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2025/07/18

和漢三才圖會卷第第九十 菰果類 甘𬞈

 

Satoukibi

 

[やぶちゃん字注:標題以下、本文中の「𬞈」は「蔗」の異体字。]

 

さたうの木  竿𬞈《かんしや》 藷【音遮】

かんしや

 

甘𬞈     沙糖

 

カン チヱ﹅

 

本綱甘𬞈江東浙江閩廣湖南四川皆有之而四川及嶺

南者爲勝皆畦種叢生最困地力莖似竹而內實大者圍

數寸長六七尺根下節宻以漸而疎抽葉如蘆葉而大長

三四尺扶踈四埀八九月收莖可留凡草皆正生嫡出惟

𬞈側種根上𬞈出故字從庻有四種

杜𬞈 【一名竹𬞈】其莖粗而長皮薄味極醇厚用可作餹霜

荻𬞈 【一名芳𬞈又名蠟𬞈】其莖細短而節疎亦可作沙餹

紅𬞈 【一名紫𬞈崑崙𬞈也】止可生啖不堪作餹

西𬞈 作糖霜色淺

 凡𬞈搾漿飮固佳又不若咀嚼之味雋永也至北地者

 荻𬞈多而竹𬞈少也

𬞈漿【甘寒】下氣助脾氣利大小腸消痰止渴解酒毒

 煎鍊成餹則甘温助酒爲熱是生熟之異也

 甘草遇火則熱 麻油遇火則冷 甘𬞈煎飴則熱

 水成湯則冷 如此物性之異醫者可不知乎

 

    *

 

さたうの木  竿𬞈《かんしや》 藷【音「遮」。】

かんしや

 

甘𬞈    沙糖

 

カン チヱ﹅

 

「本綱」に曰はく、『甘𬞈《かんしや》は江東・浙江・閩廣《びんくわう》[やぶちゃん注:閩南と広東。現在の福建省南部及び広西チワン族自治区と、広東省の広域に当たる。]・湖南・四川、皆、之《これ》、有《あり》て、四川、及《および》、嶺南[やぶちゃん注:現在の広東・広西省。]の者、勝れりと爲《なす》。皆、畦(うね)を種(つ)くりて、叢生す。最《もつとも》、地力を困《つかれ》しむ。莖は、竹に似て、內實《ないじつ》す[やぶちゃん注:茎の部分は内部が詰まった竹のような髓(ずい)になっていることを指す。]。大なる者、圍《めぐり》、數寸、長さ、六、七尺。根の下の節《ふし》、宻(こまや)かにして、≪上へ向ひて≫、以《もつて》、漸(そろそろ)として、疎(うと)く[やぶちゃん注:茎の先の方の髓が疎らになって細くなっており。]、≪その先より、≫葉を抽《ぬきんで》て、蘆(あし)の葉のごとくにして、大《だい》なり。長さ、三、四尺。扶踈《ふそ》[やぶちゃん注:枝葉が広がること。]して、四《よ》もに[やぶちゃん注:四方に。]埀《た》る。八、九月に、莖を收《をさめ》て、留《とりをさ》む。凡そ、≪通常なる≫草は、皆、≪根の≫正≪しき所より≫生じて、嫡出《てきしゆつ》す[やぶちゃん注:ちゃんと生えるてくる。]。≪而れども、≫惟《た》だ、𬞈は、側《かたはら》の種《より延びたる》根の上に庻出《しよしゆつ》す[やぶちゃん注:もうお分かりと思うが、ヒトの嫡出子と庶子の違いで、この場合は、「正しい根からではなく、その脇の横に出た根(実際には総て地下茎)から生える」ということを言っているのである。]。故に、字、「庻」に從ふ。四種、有り。』≪と≫。

『杜𬞈《としや》』『【一名、「竹𬞈《ちくしや》」。】其《その》莖、粗《そ》にして、長し。皮、薄く、味、極《きはめ》て、醇厚《じゆんこう》[やぶちゃん注:味わいが、混じりけがなく、コクがある。香りがよく、芳醇である。]。用《もちひ》て、「餹霜《たうさう/しろざたう》」を作るべし。

『荻𬞈《てきしや》』『【一名、「芳𬞈」。又、「蠟𬞈」と名づく[やぶちゃん注:後者は返り点はないが、返して読んだ。]。】其《その》莖、細く短くして、節、疎《まばら》なり。亦、「沙餹」に作るべし。』≪と≫。

『紅𬞈』『【一名、「紫𬞈《ししや》」・「崑崙𬞈《こんろんしや》」なり。】止《た》だ、生《なま》にて啖《く》ふべし。餹《あめ》に作るに、堪へず。』≪と≫。

『西𬞈《さいしや》』『糖霜に作にて《✕→にす≪るも≫、》色、淺《あさ》し。』≪と≫。

 『凡そ、𬞈、漿(しる)を搾(しぼ)りて、飮む。固(もと)より、佳し《✕→佳けれども》、又、之を、咀-嚼(か)みて≪食ふに≫。味、雋永《せんえい》[やぶちゃん注:元は「肥えて旨い肉」の意から、「意味深長で味のあること」を言う語。「しょうえい」(現代仮名遣)とも読む。]なるに、若《し》かざるなり。北≪の≫地に至《いたり》ては、「荻𬞈《てきしや》」、多《おほく》して、「竹𬞈」、少《すくな》し。』≪と≫。

『𬞈漿《しやしやう》【甘、寒。】氣を下し、脾の氣を助け、大・小腸を利し、痰を消し、渴《かはき》を止め、酒毒を解す。』≪と≫。

 『煎鍊《せんれん》[やぶちゃん注:煎って練(ね)ること。]して、餹《あめ》と成る。則《すなはち》、甘、温にして、酒を助け、熱を爲《な》す。是れ、生《わかき》≪と≫熟《じゆくせる》の異《ちがひ》なり。

 『甘草は、火《ひ》に遇へば、則《すなはち》、熱《ねつ》≪と≫なり』、『麻油《あさあぶら》は、火に遇へば、則、冷《れい》≪となる≫』。『甘𬞈≪は≫、飴に煎ずれば、則、熱なり』。『水《みづ》は、湯と成さば、則、冷なり』。『此《かく》のごとく、物性の異、醫者、知らずんば、あるべけんや。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、

単子葉植物綱イネ目イネ科サトウキビ属サトウキビ Saccharum officinarum

である。「維基百科」の同種は「秀貴甘蔗」の標題だが、冒頭に『甘蔗(學名:Saccharum officinarum)又名紅甘蔗』とある(記載は至って貧弱である)。本邦の当該ウィキを引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『砂糖の原料になる。可食部となる茎は中身の詰まった竹のような見た目である』。『日本語の別名は甘蔗(かんしゃ、かんしょ)である。ただし、「かんしょ」は「甘藷」(サツマイモ)』(双子葉植物綱ナス目ヒルガオ科サツマイモ属サツマイモ Ipomoea batatas )『と同じ読みであり、サトウキビの産地とサツマイモの産地が重複していることもあって、紛らわしいため』、『あまり使われない。中国語では甘蔗(拼音: gānzhè ガンジョー)と呼ぶ』。『サトウキビから取れる蔗糖(スクロース)を甘蔗糖 (cane sugar)』caneは音写「ケイン」で、「(籐(とう)・竹・棕櫚(シュロ)・サトウキビなど節(ふし)のある)茎・(キイチゴの)茎・用材としての籐類・籐製のステッキ・」軽い細身の)ステッキ・処罰用の鞭(むち)の意)『と呼ぶ』。『種子島では』、『おうぎ』、『奄美群島の徳之島では』、『うぎ』、沖縄方言では』、『ウージ』『と呼ばれている。これらはオギ(荻)が訛ったものであるが、オギはイネ科ススキ属であり』、『属が異なる植物である。産地では新聞の見出しなどでは、単に「キビ」と書かれることもある(同音のイネ科穀物については「キビ」参照)』。『学名の』『 Saccharum officinarum 』『は「薬局の砂糖」を意味する。製糖が伝播し』、『栽培が行われていた、カナリア諸島(大西洋上のスペイン領)などの』十五『世紀のヨーロッパで、薬局が砂糖を甘味料や薬として扱っていたことに由来する』。『テンサイ』(甜菜:双子葉植物綱ナデシコ目ヒユ科フダンソウ属テンサイ変亜種テンサイ Beta vulgaris ssp. vulgaris var. altissima)『と並んで砂糖(蔗糖)の原料となる農作物である。栽培種の起源はニューギニア島とその近くの島々と言われ、世界各地の熱帯、亜熱帯地域で広く栽培される』。『茎は竹のように木化し、節がある。茎の節間の内部は竹とは異なり空洞ではなく、糖分を含んだ髄となっている。茎は高さ』三メートル『にもなる。葉はトウモロコシのように幅広い線形である。秋には茎の先端からススキのような穂を出す』。かつてはサトウキビ発祥の地は、現在のニューギニア島あたりで、紀元前』六千『年前後に現在のインド、さらに東南アジアに広まったといわれている。また、インドを原産とする文献もある。古代サンスクリット語による古文書の記載から、砂糖の精製は北インドが発祥ではないかとされている』。二〇〇二年『時点の世界生産量は』十二『億』九千『万トンという膨大な量に及び、世界の農作物で最も多い(小麦は同年』五『億』七千『万トン)。ブラジル』二十八・〇%、『インド』二十一・七%、『中国』六・四%『の順であるが、地域別に集計するとアジア州』が四十三・五%で、以下、『南アメリカ州、北アメリカ州の順となる』。『サトウキビは』C4型光合成(詳しくはリンク先のウィキを参照されたい)『と呼ばれるタイプの光合成を行う植物であり、栽培には十分な日照と、豊富な水源が必要である』。『日本での栽培地域は、南西諸島が特に多く沖縄県と奄美群島(鹿児島県)が大部分を占める。近代史の中では、薩摩藩の蓄財を南西諸島の島々のサトウキビが支えてきたとされる。その歴史から「維新を適」(かな)『えた」との評価も、沖縄・奄美諸島への厳しい支配・徴税との評価もともに見る必要がある』。『黒砂糖#歴史の「黒糖地獄」を参照』とある。『また、大隅諸島などの南九州、四国地方の高知県(黒潮町など)や愛媛県(四国中央市など)でも広く栽培されている。香川県(東かがわ市など)や徳島県(上板町など)では、和三盆という砂糖の原料として竹糖(ちくとう、たけとう)と呼ばれる茎が細いサトウキビが栽培されている。現在の日本国内におけるサトウキビの商業栽培の最北限は、四国から伝播した本州の遠州横須賀地区(静岡県掛川市南西部)』(この附近。グーグル・マップ・データ)『とみられるが、昭和』三十『年代までは南房総地域でサトウキビが栽培されていた歴史がある。ここで生産される砂糖は「横須賀白」』(よこすかしろ)『と称され、第二次世界大戦後に衰退したが』、一九八九『年から復活され、年』二十『トン程度つくられている。江戸時代、横須賀藩の武士が身分を隠して四国へ渡り、秘密扱いされていた製糖技術と苗を持ち帰ったのが起源と伝承されている』。『ただし、竹糖はシネンセ種( S. sinense )である』ため』『一般的なオフィシナルム種( S. officinarum )を使って和三盆と同じ製法で砂糖を製造しても』、『同じ味にはならない』。『九州・四国等の温帯地域で栽培されるサトウキビは、製糖の歩留まりが低い』ため、『農研機構は早生』(わせ)『系のサトウキビの品種改良を行って』二〇一一年『に本土向けサトウキビ育成品種として「黒海道(くろかいどう)」を発表している』。『作型は』、『春に植えて』、『その年の冬に収穫する春植え栽培と、夏に植えて』、『翌年の冬に収穫する夏植え栽培、そして収穫後の地下株から再び出る芽から栽培し収穫する株出し栽培がある。海外では植え付けを行うと、刈り入れまで』、『ほとんど』、『人手が入らないが、日本国内では植付けから収穫までの間は、雑草防除や発根を促進し地上部の倒伏を防ぎ養水分の吸収を盛んにする』ため、一~二『回』、『培土を行う。収穫の際は、まず』、『斧に似た農具で』、『生え際で切り倒し、別人が鎌を用いて茎に巻き付いている枯れ葉を除去し』、『先端部分を切り離す(先端部分は苗として利用する)。茎は適当に集めて置いておき、作業の終わり頃に搬送に適した量に結わえ付けて運搬車に載せる。そこまでは』、『ほとんど』、『人力で行われる。台湾・キューバ・ブラジルなど規模の大きい外国の生産地では専用の大型収穫機が使われるが、日本でも小型の収穫機械による収穫が広まっている。

以下、「利用」の項。『茎の髄を生食したり、搾った汁を製糖その他食品化学工業や工業用エタノール製造の原料とするなど多様な利用方法がある。沖縄県などで作られる黒糖のほか、四国地方で作られる白下糖』(しろしたとう:但し、この名で沖縄・鹿児島でも作られている)『と呼ばれる粗糖や、それを精製した上質の砂糖(和三盆)の原料もサトウキビである』。二十一『世紀初頭の原油価格高騰時は、燃料用バイオマスエタノール』(Biomass Ethanol)『の需要急増で、砂糖も高騰傾向にあった』。『生産地では茎の髄をそのまま噛んで食べたり、機械で汁を搾って飲んだりする(サトウキビジュース)。食べる時は外側の硬い皮を歯で剥き、中の白く糖分に富んだ部分(髄)を咬んで汁を啜り、カスを吐き出す』(私は、担任として行った沖縄修学旅行で、教え子の男子生徒がナマのサトウキビを食べていたので、「旨いか?」と聴いたところ、「先生も好きなだけ、かじっていいよ。」と言って呉れたので、食したが、実に爽やかな甘さだった。)『汁を搾って飲む場合は、同様に皮を剥いたあと手動や電動の搾汁機に差し込んで汁を搾る。搾ったままの汁はやや青臭いが、冷やしたりレモン汁やクエン酸を加えたりすると、より美味しくなる。東南アジアからインドにかけてのメジャーな清涼飲料である』。『ベトナム料理などでは、茎の皮を剥いた髄に、エビなどの練り物を付けて揚げたり焼いたりした料理がある』。『中国の四川料理には、サトウキビの髄を細く切り、魚などと共に辛い汁で煮る料理がある』。

以下、「燃料などへの加工」の項。『砂糖やラム製造時にサトウキビの絞りかす(バガス)』(フランス語:Bagasse)『が濃縮・蒸留の燃料としても利用されてきたが、廃糖蜜や搾りかすを原料にバイオ燃料開発も行われている。サトウキビを絞った汁から砂糖を取除いた液体は「廃糖蜜」(モラセス)』(英語:Molasses)『と呼ばれ、これを発酵させて』、『いわゆるバイオマスエタノールを取り出し、自動車燃料の一部として使う研究が行われている』。『また』、『廃糖蜜を原料に発酵させてグルタミン酸ナトリウムなどのアミノ酸を生産している。そのグルタミン酸を使いやすいように粉状にしたものが「味の素」等に代表されるうまみ調味料である』。『ブラジルでは』一九八〇『年代から自動車燃料等のアルコールへの転換が政府主導で進められており、燃料用のサトウキビを政府が一定価格で買い上げるため、それまで栽培されなかった地方でも栽培が増えている』。『日本でもバイオマスの一つとして、アサヒビールが研究を行い、品種改良された「モンスターケーン」と呼ばれる分蘖(ぶんげつ)』(イネ科などの植物の根元附近から新芽が伸びて株分かれすること)『数が多く』、『従来の』二『倍の収穫量があるとされているサトウキビの栽培が行われ、小規模のアルコール製造工場を沖縄に建設し、試験生産と自動車への試験運用を行っている』。『現在の日本では法令上、自動車燃料での利用はガソリンに』三%『という混合が限界であり、それ以上の混合率やアルコール単体の自動車での利用が認められていないが、宮古島市、伊江村においてバイオマス燃料に対する実証実験が行われており、この実験結果次第で自動車用燃料におけるアルコール比率の規制緩和が期待される』。

以下、「酒類原料」の項。『絞り汁や廃糖蜜が蒸留酒の原料として用いられる。世界的にはカリブ海周辺諸国発祥のラム酒が著名であり、原料を糖蜜とする蒸留酒をラム酒と総称することもある。他にはブラジルのカシャッサ(ピンガ)、タイのタイ・ウイスキー、日本の黒糖焼酎(奄美群島限定生産)や焼酎甲類の原料として用いられる。フィリピンでは、醸造酒のバシの原料として用いられる。ケニアでは絞り汁をソーセージノキの実と共に発酵させて造るムラチナ(Muratina)が知られている』。『サトウキビの絞りかすをバガス(英語:bagasse)という。製糖、蒸留の燃料にされる他、バガスからは、製紙用パルプ、フルフラール』(furfuralC5H4O2。芳香族アルデヒドの一種。石油化学においてジエン類を抽出する溶剤となり、炭化水素から合成ゴムを作る原料などに使われる)『の製造原料としての工業利用がなされているほか、蝋(サトウキビロウ)を採ることができ、オクタコサノール』(1-Octacosanol:植物の葉や、リンゴ・ブドウなどの果物の皮から発見されたアルコールの一種)『の分離も行われている。キクラゲ類の栽培用培地の原料として使用する場合も』ある、とあった。

  なお、「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十三」の「果之五【蓏類九種内附一種】」の「蘡薁」([081-12a]以下)のパッチワークである。

「杜𬞈《としや》」「竹𬞈《ちくしや》」中文の「百度教育」の「竹蔗」を見るに、そこには、按王灼の「糖霜」から引いて、「茎が緑色で、皮が薄く、非常にまろやかな味で、白砂糖精製するためにのみ使用される」と言った内容が書かれてある。しかし、以下の「荻𬞈《てきしや》」=「芳𬞈」=「蠟𬞈

「紅𬞈」=「紫𬞈《ししや》」=「崑崙𬞈《こんろんしや》」

「西𬞈《さいしや》」

も、これらは、茎の色や、精製される砂糖の質等の個体的変異か、或いは、現行の品種に相当するものかも知れないとは思ったが、私が試しに探した限りでは、複数の中文サイトでは、現行の品種を同定する記載はなかった。

 諦めようと思った矢先、再度、本邦の記事を検索してみたところが、二つの興味深いページを発見した。一つは、

「独立行政法人 農畜産業振興機構(エーリック 農畜産機構)」の「砂糖」の中の「内外の伝統的な砂糖製造法(4)」

であった。以下、後半部を引用させて戴く。著作者(発信元)は、『農畜産業振興機構 調査情報部 (担当:企画情報グループ)』とある。

   《引用開始》

『仰高録(ぎょうこうろ)』という史料に、享保121727)年に、薩摩藩の家臣である落合孫右衛門という人物が、さとうきびの植え方などのことを申し出て、幕府が管理している浜御殿(現在の浜離宮)でさとうきびを作ったとある。

 この落合孫右衛門という名前が、薩摩藩から奄美大島へ派遣された黍検者のなかにないかと探してみたが、見つからなかった。そこで、薩摩藩士名簿の類に名前がでてこないかと探した。名簿ではないが、かつて江戸の芝、皿子町にあった大円寺所蔵の過去帳の中に、落合孫右衛門の名を見つけた。「薩陽過去牒」は、主として明暦31657)年の振袖火事以後の薩摩藩出身者の過去帳である。

 過去帳なので、日付順で、その日付の中では、年号が若い順に、順次書き加えられている。三日のところに、「天明六丙午八月 中小姓 落合孫右衛門 證道祖卯居士」と、落合孫右衛門の名前が見える。天明六年は1786年であるので、享保12年に浜御殿で試植したとされる59年後であり、長寿であったとすれば年代的にはこの人物こそが、薩摩藩から幕府へ、さとうきびの植え付けを指導した人物であると考えられる。しかも、役職が「中小姓」であったことがわかる。以上のことから、江戸時代の日本でいち早く砂糖生産に成功をおさめた薩摩藩の藩士である落合孫右衛門という人物が実在していて、薩摩藩が幕府に手を貸したという事実が裏付けられたといえるだろう。

 薩摩藩というと、黒糖製造の独占販売というイメージがあるが、まだこの頃は、薬草や砂糖の「日本国を挙げて」の国産化へ向けて、協力する姿勢があったのではないだろうか。

 では、薩摩藩から浜御殿へもたらされたさとうきびの品種はどのようなものであったのか?

 さとうきびという植物は、米と同じイネ科であるが、苗作りのように籾を種として蒔くわけではない。「種」というと、丸みを帯びた形状の実をイメージするが、さとうきびの場合は、棒状の茎が「種」である(写真1)。また、根株も「種」になる。

 享保71722)年には幕府の医官となり、薬草の調査・研究を行っていた丹羽正伯は、享保201735)年に各藩の江戸留守居を呼び寄せ、各領内の産物の調査を要請し、絵図付きの『産物帳』を3年間で提出するように通達した。各領4から5冊として、200300領からとすると、優に1000冊を超える日本初の産物帳である。しかし、幕府の文書を引き継いだ国会図書館や内閣文庫には、この一大『産物帳』が納められていないという。どこへ消えたかは謎である。しかし、提出する藩は、控えをとっているはずなので、それが、部分的に残っている藩もある。

 そこで、薩摩藩の産物帳に、さとうきびが描かれていないかと考えた。

 このころ薩摩藩は、日向国、大隅国、薩摩国を領しており、それらの国の産物帳の控えの一部が伝存している。

 砂糖生産に成功していた奄美大島、喜界島、徳之島などは、薩摩国領だったので、さとうきびが描かれていても不思議ではないのだが、残念ながら、薩摩国の分は、本文を欠いており絵図だけが残っているものの、落丁があるので、幕府へ提出した産物帳にさとうきびが載せられていたのか否かわからない。

 しかし、産物帳を作成するにあたって、薩摩藩の江戸留守居が、丹羽正伯に伺いをたてた時の記録が残っている。それによると、琉球の産物は除外していいこと、また琉球から渡来して領内で生育している産物も除外していいとの返答であった。したがって、奄美諸島に琉球から移植されたさとうきびは、そもそも描かれていなかった可能性が高い。

 この産物帳の提出から約30年後の明和51768)年、薩摩藩主島津重豪は、薩南諸島の動・植物の標本の採取と提出を求めた。2年後の明和7年に、集められた植物の標本は、本草学者で医師の坂上登(田村元雄)へ渡され、漢名との同定や解説が田村に依頼された。同年、『琉球産物志』として、彩色図と注記付きの15巻附録3巻の計18巻としてまとめられた。「琉球」と題するものの、主な産地は奄美大島(琉球大島)とされ、他に硫黄島、トカラ島、薩摩などで、約730品所収の薩南諸島の植物誌である。このなかに、さとうきびがあったのだ。「荻蔗」と「崑崙蔗(こんろんしょ)」という名前で、2種類が描かれている(写真2)(写真3)。

 「荻蔗」の注記には、「登按、茎高八九尺、其葉長三尺計、?茎汁煎錬為沙?有術 琉球土名沙?絵岐昆」とあり、茎を搾って汁を煎じて砂糖にする方法があるとしている。

 一方「崑崙蔗」の注記には、「本草載蔗有赤色者名崑崙蔗、登按比荻蔗其茎葉寛大而赤色多節 琉球土名真荻、薩州種島方言紫黍草」とあり、中国の薬学書である『本草綱目』に、赤い色があるのは崑崙蔗と名があることが紹介され、荻蔗よりも茎と葉が大きく、節に赤色が多いという特徴が記されている。

 享保年間に浜御殿へ試植されたのは、両種のさとうきび、あるいは一方のさとうきびではなかったか!?

 当時のさとうきびが現存していない今、彩色図によって、江戸へ試植されたさとうきびの姿を想像するしか術はないが、それでも描かれたものが残っていてよかった。

 この頃の薬草・本草・産物学を推進、研究された先人らへ、頭が下がる思いである。

   《引用終了》

画像があるので、是非、見られたい。

 さて、今一つは、

「日本ローカーボ食研究会」の「砂糖についてのあれこれ(その3) 砂糖の歴史(中国編)」(安井医院・安井廣迪氏記)

である。全文を引用したい欲求に強く駆られるが、著作権を侵害するので、後半部を引かさせて戴く。

   《引用開始》

いずれにせよ、中国でも南のほうに産出したもののようです。また、これより後、サトウキビには、いくつかの種類があることが知られていきます。先に出てきた荻蔗もそうですが、そのほかに、竹蔗、西蔗、崑崙蔗などがあります。

『新修本草』の約50年後に、孟詵(621-713)が『食療本草』(710頃)という本を書いています。これは、食物を医学的に見てその効能を説いたもので、今で言う食事療法本のはしりと言えましょう。この本の中で、彼は次のように言っています。「甘蔗は、薬性は温で冷やさない。多く食べると心痛をおこし,長虫を生じ、体は痩せ歯を損ない,疳の虫を発する」。

孟詵は、医家であったばかりでなく、食事療法の専門家でもありましたので、食物の持つ特性を、通常の医者よりはるかに良く知っていたと思われます。この記載の中で、食べ過ぎると発症する疾患としてあげている「心痛」は冠動脈疾患かもしれませんし、「体は痩せ」は進行した糖尿病のようでもあります。何よりも「歯を損ない」は虫歯のこととしか考えられません。

食療本草の更に約50年後に書かれた 675-755)の『外台秘要』には、「口が渇いて水を多く飲み、小便も多く、脂がなく麸片に似ていて甘い味のするのは消渇である」と、糖尿病と思われる症候が記されていますが、砂糖との関係は述べられておらず、治療に甘蔗を用いる例として、「小便が赤く渋るものには、甘蔗を取り、皮を去り、汁を咀嚼し、これを咽にいれる。四絞り汁でもよい」と書いてあるだけです。

☆             ☆

 これらの本草書や医学書の記載は、その後の本草書に受け継がれ、図も添付されるようになりました。

時代は下り、宋の時代になって、1116(政和6)に曹孝忠らが刊行した『政和新修経史証類備用本草』(通称『政和本草』)には、甘蔗の形をよくとらえた絵が掲載されています。

[やぶちゃん注:ここに「『政和新修経史証類備用本草』より甘蔗の図」というキャプションを添えた画像がある。]

 明代になり、1596年に刊行が開始された李時珍(1518-1593)の『本草綱目』は、『神農本草経』や『新修本草』や、それ以降の本草書の記載をほとんど全て取り入れて増補し、それまでの経験を踏まえた総合的な記載を行っています。

たとえば、「甘蔗は脾の果である。その漿(搾り汁)の味は甘く性質は寒で、(体の中の)熱を冷ますことができる。煎じて練り固めて糖にすると、性質が温になって体の中の湿熱を助長する。古くから、甘蔗の搾り汁は、口渇をいやし酒の毒を解すると言われている。」と書かれています、ただ、「昔、孟詵は酒と一緒に食べると痰が体内に生じると言ったが、酒の毒を消し熱を除く効果があることを知らなかったはずは無い」と、ここでは孟詵の意見に疑問を投げかけている部分も見られます。

清代になると、臨床的に簡便に利用される本草書がいくつも書かれました。それれらは、ほとんどが『本草綱目』の内容のダイジェスト版で、新しいことはほんのわずかしかありません。たとえば、1757年に呉儀洛によって書かれた『本草従新』も同じようなものですが、この本には、白沙糖のほかに紫沙糖(絞り汁を煎じて紫黒色になるまで錬ったもの)の項が設けられ、ここには「血を和す」作用があると述べられています。具体的には、「産後に服用すると血が和し、悪露が自然にめぐる」と書いてあります。

☆             ☆

 砂糖はその原植物の甘蔗を含めて、『神農本草経』以来、近世まで一貫して薬物として取り扱われてきました。しかし、薬品としてもそれほど使われたわけではなく、食品としても、家庭での食材の1つとして、蜂蜜や椰子糖と同じように用いられていただけのようです。

現在の中国では、砂糖を薬物として考えることは、ほとんどなくなっています。中医薬大学で使用される教科書には、甘蔗も沙糖も掲載されておりません。

砂糖は、近世において、西洋世界では世界史を動かすほどの世界的商品であったのですが、中国はその動きには無頓着でした。中国の伝統菓子に甘いものがほとんど無いのが、それを物語っています。

甘い砂糖よりもっと良いものがあったということでしょうか。

   《引用終了》

安井氏は、冒頭で、『中国には、砂糖の原料となる甘蔗(サトウキビ)は古代から存在しました。中国に生育している甘蔗は、世界中で栽培されている』 Saccahrum officinalis 『ではなく、ほとんどがシネンセ種』 Saccarum sinensis 『というやや茎の細い種です(一部は』 Saccarum spontaneum 『の可能性あり)。やはりインドから伝わったようです』。『中国において現存する最も古い薬物書である』「神農本草經」『(紀元200年頃までに成立)には、甘蔗がすでに記載されていました』とあった。

 以上の二篇の引用から、中国では、遙か古い時代に、サトウキビの品種として、時珍が記した四種が認識されており、確かに、現代の「品種」相当のものであることが判る。もし、これらの時珍の示したそれらの「品種」のうち、現代の学名種に相当するものが存在することを御存知の方は、是非とも御教授されたい。

予告/「淸國輸出日本水產圖說」の電子化注を始動する事

現在、「和漢三才圖會」植物部のオリジナル電子化注は、凡そ三分の一強まで達しているが、私は植物に弱く、正直、最近は作業に精神的に苦痛を感ずることが多くなってきた。それは、私がフリークである海産生物に、このところ、全く御無沙汰していることが原因であることは明らかである。されば、新たに、極めて私向けの(まさに垂涎モノなのだ!)「淸國輸出日本水產圖說 上・下卷」(明治一九(一八八六)年刊)のオリジナル電子化注を新たに開始することに決した。これは私の鬱的状況の打破のためである。従って、開始時に三年ほどで完成させ得ると踏んだ植物部は、今よりも公開がスローになることを、ここに報告しておく。悪しからず。

底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこれだ! 画像も凄い!!!

2025/07/17

和漢三才圖會卷第第九十 菰果類 獼猴桃

 

Onimatatabi

 

さるもゝ  獼猴梨 藤梨

      陽桃  木子

獼猴桃

 

ミイ ペウ タ゚ウ

 

本綱獼猴桃生山谷中髙二三𠀋枝條柔弱多附木而生

葉圓有毛其實形如梨其色如桃生則極酸十月爛熟色

淡綠味甘美可食木皮堪作紙中子繁細其色如芥子深

山則爲猴所食故其子少淺山傍道則有子

子【酸甘寒】 解煩熱調中下氣

 

   *

 

さるもゝ  獼猴梨《びこうり》 藤梨

      陽桃 木子

獼猴桃

 

ミイ ペウ タ゚ウ

 

「本綱」に曰はく、『獼猴桃《びこうたう》は山谷の中に生《しやうず》、髙さ、二、三𠀋。枝-條《えだ》、柔-弱(やはら)かにして、多くは、木に附《つき》て、生ず。葉、圓《まろ》く、毛、有り。其《その》實、形、梨《なし》のごとく、其《その》色、桃のごとし。生《わかき》は、則《すなはち》、極《きはめ》て酸《すつぱ》く、十月に爛熟して、色、淡綠(《あはみど》り)、味、甘く美なり。食《くふ》べし。木の皮、紙に作《す》るに堪《たへ》たり。中の子《さね》、繁《しげ》く、細《こま》かにして、其《その》色、芥子《ケシ/からし》[やぶちゃん注:ここでは、アブラナ目アブラナ科アブラナ属セイヨウカラシナ変種 Brassica juncea var. cernua の種子を指す。当該ウィキによれば、『日本への伝来は弥生時代ともいわれ、平安時代である延喜年間』(九〇一年~九二三年)『編纂の』「本草和名」『や承平年間』(九三一年~九三八年)『編纂の』「和名類聚鈔」『に記載がある』とある。]のごとし。深山にては、則《すなはち》、猴《さる》の爲めに食らはらる故《ゆゑ》、其《その》子《み》、少《すくな》し。淺≪き≫山の傍《かたはら》≪の≫道[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、『村里近くの山道』とある。首肯出来る訳である。]にては、則《すなはち》、子、有り。』≪と≫。

『子【酸、甘、寒。】』『煩熱[やぶちゃん注:激しい発熱症状。]を解≪し≫、中《ちゆう》≪を≫調≪へ≫、氣を下《くだ》す。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、良安が評言を加えていないことから判る通り、本邦に自生しない、中国原産の、

双子葉植物綱ツツジ目マタタビ科マタタビ属オニマタタビ(鬼木天蓼) Actinidia chinensis

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした。太字は私が附した)。『中国原産の果樹・薬用植物である。蜂によって受粉する』。『別名はシナサルナシ(支那猿梨)』。『野生状態では、オニマタタビは茂みや密な森、里山、低木林地で生育する。オニマタタビは斜面を好み、標高』二百~二百三十『メートルまでの峡谷での生長も好む』。『オニマタタビの起源は、長江峡谷北部であると推測されている。現在の中国では、オニマタタビは南東部全域に分散している』。『植物体ではなくハーバリウム標本』(当該ウィキによれば、『(herbarium)は、植物学において保存された植物標本の集積(植物標本集)[やぶちゃん注:この太字はウィキ自体のものである。]を指す言葉である。こうした標本になっているのは、植物の個体全体または部分である。これらは乾燥処理が施され』、『台紙に貼り付けられたもの(押し葉標本)が通例であるが、素材によっては』、『アルコールや他の防腐剤に浸して保存されるもの(液浸標本)もある』とある)『がイギリスの』プラント・ハンター(Plant hunter):主に十七世紀から二十世紀中期にかけて、ヨーロッパで活躍した職業を指し、食料・香料・薬・繊維等に利用される有用植物や、観賞用植物の新種を求め世界中を探索した人々を指す)『であるロバート・フォーチュン』(Robert Fortune:一八一二年~一八八〇年:スコットランド出身の植物学者で商人でもあった。中国から、インドへ、チャノキ(茶の木)を持ち出したことで知られる。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい)『によって王立園芸協会へ送られ、そこからジュール・エミール・プランションが新属名を』一八七四『の』植物雑誌‘ London Journal of Botany ’『で命名した。ヴィーチ商会』(Veitch and Sons:イギリスのスコットランド出身の園芸業者ジョン・ヴィーチ(John Veitch:一七五二年~一八三九年)が一八〇八年頃に創立し、十九世紀を通じて、多くのプラント・ハンターを世界各地に派遣し、世界中の珍しい植物を蒐集・栽培した)『のために植物採集を行っていたチャールズ・マリーズ』(Charles Maries:一八五一年~一九〇二年:イギリスの植物学者で、ヴィーチ商会のプラント・ハンターとして活躍し、一八七七年と一八七九年に日本・中国・台湾で植物収集を行った。彼は五百種もの新種植物をイギリスに齎した人物である)『は日本でオニマタタビについて書き留めたが、西洋の園芸への導入は』、一九〇〇『年に湖北省で採集した種子をヴィーチ商会へ送ったアーネスト・ヘンリー・ウィルソン』(Ernest Henry "Chinese" Wilson:一八七六年~一九三〇年:イギリスの植物学者・プラント・ハンターで探検家。実に約二千種のアジアの植物を、ヨーロッパ・アメリカ合衆国に紹介し、約六十種に彼の名前が附された。屋久島の知られる現在の「ウィルソン株」を調査し、西欧に紹介したことでも知られ、後年、彼の名が冠された)『によるものである』。『クルミほどの大きさの果実は食用となる。初めて商業的に栽培されたのはニュージーランドであった。現在はActinidia deliciosa 』(=キウイフルーツ:kiwifruit)『に取って代わられている』。『オニマタタビは伝統中国医学で使用される』とあった。同ウィキにある「オニマタタビの果実」をリンクさせておく。現在のキウイフルーツの実とは、殆んど変わらないが、若干、縦方向が長めで、外皮上の毛がかなり密で、尖りも強いように見受けられる。

 次にウィキの「キウイフルーツ」を引く(注記号はカットした)。キウイフルーツ及び英語のkiwifruitは、『マタタビ科マタタビ属』Actinidia『の雌雄異株の落葉蔓性植物の果実である。また、マタタビ属のActinidia deliciosaを指して特にキウイフルーツとも呼ばれる。温帯の果樹で、秋に果実が実る。果実は産毛のような細かい毛が生えており、ビタミンCを多く含む。野生種のサルナシ』

(マタタビ属 Actinidia arguta var. arguta :私は実は、「本草綱目」の字起こしと訓読の最中には、安易に『この「獼猴桃」は本邦にある「猴梨」だろう』と思い込んでいた。この有力な思い込みは、既に終わったマタタビ Actinidia polygama 相当の「卷第八十四 灌木類 藤天蓼」や、「第八十七 山果類 梨」に出現していなかったからであった。同種は当該ウィキによれば、『日本列島、朝鮮半島、中国大陸などの東アジア地域、サハリンに分布し、日本では北海道、本州、四国、九州に分布するが、北海道や東北地方に多い。山沿いの平地から山地まで分布し、山地の沢沿いや林内に生え、樹上に絡まる。本州中部以南の温暖地では、概ね標高』六百『メートル』『以上の山岳地帯に自生する。日本の本州中部(長野県)では、標高』七百『から』千四百メートル『程度の沢筋から斜面上部まで分布する。寒冷な地域においては標高』百メートル『に満たない人里近く、いわゆる里山と呼ばれる領域にも自生する』とある。しかし、私は『良安が評言を加えていないのは、不審だな。』と思うに留まっているという大呆けをカマしてしまっていたのだった。吃驚したのは、訓読の参考に東洋文庫訳を見たところが、本文に『獼猴桃(マタタビ科キウイ)』とあったので、ビックリしたという為体であったのである

『の近縁にあたり、中国に分布するオニマタタビ(シナマタタビ)からニュージーランドで改良されて作出された栽培品種であり、ニュージーランドの国鳥キーウィに因んで名をつけられている』。『商業流通の歴史は浅く』、一九三四『年に』、『ニュージーランドが新しい果樹のキウイフルーツとして、中国原産の Actinidia deliciosa Actinidia chinensis の品種改良に成功』し、一九四七『年頃から商業栽培を開始し、世界各国で食べられるようになった果物である』。『「キウイフルーツ」という名称は、ニュージーランドからアメリカ合衆国へ輸出されるようになった際、ニュージーランドのシンボルである鳥の「キーウィ (kiwi)」に因んで』一九五九『年に命名された(果実と鳥の見た目の類似性から命名された訳ではない)。カタカナでは「キーウィーフルーツ」「キーウィフルーツ」「キウィフルーツ」などの表記も使用される』。『日本へは』昭和四一(一九六六)年『に、アメリカ合衆国から果菜』Vegetable Fruit『の一種として輸入され出回るようになった。また、日本でも栽培や独自品種の開発が行われており、花期は』五『月頃。耐寒性があり』、『冬期の最低気温』摂氏マイナス十度『程度の地域でも栽培が可能である。産地は温帯から亜熱帯で、熱帯果実ではない』。『 Actinidia deliciosa の最も一般的な栽培品種であるヘイワード種』( Actinidia chinensis var. deliciosa 'Hayward' )『の果実は、鶏卵程度の大きさを持つ楕円体で、皮が茶色く毛状の繊維に覆われている。この植物および果実自体もキウイ(またはキーウィー、キーウィ、キウィ)と略して呼ばれる場合がある。マタタビ』(ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygama )『に近縁であることから、幼木や若葉はネコ害を受けることもある』。『その他のマタタビ属の近縁種も「キウイ」という名称を利用して流通している。例: オニマタタビ( A. chinensis 、ゴールドキウイ、ゴールデンキウイ)、サルナシ( A. arguta 、ベビーキウイ、ミニキウイ)、シマサルナシ( A. rufa 、ミニキウイ)など』。『中国原産のオニマタタビ(鬼木天蓼、学名: Actinidia chinensis 、別名:シナサルナシ)が、南半球のニュージーランドで改良されたもの』である。『果樹として』馴染み『があり、庭木としても見られる落葉性の』蔓『性木本』で、蔓『は全体的に褐色の粗い毛が多く、太くなると樹皮は縦に』、『ひび割れる。枝の随には隔壁がある。花期は』五~六『月(日本の場合)。冬芽は褐色の毛に覆われていて互生し、隆起した葉痕上部の中に隠れて、先端だけが少し見えている半隠芽である。葉痕は円形や半円形で、維管束痕が』一『個つ』。『種としてのキウイフルーツは、以前は Actinidia chinensis (標準和名:オニマタタビ)という単一の種の下に変種がいくつかあるとされていたが』、一九八〇『年代に Actinidia deliciosa Actinidia setosa Actinidia chinensis の別々の種に分類された』。『 A. deliciosa A. chinensis の主な差異は植生の形態、花』、及び、『果実の形態、染色体の数である』。『 A. deliciosa の果実は表面が粗毛に覆われており、緑色果肉品種である。最も一般的に市販されているヘイワード種は A. deliciosa 種である。一方、A. chinensis の果実表面は』、『軟かい疎毛で覆われ(果肉は黄色いことが多いが、黄緑色や赤色が混じるものもある)』、二〇〇〇『年より販売の始まったゴールド・キウイ(ゼスプリ ゴールド、ホート16A種)は A. chinensis 種である』。以下、「栽培品種」の項だが、カットする。

以下、「栽培」の項。『日本での商業栽培は温州ミカンなど柑橘類の余剰対策の転作作物として始まった』。『専門知識がなくても比較的簡単に栽培ができ、苗は一般向けにホームセンターなどの園芸コーナーで容易に入手できる。雄雌を』一『株ずつ植え、藤棚を使い』、『蔓(ツル)を上手く』這『わせて栽培すれば』、十『月から』十一『月頃には果実が収穫できる。よく成長した株の場合、一株から約』千『個もの収穫を得ることもしばしばであるが、大量の結実は糖度が下がり』、『酸が増加することで食味を低下させてしまう。表年・裏年もあるので、人工授粉と実の大きさがピンポン球大の頃に、摘果を行うことが望ましい。収穫後は』三十~六十『日程度の追熟をさせると』、『食べられる』。

以下、「産地」の項。

『中国が原産地であるが、ニュージーランドで多くの新しい品種が作られた』。

『中華人民共和国』

『陝西省周至県 - 秦嶺山脈に産地が多い。西安に近い周至県では「中華獼猴桃」の名で、他の産地と比べて』、『かなり大振りのものも作られ、名産品となっている』。『河南省南陽市西峡県』は『原産地に近く』、三十『数種と多様な栽培種があるといわれる』。他に『湖南省』・『四川省』が挙げられてある。

『ニュージーランドにとっては外貨が獲得できる貴重な農産物であり、首相が自ら店頭でPRするなど国を挙げた販売戦略を行っている』。現在、『日本で出回っている輸入キウイフルーツの』九『割以上はニュージーランド産である』。

『日本』

『日本ではニュージーランド産やチリ産、アメリカ産の輸入品が通年流通しているが』、『国産品もあり、量が多くないが』、『愛媛県、福岡県、和歌山県、香川県などで栽培されている。国産は』十一月から四月頃に『出回る』。『なお、シマサルナシ』( Actinidia rufa )『が、紀伊半島東南部を東限として、四国の太平洋岸、淡路島東南部、九州の沿岸地域、山口県の島嶼部、南西諸島に自生分布しており、国外では朝鮮半島南部の島嶼部、台湾にも一部自生が報告されている。絶滅危惧種に指定されており、キウイフルーツには無いポリフェノールを含有していることから、三重県熊野市や御浜、紀宝両町では、新たなご当地フルーツとして産地化を図っている』。

以下の「利用」・「加工」「栄養価」の項はカットする。興味深いので「ネコとキウイの関係」は引く。『キウイフルーツはマタタビ科マタタビ属の植物であり、マタタビラクトンがネコの鼻の奥にある「鋤鼻器」(じょびき:英語:vomeronasal organ:四肢動物が嗅上皮とは別に持つ嗅覚器官。私には動物生物学の「ヤコブソン器官」(Jacobson's organ)の方が親しい)『というフェロモンを感じる器官』(ヒトにもあるが、現在は全くと言っていいほど機能しなくなってしまった)『を通じ、ネコを興奮させるため、キウイフルーツの木には』、『しばしばネコが集まる。マタタビラクトンを嗅いだネコの反応は、床を転げまわる、走り回る、攻撃的になる、よだれを垂らす、眠くなるなどがある。特に去勢前のオスネコは、過剰に反応を起こすことがある。市販されているキウイフルーツに含まれるマタタビラクトンは微量であるため、キウイフルーツを食べてマタタビと同じ反応をするネコと、全く反応しないネコもいる』。

以下の「ソラレンを含むというデマについて」は引いておく。『キウイフルーツ果実にソラレン』(プソラレン(Psoralen))『という光毒性物質』(当該ウィキを見られたい)『が含まれるとする記事がネット上に散見されるが、これはメディアが拡散した何の根拠もないデマであり、現在では否定されている。この誤情報の大本は』、二〇一一『年に三空出版から刊行された一般向けの書籍であった。三空出版では、この記述に根拠がなかったことを認め、書籍中の記載を削除するとともに、ホームページ上に公式にお詫びと訂正を掲出している』。『この誤った情報を』二〇一五年七月二十七日『に放送されたTBSのバラエティ番組がエビデンス』(科学的根拠)『の確認を怠ったまま紹介したため、ウェブサイト等を通じて一気にデマが拡散した。その後、日本テレビやテレビ朝日、その他のテレビ局の番組でも、やはりエビデンスの確認を行わないまま』、『同様の情報を紹介したため、誤情報がさらに広まった。この経緯については、駒沢女子大学のサイト』(ここ)『に詳しく記されている』。『キウイフルーツにソラレンが含まれることを示す学術的な資料は』、『どこにも示されていない。唯一それらしい記載がされていた』『記述についても、日本ビタミン学会は正式にその誤りを認め』、二〇二一『年発刊の同雑誌』に於いて、『ソラレンを含む果物から「キウイの記載を削除する」との訂正がなされている』。『さらに、主要な商業栽培品種であるグリーンキウイ(ヘイワード種)やサンゴールドキウイ(ZESY002種)の果実を用いた実験によって、これらの果肉からも果皮からもソラレン類(ソラレン、5-メトキシソラレン、8-メトキシソラレン、アンゲリシン)が一切検出されないことが報告されている』。

以下の表記・呼称」については、私は必要と判断したものだけをチョイスした。

日本では、『食物アレルギーの原因となることがあるので、この果物を使用した加工食品では、それを表記することを厚生労働省の通知により「特定原材料に準ずるもの」として推奨されている。その厚生労働省の通知では、「キウイフルーツ」と表記されている』私は、二十年程前に、突然、ウルシにかぶれるようになった。その折り、ウルシオールと類似したマンゴール――マンゴーはそれまで私の大好物だった! 特にマンゴーが旨いのだ!――は皮膚科の医師から「絶対、ダメ!」と言われ、さらに、自身で、いろいろ調べたところ、類似した発症機序を示すことがあるキウイフルーツの例を論文で発見し、その皮膚医師に訊ねたところ、今一つそれは知らなかったようだったが、「まあ、気になるなら、避けた方がよろしいでしょう。」と言われた。連れ合いは、温泉やホテルに泊まる際には、必ず、それを伝えるようになり、高価な漆塗りの食器まで、全部、換えられてしまうようになった。「ウルシ、憎シ!」である)。

以下、「中国語での表記・呼称」の小項目。

原産地の中国では、古くから自生のシナサルナシ(支那猿梨)を指す語としては「獼猴桃」(びこうとう。拼音:míhóutáo ミーホウタオ)が一般的であり、李時珍の』「本草綱目」『に収載されるなど、生薬の名としても使われた。現在でも中国本土では、栽培品のキウイフルーツもこの語で指すのが一般的である。「獼猴」はアカゲザル』(霊長目 Primateオナガザル科オナガザル亜科マカク属アカゲザル Macaca mulatta 当該ウィキによれば、『アフガニスタン東部からインド北部、中国南部(海南省南湾猿島自然保護区など)にかけて分布する。原産地では、森林、湿地林、標高』三千メートル『近くの山など幅広い環境に生息している』。『日本では』、一九六〇『年代に千葉県県南地域の私営観光施設で飼育されていた本種が施設の閉鎖に伴い逃げ出し、野生化したものが』一九九五『年から千葉県房総半島で確認されて』おり、『近縁なニホンザル』(本国の唯一の在来の猿であるマカク属ニホンザル Macaca fuscata )『との交雑が』二〇〇四『年に確認され』ており、深刻な遺伝攪乱が問題視されている)『を意味し、サルが好んで食べる果実という命名である』。『一方、香港や台湾で栽培品のキウイフルーツを指す語は、kiwifruit の音訳である「奇異果」(広東語:ケイイークオ、台湾語:キーイーコー。中国語:チーイーグオ 拼音: qíyìguǒ)が一般的であり、台湾では「幾維果」(拼音: jǐwéiguǒ ジーウエイグオ)の名もある。ほかに「陽桃」(「羊桃」「楊桃」とも。拼音: yángtáo ヤンタオ。スターフルーツまたはヤマモモを指すこともある語)、「毛梨」(拼音:máolí マオリー)、「藤梨」(拼音:ténglí トンリー)の語がある』とある。

 最後に。昔の若い同僚の国語教師は、「キウイフルーツを車置き場の上に棚を作っている人をよく見かけますが、熟した果実の果汁が垂れると、車の塗装が侵されるんですよ。」と教えて呉れた。しかし、今回、ネットで調べても、そういう注意喚起は、一切、見当たらなかった。……しかし、私は、どうも……彼の謂いは、これ、腑に落ちるように今も思うのである……如何?

 なお、「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十三」の「果之五【蓏類九種内附一種】」の「蘡薁」([081-11b]以下)のパッチワークである。短いので、以下に手を入れて示す。

   *

獼猴桃【宋開寶】

 釋名獼猴梨【開寶】藤梨【同上】陽桃【日用】木子【時珍曰其形如梨其色如桃而獼猴喜食故有諸名閩人呼爲陽桃】

 集解【志曰生山谷中藤暑樹生葉圓有毛其實形似雞卵大其皮褐色經霜始甘美可食皮堪作紙宗奭曰今陜西永興軍南山甚多枝條柔弱高二三丈多附木而生其子十月爛熟色淡綠生則極酸子繁細其色如芥子淺山傍道則有子者深山則多爲猴所食矣】

 實氣味酸甘寒無毒【藏器曰鹹酸無毒多食冷脾胃動洩澼宗奭曰有實熱者宜食之太過則令人臟寒作洩】主治止暴渴解煩熱壓丹石下淋石熱壅【開寶和詵曰並宜取瓤蜜作煎食】調中下氣主骨節風癱緩不隨長年白髪野雞內痔病【藏器】

 藤中汁氣味甘滑寒無毒主治反胃和生薑汁服之又下石淋【藏器】

 枝葉主治殺蟲煮汁飼狗療【開寶】

   *

「獼猴」「猿猴」と同義(「猴」も広義のサルの意)だが、「獼」は「猿」と差別化する場合は「大猿」の意である。

2025/07/16

和漢三才圖會卷第第九十 菰果類 蘡薁

 

Ouiku

 

くさぶだう  山葡萄 燕薁

 ゑびつる  野葡萄 嬰舌

蘡薁    藤名木龍

       【俗吾由美

ごゆみ     又云衣比豆留】

[やぶちゃん注:「ゑびつる」はママ。]

 

本綱蘡薁野生蔓葉花實與葡萄無異其實小而圓色不

甚紫也冬月惟葉凋而藤不死其莖吹之氣出有汁如通

草也其子堪作酒【甘酸平】止渴悅色益氣

△按野葡萄子亦熟紫黒人好釀酒

 

   *

 

くさぶだう  山葡萄 燕薁《えんわう》

 ゑびつる  野葡萄 嬰舌《えいぜつ》

蘡薁    藤《つる》を「木龍《もくりゆう》」と名づく。

       【俗、「吾由美《ごゆみ》」。

ごゆみ     又、云ふ、「衣比豆留《えびづる》」。】

[やぶちゃん注:「ゑびつる」はママ。]

 

「本綱」に曰はく、『蘡薁《あうおく》は、野生す。蔓・葉・花・實、葡萄と異《ことな》るこよ無く、其の實、小《せう》にして、圓《まろ》く、色、甚≪だには≫紫ならざるなり。冬月、惟《ただ》、葉、凋《しぼ》みて、藤《つる》、死(か)れず。其≪の≫莖、之≪を≫吹けば、氣《かざ》[やぶちゃん注:匂い。]、出《いで》て、汁、有《あり》て、通草[やぶちゃん注:双子葉植物綱キンポウゲ目アケビ科 Lardizabaloideae 亜科Lardizabaleae連アケビ属アケビ Akebia quinata 。本邦でも、この異名があるが、中国語でも、漢方でアケビの木質茎を指す語としてあるので(「維基百科」の「通草」を見よ)同種を指すと断定出来る。後注も参照のこと。]のごとし。其≪の≫子、酒に作るに堪《たへ》たり【甘、酸、平。】。渴≪き≫を止《とめ》、色を悅《よろこ》ましめ[やぶちゃん注:精力を増強させ。]、氣を益す。』≪と≫。

△按ずるに、野葡萄の子も亦、熟すれば、紫黒≪たり≫。人、好《このん》で、酒に釀(つく)る。

 

[やぶちゃん注:実は大呆ケして、前の「葡萄」の注で、本種の注を、ビッちりとヤラかしてしまった。かと言って、「そちらをご覧あれ」では、如何にも「蘡薁」さんに気の毒だ。されば、煩を厭わず、仕切り直す。前のコピー・ペーストではなく、記事を新規追加し、新たな勘案を施してあるので、しっかり読まれたい。

 而して、まず、★良安の言っている本種は、

日本・朝鮮半島、中国の東アジア地域に分布し、日本では本州・四国・九州に分布する、

ブドウ属エビヅル Vitis ficifolia

である。

 以下、ウィキの「エビヅル」を引きながら、新たに厳密な再考証をする(注記号はカットした)。漢字表記は『蝦蔓・蘡薁』で『雌雄異株』。『和名「エビヅル」は』蔓『性の植物で、実が』、『エビの目に似ていることから名付けられている』。『古名はヤマブドウとともに「エビカズラ」(葡萄蔓)、「エビ」とはブドウの古名である』。★『ただし、中国では「蘡薁」は Vitis adstricta 』(☜)『という別の野生ブドウを指す。学名に Vitis ficifolia を使われることが多いが、Vitis ficifolia のタイプ標本は中国の桑葉葡萄につけられたもので、桑葉葡萄とエビヅルでは形態的な違いも大きい』とある。

 ★従って、時珍の指すものは、実はエビヅルではない可能性が極めて高いのである!

