桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」の続きを昨日から公開しようと思っているのだが……
桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」の続きを昨日から公開しようと思っているのだが、文中に出る「京店」(きょうみせ)という地域の歴史的検証をするのに、非常に時間が掛かっている。私は、自分がよく判らないことがあると、とことん、やらないと気が済まないためである。今、暫く、待たれたい。
桑原羊次郞「松江に於ける八雲の私生活」の続きを昨日から公開しようと思っているのだが、文中に出る「京店」(きょうみせ)という地域の歴史的検証をするのに、非常に時間が掛かっている。私は、自分がよく判らないことがあると、とことん、やらないと気が済まないためである。今、暫く、待たれたい。
2017年の古い記事であるが、「✖」でフォローして下さっているタチアナ@TatjanaMadurezさんから、「不詳」としていた注部分の情報を昨日受け、未明に起き、やっと修正した。昨日、夕方、追記注を添えようと思ったのだが、Unicode導入以前のものであったから、全体の正字不全が気になり、さらに、引用した古文作品の句読点が、どうも気に入らず、二時間ばかりやらかし、それでも終わらず、例によって、午前二時に起きて、やっと、思う通りに、やり終えた。
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]
コツプ
すかして見ると町がある
夕日の空のにほふ小さな町
傳書鳩たちが風に飛び
風にゆられて虹もある
[やぶちゃん注:注記に、『昭和七』(一九三二)『年』八『月』三十一『日・畠山重政宛書簡に「四行詩篇」中の一つとして紹介、制作時付記「一九三七・八・一〇」を持つ。』とあるのだが、この「一九三七」というのは、どう考えてもおかしいので、底本の「立原道造全集」の「第二卷」の当該書簡を見たところ、当該部には(右丁下段)、『一九三二、八、一〇』となっていた。誤記か誤植である。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]
問 答
何しに僕は生きてゐるのかと
或る夜更けに
一本のマツチと
はなしをする
[やぶちゃん注:注記によれば、歌誌『詩歌』(十三卷第二號)の『昭和七』(一九三二)二『月号発表の口語歌の四行詩化作品』とある。調べたところ、坪井秀人氏の論文「立原道造 ―<零>の詩法―」(『名古屋大学国語国文学』二〇二三年九月発行・「名古屋大学学術機関リポジトリ」のここでダウンロード可能・PDF)で、同誌の初出形を確認出来た。二首並列なので、そのまま示す。
*
何しに僕は生きてゐるのかと或る夜更に一本のマッチと會話(はなし)をする
人々は誰も僕に觸れて來ない!遠くに夕方を歌ふ子供たちがゐて
*
まず、第一首は以上の詩とは異なる箇所がある。「夜更け」が「夜更」、「マツチ」が「マッチ」、「話」が「會話」であってルビで二字に対して「はなし」と振っている点である。第二首は、「!」は左方向に斜めとなっている。坪井氏も辛口に『いずれも彼の作歌活動のピークである昭和七年のもの。若い立原には酷だが、多かれ少なかれここに見られるような幼稚さと甘えとが彼の短歌に一貫している』と述べておられる。序でに、この二首に並べて、全くの同時期の『校友會雜誌』第三三三號・昭和七年二月掲載の一首も示す。
*
靑空は靑空だけのもの。泣いても笑つてもくれやしない。すきとほつてる
*
参考までに、この後に引かれる二首も紹介しておく。
*
行くての道、ばらばらとなり。月、そののめに、靑いばかり。
花はらはら咲いて、靑空、木の間に光つた。夏、近づいた風のにほひ
*
前者は『詩歌』の第十三卷第五號(昭和七年五月)で、後者も同雑誌の第六號(昭和七年六月)に載ったものである。]
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。改稿部があるので、原形をまず、示し、修正を後にする。]
【初出形】
單 語
乳母車のなかの赤ん坊
にほひあらせいとう
トランプよ 童話よ
ボン・ソアル⋯⋯⋯
入道雲が空でキスをする
【修正形】
單 語
乳母車のなかの赤ん坊
にほひあらせいとう
トランプよ 童話よ
ボン・ソアル⋯⋯⋯
入道雲がキスをする
[やぶちゃん注:「にほひあらせいとう」アブラナ目アブラナ科エゾスズシロ(エリシマム)属品種ニオイアラセイトウ(匂紫羅欄花)Erysimum × cheiri(シノニム: Erysimum cheiri )。Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「ニオイアラセイトウ 匂紫羅欄花」のページに拠れば、花期は四~七月で、高さは十五~八十センチメートル。二年草、又は、亜低木であり、『外来種』で『ギリシャ原産』とあり、『キアラセイトウともいわれるが、多数の園芸品種があり、花色は多い。花に強い芳香があるのが特徴』。『葉の毛状突起は2岐、まれに先に少数の3岐の星状毛が混じる。茎は直立、不分枝又は上部で分枝、亜低木のときは基部が木質になり』、『根生葉は2年草のときはロゼットになり、果時までに枯れ、茎葉に似る。茎葉は葉柄がある。葉身は倒卵形~倒披針形、長さ4~22㎝×幅3~12㎜、基部はくさび形~漸尖形、縁は全縁~波状縁。総状花序は果時にかなり長くなる。果時の花柄は散開状斜上~斜上し、細く、果実より狭く、長』さ『7~13㎜。咢片は長円形、長さ6~10㎜、側対の基部に袋が無く又はわずかに有る。花弁は橙色、黄色、褐色、赤色、紫色、又は白色、広倒卵形~ほぼ円形、長さ20~35㎜×幅 5~10㎜、爪部は長さ7~12㎜、先は円形。中央の花糸は長さ7~9㎜。葯は線形、長さ2.5~3.5㎜。果実は斜上、狭線形、真っすぐ、でこぼこにならず、長さ3~10㎝× 幅2~7㎜、広い隔壁がある(latiseptate)』(ラティセプテート:隔壁に平行に扁平なもの)『か円柱形、柄は無い。バルブは明瞭に中脈があり、外側に軟毛があり、毛状突起は2岐、内側は無毛。胚珠は子房に32~44個。花柱は円筒形又は類円錐形、細く、長さ0.5~4㎜、軟毛がある。柱頭は強く2裂し、裂片は幅よりかなり長い。種子は卵形、長さ2~4㎜×幅1.5~3㎜、翼は連続又は上部につく。2n=12。』とある。リンク先の花の写真を見られたい。
「ボン・ソアル」Bonsoir。フランス語で「(夕刻から寝るまでの間の挨拶である)今晩は・さようなら・お休みなさい」。]
[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁四行目から。]
〔桑原〕 先生が市內寺町の龍昌寺にある石地藏尊の彫刻に感服し、その彫刻者は當地の有名な彫刻家荒川龜齊通稱重之輔の作だということがわかり、龜齊を招請して先生がもてなされたということですがどんな風でしたか。
[やぶちゃん注:「龍昌寺」現在の松江市寺町(てらまち)にある曹洞宗の白雲山龍昌寺(りゅうしょうじ:旧富田旅館の大橋川を挟んだ対岸直近に当たる。グーグル・マップで同寺の敷地内にある「小泉八雲ゆかりの羅漢像」をポイントした)。「曹洞宗 島根県第二宗務所」公式サイト内の同寺の解説が、非常に詳しい。冒頭の足利時代から江戸時代までの経緯と、秘仏である宍道湖から出た観音像の解説は、各自でお読み頂き、ハーン関連の手前から引く。『毎月17日が観音様の功徳をたたえる観音講の日である。大正はじめから昭和はじめにかけては、観音供養が最も盛んに行われた。のぼりや五色の吹き流しがはためく境内には、近郷近在からの参拝客があふれ、沿道には露店がずらりと立ち並んだという』。『そのころ、かつて荒川亀斎に刻ませた観音木像五体を寺に置き、その木像をくじ引きで当てた講員が家に持ち帰り、向こう一年間安置し、家運の繁栄を祈った』。『ラフカディオ・ハーンが、初めてこの寺を訪れたのは、松江赴任翌月の明治23年9月28日であった。ハーンは庫裡前に立つ石地蔵に目をとめると、しばらくは立ち去ろうともしなかった』。『人の霊魂を浄土に導き、とりわけこどもには慈愛を注ぐという地蔵のいつくしみの表情が、高さ1メートルばかりの石像に、見事に刻まれていたからである』(私は、八雲はこの記憶のない母ローザ・カシマチの面影を感じていたものではないか、と思う)。『当時、松江市田町(のち白潟本町に転住)で瑪瑙(めのう)商を営んでいた長岡九右衛門が、全年8月に亡くなった娘の菩提を弔って、墓石がわりに建立したものであった』。『長岡家は代々、玉石の細工師で、亀斎が彫刻に用いる瑪瑙、水晶を調達していたので、亀斎はよく同家に出入りし、九右衛門やその子茂一郎とも親しかった』。『たまたま、地蔵が石工によって刻まれているのを知った亀斎が、「自分にやらせてくれ」と、顔の部分だけノミをふるったと伝えられている』。『この地蔵は昭和20年ごろまであったが、松江地方を襲った台風で、東部』(ママ。頭部の誤植)『が欠け落ちたので、同23、4年ごろ亀斎地蔵の写真を参考に、和田見町の石屋で刻んだのが』、『いま』、『ある地蔵である』。『初代地蔵が機縁となって、ハーンは同僚西田千太郎の案内で、横浜町の亀斎宅を訪れ、その腕前と名人気質に傾倒した。ハーンは龍昌寺にある地蔵様と同じような彫り物を期待して、亀斎に彫刻を頼み、黒柿を使って高さ30センチばかりのが出来上がったが、これはあまり気に入らなかったという』。『龍昌寺門内の道路わきに、聖者十八羅漢の石像が、不動明王石像を囲んでおかれて居る。ハーンはこの羅漢の作りにも関心して、訪れるたびに前にたたずんだという』。『昭和6年、松江を訪れた民芸運動の創始者柳宗悦も、この羅漢を見て「すばらしい出来栄えだ。なかでも二体がよく手元に置きたいくらいだ」と語っている』。『龍昌寺の過去帳に「当寺の羅漢は、天明6年(1786年)7月に建立を思い立った。しかし公儀から差し止めがかかった。石屋夫右衛門の作である」と書かれている』。『松江の石屋仲間では別に、「松江から江戸へ出て修行した石工江戸勝の作である」との言い伝えがある。夫右衛門と江戸勝が同一人であったか、どうか明らかではない』。『不動明王は霊験あらたかな仏として信仰され、不動明王が好まれるというおもちゃの刀を供えて願い事をする人が跡を絶たない』。『本堂正面の延命地蔵は名工石谷為七の作と伝えられている』とあった。なお、先の地図の左のサイド・パネルのここで、不動像の背後に羅漢像の写真を見ることができ、また、個人ブログと思われる「お寺の風景と陶芸」の「龍昌寺 (島根県松江市) 小泉八雲ゆかり」」に添えられたこの画像では、前の写真の向かって左側の羅漢像の九体を確認出来る。更に、寺の名は記されていないが、寺町と石仏の話が、私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (四)』の中に、以下のように出てくる。
*
天神町と並行に寺町が走つてゐる。この町の東側には寺院がずらりと並んでゐる――瓦を戴ける御所風の土塀で固めた表側に、一定の間隔を置いては、堂々人を驚かすやうな山門がある。この長く續いた塀の上へ高く聳えてゐるのは、立派な反(そり)を打つた、重々しい輪廓をしてゐる灰靑色の屋根である。こ〻では凡ての宗派が仲よくして隣合つてゐる――日蓮宗、眞言宗、禪宗、天台宗、それから眞宗までも。眞宗は神さまを拜ませないので、出雲ではあまり行はれない。寺の境內の後には墓地があつて、その東にまた他の寺々があり、その先きにもまたある――佛敎建築の集團が、小園細屋と交つて、廢巷斷路の迷宮をなしてゐる。
今日も寺院を訪ねたり、金の後光を負ふて金蓮華の夢中に安坐せる古い佛像を眺めたり、珍らしい御守を買つたり、墓地の彫像を調べたりして、例の通り數時間を有益に費した。墓地では來てみる價値のある、夢をみてゐるやうな觀音や、徴笑を含んだ地藏を殆どいつも發見する。
*
この「徴笑を含んだ地藏」が龍昌寺のものであることは、間違いあるまい。
「荒川龜齊通稱重之輔」(あらかわきさい 文政一〇(一八二七)年~明治三九(一九〇六)年)は、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『島根県松江市横浜町出身の彫刻家で』、『名は明生、通称は重之輔』(じゅうのすけ)。『木彫りの彫刻等が有名であるが、機械器具の発明家でもある』。『幼少期から彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家だった。彫刻だけでなく、日本画、国学、書道、金工などを幅広く身につけた。1893年』(明治二六年)の『シカゴ万博に「稲田姫像」を出品して優等賞、1900年パリ万博に「征韓図」を出品して銅牌を受賞した。1890年小泉八雲と出会い、その後も交流が長く続いた』。菩提寺である松江市新町(しんまち)の『洞光寺に葬られた』とある。寺はここで、龍昌寺の南方で、近い。また、「小泉八雲記念館」公式サイトの「企画展 八雲が愛した日本の美 彫刻家 荒川亀斎と小泉八雲」には、『荒川亀斎(初代)は1827年4月25日、松江の雑賀横浜にて木工職人荒川茂蔵の子として誕生しました。名は明生、通称名は重之輔。亀斎は幼少の頃より彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家でした』。『1890年8月に松江に赴任した小泉八雲は、散歩中に出会ったあるお寺の石地蔵に魅了されます。それは寺町の龍昌寺にある慈愛に満ちた地蔵で、八雲はすぐにその作者を尋ね、「荒川亀斎」という名を知りました。翌日、さっそく亀斎の工房を訪ねた折、その腕前と名人気質に惚れ込み、二人は美術論をかわし』、『意気投合したといいます(山陰新聞)。その後も、八雲は』、『亀斎に作品を注文し、この彫刻家を世に紹介しようと、いわゆる作家のプロデュースを買って出ます。二人の関係は、八雲の著作や親友で島根県尋常中学校の教頭西田千太郎の日記と西田宛書簡、当時の山陰新聞などで、その交流を垣間見ることができます』。『中でも、亀斎が八雲に見せた「気楽坊人形」は、作品「英語教師の日記から」(『知られぬ日本の面影』所収)に詳しく紹介されています。』(私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語敎師の日記から (十六)』を見られたい)『これを見て大変よろこんだ八雲のもとに、亀斎は「気楽坊」を模した人形を作成し贈呈しました(小泉八雲記念館蔵)。また、八雲は、1893年のシカゴ万博への出品を勧め、アドバイスもしています。この万博で「稲田姫像」(出雲大社蔵)が優等賞を獲得し、亀斎は彫刻家として不動の地位を築きました』とある。]
〔富田〕 先生が荒川さんと西田、中山の兩先生を私方の二階へ招待して日本料埋のご馳走をなさつた事がありましたが、その時に、先生は私共に向つて「日本では客座敷で御客及び亭主のすわる席次があるようだが亭主として自分はどこへすわるのが本當か」と尋ねて西田先生が「あなたは入口に近いところにおすわりなさい」といわれそこにおすわりでした。さて先生は日本流に箸を使いたいにも自由にならず、例によつて握り箸で、ちようど日本の三、四歲の子供のように子供のようにして馳走を上りましたが、その上り方がまことに妙でして初めに吸物を握り箸で片付けて椀を膳の外にやり、次ぎ次ぎのご馳走も、食べては直ぐさま皿でも椀でも膳の外に並べなさるため、後では膳の上には何物もないこととなりました。他の人々は日本流に吸物、燒物、酢の物、剌身とどれも少しづつ食べてその間に酒を飮んでお出ででありましたが、何分先生は近眼でその邊がわからず、少ししてから先生も氣がついて大笑いになつたことがありました。なおその後先生は荒川さんに高さ七寸許りの木彫の笑顏の童子を彫らせて大切にして眺めておいででした。
〔桑原〕 先生はお宿の二階八疊と二疊の二間を居間としておられたようですが、冬期の暖房方法はどうなさいましたか。
〔富田〕 先生は大の寒さ嫌いでして、松江の事はなんでもかんでも氣に入りましたが、雪の降ることはまことにお嫌いでした。私方には當時ストーブは勿論なく、先生は炬燵は嫌いでしたから、ただ數個の火鉢に取圍まれておられましたが、それでも寒氣が餘程身に浸んで困られたものと察せられました。
〔桑原〕 先生は冬期感冒に罹られたことなどはありませんでしたか。先生が一度胃膓病に罹られ、田野醫師が見舞われたと或る本にありますがほんとうですか。
[やぶちゃん注:「田野醫師」「山陰中央新報デジタル」の「さんいん偉人学」の「島根県近代医学の草分け 田野 俊貞(松江市で医院開業)」の「医学教育や衛生普及に尽力」に以下のようにある(読みが丸括弧で本文に切れ切れにあるので、必要と判断したものを一フレーズで使用し、それ以外はカットさせて頂いた)。
《引用開始》
田野俊貞(たのとしさだ)(1855~1910年)[やぶちゃん注:安政二年~明治四三年。]は、松江市で医院を開業しながら医学生の教育や公衆衛生の普及に尽力し、島根県や松江市医師会のリーダーを務めるなど「島根県近代医学の草分け」と呼ばれています。
俊貞は現在の栃木県足利市の庄屋(江戸時代の村役人)の家に生まれました。13歳の時から翻訳書で西洋医学を研究し1871(明治4)年、東京大学医学部の前身である大学東校(とうこう)に学びます。
77(同10)年、名古屋市の愛知県病院(現在の名古屋大学医学部)に勤務。ドイツ語が得意で、外国人医師の通訳も務めました。
後に外務大臣や逓信(現郵政など)大臣兼鉄道院総裁など国政で活躍し、山陰本線の開設に尽力した後藤新平が医師として勤務しており、俊貞は生涯、親交を結びます。
栃木県栃木病院長などを経て84(同17)年、島根県に採用され、島根県医学校と県松江病院(松江赤十字病院の前身)が開設されると病院長に就任します。この学校と病院は、西洋医学を学ぶ医師の養成機関でした。
しかし、県の財政難などによって松江病院が廃止されると86(同19)年に松江市苧町(おまち)[やぶちゃん注:旧富田旅館の西直近のここ。]で田野医院を開業し、間もなくして旧苧町病院の土地、建物を買い受けて医院を拡張しました。
その後、籠手田安定(こてだやすさだ)県知事の許可を受けて解剖を公開します。
1907(同40)年に松江市医師会が設立され、俊貞は副会長に選ばれました。09(同42)年に島根県医師会が設立されると、副会長に選任され島根県医学界の発展に尽くします。
また、長崎で自ら被爆しながら被爆者の治療に生涯を捧げた永井隆の父親寛(のぶる)が田野医院で修業し、医師に合格しています。隆はこの病院の一室で08(同41)年に産声をあげます。隆が被爆後も病床から手紙のやりとりをするなど、親交がありました。
文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とも親交があり、松江市の水道設置に貢献(こうけん)したスコットランド生まれの技師バルトンの招請にも努力しました。
医学界で一層の活躍が期待される中、俊貞は10(同43)年、55歳で病死します。
旧田野医院(田野家住宅)は、洋風建築の様式を兼ね備えた木造2階建て。松江市内で最古級の病院建築の遺構で、島根県の近代医学の草創期を支えました。この建物は2013(平成25)年、所有者から松江市へ寄付され14(同26)年、市有形文化財に指定されました。
《引用終了》]
〔富田〕 先生は極めて壯健なお方でして、私方におられた間に病氣をなされたことは一度もなく、衛生には餘程平常心を留めておられました。從つてお醫者のお出でたことはありません。一例を申すと外出よりご歸宿の時も、宿でお書き物のすんだ後でも、必ず手を洗い含嗽[やぶちゃん注:「うがい」。]をなさいました。
〔桑原〕 先生のお食事はどんな風でしたか。
〔富田〕 先生は朝は牛乳と數個の生卵で濟まされました。晝と晚との二食はお剌身、煮付、酢の物、燒魚等なんでもお上りでした。例の握り箸で召上りますので、魚の骨は取つて置きました。その食べ方は妙なもので、まず膳の上にある副食物卽ちお菜の方から、それを一皿一皿次ぎ次ぎと悉く平げてそれから卷鮨とかご飯だけを食うというやりかたでした。煎茶も飮まれましたが何時も大槪は水を飮まれました。先生は乾物でも干魚でも萬事好き嫌いと云うことは餘りありませんでしたが、ただ糸蒟蒻だけは嫌いで「私の國コンナ蟲いてそれを思い出すからいやだ」といつて食べられませんでした。
生卵は一度に八、九個も食べられました。また酒は晝と晩日本酒一本(一号八勺入)を飮んでおられまして、洋酒を注文したことは覺えません。珈琲も飮まれせんでしたが、ただ煙草だけは大好物でして、葉卷と刻煙草[やぶちゃん注:「きざみたばこ」。]は絶えず吸つておられました。刻煙草は日本の煙管[やぶちゃん注:「きせる」。]を使うのですが、その數がだんだんふえて數十本となり、掃除は大槪お信が引受けていました。葉卷は橫濱から大箱のものを取寄せておられました。
[やぶちゃん注:実は、ここ(「15」ページ)より二ページ前の「13」ページ下方には、金津氏の切り絵で、皿に載った食パン半斤、スプーン附きの把手のあるスープか、コーヒー・カップらしきもの(受け皿附き)があり(個人的にはカップが広過ぎで、内径幅から前者にしか私には見えないのだが)、その左下には、ミルク入れらしく見える物がある。しかし、例えば、以上の記載とも、当該位置の記載とも、全く合わない代物で、ちょっと頭を傾げるを得ない。なお、この切り絵は、ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載らない。その代り、これまた、この「15」ページには、左から右上方に向かって、木製(総て檜製か)の把手の突き上げた手桶・風呂椅子・湯桶が切り絵が配されてある(手桶と湯桶の箍(たが)は総て太い繩である)。これは、前掲ブログにある。これは、本文の少し先で、桑原氏が富田ツネにハーンが就寝・入浴する際のことを問うたところでエピソードが書かれる。
「私の國コンナ蟲いてそれを思い出すからいやだ」ここで言う「蟲」に就いては、サイト「マグミクス」の「卵の食べ方がほぼロッキーだった『ばけばけ』ヘブンの朝食 史実を見るとそんなに「盛ってない」かも」に、『ちなみに、糸こんにゃくが虫に見えて食べられないというのも、実際のエピソードに基づいています。ヘブンは「私の国にこういう虫が!」と言っていましたが、実際は1887年から2年間滞在した西インド諸島の仏領マルティニーク』(アンティル・クレオール語:Matinik/Matnik・フランス語:Martinique)『島』(ここ)『にいた虫を思い出していたそうです。』と記されてあった。これは、直ちに、平井呈一氏の「仏領西インドの二年間」の「下」で一章を作る「ムカデ」を想起させる。当該原本の当該篇は、「Internet archive」のここから視認出来る(‘ Two Years In The French West Indies ’の“BÊTE-NI-PIÉ.”)。また、日本語訳は国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集 第二巻」昭和六(一九三一)年第一書房刊(保護期間満了)の「佛領西印度の二年間」(大谷正信譯)の、ここの「百足蟲」で読める。但し、マルティニーク島に棲息するムカデが如何なる種なのかは、調べ得なかった。⋯⋯いんにゃ! しかし!⋯⋯ムカデと糸蒟蒻は――似てないぞッツ!?!――ハーン先生!!!]
先生は橫濱で卷鮨をあがつたことがあつて、それが餘程うまかつたと見えて、私方へお出での日より、每日のように晝晩共に必らず、巻鮨をさしあげましたが、後ではお飽きになり、普通のご飯を上げました、またフライ・エツグスの製り方は先生に敎わり每々差上げました。
〔桑原〕 洋食屋は當時鎌田才次と申すものが一軒ありましたが、先生は鎌田より洋食をとつて召し上つたことがありましたか。
〔富田〕 洋食は一切上らなかつたので鎌田から洋食を取寄せた覺えはありません。一切和食でした。從つてナイフやフオークをお用い[やぶちゃん注:「おもちい」。尊敬語。]のことはありませんでした。
〔桑原〕 先生は宿で牛肉は上りませんでしたか。
〔富田〕 宿の老人が牛は四ツ足と申して、昔から室の內に入れることを嫌いますので、先生も納得して牛肉は家の內に入れませんでした。
〔桑原〕 先生の宿泊料は當時いくら位でありましたか。
〔富田〕 先生來着當時の通辯眞鍋さんとの談判でございましたが、荒方[やぶちゃん注:「あらかた」。「だいたい」の意。]の約定は、朝は牛乳と卵、晝と晩とは卷鮨に副食物の賄[やぶちゃん注:「まかなひ(まかない)」。]で、一切をこめて一日が金參拾錢であつたと思います。當時の三十錢は今日相場にしては少なくとも十倍の三圓に當ります。今日と比較しますと萬事物價の相違はただただ驚くばかりであります。
[やぶちゃん注:以上の「參拾錢」だが、「Yahoo!JAPAN 知恵袋」の『朝ドラ「ばけばけ」の時代、10円は今の価値で幾らになりますか?』に対し、「閻魔の代理」さんが、答えているのが、よい。部分引用する。
《引用開始》[やぶちゃん注:一部の改行を続けた。]
小泉八雲が来日したのは明治23年です。そのころの人々の給料をウェブサイトで調べてみました。当時はインフレが著しかったようで、5年もすると給料が上がっていたようです。
明治23年当時
巡査初任給 月額6円(5年後には8円)
小学校教員初任給 月額5円(5年後には8円)
東京の大工(割と高給) 日給50銭(5年後には54銭)
小泉八雲(松江中学講師)月給100円(相当な高給)
★ここから推測すると、明治23年時点の人々の給料を現代の金額に換算するにはおおむね4万倍ぐらいするのが適当で、5年後の明治28年時点の給料を現代に換算すると3万倍ぐらいするのが適当だと判断します。つまり当時の10円は明治23年ならば40万円、同28年ならば30万円ぐらいが目安ではないかと考えます。
《引用終了》
なお、この「17」ページには、金津氏の絵馬型のが、切り絵で載る。上方左右に、形の異なる菊花様のものが配され下方には、ひらがなの「め」を右、左でその反転したものが描かれている。私は、神社の、この手のものには全く疎いので、こう説明するしかない。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」には載っているので、この装飾の意味が判る御仁は、是非とも解説して戴けると、非常に助かる。]
〔桑原〕 八雲先生が借りておられたあの廣大な根岸邸の家賃が、僅か月三圓半と伺いますから當時は萬事安かつたものです。就眠とか入浴というようなことはどうでしたか。
〔富田〕 寢具はベツトがありませんので、布團を高く重ねてこれを代用し暑い時は蚊帳[やぶちゃん注:「かや」。]を釣りましたが、先生が初めての時は立つたままで蚊帳に出入りされましたのにはおかしくもあり驚きもしました。
毎日入浴されましたが、風呂から出られますといつも冷水にかかられました。湯は微温が好きでしたが、或る日湯加減の特別熱かつた時に「地獄」「地獄」と叫ばれたことは今に一口話[やぶちゃん注:「ひとくちばなし」。]になつています。
先生が便所に行かれる光景がこれまた實に奇觀でありまして、便所へ何時もの如く葉卷をくわええ行かれるのはよいとして、どういうものか帽子を冠つて[やぶちゃん注:「かぶつて」。]入られました。
先生は洋傘やスケツキは持つておられなかつたのでご使用のことはありません。雨降りの時は人力車を呼んで行かれました。ネクタイは非常に狹い黑いリポンか紐に限られていました。
地球の反対で素敵な若い女性で博士号を持つ人に私の「鈴木しづ子」の電子化注が役に立った。私が遂に、はっきりとしたユビキタスの一人として真の「知的 Homo sapiens 」となった瞬間であった。Facebookで鈴木しづ子論の梗概と私への謝辞を贈られた。そのスペイン語と英文で書かれた文を以下に転載する。私の姓名のリンクは私のFacebookである。なお、昨夜、私のブログが、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、二百六十万アクセスを突破した記念ともする。
*
*
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]
【初期形】
七月の微風は
水繪具の朱のにほひ
うるんで碧い少年の視線を
人工的に雲ある空を
しづかに晝が流れて行く
【修正形】
七月は
水繪具のヴアミリオンのにほひ
うるんで碧い少年の視線を
人工的に雲ある空を
しづかに晝が流れて行く
[やぶちゃん注:「ヴアミリオン」“Vermilion”は「etymonline」に拠れば、『「鮮やかな赤色、朱色の色合い」を意味するこの言葉は、14世紀中頃に中世英語や古フランス語のvermail、vermeilから来ています。これらは11世紀の古フランス語で「鮮やかな赤、緋色、クリムゾン」を指していました。さらに遡ると、後期ラテン語のvermiculus「小さな虫」、特にクリムゾン染料が得られるコチニール虫を指していました(kermesと比較)。古典ラテン語では「昆虫の幼虫、イモムシ、ウジ」を意味し、vermis「虫」の縮小形(vermi-を参照)です』。『名詞として英語に取り入れられたのは1590年代で、「鮮やかな赤色、朱色の色合い」を指します』とし、『13世紀後半、vermiloun「辰砂、自然に存在する硫化水銀; 粉末にした辰砂から作られる赤い染料」は、アングロ・フレンチおよび古フレンチのvermeillon「赤鉛、辰砂、(化粧品)ルージュ」(12世紀)から派生し、vermeil(vermeilを参照)。形容詞としては「辰砂の色のもの」として、1580年代に使用された。』とあった。英文の色見本・色コードのサイトの当該ページをリンクしておく。なお、解説中の『コチニール虫』とは、英語の“Cochineal”で、有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ(介殻虫)上科 Coccoideaコチニールカイガラムシ科コチニールカイガラムシ属コチニールカイガラムシ Dactylopius coccus を指す。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『アメリカ大陸原産で、特にメキシコ原産とされる。別名、エンジムシ(臙脂虫)』。『メスの成虫の体長は3ミリメートルほど。オスはその約半分』である。『メスは無翅で褐色の貝殻状をしており、ウチワサボテン属のサボテンに寄生して枝に固着している。一方、オスには翅があり敏捷に動く』。『なお、一部の文献で同じ「エンジムシ(臙脂虫)」の名でコチニールカイガラムシとラックカイガラムシ(東南アジア原産)』(カイガラムシ科ケリア属ラックカイガラムシ Laccifer lacca のオス)『を混同していると指摘されており』、『区別が必要とされる』。『染料として利用するのはメスである。古くはマヤやアステカ、インカ帝国などで養殖され、染色用の染料に使われてきた。野生のサボテンに寄生しているものを箒(ほうき)、刷毛(はけ)、ブラシなどで布の上に落として収集していたが、乾期と雨期がある地方では』、『雨期に収穫量が減少するため』、『人工飼育されるようになった』。『虫体に含まれる色素成分の含有量が多いため、今日色素利用されるカイガラムシの中ではもっともよく利用され、メキシコ、ペルー、南スペイン、カナリア諸島などで養殖され、染色用色素や食品着色料、化粧品などに用いられている。また17〜18世紀には人気の医薬品(ダフィーのエリクサー)』(“Daffy's Elixir”:当該ウィキに拠れば、『元々は胃薬として開発され、時代が下るにつれて万能薬として扱われた薬品のこと。18世紀から 19世紀にかけてイギリス、アメリカで人気の治療薬であった』。『1647年にレスターシャー州レッドマイルの牧師トーマス・ダフィーによって発明されたとされている。ダフィーはそれをエリクサー・サルティス(健康のエリクサー)と名付け、万能薬として宣伝した』。『「The true Daffy's Elixir」に記載されている初期のレシピ によるとアニス 、ブランデー、コチニールカイガラムシ、センナ、 マンニトール、パセリの種、レーズン、ルバーブ、サフラン、 リコリスなどが記載されている』とある。より詳しくは引用先を見よ)『にも用いられた』とある。
●なお、この詩の、標題「眞晝」と「七月は」「水繪具のヴアミリオンのにほひ」から、』『「眞晝」が「匂ふ」』という表現を見出せるが、このフレーズが、ちょっと気になって調べたところ、サイト「吉本隆明の183講演」の「芥川・堀・立原の話」の「12 生活的な感性から断ち切られた無限定な時間性」の部分で、立原の詩(「萱草に寄す」で知られた一篇、「SONATINE No.2」の第一篇の原詩「虹とひとと」の第三連。リンクは私の原詩の電子化注)
また風が吹いてゐる また雲がながれてゐる
明るい青い暑い空に 何のかはりもなかつたやうに
小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほつてゐる
を引いて、
《引用開始》
この場合の「花のいろがにほつてゐる」っていう使い方は、いずれも色を意味していることが分かると思います。だから、これはいわば〈匂い〉っていう言葉が意味する概念の非常に、日本語でいえば、元のところまで遡る、そういう感性で、〈匂い〉っていう言葉がひとりでに使われていることがわかります。
これは、半分はたとえば、『古今集』の影響をそれとなく感覚的に受けたから、そういう言葉の使い方をしているってことがひとつあるでしょうけど、もうひとつはたぶん、立原道造の資質の中から、本質的に出てきた使い方だっていうふうに思います。つまり、これは、立原道造の資質のなかに、それは、こういう使い方をするものがあるんだっていうふうに考えたほうがいいのだと思います。
それから、このあとには
誰からも見られてゐない確信と
やがて 悔いへの誘ひと-
その時 真昼が
匂ふやうであつた
っていう表現があります。この「真昼が匂ふやうであつた」っていう表現自体は、すでに『新古今集』の中自体にもないものなんです。
もし、そういう言い方をすることができるとすれば、それは、立原道造の発明した使い方だ、〈匂い〉っていう言葉の使い方だっていうことがわかります。つまり、「真昼が匂ふやうであつた」っていう感受性の仕方と、こういう言葉の使い方っていうことは、立原道造の発明にかかわる、つまり、独創にかかわるものだっていうふうに考えることができると思います。言い換えれば、そういう使い方で表現される、ある感性っていうものは、立原道造の詩を立原道造の詩にさせているものだって考えることができると思います。
それは何なのでしょうか、たぶんそれは、時間っていう概念がひとつだと思います。つまり、時間っていう概念が立原道造のなかで、非常に重要な問題なんだっていうことがひとつあると思います。
その時間っていう概念がどのように立原道造の中で重要になっているのかっていうと、それは、時間が一種の無限性というようなもの、あるいは、無限定といってもいいんですけど、無限定性あるいは無限性というようなものとして、時間が考えられていたっていうふうにいうことができるのではないかと思います。
なぜそれでは、立原道造のなかで時間というものが無限定性、あるいは無限性っていうものとして感じられていたかといいますと、もしも詩の中に、あるいは、生涯の中に、詩の感性の想像力の中に、生活の匂い、あるいは、生きた生活の匂いとか、そういうものが、なんらかの意味で介入していくとすれば、生きた生活、あるいは、生きている人間、具体的な人間というのの時間性は、かならず生まれたときから死ぬまでのあるひとつの曲線がありまして、その曲線のなかで生き死にするわけで、限定された時間が必ずあり、時間が限定されるにつれて、いわば子どもの時は、4歳の時は4歳の感受性、4歳の生き方、15歳の時は15歳の生き方、30の時は30の生き方というように、そこに具体的な生き方の肉体といいましょうか、肉っていうものが時間の中にちゃんとくっついて、そして、ある時間、時間がひとつの曲線を描いて、生から死へっていうふうに流れていくっていうのが、たぶん、生身の人間の生活みたいなものは、詩の感性のなかに入っていく場合の時間の取り方だっていうふうに思います。
そこで、たぶん立原道造の場合には、死が初めから匂っているように、初めから存在しているように、もう生が死の後に存在しているというようなかたちで、いわば生活的な問題から、感性から断ち切られたところで、立原道造の感覚っていうものが展開されているっていうこと、そのことがたぶん、立原道造の時間性っていうものを無限定にしている、あるいは、無限性にしている要素なんだと思います。そこが立原道造の詩人としての本質っていうことにつながっていく要素なんだっていうふうに考えることができると思います。
《引用終了》
とあるのを見つけた(以下、『それから、もうひとつあります。』と、さらに続くが、長くなるので、各自で読まれたい。
さても。この吉本の『立原道造の発明した使い方だ、〈匂い〉っていう言葉の使い方だ』という断定には首を傾げた。私自身、そのような認識を持ったことがないからである。無論、私自身、近代文学の時系列の中で、道造以前に、そのようなリリック・フレーズをいないことを検証したわけではない。しかし、正直、私は、諸手を挙げて、これに肯んずることは出来ないのである。ただ、私は、個人的に吉本が生理的に嫌いであるから(私は、彼の詩をいいと思ったことは全く、なく、評論に至っては強い嫌悪を感ずる人種である)、ただの非論理的反抗に過ぎないと過されて構わない。ともかくも、私の偏愛する三名を三題噺しにしているこの講演自体全体が、聊か、胡散臭い教祖の「有難い」説教のように感じただけである。以上。]
『小泉八雲 「蜻蛉」のその「二」・「三」 (大谷正信譯)』の「太巢」なる俳人に就いて、重要な疑問注を追記したので、是非、見られたい。簡単に言うと、「太巢」は高井几董の別号であるという言説への疑義である。御情報を乞うている関係上、特にポストした。
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。而して、この草稿は、注記で、全文が書き直されていることが記されてあり、抹消されたものであろう初期詩形が活字化されてある。そこで、まず、元の詩を電子化し、次いで、改訂版を示す。注記には初期形は『(行頭は揃って天ツキ)』』とあったので、それも附加した。「天ツキ」に就いては、先行する「(計算ちがひが⋯⋯)」の冒頭注を見られたい。]
【初期形】
午 睡
┣僕は何遍も見た その夢を
┣その夢のなかでは
┣僕は三角だつた 海だつた
┣靑い小旗がピストルだつた
┣きつとまちがへてた單語よ
┣僕はわるく眠りつつあつた
【修正形】
午 睡
夢のなかで
僕は三角だつた 海だつた
小さな旗がピストルだつた
きつと僕のまちがへていゐる單語よ
僕はわるく眠りつつあつた
[やぶちゃん注:底本は初回を見られたい。本篇はここで、底本の注記はここで視認出来る。]
へんな出發
鏡の顏があくびをする
不器用なしのカリカチヤア
午後二時の時計よ
星のやうに サヨナラ
もう僕は出かけるのだ
[やぶちゃん注:「カリカチヤア」(英・仏:caricature(英(カリカチュア)・仏(カリカチュール)/伊:caricatura(カリカトゥーラ)/独:Karikatur(カリカトゥラ))とは、誇張的表現による社会風刺・寓意・滑稽などを目的として描かれた画像の総称。古代エジプトの擬人化した鳥獣画などを起源とするが、特に十七世紀以降、版画技術や印刷術の普及に伴って、広く行われ、政治的にも利用されるようになった。ジャック・カロ、ゴヤ、ドーミエ、ホガースらが、その鋭い風刺で知られる(解説部分は平凡社「百科事典マイペディア」を主文として使用した。]
[やぶちゃん注:本日、たまたま、何気なく――全く、殆んど意味もなく――国立国会図書館デジタルコレクションで立川道造で検索したところが!――今日! まさに今日!――一九七二年角川書店刊「立原道造全集 第二巻 Ⅱ詩集」が『送信サービスで閲覧可能』となって、視認出来ることが判明した!!! 以前、図書館で借りて、未電子化の詩篇を電子化したいと考えながら、諸プロジェクトを広げてしまった結果、やらず仕舞いで居たのだったが……私は――『……道造の魂が! 私にそっと囁いたに違いない!』と独りごちたのであった。さればこそ、これを底本として、私が未だ電子化していない彼の草稿詩篇を起動することとした。本篇は底本の『前記草稿詩篇』パートのここで、底本の注記はここ(左丁317ページ下段)で視認出来る。詩は無題のものもあるので、一応、仮題として最初の部分を、底本を真似つつ、二字下げ・丸括弧入りで、六点リーダを添えて示した。底本では標題はポイント上げであるが、当該原稿を見ていないが、立原は同じ大きさで書いている可能性が高いと考え、同ポイントとした。無論、底本同様に正字正仮名である。注は、比較的知られた語であっても、若い読者や、ネイティヴでない方を想定して、附してある箇所がある。
本篇の執筆想定は、注記に筆跡と使用されたインクから、『「卽興」および「一年を顧みて」『昭和7』(一九三二)『3月執筆想定・第六巻所収』(『雜纂』篇。ここと、ここで、視認出来る)『に類似点を求め得る』とし、『上限を』(根拠が示されてある)『昭和6年12月以後とし、下限を』(根拠が示されてある)『昭和7年3月以前と想定する』とある。]
(お時計の中には……)
お時計の中にはニハトリが住まない
お魚の內臟に燐寸で靑く燈を點けろ
圓周率を數へるために鼠を飼ひます
ピーターさんは海へ泳ぎに出かける
繪の描けない草は大體花を持たない
都會の電燈の色はボンヤリしてます
馬の足音に驚くのは垣根のバラです
手品をつかはない太陽はまんまるい
腹痛にきく藥はライオンの尻尾です
白い公園の白い噴水と白い馬が白い
都會の少女の肢はスツキリしてます
飛行機が墜落するので花は咲かない
ピーターさんの妹が山へ登りました
靑い空は粉々になつて碎けてしまふ
そこで月が胡桃の一つに化けました
お時計の中にはニハトリが住んでる
[やぶちゃん注:「燐寸」恐らくは「マツチ(マッチ)」と読んでいる。
「ピーターさん」不詳。軽井沢で知った外国人の友達がモデルかと思われる。
「描けない」音数律からは、私は「かけない」と読む。
「肢」「あし」であろう。]
たまたま、今日、何気なく、立原道造の書籍を国立国会図書館デジタルコレクションで調べた……と!?!……と……ところが!――今日! まさに今日!――一九七二年角川書店刊「立原道造全集 第二巻 Ⅱ詩集」が『送信サービスで閲覧可能』となって、視認出来ることが判明した!!! 以前、図書館で借りて、未電子化の詩篇を電子化したいと考えながら、諸プロジェクトを広げてしまった結果、やらず仕舞いで居たのだったが、……
道造の魂が! 私にそっと囁いたに違いない!
よし! やるぞ!
「前記草稿詩篇」!!!!!!!!
