつりさふらふやう)。」

に被仰出(おほせいださる)。

 依之(これにより)、穿鑿有(せんさくあり)けるに、但馬、領內本山にて、隣國、讚岐へ賣(うり)に出候段(いでさふらふだん)[やぶちゃん注:「に」が欲しい。]及(および)、露顯、且(かつ)、

「爾來(じらい)、不心行旁(ふしんぎやうかた)。」[やぶちゃん注:「以来、思慮分別に欠ける行為が堪忍の度を越しておる!」という意味であろう。]

を以(もつて)、元和六年十一月五日、知行、被召上(めしあげられ)、三十(イ五)人扶持[やぶちゃん注:この傍注の「イ」は書誌学的記号であって、「異本」「一本」の略。書物を校合(きょうごう)して、異本の字句を傍注する時に用いる符号。されば、これは異本では「三十扶持」ではなく、「五人扶持」ということであろう。しかし、実際には先の記載では、元が十六人扶持二歩半であったものが、捨扶持三十石のみに落とされているので、おかしい。]被遣佐川へ(さがはへつかはされ)、御預(おあづけ)也(なり)。

 但馬、嫡子は、自殺す。[やぶちゃん注:ウィキの「永原一照」の「系譜」によれば、先の通りで、死を自殺とはしていない。しかし、失意の果て、自殺した可能性もあろう。]

 二男(じなん)を「命也(メイヤ)」とふ【本ノ云ふカ】[やぶちゃん注:左右にルビする。これは「とふ」を『本原本では「と云ふ」であったか?』の意か。或いは彼の幼名ということか。後注するが、この照一の次男は山内(主君の姓を賜ったもの)平九郎で、後に乾正行金右衛門と称している。当該ウィキを見られたい。]、吶(ドモリ)也(なり)。此(この)命也へ、廿人扶持被下(くだされ)、長壽にて、正保年中[やぶちゃん注:一六四四年から一六四八年まで。慶安の前。]、病死す[やぶちゃん注:同人のウィキによれば、生年不詳で、慶安二年十二月十八日(一六五〇年一月二十日)に病死とある。]。

 其子(そのこ)、名、不知(しれず)、佐川にて出生(しゆつすやう)故(ゆゑ)、御扶持不被遣(つかはされず)、佐川より、二人扶持被下(くだされ)、流浪(るらう)の躰(てい)なり。[やぶちゃん注:次男乾正行金右衛門には、乾正祐・乾正直・乾友正がいるが、その内の誰かは判らない。]

 其子、永原惣次、寬延三年正月[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七五〇年二月七日から三月七日相当。]、被召出(めしだされ)、五人扶持廿四石被下(くだされ)けるが、痴鈍(アホウ)にて、斷絕せし、とかや。[やぶちゃん注:「永原惣次」不詳。]

 又、但馬舍㐧(しやてい)[やぶちゃん注:ここは「義理の弟」の意であろう。]に權右衞門といふ浪人、有(あり)。沒落の砌(みぎり)、此人は播磨へ【姬路。】立退(たちのき)ぬ。其節、妾(めかけ)、姙娠(にんしん)にて、

「若(もし)、男子(だんし)、成(な)らば、遣はせ。」

とて、脇差を殘し置(おき)けるに、果して、男子、生(うま)れ、今、其(その)末孫(ばつそん)、本山郷(もとやまがう)の小夫(こヅカヒ)をして居(を)る由。去れども、所の者は「山內殿」と、いふ、とぞ。[やぶちゃん注:この人物、不詳。]

 又、本山上関(かみぜき)に「おそごへ」と云(いふ)所、有(あり)。其所(そこ)に、半五右衞門といふ百姓も、權右衞門曾孫(そうそん/ひこ)[やぶちゃん注:「曾孫(ひまご)」。]、とかや。[やぶちゃん注:「本山上関」長岡郡本山町上関(グーグル・マップ・データ)。「おそごへ」本山町上関遅越(おそごえ)の誤り。グーグル・マップ・データ航空写真で見ると、現在も小さな集落がある。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 名野川村明神山

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「なのがはむら みやうじんやま」と訓じておく。]

 

     名野川村明神山

 吾川郡(あがはのこほり)名㙒川村に、「中津明神山(なかつみやうじんやま)」とて、城跡、有(あり)。

 里人(さとびと)、傳云(いひつたへいふ)、

「昔、平宗盛公、沒落の時、一門達(いちもんたち)、此山中(このyさんちゆう)に籠(こも)りて、築(きづき)たりし城。」

とかや。

 今、猶、隍(ホリ)、あり、又、井戶の跡、有(あり)。

「此山、峻絕(ケハシキ)、甚し[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本73)も同じ。「近世民間異聞怪談集成」では、ここに『(こと)』と編者補正がある。]。山、八分(はちぶ)以上は、假令(たとひ)、山人(やまびと)の輩(やから)も、登る事を不得(えず)。」

と、いへり。

 誠に、人力に難及(およびがたき)事也(なり)。

 いかなる人か、すみけん、知(しる)者、なし。

 此所(このところ)より、橫倉山へも近かるべし。

 

[やぶちゃん注:「名野川村」は現在の吾川郡(あがわぐん)仁淀川町(によどがわちょう)名野川(なのかわ:グーグル・マップ・データ)の周囲を含む江戸時代の旧広域。「ひなたGPS」の戦前の地図と国土地理院図で、『中津山』『(明神山)』、及び、逆転した『明神山』『(中津山)』を確認出来る(標高千五百四十・六メートル)。前者によって、ここは昔、名野川村と、西の中津村の村境のピークであったことが判る。

「山人(やまびと)」ここは、かく訓じて、「山に住む人・山で働く人・樵(きこり)や炭焼きなど」の意である。

「橫倉山へも近かるべし」「橫倉山」(標高七百七十五メートル)は高岡郡越知町(おちちょう)越知丁(おちてい)のここ(グーグル・マップ・データ(以下同じ)で、右下方にポイント。左中央に「明神山城跡(中津山)」を配したが、これ、直線で十五キロメートル離れる。まあ、山のピークのことだから、近いと言えば、近いとも言えるが、仁淀川(によどがわ)を隔てており、この山は有意に低い。山屋の感覚では、近くには見えるが、山体が繋がっているわけではないから、「近い」とは言わないな。しかし、敢えてここで、この山を「近い」と言い、わざわざ添えたのは、この山頂東直近には、実は各地に伝承される「安徳天皇陵墓参考地」の一つがあるからである。ここだ。

2024/10/10

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 比江山掃部

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここ。標題は「ひえやまかもん」と訓じておく。]

 

     比江山掃部

 比江山掃部親興(ひえやまかもんちかおき)は、長岡郡(ながをかのこほり)比江村、日吉の城主にて、元親(もとちか)の家族也。

 此時、大髙坂城、普請、半(なかば)にて、掃部介、居宅は、城中、西槨(にしのかく)、權現の社(やしろ)の下、南の方(かた)にて、是(これ)も、普請の下知(げち)して居(をり)ける所に、今度(このたび)、世繼(よつぎ)評定の節、吉良(きら)左京進と倶(とも)に諫言致されしを、久武內藏助(ひさたけくらのすけ)が讒言(ざんげん)に依(より)て、中嶋吉右衞門・橫山修理(しゆり)を檢使に遣(つかは)し、詰腹(つめばら)、切らせける。

 其時、子息は、比江より新改(しんがい)へ落(おち)られしが、比江より、植田(うへた)へ行(ゆく)所に、川、有(あり)。其邊にて、植田村の者に行逢(ゆきあひ)て、

「新改の方(かた)へ落行(おちゆき)し事、隱してくれよ。」

と、賴まれしに、彼(かの)者、受合(うけあひ)ながら、追手のものへ、有(あり)のまゝに、つげたりしかば、新改へ、追掛(おひかけ)て、あへなく、殺せし、とかや。

 然(しか)るに、右の祟りにや、

「今に至るまで、植田の者は、此(この)川のほとりにて煩付(わづらひつ)けば、死するもの、數〻(かずかず)有り。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:「比江山掃部親興」(?~天正一六(一五八八)年)は別名を長宗我部掃部助と称した。当該ウィキによれば、『長宗我部氏の家臣。土佐国比江山城』(現在の南国市比江にある「比江山神社」(グーグル・マップ・データ)が旧跡)『主。長宗我部元親』(「安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊」で既注)『の従兄弟』。『長宗我部国親の弟・国康の子として誕生。土佐比江山城主であり』、『比江山氏を名乗る』。『四国征伐では阿波岩倉城を守備』した。『元親の長男・長宗我部信親が』、「戸次川(へつぎがわ)の戦い」(当該ウィキによれば、『豊臣秀吉による九州平定の最中である』天正一四年十二月十二日(一五八七年一月二十日)に、『島津家久率いる島津勢と長宗我部元親・長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保が率いる豊臣勢の間で行なわれた戦い。この合戦は九州平定の緒戦で、豊臣勢が敗退した』とある)で『死去した後の長宗我部氏の後継者騒動の際』、『元親の怒りを買い』、天正一六(一五八八)年十月四日、『または』九『月下旬』『に切腹させられた』。『この時』、元親の弟で長宗我部氏家臣で、長宗我部中村城主・吉良親貞の子。吉良城・蓮池城主であった『吉良親実』(きらちかざね)『も切腹させられた(異説あり)』(ウィキの「吉良親実」によれば、『親実による天正』一七年九月十日(一五八九年十月十九日)『付の西諸木若一王子』(にしもろぎにゃくいちおうじ)『の棟札が現存しているため、親実の切腹は比江山親興と同時ではなかったことが判明する。また』、「長宗我部地検帳」の中でも』、天正一九年一月1十六日(一五九一年二月九日)『の作成期日が確認できる高岡郡鎌田村の地検帳にて蓮池上様(親実の妻である元親の娘)に直接』、『知行が宛がわれており』、『彼女が既に未亡人として実父元親から直に所領を与えられる立場であったことも確認できるため、吉良親実が切腹を命じられたのは天正』十七年九月以降で、天正十九年一月『以前であったと推定される』とある)『他、親興の室と二人の子供も、その一報を聞き逃げる道中もしくは善勝寺にて殺害されたとされている。親興やその妻子、寺の住職など』七『人が殺害または自害し、その死霊が「七人ミサキ」となったという「比江山七人ミサキ」という伝承が残っている』とある。この「七人ミサキ」は当該ウィキがあるので、それを引く(注記号はカットした)。『高知県を始めとする四国地方や中国地方に伝わる集団亡霊』伝承で、『災害や事故、特に海で溺死した人間の死霊』とされ、『その名の通り常に』七『人組で、主に海や川などの水辺に現れるとされる』。『七人ミサキに遭った人間は高熱に見舞われ、死んでしまう』。一『人を取り殺すと』、『七人ミサキの内の霊の』一『人が成仏し、替わって』、『取り殺された者が七人ミサキの内の』一『人となる。そのため』、『七人ミサキの人数は常に』七『人組で、増減することはないという』。『この霊の主は様々な伝承を伴っているが、中でもよく知られるものが』、「老圃奇談」・本書「神威怪異奇談」『などの古書にある土佐国』『の戦国武将・吉良親実の怨霊譚である。安土桃山時代、吉良親実は伯父の長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親の死後、その後嗣として長宗我部盛親を推す元親に反対したため、切腹を命ぜられた。そのときに家臣たち』七『人も殉死したが、それ以来』、『彼らの墓地に様々な怪異があり、親実らの怨霊が七人ミサキとなったと恐れられた。それを耳にした元親は供養をしたが』、『効果はなく、怨霊を鎮めるために西分村益井(吾川郡木塚村西分、現・高知市春野町西分』(にしぶん)『増井』(ますい))の墓に木塚』(きづか)『明神を祀った。これが現存する吉良神社』(ここ。グーグル・マップ・データ)『である。また』、「土陽陰見奇談」・「神威怪異奇談」に『よれば、親実と共に元親に反対した比江山親興も切腹させられ、妻子たち』六『人も死罪となり、この計』七『人の霊も比江村七人ミサキとなったという』。『また』、『広島県三原市には経塚または狂塚と呼ばれる塚があったが、かつて凶暴な』七『人の山伏がおり、彼らに苦しめられていた人々が協力して山伏たちを殺したところ、その怨霊が七人ミサキとなったことから、その祟りを鎮めるためにこの塚が作られたのだという』。『ほかにも』、『土地によっては』、『この霊は、猪の落とし穴に落ちて死んだ平家の落人、海に捨てられた』七『人の女遍路、天正』一六(一五八八)年『に長宗我部元親の家督相続問題から命を落とした武士たち、永禄時代に斬殺された伊予宇都宮氏の隠密たちなど、様々にいわれる』。『山口県徳山市(現・周南市)では、僧侶の姿の七人ミサキが鐘を鳴らしながら早足で道を歩き、女子供をさらうという。そのため』、『日が暮れた後は』、『女子供は外出しないよう戒められていたが、どうしても外出しなければならないときには、手の親指を拳の中に隠して行くと七人ミサキの難から逃れられたという』とある。

「久武内藏助」(?~天正七(一五七九)年)は長宗我部氏家臣。当該ウィキによれば、『通称は内蔵助。名は親定とも』。『土佐国(現・高知県)の武将・久武昌源の子として誕生。弟に久武親直がいる』。『土佐国の戦国大名・長宗我部元親に仕え、その誠実な性格から元親に重用され、高岡郡佐川城を与えられた』。天正五(一五七七)年、『伊予国南部(現・愛媛県南予地方)方面の軍を担当する総指揮権(伊予軍代)を与えられ、川原崎氏を討つ。しかし、天正』七年『に伊予宇和郡岡本城を攻撃中に、城を守る土居清良』(どいきよよし)『の奇略に遭って』、『討ち死にした』。『親信は有馬温泉で羽柴秀吉と会見したことがあり、そのとき、秀吉の器量のほどを知ったといわれている』。『弟・親直へは』、『常々』、『危惧を抱き、岡本城攻防戦で討死する直前、主君・元親に向けて「弟の彦七(親直)は腹黒き男ゆえ、お取立て召されるな」と言い残したといわれている。この危惧は的中し、親直は讒言を繰り返し』、『反対派を粛清、元親の跡を継いだ四男・長宗我部盛親の代になっても盛親の三兄・津野親忠の殺害に絡むなど暗躍したため』、「関ヶ原の戦い」『での敗戦後に長宗我部氏を改易へ導く要因となった』とある。

「新改」現在の香美市土佐山田町新改しんがい:グーグル・マップ・データ。中央下に比江山城跡である比江山神社を配してある。拡大されると神社名が出る)。

「植田」現在の南国市植田うえた:グーグル・マップ・データ)。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 幡多郡籠原川

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「はたのこほりこみはらがは」と訓じておく。]

 

     幡多郡籠原川

 幡多郡蜷川村(みながはむら)の內(うち)、籠原(コミハラ)と云(いふ)所に、一宮親王(いちのみやしんわう)の旧跡あり。

 其所(そこに)に龍原川と云(いう)あり。

「此(この)川は、親王の用水なりし。」

とぞ。

 今に、不淨を洗へば、忽(たちまち)、祟り、有(あり)。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡籠原川」「蜷川村」「一宮親王の旧跡」現在の幡多郡黒潮町蜷川(みながわ:グーグル・マップ・データ)に「尊良親王 (王野山)大野山行在宮」(あんざいのみや)跡がある。これは、後醍醐天皇第一皇子尊良(たかよし/たかなが)親王の配流所であった。当該ウィキ(注記号及び出典はカットした)によれば、『元弘元』(一三三一)年に『発生した』「元弘の乱」『では』、『父と共に笠置山に赴いたが、同城が落ちる前に楠木正成の立てこもる下赤坂城に移った。しかし』、十月三日、『幕府軍に捕らえられ、佐々木大夫判官の預かりの身となった。同月』十『日に検知を受け』、十二月二十七『日に土佐国への流罪の判決が下り、翌年』三『月』『に京都を出立して土佐に流された』。『しかし、尊良親王は土佐を脱出して九州に渡り』、元弘三/正慶二(一三三三)年、『江串』(えのくし)『氏を味方につけて九州で挙兵した』。『鎌倉幕府の九州統治機関である鎮西探題が滅亡し』、『その長の赤橋英時が敗死すると』、五月二十六日、『大宰府に入った』。『その後、父の建武の新政が始まると、京都に帰還した』。鎌倉幕府滅亡の二年後の建武二(一三三五)年、『後醍醐天皇が足利尊氏の行動を疑問視して兵を出し、建武の乱が発生すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが、敗退した。翌』延元元・建武三(一三三六)年、『一度は九州に落ちた尊氏が』、『力を盛り返して上洛すると、後醍醐天皇は尊氏への降伏を決定する。しかし』、十月九日、『義貞の別働隊が編成されると、異母弟である皇太子恒良親王と共に義貞に奉戴されて北陸に逃れ、翌日』、『越前国金ヶ崎城に入った』。翌年の一月、『尊良親王が拠った金ヶ崎城に、高師泰と足利高経(斯波高経)を主将とする足利軍が攻めて来る(金ヶ崎の戦い)。尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き』、三月六日、『自害、義顕や他の将兵』百『余人もまた戦死した』とある。

「龍原川」この名の川は現行では見出せない。行宮との位置関係から見て、現在の「蜷川」の旧名か、その上流の分岐した谷川の名かと思われる。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 黃楊木

 

Tuge

 

つげのき

      和名豆介

黃楊木 附《つけた》り いぬつけ

         狗黃楊

          びんからず

ハアン ヤン モツ 言不爲櫛也

 

本綱黃楊木生山野中人家多栽揷之枝葉攅簇上聳葉

似初生槐芽而青厚不花不實四時不凋其性難長俗說

歳長一寸遇閏則退今試之伹閏年不長耳其木堅膩作

梳剜印最良世重黃楊以其無火也用水試之沉則無火

凡取此木必以陰脢夜無一星伐之則不裂。

[やぶちゃん字注:」(音「バイ・メ・マイ」)は「背中の肉・背骨の周りの肉」の意であり、意味が通らない。「陰」と「夜」を挟んで「曇った晦(くら)い夜」の意であるから、「晦」の誤字と断ずる。訓読では「晦」に代えた。

葉【苦平】治婦人難產入達生散中用

 夫木賤の女かかしらけつらす朝夕につけのを櫛やとるまなからん爲家

△按黃楊木葉似槐葉而小又似白丁花木葉而四時不

 凋無花實其木心色黃白材堅剜印作櫛或爲象戲棊

 子佳琉球及屋久島之產最良豆州之者次之

狗黃楊 葉比眞黃楊小厚色亦㴱綠七月結實狀大如

[やぶちゃん注:「㴱」は「深」の異体字。]

 山椒青色冬熟正黒色人家多栽之四時不凋其美比

 于松柏伹葉淡青無實爲眞黃楊如雌與雄然不載於

 本草者中𬜻無之乎

 

   *

 

つげのき

      和名、「豆介《つげ》」。

黃楊木 附《つけた》り 「いぬつげ」

                狗黃楊

              「びんからず」

ハアン ヤン モツ 言ふ心は、櫛《くし》に爲さざればなり。

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「心」は送り仮名にある。]

 

「本綱」に曰はく、『黃楊木《わうやうぼく》、山野の中に生《しやうず》。人家、多《おほく》。栽《うゑ》て、之れを揷《さしぎ》す。枝・葉、攅-簇《さんぞく》して[やぶちゃん注:集まり群がって。]、上《のぼ》り、聳(そび)ゆ。葉、初生の槐《えんじゆ》の芽に似て、青《あをく》、厚《あつし》。花、あらず≪して≫、實《み》のらず。四時、凋まず、其の性、長じ難《がたく》、俗說に、「歳《とし》ごとに、長《ちやうず》ること、一寸。閏《うるふ》[やぶちゃん注:旧暦の「閏月」のある「閏年」。]に遇ふ時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、退《しりぞ》く[やぶちゃん注:逆に退行して低くなってしまう。]。」≪と≫。今、之れを試るに、伹《ただ》、閏年には、長ぜざるのみ≪なり≫。其の木、堅《かたく》、膩《つややか》にして、梳(くし)に作り、印に剜(ほ)りて、最《もつとも》良し。世に、「黃楊を重《おもん》ずることは、其れ、「火《くわ》」[やぶちゃん注:五行の「火」のこと。]、無きを以つてなり。」≪と≫。水を用ひて、之れを試む≪に≫、沉《しづ》む時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、「無火」≪たり≫[やぶちゃん注:「火」の性がないことが判る。]。凡そ、此の木を取るに、必《かならず》、「陰--夜(《く》らきよ)」を以つて、一つも、星、無きを《✕→時に》、之れを伐(き)れば、則ち、裂けず。』≪と≫。

『葉【苦、平。】婦人≪の≫難產を治す。「達生散」の中に入れて、用《もちふ》。』≪と≫。

 「夫木」

   賤《しづ》の女《め》が

        かしらけづらず

       朝夕に

         つげのを櫛《ぐし》や

        とるまなからん      爲家

△按ずるに、黃楊木《つげのき》の葉、「槐」の葉に似て、小さし。又、「白丁花(《はくちやう》げ)の木」の葉に似て、四時、凋まず、花・實、無し。其の木の心《しん》、色、黃白にして、材、堅く、印に剜《ほ》り、櫛に作り、或いは、象-戲《しやうぎ》の棊-子(こま)と爲して、佳なり。琉球、及び、屋久島の產、最良≪なり≫。豆州《づしう》の者、之れに次ぐ。

狗黃楊(いぬつげ) 葉、「眞--楊《まつげ》」に比するに、小さく、厚く、色≪も≫亦、㴱綠《ふかみどり》≪なり≫。七月、實を結ぶ。狀《かたち》、大≪にして≫、山椒のごとく、青色≪たり≫。冬、熟して、正黒色≪たり≫。人家、多く、之れを栽う。四時、凋まず、其の美、松柏《しようはく》に比す≪べし≫。伹《ただし》、葉、淡青《あはきあを》、實、無きを「眞黃楊」と爲す。雌《めす》と雄とのごとし。然≪れども≫、「本草」[やぶちゃん注:「本草綱目」。]に載せざるは、中𬜻には、之れ、無きか。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、日中ともに同一種のように割注しているが、これは誤りで、良安の附言の日本の「黃楊木」及び「眞黃楊」は、日本固有種である、

〇双子葉植物綱ツゲ目ツゲ科ツゲ属ツゲ変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica

であるのに対し、中文の「黃楊」は、

◎同ツゲ属の別種、又は、別亜種であるタイワンアサマツゲ Buxus sinica 、又は、Buxus microphylla subsp. sinica

を指し(正式な漢字表記は「台湾朝熊黄楊」)、本邦固有種の上記「ツゲ」を指す際には、現行では「小葉黄楊」と書く。「維基百科」の「ツゲ属」相当の「黄属」、及び、「タイワンアサマツゲ」相当の「黄を見よ。「タイワンアサマツゲ」は、後者のリンク先の「分布」では、『安徽省・広西チワン族自治区・四川省・江西省・浙江省・貴州省・甘粛省・江蘇省・広東省・山東省・湖北省・陝西省など中国本土に分布する』とあるが、邦文の信頼出来る複数の植物サイトでは、分布域を日本の沖縄・中国・台湾とする。

 また、良安は「狗黃楊」を挙げているが、これは、全くの別種で、漢字表記も「犬柘植」であるところの、

●モチノキ目モチノキ科モチノキ属イヌツゲ Ilex crenata var. crenata

であるので注意が必要である。

 まずは、本文記載順にするが、タイワンアサマツゲは纏まった邦文記載があまり多くないので、「三河の植物観察」の「ツゲ」の包括ページにある、「7」『タイワンアサマツゲ』を引いておくことにする。『日本(沖縄)、中国、台湾に分布する。中国名は黄杨 huang yang』。『低木又は小高木。小枝は円柱形、縦のうねがあり、灰白色。若枝は』四『稜形、有毛、節間は』三、或いは、五ミリメートルから二センチメートル。『葉柄は長さ』一~二ミリメートル。『葉身は形や大きさが変化し、広楕円形~広倒卵形~円形~倒卵形~倒卵状長楕円形~楕円状披針形~披針形、長さ』五、或いは、七ミリメートルから三・五センチメートル、『幅』三・五、或いは、五ミリメートルから二センチメートル。『革質~厚い革質、上面は光沢があり、両面が無毛又は中脈の下半部に微軟毛があり、基部は円形~楔形、先は円形~鈍形で先端が凹む~先の尖った尖鋭形、中脈は上面に盛り上がり、側脈は不明瞭、上面に小しわがある。花序は腋生、頭状花序。花序軸は』三~四ミリメートル、『有毛。苞は広卵形、長さ』二~二・五ミリメートル、『下面が±有毛。雄花は約』十『個、無柄。外花被片は卵状楕円形。内花被片は類円形、長さ』二・五~三ミリメートル、『無毛。雄しべは長さ約』四ミリメートル。『不稔の雌しべは棍棒形の子房柄をもち、先はわずかに膨れ、長さ約』二ミリメートル。『不稔の雌しべと花被片長さは約』二対三、一対一、三対二。『雌花は花被片が長さ約』三ミリメートル。『子房は花柱よりわずかに長く、無毛。花柱は太く、扁平。柱頭は倒心形、花柱の中間まで沿下する。蒴果は類球形、長さ』六~八ミリメートルから一センチメートル。『宿存性の花柱は長さ』は二~三ミリメートル、とある。

 次に、ウィキの「ツゲ」を引く(注記号はカットした)。漢字表記は『黄楊、柘植、樿』だが、『別名で、ホンツゲ、アサマツゲ、コツゲなどともよばれる。主に西日本の暖かい地域に分布し、伝統的に細工物の材木として貴重とされ、高級な櫛や将棋の駒の材として知られるほか、垣根や庭木の植栽にも使われる。日本の固有変種』。『「ツゲ」と呼ばれる植物は』、狭義には、この一『変種』である Buxus microphylla var. japonica を『指すが、ツゲ属の総称としても用いる。また、庭木として用いる場合に、分類が異るモチノキ科のイヌツゲ』(後掲する)『も、しばしば「ツゲ」と呼ばれる』。『この和名「ツゲ」の語源には諸説あり、葉が次々と密になって出てくることから「次ぎ」とするもの、春から梅雨にかけて黄色みを帯びることから「梅雨黄(つゆき)」とするもの、木目が細かく詰まって丈夫であることから「強木目木(つよきめぎ)」とするものなどがある』。『ツゲは関東以西に広く分布し、いろいろな異称(方言)を持っている。イヌツゲと区別するために「ホンツゲ」、伊勢地方では朝熊山』(ここ。グーグル・マップ・データ)『に分布するので「アサマツゲ」、伊豆諸島では「ベンテンツゲ」、「ハチジョウツゲ」(八丈島)、「ミクラジマツゲ」(御蔵島)など』。『ほかにも、「サワフタギ」(兵庫県)、「ウツギ」(徳島県)、ハマクサギ(高知県)、コアカソ、イボタなどの異名がある』。『英語ではツゲを「box」といい、ツゲ一般を「common box」や「boxwood」と言う。もともとコリント人がこうした木材を使ってピュクシス(木箱)を作っていたのが語源である。特にセイヨウツゲを指して「European Box」、コーカサス地方のものを「Georgian Box」、「Caspian Box」(カスピアツゲ)、日本のものを「Japanese Box」などと呼ぶ』。『「箱」を意味する「box」も、ツゲを意味する「box」も、いずれも語源は古代ギリシアのピュクシス』(当該ウィキによれば、ラテン文字転写で『pyxis』『は、古代ギリシア・ローマ期に用いられた陶器の化粧道具入れ』であり、『つまみのある蓋つきの容器で、表面には』、『しばしば』、『結婚の様子が描かれた。ピュクシスにはギリシア語で「箱」の意味がある』とあった)『に遡ると考えられている』。『中国ではツゲ一般を「黄楊」と書くが、これは後述する別種又は別亜種のタイワンアサマツゲ Buxus sinica又はBuxus microphylla subsp. sinica にあたり、日本のツゲを特に指す場合は「小葉黄楊」と書く』。以下、「学名」の項が有意にあるが、カットする。続いて、「植物学的特徴」の項。『日本の山形県・佐渡島以西の本州、四国、九州の屋久島以北に自然分布する。自生地の北限は山形県だが、いずれも現存する自生地は限定的で、例えば、福岡県のレッドリストでは絶滅危惧II類と評価されていたり、自生地が天然記念物に指定されている場合もある』。『石灰岩地や蛇紋岩地を好み、山地の石灰岩岩地などに自生するが、人の手によって庭にも植栽される』。『常緑広葉樹の低木から小高木で、樹高は通常』一~三『メートル』、『高いもので』四メートル『ほどになるが、稀に』十メートル『まで成長するものもある。幹は直立して』十『センチメートル』『ほどの太さになる。樹皮は灰白色から淡い褐色で、成木は樹皮にうろこ状の筋が入り、滑らかである。小枝は断面がほぼ四角形になる』。『葉は対生し、葉身は倒卵形から長楕円形、やや厚みのある革質で光沢があり』、一~三・五センチメートル『程度と小ぶりで、葉先は小さくへこむ。葉柄は非常に短い。冬の葉は赤味を帯びる』。『開花時期は春(』三~四『月)。雌雄同株。枝先や葉腋から花序が出て、淡黄色の小さな花弁のない花が、葉腋から小枝の先端に束生する。花序の中央には雌花(雌蕊』一『個、萼』六『個)が』一『つあり、これをいくつかの雄花(雄蕊』四『個、萼』四『個)がとり囲んでいる。先が』三『つに割れた雌蕊には樽のような膨らみをもつ緑色の子房がある。雄蕊の先端には黄色い葯をつけている』。『果実は』三『本の花柱が合わさって子房を形成し、楕円形から倒卵形で長さ』一センチメートル『ほどの蒴果をつくり、黒く堅い種子が』二『つ入った室が』三『つできる。実の先端には花柱が残る。秋』の九~十『月に果実が熟して裂け、種を放出する』。『冬芽は葉腋につき、葉痕は楕円形で維管束痕が』一『個つく。冬芽のうち、丸くて白っぽいものは花芽で、葉芽は長楕円形で膜質の芽鱗に包まれる』。以下、「分類」の項(米倉(二〇一二年)の本邦に分布するツゲ属の分類に拠ったもの)。

Buxus microphylla

Buxus subsp. microphylla

〇チョウセンヒメツゲ Buxus var. insularis (別名「シマヒメツゲ」「タイシャクツゲ」)

〇ツゲ Buxus var. japonica(別名「アサマツゲ」「コツゲ」。本邦の固有変種タイプ種)

〇ベンテンツゲ Buxus var. kitashimae(別名「ミクラジマツゲ」「ミクラツゲ」「ハチジョウツゲ」。固有変種)

〇ヒメツゲ Buxus var. microphylla(栽培種)

〇コツゲ Buxus var. riparia (固有変種)

〇タイワンアサマツゲ Buxus subsp. sinca(前で引用した種)

〇オキナワツゲ Buxus liukiuensis(ケナシオキナワツゲ)

『岡山・広島・朝鮮半島・中国にはチョウセンヒメツゲ準絶滅危惧(NT)(環境省レッドリスト)が、伊豆諸島にはベンテンツゲ(ミクラツゲ)が、紀伊半島と四国の一部で、渓流植物として知られるコツゲが、 南西諸島から中国・台湾にはタイワンアサマツゲ絶滅危惧IA (CR)(環境省レッドリスト)』(中文名で「黄楊」)『が』、『それぞれ』、『分布し、栽培種であるヒメツゲが各地で利用されている』。『前述のように、御蔵島のある伊豆諸島のベンテンツゲは』、『葉がやや大きく、亜種とする分類もある』。『また、南西諸島・台湾には同属別種のオキナワツゲ絶滅危惧II類(VU)(環境省レッドリスト)(「インカンキ」「リンギ」などとも呼ばれる』『)が分布する』。『ツゲの自生地としては、福岡県の朝倉市と嘉麻市にまたがる古処山』(こしょさん:ここ。グーグル・マップ・データ)『が「古処山ツゲ原始林」』『があり、ここは』、戦後直ぐの一九二七年『に天然記念物に指定され、その後』一九五二『年』『に特別天然記念物に指定が格上げされている。指定面積は十一・七』ヘクタール。『三郡変成帯に属する古処山には、標高』六百~八百五十九メートル『の山頂付近に石灰岩があり、高度からすると』、『普通はブナ林となる環境だが、指定面積のうち』、三ヘクタール『の面積の範囲で、石灰岩の露頭に沿って純度の高いツゲ林が帯状に形成されている。林におけるツゲの割合は』八十『%から』百『%に達し、およそ』六千六百『本の個体が生育する国内最高のツゲ林とされている。なかには樹齢』千『年を超えるものもあるが、それでも高さ』十二メートル、『幹周』り『は』一・七メートル『に留まり、ツゲの特徴である成長の遅さを示している。尼川(』一九九五『年)は、「古処山ツゲ原始林」はブナの植生帯における石灰岩地にツゲ林が生育した学術上貴重な植生と説明している』。一九二七『年の天然記念物指定時には、「大部分は変種オオヒメツゲ Buxus microphylla var. arborescens Nakai で、その他に変種アサマヅケ var. japonica と変種マルバツゲ var. rotundifolia Nakai がある」と説明されていたが、これらの変種は var. japonicaにまとめられ、その後、上述のとおり、Buxus microphylla にまとめられた』。『愛知県の旧鳳来町黄柳野(つげの)地区(現新城市)の甚古山』(じんこやま)『北斜面のツゲ自生地』(「ひなたGPS」の国土地理院図のここ。山名は現地でのこの自生地附近の呼称で、南東にピークを持つ富幕山(とんまくやま)の山体の一部に当たる)『は』、一九四〇『年代にはツゲの自生地の北限と考えられていたこともあり、「黄柳野ツゲ自生地」として』、一九四四年『に天然記念物の指定を受けている。本地では、アカマツやウバメガシ等の常緑樹とともに、樹高の低いツゲが生育している。倉内』(一九九五年)『は、ツゲの北限としてよりも、本州内陸の蛇紋岩山地において、生育密度の大きいツゲとウバメガシの自生地として意義があるとしている。なお、黄柳野(つげの)の由来は、同じく本地に生育するイヌツゲである』。『ツゲの北限は、山形県酒田市(旧・平田町)の小林川沿いのものとされている。このツゲ群落は、「小林川ツゲ植物群落」として』一九九三年『に林野庁の保護林(種類は「植物群落保護林」)に設定されている』。『日本の固有変種であり、環境省のレッドリストに掲載されていないものの、自生地が限られていることなどから、各地方公共団体のレッドリストには掲載されており、その数は』二十二『自治体である。また、自生地で説明したとおり、日本国内のツゲの自生地のうち』、一『箇所が特別天然記念物に』、一『箇所が天然記念物に指定されている。また、林野庁の保護林に、ツゲを対象とした』一『箇所が設定されている』。以下、「日本人とツゲの利用」の項。『庭木によく利用される。成長に時間が掛かるツゲの材木は、木目が細かく最も緻密でかたく、道管が均一に分布する散孔材で、加工後の狂いが生じにくい。乾燥後の比重は』〇・八『で硬く、黄色みを帯びて美しい』。『こうした特徴により、古来、細工物の材料として親しまれ、印章、将棋の駒、版木、そろばんの珠、三味線のバチ、彫刻、ブローチなどの装身具、家具指物、下駄などに用いられてきた。現代ではツゲ材の将棋の駒は高級品であり、工芸品・美術品としての価値があるとみなされている。特に、堅く誤差の少なさが要求されるような物に適している。一般の印材、字母印材、彫刻材としてもっとも優秀である。製図機、測量用具などの重要な部材でもあり、かつては義歯にも使用された。版画の台木はサクラ材が主だが、人物の頭髪のような繊細な彫刻を必要とする部分』に『のみ』、『ツゲ材を埋め込んで使用することもある。かつて浮世絵の版木などにも用いられた。とりわけ』、『日本で重用されたのが櫛である。ツゲ製の櫛は藤原京や平城京跡から』、『たびたび』、『出土している』。『将棋の駒など細工品の用途では、材が淡黄褐色かつ緻密でツゲに似るタイ産のアカネ科クチナシ属のプッド Gardenia collinsiae 』『を「シャムツゲ」と称し、安価な代用品として輸入されてきた。しかしシャムツゲの品質は著しく劣る。現代では、特に関東以東ではシャムツゲが大半を占めているとされていたが、公正取引委員会は「ツゲ」ではないものを「ツゲ」と表示することに対して是正を求め、「外国産アカネ」と表示されることになった』。以下、「文学」の項だが、例示された「万葉集」からの二首と「新古今和歌集」一首、俳句例三句、花言葉はカットした。『万葉集や新古今和歌集ではツゲを詠んだ和歌がいくつか登場するが、詠まれているツゲは植物そのものを指すのではなく、櫛、そして櫛の所有者である女性への恋慕の情を表現するために用いられている』。以下、「ツゲにまつわる風習」の項。『日本では、特に鹿児島・薩摩地方や御蔵島産のツゲが有名である。鹿児島の旧習では、女の子が生まれるとツゲの木を植える。娘が年頃になる頃には、ツゲの木も成長しており、ツゲの木を切って売り、嫁入り道具を揃える。このため「嫁を探すならツゲの木を探せ」という言い回しがある。また、「薩摩つげ櫛」は、鹿児島県の伝統工芸品に指定されている。高級品とされるツゲ櫛は、使うほど艶が出るといわれ、昔は母から娘へと受け継がれた』。『西洋ではチェスの駒(白)に用いられた。黒は黒檀を使った』。『ヨーロッパのツゲは』、普通、『セイヨウツゲ』( Buxus sempervirens )『を指す。西洋では古来、ツゲは葬礼と関わりがあり、墓地にツゲの木を植える。葬儀では棺と一緒にツゲの枝を埋葬する。ワーズワースは』十九『世紀のイングランド北部の葬儀の様子を伝えており、葬儀の参列者は』一『本づつツゲの枝を持ち、墓穴に投げ入れるという風習があった』。『一方、日本と同じように、ツゲは細工物、彫刻などに使われ、古代ギリシャではピュクシス(化粧箱)がつくられた。印章にも用いられたほか、チェスの駒、弦楽器、バグパイプなどに利用された。現代では、こうした西洋楽器の修理・修復にも日本のツゲが用いられている』。「園芸」の項。『ツゲは背丈が低く、枝や葉が重なり合うように密になるので、垣根や庭木に使われる。西洋庭園では庭木や植え込み、花壇の縁取りに使われる。特にこの用途のために矮小化されたヒメツゲ(別名クサツゲ) Buxus microphylla var. microphylla は高さ』一メートル『ほどにしか成長せず、葉も一回り小さい。ヒメツゲは園芸、盆栽などにも愛好されるが、自生地は不明で、人工的に栽培されたものだけが知られている』。『このほか、アフリカから西アジアを原産とする小型の種であるセイヨウツゲ B. sempervirens『も庭園などで垣根に用いられ、形状や斑などの外見で多くの品種が出回っている』。『日本では鹿児島県などで工芸品材料の高級材木としてツゲの栽培が行なわれている。しかし、農地(畑)から山林に地目変更することができる木材の中にツゲが含まれておらず、ツゲ林は「畑」として課税されている』とある。

 最後にウィキの「イヌツゲ」を引いておく(注記号はカットした)。『犬柘植、学名』『 Ilex crenata var. crenata 』『は』モチノキ目 Aquifolialesモチノキ科 Aquifoliaceae『の常緑小高木。山地に生え、よく植栽にもされる。葉は小形で実は黒い』。『日本では北海道の一部、本州、四国、九州に分布し、日本国外では韓国の済州島から知られる。山地に自生する』とあるのだが、「維基百科」の「齿叶冬青」を見ると、別名「日本冬青」とし、学名を Ilex crenata としているが、これは、このイヌツゲIlex crenata var. crenata のシノニムである。しかもその解説には、『日本、ヨーロッパ、アメリカ、台湾、中国大陸東部に分布』するとある。『常緑広葉樹の低木から時に高木になり、高さは』通常、二~三『メートル』『であるが』、十五メートル『に達する場合もある。枝は灰褐色で、ほぼ滑らかで大きな裂け目やや割れ目はない。新しい樹皮は皮目が目立つ。よく分岐し、一年枝は』、『はじめ』、『緑色で短毛がある』。『葉は互生し』、一・五~三『センチメートル』『の小さな楕円形で、厚みがある革質でのっぺりとしたつやがある。葉縁には丸い鋸歯がある』。『花期は』六~七『月頃で、雌雄異株である。葉腋に白い小さな花を咲かせる。果実は秋に黒く熟し、径』六~七『ミリメートル』『ほどある』。『冬芽は小さな円錐形で芽鱗に包まれて先端が尖り、枝先や葉の付け根につく。葉痕は半円形で維管束痕が』一『個』、『つき、両肩に托葉痕がある』。『他に、押し葉標本にして乾燥させると』、『葉が黒くなる、という』採取試料『での同定には役に立たない特徴もある』。『名前に「ツゲ」が付くが、ツゲ(ツゲ科)とは科が異なり、全くの別植物である。ツゲは葉を対生するが、イヌツゲは互生である点で識別できる』。『変異が多く、品種として名付けられているものにコバノイヌツゲ f. microphylla 、オオバイヌツゲ f. latifolia があり、それぞれ名前通りの特徴である。マメツゲについては後述する』。『園芸品種としてキンメツゲがある』。『よりはっきりとしたものとしては以下のようなものがある』。

〇ハイイヌツゲ Ilex crenata var. paludosa (『本州から北海道の寒地の湿地に生え、茎の基部が這う』)

〇ツクシイヌツゲ Ilex crenata subsp. fukasawana (『葉がやや大きくて薄く、やや細長く、枝に稜がある。四国と九州南部、伊豆諸島と中国に分布』)

『同属には他にもあるが、多くは』、『より葉が大きく、赤い実のなるもので、似たものは少ない。やや似ているのは九州南部から琉球列島と台湾に分布するムッチャガラ』Ilex mutchagara 『である。より枝が細く葉も長く、全体にすんなりした姿をしている。

〇変種マメイヌツゲ学名 I. Ilex crenata f. bullata(単に「マメツゲ」とも呼称する。『葉の表側が』膨らんで『反り返るもので、園芸用に栽培される。丸く刈り込まれたものが』、『よく見かけられる』)

以下、イヌツゲの「利用」の項。『高木であるが』、『刈り込みに強く、よく生け垣や庭木、道路緑化など植え込みにふつうに使われる。材は細工物などに使われる。モチノキ同様』、『樹皮から』、『鳥もち』(黐)『がとれ、モチノキから得たものがシロモチやホンモチと呼ぶのに対し、イヌツゲから得たものをアオモチという』。『また』、烏賊籠漁に『おいて』、『利用され、カゴにイヌツゲの枝葉を結びつけて海に入れることで、イカ(コウイカ)』コウイカ目コウイカ科コウイカ属コウイカ Sepia (Platysepia) esculenta『が枝葉に卵を産みつけにくる。そのため、福岡県新宮町相島などでのコウイカ漁においてよく利用されており、イヌツゲのことを通称「イカシバ」と呼んでいる』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「黄楊木」([088-76a]以下。非常に短い)のパッチワークである。

「びんからず」「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「いぬつげ」に、『小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1806)32に、柞木は「イヌツゲ ヤドメ加州越州 ヨメガサラ ケヅラ江州 カシラケヅリ カシラケヅラ共同上 ガニノス播州 コメゴメ紀州、同名多シ ハマツゲ筑前 ビンカゞリ同上 ビンカゝ佐州 ビンカゝズ信州 ビンカラズ三才図絵」(☜四異名に注目。「ビンカラズ」は本書出典)『メハリギ土州 カシラツカミ同上 ネヂノキ」と。』あった。

「槐《えんじゆ》」バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。先行する「槐」を見よ。

「達生散」個人ブログ「日本漢方の初歩と自然の日記2」の「達生散 上田山澤 切要方義」に、『達生散』『姙娠八九个月に之を内服し人をして産し易からしむ』とあり、『大伏皮 大腹皮 原本三錢今用二錢』・『人參』・『陳皮』・『紫蘇 各五分』、『白芍藥』・『白朮』・『當歸 各一錢』、『炙甘草 二錢』。『右細切作一服』とある。

「夫木」「賤《しづ》の女《め》がかしらけづらず朝夕につげのを櫛《ぐし》やとるまなからん」「爲家」既注の「夫木和歌抄」に載る藤原為家の一首で、「卷二十九 雜十一」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「14072」)。

「白丁花(《はくちやう》げ)の木」本巻巻末から一つ前に立項する。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部を示しておく。そこで考証するが、リンドウ目アカネ科アカネ亜科ヤイトバナ連ハクチョウゲ属ハクチョウゲ Serissa japonica であろう。当該ウィキ葉の画像を見るに、ウィキの「ツゲ」葉の画像と比べると、ちっとは、似ている時期もあるようだ。

『「本草」に載せざるは、中𬜻には、之れ、無きか』前掲通り、中国にも植生する。但し、今のところは、「本草綱目」に、載るか、載らないかは、判らない。「維基百科」の同種のページでは、現行では標題の中文名には「齿叶冬青」とあり、別名に『波缘冬青』・『钝齿冬青』・『圆齿冬青』・『假黄杨』とあるが、例えば、先行する「冬青」には、これらに似た名を見出せない。判明したら、追記する。]

2024/10/09

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 柞

 

Kusudoige

 

[やぶちゃん注:この絵、個人的にはクスドイゲを描いているとは思えない。]

 

くしのき   鑿子木

       【和名由之】

【音祚】

      【橡櫟亦名杵柞

       同名異種也】

ツヲ

 

本綱柞山中有之高者𠀋餘葉小而有細齒光滑而靱其

木及葉丫皆有針刺經冬不凋五月開碎白花不結子其

木心理皆白色堅忍可爲鑿柄故名之又今作梳者是也

 

   *

 

くしのき   鑿子木《さくしぼく》

       【和名、「由之《ゆし》」。】

【音「祚《ソ》」。】

      【橡《とち》・櫟《くぬぎ》≪も≫亦、

       柞(はゝそ)と名≪づくも≫、同名

       ≪にして≫異種なり。】

ツヲ

 

「本綱」に曰はく、『柞《そ》、山中≪に≫之れ、有り。高き者、𠀋餘。葉、小にして、細かき齒、有り。光《ひか》≪りて≫、滑《なめらか》にして、靱(しなや)かなり。其の木、及び、葉、丫《また》[やぶちゃん注:「股・椏」に同じ。れっきとした漢字である。]、皆、針《はり》≪の≫刺《とげ》、有り。冬を經て、凋まず。五月、碎《くだけ》≪たる≫白花を開き《✕→くも》、子《み》を結ばず。其の木の心-理《しんのきめ(木理)》、皆、白色。堅忍《けんにん》にして[やぶちゃん注:強靭で、よく圧力に耐えるので。]、鑿(のみ)の柄(え)に爲すべし。故、之れを名づく。又、今、梳(くし)に作る者、是れなり。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:中国語で「柞」は、

双子葉植物綱キントラノオ目 Malpighialesヤナギ科 Salicaceaeクスドイゲ(中文名:柞木)属 Xylosma の内、中国・朝鮮南部・日本(福井県以西)・台湾・インドシナ・フィリピンに植生する中国原産であるクスドイゲXylosma congesta

である。和名は若枝・幹から二十センチメートル以上になる強烈な鋭い「トゲ」を意味する「イゲ」の意とする以外は不詳。個人サイト「宮崎と周辺の植物」の「FILE            NO 644」の解説と写真がよい。因みに、そこにはイイギリ科Flacourtiaceaeとする。複数の記載がそのようにするが、ウィキの「イイギリ科」によれば、『世界の熱帯を中心に』八十九『属』八百『種ほどが分布する。新エングラー体系及びクロンキスト体系では認められていたが、APG分類体系では解体され』、『大部分がヤナギ科に含められている』とあり、私が最も信頼する「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「くすといげ」でもヤナギ科を採っている。そこに「漢語別名」として『齒子樹、蒙子樹、葫蘆刺、紅心刺』が挙げられてある。

 因みに言っておくと、「柞」の良安のルビ「くしのき」というのは、

ユキノシタ目マンサク科イスノキ属イスノキ Distylium racemosum

であり、アウトである。また、「柞」という漢字は、殆んどの日本人は、「ははそ」と読むだろうが、そう読むと、

ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ Quercus serrata

を指すことになるので、注意が必要である。まあ、良安、附帯評言を附さなかっただけ、疵は最小限になってはいる。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「柞木」([088-75a]以下)のパッチワークである。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 川太郎之皿

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「かはたらうのさら」と訓じておく。]

 

     川太郎之皿

 水虎(カハタラウ)の皿といふ物を、称名寺の脇寺(わきじ)、長德院の什物(じふもつ)にあり。

 小(ちさ)き繪皿ほど有(あり)て、陶器(やきもの)の樣(やう)に見ゆる。

 其謂(そのいはれ)、しらず。

「安永年間[やぶちゃん注:「安永」一七七二年から一七八一年まで。徳川家治の治世。]滿慶比丘、五臺山の桃木茶屋に居住(きよぢゆう)の時、加持して、水虎を顯(あらは)しける。」

とぞ。

 潮江川に、何(なん)と云(いふ)、水虎、何所(いづこ)の井(ゐ)・流(ながれ)の內(うち)、或(あるい)は淵・河とも、不殘(のこらず)、住所(すみどころ)、知れて、夫(それ)を戒(いましめ)て云(いはく)、

「人に、害を成さずは、祭(まつり)を、すべし。」

と、いはれし、とかや。

 夫(それ)より、六月十六日、川〻(かはがは)にて、胡瓜(キウリ)を流し、灯燈(てうちん)、夥敷(おびただしく)照らして、祭來(まつりきた)れり。

 又、

「肥前國、『尼御前の宮』は、日本國の水虎の惣社(そうじや)。」

とかや。

 今年、文化四年、除災の祈禱を願(ねがひ)て來(きた)る。

 又、小兒の懷中守(かいちゆうまもり)とて、二寸四方の紙へ、梵字、四つ、書(かき)て有(あり)。是を懷中すれば、怖れなし、とぞ。

 

[やぶちゃん注:「川太郎」「水虎(カハタラウ)」河童の記事は、恐らく、私のブログでは、最もメジャーな妖怪である。近代小説を含めると、河童がメインの記事は、四百件近くある。絵入りのもので比較的新しい記事は「甲子夜話卷之三十二 9 河太郞幷圖」と、「甲子夜話卷之六十五 5 福太郞の圖」か。論考では、『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「河童の藥方」』で、私の河童関連記事へのリンクもしっかり附してある。

「称名寺の脇寺、長德院」浄土宗西山(さいざん)永観堂禅林寺派の称名寺(グーグル・マップ・データ)は、現在の高知市升形(ますがた)に現存するが、「脇寺」の「長德院」というのは見当たらない。「ひなたGPS」の国土地理院図を見ても「卍」記号は一つしかないので、現存しないようである。「河童の皿」なる什物も称名寺には、ないようである。河童にミイラや、斬られた河童の腕というのは、よく聴くが、「皿」というのは、かなり珍しいので、残念である。

「滿慶比丘」不詳。

「五臺山の桃木茶屋」「五臺山」は現在の高知市五台山にある真言宗智山派五臺山金色院(こんじきいん)竹林寺。神亀元(七二四)年、聖武天皇の勅命により行基が開創したと伝え、自刻とする文殊菩薩を本尊とする。大同年間(八〇六年~八一〇年)に空海が再興した。四国八十八箇所第三十一番札所。「桃木茶屋」は「奈良文化財研究所」の作製になる「土佐へんろ道 竹林寺道・禅師峰寺道(五台山)」(「四国八十八箇所霊場と遍路道」調査報告書第二集(高知市文化財調査報告書第四十二集)・二〇一七年三月刊・PDF同研究所公式サイトのここでダウンロード可能)の、『第3章 へんろ道』の『第2節 史料・絵図等にみる竹林寺道・禅師峰寺道』の冒頭に、本書の竹林寺の寺誌を引用をして、