そこで調べてみた。邦文ではダメなので(従って、和名はない)、英文ウィキを用いたところ、発見した。英文の「 Vitis bryoniifolia がそれだ。そこでは、

学名を“ Vitis bryoniifolia ”と掲げるが、

その“Synonyms”に、八つのシノニムを掲げる、その筆頭に、

 Vitis adstricta Hance

とある! 以下、英文を見るに、本種『は、中国原産で、多産で、適応力に優れ、雌雄異株のブドウ科植物である。中国では「蘡薁」』、『又は「華北葡萄」』『として知られる。変種である ternata は「三出蘡薁」』『として知られ、「三つの穂の葉を持つ蘡薁」を意味する』。『 Vitis bryoniifolia は、森林・低木地帯、或いは、特に小川沿いの樹木が生い茂る野原や谷など、樹木が定着した様々な植生地に見られる。標高百~二千五百メートルの高地と低地の両方に植生している。生育期は長く、四~八月にかけて開花し、六月~十月にかけて、薔薇色でプラム色の果実(直径五~八ミリメートル)をつける。分布域も広く、中国の二十七省・自治区の内、十五省・自治区(安徽省・福建省・広東省・広西チワン族自治区・河北省・湖北省・湖南省・江蘇省・江西省・陝西省・山東省・山西省・四川省・雲南省・浙江省)で確認されている。伝統的な中医学では、下剤として古くから用いられてきた。』とある。

 そこで、この学名で「維基百科」を調べたところ、正に正当な「蘡薁」の標題で、

Vitis bryoniifolia

とあって、『中国各地に分布する葡萄科の落葉性蔓植物である。果実は醸造酒の原料となり、枝葉は漢方薬として用いられる。中薬名は「野葡萄藤」[やぶちゃん注:この「藤」は前回の項で私が注した通り、植物のフジではなく「蔓」(つる)の意である。]で、主に排尿障害の治療に用いられる。』とあった。

 以下、本邦の「エビヅル」の引用に戻る。

『日本、朝鮮半島、中国の東アジア地域に分布し、日本では本州、四国、九州に分布する。山地や丘陵地に』普通『に』見『られる』。『落葉』蔓『性の木本で、他の木本などに巻きひげによって上昇する。巻きひげは』、『茎に対して葉と対生するが』、二『節ずつついていて』、三『節目ごとに消失しているが、これで他の植物に絡まる。葉には葉柄があり、形は扁卵形で長さ』五~八『センチメートル』で、三~五『裂し、葉裏にはクモ毛』(前回、私が推定したのは「蜘蛛毛」である)『とよばれる長い毛がある。葉の先が丸くなるのが特徴。秋には赤色から橙色に紅葉することが多いが、やや地味』である。『花期は』六~八『月で』、『雌雄異株。花序は総状円錐花序で長さ』六~十二センチメートル『になる。花は小さく、雄花、雌花ともに黄緑色で花序に密集する』。『秋には直径』五~六『ミリメートル』『の果実がブドウの房状に黒紫色に熟し、甘酸っぱい味があり』、『食べることができる。しかし、果汁にエビヅル臭という青臭い』「におい」『を有するため、果実品質の評価は一般に低い。花は、新』しい『梢が伸長すれば』、『何度も着花するため、同一樹に、様々なステージの果実が着生する』。『果実は生食、ジャムやジュースに加工して利用できる。また、葉を乾燥し、葉の裏のクモ毛をモグサ代わりに利用する。最近では、リュウキュウガネブの葉から抽出したエキスを含有した化粧水が市販されている。葉エキスの主成分はレスベラトロール』(resveratrol:(3,5,4-トリヒドロキシ-トランス-スチルベン/C14H12O3):天然フェノール又はポリフェノールの一種であり、ファイトアレキシン(phytoalexin:複数の植物が傷害を受けた際や、病原体による攻撃を受けた際に生成する物質)である。赤ワインに含まれ、心血管関連疾患の予防効果が期待されており、また、その寿命延長作用が、諸実験動物の研究で報告され、マウスの寿命を延長させる成果が報告され、種を超えた寿命延長作用を持つとして大きな注目を集めてはいる。研究では寿命延長・抗炎症・抗癌・認知症予防・放射線による障害の抑止・血糖降下や、脂肪の合成や蓄積に関わる酵素の抑制等の効果が報告されている。但し、現時点では、ヒトの疾患に実質的な効果があるという証拠はない。以上はウィキの「レスベラトロール」に拠った)『である。またエビヅルの実を入浴剤として利用する地域がある』。以下、途中で挙げられてある「変種」を示しておく。

シチトウエビヅル Vitis ficifolia var. izu-insularis(七島蝦蔓:『葉が大型になり』、『浅』く『三裂し』、『先端がとがる。伊豆七島に分布する』)

キクバエビヅル Vitis ficifolia var. sinuata (菊葉蝦蔓:『本州南部、四国、九州に分布する。葉の裂刻が深い』)

リュウキュウガネブ  Vitis ficifolia var. ganebu (琉球葡萄:『八重山、琉球、奄美諸島、トカラ列島に自生する。葉は無裂刻』。『リュウキュウガネブは、エビヅルと同一種とする記述もいくつか見られる。さらに、シチトウエビヅルと葉の形態が似ているため、リュウキュウガネブとシチトウエビヅルを同一種とすべきだとの意見もあるが、リュウキュウガネブは他のエビヅル近縁種と異なり、芽が無休眠性を示すなどの生態的な差異が大きい。また、最近ではリュウキュウガネブ』の『果皮に含まれるアントシアニンの種類と量が多いことから、その機能性が注目されている。ちなみに「ガネブ」とは九州地方の方言で、ブドウの意味である』)

なお、『対馬に分布するケナシエビヅルは「エビヅル」という名前が付いているが、 Vitis austrokoreana Hatusima の学名が付けられていて、エビヅルとは別種となっている。しかし、詳しいことはよくわかっていない』とある。

 なお、「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十三」の「果之五【蓏類九種内附一種】」の「蘡薁」([081-10a]以下)のパッチワークである。

「通草」双子葉植物綱キンポウゲ目アケビ科 Lardizabaloideae 亜科Lardizabaleae連アケビ属アケビ Akebia quinata 。本邦でも、この異名があるが、中国語でも、漢方でアケビの木質茎を指す語としてあるので(「維基百科」の「通草」を見よ)同種を指すと断定出来る。なお、私の大好きなアケビ(向かいの寺の墓地の数多い高木にあるのを、可愛がって呉れたお兄さんが、よく採ってきて呉れたのだ)は「和漢三才圖會」では、ずっと後の「卷第九十六」「木通」に出る。偏愛するものだし、かなり先なので、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部をリンクさせておく。]

2025/07/15

和漢三才圖會卷第第九十 菰果類 葡萄

 

Budou

 

[やぶちゃん注:栽培用の架(たな)が描かれてある。]

 

ぶだう  蒲桃 草龍珠

     【和名衣比加豆良

葡萄    乃美】

 

 ゑびかづら

プウ タ゚ウ

 

本綱葡萄漢張鶱使西域還始得此種而神農本草已有

葡萄則漢前隴西舊有伹未入關耳淮南不植葡萄亦如

橘之變于河北也

折藤壓之最昜生春月萠苞生葉頗似括樓葉而有五尖

生鬚延蔓引數十𠀋三月開小花成穗黃白色仍連着實

星編珠聚七八月熟有紫白二色其根莖中空相通暮漑

其根而晨朝水浸子中矣甘草作釘鍼葡萄立死以麝香

入葡萄皮內則葡萄盡作香氣其愛憎異于他木又葡萄

架下不可飮酒恐蟲屎傷人

圓者名草龍珠 長者名馬乳葡萄 白者名水晶葡萄

黑者名紫葡萄 綠葡萄熟時色綠 珀瑣葡萄大如五

 味子而無核

葡萄實【甘平濇】 益氣倍力強志利小便痘瘡不出食之可

【甘而不飴酸而不酢冷而不寒味長】属土有水與木火【東南人多食病熱西北人食之無恙】

△按葡萄甲州之產顆大而味甚佳駿州次之河州富田

 林村之產亦次之北國希有之取新熟者拭浄盛桶向

 下埀不相捎密封在髙𠙚以防風濕則宜超歳

古今醫統云葡萄樹宜濕地米泔澆之作架引蔓根旁以

草束唯避蛇蟲怕麝香一法種近棗樹春鑚棗樹作一孔

引葡萄枝從孔中過伺其大塞滿棗樹竅而後截使托棗

生實大而甘美【托者斥開也】蓋愛麝香與怕之異說有

 

   *

 

ぶだう  蒲桃《ぶだう》 草龍珠《そうりゆうしゆ》

     【和名「衣比加豆良乃美《えびかづらのみ》」】

葡萄

 

 ゑびかづら

プウ タ゚ウ

 

「本綱」に曰はく、『葡萄は、漢の張鶱《ちやうけん》、西域に使《つかひ》して、還《かへり》て、始《はじめ》て此の種を得たり。「神農本草」に、已に「葡萄」、有り。則《すなはち》、漢より前に、隴西《らうせい》には、舊(もと)、有りて、伹《ただ》、未だ關≪中≫《くわんちゆう》に入《い》らざるのみ。淮南《わいなん》に葡萄を植へ[やぶちゃん注:ママ。]ざる≪のみなり≫。亦、橘《きつ》の、河北に≪ては≫變ずるなり。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「張鶱」(?~紀元前一一四年)は前漢の軍人・外交官。本貫は漢中郡城固県。小学館「日本国語大辞典」に、『武帝の時、匈奴を牽制するため』、紀元前一三九年頃、『大月氏と同盟を結ぼうと出発』、『同盟は不成立だったが、大宛、大月氏、大夏などをまわり、のちに烏孫にも使』い『して、西域への交通路と知識を中国にもたらした。また、その間、匈奴征伐に従って功をたて、博望侯に封ぜられた』(その翌年に没した)とある。当該ウィキが詳しい。先行する「卷第八十七 山果類 石榴」(ザクロ)や「第八十七 山果類 胡桃」(クルミ属)でも、彼が中国に齎したことが記されてある。

「神農本草」漢代に書かれた最古の本草書「神農本草經」のこと。

「關≪中≫《くわんちゆう》」現在の陝西省。

「淮南《わいなん》」淮河の南の地方。淮河以南、揚子江以北の地を指す。]

『藤《つる》[やぶちゃん注:植物のフジではなく、蔓性植物の総称で、単に「蔓」をも指し、本邦では「つる」「かづら」とも読む。ここは東洋文庫訳のルビを採用した。]を折《をり》て、之≪を≫壓(さ)して、≪植うること、≫最《もつとも》、生(つ)き昜《やす》し。春月、萠苞《まうはう》[やぶちゃん注:植物の莟(つぼみ)を包む苞(ほう)が、未だ完全に開いていない状態を言う。]、生ず。葉、頗る括樓《クワツラウ》[やぶちゃん注:皆さんお馴染みの、私の好きな双子葉植物綱スミレ目ウリ科カラスウリ属カラスウリ Trichosanthes cucumeroides ]の葉に似て、五《いつつ》≪の≫尖《とがり》、有り。鬚《ひげ》を生≪じ≫、蔓を延(ひ)きて、數《す》十𠀋に引く。三月、小≪さき≫花を開き、穗を成す。黃白色、仍《より》て、實を、連《つらな》り、着《つ》く。星の如くに[やぶちゃん注:「如」は送り仮名にある。]、編《あ》み、珠の如くに[やぶちゃん注:同前。]聚《あつま》る。七、八月、熟す。紫・白の二色、有り。其≪の≫根・莖、中空にして、相《あひ》通ず。暮《くれ》にして、其≪の≫根に≪水を≫漑(そゝ)げば、而≪して≫、晨-朝(あした)、水、子《み》の中に浸《しん》す。甘草《かんざう》[やぶちゃん注:カンゾウの木部化した根及びストロンを指す。]を、釘《くぎ》に作り、葡萄に鍼《さ》すれば、立《たちどこ》ろに死す。麝香《じやかう》[やぶちゃん注:私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を見よ。]を以《もつ》て、葡萄の皮の內《うち》に入《いるる》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、葡萄、盡《ことごと》く[やぶちゃん注:送り仮名に踊り字「〱」がある。]、香氣を作《な》す。其≪の≫愛憎、他≪の≫木に異《ことなる》なり。又、葡萄の架(たな)の下にて、酒を飮むべからず。恐らくは、蟲≪の≫屎、人を傷《きずつく》る≪ならん≫。』≪と≫。

『圓《まろ》き者を「草龍珠」と名づく。』・『長き者を「馬乳葡萄」と名づく。』・『白き者を「水晶葡萄」と名づく。』・『黑き者を「紫葡萄」と名づく。』・『「綠葡萄」は熟する時、色、綠なり。』・『「瑣瑣《ササ》葡萄」は大いさ、五味子のごとくして、核《さね》、無し。』≪と≫。

[やぶちゃん注:中黒(「・」)は私が添えた。]

『葡萄の實【甘、平、濇《しぶし》。】』『氣を益し、力を倍して、志《こころざし》を強《つよく》す。小便を利し、痘瘡≪の內(うち)籠りて≫出《いで》ざるに、之≪を≫、食ふべし【甘にして、而れども、飴(あま)たるからず[やぶちゃん注:「飴(あめ)のような甘さではない」の意であろう。]、酸《すつぱく》からず。冷《れい》にして、寒《かん》ならず。味、長《ちゃう》ず[やぶちゃん注:「優れている」の意であろう。]。】。土《ど》に属して、水《すい》と、木《もく》・火《くわ》と有り[やぶちゃん注:五行の「金(ごん)」以外の四つの性質を合わせ持つことを言う。]【東南の人、多食≪せ≫ば、熱を病《や》む。西北の人、之れを食しても、恙《つつが》が無し。】。』≪と≫。

△按ずるに、葡萄、甲州の產、顆(つぶ)、大にして、味、甚《はなはだ》、佳し。駿州、之≪に≫次ぐ。河州《かはち》富田林村《とんだばやしむら》の產、亦、之≪に≫次ぐ。北國には希《まれ》に、之、有り。新《あらた》に熟する者を取《とり》て、拭-浄《ぬぐひきよめ》、桶《をけ》に盛り、下に向《むけ》て、埀《たら》して、相《あひ》捎(す)らせず[やぶちゃん注:互いの実が擦れ合わぬようにして。]、密封して、髙き𠙚に在(あ)らしめ、以《もつて》、風濕を防ぐ時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、宜しく、歳《とし》を超《こ》すべし。

「古今醫統」に云はく、『葡萄の樹、濕地に宜《よろ》し。米泔(しろみつ)[やぶちゃん注:米の研ぎ汁。]を之≪に≫澆《そそ》ぎ、架(たな)を作《つくり》て、蔓を引かしめ、根の旁《かたはら》に草≪の≫束《たば》を以《もつて》す。唯《ただ》、蛇・蟲を避《さけ》て、麝香を怕《おそ》る≪べし≫。一法、種《うう》るに、棗《なつめ》の樹に近くすて、春、棗の樹を鑚(き)りて、一≪つの≫孔《あな》を作《つくる》。葡萄の枝を引《ひき》、孔の中より、過《すぐ》し、其≪の≫大(ふと)さ、棗の樹の竅を塞《ふさ》ぎ、滿《みつ》るを伺《うかがひ》て、而して後、截《きり》て、棗を托(の)けしむれば、實を生《しやうじ》、大にして、甘く、美なり。』≪と≫【「托」は、「斥(しりぞ)け、開《ひらく》」なり。】。蓋し、『麝香を愛する』と、『怕(をそるゝ)』の異說、有り。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱ブドウ目ブドウ科ブドウ属 Vitis

で、ウィキの「ブドウ」「分類」の項の「東アジア種群」を見るに、

「本草綱目」での記載は、中国の北方の代表的種である基本種のブドウ属マンシュウヤマブドウ(満洲山葡萄)であるヴィティス・アムレンシス Vitis amurensis

としてよいように思われる。★注意が必要なのは、本種を中国では「山葡萄」とすることである(「維基百科」)の同種を見よ!)。しかし、後に示す本邦に自生する別種「ヤマブドウ」を「山葡萄」と漢字表記するからである!★)まず、その当該ウィキを引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した。他のウィキでも同前)。『別名はアムールブドウ、チョウセンヤマブドウ』。『落葉性木本蔓植物。若い枝には』『くも毛』(ネット上の信頼出来る諸記載や国立国会図書館デジタルコレクションの植物学関連書籍でも「くも毛」であるのだが、どうも「雲毛」ではなく、「蜘蛛毛」であるようだ。漢字表記の記事は、例えば、サイト「Green Snap」のここ『があり、巻き髭がある。楕円形の大きな葉には』三『から』五『ヶ所の切れ込みと、柄元に窪み、表面は滑らかだが』、『裏面には毛が生えている。夏に開花し、雌雄異株、円錐花序。果実は黒色である。また他の多くの葡萄品種とは異なり年間降雨量が』七百ミリ『上の湿潤気候と軽度の酸性土壌を好む。また』、『幾つかの病気やブドウネアブラムシ』(カメムシ目腹吻亜目アブラムシ上科ネアブラムシ科 Daktulosphaira 属ブドウネアブラムシ(葡萄根油虫:ダクティラスファエラ・ヴィティフォリエ) Daktulosphaira vitifoliae )『に対しての耐性を持つ』。『ロシアのアムール州、沿海州、中国の黒龍江省、安徽省、遼寧省、浙江省、吉林省、山西省、山東省、河北省 に自生し、標高』二百『メートルから』千二百『メートルの地域の、山の斜面や渓谷の林や藪に多く見られる。かつて言われていた北海道での自生は誤認だとわかり、ヤマブドウの』一『系統かタケシマヤマブドウVitis coignetiae var. glabrescens だと考えられている』。『マンシュウヤマブドウには』四『つの変種がある』。

Vitis amurensis var. amurensis

Vitis amurensis var. dissecta(深裂山葡萄)

Vitis amurensis var. yanshanensis(燕山葡萄)

Vitis amurensis var. funiushanensis(伏牛山葡萄)

『マンシュウヤマブドウは栽培品種として広く利用されており、一般的にはサンクトペテルブルクを限界とするヨーロッパロシア北部まで栽培されている。旧ソ連の研究機関において耐寒性や病気への耐性賦与のため、他の多くの葡萄品種(主にヨーロッパブドウ)との交雑品種が生み出され、ワインや生食用として生産されており、葉も食用として利用されるほか、黄色の染料用途でも使用される。西欧でも栽培されている交雑種』もある。『初の商業栽培は満洲国通化省においてワインの醸造用に行われた』とある。但し、ウィキの「ブドウ」によれば、『アジア大陸には中国を中心に、約』四十『種の野生ブドウが確認され、日本の野生ブドウと同種または近縁種も確認されている』とある。

 一方、日本に分布する種については、同じくウィキの「ブドウ」「分類」の項の「東アジア種群」によれば、

ヤマブドウ(山葡萄:ヴィティス・コワネティアエ)Vitis coignetiae

シラガブドウ(白神葡萄(☜要注意!) :ヴィティス・シラガイ)Vitis shiragai

を挙げられてある。

 まず、ウィキの「ヤマブドウ」によれば、『野生ブドウの代表格として知られる。果実は小粒で生食されてきたが、近年、ワイン、ジャム、ジュースの原料として活用する動きがある。従来、野山で自生しているものを収穫して利用していたが、岩手県など圃場での栽培を始める地域がみられ始めた』。『日本語』の『古語ではエビカズラと言い、日本の伝統色で山葡萄の果実のような赤紫色を葡萄色(えびいろ) と呼ぶのはこれに由来している』。『和名「ヤマブドウ」は山葡萄の意味で、中国大陸から日本に伝わったブドウ(葡萄)の語源は中国音のブータオ、さらに古代ペルシア語の Buddaw の古代中国における当て字からきているといわれる。別名や地方名で、オオエビヅル、サナヅラ、ヤマブンドなどとよばれている。古くは、ヤマエビエビカズラオオエビツルエビなどとよばれ、ブドウ渡来以前のヤマブドウの呼び名とされる。「エビ」は葡萄の古語とされる』。『ヤマブドウは、東アジア北東部に分布するチョウセンヤマブドウ(別名マンシュウヤマブドウ、学名: Vitis amurensis )の変種であるとする分類上の意見もある』。『冷涼地に自生する野生種で、樺太(サハリン)、南千島、日本の北海道・本州・四国、および韓国の鬱陵島に分布する。山地の林縁や沢沿いに自生する。寒い地方に多く』、一般の『ブドウより耐寒性は強い』。『落葉』蔓『性の木本』。髓『は褐色で、若い枝や葉にはくも毛がある。太い蔓(つる)で他の樹木に絡みつき、葉の反対側から対生して伸びる巻きひげで、他の植物に巻き付きながら高く伸びて、覆い隠すほど生長する。樹皮は暗紫褐色で、縦に長く裂けて剥がれる。若い枝には綿状の毛がまばらに生えている』。『葉は長い柄がついて互生し、大型で』十~三十センチメートル『大の柄元に窪みのある五角形様の円形やハート形。葉身は浅く』三~五『裂して先は尖り、基部は』ハート『形。若いときの葉の表面にクモ状の毛があり、果期のころ葉裏面に茶褐色の毛が密に生える。秋には濃い赤色から橙色に紅葉し、時が経つと黒っぽく変色する。ブドウ科』Vitaceae『のなかで最も葉が大きいため、紅葉も他の木々より早く色づくことからよく目立つ』。『花期は初夏(』六~七月頃)』で、『花は葉に対生する円錐花序を出して、黄緑色の小花が多数つく。萼(がく)は輪形で、花弁および雄しべは』五『つ、雌しべは』一『つからなる。雌雄異株で、雌しべは健全であるが、発芽能力のない花粉しか持たない雄しべを有する雌花(正確には機能的雌花)しか咲かない雌株と』、『発芽能力のある花粉を持つ雄しべは有するが、雌しべの柱頭および花柱が退化しているため、受粉・受精ができない雄花(正確には機能的雄花)しか咲かない雄株に分かれる』。『果期は』十月頃。『果実は液果で、雌株のみに着生し、雄株は花粉提供のみである。マスカットなどの栽培品種と違って』、一『樹だけでは果実が成らない。そのため、雌木と雄木を混植する必要がある。雌花の花粉は空虚花粉ではなく、細胞質が詰まっており核も存在するが、発芽溝がないために花粉発芽ができない。そのため、訪花昆虫は雌花の蜜のみではなく花粉を食べるために訪花する。また、雄花の退化した子房内には胚珠が存在し、開花の』二『週間前くらいに植物ホルモン処理をすると、退化雌蕊が発達して両全花(両性花)になり、自家受粉して種子が得られることが知られている』。『果実は直径』八~十『ミリメートル』『ほどの球形で房状に下がり、未熟果は緑色であるが』、『秋に熟して黒紫色になる。甘酸っぱく、生食でき、一般のブドウに比べると種子は大きく、酸味が強いが霜に当たるころには甘くなり、クマが好んで食べる。品質は安定しないが、日本の在来種として見直す動きがある』。『冬芽は互生し、暗褐色で無毛の芽鱗に覆われた円錐形で、芽鱗が破れると中から褐色の毛見える。葉痕は半円形で、維管束痕は不明瞭』。『変種に、葉の裏面が無毛に近いタケシマヤマブドウ Vitis coignetiae var. glabrescens がある』。『日本では近年、ワインの原料としても注目されており、他種との交雑など品種改良の動きも見られる。また、韓国の全羅北道では製品化されている』。『果実は生食のほか、ジャム、ジュースなどに利用される。また、実を乾燥させ、ドライフルーツ(干し山葡萄)としても食される。ヤマブドウを原料にしてワインを醸造する。北海道十勝地域の池田町では』、一九六三『年、果実酒試験醸造免許を取得し、翌年、ヤマブドウを原料とした「十勝アイヌ山葡萄酒」を醸造、第』四『回国際ワインコンペティションにて銀賞が授与された。これをきっかけに、山形県、岩手県、岡山県など日本各地でもヤマブドウによるワイン醸造が行われている』。『また、一部地域では新芽を山菜としても用いる。若芽やつる先は』四~七『月』頃『が採取の適期とされ、生で天ぷらに、茹でて和え物や煮びたしにする。ヤマブドウの果実の搾りかすを使ってダイコンやカブを漬けると、きれいなブドウ色の漬物が出来上がる』。『栽培化にあたり、系統選抜や栽培種などとの交配による品種改良もみられる。例えば、山形県では、大きな果房をつけ、裂果も少なく病気も強い「Y0」「Y1」「Y2」系統が選別された。また、岩手県では、「涼実紫(すずみむらさき)一号」などが選別され、品種登録もなされた。山梨大学では、ワイン用品種であるカベルネ・ソーヴィニヨンと交配した「ヤマソービニオン」を育成、栽培されている』。『岡山大学大学院の研究グループのマウス実験でヤマブドウの果汁には皮膚がんの発症を抑制する効果があることが確認されている』。『ヤマブドウは、一般的なブドウと比較して、リンゴ酸が』五・五『倍、ビタミンB6が』三『倍、鉄分が』五『倍、カルシウムが』四『倍、そしてポリフェノールが』三『倍も含まれている。特に、ヤマブドウ果実の種子や皮に有効成分であるポリフェノールが多く含まれ、その機能性には、天然の抗酸化成分が多く含まれており、糖尿病などの病気や老化の予防に大いに期待されている。主成分であるプロアントシアニジン、レスベラトロール、アントシアニン、カテキンなどの豊富なポリフェノールが大量に含まれており、このヤマブドウ果実搾汁粕から熱水抽出したエキスにはAGEs』(Advanced Glycation End Products:終末糖化産物)『生成阻害作用が報告されている。糖尿病を誘発させたラットにヤマブドウポリフェノールを配合した餌を』一『ヵ月間食べさせた実験では、肝臓中』の『AGEsの生成抑制が報告されている』。『なお、日本の酒税法』『では、ヤマブドウは「ブドウ」と見なされる。木の実を使った果実酒は、ホワイトリカーに漬けこんで様々なものが作られているが、ヤマブドウの場合は発酵して酒になるため、酒造免許を持たないものが作ると酒税法違反となる』。『埼玉県秩父地方では、ヤマブドウの葉を茶の代用にしたといわれる』。『ヤマブドウの樹皮(蔓)は、日本では籠を始めとする収納用品などの材料として古くから利用されてきた。山村ではブドウ蔓と呼んで、ハケゴ(籠の一種)、細工物、ロープの代わり』に『活用した。ゴムのように粘性の高い強靭な繊維からなる日本産のヤマブドウの樹皮は、それだけに癖の強い性質でもあり、加工しないままでは』、『極めて使いづらいため、なめし加工を施すことで利用可能な状態にする。北海道のアイヌは、ヤマブドウの樹皮でストゥカㇷ゚・ケㇼ(葡萄蔓の靴)と呼ばれる草鞋を編んで履いていた。儀礼用の冠・サパンペも、ヤマブドウの樹皮を芯にして作る』。『現代では籠バッグの(少なくとも日本製のものでは、)最も一般的に使われる材料であり、製品は「やまぶどう籠バッグ」「山葡萄かご」などと呼ばれて市販されている。樹皮のところどころに自然のままに残る皮目を、あえて加工せずに野趣あふれるデザインとして活かす場合もある』。『長野県北部にはヤマブドウを使った伝統の民間療法が残っている。茎をつぶして、虫刺され時に塗る。葉は噛んで蜂刺されに塗り、果実は貧血によいという』とある。

 次に、ウィキの「ブドウ」「シラガブドウ」の小項目から引く。『岡山県・高梁川流域の限られた地域に自生する野生ブドウ。自生地での個体数が減少していて、絶滅が危惧されている。アムレンシスと同種とする見解もあるが、アムレンシスが寒冷地に自生するのに対しシラガブドウは温暖な地域に自生することから、自生地の気候的要因が余りにも異なるため、アムレンシスとシラガブドウが同一種だとする考え方は否定されることが多い。和名および学名は植物分類学者牧野富太郎が、情報を提供してくれた白神寿吉に因んで命名した。開花時の花はシナモン(ニッキ)の香りがする』とある。但し、現行では、以上に出た「エビカズラ」他の類似した古名は、日本・朝鮮半島、中国の東アジア地域に分布し、日本では本州・四国・九州に分布する、

ブドウ属エビヅル Vitis ficifolia

でもあるので注意が必要である。

 以下、ウィキの「エビヅル」を引く。漢字表記は『蝦蔓・蘡薁』(後者は歴史的仮名遣「あうおく」、現代仮名遣「おうおく」)で『雌雄異株』。『和名「エビヅル」は、つる性の植物で、実がエビの目に似ていることから名付けられている』。『古名はヤマブドウとともに「エビカズラ」(葡萄蔓)、「エビ」とはブドウの古名である。ただし、中国では「蘡薁」は Vitis adstricta 』『という別の野生ブドウを指す。学名に Vitis ficifolia を使われることが多いが、Vitis ficifolia のタイプ標本は中国の桑葉葡萄につけられたもので、桑葉葡萄とエビヅルでは形態的な違いも大きい』。『日本、朝鮮半島、中国の東アジア地域に分布し、日本では本州、四国、九州に分布する。山地や丘陵地に』普通『にみられる』。『落葉』蔓『性の木本で、他の木本などに巻きひげによって上昇する。巻きひげは』、『茎に対して葉と対生するが』、二『節ずつついていて』、三『節目ごとに消失しているが、これで他の植物に絡まる。葉には葉柄があり、形は扁卵形で長さ』五~八『センチメートル』で、三~五『裂し、葉裏にはクモ毛とよばれる長い毛がある。葉の先が丸くなるのが特徴。秋には赤色から橙色に紅葉することが多いが、やや地味』である。『花期は』六~八『月で』、『雌雄異株。花序は総状円錐花序で長さ』六~十二センチメートル『になる。花は小さく、雄花、雌花ともに黄緑色で花序に密集する』。『秋には直径』五~六『ミリメートル』『の果実がブドウの房状に黒紫色に熟し、甘酸っぱい味があり』、『食べることができる。しかし、果汁にエビヅル臭という青臭いにおいを有するため、果実品質の評価は一般に低い。花は、新梢が伸長すれば何度も着花するため、同一樹に、様々なステージの果実が着生する』。『果実は生食、ジャムやジュースに加工して利用できる。また、葉を乾燥し、葉の裏のクモ毛をモグサ代わりに利用する。最近では、リュウキュウガネブの葉から抽出したエキスを含有した化粧水が市販されている。葉エキスの主成分はレスベラトロールである。またエビヅルの実を入浴剤として利用する地域がある』。以下、途中で挙げられてある「変種」を示して終わりとする。

シチトウエビヅル Vitis ficifolia var. izu-insularis(七島蝦蔓:『葉が大型になり』、『浅』く『三裂し』、『先端がとがる。伊豆七島に分布する』)

キクバエビヅル Vitis ficifolia var. sinuata (菊葉蝦蔓:『本州南部、四国、九州に分布する。葉の裂刻が深い』)

リュウキュウガネブ  Vitis ficifolia var. ganebu (琉球葡萄:『八重山、琉球、奄美諸島、トカラ列島に自生する。葉は無裂刻』。『リュウキュウガネブは、エビヅルと同一種とする記述もいくつか見られる。さらに、シチトウエビヅルと葉の形態が似ているため、リュウキュウガネブとシチトウエビヅルを同一種とすべきだとの意見もあるが、リュウキュウガネブは他のエビヅル近縁種と異なり、芽が無休眠性を示すなどの生態的な差異が大きい。また、最近ではリュウキュウガネブ』の『果皮に含まれるアントシアニンの種類と量が多いことから、その機能性が注目されている。ちなみに「ガネブ」とは九州地方の方言で、ブドウの意味である』)

なお、『対馬に分布するケナシエビヅルは「エビヅル」という名前が付いているが、 Vitis austrokoreana Hatusima の学名が付けられていて、エビヅルとは別種となっている。しかし、詳しいことはよくわかっていない』とある。……公開後、気がついた。何のことはない、次の項、「蘡薁」がエビヅルやったわ……トホホ……

 なお、「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十三」の「果之五【蓏類九種内附一種】」の「葡萄」([081-8a]以下)のパッチワークである。

「隴西」旧隴西郡相当の地方名。同旧郡は秦代から唐代にかけて、現在の甘粛省東南部の、現在の甘粛省天水市(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)に置かれていた。現在、隴西県があるが、これは甘粛省定西市にあり、旧隴西郡の北西で、ずれるさても、「隴西」の地名は、私の偏愛する中島敦の「山月記」(リンク先は私の古いサイト版)を直ちに想起される方が多かろう。私は高校二年生の現代文(私の高校時代は「現代国語」と言った)の初っ端は、この「山月記」の朗読をブチかまして、生徒たちから「李徴」という有難い綽名を貰ったものだった。その私の『中島敦「山月記」授業ノート』もサイト版で公開している(そちらでは、教師駆け出しの頃に作成し、当時、使用した配布用資料の教授用(小汚い書き込み附き)原本『別紙ダイジェスト「人虎傳」』も画像(三分割。)で公開してある)。同作は、唐代伝奇の晩唐の李景亮撰になる「人虎傳」(これは先行する晩唐の張読の伝奇小説集「宣室志」にある「李徴」のインスパイア作品である)を元としている。……私は実は、教員を辞めた直後、「山月記」の朗読をネットで公開するのを目論んでいた。何人かの教え子たちから、「楽しみにしてます!」とエールも貰った。しかし、何度か、試みたが、録音した私の声は、どうも、教場で発した演技には、到底、及ぶものではないと知った。教え子たちには、往年の記憶を大事にしておいて呉れれば、李徴のエンディングの台詞よろしく「恩幸、これに過ぎたるはない」と答えておくこととする…………

「草龍珠」これは、ブドウ属ヨーロッパブドウ Vitis vinifera を指す。「百度百科」の「葡萄」の冒頭に「同義詞」として「草龙珠」と添えてあり、そこに『中国には前漢時代に導入され、現在は河北省・河南省・山西省などの省に分布している』とある。しかし、以下、「馬乳葡萄」・「水晶葡萄」・「紫葡萄」・「綠葡萄」・「瑣瑣《ササ》葡萄」については、「馬乳葡萄」と「水晶葡萄」を、真面目に、いろいろと中文記載を見ているうちに、阿呆らしくなって、やめた。何故なら、写真が添えてあるものの、それは、如何にも近年の栽培品種のシャインマスカットの仲間だったり、ある百科記載にはアメリカ原産とあったからだ。思うに、少なくとも、以上の四種は、単なる果実の形状・大小・皮の色の個体変異を名指すのに便宜上、名づけたものに過ぎないと断ずるものである。

「五味子」被子植物門アウストロバイレヤ目マツブサ(松房)科マツブサ属チョウセンゴミシ(朝鮮五味子) Schisandra chinensis 当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『落葉性のつる性木本であり、雌雄異株』。五~七『月頃に黄白色の花をつける。果実は赤い液果で房状につき』、『薬用滋養、強壮、鎮咳) に用いられる。日本を含むアジア北東部に分布する』。『名は、果実が甘味、酸味、辛み、苦味、鹹かん(塩味)をもつことから名付けられた。江戸時代に生薬として朝鮮半島から輸入されていたため、チョウセンゴミシとよばれるようになった。日本には産しない植物であると考えられていたが、輸入された五味子から得られた種子を平賀源内が』、雇われていた讃岐高松藩の御『薬園で栽培し、これと同じ植物が日本にも自生していることが明らかとなった。陶穀』(五代の後晋・後漢・後周・北宋に亙って仕えた官吏)の小説「淸異錄」(唐から五代にかけての、さまざまな話題の短文を纏めたもの)『に「六亭劑」の別名がある』。『落葉性の』蔓『性木本であ』る。以下のクダクダしい「特徴」の記載はカットし、問題の実の部分に飛ぶ。『花托が花』の『後』ろ『に伸長するため、個々の果実は』、『離れてブドウの房状の集合果になる』。『果実は液果』で、八~九『月頃に赤熟し、大きさは不揃いであり(』五~七・五×四~五ミリメートル。各果実はひどく小さいのである。画像をリンクさせる)、『それぞれ』一~二『個の腎臓形の種子を含む』。『日本を含むアジア北東部に分布する。北海道、本州(中部地方以北)、朝鮮半島、中国北部、シベリア東部、沿海州、アムール、ウスリー、サハリンに見られる』。『冷温帯に自生し、落葉広葉樹林の林縁に生育する』。『果実は五味子(ゴミシ、朝鮮語:オミジャ、満州語:misu hūsiha)とよばれ、生食用やジュース、五味子茶、五味子酒として利用される』。『五味子は日本薬局方に生薬として収録され、鎮咳去痰作用、強壮作用などがあるとされる』。『小青竜湯、清肺湯、人参養栄湯、苓甘姜味辛夏仁湯、杏蘇散などの漢方方剤に配合される』。『長野県阿智村や喬木村では、健康増進のためにチョウセンゴミシのつるを風呂に入れ、入浴する伝統の民間療法がある』とある。

「《かはち》富田林村」現在の大阪府富田林市(グーグル・マップ・データ)。

「古今醫統」複数回既出既注だが、再掲すると、明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六)によって編纂された一種の以下百科事典。全百巻。「東邦大学」の「額田記念東邦大学資料室」公式サイト内のこちらによれば、『歴代の医聖の事跡の紹介からはじまり、漢方、鍼灸、易学、気学、薬物療法などを解説。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べている。分類された病名のもとに、病理、治療法、薬物処方という構成になっている』。『対象は、内科、外科、小児科、産婦人科、精神医学、眼科、耳鼻咽喉科、口腔・歯科など広範囲にわたる』とある。以下の引用は、「維基文庫」の「古今醫統大全/80」の「通用諸方 \ 花木類第二」に(漢字の一部に手を入れ、コンマを読点に代えた)、

   *

葡萄最易蔓盛。宜濕地、米泔澆之、作架引蔓。根傍以草束、雄避蛇蟲、怕麝香。一法種近棗樹、春鑽棗樹作一孔、引葡萄枝從孔中過、伺其大塞滿棗樹、核成一家、卽砍去其後截,使托棗生實大而甘美。

   *

である。なお、「『麝香を愛する』と、『怕(をそるゝ)』の異說、有り」の食い違いは、私には、判らぬ。まあ、五行説に基づく性質は、実際の科学的真理に基づくものではないものが殆んどであるから、そこをディグする気は、私には、一向、起こらないのである。因みに、瓢簟から駒で、以上の原文を探していたところ、本冒頭の内容が、「古今醫統」の同ページにあるのを見つけたので、以下にソリッドに、同前で引いて、終わりとする。

   *

葡萄生隴西、五原、敦煌山谷及河東。舊雲漢張騫使西域得其種還而種之、中國始有、蓋此果之最珍者。今處處有之。苗作藤蔓、而極長大盛者、一二本綿被山谷。葉類絲瓜葉頗壯而邊多。花叉開花極細而黃白色、其實有紫白二色、形之圓銳亦二種。又有無核者、味甘性平無毒。又有一種眞相似,然乃是千歲葉、但山人一槪收而釀酒。

   *]

2025/07/14

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「良眞靈」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。句読点・記号を追加したが、漢文脈の後半の引用は底本のままにしておいた。] 

 

 「良眞靈《ながざねの れい》」 安倍郡府中、今川家の館《やかた》にあり。傳云《つたへいふ》、

「永祿三年五月、今川治部大輔義元、上洛の志《こころざし》、頻《しきり》にして、近日、兵を尾州に發せんとす。

 或夜、先年、義元の爲に自害して失《うせ》たりし舍兄、花倉院主良眞【良眞は、氏親の二男花倉殿、法名「遍照光寺殿玄廣惠探大德」と號す。】枕上に來《きた》り、杖を以て、突《つき》、驚かす。義元、松倉卿《きやう》の刀を取《とり》て、是を、きる。良眞、飛《とび》しさりて曰《いはく》、

「我、汝に恨《うらみ》ありといへども、家の亡《ほろび》ん事を悲《かなし》み思ふに依《より》て、告《つぐ》る事、あり。汝、天命を知らず、軍を發して、上洛を、くはだつ。故に、天、汝をにくみて、一命を失《うしなは》ん事、近きに、あり。」

と。

 義元、遍身《へんしん》、汗を流し、氣、絕《たえ》んとす。

 漸《しばら》くして、人を呼ぶ。

 小姓《こしやう》奧山松夜刄丸某《なにがし》、來《きたり》て、水を呑ましむ。云云。」。

 「當代記」云《いはく》、

『義元參河表發向時、夢想有之、夢中花倉對義元云、此度之出張、可ㇾ被相止也。義元云、貴邊爲我敵心也、不ズトㇾ用ㇾ之答。花倉又云、今川家可ㇾ廢ㇾ事爭不ㇾ愁云。夢覺畢、其後駿河國藤枝被ㇾ通時、花倉町中被立、義元見ㇾ之刀、前後者、一圓不ㇾ見ㇾ之奇特ナリ。云云。』

 

[やぶちゃん注:「當代記」引用の漢文部(一部が不全)を推定訓読する。句読点には従わず、オリジナルに打った。なお、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿國雜志 二」(「自卷之二十二至卷之三十五」・新版・中川他校注・一九七七年吉見書店刊)の当該部を参考にした。

   *

 義元、參河表(みかはおもて)發向の時、夢想、之れ、有り。夢中(むちゆう)に、花倉、義元に對して、云はく、

「此の度(たび)の出張(しゆつちやう)、可ㇾ被相ひ止められるべきなり。」

と。

 義元、云はく、

「貴邊(きへん)、我が敵《かたき》と爲(な)す心(こころ)なり。之れ、用(もち)ゆず。」

と答ふ。

 花倉、又、云はく、

「今川家、事(こと)、廢(はい)すべき爭(あらそひ)か。愁(うれ)へざるか。」

と云ふ。

 夢、覺(さ)め畢(をはん)ぬ。

 其の後(のち)、駿河國、藤枝を通られし時に、花倉、町中(まちなか)に立たれ、義元、之れを見、刀(かたな)に手を懸(か)く。前後(ぜんご)の者、一圓(いちゑん)に、之れを見ざるの奇特(きとく)なり。云云(うんぬん)。

   *

この場合の「奇特」は「非常に奇体にして不可思議なこと」の意である。

「良眞」(私は鎌倉時代に反して、戦国時代に全く興味がない人種であるので、いちいち、人物・戦乱の解説を附す気は全く、ない。当該ウィキのリンクでお茶を濁す)これは、今川義元の庶兄であった玄広恵探(げんこう えたん:永正一四(一五一七)年~天文五(一五三六)年))で、彼は今川良真(いまがわながざね)を名乗ったとする説がある人物である。ウィキの「玄広恵探」によれば、『異母弟の栴岳承芳(』(せんがく しょうほう:後の義元)『や象耳泉奘』(しょうじ せんじょう:、永正一五(一五一八)年~ 天正一六(一五八八)年:今川氏の出身で今川氏親の四男とされる人物)『と同じく、早くに出家して華蔵山徧照光寺(静岡県藤枝市花倉)の住持とな』った。『従来、今川彦五郎が氏親の次男と考えられていたが、北条氏康を「北条新九郎」名義で記されていることから』、天文二〇(一五五一)年以前『に作成されたと推測できる』「蠧簡集殘篇」『所収』の「今川系圖」『において』、『花藏二男』『と玄広恵探が次男と明記されていることにより、恵探が氏親の次男で彦五郎の庶兄ではないかと考えられるようになった』。しかし、彼は、「花倉の乱」で自害している。天文五(一五三六年に『今川家当主の氏輝と』(享年二十四。突然死で詳細不詳)、『その次弟・彦五郎が相次いで急死した』(生年不明。兄氏輝と同日に急死。死因不詳)ため、『家督の後継を巡って、玄広恵探は福島氏に擁されて花倉城に拠るが』、六月十日、『栴岳承芳派に攻められて瀬戸谷の普門寺で自害した』(享年二十)。以下の「逸話」の項に、この話が載る。「桶狭間の戦い」『の直前、義元の夢の中に恵探が現われ「此度の出陣をやめよ」と言った。義元は「そなたは我が敵。そのようなことを聞くことなどできぬ」と言い返すと「敵味方の感情で言っているのではない。我は当家の滅亡を案じているのだ」と述べたため』、『夢から覚めた。義元は駿府から出陣したが、藤枝で恵探の姿を見つけて刀の柄に手をかけたという』(「當代記」)。なお、ネットで調べたところ、「花倉」は、恵探が華蔵山徧照光寺の住持であったことから、「華蔵殿」「花倉殿」と呼ばれたとあった。

「當代記」安土桃山から江戸初期までの諸国の情勢・諸大名の興亡・江戸幕府の政治等に関する記録。全十巻。姫路城主松平忠明(ただあきら:家康の外孫)の著ともされるが、不詳(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]

2025/07/13

和漢三才圖會卷第第九十 菰果類 西瓜

 

Suika

 

すいくは    寒瓜

 

西瓜

        俗云須以久波

        唐音之訛也

スユイ クハア﹅

 

本綱五代之先瓜種已入浙東伹無西瓜五代時胡嶠征

回紇得此種始入中國名曰西瓜北地多有之今則南北

皆有而南方者味稍不及也二月下種以牛糞覆而種之

蔓生花葉皆如甜瓜七八月實熟有圍及徑尺者長至二

尺者其稜或有或無其色或青或綠其瓤或白或紅紅者

味尤勝其子或黃或紅或黒或白白者味更劣其味有甘

有淡有酸酸者爲下以瓜劃破曝日中少頃食卽冷如水

也得酒氣近糯米卽昜爛貓踏之卽昜沙食西瓜後食其

子卽不噫瓜氣

西瓜瓤【甘淡寒】 止煩渴解暑熱利小水治血痢解酒毒有

 天生白虎湯號然亦不宜多食【多食昜至霍亂冷病終身胃弱者不可食】西

 瓜油餠同食損脾

西瓜子【甘寒】 曝裂取仁生食炒熟俱佳皮不堪食亦

 可𮔉煎醬藏口舌唇內生瘡者西瓜燒硏噙之

△按西瓜慶安中黃檗隱元入朝時擕西瓜扁豆等之種

[やぶちゃん注:「擕」原文では、(てへん)を除去した「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、この異体字を採った。]

 來始種於長崎然亦惡青臭氣或瓤汁赤色以爲似血

 肉兒女特不食今則𠙚𠙚多有之貴賤老幼皆嗜之而

 武陽之產最良攝州鳴尾亦美瓤赤𤬓黑者爲上其瓤

 近皮𠙚白色而味淡故不堪食乃連皮藏糟爲香物或

 煮食亦佳凡熟者敲之音和如中虛未熟者音硬如中

 實也

一種正圓而稍小瓤正赤味甚甜其皮及白肉薄近頃出

 之俗呼曰韓西瓜然瓤沙而不如常西瓜之柔潤

西爪與蕎麥同食傷人至死者亦多【詳于蕎麥下】

古今醫統云西瓜懸髙𠙚收之不壞若當掃帚風則壞也

 東瓜亦然


やうけいくは

楊溪瓜

本綱楊溪瓜秋生冬熟形畧長扁而大瓤色如臙脂味勝

可留至次年

 

   *

 

すいくは    寒瓜

 

西瓜

        俗、云ふ、「須以久波」。

        唐音の訛《なまり》なり。

スユイ クハア﹅

 

「本綱」に曰はく、『五代の先《さき》に、瓜の種《たね》は、已《すで》に浙東《せつとう》に入《いり》て、伹《ただ》、西瓜、無し。五代[やぶちゃん注:唐朝滅亡の九〇七年から。後の宋朝が興った九六〇年までの間、「中原」の広域に限って興亡した後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五つの王朝の時代を指す。]の時に、胡嶠《こきやう》、回紇《かいこつ/ウイグル》を征《せい》して、此の種《たね》を得て、始《はじめ》て中國に入り、名《なづけ》て「西瓜」と曰ふ。北地《ほくち》に多《おほく》、之れ、有り。今は、則ち、南北、皆、有りて、南方の者は、味、稍《やや》、及ばざるなり。二月、種を下《くだ》し、牛糞《ぎゆうふん》を以て、覆《おほひ》て、之《これを》種《うう》。蔓、生ず。花・葉、皆、甜瓜《てんくは》のごとく、七、八月、實、熟す。圍《めぐり》、及《および》、徑《わた》り、尺なる者、長《た》け、二尺に至る者、有り。其《それ》、稜《かど》、或《あるいは》、有り、或≪は≫、無く、其《その》色、或は、青、或≪は≫綠り。其≪の≫瓤《なかご》、或≪は≫白く、或≪は≫紅《くれなゐ》なり。紅なる者、味、尤《もつとも》、勝《まされ》り。其《その》子《み》、或は黃、或≪は≫紅、或≪は≫黒く、或は白し。白き者、味、更《さらに》、劣れり。其≪の≫味、甘≪き≫有《あり》、淡《あはき》有り、酸《しつぱき》有り。酸き者を下と爲す。瓜を以《もつて》、劃-破《わりやぶり》、日中《になか》に曝《さら》し、少-頃(しばらくあ)りて、食へば、卽《すなはち》、冷《ひえ》て、水のごときなり。酒氣を得《え》、糯米《もちごめ》に近《ちかづ》くれば、卽《すなはち》、爛れ昜し。貓《ねこ》、之≪れを≫踏めば、卽≪すなはち≫、沙(じやきつ)き昜し。西瓜を食《くひ》て後《のち》、其《その》子《たね》を食へば、卽≪すなはち≫、瓜の氣(かざ)を噫(をくび[やぶちゃん注:ママ。])せず[やぶちゃん注:瓜の匂いの「げっぷ」をしないで済む。]。』≪と≫。

『西瓜の瓤(なかご)【甘、淡、寒。】』『煩渴《はんかつ》[やぶちゃん注:激しい渇(かわ)き。]を止め、暑熱を解し、小水を利し、血痢[やぶちゃん注:便に血が混じって出る症状。一般に赤痢を指す。]を治し、酒毒を解し、「天生白虎湯《てんせいびやくこたう》」の號《がう》、有り。然れども亦、多食、宜《よろ》しからず【多く食へば、霍亂に至り昜し。冷病≪となり≫、身を終はる。胃弱の者、食ふべからず。】西瓜と油餠と、同じく食ずれば、脾を損ず。』≪と≫。

『西瓜の子(み)【甘、寒。】』『曝《さら》し裂《さき》て、仁《にん》を取り、生《なま》にて食ふ。炒《いり》熟して、俱《とも》に佳なり。皮≪は≫、食ふに堪へず。亦、𮔉煎《みついり》・醬藏《しやうざう》[やぶちゃん注:醤油漬け。]にす。口・舌・唇の內に、瘡《かさ》、生ずる者、西瓜の皮≪を≫燒《やく》硏《けん》して、之≪を≫噙(ふく)む≪と、よし≫。』≪と≫。

△按ずるに、西瓜は、慶安[やぶちゃん注:良安の誤認。禅僧隱元隆琦の来日(当時は明末)は、慶安ではなく、次の年号である承応三(一六五四)年七月五日夜に長崎へ来港している。来日の経緯や宗派・事績は当該ウィキを参照されたい。]中《ちゆう》に、黃檗《わうばく》の、隱元、入朝の時、西瓜・扁豆(いんげん)等の種、擕(たづさ)へて來り、始《はじめ》て、長崎に種《う》う。然れども、亦、青臭き氣《かざ》を惡(にく)み、或は、瓤《なかご》≪の≫汁、赤色にて、以《もつて》、「血肉に似たり」と爲《な》して、兒女、特(と《く》)に[やぶちゃん注:原本は送り仮名が『トニ』である。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部でも、その通りになっているが、「特」に「とくとに」と読みを振るのは、どう考えてもおかしいので、かくした。]食はず。今は、則《すなはち》、𠙚𠙚《しよしよ》に≪於いて≫、多《おほく》、之《これ》、有《あり》て、貴賤老幼、皆、之《これ》≪を≫、嗜(す)く。而《しかして》、武陽《ぶやう》[やぶちゃん注:江戸。]の產、最も良し。攝州鳴尾(《な》るを)、亦、美なり。瓤、赤く、𤬓(さね)、黑き者、上と爲《なす》。其《その》瓤、皮に近き𠙚《ところ》、白色≪に≫して、味、淡(みづくさ)に故《✕→みづくさき故に》、食ふに堪へず。乃《すなはち》、皮を連《つらね》て、糟《ぬか》に藏《おさめ》、香《かう》の物と爲《なし》、或《あるいは》、煮≪え≫食《くひ》ても亦、佳し。凡そ、熟する者は、之≪を≫敲(たゝ)くに、音(をと[やぶちゃん注:ママ。])和《やはらか》にして、中《なか》、虛《うつろ》なるがごとし。未だ熟ぜざる者、音、硬く、中實《ちゆうじつ》なり。

一種、正圓(まんまろ)にして、稍《やや》、小《ちさ》く、瓤、正赤《せいせき》。味、甚だ、甜《あま》く、其皮、及《および》、白≪き≫肉、薄し。近頃、之れを出≪だす≫。俗、呼《よん》で、「韓西瓜(から《すいか》」と曰《いふ》。然《しかれ》ども、瓤。沙(じやきつ)きて[やぶちゃん注:ジャリジャリとして。]、常《つね》の西瓜の柔潤《じふじゆん》なるの如《し》かず。

西爪と蕎麥と、同《おなじ》く食へば、人を傷《そこな》≪ひ≫、死に至る者、亦、多し【「蕎麥」の下《もと》に詳《くは》し。】。

「古今醫統」に云はく、『西瓜、髙き𠙚に懸《かけ》て、之≪を≫收《をさむ》れば、壞(そこ)ねず、若《も》し、掃帚(はゝき)の風に當《あた》れば、則《すなはち》、壞《こは》るなり。「東瓜《とうくわ》」も亦、然(《し》か)り。』≪と≫。


やうけいくは

楊溪瓜

「本綱」に曰はく、『楊溪瓜あり。秋、生じ、冬、熟す。形、畧《ほぼ》、長く扁《ひらた》にして、大なり。瓤、色、臙脂のごとく、味、勝れり。留《とどめ》て、次年に至るべし[やぶちゃん注:「採果して適切な保存をすると、次の年まで持つ」、或いは、「採果せずに、冬を越えても、翌年まで持つ」という意味のようである。後注参照。]。

 

[やぶちゃん注:西瓜は、日中ともに、

双子葉植物綱ウリ目ウリ科スイカ属スイカ Citrullus lanatus

である。当該ウィキを引く(注記号はカットし、必要を認めないものは、指示なしで省略した)。『原産は、熱帯アフリカのサバンナ地帯や砂漠地帯で、紀元前』四〇〇〇『年代には既に栽培されていたとされる。西瓜の漢字は中国語の西瓜(北京語:シーグァ xīguā)に由来する。日本語のスイカは「西瓜」の唐音である。中国の西方(中央アジア)から伝来した瓜とされるため』、『この名称が付いた』。『夏に球形または楕円形の甘味を持つ果実を付け、緑に黒の縞模様のほか、縞がないものや深緑のものなどさまざまな品種がある。果実は園芸分野では果菜(野菜)とされるが、青果市場での取り扱いや、栄養学上の分類では果実的野菜に分類される』。『原産地は熱帯アフリカで、南アフリカ中央部カラハリ砂漠と周辺サバンナともいわれている。現代において世界各地で主に栽培されているスイカ』『の原種は、アフリカ北東部コルドファン地方(スーダン)産』『である可能性が高い。他にアフリカ北東部原産のCitrullus lanatus var. colocynthoides、西アフリカ原産のエグシメロン』 Citrullus colocynthis 『など』、『様々な説が存在する。紀元前』四〇〇〇『年代にはすでに栽培されていたとみられている。リビアでは』五千『年前の集落の遺跡よりスイカの種が見つかっていることから、それよりも以前から品種改良が行われていたことが判明している』。『古代エジプトの』四千『年前の壁画にスイカが描かれているが、当時は』実ではなく『種子の』方『を食べていたとみられている。ツタンカーメンの墳墓等』、四千『年以上前の遺跡から種が発見されており、各種壁画にも原種の球形ではなく』、『栽培種特有の楕円形をしたスイカが描かれている』。『また』、『この頃、アフリカ南部のカラハリ砂漠で栽培されるシトロンメロン』(citron melon Citrullus amarus ))『が発明された。スイカの学名』『の』種小名『 lanatus はラテン語で「毛の多い」を意味しており、本来はシトロンメロンを指すものであった。このシトロンメロンがスイカの祖先であったという意見もある』。『紀元前』五〇〇『年頃には地中海を通じヨーロッパ南部へ伝来。地中海の乾燥地帯での栽培が続けられるうちに果実を食べる植物として発達した。ヒポクラテスやディオスコリデスは医薬品としてスイカについて言及している。古代ローマでは大プリニウスが』「博物誌」『で強力な解熱効果がある食品としてスイカを紹介している。古代イスラエルでは「アヴァッティヒム(avattihim)」という名で貢税対象として扱われ、さらに紀元後』二〇〇『年頃に書かれた文献の中でイチジク、ブドウ、ザクロと同じ仲間に分類されていることから、既に甘味嗜好品として品種改良に成功していたことが窺える。もっとも、地中海世界で普及したスイカは』、『黒皮または無地皮のものが一般的だった。また』、『この頃の文献では「熟したスイカの果肉は黄色」と記述されており』、四二五『年頃のイスラエルのモザイク画にもオレンジがかったスイカの断面が描かれており、こちらもやはりオレンジがかった黄色い果肉が描かれている。スイカは糖度を決定する遺伝子と果肉を赤くする遺伝子とがペアになっているため、まだ現代品種ほど甘くはなかったことが推察される。果肉が赤いスイカが描かれた最初期の資料は』十四『世紀のイタリア語版』「健康全書」『であり、楕円形で緑色の筋の入ったスイカが収穫される様子や』、『赤い断面を晒して販売されるスイカの図が描かれている』。

以下、本邦への渡来について。『日本に伝わった時期は定かでないが、西方から中国(唐)に伝わったスイカが、平安時代に日本に渡った』(☜)『といわれている』。しかし、『天正』七(一五七九)『年』に、『ポルトガル人が長崎にカボチャとスイカの種を持ち込んだ説や』、本文にある通り、『隠元禅師が清から種を持ち込んだ説がある』。宮崎安貞著になる出版された日本最古の農書「農業全書」(元禄一〇(一六九七)年刊)『では』、「西瓜ハ昔ハ日本になし、寬永の末初(はじめ)て其種子來り、其後やうやく諸州にひろまる。」『と記されている』。『一方』、「和漢三才圖會」『では』、『慶安年間』(一六四八年~一六五二年)『に隠元禅師が中国大陸から持ち帰った説をとっている』(ウィキの執筆者は良安の誤りを、そのままに引用してしまっている)。しかし、『平安時代末期から鎌倉時代初期に成立したとされる国宝』「鳥獸人物戱畫」『には、僧侶の装束をまとったサルのもとにウサギが縞模様をした作物を運んでいる姿が描かれた図絵があり、これが確認できる日本最古のスイカらしきものと言われている』(☜ウィキの「鳥獣人物戯画・甲巻:法要と僧供の場面」の画像を最大にして左中央。しかし、これ、マクワウリと比定同定してもおかしくない。寧ろ、二つのスイカらしく見えるものの真ん中にあるのは、明らかに白・黄のマクワウリではないか!。『江戸時代初期には栽培が広がりを見せ』、先の「農業全書」』には、『「肉赤く味勝れたり」と記述された。初期のスイカは黒皮系の品種で』、『江戸時代にはすでに販売されていた。日本全国に広まったのは江戸時代後期である』とある。

 なお、「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十三」の「果之五【蓏類九種内附一種】」の「西𤓰」([081-6b]以下)のパッチワークである。