(リンクは当該目次)
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]
【図版2】
■「つのふか」
「一名、つのめざめ。」
[やぶちゃん注:【図版1】で考証したツノザメ目ツノザメ科ツノザメ属 Squalus であるが、腹部右下からの煽り風で描かれ、一見、目が可愛く、マスコットのようにデフォルメされているような錯覚を受けてしまう。そのため、どうも、比定に困難を感ずる。先では、
トガリツノザメ(尖角鮫)Squalus japonicus
としたが、一応、ここでは、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」が掲載する五種を並べて考証する。順列は、同図鑑の、ここの「ツノザメ目」に従がった。
①アブラツノザメはここで、アブラツノザメ(油角鮫)Squalus suckleyi
②トガリツノザメはここで、トガリツノザメ(尖角鮫)Squalus japonicus
③ツマリツノザメはここで、ツマリツノザメ(短角鮫)Squalus brevirostris
④ヒレタカツノザメはここで、ヒレタカツノザメ(鰭高角鮫)Squalus formosus
⑤フトツノザメはここで、フトツノザメ(太角鮫)Squalus mitsukurii
さて、この内、⑤のフトツノザメは、解説の「基本情報」に『本州以南に生息する。やや小型のサメである。刺網や深場の釣りで揚がる。この背鰭に棘(角)があるサメの中でもアブラツノザメは認知度も高く、東北・関東を中心に利用されているが。本種は漁獲量が少なく知名度が低い』とあり、「珍魚度」にも、『底曳き網や釣りなどで揚がるが、量的に少なく、流通しないのでがんばって探さないと手に入らない』とし、「水産基本情報」でも、『市場での評価』に、『ほぼ流通しない。一定の評価はない』とあることから、まず、最初に除外してよいと思われる。同様に、④ヒレタカツノザメの記載も、「生息域」には、『水深180-790m』。『千葉県銚子〜九州南岸の大平洋沿岸、沖縄島以南の琉球列島、東シナ海大陸棚縁辺〜斜面域』で、『台湾、オーストラリア南西岸』としつつ、やはり、「基本情報」には、『学名が2017年に確定したもので、漁獲されての情報などはまったくない。』とあるだけで、以下、白紙なのである。されば、これも除外する。
而して、残る三種の、それぞれの画像をじっくりと見て、この図のように見えるものはどれか、と考えたところ、私は、
★『これ、圧倒的に③のツマリツノザメだべッツ!!!』
と、強く感じたのであった。
頭部の腹側が他の種に比べて、圧倒的に膨らんでいるから
である。そのツマリツノザメの解説を示すと、『1m TL 前後になる。背鰭前端から吻までが短い。目も吻に近く体高がある。』「生息域」には、『水深100-640mの海底、海底付近』。『青森県八戸、千葉県銚子から九州南岸の大平洋沿岸、玄界灘、沖縄島以南の琉球列島、東シナ海縁辺〜斜面域、九州〜パラオ海嶺』及び『朝鮮半島全沿岸、黄海、中国の東シナ海・南シナ海、西沙諸島』とある。但し、それ以外の、記述が、全くないのが、果して、明治時代に、漁獲されたかどうかが、ちょっと心許ないのでは、ある。
残るは、①アブラツノザメと、②トガリツノザメとなるが、
後者のトガリツノザメは、解説に、『日本の沿岸域に多い小型のサメ。量がまとまらないので流通はしない。』とし、『ツノザメ科全般に言えることだが』、『味がいいので、食用としている可能性は高い』(最後は将来性記載である)とあり、『市場』にも『流通しない。』と断じているので、これも、ご退場願ってよいと思う。
★而して、アブラツノザメであるが、これは、結論を言うと、有力な対抗候補である。
解説を引く。『北半球の寒帯から温帯域にいる中型の鮫。国内では主に北海道・東北太平洋側で水揚げされている。北海道、青森県などでは釣りなどで盛んに漁獲している。サメ類ではもっとも漁獲量が多い』。『浜で皮を剥き、頭と内臓を取り去る。これを棒ザメという』。『関東にもたくさん送られてきており、古くは棒ザメで作るサメの煮つけは都内でもよく食べられていた。都内では定番的大衆魚だったが、やや「お高い」といったもの。例えば「もうか(ネズミザメ)」と比べると贅沢なものであった』。『また』、『栃木県、茨城県・群馬県の一部では日常的にも、年取魚(正月用の魚)としても人気がある。新潟県上越市でもよく食べられている』。『今でも根強い人気があるが、棒ザメを切身として売る店も、買う人も減少傾向にある。非常に味がよく万人向きの食材、もっと人気が出てもいい』。『練り製品の原材料ともなり、すり身としては高価である。また近年高鮮度化も進められている』とあり、「珍魚度」に『青森県などでは漁業対象となっているので、珍しい魚ではない。ただし』、『産地で皮を剥かれることが多いので、丸のまま手に入れるのは』、『とても難しい。』と括っておられる。「主な産地」は『青森県、北海道、宮城県、福島県など。東北北海道』とする。さらに、「歴史・ことわざ・雑学など」の項に、『ぼうざめ 〈江戸にて一種ぼうざめと云有〉『物類称呼』(越谷吾山著 安永4/1775 解説/杉本つとむ 八坂書房 1976)』とあって、江戸時代に既にして、流通していたこと、別コラムの『正岡子規、水戸紀行の「鮫の煮たると」』で、『正岡子規の実に写実的な表現でみる千葉の食』の項で、ぼうずコンニャク氏は『常磐線開通前の水戸街道小金駅あたりで正岡子規が食べたサメは沖合いにいるネズミザメではなく、より岸近くにいるアブラツノザメと考えるべきだと思っている』と述べられ、さらに、続く、『鮫煮つけは非常に味がいい。正岡子規はなにを食べたのか?』で、食べた料理法まで推理されているのである。
さらに、有力候補度がズン! と高まるのは、異名である。
『ケセンズノ ケセンヅノ[気仙角]』『宮城県気仙沼、東京都 参考『日本産魚名大辞典』(日本魚類学会編 三省堂)』、『ツノザメ』『富山県黒部市生地 参考『日本産魚名大辞典』(日本魚類学会編 三省堂)』の、本図の名称の類似、或いは、相同性である。
結論を示す。
☆第一候補は、論理的に圧倒的にアブラツノザメ
であるが、画像に拘ると、私は、
☆第二候補として、フォルムからツマリツノザメ
を外すことが出来ない
としておく。]
■「ほしふか」
「一名、ほしさめ。」
[やぶちゃん注:これは、文句無しで、
ネズミザメ上目メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo
である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクしておく。]
■「をにうちふり」
「九刕大隅」
「「をにうちふか」」
「凡《およそ》、長《ながさ》、二尺。」
[やぶちゃん注:これは、頭部の形状から、
板鰓亜綱テンジクザメ(天竺鮫)目オオセ(大瀬)科オオセ属オオセ Orectolobus japonicus
である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクしておく。]
■「あをふか」
「長《ながさ》、凡《およそ》、壹𠀋。
大なるは、二、三𠀋に至り、
一《いつ》に、「荒(あら)ふか」といふ。
歯、なし。人を、とりくらふ。」
[やぶちゃん注:これは、文字通り、
ネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus
である。「人を捕り食らう」とあるが、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、この断定は、問題があるようである。ここは、本文注では外していたので、その「危険性」の項を引用する(注記号はカットした)。『気性が荒く、人に対しては危険な種とされているが、今までにこのサメが起こした事故はあまり報告されていない。生息域が主に外洋ということで、人と接触することがあまりないためであるとされる』。『2010年11月30日から12月1日の2日間にかけて、エジプトの紅海において海水浴客3人がサメに襲撃される事件が発生。このうち1人が足と腕を噛みつかれ、片腕を失った。近くの海域でヨゴレと共にアオザメが捕獲されたことから、犯人は当初アオザメとされた。サメが捕獲されたことから、地元当局は海の遊泳禁止措置を解除した。しかし、その後ドイツ人の海水浴客がサメに襲われて死亡する襲撃事件が起きており、襲撃したサメは別の種類と見られている』。『日本国内では1951年(昭和26年)6月、熊野灘の定置網にかかった全長約5 mのアオザメから少年の腐乱死体が見つかった例がある。また1979年(昭和54年)11月11日には、宮崎県串間市都井岬沖約67 kmの日向灘で、貨物船「明和」(4457重量トン)が時化により沈没した際、漂流中の乗組員が救助隊の目前でアオザメとみられる大型のサメ(推定体長約3 m)に食い殺されるという事故も発生している。2004年(平成16年)7月15日には和歌山県すさみ町沖の枯木灘で、夜間集魚灯を点けてアカイカ釣りをしていた遊漁船に体長3.5 m、体重350 kgのアオザメが飛び込み、釣り客が胸や頭をサメの尾鰭で強く叩かれて胸骨骨折などの重傷を負う事故が発生している。すさみ町立エビとカニの水族館館長によれば、アオザメは黒潮が接近している枯木灘ではよく見られるが、船に飛び込む事故は聞いたことがないという』とある。一応、英文の同種のウィキ“Shortfin mako shark”の‘Attacks on humans’ (「人間への攻撃」)の項を見たが、『ISAF』(International Shark Attack File:国際的なサメによるヒト襲撃情報のデータベース。詳しくは当該邦文ウィキを見られたい)『の統計によると、1980年から2024年の間にアオザメによる人間への襲撃は10件発生しており、そのうち3件は死亡に至った。また、ボートによる襲撃も20件発生している。アオザメによる襲撃の多くは、嫌がらせや釣り糸にかかったことが原因で引き起こされたと考えられている。アオザメに遭遇したダイバーは、襲われる前にアオザメが8の字を描いて口を開けて近づくことに気づいている。最近の襲撃は2024年3月30日にカボ・サン・ルーカスで発生したが、死亡には至らなかった。サメはシュノーケリングをしているグループを襲い、ある男性はサメが他の人に危害を加える前に格闘しなければならなかった。』と、ある。孰れにしても――アオザメは絶対的な「人食いサメ」ではない――と結論出来るものと思われる。]
■「へらさめ」
[やぶちゃん注:本文には、この名では、出現していない。小学館「日本大百科全書」の「ヘラザメ へらざめ/篦鮫」から引用する。『軟骨魚綱メジロザメ目の科や属の総称、またはその1種の名称。ヘラザメ科Pentanchidaeは第1背びれが腹びれ上方またはその後方に位置すること、臀(しり)びれがあること、口が目の前端の下に位置すること、頭蓋骨』『の眼窩』『上部に庇(ひさし)がないことなどが』、『特徴で、ヘラザメ属 Apristurus 、ナガサキトラザメ属 Halaelurus 、ヤモリザメ属 Galeus など11属からなる。そのうち、ヘラザメ属は吻(ふん)が扁平』『で、臀びれと尾びれが接することが特徴で、約40種からなり、日本近海には約9種が知られている』。『種としてのヘラザメ A. platyrhynchus(英名spatula-snout catshark)は第1背びれが腹びれ基底より後ろから始まること、胸びれと腹びれの間が短いこと、臀びれ基底が非常に長いことなどで特徴づけられる。深海性で、大きくても全長1メートル程度で、生殖方法は短期型単卵生である。トロール網などでときに大量に漁獲され、練り製品の原料などにされる。南日本から、台湾、フィリピン、オーストラリアなどの海域に分布する。国際自然保護連合(IUCN)のレッド・リストでは、低懸念(LC)とされている(2021年9月時点)。』とあった。しかし、この小型のサメから、果して輸出向けの鱶鰭が製造出来たのであろうか? やや疑問である。識者の御教授を乞うものである。]
[やぶちゃん注:底本では、ここの左丁から。]
松江に於ける八雲の私生活
富田旅館時代
明洽二十三年(西曆一八九〇年)八月二十五、六日の頃小泉八雲は橫濱より松江に到着直ちに富田旅館に入り、明治二十四年(西曆一八九一年)二月に至るまで七ヵ月間同旅館に滯在し、同月松江末次本町卽ち京店織原氏の貸屋に移轉した。
[やぶちゃん注:本書の年譜的記載は、例えば、私の所持する内で、最も完備している恒文社『ラフカディオ・ハーン著作集』第十五巻(一九八八年)の銭本健二・小泉凡編になる「年譜」と対照すると、かなり大きく異なる部分が、有意にある。その辺りは、必要と考える限り、逐一、示すように心掛ける。さても、初っ端から、事実と齟齬する記載が連続する。そこでは、『八月三十日(土)、午後四時、松江着。大橋川北岸の末次本町四一番地(東本町一町目一番地)』(ここ。グーグル・マップ・データ。無指示の場合は同じ)『にある富田旅館に投宿する。』とあり(これは以下の富田旅館の女将の証言でも、日付が誤っているので注意されたい。そこまで繰り返しはしない)、『ハーンは、二回の八畳と二畳の部屋を使用することになり、女将のお常と女中のお信(島根県能義郡出身、池田ノブ)が主として身辺の世話にあたった。なお、同所に十月下旬まで寄留する』とあり、同年十月の記載の最後に、『十月下旬――十一月中旬、京店(きょうみせ)織原方の離れ座敷(末次本町)』(ここ。富田旅館の西隣りの直近である)『に転居する』とあり、当時の彼の『書簡には、もはや旅館ではなく、湖水に臨んだきれいな家の持ち主だとある』(「ひなたGIS」の末次本町もリンクさせておく。戦前の地図によって、宍道湖大橋もなく、まさに宍道湖を直に見通せる位置にあったことが、よく判る)。『但し、十一月十八日の「山陰新聞」には、ハーンの「僑寓、縁取町富田屋の娘……」とあり、この時点でまだ富田屋に寄留していたことを伝えている』とあり、未だ、この時期の住所移動時期は、今も明確には判っていないようである。また、『十一月中旬(日)、富田屋の女将お常と眼の悪いお信を伴って、一畑薬師』(いちばたやくし:一畑薬師は臨済宗総本山醫王山一畑寺(いちばたし)。平安時代に遡る言い伝えで、眼病平癒のあらたかな寺院として知られる。ここ)『に参拝する』とある。]
富田旅館に滞在中の八雲の日常私生活を検討するため、予は昭和十五年(西曆一九四〇年)六月十五日富田旅館に富田ツネ刀自及び令息卯吉氏を訪問し、予と三人鼎座してツネ刀自より當時の實況を聽取した。
[やぶちゃん注:「鼎座」「ていざ」。「鼎」(かなへ(かなえ))の足のように、三人の者が向かいあってすわること。「鼎」は音「テイ」で、古代中国に於いて飲食物を煮るのに用いた金属製の容器。二つの耳と三本の足を持つ。古くは土器であり、飲食物を煮るだけに用いたが、後、祭祀用となった。特に夏の禹王(うおう)が九ヶ国の銅を集めて「九鼎」(きゅうけい)を作ってから、王位・帝位を表わすようになった。祭器としては、本邦では訓で「かなえ」と呼ぶことが多い。]
なおツネ刀自は、八雲が松江在住中の記事を誌せる諸書中に、必らず現われている所の當時の富田旅館の女主人で、最も多く八雲に親炙した人であることを附言しておく。
以下は、予がツネ刀自に對してなした問答筆記である。
[やぶちゃん注:富田ツネさんは、恐らく著作権上の問題ないと推測するが、令息卯吉氏については、判らない。しかし、これは、桑原氏の聴き取りによる桑原の記載記事であり、著作権侵害には当たらないと私は考える。実際、私は、二〇二一年一月二十三日に『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を電子化注しているが、冒頭注で、この座談に出席している人物の内、二名の没年が『判らないので、彼の発言部は著作権に抵触する可能性がないとは言えない(他の人物はパブリック・ドメイン)。そうである事実を示して指摘されたならば、彼ら二人の発言部は省略する。』と記して公開したが、五年ばかり経ったが、誰一人、それを指摘された通知を受けていない。これに就いても、万一、「卯吉氏がパブリック・ドメインではないから、インタビュー記事もダメである。」という指摘があれば、当該証明法規及び公的な没年証明書を添えて通知頂ければ、彼の回答部分のみをカットする用意はある。]
〔桑原〕 なるべく既に世に發表されていない點を主に伺いたいと思いますが、八雲が富田旅館滯在中にお信さんという女中がいて、八雲先生の世話をなし、八雲先生はお信さんの眼病を自費で療治せしめたと聞きますが、そのお信さんはどんな來歷の人でしたか、まだ存生ですか。
〔富田〕 お信は出雲國能義郡廣瀨町の池田というものの子でありましたが、兩親に早くより死別し、その祖母にあたる人が、お信の七歲の時にその弟と二人を連れて、少しのゆかりを賴つて私方に參り、お信は女中代りとして手傳を致しまして、八雲先生の見えた時お信は十五、六歲の時でした。先生の御世話は萬事私とお信とが致しました。先生は大層お信を可愛がつて英語をお敎えなさいました。そしてお信はかわいそうに二十三歲でなくなりました。
〔桑原〕 八雲先生が松江到着後直ちに富田旅館に入られた時の模樣を伺いたいと思います。
〔富田〕 先生が明治二十三年八月二十五、六日頃、私方に溫到着の時は早速お風呂をたて、お湯から上られた時に白浴衣を出しましたところが、それが大層氣に入りまして、白浴衣のまゝで二階の八疊一の間に、ちようど日本人のように、膝をキチンと曲げておすわりでした。
先生の御到着前に、縣廰より椅子テーブルを澤山借りまして、お役人方の出張を待ちましたが、縣のお方々は、西洋人に面會するというので洋服でお出でたようでしたが、先生は西洋人としては身長の低い五尺二三寸[やぶちゃん注:一・五八~一・六一メートル。]位、頭髮は灰黑色、鼻の下には髭をはやし鼻は高い方で、背を屈がめて座布團にすわり、浴衣を着ては葉卷を口にしておられる樣子が、西洋人のような日本人のような恰好で、何とも如れぬおかしさを覺えました。私共には言語がまるでわからなかつたが、聲の樣子は餘り高い方ではなく聊か錆び聲で、時々高聲に笑われました。縣廰の役人方がこれを取圍むようにして椅子に腰かけていられました體裁は、ちようど役人が罪人でも調べるような恰好でまことに珍風景でありました。
その後先生はこの浴衣が氣に入りまして、宿においでる間は、何時も浴衣で、外出は洋服でした。餘り浴衣が汚れましたために、紺飛白の單衣物[やぶちゃん注:「ひとへもの(ひとえもの)」。]を作つて上げたことがありました。
[やぶちゃん注:「紺飛白」「こんがすり」。紺地に白い「かすり」のある模様。また、その木綿織物。「紺絣」とも書く。
なお、底本では、ここの左下には、金津滋氏の、小泉八雲のであろう、右手が、箸をムンずと箸を握っている切り絵がある。左下方付着する形で「握箸」と漢字も添えて彫ってある。ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」を見られたい。]
〔桑原〕 宿屋の皆さんと先生の間の意志の交換と申しますか、談話はどんな風でしたか。言語がわからないので、互に御困りのことでしたろう。
〔富田〕 私どもは全く英語がわからず、先生も日本語はわからずまことに困りました。中學校の西田千太郞先生や中山彌一郞先生が御來訪の節は、まことに何かと便利で色々先生のお望みのことを伺つて置きましたけれども、突發のことがある時は、先生は英和字書を何時も離さずに持つておられましたために、一々字引をひいての話で用を達しまして、實に不便極まるるので、每々[やぶちゃん注:ここは会話であるから「つねづね」であろう。]間違いがありましたので大笑い致しました。
先生ご來松[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「らいまつ」で「松江に来られること」である。]の當時は、橫濱より眞鍋晃という書生さんを通辯としてつれておいででしたが、その通辯が餘り上手とは見えませんでした。ところが或る日眞鍋さんを尋ねて女の人が橫濱より參り、何かそこに事情があつたと見えて、大に[やぶちゃん注:「おほいに(おおいに)」。]先生のご機嫌を損じて、間もなく眞鍋氏は解雇せられて橫濱に歸られました。
眞鍋さんがいました時のことですが、先生が每晩のように、天神社內や和多見の賣布神社等の盆踊りを見においでの時は、何時も[やぶちゃん注:私は「いつも」と読みたい。]眞鍋さんと手前の主人太平、或いはお信の二人がおともでありました。何分太平も宅の用事が忙しい時にも先生は一向おかまいなくおともを仰せつかるので、少々後では閉口していました。先生は天神境內に行かれる時は何時も附近の井戸水を釣瓶吞み[やぶちゃん注:「つるべのみ」。釣瓶桶から、直接、飲むこと。]にして喜んでおられました。
〔註〕 眞鍋晃は、八雲全集第三編第四十一頁の記事によれば、八雲先生が橫濱附近の某寺訪問の際、同寺の書生であつて、英語を解しいいため[やぶちゃん注:ママ。「解していたため」の誤植であろう。]、それが緣故となり、八雲先生の通辯として隨行したものである。
[やぶちゃん注:この注は、底本では、ポイント落ちで、全体が一字下げであるが、ブラウザの不具合を考え、同ポイントで引き上げてある。以下の〔註〕も同じ処理をした。
「西田千太郞」(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。心理学及び教育学を専攻したが、郷里島根県松江で母校松江中学の教師を務め、この明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ(当時は同校教頭兼英語教師であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郎日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで、結核で亡くなった(主文は「講談社「日本人名大辞典」に拠ったが、一部は、私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (九)』の訳者註から増補しておいた)。異例の出雲大社昇殿も彼の仲介で実現したもので、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)にとって、まさに本邦来日後の日本人の中でも、最も大切な親友であった。
「中山彌一郞」『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語敎師の日記から (二)』の私の注を引く。西田とともに松江時代に懇意にしていた人物で、ヘルンの「島根縣敎育會」での講演(第二回「西印度雜話」明治二四(一八九一)年二月十四日開催)で彼は通訳をしており(第百五十四回「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュース(二〇一三年六月発行)のデータに拠る。【2026年1月8日追記】現在、リンク先は機能していない)、ハーンと同じく中学と師範学校の英語教師で生徒監(現行の学級担任の謂いであろう)もしており、後には神戸や商館に勤めたと、根本重煕氏の「小泉八雲のことども(続き)」(『中日本自動車短期大学論叢』第十三号・一九八三年・PDF)にある。「住吉神社」公式サイト内の『月刊「すみよし」』のこちらの風呂鞏(ふろたかし)氏の『小泉八雲と語学教育(二)』には、彼とは『神戸時代まで交際を続けた』とある(ハーンは明治二七(一八九四)年十一月に第五高等学校英語教師の契約切れとともに著作に専念するために神戸市の「神戶クロニクル社」に就職して神戸に転居、二年後の明治二十九年八月に東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職するまで、神戸に住んだ)。]
「眞鍋晃」小泉八雲の最初の纏まった作品「知られぬ日本の面影」の「第一章 私の極東に於ける第一日」に登場する、横浜で初めて訪れた寺で出逢った若い修学僧で学生である。初登場は『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章 私の極東に於ける第一日 (七)』である。これ以降、彼はハーンの奇特な通訳兼案内役として鎌倉・江ノ島や横浜等の名所を巡ることとなった。ウィキの「日本の面影」によれば、山田太一脚本の「日本の面影」のドラマでは、『「西欧文化を学びたい」という理由でハーンの通約兼世話係となり、松江まで付き添うが、日本の伝統文化に関心を寄せるハーンと意識がすれ違い、半年で横浜に帰った。のちに海軍中尉となり、帝大講師となっていたハーンと東京で偶然再会』したという設定になっている(但し、これが事実かどうかは私は検証していない)。第三章の「お地藏さま」の「二」の冒頭で、ハーンは彼のことを、『愉快な靑年である。鬚のない滑かな顏、淸らかな靑銅色の皮膚、それに紺色の蓬髪は、目元まで額に垂れてゐるので、濶袖の長い衣を著てゐると、殆ど日本の若い娘の姿に見える』と、その美少年振りが描かれている(「濶袖」は「ひろそで」と読み、和服の袖口を縫わずに全部開けてあるもの。どてらの袖のようなタイプ)。
なお、この前の
『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章 私の極東に於ける第一日 (六) ――ハーンが最初に行った寺を推定同定する――』
から、ちゃんと、見られたい。而して、是非!
「教え子の情報から再考証!――小泉八雲が来日最初に訪れた寺は横浜市神奈川区高島台にある旧アメリカ領事館が置かれた本覚寺ではなかったか?!――」
も見られたい。そして!
「★ラフカディオ・ハーンが最初に訪れたと推理する本覚寺を早速教え子が写真で撮って来てくれた!!!★」
も見て、チョーダイね!!! 言っとくと、銭本健二・小泉凡編「年譜」でも、この寺は特定されていないんだよ!!!
さて。実は、
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は松江に横浜から赴任するに際して、この眞鍋晃が通訳としてずっと同行している
のである。しかし、この赴任の道中のエピソード(鳥取県下市(しもいち)での盆踊り見学が、よく知られている)等では、後代の映像イメージ等では、眞鍋の影は微塵も想定映像としては表現されていないのだが、ハーンはちゃんと、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (一)』の中で、眞鍋を描いている。
いや、実は、その後も、ここにある通り、松江に留まって、
重要な出雲大社昇殿の時も、同行しており、八雲への解説役も、彼がメインであった
のである。それは、「小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿」の「(二)」・「(四)」・「(五)」・「(六)」・「(七)」・「(九)」を読めば、一目瞭然なのである。ところが……まさに「ところが」なのである……(次の注に続く)
「ところが或る日眞鍋さんを尋ねて女の人が橫濱より參り、何かそこに事精があつたと見えて、大に先生のご機嫌を損じて、間もなく眞鍋氏は解雇せられて橫濱に歸られました」この事実を確認する資料は、ネット上では、見出せない。私が、新たに見出したものは、中島淑恵氏の論文「ラフカディオ・ハーンと医薬―癒しと救い ① 一畑薬師のこと」(『薬学図書館』(64(3))所収・二〇一九年発行・PDF)の文中の『「杵築」の記述はこのあと,アキラとの神仏に関する問答に発展し,仏の数が限りなくあること,神道に至っては八百万の神がいることが議論される。』の注(『4)』)に『真鍋 晃.横浜の寺で出会った学僧で,英語に堪能.来日直後のハーンの通訳を務め,松江にも同行.松江滞在の半年間ほどをともに過ごす.』とあるものと、国立国会図書館デジタルコレクションで『送信サービスで閲覧可能』で見つけた、『人文論究』( 61(4)・2012・2)・関西学院大学人文学会発行)の永田雄次郎氏の「ラフカディオ・ハーンと石仏の美――横浜から熊本までの時」、ここと、ここと、ここである(本登録でないと閲覧は出来ない)。引用すると、『従来の研究所では、その経歴は不明とされる。その意味では、ハーン研究史上、「謎の人物」として第一に教えられるかも知れない』として、以下で「アキラ」の表記で、作品中の小泉八雲と彼の語りから、彼の人間像を解説しておられる。而して、最後の箇所で、『板東浩司は、不確かな推定としながらも、一八九〇年中旬に真鍋晃は松江を去るとしている』。『その理由も不明であるが、この地のハーンの通訳で、彼を理解しようとしていた松江尋常中学校教頭である西田千太郎』『の存在が浮かんでくる。』とされ、『アキラ以上に英語に通じていたであろう西田はハーンの終生の友となる。アキラも横浜の寺を近々出て行くと「極東第一日」ですでに言っている。この両者の事情が、アキラをして松江を去らせる要因となったのでのでは、ないだろうか。ハーンがアキラの人柄に疑いを持ち解雇したとの説もある』。『だが、ハーンは次のようにも語っている。そこにはアキラへのハーンの愛情を見ることであろう。』とされ、八雲の訳を示しておられる。これは、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一)』の冒頭相当であるから、そちらで示す。冒頭表題も添えた。
*
一 一八九一年七月二十日 杵築にて
晃は最早私と共には居ない。彼は佛敎雜誌を發行するため、神聖な佛敎の都なる京都ヘ行つた。それで私は迷ひ子になつたやうな氣がする――彼は神道のことを何も知らないから、出雲ではあまり役に立つまいと、彼が再三斷言したけれども。
*
以下、引用に戻す。『時の経過の内に、ハーンの語る思いはいかなるものか、真偽の問題は多少存していようとも、この文学者の寂しさを滲ませた告白は真実であると信じてみたいのである。横浜、鎌倉の寺院、さらには松江までの道を同行したアキラである。これまで日本で仏教美術などを実体験する時、必ずと言ってよいほど、その脇に立っていたアキラは、ここでハーンの前から完全に姿を消したのである。彼こそは、松江での別れの時まで、石仏を眺めるハーンの眼にもっとも近く立ち、品の良い英語で語りかけた青年であったに違いなかろう。』とある。
私は、この永田氏の見解に、非常に賛同し、感動もした。
而して、中島氏の『松江滞在の半年間ほどをともに過ごす』とあるのは、銭本健二・小泉凡編「年譜」が、来松から、半月ほど後の、明治二三(一八九〇)年の九月十四日(日)の出雲大社昇殿の翌日の、『九月十五日(月)、松江に帰る。千家家日記には、この日にハーンと真鍋晃が参詣したことが記されており、したがって、ふたたび参詣をしたのち、帰松の途についたことも考えられる』とあるのを最後に、真鍋晃の記載が、載っていないことから、『半年』というのは、ちょっと不審なのである。何故と言うと、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一)』で、私が強い疑義を感じて、注をした通り、小泉八雲の、このクレジットには問題があり、『文学的な虚構が施されている可能性が極めて高い』と述べたからである。されば、私は、真鍋の在松は、半年より、もっと短かったのではなるまいか? と考えているのである。
なお、富田ツネさんのスキャンダラスな内容は、作り話には見えない。しかし、或いは、これ、真鍋に一方的に思いを凝らしてしまった女性が、突如、彼を訪ねてきたのではなかったか? 女性たちは、当然、「かんぐる」ことで、噂を起こしたに違いない。真鍋は、そうした「濡れ衣」を説明しようとすれば、するほど、こうした「かんぐり」は、いや増しになるのが常である。真鍋の真面目な気質から見て、事実を詳細に語って弁解することはあり得ないと思われる。されば、日本語が判らない八雲も、「カタラレナイというのは、イケナイことだ!」と早合点したとも思われなくもないのである。向後も、真鍋についての考証は継続する。
「天神社」現在の島根県松江市天神町(てんじんまち)にある白潟天満宮(しらかたてんまんぐう)のことか。現在の同天満宮の夏の大祭では、盆踊りはないようであるが、江戸時代、松江城下では盆踊りが禁止されていた経緯があるから、当時、行っていたと考えても、逆に、よいように思われる。
「和多見の賣布神社」「めふじんじや(めふじんじゃ)」と読む。現在の島根県松江市和多見町(わだみちょう)の賣布神社。ここ。
「眞鍋晃は、八雲全集第三編第四十一頁の記事によれば、……」国立国会図書館デジタルコレクションの「小泉八雲全集」(大正一五(一九二六)年第一書房刊)の当該ページはここ。私電子化注は、ここ。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。以下、全部で十三枚の図版がある。例によって、汚損はかなり拘って清拭した。しかし、以下の第1図版は、捕獲後のサメの個体図であり、本体の黒い部分の中にある白点は、ほぼスレであるとは考えられるものの、では、塗り潰していいかというと、大いに、疑問を感じた。魚体の膨らみを表わすために、電燈や太陽光等で光っている感じを出して、立体感を示そうとしているとも採れなくはないからである。されば、その塗り潰しは、一切、やめた。また、三番目の個体のように、腹部の白い箇所に生じている黑色の斜線は、無論、印刷上のスレであるのだが、描いた人物が、そこにやはり膨らみのニュアンスを示すために、黒い点を添えていることは明らかであるからして、この斜線をすべて白くすることは、激しく躊躇せざるを得なかったから、やはり手を加えていない。]
【図版1】
■「尾長《をなが》ぶか」
「一名、をなかさめ。」
[やぶちゃん注:二行目は、原図では、「一名」が、右手にあり、「をなかさめ」と判じた部分が左側にある。当初、「一名を、なかさめ」だろうかと思ったものの、種同定の過程で、以上に読み変えた。而して、この二番めの表記は「をながさめ」の濁点落ちと考えた。そもそも、この極めて特異的に尾が上方にすっくと突き出るもので、生物学上はサメ全般に普通に見られる尾鰭の上葉部が長くなっていて、それを「異尾」と呼ぶが、この形状は、取り分け、他のサメ類とは、群を抜いて突き上がっており、明らかに、
ネズミザメ上目ネズミザメ目オナガザメ科オナガザメ属 Thresher(同科は一属のみで、三種を含む)
であると断定出来る。ウィキの「オナガザメ」に拠れば、『オナガザメ属では上葉の伸長がとりわけ著しく、胴体とほぼ同じ長さかそれ以上になる。尾の付け根の筋肉が発達しており、マグロやカジキ、サバなどを切り裂いたり気絶したところで食す』とある通りのハデさを示しているである。同属三種は以下で、総て本邦に分布する(世界分布は当該ウィキを見よ)。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の各種のページを示す。
ニタリAlopias pelagicus (「似たり」で、「由来・語源」に『オナガザメ(真オナガ)に似ているから』とある)
ハチワレAlopias superciliosus(「鉢割れ」で、「由来・語源」に『頭部に筋状のくぼみがあるため』)
マオナガAlopias vulpinus (「真尾長」で、「由来・語源」に『模式標本のオナガザメであるためだと思われる。それで「真」をつけた。「尾長鮫」は神奈川県三崎での呼び名からで、見た目通り』とある。
以上の「ハチワレ」のリンク先は、尾が見えないので、まず、学名で「グーグル画像検索」をリンクしておくが、比較し易いように、同様に、ニタリのそれも、マオナガのそれも示しておこう。……この三種、かなり似てはいる……しかし……よく見ると、マオナガのは前の二種に比べると、頭部がスマートな鋭角ではなく、下顎から腹部にかけてが、相対的に太くなっているのが判る。本図でも、そこがまさにそうなっている。決定打は、別名「をなかさめ」であった。「マオナガ」の「地方名・市場名」に、『ヲナガ オナガ』とあって、採集『場所』を『福島県小名浜、東京、神奈川県三崎、富山県新湊・四方・生地、三重県・和歌山県紀州、高知』とし『参考『紀州魚譜』(宇井縫蔵)』とするのである。されば、これは「マオナガ」で間違いないと考えるものである。]
■「けんさめ」
「大隅「けんのくり」」
[やぶちゃん注:以下、図の左側のキャプション。]
「大なるものなるもの、三、四尺。
色、黑く、口、小さく、歯、細く、
耳、あり。此《この》ふか、害を
なさす[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]。
従来、膽《きも》、疳《かん》・目病《めのやまひ》に用ふ。」
[やぶちゃん注:これは、全体のスマートさと、特に吻から頭部に至る箇所が、これまた、スラりとして長いことから、ツノザメ目ツノザメ科ツノザメ属 Squalus と踏んだ。さらに検討するに、
トガリツノザメ(尖角鮫)Squalus japonicus
であろう。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見よ。他に、
ヒレタカツノザメ(鰭高角鮫)Squalus formosus (同前の同種のページは、ここ)
フトツノザメ(太角鮫)Squalus mitsukurii(同前の同種のページは、ここ)
がいるが、全体のフォルムを比較すると、今一である。なお、民間処方らしき記載があるが、確認出来なかった。]
■「しろふか」「しろさめ」
[やぶちゃん注:名から、
メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus
と思ったものの、全体にふくぶくしくて、ちょっと迷った。しかし、漁獲後、時間が経って、不腐敗が起こっている個体なのかも知れない。]
■「しゆもく」
「西國にて、ねんぶつふかといふ。
土佐にて、かせふかといふ。
長《ながさ》、一𠀋餘《よ》に至る。」
[やぶちゃん注:傍線は画像では、右附き。さて、私の「かせふか」に疑問を抱く方がいると思う。『「かせふく」にしか見えない』と。しかし、下手な崩し字では、「か」の字の崩しが、「く」に見えることは、往々にあるのである(私は図書館司書資格を所持するが、「資料特論」の講義で、散々、地下文書判読で悩まされた)。信じられない方は、「人文学オープンデータ共同利用センター」の『「か」(U+304B) 日本古典籍くずし字データセット』の、そうさなぁ、『源氏物語 (485)』(「源氏物語」の例は二つあるので、その数字ものを見よ)の例えば、上から二段目の二つ目などで、右払いの時計回りの曲げが緩いものは、明らかに「く」のように見えることがお判りであろう。これは写本者によるもので、微かでも、よく見ると、時計回りは微かに見えるが、これが地下文書では、ただの「く」二しか見えないものが、しばしば見られるのである。河原田氏は、草書の達人でも何でもないから、こう書くことは、幾らもあろうと思うのである。しかも、ここは「かせふく」では意味不明だが、「かせふか」なら、バッチ・グーなのである。
これは、百パーセント、
ネズミザメ上目メジロザメ目シュモクザメ科シュモクザメ属シロシュモクザメ Sphyrna zygaena
である。生体では、腹部は白いが、この図は鰭の様子から、斜め左上方から背部を描いたものと推察される。サイト“Mexican Fish”の“Smooth Hammerhead“、”Smooth Hammerhead, Sphyrna zygaena ”の最初の画像を見られたい。概ね、一致を見ることが納得されるであろう。而して、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見て戴きたい。まず、その「代表的な呼び名」に★『シュモクザメ』とあり、「地方名・市場名」には、ズバり、★『ネンブツブカ』があり、「場所」は★『鹿児島』とある。他に、★『ネンブツ』があり、「場所」は★『玄海、佐賀、熊本県天草』とあって、以上は、本キャプションに『西國』と一致する。他に『ネンブツザメ』があり、「場所」は『茨城県大津』とあった。次に、問題の『カセフカ』であるが、やはり、「地方名・市場名」には、ズバり、★『カセブカ』が挙がっており、「場所」は『和歌山県白崎、大阪、広島県、山口県下関』とある最後に、★『高知県』とあるのだから、誰も文句は言うまいよ。]
[やぶちゃん注:本オリジナル電子化は、底本を国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』(本登録をしないと見ることは出来ない)である桑原羊次郞 著の「松江に於ける八雲の私生活」(昭和二八(一九五三)年第3版・『島根叢書』⑪・山陰新報社刊)の画像に拠り、基本、視認してタイピングして作成する。以下の没年で判る通り、本書はパブリック・ドメインである。底本が、以上の『送信サービスで閲覧可能』扱いとなっているのは、挿絵を描いておられる松江市出身の染色工芸家であられた金津滋(かなつしげる 大正一二(一九二三)年~平成八(一九九六)年)氏が著作権継続であるためと推定される(金津氏の事跡については、当該ウィキを見られたい)。従って、本書の本文を電子化することは、何ら、問題はない。無論、随所にある金津氏の作品の画像は、非常に味わいのあるものであるが、一切、画像としては使用出来ないので、当該箇所は、私が、注で解説した。
作者桑原羊次郞(くわばらようじろう:慶応四(一八六八)年~昭和三〇(一九五五)年)氏は、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『明治後期から昭和前期にかけての美術工芸研究家、社会事業家、政治家(衆議院議員)。号は双蛙(そうあ)』。『肉筆浮世絵コレクター、装剣金工研究家として知られる』。明治四三(一九一〇)『年の日英博覧会では日本美術部門委員を務めた』。『代々』、『松江藩両替商を務めた「桑屋太助」本家の6代目・愛三郎の次男(第4子)として生まれた。明治9年(1876年)より内村友輔(鱸香)の私塾「相長舎」に通う。明治14年(1881年)5月、本町小学校上等科を卒業し、同年9月に松江中学校へ入学した。在籍当時の松江中学校長は渡辺譲で、初等中学科での同級生には桂田猪熊・林玉之助・小倉寛一郎・成相伴之丞・森田龍次郎がいた』。『明治18年(1885年)7月に中学を卒業した後、上京して神田錦町に新設された英吉利法律学校に入学する。在籍当時の校長は創立者の一人である増島六一郎で、講師には菊池武夫・岡村輝彦・奥田義人・土方寧・平沼騏一郎・馬場愿治らがいた。また、後に外務大臣となる小村寿太郎が「英国法律」を講義していた。明治22年(1889年)9月、英語法学科の第1期生として特別認可部を卒業した』。『明治22年(1889年)、桑原本家7代目を継いでいた兄・猪太郎が27歳で病死したため、急遽松江に帰郷して本家8代目の家督を相続することになった。翌明治23年(1890年)、佐々木佐吉郎・諏訪部彦次郎らとともに私立松江法律学校を殿町に創立し、支持を仰いだ岡崎運兵衛が名誉校長に、羊次郎が校主兼講師となったが、明治24年(1891年)、羊次郎が渡米の意志を持って再び上京すると、同校はこの留守中に廃校となった』。『明治24年(1891年)、上京した羊次郎は菊池武夫、小村寿太郎宅を訪問し、アメリカ留学について助言を得た。同年10月、横浜港から出発して渡米し、ミシガン大学では同校卒業生並の待遇で大学院に入学、明治25年(1892年)6月「マスター・オブ・ロース」(Master of Laws:法学修士)の学位を得た』。『再び松江に帰郷し、明治27年(1894年)8月、松江商業会議所の特別会員に当選した。明治28年(1895年)10月、織原万次郎・山本誠兵衛・清原宗太郎とともに松江電灯株式会社発電所を殿町に設立。明治29年(1896年)1月には松江銀行監査役に当選、明治31年(1898年)1月同行取締役に就任した』。『大正6年(1917年)4月に、第13回衆議院議員総選挙で島根県松江市から選出された岡崎運兵衛が、大正8年(1919年)12月に死去したことに伴い、大正9年(1920年)1月に行われた補欠選挙で当選して』、『衆議院議員となり、憲政会に所属して1期在任した』。『以降、小泉八雲記念館、私立松江図書館(現島根県立図書館)、中央大学島根学員会の創設に携わる』。『昭和30年(1955年)逝去。旧蔵書や自著からなる「桑原文庫」が島根大学附属図書館にある』とある。以下、「著作」は引用元で見られたい。
さて。私は、小泉八雲を小学生の時から、偏愛してきた八雲フリークである。さればこそ、二〇二〇年一月十五日にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で、彼の来日後の作品集全十二冊総てのオリジナル電子化注を完遂している(日本語で、来日以降の八雲の作品総てを読めるのは、私のブログ・サイトだけである)。しかし、私は、実は、文学分野の評論――というか「評論家」なるものを、常に、どこか、胡散臭いものと感じている人種でもあるのである。さればこそ、最も愛する芥川龍之介に関するもの以外を除いて、文学評論の書籍を余り読んでいないし、蔵書でも相対的に少ない。而して、小泉八雲関連のものでも、尊敬する平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集に付随しているセツ夫人や長男一雄氏のものさえ、二十代の時に読んだきりであり(そこには実は桑原氏の本書に対する批判が載っているのだが、すっかり失念していた)も、ちゃんとしたものでは、以下に述べる長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」ぐらいしか読んでいない。その中で、本書については、知ってはいた(後述する)のだが、つい先日、「ばけばけ」が話題になっている中で、たまたまFacebookのある投稿で、本書の《鶯のエピソード》の部分(本底本のここの右丁の最終段落である)が写真で載っていたのを見て、それを読んで、俄然、惹かれ、この仕儀に至ったのであった。
ところが、ここ数日、ネットを調べていると、本書については、例えば、ブログ「金津滋研究」の「『松江に於ける八雲の私生活』(1950年)」を見て、まず、びっくりした。そこでは、本書の金津氏の挿画が、しっかり画像で載っているのである。いやいや、それは、当然なのであった。このブログ主は金津滋のお孫さんなのであった! 底本のものよりも、遙かに美麗なので、是非見られたい!……いや……しかし、そこで、ブログ主は、
『本書の内容はいささか問題ありとされているため、内容に触れることは避ける。』
と書いておられたのである。
……その瞬間! 思い出したのである!
……長谷川洋二氏の「小泉八雲の妻」の一節を!
幸いなことに、やはり、国立国会図書館デジタルコレクションの『送信サービスで閲覧可能』のここで、一九八八年松江今井書店刊の当該箇所(『㈠ 実情解明の試み』の冒頭に「旧来の説明」以下)を見ることが出来る。――因みに、この長谷川氏の御本は、作者から献本されたもので、実は、長谷川氏は、私が最初に国語教師として勤務した神奈川県立柏陽高等学校で、同僚(担当は世界史)であったのである。――
さて、そのここで、本書名が出て、その条の最終段落で、『しかし、二人の結婚に関する、この富田ツネの長男の証言は、後述の通り、事実関係に矛盾があり、その信憑性(しんぴょうせい)が疑われた。そしてセツとハーンの長男である一雄は、ハーン生誕百年の昭和二十五年に出版された『父小泉八雲』の中で、桑原羊次郎を無責任と非難し、改めて、西田千太郎を『両親の媒酌人』と呼び、二人は明治二十三年十二月に結婚したと書いたのである。桑原羊次郎一旦(いったん)封じられた。』とあるのである。
しかし、長谷川氏は、その、続く『新しい解釈』で、鮮やかにその後の新事実が語られるのである!……さても……ここ以降は、是非、最近、新版となって書店に並んでいるので、是非、御購入戴いて、お読みあれかし!