   《引用開始》

 文化121815)年の成立とされる『南路志』に載せる寺誌「竹林寺」では「伽藍」を列挙した後、「其坂路ハ(中略)南ノ方、桃木茶屋ノ方道ハ秦元親ノ浦戸在城の時ニ作り又西吸江へ坂路ハ山内氏入国ニ開くと云々」とあり、現在の南麓・坂本近くの見晴らしの良い桃木茶屋跡へと下る禅師峰寺道が、長宗我部元親が浦戸在城時に設けた道とされ、竹林寺道にあたる西からの道は藩主・山内氏の入国時のものと伝えられていたことが知られる。またこの途上に「坂中石燈籠、明和年中高知講中建立」の存在が記されるが、現在は土台と壊れた石材の一部が残るのみである。

   《引用終了》

とあった。この記載から考えると、「桃木茶屋」は、この「へんろ道」(グーグル・マップ・データ航空写真。中央に配した)の途中、『現在の南麓・坂本近くの見晴らしの良い』場所にあったということが判った。ストリートビューで辿ったが(最上部の「旧へんろ道」の画像がある)、現在は樹木が繁っており、それらしい見晴らしのよいという箇所はなかなか、見出せなかったが、一箇所、かなり下った(現在の登りからは階段を上った最初の広いスペース)ここは、見晴らしがよさそうだが(航空写真の拡大図ではここ)、この有意な平地自体が、江戸時代からあったものかどうかは判らない。正し、有力候補の一つとは言えよう。

「潮江川」現在の鏡川であろう(グーグル・マップ・データ)。

「肥前國」「尼御前の宮」現在の福岡県久留米市瀬下町(せのしたまち)にある「水天宮(総本宮)」(グーグル・マップ・データ)。それ絡みなら、私の好きな小説「藪野直史野人化4周年記念+ブログ・アクセス670000突破記念 火野葦平 海御前 附やぶちゃん注」を強くお薦めする。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 年季夫勇吾癩疾

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。取り敢えず、標題は「ねんきふ ゆうご らいしつ」と訓じておく。「年季夫」は姓名とは思われないから、例えば、郷士・町役人クラスで、嘗つて、江戸に年季限りの条件で、臨時に、藩のある種の仕事を受け持っていた者を俗に呼んで指したものか。識者の御教授を乞うものである。

 

     年季夫勇吾癩疾

 寛政年間[やぶちゃん注:一七八九年から一八〇一年まで。徳川家斉の治世。]、年季夫勇吾といふ者、堺町西の橫町[やぶちゃん注:現在の高知市堺町(さかいまち)附近(グーグル・マップ・データ)であろう。]に住(ぢゆう)せり。

 久敷(ひさしく)、癩を病(やみ)て、愈(いえ)ざりし程に、其(その)向ふ隣(どなり)に法華(ほつけ)を信ずるもの、有(あり)。

 或時、

「題目を唱へ、信心する樣に。」

と、

「世間に奇特(きどく)有(あり)し事。」

を、語りて、すゝむれども、うけがはず、月日を經(ふ)るに、次㐧(しだい)に見苦敷(みぐるしく)、最早、手脚(テアシ)も叶はぬ体(てい)に成(なり)て、詮方(せんかた)や、なかりけん、彼(かの)隣家の人を招ていふ。

「我病も重(おも)りぬ。足下(そつか)が勸めし題目を唱(となへ)て見んとおもふ也。」

と、いふ。

「それは、一段の事也。今夜(こんや)、寺へ行(ゆき)、願込(ねがひこみ)すべし。」

とて、其夜、勇吾を肩に掛(かけ)、要法寺(えふはふじ)[やぶちゃん注:高知市筆山町(ひつざんちょう)のここ(グーグル・マップ・データ)にある。]へ參詣させ、直ぐ(スデ)[やぶちゃん注:「直ぐ」に対してルビが振られている。]に、脇寺(わきじ)なる妙修寺[やぶちゃん注:グーグル・マップ・データでは判らないが(敢えて言うと、この地番「9」の北直近の四角の建物)、「ひなたGPS」の国土地理院図で、要法寺の南西の『眞如寺山(筆山)』(戦前の図の山名)の北の麓に現存することが、サイト「日蓮宗全寺院マップ」のこちらで確認出来た。戦前の地図には「卍」記号がないが、恐らく要法寺の附属寺院(塔頭・小院)として包括されていたものであろう。]へ、つれ行(ゆき)、加持をたのみ、夫(それ)より、夜毎(よごと)に連行(つれゆき)けるが、三十余日には、段〻(だんだん)快(ここよく)、步行(ほかう)するやうに成(なり)て、一夜(ひとよ)も不怠(おこたらず)、加持を請(うけ)けるが、ふと、惡寒(おかん)出來(いできて)、宿へ歸否(かへるやいなや)、大熱(だいねつ)となり、汗をする事、夥(おびただ)し。

 又、翌日、快(こころよく)、加持に行(ゆき)、歸れば、惡寒・發熱、有(あり)て、毎夜、汗する事、衣(ころも)を濡(ぬら)せり。

 後(のち)は、虐疾(おこり)の如く、ふるひける、とぞ。

 次第に快(こころよく)成(なり)て、七十余に、全快す。

 加持は日法(につぱふ)、師、也。

 是(ここ)に存(そん)ス。[やぶちゃん注:以下は全体が二字下げであるので、ブラウザの不具合を考慮し、適切と思われる位置で、改行した。]

  「法華經」曰、『是好良藥、今留在ㇾ此。

  汝可取服、勿憂不一ㇾ差。』。

 

[やぶちゃん注:「癩」(民俗社会で、ごく近年まで、激しい不当な差別を受けていた関係上、この「癩(らい)」と言う語は、いまわしいものとされてきたことから、現行は「ハンセン病」と呼ばねばならない。だのに、病原体は「ライ菌」と呼称しているのは私は大いに不満である。「ハンセン菌」でよい!)については、何度も注してきた。その中でも最も古い記事である「耳囊 卷之四 不義の幸ひ又不義に失ふ事」の私の「癩」の注を読まれたい。なお、この主人公の場合、「久敷(ひさしく)、癩を病(やみ)て、愈(いえ)ざりし程に」と罹病年数が有意に長いこと、「次㐧(しだい)に見苦敷(みぐるしく)」(外見、特に顔面に起こる運動障害や変形は「ハンセン病」の代表的症状の一つではある。但し、必ず顕著に発生するものではない)、「最早、手脚(テアシ)も叶はぬ体(てい)に成(なり)」という手足の変形を伴う運動障害も、やはり「ハンセン病」で有意に発生する症状ではある。但し、ハンセン病によって直接に死に至ることは、ない。主人公は全快する直前、激しい高熱に襲われているが、これは「二型らい反応(らい性結節性紅斑)」血管炎・脂肪織炎が原因と思われる全身性炎症反応で、高熱を発することはある。しかし、まさに「惡寒・發熱、有(あり)て、毎夜、汗する事、衣(ころも)を濡(ぬら)せり。後(のち)は、虐疾(おこり)の如く、ふるひける、とぞ」というのは、私には、この描写、その「ハンセン病」の急性高熱症状というよりも、まさに「瘧(おこり)」そのもの、平清盛の死因である熱性マラリアそのものの病態と感じられる。但し、嘗つての梅毒療法のように、マラリア療法のように梅毒スピロヘータ(Spirochaeta)が高熱で死滅するというような効果が、ハンセン病に有効だという話は聴いたことがない。しかし、数え七十で、「癩」を「全快」したとするこの主人公、本当に「ハンセン病」だったのだろうか? という疑問が過ぎるのである。

『「法華經」曰、『是好良藥、今留在ㇾ此。汝可取服、勿憂不一ㇾ差。』「法華經」の「如來壽量品(によらいじゆりやうぼん)第十六」に載る一節。訓読しておく。

   *

「法華經(ほけきやう)」に曰はく、『是(こ)の好(よ)き良薬(らうやく)を、今、留(とど)めて此(ここ)に在(お)く。汝(なんぢ)は取りて服(ぶく)すべし。差(い)えじと憂(うれ)ふること、勿(なか)れ。』(と)。

   *

この「良藥」は「法華經」を指す。]

2024/10/08

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 木綿

 

Panya

 

きわた   古貝 斑枝花

 ぱんや     攀枝花【俗】

木棉    睒婆【梵書】

      迦羅婆劫【同】

      【今云波牟夜】

本綱有木綿草綿二種【草綿詳于濕草部】木名古貝樹交州廣州

等南方有之高過屋大如抱其枝佀桐其葉大如胡桃葉

入秋開花紅如山茶花黃蘂花片極厚爲房甚繁短側相

比結實大加拳實中有白綿綿中有子今人謂之斑枝花

卽木綿也可爲緼絮又抽其緒紡為布

又云南方諸蠻不養蠺惟有娑羅木高三五𠀋結子子中

[やぶちゃん字注:「蠺」は原本では上部の「天」二つが「夫」になっている。しかし、このような異体字はないので、以上に代えた。]

 有白絮紉爲𮈔織爲幅名娑羅籠叚或爲白氊兠羅綿

[やぶちゃん字注:「紉」は、底本では(つくり)の左端にある、斜めの一画が右の「刀」の右外に打たれてある字であるが、こんな漢字はない。この漢字は東洋文庫訳では『紡いで』と訳されてある。「紉」(音「ヂン(ジン)・ニン」)は「むすぶ・切れないようにつなぎ合わせる」の意であるから、「紡」と同じ意味であると判断し、訓読では「紡」に代えた。

 此亦古貝之類各方稱呼不同耳

△按斑枝花暹羅交趾柬埔寨等將來之如紡𮈔不如古

 終之佳也惟爲枕及褥中絮甚佳人毎座臥雖挼壓之

[やぶちゃん字注:「終」は、原本では最後の二画の「ノ」が三画打たれてある。しかし、こんな漢字はない。東洋文庫訳でも『終』を用いているので、かく、した。]

隨復脹起

 

   *

 

きわた   古貝《こばい》 斑枝花《はんしくわ》

 ぱんや     攀枝花《はんしくわ》【俗≪に云ふ≫。】

木棉    睒婆《せんば》【梵書。】

      迦羅婆劫《からばごふ》【同。】

      【今、云ふ、「波牟夜《ぱんや》」。】

「本綱」に曰はく、『「木綿《もくめん》」・「草綿《さうめん》」の二種、有り』≪と≫。【「草綿」は、「濕草部」に詳《つまびらか》なり。】[やぶちゃん注:これは良安の附記。]。『木を「古貝樹」と名づく。交州[やぶちゃん注:現在のヴェトナム北部。]・廣州[やぶちゃん注:現在の広東省・広西省。]等の南方に、之れ、有り。高さ、屋《おく》に過《すぐ》。大いさ、抱(ひとかい[やぶちゃん注:ママ。「ヒトカヽヒ」の誤記か誤刻。])如(ばかり)。其の枝、「桐」に佀《にて》、其の葉、大いさ、「胡桃(くるみ)」の葉のごとし。秋に入りて、秋、花、開く。紅にして、「山茶花(さゞんくわ)」のごとし。黃≪の≫蘂《しべ》あり。花の片《ひとひら》は、極めて厚し。房《ふさ》を爲すこと、甚だ、繁《しげ》し。短≪く≫、側《そばだち》、相《あひ》比《ならぶ》。實を結ぶ。大いさ、拳(こぶし)のごとく、實の中に、「白≪き≫綿」、有り。綿の中に、子《たね》、有《あり》。今人《きんじん》、之れを「斑枝花」と謂ふ。卽ち、「木綿」なり。緼絮(なかわた)と爲すべし。又、其の緒(いとぐち)を抽《ひきだし》て、紡《つむぎて》、布と爲す。』≪と≫。

『又、云はく、「南方≪の≫諸蠻、蠺《かひこ》を養(か)はず。惟《ただ》、「娑羅木《さらぼく》」、有り。高さ、三、五𠀋。子《み》を結び、子の中、白≪き≫絮《ぢよ/わた》、有り。紡《つむぎ》て、𮈔《いと》と爲し、織りて、幅《ぬのぢ[やぶちゃん注:「布地」。]》と爲して、「娑羅籠叚《さららうたん》」と名づく。或いは、「白氊《びやくぜん》」・「兠羅綿《トロメン》」と爲す。」≪と≫。此れも亦、「古貝(ぱんや)」の類≪なり≫。各《おのおの》≪の≫方《かた》の稱呼、同じからざるのみ。』≪と≫。

△按ずるに、「斑--花(ぱんや)」、暹羅(シヤム)・交趾(カウチ)・柬埔(カボヂヤ)等より、之れを將來《しやうらい》す。如(も)し、𮈔に紡(つむぐ)には、「古終(くさわた)」の佳《か》なるに、しかざるなり。惟《ただ》、枕、及び、褥《しとね》の中の絮《わた》と爲≪して≫、甚だ、佳なり。人、毎《つね》に、座臥す。之れ、挼-壓(をしへす[やぶちゃん注:ママ。「人体の重さで押しへこむ」の意。])と雖も、隨ひて、復た、脹《ふく》れ起《おき》る。

 

[やぶちゃん注:「木綿」「ぱんや(パンヤ)」は、

双子葉植物綱アオイ目パンヤ科 Bombacaceae(アオイ科Malvaceaeともする)パンヤ亜科セイバ属パンヤノキ Ceiba pentandra

である。「維基百科」では「美洲木棉」、『熱帯アメリカ原産で、後に広東省・広西チワン族自治区・雲南省、及び、中国本土の他の場所を含む、アジアに導入されている』とあり、本邦には自然分布しない。注意が必要なのは、時珍が異名として出している「木綿」は、現行の中国語では、同種ではなく、属タクソンで異なる、

パンヤ亜科キワタ(木綿)属キワタ Bombax ceiba (シノニム: Bombax malabaricum Salmalia malabarica

であるので、注意が必要である。

 平凡社「世界大百科事典」の「パンヤ」によれば(コンマを読点に代えた)、『高木で、高さ』二十メートル、『または』、『それ以上になる。基部は板状にはり出す板根に支えられ、枝は直立する幹から水平に輪生して、電信柱のような樹形をつくる。葉は掌状で』五~八『片に分かれ,果実が成熟するころ』、『短期間』、『落葉する。葉腋(ようえき)から数本の花梗』(かこう:枝や茎から分かれ出でて、その先に花のつく、短い柄の部分で、「花柄」に同じ)『を出し、乳白色の花を』一『個ずつつける。果実は長楕円形で長さ』十~十三センチメートルで、『枝からぶら下がる。内部は』五『室に分かれ、長毛に包まれた』百~百五十『個の種子があり、熟すと割れて、カポック(別名パンヤ)と呼ばれる繊維を露出する。原産地は未確定。カポックとはマレー語で』「繊維」『のことで、この種子を包む毛を』充填剤『にする。アレクサンドロス大王の時代』、『すでにクッションの詰物として珍重したという。繊維は長く光沢があり、耐久力強く弾力に富む。比重が小さく』、『水を通さないため、特に水中救命具の詰物に賞用される。また』、『毒性物質を含むので、害虫の食害を受けにくい。材、葉、樹皮、果実もさまざまに利用され、若芽は野菜とされる。またコーヒーやカカオの庇蔭(ひいん)樹、コショウやバニラの支柱用にする。第』二『次世界大戦前はジャワとスマトラが大産地であったが、戦後は激減し、インドネシア、カンボジア、フィリピンなどで数千』トン『ほど生産されている。なお、近縁の』パンヤ亜科キワタ属『インドワタノキ(キワタともいう)Bombax malabaricum 』『と』、『しばしば混同される。また近年、日本でホンコンカポックまたは単にカポックと称して観葉植物が市販されているが、これはウコギ科の Schefflera octophylla 』(セリ目ウコギ(五加木:中国で古くからヒメウコギ(ウコギ属ヒメウコギ Eleutherococcus sieboldianus )を「五加(ウーコ)」と呼んでおり、本邦では、それに木を附し、「五加木(ウコギ)」と呼ばれるようになった)科フカノキ(鱶の木:由来不明)属フカノキ Schefflera heptaphylla Schefflera octophylla はシノニム)『などで』、『別物である』とある。当該種のウィキ「カポック」も引く(注記号はカットした)。『カポック(』『インドネシア語: kapuk、英語: kapok)は、アオイ科(クロンキスト体系や新エングラー体系ではパンヤ科』Malvaceae『)セイバ属の落葉高木。パンヤ(panha)とも。標準和名はパンヤノキ、別名インドキワタ。カポックもパンヤも、本来は繊維のことである』。『同科の別種キワタ Bombax ceiba としばしば混同され、インドワタノキと呼ばれたり、攀枝花がパンヤと訳されたりするが、これらは本来はキワタのことである。熟した果実がついた木を遠くから見ると、数千個の綿玉で飾られたように見えることから、英語では Silk-cotton tree(シルクコットン・ツリー)という別名の由来となっている』(英文サイト「RPseeds」の「Ceiba pentandra (Kapok/Silk Cotton Tree) seeds」の二枚目の写真が想起させる)。『アメリカ・アフリカ原産(キワタはアジア原産)。アメリカや東南アジアなどで栽培されている』。『「カポック(シェフレラ)」という表記』で『販売される事のある観葉植物はウコギ科のヤドリフカノキ』(フカノキ属ヤドリフカノキ Heptapleurum arboricola 。シノニム Schefflera arboricolum )『であり、全く別の植物である』。『原産地はアメリカ大陸の熱帯地域(グアテマラやプエルトリコなど)であるが、シエラレオネなどの西アフリカ地域にも分布している。原産地から西アフリカへは種子が海流にのって運ばれたと考えられていて、花粉の研究から』、一万三千年『以上前から西アフリカで生育していたことがわかっている』。『アフリカ大陸では最も樹高が高い木で、その高さは』二十『階建てビルに相当する』(後に記載される同ウィキの『フリータウンの「コットン・ツリー」』の画像が髣髴させる)『大きな樹冠をつくり、葉を密生する。若木の幹は鮮緑色で、触ると』、『スベスベするほど滑らかである。枝は幹から水平方向に張りだして層をなし、幹や大枝の表面には円錐形の大きなトゲがある。生長すると』、『木の下の方から枝を落として、樹皮は灰色となって、太い幹の基部にはうねるような板根ができる。たいてい大枝には着生植物が生え、そこに多種多様な昆虫や鳥、カエルなどが棲んでいる。乾燥が長く続く乾期には、カポックは葉を落とす』。『花は毎年咲くわけではないが、その代わり』、『開花する年には、できるだけ多くの種子を残せるようにしている。葉がない乾期に花を咲かせ、果実を実らせる。花色は淡黄色で、つやがあり、古くなった牛乳のような独特の匂いを放ち、夜間にコウモリを引きつけて花粉を運ばせる。開花時は毎晩』十『リットル以上の花蜜を分泌し、コウモリはこれを目当てに木々の間を飛んできて、花粉をまき散らす。果実は緑色のボート形をした緑色の莢がつき』、一『本の木に何百個もぶら下がる。莢が熟してくると革質になり、これが弾けて、種子を包む繊維が露出する』。一『個の莢には』千『個以上の種子が入っている』。『カポックの実から採れる繊維は、糸に加工するには不向きで、燃えやすいという難点がある一方で、表面に蝋の層があるため撥水性に優れ軽量である。枕などの詰め物やソフトボールの芯として使われている他、第二次世界大戦後まで救命胴衣や救難用の浮き輪の詰め物にも利用されていた。今でも、競艇業界や海上自衛隊では救命胴衣のことをカポックと呼んでいる』。『この繊維は油との親和性が非常に高く、』四十『倍の重さの油を吸収できるため、漏油事故などの油吸収材として使用されるようになった。また、農薬・化学肥料を使わず、また、樹木を切り倒す必要の無いなどのことから、地球に優しいエコロジー素材としても関心が高まっている』。『果実の種子を保護するため』、『繊維はカビが生えにくく、昆虫やネズミ類が嫌う味がするため、枕やクッション、マットレスの中綿や、ぬいぐるみの詰め物にも使われている』。『種子からは油が採れる』。『西アフリカのシエラレオネの首都フリータウンの最も有名なカポックの巨木は、コットン・ツリー(Cotton Tree)と呼ばれている。この木は象徴としても重要で、イギリスからの解放奴隷が』、一七九二『年にアフリカに帰還したときに、コットン・ツリーの下に集まって感謝の祈りを捧げたと伝えられている』。『カポックは精霊が棲む木として西アフリカ全域で崇められていて、シエラレオネの人々は、現在もカポックの木の下に集まって祖先へお供えし、平和と繁栄の祈りを捧げている』とある。

 異なる種である、キワタ Bombax ceiba 当該ウィキを引いておく(注記号はカットした)。『アオイ科(クロンキスト体系や新エングラー体系ではパンヤ科)キワタ属の』一『種の落葉高木』。『なお、同じ科にキワタの種小名と同じ属名のセイバ属 Ceiba があるので注意』とある』。『和名キワタは「木に生る綿」の意味であり、漢字では木棉で「もくめん」とも読むが、「もめん」と読んではならない。紅棉(こうめん)、コットンツリー (cotton tree)、攀枝花・斑枝花(はんしか)。ワタノキ、インドワタノキとも言うが、この呼び名は同科の別種パンヤ Ceiba pentandra としばしば混同される』。『熱帯アジア原産(パンヤはアメリカ・アフリカ原産)。中国では古代から栽培されている』。『トックリキワタ』(パンヤ亜科セイバ属トックリキワタ Ceiba speciosa )『に似て、綿に包まれた種子を飛ばし、幹に棘がある個体も多いが、幹がトックリ型にならないことや、葉がやや大型で鋸歯がなく、小葉柄が明瞭な点で区別できる』。『鮮やかな赤色をした肉質の五弁花を春に咲かせる。花は木棉花(もくめんか)・紅棉花(こうめんか)と呼び、五花茶などの涼茶(ハーブティー)に使われる』。『種子には白い毛が生えており、枕、布団の綿などとして使う』。『キワタの花は広東省広州市、潮州市、四川省攀枝花市、台湾高雄市などの市花であり、金門県の県花である。また、広州市を拠点とする中国南方航空のシンボルマークのモチーフになっており、同社の機体の垂直尾翼に描かれている』。『桜のように、花が葉よりも先に開き、幹がまっすぐなことが多いため、中国では英雄の木とも見なされている。香港の作曲家・歌手であるテディ・ロビンは、「紅棉」という楽曲で、中国人の気骨のイメージにこの木を取り上げている』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「木綿」([088-74a]以下)のパッチワークである。

「古貝《こばい》」「本草綱目」の「釋名」を見ると、『古貝【綱目】古終【時珍曰木綿有二種似木者名古貝似草者名古終或作吉貝者乃古貝之訛也梵書謂之睒婆又曰迦羅婆劫】』とあるので、この「古貝」は★「吉貝」の誤用名であると読める。実際、「維基百科」では「美洲木棉」では、別名として、『吉・吉貝木棉・爪哇木棉』を挙げているのである。甚だ不審なのは、良安がそれを記していないことである。重大な致命的な「洩れ」と言うべきである。

「斑枝花《はんしくわ》」この漢字名は、本邦では、全くの別種であるリンドウ目キョウチクトウ科ガガイモ属ガガイモ Metaplexis japonica の異名でもあるので、注意が必要。

 「攀枝花」先の「キワタ」の引用にある通り、これは中国語で、パンヤではなく、キワタの異名であるので注意。「維基百科」の「木棉」の異名に載っている。

「睒婆」「大蔵経データベース」で確認した。多数、ある。

「迦羅婆劫」この文字列では「大蔵経データベース」では載らないが、「刧」無し、或いは、「刧」を「花」とする「大寶積經」に六度、「一切經音義」に一度、確認出来る。

「草綿」アオイ目アオイ科ワタ属 Gossypium の総称。タイプ種は Gossypium arboretum

『「草綿」は、「濕草部」に詳《つまびらか》なり』本文で述べた通りなので、ずっと後の「卷第九十四之末」にあるので、取り敢えず、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該項をリンクさせておく。

「桐」これは日中ともに、シソ目キリ科キリ属 Paulownia 、或いは、揚子江流域にも分布する本邦のキリ Paulownia tomentosa でもよいか。

「胡桃(くるみ)」ブナ目クルミ科クルミ亜科クルミ連クルミ亜連クルミ属 Juglans 。複数種がある。

「山茶花(さゞんくわ)」何度も言っているが、先行する「山茶花」で考証した通り、この良安のルビは完全アウト中国語の「山茶花」は、

双子葉植物綱離弁花亜綱ツツジ目ツバキ科ツバキ連ツバキ属サザンカ Camellia sasanqua

ではない。同種の「維基百科」の標題は「茶梅」である。

○ツバキ属ヤブツバキ(=ツバキ:薮椿・藪海石榴) Camellia japonica

を指す。「維基百科」の同種の標題は「山茶花」である。

「緼絮(なかわた)」「緼」は「ふんわりとした短い繊維の塊(かたまり)・縺(もつ)れた麻の繊維」を指し、「褞」と同義。暖気を保持させるために中に詰める綿状のものを言う。

「娑羅木《さらぼく》」双子葉植物綱アオイ目フタバガキ科サラノキ属サラソウジュ Shorea robusta を指す。先行する「娑羅雙樹」を見よ。

「娑羅籠叚《さららうたん》」不詳。東洋文庫訳では、『娑羅籠段』とするが、物は語られていない。

「白氊《びやくぜん》」白い毛氈の意のようである。

「兠羅綿《トロメン》」「デジタル大辞泉」によれば、「トロ」は、梵語の音写で「綿花」の意。綿糸に兎の毛をまぜて織った織物。色は鼠色・藤色・薄柿色などが多く、もと、舶来品。後には毛をまぜない本邦製のものも出来た、とあった。

「暹羅(シヤム)」複数回、既出既注だが、再掲すると、タイの旧称。シャムロ。「暹」国と「羅」国が合併したので、かく漢字表記した。本邦では、私の世代ぐらいまでは、結合双生児を「シャム双生児」と呼んだが、これはサーカスの見世物のフリークスとして知られた胸部と腹部の中間付近で結合していた「チャン&エン・ブンカー兄弟」(Chang and Eng Bunker 二人とも一八一一年~一八七四年)が、たまたまシャム出身であることによった呼称であり、地域差別を助長する差別用語として死語にすべきものである。

「交趾(カウチ)」同前で、コーチ。「跤趾」「川内」「河内」とも漢字表記した。元来は、インドシナ半島のベトナムを指す中国名の一つ。漢代の郡名に由来し、明代まで用いられた。近世日本では、ヨーロッパ人の「コーチ(ン)シナ」という呼称用法に引かれて、当時のベトナム中部・南部(「広南」「クイナム」等とも呼んだ)を、しばしば、「交趾」と呼んだ(どこかの自民党の糞老害政治家石原某は今も使っている)。南シナ海の要衝の地で、朱印船やポルトガル船・中国船が来航し、中部のホイアン(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)などに日本町も栄えた(主文は山川出版社「山川 日本史小辞典」に拠った)。

「柬埔(カボヂヤ)」同前で、カンボジアのこと。

「古終」「和漢三才圖會」の「卷第九十四 濕草」の「草綿」の標題下部に(国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版当該部をリンクした)、異名で「古終」「久佐和多」とし、「俗云木綿」と記す。前掲のワタ属。]

2024/10/07

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 佐賀浦大明舩漂着

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「さがうら だいみんせん へうちやく」と訓じておく。]

 

     佐賀浦大明舩漂着

 昔、當国の海邊(うみべ)にて、大明舩、漂流す。

 如何(いかん)ともせんかたなき折(をり)しも、海上へ、「法華(ほつけ)」の題目を書(かき)たる板(いた)、一枚、浮(うか)みたるを見出(みいだ)し、其(その)板の流るゝ方(かた)ヘ、舩(ふね)を、よせければ、幡多郡(はたのこほり)佐賀浦、加嶋明神の本(もと)へ漂着して、人々、命を助かりたり。

 其頃、當(たう)浦に、放光寺といふ法華寺、有(あり)。此寺へ、右の題目板(だいもくいた)と、鰐口(わにぐち)を、明人(みんじん)より、納(をさ)めたり。

 徃昔(わうじやく)、地震の節(せつ)、放光寺、流失して、題目板は散失(さんしつ)し、鰐口も、當時、見へざりしを、年、經て、拾ひ出(いだ)しける由(よし)。

 其後(そののち)、寶永の地震にも、流失して、鰐口を、三年程、經て、砂中(すななか)より堀出(ほりいだ)せり、と云(いひ)つとふ[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本71)も同じ。「つたふ」の当時の口語表現。]。

 鍔口は、今、當寺の什物(じふもつ)となれり。

 放光寺、今は、妙光寺といふ。

 その鰐口の銘、[やぶちゃん注:原文では、以下の銘は二字下げ、最後の作者の附言は、一字下げ。]

『放光寺社頭金口康正二年八月廿七日

 裏『天正十四年貳月彼岸中日納置大明人也』

 康正二年より文化五年まで、三百五十三年に成(なる)也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「佐賀浦」現在の幡多郡黒潮町佐賀の鹿島ケ浦の旧称と思われる。現在の佐賀漁港は北で突き出る岬に造られてあるが、当時の漁港は「ひなたGPS」の戦前の地図の、現在の鹿島ケ浦の砂浜海岸、地名『橫濱』とあるところにあったものと推察する。

「大明舩」「康正二年」(ユリウス暦一四五六年)当時の明は、第七代皇帝朱祁鈺(きぎょく)の景泰七年。但し、ウィキの「景泰帝」によれば、翌景泰八年に『病臥し、朝臣より後継者の決定を促す奏上がなされるが、朱見済に嫡子のいなかった景泰帝は後継者指名を行わずにいた。この状況に』兄で第六代皇帝であった『英宗』(彼はしばしば侵攻していた北方のオイラト(モンゴル高原の西部から新疆の北部にかけて居住するモンゴル系民族)征伐を正統一四(一四四九)年に敢行するも、逆に捕虜となり、景泰元(一四五〇)年の講和が成立し、英宗は明朝に送還されて軟禁され、太上皇となっていた)『に近い石亨、徐有貞、曹吉祥らは英宗の復辟を画策し、英宗を軟禁されている宮殿から脱出させ、病床の景泰帝は抵抗することなく英宗が重祚した(奪門の変)。帝位を追われた景泰帝は間もなく崩御したが、暗殺されたとする説もある。享年』三十であったとある。

「幡多郡(はたのこほり)佐賀浦、加嶋明神」これは、鹿島ケ浦の湾口にある「鹿島」にある「鹿島神社」(グーグル・マップ・データ航空写真)のことと思われる。海上安全と大漁祈願の神宮であるが、神聖な神域であるらしく、現在は(も)、この島には、通常は、渡ることは出来ない。

「放光寺といふ法華寺、有(あり)」「放光寺、今は、妙光寺といふ」孰れの、その名の寺は不詳である。現在、幡多郡には日蓮宗の寺院は大月町に一寺あるのみである。

「鰐口(わにぐち)」私の『「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」』を参照されたい。絵もある。

「地震」康正二(一四五六)年以降、文化五(一八〇八)年までの間で、土佐を襲った大地震(寺が全壊・流失するほどのものである以上、それに限定してよかろう)は、「高知県地方気象台」公式サイト内の「過去に高知県に被害を及ぼした地震について」の「高知県内の地震による被害状況」のリストを見ると、

●明応地震:室町後期(戦国初期)の明応七年八月二十五日(グレゴリオ暦換算一四九八年九月二十日)。当該ウィキによれば、『震央は東海道沖と』され、『地震の規模は』推定でマグニチュード八・二~八・四とされる。震源と地域が東に有意に離れるが、『一方で、四国でも一部大地震があったとする記録が見出され、また』、『発掘調査から同時期の南海道沖』(南海トラフ)『の』同期発生の『地震の存在の可能性が唱えられている』とあった。前掲リンクのリストでも、マグニチュード八・三とし、『詳細は不明(南海トラフ沿いの大地震で、広い範囲に被害を及ぼしたと考えられる。)』とある。

●慶長地震:当該ウィキによれば、『江戸時代初期の慶長』九年十二月十六日(一六〇五年二月三日)『に起こったとされる地震・津波で』、『犬吠埼から九州に至る太平洋岸に大津波が襲来し、津波被害による溺死者は約』五千『(』或いは五『万人という説も)とされる。しかし、地震の揺れの記録が津波記録と比べて少なく、震源やメカニズム・被害規模も不明な点が多い』。『津波は夕方から夜にかけて、犬吠埼から九州に至る太平洋岸に押し寄せた。津波襲来の範囲は宝永地震に匹敵するが、後の元禄地震津波や宝永地震津波によって多くの史料が流失したものと推定され、また紀州徳川家や土佐山内家らが移封される前後であったなどの世情から、現存が確認される歴史記録は乏しい』とする。「津波」の項には、①『土佐甲浦(高知県安芸郡東洋町大字河内)』で『死者』三百五十『余人』とし、②『室戸岬付近』で『死者』四百『余人』で、「谷陵記」に『よれば』、『室津付近の元』(もと:地名。グーグル・マップの海岸に接する「元甲」「元乙」であろう)『では宝永津浪は慶長津浪より六尺(約』一・八メートル『)低いとある』とし、③『高知浦戸』では『山内一豊入封のとき、浦戸城では前代修築の突堤が慶長九年の激浪のため崩壊した』とあり、前記リストでも『土佐甲ノ浦・崎浜・室戸岬等で死者』八百『人以上』とある。

・宝永地震:当該ウィキによれば、宝永四年十月四日(一七〇七年十月二十八日)、東海道沖から南海道沖』『を震源域として発生した巨大地震』で、『南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされている』とし、「被害」の項には、『マグニチュードの推定値には』八・四『から』九・三『まで』とされ、城郭の「櫓・塀・門等の破損」の項に高知城が挙がっており、『本地震では各地で山体崩壊、山崩れが顕著で』、『讃岐では、五剣山の一角が大音響とともに崩壊したと』され、『室戸岬付近では佐喜浜川上流で加奈木崩れが発生した』。『越知(現・越知町)では舞ヶ鼻が崩壊し』、『仁淀川を堰き止め』、四『日間湛水したため「標高』六十一メートル『以下の場所に家を建てるな」と警告する石碑が数ヵ所ある』とあった。また、「推定震度」のリストには、土佐の室津・安芸・ 高知・佐川・須崎・ 窪川・中村・宿毛・ 宿毛大島でマグニチュード六から七の数値が添えられてある。また、「津波」の項には、『土佐の室戸、種崎や須崎など多くの場所で引き波で始まり、紀伊の広(現・広川町)や御坊(現・御坊市)では襲来する波はゆっくりであったが、引き波は激しく人家は取られ多く流失した』ともあり、「津波の被害状況」の表にも高知県だけでも二十もの被害が記されてある。前記リストでも、高知県内に限っても、『主として津波により、死者』千八百四十四『人、行方不明』九百二十六『人、家屋全壊』五千六百八『棟、家屋流失』一万千百六十七『棟』という数字が示されてある。

 以上であるが、最大激震の「宝永地震」は本文の後に出るから、この地震は「明応地震」或いは「慶長地震」のどちらかである。

「金口」「きんこう」と読んでおく。「金」は金属製の意で、「口」は鰐口の下部の反響用の目立つ切れ込み部分を指していよう。

「康正二年子」(丙子:ひのえね))「八月廿七日」グレゴリ暦換算一四五六年十月五日。

「天正十四年貳月彼岸中日」グレゴリオ暦一五八六年の春の彼岸の中日は「春分」であった旧暦の二月十五日で、グレゴリオ暦では四月四日である。

「納置」「をさめおく」。

「大明人也」「だいみんじんなり」。

「康正二年より文化五年まで、三百五十三年に成也」数えで計算している。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 宻䝉花

 

Watahujiutugi

 

みつもうくは 水錦花

 

宻䝉花

 

[やぶちゃん注:「みつもうくは」はママ。「宻䝉花」は「密蒙花」に同じ。]

 

本綱宻䝉花蜀中及利州甚多樹高𠀋餘葉冬不凋似冬

青葉而厚背白有細毛又云不佀冬青柔而不光潔不㴱

[やぶちゃん注:「㴱」は「深」の異体字。]

緑其花細碎數十房成一朶冬生春開微紫色

花【甘平微寒】 入肝經氣血分治青肓膚翳赤腫眵淚消目

[やぶちゃん注:「肓」は「盲」の良安の誤写。訓読では訂した。

 中赤脉小兒疳氣攻眼羞明怕日良

 

   *

 

みつもうくは 水錦花《すいきんくわ》

 

宻䝉花

 

[やぶちゃん注:「みつもうくは」はママ。]

 

「本綱」に曰はく、『宻䝉花、蜀中《ちゆう》[やぶちゃん注:この場合は現在の四川省成都市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)附近を指す。]、及び、利州[やぶちゃん注:現在の四川省広元市一帯。]、甚だ、多し。樹の高さ、𠀋餘。葉、冬、凋まず、「冬青(まさき)」の葉に似て、而《しかも》、厚く、背、白く、細毛、有り。又、云ふ、「『冬青』に佀《に》ず、柔《やはらか》にして、光潔《くわうけつ》ならず。≪又、≫㴱緑《しんりよく》ならず。其の花、細かに碎《くだ》け、數十房≪を以つて≫一朶《ひとふさ》を成す。冬、生じ、春、≪花を≫開く。微紫色≪なり≫。』≪と≫。』≪と≫。

『花【甘、平、微寒。】 肝經の氣≪分≫・血分に入りて、青盲(あきじり)・膚翳《ふえい》・赤腫《せきしゆ》・眵淚(やになみだ)を治す。目≪の≫中《なか》≪の≫赤《あかき》脉《みやく》を消し、小兒≪の≫、疳氣≪に據(よ)つて≫眼を攻《せ》め≪られ≫、明《あかる》≪きを≫羞(は)ぢ[やぶちゃん注:周囲が明るい状態を嫌がり。]、日《ひ》[やぶちゃん注:太陽光。]を怕(をそ[やぶちゃん注:ママ。])るゝに、良し。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:この「花」(蜜蒙花)とは、

シソ目ゴマノハグサ科フジウツギ(藤空木)属ワタフジウツギ Buddleja Officinalis

である。東洋文庫もそれを割注で『(フジウツギ科ワタフジウツギ)』と出している。この種を植物学的に日本語で詳細記載する記事は存在しないので、まず、「維基百科」の「密蒙花」を見ると、落葉低木で、小枝は、やや四角形を成し、灰白色の毛で密に覆われ、卵形から長楕円形の葉が集まり、葉の縁は、やや鋸歯状を成し、葉裏は灰白色から黄色の星状の細毛で密に覆われている。毛は総体の各部にあり、花の香りがよく、淡黃の花冠で、筒状になった内側は黄色を呈する。分布はミャンマー・ベトナム・ブータン、中国の安徽・甘粛・広東・江蘇・陝西・湖北・四川・雲南・山西・広西・福建・湖南・チベット自治区・河南・貴州など、中国本土全体に広く分布し、標高二百メートルから二千八百メートルの高地まで植生する。一般には、川沿い・日当たりの良い斜面・森林の端・村の隣りの茂み・石灰岩の山地などに植生するが、未だ人工的に導入されて栽培されていない、といった記載がある。同種の英語のウィキでは、『湖北省西部・四川省・雲南省を原産』としている。日本語のウィキでは、「フジウツギ属」があるので、引くと(注記号はカットした)、同属は『ゴマノハグサ科』Scrophulariaceae『の植物の属である。花が美しいので園芸用に栽培され、属名からブッドレア(ブッドレヤ)と呼ばれることが多い。世界に約』百『種あり、ほとんどは常緑または落葉性の低木だが、一部に高さ』三十メートル『に及ぶ高木や、草本もある。ヨーロッパ・オーストラリアを除く温帯・熱帯に分布する。多くは芳香があり、また蜜が多いので』、『よく』、『蝶が吸蜜に訪れる。サポニンを多く含むので有毒ともいう』(とあるが、複数の漢方サイトを見ると、「密蒙花」と称し、主要成分をフラボンとフラボノールとし、解熱・消炎・眼病(緑内障・赤腫流涙・鳥目等)の薬に使用されていることが判り、「本草綱目」が処方対象として挙げる疾患と一致する)。『葉は長さ』一~三十センチメートル『で細長く、ほとんどは対生。花は長さ』一センチメートル『ほどの筒状で、花びらの先が』四『裂し、長さ』十~五十センチメートル『の密な円錐花序をなす。花の色は種類により白、桃色、赤、紫、橙色、黄色などいろいろある。果実は蒴果で、多数の種子を含む』。『日本にはフジウツギ B. japonica とウラジロフジウツギ B. curviflora が自生する。フジウツギ(藤空木)の名は花序の様子や色が藤に似ていること』による、とある。『数種が園芸用に栽培されており、特によく栽培されるのがフサフジウツギ(ニシキフジウツギ)B. davidii である。これは極端に寒い地域を除いて』、『栽培しやすく、野生化することも多い。フサフジウツギは中国原産とされるが、秩父で野生状態で発見されたため、チチブフジウツギの別名がついている』。『そのほか』、『オレンジ色の B. globosa や、ライラック色の B. alternifolia 、また B. × weyeriana B. globosa × B. davidii )などの交雑種が栽培される。沖縄県では中国原産のトウフジウツギ B. lindleyana がよく栽培されている』。『属学名はイギリス国教会宣教師で植物学者だったアダム・バドル Adam Buddle』(一六六〇年~ 一七一五年)『にちなむ』が、『正しくは"  Buddleia "になりそうだが、リンネが" Buddleja "と書いたため』、『これが正式名として定着した』とある。『ブッドレアは花木の中では、実生からの栽培が最も簡単なものの一つである。春まきで翌年から開花することが多い。ただ、木本としては比較的短命で、数年で枯れることもある。タネが入手しやすいのは、B. davidii の空色系と青・白・ピンクなどが混ざったもの、それに B. globosa である』。『種まきは』四『月頃に行う。タネはかなり細かいが、一袋にかなりの量が入っているので、苗床などの播き、覆土はせずにそっと手のひらで押さえ、細めのじょうろで丁寧に水やりをするようにする。発芽までに』十『日から半月くらいかかる。混み合ったところは間引き、本葉が出てきたら一度仮植えし』一メートル『位の間隔に定植する。春から秋まで日向または半日陰になる、水はけの良いところを好む。 移植をする際は、ひげ根が土と離れやすいので、注意が必要である』とあった。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「宻䝉花」([088-73b]以下)のパッチワークである。

「冬青(まさき)」バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属ソヨゴ Ilex pedunculosa当該ウィキによれば、『和名ソヨゴは、風に戦(そよ)いで葉が特徴的な音を立てる様が由来とされ、「戦」と表記される。常緑樹で冬でも葉が青々と茂っていることから「冬青」の表記も見られる』。但し、『「冬青」は常緑樹全般にあてはまることから、これを区別するために「具柄冬青」とも表記される。中国植物名でも、具柄冬青(刻脈冬青)と表記される』とある。なお、東洋文庫訳では、割注で『(灌木類。ナナメノキ)』とする。この「ナナメノキ」は、モチノキ目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis の異名で、中文ウィキの「冬青属」相当では、確かに狭義の「冬青」をナナミノキに宛ててはある。となれば、厳密には現代では、日中で同属異種ということになるが、明代に、それを確然と区別していたとは、私には思われないので、これ以上、ディグはしない。

『又、云ふ、「『冬青』に佀《に》ず、柔《やはらか》にして、光潔《くわうけつ》ならず。≪又、≫㴱緑《しんりよく》ならず。其の花、細かに碎《くだ》け、數十房≪を以つて≫一朶《ひとふさ》を成す。冬、生じ、春、≪花を≫開く。微紫色≪なり≫。』≪と≫。』と時珍が言った傍から反する記事を添えるというのは、特異点であり、真逆の記載を敢えて並置するのは、取りも直さず、時珍自身が、正直、「冬青」を現認して書いていないことを意味しているように感じられ、前注の私の最後の疑義が、ただの思い込みではない証左の有力な助っ人となっているように思われた。

「肝經」東洋文庫の後注に、『足の闕陰肝經。身体をめぐる十二経脈の一。巻八十二盧会の注一参照。』とある。先行する「盧會」の私の引用注を参照されたい。

「青盲(あきじり)」音は「セイマウ(セイモウ)」。これは、眼疾患でも難症で失明に至ることもある「靑そこひ」=緑内障を指す。しかし、この「青」は目の色ではなく、本邦の平安時代や江戸時代の文学作品で「淸盲」と記すところから、一見、すっきりとした眼球の状態ンであるのに、物が見えないということを意味しているものと思われ、まさに緑内障末期の外見上の様態を指したものと私は思う。

「膚翳《ふえい》」これは、中文の「A+醫學百科」の「膚翳」に、眼疾患の一つで、視野の中に、蠅の羽のような影が生じる疾患といった感じの内容が書かれている。当初、蠅のの羽から、私も物心ついた頃からあった、飛蚊症かと考えたが、蠅は翅が遙かに大きいから、「なるほど! 黄斑変性症か!」と横手を打った。現行では一種の症候群で、複数の疾患名に分れる。詳しくは、同ウィキのそれぞれのリンク先を見られたい。因みに、遺伝性疾患の「網膜色素変性症」も想起したことも言っておこう。それは、私が書いた「ノース2号論ノート1 ダンカンの疾患及び特別出演ブラックジャックについての注釈」で特定した疾患だからである。この私のカテゴリ「プルートゥ」は、二〇〇七年の古い論考集だが、未だにアクセスの非常に高いカテゴリである。

「赤腫《せきしゆ》」これは前後が総て眼病であるから、目の充血疾患を指すものであろう。東洋文庫では割注して、『(ほし目。角膜白斑症)』とする。しかし、その疾患は、角膜に白い混濁が生ずるもので、「赤腫」という漢字表記には、ちょっとしっくりこないし、臨床的にも昔でも「赤腫」とは言わんだろうと感ずる。血のように赤くなる症状が有意に見られるのは、感染性結膜炎(昔の「はやり目」)」やアレルギー性結膜炎、また、乳児血管腫・脈絡膜血管腫等が想起され、難治性の疾患では、角膜潰瘍(かいよう)・単純ヘルペス角膜炎・眼部帯状疱疹・急性閉塞隅角緑内障・前部ぶどう膜炎・強膜炎などが挙げられるであろう。

「眵淚(やになみだ)」これは、症状としての「目やに」(私の少年期までは「目くそ(目糞)」と言ったもんだ)や、それを含んだ濁った涙(液体)が滲出してくる症状であろう。

「目≪の≫中《なか》≪の≫赤《あかき》脉《みやく》」これは白目が赤くなる症状で、お馴染みの「充血」と「結膜下出血」が当たる。

「疳氣」これは所謂、「疳の虫」で、「かんげ」とも読み、外見上は、全身が痩せ、腹部が脹れる、小児の多様な症状を示す古い総称的な象徴疾患名である。実際には現在の心因性・内因性・外因性に起因する多くの症状を包含する。]

2024/10/06

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 伏牛花

 

Aridousi

 

ふくぎうくは 隔虎刺花

 

伏牛花

 

 

本綱伏牛花生蜀地川澤中葉青細似黃蘗葉而不光莖

亦有刺開花淡黃色作穗佀杏花而小

氣味【苦甘】治風溼四肢拘攣骨肉疼痛頭痛五痔下血

[やぶちゃん字注:「ふくぎうくは」はママ。「溼」は「濕」の異体字。]

 

   *

 

ふくぎうくは 隔虎刺花《かくこしくわ》

 

伏牛花

 

 

「本綱」に曰はく、『伏牛花は、蜀[やぶちゃん注:現在の四川省。]の地、川澤《かはさは》の中に生ず。葉、青く、細《おまか》にして「黃蘗《わうばく》」の葉に似れども、光らず。莖も亦、刺《とげ》、有り。開花して、淡黃色にして、穗を作る。「杏《あんず》」の花に佀《に》て、小《ちいさ》し。』≪と≫。

『氣味【苦、甘。】風溼《ふうしつ》・四肢≪の≫拘攣《ひきつり》・骨肉≪の≫疼痛・頭痛・五痔≪の≫下血を治す。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「伏牛花(ふくぎうくわ)」は日中ともに、

双子葉植物綱キク亜綱アカネ目アカネ科アリドオシ属アリドオシ変種アリドオシ Damnacanthus indicus var. indicus

である。「維基百科」は「虎刺」であるが、本文に別名を「伏牛花」とする。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記『蟻通』(歴史的仮名遣は「ありどほし」)で、この『語源には』二『説ある』。①『とげが細長く、アリでも刺し貫くということから』、②『とげが多数あり、アリのような小さい虫でないと通り抜けられないということから』というものである。『別名を一両(イチリョウ)、タマゴバアリドオシ』(卵葉蟻通)『ともいう。中国名表記は、「虎刺」(刺虎、伏牛花、繡花針)』。『日本、朝鮮半島南部、東南アジアからインド東部まで分布する。日本では、本州(関東地方以西)、四国、九州、沖縄に分布する。山地のやや乾いた薄暗い林下に生育する』。『同属はジュズネノキ』(「数珠根の木」。Damnacanthus macrophyllus )『など、日本から東南アジア周辺に数種が分布する』。『常緑広葉樹の低木で、高さは』二十~六十『センチメートル』。『主茎はまっすぐに伸びるが、側枝はよく二叉分枝しながら横に広がる。若い枝には短い剛毛が密生する。葉は対生し、長さ』一~二・五センチメートル『の卵円形から卵形で、質は固く表面に光沢ある。葉腋に』一『対の細長い長さ』一~二センチメートル『の鋭い棘がある。葉が枝から水平に広がり、それに対して棘は垂直に伸びる』。『花期は』五『月ごろ。葉腋に漏斗形の白い花を通常』、二『個ずつ咲かせる。花冠の長さは約』十『ミリメートル』『ほどで、先は』四『裂する。果実は液果で直径』五~六ミリメートル『 の球形。冬に赤く熟し、先端に萼が残る。果実は翌年の花期まで木に残るものもある』。『栽培されることもあり、関西地方ではセンリョウ(千両)』(センリョウ目センリョウ科センリョウ属センリョウ Sarcandra glabra )、『マンリョウ(万両)』(ツツジ目サクラソウ科ヤブコウジ(藪柑子)亜科ヤブコウジ属マンリョウ Ardisia crenata 。センリョウとはただ見かけが似ているだけであって、全く縁がない種である。教員時代も、同属の植物だと思い込んでいた生徒が甚だ多かった)『とともに植え、「千両万両有り通し」と称して正月の縁起物とし、縁起木として床飾りにする』。『以下の変』『品種がある』として、六種が挙がっている。

○オオアリドオシ Damnacanthus indicus f. var. major

○ホソバオオアリドオシ Damnacanthus indicus f. var. lancifolius

○コバンバニセジュズネノキ Damnacanthus indicus f. var. lancifolius f. oblongus

○ヒメアリドオシ Damnacanthus indicus f. var. indicus f. microphyllus

○ビシンジュズネノキ Damnacanthus indicus f. var. intermedius

○リュウキュウジュズネノキ Damnacanthus indicus f. var. okinawensis

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「伏牛花」([088-72b]以下)のパッチワークである。

「黃蘗《わうばく》」ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ変種キハダ Phellodendron amurense var. amurense 。先行する「黃蘗」の私の注を見られたい。

「杏《あんず》の花」「杏」は日中ともに、バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属アンズ変種アンズ Prunus armeniaca var. ansu であるが、アンズの花はこれである(当該ウィキの画像)。