「胡嶠」(生没年未詳)五代の後晋時代の華陽(現在の安徽省鶏西市華陽鎮)の人。後金の時代には通州河陽県(現在の陝西省河陽市)の県令を務めた。九四七年、胡嶠は宣武軍太守蕭寒の書記を務め、軍に従って、契丹に入り、スイカを食べた。これは漢人がスイカを食べた最初の記録である。蕭寒が殺害された後、胡喬は、七年間、契丹に住み、九五三年に中原に戻った。著書に「捕虜記」・「梁朝名畫錄」がある(以上は「維基百科」の彼の記載に従った)。

「古今醫統」複数回既出既注だが、再掲すると、明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六)によって編纂された一種の以下百科事典。全百巻。「東邦大学」の「額田記念東邦大学資料室」公式サイト内のこちらによれば、『歴代の医聖の事跡の紹介からはじまり、漢方、鍼灸、易学、気学、薬物療法などを解説。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べている。分類された病名のもとに、病理、治療法、薬物処方という構成になっている』。『対象は、内科、外科、小児科、産婦人科、精神医学、眼科、耳鼻咽喉科、口腔・歯科など広範囲にわたる』とある。

「楊溪瓜」中文の百科三種でも掛かってこない。東洋文庫後注には、『冬瓜のことか。また台湾の西瓜を東瓜という、ともいう。台湾では西瓜は秋に種え』、『十月に採り入れて十二月の廟祭に供する。台湾は中国の海東にあるので、この西瓜を東瓜という。』とあった。これは、

ウリ科トウガン属トウガン品種トウガン Benincasa pruriens f. hispida

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした。太字は私が附した)。『ウリ科のつる性一年草、雌雄同株の植物。果実を食用する夏野菜。秋の季語。実は夏に収穫され、冬まで貯蔵することができるため』、『冬瓜とよばれる。果肉はやわらかく、淡泊な味わいで』、『煮物料理などに使われる』。『和名トウガンの由来は、夏季が旬の野菜であるが、丸(玉)のまま保存すれば冬まで日持ちすることから「冬瓜」(とうが)の名がつき、それが転訛して「とうがん」とよばれるようになった』。『別名、トウガ、カモウリ(氈瓜・加茂瓜・賀茂瓜)とも呼び、石川県、富山県ではカモリ、沖縄県ではシブイと言う。英名はホワイト・ゴード(white gourd)、あるいはウインター・メロン(winter melon)といい、仏名は、クルジュ・シルーズ(courge cireuse)、中国植物名は冬瓜(とうが、拼音: dōngguā、ドォングゥア)という』。『原産は熱帯アジア、インド、東南アジアといわれる。日本には、古代中国から渡来し、畑で栽培されていた。日本での栽培は平安時代成立の『本草和名』に「カモウリ」として記載があり、同時代に入っていたが』、『渡来詳細は明らかになっていない。主産地は宮崎県、茨城県、愛知県』。『一年生のつる植物で、茎は地面を這って長く伸びて、無色の毛が生えていて、巻きひげがある』。『葉は大型の浅く』五~七『裂した丸形で、掌状になっている』。『花期は夏』八~九月頃『で、葉腋に直径』七・五~十『センチメートル』『 のヘチマに似た黄色い花を咲かせる。同株異花で、雄花と雌花があり、雌花に果実がつく。果実は偏球形または』三十~五十センチメートル『ほどの長楕円形で、はじめは触ると痛いほどの白い毛で覆われているが、熟すころになると毛は落ちて、ブルームが析出して白い粉が被ったようになる』。七~九『月に収穫し、実は大きいもので短径』三十センチメートル、『長径』八十センチメートル『程度にもなる』。『完熟後皮が硬くなり、貯蔵性に優れる』。『完全に熟したトウガンは約半年』、『品質を保つという』。『栽培品種は、丸みのある球型の「マルトウガン(丸冬瓜)」と、長さや俵のような長楕円形の「ナガトウガン(長冬瓜)」に大別される。大きさは』十キログラム『を超える巨大果から』、二『キログラムから』三『キログラムの手頃なミニサイズまで幅広い。また』、『特徴的な品種に完熟しても白粉をおびない「オキナワトウガン(沖縄冬瓜)」がある』。以下、「品種」の項であるが、省略する。以下、「栽培」の項。『早春に種をまき、晩春に苗を植え付け、夏に実を収穫する果菜で、ウリ科野菜の中では生育期間が長い方である。高温性で、生育適温は』摂氏二十五~三十『度、夜間』十八『度以上で、温暖な地域が栽培の適地である。耐暑や耐寒は強い方である。土質に対する適応性も広く、強健であるため』、『栽培はしやすい』。『苗を作る場合、種皮がかたいため種をまく前に』十『時間ほど水につけて吸水させてから育苗ポットにまき、保温しながら本葉』四~五『枚の苗に仕上げる。畑は幅』六十センチメートル『ほどの畝をつくり、植え付け』、二『週間くらい前に元肥をすき込んで』、『よく耕しておく。トウガンは低温を嫌うため、畝にマルチングして地温を上げておいた上で苗を定植し、生育初期はホットキャップなどで保温する。親づるが伸びて』四~五『節で摘芯し、子づるを』四『本ほど伸ばして敷き藁を行い、過繁茂になりやすいため』、『整枝を入念に行う。雌花のつきは少ない方なので、混み合う孫づるは掻き取って、茎葉が茂りすぎないように肥料を控えめに育てていく。トウガンは雌雄異花の虫媒花のため、人工授粉を行って確実な着果を行う。果実がつき始めたら、実を太らせるために』、『畝の両側に化成肥料で追肥を行って土寄せをする。トウガンは収穫できる期間が長く、好みの時期に収穫できる野菜である。果実を若取りするときは開花後』二十五~三十『日、完熟取りするときは開花後』四十五~五十『日ぐらいが収穫の目安になる。果実は表面に産毛がある品種とない品種があるが、産毛がある品種では肥大が終わって』、『果実表面の産毛が落ち』、『果実に重みが出てきてから収穫する。完熟果は貯蔵性が高く』、十『度くらいの日陰に置いておくだけで、冬から春にかけて利用することができる』。以下、「栄養素」だが、カットするが、最後の『果実に含まれるウリ科特有の苦味成分ククルビタシンは、飲食すると吐き気を催す作用がある』は示しておく。『果実は主に食用され、成分的には』九十五『%以上が水分で栄養価の面ではあまり評価されていないが』、百グラム『あたり』十六キロカロリー『と低カロリーとなっており、食べ応えもあることからダイエット向きの食材といわれている。食材としての旬は夏(』七~九『月)で、果皮に傷がなく、全体に白い粉状のもの(ブルーム)が吹いていて、重量感があるものが良品とされる。中国では、体温を下げて利尿効果がある野菜として、薬膳料理において、よい効果が期待できるとされている』。『類似のユウガオよりやや果肉は硬め、味は控えめでクセがないので、煮物、汁物、漬物、酢の物、和え物、あんかけ、など様々な具に用いる。トウガンは果皮がかたく、皮を剥いて種を除いて果肉の軟らかい食感を楽しむ。見栄えをよくするときや』、『煮崩れを防ぐ場合では、皮の緑が少し残るぐらいに薄く皮を剥いて調理すると翡翠のような美しい緑色に仕上がる。このとき、重曹をまぶして下茹でしておくと口当たりがよくなる』。『果実を丸のまま長期保存する場合は、ヘタを上にして立てて、風通しのよい日陰の場所においておくと数か月はもつ。切り口を入れた場合は、切り口をラップなどで密着して包み、冷蔵庫に保管すれば』一『日程度は持つ』。『代表的な料理は煮込みとスープで、煮ると透き通るような色合いになり、淡泊な味わいをもつため、旨味の出る出汁や動物性素材と合わせた料理に向いている。日本料理では大きく切って風呂吹きに使う。広東料理では大きいまま、中をくりぬいて刻んだ魚介類、中国ハム、シイタケなどの具とスープを入れ、全体を蒸した「冬瓜盅(トンクワチョン)」(zh:冬瓜盅)という宴会料理がある。台湾では果実を砂糖を加えた水で煮込んだものを「冬瓜茶」として、茶(茶外茶)の一種として飲む。缶入り飲料もある』。『料理以外でも砂糖漬けにしたり、シロップで煮た後砂糖をからめて菓子にしたりする』。『果実以外にも、果皮をユウガオの代用食材としてかんぴょうに用いる。また若葉・柔らかい蔓は、炒め物などに用いることができる』。以下、「薬用」の項。『初霜が降りたころが採集期で、完熟果の外皮を除いて、内皮を薄切りにして日干しした冬瓜皮(とうがんひ、とうがひ)や、種子を水洗いしてから日干しした冬瓜子(とうがんし、とうがし)と称されるものが生薬になり、薬用にされる。漢方では、冬瓜子を緩下、利尿、消炎の目的で、大黄牡丹皮湯(だいおうぼたんぴとう)などの処方に配剤している。果実に含まれるカリウムは、体内の余分なナトリウムを排出する働きがあり、血圧上昇をコントロールして、高血圧症予防に役立つといわれ、浮腫の解消にも効果的である』。『民間療法では、腫れ物や浮腫取りに、冬瓜子は』一『日量』五~十『グラムを、冬瓜皮の場合では』一『日量』十『グラムほどを、約』六百『ccの水で半量になるまで煎じて』、一『日』三『回に分けて服用する用法が知られている。そばかす取りに、冬瓜子と白桃花(はくとうか)の粉末を、それぞれ同量の割合で蜂蜜でクリーム状に練ってつけるとよいといわれている』。『身体を冷やす作用があり』、『冷え症の人は服用禁忌とされ、加えて排泄作用が強いため下痢や頻尿の起きやすい人は食べ過ぎに注意が必要である。逆に』、『のぼせ症や膀胱炎の解消、手足の浮腫を改善させる効果がある』とある。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「逆柱爲怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。句読点・記号を追加した。]

 

 「逆柱爲怪《さかさばしら くわいを なす》」 安倍郡府中御城內にあり。傳云、

「橫內東『四間《よんげん》小屋』、三間目《さんげんめ》の柱、逆《さかさ》に建《たて》り。是を後《うしろ》にして臥《ふす》時は、必《かならず》、『枕がへし』せらる。云云。」。

 逆柱の怪をなす、往々、あり。奇と云べし。

 

[やぶちゃん注:「逆柱」当該ウィキによれば、『逆柱(さかばしら)または逆さ柱(さかさばしら)は、日本の木造建築における俗信の一つで、木材を建物の柱にする際、木が本来生えていた方向と上下逆にして柱を立てることを言う』。『古来より逆柱にされた木は、夜中になると家鳴り等を起こすとも言われていた』。『また、家運を衰微させるほか、火災などの災いや不吉な出来事を引き起こすと言われており、忌み嫌われていた』とある。但し、意図的に魔除けのためにわざと逆柱をしたものも存在する。『日光東照宮の陽明門はこの逆柱があることで知られている。柱の中の』一『本だけ、彫刻の模様が逆向きになっているため、逆柱であることがわかる。しかしこれは誤って逆向きにしたわけではなく、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という伝承を逆手にとり、わざと柱を未完成の状態にすることで災いを避けるという、言わば魔除けのために逆柱にしたとされている。また、妖怪伝承の逆柱とは全く異なるものである』。また、『鎌倉時代の「徒然草」には、完全なものは決して良くはない、それで内裏を造る時も、必ず』一『か所は造り残しをする、とある。江戸時代には、家を建てる時「瓦三枚残す」と言ったという』ともある。

「枕がへし」一般には妖怪の名として知られる。当該ウィキ「枕返し」に詳しい。私の「怪奇談集」では、メインにしてあるオーソドックスなものは、「佐渡怪談藻鹽草 枕返しの事」と、『「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 小高坂森屋舖枕反』が参考になろう。

 なお、延々と続いた、概ね「安倍郡府中御城內にあり」で始まった怪奇談パレードは、取り敢えず、ここで落ち着く。]

2025/07/12

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「嘹(うなし)屋」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。句読点・記号を追加した。「うなし」(二箇所)は珍しい底本のルビ。]

 

 「嘹(うなし)屋」 安倍郡府中御城內にあり。傳云、

「中西、深草より、三番の小屋を『嘹(うなし)小屋』と云《いへ》り。居間の次の間、たゝみ三疊の中に臥《ふす》時は、必《かならず》、うなさる。いか成《なる》謂《いひ》にや。又、大西書院番頭小屋、四足二加番小屋、納戶《なんど》にも、斯《かく》の如き所ありて、臥《ふす》事を禁ず。奇と云《いふ》べし。」。

 

[やぶちゃん注:注を附せ得るデータがネット上に存在しない!

「嘹」「廣漢和辭典」に拠れば、大項目一の第一義に『なく(鳴)。』とし、第二義に『夜に鳴く。』とあり、第三義に『すみとおって遠くまで聞こえる声。』とする。大項目二として、第一義に『なく(鳴)。』で、第二義に『やみさけぶ』(病んで叫ぶ)とする。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「狸小屋」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。句読点・記号を追加した。]

 

 「狸小屋《たぬき》」  安倍郡府中御城內にあり。傳云、

「中西七間の小屋を『狸小屋』と云《いへ》り。往昔《わうじやく》、古狸、栖《すみ》て、夜な夜な、謠へり。云云。」。

 何事をか謠《うたふ》らん、覺束《おぼつか》なし。

 

[やぶちゃん注:注を附せ得るデータがネット上に存在しない!

「七間」十二・七三メートル。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「杜若小屋」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。句読点・記号を追加した。]

 

 「杜若小屋《かきつばたごや》」 安倍郡府中御城內にあり。傳云、

「大西、中條小屋より、三番の小屋を『杜若小屋』と云《いへ》り。すべて、紫の花を忌《い》めり。若《もし》、是を入《いる》れば、必《かならず》、凶事、あり。云云。」。

 いか成《なる》謂《いひ》にや、其因緣を知らず。

 

[やぶちゃん注:注を附せ得るデータがネット上に存在しない!]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「山姬の井」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。句読点・記号を追加した。]

 

 「山姬《やまひめ》の井《ゐ》」 安倍郡府中御城內にあり。傳云、

「中西より、東入口、三番小屋の井のもとに、山姬、出現して彳《たたずめ》り。故、『山姬小屋』共《とも》云《いへ》り。云云。」。

 

[やぶちゃん注:「中西より、東入口、三番小屋の井」不詳。

「山女(やまをんな)」とも。本邦の山中に住む女の妖怪。人の血を吸って死に至らしめるなどの言い伝えなどが全国各地に広く残る。ウィキの「山姫」にやや詳しく載る。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「禿榎」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。句読点・記号を追加した。]

 

 「禿榎《かむろえのき》」 安倍郡府中御城內にあり。傳云《つたへいふ》、

「大西小屋の前、大六天《だいろくてん》の社《やしろ》の玉垣のもとに、榎、二本、あり。往昔《わうじやく》、此《この》木のもとより、美麗の禿、出現す。故に『禿榎』と云《いへ》り。又、此木の根に跌《つまず》けば、必《かならず》、三年の內に死す。故に『三年榎』共《とも》云《いふ》也。」。

 

[やぶちゃん注:この榎は現存しないようである。

「大西小屋」何らかの武家の組組織の詰め所らしく思われる。

「大六天の社」「第六天」であろう。欲界六天の最高の第六の天界の名。他化自在天(たけじざいてん)。小学館「日本国語大辞典」に拠れば、『この天に生まれたものは他の作りだした楽事を受けて自由に自分の楽とするという。また』、『この天の髙所には別に』『魔王の住所があるとされた。』ともある。現存しない。

「禿」小学館「日本大百科全書」に拠れば、『かぶろともいう。廓(くるわ)ことば。遊里で一人前の遊女になるための修業をしている』六、七『歳から』十三、十四『歳までの少女たちのこと。これを過ぎると』、『吉原では振袖新造(ふりそでしんぞう)から番頭新造となり、さらに太夫(たゆう)となった。禿は髪を額のところで切り、残りを』、『肩のあたりまで垂らして切りそろえたので』、『切り禿ともいう。江戸末期の禿の服装は、桃色縮緬(ちりめん)か絖(ぬめ)』(生糸を用いて繻子織(しゅすおり)にして精練した絹織物。生地が薄く、滑らかで光沢があり、日本画用の絵絹や造花などに用いられる。天正年間(一五七三年~一五九二年)に、中国から京都西陣に伝来した。日本でも織られた。以上は「デジタル大辞泉」に拠った)『の無地の表着に花魁(おいらん)の定紋を』五ヶ『所』、『つけ、帯はビロード、袖は広袖。浮世絵では花かんざしの華麗な服装で描かれている。太夫の道中では、女郎の格により』、『お伴(とも)の禿も』三『人』、二『人』、一『人の区別があった。桃山時代以来、一般婦女にも』、『切り禿の髪がみられる』とある。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「禁杜若謠」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。句読点・記号を追加した。]

 

 「禁杜若謠《かきつばたの うたひ きんず》」 安倍郡府中御城內にあり。傳云《つたへいふ》、

「御城內に於《おい》て、『杜若』の謠を謠へば、必《かならず》、崇《たた》りあり。云々。」。

 或云《あるいはいふ》、

「是を謠へば、龍爪山《りゆうさうざん》より、奇火《きくわ》、飛來《とびきたり》て、卽坐に命を絕つ。故に是を禁ず。云云。」。

 いか成《なる》謂《いは》れや有《あり》けん、たへて、知る者、なし。

 

[やぶちゃん注:「杜若」小学館「日本大百科全書」に拠れば、『能の曲目。三番目物。五流現行曲。世阿弥(ぜあみ)作か。出典は』「伊勢物語」で、『在原業平』『東下(あづまくだ)り、三河』『の国』『八橋(やつはし)で詠んだ「からころもきつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ」』の、『その杜若の精を美しい女人の姿で登場させ、業平をめぐる女性像と重ね合わせた能』。「伊勢物語」『の情緒の濃さと、初夏の季節感の鮮やかさが映り合って成功した作品である。八橋の杜若に見入る旅の僧(ワキ)に呼びかけた女(シテ)は、僧をわが庵(いおり)へと導く。高子(たかきこ)の后(きさき)の衣装をつけ、彼女の恋人である業平の形見の冠(かむり)を着た女は』、「伊勢物語」『の恋愛絵巻を舞い、歌に秀でた業平を極楽の歌舞の菩薩』『として賛嘆し、草木国土悉皆(しっかい)成仏の仏の力を得て、清澄な世界へ消えていく。草木の精をシテとする能』で、「梅」・「藤」・「芭蕉」、『紅葉の精の』「六浦(むつら)」・「墨染櫻」(すみぞめざくら)・「西行桜」(さいぎょうざくら)・「遊行柳」(ゆぎょうやなぎ)『のなかでも、とりわけ華麗な幽玄味を主張する作品である』とある。詞章は、サイト「無辺光」(むへんこう)のここがよい(漢字は新字だが、PDF版のダウンロードも出来る。但し、そこでは世阿弥の娘婿の『禅竹作』とする。ウィキの「禅竹」をリンクさせておく)。

「龍爪山」以前にも、三度、出たが、ここ(グーグル・マップ・データ)。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「出世猫」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。句読点・記号を追加した。]

 

 「出世猫」 安倍郡府中御城內にあり。傳云《つたへいふ》、

「御城大手御門內、河內屋敷《かはちやしき》に一《ひとつ》の黑猫あり。偶《たまたま》、是《これ》を見る者あれば、幸《さひあひ》あり。靑雲の志《こころざし》ある者は、必《かならず》、立身出世す。故に號《なづけ》て『出世猫』と云《いへ》り。」。

 

[やぶちゃん注:前の不吉な「山吹猫」と反対のポジティヴな福猫談。

「御城大手御門」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「山吹猫」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。句読点・記号を追加した。]

 

 「山吹猫《やまぶきねこ》」 安倍郡府中御城內にあり。傳云、「御城內に一老猫《いちらうびやう》あり。『山吹』と號《なづ》く。常は御庭に住《すめ》り。稀に見る者あれば、必《かならず》、瘧《おこり》を病めり。云云。」。

 

[やぶちゃん注:「山吹猫」双子葉類植物綱バラ目バラ科サクラ亜科属ヤマブキ属種ヤマブキ Kerria japonica の花の、黄金色に近い黄色の毛色による命名か。

「瘧」マラリア。]

ブログ・アクセス2,460,000突破

本未明、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが、2,460,000アクセスを突破した。

2025/07/11

和漢三才圖會卷第第九十 菰果類 目録・(前書)・甜瓜

[やぶちゃん注:かなり前に、既に述べておいたが、「和漢三才圖會」の「瓜」は「𤓰」という「爪」と見紛う字体を用いている。混乱を避けるために、この「𤓰」は、総て「瓜」に代えてある。

 

  卷第九十

   菰果類

甜瓜(まくは) 附《ツケタ》リ 韓瓜 阿古陀瓜

瓜蔕(くはたい)

西瓜(すいくは) 楊溪瓜

萄萄(ぶだう)

蘡薁(くさぶだう)

獼猴桃(さるもゝ)

甘庶(さたうの木)[やぶちゃん注:「木」はママ。]

紫餹(くろさたう)

氷餹(こほりさたう)

餹霜(しろさたう) 石𮔉《せきみつ》

(くさみつ)

 

和漢三才圖會卷第九十

      攝陽 城醫法橋寺島良安尚順

  蓏果類

瓜類不同其用有二供果者甜瓜西瓜供菜者胡瓜越瓜

凡實在木曰果在地曰蓏大曰瓜小瓞【和名多知布宇里】其子

曰㼓【音廉】其肉曰𤬞【曰㼕𤬞俗奈加古】其跗曰環謂脫花𠙚也【俗云豆

[やぶちゃん字注:𤬞」は、原文では(つくり)と(へん)が逆になっている字体だが、表示出来ないので、これとした。

之猶人頭之旋毛】其蔕曰疐【一名瓜丁】謂繫蔓𠙚也

[やぶちゃん字注:「疐」は、原文では中央の「田」の上に「口」が入っている字体だが、表示出来ないので、これとした。東洋文庫も、この「疐」を用いている。

 

   *

 

  蓏果類《らかるゐ》

瓜《うり》の類、同じからず。其《その》用、二《ふたつ》、有り。果《くわ》を供《きやう》する者は、「甜瓜(まくは)」・「西瓜(すいか)」。菜《な》を供する者は、「胡瓜(きうり)」・「越瓜(しろうり)」。凡《すべ》て、實(み)、木に在るを、「果」と曰ふ。地に在るを、「蓏《ら》」と曰ふ。大なるを「瓜」と曰《いひ》、小なるを「瓞《てつ》」【和名、「多知布宇里《たちふうり》」。】其の子(さね)を「㼓《れん》」と曰《いふ》【音「廉」。】。其《その》肉を「𤬞(なかご)」と曰《いふ》【「㼕𤬞《うりわた[やぶちゃん注:読みは東洋文庫訳のそれを採用した。]。俗、云ふ、「奈加古」。】。其《その》跗《ふ》を「環《くわん》」と曰ふ。「花を脫(を)とす[やぶちゃん注:ママ。]𠙚」を謂《いふ》なり【俗、云ふ、「豆之」(《ず》し)。猶を[やぶちゃん注:ママ。]、人の頭《かしら》の旋毛《つむじ》のごとし。】其《その》蔕《へた》、「疐《ち》」と曰《いふ》【一名「瓜丁《カテイ》」。】。謂《いはゆ》る蔓を繫ぐ𠙚《ところ》なり。

[やぶちゃん注:ここでは、挙げられている名前は、以下の冒頭の「甜瓜」からして、本邦の種と同一種ではないことが判ったので、ここでは、各項に譲り、注は打たない。

 

 

Tenka

 

まくは    甘瓜 果瓜

       甜【甛同音簞甘也】

        【阿末宇里】

甜瓜

       熟蔕落者

      【和名保曽知】

唐音     今云眞桑瓜

ラン クハア﹅

 

本綱甜瓜味甜于諸瓜故名二三月下種延蔓而生葉大

數寸五六月花開黃色六七月瓜熟其類最繁有團有長

有尖有扁大或徑尺或小或一捻其稜或有或無其色青

或綠或黃班糝班或白路黃路其瓤或白或紅其子或黃

或赤或白或黒凡瓜最畏麝香觸之卽至一蔕不收

瓜瓤【甘寒滑有小毒】 止渴除煩熱解暑氣【有兩蔕兩鼻者殺人五月瓜沉水者食之

 得冷病終身不瘥反胃脚氣人食之病永不除也】

 用熟瓜除瓤食之不害人瓜性最寒曝而食之尤冷凡

 瓜寒於曝油冷於煎此物性之異也

凡食瓜過多伹飮酒及水則消又食之入水自漬便消食

 鹽亦良


くはたい  

      瓜丁 苦丁香

瓜蔕  【甜瓜之蔕】

本綱瓜蔕【苦寒有毒】 甜瓜蔕自然落在蔓上采得風吹乾用

 之病如桂枝證頭不痛項不強寸脉微浮胸中痞哽氣

 上衝咽喉不得息者此爲胸中有寒【當吐之】太陽中𣎅神

 熱疼重而脉微弱此夏月傷冷水水行皮中也【宜吐之】

 少陽病頭痛發寒熱脉緊不大是膈上有痰也【宜吐之】

 胸上諸實鬱匕而痛不能食欲人按之而反有濁唾下

 利日十餘行寸口脉微弦者【宜吐之】懊憹煩躁不得眠未

 經汗下者謂之實煩【當吐之】宿食在上管者【當吐之】並宜以

 瓜蔕散主之【凡胃弱人及病後產後不宜用此也】

  夫木山城の鳥羽に通て見てしかな瓜作りける人の垣ねを

△按甜瓜出於濃州眞桑村者良故總名稱真桑武州川

 越尾州青鷺洛之東寺爲上駿州府中羽州七浦攝州

 氷野泉州堺舳松皆得名參州銀甜瓜白色而有銀筯

 加州田中和州梵田白色也凡下種前一日用沙糖及

 白柹肉漬水浸瓜子於其水一宿取出種之則生美味

 其苗至蔓稍長鋪藁䅌於根邊宜使瓜在藁上也甚延

 長則宜斷蔓末否則莖蔓不肥也凡摘熟瓜經一兩宿

 者味美也摘經久者瓤爛味不美狐及鴉喜竊食之

一種有韓瓜【似甜瓜而大皮不濃味劣】 一種有阿古陀瓜【宛似南瓜今人不好】

 有鹽味誤瓜汁着刀劔則忽生鏽

 瓜蔓晒乾者如鐵線截之難斷名天久須用之爲釣𮈔漁

 家最重之自中𬜻來天蝅𮈔與此一類乎

[やぶちゃん字注:「蝅」は原本では「天」は孰れも「夫」になったものだが、表示出来ないので、この「蠶」の異体字で示した。]

 

   * 

 

まくは  甘瓜《かんくわ》 果瓜《くわくわ》

     甜《テン》【「甛」と同じ。音「簞《エン》」。

          「甘《あま》き」なり。】

      【「阿末宇里《あまうり》」。】

甜瓜

     熟して、蔕《へた》落《おつ》る者を、

    【和名、「保曽知《ほそち》」。】

唐音   今、云《いふ》、「眞桑瓜(まくは《うり》)」。

ラン クハア﹅

 

本綱に曰はく、『甜瓜《てんくわ》は、味、諸《もろもろ》≪の≫瓜《うり》より甜《あま》き故、名づく。二、三月、種を下《おろ》す。蔓を延《ひ》いて生ず。葉の大≪いさ≫、數寸。五、六月、花、開く。黃色。六、七月に、瓜、熟す。其《その》類《るゐ》、最も繁し。團《まろき》、有り、長き、有り、尖《とが》れる、有り、扁《ひらた》き、有り。大《だい》なるは、或《あるい》は、徑《わた》り、尺。或《あるいは》、小なるは、或《あるいは》、一捻《ひとひねり》。其《その》稜(かど)、或は、有り、或は、無く、其色、青く、或は、綠(《みど》り)、或は、黃班《きまだら》・糝班《つぶつぶまだら》、或は、白路《しろすぢ》・黃路《きすぢ》。其瓤《なかご》、或は、白く、或《あるいは》、紅《くれなゐ》なり。其子《み》、或は、黃、或は、赤く、或は白く、或《あるいは》、黒し。凡そ、瓜、最《もつとも》麝香《じやかう》を畏《おそ》る。之に觸るれば、卽《すなはち》、一蔕《ひとへた》[やぶちゃん注:ここは実を指す。]收めざるに至る。』≪と≫。

『瓜瓤《うりわた》【甘、寒。滑。小毒、有り。】』『渴《かはき》を止め、煩《わずらはしき》熱を除き、暑氣を解《かい》す【兩《ふた》つ蔕《へた》、兩《ふたつ》鼻≪の≫者、有り、人を殺す。五月、瓜、水に沉《しづ》む者、之れを食へば、冷病《れいびやう》を得て、終身《しゆうしん》、瘥《い》えず。反胃《はんい》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の後注に、『朝』、『たべたものを』、『夕方』、『吐き、夕方』、『たべたものを翌朝に吐く。食物をうけつけない症。』とある。]・脚氣《かつけ》の人、之れを食へば、病《やまひ》、永く、除《のぞけ》ざるなり。】』≪と≫。

『熟≪せる≫瓜≪を≫用《もちひ》て、瓤《わた》を除《のぞく》に、之≪を≫食へば、人に、害《がい》、あらず。瓜の性、最も「寒《かん》」なり。曝《さら》して、之≪を≫食へば、尤《もつとも》「冷《れい》」なり。凡《およそ》、瓜は曝《さらす》に、「寒」なり。油は煎《せん》ずるに、「冷」なり。此《これ》、物性の異《い》なり。』≪と≫。

『凡そ、瓜を食ふ≪に≫、過多《かた》なれば、伹《ただ》、酒及び水を飮めば、則ち、消《きゆ》る。又、之≪を≫食《くひ》て、≪其の人≫水に入《はひ》る≪べし≫。自《おのづか》ら、漬(つか)れば、便《すなは》ち、消《しやう》す。鹽を食《くひ》ても亦、良し。』≪と≫。


くはたい

      瓜丁《かてい》 苦丁香《くていかう》

瓜蔕  【甜瓜の蔕(へた)。】

「本綱」に曰はく、『瓜蔕【苦、寒。毒、有り。】 甜瓜の蔕、自然に落《おち》て、蔓の上に在るを、采り得て、風に、吹《ふき》乾《ほ》して、之≪を≫用《もち》ふ。病《やまひ》、桂枝の證《しやう》のごとく≪と雖も≫[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、『病が桂枝を投薬すべき証のようであるが、』とあり、後注で、『桂枝は発汗・解熱・鎮痛作用があり、また健胃・通腸にもよいとされる。』とする。「桂枝」については、「卷第八十二 木部 香木類 肉桂」の本文の「桂枝」、及び、私の注を見られたい。]、頭《かしら》、痛まず、項《うなじ》、強(こは)らず、寸脉《すんみやく》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の後注に、『寸口』(すんこう)『寸口の脈。寸口とは手首で、さらにこれを寸・関・尺の三部分に分ける。医者は人指し指を寸に、中指を関に、薬指を尺の部分にあてて脈をみる。』とある。]、微《やや》浮《うき》、胸中《きやうちゆう》、痞(つか)へ哽《つまり》[やぶちゃん注:飲み物が飲み下せず、喉が詰まり。]、氣、上《のぼ》≪りて≫、咽喉に衝《つき》[やぶちゃん注:この部分、原文は、国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の返り点(一・二点)であるが、これでは、うまく読めないので、東洋文庫訳を参考にして、独自に訓読した。]、息(いきす)ること、得ざる者は、此れ、「胸中≪に≫、寒《かん》、有り。」と爲《す》るなり【當《まさに》之れを吐かすべし。】。「太陽」≪の病ひにて≫[やぶちゃん注:東洋文庫訳の後注に、『身体の表層部におこる病。発熱・悪寒が太陽経脈をしばる。』とある。]、中𣎅《ちゆうえつ》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に、『(日射病のような症状)』とある。]・神熱≪して≫[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、この『神熱』の右に『ママ』注記があり、正しい字は「身熱」とする。★「本草綱目」原文「漢籍リポジトリ」の「卷三十三」の「果之五【蓏類九種内附一種】」の冒頭の「甜𤓰」)で確認した。[081-4a]の一行目である。]、疼《うづき》、重《おもく》して、脉、微弱なるは、此の夏月、冷水に傷《そこなは》れて、水、皮中《ひちゆう》を行くなり【宜しく、之れを吐くべし。】。[やぶちゃん注:この箇所、原文では、見られた通りで、一字分空いているが、「本草綱目」では、「發明」の一節で([081-4a]の一行目)、完全に繋がっている。一字だけが行末に来るのを嫌った仕儀であることが判ったので、繋げた。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版では、改行してある。]少陽の病《やまひ》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の後注に、『太陽の表証と陽明の裏証の中間の証。少陽経脈は胸脇部を走っているので、胸の圧迫感やめまい・はきけ・耳なりがおこる。』とある。]、頭痛し、寒熱を發し、脉、緊《しまり》、大ならず。是れ、膈上《かくじやう》に、痰、有るなり【宜しく、之れを吐くべし。】[やぶちゃん注:「本草綱目」を見たところ、前注と全く同じ仕儀である([081-4a]の一行目)ことが判ったので、詰めた。但し、中近堂版は、やはり改行している。]胸上≪の≫諸實、鬱鬱[やぶちゃん注:原文は「鬱匕」であるが、同じく「本草綱目」を見たところ、「鬱鬱」とあるので([081-4a]の二行目)、それに変えた。恐らく繰り返しの踊り字を誤刻したものと思われる。]として、痛み、食すること、能はず、人、之れを按《あん》ずる[やぶちゃん注:痛みをとるために、さすって貰う。]ことを欲《ほつす》れども、反《かへり》て、濁唾下利《だくすいげり》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に、『(濁った唾液をたれ流す)』こととある。]≪すること≫、日《ひにひ[やぶちゃん注:日の送り仮名には踊り字「〱」と「ニ」が打たれてある]》に十餘行、寸口の脉、微弦《びげん》なる者≪は≫【宜しく、之れを吐くべし。】。懊憹(をうのう[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「あうなう」が正しい。意味は「煩悶」に同じ。])煩躁《はんさう》[やぶちゃん注:胸中に熱感があり、気分が落ち着かず、じっとしておられず、手足を頻りに動かし落ち着かないことを言う。]して、眠《ねむる》ことを得ず、未(いま)だ汗≪の≫下《くだる》を經《へざる》者、之を「實煩《じつはん》」と謂ふ【當《まさ》に、之れを吐くべし。】。宿食《しゆくしよく》[やぶちゃん注:前夜に食したもの。]、上管《じやうくわん》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に、『(胃の上部か)』とある。]に在る者は【當に、之れを吐くべし。】。並《ならびに》、宜《よろしく》、「瓜蔕散」を以《もつて》、之《これを》主《つかさ》どる【凡そ、胃、弱き人、及《および》、病後・產後≪の者は≫、宜《よろし》く此を用ふべからざるなり。】。』≪と≫

  「夫木」

    山城の

      鳥羽に通《かよひ》て

     見てしがな

       瓜作りける

      人の垣ねを

△按ずるに、甜瓜《まくは》、濃州《みの》眞桑村より出《いづ》る者、良し。故に、總名を「真桑」と稱す。武州《むさし》の川越(《かは》ごへ[やぶちゃん注:ママ。])・尾州《をはり》の青鷺(あをさぎ)・洛《きやう》の東寺を、上と爲《なす》。駿州《するが》の府中・羽州《うしう》の七浦(なゝ《うら》)・攝州《せつつ》の氷野(ひの)・泉州《いづみ》堺《さかひ》の舳(へ)の松《まつ》、皆、名を得たり。參州の「銀甜瓜(ぎんまくわ)」は、白色にして、銀≪の≫筯、有り。加州《かが》の田中・和州《やまと》の梵田《ぼんでん》は、白色なり。凡そ、種を下《くだ》す前、一日《ひとひ》、沙糖、及《および》、白柹(つるしがき)の肉を用《もちひ》て、水に漬け、瓜の子《み》を其《その》水の浸《ひた》し、一宿して、取出《とりいだ》して、之を種(ま)けば、則《すなはち》、美味を生ず。其《その》苗、蔓、稍《やや》長ずるに至《いたり》て、藁䅌《わらしべ》を根の邊《あたり》に鋪《しき》、宜しく、瓜をして藁の上に在《あ》らしむるべきなり。甚だ、延長すれば、則《すなはち》、宜しく、蔓の末《すゑ》を斷(た)つべし。否《いな》ざれば、則《すなはち》、莖・蔓、肥えざるなり。凡《およそ》、熟瓜を摘(むし)りて、一兩宿うぃ經る者、味、美なり。摘《つみとり》て、久(ながき)を經る者、瓤《わた》、爛《ただ》れ、味、美ならず。狐《きつね》、及《および》、鴉《からす》、喜んで、之れを竊(ぬす)み食ふ。

一種、「韓瓜《からうり》」、有り【甜瓜に似て、大《おほき》く、皮、濃《こ》からず、味、劣れり。】 一種、「阿古陀瓜(あこだ《うり》)」、有り【宛(さなが)ら、「南瓜(ぼうぶら)」[やぶちゃん注:カボチャ。]に似たり。今の人、好まず。】。鹽味《しほみ》、有り。誤《あやまり》え、瓜の汁を刀劔≪に≫着《つ》けば、則《すなはち》、忽ち、鏽(さび)を生ず。

 瓜≪の≫蔓、晒乾《さらしほ》す者、鐵線(はりがね)のごとく、之≪を≫截《き》るに、斷《き》れ難し。「天久須《てぐす》」と名づく。之を用《もちひ》て、釣𮈔《つりいと》と爲《なす》。漁家、最《もつとも》、之≪を≫重んず。中𬜻より來《きた》る「天蝅𮈔(てぐす)」、此《これ》と一類か。

 

[やぶちゃん注:まず、良安は「まくは」とし、評言の内容は、明らかに、私らの世代までは至って馴染み深い、「真桑瓜」、

双子葉植物綱スミレ目ウリ科キュウリ属メロン変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa

として語っている。しかし、本邦のウィキの「マクワウリ」の右上の「言語版」の「中国語」を選ぶと、「維基百科」の「香瓜」へリンクするのだが、そこでは、『香瓜(Cucumis melo Makuwa Group)』とし、中文異名として『甘瓜、果瓜、梨瓜、东亚甜瓜方甜瓜、真桑瓜、美』を掲げた後に、『これは主に東アジアで生産される「短毛メロン」(皮が薄いメロン)の栽培種群』であるという記載が続く。さらに、右の種表には、

『種』を『甜瓜 Cucumis melo

『亜種』を『短毛甜瓜 C. m. subsp. agrestis

『栽培群』を『Makuwa Group

と記しており、添えられた標題画像は、これである。而して、下方にある「圖庫」(写真)には、

『日本的香瓜』とキャプションするこれである(但し、これは、アドレスを見れば判る通り、実は、ウィキの「マウワウリにある、主に富山県で古くから栽培されている「マウワウリ」の品種である「ギンセンマクワ」(銀泉まくわ(甜瓜))の写真と同一である)

同じく『日本的香瓜』とキャプションするこれ

そして『韓國的香瓜』とキャプションするこれ

これらを見ると、中国・日本・韓国では、見た目が既にして微妙に違うように、私には、見える。まあ、品種だから問題にするまでもないのだが、問題なのは、「維基百科」の「香瓜」には、どこにも「甜瓜」の漢名が記されていないことなのである。ところが、「維基百科」には、実は、独立した列記とした「甜瓜」のページがあるのである。而して、そこには学名として、

甜瓜(学名:Cucumis melo

と記されてあるのである。則ち、

「本草綱目」の「甜瓜」は双子葉植物綱スミレ目ウリ科キュウリ属メロンを指す

のである。

 従って、まずは、ウィキの「メロン」を必要と考える部分だけを引く(注記号はカットした太字・下線は私が附した)。メロン(甜瓜』、『和名:メロン、英: melon、学名:Cucumis melo)は、果実を食用にするウリ科の一年生草本植物である。また、その果物・果実のこと。漢字では甜瓜(てんか)と呼び、これはメロンを指すと同時にマクワウリをも含む表記である』。『メロンは園芸分野では果菜(実を食用とする野菜)とされるが、青果市場での取り扱いや、栄養学上の分類では』、『果物あるいは果実と分類される』。『インド原産で、中近東を経てヨーロッパに渡った西洋系品種と、中国で広まった東洋系品種があり、各地で栽培されている。現在メロンとよばれる果実は、甘味や香りが強い西洋系メロンが主流で、甘味や香りがない東洋系メロンはウリとよばれている。果皮は緑色や黄色、白色などがあり、無地のほかネットメロンとよばれる網目模様のものや、縦縞模様が入るメロンもある。栄養的にはビタミンCやカリウムが豊富なのが特徴』。『北アフリカや中近東地方の原産地と推定されたが』、二〇一〇『年に発表された植物学者スザンヌ・レナーとミュンヘン大学の研究者らの遺伝子研究によれば、インドが原産地と裏付けられた。インドのインダス渓谷で紀元前』二三〇〇『年』から『 同』一六〇〇『年ごろのメロンが、インド中西部で紀元前』一六〇〇『年ごろのものが発見されている。古代インドのアーリア人が、原住民のムンダ族がメロンに名づけていた複数の言葉を借用して、サンスクリット語でチャルバター(carbhatah)やキルビタ(cirbhita)などと呼んでいたが、これがウリ科植物やメロンの仲間を表すラテン語のククルビット(cucurbit)の語源となった』。『メロンはごく早い時代にインドから西方のイラン(ペルシア)へ広がったとみられており、紀元前』三〇〇〇『年ごろのメロンの種子がイラン南東部の古代遺跡シャフリ・ソフタから発見されている。紀元前』七『世紀の古代メソポタミアでは、粘土板に書かれた楔形文字から、バビロニアの王、メロダク・バルアダン』Ⅱ『世の菜園でメロンと解釈できる植物が栽培されていたとみられている。紀元前』二〇〇〇『年ごろの古代エジプトでは、エジプトメロンやヘビウリが食べられていたともいわれている。古代ギリシアにおいて、メロンの仲間についての記述として現れる最も古いものは、紀元前』四『世紀のヒポクラテスによるもので、科学者の多くはこれがメロンであるとみている。古代ローマでも、同様にメロンが食べられていたとみられているが、古代のメロンは現代のような甘いメロンではなかったと考えられている』。『メロンがインドから東方の中国へ到達した時期は不明であるが、中国浙江省では紀元前』三〇〇〇『年ごろのメロン種子が発掘されている。このメロン種子は甘くないメロンだった可能性もあるが、植物学者のテレンス・W・ウォルターズによれば西周時代(紀元前)一一〇〇『年』~『同』七七一『年)における中国では、マスクメロンと野菜用メロンは重要な果菜であったという。漢代(紀元前』二〇六『年』~『紀元』二二〇『年)にはメロンは中国で一般に食べられていた』。『その後、甘いメロンが作られるまで数世紀に及ぶ改良の努力が行われた。研究者の多くは、中世の終わり(』十五『世紀末)になって、ようやく現代と同じ甘いメロンがアルメニアからイタリアへと入ってきて、その後ヨーロッパ全土に広がったと考えている。中世ヨーロッパではメロンは甘いものということは知られており、甘くて食味の良いメロンも作られていたとみられているが、一方では栽培技術が未熟であったため、メロンは味気ないものという評価もなされていた。ルネサンスのころに南フランスでカンタルー種のような甘い品種が作られるようになり、メロンは野菜の仲間ではなくなっていった』。『近東と中央アジアなどのシルクロード沿いのオアシスでは、栽培環境が整った上に最高品質のメロンが採れ、その種を取引する市場となっていた』。十『世紀にアラビア語による最古の料理書を編纂したアル=ワッラークは、多様なメロンについて執筆しており、中でも中国産メロンについて「蜂蜜のように甘く、麝香のような芳香を持つ」と評している』。六『世紀の中国で書かれた農書にはメロンの栽培法について解説されており』「西遊記」『の三蔵法師で知られる』七『世紀唐代の仏僧・玄奘は、旅先のインド滞在記にメロンについても記録を残している』。十三『世紀』に『モンゴル帝国のシルクロードを旅したマルコ・ポーロは、ペルシアやアフガニスタンで栽培・日干し保存加工されている甘いメロンについて最高のものだと書き、メロンの評判を呼んでいた』。十四『世紀後半に中央アジアを支配したティムールを訪問したスペイン使節団は、中央アジアで食べたメロンの味に魅了され「すばらしく非常に美味しい」と評した』とある。

 次いで、本邦の「マクワウリ」のウィキを、最低、必要と感ずる部分のみを引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『マクワウリ(真桑瓜、英名:Oriental melon、学名:Cucumis melo var. makuwa )は、ウリ科キュウリ属のつる性一年草、雌雄同株の植物。メロンの一変種で果実は食用する。南アジア原産。季語は夏。日本では西洋メロンの導入以前より多数の農家で生産されて来た安価な庶民のメロンで、自然な甘味と歯触りが良いのが特徴である。マクワウリのことを「ウリ」とも言う』。『メロンの亜種で糖度は低いが、甘い瓜である。大量生産が容易で、市場では普段使いの野菜として安価に取り引きされ、昭和までは手頃な甘味として親しまれていた。平成以降は生産技術の向上でネット系メロンが安価になり、農家の減少も重なり、一般的には販売される代替品のマクワウリを食べる機会は少なくなっている。種としてのメロン ( Cucumis melo ) は北アフリカや中近東地方の原産であり、紀元前』二〇〇〇『年頃に栽培が始まった。そのうち、特に西方に伝わった品種群をメロンと呼び、東方に伝わった品種群を瓜(ウリ)と呼ぶ。マクワウリもその一つで南アジア原産とされる。日本で古くから栽培されているマクワウリは、オリエンタルメロンと呼ばれる小型メロンの仲間である。この系統のウリが日本列島に渡来したのは古く、縄文時代早期の遺跡(唐古・鍵遺跡)から種子が発見されている』。『日本におけるマクワウリの栽培史は』二十『世紀初頭に導入されたメロンより遥かに長く』、二『世紀頃から美濃国(岐阜県南部)真桑村(のちの真正町、現:本巣市)が良品の産地であった。マクワウリの名前は名産地の真桑村に由来する。奈良時代末期に成立されたという』「万葉集」『にも登場し、歌に詠まれている』。『古くから日本で食用にされ、古くは「うり」と言えばマクワウリを指すものだった。現在の甘い「メロン」が一般的になる昭和中期までは、マクワウリのことを「メロン」と呼んでいた。他、アジウリ(味瓜)、ボンテンウリ(梵天瓜)、ミヤコウリ(都瓜)、アマウリ(甘瓜)、カンロ(甘露)、テンカ(甜瓜)、カラウリ(唐瓜)、ナシウリ(梨瓜)といった様々な名称で呼ばれる』。『品種が多く、果実も様々な色や形のものがある。代表的なものはアメリカンフットボールのような形』である。

以下、「マクワウリと西洋メロン」の項。『ネット系の西洋メロンが日本の市場に流通するのは』大正一四(一九二五)年『以降、マスクメロン』(アールスフェボリット(Earl's Favourite)=アールスフェボリットメロン(アールスメロン:網メロンの代表品種である。略してアールスメロンとも呼ばれる。詳しくはウィキの「マスクメロン」の見られたい)『の温室栽培に成功してからである。しかし』、『当初は一般家庭には手の届かない高級品であり、庶民はもっぱら安いマクワウリを食べていた。マクワウリに続いて導入された、ハネデューメロンやホームランメロン等のノーネットメロンは美しい網目の形成が不要で大量生産を行いやすいため安価に流通する傾向にあり、庶民の家庭では普段使い用に重宝されている』。

以下、「利用」と「栽培」の項。マクワウリは、『食用とする果実は香りが良く、果肉がややかための食感で、さっぱりした甘味がある。食材としての主な旬は』七~九『月とされ、全体に色が均一で重みのあるものが市場価値の高い良品とされる。放射状に切って先割れスプーンなどですくったり、そのままかぶりついたりして食べるが、大型のネットメロンほどの甘味は無い。浅漬けや糠漬けにもされ』、『お盆のお供えとしてよく使われる』。『カリウムが他の果物に比べて特に豊富に含まれおり、利尿作用により体内水分のバランスを整えるほか、高血圧や動脈硬化、糖尿病の予防に効果が期待できるといわれている。その他、ビタミンCや、貧血予防に役立つといわれる葉酸も比較的多く含まれている』。『栽培難度は』普通『で、栽培期間は』五~八『月、苗の植え付けは晩春(』五『月中旬)に行い、夏期(』六『月下旬 』から八『月上旬)に収穫する。寒さに弱い高温性植物で、栽培適温は』摂氏二十五~三十『度とされる。連作障害があるため、ウリ科作物を』二~三『年作っていない畑で栽培する。家庭菜園や植物の解説ではメロンに準じて扱われる』。『畑は元肥を入れて良く耕しておき、高さ』五~十『センチメートル、幅』一『メートルの畝を作り、十分に暖かくなった晩春に苗を植え付ける。定植時の株間は』一『メートル程度とし、根浅性のため深植は厳禁とされる。初夏から夏期にかけては生長期で、つるが伸びたら本葉』五、六『枚で親づるを摘芯して、小づるを』三『本』、『伸ばすようにする。さらに小づるが伸びて本葉が』十五~二十『枚の』頃『に摘芯して、孫づるに実をつけるようにする。果実がつき始めたら、早めに摘果を行って』、一『株あたり』六~八『個の果実が残るように育てられる。追肥は』、二『週間に』一『度の間隔で行われる。夏期に実が十分に膨らんで大きくなったら』、『収穫の目安となり、開花後』四十~五十『日目で果実は成熟する』。

以下、「品種」及び「交配種」の項であるが、前者冒頭の「銀泉まくわ」のみを引く。江戸中期に遡れるかどうかが、記載からは、判らないからで、いちいち、調べて検証する気は私には、ない。悪しからず。『多くの品種があり、色や形はさまざまである。果実の形は俵形をしているものが多く、果皮の色については黄色系・緑色系・白色系の』三『色の系統があり、代表的なものは果皮が黄色系で果肉が白色である。品種改良が進み、糖度の高いものも市場に流通しており、他種との交配で作出されたプリンスメロンがよく知られている』とある。

「韓瓜《からうり》」現行では、韓国で本種マクワウリを指す。或いは、比較的古くに伝来した古い個体群か。

「阿古陀瓜(あこだ《うり》)」小学館「日本国語大辞典」によれば、『ウリ科の蔓性一年草。茎、葉、花はカボチャによく似ているが』、『果実はやや小さく、長さ約』十八『センチメートル、円形あるいは長楕円形。果皮は光沢のある赤色で条紋がない。味は淡泊で食用に適しない。あこだ。金南瓜(きんとうが)。』とあり、初出例には「狭衣物語」(平安中期末成立か)を引く。学名は、ウリ科カボチャ属ペポカボチャ Cucurbita pepo var.kintogwa 。参考した「内外植物wiki」の「キントウガ」に(画像(手書き絵)が二葉有り)、『ヨーロッパより渡来した品種で』、『トウナス』=カボチャ『と同樣』、『畑地に栽培する蔓性の一年生草本である。形はトウナスに似ているが』、『果実は長楕円形で赤褐色に成熟し』、『其の表面はトウナスと比較して滑らかで光澤が有り、見た目が良いので、食料とするよりは』、『寧ろ』、『多くは果物店の装飾となるものである。ナタウリ』『の近縁種で、日本には江戸時代末期に渡来していることが「大和本草」や「本草図譜」で確認できる』。『近縁種に形態』・『大小』、『種々の變種があり、カザリカボチャやオモチャカボチャと呼ばれるものもある。その中には全く装飾品として愛玩するに留まり』、『食用にできないものもある』。『果実が球形のものはアコダウリと呼ばれ、こちらも観賞用にされる。ぼんぼりや甲冑などの日本の美術工芸品で』、『丸みを帯びて縦溝が入るものを阿古陀(あこだ)と称するが』、『この植物の果実の形状にちなむ』ものであるとある。

 他の各個注は、今回は訓読内に割注・後注で示したので、これを以って、私の注は終わりとする。]

2025/07/09

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「稻荷神爲方違」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。句読点・記号を追加した。]

 

 「稻荷神爲方違《いなりのかみ かたたがへを なす》」 安倍郡府中本通り二町目にあり。傳云《つたへいふ》、

「當町、家の裏に稻荷の社《やしろ》あり。硏屋町《とぎやちやう》の某《なにがし》と云《いふ》商人、每年、八朔《はつさく》の早天、狐か崎に迎《むかへ》に行けば、稻荷の神、此人にのり移りて本通りの稻荷の社に來《きた》る。其間、是を送る者、放心して萬事を知らず。家に歸れば、元の如し。翌日、また、斯《かく》の如《ごとく》にして、狐か崎に送り歸す。云云《うんぬん》。」

 惜哉《おしいかな》、其人の名を聞《きか》ず。按《あんず》るに、俗に、「狐を以《もつ》て、稻荷の仕《つか》はしめ也《なり》。」とす。玆《ここ》に狐か崎の名ある、傍《はた》、以《もつて》、據《よりどころ》あるか。

 

[やぶちゃん注:「安倍郡府中本通り二町目」現在の静岡県静岡市葵区本通ほんとおり(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の東北部かと思われる。以下の地区を参照されたい。

「稻荷の社」現在の葵区本通内では、稲荷神社は鎮火稲荷神社のみであるが、サイト「Feature 人宿町の魅力を探る」の「鎮火稲荷神社」の記事によれば、『この鎮火稲荷神社は』、『その町人町の南西の端にある。興味深いのはここからで、町人町のほぼ北西の端には静岡天満宮があり、そこには静銀稲荷社がある。この社は戦後、隣接する静岡銀行社から遷されたものだそうだ。更に町人町の北東(これは鬼門方向になる)には小梳神社があり、やはり境内にはお稲荷様が鎮座している』とあるので、違う。しかし、この引用の終りの小梳(おぐし)神社がここで、以上のロケーションの許容範囲内と考えられた。さらに、当該ウィキによれば、『静岡県静岡市葵区紺屋町』(ここ)にあり、『JR静岡駅北口の北西至近、呉服町通り沿いの北側に鎮座している』。『創建は不詳だが、同名の式内社に比定されている古社で』、『少将井宮(しょうしょういのみや)とも呼ばれ、今川家にも崇敬された』。『幼少期の徳川家康(竹千代)が武運長久を祈願した神社としても知られ、かつては駿府城三ノ丸の城代屋敷(現・静岡市歴史博物館)(★ここ、『旧・青葉小学校)に鎮座していたが、江戸時代の駿府城拡張に伴って、新谷町(現・御幸町〜伝馬町)を経た後、現在地(紺屋町)に遷座された』とあり、現在の小梳神社よりも、より本通に近づくので、この神社で間違いあるまい。

「狐か崎」「か」の清音はママ。「梶原景時の変」で梶原一族が襲われて滅亡した場所として知られ、現在の静岡県静岡市清水区上原地域に当たる。]

2025/07/07

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 皐蘆 / 卷第八十九~了

 

Nanbantya

 

なんばんちや 瓜蘆 苦䔲

 

皐蘆

 

カ゚ウ ロウ

 

本綱皐蘆生南方諸山中葉狀如茗而大如手掌挼碎泡

飮味苦而色濁南畨人作茗飮極重之客來先設乃加以

香芼之者如蜀人飮茶也而風味不及於茶

 

   *

 

なんばんちや 瓜蘆《くわろ》 苦䔲《くたう》

 

皐蘆

 

カ゚ウ ロウ

 

「本綱」に曰はく、『皐蘆《かうろ》は、南方、諸山の中に生ず。葉の狀《かたち》、茗《ちや》のごとくにして、大いさ、手の掌《ひら》のごとく、挼(も)み碎《くだ》き、泡飮《はういん》す[やぶちゃん注:「泡」には「湯を注ぐ」の意がある。]。味、苦《にがく》して、色、濁れり。南畨人、茗《ちや》と作《な》して飮(の)み、極《きはめ》て之≪を≫重《おも》んず。客、來れば、先づ、設(もふ[やぶちゃん注:ママ。])け、乃《すなはち》、加ふるに[やぶちゃん注:「副(そ)えものとして」。]、香芼《かうもう》の者を以《もつ》て≪す≫。蜀人の茶を飮むがごとし。而≪れども≫、風味は、茶に及ばず。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:この「皐蘆」は不詳である。中文の三種の百科サイトでも全く掛かってこない。検索では、正面切って考証されてあるものは、後藤文男氏のブログ「ゴット先生の京都古代文字案内」の『「皐盧庵茶舗」の暖簾』ぐらいなものであろう。引用させて戴くと、氏が京の『北大路通りに通じる道に』、『鮮やかに黒く「皐盧庵茶舗」と』暖簾に『書かれてある』店(ここ。グーグル・マップ・データ)を見出され(写真有り)、『店に置いてあったパンフレットによると、「皐盧(こうろ)」という言葉は、鎌倉時代に書かれた栄西の』「喫茶養生記」『に登場する言葉だそうだ。確かに』「養生記」『をみると、中国広州産(現在の中国南部広東省には「広州市」がある)の「茶の美なるを名づけて皐蘆と云ふなり」とある。皐盧は「良いお茶、美味なるお茶」を表す言葉であった』。『「皐」はなじみのない字だが、「皐月(さつき)」という言い方なら聞き覚えがある。しかし「こう」の読みで使う言葉は思い浮かばない。白川説によると、皐のもとの字は「皋」である。皐こう(皋)は「風雨にさらされている獣の死骸」の形で、「白い、色が抜ける」の意をもつが、「高こう」と通じて「たかい」の意味もあるという』。『「盧(ろ)」はいろいろな意味を持つ字であるが、お茶との関わりで言えば「黒、黒い」の意味が一番近い。「盧弓(ろきゅう)、盧犬(ろけん)」というと「黒塗りの弓、黒い犬」をいう。茶葉の色合いを盧で表したものか。「皐盧」とつないで』、『あえて成り立ちから意味を考えると「白と黒」。おそらくお茶とはかかわりのない不思議な色合いとなる。あえてこじつければ、「高い」と「黒」で「高くて黒いお茶」=「上等な黒い葉のお茶」ということになるのかもしれない。白川先生の』「字通」『には、皐盧(皐蘆)は「南蛮茶」とある。南蛮茶と言えば、「珈琲」を指すという説もあるが、おそらく後の時代の解釈であろう。やはり、鎌倉時代に書かれた』「喫茶養生記」『の広州産の「よいお茶」を表す「皐盧」の説明が本来の意味を表わしていると思われる』とあった。他の同茶舖の紹介記事にも『お茶の美名』とあったが、以上の時珍の書き振りからは、それや、『上等な黒い葉のお茶』とされるような銘柄茶には、私には思われない。国立国会図書館デジタルコレクションで検索したところ、唯一、かなり突っ込んだ記載を現代語で記しているものが、あった。『茶道古典全集』の第二巻(千宗室 等編・昭和三三(一九五八)年淡交新社刊)の「喫茶養生記」の『補注』の『30 本草拾遺』のここである。一読の価値は大いにある。何か実在種をご存知の方は、御教授を乞うものである。

 なお、以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の最後にある「皐蘆」の記載のパッチワークである。短いので、全文を手を加えて以下に示す。

   *

臯蘆【拾遺】 校正【自木部移入此】

 釋名【弘景】【藏器曰南越志云龍川縣有臯蘆一名瓜蘆葉似茗土人謂之過羅或曰物羅皆夷語也】

 集解【弘景苦菜註曰南方有瓜蘆亦似茗苦摘取其葉作屑煮飮卽通夜不睡煮鹽人惟資此飮而交廣最所重客來先設乃加以香芼之物李珣曰按此木卽臯蘆也生南海諸山中葉似茗而大味苦澀出新平縣南人取作茗飮極重之如蜀人飮茶也時珍曰臯蘆葉狀如茗而大如手掌挼碎泡飮最苦而色濁風味比茶不及遠矣今廣人用之名曰苦䔲】

 葉氣味苦平無毒【時珍曰寒胃冷者不可用】主治煮飮止渴明目除煩令人不睡消痰利水【藏器】通小腸治淋止頭痛煩熱【李珣】噙嚥清上膈利咽喉【時珍】

   *

「香芼」「芼」には「羹物(あつもの)に混ぜる野菜」の意があるので、「香りを持った蔬菜」の意であろう。所謂、本邦の「香の物」である。

 本項を以って「卷第八十九」は終わっている。]

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 茗

 

Tya

 

ちや     荼【音途】 檟【音賈】 蔎【音設】

       荈【音舛】

 

【音明】  【漢時荼字轉途音爲宅加反】

ミン      【今云知也】

 

本綱茶有野生有種生種者用子其子大如指頭正圓黒

色其仁入口初甘後苦二月下種一坎須百顆乃生一株

蓋空殻者多故也畏水與日最宜坡地蔭𠙚其木自一二

尺至數十尺木如瓜蘆葉如卮子花如白薔薇實如栟櫚

莘如丁香根如胡桃三歳可采春中採嫩葉蒸焙去苦水

末之乃可飮其葉卷者上舒者次凡雅州之產爲第一建

州之茶上供御用凡茶者下爲民生目用之資上爲朝廷

賦稅之助其利博哉【茶之稅始于唐德宗】

採茶之候太早則味不全遅則神散以穀雨前五日爲上

後五日次之再五日又次之茶芽紫者爲上靣皺者次之

團葉又之光靣如篠葉者最下なり徹夜無雲浥露採者

爲上日中採者次之隂雨中不宜採產谷中者爲上竹下

次之爛石中者又次之黃砂中者又次之

茶葉【苦甘微寒】 入手足厥陰經治隂證湯藥內入此能清頭

 目下氣消食去痰熱【服威靈仙土茯令者忌茶】

[やぶちゃん注:「茯令」はママ。但し、「本草綱目」を見るに、「茯苓」となっているので、訓読では訂した。]

 大抵飮茶宜熱宜少不飮尤佳空心飮茶入鹽直入腎

 經且冷肺胃乃引賊入室也惟飮食後濃茶漱口去煩

 膩

造茶法 新採揀去老葉及枝梗碎屑鍋廣二尺四寸將

 茶一斤半焙之候鍋極熱始下茶急炒火不可緩待熟

 方退火徹入篩中輕團郍數遍復下鍋中漸減火焙乾

 爲度中玄微難以言顯火候均停色全美

[やぶちゃん注:驚くべきことに、以上のうち、「採茶之候」から「黃砂中者又次之」までと、「造茶法」は、「本草綱目」には載らないことが、字起こしの最中に比較して見て、判明した。調べてみたところ、「中國哲學書電子化計劃」の「張伯淵茶錄」(明代万暦年間の隠者であった張源(字は伯淵)が一五九五年頃に著した茶業に関する書。明代の製茶工程を体系的に纏め、「穀雨五日前に茶摘みをする」という季節の基準を提唱し、茶の湯の鑑別理論や製法術を詳述してある。茶摘み・茶の点前・茶の鑑別など、全二十三章から成る茶の理論体系を構築している。後世の人々から明代の茶書の中でも「最も緻密な作品」と称讃された。その技術的概要は、明末から清代初頭にかけての太湖地方に於ける緑茶技術に根底的影響を与えた。以上は「百度百科」の「张伯渊茶录」を参考にした)の「採茶」と「造茶法」が一致することが判った。今までの私の「和漢三才圖會」の多くのプロジェクトで、このような異常事態は、一度も、ない。しかも! 東洋文庫訳は、それを部分的に「後注」で、チョロっと述べているだけで――どこから、どこまでが、「本草綱目」ではないということが、訳文を読んでいても読者には、全く判らないのである!―― これはトンデモない「杜撰な訳」と言わざるを得ないと断ずるものである!