而して、ますます、私の中で、「このオリジナル電子化注は、せずんば、あらず!」と響いたのであった。
なお、本書は、その奥附に(赤字で記されてある)、
『昭和25年5月25日印刷・昭和25年6月1日発行・昭和27年5月1日第2版昭和28年10月1日第3版・著者桑原羊次郞・發行者 三宅美代治(松江市殿町383)・印刷者 宮井一雄(松江市殿町383)・印刷並發行所 山陰新報社(松江市殿町383)・定價1册50円・惣領8円』とあり、初版も既に敗戦後なのであるが、実は、以下の「序」文の最後のクレジットは、『昭和十五年六月二十三日』とあるので判るように、当初の企画は戦前であったことが判る。従って、以下の本文も戦前に元原稿が出来ていたと考えてよく、従って、元原稿は、当然、歴史的仮名遣で正字であったのである。また、初版の頃も、未だ活版植字の移行期であり、しかも、初版の原印版を、後も使用し続けたらしく、漢字は旧字体が多く見られ、歴史的仮名遣の一部が残っているものが、かなり散見されるのだが、忠実に電子化するので、基本的に、そうした時代の匂いを味わいながら、読まれたい。若い読者が、激しく躓くところ以外には、ママ注記は、なるべく、しないつもりではある。而して、読みを添える場合は、歴史的仮名遣と現代仮名遣の二種を附すこととする。それが作者への、せめてもの親切心の表明と考えるからである。
さらに言っておくが、私はドラマ「ばけばけ」に《便乗して、この電子化を手掛けているのではない》ことを明言しておく。私は無論、毎日のそれを、見ている。テレビ視聴は、それだけ、である。私は現在、ブログ・サイトに於いて、複数の電子化注プロジェクトを行っており、さらに、国内だけでなく、外国の日本文学の院生や研究者からの問い合わせや助言で、非常に忙しい日々を暮らしている。されば、テレビは「ばけばけ」だけを、録画で、昼食時に見ているだけである。さらに、《同ドラマの激しい脚色にも一家言ある人種――あまりに事実と異なる部分に対して――ある者であり、ドラマにすっかり惹かれている視聴者にとっては、聴きたくない事実をも注で語ることを辞さない》ことをも御理解戴いた上で、この電子化注を読まれるように、切に願うものである。]
[やぶちゃん注:表紙。]
松江に於ける
八 雲 の 私 生 活
桑 原 羊 次 郞 著
[やぶちゃん注:中央に切り紙風の黒い円の中に八雲の真右からの顔。]
山 陰 新 報 社 刊
[やぶちゃん注:扉。]
松江に於ける
八 雲 の 私 生 活
桑 原 羊 次 郞 著
[やぶちゃん注:中央に切り紙風の四つ角を内側に窪ませた中に、上に首の先と煙管(きせる)の羅宇(らう:吸い口部分)、下に同じ煙管の首の根本と雁首(がんくび:火皿(ほざら))の図。]
〔島 根 叢 書〕
― ⑪ ―
1 9 5 0
[やぶちゃん注:「目次」。ここの右丁。下方に中央に、「扉」とは異なる煙管の切り紙風の図がある(三本から成るもので、上に大きな太い全景、中央左に異なるものの吸い口部分、下に別な短い小さなもののほぼ全景)。中央に朱印の国立国会図書館蔵書印(年月日は『52, 9. 16』。国立国会図書館所蔵記号番号が左上(手書き)・下中央(スタンプ)が打たれてある(記号番号は異なる)。リーダーとノンブルは省略した。「目次」・「裝𤲿・カット」はゴシック。]
目 次
序 文 エモリー・L・タアリー
自 序
緖 言
八雲の私生活
富 田 旅 館 時代
京店と北堀時代
住 居
衣 服 調 度
食 事 と 嗜 好 品
習 癖
交 友
雑 事
小泉八雲略傳
裝𤲿・カツト 金 津 滋
[やぶちゃん注:写真ページの一枚目(写真ページは総て印画紙。画像も恐らく著作権満了と思われるが、万一の場合を考えて、示さない)。ここの左丁。上左半分に小泉八雲の知られた右からの楕円形縦のポートレイト写真。以下は、その写真の左下のキャプション(縦書)。]
ヘルンの肖像
[やぶちゃん注:以上の下半分。横長の写真一葉。恐らく、記念写真葉書かとも思われる。以下、その写真の右請上のキャプション(横書・左から右へ。最後の鈎括弧無しはママ)。]
史 蹟 「小泉八雲旧居」松江市北堀町(全景)
[やぶちゃん注:ここの右丁。写真二枚。上と下の写真へのキャプション(左下方にある)。一行字数を合わせた。]
上 八雲遺愛の品々。トラン
ク、机、椅子、ランプ、
ペン皿、火鉢、キセル等
八雲記念館(八雲旧居隣
接)内に陳列。
下 八雲遺愛のルリヤナギ、
旧居玄関入口。
[やぶちゃん後注:以上の「ルリヤナギ」というのは、漢字で「瑠璃柳」=ナス科ナス属ナス科ナス属 Solanum melanoxylon (synonym:Solanum glaucophyllum )。小低木で、ヤナギに似た葉と星形の花を咲かせ、切り花にも好まれる。暖かな地方では花の後に瑠璃色の実がなる。]
[やぶちゃん注:ここの左丁。写真三枚。それらの写真へのキャプション(右中央にある。同前)。モノクロームであが、かなり上手く撮られてある。]
上 八雲の居間より根岸邸前庭を望む。
中 根岸邸前庭より八雲の居間を望む。
下 八雲の居間より書斎を通して蓮池を望む。
[やぶちゃん後注:「根岸邸」八雲が住んだ屋敷は、江戸後期の松江藩士であった根岸家の武家屋敷であった。]
[やぶちゃん注:写真ページの最後。ここの右丁。手書き(作者不詳)であるが、よく書けている(全体は枠ではなく、塀である。左上納に勝手口がある。方位指示附きで、『正門』・『土蔵』『四・五坪』・『物置』『六坪』・母屋の各部屋の詳細配置(各部屋の畳帖数明示)が描かれ、庭も池らしきものもある。図に右下方に『建坪四七・七五坪』とある。非常に見易いので、地図内の細かなキャプションの全部までは電子化しない。以下は図の下方にキャプション(印刷)のみ示す。]
小泉八雲舊居平面圖。松江市北堀町に現存、
昭和15年8月史蹟の指定を受く。
序
ラフカデイオ・ハーンのこれらのささやかな追憶を世の人々に保存して來た桑原氏の先見に對してこの著書の讀者は最大の感謝を感じているに違いない。
短期間ではあつたがハーンの松江在住に際して彼にかしずいた二人の婦人の記憶をひき出した、これらの小さなそして非常に新しいスケツチは無限の價値を持つものであり、またハーンと彼を深く愛する歸依者たちとの間をつなぐなお一つのリンクを形ずくる[やぶちゃん注:ママ。]ものである。
ハーンは松江とその善良な人々に屬する愛を決して失わず、たえず彼の妻に對して松江ヘの歸還を許容するようにと、熱心に求めた。しかし大都市の魅力を節をとりこにした。そして短い来訪を除外しては彼は再び愛する出雲へ歸ることができなかつた。
もし彼が松江を離れなかつたとしたら、またもし彼が松江に歸えることを許されていたとしたら、彼の世界はたしかにより豐かなものになつていたであろう。なぜなら彼が〝古日本〟の小片を學んでから後は再び妖幻なタツチを得ることはできなかつたからである。
松江時代はいくつかの理由からハーンの日本生活に於ける最重要なものであつたといえる。ここで彼は彼の妻節に會い、彼の友にしてまたよきアドバイザーであつた西田千太郞、彼にとつて貴重な文學的アシスタントであつた大谷正信、そして古日本の最後の姿に際會したのだ。
ここで彼は自身を特異な生活の樣式に適應させ、また出雲傳說へふみ入れさせていつた。また彼は彼自身を家長とするサムライ家族たらんとする考えを確立させた。そして彼こそはあるがままの日本の生活を實際に見得るものとして三浦按針(ウイリアム・アダムス)以來の最初の西歐人であると感じたのである。
彼の憩いの小さな夢は、寒い松江の冬のきびしい刺戟によつて空しくもうちくだかれ、彼をしてこの仙境を永遠に去らしめてしまつた。それは玉手箱の中をのぞき見た時突如として仙境から現實にひきもどされたあの浦島太郞に似ていた。
桑原氏のこの示唆に富んだ著書にふくまれている事件や常識では吹き出してしまうようなナンセンスの數々は、ハーンの松江時代の幸福を形ずくつた生活の小片である。これらのことがらから現實にはあり得ない夢幻の世界が作られまた彼の現實からの開離[やぶちゃん注:ママ。「乖離」。]は、彼に關して起つた事柄について、愉快にも理解の手のとどかなかつたことによるところ少し[やぶちゃん注:「すくなし」。]としなかつたのである。
家族圏內に起きた多くの危機に際してハーンと節の間に緩衝を用意した西田千太郞の思慮と氣轉、この小さなプロフエツサーを幸福にならしめるために籠手田知事によつて與えられた敎訓はイルージヨンを保存する上に大きな効果となつている。
一九四九年六月、松江を訪れる機會があつたので私はこの美しい土地へのハーンの感情を諒解できるのである。私はあえていうがこの美しい土地は戰爭にもかかわらず殆ど變つていない。停車場と電車線――その何れもが都市のプロパーには入つていないが――[やぶちゃん注:助詞「が」が欲しい。]出來た以外にはハーンが彼の夢幻の世界を破壞することを恐れていた工業主義のタッチは少ない。實際自轉車があり、少々の自動車があるが、カランコロンの下駄の音が昔のままに大橋の上や露路に響いている。
私の訪問は短時間であつたが、變化に富んだ宍道湖やあらゆる方角に峨々たる地平を劃す靑い山脈の見通しにハーンが感じたと同じノスタルジヤを私も感じた。人が桑原氏の作品を讀む時「知られざる日本の面影」の記憶の薄らがぬ人々を同樣のノスタルジヤがひきつけるであろうと信ずるものである。
一九四九年七月二十日 東京にて
米空軍少佐 ヱモリー・L・タアリー
[やぶちゃん注:原文を書いた「米空軍少佐」である「ヱモリー・L・タアリー」という人物は、かなり探してみたが、見出すことが出来なかった。識者の御教授を乞うものである。にしても、全体に、極めて好意的な、素敵な献辞である。一九四九年時で少佐であったということから、既に亡くなられており、著作権満了であろうと推定するが、万一、著作権が継続していることが判ったら、カットする用意はある。但し、これは、桑原氏の訳者権が第一にあるのであればこそ、カットする必要は、私は、無い、と考えるものである。
「彼の憩いの小さな夢は、寒い松江の冬のきびしい刺戟によつて空しくもうちくだかれ、彼をしてこの仙境を永遠に去らしめてしまつた」現在、小泉八雲(当時はラフカディオ・ハーン)が松江を去って、熊本五高のお雇い教師となったのは、実際には、妻の節さんを見る当時の松江の人々の偏見に満ちたそれに、八雲が堪えられなかったからであることが、明らかになっている。繊細な小泉八雲なればこそ、である。
「西田千太郞」(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。郷里島根県で母校松江中学の教師を務め、この明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ(当時は同校教頭であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郎日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで亡くなった(「講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「大谷正信」英文学者大谷正信(明治八(一八七五)年〜昭和八(一九三三)年)。松江市生まれ。松江中学のハーンの教え子で、東京帝大英文科入学後もハーンの資料収集係を勤め、後に金沢の四高の教授などを勤めた(室生犀星は彼の弟子とされる)。また、京都三高在学中に虚子や碧梧桐の影響から句作を始めて子規庵句会に参加、繞石(ぎょうせき)の俳号で子規派俳人として知られる。
「籠手田知事」(天保一一(一八四〇)年~明治三二(一八九九)年)。元平戸藩士で剣術家としても知られた。維新後は明治元(一八六八)年の大津県判事試補就任に始まり、大津県大参事・滋賀県権令・滋賀県令・元老院議官を経て、明治一八(一八八五)年九月四日に島根県令(県知事)となっている(翌明治十九年七月十九日に「県令」から「知事」に呼称が変更された。島根県知事退任は明治二四(一八九一)年四月九日)。ハーンと籠手田の接触は早く、同年の六月頃であることが、個人サイト「わにの昼寝」の「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)」(リンク先の少し下の記事)の以下の記載で判明した。ハーンは日本到着(四月四日)の三ヶ月後には、『東京で』、『当時』、『島根県知事であった籠手田安定(こてだやすさだ)と、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師となる契約を結んだ。当時としては破格の月給』百円で、『ハーンを雇い入れた知事の籠手田安定は、殖産や教育に力を入れ、わらじ履きで県内を巡視し、人情味豊かな知事として知られていた』とあるからである。続いて籠手田は新潟県知事・滋賀県知事を歴任、最後は貴族院議員となっている。なお、ウィキの「籠手田安定」も参照されたい。ハーンが一目で惹かれた古武士のような肖像写真が見られる。
「プロパー」 ‘proper’は、形容詞で「その分野に本来的で固有な」の意。この訳では、準名詞的用法で、当時の「現代風の要素を代表するもの」の謂いである。但し、「戦後の松江にあっては、それらは既に当たり前の対象であって、当たらなくなっているが、」というヱモリー少佐の印象表現である。
「知られざる日本の面影」小泉八雲が日本来日後、最初に纏まって書いた作品“ Glimpses of Unfamiliar Japan ”。私が最初にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で本格的に電子化注したのも、この作品である。そこでは、主訳者であった落合貞三郎氏によって「知られぬ日本の面影」と訳されてある。]
[やぶちゃん注:以下。「自序」。「出版に當つて」はゴシック。署名は底本では、二字上げインデントである。]
自 序
私は松江人である。八雲が松江に來た明治二十三年は私の松江歸住中の時代で、私の師友である西田千太郞氏が松江市上、つとに八雲と共に徘徊しておられるのに遭遇したことがあり、その都度西田氏と挨拶を交換すると同時に、ただ八雲に目禮をなすまでの程度で、私は直接に交渉を有するものではない。
明治四十三年(西曆一九一〇年)私は日英博覽會美術部擔任者としてロンドンにあり早やくも八雲の盛名を聽いた。その後欧米を歷遊して大正二年(西曆一九一三年)歸國に至る間、歐米到るところに於て八雲の文名の甚だ高いのに驚嘆した。
當地出身友人法學博士岸淸一君もまたしばしば歐米に旅行して八雲の文名の高いのに驚愕した一人で、私は歸國後同博士とはかつて八雲顯彰のことに努めんことを約した。幸い私は鄕里松江にあつた關係上、大正四年(西曆一九一五年)松江市に於て知人數人と相謀り、八雲會を創設して今日に至つた。私は以上の如き因緣によつて今囘八雲の松江に於ける私生活を委細に檢討し、その全貌を後世に傳えて八雲傅記に數頁を加えんと欲するものである。
要するに私は本書に於て、八雲が斯くの如く考えていたということをいうのではない。八雲は斯くの如き私生活をしていたというのである。けだし私は一文豪の全人格はその著書と書簡を精しく檢討するだけではなく、赤裸々な些細な私生活を透してこれを觀察するのでなければ決してこれを把握することが出來ないと信ずるからである。
昭和十五年六月二十三日
雙蛙 桑 原 羊 次 郞
[やぶちゃん注:「雙蛙」「さうあ(そうあ)」。彼の雅号。「Web NDL Authorities」の彼のページで確認した。]
出版に當つて 私が本稿を完稿したのは實に十年以前で、當時既にヘルン先生に關して識者の注意があつたことは勿論であるが、今日の如く盛んではなかつた。しかし本年はヘルン先生百年祭の計畫があり、その生涯を映𤲿化する盛擧あり、國會もこの計畫に賛同するとの決議をなしたと聞く。けだしヘルン先生顯彰運動はその最高潮に達したかの感があるので、これを好期とする本書の出版は最も時機を得たものと思う。こゝにいささかその來由を述べるものである。
昭和二十五年四月
八十三翁 桑 原 羊 次 郞 再 識
[やぶちゃん注:「出版に當つて」はゴシック。
「法學博士岸淸一」(きしせいいち 慶応三(一八六七)年~昭和八(一九三三)年)は弁護士・法学博士。島根県生まれ。東京帝大卒。スポーツの振興に努め、大日本体育協会会長・国際オリンピック委員となる。没後、その功労を記念して「岸体育館が建てられた」。貴族院議員(以上の主文は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]
[やぶちゃん注:以下、「緖言」。『ハン』はママ。『一』『二』『三』『四』はゴシック。セツ夫人の「思ひ出の記」の引用は、全体が一字下げで、行末は最後まであるが、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を減じた。]
緖 言
小泉八雲(ラフカデイオ・ハン)――松江ではヘルンと稱す――は、曰本に來朝以來、橫濱、松江、熊本、神戶、東京と五度その居所を換えているが、各地に於ける八雲の業績とその著書、あるいは彼の沒後に現われた八雲書簡集などについては既に發表された著書も少なくなく屈指にいとまあらずというてよい。しかして私はこれらについて何等の文的學論評をなすものではない。
[やぶちゃん注:「文的學論評」何となく奇妙な熟語である。思うに、「文學的論評」の誤植であろうかと思うのだが、第三版まで修正されていないというのも異様ではある。一応、そのままに示した。]
私はただ八雲がその生活中最も愛着した松江僑居中に於ける日常私生活を詳記したもののの甚だ少ないことを遺憾とするものである。試みにその參考として左記諸書を引照する。
[やぶちゃん注:「僑居」歴史的仮名遣「けうきよ」(きょうきょ)で、「仮に住むこと・その住(す)まい・仮ずまい・寓居(ぐうきょ)」。]
一、「小泉八雲」
田部隆次著、早稻田大學から大正三年(西曆一九一四年)四月十八日發行。
[やぶちゃん注:「田部隆次」(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は英文学者。富山県生まれで、東京帝国大学英文科でハーンに学び、後にはハーン研究と翻訳で知られた。富山高等学校(現在の富山大学)にハーンの蔵書を寄贈、「ヘルン文庫」を作った。女子学習院教授を勤めた。
なお、この著作は、国立国会図書館デジタルコレクションのここで、誰もが、読むことが出来る。]
二、「思い出の記」
前記田部氏著書に掲載されている小泉夫人節子の記述である。
[やぶちゃん注:正しくは「思ひ出の記」である。小泉セツ(慶応四年二月四日(一八六八年二月二十六日)~昭和七(一九三二)年二月十八日)は当該ウィキに拠れば、『戸籍上の名前は小泉セツだが、本人は節子の名を好んだ』とある。解説にある通り、この作品は前の田部隆次「小泉八雲」の『第十一章 思ひ出の記』で『小泉節子』名義で、初めて活字化された。]
三、「松江に於ける小泉八雲」
根岸磐井著、松江市八雲會から昭和五年(西曆一九三〇年)十二月二十日會行。
[やぶちゃん注:「根岸磐井」(ねぎしはんせい/いはゐ 元治元(一九六四)年~平成五(一九九三)年)は小泉八雲旧居当主にして、小泉八雲の教え子。「國指定史跡 小泉八雲旧居]公式サイト内の「小泉八雲旧居について」の「小泉八雲と根岸家」に拠れば、『この屋敷は、松江藩士・根岸家の武家屋敷でした。八雲が松江にいた当時、家主の根岸干夫(たてお)は郡長として転勤していたため』、『この家は空いており、庭のある侍の屋敷に住みたいと希望する八雲に貸すことになりました。八雲が気に入った旧居の庭は、根岸家によって1868(明治元)年に造られたものです』。『また干夫の長男である磐井(いわい)は島根県尋常中学校、熊本第五高等中学校、東京帝国大学で八雲の指導を受けた教え子でした。東京帝国大学卒業後、磐井は日本銀行に勤務していましたが、八雲が愛した旧居を保存するために1913(大正2)年に松江に帰り、1920(大正9)年から屋敷の一部を公開しました。その後、記念館設立などにも尽力しました』。『旧居は代々根岸家によって保存され、2018(平成30)年に松江市の所有となった後も、その意思を継いで大切に保存されています』とある。]
四、「父八雲を憶ふ」
小泉一雄著、警醒社から昭和六年(西曆一九三一年)七月十五日發行。
[やぶちゃん注:「小泉一雄」(明治二六(一八九三)年~昭和四〇(一九六五)年)は東京生まれで、小泉八雲の長男にして文筆家。早大卒業後、拓殖大教務部、横浜グランドホテルに勤務。後、父の遺稿の整理・書簡集の編集などに携わった(ここまでは講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。著作「父小泉八雲」もある。この「父八雲を憶ふ」の初版は国立国会図書館デジタルコレクションのここで、『送信サービスで閲覧可能』で見ることが出来る。]
これらの既刊四書を熟讀して、松江市に於ける八雲の日常私生活を調査すれば、四書ともにこれを全く記していないというわけではないが、往々遺漏するものがあり、誤傳と見るベきものもあり、また矛盾と見るべきものがあつて何れも甚だ不備簡略に過ぎている。これこそ私をして訂正もしくは詳述して置くことの必要を感じさせた所以である。
[やぶちゃん注:ここより以下の内容は、本書の本文に語られる内容をダイジェストしているものであるので、人物・通称地名等の注はそちらでしっかりやることとし、難読かと思われるものは、調べて、読みだけは割注したが、基本、注は附さない。]
中でもその最も著しい誤傳と見るぺき一例は、これまでの諸書がすべて一致して八雲の結婚は明治二十三年十二月とも他旅館に於て擧行されたとなしていることである。しかし本年(西曆一九四〇年)六月十七日附八雲の親友西田千太郞氏の令弟、元九州帝國大学敎授西田精[やぶちゃん注:恐らく「せい」。ここ(PDF)の写真に添えられた自筆英文サインのイニシャルから推定。]博士の書簡によれば、博士が度々令兄の使者として京店裏[やぶちゃん注:「きやうみせうら」。根拠は本文で示す。]の八雲借宅(明治二十四年(西曆一八九一年)二月富田旅館からこの借宅に移居す)を訪問した時は、まだ節子夫人を見かけず、その後間もなく同宅に於て節子夫人と結婚式を擧げられたため、明治二十三年十二月に結婚したとの記事は何れも誤傳であると斷定したことである。その他八雲が根岸邸住居時代に、割竹の庭下駄をはいて愉快に庭園を散步したなどとの記事は、私をして大疑問を發せしめた事項で、その他これらに類似した諸點を解決すると同時に、その日常私的生活の全貌を詳記しておくことの決して無駄ではないことを信ずるものである。
この目的を注するために最も緊要かつ適切な方法は、八雲が松江住居中、彼に最も接近した即ち朝夕八雲に親灸した人々を探し出して、その實見談を聽取することで、私はこの方法以外他によりよき方法のあるとは考えられないのである。
そこで私はまず根岸磐井氏未亡人菖蒲[やぶちゃん注:「アヤメ」である。先の「國指定史跡 小泉八雲旧居]公式サイト内の「小泉八雲旧居について」の写真のキャプションにあった。]及び同氏令妹岸崎豐子の二女史を訪問して、八雲に親近した人々のうち今なお生存している人はないかと質したところ、幸いにも兩女史から節子夫人の「思ひ出の記」の中の次の一文中に見える、
「この末次の離れ座敷(京店の偕宅)は湖に臨んでいま
したので湖上の眺望が殊に美しく氣に入りました。し
かし私と一緖(八雲の結婚)になりましたので、ここ
では不便が多いというので、二十四年の夏のはじめに
北堀(根岸宅)というところの士族屋敷に移りまして
一家を持ちました。私共と女中と小猫とで引越しまし
た。」
[やぶちゃん注:この当該部は、先の田部隆次「小泉八雲」の「第十一章 思ひ出の記」のここ(二行目以下)。但し、二つの段落になっている(後者は冒頭のみ)ものを接合して部分引用してある。]
と記載してあるこの女中というのが、小泉氏の親戚高木苓太郞[やぶちゃん注:恐らく「りやうたらう(りょうたろう)」。]氏の一女、卽ち高木八百刀自で當年六十七歲を以て今なお健在でいられるのを紹介され、これについで更に驚くべき新發見の人物は往年八雲が富田旅館[やぶちゃん注:「とみたりよくわん(とみたりょかん)」。大森拓也氏のサイト「朝ドラマニア」の『ばけばけ』旅館の主人・花田平太(生瀬勝久)のモデルは誰?小泉八雲が宿泊した「富田旅館」の史実]に拠る。]滯在中、もつぱら八雲を世話した旅館主の妻ツネ刀自當時三十二歲で今なお八十三歲の高齡で富田別莊に隱棲していられるのを見出したことである。
[やぶちゃん注:「刀自」「とじ」と読む。女性に対する古風な尊称。現代でも旧家の女性に対して使われる。古代の后妃(こうひ)の称号の一つである夫人(ぶにん)も和訓は「オホトジ」である。戸主=トヌシの約か、ともいうが、不詳。七~八世紀の石碑・墓誌に豪族層女性の尊称として見え、「万葉集」にも「妣刀自(ははとじ)」等の例がある。「さまざまなレベルの人間集団を統率する女性」が、原義か。族刀自(ぞくくとじ)的なものから、家刀自(いえとじ)へと推移するが、古代には里刀自や寺刀自もおり、後世のような主婦的存在に限られていない。後宮(こうきゅう)の下級女官(にょかん)にも刀自がいた。以上は小学館「日本大百科全書」を主文に使用した。]
斯くの如き好奇緣に惠まれた私は、天惠ともいうべきこの好機逸すべからずと、從来世人が閉却している富田ツネ、高木八百[やぶちゃん注:恐らく「やほ(やお)」。]兩刀自に面接して、この記錄を作成し得たことを最も喜びとするものである。
なお本書中〔註〕とあるのは私がこの聽取書を完了した後に加えたものである。
昭和十五年六月二十三日
雙 蛙 桑 原 羊 次 郞 識
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。
以下、全部で十三枚の図版がある。お待ちあれ。]
鱶を捕獲するは、各地、異同ありと雖ども、九州地方の仕方を、よろし、とす。故に茲(こヽ)に其方法を擧(あぐ)れば、繩釣(なわつり[やぶちゃん注:ママ。以下、時に、このままで振る。])にして、其繩の長さは三百六十丈[やぶちゃん注:一・〇九一キロメートル。]、これに通例十一個(か)の鈎(はり)を連垂(れんすい)し、其鈎と鈎との間(あいだ)は各(おのおの)二十四丈[やぶちゃん注:七十二・七二メートル。]を隔(へだ)て、繩の兩端(りやうたん)には周圍三尺五寸[やぶちゃん注:一・〇六メートル。]、長(なが[やぶちゃん注:ママ。])壹尺五寸[やぶちゃん注:四十五センチメートル。]の浮樽(うきだる)を繫(つな)ぎ、繩(なは)は直(すぐ)に錨(いかり)に聯接(れんせつ)す。其(それ)に用(もちゐ[やぶちゃん注:ママ。])る餌(ゑ)は、量目(りやう《もく》)二貫目[やぶちゃん注:七・五キログラム。]許(ばかり)の鰤(ぶり)を十一に切り、每鈎(はりごとに[やぶちゃん注:「に」はルビにある。])、餌(ゑ)を揷(さ)し、漸次(ぜんじ)、繩を埀(た)る。而(しかう)して、朝(あさ)に收(をさ)むるを、『朝繩(あさなわ)』といひ、夕(ゆふべ)に收(をさむ)るを『夕繩(ゆふなわ)』といふ。『おろかぶか』の如きは、釣りて、船に近(ちかづ)きたる時、懸鈎(かけはり)二本を用ひて、口唇(くちびる)に、かけて、捕り、又、『探釣(さぐりつり)』といふもの、あり。其鈎(そのはり)は、長(ながさ)壹尺三寸[やぶちゃん注:三十九・四センチメートル。]、量目九十目[やぶちゃん注:三百三十七・五グラム。]あり。鰤の頭部を餌(じ)となし、艫邊(ろへん)に提下(ていか)し、其緍(そのいと)[やぶちゃん注:この「緍」は音「ビン・ミン」で、訓は「いと」・「さし」。意味は「糸・釣り糸」の他、「さし」と読んで「銭(ぜに)さし」、所謂、「銭の穴に通して銭をまとめる紐」として知られ、別に「繩」の意でも使う。この場合は、読みの「いと」よりも、「さし」、それも「太いさし」で、「繩」をイメージした方が実像に相応しい。]を舟中に繫きつけ[やぶちゃん注:「き」はママ。]、漁人(ぎよ《じん》)、これに枕(まくら)して、鱶の、餌にふるヽを待ち、其響きに應(おふ)して[やぶちゃん注:読み・清音孰れもママ。]、急ぎ、緍(いと)を曳く。時に當り、蟻は、其餌(そのじ)を逐(おふ)て、水面(すいめん)に、出づ。此(この)とき、銛(もり)を擲(なげう)ちて、衝(つ)き捕(と)るもの、とす。
[やぶちゃん注:「鰤」出世魚として知られる条鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata は、一年で三十二センチメートル前後で、以降、二年で五十センチ前後、三年で六十五〜七十、四年で七十五前後、五年を経ると八十センチメートルを超える。通常の大型個体は全長ほぼ一メートルで、体重八キログラム程度であるが、最大全長一・五メートルで、体重四十キログラムの捕獲記録がある(以上は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の当該種のページと、当該ウィキを参考にした)。
「おろかぶか」国立国会図書館デジタルコレクションで検索したところ、「オロカザメ」の名で、昭和三(一九二八)年度の「水產試驗報告」(臺灣總督府水產試驗場編・臺灣總督府水產試驗場刊・発行は昭和五年)の本文のここで、使用されていることを確認したが、それを見ても、現在の和名の何に該当するか判らなかった。私は、鱶鰭の上級品となるものであって良く漁獲されるもの、さらに、以上の通り、捕獲する漁具のサイズが非常に大掛かりであることから――ヨシキリザメか、或いは、ネズミザメか――と踏んだ。サイズからは、前者が全長が三・八メートル、後者が三メートル超えであるから、前者に分(ぶ)がある。ところが、異名を見てみると、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のネズミザメの冒頭の「代表的な呼び名」に『モウカザメ』があり、これは「オロカザメ」に、かなり似ているように見えてくる。しかも、そこの記載をさらに見ると、表記は「もうか」「もーか」ともあるのである。一方、同サイトのヨシキリザメのページを見るに、地方名として「バカ」(『神奈川県国府津』)がある。鱶鰭としては、断然、ヨシキリザメである。決定打はネズミザメの方の「歴史・ことわざ・雑学など」の項には、『その昔はマグロ漁などにまざる厄介ものであった』とあって、急激に候補性が落ちた。されば、私は、
「おろかぶか」はメジロザメ目メジロザメ科ヨシキリザメ属ヨシキリザメ Prionace glauca の失われた異名である
と断ずることとした。異論のあられる方は、議論しましょう。]
鱶鰭を乾製するには、簀(す)の上に並べて、晴日(せい《じつ》)に晒(さら)すに過(すぎ)ざれども、其鰭、新鮮のものを、よろし、とす。故に、日數を經(ふ)るものは、色澤、次第に、劣れり、とす。又、雨天の時は、焙爐(ほいろ)にかけて、乾かすを、よし、とす。
淸國の販路に於ても、各地方・需用者の嗜好、一《いつ》ならず。湖北省は、『堆翅(たいし)』・『白皮(はくひ)』・『力墨(りよくぼく)』を欲(ほつ)し、其需用、中數(ちゆうすう)なり[やぶちゃん注:この「中數」というのは、「中核を為すメイン」の意であろう。]。湖南省は、『皮力(ひりよく)』・『堆翅』を欲し、需用、中數なり。江西省は、白・黑ともに欲し、需用、大數(たいすう)なり。河南省は、『堆翅』・『皮力』を欲し、需用、大なり。陝西省は、『堆翅』のみを欲すれども、需用、中數なり[やぶちゃん注:高額なんために、それを買わない者も有意に多い、ということであろう。]。四川省は『堆翅』を欲し、需用、大數なり。外崇(ぐわいすう)・慶州【崇慶州カ。】・資州(ししう)・錦州(しんしう)・茂州(もしう)・西陽州(せいようしう)の如きは、『堆翅』を欲し、需用、廣大なり。是を以て見れば、『堆翅』、卽ち、絲製(いとせい)を望むもの、多きに居(を)れり。本邦の如きも。宜(よろ)しく『堆翅』を製して輸出せば、利益を增加すること、少々に、あらざるべし。
[やぶちゃん注:いちいち、製品名の注をするのは、もう、疲弊しているので、やる気が起こらなない。ただ、非常に(しかも! 本書全体に関わる!)参考になるものを、国立国会図書館デジタルコレクションで見出した! 「通商彙纂 第6巻」(明治一九(一八八六)年/外務省通商局編纂のものを、一九八八年に不二出版が刊行したもの。本底本と同年!)の中の、「◎清國天津市塲海產物景況 (十九年八月二十八日在天津帝國療治舘報告)」で、その次のコマの四行目以下に、
*
台灣產ハ味極メテ佳ニシテ煮後膨張シテ雪ノ如シ【一百斤ニ付百十両位ナリ】其評判極メテ宜シケレ𪜈價ノ貴キヨリシテ需用少シ
目下相塲白鱶鰭六十兩黑鱶鰭四十兩【一副百斤ニ就テノ價ナリ一副トハ頰後ノ兩邊ニアル翅二枚ヲ云フ背上ノ魚尾ヲ算セズ】ナリ
南方ヨリ輸入スル堆翅(トイチー)ト稱スルモノアリ。是レハ鰭ヲ割キ一煮シタル後晒シタルモノナリ其消費高極メテ少ナク一定ノ相塲ナシ
輸入年額外國ヨリ白鱶鰭二萬六千三百四十一両黑鱶鰭二萬二千六百三十両支那諸港ヨリ白鱶鰭六千四百六十四両黑鱶鰭二千四百四十六両ナリ
*
他に、この記事には、既に終わった「鰑」・「昆布」・「刻昆布」・「鮑」といった項目があるのである! その内、これらを既注に追加しようと考えている。暫くお待ちあれかし。]
夫れ、本邦は、內(うち)には、四周(ししう)の海(かい)に、鱶魚(ふかぎよ)、群泳し、外(そと)には、四億萬人(しおくまんにん)の鱶鰭需用者あるも、鱶漁(ふかぎよ)を營むもの、甚(はなはだ)、少(すくな)く、東北[やぶちゃん注:これは、本邦に東北地方のこととしか読めない。だからこそ、最後の二文の憤懣が、いや高になるのである。]・淸國の如きは、鱶を漁捕(ぎよほ)するも、貴重なる鰭を廢棄して、顧みず。故に、本邦鱶鰭の輸出は、甚(はなはだ)、多からずして、明治十七年の輸出高は、僅(わづか)に、二十四萬二千〇二十九斤、此代《このしろ》、價《あたひ》、七萬〇〇五十壹圓餘(よ)に過ず。宜しく、當業者(たうぎやうしや)は鑑(かんがみ)ずんば、あるべからず。
本日、桑原羊次郎「松江に於ける八雲の私生活」のタイピングを開始した。
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]
本邦より、これを輸出したるは、長崎に淸國互市(ごし)[やぶちゃん注:「互市」の「市」は「売り買い」の意で、これで「売買交易を行うこと」、即ち、「貿易」の意である。]を開きし頃にして、「華蠻交易洽聞錄(くわばんこうえきがうもんろく)」に、貞享(ていきやう[やぶちゃん注:ママ。「ぢやうきやう」が正しい。])・元祿年間、長崎より輸出したることを載せ、又、「經濟祕書」にも、安永九年に、外國渡航船貿易品中(ちう)に、『鱶鰭』の目(もく)、あり。又、琉球よりは、淸曆康煕年間以來、年々、福州に輸出したること、琉球藩の舊記に見へ[やぶちゃん注:ママ。]、爾來(じらい)、絕へず[やぶちゃん注:ママ。]、長崎・那霸兩港より輸出したるも、東國にては、之を知るもの、なし。只(たヾ)、江戶にありし長崎會所(ながさきくわいしよ)にて、取集(とりあつ)め、輸出したり。當時、日本橋の魚商(ぎよしよう[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。])は、日々(ひヾ)、鬻(ひさ)ぐ鮫の鰭を、切り溜(た)め置き、會所に送りたり。該(がい)會所にては、壹貫目にて、僅(わづか)に銀六匁【今の十錢位】を以て買收せしは、文政年間のことなりし。然(しか)るに、年、移り、物、變り、嘉永年代に至り、外國貿易の途(みち)、開け、市場を橫濵に設(もう[やぶちゃん注:ママ。])くるや、魚商の中(うち)に、始めて鱶鰭の、淸國の貿易に適(てき)するを知りたるもの、あり。茲(こヽ)に於て、鱶の鰭を切取(きりと)るや、之を、船に載せ、橫濵に送り、淸國人に賣込(うりこ)むの業(ぎやう)を始めたり。當時、橫濵に於て、淸國貿易を專業としたる問屋(といや)は、僅(わづか)に三家(さんけ)ありしのみ。即ち、太田町《おほたまち》四丁目濵田屋元吉・本町中井某《ぼう》、及ひ[やぶちゃん注:ママ。]、同所水島屋某のみ、なりき。去(さ)れども、公(をほやけ[やぶちゃん注:ママ。])に賣込問屋(うりこみとひや)と稱せしは、中井・水島の、二戶《にこ》なり。凡そ、此頃の取引品は、生鰭(なまひれ)なるが故に、其運送と云ひ、品物(ひんぶつ)の處置(しよち)と云ひ、頗(すこぶ)る不便たりしか[やぶちゃん注:「が」の誤植。]、半ケ年(はん《か》ねん)の經驗により、遂(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、乾燥するの利あるを知り、爾後(じご)は、直(たゞ)に、乾製(かんせい)し、之を、橫濵に販賣するに至れり。是(これ)、東國商人(とうこくしやうにん)か[やぶちゃん注:「が」の誤植。]鱶鰭を製造するの來歷なり。本邦在留の淸國人、及び、上海(シヤンハイ)等にて、鱶鰭を賣買するや、背鰭(せびれ)一枚、胸鰭(むなびれ)一對、尾鰭(をひれ)一枚、合せて四枚を揃へたるを、具備の品(しな)とし、價(あたひ)も、交(まじ)り品(しな)に比すれば、增加することは、廣業商會等(とう)の、每(つね)にいふ所なり。四枚壹揃(しまいひとそろへ)のもの、壹斤(いつきん)の價(あたへ)、壹圓五拾錢なれば、不揃(ふぞろへ)の下等品(かとうひん)は、四拾錢なり。平常(ふだん)の相庭(さうば)[やぶちゃん注:ママ。後注参照。]は軀(み)の長(ながさ)、六、七尺の鱶なれば、其乾鰭(ほしひれ)六拾枚にて、百斤の量あり、とし、又、『白(しろ)』と稱する最上品は、約百斤五十圓に賣却せらるヽも、『簀(よし)』と稱する品(しな)は、下等にして、貳拾貳圓に過(すぎ)ず。然(しか)るに、備具(びぐ)せざる鰭は、假令(たとへ)、『白』の最上品(さいじやうひん)にても、尾鰭(をひれ)のみなれば、僅(わづか)に四圓に止(とヾ)まれり。故(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、壹揃(ひとそろへ)となすも、一《ひとつ》の要點なり。
[やぶちゃん注:「華蠻交易洽聞錄(くわばんこうえきがうもんろく)」編者不明で寛政七(一七九五)年(徳川家斉の治世)の序を持つ。ネットでは、そこまでしか判らなかった。
「貞享」(じょうきょう)「・元祿年間」一六八四年から一七〇四年まで。綱吉の治世。
「經濟祕書」「河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その12)」で既出既注。
「安永九年」一七八〇年。徳川家治の治世。
「康煕年間」一六六二年から一七二二年。
「江戶にありし長崎會所」老婆心ながら、これは、「江戸時代にあった」の意である。一応、当該ウィキをリンクさせておく。
「文政年間」一八一八年から一八三一年まで。徳川家斉の治世。
「嘉永年代」一八四八年から一八五五年まで。徳川家慶・徳川家定の治世。
「太田町《おほたまち》四丁目」現在の神奈川県横浜市中区太田町(おおたまち)。実は、底本では、ここ以下はベタで、
『太田町四丁目濵田屋元吉本町中井某及ひ同所水島屋某のみなりき』
である。私は、まず、最初の『濵田屋元吉』を「屋号+名前」と採った。何故なら、「元吉本町」という地名は、過去に於いても横浜には存在しないからであり、更に、後の二人には、わざわざ「某」を添えていることから、そう採ったのである。
「本町」所謂、横浜馴染みの者なら、ピンとくるのであるが、これは、「元町」の誤記ではあるまいか? 「三井住友トラスト不動産株式会社」公式サイト内の「写真でひもとく街のなりたち」の「神奈川県 横浜」の「横浜の商業地」の『日本人の貿易商の店舗が軒を連ねた「本町通り」』に、『開港当初の横浜・関内では、「神奈川運上所」(「横浜税関」の前身)が置かれていた現在の「日本大通り」を境に、桜木町寄りが日本人居住地、元町寄りが外国人居留地として割り当てられていた。日本人居住地の「本町通り」には、絹織物商の「椎野正兵衛商店」など、貿易商の店舗が軒を連ねた』とある。
「賣込問屋(うりこみとひや)」小学館「日本国語大辞典」に、『うりこみ‐といや‥とひや【売込問屋】』は『地方の生産者から買いつけた商品(おもに生糸)を輸出商や卸売商人に売る仲次ぎの問屋。』とある。
「廣業商會」『河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その13)』の私の注の冒頭を見られたい。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]
鱶鰭は熱湯をかけ、外皮(そとかわ[やぶちゃん注:ママ。])を去りて、絲狀(しやう)とし、美なること銀絲(ぎん)の若(ごと)し。これに、黃白の二種ありて、黃色(こうしよく)のものは、『きんひれ』、又、『きんすぢ』にて、「肇慶府志(《てう》けいふし)」の『金絲菜(きんしさい)』なり。白色のものは『ぎんひれ』、又、『ぎんすぢ』にて「廣東新語(かんとんしんご)」の『銀絲菜』なり。
[やぶちゃん注:「肇慶府志」明の陸鏊等纂のもの(一六四〇年刊)と、清代の「道光肇慶府志」があるが、「中國哲學書電子化計劃」で二種とも見たが、見当たらない。しかし、「美味求眞」(貴族院議員・衆議院議員を務めた、美食家としても知られた木下謙次郎が大正一四(一九二五)年に刊行した書)を現代語訳した「美味求真(びみぐしん)」のサイトの「第八章 魚類篇」トの「●鮫(さめ)」の項に、『魚翅は『閩書』には「鯊翅」とあり、『日本雜事詩』には「鯊魚翅」と述べられている。黄色と白色の二色であり、透き通って光がある。長さは3~6cm位で、頭が尖っていて針のようであり、食べると硬いが脆く味は淡白である。黄色のものは日本では金針、金スジ、金ビレ等と言われており、中国の『肇慶府志』にある「金絲菜」とはこの事である。白色のものは日本では「銀針」、別名で「銀ビレ」などと言われていて、これは『廣東新語』にある「銀絲菜」のことである。』あるとあるから、確かに載っているのだろうとは思う。識者の御教授を乞うものである。
「廣東新語」全二十八巻。広東地方の百科全書。これは、「中國哲學書電子化計劃」で「卷二十二 鱗語」で見出せた。以下。
*
鯋有犁頭鯋、劍鯋、斑點鯋、虎鹿鋸鯋,背鬣而腹翅,大者丈餘。皮有沙,圓細如珠,可以治木發光潤。海水將潮,天將雨,毛皆起溼,雖千里外不爽。一名潮鯉,腹中有兩洞,以貯水養子。子必二,皆從胎生,朝出口,暮則入臍。其肉淡而鬆,以翅作銀絲菜,稱珍品。
*]
淸國人が鱶鰭を食するの法は、先づ、乾鰭を溫湯(をんとう)に浸すこと、兩三日、柔(やわら)くを見て、外皮(そとかわ[やぶちゃん注:ママ。])を去り、筋(すじ[やぶちゃん注:ママ。])のみとなして、直ちに割烹に供(きやう)し、或は、此筋(このうsぢ)のみを乾(かはか)し、貯(たくは)へ置き、再び水に浸し、鷄肉(けいにく)の角切(すみきり)を油炒(あぶらいり)にしたるを、煑(に)だしとなし、水・酒、等分、醬油二分《ぶ》程、淡鹽梅(うすあんばい)にして、惟茸・葱等(とう)を混(こん)じ、煮(に)て、碗に盛るに、鰭を上(うへ)にす。これを『魚翅湯(ユーツータン)』といふ。此他(このた)、『紅燉魚翅(カウロンユツイ)』、『淸湯魚翅(ヘツサイユツイ)』、『白菜魚翅(ヘツアサイユツイ)』、『蟹粉魚翅(カイブンユツイ)』、『金銀魚翅(キンギンユツイ)』、『爛糊魚趨(ランコユツイ)』、『西滷魚翅(ツアユハユツイ)』、『魚翅球(ユツータウ)』、等の割烹(かつぽう)ありて、何(いづ)れも、厚待(ごちそう)の上割烹(じやうりやうり)とす。