「風溼《ふうしつ》」漢方で、先の「風」、及び、「水」気の体内過剰によって生ずるとされる筋肉・関節などに起こる病気。

「五痔」複数回既出既注だが、再掲しておくと、東洋文庫の「丁子」の割注に、『内痔の脈痔・腸痔・血痔、外痔の牡痔・牝痔をあわせて五痔という』とあったが、これらの各個の症状を解説した漢方サイトを探したが、見当たらない。一説に「切(きれ)痔・疣(いぼ)痔・鶏冠(とさか)痔(張り疣痔)・蓮(はす)痔(痔瘻(じろう))・脱痔」とするが、どうもこれは近代の話っぽい。中文の中医学の記載では、「牡痔・牝痔・脉痔・腸痔・血痔」を挙げる。それぞれ想像だが、「牡痔・牝痔」は「外痔核」・「内痔核」でよかろうか。「脉痔」が判らないが、脈打つようにズキズキするの意ととれば、内痔核の一種で、脱出した痔核が戻らなくなり、血栓が発生して大きく腫れ上がって激しい痛みを伴う「嵌頓(かんとん)痔核」、又は、肛門の周囲に血栓が生じて激しい痛みを伴う「血栓性外痔核」かも知れぬ。「腸痔」は穿孔が起こる「痔瘻」と見てよく、「血痔」は「裂肛」(切れ痔)でよかろう。この場合、「下血」とあるので、それらの病態の内で、出血を見るものに限る処方と読める。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 蠟梅

 

Roubai

 

ろふばい  黃梅花

      【俗南京梅】

蠟梅

 

ラツ ムイ

 

本綱蠟梅本非梅類因其與梅同時香又相近色似𮔉蠟

[やぶちゃん字注:「𮔉」は「蜜」の異体字。]

故名之小樹叢枝尖葉結實如垂鈴尖長寸餘子在其中

其樹皮浸水磨黒有光采凡有三種

狗繩梅 以子種出不經接者臘月開小花而香淡

磬口梅 經接而花疎開時含口者

檀香梅 花宻而香濃色㴱黃如紫檀者最佳

[やぶちゃん注:「㴱」は「深」の異体字。]

△按蠟梅花六出單葉似小梅花而黄色其枝柔靱遠見

 則彷彿倭連翹伹連翹花四出而盞形爾

 農政全書云蠟梅枝條頗類李其葉似桃葉而寛大紋

 微麁開淡黃花味甘微苦

[やぶちゃん字注:「梅」と「梅」の混淆はママ。子細に観察し、使い分けた。]

 

   *

 

ろふばい  黃梅花

      【俗南京梅】

蠟梅

 

ラツ ムイ

[やぶちゃん注:「ろふばい」はママ。歴史的仮名遣は「らうばい」が正しい。]

 

「本綱」に曰はく、『蠟梅、本《も》と、梅の類《るゐ》に非ず。因りて、其れ、梅と、時を同《おなじく》し、香≪も≫又、相近《あひちか》く、色、宻蠟《みつらう》に似≪れば≫、故≪に≫、之れを名づく。小樹≪にして≫、叢《むらがれる》枝、尖《とが》る葉≪にて≫、實を結ぶ。垂鈴《たれすず》のごとくにして、尖り、長さ、寸餘。子《たね》、其の中に在り。其の樹皮を、水に浸して、磨《みが》≪けば≫、黒《くろく》して、光采《かうさい》[やぶちゃん注:「光彩」=「光澤」に同じ。]、有り。凡そ、三種、有《あり》。』≪と≫。

『狗繩梅《くようばい》』 『子《たね》を以つて、種《うゑ》、出《しゆつ》≪す≫。接《つぎき》を經《へ》ざる者。臘月[やぶちゃん注:旧暦十二月。]、小≪さき≫花を開きて、香《かをり》、淡《あはし》。』≪と≫。

『磬口梅《けいこうばい》』。『接《つぐ》ことを經《へ》て、花、疎《まばら》に、開≪く≫時、口を含む者。』≪と≫。

『檀香梅《せんかうばい》』。『花、宻《みつ》にして、香《かをり》、濃く、色、㴱《ふかき》黃≪なり≫。「紫檀《したん》」のごとき者≪にして≫、最も佳なり。』≪と≫。

△按ずるに、蠟梅は、花、六出《ろくしゆつ》。單葉≪なり≫。小梅の花に似て、黄色。其の枝、柔《やはら》かに、靱(しな)へ、遠く見≪れば≫、則ち、倭の連翹《れんげう》に彷彿(さもに)たり。伹《ただし》、連翹の花は、四出《ししゆつ》して、盞(ちよく)[やぶちゃん注:「ぐい呑み」のこと。]の形なるのみ。

「農政全書」に云はく、『蠟梅≪の≫枝條《しでう》、頗《すこぶ》る、李《すもも》に類《るゐ》≪す≫。其の葉、桃の葉に似て、寛《ひろく》、大≪にして≫、紋、微《やや》、麁(あら)く、淡≪き≫黃花を開く。味、甘く、微《やや》、苦《にが》し。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「蠟梅」は日中ともに、

双子葉植物綱クスノキ目ロウバイ科ロウバイ属ロウバイ Chimonanthus praecox

がタイプ種である。「維基百科」の「蜡梅」が同種である。なお、良安も指示している通り、注意喚起しておくと、「梅」は、

バラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mume

であって、近縁でも何でもない。かく言う私も、青年になるまで、梅の一種と思い込んでいたから。関東近辺では、修善寺の梅林が、お薦めである。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。異名漢字表記では、『臘梅、唐梅』(からうめ)』があり、『中国原産の落葉樹である』。『和名の「ロウバイ」の語源は、漢名の「蝋梅」の音読みとされ、由来について一説には、陰暦の』十二『月にあたる』臘月(ウィキ原文では漢字を間違っている)『(ろうげつ)にウメの香りの花を咲かせるためだと言われている』。「本草綱目」に『よれば、半透明で』、『にぶいツヤのある花びらが』、『まるで蝋細工のようであり、かつ臘月に咲くことにちなむという』。『日本へ渡来したのは』十七『世紀初めの江戸時代ごろとされる。庭木として広く植えられている』(本「和漢三才圖會」は正徳二(一七一二)年成立なので、既に本邦に定着していた)。『落葉広葉樹の低木で、高さは』二~五メートル『になる。株立ちし、樹皮は淡灰褐色で』、『皮目』は、『縦に並び、生長とともに浅く割れたようになる。葉は長さ』十~十二センチメートル『の細い長楕円形で、両端は尖る』。『花期時期は』一~二『月』。『早生種では』十二『月頃に、晩生種でも』二『月にかけて半透明で』、『にぶいツヤのある黄色く香り高い花が』、『やや下を向いて咲く。花色は外側が淡黄色で内側が暗紫色をしている。果実は痩果で一見すると種子に見え、花托が生長して壺状の偽果になり、中に偽果が詰まり数個から』十『個程度』、『見られる』。『冬芽は枝に対生し、葉芽は卵形で』、『花芽は球形をしている。枝先には仮頂芽(葉芽)が』二『個つく』。以下「品種」の項。『ロウバイ属には他に』五『種があり、いずれも中国に産する。なお、ウメは寒い時期に開花し、香りが強く、花柄が短く』、『花が枝にまとまってつくといった類似点があるが、バラ目』 Rosales『バラ科』Rosaceae『に属しており』、『系統的には遠縁である』。『ソシンロウバイ(素心蝋梅)やトウロウバイ(唐蝋梅)などの品種がある。よく栽培されているのはソシンロウバイで』、『花全体が黄色で、ロウバイよりもよく結実する。ロウバイの基本種は、花の中心部は暗紫色で、その周囲が黄色である』。

カカバイ Chimonanthus praecox f. intermedius(『狗牙蝋梅・狗蝿梅』。「本草綱目」の引用に出る『狗繩梅《くようばい》』である

○ソシンロウバイ Chimonanthus praecox f. concolor(『素心蝋梅』。別名シロバナロウバイ(白花蝋梅))

○マンゲツロウバイ Chimonanthus praecoxMangetsu’(『満月蝋梅』。学名の通り、ソシンロウバイから選抜された園芸品種。『ほかにも「揚州黄」「吊金鐘」などの栽培品種がある』)

○トウロウバイ Chimonanthus praecox var. grandiflorus(『唐蝋梅』、ほかにも『「虎蹄」「喬種」などの栽培品種がある』)

以下、「栽培」の項。『土壌をあまり選ばず、かなり日陰のところでも』、『よく育ち』、『開花する丈夫な花木である』。『繁殖は、品種ものの一部を除き』、『挿し木が一般的だが』、『実生からの育成も容易』で、『種まきから最も簡単に育てられる樹種である。晩秋になると、焦げ茶色の実がなっており、中のタネ(真の果実)はアズキくらいの大きさである。寒さに遭わせたほうが』、『よく発芽するといい、庭に播き』、五ミリメートル『ほど覆土しておくと、春分を過ぎてから生えてくる』。以下、「毒性」の項。『種子などにアルカロイドであるカリカンチン』(Calycanthine)『を含み』、『有毒。中毒すれば』、『ストリキニーネ様の中毒症状を示す』。以下、「薬用」の項で終わる。『花やつぼみから抽出した蝋梅油(ろうばいゆ)を薬として使用する。中国では、花をやけどの薬にすると言われている』。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「蠟梅」([088-72a]以下)(記載は非常に短い)の「釋名」「集解」から殆んどをバラして引いたパッチワークである。

「磬口梅《けいこうばい》」これは中文サイトを、複数、見ても、ロウバイ Chimonanthus praecox の学名を挙げてある。上記引用に、『繁殖は、品種ものの一部を除き』、『挿し木が一般的だが』、『実生からの育成も容易』で、『種まきから最も簡単に育てられる樹種である』とするので、本来の種子から繁殖する、同種のプロトタイプ群と見受けられる。

「檀香梅《せんかうばい》」これは、ロウバイとは、クスノキ目クスノキ科Lauraceaeまでは同じだが、属レベルで異なる、

クロモジ(黒文字)属ダンコウバイ Lindera obtusiloba

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『檀香梅』『は』『別名でウコンバナ、シロヂシャともよばれる。和名の由来は、実や葉、また材が檀香(ビャクダン:白壇)のように香り、花がウメ(梅)に似ていることによる。丸みのある浅く』三『裂した葉が特徴』。『中国、朝鮮半島、日本に分布する。日本では本州(新潟県、関東地方以西)、四国、九州に分布する。山地の雑木林内や林縁の明るい場所に自生する。植栽されることは稀であるが、庭にも植えられる』。『落葉広葉樹の低木から小高木。成木は樹高』二~七『メートル』、『幹の直径約』十八『センチメートル 』。『樹皮は暗灰色から茶褐色で滑らかであるが、皮目が多く少しざらつく感じになる。小枝は日当たりのよい面は赤味を帯び、日陰側は緑色であることが多い。枝を折ると芳香がある』。『花期は』三~四『月』。『雌雄異株で、雄株のほうが花数が多い』。『葉が芽吹く前に、芳香がある黄色い小さな花を散形花序に多数つける』。『雄花と雌花の花被片は』六『個で楕円形。雄花の雄蕊の花糸に』一『対の密腺がある。花序の柄は長さ』一『ミリメートル』『ほどついている』。『葉は互生し、柄がある。葉身は幅広い倒卵形で、長さは』五~十五センチメートル、『幅は』四~十三センチメートル、『基部が幅広く丸くなり』、『先端が浅く』三『裂するのが基本であるが、なかには裂けないものもある。葉質はやや厚く、表面はつやのない緑、若葉の裏面には毛が生えている。葉によって裂け方にかなり個体差があり、裂けない葉もある。外見的には葉の形などシロモジ』(クロモジ属シロモジ(白文字)Lindera triloba )『にやや似る。葉も揉むとわずかに芳香がある。秋になると葉は黄葉して鮮やかな黄色に染まり、やがて落葉する。ダンコウバイの葉のよう』な、特徴的に『浅く』三『つに切れ込む葉は他にみられず、葉の形で簡単に見分けられる』(添えられてある「葉」の写真)。『果期は』九~十『月。果実はクスノキの実を少し大きくしたような光沢のある球形で、直径は』七~八ミリメートル『ほどあり、はじめは赤色であるが』、『秋の黄葉の時期に熟して黒紫色に変わる。種子は淡褐色から褐色で強い香りがある』。『冬芽は互生し、葉芽は長楕円形で、花芽はほぼ球形。芽鱗は赤茶色で花芽は』二、三『枚、葉芽は』四、五『枚ある。落葉のころには来春の花芽が葉腋にでき、つぼみのまま越冬する。葉痕は半円形で、維管束痕が』三『個つく』。『ウコギ科』Araliaceae『の』カクレミノ(隠蓑)属『カクレミノ( Dendropanax trifidus )』(二ヶ月前に行った伊東の温泉の離れの坪庭に大きく育った個体を見つけ、親しく観察した)『は常緑樹で、葉がダンコウバイやシロモジ( Lindera triloba )にやや似ており、秋に古い葉の一部が橙色から黄色に紅葉する。シロモジもダンコウバイも、切れ込みのない葉が』、『時折』り、『混じる』。『庭木に利用されている。材は芳香があり、楊枝や細工物に使う。種子からは油がとれる。果実には香りのいい油分があって、朝鮮では種子の油を高級な髪油として用いた』とある。

「紫檀《したん》」一説に、二種を含むとし、マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連ツルサイカチ属ケランジィ Dalbergia cochinchinensis と、マルバシタン Dalbergia latifolia である。但し、異論を唱える者もあり、それらはウィキの「シタン」を見られたい。

「連翹」「枸𣏌」で既出既注だが、再掲すると、本邦で言うシソ目モクセイ科Forsythieae連レンギョウ属レンギョウ Forsythia suspensa は、中国原産で、江戸初期に植物体は渡来している。しかし、中国の漢方生薬「連翹」の基原植物は、一般には、中国原産の同属シナレンギョウ Forsythia viridissima の成熟果実を、一度、蒸気を通したのち、天日で乾燥したものを指すとされる。生薬扱いしたのは、良安がわざわざ「倭の連翹」と言っているからで、実際の植物体としてのシナレンギョウを見ていないから、かく言わざるを得ない、ということは、当然、植物体ではなく、加工された果実の生薬としての生薬体で比較していると、とるしかないのである(シナレンギョウの日本への渡来は大正末期である)。では、日本に在来種のレンギョウ属はいないかというと、中国地方の、代表的なカルスト台地である岡山県北西部の阿哲台(あてつだい:深草縁夫氏のサイト「日本すきま漫遊記」の「岡山・水車と鍾乳洞を巡る(6日目)」に載る地図を見られたい)、広島県北東部の帝釈台(阿哲台の南西にある広島県庄原市東城町(とうじょうちょう)帝釈未渡(たいしゃくみど:グーグル・マップ・データ)にある)といった石灰岩地の岩場などに選択的に植生するヤマトレンギョウ Forsythia japonica と、小豆島のみに植生するショウドシマレンギョウ Forsythia togashii の二種があるのであるが、孰れも、現在、絶滅危惧種に指定されている。私は、良安が言っているものが、正規の在来種の分布が非常に限定されているヤマトレンギョウやショウドシマレンギョウであるとは思えないのである。少なくとも、この在来種二種を良安が実際に現認し、知っていたとは、私には、まず、絶対に思われない。但し、以上の記載で最も参考にさせて戴いた「公益社団法人日本薬学会」公式サイト内の「シナレンギョウ」のページには、全く異なる基原植物説の追加記載があって、『中国の古い本草書には「湿り気のあるところに生育している草本植物」との記載があることから,連翹はオトギリソウ科のオトギリソウやトモエソウの仲間を指すという説もあります』とあることを言い添えておく。オトギリソウは、キントラノオ目オトギリソウ科オトギリソウ属オトギリソウ Hypericum erectum であり、トモエソウは、同じオトギリソウ属トモエソウ Hypericum ascyron である。なお、以上の記載には、別にサイト「Arboretum」の「ヤマトレンギョウ」のページも参考にした。]

2024/10/05

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 田邉嶋隼人明神

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。前々から述べた通り、原書自体に綴じの際の乱丁が発生しており、これが当該の難に最も激しく遭っているものである。初回はここであるが、右丁最後の一行だけで、次は二コマ戻ったここの、左丁と、次のコマの右丁のみ、而して、再び、ここに戻って左丁の「元親」の名のある御触書(おふれがき)で終わる(以下の後ろから二行目は、続きのように一字下げであるが、別な話である)。標題は「たべしま はやとみやうじん」と訓じておく。]

 

     田邉嶋隼人明神

 田邊嶋(たべしま)の隼人明神(はやとみやうじん)は、福留隼人(ふくとみはやと)の霊を祭るとかや。今は、此村の產神(うぶすながみ)に祭れり。

「此神の加護にて、田辺島の者に限り、反鼻(ハミ)に喰はれぬ。」[やぶちゃん注:「反鼻(ハミ)」はクサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシGloydius blomhoffii の俗名。博物誌は私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇(はみ) まむしへび 」の項を見られたい。]

と也(なり)。

 又、

「他所(よそ)の者も、守(まもり)を懷中すれば、反鼻の恐れなし。」

と、いへり。

 されば、此(この)隼人は、元親(もとちか)の士にて、武功有(ある)人也。

 或時、元親、宣(のたま)ひけるは、

「凡(およそ)、禍(ワザハヒ)・過(あやまち)をなすものは、酒也(なり)。身を害し、家を亂(みだせ)る者、勝(かつ)て言(いふ)べからず。今より、我(わが)領內(りやうない)にて、酒を吞(のみ)たる者あらば、罪科(つみとが)に行ふべし。」

と、堅く、法(はう)を出(いだ)されけるよりして、酒の賣買(ばいばい)、止(やみ)て、顏色(かほいろ)赤き者をば、人、疑(ウタガ)ひ、冠婚の悅(よろこば)しきにも、餅(もち)にて、いはひ、月花(つきはな)の遊びにも、只(ただ)、茶を吞(のみ)てぞ、樂(たのし)みける。

 斯(かか)りしかば、亂舞遊興の道、絕えて、いまは、しかりし國政也。

 爰(ここ)に福留隼人、所用の事、有(あり)て、私宅(わたくしたく)を出(いで)て、行(ゆく)所に、向ふより、樽(たる)を、かたげて[やぶちゃん注:担(かつ)いで。]、來(きた)る者、あり。

 隼人、見て、

「其(その)酒樽(さかだる)は、何方(いづかた)へ持行(もちゆく)ぞ。」[やぶちゃん注:底本では、最後の「ぞ」は「て」であるが、国立公文書館本69)では、『そ』であるので、濁音化して訂した。]

と尋れば、彼者、

「御城(ごじやう)の御用にて候。」

と、いひ捨(すて)て行くを、隼人、

「何條(なんでう)、『御城御用』と言(いふ)事や、ある。」

とて、飛掛(とびかか)り、奪(ば)ひ取(とり)て、樽を、二、三に、打碎(うちくだ)きて、言(いふ)。

「諸人(しょにん)の鑑(かがみ)と成(なる)人の、其(その)法を背(そむ)き、民を苦しめて、獨(ひとり)、樂しみ玉(たま)ふ事、無道(むだう)といふに、餘り有(あり)。一命をすてゝ、諫(いさめ)ずば、有(ある)べからず。」

と、獨言(ひとりごと)して、歸(かへり)ける。

 使(つかひ)の者、肝(きも)を消し、城中(じやうちゆう)へ走行(はしりゆき)、役人に向(むかひ)て、その次第を告(つぐ)る。

 老臣の面〻(めんめん)、大(おほき)に驚き、急ぎ、元親の前に出(いで)て、

「隼人、狂乱の躰(てい)、か樣(やう)か樣に候。」

と、謹(つつしみ)て申(まうし)ければ、元親、聞玉(ききたま)ひ、

「いやとよ、狂氣にあらず。又、隼人は非義をなすものに非(あら)ず。察するに、一命を捨て、元親を、强く諫(いさむ)る者也(なり)。天晴(あつぱれ)、元親は、果報のもの也(なり)。我家(わがいへ)、長久(ちやうきう)、疑ひ、なし。唐(もろこし)の王子(わうじ)比干(ひかん)に異(こと)ならず。尤(もつとも)、義、有(あり)、忠(ちゆう)、あり。臣(しん)たるものゝ、手本也(なり)。」

 感賞(かんしやう)し、頓(やが)て、酒を、ゆるして、在〻所〻(ざいざいしよしよ)へ觸(ふれ)られける。

「今度(このたび) 酒を禁ずる事 法令のあやまり也 依之(これより) 是(これ)を改めゆるす也(なり) 但(ただし)、亂酒(らんしゆ)すべからず」

元親     

 

[やぶちゃん注:「田邉嶋隼人明神」現在の高知市大津にある「福留隼人(ふくとめはやと)神社」である(グーグル・マップ・データ)。

「福留隼人」当該ウィキがある。福留親政(ふくどめちかまさ 永正八(一五一一)年~天正五(一五七七)年)は『戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。官位は飛騨守。隼人とも称した。別名は儀実』(「よしざね」か)。『父は福留房吉(福留蔵人)と推定されている。子に福留儀重、福留民部』、『福留平兵衛』、『福留右馬丞』、『福留新九郎』。『長宗我部国親の代から長宗我部家に使え』た『家臣』で、『長宗我部元親に「親」の一字を与えられるなど』、『信頼され、感状』(戦功のあった者に対して主家や上官が与える賞状)『を受けた数は』二十一『回に及び』、永禄六(一五六三)『年に元親が』積年の「本山(もとやま)氏攻め」(ウィキの「本山氏」を参照されたい。本山城跡はここ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)『に向かい』、『岡豊城』(おこうじょう:ここ)『の防備が手薄になった際』、『安芸国虎』(土佐安芸郡の国人。当該ウィキを参照)『が攻め』『くるも』、『撃退した』。「土佐物語」によると、二十『人切り』、「元親記」では、三十七『人切りをしたと伝わる。その働きぶりは』「福留の荒切り」『と呼ばれた。元親の嫡男の長宗我部信親の守役を務めるなど』『重用されていたが』、元親の伊予侵攻戦に『おいて戦死した』とある。この勇猛果敢の彼を祀ることから、本邦の最猛毒の蛇、マムシさえ怖れるという由縁を持つものである。オンチャン(とさっぽ)氏のブログ「南国土佐へ来てみいや」の「田辺島神社(隼人神社) マムシ(ハミ)も恐れる福留飛騨と隼人を祀る」のページに、本「南路志」のこの条を引かれ、『高知では、マムシのことをハミと言うがでして、土佐の童謡にも「蛇もハミ(マムシ)もそちよれ、隼人様のお通りじゃ」と歌われちゅうが。』『これは、息子の福留隼人さんの武勇伝承から、「ハミも恐れをなして逃げる」と歌われちゅう、一種の蛇(マムシ=ハミ)退治の御呪いながでして、神社の土を持つちょったらハミに咬まれる心配はないと信仰されちょるがです。』とあった。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 領家郷梅木村夜啼石

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。前回述べた通り、原書自体に綴じの際の乱丁が発生しており、リンク先の右丁はこれより後の部分である。標題は「りやうけがう うめのきむら よなきいし」と訓じておく。]

 

     領家郷梅木村夜啼石

 領家郷、梅木村に、「夜啼石」といふ、有(あり)。

 「不動が瀧」を去る事、十町[やぶちゃん注:訳一キロメートル。]斗(ばかり)、往來の大路(おほぢ)、有(あり)。其(その)傍(かたはら)に、大石(おほいし)、有(あり)ける。

 里人(さとびと)、傳言(つたへいふ)、

「昔、隣村(となりむら)の者、夫婦連れにて、梅木村へ來りて、歸る時、此(この)石の邊(あたり)にて、女房、俄(にはか)に產の氣(け)、有り。暫(しばらく)、休らふ中(うち)、石の下にて、子を產(うめ)り。夫(をつと)、介補(かいほ)して居(をり)たれども、素(もとよ)り、左右、深林にて、人家、遠く、折節(をりふし)、道行人(みちゆくひと)も、なければ、妻子を、大石の上に懷(いだ)き上げ、

「少(すこし)の間(あひだ)、爰(ここ)に待(まつ)べし。梅木村へ、走行(はしりゆき)て、飮食を所望(しよまう)して來(きた)るべし。」

とて、急ぎ行(ゆき)けるに、何所(いづこ)より來(きた)りけん、犲(ヤマイヌ)・狼(オヽかみ)の類(たぐ)ひ、競集(きそひあつま)りて、妻子ともに、喰ひ殺したる。」

とかや。

 其後(そののち)、夜ふけ、此道を通りけるもの、有(あり)。

 大石の邊りにて、赤子の啼(なく)聲(こゑ)す。

 不審に、おもひ、松火(たいまつ)にて探し見れども、人影、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。

『あやしき事。』

に、おもひ、かへりて、此事を語傳(かたりつた)へければ、村中(むらぢゆう)、夜毎(よごと)、聞(きき)に行(ゆき)しに、實(げに)も、赤子の啼(なく)こゑ也。

「扨は。日外(いつぞや/かつて)、妻子とも、山犬(やまいぬ)にくはれしと聞(きく)、彼(かの)妻子の亡靈成(なる)べし。」

とて、それより、「夜啼石」といふ、とかや。

 

[やぶちゃん注:「領家郷、梅木村」現在の高知市鏡梅ノ木(かがみうめのき:グーグル・マップ・データ)。平凡社『日本歴史地名大系』に拠れば、『永禄四年(一五六一)本山氏と長宗我部氏が対立した際、大黒神次郎は長宗我部氏に従って戦功をあげ、元親から「梅木名」を与えられた(同年五月二六日付「長宗我部元親所領宛行状」北野文書)』とあった。

「夜啼石」この石、現存する。検索の結果、ky_kochi氏のブログ「茶凡遊山記」の「蟹越え(いの町~旧鏡村)」(二〇一五年五月投稿)、及び、「古江道(旧鏡村~旧吾北村)」(二〇一九年十月投稿)でそこへ至る解説(ここにある悲話も記されてある)と画像が見られる。但し、後者の記事では、そこに映っている大きな石が本物ではなく、『実際には傍らにあるもう少し小さな岩が本物らしい』とあった。この場所、ストリートビューも通っておらず、実際の附近を探すことが不可能であり(というか、私が都道府県で実際に地面を踏んだことがない数少ない三つの内の一つ(残りは茨城県と滋賀県)とである高知県だが、まさにブログ主のようにバイクでも運転出来なければ、到底、行くことが出来ない場所なのだ。多分、貸し切りのタクシーでなら、行ってくれるかな)。多分、この中央附近(グーグル・マップ・データ航空写真)のどこかである。こうなってくると、逆に行きたくなるのが、私である。

「不動が瀧」「ひなたGPS」の国土地理院図で確認出来る。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 嶋彌九郎

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「しま やくらう」と訓じておく。]

 

     嶋彌九郎

 阿州[やぶちゃん注:「阿波國」。]、海部奈佐(あまべなさ)の湊に叢祠(ホコラ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])、有(あり)。

 長宗我部元親の弟に嶋弥九郎といふ人、有(あり)。

 病(やまひ)ありて、

「療用[やぶちゃん注:ママ。]の爲(ため)、京都へ登らん。」

とて、浦戶より、艤(ぎ)して、漕出(こぎいで)けるが、阿波の沖にて、俄(にはか)に、風、吹替(ふきかは)りければ、海部の奈佐の湊に舩掛(ふながか)りせられけるに[やぶちゃん注:この「海部の……」以下は、国立公文書館本67)で補填した。]、海部の城主、越前守、いかゞ[やぶちゃん注:この「ゞ」は同じく国立公文書館本で補填。]して聞(きき)たりけん、其勢(そのせい)、百騎斗(ばかり)にて押寄(おしより)、ときの聲を上げ、

「元親に宿意あり、同姓の㐧(おとと)[やぶちゃん注:「弟」の異体字。]なれば、人も、あまさず、討取(うちと)れや。」

とて、弓・鉄砲を放(はな)しかけて、責(せめ)ければ、弥九郎、病(やまひ)に卧(ふし)ながら、是を聞(きき)、主從、僅(わづか)三十余人、切先(きつさき)揃(そろ)へて、切(きつ)て出(いで)、枕を双(なら)べて、討死す。

「越前守、『元親に宿意有(あり)』とは、何事ぞ。」

と尋(たづぬ)るに、

「安喜備後守は、此(この)海部の一族なれば、安喜沒落のゝちは、安喜の落人(おちうど)、海部を賴(たより)て居(をり)たりけるが、『元親の㐧(おとと)成(なる)』由(よし)を聞(きき)て、主人の仇(かたき)を報(むくい)[やぶちゃん注:底本原本では、ここ以下の左丁の表裏分が、後の条の乱丁となってしまっている(原本の綴じ誤り)。本来の続きは次のコマの左丁に続く。]んため、越前守を進めて、討(うた)せける。」

とぞ。

 其後(そののち)、種々(しゆじゆ)、祟り、有(あり)て、奈佐の湊に祠(ほこら)を建(たて)、神に祭(まつり)ける。

 今も、その黨類(たうるい)の子孫、有(あり)て、

「此社(このやしろ)の邊りへ、行(ゆく)者あれば、忽(たちまち)、祟り、ある。」

とて、

「恐(おそれ)て、不行(ゆかず)。」

とかや。

 

[やぶちゃん注:「海部奈佐の湊に叢祠(ホコラ)、有」旧徳島県海部郡宍喰町(ししくいちょう)那佐村で、現在の宍喰町宍喰浦(グーグル・マップ・データ)。

「長宗我部元親」「安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊」で既出既注。

「弟に嶋弥九郎といふ人、有」島親益(しま ちかます ?~元亀二(一五七一)年三月四日(グレゴリオ暦換算一五七一年四月八日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で長宗我部国親の四男。長宗我部氏家臣。別名は親房。当該ウィキによれば、『父』『国親が家臣・島某の妻に手を出して生ませた子供だったため、島姓を名乗った。武勇に優れ、異母兄・長宗我部元親の本山氏攻め等で活躍した』。『しかし、病にかかり、播磨の有馬温泉に療養に出かける途中、強風のため』、『阿波国海部城下の那佐湾に舟を停泊したところを、敵襲と勘違いした』(複数のネット記事では、かねてより長宗我部元親にかねてより反感を抱いていたとする。以上の本文では、それが真相とするようだ)海部(かいふ)城(グーグル・マップ・データ)『城主海部』『友光に襲われ』、一五七一年三月二十九日(これはユリウス暦の日付)『に病』(やまひ)『の身ながら』、『奮戦するも』、『討たれた。その後、元親は』、『弟の死に激怒し、海部城を攻略する』。『現在は徳島県海部郡海陽町の那佐神社に慰霊碑が建立されている』(この神社(グーグル・マップ・データ)が本文のそれであろうか。非常に新しくなった慰霊碑(サイド・パネル画像)がある)。『子孫の親典(』生年から『親益の子としては年齢が合わない』ので、『孫か一族と推定される。)は大坂の陣で豊臣方に参戦し』、『敗れたが、土佐藩』(第二代藩主山内忠義の時代)『での入牢を経て』、『土佐藩士に取り立てられた。しかし』、『下士に甘んじた』。『その後も島氏は土佐藩に仕え、明治維新後に長宗我部姓に復した。また』、『宗家が途絶えていたため、必然的に長宗我部氏の当主の座を引き継いだ(明治時代に明治天皇から正統子孫と認められた)』とある。

「海部の城主、越前守」海部友光(生没年未詳)。当該ウィキによれば、かの『三好氏の家臣。阿波国海部城主』。『「海部町史」では鷲住王』(わしずみおう:「日本書紀」によれば、第十二代景行天皇の曽孫に当たり、履中天皇の皇后の兄であったが、今から千五百有余年前、宍喰地方に移住し、付近一帯の開発・統治をしたと伝えられる人物)『の末裔とされている』。『海部之親の子として誕生。永禄年間』(一五五八年~一五七〇年)『に友光によって海部城が築かれたという説がある』。以上の通り、『那佐湾に漂着した長宗我部元親の弟』『島親益を討つ。弟の死に激怒した元親により天正』三(一五七五)『年』、『及び』、『天正』五(一五七七)『年』『に海部城は落城した。その後、友光は紀伊国の縁者を頼って落ち延びたと伝えられるが、経緯は不明である』とある。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 蜀茶

 

Tyanoki_20241005061101

 

からつばき

       今云加良豆波木

蜀茶

       蜀今四川之地

       出於此者皆佳

       如蜀椒蜀葵皆

       佳種也

 

五雜組云閩中有蜀茶一種足敵牡丹其樹似山茶而大

高者𠀋餘花大亦如牡丹而色皆正紅其開以二三月照

耀園林所恨者香稍不及耳

△按倭有唐海石榴者樹相似而葉狹長色淡不澤葉紋

 縱橫細似甃狀其花重辨大而正紅如牡丹所謂蜀茶

 是也伹枝朶柔靭葉亦不多而大木希也

凡本草綱目山茶花與海石榴不分別相混註之矣二物

 雖爲同類葉花之厚薄大異凡子生者皆單葉名山椿

 故採枝接之或六月揷於陰地則活

 

   *

 

からつばき

       今、云ふ、「加良豆波木」。

蜀茶

       「蜀」、今の四川の地≪にて≫、

       此《ここ》に出《いづる》者、皆、

       佳《よ》し。「蜀椒《しよくしせう》」

       ・「蜀葵《しよくき》」、皆、佳《よき》

       種なり。

 

「五雜組」に云はく、『閩中《びんちゆう》に、蜀茶、有《あり》。一種、「牡丹」に敵《てき》≪するに≫足《たる》。其の樹、「山茶《さんさ》」に似て、大≪にして≫、高き者、𠀋餘《あまり》。花の大いさも、亦、牡丹のごとして、色、皆、正紅。其れ、開《ひらく》こと、二、三月を以つてす。園林《ゑんりん》を照耀《てりかがやかす》。恨む所は、香《かをり》、稍《やや》、及ばざるのみ。』≪と≫。

△按ずるに、倭、「唐海石榴(《から》つばき)」と云ふ者[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、有り。樹、相似《あひに》て、葉、狹長《さなが》、色、淡《あはく》、≪光≫澤、≪あら≫ず。葉≪の≫紋、縱橫《たてよこ》、細《さい》にして、甃(いしだゝみ)≪の≫狀《かたち》に似たり。其の花、重辨《ぢゆうべん》≪にして≫大《だい》≪にて≫、正紅。牡丹のごとし。所謂る、「蜀茶」、是れなり。伹《ただし》、枝・朶《はなぶさ》、柔かに、靭(すな)へ、葉も亦、多からずして、大木、希れなり。

凡そ、「本草綱目」に、「山茶花(さゞんくは[やぶちゃん注:ママ。])」と「海石榴(つばき)」を分別せずして、相混《あひこん》じて、之れを註す。二物、同類爲《た》りと雖も、葉・花の厚薄《こうはく》、大《おほい》に異《い》なり。凡そ、子《たね》≪より≫生(は)へ≪る≫者は、皆、單葉《ひとへ》にして、「山椿《やまつばき》」と名づく。故、枝を採りて、之れを接《つ》ぐ。或いは、六月、陰地《かげのち》に揷(さ)せ≪ば≫、則ち、活《かつ》≪す≫。

 

[やぶちゃん注:この「蜀茶」というのは、いろいろと日中の記事を見るに、通常の茶とは異なる特殊な種の名前ではなく、現在の四川地方で、茶のある品種を、特別な方法で製した茶を指すことが判った。最初に見出したのは、販売店の作製するサイト「中国茶の世界(真如禅意精品流通)」の「■唐・宋茶詩」で、私の好きな白居易の茶を詠み込んだ「外寄新蜀茶」と別な三篇の詩句を引用し、「蜀茶」について、『蜀は現在の四川。蜀茶は四川蒙山茶を差します。若返りの効能があると言われていたので、古くから珍重されていました』と記されてあったので、決定的であった。同じ詩を掲げておられるJun氏のブログ「船橋市茶文化資料室」の「蜀茶~蒙頂黄小茶」には、四川省雅安市蒙頂山(同地区にある「蒙山茶史博物館」をポイントした)産の当該茶葉の写真があった。次いで、「維基百科」の「黄茶」を見たところ、「分類」の三番目に「黄芽茶」があり、その二番目に『四川の名山である蒙黄芽』の名が挙がっていた。さらに、そこにリンクがあった「蒙頂黄芽」(原題は『蒙黄芽』)には、それは『蒙頂山で生産される』もので、『形状は美しい平たい蕾(つぼみ)型をした、黄色を呈した御茶であり、蕾は均一で、微毛が多く、色は鮮やかな黄色』であり、『蒙頂山には多くの品種がある有名なお茶の産地で、中華民国初期には、主にここで黄芽が栽培され、「蒙頂黄芽」は「蒙頂茶」の代表となった』とあった。最後にウィキの「黄茶」があったので、それを引用しておく(注記号はカットした)。『黄茶(きちゃ、ホァンチャ/ファンチャ)は中国茶の一種』。『黄茶は一般的には弱後発酵茶(軽度の発酵を行ったお茶)として説明される事が多い。ただし茶業における「発酵」は酵素による酸化を指し、生化学的な意味での「発酵」ではない』。『一方、茶類の分類を定義を定めた「ISO 20715:2023 Tea — Classification of tea types」では』、『黄茶を製法の観点から以下のように定義している』。

tea (3.2) derived solely and exclusively, and produced by acceptable processes, notably enzyme inactivation, rolling/shaping, yellowing and drying, from the bud or bud and the tender shoots of varieties of the species Camellia sinensis (L.) O. Kuntze, known to be suitable for making tea for consumption as a beverage.

『(試訳)Camellia sinensis (L.) O. Kuntze—飲料として消費される茶を作るのに適していることが知られているの変種の芽もしくは芽と柔らかい苗条から、容認できる工程、とりわけ酵素の不活性化、揉捻/成形、悶黄、および乾燥によって唯一かつ排他的に得られ、製造された茶(茶の定義は3.2章を参照)。

  —ISO 20715:2023 Tea — Classification of tea types』。

『通常の中国緑茶とは異なる加熱処理を行うことと、その後牛皮紙に包み悶黄と呼ばれる熟成工程を経て作られることが』、『製造工程における特徴である。黄茶の加熱処理は低い温度から始まり、徐々に温度を上げ、その後徐々に温度を下げる。この処理法によって、茶葉の持つ酵素による酸化発酵が起こる。中国緑茶の場合、最初から高温に熱した釜に茶葉を投入するため、上記の酸化発酵は(一部、萎凋』(いちゅう)『を施す緑茶はあるが)基本的には起こらない。黒茶以外で発酵と呼ばれる青茶は、施される工程と発酵の度合いこそ違えど、酵素による酸化発による酵茶であることは共通している。また、黒茶以外で論ずると、一部の緑茶で萎凋を施すことを』勘案『すれば、この黄茶とは発酵茶の中では唯一萎凋を施さない種類といえる』。『工程で中途半端に酸化発酵した茶葉は、次に悶黄と呼ばれる黄茶独特の熟成工程を経る。この悶黄と呼ばれる工程、微生物による発酵という俗説があるが、これは間違いである。悶黄には微生物は一切関与しない。高湿度高温の環境下茶葉内のポリフェノールを中心とする成分が非酵素的に酸化される工程である。ポリフェノールおよび葉緑素(クロロフィル)は酸化されることで、緑から透明及び黄色へと変色する。これにより茶葉と水色がうっすらとした黄色になるため黄茶と呼ばれる』。『代表的な黄茶として君山銀針、霍山黄芽、蒙頂黄芽』(☜)『などが挙げられる。黄茶は清朝皇帝も愛飲したといわれ、中国茶の中でももっとも希少価値が高』く、百『グラム』一『万円を超えるものも決して珍しくはない』とあった。……と……ここで、二〇〇〇年に、妻が南京大学に日本語教師として一年勤めた際、訪ねた時、立ち寄った上海の茶葉店で、目ン玉が飛び出す高価な黄色い茶葉を見たのを、今更に思い出したわ……。

 なお、良安が言っている「唐海石榴(《から》つばき)」は、

ツツジ目ツバキ科ツバキ連ツバキ属トウツバキ Camellia reticulata

で、ちゃいますなぁ。同種は、M.Ohtake氏のサイト「四季の山野草」の「トウツバキ」によれば、『中国雲南省に自生する常緑高木。唐時代から観賞用に栽培され、園芸種が多い。日本の自生ツバキのヤブツバキ、台湾のタイワンヤマツバキ』( Camellia hozanensis )『に近い仲間』とあった。

「蜀椒《しよくしせう》」双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ Zanthoxylum piperitum の果皮が「花椒」「蜀椒」と呼ばれて健胃・鎮痛・駆虫作用を持つ。日本薬局方ではサンショウ Zanthoxylum piperitum及び同属植物の成熟した果皮で種子を出来るだけ除去したものを生薬山椒としている。

「蜀葵《しよくき》」アオイ亜科タチアオイ属タチアオイ Althaea rosea の中文名(「維基百科」を見よ)にして、本邦での同種の古名。

「五雜組」既出既注。以下は「卷十」の「物部二」の一節。「維基文庫」の電子化されたここにあるものを参考に、段落ごと、そのまま示しておく。

   *

閩中有蜀茶一種,足敵牡丹。其樹似山茶而大,高者丈餘,花大亦如牡丹,而色皆正紅。其開以二三月,照耀園林,至不可正視,所恨者香稍不及耳。然牡丹香亦太濃,故不免有富貴相。蜀茶色亦太艷,政似華清宮肥婢,不及昭陽掌上舞人也。

   *

「閩」現在の福建省を中心とした広域の地方旧名。

「牡丹」ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa

『凡そ、「本草綱目」に、「山茶花(さゞんくは[やぶちゃん注:ママ。])」と「海石榴(つばき)」を分別せずして、相混《あひこん》じて、之れを註す。二物、同類爲《た》りと雖も、葉・花の厚薄《こうはく》、大《おほい》に異《い》なり。凡そ、子《たね》≪より≫生(は)へ≪る≫者は、皆、單葉《ひとへ》にして、「山椿《やまつばき》」『凡そ、「本草綱目」に、「山茶花(さゞんくは)」と「海石榴(つばき)」を分別せずして、相混《あひこん》じて、之れを註す。二物、同類爲《た》りと雖も、葉・花の厚薄《こうはく》、大《おほい》に異《い》なり。』東洋文庫の後注には、『良安は山茶花を「サザンカ」として「ツバキ」と区別しているが、『新註校定国訳本草綱目』(春陽堂、昭和五十年)や『日本中国植物名比較対照辞典』(東方書店、一九八八)では、『本草綱目』と同様、中国の山茶は日本の「ツバキ」に当るとしている。』とある。しかし、少なくとも、

「新註校定国訳本草綱目」第九冊の「山茶」の牧野富太郎(旧版)と北村四郎によるツバキ Camellia japonica の種同定は――これ――トンデモハップンあらまっちゃんで臍(べそ)の宙返り級の――大ハズレ誤比定同定――である

と言わざるを得ない。いやさ、国立国会図書館デジタルコレクションの当該部を御覧な(リンク先は標題のみ。次のページが、全本文)。標題に『和 名 つばき』『學 名 Camellia japonica L.』『科 名 つばき科(山茶科)』とある。さあて、お立ち合い! 「釋名」を見んさい! 時珍曰く、その葉は茗に類し、又、飮にもなる。故に「茶」なる名を呼ばれるのだ。』(「時珍」の太字は原本では傍点「○」)とあるぜ? 「茗」とは音「メイ・ミヤウ(ミョウ)」で、これ、「遅く採った茶の芽」を「茗」と呼ぶんだ! 本邦のツバキを語るのに、いの一番に――飲用に供する――と言うバカがどこにいる? 以下、植物名を見ろよ! 『海榴茶』・『石榴茶』・『躑躅茶(ていしよくちや)』・『官粉茶』(これは多分、「宮粉茶」が正しい)・『串珠茶(くわんじゆちや)』・『南山茶』とあるぜ? ツバキ類の花を愛でるなら、何故、一つも「~花」になっていなくて、一律、「~茶」なのよ? 極め付きは最後だ。『周憲王の救衆本草には『山茶は嫩葉』(わかば)『を𤉬熟(てふじゆく)』(「𤉬」は「煠」(「焼く・炒める・茹でる」の意)の異体字)『し、水で淘』(よなぎ:水で洗って不純物を選り分けて除去する)『つて食へる。また蒸し晒して飲にも作れる』ときたもんだ! このどこが、美しい花を愛でる「ツバキ」の説明なんだヨッツ!?! これは立派なツツジ目ツバキ科ツバキ属チャノキ Camellia sinensis だべ!! 牧野「博士」先生、椿(つばき)の葉っぱで作ったお茶を、どうゾ!!!

