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2025/02/12

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「夏の雨の前」

 

 夏の雨の前

 

急に庭苑のすべての緣(へり)から、

何かしらぬ或物が取去られた。

庭苑が窗々に近よつて、默つてゐるのが

感ぜられる。木立からは雨告鳥が

 

さし迫つて强く聞えて來る。

ヒイロニムスのやうな人が思はれる。

それ程にある寂しさと熱意とが

この一つの聲から高まる。その聲を

 

大雨は聞くだらう。廣間の壁は

その畫と一所に我々から遠ざかつた。

我々の云ふことを聞いてはならぬやうに。

 

色のあせた壁紙のうつすのは、

子供の時に恐れられた

午後の、あの不確(ふたしか)な光。

 

[やぶちゃん注:この原詩は、ドイツ語の「Wikisource」のここで、電子化されてある(リルケのドイツ語フル・ネームと「ヒイロニムス」の綴り(ドイツ語の“Hieronymus Kirchenvater)”(“Kirchenvater”は、「教父」のドイツ語で(音写「キィルヒェン・ファータァ」)、ウィキの「教父」によれば、『キリスト教用語で古代から中世初期』、二『世紀から』八『世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、とくに正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人々を』指す、とある)のフレーズで見出せた)。

   *

 

VOR DEM SOMMERREGEN

 

Auf einmal ist aus allem Grün im Park

man weiß nicht was, ein Etwas, fortgenommen;

man fühlt ihn näher an die Fenster kommen

und schweigsam sein. Inständig nur und stark

 

ertönt aus dem Gehölz der Regenpfeifer,

man denkt an einen Hieronymus:

so sehr steigt irgend Einsamkeit und Eifer

aus dieser einen Stimme, die der Guß

 

erhören wird. Des Saales Wände sind

mit ihren Bildern von uns fortgetreten,

als dürften sie nicht hören was wir sagen.

 

Es spiegeln die verblichenen Tapeten

das ungewisse Licht von Nachmittagen,

in denen man sich fürchtete als Kind.

 

   *

しかし、これを見ると、第一連一行目、

   *

Auf einmal ist aus allem Grün im Park

   *

は、機械翻訳に手を入れるなら、

   *

急に公園のすべての綠(みどり)から、

   *

の誤訳(茅野は、わざわざ「へり」とルビを振っていることから、恐らく、茅野自身の初期訳稿で「綠」としたものを、自ら判読を誤って――しかも、原詩との対照点検を怠って――「緣(へり)」としてしまったこと)が推定される。事実、岩波文庫の校注に、一『行目「縁(へり)」は』再版『『詩集』でもこのままだが、「緑」の誤りと思われる』とあるのである。

「雨告鳥」(あまごひどり)原詩“Regenpfeifer”。これは、ドイツ語のウィキのここによって、鳥綱新顎上目チドリ(千鳥)目 Charadriiformes を指すことが判る。チドリ目はウィキの「チドリ目」によれば、『チドリ類、カモメ類、アジサシ類などの水鳥・海鳥を中心に』十九『科、約』三百九十『種を含む』とあるが、そもそも「雨告鳥」という和語は、一般的ではない。小学館「日本国語大辞典」にも見出しがない。但し、同辞典には、「あまごい-どり」があり、『【雨乞鳥】』とあって、『(この鳥が鳴くと雨が降るというところから)』鳥の『「あかしょうびん(赤翡翠)」の異名(初出例を「大和本草」とする)とある。ブッポウソウ目カワセミ科ショウビン亜科ヤマショウビン属アカショウビン Halcyon coromanda は、当該ウィキによれば、「伝承」の項に、『和歌山県では本種を方言名でミズヒョロと呼ぶ』。「中辺路町誌」(なかへちちょうし)『に「ミズヒョロと呼ぶ鳥」との記事があり』、その内容は、『「果無山脈」(はてなしさんみゃく:和歌山県と奈良県の県境沿いに位置する山脈)『など』の『奥地に』、『赤く美しい鳥が』、『雨模様の時に限って』「ひょろひょろ」『と澄んだ声で鳴く。この鳥は』、『元は娘で、母子二人、この山の峰伝いで茶屋をしていた。母が病気になり、苦しんで娘に水を汲んでくるように頼んだ。娘は小桶を持って谷に下ったが、綺麗な赤い服を着た自分の姿が水面に映っているのに見とれてしまった。気がついて水を汲んで戻ったときには母はすでに事切れていた。娘は嘆き悲しんで』、『いつしか赤い鳥に生まれ変わった。だから普段は静かに山の中に隠れ、雨模様になると』「ひょろひょろ」『と鳴き渡る」』とあるとあり、和歌山県日高郡の旧『美山村での伝説として』「みずひょうろう」として、『母子がすんでいたのは』、『この話では』、『美山村の上初湯川(かみうぶゆかわ)で、娘は素直に母の言葉を聞かない子だった。そのため』、『明日をも知れぬ状態の母はどうしても水が飲みたくて』「赤い着物を着せてあげる」『から汲んできて欲しいと願う。娘は大喜びで着替えて井戸に向か』ったが、『井戸に映った』自身の『姿に見とれ、結局』、『汲んで戻ったものの』、『母はすでに死んでいた。娘は自分を恥じて泣き、とうとう井戸に飛び込んだ。そこに白い毛の神様が出てきて』「お前のように言うことを聞かない子は鳥にでもなってしまえ」『と言うと、娘は赤い鳥に変わり、今もこの地方の山奥で』「ミズヒョロ、ミズヒョロ」『と鳴いている、という』とあった。他に、『龍神村でも』、『この鳥の伝説を拾ってあ』るが、『上記二つの話を』、『さらに簡素にしたようなものである』。そこでは、『夏に日照りが続くほど』、『高いところで鳴き、雨が続くと』、『里に下』って『くること、その泣き声が哀調を帯びていて』、『母を助けられなかった嘆きのようだとある』。『龍神村では』、『また』、『単にミズヒョロが鳴くと雨が降る』、『との言い伝えもあったらしい。さらに上記の伝承との関連か』、『ミズヒョロは』「水欲しい、水欲しい」『と鳴いているとも伝えられ』、或いは、『子供に川に洗濯にやらせたとき、あまり遅いと』「そんなことをしていると、ミズヒョロになるぞ」『と脅したとも言う』と、興味深い民話しがあるものの、アカショウビンの分布は、『北は日本と朝鮮半島、南はフィリピンからスンダ列島、西は中国大陸からインドまで、東アジアと東南アジアに広く分布する。北に分布する個体はフィリピン諸島、マレー半島、ボルネオなどで越冬する』とあって、ドイツには棲息しないから、これには同定出来ない。茅野(長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)出身)が、何故、「チドリ」を「雨告鳥」と訳したのか、よく判らない。チドリ類は水辺に近いところに棲息するが、ドイツ語の「チドリ目」を機械翻訳しても、雨を告げるといった内容は、見当たらない。そもそも、「雨告鳥」という語を見た日本人は、まず、大多数は、燕の低空飛行を想起するであろう。ウィキの「ツバメ」によれば、『ツバメが低く飛ぶと雨が降る』という俚諺は、『観天望気(天気のことわざ)の一つで、天気が悪くなる前には湿度が高くなり、ツバメの餌である昆虫の羽根が水分で重くなって低く飛ぶようになり、それを餌とするツバメも低空を飛ぶことになるからと言われている』とある。しかし乍ら、ツバメはチドリ目とは無縁な、スズメ目 Passeriformesツバメ科ツバメ属ツバメ Hirundo rustica である。万事休す。識者の御教授を切に乞うものである。

「ヒイロニムス」エウセビウス・ソポロニウス・ヒエロニムス(Eusebius Sophronius Hieronymus 三四二年頃、或いは、三四七年頃~四二〇年)は、平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『聖書学者、聖人。英名ジェロームJerome。《ウルガタ》版ラテン語聖書の翻訳者』。イタリアの『アクイレイア近傍のストリドンの出身。ローマで学び』、三七四『年』頃、『東方に向かった。アンティオキア』(トルコ南部の小都市アンタキヤの古称)『でアポリナリオス』(Apollinarios:シリア生まれ。キリスト論に関する異端アポリナリオス主義の主唱者)『の講義を聞いて大いに刺激されたが、非キリスト教文学への関心が修道生活の妨げとなることを悟って、シリアの砂漠に逃れ』、四、五『年の間、隠修士の生活をおくり、その際にヘブライ語を習得した』。三八二年~三八五『年にはローマに戻り、教皇ダマスス』DamasusⅠ『世』『の秘書をつとめた。その後』、『再び東方に赴き、ベツレヘムに落ち着き、新設の修道院を主宰しながら聖書の研究と翻訳にたずさわった』。四『世紀の後半、聖書のラテン語訳はさまざまの版が流布し、混乱状態にあった。そこで教皇ダマススはヒエロニムスにラテン語訳の改訂をすすめた。新約聖書のうち』四『福音書の改訂』乃至『改訳は』三八四『年に終わったが、他の部分にはヒエロニムス自身は手をつけなかったらしい』「旧約聖書」『について、ヒエロニムスは』、『まず』、『正典の考え』方『に立ち、今日』、『外典』(がいてん:アポクリファ(Apocrypha))『とされる部分を省き、次にヘブライ語原典からの翻訳を主張して、それを実行した。ヒエロニムスの訳業が』直ちに『西方教会で採用されたわけではないが』、次第に『その優秀さが認められ、後代の手が加えられて、《ウルガタ》版が成立した。これが』十六『世紀後半のトリエント公会議で』、『カトリック教会の唯一の公認ラテン語訳聖書と定められた。ヒエロニムスはそのほか、エウセビオスの』「教会史」、オリゲネスやディデュモス『などの著作のラテン語訳を行い、異端との闘いにも積極的に加わった』。彼の図像は、『一般に老人の姿をとり、手にした石で裸の胸を打つなどの苦行場面(』十五~十八『世紀に好まれた)、机に向かって翻訳や読書に励むさま、枢機卿(彼はその役割を果たしていた)の服と帽子をつけた姿などが表される』。「四大ラテン教父」『の』一人『としても登場する。持物は、足の刺(とげ)を抜いて助けたところ、以後』、『聖人に仕えたと伝えられるライオン、悔悛を象徴する』髑髏(どくろ)、『伝説にまつわるツグミなど』である、とある。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「盲ひつつある女」

 

 盲ひつつある女

 

その女(ひと)は他の人々のやうにお茶に坐つてゐた。

私には何だか其女が茶椀を

他人とは少し違つて持つやうに思へた。

一度ほほ笑むだ。痛ましい程に。

 

終に人々が立上つて話をし、

偶然ではあつたが、徐ろに多くの部屋を

通つて行つた時、(人々は話した、笑つた、)

私はその女を見た。その女は他の人々の後をついて來た。

 

直ぐ歌はなくてはならない人のやうに、

しかも大勢の前で、控目に、

喜んでゐるその明るい眼の上には、

池の面へのやうに外からの光があつた。

 

その女は靜に從(つい)て來た。長くかかつた。

何かをなほ越さなかつたやうに、

しかし、越した後は、もう

步かずに飛翔するだらうと思ふやうに。

 

[やぶちゃん注:「終に」ここは、「つひに」だろう。

「面へ」これは、「おもへ」であろう。]

2025/02/11

ブログ・カテゴリ「小泉八雲」の正字化不全を鋭意修正中

今年秋の朝ドラ「ばけばけ」の関係かららしく、私の小泉八雲の作品群(私は2020年1月15日にブログ・カテゴリ「小泉八雲」――現在は全659記事――で、彼の来日後の作品集全十二冊総ての電子化注を完遂している)へのアクセスが有意に増えている。しかし、その大半は、Unicodeを使いこなすようになる前のものであったため、正字表現が甚だ不全である。されば、諸電子化注の合間に、少しずつ、古い物から、本気を出して、正字への変更を始めている。完全に視認で確認し、底本を確認して打ち換えるため、かなりの時間が必要であるが、ドラマの開始までには、その作業を終えたいと思っている(よくアクセスされる一部は、既に、多少は修正済みではある)。御希望を下されば、フライングして修正しようとも思っている(実際、二、三年前からそうしたメールを戴き、修正している)。視力の低下が進み、なかなか、物理的に時間が掛かるが、頑張りたい。無論、何より――私の愛する小泉八雲ために――である。

なお、訳者によって、「!」「?」の後に一マス空ける仕儀を行っていない場合があったが、これは、やはり、躓くので、一字空けを恣意的に施した。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「蛇怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。□は脱字。] 

 「蛇怪」  有渡郡澁川村《うどのこほりしぶかはむら》にあり。傳云、當村三島の社は、除地《じよち/よけち》也。是、寳龜十年[やぶちゃん注:七七九年。光仁天皇の治世。]爰《ここ》に祭る處也。今村中《むらぢゆう》の土神《うぶすな》とす。明和二年寅[やぶちゃん注:一七六五年。徳川家治の治世。但し、この年は「乙酉(きのととり)」である。これが、月の干支であるとすれば、戊寅(つちのえとら)の一月となる。]の□月、竿入《さをいれ》[やぶちゃん注:江戸時代の検地の別称。検地のために間竿(けんざお)で地積(ちせき:土地面積)を測量すること。「竿打ち」「繩打ち」とも言う。]の時、除を廢して收公《しうこう》とせんとす。時に大蛇出現して、怒《いかり》の色あり。官吏等《ら》忽《たちまち》氣絕す。爰に於て、其企《くわだて》を止《や》む。云云。神威を恐《おそる》るなるべし。

 [やぶちゃん注:「有渡郡澁川村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『渋川村』『しぶかわむら』とし、『静岡県』の旧『引佐郡引佐町渋川村』『現在地名』『引佐町渋川』とあり、『都田(みやこだ)川(久留女木川』(くるめきがわ:都田川の上流部の川名)『の上流域に位置し、西方の浅間(せんげん)山(』五百十九『メートル)から村域最北端の鳶(とび)ノ巣(す)山(』六百六十九『・五メートル)に至る尾根は三河国との国境をなす。東は豊田(とよだ)郡神沢(かんざわ)村(現天竜市)、南は別所(べっしよ)村・久留女木(くるめき)村。当地の長山家は天文八』(一五三九)年)『九月吉日の年紀銘をもつ鰐口を保管しており、その銘文から鰐口は同月に「伊那佐郡渋河大平村泉徳寺」に奉納されたものであることがわかる。天正三』(一五七五)年『五月六日の武田家禁制(写』本・『中村文書)は当村に下されたものとされており』、「三河長篠合戦」『に出陣する武田軍が当村を通行するにあたって』、『軍勢の濫妨狼藉を禁じている。寛文年中(一六六一』年~一六七三年)『以降に東光(とうこう)院の住持が書いたと推定される』「井伊家澁川村古跡之事」『(龍潭寺文書)によると、当村に居住した井伊直之(法名前遠州大守温渓良知大禅定門)は正和五』(一三一六)年『に没したと伝える』とあった。ここは、現在は静岡県浜松市浜名区引佐町渋川(いなさちょうしぶかわ)で、ここ(グーグル・マップ・データ)であるが、現行のその地区には「三島の社」はない。最も近い静岡県浜松市浜名区細江町中川にある「三島神社」(グーグル・マップ・データ)でも、渋川の飛地の端からは、南方に八キロメートルも隔たっている(グーグル・マップ・データ)。この現在の三島神社を調べても、渋川村にあった三島神社を合祀した記録はない。ただ、「ひなたGPS」の戦前の地図を見るまでもなく、渋川は、かなりの山間部であること、戦前の地図を見ると、渋川周辺にあった神社(渋川地区の外延直近)が、現行では、消滅していることが確認出来る(例えば、ここ)。さらに、この消滅した神社は、都田川沿いの蛇行部にあったこと、さらに、何より、現在の「三島神社」自体も、都田川の下流の沿岸(分岐部)にあることから、この大蛇出現(大蛇は水界と強く関連する)も、都田川と強い連関を感じさせるのである。則ち、都田川上流の神社群が、明治の国策の神社合祀で、合祀されてしまった可能性を推測出来るように私には思われた。渋川周辺の郷土史研究家の見解を伺いたく存ずるものである。

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「詩人」

 

 詩 人

 

時間よ、お前は私から遠ざかる。

お前の翼搏(はばたき)は私を傷つける。

しかし、私の口を、私の夜を、

私の日をどうしよう。

 

私は持たない、戀人を、

家を、その上に立つ處を。

私が自己を與へる萬物は

富むでまた私を出し與へる。

 

[やぶちゃん注:「出し」「いだし」。]

2025/02/10

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「奇獸」

[やぶちゃん注:底本はここ。割注で鍵括弧を施した。]

  

 「奇獸」  有渡郡大谷村《おほやむら》にあり。當村瑞現山大正寺《だいしやうじ》【「正」は「祥」に作る。曹洞、寺領三十石】〕の記云《いはく》。傳云《つたへいふ》、開山《かいさん》[やぶちゃん注:寺のそれは、一般に「かいさん」と清音で読む。]行之禪師《ぎやうしぜんじ》は長享年中[やぶちゃん注:一四八七年から一四八九年まで室町幕府将軍は足利義尚。]の人也。始《はじめ》、宮川村滿泉寺に住す。後、當寺を草創す。時に長尾《ちやうび》の白狐《びやくこ》、三足《みつあし》の野鷄《やけい》[やぶちゃん注:キジの別称。]あり、瑞兆の異を呈し、又《また》淺畑《あさばた》の湖神《こしん》、老女に變じ來《きたり》て護法師となる、云云。佛氏の奇を唱へて土俗を迷はす癖《くせ》にして信じ難し。

 [やぶちゃん注:「有渡郡大谷村」現在の静岡市駿河区大谷(グーグル・マップ・データ)などに相当する。

「瑞現山大正寺」現在の大谷のここに現存する(グーグル・マップ・データ)。応仁・文明の頃、今川氏の臣で桜井信濃守の子であった、行之正順和尚が創建した。本尊は薬師如来。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、やや低い丘陵地(寺の東北直近には軍の「大谷射擊場」とある)であったことが判る。

「淺畑の湖神」これは、平凡社「日本歴史地名大系」に、『浅畑沼』(「湖」ではなく、「沼」である)『あさばたぬま』とし、『静岡県』『静岡市旧安倍郡地区浅畑沼』で、現在の『静岡市街の北東、麻機(あさばた)地区にあった沼。近世からの新田開発』及び『昭和』四十『年代から』五十『年代にかけて』、『集中的に実施された水路整備・県営圃場整備などによって、現在は』、『ほぼ消滅している。「静岡県史」』の『自然災害誌によると、沼が存在したのは巴(ともえ)川上流域の麻機低地とよばれる地域で、静岡平野の主体をなす安倍川扇状地の北の埋残』(うめのこ)『し部分に相当する。なかでも現在の流通』『センター付近』(グーグル・マップ・データでここ。右中央に「大正寺」を配した)『は最も標高が低く、六、七メートルにすぎない』とある。「ひなたGPS」で流通センター附近を見ても、沼のようなものは、認められない。されば、「淺畑沼」は既にその時点で消滅しているようである。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「臺所町無井」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「臺所町無井《だいどころまち ゐ なし》」  有渡郡府中臺所町にあり。傳云《つたへいふ》。府中臺所町は絕《たえ》て井戶なし。徃昔《わうじやく》、弘法大師東遊の時、玆《ここ》に來《きたり》て水を乞ふ。農夫、其形《かた》ちの寠《やつる》を見て、賤《いや》しめ謾《あなど》りて云《いふ》。乞食《こじき》賣僧《まいす》にあたふる水更になし、早くゆけ云。大師忿怒《いかり》[やぶちゃん注:「忿怒」二字で読む。]て曰《いはく》、「後《のち》必《かならず》思ひ知る事あらん」と詈《ののしり》て去玉《さりたま》ふ。是よりして今に至《いたる》迄、井を堀《ほる》[やぶちゃん注:「堀」はママ。]に水なし。只《ただ》田間《でんかん》の水を引《ひき》て井とし、日用とす。云云。大師の事、詳《つまびらか》ならず。此地水脈無《なき》に據《よる》のみ。

 

[やぶちゃん注:弘法大師の伝承として各地に見える、法力に拠って、以降、呪われるという伝承である。

「有渡郡府中臺所町」平凡社「日本歴史地名大系」に、『台所町』『だいどころまち』と立項し、『静岡県』『静岡市駿府城下台所町』、『現在地名』を『静岡市伝馬町(てんまちょう)・相生町(あいおいちょう)一丁目・横田町(よこたまち)』とし、『鋳物師(いものし)町から北に延びる小路の入口にある両側』の『町。御台所町』(みだいどころちょう)『ともいう(以上、「町方繪圖」)。『元亀四』(一五七三)年『八月』二十七『日の武田家朱印状(中村文書)は宛所を欠くが、旧規のように魚座役代官を命じている。これは当地の中村家に対してのもので、同家は寛文年間(一六六一』~一六七三)年『まで当町にあったといい(「駿河志料」など)、往古は横田魚(よこたうお)町と称した』(「駿河記」)とあった。現在は、冒頭のそれは、静岡県静岡市葵区伝馬町で、ここ(グーグル・マップ・データ)。この地域は駿府城の東南直近に当たる。NPO法人「静岡市観光ボランティアガイド」作成になる「駿府ウエイブ」のここに、町名碑の設置を報知(写真有り)する中に、「台所町」の碑『(つつじ通り・スギ薬局前)』として、『台所町は駿府城の台所門(横内門)に通じるところにあったことに由来すると言われています。昔は横田魚町ともいわれ元亀年間』(一五七〇年~一五七三年)、『武田家より魚座』(うおざ)『を免許され』、『魚座があったという。また』、『当町は井戸を掘っても水が出ないとされ、そのいわれは、昔』、『弘法大師が諸国巡錫中』、『ここを訪れて水を所望したが、みすぼらしい姿をしていたために土地の者が断ったためという』と載っている。碑はここ(葵区相生町:グーグル・マップ・データ)で、「ストリートビュー」でもここで、見ることが出来る。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「豹 ――巴里の植物園で」

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「豹」

 

 

    ――巴里の植物園で

 

格子(かうし)の通り過ぎる爲めに

彼の眼は疲れて、もう何にも見えない。

彼には數千の格子があるやうで、

その格子の後に世界はない。

 

しなやかに强い足なみの音もない步みは

最も小さな輪をかいて廻つて、

大きな意志がしびれて立つてゐる

中心を取卷く力の舞踊のやうだ。

 

唯をりをり瞳の帷が音もなく

あがる。――すると形象は入つて

四肢の緊張した靜さを通つて行く――

そして心で存在を止(や)めるのだ。

 

[やぶちゃん注:「帷」「とばり」。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「女等が詩人に與へる歌」

 

 女等が詩人に與へる歌

 

すべてが開かれるのを御覽なさい。私だちもさうです。

私たちはさうした祝福に外ならない。

獸の中で血と闇とであつたものは

私たちの中で魂に育つた。そして

 

更に魂として叫んでゐる。あなたへも。

あなたは勿論それを風景のやうに

眼に入れるだけだ。軟かく、慾望もなく。

それ故私たちは思ふ、あなたは

 

呼ばれる人ではないと。しかしあなたは

私たちが殘りなく全く身を捧げる人ではないのか。

誰かの中で私たちはより多くなれませうか。

 

私たちと一緖に無限なものは過ぎ去る。

あなたはゐて下さい。口よ。私たちが聞く爲に。

あなたはゐて下さい。私たちに話す人よ、あなたはゐて下さい。

 

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 櫧木

 

Donguri

 

[やぶちゃん注:右下方に、殻斗(かくと:所謂、「どんぐり・団栗」の類の、実の基部に附いているもの。俗に「皿」「椀」「帽子」(最後のそれが私には親しい)等と呼ばれる部分)附きの「どんぐり」の実の図が添えてある。当たり前の絵のように見えるが、この添えた「どんぐり」には、甚だ、問題があるのである。このように「どんぐり」「先」がしっかり尖っており、全体がはっきりとスマート、細長いのは、実は、それほど多くない。私の認識では、私が跋渉の際に好んで食べるところの、双子葉植物綱ブナ(橅)目ブナ科シイ(椎)属スダジイCastanopsis sieboldii subsp. sieboldii が最もマッチする。但し、樹木図の方に描かれている実は、やや殻斗附近に至って、ふっくらとしているので、ブナ科マテバシイ属マテバシイ Lithocarpus edulis のそれと採れなくはない。ところが、東洋文庫訳の後注で、『良安は厳密にクヌギの子』(み)『のみを団栗としている』と断言しているのである。これは、確かに良安の評言の最後で、そのようにブイブイ言ってのだ! しかし、そうなると、この絵の実生の「どんぐり」も、右下のそれも、実は、ブナ科コナラ属  Cerris 亜属 Cerris 節クヌギ Quercus acutissima のそれということに採らないと、おかしいことになるのだ! しかし、クヌギの「どんぐり」は、直径が約二センチメートルと、「どんぐり」類の中では有意に大きく、しかも、ほぼ球形を成すから、逆立ちしても、こんな絵にはならないのだ! もし、良安が「どんぐり」をクヌギのみに限定しているのなら、こんな絵は絶対に描くはずがないのだ! 摩訶不思議なのである!?!

 

かしのき 苦櫧子

 かたき 【加之乃美】

櫧木

     橿【音江和名

       抄訓加之】

     唐韻此名萬年木

     字彙云鋤柄也

チュイ モツ   俗云樫木

 

本綱櫧山谷有之其木大者數抱髙二三𠀋葉長大如栗

葉稍尖而厚堅光澤鋸齒峻利凌冬不凋三四月開白花

成穗如栗花結實大如槲子外有小苞霜後苞裂子墜子

圓褐而有尖大如菩提子內仁如杏仁生食苦澀煑炒乃

帶甘亦可磨粉有苦甜二種此卽苦櫧子也【甜者鉤栗也】

 苦櫧子 大  粗赤  血櫧

    粒 木文  俗名

 甜櫧子 小  細白  麪櫧

又有子色黒者名鐵櫧並皆作屋柱棺材難腐也

                         衣笠內大臣

 新六切りたをす田上山のかしの木は宇治の川瀨に流れ來に

                          けり

[やぶちゃん字注:「たをす」はママ。「たふす」が正しい。訓読では訂した。]

△按苦櫧子【俗云加之堅字訓中畧也】其木堅剛故今俗多用樫字【猶以鰹字爲加豆於也】其

 花狀如栗花而短黃褐色長一寸許有白

 樫赤樫之二種而白樫葉稍小背淡白木理細宻以堪

 爲秤衡槍柄及棒杖等出肥州天草者最佳

赤樫以爲櫓櫂車軸及鋤柄等日向之產理宻而佳薩州

 之産次之

凡櫧之類皆冬亦葉不落伹木膚理色異

 六帖武士のやそ乙女らかふみとよむてらゐの上のかたかしの花

[やぶちゃん注:「六帖」は「万葉集」の誤り。作者は大伴家持である。訓読では訂した。]

  枕草帋云白樫は深山木の中にもいとけとをくて三位二位の

  うヘの衣そむる折はかりそ葉をたに人の見るめる

[やぶちゃん注:「けとをくて」はママ。「け遠(とほ)くて」が正しい。訓読文では、補正した。「はかりそ」も「は(=ば)かりこそ」が正しい。同前の仕儀を施した。]

 或以櫧子訓團栗者甚誤也團栗卽槲子也又以槲訓

 加之波者倍誤也

 

   *

 

かしのき  苦櫧子《くしよし》

 かたき  【「加之乃美」。】

櫧木

      橿《カウ》【音「江《カウ》」。

      「和名抄」、「加之《かし》」と訓ず。】

      「唐韻」、此れを「萬年木」と名づく。

      「字彙」に云はく、『鋤(くわ)の柄(え)

      なり。」≪と≫。

チュイ モツ   俗、云ふ、「樫木」。

[やぶちゃん注:「橿」の漢音は「キヤウ」(現代仮名遣「キョウ」)だが、それでは、「江」と合致しない。「橿」の呉音を見ると、「カウ」(コウ)であり「江」の漢音は「カウ」(コウ)で、呉音は「コウ」(コウ)であるから、厳密にはおかしいが、一応の辻褄は合うようには見える。「鋤(くわ)」はママ。「字彙」を確認すればいいのだが、膨大なため、まず、漢字は誤っていないとしてよいだろう。柄の強度を考えるなら、「クワ」より、より木部が支えのメインとなる「スキ」だと思う。「スキ」と振るべきところを、良安が勘違いしたと考えるべきであろう。本文にも出るが、再度出るが、そこは、補正記号で訂正した。

 

「本綱」に曰はく、『櫧《シヨ》は、山谷に、之れ、有り。其の木、大なる者、數抱《かかへ》、髙さ、二、三𠀋。葉、長大にして、栗《くり》の葉のごとく、稍《やや》尖《とが》りて、厚《あつく》、堅く、光澤≪あり≫。鋸齒、峻-利《しゆんり》[やぶちゃん注:非常に鋭いこと。]≪にて≫、冬を凌《しのぎ》て、凋まず。三、四月、白≪き≫花を開き、穗を成す≪こと≫、栗の花のごとく、實を結ぶ。大いさ、槲《コク》の子《み》のごとく、外(そと)に小≪さき≫苞《はう》、有り。霜の後、苞、裂(さ)けて、子、墜つ。子、圓《まろ》く褐≪色≫にして、尖《とがり》有り。大いさ、「菩提子《ぼだいし》」のごとく、內《うち》の仁《にん》、杏仁《きやうにん》のごとし。生《なま》にて食へば、苦く、澀《しぶ》く《✕→けれども》、煑《に》、炒《いため》れば、乃《すなはち》、甘《あまみ》を帶ぶ。亦、磨(ひ)いて、粉(こ)とす。苦《く》・甜《てん》[やぶちゃん注:甘い種。]の二種、有り。此れ、卽ち、「苦櫧子《くしよし》」【甜《あま》き者は、「鉤栗(いちい)」なり。】。』≪と≫。

[やぶちゃん注:以下、共通する箇所は、それぞれに挿入して、二種の対比的記載を明らかにした。]

「苦櫧子《くしよし》」は、粒《つぶ》、大≪にして≫、木の文《もん》、粗《あらき》赤、俗名、「血櫧《けつしよ》」。

「甜櫧子《てんしよし》」は、粒、小≪にして≫、木の文《もん》、細≪き≫白、俗名、「麪櫧《めんしよ》」。

又、子《み》の色黒《いろぐろ》の者、有り。「鐵櫧《てつしよ》」と名づく。≪「苦櫧子」《くしよし》」・「甜櫧子」と≫、並《ならびに》、皆、屋(いへ)の柱、棺(ひつぎ)の材と作《ざい》と作《なす》。腐り難き[やぶちゃん注:レ点はないが、返して読んだ。]なり。

「新六」

  切りたふす

     田上山《たなかみやま》の

   かしの木は

     宇治の川瀨に

          流れ來にけり  衣笠內大臣

△按ずるに、「苦--子(かし)」は【俗、云ふ、「加之《かし》」。「堅(かた)し」の字の訓≪の≫中畧なり。】。其《その》木、堅剛《けんかう》なる故《ゆゑ》、今、俗、多く、「樫」の字≪を≫用ふ【猶ほ、「鰹《かつを》」の字を以つて、「加豆於《かつお》」と爲《す》るがごときなり。】。其《その》花の狀《かたち》、栗の花のごとくにして、短く、黃褐色、長さ一寸ばかり。「白樫《しらかし》」・「赤樫《あかがし》」の二種、有りて、白樫は、葉、稍《やや》、小《ちさ》く、背《せ》、淡白《あはじろ》く、木《き》の理(きめ)、細宻《さいみつ》なり。以《もつて》、秤(はかり)の衡(さほ[やぶちゃん注:ママ。「竿(さを)」。])・槍(やり)の柄(ゑ[やぶちゃん注:ママ。])、及び、棒・杖等と爲《なす》≪に≫堪《たへ》たり。肥州天草より出≪づる≫者、最も佳し。

「赤樫《あかがし》」は、以つて、櫓・櫂、車軸、及び、鋤(くわ《✕→すき》)の柄(ゑ[やぶちゃん注:ママ。])等と爲すに堪《たへ》たり。日向の產、理《きめ》、宻《みつ》にして、薩州の産、之に次ぐ。

凡《およそ》、櫧《かし》の類《るゐ》、皆、冬も亦、葉、落ちず。伹《ただし》、木の膚《はだへ》・理《きめ》・色、異《こと》なり。

 「万葉」

   武士《もののふ》の

      やそ乙女《をとめ》らが

    ふみとよむ

        てらゐの上の

          かたかしの花

 「枕草帋《まくらのさうし》」云はく、『白樫《しらかし》は』、『深山木《みやまぎ》の中にも、いとけとほくて、三位《さんみ》、二位のうヘの衣《きぬ》、そむる折《をり》ばかりこそ、葉をだに、人の見るめる』≪と≫。

 或いは、櫧-子《かしのみ》を以《もつて》、「團栗(どんくり)」と訓ずるは、甚だ、誤《あやまり》なり。團栗(どんくり)は、卽ち、「槲(くぬぎ)の子(み)」なり。又、「槲《コク》」を以つて、「加之波《かしは》」と訓《くんずづ》は、倍(ますます)、誤《あやまり》なり。

 

[やぶちゃん注:まず、「本草綱目」の言う「櫧木」「櫧」(「苦・甜」を頭に持つ)「櫧子」というのは、

双子葉植物綱ブナ(橅)目ブナ科マテバシイ(馬刀葉椎・待椎)属シリブカガシ(尻深樫) Lithocarpus glaber

である。「維基百科」の同種「柯」に、『别名』に『子(江西)』とあるからである。

まず、私は不学にして、聴いたことがない樹木名であるが、ウィキの「シリブカガシ」を引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『ブナ科マテバシイ属の常緑高木である。日本に自生するマテバシイ属』二『種(シリブカガシとマテバシイ』(マテバシイ属 Lithocarpus)『)のうちの』一『種』(マテバシイ(馬手葉椎)Lithocarpus edulis であろう)。『和名はドングリの底(お椀状の殻斗を被っていた部分)が凹んでいることに由来する。なお、カーム』(恐らく英語の“calm”(落ち着き:語源はイタリア語の「凪」由来)『と呼ばれることもある』。『常緑性の高木で、樹高は』十~十五『メートル』、『幹は直立、分枝する。樹皮は灰褐色でなめらか。若枝には短毛が密生する』。葉柄』一~一・五『センチメートル 』、『葉は長さ』八~十五センチメートル『で肉厚で革質、葉形は長楕円形で先が鋭く尖る。葉縁は全縁、ときに葉上部に浅い鋸歯が』一、二『個ある。葉の表面は緑』から『濃緑色で光沢があり、葉裏は淡緑色で』、『鱗状毛が密生し』、『金色または銀色の光沢がある。側脈は』六~八『対。その葉質や形はアカガシ』(赤樫:コナラ属アカガシ Quercus acuta )『によく似ている』。『雌雄同株で、花期は』九~十『月。枝先や葉腋に淡黄色で長さ』五~十センチメートル『の雌雄の花穂を斜め上向に数個』、『分枝してつける。強い匂いを放つ虫媒花。雄花序は長さ』五~九センチメートル。『花序の軸には黄褐色の短毛が密生する。雄花は苞腋に』三『個ずつつく。花被』(かひ:花に於ける雄蘂や雌蘂の外側にある葉のような要素の集合名称)『は直径』二『ミリメートル』『ほどの皿形で、雄』蘂『が』十『個つく。雌花序は長さ』五~九センチメートル、『花径は』〇・五~一センチメートル『で、円柱形の花柱が』三『個つく』。『果期は翌秋。楕円形の堅果(ドングリ)が実り、濃褐色に熟すと落下する。果長は』一・五~二・五センチメートル、『果下部』の二十~三十『%は殻斗に包まれる。堅果は粉をふいたように表面に蝋状の物質が付着しているが、落下して間もない堅果を柔らかい布で磨くと』、『漆器のように艶やかな光沢が出る。秋に地面に落ちた堅果が発芽するのは翌年の春になってからである』。『暖帯性であり、近畿地方以西の本州、四国、九州、沖縄の比較的海岸に近い標高』五百『メートル』『以下の地域に分布し、京都府の保津峡が分布北限である。分布北限に近い近畿地方の個体数はごく少ない。日本以外に中国南東部・台湾にも分布する。日本では、マテバシイよりもさらに南の地域に分布する』。『マテバシイ属の樹木は』、『日本にはシリブカガシとマテバシイしか自生していないが、世界全体では』百『種以上知られており、主に東南アジアの熱帯』から『亜熱帯の山地に分布している。シリブカガシとマテバシイは、熱帯地方に広く分布するマテバシイ属の中で最も北に進出してきた種のひとつであり、日本のブナ科の樹木の中では冬の寒さに弱い方である』。『用途』は、『樹木』が『街路樹、公園樹、庭木』に、『木材』としては『建築材・器具材』に使われ、『材質は堅く、中国では農具に使われる』(本項の「字彙」に載る「鋤柄」とするという記載と完全に合致する)。『果実』は、『ドングリとしては渋味が少なく、渋抜きをせず』、『そのまま炒って食べられる』。『同属のマテバシイとは葉の形などがはっきり異なる(マテバシイは葉が長めで全縁、葉面はなめらか)ため』、『区別は容易い。むしろ、先述のように』、『見かけはコナラ属のアカガシによく似ている。アラカシよりやや葉が短めであるが、葉だけで区別するのは難しい。もちろん』、『果実が付けば見分けがつく。なお、日本のブナ科植物は春から初夏に花をつけるものがほとんどであり、この種のように秋に花をつける例は他にない』とある。

 さて、ここで、東洋文庫訳の後注を全文示す。当該本文は最後の、『或いは、櫧-子《かしのみ》を以《もつて》、「團栗(どんくり)」と訓ずるは、甚だ、誤《あやまり》なり。團栗(どんくり)は、卽ち、「槲(くぬぎ)の子(み)」なり。又、「槲《コク》」を以つて、「加之波《かしは》」と訓《くんずづ》は、倍(ますます)、誤《あやまり》なり。』に対するものである。

   《引用開始》

『新註校定国訳本草綱目』(春陽堂)[やぶちゃん注:当該巻(「第卷三十」)を所収する当該書は国立国会図書館デジタルコレクションでは見ることが出来ない。]によれば、櫧子はアラカシ、槲はカシワに比定されている。良安は厳密にクヌギの子[やぶちゃん注:「み」。]のみを団栗としているが、現在ではそれほど厳密ではなく、クヌギ・ナラ・カシなど、ブナ科ナラ属の果実を総称して団栗としている。

   《引用終了》

この注が指す「アラカシ」は、本邦での「アラカシ」であり、

双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節アラカシ(粗樫)Quercus glauca

である。また、同じく本邦の「カシワ」となり、

コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata

である。以上の竹島淳夫氏の注は、良安の評言に対する注としては、無論、問題がない正当なものである。

しかし、「新註校定国訳本草綱目」の種同定が絶対的真命題であるかどうかは、私は、無批判に賛同することは、全く、出来ないのである!

例えば、「櫧子」で「百度百科」を検索すると、「子」が出るが、そこにある学名は、

Castanopsis sclerophylla

とあるからである。★この「カステロプシス・スクレロフィラ」は和名がない。則ち、日本に分布しないので、まず、「アラカシ」ではないことがはっきりするのである。現在の分類では、

★ブナ目ブナ科シイ属カステロプシス・スクレロフィラ

なのである!

さらに、本邦の「カシワ」が、中国の「槲」と同種でないことは、既に本プロジェクトの初回の「柏」の私の迂遠なダラダラ注で(この煩雑な行為が、トラウマとなりつつ、今も、私の比定同定への慎重な立場を確立させて呉れたのである!)

★「柏」≠「槲」=カシワ Quercus dentata

であることを考証しているからである。あまりに長いので、私のそれを再録する気にはならないので、是非、そちらを見られたいのである!

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「櫧子」([075-56b]以下)をパッチワークしたものである。短いし、以上の通り、ブイブイと批判した関係上、全文を引いておく(一部に手を加えた)。

   *

櫧子【拾遺】  校正【原附鈎栗今析出】

 集解【藏器曰櫧子生江南皮樹如栗冬月不凋子小於橡子穎曰櫧子有苦甜二種治作粉食餻食褐色甚佳時珍曰櫧子處處山谷有之其木大者數抱髙二三丈葉長大如栗葉稍尖而厚堅光澤鋸齒峭利凌冬不凋三四月開白花成穗如栗花結實大如槲子外有小苞霜後苞裂子墜子圓褐而有尖大如菩提子内仁如杏仁生食苦澀煑炒乃帶甘亦可磨粉甜櫧子粒小木文細白俗名麫櫧苦櫧子粒大木文粗赤俗名血櫧其色黑者名鐵櫧案山海經云前山有木其名曰櫧郭璞註曰櫧子似柞子可食冬月采之木作屋柱棺材難腐也】

 仁氣味苦澀平無毒【時珍曰案正要云酸甘微寒不可多食】主治食之不飢令人健行止洩痢破惡血止渴【藏器】

 皮葉主治煑汁飮止產婦血【藏器】嫩葉貼臁瘡一日三換良【吳瑞】

   *

「菩提子《ぼだいし》」これも、先行する「無患子」で、迂遠な考証同定をしているので、そちらを見られたい。

「杏仁《きやうにん》」講談社「漢方薬・生薬・栄養成分がわかる事典」によれば(一部の読みを省略した)、『漢方薬に用いる生薬の一つ。バラ科アンズの種子を乾燥させたもの。鎮咳、去痰の作用があり、気管支炎、喘息などに用いる。感冒、肺炎、気管支喘息に効く麻黄湯(まおうとう)、気管支炎、小児喘息に効く麻杏甘石湯(まきょうかんせきとう)、気管支炎、気管支喘息に効く苓甘姜味辛夏仁湯(りょうかんきょうみしんげにんとう)などに含まれる。また、あんず酒は疲労回復に効く』とある。

「苦櫧子《くしよし》」前掲の「百度百科」の「子」で、「苦栲」とある。則ち、ブナ目ブナ科シイ属カステロプシス・スクレロフィラCastanopsis sclerophylla である。

『甜《あま》き者は、「鉤栗(いちい)」なり。】』良安のルビは完全アウト! これも、和名がないシイ属カスタノプシス・チベタナ  Castanopsis tibetana で、日本に分布しないので、まず、「イチイ」ではないことがはっきりする。但し、この良安の「イチイ」は、

裸子植物門イチイ(一位)綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata

ではなく、「どんぐり」の生る、

双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属イチイガシ(一位樫)Quercus gilva

である。

「鐵櫧《てつしよ》」はいはい! やっと登場しましたね! これこそが、双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節アラカシ(粗樫)Quercus glauca なのでござりまする。もう、疲れましたので、ウィキの「アラカシ」と、「維基百科」の「青剛櫟」(別名に似たような「鐵椆」がありまする)を御覧下さいませな。

「新六」「切りたふす田上山(たなかみやま)のかしの木は宇治の川瀨に流れ來にけり」「衣笠內大臣」日文研の「和歌データベース」の「新撰和歌六帖」で確認したが(「第六 木」のガイド・ナンバー「02461」。衣笠家良(いえよし)の一首)、これ(太字は私が附した)、

   *

きりたふす-たなかみやまの-かしはきは-うちのかはせに-なかれきにけり

   *

となっているので、引用としてダメである! 但し、「かしはぎ」=「槲木」=カシワは「どんぐり」が成るから、いいかとも思ったが、良安は、『「どんぐり」はクヌギ限定!』と、狭量にのたもうてるんだから、やっぱ、引用としては――あかん!――ということになりまっせ!

「白樫《しらかし》」コナラ属シラカシ Quercus myrsinaefoliaウィキの「シラカシ」を見ておくれやす。

「赤樫《あかがし》」コナラ属アカガシ Quercus acutaウィキの「アカガシ」を見ておくれやす。

「万葉」「武士《もののふ》のやそ乙女《をとめ》らがふみとよむてらゐの上のかたかしの花」「万葉集」の「卷第十九」の大伴家持の非常に知られた一首(四一四三番)、

   *

   堅香子(かたかご)の花を攀(よ)ぢ折れる歌

 物部(もののふ)の

  八十娘子(やそをとめ)らが

    汲み亂(まが)ふ

   寺井(てらゐ)の上の

           堅香子の花

   *

「堅香子(かたかご)」日本原産とされる単子葉植物綱ユリ目ユリ科カタクリ属カタクリ Erythronium japonicum 。「攀(よ)ぢ」は「引き寄せる」の意。「物部(もののふ)の」は「八十」の枕詞。

『「枕草帋《まくらのさうし》」云はく、『白樫《しらかし》は』、『深山木《みやまぎ》の中にも、いとけとほくて、三位《さんみ》、二位のうヘの衣《きぬ》、そむる折《をり》ばかりこそ、葉をだに、人の見るめる』』「枕草子」の「ものづくし」の章段の「木の花づくし」の一節。やや引用に難があるので、この際、全文を示す。基礎底本は、所持する石田穣二訳注「枕草子 上巻」(昭和五四(一九七九)年角川文庫刊)を参考とし、恣意的に正字化した。良安が不全に示した部分を太字で示しておいた。

   *

 花の木ならぬは かへで。桂(かつら)。五葉(ごえふ)[やぶちゃん注:五葉松。裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属ゴヨウマツ  Pinus parviflora 。]。

 そばの木[やぶちゃん注:カナメモチ。]、しななき[やぶちゃん注:品がない。]心地すれど、花の木ども散り果てて、おしなべて綠になりたるなかに、時もわかず、こき紅葉(もみぢ)のつやめきて、思ひもかけぬ靑葉の中よりさし出でたる、めづらし。

 まゆみ[やぶちゃん注:双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ変種マユミEuonymus sieboldianus var. sieboldianus 。]、さらにもいはず。

 やどり木といふ名、いとあはれなり。

 榊(さかき)、臨時の祭の御神樂(みかぐら)のをりなど、いとをかし。世に木どもこそあれ、神の御前(おまへ)のものと生(お)ひはじめけむも、とりわきて、をかし。

 楠の木は、木立(こだち)おほかる所にも、ことにまじらひたてえらず、おどろおどろしき思ひやりなど、うとましきを[やぶちゃん注:近寄り難いのだが。]、千枝(ちえ)にわかれて、戀する人のためしにいはれたるこそ、誰(たれ)かは數を知りていひはじめけむと思ふに、をかしけれ。

 檜の木、またけ近(ちか)からぬものなれど[やぶちゃん注:人里近くには生えていないものであるが。]、「三葉(みつば)四葉の殿(との)づくり」[やぶちゃん注:里方の民謡。]も、をかし。五月(さつき)に雨の聲をまなぶらむも、あはれなり。

 かへでの木のささやかなるに、もえいでたる葉末(はずゑ)のあかみて、おなじかたにひろごりたる、葉のさま、花も、いと物はかなげに、蟲などのかれたるに[やぶちゃん注:干乾びたのに。]似て、をかし。

 あすはひ[やぶちゃん注:翌檜・明檜。裸子植物植物門マツ綱ヒノキ目ヒノキ科ヒノキ亜科アスナロ属アスナロ 属 Thujopsis dolabrata 。]の木、この世に、ちかくも、みえきこえず。御獄(みたけ)[やぶちゃん注:吉野の金峰山。]にまうでて歸りたる人などの、持(も)て來(く)める、枝ざしなどは、いと、手にふれにくげにあらくましけれど、なにの心ありて、あすはひの木と、つけけむ。あぢきなきかねごと[やぶちゃん注:つまらぬ予言。]なりや。誰(たれ)にたのめたるにか[やぶちゃん注:保証したのかしら?]と思ふに、聞かまほしく、をかし。

 ねずもち[やぶちゃん注:鼠糯・鼠黐。双子葉植物綱ゴマノハグサ(胡麻の葉草)目モクセイ科イボタノキ(水蝋の木・疣取木)属ネズミモチ Ligustrum japonicum 。]の木、人なみなみになるべき[やぶちゃん注:一人前の木として扱うべき。]にもあらねど、葉の、いみじう、こまかに、ちひさきが、をかしきなり。

 楝(あふち)の木[やぶちゃん注:ムクロジ目センダン科センダン属センダン(栴檀) Melia azedarach var. subtripinnata の古名。]。山橘(やまたちばな)[やぶちゃん注:サクラソウ科ヤブコウジ(藪柑子)亜科ヤブコウジ属ヤブコウジ Ardisia japonica の別名。]。山梨の木[やぶちゃん注:バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科ナシ属ヤマナシ Pyrus pyrifolia 。]。

 椎の木、常磐木(ときはぎ)は、いづれもあるを、それしも、葉がへせぬためしに[やぶちゃん注:葉が落ち変わらない例に。]いはれたるも、をかし。

 白樫(しらかし)といふものは、まいて、深山木のなかにも、いとけどほくて[やぶちゃん注:たいそう我等とは縁が遠くて。]、三位(さんみ)、二位のうへのきぬ、染むるをりばかりこそ、葉をだに人の見るめれば、をかしきこと、めでたきことに、とり出づべくもあらねど、いつともなく雪のふりおきたるに見まがへられ、素盞鳴尊(すさのをのみこと)、出雲の國におはしける御(おほん)ことを思ひて、人丸(ひとまろ)が詠みたる歌などを思ふに、いみじくあはれなり。をりにつけても、ひとふしあはれともをかしとも聞きおきつるものは、草、木、鳥、蟲もおろかにこそおぼえね。

 ゆづり葉[やぶちゃん注:ユキノシタ目ユズリハ科ユズリハ属ユズリハ Daphniphyllum macropodum subsp. macropodum 。漢字表記は「楪・交譲木・譲葉・杠」。]の、いみじうふさやかにつやめき、莖は、いとあかく、きらきらしく見えたるこそ、あやしきけれど、をかし。なべての月には見えぬ物の、師走のつごもりのみ、時めきて、亡き人の食ひ物に敷く物にやとあはれなるに、また、齡(よはひ)をのぶる齒固めの具にも、もてつかひためるは。いかなる世にか、「紅葉せむ世や」といひたるも、賴(たの)もし。

 柏木(かしはぎ)[やぶちゃん注:ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata 。]、いとをかし。葉守(はもり)の神[やぶちゃん注:樹木を守護する神。カシワやナラなどに宿るとされる。]のいますらむも、かしこし。「兵衞(ひやうゑ)の督(すけ)」、「佐(すけ)」、「尉(ぞう)」など言ふも、をかし。

 姿なけれど、棕櫚(しゆろ)の木、唐(から)めきて、わるき家の物とは、見えず。

   *

少納言の「ゆづり葉」の民俗は、市井のそれを、しっかり見、意味を調べることを怠った結果、奇妙な一部が誤った語りとなってしまっている。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)『新しい葉が伸びてから古い葉が落ちるので』「譲り葉」『とよばれ』、「交譲木」』『と』も『書く。正月を待ちわびるわらべうたに』「お正月がござった ユズリハに乗って ユズリ ユズリ ござった」『とあるように、常緑のユズリハは』、『松、ウラジロ(裏白)、ダイダイ(橙)などとともに』、『正月飾りや農始めなどに使われる。ユズリハは絶えることなく世代が継承される常緑の聖なる樹として、正月にふさわしいものであり、長崎県壱岐島では正月』二『日の縫い初めにユズリハ』二『枚を縫い合わせて』、『神に供えたという。また』、『穀霊の再生継承の象徴として、石川県小松市小原では』、『かつて』、十二『月』九『日の山祭の前後に』、『各戸でナギカエシという焼畑の収穫祭を行い、その神座となるアワ、キビ、ヒエの穂を入れた輪蔵にユズリハの枝を』三『本挿したという』。「万葉集」には「弓弦葉(ゆづるは)」とよまれ、大嘗会に酒を盛る』、『縁起のよい酒柏として用いられることもあった。はしかにかかると、ユズリハに病気を託して払うという呪(まじな)いも行われ、民間療法として』、『葉や樹皮を煎じて下剤、利尿、駆虫薬などとする所がある』とある。]

2025/02/09

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「楠皮治瘧」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「楠皮治瘧《くすのきの かは おこりを ぢす》」  有渡郡草薙村草薙社《くさなぎのやしろ》にあり。「駿州古蹟畧」云。『草薙社の坂上、左の方に大楠《おほくす》あり。うろの內《うち》八疊を敷《しく》ベし。瘧を患ふる人、此楠の皮を取《とり》て拜服《はいふく》すれば、忽《あちまち》愈ゆ。云云。疫神《えきじん》靈木の威光を恐《おそれて》て、害をなすあたはず、奇妙と云べし。

 