[やぶちゃん注:「魚翅湯(ユーツータン)」サイト「わが街とくさんネット」の『東京 「赤坂四川飯店」陳建一監修 魚翅湯(ユイツータン)ふかひれスープ』のページに、画像があり(拡大可能)、『ふかひれ、たけのこ、しいたけを具材に使用し』、『鶏ガラスープにオイスターソース、香味油などで仕上げた濃厚でコクのあるふかひれ入りスープです』とある。
「紅燉魚翅(カウロンユツイ)」YouTubeの「中華一筋」の「【ふかひれ姿煮】 中華仕込みから仕上げ ≪紅焼排翅≫ Boiled shark fin with Brown sauce.」を見られたい。正直、これが、最も見る価値がある。
「淸湯魚翅(ヘツサイユツイ)」「百度百科」の「清汤鱼翅」を見られたい。『浙江料理を代表する料理の一つ』とあり、『その歴史は明代にまで遡り、フカヒレが料理に使われていたことから始まり、清代には宴会の重要な料理となっていた』とある。
「白菜魚翅(ヘツアサイユツイ)」中国語の「楊桃美食網」の「白菜魚翅羹(1)」を見よ。リンク先は台湾のもの。
「蟹粉魚翅(カイブンユツイ)」本邦のブログで、小薇さんの「シャウ・ウェイの幸せ中国料理」に『●蟹粉上湯魚翅皇(上海蟹入りふかひれの上湯姿煮込み、伊府麺添え)』とある。
「金銀魚翅(キンギンユツイ)」適切な記事が見当たらない。AIの答えを引く。正しいかどうかは判らない。『「金銀魚翅(Jīnyín yúchì)」は、中国料理におけるフカヒレの姿煮の一種を指します』。『金銀』は『料理の盛り付けや食材の色合い(黄金色と白)を例えた表現です。通常、濃厚な黄色のスープ(上湯や金湯)と、フカヒレの透明感のある質感を指します』。『この料理は、特製の濃厚な鶏』の『出汁』(だし)『スープで』、『フカヒレをじっくり』と『煮込んだ高級メニューとして知られています。伝統的な広東料理の献立などでよく見られる名称です』とあった。
「爛糊魚翅(ランコユツイ)」不詳。中文サイトでも見出せない。
「西滷魚翅(ツアユハユツイ)」不詳。中文サイトでも見出せない。「滷」の字は、中文サイトを見るに、「にがり」を意味するようだ。
「魚翅球(ユツータウ)」「百度百科」の「绣球鱼翅」が近いか。そこには、『四川の伝統料理』とし、『主に水で戻した鱶鰭と鶏の胸肉を使用し、ハム・糸瓜(へちま)や、卵を挙げたり炒めたりして薄いシート状に加工したクレープ上にしたものなどの副菜を添えて製したものである。出来上がったものは、刺繡した(「绣」)球状のような見た目となり、澄んだスープと、爽やかで香り高い味わいが特徴である。夏の宴会のメイン料理として、よく出される。』とあった。]
鱶鰭は高價のものゆゑ、官菜(くわんさい/ごしきりやうり)に供して、家常菜(かじやうさい)に用ひずといへども、其需用高(じゆようだか)、頗る多量にして、海外より淸國に輸人する額は、一歲《いつさい》、凡(をほよそ)、三千担(たん)、其中(そのうち)漢口(ハンカウ)のみの銷路(せうろ)高《だか》、三、四百担に及び、明治十八年の價格平均は、百斤白鰭(しろひれ)、貳拾五、六兩、黑鰭(くろひれ)、貳拾兩なり。
[やぶちゃん注:「担」東洋文庫版の後注に、『後出』(「(六)寒天の說」の終わりの方の、ここの左丁の三行目の割注を指す)『によれば、一担は一六貫九九匁六分九厘八四とされる。一貫は三・七五キログラムなので、一担は約六四キログラムである。』とある。]
前條淸國に輸入する蟻鰭、臺灣・新嘉波(シンガポール)、及び、印度9いんど)・布哇(はワイ[やぶちゃん注:ママ。])、並(ならび)に、本邦等にして、他邦のものは、背鰭(せひれ)、多く、胸鰭(むねひれ)、少く、而して、其鰭にハ、些少(すこし)の肉骨(にくほね)をも附着せず。其品位は、本邦產に優(まさ)り、殊に、品位を數等に分(わか)ち、各(おのおの)、標號(しるし)あり。印度、及び、新嘉波等(とう)より輸入する『黃玉剪(こうぎやうせん[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])』、『黃玉古(こうぎよくきつ)』、等(とう)の如きは、表面、淡靑色(うすあをいろ)に白色(しろいろ)を帶びて、裏面(りめん)、淡黃色(うすきいろ)にして、光澤あり。故に、百斤の價(あたひ)、六拾八、九兩の高價(かうか)なり、とす。又、同(どう)地方產にして、『隔紫貳沙(かくしじしや)』・『正中皮(せいちうひ)』・『板皮力(はんぴりやく)』・『上吉三沙(しやうさんしや)』・『貳沙(にしや)』等(とう)と稱するものも。何れも、表裏(ひやうり)、光澤ありて、良好なり。此中には、西洋に產するものも、あり。臺灣產(たいわんさん)にて『六港玉古(ろくかうぎよくきつ)』、寗波(ニンポー)[やぶちゃん注:「寗」は「寧」の異体字。]產にて『沙婆(しやば)』、廣東(カントン)產にて『老勾(らうこう)』と稱するものも、上好(じやうかう)にして、本邦產には、かヽる品位は、なし。然(しか)れども、是等の種類、なきに非らず。乾製法の不良なると、善惡(ぜんあく)の差等(とう)を分(わか)たす[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]、混交するによれり、とす。
[やぶちゃん注:面倒なので、漢名の確認はしない。悪しからず。次の段落のものも同じ。]
鱶鰭は、自然の儘、乾かして販賣するのみにあらず。外皮(そとかわ[やぶちゃん注:ママ。])を去り、筋(すぢ)のみとせる者をも、商品とせり。是を『堆翅(タイツー)』といふ。價(あたへ[やぶちゃん注:ママ。])、殊(こと)に貴(たつと)く[やぶちゃん注:ママ。]、其品位に差等(とう)を分(わか)ち、『廣東堆翅(カントンたいし)』・『月翅(げつし)』・『雙椎翅(さうたいし)』・『單堆趨(たんたいし)』・『臺灣月翅(たいわんげつし)』等(とう)の標號(しるし)あり。之れに反し、本邦より輸入するものは、皆、肉骨(にくほね)を附着せしむるの弊(へい)あるのみならす[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]、善惡を混交して品位を分たず。本邦人は肉骨を付け、又、水に浸して、斤量を增し、利するところあるが如く、誤認し、爲めに、忌厭(きゑん[やぶちゃん注:ママ。])せられ、百斤の高にて、拾五、六兩の差を生じ、損失するに至れり。製產者の最も注意すべき要點なり、とす。
本邦にて、鮫類の肉を、魚糕(かまぼこ)に用ひて、缺く可らざるものとし、或は燒き、或は煮、或は䀋(しほ)にし、或は、乾かし置き、食用とせしも、鰭を用ひしことは、甚(はなはだ)、少なし。山陰中納言の料理書に『さしみ』の『けん』に『しらが』と稱し、『ふかひれ』を用ふるを、當流の祕傳とす、とあるのみ。東國の人は、殊更に、知らずと雖ども、寬政年間、出版したる「淸俗紀聞」に、魚翅(ぎよし)、割烹(かつぽう)の仕方を、のせたり。
[やぶちゃん注:「山陰中納言の料理書」東洋文庫版の後注に、『四条中納言藤原山陰(八二四-八八)が創姶した料理作法についての書『四条流包丁書』(『群書類従』、巻第三六五)のこと。四条流は、藤原山陰が、光孝天皇の命により新たな庖丁式(料理作法)を定めたことに由来すると伝えられ、室町時代に『四条流包丁書』がまとめられた。』とあり、ネットでも、平安前期の公卿で、藤原高房の三男であった四条中納言藤原朝臣山陰(やまかげ 天長元(八二四)年~仁和四(八八八)年)が鯉を庖丁したことから、「四條流庖丁書」という伝本が生まれたとあるのだが、彼のウィキには、『四条流庖丁式の創始者と長く認識されてきたが、山蔭自身が庖丁式を執り行った事績・記録は無い。庖丁式の初見については、白河天皇』(保延二(一一三六)年)『に藤原家成が御前で鯉庖丁をして見せたことが記録(古今著聞集)されている』とあるばかりで、他には、『十九奉幣社のひとつ吉田神社』『と総持寺(西国三十三所二十二番札所)』、『さらに新長谷寺(真如堂内)(洛陽三十三所観音霊場五番札所)を建立・創建して』おり、『吉田神社の末社である山蔭神社に庖丁の神、料理・飲食の祖神として祀られている』とは、ある。
「淸俗紀聞」当該ウィキに『江戸時代の寛政年間に当時の長崎奉行の中川忠英を中心に編纂された公的な紀聞で、清王朝の乾隆年間の華東~華南沿岸部の風俗が絵図を交えて詳細に記されている。この清俗紀聞の最大の特徴として、各巻とも文と絵とが』、『ほぼ等量に割り当てられるなど、絵図の占める割合が極めて高いことが挙げられる』とある。詳しくはそちらを見られたい。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。]
「新撰字鏡(しんせんじきやう)」は『鮐(たい)』・『𩺬(つい)』・『鮰(ゑん[やぶちゃん注:ママ。音は「カイ」である。])の三字を『佐女(さめ)』と訓じ、「本艸倭名(ほんざうわみやう)」は『鮫(こう)、一名(いちみやう)、䱜魚(さくぎよ)』、又、『魦(しや)』を『佐女(さめ)』と訓ず。而して、二書ともに「ふか」を載せず。「延喜式」には、『鮫楚割(さめのすはり)』・『鮫皮(さめかわ[やぶちゃん注:ママ。])』・『鮫䐹、(さめのほじヽ)』・『沙魚皮(さめのかは)』・「鮐魚皮(さめのかは)」等を載せて、是亦、『ふか』を載せず。「倭名鈔」に始めて、「辨色立成(べんしきりつせい)」の『鮝魚(しやうぎよ)』を和名(わみやう)『布可(ふか)』と訓じ、別に『佐女』を載せたり。然(しか)れども。古(いにしへ)は、「さめ」と「ふか」との區別、分明ならず。而(しかう)して「塵添壒嚢抄(ぢんてんがいのうせう)」に『鰧(しやう)』を「ふか」とし、「本朝食鑑」は『鱶(やう)』を『ふか』と訓ず。「康煕字典」によれば、『鱶』は『鮝(しやう)』と同じとし、又、『鮝は乾魚(かんぎよ)なり』とありて、『ふか』の名にあらず。「本艸綱目」には『鮫(さめ)一名(《いち》みやう)錯魚(さくぎよ)』とし、「本艸綱目拾遺」に『鮫(さめ)、一名は鯊魚(しやぎよ)、亦、魦(さめ)に作る』とあり。「閩書」にハ『魦魚(さぎよ)一名鰒(ふく)、一名䱜(さく)、一名鯧(さく[やぶちゃん注:ママ。音は「シヤウ(ショウ)」。])、一名鰡(りう)とし、黃鯊(こうしや/はたざめ)、犁頭(れいとうしや/かいめぶか)、雙髻鯊(さうけいしや/しゆもくざめ)等(とう)の種類を載(の)するも、鱶(ふか)の字を、見ず。然(しか)れども、邦俗、從來、「鱶(やう)」の字を用ひ來(きた)るにより、其鰭(そのひれ)を鱶鰭(ふかひれ)と稱せり。而(しかう)して、淸俗は「魚翅(ぎよし)」と稱し、「英華字典」には『鯊翅(しやし)』とし、又、『白魚翅(はくぎよし)』、『黑魚翅(こくぎよし)』の二類に分(わか)ち、「支那貿易品解說」は『魦翅(さし)』とし、『白魚翅』・『黑魚翅』の二類に分ちしこと、前(ぜん)に同じ。
[やぶちゃん注:「新撰字鏡」「鮑」で一度、特定フレーズの注の中でしているが、かなり前のパートでやった書籍も多いので、この際、総て、再掲することとする。平安時代の漢和字書。全十二巻。僧の昌住(しょうじゅう)著とされるが、事績は不詳。昌泰年間(八九八年~九〇一年)に成立。漢字二万余字を偏・旁などによって百六十部に分け、字音・字義・和訓を付したもので、現存する最古の漢和字書である。一説に寛平四(八九二)年に三巻本が完成したとされるが、原本や写本は伝わっていない。その三巻本を元に増補した十二巻本が同年間に完成したとされ、写本が現存する。この十二巻本には約二万千字を収録する。
「鮐(たい)」平安時代漢字字書総合データベース編纂委員会編の「HDIC Viewer」のここで、『魚部第八十七』に『同字。勅丈反。壽也、老也。佐女。』とあったのを確認した。但し、次の注を見よ。なお、「廣漢和辭典」では、この漢字は、音「タイ・イ」で、第一義は『ふぐ』(=魚のフグ)で、第二義は『おいる【おゆ】。としより。』とあるだけで、サメの意味はない。
「𩺬(つい)」同前(部門も同じ)で、『鮐𩺬』『同字。勅丈反。壽也、老也。佐女。』とある。但し、「国書データベース」の画像で調べたところが、ここ(左丁上段後ろから四行目)に、
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鮐𩺬【同勑文 反壽也老也佐女】[やぶちゃん注:「佐」は「グリフゥキ」のこれだが、表示出来ないので、かく、した。]
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で、こちらが正しい。なお、「𩺬」の漢語は、中文サイト「漢典」では『一种鳝鱼』とあり、これは中国で好まれる、お馴染みのタウナギ(田鰻・鱓・鱔・鱔魚:条鰭綱タウナギ目タウナギ科タウナギ属タウナギ Monopterus albus )の一種という意味だろう。従って、漢語にはサメの意味は、やはり、ない。なお、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『ミトコンドリアDNAの塩基配列に基づく研究によれば、タウナギは少なくとも中国および(九州以北の)日本に分布するもの、南西諸島に分布するもの、そして東南アジアに分布するもの、という3つの集団に分けられ、それぞれは互いに遺伝的に異なっていることから、独立した「種」であると考えられる。これらの内訳をみると、日本に分布するものは中国に分布するものと同じ系統に含まれるため、中国大陸から人為的に移入されたものである可能性が高いとされる。実際、1900年前後に朝鮮半島から奈良県に持ち込まれたという記録もある。なお、台湾には東南アジアの系統のものと中国・日本の系統のものがともに分布しており、いずれも人為的移入によるものかは定かでない』。『南西諸島に分布する個体群は、東南アジアのものとも』、『中国・日本のものとも異なる系統に属している。このため、中国・日本の系統からは570万年以上前に分岐したと推定される。したがって人為的移入は考えにくく、琉球には固有の在来タウナギ類が生息しているということになる ため、保護の必要性が指摘されている』とあるから、これらは、独立した種に分類される可能性が大である。
「鮰(ゑん[やぶちゃん注:ママ。音は「カイ」である。])」前のデータベースでは、掛かってこなかったので、「国書データベース」の画像で調べたところ、ここ(左丁下段後ろから二行目に、『※』(「※」は「𮫬」+(「グリフウィキ」のこれの中の部分のみを右90°回転させたような字体)として『左女』と確認した。而して、この漢字も調べてみたところ、「百度百科」に『鮠鱼的别称 [ Leiocassis longirostris ]』(学名は斜体に変更した)とあった。この学名は、何時もお世話になる鈴木雅大氏の「生きもの好きの語る自然誌」の本種のページで、『条鰭綱(Class Actinopteri),新鰭亜綱(Subclass Neopterygii),真骨下綱(Infraclass Teleostei),アロワナ巨区(Megacohort Osteoglossocephalai),ニシン上区(Supercohort Clupeocephala),骨鰾区(Cohort Otocephala),骨鰾亜区(Subcohort Ostariophysi),骨鰾節(Section Otophysa),ナマズ上目(Superorder Siluriphysae),ナマズ目(Order Siluriformes),ナマズ亜目(Suborder Siluroidei),ギギ上科(Superfamily Bagroidea),ギギ科(Family Bagridae),レイオカシス属(Genus Leiocassis)』の『イノシシギギ(猪義義,猪鱨,英名:Chinese longsnout catfish)Leiocassis longirostris (Bleeker, 1864)』であることが判った。『中国北部と韓国の河川に分布しています』とあった。やはり、この漢語もサメの意味はないことが判明した。
「本艸倭名」深根輔仁(ふかねのすけひと)の撰になる日本現存最古の薬物辞典(本草書)。「輔仁本草」(ほにんほんぞう)などの異名がある。当該ウィキによれば、『本書は醍醐天皇に侍医・権医博士として仕えた深根輔仁により』、『延喜』一八(九一八)年に『に編纂された。唐の』「新修本草」(高宗が蘇敬らに書かせた中国最古の勅撰本本草書。陶弘景の「神農本草經集注」(しんのうほんぞうきょうしっちゅう)を増訂したもの)を『範に取り、その他漢籍医学・薬学書に書かれた薬物に倭名を当てはめ、日本での産出の有無及び産地を記している。当時の学問水準』の限界のため、『比定の誤りなどが見られるが、平安初期以前の薬物の和名を』、『ことごとく記載しており』、且つ、『来歴も明らかで、本拠地である中国にも無い』所謂、『逸文が大量に含まれ、散逸医学文献の旧態を知る上で』も、『また』、『中国伝統医学の源を探る上でも貴重な資料である』。本書は、後の『丹波康頼の』知られた「医心方」にも『引用されるなど』、『後世の医学・博物学に影響を与えた。また、平安時代前期の国語学史の研究の上でも貴重な資料である』。後、永らく、『不明になっていたが、江戸幕府の医家多紀元簡が紅葉山文庫より上下』二『巻全』十八『編の古写本を発見し』、『再び世に伝えられるようになった。多紀元簡により発見された古写本の現時点の所在は不明であるが、多紀が寛政』八(一七九六)年に『校訂を行って刊行し』、六『年後に民間にも出された版本が存在する他、古写本を影写した森立之の蔵本が台湾の国立故宮博物院に現存する』とある。
「䱜魚(さくぎよ)」この漢語は、「廣漢和辭典」で、『さめ』としてあるので、日中通意である。
「魦(しや)」同前で、第二義に『さめ。ふかざめ。』とあり、日中ともにサメである。
『而して、二書ともに「ふか」を載せず』私は「サメ」と「フカ」は同義と考えている。それを支持する内容は、例えば、幾つかの真摯な考証によれば、「有限会社 環境産業」公式サイトの「スタッフブログ」の「鮫(サメ)と鱶(フカ)の違いとは?」である。他にもそれを支持する内容のものは散見する。しかし、decodecochibita氏のブログの「釣り人語源考 フカ」は、なかなかに含蓄のある歴史的考証をされており、白眉である。引用したいが、かなり長いので控えるが、是非、一読されんことをお薦めする。
『「倭名鈔」に始めて、「辨色立成(べんしきりつせい)」の『鮝魚(しやうぎよ)』を和名(わみやう)『布可(ふか)』と訓じ、別に『佐女』を載せたり』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板本を元に推定訓読する。まず、「卷十九」の「鱗介部第三十・竜魚類第二百三十六」のここの「鮝魚」。
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鮝魚(フカ) 「辨色立成」に云はく、『鮝魚は【「布可(ふか)」。「居」「媛」の反。今、案ずるに、未だ詳(つまびらか)ならず。】』≪と≫。
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次に、ここの、「佐女」相当の「鮫」。
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鮫 「陸詞切韻」に云はく、『鮫【音「交」。和名「佐米」。】]魚皮に文(もん)有り、以つて、刀劔(たうけん)を飾(かざ)る者なり。』≪と≫。「兼名苑」に云はく、『一名、𩶅𩸹【「低」「迷」の二音。】。』≪と≫。「本草」に云はく、『一名は䱜魚【上は「食」「各」の反。】。』≪と≫。「拾遺」に云はく、『一名は「鯊魚(さぎよ)【上の音「沙」。字、亦、「魦」に作る。】」』≪と≫。
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「𩸹」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、かく、した。この「辨色立成」は、「倭名抄」の中にしか見えないことから、奈良時代(八世紀)の成立とされる和訓を有する本邦の漢和辞書とされるものである。
「塵添壒嚢抄」単に「壒囊抄(鈔)」とも呼ぶ。十五世紀の室町時代に行誉らによって撰せられた百科辞書・古辞書。同書の記載は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本の、巻一の「五十九」条の、ここの右ページ六行目の中央部に『鰧(ふか)』とある。
「本朝食鑑」私の『博物学古記録翻刻訳注■12「本朝食鑑第十二巻」に現われたる海鼠の記載』の私の冒頭注を見られたい。ブログ・カテゴリ『人見必大「本朝食鑑」より水族の部』もあるのだが、二〇一五年でペンディングしたまま、放置状態である(字起こしが、恐ろしく大変なため)。国立国会図書館デジタルコレクションの元禄一〇 (一六九七)年板本の「鱶」の項の割注に『訓ス二布加ト一』とある。
「康煕字典」中国の代表的字典。一七一六年に、清の張玉書(一六四二年~一七一一年)らが、康煕帝の勅を奉じて編纂したもの。「說文解字」「玉篇」を底本とし、諸書を校合し、十二集に分け、集ごとに三子巻(上・中・下)に細分し、全部で百十九部に分けてある。巻首に総目・検字・弁似・等韻が各一巻、巻末に補遺と備考各一巻を付す。親字四万七千三十五字、古代の異体字千九百九十五字を収める(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。
「鮝は乾魚(かんぎよ)なり」「鮝」は魚種を指すのではなく、「乾した魚」である、の意。
『「本艸綱目」には『鮫(さめ)一名(《いち》みやう)錯魚(さくぎよ)』とし』これは、河原田の誤記である。「漢籍リポジトリ」の「卷四十四」の「鱗之三魚類三十一種」の、ガイド・ナンバー[104-42b] の「鮫魚【唐本草】」の冒頭の「釋名」の始めから二つ目に、『䱜魚【鵲錯二音】』とあるからである。
「本艸綱目拾遺」清の一八〇〇年頃に趙学敏が撰した「本草綱目」の誤りを正し、そこに漏れていた薬物を追加したもの。
「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南產志」。一六〇八年成立。
「黃鯊(こうしや/はたざめ)」軟骨魚綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica のこと。当該ウィキに拠れば、『本州東岸から台湾、日本海南部・黄海・東シナ海・台湾海峡で見られる』とある。
「犁頭(れいとうしや/かいめぶか)」「雙髻鯊(さうけいしや/しゆもくざめ)」孰れも、メジロザメ目シュモクザメ科 Sphyrnidaeのシュモクザメの総称である。孰れも、漢字表記から、ピンとくる。
「英華字典」ウィリアム・ロプシャイド(William Lobscheid)が編した‘ English and Chinese dictionary ’(一八四七年~一八四八年)かと思われる。「Internet archive」で、後の版(1856-1944)だが、見つけた。ここの左丁の右の中央上方。
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Shark, n. A common shark, carchrias,沙魚,鯊,
魦; another species, 烏翼鯊 ; another species,
齊頭鯊 ; cestracion zebra , 貓兒鯊; rhinobatus,
犁頭鯊 ; the hammer-headed shark, sphyrna zygena,
公子帽鯊 ; shark’s fins, 鯊翅; white shark’s fins,
白魚翅 ; black shark’s fine, 黑魚翅 ; shark’s skin,
used for shagreen, 鯊魚皮 ; a greedy, artful fellow,
貪猾嘅人.
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・この一行目の“ carchrias ”は、狭義には、典型的でミズワニ科唯一の現生種である軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ミズワニ科 Pseudocarchariidaeミズワニ属ミズワニ Pseudocarcharias kamoharai を指し、英名“Crocodile shark”(辞書では「サンド・シャーク」とある。詳しくは当該ウィキを見られたいが、そこに『世界中の暖かい海の表層から水深590 mまで生息する』とある)とある。但し、ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias の種小名とも一致するので、ここでは、後者「ホホジロザメ」の意を採るのが正しいと思われる。
・三行目の“ cestracion zebra ”は、ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属シマネコザメ(縞猫鮫)Heterodontus zebra 指す。当該ウィキを見られたい。なお、「維基百科」の同種のページでは、現行の中文名は「狭紋虎鯊」で、異名を「斑紋異齒鮫」・「斑紋異齒鯊」、俗名に「角鯊」・「虎沙」があるとする。
・三行目の“ rhinobatus ”は、サメではなく、ノコギリエイ目 Rhinopristiformes サカタザメ科サカタザメ属 Rhinobatos を指す。体盤がエイのように縦に扁するものの、有意に左右に大きくは突き出ず、スマートな三角形のギターのような形をするので、サメの仲間と間違えても、違和感はない。
・最後の「貪猾嘅人」は「貪婪な人」の意の換喩。
「『白魚翅(はくぎよし)』、『黑魚翅(こくぎよし)』の二類に分ち」「熊谷茂 丸光製麺・社長ブログ」の「フカヒレに使うサメの種類」の「(3)フカヒレに使われるサメの種類とは?」で、『「フカヒレ」と一言で言っても、サメの種類、色や形、産地によっても実に様々。その数は40種類以上にも細かく分類されていて、値段も細かく決まっています』。『中華料理ではよく使用される魚翅(ユイチー)と呼ばれる乾燥させたフカのヒレは、色によって「白いフカヒレ」と「黒いフカヒレ」に大別されますが、「白いフカヒレ」の方が珍重されます』。『「白」のヒレは「白魚翅(パイチー)」と呼ばれ、メジロザメ、ツマグロ、ヒラガシラ、シュモクザメ、オナガザメなどのフカヒレが原料となります』。『一方』、『「黒」のヒレは「黒魚翅(ヘイチー)」と呼ばれ、ネズミザメ、アオザメ、ヨシキリザメ、ネコザメなどのフカヒレが主な原料です。このようにフカヒレは種類ごとに名前を付けて区別されますが、最も高価なフカヒレは「メジロザメのフカヒレ」で、ヨシキリザメの何倍もの価格で取引されます。』とあった。
「支那貿易品解說」国立国会図書館デジタルコレクションのここにある、竹内成章編訳・ 中川喜重/校・明治一八(一八八五)年序の、それであろう。]
人生、今まで酩酊して鈍行電車にずっと乗って来たのだが、ここに来て、光子ロケットに搭乗し、見たことのない世界に親しむようになり、新しい人々とも出逢うこととなった。限られた脳活性の限り、一層、精進することをここに約束する。
[やぶちゃん注:底本はここから。非常に長いので、段落を成形し、句読点・記号を補塡した。欠字の「□□」部分は底本では、長方形。三つ目の漢文部分は、後で訓読する。読みの内、ネットで確認出来なかった場合、複数候補を示しておいた。長さから、ほぼ割注で対応した。
但し、この漢文部には、底本、及び、「近世民間異聞怪談集成」(別写本底本)ともに、訓点として、通常の訓点では、必要な助詞・助動詞の欠落・省略が、多量に、ある。丸括弧で追加しようと思ったが、余りにも、それが多過ぎるので、底本通りとし(私が追加した句読点は別)、訓読で、私が補正訓読して追加しておいた。いちいち、それを丸括弧・下線などで示すと、却って読み難くなるだけなので、指示はしていない。因みに、仏教関連の文書では、こうした省略は、ごく普通にあるものでは、ある。]
志 駄 郡《しだのこほり》
「水上池《みづかみいけ》惡龍《あくりゆう》」 志駄郡[やぶちゃん注:調べた限りでは、「志太郡」が正しい。]水上村《みずかみむら》□□山萬福寺【曹洞、富洞院末。】[やぶちゃん注:現在の静岡県藤枝市(ふじえだし)水上(みずかみ)のここ(グーグル・マップ・データ。以下、基本、無指示は同じ)。サイド・パネルのこの入り口の画像にある石造の寺名表記には、山号「大池山」とある寺の公式サイトはないので、一応、「だいちざん」と読んでおく。]にあり。「本尊水干不動緣起由」[やぶちゃん注:同前に理由で読み不詳(国立国会図書館デジタルコレクションで複数のものを見たが、ルビはない。取り敢えず、「ほんぞんすいかんふどうえんぎいう」と読んでおく。寺社の縁起で「由」がつくものは、今までの私が見たものでは、皆無である。]云《いはく》、
『水上村は、昔、一面の大洋池《だいやうち》[やぶちゃん注:「広い池」の意。]にて、東・南新屋、西・鳥帽子山、南・瀨戶新屋六地藏[やぶちゃん注:「ひなたGIS」で示す。右の現代の国土地理院図でも、現在の地名として総てが生きていることが確認出来る。「瀨戶新屋」の「六地藏」もグーグル・マップ・データで調べたところ、同地区のここに現存している。]を限り、凡《およそ》周程《しうてい》三十六町餘《あまり》。
池中《ちちゆう》に、毒龍、有《あり》て、累歲《るいさい》[やぶちゃん注:「何年もの間」の意。]、徃來《わうらい》の人民《じんみん》を、なやませり。
里民《りみん》、是を患《わずら》ふ。
時に、一法師《いちはふし》、宇陀上人《うだしやうにん》と云《いふ》者、あり。密宗の祕法を修練して、髙德の聖《ひじり》なり。民人《たみびと》、是を屈請《くつしやう》[やぶちゃん注:丁重に人を招くこと。]し、池水《ちすい》を祈《いのり》て、潛龍《せんりゆう》を降伏《かうぶく》せん事を欲《ほつ》し、衆議して、上人に告ぐ。
[やぶちゃん注:「宇陀上人」調べたが、人物不詳。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河の傳說(小山有言編・昭和一八(一九三三)年安川書店刊)の「青島町」の『六八 水上池池惡龍』(これは、本底本準拠)に名が出ており、さらに、まさに以下に語られる内容とほぼ一致する(但し、龍ではなく、蛇)「七一 七ツの護摩壇」に、「傳說昔話集」を元に『又いふ。この地方は夏はこの地方は夏は一面の池になる。池には毒蛇がゐて人々を惱ました。宇陀上人がまわって來て、毒蛇退治を思ひ立ち、七ケ所に壇を築き不動尊像を安置して護摩をたいて、池水を干し涸らさしめた。毒蛇は惡鬼と化し藤枝の鬼岩寺に飛で行つた。そこで水干不動と呼び、萬福寺を建てゝ奉安した。七ツの壇は宇陀上人修法[やぶちゃん注:「しゆほふ」。]の所であつたともいはれてゐる。』とあった。]
上人、招《まねき》に應じて、まづ、水想觀《すいさうくわん》に入《いり》、驗ㇾ之《これを、げんじ》、朝暮思ㇾ之想ㇾ之《てうぼ、これを、おもひ、これを、さうし》、念々無ㇾ措《ねんねん、おかず》、一夕《いつせき》、靈夢《れいむ》の告《つげ》を獲《え》て、筑紫の博多より、不動の靈像【智證大師作。】〕を迎へ、梵壇《ぼんだん》を東山《ひがしやま》に築き、これを安置し、眞言の密印を以《もつ》て、加持三昧《かじざんまい》の妙力咒禱《みやうりきじゆとう》せしかば、則《すなはち》、明王《みやうわう》の靈驗《れいげん》にや、潛《ひそめ》る猛龍《まうりゆう》、德の爲に降《くだ》せられ、洋々たる池水《ちすい》、法《ほふ》に依《より》て、陸と變ず。然《しか》してより此《この》かた、民人、始《はじめ》て、安堵《あんど》の思《おもひ》をなし、此里に居住す。云云《うんぬん》。』。
[やぶちゃん注:「水想觀」。「觀無量壽經」に説く十六観の一つ。水や氷の清らかなさまを想うことによって極楽浄土のさまを観想する方法。「水観」とも言う。]
同郡《どうこほり》鬼岩寺村《きがんじむら》、「楞嚴山《りやうがさん》鬼岩寺《きがんじ》【眞言、髙野山無量光院末。】緣起」云《いはく》、
[やぶちゃん注:「鬼岩寺村」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、『現在地名』は『藤枝市音羽町(おとわちょう)一丁目・茶町(ちゃまち)一―三丁目・藤枝一―三丁目・鬼岩寺』とし、『東海道藤枝宿の北、若王子(にゃくおうじ)村の西に位置し、鬼岩寺山南麓に立地する。東海道が通り、瀬戸谷(せとのや)街道の分岐点にあたる。志太(しだ)郡に属する。東遊歌神楽歌の駿河舞の第四句にみえる「いはたしたえ」の岩田(いわた)は藤枝の旧称とされ、岩田山は鬼岩寺山のことという(掛川誌稿)。また「したえ」は志太江とされ、現藤枝市・島田市の南に広がっていた入海の浦浜の総称という(駿河記)。室町時代から鬼岩寺山麓にある鬼岩寺の門前町として栄え、戦国期には市も開かれていた。』とあった。ここ(「音羽町」をポイントし、東に「鬼岩寺」、その南直近に「藤枝」の当該丁目がある)。なお、「鬼岩寺」は高野山真言宗で、「藤枝市スポーツ文化観光部 街道・文化課」公式サイト内の「ふじえだ東海道まちあるき」の「藤枝宿 鬼岩寺 きがんじ」に、神亀三(七二六)『年に行基上人により開創されたと伝わる古刹です。寺名は、寺の裏山にある鬼岩(おにいわ)と言われる巨岩・岩穴に由来しており、弘法大師空海が人々を苦しめる鬼を封じ込めた岩穴と伝えられています。境内には鬼が爪を研いだ跡と言われる「鬼かき石」が安置されているほか、黒犬伝説と神犬クロを祀る「黒犬神社」があります。』とあった。]
『靜照上人《じやうしやうしやうにん》とて、弘法大師の躅《あと》を闢《ひらき》[やぶちゃん注:「事跡を忠実に踏み開き」。]、令德雄才《れいとくゆうさい》[やぶちゃん注:「令德」とは「美徳・善行」の意。]・事敎《じけう》[やぶちゃん注:仏教で、「理」、即ち、「本体」と、「事」、即ち、「現象」とを明確に区別する教えを指す。]兼備の上人、住山《ぢゆうさん》の時に當《あたり》て、南里《みなみのさと》[やぶちゃん注:地名しては見出せないので、普通名詞として、かく読んだ。]、淵《ふち》に、巨龍《きよりゆう》在《あり》て、方里《はうり》の土民、農作耕《のうさくこう》を成《なす》事、あたはず。
[やぶちゃん注:「靜照上人」「WEB版新纂浄土宗大辞典」の当該項に拠れば、生年不詳で、『長保五年(一〇〇三)正月八日』没の『天台宗の学僧。高階成忠(たかしななりただ)の子として生まれ、出家後、賀縁の弟子となり、後に比叡山の東塔功徳院に住したというが』、『不明な点が多い。永延元年(九八七)に、円教寺講堂供養に講師、長保二年(一〇〇〇)に覚運(九五三—一〇〇七)や源信と同じくして法橋に叙任されている。また、同年法華八講の講師を務める。浄土教に関心が深く、その著に『観経』の十六観を注釈した『極楽遊意』、『無量寿経』に説かれる四十八願を注釈した『四十八願釈』各一巻などがある。』とあった。]
上人、是を慈恕《じじよ》し[やぶちゃん注:情け深く、思いやりを成すことを言う。]、七か所に、檀《だん》を築《きづき》て、不動護摩を精修《せいしゆう》す。神效《しかう》、不可思議、湛池《たんち》[やぶちゃん注:水を湛えていた池。]、水、涸れ、燥陸《さうりく》に變ず。上人、敎化《しやうげ》して、巨蛇《きよじや》を封窂《ふうらう》す[やぶちゃん注:封じて閉じ込めた。]。云云【檀上の尊佛は鬼岩寺護摩堂の本尊也。】。
同郡志太村□□山九景寺【淨土、藤枝、西光寺末。】所藏詩序云、鬼岩者有三惡龍潜二於水上池一、水上池ハ去二鬼岩ヲ一二十町、凡人物之經二過スル於池邊一者、無ㇾ不三以葬二於腹ニ一、村民患ㇾ之、多招テ二有驗之僧ヲ一、欲ㇾ去ント二惡龍一、三論之俊、唯識之芼、華嚴之英、佛神之傑、不ㇾ能二以伏一ㇾ之、皆拱テㇾ手而退、有リ二一法師一、弘法大師之流ニ而通ジ二金剛頂經毘盧遮那經之薀一、且傳二秘密之印信ヲ一、先入二三摩提ニ一見ㇾ之、知ル三彼龍ノ非ヿヲ二阿耨達池龍王之族ニ一、於ㇾ是、築キ二壇ヲ於池上ニ一、安シ二不動尊像ヲ一、入リ二水想觀ニ一、詳ニシ二水之淵源ヲ、抽テ二大根器一修ス二神變之法一、明王忽チ出二火熖ヲ一、使下二池水ヲ一乾上、其壇ヲ呼二護摩壇ト一、其像ヲ號二水干不動一、及ㇾ今存ㇾ跡、人尊二崇之一、然龍不ㇾ得二其處一、化成二惡鬼一、飛二此山一、法師追二亡逐逃一以二念珠ヲ一打ツ二鬼之頭ヲ一、鬼乃開二般若之眼ヲ一、初テ發二菩提心ヲ一、法師授ニㇾ之以二阿字一力ヲ一、鬼高聲ニ稱二得道一、作ㇾ禮而去。法師又以二那羅延力一投ジ二盤石於其化處ニ一以爲ス二之封ヲ一、名ク二之鬼岩一、村民歸シ二法師之密驗ニ一、建二立乄梵刹ヲ一號二鬼岩寺一。【下畧】云云。
[やぶちゃん注:冒頭で述べた通り、送り仮名その他が不全であるので、大々的に推定訓読したものを以下に示す。
*
同郡(どうこほり)志太村(しだむら)□□山九景寺(くけいじ)【淨土、藤枝、西光寺(さいかうじ)末(まつ)。】[やぶちゃん注:鬼岩寺と萬福寺の、やや鬼岩寺寄りの瀬戸川右岸に「九景寺古墳」があり、その近くに、「九景結社」という浄土宗寺院がある。「静岡教区浄土宗青年会」のこのページを見ると、この寺の開基は治承四 (一一八〇)年である。]所藏の「詩序」に云(いはく)、鬼岩(きがん)は[やぶちゃん注:「には」の意で採る。]、惡龍(あくりゆう)、水上池(みなかみのいけ)に潜(ひそ)む有り。水上池は、鬼岩を去ること、二十町[やぶちゃん注:二・一八二キロメートル。南南西に直線で二キロ強で、まさに萬福寺がある。]、凡そ、人・物の池邊(いけべ)を經過する者、以つて、腹に葬(はう)むらざる無し。村民《そんみん》、之れを患(わづら)ふ。多(おほ)く、有驗(うげん)の僧を招きて、惡龍を去らんと欲(ほつ)し、三論(さんろん)の俊(しゆん)、唯識(ゆいしき)の芼(ぼう/もう)、華嚴(けごん)の英(えい)、佛神の傑(けつ)、以つて、之れを伏(ぶく)すること能はず、皆、手を拱(こまね)きて退(しりぞ)く、一法師(いちほふし)、有り、弘法大師の流(りう)にして、「金剛頂經(こんがうちやうきやう)」・「毘盧遮那經(るびしやなきやう)」の薀(うん)通じ、且つ、秘密の印信(いんじん)を傳へ、先づ、三摩提(さんまだい)に入り、之れを見(み)、彼(か)の龍の、阿耨達池龍王(あのくだつちりゆうわう)の族(うから)に非(あ)らざることを、知る。是(ここ)に於いて、壇(だん)を池(いけ)の上(ほとり)に築(きづ)き、不動尊像を安(あん)じ、水想觀に入り、水(みづ)の淵源を詳(つまびらか)にし、大根器(だいこんき)を抽(ぬ)きて、「神變(しんぺん)の法(ほふ)」を修(しゆ)す[やぶちゃん注:実際にそのような修法(しゅほう)があるわけではない。常人にはない特別な神通(じんつ))が備わった者が獲得出来る摩訶不思議な現象=神変を現出させる法を駆使したのである。]。明王、忽(たちま)ち、火熖(くわえん)を出(いだ)し、池の水を乾かしせしめ、其の壇を「護摩壇」と呼び、其の像を「水干不動(みづほしふどう)と號(がう)し、今に及び、跡(あと)、存し、人、之れを尊崇(そんすう)す。然れども、龍、其處(そこ)に得られずして二一、化(け)して、惡鬼(あくき)と成り、此の山に飛び、法師、逐逃(ちくたう)を追亡(ついばう)し、念珠(ねんじゆ)を以つて、鬼(おに)の頭(かしら)を打つ。鬼、乃(すなは)ち、般若(はんにや)の眼(まなこ)を開き、初めて、菩提心(ぼだいしん)を發し、法師、之れに授(さづ)くに、「阿」の字の一力(いちりき)を以つて、鬼、高聲(たかごゑ)に「得道(とくだう)」を稱(とな)へて、禮を作(な)して、去る。法師、又、那羅延力(ならえんりき)を以つて、盤石(ばんじやく)を其の化(け)したる處(ところ)に投(とう)じ、以つて、之れに封(ふう)を爲す。之れ、「鬼岩(きがん)」と名づく。村民、法師の密驗(みつげん)に歸(き)し[やぶちゃん注:帰依し。]、梵刹(ぼんさつ)を建立(こんりふ)して、「鬼岩寺」と號す。【下畧。】云云(うんぬん)。
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「三論」三論宗。小学館「日本国語大辞典」に拠れば、『南都六宗の一つ。中論(中観論)・十二門論・百論の三論をよりどころとして、大乗の教えを説くもの。もともとインドでおこり、鳩摩羅什(くまらじゅう)が中国に伝え、隋の吉蔵が大成したという。日本には、推古天皇の三三年(六二五)、吉蔵の弟子、慧灌が渡来して広め、智蔵、道慈が入唐して宗旨を修めて以後、宗の名を立てた。天台宗などのような、教団として発展したものではないので、中古以後は衰え、法隆寺や東大寺などに学問として伝えられた』とある。
「唯識」同じく、仏教の認識論の一つで、『一切の諸法は識としての心が現わしだしたものに』過ぎず、『識以外に存在するものはないということ』。但し、『この識も妄分別するものとしてあるに』過ぎず、『真実にあるものではない』、『という意を含んでいる。』とある。但し、ここは前後から見て、「唯識」を別称とする「法相宗」(ほっそうしゅう)を指していると考えるべきで、同じく、『仏教の一宗派。奈良時代を通じて最も盛んであった、いわゆる南都六宗の一つ。解深密(げじんみつ)経・瑜伽(ゆが)論などをもとに、万有は唯識、すなわち』、『心のはたらきによって表わされた仮の存在にすぎず、識以外の実在はないとし、万法の諸相(法相)を分析的、分類的に説くもの。この学は玄奘によりインドから唐にもたらされ、弟子の慈恩大師窺基より一宗をなしたが、日本へは白雉四年(六五三)入唐した元興寺の道昭以後、伝えられた。行基・良弁など多くの学匠を生み、また他宗の学徒も多くこれを学んだ。現在は興福寺・薬師寺(法隆寺は一八八三年聖徳宗として独立)を大本山に七〇余の末寺をもつのみである』とある、それである。
「芼」第一義は「選ぶ・抜き取る」の意。先鋭の者。
「華嚴」華厳宗。同じく、『華厳経を所依として中国唐代杜順に起こり、賢首(げんじゅ)大師法蔵によって組織大成された大乗の一宗。日本には天平八年(七三六)唐の道璿(どうせん)が伝えたといい、同一二年、良弁(ろうべん)の請いにより』、『新羅僧審祥』(しんじょう)『が金鐘道場』(きんしょうどうじょう)『(東大寺法華堂)で』、『この経を講じたという。その後、良弁が東大寺で宣教し興隆したがやがて衰微し、鎌倉時代には高弁・凝然が出て復興に努めた。明治初年、一時』、『浄土宗に属し、同一九年(一八八六)独立して東大寺を大本山とし、現在は末寺約五十か寺、信徒約五万人。五教十宗の教判の下に、法界縁起(ほっかいえんぎ)と十玄六相の事々無礙(じじむげ)を説き、三生成仏(さんしょうじょうぶつ)を唱える。南都六宗の一つ』とある。