2024/10/04

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 海石榴

 

Tubaki

 

[やぶちゃん注:左上方に葉の拡大図があり、その右手に『葉團長三寸』(「葉、團《まろく》、長さ三寸」)『幅一寸七八分』とキャプションがある。正しくヤブツバキであるが、葉脈の細部を同一の太さで描いたため、それらしくは、ちょっと見えないのが、難である。なお、左の中間部に明らかに細枝を部分画として描いてあるが、これは、本体と葉+キャプションの位置バランスから全体が右に傾いて見える錯覚が生じているのを、ガードするために添えたものであろうと私は推理する。]

 

つばき   椿【倭字】

      椿本喬木之類

海石榴 樗椿也與海石

      榴𮞉異

   【万葉集本朝式倭名抄

    皆用椿與海石榴訓

    豆波木其來尙矣】

[やぶちゃん注:この最後の割注の「本朝式」は「延喜式」の方が通りが良いので、訓読では、そちらで示しておいた。

 

△按海石榴卽山茶花之一種也樹葉花實似山茶花而

 大其實狀圓似無花果而老枯則殻四裂中子如海松

 子剥皮取仁搾取油謂木實油塗刀劔則不生鏽以拭

 𣾰噐則出艶塗髮亦艶美然髮不韌和麻油爲髮油佳

 伹千瓣者不結實其葩厚大艶美亞于牡丹芍藥惟恨

 其萎甚醜其落亦脆耳單瓣赤者名山椿此乃本源也

 白紅粉紅絞紅或白相半八重千瓣之數種不枚擧自

 秋生莟春開花冬開者名早開人以賞之凡伐椿𥄂木

[やぶちゃん字注:「𥄂」は「直」の異体字。]

 煖火則皮能剥肌滑也僧家以爲柱󠄁

[やぶちゃん字注:「柱󠄁杖」の「柱󠄁」は「柱」の異体字だが、これは「拄杖」(歴史的仮名遣の音で「シユヂヤウ」、現代仮名遣で「シュジョウ」。「拄」の(つくり)は「主」ではないので注意)の誤記で、「杖」、或いは、特に「禅僧が行脚の際に用いる杖」を指す。訓読では訂した。

 万葉 河上の列〻椿つらつらに見れどもあかすこせの春㙒は

 

   *

 

つばき   椿《つばき》【倭字。】

      椿は、本(もと)、喬木の類≪にして≫、

海石榴 「樗椿」なり。「海石榴」と≪は≫、

      𮞉《はるか》に異《い》なり。

   【「万葉集」・「延喜式」・「倭名抄」、

    皆、「椿」を用ひて、「海石榴」≪と孰れも≫、

    「豆波木《つばき》」と訓ず。其れ、來《きたれ》

    ること、尙《ひさし》。】

△按ずるに、「海石榴《つばき》」、卽ち、「山茶花《さざんくわ》」の一種なり。樹・葉・花・實、山茶花に似て、大きく、其の實の狀《かたち》、圓《まろ》く、「無花果(いちじゆく[やぶちゃん注:イチジクの本来の呼称である。])」に似て、老(ひね)て、枯《かるれ》ば、則ち、殻、四つに裂け、中≪の≫子《み》、海松(からまつ)の子のごとし。皮を剥ぎて、仁《たね》を取り、搾(しぼ)りて、油を取る。「木實油(きのみの《あぶら》)」と謂ふ。刀劔《たうけん》に塗れば、則ち、鏽(さび)を生ぜず。以つて、𣾰-噐(うるしぬり)を拭《ぬぐ》≪へば≫、則ち、艶《つや》を出《いだす》。髮に塗≪れば≫、亦、艶《つや》、美《び》なり。然《しか》れども、髮、韌(しな)へず。麻(ごま)の油を和(ま)ぜて、髮の油と爲《な》して、佳なり。伹《ただし》、千瓣《やへ》の者、實を結ばず。其の葩(はなびら)、厚く、大きに、艶、美≪なり≫。牡丹・芍藥に亞《つ》ぐ。惟《ただ》、恨《うらむ》らくは、其《それ》、萎(しぼ)む時[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、甚だ醜(みにく)し。其《それ》、落《おつ》るも亦、脆(もろ)きのみ。單瓣(ひとへ)の赤き者を、「山椿《やまつばき》」と名づく。此れ、乃《すなはち》、本源《ほんげん》なり。「白」・「紅」・「粉紅《ふんこう》」[やぶちゃん注:桃色。]・「紅《べに》絞《しぼ》り」、或いは、「≪紅と≫白≪と≫相《あひ》半《なかば》≪する者(もの)≫」、「八重《やへ》」・「千瓣《せんべん》」の數種、枚擧せず。秋より、莟(つぼみ)を生じ、春、花を開き《✕→く》。≪別に≫、冬、開く者を、「早開(はやざき)」と名づく。人、以つて、之れを賞す。凡そ、椿の𥄂(すぐ)なる木を伐《きり》、火≪に≫煖《あたた》むれば、則ち、皮、能《よく》、剥《はげ》て、肌、滑《なめらか》なり。僧家《そうけ》、以つて、拄-杖《しゆじやう》と爲《なす》。

 「万葉」

   河上《かはのへ》の

      列〻(つらつら)椿《つばき》

     つらつらに

    見れどもあかず

          こせの春㙒《はるの》は

 

[やぶちゃん注:良安が、図らずも、直前の「山茶花」のリベンジをしたもので、今度こそ、真正の、

双子葉植物綱離弁花亜綱ツツジ目ツバキ科ツバキ連ツバキ属ヤブツバキ(=ツバキ:薮椿・藪海石榴) Camellia japonica

である。同種は既にそちらで述べたので、繰り返さない。

「樗椿」これは、最初にエラく困らせられた「椿(チン)」で探り当てた、

ムクロジ目ニガキ科ニワウルシ属ニワウルシ Ailanthus altissima

のこととであろうと断ずる。そちらの同定比定候補「◎②―Ⅱ」を冠した以下の私の解説を見られたい。もう、あの苦しみは、思い出したくないのである。悪しからず。

「倭名抄」「巻第二十」の「草木部第三二」の「木類第二百四十八」に(国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の当該部の訓点を参考に訓読した)、

   *

椿(ツバキ) 「唐韻」に云はく、『椿【「勅」「倫」の反。和名「豆波木」。】、木の名なり。』と。「楊氏漢語抄」に云はく、『海石榴【和名、上に同じ。「本朝式」等に、之れを用ふ。】。』と。]

「其れ、來《きたれ》ること、尙《ひさし》」「以上の「つばき」の訓読みの習慣は、そのようになってより、まことに、久しく永いのである。」の意。

「山茶花《さざんくわ》」ここは良安の言であるから、ツバキ属サザンカ Camellia sasanquaである。

「無花果(いちじゆく)」バラ目クワ科イチジク属イチジク Ficus carica 。なお、イチジクの博物誌と「イチジク」の語源については、しばしばお世話になる個人のサイト「GKZ植物事典」の「イチジク(無花果)について」で、恐るべき詳細を語っておられるので、是非、読まれたい。

「海松(からまつ)」これは、最終的に、海岸に生えている(同種は、山地に植生するが、しばしば、風の強い海岸地で防風形態をとって植生(植材)しているからである)、

裸子植物門マツ綱マツ目マツ科カラマツ属カラマツ Larix kaempferi

と採ることにした。実は、当初、浅海性の、

刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱ツノサンゴ(黒珊瑚)目 Myriopathidae 科 Myriopathes 属ウミカラマツ Myriopathes japonica

を考えたのだが、同種では、どこの、どこも、到底、ツバキの実の種子がミミクリーし得る部位がないことは、日を見るより明らかだからである。「良安が、ウミカラマツなんて、知らんだろう。」という御仁ために、というか、良安の博学を知らぬ方への注意喚起のために、言っておくと、彼は「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の中で、「うみまつ 水松」を立項し、『石帆〔(せきはん)〕 水松』『【二物、同類なり。俗に「海松(うみまつ)」と云ふ。】』と記して、以下、「本草綱目」を引いているのである。

「韌(しな)へず」ガチっと固めて呉れることを言う。

「千瓣《やへ/せんべん》」後で『「八重《やへ》」・「千瓣《せんべん》」』と分離して出るので、かく読みダブルで振った。

「牡丹」ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa

「芍藥」ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora

「山椿《やまつばき》」「藪椿」とともにツバキの漢字異名。

「本源」現在の原種・タイプ種。

「万葉」「河上《かはのへ》の列〻(つらつら)椿《つばき》つらつらに見れどもあかずこせの春㙒(はるの)は」「つらつら」は原本でちゃんと「ツラツラ」と振ってある。これは「万葉集」の巻頭「卷第一」の「雜歌」の春日藏首老(かすがのくらのおびとおゆ)の一首(五六番)で、二首前の別人の前書から、大宝元(七〇一)年秋九月の持統天皇の紀伊國(きのくに)に行幸の際に詠まれたものである。

   *

    或る本の歌

 河の上(へ)の

      つらつら椿

       つらつらに

     見れども飽かず

           巨勢(こせ)の春野は

   *

「巨勢」は現在の奈良県御所市古瀬(こせ:グーグル・マップ・データ航空写真)。この「コセ」は曾我川上流の巨勢(こせ)渓谷の総称で、「許湍」「許世」「許勢」とも書いた。中世までは高市・葛上両郡に亙り、近世に葛上(かつじょう)郡となった。但し、この「椿」はサザンカであるとする説もある。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 山茶花

 

Tyanoki

[やぶちゃん注:この絵はサザンカですな。] 

 

ささんくは  左牟佐久波

        字之音也

       誤如曰茶山花

山茶花

サン チヤアヽ

 

本綱山茶花產南方高者丈許枝幹交加葉頗似茶葉而

厚硬有稜中闊頭尖靣綠背淡代茶可作飮故得茶名深

冬開花紅瓣黃蕋有數種 寳珠花【花簇如珠最勝】 海榴茶花

【花青色】 石榴茶【中有碎花】 躑躅茶花【花如杜鵑花】 官粉茶花 

串珠茶【皆粉紅花】 有一捻紅千葉紅千葉白等葉各少異或

云亦有黃色者

南山茶花【出于廣州】大倍中國者色微淡葉薄有毛結實如梨

大如拳中有數核如肥皂子大

遵生入牋云山茶花如磬口外粉紅色者十月開二月方

[やぶちゃん字注:書名「遵生入牋」は「遵生八牋」の誤刻。訓読文では訂した。]

 已有數種 鶴項茶花【如碗大紅如羊血中心塞滿如鶴項】 瑪瑙茶花【有黃紅白粉四色爲心而大紅爲盤】

△按山茶花其樹葉花實與海石榴同而小其葉如茶葉

 其實圓長形如梨而有微毛可小梅大老則裂中有核

 三四顆搾油多於海石榴凡種子者必不佳可接枝凡

 山茶花冬爲盛海石榴花春爲盛【遠州有山茶花大木周三尺餘髙三丈余】

 

   *

 

さざんくは  「左牟佐久波《さんさくは》。」、

         字の音(おん)なり。

        誤りて、「茶山花(さざん《くわ》)」

        と曰ふがごとし。

山茶花

サン チヤアヽ

 

「本綱」に曰はく、『山茶花《さんちやくわ》、南方に產≪す≫。高き者、丈許(ばかり)。枝・幹、交加《かうか》[やぶちゃん注:混じり合うこと。]≪し≫、葉、頗《すこぶ》る、茶の葉に似て、厚硬《あつくかたし》。稜(かど)、有り、中《なか》≪は≫闊(ひろ)く、頭《かしら》、尖《とが》り、靣《おもて》、綠、背、淡(うす)し、茶に代へて、飮《のみもの》と作《な》すべし。故、「茶」の名を得《う》。深冬《しんとう》[やぶちゃん注:真冬。]、花を開く。紅≪の≫瓣《はなびら》≪にして≫、黃≪の≫蕋《しべ》。數種、有り』、『「寳珠花《はうじゆくわ》」【花、簇《むれ》、珠《たま》のごとき、最も勝れり。】』、『「海榴茶花《かいりうさくわ》」【花、青色。】』、『「石榴茶《せきりうさ》」【中《なか》に碎花《さいくわ》、有り。】』、『「躑躅茶花《てきちよくさくわ》」【花、「杜鵑花《とけんくわ》」のごとし。】』、『「官粉茶花」』、『「串珠茶《くわんしゆさ》」【皆、粉紅《ふんこう》[やぶちゃん注:中国語で桃色(ピンク)の色名。]≪の≫花≪なり≫。】』。≪又、≫『一捻紅《いちねんこう》・千葉紅《やへべに》・千葉白《やへしろ》等、有り。葉、各《おのおの》[やぶちゃん注:原文には右下に踊り字「〱」が打たれてある。]、少し、異《こと》なり、或いは、云ふ、『亦た、黃色の者、有り。』≪と≫。』≪と≫。

『「南山茶花」【廣州[やぶちゃん注:現在の広東省、及び、その西の広西チワン族自治区(前者は狭義には広州市)相当。]に出づ。】、大いさ、中國[やぶちゃん注:明の首都は北京であり、中国北部と中部を主たる「中國」本土として、南方地方を差別化した言い方。]の者に倍す。色、微《やや》、淡《あはく》、葉≪は≫薄く、毛、有り。實を結ぶこと、梨のごとく、大いさ、拳(こぶし)のごとし。中《なか》に、數《すう》≪個の≫核《たね》有りて、「肥皂子《ひさうし》」の大いさのごとし。』≪と≫。

「遵生八牋《じゆんせいはつせん》」に云はく、『山茶花《さんちやくわ》、磬口《きんこう》のごとく、外《そと》≪の≫粉紅色《ふんこういろ》の者、十月、開き、二月、方《ま》さに已《や》む。數種、有り』、『「鶴項茶花」【碗《わん》の大いさのごとく、紅《くれなゐ》、羊の血のごとし。中《なか》の心《しん》、塞《ふさぎ》、滿《みち》、鶴の項《うなじ》のごとし。】』、『「瑪瑙茶花」《めなうさくわ》【黃・紅・白粉の四色、有り、心《しん》を爲《な》して、大なる紅の盤《ばん》を爲す。】。』≪と≫。

△按ずるに、山茶花《さざんくわ》、其の樹・葉・花・實、「海石榴(つばき)」と同じくして、小さし。其の葉、茶の葉のごとし。其の實、圓《まろ》く、長し。形、「梨」のごとくして、微毛《びもう》、有り。小梅の大いさ可(ばかり)≪なり≫。老《らう》すれば、則ち、裂けて、中《なか》≪に≫、核《たね》、有り、三、四顆《くわ》。油を搾(しぼ)れば、海石榴(つばき)より、多し。凡そ、子(たね)を種《うう》るは、必ず、佳(よ)からず、枝を接(つ)ぐべし。凡そ、山茶花《さざんか》、冬を盛りと爲《な》し、「海石榴(つばき)」の花は、春を盛《さかり》と爲す【遠州に山茶花の大木、有り。周《めぐり》三尺餘、髙さ、三丈余。】。

 

[やぶちゃん注:既に何度も示しているが(特にツバキならざるチャンチンである「椿」を参照されたい)、良安は総ての「山茶花」を「さざんくわ」と訓じていると考えられるのだが、残念なことに、中国語の「山茶花(さんさくわ)」は、

双子葉植物綱離弁花亜綱ツツジ目ツバキ科ツバキ連ツバキ属サザンカ Camellia sasanqua

ではない。本邦の「サザンカ」相当の「維基百科」の標題は「茶梅」である。

○ツバキ属ヤブツバキ(=ツバキ:薮椿・藪海石榴) Camellia japonica

を指す。「維基百科」の「ヤブツバキ」相当の標題は「山茶花」である(なお、本書の次の項は「海石榴」で引用なしの良安の解説のみの真正のヤブツバキ記載となっている)。

 かなり長いが、私はツバキの花が好きなので、苦にならないから、ウィキの「ツバキ」を引く(注記号はカットした)。『和名ツバキの語源については諸説あり、葉につやがあるので「津葉木」とする説や、葉が厚いので「厚葉木」と書いて語頭の「ア」の読みが略されたとする説などがあり、いずれも葉の特徴から名付けられたとみられている。数多くの園芸品種が栽培されているツバキの、日本における海岸近くの山中や、雑木林に生える代表的な野生種をヤブツバキとよんでいる』。『植物学上の種(標準和名)であるヤブツバキ』『の別名として、一般的にツバキと呼んでおり、また』、『ヤマツバキ(山椿)の別名でも呼ばれる。日本内外で近縁のユキツバキから作り出された数々の園芸品種、ワビスケ、中国・ベトナム産の原種や園芸品種などを総称的に「椿」と呼ぶが、同じツバキ属であっても』、『サザンカを椿と呼ぶことはあまりない。なお、漢字の「椿」は、中国では霊木の名で、ツバキという意味は日本での国訓である。ヤブツバキの中国植物名(漢名)は、紅山茶(こうさんちゃ)という』。『「椿」の字の音読みは「チン」で、椿山荘などの固有名詞に使われたりする。なお「椿」の原義はツバキとは無関係のセンダン科の植物チャンチン(香椿)であり、「つばき」は国訓、もしくは、偶然字形が一致した国字である。歴史的な背景として、日本では』、天平五(七三三)年に完成した「出雲風土記」に(ウィキの本文では成立年を誤っている)『すでに椿が用いられている。その他、多くの日本の古文献に出てくる。ツバキの古名はカタシである』。『中国では隋の王朝の第』二『代皇帝煬帝の詩の中で椿が「海榴」もしくは「海石榴」として出てくる。海という言葉からもわかるように、海を越えてきたもの、日本からきたものを意味していると考えられる。榴の字は、ザクロを由来としている。しかしながら、海石榴と呼ばれた植物が本当に椿であったのかは』、『国際的には認められていない。中国において、ツバキは主に「山茶」と書き表されている。「椿」の字は日本が独自にあてたものであり、中国においては』、『椿といえば、「芳椿」という東北地方の春の野菜が該当する』。『英語では、カメリア・ジャポニカ( Camellia japonica )と』、『学名がそのまま英語名になっている珍しい例である』。十七『世紀にオランダ商館員のエンゲルベルト・ケンペルがその著書で初めてこの花を欧州に紹介した。後に』十八『世紀にイエズス会の助修士で植物学に造詣の深かったゲオルク・ヨーゼフ・カメルはフィリピンで』、『この花の種を入手してヨーロッパに紹介した。その後』、『有名なカール・フォン・リンネがこのカメルにちなんで、椿の属名にカメリアという名前をつけ、ケンペルの記載に基づき「日本の」を意味するジャポニカの名前をつけた』。『日本原産。日本では北海道南西部、本州、四国、九州、南西諸島、日本国外では朝鮮半島南部と中国、台湾が知られる。本州中北部にはごく近縁のユキツバキ』( Camellia rusticana )『があるが、ツバキは海岸沿いに青森県まで自然分布し、ユキツバキは』、『より内陸標高の高い位置にあって住み分ける。主に海沿いや山地に自生する。北海道の南西部(松前)でも、各所の寺院や住宅に植栽されたものを見ることができる。自生北限は、青森県津軽郡平内町の夏泊半島で、椿山』(つばきやま:ここ。グーグル・マップ・データ)『と呼ばれる』一『万株に及ぶ群落は、天然記念物に指定されている』。『常緑性の低木から小高木で、普通は高さ』五~十『メートル』『前後になり、高いものでは樹高』十五メートル『にもなる』。但し、『その成長は遅く、寿命は長い。樹皮は黄褐色や淡灰褐色でなめらかであり、灰白色の模様があり、時に細かな突起がまばらに出る。枝はよく分かれて茂る。若い枝は褐色で無毛である。冬芽は互生する葉の付け根にでき、花芽は丸くて大きく、葉芽は小さな長楕円形で細く先端はとがり、円頭の鱗片が折り重なる。鱗片の外側には細かい伏せた毛がある。鱗片は枝が伸びると脱落する』。『葉は互生し、長さ』五~十二『センチメートル 』、『幅』四センチメートル『ほどの楕円形から長楕円形で、先端は短く尖り、基部は広いくさび形、葉縁には細かい鋸歯が並ぶ。葉質は厚くて固く、表面は濃緑色でつやがあり、裏面はやや色が薄い緑色で、葉身・葉柄ともに無毛である』。『花期は冬から春(』二月~四月『)で、早咲きのものは冬さなかに咲く。花は紅色あるいは紅紫色の』五『弁花で、枝の先の葉腋から』一『個ずつ下向きに咲かせる』。『花弁は長さ』三~五センチメートル『で半開きに筒状に咲き、平らには開かない』。一『枚ごとに独立した離弁花だが』、五『枚の花弁と多くの花糸のつけ根が合着した筒形になっていて、散るときは花弁と雄しべが一緒に落花する』。『果実は球形で』、十~十一『月に熟し、実が』三『つに裂開して、中から』二~三『個の黒褐色の種子が出てくる。冬も裂開した分厚い果皮が樹の下に見られる』。『ツバキ(狭義のツバキ。ヤブツバキ)とサザンカはよく似ているが、ツバキは若い枝や葉柄、果実は無毛であるのでサザンカとは区別がつく。また次のことに着目すると見分けることができる。ただし、原種は見分けやすいが、園芸品種は多様性に富むので見分けにくい場合がある』。『ツバキは花弁が個々に散るのではなく』、『萼と雌しべだけを木に残して丸ごと落ちるが(花弁がばらばらに散る園芸品種もある)、サザンカは花びらが個々に散る』。『ツバキは雄しべの花糸が下半分くらいくっついているが、サザンカは花糸がくっつかない』。『ツバキは、花は完全には平開しない(カップ状のことも多い)。サザンカは、ほとんど完全に平開する』。『ツバキの子房には毛がないが(ワビスケには子房に毛があるものもある)、サザンカ(カンツバキ・ハルサザンカを含む)の子房には毛がある』。『ツバキは葉柄に毛が生えない(ユキツバキの葉柄には毛がある)。サザンカは葉柄に毛が生える』。『ツバキの花期は早春に咲くのに対し、サザンカは晩秋から初冬(』十~十二『月)にかけて咲く』(太字は私が附した)。『琉球列島から台湾のものをタイワンヤマツバキあるいはホウザンツバキ( C. j. subsp. hozanensis )としたこと、あるいは屋久島のものは果実が大きく果肉が厚いことからリンゴツバキ( C. j. var. macrocarpa )として分けたこともあるが、それぞれに中間型もあり、分けないことも多い』。『島根県以北の日本海側の山地の多雪地帯には近縁種のユキツバキ( Camellia rusticana )があり、種内変異として変種( C. j. var. rusticana など)ないし亜種( C. j. subsp. rusticana )とされたこともある。ユキツバキは高さ』二センチメートル『ほどで、開花は雪が消える』四『月下旬から』五『月ごろになる』。『ヤブツバキ以外の原種など別種については「ツバキ属」を参照』。『ヤブツバキは園芸品種の母種でもあり、他家受粉で結実するため、また近縁のユキツバキなどと容易に交配するために花色・花形に変異が生じやすいことから、古くから選抜による品種改良が行われてきた。江戸時代には江戸の将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行し、江戸・上方(京都)・加賀・中京・肥後などの地域ごとに育成された品種が作られた』。『なお、「五色八重散椿」(ごしきやえちりつばき)のように、ヤブツバキ系でありながら花弁がバラバラに散る園芸品種もある。 散る性質は、サザンカから交雑種のハルサザンカ』( Camellia × vernalis )『を介して浸透交雑した物と思われる』。十七『世紀に日本から西洋に伝来すると、冬にでも常緑で、日陰でも花を咲かせる性質が好まれ、大変な人気となり、西洋の美意識に基づいた豪華な花をつける品種が作られた。ヨーロッパ、イギリス、アメリカで愛好され、現在でも多くの品種が作出されている』。『花色は赤色と白色があり、それぞれ紅椿、白椿と呼ばれるほか、作出されたツバキには一重咲きから八重咲き、斑入りの品種もあり、その数は極めて多数ある』。『ワビスケ(侘助)』( Camellia wabisuke )『は茶花としてよく知られているが、ワビスケツバキ品種群は太郎冠者(有楽椿)の子孫から成立し、太郎冠者は中国南部原産のCamellia pitardii var. pitardiiと、日本のヤブツバキを花粉親とする交雑種であることが葉緑体DNA解析などで示されている』。以下、「園芸品種の古木」と「花容による品種」の項があるが、省略する。以下、「地域による品種」の項。『江戸のツバキ』――『徳川幕府が開かれると、江戸に多くの神社、寺院、武家屋敷が建設された。それにともない、多くの庭園が営まれ、ツバキも植栽されていった。ことに徳川秀忠が吹上御殿に花畑を作り、多くのツバキを含む名花を献上させた。これが江戸ツバキの発祥といわれる』。「武家深祕錄」の慶長一八(一六一一)年(「大坂冬の陣」の前年)『には』『將軍秀忠花癖あり名花を諸國に徴し、これを後吹上花壇に栽ゑて愛玩す。此頃より山茶(ツバキ)流行し數多の珍種をだす』と『ある。権力者の庇護をうけて、ツバキは武士、町人に愛されるようになった。江戸ツバキは花形、花色が豊富で、洗練された美しさをもつ、一重では清楚な「蝶千鳥」「関東月見草」「蜀紅」、唐子咲きでは「卜伴」』(ぼくはん)、『八重では蓮華咲きの「羽衣」「春の台」「岩根絞」など』がある。『上方のツバキ』――『古来、都がおかれた上方でもツバキは古くから愛玩されてきた。ことに江戸期には徳川秀忠の娘東福門院和子を中宮として迎えた後水尾天皇や誓願寺の安楽庵策伝などの文化人がツバキを蒐集した。寛永』七(一六三〇)年『には安楽庵策伝によって「百椿集」を著した。さらに寛永』一一(一六三四)年『には烏丸光広によって』「椿花圖譜」が』『著され、そこには』六百十九『種のツバキが紹介されている。現在でも京都周辺の神社仏閣には銘椿が多い。品種としては「五色八重散椿」「曙」「菱唐糸」など。上方のツバキは変異の多いユキツバキが北陸から導入されたことと、京都、大坂の人々の独自の審美眼によって選抜されたことに特色がある』。『尾張のツバキ』――『江戸時代より名古屋を中心に育成されてきた品種群は、一重、筒咲き(または抱え咲き、椀咲き)、小中輪の茶花向きのものが多いのが特徴である。「関戸太郎」「窓の雪」「紅妙蓮寺」「大城冠」などがあるほか、名古屋好みの豊満な花容のものもある。近隣の三河、伊勢、美濃のものとあわせて「中部ツバキ」とも呼ばれている』。『加賀のツバキ』――『北陸各地に誕生したユキツバキ系の品種の京都の中継地として、この地は園芸の隆盛の大きな役割を果たした。茶の湯のさかんな土地柄ゆえに茶花向けの品種が多く、旧家の庭に多くの銘木がある。代表的な品種には「東方朔」「ことじ」「祐閑寺名月」などがある』。『富山、越後のツバキ』――『ユキツバキの自生地であることから、変化に富んだ選抜品種や、ヤブツバキとの交配によるユキツバキ系の品種が古くから栽培されてきた。氷見市老谷の「さしまたの椿」のような巨木も多い。代表的な品種に「大日の暁」「雪白唐子」「栃姫」「千羽鶴」など』。『山陰のツバキ』――『「つばきのふるさと」と言われるほどの自生地の多い地域である。古くから品種改良が盛んで、ことに江戸期松江藩がおかれてから盛んになり松平不昧は各地からツバキを集めた。萩から松江にかけて清楚な一重咲きが作られ愛好されている。代表的な品種は「花仙山」「意宇(おう)の里」「角(すみ)の光」など』。『久留米のツバキ』(記載なし)。『肥後のツバキ』――『肥後椿(ひごつばき)は、肥後・熊本藩の大名だった細川家にて、育種・保存されていた系統で、かつては門外不出であったが、現在では苗木が販売され、愛好者が多い。鉢植え・盆栽として栽培され、花は大輪一重で、梅蕊(ばいしん)咲きという花形で、花の中心から多数のおしべが放射状に広がり、赤・白・ピンクやその絞り咲きの花の色と、黄色のおしべとのコントラストが非常に美しい。肥後六花の一つ』。以下、「利用」の項。『庭木に良く植えられ、種子からとれる椿油は上質で、整髪用や養毛剤に用いる。材はかたく緻密で、ツゲ材と同様に木具材や細工物に使われる。材の灰は、紫根染の媒染剤になる』。『庭木として良く植えられ、住宅等の植栽では』、『防音の機能を有する樹種(防音樹)として知られる。植栽適期は』三』~『四『月上旬』、六『月下旬』から七『月上旬』、七『月とされる。日当たりが良く乾燥した場所は好まない性質で、やや湿った半日陰に植栽する。土壌の質は砂壌土で、そこに根を深く張る。施肥は』一『月』から三『月上旬と』、五『月下旬』から七『月に、剪定は』二『月下旬』から三月と、五『月』、八『月に行う』。『ツバキは生長すると樹高』二十メートル『ほどになるが、日本のツバキの大木は』、『ほとんど伐採され、最後の供給地として屋久島からも切り出されたが、現在では入手の難しい材である。大木は入手しにくいので、建築用にはあまり使われない。木質は固く緻密、かつ均質で、木目は余り目立たない、摩耗に強くて摩り減らない等の特徴から、工芸品、細工物などに使われる。代表的な用途は印材や将棋の駒、櫛、楽器、そろばんの玉などである。近年は合成材料の判子が多くなったが、椿材は、ツゲ』(ツゲ目ツゲ科ツゲ属ツゲ変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica )『材に次ぐものとして、安価な印鑑などに利用されていた』。現行の公的な『樹の法定耐用年数は』二十五『年となっ』ている。『日本酒の醸造には木灰が必要で、ツバキの木灰が最高とされている。また、アルミニウムを多く含むことから、古くは紫根染の媒染剤として、染色用にも用いられた。しかし、ツバキが少ないため、灰の入手は難しい』。『ツバキの木炭は品質が高く、昔は大名の手焙りに使われた』。『椿油は、種子(実)熱を加えずに押しつぶして搾った油で、「東の大島、西の五島」の名産品としてもよく知られている。高級食用油、機械油、整髪料、養毛剤として使われるほか、古くは灯りなどの燃料油としてもよく使われた。ヤブツバキの種子から取る油は高価なため、同じくツバキ属の油茶などから搾った油もカメリア油の名で輸入されている。また、搾油で出る油粕は川上から流して、川魚、タニシ、川えび等を麻痺させて捕獲する毒もみ漁に使われた』。以下「薬用」の項。『花を山茶花(さんちゃか)、葉を山茶葉(さんちゃよう)、果実を山茶子(さんちゃし)と称して薬用にする。花は天日乾燥して生薬にし、葉は随時採って生を用い、果実は圧搾して油を採る。葉のエキスが止血薬になる』。『葉にはタンニンとクロロフィル(葉緑素)などが、花にはアントアチニン、ユゲノール、ブドウ糖、果糖、蔗糖、マルトースなどを含む。また』、『種子には、オレイン酸、パルミチン酸、ステアリン酸、配糖体のカメリン、カメリアサポニンなどを含』み、『タンニンは収斂作用、クロロフィルには肉芽の発生作用があることから傷薬に用いられ、花は滋養保健、種子から採れる椿油は精製して育毛剤、軟膏基剤の原料に使われる』。『民間療法では、切り傷、腫れ物に花や生葉を揉んだり、かみつぶしてつけたり、蒸し焼きした生葉に椿油をつけて冷ました後に患部につける。花を干したものを細かく刻み、小さじ』一『杯ほどをカップに入れて熱湯を注いで、蜂蜜などで調味したものを飲むと、滋養保健や便通に役立つとされる。椿油は昔から養毛料として使われていたもので、洗髪に使うと』、『サポニンが汚れを落として、頭部にできた湿疹、かぶれに良く、養毛に役立つ』。以下「食用」の項。『花を採って、根元側から甘い蜜を吸うことができる』(私も、少年の頃は、よく吸ったものだった)。『花は食用にでき、採取時期は暖地が』二~三『月、寒冷地で』三~四『月ごろ』が『適期とされ』、六『分から』七『分咲きの花を摘み取って利用する。食味は花にかすかな甘味があるが、渋みが強い。ごみや萼の部分を取り去ってから、生のまま丸ごと天ぷらにすると、花蜜由来の甘味がある。また、さっと茹でて水にさらし、おひたしや酢の物にしたり、花芯をとって花びらだけをさっと湯通しして、花の色がやや黒ずむが』、『甘酢漬けにする』。『ツバキは葉や枝も観賞の対象になる』。葉の『斑』(ふ)『入りの園芸品種「越の吹雪」』があり、『覆輪または散り斑が入る』。『江戸時代には好事家たちが、葉の突然変異』(ウイルスの感染によって葉に斑(ふ)のような模様が入ったもの)『を見つけ出し、選抜育成して観賞した』。『ツバキの花は古来から日本人に愛され』、「万葉集」の』頃『からよく知られ、京都市の龍安寺には室町時代のツバキが残っている』。『茶道でも大変珍重されており、冬場の炉の季節は茶席が椿一色となることから「茶花の女王」の異名を持つ。美術や音楽の作品にもしばしば取り上げられている』。『ツバキの花は花弁が基部でつながっており、多くは花弁が個々に散るのではなく、萼を残して』、『丸ごと』、『落ちる。それが、人の首が落ちる様子を連想させるために忌み、日本においては屋敷内に植えない地方があったり、病人のお見舞いに持っていくことはタブーとされている。この様は古来より落椿(おちつばき)とも表現され、俳句においては春の季語である』。『縄文時代の遺跡鳥浜貝塚にて、ヤブツバキを加工した赤色漆塗櫛』『が出土している。その他にも杭、石斧の柄、魚掛用尖り棒、板、棒などの様々な加工品が出土している』。『ツバキは』「日本書紀」に『おいて、その記録が残されている。景行天皇が九州で起こった熊襲の乱を鎮めたおり、土蜘蛛に対して「海石榴(ツバキ)の椎」を用いた。これはツバキの材質の強さにちなんだ逸話とされており、正倉院に納められている災いを払う卯杖もその材質に海石榴が用いられているとされている』。先に示した「出雲風土記」には『海榴、海石榴、椿という文字が見受けられる。しかし、これらが現在のツバキと同一のものであるかについては議論の余地がある』。「万葉集」では、ツバキが使用された歌は』九『首ある』が、『サクラ、ウメといった』『題材と比較すると』、『数は多くない』。「源氏物語」に於いても、『「つばいもち」として名が残されている程度であり、室町時代まで』、『さほど芸術の題材として注目された存在ではなかった。しかし、風雅を好む足利義政の代になると、明から』、『椿堆朱盆、椿尾長鳥堆朱盆といった工芸品を数多く取りよせ、彫漆、螺鈿の題材としてツバキが散見されるようになった。また、豊臣秀吉は茶の湯にツバキを好んで用い、茶道においてツバキは重要な地位を占めるようになる。江戸時代に入ると』、『さまざまな花が観賞の対象になったが、椿も例外ではなかった。二代将軍徳川秀忠がツバキを好み、そのため』、『芸術の題材としてのツバキが広く知られるようになった。この時期、伝狩野山楽筆』「百椿圖」『(根津美術館所蔵)が描かれた。これは数ある品種の椿を』、『それぞれフラワー』・『アレンジメントのように描き、それらに烏丸光広、林羅山、水戸光圀ら公家、儒学者、大名といった文化人たちが漢詩、和歌の賛を書き添えた絵巻物である。以後、絵画、彫刻、工芸品のモチーフとしてツバキが定着する。ツバキの栽培も一般化し、園芸品種は約』二百『種にも及んだ』。『西洋ヨーロッパでは』十七『世紀末に園芸植物として大流行し』、十九『世紀の小説』「椿姫」(‘ La Dame aux camélias ’:アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils:小デュマ)の小説(一八四八年)、またそれを原作とするジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi)のオペラ‘ La traviata ’(ラ・トラヴィアータ:「道を踏み外した女」。一八五三年初演))『にも主人公のヒロインが好きな花として登場する。西洋で園芸家に注目されたのは、ヤブツバキが花とともに、葉が常緑で地中海地方の樹木にはないツヤが見栄えすることが認められたのではないかとする説が言われている』。『年を経たツバキは化けるという言い伝えが日本各地に残る。新潟の伝説では、荒れ寺に現れる化け物の正体が椿の木槌であったり、島根の伝説では、牛鬼の正体が椿の古根だったという話がある』。『花がポトリと落ちる様子から、馬の世界においても落馬を連想させるとして、競馬の競走馬や馬術競技馬の名前としては避けられる。特に競馬では、過去にはタマツバキの様な名馬もいるが』、一九六九『年の第』三十六『回東京優駿(日本ダービー)で大本命視されたタカツバキが、スタート直後に落馬で競走中止するというアクシデントを起こして以降、ほとんど付けられることがなくなった』。『武士は、打ち首により首が落ちる様子に似ていることを連想させることを理由にツバキを飾るのを好まなかった、という話もあるが、それは幕末から明治時代以降の流言であり、江戸時代に忌み花とされた記述は見付からない』。一六〇〇『年代初頭には多数の園芸品種が流行』し、延宝九・天和元(一六八一)『年には』、『世界で初めて椿園芸品種を解説した書物が当時の江戸で出版され』ている、とあった。

 以下、良安のために、ウィキの「サザンカ」を引く(同前)。『山茶花』は『別名では、オキナワサザンカともよばれる。童謡「たきび」の歌詞に登場することでもよく知られる』。『漢字表記の「山茶花」は中国語でツバキ類一般を指す山茶に由来し、サザンカの名は山茶花の本来の読みである「サンサカ」が訛ったものといわれる。もとは「さんざか」と言ったが、音位転換した現在の読みが定着した。ツバキ属の一種であるが、ツバキ(ヤブツバキ)よりも花が』、『やや小形であることから、ヒメツバキやコツバキなどの別名もある。また、漢名は茶梅である』。『常緑広葉樹の小高木。樹皮は淡灰褐色で表面は平滑である。樹皮が灰白色のツバキに対して褐色を帯びている。一年枝は』、『はじめ』、『紅紫色で』、『毛が生えている。葉は長さ』二~五『センチメートル』『程度の鋸歯のある楕円形でツバキよりも小さく、やや厚くツヤがあり、互生する』。『花期は、秋の終わりから初冬にかけての寒い時期(『十~十二月)で、枝の先に』五『枚の花弁の花を咲かせる。野生の自生種では花色は部分的に淡い桃色を交えた白色であるのに対し、植栽される園芸品種の花の色は、濃い紅色や白色やピンクなど様々である。花の奥には蜜があり、花粉の授受は昆虫と鳥の両方に頼っている。サザンカの開花はツバキよりも早い晩秋で、花弁が』一『枚ごとに散るので、ツバキとの見分けのポイントになる。また、サザンカの子房には毛があるが、ツバキにはない。花の付き方もやや異なり、ツバキが葉の裏側について葉陰で咲かせることが多いのに対し、サザンカは』寧ろ、『葉の表面側に付いて、目立ちやすい』。『果期は翌年の』九~十『月。花が咲いたあとに直径』二センチメートル『程度の球形の果実がつく。果実の表面には短い毛が生えていて、開花の翌年の秋に表皮が』三『つに裂けて、中から』二、三『個の黒褐色をした種子が出る』。『冬芽は葉の付け根につき、花芽や葉芽はツバキに似るが』、『全体に小ぶりである。花芽は広楕円形で白い毛があり、夏頃に見られる。葉芽は』、『やや平たい長卵形で毛があり』、五~七『枚の芽鱗に包まれている』。『冬の季語にされるなど、サザンカには寒さに強いイメージがあるが、開花時期に寒気にさらされると花が落ちること、四国・九州といった暖かい地域が北限である事などから、原種のサザンカは特に寒さに強いわけでは』ない。但し、『品種改良された園芸種には寒さに強く、真冬でも花を咲かせる品種も少なくない』。『サザンカ、ツバキ、チャノキなどのツバキ科の葉を食べるチャドクガ』(鱗翅目ドクガ科ドクガ属チャドクガEuproctis pseudoconspersa )『が知られている。この毒蛾の卵塊、幼虫、繭、成虫には毒針毛があり、触れると皮膚炎を発生させる。また、直接触れなくても、木の下を通ったり風下にいるだけでも毒針毛に触れ、被害にあうことがある』(家の椿で嘗つては多量に発生して困った経験がある)。『自生種は、日本の本州山口県、四国南西部から九州中南部、南西諸島(屋久島から西表島)などに、日本国外では台湾、中国、インドネシアなどに分布する。山地に自生するほか、人手によって植栽されて庭でもよく見られる』。『なお、ツバキ科の植物は熱帯から亜熱帯に自生しており、ツバキ、サザンカ、チャ』(ツツジ目ツバキ科ツバキ属チャノキ Camellia sinensis )『は温帯に適応した珍しい種であり、日本は自生地としては北限である』。『ツバキと共に、代表的な冬から早春の花木で、庭木として人気が高く園芸種も多数あり、生垣によく利用される。サザンカもツバキも、ヨーロッパ、イギリス、アメリカで愛好され、多くの園芸品種が作出され、現在も多くの品種が作り出されている。ちなみに多くの言語でもサザンカと呼ばれている。種子は大きく、油が採れる。材木としては主に細工物に利用する』。『サザンカには多くの栽培品種(園芸品種)があり、花の時期や花形などで』三『つの群に分けるのが一般的である。サザンカ群以外はツバキとの交雑である』として、

サザンカ群

 サザンカ Camellia sasanqua

カンツバキ群

 カンツバキ(寒椿) Camellia sasanqua  'Shishigashira'(シノニム C. x hiemalisC. sasanqua var. fujikoana :『サザンカとツバキ C. japonica との種間交雑園芸品種群』)

ハルサザンカ群

 ハルサザンカ Camellia × vernalis

を挙げてある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「山茶」([088-70a]以下。「山茶」は中国語の「ツバキ属」を指し、「維基百科」の「山茶属」には実に二百二十四種ものリストが並ぶ)の項の「集解」からのパッチワークである。

「寳珠花《はうじゆくわ》」種不詳。

「海榴茶花《かいりうさくわ》」種不詳。

「石榴茶《せきりうさ》」種不詳。

「碎花《さいくわ》」東洋文庫訳の割注に『(雄弁の花弁化したもの)』とあるが、意味が採れない。『雄弁』は「雄蕊」の誤記か。

「躑躅茶花《てきちよくさくわ》」種不詳。

「杜鵑花《とけんくわ》」ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron の中文名。

「官粉茶花」種不詳。

「串珠茶《かんしゆさ》」種不詳。

「一捻紅」中国でツバキ属 Camellia の異名であるが、この「一捻紅」は、同時に、ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa の別称でもあり(「維基百科」の「見よ項目」である「一捻紅」を見よ)、本邦では、ツバキの異名ではなく、専らボタンのそれとして用いられいているようなので、注意が必要である。

「南山茶花」山茶(ツバキ)属南山茶 Camellia semiserrata 。これは「維基百科」に「南山茶」がある。それによれば、『中国固有種』で、『広西チワン族自治区、江西省などに分布し、標高二百メートルから三百五十メートルの山岳地帯に植生している』とある。異名に『廣寧紅花大果油茶』(簡体字を正字に直した)があり、シノニムが八つ挙がっている。

「肥皂子《ひさうし》」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科 Caesalpinioideae ギムノクラドゥス(中文名:肥皂莢)属 Gymnocladus 肥皂莢(中文名)Gymnocladus chinensis の種子。先行する「肥皂莢」を見よ。

「遵生八牋」(じゅんせいはっせん)は、明の高濂(こうれん)の著になる随筆。全二十巻。万暦 一九(一五九一) 年の自序がある。日常生活の修養・養生に関する万端のことが述べられ、また、歴代隠逸者百人の事跡が記されており、文人の趣味生活に関する基礎的な文献とされている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。引用は、「漢籍リポジトリ」の『欽定四庫全書』の同書の「卷十六」の「燕間清賞牋下」のガイド・ナンバー[016-27a]以下の「山茶花六種」のパートからである(多少、手を入れた)。

   *

  山茶花六種【别名甚多以可觀玩世所廣者錄之】

如磬口外有粉紅者十月開二月方已有鶴頂茶如碗大紅如羊血中心塞滿如鶴頂來自雲南名曰滇茶有黃紅白粉四色爲心而大紅爲盤名曰瑪瑙山茶花極可愛產自浙之溫郡有曰寳珠九月發花其香淸可嗅

   *

この「磬口《きんこう》」の「磬」(キン:唐音)は、読経の際に打ち鳴らす、銅製や鉄製の鉢形をした仏具で、禅宗で用い始めたもの銅鉢を指す。この「口」とは、その「磬」の「口」の側面に開けられた独楽を平べったく潰したような飾り口(音響効果があるか)を指す。判らない人が多いであろうから、グーグル画像の「磬 キン」の中の、脚を持った炉のようなものがそれである。なお、東洋文庫訳では、『磬(けい)口』とルビした上、割注して『(寺院にある鉢盂』(はつう)『の形に造ったうちいしの口』とするのだが、ルビの『けい』が誤りである。「磬」を「ケイ」と漢音で読んでしまうと、これは、中国古代の打楽器で、枠の中に「へ」の字形の石板を釣り下げ、角)つの)製の槌(つち)で打ち鳴らすものを指してしまうからである(同楽器は、石板が一個だけの特磬(先のリンク先の最初の「コトバンク」の画像がそれである)と、十数個の編磬とがある。宋代に朝鮮に伝わり、雅楽に使用され、本邦には奈良時代以降、銅・鉄製の特磬を仏具に用いている)。

「鶴項茶花」種不詳。なお、東洋文庫は『鶴頂茶花』としてある。無論、「鶴頂茶」も調べたが、不詳である。なお、この判読は確信犯であり、「鶴の項《うなじ》のごとし』の部分も『鶴の頭のてっぺんのようである』と訳している。丹頂鶴を想起すれば、確かに「頂」である。いやいや、上に引用した通り、「遵生八牋」自体が「頂」なのである。

「瑪瑙茶花」種不詳。

「遠州に山茶花の大木、有り。周《めぐり》三尺餘、髙さ、三丈余」残念ながら、不識にして、存知ない。]

2024/10/03

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 安喜土居之西妙見山

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここ。標題は「あき どゐのにし みやうけんざん」と訓じておく。]

 

     安喜土居之西妙見山

 安喜郡(あきのこほり)、土居の西に、妙見山といふ髙山(かうざん)、有(あり)。至(いたつ)て魔境(かきやう)也。

 妙見菩薩の堂(だう)、有(あり)。

 此(この)堂、造作(ざうさく)の度(たび)毎(ごと)、大工も、申の刻、下(さが)り[やぶちゃん注:午後四時過ぎ。]ぬれば、居(を)る事、ならず。刻限を考へ、下山する時、材木、かな屑(くづ)も、其儘(そのまま)、取散(とりちら)しおけども、翌朝、見れば、奇麗に掃除して有(ある)、とぞ。

「參詣する人、穢火(ゑくわ)を改めざれば、忽(たちまち)、怪しみ、多し。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:以上のロケーションは、現在の高知県安芸市土居の西方にある妙見山に祀られている、安芸市井ノ口に鎮座する「星神社」である(以上はグーグル・マップ・データ)。「ひなたGPS」で見ると、「妙見山」の山名を確認出来る。国土地理院図で見ると、この星神社のある所が最高標高で448メートルである。廃仏毀釈以前は、別当寺があって、「妙見菩薩の堂」もあったものであろう。グーグル・マップの「星神社」のサイド・パネルの画像を見ると、同寺神社境内に『白衣観音菩薩像の出現地』の新しい石碑が確認出来るが、これは、妙見菩薩ではない。妙見菩薩は、北極星、又は、北斗七星を神格化した仏教の天部の一つで、本来は道教由来の神格と考えられるもので、「妙見」とは「優れた神通の視力」の意で、「善悪や真理を能(よ)く見通す者」という意味であるのに対し、白衣観音は、吉祥を表わす観世音菩薩で、中世以降は「三十三観音」の一つとされ、息災延命・安産・育児などの祈願の本尊とされる。尊形は一面二臂(ひ)で、肉身は白黄色を呈し、白衣を纏う、純然たる仏教の菩薩(神)である。

「穢火」(現代仮名遣「えか」)は、「忌(い)み火(び)」と同じで、結果的には「神聖な火」で、神道で言う「斎火」(いむび)と同義で、「清浄な火」の意であるが、実は、「火」は「穢れやすいもの」とされており、神前に年の始めに神社から神聖な火種を貰ったり、神仏の祭儀に際し、特別に神聖な火種を熾(おこ)すのである。ここは、造作改修等の際に出た木屑等を、安易に工人が燃やす火や、神主・別当僧等でない参詣人個人が、燈明として安易に起こす火もまた、これ、清浄でない「穢(けが)れた火」なのである。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 山田郷平草峯蛇

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「やまだがう ひらくさみね へび」と訓じておく。]

 

     山田郷平草峯蛇

 香美郡山田郷の內(うち)、「平草峯(ひらくさみね)」といふ所は、山下(さんか)に在家(ざいけ)もあり。

 此(この)山に「山通(やまどほし/どほり)」といふ有(あり)、長(ながさ)一尺五六・寸の蛇也。

 時(とき)有(あり)て、飛行(ひぎやう)す。

 其(それ)、飛行する時は、恰(あたか)も、大風(おほかぜ)大浪(おほなみ)の音(おと)の如し。

 物(もの)に當れば、岩石・樹木、速(すみやか)に倒(たふ)れ崩(くづ)れ、その勢(いきほひ)の烈(はげし)き事、譬(たとふる)に物(もの)なし、とかや。

 又、下(くだ)る時は、三尺斗(ばかり)の蛇にて、勢ひもなく、落(おち)たるを、見たるもの、有(あり)、とぞ。

 

[やぶちゃん注:「山田郷平草峯」「山田郷」は現在の高知県宿毛市山奈町(やまなちょう)山田(グーグル・マップ・データ)である。南端の中筋川沿いの市街地は、古くから宿毛街道筋の要衝であった。但し、北に延びる九割は鬱蒼たる山岳地帯である。「ひなたGPS」で見ても、戦前の地図にも、国土地理院図にも、山名は全くない。最高標高は北奥の571.4であるが、「平草峯」という名が最高峰の名とするのは、ちょっと迫力に欠くし、そもそも、「山下(さんか)に在家(ざいけ)もあり」とあるので、この「峯」はもっと南の住居のある川筋川の左岸(北側)のピークであろうと思われる。一つ、目が止まったのは、グーグル・マップのこの中央にある「王神社」である。蛇は龍の仲間である。さらにこの神社から東の山地を西北に辿ると、「ひなたGPS」の国土地理院図の242.8のピークは、現行では、山頂が平たい(但し、これはグーグル・マップで見る限りでは、近現代に削られたもののようである。しかし、戦前の地図でも、この山頂は二子山のようになっており、有意に「平」たく見えたのではないかと推察出来るのである)。しかも、戦前の地図では、旧「山田鄕」に相当する『山奈村』の聡明表記のド真ん中にあるピークであるから、如何にもこれらしい感じが、私にはしたのである。

2024/10/02

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 伊尾木村大師岩

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「いをきむら だいしいは」と訓じておく。]

 

     伊尾木村大師岩

 安喜郡(あきのこほり)伊尾木村、一里塚の通り、沖の方(かた)に「大師岩」といふ岩、あり。

 此(この)岩に、長(ながさ)二尺斗(ばかり)の足跡、數〻(かずかず)、あり。

 「杖のあと」、「笈(おひ)のあと」ゝいふも、あり。

 杖のあとは、六、七寸の丸さ也。

 

[やぶちゃん注:「安喜郡(あきのこほり)伊尾木村」現在の安芸市伊尾木(グーグル・マップ・データ)。

「一里塚」不詳。

「大師岩」不詳。ストリートビューで同地区をずっと探したが、現在は防波堤と消波ブロックが、続くばかりで、残念ながら見出せないし、ネットでもこの岩は掛かってこない。

「六、七寸の丸さ」円周であろう。日中ともに、古くは円筒型の樹木等の幹の大きさを示す際には、幅(直径)で示したりはせず、「𢌞」「圍」「抱」で、「円周」で示すのが一般的であるからである。十八・二~二十一センチメートル。足のデカさに相応する太さだ。]

「怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 仁井田郷足跡石

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「にゐだがう あしあといし」と訓じておく。]

 

     仁井田郷足跡石

 髙岡郡仁井田郷に、大石(おほいし)、有(あり)。

 其(その)石に長(ながさ)六尺、幅三尺斗(ばかり)の足跡あり。

 大指(おやゆび)より、小指迄、備(そなは)り、跟(かかと)有りて、泥土(どろつち)に人の足をふみたるが如く、左の足跡也。

 又、五町[やぶちゃん注:約五百四十五メートル強。]斗、南に、同じやうなる岩に、右の足跡、有(あり)。

 里人(さとびと)、傳言(つたへいふ)、

「大人(おほひと)、昔時(せきじ)、五町を、一足に、す。」

と、いへり。

『秦始皇時、有大人臨兆足跡六尺。』。[やぶちゃん注:出典不詳。]

『洪武時、公孫卿至東菜大人長數丈足跡甚大。』。[やぶちゃん注:出典不詳。]

 【元本に『西孕(にしはらみ)、岡田山にも、足跡、有(あり)。尋見(たづねみ)るべし。』ノ十七字を朱𭥜(しゆがき)せり。】[やぶちゃん注:「𭥜」は「書」の異体字。「近世民間異聞怪談集成」は判読不能として『□』にしてあるが、ほんまに、同書の判読者、ペエペエの学生にでも丸投げしたものか、レベル、低(ひく)!]