 春雨集曇るなる雨ふらぬ間につみてをけ栂の尾山の春の若草

錦繡万花谷云九經無茶字伹有荼字耳

△按茶東國通鑑云新羅國遣大廉如唐得茶子來王命

 植智異山【唐文宗大和二年倭淳和天長五年】是乃朝鮮國種茶始

 本朝嵯峨天皇弘仁元年茶儀式始【先於朝鮮二十年許】其後明

 惠上人入唐得嘉種歸種於梅尾山

凡本朝山家土民毎且煎茶入鹽稱朝茶多飮之而無病

[やぶちゃん注:「毎且」は「毎旦」の誤刻。訓読では、訂した。]

 長壽人多矣蓋反于本草之說與馴不馴之異乎伹泄

 痢淋病忌之夜多飮茶則令人不寢耳

凡碾茶出於山城宇治【當比中𬜻建州北苑】煎茶城州栂尾駿州安

 部郡足久保村之產爲上日向丹波蔓茶亦可江州政

 所和州下市豫州不動坊並不劣其他諸國皆有之

凡種茶性畏日畏春霜故自節分後四十八日至八十八

 夜用蘆簾覆其樹而自殼雨後三四日摘新芽修治之

 其法和漢異【倭則蒸乾漢則焙熟】以細籠蒸之【用山茶樹或蕎麥莖灰汁蒸之色好美也】

 盛繩囊絞去汁晒乾以焙籠焙之【蒸焙不鍛練人不可成】以雌

 雉羽擇品精上者爲濃茶【初昔 今昔 中昔 後昔 鷹爪 數品】盛袋

 藏壺以最上者獻 御用次進公侯士家其次爲詰茶

[やぶちゃん注:「御用」の前の一字空けは、敬意のそれである。訓読では詰めた。]

 其極上名白【又有極詰別儀詰等之品】擇取葉不卷縮者名揃【曾々利】

 一種有鮮青色者名青不佳爲淡茶


ろふ ちや

蠟 茶

本綱蠟茶用建州北苑茶碾治作餠日晒得火愈良

△按今𬜻人納蠟茶於腰壺行亦投湯吃之入藥用亦卽

 蠟茶也久不敗而不似新碾茶香者故倭不用之

[やぶちゃん注:「ろふ」はママ。歴史的仮名遣は「らふ」。]


がいじちや

孩兒茶

五雜組云藥中有孩兒茶醫者盡用之而不知其所出考

本草諸書亦無載之者出南番中係細茶末入竹筒中緊

塞兩頭投汚泥溝中日久取出搗汁熬製而成俗因治小

兒諸瘡故名


ちやのゆ

茶湯  俗云數寄

茶經云茶湯如蟹眼及連珠者爲萠湯直至湧沸如騰波

鼓浪水氣全消方是純熟如振聲驟聲共爲萠湯直至無

聲方是純熟如浮氣一二縷三四縷及縷亂不分者爲萠

湯直至氣冲貫方是純熟

凡投茶于噐有序先茶後湯【謂之下投】湯半下茶復以湯滿者

 【謂之中投】先湯後茶【謂之上投】春秋中投夏上投冬下投

飮茶以客少爲貴獨啜曰神二客曰勝三四曰趣五六曰

泛七八人曰施

△按本朝茶儀式雖始於嵯峨朝其盛行也始于東山殿

 【源義政公】選索和漢陶噐盂盒釜爐等珍貴者請客與吃茶

 謂之數寄有相阿彌者【東山殿之扈從】精茶湯事今人以相阿

 彌爲師祖而後珠光宗珠紹鷗宗昜及小堀遠江守等

 皆善之古田織部千利休道安宗及慶首座細川三齋

 瀨田掃部【以上呼七人衆】以爲中興之祖其外桑山佐久閒

 之二士宗古宗知宗和之軰亦皆鳴于世

 

   *

 

ちや     荼《ちや》【音「途《ト》」。】

       檟《か》【音「賈」《カ》。】

       蔎《せつ》【音「設」。】

       荈《せん》【音「舛《セン》」。】

 

【音「明《ミン》」。】

       【漢の時、「荼」≪の≫字、

        「途」の音の轉じて、「宅」

        ・「加」の反と爲《なす》。】

 

ミン      【今、云ふ、「知也《ちや》」なり。】

 

「本綱」に曰はく、『茶、野生、有り、種生《たねうゑ》、有り。種は、子《み》を用《もちひ》ふ。其《その》子、大いさ、指≪の≫頭《かしら》のごとく、正圓にして、黒色。其《その》仁《にん》、口に入れば、初《はじめ》は甘く、後《のち》、苦し。二月に、種を下《くだ》す。一坎《ひとあな》に百顆《ひやくくわ》を須(もちふ。乃《すなは》ち、一株(かぶ)を生ず。蓋し、空-殻(から)の者、多き故《ゆゑ》なり。畏《おそらく》は、水と、日と、最も坡-地(たかみ)の蔭-𠙚(かげ)に、宜《よろし》。其《その》木、一、二尺より數十尺に至る。木、瓜蘆(なんばんちや)のごとく、葉は、卮子(くちなし)のごとし。花は、白薔薇のごとく、實は、栟櫚《しゆろ》のごとく、莘(くき)[やぶちゃん注:この字は「茎」の意はない。「廣漢和辭典」を見ると、『長い形容』・『多い形容』(以下、『細莘』(サイシン)で『みらのねぐさ』(コショウ目ウマノスズクサ(馬の鈴草)科カンアオイ(寒葵)属ウスバサイシン(薄葉細辛) Asarum sieboldii の古名)で、その後は旧中国の国名・地名・県名が並ぶが、省略))とあるだけである。しかし、「本草綱目」の原文を見るに、確かにこの字が使われている。冒頭の二つの意味から、「細長い茎」と採れなくもないが、或いは、時珍が「莖」の字を誤った可能性が高いように思われる。而して、東洋文庫訳の『茎』に倣って、かくルビを振った。]丁香《ちやうかう》[やぶちゃん注:チョウジ。「卷第八十二 木部 香木類 丁子」を見よ。]のごとく、根は胡桃(くるみ)のごとし。三歳にして、采《と》るべし。春中《しゆんちゆう》、嫩葉(わかば)を採り、蒸-焙《むしあぶ》り、苦水《にがみづ》を去《さる》を、之《これ》≪を≫末《まつ》≪に≫して、乃《すなはち》、飮むべし。其《その》葉、卷く者は、上《じやう》なり。舒《のぶ》る者は、次ぐ。凡そ、雅州[やぶちゃん注:現在の四川省。]の產、第一と爲す。建州[やぶちゃん注:現在の福建省。]の茶は、御用に上-供(たてまつ)る。凡そ、茶は、下(《し》も)、民生目用の資(たすけ)と爲《な》り、上(《か》み)、朝廷≪の≫賦稅の助《たすけ》と爲る。其《その》利、博《ひろき》かな【茶の稅は、唐の德宗[やぶちゃん注:中唐後期の第十二代皇帝。在位は七七九年から八〇五年まで。]に始《はじま》る。】。』≪と≫。

「張伯淵茶錄」に曰はく[やぶちゃん注:既に述べた通り、ここは「本草綱目」の引用ではないので、太字部で私が附した。]、『茶を採るの候《こう》、太《はなは》だ早き時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、味、全《まつた》からず、遅《おそき》時は、則《すなはち》、神《しん》、散ず。穀雨《こくう》[やぶちゃん注:「二十四気」の一つで、「清明」の次に来る季節。春の季節中の最後に相当する。穀物を潤す春雨の意から。現行の四月二十一日頃。]の前《まへ》五日《いつか》≪を≫以《もつて》、上≪と≫爲《なし》、後《あと》五日、之≪れに≫次≪ぎ≫、再《ひたたび》、五日、又、之≪れに≫次ぐ。茶≪の≫芽、紫なる者を、上と爲《なす》。靣《おもて》≪の≫皺《しは》む者、之≪れに≫次ぐ。團《まろき》葉、又、之≪れに≫次ぐ。光≪れる≫靣、篠《しの》[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科メダケ(雌竹)属メダケ Pleioblastus Simonii の異名。]の葉ごとくなる者、最下なり。徹-夜(よもすがら)、雲、無く。露に浥(ぬ)れて採《とる》者を、上と爲《なす》。日中に採る者、之≪れに≫次ぐ。隂雨《いんう》[やぶちゃん注:空が曇り、しとしとと雨が降り続く状態。]の中《うち》、宜しからず。採るに、谷の中に產する者、上と爲《なす》。竹の下、之≪れに≫次ぐ。爛石《らんせき》[やぶちゃん注:茶道で「茶の生育に適した肥沃な土壌」を指す語。]の中の者、又、之≪れに≫次《つぐ》。黃砂《かうさ》[やぶちゃん注:黄色の堆積土。第四氷期に砂漠地域から風に運ばれて中国北部・中部などに堆積したもの。]の中の者、又、之≪れに≫次ぐ。』≪と≫。

「本綱」に曰はく、[やぶちゃん注:ここと、次の部分は「本草綱目」の引用であるので、太字部で私が附した。]、『茶葉【苦、甘。微寒。】』『手足≪の≫厥陰經に入《いり》、隂證を治す。湯藥の內に此《これ》を入《いれ》て、能く、頭・目を清《きよくする》なり。氣を下《くだ》し、食を消《しやう》し、痰熱《たんねつ》を去る【「威靈仙《いりやうせん》」・「土茯苓《どぶくりやう》」を服する者、茶を忌む。】。』≪と≫。

『大抵、茶を飮むに、熱(あつ)きが宜《よろ》し、少《すくな》きに宜し。飮≪ま≫ざるは、尤《もつとも》佳≪き≫なり。空-心(すきばら)に茶を飮≪むに≫、鹽を入《いる》れば、直《ただち》に、腎經《じんけい》に入り、且つ、肺・胃を冷《ひや》し、乃《すなは》ち、賊(ぬすびと)を引《ひき》て室(なか)に入るゝ≪ごとき≫なり。惟《た》だ、飮食の後《のち》、濃ひ[やぶちゃん注:ママ。]茶(ちや)にて、口を漱(すゝ)げば、煩《わづら》≪はしき≫膩《あぶら》を去るのみ。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「手足≪の≫厥陰經」東洋文庫訳の後注に、『人体をめぐる十二経脈の      うち。手の厥陰心包経は胸の中からおこり』、『心包に入り、橫隔膜を通って上・中・下焦につなぐ。支脈は胸から側胸部に出て腕に入り、その内面中央を通り中指の末端に終る。足の厥陰肝経は足の拇指からはじまり』、『大腿内部をのぼって陰部へ入る。次いで下腹部を通り肝に入り、胆から側胸部に分布し、気管・喉頭から眼球に達し頭頂に出る。支脈は眼球から頰・唇をめぐる。もう一つは肝から肺に入り、ついで胃のあたりまで下る。』とある。]

「張伯淵茶錄」に曰はく[やぶちゃん注:先と同前。]、『茶を造る』法。『新《あらた》に採《とり》て、老葉《らうえふ》、及び、枝-梗《えだ》≪の≫碎屑《くだけくづ》を揀《よ》≪りて≫去《さり》、鍋、廣さ、二尺四寸≪に≫、茶一斤半[やぶちゃん注:一斤は宋代では五百九十七グラムであるから、八百九十六グラム。]を將《もつて》、之《これ》≪を≫焙《あぶる》。鍋、極熱《ごくねつ》を《✕→となるを》候(うかゞ)ひて、始め≪て≫、茶を下《くだ》して、急に炒る。火、緩《ゆる》ふすべからず。熟す時を[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]待《まち》≪て≫、方(《ま》さ)に、火を退《しりぞけ》、篩(とをし)[やぶちゃん注:「とをし」はママ。歴史的仮名遣は「とほし」。「篩通し」のこと。ウィキの「篩」によれば、『本来は粗い目のものを「通し」、細かい目のものを「ふるい」というが、混用されており』、『厳密に区別することも困難とされる』とある。]の中に徹入《とほしいれ》、輕く團(まは)すること、郍數遍《だす(う)へん》[やぶちゃん注:「郍」は極めて稀な漢字で、中文サイトで調べ、取り敢えず、「多く繰返して」の意味で採っておく。]、復た、鍋の中に下《くだし》、漸《やうや》く、火を減じ、焙り、乾くを、度《たびたび》と爲《なす》[やぶちゃん注:前に書かれた作業を何度も繰り返すことを言っている。]。中《なか》を[やぶちゃん注:状態がちょうどよい具合になった状態を。東洋文庫訳に拠った。]「玄微」と爲《なす》。≪而れども、その樣(さま)は、≫言《ことば》を以《もつ》て言《いふ》を顯はし難し。火候《くわこう》[やぶちゃん注:火加減。]≪の≫均停《きんてい》≪ならば≫[やぶちゃん注:均一に与えられたならば。]、色、全《まつた》く美なり。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「元微」東洋文庫訳の後注に、『あるいはこれは微妙な、えもいわれぬ味わいのもの、という意味か。ここは張伯淵の『茶錄』を引用した文であるが、『茶錄』にはこのあとに「玄微いまだ究めざれば神味ともに疲れる」とある。』とある。]

 「春雨集《しゆんうしふ》」

  曇るなる

     雨ふらぬ間に

    つみてをけ

       栂《とが》の尾山の

      春の若草

[やぶちゃん注:「春雨集」東洋文庫訳の巻末の書名注に、「は行」の中にあるので、「はるさめしふ」と読んでおくが、そこには『『春雨抄』のことか。十巻。「しゅんうしょう」とも呼ぶ。鱸(すずき)重常撰。明暦三年(一六五七)刊。歌語をいろは順に並べ、その引用例歌をあげ、出典を明示し、注釈をほどこした歌学書。』とある。「国書データベース」の同書の写本で、「若草」等の幾つかの歌語で調べたが、私の見た限り、見つからなかった。国立国会図書館デジタルコレクションで「春雨抄 栂の尾山の」で検索すると、十一のヒットがあり、この歌が載る。それでも、総てが「春雨抄」からの引用であり、この歌の作者や原歌の所在は不明である。]

「錦繡万花谷《きんしうばんくわこく》」に云はく、『九經《きうけい/きうきやう》、「茶」の字、無く、伹《ただし》、有「荼」の字、有るのみ。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「錦繡万花谷」東洋文庫訳の巻末の書名注に、『前集・後集・続集各四十巻、全百二十巻。撰者不明。多くの古跡籍を利用し、宋代の逸詩や逸詩が多く載っているので有名。』とある。

「九經」中国の九種の経書(けいしょ)。「詩經」・「書經」・「易經」「儀礼」・「禮記」(らいき)・「周禮」・「春秋左氏傳」・「春秋公羊傳」・「春秋穀梁傳」。一説に、「易經」・「詩經」・「書經」・「禮記」・「春秋」・「孝經」・「論語」・「孟子」・「周禮」を指すとも。]

△按ずるに、茶は、「東國通鑑《とうごくつがん》」に云《いはく》、『新羅國より大廉をして唐に如(ゆ)か[やぶちゃん注:「如」には動詞として「行く・赴く」の意がある。]しめて、茶の子(み)[やぶちゃん注:原本は「コ」と振ってあるように見えるが、本プロジェクトで植物の「実」(み)を「コ」と振るケースは極めて稀であるので、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部のルビを採用した。]を得て、來《きた》る。王命《わうめい》して智異山《チリさん》[やぶちゃん注:当該ウィキによれば、現在の『大韓民国南部の全羅南道・全北特別自治道・慶尚南道に』跨る、『小白山脈の南端に位置する山並の総称。国内で最も標高が高い済州島の漢拏山に次いで二番目に高い山であり、離島を除いた韓国本土の最高峰』で『仏教の聖地ともされて』いる。ここ(グーグル・マップ・データ)。「チリ」の山名は、そこにある朝鮮語の日本語音写を採用した。]に植《うう》ると云《いへ》り[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]【唐の文宗大和二年、倭の淳和《じゆんな》天長五年。[やぶちゃん注:ユリウス暦八二八年。平安初期の淳和天皇は桓武天皇の第三皇子。]】。是れ、乃《な》い[やぶちゃん注:「乃」は漢文で接続の助字であり、「乃至」(ないし)で判るように、「すなはち」の古い訓読である。]、朝鮮國に茶を種《うう》る始《はじめ》なり。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「東國通鑑《とうごくつがん》」朝鮮の三国及び高麗時代の編年体通史。朝鮮李朝の世祖成宗の命により、徐居正らが撰した。全五十六巻・外紀一巻。「三國史記」(高麗十七代仁宗の命を受けて金富軾が撰した三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書で、一一四五年成立)・「三國遺事」(十三世紀末に高麗の高僧一然によって書かれた私撰史書)や、中国側史料を採った通史。]

 本朝には、嵯峨天皇弘仁元年[やぶちゃん注:八一〇年。嵯峨天皇は弘仁一四(八二三)年に大伴親王(淳和天皇)に譲位し、太上天皇となった。]、茶の儀式、始《はじむ》る【朝鮮に先《せんず》ること、二十年許《ばかり》。】。其後《そののち》、明惠上人、入唐《につたう》、嘉《よき》種《たね》を得、歸り、梅尾山《とがのをさん》[やぶちゃん注:明恵所縁の京都市右京区梅ケ畑栂尾町(うめがはたとがのおちょう)にある栂尾山高山寺(とがのおさんこうさんじ:グーグル・マップ・データ)。]に種《うう》。

[やぶちゃん注:「弘仁元年、茶の儀式」東洋文庫訳の後注に異様にリキを入れて、記す。『何を指すか不明。あるいは毎年、天下泰平を祈祈願して宮中で行なわれる季御(きのみ)読経』(平凡社「世界大百科事典」に拠れば(コンマは読点に代えた)、『宮廷仏教年中行事の一つ。宮中において毎年春秋の二季』、二月と八月に、『衆僧によって大般若経を転読する儀式』。天平元(七二九)年四月八日『が起源と伝えられ、貞観』(八五九~八七七年)の頃『より、毎年行われていたという。また、摂関期には藤原道長の邸においても行われており、道長の日記』「御堂關白記」『には、宮中の行事を』「季御讀經」、『道長邸のそれを』「季讀經」『と書いている。また,平安時代には』、四『日間行われることが多く』二『日目に引茶(ひきちゃ)を僧および侍臣等にたまうことがあり』、三『日目は論義を行っている。論義は秋にはないのを例としているが、論義の文献にみえるはじめは』、天元五(九八二)年三月二十五『日である』とある)の儀式を指すか。これは四日間行なわれ、その二目目に引茶の儀式がある。しかし四日間行なわれるようになるのは天慶元年(八七七)以後のことで、弘仁年間(八一〇~八二三)に引茶の儀式があったかどうかは分からない。嵯峨天皇と飮茶の關係を示す初見の史料として現在認められているのは]「日本後紀」『弘仁六年四月の条で、嵯峨天皇が近江に行幸し、崇福寺に参詣した折、大僧都永忠が天皇に茶を煎じて奉ったとあるものである。そして同書、同年六月の條に、天皇は畿内とその周邊の國に茶を植えさせ、每年献上させたと見えている。』とあった。

 さても。最後の「明惠上人」のそれは、とんでもない誤りである(これは流石に東洋文庫訳でも後注で指摘してある)。私はブログ・カテゴリ「明恵上人夢記」及び『「栂尾明恵上人伝記」【完】』を電子化注しており、彼については、素人ではない。彼は天竺行を二度、計画したものの、孰れも断念しており、彼は入唐(当時は金・南宋)などしていないのである(私の「栂尾明恵上人伝記 27 二度目の天竺渡航断念」を見よ)。大方御存知の通り、茶を本邦に移入したのは、本邦の臨済宗開祖榮西(えいさい/ようさい 永治元(一一四一)年(異説あり)~建保三(一二一五)年)で、著名な「喫茶養生記」を著した彼である。但し、彼と華厳宗中興の祖と称される気骨の明惠上人と「茶」は重大な関係があり、実際に明惠のいた梅尾山高山寺に榮西が彼を訪ね、持ち帰った茶の苗をプレゼントしているのである。これは、「梅尾山高山寺 とがのおさん こうんじ」公式サイト内の「日本最古の茶園」を見られたいが、引用しておく。梅尾山高山寺はここ(グーグル・マップ・データ)。『高山寺は日本ではじめて茶が作られた場所として知られる。栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。最古の茶園は清滝川の対岸、深瀬(ふかいぜ)三本木にあった。中世以来、栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶ。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房十無尽院(じゅうむじんいん)があった場所と考えられている。現在も』、五『月中旬に茶摘みが行われる』とある。

凡《およそ》、本朝山家《やまが》の土民、毎旦、煎り茶に鹽を入れ、「朝茶《あさちや》」と稱して、多《おほく》、之を飮む。而《しかも》、無病にして、長壽≪の≫人、多す。蓋し、「本草≪綱目≫」の說に反す。馴(なれ)ると、馴《なれ》ざるの異か。伹《ただし》、泄痢《せつり》[やぶちゃん注:下痢。]・淋病に、之を忌む。夜、多《おほく》茶を飮めば、則《すなはち》、人をして寢《ねむれざら》しめるのみ。

凡《およそ》、碾茶(きひちや)は山城≪の≫宇治に出づ【當《まさ》に中𬜻の建州の北苑《ほくゑん》に比すべし。】。煎茶(せんちや)は、城州栂尾・駿州安部郡《あべのこほり》足久保村[やぶちゃん注:現在の静岡県静岡市葵区足久保口組(あしくぼくつぐみ:グーグル・マップ・データ・以下、無指示は同じ)。]の產、上と爲す。日向・丹波の「蔓茶《つるちや》」も亦、可なり。江州政所(まん《どころ》)[やぶちゃん注:現在の滋賀県東近江市永源寺高野町(えいげんじたかのちょう)。]・和州の下市[やぶちゃん注:現在の奈良県吉野郡下市町(しもいちちょう)。]・豫州の不動坊[やぶちゃん注:東洋文庫訳割注では、『(現在地未詳)』とするが、名茶であるのだから、判らないというのは、如何にもおかしい。調べてみると、現在の愛媛県四国中央市富郷町(とみさとちょう:この附近)に、今は、殆どが、自家消費の銘茶「富郷茶」(とみさとちゃ)があることが、WEBマガジン「えひめのタネ」の『四国中央市の知る人ぞ知る特産品「富郷茶」』で判った。私は「富郷」を「不動」と読み誤った聴き書きの可能性(「坊」(ぼう)は「郷」(ごう)の誤認か)を指摘しておきたいと思う。]、並《ならび》に、劣らず。其他《そのほか》、諸國、皆、之《これ》、有り。

[やぶちゃん注:「北苑」東洋文庫訳を参考(一部データが古いため)にすると、現在の福建省南平市の代理管轄下にある建甌(けんおう)市の東にある「北苑公園」(グーグル・マップ・データ)が当該地。KANAME氏のブログ『KANAME「平安如意」~心の旅~』の『「北苑御焙遺址」 ~中国福建省へ~』に、『近年発掘された貴重な遺跡「北苑御焙遺址」』とあり、『発掘調査によると、ここは中国で発見された最古の官営茶園跡だということが判明』したとある。『北苑貢茶(ほくえんこうちゃ)は唐末五代十国から始まります。南唐、両宋を経て、元、明に武夷御茶と二園で明王朝の洪武二十四年』(一三九一年)『まで、四百五十『年余りにわたって宮廷への御貢が続きました』。『北苑貢茶「龍団鳳餅(りゅうだんほうへい)」などが、数朝にわたり』、『献上茶として製造されました。龍団鳳餅は、表面に龍や鳳凰の絵柄をあしらった固形状のお茶のことです』。『北宋の周絳(しゅうこう)の』「補茶經」『には、「天下の茶は建(福建省)を最高とし、また』、『建の北苑を最高とする」という記載があります』とある。現在も茶畑が広がる写真もあるので、是非、見られたい。以下、東洋文庫訳の「北苑」の後注。『北苑茶は五代南唐から宋にかけての時代、最高級の団茶』(蒸した茶葉を臼で搗いて固めて作られる固形茶で、紅茶・緑茶などを煉瓦状に固形化して作られるものは「磚茶」(たんちゃ)とも呼ばれる。詳しくは参照したウィキの「団茶」を見られたいが、そこには『「団茶」という名称は宋代になって一般的に用いられるようになったと言われ』、『その形状は円形に限らず、球形・半球系・方形・中央に穴の空いた銭団茶など様々である』とあった)『として宮廷で愛飮された。『夢溪筆談』』三『(平凡社東洋文庫・梅原郁訳注)の「袖筆談」巻一弁証の中に北苑茶についての記事がある。』とあった。]

凡《およそ》、茶を種《うゑ》るに、性、日《ひ》を畏る、春の霜を畏る故、節分の後《あと》より、四十八日、八十八夜に至《いたり》て、蘆-簾《よしず》を用《もちひ》て、其《その》樹を覆《おほひ》て、殼雨より後、三、四日、新芽を摘(つ)み、之≪を≫修治す。其《その》法、和漢、異なり【倭には、則《すなはち》、蒸乾《むしほし》、漢には、則、焙り熟す。】、細《こまか》なる籠を以《もつて》、之≪を≫蒸す【山-茶(つばき)の樹、或いは、蕎麥(そば)の莖(から)の灰汁《あく》を用《もちひ》て、之れを蒸せば、色、好《よく》、美なり。】。繩の囊《ふくろ》に盛りて、汁を絞(しぼ)り去≪り≫、晒乾《さらしほし》、焙-籠(ほいろ)[やぶちゃん注:所謂、「焙籠」(あぶりかご・あぶりこ:炭火の上に伏せて置き、その上に衣類を掛けて、あぶり乾かすための、古くからある竹製の籠。「伏籠」(ふせご))と同じ構造で、茶葉・薬草・海苔などを、下から弱く加熱して乾燥させる道具。元来は、木枠や籠の底に厚手の和紙を張ったもので、炭の遠火で用いた。伝統的な製法では、茶は蒸した茶葉を、この上で手で揉みながら乾燥させる。]を以《もつて》、之≪を≫焙《あぶ》る【蒸焙《むしあぶり》≪は≫、鍛練の人にあらざれば、成らざるべし。】。雌雉《めすきじ》の羽を以て、品を擇《えら》む。精上《せいじやう》なる者を「濃茶《こいちや》」と爲《なす》【「初昔《はつむかし》」・「今昔《いまむかし》」・「中昔《なかむかし》」・「後昔《のちむかし》」・「鷹爪《かたづめ》」、數品《すひん》≪あり≫。】。袋に盛《い》れ、壺に藏《をさ》む。最上の者を以《もつて》、御用に獻《ささ》ぐ。次に、公侯・士家《しけ》に進《しんず》。其次を「詰茶(つめ《ちや》)」と爲《なし》、其極上を「白(しろ)」と名づく【又、「極詰《ごくづめ》」・「別儀詰《べつぎづめ》」等の品、有り。】。葉を取《とりて》卷-縮(《まき》ちゞまざる者を擇《えらみ》、「揃(そそり)」【「曾々利」。】と名づく。一種、鮮青色の者、有《あり》、「青《あを》」と名づく。佳ならず。「淡茶」(うす《ちや》)と爲《なす》。

[やぶちゃん注:小学館「日本国語大辞典」(私は初版を所持している)の「茶銘」に、『茶の湯に用いる抹茶の銘。』(ネットの「コトバンク」の「精選版」では、ここに『室町末期、』とある)『極無上(ごくむじょう)・無上・別儀(べちぎ)などの銘がつけられた。江戸時代になると宇治茶に初昔(はつむかし)・後昔(のちむかし)・祖母昔(そぼむかし)・今昔(いまむかし)・白昔(しろむかし)・好(このみ)の白・祝(いわい)の白・一の白・二の白などという銘が現われた。現今では、茶道各流の家元の好みによって、さまざまな茶銘がつけられている。』とあり、別に「コトバンク」の小学館「日本大百科全書」の同項には、『茶葉につけられた名前。等級によって茶葉が区別されるようになったのは室町時代中期のことと考えられる。当初は吉(よし)、ヒクツ、安茶、番茶などの名が中心であった。その後、天文(てんぶん)年間』(一五三二年~一五五五年)『になると、別儀(べちぎ)、無上(むじょう)、揃(そそり)、砕(くだけ)、簸屑(ひくず)、山茶などの名がつけられて、品質の区別がなされている。この場合、別儀・無上は濃茶(こいちゃ)、他は薄茶用に使われるのが通常である。別儀の名のおこりは、村田珠光(じゅこう)』(応永三〇(一四二三)年~文亀二(一五〇二)年:室町中期の茶人。大和の人。幼名は茂吉。一休宗純に参禅し、禅院での茶の湯に点茶の本意を会得したとされ、「侘び茶」(書院に於ける豪華な茶の湯に対し、村田以後、安土桃山時代に流行し、千利休が完成させた茶の湯で、簡素簡略の境地、即ち、「わび」の精神を重んじたもの)を創始して茶道の開祖となった)『の弟子であった筆屋が茶会を催したとき、無上の袋を茶壺』『から抜き出して卓上に広げ、好き葉ばかりを細箸』『で選び、臼』『でひいて客に供したところ、その美味に驚いて茶の銘を尋ねたため、別儀にいたしました』、『と答えたところからおこったと伝えている。また、茶葉の蒸しを常の葉とは別にして蒸させたために、「よき茶」の代名詞と考えられるようになったともいう。ともあれ、茶銘の原初的な姿である。江戸時代に入ると、宇治茶では「白」や「昔」の名が使われるようになる。白は新茶を蒸して製茶すると』、『白くなるところから名づけられた銘』である。『昔は』二十一『日を意味する合わせ字で(廿一日を詰めた字)、旧暦』三月二十一日『に茶の葉を摘み始めたことからとか、春分の日から』二十一『日目に摘んだ葉であるからとか、いろいろな伝えがある。その後、茶銘は茶会に一つの景色(けしき)を添えるものとなり、大名や僧侶』・『茶道家などがそれぞれ自由な銘をつけることが多くなった。現代では、茶商の商標として、各宗匠の好みによって種々の茶銘がつけられている。』とある。]


ろふ ちや

蠟 茶

「本綱」に曰はく、『蠟茶《らふちや》は、建州北苑の茶を用《もちひ》て、碾(ひ)き治《をさめ》て、餠《もち》と作《なし》、日に晒す。火《くわ》を得ると、愈《いよいよ[やぶちゃん注:送り仮名に踊り字「く」のみがある。]》、良し。』≪と≫。

△按ずるに、今、𬜻人、蠟茶を腰壺(いんらう)[やぶちゃん注:「印籠」。]に納(い)れて行《ゆきゆく[やぶちゃん注:送り仮名に踊り字「〱」のみがある。]》。亦、湯に投じて、之を吃《きつ》す。藥用に入《いる》るも亦、卽《すなはち》、「蠟茶」なり。久《ひさしく》して、敗《はい》せず。而れども、新≪しき≫碾茶《ひきちや》≪の≫香《か》なる者に似ず。故《ゆゑ》、倭、之≪れを≫用≪ひ≫ず。

[やぶちゃん注:「蠟茶」小学館「日本国語大辞典」には、『茶の一種。茶を餠のようにかため蝋を塗ったものか。』とし、初出例を「看聞御記」永享四(一四三二)年二月六日の条を挙げる。他に、「コトバンク」で引くと、上記の他に「団茶」が並置されてあり、『茶の葉を蒸し、茶臼でついてかたまりにしたもの。削って使用する。中国唐代の飲茶法で、日本では奈良・平安時代に流行した。らっちゃ。』とするが、この本邦の初出例は一五〇〇年頃のものであるから、厳密には「蠟茶」とは、異なるものであろう。]


がいじちや

孩兒茶

「五雜組」に云《いは》く、『藥中に、孩兒茶、有り。醫者、盡《ことごと》く、之を用ふ。而れども、其《その》出《いづ》る所を知らず。考《かんがふ》れども、本草≪の≫諸書を考《かんがふ》れども、亦、之を載する者。無し。南番[やぶちゃん注:「南蠻」に同じ。]の中《うち》に出づ。細茶《さいちや》の末《まつ》≪に≫係《かかり》、竹筒《たけづつ》の中に入《いれ》、緊《きび》しく兩頭《るやうとう》を塞(ふさ)ぎ、汚-泥(せゝなげ)の溝《みぞ》の中に投《なげ》、日、久《ひさし》く≪して≫、取出《とりいだ》し、搗《つ》≪きて≫、汁《しる》を熬《い》り、製して、成る。俗、因《より》て、小兒の諸瘡を治≪す≫。故に名づく。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「五雜組」複数回既出既注。初回の「柏」の注を見られたい。以下は「卷十一」の「物部三」で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書ここの左丁の七行目から、ここの右丁部分に当たる記述をパッチワークしたものである。以下に画像の訓点を参考に(但し、送り仮名は、かなり肯ん得ぬもので、あまり、役に立たない)私が訓読したものを電子化して示す。一部で正字化し、記号を加えた。

   

藥中に「孩兒茶」有り、醫者、盡(ことごとく)に、之れを用ひて、其の自(おのづか)ら出(いづ)る所(ところ)を知らず。歷(れきれき)の本草の諸書を考ふるに、亦、之れ、載る者、無し。一(いつ)に云はく、「南番の中に出づ。」と。細茶の末に係れるものにて、竹筒の中に入れ、緊(きつ)く兩頭(りやうとう)を塞(ふさ)ぎ、泥の溝の中投ず。日、久しくして、取り出だし、汁に搗き、熬(い)り、製して、成る。一に云はく、「卽ち、是れ、井(ゐ)の底の泥、之れを煉(ね)りて、以つて、人を欺(あざむ)のみ。」と。人、呼んで、「烏爹泥(うたでい)」と爲(な)す。又、呼んで「烏疊泥(うじやうでい)」と爲す。俗、因りて、小兒の諸瘡を治す。故に「孩兒茶」と名づくなり。

   *

良安は、怪しげな似非薬として著者謝肇淛が記している箇所を恣意的に除去しており、医師の風上にもおけない不全引用をしていることが判るのである。


ちやのゆ

茶湯  俗、云《いふ》、「數寄(すき)」。

「茶經」に云はく、『茶の湯は蟹の眼、及《および》、連珠のごとくなる者、「萠湯《ばうたう》」と爲《なす》。直《ただち》に湧沸(わか)して、騰波鼓浪《とうはこらう》のごとくなる水氣、全く、消《きゆ》るに至る。方(まさ)に是れ、「純熟《じゆんじゆく》」なり。振《ふるる》聲《こゑ》・驟《はし》≪れる≫聲≪の≫ごとくなる≪は≫、共に「萠湯」と爲《なす》。直《じき》に、聲、無に至る。方《まさ》に是れ、「純熟」≪なり≫。氣、浮《うき》、一、二縷《すぢ》、三、四縷、及《および》、縷、亂《みだり》に分《わか》たざるごとき者、「萠湯」なり。直《ただち》に、氣、冲貫《ちゆうくわん》[やぶちゃん注:「激しく貫通する」の意か。]に至る。方《まさ》に是れ、「純熟」なり。』≪と≫。

『凡《およそ》、茶を噐《うつは》に投ずるに、序《じよ》[やぶちゃん注:順序。]、有り。茶を先《さきに》して、湯《ゆ》を後《あとに》す【之れを、「下投《げとう》」と謂ふ。】。湯の半《なかば》へ、茶を下《くだ》し、復《また》、湯を以《もつて》滿《みたす》る者を【之れを「中投」と謂ふ。】。湯を先にして、茶を後《あとに》す≪を≫【謂之れを「上投」謂ふ。】。春・秋は中投、夏は上投、冬は下投≪にす≫。』≪と≫。

『茶を飮むに、客《きやく》、少きを以《もつて》、貴《とうと》しと爲《なす》。獨り、啜(すゝ)るを「神《しん》」と曰《いふ》。二客《にきやく》を「勝《しやう》」と曰《いふ》。三(み)たり四(よ)たりを、「趣《しゆ》」と曰《いふ》。五、六を、「泛《へん》」と曰《いふ》。七、八人を、「施《し》」と曰《いふ》。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「茶經」「茶錄」(=「張伯淵茶錄」)の誤り。

△按ずるに、本朝≪の≫茶の儀式、嵯峨朝に始《はじま》ると雖《いへども》、其の盛《さか》んに行(はや)ることや、東山殿【源義政公。】[やぶちゃん注:足利義政。]に始る。和漢の陶噐・盂《はち》・盒《わん》・釜《かま》・爐《ろ》等、珍貴なる者を選索《せんさく》≪し≫て、客を請《せい》して、與(とも)に茶を吃(きつ)す。之《これ》を「數寄《すき》」と謂《いふ》。「相阿彌《さうあみ》」と云ふ[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]者【東山殿の扈從《こじゆう》。】、有り。茶の湯の事に精(くは)し。今の人、相阿彌を以て、師祖と爲《なし》、而して後《のち》、珠光《じゆくわう》・宗珠《そうしゆ》・紹鷗《じやうわう》・宗昜《そうえき》、及《および》、小堀遠江の守等、皆、之《これ》≪を≫善《よ》くす。古田織部・千利休・道安《だうあん》・宗及《そうきゆう》・慶首座《けいすざ》・細川三齋《ほそかはさんさい》・瀨田掃部《せたかもん》【以上、「七人衆」と呼ぶ。】、以《もつて》、「中興の祖」と爲《なす》。其≪の≫外、桑山・佐久閒の二士、宗古・宗知・宗和が軰《はい》、亦、皆、世に鳴る。[やぶちゃん注:ここに出る茶人群に就いては、私自身、本邦の茶道に全く興味が沸かぬ。東洋文庫の後注にゴッソりと後注があるので、以下の注の最後にそれを引用して、文字通り、お茶を濁しておくこととする。言っておくと、人生の中で、唯一、茶道関係で感動したことがある。小学校四年生ぐらいだったか、父母と大磯に遊んだ際、当時、そこにあった国宝の茶室「如庵(じょあん)」を見た時であった。初夏の日曜日の午後だったが、見学者は誰もいなかった。老人の管理者が「今日は初めてのお客様で、この後も誰も来ないでしょうから、見学料は結構です。」と言い、親切にも、庭から茶室内部まで、こと細かく案內してくれた。私がちゃんとした茶室に入ったのも、静かな青々とした茶室庭園を見たのも初めてだった。とある部屋には、来訪した総理大臣や外国から来た要人らの写真が掛けられてあった。その静けさに、子ども乍ら、ひどく感激したのを覚えている。恐らく、四十分近くいた……。なお、「如庵」は昭和四七(一九七二)年、愛知県犬山市犬山御門先(いぬやまごもんさき)に移築され、通常は非公開で見学不可であるが、特別公開日には内部公開されているというから、私の体験は、今では、望むべきもない。しかも、写真を見ると、茶室だけが突っ立っているだけで、静謐な雰囲気は、およそ、望むべきも、ない…………

 

[やぶちゃん注:日中ともにタイプ種は、

双子葉植物綱ツツジ目ツバキ科ツバキ属チャノキ(茶の木) Camellia sinensis

であるが、ウィキの「チャノキ」によれば、『世界で主に栽培されているチャノキは』、

基準変種チャノキ Camellia sinensis var. sinensis

アッサムチャ Camellia sinensis var. assamica

『であり』、『茶業においては』、『前者を中国種、後者をアッサム種という』(太字はママ)とある。以下、ウィキの「チャノキ」を引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『野生では高木になるが、栽培樹は低木に仕立てられる。加工した葉(茶葉)や茎から湯・水で抽出した茶が飲用される。チャの木あるいは茶樹とも記され、単にチャ(茶)と呼ぶこともある』。『原産地はインド、ベトナム、中国西南部とされるが』、『詳細は不明。茶畑での栽培のほか、野生化した樹木を含め』、『熱帯から暖帯のアジアに広く分布する。日本の野生樹は、主に伊豆半島や九州地方などに自生する。また、公園などにも植えられる』。『世界的な視点で言えば、チャ栽培の北限はジョージア、南限はニュージーランドとされている。短い期間なら霜にも耐えられるため、インド北東部のダージリン地方、台湾やセイロン島中央の山地といった高所の栽培に向いている。アッサム種は熱帯あるいは亜熱帯原産であるため寒さに弱い。暑くても乾燥した気候には弱く、旱魃(干害)で枯れ込むこともある。中国種はアッサム種よりも寒さに強く、海抜』二千六百『メートルでも育成可能とされている。 チャは酸性土壌を好む植物であり、酸性化が進んでいる土壌への耐性が比較的強い。また、本来は陽樹に区分されるが、日射量が少ない環境にさらされても』、『生き延びることができるという、耐陰性に優れた特性を持っている』。『前述の通り』、『原産地は不明であるが、広まったのは中国からといわれ、漢名(中国植物名)は茶(ちゃ)。標準和名チャノキの語源は、中国から茶が渡来したときに、漢名の「茶」を音読みしたものと言われている』。『常緑の低木または小高木で、高さは』七『メートル前後になるといわれている。野生では』十『メートル近い高木になるが、茶の生産のために栽培するときは低木仕立てで、低く刈り込まれる』。先に冒頭で示した『基準変種のチャノキは中国南部に自生する灌木である。丈夫な枝、短い茎、細長い葉を持ち、藪や岩だらけの傾斜地などに自生し』九十センチメートルから五・五『メートルに』も『成長する。一方、インドのアッサム地方に自生するアッサムチャは』、さらに樹高が高く、八~十五『メートルにも達する高木にな』り、『大きな葉をつけるため』、『茶葉の収量は多い』。『中国や日本の茶畑で栽培される基準変種は通常』、一『メートル前後に刈り込まれるが、野生状態では』二『メートルに達する例もある。幹は株立ちで、よく分枝して枝が混み合うが、古くなると』、『さらにその基部からも芽を出す。樹皮は灰白色で滑らかで、幹の内部は堅い。若い枝の樹皮は褐色で一年枝では緑色で毛が生えているが、古くなると灰色になる』。『葉は枝に互生』し、『葉には短い葉柄があり、葉身は長さ』五~七『センチメートル、長楕円状披針形、先端は鈍いか』、『わずかに尖り、縁には細かくて背の低い鋸歯が並ぶ。葉質は薄い革質、やや』バリバリ『と硬くなる。表面は濃緑色で、やや艶がある。その表面は独特で、葉脈に沿ってくぼむ一方、その間の面は上面に丸く盛り上がり、全体にはっきり波打つ』。『花期は晩秋(』十~十二『月初旬頃)で、白い』五『花弁の花が咲く。花芽は夏頃に見られ、丸くて柄があり、ほぼ下向きにつく。花は新枝の途中の葉柄基部から』一『つずつつき、短い柄でぶら下がるように下を向く。花冠は白く、径』二~三『センチメートル、多数の雄しべがつき、ツバキの花に似るが、花弁が抱え込むように丸っこく開く』。『果期は』開『花の翌年』九『月頃に成熟し、果実は花と同じくらいの大きさに膨らむ。普通は』二~三『室を含み、それぞれに』一『個ずつの種子を含む。果実の形は』、『これらの種子の数だけ』、『外側に膨らみを持っている。冬芽は互生する葉の付け根につき、白い毛がある』。『チャノキは自家不和合性が強い植物であり、自家受粉の確率は数パーセントと低く、その種子の発芽率も』十%『程度であるため、他殖性の自家不結実性植物とみなされている』。

以下、「分類」の項。

チャノキ Camellia sinensis

 品種トウチャ Camellia sinensis f. macrophylla

 品種ベニバナチャ Camellia sinensis f. rosea

 アッサムチャ Camellia sinensis var. assamica (引用先では、「アッサムチャ」の和名の後に『(ホソバチャ)』とするが、ネット、及び、学術記載を見るに、この和名異名は正式に記されたものが少ない。さらに、漢字表記も見当たらぬが、これは「細葉茶」と思われ、これは、例えば、本邦の茶の品種・個体解説の中で、細い葉のチャノキに普通に使われるであろうと推定されるので、和名異名としては、私は認められないと思う)

以下、「日本での栽培」の項。なお、ここには、『→詳細は「日本茶」を参照』の見よ見出しのリンクがあるが、私はウィキの「日本茶」を大々的に引用する意志はないので、リンクを張っておく。『奈良時代、聖武天皇の天平元』(七二九)年『に、宮中に』百『人の僧侶を集めて』「大般若經」『を講義し、その』二『日目に』、『行茶』(ぎやうちや(ぎょうちゃ))『と称して』、『茶を賜ったと伝えられていることから、日本へは』、『それ以前にユーラシア大陸から渡来したと考えられている。飲用される茶は、建久』二(一一九一)年『に栄西が中国から持ち帰った種子の子孫にあたるといわれている。日本で』、『現在』、『栽培されている栽培品種は、「やぶきた」系統が約』九『割を占めている』。「やぶきた」『は』昭和三〇(一九五五)年『に選抜されて静岡県登録品種になった栽培種である』。『鎌倉時代以降、喫茶の習慣や茶道が広まるとともに、各地に茶産地が形成された。茶畑での露地栽培が主流であるが、福寿園(京都府木津川市)は温室栽培により』、『新茶を通年で収穫することを目指す研究を進めている』。

以下、「栽培植物の逸出と日本在来種説」の項。『日本では栽培される以外に、山林で見かけることも多い。古くから栽培されているため、逸出している例が多く、山里の人家周辺では、自然林にも多少は入り込んでいる例がある。また、人家が見られないのにチャノキがあった場合、かつてそこに茶を栽培する集落があった可能性がある。 例えば、縄文時代晩期の埼玉県さいたま市岩槻区の真福寺泥炭層遺跡や、縄文弥生混合期の徳島県徳島市の徳島浄水池遺跡からは、チャの実の化石が発見されている』。『また、九州や四国に、在来(一説には、史前帰化植物)の山茶(ヤマチャ)が自生しているという報告があり、山口県宇部市沖ノ山の古第三紀時代始新世後期』(三千五百万年~四千五百万年前)『の地層からチャの葉の化石が発見され、「ウベチャノキ」と命名されている。日本自生の在来系統を一般的に日本種という言い方をする説がある。現在、日本種は分類学上、中国種に含められているが』、二十『世紀後半頃から日本種を固有種として位置づける「日本茶自生論」が提唱されている』。『一方、「日本の自生茶とも言われて来たヤマチャについて、その実態を照葉樹林地域、焼畑地域、林業地域、稲作地域と概見した結果、歴史的にも植物学的にも、日本に自生茶樹は認められないという結論に至った」という日本自生の在来種説に否定的な研究がある。また、「伊豆半島、九州の一部などから野生化の報告もあるが、真の野生ではない」とされ、YList』(ここ)『 では帰化植物とされている』(私は縄文晩期の遺物にチャノキがあることから、「史前帰化があった」ことを、断然、支持している)『チャノキは』、『元来』、『寒さに弱いが、日本国内では喫茶の普及に伴い』、『北日本でも栽培されるようになった。「北限の茶」を謳う産地としては、奥久慈茶(茨城県大子町)、村上茶(新潟県村上市)のほか、宮城県旧桃生町(現・石巻市)の桃生茶、気仙地方(岩手県南部の太平洋側)で栽培される気仙茶がある』。『生産量は少ないものの、保存・復活が試みられている』。『さらに北の茶産地としては』、『檜山茶(秋田県能代市)や黒石茶(青森県黒石市)がある』。『また、北海道の積丹半島の禅源寺(古平町)境内にチャノキがあり、これが植栽されている最北端とされる。また』、『茶専門店がニセコ地方で茶園づくりを試みている』。

以下、「利用」の項。『チャノキの葉は人間が口にする嗜好品として加工されている。チャノキの主に新芽にアルカロイド(カフェイン、テオフィリン、カテキンを含むティアタンニンなど)、アミノ酸(アルギニン、テアニンなど)等が豊富に含まれており、飲用として利用されている。その他有効成分として、精油(ヘキサノール、イソブチルアルデヒドなど)、ビタミンC、フラボノイド(クエルセチンなど)が含まれている。アミノ酸は茶の』コク『や旨味、精油は香り成分の元になっている。シネカテキンス』(米語一般名:Sinecatechins:チャノキの葉から得られた特定水溶性抽出物)『は、葉から水出しされた有効成分で、米国で』生殖器に出来る疣(いの)『の治療に承認されている』。『また、果実・種子から食用・化粧油の採取が可能であり、ツバキと同様に』椿油(『カメリア油』)『を搾るのにも使われる。搾油用の実採取は、茶葉栽培に比べ』、『品質管理の手間が少ないことから、放棄茶園の活用法として注目されている』。

以下、「飲料」の項。同前の理由で『→詳細は「茶」を参照』をリンクさせておく。『チャノキの葉は、ふつう新葉の芽先』二~三『枚ほどを摘み取って』、『茶葉にし、緑茶や紅茶などの茶に加工して飲用されている。焙爐(ばいろ)の助炭(じょたん)』(枠に和紙を張ったもので、火持ちをよくするため、火鉢などを覆う道具)『の上で乾燥したものが碾茶』(てんちゃ)『で、これを石の茶臼で挽いて粉末にしたのが抹茶、蒸して助炭上で手揉みして成分を出やすくしたものが玉露である。新葉を採集して玉露に準じて仕上げたのが煎茶、成葉を採集して煎茶に準じて仕上げたのが番茶である。茶葉を軽く発酵させたのがウーロン茶で、完全に発酵させたのが紅茶である』。『煎茶は』、一『煎目に滋養保健に役立つ成分が溶出し』、二『煎目から多く溶出する主成分はタンニン(チャタンニン)である。ただし』、『飲み過ぎは、便秘や肩こりの原因にもなるとも言われている』。

以下、「薬用」の項。『薬用にする部位は若葉と種子で、若葉は茶葉(ちゃよう)、種子は茶子(ちゃし)と称し、春に採ったものがよいといわれる。葉を摘んだら』、『短時間で蒸して醗酵を止め、熱を通しながら』、『手で揉んで』、『より、再加熱して加工する。葉は頭痛、下痢、食べ過ぎ、のどの渇きに、また』、『種子は』、『痰が出る咳に薬効があるといわれる』。『茶葉に含まれるアルカロイドは、発汗、興奮、利尿作用があり、チャタンニンは下痢止めの作用があるとされ、適量飲めば滋養保健に役立つと言われている。民間療法で、茶を風邪の予防にうがい薬として利用する方法が知られる。種子は、乾燥して粉末にして、』一『日』二『回』、一『回量』〇・五『グラムを服用する方法が知られている。緑茶やウーロン茶、紅茶などの茶は、熱を冷ます薬草でもあるので、冷え症や胃腸が冷えやすい人は、あまり多く服用しない方がよいと言われている』。以下、「茶品種」として多量の品種が列挙(和名のみ)されるが、リンクに留める。なお、『日本で茶畑を表す地図記号』(∴)『は、茶の実を半分に切った状態を図案化したものである』とある。