[やぶちゃん注:「有渡郡草薙村草薙社」現在の静岡県静岡市清水区草薙にある、草薙神社(グーグル・マップ・データ)。当該個体のクスノキ(双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora )も現存する。ウィキの「草薙神社」によれば(注記号はカットした)、『祭神は』『日本武尊 (やまとたけるのみこと)』『一体』。「古事記」「日本書紀」の『伝承によれば、ヤマトタケルの東征の際』、『賊がヤマトタケルのいる野に火をかけて焼き殺そうとしたが、ヤマトタケルは天叢雲剣』(あまのむらくものつるぎ)『で草を薙ぎ払い』、『向い火を放って難を逃れた。そのため』、「天叢雲剣」『を「草薙剣」』(くさなぎのつるぎ)『と称するという。当社の北東方には同じく「クサナギ」を称する式内社として久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)が知られるが、両社は』、『ともに』、『そのヤマトタケルの火難伝説に関連する神社と伝えられ、一説に火難伝承地は当地に比定される』とされる。『社伝では、景行天皇』五十三『年』、『天皇が日本武尊ゆかりの地を巡幸した際』、九月二十日に『天皇が当地に着き』、『日本武尊の霊を奉斎したのが創建という。また、天皇は当社に神体として草薙剣を奉納したが、この草薙剣が朱鳥元』(六八六)年『に天武天皇の勅命により』、『熱田神宮に移されたとも伝えている。また』、『社伝では、当社は古くは清水区草薙』一『丁目』(ここ。グーグル・マップ・データ(以下、無指示は同じ)。中央に現在の草薙神社を配した。以下でも同様の仕儀を行った)『の「天皇原(てんのうばら)」と称される地に鎮座したという。現在地への遷座時期は明らかでないが、一説に天正』一八(一五九〇)年『の造営時とする』。『歴史考証の上では、前述の通り』、『当社の創建にはヤマトタケル伝説が大きく関係するとされる。静岡市一帯には、大規模古墳として葵区の谷津山』(やつやま)『古墳(全長』百十『メートル)』(前方後円墳。ここ)『や』、『清水区の三池平』(みいけだいら)『古墳(全長』六十五『メートル』(前方後円墳。ここ)『)が残るが、これらの古墳を築いた勢力の服属が』、『伝説成立の背景にあると推測される。なお、当地の首長古墳』(しゅちょうこふん:これは古墳時代後期の静岡平野に於ける最有力の首長(しゅちょう)勢力を生んだ、四つ以上(三つは確定)の古墳群で、正式には、「賤機山古墳群(しずはたやまこふんぐん)」(同ウィキ)と呼ぶ。ここ。名にし負う「賤機山古墳」(同ウィキ)は円墳である)『は「清水区庵原や谷津山丘陵(前期:』四『世紀代)→瀬名丘陵(中期:』五『世紀代)→有度山北麓(後期:』六『世紀代)」と変遷したと推測されるが、これらのうち』、『清水区庵原付近に久佐奈岐神社』(くさなぎじんじゃ:ここ)『が、有度山北麓に当社が鎮座する』。『また、「クサナギ」の名を焼畑系地名に由来するとする説もある。その中で、伝説の中でヤマトタケルが向』い『火をつける』さま『も』、『野焼きの延焼防止としてよく知られる手法であることも併せて指摘され、先行する焼畑系地名に基いて』、『ヤマトタケルの火難伝説が成立したと推測される。ヤマトタケル伝説の成立以前の当社については、山の神として焼畑作物を与える神であったとも、谷部』分『にあることから』(グーグル・マップ・データ航空写真の「草薙神社」。より地形が判るように、「ひなたGPS」の同書の地図もリンクさせておく)、『水の神であったとも考えられている』。延長五(九二七)年『成立の』「延喜式」の「神名帳」では、『駿河国有度郡に「草薙神社」と記載され、式内社に列している。ヤマトタケル伝承との関連から』、『武家から信仰され、天慶年間』(八七七年~八八五年)『には』「平将門の乱」の『平定に奉賽がなされたと伝える』。『中世には、永享』四(一四三二)年『に将軍足利義教の駿河下向に従った尭孝』(ぎょうこう:僧で歌人。出自は武家の二階堂氏。父は僧で歌人の尭尋。「和歌四天王」の一人として、とみに知られる頓阿の曾孫。曽祖父の代から引き継いだ「和歌所」を預かった。二条派の歌壇の中心的歌人となり、冷泉派の清巌正徹(しょうてつ)に対抗した。勅撰和歌集「新續古今和歌集」を撰出している。ここは当該ウィキに拠った)『が草薙社について記述している。天正』八(一五八〇)年『には、願主森民部太夫』(もりのみんぶたゆう)『により』、『釣燈籠と鰐口(ともに静岡市指定文化財)が奉納された。天正』一〇(一五八二)年『には』、『竹木の伐採が禁止され、天正』一八(一五九〇)年『には』、『社領として草薙郷』十八『石が社人の民部大輔』(たいふ)『に安堵された。この社領は、慶長』四(一五九九)年『にも横田村詮』(よこたむらあき:伯耆国米子藩執政家老である人物であろう。当該ウィキをリンクさせておく)『により安堵されている』。『江戸時代の社領(朱印地)は』五十『石』。『境内は有度山北麓、草薙川上流の谷部に位置する。広さは』〇・七『ヘクタール』。『境内に立つクスノキは幹心が枯れ、外皮のみを残すが、樹高』六『メートル・周囲』二十五『メートルで』、『樹齢は』千『年以上と言われる古木で、静岡市指定天然記念物に指定されている』。また、静岡清水線の『草薙駅』(ここ)『付近の平地は「天皇原(てんのうばら)」と称される。かつて草薙神社は』、『この天皇原の地にあったといわれ、その地は現在も「古宮」』(ふるみや:ここ)『として伝わっている』とあった。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「PIETÀ」

 

 P I E T À

 

かうして、イエスよ、私はまたあなたの、

私が靴を取つて洗つてあげた頃は

未だ靑年の足だつた、足を見ます。

あの棘の藪の中の白い獸のやうに、

あなたの足は私の髮の中にと迷つてゐました。

 

あなたの一度も愛されなかつた四肢を、

私はかうして初めて此愛の夜に見ます。

私たちは未だ一度も一緖に寢ませんでした。

そして今は褒め、守るだけです。

 

しかし、ご覽なさい、あなたの手は裂かれました――

戀人よ、私ではない。私が嚙むだのではない。

あなたの心臟は開いて、入ることが出來る。

これがただ私だけの入口ならよいのだが。

 

今あなたは疲れてゐる。疲れたその口は

私の痛む口に觸れる氣もなさらない。

おお、イエスよ、イエスよ、我々の時間はいつでした。

何て不思議に私だち二人は亡びるのでせう。

 

[やぶちゃん注:「PIETÀ」ピエタ。平凡社「世界大百科事典」から引く(コンマを読点に代えた)。『死せるイエス・キリストを膝に抱いて嘆き悲しむ聖母マリア像』。十四『世紀初頭にドイツで創出された新しい図像で』、『埋葬する前に』、『わが子を抱きしめて最後の別れを告げる聖母を、説話の時間的・空間的関係から切り離して独立像に仕立てたもの。中世末期に出現したいわゆる』「アンダハツビルト」( Andachtsbild :「祈念像」)『の一つで、個人が自己の魂の救済を願ってその前で祈ることを目的として作られた。ドイツでは』「フェスパービルト」( Vesperbild :「夕べの祈りの像」)『と呼ばれ、これは埋葬の祈りが聖金曜日の夕べに』捧げ『られることに由来する。この像の成立の経緯は』詳らか『ではないが』、ハインリヒ・ゾイゼ(Heinrich Seuse 一二九五年~一三六六年:エックハルトの神秘思想を強く受け継ぎ、タウラーと並び称せられるドイツのドミニコ会士。コンスタンツ副修道院長になるが、讒言に遭い、以後。司牧者・説教師として、主に南ドイツを巡回、外面的には不遇に終わった。彼の本領は、キリストの受難の観想によって苦の積極的意義を明らかにし、且つ、自ら徹底した苦行を実践した点にある。また、仲介者としてのマリアの役割を、高く評価した。すぐれた幻視者でもあり、「真理の書」(一三二七年頃)・「永遠の知恵の書」(一三二八年頃)・「生涯」(一三六二年頃)等の著書がある。同一の事典を引いた)『などの神秘主義者の著作との関係がしばしば指摘されている。また、造形的には、死せるキリストが幼子のように小さい作例もあることから、この像は』、『聖母子像の幼子を』、『キリストの遺骸に置き換えることによって生まれたのではないかとも考えられ』れてい『る。聖母の悲痛な表情、硬直したキリストの肉体のなまなましい聖痕は、見る者に苦痛と悲しみの感情を呼び起こさずにはいない。イタリアでは』十五『世紀以降』、『作例が見られるようになり』、イタリア語で、「ピエタ」(Pietà:「哀れみ・慈悲」などの意『と名づけられた。ミケランジェロの』「バチカンのピエタ」(一五〇〇年頃)『は伝統的な図像にのっとりながら、若く美しい聖母と理想化された肉体をもつキリストによって、この主題にまったく新たな表現を与えている。しかし』、『晩年の』「ロンダニーニのピエタ」(一五六四年頃。『未完)に至ると、聖母とキリストは垂直に重なる独自の群像を形づくることになる』(ここはウィキの「ピエタ」の「ギャラりー」を見られたい。私は二体とも見たが、圧倒的に前者の方がよい)。『絵画においても、フランスの逸名の画家の名作』「アビニョンのピエタ」(Pietà de Villeneuve-lès-Avignon:十五世紀末)』(フランス語の画題でグーグル画像検索を掛けたものをリンクさせておく)『など多くの作例がある。ピエタは原則として聖母とキリストの』二『人の像であるが、福音書記者ヨハネ、マグダラのマリアや聖女たちなど』「キリストの哀悼」『に登場する人物や寄進者が加わることもある』(「アビニョンのピエタ」は、その構成)『ルネサンス以降、キリストが聖母の膝の上ではなく、足元に横たわる、より自然な構成も用いられるようになった』とある。

「棘」「いばら」。]

2025/02/08

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 榛

 

Oohasibami

 

[やぶちゃん注:左下方に、三角形をした「実」(右)の図、左に頭が丸い「仁」(にん)の図が添えてある。]

 

はしぱみ

      和名波之波美

【亲同】

 

 

ツイン

 

本綱榛關中甚多【關中卽秦地也】故字从秦新羅國之榛子肥白

最良其木低小如荆叢生冬末開花如櫟花成條下埀長

二三寸二月生葉如初生櫻桃葉多皺文而有細齒及尖

其實作苞三五相粘一苞一實其實如櫟實下壯上銳生

青熟褐其殼厚而堅其仁白而圓大如杏仁亦有皮尖然

多空者故諺云十榛九空

一種大小枝葉皮樹皆如栗而子小形如橡子味亦如栗

 枝莖可以爲燭

一種高𠀋餘枝葉如水蓼子作胡桃味久留亦易油壞

榛仁【甘平】益氣力實腸胃令人不飢健行

△按榛其葉皺故稱波之波美藝州廣島之產良丹波次

 之

 

   *

 

はしぱみ

      和名、「波之波美」。

【「亲《シン》」、同じ。】

 

 

ツイン

 

「本綱」に曰はく、『榛《シン》は、關中に、甚《はなはだ》、多し【關中は、卽ち、秦《しん》の地なり[やぶちゃん注:現在の陝西省。]】。故《ゆゑに》、字、「秦」に从《したがふ》。新羅國《しんらこく》の榛の子《み》、肥《こえ》、白《しろ》≪して≫、最も良し。其の木、低(ひき)く、小にして、荆《いばら》のごとし。叢生《むらがりしやう》ず。冬の末に、花を開き、櫟《レキ》の花のごとく、條《すぢ》を成し、下-埀(たれ)る。長さ、二、三寸。二月に、葉を生《しやうじ》、初生の櫻桃(ゆすらむめ)の葉のごとく、皺文《しはもん》、多くして、細≪かな≫齒《ぎざ》、及《および》、尖《とがり》、有り。其の實、苞《はう》を作《なし》、三つ、五つ、相《あひ》粘《ねん》ず[やぶちゃん注:くっ付いている。]。一苞、一實、其の實、櫟《レキ》の實ごとく、下、壯《おほきく》、上、銳(する)どなり。生《わかき》は、青く、熟≪せば≫、褐《かつ》≪色≫なり。其の殼、厚くして、堅く、其の仁《にん》、白くして、圓《まろ》く、大いさ、杏仁《きやうにん》のごとく、亦、皮、尖《とがり》、有り。然れども、空《から》なる者、多し。故に、諺《ことわざ》に云《いはく》、『十《とを》の榛《シン》、九《きう》は空(から)。』≪と≫。』≪と≫。

[やぶちゃん注:後注するが、「本草綱目」中の「榛《シン》」、及び、「櫟《レキ》」は、「榛《はしばみ》」、及び、「櫟《くぬぎ》」と訓じては、いけない。厳密に言うと、別種だからである(後者は、既に「伽羅木」の注で考証済みである)。無論、良安は、それに気づいていない。

『一種、大小・枝・葉・皮・樹、皆、栗《くり》のごとくにして、子《み》、小《ちさ》く、形、橡《とち》≪の≫子のごとく、味も亦、栗のごとし。枝・莖、以《もつて》、「燭《ともし》」と爲《なす》。』≪と≫。

『一種、高さ、𠀋餘。枝葉、「水蓼《みづたで》」の子のごとく、胡桃《こたう》の味を作《なす》。≪但し、≫久《ひさしく》留《とどむ》れば、亦、油壞《ゆくわい》≪し≫易し。』≪と≫。

『榛仁《しんにん》【甘、平。】氣力を益し、腸胃を實《じつ》≪と成し≫、人をして飢へ[やぶちゃん注:ママ。]ず、健行《すくやかにゆか》しむるなり。』≪と≫。

△按ずるに、榛《はしばみ》は、其の葉、皺(しは)む。故《ゆゑ》、「波之波美《はしばみ》」と稱す。藝州廣島の產、良し。丹波、之れに次ぐ。

 

[やぶちゃん注:まず、変則的に、本邦の「榛」、則ち、

双子葉植物綱ブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ変種ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii学名については、以下のウィキの中でも致命的矛盾がある。後で考証する

について、ウィキの「ハシバミ」を引用してみよう(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『和名は、葉にしわがあるので「ハシワミ」の転訛したものといわれている』。『ロシア沿海地方から東アジア北東部の全域、詳しくは、ウスリー川流域(ロシア沿海地方)、および、アムール川流域(中国東北部を含む)から中国陝西省にかけての地域、ならびに朝鮮半島、日本列島(北海道・本州・四国・九州)に分布する。山地や丘陵の日当たりのよい林縁などに自生する』。『落葉広葉樹の低木で、樹高は』一~五『メートル』『になり、成木でも幹は細い。株立ちになることが多い』。『樹皮は、灰褐色で浅い裂け目が入る。ごく若い樹皮では皮目』(ひもく:樹木の幹や根にある小裂孔)『が多い。若い枝には毛がある』。『葉は互生し、葉身は長さ』六~十二『センチメートル』、『幅』五~十二センチメートル『ぐらいの広卵形から円形で、丸くて硬くザラザラしている。葉縁には不揃いな重鋸歯がある。先端は急に尖って、若い葉の中心部が赤茶色になっていることがある』。『花期は初春から春(』三~四『月ごろ)で、雌雄同株。春に葉が展開するよりも先に開花する。雄花は黄褐色で、尾状花序が枝の上部の葉のわきから穂のように垂れ下がり、長さ』三~七センチメートル『ほどある。雌花序は数個つき、雌花は芽鱗に包まれたまま開花して』、『赤い柱頭が突き出ていて目立つ』。『果期は』九~十『月。果実は堅果で、大きさは直径約』一・五センチメートル『の球形で、葉状の総苞に包まれている。実は食用にできるが、世界的に流通しているヘーゼルナッツ』(Hazelnut)『は本種の同属異種にあたるセイヨウハシバミ(西洋榛)』 Corylus avellana 『である』。『冬芽は雄花序以外は鱗芽で、やや平たい倒卵形で、仮頂芽と互生する側芽があり』、八~十『枚の芽鱗に包まれている。雄花序は裸芽で、赤味を帯びた』、『くすんだ色で』、『円柱形をしており、枝先に』二~六『個』、『ぶら下がってつく。雄花序の冬芽はツノハシバミ』(角榛:ハシバミ属ツノハシバミ変種ツノハシバミCorylus sieboldiana var. sieboldiana  当該ウィキによれば、『実を包む総苞片の先が角のように伸びている様子からこの名がある』とあり、『日本の北海道・本州・四国・九州、朝鮮半島に分布する』が、『四国と九州は少なく、伊豆半島には分布しない』とある)『に似るが、ハシバミの方が』、『数がより多い。側芽のわきにある葉痕は半円形で、維管束痕が』五~七『個つく』。『果実は食用になり、植栽として庭などにも植えられる』。『古くは占い棒として使われていた。また、英国では、この木の枝と葉で冠を作り頭に乗せると、幸運が訪れると信じられている』。『日本の伝統的色名の一つ』とされる『「榛色(はしばみいろ)」』だが、これは、実は、本種ではなく、『セイヨウハシバミの実(ヘーゼルナッツ)の色に由来している』という。しかし、この記載は、ド素人が読んでも、如何もおかしい。『日本の伝統的色名』なのに、『セイヨウハシバミの実』が由来というのは、話しにならない。

さて、さらに問題の箇所に出くわすのである。『日本でハシバミとよばれる植物には、オオハシバミ( Corylus heterophylla var. heterophylla )、ツノハシバミ( Corylus sieboldiana var. sieboldiana )、ハシバミ(本種)』(:ママである。)『などがあり、世界にはセイヨウハシバミ( Corylus avellana )、アメリカハシバミ( Corylus americana )、そ』の二種の『中間種とされるフィルバート』(英語:FilbertCorylus maxima の学名が与えられてある)『とよばれるものがある』というのだ! 言った口が干る間もなく、学名について、違ったことを平気で言っている本記載は、全部が無効・即退場レベルの致命的欠陥を追うている!!!

『この中ではツノハシバミが外見上の特徴として、果実を包む総苞が筒状に長く角のように伸びているので、よく区別される。ハシバミはオオハシバミの変種で、その果実からシバグリ(柴栗)の名を与えられている』とあるのである

 一方、「維基百科」の「榛」を見ると、

Corylus heterophylla

則ち、本邦の和名ハシバミの学名で載り、「変種」として、

Corylus heterophylla var. heterophylla(=オオハシバミ)

川榛 Corylus heterophylla var. sutchuenensis(和名、無し)

が掲げられてあるのである。

 ところが、流石! 「跡見群芳譜」の「樹木譜 ハシバミ」では、

Corylus heterophylla

の大項の下に、

『ハシバミ(オヒョウハシバミ・オオハシバミ)』として、Corylus heterophylla var. heterophylla

となっているのである。これは、学名に於いては、ハシバミとオオハシバミを別種と見る見解と、同一でシノニムとする見解の二様があることがはっきりしてくる。

そんなことは、前々から何となく感じていたが、そんなことは、もう、どうでもよくなる事態が、このページで判ってくる! 何故なら、さらに、同ページには、別に、

● Corylus chinensis(中文名『華榛・山白果・榛樹』。『雲南・四川産』)

● Corylus fargesii(中文名『披針葉榛』。『河南・陝甘・四川・貴州産』) 

● Corylus ferox(中文名『刺榛・滇刺榛』。『四川・雲南・チベット・ヒマラヤ産』)

● ハシバミ変種 Corylus heterophylla var. thibetica(中文名『藏刺榛・西藏榛樹』。『陝甘・湖北・四川産』)

の他に、

● Corylus nobilis(中文名『滇虎榛』)

● ツノハシバミ変種オオツノハシバミCorylus sieboldiana var. mandshurica(中文名『毛榛・胡榛子・火榛子』。『東北・華北・陝甘・四川産』)

● Corylus wangii(中文名『維西榛』。『雲南産』)

● Corylus yunnanensis(シノニム:Corylus heterophylla var. yunnanensis 。中文名『滇榛』。『西南産』)

という種群が、ゾロゾロと出ているのである。

以上を見るに、「本草綱目」の「榛」と、本邦に分布する三種を、同一種(個体変異)と見ることは、到底、出来ないのであり、邦文の「ハシバミ」の記述は、学名の指定部分に於いて、到底、信ずるに足らないと言わざるを得ないのである。同時に、「実の形が違う」という一種、『「水蓼」に似ている、胡桃味」の一種を、以上の膨大な数の中国産「榛」から同定することは、私には、全く出来ないのである。カオスをブチ撒いて、以上を終わり、ただただ、識者の中国産の謎の二種の同定について御教授を乞い願うものである。★

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「榛」([075-55a]以下)をパッチワークしたものである。

「櫟《レキ》」これは、先行する「伽羅木」で考証した通り、本邦で、「一位」「櫟」と漢字表記する、

裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata

或いは、その変種で、本邦で「伽羅木」と漢字表記する、

イチイ変種キャラボク Taxus cuspidata var. nana

の孰れかである。ところが、「櫟」という本邦の漢字表記では、私などは、真っ先に、

双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属 Cerris 亜属 Cerris 節クヌギ Quercus acutissima

を想起していしまう人種である。さればこそ、注意喚起をした次第である。

「橡《とち》」は日中ともに、ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata を指すので、問題ない。

「水蓼《みづたで》」これは、日中ともに、ナデシコ目タデ科 Polygonoideae 亜科 Persicarieae 連 Persicariinae 亜連イヌタデ属ヤナギタデ  Persicaria hydropiper である。詳しくは、ウィキの「ヤナギタデ」、及び、「維基百科」の「水蓼」を見られたい。

「胡桃《こたう》」先行する「胡桃」で考証に苦しんだ。そちらの私の注の冒頭を見られたい。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「村神忌縨」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

  「村神忌縨《むらのかみ ほろを いむ》」  有渡郡國吉田村《うどのこほりくによしだむら》にあり。「駿州古蹟畧」云。『吉田村に、栗島明神の社《やしろ》あり。民俗の說に、「此神の嫌玉《きらひたまふ》ふ」とて、此村五月の縨をたてず。云云。』粟島の神縨を嫌玉ふ神慮いかにぞや。

 

[やぶちゃん注:「有渡郡國吉田村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『静岡県』『静岡市旧有渡郡・庵原郡』(いはらぐん:呼称「いほはらのこほり」『地区』の『国吉田村』で、『現在地名』は『静岡市国吉田一』~『六丁目・国吉田・中吉田(なかよしだ)・栗原(くりはら)』とし、『有度山(うどさん)丘陵北西麓に位置し、西は聖一色(ひじりいっしき)村・栗原村など。東海道が通る。寛永九』(一六三二)年)、『幕府領、宝永二』(一七〇五)年、『一部が旗本桜井領となり』、『幕末に至る』(「寬政重修諸家譜」等)。「元祿鄕帳」『では高』五百三十『石余。旧高旧領取調帳では幕府領』三百二十八『石余・桜井領』百九十二『・桃源(とうげん)寺領八石余、津島八幡社除地七石余・護国寺除地』(じよち/よけち)『二石余』とある。

「栗島明神」は、現在は表記が変わって、「中吉田津嶋神社」となっている。現行の住所は静岡県静岡市駿河区中吉田で、ここ(グーグル・マップ・データ)である。「ひなたGPS」の戦前の地図では、神社記号は見当たらない(但し、国土地理院図にはある)。グーグル・マップ・データのサイド・パネルの平成七(一九九五)年に建立された「神社誌」の碑に拠れば、才神は『素戔嗚尊(スサノオノミコト)』とある(歴史的仮名遣では「すさのをのみこと」である)。

「縨」狭義には、南北朝時代以降の軍陣で背に背負う大形の布帛(ふはく)(実戦上、矢を防ぐ目的で鎧の上に掛けた)を指し、別に「母衣・保侶」と書く(詳しくはウィキの「母衣」を見られたい)。一般には「風雨を防ぐための乗り物の覆い」を謂い、この漢字は国字である。何故、忌避するかは、よく判らないが、或いは、例の、高天原(たかまがはら)で素戔嗚尊が暴虐を行い、「天(あま)の斑(ふちこま)」を尾の方から逆に皮を剥いだものを機織り小屋に落とし入れた結果、「天の機織女(はたおりめ)」が驚き、オサ(筬・梭:機織りで横糸を通す尖った道具)で「ほと」(陰部)を突いて死んだ結果、天照大神(あまてらすおおみかみ)が遂にキレて、天の岩戸に入ってしまったこととの関連を私は想起した。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「犧牲」

 

 犧 牲

 

ああ、お前を知つてから私の體は

總べての脈管から匂高く花咲く。

ご覽、私は一層細つて、一層眞直ぐに步く。

それにお前は唯待つてゐる。――お前は――體誰なのだ。

 

ご覽、私は自分を遠ざけ、古いものを

一葉一葉に失ふのを感じてゐる。

ただお前の微笑が星空のやうだ、

お前の上に、また直ぐに私の上にも。

 

私が子供だつた年頃、末だ名もなく

水のやうに輝いてゐる總べてのものに、

私はお前の名をつけよう、聖壇で。

お前の髮で灯ともされ、輕く

お前の乳房で花環をつける聖壇で。

 

[やぶちゃん注:「一葉一葉」「ひとはひとは」であろう。

「灯ともされ」「ともされ」と続く以上、「ともしび」ではなく、「ひ」であろう。]

2025/02/07

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「戀歌」

 

 戀 歌

 

お前の魂に觸れないやうに、

私は自分の魂を何う保てばいいのだ。

どうそれをお前越しに他の物へ高めよう。

ああ私はそれを何か闇黑(くらやみ)の

失はれたものの許で葬りたい、

お前の深い心が搖らいでも搖らがない、

知られない靜かな場處に。

しかしお前と私とに觸れる總べてのものは、

二つの絃から一つの聲を引出す

弓の摩擦のやうに、我々を一緖に取る。

どんな樂器の上に我々は張られてゐるか。

どんな彈手が我々を手にしてゐるか。

ああ甘い歌。

 

[やぶちゃん注:「彈手」「ひきて」。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 毗梨勒

 

Momotamana

 

なんばんくるみ  三果

 

毗梨勒

         出本艸夷果

          之部

 

 

本綱毗梨勒出西域及南國樹似胡桃子形似胡桃核

似訶梨勒而圓短無稜有毗卽臍也

 

   *

 

なんばんくるみ  三果《さんくわ》

 

毗梨勒 

          「本艸≪綱目≫」の

          「夷果《いくわ》」

           の部に出づ。

 

 

「本綱」に曰はく、『毗梨勒《ひりろく》は西域、及び、南國に出づ。樹、胡桃《こたう》に似て、子《み》の形も、胡桃に似たり。核《さね》は、「訶梨勒《かりろく》」に似て、圓《まろ》く、短く、稜《かど》、無く、毗《ほぞ》[やぶちゃん注:ここは以下の「臍」から、「出っ張り」或いは「有意な凹(へこ)み」の意であろう。]、有り。卽ち、臍《へそ》なり。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、「株式会社 ウチダ和漢薬」の「生薬の玉手箱」の「訶子(カシ)」

によって、

「毗梨勒」は、

双子葉植物綱フトモモ目シクンシ(使君子)科モモタマナ属モモタマナ Terminalia bellirica

で、

「訶梨勒」は、

モモタマナ属ミロバラン Terminalia chebula

である。さらに、この二種の『果実はもともとアーユルヴェーダ』(ラテン文字転写:Āyurveda:インド亜大陸の伝統的医学)『薬物で』、中国では、『この』二『種に』、「庵摩勒」、則ち、

キントラノオ目コミカンソウ(小蜜柑草)科コミカンソウ属ユカン(油甘) Phyllanthus emblica

『の果実を加えて』、★☞『「アーユルヴェーダ三果」』☜★『と呼ばれるほど有名な生薬で』ある、とあった。

 まず、「モモタマナ」のウィキを見ると(注記号はカットした。下線・太字は私が附した)、『シクンシ科』Combretaceae『に所属する植物は』、『熱帯を中心に種数が多いが、日本に産するものは』三『種ほどしかない。本種はそのうちの』一『つである。太平洋諸島からインドにわたる熱帯域を中心に分布し、日本では琉球列島と小笠原に分布する。葉が大きくて倒卵形をしている。果実が水に浮いて分散する』。『大きな木になるが、枝が水平に伸び、また大きな葉をまとめて広げるので、木陰を作る。その』ため『もあり、古くから村落の集会所や墓地などに植栽されてきた。現在でも街路樹や公園樹としてよく利用される。また果実は食用にもなる』。『半落葉性の高木。大きいものでは高さ』二十五メートル、『幹の径は』一メートル『にも達し、樹冠は平らに広がる。小枝は輪生するように出て、無毛、またはほぼ無毛。葉はその先端に束生する。葉は革質で、長さ』二十~二十五センチメートル、『全体にほぼ無毛ながら』、『葉柄と中脈に多少の毛がある。葉柄は短くて太く、溝があり、先端には蜜腺がある場合がある。葉身は倒卵形で、縁は滑らかで先端は丸く、基部は耳状、つまり葉柄に着くところは』、『くぼんで』、『両側が丸く突き出す。落葉する前には、往々にして紅葉する』。『花期は』五~七『月。穂状花序を葉腋に生じる。花序は長さ』六~八センチメートル『で、先端の方には雄性花を、基部の方には雌性花、あるいは両性花をつける。花は白くて径』五ミリメートル、萼『は鐘型で内側に星状毛が密生し、萼裂片』五『個は早くに脱落する。花弁はない。果実は熟すると長さ』三~六センチメートル『になり、楕円形で多少とも扁平、両側に竜骨状の突起があって、緑色か、その上に赤みを帯びる。果皮は繊維質で、内側の内果皮は硬く、海水に浮くことが出来る』。『この木は枝が横に広がり、上が平らな樹形になりやすい。これは上向きの枝があまり伸長せず、その前にその下から側方に伸びる枝がより発達するためである。その側枝が横に伸びてゆくために、平らに広がった枝振りが作られる。この様な茎の伸び方を添伸型(てんしんけい)と言うが、本種はこの型の成長をするものの代表的なものである』。『モモタマナが標準和名であるが、別名はコバテイシである。ただし初島』(一九七五年)『はコバテイシの方を標準名に採用している。この名は沖縄における方言名に由来するようで、沖縄県各地でコバテイシ、あるいはクファディーサ、あるいはそれらに類する方言名が伝えられる』。『日本では沖縄島以南の琉球列島、及び小笠原諸島に分布し、国外では台湾、中国南部から旧世界の熱帯域に広く分布する』。『下述のようによく栽培されるが、自生のものは海岸にある。果実が水に浮くため、海水に浮かんで漂流し、潮流によって分散するものと考えられる』。『モモタマナ属には世界に』二百五十『種ほどが知られる。日本には本種ともう』一『種』、『テリハモモタマナ』 Terminalia nitens 『葉は本種よりやや小さくて長さ』十~十五センチメートル、『葉の基部はくさび形であること、全株無毛である点などで区別出来る。日本では琉球列島の西表島にのみ産し、国外ではフィリピンから知られる』。『水平に広がって出る枝先に束生する大きな葉が広がり、その下は気持ちの良い木陰となる。そのため』、『日陰を作る街路樹として広く植栽される。沖縄では古来より村落の集会所や墓地によく栽培され』てきている。『材質として、辺材は淡黄色で、中心はより色濃くて暗褐色になる。材質は緻密で、工作は比較的容易である。建材や家具材、造船材に使われる。南洋ではカヌーを作るのに用いる』。『果実からは油が取れる。仁を炒って食べるとラッカセイに似て美味である。これを Country almond と呼ぶ。小笠原諸島では、子供を中心に食べる文化がある』。『他に、葉が染料に使われる』とある。

 次に、英文のミロバランのページを見ると(後のために言っておくと、そこにある果実の写真は、有意に延びたアーモンド型であり、表面に多数の襞状の凹みが確認出来る)、『多くの変種が知られている』として、

Terminalia chebula var. chebula 

Terminalia chebula var. tomentella

の二種が挙がっている。それらには、実・種子の違いは記されていないが、ここで時珍が、『「訶梨勒(かりろく)」に似て、円く、短く、稜部がなく、毗(ほぞ)があって、それは「臍」である。』と言っているのは、種子ではなく、実のことと採らないと、話しが通らない。されば、実は、ミロバラン(訶梨勒)の変種の中には、時珍の言うような形状の実(果実)を持つ種があるのではあるまいか? その証拠に、「維基百科」の同種「子」にある実生の果実の写真は、「丸い」感じで、キャプションにも『果実は楕円形』(☜)『または長楕円形』とある(本文解説にもある)からである。同ウィキの解説には、『元の呼称は「訶梨勒」で、これは、同種のアラビア語“halileh”由来の“halilehに由来するHallile”漢字を当てたもの』とあり、『「本草綱目」の解釈に拠ると、Halile はサンスクリット語で「神が来る」という意味である』とある。但し、この部分の原文は『据《本草目》解黎勒在梵中意“天主持来”』であり、これ、「本草綱目」当該部(「漢籍リポジトリ」の「卷三十一の果之三【夷果類三十一種内附四種】」の「毗梨勒」(ガイド・ナンバー[077-10b]以下)には、逆立ちしても、そんなことは書いてないから、これは、同ウィキの注にある、『程超寰』著の「本草名考訂」(北京・中国中医出版社・二〇一三年刊)で、程氏が注で新たに明らかにしたということであるので注意が必要である。以下、『ベトナム・ラオス・カンボジア・タイ・ミャンマー・マレーシア・ネパール・インド・中国雲南省に分布している。標高八百から千八百四十メートルの疎林に生育する』。『樹高は三十メートルに達し、樹皮は、灰黒から灰色、葉は互生、又は、ほぼ対生し、卵形、又は、楕円形から長楕円形で、腋生、又は、先端生の穂があり、円錐花序を形成することもあり、実は硬く、卵形、または、楕円形で、緑色で無毛であり、熟すと、暗褐色になる。開花期は五月、結実期は七月から九月である』と言った内容が書かれてある。されば、少なくとも、「本草綱目」で時珍の言う、「毗梨勒」が、本当にモモタマナであることには、やや疑義を感じたからである。それは、先の「モモタマナ」のウィキには、漢方としての薬用が記されていないからであったのだが、しかし、「維基百科」の同種「榄仁树」(學名: Terminalia catappa )』には、『樹皮は苦くて冷たく、収斂作用がある。解毒、瘀血の解消、痰の解消、咳、赤痢、痰熱咳嗽、潰瘍の緩和などの治療効果がある。葉と若葉にはヘルニア・頭痛・発熱・関節リウマチに治療効果がある。葉の汁には皮膚病・ハンセン病・疥癬に治療効果がある。種子は苦味、収斂性、清涼性があり、熱を奪い解毒する作用がある。喉の痛み、赤痢や浮腫に治療効果がある』としっかり記されてあったので、不審は解消されたのであった。

 因みに、三つ目の「庵摩」は、「和漢三才圖會」の次の「卷第八十八」の「夷果類」に「菴摩勒」として立項されてあるので、ウィキの「ユカン」をリンクさせるに留め、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂の当該項を示しておく。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「地藏佛好酒」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「面形有靈《めんがた れい あり》」  有渡郡北矢部村補陀洛山久能寺にあり。「駿州古蹟畧」云。『久能寺に春日《かすが》の作のあまの面あり。此面を拜《はい》すれば、災難を除く。又旱魃《かんばつ》の時此の面を出《いだ》せば、雨《あめ》降《ふり》、七月七日は、暫時出《いだ》して風《かぜ》をあつる也。云云。』爰《ここ》に春日とす、非也。是《これ》赤鶴《しやくつる》の作にして、淺間《せんげん》の神事に用《もちひ》る處也。わづか一木《いちぼく》を以て造る處の面形、かく奇妙を顯《あらは》す。實《げ》に作者の德と云《いふ》べし。

 

[やぶちゃん注:「あまの面」「日本国語大辞典」の『あま【案摩】 の 面(おもて)』に、『①舞楽の案摩の舞に用いる雑面(ぞうめん)という紙製の仮面。厚紙に目、鼻、口などを幾何学模様風に描いたもの』とし、飛んで、『③能楽に使う面。「尼の面」「天の面」などとも書く』とあり、初出実例として、「わらんべ草」一(万治三(一六六〇)年刊。第四代徳川家綱の治世)『又金春座には、〈略〉又尼〔天の字か〕の面一面あり。是は自レ天降(ふる)と云説あり。故に天(アマ)の面と名付也云々』とあった。後者のそれであろう。「あま」に「尼」の他に「天」を宛てるとあるから、「天」は「雨」の属性と一致するから、この久能寺の面の場合の「あま」は「天」であろう。現在の久能山東照宮の「あまの面」が現存するかどうかは、検索では、掛かってこない。

「春日」吉田秀夫氏のサイト内の「能面打ち」の「第二章  作家の研究」に、『(トリ作とも云)人皇三十四代推古天皇の御宇、百済国より仏工来』、『改名蔵部の登里と云、大和春日里に住す、故に春日と云う、凡千二百年余』とあり、さらに、『伝えに曰く 金剛家には』『春日作の翁面、不動面、宝生家には春日作翁面、淡海公作の翁面、金春家には聖徳太子作の天面、翁面三番神、及び弘法大師作の翁面あり と。けれ共是らは何れも取るに足らぬ附曽』(ママ。思うに「附會」か?)『の説である。聖徳太子は音楽の奨励者であったが為に、音楽と云うとすぐに、聖徳太子に因縁をつける癖がある。此弊が重なって、古面を聖徳太子作等と云うは、頗る当を得ない。古能の如きは神作を疑って、「聖徳太師、淡海公』、『弘法大師、春日』『右その類見ること稀なり、弁じ難し、適適見ることありといえ共信じ難し、但裏の様子凡作を雑れたるもの稀に有之、是ら真なるものか云々」』とある人物であろう。

「赤鶴」原題仮名遣「しゃくつる」。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『中世の能面作家。生没年不詳。名は吉成、一透(刀)斎と号した。世阿弥の』「申樂談儀」(さるがくだんぎ)『によると、近江在住の作家で、鬼系の作面を得意としたようで、その活躍期は南北朝時代と考えられる。後世の伝書類は十作の一人に数え、能楽諸家の所持面中、おもな鬼面は』、『ほとんど彼の作にあてられている。そのため』、『真作を同定することは困難で、むしろ』、『行道面』(ぎょうどうめん:寺院での「練り供養」である行道に用いられる仮面。唐朝の風習を受けた平安以降の遺品があり、仏界の守護神が多い。東寺の十二天面が古く、そのほか八部衆面・二十八部衆面・浄土信仰の盛行に伴って行われた「来迎会」(らいごうえ)に用いられる菩薩面などが含まれる)『中の各種』の『鬼面から』、『能面の鬼系の諸タイプが成立してくる過程で、最も名をのこした作家と考えるべきであろう』とある。

「淺間《せんげん》の神事」富士山の霊を祀った浅間神社に関する神事であるが、元は、神道系ではなく、修験道によって行われた神事である。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「地藏佛好酒」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「地藏佛好酒《ぢざうぶつ さけを このむ》」  有渡郡北矢部村補陀洛山久能寺にあり。「駿州古蹟畧」云。『久能寺の坂中にちせふ坊地藏あり。酒を備《そなへ》て祈念すれば、瘧疾《ぎやくしつ》忽《たちまち》愈ゆ。云云。』上戶《じやうご》の佛にましますにや。

 

[やぶちゃん注:「駿州古蹟畧」国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると、本書を含め、江戸時代の駿河地誌書や、現代の風土記等、三十三件ヒットするものの、書誌を記すものが、ない。ネット検索でも書名自体が、掛かってこない。識者の御教授を乞うものである。

「ちせふ坊地藏」現存を確認出来ない。

「瘧疾」何度も出ている「瘧(おこり)」。熱性マラリア。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「新詩集」「前のアポロ」

 

 

   新 詩 集

 

 

   第 一 卷

 

 

 前のアポロ

 

をりをり末だ葉のない枝を透いて、

もう全く春になつた朝が

覗くやうに、彼の頭には

あらゆる詩の輝が死ぬばかり我々にあたるのを

 

妨げうるものが全くない。

實際彼の視(し)には未だ一つの蔭もなく

顳顬(こめかみ)はまだ桂で飾るには冷た過ぎるから。

さうして薔薇の園が眉から幹高く聳え、

 

それから花片が、一つ一つ、離れて

口の戰慄へ散りかかるのは、

やつと後になつてのことだらう。

 

その口は今は未だ沈默し、用ひられず、

輝いて、微笑みながら或物を飮むでゐる。

恰も彼の歌が流しこまれでもするやうに。

 

[やぶちゃん注:底本では、ここ

「視(し)」古代ギリシア神話の太陽神アポロン(ラテン転写:Apóllōn:音写は「アポローン」)の全神話世界の総てを照らし出し、彼が見渡すところの全視界を指す。

「顳顬(こめかみ)」「蟀谷」に同じ。

「桂」アポロンの桂冠は、月桂樹(被子植物門双子葉植物綱(*その古型類群)クスノキ目クスノキ科ゲッケイジュ属ゲッケイジュ Laurus nobilis )であるから、ここは「けい」と音読みすべきであろう。]

2025/02/06

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「靈佛顯梢上」

[やぶちゃん注:底本はここから。鍵括弧類を追加し、やや長いので、段落を成形した。]

 

 「靈佛顯梢上《れいぶつ こづえのうへに あらはる》」  有渡郡北矢部村補陀洛山《ふだらくさん》久能寺【眞言、京智積院末、寺領二百二十五石七斗。】にあり。傳云。當寺は舊久能山にあり。永祿十一年、武田信玄、今の所に移す、云云。

[やぶちゃん注:「永祿十一年」一五六八年。]

 「風土記」云、

『有度山【又烏渡山】炊屋姬天皇之御宇、秦川勝之二男秦尊良之弟【或尊良之子】久能朝昏信ㇾ佛、願拜千手觀音像、連夢念此事、一老翁夢程示曰、「汝欲ㇾ拜正身之觀音像者、赴薦河國有渡山可ㇾ待一浦之風至時」。晨枕如ㇾ見眞老翁、忽進杖履、不ㇾ陪家僕、唯自己而赴ㇾ玆寄身禽獸之栖穴、專念正身謁見之事、松風改更、月落潮海之時、浦風陣々而成寂寥之思不ㇾ期着ㇾ睡、往時之老翁再來、「我是補陀落之僧也。今夜應汝望」【蟲喰脫落二十五行程歟】。云云。』。

[やぶちゃん注:自然流で推定訓読を試みる。一部に句読点・記号を変更・追加し、助詞を加え、さらに段落を成形した。

   *

 「風土記」云《いはく》、

『有度山【又、烏渡山《うどさん》。】炊屋姬天皇《かしきやひめのすめらぎ/かしきやひめのすめらみこと》の御宇、秦川勝《はたのかはかつ》の二男、秦尊良《はたのたかよし》の弟【或いは、尊良の子。】、久能の朝昏《てうこん》[やぶちゃん注:朝晩。]、佛《ほとけ》を信じ、願《ぐわん》して、千手觀音像を拜し、連《つらつら》、夢に、此の事を念《ねん》ず。一老翁、夢に程示《ていじ》して曰はく、

「汝《なんぢ》、正身《しやうしん》の觀音像を拜まんと欲《ほつ》さば、薦河國《するがのくに》有渡山に赴き、一浦《ひとうら》の風、至る時を待つべし。」

と。

 晨枕《しんちん》[やぶちゃん注:早朝の枕辺。]、眞《まこと》の老翁を見るごとし。忽《たちまち》、杖履《じやうり》を進め、家僕を陪《とも》せず、唯《ただ》、自-己《おのれ》のみして、玆《ここ》に赴き、身《み》を禽獸の栖む穴に寄せ、專ら、正身謁見の事を念ず。松風《しようふう》、改更《かいかう》[やぶちゃん注:変わって良い状態になること。]、月、潮海《しほうみ》に落つるの時、浦風、陣々《ぢんぢん》として[やぶちゃん注:風が盛んに吹いて。]、寂寥《せきれう》[やぶちゃん注:ひっそりとして、もの寂しいさま。]の思ひを成し、期せずして、睡《ねむり》に着く。往時の老翁、再び來りて、

「我、是れ、補陀落の僧なり。今夜、汝が望みに應《おう》ずべし。」【蟲喰《むしくひ》の脫落、二十五行《ぎやう》程か。】。云云《うんぬん》。』。

   *

「風土記」既出既注の正規の「風土記」ではない、怪しいもの。因みに、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河國新風土記」(第九/十輯・三階屋仁右衛門道雄著・文政一三(一八三〇)年記・修訂足立鍬太郎訂・昭和九(一九三四)年志豆波多会刊・★謄写版★印刷)のここに、「秦氏」の記載があるので、見られたい。

「炊屋姬天皇」日本史上最初の女帝とされる推古天皇(在位:五九三年~六二八年)。

「秦川勝」秦河勝(生没年未詳)は、当該ウィキによれば、『秦氏の族長的な人物であり、聖徳太子に強く影響を与えた人物とされる』。「上宮聖德法王帝說」『では「川勝秦公」と書かれる』とあった。

「秦尊良」前注のウィキには、『秦久能忠仁』(くのうただひと)『は河勝の孫にあたる』とある。「久能山東照宮」公式サイト内のこちらによれば、『久能山の歴史は『久能寺縁起』によると、推古天皇の御代』、『秦氏の久能忠仁が初めて山を開き一寺を建て、観音菩薩の像を安置し』、『補陀落山久能寺と称したことに始まります。久能山の名称もここから起こりました』とある。]

 「駿河染」云、

『久能山を有渡山【有度山駒越、矢部、馬走、草薙、小鹿山の惣名也】共云。往昔久能【後皇子の諱に同し故に避て久乃と書す】と云人、此山に入て、狩し玉ふ時、杉の木立に光物あり、久能怪て射て落す。取上て見れば、閥浮檀金(えんぶだきん)の千手觀音の像也【丈五寸】。久能、則寺を建て安置す。其後聖武天皇の御宇、行基菩薩當山に入、千手の尊像を刻み、此佛を胎内に納。云云。』

[やぶちゃん注:同前で訓読する。

   *

 「駿河染」云《いはく》、

『久能山を有渡山【有度山は、駒越《こまごえ》・矢部《やべ》・馬走《まばせ》・草薙《くさなぎ》・小鹿山《おしかやま》の惣名なり。】とも云《いふ》。往昔、久能《くの》【後《のち》、皇子《みこ》の諱《いみな》に同《おな》し故《ゆゑ》に、避《さけ》て、「久乃《くの》」と書す。】と云《いふ》人、此《この》山に入《いり》て、狩し玉ふ時、杉の木立《こだち》に光物《ひかりもの》あり、久能、怪《あやしみ》て、射て、落す。取上《とりあげ》て見れば、閥浮檀金(えんぶだきん)の千手觀音の像なり【丈《たけ》、五寸。】。久能、則《すなはち》、寺を建《たて》て、安置す。其後《そののち》、聖武天皇の御宇、行基菩薩、當山に入《いり》、千手の尊像を刻み、此佛を胎内に納《をさむ》。云云。』

   *]

 「駿府案內記」云。

『補陀洛山妙音寺は、「元亨釋書微考」に曰、『昔久能と云し狩人の、此山に鹿を追《おひ》て入《いり》ぬ。奧山に至りて、正身の觀音を拜めり。それより發心修行して、此山に入り、觀音の像を安置す』云云。又云。此山に寺を建《たて》、彼《かの》像を安置して補陀落山妙音寺と名付く。云云。』

 彼《かれ》といひ是《これ》といひ、共に奇ならずや。

[やぶちゃん注:「元亨釋書微考」天和二(一六八二)年刊。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (彼等の口は胸像の口のやうで……) / 「時禱篇」~了

 

彼等の口は胸像の口のやうで

響いたことも、息したことも、接吻したこともないが、

消え過ぎた生命から、總べてを

上手に纒めて受取つた、

そして總べてを知つてるやうに盛上つてゐる――

しかしただ比喩だ、石だ、物だ……

 

2025/02/05

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (彼等の手は女の手のやうで……)

 

彼等の手は女の手のやうで

何とない母らしさがある。

建てるときは、鳥のやうに快活で、

摑かむに暖く、賴るに安心で。

さはると盞のやうだ。

 

[やぶちゃん注:「盞」「さかずき」。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 胡桃

 

Kurumi

 

[やぶちゃん注:右下に「唐胡桃ノ葉」とキャプションを附して、本文で、『「唐胡桃」(からぐるみ)なるものが、中国から近年、本邦に齎されたとして、最近では、結構、植えている』などと言っており、特に、『葉が、本邦の胡桃の葉と異なり、檞(かしわ)の葉に似ていて、葉の末の部分は尖っておらず、葉の辺縁のギザギザもない』とも言っていて、その「違う」ところの葉を描いているのだが、肝心のその違いが、全然、上手く描かれていないのは、ガッカりだ。

 

くるみ   羗桃  核桃

      播羅師【梵書】

      呉桃【延喜式】

胡挑

       久留美

      言呉菓也

フウ タウ

[やぶちゃん字注:「播」は、原本では、(つくり)の第一画がない、「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、標準字で示した。]

 

本綱胡桃本出羗胡漢時張鶱使西域始得種還植之北

土多有之南方亦有伹不佳其樹髙𠀋許春初生葉長四

五寸微似大青葉兩兩相對頗作惡氣三月開花如栗花

穗蒼黃色結實至秋如青桃狀熟時漚爛皮肉取核爲果

人多以欅柳接之

山胡挑 南方有之底平如檳榔皮厚而大堅多肉少穰

其壳甚厚須椎之方破

[やぶちゃん字注:「壳」(「殼」の異体字)は、原本では、第六画の横画がない、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、標準字で示した。]

胡桃仁【甘熱】能入腎肺最虛寒者宜【痰火積熱者不宜多食】利三焦

 益氣養血潤肌黑鬚髮多食去五痔【多食動風脫人眉同酒食多咯血】

 與破故紙同爲補下焦腎命門之藥故古有云黃壁無

 知母破故紙無胡桃猶水母之無蝦也胡桃能制銅

胡桃青皮【苦濇】烏髭髮【與科蚪等分擣泥塗之一染卽黒】 治白癜風【與硫黃同摻之】 染帛黒色【枯皮亦佳水煎染之】

  新六山からのまはすくるみのとにかくに持ちあつかふは心なりけり光俊

△按胡桃有數種唐胡桃自中𬜻多來近頃本朝亦徃徃

 種之其葉似檞之軰而末不尖無刻齒長五六寸伹兩

 兩不對生此與本草之說少異其實核圓大而色淡皮

 薄易破仁脂多味最美也養山雀者破以餌之喜食之

鬼胡桃 核形似桃核而團甚堅硬炒過入水破之其仁

 脂少味不美

姬胡桃 核微扁仁脂多味美本草所謂南方山胡桃而

[やぶちゃん字注:「姬」は原本では、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、通用字とした。]

 倭胡桃是也其油磨木噐甚光澤用其皮染帛黒色久

 久不變凡胡桃與銅錢共嚼合則錢成粉制銅之證也

一種有澤胡桃 岸澤多有之雖結實不堪食其材畧似

 欅而理粗匠人以僞爲欅

 

   *

 

くるみ   羗桃《きやうたう》  核桃

      播羅師《ばんらし》【梵書。】

      呉桃《ごたう》【「延喜式」。】

胡挑

      「久留美」。

      言《いふ》心は、「呉菓(くれ

      のこのみ)」なり。

フウ タウ

[やぶちゃん注:「言《いふ》心は」の「心」は、送り仮名にある。]

 

「本綱」に曰はく、『胡桃は、本《も》と、羗胡(ゑびすくに《キヤウコ》[やぶちゃん注:「ゑ(ヱ)」はママ。])より出づ。漢の時、張鶱《ちやうけん》、西域《さいいき》に使《つかひ》して、始《はじめ》て、種を得て、還り、之《これを》植う。北土《ほくど》に、多く、之れ、有り。南方にも亦、有れども、伹《た》だ、佳《か》ならず。其の樹の髙さ、𠀋ばかり。春の初《はじめ》、葉を生《しやうじ》、長さ、四、五寸。微《やや》、「大青《たいせい》」の葉に似て、兩《ふた》つ兩《ながら》、相《あひ》對す。頗《すこぶ》る、惡(わる)き氣(かざ)を作《なす》。三月、花を開く。栗の花のごとし。穗《ほ》、蒼黃色。實を結ぶ。秋に至《いたり》、青桃《せいたう》の狀《かたち》≪の≫ごとし。熟《じゆくす》る時、皮肉を漚爛《おうらん》≪す≫[やぶちゃん注:水分を含んで腐ったようになる。]、核《さね》を取《とり》て、果《くわ》と爲《なす》。人、多《おほく》≪は≫、欅《けやき》・柳《やなぎ》を以つて、之れを接《つ》ぐ。』≪と≫。

『山胡挑《さんこたう》』『南方に、之れ、有り。底《そこ》、平《ひらた》にして、「檳榔《びんろう》」のごとく、皮、厚《あつく》して、大《はなは》だ、堅く、肉、多く、穰《たね》、少《すくな》し。其《その》壳《から》、甚だ、厚《あつし》。須らく、之れを椎(う)つて、方《まさに》破るべし。

『胡桃《こたう》の仁《にん》【甘、熱。】≪は≫、能《よ》く、腎・肺に入り、最も、虛寒の者に、宜《よろし》【痰火《たんくわ》・積熱《しやくねつ》の者、多食、宜《よろ》しからず。】。三焦を利し、氣を益し、血を養《やしなひ》、肌を潤《うるほし》、鬚《ひげ》・髮を黑くす。多《おほく》食へば、五痔を去る【多く食へば、風《ふう》を動かし、人の眉を脫《ぬ》く。酒と同じく食ふこと、多ければ、血を咯《はく》。】』≪と≫。『破--紙《はこし》と同《おなじ》く下焦《げしやう》≪の≫腎命門《じんめいもん》を補《おぎな》ふ藥と爲《なす》。故に、古《いにし》へより、云へる有《あり》、「黃檗《わうばく》、知母《ちも》、無く、破故紙に、胡桃、無きは、猶《な》を[やぶちゃん注:ママ。]、水母(くらげ)の、蝦(ゑび[やぶちゃん注:ママ。])、無《なき》がごとし。」≪と≫。胡桃、能《よ》く、銅を制す。』≪と≫。

『胡桃の青皮《せいひ》【苦、濇《しぶし》。】≪は≫、髭《ひげ》・髮を烏(くろ)くす【科-蚪(かへるのこ)[やぶちゃん注:「科蚪」はママ。「蝌蚪」(おたまじやくし)。]≪と≫等分≪に≫、泥に擣《つ》き[やぶちゃん注:レ点はないが、返して訓じた。]、之れを塗れば、一染《いつせん》にして、卽ち、黒し。】』『白--風(《しろ》なまづ)を治す【硫黃《いわう》と同《おなじく》、之れを、摻《すりこむ》。】』『帛(きぬ)を染《そむ》≪るに≫黒色≪と成す≫【枯皮《かれかは》も亦、佳《よ》し。水≪に≫煎じて、之れを染む。】。』≪と≫。

  「新六」

    山がらの

       まはすくるみの

     とにかくに

         持ちあつかふは

        心なりけり    光俊

△按ずるに、胡桃《くるみ》、數種《すしゆ》、有り。「唐胡桃《たうくるみ》」、中𬜻より、多《おほく》、來《きた》る。近頃、本朝にも亦、徃徃《わうわう》、之れを、種《うふ》。其の葉、檞(かしは)の軰《はい》に似て、末《すゑ》、尖(《と》が)らず、刻-齒《ぎざ》、無く、長さ、五、六寸。伹《ただし》、兩兩《ふたつながら》、對生せず。此れ、「本

草≪綱目≫」の說と、少異あり。其の實・核《さね》、圓《まろく》、大にして、色、淡く、皮、薄く、破《やぶ》れ易し。仁《にん》、脂《あぶら》、多く、味、最も、美なり。山雀《やまがら》を養(か)ふ者、破りて、以つて、之れを、餌(ゑ)にす。喜んで、之れを、食ふ。