『魏咸煕二年二月見裏武縣跡三尺三寸。』。[やぶちゃん注:出典不詳。なお、「煕」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、正字を採用した。]

 

[やぶちゃん注:所謂、本邦の「ダイダラボッチ」伝承の一つである。私の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 七 太郞といふ神の名』を参照されたい。以下、漢文部を推定訓読しておく。

『秦始皇時、有大人臨兆足跡六尺。』「秦の始皇の時、大人(おほひと)、有り。臨(のぞ)みて兆(うらな)ひて見るに、足跡、六尺たり。」。前漢以前の一尺は二十二・五センチメートルであるから、一メートル三十五センチメートルとなる。「見臨兆」は、「近くに臨んで、目視で測って見るに」の意で私は採っておく。「秦の始皇の時」在位は紀元前二二一年から紀元前二一〇年まで。

『洪武時、公孫卿至東菜大人長數丈足跡甚大。』「洪武の時、公孫卿、東䒹(とうらい)に至り、大人(おほひと)の長(たけ)數丈(すうじやう)を見る。足跡、甚だ大(おほ)きなり。」。「洪武の時」これは誤記であろう。通常は、明の初代皇帝洪武帝であるが、「公孫卿」は前漢の第七代皇帝武帝の時代の方士である。されば、武帝の別名「孝武」或いは「漢武」の誤記と思われる。「東䒹」不詳。方士といい、東とくれば、東方にあるとされた「蓬萊」臭いな。当時の一丈は二・一二五メートルであるから、六掛けで十二・七五メートルとなる。

『魏咸煕二年二月見裏武縣跡三尺三寸。』「魏の咸煕(かんき)二年二月、裏武縣(りぶけん)にて見る。跡、三尺三寸。」。「咸熙」は三国時代の魏の元帝曹奐(そうかん)の治世に行われた二番目の元号で、魏はこの年を以って、元帝晋王司馬炎に禅譲し、晋が成立し、滅亡した。西暦二六五年である。

「髙岡郡仁井田郷」現在の高岡郡四万十町仁井田(グーグル・マップ・データ)。しかし、この足跡、現存しないようである。ネットでは全く掛かってこない。

西孕、岡田山にも足跡、有。尋見るべし』「西孕」は現在の高知市孕西町(はらみんにしまち:グーグル・マップ・データ)及び、その東の孕東町が相当する。「ひなたGPS」で示すと、戦前の地図に旧名『西孕』の地区名が確認出来るが、「岡田山」(「をかだやま」と訓じておく)は見当たらない。この西孕地区に限って見ると、南東の半島のピーク174辺りが、「岡田山」のようには見える。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 宿毛七度栗

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「すくも なな(或いは「しち」)どぐり」と訓じておく。]

 

     宿毛七度栗

 宿毛に「七度栗」といふあり。

「一年に七度、實をむすぶ。」

と、いふ。

 

[やぶちゃん注:この「七度栗」については、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の「提供館」を『高知県立図書館・高知市民図書館本館』として、『七度栗の県内の栽培状況、利用方法について』の質問への、詳しいレファレンス内容が記されてあった。その内の一つの資料である、国立国会図書館デジタルコレクションの「土陽淵岳誌」(高知県立図書館・一九七〇年刊)の当該部(中標題『土陽淵岳志 中』の「産物」の「草木」の項の内)を視認し、以下に電子化する。当該原書は、儒者植木挙因(元禄元(一六八八)年~安永三(一七七四)年:土佐高知藩医の父に家学を受け、後に京で玉木正英に学び、帰郷後、藩の儒員となった通称を敞斎、号を惺斎と名乗った。著作には他に「土佐國水土私考」などがある)の著で、編著の年次は延享三(一七四六)年。上・中・下の三巻。上巻は土佐の国号由来・神社・寺院・史跡名勝の由来、及び、その沿革等。中巻は物産で、博物誌的なもので、産物・古器・海産物・薬草類などを記す。下巻は当時の著名人の墳墓や寺院などを記述したものである。他に書名を「土佐國淵岳志」「土州淵岳志」ともする。

   *

六十七 七度栗幡多郡宿毛ニ生ス六月末ヨリ九月頃迄栗七度実ナル四度程マテハ食ハルヽ也形状ハ常ノ栗ニ異ナラス此(栗ノ)実々ヲ他所ニウヘ或ハ苗ヲウツシ植シトモ不生宿毛ノ内ニモ市所生スル所アリテ他ニハスヘチ不生ト云四国辺路道シルベニ伊予国ニモ有宿毛ヨリ道程遠ク並村名モ道シルへニ出ツ

土陽城下八軒町ニ北側ノ屋ニ小社アリコノ処元親ノ時代ニ中島ト云シ此神休何ヤラン不知昆沙門ナリトモ云フニ川藤兵衛此屋敷拝領ノ時ソノ社ヲ小津ノ龍福院へ遣ストナリ今彼屋敷ニハ横殿ハカリノコレリ祭日五月十五日也右ノ屋敷今片岡太右衛阿住居ニナル也

   *

「宿毛」現在の宿毛市(グーグル・マップ・データ)。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 奈半利村二重柿

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「なはりむら ふたへがき」と訓じておく。]

 

     奈半利村二重柿

 安㐂郡(あきのこほり)奈半利村に大久保刑部(おほくぼぎやうぶ)といふ人の墓、有(あり)。田中(たのなか)也。

 其(その)墓に、柿木(かきのき)有(あり)。

 此(この)柿。熟すると、内に、皮、ありて、又、外輪(そとわ)にも、皮、ある也(なり)。

 故に「二重柿(ふたへがき)」といふ。又、「大久保柿」ともいふ也。

 

[やぶちゃん注:「安㐂郡(あきのこほり)奈半利村」何度も注している。現在の安芸郡奈半利町(なはりちょう:グーグル・マップ・データ)。

「大久保刑部」不詳。

「二重柿」「公式高知県公式観光サイト」の「こうち旅ネット」の「奈半利の二重柿(なはりのにじゅうかき)」のページに、『一つの果実の中にもう一つ別の果実をつくる珍しい二重柿』とし、『県の天然記念物』で、『安芸郡奈半利町奈半利町』(ママ)『上長田の坂本氏宅地内にある』とし、『一つの果実の中に、もう一つ別の果実をつくるという一種の奇形樹』とあり、『木の目通り幹囲』九十センチメートル、『樹高』八メートル。『樹齢は』百『年前後といわれている』とある。グーグル・マップ・データにもポイントされてあり、サイド・パネルに五枚の写真もある。ストリートビューでも確認出来る。樹齢から、二、三代のものの子孫と思われ、周辺に墓も見当たらない。なお、愛媛県宇和島市にも県指定天然記念物となっている「二重柿」があり、宇和島市役所公式サイト「宇和島 ココロまじわうトコロ」の「新宇和島の自然と文化」の「県指定 二重柿」のページに、所在地を『津島町岩渕』、所有者を『満願寺』(ここ:グーグル・マップ・データ)とする(熟した柿を割った画像がある)。そこには、かなり詳しい記載があるので、部分引用する。『満願寺の境内に一本の柿の木がある。根回り二・八』メートル、『幹周り一・二』メートル、『高さ一〇』メートル『に達する小形のしぶ柿で、柿の実の内部にもまた果実を生じ、「二重柿」とか「子持ち柿」の名で呼ばれている』。『二重柿は昔から子宝に恵まれると信じられ、全国からこの柿で作られた干し柿の申し込みが絶えない。この柿の実の干し柿は満願寺で丹誠込めて作りあげられるのである』。『二重柿は大正一三(一九二四)年に発表された「愛媛県史跡名勝天然記念物報告書」にも詳細な記述が残る。このような柿は全国的にも非常に珍しい。旧津島町章はこの柿を図案化している』)個人サイト『車泊で「ご当地マンホール」』の「ご当地マンホール in 愛媛県旧津島町(宇和島市)」で、旧の町章が見られる)。『二重柿の縁起にはいろいろな言い伝えがある。「弘法大師行脚のおり、杖を立てて置かれたのが芽を出し、根を張り、枝葉を茂らせ、実をつけるまでに至った。今に残る二重柿がそれだ」という伝説はたいへん有名である。そして「世の中を仲睦じく親と子が二重の柿にそれを知るべし」の歌とともに伝承されている』。『二重柿は江戸時代から現在に至るまでの長期間を生き抜いてきたが、かなり老齢化しており、主幹部の腐朽が進行している』等々とある。]

2024/10/01

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 槇山郷中谷川村人面樫

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「まきやまがう なかたにがはむら じんめんかし」と訓じておく。]

 

     槇山郷中谷川村人面樫

 

 槇山郷の內(うち)、中谷川村の谷溝(たにガウ)に、樫木(かしのき)、有(あり)。

 此(この)樫の実(み)の片面(かたづら)は、くぼみて、人の顏の如し。目・口・鼻とも、備(そなは)りて、鮮(あざや)か也(なり)。

 昔より、所の者も、

「採る事、なし。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:「槇山郷」「中谷川村」現在の香美市物部町(ものべちょう)中谷川(なかたにがわ:グーグル・マップ・データ)。

「谷溝(たにガウ)」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図の『中谷川』周辺を探したが、見当たらない。

「樫の実」カシは、民間では、双子葉植物綱ブナ目ブナ科 Fagaceaeに属する常緑高木の一群の異なるかなりの数の複数種を含む総称である。多くの果実(堅果)は一般に「ドングリ」と呼ばれるものである。但し、ウィキの「カシ」によれば、『南紀や四国ではウバメガシ』(コナラ属 Ilex 節ウバメガシ Quercus phillyreoides )『などが主なカシになる』とあった。ウィキの「ウバメガシ」にある、「どんぐり」の画像をリンクさせておく。私も昔、「どんぐり」を集めたが、ただ、「裏面」というのは、僕らが「帽子」と呼んでいるベレー帽みたような「殻斗」を外した実の部分は、しみじみ見たことがないので判らない。散歩道さんのブログ「散歩道の手づくりしてみました & 狭山丘陵散歩」の「マテバシイ、ウバメガシ、スダジイ」の上から五番目に、ウバメガシの堅斗を外した部分を二個体、写真で紹介されているので、見られたい。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 井田村八岐鹿⻆

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「ゐだむら やつのまたの しかづの」と訓じておく。]

 

     井田村八岐鹿⻆

 幡多郡(はたのこほり)井田(ゐだ)村へ、昔、一角(いつかく)八股鹿(やつノマタのしか)、出(いで)けるを、猟師、見付(みつけ)て、早速、打殺(うちころ)しけると也(なり)。

 其(その)八股⻆(やつまたのつの)、三尺斗(ばかり)、有(あり)。

 珍敷(めづらし)きもの故、當村(たうそん)、氏神(うぢがみ)、天滿宮社內(やしろうち)へ納め置ける。

 閏月(うるうづき)の有(あ)る年、九月九日に開帳して、人々に見せるよし。

 平常(へいじやう)は、見る事、ならず。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡井田村」高知県幡多郡黒潮町伊田いだ:グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)であろう。御覧の通り、恐らく海辺の伊田港周辺部を除き、九割以上は奥深い山間部である。

「一角八股鹿」(いっかくやつのまたのしか)とあるが、この鹿は四国(九州にも分布する)であるので、哺乳綱鯨偶蹄目シカ科シカ属ニホンジカ亜種キュウシュウジカ Cervus nippon nippon である。同亜種の♂の成獣(毎年一本ずつ生えるらしい)の角は四本に枝分かれするのが普通であるから、この二本とも(と思われる)八つに分枝する個体というのは、極めて珍しいものと思われる。論文を見る限り、化石シカ類のものでも、七分岐であった。

「天滿宮」ここにある。ネットでは掛かってこないので、「一角八股鹿」は現存しないか。残念!]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 足摺御埼舟幽霊

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。]

 

     足摺御埼(あしずりみさき)舟幽霊(ふなゆうれい)

 幡多郡(はたのこほり)中村、正福寺(しやうふくじ)は、宗祖法然上人の開基にて、什物(じふもつ)に、舩板(ふないた)の名號(みやうがう)七枚、鉦鼓(しやうこ)、竹布(ちくふ)の袈裟(けさ)有る事を、此寺の緣起に書載(かきのせ)たり。

 頃は享保年中、淸水浦(しみづうら)、蓮光寺に、觀音の開帳を思ひ立(たち)、本寺、正福寺を請招(せうせい/せいじやう)し、幷(ならびに)

「彼(かの)什物をも、借り度(たき)。」

由(よし)、兼(かね)て賴入(たのみいれ)置きければ、開帳の前日、舩(ふね)を仕立(したて)て、迎(むかへ)に出(いだ)しける。

 やがて正福寺上人、什物を携(たづさへ)て乘舩(じやうせん)せられけるが、その日は、順風にて、出帆しけるに、足摺山(あしづりやま)近く成(なり)ける頃より、風、やみ、沖に紛(まぎ)れて有る中(うち)に夜に入(いり)けるが、此舩、塩(しほ)[やぶちゃん注:「潮」。]にも流れず、昼(ひる)、來(きた)りし所を、動かざれば、人々、不審におもひけるに、海上(かいじやう)に、形は、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ねども、數(す)百人も、集りたるやうに聞へ[やぶちゃん注:ママ。]て、男女(なんによ)の愁歎(しうたん)して、泣聲(なくこゑ)、夥(おびただ)しかりける。

 其時、上人、思惟(しゆい)し、

「是ぞ、いひ傳ふる『船幽霊』成(なる)べし。」

とて、則ち、御經(おんきやう)、讀誦し、念佛、唱へられければ、無程(ほどなく)、船も動き出(いだ)し、漸(やうやう)、下田(しもだ)の湊(みなと)へ漕戾(こぎもど)しける、とぞ。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡中村、正福寺」これは現在の高知県四万十市中村山手通(なかむらやまてどうり)にある浄土宗正福寺(しょうふくじ:グーグル・マップ・データ)。

「竹布の」思うに、これは竹を縫い取りにあしらった絹製の袈裟を指しているのではないかと思われる。長い間、水に浸して腐らせておいた竹を、細く裂き、それを繊維として織った布地である「竹布(ちくふ)」が本邦には存在するが、小学館「日本国語大辞典」を見るに、中国では「唐書」に出るので、古くからあったものの、本邦の初出例は室町後期の大永四(一五二四)年八月二四日附「實隆公記」としており、事実、法然の所持品であれば、あり得ないからである。但し、後年に捏造されたものであるのなら、後者でもよい。前者と判断したのは、三重県鈴鹿市国府町の真言宗御室派大平山(たいへいざん)府南寺(ふなんじ)の公式サイト内の「お知らせ」の「国府阿弥陀如来(こうあみだにょらい)【竹布の袈裟】」の『府南寺本尊 国府阿弥陀如来』『の伝説』に、鎌倉中期の覚乗上人の話が載るのだが、そこに、『身に着けている竹布(ちくふ)(絹製)』(☜)『の袈裟(けさ)を脱いで』という一条が出ているからである。

「享保年中」一七一六年から享保二一(一七三六)年四月二十八日まで。

「淸水浦、蓮光寺」現在の高知県土佐清水市元町(もとまち)にある浄土宗金色山(こんじきざん)清涼院蓮光寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「下田」四万十川の河口の左岸の四万十市下田。現在、下田漁港がある。船を元来た海路を戻ったのである。思うに、什物の中の「舩板の名號七枚」に原因があろう。この舟板の七枚を法然に奉じたのは海難から守護されることを祈願した漁師衆であり、或いは、その中に難破して亡くなった者がいたか、或いは、難船して亡くなった漁師らの供養に、その船の舟板の破片を、遺族か、仲間が持ち込んだものやも知れぬ。さればこそ、舟幽霊は出たのである。されば、その「南無阿彌陀佛」の六字の名号を記したそれらは、蓮光寺には、結果、貸し出さなかったであろう。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 長岡郡池村キノコ銀兵衞

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここ。]

 

     長岡郡池村キノコ銀兵衞

 長岡郡(ながをかのこほり)池村(いけむら)、銀兵衞といふ者の庭に、梅の古木(こぼく)、有(あり)。

 枝の切り株に、天滿宮の神体、備(そなは)れり。厨子(づし)に納めて家內(いえうち)に安置す。

「所願、よく叶(かな)へり。」

とて、諸人(しょにん)、聞傳(ききつたへ)て、參詣、多し。

 是を「きの子樣」といふ。

 遠方の者は、「きの子の銀兵衞」と尋ね來(きた)るとかや。

 

[やぶちゃん注:「長岡郡池村」現在の高知県高知市池(いけ:グーグル・マップ・データ)。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 幡多郡井田村地藏

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     幡多郡井田村地藏

 幡多郡(はたのこほり)伊田浦(いだうら)の磯に地藏堂あり。

 御長(おんたけ)三尺斗(ばかり)の座像也。

 至(いたつ)て、不細工也。

 往來の人、笑ふものあれば、忽(たちま)ち、祟(たた)りを成(な)し玉ふ故、里人(さとびと)は、大きに恐るゝとかや。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡(はたのこほり)伊田浦」高知県幡多郡黒潮町伊田(いだ:グーグル・マップ・データ)の海浜部。

「磯に地藏堂あり」この磯という謂いからは、明治初期のおぞましい廃仏毀釈で廃寺にされた「松山寺」の跡として残る、この「地蔵堂」(ストリートビュー画像)の、向かって左にある祠の二体の仏像の右手のものではないかと私は踏んだ。「おむすび」型の本体の上にかわいらしい、まあるい頭を頂いた愛らしい地蔵である(と言っておかないと祟られるからネ。しかし……地蔵が祟るというのは……これ……ちょっと、地蔵様が可哀そうだなぁ)。グーグル・マップではこの中央附近である。これが地蔵であることは、高知県黒潮町議会発行の『アーカイブNo .4伊田』PDF)、及び、個人サイトと思しい「四国番外霊場 高知県」のこちらの冒頭の「21 地蔵堂」「松山寺下の地蔵堂」「黒潮町伊田」とある画像を元に確認した。そこには横たわった地蔵群もあるのだが、これが、いっとう、目立つからである。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 神田村与七怪異

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     神田村与七怪異

 土佐郡(とさのこほり)神田村(こうだむら)芳㙒(よしの)に、与七といふもの有(あり)。

 明和年中[やぶちゃん注:一七六四年から一七七二年まで。徳川家治の治世。]、夏の比、雨夜(あまよ)の事なるに、厩(うまや)につなぎ置(おき)たる馬(むま)、噺(いななき)て、頻(しきり)に、はね上(あが)る音、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、否(いなや)、炬(たい)まつ、燈(とも)して、厩の方(かた)へゆきしが、俄(にはか)に、風、吹來(ふききた)りて、炬松を吹消(ふきけ)す事、再三に及びぬ。[やぶちゃん注:「否(いなや)」これは感動詞と副詞の用法の混用表現。前者の「ひどく驚いて発する『これは!?』と、後者の「~すると直ちに……」の両含みである。]

 漸(やうやう)、燈して至り見れば、馬は、いづくへ行(ゆき)けん、見えざりければ、家內(かない)、驚き、裏・表、ともに、尋(たづね)れども、しれず。

 それより、隣家(りんか)のものも聞付(ききつけ)、大勢、集(あつまり)て、その近邊、尋廻(たづねまは)りしかども、行方(ゆくへ)知れぬ內(うち)、漸、夜(よ)も明(あ)ければ、又、尋(たづね)に出(いで)けるが、家の後ろなる山の上の、大木(たいぼく)の松の股(また)に、件(くだん)の馬、掛(かか)り有(あり)。

 いづれも、肝(きも)を消(け)し、急ぎ、木に登り、綱、又は、細引(ほそびき)にて、四足、首、尾(を)を、しばり、釣落(つりおと)しにて、したりける。

 されども、彼(かの)馬(むま)、少(すこし)も疵付(きずつ)く所なく、大(おほき)につかれ果て、四、五日、腦[やぶちゃん注:ママ。「惱」の誤字。]みけるが、終(つひ)に死(し)しける、とぞ。

 不思義の事也【田村屋源兵衞方にて、与七、直(ぢき)に話しける、とぞ。】。

 

[やぶちゃん注:「土佐郡神田村芳㙒」旧土佐郡となると、現在の高知市神田(こうだ:グーグル・マップ・データ)である。「ひなたGPS」の戦前の地図には『神田(コーダ)』とあり、その記名の東南直近に『吉野』とあるのがそれであろう。現行の国土地理院図でも「吉野」である。

 この話、甚だ奇体で、解釈が難しい。経緯が事実であるとするなら、現実的には、与七に恨みのある誰彼が成した大掛かりな嫌がらせとなろうが、それでは、「怪異」譚にはならぬ。かといって、例の「河童駒引」にしては、馬が吊られたロケーションが、如何にも河童とは縁遠いから、違う。寧ろ、やらかしたのは天狗が相応しい。一つ、最初に感じたのは、『「想山著聞奇集 卷の壹」 「頽馬の事」』の馬が襲われる民俗学的な怪異「頽馬(だいば/たいば)」(実際には虻や刺蠅(さしばえ:短角(ハエ)亜目ハエ下目 Muscoidea 上科イエバエ科イエバエ亜科サシバエ族サシバエ属サシバエ Stomoxys calcitrans )などの吸血昆虫により伝播されることで馬や驢馬などのウマ類にのみ感染する馬伝染性貧血)であったが、山上の松に吊り下げられるというのは「頽馬」のシチュエーションではあり得ず、人間業では不可能な点で、やはり天狗の怪であると言わざるを得ない。四国の天狗と言えば、讃岐国(現在の香川県)に配流された崇徳上皇が怨霊(本邦最大最強の御霊(ごりょう))となった、その眷属の天狗の話が超有名であり、また、ウィキの「天狗」によれば、『愛媛県石鎚山』(いしづちさん:ここ。グーグル・マップ・データ)『では』、六『歳の男の子が山頂でいなくなり、いろいろ探したが見つからず、やむなく家に帰ると、すでに子供は戻っていた。子に聞くと、山頂の祠の裏で小便をしていると、真っ黒い大男が出てきて子供をたしなめ、「送ってあげるから目をつぶっておいで」と言い、気がつくと自分の家の裏庭に立っていたという』というケースが紹介されてある。因みに、ずっと東の高知県高岡郡津野町(つのちょう)には、標高千~千四百メートルの四国カルスト地帯で知られる「天狗高原」(グーグル・マップ・データ)があるが、この呼称は近代につけられたものと思しい。「ひなたGPS」では「天狗」の名は確認出来ないからである。]

2024/09/30

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 木芙蓉

 

Fuyou

 

もくふやう  地芙蓉 木蓮

       𬜻木  杹木

       拒霜

木芙蓉

       【只云不也宇】

[やぶちゃん注:「もくふやう」はママ。]

 

本綱木芙蓉揷枝卽生小木也其幹叢生如荆高者丈許

其葉大如桐有五尖及七尖者冬凋夏茂秋半始着花花

類牡丹芍藥有紅者白者千葉者最耐寒不落不結實取

其皮爲索

𣷹色拒霜花 木芙蓉之異種【四川廣州出之】其花初開時白色

[やぶちゃん注:「𣷹」は「添」の異体字。]

 次日稍紅又明日則深紅先後相間如數色

葉花【微辛】清肺凉血散熱解毒治一切癰疽惡瘡

 清凉膏【清露散鐵箍散】 芙蓉葉【或根皮或花或生研或乾】細末以宻調塗

 于腫𠙚四圍中間留頭乾則頻換之治癰疽發背乳癰

 惡瘡初起者卽覺清凉痛止腫消【已成者卽膿聚毒出已穿者卽膿出昜歛】

[やぶちゃん注:「歛」は「斂」の異体字。]

妙不可言或加生赤小豆末尤妙也

△按木芙蓉其樹葉花實皆似木槿而大艷美七月開花

 桃紅色或純白或紅白相半有單瓣有千瓣皆朝開暮

 萎毎枝數朶更開逐日盛其花落結實亦如木槿輕虛

 有薄皮裹細子大如蕎麥冬葉盡落而實殼尙不零拒

 霜之名義𢴃此乎自裂子墮𠙚能生揷枝亦昜活然本

 草所謂花耐寒不落不結實之文未審

 

   *

 

もくふやう  地芙蓉       木蓮

       𬜻木《くわぼく》  杹木《くわぼく》

       拒霜《きよさう》

木芙蓉

       【只《ただ》、云ふ、「不也宇」。】

[やぶちゃん注:「もくふやう」はママ。]

 

「本綱」に曰はく、『木芙蓉は、枝を揷し、卽ち、生ず。小木なり。其の幹、叢生す。荆《いばら》のごとく、高い者、丈許《ばかり》。其の葉、大いさ、「桐」のごとく、五≪つの≫尖《とがり》、及び七≪つの≫尖の者、有り。冬、凋み、夏、茂(しげ)り、秋の半《なかば》に、始めて花を着《つく》。花、「牡丹」・「芍藥」に類《るゐ》≪し≫、紅の者、白き者、千葉《やへ》の者、有り。最も寒に耐へて、落ちず。實を結ばず。其の皮を取りて、索(なは)と爲す。』≪と≫。

『𣷹色拒霜花(てんしよくきよさうくわ)』≪は≫、『木芙蓉の異種【四川・廣州[やぶちゃん注:現在の広東省と広西チワン族自治区。]、之れを出だす。】≪なり≫。其の花、初めて開く時、白色、次《つぎ》≪の≫日、稍《すこし》く紅《くれなゐ》なり。又、明《あく》る日、則ち、深紅≪たり≫。先後《せんご》、相間《あひまぢ》りて、數色《すしよく》のごとし。』≪と≫。

『葉・花【微辛。】肺を清《きよ》≪くし≫、血を凉《すずしく》し、熱を散じ、毒を解す。一切≪の≫癰疽《ようそ》・惡瘡《あくさう》を治す。』≪と≫。

『清凉膏【「清露散」・「鐵箍散《てつこさん》」。】』『芙蓉の葉【或いは、根の皮。或いは、花。或いは、生《を》研《けずる》。或いは乾《ほす。》】≪を≫細末にして、宻《みつ》[やぶちゃん注:糖蜜。]を以つて、調へ、腫≪れる≫𠙚の四圍に塗《ぬり》て、中間《ちゆうかん》に頭[やぶちゃん注:腫れ物の形成されてある腫瘍部分の真上。]を留《と》む。乾(かは)ける≪時は≫、則ち、頻りに、之れを換ふ。癰疽・背に發せる[やぶちゃん注:返り点はないが、返して訓読した。]≪癰疽≫・乳≪に發せる≫癰・惡瘡を治す。起≪き≫初≪めの≫[やぶちゃん注:同前で訓読した。]者は、卽ち、清凉を覺≪え≫、痛≪みを≫止め、腫《れを》を消す【已に≪腫れ物と≫成れる者は、卽ち、膿《うみ》を聚《あつ》め、毒を出≪だす≫。已に穿《うが》れる者は、卽ち、膿を出だし、歛《れん》[やぶちゃん注:収斂効果。]を昜《やす》くす。】。妙≪なること≫、言ふべからず。或いは、生《なま》の赤--豆(あづき)の末《まつ》を加へて、尤も、妙なり。』≪と≫。

△按ずるに、木芙蓉は、其の樹・葉・花・實、皆、「木槿《むくげ》」に似て大きく、艷美なり。七月、花を開き、桃紅色、或いは、純白、或いは、紅・白≪の≫相《あひ》半(なかば)す。單瓣《ひとへ》、有り、千瓣《やへ》、有り、皆、朝、開き、暮に萎(しぼ)む。枝毎《ごと》[やぶちゃん注:返り点はないが、返って訓じた。]≪に≫、數朶《すだ》≪あり≫、更に開きて、日を逐《おひ》て、盛《さかん》なり。其の花、落ちて、實を結ぶ。亦、「木槿(むくげ)」のごとく、輕虛≪にして≫、薄皮、有りて、細≪かなる≫子≪たね≫を裹《つつ》む。大いさ、「蕎麥《そば》」≪の實≫のごとし。冬、葉、盡《ことごと》く落ちて、實の殼、尙を[やぶちゃん注:ママ。]、零《お》ちず。「拒霜」の名義、此れに𢴃《よ》るか。自《おのづか》ら、裂《さけ》て、子《たね》、墮《お》つる𠙚、能く生(は)へ[やぶちゃん注:ママ。]、枝を揷(さ)して、亦、活《いき》昜《やす》し。然《しか》るに、「本草」に、所謂《いはゆる》、『花、寒に耐へて、落ちず。實を結ばず。』の文《ぶん》、未-審(いぶかし)。

 

[やぶちゃん注:「木芙蓉」は、日中ともに、

双子葉植物綱アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属フヨウ Hibiscus mutabilis

であり、当該の「維基百科」も「木芙蓉」である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『種小名 mutabilisは「変化しやすい」(英語のmutable)の意。「芙蓉」はハスの美称でもあることから、とくに区別する際には「木芙蓉」(もくふよう)とも呼ばれる。中国名は、木芙蓉』。『中国原産といわれている。中国、台湾、日本の沖縄、九州・四国に分布する。日当たりのよいところを好み、暖地の海岸に近い林などに自生する。日本では関東地方以南で観賞用に栽培され、庭木や公園樹、街路樹としても植えられる』。『落葉広葉樹の低木で、幹は高さ』一~四『メートル』『になる。寒地では冬に地上部は枯れ、春に新たな芽を生やす。樹皮は灰白色から淡褐色をしており、滑らかで縦に筋や皮目がある』。『葉は互生し、表面に白色の短毛を有し掌状に浅く』三~七『裂する』。七~十『月初めにかけてピンクや白で直径』十~十五センチメートル『程度の花をつける。朝咲いて夕方にはしぼむ』一『日花で、長期間にわたって毎日次々と開花する。花は他のフヨウ属と同様な形態で、花弁は』五『枚で回旋し』、『椀状に広がる。先端で円筒状に散開するおしべは根元では筒状に癒合しており、その中心部からめしべが延び、おしべの先よりもさらに突き出して』五『裂する』。『果実は蒴果で、毛に覆われて多数の種子をつける。果実が熟すと上向きに』五『裂して、種子を出す。冬でも多くの果実がついていることがある』。『冬芽は裸芽で枝と共に星状毛に覆われており、枝先に頂芽がつき、側芽は枝に互生する。葉痕は心形や楕円形で、維管束痕が多数輪になって並ぶ』。『同属のムクゲ』(フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus )『と同時期に良く似た花をつけるが、直線的な枝を上方に伸ばすムクゲの樹形に対し、本種は多く枝分かれして横にこんもりと広がること、葉がムクゲより大きいこと、めしべの先端が曲がっていること、で容易に区別できる。フヨウとムクゲは近縁であり』、『接木も可能』である。『南西諸島や九州の島嶼部や伊豆諸島などではフヨウの繊維で編んだ紐や綱が確認されている』(☜)。『甑島列島(鹿児島県)の下甑町瀬々野浦では』、『フヨウの幹の皮を糸にして織った衣服(ビーダナシ)が日本で唯一確認されている。ビーダナシは軽くて涼しいために重宝がられ、裕福な家が晴れ着として着用したようである。現存するビーダナシは下甑島の歴史民俗資料館に展示されている』四『着のみであり、いずれも江戸時代か明治時代に織られたものである』。以下、「変種・近縁種」の項から。本来、ここには不要かと思うが、フヨウは私の好きな花なので掲げることとする。

○スイフヨウ(酔芙蓉)Hibiscus mutabilis (『朝』、『咲き始めた花弁は白いが、時間がたつにつれてピンクに変色する八重咲きの変種であり、色が変わるさまを酔って赤くなることに例えたもの。なお、「水芙蓉」はハスのことである。混同しないように注意のこと』)

○サキシマフヨウ(先島芙蓉)Hibiscus makinoi (『鹿児島県西部の島から台湾にかけて分布する。詳細は』当該ウィキ『を参照』)

○アメリカフヨウ(草芙蓉)Hibiscus moscheutos (英語: rose mallow:『米国アラバマ州の原産で』、七『月と』九『月頃に直径』三十センチメートル『近い巨大な花をつける。草丈は』五十センチメートルから一・六〇メートル『くらいになる。葉は裂け目の少ない卵形で花弁は浅い皿状に広がって互いに重なるため』、『円形に見える。この種は多数の種の交配種からなる園芸品種で、いろいろな形態が栽培される。なかには花弁の重なりが少なくフヨウやタチアオイ』(アオイ亜科タチアオイ属タチアオイ Althaea rosea )『と似た形状の花をつけるものもある。日本での栽培も容易であり、多年草であるため』、『一度植えつければ毎年鑑賞することが可能』)

○タイタンビカス Hibiscus × Titanbicus(『日本で作出された園芸品種』で、前記『アメリカフヨウとモミジアオイ』(フヨウ属モミジアオイ Hibiscus coccineus )『の交配選抜種』。六『月下旬』から十『月初頭に』十五センチメートル『ほどの花を多数つける。草丈は』一~二メートル『ほど。葉はモミジ葉』で、所謂、『ハイビスカスそっくりの南国風の花であるが』、『北海道等の寒冷地』を含め、『日本全国での屋外栽培・屋外越冬が可能。栽培もいたって容易である』)

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「木芙蓉」([088-70a]以下)の独立項のパッチワーク。

「杹木《くわぼく》」「杹」一字で木芙蓉=フヨウを指す漢語。

「牡丹」ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa

「芍藥」ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora

「𣷹色拒霜花(てんしよくきよさうくわ)」中文の「百度百科」の「拒霜」を見るに、「木芙蓉」の別名である。そこの「出典」に、北宋の文学家・歴史学者宋祁(そうき 九九八年~一〇六一年)の「益都略記」(正しくは「益部方物略記」)から引いてある。当該書を「中國哲學書電子化計劃」の同書で確認すると(ガイド・ナンバー「62」)一部に手を加えた)、

   *

右添色拒霜花【生彭・漢・蜀州。花常多葉、始開白色、明日稍紅、又明日則若桃花然。】

   *

とあった。

「清凉膏」「清露散」「鐵箍散」孰れも不詳。「箍」は訓は「たが」で、お馴染みの桶や樽などを締める竹や金属製の輪を言う。ここは、恐らく、体内の病的に弛んだ様態を正常に戻すための強い矯正効果を換喩したものとは思われる。

「赤--豆」これは、マメ目マメ科マメ亜科アズキ変種アズキ Vigna angularis var. angularis の種子を基原とする生薬「赤小豆(せき/しやくしやうづ)」(せきしょうず/しゃくしょうず)を指す。「ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「赤小豆(セキショウズ・シャクショウズ)」に詳しいので、参照されたい。

「蕎麥《そば》」ナデシコ目タデ科ソバ属模式種ソバ Fagopyrum esculentum

『然《しか》るに、「本草」に、所謂《いはゆる》、『花、寒に耐へて、落ちず。實を結ばず。』の文《ぶん》、未-審(いぶかし)』このような特異なフヨウの種があるのか、どうか、少しは調べてみたが、私には判らなかった。識者の御教授を乞うものである。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 犬神

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。] 

     犬神

 「御伽婢子(ヲトギバウコ)」といへる草紙(さうし)に、『土佐國幡多と云(いふ)所に犬神(いぬがみ)といふ物(もの)、有(あり)。』とて、此病(このやまひ)、唐土(もろこし)にも有(ある)事を載(のせ)たり。

 しかれ共(ども)、此國に不限(かぎらず)、「四國の犬神」にて、其中(そのうち)、阿波・土佐に、多し。いつ頃、渡りし事を不知(しらず)。

 按ずるに、昔、元親朝臣(もとちかあそん)、朝鮮の生捕(いけどり)を、あまた、此國へ、連れ來(こ)られしが、若(もし)、其時より、傳へたる事も、あらんか。

 先年、南都の梅田淸兵衞、當地へ下りし時、咄(はなし)に、

「奈良にも、狐付(きつねつき)、多し。その時は、『封じ物』にて、爪の間(あひだ)を探ると、直(ただち)に退(しりぞ)くもの也(なり)。」

とて、封じ物を見せぬ。

 筆の軸(ぢく)程(ほど)ある竹を、三寸程に切(きり)て、先(さ)きを、そいで、其內(そのうち)へ、「封じ物」を入(いれ)たるもの也。狐は人に付(つく)と、虛然(ウツカリ)して居(を)る故、每度(まいど)、犬に喰殺(くひころ)さる、よし。

「その狐の附(つき)たるは、戾る所なき故(ゆゑ)、一生、不退(しりぞかず)、死にいたるもの、多し。」

とかや。

 

[やぶちゃん注:私は、二〇二一年四月から二〇三二年一月にかけて、ブログ・カテゴリ『浅井了意「伽婢子」』で、正規表現・オリジナル注附きで全篇を電子化を終えている。ここで言及されているのは、「伽婢子卷之十一 土佐の國狗神 付金蠶」である。そこでも相応に考証しているが、そこにもリンクさせてある、それ以前の、「古今百物語評判卷之一 第七 犬神、四國にある事」での私の考証(特に、ここでは、「此病(このやまひ)、唐土(もろこし)にも有(ある)事を載(のせ)たり」とする部分に就いてである)で、十全にその関連性を述べておいたので、そちらを読まれたい。言っておくが、私の注は、かなり膨大であるので、覚悟して見られたい。結論から言うと、根っこは古代中国に於いて存在した呪術「蠱毒」の焼き直しとするのが、私の結論である。

「元親朝臣」長宗我部元親。先行する「安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊」で既出既注。

「朝鮮の生捕」文禄元(一五九二)年から従軍した「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」での捕囚を指す。しかし、西日本に広く分布する犬神信仰の存在は、こんな新しい時代に四国を発信のルーツとするとは、到底、考えられない。手っ取り早い、空起源説と言わざるを得ない。

「狐」南都奈良の者の語りであるから、別段、問題はないが、一応、言っておくと、既に述べているが、四国には狐(食肉目イヌ科キツネ属アカギツネ 亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica )は、近世、或いは、近代まで、四国には棲息していなかったのではないかと私は考えている(現在は、少数の群が確認されている。これは人為的に本土から持ち込まれたものと私は疑っている)。民俗学的にも、四国に狐憑きが殆んど見かけられず、犬神憑きが台頭しているのは、その証拠であると思っている。因みに、ホンドタヌキは四国に分布しており、実際の狸や妖狸の話は、江戸時代にも普通に見られる。

『筆の軸(ぢく)程(ほど)ある竹を、三寸程に切(きり)て、先(さ)きを、そいで、其內(そのうち)へ、「封じ物」を入(いれ)たるもの也』これは先に示した二つのリンク先で言及した「管狐(くだぎつね)」である。但し、この異獣は、「きつね」「狐」と附帯するものの、諸地方の語りの様態を見ると、ルーツは狐ではないと断言出来る。古層の「くだぎつね」の話に出るそれは、決して、狐の姿をしていないからであり、これは、寧ろ、中国の「蠱毒」がルーツである、異様な、ごく小さなゴブリンみたようなものをイメージとして伝えているからである。]

2024/09/29

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 幡多郡下山郷【黑尊大明神】神威

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。] 

     幡多郡下山郷【黑尊大明神】神威

 幡多郡下山郷(しもやまがう)、奧家內村(おくやないむら)、黑孫山(くろそんやま)に社(やしろ)、有(あり)、「黑尊大明神(くろそんだいみやうじん)」といふ。

「神靈は此山の大蛇也。」

と云(いひ)傳へり。

 靈驗(れいげん)有(あり)て、所願を、よく叶(かな)へり。

 元祿年中[やぶちゃん注:一六八八年から一七〇四年まで。]の比(ころ)、此(この)黑尊、村に富栄(ふえい)の農夫あり。

 かれが下部(しもべ)、常に此社を信じ、每朝、社へ拜する事、多年、怠らざりしが、或時、此川端に出(いで)て、草、刈居(かりをり)たりしが、その辺(あたり)の木の下より、山鳥、一羽、飛出(とびいで)て、向ふなる宮林(みやばやし)の中に入(はい)るを、

「追掛(おひかけ)、取らん。」

とするに、又、飛去(とびさ)る事、十間[やぶちゃん注:]斗(ばかり)と覚へ[やぶちゃん注:ママ。]て、少し、小髙き所へ止(とま)るを、したひ、谷を下りにゆけば、一つの樓門に至る。

 彼(かの)下部、忙(いそぎ)て、門內を、さしのぞけば、身の長(たけ)五尺餘り、顏、うるはしきこと、玉(たま)の如く、唇は赤く、歯、白く、髮、紺靑(こんじやう)の糸の如くなる人、玄關より、白き布衣(ホイ)に、黑き立烏帽子(たてえぼし)、着たるが、走出(はしりいで)て、下部を、まねきに[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本(61)も同じだが、原写本の「く」の誤記であろう。]、近き[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本も同じ。「近づき」の脱字であろう。]、見入(みいり)たれば、宮殿・樓閣、谷こと(ダンゴト)[やぶちゃん注:「谷こと」へのルビで、「ダン」はママ。国立公文書館本(61)では、朱で「タニゴト」とある。]に立(たち)つらなれり。

 彼(かれ)[やぶちゃん注:布衣の男。]、

「是へ。」

と、下部を伴ひゆくに、金銀の壁、琥珀(こはく)の欄干(おばしま)、𤥭瓅のすだれ、眞珠の瓔珞、五色の玉を庭のいさ子(ご)[やぶちゃん注:「砂子」。]として、泉水をたゝへ、色々の草木(くさき)、花、咲(さき)、名もしらぬ鳥、誠に奇麗なる事、いふ斗(ばかり)なし。[やぶちゃん注:この「𤥭は「近世民間異聞怪談集成」の判読を最終的に採用した。頗る難しい漢字で、孰れも実際の使用例を私は漢詩文等でも見たことが一度もないのだが、国立公文書館本(61)の当該部を見ても、この漢字を候補として判読するのは、なかなかに肯んずる以外にはないからである。いろいろな漢字の部分や漢語二字熟語を、《高価な簾の玉》を意味する語を念頭に、いろいろ考え、崩し字のデータで部分比較もしたが、ピンとくる漢語はこの崩し字では、遂に、発見出来なかった。今までの「近世民間異聞怪談集成」のトンデモ誤判読を、多数、見て呆れていた私としては、この判読は、字形としては、(へん)・(つくり)の崩し方からは、非常にガンバった選択として評価は出来ると感じては、いる。しかし、この熟語、中文サイトでも見出せない。「近世民間異聞怪談集成」でも、あるべき編者の補助ルビも存在しない。失礼乍ら、この字に起こしておきながら、編者はこの漢字を読めていない、則ち、意味も判っておられないままに、放置プレイと決め込んだ「クソ」としか断ずるほかは、ない、のである。まず、元写本自体のトンデモ誤字であると判断せざるを得ないと私は考えるに至った。而して、一時間に亙って、いろいろな漢語・熟語を想起し、検索をし続けたところ、一つ、なんとまあ! 私の電子化注した「伽婢子卷之九 下界の仙境」にあった熟語に偶然にも行き逢った(まことに偶然であるが、次の「犬神」で「伽婢子」への言及がある)。それは、「𤥭(しやこ)の簾(すだれ)」で、これは、かの巨大な斧足類(二枚貝類)のシャコガイの殻を磨き上げて玉とした簾の意である。しかも「」の字は崩せば、「」に見違える可能性が高いのである。さらに高級簾の構成物としては、すこぶる相応しいのだ。他に、この「」(音「レキ」)」は「玓という熟語ならば、「真珠が明るく輝くさま」を意味するので、それも考えたが、「玓」の崩しではあり得ないのだ。されば、私は、ここは「𤥭(しやこ)すだれ」の原写本の誤記と断ずることと決した。やっぱり、「近世民間異聞怪談集成」のこの「神威怪異竒談」は、レベル、低いわい。

 又、奧のかたには、婦人の聲して、うたひ舞ふ音、しけり。彼(かの)人、座に、ついて、下部に謂(いひ)ていはく、

「我は是、黑尊の神也。汝、我を信ずる事、多年也。我館(わがやかた)を見せんため、是迄、汝を呼寄(よびよ)せたり。」

とて、玉の盃(さかづき)、出(いだ)されて、種々の饗應、善美を盡(つく)して、彼(かの)神、織物一巻、持出(もちいで)て、仰せけるは、

「汝を冨貴の身となすべきゆゑ、此(この)巻物を、とらするぞ。」

とて、賜りけるを、下部、押(おし)戴き、拜礼

 其時、神の仰(おほせ)には、

「汝、はやく、歸るべし。歸りてのち、此事を、必(かならず)、人に、語るべからず。」

と、宣(のたま)ひければ、

「さらば。」[やぶちゃん注:「了解」や「御意」の意。]

と暇(いとま)申(まうし)て、立出(たちいで)、

『一、二町[やぶちゃん注:百九~二百十八メートル。]も、うつゝの如く、步むぞ。』

と思ひしが、今迄、通りし道もなく、叢中(ミヤハヤシ)[やぶちゃん注:叢(くさむら)の中。但し、訓は神域の禁足地の意である。]に虛然(ウツカリ)として、立居(たちをり)たり。

 漸(やうやう)、正氣に成(なり)て、吾家(わがや)に歸るに、巻物を持(もて)るを、主人、見て、不審を成しければ、

「斯(かか)る事の、候(さふらへ)つる。」

と、初(はじめ)よりの次㐧(しだい)を、有(あり)のまゝにぞ、語りける。

 家內のものども、身の毛、よだちて、驚きあひぬ。

 其時、彼下部、忽(たちまち)、顏色(がんしよく)、變り、亂心し、をどり上(あが)りて云(いはく)、

「我は黑尊の神也。おのれ、『人に洩(もら)すな。』と堅く申(まうし)ふくめしを、早くも、人に、語りしぞ。」

と、大(おほき)に𠹤(いか)り、

『走出(あしりいづ)るよ。』

と、見へ[やぶちゃん注:ママ。]しが、かきけす如く、行方(ゆくへ)不知(しらず)とかや。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡下山郷、奧家內村、黑孫山」「黑尊大明神」現在の高知県四万十市西土佐奥内(にしとさおくないやない)にある黒尊神社(くろそんじんじゃ:グーグル・マップ・データ)。かなりの山奥である。サイド・パネルの画像も多数あるが、私は、最初にサイト「ぐるっとママ高知」の「【四万十市】大蛇伝説の残る『黒尊神社』商売繁盛祈願に他県から訪れる人も」の記事で位置を知ったので、そちらを読まれることを、お薦めする。

「山鳥」日本固有種で、タイプ種はキジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii であるが、当該ウィキによれば、『生息する地域によって羽の色が』、『若干』、『異なり』、五『亜種に分けられている』とあり、ここでは、シコクヤマドリ(四国山鳥) Syrmaticus soemmerringii intermedius であろう。大正八(一九一九年)に愛媛県で採集された標本によって別亜種として記載された種で、『兵庫県南部および中国地方(鳥取県、島根県南部、岡山県、広島県、山口県東部)と四国地方(香川県、徳島県、高知県)に分布するとされ』、『細長い尾羽を持ち、全身の羽色はやや濃色』。『腰の羽毛は羽縁が白く、肩羽や翼の羽縁がやや白い』とある。詳しい博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 山雞(やまどり)」を見られたい。

「布衣」「ほうい」とも読むが、江戸時代は圧倒的に「ほい」と読む。所謂、「狩衣」(かりぎぬ:平安以来の装束の一種。袖と前身頃(前裑)(まえみごろ:「身衣」(みごろも)の略。衣服の襟・袖・衽(おくみ:着物の左右の前身頃に縫いつけた、襟から裾までの細長い半幅(はんはば)の布。「おくび」とも呼ぶ)などを除いた、体の前と後ろを覆う部分の総称。前身頃と後ろ身頃があった)が離れ、背後で五寸(約十五センチメートル)ばかり連結した闕腋(けってき)衣の系統で、袖口には袖括(そでくくり)の紐があるのを特色とする。元来は狩猟などの野外用の衣服であったが、朝服のように制約がないので、後に一般の私服となり、色・地質・模様とも華麗なものが作られた。後には武家の正装とされた(諸辞書をハイブリッドにした)。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 白槿

 

Hakukin

 

はくきん  △按雖有槿

      名其葉花無

      似木槿之語

白槿

 

 

農政全書云白槿生山谷中樹高五七尺葉似茶葉而甚

潤大光潤又似初生青岡葉而無花叉又似山格剌葉亦

大開白花其花味苦

[やぶちゃん注:注で示すが、「農政全書」の「白槿」では、この文末の「其花味苦」は「其葉味苦」となっているので、訓読では、訂した。これは東洋文庫でも補正割注が打たれてある。

 

   *

 

はくきん  △按ずるに、「槿《きん》」の名、有ると

      雖も、其の葉・花、「木槿《むくげ》」に

      似たるの語《ことば》、無し。

白槿

 

 

「農政全書」に云はく、『白槿は山谷の中に生《しやうず》。樹の高さ、五、七尺。葉は、「茶」の葉に似て、甚だ、潤《うるほ》≪ひて≫大きく、光潤《かうじゆん》≪たり≫[やぶちゃん注:光沢がある。]。又、初生の「青岡《せいかう》」の葉に似て、花≪の≫叉《また》、無し[やぶちゃん注:花が苞で分岐することがないという意か。]。又、「山格剌《さんかくし》」の葉に似、亦、大なり。白≪き≫花を開く。其の葉、味、苦し。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:さても。この「白槿」なるのものは、如何なる樹木であるか、この――「白槿」――では、日本語及び中国語で検索してみても、植物名(古名)としては、全く掛かってこない。

 まず、引用の「農政全書」は、これ、複数回既出であるが、再掲しておくと、明代の暦数学者でダ・ヴィンチばりの碩学徐光啓が編纂した農業書。当該ウィキによれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎』十二『年』(一六三九年)『に刊行された』とある。光啓は一六〇三年にポルトガルの宣教師によって洗礼を受け、キリスト教徒(洗礼名パウルス(Paulus))となっている。

 さて、以上の引用は、同書の「卷五十四 荒政」(「荒政」は「救荒時の利用植物群」を指す)の「木部」にある。「漢籍リポジトリ」のここの、ガイド・ナンバー[054-19b] に、

   *

白槿樹 生宻縣梁家衝山谷中樹髙五七尺葉似茶

葉而甚濶大光潤又似初生青岡葉而無花叉又似山

格刺樹葉亦大開白花其葉味苦

  救飢 採葉煠熟水浸淘浄油鹽調食

   *

である。既に原文で注した通り、ここで、本文末は「其葉味苦」(其の葉、味、苦し。)とある。

 また、東洋文庫では、葉の出始めの葉が似ているとして出す「青岡」については、後注して、「農政全書」の『荒政、木部に、青岡の樹の枝葉条幹は橡櫟に類しているが、葉の色は大へん青い。木が大きくて橡斗(み)を結ぶものが橡櫟であり、木が小さくて橡斗を結ばないものが青岡である、とある。』とある。これも同巻のガイド・ナンバー[054-26b]に以下のように出る。

   *

青岡樹 舊不載所出州土今䖏䖏有之其木大而結橡斗者為橡櫟小而不結橡斗者為靑岡其青岡樹枝葉條幹皆類橡櫟但葉色頗靑而少花叉味苦性平無毒

  救飢 採嫩葉煠熟以水浸漬作成黃色换水淘洗浄油鹽調食

   *

さらにまた、成葉が似ているとする「山格剌」についても後注して、『農政全書、荒政、木部に密気県(河南省)山中にある。葉は白槿の葉に似ていて大へん短く、尖って上を向いている。また茶の樹』の『葉に似ているが』、『闊(ひろ)く大きい。』とある。全く同前で、ガイド・ナンバー[054-36b] に以下のように出る(「𧣪」は(へん)の「角」は「⻆」の字体)。

   *

山格刺樹 生宻縣韶華山山野中作科條生葉似白槿樹葉頗短而尖𧣪又似茶樹葉而濶大及似老婆布䩞葉亦大味甘

  救飢 採葉煠熟水浸作成黄色淘洗浄油鹽調食

   *

とある。にも拘わらず、東洋文庫版の訳者は、「白槿」・「青岡(樹)」・「山格刺(樹)」総てに就いて、一切の現在の植物を同定比定していないので、判らないということで、放置プレーを敢行していることになる。

 しかし、私は、

この似ているとする二種が、もし、明らかになるものであれば、ここには、「白槿」に至らないまでも、迂遠ながらも、その正体の近くまでは、辿りつける糸口が、あるのではないか?』

と考えた。

 そこで、まず、「青(靑)岡」なのであるが、これは、まず、確実に、

双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属アラカシ Quercus glauca

であることが判明した。「維基百科」の同種は「青刚栎」(繁体字に直せば、「靑剛櫟」である)。実はこれらに先んじて、決定打を捜し出していたのである。個人サイトと思しい膨大な植物を扱った「GOO」の「熱帯地域の花と樹」の中の「外国の樹木についての質問とお答え」にある、gsk2様の質問への投稿者後藤武夫氏の「青岡と烏岡」であった。そこに(学名は斜体に代えた)『青岡は、ブナ科コナラ属のアラカシ( Quercus glauca )の中国名です』。『特にこの樹種を指す英語名は、一般的なものは無いと思いますが、(Blue Japanese Oakとしている人もいますが、一般的になっているとは思えません。)』。『 Quercus glauca という学名ならば、世界中に通用すると思います』。『(又は、Arakashi とローマ字書きするかでしょう。)』。『なお、学名は Cyclobalanopsis glauca と書かれる場合もあります。』とあったからである。

 次に、「山格刺(樹)」であるが、まず、これは、明の皇族で本草学者でもあった朱橚(しゅしゅく 一三六一年~一四二五年:李時珍は一五一八年生まれで、一五九三年没であるから、「本草綱目」よりも前の著作である)の「救荒本草」を、松岡玄達が校訂した享保元(一七一六)年に刊行された「救荒本草」(和刻本)のここに掲載されていた(「国書データベース」の当該項)が、残念ながら、項目名「山格刺樹」のみで、解説はなかった。しかし、「漢籍リポジトリ」の「救荒本草」の『欽定四庫全書』版の「救荒本草卷五」の「木部」「葉可食」のガイド・ナンバー[005-37b]の箇所に(一部の表記に手を加えた)、

   *

山格刺樹  生宻縣韶華山山野中作科條生葉似白槿樹葉頗短而尖𧣪【音肖】又似茶樹葉而闊大及似老婆布䩞葉亦大味甘

 救飢採葉煠熟水浸作成黃色淘洗淨油鹽調食

   *

これを機械翻訳したものを参考に訓読してみると、

   *

山格刺樹  宻縣(みつけん)の韶華山(しやうくわざん)の山野の中に生ず。科條(かでう:幹や枝の意か)を作(な)して生ず。葉は白槿樹の葉に似て、頗(すこぶ)る短かくして、尖(とが)りて、𧣪【音、「肖」。】(するど)し。又、「茶」の樹の葉に似て、闊(ひろ)く、大なり。及び、「老婆布䩞(らうばふてふ)」[やぶちゃん注:「老女が馬に乗る際に鞍の下に敷く布の敷革」の意味のようだが、これは植物名である。「維基文庫」の清の植物学者呉其濬(ごきしゅん)が編纂し、一八四八年に刊行した一種の植物図鑑である「植物名實圖考」の「老婆布䩞」のここに当該植物の枝葉の画像がある。]に似る。葉、亦、大にして、味、甘し。

 救飢(きうき)には、葉を採り、煠(いた)め熟して、水に浸し、黃色に成るまで作(な)す。淘(よな)ぎて洗淨し[やぶちゃん注:水で洗浄して不純物を十全に取り除き。]、油・鹽にて、調(ととの)へ、食ふ。

   *

か。なお、「植物名實圖考」には、「山格刺樹」の同一文とともに、枝葉の画像もあり、上記の「老婆布」の枝葉と非常によく似ていることが判る。しかし、「山格刺」はここまでで、現行の如何なる植物であるかは判らなかった。「和漢三才圖會」の「白槿」の絵は、明白な低木と思われるが、この絵は実物を模写したものではないことは明らかで、同定のヒントにはならない。

 かくして、昨日から、ここまで、ほぼ十二時間を費やして書いたが、結果的には、「白槿」の正体は全く判らず仕舞いとなった。悪しからず。何か、有力な情報や資料を御存知の方は、是非、お教え下されたい。

「茶」ツツジ目ツバキ科ツバキ属チャノキ Camellia sinensis 。]

2024/09/28

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 扶桑

 

Bussouge

 

ぶつさうげ 佛桑 朱槿

      赤槿 目及

扶桑

      △按佛桑花來於琉

      球揷枝能活然性畏

      寒冬難育也花正紅

      色無似之者惜哉

 

本綱扶桑產南方乃木槿別種也其樹莖葉皆如桑葉光

而厚木高四五尺而枝葉婆娑其花有紅黃白三色紅者

尤貴呼曰朱槿花色五出大如蜀葵重敷𭩲澤有蕋一條

[やぶちゃん注:「𭩲」は「柔」の異体字。]

長如花葉上綴金屑日光所爍疑若熖生一叢之上日開

數百朶朝開暮落自五月始至中冬乃歇揷樹卽活

 

   *

 