 なお、既に指摘した通り、甚だ問題のある引用であるが、以上の引用の内、「本草綱目」のものは、「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「醋林子圖/經」(ガイド・ナンバー[079-24b] 以下)の非常に長い記載のパッチワークである。

「瓜蘆(なんばんちや)」読みは、無論、良安の当てたものであるが(「南蠻茶」であろう)、この起原植物は「チャノキ」ではない。と言うより、チャノキとは全く異なる植物で、しかも、中国では、さらに全く異なる基原植物から作られる二種の同名の「茶」があるのである(飲用されるのは、以下の引用にある通り、地域によって二分される)。取り敢えず、本邦の「苦丁茶」によれば、

モチノキ目モチノキ科モチノキ属 lex kudingcha (和名なし)

と、目タクソンで異なる、

シソ目モクセイ科イボタノキ属の Ligustrum robustum  (和名なし)

である(以下の引用の太字は私が附した。注記号はカットした)。『(くうていちゃ/くちょうちゃ)は、中国茶における茶外茶(「茶」と呼ばれるが、チャノキ以外の植物などから作られる飲料、及び、複数の原料を調合した茶類ではない飲料を指す)『の一種。「丁」は捻ったような茶葉の形を指す』。『日本ではタラヨウの近隣種であるモチノキ科に属する Ilex kudingcha の葉を茶葉として加工したものが知られており、その名の通り、一般的な茶には無い強い苦みが特徴。健康茶として飲まれている』。『世界的には数種類の植物の葉が苦丁茶(Ku Ding tea)として飲まれている。主なものは』二『種類あり、Ilex kudingcha を苦丁茶として飲んでいるのは中国』の『四川省日本が中心で、四川省以外の中国ではモクセイ科イボタノキ属の Ligustrum robustum が苦丁茶として飲まれている』。一九九〇『年代後半ごろからはLigustrum robustumも「苦味の少ない改良タイプ」として日本の市場に出回っており、四川省でも栽培されている。一般に、Ilex kudingchaは茶葉が大きく、Ligustrum robustumは茶葉が小さい』。『別名「瓜芦」』(=「瓜蘆」)『とも言い、皋芦、過羅、拘羅、物羅とも呼ばれた』。八『世紀の唐で書かれた』「茶經」『は、後漢時代に書かれた』「桐君錄」『の中の苦丁茶に関する記載を引用しており、このときには既に飲まれていたことが分かる。ただし、これらは単に古代の茶であるとの説もある。唐代には広東省や海南島で飲まれていた』。『明代に書かれた』「本草綱目」の「果部味類」『の条には「皋芦」の名で掲載されており、同時代の書には「苦』・『無毒」と説明されている。『その名の通り、苦みがある。上質な茶葉の場合、さわやかな苦みで非常に飲みやすい。更に厳選された茶葉であると、口に含んだ時に強烈な苦みを感じ、嚥下した直後にさわやかな甘味を感じる、その変化を堪能できる。しかし、抽出時間を長くすると、そのぶん苦みは強烈になる。また、等級の低い茶葉であるほど、甘みが失われ、苦みが強くなる傾向がある』。『苦丁茶には、「特級」「一級」「二級」「三級」と四種類の等級がつけられている。ランクが高いほど味が良く、飲みやすい。また、水色(すいしょく、抽出された茶液の色)にも差があり、上質な茶葉で入れた苦丁茶の水色は、あざやかな緑色をしている。放置すると褐色に変化する』。以下、『代表的な苦丁茶』の項。『・一葉茶』:『茶葉を』、『こより状によっている。棒状(葉巻型)のものが一般的。輪の形のものもある』。『・青山緑水』:『新芽だけで作られている苦丁茶で、苦みが少なく、また茶葉もやわらかいので、お茶と一緒に食べることができる。新芽をつみ取る為、希少価値が高い。種子や苗は、中国国外への持ち出しが禁止されている。Ligustrum robustumの一品種』。なお、『今のところ、「苦丁茶」の、統一された日本語読みはない。「くちょうちゃ」、「くうていちゃ」、「くていちゃ」、「くちんちゃ」、また、中国語の発音に近い「クディン」「クーディン」などと表現されている』とある。以下、「成分」「効用」の項が続くが、本篇の正当な「茶」とは無縁なので、リンク先を見られたい。

「卮子(くちなし)」双子葉植物綱リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ品種クチナシ Gardenia jasminoides f. grandiflora (以上は狭義。広義には Gardenia jasminoides )。詳しくは、「卷第八十四 灌木類 巵子」を見よ。

「白薔薇」白いバラは中国産の原種にあり。ウィキの「バラ」を見よ。

「栟櫚《しゆろ》」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属シュロ Trachycarpus fortunei (異名:ワジュロ)。詳しくは、「卷第八十三 喬木類 椶櫚」を見よ。

「威靈仙《いりやうせん》」キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ亜科 Anemoneae 族センニンソウ属サキシマボタンヅル((先島牡丹蔓) Clematis chinensisno の根茎を基原とする漢方生薬名。鎮痛・利尿・通経の効果があるとされる。記事は簡便だが、当該ウィキを見られたい。

「土茯苓《どぶくりやう》」中国南部・台湾に自生する多年生草本である単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属ドブクリョウ(土茯苓) Smilax glabra 。但し、その塊茎を乾したものを基原とする漢方生薬は「山帰来」(さんきらい)と言う。私の「譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(21)」の「山歸來」の注を見よ。時珍の記載([079-27a]の二行目)だが、前項(薬名称)と並置するのであるから、「山歸來」とすべきところである。

「相阿弥……」東洋文庫訳の後注に、『小堀遠江守など 闘茶や婆沙羅の茶といわれた遊興の茶を、風雅と礼式を重んずる東山流の書院茶につくりあげたのが能阿弥・芸阿弥・相阿弥である。この貴族的な書院茶を、禅を基底としたわび茶に推進させたのが村田珠光で、紹鷗がそれを一歩すすめ、わびを深化・洗練させ、宗易が茶道を大成させた。そのあとを受けた古田織部や小堀遠州は茶の湯を大名の中にひろめ、ことに遠州は茶の湯に儒学の理念を反映させ、「綺麗(きれい)さび」の大名茶によって武家社会の中に茶道を確立させた。』とある。

「古田織部……瀬田掃部」同前で、『このうち宗及は堺の茶匠で利休の茶友。利休とともに信長・秀吉の茶頭』(さどう)『となった人。道安は利休の長男。慶首座は僧で利休の弟子。古田織部・細川三斎・瀬田掃部は大名で利休の弟子である。』とある。

「桑山」同前で、『桑山重晴(一五二四?一六〇六)は秀吉に仕えて家を興した人。利休の門人で宗栄という。子の重長は宗仙と号し、道安の門人。のち石州派を開いた。茶人としては宗仙の方が有名であろう。』とある。

「佐久間」同前で、『茶人として名のあるのは二人。一人は正勝(二五五六~二八三一)。』(佐久間信栄(さくまのぶひで)のこと。当該ウィキによれば、『諱は正勝(まさかつ)とも伝えられるが、信頼できる史料は信栄としている』とある)『信長の臣で利休の弟子となり』、『茶湯に耽溺。石山合戦中にしばしば茶会を催し、そのため高野山に追放された。のち許され織田信雄に仕え不干斎と号す。文禄の役には秀吉に随行して陣内』(名護屋城で行われた出陣の儀式であろう。但し、実際には、秀吉が眼病のために延期されもので、戦端が切られた後のことであった)『で茶会を催した。のち徳川秀忠に仕えた。もう一人は真勝。』(佐久間実勝(さねかつ)の諱)『家康・秀忠・家光の三君に仕えた。茶を古田織部に学び、のち京都紫野に隠棲して、寸松庵を創って、そこで茶事三昧(ざんまい)の生活を送った。』とある。

「宗古・宗知・宗和」同前で、『宗古(一五四五~九六)は茶屋四郎次郎清延。安土桃山時代の商人で家康に目をかけられた。利休の弟子で潮路庵宗古と号した。宗知は十四屋』(じゅうしや)『宗知。戦国時代、京の茶匠として名声高かった十四屋宗悟』(調べる限りでは「宗伍」が正しい)『(?~一五五二)の子。宗知もまた茶匠として見識豊かな人であった。宗古とはあるいは父の宗悟(悟を古としたか)を指すのかも知れない。宗和(一五八四~一六五六)は金森宗和か。道安の弟子で宗和流を開いた。』とある。

 最後に。本項は、本プロジェクトは現在、三百二十記事であるが、もっとも時間を食った。実働で、延べ二十一時間を費やした。相応に達成感はある。而して、次の「皐蘆 なんばんちや」を以って「卷第八十九」は終わる。]

2025/07/03

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 醋林子

 

Kanamemoti_20250703053801

 

さくりんし

 

醋林子

 

ツヲヽ リン ツウ

 

本綱醋林子生四川卭川山野林菁中木髙𠀋餘枝葉繁

茂三月開白花四出九十月子熟纍纍數十枚成朶生青

熟赤畧類櫻桃而蔕短熟時采之隂乾連核用以鹽醋收

藏𭀚果食其葉味酸入鹽和魚䰼食云勝用醋也

 

   *

 

さくりんし

 

醋林子

 

ツヲヽ リン ツウ

 

「本綱」に曰はく、醋林子は四川≪の≫卭川《きやうせん》の山野・林菁《りんせい》[やぶちゃん注:林や竹藪。]の中に生ず。木の髙さ、𠀋餘。枝・葉、繁茂す。三月に白≪き≫花を開く。四出《しゆつ》≪す≫[やぶちゃん注:花弁の枚数であろう。]。九、十月に、子《み》、熟す。纍纍《るいるい》として、數《す》十枚、朶《ふさ》を成《なす》。生《わかき》は青く、熟≪せば≫、赤し。畧《ちと》、櫻桃(ゆすら)に類《るゐ》して、蔕《へた》、短し。熟する時、之≪れを≫采《とり》て、隂乾《かげぼし》にして、核《さね》を連《つらね》て、用《もちひ》て。鹽醋《しほす》を以《もつて》、收藏≪し≫、果《くわ》に𭀚《あ》て、食ふ。其《その》葉、味、酸《すつぱ》く、鹽を入《いれ》、魚-䰼(すし)に和して、食ふ。云《いは》く、醋を用るに勝れりとなり。

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、基本的な種は、

双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科カナメモチ(要黐)属カナメモチ Photinia glabra

である。「維基百科」の同種は「光叶石楠」で、この「醋林子」の異名は載らないものの、「百度百科」で調べたところ、「醋林子」で立項されて、上記カナメモチの学名を掲げてある。但し、後で引用するが、カナメモチ属は日中、及び、東アジア暖帯・亜熱帯を中心に六十種ほどの異種がある本邦のウィキを引く(注記号はカットした)。『カナメモチという和名の由来は、扇の要(かなめ)に使い、モチノキ』黐の木(バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra )『に似るためとされる。別名は、アカメモチ、カナメガシ、カナメノキ、アカメノキ、ソバノキ(花序がソバに似るためといわれる)などがある』。『カナメモチに初めて学名が与えられたのは』一七八四『年のことであり、それはツンベルクによる Crataegus glabra というもので、サンザシ属』(現行ではバラ科サクラ亜科サンザシ属 Crataegus )『に置かれた。これが後の』一八七三『年に別属 Photinia に組み替えられ』て『 Photinia glabra とされることとなるのであるが、この命名を行った人物はロシアのマクシモービチか、フランスのアドリアン・ルネ・フランシェおよびポール=アメデー=ルドビク・サバチエの両者によるものかで見解が分かれている。まず』、『マキシモービチが命名したという見方は』「日本の野生植物 木本1」(平凡社・一九八九年)『などが採用しており』、‘ Bulletin de l’Académie impériale des sciences de Saint-Pétersbourg ’第』十九『巻所収の "Diagnoses plantarum novarum Japoniae et Mandshuriae"〈日本および満州の新たな植物の記相〉』の百七十八『頁で記載が行われたと見做すものである。一方のフランシェおよびサバチエによる共同命名とは』「日本の野生植物目録」(‘ Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium ’)第一巻百四十一『頁での言及のことを指している。International Plant Names IndexIPNI)はマキシモービチによる言及が発表されたのが』一八七三年十一月三十『日で、一方のフランシェとサバチエによる言及がそれよりも』二十六『日早い』一八七三年十一月四『日に発表されたということで』、『後者を正式な学名、前者を isonym として扱うという立場を取っている』AIによれば、「isonym」と「synonym」は、孰れも学名に関する言葉であるが、「isonym」は、ギリシャ語で「同じ名前」を意味し、一方、「synonym」は「同義語」・「類義語」を意味し、同じ意味を持つ別の言葉を指す。例えば、「大きい」と「偉大」は synonym の関係にある。つまり、isonym は「同じ名前」を指すのに対し、synonym は「同じ意味を持つ別の名前」を指すという点で異なる、とあった)。『イギリスのジョン・リンドリーにより』一八二一『年に Crataegus glabra に代わるものとして記載された学名 Photinia serrulata は』「国際藻類・菌類・植物命名規約(ICN)」の条件を満たさず』、『非合法名(nomen illegitimum)とされているシノニムであるが、先述の『日本の野生植物 木本1』では同属の別種オオカナメモチ( Photinia serratifolia (Desf.) Kalkman)のシノニムとされている。そのほか』、一七九八『年にラマルクの』「植物百科事典」(‘ Encyclopédie méthodique. Botanique ’) 第四巻四百四十六『頁でジャン=ルイ=マリー・ポワレ(Jean Louis Marie Poiret)により記載された組み替え名  Mespilus glabra 』、二〇一八『年にマイケル・フランシス・フェイ(Michael Francis Fay)およびマールテン・クリステンフスの共同で提唱された新名』 Pyrus thunbergii 『は』「キュー植物園系データベース Plants of the World Online」『ではいずれも正式な学名としては扱われていない』。『またドイツの植物学者・造園家のカミロ・カール・シュナイダー(Camillo Karl Schneider)が中国(当時は清王朝)の雲南』の蒙自『の森林で採取された標本に基づき』、一九〇六『年に』‘ Illustriertes Handbuch der Laubholzkunde ’(「図解広葉樹学便覧」第一巻七百七)『頁で記載した Photinia beckii 』、及び、『その組み替え名としてフェイとクリステンフスの両名により提唱された Pyrus beckii Photinia glabra のシノニムと判定されている。

以下、「分布・生育地」の項。『日本の本州東海地方以西、四国、九州に分布する。暖地の山地に自生する。照葉樹林の低木である。日本以外では中華人民共和国(南東部、南中央部)、タイ、ビルマに自生し、朝鮮やアメリカ合衆国(ルイジアナ州)に見られるのは持ち込まれたものである』。

以下、「特徴」の項。『常緑広葉樹の小高木で、樹高は』三~七『メートル』で、『よく枝分かれし、葉を密につける。葉は互生する。葉身の形状は両端のとがった長さ』五~十『センチメートル』『の長楕円形で、革質でつやがあり、葉縁に細かい鋸歯がある。葉柄は短い。若葉は紅色を帯び美しい』。『開花時期は』五~六月頃で、『枝先に径約』十センチメートルの『半球状の集散花序を出し、小さな白色の』五『弁花を多数つける。果実は球状で、先端が黒紫色で紅色に熟す』。『庭木、特に生垣によく用いる。また、幹は硬く、器具の柄として利用される』。

以下、「カナメモチ属」の項。『東アジア暖帯・亜熱帯を中心に』六十『種ほどある』。

オオカナメモチ Photinia serratifolia (『中国本土・台湾から東南アジアにかけて分布する。日本では岡山県・愛媛県・南西諸島にかけて、点在的に分布記録があるが、このうち本土の記録は栽培個体の逸出だと思われ、南西諸島では自生が確認されているのは徳之島のみで、他の記録ははっきりしないとされる。中国では墓樹に利用されるなど栽培もされる。葉は長さ』十~二十センチメートル『の長楕円形でカナメモチよりも大きく、古い葉は紅葉して落葉する。花に強い芳香がある』)

シマカナメモチ Photinia wrightiana ((島要黐:『小笠原諸島・琉球列島に分布する。小笠原諸島では比較的よくみられるが、琉球列島では数が少ない』)

ベニカナメモチ Photinia glabra f. benikaname(『紅要黐』:『別名ベニカナメともよばれるカナメモチの変種。新芽や若葉は赤く、セイヨウカナメモチ』( Photinia × fraseri :シノニム: Photinia glabra × Photinia serratifolia )『(レッドロビン)』(英語:Red Robin:『ベニカナメモチとオオカナメモチとの交雑の園芸種。萌芽力が強く、若葉は鮮やかな濃い紅色で、生け垣によく使われる。カナメモチやベニカナメモチに比べて葉が大きく、枝の茂り方はやや粗いが耐病性に優れる。花期は』五『月。カナメモチとよく似ているが、カナメモチの葉柄には鋸歯の痕跡(茶色の点に見える)が残るが、レッドロビンには無いことで区別できる』)『によく似ている。東北南部から沖縄にかけて、生け垣や園芸樹に利用される。葉は黄緑色で光沢のある皮質、若葉は紅色となり』、『若葉以外の葉も赤味を残す。葉身は長さ』六~十二センチメートル『の長楕円形で互生する。葉身は先端が尖り、基部は楔形、葉縁に細かい鋸歯がある。カナメモチより枝の伸びは弱く葉も小型。花期は』五『月で、枝先の散房状花序に白い小花を多数つける』とある。実は、私の自宅にも、この木、新築の際に植えられてあるのだが、連れ合いともに、それを二人とも「あかめがしわ」(赤芽槲・赤芽柏)と呼んでいた。しかし、今日、この注を附すうち、真の「アカメガシワ」は、草本の、キントラノオ目トウダイグサ(燈台草)科エノキグサ(榎草)亜エノキグサ連アカメガシワ属アカメガシワ Mallotus japonicus で、全く異なる種であった。夫婦揃って、情けない!

 最後に、「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「かなめもち(要黐)」にある、中国産の種を掲げておく。冒頭に、『カナメモチ属』Photinia『(石楠 shínán 屬)には、東・東南アジア・ヒマラヤ及び中米に約』四十~五十『種がある』とされる。

Photinia benthamiana (『閩粤石楠』)

Photinia crassifolia(『厚葉石楠』)

Photinia davidsoniana(『欏木石楠・欏木』)

Photinia glomerata(『球花石楠』)

Photinia hirsuta(『褐毛石楠』)

Photinia impressivena(『陷脈石楠・靑鑿木』)

Photinia integrifolia(『全緣石楠・藍靛樹』)

Photinia lasiogyna(『倒卵葉石楠』)

Photinia parvifolia(『小葉石楠・牛筋木・牛李子・山紅子』)

Photinia prinophylla(『刺葉石楠』)

Photinia prunifolia(『桃葉石楠・李葉石楠・石斑木』)

Photinia schneideriana(『絨毛石楠』)

以下の二種は先のオオカナメモチ(そちらでは『ナガバカナメモチ』の異名を掲げておられ、また、シノニムとしてPhotinia serrulata を添えておられる)の変種である。以下の二種の中文名として『石楠・寛葉石楠・扇骨木・千年紅』が添えられてある。

Photinia serratifolia var. daphniphylloides

Photinia serrulata var. daphniphylloides

マンリョウカマツカ Photinia serratifolia var. ardisiifolia(シノニム:P.serrulata var.ardisiifolia:『紫金牛葉石楠』)

ケバナカナメモチ Photinia var. lasiopetala(シノニム:P.serrulata var. lasiopetala:『毛瓣石楠』)

なお、更に、幾つかの興味深い解説があるので拾っておく。まず、「牧野日本植物図鑑」からの引用で、『和名赤芽もちハ其嫩葉特赤色ナルヨリ云ヒ、之レヲ誤リテ要もちト呼ビ其材ニテ扇ノ要ヲ造ルト云フハ妄ナリ、蕎麥の木ハ其白花滿開ノ狀蕎麥花ニ似タルヨリ云フ、そばヲ稜角ノ意トスルハ否ナリ』とあり、「倭名類聚鈔」に『柧稜に「和名曽波乃木」と』と載ること、また、『漢名の石楠(セキナン』:『shínán』)『は、Photinia の通称、狭義にはオオカナメモチ。日本で』、『この字をシャクナゲに当てるのは誤り』であるとある。更に、『属名は、ギリシア語 』ラテン文字転写『photeinos(耀く)に由来』し、『艶のある葉の様子から』とある。『中国では、オオカナメモチ P. serratifoliaP. serrulata 』:『石楠)の葉を石楠葉と呼び』、『薬用にする』とされ、『日本で、古代にソバノキ・タチソバなどと呼ばれた木がある』とある。そして、「古事記」の「中つ卷」(「日本書紀」にも重出する)『に載る神武天皇「来目の歌」に』、

 こなみ(前妻)が

   な(肴)こ(乞)はさば

  た(立)ちそば(柧棱)の

   み(實)のな(無)けくを

  こ(扱)きしひゑね

   うはなり(後妻)が

  な(肴)こ(乞)はさば

   いちさかき(柃)

  み(實)のおお(多)けくを

   こきだ(許多)ひゑね

『とある「たちそば」は、「そばのき」と呼ばれた木』で、本種であることを示唆されておられ、更に、『清少納言』の「枕草子」第四十段の「花の木ならぬは」『には、「そばの木、しなな(品無)き心地すれど、花の木どもち(散)りはてて、おしなべてみどりになりたるなかに、時もわかず、こきもみぢのつやめきて、思ひもかけぬ」靑『葉の中よりさし出でたる、めづらし。」と。』

と引用され、『この「そばの木」には、旧来』、『ブナ・カナメモチ・ニシキギなどの説があるが』、「枕草子」『の叙述には、カナメモチがすっきりと当てはまる』と、添えておられる。流石は、私が最も信頼するサイトで、痒い所に手が届くの思いを満喫させて戴いた。

 なお、以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「醋林子」(ガイド・ナンバー[079-24a] 以下)の記載のパッチワークである。短いので、全文を手を加えて以下に示す。

   *

醋林子【圖經】 校正【自外類移入此】

 釋名【時珍曰以味得名】

 集解【頌曰醋林子生四川卭州山野林箐中木高丈餘枝葉繁茂三月開白花四出九月十月子熟纍纍數十枚成朶生靑熟赤畧類櫻桃而蔕短熟時采之隂乾連核用土人以鹽醋收藏充果食其葉味醋夷獠人采得入鹽和魚䰼食云勝用醋也】

 實氣味酸溫無毒主治久痢不瘥及痔漏下血蚘咬心痛小兒疳蚘心痛脹滿黃瘦下寸白蟲單搗爲末酒服一錢匕甚效鹽醋藏者食之生津液醒酒止渴多食令人口舌粗拆也【蘇頌】

   *

「四川≪の≫卭川《きやうせん》」不詳。ネットでは「邛峡山」という山名があるが、特定出来ない。四川省成都市に邛崃(キョウライ)市(グーグル・マップ・データ)があるが、ここかどうかも不明である。識者の御教授乞うものである。

「櫻桃(ゆすら)」何度も言っているので、繰り返さないが、この良安命の「ゆすら」=「ゆすらうめ」はアウトである! 「卷第八十七 山果類 櫻桃」を見られたい。

「魚-䰼(すし)」無論、この読みは良安が勝手に振ったもの。この「䰼」は音「キン」で、「魚を塩・醤・麹などに漬けたもの」を指す。所謂、「熟(な)れ鮓(ずし)」の意味である。]

 

   *

 

なお、次は本巻の最後から二つ目なのだが、膨大な「茗」(「茶」である)で、見た私の眼球が、どどめ色に変じ、正直、やる前から、意気が激しく削がれている……

2025/07/02

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「雨米花」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形した。句読点を追加した。]

 

 「雨米花《あめふりばな》」 安倍郡府中にあり。「續日本紀《しよくにほんぎ》」云《いはく》、

『仁明天皇承和五年甲申、駿河國言、從七月今月有ㇾ物如ㇾ灰、從ㇾ天而雨、累日不ㇾ止。但雖ㇾ似怪異、无ㇾ有損害老農名此物米花ト云也。云云』。

 傳云。

「府中、及び、七郡の諸村、此物、降れり。時に、年《とし》、豐《ゆたか》にして、五穀、價《あたひ》、賤《やす》し。」。

 

[やぶちゃん注:漢文部には、重大な誤りがある。これは、昔からお世話になっているサイト「菊池眞一研究室」「六国史(荒山慶一氏作成)」で調べたところ、これは「續日本紀」の記載ではなく、「續日本後紀」である(朝日新聞本)。まず、そのままの当該部を示すと、

   *

《承和五年(八三八)九月甲申【廿九】》○甲申。從去七月至今月。河内。參河。遠江。駿河。伊豆。甲斐。武藏。上総。美濃。飛騨。信濃。越前。加賀。越中。播磨。紀伊等十六國。一一相續言。有物如灰。從天而雨。累日不止。但雖似恠異。無有損害。今茲畿内七道。倶是豐稔。五穀價賎。老農名此物米花云。

   *

である。則ち、本篇は「續日本後紀」から抄録したものであることが判る。それを受けて、推定訓読しておく。前掲のそれとの比較によって、一部に問題のある個所があることが判るので、それを正字で補訂してある。その部分は太字とした。

   *

仁明(にんみやう)天皇承和(じようわ)五年』九月『甲申(きのえさる/かふしん)『【廿九】』[やぶちゃん注:この「甲申【廿九】」は承和五年戊午(つちのえうま/ぼご)の九月二十九日甲申を指す。]、去る七月より今月[やぶちゃん注:九月。]に至り、『河內・參河(みかは)・遠江(とほたふみ)・』駿河『・伊豆(いづ)・甲斐(かひ)・武藏・上總(かづさ)・美濃・飛驒・信濃・越前・加賀・越中・播磨・紀伊等、十六』國、『相(あひ)續(つづきて)』言ふ、「物、有り、灰(はひ)のごとく、天より雨(あめふ)り、累日(るいじつ)[やぶちゃん注:幾日も続けて。]、止まず。但し、怪異に似たりと雖も、損害、有ること无(な)し。『今、茲(この)畿內七道、俱(とも)に、是れ、豐稔(はうねん)たり。』老農(らうのう)、此の物を「米花」と名づけて云ふ

なり云云(うんぬん)。」。

   *]

2025/07/01

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 鹽麩子

 

Nurude

 

ふし    五倍子 鹽膚子

      鹽梅子 天鹽

鹽麩子

      鹽梂子 酸桶

      叛奴鹽 木鹽

       俗云奴留天

ぬるて

 

本綱鹽麩子東南山原甚多木狀如椿其葉兩兩對生長

而有齒靣青背白有細毛味酸正葉之下節節兩邊有直

葉貼莖如箭羽狀五六月開花青黃色成穗一枝纍纍七

月結子大如細豆而扁生青熟微紫色其核淡緑狀如腎

形核外薄皮上有薄鹽鹽生樹上者卽是也小兒食之

五倍子 葉上有虫結成五倍子八月采之【詳于蟲部】

△按鹽麩子【上畧名布之】其樹名沼留天西北及中國𠙚𠙚皆

 有之信州之產爲良其花碎小成穗結實有小蟲吸汁

 而結小毬於葉閒大小不均狀如菱青綠色久則黃其

 殻堅脆中空有細蟲十月采之蒸殼否則腐敗其葉深

 秋紅美【倭名抄以樗訓奴天奴天者奴留天乎然樗者椿之屬非五倍子樹則誤也】

                          仲正

  家集あまのすむ磯の浦邊を見渡せは浪にぬるての紅葉しにけり

 

   *

 

ふし    五倍子 鹽膚子《えんひし》

      鹽梅子 天鹽

鹽麩子

      鹽梂子《えんきうし》 酸桶《さんとう》

      叛奴鹽《はんどえん》 木鹽

       俗、云ふ、「奴留天《ぬるで》」。

ぬるで

 

「本綱」に曰はく、『鹽麩子《えんふし》は、東南≪の≫山原《やまはら》に、甚だ、多し。木の狀《かたち》、椿(チヤンチン)のごとく、其の葉、兩兩《りやうりやう》、對生し[やぶちゃん注:一対ずつ対生し。]、長《ながく》して、齒、有り。靣《おもて》、青く、背、白く、細毛有《あり》て、味、酸《すつぱ》し。正葉《せいえふ》の下に、節節《ふしぶし》、兩邊に直《す》ぐなる葉、有《あり》て、莖に貼(つ)いて、箭羽(やばつ[やぶちゃん注:ママ。])の狀《かたち》のごとし。五、六月、花を開く。青黃色≪にして≫、穗を成し、一枝、纍纍《るいるい》たり。七月、子《み》を結《むすぶ》。大いさ、細≪き≫豆のごとくにして、扁《ひら》たく、生《わかき》は青く、熟《じゆくせ》ば、微《やや》紫色。其《その》核《さね》、淡≪き≫緑りにして、狀、腎《じん》[やぶちゃん注:腎臓。]の形≪の≫ごとし。核の外の薄皮《うすかは》の上に、薄鹽《うすじほ》、有り。「鹽、樹の上に生ず。」と云《いふ》は[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、卽ち、是《これ》なり。小兒、之≪れを≫食ふ。』≪と≫。

『五倍子は』『葉の上に、虫、有《あり》て、結《けつ》して「五倍子」と成り、八月、之≪れを≫采る【「蟲部」に詳《つまびら》かなり。】。』≪と≫。

△按ずるに、「鹽麩子」【上畧して、「布之」と名づく。】≪は≫、其の樹を「沼留天」と名づく。≪倭の≫西北、及び、中國、𠙚𠙚《しよしよ》、皆、之れ、有り。信州の產、良と爲《なす》。其《その》花、碎《くだ》け、小《ちさく》、穗を成し、實を結ぶ。小き蟲、有《あり》て、汁を吸《すい》て、小≪さき≫毬《まり》を、葉の閒《あひだ》に結ぶ。大小、均(ひと)しからず、狀、菱《ひし》のごとく、青綠色。久《ひさし》き時は、則《すなはち》、黃(きば)み、其《その》殻《から》、堅く、脆(もろ)く、中空にして、細≪かなる≫蟲、有り。十月、之《これを》采りて、殼を蒸す。否《いなせらぜば》、則《すなはち》、腐敗≪す≫。其《その》葉、深秋に、紅《くれなゐ》、美なり【「倭名抄」は、「樗《ちよ》」を以つて、「奴天」と訓ず。「奴天」とは、「奴留天」か。然れども、「樗」は「椿《チヤンチン》」の屬にして、「五倍子の樹」に非《あら》ず。則ち、誤りなり。】。

               仲正

 「家集《いへのしふ》」

   あまのすむ

       磯の浦邊を

     見渡せば

    浪にぬるでの

      紅葉《もみぢ》しにけり

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、

双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ(広義)Rhus javanica /(標準)Rhus javanica var. chinensis

である。但し、「維基百科」の同種「肤木(=「鹽膚木」)では、広義のシノニムの、

Rhus chinensis

として、「異名」で本邦の異名に挙げてある Rhus javanica Rhus semialata が掲げられてある。しかし、気になるのは、「維基百科」には同種の「変種」として、独立項で、

(=浜)肤木 Rhus chinensis var. roxburghii

があり、そこには、分布として『中国大陸・台湾・韓国・インドシナ半島・インドに分布する。生育範囲は海抜千二百メートルから二千百メートルで、果実は十二月から翌年一月にかけて成熟する。台湾全土の低標高から、中標高の山岳地帯の下草や湿地によく見られる』とあること、変種名の“ roxburghii ”が本邦のウィキの記載にはないこと、以上の引用から、日本に分布しないヌルデとして、「本草綱目」の記載には、それが含まれなければならないと考えた。ただ、ちょっと気になったことがあって、それは、「滨盐肤木」の写真が「肤木」の写真と同じであることであったのだ! しかもだ! よくねえよな、中国のウィキペディアンさんよ、孔子が泣くぜ! この写真、大阪府で撮られた写真だぜ!? しかもライセンスは日本だ! その写真を違う種に掲げちまうのは、まさに「お里が知れる」杜撰が二重にアウトだろうが!)。されば、いつも通り、最も信頼出来る「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「ぬるで(白膠木・塩麩子)」で調べたところ、やはり、流石であって、そこに、

タイワンフシノキ(タイワンヌルデ・ハネナシヌルデ)Rhus chinensis var. javanica(シノニム:Rhus chinensis var. toyohashiensisRhus chinensis var. roxburghii

とあった! 而して調べてみるもんだ! この種は、

絶滅危惧IA類(CR・環境省RedList2020

に載っており(注目すべきは、日本の「環境省」リストであることである!)、そこには、タイワンフシノキの分布について、

『本州東海地方・琉球』(!☜!)・『臺灣・朝鮮・漢土(南部)・インドシナ・ヒマラヤ・インドネシアに産』する

とあったのである! 「危ない、危ない!」(「用心棒」の城代家老睦田弥兵衛(伊藤雄之助・演)の台詞で)、この種は本邦にも分布するのだ! そして、本邦のウィキが杜撰であるのも露呈したのだ! その「ヌルデ属」の項に、こいつは、

タイワンフシノキ Rhus javanica var. javanica

というシノニムで、シラっと何の解説もなく、学名だけが載ってる始末だ! こういう杜撰が、「ウィキペディアは危ない」という風評の元凶だぜ!

しかも、「跡見」の記載によって、他に、本邦に植生しないヌルデ別種があることも判明した。以下にリストしておく。総てではないが、調べてみて、日本にも分布することが判ったものは省いた。

ウラジロハゼ Rhus hypoleuca(『白背麩楊 báibèi fūyáng』:『臺灣・福建・湖南・廣東産』:本種は台湾原産である)

Rhus potaninii(シノニム:Rhus henryi:『靑麩楊・倍子樹・烏倍子』)

Rhus punjabensis var. punjabensis(『旁遮普 pangzhepu 麸楊』)

Rhus punjabensis var. sinica(シノニム: Rhus sinica:『紅麩楊・漆倍子・早倍子樹』)

Rhus teniana(『滇麩楊』・『雲南産』)

Rhus wilsonii(『川麩楊』・『四川・雲南産』)

 ともかくも、ウィキの「ヌルデ」を引く(注記号はカットした。最後の役立たずの「ヌルデ属」は引用しなかった)。ヌルデ(白膠木・塩膚木』『)は、ウルシ科ヌルデ属の落葉小高木。山野の林縁などに生える。ウルシほどではないが、まれにかぶれる人もいる。別名フシノキ、カチノキ(カツノキ)。葉にできた虫えい』(虫癭:「虫瘤(むしこぶ)」とも呼ぶ)『を五倍子(ごばいし/ふし)という。お歯黒の材料にしたり、材は細工物や護摩を焚くのに使われる』。『和名「ヌルデ」の由来については、諸説ある』。『枝を折ると粘液が出るところから』。『かつて幹を傷つけて白い樹液を採り、漆のように器物の塗料として使ったことから「塗る手」となり転訛した』。『ウルシ科の植物であり、樹液(粘液)が塗料(ヌテ)に使われたことから』。『別名「フシノキ」は、後述する生薬の付子がとれる木の意である。「カチノキ」(勝の木)は、聖徳太子が蘇我馬子と物部守屋の戦いに際し、ヌルデの木で仏像を作り、馬子の戦勝を祈願したとの伝承から。またの別名に「シオノキ」や「天塩木」があり、果実に白い塩のような物質で覆われることから名付けられたものである』。『中国名は、「鹽麩木」「五倍子樹」。虫こぶの「五倍子」は中国での呼び名で、「五倍樹」や「五去風」という名は五倍子を採る樹という意味で名付けられたものである。英名は、中国から日本、台湾まで分布が見られるものにもかかわらず、japanese sumac(ジャパニーズ・スマック)ともいう』。『雌雄異株。落葉広葉樹の低木から小高木で、樹高は』三~八『メートル』『ほどであるが』十メートル『以上の大木になることもある。一年枝は赤褐色で無毛か毛が残り、割れ目形の楕円の皮目が多くできる。若木の樹皮は緑褐色で皮目があり、次第に緑色が抜けて、成木は灰褐色になる。樹液は皮膚につくとかぶれやすい』。『葉は互生し』七~十三『枚(』三~六『対)の小葉からなる奇数羽状複葉で』、『葉軸に翼があるのが大きな特徴である』(附属するこの画像を見よ)。『小葉は』五~十二『センチメートル』『の長楕円形で』、『同じウルシ科のハゼノキ』(ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum )『やヤマウルシ』(ウルシ属ヤマウルシ Toxicodendron trichocarpum )『と葉の形は似ているが、葉縁の鋸歯が目立ち、毛が多くザラザラしており、葉軸に翼があるのが特徴である。ヌルデの葉にはヌルデシロアブラムシ(ヌルデノミミフシアブラムシ』:『学名:Schlechtendalia chinensis )が寄生し、袋のような虫こぶ(虫癭)を作ることがある。葉は秋に紅葉し、野山を彩る。紅葉はハゼノキやヤマウルシほど赤色は濃くならないが、赤・橙・黄・茶色などが混在することもある。生育条件がよい個体や若木では鮮やかな赤色に紅葉するが、葉の表面に粒状の虫こぶや病気が発生して痛んでいることが多く、やや汚れた橙色に紅葉している個体が多く見られる。新芽も赤く染まる。ウルシの仲間のヌルデのウルシ成分(ウルシオール』(Urushiol)『)は少なく、かぶれる虞はほとんどなく、中には葉でかぶれる人もいるが』、『劇症にはならない』。『花期は晩夏から初秋』の八~九月で、『枝先に円錐花序を出して、黄白色から白色の小さな花を多数咲かせる。花は数ミリメートル』『程度で』、五『つの花弁がある。雌花には』三『つに枝分かれした雌しべがある。雄花には』五『本の雄しべがあり、花弁は反り返っている。花序は枝の先端から上に出るが、何となく垂れ下がることが多い。果実ができると』、『さらに垂れ下がる』。『果期は秋(』十~十一『月)で』、『直径』四ミリメートル『ほどの扁平な球形をした果実を、かたまって多数つける。果実は熟すと赤色に色づく。果実の表面にあらわれる白い粉のようなものはリンゴ酸カルシウム』(Calcium malate C8H10CaO10)『の結晶であり、熟した果実を口に含むと酸味が感じられる。雌株の枝先にできた果序が冬でも残る。雄株は、枯れた雄花序の軸が冬でも残ることもある』。『冬芽は半球形で黄褐色の毛が密生し、枝に埋もれるようにつく。枝先の仮頂芽と枝の上部の側芽はほぼ同じ大きさで、側芽は枝に互生する。葉痕はU字形やV字形で、維管束痕が多数並ぶ』。

以下、「分布と生育環境」の項。『日本、朝鮮半島、中国、ヒマラヤ、台湾などの東南アジア各地に自生する。日本では北海道・本州・四国・九州から琉球列島まで、ほぼ全域で見られる。低地や山地に分布し、日当たりのよい山野、林縁、ヤブ、道路沿いの斜面、河原などにふつうに生える。植えられることは稀である』。『典型的な陽樹で、明るい場所を好み、山火事の跡、川原、新しい崖崩れ、崖錐などに』、『しばしば真っ先に現れる、いわゆる先駆植物(パイオニア植物)のひとつに数えられる。日本南部ではクサギ』(シソ目シソ科キランソウ亜科クサギ(臭木)属クサギClerodendrum trichotomum、或いは変種クサギ Clerodendrum trichotomum var. trichotomum )・『アカメガシワ』(赤芽槲・赤芽柏:キントラノオ目トウダイグサ(燈台草・沢漆・漆柳)科エノキグサ(榎草)亜科エノキグサ連アカメガシワ属アカメガシワMallotus japonicus )『などとともに、低木として道路脇の空き地などに真っ先に出現するものである。伐採など森林が攪乱を受けた場合にも出現する。種子は土中で長期間休眠することが知られている。伐採などにより』、『自身の成育に適した環境になると』、『芽を出すという適応であり、パイオニア植物にはよく見られる性質である』。『古来から日本の村里の人々の生活と深く関わり合いがある。葉にヌルデシロアブラムシ』( Schlectendalia chinensis )『が寄生すると』、『大きな虫癭』『ができ、中には黒紫色のアブラムシが多数詰まっている。この虫癭は五倍子(ごばいし)、または付子(ふし)といってタンニンが豊富に含まれており、これが腫れ物・歯痛の薬、皮なめしに用いられたり、黒色染料の原料になる。染め物では空五倍子色とよばれる伝統的な色をつくりだす。またインキや白髪染の原料になるほか、かつては既婚女性および』十八『歳以上の未婚女性の習慣であった』「お歯黒」『にも用いられた』。『ヌルデの果実は塩麩子(えんぶし)といい、下痢や咳の薬として用いられた。この実はイカル』(スズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata :私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 桑鳲(まめどり・まめうまし・いかるが) (イカル)」を見られたい)『などの鳥が好んで食べる』。『木材は色が白く材質が柔らかいことから、木彫の材料、木札、木箱などの細工物に利用される。地方により、ヌルデ材は呪力を持った木として尊ばれ、病気や災い除けの護符の材として多く使われる』。『日本ではふつう食用に用いないが、朝鮮では、春に出た若い葉を摘んで食用にするという。果実は表面に酸味のある白い粉がついていて、秋遅くになると酸味が増し、信州』『では』、『昔』、『これを煮て』、『塩の代用にしたと言うが、塩分は含まれていない』。『ヌルデの葉からは五倍子(ごばいし)あるいは付子(ふし)を得ることができた。五倍子はヌルデの稚芽や葉柄がヌルデシロアブラムシにより刺激され、こぶ状に肥大化した虫癭(虫こぶ)である。中華人民共和国での生産量が最大で、インドでも採取される。日本では瀬戸内海沿岸が多く、工業用のタンニン酸製造の原料として』、昭和一三(一九三八)『年頃には』、『山口県、三重県、兵庫県などを中心に』二百トンも『の五倍子が生産されていた。戦後は、中華人民共和国からの輸入品が急増して生産は激減している。主成分はペンタ-m-ジガロイル-β-グルコース』(Pentagalloyl glucose,penta galloyl glucose C41H32O26 · xH2O)『という物質である。大きさはさまざまであるが、多くは長さ』六~八『センチメートルほどで、不揃いに分枝した黄色を帯びた灰色の袋状の形をしている。中にはアブラムシの死骸が残っていることもあり、これを取り除いて製品にする』。『虫こぶは黒い染料に使われていて、白髪染めや』、『お歯黒、腫れ物、歯痛などに用いられた』。『岡山県備前市の香登(かがと)地区は高級お歯黒の生産地であった。香登のお歯黒は五倍子とローハ(』(緑礬(りょくばん)『硫酸鉄』(IronII) sulfate)『)と貝灰を混合して作られたものである。岡山県成羽町吹屋地区は日本最初のローハ生産地であり、これと関連した産業であったと推測されている』。『江戸時代の家庭の医学書である』「救民醫學書」『には「五倍子が疱瘡の薬」と記されており、疱瘡(天然痘)の治療に用いられた』。『ただし、猛毒のあるトリカブトの根「附子」も「付子」と書かれることがあるので、混同しないよう注意を要する』。『ヌルデは』「万葉集」『に詠まれた歌がある』とする。これは、「卷十四」の「相模國の譬喩歌三首」(詠人知らず)の二首目(三四三二番)、

   *

 足柄(あしがり)の

    吾(わ)を可鷄山(かけやま)の

  穀(かづ)の木の

    吾(わ)をかづさねも

  穀割(かづさ)かずとも

   *

所持する中西進「全訳注原文付 万葉集(三)」(講談社文庫・昭和五六(一九八一)年刊)によれば、『足柄の、私を心にかける可鶏山の穀の木のように、私を誘ってほしいよ。そんなに穀の皮を割いてばかりいなくったって――。』とある。「可鷄山」は『矢倉嶽のことか』とし(現在の神奈川県南足柄市矢倉沢(やぐらさわ)にあるピーク「矢倉岳」(やぐらだけ:標高八百七十メートル:グーグル・マップ・データ)、「穀(かづ)の木」は『カジの木。』(クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera )『またヌルデの木ともいう。以上の「吾を…かづ」が下句に接続』するとし、「かづさねも」については、『「かづす」はカトフ(誘)と同意か。「ね」も「も」は助詞』とする。「ね」は上代の終助詞で、他に対してあつらえ望む意を表わし、「も」は係助詞で、最小限の希望を意味する。歌の最終部について、『下に「よし」など』が『省略。穀の皮をはいで白木綿(ゆう)を作る。』とあり、最後に、『比喩歌として、カケ・カヅス・カヅサクに類似の内容の寓意あるか。未詳。』とある。

 なお、以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「鹽麩子」(ガイド・ナンバー[079-22a]以下)の記載のパッチワークである。

「椿(チヤンチン)」何度も出たツバキとは縁のない、双子葉植物綱ムクロジ目センダン科Toona属チャンチン Toona sinensis 卷第八十三 喬木類 椿」を見よ。

「『五倍子は』『葉の上に、虫、有《あり》て、結《けつ》して「五倍子」と成り、八月、之≪れを≫采る【「蟲部」に詳《つまびら》かなり。】。』」これは「本草綱目」で時珍が割注したもので、同書の「卷五十二」「卵生類」の「五倍子」を指す。「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十の「蟲之一」「卵生類上二十三種」の「五倍子」(ガイド・ナンバー[094-20b]以下)の膨大な記載を指すなお、東洋文庫訳では、とんでもない誤りを犯している。校注者竹島邦夫氏は、訳で『〔虫部に詳しく載せてある(巻五十二卵生類五倍子)〕』としてしまっているのである。この「巻五十二」というのは、良安の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部」を指してしまっているからである。なお、竹島氏のそれは、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 五倍子 附 百藥煎」がそれに当たるので、見られたい。

『「倭名抄」は、「樗《ちよ》」を以つて、「奴天」と訓ず。「奴天」とは、「奴留天」か。然れども、「樗」は「椿《チヤンチン》」の屬にして、「五倍子の樹」に非《あら》ず。則ち、誤りなり。』これは「和名類聚鈔」「卷二十」の「草木部第三十二」「木類第二百四十八」の以下であるが、良安は引用を誤っている。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年版を参考に訓読して見ると、

   *

樗(ぬで) 陸詞が「切韻」に云《いはく》、『樗《チヨ》【「勅」・「居」の反。「和名本草」に云はく、『沼天《ぬで》』。】は惡木なり。』≪と≫。「弁色立成」に云はく、『白膠木は【和名、上に同じ。】』≪と≫。

   *

である。ところが、この「樗」の字は、現代にあっても、甚だ混乱の中にある漢字なのである。所持する大修館書店「廣漢和辭典」では、漢語としての第一義で、『木の名ぬるでごんずい。みつばうつぎ科の落葉小高木。樹皮あらくて漆に似、とげがある。葉は羽状複葉で臭気があり。材はやはらかで用途がない。』とクるのである。これは、「ぬるで」以外は、明らかに、クロッソソマ目 Crossosomatalesミツバウツギ科ミツバウツギ属ゴンズイ(権萃) Staphylea japonica である。ところが、日本の国語としては、『おうち。せんだん。暖地に自生する高木。=楝(レン)』とあるのである。辞書類でも、この部分は概ね、「センダンの古名」とあるのである。これはもう、ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach var. subtripinnata である。ところが、東洋文庫訳では、この「樗」の後に編者の割注で、ドーンと、『(臭椿)』とあるのである。これは、さても、ムクロジ目ニガキ科ニワウルシ属ニワウルシ Ailanthus altissima である。しかし、これはチャンチン Toona sinensis が属するムクロジ目センダン科Toona属ではない、のである。従って、この良安の「誤り」とする根拠も、並行して無効なのである。

「家集」「あまのすむ磯の浦邊を見渡せば浪にぬるでの紅葉《もみぢ》しにけり」「仲正」「仲正」は源仲正(生没年不詳)平安末期の武士で歌人。清和源氏。三河守源頼綱と中納言君(小一条院敦明親王の娘)の子。六位の蔵人より下総、下野の国司を経て、兵庫頭に至った。父より歌才を受け継ぎ、「金葉和歌集」以下の勅撰集に十五首が入集している。「家集」は東洋文庫訳の巻末の書名注に、『家集(いえのしゅう)(仲正)』として、『『仲正家集』。平安後期の家人源仲正の歌集。仲正は頼綱の子で、兵庫頭従五位下。『金葉集』などに一五首入集。古風平明なものから絵画的なもの、俳諧的なものまで作風は広い。家集は散佚し、現在の『仲正家集』は江戸中期頃に編纂されたものという。』とある。一応、国立国会図書館デジタルコレクションの検索により、ここで同一首を印刷物で確認出来たので示しておく。]

2025/06/30

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 呉茱萸

 

Gosyuyu

 

ご しゆゆ

        和名加波波之加美

呉茱萸

 

ウヽ チユイ イユイ

 

本綱呉茱萸今𠙚𠙚有之江淮四川猶多木髙𠀋餘皮青

綠色枝柔肥葉長而皺似椿而闊厚紫色三月開紅紫花

七八月結實於梢頭纍纍成簇而無核嫩時微黃至熟則

深紫有粒大者小者二種小者入藥爲勝懸其子於屋辟

鬼魅

子【辛温有小毒】 浮而降陽中陰也【足太陰經血分及少陰經厥陰經氣分】其用

 有三去胸中逆氣滿塞【一】止心腹感寒㽲痛【二】消宿酒

 爲白豆蔲之使【三】也皆取其散寒温中燥溼解鬱之功

 而已陳久者良不宜多用恐損元氣

 九月九日折茱萸以揷頭或用絳囊盛茱萸以繫臂上

 登髙飮菊花酒則能辟惡氣【見風土記及統齋諧記】

△按吳茱萸本朝古有之今絕無


 おほたら  越椒 欓子 辣子 藙【音毅】

 食茱萸 榝【音殺】 艾子 和名於保太良

 

本綱食茱萸南北皆有之其木亦甚髙大有長及百尺者

枝莖青黃上有小白㸃葉類油麻其花黃色子叢簇枝上

綠色其味辛辣蜇口惨腹【蜇音浙螫也ヒリツク也慘音參酷毒也痛也】

實【辛苦有小毒】 功同呉茱萸力少劣爾【此與呉茱萸一類二種也】

 以椒欓薑爲三香入食物中用之而今貴人罕用之

△按食茱萸亦古者本朝有之今無乎

 

   *

 

ご しゆゆ

        和名、「加波波之加美《かははじかみ》」

呉茱萸

 

ウヽ チユイ イユイ

 

「本綱」に曰く、『呉茱萸は、今、𠙚𠙚《しよしよ》に、之れ、有り。江淮《かうわい》[やぶちゃん注:長江と淮水(黄河と長江の間を東西に流れる第三の大河。下流にある湖で二手に分かれ、放水路は黄海に注ぎ、本流は長江に繋がる。現代では「淮河」と呼称する)。]・四川に、猶を[やぶちゃん注:ママ。]、多し。木の髙さ、𠀋餘《じやうよ》。皮、青綠色。枝、柔にして、肥へ[やぶちゃん注:ママ。]、葉、長《ながく》して皺(ちぢ)み、椿(チヤンチン)[やぶちゃん注:双子葉植物綱ムクロジ目センダン科 Toona 属チャンチン Toona sinensis 本邦の椿(つばき=藪椿:ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica )とは全く縁がない。これは、本プレジェクトの「卷第八十三 喬木類 椿」で、最初の迂遠な考証で明らかにしてあるので、見られたい。]に似て、闊(ひろ)く、厚く、紫色。三月に、紅紫≪の≫花を開く。七、八月、實を梢の頭《かしら》に結ぶ。纍纍《るいるい》として、簇《むらがり》を成して、核《さね》、無し。嫩《わか》き時、微黃、熟するに至《いたり》ては、則《すなはち》、深紫なり。粒、大なる者、小《ちさ》き者、二種、有り。小き者、藥≪に≫入《いれて》、勝《すぐ》れりと爲《なす》。其《その》子《み》、屋《おく》に懸《かく》れば、鬼魅《きみ》を辟《さ》く。』≪と≫。

『子【辛、温。小毒、有り。】』『浮《うき》て、降《くだ》る。陽中の陰なり【足の「太陰經」の血分、及び、「少陰厥陰經」の氣分≪なり≫。】。其の用、三つ、有り。胸中の逆氣滿塞《ぎやくきまんそく》を去る【一つ。】。心腹の感寒・㽲痛《こうつう》[やぶちゃん注:急性の腹痛。]を止む【二つ。】。宿酒《ふつかよひ》を消し、「白豆蔲《びやくづく》」[やぶちゃん注:インド産のショウガ科の植物アモムム・スブラトゥム(単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科アモムム属 Amomum subulatum )の果実。別に本邦では「しろづく」(現代仮名遣「しろずく」)とも呼ぶ。]の使《し》と爲《す》る【三つ。】なり。皆、其《それ》、寒を散じ、中《ちゆう》を温め、溼《しつ》を燥《かは》かし、鬱を解《かい》するの功を取るのみ。陳久《ちんきう》なる者[やぶちゃん注:採取から時間が経った古い物。]、良し。≪但し、≫多く用《もちひる》≪は≫、宜しからず。恐らくは、元氣を損《そんず》≪ればなり≫。』≪と≫。

『九月九日、茱萸を折りて、以《もつて》、頭《かしら》に揷(さ)し、或《あるいは》、絳(もみ)[やぶちゃん注:色名。深紅色。]の囊(ふくろ)を用《もちひ》て、茱萸を盛り、以《もつて》、臂《ひぢ》の上に繫《つなぎ》て、髙《たかき》に登り、菊花酒《きくくわしゆ》を飮めば、則《すなはち》、能く、惡氣《あくき》を辟く【「風土記《ふうどき》」[やぶちゃん注:後で示すが、中国の晋代の書物であるから、「ふどき」とは読まないでおく。]及び「續齋諧記」に見ゆ。】。』≪と≫。

△按ずるに、吳茱萸、本朝、古《いにし》へは、之《これ》、有《あり》て、今は、絕《たえ》て、無し。


 おほだら  越椒 欓子《たうし》 辣子《らつし》

       藙【音「毅《キ》」。】 榝【音「殺」。】

       艾子《がいし》

       和名、「於保太良《おほだら》」。

 食茱萸

 

「本綱」に曰はく、『「食茱萸《しよくしゆゆ》」は、南北に、皆、之《これ》、有り。其《その》木≪も≫亦、甚だ、髙大にして、長さ、百尺に及《およぶ》者、有り。枝・莖、青黃[やぶちゃん注:確かに原本もそうなっているが、「青黃」では緑色になってしまうので、これは、「枝」が「青」で、「莖」が「黃」の意ではなかろうか? と思ったのだが、当該種カラスザンショウ(注で詳細に後掲する)の複数の画像(グーグル画像検索「カラスザンショウ 枝 葉」を見ると、茎は黄色のものも見えるものの、これは、太く木化したもので、多くの枝・葉は「緑」であるものが多い。葉は紅葉すると黄色だが、これは「青黃」で「綠」のことと採るのが無難なようである。「本草綱目」では、以下、「青黃(色)」という表現が頻繁に出るからでもある。]、上に、小≪さき≫白㸃、有り。葉、「油麻《ゆうま》」に類す[やぶちゃん注:胡麻(ゴマ)。双子葉植物綱シソ目ゴマ科ゴマ属ゴマ Sesamum indicum の葉(グーグル画像検索)とカラスザンショウのそれは、葉がちょっと広過ぎるが、似ているといえば、似ていると言えなくもない。しかし、私なら、「同類である」とは逆立ちしても言わないな。]。其《その》花、黃色。子、枝≪の≫上に叢-簇《むらがりな》す。綠色。其《その》味、辛-辣《から》く、口を蜇《さす》。腹を惨《いたむる》』≪と≫。【「蜇」は音「浙《セツ》」。「螫(さ)す」なり。「ひりつく」[やぶちゃん注:「ヒリヒリする」。]なり。「慘」は音「參《サン》」。「酷《むごき》毒《どく》」なり。「痛《いたし》」なり。】[やぶちゃん注:カタカナが用いられているから言うまでもないが、この割注は良安が附したものである。]

『實【辛苦。小毒、有り。】』『功、呉茱萸に同《おなじく》して、力《ちから》、少《すこし》、劣れるのみ【此れ、呉茱萸と一類二種なり。】』≪と≫。

『椒《せう》・欓《たう》・薑《きやう》を以《もつて》、「三香《さんかう》」と爲《なし》、食物の中に入《いれ》て、之《これ》≪を≫用ふ。而≪れども≫、今、貴人、之《これ》≪を≫用ること、罕《まれ》[やぶちゃん注:「稀・希」に同じ。]なり。』≪と≫。

△按ずるに、「食茱萸」も亦、古《ふるく》は、本朝、之《これ》、有《あれども》、今、無《なき》か。

 

[やぶちゃん注:「呉茱萸」は、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ゴシュユ属ホンゴシュユ Tetradium ruticarpum var. officinale