鬼胡桃《おにぐるみ》 核《さね》の形、桃の核に似て、團《まろく》、甚だ、堅硬≪なり≫。炒過《いりすご》≪して≫、水に入《いれ》て、之れを破れば、其の仁《にん》、脂《あぶら》、少≪なく≫、味、美ならず。

姬胡桃《ひめぐるみ》 核、微《やや》、扁《ひらた》く、仁、脂、多く、味、美なり。「本草≪綱目≫」、所謂《いはゆ》る、『南方の山胡桃《さんこたう》』にして、倭≪の≫胡桃《くるみ》、是れなり。其の油、木噐《きのうつは》を磨(みが)き、甚だ、光澤≪出づる≫なり。其の皮を用《もちひ》て、帛《きぬ》を染《そむ》れば、黒色にして、久久《ひさびさ》≪に≫變ぜず。凡そ、胡桃と、銅錢と、共に、嚼-合《かみあは》すれば、則《すなはち》、錢、粉《こ》と成る。銅を制するの證《しやう》なり。

一種、「澤胡桃《さはぐるみ》」有り。岸澤《きしざは》に多《おほく》、之れ、有り。實を結《むすぶ》と雖も、食《くふ》に堪へず。其材、畧《ちと》、欅(けやき)に似て、理(きめ)、粗(あら)く、匠-人《たくみ》、以つて、僞《いつはり》て、「欅」と爲《なす》。

 

[やぶちゃん注:先行する「櫻桃」の注で、

   *

「胡桃《こたう/くるみ》」日中では同種ではないので、注意が必要である。中国に分布するのは、ブナ目クルミ科クルミ属 Juglans 止まりである。「維基百科」の同属には、九種を挙げてあるが、これらが総て中国に分布するかどうかは、判らない。本邦の知られた「クルミ」としては、クルミ属マンシュウグルミ(満州胡桃:中文名「胡桃楸」)変種オニグルミ Juglans mandshurica var. sachalinensis であるからである。

   *

と述べたが、ここでは、仕切り直しをし、跡見群芳譜」の「樹木譜 オニグルミ」、及び、同サイトの「外来植物譜 カリヤ・オウァタ」等にあるブナ目クルミ科Juglandaceae・クルミ属 Juglans の中国(周辺国を含む)産・日本産のクルミ類の解説に拠って整理する。まず、クルミ科(クルミ科)には』世界で九『属、約』六十『種が含まれ』るとあって、

■クチバシクルミ属Annamocarya

*クチバシクルミ Annamocarya sinensis(中文名『喙桃屬』。『廣西・四川・貴州・雲南・ベトナム産』)

■ペカン属 Carya(中文名『山核桃屬』)

Carya cathayensis(中文名『山核桃』。『浙江・安徽産』)

Carya hunanensis(中文名『湖南山核桃』。『湖南・廣西・貴州産』)

Carya kweichowensis(中文名『貴州山核桃』。『貴州産』)

Carya tonkinensis(中文名『越南山核桃・安南山核桃』。『廣西・雲南・ベトナム産』)

Cyclocarya 属(中文名『靑錢柳屬』)

Cyclocarya paliurus(中文名『靑錢柳・靑錢李・山麻柳』。『臺灣・華東・兩湖・兩廣・四川・貴州・雲南産』)

■フジバシデ属 Engelhardia(中文名『烟包樹屬』。五種)

Engelhardia hainanensis(中文名『海南黃杞』)

Engelhardia roxburghiana(中文名『黃杞』・『黃欅』。『臺灣・福建・江西・湖南・兩廣・四川・貴州・雲南・東南アジア産』

Engelhardia serrata(中文名『齒葉黃杞』)

Engelhardia spicata(中文名『雲南黃杞』。『雲南・廣西・インドシナ・インドネシア・フィリピン産』)

*変種Engelhardia var. colebrookiana(中文名『毛葉黃杞』。『兩廣・四川・貴州・雲南・インドシナ・ヒマラヤ産』)

■クルミ属 Juglans(中文名『胡桃屬』。『世界に約』二十一『種がある』)

Juglans hopeiensis(中文名『麻核桃』。『河北産』)

*マンシュウグルミ Juglans mandshurica(中文名『胡桃楸・核桃楸・山核桃・楸樹』。『樹皮(秦皮・核桃楸皮・楸皮)を薬用』。『朝鮮(北部)・遼寧・吉林・黑龍江・華北・陝甘・華東・兩湖・四川・貴州・雲南・臺灣産』)

*カシグルミ(ペルシアグルミ)Juglans regia(中文名『胡桃・核桃』。『小アジア・カフカス・イラン・カラコルム産』。『長野県などで栽培』

*変種テウチグルミ(チョウセングルミ・カシグルミ)Juglans var. orientalis

Juglans sigillata(中文名『鐵核桃』。『雲南・ヒマラヤ産』)

※一方、本邦のクルミは、代表種は、

★クルミ属マンシュウグルミ変種オニグルミJuglans mandshurica var. sachalinensis

で、他に、

★カシグルミ(ペルシアグルミ)変種テウチグルミ(信濃胡桃) Juglans mandshurica var. sachalinensis

がある(但し、当該ウィキによれば、『アメリカから輸入されたペルシャグルミとテウチグルミが自然交雑してできたとされている』。『なお、栽培特性の優れた株の実生選抜により残ったものであるが、現在では、品種として扱われる』。『仮果とよばれる実をつけ、その中に核果があり、さらに内側の仁を食用とすることができる。核果が成熟すると』、『外皮が割れ、核果が落下するため収穫が行いやすい。自生しているヒメグルミ』Juglans mandshurica var. cordiformis M.Ohtake氏のサイト「四季の山野草」の「ヒメグルミ」のページによれば、『オニグルミ』『とそっくりで』、『実も区別が難しいが、実の皮がはがれた後の殻がオニグルミと比べ、あまりごつごつしていない。その他』、『クルミの仲間には』、『ノグルミ』(野胡桃: Platycarya strobilacea )『サワグルミ』(沢胡桃:Pterocarya rhoifolia )『などがある』とある)『やオニグルミより大粒で殻を割りやすく食べられる部分も多いため、一般に市販されているクルミはこの種類が多い。日本では主に長野県で栽培されており、長野県東御市が生産量日本一である。別名菓子クルミ、手打ちクルミ』とある)。

以下、ウィキの「オニグルミ」を引く(注記号はカットした)。『落葉広葉樹の高木で樹高は』二十~三十メートル『に達する。樹冠は広葉樹らしい丸いものであるが、太い枝を分枝させる割に小枝が少なく、全体的に樹形は粗い印象になる。樹皮は褐色で若い頃は平滑、老木になると縦に大きく裂ける。若い枝は褐色に毛を密生させる。葉は枝に互生する奇数羽状複葉で小葉の数は』九『枚から』二十一『枚(』四『対から』十『対)、小葉の縁には明確な鋸歯を持つ。葉柄は短くて根元が太い』。『花は』一『つの個体に雄花と雌花の』二『種類が咲く』、『いわゆる雌雄同株である。雄花は尾状花序で』、『前年枝から垂れ下がり、逆に雌花は当年生の若枝に直立する。雌花は』十~二十『花ほどが付き、花穂には褐色の毛が密生する。雌花の』萼『片は緑色、柱頭部は二又に分かれ赤くなる。風媒花であり特に強いにおいなどは無い。開花時期は展葉とほぼ同じ時期である。花粉は棘状の構造物で覆われる。クルミ属の花粉は形態的に同科のサワグルミ属のものに近いが、ノグルミ属のものとはやや異なる』。『果実は初夏に受粉後同年の秋には熟す。果実はほぼ球形の緑色で熟すにつれて』、『やや黄色っぽくなる。毛が密生し』、『ざらざらした手触りである。果実内の果肉は薄く、殆どは核が占める。核は厚い殻を持ち、広卵形から球形で表面には深いひだを持ち』、『縫合部はやや飛び出る』。『ドングリ類やトチノキと同じく、発芽は地下性』『で子葉は地中に残したまま本葉が地上に出てくる。このタイプの子葉は栄養分の貯蔵と吸出しに特化し、最初に根を伸長させ、次に本葉を展開させ自身は地中で枯死する』。『根系は』、『あまり分岐せず』、『水平痕が多いタイプである。垂下根であっても条件の良い層を見つけると水平根を』、『よく伸ばす。細根は根端肥厚が見られ、これは菌類との共生による菌根である』。『冬芽は裸芽と言われることが多いが、特に頂芽に形成される雌花を含む混芽は早落性の鱗片を持つ鱗芽であるという。枝先の頂芽は円錐形で特に大きく、外側につく』一『対の葉は芽鱗の役目をして、早くに脱落する。枝に互生する側芽は小さい。葉痕は倒松形や三角形で、維管束痕が』三『個つく』。『近縁種との判別ポイントとしては』、『小葉の鋸歯の有無』、『及び、葉の表面のざらつきと大きさ、果穂の長さに注目する』。『ニレ類、トチノキ類、ヤナギ類、ハンノキ類などと共に渓流沿いに出現する代表的な樹種である』。『前述のように雌雄同株の植物であるが、開花初期のある時点で見たときに雄花だけ咲かせる個体と雌花だけ咲かせる個体が』あ『るといい、一時的に雌雄異株的な一面があるという。このような繁殖様式をヘテロダイコガミー(英:Heterodichogamy)と呼び、日本語では通例「雌雄異熟」、「異型異熟」もしくはこれに近い表現で訳される。現象自体は古くから知られており、また分類的には』十『科以上で見られるという。雌雄の反転はオニグルミの場合は』、『集団内で開花期間中に一回だけであるが、個体ごとに複数回繰り返すものも知られる』。『種子散布としてはドングリやトチノキなどと同じく、重力散布や小動物、特にネズミ類による貯食行動に依存した散布を行っている。渓流沿いに出現する種ではあるが、流水による分布拡大は比較的少ないとみられている。貯食による散布の結果平地から斜面上部に分布を広げるようになった例もしばしば報告されている。種子散布者としてはネズミ類の中でもアカネズミよりリスの方が望ましく、アカネズミはササ藪に種子を持ち込むので不適である。リスの場合貯食後に積雪があっても掘り起こしており、貯食場所の記憶は嗅覚や単なる視覚ではなく総合的に判断しているという。飛び飛びのパッチ状態でも地域内にオニグルミが存在することは、リスの生存に重要なことの一つだという』。『カラスもよくオニグルミを食べ、この時に空中からクルミを落として割る行動が見られる。クルミの割れやすさは季節によって差があり、晩秋ほど割れやすいという。また、カラスは重いクルミを選んで割る傾向があるという。カラス類はクルミを自動車に踏ませて割らせるという行動も知られている。ツキノワグマもクルミを利用している。クマはサクラ類の種子散布者としては重要であるが、クルミの場合はかみ砕いてしまうために不適である』。『動物散布型の種子ということで虫害果に対する動物の反応も調べられており、動物の種類によって反応が違うという。ミズナラで行った実験では雌雄で差が見られたものもあった』。『結実状況は豊凶の差がある。ブナやミズナラほど不規則ではないが』、『概ね』、『隔年で豊凶を繰り返すという。ある程度の埋土種子能力はあると見られるが、単に林床で保存すると』一『年の保存で発芽率は大きく低下する。人工的に低温恒温条件でビニール袋に入れることで数年程度の保存ができるが、その場合も発芽率は徐々に低下する。ビニール袋に入れるか封筒に入れるかで生存率が大きく変わる樹種もある』。『クルミ類はアレロパシー』(Allelopathy:ある植物が他の植物の生長を抑える物質(アレロケミカル)を放出したり、あるいは動物や微生物を防いだり、或いは、引き寄せたりする効果の総称。邦訳では「他感作用」という。ギリシア語の(ラテン文字転写:allēlōn:「互いに」)+(同前:pathos・「感受」「あるものに降りかかるもの」)からなる合成語で、一九三七年にドイツの植物学者ハンス・モーリッシュ(Hans Molisch(一八五六年~一九三七年)により提唱された)『が強いとされ、他の植物の生育を阻害する例がしばしば報告される。原因物質とされるジュグロンは生の果実からのエーテル処理でセイヨウグルミの数十倍得られるという。降雨時に生じる樹冠流によってオニグルミの周辺土壌は中性化するという』。『海水で育てると』、『速やかに枯死するといい』、『耐塩性は低いと見られる。一方でクルミの種子は時に海岸に漂着することがあるという』。『オニグルミは年間成長期間の中では比較的短期に伸ばすタイプだと見られている。土用芽(』(土用の頃に萌え出る新芽。梅雨明けの頃の気温上昇で芽吹く)『英:lammas shoot)も出さず、成長期間中の二度伸びはない。これは樹種毎に傾向があることが知られている。種子の大きさの割に実生の初期成長は遅いというが、成木伐採後の萌芽更新の際は巨大な根系の資源を使い非常に成長が速い』。『大型のテントウムシの一種、カメノコテントウの幼虫はアブラムシではなく、ハムシの幼虫を捕食する。特にクルミ類に付くクルミハムシを好み、オニグルミの葉の上でも見られる。オニグルミに付く昆虫、特にチョウやガの幼虫は多い。北海道における調査ではオニグルミやヤナギ類などからなる河畔林は、大量の昆虫を川面に落とし』、『魚類などの餌の供給源になっていると見られている』。本種は『日本の北海道・本州・四国・九州と、樺太にかけて広く分布する。沖縄にはなく、鹿児島県の屋久島が南限とされる。本州の中北部に最も多い』。『核の中身は食用になる。形態節の通り』、『地下性の発芽様式を採り、人間や動物が食べている部分は栄養を蓄えた子葉の部分である』。『クルミ類を食べる際』、『僅かに渋みを感じるのは、渋皮に含まれるポリフェノールやタンニンのためである。渋み成分の種類と量はクルミの種類によっても差があるという。果皮や葉にはさらに多くのタンニンが含まれており食用にはできない。ただし、新芽は食べることがある』。『オニグルミの実は食用にでき、日本産のクルミでは唯一の食用種である。採取時期は』九~十『月ごろで、熟した果実を竿などでたたき落とすか、落ちているものを拾い集める。果実は外皮をかぶっているので、土に浅く埋めて外皮を腐らせたり、靴底で地面に強く踏みつけて転がすなどして取り除き、殻を水洗いして天日干しして保存する。広く市販されるテウチグルミやシナノグルミと比較して実はやや小さく、殻(核果)が厚めで非常に堅いので、食べられる殻の中の種子(仁)を綺麗に取り出す事は容易ではない。クルミを割って食べるときは、尖っているほうを下にして縦位置に置いて、金槌で底を叩き、渋皮は熱湯に通して竹串で剥く』。『種子はそのまま生で食べるか、軽く炒って食べる。多くの油分とたんぱく質を含み、味は濃厚で保存性が良い。山菜をクルミ和えで楽しむほか、クルミ豆腐、クルミ味噌、甘煮、和菓子、洋菓子、パンの材料、料理のトッピングなど、広範囲に利用される。中部地方や東北地方では、オニグルミを使った菓子や餅も多い。長期保存が利くので、かつては山村の各家の保存食に利用したり、和・洋菓子用に出荷するなどもされたが、昨今では扱いやすいテウチグルミやシナノグルミのほうが人気が高く、オニグルミは自家消費用に採るぐらいだという』。『植物体としては土の中でも残り易く、古くから食用にされていたことを示すものとして、日本列島の縄文時代の遺跡からも、多量のオニグルミの殻が出土している。特に東北・関東・中部地方に多い。クルミだけを捨てる場所、トチノキだけを捨てる場所などの使い分けが見られる遺跡もある。脂質、特に脂肪酸は種に特異的な組成比を残したまま、土壌中に長期残存するとされており、殻の痕跡など間接的な証拠だけでなく骨の分析などからの古代人の植生解明も期待できるという』。『道管の配置は散孔材。心材は赤褐色で辺材は黄白色で境界は明瞭であるが年輪は不明瞭。気乾比重は』〇・五『程度』。『木材としてはかたく、「ウォールナット」』(walnut)『の名で知られる。ウォールナットは製材後の狂いが少なく、加工も容易という長所を有するため、机や椅子、洋風家具、建築、フローリング、彫刻、小銃の銃床などにも用いられる』。『秋田県の古民家における調査では屋根を支える梁桁』(はりげた)、『床を支える大引』(おおびき)『などの重要な構造材にオニグルミ材が使用されていた家があった。ただし、スギ、クリ、ケヤキなどに比べると使用頻度は少ない。遺跡からはクルミの殻だけでなく木片も見つかることから、古くから木材としても利用されていたとみられる』。『種子が薬用され、生薬名を胡桃仁(ことうじん)と称し、喘息、便秘、インポテンツ、腎結石に薬効があるといわれている。一般的にはオニグルミよりもテウチグルミ(胡桃)がよく使われる。民間療法では』、一『日量』五~十『グラムを』四百『ccの水で煎じて』、三『回に分けて服用する用法が知られるが、そのまま食べても同様に効果があるとされる。体力が落ちてころころしたときの便秘や、咳をしたときに尿漏れするような喘息に良いといわれている』。『魚毒として漁に使ったという記録が各地に残る。殺魚成分はナフトキノン』(1,4-naphthoquinoneC10H6O2)『だとされる。魚毒漁は使用する植物はもちろん、漁の目的から参加者まで多種多様のものがあることが各地で報告されているが、クルミを用いる場合の』、『この辺のことはよくわかっていない』。『殻』は『根付細工などに利用された』。また、『粉砕した殻を埋め込んだ冬用タイヤが開発されている。クルミの殻は硬く鋭利であるが、スパイクタイヤではなくスタッドレスタイヤ扱いとなっている』。『観賞性はあまり高くないが、収穫を楽しむことができる植栽として庭木などにも使われる。植栽する場合、植え込みの適期は』十二~三『月とされる』。『正月の魔除け的な習慣である削掛』(けずりかけ:木を削って花や稲穂のように作った飾り物や幣(ぬさ)。神棚・仏壇・門・墓などに飾られ、農作物の豊作を祈願するもの)『の材料にオニグルミを使うという。削掛に似たアイヌの習慣にイナウがある。イナウに用いる樹種は儀式の目的によっては、それほど制限されないものもあると言い、中にはオニグルミで作るものもあるという』。『クルミを庭に植えることは魔除けになるという地域と、逆に災いごとを呼び込むとして禁忌とする地域があるという』。『「クルミ」』という名は、『タンニンで真っ黒になった様を指して「黒い実」、熟しても果皮に包まれた様から「くるまれた実」、クリに似て食用にできるから「栗実(くりみ)」など諸説ある。「オニ(鬼)」は核果が大きく凹凸も多いことを在来クルミ類、特にヒメグルミとの対比した命名と見られる』。『実際に』、『オニグルミの方言名では「オオクルミ」「オトコクルミ」などのヒメグルミと比較した名前が東北から北陸にかけてみられる。方言名は種類としては多くなく』、『「クルミ」が訛った程度のものが多く、「クルミ」「クルミノキ」などという名前も全国的に知られる。大阪周辺では「ウルシ」と呼ぶという。ウルシは複葉である点と発音が若干似ている。「黒い実」説に近い「クロビ」「クロベ」などは北陸に見られる。四国や九州北部はクリやウメが付く名前が多く、「クリミ」、「コーグリ」、「クリウメ」、「ノグウメ」などがみられる。「ウメ」は』、『幼果がウメのそれに似ていることに因むとみられる。四国はトチノキも「クリ」の付く方言で呼ぶことが多い。変わった名前として「ヤマギリ」(長崎県)「モモタロ」(石川県)「ボヤ」(紀伊半島)「ノブ」(愛媛県・山口県)などがある。九州はサワグルミなどを「ギリ」と付けて呼ぶところが他にも知られる。アイヌは「ニヌム」「ニヌムニ」などと呼んでいた。同じく食用になるヒメグルミと区別しない方言も全国的に多く、「ボヤ」「ノブ」などは』、『実が食用にならないノグルミやサワグルミと同じだという』。『カラフトグルミ(樺太胡桃)、カラフトオニグルミ(樺太鬼胡桃)ともよばれる中国植物名では「核桃楸」(かくとうしゅう)という』。『種小名mandshuricaは「満州の」、変種名sachalinensisは「サハリンの」で何れも分布地に因む命名である。本項ではシノニムとなっているJuglans ailanthifoliaの種小名ailanthifoliaは「ニワウルシ属( Ailanthus )の葉」という意味で』、『いずれも葉が複葉で似ていることからの命名である』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「胡桃」([075-49b]以下)をパッチワークしたものである。

「播羅師【梵書。】」とあるが、「大蔵経データベース」で検索しても、出てこない。不審。

「呉桃《ごたう》【「延喜式」。】」「呉菓(くれのこのみ)」本邦での呼称。呉地方を渡来した中国の代わりに用いたもの。

「羗胡(ゑびすくに《キヤウコ》)」「羌」(きょう)は中国の古代より中国西部に住んでいる異民族を指し、「西羌」とも呼ばれる。現在も中国の少数民族(チャン族)として存在する。「胡」は中国の北西方の未開民族。また一般に、「異民族・外国」の意を表わす。本邦の「夷」(えびす:歴史的仮名遣も同じ)で、孰れも中国で異民族の卑称である。

「張鶱」(?~紀元前一一四年)は前漢の軍人・外交官。本貫は漢中郡城固県。小学館「日本国語大辞典」に、紀元前一三九年頃、『武帝の時、匈奴を牽制するため』、『大月氏と同盟を結ぼうと出発』、『同盟は不成立だったが、大宛、大月氏、大夏などをまわり、のちに烏孫にも使』い『して、西域への交通路と知識を中国にもたらした。また、その間、匈奴征伐に従って功をたて、博望侯に封ぜられた』(その翌年に没した)とある。当該ウィキが詳しい。

「大青《たいせい》」シソ目シソ科キランソウ亜科クサギ(臭木)属クサギClerodendrum trichotomum、或いは変種クサギ Clerodendrum trichotomum var. trichotomum 。中国・朝鮮・日本全国に分布する。和名は、枝や葉に、やや悪臭があることに由来する。六年を過ごした、富山県高岡市伏木の裏山である二上山に多く生えていた。確かに、臭いが、私は、跋渉するごとに、花を好んだ。

「頗《すこぶ》る、惡(わる)き氣(かざ)を作《なす》」不審。クルミの葉が悪臭を持つという記載は、中文のクルミ類の記載をいくら見ても、「臭い」とする記述はない。

「青桃」不詳。中文サイトでも掛かってこない。

「山胡挑《さんこたう》」前掲の Carya cathayensis のことと思われる。

「檳榔《びんろう》」ヤシ科の植物檳榔樹である、単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu のこと。果実を薬用・染色用とする。「檳榔子」(びんろうじ)と書くと、ビンロウの果実を指すが、ここでは、それ。本種は本邦では産しないが、薬用・染料とするため、奈良時代の天平勝宝八(七五六)年頃、輸入された記録が既にある。

「痰火《たんくわ》」熱があって痰が激しく出る病気。

「積熱《しやくねつ》」脾胃に熱が溜まっている状態を指す。

「三焦」既出既注だが、再掲すると、伝統中医学に於ける仮想の「六腑」の一つ「三焦」(さんしょう)。「上焦」・「中焦」・「下焦」の三つからなり、「上焦」は「心臓の下、胃の上にあって飲食物を胃の中へ入れる器官で、心・肺を含み、その生理機能は呼吸や血脈を掌り、飲食物の栄養分(飲食水穀の精気)を全身に巡らし、全身の臓腑・組織を滋養する器官とされる」とされ、「中焦」は「胃の中脘(ちゅうかん:本来は当該部のツボ名)にあって消化器官」とされ、「下焦」は「膀胱の上にあって排泄をつかさどる器官」とされる。因みに、所謂、「病い、膏肓に入る。」の諺の「膏肓」とは、この「三焦」を指し、これらが人体の内、最も奥に存在し、漢方の処方も、そこを原因とする病いの場合、うまく届けることが困難であることから、医師も「匙を投げる」部位なのである。

「五痔」複数回既出既注だが、再掲しておくと、東洋文庫の「丁子」の割注に、『内痔の脈痔・腸痔・血痔、外痔の牡痔・牝痔をあわせて五痔という』とあったが、これらの各個の症状を解説した漢方サイトを探したが、見当たらない。一説に「切(きれ)痔・疣(いぼ)痔・鶏冠(とさか)痔(張り疣痔)・蓮(はす)痔(痔瘻(じろう))・脱痔」とするが、どうもこれは近代の話っぽい。中文の中医学の記載では、「牡痔・牝痔・脉痔・腸痔・血痔」を挙げる。それぞれ想像だが、「牡痔・牝痔」は「外痔核」・「内痔核」でよかろうか。「脉痔」が判らないが、脈打つようにズキズキするの意ととれば、内痔核の一種で、脱出した痔核が戻らなくなり、血栓が発生して大きく腫れ上がって激しい痛みを伴う「嵌頓(かんとん)痔核」、又は、肛門の周囲に血栓が生じて激しい痛みを伴う「血栓性外痔核」かも知れぬ。「腸痔」は穿孔が起こる「痔瘻」と見てよく、「血痔」は「裂肛」(切れ痔)でよかろう。

「風《ふう》を動かし」漢方では、体の揺れ動く症状を言う。

「黃檗《わうばく》、知母《ちも》、無く」東洋文庫訳は、そのまま訳しているが、意味が判ってない! これは「黃柏」の誤りである! 「黃柏」はムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense の黄色い樹皮を乾した漢方生薬で、「八ッ目漢方薬局」の「黄柏(おうばく/キハダ)」を見ると、『化膿症や炎症のある場合に使用する外用薬の「中黄膏」には、オウバクが含まれている』。『漢方処方としては、虚熱(消耗性疾患における発熱)を清熱することを目標に(滋陰降火湯)、あるいは』、『ほてりなどの症状にも、知母』(☜)『などとともに配合されている(知柏地黄丸:知柏壮健丸』とある。則ち、補薬として、カップリングに外せないものであることを言っているのである。

「破故紙《はこし》」マメ目マメ科オランダビユ属オランダビユ Psoralea corylifolia の成熟果実を指す。「株式会社 ウチダ和漢薬」の「生薬の玉手箱」の「破故紙(ハコシ)/補骨脂(ホコツシ)」に以下のようにある。かなりの分量があるが、まさに、この「本草綱目」も引用されてあるので、全文を示す。

   《引用開始》

 「破故紙」は別名「補骨脂」とも称します。『本草綱目』には「補骨脂とはその効力を表した名である。胡人がこれを婆固脂と呼んだのを俗に訛って破故紙といったのだ」とあります。その由来について『図経本草』には「今は嶺外の山坂の地に多くある。四川、合州にもまたあるが、いずれも外国の舶来品の優良なるに及ばない」と、さらに「この物は元来外国から商船で輸入されるもので、中華には産せぬものだ」とあります。明らかに中国以外から導入されたことが分かります。原植物の形態について『本草綱目』ではまた、「この植物は茎の高さ三四尺、葉は小さくして薄荷に似ている。花は微紫色だ。実は麻子のようで円く平たくして黒い」と記載があります。これは現在のマメ科植物であるオタンダビユの形態と一致しています。

 オランダビユは、その名称とは異なりインド、スリランカに自生している植物ですから、アーユルヴェーダ文化圏から導入された薬物ということになります。一年生草本で高さ 90 cm ほど、全草が黄白色の毛および黒褐色の腺点に覆われています。茎には縦の稜があり堅く、粗い鋸歯がある広卵形の葉を互生します。7月から8月には花が多数密集した総状花序をつけます。個々の花は蝶形で淡紫色か黄色です。花後にだ円形の豆果をつけます。豆果には宿存する萼があり、果皮は中にある1個の黒色の種子にはりついています。秋に果実が成熟した頃に果序を採取し、日干しにし、果実を揉み出し異物を除きます。この乾燥した果実が破故紙(補骨脂)です。

 生薬は腎臓形でやや扁平、黒色から黒褐色で、長さ 35 mm、直径 24 mm、厚さ 1.5 mm で表面には微細な網状のしわがあります。薄い果皮の中には種子が1粒あります。古来、粒が大きく充実し、黒色のものが良いとされています。その薬効は、脾腎陽虚の要薬で、脾が陽虚で溏泄(泥状便のこと)し、腎が寒冷で精流するときに有効な薬物です。破故紙の腎を補い、陽を助ける力は、脾を暖める作用に優るとされています。病状としては、遺尿や頻尿、失精やインポテンツ、足腰の冷えなどに使用されてきました。

 『図経本草』には「破故紙は今世間で多く胡桃と合わせて服するが、この法は唐の鄭相國から出たものだ」と、胡桃(クルミ)との配合が重要であることが述べられています。実際に破故紙と胡桃が同時に配合される処方には青娥丸(破故紙、胡桃、杜仲)や、唐鄭相國方(破故紙、胡桃肉)があります。『図経本草』では鄭相國の自叙を引用して破故紙の使用経験を紹介しています。すなわち「予が南海の節度史となったのは七十有五の年であったが、任地、越地方は卑湿のところで、ために身体の内外を傷め、種々の病気が俱発して陽気が衰絶し、乳石などの補薬あらゆるものを服したが、すべてその応験が見えなかった。(中略)不承不承に破故紙を服んで見ると、七八日経つとその反応が現はれて来た。爾来常に服しているが、その効力は誠に不思議なものである」とし、処方の作成方法も紹介しています。「破故紙十両を用い、皮を取り去って洗い、曝しついて細かに篩い、胡桃仁二十両を湯に浸し、皮を去り細かに研いて泥状にして、前述の粉末を入れ、良質な蜜で和し飴糖のようにして磁器に盛って、朝、昼この薬一匙を暖酒二合で調えて服し、飯を食って圧へる。若し酒を飲めぬ人ならば暖かい水で調えて用いる。久しきに互つて[やぶちゃん注:ママ。「互(わた)って」。]服すれば天年を延べ、気力を益し、精神を爽快にし、目を明らかにし、筋骨を補添する」とあります。破故紙と胡桃との関係については『本草綱目』でも「破故紙は神明を収斂し、よく心胞の火と命門の火とを相通じさせるので元陽は堅固になり、骨髄は充実し、渋で脱を治すとある。胡桃は燥を潤し血を養い、血は陰に属して燥を悪む。そこで油でこれを潤し、破故紙を佐ければ木火相生の妙がある。したがって破故紙に胡桃がなければ水母(クラゲ)に蝦(エビ)がないようなものであるという言葉がある」と、両者の組み合わせの重要性が記されています。我が国では使用される機会がほとんどない薬物ですが、これからの高齢社会には重要な薬物であるように思われます。

   《引用終了》

「水母(くらげ)の、蝦(ゑび[やぶちゃん注:ママ。])、無《なき》がごとし。」東洋文庫訳の後注に、『水母と鰕』(=「蝦」=海産の「エビ」)『は共生し、蝦は水母の眼の役目をしてあちこち水母を誘導し、その代り水母の涎沫』(よだれ)『を飲んで生きている、という。』とある。但し、無論、この共生説は、誤りであり、クラゲ類(刺胞動物門ヒドロ虫綱 Hydrozoa・十文字クラゲ綱 Staurozoa・箱虫綱 Cubozoa・鉢虫綱 Scyphozoa)やホヤ(脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱 Ascidiacea)・サルパ(脊索動物門尾索動物亜門 タリア綱 Thaliaceaサルパ目 Salpidaサルパ科 Salpidae:この類は、一見、クラゲに見えるが、前のホヤ類同様、脊椎動物である魚類のすぐ前の高等な動物である。因みに、私はクラゲ・フリークであり、ホヤ・フリークである(「ホヤ伝道師」の資格も持っているノダ!))等に勝手に寄生している種群を指している。最も知られるものでは、節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目クラゲノミ(水母蚤)亜目 Hyperiideaのクラゲノミ類:当該ウィキを見られたい)や、節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目コエビ下目タラバエビ上科タラバエビ科クラゲエビ属クラゲエビ  Chlorotocella gracilis (名にし負う種だが、実際には、クラゲに寄生しているというのは、私は、見たことがない。サイト「海と島の雑貨屋さん」の「クラゲエビ」を見られたい)等を指す。

「白--風(《しろ》なまづ)」尋常性白斑。小学館「日本大百科全書」によれば、『後天性の色素減少症の一つで、俗称白なまず。大小の類円形または不整形の完全脱色素斑で、白斑周囲の健常皮膚は色素増強を示すことが多いため境界ははっきりしている。脱色素斑部の毳毛(ぜいもう)(うぶ毛)または剛毛は、長期間存在する患部では白毛となることが多い。通常は自覚症状に乏しいが、ときにかゆみが先行したり、随伴することもある。好発部位はとくになく、全身至る所に発生するが、顔、胸、手背、腋窩(えきか)(わきの下)、外陰部、肘(ひじ)、膝(ひざ)などによくみられる。臨床的に身体の一部にだけ発症する限局型、一定の神経支配領域に一致して片側性に発症する分節型、比較的広範囲に散在する汎発(はんぱつ)型に分類される。原因については自己免疫説、神経障害説などがあるが、まだ定説はない。治療はソラレン療法、副腎』『皮質ホルモン外用療法などがあるが、難治であることが多い』とある。

「新六」「山がらのまはすくるみのとにかくに持ちあつかふは心なりけり「光俊」「新六」は「新撰和歌六帖(しんせんわかろくぢやう)」で「新撰六帖題和歌」とも呼ぶ。寛元二(一二四三)年成立。藤原家良(衣笠家良)・藤原為家・藤原知家(寿永元(一一八二)年~正嘉二(一二五八)年:後に為家一派とは離反した)・藤原信実・藤原光俊の五人が、寛元元年から同二年頃に詠んだ和歌二千六百三十五首を収録した類題和歌集。奇矯・特異な詠風を特徴とする。日文研の「和歌データベース」の「新撰和歌六帖」で確認した。「第六 木」のガイド・ナンバー「02430」である。本文にも良安が述べている「山がら」は、朝鮮半島及び日本(北海道・本州・四国・九州・伊豆大島・佐渡島・五島列島)に分布するスズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ亜種ヤマガラ Parus varius varius(背中や下面は橙褐色の羽毛で被われ、頭部の明色斑は黄褐色)。本邦には他に限定地固有種亜種として以下の三種がいる。ナミエヤマガラParus varius varius namiyei(神津島・新島・利島(としま)固有亜種。背中や下面は橙褐色の羽毛で被われ、頭部の明色斑は淡黄色)・オリイヤマガラParus varius varius olivaceus(西表島固有亜種。頭部の明色斑は赤褐色で、背中は灰褐色、下面は赤褐色の羽毛で被われる)・Parus varius varius owstoni オーストンヤマガラ(八丈島・御蔵島・三宅島固有亜種。最大亜種で、下面は赤褐色の羽毛で被われ、頭部の明色斑は細く、色彩は赤褐色。嘴が太い)がいる。詳しい博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 山雀(やまがら) (ヤマガラ)」を見られたい。そこで、良安が、『好んで胡桃(くるみ)を食ひ、飽〔(くひあ)〕くときは、則ち、胡桃を覆(うつむ)け〔置き、後に〕飢〔うれば〕、則ち、之れを飜〔(ひるが)へして〕中の肉を啄む。』と記している。

「唐胡桃《たうくるみ》」種としては、前掲のカシグルミ(ペルシアグルミ)変種テウチグルミ(信濃胡桃) Juglans mandshurica var. sachalinensis を指す。

「山胡桃《さんこたう》」本邦では、オニグルミの別称だが、良安が言うようには、同一種では、ない。まず、中国の同種のウィキがないこと、さらに、同種の英文ウィキを見ると、『日本とサハリン原産のクルミの一種』とあるからである。

「欅(けやき)」これは、良安が本邦の話として言っているので、双子葉植物綱バラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata でよいのあるが、これは、大いに注意が必要である。何故なら、既に、「櫸」で述べた通り、現代中国語では、ケヤキを「榉树」(繁体字「欅樹」)とし、別名でも「櫸木」と書きはするが、時珍の時代のそれは、「ケヤキ」ではなく、現代の中文名を、「枫杨(繁体字「楓楊」)とし、別名は、「水麻柳」及び「柳」(繁体字「欅柳」)である、中国中南部原産の落葉高木である、

!★!双子葉植物綱マンサク亜綱クルミ目クルミ科サワグルミ属シナサワグルミ Pterocarya stenoptera

を指すからである! ウィキの「シナサワグルミ」によれば、『別名はカンポウフウ、カンベイジュ』で、『中国原産の落葉高木。雌雄同株で花期は』五『月頃、雄花は黄緑色、雌花は黄緑色で柱頭は紅色である』。『公園樹、街路樹として植栽される』とある。因みに、本邦に同種が渡来したのは、調べたところ、明治初期である。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「古墳靈驗」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「古墳靈驗」  有渡郡聖一色村《うどのこほりいつしきむら》にあり。傳云《つたへいふ》。當村靈光院屋敷と云所の傍に、五輪の古墓《ふるばか》あり。其左右にも、小五輪巨多《きよた》なり。土俗是を足利尊氏公の墓とす。非也《ひなり》。嫡子竹若の墓也。瘧《おこり》を煩ふ者、此塚に祈る、必《かならず》愈ゆ。柳を以て太刀を造り、賽《さい》す。云云。按《あんず》るに、竹若は北條高時の爲に討たる。何の故に瘧を祈れば驗《しるし》あるか、詳《つまびらか》ならず。里人《さとびと》云《いはく》、竹若は元弘三年五月、伊豆の御山を出《いで》て、伯父宰相法印良遍《りやうべん》、同宿十三人、山伏の姿に成《なり》て、潛《ひそか》に上洛す。鎌倉の使《つかひ》、長崎勘解由《かげゆ》左衞門入道・諏訪杢左衞門《もくざゑもん》入道が爲に、浮島《うきしま》か[やぶちゃん注:ママ。]原にて害せらる。後、爰《ここ》に葬《はふ》る成《なる》べし。云云。又云。慶安年中[やぶちゃん注:一六四八年~一六五二年。]、由井正雪、謀《はかりごと》を以て楠正成の料《れう》と號し、菊水の紋付たる旗を、五輪の塔の傍《かたはら》なる大松二本のもとに埋置《うめおき》、僞《いつはり》て後に堀[やぶちゃん注:ママ。]得たるは、卽《すなはち》此所也。近歲《きんさい/ちかごろ》、此松大風に倒《たふれ》たり。

[やぶちゃん注:「聖一色村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『静岡県』『静岡市旧有渡郡・庵原郡地区聖一色村』は、『現在地名』は『静岡市聖一色・古庄(ふるしょう)一丁目・栗原(くりはら)・国吉田(くによしだ)四丁目』とし、『有度山(うどさん)丘陵北西麓に位置し、南は池田(いけだ)村。応永五』(一三九八)年『六月の』「密嚴院領關東知行地注文案」『(醍醐寺文書)に「聖一色」がみえ、伊豆走湯山(伊豆山神社)密厳(みつごん)院領と判明する。永禄一二』(一五六九)年『四月』十五『日の武田信玄判物(臨済寺文書)で林際寺(臨済寺)に寄進された』「栗原一色兩鄕」百『貫文の一色は、栗原と隣接する聖一色と推測される』とある。現在の冒頭のそれは、静岡県静岡市駿河区聖一色。「ひなたGPS」の戦前の地図を参照されたい。

「靈光院屋敷」不詳。

「五輪の古墓あり」不詳。

「巨多」多くあること。

「嫡子竹若」足利竹若丸(たけわかまる 正中元(一三二四)年~元弘三/正慶二(一三三三)年五月二日)。鎌倉末期の足利氏の棟梁で、室町幕府初代将軍足利尊氏の庶長子。当該ウィキによれば、『母は足利氏の一族の加古基氏の娘』。『基氏は尊氏の曾祖父である足利頼氏の庶弟にあたるため、尊氏にとって竹若丸の母である基氏の娘は「祖父の従姉妹」という関係だが、世代的にはほとんど同じだったとみられる。後に』「太平記」にれば、『竹若丸は尊氏の男子の中で長男とされ、伊豆走湯山の伊豆山神社に居住した』。元弘三/正慶二(一三三三)年五月、父の尊氏が鎌倉幕府に対して謀反を起こし』、『六波羅探題を攻撃したため、走湯山密巌院』(そうとうざんみつごんいん)『別当であった覚遍(母の兄)に伴われて』、『山伏姿で密かに上洛しようとしたが、駿河浮嶋が原(現在の静岡県沼津市』及び富士市)(ここ)『で幕府・北条氏の刺客』長崎為基・諏訪宗経『によって刺殺された』(同ウィキの生年が正しければ、僅か享年数え十歳であった)。『山伏姿で上洛しようとしたことから元服前、少なくとも他の史料で庶長子とされる直冬』(嘉暦二(一三二七)年生まれか)『より年長者と推測され、尊氏は後年に竹若丸と覚遍の後世』(ごぜ)『供養を行っている』とある(現在の供養塔(非常に新しいもの)はさいたま市西区指扇(さしおうぎ)の清河寺(せいがんじ:グーグル・マップ・データ)にある)。Santalab氏のブログ「Santa Lab's Blog」の『「太平記」千寿王殿被落大蔵谷事(その2)』(新字正仮名)を見られたい。

「瘧」熱性マラリア。

「慶安年中」一六四八年から一六五二年であるが、「慶安の変」は、慶安四(一六五一)年四月に徳川家光が病死し、後を十一歳の徳川家綱が継ぐこととなったのを契機として、幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始したが、一味の奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見、慶安四年七月二十三日に、別働隊の主犯丸橋忠弥が江戸で捕縛された。その前日、既に正雪は江戸を出発し、計画の露見を知らぬまま、七月二十五日、駿府に到着、駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したが、翌二十六日早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決した(以上はウィキの「慶安の変」に拠った)。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (見よ、彼等を。彼等に何を比べよう。……)

  

見よ、彼等を。彼等に何を比べよう。

彼等は風の中に置かれたやうに搖らぎ、

人が持つ物のやうに休んでゐる。

その眼の中には、俄の夏の雨が

落ちかかる明るい牧場の

嚴に暗がつてゆくやうなものがある。

 

2025/02/04

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「櫻塚」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「櫻塚」  有渡郡上島村《うどのこおりかみじまむら》田間《たのあひだ》にあり。「風土記」云。有豐炊禰乃陵。云云。卽《すなはち》是か。或云。有度采女藪子の塚也。云云。今瘧《おこり》を煩ふ者、此塚に祈念す、必《かならず》愈ゆ。何の故を以て、瘧の病《やまひ》に驗《しるし》ある、其據《そのよりどころ》を知らず。

 

[やぶちゃん注:所持する岩波文庫「風土記」(武田祐吉編・一九三七年岩波文庫刊)には、見当たらない。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの「古事類苑」(神宮司庁古事類苑出版事務所編・大正二(一九一三)年神宮司庁刊)の「地部四」の「地部九」の「駿河國」の「有度郡」に、

   *

〔駿河國新風土記〕郡名考

 有渡郡 万葉集有度ニ作リ、風土記烏渡ニ作リ、和名抄延喜式有度ニ作リ、今有渡ト書ス、中古ヨリ同ジ、萬葉集二十有度郡牛麿ト云名アリ、コノ國人ナリ、風土記ニ、有度淸水、有度采女、藪子陵アリ、有度山アリ、中古ノ歌ニ有度濱トヨム、皆此ナリ、其有度テフ語意ハ、有ハ借字ニテ、ウウノ約リテウトナリ、度ハ所(ト)ノ意ニテ、植所(ウト)ノ義ナリ、植トハ稻苗ヲ植ル所ト云意ナリ、其有度ノ里トサス所、今ノ有東村成ベシ、

   *

とあるのが、唯一の別記載である。ネットで検索しても、他には、記載を見ないため、「豐炊禰乃陵」、及び「有度采女藪子」の陵墓の主や、その「読み」さえも判らない(前者は「とよかしぎねのみささぎ」、後者は「うどのうねめやぶし」だろうか? こんなに全く不明なのも珍しい)。識者の御教授を乞うものである。

「有渡郡上島村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『上島村』『かみじまむら』として、『静岡県』、『静岡市旧有渡郡・庵原郡地区上島村』で、『現在地名』を『静岡市中田(なかだ)一』~『四丁目・中田本町(なかだほんちょう)・馬渕(まぶち)三』~『四丁目・石田(いしだ)三丁目・稲川(いながわ)一丁目』とし、『稲川村の南に位置する』(「天保國繪圖」)。『村名は中島・下島・西島に対するもので、旧安倍(あべ)川の』支『流の間にある地形(島)に由来するとの説がある』(「修訂駿河國新風土記」)。『戦国期は上島郷と称された。永禄八』『(一五六五)』『年』十一『月七日の今川氏真判物(増善寺文書)によると、「上嶋郷」内の浮免二町などが増善(ぞうぜん)寺領として同寺の宗佐に安堵されている。元亀四』(一五七三)』年十『月』二十一『日の武田家朱印状(写、判物証文写)は神尾左近丞に上島のうち』、『六貫文を、天正二』『(一五七四)』年『三月』二十九『日の武田勝頼判物(写、土佐国蠧簡集残篇)は岡部長教に上島のうち』百三十九『貫文を与えている』とある。現在、冒頭に記されるそれは、静岡県静岡市駿河区中田で、「ひなたGPS」の戦前の地図を見られたい。駿府城の南東の一帯に当たる。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (知る者よ、その廣い知識は……)

 

 

知る者よ、その廣い知識は

貧しさから成り、貧しさの溢れである者よ。

最早や貧しい人々が嫌惡の中ヘ

捨てられたり蹴込まれたりしないやうにせよ。

他の人々は裂かれたやうだ、

しかし彼等は花のやうに根から立上り

メリサのやうに薰り、

その葉はぎざぎざで軟かい。

 

[やぶちゃん注:「メリサ」双子葉植物綱シソ(紫蘇)目シソ科コウスイハッカ属コウスイハッカ Melissa officinalis 。今や、正式和名よりも、英語のハーブ( herb )の一種で、英語の「レモン・バーム」“ Lemon balm ”の方が知られる。当該ウィキ(注記号はカットした)によれば、『南ヨーロッパ原産。和名はコウスイハッカ(香水薄荷)、セイヨウヤマハッカ(西洋山薄荷)、コウスイヤマハッカ(香水山薄荷)、メリッサソウ。食べ物や飲料の香り付けや、ハーブとして医療に利用されてきた』。『葉の形はミント』(英語“mint”。漢字表記「女無天」。シソ科ハッカ属 Mentha の総称)『にも似ており、シトラールなどの製油成分を含み、レモンを思わせる香りがする』。『繁殖力が非常に強く、かつては人間より長生きすると考えられていた』。『地上部は冬には枯れるが』、『根は数年』、『生きるため、雪解けと同時に成長を始める。雪が積もる頃に出た葉が』、『雪の下で』、『枯れずに冬越しすることからもわかるように、非常に耐寒性に優れている』。『建物の間や』、『年中』、『太陽の当たらない湿った場所を』、『浅く』、『耕しておき、種を撒いた後に』、『水をかけて放置する。荒地でもよく育つので、手が掛からない。また、毎年』、『種を周囲に零すので』、『一度』、『撒いたら』、『毎年』、『どんどん増える』。『古代ギリシア名ではレモン』・『バームを蜜源植物として珍重していた。ギリシア語でメリッサ(』(ラテン文字転写)『Melissa』:『メリッタとも呼ばれる)は蜜蜂を意味し、メリッサという名はこれに由来する。ギリシア神話ではメリッセウス(蜜蜂男)の娘(メリッサ)が、蜂蜜を与えてゼウスを育てた。 その後』、『アラブ人によって、強胃、強心、強壮作用のもった薬草であること』が『伝えられた。 ペダニウス・ディオスコリデスの「薬物誌」に』、『サソリや毒グモの解毒剤として有効などと書かれている』。『ハーブとして葉が利用される。主な旬は』四~十一『月とされ、しおれていない新鮮なものは香りが強い。香りのもととなっている精油成分は、シトラール、シトロネラール、オイゲノールアセテートなどで、不眠症の改善や抗』鬱『効果が期待されている』とある。ドイツ語では、“ Zitronenmelisse ”(ツィトローネンメリッサ)。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (何故なら貧は内からの大きな輝だから)

 

 

何故なら貧は内からの大きな輝だから

 

 

[やぶちゃん注:一行詩体裁。底本は、ここの右ページ中央に配されてあり、岩波文庫の校注でも、独立詩篇として扱っている。しかし、私には、前の詩篇「(彼等はそれではない。彼等はただ……)」の最終独立の一行「實際あるままに貧しくてよいといふこと。」を直に受けたものとしか、読めないからである。原詩が判る方の御教授を切に乞うものである。

2025/02/03

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「姥か池」

[やぶちゃん注:底本はここから。引用書名・引用部その他の部分に括弧を施し、改行・改段落を行った。標題・本文の「姥か池」(うばがいけ)は総て、ママ。]

 

 「姥か池」  有渡郡元追分村《もとおひわけむら》、海道の北松陰にあり。傳云。往昔《わうじやく》郡家某の乳母、嬰兒を抱《いだき》て此所《このところ》を過ぐ。時に兒咳《せき》甚《はなはだ》急也。其苦を見るに忍びず、乳母兒を地上に居置《ゐおき》て、池水を掬《きく》して與《あたへ》んとす。兒咳に堪《たへ》かね、池中に落入《おちいり》たり。乳母苦辛《くしん》して、共に池に入《いれ》て死せり。今、小兒咳の病《やまひ》あれば、此池に祈《いのり》、必《かならず》驗《しるし》あり、云云。

 「甲陽軍艦」云。

『字《あざ》八原云云』、『卽《すなはち》此《ここ》にして姥原《うばはら》也。』。

 「駿河染《するがぞめ》」云。

『姥か池、江尻の手前小吉田[やぶちゃん注:この地名は確認不能。「ひなたGPS」の戦前の地図では、「姥が池」の東直近に「吉川」という地名はある。]の先《さき》也。文祿二年[やぶちゃん注:一五九三年。「文禄の役」の翌年。]二月八日、龜屋九左衞門が妻、嫉妬にて此池に身を投《なげ》、今に靈魂殘れり。云云。』『或云。平川地村《ひらかはちむら》[やぶちゃん注:「ひなたGPS」の戦前の地図では、「姥が池」の南直近の東海道本線を跨いだところに「平川地」の地名を確認出来る。]の畑中にあり。方三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。現行の池はコンクリートで固められており、池は手前(鳥居が池の前にある)で計測しても、池自体は四メートル以下である。]計りの盆池[やぶちゃん注:「ぼんち」。庭などに作る小さな池。]也。其傍《かたはら》に松・榎の古木二株あり[やぶちゃん注:ストリートビューを見ると、エノキらしい木が池と弁天社の間にあるのが、確認出来る。]。文祿二年二月八日、龜氏の妻嫉妬深く、爰《ここ》に身を投《なげ》て空しくなる。人、「姥《うば》」とよべば涌上《わきあが》る、「姥甲斐なし」といへば、彌《いよいよ》高く浡潏《ぼつけつ》して泡を出《いだ》す。云云』。『姥池の由來云《いはく》、「延曆年中[やぶちゃん注:七八二年から八〇六年まで。桓武天皇の御世。]、江尻の側《そば》に、金谷長者《かなやちやうじや》といふ農民あり。家富榮《とみさか》ふ。神佛に祈《いのり》て男子を儲《まう》く。一歲、疳咳《かんせき》[やぶちゃん注:乳幼児の感染症・咳喘息・気管支喘息・慢性閉塞性肺疾患・肺炎等の疾患であろう。]流行《るかう》す時、此小兒も是を愁ふ。乳母歎《なげき》て、此地邊の地藏佛の石像に祈誓して、小兒の命に代り、入水《じゆすい》して死せり。是より小兒の病《やまひ》、とみに平快せり。今此池に祈て疳咳の難を免《まぬか》る者多きは、此緣なり。云云。」』

「遊方名所畧」云。

『駿河國姥池、手越ヨリ三里半東、狐崎《きつねざき》姥原、彼《か(に)》有小池、名《なづけ》姥池、池《いけ(の)》砌《みぎり》有標榜《へうばう》松二株。昔江尻村某氏之妻、其性姦《よこしま》ニ乄而嫉妬甚深。不ㇾ堪自制其心[やぶちゃん訓読:自(みづか)ら其の心を制するに堪へず。]、而遂此池[やぶちゃん注:(而(しか)して)此の池に投身す。]、其靈魂今在、往來諸人臨池邊、呼其名、云ㇾ姥則自池底吹ㇾ泡、動ㇾ水、又「拙哉姥」ト、如ㇾ此呼ベバ、則又吹出、投身時、百八代後陽成院御宇文祿二年八月八日也。云云。』

 

[やぶちゃん注:「姥か池」(うばがいけ)「有渡郡元追分村」平凡社『日本歴史地名大系』によれば、『元追分村(もとおいわけむら)』は、『静岡県』『清水市旧有渡郡地区元追分村』で、『現在地名』清水市元追分・追分一』~『三丁目・桜橋町(さくらばしちょう)など』とあり、『巴(ともえ)川支流の大沢(おおさわ)川下流部右岸に位置し、東は入江(いりえ)町、西は上野原(うえのはら)村。東海道が通り』、「宿村大概帳」『によれば』、『当村の往還五町余のうち家居三町ほどで、ほかは並木。江戸時代の領主の変遷は清水町に同じ。元禄郷帳では高』百六十二『石余』とある。同地区は、現在、静岡県静岡市清水区で、現在の清水区追分四丁目に「姥が池弁天様」が現存する(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルのここに池の画像があり(現行のものはかなり小さい。今は住宅地である)、また、由来解説板の画像(かなり老朽化しているが、辛うじて読める)もある。「ひなたGPS」の戦前の地図では、周囲は田圃である。