「金剛頂經」同じく、『通常は不空訳の「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経」三巻をさす。別に金剛智訳と施護訳がある。真言密教の秘経の一つ。大日如来成仏』『の次第を通じ、釈迦』、『すなわち』、『金剛界如来が、金剛界三十七尊を出生したことや、この金剛界曼荼羅建立の儀則、弟子を曼荼羅に導入する法などを説いた経典。』とある。
「毘盧遮那經」正しくは、「大毘盧遮那成佛神變加持經」(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)で、略して「大毘盧遮那經」、或いは、「大日經」と呼び、大乗仏教に於ける密教経典である。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『八世紀に、善無畏・一行の共訳による漢訳』、及び、『シーレーンドラボーディとペルツェクの共訳であるチベット語訳が相次いで成立したが、梵文原典は現存しない』。「金剛頂經」『とともに真言密教における根本経典の一つとされる』。『7世紀半の前後約30年間という栂尾祥雲1933年発表の説が一般に承認されている。500年ごろにはすでに成立していたという説もあるが定説とはなっていない』。『内容は、真言宗のいわゆる事相(行法)と教相(教理)に相当する2つの部分から成り立つが、前者である胎蔵曼荼羅(の原形)の作法や真言、密教の儀式を説く事相の部分が大部分を占める』。『仏部・金剛部・蓮華部の三部分類や、胎蔵界五仏の構成などについても説かれる』。『また、この部分の記述は具体的であるが、師匠からの直接の伝法がなければ、真実は理解できないとされている』とあり、『教相(教理)に相当するのは冒頭の「入真言門住心品」だけといってよく、ここで密教の理論的根拠が説かれている。構成は、毘盧遮那如来と金剛手(秘密派の主たるもの)の対話によって真言門を説き明かしていくという、初期大乗経典のスタイルを踏襲している』。『要諦は、金剛手の問いに対し、毘盧遮那如来が一切智智を解き明かすことにあり、菩提心とは何かを説くところにある。』とある。
「薀」仏教に於いては、「五取蘊」(ごしゅうん)、或いは「五薀」として、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の総称であるが(詳しくは当該ウィキを見られたい)、ここは、「薀」の一般的な意味を嗅がせた、「(正しき仏教の真の知識を)積んで蓄えている者」の意で採ってよい。
「印信」密教で、「師僧が秘法を伝授した証拠として弟子に授与する書状」を指す。
「三摩提」「三昧(さんまい)」に同じ。小学館「日本国語大辞典」の「三昧」に、『([梵語]samādhi の音訳。三摩提・三摩地とも音訳。定・正定・等持などと訳す )雑念を離れて心を一つの対象に集中し、散乱しない状態をいう。この状態に入るとき、正しい智慧が起こり、対象が正しくとらえられるとする。三摩堤(さんまだい)。三昧正受。』とある。
「阿耨達池龍王」「阿耨達池」は小学館「日本国語大辞典」に、『阿耨達龍王(あのくだつりゅうおう)が住むという池。瞻部洲(せんぶしゅう)の中央、香山(こうざん)の南、大雪山』(だいせつざん)『の北にあって、周囲八百里、金、銀、瑠璃などがその岸を飾る。四つの河を分出して、清冷水により全世界を潤すという。阿那婆達多(あなばだった)。』とある。ここは、その真正の神聖なる龍族の仲間ではない、と見破ったことを指す。
「大根器」禅問答の中で見たことがある。「偉大な品性」を指す語である。]
里人、云《いふ》、
「以上、三所《さんしよ》の記を按《あんず》るに、事蹟は同所《おなじところ》にして、其說、異《ことなる》也《なり》。何《いづ》れか、可ならん。風土を閱《み》るに、古昔《こじやく》、大池《おほいけ》成《なる》事、疑《うたがひ》なし。今、『護摩壇《ごまだん》』と稱する所、七か所あり、謂《いはれ》は『六地藏』・『西山《にしやま》』[やぶちゃん注:「ひなたGIS」の戦前の地図で調べたが、不詳。]・『曲山』[やぶちゃん注:同前。]・『南新屋』[やぶちゃん注:萬福寺のごく直近に現存する。ここ。]・『鵜糞山』[やぶちゃん注:不詳。一つ、気になったのは、萬福治の東直近にある「烏帽子山」である。]・『萬福寺』・『東山』[やぶちゃん注:不詳。]也。何《いづ》れも、山上《さんじやう》、一段、高く築上《つきあ》げ、頂《いただき》、平《たひら》にして、形《かた》ち、圓《まろ》く、經《めぐり》、五、六間[やぶちゃん注:約九・一~十・九メートル。]計《ばかり》りあり。又、水上村の中筒井[やぶちゃん注:不詳。]など掘るに、土中より、菱《ひし》・芦《あし》等《など》の實《み》、或《あるい》は、根《ね》の類《たぐゐ》、色黑きもの、多く出づ。是《これ》、洋池の證《しやう》也。又、鬼岩寺靜照上人は、養和元年[やぶちゃん注:一一八一年。前に注したデータと全く合わない。]七月十五日、寂す。今、六百四十七年に及ぶ。事跡、詳《つまびらか》ならざるも、可《か》、也《なり》[やぶちゃん注:問題はない。]。今、『瀨戶町《せとちやう/せとまち》の染飯《そめいひ》』とて、名產とする物も、此龍鱗《りゆううろこ》を、形どる遺跡也。云云。」。
[やぶちゃん注:「瀨戶町の染飯」ウィキの「瀬戸の染飯」に拠れば、『現在の静岡県藤枝市上青島である駿河国志太郡青島村付近で戦国時代から販売された黄色い米飯食品である。東海道藤枝の名物であり、文化庁の日本遺産『日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅』の「構成文化財」に認定された』。『瀬戸の染飯は、強飯(こわいい/こわめし・蒸した餅米、おこわ)をクチナシ(梔子)の実で黄色く染めて磨り潰し、平たい小判形や三角形(鱗形)、四角形などにして乾燥させたものである』。『江戸時代には藤枝宿-島田宿間にある瀬戸の立場(休憩所)で売られていた。漢方医学では、クチナシには消炎・解熱・利胆・利尿の効果があるといわれ、また足腰の疲れをとるとされることから、難所が多い駿河の東海道を往来して長旅に疲れた旅人たちから重宝された』。『物語や和歌、浮世絵の題材としてたびたび取り上げられ、1792年(寛永4年)に西国を旅した小林一茶は藤枝で「染飯や我々しきが青柏」と詠んでいる。1797年(寛政9年)の『東海道名所図会』には染飯を売る茶屋の挿絵があり、葛飾北斎の1804年(享和4年)頃の浮世絵『東海道中五十三駅狂画』でも四角い染飯を売る茶屋の娘が描かれた作品がある』。『十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802年-1814年初刊)にも登場する』。『その始まりは古く、『参詣道中日記』1553年(天文22年)の記録や『信長公記』1582年(天正10年)の記録に記載があるため戦国時代にさかのぼる。東海道の街道名物としては最古級である』とあった。]
[やぶちゃん注:底本はここから。非常に長いので、段落を成形し、句読点・記号を補塡した。而して、語注は、殆んどを割注化した。
なお、底本の本篇では、セクシャルな部分が「△」で多量に伏字となっていて、全く以って正常に読むことが出来ない。しかし、別底本(写本)に拠る「近世民間異聞怪談集成」では、それらが、総て活字化されていることから、それを参考にして、恣意的に正字化して、復元した。その部分は太字とした。]
「瘧神《おこりがみ》人《ひと》と婬《いん す》」 安倍郡府中に有り。「駿府雜談」云《いはく》、
『今は昔、一歲《ひととせ》、駿府の町々、瘧病《おこりやまひ》、大《おほい》に流行して、武家・商家、共に、人、多く、死す。
此時、
「『吉屋傳治郞家』と門に張置《はりお》く時は、其家に、病者、なし。」
とて、戶每《とごと》に、此名を、はりけり。
其由來を尋《たづぬ》るに、此《この》「傳治郞」と云《いふ》は、府中吳服町の住《ぢゆう》なるが、極《きはめ》て、家、富《とみ》、豐成《ゆたかなり》ければ、常に、二丁町に徃(ゆき)て、倡女《しやうぢよ》[やぶちゃん注:遊女。妓女。]、あまた、揚《あげ》て、樂《たのし》みけり。
或夜《あるよ》、例の如く、行《ゆき》けるに、傳治郞が思ひ人、「春風《はるかぜ》」と云《いふ》姚女《えうぢよ》[やぶちゃん注:見目よい女。]、瘧り有りければ、傳治郞、心、樂まず、
「今宵《こよい》は、敏《と》く[やぶちゃん注:早く。]、歸るべし。」
とて、まだ、夜深《よふか》きに、歸りける。
路の傍《かたはら》に、麗《うるは》し氣成《げなる》る女《をんな》の、只一人《ただひとり》、彳(たたずみ)たり。
傳治郞、心の內に、
『定《さだめて》、戀故《ゆゑ》に、人待居《ひとまちを》るにや、其樣《そのさま》を見ばや。』
と、側《かたはら》に近寄り、星の光に、すかし見れば、其艷顏《えんがん》、譬《たと》ふるに物なく、窈窕《えうてう》たるが[やぶちゃん注:美しく淑やかな、上品で奥ゆかしいさまで。]、
「さめざめ」
と泣居《なきゐ》たり。
傳治郞、不思議に思ひ、其旨《そのむね》を問へば、彼女《かのをんな》申やう、
「某《それがし》は、當國島田の者なるが、故在《ゆゑあ》りて、住事《すむこと》[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」(別写本底本)では『往事』とある。私は、本書の「住」の方が、すんなり受け取れる。]、叶はず、府中の驛へと志し、夫婦諸共《めうともろとも》來りしに、昨日《きのふ》、此安倍川の邊りにて、吾夫《あがをつと》、俄《にはか》に心變りして、我《あ》を捨《すて》て、江戶に徃《ゆき》ぬ。
『吾も共に徃かん。』
と云へば、
『此府《このふ》は、江戶にも增《まさ》る繁花《はんくわ》なり。爰《ここ》に、止《とま》りて、我《われ》が登《のぼ》るを、待て。』
と別れしより、『獨り、府中に至らん。』と思へ共《ども》、行《ゆく》べき道を、知らず。詮方なくて、此處《ここ》に侍《さぶら》ふ。」[やぶちゃん注:「島田」現在の静岡市島田市。静岡県の中部で、大井川の両岸に当たる。]
と云。
傳治郞、哀《あはれ》に思ひ、
「某《それがし》こそ、府中の者にて候へ、伴ひ申《まう》さん。」
と云《いふ》に、彼女《かのをんな》、悅び、莞爾(かんじ)としたる[やぶちゃん注:「につこりとした」。]形容《けいよう》、亦、類《たぐ》ひなき美人成しかば、頻《しきり》に、心、動き、女の手を取《とり》て、道ならぬ事抔《など》、口說《くどき》ける。女、いと恥かし氣《げ》にて、兔角《とかく》の答《こたへ》もなく、差《さし》うつ向《むき》て居《をり》たる。折節、往來の人も、なし。
『能き𨻶《ひま》也《なり》。』
と寄添《よりそ》ふに、流石《さすが》、岩木《いはき》にあらざれば、終《つひ》に、傳治郞が心に隨《したがひ》けり。[やぶちゃん注:この伝次郎の「能き𨻶也」とは、まず、「心の隙(すき)。それから生ずる態度・体勢の油断。」が第一義であり、さらに進んで、「事を行なう時期。行動をするのに都合のよい時。機会。」、即ち、その第一義の「信頼」を逆手にし、上手く懐柔して、手籠めにしようという好色性を大いに含んだものであることは言うまでも、ない。]
夜もいたく更《ふけ》ぬれば、
「いざ。伴ひ行《ゆか》ん。」
と、すゝむるに、
「昨日よりの勞《いたはり》にて、一足《ひとあし》も步み難し。」
と云《いふ》にぞ、詮方なく、傳治郞が、脊《せ》に負《おひ》て往く事、一町《いちちやう》[やぶちゃん注:百九メートル。]計り、時しも、秋の星月夜、忽《たちまち》、やみと成り、頻《しきり》に、雨、降り、雷電、轟《どどろ》き渡《わたり》て、耳を響《ひびか》し、目を駭《おどろか》す。
不思議や、今迄は、木《こ》の葉の如く輕かりし女《をんな》の、大盤石《だいばんじやく》よりも重く成り、傳治郞が背を押碎《おしくだ》くばかり也。
振返《ふりかへ》りて、女を見れば、艷《えん》なりし形《かたち》は、鬼と變じ、額《ひたひ》に雙《ふたつ》の角《つの》を生じ、
「はた」
と白眼《にらみ》し、其形容、怖《おそろし》し共云計《ともいふばか》りなし。
傳治郞、少しも、是に、恐怖せず、
「汝《なんぢ》、樣々に形を變じて、吾を駭す。察する處、古狐《ふるぎつね》の誑《たぶらかす》、と覺《おぼえ》たり。背に負《おひ》しぞ、幸《さひはひ》なれ、〆殺(しめころ)さん。」
と云儘《いふまま》に、力の限り、引《ひき》しむる。其時、彼女《かのをんな》、云《いふ》やう、
「汝、怪しむ事なかれ。吾《われ》は是《これ》、疫癘《えきれい》の司神《つかさがみ》也。それ、疫神《えきじん/やくがみ》と云《いふ》は、陽神《やうじん》は熱を司《つかさど》り、陰神《いんじん》は瘧《おこり》を司《つかさど》れり。吾夫婦《わがめをと》、久敷《ひさしく》、島田の驛に在《あり》て、數多《あまた》の人を腦[やぶちゃん注:ママ。「近世民間異聞怪談集成」でも同じであるので、原本の「惱」の誤記と思われる。]《なやま》せしに、有驗《うげん》の髙僧・神主《かんぬし》等、大法・祕法を行《おこなひ》て住所《すみどころ》を追ふ故に、住事《すむこと》、叶《かな》はず、爰《ここ》に來りしに、陽神は、昨日《きのう》の暮、旅人に附《つき》て、東方《とうはう》に往《ゆき》ぬ。一定《いちぢやう》、江戸は、熱病、流行《はや》るべし。吾は、此府中に止《とどま》りて、瘧を流行《はやら》せ、萬民を苦しません。去《さり》ながら、吾、汝に伴《ともなは》れて、是迄、來《きた》るの恩のみに非ず。亦、先《さき》の妹背《いもせ》の契《ちぎり》、有り。旁《ひとへに》深き由緣《ゆえん》あれば、汝が家には瘧疾《ぎやくしつ》を除くべし。少《すこし》も疑事《うたがふこと》、勿《なか》れ。」[やぶちゃん注:「妹背の契、有り」の台詞は、「この世と冥界の絶対的隔たりはあるが、親しい男女の関係を受け入れて、心から謂い交わした約束は、確かなことであり、人と冥界を問わず守る」という時空を超えた約束を、永劫、守る、という彼女の決意を示したものである。しかも、直後で「旁深き由緣あれば」を添えることで、「この契りは、幽冥の隔てを越えて、定まった必定であることを確かに誓約するものである」ということを断言するものであって、本邦に限らぬ幽冥怪奇談の異類冥婚の話の中でも、そうそう見ないガッチりとした台詞である、と言ってよいように思われる。]
と云《いふ》かと思へば、傳治郞が足、地を離れ、空中に舞上《まひあが》り、彼《かの》鬼女《きぢよ》、背中を拔け出《いで》、行衞《ゆくゑ》も知《しら》ず成《なり》にけり。
傳治郞は、
「どふ」
と落《おち》、現心《うつつごころ》もなかりしが、夜明《よあけ》て、心附《こころづき》、邊《あた》りを見れば、吾家《わがや》の庭內《にはうち》に落居《おちゐ》たり。
傳治郞、深く此事を愼《つつしみ》て、口外《こうがい》せざりければ、誰《たれ》知る人もなかりしに、其後《そののち》、傳治郞、春風が許《もと》に行《ゆき》たりしに、折節《をりふし》、瘧を煩《わづらひ》て臥居《ふしゐ》たり。
春風、心淋《こころさび》しき折《おり》にて、
「是非に。今宵は、泊るべし。」
と進むるにぞ、側《そば》に附添《つきそ》ひ、介抱するに、例の時[やぶちゃん注:瘧の劇熱症症状の発現を指す。]、至り、惡寒《おかん》、甚しく、身体《しんたい》、大《おほき》に震ひ出《いで》て後《のち》、熱氣、盛んに成《なり》ける時、春風、
「むく」
と起上《おきあが》り、傳治郞が手を、取《とり》て云《いひ》けるは、
「堵《さて》も。不思議の緣《えにし》にて、すぎし夜《よ》の妹背事《いもせごと》[やぶちゃん注:伝次郎との情事。]、忘《わすれ》やらず、『何とぞ、今一度《いまひとたび》、逢見《あひみ》る事も。』と、朝夕《あさゆふ》、願《ねがひ》しが、此春風は、御身《おんみ》の心を慰めて、常に添寢《そひね》の中《なか》[やぶちゃん注:「仲」と]也と仄聞《そくぶん》たる故《ゆゑ》[やぶちゃん注:噂で聴いておりましたから。]、皮肉の內に分入《わけいり》て、執着を晴《はら》すべし[やぶちゃん注:かなり捩じれた評言で]と思附《おもひつき》たる甲斐、有りて、今の逢瀨《あふせ》の嬉しさよ。吾夫《わざをつと》は、江戶に下りて、獨り寢の、只《ただ》さへ長き秋の夜《よ》を。」
と、傳治郞に抱附く。
[やぶちゃん注:この台詞は、非常に凝った構造を持っているので、細心の注意が必要である。これは、一見、春風の語りのように見せかけつつ、実は、瘧神の女の語りへと、漸次、中間部で台詞が、二者の混淆が生じ、異様なメタモルフォーゼしているものなのである。そのコペルニクス的転回点のポイントは、「此春風は」である。これは、春風自身の一人称の言葉では――ない――のである! 既にして――女瘧神の言う三人称としての「この恨めしき春風は」という嫉視を強く含んだそれ――なのである。この台詞を、現代語訳してみよう。
*
「さても……不思議な縁(えにし)にて……かの過ぎ去った……あの夜(よる)の……情事が……忘れられぬ!……『どうか、何卒(なにとぞ)、今、一たび、逢い見ること、ありかし!……』と、朝夕、願いておりましたが……この「春風」という女は……『あなたさまの、み心を慰めて、添い寝する、しっぽりとした仲の女だ。』と、世間で噂されていることを、ちらと、聴いてしまったから……この憎(にっ)くき遊び女(め)の皮肉の間(あいだ)に分け入って……やすやすと潜り込み……妾(わらわ)の……あなたさまへの……こんな女とは違って……はるかに強い私の愛着(あいじゃく)を晴らさんと思いついたのです……その甲斐が、見事に成就致しました!……今、私(わたくし)とあなたさまとの逢う瀬を得た嬉しさよ!……私の夫は江戸に下って、私は、ただでさえ、独り寝をかこっておりましたのです! この長い秋の夜を!……」
*
である。而して、もう、多くの方は判っておられるであろうから、謂わずもがなではあるのだが、まず、これは――知られた「源氏物語」の第九帖「葵」で、源氏が、葵の見舞いに来た折り、病床で語る葵の上の言葉が、実は御息所の物の怪の語りであったという戦慄のクライマックスのシークエンスを見事にインスパイアにしたものに他ならない――と断定してよいのである。]
始《はじめ》の程は、
『熱に犯されて、根なし事、口走るか。』
と思《おもひ》しが、聞每《きくごと》に、心に覺《おぼえ》の有《あり》けるにぞ、何と答るよしも無く、物をも、いはで、居《をり》たりしが、
『所詮《しよせん》、彼《かれ》が心に、まかせ、飽迄《あくまで》交合《まじはり》せば、執着《しうぢやく》も、晴《はれ》ぬべし。』
と、一決《いつけつ》し、夜半《やはん》の下紐《したひも》、解け合《あひ》けり。
然《しか》るに、此傳治郞、精水不漏《せいすいふろう》の術《じゆつ》を得たりければ、終夜、交《まぢは》れ共《ども》、冐子《ぼうし》、凋事《おとろふこと》、なかりけり。
[やぶちゃん注:「精水不漏の術」射精を、自身の意志でしないようにする閨房術。「冐子」見かけない熟語であるが、「冐」には「露わにする・曝け出す」の意があるので、「子」は「精子」を指し、エレクトを持続しつつ、しかも射精をせずに持続することを指しているものと読める。]
病者、悅び、うなれ[やぶちゃん注:「唸れ」。]共《ども》、熱の强《つよき》にや、とて、更に疑ふ者《こと》なし。[やぶちゃん注:「者」には、特定の事柄を指す「こと」の意がある。]後には、疫神も弱り果て、
「免《ゆる》せ、免せ。」
と、わぶるにぞ、傳治郞、漸《やうや》く、手を放《はな》ち、別れ別《わまれ》に成《なり》ける。
春風、目を覺《さま》し、元の正氣《しやうき》に立歸《たちかへ》り、
「さても。怖敷《おそろしき》夢を、見たり。」
とて、白湯《さゆ》など呑《のむ》に、傳治郞、
「瘧は、必《かならず》、落《おち》たれば、心安し。跡《あと》の療養こそ、肝要なれ。」
と云《いふ》に、春風、其謂《そおいはれ》を、問ふ。
傳治郞、白地《あからさま》にも云兼《いひかね》て、
「家《いへ》の祕法にて、發熱して前後を知《しら》ざる時、咒《まじなひ》を、なしたれば。」
とぞ、答《こたへ》ける。
果して、瘧は落《おち》たり。
是より、婦人の瘧を煩ふ者、賴《たのみ》ければ、四方に屛風《びやうぶ》を立廻《たてめぐら》させ、人の出入を禁じて、此《この》傳《でん》を行ひけり。
男子には、吾《わが》家札《いへふだ》を張らせけるに、皆、落《おち》けり。
此年《このとし》、江戶には、熱病、大《おほい》に流行し、人、多く、死《しに》ける。
故有《ゆゑあり》て、深川の水屋淸七と云《いふ》者に、疫神、
「恩を請《うけ》たり。」
とて、彼《かの》名札《なふだ》を張置《はりお》く家には、疫癘《えきれい》[やぶちゃん注:流行性の質(たち)の悪い病気。「疫病」に同じ。]なかりし、とぞ。
彼《かの》鬼女《きぢよ》の云《いひ》ぬる事、符節《ふせつ》を合せたるが如し。[やぶちゃん注:「符節を合せたるが如し」「割符(わりふ)を合わせたように、必ず、見事に実現した。」の意。]
「美男子には非ざれ共《ども》、疫病神に迄《まで》、戀慕《こひした》はれしは、此《この》傳治郞成《なり》。」
とて、自讃しての物語り也、云云《うんぬん》。
[やぶちゃん注:「瘧神」「瘧」は、熱性マラリア(ドイツ語:Malaria/英語:malaria/語源は「悪い空気」を意味する古イタリア語の“mala aria”に基づく)のこと。マラリア原虫(真核生物ドメインアルベオラータ上門Alveolataアピコンプレックス門 Apicomplexa無コノイド綱 Aconoidasida住血胞子虫目 Haemosporidaプラスモジウム科 Plasmodiidaeプラスモジウム属 Plasmodium )(約二百種)のうち、少なくとも、十種がヒトに感染する。ハマダラカ(羽斑蚊・翅斑蚊=双翅(ハエ)目カ(長角・糸角)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科 Anophelini 族ハマダラカ属 Anopheles 。約四百六十種が知られている内、凡そ百種がヒトにマラリアを媒介させることが可能とされる)の♀が媒介するマラリア原虫が病原体であり、原虫の違いにより「熱帯熱マラリア」(一般にマラリア原虫をヒトに媒介しているのは、そのうちの三十 から四十種とされ、ハマダラカで最も知られている種は、マラリア原虫の中でも、最も悪性である熱帯熱マラリア原虫( Plasmodium falciparum )を媒介するガンビエハマダラカ( Anopheles gambiae )である。)・「三日熱マラリア」・「四日熱マラリア」・「卵形マラリア」・「サルマラリア」の五種類に大別される。当該ウィキの「日本」から、まず、引く。『1903年(明治36年)時には全国で年間20万人の土着マラリア患者があったが、その後は急速に減少し、1920年(大正9年)には9万人、1935年(昭和10年)には5,000人に激減している。第二次世界大戦中・戦後に復員者による一時的急増があったが、減少傾向は続き、1959年に滋賀県彦根市の事例を最後に土着マラリア患者は消滅した』。『しかし、『現在も海外から帰国した人が感染した例(いわゆる輸入感染症)が年間100例以上ある。また、熱帯熱マラリアが増加傾向にある。現在第4類感染症に指定されており、診断した医師は7日以内に保健所に届け出る必要がある』。『日本もマラリア対策に協力しており、その一つに伝統的な蚊帳づくりがある』。以下、「日本におけるマラリア」の項。『日本では、1903年時に全国で年間20万人のマラリア患者があったが、1920年には9万人、1935年には5,000人へと激減し、戦中・戦後の混乱期にもかかわらず減少を続け、1959年に滋賀県彦根市の事例を最後に土着マラリア患者が消滅している』。『沖縄県ではアメリカ統治下の1962年に消滅した』。『日本の古文献では、しばしば瘧(おこり)・瘧病(おこりやまい/ぎゃくびょう)と称される疫病が登場するが、今日におけるマラリアであると考えられている。養老律令の医疾令では、典薬寮に瘧の薬を備えておく規定がある』。『『和名類聚抄』には別名として「和良波夜美(わらわやみ)」「衣夜美(えやみ)」が記載されている(アーサー・ウェイリー訳ではague「マラリア」と訳してある)。前者は童(子供)の病気、後者は疫病の意味であると考えられている。『源氏物語』の「若紫」の巻では光源氏が瘧を病んで加持(かじ)のために北山を訪れ、通りかかった家で密かに恋焦がれる藤壺(23歳)の面影を持つ少女(後の紫の上)を垣間見る設定になっている。『御堂関白記』『日本紀略』には東宮敦良親王が寛仁2年(1018年)8月に瘧病を病んだとの記述があり、天台座主慶円の加持を受けたことが分かる』。『中世日本においてマラリアはありふれた病気であり』、平清盛、『九条兼実、藤原定家、夢窓疎石といった人物が発病している他、『言継卿記』には』、『作者山科言継の妻、南向が病んだ「わらはやみ」について詳しい記録がある』。『近代以前には西日本の低湿地帯において流行がみられた。歌舞伎の『助六由縁江戸』の口上は「いかさまナァ、この五丁町へ脛を踏ん込む野郎めらは、おれが名を聞いておけ。まず第一、瘧が落ちる(熱病が治る)…」である。江戸時代の川柳の題材としてもしばしば用いられていた』。『20世紀に沈静化した』とする。最後に。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。]
[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。]
「淸水御櫓《しみづおやぐら》の奇《き》」 安倍郡府中御城に有り。「駿府雜談」云《いはく》、
「今は昔、駿府御城內に淸水櫓と云《いふ》御櫓あり。此御櫓より、江尻・淸水の邊《あたり》、目の下に見ゆる故、『淸水櫓』と云《いふ》とかや。此御櫓、
『三重《さんじゆう》めの板敷《いたじき》を、釘を以《もつ》て張る時は、必《かならず》、破壞す。』
と云傳《いひつた》ふ。
故に、只、板を竝べ置く事とかや。
『然《しか》れ共《ども》、其事實を知る者、なし。』
と、在番の健士《けんし》大久保某《なにがし》の物語り也。云云。
[やぶちゃん注:「江尻・淸水」これは、櫓の上から見えるという以上、それぞれ、当時の「旧江尻城」及び「旧清水袋城」(単に「袋城」「清水城」とも呼称した)の旧跡周辺を指しているものと思われる。ここである(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキに拠れば、江尻城は、永禄一三(一五七〇)年に甲斐国の武田氏により築城されたが、『武田氏滅亡後は徳川氏の勢力下になり、徳川氏の庇護を受けた穴山勝千代(信治)が城代となるが、勝千代の夭折により』慶長六(一六〇一)年『に廃城になった』とあり、一方の清水(袋)城は、個人サイトと思われる「綺陽堂」の「袋城」のページに、「武田三代記」では、永禄一二(一五六九)年、本「駿國雜志」『では』同一三年『に、武田信玄の下命で馬場美濃守信春が縄張り・築城したとされる』とし、『武田氏が滅亡すると、駿河の武田水軍は徳川氏に継承されたが、袋城の詳しい扱いについては定かでない。ただし、城自体はその後も存続していたようで、慶長』一九(一六一四)年『に駿府城の大御所となっていた徳川家康の命によって廃城となった。城跡は堀を埋めて清水の町場とされ、今日に至っている』とあった。
「健士」ここは、特に武勇に優れた武士の意。]
[やぶちゃん注:底本はここ。やや長いので、段落を成形し、句読点・記号を補塡した。]
「燈明榎《とうみやうえのき》の怪《くわい》」 安倍郡府中御城に有り。「駿府雜談」云《いはく》、
『今は昔、駿府御城內東小屋に、「燈明榎」とて、大木、有り。木の廻《めぐ》り、十圍《とかかへ》計りにして、二本に成り、生茂《おひしげ》りけるが、如何《いかが》しけん、一木《いちぼく》は枯《かれ》にけり。
其木《そのき》、朽《くち》て、大成《おほきな》る虛《うつ》ろ、在り。
何《いつ》の頃にか有《あり》けん、一歲《ひととせ》、六、七月の間《あひだ》、此《この》虛穴《うつろ》より、夜々《よなよな》、金色《こんじき》の光、さし輝きけり。
皆人《みなひと》、怪《あやし》みしを、或《ある》者、見出《みいだ》してより、日每《ひごと》に、大勢、集り、數千《すせん》の玉蟲《たまむし》を取得《とりえ》たり。
是より、彼《かの》光明《こうみやう》は消失《きえうせ》たり。
それより、四、五日もすぎて、亦、光明を發する事、每夜也。
此度《このたび》は、玉蟲には非《あら》ずして、
「大《だい》の法師《ほふし》の黑染《くろぞめ》の衣《ころも》を着《き》、菅笠《すげがさ》を被《かぶ》りて、燈明の油《あぶら》を吸《すふ》。」
と、流說《りうせつ》するに、違《たが》はず。
宿老《しゆくらう》、評議して、
「御番衆《ごばんしゆ》織田某《なにがし》は、力量、衆《しゆ》に越え、心《こころ》、剛《かう》なれば。」
迚《とて》、
「變化退治《へんげたいぢ》の將《しやう》。」
と定む。
織田、悅び、
「生捕《いけどり》て、高名《かうみやう》せん。」
と、只一人《ただひとり》、東小屋《ひがしごや》に立向《たちむか》ひ、彼《かの》榎を見渡せば、聞《きき》しに違《たが》はず、光明を發し、大の法師、菅笠に顏《かほ》さし入《いれ》て彳《たたずみ》たり。
織田、
「つかつか」
と、側《かたはら》により、
「得たり。」
と、組付《くみつく》に、動かず、腰の太さ、手も廻《まは》らず。
組伏《くみふさ》んとするに、其强き事、譬《たちへ》るに、物、なし。
兼《かね》て用意の早繩《はやなは》を取り出《いだ》し、十重二十重《とへふたへ》に繩《くく》り付《つけ》、大音《だいおん》あげ、
「先祖平の忠盛、祇園行幸《ぎをんぎやうかう》の例《ためし》に倣《なら》ひ、燈明榎の大法師を、織田某《それがし》、生捕《いけどり》たり。」
と呼《よば》はれば、東小屋に有合《ありあふ》者共、
「劣《おと》らじ。」
と缺付《かけつき》て、前後左右より、取卷き、押せども、動かず。
人々、不審に思ひ、挑燈《てうちん》にて、すかし見れば、榎の切口《きりくち》に、下男《げなん》の麻看板《あさかんばん》を掛《かけ》たる也。
餘りの事に、興《きやう》、さめて、彼《かの》看板を取除《とりの》れば、土器《かはらけ》に、油《あぶら》、さし、燈《ともし》附《つけ》て、虛《うつろ》に入れ、雨よけに、上より、古菅笠《ふるすげがさ》を覆《おほひ》たり。此《この》麁服《そふく》は、風よけに張《はり》けるなりけん。
何者の仕業《しわざ》にや、知る者、更に、なかりき。
やがて、
「此度《このたび》の褒賞《はうしやう》。」
迚、彼《かの》菅笠を、織田に贈られしが、終《つひ》に、家《いへ》の重器《ぢゆうき》と成《なり》ける。
「其榎も、今に朽《くち》ずして、『燈明榎』と呼《よぶ》也。」
と、府中の道具屋惣兵衞と云《いふ》者の語りし也。云云《うんぬん》。
[やぶちゃん注:「榎」双子葉植物綱バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis 。小学館「日本大百科全書」に拠れば、『本州、四国、九州の低地に生え、朝鮮、中国南部、インドシナに分布する。名は』、『餌(えさ)の木の意味ではないか』、『といわれ、榎と書くのは、道端に茂って木陰をつくることから、夏の木の意味の』国字『である』とし、また、『植物学者前川文夫博士の説によれば、この木は古くは』、『神の木として信仰の対象にされ、神が降下するという長野県諏訪』『明神のタタイ木は、元来』、『エノキであり、その名はタタイノキ→タタエノキ→エノキと変化したとする。またかつては道路の一里塚や屋敷の北西に植えられたが、これらも神木であった名残(なごり)で、東京都板橋区本町にある「縁切榎(えんきりえのき)」もその変形とする。『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』に名がみえ、『万葉集』にも1首詠まれている。』とある。但し、諏訪神社の『タタイ木』というのは、現在の同神社が正式に認めている呼称ではない。
「玉蟲」鞘翅(コウチュウ・甲虫)目多食(カブトムシ)亜目Elateriformia下目タマムシ(玉虫)上科タマムシ科ルリタマムシ(瑠璃玉虫)属タマムシ Chrysochroa fulgidissima 。
「宿老」「宿德老成の人」の意。本来は「十分に経験を積んだ老人」を広く指す語であるが、そこから転じて、「古参の臣」や「家老」等の重職の地位に就く者の称となった。参照した当該ウィキに拠れば、『江戸時代では』、『幕府における老中や諸大名家に』於ける『家老を指す称として用いられた』とある。
「御番衆」「番」を編成して宿直警固に当たる者たちを指す。
「得たり」この場合は感動詞で、一般的に「と」を伴って用いる。小学館「日本国語大辞典」によれば、『物事が自分の思う通りにうまくいったと思われるときに発することば。しめた』! の意。
「早繩」小学館「日本国語大辞典」に、『人を捕えた時に手早く縛るようにたずさえている縄。捕縄(とりなわ)。』とある。
「麻看板」武家の中間(ちゅうげん)や小者(こもの)などが、お仕着せとして貰った麻製の短い衣類で、その背に主家の紋所などを染め出したもの。
「虛《うつろ》」「洞(ほら)」と同義で、老大木の根元や大木の朽木などにある、中のうつろな穴を言っている。
「麁服」粗末な衣服、布地の粗悪な服のこと。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。本文は千七百二十八字であるに対し、注は実に、三万九千七百六十四字になってしまった。恐らく、ブログ一記事では、空前の最大注となった。]
淸國
日本水產圖說中卷
輸出
河 原 田 盛 美 撰
(五)鱶鰭(ふかひれ)の說
鱶鰭は、鯊(ふか)の鰭を乾製(かんせ)したるものなり。此魚(このうを)は軟骨魚類にして、九州にては『ふか』、東國にては『さめ』といふ。『さめ』と『ふか』とは、別物なれども、槪(おほむ)ね、混稱(こんしやう)す。『ふか』には、種類、多く、今、「水族志」に載する所、三十五種あり。『めじろふか』【此ものは、伊勢にて『むぎはらさめ』、紀伊長島にて『いらざめ』、同國九木浦《くきうら》にて『あぶらざめ』、淡路にて『つのこ』、紀伊熊野にて『つまりぶか』といふ。是、「雨航雜錄」「漳州府志」等の『白鯊』《ハクサ》なり。】)、曰く、『ほしざめ』【一名、『かすごろう[やぶちゃん注:ママ。]』。】、曰く、『くろぼし』【一名、『ほしざめ』。】、『ちからざめ』【一名、『ほうずぶか[やぶちゃん注:ママ。]】、曰く、『しろぶか』、曰く、『めじろぶか』【一名、『まいらぎ』、又、『だれ』といふ。漢名、『白眼鯊《ハクガンサ》』。】、曰く、『つのじ』【一名、『つの』、又、『はりさめ』・『つのさめ』。漢名「寧波府志」の『剌鯊《シサ》』。】、曰く、『ぎんさめ』【一名、『ぎんぶか』、又、『はたざめ』・『つのじ』ともいふ。「福州府志」の『劍鯊《ケンサ》』。】、曰く『てんぐふか』【一名、『てんぐさめ』、又、『はたざめ』といふ。】、曰く、『はたざめ』【一名、『てんかひざめ』。漢名、「黑鯊《コクサ》」。】、曰く、『こつうを』【一名『さがぼり』。漢名、『燕尾鯊《エンビサ》』。】、曰く、『かつたひざめ』、曰く、『うばざめ』【一名、『うはぶか』、又、『うさめ』】、曰く、『いつちやう』、曰く、『しゆもくぶか』【一名、『しもくざめ』、又、『かぜふかいてうさめ』。漢名は「閩書《びんしよ》」の『雙髻鯊《サウキツサ》』。】、曰く、『もだま』【大なるを、『いなき』といふ。漢名『魚鮠《ギヨグワイ》』。】、曰く、『おきむば』【一名、『なぬかぶか』、伊勢にて『あぶらこ』、尾張にて『のうくり』、備後因島《いんのしま》にて『お〻ぜ』。「臺灣府志」に云《いはく》、『龍文《りゆうもん》、沙《さ》にして、最佳《さいか》にして、其翅《そのひれ[やぶちゃん注:魚であるので「はね」ではなく、「ひれ」と読んだ。或いは、「はね」と読んでいるかも知れない。]》、尤《もつとも》、美なり。』とす。】、曰く、『おふぜ』【一名、『どぜうざめ』、又、紀伊熊野にて『したち』、『熨斗鯊《のしぶか》』ともいふ。】、曰く『しヽむしやう』、曰く、『さヾいわり』【一名、『ころざめ』、又、紀伊若山にて『ねこざめ』、筑前福間浦《ふくまうら》にて『かねうち』、漢名『虎頭鯊《コトウサ》』。)】、曰く、『なでぶか』【一名『みづいらき』、又、『ひれなか』。】、曰く、『水ぶか』、曰く、『鼠《ねずみ》ざめ』、曰く、『おろか』、曰く『すねぶか』、曰く、『つまりぶか』、曰く、『からす』、曰く、『とがり』、曰く、『たちをざめ』【一名、『はりざめ』、又、『しらざめ』、漢名、「臺灣府志」の『鋸鯊《キヨサ》』。】、曰く、『ゑびざめ』【一名『ゑびぶか』、漢名「廣東通志」の『蝦錯《カサク》』。】、曰く、『ひらかしら』、曰く、『かつたひうちは』【一名、『うちは』、又、『こふたゑひねこ』等なり。】、曰く、『うちはざめ』、曰く、『のこぎりぶか』(漢名は「廣東名勝志」の『鋸鯊《キヨサ》』)、『さかたぶか』【一名、『かいめ』、又、『すきのさき』・『すきゑひ』、漢名、「閩書」の『犁頭鯊《リトウサ》』。】等なり。亦、東國にて鱶を採り、製するものは、『靑(あを)ざめ』・『目白(めじろ)ざめ』【『まめじろ』・『つまり』・『とがり』・『ひらかしら』・『へら』等の別あり。漢名、「寧波府志」の『白眼鯊《ハクガンサ》』。】、『ばげ』、『尾長(をなが)』、『尾羽毛(をぞけ)』、『星鮫(ほしざめ)』、『白鮫(しろざめ)』【漢名、「寧波府志」の『鮧鯊《イサ》』。】、『姥鮫(うばざめ)』、『四ツ目ざめ』、『いらぎ』、『かせざめ』、『みすざめ』、『しゆもくざめ』(漢名『閔書』の『雙馨戴』)、『ふしきり』等(とう)なり。
[やぶちゃん注:「鱶鰭」ウィキの「ふかひれ」に拠れば(注記号はカットした。下線・太字は私が附した)、『大型のサメ(鱶)のひれ(鰭)(主に尾びれや背びれ部分)を乾燥させた中華料理の食材。中国語では「魚翅」』(ユイチー:yúchì)『と言う』。『中国で』、『ふかひれが食べられだしたのは』、『明の時代と言われている。潮州料理など、中華料理の高級食材として利用される。ほぐれた状態のふかひれをスープや点心の具として使うほか、ヒレの形のまま煮込む料理などがある。ジンベエザメ』(軟骨魚綱テンジクザメ目ジンベエザメ科ジンベエザメ属ジンベエザメ Rhincodon typus )『、ウバザメ』(ネズミザメ目ウバザメ科ウバザメ属ウバザメ Cetorhinus maximus )『のものが最も高級とされ、アオザメ』(ネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus )『、イタチザメ』(メジロザメ目イタチザメ科イタチザメ属イタチザメ Galeocerdo cuvier )『などのものも高級である。一般的には、ヨシキリザメ』(メジロザメ目メジロザメ科ヨシキリザメ属ヨシキリザメ Prionace glauca )『のものが使用されることが多い』。『日本は世界有数のふかひれ生産国であり、江戸時代にはナマコ、アワビと共に中国(明、清)へ輸出されていたが、近年ではシンガポールやインドネシアの生産量の方が上回っている。日本では気仙沼の水揚げが最も多いが、この多くはマグロ延縄漁業の際に釣れたサメからとられたものである。日本の気仙沼産が有名で且つ高級品として扱われるのは、加工技術が優れているためと言われる』。以下、「乾燥品の製法」の項。『生のふかひれを茹でるか』、『鉄板で加熱してから、表面の鮫肌をブラシでこすり』、『取り除く。油脂分を落とし天日干しにして、乾燥品が完成する。皮付きのまま乾燥にした加工品もある』。以下、「調理法」の項。『調理する際は、乾燥したふかひれをまずネギやショウガとともに茹で、さらに蒸した上で皮を剥き、水にさらす。このように下処理をしてから上手に煮込むと』、『臭みが消え、軟骨魚特有の柔らかなゼラチン質の食感が楽しめる珍味となる。ふかひれ自体に』は『味は』、『ほとんどない』。以下、「種類」の項。『ふかひれは』、『形状と大きさにより』、『価格が大きく異なる。形状により』、『味が異なるわけではないが、一般的には元のヒレの形を保ったふかひれが高級品とされている。これは排翅』(パイチー:páichì:より狭義のフカヒレの姿、特にヒレの形をそのまま残した状態のフカヒレを指す中国語である。)『の入手が困難である理由と、形状が保たれている排翅の方が加工済みの魚翅より品質を見極めやすい理由による』。『散翅(サンチー, sǎnchì)』は『最初からバラバラにほぐれたヒレ。缶詰やレトルトパックでも販売されており、一番安価で手ごろに食べられる』。『魚翅(ユイチー, yúchì)』は『中国語でのふかひれの総称。または手のひら程度の小ぶりの物や、一本一本バラバラにほぐれた散翅を指すこともある。基本的にスープとして提供される。主に胸びれが使われる。排翅と比べると値段は安い』。『排翅(パイチー, páichì)』は『 扇のような形状を保った丸ごとの大ぶりなヒレ。基本的に姿煮として提供される。主に背びれと尾びれが使われる。大きさ・形・厚さで値段が大きく変わる』。『天九翅(ティェンジュウチー, tiānjiǔchì)』。『最高級品』で、『ジンベエザメとウバザメの背びれのみ』が『天九翅になる。一本ずつの繊維が』、『モヤシより太い。ジンベエザメとウバザメは捕獲と取引が国際的に規制されているため、天九翅は稀少である。特に形の良い天九翅は、しばしば』、『料理店の権威を表』わ『す店頭ディスプレイとして展示される』とある。以下、「人工ふかひれ」・「贅沢品としての規制」・「原材料となるサメを保護する動き」の項があるが、これは現代の問題であるので、各自で見られたい。
「鯊(ふか)」漢字は誤りではない。「鯊」は本邦では、通常、「はぜ」(=脊索動物門脊椎動物亜門条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科 Gobiidaeの類の総称)と読むことが一般的であるが、漢語としては、第二義で「さめ」(無論、和語)、或いは、「ふか」(=サメ類(軟骨魚綱板鰓亜綱 Elasmobranchii)の特に大きいものの俗称だが、「さめ」と同義としても用いるケースは多い。学術的な言い分けではない。その証拠に、以下の解説中に四~六メートルにもなるシュモクザメ(本邦には三種棲息する)が出ている)を指す。
『「水族志」に載する所、三十五種あり』私はブログ・カテゴリ『畔田翠山「水族志」』を作っている。その初回、『カテゴリ 畔田翠山「水族志」 創始 / (二四六) クラゲ 《リロード》』を見られたい。原文を活字化するのが、手作業であるため、この二年程、御無沙汰しているが、そろそろ再起動しないといけない、とは思っている。その底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所は、ここの「○第六編 鯊魚類」の冒頭の「フカ」以下である。そこに同プロジェクトが進むのは、かなり先になるので、この際、必要な箇所を、概ね、電子化することとした。結果して、★有意に迂遠に長大な電子化注★となってしまった。何故か?