とする。これは、東洋文庫訳の本文で『呉茱萸(ミカン科ホンゴシュユ)』とすることウィキの「ゴシュ」を見たところ、『ゴシュユ』を

ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum

としつつ、『シノニムEuodia ruticarpa 』とした後に、『別名ニセゴシュユ』「偽茱庾」であろう)とすることから、「ニセ」でない「ホン」の方が正しいのではあるまいか? と、まず、踏んだことによる。

しかし、やはり、最も信頼のおける「跡見群芳譜」の「農産譜」の「ごしゅゆ(呉茱萸)」を見るに、『シュユ属 』『(呉茱萸 wúzhūyú 屬)には、東』『アジア』と『東南アジア・ヒマラヤに』九『種がある』とされ(ホソバハマセンダンが、二度、出ており、それでは、十種になってしまうので、シノニムとして整理した。完全引用していないのは、学名が斜体になっていないためである。なお、太字は私が附した)、

Tetradium austrosinense(シノニム:Euodia austrosinensis :『華南呉茱萸』:『兩廣・雲南産』

Tetradium calcicola(『石山呉茱萸』:『廣西・雲貴産』)

イヌゴシュユ Tetradium danielli(シノニム:Euodia danielliiTetradium baberi :『臭檀・異花呉茱萸』:『陝西・湖北・四川産』)

Tetradium fraxinifolium (『無腺呉萸・稜子呉萸』:『雲南・チベット・ヒマラヤ産』)

ホソバハマセンダン Tetradium glabrifolium(シノニム:Tetradium taiwanense:『楝葉呉茱萸・檫樹・臭辣樹・獺子樹・野呉芋・山辣子』:『河南・陝西・華東・臺灣・兩湖・兩廣・四川・貴州・雲南・東南アジア・ヒマラヤ産』)

ハマセンダンTetradium fraxinifolium var. glaucum(シノニム:Euodia glauca :日本の『本州三重以西・四国・九州・琉球・臺灣産』)

ゴシュユ Tetradium ruticarpum(シノニム:Euodia ruticarpaEuodia bodinieri Euodia var. bodinieri:『波氏呉茱萸』・『呉茱萸』

ホンゴシュユTetradium ruticarpum var. officinale(シノニム:Euodia officinalis :『石虎・呉芋』)

Tetradium trichotomum(シノニム:Euodia trichotoma :『牛枓呉萸・牛糺樹・茶辣・山呉萸』:『廣西・四川・貴州・雲南・ベトナム産』)

が掲げられてあった。ところが、同ページでは、別に、『漢名を茱萸』(『シュユ』:『zhūyú)と言うものには、次のものがある』とされて(リンクは同サイトの独立ページ。写真有り)、

サンシュユ(山茱萸) Cornus officinalis

ゴシュユ(呉茱萸)Tetradium ruticarpum(シノニム:Evodia rutaecarpa

カラスザンショウ(食茱萸・Zanthoxylum ailanthoides

とあり、『中国で歴史的に茱萸と呼び、その実を』九『月』九『日に食ってきたものは、食茱萸』であると、明確な説明があった。これによって、やはり、

◎ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum

が正しいようである。序でに、以上から、

附録の「食茱萸」は、現行では、当該ウィキによれば、

ミカン科サンショウ属カラスザンショウ変種カラスザンショウ Zanthoxylum ailanthoides var. ailanthoides

で決まりである。

ウィキの「ゴジュユ」によれば、『ゴシュユ(学名:Tetradium ruticarpum )とはミカン科の植物の一種。(シノニム Euodia ruticarpa )。別名ニセゴシュユ』。『中国中~南部に自生する落葉小高木。日本では帰化植物。雌雄異株であるが』、『日本には雄株がなく果実はなっても種ができない。地下茎で繁殖する』。八『月頃に黄白色の花を咲かせる』。『本種またはホンゴシュユ(学名 Tetradium ruticarpum var. officinale 、シノニム Euodia officinalis )の果実は、呉茱萸(ゴシュユ)という生薬である。独特の匂いと強い苦みと辛味を有し、強心作用、子宮収縮作用などがある。呉茱萸湯、温経湯などの漢方方剤に使われる』。『有効成分はインドールアルカロイドのエボジアミン(evodiamine)、ルテカルピン(rutaecarpine)』、『ヒゲナミン(higenamine)、シネフリンなど』とある。「維基百科」の「吳茱萸」には、『温暖な地域に植生する。中国では、主に揚子江以南の地域に分布する』とある。その「歴史」の項には、「神農本草經」・「名醫別錄」及び、唐代の陳藏器の説、宋代の蘇頌の説、明代の本「本草綱目」の李時珍の説が、短く紹介されてあり、全体も、以上の本邦のウィキよりも遥かに詳しい。

 序でに、「食茱萸」相当の、本邦の「カラスザンショウ」のウィキも引いておく(注記号はカットした)。『山地や海岸近くに生える』。『サンショウと違ってアルカロイドを含むので、イヌザンショウ』(先行する「第八十九 味果類 蔓椒」を見よ)『とともにイヌザンショウ属(Fagara)に入れる場合がある』。『アゲハチョウ科のチョウの食草になっている』。『中国名は「椿葉花椒」「食茱萸」。学名の「 ailanthoides 」は、「シンジュ( Ailanthus )』(ムクロジ目ニガキ科ニワウルシ属 Ailanthus 。ウルシ(ウルシ科)とは全くの別種で、ウルシのようにかぶれる心配はない)『のような(-oides)」の意味』。『日本では本州(下北半島の脇野沢以南)、四国、九州、沖縄、小笠原諸島に分布する。日本国外では、朝鮮半島南部、中国、台湾、フィリピンなどに分布する。沿岸地や山野に普通に生える。特に伐採跡などの裸地にいち早く伸び出して葉を広げる先駆植物である』。『落葉広葉樹の高木で、高さは』十五~二十五『メートル』『にもなる。上方で枝を大きく横に広げる樹形になる。樹皮は灰褐色で、短くて鋭いトゲがあり、老木では』疣『状になってトゲの痕が残る。若い枝は緑色や紅紫色で無毛で、枝にもトゲが多い。葉は』一『回奇数羽状複葉。葉の形状はニワウルシ/シンジュ(神樹)に似る。小葉は広披針形で、普通のサンショウに比べて』、『はるかに大きな葉をつける。葉の裏は白っぽい。サンショウ同様、葉には油点があり、特有の香りがある』。『花期は』七~八『月。雌雄異株。花は小さく、枝の先に多数』、『咲く。紅紫色の球形をした実をつけて黒い種が露出し、特有の香りを持つ。実は辛味があるが』、『サンショウほどではない。冬でも枯れた果実が枝先に残ることもある』。『冬芽は半球形で小さな鱗芽で、芽鱗は』三『枚ある。枝先に仮頂芽をつけ、側芽は枝に互生する。葉痕は大きく目立ち、維管束痕が』三『個つく』。『サンショウ属の他の種に比べ、葉がはるかに大きいため、類似種との区別ができる。また、他の大柄な羽状複葉をつける樹木とは、幹のトゲと葉のにおいで区別できる』。『本種を食草とするチョウにはカラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハ、モンキアゲハ、ナミアゲハ、オナガアゲハ、クロアゲハがある』。以下、「日本の利用」の項。『普通食用にはしないが、若芽・若葉は天ぷらにすることがある。清涼感のある独特の風味の蜂蜜がとれるので、蜜源植物ともされる。また、葉を駆風、果実を健胃薬とし、枝はサンショウ同様』、『すりこぎとしても使用されている。刺部の数が多いことからサンショウの物とは区別ができる』とあった。

 なお、以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「呉茱茰」(ガイド・ナンバー[079-14a]以下)の長い記載のパッチワークであり、附録の「食茱萸」は、その項に次ぐ独立項「食茱萸」(ガイド・ナンバー[079-20a]以下)のパッチワークである。

『足の「太陰經」の血分、及び、「少陰經厥陰經」』東洋文庫訳の後注に、両者の解説がある。但し、「本草綱目」の記載が不全なのか、一部で補足が行われている。しかし、訳文と後注に相違があっておかしな箇所がある。前者の『足の「太陰肺經」は、『巻八十九蜀椒の注一参照。』とある。私の「第八十九 味果類 蜀椒」の「手足の太隂」の注で、そこに『身体をめぐる十二経脈の一つ』とし、『足の太陰肺経は足の親指の末からおこり、脚の内面を上り腹部に入って肺に連なり腎につながる。さらに横隔膜を通って咽喉から舌に行く。支脈は胃部から分かれて心臓に達する。』とある。その次の「少陰經厥陰經」は「少陰經」を分離し、訳では、『足の』『小陰経』とありながら、『足の少陰腎経』となっており(訳と違う)、『足の小指の下から足の裏を通って内股へ上り、腎に入って膀胱(ぼうこう)に連なる。もう一つは腎から肝を通って肺に入り、咽喉・舌までのぼる。もう一つは肺から出て心に連なり胸へ入る。』とある。而して「厥陰經」については、訳を『足の』『厥陰経』とし、注では『足の厭陰肝経』とし(訳と違う)、『足の拇指(おやゆび)の先から内股をのぼって陰部へ入り、下腹部から肝・胆に連なる。さらに側胸部から咽喉のうしろを通って眼に出て頭頂へ上る。もう一つは肝から肺、そこから下って胃に至る。』となっている。

「逆氣滿塞」東洋医学では、気は体内で一定の方向に流れていると考えられており、通常、気は上半身から下半身へ、また、体表から内臓へと下降する流れが正常とされる。この「逆氣」は、気が逆流し、上半身に気が滞り、「のぼせ」・動悸・頭痛・「めまい」などの症状を引き起こし、下半身は冷えやすくなる傾向を示すそうである。「滿塞」は、「みぞおちのつかえ」や「胸脇苦満」(肋骨弓の下の季肋部から脇腹にかけて膨満感・圧迫感・苦痛を感じる状態を指す)といった症状を指す。

「九月九日、茱萸を折りて、以《もつて》、頭《かしら》に揷(さ)し、或《あるいは》、絳(もみ)[やぶちゃん注:色名。深紅色。]の囊(ふくろ)を用《もちひ》て、茱萸を盛り、以《もつて》、臂《ひぢ》の上に繫《つなぎ》て、髙《たかき》に登り、菊花酒《きくくわしゆ》を飮めば、則《すなはち》、能く、惡氣《あくき》を辟く」「重陽の節句」に行われる「登高」(とうこう)の行事である。漢文で杜甫の七言律詩「登高」で何度も教えたものだ。サイト「中国語スクリプト」のこちらを見られたい。当該ウィキより、そこにある「重陽の節句」のページ(同サイト内リンク)が遙かに詳しく、よい。

「風土記《ふうどき》」東洋文庫訳の巻末の書名注に、『晋の』武将『周拠』(しゅうしょ二三六年~二九七年)『撰。歳事記的史料を多く含む地誌。中国南部の記述が多い。原本は亡佚。』とある。

「續齋諧記」南朝梁の官僚・文人・歴史家であった呉均(六九年~五二〇年)によって書かれた志怪小説集。

「按ずるに、吳茱萸、本朝、古《いにし》へは、之《これ》、有《あり》て、今は、絕《たえ》て、無し。」「東邦大学 薬学部付属 薬用植物園」の「ゴシュユ」には、『中国原産の雌雄異株の落葉低木です。日本には江戸時代』、『享保年間』(一七一六年から一七三六年まで)『に小石川植物園に植えられ、これから株分けされて各地に広まりました。しかし渡来したのは雌株だけなので、種子のない果実しかできません』。『それより以前』、(九一八)『年に著された「本草和名」では、日本名はカラハジカミとしています。当時は乾燥果実を中国から生薬として導入していたものが、ハジカミと呼ばれていた山椒に似ていることから“唐の国の山椒”の意でカラハジカミとなったのでしょう。樹高は』三メートル、『葉は対生、楕円形の葉は先が急に尖がり、葉柄、歯の裏には柔毛があります。花期は初夏、円錐花序をだして白い小さな花をつけます。しかし日本には雄株が無いので』、『結実はしませんが、紫褐色の蒴果となります。種子はなくても果実は薬用となります』とある。この良安の謂いは、後者の渡来した漢方薬を勘違いしたものであろうか? 「植生していたのに、今は、ない」ったあ、どの口で言うかねぇ? 良安さんよ! 医師・本草家として、およそ、サイテーだぜ!

「欓《たう》」カラスザンショウを指す。

「薑《きやう》」単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ショウガ Zingiber officinale

『按ずるに、「食茱萸」も亦、古《ふるく》は、本朝、之《これ》、有《あれども》、今、無《なき》か』不審。カラスザンショウは本邦に分布するぜ? 良安さんよ?

2025/06/28

甲子夜話卷之八 27 御能のとき、觀世新九郞、𪾶りて老松を半ば打たる事

8―27 御能(おのう)のとき、觀世新九郞、𪾶(ねぶ)りて「老松(おいまつ)」を半ば打(うち)たる事

 

 小技曲藝(こわざきよくげい)も、上達に至(いたり)ては理外(りがい)なることもある也。

 壬午(みづのえうま/じんご)三月、御大禮(ごだいれい)二日目、御能のとき、小鼓打(こつづみうち)の觀世新九郞【豐綿(とよつら)。】、「翁」の頭取(とうどり)をうちたり。脇鼓(わきつづみ)は其弟總三郞なり。

 御能、畢(をは)り、歸宅して、總三郞[やぶちゃん注:「そうさぶらう」か。]始(はじめ)、弟子などを呼集(よびあつ)め、新九郞、云(いふ)よう[やぶちゃん注:ママ。]、

「我、是(これ)まで頭取をうちたること數十度(すじゆうたび)、然(しか)るに、今日の如く出來宜(よろ)しと覺へしこと、なし。因(より)て、心、甚(はなはだ)悅(よろこ)ばしければ、汝等を饗(きやう)せん。」

とて、酒・吸ものなど、出(いだ)して相共(あひとも)に歡飮(くわんいん)せり。

 酒、酣(たけなは)なるとき、新九郞、曰(いはく)、

「脇能『老松』のとき、この喜(よろこび)ゆゑか、思はず、『𪾶りたり。』と覺へて、しばし、恍惚たり。驚(おどろき)、寤(さむ)れば、其舞(そのまひ)の三段目の所にてありける。仕手(シテ)拍子を蹈(ふむ)に心づきて、三段の頭打(かしらうち)にて取續(とりつづ)きたり。」

と語れり、と。

 然(さ)れば、其前(そのまへ)は夢中にてうちゐたるが、練熟(れんじゆく)の極(きはみ)にて擊節(げきふし)の違(たが)はざるも、上手(じやうず)故(ゆゑ)なるべし。

 

■やぶちゃんの呟き

「壬午三月、御大禮」当初、私は、辞書的な狭義の意味での「御大禮」と採って、『この干支は月の前にあるので、年号のそれでしか採れないのだが、静山が誕生から逝去する間に、「壬午」の年に天皇の即位は見当たらない。静山の生まれる前も調べたが、ない。不審。静山の誤りかと思われる。』と注していたのだが、私は能楽には詳しくないので、本篇全体について、私の最大の秘蔵っ子――というより私が柏陽高校で最初に三年間ずっと担任をした若き親友――にして能楽に詳しい彼に、書いた記事を見て貰ったのだが、何よりまず(太字は私が附した)、『静山が甲子夜話を書き始めた直後の』(彼は文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜に執筆を開始した)文政五(一八二二)『年が壬午にあたります。時に将軍は家斉。後』の天保八)一八三七)『年に将軍の地位に着くことになる家慶が』、この文政五『年壬午の年のまさに』三『月』五日に『正二位、内大臣に昇叙されているようです』ウィキの「徳川家慶」によれば(太字は私が附した)、『将軍継嗣の段階で内大臣に任官したのは徳川秀忠以来の出来事であ』り、『世子であった家慶』『の官位も異例の高位のものとなった』とある)。『この祝いの席上での演能であるかと推測します』とメールで伝えて呉れた。而して、小学館「日本国語大辞典」を見ると(太字・下線は私が附した)、「大礼」には『国家・朝廷の重大な儀式。即位・立后などの類』とあり、さらに、見たところ、後に『大礼能』(ここでは「たいれいのう」の清音の見出しである)があり、そこに、『江戸時代、将軍家に大礼があった時、あったときに催された能。町入能(まちいりのう)。』とあるのを見つけた(濁音と清音の違いは、しばしば、正規の儀式と、それに附属する儀式を差別化する際に、古くからあった風習である)。されば、彼の示してくれたものが、この「御大禮」であることは、間違いない。因みに、事実、「御大禮」という語が使用された、まさに家斉のケースに就いて、サイト「慶應義塾大学文学部古文書室」内の「展示会」の「御引移御用掛御役人付 天保八年版」があり、その「知る」に、『江戸幕府11代将軍徳川家斉(1773-1841)から12代家慶(1793-1853)への代替わりにあたって行われた様々な儀式に関し、御用掛となった大名・幕臣、朝廷からの使者に任じられた公家等を一覧にしたものである。徳川家斉が天保842日に隠居すると、家慶が徳川将軍家を相続して大納言から左大臣に昇進、同年9月の将軍宣下で正式に征夷大将軍となった。将軍の世継ぎ(世子)として江戸城西丸に居住していた家慶は、大御所となった家斉と入れ替わる形で本丸へ移ることとなった。表題にある「御引移御大礼」』(☜)『はその儀式を指している。家斉は大御所となったのちも実権を握り、その側近が政治を左右したことから、「西丸御政事」とも呼ばれた。政治の実権も家斉の移動とともに、西丸へ移ったのである。本資料冒頭に名前がみえる「水野越前守」は、家斉の死後、「天保の改革」の名で知られる幕政改革に着手する老中水野忠邦(1794-1851)である』とあり、「見る」の「展示画像一覧」のここの左上二番目の扉に「御大禮御用掛御役人附」(☜)(「掛」は異体字表記)とあるのを見出した。因みに、長いので引用はしないが、ネットで調べた中では、サイト「能楽を旅す。」の「コラム」の「能が江戸幕府の儀式に欠かせない式楽となるまで」も大いに参考になるので、是非、読まれたい。

「觀世新九郞【豐綿(とよつら)。】」調べてみると、小鼓観世家十世で享和三(一八〇三)年時点で、当時の家元であった。この年で、静山は数え四十四歳である。

「頭取」能で、「翁」(おきな)・「三番叟」(さんばそう)を上演する際、小鼓方三人のうち、中央に座る主奏者。

「脇能」「デジタル大辞泉」によれば、本来、「翁」の次に演じられ、『「翁」の脇』の意から、かく言う能の分類の一つを指す。正式の五番立ての演能で、最初に上演される曲であり、神などをシテとする。神能(かみのう)・脇能物・初番目物。

「擊節」原義は「節」は「叩いて拍子をとる竹の楽器」の意。ここは、鼓を叩いて拍子をとることを指す。

 なお、教え子は、本篇の内容について、『それにしても佳い話です。江戸時代の人々が小鼓のリズムに感じることのできた恍惚を、もう現代の我々は感じることはできないでしょう』と添えつつ、さらに、追加のメールでは、『この話、真実であると確信します。私の経験から言うのですが、そもそも能は夢見心地に浸る時に最も強烈な陶酔を引き起こします。理性や意識が働いているうちは』、『まだダメです。私が今まで最も深く酔った瞬間は、うたた寝から』、『ふと』、『目覚めた瞬間、眼前に静かにたゆたう《羽衣》の序の舞でした』と添えて呉れた。

 これで、この注は完璧なものとなった。彼に心から御礼申し上げるものである。

2025/06/26

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 畨椒

 

Tougarasi

 

たうがらし   畨者南畨之

        義也

畨椒

        俗云南蠻胡椒

        今云唐芥子

 

 

草本花詩譜云畨椒叢生白花子儼如禿筆頭味辛色紅

甚可觀子種

△按畨椒出於南蠻慶長年中此與煙草同時將來也中

 𬜻亦太明之末始有之故本草綱目未載之今立于椒

 薑之右二月下種葉如柳而小亦似胡椒木葉而柔叢

 生枝脆𠙚𠙚多栽之或栽盆中玩賞之五月開小白花

 結子有數品如筆頭如椎子如櫻桃如椑柹或攅生或

 向上皆生青熟赤【或有黃赤色者】中子如茄子仁甚辣麻唇舌

 或噎得火則愈烈生熟用少投羹中或和未醬食之有

 微香能進食【性大温多食之動火發瘡墮胎】能治行人胼胝【畨椒燒末拌飯糊傅】

又能治小鳥之病養樊中者或脹或糞閉不餌啄者急用

 畨椒剉浸水令吞其水則活【屢試之有効】畨椒近來之物誰

 人始用之耶殊不理所推

食畨椒噎者急吃沙糖則解之或吃濃未醬汁亦佳

 

   *

 

たうがらし   「畨」とは「南畨」の

        義なり。

畨椒

       【俗に云ふ、「南蠻胡椒」。

        今、云ふ、「唐芥子」。】

 

 

「草本花詩譜」に云はく、『畨椒、叢生して白き花。子《み》、儼《おごそか》に「禿筆《とくひつ》」の頭《かしら》[やぶちゃん注:毛筆の擦り切れた筆先。]のごとし。味、辛《からし》。色、紅《くれなゐ》。甚だ、觀るべし。子《さね》を種(う)へる。』≪と≫。

△按ずるに、畨椒は、南蠻に出づ。慶長年中[やぶちゃん注:一五九六年から一六一五年まで。]、此れと煙草(たばこ)と、同時≪に≫將來≪せる≫なり。中𬜻にも亦、太明《たいみん》[やぶちゃん注:明代。]の末《すゑ》、始《はじめ》て、之れ、有る。故《ゆゑ》、「本草綱目」、未だ、之《これ》≪を≫載せず。今、「椒《せう》」・「薑《きやう》」の右に立≪てたり≫。二月、種を下《くだ》す[やぶちゃん注:植える。]。葉、柳のごとくにして、小《ちさ》く、亦、胡椒の木《き》の葉に似て、柔かな《✕→かにして》、叢生《さうせい》して、枝、脆(もろ)し。𠙚𠙚《しよしよ》に、多く、之れを栽《う》ふ。或《あるい》は、盆中に栽《うゑ》て、之れを玩賞す。五月、小≪き≫白花を開き、子を結ぶ。數品《すひん》、有り、筆の頭のごとく、椎子《しゐ[やぶちゃん注:ママ。]》のごとく、櫻-桃(ゆすら)のごとく、椑柹(さるがき)のごとく、或は、攅生(すゞなり)、或は、上に向《むき》して、皆、生《わかき》は、青、熟せば、赤し【或いは、黃赤色の者、有り。】。中≪の≫子《さね》、茄子《なす》の仁《にん》のごとく、甚だ、辣《から》し。唇・舌を麻(しびら)かし、或は、噎(む)せる。火《ひ》を得れば、則《すなはち》、愈《いよ》いよ[やぶちゃん注:最初の「いよ」はないが、送り仮名で繰り返しの「〱」があるので、かく、した。]烈(はげ)し。生・熟≪ともに≫用《もちひ》て、少し、羹《あつもの》≪の≫中に投じ、或は、未-醬(みそ)に和(ま)ぜて、之≪れを≫食へば、微香《びかう》、有り、能く食を進む【性、大温。多く之れを食へば、火《くわ》を動かし、瘡《かさ》を發し、胎《はららご》を墮《おろす》。】。能《よく》、行人《かうじん》の胼-胝(まめ)を治す【畨椒、燒きて、末《まつ》にして、飯糊《めしのり》に拌《まぜ》、傅《つ》く。】。

又、能く、小鳥の病を治す。樊《かご》[やぶちゃん注:鳥籠。]の中に養《か》ふ者、或は、脹《ふく》れ、或《あるいは》、糞、閉《へいし》、餌を啄《ついば》まざる者、急《すみやか》に畨椒を用《もちひ》、剉《きざみ》、水に浸《ひた》して、其《その》水を吞ましめば、則《すなはち》、活す【屢(《しば》しば[やぶちゃん注:同前で、最初の「しば」はないが、送り仮名で繰り返しの「〱」があるので、かく、した。])、之れを試みるに、効、有り。】。畨椒は、近來の物、誰人《たれびと》が、始《はじめ》て、之れを用《もちひる》にや。殊《こと》に理《ことわりの》推す所にあらず。

畨椒を食《くひ》て噎《むせ》る者、急《すみやか》に沙糖を吃《きつ》すれば、則《すなはち》、之《これ》、解す。或は、濃(こ)き未醬汁《みそしる》を吃して、亦、佳し。

 

[やぶちゃん注:椒」(=「蕃(蠻)椒」)は日中ともに、

双子葉植物綱キク亜綱ナス目ナス科トウガラシ属トウガラシ(唐辛子・蕃椒) Capsicum annuum

である。「維基百科」の同種「一年生辣椒」を見よ。本邦の当該ウィキを引く(注記号はカットした。非常に記載が長いので、本記載に拘わらない可能性が高い世界的な種については、断らずに省略、或いは、項目リンクのみとした箇所が複数ある。太字・下線は私が附した)。『ナス科トウガラシ属の多年草または低木(日本など温帯では一年草)。また、その果実のこと。メキシコ原産(南米アンデス地方という説もある)。果実は、辛味のある香辛料(唐辛子)または野菜として食用にされる』。『広義にはトウガラシ属をトウガラシと総称することがあるが、ここでは主に C. annuum 』一『種について述べる』。『和名トウガラシは唐(中国)から伝わった辛子(辛いたね)の意味である。ただし、「唐」は漠然と「外国」を指す言葉で』、唐朝を指すのでも、『中国経由ということで』も『ない。別名では、ナンバン、コウライコショウ、ナンバンコショウともよばれる。異名の「ナンバン」(南蛮)は』、十六『世紀ごろに南蛮船によりポルトガル人が日本へ伝えたといわれるところから名付けられたものである』。『植物種としてのトウガラシ(学名: Capsicum annuum )には辛みのある辛味種と辛みがない甘味種があり、一般に「トウガラシ」とよばれるものは辛味種のほうを指している。具体的には、果肉が薄く』、『甘味があるベル形の中果種を「ピーマン」、甘味がある果肉が厚い大果種を「パプリカ」とよび、辛味のない小果種を「シシトウガラシ」(シシトウ)、辛味があり香辛料として使われる小果種を「トウガラシ」とよんで区別している』。『英名はchili pepper(チリ・ペッパー)、仏名はpiment commum(ピモン・コムム)、伊名ではpeperoncino(ペペロンチーノ)、中国語では辣椒(らっしょう、Làjiāo ラーチァオ)と言う』。『学名では、属名 Capsicum はギリシア語で「箱」や「袋」を意味する caspa が語源で、袋状の果実の形状に由来する。異説には「噛む」を意味する kapto が語源との説もある。また種小名の annuum は、「一年生の」植物の意味である』。『温帯では一年草で、熱帯では多年草でやや低木(灌木)状になる。世界の温帯から熱帯の広い地域で栽培されている。植物学上は、トウガラシはピーマン』(トウガラシ属トウガラシ栽培品種ピーマン Capsicum annuum var. 'grossum')・『パプリカ』(トウガラシの栽培品種の一つ、又は、その品種を原料とする香辛料の名称。本邦では肉厚で辛みがなく甘い Capsicum annuum 'grossum' の品種を指す語である)・『シシトウガラシ』(植物学的にはピーマンと同種で中南米原産)『と同種の植物に分類され、ピーマン・パプリカ・シシトウ』ガラシ『ともトウガラシの栽培品種である』。『草丈はふつう』七十~八十『センチメートル』『ほどの草本だが、基部は木質化する。茎は多数に枝分かれし、全体に無毛である。葉は互生。柄が長く卵状披針形、葉の先は尖り』、『全縁』である。『花期は』七~十一『月ごろで、白い花を付ける。花弁には斑点が見られない。花の後に上向きに緑色で内部に空洞のある細長い』五センチメートル『ほどの実がなる。果実は熟すると、一般に赤くなる。品種によっては丸みを帯びたものや短いもの、色づくと黄色や紫色になるものもある。種子の色は、淡黄白色から黄色になる』。『実の皮も種子も辛みがある。辛味成分カプサイシン』(capsaicin)『は種子の付く胎座』(英語:placenta:植物の子房中の胚珠の接する部分のこと)『に最も多く含まれており、トウガラシは胎座でカプサイシンを作り出している。トウガラシの種子にはカプサイシンがほとんど含まれていないため、種子だけを食べると辛味を全く感じない。カプサイシンは果皮にも含まれるが、胎座ほど多くない』。『シシトウガラシなどの甘い品種は辛い品種と交配が可能である。甘い品種の雌蕊に辛い品種の花粉を交配してできた実は(胎座は甘い品種なので)甘いが、この種子から育った実の胎座は辛くなることがある。従って、辛い品種と甘い品種を植えるときはなるべく距離を置くように注意することが必要である』。『中南米の熱帯アメリカ地域が原産とされる。栽培の起源地はメキシコだと考えられていて、メキシコ中部で紀元前』六五〇〇年~五〇〇〇『年頃の栽培型が出土している。アメリカ大陸の各地では、約』二千『年以上前から栽培が行われていた。南米ペルーでは』一『世紀頃の遺跡からトウガラシ模様が入った織物が発見されている。インカ人はトウガラシをアヤ・ウチュ(「辛辣な者」の意)神として崇拝していた』。『ヨーロッパへは、アメリカ大陸に到達したクリストファー・コロンブスが』一四九三『年にスペインへ持ち帰ったことにより、ヨーロッパ全域に広がった。以後、シルクロードを経て、インドや中国に伝わる』。十六『世紀に伝わったインドではヒハツ』(コショウ属 ヒハツ (畢撥)Piper longum 『やコショウに取って代わり、インド料理の味を大きく変えるほど急速に普及した。トウガラシは』十五『世紀に中南米からヨーロッパに紹介されてから』、二百五十『年足らずで』、『ほとんど世界中に広まった。トウガラシは』十九『世紀になるまでアルプスの北側では』、『あまり食べられてこなかった(この地域では辛味を加える食材としては、寒冷な気候でも栽培しやすいマスタード』(mustard;フウチョウソウ(風蝶草)目アブラナ目アブラナ科アブラナ属セイヨウカラシナ変種カラシナ Brassica juncea var. cernua や、アブラナ科シロガラシ属シロガラシ Sinapis alba の種子やその粉末に、水や酢、糖類や小麦粉などを加えて練り上げた調味料)『やホースラディッシュ』(アブラナ科セイヨウワサビ属セイヨウワサビ  Armoracia rusticana)『の』方『が今でも好まれている)』。『日本への伝来は、安土桃山時代以降の16世紀から』十七『世紀頃に複数のルートで同時期に伝わったとされ』、天正二〇(一五九二)『年の豊臣秀吉による朝鮮出兵のときに種子が導入されたという説や』、戦国時代の天文一一(一五四二)『年にポルトガル人によってタバコとともにトウガラシが伝来したという説がある。江戸時代中期から広く栽培されるようになった。江戸時代までは辛味がある品種しかなく、明治時代になって欧米から辛味のない品種(シシトウガラシ)が導入されて、当初は「甘トウガラシ」と呼んでいた』。

以下、「品種」の項が続き、「日本特産種」の項もあるが、それらさえもネットで調べると、中国と江戸中期の本文には、必要性が疑われるように思われたので、リンクのみにする。

以下、「栽培」の項。『露地栽培では、ふつう春に種をまき、夏から秋にかけて果実を収穫する。高温性があり、栽培適温は』摂氏二十五~三十『度、夜間は』十五『度以上、地温は』二十五『度前後とされる。生育後期は低温に対して強さがあり、晩秋ごろまで生育する。過湿には弱く、根はピーマンよりも繊細であることから、排水性がよい土壌での栽培に適している。一般には、完熟した果実を収穫して、雨の当たらない風通しのよいところに吊して乾燥させてから利用する。未熟果は青トウガラシとして爽やかな辛みを楽しむことができる』。『苗作りは育苗箱に』一センチメートル『間隔で種をまき、日中』二十~三十『度、夜間は』十五『度以上に保温養生して発芽させ、本葉が』一『枚出たころに育苗ポットに移植して、本葉』八~九『枚ぐらいになるまで育苗する。畑は元肥に堆肥などを十分にすき込んで畝をつくり、地温を上げるために黒色ポリフィルムなどでマルチングをして、初期育成の促進に役立てる。苗の植え付けは、畝のマルチに穴を開けて』四十五センチメートル『前後の間隔で行い、早めに支柱を立てて倒伏防止をはかる。定植後の半月後に最初の追肥を行い、以後は』十五~二十『日ごとに畝の周囲の土に肥料を混ぜ込んで土寄せを行う。植え付けから』四十五『日後くらいに収穫期が始まり、葉トウガラシにするときは果実が』四~五センチメートル程度『になったころに株ごと引き抜いて、葉もむしり取って利用する。成熟果は、開花後』五十~六十『日後がたつと』、『実が赤く熟する。株ごと引き抜いて収穫し、軒下などに吊して乾果にしたら』、『随時』、『利用できる』。

以下、「用途」の項。『食用にするのは主に果実で、世界中で香辛料として使われていて、日本人にも深くなじみがある。辛味があり』、『香辛料として使用される辛味種と、辛味がないかほとんどない代わりに』、『糖度が高く、主に野菜として食される甘唐辛子(甘味種)がある。熟して赤い辛味唐辛子のこと赤唐辛子といって、別名「鷹の爪」と呼ばれる、乾燥されたものを使うのが一般的である。また、未熟果で緑色をしている辛味唐辛子は青唐辛子といって、タイなどのアジア諸国でよく使われる。甘味種は、品種や栽培環境によって果実に辛味が出る場合がある。辛味種は、赤唐辛子は刺激的な辛味を持ち、特に種子に強い辛味があり、青唐辛子のなかにはシシトウガラシのような味わいを持つものもある』。品種「伏見辛」(ふしみから)『の葉のように、葉の部分を食用にできる品種もあり、特有の芳香と苦味、ピリッとした辛さが好まれ、佃煮やしそ巻きになどに使われる』。『食材としての旬は夏』七~九月『で、赤唐辛子は鮮やかな赤色で、皮につやと張りがあるもの』が、『青唐辛子は、形が揃って緑色が濃いものが良品とされる』。『辛味種は、赤唐辛子でも青唐辛子でも様々な調味料が作られていて、料理に刺激的なメリハリをつける香辛料として、炒め物、パスタ料理、漬物など、幅広く使用される。また』、『甘味種は、煮物、揚げ物などにして、そのものの味を楽しむ料理に使われる。唐辛子を揚げ物に使うときは、実の中の空気が膨張して破裂してしまうので、実は切って使うか、あらかじめ穴をあけておく。葉を使うときは灰汁(アク)が少ないため、下茹でする必要はない』。また、『花をつけた頃から実が未熟な頃にかけて茎ごと収穫し、葉物野菜の葉唐辛子として利用される』。

以下、小項目「薬用」の項。『果実は香辛料として有名だが、食欲増進、消化促進、健胃、唾液分泌促進作用、皮膚刺激作用があり、薬用として使われることがある。秋に果実が赤熟したものを採集して、陰干ししたものを蕃椒(ばんしょう)か辣椒(らっしょう)、または唐辛子と称している。一般用漢方製剤には配合されていないが、主に辛味性健胃薬や筋肉痛、しもやけなどの局所刺激薬として用いられている。日本薬局方では、アルコールなどを加えてチンキにした、トウガラシチンキの製薬原料としている。腰痛、筋肉痛、肩こり、リュウマチ、関節痛、神経痛にトウガラシチンキを塗る。エキスにして温湿布剤に配合したり、筋肉痛、凍傷、養毛に使われたりする』。『民間療法では、食欲がないときや消化がよくないとき、胃腸が冷えているときの腹痛・下痢などに、細かく刻んだ唐辛子を薬味(香辛料)として用いる。足のしもやけ予防に、靴の中のつま先部分に、ガーゼなどに唐辛子』一~二『個を包んで入れておく。神経痛、しもやけの外用薬でトウガラシチンキを作るときは、唐辛子を刻み、約』三『倍量の』アルコール三十五『度のホワイトリカーに約』、一ヶ『月漬けて、患部に塗る。ただし、トウガラシチンキは温める効果が強いため、患部が冷えていることを確認してから塗るなど』、『用法には注意を要する』。

以下、「虫・抗菌効果」の項。『トウガラシには防虫効果がある事が古くから知られており、書物の保存、ひな人形、五月人形などの物品保存などにも使用されてきた。箪笥などの衣装箱に入れておけば、防虫剤になる。また』、『米の保存など食品保存に用いられていた事もある。かつては、倉庫などで唐辛子の粉を火にくべて、ネズミ駆除にも用いられていた。トウガラシを焼酎に漬け込んで害虫忌避効果がある自然農薬を作る菜園家もいる。トウガラシをアブラナ科、ネギ科、キク科の野菜畑のあちこちに植えておいて、害虫よけにする利用法もある』。『アルコール抽出した成分には』、『種の細菌の増殖を抑制する抗菌効果が有るとする報告があるが、乾燥加工した物品では保存中や流通加工工程中で増殖するカビによって、カビ毒に汚染される可能性が指摘されている』。

以下、「栄養素と辛味成分」の項。『トウガラシの果実は全体の約』七十五『%が水分で構成されており、栄養素は比率の多い順で可食部』百グラム『あたり』、『炭水化物』十六・三グラム『が最も多く、たんぱく質』三・九グラム、『脂質』三・四グラム、『灰分』一

・四グラム『と続く。果皮には辛味成分のカプサイシンやデヒドロカプサイシン、赤色素のカプサンチン、黄色素のβ-カロテンのほか、ルチン、ビタミンB1B2Cなどを含んでいる。そのほかには、アデニン、ベタイン、コリン、ジヒドロカプサイシン、ホモカプサイシン、クリプトキサンチン、ルテイン、クリプトカプシンなどが含まれる』。『カプサイシンは非揮発性で、皮膚や粘膜につくと炎症などを起こす、作用の激しい成分である。ただし、注目に値する様々な機能性をもっていることがわかっており、血管を広げて血行をよくして身体を温める作用や、唾液分泌量を増やして食欲を増進させて消化吸収を助ける作用があり、さらに中枢神経を刺激して副腎ホルモンのひとつアドレナリンの分泌量を増やして代謝を活発にする働きもあるとされる。調理にトウガラシを使うと、ヒトが味の塩気の物足りなさを感じにくくなり、食塩の使用量を減らせる効果を得られることについては、カプサイシンそのものが食塩要求量を減らすという研究報告もある。このカプサイシンの割合を示す値はスコヴィル値』(Scoville scale)『と呼ばれ、カプサイシンの含有量と割合の高低を測定する上でその単位は無くてはならないものとなっている』。『トウガラシにはβ-カロテンが豊富で、生にはビタミンCも豊富に含まれている。他の野菜に比べてビタミン・ミネラル類を含む割合は圧倒的に多いが、使われ方から』、『実際に口に含む量はごく少量であるから、栄養源としては期待できない』。『トウガラシの一種、シシトウガラシの栄養成分はピーマンとほぼ同じで、カロテンやビタミンCが豊富に含まれる。トウガラシの葉や葉柄の部分を食用する葉唐辛子は、緑黄色野菜であり、カロテンやビタミンCを多量に含む』。現在の『日本の主産地は、栃木県、徳島県、千葉県、岐阜県などで、シシトウガラシの場合では、高知県、千葉県、和歌山県、岐阜県などがある。海外から日本へは、主に中国、タイなどの産地から輸入されている』。以下、「近縁種」の項だが、省略する。

 なお、以上の引用の「草本花詩譜」は、東洋文庫の書籍注に、『本文に汪躍鯉の撰とあるも不明。『画譜』の中の『草木花譜』の一巻のことであろうか。『八種画譜』の中では『新鐫』(しんせん)『草本花詩譜』となっている。』とある。ここで言っている「画譜」は「八種畫譜」で、明の黄鳳池の編。「唐詩五言畫譜」・「新鐫六言唐詩畫譜」・「唐詩七言畫譜」・「梅竹蘭菊四譜」・「新鐫木本花鳥譜」・「新鐫草本花詩譜」・「唐六如畫譜」・「選刻扇譜」から成るものを指す。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここで、黄鳳池編「新鐫草本花詩譜」が視認でき、当該部は、図が、ここの左丁で、解説が、ここの右丁である。字を起してみると、

   *

 

叢生白花子儼如禿

筆頭味辛色紅

可觀子種

   *

とあり、そのままに引用していることが判る。

「櫻-桃(ゆすら)」良安が偏愛する双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa 当該ウィキを参照されたい。

「椑柹(さるがき)」双子葉類植物綱ツツジ目カキノキ科カキノキ属カキノキ変種ヤマガキ Diospyros var. sylverstris

であると、私は「卷第八十七 山果類 椑柹」で、かなり苦労して考証した。そちらを見られたい。

2025/06/25

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 畢澄茄

 

Hittyouka

[やぶちゃん注:本種は蔓性植物であるため、支えの支柱二本が描かれてある。] 

 

ひてうきや 毗陵茄子

      【皆番語也】

畢澄茄

 

[やぶちゃん注:「てう」はママ。歴史的仮名遣は「ちよう」でよい。]

 

本綱畢澄茄海南諸畨皆有之蔓生春開白花夏結黒實

與胡椒一類二種【大腹子與㯽榔相近耳】

實【辛温】下氣消食暖脾胃止嘔吐噦逆治痘瘡入目羞明

 生瞖者【畢澄茄末吹少許入鼻中三五次効】


やまこせう

山胡椒

本綱山胡椒似胡椒而色黒顆粒大如黒豆味辛大熱破

滯氣主心腹冷痛

 

   *

 

ひてうきや 毗陵茄子《ひりやうかし》

      【皆、番語《ばんご》なり。】

畢澄茄

[やぶちゃん注:「畨語」は「蠻語」に同じ。]

 

「本綱」に曰はく、『畢澄茄《ひつちやうか》は海南の諸畨、皆、之れ、有り。蔓生して、春、白≪き≫花を開き、夏、黒≪き≫實を結ぶ。胡椒と一類二種なり【「大腹子《だいふくし》」と「㯽榔《びんらう》」と相ひ近きのみ。】。』≪と≫。

『實【辛、温。】』『氣を下し、食を消《しやう》≪し≫、脾胃を暖め、嘔吐・噦逆《えつぎやく/しやくり》を止め、痘瘡≪の≫目に入《いり》て、明を羞(は)ぢ、瞖(かゝりもの)を生ずる者を治す【畢澄茄の末《まつ》を、少しばかり、鼻の中へ吹き入れ、三、五次《じ》[やぶちゃん注:三回から五回ほどその処理をすると。]、効《かう》あり。】。』≪と≫。


やまこせう

山胡椒

「本綱」に曰はく、『山胡椒《さんこせう》は、胡椒に似て、色、黒く、顆-粒(つぶ)の大いさ、黒豆のごとく、味、辛《しん》≪にして≫、大熱。滯氣《たいき》を破り、心腹≪の≫冷痛を主《つかさ》どる。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:この「畢澄茄」は、

双子葉植物綱モクレン亜綱コショウ目コショウ科コショウ属ヒッチョウカ Piper cubeba

である。私は全く知らない種であった。さればこそ、当該ウィキを念入りに引く(注記号はカットした)。『ヒッチョウカ(畢澄茄』『)またはクベバは、コショウ属植物の』一『種である。またその乾燥果実の生薬名。その果実と精油のために栽培される。主にジャワ島とスマトラ島で育てられ、そのためにジャワ長胡椒と呼ばれることがある。果実は成熟前に摘み取られ、注意深く乾燥される。商品のヒッチョウカは乾燥したベリーから成る。見た目はコショウと似ているが、柄が付いており、英名の "tailed pepper" の由来となっている。乾燥した果皮は』皺『が寄り、その色は灰色がかった茶色から黒まで多岐にわたる。種子は硬く、白色で油分が多い。ヒッチョウカの香りは心地よく、香りが良いとされ、味は刺激的な辛さで、鼻を突き、わずかに苦く、持続性がある。オールスパイスあるいはオールスパイスとコショウを足して』二『で割ったような味とされている』。『ヒチョウカはアラブとの交易により』、『インドを介してヨーロッパへ伝わった。「Cubeb」という名称はアラビア語のkabāba』『由来であり、古フランス語のquibibesを経由している。ヒッチョウカはそのアラビア語名で錬金術の書籍で言及されている。ジョン・パーキンソン』(John Parkinson:一五六七年~一六五〇年:イギリスの偉大な薬剤師であり、植物学者・博物学者・造園家。詳しくは当該ウィキを見られたい)『は著書』「植物の世界」(‘ Theatrum Botanicum ’)『において』、一六四〇『年頃にポルトガル王がクロコショウ( Piper nigrum )を奨励するためにヒッチョウカの販売を禁止した、と述べている。医学的使用のために』十九『世紀のヨーロッパで』、『しばらく復活したが、以後のヨーロッパの市場からは実質的に消えている。西洋ではジンおよび紙巻きたばこのための香料として、インドネシアでは食品の香辛料として使われ続けている』。『紀元前』四『世紀、テオプラストス』(ラテン文字転写:Theόphrastos:紀元前三七一年~紀元前二八七年:古代ギリシアのレスボス島生まれの哲学者・博物学者・植物学者。当該ウィキによれば、『植物研究における先駆的な功績から「植物学の祖」と呼ばれる。アリストテレスの同僚』にして『友人で、逍遙学派の主要人物の一人であった。アリストテレスの次に、リュケイオンの学頭を務めた』とある)『はkomakonに言及し、シナモンとカシアと共に芳香菓子の原料に含めた。ギヨーム・ビュデとクラディウス・サルマシウス(英語版)はkomakoncubebと同一視した。これはおそらくcubebのジャワ語名kumukusとの類似性からである。これは、テオプラストスの時代よりも前の時代のジャワとギリシャの貿易の奇妙な証拠として見られている。ジャワ人の栽培者らは、実を熱湯処理して殺菌することで』、『この』蔓『植物を他の場所では栽培できないようにして、交易の独占を守っていたため、ギリシア人が他の場所から入手したとは考えにくい』。中国の『唐』の『時代に、ヒッチョウカはシュリーヴィジャヤ王国』(インドネシア・マレー半島・フィリピンに大きな影響を与えたスマトラ島のマレー系海上交易国家。漢音写では「室利佛逝」とする。また、アラブの資料では「ザバック」「サバイ」「スブリサ」の名でみられる。王国の起源ははっきりしないが、七世紀にはマラッカ海峡を支配して東西貿易で重要な位置を占めるようになった。位置は、参照した当該ウィキを見られたい)『から中国へもたらされた。インドでは、kabab chini、すなわち「中国のcubeb」と呼ばれるようになった。これはおそらく中国人がその交易に一枚かんでいたためであるが、中国との交易において重要な物品であったためである可能性がよりありえそうである。中国では、同じ語源のサンスクリット語のvilengavidangaと呼ばれた』。医薬学書「海樂本草」『の作者である李珣』(りしゅん:八八一年頃~九三〇年頃:唐末期に生まれた前蜀の薬学者・文学者)『はクロコショウと同じ木に生』え『ると考えた。唐の医者は、食欲増進、祛邪、髪色を濃くする、身体を芳香で満たすためにヒッチョウカを処方した。しかしながら、ヒッチョウカが中国で調味料として使われたことを示す証拠は存在しない』。九『世紀に編纂された』「千夜一夜物語」『は、不妊のための治療薬としてヒッチョウカに言及している。これはアラブでは既に医療目的のために使われていたことが示している。ヒッチョウカは』十『世紀頃にアラブ料理に取り入れられた』。十三『世紀末に書かれた』かのマルコ・ポーロの「東方見聞録」『はヒッチョウカや他の価値のある香辛料の生産地とジャワを説明している』。十四『世紀、ヒッチョウカは』フランスの『ルーアンと』ドイツの『リッペの商人によってコショウの名前で穀物海岸からヨーロッパへと輸入された』。アラゴン連合王国の『フランシスコ修道会の作家フランセスク・アシメニス』(Francesc Eiximenis:『による暴食の実例を挙げた道徳物語は、世俗的な聖職者の食生活を描いたもので、入浴後に卵の黄身にシナモンとヒッチョウカを加えた奇妙な調合物をおそらく媚薬として摂取している』。『ヒッチョウカは、中国の人々によって』、『そうであったように、ヨーロッパの人々によって』、『悪魔を退けると考えられていた』。十七『世紀末にエクソシスム』(ラテン語:exorcismus。「悪魔祓い」・「悪霊払い」・「祓魔(ふつま)」)『の方法について書いたカトリック司祭ルドヴィコ・マリア・シニストラリは、インキュバス(夢魔)を追い払うための香の材料にヒッチョウカを含めた。今日でも』イタリアのフランシスコ会司祭で著作家のルドヴィコ・マリア・シニストラリ(Ludovico Maria Sinistrari:一六二二年~一七〇一年)の記した『香の調合法は』、『ネオペイガニズム』(当該ウィキによれば、(英語:neopaganismneo-paganism)で、「復興異教主義」と訳される『多種多様な現代の宗教的な運動』を指し、『特にヨーロッパにキリスト教が布教され、信仰される以前の土着の宗教や自然崇拝的なペイガニズム』(『古典ラテン語:pāgānus:「田舎」・「素朴」、後に「民間人」の意。四世紀の初期キリスト教徒が、ローマ帝国で多神教やユダヤ教以外の(一神教を含む)宗教を信仰していた人々に対して初めて使った言葉で、多神教や異教徒の一神教の信仰を広く包括して指し、その信条によって影響されたものに用いられる包括的な用語である)『作家らによって引用され、これらの作家の一部はヒッチョウカを恋の小袋や呪文で使うことができると主張している』。『販売が禁止された後、ヒッチョウカの料理での使用はヨーロッパで劇的に減少し、医学的な応用のみが』十九『世紀まで続いた』。二十『世紀初頭、ヒッチョウカはインドネシアからヨーロッパとアメリカ合衆国へ定期的に出荷されていた。交易は次第に年間』百三十五『トン』『まで減少し』、一九四〇『年より後に実質的な意味において終わっ』ている。

以下、「化学成分」の項。『乾燥したヒッチョウカの果実は、モノテルペン類』、『セスキテルペン類』等、『ならびにクベボール』『から構成される精油を含む』。『揮発性油のおよそ』十五%『は水と一緒にヒッチョウカを蒸留することによって得られる。液体成分のクベベンは化学式C15H24を持ち、α-クベベンとβ-クベベンがある。これらはアルケン部分の位置のみが異なっており、二重結合が環内(』五『員環部分)にあるのがα-クベベン、環外にあるのがβ-クベベンである。薄い緑色の粘性のある液体で暖まる木のような、わずかに樟脳様の芳香を持つ。水と共に精留後、あるいは保存中、ヒッチョウカの樟脳の菱形結晶が沈殿する』。『クベビン(C20H20O6)はヒッチョウカ中に存在する結晶性固体であり』、一八三九『年』『に』『発見された。これはクベベンから、あるいは精油を蒸留後に残った果肉から調製されるかもしれない。この薬物は、ガム』、『脂肪油、リンゴ酸のマグネシウムおよびカルシウム塩と共に、およそ』一『%のクベブ酸(cubebic acid)とおよそ』六『%の樹脂を含む』。

以下、「使用」の項。『民間療法における歴史』では、『中世のアラブの薬草医は大抵錬金術を熟知しており、ヒッチョウカはal butmの水を調製する時にkababaという名前で使われた。イングランドにおけるヒッチョウカの近代の使用は淋病の治療のためであり、その殺菌作用は大いに価値があった。ウィリアム・ワイヤット・スクワイア(William Wyatt Squire)は』一九〇八『年に、ヒッチョウカの果実が「泌尿生殖器の粘膜に対して特異的に作用する。淋病の全ての段階に与えられる」と書い』ている。一九二一『年に印刷された』イングランドの‘ The National Botanic Pharmacopoeia ’(「国立植物薬局方」)『は、ヒッチョウカが「flour albus』(「白帯下(しろたいげ)」:女性の膣から分泌される「おりもの」のこと)『のための素晴らしい治療薬」であったと記した』。以下、「料理」の記載。『ヨーロッパでは、ヒッチョウカは中世期に高価な香辛料の』一『つであった。肉の香り付け』『として粉にされたり、ソースで使われたりした。中世のレシピはアーモンドミルクと数種類の香辛料からなる「sauce sarcenes」』(サラセン人のソース)『を作るのにヒッチョウカを含めている。芳香菓子類として、ヒッチョウカは砂糖漬けにされたり丸ごと食べられたりした。ヒッチョウカ、クミン、およびニンニクを浸出させた酢であるOcet Kubebowyは』十四『世紀のポーランドにおいて肉のマリネのために使われた。ヒッチョウカは香りの良いスープの風味を増すために使うことができる』。『ヒッチョウカはアラブを経由してアフリカに到達した。モロッコ料理では、ヒッチョウカは香りの良い料理や』、一種の『パン菓子で使われる。また、名高い混合香辛料ラスエルハヌート』(Ras el hanout:チュニジア・アルジェリア・モロッコを含むマグリブで見られるミックス・スパイス。名前はアラビア語で「店頭」を意味し、「店が提供する最良のスパイス」であることを意味する。肉や魚に擦り込んだり、クスクス・パスタ・コメ等に混ぜて料理に用いる。ここは当該ウィキに拠った。モロッコで実際に使ったが、なかなかに美味かった)『の原料の一覧で見られることがある。インドネシア料理、特にインドネシアのグライ』『(カレー)では、ヒッチョウカが頻繁に使用される』。

以下、「紙巻きたばこと酒」の記載。『ヒッチョウカは喘息、慢性咽頭痛、および花粉症のための紙巻きたばこの一種で頻繁に使用された。クベブたばこを好んだ』SFや冒険小説で知られるアメリカの小説家『エドガー・ライス・バローズ』(Edgar Rice Burroughs:一八七五年~一九五〇年)『は』、「もし、これほど多くのクベブを吸っていなかったとしたら、「ターザン」は存在していなかったもしれない。」『とおどけて述べた。Marshall's Prepared Cubeb Cigarettesが人気のあるブランドで、第二次世界大戦中まで製造されるだけの売り上げがあった』。二〇〇〇『年、クベバ油はノースカロライナ州健康福祉局のタバコ予防管理部局によって発表されたたばこの添加物の一覧に含められた』。『ボンベイ・サファイア・ジンはヒッチョウカやギニアショウガを含む植物で風味付けされる。このブランドは』一九八七『年に始められたが、その製造者はこれが』一七六一『年に遡る秘密のレシピに基づいていると主張している。辛くてヒリヒリする味を持つウクライナのコショウ風味の焦げ茶色のホリルカであるペルツォフカは』、『ヒッチョウカとトウガラシを付け込んで作られる』。また、『ヒッチョウカはパチョリ』(英語:patchouli:              双子葉植物綱シソ目シソ科ミズトラノオ属パチョリ Pogostemon cablin :ハーブの一種で、インド原産。主に精油(パチョリ油)に加工されて利用される。古くから香や香水に用いられている。その名前はタミル語で「緑の葉」を意味する「パッチャイ・イライ」に由来する。「パチュリ」「パチュリー」とも音訳され、漢方ではパチョリの全草を乾燥させたものを「霍香」(カッコウ)と称し、「霍香正気散」などの漢方薬に用いる。以上は当該ウィキに拠った)『の精油の混ぜ物』『として使われることがあり、パチョリの使用者は注意が必要である。同様に、ヒッチョウカは同属の別種 Piper baccatumPiper caninum で混ぜ物をされる』とあった。

 なお、以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「畢澄茄」(ガイド・ナンバー[079-13a]以下)のパッチワークである。

「大腹子《だいふくし》」時珍は「大腹子」を独立種としているが、これは、並置する「榔《びんらう》」の果皮を製した漢方名である。それは、先行する「卷第八十八 夷果類 檳榔子」で考証してあるので見られたい。

「痘瘡≪の≫目に入《いり》て、明を羞(は)ぢ、瞖(かゝりもの)を生ずる者」これは、天然痘の病原体が眼に侵入し、瞼が激しく腫れて開けることが出来ない状態や、目は開いているが、視野に「瞖(かゝりもの)」=カスミが生じている病態を指す。

「山胡椒(やまこせう)」「《さんこせう》」これはコショウとは縁のない、爪楊枝で知られるところのクロモジの近縁種である、モクレン亜綱クスノキ(樟・楠)目クスノキ科ハマビワ(浜枇杷)属アオモジ(青文字) Litsea cubeba である。当該ウィキによれば、『果実にはレモンのような芳香と辛味があり、ショウガノキやコショウノキともよばれる。南アジアから日本(本州南部から南西諸島)を含む東アジア南部、東南アジアに分布する。精油を多く含み、中国では精油生産のために栽培され、また果実や種子は生薬や香辛料として利用される』とあり、『バングラデシュ、チベット、中国南部、本州西部、九州西南部、南西諸島、台湾、インドシナ半島、マレー半島、スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島に分布する』。『本州では岡山県、山口県に分布していたが、近年では西日本(愛知県以西)の都市部周辺を中心に分布を広げている』。『成長速度が極めて速く、明るい場所で生育し、先駆樹の性質をもつ』。『若い個体でも実をつけ、また萌芽更新しやすく再生力が強い』。『果実からは重量比』三~七『%ほどの精油が抽出され、精油の主成分はゲラニアール』。『ネラール』・『D-リモネン』・『で』、『この精油は食品や化粧品の香料、アロマオイル、ビタミンAEKの原料などとして利用されている』。『これらの用途のため栽培されており、中国ではアオモジ精油の年間生産量は』二千『トンに達』する。『乾燥した果実は、漢方において駆風薬、利尿薬、去痰薬、刺激薬、健胃薬、鎮静薬として利用される』。『果実以外にも、樹皮、葉、根を民間薬に用いることもある』。『種子』『にはレモンのような柑橘系の香りとほのかな辛み・渋みがあり、台湾原住民であるタイヤル族は馬告(マーガオ)とよんで古くから香辛料として利用している』。『また、未熟な果実は、サラダやピクルスに利用されることがある』。『材には芳香があり、爪楊枝などの材料とされる』。『また、早春の花の少ない時期の生花として、広く利用されている』。『「アオモジ」の名は、幹や枝の緑色であり、近縁種のクロモジのように黒くならないためとされる』。『中国名は山雞椒、山胡椒』(☜)、『山蒼樹など』とある。「維基百科」の同種も見られたい。]