「江尻」は「ひなたGPS」を拡大すると、「姥が池」の東北部に「江尻町」が確認出来る。

「駿河染」(するがぞめ)は「駿河染名所記」で駿河地誌。刊行年未詳。『江府小川住花枝自序』と載せる。

「遊方名所畧」元禄一〇(一六九七)年刊。作者不詳。この引用の訓点は不全であるので、ここで、私が訓読文を試みておく。

   *

『駿河國、「姥池《うばいけ》」、手越《てごし》[やぶちゃん注:現在の静岡市駿河区手越(グーグル・マップ・データ)。]より三里半東、狐崎《きつねざき》[やぶちゃん注:静岡清水線の「狐ヶ崎駅」(グーグル・マップ・データ)がある。しかし、この附近から「姥が池」は、「南」ではなく、東北東である。不審。]の南に姥原《うばはら》有り。彼《か》≪に≫、小池、有り。名《なづけ》て「姥池」と曰ふ。池《いけ(の)》砌《みぎり》、標榜《へうばう》の松、二株、有り。昔し、江尻村某氏の妻、其の性、姦《よこしま》にして、嫉妬、甚《はなはだ》、深し。自《みづか》ら、其の心を制するに堪へず、而《しか》≪して≫、遂《つひ》に、此の池に投身す。其の靈魂、今≪も≫在り。往來の諸人《しよにん》、池邊《ちへん》に臨み、其の名を呼べば、姥、云《いはく》、則《すなはち、池底より、泡を吹き、水を動《うごか》す。又、「拙《つたなき》かな、姥。」と、此《かく》のごとく呼べば、則《すなはち》、又、吹出《ふきいだ》す。投身の時、百八代後陽成院御宇、文祿二年八月八日也。云云《うんぬん》。』。

   *]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (彼等はそれではない。彼等はただ……)

 

彼等はそれではない。彼等はただ

意志も世界もない富まぬ者だ。

どん底の心配で刻印され、

到る處で葉をむしられ醜くされてゐる。

都會のあらゆる塵は彼等に迫り、

あらゆる汚物は彼等に懸つてゐる。

彼等は痘瘡の床のやうに惡名を負ひ、

破片のやうに捨てられ、骸骨のやう、

また過去つた年の曆のやうだ――

しかし、爾の地に厄あらば、

彼等を竝べて薔薇の鎖とし

それを護符として持つがいい。

 

何故となら彼等は純な石よりは純で、

初めて始める盲の獸のやうで、

單純に充ち、無限に爾のものだ。

そして何にも欲しないのだから。ただ一つ要することは

 

實際あるままに貧しくてよいといふこと。

 

 

[やぶちゃん注:「爾」「なんぢ」。

 なお、次(改ページのここで、右ページ中央に一行のみが記されてある。本篇はここ)の一行詩

   *

 

何故なら貧は内からの大きな輝だから

 

   *

も見られたい。冒頭の「何故なら」は、明らかに、本詩篇の最終行を受けているとしか読めないからである。しかし、岩波文庫の校注では、あくまで一行詩として記してある。原詩を確認出来ないので、注で示しておく。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (大都會は眞ではない。彼等は詐いてる……)

 

 

大都會は眞ではない。彼等は詐いてる

晝を、夜を、動物等を、小兒を。

彼等の沈默は僞つてゐる。彼等はまた

騷音と、おとなしい事物で僞る。

生成する者よ、あなたを繞つて動く

廣い眞實の出來事の一つも

都會には起らない。あなたの風は吹いても

街々に落ちてその向を變へる。

その颯々の聲は彼方此方にゆく中に、

亂され、激せられる。

その街々はまた花檀にも並木にも來る――

 

[やぶちゃん注:「詐いてる」「あざむいてる」。

「繞つて」「めぐつて」。再版「詩集」で、かく、ルビを振っている。

「街々は」★再版「詩集」では、「風は」に書き変えてある。

2025/02/02

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「神戱」

 

 「神戱」  有渡郡石部村《うどのこほりいしべむら》に、天白明神【土神《うぶすな》也《なり》、別社を木玉明神《こだまみやうじん》と號す。】の社《やしろ》にあり。傳云。大崩《おほくづれ》を夜行《やぎやう》すれば、此神、戲《たはむれ》に磐石《ばんじやく》を落す音夥《おびただし》く、雷《かみなり》の如し。翌日見れば、聊事《いささか、こと》なし。云云。

 

[やぶちゃん注:「有渡郡石部村に、天白明神【土神也、別社を木玉明神と號す。】の社にあり」現行の静岡市駿河区石部地区には、「石部神社」がここにある(グーグル・マップ・データ)。しかし、かえる氏のブログ「かえるのうち」の「維新前の石部の神々、天白社と木魂社と白髭神社」に、『石部神社は、明治時代以前には天伯社と呼ばれていた。また、現在相殿になっている白髭神社や山神社は以前はそれぞれ別所に祀られていた。明治維新以前、石部神社と改称される前には、これらの社に祀られる神はどのような存在と考えられていたのだろうか。江戸時代後期の地誌にみられる伝説から想像してみた』と枕されて、『石部神社境内の説明板によると、石部神社は明治初年に現在の社名に改称される前は天伯社と呼ばれていた。その当時、現在』、『相殿となっている白髭神社と山神社は大崩山中に鎮座していた。これらが石部神社へ移されたのは昭和』五二(一九七七)年『のことで、山神社旧地は高草山系石部大ニヨウ、白髭神社旧地は大崩山腹コツサ沢だという』。『境内社の津島神社は来歴不詳だが、古い地誌には記載がないところをみると、比較的新しい時代に末社として迎え入れられたのかもしれない。津島神社だけが別の社殿を設けているところからもそのような印象を受けた』。『石部神社の前身である天伯社は、江戸時代後期の地誌』「駿河國新風土記」や「駿河志料」『などでは、天白社あるいは天白大明神などと紹介されている。その所在地は『駿河記』では「在浜」、おそらく現在の石部神社と同じ場所かそれより少し海に近い位置に鎮座していたものと推測される』。『これら江戸時代の地誌によると、当時』、『石部には、天白、木魂、白髭の』三『社があったという。このうち』、『木魂社というのが山神社だったらしい。これを木玉大明神と紹介しているものもあり、木魂と書いてキムスビと読む神社も埼玉県秩父地方にあるが、石部の場合はおそらくコダマと読んだのだろう』(本文の読みは、この「かえる」氏の読みを採用させて戴いた)。『この木魂社を』、「駿國雜志」(私の底本である本書)『では天白明神の別社としている。この場合の別社とは、仏教寺院でいう別院のようなものだろう。また、前掲』「駿河記」『は所在地を「在大岩」としており、元は磐座を御神体としていたのかもしれない。もしそうだとしたら天白社とは山宮里宮のような関係だったのだろうか』とされておられる。これは、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、神社はなく、少し離れた東北直近に寺院の記号がある。しかし、当該場所をグーグル・マップ・データ航空写真と寺の記号箇所をストリートビューで見ても、反対に、寺院は、ない。「かえる」氏は以下、「白髭神社と滝と蛇」は直に読まれたいが、次の「戯れをする天伯の神」で、『今回参照した江戸時代の地誌はいずれも神社の祭神を記載していない。天白明神とか木魂明神というのが神名のようでもあるが、これらはどちらかといえば神社自体に対する尊称と考えたほうがよさそうだ。たとえば、日本武尊を祭神とする焼津神社がかつては入江大明神と呼ばれていたというような類だ』。『天白社で祀られていた神はどのような性質の神だったのだろうか。現在の石部神社の祭神は天照大神とされているが、これは天白社だった時代からそうだったのか』。「駿國雜志」『では天白明神について「土神也」としている。この土神の意味がはっきりしないのだが、あるいは当地周辺では地の神と呼ぶ屋敷神のような祭祀形態をとっていたのだろうか』。『しかし、この土神の天白明神の振る舞いがまた天照大神らしくない。大崩を夜に通行する者があると、戯れに大岩を落とすというのだ。雷のような音がとどろくが、翌日見れば何事もないという。これを題して「神戯」。江戸時代の人々には天白社の祭神について現代とは異なる考えがあった可能性を思わせる話だ』。『天白と呼ばれる神の起源は、江戸時代にはすでに不明瞭になっていたという。現在も天白を名乗る神社には石部と同じく天照大神を祭神とするところもあるが、それ以外にもさまざまな神の名がみられる。たとえば静岡県内では、磐田市池田の天白神社は猿田彦命が祭神だというし、浜松市天竜区横山町の天白神社の祭神は伊邪那岐と伊邪那美だそうだ。また、信州方面では天白神を星や天狗と関連付けているところもあるという』。「駿河志料」『では、駿河国内』十五『か所に祀られる天白社について、天一神と太白神を合わせて祀ったものとの説を論じている。この説の正否はおくとして、このような推考をせねばならなかったということは、結局のところ天白神を明確に説明するものは』、『それを祀る地元にも存在しなかったということだろう』。『石部の天白神は戯れに大岩を落とす、岩に祀られる別社があるなどという点からすると、この神は大崩海岸を形成するあのごつごつとした岩とこそ関わりが深いのではないかとも思われる。大崩は奇岩で知られたところでもあるが、それは石部から現在の焼津市小浜にかけての区間のことだった。石部はその名のとおり岩の辺の村だったのだ』と記しておられ、次の「大崩の天狗」では、『大崩といえば、天狗の怪談がきかれた場所でもある。たとえば』「駿河國新風土記」では、『大崩を夜歩くと天狗火を見たり山伏のような怪しのものに出会うなどという話が紹介されている。また、どういう由来があったか不明だが、天狗岩と呼ばれる大岩があったと』「駿國雜志」『にはある』。『新潟県に、天狗の石ころがしという音の怪現象が伝わっている。夜に山中にいると石が転がり落ちる音が聞こえるが、翌朝見ても何事もない。これは天狗の仕業とされた。同じく天狗が起こす音の怪に天狗倒しという木を切り倒す音が聞こえるものがあるが、これも岩が転がる音がする場合があったという』。『先に紹介した天白神の戯れは、この天狗の行いとよく似ている。大崩に棲む天狗のいたずらが神の仕業にされてしまったのか。あるいは、天白神を天狗の神とするところもあるくらいなのだから、石部の天白神にも天狗の面影があったのかもしれない』。『天狗というと、白髭神社の猿田彦命も気になる。この神は天狗のような容貌で、天狗の原型とされることもある。ついでにいうと、埼玉の木魂神社(きむすびじんじゃ)では天狗を祀っているらしい。なにか関係があるのだろうか……』。『とはいえ、白髭神社の祭神が江戸時代にも猿田彦命だったかどうかは不明であり、木魂神社にいたってはそもそも名前の読み方が違うのだから、天狗との関連付けは牽強付会以外のなにものでもない。だがしかし、なんとなく気になる存在ではある大崩の天狗』。『ところで、大崩が奇岩で知られていたといっても、現在では』、『その岩の大半が失われており、かつての姿は想像しづらいかもしれない。そういう場合は、静岡県立中央図書館のデジタルライブラリーで「大崩」と検索すると、大崩海岸の古写真をいくつか見ることができる。女子高生の運動会の写真も見られるよ。小浜付近の浜が日傘をさしたお嬢さんで埋まっていたりするのだが、当時の運動会ってどういう行事だったのだろう。遠足的ななにかだったんだろうか』とある(リンクを張っておく)。さて、思うに、この合祀の過程には、明治の「廃仏毀釈」・「判然令」等の影響も考えられるようにも思われる。なお、以上の「天狗岩」は、本底本の「卷之二十八」の、ここにあるので、以下に視認して電子化しておく。

   *

 「天狗岩」  益頭郡《ましづのこほり》當目村《たうめむら》、大崩の海岸にあり。「駿河染《するがぞめ》」云。『大崩の先に行《ゆけ》ば、海の中、磯際に十五間程續きし大岩あり。是に和布類多くとり付《つき》て、波のうつ每にゆられて、みゆるなど、又面白し。此岩までは、波の引くに付て、行《ゆき》かける人も有り。又それより山を登り、谷へ下りなどして行ば、天狗岩とて、同じやうなる岩二《ふたつ》有り。二ながら上に松生《はえ》たり。古《いにしへ》は天狗岩のある海邊を通りしに、いつの頃よりか、海と一つゞきに成《なり》て、今は通ふ人もなし。今も山の上よりは見ゆる也。云云。』

   *

この「駿河染」は、「駿河染名所記」で駿河地誌。刊行年未詳。江府小川住花枝自序と載せる。

「大崩《おほくづれ》」先の「ひなたGPS」の国土地理院図で判る通り、南西に下った急崖の岩礁海岸の名が「大崩海岸」である。前注の「天狗岩」(跡)を探してみたが、見当たらなかった。底本の時代に既に陸(砂地)と繋がってしまっていたとなると、先のリンクに、二つ、見られる、屹立する岩塊(山の裾の崖の先端部が崩落したような感じのもの)が、まずは、候補となろうかとは思うが。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「笛吹松」

 

 「笛吹松」  有渡郡北長沼村《うどのこほりながぬまむら》、八町啜《はちちやうなわて》に出《いづ》る切通しにあり。一株の松にして、五郞松共《とも》云《いへ》り。是、某《なにがし》五郞が塚也。云云。笛を習ふ者、此松に祈誓すれば、必《かならず》上達す。

 

[やぶちゃん注:「長沼村八町啜」現在の静岡市葵区長沼。「ひなたGPS」の戦前の地図を見たが、「八町啜」は不詳。但し、旧長沼村の西には現在は谷津山(やつやま)と呼ばれる標高百七・九メートルを含む里山があり、当該ウィキによれば、『かつて谷津山は統一された名前がなく、峰によって(西から)清水山、柚木山(谷津山の「山頂」にあたる)、正木山、愛宕山と呼ばれていた』とあり、長沼の周辺は水田であるから、ここで、「八町啜に出」る「切通し」というのは、この丘陵地帯を西、或いは、北西に越える山道を指しているようにも思われる。長沼の真南に「天白松」というのがあるが(針葉樹記号が打たれてある)、田圃の真ん中であるから、これではない。

「五郞松」不詳。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (私は彼を褒めたたへよう。軍勢の先に……)

 

私は彼を褒めたたへよう。軍勢の先に

角笛の行くやうに、行つて叫ばう。

私の血を海よりも高く鳴響かさう。

私の言葉を人が好むやうに甘くしよう、

でも葡萄酒のやうに人を惑はせてはならない。

 

そして春の夜々、私の休息處をめぐつて

僅かの人々のゐる時には、

私は絃を彈いて喜ばう。

一葉一葉を遲々として憂ひめぐる

北方の四月のやうに微かに。

 

何故となら私の聲は兩面に育つて

匂ともなり、叫びともなつたから。

一つは遠い者を準備し、

他は自分の寂寥の幻や

幸や天使でなくてはならない。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (私に二つの聲を伴はし給へ。……)

 

私に二つの聲を伴はし給へ。

私を再び都會と心配の中へ蒔散らし給へ。

彼等と共に私は時代の怒の中にゐませう。

私の歌の響であなたの寢床を作りませう。

あなたが望む到る處に。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「貧困と死」 (おお主よ。各自に彼みづからの死を與へ給へ。……)

 

 

    貧 困 と 死

 

 

おお主よ。各自に彼みづからの死を與へ給へ。

彼が愛と、意義と、困厄とを持つた

その生活から出て行く死を。

 

[やぶちゃん注:底本は、ここ。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 銀杏

 

Ginanan

 

[やぶちゃん注:左下方の右にキャプションで「核」(さね)の二粒と、左に同じく「花莖」として、三本のそれが描かれてある。]

 

ぎんあん  白果 鴨脚子

いちえう   俗云一葉

銀杏

 

 

[やぶちゃん注:「いちえう」はママ。]

 

本綱銀杏原生江南樹髙二三𠀋葉薄縱理儼如鴨掌形

有刻缺靣綠背淡二月開花成簇青白色二更開花隨卽

卸落人罕見之一枝結子百十狀如棟子經霜乃熟爛去

肉取核爲果其核兩頭尖三稜爲雄二稜爲雌其仁嫩時

綠色久則黃須雌雄同種其樹相望乃結實或雌樹臨水

亦可或鑿一孔內雄木一塊泥之亦結陰陽相感之妙如

此其樹耐久肌理白膩術家取刻符印云能召使也

 銀杏宋初始著名而修本草者不収近時方藥亦用之

銀杏【甘苦平濇】 入肺經益肺氣定喘嗽消毒治陰虱【嚼碎傅之】

 多食壅氣動風小兒多食發驚引疳【同鰻鱺魚食患軟風】

△按銀杏𠙚𠙚皆有出於對州者良藝州者次之其葉刻

 缺深者雄也不結實然三稜實爲雄二稜爲雌則雄亦

 結實乎四月著花于莖頭其莖細長五七分其花淡青

 色如椒粒無葩二顆一雙朝見樹下有落花莖

 

   *

 

ぎんあん  白果《はくくわ》 鴨脚子《あふきやくし》

いちえう   俗、云ふ、「一葉《いちえふ》」。

銀杏

 

 

[やぶちゃん注:「いちえう」はママ。]

 

「本綱」に曰はく、『銀杏《ぎんきやう》、原(もと)、江南[やぶちゃん注:現在の江蘇省・浙江省。]に生ず。樹の髙さ、二、三𠀋。葉、薄く、縱-理(たつすぢ)あり、儼《げん》に鴨《かも》の掌《てのひら》の形のごとし。刻缺《きざみかけ》、有《あり》て、靣《おもて》、綠《みど》りに、背《せ》、淡し。二月、花を開《ひらき》、簇《むらがり》を成《なし》、青白色。二更[やぶちゃん注:現在の午後九時、又は、午後十時から二時間を指す。「亥(ゐ)の刻」に同じ。]花を開《ひらく》≪も≫、隨《したがひ》て、卽《すなはち》、卸-落《おろしおつ》。≪さればこそ、≫人《ひと》、之《これ》≪を≫見ること、罕(まれ)なり。一枝《いつし》、子《み》を結ぶこと、百十狀《ひやくじふじやう》、「棟(せんだん)」の子(み)のごとし。霜を經(ふ)れば、乃《すなはち》、熟爛《じゆくらんす》。肉を去《さりて》、核《さね》を取《とり》て、果《くわ》と爲《なす》。其の核、兩頭、尖がり、三稜《さんれう》あるを、「雄《をす》」と爲し、二稜あるを、「雌」と爲《なす》。其《その》仁《にん》、嫩《わかやか》なる時、綠色、久《ひさしき》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、黃なり。須《すべからく》、雌雄、同《おなじ》く種(う)ふべし。其《その》樹、相望《あひのぞみ》て、乃《すなはち》、實を結《むすぶ》。或≪いは≫、雌≪の≫樹、水に臨むも、亦、可なり。或いは、一孔を鑿《えぐ》り、雄木《をすぎ》を一塊《いつくわい》を內(い)れて、之れに泥《どろ》して、亦、結ぶ。陰陽相感の妙、此くのごとし。其の樹、久《ひさ》に耐ふ。肌-理《きめ》、白《しろく》膩《つややか》なり。術家《じゆつか》[やぶちゃん注:道士・方士の類い。]、取《とり》て、符印《ふいん》を刻《きざみ》て、云はく、「能《よ》く、≪鬼神を≫召-使《めしつかふ》なり。」≪と≫。

『銀杏、宋の初めに、始《はじめ》て、名を著《あらは》す。而《しかれど》も、本草を修《しゆ》す者、≪藥方に≫収《をさめず》、近時(ちかごろ)方藥にも亦、之《これを》用ふ。』≪と≫。

『銀杏【甘苦、平、濇《しぶし》。】 肺經に入り、肺氣を益し、喘嗽《ぜんがい》を定め、毒を消し、陰虱《つびじらみ》を治す【嚼《か》み碎《くだ》きて、之れを傅《つ》く。】。』≪と≫。『多《おほく》食へば、氣を壅《ふさ》ぎ、風《ふう》を動かす。小兒、多《おほく》食へば、驚《きやう/ひきつけ》を發し、疳《かん》を引く【鰻--魚《うなぎ》と同じく食へば、軟風《なんぷう》[やぶちゃん注:手足の麻痺。]を患ふ。】。』≪と≫。

△按ずるに、銀杏、𠙚𠙚、皆、有り。對州《つしう》[やぶちゃん注:対馬。]より出《いづ》る者、良し。藝州《げいしう/あきのくに》の者、之れに次ぐ。其の葉、刻缺《きざみかけ》、深き者は、「雄」なり。實を結ばず。然《しかれども》、三稜なる實を「雄《をす》」と爲し、二稜なるを「雌《めす》」と爲《なす》≪と≫云時《いふとき》は[やぶちゃん注:「云時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、雄≪も≫亦、實を結ぶか。四月、花を、莖の頭《かしら》に著《つ》く。其《その》莖《くき》、細く、長さ、五、七分。其《その》花、淡青色、椒(さんせう)の粒(つぶ)のごとし。葩(はなびら)、無く、二顆《くわ》一雙なり。朝、樹下を見れば、落花の莖、有り。

 

[やぶちゃん注:日中ともに、

裸子植物綱イチョウ綱イチョウ目イチョウ科イチョウ属イチョウ Ginkgo biloba

で、本邦では、漢字表記を「銀杏」「公孫樹」「鴨脚樹」とする。「維基百科」の同種によれば、中文名は「銀杏」、異名を「公孫樹」「鴨掌樹」「鴨腳樹」「鴨腳子」とし、種子を「白果」、葉を「蒲扇」とする。中国の食としての実の古代の呼称として「銀果」があり、現在の呼称として「白果」がある。当該ウィキを引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した。一部を指示せずに省略した箇所がある。なお、この学名についての歴史的記載は、特異的に詳細で、素晴らしい)。『日本では街路樹や公園樹として観賞用に、また』、『寺院や神社の境内に多く植えられ、食用、漢方、材用 としても栽培される。樹木の名としてはほかにギンキョウ(銀杏)、ギンナン(銀杏)やギンナンノキと呼ばれる。ふつう「ギンナン」は後述する種子を指すことが多い』。『街路樹など日本では全国的によく見かける樹木であり、特徴的な広葉を持っているが』、『広葉樹はなく、裸子植物ではあるが』、『針葉樹で』も『ない』。『世界で最古の現生樹種の一つである。イチョウ類は地史的にはペルム紀』(Permian period:約二億九千九百万年前から約二億五千百九十万年前まで(開始・終了時期にそれぞれ数百万年の誤差あり)に当たる「古生代」最後の地質時代の一つ)『に出現し、中生代(特にジュラ紀』(Jurassic period:約二億百三十万年前から約一億四千五百五十万年前までに当たる中生代の中心時代となる地質時代の一つ。所謂「恐竜の時代」である)『)まで全世界的に繁茂した。世界各地で葉の化石が発見され、日本では新第三紀漸新世』(Oligocene:約三千四百万年前から約二千三百万年前までに当たる「古第三紀」の第三番目にして、最後の世である地質時代の一つ)『の山口県の大嶺炭田からバイエラ属 Baiera 、北海道からイチョウ属の Ginkgo adiantoides 』『などの化石が発見されている。しかし』、『新生代に入ると』、『各地で姿を消し』、『日本でも約』百『年前に』イチョウを除く他種が『絶滅したため、本種 Ginkgo biloba L. が唯一現存する種である。現在イチョウは、「生きている化石」として国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストの絶滅危惧種(Endangered)に指定されている。原始植物としてのイチョウの受精メカニズムは特異で、シダ類やコケ類と同様に』、『動く精子が卵に向かって泳いでいき』、『受精する』。『種子(あるいはそのうち種皮の内表皮および胚珠)を銀杏(ぎんなん)というが、しばしばこれは「イチョウの“実”」と呼ばれ、食用として流通している。銀杏は、中毒を起こし得るもので死亡例も報告されており、摂取にあたっては一定の配慮を要する(詳しくは後述)』。『中国語で、葉の形をアヒルの足に見立てて鴨脚と呼ぶので、そこから転じたとする説がある。加納』(二〇〇八年)『では、「鴨脚」の中世漢語 ia-kiau の訛りであるとされる。亀田』(二〇一四年)『では、「鴨脚」の中国語読みイーチャオとして日本に伝わったとしている。しかし、室町時代の国語辞典』「下學集」(文安元(一四四四)年成立。序文は作者を東麓破衲(とうろくはのう:詳細未詳)と記す。但し、室町時代には抄本によってのみ伝わり、江戸時代はじめの元和三(一六一七)年になって初めて刊行された)『では、「銀杏」の文字に「イチヤウ」および「ギンキヤウ」と振り、その異名に挙げる「鴨脚」には「アフキヤク」と振られており、イチヤウはあくまでも銀杏の音としてギンキヤウと併記され、鴨脚の音とはされていない。なお、鴨脚の名は中国では』十一『世紀』、北宋中期の詩人・官僚であった『梅堯臣』『や欧陽脩』『の詩に見られ、その種子は「鴨脚子」と呼ばれていた』。『それに対し、「イチョウ」の語は「銀杏」の明代の近古音(唐音)が転じたものとする説もある』。室町の文明一三(一四八一)『年頃に成立した一条兼良の』「尺素往來」や、一四八六年の「類集文字抄」、一四九二年頃の「新撰類聚往來」『にも「鴨脚」はなく、「銀杏」に「イチヤウ」とのみ振られており、これを支持する。「いちょう」の歴史的仮名遣は「いちやう」であるが、もとは「いてふ」とする例が多かった。この「いてふ」という仮名は「一葉」に当てたからだとされる』。一四五〇『年頃に成立した』「長倉追罰記」『には幔幕に描かれた家紋について』、「大石の源左衞門はいてうの木」『と表記される』。『種子は銀杏(ギンナン)と呼ばれるが』、十一『世紀前半に上記「鴨脚子」から入貢のため改称され、用いられるようになったと考えられる』。「本草綱目」『に記載されている「銀杏」は、銀杏の初出が呉端の』「日用本草」(一三二九年:本邦では鎌倉末期)『であるとする。漢名の「銀杏」は種子が白いためである。「銀杏」の中世漢語はiən-hiəngであり、銀杏の唐音である』「ギンアン」『が転訛し(連声)、ギンナンと呼ばれるようになったものと考えられ』ている。『イチョウ属の学名 Ginkgo は、日本語「銀杏」に由来している。英語にも ginkgo』【gɪŋkoʊ】『として取り入れられている。ほかにも男性名詞として、ドイツ語 Ginkgo, Ginkogɪŋko】』『や フランス語 ginkgo』【ʒɛ̃ŋko】『、イタリア語 ginkgo』『など諸言語に取り入れられている』。『イチョウ綱』Ginkgoopsida『が既に絶滅していたヨーロッパでは、本種イチョウは、オランダ商館付の医師で』「日本誌」『の著者であるドイツ人のエンゲルベルト・ケンペル』(Engelbert Kämpfer 一六五一年~一七一六年:ドイツ北部レムゴー出身の医師で博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した「日本誌」』(‘ Geschichte und Beschreibung von Japan ’)『の原著者として知られる。出島の三学者の一人)『による』「廻国奇観」(諸国奇談:‘ Amoenitatum exoticarum ’)(一七一二年)の「日本の植物相(‘ Flora Japonica ’)」『において初めて紹介されたが、そこで初めて“Ginkgo”という綴りが用いられた』。『ケンペルは』一六八九『年から』一六九一『年の間、長崎の出島にいたが、その間に』儒者で本草学者であった『中村惕斎』(てきさい)の「訓蒙圖彙」(寛文六(一六六六)年)『の写本を』二『冊入手した』。『ケンペルが得たイチョウに関する情報は』「訓蒙圖彙」第二版(貞享三(一六八六)年刊)『の「十八 果蓏」で書かれている。ケンペルは日本語が読めなかったので、参照番号をそれぞれの枠に振った。ケンペルのもつ写本の植物の項目の殆どには見出しの隣に』二『つ目の番号が振られていた。ケンペルの所有していた写本では、イチョウの枝の図の横に』「269」、漢字の見出しには』「34」『と番号が振られている。多くの日本の文献は、助手の今村源右衛門から教わったと考えられるが、交易所の通訳であった馬田市郎兵衛、名村権八と楢林新右衛門もケンペルの植物学の研究に重要な影響を与えたことが、イギリスの医師でありこの時代随一の蒐集家であったハンス・スローンが保管していたケンペルの備忘録により分かっている。これらの参照番号はケンペルが日本に滞在していた時の備忘録でも見られる。Collectanea Japonica と題された手稿には』、「訓蒙圖彙」『の漢字の見出しがリスト化されているページがあり』、三十四『番目の見出しで “Ginkjo” もしくは “Ginkio” と書くべきところを、誤って“Ginkgo”と表記されている。つまり、ケンペルの「日本の植物相」以降、現在まで引き継がれている “Ginkgo” という綴りは、ケンペルの郷里レムゴーでの誤植や誤解釈などの出版の際のミスではなく、日本でケンペル自身が書き記した綴りであったと考えられる』のである。『なお、Webster 』(一九五八年)『では ginkgo は、日本語の ginko, gingkoに由来するとしているが、日本語の「銀杏」が「ギンコウ」と読む事実はない。小西・南出』(二〇〇六年)『では中国語の銀杏(ぎんきょう)からとしているが、この読みは日本語であり』、『正しくない』。『このケンペルの綴りが引き継がれて、カール・フォン・リンネは』一七七一『年、著書 』‘ Mantissa plantarum. Generum editionis VI. Et specierum editionis II ’ 『でイチョウの属名をGinkgo として記載した。Moule Thommen は、Ginkyo bilobaに修正すべきだと主張し、牧野』(一九八八年)『では、ケンペルの著書中ではkjokgoに書き誤ったのであり、直すならGinkjoであるというが』、「植物命名規則」『においては恣意的に学名を変更することはできないとされている』。一七一二『年のケンペルのGinkgoという誤った綴りは命名規約上』、『有効ではなく、それを引用した』一七七一『年のリンネの命名Ginkgo bilobaが命名上』、『有効であり、リンネは誤植をしなかったため、訂正することができないと考えられる』。『ginkgo は発音や筆記に戸惑う綴りであり、通俗的にk g を入れ替えてしばしば gingko と記される。このほか、ゲーテは』「西東詩集」(‘ West-östlicher Diwan ’)『「ズライカの書」』(一八一九年)『で、「銀杏の葉」』(‘ Ginkgo biloba ’)『という詩を綴っているが、ゲーテ全集初版以降、印刷では " Gingo biloba "と表記されている。これはUnseld』(一九九九年)『によれば、ゲーテは科学者として学名 Ginkgo biloba を正しく認識していたが、詩人として Gingo という語を創作して付けたという』。『種小名の biloba はラテン語による造語で、「』二『つの裂片(two lobes)」の意味であり、葉が大きく』二『浅裂することに由っている』。『英語では "maidenhair tree" ともいう。"maidenhair" は通常はホウライシダ属 Adiantumのシダ(= maidenhair fern )を指し、英語の"maiden" には「処女(名詞)」または「処女の(形容詞)」の意味がある。maidenhair tree という語は maidenhair fern によく似ているためであるとされる。語源はよく議論されてこなかったが、葉がよく似たホウライシダを表す maidenhairとともに、陰毛が形作る三角形から名付けられたと考えられている。「木の全体が女性の髪形に似ているため」と美化した説明もなされる』。『ほかにも fossil treeJapanese silver apricotbaiguoyinhsingなどと呼ばれる』。『漢名(異名)の「公孫樹」は長寿の木であり、祖父(公)が植えると』、『孫が実(厳密には種子)を食べることができるという伝承に基づいている。漢方(中国医学)では』「日用本草」にみられるように、「白果(びゃっか、はっか)」と呼ばれることが多い』。『本種は現生では少なくとも綱レベル以下全てで単型の種であるとされ、イチョウ綱 Ginkgoopsida・イチョウ目 Ginkgoales・イチョウ科 Ginkgoaceae・イチョウ属 Ginkgo に属する唯一の現生種である。門は維管束植物門 Tracheophytaとされるが、独立したイチョウ植物門 Ginkgophyta(あるいは裸子植物門 Gymnospermae)に置かれることもある』。『イチョウ綱に置かれる。イチョウは雄性配偶子として自由運動可能な精子を作るが、これはソテツと共通である。そのため』、『ソテツ類とイチョウ類を合わせてソテツ類(ソテツ綱』(Cycadopsida)『)とすることもあった。また』一八九六『年の「精子の発見」以前は球果植物(マツ綱)』(Pinopsida)『のイチイ科』(Taxaceae)『に置かれていた』。『元来』、『裸子植物は(化石種を含め)種子植物から被子植物を除いた側系統群と定義された』ため、『側系統群を認めない立場から裸子植物門は解体されて』四『植物門に分類され、イチョウ植物門は現生種としてはイチョウのみの単型の門となった』。『裸子植物の』四『分類群は形態的には大きくかけ離れ、被子植物の側系統群と定義された為、単系統性は明らかでなかったが、Hasebe et al. (1992) による分子系統解析の結果、現生裸子植物と現生被子植物はそれぞれ単系統群であることが分かり、現在これはChaw et al. (2000)など』、『ほとんどの研究で支持されている。そこで単系統群としての裸子植物が再び置かれる事になる。これまで裸子植物を分類群として建てる場合は門の階級に置かれ裸子植物門 Gymnospermae とされてきたが、近年では門として』、『より上位の分類群である維管束植物門 Tracheophyta を立て、その下に小葉植物亜門 Lycophytina と大葉植物亜門(真葉植物亜門)Euphyllophytina を置くことがあり、裸子植物はその下位分類となる。この場合イチョウ類は大葉植物亜門の中の(裸子植物の一綱)イチョウ綱 Ginkgopsida とされる。イチョウ綱はソテツ綱と姉妹群をなし、ペルム紀に分岐したと考えられている』。『イチョウ綱にはイチョウ目 Ginkgoales 』一『目、イチョウ科 Ginkgoaceae 』一『科のみが属しているが、これはペルム紀から中生代に繁栄した植物群である。いずれも現生では本種のみが属する』。

以下に長谷部氏(二〇二〇)年によるイチョウ類より上位の系統樹が示されてあるので、見られたい。

以下、「下位分類」の項。『現生はGinkgo biloba 』一『種のみしか知られていないが、変異が見られ、下位分類群として』九十四『品種が知られている。代表的な変種または品種は以下のものである。食用の銀杏の品種は種子の節を参照』。

●キレハイチョウ Ginkgo biloba var. aciniata (『「切れ葉」の意』)

●フイリイチョウ Ginkgo biloba var. variegata(『「斑入り」の意。葉に黄白色の斑が入るもの』)

●オハツキイチョウGinkgo biloba var. epiphylla(『「お葉付き」の意。葉に種子が付くもの。epiphylla は葉上生の意である』)

●シダレイチョウ Ginkgo biloba var. pendula (『「枝垂れ」の意』)

●ラッパイチョウ Ginkgo biloba cv. tubifolia (『ラッパのような筒状の葉を付けるもの』)

『本格的な木本性の植物であり、樹高』二十~三十メートル、『幹直径』二メートル『の落葉高木となる。大きいものは樹高』四十~四十五メートル、『直径』四~五メートル『に達する。茎は真正中心柱をもち、形成層の活動は活発で、発達した二次木部を形成する。多数の太い枝を箒状に出し、長大な卵形の樹冠を形成する。概ね円錐形の樹形となるが、枝振りが乱れるものもある。樹形は単幹だけでなく』、『株立ちのこともある』。『樹皮はコルク質がやや発達して柔らかく、淡黄褐色で粗面。若い樹皮は褐色から灰褐色で、縦に長い網目状であるが、成長とともに縦方向に裂けてコルク層が厚く発達する。枝には長枝と短枝があり、どちらも無毛である。長枝は節や葉の間隔が離れているのに対し、短枝では節間が短く込み入っており』、一『年に数枚しか葉を付けない。長枝は無毛でややジグザグ状になる。冬芽は半球形や円錐形で』、五~六『枚の芽鱗に覆われる。雄花、雌花の冬芽は短枝につく。葉痕は半円形で、維管束痕が』二『個つく。短枝は葉が複数束生するため、葉痕が輪生状に並ぶ。春の芽生えは、短枝から数枚の葉が出て、のちに花が出てくる』。『葉は単葉で、葉身は扇形で長い葉柄を持つ(長柄)。葉柄は』三~八センチメートル、『葉身長』四~八センチメートル、『葉幅は』五~十センチメートル。『葉脈は原始的な平行脈を持ち、二又分枝して付け根から先端まで伸びる。中央脈はなく、多数の脈が基部から開出し葉縁に達する。このように葉脈が二又に分かれ、網目を作らない脈系を二又脈系(ふたまたみゃくけい、dichotomous system)と呼ぶ。葉の上端は不規則の波状縁となり、基本的に葉の中央部は浅裂となるが、切れ込みの入らないものや、深裂となるものもあり、栽培品種では差異が大きい。葉の形が同じように見えるものでも、葉の幅、広がり角度、切れ込みの数や深さ、葉柄の長さなど、同じものは二つとないといわれる。若いものや』、『徒長枝』(とちょうし:伸びたままの勢いの強い枝のこと)『ほど』、『切れ込みがよく入り、複数の切れ込みがあるものもある。剪定されていない老木では切れ込みのない葉が多い。葉脚は楔形。雌雄異株であり、葉の輪郭で雌雄を判別できるという俗説があるが、実際には生殖器の観察が必要である。葉は表裏ともに無毛。葉の付き方は長枝上では螺旋状に互生し、短枝上では束生である。また、秋になると比較的温度に関係なく、暖地でも落葉前の葉は鮮やかな黄色に黄葉する。地上に落ちてからも、落ち葉は』、『しばらくのあいだ』、『色を失わないため、黄色の絨毯を敷いたような情景を見ることができる。落葉した後、翌春には古い枝から再び』、『葉が芽吹くように見えるが、実際は葉柄が付くのに必要な長さ』一ミリメートル『程度の短い枝が新しくでき、そこに新葉が付く』。『ラッパのような筒状の葉を付けるラッパイチョウなどの変異も見られる。また、葉の縁に不完全に発達した雄性胞子嚢(葯)または襟付きの胚珠(および種子)が生じる変種をオハツキイチョウ Ginkgo biloba var. epiphylla 』『と呼び、本種の系統を示す重要な形質だと考えられている。天然記念物に指定されているものもあるが、あまり珍しくない。矢頭』(一九六四年)『では変種として区別する必要がないとしている。また、オハツキイチョウでは雌性胞子嚢穂に』二『つ以上の胚珠が形成され、イチョウの化石種に似ているが』、『その理由も不明である』。『樹木としては長寿で、各地に幹周が』十メートル『を超えるような巨木が点在している。老木になると』、『幹や大枝から円錐形の気根状突起を生じることがあり、これをイチョウの乳と呼ぶ。これは「乳根」や「乳頭」、「乳柱」ともよばれる。若木のうちから乳を作る個体は、チチイチョウ(乳銀杏)と呼ばれ、古来、日本各地で』、『安産や子育ての信仰対象とされてきた。造園ではチチノキとも呼ばれる。この乳は不定芽や発育を妨げられた短枝、あるいはそれから発育した潜伏芽に由来し、内部の構造は材とは違って柔らかい細胞からなり、多量の澱粉を貯蔵している。イチョウの乳は解剖学的研究から維管束形成層が過剰成長することで形成されることが分かってきたが、その機能と相同性は分かっていない』。『雌雄異株』で、『花期は春(』四~五『月頃)で、花びらのない花(生殖器)が咲いた後、秋になると雌株にギンナン(銀杏)が実る』。『日本の関東地方など、北半球の温帯では』、四~五『月に新芽が伸び』、『開花する。裸子植物なので、受粉様式は被子植物と異なる。風媒花であり、雄性胞子嚢穂の花粉は風により』、『遠方まで飛散し、かなりの遠距離でも受粉可能である。まず』、『開花後』四『月に胚珠が露出した雌性胞子嚢穂に受粉した花粉は、胚珠端部に染み出た液とともに取り込まれて花粉室に』五『か月ほど保持され、その間に胚珠は直径約』二センチメートル『程度に肥大して、花粉から成長した透明な袋の中ではふつう』二『個の精子が作られる』。九~十『月頃、精子が成熟すると袋から放出され、花粉室から』一『個の精子のみが造卵器に泳いで入り、ここで受精が完了する。受精によって胚珠は成熟を開始し』、十~十一『月頃』、『種子は成熟して落果する』。『種子は、球形から広楕円形で、長さ 』一~二センチメートル『の石果様を呈する。種皮の外表皮は橙黄色で、軟化し』、『臭気を発する。内表皮は堅く、紡錘形で、長さ約 』一センチメートル『で黄白色である。普通は』二『稜あるが』、三『稜のものも少なくなく、子葉は』二『または』三『個』。一キログラム『当りの種子数は約』九百『個である。実生の発芽率は高い』。『本種の雌性生殖器官である雌性胞子嚢穂は、短枝の葉腋に形成され、二又に分かれ両先端に』一『個ずつ雌性胞子嚢(珠心)が形成されることで、胚珠柄 (peduncle)の先端に通常』二『個の胚珠が付く構造をしている』。『胚珠は柄の先端の「襟」と呼ばれる構造(退化した心皮?)に囲まれているが、ほぼむき出しの状態である。襟と呼ばれる隆起は葉の名残ではないかと考えられたこともあったが、葉の上に胚珠ができる突然変異体(オハツキイチョウ)では、葉の上にできた胚珠にも襟ができることから、葉の変形ではないのかもしれず、襟の相同性は謎である』。『胚珠は』一『枚の肉厚で円筒状の珠皮が珠心を包み込んでいて、珠皮は外から外表皮(銀杏の一番外側の皮になる)、肉質部(銀杏の臭い肉質部となる)、石層部構造(銀杏の堅い殻となる)、内表皮(銀杏の薄皮のうち外側の皮となる)からなる。珠皮は種子の形成に伴い』、『種皮となる。被子植物は内珠皮と外珠皮の』二『枚があるので、種皮も内種皮と外種皮の』二『枚あるのに対し、イチョウを含む裸子植物は珠皮が』一『枚なので、種皮も』一『枚である。銀杏は臭い肉質の部分と内側の硬い殻が印象的であるため、外種皮と内種皮と呼ぶ記述も見られるがこれは誤りである』。『本種の雌性配偶体や造卵器の形成過程はソテツに類似している。遊離核分裂による多核性段階を経て、細胞壁の発達した多細胞段階になる。胚珠の発生初期において、珠皮と雌性胞子嚢の間に隙間があるが、発生が進むにつれ両者は融合する。この間に、珠皮と雌性胞子嚢ともに細胞分裂と伸長を行い』、『大きくなるが、雌性胞子嚢の先端部分が伸び出し』、『しばらくすると先端部内側の細胞が崩壊し、花粉室と呼ばれるクレーター上の構造ができる。雌性胞子嚢の外側にある珠皮は先端部分が伸びて珠孔となる。雌性胞子嚢の中の雌性胞子は』四『月の受粉後、遊離核分裂を行い、その後』、『細胞質分裂によって数百細胞からなる雌性配偶体が形成される。雌性配偶体の細胞は分裂と伸長を繰り返し、雌性胞子嚢の花粉室側にまで拡がる一方、雌性胞子嚢は退縮して薄くなる。雌性配偶体上に通常』二『個の造卵器(』一『個から』五『個までの変異がある)が形成される。始原細胞は珠孔側の表皮細胞であり、並層分裂により』、『中央細胞と第一次頸細胞(第一次首細胞)ができ、それがすぐに垂直分裂をして』二『個の頸細胞(首細胞)となる。造卵器は頸細胞、腹溝細胞、卵細胞からなり、頸細胞が花粉室にむき出しとなる』。『雄性器官も短枝の葉腋上に雄性胞子嚢穂として形成される。雄性胞子葉は軸のみに退縮していて先端に』二『つの雄性胞子嚢を形成する。雄性胞子嚢穂は尾状花序様で、軸上に多数の付属体(雄蕊)が付き、各付属体は通常』、二『個の雄性胞子嚢(小胞子嚢、葯)を先端につける。雌性胞子嚢の中には』一『つの雌性胞子しか形成されなかったが、雄性胞子嚢の中では減数分裂によって数』千『個の雄性胞子が形成される。雄性胞子(小胞子母細胞)は雄性胞子嚢の中で分裂して』、一『つの雄原細胞(受精後分裂して』二『つの精子になる細胞)』、一『つの花粉管細胞』、二『つの配偶体細胞の合計』四『細胞からなる雄性配偶体となり、これが花粉である。小胞子嚢の中のが分裂し』、四『分子の小胞子(核相: n)をつくる』。『雄性配偶体はソテツに似ており、花粉散布時には生殖細胞、花粉管細胞』、二『個の前葉体細胞の』四『細胞性の構造をとる。花粉が風で胚珠まで運ばれると、珠孔にできた受粉滴に付着して胚珠の内部に運ばれる。生殖細胞は不稔細胞と精原細胞に分裂し、精原細胞はもう一度分裂し』、二『個の精子となる。花粉は分枝する花粉管を伸ばし、吸器として働く』。『裸子植物の雄性配偶子は花粉によって運ばれ、うちグネツム類』(裸子植物門グネツム綱 Gnetopsidaグネツム目グネツム科グネツム属 Gnetum:タイプ種グネモン Gnetum gnemon )『や球果植物では花粉粒から花粉管を伸ばして胚嚢まで有性配偶子が運ばれるが、本種及びソテツは花粉管から自由運動可能な精子が放出されて受精が行われる』。明治二八(一八九五)『年、帝国大学(現、東京大学)理科大学植物学教室の助手平瀬作五郎が、種子植物として初めて鞭毛をもって遊泳するイチョウの精子を発見した。平瀬は当時、ギンナンの内部にあった生物らしきものを寄生虫と考えたが、当時助教授であった池野成一郎に見せたところ、池野は精子であると直感したという。その後の観察で、精子が花粉管を出て動き回ることを確認し、平勢は』明治二十九年十月二十日『に発行された』『植物學雜誌』第』十『巻第』百十六『号に』「いてふノ精蟲ニ就テ」『という論文を発表した。裸子植物であるイチョウが被子植物と同じように胚珠(種子)を進化させながら、同時に雄性生殖細胞として原始的な精子を持つということは、進化的に見てシダ植物と種子植物の中間的な位置にあるということを示している。この業績は』一八六八『年の明治維新以降、欧米に学んで近代科学を発展させようとした黎明期において、世界に誇る研究として国際的にも高く評価された。後年、平瀬はこの功績によって学士院恩賜賞を授与されている。加藤』(一九九九年)『は、当時植物園教室は小石川植物園内にあり、身近にイチョウが植えられて研究材料として簡単に利用できる状態であったということが、この研究の一助となったとしている。精子の発見された樹は樹高』二十五メートル、『直径約』一・五メートル『の雌木であり、今日も小石川植物園に現存している』。『耐寒耐暑性があり、強健で抵抗力も強いので、日本では北海道から沖縄県まで広く植栽されている。北半球ではメキシコシティからアンカレッジ、南半球ではプレトリアからダニーデンの中・高緯度地方に分布し、極地方や赤道地帯には栽植されない。年平均気温が』摂氏零度から二十度『の降水量』五百~二千ミリ『の地域に分布している。IUCNレッドリスト』一九九七『年版で希少種(Rare)に』、一九九八『年版で絶滅危惧(絶滅危惧Ⅱ類)に評価された』。『自生地は確認されていないが』、『中国原産とされる。中国でも』十『世紀』(五代から北宋相当)『以前に記録はなく、古い記録としては、欧陽脩が』「歐陽文忠公集」(一〇五四年)『に書き記した珍しい果実のエピソードが確実性の高いものとして知られる。それに先立ち、現在の中国安徽省宣城市付近に自生していたものが』、十一『世紀初めに当時の北宋王朝の都があった開封に植栽されたという李和文による記録があり、中国でイチョウが広くみられるようになったのは、それ以降であるという説が有力である。中国の安徽省および浙江省には野生状のものがあり、他の針葉樹・広葉樹と混生して森林を作っている』。『その後、仏教寺院などに盛んに植えられ、日本にも薬種などとして伝来したとみられるが、年代には古墳・飛鳥時代説、奈良・平安時代説、鎌倉時代説、室町時代説など諸説あるものの、憶測や風説でしかないものも混じっている[。六国史や平安時代の王朝文学にも記載がなく、鶴岡八幡宮の大銀杏(「隠れイチョウ」)を根拠とする説も根拠性には乏しいため』、一二〇〇『年代までにはイチョウは日本に伝来していなかったと考えられている。行誉により』文安二(一四四五)年『年頃に書かれた問答式の辞書』「壒囊鈔」には『深根輔仁』「本草和名」(延喜一四(九一四)年)『にも記述がないとある』。鎌倉幕府滅亡に近い至治三(一三二三)年、『当時の元の寧波から日本の博多への航行中に沈没した貿易船の海底遺物のなかからイチョウが発見されている』。正平二五・建徳元/応安三(一三七〇)『年頃に成立したとみられる』「異制庭訓往來」『が文字資料としては最古と考えられる。そのため』、一三〇〇『年代に貿易船により』、『輸入品としてギンナンが伝来したと考えられる。南北朝時代の近衛道嗣の日記』「愚管記」(天授七・弘和元年/ 康暦三・永徳元(一三八一)年)『には銀杏の木について、室町時代の国語辞書』「下學集」(嘉吉四・文安元(一四四四)年)にも樹木として記載がある。また』、十五『世紀の』「新撰類聚往來」『 には、果実・種子としての銀杏(イチャウ)が記載されている。室町中期にはイチョウの木はかなり一般化し』、一五〇〇『年代には種子としても樹木としても人々の日常生活に深く入り込んでいったと考えられる』。『幹周』八メートル『以上の巨樹イチョウの日本列島における分布は、東日本』八十九『本(雄株』八十一『・雌株』八『)、中部日本』二十一『本(雄株』十五『・雌株』六『)、西日本』五十『本(雄株

』二十四『・雌株』二十六『)となっている』。『ヨーロッパには』一六九二『年、ケンペルが長崎から持ち帰った種子から始まり、オランダのユトレヒトやイギリスのキュー植物園で栽培され、開花したという』。一七三〇『年ごろには生樹がヨーロッパに導入され』十八『世紀にはドイツをはじめ』、『ヨーロッパ各地での植栽が進み』、一八一五『年にはゲーテが』「銀杏の葉」(‘ Gingo biloba ’)と名付けた恋愛詩を記している』。『木材としての利用はあまり知られていないが、火や大気汚染に強く、病害虫にも強い特性を持っていることから、街路樹、寺院や神社、学校などの植栽樹として重用されている。長寿で、寺社には樹齢が数百年以上といわれるイチョウの大木があるところもある。種子の仁であるギンナン(銀杏)は、秋の味覚として食べられている』。『木材としての知名度は低い。組織は針葉樹のものと似ている。材は黄白色で、心材と辺材の色の差はほとんどない。早材と晩材の差が少ないため、年輪ははっきりとせず』、『広葉樹材のようであり、材は緻密で均一、柔らかいため』、『加工性に優れる。肌目は精で、木理は通直で、反曲折裂および収縮が少なく、歪みが出にくい良材である。木材の中に異形細胞をもち、その中に金平糖型のシュウ酸カルシウムを含む。気乾比重は』〇・五五『で、やや軽軟で、耐久性は低い。器具・建具・家具・彫刻、カウンターの天板・構造材・造作材・水廻りなど』、『広範に利用されており、碁盤や将棋盤にも適材とされる。ただし、カヤ』(榧:裸子植物門マツ綱マツ目イチイ(一位)科カヤ属カヤ Torreya nucifera )『に比べ』、『音が良くないため評価は低い。その他、古くは鶏屋のまな板に好まれた。用材はほかに和服の裁ち板としても使われる』。『土地を選ばず生育し、萌芽力がさかんで、病虫害が少なく、強い剪定にも耐えるため、庭園樹、公園樹、街路樹、防風樹、防火樹などとして植栽される。日本では庭園や公園に植栽されたり、寺社の境内にも多く植えられるが、大規模な造林地になっているものはない。古い社寺の境内には樹齢数百年を経たと称される「大銀杏」が多くみられる。外国の植物園でもよく見られる。盆栽にも利用される。盆栽は実生または挿し木によって作られる。チチイチョウはよく盆栽につくられる。高木になるため庭木としての利用は少ないが、成長が遅いチチイチョウは庭木としても用いられる』。『また、樹皮が厚く、コルク質で気泡があるため、耐火力に優れているとみなされ、防火植林に用いられる。江戸時代の火除け地に多く植えられた。大正時代の関東大震災の際には延焼を防いだ例もあったため、防災を兼ねて次項で記載する街路樹にイチョウが多く植えられるようになったという。これを提案したのは造園家の長岡安平であった』。『病害や虫害がほとんどなく、黄葉時の美しさと、大気汚染や剪定、火災に強いという特性から、街路樹としても利用される。黄葉したイチョウはいちょうもみじ(銀杏黄葉)と呼ばれ、並木道などは秋の風物詩となる』。二〇〇七『年の国土交通省の調査によれば、街路樹として』五十七『万本のイチョウが植えられており、樹種別では最多本数。東京都の明治神宮外苑や、大阪市御堂筋の街路樹などが、銀杏並木として知られている。大阪を代表する御堂筋のイチョウ並木は』一九六六『年時点で樹齢約』五十『年』、八百六十七『(うち雌株』百十一『本)あった。雌株では秋期に落下した種子(銀杏)が異臭の原因となる場合があるので、街路樹への採用にあたっては、果実のならない雄株のみを選んで植樹される場合もある。移植は容易で、大木であっても移植することができる』。以下、「著名なイチョウの木」の項があるが、カットする。