ぶつさうげ 佛桑       朱槿《しゆきん》

      赤槿《せききん》 日及《につきふ》

扶桑

      △按ずるに、「佛桑花」、琉球≪より≫

      來る。枝を揷して、能《よく》活《い》

      く。然《しか》るに、性、寒を畏れ、

      冬、育ち難きなり。花、正紅、色、之

      れに似たる者、無し。惜しいかな。

 

「本綱」に曰はく、『扶桑、南方に產す。乃《すなはち》、木槿《むくげ》の別種なり。其の樹、莖・葉、皆、桑のごとし。葉、光りて、厚し。木の高さ、四、五尺にして、枝葉、婆娑《ばさ》たり[やぶちゃん注:乱れ舞うようである。]。其の花、紅《くれなゐ》・黃・白の三色、有り。紅の者、尤も貴《たふと》し。呼んで、「朱槿」と曰ふ。花色[やぶちゃん注:これは良安の引用パッチワークのミスで、「花瓣」(はなびら)を指している。]、五《いつつ》出《いで》、大いさ、「蜀葵(からあをい[やぶちゃん注:ママ。])」のごとくして、重敷《かなさりしき》、𭩲《やはらか》≪にして≫、《光》澤≪あり≫。蕋《しべ》、一條《ひとすぢ》、有り、長くして、花、葉の上に綴(つゞ)るごとく、金≪の≫屑《くづ》を日光の爍(かゞや)かすにして、疑ふらくは、熖(ほのを[やぶちゃん注:ママ。])の一叢《ひとむら》の上に生ずるがごとし。日《ひ》に、數百朶《すひやくだ》[やぶちゃん注:「朶」は枝に咲いている花房(はなぶさ)を数える際の数詞。]を開く。朝、開き、暮に落つ。五月より始めて、中冬に至りて、乃《すなは》ち、歇(や)む。樹を揷(さ)して、卽ち、活(つ)く。』≪と≫

 

[やぶちゃん注:「扶桑」「ぶつさげ」はともに、

双子葉綱アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属ブッソウゲ Hibiscus  rosa-sinensis

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記『仏桑花』、他に『扶桑花、仏桑華とも。沖縄では赤花』(あかばなー)『ともいう』。『ハイビスカスとも言うが、フヨウ属の学名・英名がHibiscusであることから、この名前は類似のフヨウ属植物を漠然と指すこともあって、複雑なアオイ科』Malvaceae『の園芸種群の総称ともなっている』。『極めて変異に富み』、八千種『以上の園芸品種が知られているが、一般的には高さ』二~五『メートルに達する熱帯性低木で、全株無毛』、時に、『有毛、葉は広卵形から』、『狭卵形』或いは、『楕円形で』、『先端は尖る』。『花は戸外では夏から秋に咲くが、温室では温度が高ければ』、『周年開花する。小さいものでは直径』五『センチメートル、大きいものでは』二十『センチメートルに及び』、ラッパ『状』、又は、『杯状に開き、花柱は突出する。花が垂れるもの、横向きのもの、上向きのものなど変化に富む。花色は白、桃、紅、黄、橙黄色など様々である。通常、不稔性で結実しないことが多い』。五『裂の萼の外側を、色のついた苞葉が取り巻いているので、萼が』二『重になっているように見える。よく目立つ大きな花は花弁が』五『枚で、筒状に合体した雄蕊の先にソラマメのような形の葯がついていて、雌蕊は』五『裂する。果実は』五『室の豆果で、多数の種子が入っている』。『中国南部原産の説やインド洋諸島で発生した雑種植物であるとの説もあるが、原産地は不明である。本土への渡来は、慶長年間』『に薩摩藩主島津家久が琉球産ブッソウゲを徳川家康に献じたのが最初の記録として残っているという』。私が最も信頼するサイト「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「ぶっそうげ(仏桑華)」では、『琉球には、古くからあるが、いつどこから入ったか不明』。『本州本』土『には、慶長』(一五九六年~一六一五年)『年間に入る。一説に、寛永』八(一六四一)年に『薩摩藩が徳川家康に献上したのが、日本における初見という』とある。『ほぼ一年中咲くマレーシアでは、マレー語でブンガ・ラヤと呼び、国花として制定している。マレーシア国内で使われているリンギット硬貨にも刻印され』、『親しまれている花のひとつである』。『また、ハワイの州花ともなっている』。『日本では南部を除き』、『戸外で越冬できないため、鉢植えとして冬は温室で育てる。鉢植えの土は砂、ピート』(peat:泥炭)『などを多く混ぜた軽いものを用い、ときに液肥をあたえる。繁殖は通常、挿木で行い、梅雨期に一年枝を砂にさし、発根後』、『土に植える。大輪種は在来種に接木を行う必要がある』。『沖縄県では庭木、生垣とする。沖縄南部では後生花』(ぐそーばな)『と呼ばれ、死人の後生の幸福を願って墓地に植栽する習慣がある』。『中国では赤花種の花を食用染料としてシソなどと同様に用い、また熱帯アジアでは靴をみがくのに利用するといわれ、shoe flowerの別名がある』とある。以下に「ブッソウゲを称する他の植物」の項があるが、必要性を感じないのでカットする。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「扶桑」([088-69b]以下)の独立項のパッチワーク。現本文で示したように、継ぎ接ぎを致命的に誤っている部分は、今までも、想像より、遙かに多い(五月蠅くなるので、殆んどは訓読で私が操作補正してきたのである)。そもそも「本草綱目」は、どこもかしこも、複数の異なる、李時珍よりも前の医師・本草家たちの時珍によるパッチワークなのであるから、それを、またまた、パッチワークしてしまえば、トンデモない矛盾が、腐るほど生じてくるのは、火を見るより明らかなのである。

「木槿《むくげ》の別種なり」前項「木槿」で見た通り、木槿は、

双子葉植物綱アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus

であるから、同属の別種で正しい。

「桑」これは、日中ともに、双子葉植物綱類バラ目クワ科クワ属 Morus では一致する。但し、中国には自生しない種も分布するので、注意が必要。先行する「桑」を参照されたい。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 浦戶稲荷社神威

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここ。]

 

     浦戶稲荷社神威

 浦戶の稲荷宮(いなりのみや)を、先年、浦戶役人、增田作右衞門と云(いふ)もの、いか成(なる)所存にや、公儀へ願(ねがひ)、中坂といふ所へ移せしに、神、忿(いか)らせ玉ひ、種々(しゆじゆ)の奇怪、多かりしかば、又、舊の社地へ勸請せし、とかや。

 增田氏、神罰、有(あり)て、不思儀の事どもあり、終(つひ)に斷絕せし、と也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「浦戶」現在の高知市浦戸(うらど:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。浦戸湾湾口の西岸の桂浜や上龍頭岬(かみりゅうずみさき)のある半島である。

「稲荷宮」現在のこの稲荷大明神

「中坂」現在、浦戸の、このトンネル(グーグル・マップ・データ航空写真でないと判らない)を「浦戸隧道」というが、これの旧道が同トンネルの北口の東を折れて登る「中坂隧道」(現在は隧道ではなく、普通の坂道。ストリートビューのこの坂)が存在していたらしいことを、個人サイトの「隧道探訪」の「中坂隧道(浦戸隧道)」 で確認したので、この辺りであろう。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 小高坂森屋舖枕反

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここ。標題は「こだかさか、もりのやしき、まくらがへし」と訓じておく。]

 

     小高坂森屋舖枕反

 「胎謀記事」に云(いはく)、

『小髙坂、森の屋敷、

「黑田氏以前、東㙒金兵衞、被居(をられ)し。」

と云(いふ)。

 其時分、座敷の内に「枕返し」をする間(ま)、有(あり)ける、と也(なり)。

 出入する座頭を、試(こころみ)に寢させ、見居(みをり)たるに、夜半程に、枕を取(とり)て、

「くるり」

と、寢返り、北枕に成(なり)けるを、其身は不覺(おぼえず)と也(なり)。

 我等、若年の時分、東㙒氏の物語を聞(きき)し。

 東㙒氏の跡へ、黑田氏、居住(すみゐ)、又、其跡へ、生駒市郞太夫、被居し、その家、悉(ことごと)く、こぼちて、今は、小家原(こいへばら)と成(なり)ぬれば、其跡も、しれがたし。』。

 

[やぶちゃん注:「胎謀記事」国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名家系譜」(寺石正路著・昭和一七(一九三二)年高知県教育会刊)のここに、書名と引用が確認出来る。土佐藩史・地誌のようである。

「小高坂」現在の高知城西直近の小高坂地区(グーグル・マップ・データ)。「ひなたGPS」の戦前の地図で「小高坂」の地名を確認出来る。

「枕返し」私の「佐渡怪談藻鹽草 枕返しの事」の同注を参照されたい。

「小家原」「民草の小さな家居が散在する野原」の意であろう。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 土佐山郷廣瀨村洞穴

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここ。]

 

     土佐山鄕廣瀨村洞穴

 土佐山郷、廣瀨村の「日比原」・「大瀧」の中間に、岩穴、有(あり)。

 穴の口、二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]斗(ばかり)、東向也。其下は大川の流(ながれ)にて、穴の深さ、廿間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]余あり。

 內(うち)は砂にて、三尺半斗の石壇、有(あり)。

 上の面(めん)には灰の樣成(やうなる)物、有。

 又、丸鏡(まるかがみ)二面、土器など、あり。

 側(かたはら)に「腰掛石」といふあり。

 何の世の事共(とも)、不知(しらず)。

 里人は「大穴(おほあな)大明神」とて、九月廿一日を祭日に定め、來(きた)れり。

 

[やぶちゃん注:「土佐山郷廣瀨村」は思うに、現在の高知市土佐山弘瀬で、その北のピークに「大滝」山がある。而して、ここに同穴を有する「大穴峡(おおあなきょう)」があり、ここと考えられる。「日比原」の地名は「ひなたGPS」の国土地理院図で、「大穴峡」の大鏡川西下流直近に確認出来る。ストリートビューの画像では、ここ。但し、以上の本文は何らかの信仰のもとに人工的に作られたように記しているが、高知市の公式資料によれば、白く聳え立つ石灰岩の絶壁に、直径五メートル、奥行き十メートルほどの大穴があることからこの名があるとし、元来は掘られた人工物ではないようである。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注 「巻三十七」「目録」・龍燈

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。以下、底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの写本の同巻(ここ)の画像を用いる。但し、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『江戸怪異綺想文芸大系 第五巻』(高田衛監修・堤邦彦/杉本好伸編)の「近世民間異聞怪談集成」(二〇〇三年刊初版)に所収する同パート(土屋順子氏校訂)を、OCRで読み込み、加工テクストとさせて戴く。ここに御礼申し上げる。「近世民間異聞怪談集成」の底本は、『国立国会図書館蔵(一部独立行政法人国立公文書館内閣文庫蔵)』とあるので、前者は私の底本と同じであるから、不審な箇所は「国立公文書館」の同巻の画像を調べる(底本は奇麗な草書体だが、国立公文書館本写本の方が、字が濃く、遙かに読み易い)。

 各話の標題は以下の「目録」にのみあって、本文にはないが、本文の前に「目録」のそれを、再掲しておいた。「近世民間異聞怪談集成」も同じ処理をしている。

 以下、「目録」。字空けは、ブラウザの不具合を考えて、それらしくはしたが、同じではない。中標題「神 威 怪 異 竒 談」とある後は、直ぐに標題が続いているが、紛らわしいので、一行空けた。]

 

 

南 路 志 巻 三 十 七

    闔 國十  二 之 二 目 録

 〇 神 威 怪 異 奇 談

 龍 燈

 土 左 山 郷 廣 瀨 村 洞 穴

 小 高 坂 森 屋 舖 枕 反

 浦 戶 稻 荷 社 神 威

 幡 多 郡 下 山 郷 【黒 尊 大 明 神】神 威

 犬 神

 神 田 村 与 七 怪 異

 幡 多 郡 井 田 村 地 藏

 長 岡 郡 池 村 キ ノ コ 銀 兵 衞

 足 摺 御 𫮍 舟 幽 霊

 井 田 村 八 岐 鹿 ⻆

 槇 山 郷 中 谷 川 村 人 面 樫

 奈 半 利 村 二 重 柿

 宿 毛 七 度 栗

 仁 井 田 郷 足 跡 石

 伊 尾 木 村 大 師 岩

 山 田 郷 平 草 峯 蛇

 安 喜 土 居 之 西 妙 見 山

 嶋 彌 九 郎

 領 家 郷 梅 木 村 夜 啼 石

 田 邉 嶋 隼 人 明 神

 佐 賀 浦 大 明 舩 漂 着

 年 季 夫 勇 吾 癩 疾

 川 太 郎 之 皿

 幡 多 郡 籠 原 川

 比 江 山 掃 部

 名 野 川 村 明 神 山

 山 內 刑 部

 本 川 郷 三 岳 山

 甲 殿 村 住 吉 大 明 神

 安 井 村 氷 室 明 神

 安 喜 郡 【中 山 郷】 中 之 川 村 藥 師

 峯 寺 觀 音

 柏 尾 山 觀 音

 冨 𫮍 高 姥 椎 木 オ サ ン 婆 々

 吉 良 左 京 進 亡 霊

[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」では、『吉良左京追亡霊』となっているが、これは、底本を見ても、「進」であるし、本文からも「進」である。いやはや、またしても、幼稚レベルの誤判読だ。やりきれなくなるわい。最終校正も、ゼンゼン、やってないのが、バレバレだぜ!]

 巴 新 三 郎 落 馬

 

 

南 路 志 巻 三 十 七

                  武 藤 致 和 集

 

    闇 國 第 十 二 之 二

 〇 神威 怪 異 竒 談

 

     龍燈

 國中に龍燈の上(のぼ)るといふは、足摺山、則(すなはち)、「龍燈松」といふ、あり【本堂の前にあり、今は、枯(かれ)たる也(なり)。】。

 又、安㐂郡野根村の「龍王(りゆうわう)が峯(みね)」、「崎の濱」の「仙崎」、「唐(たう)の濱」の「神峯(こうのみね)」也。

 長岡郡(ながをかのこほり)大谷の山中に、「燈龍の畂(うね)」[やぶちゃん注:「畂」は「畝」の異体字。]といふ所の山の腹に、大岩、有(あり)、此所(ここ)へも、上る也。昔は、白嚴寺(ハクガンじ)とて、大伽藍、有(あり)し、よし。靈地也。

 

[やぶちゃん注:「龍燈」ここで改めて注するのは面倒! 私のブログの『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 始動 「一」』・同「二」同「三」及び『「附言」・「後記」・「龍燈補遺」』、また、それらの参考のために電子化した、『尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」』を、各個、順に読まれるか、前者をPDFで一括版にした、私のサイト版『南方熊楠「龍燈に就て」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・2.9MB・51頁)』をどうぞ!

「足摺山」という山は存在しない。先行する「同郡足摺山午時雨」で注したが、再掲しておくと、以下に示すリンク先の記載から、足摺岬の陸側の根にある四国八十八ヶ所霊場第三十八番札所蹉跎山(さだざん)補陀洛院(ほだらくいん)金剛福寺の後背のピーク(百五十七メートル)と足摺岬周辺の自然物・自然現象を多く包括したものであり、名数「七」は他のケースと同じで、それ以上の数がある。本件を名前だけだが、載せているサイト「日本伝承大鑑」の「足摺七不思議」では、全部で二十一あると言われており、『それらの多くは弘法大師ゆかりの伝説が残されている』とある。怪奇談物のフリークの私は、この手の定番人寄せ型怪奇名数は嫌いである。最後の「その他の“七不思議”」に「午時雨」が入っているが、その前に「龍の遊び場」というのがあるので、そこが、ここで言っている「龍馬の芝」であろうと私は踏んだ。なお、「龍馬」は別に「りゆうま」「りようふま」でも、お好きな読みをしていただいて、私は構わない。

「安㐂郡野根村」既に何度も出た野根山街道を東に下った旧安藝郡野根村。「ひなたGPS」の戦前の地図で「野根村」の表示北西と南東で確認出来る。かなり広域な(但し、内陸部は殆んどが山間である)村域であったことが判る。現在の東洋町(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)全域と、ほぼ一致するようである。同町内に今も「野根」を冠した「野根甲」・「野根乙」・「野根丙」地区がある。

「龍王(りゆうわう)が峯(みね)」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図の野根地区を見ても、見当たらない。「龍燈」の出現地は一般に海に近いので、沿岸近くのピークではあろうと思われる。

『「崎の濱」の「仙崎」』現在の高知県室戸市佐喜浜町(さきはまちょう)の佐喜浜港附近かとは思われる。「ひなたGPS」で示す。

『「唐(たう)の濱」の「神峯(こうのみね)」』現在の安芸郡安田町唐浜(とうのはま:グーグル・マップ・データ)。ここには内陸の山岳部分に「神峯神社」があり、直近に四国霊場第二十七番札所の「竹林山地蔵院神峯寺(こうのみねじ)」もある。この神社の後背にある、この「ひなたGPS」のピーク(五百六十九・九メートル)であろう。

「長岡郡(ながをかのこほり)大谷」現行の長岡郡はここ(グーグル・マップ・データ)だが、当該ウィキの旧郡の地図を見ると、土佐湾にまで延びている。但し、その旧郡域を「ひなたGPS」で調べたが、「大谷」の地名は発見出来なかった。

「燈龍の畂(うね)」不詳。

「白嚴寺(ハクガンじ)とて、大伽藍、有(あり)し、よし」不詳。三つの要素が全く検索で見当たらない。万事休す。]

2024/09/26

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 弘岡町蛭子堂之大黒 / 「南路志」「巻三十六」~了

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。標題は「ひろをかまちえびすだうのだいこく」と訓じておく。

 なお、本篇を以って「巻三十六」は終っている。]

 

     弘岡町蛭子堂之大黒

 弘岡町(ひろをかまち)、夷堂(えびすだう)の蛭子の尊像は、行基菩薩の作也。根元(こんげん)[やぶちゃん注:「当初」の意。]、弘岡村、辻(つじ)といふ所に有(あり)。慶長六年、御町割(おんまちわり)の時、弘岡の町を引(ひか)れしかば、此夷堂をも、引移(ひきうつ)されぬ。其時迄、惠美須一體なれば、

「大黑を相殿(さうでん)にせん。」

と、衆議(しゆうぎ)しぬ。

 寬永・正保の年間、紺屋町に鞍屋常貞(くらやつねさだ)といふ者あり。當時、「細工」の名(な)ありければ、大黑天を此(この)常貞に賴みぬ。

 既に、彫刻、成就(じやうじゆ)しければ、山伏、開眼して、安置す。

 翌朝、山伏、看經(かんきん)に出(いで)て見れば、大黑を檀(だん)より下へ、落(おち)し有(あり)。

『定(さだめ)て、鼠の仕業(しわざ)ぞ。』

と思ひて、其儘、檀上へ直(なほ)しぬ。

 又、翌朝も、轉(ころ)び落(おち)て、有(あり)。

 四、五日がほど、朝々(あさあさ)、落し有(ある)故(ゆゑ)、

「若(もし)、開眼(かいげん)の不足もや、あらん。」

とて、町中(まちぢゆう)の山伏を集め、護摩(ごま)を修(しゆ)して、開眼供養して安置せしに、翌朝、看勤[やぶちゃん注:ママ。「看經」の誤記。国立公文書館本56)原写本の誤字であろう。]に出(いで)て見れば、以前の如く、又、檀より下へ落し有(ある)故、

『直事(ただごと)にあらず。』

と、おもひ、五臺山(ごだいさん)の和尙を請(しやう)じ、開眼を賴みぬ。

 和尙、供養有(あり)て、其翌朝より、落(おち)給はずして、相殿(さうでん)し玉ふ、とぞ。

 

 

 

南 路 志 巻 三 十 六 

 

[やぶちゃん注:「弘岡町」前に何度も出た、JR四国駅を南下した「潮江橋」の手前の左側(鏡川河口左岸)現在の高知市南はりまや町(ちょう)一丁目(グーグル・マップ・データ・以下同じ)・二丁目、及び、九反田(くたんだ)相当。現在のそのはりまや町一丁目の、ここに恵比須神社があるので、ここであろう。最後の恵比須神社のサイド・パネルを開いて、同神社境内にある高知市が立てた「旧 朝倉町(あさくらまち)」の解説板の写真を見て驚いた。本書「南路志」の著者である富商美濃屋武藤致和(よしかず)・平道(ひらみち)親子もこの地に住んでいたことが記されあったからである。この町、平凡社『日本歴史地名大系』に拠れば、『鏡(かがみ)川沿いに築かれた大堤防の北側に沿い、西は南北筋の八百屋(やおや)町の南詰を挟んで掛川(かけがわ)町、東は横堀。江戸時代中期の「高知風土記」によると』、『東西一四〇間、南北二〇間、家数八五。山内氏入国後の城下町づくりの折、吾川(あがわ)郡弘岡(現春野町)』(現在の高知市春野地区附近)『の住民を移して成立したため、この名がつけられた。万治二年(一六五九)町の西部に、のちの八百屋町北部にあたる地にあった魚棚を移した』。『町内にある恵比須堂は城下七恵美須の一とされ、もと吾川郡弘岡村の辻(つじ)というところにあったものを移したもので、「高知県神社明細帳」に』『二淀川洪水之節厨子共ニ海中へ流出、然(しかる)ニ浦戶之方へ漂寄(ただよひより)浦戶城下江(え)取揚(とりあげ)安置之(これをあんちす)。其後(そののち)高知御町(ごちやう)出來候(さふらひて)当町へ勧請、其節ハ「辻夷(つぢえびす)」ト唱(となへ)候』『とある』とあった。

「慶長六年」一六〇一年。「関ヶ原の戦い」の翌年。江戸幕府開府の二年前。

「寬永・正保の年間」一六二四 年から一六四八年まで。

「紺屋町」現在のこの附近。恵比須神社のある地区の北方直近。

「五臺山」現在の高知県高知市五台山にある真言宗智山派五臺山金色院(こんじきいん)竹林寺。四国八十八箇所第三十一番札所。]

2024/09/25

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 種﨑浦稲荷社怪女

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。本文の「豊常公」の前には、底本では、敬意の字空け二字分がある。]

 

     種﨑浦稲荷社怪女

 享保十乙巳年、豊常公、初(はじめ)て御入國、同年秋、御不例、八月下旬より、俄(にはか)に重(おも)らせ玉ふ。

 其頃、長沢氏は、幼年にて、御伽(おとぎ)に候(かう)して、御恩も厚かりし故、「御病御平愈」の祈(いのり)の爲(ため)に、御產神(おんうぶさながみ)なれば、浦戶(うらど)の稲荷宮(なりのみや)へ、志(こころざ)し、社參(しやさん)す。

 九月朔日(ついたち)、雨中にして、途中も不宜(よろしからず)、既に神前に於(おい)て拜し終(をはり)て、暫(しばし)、息(やすら)ふ所に、年の頃、三十四、五の婦人、薄柹(かき)の帷子(かたびら)を着(ちゃく)し、神酒陶(おみきのせともの)を、手に持(もち)て、髙足駄を履(はき)て、險(けは)しき雁木(ガンギ)[やぶちゃん注:階段。]を、輕々と登り、神酒を神前へ備(そな)へ[やぶちゃん注:漢字はママ。]、軒(のき)に引(ひき)たる注連(しめなは)を、右の手にて、ちぎり、又、雁木を下りて歸(かへり)けるに、長沢氏幷(ならびに)家人等(ら)、是を見て、

「女の、險しき雁木を髙足駄にて下(くだ)る事よ。」

と目を不放(はなさず)見ゐたるに、女の、飛(とぶ)が如く、又、あゆむが如く、下りて、華裏(トリヰ)[やぶちゃん注:鳥居。]を出(いで)ずして、形(かたち)を見失ひけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:「種﨑浦」「種﨑浦神母社威霊」で既出既注だが、同様の仕儀が有効なので、再掲すると、この「種﨑」は、浦戸湾の入り口の東北から延びた岬の先端部の高知市種崎(たねざき)である(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。但し、同地区には、「稲荷」に相当するものは、現在は見当たらない。なお、次の注も参照されたい。「ひなたGPS」の戦前の「種﨑」地区を見ると、中央の「浦戶灣」側の「」記号の位置には、現行は神社はないから、これも一つの候補となるやもしれない。或いは、現在の種崎にある種崎天満宮の位置は、戦前の位置とは半島の南東に移動しており、或いは、前の消えた神社を含め、この天満宮に、この稲荷も合祀された可能性も大いにありそうな話ではある。

「享保十乙巳年」グレゴリオ暦一七二五年。

「豊常公」土佐藩第七代藩主山内豊常。この同年九月二日に死去している。享年十五歳の若さであった。

「八月下旬」グレゴリオ暦では九月下旬に相当する。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 佐川西山洞穴之和銅之字

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。標題は「さがはにしやまどうけつわどうのじ」と訓じておく。]

 

     佐川西山洞穴之和銅之字

 佐川(さかは)の西山(にしやま)といふ所の奧に、洞穴、有(あり)。

 丹波丈左衞門・山田圓兵衞・淸源寺俊嶺和尙、同道して、右の洞穴へ行(ゆき)ける。

 奧へ行(ゆく)事、凡(およそ)、半道[やぶちゃん注:約二キロメートル。]も行(ゆき)たる樣に覺へ[やぶちゃん注:ママ。]ける所は、河原(かはら)の樣(やう)にあり、砂の有(ある)所へ行(ゆき)ぬ。

 其邊(そのへん)より、又、一段、髙き所、有(あり)て、其處(そこ)に、位牌、一つ、有(あり)。

 明松(たいまつ)を用意して行ける故、明松にて、見れば、位牌の文字、

「和銅」

と云(いふ)二字、慥(たしか)に見へ[やぶちゃん注:ママ。]ける。

「其外(そのほか)は、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。」

と也(なり)。

 俊嶺和尙のいふ、

「是は、昔、出家の入定(にふぢやう)したる所成(なる)べし。」

と也。

 

[やぶちゃん注:「佐川の西山」現在の高岡郡佐川町(さかわちょう)西山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。なお、この地区には、現在、「不動ヶ岩屋洞窟遺跡」があるが、ここは、旧石器時代から縄文時代へ移る頃の住居跡で、幅四メートル、高さ六メートルの洞口に続く、奥行八メートルの本洞と、奥行八メートルの支洞から程度ものであるから、本話のロケ地ではない。相当に深い洞穴であるが、不詳。

「和銅」が年号であるとするなら、七〇八年から七一五年まで。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 鷓鴣(しやこ) / 葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版~了

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。本篇は底本の内、特異に長い。「鷓鴣」は原文は“”鳥綱キジ目キジ亜目キジ科キジ亜科Phasianinaeの内、「シャコ」と名を持つ属種群を指す。特にフランス料理のジビエ料理でマガモと並んで知られる、イワシャコ属アカアシイワシャコ Alectoris rufa に同定しても構わないと私は思っている。「博物誌」(私のブログ・カテゴリ『「博物誌」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)【完】』参照)にも多出し、「にんじん」(同カテゴリ『「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文)【完】』参照)でも取り上げられることが多い、ルナールに親しい鳥である。

 なお、本篇を以って本書は終っている。]

 

      鷓   鴣(しやこ)

 

 鷓鴣と農夫とは、一方は鋤車《すきぐるま》のうしろに、一方は近所の苜蓿(うまごやし)のなかに、お互の邪魔にならないくらゐの距離をへだてゝ、平和に暮らしてゐる。鷓鴣は農夫の聲を識《し》つてゐる。怒鳴つたりわめいたりしても怖《こ》わがらない。

[やぶちゃん注:「苜蓿(うまごやし)」原文は“luzerne”で、これは、双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha 若しくは、ウマゴヤシ属 Medicago の種。ヨーロッパ(地中海周辺)原産の牧草。江戸時代頃、国外の荷物に挟み込む緩衝材として本邦に渡来した帰化植物である。葉の形はシロツメクサ(クローバー:マメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属 Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens )に似ている(シロツメクサの若葉ならば、食用になる。それなら、私も食べたことがある)ルナールの作品では、「にんじん」では、複数の重要な戸外での話の中で、常に登場するお馴染みのアイテムであり、小説「にんじん」の世界には、この「うまごやし」の青臭い香りが、主人公「にんじん」の捻くれた性格とマッチして、常に漂っていると言ってさえよいものである。

「鋤車」と言っても、若い読者はどんなものか想起出来ない方も多いだろう。フランスのサイト“L’YONNE RÉPUBLICAINE”(「共和党ヨォンヌ」はフランスのヨンヌ県オセールに本拠を置く地方日刊紙)公式サイトの“Un Postollier a perfectionné la charrue”(『「ポストール」の地が鋤車を完成させた』:「ポストール」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)はヨンヌ県に位置するフランスのコミューン)に古式の画像を見ることが出来る。因みに、この地は、ルナールの生家であり、「にんじん」等の舞台となったシトリー=レ=ミーヌから北北西百十キロメートルの位置にあり、若きルナールが活躍したパリとの中間点に当たる。]

 鋤車が軋《きし》つても、牛が咳《せき》をしても、または驢馬が啼いても、それがなんでもないと云ふことを知つてゐる。

 で、此の平和は、わたしが行つてそれを亂すまで續くのである。

 處が、わたしがそこへ行くと、鷓鴣は飛んでしまふ。農夫も落ちつかぬ樣子である。牛も驢馬もその通りである。わたしは發砲する。すると、この狼藉者《らうぜきもの》の放つた爆音によつて、一切の自然は調子が狂ふ。之等の鷓鴣を、わたしはまづ切株の間から追ひ立てる。つぎに苜蓿の中から追ひ立てる。それから、草原のなか、それから生籬《いけがき》に添つて追ひ立てる。ついでなほ、林の出つ張りから追ひ立てる。それからあそこ、それからこゝ……。

 それで、突然、汗をびつしよりかいて立ち止る。そして怒鳴る。

 「あゝ、畜生、可愛げのない奴だ、人をざんざん走らせやがる」[やぶちゃん注:「ざんざん」はママ。最初の濁音は誤植の可能性もなくはないないが、岸田の誇張表現の可能性を排除は出来ない。]

 

 

 遠くから、草原のまんなかの一本の樹の根に、何か見える。

 わたしは生籬に近づいて、その上からよく見て見る。

 どうも、樹の蔭に立つてゐる鳥の頸《くび》のやうに思はれる。すると、心臟の鼓動がはげしくなる。此草の中に鷓鴣がゐなくつて何がゐやう[やぶちゃん注:ママ。岸田氏の思い込み慣用。]。わたしの足音を聞きつけて、きつと、それと合圖をしたに違ひない。そそして子供たちを腹這ひに寢させて、自分もからだを低くしてゐるのだ。頭だけがまつすぐに立つてゐる。それは見張りをしてゐるのだ。が、わたしは躊躇した。なぜなら、その首が動かないのである。間違へて、木の根を擊つても馬鹿々々しい。

[やぶちゃん注:「それと」「それとなく」の意。]

 

 

 あつちこつち、樹のまはりには、黃色い斑點が、鷓鴣のやうでもあり、また土くれのやうでもあり、わたしの眼はすつかり迷つてしまふ。

 若し鷓鴣を追ひ立てたら、樹の枝が空中射擊の邪魔をするだらう。で、わたしは、地上にゐるのを擊つ、つまり眞面目な獵師の所謂「人殺し」をやつた方がいゝと思つた。

 處が、鷓鴣の首だと思つてゐるものが、いつまでたつても動かない。

 長い間、わたしは𨻶《すき》を覘《うかが》つてゐる。

 果してそれが鷓鴣であるとすれば、その動かないこと、警戒の周密なことは全く感心なほどである。そして、ほかのが、また、よく云ふことを聽いて、その通りにしてゐる。どれ一つとして動かない。

 わたしは、そこで掛引をして見るのである。わたしは、からだぐるみ、生籬の後《うしろ》にかくれて、見てゐないふりをする。と云ふのは、こつちで見てゐるうちは、向うでも見てゐるわけだからである。

 かうすると、お互に見えない。死の沈默が續く。

 やがて、わたしは顏を上げて見た。

 今度こそはたしかである。鷓鴣はわたしがゐなくなつたと思つたに違ひない。首が以前より高くなつてゐる、そして、それをまた低くする運動が、もう疑ひの餘地を與へない。

 わたしは、徐《おもむ》ろに銃尾を肩にあてる……。

 

 

 夕方、からだは疲れてゐる、腹はふくれる、すると、わたしは、獵師に應はしい深い眠りにつく前に、その日一日追ひまはした鷓鴣のことを考へる。そして、彼等がどんなにして今夜を過すだらうかと云ふことを想像して見る。

 彼らは氣狂(きちが)ひのやうになつて騷いでゐるに違ひない。

 どうしてみんな揃はないのだらう。呼んでも來ないのだらう。

 どうして、苦しんでゐるもの、傷口を嘴《くちばし》で押へてゐるもの、ぢつと立つてをられないものなどがあるのだらう。

 どうして、あんなに、みんなを怖わがらせるやうなことをしでかすんだらう。

 やつと、休み場所に落ちついたと思ふと、すぐもう誰かゞ警報を傳へる。また飛んで行かなければならない。草なり株なりを離れなければならない。

 彼らは逃げてばかり居るのである。聞き慣れた音にさへ愕《おどろ》くのである。

 彼らはもう遊んではをられない。食ふものも食つてをられない。眠つてもをられない。

 彼らは何が何んだかわからない。

[やぶちゃん注:第一段落の「どんな」は、底本では、「とんな」であるが、誤植と断じて特異的に訂した。]

 

 

 傷ついた鷓鴣の羽が落ちて來て、ひとりでに、此の自惚《うぬぼ》れの强い獵師の帽子にさゝつたとしても、わたしは、それがあんまりだとは思はない。

 雨が降り過ぎたり、旱(ひでり)が續き過ぎたりして、犬の鼻が利かなくなり、わたしの銃先《つつさき》が狂ふやうになり、鷓鴣がそばへも寄りつけなくなると、わたしは、正當防禦の權利を與へられたやうに思ふ。

 

 

 鳥の中でも、鵲(かさゝぎ)とか、かけすとか、つぐみとか、まてふとか、腕に覺えのある獵師なら相手にしない鳥がある。わたしは腕に覺えがある。

 わたしは、鷓鴣以外に好敵手を見出さない。

 彼らは實に小ざかしい。

 その小ざかしさは、遠くから逃げることである。然し、人はそれを逃がさないで、とつちめるのである。

 それは、深い苜蓿の中に隱れることである。然し、そこへまつすぐに飛んで行くのである。

 それは、飛ぶ時に、急に方向を變へることである。然し、それが爲めに間隔がつまるのである。

 それは、飛ぶかはりに走るのである。人間より早く走るのである。然し、犬がゐるのである。

 それは、人が中にはひつて[やぶちゃん注:ママ。]路を遮《さへぎ》ると、兩方から呼び合ふのである。それが獵師を呼ぶことになるのである。獵師に取つて彼等の歌を聞くほど氣持のいゝものはない。

[やぶちゃん注:このパートは、致命的なミスがあり、原文の、まるまる一行を、訳し落してしまっている。このパート部分の原文を引く。

   *

   Il y a des oiseaux, la pie, le geai, le merle, la grive, avec lesquels un chasseur qui se respecte ne se bat pas, et je me respecte.

   Je n’aime me battre qu’avec les perdrix.

   Elles sont si rusées !

   Leurs ruses, c’est de partir de loin, mais on les rattrape et on les « corrige ».

   C’est d’attendre que le chasseur ait passé, mais derrière lui elles s’envolent trop tôt et il se retourne.

   C’est de se cacher dans une luzerne profonde, mais il y va tout droit.

   C’est de faire un crochet au vol, mais ainsi elles se rapprochent.

   C’est de courir au lieu de voler, et elles courent plus vite que l’homme, mais il y a le chien.

   C’est de s’appeler quand on les divise, mais elles appellent aussi le chasseur et rien ne lui est plus agréable que leur chant.

   *

この原文の第四段落の“Leurs ruses, c’est de partir de loin, mais on les rattrape et on les « corrige ».”が訳されていないのである。自然流で訳してみると、「彼らの作戦は、直ちに遠くへと逃げるというそれなのであるが、しかし、私たち猟師は、それを感知して、追いつき、而して、自身らの『模範解答』へと導くのである。」と言った感じか。「博物誌」のものだが、辻昶(とおる)氏の訳(一九九八年岩波文庫刊)では、『また、狩人を通り過ぎさせてしまうことだ。だが、そのうしろからあまりにはやくとびだしすぎるので、狩人はふり向いてしまうのだ。』と訳されておられる。妙な躓きをしない、平易な良い訳ではあるが、ちょっと意訳に過ぎる感じはする。一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」の訳では、思い切った手法が採られてあり、前の行を含めて示すと、

   《引用開始》

 山うずらたちのなんと狡猾なこと!

――彼らの策略    

 それは、早々とその場を遁(のが)れることである。だが、彼らは捕まり、ぶたれる。

   《引用終了》

となっている。原文を巧みに組み替え、しかも躓かずに、ルナールのウィットに富んだ語りも生かされていて、よい。なお、岸田氏は、本書の改版で、訳の抜け落ちを補正しておられ、前後を入れて示すと、

   *

 彼らは実に小ざかしい。

 その小ざかしさは、遠くから逃げることである。しかし、人はそれをまた見つけ出し、今度は思い知らせるのである。

 それはまた猟師が行き過ぎるのを待っていることである。が、後(うしろ)から、ちっとばかり早く飛び出し過ぎて、後(うしろ)を振り返るのである。

   *

となっている。原文の換喩的圧縮を岸田風に、「いなした」という感じである。でも、『遠くから逃げること』というのは、正直、日本語としては躓く。なお、岸田氏の本書の改版では、他にも、細部で、かなりの改訳が成されてある。総てを示すと、煩瑣になるので、是非、比較されたい。

「鵲(かさゝぎ)とか、かけすとか、つぐみとか、まてふとか」原文の鳥名は「博物誌」と同じで、“a pie, le geai, le merle, la grive”である。但し、岸田氏の「博物誌」訳では、『鵲(かささぎ)とか、樫鳥(かけす)とか、くろ鶫(つぐみ)とか、鶫とか』に変わっている。臨川書店一九九五年刊『ジュール・ルナール全集』第五巻の「博物誌」の佃裕文氏の訳では、この一連の四種の鳥名が『かささぎ、カケス、クロウタドリ、つぐみ』となっており、岩波文庫一九九八年刊の辻昶氏訳「博物誌」では、『かささぎだとか、かけすだとか、つぐみ類だとか、つぐみだとか』となっている。鳥類の訳語は本邦に棲息しない類もあって、実に難しいが、「鵲」は、まず、スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica で問題ない。「かけす」は、タイプ種はスズメ目カラス科カケス属カケス Garrulus glandarius であるが、但し、約三十もの亜種がいるのでカケスGarrulus sp. とすべきであろう。「つぐみ」は上記の通りで、「くろ鶫(つぐみ)」と改訳しているので、それなら、スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardisとなる。しかし、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鷓鴣」』の注で、私は、疑義を示し、『「くろ鶫(つぐみ)」「くろ鶇(つぐみ)!」で既注であるが、そのまま再掲すると、“Merle”は私の辞書では、確かに『鶇』とあるのだが、スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardis名の割には、腹部が白く(丸い黒斑点はある)、「のべつ黑裝束で」というのに違和感がある。これは「クロツグミ」ではなく、♂が全身真黒で、黄色い嘴と、目の周りが黄色い同じツグミ属のクロウタドリTurdus merulaではないかと思われる。』としたのだが、恥ずかしいことに、クロツグミ Turdus cardisは日本と中国にしか分布しないのでアウトなのであった。而して、先に示した通り、佃裕文氏の訳では、ここを、『クロウタドリ』と訳しておられ、私の後ろの比定が正しかったことが判った。岸田氏の「まてふ」は改版の注で、『不詳』としたが、これは、思うに、「眞(真)鳥」で、有象無象のツグミ類のなかで、真正のツグミという意で岸田氏は訳したものと推理した。ツグミ属も数が多く、種を同定するのは難しい。敢えて候補を挙げるならば、ヤドリギツグミ Turdus viscivorus あたりか?

 

 その若い一組は、もう親鳥から離れて、別に新しい生活をし始めた。わたしは、夕方、畑のそばで、それを見つけたのである。彼等は、ぴつたり寄り添つて、翼と翼とを重なり合ふやうにして舞ひ上つた。その一方を殺した彈丸(たま)は、もう一方を引き放したと云へるのである。

 一方は何も見なかつた。何も感じなかつた。然し、もう一方は、自分の連れ合ひが死んでゐるのを見、そのそばで自分も死ぬやうな氣がした。それだけのひまがあつた。

 この二羽の鷓鴣は、地上の同じ場所に、少しの愛と、少しの血と、それから、いくらかの羽根とを殘したのである。[やぶちゃん注:この段落の「鷓鴣」は、「●」とも言えない奇妙な違った二つの異様な紋を透かせている黒丸様になっている。これは、思うに、植字工が滅多に使わない「鷓鴣」の両活字を、この場面で、手持ち分を使い切ってしまい、追加注文している間、仮に判るように入れておいた記号であって、それが来てから、うっかりして、ここに再植字するのを忘れたもの、と私は推理する。この後には、二回、「鷓鴣」が印字されているからである。]

 獵師よ、お前は一發で、見事に二羽を擊ち止めた。早く歸つてうちのものにその話をしろ。

 あの年を取つた去年の鳥、孵(か)へしたばかりの雛を殺された親鳥、彼等も若いのに劣らず愛し合つてゐた。わたしは、彼等がいつも一緖にゐるのを見た。彼等は逃げることが上手であつた。わたしは、强いてその後を追ひかけようとはしなかつた。その一方を殺したのも全く偶然であつた。それで、それから、わたしは、もう一方を探した。可哀さうだから殺してやらうと思つて探した。

 或るものは、折れた片脚をぶらさげて、丁度わたしが、絲で括《くく》つてつかまへてでも居るやうな形をしてゐた。

 或るものは、最初ほかのものゝ後について行くが、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]翼が利かなくなる。地上に落ちる。ちよこちよこ走《ばし》りをする。犬に追はれながら、身輕に、半ば畝《うね》を離れて、走れるだけ走るのである。

 或るものは、頭の中に鉛の彈丸(たま)を打ち込まれる。ほかのものから離れる。狂ほしく、空の方に舞ひ上る。樹よりも高く、鐘樓の雄鷄《をんどり》よりも高く、太陽を目がけて舞ひ上るのである。すると獵師は、氣が氣ではない。しまひにそれを見失つてしまふ。そのうちに、鳥は重い頭の目方を支える[やぶちゃん注:ママ。]ことができなくなる。翼を閉ぢる。遙か向うへ、嘴を地に向けて、矢のやうに落ちて來る。

 或るものは、犬を仕込むために、その口へ投げつける切れ屑のやうに、ぎゆつとも言はず落ちる。

 或るものは、彈丸が中《あた》ると、小舟のやうにぐらつく。そして、ひつくり返る。

 また、或るものは、どうして死んだのかわからないほど、傷が羽の中に、深くひそんでゐる。

 或るものは、急いでカクシ[やぶちゃん注:ポケット。]の中に押し込む。自分が見られるのがこわい[やぶちゃん注:ママ。]やうに、自分を見るのが怖いやうに。

 或るものはなかなか死なゝい。さう云ふのは絞め殺す必要がある。わたしの指の間で、空《くう》をつかむ。嘴を開く、細い舌がぴりぴりつと動く。すると、その眼の中に、ホオマアのいわゆる、死の影が下りて來る。

[やぶちゃん注:「ホオマア」紀元前八世紀末の古代ギリシャのアオイドス(吟遊詩人)であったホメーロス(ラテン文字転写:Homerus:フランス語:Homère)。臨川書店版『全集』第五巻の「博物誌」の佃裕文氏の訳では『「死の闇が降り」る』とあり、後注に、『ホメロスの『イリアッド』『オデッセイ』によく出て来る表現。』とあった。]

 

 

 向うで、百姓が、わたしの鐵砲の音を聞きつけて、頭を上げる。そして、わたしの方を見る。

 それは審判者である……此の働いてゐる男は……。彼はわたしに話しかけるかもわからない。嚴かな聲で、わたしを恥じぢ入らせるに違ひない。

 處がさうでない、それは時としては、わたしのやうに獵ができないので剛を煮やして[やぶちゃん注:ママ。「業(がふ)」が正しい。]ゐる百姓である。時としては、わたしのやることを面白がつて見てゐる、そして、鷓鴣がどつちへ行つたかをわたしに告げるお人好しの百姓である。

 決して、それが義憤に燃えた自然の代辯者であつたためしがないのである。

 

 

 わたしは、今朝、五時間も步きまはつた揚句、空のサツク[やぶちゃん注:原文“carnassière”。猟師の獲物を入れる袋。]を提げ、頭をうなだれ、重い鐵砲をかついで歸つて來た。嵐の暑さである。[やぶちゃん注:いい訳ではない。原文は“Il fait une chaleur d’orage”で、逐語的にはそうなるが、「今にも雷雨の来そうなムシムシした暑さで」の意。]わたしの犬は、疲れきつて、小走りにわたしの前を行く。生籬に添つて行く。そして、何度となく、木蔭にすわつて、わたしの追ひつくのを待つてゐる。

 すると、丁度、わたしが生き生きした苜蓿の中を通つてゐると、突然、彼は飛びついた。と云ふよりは、止《とま》ると同時に腹這ひになつた。ぴつたり止つた。そして、植物のやうに動かない。たゞ、尻尾の端の先の毛だけがふるへてゐる。わたしは、てつきり、彼の鼻先に、鷓鴣が何羽かゐるなと思つた。そこにゐるのだ。互にからだをすりつけて、風と陽《ひ》とを除けてゐるのだ。犬を見る。わたしを見る。わたしを多分見識つてゐるかも知れない。こわくつて、飛べない。

 麻痺の狀態からわれに返つて、わたしは準備をした。そして、機を待つた。

 犬もわたしも、決して向う[やぶちゃん注:ママ。]よりも先に動かない。

 と、遽《にはか》に、前後して、鷓鴣は飛び出した。どこまでも寄り添つて、一かたまりになつてゐる。わたしは、そのかたまりの中に、拳骨でなぐるやうに、彈丸を打ち込んだ。そのうちの一羽が、やられて、宙に舞ふ。犬が飛びつく。血だらけの襤褸《ぼろ》みたいなもの、半分になつた鷓鴣を持つて來る。拳骨が、殘りの半分をふつ飛ばしてしまつたのである。

 さあ、行かう。これで空手(からて)で歸ることにはならない。犬が雀躍(こおどり[やぶちゃん注:ママ。])する。わたしも、得々としてからだをゆすぶつた。

 

 

 あゝ、この尻つぺたにへ、一發、彈丸(たま)を打ち込んでやつてもいゝ。―――完―――

 

[やぶちやん注: 臨川書店一九九五年刊「ジュール・ルナール全集」第五巻の「博物誌」(佃氏訳注)の本篇に相当する「山うずら」の注によれば、本篇の初出は一八九九年一月二日發行の新聞『エコー・ド・パリ』であつたが、これに先立つ一八九七年頃から、ルナールは、その日記に狩猟に関わる嫌悪感を記し始めており、一九〇五年十月を最後に、日記での狩獵の記錄は見当たらないとし、一九〇九年八月三十日の書簡で『わたしはもう狩猟はやらない』と記しているとする。こうして銃を捨てた「イマージュの狩人」は、真の「狩りの達人」となったのであった。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 木槿

 

Mukuge

 

[やぶちゃん注:この挿絵、他には、まず見られない、花(但し、まだ開花していない)に向かって近づく蝶と思しいものが描かれている。]

 

むくげ  朝開暮落花

     花奴玉蒸

木槿   椴 藩籬草

     櫬 蕣 日及

モツキン 【俗云無久計木槿字音訛】

[やぶちゃん注:「槿」は一貫して「グリフウィキ」のこの異体字であるが、表示出来ないので、総て正規正字の「槿」で示した。以降の項目でも同じ箇所は、総て「槿」で通す。この注記は再掲しない。

 

本綱木槿人家多種植爲籬障小木可種可揷其木如李

其葉末尖而無鋸齒其花如小葵小而豔或白或粉紅有

單葉千葉者五月始開此花朝開暮斂結實輕虛大如指

頭秋㴱自裂其中子如榆莢泡桐馬兠鈴之仁種之昜生

[やぶちゃん字注:「㴱」は「深」の異体字。]

嫩葉可茹作飮代茶

木皮根【甘滑】治腸風瀉血痢後熱渴赤白帶下及瘡癬

 脫肛【用皮或葉煎熏洗後以白礬五倍子末傅】花亦同功滑而能潤燥

△按木槿花有數品單瓣而大者名舜英以賞之總木槿

 花朝開日中亦不萎及暮凋落翌日不再開寔此槿花

 一日之榮也然其花僅一瞬故名蕣之說者非也詩云

 有女同車顏如蕣華者稱其艷美耳又搞葉水少和挼

[やぶちゃん注:「搞」は「敲」の異体字で「叩(たた)く」の意であり、これは。「本草綱目」を確認したところ、「摘」の誤字であるので、訓読では訂した。「挼」は「揉」に相当する中国の文語文漢語。]

 之甚黏用傅牝痔痛者良

盛短旋花金錢花壺盧白粉草牽牛花黃蜀葵茉莉木芙

 蓉扶桑娑羅樹棗花皆然而銀杏花一開卽落比此等

 花則木槿可謂耐久者矣自古相誤稱朝顔矣眞朝顏

 牽牛花相當矣

  万葉朝かほは朝露負てさくといへと夕影にこそ咲き增さりけれ

 舜英 白槿單葉其花大似木芙蓉枝葉無異或白槿

 花摘去葉假用海石榴枝葉儼如眞海石榴花美又能

 止瀉痢用花陰乾煎服或以淡未醬汁煑啜

 

   *

 

むくげ  朝開暮落花《てうかいぼらくくわ》

     花奴玉蒸《くわどぎよくじやう》

木槿   椴《だん》 藩籬草《はんりさう》

     櫬《しん》 蕣《しゆん》 日及《につきふ》

モツキン 【俗、云ふ、「無久計《むくげ》」。

      「木槿」の字音の訛《なまり》。】

 

「本綱」に曰はく、『木槿、人家、多く、種植《たねうゑし》て、籬-障(まがき)と爲《な》す。小木なり。種《うう》べく、揷《さしきす》べく《✕→べし。》其の木、李《すもも》のごとし。其の葉末《はのすゑ》、尖りて、椏《また》≪の≫齒《ぎざ》、無し。其の花、小≪さき≫「葵《あふひ》」のごとく、小にして、豔《あでやか》≪なり≫。或いは、白く、或いは、粉紅《うすべに》≪にして≫、單葉《ひとへ》、千葉《やへ》の者、有り。五月、始めて、開く。此の花、朝に開きて、暮《くれ》に斂《ちぢ》まる。實を結ぶこと、輕虛《けいきよ》にして、大いさ、指の頭《かしら》のごとく、秋、㴱くして、自《おのづか》ら裂け、其の中≪の≫子《み》、「榆《にれ》」≪の≫莢《さや》、「泡-桐《きり》」・「馬兠鈴《ばとれい》」の仁《にん》のごとし。之れを種《ま》いて、生(は)へ[やぶちゃん注:ママ。]昜《やす》し。嫩葉《わかば》、茹《ゆでく》ふべし。飮《のみもの》と作《な》し、茶に代《か》ふ。』≪と≫。