2025/06/24

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「白狐裂死」

[やぶちゃん注:底本はここ。]

 

 「白狐裂死《びやくこ さけ しす》」 安倍郡《あべのこほり》賤機山《しづきやま》にあり。傳云《つたへいふ》、永祿三年五月、志豆波多山《しずはたやま》惣社《さうしや》の檀上に於て、千歲《せんざい》の白狐、己《おの》れと胸《むね》裂《さけ》て死す。諸人、是を評して、「今川家の不祥《ひしやう》。」とす。果して同月十九日、尾州鳴海《びしうなるみ》桶狹間《をけはざま》の陣營に於て、義元、討死《うちじに》し、家風、衰ふ、云云。

 

[やぶちゃん注:「賤機山」前の条を見よ。

「志豆波多山惣社」前の条の私の注の「神殿」を見よ。

「永祿三年」一五六〇年。

「同月十九日、尾州鳴海《びしうなるみ》桶狹間《をけはざま》の陣營に於て、義元、討死し、家風、衰ふ」知られた「桶狭間の戦い」。当該ウィキによれば、永禄三年五月十九日(ユリウス暦一五六〇年六月十二日)『に尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の合戦』。二万五千『人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を奇襲、または正面から攻撃し』、『今川義元を討ち取った』。『戦後、東海地方を制圧していた今川家が没落する一方、織田信長は尾張を完全統一したうえ畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。松平元康(徳川家康)は三河で独立を回復して信長と清洲同盟を締結し、これが戦国時代の転機となった』とある。「家風、衰ふ」というのは、これより以降、今川家は徳川氏・武田氏・後北条氏などの侵略を受けて衰退し、江戸時代には子孫が高家として僅かに家名を残したに過ぎなかった。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「志豆機山奇瑞」

[やぶちゃん注:底本はここから。記号(変更も含む)を添え、段落・改行を成形した。]

 

 「志豆機山奇瑞《しづはたやま きずい》」 安倍郡志豆機山にあり。

「類聚國史」云《いはく》、

『仁德天皇四十年壬子冬、令下三紀角宿禰、狩駿河國安弁郡、志豆旗山、及夕陽非常之光輝出山上、列卒爲怪異一、于ㇾ時神殿鳴動、而鳥獸逢失害ㇾ百數ㇾ之、有赤翼之雉而不ㇾ動、集紀角宿禰屯帳、捕テㇾ之奏スㇾ之、終百濟之役。云云。又云。嵯峨天皇、弘仁三年壬辰正月十五日、駿河國安弁郡志豆波多山、椎根山、連綿而鳴動スルヿ二時計、自惣社神殿一流淸光、至虛冥、其彩色如紅霓、暫時光暉皈神殿。四月五日、渤海之朝使入貢、未曾有之貢也。故從四位下直、請三善孰兼卜ㇾ之、惣社之瑞光如ㇾ合スルカㇾ符、故六月十五日、叙正一位ラル二安弁郡、益頭郡之兩郡、神官神戶、賜ㇾ祿各有ㇾ差。云云。』。

「落照露言抄」云、

『永祿十一年十二月十七日、志豆機山、鳴動して、流光、充滿する事、東西、恰《あたか》も幾行《いくぎやう》の紅霓《こうげい》の如し。國、擧《あげ》て、怪異とす。云云。』。社記に見えたり。

 

[やぶちゃん注:「志豆機山」現在の賤機山(しずはたやま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「神殿」現在の静岡浅間(しずおかあさま)神社(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『鎮座地の賤機山(しずはたやま)は、静岡の地名発祥の地として知られ、古代より神聖な神奈備山としてこの地方の人々の精神的支柱とされてきた。6世紀のこの地方の豪族の墳墓であるとされている賤機山古墳(国の史跡)も、当社の境内にある。また、静岡市内には秦氏の氏寺である建穂寺、秦久能建立と伝えられる久能寺など当社の別当寺とされる寺院があり、その秦氏の祖神を賤機山に祀ったのが当社の発祥であるともいわれている』とある。

 まず、「類聚國史」(編年体である六国史の記事を中国の類書に倣って分類再編集した歴史書。菅原道真の編纂により、寛平四(八九二)年に完成)の漢文部を推定訓読する。一部は訓点無き箇所を返って読み、送り仮名・読みも勝手に新たに添え、また、句読点にも大幅に変更を加え(明らかにおかしな箇所がある)、改行・段落を成形した。

   *

 仁德天皇四十年壬子(みづのえね/じんし)冬[やぶちゃん注:機械換算西暦三六二~一三六三年。]、紀角宿禰(きのつののすくね)[やぶちゃん注:当該ウィキによれば、『武内宿禰の子で、紀朝臣(皇別の紀氏)およびその同族の伝説上の祖とされる。対朝鮮外交で活躍した人物である』とある。]をして、駿河國(するがのくに)安弁郡(あべのこほり)[やぶちゃん注:安倍郡に同じ。]、志豆旗山(しづはたやま)に狩りせしむ。

 夕陽(ゆうやう)に及び、常に非ざる光輝(くわうき)、山上(さんじやう)に出で、列卒(れつそつ)、

「怪異。」

と爲(な)す。

 時に、神殿、鳴動し、而して、鳥獸、失害(しつがい)に逢ふ。百(ひやく)を以(もつ)て、之れを數(かぞ)ふ。

 赤き翼(つばさ)の雉(きぎす)有りて、動かず。

 紀角宿禰、屯-帳(とねり)を集めて、之れを捕へて、之れを奏(そう)す。

 終(つひ)に「百濟(くだら)の役(えき)」[やぶちゃん注:一般には「白村江(はくすきのえ)の戦い」を指すが、時代がずっと後で、合わない。]、有り。云云(うんぬん)。

 又、云ふ。

 嵯峨天皇、弘仁三年壬辰(みづのえたつ/じんしん)正月十五日[やぶちゃん注:ユリウス暦八一二年三月一日。グレゴリオ暦換算三月五日。]、駿河國安弁郡志豆波多山、椎根山(しいねやま)、連綿として鳴動すること、二時(ふたとき)ばかり、惣社(そうしや)の神殿より、一流(いちりう)の淸光(せいくわう)、虛冥(きよめい)に至る。其の彩色、紅霓(こうげい)のごとく、暫時にして、光暉、神殿に皈(かへ)る。

 四月五日、渤海の朝使(てうし)、入貢(にふこう)、未だ曾つて有らざるの貢なり。

 故(かれ)[やぶちゃん注:「故に」と同義。]、從四位下、直ちに、三善孰兼[やぶちゃん注:読み不詳。陰陽師である。「孰」の字は怪しい。「敦」か? 仮にそうだとするなら、「みよしのあつかね」か。しかし、そのフル・ネームの陰陽師は見当たらない。]に請(こ)ひ、之れを卜(ぼく)すに、惣社の瑞光、符(ふ)を合(がつ)するがごとし。

 故(かれ)、六月十五日、正一位に叙し[やぶちゃん注:先の「惣社」に対して官位を与えたことを指す。]、安弁郡・益頭郡(ましずのこほり)[やぶちゃん注:後者は古代から駿河国の西部南端に位置した郡。]の兩郡(りやうこほり)を寄(よ)せらる。神官・神戶(かんべ)、祿を賜(たまは)ること、各(おのおの)、差(つかは)し、有り。云云。

   *

「落照露言抄」江戸時代に書かれた軍記物「浪合記」(「並合記」とも)の別名。南北朝時代の尹良(ゆきよし)親王と、その子良王の二人を主人公としたもの。]

2025/06/23

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 胡椒

 

Kosyou

 

[やぶちゃん注:図の右上に「倭」(本邦種)の文字があって苗木が描かれてあるが、但し、調べる限りでは、インド産のコショウは、中国を経て、奈良時代に伝来しているので、特に中国産のものとの違いを示しているものではない。但し、コショウ属には複数あるので、異種である可能性を考慮して、かく添えたもので、それは、良安の評言の中にも感じられ、現行の植物学的、或いは、世界的な異種分布を考えれば、極めて正当な添え辞である。上方左には、その「倭」の胡椒の実の「粒」のキャプションとともに三個体が描かれてある。下方には、同種が蔓性植物であるために行われる棚を用いた栽培のさまが描かれている。]

 

こしやう   昧履支

 胡椒

      【胡者西戎之名雖

       非椒類因其辛似

       椒名

       之】

フウツヤ

[やぶちゃん字注:下方の割注(これは、「本草綱目」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「胡椒」(「維基文庫」の当該部をリンクした)の『釋名』に『昧履支』とした後に『蚊時珍曰、胡椒、因其辛辣似椒、故得椒名、實非椒也。』と記してあるのを、良安が手を加えたものであるが、何故か、最後の「之」が、改行されてしまっている。これは、彫師が誤ったものとしか思われない。訓読では、前に繋げた。

 

本綱胡椒出摩伽陀國今南畨諸國皆有之其苗蔓生莖

極柔弱作棚引之葉長一寸許扁豆山藥軰正月開黃白

花結實纏藤而生狀如梧桐子亦無核生青熟紅青者更

辣四月熟五月采收曝乾乃皺其葉晨開暮合合則褁其

子於葉中今遍中國食品爲日用之物也

實【辛大温】 下氣温中去痰除臟腑中風冷殺一切魚肉鼈

 蕈毒蓋純陽之物腸胃寒濕者宜之熱病人動火傷氣

 時珍自少嗜之歳歳病目而不疑及也後漸知其弊遂

 絕之目病亦止纔食一二粒卽便昏澀病咽喉口齒者

 亦宜忌之

△按胡椒阿蘭陀商舶將來之畨陀國之產最良蘓門荅

 剌交趾母羅加次之近頃有撒種生者其樹髙二三尺

 葉似畨椒葉而厚不靭亦似千葉梔子葉四月開小白

 花秋結子生熟與異國之產無異伹枝莖雖纎弱不蔓

 之屬葉亦大異也蓋此不胡椒小天蓼也灌木類

 天蓼下可考合

 胡椒辛氣入鼻則嚏故誤物入鼻孔不出者傍撒胡椒

 末令嚏則隨出

 

   *

 

こしやう   昧履支《まいりし》 

胡椒

      【「胡」とは、「西戎《さいじゆう》」の名。

       椒類《せうるゐ》に非ずと雖も、其の辛

       さ、椒に似るに因りて、之れを名づく。】

フウツヤ

 

「本綱」に曰はく、『胡椒は摩伽陀國《マガダこく》に出づ。今、南畨《なんばん》の諸國、皆、之れ、有り。其《その》苗《なへ》、蔓生《つるせい》して、莖、極《いはめ》て柔弱≪なれば≫、棚を作り、之れを引く。葉の長さ一寸許《ばかり》、扁豆《へんづ》・山藥《さんやく》の軰《はい》のごとし。正月、黃白《わうはく》の花を開き、實を結ぶこと、藤《かづら》[やぶちゃん注:蔓。]を纏(まと)ひて、生ず。狀《かたち》、「梧桐《ごとう》」の子《み》のごとく、亦、核《さね》、無し。生《わかき》は青く、熟≪せ≫ば、紅《くれなゐ》なり。青き者は、更≪に≫辣《から》し。四月に熟す。五月に采り、收《をさ》め、曝乾《さらしほ》して、乃《すなはち》、皺(しは)む。其《その》葉、晨《あした》に開き、暮《くれ》に合《がつ》す[やぶちゃん注:萎(しぼ)む。]。合する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、其の子を、葉の中に褁《つつ》む。今、遍(あまね)く、中國の食品、日用の物と爲《なす》なり。』≪と≫。

『實【辛、大温。】』『氣を下し、中《ちゆう》を温め、痰を去り、臟腑の中《なか》の風冷を除き、一切≪の≫魚・肉・鼈《すつぽん》・蕈《きのこ》の毒を殺《さつ》す。蓋し、純陽の物、腸胃・寒濕の者、之《これ》、宜《よろ》し。熱病の人、火《くわ》を動《うごか》し、氣を傷《きづつく》る。時珍[やぶちゃん注:自称。]、少(わか)き時より[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、之れを嗜(す)く。歳歳《さいさい》、目を病《や》む。而《しかれ》ども、疑《うたがひ》及ばざるなり。後《のち》、漸《やうか》く其《その》弊(ついへ[やぶちゃん注:ママ。])を知り、遂《つひ》に之《これ》を絕(た)ち、目の病《やまひ》≪も≫亦、止む。纔《わづか》に一、二粒を食《くふ》≪のみにても≫、卽《すなはち》便《すなは》ち、昏-澀(かす)む。咽喉・口・齒を病む者、亦、宜しく、之《これ》、忌むべし。』≪と≫。

△按ずるに、胡椒、阿蘭陀《オランダ》商舶《しやうはく》、之れを將來《しやうらい》す。畨陀國《バンダこく》の產、最《もつとも》良し。蘓門荅剌《ソモタラ》[やぶちゃん注:スマトラのこと。]・交趾(カウチ)[やぶちゃん注:現在のヴェトナム北部。]・母羅加(モロカ)、之≪に≫次ぐ。『近頃、種を撒《まき》て生(は)へる者、有り。其《その》樹、髙さ、二、三尺、葉、「畨椒(たうがらし)」の葉に似て、厚く、靭(しな)へず。亦、「千-葉《やへ》の梔子(くちなし)」の葉に似たり。四月、小≪さき≫白≪き≫花を開《ひらき》て、秋、子を結ぶ。生《なま》・熟《じゆく》、與《ともに》、異國の產と異なること、無し。伹《ただし》、枝・莖、纎(ほそ)く弱《よはき》と雖《いへども》、蔓(つる)の屬ならず。葉も亦、大《おほい》に異《こと》なり。』云云《うんぬん》≪と≫。蓋し、此《これ》は、胡椒ならず、「小天蓼(こまたゝび)」なり。「灌木類」≪の≫「天蓼(またゝび)」の下《した》、考合《かんがへあはす》べし。

 胡椒は、辛氣《しんき》、鼻に入《いる》と、則《すなはち》、嚏(はなひ)る故《ゆゑ》、誤《あやまり》て、物、鼻の孔《あな》に入《いり》て、出《いで》ざる者、傍《かたはら》に胡椒の末《まつ》を撒(ま)きて嚏《はなひ》らしむれば、則《すなはち》、隨《したがひ》て、出づ。

 

[やぶちゃん注:★今回は、変則的に、良安の評言部に不審があるので、それを片付けてから、注に入ることとする。私の長年の「和漢三才圖會」の読者も、一読、不審に思うであろう箇所である。「」の部分である。今までの、サイトとブログで完遂している膨大な「動物部」でも、また、ブログで単発で行っている「和漢三才圖會抄」でも、そして、今まで三百十三記事に至っている本「植物部」でも、「云云」等という記載は、私の記憶する限り、一度もなかったからである。而して、東洋文庫訳には、ここ以下終りまでについて、以下の後注があるのである。

   《引用開始》

この部分は杏林堂版では次のようになっている。「わたしの家にもあるが、まだ三尺以上のものは見ない。小木でよく子を結ぶ。〔一般に倭方(わほう)の木香丸や阿伽陀円などという薬中に胡椒を入れるが、これは気を下し肺・胃を温める効があるからである。〕」

   《引用終了》

出版詳細が判っていないが、「和漢三才圖會」には、二つの版があり、杏林堂版は、通行本の五書肆名連記版を改稿したものとも思われる。私は、杏林堂版を所持していないので、「日本古典籍ビューア」のここで、当該部を視認し、以下に示すこととした。煩を厭わず、良安の評言部全部を本プロジェクトと同じ形式で示す。下線部が異なる箇所である。

   *

△按胡椒阿蘭陀商舶將來之陀國之產最良蘓門荅

 剌交趾母羅加次之近頃有撒種生者其樹髙二三尺

 葉似椒葉而厚不靭亦似千葉梔子葉四月開小白

 花秋結子生熟與異國之產無異伹枝莖雖纎弱不蔓

 之屬葉亦大異也予家亦有之未見過三尺者小木而

 能結子【凡倭方木香丸阿伽陀圓等薬中入用胡椒者以下氣溫中之功也】

 胡椒辛氣入鼻則嚏故誤物入鼻孔不出者傍撒胡椒

 末令嚏則隨出

   *

△按ずるに、胡椒、阿蘭陀《オランダ》商舶《しやうはく》、之れを將來《しやうらい》す。陀國《バンダこく》の產、最《もつとも》良し。蘓門荅剌《ソモタラ》[やぶちゃん注:スマトラのこと。]・交趾(カウチ)[やぶちゃん注:現在のヴェトナム北部。]・母羅加(モロカ)、之≪に≫次ぐ。近頃、種を撒《まき》て生(は)へる者、有り。『其《その》樹、髙さ、二、三尺、葉、「椒(たうがらし)」の葉に似て、厚く、靭(しな)へず。亦、「千-葉《やへ》の梔子(くちなし)」の葉に似たり。四月、小≪さき≫白≪き≫花を開《ひらき》て、秋、子《み》を結ぶ。生《なま》・熟《じゆく》、與《ともに》、異國の產と異なること、無し。伹《ただし》、枝・莖、纎(ほそ)く弱《よはき》と雖《いへども》、蔓(つる)の屬ならず。葉も亦、大《おほい》に異《こと》なり。』≪と≫。予が家も亦、之《これ》、有り。≪而れども、≫未だ、三尺≪を≫過《すぐ》者を見ず。小木《せうぼく》にして、能く、子を結ぶ【凡そ、倭方《わはう》の「木香丸《もくかうぐわん》」・「阿伽陀圓《あかだゑん》」等の薬中に胡椒を入《れ》用《もちふ》るは、以氣を下《くだ》し、中《ちゆう》を溫《あたたむ》るの功《かう》を以つてなり。】。

 胡椒は、辛氣《しんき》、鼻に入《いる》と、則《すなはち》、嚏(はなひ)る故《ゆゑ》、誤《あやまり》て、物、鼻の孔《あな》に入《いり》て、出《いで》ざる者、傍《かたはら》に胡椒の末《まつ》を撒(ま)きて嚏《はなひ》らしむれば、則《すなはち》、隨《したがひ》て、出づ。

   *

・「木香丸《もくかうぐわん》」江戸時代の売薬の名。植物の木香(双子葉植物綱キク目キク科ドロミアエア属モッコウ Dolomiaea costus 。インド北部原産の多年生草本。江戸時代には薬物として渡来していた。現在は雲南省や、本邦でも北海道で栽培が行われている)の根から製した腹痛の薬。

・「阿伽陀圓《あかだゑん》」万病に効く霊薬と言われた「阿伽陀」の名によって作られた丸薬。近世、大坂安堂寺町通の紐屋(薬店の屋号か)などで売薬として売られた。孰れも小学館「日本国語大辞典」に拠ったが、大坂安堂寺町通は江戸時代より組み紐の店があり、今もある。紐屋が、本業以外に、この薬を売っていたものか? 調べたが、判らなかった。

 さて、以上で、概ね、すっきりしたので、以下、普段の注に入ることとする。★

   

 この「胡椒」は、日中ともに、

双子葉植物綱モクレン亜綱コショウ目コショウ科コショウ属コショウ Piper nigrum

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした。必要を認めない箇所は基本、示さずに省略した。また、私は実際のコショウの植物体を見たことがないので、以上の本文と図と比較するために一部で同ウィキの画像をリンクした。太字・下線は私が附した)。『コショウ科コショウ属に属する』蔓『性植物の』一『種』(『図1a)、または』、『その果実を原料とする香辛料のこと(英:pepper図1b)である。インド原産であるが、世界中の熱帯域で広く栽培されている』。『果実には強い芳香と辛みがあり、香辛料としてさまざまな料理に広く利用され、「スパイスの王様」ともよばれる。精油が香気成分となり、アルカロイドのピペリン』(piperine)『やシャビシン』(Chavicine)『が刺激・辛味成分となる。果実の処理法などによって、黒胡椒(ブラックペッパー)や白胡椒(ホワイトペッパー)などに分けられる』。十五『世紀以降のヨーロッパの東方進出は、コショウ貿易による利益も関わっていた』。『コショウの英名は「pepper」であるが、これはサンスクリット語で同属別種であるヒハツ(インドナガコショウ)』(畢撥: Piper longum )『を意味する「pippali」に由来しており、古くに名前の取り違えが起こったと考えられている』。『トウガラシ』((唐辛子・蕃椒:キク亜綱ナス目ナス科トウガラシ属トウガラシ Capsicum annuum )『やオニシバリ』(鬼縛り:バラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属オニシバリ Daphne pseudomezereum 果実は辛く、有毒)、『また』、『サンショウ』(ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum )『の果実を「胡椒」とよぶことがある』ので注意が必要である。蔓『性の木本(藤本=とうほん)であり、長さはときに』十メートル『以上になり、節は膨らみ、節から不定根を出して他物に絡み付く(図2ab)。葉は互生、葉柄は長さ』一~二センチメートル、『葉身は卵形から長卵形』で、十~十五センチメートル×五~九センチメートルで、『先端は尖り、無毛で革質、表面は光沢がある暗緑色、葉脈は掌状で』、五~七(或いは九)『脈、中央の脈は基部から』一・五~三・五センチメートル『の部分で分枝する(図2c)』。『野生株では単性花(雄花と雌花が別)をつけ』、『雌雄異株(雄花と雌花が別の個体につく)のものが多いが、栽培される系統のものは雌雄同株(雄花と雌花が同じ個体につく)であり、また様々な程度で両性花をつける。野生型では果実量が少ないが、栽培されるものでは両性花率が高い系統ほど果実量が多いことから、栽培の歴史の中でこのような系統が選択されてきたと考えられている。花期は』六~十『月(中国の場合)、穂状花序を形成し、花梗は葉柄とほぼ同長、花穂は長さ約』十センチメートル、『葉と対生状につく(図3a、』3『d)。苞は』箆(へら)『形から楕円形、およそ』三~三・五×〇・八ミリメートルで、『花被を欠く。雄しべは』二『個、花糸は太く短い(図3d)。雌しべの子房は球形、柱頭は』三~四(或いは五)『個(図3d)』。『果穂は長さ』十五~十七センチメートル『ほどになり』、五十から六十『個の果実からなる(図3b』、3『c)。個々の果実は核果』一『個の種子を含み、球形で直径』五~六ミリメートル。『未熟果実は緑色だが』、『これを天日干しすると黒色』となり、『熟した果実は赤色になる(3b、』3『c)。『染色体数は 2n = 48, 52, 104, 128 が報告されており、栽培の歴史の中で著しい染色体倍加が起こったと考えられ、また他種との交雑の可能性も示唆されている』。

以下、「分布」の項。『原産地はインド南西部マラバール地方とされるが、すでに紀元前』一『世紀ごろには東南アジア熱帯域で栽培されていたと考えられている』。二〇二〇『年時点では、東南アジア、アフリカ、中南米の熱帯域で広く栽培されている』。

以下、「香辛料」の項。『コショウの果実には強い芳香と強烈な辛みがあり、最もよく使われる香辛料(スパイス)の』一『つであるため、「スパイスの王様(king of spice)」ともよばれる。コショウの辛さは、塩辛さとは異なる辛さである。コショウは肉料理、魚料理、野菜料理、スープなどさまざまな料理に使われ、またハムやソーセージの製造にも利用される。他にもソースやケチャップなどの調味料の原材料ともなる』。

以下、「種類」の項。『コショウは収穫のタイミング(未熟果、完熟果)や乾燥方法、外皮(外果皮・中果皮)の除去などの違いにより、黒胡椒、白胡椒、青胡椒、赤胡椒の』四『種類に分けられる』。

・『黒胡椒、ブラックペッパー(黒コショウ、黒こしょう、black pepper)』

『完熟前の緑色の果実を収穫し、天日干しで乾燥させたものであり、黒色になる。湯通しした後に乾燥したり、薪を使って』燻(いぶ)す『こともある。乾燥の際、果皮(外果皮、中果皮)にシワが生じるが、剥がさず』、『そのまま使用する。中果皮には辛み成分が多く含まれており、香りと辛みが強いため、強い味の肉料理や青魚などとの相性がよいとされる。また、インドの伝統医学であるアーユルヴェーダにて高く評価されている』。

・『白胡椒、ホワイトペッパー(白コショウ、白こしょう、white pepper)』

『赤色に完熟した果実を収穫し』、一『週間ほど水に浸して発酵させた後、柔らかくなった外果皮・中果皮を除去したものである。核(種子とこれを包む硬い内果皮)のみからなり』、『外果皮・中果皮がないため、黒胡椒より』、『辛みは弱いが』、『異なる風味を持ち、魚料理やシチューなど素材の味が強くないものとの相性が良いとされる』。『人によっては白胡椒に不快臭を感じる事があるが、これは製造工程で果皮を水中で腐敗させる際に発生する物質に由来しており、流水中の処理により』、『臭みの発生を押さえることが報告されている。白胡椒は発酵食品でもあり、コーヒーやカカオのように発酵過程の調節で多様な風味をつくることが可能ともされる。一方で、黒胡椒の外果皮・中果皮を機械で剥がして白胡椒としたものもある。また』、『下記のように胡椒は薬用にも使われるが、その際には』、普通、『白胡椒が使われる』。

・『青胡椒、緑胡椒、グリーンペッパー(青コショウ、青こしょう、green pepper)』

『完熟前の緑色の果実を原料とするが、黒胡椒とは異なり』、『天日干しにはせず、ゆでてから塩蔵、またはフリーズドライ加工したもの。そのため、果実の色は緑色が残っている(図8)。さわやかな香りと辛みを特徴とする。料理に散らしてアクセントにしたり、香りを活かしてスープやサラダに加える。タイ料理では「プリックタイオーン」とよばれ、粒のまま炒め物に利用されることがある』。

・『赤胡椒、ピンクペッパー(赤コショウ、赤こしょう、pink pepper)』

『赤色に完熟した果実を収穫するが、白胡椒とは異なり』、『外果皮・中果皮をはがさずにそのまま塩蔵したものや』、『天日乾燥したもの。赤い外果皮はシワが入り(図9)、香りと辛みがマイルドであるとされる。ペルーなど南アメリカの料理で使用されることがある。ただし「ピンクペッパー」(pink pepper)は』、胡椒とは全く無縁な、『ウルシ科の辛みがない植物コショウボク』(胡椒木:ムクロジ目ウルシ科サンショウモドキ属コショウボク Schinus molle )『の果実を意味することが多い』(私のような「ウルシかぶれ」の体質者は或いは気をつけねばならんな。当該ウィキをリンクしておく)。

『コショウは様々な形態で利用され、ホール(原形の粒の状態、粒胡椒)、あらびき(粗挽き)、パウダー(粉末状)などが市販されている。また、使うたびにペッパーミルを用いてホールを挽いたほうが新鮮な風味を得ることができるとされる』。『異なる種類の胡椒を混ぜて使うこともあり、日本で市販品には黒胡椒と白胡椒を混合したものもある。また』、『塩などと混ぜた「味付塩こしょう」として市販されているものもある』。『コショウの消費期限は、製造方法や保管状況にもよるが、おおよそ』二~三『年である。挽いた後のものは、挽く前(ホール)より香味が飛びやすい。また「黒胡椒」「白胡椒」の乾燥させたものは、「青胡椒」「赤胡椒」といった乾燥させる前のものより長持ちしやすくなる。大航海時代など物流が発達する前は「青胡椒」「赤胡椒」は原産地での香辛料や食材として使用されていたのに対し、原産地から離れていたヨーロッパでは「黒胡椒」「白胡椒」が使用されていた。現在は物流が発達したことや世界各地でコショウの生産が行えるようになったこと、さらに各国の料理が世界中に広まっていることからこの区別はなくなっている』。以下、「薬用」の項。『コショウの果実にはアルカロイドであるピペリンなどが含まれており、薬効を期待した料理や外用薬に使われることがある。抗菌、食欲増進、消化促進、健胃、駆風、発汗促進、利尿、鎮痛などの作用があるとされ、食欲不振、消化不良、胃弱、嘔吐、下痢、腹痛、腹部膨満、歯痛などに使われる。また、抗がん作用、抗酸化作用、止瀉作用も報告されている。脂肪燃焼作用やエネルギー代謝の亢進によるダイエット効果、また他の成分の吸収率を高めることで一緒に摂取した医薬品の作用を増強する効果があるとして健康食品に使用されることもあるが、多量に摂取した場合に他の医薬品と相互作用を示すことから、健康被害が発生する可能性を否定できず注意が必要ともされる』。『アルカロイドであるピペリンやシャビシン、ピペラニン (piperapine)、これらの構成要素であるピペリジン(piperidine)などが辛み成分となり、また精油であるピネン(pinen)、リモネン(limonene)、カリオフィレン(caryophyllene)、ピペロナール(piperonal)などが香り成分となる。コショウでくしゃみが出るのは、辛味成分であるピペリンが鼻腔の神経を刺激するためである』。

以下、「産地」の項。『コショウはインド原産であるが、世界中の熱帯域で広く栽培されている』。二〇二一『年時点の生産量(ただしコショウ属の他種を含む)はベトナムが最大であり、以下ブラジル、インドネシア、ブルキナファソ、インドと続いている』とある。

 なお、以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「胡椒」(ガイド・ナンバー[079-10a]以下)のパッチワークである。

「昧履支《まいりし》」これは、原拠は「本草綱目」の記載から、唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した「酉陽雜俎」(二十巻・続集十巻・八六〇年頃成立)の「續集」の「卷十八 廣動植之三」からである(「百度百科」の「昧履支」を見よ)。原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、当該部の電子化されてある。一部に手を加えて示す。

   *

胡椒、出摩伽陀國、呼爲昧履支。其苗蔓生、極柔弱。葉長寸半、有細條與葉齊、條上結子、兩兩相對。其葉晨開暮合、合則裹其子於葉中。形似漢椒、至辛辣。六月採、今人作胡盤肉食皆用之。

   *

私は、同書を東洋文庫版の今村与志雄訳注で所持する。当該部の訳を引用する。

   《引用開始》

   胡椒(こしょう)。

 マガダ国に産出する。同地では、昧履支と呼ぶ。その苗は、蔓(つる)生で、きわめて

やわらかく弱い。葉の長さは、一寸半で、細い条(こえだ)があり、葉と同じである。条(こえだ)に子(み)を結び、両々相対する。その葉は、朝、開き、日が没すると、合わさる。その子(み)を葉のなかにつつむ。ぁ達は、漢椒に似ているが、たいへん辛(から)くひりひりする。六月、採取する。いまの人は胡盤肉をつくるとき、これを使用する。

   《引用終了》

今村先生の注を使用させて戴くと、「昧履支」は『現代中国語音 mei-li-či。これは胡椒を意味するサンスクリット、マリチャ maricamarica の転写である。なお、サンスクリットのマーガダ māgadha は、コショウ pepper の形容語である。インドのうち、とくにマガダ国 Maghda という地名に結びつけられる所以がある』とある。私の後注も参照のこと。

「漢椒」は『蜀椒のこと』とあるので、先行する「秦椒」及び「蜀椒」で示した通り、サンショウを指す。

「胡盤肉食」『胡は、唐代、外来の物をさす場合、一種 の接頭語として使用されたが、とくに、西域、イラン系の文物に用いられることが多い。もっとも、胡椒のようにインド産の物にも使われているから、その使用の仕方は、きゅうくつなところはなかった。胡盤肉食は、西域ふうの肉料理という意味らしい。胡椒は、その後、普及し、一六世紀、明代の李時珍(一五一八-一五九三年)のときには、「胡椒は、いま南番諸国および交趾、滇南[やぶちゃん注:現在の雲南省昆明以南の広大な地域を指す。]、海南の諸地はどこにもある……いまや中国の食品にゆきわたり、日用の物になった」というぐらいになっていた。』と述べておられる。

 以下、本文注に入る。

「西戎」中国が西方の異民族を呼んだ卑称。

「南畨」「南蠻」に同じ。同前で南方の異民族を呼んだ卑称。

「摩伽陀國《マガダこく》」当該ウィキによれば、ヒンディー語ラテン文字転写で「Magadha」(紀元前六八二年~紀元前一八五年)は『古代インドにおける十六大国の一つ。ナンダ朝のもとでガンジス川流域の諸王国を平定し、マウリヤ朝のもとでインド初の統一帝国を築いた。王都はパータリプトラ』(現在のビハール州の州都パトナ。グーグル・マップ・データ)とある。

「扁豆《へんづ》」マメ目マメ科マメ亜科インゲン連フジマメ(藤豆・鵲豆)属フジマメ Lablab purpureus 。東洋文庫訳では、割注で『(インゲンマメ)』とするが、誤り。マメ科インゲンマメ属インゲンマメ Phaseolus vulgaris で、全く異なる種である。何故、間違ったかは、判る。これを担当された清水淳夫氏は大阪生まれだからである。ウィキの「フジマメ」によれば、『関西ではフジマメをインゲンマメと呼び、インゲンマメはサンドマメと呼ばれている』とあるのである。

「山藥《さんやく》」これは、本来は漢方薬での呼称である。しかも、「本草綱目」であるから、単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya しか指さない。日本原産のヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica は厳密には含まない。但し、中国にも現在は非常な広域で分布はしており、その伝播の時期は判らない。

「梧桐《ごとう》」双子葉植物綱アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex 。先行する「卷第八十三 喬木類 梧桐」を見よ。

「母羅加(モロカ)」これは、現在のモルッカ諸島(英語:Moluccas/オランダ語:Molukken)=マルク諸島(インドネシア語:Kepulauan Maluku)、インドネシア共和国のセラム海とバンダ海に分布する群島のことであろう。当該ウィキによれば、『スラウェシ島の東、ニューギニア島の西、ティモール島の北に位置する。歴史的に香料諸島(スパイス諸島)』(☜)『として特に西洋人や中国人の間で有名であった』とある。

「小天蓼(こまたゝび)」『「灌木類」≪の≫「天蓼(またゝび)」』「コマタタビ」という種はないので、双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygama の実のことを言っているとしか思われない。先行する「卷第八十四 灌木類 木天蓼」を見よ。]

2025/06/21

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 崖椒

 

Inuzannsyou2

 

のさんしやう  野椒

 

崖椒

       【俗此亦名犬山椒】

 

本綱崖椒葉大於蜀椒不甚香而子灰色不黑無光野人

用炒雞鴨食

椒紅【辛熱】 治肺氣上喘兼欬嗽

△按崖椒生原野其樹刺葉實皆類川椒伹葉稍大色深

 綠不潤開細花結子大如綠豆而攅生未紅熟而開口

 味苦微有椒氣其目黑而不光澤此亦名犬山椒凡物

 與某似而賤劣者皆稱犬稱烏【犬蠶豆犬綠豆鴉碗豆之類也】

[やぶちゃん字注:「某」は「グリフウィキ」のこの異体字(下方が「木」ではなく、「ホ」の字型)だが、表示出来ないので正字とした。]

 

   *

 

のさんしやう  野椒《やせう》

 

崖椒

       【俗、此れも亦、「犬山椒《いぬ

        さんせう》」と名づく。】

 

「本綱」に曰はく、『崖椒《がいせう》は葉、蜀椒《しよくせう》より大なり。甚《はなはだ》≪は≫香《かんばし》からずして、子《み》、灰色にして黑からず、光《ひかり》、無し。野人、用《もちひ》て、雞《にはとり》・鴨を炒《い》り、食ふ。』≪と≫。

『椒紅【辛、熱。】』『肺氣、上《のぼ》り、喘(すだ)き[やぶちゃん注:ぜいぜいと喘(あえ)ぎ。]、兼《かね》て、欬嗽《がいそう》[やぶちゃん注:咳(せき)。]を治す。』≪と≫。

△按ずるに、崖椒は、原野に生ず。其《その》樹、刺・葉・實、皆、川椒《せんせう》に類《るゐ》す。伹《ただし》、葉、稍《やや》、大にして、色、深綠。潤《うるほ》はず。細≪き≫花を開き、子を結ぶ。大いさ、綠豆(ぶんどう)のごとくにして、攅生《さんせい》[やぶちゃん注:群がって成り。]≪し≫、未だ紅熟ならずして、口を開く。味、苦《にがく》、微《やや》、椒《せう》≪の≫氣《かざ》、有り。其の目《たね》、黑くして、光澤ならず。此れも亦、「犬山椒」と名《なづ》く。凡《およそ》、物《もの》、某《ぼう》と似て、賤劣《せんれつ》なる者、皆、「犬《いぬ》」と稱し、「烏《からす》」と稱す【「犬蠶豆(《いぬ》そらまめ)・「犬綠豆(《いぬ》ぶんどう)・「鴉碗豆《からすのゑんどう》」の類《たぐゐ》なり。】。

 

[やぶちゃん注:これは、前項の「蔓椒」と同一の、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属イヌザンショウ(犬山椒)変種イヌザンショウ Zanthoxylum schinifolium var. schinifolium

である。私の注で引いた「拼音百科」の同種のページ「青花椒」の『别名』の中に『崖椒』があるからである。

 昨日から「漢籍リポジトリ」にアクセス出来ないので、「維基文庫」で示すと、「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の「崖椒」からのパッチワークである。

「川椒」良安が、安易に、この固有名詞を出すのは、おかしいし、現代の学術的視点からは間違っている。これは、先行する「秦椒」及び「蜀椒」で私が考証した通り、「川椒」は本邦には植生しない、

サンショウ属カホクザンショウ(華北山椒) Zanthoxylum armatum 

である。則ち、良安は見たことがないのに、葉・花・実の実態まで見たように語っているのだが、どうして、こんな記載が出来るんだヨッツ! アホンダラ!

「綠豆(ぶんどう)」マメ目マメ科マメ亜科ササゲ(大角豆・豇豆)属ヤエナリ(八重生) Vigna radiata の種子を指す。当該ウィキを見よ。後の「犬綠豆(《いぬ》ぶんどう)」も、その貧弱個体の卑称であろう。

「犬山椒」先行する「蔓椒 いぬさんしやう」を見よ。

「犬蠶豆(《いぬ》そらまめ)」この名の種は存在しない。マメ科ソラマメ(空豆・蚕豆)属ソラマメ Vicia faba の貧弱個体の卑称であろう。

「鴉碗豆《からすのゑんどう》」私が幼少期より好きな野草である、マメ科ソラマメ属オオヤハズエンドウ(大矢筈豌豆)亜種ヤハズエンドウ Vicia sativa subsp. nigra の異名「カラスノエンドウ」。当該ウィキを見よ。]

2025/06/20

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 蔓椒

 

Inuzansyou

 

いぬさんしやう 豬椒 豕椒

        彘椒 豨椒

        狗椒 金椒

蔓椒

        【和名鼬波之加美

         一云保曽木】

マン ツヤウ   今云以奴山椒

 

本綱蔓椒野生林箐閒枝軟如蔓子葉皆似椒山人亦食

實根莖【苦温】 治風寒濕痺四肢膝痛【煎湯蒸浴取汗】根治痔【燒末之服】


地椒

本綱地椒卽蔓椒之小者其苗覆地蔓生莖葉甚細花作

小朶色紫白因舊莖而生其子小味微辛土人以煑羊肉

食香美

實【辛温有小毒】 治淋渫腫痛可作殺蛀蟲藥

 

   *

 

いぬさんしやう 豬椒《ちよせう》 豕椒《しせう》

        彘椒《ていせう》 豨椒《きせう》

        狗椒《くせう》  金椒

蔓椒

        【和名は「鼬波之加美《いたちはじかみ》」。

         一《いつ》に云ふ、「保曽木《ほそき》。】

マン ツヤウ   今、云《いふ》、「以奴山椒《いぬさんせう》」。

 

「本綱」に曰はく、『蔓椒《まんせう》、林《はやし》・箐《せい》[やぶちゃん注:大規模な竹林。]の閒に野生す。枝、軟《やはらか》にして、蔓《つる》のごとく、子《み》・葉、皆、椒《せう》に似たり。山人、亦、之れを食ふ。』≪と≫。

『實根莖【苦。温。】』『風寒濕痺《ふうかんしつひ》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の後注に『風・寒・温の三つの邪気がまざりあい、身体を侵し』麻『痺を発するもの。悪寒して体はだるく、しびれ、心悸(き)して痺の証があらわれる』とある。]四肢≪の≫膝痛《ひじつう》を治す【煎じ湯にて蒸し浴びし、汗を取る。】。痔を根治す【燒きて末とし、之れを服す。】。』≪と≫。


地椒(ちしやう)

本綱に曰はく、『地椒は、卽ち、蔓椒の小なる者≪なり≫。其《その》苗、地を覆《おほ》ふて、蔓生《つるせい》す。莖・葉、甚だ、細く、花、小《ちさ》≪き≫朶《ふさ》を作《なし》、色、紫白。舊(ふる)き莖に因《よつ》て生ず。其《その》子、小《ちさ》く、味、微《やや》辛《からし》。土人、以《もつて》、羊肉を煑て、食ふ。香、美なり。』≪と≫。

『實【辛、温。小毒、有り。】』『淋渫《りんせつ》≪の≫腫痛[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に『(淋病の菌によっておこる腫痛)』とあるが、要は淋病の主症状で、主に性行為によって尿道・子宮頸管・喉などの粘膜に感染することで発症する。]を治す。≪また、≫蛀蟲《むしくひ》を殺す藥と作《な》すべし。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属イヌザンショウ(犬山椒)変種イヌザンショウ Zanthoxylum schinifolium var. schinifolium

である。「拼音百科」の同種のページ「青花椒」によれば、『别名』は『野椒・天椒・崖椒・隔山消・山甲・狗椒・青椒・香椒子・王椒・小花椒・山花椒』とあり、『標高八百メートルまでの平野の疎らな森林・灌木・岩場などによく見られる。また、中国の武陵山脈以北と遼寧省以南の殆んどの省・地域、更に、北朝鮮と日本にも分布している。揚子江以北で産するこの種の小葉には、透明な腺点』(蜜・油・粘液などを分泌又は貯めておく小さな点状組織)『が多く、葉の毛はまばらで短いか、殆んど、無毛である。小葉は特に江蘇省と山東省で小さく、揚子江以南と武陵山脈以北で産するものの小葉は大きく、腺点は少ない。武陵山脈の南斜面(福建省南部・広東省・広西チワン族自治区を含む)で生産される植物の小葉は最も大きく、毛が密集している。葉の縁の鋸歯状の部分を除いて、その他の腺点は目立たない』とあった。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名、オオバイヌザンショウ、ホソバイヌザンショウ、コバノイヌザンショウともよばれる』。『和名「イヌザンショウ」の由来は、サンショウ』( Zanthoxylum piperitum )『に似るが、香りが弱く』、『香辛料にならないため、名に本物のサンショウに比べて役に立たないという意味の「イヌ」をつけたものである。中国名は「青花椒」』。『日本の本州(秋田・岩手県以西)、四国、九州と、朝鮮半島、中国に分布する。山地や山野の河原や林縁などに生える』。『落葉広葉樹の低木から小高木。高さは』一~三『メートル』『になる。樹皮は灰褐色で、若木は』瘤『状になったトゲがあるが、次第に少なくなる。成木の樹皮には縦に裂け目が入ってくる。若い枝は暗緑色や赤褐色で無毛、トゲが互生し、トゲが対生するサンショウと見分けられる。葉は奇数羽状複葉で互生し、小葉は長楕円形から広披針形で長さは』二~四『センチメートル』『ある。葉に腺点がある』。『花期は』七~八『月でサンショウよりも遅い。雌雄異株。枝の先に淡緑色の小花を多数つける。花は淡緑色で、花弁と萼片が』五『枚ずつつくのが』、『特徴で、サンショウには花弁がないのが相違点である。果期は』十『月。果実は楕円形状球形の蒴果で、紅紫色から紅褐色を帯び』、三『個の分果に分かれる。分果はほぼ球形で長さ』四~五『ミリメートル』『あり、熟しても淡緑色で、熟すと』二『つに裂けて、中から光沢がある黒色の種子を出す。種子は長さ』三~四ミリメートル『の楕円状の球形で、種皮は光沢があるが、種皮を剥くと黒色で表面に凹凸が並ぶ。葉や果実はサンショウほど香らない』。『冬芽は互生し、暗褐色の芽鱗』二、三『枚に覆われた小さな半球状をしており、葉痕のほうが大きい。枝先には仮頂芽がつく。葉痕は半円形や心形で、維管束痕が』三『個ある。しばしば枝先に果序が残る。果実を煎じた液や葉の粉末は漢方薬に利用される。樹皮や果実を砕いて練ったものは湿布薬になる』とある。

 以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の四項目の「蔓椒」のパッチワークである。

「地椒(ちしやう)」正しい歴史的仮名遣は「ちせう」。これは、サンショウとは全く無縁の、

キク亜綱シソ目シソ科イブキジャコウソウ(伊吹麝香草)属イブキジャコウソウ Thymus quinquecostatus

である。但し、時珍の記載は明らかに確信犯的記載であるから、何らかのコショウ属の個体を指しているようには見える。「維基百科」の同種の文字通りの「地椒」を見られたい。そこには、『中国本土の遼寧省・河北省・山西省・山東省・河南省などに分布する』とあった(日本への言及はない)。本邦の当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名、イワジャコウソウ、ナンマンジャコウソウ』(後者の「マンナン」はネットで調べたが、漢字不明。識者の御教授を乞う)。『茎は細く、地表を這い、よく分枝する。枝には短い毛があり、直立して高さは』三~十五センチメートル『になる。葉は茎に対生する。葉身は卵形から狭卵形で、先端は鈍頭、長さ』五~十ミリメートル、『幅』三~六ミリメートル『になり、縁は全縁になる。全体に芳香がある』。『花期は』六~八『月。枝の先端に短い花穂をつける。花冠は紅紫色の唇形で、上唇はわずかに』二『裂して直立し、下唇は』三『裂して開出する。萼は筒状鐘形の唇形となる。雄蕊は』四『本ある。果実は分果となり、やや扁平となる』。『和名は、伊吹山に多く産し、芳香があることから付けられた』。『日本では、北海道、本州、九州に分布し、海岸から高山帯までの日当たりの良い岩地に生育する。アジアでは、朝鮮、中国、ヒマラヤに分布する』。以下、三種の変種・品種が載る。

シロバナイブキジャコウソウ Thymus quinquecostatus f. albiflorus (別資料で、分布は北海道・本州・九州とあった)

ハマジャコウソウ Thymus quinquecostatus f. maritimus (別資料(学術論文)で、分布は本州(関東・東海・三重・福井)とあった)

ヒメヒャクリコウ Thymus quinquecostatus var. canescens (『葉にあらい毛があり、日本の北アルプスに』、稀『にみられる。アジアでは、樺太、ウスリーに分布する』)

以上である。]

2025/06/19

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「國分寺藥師佛奇」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)を添え、段落・改行を成形した。]

 

 「國分寺藥師佛奇」 安倍郡北安東村《きたあんどうむら》龍池山國分寺にあり。寺記云《いはく》、

『永祿十二年、武田晴信入道信玄、兵を當國に入《いる》るの時、當寺の本尊藥師佛を取《とり》て鑄潰《いりつぶ》し、火砲に用《もち》ゆ。其《その》首《かしら》、爍《と》けず、一夜の內に堂中に飛來《とびきた》る。今、猶《なほ》、首のみ、存せり。若《もし》、諸願ある人、是を擡《もたげ》る[やぶちゃん注:持ち上げる。]に、罪障深き者は、力あり共《とも》あがらず。云云』。

 奇成哉《きなるかな》、傳云《つたへていふ》、

「永祿兵災の後《のち》、寺地、年々に破壞して、本尊再建の力《ちから》なく、終《つひ》に木佛を彫《ほり》て本尊とす。」。

 

[やぶちゃん注:「龍池山國分寺」前の「國分寺大蛇呑經」を見よ。

「永祿十二年」一五六九年。この年の末、信玄は、再び、駿河侵攻を行い、駿府を掌握している。

「奇成哉傳」「近世民間異聞怪談集成」は書名としているが、こんな書は存在しないようであるので、以上のように訓読した。もし、あるというならば、是非、お教え戴きたい。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「國分寺大蛇呑經」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)添え、段落・改行を成形した。引用の漢文脈の中に、珍しく、一箇所、ルビがある。上附きで丸括弧で添えた。ここから「安倍郡」パートとなる。当該ウィキによれば、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では、概ね、静岡市葵区の大部分(春日・柚木・宮前町・長沼・古庄・瀬名・瀬名川・南瀬名町・東瀬名町・西瀬名町・瀬名中央・長尾・平山を除く。静岡駅周辺の住居表示実施地区の境界線は不詳)にあたる』。『駿河国府が置かれた地である』とある。旧郡域はリンク先の地図を見られたい。]

 

       安  倍  郡

 「國分寺大蛇呑經《こくぶんじ おろち きやうを のむ》」 安倍郡北安東村龍池山國分寺【東動院と號す。眞言高野山無量光院末、寺領八石。】、別堂にあり。「三代實錄」云《いはく》、

『貞觀十四年壬辰夏六月三十日己亥、駿河國國分寺別堂大蛇、呑般若心經卅一卷、復一軸、觀者以ㇾ繩結蛇尾、倒懸樹上小選(シバラク)乄吐ㇾ經、蛇落ㇾ地半死、俄而更生【下畧。】。同年秋七月二十九日丁酉、駿河國、蛇呑佛經之異、神祗官卜曰、

「當年冬、明年春、當國有失火疫癘之災。」。[やぶちゃん注:「當」の下には返り点「三」はないが、文脈から、「近世民間異聞怪談集成」にあるのを採用した。]」是日令下二國司鎭謝云云。[やぶちゃん注:現行の返り点では存在しない「下二」が使われている。これは、「近世民間異聞怪談集成」でもそうなっている。論理的にはおかしいものの、こうした返り点は古くはあったし、私には違和感はない。]」。

 大蛇の人を呑《のむ》事、往々、聞けり。未《いまだ》、經を呑事を聞かず。奇なる哉《かな》。

 

[やぶちゃん注:「安倍郡北安東村龍池山國分寺【東動院と號す。眞言高野山無量光院末、寺領八石。】、別堂にあり」現在の駿府城跡の北西外直近の静岡市葵区長谷町に現存する(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。ウィキの「駿河国分寺」を引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。『真言宗醍醐派の寺院。山号は龍頭山。本尊は地蔵菩薩』。]『奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、駿河国国分寺の後継寺院といわれる。本項では、創建当時の寺跡として駿河国分寺跡を巡る議論についても解説するとともに、駿河国分尼寺についても解説する』。『静岡市中心部、駿河国総社の静岡浅間神社の東方約』四百五十『メートルの地に鎮座する』。『駿河国の国分寺については、古代における所在地は確定されていないが、中世には当地付近に「国分寺」を称する寺院があったことが知られる(ただし法統関係は定かでない)』。仁治三(一二四二)年(鎌倉時代前期。この年、四条天皇が正月に崩御し、後嵯峨天皇が即位しており、鎌倉幕府将軍は藤原頼経で、執権は、この年の六月に第三代北条泰時が逝去し、北条経時が就任した)『には』「惣社幷國分寺云云」『とあることから、同年頃には、惣社(静岡浅間神社)の側に存在したとされる』。『その後も』享禄三(一五三〇)年(事実上の戦国時代。後奈良天皇で、室町幕府の第十二代征夷大将軍は足利義晴)は、『の朱印状や』「言繼卿記」弘治二(一五五六)年(後奈良天皇。但し、翌年に崩御し、正親町(おおぎまち)天皇が即位している。室町幕府将軍は足利義輝)『条にも記載が見える。史料から、国分寺の子院である龍池山千灯院(泉動院[やぶちゃん注:本文の「東動院」はこれの誤字か、或いは、後に改名したものかも知れない。]/仙憧院)によって事実上継承されたと見られている』。『その後も、江戸時代を通じて「国分寺」を称する寺院が当地に存在したことは明らかで、その後裔が当寺と見られる』。『創建時の国分寺の位置は未だ明らかとなっていない。その中で最も有力視されるのが、静岡市駿河区大谷にある片山廃寺跡(国の史跡)』(現在の同大谷にある「片山廃寺跡瓦窯跡」の近くであろう)『である。この片山廃寺は塔跡が未発見であったため、国分寺説を否定して有度郡の地方豪族の私寺と見る説が挙げられているが』、二〇〇九年『の調査で塔跡と推定される版築』(はんち:土を建材に用い、強く突き固めて、堅固な土壁や建築の基礎部分を徐々に高く構築する工法を指す)『が見つかっており、国分寺の可能性を高めている。なお、この片山廃寺を国分寺跡と見ない説では、国分寺跡を静岡市葵区長谷町や駿府城内東北部に推測』している。『一方、後述の菩提樹院境内には国分寺の遺構とする説のある塔心礎が伝わっており、「伝駿河国分寺の塔心礎」として静岡市指定文化財に指定されている。その銘文から』、明和八(一七七一)年(第十代将軍徳川家治の治世)『に駿府城代武田信村から駿府城三の丸城代屋敷内の社の手水鉢として奉納されたものとされる。元々はいずれの寺院で使用されたのか明らかでないが、舎利穴の大きさは甲斐や伊豆の国分寺とほぼ同じになる。この心礎は、昭和』五(一九三〇)年『に日本赤十字社静岡支部の庭(現・静岡県総合福祉会館の位置)において発見され、昭和』二八(一九五三)年『に国分尼寺後裔と伝える菩提樹院に寄進された』。『国分尼寺についても、創建時の位置は明らかでない。太田道灌作といわれる』「慕景集」の嘉吉元(一四四一)年『の記事に』『國府尼寺菩樹院』『と見えることから、後継寺院は静岡市葵区沓谷』(くつのや)『の正覚山菩提樹院であるといわれるが、根拠に乏しく確証はない。菩提樹院』の『寺伝では、武田氏の駿河侵攻において兵火を受けたため、天正年間』(一五七三年~一五九二年)『頃に駿府城西方に再興されたという。その位置は常磐公園付近にあたるが』、昭和一五(一九四〇)『の大火で焼失したことにより、さらに現在地に移転した。この菩提樹院境内には、前述のように国分寺のものと伝える心礎が残っている』とある。

「三代實錄」「日本三代實錄」。六国史の第五の「日本文德天皇實錄」を次いだ最後の勅撰史書。天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年までの三十年間を記す。延喜元(九〇一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真ら。編年体・漢文・全五十巻。

 以下、漢文部を訓読する。今回は、国立国会図書館デジタルコレクションの「國文 六國史 第十」(武田祐吉・今泉忠義編・昭和一六(一九四一)年大岡山書店刊)の当該訓読部(左ページの最終行から)を参考にしたが、見てみると、本文に大きな異同が複数あるので、以上の訓読で読み変えた箇所がある。中略部分も補い、参考底本を参考にして改行・改段落を加えた。実は、後半部は参考底本では、飛んでいるここの左ページ四行目以降ので、そこも、最低、必要な部分(かなりカットされている)を加えた。

   *

 貞觀(ぢやうぐわん)十四年壬辰(みずのえたつ/じんしん)夏六月三十日己亥(つちのとゐ/きがい)[やぶちゃん注:清和天皇の御世。但し、この年は六月は小の月で「三十日はない。干支が合わないのは史料では価値が認められないから、調べてみると、前月五月三十日が「己亥」であるから、それで記すと、ユリウス暦八七二年七月九日、グレゴリオ暦換算で七月十三日である。それで採る。]、駿河國(するがのくに)國分寺の別堂に大蛇(おろち)、有り、「般若心經」卅一卷を復(あは)せて一軸と爲(な)ししを呑む。觀(み)る者、繩(なは)を以つて、蛇の尾に結び、倒(さかしま)に樹上(じゆじやう)の懸(か)く。小選(しばらく)して、經を吐き、蛇(へび)、地に落ちて、半(なかば)、死(し)に、俄(しばら)くして、更(また)、生きき。

 備後國(びごのくに)、連理(れんり)の樹(き)一(ひともと)を獲(え)き。

 同年秋七月、二十九(にじふく)日丁酉(ひのえとり/ていいう)[やぶちゃん注:この干支は正しい。ユリウス暦八七二年九月五日、グレゴリオ暦換算で九月九日。]、駿河國の蛇、佛經を呑みし異(しるまし[やぶちゃん注:奇怪な徴候・不吉な前兆。])、神祗官、卜(うら)して曰はく、