以下、「食用」の項。『イチョウの葉や種子は古くから薬用に利用され、中国の』「神農本草經」や「本草綱目」に遡る。アメリカの衛生センターによると、健康な一般成人では、イチョウは適切な量(』一、二『粒程度)であれば食用として安全である』するが、『しかし』、『生もしくは加熱したイチョウ種子は、有毒であり』、『深刻な副作用を起こす可能性がある。一般的には日本では、大人』一『日』十『個まで、子ども』一『日』五『個までを目安とされている』。『イチョウの種子は、銀杏(ぎんなん)といい、硬い種皮の内表皮(殻)の中に含まれる胚乳(さね、核、仁)が食用となる。実と説明されることもあるが、果実ではない。これを食用とするのは日本や中国など、東アジアにおける習慣である。これは中国の本草学図書である』南宋の「紹興本草」(一一五九年)『にも記載される。薬用(漢方)として利用されていたことが、明代の龔廷賢』(ぎょうていけん)が一五八一『年に著した』「萬病回春」に『記されている。鎮咳作用があるとされる』。『仁は直径』一センチメートル『程度の紡錘形で、新鮮な状態では光合成色素のクロロフィルの存在により緑色を呈するが、収穫後は殻付きで保存しても常温に置くと短期間のうちに黄色に褪色化する。加熱により半透明の鮮やかな緑色になるが、加熱を続けると微酸性である死んだ細胞の内容物との作用でクロロフィルのマグネシウムがはずれ、黄褐色のフェオフィチン』(Pheophytin)『となる』。『食材としての旬の時期は秋』九~十一月『で、雌株の下に落ちているイチョウの実(正確には種子)を拾ったら、周囲の外種皮部分を取り除き、よく洗って乾燥させる。旬に先走って収穫される「走り」のぎんなんは、翡翠に似た鮮やかな緑色を呈し、やわらかく匂いも少ないことから通常の時期に収穫されるものより』、『高級とされる。茶碗蒸しやおこわなどの具に使われたり、煮物や鍋物、揚げ物、炒め物など広汎な料理に用いられ、酒の肴としても用いられる。和食料理のあしらいとして欠かせない食材で、殻は割り、渋皮は弱火で炒るか、ゆでるときれいにむける。韓国では、露店でも炒った銀杏を販売している。加工品としては砂糖漬やオリーブ油漬、水煮などの瓶詰や缶詰が売られている。ただし、独特の苦味および種皮の外表皮には悪臭がある。秋の食材だが、加熱して真空パック詰めにした商品は年中』、『手に入る。銀杏を保存するときは殻付きのままビンや袋に入れて、冷蔵しておけば数か月は保存できる』。『栄養素としてデンプンが豊富に含まれ、モチモチとした食感と独特の歯ごたえがある。ほかにもレシチンやエルゴステリン、パントテン酸、カリウム、カロテン、ビタミンC、ビタミンB1も含有している。銀杏の食用部分にはメチルピリドキシン』(4-O-methylpyridoxine=ギンコトキシン(Ginkgotoxin)=C9H13O3N:癲癇発作を誘発し得る物質である)『という成分が含まれていて、大量に食べると、まれに食中毒による痙攣を引き起こすこともある。このため、銀杏を食べ過ぎないことと』、五『歳以下の幼児には食べさせないように注意喚起されている』。『銀杏は古くは米の凶作時の備蓄食糧に使われたといわれており、今日では日本全土で生産されているが、特に愛知県稲沢市(旧:中島郡祖父江町)は銀杏の生産量日本一である。ぎんなん採取を目的としたイチョウの栽培は』、天保一一(一八四一)年『祖父江町に富田栄左衛門がのちの「久寿(久治)」となるイチョウ苗を植えたことに始まるとされる。愛知県ではぎんなん収穫用に畑で低く仕立てられ、栽培される。佐賀県でも嬉野市の塩田町でウンシュウミカンからの転作としてよく栽培される。ぎんなんの収穫・流通を目的とした栽培品種があり、大粒晩生の「藤九郎」、大粒中生の「久寿(久治)」(くじゅ)、大粒早生の「喜平」、中粒早生の「金兵衛」(きんべえ)、中粒中生の「栄神」などが主なものとして挙げられる。「藤九郎」は岐阜県瑞穂市(旧穂積町)、「久寿(久治)」「金兵衛」「栄神(栄信)」は愛知県稲沢市(旧祖父江町)、「長瀬」は愛知県海部郡発祥の品種である』。『イチョウの種子が熟すと』、『肉質化した種皮の外表皮が異臭を放ち、素手で直接触れるとかぶれやすい。異臭の主成分は下記の皮膚炎の原因となるギンコール酸』(Ginkgolic acid)『である。異臭によりニホンザル、ネズミなどの動物は食べようとしないが、アライグマは食べると言われている。この外表皮を塗ると』、『黒子が取れるとする薬効が』南宋の王継先「昭興本草」(紹興二九(一一五九)年刊)『にある』。『イチョウの種子は皮膚炎及び食中毒を起こすことが知られている』。明の一三七九年の「種樹書」『にはすでに銀杏に毒性のあることが記載されている。銀杏中毒になる危険性があるため、日本では「歳の数以上は食べてはいけない」という言い伝えがある』。『種皮の外表皮には乳白色の乳液があり、それにはアレルギー性皮膚炎を誘発するギンコールやビロボールといったギンコール酸(ギンゴール酸)と呼ばれるアルキルフェノール類の脱炭酸化合物を含んでいる。これはウルシのウルシオールと類似し、かぶれなどの皮膚炎を引き起こす。イチョウの乾葉は、シミなどに対する防虫剤として用いられる。これは、ギンコール・ギンコール酸が葉にも含まれているからである』。

以下、「食中毒(銀杏中毒)」の項。『食用とする種子にはビタミンB6の類縁体4'-O-メチルピリドキシン (4'-O-methylpyridoxine, MPN) が含まれているが、これはビタミンB6に拮抗して(抗ビタミンB6作用)ビタミンB6欠乏となり』、『GABA』(γ-アミノ酪酸(ガンマ-アミノらくさんgamma-Aminobutyric acid:抑制性の神経伝達物質として機能している物質)の生合成を阻害し、まれに痙攣などを引き起こす。銀杏の大量摂取により中毒を発症するのは小児に多く、成人では少ない。大人の場合かなりの数を摂取しなければ問題はないが、『一日』五~六『粒程度でも中毒になることがあり、特に報告数の』七十『%程度が』五『歳未満の小児である。小児では』七『個以上、大人では』四十『個以上の摂取で発症するとされる』。『太平洋戦争前後などの食糧難の時代に中毒報告が多く、大量に摂取したために死に至った例もある』一九六〇『年代以降』、『銀杏中毒は減少に転じ』、一九七〇『年代以降』、『死亡例はない。上記の通り』、『ビタミンB6欠乏により中毒が起こるため、食糧事情の改善に伴う栄養状態の改善により減少したと考えられている』。『症状は主に下痢、嘔気、嘔吐等の消化器症状および縮瞳、眩暈、痙攣や振戦等の中枢神経症状で、加えて不整脈や発熱、呼吸促拍等の症状も報告されている』。『アルキルフェノール類であるギンコール酸は葉にも含まれる。ギンコール酸はヒトの癌細胞に対する増殖抑制作用が知られている』。『イチョウ葉エキスの生理作用は主に抗酸化作用と血液凝固抑制作用、神経保護作用、抗炎症作用であり、その他、血液循環改善作用、血圧上昇抑制作用、血糖上昇抑制作用の報告もある』。『また、イチョウ葉エキスの中のギンコライドBは特異的な血小板活性化因子の阻害物質ということが確認され、脳梗塞や動脈硬化の予防の効果が期待されている』。『中国では古くから薬用に用いられていたが、イチョウ葉エキスが現代医学において効果があると示されたのは』一九六〇『年代、ドイツの製薬会社で開発されたイチョウ葉エキスが脳や末梢の血流改善に使用されたことに端を発する。ただし』、『中国でもイチョウ葉を薬用とするようになったのはおそらく漢朝以降であると考えられている』。「本草品彙精要」(明・清代を通じて、中国の王朝が作成した唯一の貴重な勅撰本草書。最初は明の一五〇五年成立)『には』、『胸悶心痛や激しい動悸、痰喘咳嗽、水様の下痢、白帯を治すとある』。『EGb761というイチョウ葉エキスを用いた臨床試験において、記憶力衰退の改善、認知症の改善、眩暈や耳鳴り、頭痛など脳機能障害の改善、不安感の解消などの有効性が報告されている』。『しかし、イチョウ葉エキスの効果に関する信頼性の高い研究はほとんどない。アメリカ国立補完統合衛生センター(NCCIH)はイチョウ葉エキスの効果に対して否定的な態度を示しており、「イチョウがさまざまな健康上の問題に関して、有用であるという決定的な科学的証拠は存在しない」「認知症もしくは認知機能低下の予防や緩和、高血圧、耳鳴り、多発性硬化症、季節性情動障害、および心臓発作や脳卒中のリスクに対しては、イチョウは有用ではないことが、示唆されている」と述べている。これは、NCCIHによって行われた大規模なRCT実験(被験者』三千『人)を含む研究に基づいている』。『日本と欧米では製造方法が異なり、日本では健康食品として使用されるため食品衛生法の規制により、エタノール抽出が行われるが、欧米ではアセトン抽出が行われている。欧米のアセトン抽出によるイチョウ葉エキスはEGb761というコードネームがつけられ、この薬理学研究は多数行われている。イチョウ葉エキスで特定されている成分は、含量がエキス全体の半分にも満たないフラボノイドやテルペノイドなどであるため、フラボノイドやテルペノイドなどの含有量が同じであってもアセトン抽出品とエタノール抽出品が同等かどうかの判断はできない』。『雑誌などでイチョウ葉茶の作り方が掲載されることがあるが、イチョウ葉を集めてきて、自分で調製したお茶にはかなり多量のギンコール酸が含まれると予想され、推奨されない』。『日本では、イチョウ葉を素材とした健康食品は食品として流通しているが、医薬品として認可されておらず、食品であるため』、『効能を謳うことはできない。しかし、消費者に対し』、『過大な期待を抱かせたり、医薬品医療機器等法で問題となるような広告も散見される』。『国民生活センターのレポートによると、アレルギー物質であるギンコール酸、有効物質であるテルペノイド、フラボノイドの含有量には製法と原料由来の大きな差がみられる。また、「お茶として長時間煮詰めると、ドイツの医薬品規格以上のギンコール酸を摂取してしまう場合がある」とし、異常などが表れた場合は、すぐに利用を中止し医師へ相談するよう呼び掛けている』。『医薬品規格を満たすイチョウ葉エキスについては、適切に用いれば経口摂取でおそらく安全と評価されている』。二百四十ミリグラム『以上のイチョウ葉エキスの摂取や医薬品規格を満たさないものについては、安全性は明確になっていない。副作用として、胃腸障害、頭痛やめまい、動機、皮膚のアレルギー症状、血液凝固抑制薬(ワルファリンやアスピリン)との併用による出血の恐れが高まることなどが知られている。まれな副作用としては、スティーブンス・ジョンソン症候群』(Stevens-Johnson syndrome:皮膚や粘膜の過敏症であるが、当該ウィキを見るに、重症化すると、壊死や失明に至る重い疾患である)、『下痢、吐き気、筋弛緩、発疹、口内炎などが報告されている』。『イチョウ葉エキスには血液の抗凝固促進作用があり、アスピリンなど抗凝固作用を持つ薬との併用には注意を要する。インスリン分泌にも影響を及ぼすため、糖尿病患者が摂取する場合は医師と相談した方がよい。また、抗うつ剤や肝臓で代謝されやすい薬』『も相互作用が生じる可能性がある。原因は明らかでないものの、トラゾドンとイチョウ葉エキスを摂取した高齢のアルツハイマー病患者が、昏睡状態に陥った例も報告されている。利尿剤との併用により、高血圧を起こしたとの報告も』一『例ある』。

以下、「社会や文化とのかかわり」の項。『イチョウは日本では神社や寺院などに多く植栽され、全国的に、民家に植えるのはどちらかといえば』、『忌み嫌われる傾向にある』。『イチョウに関しては多くの伝承が伝わっている。「杖銀杏」とは、空海や親鸞、日蓮といった高僧・名僧が携えた杖を地面に刺したものが成長し、根を張り、枝葉を生じたというもので、東京都港区麻布善福寺の「善福寺のイチョウ」(国の天然記念物)、山梨県南巨摩郡身延町の「上沢寺のオハツキイチョウ」(国の天然記念物)などはその一例である。また、しばしば見かける「逆さ銀杏」とは枝葉が下を向いて生えることを称しており、「善福寺のイチョウ」「上沢寺のイチョウ」のほか、京都市下京区の「西本願寺の逆さイチョウ」(京都市天然記念物)などが有名であるが、それ以外にも全国各地に点在している』。『古いイチョウの樹に生じる気根にふれたり、気根を削って煎じたものを飲んだりすると乳の出がよくなるという「乳イチョウ」の古木も全国各地にみられる。川崎市の影向寺のイチョウや仙台市宮城野区の「苦竹のイチョウ(姥銀杏)」(宮城県天然記念物)、富山県氷見市の「上日寺のイチョウ」(国の天然記念物)、千葉県勝浦市の「高照寺の乳イチョウ」(千葉県天然記念物)が特に知られている。青森県西津軽郡深浦町の「北金ヶ沢のイチョウ」(国の天然記念物)は「垂乳根(たらちね)の公孫樹」とも呼ばれて崇敬されてきた樹で、母乳の不足する女性が青森県内はもとより』、『秋田県や北海道からも願掛けに訪れ、気根にお神酒と米を供えて祈る風習が』一九八〇『年代半ばまで続いていたといわれる。徳島県板野郡上板町の乳保神社のイチョウ(国の天然記念物)も「乳イチョウ」で、これは神社名の由来になった樹木であり、神木である。ここでは気根の先を白紙で結んでおくと病気平癒や乳の出がよくなるといった御利益があると信じられてきた』。『「子授け銀杏」には、東京都豊島区法明寺鬼子母神堂境内のイチョウが知られ、その木を女性が抱き、その葉や樹皮を肌につけると子宝が授かるという伝承がある』。『「泣き銀杏」には、千葉県市川市の弘法寺のイチョウが有名で、弘法寺』一『世日頂が養父富木常忍の勘当を受けて、この木の周りを泣きながら読経したという伝承に由来する。各地の「泣き銀杏」の伝承には、さまざまなタイプがある』。『明治年間、日比谷通りの拡幅工事が実施されてイチョウの木が伐採されようとしたとき、造園家の本多静六が「私の首をかける」として伐採に反対したのが、東京都千代田区の日比谷公園内にある「首かけイチョウ」である。日比谷公園は』、一九〇三『年に本多によって造園され、イチョウは』二十五『日かけてレールを用いて同地に移植された』。『イチョウは火災に強く、生命力が旺盛なところから「復興のシンボル」とされることがある。千代田区大手町の「震災イチョウ」は』大正一二(一九二三)『年の関東大震災にともなう周囲の火災から唯一焼失を免れた個体であり、栃木県宇都宮市の旭町の大いちょうも』昭和二〇(一九四五)『年の宇都宮空襲で被災し、いったんは焼け焦げたものの、翌春に芽吹いたものである』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「銀杏」([075-47b]以下)をパッチワークしたものである。

『「棟(せんだん)」の子(み)』日中ともに、

双子葉植物綱ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach var. subtripinnata

である。

但し、中国では、漢方薬の基原植物としては、同属の、

トウセンダン  Melia toosendan

も挙げられてあるので(終りの方の注で後述する)、「本草綱目」の方では、そちらも挙げておく必要がある。先行する「楝」を見られたい。

『三稜《さんれう》あるを、「雄《をす》」と爲し、二稜あるを、「雌」と爲《なす》』この分類法は、真柳誠氏の「イチョウの出現と日本への伝来」(暫定的論文稿・引用不可)で、現在は疑問視されている、とある。

「陰虱《つびじらみ》」昆虫綱咀顎目シラミ亜目ケジラミ科ケジラミ属ケジラミ Pthirus pubis による、陰部のケジラミ症のこと。詳しくは、私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 陰蝨」を見られたい。]

2025/02/01

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「地藏佛食麪」

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、初回の冒頭注を見られたい。底本の本項はここ。直説話法の箇所に鍵括弧を添え、改行した。更に、後半の引用部前後を改行・改段落し、二重鍵括弧を施した。]

 

 「地藏佛食麪《ぢざうぶつ めんを くふ》」  有渡郡宇津乃谷村《うどのこほりうつのやむら》、西の麓、坂下にあり[やぶちゃん注:静岡県藤枝市岡部町岡部に「坂下地蔵堂」(グーグル・マップ・データ航空写真)として現存する。]。傳云《つたへていふ》、此地藏堂【聖德太子御作】は、一名鼻取地藏と云。往昔此本尊、此邊り、はい原村と云所に出《いで》て、人に代り、牛の鼻取せし故に然云《しかいへ》り。云云[やぶちゃん注:「藤枝市スポーツ文化観光部」の「街道・文化課」公式サイト内の「宇津ノ谷峠(藤枝側) 坂下地蔵堂 さかしたじぞうどう」があり(写真の銘板には『延命地蔵尊 坂下堂』とある)、『旧東海道宇津ノ谷峠越えの西の入口にある地蔵堂です。創建年は不明ですが、境内には寛文・元禄の年号が刻まれた燈籠があり、古くから峠を越す旅人の安全や村人の暮らしを守る存在として信仰されてきました。お地蔵様が、牛の鼻に付いた手綱を引いて歩かなくなってしまった牛を動かしたり、稲刈りをして困っていた百姓を手助けしたという伝説から「鼻取地蔵」や「稲刈地蔵」とも呼ばれています。祈願成就のお礼として鎌を奉納する風習があり、お堂の中には鎌や農具が残されています』とある。]。里人云。徃昔《わうじやく》修行の僧某、下野國《しもつけのくに》日光山に赳き、別野に至り食を乞ふ。彼山《かのやま》の例《ためし》として、其乞物《こふもの》を責與《せめあた》ふ。然るに彼僧、索麪《さうめん》を乞へり。衆《しゆ》擧《こぞり》て是を與ふるに、更に饜《あく》事なし。悉《ことごと》く是を盡《つく》し終《をは》る。故に責《せめ》の儀に及ばず、衆皆怪《あやし》む。時に彼僧曰《いはく》、

「我はこれ駿州宇都谷の麓に住《すむ》者也。かさねて衆、彼道を過《すぐれ》ば、必《かならず》我庵《わがいほり》を尋《たづぬ》べし。是をして後《のち》證《あかし》とせん」

と、持所《もつところ》の錫杖《しやくじやう》・半輪《はんりん》を割與《わりあた》へて歸れり。衆是を奇とし、不日《ふじつ》に玆《ここ》に來《きたり》て尋《たづぬ》るに庵なし。唯《ただ》延命地藏のみ立《たて》り。是を拜するに、彼持所《かのもつとこころ》の錫杖・半輪也。玆に於て益々怪《あやし》み、彼《か》の證として携《たづさ》へ來《きた》る所の半輸を出《いだ》して、これに合《あは》するに、分厘《ぶりん》も差《たが》ひなし。此時に至《いたり》て、僧は此地藏なるを知る。云云。彼半輪、今に本尊の御手《みて》にあり。今一《いつ》の半輪は日光山にあり。是よりして、索麪地藏共《とも》云也。里人《さとびと》祈願のため鎌を納《をさむ》るは、かの鼻取の緣《えん》に據れり、云云。

 「駿府巡見記」云。『宇津の谷宿の入口、石川忠左衞門と云《いふ》百姓あり。是より峠[やぶちゃん注:「宇津谷峠」。「ひなたGPS」の戦前の地図と国土地理院図の双方で確認出来る。後者では、『東海道宇津ノ谷峠越』となっている。]迄十町[やぶちゃん注:約一・〇九一キロメートル。]ほど登り、峠の地藏堂あり。堂は萱《かや》ふきにて、三間《さんげん》[やぶちゃん注:五・四五メートル。]四方也。地藏は弘法大師の作にして、二尺計りの坐像の石佛也。此地藏、古《いにしへ》より宇津の谷の百姓彥五郞と云者、支配する由《よし》。地藏の由來尋《たづぬ》るに詳《つまびらか》ならず。堂は、徃昔飛驒内匠《ひだのたくみ》の建《たつ》る所也。峠より二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]計り行《ゆき》、地藏堂少し上の方《かた》に、杭《くひ》あり、云云。』

 此《この》地藏成《なる》べし。

 

[やぶちゃん注:「有渡郡宇津乃谷村」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、『宇津谷村』『うつのやむら』は、旧『静岡県』『静岡市旧有渡郡・庵原郡地区宇津谷村』で『現在地名』を『静岡市宇津ノ谷』(うつのや:ここ。グーグル・マップ・データ航空写真)で、『丸子(まりこ)宿の西に位置する。中世は宇津谷郷などと称された。東海道が通る。領主は手越(てごし)村と同じ。元禄郷帳では高一八石余。旧高旧領取調帳では幕府領』十八『石余。一里塚がある(宿村大概帳)。天正一八『(一五九〇)』『年』、『豊臣秀吉は小田原攻めの途中で当村の郷民から』、『勝栗と馬の沓を捧げられ、郷民に胴服と黄金を与えた』(「駿河志料」)とある。

「別野」「べつの」か。調べてみると、日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)別宮(飛び地)瀧尾神社の境内に、「別所跡」(べっしょあと)というのが、存在する。サイト「日光東照宮・御朱印」の「別所跡 滝尾神社」に「別所跡」の案内板の内容が電子化されている(引用出来ないようになっているので、各自で見られたい。地図有り)。この「別野」は「別所」と同義であるように思われる。そこに記されてある儀式「強飯式」(ごうはんしき)なるものについては、サイト「とちぎ旅ネット」の「強飯式(ごうはんしき)」のページがあり、「全国でも日光山だけの儀式」として、『強飯式(ごうはんしき)は、全国でも日光山だけに古くから伝わる独特な儀式で、古く奈良時代、勝道上人の日光開山の時に遡ります。日光山は神仏習合の霊山として開かれ、山伏の山岳修行が盛んになり、行者たちが山中のご本尊に供えたお供物を持ち帰り、里の人々に分かち与えたことが始まりとされています』。『その後、日光三社権現(本地は千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)から御供をいただく儀式へと発展し、江戸時代にほぼ現在の形になったといわれています』。『儀式全体は、「三天合行供(さんてんごうぎょうく)・採灯大護摩供(さいとうだいごまく)」「強飯頂戴の儀」「がらまき」のおおよそ』三『つの部分から成っています』。『まず、僧侶・山伏・頂戴人、約』二十『名の行列が法螺貝の響き渡る中、大護摩堂に入堂します。お堂の全ての扉が閉じられ、照明も全て消され、明かりは壇上に灯された一本のロウソクのみとなります。やがて、堂奥から「三天合行供」の読経の声が立ち上り、壇上には「採灯大護摩供」の赤々とした炎が上がり、堂内は神秘的な雰囲気で満たされます』。『この秘法が終わると、堂内が明るくなり、頂戴人が壇上に並び、いよいよ「強飯頂戴の儀」が始まります。式は「御神酒(ごじんしゅ)」「祈願文」「強飯」「菜膳」「金甲」「供養」の順で進みます。中でも、山伏姿の強飯僧が裃姿の頂戴人に三升もの山盛り飯を差し出して「』七十五『杯、残さず食べろ」と責め立てる儀式は見ものです。飯を強いられ、飯を頭上に乗せられた滑稽な頂戴人の姿は、参観者の笑いを誘います』。『この儀式を無事済ませた頂戴人たちが、儀式で授かった福徳を「自分だけのものとせず、他の人にも分けてあげる」という仏教の教えにのっとり、一般参拝者へ向けて一斉にまく「がらまき」で総仕上げ、めでたく強飯式は結びとなります』。『強飯頂戴人は、江戸時代には、十万石以上の大名でなければ勤めることができず、徳川将軍家の名代や全国の名だたる大名たちも「我が藩の名誉」として強飯頂戴人に名を連ねました。当時、日光山といえば天皇の皇子を「輪王寺の宮」として迎えた鎮護国家の道場として天下に知られ、大名といえども、おいそれとはこの儀式に参加できなかったからです。そうした伝統に従い、現代においても、頂戴人を十万石以上の大名の格式でお迎えしています』とある。

「駿府巡見記」著者不明で、元禄一六(一七〇三)年稿。国立国会図書館デジタルコレクションの『家藏日本地誌目錄』の「二篇・續篇」(高木利太編・昭和五(一九三〇)年刊)のここを見られたい。

 結構、注が面倒臭いものになったが、最後に、「まんが日本昔ばなし」公式サイト内の「そうめん地蔵」をリンクさせておくので、読まれたい。

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「巡禮の歌」(一九〇一年) (深夜に私はお前を堀る。寶よ。……) / 「巡禮の歌」~了

 

 

深夜に私はお前を堀る。寶よ。

私が見た總べての盈溢も、

まだ來ないお前の美に比べると、

貧しくまた見すぼらしい補足だ。

 

しかしお前にゆく路は恐しく遠く、

久しく通つた者もないので埋れてゐる。

ああお前は寂しい。お前こそ寂寥だ、

ああ遠い谷へゆく心よ。

 

堀るために血が出る兩手を

私は風の中に開きかかげる、

樹のやうに枝を出せよと。

私はその手でお前を空間から飮む、

丁度氣短かな身振をして

お前が彼處に碎け散つたかのやうに、

さうして今は塵のやうに碎けた世界が

遠い星からまた地の上に、

春雨の降るやうに軟く落ちるかのやうに。

 

[やぶちゃん注:二箇所の「堀る」はママ。

「盈溢」「えいいつ」。満ち溢れること。

「寂寥」「せきれう」(現代仮名遣「せきりょう」)。心が満ち足りず、もの寂しいこと。

「彼處」「かしこ」、或いは、「あそこ」。私は前者を採る。]

2025/01/31

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「巡禮の歌」(一九〇一年) (神よ、私は數多の巡禮でありたい……)

 

 

神よ、私は數多の巡禮でありたい

長い列であなたの處へ行くため、

又あなたの大部分となるために。

生きた竝木を持つ神、花園よ。

私のやうにかう一人で行けば、

誰が認めよう、誰が私のあなたへゆくを見よう。

誰を誘はう。誰を勵まさう。

誰をあなたに向はせよう。

何事もないやうに――人々は笑ひ續けよう。

でも私は私のやうに行くのを喜ぶ。

かうすれば笑ふ人は一人も私を見ることが出來ないから。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「巡禮の歌」(一九〇一年) (あなたは未來だ。……)

 

あなたは未來だ。

永遠の平野の上の偉大な日の出だ。

あなたは時の夜の後の雞鳴、

露、朝の獵犬、また女だ、

見知らぬ男だ、母だ、死だ。

 

常に寂しく運命から卓出する

變轉する姿だ、

喜び迎ふるものも訴ふるものもなく、

記されることもない、野生の森のやうに。

 

あなたは、物ごとの深い總加だ。

その本質の最後の言葉は默つてゐる。

そして異る人には常に異つて見える。

船には岸と、陸には船と見える。

 

[やぶちゃん注:底本はここ

「雞鳴」「けいめい」。

「總加」「さうか」。総ての対象体を完全に足(た)すこと。

「そして異る人には常に異つて見える」個人的には、「そして異(ことな)る人には常に異(ことな)つて見える」、或いは、「異(ちが)つて見える」と読みたい。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「馬骨治病馬」

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、初回の冒頭注を見られたい。底本の本項はここ。]

 

 「馬骨治病馬《うまのほね びやうばを ぢす》」  有渡郡《うどのこほり》丸子驛《まりこえき》泉が谷《いづみがや》【小地名】にあり。熊谷次郞右衞門《くまがいじらうゑもん》と云《いふ》百姓あり。此家の入口、右の柱の上、梁の臍《へそ》に馬首の骨をかけたり。是《これ》名馬摺墨《するすみ》の骨にして、梶原源太左衞門尉景季の乘る處也。六百餘年相傳《さうでん》して、此家火災なし。病馬あれば、爰に繫ぐ事一兩日にして病《やまひ》愈ゆ。相傳の由來は家記《かき/けき》を失《うしなひ》て知れず。云云。

 

[やぶちゃん注:「有渡郡丸子驛泉が谷【小地名】」「ひなたGPS」で、現在の静岡県静岡市駿河区丸子の、ここに、旧新の地名で「泉ヶ谷」を見出せた。旧東海道の丸子宿はここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「是名馬摺墨の骨にして、梶原源太左衞門尉景季の乘る處也」私の好きな景季と摺墨の話は、多くの記事を書いているが、話しを知らない方には、一番いいのは、かなり私の注が長いが、『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(20) 「馬塚ハ馬ノ神」(2)』がお薦めである。是非、読まれたい。

「家記」その家に伝承される先人・父祖等の日記・記録類。平安以後、儀式などの先例を知るために重用された。]

2025/01/30

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「石燈籠靈驗」

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、初回の冒頭注を見られたい。底本の本項はここ。]

  

 「石燈籠靈驗」  有渡郡《うどのこほり》府中札《ふだ》の辻町《つじちやう》奉行屋敷にあり。傳云《つたへていふ》。此石燈籠は【地藏形、大《おほいさ》六尺許りなり。】舊府中御城內《ごじやうない》紅葉山にあり。近歲《ちかきとし》、御預りとして玆《ここ》に移す。常に香花《かうげ》を供し茶を備ふ。瘧《おこり》を病む者、此茶を呑《のめ》ば卽《すなはち》愈ゆ。人若《もし》誤《あやまり》て此燈籠に手をふるれば、必《かならず》病難あり。云云。恐るべし。

 

[やぶちゃん注:「府中札の辻」これは、現在の静岡県静岡市葵区呉服町(ごふくちょう)一丁目に「高札場」が復元されてあるので(グーグル・マップ・データ)、この附近から東北方向の近くと考えてよいだろう。旧駿府城の大手門(旧駿府城二之丸橋)が、その方向の直近に存在することから、奉行屋敷も、この近くと考えられるからである。

「瘧」現在の熱性マラリア。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 山嬰櫻

 

Saneitou

 

にはさくら 朱桃 麥櫻

      英豆 李桃

山嬰桃  俗云庭櫻

 

本綱山嬰桃樹如朱嬰伹葉長尖不圓子小而尖如麥多

毛生青熟黃赤亦不光澤而味辛悪不堪食

△按山嬰桃葉似櫻桃而薄扁長尖不皺三月開花似小

 粉團花而小千辨五六分許不結實又有花赤者

一種有庭梅者詳于後

 

   *

 

にはざくら 朱桃《しゆたう》 麥櫻《ばくあう》

      英豆《えいとう》 李桃《りたう》

山嬰桃  俗、云ふ、「庭櫻」。

 

「本綱」に曰はく、『山嬰桃《さんえいたう》は、樹、「朱嬰(ゆすら)」のごとし。伹《ただし》、葉、長《ながく》、尖《とがり》、圓《まろ》≪から≫ず。子《み》、小≪に≫して、尖り、麥《むぎ》のごとし。毛、多《おほく》、生《わかき》は、青く、熟≪せ≫ば、黃赤。亦、光澤ならず。而≪れども≫、味、辛《からく》悪≪しくして≫、食ふに堪へず。』≪と≫。

△按ずるに、山嬰桃、葉、「櫻桃(ゆすら)」に似て、薄く、扁《ひらたく》、長≪く≫尖《とが》≪れり≫。皺《しは》≪あら≫ず。三月、花を開、「小粉團(こでまり)」の花に似て、小《ちさ》く、千辨《やへ》≪にして≫、五、六分《ぶ》ばかり。實を結ばず。又、花、赤き者、有り。

一種、「庭梅《にはうめ》」と云ふ者、有り[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]。後《のち》に詳《つまびらかにす》。

 

[やぶちゃん注:既に、前項「櫻桃」で述べた通り、結果的には、

この「本草綱目」の「山嬰桃」は、双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属カラミザクラ(唐実桜) Cerasus pseudo-cerasus

である。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「山嬰桃」([075-47a]以下)をパッチワークしたものである。短いので、以下に引く(一部に手を加えた)。

   *

山嬰桃【别録上品】  校正【唐本退入有名未用今移入此】

 釋名 朱桃【别錄】麥櫻【吳普】英豆【别錄】李桃【詵曰此嬰桃俗名李桃又名柰桃前櫻桃名櫻非桃也】

 集解【别録曰嬰桃實大如麥多毛四月采隂乾弘景曰櫻桃卽今朱櫻可煑食者櫻桃形相似而實乖異山間時有之方藥不同時珍曰樹如朱嬰但葉長尖不團子小而尖生靑熟黃赤亦不光澤而味惡不堪食】

 實氣味辛平無毒主治止洩腸澼除熱調中益脾氣

 令人好顔色美志【别錄】止洩精【孟詵】

   *

「朱嬰(ゆすら)」まず、漢語の「朱嬰」は不詳。例の通り、中文の三種の百科で検索に掛ってこない。次に読みの「ゆすら」はユスラユメ命(いのち)の良安の偏見で振ったに過ぎないので、同定比定にはならない。バラ科サクラ属ユスラウメ(梅桃・桜桃・山桜桃) Prunus tomentosa は、既に見た通り、中国北西部・朝鮮半島・モンゴル高原原産ではあるが、中文サイトに「朱嬰」を同種に比定同定する記載はないから、ダメである。識者の御教授を乞うものである。「国訳本草綱目」の当該部を見ればよいのだが、国立国会図書館デジタルコレクションでは、当該巻は閲覧出来ないので、万事休すである。悪しからず。序でに言っておくと、東洋文庫訳では、『朱嬰(前出)』と割注しているのだが、ンナもん、先行する項目には、ありゃせんがね! 糞ガッツ!!!

『一種、「庭梅《にはうめ》」と云ふ者、有り。後《のち》に詳《つまびらかにす》』これは、本「卷八十七」の最終項である。そこで、考証するが、これは、Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「ニワウメ 庭梅」のページによれば(学名は私が斜体にした)、『学名はFlora of Chinaではサクラ属 Cerasus とし、Cerasus japonicaを採用し、ニワウメ var. japonica チョウセンニワウメ var. nakaii に分けている。ニワザクラ属 Microcerasusとする見解もある』とあった。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「龍飛船」

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、初回の冒頭注を見られたい。底本の本項はここ。]

 

 「龍飛船」  有渡郡《うどのこほり》川中島村、前濱にあり。文化十五年三月廿六日、大雷雨、龍出現、獵船三艘空中に卷あげ、遙の沖に落つ。舟中の人幸にして死なず。

 

[やぶちゃん注:「ひなたGPS」の二つの地図で、旧村名「中島」を確認出来る。

「文化十五年三月廿六日」グレゴリオ暦一八一八年五月一日。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「巡禮の歌」(一九〇一年) (この村に最後の家が立つてゐる。……)

 

 

この村に最後の家が立つてゐる。

世の果ての家のやうに寂しく。

 

小さい村が止めない街路は

靜に闇へ出てゆく。

 

この小村はただ二つの廣いものの

過渡だ。豫知多く又氣づかはしく

小橋の代りに家々の傍を過ぎてゆく路。

 

かうして村を出る人々は長く彷徨ひ、

途上に死ぬものも多からう。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「巡禮の歌」(一九〇一年) (あなたを求める人は皆なあなたを試みる。……)

 

あなたを求める人は皆なあなたを試みる。

あなたを見出す人々は

形と身振とにあなたを結びつける。

 

しかし私はあなたを、

地が理解するやうに理解しようと思ふ。

私が熟してゆくと共に

あなたの國は

熟する。

 

私はあなたを證(あかし)する、

空しい榮をあなたに求めない。

私は知つてゐる、時は

あなたと、

同じ名ではない。

 

私の爲めに奇蹟を爲(し)ないで下さい。

種族から種族へと

いよいよ明になつてゆく

あなたの法をよいとなさい。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「巡禮の歌」(一九〇一年) (あなたを推測(おしはか)る噂が行はれ、……)

 

 

あなたを推測(おしはか)る噂が行はれ、

あなたを拭(ぬぐ)ひ消す疑が行はれる。

怠る者等と夢みる人々とは

自分の熱を信じないで、

山に血の出るのを欲してゐる。

それまではあなたを信じないからだ。

しかしあなたは面を伏せてゐる。

大きな審判のしるしにと

山の血管を切開くことは出來もしよう、

しかし異敎徒等はあなたに

何のかかはりも無いのだ。

 

あなたはすべての姦計(たくらみ)と戰つて

光の愛を求めようとはしない。

あなたは基督敎徒等に

何の係りもないからだ。

 

問ふ人達にあなたはかかはらない。

やさしい顏をして

あなたは見てゐられる、耐へ擔ふ人々を。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「巡禮の歌」(一九〇一年) (私の眼を消せ、私はお前を見ることが出來る。……)

 

 

私の眼を消(け)せ、私はお前を見ることが出來る。

私の耳を塞げ、私はお前を聞くことが出來る。

そして足は無くてもお前の處へゆくことが出來る。

口がなくともお前に誓ふことが出來る。

私の腕を折れ、私は手でするやうに

私の心でお前をつかむ。

心臟を止めよ、私の額が脈うつだらう。

私の額へ火事を投げれば、

私は私の血でお前を擔ふだらう。

 

[やぶちゃん注:「擔ふ」「になふ」。]

2025/01/29

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「猫蜜柑」

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、初回の冒頭注を見られたい。底本の本項はここから。]

 

 「猫蜜柑」  有渡郡《うどのこほり》鴨村にあり。傳云《つたへていふ》。當村に久太夫と云百姓あり。後園に蜜柑を植《うゑ》て愛せり。多く實を得ん事を欲し、年々猫餘多《あまた》を殺し、其根に埋めてこやしとす。文化九年、菓實殊に多く附たるを悅び、親族に配分し、村老に送り、養《やしなひ》のまされるを衿《ほこ》れり。人其皮を去りて見るに、肉自然猫の俤《おもかげ》あり。久太夫深く怪《あやし》み怖《おそれ》て、柑樹を伐捨《きりすて》さしむ。時に其木、久太夫が上に倒《たふれ》て、のけ樣《ざま》にうたる、其痛み堪《たへ》がたく、日あらずして死す。是より凶事打續き、家內皆死絕えて、今は空地となり、住《すむ》もの更になし。猫の遺恨祟《たた》りをなしたるか、天非道の殺生を咎玉《とがめたま》ふ者か。今に是を猫蜜柑と號して語り種《ぐさ》とす。

 

[やぶちゃん注:「有渡郡鴨村」見当たらないが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索したところ、当該書は見ることが出来ないものの、一九八一年雄山閣刊「江戸幕府寺院本末帳集成 下」に、『寿昌寺駿河国有度郡鴨村臨済宗』というフレーズが見出せた。グーグル・マップ・データで調べると、この寺は、現在の静岡県静岡市清水区宮加三(みやかみ)にあることが判った。これまでの怪談のロケーションと一致を見るので、この辺りと踏めるように思われる。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「燐火」

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、初回の冒頭注を見られたい。底本の本項はここ。]

 

 「燐火」 有渡郡《うどのこほり》用宗村《もちむねむら》、城山にあり。里人云。每年七月十三日の夜、此城山より大《ほおい》さ鋺(かなまり)程の火、夥しく飛出《とびいで》、西の方《かた》、赤坂の代官山に入り、同十五六兩日《りやうじつ》の夜、また城山に皈《かへ》る。近鄕の人見る事多し。是《これ》天正八年九月、神祖當城を攻《せめ》させらる時に、城代向井伊賀守某を始め、兵士多く戰亡す。其心火《しんくわ》也。云云。

[やぶちゃん注:「有渡郡《うどのこほり》用宗村《もちむねむら》、城山にあり」平凡社「日本歴史地名大系」の「用宗村」に、『静岡県:静岡市旧有渡郡・庵原郡地区用宗村』とし、『現在地名』は『静岡市用宗一』~『五丁目・用宗・港(みなと)・青木(あおき)・用宗巴町(もちむねともえちょう)・用宗小石町(もちむねこいしちょう)・用宗城山町(もちむねしろやまちょう)・広野(ひろの)二』~『三丁目・石部(せきべ)・小坂(おさか)』とし、『広野村の西に位置し、南は駿河湾に面する。戦国期には持船(もちふね)などと記され、村名は古くから湊があったため』、『舟によるものという』(「修訂駿河國新風土記」)。『しかし』、『当村の江戸時代の絵図』(「用宗町誌」)『を見る限り』、『海岸は砂浜で、小坂川の河口の少し手前が遊水池となっているが、もとは入江で、古くからの湊というのは』、『この入江を利用したものであろう。明治時代には手漕船は砂浜に上げ、発動機船は清水港に係留しておいたということから(同書)、江戸時代も砂浜に船を上げていたと思われる。領主は手越(てごし)村と同じとみられる。慶長一四』(一六〇九)年『とみられる本御水帳(用宗区有文書)によると、田畑屋敷二八町余、高三五三石余(田三〇四石余・畑屋敷四八石余)、大雲(だいうん)寺(現曹洞宗)領二石』とある。グーグル・マップ・データ航空写真の「持舟城跡」を指す。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、駅名「もちむね」とあり、駅の南東には一応の市街があるが、直ぐにその市街区と同じ広さの砂浜海岸となっているので、以上の記載が、甚だ、腑に落ちるのである。

「代官山」調べたところ、地図上では、見当たらなかったものの、たまたま、「Yahoo! JAPAN 知恵袋」のQ&Aに、「静岡市の葵区鷹匠は何をもって静岡の代官山と呼ばれてるのでしょうか?」を発見した。但し、葵区鷹匠は「持舟城跡」の西ではなく、東北で、駿府城跡公園の南東である「ひなたGPS」のここ)。さて、その答えには、『鷹匠は徳川家康の居城であった駿府城のすぐ近くで、その町名の由来も鷹狩をサポートする職業である「鷹匠」に因んでおり』、渋谷の『代官山の名前と同様に深い歴史がある』ことから、『静岡市葵区鷹匠が「静岡の代官山」と呼ばれているのだと思』われるとあった。因みに、私は、大学生一年次、渋谷の代官山の三畳の下宿屋にいた。窓から見上げたところが、渥美清の住んでいるマンションの部屋であり、下宿から並木橋に出た向かいの貸しビルは、ドラマの「西部警察」であった。老主人夫婦の猫が勝手に出入りし、蚤を落していった、思い出したくないイヤな下宿屋であった。残りの三年は、中目黒の東山の素人屋の元子供部屋(元娘さん二人の子供部屋で二段ベッド据付)で斜めになって寝た。隣りの部屋は、そのお娘さんの部屋であった。彼女の忘れられない思い出は、「御孃さんと私   やぶちやん(copyright 2010 Yabtyan)」で「こゝろ」風に語ってある。……もう、その家も、なくなってしまった…………

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「献蠶產成字」

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、初回の冒頭注を見られたい。底本の本項はここ。]

 

「献蠶產成字」  有渡郡《うどのこほり》川鍋村にあり。「續日本紀」云。廢帝天平寳字元年秋八月己丑。駿河國益頭郡人金刺舍人麻自献蠶兒成字。其文云。五月八日開下帝釋標天皇命百年ナルヲ云云。此年詔して年號を天平寳字と改む。云云。「駿府案內記」云。川奈邊、「風土記」には川鍋とも書ける。其昔孝謙天皇の御宇、此村より蠶の紙の上に皇帝命百年と云文字を作りしを、此國司の帝に奉ければ、則天平寶字と年號を改玉《かへたま》へり。又或說に、唐の僧鑑眞、此國の菩提樹院に居玉ひて、修法せられし故、此奇瑞ありと也。云云。爰に菩提樹院とあるは、安倍郡府中、寺町四町目、正覺山菩提樹院【濟家】の事にして寺記に詳也。云云。

[やぶちゃん注:ウィキに「金刺舎人麻自」(かなさしのとねり の まじ)があるので、それを引用する。彼『は、奈良時代の人物。姓はなし。駿河国益頭郡(』(ましづのこほり)『現在の静岡県焼津市の一部、藤枝市東南部の一部に』(この中央附近。グーグル・マップ・データ)『あたる)の人物。位階は従六位上』。『物部氏の一族である珠流河国造の嫡流的氏族である金刺舎人』(かなさしのとねり)『氏の人物。金刺舎人の氏名は、欽明天皇の磯城嶋金刺宮』(しきしまかなさしのみや:伝承地は奈良県桜井市外山(とび)の旧初瀬川(はせがわ:奈良県北部を流れる大和川上流の古称)南方附近。ここ:グーグル・マップ・データ)『に仕えた舎人に因むもので、駿河国・信濃国(科野国造後裔)に分布している。駿河国に限定すると、天平』九(七三七)『年』の『駿河国正税帳に「主政无位金刺舎人祖父万侶」』、「續日本紀」(しよくにほんぎ)の延暦一〇(七九一)年『には』、「駿河國駿河郡大領」「正六位上金刺舎人廣名を國造と爲す」と『あり、駿河国の国造の一族であったと思われる』。「續日本紀」「卷第二十」『に、孝謙朝の天平勝宝』九『歳』(七五七)年八月、「駿河國益頭郡(やきづのこほり)の人金刺舍人麻自、蠶(こ)、產みて字を成すを獻(たてまつ)る」『とある』。『これにより、天皇は勅を出して、以下のような内容のことを述べた』。

――『自分は徳が薄いにもかかわらず、皇位を継いで』九『年になるが、これまで善政を行わず、淵に臨んでいるように危うい気分でおり、氷を踏んでいるように慎重にしている。去る』三月二十日『に、皇天(天の神)は「天下太平」の』四『文字をお示しになった。しかるに』、『橘奈良麻呂らの陰謀が発覚し、天の責を受け、ことごとく罪に服し、事件は大事に至らずに落着した』。『ここに、駿河国益頭郡の人、金刺舎人麻自が献上した蚕の卵が自然に書いた文字を得た。それは』、「五月八日開下(かいか)帝釋(たいさく)標知天皇命百年息」とあった。国内はこの瑞祥を』戴いて『喜んだが、どうすれば良いのか分からなかった。そこで群臣に議論させたところ』、五月八日『は太上天皇の一周忌のために法会を設けて悔過(けか』:『罪を悔いて改めること)が終わる日です。帝釈天は皇帝と皇太后(光明皇太后)の至誠に感じて、天門を開き、地上界の陛下の優れた仕事を見て、陛下の御世が百年続くことを示したものです。日月の照らすところ、聖胤(天子の子孫)が繁栄し、乾坤の載せるところ、宝祚(ほうそ』:『皇位が長く続くこと)が延長することを知っています。この瑞兆は国家が全く平らかになるしるしです。謹んで考えると、蚕は虎のような模様を持ち、時に皮を脱ぎ、馬のような口を持ちながら』、『争うことなく、室内で成長して』、『衣服を人々に与え、朝廷や祭礼の服もこれから作られる。このため、神虫をして、字を作り、用いて神異をあらわそうとしている。今、禍も収まった時、自然に霊字を呈し、戈を止める日に、朝廷に奏上した。これは天祐であり、吉兆であって、五八の数を並べると』、『宝寿の不惑(』数え四十『歳)に通じ、日月はともに明るく皇居の末永い栄えを象徴します』」――『と』上奏した。

帝は、『朕は自身の徳の薄さを恥じ、この瑞兆は賢明な補佐のもたらした功である。この天の恩恵を天下に知らしめるために、改元し、天平宝字元年とする』と『述べ、調庸の減免、雑徭の半減、公出挙の利子の免除、天下の租の半分の免除(寺院・神社は除く)などを決め、瑞兆を献上した無位の庶民である麻自は従六位上に叙し、絁』(あしぎぬ:古代日本に存在した絹織物の一種。交換手段・課税対象・給与賜物・官人僧侶の制服などに用いられた)二十『疋、調の綿』四十『屯』(とん:古代日本に於ける真綿の質量・取引単位。「主計式」に基づけば、一屯は四十匁(現在の百五十グラム)となるとするが、百二十匁(四百五十グラム)説もある)、『調の布』八十『端、正税』二『千束を与えられ、取り次ぎをした駅使の中衛舎人』(ちゆうゑのとねり:「中衛府」は日本古代に於いて、天皇側近の警固にあたった官の一つ)『も昇叙され、奏上をしなかった国司や郡司には加増しないが、益頭郡の人民の租税を』一『年間』、『免除された、とある』。『この瑞祥の上奏は、国司や郡司の手続きを経ず、直接』、『中衛舎人によってなされたことが異例である』とある。なお、茂木(もてぎ)直人氏の論文「祥瑞に関する制度の実態」(駒澤史学会編『駒沢史学』二〇〇四年七月発行・「駒澤大学 学術機関リポジトリ」のここでダウンロード可能(PDF))にも、この一件への言及がある。

「有渡郡《うどのこほり》川鍋村」かなり手間取ったが、旧有渡郡を調べてみたところ、「ひなたGPS」の戦前の地図の中央に、現在の静岡県駿河区内のここに、「川邊」とあるのが、そこであろうと思われる。

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「巡禮の歌」(一九〇一年) (お前は世嗣だ、……)

 

 

お前は世嗣だ、

子等は世嗣だ、

何となれば、父たちは死に、

子等は立つて花を開く。

お前は世嗣だ。

 

[やぶちゃん注:パレスチナの子等へ! 私は、このリルケの詩を捧げるものである!!!