『木皮根【甘、滑。】腸風《ちやうふう》・瀉血《しやけつ》・痢《げり》の後《のち》≪の≫熱≪や≫渴《かはき》・赤白《ながち》・帶下《こしけ》、及び瘡癬《さうせん》を治す。』≪と≫。『脫肛≪には≫、【皮、或いは、葉を用ひ、煎じて、熏洗《くんせん》≪して≫後《のち》、「白礬《はくばん》」・「五倍子《ごばいし》」の末《まつ》を以つて、傅《つ》く。】。花≪も≫亦、功、同じ。滑《なめらか》にして、能く、燥《かはける》≪を≫潤《うるほす》。』≪と≫。

△按ずるに、木槿≪の≫花、數品《すひん》、有り。單瓣《ひとへ》にして、大なる者、「舜英《しゆんえい》」と名づく。以つて、之れを賞す。總て、木槿≪の≫花は、朝、開きて、日中も亦、萎(しぼ)まず、暮に及びて、凋(しぼ)み、落ち、翌日、再たび、開かず。寔《まこと》に、此の槿花《むくげのはな》、「一日《いちじつ》の榮《さかへ》」なり。然《しか》るに、其の花、僅《わづか》に一瞬なる故、「蕣《しゆん》」と名づくの說は、非なり。「詩」に云はく、『女《ぢよ》 有り 車《くるま》を同《おなじ》ふし 顏《かんばせ》 蕣華《しゆんくわ》のごとし』と云《いふ》は[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、其の艷美《えんび》を稱するのみ。又、葉を摘《つみ》、水《みづ》、少し、和《わ》して、之れを挼(もめ)ば、甚だ、黏(ねば)る。用ひて、牝痔《ひんじ》≪の≫痛《いたむ》者に傅(つけ)て、良し。

盛《さか》り、短《みじか》きは、[やぶちゃん注:原本ではここに「◦」が左下に打たれてあるが、読点に代えた。また、以下の「◦」は原本では右下に打たれているのを、かく、した。]「旋花(ひるがほ)」◦「金錢花(ごじくは[やぶちゃん注:ママ。])」◦「壺盧(ゆうがほ[やぶちゃん注:ママ。])」◦「白粉草(おしろいぐさ)」◦「牽牛花(あさがほ)」◦「黃蜀葵(きとろゝ)」◦「茉莉(まり)」◦「木芙蓉(もくふよう)」◦「扶桑(ふさう)」◦「娑羅樹(しやらじゆ)」◦「棗(なつめ)の花」、皆、然《しか》り。而《しかして》、「銀杏花(いちゑうくは[やぶちゃん注:総てママ。])」は、一《ひと》たび、開きて、卽ち、落つ。此等《これら》の花に比すれば、則ち、木槿は、久《ひさしき》に耐《たふ》る者と謂ふべし。古《いにし》へより、相《あひ》誤《あやまり》て、「朝顔《あさがほ》」と稱す。眞《まこと》の「朝顏」は、「牽牛花《けんぎうくわ》」、相《あひ》當(あた)れり。

  「万葉」

    朝がほは

       朝露《あさつゆ》負(おふ)て

     さくといへど

      夕影(ゆふかげ)にこそ

           咲き增(まさ)さりけれ

 舜英 白槿(しろむくげ)の單葉(ひとゑ[やぶちゃん注:ママ。])。其の花、大にして、「木芙蓉《もくふよう》」に似たり。枝葉、異《こと》なること、無し。或いは、白槿の 花を≪して≫、葉を摘去(むしり《さり》)、「海石榴(つばき)」の枝葉を≪以つて、≫假《かりに》用ふれば、儼《おごそか》に眞《まこと》≪の≫「海石榴≪の≫花」のごとく、美なり。又、能《よく》、瀉痢を止む。花を用ひて、陰乾《かげぼし》にして、煎≪じて≫、服す。或いは、淡《うすき》未醬汁(みそ《しる》)を以つて、煑て、啜《すす》る。

 

[やぶちゃん注:「木槿」「槿」は日中ともに、

双子葉植物綱アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus

である。

「維基百科」も「木槿」である。諸辞書の記載にブレがあるが、中国・インド原産とするが、本邦には古くに伝来し、生垣とされたとある。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名ハチスは本種の古名である。庭木として広く植栽されるほか、夏の茶花としても欠かせない花である。中国名は、木槿(朝開暮落花)』。『和名は、「むくげ」。「槿」一字でも「むくげ」と読むが、中国語の木槿(ムーチン)と書いて「むくげ」と読むことが多い。また、『類聚名義抄』には「木波知須(きはちす)」と記載されており、木波知須や、単に波知須(はちす)とも呼ばれる』「万葉集」では、『秋の七草のひとつとして登場する朝貌(あさがお)がムクゲのことを指しているという説もあるが、定かではない。白の一重花に中心が赤い底紅種は、千宗旦が好んだことから、「宗丹木槿(そうたんむくげ)」とも呼ばれる』。『中国語では「木槿」(ムーチン、もくきん)、韓国語では「무궁화」(無窮花; ムグンファ)、木槿;モックンという。英語の慣用名称の rose of Sharon は』、『ヘブライ語で書かれた』「旧約聖書」の「雅歌」にある『「シャロンのばら」に相当する英語から取られている』。『中国が原産で、観賞用に栽培されている。主に庭木や街路樹、公園などに広く植えられている。中近東でも、カイロ、ダマスカス、テルアビブなどの主要都市で庭木や公園の樹木として植えられているのを良く見かける。日本へは古く渡来し、平安時代初期にはすで植えられていたと考えられる。暖地では野生化している』。『大型の落葉広葉樹の低木。樹高』三~四『メートル』『くらいになる。樹皮は灰白色から茶褐色で、成木になると』、『縦に浅く裂ける。枝は繊維が強靱でしなやかさがあり、手で折り取るのは困難である』。『葉は互生し、卵形から卵状菱形、浅く』三『裂し、葉縁に粗い鋸歯がある』(☜後で注で問題にする特徴なので注意されたい)。『花期は夏から秋(』七~十『月)。枝先の葉の付け根に、白、ピンク色など様々な花色の美しい花をつける。ハイビスカスの類なので』(本種のフヨウ連 Hibisceae・フヨウ属 Hibiscus・節 Hibiscus で判る)、『花形が似ている。花の大きさは径』五~十『センチメートル』。五『花弁がやや重なって並び、雄しべは多数つき、雌しべの花柱は長く突き出る。花芽はその年の春から秋にかけて伸長した枝に次々と形成される。花は一日花で、朝に開花して夕方にはしぼんでしまう。ふつうは一重咲きであるが、八重咲きの品種もある』。『果実は蒴果で卵形をしており、長さは約』二センチメートル『で星状の毛が密生し、熟すと』五『裂して種子を覗かせる。種子は偏平な腎臓形で、フヨウ』(フヨウ属フヨウ Hibiscus mutabilis 。中文の正式名は「木芙蓉」であるが、本邦と同じく一般通称は「芙蓉」である。「維基百科」の「木芙蓉」を参照されたい)『の種子よりも大きく、背面の縁に沿って長い毛が密生している。冬でも枝先に果実が残り、綿毛の生えた種子が見える』。『冬芽は裸芽で、星状毛が密生する。頂芽は葉痕などが重なって、こぶ状になった上につく。葉痕は半円形で、左右に突き出た托葉痕があり、托葉が残ることもある。葉痕につく維管束痕』三~六『個だが、わかりにくい』(以下、「園芸品種」が列挙されているが、カットする)。『ムクゲはフヨウと近縁であり接木が可能。繁殖は春で、芽が萌える前に挿し木を行う。根が横に広がらないため、比較的狭い場所に植えることができる。刈り込みにもよく耐え、新しい枝が次々と分岐する。性質は丈夫なため、庭の生け垣や公園樹に利用される。日本では花材としても使い、夏の御茶事の生け花として飾られたりする』。『大韓民国では、法的な位置づけがあるわけではないが』、『国花とされている。国章や、最高位の勲章である無窮花大勲章であり、韓国軍領官(佐官)の階級章、警察のすべての階級の階級章には、ムクゲの意匠が含まれる。このほか、韓国鉄道公社は列車種別の一つとして「ムグンファ号」を設定している。また、ホテルの格付けなどの星の代わりにも使用されている。古くは崔致遠』(八五八年~?:新羅末の文人)の「謝不許北國居上表」に『世紀末の新羅が自らを「槿花郷」(=むくげの国)と呼んでいたことが見える。韓国の国歌「愛国歌」でも「ムクゲ 三千里 華麗なる山河」と歌われている』。『日本では、北斗市、清里町、壮瞥町の花・木にも指定されている』。『樹皮を乾燥したものは木槿皮(もくきんぴ)という生薬である』。六~七『月ごろに樹皮を採って、天日乾燥して調製される。抗菌作用があり、水虫に薬効があるとされ、民間療法では、木槿皮』を一ヶ『月以上漬け込んでから』、『患部に塗る用法が知られている』。『蕾を乾燥したものは木槿花(もくきんか)という生薬である。夏の開花直前に蕾を採取して、天日乾燥して調製される。胃炎、下痢止め、口の渇きの癒やし、健胃に用い』る。以下、「文化の中のムクゲ」の冒頭では、室町期の立花(りっか)の様相を伝える華道書「仙伝抄》である室町末期頃の成立かとされる作者不詳の写本「仙傳抄」から始めて、『「禁花(基本的には用いるべきではない花)」とされ』てきたムクゲが、江戸中期には『禁花としての扱いはなくなっている』という経緯を語り(興味がないので、簡約に整理した)、それ『以降は一般的な花材となり、様々な生け花、一輪挿し、さらには、枝のまたの部分をコミ』(木密:古流の生花で器に花を留める方法(花留)として、槿の枝二本を割って短く切り、剣山に対してV字型になるように置く方法)『に使用して、生け花の形状を整えるのに使われてきた。茶道においては茶人千宗旦がムクゲを好んだこともあり、花のはかなさが一期一会の茶道の精神にも合致するとされ、現代ではもっとも代表的な夏の茶花となっている。花持ちが悪いため』、『花展には向かず、あまり一般的な花材ではないが、毎日生け替えて使うことで風情が出る。掛け花や一輪挿しなどによく使われる』。「白氏文集」の『巻十五、放言の「松樹千年終是朽 槿花一日自成栄」(松の木は千年の齢を保つがいずれは朽ち、ムクゲの花は一日の命だがその生を大いに全うする)の文句でもよく知られる。この語句が「わずか一日のはかない栄え」の意に取られて、「槿花一日の栄」「槿花一晨の栄え」「槿花一朝の夢」といったことわざをも生んだ』。『俳句では』、『秋の季語である。俳諧師の松尾芭蕉は』貞享元(一六八四)年八月、「野ざらし紀行」(「甲子吟行」)の『旅で、「道のべの木槿(もくげ)は馬にくはれけり」という句を』大井川を超えて後に『詠んで』いる。『小林一茶も、「それがしも其(そ)の日暮らしぞ花木槿」という句を』残している(梅塵本「八番日記」文政期の作)。『江戸時代後期の歌人、香川景樹は』「桂園一枝」『にて』、「生垣の小杉が中の槿の花これのみを昔はいひし朝がほの花」と『詠んでおり、「槿」は「あさがほ」と読ませ』ている。『明治から大正にかけて、アララギを代表した斎藤茂吉は第二歌集』「あらたま」で、「雨はれて心すがしくなりにけり窓より見ゆる白木槿(しろむくげ)のはな」という歌を詠ん』でいる、とある。なお、ちょうど、今、私の亡き母が、家に上る階段の横に植えた数本の木槿が、白と、内側が紅色の花を、美しく咲かしている。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「木槿」([088-68a]以下)の独立項のパッチワーク。原文を、かなり強烈にバラバラにして、強引に組み直している。

「花奴玉蒸《くわどぎよくじやう》」これは中文の「百度百科」のこちらで、槿を用いた、漢方処方及び薬膳の名であることが判る。

「椴《だん》」この漢字は漢語としては、二種の樹を意味する。一つは、「白楊」(キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属マルバヤナギ Salix chaenomeloides :先行する「白楊」を参照されたい)に似た木で、今一つに本種ムクゲの意がある。孰れも「爾雅」を引用しているので、古くから二種を指す語として存在したことが判る。なお、この漢字、本邦の国字では、マツ科モミ属トドマツ Abies sachalinensis を指すので、注意が必要。

「藩籬草《はんりさう》」複数回、既出既注だが、再掲しておくと、小学館「日本国語大辞典」では『はんり』として、『藩籬・籬・樊籬』と示し、特にそのまま、総て『まがきの意』とする同辞典で、「藩」は『かきね、かこいの意』とする。

「櫬《しん》」「廣漢和辭典」によれば、第一義は、遺体の入っていない「柩・棺(ひつぎ)」。第二義は、アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex を指す(先行する「梧桐」を見よ)。第三義で本種ムクゲを指す(他に「薪(たきぎ)」「水を汲む器」の意もある)。

「蕣《しゆん》」本邦では、専ら、「あさがほ」と訓じて、ナス目ヒルガオ科サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil を指すが、漢語では、本種ムクゲしか指さないので、大いに注意が必要である。

「日及《につきふ》」「本草綱目」出典。言い得て妙。

「李《すもも》」日中では、中国原産で古くに日本に渡来したバラ目バラ科スモモ亜科スモモ属スモモPrunus salicina である。「維基百科」の「中国李」に「変種」の冒頭に「李(変原種)」として、Prunus salicina var. salicina が記されているが、これは、スモモPrunus salicina のシノニムである。

「其の葉末《はのすゑ》、尖りて、椏《また》≪の≫齒《ぎざ》、無し」この記事、確かに、「集解」の中の時珍の解説の中にあるのだが、不審である。ウィキの「ムクゲ」の画像を見ると、葉には粗い鋸歯がはっきり視認でき、先の引用でも「☜」で示した通り、『葉縁に粗い鋸歯がある』とあるからである。これは、時珍の書き間違いかと思われる。

『小≪さき≫「葵《あふひ》」』これは、明代のそれであり、本邦でも「葵」は、全く異なった種を複数指すように、特定の種や種群に限定することは難しい。「廣漢和辭典」を見ると、第一義は『野菜の名』とし、『せつぶんそう(節分草)を菟葵(トキ)、せり(芹)を楚葵(ソキ)、じゅんさい(蓴菜)を鳧葵(フキ)という』とある。しかし、この冒頭の「節分草」は、本邦では、キンポウゲ目キンポウゲ科セツブンソウ属セツブンソウ Eranthis pinnatifida を指すのであるが、これは日本固有種であり、この記載は、まず信じられないのであったが(但し、セツブンソウ属Eranthis は中国にも分布する)、実は、その途方に暮れた一瞬、納得された、ある事実を見出したのであった。それは、ウィキの「セツブンソウ」を見たところが、『節分草』の『漢』字『名には菟葵・が当てられるが、中国語ではどちらもフユアオイを指す』とあったことである。そして、まさに同辞典の第二義に『たちあおい』を挙げてあるのであった(他に続いて、『ひまわり』『の花』であるとか、『地葵は、ははきぎ』とか、またまた、グジャグジャとあるのだが、そこは紹介するに留める)。されば、この「本草綱目」の「葵」とは、アオイ目アオイ科ゼニアオイ属フユアオイ Malva verticillata と採ってよいだろうと私は踏んだ。さらに、ウィキの「フユアオイ」を見たところが、瓢箪から駒で、『アオイ(葵)という名は、少なくとも』(☞)『近世以降はタチアオイ』(アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科タチアオイ属タチアオイAlthaea rosea 『を意味するが、元は』、この『フユアオイを指し、「仰(あおぐ)日(ひ)」の意味で、葉に向日性があるためという』。但し、「万葉集」の『時代にはすでにタチアオイの意味だったとの説もある』とあった。このヤヤコシヤヤ状態の中ではあるが、また、立ち位置を変えて考えてみることで、別に、私は、『良安は、ここの「葵」を、まず、間違いなく、タチアオイと認識しているはずだッツ!』と横手を打ったのである。何でそんなに興奮しするのか判らんってカ? それはね……私が、ムクゲの花を見るときは何時も、『ムクゲの花って、タチアオイの花に似てるなぁ……』って思うからなんだ……そう……遠い昔……結婚しようと思った女性と……飽きず眺めたタチアオイの花を思い出すからなんだよ…………

「單葉《ひとへ》、千葉《やへ》の者」この読みは東洋文庫訳のルビを参考にした。

「榆《にれ》」(=「楡」)は日中ともに、双子葉類植物綱バラ目(或いはイラクサ目)ニレ科ニレ属 Ulmus で問題ない。先行する「榆」を見よ。

「泡-桐《きり》」シソ目キリ科キリ属 Paulownia の漢名。或いは、本邦のキリ Paulownia tomentosa をも指す。

「馬兠鈴《ばとれい》」「兠」は「兜」の異体字。コショウ目ウマノスズクサ(馬鈴草)科ウマノスズクサ亜科ウマノスズクサ属ウマノスズクサ亜属ウマノスズクサ Aristolochia debilis )の異名。過去、漢方薬種の一つとしたが、ウィキの「ウマノスズクサ」によれば、『含有成分であるアリストロキア酸が腎障害を引き起こすため、薬用とはされなくなった』とあった。

「腸風《ちやうふう》」東洋文庫訳の割注に『(出血性大腸炎)』とある。

「瀉血《しやけつ》」東洋文庫訳の割注に『(下血)』とある。

「赤白《ながち》」読みは東洋文庫訳のルビを採用したが、本来は「赤」と「白」は別な症状を指す。「赤」は「赤帯下(しゃくたいげ)」で、子宮から血の混じった「おりもの」(帯下(こしけ/たいげ)。膣から出た粘性の液体で、色は透明か乳白色、或いはやや黄色みを帯びている)が長期間に亙って出る症状を指し、「白」は「白崩(はくはう)」で、「こしけ」の血を含んだ異常出血を指す。

「帶下《こしけ》」前注参照。ここは正常なそれではない状態の様態を広く指す。

「瘡癬《さうせん》」東洋文庫訳の割注に『(皮膚のできもの)』とある。

「脫肛」痔疾 の一種で、肛門の粘膜や、直腸下端の粘膜が肛門外に出てしまう病態を指す。

「白礬《はくばん》」天然明礬(カリ明礬石製)を温水に溶かして冷やしたもの。

「五倍子《ごばいし》」ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis の葉に、ヌルデシロアブラムシ(半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科ゴバイシアブラ属ヌルデシロアブラムシ Schlechtendalia chinensi)が寄生すると、大きな虫癭(ちゅうえい)を作る。虫癭には黒紫色のアブラムシが多数詰まっており、この虫癭はタンニンが豊富に含まれていうことから、古来、皮鞣(かわなめ)しに用いられたり、黒色染料の原料になる。染め物では空五倍子色(うつぶしいろ:灰色がかった淡い茶色。サイト「伝統色のいろは」こちらで色を確認出来る)と呼ばれる伝統的な色を作り出す。インキや白髪染の原料になるほか、嘗つては、既婚女性及び十八歳以上の未婚女性の習慣であった「お歯黒」にも用いられた。また、生薬として「五倍子(ごばいし)」あるいは「付子(ふし)」と呼ばれ、腫れ物や歯痛などに用いられた。主に参照したウィキの「ヌルデ」によれば、『但し、猛毒のあるトリカブトの根「附子」も「付子」』『と書かれることがあるので、混同しないよう注意を要する』。さらに、『ヌルデの果実は塩麩子(えんぶし)といい、下痢や咳の薬として用いられた』とある。

『「詩」に云はく、『女《ぢよ》 有り 車《くるま》を同《おなじ》ふし 顏《かんばせ》 蕣華《しゆんくわ》のごとし』』「詩經」の「國風」の「鄭風」(ていふう)にある、「有女同車(いうぢよどうしや)」。

   *

 有女同車

有女同車

顏如舜華

將翺將翔

佩玉瓊琚

彼美孟姜

洵美且都

 

有女同行

顏如舜英

將翺將翔

佩玉將將

彼美孟姜

德音不忘

 

  有女同車

 女(ぢよ) 有(あ)り 車(くるま)を同(とも)にす

 顏(かほ)は舜華(しゆうくわ)のごとし

 將(は)た 翺(こう)し 將た 翔(しやう)するに

 佩玉(はいぎよく)は瓊琚(けいきよ)

 彼(か)の美(び)なる孟姜(まうきやう)

 洵(まこと)に美にして 且つ 都(みやびや)かなり

 女 有り 行(かう)を同にす

 顏は舜英(しゆんえい)のごとし

 將た 翺し 將た 翔すれば

 佩玉(はいぎよく)は將將(しやうしやう)たり

 彼の美なる孟姜

 德音(とくおん) 忘(ほろ)びず

   *

既に述べた通り、「舜華」は木槿の花。以下の語注は、恩師である乾一夫先生の編になる明治書院『中国の名詩鑑賞』「1 詩経」(昭和五〇(一九七五)年刊)を参考にした。「將翺將翔」原義は「鳥が空を飛ぶこと」で、ここは「巡り行く」ことの形容である「翺翔(かうしやう)」(こうしょう)を四字句と成して、リズムをつけたもの。「佩玉」腰に下げる装飾の玉(ぎょく)。帯玉(おびだま)。「瓊琚」「瓊」は「赤い玉(ぎょく)」を指すが、ここは美玉の通称。「琚」佩玉にする玉に似た赤色の石を言う。「孟姜」貴族である姜家(きょうけ)の長女(「孟」は長男・長女を指す語)の意。先行する「鄘風」の「桑中(さうちゆう)」にも登場している。「洵」の仮借字。「行」道。「舜英」木槿の花。「英」は「榮」と同義で、ここは「咲き誇る華(花)」の意。「將將」「瑲瑲」(宝玉や楽器が美しい音を奏でるさま)の仮借。「德音」これは「聲譽」(誉(ほま)れ・評判が頻りなさま)を指す。「忘」「亡」の仮借。

「牝痔《ひんじ》」東洋文庫訳の割注に『外痔の一種。後門の周辺にできる瘡腫)』とある。肬痔(いぼじ)の類。

「旋花(ひるがほ)」ナス目ヒルガオ科ヒルガオ属ヒルガオ品種ヒルガオ Calystegia pubescens f. major 。私の遺愛の花。

「金錢花(ごじくは)」キク目キク科キク亜科キンセンカ属キンセンカ Calendula officinalis

「壺盧(ゆうがほ)」ウリ目ウリ科ユウガオ属ユウガオ変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida 。昔、親しくしていた年上の女性の一人家に、夏、訪ねると、何時も咲いていた。ある夏の日、彼女は、突然、失踪してしまった。それを人づてに聴き、彼女の「山が」の一軒家を訪ねたら、窓を覆っていた夕顔は、悉く枯れ果てていた……。

「白粉草(おしろいぐさ)」ナデシコ目オシロイバナ科オシロイバナ属オシロイバナ Mirabilis jalapa 。今、我が家で、最も咲き誇っている。今年のは、ことに紅色が鮮やかで濃い。

「黃蜀葵(きとろゝ)」アオイ目アオイ科アオイ亜科トロロアオイ属トロロアオイ Abelmoschus manihot の異名。漢字名「黄蜀葵」。

「茉莉(まり)」シソ目モクセイ科ソケイ属ソケイ Jasminum grandiflorum の異名。

「木芙蓉(もくふよう)」既注のフヨウ属フヨウ Hibiscus mutabilis の異名。

「扶桑(ふさう)」フヨウ属ブッソウゲ Hibiscus rosa-sinensis 。一般に「ハイビスカス」とも呼ばれるが、これはフヨウ属 Hibiscus に含まれる植物の総称であり、このブッソウゲ(仏桑花)が代表的な種である。因みに、次項が「ぶつさうげ 扶桑」である。

「娑羅樹(しやらじゆ)」本来は、アオイ目フタバガキ科サラノキ属サラソウジュ Shorea robusta を指すが(沙羅双樹・娑羅双樹)、インドから東南アジアにかけて広く分布する熱帯・亜熱帯の樹木で、本邦には自生しない。本邦で栽培するには温室が必要で、日本の寺院で聖樹としてこの名で植えらている木の殆んどは、本種ではなく、ツツジ目ツバキ科ナツツバキ属ナツツバキ Stewartia pseudocamellia であり、ここもそれ。

「棗(なつめ)」バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis (南ヨーロッパ原産、或いは、中国北部の原産とも言われる。伝来は、奈良時代以前とされている。

「銀杏花(いちゑうくは)」裸子植物門イチョウ綱イチョウ目イチョウ科イチョウ属イチョウ Ginkgo biloba の花。サイト「FLOWER」の「花言葉」の『長寿の木「イチョウ」の花言葉は?由来は?』の「イチョウの花は珍しい?」に、『皆さんはイチョウに花が咲くことを知っていましたか?』『イチョウは裸子植物に分類され、花弁のきれいないわゆる「お花」を咲かせるわけではありませんが、しっかりと雄花(おばな)、雌花(めばな)を咲かせます』。『しかし、そのイチョウの花は非常に目立たず、春の訪れと共に、葉っぱの間からこっそりと咲くため、見つけるのは一筋縄ではいきません』。『そのため、イチョウの花の存在を知っている人は少なく、実際に見かけることもないので珍しいと言えます』。『

その控えめな美しさを見つけるのは、まるで宝探しのような楽しさがありますね!』とある。私は、それが花であることを知ったのは幼稚園の時で、当時、一時期、住んでいた大泉学園の妙延寺(グーグル・マップ・データ)の境内にあったイチョウの巨木の前で、当時の和尚さんに教えて貰って知った。

「牽牛花《けんぎうくわ》」アサガオの別名。「日本科学未来館 科学コミュニケーターブログ」の松浦麻子氏の「牽牛花をご存じですか? =七夕とあの植物のお話=」に、『昔々、中国で、ある農夫が、アサガオのタネを服用して病気が治ったので、自分の水牛を連れてアサガオのある田んぼにお礼を言いに行ったことから、「牽牛花」と呼ばれるようになったとか(牽牛とは、本来は「牛を引く」という意味です。)。日本では奈良時代に伝わってきて以来、生薬や園芸植物として親しまれてきました』。『江戸時代には、七夕の頃に咲くことも相まって、花が咲いたアサガオは「彦星(=牽牛星)」と「織姫星」が年に一度出会えたことを現しているとして、縁起の良いモノとされたとか。変化アサガオも江戸時代からあったことがわかっていますし、きっと粋なモノとして大事にされたのではないか、と思います』とあった。

「万葉」「朝がほは朝露《あさつゆ》負(おふ)てさくといへど夕影(ゆふかげ)にこそ咲き增(まさ)さりけれ」「万葉集」の「卷第十」の「秋の雜歌(ざふか)」の中の一首(二一〇四番)。

   *

 朝顏は朝露負ひて咲くといへど

     夕影にこそ咲きまさりけれ

   *

下句は「暮れの夕日の光を受けている中にあってこそ、一層、美しく咲くのであります。」の意。

「海石榴(つばき)」「椿」=「藪椿」で、ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica 。]

2024/09/23

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 蛇

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      

 

 あんまり長すぎる。

 

[やぶちゃん注:原文は、

   *

 

        LE SERPENT

 

   Trop long.

 

   *

ルナールのアフォリズムの最大の名品。改版では、

   *

 

    蛇

 

ながすぎる。

 

   *

で、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蛇」』では、

   *

 

   蛇                Le Sepent

 

 長すぎる。

 

   *

「博物誌」のそれが、訳の決定版であると言える。教え子諸君は、恐らく、私が、好んで扱った、安倍公房の随筆「日常性の壁」を思い出すだろう。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 紫荊

 

Hanazuou

 

すはうの木 紫珠

      皮名肉紅

紫荊    又云內消

      【俗云蘇方木】

 

本綱紫荊𠙚𠙚有之人多種于庭院閒木似黃荊而柔條

其葉光緊微圓無椏春開紫花甚繁細碎共作朶生出無

常𠙚或生于木身之上或附根上枝下直出花花罷葉出

木幷皮【苦寒】入血分走骨故能活血消腫利小便解毒

△按紫荊木皮濃白色葉微團光澤似菝葜葉而莖長三

 月有花淡紫畧攅大可麥粒甚繁其實結莢似紫藤莢

 而小中有細子春種子生植于庭弄之俗呼曰蘇方木

 非眞蘇方葉實大異【蘇方見于喬木類】

 

   *

 

すはうの木 紫珠《ししゆ》

      皮を「肉紅《にくこう》」と名づく。

紫荊    又、云ふ、「內消《ないしやう》」。

      【俗、云ふ、「蘇方木(すはうの《き》)」。】

 

「本綱」に曰はく、『紫荊、𠙚𠙚、之れ、有り。人、多く、庭院の閒に種《う》ふ[やぶちゃん注:ママ。]。木、「黃荊《わうけい》」に似て、柔《やはらかき》條《えだ》≪なり≫。其の葉、光り、緊《しまり》、微《やや》圓《まろく》、椏《また》、無し。春、紫の花を開く。甚だ繁《しげりて》、細かに碎《くだ》け、共に、朶《ふさ》を作《つくり》、生《しやうず》。出≪ずるに≫、常《つねの》𠙚、無く、或いは、木≪の≫身《しん》[やぶちゃん注:幹。]の上に生じ、或いは、根の上、枝の下に附きて、直《ぢき》に花を出《いだ》す。花、罷(や)んで、葉、出ず[やぶちゃん注:ママ。「づ」]。』≪と≫。

『木、幷《ならび》に、皮【苦、寒。】』『血分《けつぶん》に入りて、骨を走る。故、能く、血を活し、腫《はれもの》を消し、小便を利し、毒を解く。』≪と≫。

△按ずるに、紫荊木(すはうの《き》)は、皮、濃(こまや)かに、白色。葉、微《やや》團《まろ》く、光澤≪あり≫、「菝葜(じやけついばら)」の葉に似て、莖、長し。三月、花、有り、淡紫≪にして≫、畧《ちと》攅《むらが》り、大いさ、麥≪の≫粒ばかり。甚だ、繁《しげ》く、其の實、莢を結≪び≫、「紫藤(ふぢ)」の莢《さや》に似て、小さく、中に細≪かなる≫子《たね》、有り。春、子を種《まき》て、生ず。庭に植《うゑ》て、之れを弄《もてあそ》ぶ。俗、呼んで、「蘇方の木」と曰ふ。《✕→ふも、》眞《まこと》の「蘇方(すはう)」に非ず。葉・實、大いに異《い》なり【《眞の》「蘇方」は「喬木類」を見よ。】。

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、

○双子葉植物綱マメ目マメ科ハナズオウ(花蘇芳)亜科ハナズオウ属ハナズオウ Cercis chinensis

である。同種の「維基百科」は「紫荆」である。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、『中国原産で』、『日本には江戸時代初期に渡来した。観賞用として広く庭園などに栽植される』とある。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名、ハナズホウ、スオウバナ(蘇芳花)とも呼ぶ。和名の由来は、花の色がマメ科の染料植物スオウ』(これが、良安が「違う」と注意喚起している、真の「蘇方(すはう)の木」=マメ目マメ科ジャケツイバラ(蛇結茨)亜科ジャケツイバラ連ジャケツイバラ属スオウ Biancaea sappan である)『で染めた蘇芳染(すおうぞめ)の汁の色に似ていることによる。中国名は紫荊』。『日本には北海道、本州、四国、九州に分布する。 高さは』二~三『メートル』『になる。樹皮は灰褐色で皮目は多いが、生長に関わらずほぼ滑らかである』。『若い枝は淡褐色で皮目が目立ち、ややジグザグ状になる。葉は』五~十『センチメートル』『のハート形で』、『つやがあり、葉縁が裏側に向かって反り返る独特の形をしている。葉柄の両端は少し膨らむ。秋の紅葉は黄色系に染まり、黄色と褐色のモザイク模様なったり』、『様々な変化を見せながら、葉が散るころには褐色になる』。『早春に枝に花芽を多数つけ』、四~五月頃、『葉に先立って開花する。花には花柄がなく、枝から直接に花がついている。花は紅色から赤紫色(白花品種もある)で長さ』一センチメートル『ほどの蝶形花。開花後、長さ数』センチメートル『の豆果をつけ、秋から冬に赤紫色から褐色に熟す』。『冬芽は鱗芽で、葉芽は卵形、花芽はブドウの房状に小さな蕾が多数集まる特徴的な形をしている。枝先につく仮頂芽は葉芽で、花芽はそれよりも下につく。側芽は枝に互生する。冬芽の芽鱗の数は、葉芽が』五、六『枚、花芽の蕾は』二『枚』、『つく。葉痕は半円形で維管束痕が』三『個』、『つく』。『早春に咲く赤紫色の花とハート形の葉が好まれ、公園樹や庭木によく利用される』。『ハナズオウ属は北半球温帯に数種が分布する。地中海付近原産のセイヨウハナズオウ( C. siliquastrum )は落葉高木で高さ』十メートル『ほどになり、イスカリオテのユダがこの木で首を吊ったという伝説からユダの木とも呼ばれる。このほか』、『アメリカハナズオウ( C. canadensis )などが栽培される』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「紫荆」([088-66a]以下)の独立項のパッチワーク。「木幷皮」の解説は、かなり、原文の各所を飛ばして圧縮してある。

「紫珠」「維基百科」の「紫荆」で別名に挙がっており、出典は盛唐の医師で本草学者であった陳藏器の「本草拾遺」とある。

「肉紅」中文の「百度百科」の「肉红」に『中医药名。紫荆皮的别称。』とある。出典は「本草綱目」である。

「黃荊」双子葉植物綱シソ目シソ科ハマゴウ(浜栲・浜香)亜科ハマゴウ属ニンジンボク (人参木Vitex negundo var. cannabifolia 。先行する「牡荊」の別名である。

「其の葉、光り、緊《しまり》、微《やや》圓《まろく》、椏《また》、無し」当該ウィキの葉の写真で確認出来る。

「春、紫の花を開く。甚だ繁《しげりて》、細かに碎《くだ》け、共に、朶《ふさ》を作《つくり》、生《しやうず》」同前の『花と若い果実(4月)』の写真で確認出来るが、花がブレているので、本文の分類の上にある画像の方がよい。なかなかスゴいわ。

「血分《けつぶん》」既出既注。東洋文庫の先行する訳中に『(血の変調に係わる病症)』とある。

「菝葜(じやけついばら)」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科ジャケツイバラ属ジャケツイバラ Biancaea decapetala

「其の實、莢を結≪び≫」同前の「果実(9月)」の画像を見よ。

「紫藤(ふぢ)」マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda 

『《眞の》「蘇方」は「喬木類」を見よ』先行する『「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 蘓方木』を見よ、ということ。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 峯 寺觀音威霊

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。標題の「峯」の字空けはママ。「峯 寺(ぶじ)」、「觀音威霊」の配字であろう。]

 

     峯 寺觀音威霊

 

 享保廿年卯三月二日より閏三月二日迄、十市村、禪師峯寺の觀音繪像、御戶開(おんとびらき)、有(あり)。參詣、每日、夥(おびただ)し。

 或日、年若き婦人、奇麗に出立(いでたち)、參詣して、佛前に至り、鐘の緖(を)を取るとひとしく、目、くらめき、倒(たふ)れける故、仁王門の外へ舁出(かきいで)、色々、養生しけれども、不開(ひらかず)して[やぶちゃん注:目を。]、死(しし)ける。

 供に來たる者に、

「何人(なんぴと)の娘ぞ。」

と、尋ければ、

「坂折(さかをり)の、穢多長吏(ゑたちやうり)が娘にて候。」

と、答へける。

 

[やぶちゃん注:「享保廿年卯三月二日より閏三月二日迄」グレゴリオ暦一七三五年三月二十五日から四月二十四日までで、三十一日間。

「十市村」旧長岡郡十市村(とおちむら)。現在の高知県南国市十市(とおち:グーグル・マップ・データ。以下、同じ)。

「禪師峯寺」現在の四国霊場第三十二番札所である真言宗豊山派の八葉山(はちようざん)求聞持院(ぐもんじいん)禅師峰寺ぜんじぶじ)。サイト「四國八十八ケ所靈場會」の同寺の記載によれば、『太平洋のうねりが轟く土佐湾の海岸に近い。小高い山、とはいっても標高』八十二メートル『ほどの峰山の頂上にあることから、地元では「みねんじ」とか「みねでら」「みねじ」と呼ばれ、親しまれている。また、海上の交通安全を祈願して建立されたということで、海の男たちは「船魂の観音」とも呼んでいる。漁師たちに限らず、藩政時代には参勤交代などで浦戸湾から出航する歴代の藩主たちは、みな』、『この寺に寄り』、『航海の無事を祈った』。『縁起によると、行基菩薩が聖武天皇(在位』七二四年~七四九年『)から勅命をうけて、土佐沖を航行する船舶の安全を願って、堂宇を建てたのが起源とされている。のち、大同』元(八〇六)『年、奇岩霊石が立ち並ぶ境内を訪れた弘法大師は、その姿を観音の浄土、仏道の理想の山とされる天竺・補陀落山さながらの霊域であると感得し、ここで虚空蔵求聞持法の護摩を修法された。このとき』、『自ら』、『十一面観世音菩薩像を彫造して本尊とされ、「禅師峰寺」と名付け、また、峰山の山容が八葉の蓮台に似ていたことから「八葉山」と号した』。『以来、土佐初代藩主・山内一豊公はじめ歴代藩主の帰依をうけ、「船魂」の観音さんは今も一般の漁民たちの篤い信仰を集めている。仁王門の金剛力士像は、鎌倉時代の仏師、定明の作で国指定重要文化財。堂宇はこぢんまりと肩を寄せ合うように建っているが、境内は樹木におおわれ、奇怪な岩石が多く、幽寂な雰囲気を漂わせている』とある。

「觀音繪像」恐らくは、本尊十一面観世音菩薩像を模写したものを本尊以外に作ってあり、それを開帳したものと推定される。

「坂折」現在の高知県幡多郡黒潮町佐賀(坂折)(グーグル・マップ・データ)。

「穢多」私の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の私の注の冒頭の「穢多」を参照されたい。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 七面鳥

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。標題は「しちめんてう」。]

 

      七 面 鳥

 

 道の上に、またも七面鳥の行列。

 每日、天氣がどうであらうと、彼女らは散步に出かける。

 彼女らは雨を怖れない。どんな女も七面鳥ほど上手に裾《すそ》は捲《まく》れない。また、日光も怖れない。七面鳥は日傘を持つて出たことがない。

 

[やぶちゃん注:この原文は、

   *

 

        DINDES

 

   Sur la route, voici encore le pensionnat des dindes.

   Chaque jour, quelque temps qu’il fasse, elles se promènent.

   Elles ne craignent ni la pluie, personne ne se retrousse mieux qu’une dinde, ni le soleil, une dinde ne sort jamais sans son ombrelle.

 

   *

この一行目は十全に訳されたものとは言えない。問題は“le pensionnat”を訳していないからである。この単語は、第一義は「(私立の)寄宿学校」で、第二義で「何らかの寄宿舎・寄宿寮」を指し、第三義に集合的総称呼称としての「寄宿生等(ら)」の意味である。則ち、この一行の映像的な対象把握と、比喩を判るように補助して訳すなら、

「何時(いつも)の道を行くと、これ、またぞろ、寄宿学校の寮生どもよろしく、七面鳥が、ぞろぞろとやって来る。」

であろう。この私立寄宿学校自体が、若き日のルナールが、いろいろと悲喜こもごもの経験してきた忘れ難い実体験の場であるから、この一見、お茶らかして笑いを醸す一行には、実際には、そうしたルナールの過去寄宿学校時代の苦い思い出や記憶に裏打ちされているものと読まねばならない。彼の作品の残酷な、或いは、悲惨で惨めな主人公の行動や、捩じれた感懐には、殆んどが、そうした過去の若き日の惨めな、捩じれた心傷的経験と直結しているからである。ただの、小洒落(こじゃれ)た換喩ではないのである。

 されば、ここは、そうしたルナールの仕掛けを、この初版の訳は、残念ながら、全く、そうしたユーモラスに見える、自身の経歴を元にした、自傷的にネガティブな投影を嗅がせているところを、全く漂白してしまっているのである。

 流石に、岸田氏も、その欠落を気にされたものであろう、後の改訳版では、

   *

 道の上に、またも七面鳥学校の寄宿生たち。

 毎日、天気がどうであろうと、彼女らは散歩に出かける。

 彼女らは雨をおそれない。どんな女も七面鳥ほど上手に裾(すそ)はまくれまい。また、日光もおそれない。七面鳥は日傘(ひがさ)を持たずに出掛けるなんていうことはない。

   *

と改訳しておられる。

 なお、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「七面鳥」』では、やや長いアフォリズムに続けて、本篇を「Ⅱ」として添えてある。

「彼女らは雨をおそれない。どんな女も七面鳥ほど上手に裾(すそ)はまくれまい。また、日光もおそれない。七面鳥は日傘(ひがさ)を持たずに出掛けるなんていうことはない。」前のリンク先でも問題にしてあるが、この原文の“dinde は、特にシチメンチョウの♀を指す女性名詞である。しかし、所謂、我々が通常、想起する形象はシチメンチョウの♂であり、フランス語では別に“dindon”の語で表わす。無論、この単語は男性名詞である。ところが、最終段落は、ルナールの自己撞着が図らずも現われてしまっているのである。この「彼女ら」(☜)「は雨をおそれない」。それは、「どんな女も」「七面鳥ほど」には「上手に裾(すそ)はまく」ることは出来ないからであり、「七面鳥は」常に巨大な「日傘(ひがさ)を持」っているから、「日光もおそれない」というカリカチャアの部分は、シチメンチョウのではあり得ないのである。この「日傘」というのは、私達が百人が百人、直ちに想起するところの、だけが持つ襞飾りのある羽や扇形の尾を広げたシーンを換喩したものだからである。

2024/09/22

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 久保源兵衞滅亡

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

     久保源兵衞滅亡

 韮生鄕(にらうのさと)久保村番人、久保源兵衞は、給田(きふでん)六百石を賜りて、御入國以來、代々の番人也。

 家は三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]梁(さんげんばり)に十四間[やぶちゃん注:二十五・四五メートル。]に建て、後口(うしろぐち)に一間の庇(ひさし)を付(つけ)て、長家は二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]梁に十一間[やぶちゃん注:約二十メートル。]に造りて、矢倉門(やぐらもん)を建(たて)ぬ。

 庭に、鴨脚木(イテウノき)、七囲廽(ななまはりめぐり)なるもの、二本、有(あり)。

 後(うしろ)は、嶠山(けうざん)[やぶちゃん注:鋭く聳える高い山。]、峯(みね)、聳(そび)へ[やぶちゃん注:ママ。]、前には、大河、渦漩(ウヅマキ)ぬ。

 いはゆる「阿州通路(あしうつうろ)」の關所也。

 斯(かか)る山家(やまが)に住馴(すみなれ)て、朝暮(てうぼ)、殺生を業(なりはひ)とし、熊に組み勝ち、山犬を生捕(いけどり)、鹿・猪を食とするより外(ほか)他事(たじ)なかりしが、寛政六年三月の頃、川へ出(いで)て、「毒流し」といふ事をしたり。

 「中上」・「かうの板」・「とゞろ渕(ぶち)」とて、三つの渕、有(あり)。比(この)渕は[やぶちゃん注:これは国立公文書館本(53)で補った。]、昔より、人も恐(おそれ)て、獵する事なき所なるを、

「何の障(さは)る物や、あらん。」

とて、毒を入(いれ)たるに、香魚(アユ)・嘉魚(イダ)・鯇魚(アメノウヲ)は云ふに不及(およばず)、幾年(いくねん)經(へ)たるともしれぬ鰻(ウナギ)・鯉・鯰(なまづ)に至る迄、悉(ことごと)く浮上(うきあが)るを、狩り取(とり)ける。

 中(うち)に、山伏の形なる者、立出(たちいで)けるを、源兵衞、怒(いかり)て云(いはく)、

「何者ぞ。爰(ここ)は我(わが)領分也。何の障る事あらんや。」[やぶちゃん注:底本では、『立出(たちいで)けるを、源兵衞、怒(いかり)て云(いはく)、「何者ぞ。』の部分は、写し落したらしく、後から右に挿入している。国立公文書館本(54)ではちゃんと当該箇所に入っている。]

と訇(ののしり)かければ、其儘、失(うせ)ぬ。

 夫(それ)より、荷(にな)ひつけて、我家へ歸(かへる)。

 無程(ほどなく)、夜に入(いり)けるに、女の泣聲、しければ、怪(あやし)み、尋(たづね)みれども、形も見へざりしかば、內(うち)に入(いり)ぬ。

 又、女の泣(なき)て走り廻る聲、終夜しける、と也(なり)。

 其年(そのとし)、三月、雨夜(あまよ)の事なるに、俄(にはか)に、山中(さんちゆう)、震動する事、夥(おびただ)しく、後(うしろ)なる大山(おほやま)、崩れ懸りて、源兵衞を初(はじめ)、老母・伯母・下人五人、上下(うへした)男女(なんによ)八人[やぶちゃん注:源兵衛の使用人。]、其外(そのほか)、近邊に家居(いへゐ)せし百姓、廿八人、一度に埋(うづま)りて、數(す)百丈の大山、向ふの川へ、崩(くづれ)たりければ、さしも韮生の大河(たいが)、せき留(とめ)られ、河中(かはなか)、新たに、山を築(つき)なせり。

 數日(すじつ)の中(うち)、物部川(ものべがは)迄、干水(ひみづ)と成りぬ。

「ふしぎなりしは、其後(そののち)、死骸も見えず、家の柱類(はしらのたぐゐ)、一本も、年をふれども、しれざるは、いづくへか、埋(うづま)りけん。」

 

[やぶちゃん注:最後の鍵括弧で挟まれた一文は、底本では、実際に鍵括弧で示されてあり、筆者、或いは、報告者の実地検証した添え辞であることが判る。

「韮生鄕(にらうのさと)久保村」平凡社『日本歴史地名大系』によれば、現在の高知県香美郡物部村(ものべむら:現在は物部町(ものべちょう))久保中内(くぼなかうち)・久保高井(くぼたかい)・久保堂ノ岡(くぼどうのおか)・久保安野尾(くぼやすのお)・久保上久保(くぼかみくぼ)・久保沼井(くぼぬるい)・久保影(くぼかげ)・久保和久保(くぼわくぼ)とし、グーグル・マップ・データでは、このポイント周辺に相当する(以下、無指示は同じ)。『別府(べふ)村』(現在は物部町別府(べふ))『の山を隔てて』、『西方、上韮生(かみにろう)川』(ここ)『最上流の右岸に沿って集落が点在する。北は阿波国。「窪」とも記す。上韮生川』(かみにろうがわ:ここ)『と支流の安野尾川』(やすのおがわ:ここ)『に沿って二つの道が阿波』(徳島県)『側に延びるが、いずれも九十九折』(つづらおり)『の難路である。「土佐州郡志」には「東西二里十二町、南北二里三十町、戸凡百二十余、其土黒、久保・堂之岡・安能・奴留井・中内・日浦、以上惣曰久保村」と記す。韮生郷に属し(江戸時代後期に分離)、天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳にはクホノ村・北地ノ村・上クホノ村・ヤスノウノ村・ぬる井ノ村・中内ノ村・影ノ村・小浜ノ村・東久万山村・西久万山などの小集落が記され、すべてが窪名とある』とある。「ひなたGPS」の戦前の地図の『上韮生(ニラウ村)』の『久保』が確認出来る。当該箇所のグーグル・マップ・データ航空写真をリンクさせておく。強烈な奥深い山間部である。

「鴨脚木(イテウノき)」先ほどの、旧久保地区の、ここに、まさに「堂ノ岡の乳イチョウ」があるが、「七囲廽」(十・五〇メートル)はドンブリであろうが、気根の「乳」も立派で(同データのサイド・パネル画像)、これが、その一本の生き残りであろうと思われる。

(ななまはりめぐり)なるもの、二本、有(あり)。

「大河」先に示した上韮生川。

「寛政六年三月」グレゴリオ暦一七九四年三月三十一日から四月二十九日。

「毒流し」毒揉み。本話と、やや親和性のある『「想山著聞奇集 卷の參」 「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」』の本文と私の割注を参照されたい。

『「中上」・「かうの板」・「とゞろ渕(ぶち)」とて、三つの渕』不詳。

「嘉魚(イダ)」硬骨魚綱サケ目サケ科イワナ属イワナ Salvelinus leucomaenis の異名。

「鯇魚(アメノウヲ)」四国なので、タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマスOncorhynchus masou ishikawae の異名と採れる。他の地域では、違った種を指す場合もある。

「物部川(ものべがは)」ここ位置関係を見て頂くと判るが、この物部川までが、崩落によって、流れが遮られ、水が干乾びたということになると、この山体崩落は、久保と山体を隔てた位置に平行に走る物部川(途中の下流で上韮生川は物部川に合流する)の間の山脈の北西側と南東側の双方で同時に起こったと考えるべきであろう。上韮生川に多量の土砂や倒木が生じても、そう簡単に合流点で物部川をも中流で下って強力な堆積を以って(「山」と言っている)封じてしまうというのは、有り得なくはないものの、現実的にはちょっとクエスチョンかなと思うからである。

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 鶺鴒(せきれい)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      鶺   鴒(せきれい)

 

 よく飛びもするが、よく走ることも走る。いつもわれわれの脚《あし》の間で、馴れ馴れしくするかと思ふと、なかなかつかまらいない。小さな叫び聲を立てゝ尻尾《しつぽ》で步くなどは、人を嬲《なぶ》つてゐる。

 

[やぶちゃん注:後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鶺鴒(せきれい)」』では(原文同じ)、私は「鶺鴒」(セキレイ)について、『フランスに棲息する確かな一般的な種はキセキレイ Motacilla cinerea と、タイリクハクセキレイ亜種 Motacilla alba alba と考えられる』と注したが、今回、先に使ったフランス語のウィキ“ Motacilla の各個種のページを再度、総て精査し、さらに、日本語とフランス語の鳥類のネット記載の同属についての記事等を、一から調べてみた結果、フランスに棲息(渡り鳥を含む)する種は、

○鳥綱スズメ目セキレイ科セキレイ属キセキレイ Motacilla cinerea

○セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種(タイプ種)タイリクハクセキレイ Motacilla alba alba

○セキレイ属ツメナガセキレイ Motacilla flava フランス語の同種のウィキでは、この種をさらに十種に分けてリストしてある。その中には独立種とされることもあるニシツメナガセキレイ Motacilla flava flavissima や、フランス南西部にも分布するとするイベリアセキレイ Motacilla flava iberiae がいる)

○セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種 Motacilla alba yarrellii (イギリスからの渡り鳥)

の六種は確実にいることが判った。

 原文を私なりに訳してみる。

   *

 彼女は飛ぶのと同じように走り廻り、そして、何時(いつ)だって、私たちの足の間に纏わりついて、馴れ馴れしくするくせに、これまた、如何ともし難い難攻不落のツワモノであって、その小っぽけな鳴き声でもって、私たちに「尻尾を踏んでみてごらんな!」とチョッかいを出すのである。

   *]

2024/09/21

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 牡荊

 

Hamagou

 

まんけいし 和名波末波非

 はまぞひ  匍於濵之

蔓荆子  義乎

 

マン キン ツウ

 

本綱蔓荆子生水濱高四五尺對節生枝葉類小楝其枝

小弱如蔓至夏盛茂有花作穗淡紅色蘂黃白色花下有

青蕚至秋結子黒班大如梧子而虛輕冬則葉凋

蔓刑子【苦微寒】 治筋骨閒寒熱濕痺拘攣利九竅明目堅

齒頭痛腦鳴目淚出良【去白膜用悪石膏】

△按蔓荊子形狀如上說伹花黃色單瓣頗似木槿花與

謂作穗者不同出於紀州者良播州之產次之

 

   *

 

まんけいし 和名、「波末波非《はまはひ》」。

 はまぞひ  「濵に匍《は》ふ」の義か。

蔓荆子

 

マン キン ツウ

 