「當年の冬と、明年の春と、當國(そのくに)に、失火(しつくわ)・疫癘(えきれい)の災(わざはひ)、有り。」

と申(まう)しき。是(こ)の日、國司をして鎭謝(ちんしや)[やぶちゃん注:神霊をしずめなだめること。]せしめき。

   *]

2025/06/18

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「私雨」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)添え、段落・改行を成形した。なお、これで「駿東郡」のパートは終わっている。]

 

 「私雨《わたくしあめ》」 駿東郡足柄山《あしがらやま》にあり。傳云《つたへいふ》、

「天氣快霽《くわいせい》、外《ほか》一點の雲なき日といへども、此山、忽《たちまち》、雲、生じ、村雨《むらさめ》、降る。餘山《よざん》、猶《なほ》、晴明也。故に土俗、是を號《なづけ》て『私雨』と云《いへ》り。凡《およそ》、此《この》足柄山は、當郡竹の下村を境として、駿・相《さう》兩國に跨《またが》れり。故に茲《ここ》に記す。

 

[やぶちゃん注:「足柄山」ウィキの「金時山」によれば、読みは、「きんときやま」「きんときさん」で、『金太郎伝説や童謡「金太郎」の歌詞』の二『番』にある『足柄山の山奥で けだもの集めて相撲のけいこ……』『で知られる足柄山(あしがらやま)は、金時山から足柄山地の足柄峠にかけての山々の呼称である。山域の呼称であり、足柄山という単独の峰は存在しない』とある。「ひなたGIS」で示すとここで、一方、広域の足柄山地は、ウィキの「足柄山地」によれば、『神奈川県北西部に広がる丹沢山地と同県南西部の箱根山地の間にある標高』一千メートル『前後の小規模な山地であり、丹沢山地とは神縄断層および小菅沢断層、箱根山地とは内川断層によって境される』。『このように断層によって隔てられた山地であるが、丹沢山地や箱根山地の一部として扱われることも多い』。『山地中央部を流れる酒匂川によって北東部と南西部に分けられ、北東部は起伏の小さい地域、南西部は起伏の大きい山地となっている』。『いずれの地域も多くは』、『たおやかな地形となっているが、南部に位置する矢倉岳は石英閃緑岩の貫入岩体が浸食から取り残され』、『おにぎりを立てたような形となっており』、『足柄山地の象徴的な存在となっている』とある。因みに私は、神奈川県公立高校教師時代、若い頃と、終わりの頃に、ワンダフォーゲル部と山岳部の顧問をしたが、後者では、毎春は、金時山登山を常としていた。私は、ここから見る富士山が最も美しいと思う。グーグル・マップ・データのサイド・パネルの画像をリンクさせておく。

「竹の下村」現在の静岡県駿東郡小山町竹之下(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

2025/06/17

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 柚山椒

 

Yuzukosyou

 

ゆうさんしやう

 

柚山椒

 

本綱蘓頌曰東海諸島上有椒枝葉皆相似子長而不圓

甚香其味似橘皮島上麞鹿食其葉其肉自然作椒橘香

△按俗稱柚山椒者是也𠙚𠙚希有之枝葉子皆相似而

 其香氣似柚橘之類不上品伹其子長而不圓者少異

 而已

 

   *

 

ゆうさんしやう

 

柚山椒

 

「本綱」、蘓頌、曰≪はく≫、『東海諸島の上に、椒、有《あり》。枝・葉、皆、相《あひ》似て、子《み》、長《ながく》して、圓《まろ》からず。甚《はなはだ》、香《かほ》ふ[やぶちゃん注:ママ。]。其《その》味、「橘皮《きつぴ》」に似《にる》。島の上≪にては≫、麞-鹿《のろじか》、其の葉を食ふ。其の肉、自然に、椒・橘の香《か》を作《な》す。』≪と≫。

△按ずるに、俗、「柚山椒」と稱するは、是《これ》なり。𠙚𠙚《ところどころ》、希《まれ》に、之《これ》、有り。枝・葉・子、皆、≪山椒と≫相《あひ》似て、其の香氣、柚《ゆず》・橘《たちばな》の類《たぐゐ》に似たり。上品ならず。伹《ただし》、「其の子、長くして、圓かならず。」と云《いふ》は、少《すこし》、異《こと》なるのみ。

 

[やぶちゃん注:調味料としての「柚山椒」は私の欠かせないものだが、植物種としての「柚山椒」なるものは、ネット上では、如何にしても見出せない。従って、注は、一切、附せられない。東洋文庫訳もシカトしている。植物種として御存知の方は、是非、御教授を乞うものである。

 以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十の「果之四」「味類一十三種内附四種」の冒頭の「秦椒」の「集解」の一部である。

「橘皮」「第八十七 山果類 橘」の本文中の「橘皮」、及び、私の注の「枳実」及び「橘皮」を参照されたい。

「麞鹿」シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus。「獐(のろ)」とも。「ノロジカ」は哺乳綱鯨偶蹄目シカ科ノロ亜科ノロ属ノロ Capreolus capreolus 。漢字表記は「麕鹿」「麞鹿」麇鹿」「獐鹿」であるが、単に「ノロ」とも呼び、その場合は以上の「鹿」を除去した一字で通用する。ウィキの「ノロジカ」によれば、『ヨーロッパから朝鮮半島にかけてのユーラシア大陸中高緯度に分布する。中国では狍子』(パァォヅゥ:或いは単に「狍」)『と呼ばれる』。体長は約一~一・三メートル、尾長約五センチメートルと、『小型のシカ。体毛は、夏毛は赤褐色で、冬毛は淡黄色である。吻に黒い帯状の斑があり、下顎端は白い。喉元には多彩な模様を持つのがこの種の特徴である。臀部に白い模様があるが、雌雄で形は異なる。角はオスのみが持ち、表面はざらついており、先端が三つに分岐している。生え変わる時期は冬』。『夜行性で、夕暮れや夜明けに活発に行動する。食性は植物食で、灌木や草、果実などを食べる』とある。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麞(くじか・みどり) (キバノロ)」も参考になろう。]

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 冬山椒

 

Huzansyou

 

ふゆさんしやう 俗稱

 

冬山椒

 

 

本草蘇頌曰秦椒初秋生花秋末結實九月十月采之

△按有冬山椒者其葉大而冬實熟者此秦椒之別種也

 人以爲珍然不如夏山椒氣味佳者時珍未見之乎𧁨

 頌之說以爲不然者非也

 

   *

 

ふゆざんしやう 俗稱

 

冬山椒

 

 

「本草」に曰はく、『蘇頌が曰《いは》く、「秦椒、初秋、花を生じ、秋の末、實を結ぶ。九月、十月に、之≪を≫、采《とる》。」と云《いふ》[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]。

△按ずるに、「冬山椒」と云《いふ》[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]者、有り。其《その》葉、大にして、冬、實、熟する者、此れ、「秦椒」の別種なり。人、以《もつて》、珍と爲《なす》。然れども、「夏山椒」の氣味、佳なる者には、如《し》かず。時珍、未だ、之《これ》を見ざるや。𧁨頌《そしよう》の說を以《もつて》、「然《しか》らず」と爲《なす》は、非なり。

 

[やぶちゃん注:これは、良安にして珍しく(皮肉ではない。鎖国時代の彼にして、正しい種を、たまたま来訪した中国人の漢方に関わる又聞きででも基原植物について多少は聞いたものであったとしても、机上で中国の本草書の各種資料を基に、推理して現代の種名の正解を言い当てるのは、かなり難しいことだと言ってよい。しかも以下の引用を見るに、本邦で漢方生剤としてよく用いられてはいなかったようであるから、なおさらである)、正しい推定が図に当たったもので、日中共通種である、既出のカホクザンショウの変種である、

サンショウ属カホクザンショウ変種フユザンショウ(冬山椒) Zanthoxylum armatum var. subtrifoliatum

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした。太字は私が附した)。『名前の由来は冬でも葉を落とさないサンショウという意味』原種の『学名の』種小名“ armatum ”『は、「刺のある」の意味。冬でもわずかに葉を残す』。『中国、台湾、朝鮮半島、日本に分布する』。『日本では本州(関東地方以西)、四国、九州、沖縄の丘陵帯に分布する』。『暖地の山地に生える』『常緑広葉樹の低木』で、『樹高は』二~三『メートル』『ほど』(原種と同じ)。『雌雄異株だが』、『日本では雌株だけしか存在しない』(原種は雌雄ともに日本に植生する)。『樹皮は灰黒色で筋があり、こぶ状の大きなトゲの名残がある。若い幹の樹皮は皮目が多い。一年枝は赤褐色で、無毛または毛が残り、枝や葉柄の基部には対生するトゲがある。若い枝やトゲは同じ色合いで、白い葉痕が目立つ。葉は奇数羽状複葉で互生する。葉柄には翼がある。小葉は』三~七枚『の長楕円形。頂小葉が一番大きい。葉縁には鋸歯がつく』(原種の「サンショウ」のウィキには、『葉柄の基部に鋭い棘が』二『本ずつ対生してつくが、ときに単生するものや』、『突然変異で棘の無い株(実生苗)も稀に発生し得る』。『棘の無い「実山椒(雌木)」としては但馬国の朝倉谷(兵庫県養父市八鹿町朝倉地区)原産の「朝倉山椒」』(前項参照)『が特に有名であるものの』、それに限らず、『日本各地で棘の無いサンショウの栽培が見られる』とある)。『花期は』四~五『月ごろ。葉腋に』二~三『センチメートル』『の花序を出し、淡黄緑色の小さな花をつける。雌株だけで実をつける単為生殖で増える。果期は』八『月で』、十~十一『月には果実は赤く熟し』、二『つに分かれる。種子は黒色で直径約』五『ミリメートル』『ある』。『冬芽は裸芽で、幼い葉が小さく集まり、側芽は枝に互生する。葉痕には維管束痕が』三『個つく』。本邦では、『葉や実には芳香性が無いので、サンショウのように食用にはならないが、サンショウの接ぎ木の台木としては用いられる』とある。

 以上の引用本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十の「果之四」「味類一十三種内附四種」の冒頭の「秦椒」の「集解」の一部である。既に当該項の全文を先行する「秦椒」の注で「本草綱目」の「秦椒」の項の全文を掲げてあるが、当該部は、

   *

頌曰今秦鳳明越金商州皆有之初秋生花秋末結實九月十月采之

   *

の抄録である。蘇頌(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)は北宋の科学者で宰相。「本草圖經」等の本草書があった。原本は散佚したが、「證類本草」に引用されたものを元にして作られた輯逸本が残る。時珍は彼の記載を「本草綱目」で、かなり引用している。而して、良安が引いているのは、「集解」の終りの時珍の記載の最終部で、

   *

蘇頌謂其秋初生花蓋不然也

   *

である。但し、軽々には、ここで蘇頌が言っているのが「冬山椒」であり、時珍が蘇頌が指示しているものが、「冬山椒」であり、良安がまた、同じく「冬山椒」と判断し、蘇頌が誤記している、と認めることは、そもそもが、「本草小目」の「秦椒」と「蜀椒」が、現代の研究に基づくと、複数の同一種の混淆記載であることが指摘されている以上、到底、不可能であることに注意されたい。

2025/06/16

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和漢三才圖會卷第八十九 味果類 朝倉椒

 

Asakurazannsyou

 

[やぶちゃん注:下方の中央やや左位置に二つの花をつけた枝が、独立して添えて描かれてある。実は本図内にさわに実っている。]

 

あさくらさんしやう

 

朝倉椒

 

 

△按朝倉山椒始出於伹馬朝倉谷【其谷兩岸四五町閒皆椒樹也】丹波

 丹後多接其枝今人以爲丹波朝倉近頃奧州津輕之

 産亦顆大而氣味勝矣京師大坂人家雖接枝多不長

 經四五年者希也山椒之名𢴃此其樹無刺葉大而顆

 亦大於他椒夏月開小花其目光黒最美其子生者不

 佳可以枝接

椒紅 俗云乾山椒也常乾山椒辛味微而經月則變苦

 朝倉椒正赤而甚辛越年亦味不變伹忌觸人手此乃

 本草所謂蜀椒乎然蜀椒不𬜻結子朝倉椒有花亦無

 針蓋此一種因土地之異然耳

 凡蛇喜山椒樹來棲反鼻蛇最然矣


椒葅法

[やぶちゃん字注:「葅」は原文では、(くさかんむり)の左下は「メ」「メ」であるが、異体字にはないので、これとした。この字は「漬物」を意味する。

△按淹山椒六月用半熟者一升鹽三合和藏缾噐入水

[やぶちゃん字注:「缾」は原本では(へん)が「卸」の(へん)になっているが、誤刻と断じて訂した。この漢字は「瓶」と同字である。口が小さく、徳利(とっくり)に似た形をしている噐を指す。]

二升上安小木板而用小石畧壓之使椒不浮漂毎用取出以後亦如此否則變色味

 

   *

 

あさくらさんしやう

 

朝倉椒

 

 

△按ずるに、朝倉山椒《あさくらさんせう》は、始《はじめ》、伹馬《たじま》の朝倉谷《あさくらだに》に出づ【其の谷の兩岸、四、五町[やぶちゃん注:四百三十六~五百四十五メートル。]の閒、皆、椒樹《せうじゆ》なり。】。丹波・丹後に多《おほく》、其の枝を接《つ》ぎ、今の人、以《もつて》、「丹波の朝倉」と爲《なす》。近頃、奧州津輕(つがる)の産、亦、顆《つぶ》、大にして、氣味、勝《まさ》れり。京師・大坂の人家に枝を接ぐと雖《いへども》、多《おほ》≪くは≫長《ちやう》ぜず、四、五年を經る者、希《まれ》なり。「山椒」の名、此《これ》に𢴃《よる》[やぶちゃん注:ここは、平野平地ではなく、山や谷間の地で、よく成長することに由来する名であることを言っているのである。]。其《その》樹、刺《とげ》、無く、葉、大にして、顆《たね》も亦、他《ほか》≪の≫椒《せう》より、大なり。夏月、小≪さき≫花を開く。其の目《み》[やぶちゃん注:「實」。]、光り、黒《くろ》≪くして≫、最≪の≫美なり。其の子生(みば)への者は、佳《か》ならず。枝を以≪つて≫接《つ》ぐべし。

「椒紅《せいこう》」は、俗、云《いふ》「乾山椒(ひさんしやう)」なり。常《つね》の乾山椒は、辛味、微にして、月を經れば、則《すなはち》、變じて、苦(《に》が)し。朝倉椒は、正赤にして、甚だ、辛く、年を越《こえ》ても亦、味、變ぜず。伹《ただし》、人の手を觸《ふる》ふを忌む。此《これ》、乃《すなはち》、「本草≪綱目≫」に所謂《いはゆ》る、「蜀椒《しよくせう》」か。然れども、蜀椒は、𬜻《はな》、さかずして、子《み》を結ぶ。「朝倉椒」は、花、有《あり》て、亦、針、無し。蓋し、此れ、一種にして、土地の異に因《より》て然《しかる》のみ≪ならん≫。

 凡そ、蛇(へび)、山椒の樹を喜《よろこび》て來《きた》り、棲《すむ》。反鼻蛇(くちはみ《へび》)[やぶちゃん注:有鱗目クサリヘビ科マムシ(蝮)亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii の異名。]、最も然り。


椒葅法(づけさんしやう)

△按ずるに、山椒を淹(つ)けるに、六月、半熟の者を用《もちひ》て、一升≪に≫鹽三合、和《わ》して、缾-噐(つぼ)に藏(をさ)め、水二升、入《いれ》て、上に、小《ちさ》き木板《きいた》を安《やすん》じ、小石を用て、畧《ほぼ》、之れを壓(お)し、椒をして、浮《うき》漂《たゞよ》はざらしめ、用る毎《ごと》に、取出《とりいだし》、以後、亦た、此《かく》のごとくす。否(しからざ)れば、則《すなはち》、色・味を變ず。

 

[やぶちゃん注:「朝倉」山「椒」は、当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『朝倉山椒(あさくらさんしょ)』現代仮名遣では、ネット検索では多くは「あさくらさんしょう」ではなく「あさくらさんしょ」である。但し、後に示すように正式な和名品種の学名は「アサクラザンショウ」で、濁る。ところが、「あさくらざんしょう」と濁る読みは流通を含み、ネット上には見当たらない。例外例らしいものは、栽培用の接木用の「朝倉実山椒」で、これは素直に読むなら、「あさくらみざんしょう」と読んでいる可能性が高いと私は思う『は、兵庫県養父市特産の山椒。毎年』六『月から』七『月にかけてと』、九『月の、年』二『回の収穫時期がある。但馬地方の地域ブランドとしての名称は「朝倉さんしょ」であるとある。『論文と現地調査から朝倉山椒の原産地は今瀧寺』(現在の兵庫県養父市八鹿町(ようかちょう)今滝寺(こんりゅうじ):グーグル・マップ・データ)で、『発祥の地が』、そこの東直近の『養父市八鹿町朝倉』(グーグル・マップ・データ)『とされている』。『柑橘系の爽やかな香りと、さっぱりと柔らかな辛みが特徴的な山椒で、枝に棘がなく、実が多くつく。全国で栽培されている山椒の多くは、この朝倉山椒の中からとくに大きな実のなる苗木を交配し、品種改良したものとなっている』。『文献にみえる最古の記録は、慶長』一六(一六一一)年九月二十六日、『生野奉行』(いくのぶぎょう:織田信長・豊臣秀吉、及び、江戸幕府により置かれ、「生野銀山」を管理した。享保元(一七一六)年、同銀山の産出量減少のため、「生野代官」に組織変更された)『の間宮新左衛門が駿府城にいた徳川家康に献上したことを伝える記録で、朝倉の集落で多く栽培されていたことから「朝倉山椒」と記録したものとみられる。また、寛永年間』(一六二四年~一六四四年)『のある年』、十一月二日『に、出石』(いずし:兵庫県豊岡市内)『出身の名僧と知られる沢庵和尚が、松平阿波守』(阿波徳島藩第二代藩主蜂須賀忠英(ただてる))『に朝倉山椒を一折を贈った記録が残る』。さらに『先立つこと』、天正一四(一五八六)年『には、豊臣秀吉が焦がした山椒を白湯に入れて飲み、風流だと喜んだとも伝えられ、山椒は高貴な身分の者への献上品として好まれたとみられる。江戸時代には出石藩、篠山藩などから、枝付きの房のままの成熟した山椒を袋や箱に入れて幕府へ献上された』。『江戸時代になると、俳諧、狂歌で朝倉山椒が題材となっている』。延宝六(一六七五)年『には狂歌で半井朴養』(なからいぼくよう:本業は幕医)が、

 朝倉や木の丸粒の靑山椒

という一首を詠じている、とあった。

 無論、これは本邦のサンショウの品種であり、学名は、

アサクラザンショウ Zanthoxylum piperitum f. inerme

である。ウィキの「サンショウ」の「系統品種」の

『アサクラザンショウ(朝倉山椒、Z. piperitum (L.)DC forma inerme (Makino) Makino)』の項には、

『突然変異で現れた、棘の無い栽培品種をいう』。『江戸時代から珍重されていた』。『実生では雌雄不定で』、且つ、『棘が出てくるので、主に雌株を接ぎ木で栽培した物を朝倉山椒として販売している』とあった。なお、実はネットで調べたところでは、

――別名に「ブドウンショウ(葡萄山椒)」がある――

という記載があったのだが、このウィキでは

   *

『ブドウザンショウ(葡萄山椒)

アサクラザンショウから派生した系統とされる。小さいものの、枝に棘がある。樹高が低く、果実が大粒で葡萄の房のように豊産性であるため、栽培に適している』。『雌株を接ぎ木で栽培している。』

   *

とあった。但し、学名を添えていない

『「椒紅《せいこう》」は、俗、云《いふ》「乾山椒(ひさんしやう)」なり。常《つね》の乾山椒は、辛味、微にして、月を經れば、則《すなはち》、變じて、苦(《に》が)し。朝倉椒は、正赤にして、甚だ、辛く、年を越《こえ》ても亦、味、變ぜず。伹《ただし》、人の手を觸《ふる》ふを忌む。此《これ》、乃《すなはち》、「本草≪綱目≫」に所謂《いはゆ》る、「蜀椒《しよくせう》」か。然れども、蜀椒は、𬜻《はな》、さかずして、子《み》を結ぶ。「朝倉椒」は、花、有《あり》て、亦、針、無し。蓋し、此れ、一種にして、土地の異に因《より》て然《しかる》のみ≪ならん≫』地域性個体変異説は誤り。既に前の「蜀椒」の私の注で述べた通り、「蜀椒」は冒頭の「秦椒」と同じ、

サンショウ属カホクザンショウ(華北山椒) Zanthoxylum armatum 

である。

「凡そ、蛇(へび)、山椒の樹を喜て來《きた》り、棲。反鼻蛇(くちはみ《へび》)、最も然り」私は嘗つて、宅地の一画に永らく大きなサンショウの木があったが、ヘビやマムシ云々という事実はない(その比較的近くに巨大なアオダイショウが今も巣を作っているが、サンショウの木に近づいたことは、ない。また、以上の話は、私は全く聴いたことがない。しかし、「YAHOO!知恵袋」のここで、『少し前に 山から採ってきた山椒の木を玄関先の花壇に植えました。ところが、年寄りに「山椒にはまむしが来るので 玄関はやめた方がいい、山の畑に植えろ!」と言われました。本当なんでしょうか? 私は、山椒の葉などを料理に使いたいので いつでも、とって使えるところがいいと思ったのですが・・・』という問いに対し、ある応答では、『マムシの臭(匂)い・・・嗅いだ事がありますか?(野山でマムシに出会うと、一種独特の臭いがします)。よく「マムシの臭い≒山椒の匂い」に例えられます。(「鮎の匂い≒西瓜の匂い」と同様、感じ方には個人差があります)。山椒を植えたからといって、マムシが寄って来るというのは迷信だと思いますが、一部の園芸種を除く山椒には、鋭い棘があります。人の往来の多い玄関先に植えると、棘による思わぬ事故が・・・。その辺を心配した迷信かも知れませんネ。(以下略)』と応じており、「ベストアンサー」の「ねずみ1番さん」のそれには、『うちは山の林の中にありまして、近所の家の縁側にはマムシ焼酎の大瓶が並んでいたりするんですけど(つまりそこらじゅうにマムシがいる)、我が家のテラスのど真ん前に山椒の木を植えてありますが、テラスでマムシを見たことはありません。庭の端のほうには居ると思います。「草やぶ化」していて長靴なしでは歩けませんから。山椒にイモムシ・ケムシがつくと、たった一日で驚くほど食べ尽くされてしまうそうです。姉が東京のアパートのベランダで被害に遭ったそうです。うちは野鳥がいっぱい来るみたいだから(関心がないから、しっかり観察していない)それで無事なんだと思います。実際、時々高い木の上から小鳥が飛んできて、山椒の木に2~3羽とまっています。トゲトゲなのに。「庭に小鳥を呼ぼう」みたいな本を買ってきて餌台みたいなのを作ったら、山椒の木を守ってもらえるかもしれませんね。全般的に無責任口調ですみません。山椒の木が一本あると料理に便利ですよね。山の畑が遠いのでしたら、そこまで離れたところに植えるのは残念ですね。葉を大量に摘んで佃煮にしても美味しいですよ♪(余談)って言うかこの回答丸ごと余談です。』とあった。一応、「アホ臭」と思いながらも、ネット検索を続けたが、生物学的に相互の親和性を記す記事は皆無であった。

2025/06/15

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「小龍爲佛身」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)添え、段落・改行を成形した。]

 

 「小龍爲佛身《しやうりゆう ぶつしんと なる》」 駿東郡某の村にあり。

 「風土記」云《いはく》、

『駿河郡古家靑龍寺、寄田二十七束二畝半二毛田、朱鳥元年丙戌十月、役小角點小龍而爲佛躰、故曰二靑龍寺一云云。』。

古家は鄕名《がいめい》也。按《あんず》るに、人、信じても、得難きは佛果《ぶつくわ》也。然《しか》るを、小角いか成《なる》法力《はふりき》の有《あり》てか、小龍をたやすく佛《ほとけ》とはなしたる、實《げ》に奇と云《いふ》べし。

 

[やぶちゃん注:「風土記」の漢文部を推定訓読しておく。これは、通常の「駿河風土記」である。

   *

 駿河郡《するがのこほり》古家《ふるいへ》靑龍寺《せいりゆうじ》、寄田《よりだ》二十七束《そく》二畝半《ほはん》二毛田《にもうだ》、朱鳥(しゆてう/すてう/あかみとり)元年丙戌(ひのえいぬ)十月、役小角《えんのおづぬ》、小龍を點《てん》じ、而して佛躰《ぶつたい》と爲《な》す。故《ゆゑ》、「靑龍寺」と曰ふ。云云《うんぬん》。

   *

「駿東郡某の村にあり」「駿河郡古家靑龍寺」当初、「富士宮市」公式サイト内の「柚野の地名について」(「柚野」は「ゆの」と読む)に、『古代の富士郡の地名を記したものとして』「倭名類聚抄」『という平安時代中期に作られた漢和・百科事典があります』。『これによれば、富士郡は当時「島田(しまだ)・小坂(おさか)・古家(ふるいえ)・蒲原(かんばら)・馬家(うまや)・大井(おおい)・久武(くに)・姫名(ひな)・神戸(かんべ)」の』九『つの郷と呼ばれる地域にわかれていました。ただ』、『具体的にどの郷が現在のどこにあたるのかは書かれていません』とあり、同定は難しいかと思ったのだが、「青龍寺」で調べると、御殿場市に現存する寺が確認出来たため、「御殿場静岡 役行者 龍 仏身 青龍寺 御殿場」で調べたところ、「静岡県:歴史・観光・見所」「御殿場市: 青竜寺」のページに、『青竜寺(御殿場市)概要:』『護法山青龍寺は静岡県御殿場市増田に境内を構えている臨済宗建長寺派の寺院です。青竜寺の境内に作庭された池に浮ぶ蓮青竜寺境内に植樹された大木と石碑青龍寺の創建は飛鳥時代に修験道の祖とされる役行者(役小角)によって開かれたのが始まりとされます。総門は切妻、本瓦葺き、一間一戸、四脚門。本堂は木造平屋建て、入母屋、銅瓦棒葺き、平入、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。山門は宝形屋根、銅板葺き、上層部鐘撞堂、外壁は柱のみの吹き放し、高欄付き、下層部は袴腰、外壁は下見板張り縦押縁押え、鐘楼門形式。落ち着いた境内には苔むした石段があり正面には珍しい袴腰造の鐘楼門が建っています。山号:護法山。宗派:臨済宗建長寺派。本尊:阿弥陀如来。』とあったので、役行者所縁の寺は静岡に複数あるようだが、まず、ここがそれと断定してよいと思われる。現在の静岡県御殿場市増田(ましだ)のここにある(グーグル・マップ・データ)。

「寄田」これは「寄るところの寺領持ちの田圃」の意味でとっておく。

 さて、調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河國新風土記 富士山、附錄、第九」「第十輯」(扉標題(活字印刷)・駿河/新庄道雄著・出雲/足立鍬太郞訂・昭和九(一九三四)年志豆波多會刊・但し、本文はガリ版刷(但し、一部は印字が薄いが、かなり読み易い)の、ここから書かれてある「役小角」(左丁七行目冒頭に四角で「役小角」とある)の長い記載の、ここの右丁の二行目以降に、「風土記」の記事が記され、さらに次のコマまで書かれてあるので見られたい。活字に起こすことも考えたが、これと言って、この底本の電子化については、注に相当な時間と労力をかけている割には、読者のエールも極めて少ないので、やらない。悪しからず。

2025/06/14

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「桃澤池奇怪」

[やぶちゃん注:底本はここ。記号(変更を含む)を添えた。]

 

 「桃澤池奇怪《ももざはいけ の きくわい》」 駿東郡上窪村桃澤池にあり。「風土記」云《いはく》、『駿河郡桃澤、桃澤池、東西三里、南北四里程、出于鮮、又令ㇾ栖鴻雁鸛鶴鴨鷺名禽池島有ㇾ神、所ㇾ祭鳴澤女神也。土俗、以兒夜啼、祈此社、其忽驗如ㇾ巡ㇾ掌、曰鳴神云云。』。今は祈る者ありとも聞えず。

 

[やぶちゃん注:先に「風土記」(既出既注であるが、正規の「風土記」ではない、怪しいものだが、本記載は、国立国会図書館デジタルコレクションの現行の複数の「駿河風土記」を調べたが、見当たらない)の引用部を推定で訓読する。原文は、送り仮名が一箇所あるのみで、かなり不全であるから、自然流で補ってある。一部の読点を句点に代えた。

   *

 駿河郡《するがのこほり》桃澤《ももざは》、桃澤池《ももざはのいけ》、東西三里、南北四里程、鮮《あざや》かに出で[やぶちゃん注:景観がくっきりと見通せるさまであろう。]、又、令ㇾ鴻《こうのとり》・雁《かり》・鸛《こふのとり》・鶴《つる》・鴨《かも》・鷺《さぎ》の名禽《めいきん》[やぶちゃん注:名だたる鳥たち。]を栖《す》めしむ。池の島、神、有り、所ㇾ鳴澤《なきさは》の女神を祭《まつり》せむなり。土俗に、「兒《こ》の夜啼《よなき》を以つて、此の社《やしろ》に祈れば、其れ、忽ち、驗《しるし》、掌《たなごころ》を巡《やすん》ずる[やぶちゃん注:「手のひらを合わせて祈るやいなや、立ちどころに平癒する」の意であろう。]がごとくなれば、『鳴明神《なきみやうじん》』と曰《まう》す。」と云云《うんぬん》。

   *

この「桃澤池」は不詳であるが、既に、三つ前の本「卷之二十四下」冒頭の「神木鳴動」に「桃澤」は出る。しかし、ここは、愛鷹山の南東の山麓であり、このような大きな池は見出せない(「ひなたGIS」を見よ)。しかし、そちらでは、「安倍郡鯨《くじら》か池」、現在の静岡県静岡市葵区下(しも)に現存する「鯨ヶ池」(グーグル・マップ・データ)、及び、「淺畑池」(グーグル・マップを見ると、鯨ヶ池の南南東に、現在、「麻機遊水池」、及び、周辺に池様のものが、複数、点在するので、同一場所を、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、ここに広大な「淺畑沼」が確認出来る)という「池」が出る。と言っても、「東西三里、南北四里程」もの池沼ではない。但し、後者の「淺畑池」は、近世には、「鯨ヶ池」よりも遙かに広大な「沼」であった可能性が高いから、位置に甚だ問題があるが、私はここを一つの候補としたい気がしている。しかし、駿東郡で水鳥が多く棲息している湿原であるならば、やはり既出の『「卷之二十四上」「富士沼水鳥の怪」』に出る「浮島原」が、俄然、第一候補となろうと思う。

 因みに、この「鳴澤女神」というのは、原型は「泣澤女神」(なきさはめ)である。別名を「啼澤女神」「哭澤女命(なきさはめのみこと)」など呼ぶ。ウィキの「ナキサワメ」によれば、『国産み・神産みにおいて』「いさなき」『(伊邪那岐)』と「いさなみ」『(伊邪那美)との間に日本国土を形づくる数多の子を儲ける。その途中、』伊邪那岐『が火の神である』「かぐつち」『(迦具土神)を産むと』『陰部』(ほと)『に火傷を負って亡くなる。「愛しい私の妻を、ただ一人の子に代えようとは思いもしなかった」と』伊邪那岐『が云って』伊邪那美『の枕元に腹這いになって泣き悲しんだ時、その涙から成り出でた神は、香具山の麓の丘の上、木の下におられる。この神がナキサワメである』。奈良県橿原市にある『畝尾都多本』(うねおつたもと)『神社に泣沢という井戸があり、その井戸が御神体として祀られている』。『この事から、ナキサワメは大和三山の一つである香具山の麓の畝傍から湧き出る井戸の神様ということになる。井戸の中には、ナキサワメが流した涙があるといわれている。その井戸には、和歌が残っている』。これは、「万葉集」の「卷第二」で(二〇二番)、素性は不明の奈良時代の皇女である檜隈女王(ひのくまのおほきみ)の詠歌で、

   或る書の反歌一首

 哭澤(なきさは)の

   神社(もり)に神酒(みき)すゑ

  禱祈(いの)れども

    わご大君(おほきみ)は高日(たかひ)知らしぬ

である。以下、ウィキの訳。

『泣沢神社の女神に神酒を捧げて、薨じられた皇子の延命を祈っているのに、皇子はついに天を治めになってしまわれた。』で、『その左注に』、

   *

右一首、「類聚歌林」に曰はく、桧隈女王の泣澤神社を怨(うら)むる歌といへり。「日本紀」を案(かむが)ふるに云はく、「十年丙申[やぶちゃん注:六九六年。]の秋七月辛丑の朔(つきたち)の庚戌(かうじゆつ)、後(のち)の皇子尊(のちのみこのみこと)、薨(かむあが)りましぬといへり。

   *

『と記されている。 これは、持統天皇十年』(六九六年)『に、妃である』『ヒノクマオオキミ』(檜隈女王)『が再生の神に神酒を捧げタケチノミコ(高市皇子)の延命を祈ったのに、蘇ることなかったという、ナキサワメを恨む和歌である』。この神の『神名は「泣くように響き渡る沢」から来ているという説がある。また、「ナキ」は「泣き」で、「サワ」は沢山泣くという意味がある。「メ」とあるので女神である』。『江戸期の国学者、本居宣長は』、「古事記傳」で、『「水神」「人命を祈る神」、平田篤胤は「命乞いの神」と称するなど、水の神、延命の神として古代より信仰を集めている』。『太古の日本には、巫女が涙を流し死者を弔う儀式が存在し、そのような巫女の事を泣き女という。この儀式は死者を弔うだけではなく魂振りの呪術でもあった。泣き女は神と人間との間を繋ぐ巫女だった。ナキサワメは泣き女の役割が神格化したものとも言われており、出産、延命長寿など生命の再生に関わる信仰を集めている。また、雨は天地の涙とする説があり降雨の神様としても知られている』とある。

 さて。ここで、何故、この富士山山麓に近い位置に、この「鳴澤女神」が祀られていたのかを考えるに、全く根拠はないのだが、私は、この短い「風土記」の記事の文字列と音通から、

――富士山の轟き渡る噴火の際の「鳴」や、溶岩の流れる「澤」を神威と捉えた、この辺りの往昔の人々が、この「泣澤女神」の音通から、習合させたものではないか?――

と感じた。而して、小児の「夜泣き」の病いを癒すというのも、

――実際には、噴火の「夜」の鳴動(鳴き)を封じて呉れる神から転じて、日常的な音通の、嬰児の「夜泣き」封じの祈願に転訛されたものではないか?――

と思い至った。何らの伝承や学術的裏打ちはないから、私の思い付きに過ぎない。大方の御叱正を俟つものではある。

 なお、この本文の内容を、いろいろ調べてみたものの、ロクなものはなかったのだが、一つ、目が止まったものがあった。それは、国立国会図書館デジタルコレクションで「桃澤池」を検索していた中で見つけたもので、「加賀志徴 下編」(森田平次著・昭和四四(一九六九)年石川県図書館協会刊)の「卷十」の「石川郡」の「夜啼きの松」の一節である。以下に示す。因みに、本書は歴史的仮名遣で、以下は正規表現である。

   《引用開始》

○夜啼きの松  額谷村[やぶちゃん注:現在の石川県金沢市額谷(ぬかだに:グーグル・マップ・データ)周辺と思われる。]。○此谷川の川緣なる山上にあり。小兒の夜泣きする時は、此松の皮を取り來りて枕邊に置けば、必止るといへり。おかなる由緣にや詳ならず。○按ずるに、惣國風土記。駿河郡桃澤池の條に、池島有ㇾ神。所ㇾ祭鳴澤女神也。土俗以兒夜啼此社。其忽驗如ㇾ巡ㇾ掌。曰鳴神。とあり。此はかの笠明神に瘡痛の事を祈る如く、鳴澤女てふ神名より起りたる俗諺なるべし。源平盛衰記卷二十六に、平相國出生の事を記して、此子生れてより夜泣する事不ㇾ懈[やぶちゃん注:「おこたらず」。頻りに夜泣きして止まない。]。忠盛大きに歎きけり。我實子ならば里へも放し度思ひけれども、勅定を蒙り申けり。證誠殿[やぶちゃん注:「しやうせいでん」。熊野本宮神社にある式場神殿。]の御殿に戶を推開き[やぶちゃん注:「おしひらき」。]、御託宣とおぼしくて一首の歌あり。『夜泣すと忠盛たてよみどり子は淸くさかゆる事あれ[やぶちゃん注:二重鍵括弧閉じるは、ない。]と。悅の道に成つて、黑目に付たりければ、夜泣ははや止みにけり。云々。

   *

最後の「悅の道に成つて、黑目に付たりければ、」の意味は、私にはよく判らない。恐らくは、『託宣の歌を受けることが出来たので、忠盛は悦(えつ)に入って、不安だったために、目が白黒していたのが、晴眼となった(すっかり安心した)ので、』という意味か。さても。この森田氏の解釈は、まあ、穏当ではあろうが、失礼乍ら、わざわざ、本話や「源平盛衰記」の引用を事大主義的に引いて示すほどのこともないようには思う。因みに、なるほど、「駿河風土記」に出ないはずだ。これは、別な「惣領駿河風土記」なんだな。しかし、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本版を調べたが、載ってなかった。写本だから、しゃあないか。いい加減、飽きた。これまでとする。]


2025/06/13

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「箭柄墳の奇事」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点の変更や追加をし、記号を加えた。但し、漢文部はいじっていない。]

 

 「箭柄墳《やがらづか》の奇事」 駿東郡柏原《かしはばら》驛にあり。今、其墳蹟《つかあと》、詳《つまびらか》ならず。「風土記」云《いはく》、

『駿東郡栢原、箭柄墳。白鳳年中、有一樵翁、食ㇾ芝絕ㇾ粒、恰如仙客、齡歷九旬、其步行一日期二百里、隣國自在也。白鳳十二年癸未十月朔、至原之巖窟、忽不ㇾ見其跡、行人成其奇異、所ㇾ殘所ㇾ携右手之箭柄而已、故國造擧ㇾ之埋其箭柄、曰二箭柄墳一。樵翁不ㇾ委二其姓氏一。云云。』。

 

[やぶちゃん注:この記事が書かれた時点で、この岩窟・「墳」=塚は消失していただけに、現行のネット上では、全く掛かってこない。取り敢えず、あったとする「柏原驛」であるが、これは、現在の静岡県富士市柏原(かしわばら)(グーグル・マップ・データ:読みは現行の読みで歴史的仮名遣で加えた)。但し、「ひなたGIS」で見ると、現行より東西に広いように感じられる。現行の位置だと、「浮島原」の湿田地帯である。凡そ「巖窟」があろうとも思われない。ここには、現在、「浮島ヶ原自然公園」(グーグル・マップ・データ航空写真)があり、これは、湾口・砂州の形成、及び、その内湾のラグーン化・低湿化した場所である。或いは、古くに、何らかの局所的地震・地殻変動・津波等による変貌が疑われる。

「風土記」既出既注。正規の「風土記」ではない、怪しいものである。因みに、国立国会図書館デジタルコレクションの「修訂駿河國新風土記(續篇)第一輯」(「駿河地志稿 駿東郡之部」(贄川良以著・贄川他石補綴・昭和九(一九三四)年志豆波多會刊・★謄写版★印刷)の「△郷名考」のここに、以下の記載がある。

   *

箭柄塚  舟津邊にありと云共さだかならず、今山伏塚と云あり、浮島二つ社女塚男塚と云

   

但し、これらの「塚」の記載を調べても、やはりネットでは見当たらない。しかし、この「船津」は「ふなつ」で、現在の富士市船津(グーグル・マップ・データ)で、旧駿東郡であり、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、旧浮島沼の北東部に位置する。ここは愛鷹山の南西麓で、古くに「巖窟」があってもおかしくない場所である。さらに調べると、この地区には、「稲荷塚古墳」がある。「富士市」公式サイトの「浅間古墳から始まる富士の古墳文化」のページに、『古墳時代、浮島ヶ原の周辺では人々が活発に活動し、浅間古墳をはじめとする多くの古墳がつくられ、豊かな文化が育まれました』とあり、ずっと下に、「稲荷塚古墳」があり、『春山川東岸につくられた円墳【富士市指定史跡】』とあり、そこに『稲荷塚古墳の周辺は古墳の密集地帯』であるとある。そうだ! 「巖窟」とは「古墳」であると考えれば、納得が行くのだ! この附近が、この話の震源地であることは、最早、疑いがない!!

 以下、漢文部を推定で補助(御覧の通り、送り仮名が全くない)して、訓読しておく。句読点は私の判断で変更・追加した。

   *

 駿東郡(すんとうのこほり)栢原(かしはばら)、箭柄墳(やがらづか)。白鳳年中、一《ひとり》の樵翁《きこりのおきな》、有り。芝(し)を食ひ、粒(めし)を絕つ。恰(あたか)も仙客(せんかく)のごとく、齡(よはひ)九旬(くじゆん)を歷(ふ)るも、其の步-行(ありき)、一日(いちじつ)、二百里を期(き/ご)し、隣國(りんごく)なるとも、自在なり。白鳳十二年癸未(みづのとひつじ)十月朔(つひたち)、原(はら)の巖窟(ぐわんくつ)に至り、忽(たちま)ち、其の跡を見ず。行く人、其れ、「奇異」と成す。殘されしは、携へし所の右手の箭柄(えがら)のみ。故(ゆゑ)に、國造(くにのみやつこ)、之れを擧(とりあ)げて、其の箭柄を埋(うづ)む。「箭柄墳」と曰ふ。樵翁は、其の姓氏、委(くは)しからず。云云(うんぬん)。

   *

「白鳳年中」これは「日本書紀」に現われない私年号の一つ。通説では「白雉」(六五〇年〜六五四年)の別称・美称とされる。

「芝」「霊芝」でご存知の通り、実は、この「芝」と言う漢字は、まさに担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum を指す漢字として作られたものなのである。「シバ」ではなく、「神聖なキノコ」を示す漢語なのである。レイシに就いては、私の「日本山海名産図会 第二巻 芝(さいはいたけ)(=霊芝=レイシ)・胡孫眼(さるのこしかけ)」を参照されたい。所謂、仙人の常食物として知られる。

「九旬(くじゆん)」数え九十歳。

「二百里」ウィキの「里」によれば、「大宝律令」で「里 」は「五町」で「三百歩」と規定されてあった。『但し、当時の尺は、現存するものさしの実測によれば』、『曲尺』(譯〇・三センチメートル)『より』も二~三『%短いため、歩・町も同じ比率で短くなる』ため、『当時の』一『里はおよそ』五百三十三・五メートル『であったと推定されている』から、それで換算すると、百六・七キロメートルとなる。

「白鳳十二年癸未(みづのとひつじ)十月朔(つひたち)」「白雉」は五年で終わり、続く朱鳥(しゅちょう)は一年で終り、続く大宝も四年までであるから、慶雲元(七〇四)年となる(大宝四年五月十日改元)。しかし、慶雲元年の干支は「辛丑」で、合わない。干支を誤るものは史料としては使えないので、通常は、本記載自体が無効となるので、これでアウトだが、一応、言っておくと、この前後で「癸未」となるのは、遙か前の推古天皇三一(六二三)年と、遙か後の天武天皇一二(六八三)年で、話しにならない。

「右手の箭柄(えがら)」右手に杖代わりに常時持っていた長い弓矢の矢の篠竹で作った本体部分を指す。矢羽(やばね)・矢筈(やはず)・鏃(やじり)は附いていないものを指す。「延喜式」に載る「伊勢神寶征矢」の長さは附属部を含めて六十九・七センチメートルであるから、長さは充分、杖の代わりには、なる。敗残の武将などは、弓自体を杖代わりにしているから、矢柄でも十分である。

「國造(くにのみやつこ)」大化の改新以前における世襲制の地方官。地方の豪族で、朝廷から任命されてその地方を統治した。「大化の改新」(狭義には大化年間(六四五年~六五〇年)の改革のみを指すが、実際的には広義に大宝元(七〇一)年の「大宝律令」完成までに行われた一連の改革を含む)以後は廃止されたが、多くは郡司となって、その国の神事も司った。]

2025/06/11

和漢三才圖會卷第八十九 味果類 蜀椒

 

Syokusyou

 

しよくしやう  巴椒 川椒

        漢椒 南椒

        蓎藙 㸃椒

蜀椒

        【巴蜀川漢皆

          地之名也】

      【和名奈留波之加美

シヨ ツヤ゚ウ 一名不佐波之加美】

 

本綱蜀椒初出於蜀國【今號四川】今𠙚𠙚人家多作園圃種之

其木髙四五尺似茱萸而小有針刺葉堅而滑四月結子

無花伹生于枝葉間顆如小豆而圓皮紫赤色肉厚皮皺

其子光黑如人之瞳子故謂之椒目他椒子雖光黑亦不

似之

椒紅【辛温有毒】 手足太隂右腎命門氣分之藥稟五行之氣

 而生葉青皮紅花黃膜白子黒其氣馨香其性下行能

 使火熱下達不致上薫芳艸之中功皆不及之

 凡人嘔吐服藥不納者必有蚘在膈閒蚘聞藥則動動

 則藥出而蚘不出伹於嘔吐藥中加炒川椒十粒良蓋

 蚘見椒則頭伏也 又能可收水銀 畏欵冬防風附

 子

椒目【苦寒】 利小便治十二種水種脹満及腎虛耳鳴聾

△按蜀國今號四川生於彼地草木皆佳種也故川椒川

 芎川烏頭川黃連川楝子之名據此入藥椒紅亦宜用

 川椒在本朝可用朝倉椒

 

   *

 

しよくしやう  巴椒《はせう》 川椒《せんせう》

        漢椒 南椒

        蓎藙《たうき》 㸃椒《てんせう》

蜀椒      

        【巴・蜀・川・漢、皆、

         地の名なり。】

      【和名、「奈留波之加美《なるはじかみ》、

シヨ ツヤ゚ウ 一名、「不佐波之加美《ふさはじかみ》。】

[やぶちゃん注:「椒」の『しやう』は良安の誤った慣用読み。前の「秦椒」の私の注意書きを参照されたい。なお、以下の項目でも同じなので、これは繰り返さないので、注意されたい。「巴・蜀・川・漢」東洋文庫訳の後注に、『いずれも現在の四川地方の呼称。蜀は四川省の古の国名。漢は四川省西部の地域(成都・広漢・潼(とう)川)、巴は四川省東部の地域(重慶・虁(き)州・順慶・閬(ろう)中)。川とは巴蜀の総称。』とある。則ち、これらは各個的な地名の羅列なのではなく、現在の古い広域としての「四川地方」の古名、及び、その内の歴史的・地方的な国名・地方名を披歴羅列したものである。この内、「広漢」は現在の四川省徳陽市南西部に位置する県級市としてあり、「潼川」は潼川府で、宋から民国の初年にかけて、現在の四川省中部に設置された管轄としての府名。「虁州」は唐詩ではお馴染みで、唐代に現在の四川省東部の奉節県におかれた州名。揚子江中流の有名な「三峡の険」の入り口に相当する。「順慶」は四川省南充市の市轄区である順慶区に残り、「閬中」は四川省南充市に位置する県級市で、四川省を南北に重慶市へと流れる嘉陵江の河畔にある。古くからの中心都市で水運の街として栄え、現在は国家歴史文化名城に指定されている。「巴蜀」広義の四川地方の非常に古い地名であり、具体的には「巴」は現在の重慶一帯を、「蜀」は現在の成都一帯を中心とした古地名である。流石に、いちいち示すほど、私はお目出度くない。グーグル・マップ・データの四川省をリンクさせておくので、各自、確認されたい。]

 

「本綱」に曰はく、『蜀椒、初《はじめ》、蜀の國に出づ。【今は「四川」と號す。】今、𠙚𠙚《ところどころ》、人家、多《おほく》園圃《えんぽ》[やぶちゃん注:果樹・野菜を植えて育てる所と、田畑を指す。]に作《なし》、之れを種《うう》。其の木、髙さ、四、五尺。茱萸《しゆゆ》に似て、小《ちさく》、針刺《はりとげ》、有り。葉、堅《かたく》して、滑《なめらか》≪なり≫。四月、子《み》を結《ぶ》≪も≫、花、無《なく》して、伹《ただ》、枝葉の間に生ず。顆(つぶ)、小豆《あづき》のごとくして、圓《まろく》、皮、紫赤色。肉、厚く、皮、皺《しは》≪し≫。其の子、光《ひかり》、黑《くろく》して、「人の瞳《ひとみ》の子《たま》」のごとし。故に、之れを、「椒目《せうもく》」と謂ふ。他《ほか》の椒《せう》≪の≫子、光、黑なりと雖も、亦、之れに、似ず。』≪と≫。

『椒紅《せうこう》【辛、温。毒、有り。】』『手足の太隂・右腎命門《うじんめいもん》の氣分の藥≪なり≫。五行の氣を稟《う》けて、生ず。葉は青く、皮は紅《くれなゐ》。花は、黃、膜は白、子は黒。其《その》氣、馨香《けいかう》≪たり≫[やぶちゃん注:良い匂いが漂う。]。其の性、下行して、能《よく》、火熱をして、下達《かたつ》せしめ、上薫《じやうくん》致させしめず。芳艸《はうさう》の中《うち》、功、皆、之れに及ばず。』≪と≫。

『凡そ、人、嘔吐して、藥を服し、納《をさ》まらざる者、必《かならず》、蚘《むし》[やぶちゃん注:ヒト寄生虫(但し、ここでは日和見感染の種も含むとすべきであろう)を指す。]、有《あり》て、膈《かく》[やぶちゃん注:漢方では、現代医学の「横隔膜」ではなく、主に「胸の壁」・「胸腹の境界」を指し、臓腑の機能を司る上で重要な役割を持つ部位を指す。]の閒《あひだ》に在《あり》。蚘、藥を聞けば、則《すなはち》、動《どう》ず。動ずれば、則、藥は出《いで》て、蚘、出でず。伹《ただし》、嘔吐の藥中に於《おい》て、炒《い》≪れる≫川椒《せんせう》[やぶちゃん注:「秦椒」の異名。「秦椒」を参照のこと。]十粒を加へて、良し。蓋し、蚘、椒を見れば、則ち、頭《かしら》、伏《ふ》≪すれば≫なり。』『又、能《よく》、水銀を收《をさ》む。』『欵冬《かんとう》・防風・附子《ふし》を畏《おそ》る。』≪と≫。

『椒(さんせう)の目(め)【苦、寒】』『小便を利し、十二種の水種・脹満《ちやうまん》[やぶちゃん注:腹部が膨張する症状。]、及《および》、腎虛・耳鳴《みみなり》・聾《らう》を治す。』≪と≫。

△按ずるに、蜀の國は、今、四川と號す。彼の地に生ずる草木、皆、佳《よき》種なり。故、川椒・川芎《せんきゆう》・川烏頭《せんうづ》・川黃連《せんわうれん》・川楝子《せんれんし》の名、此《これ》に據る。藥≪に≫入《いる》る椒紅(しざんせう)も亦、宜しく、川椒を用ふべし。本朝に在りては、朝倉椒《あさくらざんしやう》を用ふべし。

 

[やぶちゃん注:本種同定は、既に、前回の「秦椒」の引用の考証、及び、後の私の最終比較同定で、★「秦椒」と同じ

サンショウ属カホクザンショウ(華北山椒) Zanthoxylum armatum 

であることを既に述べてあるので、そちらを見られたい。

 なお、 なお、以上の本文は、「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十二」の「果之四」「味類一十三種内附四種」の冒頭から二つ目の「蜀椒」からのパッチワークである。

「奈留波之加美《なるはじかみ》」「不佐波之加美《ふさはじかみ》」所持する平凡社「世界大百科事典」の「サンショウ(山椒)」の「利用」の項に(コンマは読点に代えた)、『サンショウは古くから食用、薬用とされてきた。はじめは〈はじかみ〉と呼ばれたが、同じようにしんらつ』(辛辣)『味をもつショウガが伝来すると、それを〈くれのはじかみ〉と呼び、サンショウは〈なるはじかみ〉〈ふさはじかみ〉と呼んで区別するようになった』とあった。

「茱萸《しゆゆ》」とあるが、これは本邦では、バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus のグミ類を指すのであるが、サンショウ類とは似ても似つかないのは一目瞭然であり、では何かと言うと、東洋文庫訳で、割注を附して、『茱萸(後出、呉茱萸)』とある通りで、この後の九項目の「吳茱萸(ごしゆゆ)」に相当するものである。私は既に、「卷第八十四 灌木類 山茱萸」で登場し、私の注も附してある。一部を削り、表記にも手を加え、それを掲げておく。

   *

「吳茱萸《ごしゆゆ》」「ごしゅゆ」はムクロジ目ミカン科ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum である。当該ウィキによれば、『中国』の『中』部から『南部に自生する落葉小高木。日本では帰化植物。雌雄異株であるが』、『日本には雄株がなく』、『果実はなっても種ができない。地下茎で繁殖する』。八『月頃に黄白色の花を咲かせる』。『本種またはホンゴシュユ(学名 Tetradium ruticarpum var. officinale、シノニム Euodia officinalis )の果実は、呉茱萸(ゴシュユ)という生薬である。独特の匂いと強い苦みを有し、強心作用、子宮収縮作用などがある。呉茱萸湯、温経湯などの漢方方剤に使われる』とあった。漢方薬剤としては平安時代に伝来しているが、本邦への本格的渡来はこれまた、享保年間(一七一六年から一七三六年まで)とされる

   *

というのが、それである。

「手足の太隂」東洋文庫訳の後注に、『身体をめぐる十二経脈の一つ。手の太陰肺経は胃のあたりからおこり、大腸に連なり上行して肺に入る。ついで喉頭をめぐり、横に出て肢の下にくる。そこから腕の内面を通って手の親指の末端に至る。支脈は腕の下部から分かれて第二指の先端に至る。足の太陰肺経は足の親指の末からおこり、脚の内面を上り腹部に入って肺に連なり腎につながる。さらに横隔膜を通って咽喉から舌に行く。支脈は胃部から分かれて心臓に達する。』とある。

「右腎命門《うじんめいもん》」東洋文庫訳の後注に、『右腎のことを命門という。命門とは元気の根源という意味。』とある。

「十二種の水種」東洋文庫訳の後注に、『水腫は体内に水液が溜っておこる病症。風水・皮水・正水・石水・黄水・心水・肝水・肺水・肺水・腎水・陰水・陽水。』とある。

「川芎《せんきゆう》」センキュウ。セリ科の草木。その根茎が頭痛などの薬剤になる。薬用として栽培された』とある。当該ウィキによれば、『中国北部原産で秋に白い花をつける』『多年草』(セリ目セリ科ハマゼリ属)『センキュウCnidium officinaleの根茎を、通例、湯通しして乾燥したもので』、『本来は芎窮(きゅうきゅう)と呼ばれていたが、四川省のものが優良品であったため、この名称になったという。日本では主に北海道で栽培される。断面が淡黄色または黄褐色で、刺激性のある辛みと、セロリに似た強いにおいがある。主要成分としてリグスチリド』(Ligustilide)『などがあげられる』。『現在の分析では鎮痙剤・鎮痛剤・鎮静剤としての効能が認められ、貧血や月経不順、冷え性、生理痛、頭痛などに処方されて』おり、『漢方では』「当帰芍薬散」に『配合され』、『婦人病』、所謂「血の道」の『薬として』、『よく用いられる』とあった。

「川烏頭《せんうづ》」「烏頭」は猛毒で知られるキンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum を指す。種にもよるが、致命的な毒性を持ち、狩猟や薬用に利用されてきた歴史がある。

「川黃連《せんわうれん》」「黃連」はキンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica の髭根を殆んど除いた根茎を乾燥させたもの。

「川楝子《せんれんし》」漢方で、ムクロジ目センダン科センダン属トウセンダン  Melia toosendan の果実を指す。詳しくは、「卷第八十三 喬木類 楝」の私の長い引用注を見られたい。

「朝倉椒《あさくらざんしやう》」次の同名の項を参照されたい。ここでは、メンドクサイのでAIのデータを引いておく。『朝倉山椒は、兵庫県養父市八鹿町朝倉が発祥とされる山椒で、柑橘系の爽やかな香りが特徴です。江戸時代には徳川家康に献上されたこともあると伝えられ、その風味の良さで知られています。トゲがなく、大きな実がなり、辛みが後にひきにくいという特徴があります。』とある。]

2025/06/10

サイト版「尾形龜之助 詩集 色ガラスの街 〈初版本バーチャル復刻版〉」を正字補正した

サイト版「尾形龜之助 詩集 色ガラスの街 〈初版本バーチャル復刻版〉」を遅まきながら、正字補正を行い、全体のレイアウト等、細部に手を加えた。ことの序でに、底本に差し込みでサーヴィスされてあった彼のサインを以下に掲げておく。

Oagata

 

«阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「釜化河伯」