実は――大きな問題が以下に横たわっているから――である!
✕河原田氏は以下に続く部分に於いて正に以上の「水族志」の記載にまるまる則って「ふか」の種の名前を列挙して異名及びその採取した地方・地名も――ソノマンマで全く以って無批判に引用している(全部ではない。また、凡そ鱶鰭にならない種まで含まれており、選択基準もワケワカランである!)――という驚天動地の事実✕
なのである! 仕方がない。以下、蜿蜒と各個撃破してゆくことにする。なお、畔田は、総論の後の、フカ類の各論の冒頭で、ズバり(右丁九行目)、
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㋑フカ 一名ムギハラザメ【勢州土師】イラザメ【熊野長島】アブラザメ【同上矢口浦九木浦】ツノコ【淡州都志浦】ツマリブカ【熊野】白(シロ)ブカ【大和本草】白蒲鯊【兩航雜錄寧波府志作白鯊】漳州府志ニ白鯊刮ㇾ皮翦作ㇾ鱠ト云即此也此魚五月麥稈ノ黃變時多ク出故ニ「ムギワラザメ[やぶちゃん注:「ワラ」はママ。以下同じ。]」と云勢州人敎善云「ムギワラザメ」ニヨウ[やぶちゃん注:ママ。「醉(よ)ふ」。]ト云者背骨ノ中心空虛ナル內ニ付着セリ故ニ諺ニ「サメ」ヲ食トモヨウヨヲ食[やぶちゃん注:「くふ」。]事ナカレト云此魚背骨管ノ如シ內ニ燈心ノ如キ軟白肉ヲ小竹枝ニテ突ヌキ去ベシ此ヲ食シレバ臭氣アリテ味不ㇾ美本草啓蒙[やぶちゃん注:小野蘭山の「本草綱目啓蒙」のこと。]曰長サ二三尺細沙アリ灰白色味尤美ナリ齒モ沙ノ如クメウガ介ニ似テ極テ細カナリ按[やぶちゃん注:「あんずるに」。]「フカ」ハ背ハ灰白色ニ乄淡紅色ヲ帶腹淡白色五六尺ニ及ブ者アリ大和本草曰白ブカ味尤美ナリ
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とあり、これは次の「メジロザメ」類、或いは、メジロザメを指していると考えてよい。
「めじろふか」軟骨魚綱メジロザメ(目白鮫)目メジロザメ科メジロザメ属Carcharhinusに属する十四種の総称で、特に名にし負う種は、メジロザメ(別名ヤジブカ:こちらを正式和名とする記載もあるが、「BISMaL」が『メジロザメ/ヤジブカ』とするのに従った。後者の由来は、調べた限りでは、「親父鱶(おやじぶか)」の縮約のようである) Carcharhinus plumbeus 。平凡社「世界大百科事典」の「メジロザメ(目白鮫)」を引く。『メジロザメ requiem shark∥grey shark』は『メジロザメ目メジロザメ科メジロザメ属の海産魚の総称。眼が白っぽい瞬膜(しゆんまく)におおわれることに由来した名称。メジロザメ属には100種以上の種の記載があるが,最近』、『整理されて30種が世界に分布することがわかった。日本産魚名リストによれば,日本近海にはハナザメ Carcharhinus brevipinna ,スミツキザメ C. dussumieri ,クロトガリザメ C. falciformis ,ヨゴレザメ C. longimanus ,ツマグロ C. melanopterus ,ヤジブカ(メジロザメ)C. plumbeus ,ホウライザメ C. sorrah など15種が分布する。このうち,クロトガリザメ,ヨゴレザメ,ヤジブカはほぼ全世界の暖海に生息し,ハナザメは東部太平洋以外の全世界の暖海に,スミツキザメ,ツマグロ,ホウライザメはインド太平洋域の暖海に分布する。大きさはスミツキザメが1m,ホウライザメが1.5mほどの小型種であるが,残りは2~3mになる』。『典型的なサメ型をしていて,瞬膜をもつこと,上顎歯』『の縁辺が』、『のこぎり状であるのが』、『特徴。クロトガリとヨゴレザメの2種は外洋性だが,他は沿岸性もしくは浅海性。卵黄の臥胎盤をもつ胎生で,ヤジブカの例では分鞄期は初夏,妊娠期間はほぼ1年。スミツキザメは2尾の胎児しかないが,他は平均5~6尾の胎児をもつ。マグロ』延縄『や底引網で漁獲され,肉は練製品の原料に,ひれは』、『ふかひれスープの材料となる』とある。
「めじろふか」既注のメジロザメの異名。
「伊勢にて『むぎはらさめ』」サイト「美味求真」の「第八章 魚類篇」の「鮫(さめ)」の「白鮫」に、『鮫の中で大きさが最も小さいものである。麦が熟する頃に漁獲が増えるのでムギワラザメという別名もある』とあった。さても、最小という謂いからには、これは「メジロザメ」の異名というのは、誤りであり、これは文字通りの、
メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus
である。当該ウィキに拠れば(注記号はカットした)、『地方名はノウソ、マノクリ。全長1 m。日本を含め、アジア沿岸海域で普通に見られる比較的小型の底生性のサメである。肉や鰭は食用になる』。『北西太平洋の熱帯から温帯海域(北緯11度』から『40度)に分布する。北海道以南の日本各地および朝鮮半島、中国、台湾、ベトナムにかけて、東シナ海・南シナ海沿岸の海底付近に生息する。砂泥質の海底を好む。生息水深帯は、浅海から水深2,000mを超える深海まで』。『最大全長101cm。体型は細長い流線形。体色は背側が灰色から褐色、腹側は白色である。ホシザメ M. manazo によく似ているが、シロザメには体表に小白斑が見られないことで区別できる。歯の形状は敷石状』。『主に底生性の無脊椎動物を捕食するが、とくに甲殻類を好み、とりわけカニ類を主食としている。甲殻類では他にエビ類、ヤドカリ類、シャコ類などが餌生物として含まれ、甲殻類以外ではゴカイなどの多毛類の比率が高い』。『胎生。胎盤を形成し、胎仔は母親から直接栄養を供給されて育つ。妊娠期間は約10ヶ月で、雌は全長28-30cmの子どもを2-20尾』、『産む』。『延縄、刺し網、底引き網、定置網などで漁獲される。肉や鰭は食用として高値で取引される。肉は生食用や練り物原料になり、鰭はフカヒレに加工される』。『人には危害を加えない。飼育にも適しており、水族館などでよく展示される』とあった。
「紀伊長島」旧三重県北牟婁郡紀伊長島町(きいながしまちょう)で(旧町域はウィキの「紀伊長島町」の地図を参照)、現在の三重県北牟婁郡紀北町(きほくちょう:グーグル・マップ・データ。以下、今まで通りで、無指示の場合は同じ)の長島地区である。「ひなたGIS」の戦前の地図で「長島町」が確認出来る。
「いらざめ」これもメジロザメではないと思われる。これは、
ネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ(青鮫)属アオザメ Isurus oxyrinchus
であろう。何時もの「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「地方名・市場名」に、『イラザメ』とある。但し、その地方名は『和歌山県辰ヶ浜』(文献よりとする。この附近)で、長島町は、紀伊半島の東の対称位置で大きな隔たりがあるものの、個人的には、そこでも、同種を指しているものと私は判断する。「イラザメ」の語源は不詳。万一、旧紀伊長島町でシロザメの異名とするということを知っておられる方は、お教え戴きたい。
「同國九木浦」戦国時代の九鬼水軍で知られる尾鷲市九鬼(くき)町九鬼湾の、ほぼ中央北岸に位置する。ここ。
「あぶらざめ」アオザメの異名としては、確認出来ない。「あぶらざめ」と呼称されるものに、ツノザメ上目ツノザメ目ツノザメ科ツノザメ属アブラツノザメ Squalus suckleyi がいるが、同種は太平洋側では相模湾以北にしか棲息しないので、違う。
「つのこ」アオザメの異名としては、確認出来ない。これは、単純に考えると、「ツノザメの子」と読め、ツノザメ目 Squaliformesツノザメ科 Squalidae のツノザメ類は二属三十二種がいるが、本邦で知られる種は、
ツノザメ属アブラツノザメ Squalus suckleyi
が、最も知られる種ではある。しかも、前の異名「あぶらざめ」とも親和性がある。当該ウィキに拠れば(下線・太字は私が附した)、『サメ類のなかでは美味な種の一つとして、食用とされて』おり、『日本では』、『東北を中心にムキサメと呼んで切り身が販売され、煮付けや照り焼き、フライや唐揚げなどにも使われるほか、頭や卵など多くの部位が食用となる。魚肉練り製品原料や安価なフカヒレとしても利用される。 青森県の津軽地方には、煮込んだ頭からほぐした肉と軟骨を、大根おろしや味噌で和える「すくめ」という郷土料理がある』。『和名が示すように魚油が多く得られ、大正期から戦後にかけて肝油の原料とされた。1950年頃まで国際的にビタミンAの原料として漁獲量が急増したが、合成技術の発達により10年ほどで急減した。 現在は軟骨エキスなどサプリメントや化粧品の原料として需要がある』。『初期は魚粕肥料としての需要が中心で、現在はペットフードや観賞魚用の餌、魚粉の材料としても用いられている』。『本種は丈夫な種である為、水族館や実験施設などでも飼育され、教育用の解剖素材にも利用される』とあるのだが、以上の記載から推定出来るように、棲息域は『日本海以北、太平洋側では相模湾以北。ベーリング海』(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「生息域」より引用)であり、』『淡路』島周辺には棲息しないから、畔田の言うのは、本種ではない。ただ、「つのこ」を「角(つの)の魚(こ)」と解釈すると、頭部先端が「尖(とん)がる魚」の意にも採れ、そうすると、アオザメの異名としては、しっくりくるようには思われは、する。
「紀伊熊野」アオザメがいても、問題はない。
「つまりぶか」現行のアオザメは勿論、サメ類の異名としては、確認出来ない。
「雨航雜錄」明代後期の文人馮時可(ひょうじか)が撰した雑文集。魚類の漢名典拠としてよく用いられる。四庫全書に含まれている。
「漳州府志」原型は、明代の文人で、福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは、清の乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。
「ほしざめ」これは、
メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ(星鮫)属ホシザメ Mustelus manazo
である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページに拠れば、和名は『白い星状の斑文が目立つため』とある。
「かすごろう」ママ注記は「ごろう」は「五郞」であろうと踏んだからだが、「水族志」で確認したところ、畔田は、ちゃんと『カスゴラウ』としていたので(ここの左丁の六行目)、河原田氏の誤記である。ホシザメの面付きは、侠客のような鋭さであるから、しっくりくるネーミングではある。白い斑紋点が散らばる(「滓(かす)」)のと、親和性はある異名として納得は出来るが、この異名は確認出来なかった。しかも、次の注を見よ。
「『くろぼし』【一名、『ほしざめ』。】」こっちが、正統なホシザメということになるのだが、そもそも、この「くろぼし」はホシザメの異名としては、矛盾がひどい。そこで、「水族志」の当該部を見ると(左の「二百五」ページの後ろから七~八行目)、
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㋩黑(クロ)ボシ 一名ホシサカ【本草啓蒙 水戶】啓蒙自身ニ黑星アル者ヲホシサカト云
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であり、河原田の引用間違いで、「ほしさか」とすべきであることが判明する。
「『ちからざめ』【一名、『ほうずぶか』。】)」ワケワカラン! 再び、「水族志」を引く(ここの左丁九行目)。
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㊁チカラブカ【紀州】一名ボウズブカ[やぶちゃん注:ママ。]形狀フカニ同乄[やぶちゃん注:「おなじくして」。]背橫ニ淡黑色ノ條斑アリ斑內ニ黑星㸃アリ味フカニ劣ル一種
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「しろぶか」「水族志」には(ここの、左ページ後ろから四行目以降)
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㋭シロブカ【有同名】大者アリ身白色ニ乄背淡黑色ヲ帶眼後ヨリ脇ニ至リ淡黑色ノ條アリ半[やぶちゃん注:「なかば」。]ニテ薄ク尾本至テ淡黑條アリ遍身ニ白沙アリ眼中藍色腹下翅白色淡黑ヲ帶尾此レ物理小識ニ載ル白皮ナリ
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とある。これは、「尾が白い」というのは不審だが、
ネズミザメ上目メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus
としてよいだろう。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見ると、『1.1m FL』(fork lengthの略号。「尾叉長(びさちょう)」・「尾叉体長」と言う。魚の吻部の前端から、尾鰭の湾入部までの直線距離を指す。)『前後になる。細長く紡錘形。体表に斑文がない。臀鰭は第2背鰭起部よりも後ろにある。眼に瞬膜(しゅんまく』/『まぶた)がある。両顎の歯はトゲトゲしない。口角のそばにある唇褶は内と外が同じ長さ。』とあり、「由来・語源」には、『体色が白いわけでもないので不明』とし、『〈是に(ホシザメ』(ホシザメ科ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus )『に)頗る近いものに東京でアカボシ、高知でコシナガと云うのがある。是はGaleorhinus griseus (Pietschmann)〉であるが、類似の別種か同一種か不明で即ち疑問種の好資料である。是では全く白點がなく……。〉『図説有用魚類千種 正続』(田中茂穂・阿部宗明 森北出版 1955年、1957年)』とあり、『明治時代から1938年以前にホシザメは種として確認されていたが、シロザメは種として確認されていなかった。』とある。畔田の先見性が、見て取れる。
「『めじろぶか』【一名、『まいらぎ』、又、『だれ』といふ。漢名、『白眼鯊《ハクガンサ》』。】」「水族志」には(ここの、左ページ最後の一字から、次のコマにかけて)
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㋬メジロブカ 一名マイラギ【紀州田邊】白目鯊 啓蒙[やぶちゃん注:「本草綱目啓蒙」。]曰「メジロブカ」形狀「シロブカ」ニ似テ齒微ク[やぶちゃん注:「すこしく」。]粗ク尖レリ鬣ニ刺ナク沙細ナリ[やぶちゃん注:「こまかなり」。]
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とある。小学館「日本大百科全書」の「メジロザメ」の終わりに、『メジロザメ属は第1背びれが大きく、その高さが第2背びれの2倍以上あること、第2背びれが臀(しり)びれの下か、それより前から始まること、尾柄側面にキール(隆起線)がないことなどが特徴で、35種ほどが知られている。日本近海からはヤジブカ(メジロザメ)のほかに、ヨゴレ、オオメジロザメC. leucas 、クロヘリメジロザメ C. brachyurus など13種が知られている』とあったから、その中の一種であろう。なお、高知県高知市の「桂浜水族館 公式」ブログの「261 (再)大敷網漁の魚達⑮マイラ」で、アオザメの異名として「マイラ」があることが記されてあるものの、冒頭で、『アオザメがなぜマイラと呼ばれているかはわからない』と述べてある。しかし、畔田の語りは、アオザメとは思われない。
「『つのじ』【一名、『つの』、又、『はりさめ』・『つのさめ』。漢名「寧波府志」の『剌鯊《シサ》』。】」]「水族志」には(ここの右ページ二行目から)、
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㋣ツノジ 一名ツノ【大和本草四國】ハリサカ【本草啓蒙水戶】ツノサメ【八丈島物產記】刺鯊 大和本草曰「ツノジ」「フカ」の類ナリ北土及び因幡、丹後ノ海ニアリ其皮鮫ノ如クシテ灰色長三四尺アリ筑紫ニテ「モダマ」ト云魚ニ似タリ肉ニ似タリ肉ニ脂多シ味ヨカラズ賤民ハ食フ其肝大也肝ニ油多シ北國ニハ之ヲ燈油トス西國ニテ「ツノ」ト云モ同物ナルヘシ背ニ刀ノ如ナルヒレアリ又曰「ツノジ」ハ「モタマ」ニ似タリ只背スヂニ角ノ如ナル物二三アリ是「モダマ」ニカハレリ本草啓蒙曰形「メジロフカ」ニ同ク乄鰭ゴトニ一刺アリ是「モダマ」ニカハレリ本草啓蒙曰形「メイジロフカ」ニ同ク乄鰭ゴトニ一刺アリ沙最細ク灰色ナリ淡乾スル者九萬疋【同名アリ】ト云京師ニテハ上巳ノ節物[やぶちゃん注:「せつもの」。季節物(きせつもの)。]トス八𠀋島物產記曰「ヲノザメ」背ニ角ノ如キモノアリ臭氣深シ長三尺餘膽ヲ煎テ[やぶちゃん注:「いりて」。]油ヲ取[やぶちゃん注:「とる」。]ニ六七合アリ
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とある。これに就いては、「大和本草附錄巻之二 魚類 フカノ類 (サメ類)」(二〇二一年四月十八日投稿)の注で(種を示す部分を改行した)、
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「つのじ」「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に、『○「つのじ」。「ふか」類なり。北土及び因幡・丹後の海にあり。其の皮、鮫のごとくにして、灰色。長さ三、四尺あり。筑紫にて「もだま」と云ふ魚に似たり。肝に、脂、多し。味よからず。賎民は食ふ。其の肝、大なり。肝に、油。多し。北土には是れを以つて燈油とす。西土にて「つの」と云ふも同物なるべし。背に刀のごとくなるひれあり』とあり、また、「大和本草卷之十三 魚之下 鱧魚(れいぎよ)・海鰻(はも) (ハモ・ウツボ他/誤認同定多数含む)」には、『或いは曰く、『丹後の海に「つのじ」と云ふ魚あり。これ、鱧なるべし』と云ふ〔も〕非なり。「つのじ」は「ふか」の類〔にして〕皮に「さめ」あり。筑紫にて「もだま」と云ふ魚に能く相ひ似たり。鱧とは別なり』と記している。それらでさんざん考証したが、
「ツノジ」はメジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo
或いは、
ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus の異名
としてもあるのであるが、それ以上に実は、「サメ」とは遠い昔に分かれてしまった、現行の生物学上は狭義の「サメ」ではない、
軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギギンザメ類(軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目 Chimaeriformes
或いは、
代表種ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma )の異名
として、現在も広汎に見られる呼称である。私の『栗本丹洲 魚譜 異魚「ツノジ」の類 (ギンザメ或いはニジギンザメ)』(丹洲の同「魚譜」には六図に及ぶギンザメ類が描かれている。私のカテゴリ「栗本丹洲」を参照)や、『博物学古記録翻刻訳注 ■17 「蒹葭堂雑録」に表われたるギンザメの記載』を見られたい。ここで益軒が言っている「背すぢに、角のごとくなる物、二、三あり」というのはギンザメの様態記載として肯ずるものである(多くの種で第一背鰭が独立して一棘を成し(強くはないが有毒腺を持つ)、その背後の背鰭が高く突き出る)。ところが、それでは、実は決着しない。益軒の呼称と比定種には、彼自身の中で激しい混乱があって、彼の『「もだま」に似たり』という謂いもそれに拍車をかける。私は「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」で、この「もだま」は当初、
メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo
と断定した(それに至るまでの考証では「1」から「5」までの候補とその理由を挙げたので見られたい)。ところが、他の益軒に記すそれらの属性を並べてみると、これが、ホシザメでもギンザメでもない感じがあるのである。而して私の結論としては、益軒が――「つのじ」や、それが似ている「もだま」――と言う場合、彼は実は、エイのように平たい、
軟骨魚綱板鰓亜綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica
或いは、その近縁種の、
カスザメ属コロザメSquatina nebulosa
の類を念頭に置いていたように考えられるのである。
*
と述べた。以上の注は、相応に、ここで、参考になるだろうと思う。
『「つのじ」【一名、『つの』、又、『はりさめ』・『つのさめ』。漢名「寧波府志」の「剌鯊《シサ》)。】、曰く、『ぎんさめ』【一名、『ぎんぶか』、又、『はたざめ』・『つのじ』ともいふ。「福州府志」の『劍鯊《ケンサ》』。】」これも、前の注を参照されたい。一応、「水族志」も引いておく(ここの右丁の後ろから二行目から、次のコマまで)。
*
㋠銀(ギン)ザメ【日東魚譜】一名ギンブカ【紀州若山】ハタザメ【本草啓蒙】ツノジ【食療正要啓蒙曰几上ニ置クトキ[やぶちゃん注:原文は約物の「トキ点」。]ハ草書つノ字ノ影ノ如シ故ニツノジト名ク刺鯊ノツノジト異ナリ】劔鯊 福州府志曰劔鯊尾長似ㇾ劔閩書曰有劔尾長似ㇾ劔可二以斃一曰東魚譜曰「ギンザメ」皮無ㇾ沙其色如ㇾ銀味佳美而無二臭氣一本草啓蒙曰沙ナクシテ色白シ光アリテ銀箔ノ如シ背鰭ニ長キ鋸齒アリ尾ハ漸ク細長ニ乄絲ノ如シ帶魚(タチノヲ)[やぶちゃん注:条鰭綱サバ目タチウオ科タチウオ属タチウオ Trichiurus lepturus のこと。後に「ノ」が欲しい。]尾ニ似タリ按[やぶちゃん注:「あんずるに」。]「銀ブカ」[やぶちゃん注:これは、以上と以下の記載から、ギンザメ Chimaera phantasma に間違いない。]ハ形狀「フカ」ニ同[やぶちゃん注:「おなじく」。]乄頭背尾上ニ至リ銀色ヲ帶[やぶちゃん注:「おび」。]腹白色皮上沙ナシ鼻圓ク尖出乄[やぶちゃん注:「とつしゆつして」。]世俗ニ云天狗鼻ノ短カ[やぶちゃん注:「短キガ」の誤記か。]如シ鼻上淡黑色ニ乄下白色透明柔軟鼻骨ナシ鼻ヨリ口腮ニ至ル迄淡白色ニ淡紅ヲ帶口頷下ニアリ唇厚ク上唇麁[やぶちゃん注:「あらい」。]皮アリテ板牙[やぶちゃん注:「ばんが」。ギンザメの歯は、互いに癒合して歯板状になっており、上顎に二対、下顎に一対ある。]也口ノ上ニ長圓ナル鼻穴アリ眼大ニ乄白色瞳黑シ頭頂大ニ乄「ホウボウ」ノ頭ニ似タリ身ノ半[やぶちゃん注:「なかば」。]ヨリ下ハ鯰魚ニ似タリ尾長ク細ク末尖テ[やぶちゃん注:「とがりて」。]帶魚尾ノ如シ背ノ下鬣[やぶちゃん注:「したびれ」。]淡黑色ニ乄端微黑色ニ乄端微黑色尾ニ連レリ腰下鰭淡黑色ニ乄淡紅ヲ帶外黑色ヲ帶刺ノ背上ノ方左右ニ並ヒ鋸齒アリ刺ノ次ニ續キ短鬣アルヿ[やぶちゃん注:「こと」。]「フカ」ノ如シ色淡黑脇翅大ニ乄本ヨリ端ニ至リ肉アリテ端薄キヿ「フカ」ノ翅ノ如シ色淡黑ニ乄本ニ淡紅色ヲ帶腰下ニ又短鬣一ツアリテ淡黑色其鬣ノ下ニ足アリ鳥足ノ如シ脚肉色ニ乄末ハ骨ノ如シ紅白色長サ五七寸趾ニ至リ三叉ヲナシ各一指骨アリテ末尖リ左右肉紅色ノ砂アル皮附テ[やぶちゃん注:「つきて」。]鷄冠ノ色薄カ[やぶちゃん注:「ガ」。]如シ兩脚ノ間ニ鋸齒ノ如キ刺アリ按ニ山堂肆考ノ有二劔鯊一觜如ㇾ劔對二排牙棘一人不二敢近一ト云者ハ鋸鯊ニ乄「ノコギリブカ」[やぶちゃん注:これは、ノコギリザメ目ノコギリザメ科Pristiophoridaeのノコギリザメ類(タイプ種:ミナミノコギリザメ Pristiophorus cirratus を指す。なお、ギンザメのは、当該ウィキに拠れば、『背鰭前縁に1本の毒腺のある棘をもつ。刺されると痛むが、人に対する毒性は弱い。』とある。]也
*
「『てんぐふか』【一名、『てんぐさめ』、又、『はたざめ』といふ。】」「水族志」には(ここの右ページ五行目から)、
*
㋷天狗(テング)ザメ一名天狗(テング)ブカ【熊野】本草啓蒙曰ハクザメ此一種淡褐色ナルモノヲ「テングザメ」ト云
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まず、平凡社「世界大百科事典」の「ウバザメ(姥鮫)」を引く(太字は私が附した)。ネズミザメ目 ウバザメ科ウバザメ属『ウバザメ Cetorhinus maximus 』『ネズミザメ目ウバザメ科の海産魚』。『歯が小さく一見したところ歯がないように見え,また長い鰓孔(えらあな)がしわのように見えるので,おばあさんの意味の姥(うば)からこの名が生じた。愚鈍に見えるのでバカザメ,幼時には鼻先がとがるのでテングザメともいう。英名は basking shark(ひなたぼっこをするサメの意)。世界に1科1属1種で,全世界の寒海部に多く,日本近海では春先に沿岸域に出現する。体が大きく,のどから背中までのびる鰓孔をもつのが特徴。全長12mに達する。人間には危害を加えない。おもに表層域で生活し,大口を開けて時速4kmほどのスピードで泳ぎながら,密生した鰓耙(さいは)で動物プランクトンや小魚をこし取って食べる。歯は円錐形で細かく,ほとんどかむ機能はない。冬には鰓耙は抜け落ちて深海底で冬眠するといわれる。卵胎生。肉はほとんど利用されないが,肝臓中に含まれるスクアレンは化粧品などの原料になるので漁業の対象となる。』とある。画像は、学名でグーグル画像検索したものをリンクさせておく。当該ウィキは解説は、非常に詳しいのだが、画像が全体像写真がなく、良くないからである。一部を引用すると(太字は同前)、『歴史的に泳ぎの遅さ、非攻撃的な性質、そして以前は豊富な個体数のために、漁業の主要産物であった。商業的にさまざまな形で利用され、肉は食品や魚粉に、皮膚は皮革に、スクアレン成分の含有量が高い肝臓は油に用いられた』。『アイスランドでは、肉を発酵させたものをハウカットルと呼んで珍重しており、サメ独特のアンモニア臭が特徴である。現在では、主に鰭(ふかひれ)を取るために捕獲されている。体の一部(軟骨など)は伝統中国医学の薬や、日本では媚薬としても用いられている。』とあった。実は、私は当初、大きく突出した扁平な吻(頭部先端の尖った部分)が特徴である、ネズミザメ目ミツクリザメ科ミツクリザメ属ミツクリザメ Mitsukurina owstoni を候補の一つに考えていた。それは、例えば、当該ウィキで、同種は『英語では Goblin shark と呼ばれているが、これは本種の別名、テングザメの翻訳である』とあったことにも拠る。しかし、『世界各地から報告があるが、出現はまれ。これまでの報告はほとんどが日本からのもので』、『とくに駿河湾や相模湾など水深が1,000 m以上になる深海湾でよくみられる』とあるばかりで、およそ「ふかひれ」の対象になりそうもないなぁ、と思った。小学館「日本大百科全書」の『ミツクリザメ』『みつくりざめ/箕作鮫』には、『軟骨魚綱ネズミザメ目』(Lamnidae)『の科や属の総称、またはその1種の名称。ミツクリザメ科Mitsukurinidaeはミツクリザメ属MitsukurinaのミツクリザメM. owstoni 1属1種からなる。ミツクリザメ(英名goblin shark)は柔らかい体、扁平』『な長い吻』、『非常に突出しやすい口、釘』『状の鋭い歯などをもつのが特徴である。ミツクリザメは横浜沖の深海で捕獲された個体に基づいて、アメリカの魚類学者ジョーダンDavid Starr Jordan(1851―1931)により、1898年(明治31)に新科新属新種として発表された。その科名と属名は本種の報告に貢献した東京大学の動物学者であった箕作佳吉(かきち)に、種名は発見者のイギリス人オーストンAlan Owston(1853―1915)に捧げられたものである。最初は日本特産のサメと考えられていたが、深海調査が進むにつれて世界各地に分布することが明らかになった。日本では東京湾、相模湾』『や駿河湾』『などから採集されている。』とし、『ミツクリザメは深海性で、水深1300メートルくらいまでの大陸斜面に生息し、魚類やイカ・タコ類などを食べる。餌』『が少ない深海域にすみ、遊泳力が弱いため、餌を追いかけてとらえるよりは、静かに獲物に近づき、上下両顎(りょうがく)を一瞬で大きく前方に押し出して、油断している獲物をつかまえるという効率的な摂餌』『方法を獲得した、と考えられている。生殖方法は不明であるが、ネズミザメ目に属することから、食卵型の胎生であると考えられる。全長6メートルほどになる。学問的には貴重なサメであるが』(☞)『産業的には価値がない。水族館で飼育が試みられているが、現状では長期飼育はむずかしい。国際自然保護連合(IUCN)のレッド・リストでは、低懸念(LC)とされている(2021年9月時点)。』とあったので、退場して頂くこととした。因みに、一九七一年に公開された「ガメラ対深海怪獣ジグラ」を見た時、ビキニ姿の海女さんなんぞより、ジグラの造形を見て、「こりゃ、ミツクリザメだがね!」と歓喜したのを覚えている。
「『はたざめ』【一名、『てんかひざめ』。漢名、「黑鯊《コクサ》」。】」「水族志」は(ここの七行目以降)、
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㋦ハタザメ【日東魚譜】一名テムカイザメ【同上】黑魦[やぶちゃん注:「魦」は「鯊」の異体字。] 本草啓蒙曰形佛幡[やぶちゃん注:「ぶつばん」。仏教の荘厳具(しょうごんぐ)の一種。現行では、木製の物も多いが、本来的には布製の旗で、寺門の外に飾ったり、室内に掛けたりする。]ニ似タリ褐色味美ニ乄臭氣ナシ生食モ亦佳ナリ此皮物ヲ鎊[やぶちゃん注:「けづり」と訓じているか。]スルニ上トス他[やぶちゃん注:「ほか」。]沙ニ勝レリ按[やぶちゃん注:「あんずるに」。]「ハタザメ」ハ形狀「フカ」ニ似テ扁ク頭ノ下左右ヘ長ク出ツ[やぶちゃん注:「ヅ」。]「ハクラヱイ」ノ如シ其下ニ小ナル出タル者アリ皆翅也尾ハ長ク乄「フカ」ノ如シ末ニテ扁シ總身淡黑色ニ乄靑ヲ帶沙ハ褐色ニ乄細シ腹白色
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二つの名で検索しても見当たらないので、使いたくないが、AIを見ると、二種のシュモクザメを挙げていた。確かに、『頭ノ下左右ヘ長ク出ツ』は、しっくりくる。
メジロザメ目シュモクザメ(撞木鮫)科 Sphyrnidaeシュモクザメ属ヒラシュモクザメ Sphyrna mokarran
シュモクザメ属アカシュモクザメ Sphyrna lewini
である。ウィキの「ヒラシュモクザメ」と「アカシュモクザメ」を見られたい。孰れも、鱶鰭にする、と書かれてある。
「『こつうを』【一名『さがぼり』。漢名、『燕尾鯊《エンビサ》』。】」「水族志」を引いておく(ここの右丁の後ろから三行目から)。
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㋸コツウヲ【本草啓蒙備後鞆[やぶちゃん注:「鞆の浦」のこと。]】一名サガボウ【同上羽州山形】燕尾鯊 本草啓蒙曰全身釘の形ニ似タリ沙アリテ皂[やぶちゃん注:「黒」に同じ。]白色口頷下ニアリ四五尺ヨリ二丈餘ニ至ル形燕尾ノ如シ
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Decodecochibita氏のブログ「釣り人語源考」の「サメとコチ(後編)」に、諸本を検証された上で、『『日本魚名集覧』(1958年 渋沢)の「エドアブラザメ」の項で「備後鞆ではこれを”コツウヲ”と呼ぶ」と記している』。『エドアブラザメは深海のサメで食用ではない』。『たぶん』、『間違えてアブラツノザメのことだろうと思われるが、もちろん瀬戸内海では冷水を好むアブラツノザメは生息しない』。『備後ではアブラツノザメは食べないし』、『そのような地方名は存在しない』。『渋沢は』、『たぶん『本草綱目啓蒙』(享和3年 1803年 小野蘭山)の記述を引用していて、「備後鞆浦に”許都宇乎コツウオ”あり。是は”許都宇コツウ”のことで色は黒と白、口はアゴの下にあり、長さは小さきものは四五寸、大きなものは二丈余り。尾は燕尾のごとし。是は”燕尾鯊”に当たるものであろう。」と記述しているのを参照し、さらに『本草薬名備考和訓鈔』(文化4年 1807年 錦小路嶧山)の「燕尾鯊は俗に”左賀菩宇さがぼう”とよぶものなり。」を見たのであろう』。『「さがぼう」は福島県・栃木県の山間部でのアブラツノザメの呼び名で、むき身の状態で産地の青森県や宮城県から送られてくる』。『「燕尾鯊」はオナガザメやニタリのことだろう』。『「こつう」というサメはよく分からないが、アオザメの地方名に「カツザメ・カツオザメ」があり』、『少し似ている。』と推定しておられる。ただ、最後で、『古文書の記述をよく考えると、とても古い時代ではコチを「さめ(狭目)」と呼んでいたのではないだろうか』。『あの「ハートや樹木型の眼」こそコチ類の見分け方、かつ「食べては目が悪くなる」言い伝えの根拠なのだ』。『コチの腹の皮はフラットフィッシュであるので海底との接触に非常に強く頑丈だ』。『こちらのコチの方が本家本元の「狭目皮さめがわ」として日用品の魚皮として革製品に利用されたのではないか』。『かなりややこしい話ではあるが…』『律令制が徐々に整う奈良時代、「ふか」と呼ばれた軟骨魚類が徐々に「さめ」という呼称に置き換わってきた』。『そのため』、『元々「さめ」と呼ばれ、食べると目が悪くなるとされた魚を、都の役人が「笏コツに似ているから”コツ”(許都)」と改名し、全国共通として皮を税とし納めさせた』。『それが平安時代を過ぎると、すでに謂れが分からなくなってしまったというわけだ』。『古文書にはサメの記述に「コチに似て・・・」とよく出てきて、底生のサメとコチを同類のように扱っているような印象がある。』という見解も添えておられる(但し、畔田が「コチ」を「フカ」と勘違いする可能性は、まず、ない、と私は考えるので、この考証はしない)。
さて、まず、「さがぼう」=アブラツノザメは既注であるが、気になるのは、『福島県・栃木県の山間部での呼び名で、むき身の状態で産地の青森県や宮城県から送られてくる』というのが、気になる。既に述べた通り、同種は、太平洋側では相模湾以北とされるからである。「水族志」の記載は、紀伊半島周縁であるである。これは保留する。
次に、『「燕尾鯊」はオナガザメやニタリのことだろう』であるが、まず、前者は、
ネズミザメ目オナガザメ科オナガザメ属マオナガ(真尾長/オナガザメ) Alopias vulpinus
である。BISMaLの同種の和名は、マオナガのみである。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページも「マオナガ」で、「代表的な呼び名」の項で「オナガザメ」とする。冒頭の解説では、『6m前後 TL 前後になる。細長く胸鰭上方に白色域がある。背鰭は2基。尾鰭上葉が非常に長い。瞬膜がない。』とあり、「由来・語源」で、『模式標本のオナガザメであるためだと思われる。それで「真」をつけた。』とある。「生息域」は『沿岸および外洋の表層付近〜水深650m。若い個体はよく内湾の浅いところに姿を見せる』とされ、『北海道の日本海、能登沖、北海道の太平洋沿岸、福島県以南の黒潮域沿岸、九州沿岸』で、『日本海には少ない。』とある。但し、『一般に練り製品などに加工される』とし、『また和歌山県、三重県などでは「一塩いらぎ(干もの)」になる。』とあるだけで、鱶鰭にする記載はない。しかし、当該ウィキに拠れば、鰭を利用する、とある。問題ないので、私は、マオナガに比定する。
「『かつたひざめ』、曰く、『うばざめ』【一名、『うはぶか』、又、『うさめ』】」「水族志」は以下(ここの右ページ最終行から)。
*
㋾カツタイザメ 日東魚譜曰「カツタイザメ」赤褐色有二斑文一如ㇾ癬[やぶちゃん注:音「セン」で、訓は「たむし/ひぜん」。皮膚病の一種。]味佳也本草啓蒙曰カツタイザメ虎頭鯊ニ似テ口邊ニ小肉贅アリテ醜シ軆灰赤色ニ乄微黑ヲ帶斑アリテ癩癬ニ似タリ味佳ナリ魚鑑曰「カツタイザメ」色灰黑ニタムシノコトキ斑アリ口吻(ワキ[やぶちゃん注:読みは「吻」のみにある。])ニ瘤アリ
*
もう、ご覧の通り、これは、ハンセン病の差別用語であった「かったい」を用いた、今はあり得ない差別和名である。しかし、以上の記載から、「カツタイザメ」は古い名であり、標準和名として生きていたものと推定された。調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションで掛かってきた。「箕作博士の著作」(五島淸太郞・『東京動物學會』(明治四三(一九一〇)年二月発行・PDF)箕作佳吉博士の「新年の初夢」(現資料の「六一」ページ下段中央)を引用されてあり、そこで箕作博士御自身の直接話法の中に、この「カツタイザメ」が出現している。かの博士が、標準和名でないものを使うことは考えられないから、まず、これは、当時、標準和名であったと断じて良いだろう。
さて、これは現在の如何なる種か? 以上の畔田の記載から類推するに、私は、
ツノザメ上目カスザメ(糟鮫)目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica
ではないか? と推定する。誤りとならば、御教授願いたい。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページと、当該ウィキを、リンクさせておく。
「いつちやう」「水族志」は以下(ここの左ページ七行目から)。
*
㋕イツチヤウ一丁【大和本草】イテウザメ【魚鏡】大和本草曰一キヤウト云「フカ」アリ口廣クシテ人ヲ喰フ甚タケクシテ物ヲムサボル
*
これは、既に、「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」で以下のように考証している。
*
「一(いつ)ちやう」これは当初「一(いつ)ちまう」かと思ったものの(他の部分の表記と比較しても「ヤ」のそれではない)「東洋文庫」の「本草食鑑」の注で『一(イツ)チャウ』と翻刻しているので、それに従った)。しかし「イッチョウ」(「一丁」?)でも或いは「イッチモウ」(漢字表記想定出来ず)でもある種のサメの異名としては全く掛かってこない。一つの鍵は「口」が「廣く」、「人を喰」らい、非常に獰猛で、摂餌対象を残酷に貪(むさぼ)るという点である。世界に棲息するサメのうちで「人食いザメ」、人を積極的に襲い捕食することが確実とされている種は、実は三種しかいない。まず、スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督の“Jaws”(1975年・アメリカ)で知られる、
ネズミザメ目ネズミザメ科ホホ(ホオ)ジロザメ属ホホ(ホオ)ジロザメ Carcharodon carcharias
それと同様に危険度が高い以下の二種、
メジロザメ目メジロザメ科イタチザメ属イタチザメ Galeocerdo cuvier
メジロザメ目メジロザメ科メジロザメ属オオメジロザメ Carcharhinus leucas
である。但し、本邦に限ると、亜熱帯から亜寒帯まで世界中の海に広く分布するホホジロザメを除くと、その分布はオオメジロザメは南西諸島に限られ、イタチザメも概ね九州以南である。ただ、昔から本邦では、“Hammerhead shark”の英名で知られる、メジロザメ目シュモクザメ(撞木鮫)科 Sphyrnidae のシュモクザメ類(世界で二属九種。本邦で見られるのはシュモクザメ属 Sphyrna の三種ほど)が人を襲うと信じられている向きがある。一九八二年八月に熊本県天草郡大矢野町沖の羽干島(グーグル・マップ・データ)近くで十三歳の女子中学生が襲われて死亡したケース(三人の子をヨットの船尾に結んだロープに繋いで曳航して遊ばせていた際の事故という少し特殊な状況下での不幸であった)では、シュモクザメが疑われているが、確定されてはおらず、シュモクザメが人を襲った事例は殆んど見当たらない。襲うシーンが出る小説を知っているが、寧ろ、シュモクザメの奇体な頭部が、凶悪な印象を生んでいるだけのように私には思われてならない。ダイバーなどが襲われたケースも私は知らない。但し、シュモクザメはサメとしては珍しく、群れを成して行動し、時にその数は数百匹のレベルに及ぶこともある。それらが大型個体であった場合、そのインパクトは絶大で、熟練したダイバーでも慄っとしたという証言を聴いたことはある。幾つかの記載に、人間にとっては潜在的に危険、と記すものが見られることは事実ではある。ただ、シュモクザメは以下の「かせぶか」がその別名であることからも、この同定候補にはなり得ない。従って、福岡在の益軒を考えると、この謎の「一(いつ)ちまう」はホホジロザメかイタチザメが同定候補となる。勘でしかないないが、冒頭に出ること、わけの判らぬ乍ら、名前が如何にも大きそうな雰囲気があることから、平均体長が四~四・八メートルにもなる最大最強にして凶悪のホホジロザメとする方がいい気がする。
*
「『しゆもくぶか』【一名、『しもくざめ』、又、『かぜふかいてうさめ』。漢名は「閩書《びんしよ》」の『雙髻鯊《サウキツサ》』。】」「水族志」は以下(ここの左ページ後ろから六行目から)。
*
㋵シモクブカ 一名シモクザメ【日東魚譜】カセブカ【大和本草】イテウザメ【魚鏡】雙䯻[やぶちゃん注:この漢字は中国のサイトでも意味不明とする。]鯊 大和本草曰 「カセブカ」其首橫ニホロシ甚大ナルアリ又曰「カセブカ」其橫ハ縱ニ比スレハ少短シ橫ノ兩端ニ目アリ本草啓蒙曰撞木(シユモク)ノ形ノ如ク橫首杖(カセヅヘ[やぶちゃん注:ママ。])ノ頭ニ似タリ魚鏡曰「イテウザメ」頭鴨脚葉[やぶちゃん注:「あうきやくやふ」。イチョウの葉を指す中国語由来の語。因みに、「大辞泉」に拠れば、『本邦の「いちやう(いちょう)」は、江戸時代以来、語源を「一葉」と考え、歴史的仮名遣いを「いてふ」としてきたが、「鴨脚」の宋音ヤーチャオ』(yājiǎo:或いはイーチャオ)『に由来するもので、「いちゃう」が正しいとする。』とある。]ニ似タリ形狀「フカ」ニ同シテ[やぶちゃん注:「おなじくして」。]灰色腹下白色頭ハ銀杏葉ノ如ク末ニテ開ク左右ノ端ニ眼アリ閩書曰䯻鯊頭如二木枴[やぶちゃん注:二字で「杖」の意。]一又名二雙䯻紅一言鯖曰了頭今人呼二侍婢一曰了頭一盖言二其頭上方梳雙䯻未ㇾ成ㇾ人之時即漢之所謂偏䯻也
*
これは、「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」で、以下のように考証した。
*
「一(いつ)ちやう」これは当初「一(いつ)ちまう」かと思ったものの(他の部分の表記と比較しても「ヤ」のそれではない)「東洋文庫」の「本草食鑑」の注で『一(イツ)チャウ』と翻刻しているので、それに従った)。しかし「イッチョウ」(「一丁」?)でも或いは「イッチモウ」(漢字表記想定出来ず)でもある種のサメの異名としては全く掛かってこない。一つの鍵は「口」が「廣く」、「人を喰」らい、非常に獰猛で、摂餌対象を残酷に貪(むさぼ)るという点である。世界に棲息するサメのうちで「人食いザメ」、人を積極的に襲い捕食することが確実とされている種は、実は三種しかいない。まず、スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督の“Jaws”(1975年・アメリカ)で知られる、
ネズミザメ目ネズミザメ科ホホ(ホオ)ジロザメ属ホホ(ホオ)ジロザメ Carcharodon carcharias
それと同様に危険度が高い以下の二種、
メジロザメ目メジロザメ科イタチザメ属イタチザメ Galeocerdo cuvier
メジロザメ目メジロザメ科メジロザメ属オオメジロザメ Carcharhinus leucas
である。但し、本邦に限ると、亜熱帯から亜寒帯まで世界中の海に広く分布するホホジロザメを除くと、その分布はオオメジロザメは南西諸島に限られ、イタチザメも概ね九州以南である。ただ、昔から本邦では、“Hammerhead shark”の英名で知られる、メジロザメ目シュモクザメ(撞木鮫)科 Sphyrnidae のシュモクザメ類(世界で二属九種。本邦で見られるのはシュモクザメ属 Sphyrna の三種ほど)が人を襲うと信じられている向きがある。一九八二年八月に熊本県天草郡大矢野町沖の羽干島(グーグル・マップ・データ)近くで十三歳の女子中学生が襲われて死亡したケース(三人の子をヨットの船尾に結んだロープに繋いで曳航して遊ばせていた際の事故という少し特殊な状況下での不幸であった)では、シュモクザメが疑われているが、確定されてはおらず、シュモクザメが人を襲った事例は殆んど見当たらない。襲うシーンが出る小説を知っているが、寧ろ、シュモクザメの奇体な頭部が、凶悪な印象を生んでいるだけのように私には思われてならない。ダイバーなどが襲われたケースも私は知らない。但し、シュモクザメはサメとしては珍しく、群れを成して行動し、時にその数は数百匹のレベルに及ぶこともある。それらが大型個体であった場合、そのインパクトは絶大で、熟練したダイバーでも慄っとしたという証言を聴いたことはある。幾つかの記載に、人間にとっては潜在的に危険、と記すものが見られることは事実ではある。ただ、シュモクザメは以下の「かせぶか」がその別名であることからも、この同定候補にはなり得ない。従って、福岡在の益軒を考えると、この謎の「一(いつ)ちまう」はホホジロザメかイタチザメが同定候補となる。勘でしかないないが、冒頭に出ること、わけの判らぬ乍ら、名前が如何にも大きそうな雰囲気があることから、平均体長が四~四・八メートルにもなる最大最強にして凶悪のホホジロザメとする方がいい気がする。
*
なお、「大和本草諸品圖下 鮪(シビ)・江豚(イルカ)・スヂガレイ・カセブカ (マグロ類・イルカ類・セトウシノシタ・シュモクザメ)」も見られたい。ブットびの絵図を見ることが出来ますぞ!