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「巡禮の歌」(一九〇一年) (彼の氣遣は我々には夢魔のやうで、……)

 

 

彼の氣遣は我々には夢魔のやうで、

彼の聲は我々には石のやうだ。――

我々は彼の話を聞きたいが、

言葉は半ば聞えるのみだ。

彼と我々との間の大きな戲曲は、

互に理解するには騷がし過ぎる。

我々は綴(つづり)が落ちて消えてゆく、

彼の口の形を見るばかり。

斯うして我々は彼に遠く、遙に更に遠い、

愛が尙ほ遠く我々を組合せても。

彼が此星の上で死ななくてはならぬ時、

初て我々は彼が此星に生きてゐたことを見るのだ。

 

これは我々には父だ。そして私は、――私は

お前を父と云はなくてはならぬのか。

それが私を千倍もお前から距てることになるだらう。

――お前は私の子だ、私はお前を見知るだらう。

大人になり、老人になつても尙ほ

人がただ一人の子を見知るやうに。

 

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 櫻桃

 

Karamizakura

 

ゆすらむめ 鸎桃  含桃

      荊桃

櫻桃  和名抄云鸚實

      【宇久比須

       乃岐乃美】

     俗云由須良梅

 

本綱櫻桃雖非桃類以其形肖桃故名之如沐猴梨胡桃

之類皆取其形相似耳其樹不甚髙其葉團有尖及細齒

春初開白花繁英如雪結實一枝數十顆先百果而三月

熟其熟時須守護否則鳥食無遺也經雨則蟲自內生人

莫之見用水浸良久則䖝皆出乃可食也試之果然其實

熟時深紅色者名朱櫻紫色皮裏有細黃㸃者名紫櫻味

最珍重又有正黃明者名之蠟櫻小而紅者名櫻珠味皆

不及極大者若彈丸核細而肉厚者尤難得

子【廿熱濇】 調中益脾氣令人好顏色美志   処

 小兒食之過多無不作熱舊有熱病及喘嗽者得之立

[やぶちゃん字注:「処」はママ。終りに打つつもりが、スペースがないため、急遽、右に刻んだものである。]

 病且有死者

△按櫻桃樹髙四五尺葉大可拇指團末尖有細齒微似

 木天蓼葉而厚皺其子半熟時大可大豆而有溝及毛

 狀與桃無異既赤熟則大可小金柑脫毛如李亦似梅

 味甘其花小二分許白色帶微赤伹謂如雪者不然

 宇治左府頼長公記云天養二年五月三日權大納言

 宗輔送嬰實云自和泉國所尋取之其色紅大如碁石

 其體圓其核微小有三種食之甚美其味甘堪賞翫矣

 禮記所謂仲夏月天子羞以含桃先薦寢廟者是也

 

   *

 

ゆすらむめ 鸎桃《あうあう》  含桃《がんたう》

      荊桃《けいたう》

櫻桃  「和名抄」に云ふ、「鸚實《あうじつ》」。

      「宇久比須乃岐乃美《うぐひすのきのみ》。」

     俗、云ふ、「由須良梅《ゆすらうめ》」。

 

「本綱」に曰はく、『櫻桃は、桃類に非ずと雖《いへども》、其の形、桃《もも》に肖(に)たるを以《もつて》、故に、之れを名づく。沐猴梨《もくこうり》◦胡桃《こたう/くるみ》の類のごとく、皆、其の形相《けいさう》、似るを取るのみ。其《その》樹、甚だ≪には≫、髙からず。其《その》葉、團《まどか》にして、尖り、及《および》、細かなる齒《ぎざ》、有り。春の初め、白花を開く。繁英《はんえい》なること[やぶちゃん注:花房の繁れるさまは。]、雪のごとく、實を結ぶ。一枝、數十顆。百果に先《さきんじ》て、三月に熟す。其の熟する時、須《すべからく》、守護すべし。否《しかざ》れば、則《すなはち》、鳥、食《くひ》て、遺(のこ)すこと、無きなり。雨を經《へ》る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、蟲、內より、生ず。人、之れをみること、莫し。水を用《もちひ》て、浸し、良久《やや、ひさしき》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、䖝《むし》、皆、出づ。乃《すなはち》、食ふべし。之れを試《こころみ》るに、果《はた》して然《しか》り。其《その》實、熟する時、深紅色なる者を「朱櫻《しゆわう》」と名づく。紫色にして、皮の裏、細≪かなる≫黃㸃、有る者、「紫櫻」と名づく。味、最《もつとも》、珍重《ちんちやう》なり。又、正黃≪の≫明《あきらか》なる者、有り。之れを、「蠟櫻《らうわう》」と名づく。小にして、紅《くれなゐ》なる者を「櫻珠」と名づく。味、皆、極《きはめ》て大なる者、及はず。彈丸のごとく、核《さね》、細《こまやか》にして、肉、厚き者、尤《もつとも》、得難し。』≪と≫。

『子【廿、熱、濇《しぶし》。】』『中《ちゆう》を調《ととのへ》、脾氣《ひき》を益し、人をして、顏色を好《よ》くし、志《こころざし》を美《び》ならしむ。』≪と≫。

『小兒、之れを、食ふこと、過多《かた》なれば、熱を作《な》さざると云《いふ》こと、無し[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]。舊《も》と[やぶちゃん注:以前に。]、熱病、及《および》、喘-嗽《せき》、有る者、之れを得《う》れば、立処《たちどころ》に、病《やみ》て、且つ、死する者、有り。』≪と≫。

△按ずるに、櫻桃の樹、髙さ、四、五尺。葉の大いさ、拇指(をほゆび[やぶちゃん注:ママ。])ばかり、團《まろく》して、末へ[やぶちゃん注:ママ。]、尖り、細き齒、有《あり》て、微《やや》、「木天蓼(またゝび)」の葉に似て、厚く、皺《しは》む。其の子《み》、半《なかば》、熟する時、大いさ、大豆ばかりにして、溝、及《および》、毛、有り。狀(ありさま)、桃と異なること、無し。既に赤《あかく》して、熟する則、大いさ、小《ちさ》き金柑ばかり、毛を脫《だつ》して、李(すもゝ)のごとくにして、亦、梅に似たり。味、甘し。其の花、小《ちさ》く、二分ばかり。白色≪に≫微-赤(あかみ)を帶《おぶ》。伹《ただし》、≪「本草綱目」に≫『雪のごとし』と謂ふは、然《しか》らず。

 宇治の左府頼長公の「記」、云はく、『天養二年五月三日、權大納言宗輔、嬰實《えいじつ》を送《おくり》て云はく、「和泉國より、之れを尋-取《たづねとる》所《ところ》なり。其《その》色、紅にして、大いさ、碁石のごとく、其の體《てい》、圓《まろく》、其《その》核《さね》、微《やや》、小≪さく≫、三種、有り。之れを食へば、甚《はなはだ》美≪にして≫、其《その》味、甘く、賞翫に堪《たへ》たり。」≪と≫。』≪と≫。「禮記《らいき》」に所謂《いはゆ》る、『仲夏の月、天子、≪農民より≫、羞(すゝ)むるに、「含桃《がんたう》」を以《もつて》、先《まづ》、寢廟《しんべう》[やぶちゃん注:天子の祖先を祀る廟。]に薦(すゝ)む。』と云《いふ》は、是なり云云《うんぬん》。

[やぶちゃん注:東洋文庫訳の後注に、「櫻桃」に注して、『桜桃 中国の桜桃はバラ科のシロバナカラミザクラ。日本のウスラウメは次項「山嬰桃」を参照。但し、良安は桜桃を「ゆすら」と認識している。それで、あちこちに出てくる良安の説の中の桜桃はすべて「ゆすらうめ」または「ゆすら」の訓をそのままに残した。』とある。これは、既に先行する諸項の中で(十項以上に亙るのである)、しつこく、私が指摘してきたものである。良安が盛んに誤比定同定したり、比喩でしょっちゅう、用いているもので、彼は、「ゆすらうめ」が、大のお好みの植物・花・果実であるのである。

「櫻桃(ゆすら)」は双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa

である。後注で考証するが、取り敢えず、当該ウィキを参照されたい。また、シロバナカラミザクラとあるのは(異名・シノニムが、やたら、多い)、現行では、「カラミザクラ」(唐実桜)で、中文名(「維基百科」の同種「中國櫻桃」(この漢字表記は中文公式名ではなく、英名を漢字表記にしたに過ぎない)に拠れば、「櫻桃」の他、古称「楔荊桃」・「荊桃」・「崖蜜」・「鶯桃」・「含桃」・「櫻珠」・「朱櫻」・「紫櫻」・「蠟櫻」・「英桃」・「牛桃」・「會桃」・「楔桃」・「梅桃」・「樂桃」・「表桃」など、枚挙に遑がないのである。

サクラ属カラミザクラ Cerasus pseudo-cerasus

である。同前であるが、当該ウィキを見られたい。

 

[やぶちゃん注:まず、「本草綱目」の「櫻桃」=カラミザクラの当該ウィキを引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『名の通り、中国原産であり、実は食用になる。別名としてシナミザクラ(支那実桜)、シナノミザクラ、中国桜桃などの名前を持つ。おしべが長い。中国では櫻桃と呼ばれる。日本へは明治時代に中国から渡来した』。『花期は早く』、三『月上旬からとなる。このため、花が咲いているときには』、『まだ』、『葉が生えていないことも多い。花は五枚一重で直径は』二『センチメートル』『程度と小輪。花の色は白から若干』、『紅色を帯びる程度。ひと房に』二『輪か』、三『輪の花を咲かせ、実もこれに準じ、二つがひと房になっていることが多い(自家受粉する)。雄蕊が長いのが特徴。花びらは』百八十度『近くに開く。果実は核果で、紅色に熟し』、『食用になる』。『落葉広葉樹の低木で、樹高は』二~三『メートル』『ほどである。根元から枝を束生し、気根を出す。樹皮は茶褐色から黒褐色で、ふくらみがある横に長い皮目がある。枝を多く伸ばす傾向があり、枝は横に伸び』、『若干』、『下向きになっている。葉は深く』、『鋸歯のようになっている』。『冬芽は鱗芽で、芽鱗は茶色で』、『やや』、『つやがある。枝先には仮頂芽がつき、側芽は枝に互生する。冬芽のうち、丸いものは花芽で、細いのは葉芽で花後に展開する。葉痕は半円形で、維管束痕が』三『個つく』。『実は食用になることが知られている。大きさは』一・五『程度であり、始めは緑色で徐々に黄色を経て』、『赤く熟する。セイヨウミザクラ』(サクラ亜属セイヨウミザクラ(西洋実桜)Prunus avium )『よりも小粒のサクランボで美味である』。『現在、食用種としてはセイヨウミザクラが使われることが多い。佐藤錦などの種もセイヨウミザクラを改良したものである。これはカラミザクラは若干酸味が強いためである』とある。「維基百科」の同種には、『標高三百から千二百メートルの日当たりの良い丘の中腹や溝の脇に生える。遼寧省、河北省、河南省、山東省、山西省、陝西省、甘粛省、四川省、貴州省、雲南省、湖南省、湖北省、安徽省、江蘇省、浙江省、江西省、福建省で生産されている』。『南宋時代、臨安城の櫻桃は重要な産地である紹興から招来されていた』。『この種は中国で古くから栽培されており、食用に利用されるほか、櫻桃酒の製造にも使用される。枝・葉・根・花も薬用に用られる。「泰山香櫻」 Prunus pseudocerasus 』(シノニム)『'Taishan Xiang' や、和劍橋櫻  Prunus pseudocerasus 'Cantabrigiensis' などのいくつかの品種は鑑賞可能品種である』。『この種の果樹の栽培数量は甜櫻桃』=セイヨウミザクラ『 Prunus avium に比べ、遙かに少なく、原産地の中国でも甜櫻桃が主に栽培されている』。『中國櫻桃は、椿寒桜・明正寺桜・多賀紅桜・啓翁桜など多くの桜の親である。中国櫻桃は幹に気根が生えるという特徴があり、中国系の櫻桃を祖先とする一部の桜でも、気根が見られることがある』とある。

 次に、良安が好きな「ユスラウメ」を当該ウィキから引く(同前の処理をした)。漢字表記は『梅桃、桜桃、山桜桃』で、『若枝や葉に毛が生えているのが特徴』で、『単にユスラとも』呼ばれる。『庭園などに植えられる。サクランボに似た赤い小さな実をつけ、食用になる。漢名は英桃。俗名はユスラゴ』。『和名ユスラウメの由来について、植物学者の牧野富太郎の説によれば、食用できる果実を収穫するのに』、『木をゆするので』、『この名がつけられたのではないかとしている』。一説に、『サクラを意味する漢字「櫻」は、元々はユスラウメを指す字であった』ともする。『茨城県西南地域ではユスラウメとは呼ばず』、『「よそらんめ」と方言で呼ぶ。福島県相馬地方では「リッサ」と方言で呼ぶ』。『中国北西部、朝鮮半島、モンゴル高原原産。日本へは江戸時代初期にはすでに渡来して、主に庭木として栽培されていた』。『落葉広葉樹の低木で、樹高は』三~四『メートル』『で』、『よく分枝する。樹皮は紫褐色や暗褐色で、生長とともに灰色を帯び、めくれるように不規則に剥がれる。一年枝や若枝は褐色で、短毛が密に生えている。葉は長さ』四~七『センチメートル』『の楕円形で、葉脈に沿って凹凸があり、全体に細かい毛を生じる』。『花期は』四『月。葉が開くのと同時、または』、『葉が展開する前に、桜に似た白色または淡紅色の五弁の花が葉腋に』一『つずつ』、『咲く。果期は』六『月。花後は』、『小ぶりな丸い果実をつけ、赤色に熟して食用になる。果実はニワウメ』(庭梅:バラ科スモモ属ニワウメ亜属ニワウメ Prunus japonica 『よりやや大きく、ほぼ球形ながら』、『モモの実のように』、『かすかな縦割れがあり、表面には毛がない』。『冬芽は互生し、暗褐色の先が鋭くとがった長楕円形で芽鱗』六~八『枚に包まれており』、一『か所にほぼ』三『個つく。短枝には花芽が集中する。葉痕は心形や半円形で、維管束痕が』三『個ある』。『植栽として』、『庭や庭園などに植えられて栽培される。性質は強健で、耐寒性・耐暑性ともに強く、病害虫にも強い。用土は過湿を嫌うので、水はけの良い土に植える。日照不足になると、株が弱ってしまうだけでなく、果実の収穫も減ってしまうため、なるべく日当たりの良い場所に植える』。三『月頃と果実の収穫後に化成肥料を、また』十一『月頃には有機肥料の寒肥を施す』。『普段の剪定は特に必要ないが、日当たりの悪い枝は枯れやすいので、込み合う枝の間引きと、長く伸びた枝の切り戻しを必要に応じて行う』。『増やし方は、タネを採取しての実生』だが、『その他、挿し木、接ぎ木で増やすことができる』。一『年生接木苗では植え付け後』二~三『年、実生でも』三~四『年で果実がなり始める』。『果実は薄甘くて酸味が少なく、サクランボに似た味がする。そのままでの生食、あるいは果実酒などに利用される』。『大分県豊後大野市清川地区では、ユスラウメにモモを接ぎ木して栽培した「クリーンピーチ」が特産品となっている』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「櫻桃」([075-45b]以下)をパッチワークしたものである。

『「和名抄」に云ふ、「鸚實《あうじつ》」』「和名類聚鈔」の「卷十七」の「菓蓏部第二十六」の「菓類第二百二十一」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七 (一六六七)年板本の当該部を視認して、訓読して起こす。

   *

 鸎實(うくひすのきのみ) 「漢語抄」に云はく、『鸎實【は、俗に云ふ、「阿宇之智《あうしち》[やぶちゃん注:これは呉音による記載のようである。]」。一《いつ》に云《いふ》、「宇久比須乃岐乃美《うくひすのきのみ》」。今、按《あんずる》に、出《いづる》所、未だ詳《つまびらか》ならず。】。』≪と≫。

   *

但し、中国の「鸎」=「鶯」は、スズメ目コウライウグイス科コウライウグイス(高麗鶯)属コウライウグイス Oriolus chinensis であって、これは本邦の普通種であるスズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone cantans(北海道から九州まで広く分布する普通種)とは全くの別種で、類縁関係はないので注意が必要である。詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶯(うぐひす) (ウグイス)」を見られたい。

「沐猴梨《もくこうり》」不詳。識者の御教授を乞う。時珍の謂いから、実が「梨」に似ているだけで、バラ目バラ科サクラ亜科ナシ属 Pyrus の属ではないだろう。

「胡桃《こたう/くるみ》」日中では同種ではないので、注意が必要である。中国に分布するのは、ブナ目クルミ科クルミ属 Juglans 止まりである。「維基百科」の同属には、九種を挙げてあるが、これらが総て中国に分布するかどうかは、判らない。本邦の知られた「クルミ」としては、クルミ属マンシュウグルミ(満州胡桃:中文名「胡桃楸」)変種オニグルミ Juglans mandshurica var. sachalinensis であるからである。

「木天蓼(またゝび)」先行する「木天蓼」により、日中ともに、ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygama で問題ない。

『宇治の左府頼長公の「記」』藤原頼長(保安元(一一二〇)年~保元元(一一五六)年:当該ウィキによれば、『通称は宇治左大臣。兄で関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより』、『藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った』。『後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚』し、『政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ』、「保元の乱」『で敗死した』)の「台記」(たいき)を指す。ウィキの「台記」によれば、保延二(一一三六)年から久寿二(一一五五)年までの十九年に亙る日記であるが、『自筆原本は失われて存在しない』。「保元の乱」『前夜の摂関家や当時の故実を知る上で優れた史料である。頼長が稚児や舞人、源義賢ら武士や貴族たちと男色を嗜んでいたことも書かれており、当時の公家の性風俗を知る上で貴重なものとされる』。『また』、『藤原忠通のもとに、鸚鵡と孔雀が献上された際に、鸚鵡を観察したときのことを記している。それによると鸚鵡の舌は人間の舌に似ているから、よくものを言うのだろうとある。鳴声は、中国から渡来したものなので中国語を話し、日本人には聞いてもわからないのだろうと考えた。平安期の日本の鸚鵡の観察記事としても珍しい資料である。ともあれ、逸話の記載も多く、かつ孤高の英才政治家の栄達と失脚の記として官界の実態を活写している』とある。

「天養二年五月三日」ユリウス暦一一四五年五月二十六日(グレゴリオ暦換算六月二日)。この天養二年七月二十二日(ユリウス暦一一四五年八月十二日)に久安に改元している。なお、先の「台記」には、この直後の天養二年五月九日に、かのハレー彗星が出現したことが、詳細に書かれており、ウィキの「ハレー彗星」によれば、五月十九日から同月二十二日に姿を現さず、五月二十三日に、今一度、現れたことが、記されてある、とある。

「權大納言宗輔」公卿藤原宗輔(承暦元(一〇七七)年~応保二(一一六二)年)。当該ウィキによれば、『藤原北家中御門家(松木家)の祖、権大納言・藤原宗俊の子。官位は従一位・太政大臣。堀河または京極と号する。「蜂飼大臣(はちかいおとど)」の異名で』「今鏡」・「十訓抄」『にも登場する』。『漢籍や有職故実に通じ、音楽に秀で、かつ控えめな人物であったが、非常な健脚であり、そのほか個性的な逸話を数多く残した』。嘉保(かほう)二(一〇九六)年、『まだ五位蔵人という低い官職の時に父・宗俊が死去、さらに側近として仕え』、『主君であり』、『笛を通じた友人でもあった堀河天皇が早世するなどの不幸もあり、昇進が遅れ』、四十六『歳で』、『ようやく参議として公卿に列した』。大治(だいじ)三(一一二九)年の除目では、宗輔が外戚の伯父である源師頼の任官された職務を誤って書き写した公文書を作成してしまい、除目のやり直しが行われた』。『平素からあまり政治に口出しすることはなく、趣味の世界に没頭していく。音楽においては、笛や琵琶・箏に秀でており、当人も「死ぬのは怖くないが、笛が吹けなくなるのが困る」と語った。また、娘・若御前も父に勝るとも劣らない才能を持ち(「若御前」とは、鳥羽法皇が彼女の曲を聞くために男装をさせて院の御所に上げさせた事に由来している)、後に当代随一の音楽家として名を残した藤原師長(頼長の子、後の太政大臣)もこの親子から箏を習った』。『もう一つの趣味は自然への親しみであった。公家が自ら草花を育てる事は考えられなかったが、宗輔は自ら菊や牡丹を育てて、藤原頼長や鳥羽上皇ら親しい人々に献上している。何よりも人々を驚かせたのは』、『蜂を飼いならしていたと言う話である。当時の日本にも養蜂は伝わっていたとはいえ』、「古事談」では、『それを「無益な事」と人々から嘲笑されていたが、宮廷に蜂が大発生した際に宗輔だけが冷静に蜂の好物である枇杷を差し出したところ、蜂はその蜜を吸って大人しくなったと伝え』、「十訓抄」『では』、『飼っている蜂の一匹一匹に名前を付けては自由に飼い慣らして、気に入らない人間を蜂に命じて刺させたとしている』。『宗輔が権中納言であった』五十六『歳の時に、関白・藤原忠実の子で僅か』『歳の頼長が同僚となった』。四十三『歳と親子以上の年齢差があった二人であったが、才気に溢れて敵が多かった頼長に対して、宗輔は年長者として接し、頼長も宗輔に対して敬意を払った。この信頼関係は』、『頼長が大臣に昇進した後も続き、頼長はしばしば宗輔と政治的な相談をしたり、子』の『師長への音楽の教授を依頼するなどの繋がりを深めた。頼長から見れば』、『宗輔は高齢になってもなお職務を忠実にこなしている模範となる人物であり、大臣に昇進させないのはおかしい事であると鳥羽法皇らに』、『度々』、『奏上したが、頼長存命の間には実現しなかった。なお』、久安五(一一四九)年、『藤原氏として初めて、淳和院別当に任』ぜ『られている』。保元元(一一五六)年、「保元の乱」『によって頼長が討たれると、頼長側近の貴族らは宮廷から追放された。だが、その筆頭であった大納言宗輔には何の処分も下らなかった。既に宗輔は』八十『歳の高齢であり、このような老人が反乱の企てに参加出来る訳が無いと、後白河天皇らから思われたからだと言われている』。しかも、『その数ヵ月後、頼長死亡に伴う人事異動によって右大臣に任命された(これは平安時代を通じて大臣初任の最高齢記録である)。そして翌年には遂に太政官の最高位である太政大臣へと昇進』した。『宗輔の太政大臣時代には』、『後白河上皇と二条天皇の確執、院近臣間の対立など事態は激動し、やがて』「平治の乱」が『発生する』が、『宗輔は』、『その健脚を駆使して難局を乗り切り』、八十四『歳で引退するまで長い政治生活を送った』。私の偏愛する「堤中納言物語」に『登場する「虫愛づる姫君」のモデルは宗輔・若御前父娘であるとされる』とある。よろしければ、私の古い電子化注『柴田宵曲 續妖異博物館 「蜂」』を見られたい。「十訓抄」のそれを、注で電子化してある。Unicode以前で正字化不全であった箇所も、今回、全面的に修正しておいた。

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「巡禮の歌」(一九〇一年) (永遠者よ、お前は私に姿を現はした。……)

 

 

永遠者よ、お前は私に姿を現はした。

私は一人の愛兒のやうにお前を愛してゐる。

その子は幼くて私を捨てた。

國々もすべてその前には谷に等しい

王座へと運命に呼ばれたものだから。

私は、偉大な我が子がもう解らない、

子の種の意志が求めてゐる

新しい事物を殆ど知らない

老人のやうに取殘されてゐた。

私は澤山の見知らない船に運ばれる

お前の深い幸福の爲に時折は身震ひし、

お前を生み育てた此薄闇へ、

私の内心へお前を呼戾さうと願ふ。

佛は時代に餘り負けると、

もうお前はゐないのかと心配する。

そのとき私はお前のことを讀む、

到る處で福音者はお前の永遠について書いてゐる。

 

私は父である。併し子はより多い、

父があつた凡てだ。そして

父が成らなかつたものが子の中に大きくなる。

子は未來だ、そして囘歸だ、

彼は胎だ、大海だ……

 

[やぶちゃん注:「胎」「たい」。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四上」「子安神奇」

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、初回の冒頭注を見られたい。底本の本項はここ。]

 

「子安神奇」 有渡郡三保村、松原の内にあり。「駿州古蹟畧」云。子安神、三保にあり。此神に祈〔いのり〕て安產すれば、底なき柄杓を奉納す。云云。無用の器物を愛し玉ふ神慮、はかり難し。

 

[やぶちゃん注:「有渡郡三保村、松原の内にあり」前項で示した御穂神社(グーグル・マップ・データ航空写真)内に「子安神社」として現存する(同神社の北側の鳥居を入った横にあるらしい)。個人サイト「【静岡県観光&名所】わが街だいすき.com」の「御穂神社【静岡市】」の中に(子安神社記載へ飛ぶ)、『(現地説明板より)』として、

   *

子安神社

 

御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)

    稲田姫命(いなだひめのみこと)

 

御穂神社ご祭神である大国主命の父母にあたる神々であり古来より子宝・安産・子育ての神として信仰される。

 

また、昔から安産の祈願やお礼参りとして、底を抜いた柄杓を奉納する風習があり、水がつかえず軽く抜ける如くに楽なお産が出来ますようにとの願いが託されている。

   *

とある。グーグル・マップ・データ「御穂神社」のサイド・パネルの「子安神社」の画像を拡大すると、奉納された真鍮製の柄杓が視認出来るが、総ての底の中央に孔が開けられてあるのを確認出来る。

「駿州古蹟畧」国立国会図書館デジタルコレクションで検索を掛けると、本「駿國雜志」、及び、静岡の地誌書等に三十四件ヒットするが、当該書自体はネット検索でも見当たらない。]

2025/01/28

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附~始動 /「卷之二十四上」・「怪異」(序)・「天女失羽衣」

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ『怪奇談集Ⅱ』にて、阿部正信編揖「駿國雜志」の「卷之二十四上」の「怪異」、及び、「卷之二十四下」の「怪異」を正規表現・オリジナル注附で始動する。昨年四月二十七日に『「和漢三才圖會」植物部』を始動してより、意識が植物化してしまい、鬱っぽくなってしまったので、本日、かく、怪奇談を復活起動させることとした。

 「駿國雜志(すんこくざつし)」は、江戸後期の旗本阿部正信(生没年不詳:当該ウィキによれば、『忍藩主阿部正能の次男正明より分かれた家系で、正章(旗本・知行』六千『石)の子。通称は大学』。『文化』一四(一八一七)年九月、『駿府加番となり』、『駿府城の守衛などを担う。任期は』一『年だったが、在任中から』、また、『江戸に戻ってからも』、『駿河国七郡の歴史・風土などを調査した』。本書は、先行する江戸中期の旗本で、儒学者・有職故実の大家であった榊原香山(さかきばらこうざん 享保一九(一七三四)年~寛政九(一七九八)年:名は長俊。香山は号、通称は一学。江戸生まれ。伊勢貞丈に師事し、武家の故実に長け、武器研究家としても著名だった。宝暦四(一七五四)年と、天明三(一七八三)年、駿府勤番となって駿府に赴任した。以上は当該ウィキに拠った)の著した「駿河國志(するがこくし)」を『ベースとし』、天保一四(一八四三)年、本「駿國雜志」『全四十九巻を著した』とある。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの明治四三(一九一〇)年吉見書店(靜岡)刊の「自卷廿四上至卷之三十」の当該部(リンク先は「卷之廿四上」の「怪異」(序)冒頭ページ)を視認した。

 但し、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『江戸怪異綺想文芸大系 第五巻』(高田衛監修・堤邦彦/杉本好伸編)の「近世民間異聞怪談集成」(二〇〇三年刊初版)に所収する同パート(堤邦彦氏校訂)をOCRで読み込み、加工データとした。ここに御礼申し上げる。その堤氏の解題によれば、同『大系』の底本は国立公文書館内閣文庫本(旧米花文庫蔵の七十八冊本)で、本底本とは、体裁が異なり、句読点が全く異なり、郡(こほり)名が中見出しに出、書名に太字の鈎括弧が用いられたりしている(私の電子化では、通常の鈎括弧に代えた.。書名は鍵括弧を添えた)。各卷の前に「目錄」が出るが、本電子化では、最後に回す。割注は【 】で挟んだ。

 底本は、ごく僅かにルビが附されてあるのみであるが、若い読者のため、読みが振れると判断した箇所には、《 》で歴史的仮名遣で推定の読みを振った(一部は、「近世民間異聞怪談集成」に打たれたルビを参考にした)。注は、ごくストイックに附した。]

 

 

 駿 國 雜 志 卷之二十四上

 

              阿 部 正 信 編 揖

 

   怪   異

 怪は理外也、故に聖賢の道、怪を語らず。又云。佛家の怪は方便也。其理の知り難きを以て怪とす。是を奇怪といひ、怪異といひ、俗に變化(ばけもの)と云。すべて見馴《みなれ》ざると、聞馴ざるの二にして、謂《いひ》は不思議成《なる》べし。

        有 渡 郡〔うどのこほり〕

 「天女失羽衣」 有渡郡三保村にあり。傳云。往昔三保の松原に神女天降〔あまくだり〕て、羽衣を松枝にさらし、終日(ひねもす)遊戲す。玆に漁夫伯梁と云者あり。其羽衣を拾ひ藏〔かく〕す、是織女の機中六珠衣也。神女家に來り、悲み乞といへども與へず。故に天上に歸の術なし。依て伯梁と夫婦の語らひす。或日、夫の家に在らざるを窺ひ、彼羽衣を盜て去る。伯梁もまた登天して、僊となる。其地に社《やしろ》を建て、羽衣の神と祭る。後歲、道守(きもり)氏《うぢ》の翁、此舞曲を傳へて世に弘めたり。東遊の駿河舞、是より起る。云々。

[やぶちゃん注:「有渡郡三保村」現在の静岡県静岡市清水区三保。「ひなたGPS」の戦前の地図で旧三保村を確認出来る。後に出る「天人の宮とし、八幡宮を以て攝社とす」は、旧地図の旧地名「宮方」(みやかた)にある「三穗神社」とあるのが、駿河国三之宮御穗神社(祭神は大山積命)である。]

有渡濱に、天の羽衣、稀にきて、ふりけん袖や、けふのはふり子。   能 因 法 師

  世にしらぬ、詠《ながめ》なれはや、天人の、天降りにし、三保の松はら。

[やぶちゃん注:前者の一首は、「後拾遺和歌集」の「卷第二十 雜六」に、

   *

  式部大輔資業(しきぶのたいふすけなり)、

  伊豫守に侍りける時、かの國の三島の明神

  に東遊(あづまあそび)して奉りけるに、

  詠める

 有度濱(うどはま)に

     天羽衣(あまのはごろも)

   昔來て

    振りけむ袖や

       今日(けふ)の祝子(ほふりこ)

   *

で、「式部大輔資業」は廷臣藤原資業(永延二(九八八)年~延久二(一〇七〇)年)。父は参議有国、母は典侍橘徳子(一条天皇乳母)。長保五(一〇〇三)年、文章得業生。以後、式部少・大丞、六位蔵人、大内記、右少弁。東宮学士、五位蔵人、左衛門権佐・検非違使、文章博士、左少弁、丹波守、式部大輔、播磨守など、内外の要職を歴任し、寛徳二(一〇四五)年に従三位となった。永承六(一〇五一)出家し、法名は素舜。日野法界寺は彼の建立。男子の実政は後三条・白河朝に重用された。「祝子(ほふりこ)」は「巫女(みこ)」を指す。但し、これは、現在の静岡市有度山・久能山東照宮の南麓の海岸(グーグル・マップ・データ)である。

 後者の一首は、江戸前期の公卿・歌人・能書家として知られる烏丸光広(天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)の詠歌。

   *

 世に知らぬ

    眺(ながめ)なればや

   天人(あまびと)の

      あまくだりにし

           三保の松原

   *]

或云。羽衣は羽車《はぐるま》也。云云。然云《しかいふ》時は、天女の事せんなし。又云。安閑天皇の御時、當國有渡濱に、天女降現して歌舞をなす。道守(きもり)氏の翁、此曲を傳ふ。天女は卽《すなはち》平松・靑澤二村の土神《うぶすな》と崇《あが》む[やぶちゃん注:底本は『祟む』であるが、これでは、読めないので、「近世民間異聞怪談集成」の表記を採用した。]。今の中平松村、天人の宮是也、云云。傳云。中平松村、天人の社は、往昔八幡宮を祭る處なり。後、有度濱に降現する所の天女を祭りて天人の宮とし、八幡宮を以て攝社とす。是いにしへの土神也。云云。里人云。中平松村に長右衞門と云者あり、淸水に至《いたり》て䀋《しほ》を商ふ。一日《いちじつ》皈路《かへりみち》、駒越村の濱に於て、松樹に羽衣の掛《かく》るを見る。卽《すなはち》是を拾ひとり、家に歸る。天女、此羽衣を取《とら》んがため、其夜長右衞門が許に來り、仕《つかへ》ん事を望む。主、天女なる事を知らず、家に居らしむる事三歲あまり、一朝、前磯《まへいそ》に材木の漂流する事あり。里民悉く出《いで》て是を拾ふ。時に長右衞門が家擧《あげ》て至る。天女、其隙《すき》を伺ひ、羽衣を取《とり》て去《さら》んとするに、ひさしく下界に有《あり》て身《み》穢《けがる》る故に、飛揚《ひやう》の術《じゆつ》盡《つき》たり。天女、土神八幡の社頭に上《のぼり》て祓《はらひ》す。折ふし長右衞門歸來る。天女、事の序《ついで》を語り、誓《ちかひ》て曰《いはく》、我を以て土神に祭らば、永く當村の守護神たらんと、卽《すなはち》土神とす。云云。今當社、鏡を以て神躰とす。又彼《かの》長右衞門が子孫、今に相繼して其事跡を記す、證文あり。近年火災に燒失して傳へず。云云。惜哉《をしきかな》。

[やぶちゃん注:「羽車」「デジタル大辞泉」では、『神体・経典などを移すときに使う輿(こし)。天の羽車。御羽車(おはぐるま)』とある。

「安閑天皇」在位は継体天皇二五(五三一)年(?)から安閑天皇二(五三六)年(?)とされる。当該ウィキによれば、『継体天皇の後を受けて』、六十六『歳にして即位したが、わずか』四『年で崩御した』とある。

「道守(きもり)氏の翁、此曲を傳ふ」サイト「日本服飾史」の「神楽・東遊(あずまあそび) 舞人青摺袍姿」に、『楽が唐、高麗の楽により宮廷における宴楽として発達し』、『華美な所があるのに対し、神楽は奈良朝以来の唐楽等の長所をとり入れて、神聖にして格調の高き、高貴にして直截簡明な精神美を求めたもので、人長舞、久米舞、東遊などがある』。『この東遊は東国地方の風俗舞であり、一説には安閑天皇の頃(』六『世紀)、駿河国の有度浜に天女が舞い降りたさまを国人道守が作ったと言われている』。『宇多天皇の寛平元年』十一『月』、『賀茂の臨時祭の時に初めて用いられてから、神事舞として諸社の祭典に奏されるようになった』とある。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「巡禮の歌」(一九〇一年) (閣下よ、私はまた祈ります。……)

 

 

閣下よ、私はまた祈ります。

あなたは又風によつて私を聞かれます。

私の深い心は通常の、

ざわめく言葉を使へませぬ。

 

私は蒔散らされました。敵によつて

私の自我は片々(きれぎれ)に分たれました。

ああ、神よ。凡ての笑ふ者は私を笑ひ、

凡ての飮む者は私を飮みました。

 

方々の家で私は、屑から、

古い盞から自我を集め、

口ごもりながらあなたに呼びかけました。

にヘたに、均衡のとれた永久者よ。

どのやうに私は私の半分の手を、

名もない嘆願にあなたの方へあげたでせう、

私があなたを見た

あの眼を再び見出さうと。

 

私は火事の後の一軒家でした。

其處には殺人者だけがをりをり

飢の罰に追はれて、

外へ出てゆくまで眠つてゐました。

私は、疫病が押入つて來て、

屍のやうに重く

子供等の手にぶら下る

海邊の町のやうでした。

 

私は他人のやうに自分にも解らず、

さうして知つてることは、

嘗て私を身ごもつてゐた

私の若い母を病ませたことと、

狹められた母の心臟が、

私の芽生えに痛ましく鼓動したことだけでした。

 

今私は、また、私の屈辱の

凡ての破片から建て上げられました。

そして一つの結束に、

一つの物のやうに自らを見渡す――

統一した理性に、

あなたの心の大きな手に、あくがれます。――

(ああ、それが私の上へ來たならば。)

私は自分を數へます、神よ、あなたは、

あなたは私を浪費する權利があります。

 

[やぶちゃん注:「盞」「さかづき」。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「巡禮の歌」(一九〇一年) (今お前はお前のこころへ、……)

 

 

今お前はお前のこころへ、

平野へゆくやうに出なくてはならない。

大きな寂寥が始まる。

日々は聾(し)ひ、

風はお前の感覺から

枯葉のやうに世界を奪ふ。

その空しい枝を透いて

お前の持つ天が見える。

今こそ地となれ、夕の歌となれ、

また彼の守る國となれ。

事物のやうに謙遜(へりくだ)れ、

現實に熟せ――

知識の源である者が、

汝をつかむ時、汝を感ずるやうに。

 

2025/01/27

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 楊梅

 

Yamamomo

 

やまもゝ  朹子

      【和名夜末毛毛】

楊梅   白楊梅

      名聖僧

     又云水精楊梅

ヤシ ムイ

 

本綱楊梅樹如茘枝而葉如龍眼及紫瑞香冬亦不凋二

月開花結實形如楮實子五月熟有紅白紫三種紅勝于

白紫勝于紅顆大而核細其青時極酸熟則如𮔉其肉在

核上無皮殻江南嶺南山谷多有之會稽山中者爲天下

冠凡桑上接楊梅則不酸如楊梅樹生癩以甘草釘之則

[やぶちゃん字注:「癩」は、原本では、「疒」の中が「頼」となった異体字であるが、表示出来ないので、「癩」とした。]

止皆物理之妙也又云地瘴𠙚多生楊梅騐之信然

[やぶちゃん字注:「騐」は「驗」(=験)の異体字。]

實【酸甘温】鹽藏食之去痰止嘔噦消酒食釀酒號爲梅香酎

 甚珍重之【生久食令人發熱損齒及筯忌生葱同食】

核中仁 能治脚氣取仁法以柹𣾰拌核暴之則自裂仁

 出也

△按五雜組云白色者名爲水精楊梅又謂之聖僧則爲珍

 也畿內近國白者希也海西九州有之凡楊梅人家庭

 園栽之結實者鮮山中果也山桃之和名宜矣


楊梅皮  【俗云毛毛加波又云之不木】 樹皮

                   【太牟加良】

本綱楊梅皮𤋎湯洗惡瘡疥癬嗽之治牙痛燒灰塗湯火

△按楊梅皮出於薩州者良煎汁染黃褐茶色又染漁綱

 則久耐鹹水與柹𣾰同故名澁木凡交趾占城東埔寨

 太泥六甲之唐舩多將來稱之樹皮皆染家多用

寸金丹 治傷食霍亂 楊梅皮【十錢】黃栢【五錢】胡椒【三錢】

 山椒【二錢】沈香【八分】細末糊丸【倭方也】

楊梅皮散 治折傷用楊梅皮一味細末以染家所用糊

 練之傅有効此外倭方多用楊梅皮丸散有皆抑積聚

 追蟲之功

 

   *

 

やまもゝ  朹子《きうし》

      【和名、「夜末毛毛《やまもも》」。】

楊梅   白楊梅《はくやうばい》を、

      「聖僧《せいそう》」と名づく。

     又、云ふ、「水精楊梅《すいせいやうばい》」。

ヤシ ムイ

 

「本綱」に曰はく、『楊梅の樹《き》、茘枝(れいし)のごとくして、葉、龍眼《りゆうがん》[やぶちゃん注:双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科リュウガン属リュウガン Dimocarpus longan 。]、及び、紫瑞香《しずいかう》[やぶちゃん注:バラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属(中文名:紫花瑞香:和名無し)Daphne purpurascens ]のごとし。冬も亦、凋まず。二月、花を開き、實を結《むすぶ》。形、「楮實子《ちよじつし》」[やぶちゃん注:バラ目クワ科コウゾ属カジノキ (梶の木)Broussonetia papyrifera の成熟果実を基原とする漢方名。]のごとし。五月に熟す。紅《くれなゐ》・白《しろ》・紫《むらさき》の三種、有《あり》、紅は、白より勝れり、紫は、紅に勝れり。顆《くわ》、大にして、核《さね》、細《さい》なり。其《それ》、青き時、極《きはめ》て酸《すつぱ》し。熟すれば、則《すなはち》、𮔉《みつ》のごとし。其の肉、核の上に在《あり》て、皮殻、無し。江南・嶺南の山谷《さんこく》に、多く、之れ、有り。會稽《くわいけい》山中《さんちゆう》の者、天下の冠《くわん》と爲《な》す。凡そ、桑の上に楊梅を接(つ)げば、則《すなはち》、酸《すつぱ》からず。楊梅の樹に、癩《らい》を生ぜば、甘草《かんざう》を以つて、之れを釘(くぎう)てば、則《すなはち》、止む。皆、物理の妙なり。又、云《いへ》り、「地瘴《ちしやう》の𠙚《ところ》、多く、楊梅を生ず。」と。之れ、騐《ためしみ》るに、信《まこと》に然《しか》り。』≪と≫。

[やぶちゃん字注:この場合の「癩」は、無論、ヒトのハンセン病とは無関係で、樹皮に何らかの害虫、細菌、或いは、ウィルス感染が生じ、有意に見た目が病変を起こしたものを指している。古えの中国で「癩」がこのような使われ方をしていたことは、差別認識の深い悪しき根を感じさせる忌まわしい事実と言える。また、ここに出る「地瘴《ちしやう》」「瘴」は「瘴氣」で、中国で、古代より、自然の中に生ずるところの人体に有害(死に至る場合もある)な毒気・邪気を指す語である。今、名指すなら、所謂、風土病としての諸疾患を当てることが出来る。さらに、「楊梅」は、バラ疹が似ているため、今一つの重症化する難病の性病である梅毒の異名が「楊梅瘡」であることである。「本草綱目」が、この「楊梅」の項で、「癩」を持ち出すところには、曰謂い難い「業病」・「天刑病」として差別されてきたハンセン病差別、惹いては、梅毒までも引き出すことで、恣意的な差別構造・疾患者を囲い込んで隔離する近代への悪魔的な優生学を示そうとする時珍の人間的限界を痛烈に感ずるものである。]。

『實《み》【酸甘、温。】』『鹽藏(《しほ》づけ)にして、之れを食へば、痰を去り、嘔噦《わうゑつ/からゑづき[やぶちゃん注:現代仮名遣「空噦(からえず)き」。吐き気が起こるものの、実際の吐瀉物が出てこない病態。]》を止め、酒食を消す[やぶちゃん注:よく消化する。]。釀《かもせし》酒を號して、「梅香酎《ばいかうちゆう》」と爲《なす》。甚《はなはだ》、之れを珍重《ちんちやう》す【生《なま》にて久《ひさしく》食へば、人をして、發熱し、齒、及び、筯《すぢ》を損ぜしむ。生葱《なまねぎ》を同食するを忌む。】。』≪と≫。

『核《さね》の中仁《ちゆうにん》』『能《よく》、脚氣を治す。仁を取《とる》法。柹𣾰(《かき》しぶ)を以つて、核を拌《かきま》ぜ、之れを暴《さら》せば、則《すなはち》、自《おのづか》ら、裂《さけ》て、仁、出《いづ》るなり。』≪と≫。

△按ずるに、「五雜組」に云はく、『白色なる者、名《なづけ》て、「水精楊梅」と爲《なす》。』≪と≫。又、之《これ》を「聖僧」と謂《いふ》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、珍、爲ればなり。畿內近國に、白き者、希《まれ》なり。海西《かいせい》≪の≫九州には、之れ、有り。凡《すべ》て、楊梅、人家の庭園に、之《これ》≪を≫栽《うゑ》て、實を結ぶ者、鮮《すく》なし。山中の果《くわ》なり。「山桃《やまもも》」の和名、宜(むべ)なり。


楊梅皮(やうばいひ)  【俗、云ふ、「毛毛加波《ももかは》」。又、云ふ、「之不木《しぶき》」。】

 樹皮《きのかは》【「太牟加良《たんから》」。】

[やぶちゃん注:「樹皮《きのかは》」の小題名に横に添えた割注『【「太牟加良《たんから》」。】』であるが、この割注の「たんから」は不詳。東洋文庫では、何故か、『タンカラ』とカタカナで振ってある。

「本綱」に曰はく、『楊梅皮、湯に𤋎《せん》じて、惡瘡・疥癬を洗ふ。之れを嗽《すすぎ》て、牙痛《はのいたみ》≪を≫治す。灰を燒≪きて≫、湯--傷(やけど)に塗る。』≪と≫。

△按ずるに、楊梅皮、薩州より出《いづ》る者、良し。汁に煎じて、黃褐茶色を染《そ》む。又、漁《れう》≪の≫綱《つな》を染《そむ》れば、則《すなはち》、久《ひさし》く、鹹水《しほみづ》に耐ふ。柹𣾰(かきのしぶ)と同《おなじ》き故に、「澁木(しぶき)」と名づく。凡《およそ》、交趾(カウチ)[やぶちゃん注:現在のヴェトナム北部。]・占城(チヤンパン)[やぶちゃん注:現在のベトナム中部に存在したチャム族の国家。「抖音百科」の「占城」の地図を参照されたい。]・東埔寨(カボヂヤ)[やぶちゃん注:現在のカンボジア王国。]・太泥(《パ》タニ)[やぶちゃん注:マレー半島中部東海岸のマレー系パタニ王国。本書が書かれた当時は女王が支配し、南シナ海交易の要港であった。位置は当該ウィキの地図を見られたい。]・六甲(ロツコン)[やぶちゃん注:六昆國:旧リゴール王国。現在のタイ王国ナコーンシータンマラート(グーグル・マップ・データ)周辺に存在したアユタヤ王朝の付庸国。]の唐舩《からぶね》、多く將來す。之れを「樹皮(タンカラ)と稱す。皆、染家(そめものや)、多《おほく》、用《もちひる》。

寸金丹《すんきんたん》 傷食《しやうしよく》[やぶちゃん注:飲食の不節制による消化不良症で、消化管内に食物が滞留したものの、 軽度のものを指す漢方用語。]・霍亂[やぶちゃん注:急性日射病で昏倒する症状や、真夏に激しく吐き下しする病気の古称である。後者は急性胃腸炎・コレラ・疫痢などの総称に該当するものとされる。]を治す。 楊梅皮【十錢[やぶちゃん注:明代の「一錢」は三・七三グラム。]。】・黃栢《わうばく》[やぶちゃん注:先行する「黃蘗」を見よ。]【五錢。】・胡椒【三錢。】・山椒【二錢。】・沈香《ぢんかう》[やぶちゃん注:先行する「沉香」を見よ。]【八分《ぶ》。】。細末≪に≫して、糊《のり》にて、丸《藥》≪と≫す【倭方なり。】。

「楊梅皮散」 折傷(うちみ)を治す。「楊梅皮」一味を用《もちひ》て、細末して、染家《そめものや》用《もちひる》所の糊《のり》を以《もつて》、之れを、練《ねり》て、傅《つ》く。効、有り。此外《このほか》、倭方に、多《おほく》、「楊梅皮」を用《もちひ》る。丸《藥》・散《藥》、皆、積聚《しやくじゆ》[やぶちゃん注:腹部のしこり。]を抑(をさ[やぶちゃん注:ママ。])へ、蟲を追ふの功、有り云云《うんぬん》。

 

[やぶちゃん注:「楊梅」は、日中ともに、

双子葉植物綱ブナ目ヤマモモ(山桃)科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra

である。「維基百科」では、同種の中文名は「楊梅」で、別名を「樹梅」とする。私の好きな果樹である。当該ウィキを引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『和名のヤマモモの名について、植物学者の辻井達一は「やはり山の桃ということだろう」と述べている。日本に自生するヤマモモは、「モモ」と呼ばれ、モモは果実の総称ともしていて、渡来種の桃は初め』、『「ケモモ」と呼ばれていた。それが、時代が』経って、『桃が生活に食い込んで「モモ」と呼ばれ、ヤマモモは山のモモで「ヤマモモ」と呼ばれるようになった。琉球方言に残っている琉球方言は』三『母音(OUEI)で、ヤマモモを「ムム」、モモを、「キームム」という。モモのモは実を表し、軟質な外側のモと内の硬い核のモでモモとして二重性を表している』。『漢名は楊梅(ようばい)、中国名は楊梅(ヤンメイ、(拼音: yángméi))で、その葉の形が楊(ヤナギ)に似ている』さま『に由来するとされる。別名として山桜桃、火実などがあり、古代から和歌などにも詠まれる。ベトナムでも漢名をそのまま用いて「dương mai」ズオンマイと呼ぶ』。『中国大陸や日本を原産とし、山地の暖地を好み、暑さには強い。日本では関東以南(房総半島南部、福井県以西)の本州、四国、九州、沖縄の低地や山地に自生する。本州南部以南では、海岸や低山の乾燥した尾根など、痩せ地で』、『森林を構成する重要樹種である』。『日本国外では、朝鮮半島南部、中国、台湾、フィリピンに分布する。中国では江蘇省、浙江省が有名な産地で、とりわけ』、『寧波市に属する余姚市や慈渓市、あるいは温州市甌海区は古くから知られた産地であり、千年に及ぶとされる古木も多く残る。他に福建省、広東省、広西チワン族自治区、台湾なども産地である』。『自然分布以外にも、人の手によって公園、庭園、都市の街路などにも植えられる。関東地方ではほとんど実がつかないで花だけを楽しむだけになり、これを花楊梅という』。『常緑広葉樹の大高木で、成木は樹高』二十『メートル』『ほどになる。大きなものは、幹径は』一メートル『以上になるものもある。樹冠は、こんもりした円形となる。生長は遅く、幼木は日陰を好むが、成木は日なたを好む。幹の樹皮は灰白色で滑らか、一年枝は灰褐色で多数の楕円形の皮目を持つ。古くなると』、『縦の裂け目が出ることが多い』。『葉は密に互生し、多くは枝先に束生する。葉身は革質、つやのある深緑で、長さ』五~十二『センチメートル』、『幅』一~二センチメートル『ほどの倒披針形か』、『長楕円形、もしくは倒卵形をしており、成木では葉は滑らかな縁(全縁)だが、若木では粗く不規則な鋸歯が出ることが多い。葉の裏側に芳香を出す油点(ゆてん)がある。葉柄は』五~十『ミリメートル』『程度と短い。葉腋には円筒形の花芽がつく』。『花期は』三~四『月。雌雄異株。葉の付け根から穂状の花序を伸ばして、数珠つなぎに小さな桃色の花弁』四『枚の目立たない花をつける』。『果期は』六~七『月。雌株につく果実は直径』一・五~二センチメートル『のほぼ球形で、固まってたくさん実り』、六『月ごろに黄紅色から鮮紅色を経て、暗赤色に熟し、生で食べられる。表面に粒状突起を密生する。この突起はつやがあるので、外見的には小粒の赤いビーズを一面に並べたように見える。ヤマモモの果実は鳥などに食べられ、消化された後に発芽する性質がある』。『枝先には葉芽がつき、円錐形で黄色い腺点に覆われている。雌雄異株であることから、雌花序の冬芽と雌花序の冬芽は別々の株につき、雌花序のほうがやや細い』。『根粒に窒素固定を行う放線菌の』一『種であるフランキア』(細菌ドメイン放線菌門放線菌綱フランキア目Frankialesフランキア科フランキア属 Frankia )『を共生させており、比較的栄養の乏しい土壌でも生育できる』。『その姿や形は』、『やや』、『ホルトノキ』(カタバミ目ホルトノキ科ホルトノキ属ホルトノキ変種ホルトノキ Elaeocarpus zollingeri var. zollingeri 当該ウィキによれば、『元来はオリーブの木を意味する「ポルトガルの木」が転訛したもので、江戸時代の学者平賀源内が本種をオリーブと誤認して、ホルトノキとよばれるようになったものである』。『「ホルト」とはポルトガルのことを意味し、平賀源内による命名とされている』。宝暦一〇(一七六〇)年、『当時』、『高松藩に仕えていた源内が、高松藩主』『松平頼恭に従って江戸に行く途中に紀州を通った時のことを記した』「紀州產物志」(宝暦十二年)に『よると、紀州藩の湯浅の寺に「ホルトカルト申木」(「ホルトカル」と言う木)が生えており、これは「ホルトカルの油」(江戸時代に薬用に使われていたオリーブ油のこと、ホルト油ともいう)の採れる木であるとのこと。つまり、源内がこの木をオリーブと勘違いして自分の本で「ホルトカルト申木」と紹介してしまったのが由来である。なお、源内がオリーブと誤認した深専寺』(ここ:グーグル・マップ・データ)『(和歌山県湯浅町)のホルトノキは和歌山県天然記念物に指定されていたが、』二〇〇六『年に枯れてしまった。源内がオリーブ油を採るために栗林公園(香川県高松市)に植えたホルトノキは現存する』。『実際はポルトガル原産ではなく、日本の在来種である。各地域でさまざまな呼び方がされており、モガセ、モガシ(鹿児島)、タラシ(沖縄)、マガゼ(福岡県)、チンギ(奄美大島)などがある)『に似ており、本州南部以南では紛らわしいことがある。ホルトノキは落葉が赤くなり、常に少数の葉が赤く色づいているのがよい区別点になる』。ヤマモモは『比較的』、『日陰でも耐えるが、雌株に果実を結ばせるには日当たりの良いところに植える。土壌の質は乾燥した壌土に、根は深く張る。植栽適期は』六~七『月上旬か』、九『月中旬』~十『月中旬とされる。剪定は』三~四『月か』六~七『月に行い、伸びすぎた枝を切って樹形が整えられる。施肥を行う時期は』二~三『月と』五『月とされる』。『病虫害に、細菌(バクテリア)による病気である細菌性こぶ病にかかることがあり、枝や幹にごつごつしたこぶが出ているもの見られる』。『野生種以外に大粒で酸味の強い瑞光、大玉で酸味の弱い森口や秀光(秀峰、平井』一『号)などの栽培品種があり、農作物として栽培されている。中国では浙江省の「丁嶴梅」』(ディンアォメェィ:ていおうばい)『や広東省の「烏酥楊梅」』(ウーシュヤンメイ:うそようばい)『という品種が良質で知られている。日本の改良品種は少なくなく、本来の赤い果実だけではなく、白や紅色の実の種類もつくられている。白い実をつけるものは、シロモモ』(ヤマモモ変種シロモモ Morella rubra var. alba :実(み)は淡紅色)『という変種から作出された品種である』。『そのほか、阿波錦(あわにしき)、日の出、甘露(かんろ)、白妙(しろたえ)などの特産品種がある』。『日本では四国の徳島県が最も栽培・生産が盛んで産地の中心といわれる。高知県や和歌山県もヤマモモの産地で知られている。しかし、果実収穫後は鮮度がすぐに落ちるので、市場にはあまり出回らない』。『大気汚染に強く、緑化を目的とする植樹に用いられ、庭木や公園樹、街路樹として植えられる。葉が密生していることから、建物の風よけや目隠しに列植されることもある』。『殖やし方は接木のほか』、『取り木』(とりき:植物の人工的繁殖方法の一種。立木の幼枝や若枝の一部から発根させ、又は、根から発芽させたものを切り取って新たな株を得る方法)『がある。雌雄異株のため』、『結実には雄株が必要であるが、都市部では街路樹として植栽されている雄株が随所にあるため、雌株の結実性は比較的高い』。『果実は甘酸っぱく生で食べられる。また、ジャム、缶詰、砂糖漬け、リキュール等に加工される。中国では白酒に砂糖を加え、ヤマモモの果実を漬け込んだリキュールの「楊梅酒」が広く作られている。ヤマモモの生の果実は、日持ちが悪く輸送がきかないといわれている』。『樹皮は桃皮、渋木、渋皮と呼ばれ』、『染料にした。樹皮に含まれるタンニンには防腐、防水、防虫の効果があり、むかしは漁網を染めるのに用いた』(☜ ☞)。『また、樹皮は楊梅皮(ようばいひ)という生薬になって、タンニンに富むので止瀉作用がある。消炎作用もあるので筋肉痛や腰痛用の膏薬に配合されることもある』。『高知県ではシイラ漬漁業に使うシイラ漬の下に葉が付いたヤマモモの枝を垂らし、隠れようとする小魚を誘き寄せ、小魚を目当てに集まってくるシイラ』(条鰭綱スズキ目スズキ亜目シイラ科シイラ属シイラ Coryphaena hippurus )『を巻き網で捕る漁法に使われている』(☜)。以下、「ヤマモモ属」として、

■コウシュンヤマモモ(恒春山桃) Morella adenophora(臺灣の恒春に因む和名)

が挙げられてある。

「朹子」この「朹」の字は、漢語では、第一義が、「山査子」=「楂」で、双子葉植物綱バラ目バラ科サンザシ属サンザシ Crataegus cuneata を指すが、第二義でヤマモモを指す。

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 「巡禮の歌」(一九〇一年) (私は嵐の重壓に驚かない――……)

 

 

   巡 禮 の 歌

      (一九〇一年)

 

 

私は嵐の重壓に驚かない――

お前は嵐の大きくなるを見てゐた。――

木々は逃げた、その逃亡が

騎馬の竝木を作つた。

お前は知つてゐる。彼等が恐れて逃げる者

其者の許へお前は行くのだ。

窗側に立つとき

お前のこころは彼を歌つてゐる。

 

夏の幾週は靜かであつた。

木々の血は登つた。

今お前は感ずる、それは凡てを爲す者ヘ

落ちやうとしてゐる。

お前は恐怖に摑まれたとき、

その力を知つたと思つた。

今それがまた謎のやうになつて、

お前は再び客である。

 

夏はお前の家のやうだつた。

其處でお前は凡ての物の立つてるのを知つてゐる――

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」(しかし私は全步行で……) / 「時禱篇」~了

 

 

  しかし私は全步行で

  いつもあなたを指してゆく。

  我々が互に解らないのなら、

  私は誰で、あなたは又誰でせう。

 

 

[やぶちゃん注:この詩篇、★底本では、明らかにポイント落ちで、さらに、今までの本文より全体が二字下げで記されてある。単発公開であるから、ポイント落ちを加えれば、ただ読み難くなるだけなので、ポイントは同じとした。問題は、この詩は、何なのか? という疑問である。――岩波文庫の校注には、この異様な仕儀で挿入されている一詩篇に就いて――校注としての立項自体が――存在していない――のである!!……

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」(番人が葡萄畑に、……)

 

 

番人が葡萄畑に、

小舍を持つて見張るやうに、

主よ、私はあなたの手の中の小舍、

ああ、主よ、あなたの夜の夜です。

 

葡萄山、牧場、古い林檎の園、

春をゆるがせにしない耕地、

大理石のやうに堅い地にも生えて

澤山の實を結ぶ無花果の樹。

 

薰はあなたの圓い枝から發するが、

私が眼ざといかどうかあなたは問はれない。

恐もなく、木の液(しる)に溶けて、

あなたの深い心は私の傍を登つてゐる。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」(何うなさります、神樣、私が死にましたら、……)

 

何うなさります、神樣、私が死にましたら、

私はあなたの甕。(若し私が碎けたら、)

私はあなたの酒。(若し私が腐つたら、)

あなたの著物だ、あなたの蝶鉸(てふつがひ)だ、

私と共にあなたの意(こころ)は失はれる。

 

私の後には、近い暖い言葉で

あなたに話しかける家もないでせう。

あなたの疲れた足からは、天鷲絨の

鞋(サンダアル)が落ちる。私はそれだ。

 

あなたの大きな外套はあなたを捨て、

私が、枕でのやうに、暖く

私の頰で受取つたあなたの眼ざしは、

來て長く私を搜すでせう、――

さうして日沒には

知らない石の膝に橫はる。

 

どうなさるのです。神樣、私は氣づかはしい。

 

[やぶちゃん注:「天鷲絨」茅野氏が、どう読んでいるかは、確定出来ない。しかし、「ビロウド」、或いは、「ビロード」であるが、ここまで電子化してきた経験からの認識感覚では、外来語の長音記号は茅野氏は好まないように感じるので、「ビロウド」と読んでおく。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」(若き兄弟の聲。……)