「本綱」に曰はく。『蔓荆子は、水≪近き≫濱に生ず。高さ、四、五尺。節に對して生ず。枝・葉、小≪さき≫楝(あふち)に類す。其の枝、小≪さく≫弱≪よはく≫して、蔓《つる》のごとし。夏≪に≫至りて、盛茂《せいも》す。花、有り、穗を作《なす》こと《✕→作(な)し》、淡紅色。蘂《しべ》、黃白色。花≪の≫下、青≪き≫蕚《がく》、有り。秋に至りて、子《み》を結ぶ。黒≪き≫班《はん》[やぶちゃん注:斑点。]≪ありて≫、大いさ、「梧《ご》」≪の≫子のごとくして、虛輕《うつろにしてかろし》。冬、則ち、葉、凋む。』≪と≫。

『蔓刑子【苦、微《やや》寒】』『筋骨の閒の寒熱・濕痺(しびれ)・拘攣(ひきつり)を治し、九竅を利し、目を明《めい》にし、齒を堅くし、頭痛・腦鳴《なうめい》、目≪より頻りに≫、淚、出づるに、良し【白き膜を去り、用ふ。石膏を悪《い》む。】。』≪と≫。

△按ずるに、蔓荊子、形狀、上の說のごとし。伹《ただし》、花、黃色の單-瓣(ひとへ)≪とせることからは≫、頗《すこぶ》る、「木槿」の花に似《に》、穗を作《なす》と謂ふは、同じからず。紀州より出於づる者、良し。播州の產、之れに次ぐ。

 

[やぶちゃん注:この「蔓荆子」は、良安の添えた「はまぞひ」という名、及び「波末波非《はまはひ》」の和名、それが『「濵に匍《は》ふ」の義か』という謂い、また、名にし負う、「蔓」状で、水辺に這うように生えるという点から、間違いなく、日中ともに、既に先行する「石南」の注で示し、「牡荊」でも同属のものを同定した、

双子葉植物綱シソ目シソ科ハマゴウ(浜栲・浜香)亜科ハマゴウ属 Vitex

であることは、最早、疑いようがない。そして、良安の言っているのは、

ハマゴウ属ハマゴウ Vitex rotundifolia

と比定して間違いない。同種については、「牡荊」で詳しく注した。

 しかし、時珍の「蔓荆子」の方で、花の色を「淡紅色」としている点で、それではない。「維基百科」のハマゴウ属相当の「牡荆属」を見ると、変種を含めると、三十二種も掲げられている。同属は熱帯・亜熱帯全域に自生しており、日本も含め、ユーラシアの温帯域にも複数種が分布し、世界で全種数を二百五十種と、英文ウィキの“ Vitex にあるため、正直、淡紅色の花で、中国に分布する、ハマゴウ属の種を限定する能力は、私には、ない。グーグル画像検索「Vitex flower red」をリンクしてお茶を濁しておく。ただ、時珍の「水濱」という表現から、私は、中国の海浜ではなく、内陸の河川の近くに植生する種であろうとは、思うのである。何故なら、時珍はその生涯の殆んどを、湖北省で過ごし、海浜を調査することは、殆んどなかったと踏んでいるからである(事実、彼の「本草綱目」の海産魚介類の記載には、トンデモない誤りが頻繁に出現するのである)。そこに絞れるとだけ、言っておく。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「蔓荆」([088-63b]以下)の独立項のパッチワーク。

「梧《ご》」日中ともに、双子葉植物綱アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex で問題ない。

「腦鳴《なうめい》」自律神経の乱れによって音を感じる神経が異常に興奮し、本来、鳴っていない音を感知してしまう症状であろう。何らかの脳疾患の可能性もある。

「木槿」ここは良安の言であるから、アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus でよい。なお、フヨウ属は中文名で「木槿」であるから注意が必要。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 三津浦幽霊

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

      三津浦幽霊

 三津浦、岩貞曽右衞門(いはさださうゑもん)、鯨を突(つき)ける時、羽指(はざし)、一人、タツパに打(うた)れて死(しし)ぬ。不意成(ふいなる)事ながら、不便(ふびん)に思ひ、其鯨は、羽指が妻子に、とらせける、とぞ。[やぶちゃん注:「羽指」小学館「日本国語大辞典」によれば、「羽差」とも表記し、『江戸時代から明治前期にかけて』、『西南日本で行なわれた捕鯨で、勢子船』(せこぶね:鯨を網に追い込み、特に銛を打つ役をした船を指す)『に乗り』、『捕鯨作業の指導的役割に当たる者。鯨に接近すると』、『舳先に立って銛を投げ、最後には弱った鯨の頭上にとび乗って』、『手形切包丁で鯨の潮吹鼻の障子』(しょうじ:鼻中隔の俗称)『を切りぬいた。手形切包丁による作業の刃刺しに由来する名称か』とある。]

 或時、三津浦の漁人、夜釣に出(いで)ける。

 其夜は、稀成(まれなる)猟をして、既に歸らんとする時、向ふの方(かた)より、鯨、浮(うか)み出(いで)れば、驚(おどろき)、迯戾(にげもど)らんとするに、弥(いよいよ)、近く寄來(よりきたり)て、鯨の、いふ、

「久敷(ひさしく)不逢(あはず)、ゆかしくおもふ也(なり)。」

と、云(いふ)聲は、彼(か)の羽指が[やぶちゃん注:底本は「は」であるが、国立公文書館本52)で「か」とある(右丁三行目中央下)ので訂した。]聲に、少(すこし)も替(かは)らざれば、恐(おそれ)て迯歸(にげかへ)りぬ。

 其後(そののち)、更(かは)る事もなく、人にも語らずして居(をり)けるが、

『いかにも、よき漁(すなどり)しつる。』

を、おもひて、又、夜釣に出(いで)けるに、件(くだん)の鯨、浮(うか)み出(いで)、物言掛(ものいひかけ)ける故、不取敢(とりあへず)、迯戾(にげもど)り、妻子に、その次㐧を語りしが、忽(たちまち)に、乱心せしを、樣々(さまざま)、祈祷して、快復せしと也。

 

[やぶちゃん注:永年、怪奇談を渉猟してきたが、死者が鯨に変じたという、本篇のような類話は聴いたことがない。奇怪千万の素晴らしい特異点である。この話、幾つものフレーズで検索したが、紹介されある記事は、見当たらなかった。非常に惜しい気がする。

「三津浦」現在の高知県室戸市室戸岬町(むろとみさきちょう)三津(みつ:グーグル・マップ・データ)。Tumurojin氏の「津室儿のブログ」の「室戸市の民話伝説 第60話 ゴンドウ鯨のゴンちゃん」に、『三津港は、古式捕鯨が網掛け突き捕り漁法に代わった貞享』『元(一六八四)年の昔より』、『沖合に網代を設けるなど、捕獲した鯨を引き揚げたスロープが今に遺る。鯨との関わりは三百三十有余年の長い繋がりを持つ土地柄である』とあった。標題の最近の出来事(一九九〇年二月の出来事)も、とても心打たれる話しであるが、引用するには長いので、是非、そちらで読まれたい。

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 ポピイ

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。「ポピイ」(標題“les coquelicots”)は。音写すると、「ル・コクリコ」で、狭義には、「雛罌粟・雛芥子」=双子葉植物綱キンポウゲ目ケシ科ケシ属ヒナゲシ Papaver rhoeas を指す。本邦では「虞美人草」の名でも知られる。フランスでは野原で普通に見られる親しい花であり、国花の一つである、フランス国旗の右の赤のラインも本種をイメージしている(因みに、左の青は後注する「矢車菊」=キク目キク科ヤグルマギク属ヤグルマギク Centaurea cyanus を、中央の白はマーガレット=「仏蘭西菊」=キク科キク亜科フランスギク属フランスギク Leucanthemum vulgare が元である。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく)。ヒナゲシの学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。フランスでは、幾つかの地方名があり、coquelicotpavot-coqpavot des champspavot sauvagepoinceauponceau等がある。なお、本邦ではケシ科 Papaveraceaeケシ属 Papaver のケシ類を総じて英語の「ポピー(poppy)」で通称しているが、英語で単に“poppy”と言った場合は、イギリス各地に自生している園芸種としても盛んに栽培されている、本種ヒナゲシ(“corn poppy”:コーン・ポピー)を指す。一方、日本語で単に「ケシ」と言って、それが同時に種を指している場合には、麻薬であるアヘンの元であるケシ Papaver somniferum を指すので、注意が必要である。]

 

      ポ ピ イ

 

 彼等は麥の中で、小さな兵士のやうに、氣取つてゐる。然し、もつともつと綺麗な赤い色。それに、あぶなくはない。

 彼等の劍《つるぎ》は芒(のげ)である。

 風が吹くと飛んで行く。そして、めいめいに、氣が向けば、畝(うね)のへりで、同鄕出身の女、矢車草《やぐるまさう》の花と、つひ[やぶちゃん注:ママ。]話が長くなる。

 

[やぶちゃん注:「彼等の劍《つるぎ》は芒(のげ)である。」原文は“Leur épée, c’est un épi.”。この“épi”は「(麦・稲などの)穂」の意。「芒」は「のぎ・のげ(野毛)・ぼう・はしか」と読み、漢字では「芒」と同語源で「禾・鯁」(後者は専ら「喉に刺さる小さな魚の骨」として使われる)とも書く。

「矢車草」既に『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「ひなげし」』で注してあるが、再掲すると、ヤグルマソウ=キク目キク科ヤグルマギク属ヤグルマギク Centaurea cyanus 当該ウィキによれば、『一部でヤグルマソウとも呼ばれた時期もあったが、ユキノシタ科のヤグルマソウと混同しないように現在ではヤグルマギクと統一されて呼ばれ、最新の図鑑等の出版物もヤグルマギクの名称で統一されている』とあった。原文では、“bleuet”で、フランス語のウィキでは Cyanus segetum で標題するも、これはヤグルマギクのシノニムであるので、間違いない。いやいや、何より、ヤグルマギクは既に述べた通り、フランスの国花の一種なのである。フランス語のウィキ“Emblème végétal”(「植物の紋章」)のフランスの条に、『ヤグルマギク、デ​​イジー、ポピーはフランスの花の象徴である(ヤグルマギクは第一次世界大戦のフランス退役軍人のシンボルであ』る、と記されてある。これは、フランス語のウィキでは、『ボタン・ホールに附けられたフランスのヤグルマギクは、退役軍人、戦争犠牲者、未亡人、孤児 に対する記憶と連帯の象徴である』とある。但し、同種の花の色は、青というより、明るい紫色である(グーグル画像検索「ヤグルマギク」をリンクさせておく)。]

2024/09/20

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 牡荊

 

Ninjinboku

 

なまゑのき 黃 小荆

      楚

牡荊

     【和名奈末江乃木】

 

本綱古者刑杖以荊故字从荆又云荆楚之地員多産此

而名之今𠙚𠙚山野多之𬋈采爲薪年久不𬋈者其樹大

如盌有青赤二種青者爲荆赤者爲楉嫩條皆可爲莒𥭒

[やぶちゃん注:「莒」は「芋・里芋」の意で、「本草綱目」では「筥」(はこ)であるので、訓読では訂した。]

其木心方其枝對生一枝五葉或七葉其葉如榆葉長而

尖有鋸齒五月杪閒開花成穗紅紫色其子大如胡妥子

而有白膜皮褁之


牡荆子【苦温】除骨閒寒熱通胃氣止欬逆下氣炒焦爲

 末飮服治心痛及婦人白帶【防已爲之使畏石膏】

△按牡荆本朝古者有之今無

金荊 生南方山中大者十圍盤屈瘤蹙文如美錦色如

 眞金玉人用之貴如沈檀此荆之別種也

 

   *

 

なまゑのき 黃荆《わうけい》 小荆《せうけい》

      楚《そ》

牡荊《ぼけい》

     【和名、「奈末江乃木」。】

 

「本綱」に曰はく、『古《いにしへ》は、刑杖《けいじやう》に、荊を以つてす。故、字、「荆」に从《したがふ》。又、云ふ、荆楚の地[やぶちゃん注:現在の湖北省・湖南省に相当する旧地方名。古えの「楚」の国相当。]、此れを多産するに因りて、之れを名づく。今、𠙚𠙚《しよしよ》の山野に、之れ、多し。𬋈(《き》こり)、采りて、薪《まき》と爲す。年久《としひさしく》、𬋈(き)らざれば、其の樹、大(ふと)く、盌《わん》[やぶちゃん注:大き目の高さのある椀。]のごとし。青・赤、二種、有り、青き者を「荆」と爲《な》し、赤き者を「楉《じやく》」と爲す。嫩《わかき》條《えだ》、皆、筥《はこ》・𥭒《かご》と爲すべし。其の木の心《しん》、方《はう》[やぶちゃん注:四角。]なり。其の枝、對生す。一枝≪に≫五葉、或いは、七葉。其の葉、「榆(にれ)」の葉のごとく、長くして、尖り、鋸齒、有り。五月、杪《こづえ》の閒《あひだ》、花を開き、穗を成す。紅紫色。其の子《み》、大いさ、「胡妥子[やぶちゃん注:「本草綱目」の誤字と推定されるので、読みは附さない。後注を参照されたい。]」のごとく、白≪き≫膜≪のごとき≫皮、有りて、之れを褁(つつ)む。』≪と≫。


『牡荆子《ぼけいし》【苦、温。】骨≪の≫閒の寒熱を除き、胃の氣を通利《つうり》し、欬逆《がいぎやく》を止め、氣を下す。炒焦《いりこが》して、末《ます》と爲《なし》、飮服《いんぷく》すれば、心痛、及び、婦人の白帶《こしけ》を治す【「防已《ばうい》」を、之れが「使《し》」と爲《な》す。「石膏」を畏《い》む。】。』≪と≫。

△按ずるに、牡荆、本朝に古《いにしへ》は、之れ、有り。今は、無し。

『金荊《きんけい》』『南方≪の≫山中に生ず。大なる者、十圍《とおかかへ》≪あり≫、盤屈瘤蹙《ばんくつりうしゆく》≪して≫、文《もん》、美(うつく)しき錦《にしき》のごとく、色、眞金《しんきん》のごとし。玉人(たますり)[やぶちゃん注:宝玉を作る職人。]之れを用ふ。貴(たかき)こと、「沈(ぢんかう)」・「檀(せんだん)」のごとし。此れ、荆の別種なり。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「牡荊《ぼけい》」は「維基百科」の「牡荆」により、

双子葉植物綱シソ目シソ科ハマゴウ(浜栲・浜香)亜科ハマゴウ属ニンジンボク (人参木) Vitex negundo var. cannabifolia

である。邦文では、「跡見群芳譜」の「花卉譜」の「にんじんぼく(人参木)」が画像もあり、最適である。そこに『漢名』を『牡荊(ボウケイ, mŭjīng)』とあり、『「人參木ノ和名ハ其葉形ニ基ク」(『牧野日本植物図鑑』)。すなわち』、『葉の形がオタネニンジン』(御種人参:所謂「朝鮮人参」、セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジン Panax ginseng のこと)『に似ることから』とある。そして、『河北・華東・兩湖・兩廣・四川・貴州・雲南に分布』するとし、』『日本には、享保』(一七一六年~一七三六年)『年間に渡来』したと、小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」(文化三(一八〇六)年)を出典とする(因みに、本「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年で、上記の渡来よりも前である)。『暖地では庭木として栽培』されていたとあるのだが、その前の「訓」の項に、「本草和名」に『蔓荊』が載り、『和名波末奈美比 殖近江國』とあることが示され、さらに、かの「延喜式」に『牡荊子』が載り、それを『ヲトコバラ』と記してあるとするのである。最後に『中国では、ニンジンボク(牡荊)をはじめ、いくつかのハマゴウ属の植物を薬用にする』ともある(太字は私が附した)。

 さて。良安が、附言で、『牡荆、本朝に古《いにしへ》は、之れ、有り。今は、無し。』と、不思議なことを断定して言っているのが、私には甚だ不審なのだが、この「本草和名」と「延喜式」の記載が、確かに、現行の樹木種としてのニンジンボクであるとするなら、

「嘗つてある植物が本邦に分布していたが、江戸時代には絶滅していた。」

という驚くべき記載となるのだが、こんなことは、近代のニホンオオカミやニホンカワウソ、トキの絶滅なら、腑に落ちるが、植物種で、これは、ちょっと他に聴いたことがない叙述で、信じ難いのである。而して、この二書の記載は、中国から漢方薬として貢献されたところの漢方生剤の当時の漢名の意味を聴き、それらしい日本語に訳した生剤和名なのではないかとも考えた。

 しかし、良安が和名として掲げた「奈末江乃木」を調べると、やはり、「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「はまごう」を見ると、

ハマゴウ属ハマゴウ Vitex rotundifolia

を指すことが、「訓」の項に、「延喜式」に『蔓荊子に、「ハマハフ」と』とあることで明らかとなるのである。また、「倭名類聚抄」に『蔓荊は「和名波末波非」と、荊は「奈末江乃木」と』あることまで判明する。さらに、「辨」の記載の中で、

「蔓荊」はミツバハマゴウ Vitex trifolia 当該ウィキによれば、『鹿児島県トカラ列島(世界北限』『)の平島・宝島』から『沖縄県先島諸島にやや稀にみられる』とする)

であることが判った。

ここで、ウィキの「ハマゴウ」を引いておく(注記号はカットした)。『常緑小低木で砂浜などに生育する海浜植物。別名ハマハヒ、ハマハイ、ハマボウ』。『和名ハマゴウは、一説には葉を線香の原料にしたことから「浜香」の名が生まれ、これが転訛してハマゴウになったといわれる。古書には「ハマハヒ」の記述が見られ、海岸に茎が這うように生えるところから名付けられたものと考えられている。また』、『植物分類学者の牧野富太郎の説によれば、「これは、その実をホウと呼んで薬用にしているところからハマホウが転じたものだろう」としており』、「牧野植物図鑑」『では』、『そのとおり「ハマホウ」として記載し、一名をホウ、ハマボウと載せている。植物生態学者の辻井達一は、「ハマゴウのハマはむろん浜だろう」と述べている』。『地方名は、ハマボウ』、『ハマカズラなどと呼ばれている。花の付き方や色が似ているので、ハギ(萩)に見立ててハマハギの名もある。中国植物名(漢名)は、單葉蔓荊、単葉万荊(たんようまんけい)』。『学名の属名 Vitex(ヴィテックス)は、ラテン語で「結ぶ」を意味し、長く這って伸びた枝が砂浜を縦横に結んでいる様子から来ている』。『日本では、北海道を除く本州・四国・九州・琉球諸島(沖縄)に分布し、海岸の砂浜に群生する。内陸の淡水湖である琵琶湖沿岸にも生育する。日本国外では、中国の沿岸、朝鮮、東南アジア、ポリネシアなどの南太平洋、オーストラリアの海岸の砂地に分布する』。『砂が吹き飛ばされて何メートルも横に伸びた茎が露出する場合もある。砂に埋もれても負けずに伸びるのは』、『海浜植物として重要な適応である。風の強い海岸では、茎は這って生育地を広げ、落葉後にその様子が見えることがある』。『海岸の砂地に群生することが多い落葉低木。長く伸びる茎は地面を這い、半ば砂に埋もれて伸びる。枝は』四『稜があり、ところどころで地上に突き出して直立または斜上し、木本ではあるが』、『高さは』一『メートル』『以下のものが多い。太い茎の樹皮は縦にひび割れる。上部の枝先などの茎は毛が密生し、角張っている』。『葉は対生し』、普通は『単葉で、まれに』三『出複葉になるものもある。葉身は楕円形から広卵形で、長さ』三~六センチメートル、『幅』二~四センチメートル、『縁は全縁、裏面は白銀色の毛で被われ、香りがある。葉柄は長さ』五~十『リメートル』『になる』。『花期は夏から初秋にかけて(日本では』七~九『月)。枝先に円錐花序をつけ、芳香のある青紫色の小さな花を咲かせ、目立つ。萼は長さ』三~四ミリメートル『の鐘形で』五『歯がある。花冠は長さ』一・二~一・六センチメートル『になる漏斗状で』、五『裂し』、『唇形になり、下部の裂片が他の裂片よりはるかに大きい。雄蕊は』四『個、花柱は』一『本で』、『花冠を突き抜け、柱頭が』二『裂する。果実は球形の核果で、直径は』五『ミリメートル』『ほどの小さなもので』、『臭いがあり』、十『月に結実して』、『熟すと』、『淡黒色になり、水に浮き』、『海流に流される。黒い果実は冬でも枝に残ることがある』。『冬芽は対生し、楕円形や半円形で毛に覆われており、冬芽の下に枝に沿って柄が伸びて、その下に副芽をつける。葉痕は心形で維管束痕が』一『個』、『つく。全体にユーカリの葉に似た芳香がある』。十~十一『月ごろに採集した果実を天日干し乾燥したものは、蔓荊子/万荊子(まんけいし)と呼ばれる生薬で、強壮、鎮痛、鎮静、感冒、消炎作用がある。蔓荊子散などの漢方薬に配合される』。八~九『月ごろの開花期の茎葉を採取し』、『長さ』三~五センチメートルに、『粗く刻んで』、『陰干ししたものを蔓荊葉(まんけいよう)という』。「中国高等植物図鑑」に『よると、蔓荊(まんけい)といって神経症疼痛(しんけいしょうとうつう)に効くと記されている。灰汁は染料になる』。『葉や小枝には精油』『が含まれており』、『浴湯料にすれば』、『血行促進作用があり、果実は消炎、解熱、強壮の目的で漢方薬の処方に配剤されている』。『民間療法では、風邪で熱があるとき、頭痛がするときに』、『煮詰めた煎じ液(水性エキス)を』『服用する用法が知られている。妊婦は服用禁忌とされている。また、肩こり、腰痛、筋肉痛、冷え症などには茎葉や蔓荊子を布袋に入れて浴湯料にして風呂に入れる』。『昔は、葉をいぶして蚊遣りに用いたり、あるいは香として用いられた。茎葉は、シキミの樹皮や葉、モクレンの樹皮などを粉末にして混ぜ合わせ、安線香を製造するための原料にした』。『南西諸島にはよく似たミツバハマゴウ』(既注)『が普通。形態的にはよく似ているが、海岸ではなく内陸のひなたにはえ、低木状になる』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「牡荆」([088-59b]以下)の独立項のパッチワーク。

「荆楚の地」現在の湖北省・湖南省、古代の楚の国に相当する。

「榆(にれ)」(=「楡」)は日中ともに、双子葉類植物綱バラ目(或いはイラクサ目)ニレ科ニレ属 Ulmus で問題ない。

「胡妥子《こすいし》」これは「本草綱目」でもこの漢字になっているが、これは、原書自体の誤りで「胡荽子(コスイシ)」が正しい。今や、食材・香辛料として英語の「コリアンダー」(corianderですっかりメジャーになった、セリ目セリ科コエンドロ属コエンドロ Coriandrum sativum である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。によれば、『和名コエンドロは鎖国前の時代にポルトガル語 coentro(コエンドロ)から入った古い言葉である。「コスイ」「コニシ」はコエンドロが用いられる以前の呼称で、『和名抄』にコニシの名があり、すでに平安時代に栽培されていた。江戸時代の』出版された日本最古の農書で、宮崎安貞が著した「農業全書」(元禄一〇(一六九七)年)『には、胡荽を「こずい」と読ませており、南蛮の語に「こえんとろ」というとあり、薬効を述べている。また、カメムシ』(昆虫綱カメムシ目カメムシ亜目 Heteroptera)『とよく似た独特の匂いのため、別名「カメムシソウ」と呼ばれることもある。中国植物名は「芫荽」、漢名では「香荽」「芝茜」とも書かれる』。『一般には、英語に従って、果実や葉を乾燥したものを香辛料としてコリアンダー(英語: coriander)と呼ぶほか』、一九九〇『年代ごろから、エスニック料理店の増加とともに、生食する葉を指してパクチー(タイ語』『)と呼ぶことが多くなった』。『また、中華料理に使う中国語由来で』、『生菜をシャンツァイ』(中国語:香菜)『と呼ぶこともあり、日本でもコウサイとよばれていた。中華料理にも使われることから、俗に』「中国パセリ」『とも呼ばれるが、パセリ』(=セリ目セリ科オランダゼリ属(又はオランダミツバ属)オランダゼリ Petroselinum crispum )『とは別の植物である。中国へは張騫が西域から持ち帰ったとされ、李時珍の』「本草綱目」には『「胡荽」(こすい)の名で記載がある』。『英名コリアンダー(coriander)は属名にもなっているラテン語のコリアンドルム(coriandrum)から変化したフランス名のコリアンドル(coriandre)に由来し、さらに古代ギリシア語コリアノン』(ラテン語転写:koriannon)へ遡る。後者の原語を指して「ギリシア語でカメムシを意味する」などと紹介されることが非常に多いが、これは誤りで、コリアノン』『もまた「コリアンダー」を指す言葉である』とあった。

「欬逆《がいぎやく》」咳(せき)や吃逆(しゃっくり)が起こる症状。風邪を指す場合もある。

「白帶《こしけ》」膣から出る粘性の液体で、色は透明か、乳白色、或いは、やや黄色みを帯びるが、ここでは、それが、病的に長期間に亙って出る症状を指す。

「防已《ばうい》」植物名はキンポウゲ目ツヅラフジ科ツヅラフジ属オオツヅラフジ Sinomenium acutum 。漢字名「大葛藤」。漢方薬としては、先行する「酸棗仁」の私の注を見られたい。

「使《し》」主薬を補助する薬。

「金荊《きんけい》」「荆の別種なり」不詳。ハマゴウ属に中文名で金沙荆 Vitex duclouxii というのは、ある。但し、同属で巨樹になるというのは、どうも不審であり、学名でグーグル画像検索してみても、そんな巨木は見当たらない。この「圍」というのは、全草体の広がりの大きさであろう。しかし、金に見紛うほどの色の花は上がっていない。

「盤屈瘤蹙《ばんくつりうしゆく》」東洋文庫訳では、この漢字文字列に『ごつごつおとうねりまがって』とルビを振っている。

「沈(ぢんかう)」双子葉植物綱アオイ(葵)目ジンチョウゲ(沈丁花)科ジンコウ(沈香)属ジンコウAquilaria agallocha 。先行する「沉香」を見られたい。

「檀(せんだん)」ルビはして欲しくなかったな。「檀」だけなら、日中ともに双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus Blume var. sieboldianusんだが、「センダン」と振った良安のそれは、双子葉植物綱ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach var. subtripinnata になっちまうからだ。先行する「檀」、及び、「楝」を参照されたい。良安は当然、マユミじゃなくて、センダンを誤って想起していることになるから、全くのアウトなのである。

2024/09/19

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 魚

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。「魚」は「さかな」と訓じておく。]

 

      

 

 さては、いよいよ、かゝらないな。おほかた、今日が漁の解禁日だと云ふことを御存じないと見える。

 

[やぶちやん注:「博物誌」では『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「かは沙魚」』の終りに、このアフォリズム本文が添えてある。本篇の標題は“LE POISSON”で、この語は、広義の「さかな・魚類」である。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 鼬

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      

 

 貧乏な、然しさつぱりした、品のいゝ鼬先生。ちよこちよこと、道の上を行つたり來たり、溝から溝へ、また穴から穴へ、時間ぎめの出張敎授。

 

[やぶちゃん注:『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鼬」』を参照されたい。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 葡萄畑

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      葡 萄 畑

 

 どの株も、添へ木を杖に、武器携帶者。

 何をぐづぐづしてゐるんだ。葡萄の實は、今年はまだ生《な》らない。葡萄の葉は、もう裸體像にしか使はれない。

 

[やぶちゃん注:『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「葡萄畑」』を参照されたい。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 蝸牛

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      蝸   牛

 

 せい一杯步きまはる。それでも、舌で步くことしかできない。

 

[やぶちゃん注:後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蝸牛」』では、「一」でルナールによって増補・改稿された形で、第二段落目に出る。本原文は、

   *

 

        L’ESCARGOT

 

   Il se promène le plus qu’il peut, mais il ne sait marcher que sur sa langue.

 

   *

であるが(逐語訳では、「彼は可能なだけ歩き回るものの、舌で歩くことしか出来ない。」)、“ Histoires Naturelles ”では、

   *

 

   Il se promène dès les beaux jours, mais il ne sait marcher que sur la langue.

 

   *

で「彼は天気のいい日は散歩に行くものの、舌で歩くことしか出来ない。」である。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 九反田之鼠喰稲

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。標題は「くたんだのねずみ、いねをくらふ」と訓じておく。]

 

      九反田之鼠喰稲

 文化三年は、豊年にて、本御藏の後口(うしろぐち)、九反田、稲、よく出來(いでき)て、既に刈入(かりいれ)んとする時、諸方より、家鼠(いへねずみ)、集(あつま)り、不殘(のこらず)、稲を喰取(くらひとり)ける。十月廿八日夜、「荒神祭(かうじんまつり)」とて、小相撲(こずまふ)、爲取(とりなし)ける。

 

[やぶちゃん注:「九反田」現在の高知県高知市九反田(グーグル・マップ・データ)。鏡川河口近くの左岸の砂州上に伸びた地区の一画で、高知城南東の直近。

「文化三年」庚寅(かのえとら)で、グレゴリオ暦一八〇六年。

「本御藏」高知城の米蔵は既に先行する話で考証したところ、始めは、高知城の町屋に接する位置にあったものを、後に城内に移していることが判明しているので、これは「本」=「元」あった「御藏」の後方にあった出入り口の先にある「九反田」という意味と採る。

「十月廿八日」グレゴリオ暦で十一月七日。

「小相撲」草相撲。素人相撲。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 野根浦之內並川村【茂次兵衞】大災

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

     野根浦之(の)内(うち)並川村【茂次兵衞】大災(たいさい)

 㙒根浦並川と云(いふ)所に茂次兵衞といふもの、有(あり)。

 性質(たち)、貪欲、深くて、銀(ぎん)[やぶちゃん注:金(かね)。]・米(こめ)、余計(よけい)、出來(しゆつらい)しぬ。

 在所の者、銀、借(かり)に行(ゆく)時は、

「此方(こなた)へ來(きた)れよ。」

と、いふて、田を、すきに出(いで)、東へ犁(スケ)ば、東へ、したひ、西へ來(きた)れば、付(つき)したひて、己(おのれ)は仕事しながら、相談して、田地を質(しち)に取(とり)、或(あるい)は、山林を宛義に入(いれ)させ、銀を貸(かし)けるが、五、六年も、催促せず、其儘、置(おき)て、年(とし)を重(かさ)ね、利倍(りばい)して、夫(それ)より、稠敷(きびしく)催促する故、無詮方(せんかたなく)、質物(しちもの)、渡して、濟(すま)せけるものも、多かりし。[やぶちゃん注:「稠」(音「チウ(チュウ)」には「多い・繁る・びっしりと集まる」の意がある。それを苛烈な催促の形容としたもの。]

 安永の頃[やぶちゃん注:一七七二年から一七八一年まで。徳川家治の治世。]、茂次兵衞が家を[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本51)も「を」であるが、「の」の原古写本の誤りであろう。]近き所に、神社、有(あり)、其(その)宮(みや)の方(かた)より、

『大成(おほきなる)鼬(イタチ)、走り行(ゆく)ぞ。』

と見る內に、茂次兵衞が家の軒(のき)より、火、燃出(もえいで)ぬ。

 家內(かない)、あはて、騷ぎ、隣家(りんか)よりも、掛付(かけつけ)て、消留(けしとめ)ぬ。

 又、翌日、屋根より、燃(もえ)ぬ。

 村中、集りて、扣(たた)き消す內、床(ゆか)の下より、火、出(いで)て、燃(もえ)あがる。

 それを消して見るうちに、或(ある)押込(おしこみ)[やぶちゃん注:「押し入れ」に同じ。]の內より、もへ[やぶちゃん注:ママ。]出(いで)、手に合(あひ)がたく[やぶちゃん注:対処の仕様が叶わず。]、

「いか樣(さま)、是は、直事(ただごと)に、あらず。祈祷(きとう)、すべし。」

と、いづれも、進めて、山伏を呼(よび)、太夫(たいふ)を請(しやう)して、種々の祈祷に銀(ぎん)を費(つひや)せども、更に止(やま)ずして、弥増(いやまし)に、もえ出(いで)ける。

 後(のち)には、衣類の內より出(いで)、茂次兵衞が一躰(いつたい)より、燃出(もえいで)けるほどに、無詮方(せんかたなく)、東寺(とうじ)へ行(ゆき)て、祈祷(きとう)を賴みぬ。寺主、彼家(かのいへ)へ行(ゆき)て、重き祈祷、せられけるが、此(この)加護にや、無程(ほどなく)、火も鎭(しづま)りける、とぞ。

 

[やぶちゃん注:「野根浦之(の)内(うち)」の「並川村」野根浦は既出既注で、現在の東洋町野根の甲・乙・丙・(グーグル・マップ・データ。他はその北及び北東に確認出来るように配した)であるが、ここに言う「並川」という地名は「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、確認出来ない。ただ、気になるのは、この現在の野根乙の中にある「名留川(なるかわ)」という地区名である。調べると、江戸時代には「成川」という表記もあったとある。上記「ひなたGPS」で見ても、神社が二社ある。取り敢えず、ここを一つの候補地としておく。

「鼬」民俗社会では、近世まで、イタチは、キツネやタヌキと同様に「化ける妖獣」と認識され、ここにあるように、イタチが群れると、火災を引き起こすともされ、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされた。そうした話、及び、イタチ類の種や、博物的記載は「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」の本文及び私の注を参照されたい。

「太夫」小学館「日本国語大辞典」にある、『神社の御師(おし)の称号。初め』、『伊勢神宮の権禰宜家より起こり、権禰宜は五位に叙されていたところから出た称。のちには禰宜以下、自治体の長にまで広がった。全国に檀那を持っていて、布教・祈祷』(☜)『・代参を行ない、また、檀那の参詣のときの宿舎を提供する。伊勢神宮』(ここに限っては差別化して「おんし」と読む)・『熊野神社のものが有名』であるが、『明治期以後』、『消滅』したとある。「山伏」に続くと、怪奇談集では、高い確率で「巫女」と続くが、「太夫」には「巫女」の意味はない。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 伊勢國與茂都占

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。この「與茂都」の「都」(都)を「いち」と読むのは、小学館「デジタル大辞泉」等によれば、「いちな」(漢字表記:一名・市名・都名)で、元は琵琶法師などがつけた通称名で、名の最後に「一」・「市」・「都」などの字が附された。特に、鎌倉末期の如一(にょいち)を祖とする「平曲」の流派は、「一名」を附けたので、「一方流」(いちかたりゅう)と呼ばれた。後、広く、一般の視覚障碍者も通称として用いた、とある。]

 

     伊勢國與茂都(よもいち)占(うらなひ)

 石坂三助は、寛文四年、被召出(めしいだされ)、江戶詰(えどづめ)の時、伊勢國の、与茂都といふ座頭を、藤堂和泉侯(とうだういづみこう)御抱(おかかへ)にて、調子占(てうしうら)[やぶちゃん注:人の声を聴いてする占い。「五音(ごいん)の占(うらない)」。]をする事、古今(ここん)の名人也。

 三助、

『懇望。』

に思ひ、或時、与茂都方(かた)へ行(ゆき)、

「囘生(くわいせい)の吉凶禍福、占ひ玉はれ。」

と賴み、調子を打(うち)ければ、与茂都、良(やや)暫(しばし)、考(かんがへ)、

「扨々(さてさて)、運、强(つよく)、命(いのち)、長き調子、さして名の髙き程の事は無けれども、命は九十を越すべし。乍去(さりながら)、一代の內(うち)、命を失(うしな)はんとする危(あやふ)き事、兩度(りやうど)あれども、是(これ)も、運、强ければ、其(その)難を遁れ玉ふべし。」

と、いひぬ。

 三助、礼を云(いひ)て、屋敷へ、歸りぬ。

 無程(ほどなく)、其年(そのとし)、御國(みくに)へ下りて、後妻を迎け(むかひ)るが、一兩年、過(すぎ)、不緣(ふえん)にて、離別す。

 其翌年、右妻の親、御用人にて有(あり)けるが、銀(ぎん)[やぶちゃん注:金(かね)。]・米(こめ)、引負(ひきおひ)、其外、御掟(ごぢやう)、背(そむ)く事、有(あり)て、露顯(ろけん)し、其(その)者は、御仕置(おしおき)に逢ひ、近類(きんるゐ)、不殘(のこらず)、追放、或(あるい)は、扶持(ふち)・切米(きりまい)、被召放(めしはなたれ)ぬ。

 三助は、離別の以後なれば、何事もなく、難を遁(のが)れぬ。

 三助は、潮江、四つ辻の西に、住居(すまひ)す。[やぶちゃん注:「すまふ」は「住まふ」の連用形が名詞化したもので、それに「住居」を当て字したものであるから、「すまゐ」とするのは誤りである。]

 或年、冬、朝、起(おき)て、茶の間へ出(いで)けるに、下女、茶釜を洗ひ、竃(へつつい)へ掛置(かけおき)けるが、屋根裏に掛置し、傘、落(おち)て、茶釜の緣(ふち)を、打(うち)こぼちければ、三助、見て、

「惜(をし)き事也(なり)。祕藏の茶釜、若(もし)、底に痛みは出來(いでき)ぬや。」

と、茶釜を、目通(めどほ)りに、差上(さしあげ)、眼(ウカヾ[やぶちゃん注:ママ。最後に「フ」が脱字したものであろう。但し、国立公文書館本50)でも同じく脱字している。])抔(など)して居(を)る所へ、何かは不知(しらず)、茶釜の底へ、

「くわん」

と、當(あた)りぬ。

 餘り、當り、强ければ、茶釜、持(もち)ながら、仰(あふむ)けに倒(たふ)れける。

 扨(さて)、起上(おきあが)り、その邊(あたり)を見るに、卷藁(まきわら)射る、稽古矢、一筋(ひとすぢ)、有(あり)。

 其(その)箆(の)[やぶちゃん注:矢の先頭の鏃(やじり)を除く、篠竹(しのだけ)で作る部分の称。「矢柄」とも言う。]に

「谷次郞兵衞」

と、小刀(こがたな)にて、彫付(ほりつけ)、有(あり)。

 三助は、南側、次郞兵衞は、北側にて、門(かど)、合(あは)せ也。

「何ぞ、我等へ、意趣(いしゆ)有(あり)て、射掛(いかけ)たるべし。矢を持參し、詮義[やぶちゃん注:ママ。]せん。」

とて、既に、大小、指(ささ)んとする所へ、次郞兵衞、肝(きも)を消したる樣子にて、走り來(きたり)て云(いはく)、

「先づ、御斷(おんことわり)申候。唯今、卷藁へ、掛(かか)り弓(ゆみ)、稽古致す處、寒き朝なれば、手前、違(たが)ひ、矢、それて、此方(こなた)の窓に入(いり)たると、見へたり。扨々、過怪我(あやまちけが)[やぶちゃん注:誤って、しでかした事。]とは申(まうし)ながら、面目次㐧(めんぼくしだい)も無き仕合也(しあひなり)。」

と斷(ことわり)を述(のべ)ければ、三助、茶釜に當りたる始終の咄(はなし)をしければ、次郞兵衞、安堵して、歸(かへり)ける。

 三助、爰(ここ)に於(おい)て、與茂都が占(うらなひ)し兩度(りやうど)の難(なん)を遁(のが)れ、占の名人なる事を感じぬ。

 三助、立身し、子孫繁昌にて、年九十餘(あまり)、享保の初(はじめ)、終(をは)りぬ。

 與茂都は、江戶にて、名誉の占者《せんしや/せんじや/うらないじや/うらなひびと/うらおき》にて、ありける。

 

[やぶちゃん注:「寛文四年」一六六四年。徳川家綱の治世。

「藤堂和泉侯」伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた津藩第二代藩主藤堂高次(慶長六(一六〇二)年~延宝四(一六七六)年:藤堂高虎の嫡男。寛文九(一六六九)年に隠居している)のこと。]

2024/09/18

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 永田段作殺狼

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

      永田段作殺狼(おほかみをころす)

 西川村(にしがはむら)、郷士(がうし)、永田段作(ながただんさく)と云(いふ)者、娘を一里斗(ばかり)隣村(とんりむら)へ、緣付(えんづけ)しが、宝永五年五月十五日の夜、娘、平產し、

「初產(うひざん)の事成(ことな)れば無心許(こころもとなし)。」

とて、其夜(そのよ)、段作、見舞(みまひ)に行(ゆき)しが、存外、安產にて、肥立(こえだち)ければ、其夜、

「直(すぐ)に可歸(かへるべし)。」

と云(いひ)けるに、老人の義、殊に夜も更(ふけ)候へば、

「明日、早々、御歸可然(しかるべし)。」

と、留(と)めけれども、

「自分、手作(てさく)の最中(さいちゆう)、疎外(おろそかのほか)、取込居(とりこみをり)候。」[やぶちゃん注:「手作」自作している最中の物があったことを指す。藩士より格下の郷士であり、日々の生活も不如意で、農耕なども行っていたから、そうした、明日にも使いたい農機具を、丁度、作っていた最中だったのかも知れない。「疎外」は「近世民間異聞怪談集成」の字起こしだが、読みに疑問が拭えず(私は江戸時代以前の書物で「疎外」という熟語を見た記憶がないからである)、最後まで、崩し字を別な判読で出来ないか探ったが、やはり「疎外」以外にはなかったので、かく自信のない訓を附さざるを得なかった。]

とて、夜更(よふけ)、一人、歸(かへり)けるが、坂中(さかなか)にて歯朶原(しだはら)より、山犬(やまいぬ)、一疋、飛出(とびいで)、段作が跡へ成(なり)、先へ成(なり)、付(つけ)ねらひける。[やぶちゃん注:狼が人を襲う場合の行動様式として、古い作品によく出て来るものである。逆に山神の使者としての狼が、山中から帰る人間を守る際にも、全く同じ方法で送ることでも知られる。]

 段作、居合(ゐあひ)の覚(ぼえ)、有(あり)ければ、時合(じあひ)[やぶちゃん注:「頃合い」。]を見合(みあはせ)、拔打(ぬきうち)に切付(きりつけ)ると、ひとしく、山犬は、何方(いづかた)へ行(ゆき)けん、其儘、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず成(なり)りぬ。

『扨(さて)は。「眞二つに切(きり)たる。」と思ひしに、仕損(しそんじ)たるこそ、殘多也(のこりおおきなり)。』

とて、刀を見れば、血、たまりぬるを、麓(ふもと)の流(ながれ)にて、洗ひ、宿(やど)へ歸り、妻子共(さいしども)へ、娘が安產の咄(はなし)して、休みける。

 其後(そののち)、廿日(はつか)斗(ばかり)過(すぎ)て、家内(いえうち)に、何やら、惡(あし)き臭(カザ)、出(いで)て、其臭(そのかざ)、日を追(おひ)て、次㐧(しだい)に盛(さかん)に成(なり)、後(のち)は、食事も難敷(むつかしき)体(てい)也。

 色々、詮義[やぶちゃん注:ママ。](せんぎ)すれ共(ども)、不知(しれざり)しが、段作次男、

「能々(よくよく)、考れば、何分(なにぶん)、親父殿(おやじどの)寐間(ねま)より出(いづ)るやうに覚ゆ。」

とて、段作が居間の疊を揚げ、敷板(しきいた)、はづし、床(ゆか)の下を見れば、大成(おほいなる)山犬、切られながら、紐皮(ひもかは)[やぶちゃん注:細い紐を連ねたようになった狼の皮革。]斗(ばかり)殘(のこり)て、死(しし)し、その切口の肉、くさり、たゞれて、六月の頃なれば、臭氣に吐逆(とぎやく)し、氣(き)、塞(ふさが)る斗(ばかり)也。

 直(ただち)に引出(ひきいだし)、野原にて、燒捨(やきすて)たり。

 其時、段作、云(いひ)けるは、

「先夜(さきのよ)、娘方(むすめがた)より、歸る時、坂中(さかなか)より、山犬に付(つけ)られ、其儘、切(きり)たりしが、扨(さて)は、山犬、我跡を、したひ、忍入(しのびいり)、

『敵(かたき)を取(とる)べし。』

と、思ひしに、深手(ふかで)なれば、本望(ほんもう)達(たつ)せず、死(しし)たる成(なる)べし。」

と語りければ、家內の者、初(はじめ)てその事を聞(きき)、山犬の怨念(をんねん)の深き事を、しれり。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:「西川村」高知県の旧香美郡西川村(にしがわむら)現在の香美市・安芸市・香南市に跨って存在した。「Geoshapeリポジトリ」の旧「高知県香美郡西川村」のページで現在の国土地理院図で赤で囲った旧村域が確認出来る。まさに鬱蒼たる内陸の山林を村域とする不思議な形状をした地区である。この「野川」の旧地名は「ひなたGPS」の戦前の地図でも、最早、確認出来ず、旧同地区に「野川」の名は残っていない。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 神祭之節 ギヨウジ

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。「ギヨウジ」はママ。]

 

     神祭之節(しんさいのせつ) ギヨウジ

 城下近辺、神祭に、「行事(ぎやうじ)」と称し、神の形代(カタシロ)に、十歲より、十二、三歲の童(わらは)、白粉(おしろひ)にて、顏を塗り、明衣(あかはたり)[やぶちゃん注:神事・儀式に用いる浄衣(じょうえ)。「あけのころも」「あかは」とも読む。]を飾(かざり)、神主、祈念すれば、睡眠《すいめん/すいみん》するを、馬に乘せ、脇より、大勢、聲を上(あげ)てゆくに、睡眠し、不知(しらず)。

 祭(さい)、終り、神前に、おゐて[やぶちゃん注:ママ。「於いて」。]、神主、又、耳に附(つけ)て、祓文(はらひもん)を誦(じゆ)すれば、其儘、睡(ねむり)、覚(さむ)る事也。

 是(これ)、遠境(ゑんきやう)の祭禮に無き事にて、他國にも、此(この)傳(つたへ)、なき事、とぞ。

 神変不測(しんぺんふそく)の至(いたり)也。

 先年(せんねん)、秦山翁(じんざんをう)より、此(この)行事の事を、澁川春海翁へ、委細(ゐさい)、書記(かきしる)して、見せられければ、春海、甚(はなはだ)感じける、と也。

 京の「藤森祭(ふじのもりまつり)」に、婦女、馬に乘行(のりゆく)事あれども、是は、給仕の爲(ため)にて、形代(かたしろ)に、あらず。

 

[やぶちゃん注:『城下近辺、神祭に、「行事(ぎやうじ)」と称し、……』高知城城下の近辺となると、高知城内及び城下の総鎮守であるのは、高知八幡宮であるが、この語り口は、明らかに同神社ではない。この儀式、子どもを形代とするに、何らかの薬物を使用したか、或いは、睡眠術にかけているのは明白で、覚醒の直前の神主の仕草から、後者の可能性が大である。或いは、これ、そのやり口が、淫祠邪教に近いものと受け取れるので、敢えて神社名を伏したものと推定される。

「秦山翁」既出既注の谷秦山。

「澁川春海翁」(しぶかははるみ/しゆんかい 寛永一六(一六三九)年~正徳五(一七一五)年)は前のリンク先に出ている秦山の師の一人。小学館「日本国語大辞典」によれば、『江戸初期の暦算天文学者。京都の人。幕府碁方安井算哲の長男。本名』は安井『算哲。通称』、『六蔵・助左衛門。社号は土守霊社。春海』『は字(あざな)。のち、渋川と改姓。家業を継いで幕府の碁方となり、また、宣明暦を改め』、『貞享暦を作り』、『天文方になった。著書「天文瓊統(けいとう)」「日本長暦」など』とある。

「京の藤森祭」現在の京都府京都市伏見区深草鳥居崎町(ふかくさとりいざきちょう)にある藤森神社(グーグル・マップ・データ)で、現行、五月五日に渡って行われる曲乗りが演じられる「駈馬(かけうま)神事」で知られる。但し、婦女が乗馬する画像は、画像検索で調べたが、見当たらなかった。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 蜚蟲(あぶらむし)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      蜚   蟲(あぶらむし)

 

 鍵の穴のやうに、黑く、ひつついてゐる。

 

[やぶちゃん注:『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「あぶら蟲」』では、最後を『ぺしやんこだ。』と改訳している。逐語的には、こちらの方が正しいし、改訳では、ブッ叩いたアブラムシを想像して、私には不快感がある。「ひっついてゐる」ようで、「鍵の穴のやうに」平べったい(まさに「ぺしやんこ」)種で、フランス中部に棲息するもの、そして、如何にもな脚や突起物が目立たないことを考える(「鍵の穴」の見かけ)と、我々にもお馴染みな、ゴキブリ目オオゴキブリ亜目チャバネゴキブリ科チャバネゴキブリ属チャバネゴキブリ Blattella germanica が相応しいように思われる。当該ウィキによれば、『ゴキブリ成虫の雌雄は尾部に突起物(尾刺突起)があるかないかで区別されるところ、本種にはこのような突起はない』とあるからである。なお、同種『はクロゴキブリなどが属する狭義のゴキブリ科』Blattellidae『の仲間ではなく、ゴキブリ科と近縁にあたるシロアリとも縁遠い種類である』とあった。しかし、色は茶褐色であるから(子どもの時は黒い)、同定としては、その点でアウトだ。黒いとなると、本邦のクロゴキブリに、やや見かけが似ているゴキブリ科  Blatta 属トウヨウゴキブリ Blatta orientalis が有力候補となるか当該ウィキによれば、『クリミア半島および黒海、カスピ海地域が原産であるが』、『現在では世界中に分布している』とあり、フランス語のウィキのゴキブリ目=「Blattaria」「有害種」の項に上がっているから、フランスにもいることは確実である。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 石南

 

Ookanamemoti

 

しやくなぎ  風藥

       【和名止比良乃木

        俗佐久奈無佐】

石南

      【今云止比良乃木

       者非是出于香木

シツ ナン     木下】

 

本綱石南生山石閒向陽之處故名其葉似枇杷葉之小

者而背無毛光而不皺正二月閒開花冬有二葉爲花苞

苞既開中有十五餘花大小如椿花甚細碎毎一苞約彈

許大成一毬一花六葉一朶有七八毬淡白綠色葉末微

赤色花既開蘂滿花伹見蘂不見花花纔罷去年綠葉盡

脫落漸生新葉也秋結細紅實

 凡京洛河北河東山東頗少湖南江西二浙甚多

葉【辛苦有毒】 能添腎氣古方爲治風痺腎弱要藥今人絕不

 知用女子不可久服令思男

△按石南花和州葛城紀州高野及深山谷中有之京師

 近處亦稀有之東北州絕無之性悪寒濕也三四月開

 花淡紅色秋結細子紅色春舊葉未落新葉生交代也

 竊考此非眞石南花蘇恭所謂欒荆也乎

欒荆【一名頑荆】 本綱其莖葉似石南乾亦反卷經冬不死葉

 上有細黒㸃此與倭石南花應

 

   *

 

しやくなぎ  風藥

       【和名「止比良乃木《とびらのき》」。

        俗、「佐久奈無佐《さくなむさ》」。】

石南

      【今、云ふ、「止比良乃木」は、

       是れに非ず。「香木」の

シツ ナン     木の下に出づ。】

 

「本綱」に曰はく、『石南は山石《さんせき》の閒《あひだ》、陽に向《むかふ》の處に生ずる。故に名づく。其の葉、「枇杷《びは》」の葉の小さき者に似て、背に、毛、無く、光ありて、皺(しは)まず。正・二月の閒《かん》、花を開く。冬、二葉《にえふ》有りて、花苞《くわはう》と爲《な》る。苞、既に開きて、中《うち》≪に≫十五餘《あまり》≪の≫花、有り。大≪いさは≫、小≪さく≫、椿《ちん》の花のごとく、甚だ細《こまか》に