「『もだま』【大なるを、『いなき』といふ。漢名『魚鮠《ギヨグワイ》』。】」「水族志」は以下(ここの右ページ二行目から)。
*
㋟モダマ 鮠魚 大和本草曰「モダマ」「フカ」ノ類ナリサメアリ灰色白星アルモノアリ長三四尺肉白シ肝ニ油アリ其大ナルヲ「イナキ」ト云長サ一丈バカリアリ其乾タルヲ「ノウサバ」ト云本草啓蒙曰「モダマ」形鮧魚(ナマズ)ニ似テ大ナリ皮ニ細沙アリ
*
これも、「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」で、以下のように考証した。かなり長い。
《引用開始》
「もだま」メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo。「WEB魚図鑑」のホシザメから引く。『成熟サイズは全長62~70cm。全長25cmほどで出産され、雄で最大96cm、雌で117cmに達する。体は灰色ないしは茶褐色で、体側に多数の白色斑点が散在すること、背鰭は暗色で縁取られないこと、上側の唇褶は下側よりも長いこと、歯は尖らず、敷石状に並ぶことから』、『他の日本産ドチザメ科』Triakidae『魚類と区別できる。ホシザメ属には体側に白色点をもつものが他に何種か知られているが、白色点を持つ種で北西太平洋に分布するのは本種のみである』。『主に北西太平洋。北海道~九州の各沿岸(オホーツク海を除く)、南シベリア、朝鮮半島、中国、台湾、ベトナムに分布する』が、『例外的に西インド洋のケニア沿岸からも知られる』。『大陸棚上の潮間帯を含む浅海域の砂地や泥底に生息』し、『底生無脊椎動物、特に甲殻類を捕食する』。『卵胎生で胎盤をもたない。交尾期は夏。妊娠期間は10ヵ月ほどで、4月に母親の体サイズに合わせて1~22尾の仔ザメを出産する(普通2~6尾、平均5尾の仔ザメを産む)。成長が早く、3、4年で成熟する。食用で、日本、中国、韓国では延縄で漁獲される』とある。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のホシザメのページの「地方名・市場名」の項に『福岡県博多(福岡市)ではモダマ』と出、また、『福岡県玄海町』では『ノウサバ』『ノーサバ』の異名を載せる(益軒の『其の乾したるを「のうさば」と云ふ』と合致)。そこには、『体長1.5メートル前後になる。細長く、白い星状の斑文が散らばる』ともあり、「白星あるもの、あり」とも一致するが大型個体の「いなき」は確認出来なかった。「いなぎ」かも知れない。その場合、「稲置」で或いは「稲木」で刈り取った稲を掛ける横木のことを指すのではないかとも思ったりした。「もだま」は「藻玉」か? 意味不明。一部の卵生サメ類の皮革状卵嚢はまさに「藻玉」に相応しいが、本種は卵胎生であるから違う。或いは、別種の卵生のサメのそれを本種のそれと誤認したものかも知れない(例えば、後に「さゞいわり」の私の後者の方のリンクの図を参照)。【2019年8月23日追記】いつもお世話になっているT氏よりメールを頂戴した。それによれば、ネットで「モダマ」で捜すと、まず、
1・ドチザメ比定
「大海水産株式会社」公式サイト内の「大海水産のお勧め魚 熊本県産ドチザメ」に、『熊本県産ドチザメ』(メジロザメ目ドチザメ科ドチザメ属ドチザメ Triakis scyllium)『熊本では、モダマと呼んでい』るとある(益軒の近在)。
2・ホシザメ比定
abukamo氏のブログ「あぶかも」の「モダマ三種」では「モダマ」を私が同定したホシザメと比定し、しかも『博多では「モダマ」という名前で湯引きした』ホシサメがごく普通に売られている旨の記載があった(益軒は人生の殆んどを福岡で過ごした)。
3・カスザメ比定
syunsi3氏のブログ「『車いすで楽しめる食事処』・レシピ&ガーデニング」の「モダマ」(このブログ主は他の記事からみて福岡在の方である可能性が高い)の料理を掲げられた上、当該種を写真で掲げられており、「WEB魚図鑑」の当該種をリンクさせておられるが、それはエイ型形状に近い(しかしサメ)カスザメ(軟骨魚綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica)である。問題は「2」との齟齬で、福岡(もしかすると別の地方でも)では或いは広く「サメ」「フカ」或いは鮫の肉を「モダマ」と呼んでいる可能性があるようにも思われる。
4・ドチザメ比定
「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「ドチザメ」(メジロザメ目ドチザメ科ドチザメ属ドチザメ Triakis scyllium)の「地方名・市場名」の中に「モタマ」「モダマ」とある(多くの別種のサメ類の異名に「モダマ」があることは私も承知してはいた)。
さらにT氏は例の「大和本草」の「諸品図二巻」を調べられ、その「カイノ」と標題する図(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像。左頁下)に、キャプションで(一部に句読点等を施して読み易くした)、
*
モダマ・ツノジノ類。形、甚、「コチ」ニ似タリ。味ハ、「コチ」ニ不似、「モダマ」ニ似タリ。薄ク斬リ、能煮テ、スミソニテ食フ。
カイメノ腹[やぶちゃん注:下部。以下は刊本に書入れされたもの。]
「カイメフカ」・「カイメサメ」・「ナカヱイ」トモ。兵庫「ウカシ」。
コノ魚肉ニテ、生ニテ酢ミソニテ食ス。味、佳也。
漢名「犂頭魚」【閩書】。
*
とある図を指摘し、T氏は、この『腹側の図は「エイ」としか見えない』とされ、『頭と胸鰭の形から、カスザメ又はコロザメのよう』であると指摘されていおられる。これからは少なくとも、益軒は「モダマ」「ツノジ」を、
5・カスザメ/コロザメの類と比定
していたことが判る。因みにエイ型ではあるが、
軟骨魚綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica(リンク先は「WEB魚図鑑」)
カスザメ属コロザメSquatina nebulosa(同前)
はサメ類である(因みに、『カスザメは二基の背鰭が腹鰭より後方に位置すること、大きな棘の列が背面の正中線上にあること、胸鰭の先端の角度が小さいことで近縁のコロザメと区別できる』とウィキの「カスザメ」にある)。ともかくも、丁寧に調べ上げられたT氏に感謝申し上げるものの、異名で調べると、却って同定比定が困難になる厄介者ではあるのである。
《引用終了》
実は、この「モダマ」は「大和本草」の他の項の中で、何度も考証してきたのだが、一応、上記が私の決定版と考えて頂いてよろしいと思う。
「『おきむば』【一名、『なぬかぶか』、伊勢にて『あぶらこ』、尾張にて『のうくり』、備後因島《いんのしま》にて『お〻ぜ』。「臺灣府志」に云《いはく》、『龍文《りゆうもん》、沙《さ》にして、最佳《さいか》にして、其翅《そのはね》、尤《もつとも》、美なり。』とす。】」「水族志」は以下(ここの右ページ五行目から)。
*
㋹オキムバ【勢州阿曾浦[やぶちゃん注:「あそら」と読む。現在の三重県度会郡南伊勢町阿曽浦(あそら)。ここ。]】一名ナヌカブセ【紀州若山】アブラコ【勢州土師[やぶちゃん注:現在の三重県鈴鹿市土師町(はぜちょう)。ここ。]】モサメ【尾州常滑】ノウクリ【備後因島】オヽゼ【筑前福間浦[やぶちゃん注:現在の福岡県福津市西福間にある福間海岸。]】龍文沙 形狀守宮(ヤモリ)ニ似テフカノ如シ頭圖ク乄扁シ全身灰色ニ乄微紅ヲ帶背ニワラビ形ノ黑文アリ脇ニ小黑星㸃アリ亦小白圏ヲナス處モアリ腹白色微ニ赤色ヲ帶凡テ沙アリ續脩臺灣府志曰鯊其最佳者皮上有二黑白圏文曰龍文沙其翅尤美
*
これは、
板鰓亜綱テンジクザメ(天竺鮫)目オオセ(大瀬)科オオセ属オオセ Orectolobus japonicus
である。個人的には、そのフォルムと色が、モロ、迷彩服見たようで、大好きな魚である(ウィキの画像をリンクしておく)。ウィキの「オオセ」によれば、『キリノトブカなど』、『地方名』を『多数』有する。『全長1mの底生性のサメで、オオセ科』Orectolobidae『では日本近海に分布する唯一の種』である。『太平洋西部、南日本から朝鮮半島、フィリピン、東シナ海、東南アジアにかけて分布する。沿岸の水深200mまでの砂泥質の海底や岩礁、サンゴ礁などに生息する』。全長は一メートルで、『体型は上下に押しつぶされたような縦扁型。吻は平たく、丸い。口はほぼ頭部前面に幅広く開口する。口の辺縁には複数の皮弁が存在するが、オオセは皮弁数が7-10本であること、先端が二叉することが特徴であり同定のキーとなる。噴水孔』(目のすぐ後ろにあり、ここから呼吸に使う水を吸うことが出来るようになっている。但し、遊泳主体の通常のサメ類ではあっても小さいか塞がっている。本種は底在性傾向を示すために機能している)『は涙型で大きい』。『体色は全体的に褐色のまだら模様で、薄褐色、濃褐色、灰色などの雲状斑が大小モザイク状に配列し、全身に小白色斑が散在する。背鰭2基は体後方に位置する。胸鰭はやや大きい。臀鰭は尾鰭のごく近くに付く。尾鰭は上葉が長く、欠刻がある。下葉はない』。『詳しい生態や生息数に関してはよく分かっていない。体色の模様はカモフラージュであり、夜行性で海底や岩などに姿を隠している』。『待ち伏せ捕食型で、底生の硬骨魚類や甲殻類、サメ、エイなどを狙う』。『卵胎生』で『21-23cmの子どもを最大20-27尾まで産む』。『妊娠期間は約1年と推定される』。『日本では漁獲され』、『食用になる。その他、中国、台湾、韓国、ベトナムなどでも漁獲される』が、『近づくと咬まれる危険性がある』とある。因みに、漢字表記は「大瀬」であるから、歴史的仮名遣は「おほせ」が正しい。
「『おふぜ』【一名、『どぜうざめ』、又、紀伊熊野にて『したち』、『熨斗鯊《のしぶか》』ともいふ。】」前に同じだが、「水族志」では、続いて、独立項となっている(ここ。右丁後ろから五行目)。
*
㋞オフセ[やぶちゃん注:ママ。]【大和本草】一名ドゼウザメ【熊野新宮】ナヌカザメ【本草啓蒙熊野】シタチ【尾州常滑】熨斗鯊 大和本草曰「オフセ」遍身ウス子ヅミ[やぶちゃん注:「うすねづみ」。「薄鼠」。]色ナリ黑㸃多シ腹白ク口濶[やぶちゃん注:「ひろく」。]鬣大小三所ニアリヒゲアリ「マナヅ」ノ如シ目ノ傍ニ耳穴アリ其性强シテ死[やぶちゃん注:「しに」。]ガタシ身ヲ切猶動[やぶちゃん注:「身を切(るも)、なほ、うごく」。]湯ヲ以ユビキテ指身[やぶちゃん注:「さしみ」。刺身。]トス味ヨシ形コチニモ蟾[やぶちゃん注:「ひきがへる」。]又曰オホセ尾キハ角アリ本草啓蒙曰此魚上大ニ下小ク[やぶちゃん注:「ちさく」。]科斗(カイルコノ)[やぶちゃん注:「ノ」がルビに入っているのは、ママ。お判りとは思うが、「科斗」は「蝌蚪」(カト/おたまじやくし)で、「オタマジャクシ」で、ルビは『かへる』の子の」である。]形ニ似タリ水ヲ離シ十日ニ至リテ死セズ
*
このオオセの記載の後半部には、強い違和感を持つ方が多いであろう。私もそうであった。されば、それに就いては、やはり、「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」で蜿蜒と考察を行ってあるので、そちらを見られたい。なお、図入りの「大和本草諸品圖下 クチミ鯛・ナキリ・オフセ・クサビ (フエフキダイ・ギンポ・オオセ・キュウセン)」も見られたい。なお、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「地方名・市場名」には、多数の異名があり、ここに出るもの、及び、類似するものとして、『オウセ』(『紀州』)・『ドジョウザメ』(『和歌山県』)が確認出来る。また、『ナヌカザメ』(『三重県熊野市』:採集地。以下同じ)・『マムシワニ』(『島根県出雲市大社町杵築』)・『カメザメ』(『東京』)・『キリノトブカ』(『東京市場』)・『トラ』(『神奈川県江ノ島』)・『ホンヤモリ』(『長崎県長崎市』)・『カキノコロモ』(『静岡県下田』)・『オニウチノクリ』(『鹿児島』)等の興味深い、或いは、ぶっ飛んだ異名が並ぶ。
「しヽむしやう」名前だけで、解説がない。「水族志」は以下(ここの左ページ二行目から)である。
*
㋡シ﹅ムシヤウ 大和本草曰シヽムセヤウ橫廣シ「ヒキカヘル」ノ形ノ如シ
*
しかし、畔田の引用は誤っている。私の「大和本草附錄巻之二 魚類 フカノ類 (サメ類)」が引用元であるが、そこでは、
*
○サヾエワリ橫廣シヒキガヘルノ形ノ如シ
*
である。而して、次の「『さヾいわり』【一名、『ころざめ』、又、紀伊若山にて『ねこざめ』、筑前福間浦《ふくまうら》にて『かねうち』、漢名『虎頭鯊《コトウサ》』。)】」と同じで、「さゞえわり」「榮螺割(さざゑわり)」で、ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus の異名としてよく知られる。「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」も見られたい。一応、後者の「水族志」を、長いが、示しておく
*
㋧[やぶちゃん注:原本は「子」に「○」。]サヾイワリ 一名コロザメ【紀州熊野九木浦】ネコフカ【紀州若山】カネウチ【筑前福間浦】虎頭鯊 形狀「フカ」ノ如ニ乄沙アリ頭ハ金頭(カナンドウ)[やぶちゃん注:これは、スズキ目カサゴ亜目ホウボウ科カナガシラ属カナガシラ Lepidotrigla microptera のことである。魚体が浮かばない方のために、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクしておく。]ノ如ク方[やぶちゃん注:「はう」。四角。]ニ乄刺ナシ背淡茶紅色腹白色脇ニ紅色ノ斑あり背ニ深褐色ト淺褐色ノ橫條斑ヲナス大和本草曰「サヾイワリ」ト云魚アリ頭大ニ兩目ノ上ノキハタテニカド各[やぶちゃん注:「おのおの」。]一スヂアリテ首方ナリ細齒多シ腮ハヨコニ五キレタリ兩鼻アリ背ニ鰭二[やぶちゃん注:これは、字の誤植で「ニ」である。]各大ナル刺アリテ尖レリ口ハ腮ノ下ニアリ両ワキニ大ナルヒレアリ[やぶちゃん注:恐らく編者の「腰」の脱字。]ニモ小ナルヒレ[やぶちゃん注:恐らく編者の「二」の脱字。]アリ尾ハ小岐アリ[やぶちゃん注:カットがある。「大和本草」では『凡常ノ魚ノ形ニカハレリ』が、ここにある。]皮ニサメアリ色斑ナリ薄ク切[やぶちゃん注:「きり」。]酒ノ糟ヲ加ヘ羹トシテ食ス又指身[やぶちゃん注:刺身。]ニ乄最ヨシ「ツノジブカ」ニマサレリ本草啓蒙曰此魚桔梗ノ蕾ニ似タリ兩鼻アリソノ齒至テ硬强拳螺(サヽビ)[やぶちゃん注:サザエのこと。国立国会図書館デジタルコレクションの「本草綱目啓蒙」の原本(版本)に当たったところ(右丁二行目)、確かに「サヾビ」と振ってあった。]殼モヨク嚼破(カミヤブ)ル齒ノ形蓑荷(ミヤウガ)[やぶちゃん注:漢字は同前で確認したが、やはり「蓑荷」であった。]笋[やぶちゃん注:「たけのこ」。]ノ如シ大ナル者ハ長サ五六寸色白シ背ノ兩鰭各大尖刺[やぶちゃん注:「だいせんし」と音読みしておく。]アリ周身[やぶちゃん注:「みのまはり」と訳読みしておく。]黃褐色ニ乄黑斑アリ沙微ク[やぶちゃん注:「すこしく」。]粗シ
*
「『なでぶか』【一名『みづいらき』、又、『ひれなか』。】」「水族志」は以下(ここの右ページ冒頭行から)である。
*
㋤ナデブカ 一名ミヅイラギ【紀州田邊】ヒレナガ【大和本草】極テ大ナル者アリ黑色ニ乄腹淡黑色赤ヲ帶其尾上長ク乄身ニ半ス下ハ短シ腹下ノ二翅細長也此魚漁舟の海上ニ泊スルニ逢ヘハ尾ヲ舟中ニ勾入テ[やぶちゃん注:「まがりいれて」と訓じておく。]人ノ有無ヲ探ル大和本草曰ヒレ長ト云アリヒレ甚長シ
*
「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」で私は、これを以下のように比定した。一部に追加を添えた。
《引用開始》
「ひれ長」一般に鰭の長いサメというと、一番に想起されるのは、板鰓亜綱ネズミザメ目オナガザメ科オナガザメ属 Alopias(一属三種)であろう。本邦(但し、南日本)にはニタリ(似魚) A. pelagicus・ハチワレ(鉢割) A. superciliosus・マオナガ(真尾長) A. vulpinus の全種が分布する。ウィキの「オアナガザメ」によれば、『全世界の熱帯から温帯、また亜寒帯海域まで広く分布する。全長の半分を占める長い尾鰭により、他のサメと見間違えることはない。大型になり、最大全長は3m〜7mを超えるものまである。繁殖様式はいずれも胎生で、ネズミザメ目に共通して見られる卵食型である。主に外洋を回遊し、非常に活動的である』が、『人に対しては攻撃的で』はなく、『むしろ』、『海中では警戒心が強く、近寄ることさえ難しい。マグロ延縄などで混獲され、肉や鰭、脊椎骨、皮、肝油が利用される』。『魚の尾鰭は上半分を上葉、下半分を下葉といい、サメ類では』大抵、『上葉が長くなっている異尾(いび)であるが、オナガザメ属では上葉の伸長がとりわけ著しく、胴体とほぼ同じ長さか』、『それ以上になる。尾の付け根の筋肉が発達しており、マグロやカジキ、サバなどを切り裂いたり』、『気絶したところで食す』とある。
《引用終了》
但し、次の「水ぶか」をマオナガと比定同定したことから、ニタリ、及び、ハチワレの二種を候補として絞って限ることも可能となったとは思う。
「水ぶか」「水族志」は以下である(ここの右ページ四行目から)。
*
㋶水(ミヅ)ブカ 形狀「ナテブカ[やぶちゃん注:ママ。前の「ナデブカ」。]」ニ似テ尾翅短シ背黑色腹淡黑色切レハ[やぶちゃん注:「バ」。]肉水トナリテ不ㇾ可ㇾ食
*
これは、板鰓亜綱ネズミザメ目オナガザメ科オナガザメ属 Alopias(一属三種)のうち、マオナガAlopias vulpinus としてよい。ウィキの「オナガザメ」によれば、「分類」の項のマオナガに関して(下線太字は私が附した)、『オナガザメ属の中で最も大きくなる種。他の2種に比べて特に外洋性の傾向が強く、沿岸部ではあまり見られない』とし、『他2種に比べて特に尾が長く、体長と同じかそれ以上の上葉をもつ。マオナガの“マ(真)”という名称もここに由来する。尾の長さ以外の全体的形状は、ネズミザメ』(ネズミザメ目ネズミザメ科ネズミザメ属ネズミザメ Lamna ditropis )『に近似している』。『英名の Thintail thresher とは、“厚みのない尾を持つオナガザメ”の意。Common thresher(Shark)(一般的なオナガザメ、の意)とも呼ばれ、英語圏では単に「オナガザメ(Thresher Shark)」といった場合は通常はこの種を指す。』とあることに拠る。
「鼠《ねずみ》ざめ」これはそのままで、
ネズミザメ目ネズミザメ科ネズミザメ属ネズミザメ Lamna ditropis
である。当該ウィキに拠れば(注記号はカットした)、『地方名でモウカザメ、カドザメ、モウカ、モーカなどとも呼ばれる。全長3 m。太平洋北部の亜寒帯海域に生息する大型の捕食者である』。『特殊な筋肉系、循環系により体温を海水温よりも高く保ち、高速遊泳を行う。季節回遊を行うことも知られている』。『属名 Lamna は「凶暴な魚」。種名 ditropis は、「2つの」を意味する接頭語"di"と「隆起線」を意味する"tropis"が合わさったもので、本種の尾柄部と尾鰭にある2本の隆起線に由来している』。『標準和名はネズミザメであるが、いくつかの別名がある』。『モウカザメ(毛鹿鮫)は東北地方でよく使われる名称で、マフカザメ(真鱶鮫)が訛ったものだといわれる。マダイ(真鯛)やマアジ(真鯵)などを見ても分かるように、魚名に「マ(真)」がつくものは「代表種」の意味合いを持っており、東北地方の代表的なフカ(サメのこと)であることからマフカの名が付けられたのであろう。実際、東北はネズミザメの水揚量が多い』。『カドザメ(カトザメ・カトウザメとも)の由来には』、『いくつかの説があり、渾然一体としている。「カド」がニシンの地方名であり、これを捕食することからというもの。また「カド」はカツオの地方名でもあり、やはりこれを捕食することからというもの。これらとは別にネズミザメ漁を初めて行った江戸時代の漁師、加藤音吉の名から来ているという説もある。一部の地方ではカトザメがアオザメを表すこともある』。『サケザメ(鮭鮫)は、英語でもサーモン・シャーク "Salmon shark" と呼ばれるように、サケを捕食することに由来する。漁業ではサケを食害するサメということで、漁師には歓迎されない』。『他に、ラクダザメやゴウシカがある』。『北部太平洋の亜寒帯海域を中心に分布し、ベーリング海やアラスカ湾、プリンス・ウィリアム湾などを主な生息地とする。日本近海では日本海やオホーツク海に現れる。寒冷な環境を好むが、回遊によってかなり南の海域まで進出することがある。最も低い緯度ではハワイ沖(北緯22°)まで南下した例が報告されている。他に、カリフォルニア州沿岸でも生息が確認されており、さらに南のメキシコ沿岸まで進出している可能性もある』。『沿岸域・外洋域の両方に出現する。普段は海表面近くを遊泳するが、水深700 m 程度まで潜ることもある。また、亜熱帯海域では温度躍層を避けて、300 - 500 m 程度の深度を遊泳することが多いようである』。『最大で全長305cm、体重175.0kg。体は紡錘型で水の抵抗を受けにくい。背側の体色は青みを帯びた灰色もしくは黒色、腹側は白色で濃色の斑紋が点在する。尾鰭は上葉がわずかに長いものの、上下がほぼ同じ長さで三日月型をしている。尾柄には明瞭な隆起線があり、さらに尾鰭の中央よりやや下にも隆起線が見られる。種名 ditropis (「二つの隆起線」の意)はここからきている』。『外見は小型のホホジロザメのようにも見えるが、やはり隆起線の数で見分けることができる。同属にニシネズミザメがいるが、形態的にはニシネズミザメの第一背鰭の後縁が白色なのに対し、本種ではそれがないことで見分ける』。『サケザメやサーモン・シャーク "Salmon shark" の名の通り、サケを捕食することでよく知られている。またニシンも好んで食べる。亜寒帯海域では最高次捕食者の地位を占めている』。『太平洋北東部の個体の方が、北西部の個体よりも早く成熟する傾向がある。太平洋北西部では雄は全長約177〜186cm、雌は200-223cmで成熟し、成熟年齢は雄5年、雌8〜10年である。太平洋北東部では雄158cm、3〜5年、雌205cm、6〜9年で成熟する』。『胎生』であるが、『胎仔と母親を直接つなぐ胎盤のような器官は持たない。子宮の中で卵黄の栄養を使ってある程度の大きさになった胎仔は、卵巣から排卵される栄養の豊富な未受精卵を食べて育つ。これはネズミザメ目に見られる卵食型である。妊娠期間は約9ヶ月、産仔数は2-6尾、出生時の大きさは84-96cm』。『以前は卵胎生と呼ばれたが、子宮の中で母親から卵という形で間接的に栄養分をもらって育つことから、広義の胎生に含める』。『ほとんどの種が外温動物(変温動物)である魚類の中にあって、ネズミザメは外部温度に』関わらず』、『体温をある程度一定に保持することができる性質(内温性)を備えている。内温性魚類は、同じネズミザメ科のアオザメやホホジロザメ、真骨魚ではマグロやカツオ、カジキといった種類である。これらはみな高速遊泳を行うという点で共通している』。『ネズミザメの赤筋(遅筋、血合肉)の分布位置は他の魚と異なり、体の中央深部、脊椎骨の周囲に集中している。持続的遊泳に使われる赤筋を外界から遠ざけることで代謝熱を保持し、周囲にある白筋(速筋)へ効率良く伝導させる。さらに筋肉には奇網』(きもう:当該ウィキに拠れば、(『ラテン語: rete mirabile, 複数形 retia mirabilia)または怪網(かいもう)は、脊椎動物に見られる、動脈と静脈からなる構造である。これらの血管は非常に細く、ごく近接して配置されており、内部の血流は互いに逆方向になっている。これは対向流交換系と呼ばれ、熱・イオン・気体などを血管壁を通して効率よく交換することができる。rete mirabile はラテン語で「驚異的な網」を意味する』とあった)『が発達し、保温能力を高めている。奇網では』、『体内からの温かい血液と体表からの冷たい血液が対向流交換系をなし、熱の伝導が行われる』。『この内温性により、ネズミザメは大抵のサメ類が寄り付かない亜寒帯海域という地理的なニッチを獲得している』。『寒い海に生息するので、人が襲われた記録はないものの、大型で獰猛なサメに入るので、危険な種である』。『サケ類を捕食することから、水産上の重要害魚という形で扱われることもある。千葉県勝浦市沖ではかつて、年末から翌年2月ごろまでネズミザメなどのサメを専門に狙う延縄漁業が行われていたが、1993年(平成5年)ごろにはサメの需要の低さからかサメ漁は行われなくなっており、同年3月にはネズミザメがキンメダイ漁を阻害するとして、勝浦漁港のキンメダイ漁業者たちがサメを延縄で捕獲して駆除していた』。『一方で、ネズミザメは食用魚としての利用のために漁獲されている。またマグロ漁で混獲することも多い。漁には延縄や流し網が用いられる。日本国内においてはそのほとんどが気仙沼港(宮城県)に水揚げされ、気仙沼での水揚げ量はヨシキリザメに次いで多い』。『サメ類の中では比較的アンモニア臭が少なく味も淡白で癖が少ないため』、『食用向きとされ、刺身として気仙沼周辺や、それと対照的に備北地方(「ワニ肉」として有名)などの山間部で、切り身は東北地方や栃木県』『では定番、関東地方であれば散見される程度に販売』され、『食されている。一方で東海・北陸や西日本では一部の地域以外ではほとんど目にする機会がなく、知名度も低いためサメ肉と聞いただけで拒否反応を起こす人の割合も高い』。『その他』、『全国的に魚肉練り製品の原料として消費される』。『心臓はモウカの星とよばれ、気仙沼を中心に刺身や酢味噌和えにされる。仙台や東京など東日本の一部居酒屋でも提供されていることがある。こちらは味が独特であり』、『人によって好みが分かれる。また』(☞)『ふかひれも採取される。』とあった。なお、近縁種に『ニシネズミザメ Lamna nasus 』がおり、『ネズミザメに非常に近縁であり、1947年にネズミザメが記載されるまで同一種であると思われていた。両者の決定的な違いは分布域である。ニシネズミザメは大西洋の北部と南半球に分布するのに対し、ネズミザメは太平洋の北部にしか分布しない』とあったので、ニシネズミザメは、ここの比定種には含まれない。
「おろか」「水族志」は以下である(ここの右ページ七行目から)。
*
㋼ヲロカ 大和本草曰「ヲロカ」ト云「大フカ」アリ人ヲ食ス
*
これは、私が、「大和本草附錄巻之二 魚類 フカノ類 (サメ類)」で、
《引用開始》
「をろか」「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に『○「をろか」と云ふ大ぶかあり。人を食す。」あり』と出る(「をろか」の表記はママ)。そこで私は、
軟骨魚綱板鰓亜綱『メジロザメ目メジロザメ科イタチザメ属イタチザメ Galeocerdo cuvier
としたい。「をろか」は不明(「愚か」は歴史的仮名遣では「おろか」で一致しない)』と注した。追加情報はない。
《引用終了》
とした。現在も、新たな情報は得られていない。
「すねぶか」「水族志」は以下である(ここの右ページ八行目から)。
*
㋨ス子ブカ 大和本草曰「ス子ブカ」色白シ
*
私は、「大和本草附錄巻之二 魚類 フカノ類 (サメ類)」の注で、『不詳。』とした。新たな情報は得られていない。
「つまりぶか」「水族志」は以下である(ここの右ページ九行目から)。
*
㋔ツマリブカ 大和本草曰「ツマリフカ」頭ノ兩方ニ穴二ツアリ
*
これについては、「大和本草附錄巻之二 魚類 フカノ類 (サメ類)」の注で、
ツノザメ目ツノザメ科ツノザメ属ツマリツノザメ Squalus brevirostris
であろう、とし、『漢字表記は「詰まり角鮫」かと思われる。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを参照。但し、「穴、二〔(ふた)〕つあり」は不審。鰓孔が四対しかないサメはいない(サメ類のそれは五~七対)と思うが?』と述べた。追加情報はない。
「からす」「水族志」は以下である(ここの右ページ十行目)。
*
㋗カラス 魚鑑曰「カラス」黑ク肉白シ
*
これは、
ツノザメ上目ツノザメ目カラスザメ(烏鮫)科カラスザメ属カラスザメ Etmopterus pusillus
である。今まで私の記事で出たことはない。当該ウィキに拠れば(注記号はカットした)、『太平洋・大西洋に広く分布する。深度0 - 1,000メートルの範囲で日周鉛直移動を行う。リュウキュウカラスザメと種群を構成する。体は細長く暗褐色、体側に黒い模様がある。50センチメートルに達する。卵胎生で成長は遅い』。『1839年、イギリスの生物学者Richard Thomas Loweが学術誌Transactions of the Zoological Society of Londonにおいて、Acanthidium pusillumの名で記載した。その後』、『本種はカラスザメ属 Etmopterus に移された。種小名 pusillus はラテン語で"弱い"を意味する。リュウキュウカラスザメと共に、乱雑に並んだ切り株状の皮歯を特徴とする種群を構成する』。『大西洋では、西はメキシコ湾からアルゼンチン、東はポルトガルからカーボベルデ・アゾレス諸島・南アフリカ、大西洋中央海嶺上。インド洋では、クワズール・ナタール州沖・マダガスカル。太平洋では東シナ海から南日本・天皇海山群・オーストラリア沖・ニュージーランド・ナスカプレート上(Amber Seamountからサラ・イ・ゴメス島沖)から報告されている』。『大陸棚・大陸斜面の海底付近(深度274 - 1,000m)に生息する。1,998メートルまで潜る可能性もある。ポルトガル南方沖のデータによると、岩礁底を好み』、『日周鉛直移動を行うようである。南大西洋では、外洋の0 - 708メートルにも生息。熱水噴出孔でも確認されている』。頭部の『骨格は華奢で、大きな頭部、大きな楕円形の眼、鼻孔には短い前鼻弁がある。上顎歯列は22 - 31、下顎は30 - 53。上顎歯の尖頭は細く滑らかで、1 - 2対の小尖頭が隣接する。38センチメートルを超える雄では』、『小尖頭が増える。下顎歯は滑らかでナイフ状の尖頭を持ち、全ての歯が基部で結合して一枚の刃を構成している。大きな5対の鰓裂がある』。『胸鰭は丸く、その後端上方に第一背鰭があり、背鰭前部には頑丈な棘がある。第二背鰭は第一より大きく、棘も長い。腹鰭は低く角張り、臀鰭はない。尾鰭は短くて幅広く、下葉は発達して上葉には欠刻がある。皮歯は小さく塊状で、間隔が広く乱雑に並んでいるために滑らかな印象を与える。体色は一様な暗褐色で、腹鰭上部からその前後にかけて体側に黒い模様が伸びる。リュウキュウカラスザメ』( Etmopterus bigelowi :一九九三年に日本人に記載された。分布は沖縄に限るわけではなく、全世界の深度百十から千メートル海底・中深層に棲息する)『に似るが、本種は50センチメートルを超えず、腸の螺旋弁の数が少ない(本種は10 - 13、リュウキュウカラスザメは16 - 19)ことで区別できる』。『歯は性的二型を示す』。『餌はイカ・小型のツノザメ・ハダカイワシ・魚卵。卵胎生で胚は卵黄栄養で育つ。産仔数は10。雄は31 - 39センチメートル、雌は38 - 47センチメートルで性成熟する。性成熟時のサイズは地域によって異なり、西大西洋ではクワズール・ナタール州沖より大きい。成長は遅く、体は成長と共に細長くなっていく。ポルトガル南方沖からのデータでは、最低でも雄は13年、雌は17年生きる』。『東部大西洋、日本沖合などで、大量の稚魚が延縄で、少数が底引き網や定置網で混獲されている。ポルトガル南方沖では、深海漁業で多く混獲される3種のサメのうちの1種である。ほとんどは廃棄されるが、少数が干物・塩漬け・魚粉などとして利用されていると見られる。繁殖力は低く成長も遅いため、持続的な漁業圧には耐えられないと考えられる。だが』『、このような事態を示す証拠はなく、分布域も広いことから』、『IUCNは保全状況を軽度懸念としている』。『比較的多く漁獲されるため』、『沼津港深海水族館といった水族館などで短期の飼育記録はあるが、長期飼育はいまだに成功していない』とある。言うまでもないが、鱶鰭にはならない。
「とがり」「水族志」は以下である(ここの右ページ十行目)が、以下の通り、短い。『㋳トカリ【魚鑑】』。メジロザメ目に、イタチザメ科トガリメザメ属トガリメザメ Loxodon macrorhinus(一属一種)がいるが、英文の当該種ウィキを見るに、この種の棲息域は『北緯34度から南緯30度のインド西太平洋の熱帯海域』とするので、違う。トンがったサメはワンサカいるから、判らんね。
「『たちをざめ』【一名、『はりざめ』、又、『しらざめ』、漢名、「臺灣府志」の『鋸鯊《キヨサ》』。】」「水族志」は以下である(ここの右ページ十行最末から)。
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㋮タチヲサメ【紀州日高】一名ハリザメ【勢州慥柄浦[やぶちゃん注:「たしからうら」。現在の三重県度会郡南伊勢町(みなみいせちょう)慥柄浦。ここ。]】シラサメ【紀州】扁鯊續脩臺灣府志曰扁鯊身扁尾小泉州境漁人曰「タチヲザメ」ハ「ハクザメ」ト云勢州及熊野海ニ出文化八年紀州日郡ニテ捕ル者長サ一間半許橫濶一尺許扁乄厚サ一寸許形狀帶魚ノ如シ觜[やぶちゃん注:「スイ/くちばし・はし」。]火筩(ヤカラ)[やぶちゃん注:これは「矢簳(やがら)」と同義であろう。]觜ニ似テ扁ク頭ノ狀馬頭ニ似タリ圓[やぶちゃん注:「まろき」。]眼大サ寸許白色ニ乄一部許ノ白沙アリ腹ニ至テ沙粗ク頭尾ニ至テ細也尾ノ方自然ト細ク末尖リ背ニ皮ニテ包メル鬣アリ
*
これは、記載から思うに、既に出た、
ホシザメ科ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus
と思われる。
「『ゑびざめ』【一名『ゑびぶか』、漢名「廣東通志」の『蝦錯《カサク》』。】」「水族志」は以下である(ここの左ページ三行目から)。
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㋘ヱビザメ 一名ヱビブカ 蝦䱜[やぶちゃん注:「䱜」鮫の一種を指す漢語。] 形狀鯊魚同乄頭圓ク上唇圓シ其尾腹下ニ曲リテ蝦ノ如シ廣東通志曰又有二蝦錯一尾似ㇾ蝦
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全く比定不能。中文の検索の掛けたが、私の力では捜し得なかった。識者の御教授を乞う。
「ひらかしら」「水族志」は以下である(ここの左ページ後ろから二行目以降)。
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㋙ヒラガシラ 形狀「フカ」ニ同乄觜末濶大也泉州堺浦漁人曰「フカ」ニ一種類ノ如ク扁キ[やぶちゃん注:「ひらたき」。]アリ此ヲ「ヒラガシラ」ト云按大者𠀋ニ至ル全身灰黑色ニ乄沙アリ腹白色也
*
これは、文字通りの、
メジロザメ目メジロザメ科ヒラガシラ(平頭)属ヒラガシラ Rhizoprionodon acutus
である。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『インド洋、東大西洋、太平洋。南アフリカ共和国からオーストラリアにかけて(インド太平洋)。マデイラからモーリタニア・アンゴラにかけて(東大西洋)』分布する。『インド洋では南アフリカからマダガスカルを経てアラビア半島、南アジア・東南アジア。太平洋では中国から南日本・フィリピン・インドネシア・ニューギニア・オーストラリア北部に分布する[3]。中新世にユーラシアとアフリカ大陸が衝突するまでは、テチス海に沿って連続した分布域を持っていたようである』。『ヒラガシラ属の最大種であるが、ほとんどの個体は1.1mを超えない。通常は雌は雄よりも大きい。西アフリカからは、最大で雄は1.78m・22kg、雌は1.65m・17kgという報告があるが、これらが本種であるかどうかには不確実な点がある』。『体は細く、吻は長く尖る。眼は丸くて大きく、瞬膜を備える。噴水孔はない。口角の直後には7-15個の孔がある。鼻孔は小さく、三角形の前鼻弁が付随する。口角には長い唇褶があり、上下の顎に伸びる。歯列は上下ともに24–25。上顎歯には細かい鋸歯があり強く傾く。下顎歯は似た形だが』、『鋸歯が小さく、先端は緩やかに上を向く。幼体の歯には鋸歯はない』。『胸鰭は幅広く三角形で、第3か』、『第4鰓裂の下から起始する。臀鰭は第二背鰭の2倍の長さで、その前方には長い隆起線がある。第一背鰭は胸鰭の後端の上から起始する。第二背鰭は第一よりかなり小さく、臀鰭の基底の後部1/3の点から起始する。背鰭の間に隆起線はない。尾鰭下葉はよく発達し、上葉の後縁先端には欠刻がある。背面は一様な灰色・灰褐色または紫灰色で、腹面は白い。第一背鰭の前縁と尾鰭の後縁は黒く、胸鰭の後縁は白くなることがある』。『分子系統解析から、少なくとも4種に分かれることが示唆されている』。『種小名はラテン語で"鋭い"を意味する。その後、本種は Carcharhinus 属や Scoliodon 属に含められたが、最終的には Rhizoprionodon 属のタイプ種 R. crenidens のシノニムとして Rhizoprionodon 属に置かれた。リュッペルはタイプ標本を指定しなかったため、1960年、Wolfgang Klausewitzは』、『サウジアラビアのジッダで得られた44cmの雄個体をレクトタイプ』(lectotype:生物学に於ける「選定基準標本」を指す。原記載でホロタイプが指定されなかった場合、ホロタイプ(holotype:動植物学では「正基準標本」或いは「正模式標本」と言い、原生動物では「正基準」。)が行方不明の場合、又は、ホロタイプに二種類以上の生物が混じっていた場合、新たに選び直されたり、作り直されたりした標本を指す)『に指定した』。『英名"milk shark"はインドにおいて、本種の肉が母乳の出を促進すると信じられていることによるものである。他の英名としてfish shark・grey dog shark・little blue shark・Longmans dogshark・milk dog shark・sharp-nosed (milk) shark・Walbeehm's sharp-nosed shark・white-eye sharkなどがある。1992年のアロザイムを用いた分子系統解析では、解析に含められた4種のヒラガシラ属の中で最も基底的な位置にあった。フランス南部とポルトガルの中新世中期(1600-1200万年前)の層から産出する R. fischeuri も、本種と同一である可能性がある』。『岸近くの砕波帯から深度200mまでで見られ、砂浜沖の濁った水域を好む。河口に入ることもある』。『低い塩分濃度を嫌うとしている資料もあるが、トンレサップ湖』(ここ)『など』、『カンボジアの淡水域から数回記録されている。生息深度は選ばず、表層から海底まで見られる』。南アフリカの『クワズール・ナタール州』(ここ)『では、個体数は夏をピークに周年で変動し、回遊を行っていることが示唆される。分布域の沿岸では最も豊富に見られるサメの一つで、主に群れを作る底生の小さな硬骨魚を捕食する。稀に頭足類・甲殻類・腹足類を食べることもある』。オーストラリア西岸の『シャーク湾』(ここ)『では、トウゴロウイワシ科・マルスズキ』(スズキ目スズキ亜目スズキ属 Lateolabrax Japonicus 。日本と韓国の一部にのみ分布する。)『・キス・ベラが重要な餌であり、海草に隠れているため』、『他のサメに捕食されないアカメモドキ』(スズキ亜目アカメ科アカメモドキ(赤目擬)属アカメモドキ Psammoperca waigiensis 。分布はオーストラリア南岸のみ。)『を捕食する唯一のサメである』。オーストラリア北岸の『カーペンタリア湾では』(ここ)『主にサヨリ科・マルスズキ・ボラを捕食しており、クルマエビ科の主要な捕食者でもある。小型個体は主に甲殻類・頭足類を食べるが、成長に連れて魚が中心になってゆく』。『カマストガリザメ』(メジロザメ属カマストガリザメ Carcharhinus limbatus )『・Carcharhinus tilstoni 』(英名:Australian blacktip shark)『のような大型のサメや、おそらく海獣も本種を捕食する。クワズール・ナタール州では、人間活動によって大型のサメが減少していることで、本種の個体数が増加している。寄生虫として、カイアシ類』(甲殻亜門多甲殻上綱六幼生綱カイアシ亜綱新カイアシ下綱 前脚上目 カラヌス目 Calanoida)『のPseudopandarus australis が知られている。雌雄は互いに分かれて生活していると考えられる証拠がある』。『他のメジロザメ科同様に胎生である。雌は左側の卵巣と、左右の子宮が機能する。子宮内は胚を1個ずつ収める区画に仕切られている。生活史の詳細は地域ごとに異なる。一般的には毎年繁殖するが、2年おき・3年おきに繁殖するものもある。出産・交尾は、西-南アフリカでは春から初夏(4-6月)、インドでは冬に起こる。これとは異なり、オマーンでは春にピークはあるが、出産は』、『年中』、『行われる。オーストラリアでも出産は年中行われ、シャーク湾のHerald Bightでは、新生仔の個体数は4月と6月にピークを迎える。定まった繁殖期を持たない集団がいる理由としては、(実際に観察されたわけではないが)胚発生時の休眠期間などによって繁殖サイクルが延長されたり』、『複雑になったりしている可能性が考えられる。雌が体内に精子を蓄えることはない』。『産仔数は1-8だが、典型的には2-5であり、母体の大きさに連れて増える。オマーン近海では、雌:雄の性比は2:1以上になり、産まれる個体が全て雌であることも珍しくない。セネガルやインド東部からも、これほど極端ではないが同様の性比の偏りが観察されている。この偏りの原因は不明で、ニューファウンドランドヒラガシラのような近縁種では観察されていない。胚は3段階を経て発達する。第一段階は胚が63-65mmになるまで2ヶ月間続き、この期間の胚は卵黄によって成長し、ガス交換を外皮や、おそらく卵黄嚢の表面を通して行う。第二段階は81-104mmになるまで2ヶ月間続き、外鰓が発達して卵黄が吸収され始め、胚は母体が分泌する子宮乳によって成長する。第三段階は6-8ヶ月続き、内容物を失った卵黄嚢は胎盤に転換され、胚は出産まで母体から直接栄養されるようになる』。『出生時は32.5-50.0cm・127-350g。非典型的な記録では、ムンバイで捕獲された雌が、妊娠期間が完了するかなり前に、既にほぼ発達が完了した23.7cmしかない胎児を含んでいた例がある。雌は、暖かく餌の豊富な沿岸の成育場に移動して出産する。成育場としてモーリタニアのバン・ダルガン国立公園・クイーンズランド州のCleveland Bay・シャーク湾のHerald Bightなどが知られている[19][20][21]。Herald Bightでは、浅い潮だまりや、密で高い植生によって捕食者から姿を隠せるような海草藻場で大きな群れを作っている小型個体が見られる。これらの個体は、性成熟に達するとこのような湾内から離れる』。『西アフリカでは雄は84-95cm・雌は89-100cm、アフリカ南部では雄は68-72cm・雌は70-80cm、オマーンでは雄は63-71cm・雌は62-74cmで性成熟する。この不一致は地域差か、高い漁獲圧による人為選択の結果だと考えられる。チェンナイで計測された成長速度は、1年目は10cm・2年目は9cm・3年目は7cm・4年目は6cm・5年目は5cm・それ以降は毎年3-4cmというものだった』。『肉や鰭』(☜)『が食用とされることもあり、乾燥させたり』、『塩漬け・燻製などにされることもある。魚粉として利用されることもある』。『漁業や混獲・スポーツフィッシングなどにより、多くの生息地で生息数が減少している。沿岸部に生息するため、東南アジアではマングローブ林の開発による影響も懸念されている』。『小型で歯も小さいため、人には無害である。個体数が多く、分布域全域で地域漁業や商業漁業において重要種となっている。セネガル・モーリタニア・オマーン・インドでも最も商業的に重要なサメの一つである。ゲーム』・『フィッシュとして扱う遊漁者もいる。1980年代から1990年代前半にかけてのインド、ベラバルの沿岸での資源量調査では、刺し網とトロールによる漁獲量は持続可能なものであると結論された。だがこの調査は、後に個体数調査には不向きと証明された方法論によって行われている。この評価の後にも、地域の漁獲量は大幅に増加している』とあった。