 

 

若き兄弟の聲。

 

私は零れちる。こぼれ散る、

指の間から漏れる砂のやうに。

 

私は俄に澤山の官覺を持つ、

而も皆な異ふやうに渴いてゐる。

私は數百箇所が

腫れて痛むのを感じる。

一番痛むのは心臟の眞中だ。

 

死にたい。私を獨にしておけ。

脈搏が碎け散るほど、

悲しくなれるだらうと

私は思ふのだ。

 

[やぶちゃん注:「官覺」再版「詩集」では、「感官」に書き変えてある。「感官」の方が躓かない。]

2025/01/26

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 枇杷

 

Biwa

 

び は  葉形似琵琶

     故名批杷云

枇杷   今觀葉不如言

 

   【有犬批杷者卽此

    天仙花見夷果下】

 

本綱枇杷易種高一𠀋餘肥枝長葉如驢耳背有黃毛陰

宻婆娑可愛四時不凋盛冬開白花春實其子簇結有毛

[やぶちゃん字注:𮔉は「」の誤刻。訓読文では訂した。

四月熟色如黃杏大者如鷄子小者如龍眼皮肉甚薄核

大如茅栗黃褐色無核者名佳子色白者爲上黃者次之

[やぶちゃん字注:「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「枇杷」([075-41b]以下)をパッチワークしたものであるが、この「佳子」は、誤刻と思われ、「焦子」が正しい。訓読文では、訂した。

實【甘酸平】 止渴下氣止吐逆治上焦熱

 多食發痰熱傷脾同炙肉及熱麪不可食

葉【苦平】 治肺胃之病大都取其下氣之功耳清熱解暑

 毒治嘔噦不止【凡使火炙以布拭去毛不爾射人肺生咳】

古今醫統云尋常以淋過灰湯濕灰壅之根頭花多實大

△按枇杷木黏堅堪爲杖棒其子七八顆作梂生初則黃

 帶青熟則正黃亦有淡白色者不爲佳此異乎本草之

 說一核者核圓大有二三或五六抱合者全無核者爲

 希珍其一核之核能解毒被蟲螫而腫痛者刮核傅之

倭方有枇杷葉湯 治食傷及霍亂以爲妙

 批杷葉肉桂藿香莪朮吳菜萸木香甘草【各等分或有異同】

[やぶちゃん注:「莪朮」の「朮」は、底本では、上部が「上」で、下部が「水」の字であるが、こんな字は存在しない。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部、及び、東洋文庫訳に従い、漢方生薬名である「莪朮」に従った。

 

   *

 

び は  葉の形、琵琶に似る。

     故、「批杷」と名づくと云ふ。

枇杷   今、葉を觀るに、言《げん》、

     如《し》かならず。

   【「犬批杷《いぬびは》」と云ふ者、有り。

    卽ち、此れ、「天仙花」≪なり≫。「夷果」

    の下《もと》を見よ。】

[やぶちゃん注:次の「和漢三才圖會卷第八十八 夷果類」に収録されてある「いぬびわ天仙果」で、『俗、云ふ、「犬枇杷」。』がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの当該部をリンクさせておく。それは、双子葉植物綱バラ目クワ科イチジク連イチジク属イヌビワ変種イヌビワFicus erecta var. erecta で、本項のバラ科ナシ亜科シャリンバイ(車輪梅)属ビワ Rhaphiolepis bibas とは、近縁関係は、ない。

 

「本綱」に曰はく、『枇杷≪は≫、種《うゑ》易し。高さ、一𠀋餘。肥《こえ》たる、枝、長き葉、驢(うさぎうま)[やぶちゃん注:驢馬(ロバ)。]の耳(みゝ)のごとく、背に、黃毛、有り、陰宻、婆娑《ばさ》として[やぶちゃん注:舞う人の衣服の袖が美しく翻るさまの原義を、梢が風に揺れるさまを喩えた語。]、愛すべし。四時、凋まず。盛冬に、白花を開き、春、實のり、其の子《さね》、簇-結(こゞな)りて、毛、有り。四月、熟す。色、黃杏《わうあん》のごとし。大なる者、鷄子《けいらん》のごとく、小なる者は、龍眼《りゆうがん》[やぶちゃん注:ムクロジ目ムクロジ科リュウガン属リュウガン Dimocarpus longan 。]のごとし。皮肉、甚だ、薄く、核《さね》大にして、茅栗(しばぐり)のごとし。黃褐色。核、無き者を、「焦子《しやうし》」と名づく。色、白き者、上と爲す。黃なる者、之れに次ぐ。』≪と≫。

『實【甘酸、平。】』『渴を止《とめ》、氣を下《くだ》し、吐逆を止め、上焦の熱を治す。』≪と≫。《但し、》『多≪く≫食へば、痰熱を發し、脾を傷《そこなへ》り。同《おなじ》く、炙《あぶり》たる肉、及《および》、熱-麪(うどん)と、≪合せ≫食ふ、べからず。』≪と≫。

『葉【苦、平。】』『肺胃の病《やまひ》を治≪す≫。大-都(すべて)、其《それ》、下氣《げき》の功を取るのみ[やぶちゃん注:この「のみ」は限定条件ではなく、効能として、絶対的効能として体内の気を下す効能があることを言っているので注意が必要である。]。熱を清《きよく》し、暑毒を解す。嘔噦《わうゑつ/からゑづき[やぶちゃん注:現代仮名遣「空噦(からえず)き」。吐き気が起こるものの、実際の吐瀉物が出てこない病態。]》、止まざるを治す【凡そ、使《つかふ》に、火に炙り、布を以つて、毛を拭ひ去る。爾《し》かざれば、人の肺を射て、咳を生ず。】。』≪と≫。

「古今醫統」[やぶちゃん注:複数回、既出既注。]に云はく、『尋常、「淋--灰(あくの《はひ》)」・「湯--灰(たれかす《ばひ》)」[やぶちゃん注:不詳。]を以《もつて》、之れを根《ね》の頭(ほとり)に壅《うめ》≪れば≫、花、多《おほく》、實《みのり》、大なり。』≪と≫。

△按ずるに、枇杷の木、黏(ねば)く、堅く、杖(つえ[やぶちゃん注:ママ。])・棒(ぼう)と爲《す》るに堪《たへ》たり。其の子《み》、七、八顆、梂-生(すゞなり)を作《な》す。初《はじめ》は、則《すなはち》、黃に、青(あをみ)を帶《おび》、熟すれば、則、正黃なり。亦た、淡白色の者、有《あり》、佳と爲さず。此《これ》、「本草≪綱目≫」の說に異《ことなる》か。一つ核《さね》の者は、核、圓《まろ》く、大≪きく≫、二、三、或いは、五、六、抱合(だき《あひ》)たる者、有り。全く、核、無き者、希珍と爲《なす》。其《その》、一つ核の核、能《よく》、毒を解す。蟲≪に≫螫(さゝ)れて、腫痛《はれいたむ》者、≪その一つ核の≫核を刮《けずり》、之れを傅《つ》く≪べし≫。

倭方に「枇杷葉湯《びはやうたう》」、有り。食傷、及び、霍亂を治す。以《もつて》、妙と爲す。「批杷葉」・「肉桂」・「藿香《かつかう》」・「莪朮《がじゆつ》」・「吳菜萸《ごしゆゆ》」・「木香《もつかう》」・「甘草《かんざう》」【各《おのおの》、等分。或いは、異同、有り。】[やぶちゃん注:改行しているが、これは、ネット上の漢方データによって、中医学にはない本邦独自の「枇杷葉湯」という配合例であることを確認したので、繋げた。

 

[やぶちゃん注:「枇杷」は日中ともに、

双子葉植物綱バラ目バラ科ナシ亜科シャリンバイ属ビワ Rhaphiolepis bibas

である。「維基百科」の同種は、Eriobotrya japonica とするが、ウィキの「ビワ」で判る通り、シノニムが多量にあり、Eriobotrya japonica もその一つである。ウィキの「ビワ」を引く(注記号はカットした。下線・太字は私が附した)。『原産地は中国南西部』。『日本では四国、九州に帰化植物として自生する。環境省及び農林水産省が作成した生態系被害防止外来種リストでは、産業管理外来種に選定されている』。『分子系統学的研究を経て』、二〇二〇『年上旬に Eriobotrya 』(ビワ属)『とシャリンバイ属( Rhaphiolepis )の区別が否定され、ビワも後者とされたが、この研究に懐疑的な見方も存在する』。『和名ビワの語源は、実の形が楽器の琵琶に似ているからとされる。中国語でも「枇杷」』『と表記するほか、「蘆橘」』『とも呼ばれ、英語の「loquat」』(音写「ロウクワト」)『は後者の広東語発音に由来する』。『ビワの学名には』一八二一『年発表の Eriobotrya japonica (Thunb.) Lindl. が用いられてきた』が、二〇二〇『年、劉彬彬(中国科学院植物研究所および米国国立自然史博物館所属)等は染色体ゲノムや nrDNA』(ribosomal RNA:リボソームRNA)『の分析を経てビワ属( Eriobotrya )がシャリンバイ属( Rhaphiolepis )を含む側系統群であるという結果を得、これに形態的・地理的要素を加味し』、『ビワ属とシャリンバイ属とを統合するとした。ビワ属が』一八二一『年発表』であるの『に対し』、『シャリンバイ属は』一八二〇『年発表で』、『後者が優先されることとなり、それまでビワ属とされていた種を全てシャリンバイ属に移すとした。命名は』、『この研究チームのメンバーである劉彬彬と文軍』『(米国国立自然史博物館所属)が担当し、ビワに関しては Rhaphiolepis japonica が既に』一八四一『年』、『シーボルトとヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニにより別種のために用いられており』、『使用不可であるということで、ビワの英語名 loquat にちなんだ種小名を用いて Rhaphiolepis loquata B.B.Liu & J.Wen とした。しかし』、『この学名には問題があった。劉らは論文内でビワのシノニムとして』一七九〇『年記載の Crataegus bibas Lour. も挙げていたが、その種小名 bibas は被りが無かったため、本来はこれを用いるべきであったのである。劉らの論文発表から』三『ヶ月後に組み替え名 Rhaphiolepis bibas を発表し』、『上記の問題を解決したのは、共にミラノ市立自然史博物館所属でイタリアにとっての外来種の情報整理に携わっているガブリエーレ・ガラッソ』『と』、『エンリコ・バンフィ』『であった』。『一方でその後の研究では、Liu et al.』(二〇二〇年)『とは異なる分子系統解析が得られたとして』、『ビワ属とシャリンバイ属を統合すべきでないとしているものもある』。『中国南西部(重慶および湖北省)の原産で、日本には古代に持ち込まれたと考えられており、主に本州の関東地方・東海地方の沿岸、石川県以西の日本海側、四国、九州北部に自然分布する。また』、『インドなどにも広がり、ビワを用いた様々な療法が生まれた。中国系移民がハワイに持ち込んだ他、日本からイスラエルやブラジルに広まった。トルコやレバノン、ギリシャ、イタリア南部、スペイン、フランス南部、アフリカ北部などでも栽培される。日本では江戸時代にビワの栽培が盛んになり、寺の僧侶が檀家の人々に中国から伝わったビワの葉療法を行ったため、寺にはビワの木が多いといわれている。千葉県以南の地域では、庭木として植えられているものもよく見られる』。『常緑広葉樹の小高木で、高さは』五~十『メートル』『ほどになる。枝葉は春・夏・秋と年に』三『度伸長する。若枝は、淡褐色の細かい毛に覆われている』。『葉は互生し、葉柄は短い。葉の形は、長さ』十五~二十『センチメートル』『前後の広倒披針形・長楕円形・狭倒卵形で先端は尖り、基部は次第に狭くなって葉柄に続いていく。葉身は厚くて堅く、表面が凸凹しており葉脈ごとに波打つ。葉縁には波状の鋸歯がある。葉の表面は初めは毛があるが、生育するにつれて毛はなくなり』、『光沢が出てくる。葉の裏面は、淡褐色の綿毛に覆われたままである』。『花芽は主に春枝の先端に着く。花芽は純正花芽。花期は晩秋から冬(』十一~二『2月)で、甘い芳香がある地味な白い』五『弁の花を群がりつける。花径は』一センチメートル『ほどで、クリーム色を帯びた白い花弁は、茶色の短い軟毛が密に生えた萼片に包まれていて、開花のときは花弁を外側に出す。葯には毛が密に生えている。長期の花期に多量の花密を蓄え、甘い芳香を放って昆虫または小鳥が来るのを待ち、花粉の媒介が行なわれる』。『自家受粉が可能で、果実ははじめ緑色で、初夏(』五~六『月)に黄橙色に熟す。果実は花托が肥厚した偽果で、直径』三~四センチメートル、『長さは』六センチメートル『前後の球形から卵形、広楕円形になり、全体が薄い産毛に覆われている。果実』一『個の重さは』五十『グラム前後で、果皮は薄く、果肉は厚みがある。果実の中には大きな赤褐色の種子が数個あり、可食できる甘い果肉部分は全体の約』三『割ほどである』。『長崎県、千葉県、鹿児島県などの温暖な地域での栽培が多いものの』、『若干の耐寒性を持ち、寒冷地でも冬期の最低気温』摂氏マイナス十度『程度であれば』、『生育・結実可能である』。『やや日陰にも耐え、気温が比較的暖かいところで生育する。土壌は砂壌土がよく、根は深く張る。果実を目的に栽培されるが、庭木などの植栽にもされ、葉が濃く茂るため目隠しとしたり、あるいは使い方によっては異国風の庭を演出することもできる。実生苗の結実には』七~八『年の歳月を要する。自家結実性のため、他品種を混植する必要はない。殖やし方は実生、接木であるが挿し木も可能。植栽適期は』三『月下旬』、六~七『月上旬』、九月『中旬』~十『月中旬とされ、新植は可能だが』、『移植することは不可である。剪定は』三『月下旬』~四月、また、九月『に行う。露地栽培の場合、摘房・摘蕾を』十『月、開花は』十一月~二月、『摘果を』三『月下旬〜』四『月上旬、袋かけを摘果と同時に行う。果実が大きくなると』、『モモチョッキリ』(昆虫綱有翅昆虫亜綱甲虫目多食(カブトムシ)亜目オトシブミ(落とし文)科Rhynchites属モモチョッキリゾウムシ(桃短截象虫)Rhynchites heros )『の食害を受ける』。『花の数が多く』、『受粉率が高いことから、花蕾が出たら摘蕾や摘房を行わないと、果実がたくさんなりすぎて』、『実が小さくなってしまう。食用目的で果実を育てるためには、さらなる摘果が必要となる』。江戸時代末期に日本に導入され、明治時代から、茂木(もぎ)や田中などの果樹としての品種がいくつかあるが、栽培品種は少ない方で、この』二『品種で』、『日本の生産量の』九十五『%を占める。現在ではその他に大房、瑞穂、クイーン長崎(福原)、白茂木、麗月、陽玉、涼風、長生早生、室戸早生、森尾早生、長崎早生、楠、なつたよりなど多くの品種がある。中国ビワとして冠玉や大五星などがある』。二〇〇六『年、種なしビワである希房』(きぼう)『が品種登録された』。『古代に渡来して野生化した物と考えられる自生木もあるが、種が大きく果肉が薄いため』、『果樹としての価値はほとんど無い』。『日本では全国でビワの実が』二千八百九十『トン』(二〇二一年産・『農林水産省統計)収穫され、長崎県、千葉県、和歌山県、香川県、愛媛県、鹿児島県など温暖な気候の土地で栽培されている。特に長崎県は、全国の』三『分の』一『近くを産する日本一の産地となっている。近年は食の多様化や種子を取り出すなど』、『食べにくさに加え、農家の高齢化、寒波に弱く収穫が安定しないなどの問題もあり、収穫量は』『減少傾向にある。近年ではビニールハウスによる促成栽培も行われている』。『寒さに弱いため』、『産地は温暖な地域に限られ、九州、四国、淡路島、和歌山、房総半島で栽培が盛ん。また、寒波の影響を受けやすいため、生産量が乱高下しやすい』。以下、県別の産地記事であるが、カットする。次に「利用」の項。『果実は甘く、生食や缶詰にされる。茶色い種子は、生薬の杏仁の代用として利用される。果樹であるが、葉は薬用として重宝されてきており、ビワ茶にしたり』、『浴湯料にする。種子や葉は毒性の高いアミグダリン』(amygdalin:C20H27NO11:青酸配糖体の一種。青酸中毒を引き起こす危険性がある)『を含む』。『ビワ果実の旬は』五~六『月とされ、果皮にハリがあるものがよく、全体に産毛とブルーム(白い粉)が残っているものは鮮度が高い。果肉は橙黄色で果汁が多く、糖度』十二~十三『度程度で』、『さっぱりした甘さがあり、生食されるほかに缶詰・ジャム・シロップ煮などに加工されるが、中心にできる種子が大きく廃棄率が』三十『%以上である。生食する場合の可食率は』六十五~七十『%で』、『バナナと』、『ほぼ同等である。食べるところが少ないという苦情に応えるかたちで、「たねなしビワ」も作出されている。ゼリーなどの菓子、ジャム等にも加工される。果実を保存するときは、常温の涼しい場所におき、日持ちしないため』、二~三『日で食べきるようにする』。『果実酒は、氷砂糖とホワイトリカーだけでも作れるが、ビワは酸味が非常に少ないので、果実のほかに皮むきレモンの輪切りを加えて漬け込むとよい』。『また、果肉を用いずにビワの種子のみを使ったビワ種酒は、杏仁に共通する芳香を持ち、通の間で好まれる』。『果肉には体内でビタミンAに変換されるカロチノイド色素のβ-クリプトキサンチンや、ポリフェノールの』一『種であるクロロゲン酸も含まれている』。

以下、「薬用」の項。『葉は枇杷葉(びわよう)、種子は枇杷核(びわかく)とよばれる生薬である。「大薬王樹」とよばれ、昔から咳止めなどの民間療薬や』、『お茶として親しまれてもいる。なお、以下の利用方法・治療方法は特記しない場合、過去の歴史的な治療法であり、科学的に効果が証明されたものであることを示すものではない』。『葉には収斂(しゅうれん)作用があるタンニンのほか、鎮咳(ちんがい)作用があるアミグダリンなどを多く含み、乾燥させてビワ茶とされる他、直接患部に貼るなど生薬として用いられる。葉の上にお灸を乗せる(温圧療法)とアミグダリンの鎮痛作用により神経痛に効果があるとされる。 枇杷葉は』、九『月上旬ごろに採取して葉の裏側の毛をブラシで取り除き、日干しにしたものである。この枇杷葉』五~二十『グラムを』六百『ccの水で煮出した煮汁を』、一『日』三『回に分けて茶のように飲むと、咳、胃炎、悪心、嘔吐、下痢止めに効果があるとされる。また、あせもや』、『湿疹には、煎じ汁の冷めたもので患部を洗うか、浴湯料として用いられる。江戸時代には、夏の暑気あたりを防止する枇杷葉湯に人気があったといわれており、葉に含まれるアミグダリンが分解して生じたベンズアルデヒド』((benzaldehydeC7H6O)『によって、清涼飲料的効果が生み出されるといわれている』。『果実は咳、嘔吐、喉の渇きなどに対して効能を発揮する。ビワ酒は、食欲増進、疲労回復に効果があるといわれている』。『種子は』、五『個ほど砕いたものを』四百『ccの水で煎じて服用すると、咳、吐血、鼻血に効果があるとされる』。『ただし、アミグダリンは胃腸で分解されると』、『猛毒である青酸を発生する。そのため、種子などアミグダリンが多く含まれる部位を経口摂取する際は、取り扱いを間違えると』、『健康を害し、最悪の場合は命を落とす危険性がある』(☜)。『ビワの種子に含まれるアミグダリン(青酸配糖体)はサプリメントなどに配合され、俗に「がんに効く」などと言われているが、人を対象にした信頼性の高い研究で』、癌『の治療や改善、延命に対して効果はなく、むしろ青酸中毒を引き起こす危険性があると報告されている。過去にアミグダリンをビタミンの一種とする主張があったが、生体の代謝に必須な栄養素ではなく欠乏することもないため、現在では否定されている。アメリカ食品医薬品局(FDA)は、癌治療に何の効果も示さない非常に毒性の高い製品であり、本来の医療を拒否したり』、『開始が遅れることにより』、『命が失われていると指摘し、アメリカでの販売を禁じている』。『古くから葉や種子は生薬として使用されてきたが、これはアミグダリンを薬効成分としてごく少量使い、その毒性を上手に薬として利用したものである。薬効を期待して利用する場合は』、『必ず』、『医療従事者に相談し、自己判断での摂取は避けるようにする』。『食薬区分においては、種子、樹皮、葉は「医薬品的効能効果を』標榜『しない限り」、『医薬品と判断しない成分本質 (原材料) 」(非医薬品)にあたり、医薬品的な効能効果を表示することができない。ただし『明らか食品(医薬品に該当しないことが明らかに認識される食品)』であれば薬機法(旧薬事法)には違反しない。しかし「癌が治る」「血糖値が下がる」「血液を浄化する」といった誇大な医薬品的効果効能表示(店頭や説明会における口頭での説明も含む)を行うと、景品表示法や健康増進法の規制の対象となる』。

以下、「安全性」の項。『ビワ、アンズ、ウメ、モモ、スモモ、アーモンドなどのバラ科サクラ属植物の種子 (種皮の内部にある胚と胚乳からなる仁)には、種を守るために青酸配糖体であるアミグダリンが多く含まれ、未熟な果実や葉、樹皮にも微量』、『含まれる』。『アミグダリン自体は無毒であるが、経口摂取する事で、同じく植物中に含まれる酵素エムルシンや、ヒトの腸内細菌が持つ酵素β-グルコシダーゼによって体内で分解され、シアン化水素(青酸)を発生させる。シアン化水素は』、『ごく少量であれば』、『安全に分解されるが、ある程度摂取すれば嘔吐、顔面紅潮、下痢、頭痛等の中毒症状を生じ、多量に摂取すれば意識混濁、昏睡などを生じ、死に至ることもある』。『熟した果肉や加工品を通常量摂取する場合には、安全に食べることができる。アミグダリンは果実の成熟に従い、植物中に含まれる酵素エムルシンにより』、『シアン化水素(青酸)、ベンズアルデヒド(アーモンドや杏仁、ビワ酒に共通する芳香成分)、グルコースに分解されて消失する。この時に発生する青酸も揮散や分解で消失していく。また、加工によっても分解が促進される』。『しかし、種子のアミグダリンは果肉に比べて高濃度であるため、成熟や加工によるアミグダリンの分解も果肉より時間がかかる。種子がアミグダリンをもつのは自分自身を守るためにあると考えられ、外的ショックを受けてキズが入った種子には』、千~二千ppmという高濃度のシアン化水素を含むものもある。生の種子を粉末にした食品の中には、小さじ』一『杯程度の摂取量で安全に食べられるシアン化水素の量を超えるものある』。二〇一七『年に高濃度のシアン化合物(アミグダリンやプルナシン)が含まれたビワの種子の粉末が発見されたことにより、厚生労働省は天然にシアン化合物を含有する食品と加工品について』、十『ppmを超えたものは食品衛生法第』六『条の違反とすることを通知した。欧州食品安全機関(EFSA)は、アミグダリンの急性参照用量(ARfD)(毎日摂取しても健康に悪影響を示さない量)を』二十『μg/kg体重と設定している』。『アミグダリンの最小致死量は』五十『mg/kgであり』、三グラム『のサプリメント摂取による死亡報告がある』。二〇一八年、『国民生活センターは、ビワの葉と種子を原材料とした』四『銘柄の健康茶のシアン化合物濃度を測定し、種子を原材料とした』三『銘柄からは』一『パックにつきシアン化合物が』百六十~六百六十『ppm検出された。商品に記載された方法で浸出したものは』一・七~七・三『ppmと健康に悪影響を示す量ではなかったが、飲用量や淹れ方によっては』十『ppmを超える可能性がある。結果を受け国民生活センターは、事業者へは品質管理の徹底を、行政機関には指導の徹底を要望した。 また消費者には、ビワの種子などを原材料にした健康食品等は、利用する必要性をよく考え、利用する場合は、製造者等により原材料や製品、摂取する状態でのシアン化合物の濃度が調べられているかを確認し』、一『度に多量に摂取しないようアドバイスをしている』。『厚生労働省は、ビワやアンズなどの種子を利用したレシピの掲載についても注意喚起を行っている。家庭で生のビワやアンズの仁から杏仁豆腐を作ると、調理実験により数分煮るだけではシアン化物が全て除去されないことが報告されている。場合によっては』、一~二『食分の杏仁豆腐でシアン化物の急性参照用量(ARfD)を超えることが考えられる』(この注意喚起は、ネット上の記事で私も確認したことがある)。

以下、「木材」の項。『乾燥させると』、『非常に硬い上に粘りが強く、昔から杖の材料として利用されていた。現在でも上記の薬用効果にあやかり、乾燥させて磨いた物を縁起物の「長寿杖」と称して利用されている。激しく打ち合わせても折れることがないことから、剣道・剣術用の高級な木刀として利用されている』。

以下、「文化」の項より、一部のみ引く。『ビワは種子から育てて結実するまでに長い年月を要する果樹で知られ、「桃栗三年柿八年、枇杷(は早くて・の大馬鹿・馬鹿めが)十三年」などと言われている。 「ビワを庭に植えてはいけない」という格言については、ビワの木は広く根を張るので家が倒れるなど、いくつか言い伝えがある』とあった。

「枇杷葉湯《びはやうたう》」、有り。食傷、及び、霍亂を治す。以《もつて》、妙と爲す」「株式会社 ウチダ和漢薬」の「生薬の玉手箱 」の「枇杷葉(ビワヨウ)」を見られたいが、そこに、『枇杷葉湯は中国明代の処方を参考に江戸時代に考案された日本独自の処方で』あるとはっきり記されてあり、まさに、本項の本文が、そこに引かれてある。而して、この「枇杷葉湯」は、『「暑気あたり」にも使用されていたことがわか』るとある。

「肉桂」双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科ニッケイ属ニッケイ Cinnamomum sieboldii 。詳しくは先行する「肉桂」を参照。

「藿香《かつかう》」「かはみどり」と読めば、薄荷の匂いのするシソ目シソ科カワミドリ属カワミドリAgastache rugosa がある。当該ウィキによれば、『葉や茎は漢方に用いられる』。『乾燥した葉に芳香があり、生薬名に藿香(かっこう)を当てているが、これは誤りで、日本では排香草ともいう』。『かぜ薬などの漢方薬として、茎、葉、根を乾燥させたものを用いる』。『民間では』、六~七月に、『茎の上部だけを切り取り、水洗いしたあとに吊るして陰干ししたものを、解熱薬として、また健胃薬として用いられる』とある。

「莪朮《がじゆつ》」単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ウコン属ガジュツ Curcuma zedoaria当該ウィキによれば、『根茎が生薬(日本薬局方に収録)として用いられ、芳香健胃作用がある』。『ウコン』(ここに「鬱金」と出る、ウコン属ウコン Curcuma longa 。熱帯アジア原産であるが、十五世紀初めから十六世紀後半の間に、沖縄に持ち込まれ、九州・沖縄地方や薬草園で薬用(根)及び観葉植物として栽培された)『よりも薬効は強いとされる。生薬としては莪朮というが』、『中国では塊根を鬱金(ウコン、キョウオウと同じ)、根茎を蓬莪朮という』とある。

「吳菜萸《ごしゆゆ》」既出既注だが、再掲すると、「ごしゅゆ」はムクロジ目ミカン科ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum 当該ウィキによれば、『中国』の『中』部から『南部に自生する落葉小高木。日本では帰化植物。雌雄異株であるが』、『日本には雄株がなく』、『果実はなっても種ができない。地下茎で繁殖する』。八『月頃に黄白色の花を咲かせる』。『本種またはホンゴシュユ(学名 Tetradium ruticarpum var. officinale、シノニム Euodia officinalis )の果実は、呉茱萸(ゴシュユ)という生薬である。独特の匂いと強い苦みを有し、強心作用、子宮収縮作用などがある。呉茱萸湯、温経湯などの漢方方剤に使われる』とあった。漢方薬剤としては平安時代に伝来しているが、本邦への本格的渡来はこれまた、享保年間(一七一六年から一七三六年まで)とされる

「木香《もつかう》」キク目キク科トウヒレン属モッコウ Saussurea costus 又は Saussurea lappa の孰れかの根から採れる生薬。薫香原料として知られ、漢方では芳香性健胃剤として使用されるほか、婦人病・精神神経系処方の漢方薬に多く配合されている。

「甘草《かんざう》」マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza当該ウィキによれば、『漢方薬に広範囲にわたって用いられる生薬であり、日本国内で発売されている漢方薬の約』七『割に用いられている』とある。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」(私が親しくし兄弟のやうな……)

 

 

私が親しくし兄弟のやうな

之等すべての物に私はあなたを見出す。

種子としては小さいものの中に日に照らされ、

大きなものの中では大きく身を與へてゐられる。

 

仕へながら物の中を通つてゆくこそ

力の不思議な遊戲なのだ。

根の中に育ち、莖の中へ消え、

梢では再生のやうになる。

 

2025/01/25

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」(私の生活は、私が急いでゐる……)

 

 

私の生活は、私が急いでゐる

この嶮しい時間ではない。

私は私の背景の前の一本の樹、

私の澤山の口のただ一つ、

而も一番早く閉ざされるあの口だ。

 

私は、死の音が高まらうとするので――

拙いながら互に馴れ合ふ

二音の間の休息(やすみ)だ。

 

しかし暗いこの間𨻶(インタアヷル)の中に、

慄へながら二つの音は和解する。

      そして歌は美しい。

 

[やぶちゃん注:「拙い」「つたない」。

「間𨻶(インタアヷル)」ドイツ語でも“Intervall”。英語のスペルは“interval”。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」(我々は慄ふ手でお前を建て、……)

 

 

我々は慄ふ手でお前を建て、

アトムの上にアトムを積む、

しかし誰がお前を完成しやう。

伽藍よ。

 

羅馬はどうだ、

それは崩れ落ちる。

世界はどうだ。

それは、お前の塔に圓屋根が出來、

長い長いモザイックの中から、

お前の輝く額が上る前に、

碎かれるだらう。

しかし 時をり夢の中で

私はお前の部屋を

見渡すことが出來る。

深く始から

屋根の黃金の尖頭(さき)まで、

それから又見る、私の感官が

最後の飾を

作りいとなむのを。

 

[やぶちゃん注:「完成しやう」ママ。再版「詩集」で『完成しよう』と訂正している。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」(私は總べての未だ云はれなかつた事を信ずる。……)

 

 

私は總べての未だ云はれなかつた事を信ずる。

私は自分の最も敬虔な感情を放さう。

誰もまだ敢て欲しなかつたものが、

いつか不意に私に成就するだらう。

 

これが僣越なら、神樣、お赦し下さい。

私はただあなたに云はうと思ふのです、

私の最上の力は衝動のやうに

怒もなく、躊躇もなくあれと。

そのやうに子供はあなたを愛してゐます。

 

このやうに溢れ流れて

廣い腕となつた河目で大海に注ぎ、

このやうな生長する囘歸によつて、

私はあなたを認め、あなたを告げませう。

以前一人もしなかつたやうに。

 

これが自負ならば、自負させて下さい。

こんなに嚴肅にまた獨り

あなたの雲の額の前に立つ

私の祈禱のために。

 

 

[やぶちゃん注:岩波文庫の校注を見ると、再版「詩集」では、全体に亙って、有意な数の書き変えが行われていることが判る。その指示に従って、復元してみる。

 

   *

 

 

私は總べての未だ言はれなかつた事を信ずる。

私は自分の最も敬虔な感情を放さう。

誰もまだ敢て欲しなかつたものが、

いつか不意に私に成就するだらう。

 

これが僣越なら、神樣、お赦し下さい。

私はただあなたに言はうと思ふのです、

私の最上の力は衝動のやうにあるべきです。

怒もなく、躊躇もなく。

そのやうに子供はあなたを愛してゐます。

 

この溢れ流れるさまで

廣い腕となつた河目で大海に注ぐさまで、

この生長する囘歸で、

私はあなたを信仰し、あなたを告げませう。

以前一人もしなかつたやうに。

 

これが自負ならば、自負させて下さい。

こんなに嚴肅にまた獨り

あなたの雲の額の前に立つ

私の祈禱のために。

 

 

   *]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」(私が生れて來た闇黑よ、……)

 

 

私が生れて來た闇黑よ、

私は熖よりも汝を愛する。

熖は輝いて、

ある範圍に

世界を限つてゐる、

その外へ出ると知つてゐるものはない。

 

しかし闇黑はすべてを持つてゐる、

形をも、熖をも、獸をも、私をも。

それからまた、

人間を、諸の力を――

 

そして私の隣に大きな力が

動いてゐるかもしれないのだ。

 

私は夜々を信ずる。

 

[やぶちゃん注:「諸」岩波文庫の校注によれば、再版「詩集」では、『諸』と訂正されているとある。個人的には「もろもろの」と訓じたい。]

2025/01/24

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」(若したつた一度全く靜になつたら、……)

 

 

若したつた一度全く靜になつたら、

偶然が沈默し、

隣の笑も、自分の感官の作る騷音も、

覺めてゐる私を妨げなかつたら――

 

千倍の思想で

あなたを端まで考へ、

(微笑一つの間だけ)あなたを我物にされるのだが。

總べての生命にあなたを

感謝のやうに與へるため。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」(隣人の神樣、私が長い夜にをりをり……)

 

 

隣人の神樣、私が長い夜にをりをり

ひどく戶を擲(たた)いてあなたを妨げるのは、

あなたが稀に呼吸するのを聞くからです。

また一人で廣間にゐられるのを知るからです。

それからあなたが何か要(い)つても、

探る手に飮物を渡す人も居りません。

私は始終耳を立ててゐます。一寸合圖をして下さい。

私は近くに居りまする。

 

ただ薄い壁が偶然に私達の間にあります。

あなたか、私かの口の呼聲一つで――

全く音も響もなく

これが崩落ちる

かも知れません。

 

壁はあなたの雨像で建てられてゐます。

 

そしてその畫像は名のやうにあなたの前に立つてゐます。

若しいつか光が私の內に燃上つて

それで私の深い心があなたを知るならば、

輝となつてその畫の緣の上に注がれませう。

そして直ぐ萎える私の感官は、

故鄕もなく、あなたとも距てられてゐる。

 

[やぶちゃん注:「萎える」ママ。再版「詩集」では、「萎へる」に修正されてある。但し、国立国会図書館デジタルコレクションで「萎える」で検索を掛けると、七千三百九十五件がヒットする。これに就いては、小学館「日本国語大辞典」の、『な・える【萎・痿】』『自動詞ア行下一(ヤ下一)』『文語形』『な・ゆ』『自動詞 ヤ行下二段活用』とし、『①力が抜けてなよなよとなる。気力がなくなってぐったりとする。また、手足などが麻痺』『して、感覚がなくなる。』としつつ、『補助注記』の(2)で、『①の意は、手足が自由にならない意の、ハ行下二段動詞「なふ」との意味の近似から』、『後世は混同された面がある』とあった。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」(物の上にひかれてゐる、……)

 

 

物の上にひかれてゐる、

大きくなる輪の中に私は生活する。

恐らく最後の輪を完成はしなからう。

でも私は試みようと思つてゐる。

 

私は神をめぐり、太古の塔をめぐつて

千年も廻つてゐるが、

未だ知らない、私は鷹なのか、嵐なのか、

偉大な歌なのかを。

 

私等は自力ではあなたを畫けない。

朝の登つて來た薄明みゆくものよ。

私等はふるい繪具皿から、

聖者があなたをそれで默らせた、

同じ線、同じ光を持つて來る。

 

私等はあなたの前に繪を建てる、壁のやうに。

それ故千の塀がもうあなたを取卷いてゐる。

私たちの心があなたを開いて見る度に、

私等の敬虔な手があなたを蔽ふのだから。

 

[やぶちゃん注:この詩篇、岩波文庫の校注では、『この九行目以下の二連は実際には原詩では別の詩だと思われるが』、再版『「詩集」でも訂正されず一つの詩として扱われている。単なるミスか何らかの意図があったかは不明』とある。こう解説しながら、その原詩を指示していないのは、甚だ消化不良の感が強い。編集者は私と同様、ドイツ語には、実は、冥い人物であると推定される(この岩波文庫の校注では、原詩を示す注記は、一切、示されていないからである)。非力ながら、一応、調べてみた限りでは、「Internet archive」のここにある、‘ Das Stunden-Buch : enthaltend die drei Bücher : Vom moenchischen Leben , Von der Pilgerschaft, Von der Armuth und vom Tode ’(機械翻訳を参考にすると、『時禱書:修道生活:「巡禮」・「貧困」・「死に就いて」の三つの書を含む』)の中の二篇であろうか? と、私には思われた。違っていたら、御指摘を願いたい。

「畫けない」「ゑがけない」。

「朝の登つて來た薄明みゆくものよ」岩波文庫の校注に、この行は、再版「詩集」では、『薄明(うすあか)みゆくものよ、そこから朝は登つえ來た』に書き変えてあるとあった。]

2025/01/23

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「時禱篇」「修道院生活」

 

 

   時 禱 篇

 

 

   修道院生活

 

時間は傾いて、明るい

金屬の響で私に觸れ、

私の感官は慄へる。私は感ずる、私は出來る――

そして私は彫塑的な日をつかむ。

 

私の見なかつた中は、何も完成してゐなかつた。

總べての生成は止つてゐた。

私の眼は熟してゐる。そして花嫁のやうに

誰にでもその思ふものが來るのだ。

 

何でも私に小さ過ぎはしない。私は小さくても愛する。

そして金地へ大きくそれを畫いて

高く捧げる。誰にかは知らないが

それは魂を解きほぐす……

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第二卷」 「嵐の夜から」 / 「形象篇」~了

[やぶちゃん注:このパートに就いては、底本自体に重大な問題があるので、事前に述べておく。

 岩波文庫の校注には、まず、冒頭の「嵐の夜から」であるが、底本では、このように、「嵐の夜から」という、一篇の独立詩篇の標題のようにしか見えない。ところが、岩波文庫の校注によれば、『『詩抄』では「嵐の夜から」がこの詩一篇のタィトルであるかのように活字が組まれているが、これは以下の詩全体のタイトルであり』、再版の『『詩集』では扉として立てられている』とあるのである。

 さらに加えて、『『詩集』では、この詩と次の詩「こんな夜々にお前は街の上で」の収録の順番が逆になっている』ともあるのである。

 さらに、底本のこの、次の無題の「こんな夜々にお前は街の上で、……」に至っては、『『詩抄』ではこの詩の後に改頁で小さい活字の「吹きつのる嵐に動かされる夜よ、」で始まる詩が掲げられている』(底本のここの右丁)『が、『詩集』ではこの小さい活字の詩が「扉の言葉」と題して〈嵐の夜から〉の巻頭に移され』、四『行目「ゐたやうに」を「ゐたやうに。」と変更のうえ、『詩抄』の』五『行目で「……」と省略されている部分がすべて訳出してある』とあり、『それは以下の通り』であるとして、その省略された詩の後部が、漢字のみ新字体で、歴史的仮名遣と読み仮名が正しく活字になっているのである。

 謂わば、茅野は本底本でのこのパートの訳を、不完全なものとして御破算にし、新たに、全面的に修正して、新訳としたということになるのである。

 但し、私の本プロジェクトは、あくまで、『茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版』であるから、まずは、底本通りの組み・ポイントで、それを示して(当時の読者が読んだように、である)、電子化した後に、茅野が再版「詩集」で示した決定版を、附録として注で、このパート全体を校注に従って、復元して、示すこととするものである。

 

 嵐の夜から

 

こんな夜々には、私の前に居て

私の前に全く小さくて死んだ姉が大きくなる。

その時以來もう斯ういふ夜は澤山あつた。

姉はもう美しいに違ひない。直ぐに誰かが

求婚をするだらう。

 

[やぶちゃん注:何度も引いたが、当該ウィキによれば、『父ヨーゼフ・リルケは軍人であり、性格の面でも軍人向きの人物だったが、病気のために退職した後プラハの鉄道会社に勤めていた。母ゾフィー(フィアと呼ばれていた)は枢密顧問官の娘でありユダヤ系の出自であった。二人は結婚後まもなく女児をもうけたが早くに亡くなり、その後一人息子のルネが生まれた。彼が生まれる頃には両親の仲はすでに冷え切っており、ルネが9歳のとき母は父のもとを去っている。母ゾフィーは娘を切望していたことからリルケを5歳まで女の子として育てるなどし、その奇抜で虚栄的な振る舞いや夢想的で神経質な人柄によってリルケの生と人格に複雑な陰影を落とすことになる。母に対するリルケの屈折した心情は』、『のち』、『ルー・アンドレアス・ザロメやエレン・ケイに当てた手紙などに記されている』とある。]

 

 

 

こんな夜々にお前は街の上で、

細長い蒼白い顏をした、

未來の人たちに逢ふだらう。

彼等はお前を知らないで、

默つてお前を行過ぎさせる。

しかし若し彼等が話しだしたら。

お前はそこに立つてるままで、

遙な過去の人になり

疾うに腐つたものにならう。

でも彼等は默つてゐる、死人のやうに、

來る人々であるけれど。

未來は末だ始らない。

彼等はその顏を時の中へ入れてゐる、

それで水底にゐるやうに見られない。

しかし少しの間辛抱すると、

彼等は見る、波の下のやうに、

魚の急ぐのも、綱の沈むのも。

 

 

 

  吹きつのる嵐に動かされる夜よ、

  どうして急に廣くなる――

  恰もこれまではたたまれて

  時の小さい皺に入つてでもゐたやうに

  ………………………………

 

[やぶちゃん注:では、先述べた通り、再版「詩集」版を校注に従って、復元してみる(再版「詩集」版は、国立国会図書館デジタルコレクションには、ない)。冒頭の「罪の言葉」の「星の群が防ぐ處に夜は終らず、」以降の漢字表記は、私が恣意的に旧字化したものである。

   《復元開始》

 

 

 罪の言葉

 

吹きつのる嵐に動かされる夜よ、

どうして急に廣くなる――

恰もこれまではたたまれて

時の小さい皺に入つてでもゐたやうに。

星の群が防ぐ處に夜は終らず、

森の眞中にも始まらない。

私の顏のそばにも、

またお前の姿でも。

ランプは口ごもる、そして知らない。

我々は光を欺(あざむ)くのか。

夜はただ一つの眞實だ

數千年以來…………

 

 

 

こんな夜々にお前は街の上で、

細長い蒼白い顏をした、

未來の人たちに逢ふだらう。

彼等はお前を知らないで、

默つてお前を行過ぎさせる。

しかし若し彼等が話しだしたら。

お前はそこに立つてるままで、

遙な過去の人になり

疾うに腐つたものにならう。

でも彼等は默つてゐる、死人のやうに、

來る人々であるけれど。

未來は末だ始らない。

彼等はその顏を時の中へ入れてゐる、

それで水底にゐるやうに見られない。

しかし少しの間辛抱すると、

彼等は見る、波の下のやうに、

魚の急ぐのも、綱の沈むのも。

 

 

 

こんな夜々には、私の前に居て

私の前に全く小さくて死んだ姉が大きくなる。

その時以來もう斯ういふ夜は澤山あつた。

姉はもう美しいに違ひない。直ぐに誰かが

求婚をするだらう。

 

 

   《復元終了》

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 金柑

 

Kinkan

 

きんかん  金橘 盧橘

      夏橘 山橘

      給客橙

金柑

      【盧者酒噐名形

       肖故爲盧橘然

       文選注以枇杷

       爲盧橘誤也】

 

 

本綱其樹似橘不甚高大五月開白花結實秋冬黃熟大

者徑一寸小者如指頭形長而皮堅肌理細瑩生深綠色

熟乃黃如金氣味【酸甘温】芬香可愛入膾醋尤加香美藏綠

豆中可經時不變葢橘性熱豆性凉也

山金柑【一名金豆山金橘】 高尺許實如櫻桃內止一核【卽金柑之異種者也】

 

   *

 

きんかん  金橘《きんきつ》 盧橘《ろきつ》

      夏橘《かきつ》  山橘《さんきつ》

      給客橙《きうかくたう》

金柑

      【「盧」とは、酒噐の名なり。形、

       肖(に)たる故、「盧橘」と爲《な》

       す。然《しかれども》、「文選」注に、

       枇杷《びは》を以つて、「盧橘」と

       爲《す》るは、誤りなり。】

 

 

「本綱」に曰はく、『其の樹、橘《きつ》に似て、甚だ≪しくは≫高大ならず。五月、白花を開≪き≫、實を結《むすぶ》。秋・冬、黃熟す。大≪なる≫者、徑《わた》り一寸。小なる者、指の頭《かしら》のごとく、形、長《ながく》して、皮、堅《かたく》、肌理《きめ》、細《こまや》≪にして≫、瑩《つややか》なり。生《わかき》は、深綠色、熟すれば、乃《すなはち》、黃にして、金のごとし。氣味【酸甘、温。】。芬香《ふんかう》、愛しつべし。膾-醋(なます)に入《いれ》、尤《もつとも》、加(ますます)、香美なり。「綠豆(ぶんとう)」の中に藏《ざう》して、時を經て、變≪ぜ≫ざるべし。葢《けだ》し、橘《きつ》の性、熱。豆《とう》の性、凉なり。』≪と≫。

『山金柑《さんきんかん》」【一名、「金豆《きんとう》」、「山金橘《さんきんきつ》」。】高さ、尺許《ばかり》。實は「櫻桃(ゆすら)」のごとく、內《うち》≪に≫、一核《ひとさね》を止《とど》む【卽ち、金柑の異種の者なり。】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:ここでは、非常に珍しく、東洋文庫訳が、「本草綱目」の引用の最初の「金柑」(以上の引用では、「其の樹」相当)に割注して、『(ミカン科ナガミキンカン)』と比定同定してある。これは、私の家の庭にも、今、たわわに実をつけている、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属キンカン Citrus japonica (種小名はこれだが、同種は中国の長江中流域原産。日本へは中国から伝わった)の品種である、

ナガキンカン(長金柑)Citrus japonica 'Margarita'(別名「ナガミキンカン(長実金柑)」)

を指す。「Instagram」のmasato2196氏のこちらに解説があり、『ナガキンカン(長金柑)別名ナガミキンカン(長実金柑)は、中国原産の栽培植物・薬用植物で、日本では暖地で栽培される、ミカン科の常緑低木(樹高約』三メートル『)です。生食用によく売られている、実が丸くて甘味の強いネイハキンカン(寧波金柑)に比べて、実は倒卵状長楕円形をしていて酸味が強く、枝に棘がほとんど無い点で区別出来ます』。『果実は中冬〜晩冬に熟し、皮ごと生食したり、皮付きのまま刻んで、砂糖煮にしたものを解熱・咳止や風邪予防の生薬として用いたりします』。『黄金色の柑橘の意味から金橘・金柑の中国名が生まれ、日本ではそれを音読みしてキンカンとなったのが名前の由来です』。『英名"Kumquat"又は"Cumquat"は、「金橘」の広東語読みに由来します』とあった。

「維基百科」では、「長實金柑」が同種であるが、学名は、Citrus margarita となっている。そこでは、またの名を「金棗」とし、一七九〇年(寛政二年相当)に、ポルトガルの宣教師で植物学者であたジョアン・デ・ロウレイロ(João de Loureiro 一七一七年~一七九一年)の著書‘ Flora cochinchinensis ’(「コーチシナの植物」)で初めて言及された、とある。

ウィキの「キンカン」を引く(注記号はカットした)。『キンカン(金柑、学名: Citrus japonica )は、ミカン科ミカン属の常緑低木、あるいはキンカン属』『の常緑低木の総称である。別名キンキツ(金橘)ともいう。果実は小粒で甘酸っぱく、ほろ苦い後味が残るので知られる』。『中国の長江中流域原産。日本へは中国から伝わり、暖地で栽培されている常緑低木。果実は直径約』二~三『センチメートル』『で、甘みと酸味がある。生で皮ごと食べられる品種もある』。『名の由来は、黄金色のミカン(蜜柑)の意味から金橘、金柑の中国名が生まれて、日本ではそれを音読みしてキンカンとなった』。『俳句では秋の季語になっている。 英語などの「Kumquat」もしくは「Cumquat」は「金橘」の広東語読み「gam1gwat1 (カムクヮト)」に由来する』。スウェーデンの植物学者・博物学者・医師で、出島商館付医師として鎖国期の江戸日本に一年間滞在し、日本における植物学・蘭学、及び、西洋における東洋学の発展に寄与した、出島の三学者の一人であった『カール・ツンベルク』(Carl Peter Thunberg 一七四三年~一八二八年)『により』、『ミカン属(Citrus)に分類され』、一七八四年(天明三・四年相当)『刊行の』「日本植物誌」(‘ Flora Japonica ’ )においてCitrus japonicaの学名を与えられていたが』、一九一五『年にウォルター・テニスン・スウィングルにより新属として分割され、ヨーロッパに紹介したロバート・フォーチュンへの献名として新たな学名( Fortunella )を与えられた。 しかし近年の系統発生解析は、キンカンがミカン属の系統に含まれることを示唆している』。『日本の標準和名キンカン』『とよばれる種は、別名でマルミキンカン、マルキンカンともよばれている。同属には、ナガキンカン(ナガミキンカン)、

■ネイハキンカン』(寧波金柑:学名:Citrus japonica 'Crassifolia' )=『ニンポウキンカン』(同然と漢字表記同じ。中文の発音に似せたもの)=『メイワキンカン』(明和金柑)

■『マメキンカン』(学名:Citrus japonica 'Hindsii' )=『チョウジュキンカン』(長寿金柑)=『フクシュウキンカン』(福州金柑:学名:Fortunella obovata

『近縁のなかまに』

■『トウキンカン』(唐金柑:学名:Citrus × microcarpa:「マンダリンオレンジ Citrus reticulata と、キンカン Citrus japonica の交雑種であるとされる)=『(別名:カラマンシー)』(Kalamansi:フィリピン名)

『などがある。一般に栽培されている種がナガキンカンとよばれるもので、果実が丸いものをマルキンカンという。マルキンカンは樹高が約』二『メートルで枝に棘があるものとないものがあり、ナガキンカンは樹高約』三『メートルで枝に棘がない』(ふと、思った。私の家のは何だろう? 樹高は三メートル超えだが、棘、無く、実は丸いんだが?)。『日本における』二〇一〇『年の収穫量は』三千七百三十二『トンであり、その内訳は宮崎県』二千六百四『トン、鹿児島県』八百七十五『 トン、その他』二百五十五『トンとなっている』。『果実は食用に、また薬用に用いられ』、十~十一月頃、『よく熟した果実が収穫される』。『果実は果皮ごとあるいは果皮だけ生食する。皮の中果皮、つまり柑橘類の皮の白い綿状の部分に相当する部分に苦味と共に甘味がある。果肉は酸味が強い。果皮のついたまま甘く煮て、砂糖漬け、蜂蜜漬け、甘露煮、マーマレードにする。甘く煮てから、砂糖に漬け、ドライフルーツにすることもある』。『キンカンの砂糖漬けは、果皮に刃物で切れ目を入れて、軽く茹でてから竹串などで種子を除いて、果実量』六十~七十『%ほどの砂糖と水をかぶるほどの鍋に入れてから落し蓋をして、中火からとろ火で汁がなくなるまで煮詰めたあと、陰干しにする』。

以下、「薬用」の項。『マルキンカン、ナガキンカンともに薬用とされる』。『果実は民間薬として咳や、のどの痛みに効果があるとされ、金橘(きんきつ)と称することがある』。『果実にはいずれの種にも、有機酸、糖分約』八『%、灰分約』〇・五『%を含み、果皮中には少量のヘスペリジン(ビタミンP)、精油などを含んでいる。有機酸には制菌作用、ヘスペリジンは毛細血管の血液透過性を増大させたり、抗菌や利尿などにも役立つとされている。また、精油は延髄中枢を刺激して、血液循環を良くして、発汗作用の働きがある』。『民間療法では、風邪や咳止めにキンカンの砂糖漬けを』二~三『個』、『カップに入れて熱湯を注いで飲む方法や、生の果汁をおろしショウガ、ハチミツと一緒にカップに入れて熱湯を注いで混ぜて飲むなどの方法が知られている。疲労回復や保健に』、十月頃、『に変色し始めた果実を焼酎』一『リットルあたり』三百『グラムの割合でビンに入れて漬け込み、冷暗所に』三ヶ『月保存したものを毎日盃』一『杯ほど飲むとよいといわれている。ただし、手足がいつも火照るような人への連用は避けるべきとされる』。

『観賞用として庭木として植えられることも多い。剪定に強いので生垣や鉢植え、盆栽にもできる。広東省や香港では、旧正月を迎える際に柑橘類の鉢植えを飾ることが多く、キンカンも好まれる』。

以下、「種」の項。『キンカン属には』四『から』六『種が属する。カンキツの分類学者ウォルター・テニスン・スウィングルが』四『種、田中長三郎が』六『種と設定しており、前者はニンポウ・フクシュウキンカンを雑種として種から外している』(一部、上記で示したものと、殆んど、ダブるが、資料として掲げる)

△『マルミキンカン(中国語版)(丸実金柑)・マルキンカン(丸金柑)・ヒメタチバナ(姫橘) Fortunella japonica

△『ナガミキンカン(ドイツ語版)(長実金柑) Fortunella margarita

△『フクシュウキンカン(中国語版)(福州金柑)・オオミキンカン(大実金柑)・チョウジュキンカン(長寿金柑) Fortunella obovata

△『ネイハキンカン・ニンポウキンカン(寧波金柑)・メイワキンカン(明和金柑) Fortunella crassifolia

△『ホンコンキンカン(ドイツ語版)(香港金柑)・マメキンカン(豆金柑)・キンズ(金豆) Fortunella hindsii 』『観賞用』

△『ナガハキンカン(長葉金柑) Fortunella

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 金柑

 

 

きんかん  金橘 盧橘

      夏橘 山橘

      給客橙

金柑

      【盧者酒噐名形

       肖故爲盧橘然

       文選注以枇杷

       爲盧橘誤也】

 

 

本綱其樹似橘不甚高大五月開白花結實秋冬黃熟大

者徑一寸小者如指頭形長而皮堅肌理細瑩生深綠色

熟乃黃如金氣味【酸甘温】芬香可愛入膾醋尤加香美藏綠

豆中可經時不變葢橘性熱豆性凉也

山金柑【一名金豆山金橘】 高尺許實如櫻桃內止一核【卽金柑之異種者也】

 

   *

 

きんかん  金橘《きんきつ》 盧橘《ろきつ》

      夏橘《かきつ》  山橘《さんきつ》

      給客橙《きうかくたう》

金柑

      【「盧」とは、酒噐の名なり。形、

       肖(に)たる故、「盧橘」と爲《な》

       す。然《しかれども》、「文選」注に、

       枇杷《びは》を以つて、「盧橘」と

       爲《す》るは、誤りなり。】

 

 

「本綱」に曰はく、『其の樹、橘《きつ》に似て、甚だ≪しくは≫高大ならず。五月、白花を開≪き≫、實を結《むすぶ》。秋・冬、黃熟す。大≪なる≫者、徑《わた》り一寸。小なる者、指の頭《かしら》のごとく、形、長《ながく》して、皮、堅《かたく》、肌理《きめ》、細《こまや》≪にして≫、瑩《つややか》なり。生《わかき》は、深綠色、熟すれば、乃《すなはち》、黃にして、金のごとし。氣味【酸甘、温。】。芬香《ふんかう》、愛しつべし。膾-醋(なます)に入《いれ》、尤《もつとも》、加(ますます)、香美なり。「綠豆(ぶんとう)」の中に藏《ざう》して、時を經て、變≪ぜ≫ざるべし。葢《けだ》し、橘《きつ》の性、熱。豆《とう》の性、凉なり。』≪と≫。

『山金柑《さんきんかん》」【一名、「金豆《きんとう》」、「山金橘《さんきんきつ》」。】高さ、尺許《ばかり》。實は「櫻桃(ゆすら)」のごとく、內《うち》≪に≫、一核《ひとさね》を止《とど》む【卽ち、金柑の異種の者なり。】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:ここでは、非常に珍しく、東洋文庫訳が、「本草綱目」の引用の最初の「金柑」(以上の引用では、「其の樹」相当)に割注して、『(ミカン科ナガミキンカン)』と比定同定してある。これは、私の家の庭にも、今、たわわに実をつけている、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属キンカン Citrus japonica (種小名はこれだが、同種は中国の長江中流域原産。日本へは中国から伝わった)の品種である、

ナガキンカン(長金柑)Citrus japonica 'Margarita'(別名「ナガミキンカン(長実金柑)」)

を指す。「Instagram」のmasato2196氏のこちらに解説があり、『ナガキンカン(長金柑)別名ナガミキンカン(長実金柑)は、中国原産の栽培植物・薬用植物で、日本では暖地で栽培される、ミカン科の常緑低木(樹高約』三メートル『)です。生食用によく売られている、実が丸くて甘味の強いネイハキンカン(寧波金柑)に比べて、実は倒卵状長楕円形をしていて酸味が強く、枝に棘がほとんど無い点で区別出来ます』。『果実は中冬〜晩冬に熟し、皮ごと生食したり、皮付きのまま刻んで、砂糖煮にしたものを解熱・咳止や風邪予防の生薬として用いたりします』。『黄金色の柑橘の意味から金橘・金柑の中国名が生まれ、日本ではそれを音読みしてキンカンとなったのが名前の由来です』。『英名"Kumquat"又は"Cumquat"は、「金橘」の広東語読みに由来します』とあった。

「維基百科」では、「長實金柑」が同種であるが、学名は、Citrus margarita となっている。そこでは、またの名を「金棗」とし、一七九〇年(寛政二年相当)に、ポルトガルの宣教師で植物学者であたジョアン・デ・ロウレイロ(João de Loureiro 一七一七年~一七九一年)の著書‘ Flora cochinchinensis ’(「コーチシナの植物」)で初めて言及された、とある。

ウィキの「キンカン」を引く(注記号はカットした)。『キンカン(金柑、学名: Citrus japonica )は、ミカン科ミカン属の常緑低木、あるいはキンカン属』『の常緑低木の総称である。別名キンキツ(金橘)ともいう。果実は小粒で甘酸っぱく、ほろ苦い後味が残るので知られる』。『中国の長江中流域原産。日本へは中国から伝わり、暖地で栽培されている常緑低木。果実は直径約』二~三『センチメートル』『で、甘みと酸味がある。生で皮ごと食べられる品種もある』。『名の由来は、黄金色のミカン(蜜柑)の意味から金橘、金柑の中国名が生まれて、日本ではそれを音読みしてキンカンとなった』。『俳句では秋の季語になっている。 英語などの「Kumquat」もしくは「Cumquat」は「金橘」の広東語読み「gam1gwat1 (カムクヮト)」に由来する』。スウェーデンの植物学者・博物学者・医師で、出島商館付医師として鎖国期の江戸日本に一年間滞在し、日本における植物学・蘭学、及び、西洋における東洋学の発展に寄与した、出島の三学者の一人であった『カール・ツンベルク』(Carl Peter Thunberg 一七四三年~一八二八年)『により』、『ミカン属(Citrus)に分類され』、一七八四年(天明三・四年相当)『刊行の』「日本植物誌」(‘ Flora Japonica ’ )においてCitrus japonicaの学名を与えられていたが』、一九一五『年にウォルター・テニスン・スウィングルにより新属として分割され、ヨーロッパに紹介したロバート・フォーチュンへの献名として新たな学名( Fortunella )を与えられた。 しかし近年の系統発生解析は、キンカンがミカン属の系統に含まれることを示唆している』。『日本の標準和名キンカン』『とよばれる種は、別名でマルミキンカン、マルキンカンともよばれている。同属には、ナガキンカン(ナガミキンカン)、

■ネイハキンカン』(寧波金柑:学名:Citrus japonica 'Crassifolia' )=『ニンポウキンカン』(同然と漢字表記同じ。中文の発音に似せたもの)=『メイワキンカン』(明和金柑)

■『マメキンカン』(学名:Citrus japonica 'Hindsii' )=『チョウジュキンカン』(長寿金柑)=『フクシュウキンカン』(福州金柑:学名:Fortunella obovata

『近縁のなかまに』

■『トウキンカン』(唐金柑:学名:Citrus × microcarpa:「マンダリンオレンジ Citrus reticulata と、キンカン Citrus japonica の交雑種であるとされる)=『(別名:カラマンシー)』(Kalamansi:フィリピン名)

『などがある。一般に栽培されている種がナガキンカンとよばれるもので、果実が丸いものをマルキンカンという。マルキンカンは樹高が約』二『メートルで枝に棘があるものとないものがあり、ナガキンカンは樹高約』三『メートルで枝に棘がない』(ふと、思った。私の家のは何だろう? 樹高は三メートル超えだが、棘、無く、実は丸いんだが?)。『日本における』二〇一〇『年の収穫量は』三千七百三十二『トンであり、その内訳は宮崎県』二千六百四『トン、鹿児島県』八百七十五『 トン、その他』二百五十五『トンとなっている』。『果実は食用に、また薬用に用いられ』、十~十一月頃、『よく熟した果実が収穫される』。『果実は果皮ごとあるいは果皮だけ生食する。皮の中果皮、つまり柑橘類の皮の白い綿状の部分に相当する部分に苦味と共に甘味がある。果肉は酸味が強い。果皮のついたまま甘く煮て、砂糖漬け、蜂蜜漬け、甘露煮、マーマレードにする。甘く煮てから、砂糖に漬け、ドライフルーツにすることもある』。『キンカンの砂糖漬けは、果皮に刃物で切れ目を入れて、軽く茹でてから竹串などで種子を除いて、果実量』六十~七十『%ほどの砂糖と水をかぶるほどの鍋に入れてから落し蓋をして、中火からとろ火で汁がなくなるまで煮詰めたあと、陰干しにする』。

以下、「薬用」の項。『マルキンカン、ナガキンカンともに薬用とされる』。『果実は民間薬として咳や、のどの痛みに効果があるとされ、金橘(きんきつ)と称することがある』。『果実にはいずれの種にも、有機酸、糖分約』八『%、灰分約』〇・五『%を含み、果皮中には少量のヘスペリジン(ビタミンP)、精油などを含んでいる。有機酸には制菌作用、ヘスペリジンは毛細血管の血液透過性を増大させたり、抗菌や利尿などにも役立つとされている。また、精油は延髄中枢を刺激して、血液循環を良くして、発汗作用の働きがある』。『民間療法では、風邪や咳止めにキンカンの砂糖漬けを』二~三『個』、『カップに入れて熱湯を注いで飲む方法や、生の果汁をおろしショウガ、ハチミツと一緒にカップに入れて熱湯を注いで混ぜて飲むなどの方法が知られている。疲労回復や保健に』、十月頃、『に変色し始めた果実を焼酎』一『リットルあたり』三百『グラムの割合でビンに入れて漬け込み、冷暗所に』三ヶ『月保存したものを毎日盃』一『杯ほど飲むとよいといわれている。ただし、手足がいつも火照るような人への連用は避けるべきとされる』。

『観賞用として庭木として植えられることも多い。剪定に強いので生垣や鉢植え、盆栽にもできる。広東省や香港では、旧正月を迎える際に柑橘類の鉢植えを飾ることが多く、キンカンも好まれる』。

以下、「種」の項。『キンカン属には』四『から』六『種が属する。カンキツの分類学者ウォルター・テニスン・スウィングルが』四『種、田中長三郎が』六『種と設定しており、前者はニンポウ・フクシュウキンカンを雑種として種から外している』(上記で私が追加して示したものと、殆んど、ダブるが、資料として掲げる)

△『マルミキンカン(中国語版)(丸実金柑)・マルキンカン(丸金柑)・ヒメタチバナ(姫橘) Fortunella japonica

△『ナガミキンカン(ドイツ語版)(長実金柑) Fortunella margarita

△『フクシュウキンカン(中国語版)(福州金柑)・オオミキンカン(大実金柑)・チョウジュキンカン(長寿金柑) Fortunella obovata

△『ネイハキンカン・ニンポウキンカン(寧波金柑)・メイワキンカン(明和金柑) Fortunella crassifolia

△『ホンコンキンカン(ドイツ語版)(香港金柑)・マメキンカン(豆金柑)・キンズ(金豆) Fortunella hindsii 』『観賞用』

■『ナガハキンカン(長葉金柑) Fortunella polyandra

以下、「主な品種」があるが(七種掲載)、凡そ、本項に添えるべき昔からあったものとは思われないので、カットする。

「マルミキンカン」の独立項。

『樹高は』『二メートルほどになる。枝は分岐が多く、若い枝には短い刺があることがある』。『葉は互生する。長さは』五~七センチメートル、『長楕円形で厚みがあり』『、周囲には浅い鋸状歯がある。葉が上側に反っていることが多い。葉柄には』、『小さな翼があるがないものもある』。『夏から秋にかけて』三~四『回』、二~三センチメートル『ほどの白い五弁の花をつける。雌しべは』一『本、雄しべは』二十『本。花の後には直径』二センチメートル『ほどの緑色の実をつける(初夏につけた花は実がならないことが多い)。晩秋から冬にかけて実は黄色く熟する』。

「ニンポウキンカン」の独立項。

『日本への渡来は江戸時代の文政』九(一八二六)年『のこと。現在の中国浙江省寧波(ニンポウ、当時・清)の商船が遠州灘沖で遭難し』、『清水港に寄港した。その際に船員が礼として清水の人に砂糖漬けのキンカンの実を贈った。その中に入っていた種を植えたところ、やがて実がなり、その実からとった種が日本全国へ広まった』。最後に「主なブランド」が三種、列挙されるが、同前の理由でカットした。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「金柑」([075-40b]以下)の「釋名」と「集解」をパッチワークしたものである。しかし、東洋文庫訳の竹島淳夫氏は、やはり、拘って、不審な箇所をディグしておられる(ちょっと、竹島先生、見直しました)。以下、「本草綱目」の当該箇所(「釈名」の後半部。一部に手を入れた)と、竹島氏の後注を引く(注の直下のそれは、項目下の割注の中の、『然《しかれども》、「文選」注に、枇杷《びは》を以つて、「盧橘」と爲《す》るは、誤りなり。』の竹島氏の当該箇所の訳文の一部)。

   *

註文選者以枇杷爲盧橘誤矣案司馬相如上林賦云盧橘夏熟枇杷橪柿以二物並列則非一物明矣

   *

注一 『文選』の注に、枇杷を盧橘としている これは『本草綱目』の枇杷の項の時珍の言をそのまま写したものであるが、『文選』のだれの注をさすかよく分からない。『長政全書』巻三十樹芸果部下に「枇杷。上林賦曰。盧橘」とし〔李時珍曰。枇杷非盧橘也〕とある。李善等六臣注の『文選』上林賦では、本文「於ㇾ是乎。盧橘夏熟。黄甘・橙・桃・枇杷・橪柿……」の盧橘の注には「盧ハ黒也」とあり、枇杷の注には「張揖曰。批杷似斛樹。長葉子如ㇾ杏」とあるだけである。

   *

この「盧橘」は枇杷の古名(「維基百科」の「枇杷」を見られたい)。竹島氏は「橪柿」とするが、これは恐らく、「橪・柿」の誤りであると思われる。「橪」は、クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ変種サネブトナツメ(核太棗)Ziziphus jujuba var. spinosa の中国語の古名と思われる。

 ……やっと、長かった「柑橘類」が終わった……因みに、次は、竹島氏が物申した「枇杷」である……]

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第二卷」 「侏儒の歌」

 

 侏儒の歌

 

私の魂は恐(おそら)くは眞直で善良だ、

しかし私の心臟と、隱れてゐる血と、

私を痛ませる總べての物が、

魂を眞直に擔へない。

私の魂は、園もなく、寢床もなく、

私の鋭い骸骨に

恐しい羽博きをして懸つてゐる。

 

私の兩手ももう何にも成らない。

ご覽、何といふ慘めさだ。

雨後の小さい蛙のやうに、

强靭に、濕つて、重く飛んでゐる。

その他私に著(つ)いてるものは、

ぼろぼろで、古くて、もの悲しい。

汚物の上に之等總べてのものを置くのを

どうして神樣が躊躇しよう。

 

不平さうな口をした私の顏を

神樣が怒つてはゐないかといふのか。

眞底では、明るく輝かしくならうと

用意はしてゐたが、

大きな犬ほど近く

顏のそばに來るものは何もなかつた。

そして犬はそんなものを持つてゐない。

 

[やぶちゃん注:「擔へない」「になへない」。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第二卷」 「孤兒の歌」

 

 孤兒の歌

 

私は何人でもなく、何人でもないだらう。

今私は存在には尙ほ小さ過ぎる、

しかし後になつても矢張り。

 

お母さんだち、お父さんだち、

あはれむで下さい。

 

いたはり育てる甲斐はなくも、

でも私は刈取られる。

誰も私を用ひ得ない。今は早過ぎるし、

明日は遲過ぎる。

 

私はただこの一つの著物を持つきりだが

それは薄くなりまた色があせる。

しかしそれは長い間保(も)つてゐる

恐らくは神樣の前でもなほ。

 

私はただこの僅かな髮をもつてゐる。

(いつも同じだつた。)

嘗て一人の最愛のものだつた。

 

いま彼はもう何にも愛しない。

 

[やぶちゃん注:「何人」「なんぴと」。

「今私は存在には尙ほ少さ過ぎる、」は、実は、原本では、「今私は存在には尙ほ少さ過ぎる、」となっている。岩波文庫の校注に、後の再版『「詩集」で「小さ」に訂正された』とあるので腑に落ちたので、特異的に修正した。]

2025/01/22

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第二卷」 「自殺者の歌」

 

 自殺者の歌

 

ではもう一瞬間だ。

人々がいつも私の紐を

切るとは。

この間も私はよく用意をして、

もう一片の永遠は

私の臟腑の中に入つてゐたのだつた。

 

人々は私に匙を差しつける、

あの生命の匙を。

いいや、私は、私はもういらない。

私に私を捨てさせてくれ。

 

私は知つてゐる。人生は全くてよい、

世界は充ちてる壺だ。

しかしそれは私の血には入らないで

ただ頭に騰るんだ。

 

それは他人を養ふが、私をば病氣にする。

それを蔑(さげす)むのを、解つてくれ、

少くとも私は今

一千年間衞生が必要だ。

 

[やぶちゃん注:何となく惹かれて、ドイツ語の「Wikisource」のここで、原詩が電子化されてあるのを見た。

「全くて」「まつたくて」。

「騰る」「のぼる」。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「嚴肅な時」 / 「第一卷」~了

 

 嚴肅な時

 

いま世界の中の何處かで泣いてゐる、

理由なく世界の中で泣いてゐる人は、

私を泣くのだ。

 

いま夜に何處かで笑つてゐる、

理由なく夜に笑つてゐる人は、

私を笑ふのだ。

 

今世界の中の何處かに步いてゐる、

理由なく世界の中に步いてゐる人は

私へ步いてゐるのだ。

 

今世界の中の何處かで死ぬ、

理由なく世界の中で死ぬ人は、

私を見つめてゐる。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「豫感」

 

 豫 感

 

私は旗のやうに遠くから圍まれてゐる。

來る風を豫感して、それを生きなくてはならない、

下の物は末だ動かないのに。

扉はなほ軟く閉まつて、暖爐も靜かに。

窗も未だ慄はず、埃も未だ重い。

 

その時私はもう嵐を知つて海のやうに興奮し、

私を擴げ、私の中に落ち入り、

私を投げすてる、そして全くただ一人、

大きな嵐の中に。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「進步」

 

 進 步

 

それで再(ま)た私の深い生命は一層高く音たてる。

より廣い岸の中を行くやうに。

物は愈私に近しくなり。

すべての景象はいよいよ明かになつて、

私は名の無いものに愈親しいのを感ずる。

鳥のやうに私の感覺を飛ばして、

私は檞の樹から風立つた天に達し。

また池の千ぎれた日の中へ、

魚に乘つてるやうに沈む私の感情。

 

[やぶちゃん注:「檞」個人的には「かし」と読んでおきたい。ドイツ語の「Wikisource」のここで、原詩‘ Fortschritt ’が電子化されてあるが、その当該行は、“ ich in die windigen Himmel aus der Eiche, ”で、「檞」相当の単語は“Eiche”(音写「アイヒェ」)で、これは、「カシ・オーク・カシワ」を指す。この語は、広義には、双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus を広範に指すが、ヨーロッパでは、まず、コナラ属オウシュウナラ(欧州楢) Quercus robur を指すことが多いので、ここもそれと採ってよい。樹高は、二十五~三十五メートルで、中には四十メートルに達する個体もある。普通に五百年の長寿とされる。因みに、本邦に自生する「檞」類は、クヌギ(櫟・椚・橡)Quercus actissima・ナラガシワ(楢柏)Quercus aliena・ミズナラ(水楢)Quercus crispula・カシワ(柏・槲)Quercus dentata・コナラ(小楢) Quercus serrata・アベマキ(阿部槇)Quercus variabilis であるが、このうち、ミズナラが最大樹高三十五メートルで、本邦の同種の最大樹齢は北海道網走郡津別町にある「千年大樹」と呼ばれる「双葉のミズナラ」が匹敵し得るか(ここ・グーグル・マップ・データ)。伝承上で千二百年の古木である。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「秋」

 

 

 

葉が落ちる、遠くからのやうに落ちる、

大空の遠い園が枯れるやうに、

物を否定する身振で落ちる。

 

さうして重い地は夜々に

あらゆる星の中から寂寥へ落ちる。

 

我々はすべて落ちる。この手も落ちる。

他を御覽。總べてに落下がある。

 

しかし一人ゐる、この落下を

限なくやさしく兩手で支へる者が。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「追憶」

 

 追 憶

 

そして私は待つてゐた、待ちまうけてゐた。

私の生命を無限に增す一事を。

力あるもの普通(なみ)ならぬものを、

石の眼ざめるのを、

私に向いてる深いものを。

 

書架にある金や褐色の

書籍は薄明になつて來る。

私は通り過ぎた國々や、

多くの光景や、再び失つた

女たちの衣裳のことを考へる。

 

その時私は突然知る、これだつたと。

私は立上る。私の前には

過ぎ去つた一年の

怖と、姿と、祈禱とが訴へてゐる。

 

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 佛手柑

 

Busyukan

 

[やぶちゃん注:挿絵の中央の水辺の岸には、二枚の「嫩葉」(わかば)のキャプション附きの絵が添えてある。]

 

ぶ しゆ かん 枸櫞 香櫞

       【不之由加牟】

佛手柑

 

 

本綱佛手柑樹似朱欒而葉尖長枝閒有刺植之近水乃

生其實狀如人手有指有長一尺四五寸者皮如橙柚而

厚皺而光澤其色如𤓰生縁熟黃其肉甚厚白如蘿蔔而

[やぶちゃん字注:「縁」は誤刻であろう。「本草綱目」に随い、訓読文では「綠」に訂正した。

鬆虛其核細其味不甚佳而清香襲人置衣笥中則數日

不歇若安芋片十蒂而以濕紙圍䕶經久不廢或擣蒜罨

[やぶちゃん字注:「本草綱目」を見るに、「十」は「於」の誤りで、また、「廢」も「癟」の誤りである。訓読文では、孰れも訂した。

其蒂上則香更𭀚溢又浸汁浣葛紵勝似酸漿多產閩廣

間雕鏤花鳥作𮔉煎果食置之几案可供玩賞寄至北方

人甚貴重

皮瓤【辛酸温】下氣除心頭痰水

[やぶちゃん注:以上、割注した通り、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「枸櫞」([075-40a]以下)の「釋名」と「集解」をパッチワークしたものなのだが、「本草綱目」の当該部と対比すると、あってはならな致命的な誤りが複数あるのである。これは、今までの中でも、最も劣悪なものと指弾してよい。

△按凡柑橘柚之類皆怕寒佛手柑特甚而其樹如値寒

 則枯或雖不枯不實冬月則用稃蔽根晝則可受陽也

 其樹似柚有刺葉全不似柚柑之輩而稍大淡青色筋

 理顯然畧似多羅葉而不尖四五月生新葉時嫩葉褐

 色以爲異三才圖會之佛手柑圖葉形尖本草時珍亦

 謂尖長者未審

 

   *

 

ぶ しゆ かん 枸櫞(きろえん) 香櫞《かうえん》

 

       【「不之由加牟《ぶしゆかん》」。】

佛手柑

 

[やぶちゃん注:「ぶしゆかん」はママである。江戸期の知られた本草書類でも、「ぶしゆかん」と記されてある。「枸櫞」の読みはママ。但し、「キロエン」の「ロ」は、原本では字が潰れており、推定である。「キヨエン」・「キユエン」・「キコエン」かも知れない。しかし、現行の拼音では“jǔ yuán”であり、これは、「ヂィー・ユァン」であるから、「キユエン」が近いかも知れない。因みに、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版も、活字版であるが、「ロ」に左角から右へ斜めに傷のようなものが入っており、まるで原本を真似た如くである。因みに、東洋文庫訳では『くえん』と訳者が振っている。「枸」は音「ク」或いは「コウ」である。なお、この原文、送り仮名の擦れた箇所が多く、以上の中近堂版に、かなり頼った。

 

「本綱」に曰はく、『佛手柑は、樹、朱欒《しゆらん》に似て、葉、尖《とがり》、長く、枝≪の≫閒《あひだ》に、刺《とげ》、有り[やぶちゃん注:ウィキの「ブッシュカン」のこの写真で、先の赤い棘が確認出来る。]。之れを、近き水≪邊《みづべ》≫に植れば、乃《すなはち》、生ず。其の實の狀《かたち》、人の手の指、有るがごとし。長さ、一尺四、五寸なる者、有り。皮は、橙《たう/だいだい》・柚《いう》のごとくにして、厚《あつく》、皺(しは)みて、光-澤《つや》≪あり≫。其の色、𤓰《うり》のごとく、生《わかき》は、綠《みど》りに、熟《じゆくせ》ば、黃なり。其の肉、甚だ、厚《あつく》、白にして、蘿蔔《だいこん》のごとくにして、鬆虛《しようきよ》なり[やぶちゃん注:細かな隙間があって、サクサクしているさまを言う。]。其の核《さね》、細《こまか》にして、其の味、甚《はなはだ》、佳《か》ならず。而≪れども≫、清香《せいか》あり、人に襲《おそ》ふ[やぶちゃん注:人が重ね着する衣服を指す。]≪ところの≫衣笥《いし》[やぶちゃん注:和服を入れる「簞笥(たんす)」。]の中に置けば、則《すなはち》、數日《すじつ》、歇《や》まず。若《も》し、芋片を蒂《へた》に安《やすん》じて、濕≪り≫紙を以《もつて》、圍䕶《ゐご》すれば[やぶちゃん注:周囲を保護してやれば。]、久《ひさしき》を經て、癟《しなぶる》≪こと≫、せず。或いは、蒜《にんにく》を擣《つき》て、其の蒂の上に罨《おほ》へば、則《すなはち》、香《かをり》、更≪に≫、𭀚溢《じゆういつ》す。又、汁を、浸《ひたし》、葛紵《くづぬの》を浣(あら)へば、酸漿《ほほづき》に勝れり[やぶちゃん注:原文の、ここにある「似」を生かすなら、「勝れるに似たり」、或いは、「酸漿に似て、勝れり」とでも読むところだが、どうも文字列に違和感がある。思うに、これは、「本草綱目」の誤字で、「似」ではなく、「以つて、酸漿《ほほづき》に勝れり」なのではあるまいか?]。多く、閩《びん》[やぶちゃん注:現在の福建省を中心とした古名。]・廣[やぶちゃん注:現在の広東省・広西省。]の間に產≪し≫、花鳥《くわてう》を雕鏤《てうる》≪し≫、𮔉煎果《みつせんくわ》と作《な》して、食《くふ》。之れを几案《きあん》[やぶちゃん注:机。]に置き、玩賞《ぐわんしやう》に供《きやう》すべし。北方の人に、寄至《きせい》すれば[やぶちゃん注:贈ってやれば。]、甚だ貴重≪と≫す。』≪と≫。

『皮瓤《かはわた》【辛酸、温。】氣を下《くだ》し、心頭の痰水を除く[やぶちゃん注:意味不明。]。』≪と≫。

△按ずるに、凡そ、柑・橘・柚の類《るゐ》、皆、寒《かん》を怕(をそ)る。佛手柑、特に甚《はなはだしく》して、其の樹、如《も》し、寒に値《あ》へば、則《すなはち》、枯《か》る、或いは、枯れずと雖《いへども》、實のらず。冬月、則、稃(すりぬか)[やぶちゃん注:擂(す)った糠(ぬか)。]を用《もちひ》て、根を蔽《おほ》ひ、晝《ひ》るは、則、陽を受くべしなり。其の樹、柚《ゆず》に似て、刺、有り。葉、全く、柚・柑の輩《うから》に似ず、稍《やや》、大きく、淡青色。筋理(すじめ)、顯然として、畧《ちと》、「多羅葉《たらやう》」に似て、尖らず。四、五月、新葉《しんば》を生ずる時、嫩葉《わかば》≪は≫、褐(きぐろ)色≪となる≫、以つて、異と爲す。「三才圖會」の「佛手柑」の圖は、葉の形、尖る。「本草」≪の≫時珍も亦、『尖《とがり》て長し』と謂ふは、未-審(いぶか)し。

 

[やぶちゃん注:「佛手柑」は、「本草綱目」の「枸櫞(きろえん)」「香櫞」の原タイプ種は、「維基百科」の「枸櫞」がそれで、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン(英語:citron /仏語:cédrat(音写「セドラ」)Citrus medica

で「異名」として十九種の学名を掲げてあるが、これらの学名は、英文ウィキの“Citron”を見るに、幾つかは「シトロン」のシノニムであることが判明する。

しかし、挿絵の実の形状、及び、項目名「佛手柑」、及び、「本草綱目」の引用で示されるのは、シトロンの変種である、

シトロン変種ブッシュカン Citrus medica var. sarcodactylis

に限定されてあることは明らかである。外国のリンク上手くなく、「維基百科」の「佛手柑」は、日本語の「ブッシュカン」に接続していないのは、困ったことである。まず、ウィキの「ブッシュカン」を引く(注記号はカットした。一部の太字・下線は私が附した)。『「カボス」「ユズ」などと同じ香酸柑橘類の一種である。レモンと類縁のシトロンの変種で、名前の由来はブッダ(仏陀)の手という意味』である。

『なお、高知県四万十川流域で栽培されている「ぶしゅかん」は、同じ香酸柑橘類の「餅柚」』(もちゆ)『と呼ばれる』全く異なる『品種』( Citrus inflata『であり、緑色で球状の果実である。ブッシュカンと区別するため、ひらがな表記としている。ブッシュカンを手仏手柑、ぶしゅかん(餅柚)を丸仏手柑(シトロン)と区別する場合もある』(全くの別種であるので、注意!)

『安徽省の鳳陽県には観音菩薩が当地の人たちを懲らしめるために化け』、『自ら切り落とした美女の手と言われている』。ブッシュカンは、『インド東北部原産』とするが、「維基百科」の「佛手柑」では、『主產於中國廣西、廣東、四川等地』とあり、『佛手柑起於中國、印度等亞洲地區。』とあるのが、私は正しいと思われる。『果実は芳香があり』、『濃黄色に熟し、長楕円体で先が指のように分かれる。名称は』、『その形を合掌する両手に見立て、「仏の手」と美称したもの。学名とは別に、英語では「Buddha's hand」「fingered citron」とも呼ばれる』。『主として観賞用に栽植されるが』、『食用に利用されることもある。観賞用では』、『茶の湯の席の生け花に用いられることも多い』(グーグル画像「Citrus medica var. sarcodactylus flower」を見られたい)。『正月飾りにする地域もある』。『食用にもするが』、『身が少ないので生食には向かない。一般的に砂糖漬けなどで菓子にしたり、マーマレードにするほか、乾燥させて食べる地域もある』。『また、果皮を乾燥させたものは枸櫞皮(くえんひ)と呼ばれ、芳香薬や矯味剤、矯臭剤に用いる。また、枸櫞皮から枸櫞油(くえんゆ)と呼ばれる淡黄色で苦みと匂いのある精油がとれ、矯味剤、矯臭剤に用いる』。『日本での収穫量は』二〇一〇『年の「農林水産省特産果樹生産動態等調査」によると』、五・〇『トンで全て鹿児島県での収穫量となっている。この「農林水産省特産果樹生産動態等調査」特産果樹生産出荷実績調査は』、二〇〇七年『から』五十アール『以上栽培されている地域が対象となっており、他に和歌山県などでも栽培されており』。『京阪神や関東などにも出荷されている』とある。私は実際の「仏手柑」の実を、小学校二年生の時、母の実家の鹿児島県岩川で見た記憶がある。正直、おどろおどろしい印象しか残っていない。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「枸櫞」([075-40a]以下)の「釋名」と「集解」をパッチワークしたものである。以下に、全文を掲げる(一部に手を加えた)。

   *

枸櫞【音矩員宋圗經】  校正【原附荳蔲下今分出】

 釋名【香櫞一作圓佛手柑時珍曰義未詳佛手取象也】

 集解【藏器曰枸櫞生嶺南柑橘之屬也其葉大其實大如盞味辛酸頌曰今閩廣江南皆有之彼人呼爲香櫞子形長如小𤓰狀其皮若橙而光澤可愛肉甚厚白如蘿蔔而鬆虛雖味短而香芬大勝置衣笥中則數日香不歇寄至北方人甚貴重古作五和糝用之時珍曰枸櫞産閩廣間木似朱欒而葉尖長枝間有刺植之近水乃生其實狀如人手有指俗呼爲佛手柑有長一尺四五寸者皮如橙柚而厚皺而 光澤其色如𤓰生綠熟黃其核細其味不甚佳而淸香襲人南人雕鏤花鳥作蜜煎果食置之几案可供玩賞若安芋片於蒂而以濕紙圍䕶經久不癟或擣蒜罨其蒂上則香更充溢異物志云浸汁浣葛紵勝似酸漿也】

皮瓤氣味辛酸無毒【弘景曰性温恭曰性冷陶說誤矣藏器曰性温不冷主治

下氣除心頭痰水【藏器】煑酒飮治痰氣欬嗽煎湯治心

下氣痛【時珍】

根葉主治同皮【橘譜】

   *

『「三才圖會」の「佛手柑」の圖は、葉の形、尖る』東洋文庫訳の割注には、『(草木十一巻の乳柑にある図か)』とするが、例の東京大学の「三才図会データベース」で、当該画像をダウンロード(図ページ、及び、次の解説ページ)し、トリミングして、画像の汚損と判断したものを清拭したものを以下に示す。確かに、解説には、『肉其厚切如蘿蔔』とあり、最後に』『閩廣江西皆有之謂之香櫞子』とあるから、一致するものの、絵は、凡そ、実の図が異様に小さく、仏手柑の絵には見えない。葉は二図ともに、確かに、葉は先が尖っている。

 

Sansaizuenyuukan1

 

Sansaizuenyuukan2

 

『「本草」≪の≫時珍も亦、『尖《とがり》て長し』と謂ふは、未-審(いぶか)し』思うに、「三才圖會」の王圻(おうき)と、その次男王思義も、「本草綱目」の李時珍も、実は、タイプ種のシトロンの葉を言っているのではないか? と、私には思われる。ウィキの「ブッシュカン」の葉の画像は、良安が言う通り、尖らず、半先端は丸みを帯びて先はへこんでいるのに対し、ウィキの「シトロン」の葉の画像は、ツンと、尖っているからである。

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「秋の日」

 

 秋 の 日

 

主よ、時です。夏は偉大でした。

あなたの影を日時計の上へ橫たへて下さい、

郊野へ風を放つて下さい。

 

最後の果實等に充ちるやうに命じ、

なほ彼等に南の二日を與へ、

彼等を完成へ押やり

また最後の甘さを重い葡萄へお入れ下さい。

 

今家のないものは最う家を立てませぬ、

今一人のものは長く一人で居るでせう、

眼ざめてゐて、讀み、長い手紙を書くでせう。

木の葉の散り動く時、不安に

竝樹の中を往來するでせう。

 

[やぶちゃん注:「郊野」「かうや」。

「往來」茅野は再版詩集で、この熟語に「ゆきき」とルビを振っている。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「孤獨」

 

 孤 獨

 

孤獨は雨のやうだ。

大海から夕ゆふべを迎へて上る。

遠く隔つた平野から

孤獨は天へゆく、天はいつも孤獨を持つてゐる。

そして天から始めて都會の上へ落ちる。

 

すべての街が東に向くとき、

そして何物をも見出さなかつた肉體と肉體とが

失望して悲しげに離れる時、

晝夜の間の時間に雨と降る。

そして互に嫌つてゐる人間が

一つ床に一緖に寢なければならない時

 

その時孤獨は流河と共に行く……

 

[やぶちゃん注:先行する、ここにある最後の詩篇「祈りの後」を踏まえるなら、「夕(ゆふべ)ゆふべ」であって、誤りではない。岩波文庫の校注にも、そのような判断記載がある。なお、そこには、再版「詩集」で、かなりの箇所に手入れをしていることが記されている。それに従って、改訳版を復元しておく。

   *

 

 孤 獨

 

孤獨は雨のやうだ。

大海から夕ゆふべを迎へて上る。

遠く隔つた平野から

孤獨は天へゆく、天はいつも孤獨を持つてゐる。

そして天から初めて都會の上へ落ちる。

 

晝夜の間の時間に雨と降る。

すべての街が朝に向くとき、

そして何物をも見出さなかつた肉體と肉體とが

失望して悲しげに離れる時、

そして互に嫌ふ人間が

一つ床に一緖に寢なければならない時、

 

その時孤獨は流河と共に行く……

 

   *]

2025/01/21

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「愁訴」

 

 愁 訴

 

ああどんなに總べては遠く

また長く過ぎ去つたらう。

私は思ふ、

私が光をうける星は、

千年以來もう死んでゐる。

私は思ふ、

漕ぎ去つた小舟の中で、

何か氣づかはしい事を云つてゐるのをきいたと。

家の中で一つの時計が

鳴つた……

何處の家だらう……

私は私のこころから

大空の下に出たい。

私は祈りたい。

凡ての星の中の一つは

なほ本當になくてはならないのに。

私は知つてゐるやうに思ふ、

何の星がひとり

續いてゐたか、

どの星が白い町のやうに

九天の光の端に立つてゐるかを……

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「ものおぢ」

 

 ものおぢ

 

うら枯れた森に鳥の聲が一つ。

それはその枯れた森では無意味に見える。

その圓い鳥の聲は、

それを作つた瞬間の中に

大空のやうに廣く枯れた森の上に休む。

萬物は軟かいこの叫びの中に入り、

全地は總べて音なくその中に橫はるやうに見える。

大風もその中へたわみ入るやうだ。

さうして步み續けようとする分(ミニツツ)は、

何人もそれで死ななくてはならない

物を知つてるやうに、蒼ざめて、靜に、

その叫びから踏み出した。

 

[やぶちゃん注:「分(ミニツツ)」ドイツ語の時間・角度の単位である「分」はMinuteで、音写は「ミヌーテ」であるから、ここは、英語のminuteの音写「ミニッツ」を振ったのもの。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「最終の人」

 

 最終の人

 

私は父の家を持たない。

また失つたのでもない。

母は私を世の中へ產み放つた。

私は今世の中に立つてゐて、

いよいよ深く世の中へ入つて行く。

そして幸福を持ち、苦痛を持つ、

皆な一人で持つ。

でも私は種々の相續者だ。

私の種族は三つの分れとなつて

森の中の七つの城で榮えた、

そして紋章に飽きた。

年をとり過ぎたのだ。――

私に遺された物、私が古い所有にと

得るものには故鄕が無い。

私の兩手に、私の内奧に

私は死ぬまでそれを保つてゐなくてはならない。

何故といふと、私の置くものは

世の中ヘ

落ちこむから。

波の上へ置かれた

やうに。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「隣人」

 

 隣 人

 

知らない提琴よ、お前は私の跡を追ふのか。

 

幾つの遠い都會で、お前の寂しい夜が、

私の夜に話したらう。

 

お前を奏でるのは多數の人か、または一人か。

 

凡ての大きな都會には。

お前なしでは流の中に消えさうな

そんな人たちが住むのか。

 

そして何故いつも私に出逢ふのだらう。

 

何故私はいつも、

生活はあらゆる物の重みより重いと

臆病のお前を强ひて歌はせ、云はせる

人々の隣人とはなるだらう。

 

[やぶちゃん注:「提琴」バイオリンのこと。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「花嫁」

 

 花 嫁

 

私を呼んで下さい、戀人よ、私を聲高く呼んで下さい。

あなたの花嫁をこんなに長く窗際に立たせてはいけません。

篠懸のふるい並木に

夕暮は最う番をして居りません。

並木は空虛です。

 

あなたが來て私を夜の家に

あなたの聲で閉ぢ込めないと、

私は自分の兩手から自分を

暗碧色の花園ヘ

注ぎ出してしまひますよ……

 

[やぶちゃん注:「篠懸」これで「すずかけ」と読む。双子葉植物綱ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキPlatanus orientalis に同定して良いだろう。これは、同種の上位タクソンにあたるウィキの「プラタナス」(=スズカケノキ属 Platanus )のページにある、『スズカケノキ Platanus orientalis 』の項に、『主にヨーロッパの種類で、種小名 orientalis(オリエンタリス)は、原産地がトルコ、ペルシア、ギリシアなどだったことに由来する』とあったからである。なお、本邦の漢字表記では「鈴掛の木」ともするが、寧ろ、我々の方が、種としては誤って認識している可能性が比較的に強い。何故なら、ウィキの「スズカケノキ」には、スズカケノキは、『属の学名であるプラタナスと呼ばれることが多いが、日本で見かけるプラタナスは、本種よりもモミジバスズカケノキ』( Platanus × hispanica )『であることが多』く、『日本では街路樹として、モミジバスズカケノキが多く使われる』が、『モミジバスズカケノキは、スズカケノキとアメリカスズカケノキ』( Platanus occidentalis )『との雑種である』とあるからである。

2025/01/20

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 櫠椵

 

Yukou

 

ゆかう   鐳柚 香欒

      臭柚

櫠椵【廢賈】 【和名柚柑】

        【俗左牟須】

さんす

 

本綱柚大者謂朱欒最大者謂香欒爾雅謂之櫠椵

△按櫠椵柚屬也其樹葉花皆與柚無異實形色亦似柚

 而最大芳馥如乳柑其瓣味如橙而苦微酸蓋此兼柚

 柑橙之三也和名抄謂柚柑亦相兼之義乎

 

   *

 

ゆかう   鐳柚《らいいう》 香欒《かうらん》

      臭柚《しういう》

櫠椵【≪音≫「廢賈」】 【和名、「柚柑《ゆかう》」。】

        【俗、「左牟須《さんず》」。】

さんず

 

「本綱」に曰はく、『柚《いう》の大なる者を、「朱欒(まゆ)」と謂《いふ》。最《もつとも》大なる者を、「香欒」と謂ふ。「爾雅」に、之れを、「櫠椵《はいか》」と謂ふ。』≪と≫。

△按ずるに、櫠椵《ゆかう》は、柚《いう》の屬なり。其の樹・葉・花、皆、柚と異なること、無く、實の形・色も亦、柚に似て、最《もつとも》、大≪にして≫、芳馥《はうふく》、「乳柑(くねんぼ)」のごとく、其の瓣《なかご》、味、橙《だいだい》のごとくにして、苦《にがく》、微《やや》、酸《すつぱし》。蓋し、此れ、柚《ゆず》・柑(くねんぼ)・橙《だいだい》の三《みつ》を兼《かねる》≪物≫なり。「和名抄」に、「柚柑」と謂《いふ》も、亦、相《あひ》兼《かね》るの義か。

 

[やぶちゃん注:まず、問題は、「椵」という漢語である。まず、この「椵」では、「維基百科」・「拼音百科」・「百度百科」の孰れもヒットしない。そこで、「」と「椵」でやってみたが、「」は「百度百科」で「柚属」とあるだけだった(『「椴」の字注を見よ』とあったが、収穫無し)。「椵」は「拼音百科」と「百度百科」で同じ記載が載っていた。中国語の「柚子」=ザボン(タイプ種: Citrus maxima )類の一種とし、果実は鉢のように大きく、皮が厚く、食用になる、という情報のみであった。しかも、情報元は、総て、古書なのである。なお、「廣漢和辭典」では、『柚(ゆず)の一種』として、引用書は、「說文』や「爾雅」等を引く。

 実は、当初、私は、この「」は、良安の語っているのは、日本原産種である、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属ユコウ(柚柑・柚香) Citrus yuko 

ではないか? と思っていたのだが、当該ウィキを、よく見ると、『徳島県や高知県で古くから栽培され』、昭和五六(一九八一)年の『の大寒波以前には、徳島県内に推定』百五十『年を超える老樹が散在していた』とあるのが、俄然、引っ掛かった。当該年から百五十年前は、文政一三・天保元(一八三一)年であるからである。そこで、調べてみたところ、「東京財団政策研究所」公式サイト内のYoko Kurokawa氏の“The Yuko, a Native Japanese Citrus”という論文(同サイトの日本語で調べたが、邦訳版はなかった)に(機械翻訳に手を加えた)、『この果物の歴史ははっきりしていない。一説によると、ユコウはユズやザボンなどの他の種との自然交配から生まれたと言われている。ユコウは種子から自然に成長し多胚性であるか、または単一の種子から複数の苗木を生産することができ、単性生殖、つまり無性生殖を行う。今日では百年以上も経っているユコウの木が数多くあり、この種は十九世紀半ばまでに明確に存在していたと考えられている。』とあったからである。他に、『現在、ユコウは長崎市内の土井首(どいのくび)地区』(長崎湾の現在の長崎市のここの広域地名:グーグル・マップ・データ)『や外海(そとうみ)地区』(サイト「長崎市 外海地域センター」のこのページの地図を見られたい)『などに自生している。江戸時代』『には佐賀藩に属していたが』、二十『キロメートルほど離れており、ユコウは両地区で独自に発達したと考えられている。』『土井首地区の住宅の庭や畑では、文旦や夏みかんの木のそばにユコウの木が生えており、外海と同様、人々がユコウの実を収穫して食べ​​てきた。しかし、この木は地域の道路沿いにも生えているため、鳥が種をまき散らして』、『さまざまな場所で芽を出させた可能性もある。長崎は伝統的にキリスト教徒が多く、江戸時代には禁教令が出されていたが、この地はキリスト教徒と深い繋がりがある。フランス人宣教師マルク・マリー・ド・ロ』(Marc Marie de Rotz 一八四〇年~一九一四年:来日は慶応四(一八六八)年六月:当該ウィキによれば、『長崎県西彼杵郡』(にしそのぎぐん)『外海地方(現・長崎県長崎市外海地区)において、キリスト教宣教活動の傍ら、貧困に苦しむ人々のため』、『社会福祉活動に尽力した』とある)『が、この地域の貧しい村人たちの生活水準を向上させる手段として』、『ユコウの栽培を広めようとしたと考える人もいる』と、あった。則ち、良安の生きた時代には、ユコウは存在しなかったと考えざるを得ないのである。

 こうなると、ここに出る、本邦の最も古い「」を検証せざるを得なくなる。当該箇所は、「卷十七」・「菓蓏部」(くわらぶ:「菓」は木に生る実、「蓏」は(蔓)草に成る実)第二十六・「菓類第二百二十一」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの「倭名類聚鈔」(二十卷本・村上勘兵衞版元・寛文七(一六六七)年)の当該部を視認して、訓読した。

   *

椵(ゆかん) 「爾雅」注に云はく、『椵【「廃」「加」の二音。「漢語抄」に云はく、『柚柑』。】は、柚の属《たぐ》ひなり。』≪と≫。

   *

因みに、「ユカン」というのは、現行の和名では、キントラノオ目コミカンソウ科コミカンソウ属ユカン(油甘) Phyllanthus emblica であって、全くの異種を指すので、言い添えておく。当該ウィキによれば、『インドから東南アジアにかけての原産で熱帯・亜熱帯に栽培され、果実が食用となる』ものであるが、混乱を起こすだけなので、リンクさせるに留める。

 しかし、これでは、堂々巡りだ!

 そこで、「本草綱目」を見ると、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「柚」([075-38b]以下)であるが、その「釋名」と「集解」を示すと(一部の手を入れた。太字・下線は私が附した)、

   *

【音又日華】

 釋名【櫾【與柚同】條【爾雅】壺柑【唐本】臭橙【食性】朱欒【時珍曰柚色油然其狀如卣故名壺亦象形今人呼其黃而小者爲蜜筩正此意也其大者謂之朱欒亦取團欒之象最大者謂之香欒爾雅謂之音廢又曰音賈廣雅謂之鐳柚鐳亦壺也桂海志謂之臭柚皆一物但以大小古今方言稱呼不同耳

 集解【恭曰柚皮厚味甘不似橘皮薄味辛而其肉亦如橘有甘有酸酸者名壺柑今俗人謂橙爲柚非矣案吕氏春秋云果之美者江浦之橘雲夢之柚郭璞云柚出江南似橙而實酢大如橘禹貢云揚州包橘柚孔安國云小曰橘大曰柚皆爲柑也頌曰閩中嶺外江南皆有柚比橘黃白色而大襄唐間柚色青黃而實小其味皆酢皮厚不堪入藥時珍曰柚樹葉皆似橙其實有大小二種小者如柑如橙大者如瓜如升有圍及尺餘者亦橙之類也今人呼爲朱欒形色圓正都類柑橙但皮厚而粗其味甘其氣臭其瓣堅而惡不可食其花甚香南人種其核長成以接柑橘云甚良也蓋橙乃橘屬故其皮皺厚而香味而辛柚乃柑屬故其皮粗厚而臭味甘而辛如此分柚與橙橘自明矣郭璞云大柚也實大如盞皮厚二三寸子似枳食之少味范成大云廣南臭柚大如瓜可食其皮甚厚染墨打碑可代氊刷且不損紙也列子云吳越之間有木焉其名爲櫾碧樹而冬青實丹而味食其皮汁已憤厥之疾渡淮而北化而爲枳此言地氣之不同如此】

   *

良安の引用部は「釋名」の下線部だが、そこでは、「櫠椵」は「爾雅」別々に漢字表記され、「櫠」、また、「椵」と言うとあるのである。ただ、「爾雅」では「廣漢和辭典」では『櫠は、椵。』とあり、共に『柚の一種』とある。則ち、」と「椵」というのは、ある柚の二つの同一種を示す単漢語なのであり、「倭名類聚鈔」の誤りが、蜿蜒と江戸時代まで引き継がれてしまったのであった。

さて、今度は、私が下線を附した箇所を見られたい。これらから、

――私は、良安は、ありもしない「椵」を、恰も、実際に観察して、実も食べた――かのように――「本草綱目」の記載からテキトーに組み合わせて、

……「樹も葉も花を見て柚(ゆず)と異なる所はなく、実の形も色も柚に似ていて、その柚類の中でも、最も大きい」と言い、「その実の芳香は、『乳柑(くねんぼ)』のようで、其の実の果肉は、橙(だいだい)のようで、苦く、やや、酸っぱい。」とやらかし、「これは、まず、柚(ゆず)・柑(くねんぼ)・橙(だいだい)の三つを兼ねる果樹である。」と言い放った……

と、信じてやまないのである。なに? 「くねんぼ」? いやいや! この良安の「クネンボ」と言うのはね、先行する「乳柑」でもやらかしているように――良安お得意の勝手次第にルビを振っている「思い込み」仕儀――なのだ!(「柑」にも堂々と「くえんぼ」と振っとるけんね!)

決して、現行のミカン属マンダリンオレンジ品種クネンボ(九年母)Citrus reticulata 'Kunenbo'

ではないことは、そちらで『「くねんぼ」と、少なくとも、中国で古くに称する「乳柑」「乳橘」の二つは、それぞれ、微妙に異なった種を指していると言ってよいように思われる』と私見を述べてあるので、見られたい。

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「石像の歌」

 

 石像の歌

 

誰だ。樂しい生命を捨てる程、

私を愛するのは誰だ。

若し一人が私の爲めに海で溺れると、

私は再び石から解かれて、

生命に、生命に歸るのだ。

 

私はそれ程鳴り饒(めぐ)る血にあこがれる。

石はほんたうに靜かだ。

私は生命を夢みる、生命は好ましい。

私をば蘇生させる

勇氣を誰も持たないか。

 

あらゆる最美なものを與へる

生命さへ私が得れば――

―― ―― ―― ―― ―― ―― ――

さうしたら私はひとり、

泣くだらう。石に焦れて泣くだらう。

葡萄酒のやうに熟すとも、私の血が何の役に立たう。

私を最も愛したその一人を

海から呼戾すことは出來ない。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「少女」

 

 少 女

 

他の人々は長い路を

ほの暗い詩人の許へ行かなくてはならない。

人の歌ふのを、

絃の上に手を置くのを見なかつたかと、

常に誰かに問(き)かなくてはならない。

ただ少女ばかりは問(き)かない、

どの橋が形象に通ずるかとは。

白銀の皿につける眞珠の紐よりも

なほ明るく微笑むだけだ。

 

少女等の生活からは、どの扉も

詩人へ通ずる。

それから世界へ。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「少女の憂鬱」

 

 少女の憂鬱

 

古い格言のやうに、

若い騎士が思ひだされる。

 

騎士は來た。森の中では、折々あんなやうに

大嵐が來てお前を包む。

騎士は去つた。時あつて祈禱の最中に、

大きな鐘の祝福が……

あんなやうにお前をひとり殘してゆく。

そんな時お前は靜けさの中へ叫ばうとするが、

でも唯全く小聲に

冷たい手巾に深く泣き入る。

 

武裝をつけて遠くゆく

若い騎士が思ひだされる。

 

その微笑の軟かさ、こまやかさは、

ふるい象牙の上の輝きのやうだ、

懷鄕の憂のやうだ、うす暗い村落の

クリスマスの雪降りのやうだ、

眞珠のみに取圍まれる土耳古石のやうだ、

好もしい書物の上の

月の光のやうだ。

 

[やぶちゃん注:「手巾」同時代人の芥川龍之介(と言っても、茅野の方が九歳年上だが)の「手巾(ハンケチ)」(大正五(一九一六)年初出。茅野の、この詩集は昭和二(一九二七)年刊)に倣って、そう読んでおく。

「土耳古石」「トルコいし」。ドイツ語では、“Türkis”(音写「チャキーズ」)。当該ウィキによれば、『英語では turquoise (ターコイズ)と言い、フランス語の pierre turquoise (トルコの石)に由来する。』とあり、『純度の高いものは鮮やかな青色だが、不純物に鉄を含むと緑色に近くなる。青色のものほど上級とされるが、チベットでは緑色のトルコ石が珍重される』らしい。騎士の色なら、青だろう。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「四月から」

 

 

   形 象 篇

 

 

   第 一 卷

 

 

 四月から

 

再び森はにほふ。

浮き漂ふ雲雀の群は、

我々の肩に重かつた空を持上げ、

木の枝を透かして人はなほ空虛だつた日を見たが、――

長い雨の午後の後に

 黃金に日の照らした

 新らしい時間が來る。

それを避けて逃げながら、遠い家並の前面の傷いた總べての窗は、

臆病に翼扉をはためかす。

 

やがてそれも靜まり、雨さヘ一層靜に

鋪石の穩かに暮れてゆく輝きの上を步き、

すべての騷音は、小枝にひかる

莟の中へすつかりもぐり込む。

 

[やぶちゃん注:「雲雀」ドイツ語の同種のウィキを見る限り、タイプ種であるスズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis で、よい。博物誌、及び、本邦の分布種は、私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり) (ヒバリ)」を見られたい。

「窗」は「窓」の異体字。

「翼扉」見かけない熟語だが、「よくひ」でよかろう。ここは、窓の外に両開きになる扉を指している。]

«茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 (我々の夢は大理石の兜、……:序詩)・(高臺にはなほ日ざしがある。……)・(これは私が自分を見出す時間だ。……)・(夕ぐれは私の書物。花緞子の、……)・(屢〻臆病に身震ひして、私は……)・(そして我々の最初の沈默はかうだ。……)・(しかし夕ぐれは重くなる。……)・(私は人間の言葉を恐れる。……)・(誰が私に言ひ得る。……) / 「舊詩集」~了