「『かつたひうちは』【一名、『うちは』、又、『こふたゑひねこ』等なり。】」これは、次に独立させてしまっている「うちはざめ」の異名にして、既に出た差別和名の一つである。「水族志」の、ここの右ページの二行目以降。
*
㋓ウチハザメ」[やぶちゃん注:鍵括弧始めがないのはママ。] 一名カツタイウチハ【紀州若山】スブタヱイ【大和本草】子コ[やぶちゃん注:ネコ。]【熊野三老津[やぶちゃん注:「みらうづ」と読む。」和歌山県すさみ町(ちょう)見老津(みろづ)。]】大和本草曰「スブタヱイ」「カイメ」ニ似タリ「カイメ」ヨリヒラク大ナリ目口ヒレ尾「カイメ」ニ同シ按形狀「カイメ」ニ似テ頭「ヱイ」ノ如シ身尾ハ「カイメ」ニ[やぶちゃん注:原本の鈎括弧閉じる位置がおかしいので、補正した。]似テ同腹ノ左右ノ稜ニ鬣ノ如キ短皮アリテ尾上ヨリ首ニ至ル背淡黑色ニ乄淡紅黃ヲ帶ヒ沙アリ頭ノ中心ニ三ツ左右ニ四眼ノ前ニ二ツ大小ノ黃星㸃アリ眼後ニ水噴ノ穴アリ穴細長ニ乄藍黑色背ヨリ尾ニ至テ細ク短キ刺並ブ腹ハ白色口は「カイメ」ノ如シ肉臭シ食乄腹痛スルヿアリ
*
もうお分かりの通りで、これは、サメ・フカではなく、エイである。まあ、「エイひれ」もあるから、問題はなかろう。種は、既に、「大和本草附錄巻之二 魚類 エイノ類 (エイ類)」で考証してあるので、詳しくは、そちらを見られたい。結論だけを言うと、
サカタザメ(エイ区エイ上目サカタザメ目サカタザメ科サカタザメ属サカタザメ Rhinobatos schlegelii )
であり、「カイメ」というのも、
九州・福岡志賀島・長崎でサカタザメの異名
としてあるのである。而して、後に本文に出る「『さかたぶか』【一名、『かいめ』、又、『すきのさき』・『すきゑひ』、漢名、「閩書」の『犁頭鯊《リトウサ》』。】」も同種となる。
「『のこぎりぶか』(漢名は「廣東名勝志」の『鋸鯊《キヨサ》』)」「水族志」は以下である(ここの右ページ後ろから五行目以降)。やっと、本書の「水族志」の引用が終わった。
*
㋐「ノコギリブカ」[やぶちゃん注:鍵括弧閉じるが欠しているのはママ。]鋸鯊本草啓蒙曰蠻來者ハ至テ大ナル者アリ廣東名勝志曰有二鋸魚一南越謂二之狼藉魚一身長二丈口長六尺廣三寸左右生ㇾ齒如ㇾ鋸按形狀「フカ」ニ同乄上嘴長ク出扁薄左右ニ配列セリ一ハ長ク次ハ短シ刺色白ク透明嘴長ク出扁薄左右ニ排刺[やぶちゃん注:「はいし」。並び方や鋭さが特徴的なトゲ。]アリ一ハ長ク次ハ短シ刺色白ク透明嘴背ハ淡褐色ニ乄醬色ノ條アリ嘴ノ半ノウラノ左右ニ嘴下ノ內左右𪜈一行ニ短刺アリ口ハ觜ノ本ヨリ少シ下ノウラニアリ口ノ籩頬ニモ刺アリテ內ヘ曲レリ背灰色ニ乄首ヨリ背ノ左右ニ分レ淡茶色ノ縱條アリ大者此條ナシ腹白色首以下「フカ」ノ左右ノ如シ細沙アリ本草啓蒙ニ其ノ上唇長シト云非也閩書ニモ有二鋸鯊一上唇長三四尺兩旁有ㇾ齒如ㇾ鋸ト云リ「ノコギリブカ」ハ上唇長ク出テ下唇ハ無者也
*
文句無しで、
板鰓亜綱ノコギリザメ目ノコギリザメ科ミナミノコギリザメ Pristiophorus cirratus
である。ノコギリザメ科 Pristiophoridae には全世界に二属十種がいるが、日本産は、この Pristiophorus japonicus 一種のみである。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクさせておく。ただ、鱶鰭になるかどうかは、検索して見たが、出てこない。体長一・五メートル前後で、鰭も、あまり大きくないので、商品価値がないように見受けられる。
「ばげ」これ以下は、「鱶鰭」に製造する対象を、東日本で、どう呼称するかというリストなのだが、試みに国立国会図書館デジタルコレクションで「鱶鰭 ばげ」のフレーズで検索して見たが、思うように「ばげ」なるものが見出せなかった。以下、これを蜿蜒と行うことに、私は、有益な結果が出るとは思われなかった。例えば、「尾長(をなが)」・「星鮫(ほしざめ)」・「『白鮫(しろざめ)』【漢名、「寧波府志」の『鮧鯊《イサ》』。】」・「姥鮫(うばざめ)」・「『しゆもくざめ』(漢名『閔書』の『雙馨戴』)」は、既に注したもので、ここまでお附き合いして下さった諸君には、屋上屋となろうからして、注をする必然性を全く見出せないのである。気になったものだけを、チョイスすることとした。悪しからず。
「尾羽毛(をぞけ)」福岡市の「カネ又田中商店」公式サイト内の「【尾羽毛(オバイケ)】」に、『さかなの尾びれにあたる部分で内部は白いゼラチン質が豊富です。通常さらし鯨(塩漬けのスライスをボイルし冷水にさらしたもの)になっておりますので良く冷やし、酢味噌または、からし酢味噌でお召し上がりください。』とあった。見た目は、私の好きな「クジラのさらし」に酷似ている。大型のサメ類からも、類似品が加工出来ないことはないとは思った。
「四ツ目ざめ」サイト「ocean+α」の「ジンベエザメには目が四つ!? 世界最大の魚の生態と魅力を徹底紹介」(山本 真紀さん記載)の「ジンベエザメには目が4つ?」に、『ジンベエザメの眼の後ろには小さな孔が開いています。これは噴水孔という軟骨魚類(エイ・サメ)に特有の器官で、呼吸を助けるためのもの。海底で生活をする種類ではよく発達しており、エイ類などでは眼より大きいくらいです』。『遊泳性のジンベエザメでは痕跡程度ですが、本来の眼が小さいのでちょうど同じくらいのサイズ。ほら、まるで四つ目に見えませんか』? とあった。そういえば、ここまで、サメや軟骨魚類のみならず、総ての魚類の中(哺乳類である鯨類を除く)、最大種である、
軟骨魚綱テンジクザメ(天竺鮫)目Orectolobiformesジンベエザメ(甚兵衛鮫・甚平鮫)科 Rhincodontidaeジンベエザメ科ジンベエザメ属ジンベエザメ Rhincodon typus
らしき記載がなかったのに気づいた。ここは、俄然、この大御所にトリをとって頂くことと致そう。平凡社「世界大百科事典」から引く。なお、そこでは、別の表記の「ジンベイザメ」で記載されてある。『ジンベイザメ』『 Rhincodon typus 』『ネズミザメ目ジンベイザメ科の海産魚』。『ジンベエザメともいう。英名は whale shark といい,その巨体に由来する。全世界の熱帯から温帯にかけての外洋域に分布する。日本近海には初夏に暖流にのってカツオとともに北上してくる。口が吻端(ふんたん)近くにあり,背中から尾にかけて数本の縦縞と白色または黄色の斑紋があるのが特徴。現生の魚類中最大で,全長18mに達し,体重は数十tに及ぶ。性質はおとなしく人間を襲うことはない。卵生のサメで長さ30cm,幅14cm,厚さ9cmの長方形の卵殻に包まれた卵が見つかったことがあり,その中には36cmの幼魚が孵化(ふか)していた。海の表層を泳ぎ,歯は円錐形できわめて小さく,物をかむ機能はないが,代りにふるい状の鰓耙(さいは)が発達して,小魚や動物プランクトンをろ過して食べる。ときには口を垂直にして多量の品を食べることがある。カツオの中には,このサメといっしょに泳ぐ群れ(サメ付き群)がある。このためカツオの群れを見つける目安となるので,間接的には漁業に役だってはいるが食用にはしない。』とあるが、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『フカヒレは最高級のものとされ、天頂翅と呼ばれ珍重される。先進国の中華料理店でフカヒレが好まれていることが、発展途上国の漁師によるサメ全体の乱獲に繋がっている』とあり、『肉が食されることは少ないが、味はあっさりしているという』とあった。
「いらぎ」「和歌山県」公式サイト内の「東牟婁振興局 」の「いらぎ(アオザメ)」に、「いらぎ(アオザメ) 東牟婁地方の食材コレクション」・「マグロに隠れた紀南地域の美味しい名産品」として、『●特徴』に『サメ類はまぐろはえ縄漁の外道として漁獲され、マグロと一緒に勝浦漁港に水揚げされる。サメ類は主に“フカヒレ” としての利用が有名だが、紀南地方ではアオザメの身を干物にして食べており、 土産物としても売られている』とあり、『●食べ方』に『塩干しや味醂干しの形態で販売されており、火で炙って食べる。独特の風味は、酒のお供に最高。』とする。『●旬』は『周年』で、『●産地』は『那智勝浦町』である。既注のネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ(青鮫)属アオザメ Isurus oxyrinchus である。
「かせざめ」これは、正しく、ツノザメ上目カスザメ(糟鮫)目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica である。
「みすざめ」これは、既に出た、オナガザメ属マオナガ(真尾長/オナガザメ) Alopias vulpinus である。
「ふしきり」最後の最後が、幾ら調べても見当たらぬ。しかし……これって……文字列から言って、メジロザメ科ヨシキリザメ属ヨシキリザメ Prionace glauca では御座らぬかのぅ?]
8―33 諏訪備前守、尾州へ御使の途中、松山侯と爭論、石川主水正裁斷せし事
近き頃のことなり。
番頭(ばんがしら)諏訪備前守、尾州ヘ、御使(おんし)、蒙りて赴(もむき)しに、東海道の何驛にてかありし、松平隱岐守が松山表(おもて)よりの飛脚、行違(ゆきちがひ)しに、上使(じやうし)の事なれば、往來の者に聲掛け、下坐させしに、其飛脚計(ばかり)、下坐せざりしかば、諏訪の徒士(かし)、飛脚を捉(とら)へけるに、下供(しもども)[やぶちゃん注:諏訪備前守の道中に付き添う下級の中間ら。]、馳集(はせあつま)り、散々に打擲(ちやうちゃく)しけり。
このこと、松山の邸吏(ていり)より、勘定奉行の道中方心得(だうちゆうがたこころえ)たる服部備後守へ訴出(うつたへいで)て、雙方(さうはう)、吟味になりける。
松山藩にては、
「上使にてもあれ、餘り、無體(むたい)の仕方なり。」
とて、大(おほい)に怒り、其(その)曲直(きよくちよく)を明白に立(たて)んとす。
又、番頭(ばんがしら)の輩(やから)は、
「此事、もし、松山の意(い)、立(たつ)ときは、上使の權(けん)の、輕重に預(あづか)ることなり。」
とて、各(おのおの)、諏訪に荷擔(かたん)して、紛々(ふんぷん)の論、起(おこ)る。
備後守も、裁判(さいはん)しかねて、數日(すじつ)を經(ふ)る中(うち)に、轉職して、小普請組支配(こぶしんぐみしはい)となり、其獄(そのごく)[やぶちゃん注:この場合の「獄」は「訴え」の意味であるので注意。]は、跡役(あとやく)の石川主水正(もんどのしやう)へ送りに成(なり)ける。
主水正は、再吟味にも及ばず、松山の邸吏を呼(よび)、
「扨(さて)。此度(このたび)のこと、曲直(きよくちよく)の論は、姑(しばら)く置き、第一、公義を憚らず、我意(がい)を立てゝ、上使の權を挫(くじか)んとするは、御普第(ごふだい)の家(いへ)の本意(ほい)に非(あらざ)るべし。此事(このこと)、定めて、隱岐守の所存(しよぞん)なるべからず。役人の心得違(こころへちがひ)なるべし。よく、此旨(むね)を家宰(かさい)に申(まうし)て、明日(みやうにち)、來(きた)り、答詞(たうし)を述(のぶ)べし。夫(それ)とも、官威(くわんい)を立(たつ)るの意なく、其藩の威(い)を立(たて)んとして、勝負を爭(あらそふ)の心あらば、我等、再吟味の上、たとひ、松山の人の、直(ちよく)なるにもせよ、奉行所にては、曲事(くせごと)に申付(まうしつく)べし。」
と、色を厲(な)して言(いひ)けるに、邸吏も、頓首(とんしゆ)して退(しりぞ)きけるが、翌朝、邸吏、來り、
「昨(きのふ)の利解(りかい)を、家宰に申聞(まうしき)けるが、松山の家においては、殊更(ことさら)、官へ對し、曲直勝負(きよくちよくしやうぶ)を爭ふこと、いかであるべき。眞(まこと)に恐懼(きようく)の至(いたり)なり。此一件、何とぞ、内濟(ないさい)に奉ㇾ願(ねがひたてまつる)。」
の旨(むね)を演說しければ、卽(すなはち)、願(ねがひ)の通り、內濟に申付(まうしつけ)しとなり。
實(まこと)に「片言析獄[やぶちゃん注:ママ。]」とも云(いひ)つべし。
■やぶちゃんの呟き
まず、最後の静山の附言の「片言析獄」は恐らく、底本(東洋文庫版)の誤判読か、誤植であろう(ママ注記はないから、静山の誤字ではない)。「片言折獄(へんげんせつごく)」で、「辞書オンライン 四字熟語辞典」のここによれば、『一言で人々を納得させる裁判の判決を下すこと。また、一方の言い分だけを信じて裁判の判決を下すこと。』とあり、『「片言」は短い言葉や一方的な言い分。』、『「折」は「断」と同じ意味で、善悪を判断して決定を下すこと。』、『「獄」は訴訟のこと。』とあり、『「片言(へんげん)獄(ごく)を折(さだ)む」とも読む。』とある。
「諏訪備前守」諏訪頼存(よりつぐ)か。判らぬ。識者の御教授を乞う。
「松平隱岐守」伊予松山藩の藩主であるが、誰かは、私には判らない。識者の御教授を乞う。
「服部備後守」後に幕府勘定奉行となった旗本服部貞勝か。判らぬ。識者の御教授を乞う。
*
なお、本篇は、百合の若氏の「甲子夜話のお稽古」のこちらに、現代語訳がある(但し、注はない)。
*
遅々として進まぬものの、やっと、「卷九」を終えた。私の多くに手をつけてしまった諸電子化注プロジェクトの中で、私が死ぬまでに全部を完遂することは、不可能と思っている。せめても、脳が働くなるまでに、正編は終わらせたいとは思っているが……さればこそ、「やぶちゃん注」ではなく、「やぶちゃんの呟き」と手抜きをしているのである。お許しあれかし……
8―32 大番頭水野山城守の事
享保中、番頭(ばんがしら)勤めし水野山城守、初(はじめ)は十兵衞と呼(よび)しが、今に人口に膾炙する一代の偉人なり。
若き時、いまだ、寄合(よりあひ)にて在(あり)し頃、徒士(かち)なども、大男を擇(えら)び、召(めし)つれて、道の眞中(まなか)を通りけるに、小身(しやうしん)の御旗本衆(おはたもとしゆ)、侍に草履取(ざうりとり)計(ばかり)の行粧(かうさう)にて來りしが、これも同(おなじ)く道の眞中を通りて避(さけ)ず。
既に口論に及ばんとせしが、とかくして、濟(すみ)ぬ。
後に城州(じやうしう)、兩番頭(りやうばんがしら)となりしとき、その人、組の番士たりしが、
「勇氣あり。」
とて、城州、目を掛(かけ)し、となり。
又、惇廟(じゆんびやう)[やぶちゃん注:徳川家重のこと。]、御多病(ごたびやう)により、
「御運動(おんうんどう)の爲め、亂舞(らんぶ/らつぷ)の御相手なるべき人を、擇(えらめ)る。」とて、參政より、
「組の中に、亂舞、よくする人や、ある。」
と、尋(たづね)しかば、
「拙者組(せつしやぐみ)に、左樣の田分者(たはけもの)は、御坐なく候。」
と、答へし、となり。
又、組より、進物番(しんもつやく)へ出役(しゆつえき)せしもの、何(なん)の時にや、席の疊目(たたみめ)を違(たが)へしことありて、とやかく、むづかしかりしを、城州、一向に聞入(ききい)れず。
「我等、見て居(をり)候が、疊目は、違(たがひ)申さず。」
と、云張(いひはり)て、その者の不調法(ぶちやうはう)に、せず。
扨(さて)、後(のち)、その者を呼びて、
「頃日(けいじつ)[やぶちゃん注:近頃。]のことは、いかにも、疊目、違ひたり。然(しか)れども、『武士を、疊目の違ひたるなど、云(いふ)ことにて、恥かゝすることや、あるべき。』と、我等、御役(おやく)に替(かへ)ても、云張(いひはり)たり。倂(しかし)、もし、事に臨(のぞみ)たるとき、一足(ひとあし)も、引(ひか)ば、それは、許しは、いたさぬぞ。」
と戒(いましめ)し、となり。
其(その)風采(ふうさい)、おのづから、上にも聞(きこえ)し及(およ)ばせ玉(たま)ひしや、大番頭(おほばんがしら)へ擢(ぬきんで)られしとき、上意(じやうい)を蒙(かうむ)ると、平伏して、暫(しばらく)、頭(かしら)を揚(あげ)ず。
やうやうに、御次(おんつぎ)へ退(の)きし跡(あと)に、落淚の痕(あと)、席に殘りしを、德廟[やぶちゃん注:徳川吉宗。]、御覽ありて、御小姓衆(こしやうしゆ)に指(ゆび)さしたまひ、
「あれ見よ、鬼(おに)の淚は、これぞ。」
と、仰(おほせ)ありし、となり。
其後(そののち)、何事か、殿中にて、老職衆(らうしよくしゆ)、
「面談する。」
とて、城州を呼(よば)れけるとき、同朋頭(どうぼうがしら)、申傳(まうしつた)へしに、城州、徐々(ゆるゆる)と、步み來(きた)る。
同朋頭、
「早く、步み玉へ。某殿(なにがしどの)、待居(まちゐ)られ候に。」
と、云へば、大番頭は、
「左樣に、かけ𢌞(まは)るものにては、無し。」
と云(いひ)て、自若(じじやく)たりし、となり。
又、淸水殿【俊德院殿。[やぶちゃん注:徳川家重の次男で、後の清水徳川家初代当主なった徳川重好。]】、幼稺(えうち)のとき、御表(おんおもて)の席々へ、遊びながら、出玉)いでたま)ふこと、あるに、其席にあるもの、樣子を見繕(みつくろ)ひ、皆、逃(のが)るゝことなりしに、一日(いちじつ)、「菊の間」に、城州、ありしとき、淸水殿參られしが、付添(つきそひ)たる小納戶衆(こなんどしゆ)、城州を見て、
「早く、にげたまへ。」
と云(いひ)ければ、城州、何(なに)しらぬ顏(がほ)にて、
「番頭は、にげるもので、なし。」
と云(いひ)て、堅坐(けんざ)して、動かざりし、となり。
■やぶちゃんの呟き
「水野山城守」水野忠英である。個人ブログらしき「寛政譜書継御用出役相勤申候」の「水野 6700石(元高6000石)」のページに、『甲子夜話(1)147頁』(=本文)『に出ている水野山城守はこの人の祖父(忠英『寛政譜』(6)117頁)。道を譲る譲らないで自分に盾突いた相手を見どころありと抜擢する話。その相手の旗本は、『耳袋』(岩波文庫版)上巻243頁で瀬名伝右衛門と知れる。』とあった。この話、実は、私の二〇一〇年四月九日に公開した「耳囊 卷之二 瀨名傳右衞門御役に成候に付咄しの事」がそのものであり、その注で、既に考証してあるので、見られたい(古過ぎて、すっかり忘れていた。トホホ……)。
「亂舞」この場合は、能楽で、演技の間に行う速度の速い舞。また、能のこと。「らっぷ」とも言う。
「疊目」「疊の目」とも言い、これは、「畳の敷き方」を指す。そこには、祝儀・不祝儀に扱われる複雑な禁則規定が存在する。幾つかのサイトを見たが、この本文の書き方では、どのような誤りがあったのかが、判然としないので、具体的な問題個所は、よく判らない。目から鱗の解説に遂に行き至らなかった。取り敢えず、「さわはた畳屋」公式サイトのブログの「畳の敷き方にも基本的なルールがあります。こっちの畳とあっちの畳を入れ替えてみたいけどできるの?」で、何となく、私は理解し得たと感じた。本文の謂いを、より、ズバリと解き明かしているところがあるのであれば、御教授下されると、幸いである。
8―31 大岡越州よく鄙事(ひじ)に通達せし事
[やぶちゃん注:チョー有名人が出現した。「鄙事」は、この場合、冒頭で「瑣事(さじ)」(少しばかりのこと・取るに足りないつまらないこと)と言っているように、広義の「俗事(ぞくじ)」の意。今回は、早合点で、途中で注を施してしまった……トホホ……。]
大岡越前守は名譽の町奉行なり。瑣事までも、よく、下情(げじやう)に通じ、その敏捷(びんせふ)なるを想ひやらるゝこと、あり。
一日(いちじつ)、いづれの町よりか、其店(そのたな)に、
「無商賣にて、相應に暮(くら)すものあり。」
とて、訴へ出(いで)しを、與力(よりき)、取次(とりつぎ)て申聞(まうしき)ければ、白洲(しらす)へ呼出(よびいだ)し、越州(えつしう)、出坐(しゆつざ)して、
「其方(そのはう)は、地搜(ぢさがし)か。」
と尋(たづ)ぬ。
「左候(ささふらふ)。」
と申(まうし)ければ、
「許してやれ。」
迚(とて)、坐を起(たち)ける。
[やぶちゃん注:「地搜(ぢさがし)」(読みは、東洋文庫版にあった)は、流石に、ピンとこなかった。静山は、実は、本文の終わりで説明しているのだが、各個撃破ばかり考えて、全文を読まない癖がついたのである。国立国会図書館デジタルコレクションで検索を掛けたら、幸いに、バッシ! と模範解答を見つけることが出来た。「大名小路から丸の内へ 江戸絵図が語る丸の内三〇〇年」(玉野惣次郎編著・一九九五年菱芸出版刊)の「名奉行・大岡越前守の実像」のここで、まさに本文の当該部が引用された後に、『〝地捜し〟とは、最近は見かけなくなったバタ屋の隠語である。与力さえ知らなかった言葉を、奉行の越前守が知っていて、地捜しも商売と判断したのであった。』とあった。若い諸君は「バタ屋」でもピンとこないだろうから、老婆心乍ら謂い添えておくと、「屑屋(くずや)」・廃品回収業者のことである。当該ウィキに拠れば、『別名にバタ屋、紙くず屋、ボロ屋、くず鉄屋、てん屋がある。』とあるが、「地捜し」はない。ウィキさんよ、入れといた方がいいぜ! 私は、嘗てはウィキペディアンだったが、いい加減、勝手に私が修正したものを元に戻すことが数回あって、堪忍袋がキレて、永久にオサラバしたので、やる気はネエよ!]
又、町より、
「肴賣(さかなうり)を、其(その)最寄(もより)寺院の、女犯(によぼん)の媒(なかだち)する。」
迚(とて)、訴へ出(いで)し、あり。
是も白洲にて、
「其方は、南向(みなみむき)か、北向か。」
と尋けるに、
「南向に候。」
と、答ければ、
「大目に見てやるぞ、北向ならば、許さぬぞ。」
と、言棄(いひすて)て、起(おこし)て、入りける。
[やぶちゃん注:「南向か、北向か」これもさっぱり判らなかった(同前で、静山は、終わりで説明している)。やはり、国立国会図書館デジタルコレクションで、又しても、模範解答を見出した。「人物探訪日本の歴史 7 将軍と大名」(一九八三年暁教育図書刊)の、徳永信一郎氏の「大岡忠相 裁決明断の江戸町奉行」の最後のここで、当該本文を次のように訳した上で、以下のように補足している。下線太字は私が附した。
《引用開始》
あるとき、魚売りが近所の寺院で女犯の媒介[やぶちゃん注:「なかだち」に同じ。]をしている――と訴え出たものがあった。
忠相は、寺院の住職を白洲(しらす)へ呼び出し、
「その方は南向きか北向きか」
と問い、南向きだと答えると、
「南向きなら大目に見てやる。北向きなれば許さぬぞ」
と叱りつけ席を立った。そのころ吉原のことを北向き、魚を食うことを南向きというのが僧侶の隠語(いんご)であった。忠相が下情に通じていたという一例である。
《引用終了》
私は、本文の「肴賣を」の「を」から、迂闊にも、魚売りが呼び出されて尋問されたものと読んでいたが、考えて見れば、この場合、それが事実なら、問題なのは、遙かに、その寺の住職であって(女犯(にょぼん)は浄土真宗僧以外は死罪であった)、当然、住職が召喚されるのが当然だと、横手を打ったのであった。]
後(のち)に、與力、
「何事なりや。」
と問(とひ)しかば、
「是等のことも知らで、町與力が、勤(つとま)るものか。」
と、叱り付けられ、與力も、
「膽(きも)を落(おと)せり。」[やぶちゃん注:「啞然とするばかりであった」の意。]
と、なり。
この「南向」とは、「僧の肴喰(さかなぐひ)」ことなり。「北向」とは、「女犯」のことなり、とぞ。
「地搜」とは、早天(さうてん)に、夜中、道路に落(おち)たるものを、拾ひ、賣代(うりしろ)なして、活計(くわつけい)にする名なり、とぞ。
いづれも、そのことを匿(かく)して、人に分らぬやうに云(いふ)、鄙言(ひげん)なり、と、云(いふ)。
■やぶちゃんの呟き
因みに、大岡忠相は延宝五(一六七七)年生まれで、宝暦元年十二月十九日(一七五二年二月三日)に亡くなっている。当該ウィキに拠れば、死因については、『呼吸器系・消化器系の疾患を患っていたと考えられている』とある。静山は、その死の九年後の宝暦十年一月二十日(一七六〇年三月七日)に生まれている。
8―30 番頭高井兵部少輔、組士井上圖書のこと。又、其頃の番頭、風儀の事
高井兵部少輔(ひやうぶせういう)、番頭(ばんがしら)、勤めし頃は、世風(せふう)、おのづから武氣(ぶき)ありて、今の如き、軟弱の習(ならひ)は無(なか)りし、となり。
後(のち)、大目付までに昇りし井上圖書頭(づしよのかみ)は、その組(くみ)にて、ありしが、殊に貧困にして、勤め續(つづく)べからざるほどのことなりしを、
「人物に、見所(みどころ)あり。」
とて、色々に勸めて、勤(つとめ)させ、遂に、御目付へ、申上(まうしあげ)て、御用召(ごようめし)になりしとき、兵部の宅へ、圖書、來り、
「明日(あす)は、召(めさ)せられ、難ㇾ有(ありがたき)ことに候へども、迚(とて)も勤め候ことは、出來不ㇾ申候(できまうさずさふらふ)に付(つき)、病(びやう)きにて、引(ひき)候の外(ほか)は無く候。格別に御見立(おみたて)下され候へぱ、御禮(おんれい)を申(まうし)て引(ひき)候。」
と、愁然として申(まうし)けるに、兵部、近習(きんじふ)を呼べば、物蔭より、廣蓋(ひろぶた)を持出(もちいで)て、圖書の前に置く。
これを見れば、井上家紋の小袖、麻上下(あさかみしも)に金五十片を添(そへ)たり。
其時、兵部、云(いふ)。[やぶちゃん注:底本の句点を採用したので、ここは「いはく」では、合わないと判断した。]
「いかやうにもして、勤め續れ候へ。」
と、ありしかば、思ひよらぬ厚意に感じ、圖書、翌日、登城(とじやう)し、御役(おやく)を蒙(かふむ)り、勤めし、とぞ。
又、
『組の某(なにがし)を、見立(みた)て申上(まうしあげ)ん。』
と思惟(しゐ/しゆい)せしが、尙も、その人物を試(ためさ)ん迚(とて)、ある日、某の宅に來りて、供の者は、途中にて、辨當、用(もちひ)させたり。
「予は、『これより先に、親族、あれば、その所に至り、飯(めし)用(もちひ)ん。』と思ひしが、『近く、相番(あひばん)のあるに、それ迄へ行(ゆく)にも及ばじ。』と思ひ立(たち)、よりたり。茶漬飯(ちゃづけめし)、所望(しよまう)す。」
と、云(いひ)ければ、某(なにがし)、とりあへず、飯に香物(かうのもの)・座禪豆(ざぜんまめ)計(ばかり)にて、茶漬を出(いだ)しければ、快(こころよ)く、數椀(すわん)を喫(きつ)し、歸りて、決心して、某を書上(かきあげ)し、となり。
その、眞率にして、少しも取飾(とりかざり)なきを、めでしなり。
又、その組より出(いで)て、御目付勤めし某(なにがし)、あるとき、殿中(でんちゆう)混雜せし折節(をりふし)、兵部の坐(ざ)して在(あり)しに、立(たち)ながら、物言(ものいひ)けること、ありしかば、
「御自分は、我等組より見立てゝ申上(まうしあげ)しものなり。かゝる不禮の擧動におひて[やぶちゃん注:ママ。]は、申上げて、御役御免(おやくごめん)にすべし。」
と、怒りしかば、某、罪を謝しけれども、用ひず。同寮(どうりやう)、交(かは)る交る、陳謝して、やうやく、事無く濟(すみ)し、となり。
此頃(このころ)、北條安房守、西鄕筑前守など、いづれも、番頭なりしが、皆、手强(てごは)なる、やかましき男(をのこ)どもなりし、とぞ。
同僚、集會(しふくわい)のとき、袴(はかま)を脫(ぬぐ)と云(いふ)こともなく、遊興(いうきよう)がましきこと、少しも、無し。
「畫工(ぐわこう)を呼(よん)で、丹靑(たんせい/たんぜい)など、さすれば、珍しき遊興にてありし。」
と、人も云(いひ)たるほどのことなりし、とぞ。
こは、『番士の手本ともなるべき身なれば』とて、互(たがひ)に嚴重(げんじゆう)なる事にて、ありし、と、なん。
■やぶちゃんの呟き
標題の「風儀」とは、「外形で見たところの人(々)の品行」の意。
「高井兵部少輔」花岡公貴氏の論文「高田藩の宝暦地震史料」(『上越市立歴史博物館 年報』紀要(第四号)・二〇二四年発行・PDF。宝暦は一七五一年から一七六四年まで。徳川家重・家治の治世)の中に、田沼意次の時代に、高井兵部少輔詮房の名を確認出来た。この人物であろう。
「番頭」江戸幕府の大番頭・書院番頭・小姓番頭・新番頭などを指す。
「大目付」老中の支配下にあって、幕府の政務の監督、諸大名の監察などに当たった。定員は四~五名で、旗本から選ばれた。
「井上圖書頭」思うに、「耳囊」の「卷之四 井上氏格言の事」に、高井の話によく似た毅然とした物言いをした、井上図書頭正在(いのうえまさあり 享保十六(一七三一)年~天明七(一七八七)年)の話がある。そこで私は、彼は、明和四(一七六七)年御小性組頭、安永二(一七七三)年大目付、安永八(一七七九)年従五位下図書頭、天明五(一七八五)年普請奉行。ネット情報では、杉本苑子の小説「冬の蝉」では、まさに硬骨漢として描かれているらしい、と注した。
「金五十片」金五十両であろう。
「見立て」観察して適当な者を選び出すこと。抜擢。
「座禪豆」「唐納豆」の別名で、納豆の一種で、大豆を蒸煮して、煎った小麦粉を加えて発酵させ、食塩水に漬け、さらに香辛料を加え、長期間、乾燥させた粒状の納豆で、味噌に似た風味を持つものを指し、主として寺院で製造され、僧が座禅中、小用に立たないために食べたところからの名とされる。「ざぜまめ」とも言う。但し、この場合は、「黒大豆を甘く煮た食べ物」の意であろう。
「御目付」江戸幕府では、若年寄の支配下で旗本・御家人を監察した。
「北條安房守、西鄕筑前守」忙しく、私は調べる価値を認めないので、御自分でお調べ下され。
「丹靑」絵の具で描くこと。
8―29 十八大通事
寶曆の後(のち)の事かとよ。
江都に「十八大通(じふはちだいつう)」と云(いへ)る狂客(きやうかく)ありて、その「巨魁(きよくわい)」と呼(よび)しは、「杏雨(きやうう)」と號せし者なり【御藏前(おくらまへ)の札刺(ふださし)坂倉治兵衞(ぢへゑ)。後(のち)、隱居して更名(かうめい)、又、「杏翁(きやうわう)」とも云へり。】。
或時、いづ方の町か、肆店(してん)にて、口論あり。相手は、鳶(とび)の者の强氣(つよき)なりし男(をのこ)なれば、中々、諸人(しよにん)、手に合はず。
人を、はせて、杏雨に告ぐ。
杏雨、速(すみやか)に、その處に來り見れば、鳶の男は、夜叉(やしや)の如き體(てい)なるを、杏雨は、意ともせず、
「己(をの)れ、憎き奴(やつ)かな、早々、立去(たちさる)べし。」
と、云(いひ)ながら、鳶の手先を、とりて、ねぢつけたるに、さしも、剛强(がうきやう)と見へし鳶、
「あいた、あいた、」
と言(いふ)まゝに、地上に、ねぢ伏せられたり。
杏雨は、やがて、懷中より、煙管(きせる)づゝを出(いだ)し【此頃(このころ)は、裂(キレ)にて、長き烟管筒(きせるづつ)を縫ひ、上を結べる習(ならひ)なればなり。】、兩手を縛り、引(ひき)ずりて、町役人に、
「この野郞を、町外(まちそと)に連行(つれゆ)き、縛(ばく)を解(と)き、追放つべし。」
迚(とて)、還りぬ。
見(みる)者、堵(かき)の如し。
皆、駭入(さはぎいり)て、
「流石(さすが)、杏翁かな。年、既に八十に及べる老人の、かゝる夜叉を、自在にすることよ。」
とて、感歎せぬは、無(なか)りける。
後(のち)、竊(ひそか)に聞(きく)に、杏雨、告(つげ)を聞(きく)と、卽(すなはち)、其(その)口論の譯(わけ)を問(とふ)に、僅(わづか)に一星金(いつせいきい)を、借(か)れども、貸(かさ)ざるの出入(でいり)[やぶちゃん注:悶着沙汰。]なり。
因(より)て、金五片を密(ひそか)に持往(もちゆ)き、かの手を、握るとき、持添(もちそへ)て、ねぢたる[やぶちゃん注:捻じ込んでやった。]ゆゑ、一言(いちごん)に及ばず、自由にせられたり、と也(なり)。
「是(これ)ぞ、『十八大通』の所以(ゆゑん)なるべし。」
と、人、評せり。
■やぶちゃんの呟き
「寶曆」一七五一年から一七六四年まで。徳川家重・家治の治世。本書は、文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜に執筆を開始しているから、六十年ほど前の話となろう。
「十八大通」「大通」は小学館「日本国語大辞典」に拠れば、『遊里の事情や遊興の道によく通じていること。また、その人。ほんとうの通(つう)。明和年間(一七六四‐七二)に江戸に起こった語で、安永年間(一七七二‐八一)に大いに流行し、それが西にひろがり、寛政(一七八九‐一八〇一)から文化・文政(一八〇四‐三〇)にかけて上方でも流行語となった。』とあるが、この手の話は、私は興味が全くないので、ウィキの「十八大通」を見られたい。
「狂客」原義の「並外れた奇抜な行ないをする酔狂人」を含んだ「風流を愛する人」の意。
「杏雨」「坂倉治兵衞」ウィキの「十八大通」のリストの冒頭に挙がっている、号・通称『暁雨・暁翁』で、屋号は『大口屋治兵衛』、商売『札差、明和四年』(一七六一~二年)『廃業』とあるのが、彼である。前の解説に『その多くは札差であった』とある。
「御藏前」現在の台東区蔵前。
「札刺」札当該ウィキ「札差」を見よ。
「更名」雅号の改名。
「杏翁(きやうわう)」この読みは確認出来なかったので、私の推定である。
「一星金」「一分金(いちぶきん)」(金貨)の別称。一両(一千文)の四分の一。米価が安定していた宝暦頃では、一両は米換算で現在の五~六万ほどで、一万二千五百円から一万五千円ほどになるか。まあ、一般町人にとっては、それよりも、やや低めであろう。
「借れ」「貸してくんな!」で『「つけ」にしろ!』と言ったのである。
「出入」悶着沙汰。
「金五片」小判五両であろう。
「ねぢたる」手の中に捻じ込んでやった。
[やぶちゃん注:底本はここ。やや長いので、段落を成形し、句読点・記号を補塡した。]
「神隱」 安倍郡《あべのこほり》府中御城に有り。「駿府雜談」云《いはく》、
『今は昔、駿府御城內に「神隱し」と云《いふ》事ありて、自然に、人の見えざる事[やぶちゃん注:何らの理由や原因なしに、人が行方知らずになること。]、有り。
何《いつ》の頃にや有《あり》けん、岩手伊左衞門某《なにがし》と申《まうす》人、駿城《すんじやう》に、在番《ざいばん》有りしに、其家士《かし》に浪足金六郞《なみあしきんごらう》と云《いふ》者、あり。生得《しやうとく》、儀《ぎ》なる人[やぶちゃん注:実直な人。]にて、能《よく》勤《つとめ》ければ、岩手氏も、甚《はなはだ》、寵愛されにけり。
然《しか》るに、此金六郞、
「聊《いささか》、風邪に犯《おかさ》れたり。」
迚《とて》、一兩日、臥居《ふしゐ》たりけるが、一夜《ひとよ》、以《もつて》の外《ほか》、苦《くるし》みければ、朋友等《ら》、夫々《それぞれ》に心付《こころづけ》て、樣々《さまざま》に介抱しければ、惱亂《なうらん》、漸々《やうやう》靜《しづま》りけり。
附添《つきそひ》し人々、
「今は、心安し。」
とて、各《おのおの》、其傍《そのかたはら》に轉《まろ》び宛《つつ》、宵《よひ》よりの勞《いたはり》に、前後も知らず、臥居《ふしゐ》たり。
時に、金六郞、起上《おきあが》り、枕元に掛置《かけおき》し己《おのれ》が刀《かたな》を拔き持《もち》て、裏の方《かた》へ出《いで》けり。
附添し人々は、一寢入《ひとねいり》して、目を覺《さま》し、あたりを見れば、金六郞が刀の、鞘《さや》のみ、貽《のこ》り有《あり》て、金六郞は居《をら》ざりけり。
「こは、いかに。」
と怖《おそれ》て、家內《かない》[やぶちゃん注:家人の者ら。]を起《おこ》し、如々《しかじか》の由を告げ、挑灯《ちやうちん》・松明《たいまつ》にて、尋《たづね》ける。
時しも、八月下旬にて、庭に茂りし一村《ひとむら》の薄《すすき》の中《なか》に立居《たちゐ》たり。
見附《みつけ》し者共、聲、掛け、
「金六郞は、爰《ここ》に居《をり》たるぞ。」
と云ふ。
人々、悅び、駈付《かけつき》しを、薄の中より、走り出《いで》、向《むか》ふ者を、二、三人、數か所に、創《きず》を負《おは》せければ、恐《おそれ》て、近付《ちかづく》者もなく、只《ただ》、遠卷《とほまき》にして見居《みをり》たるに、不思議哉《や》、金六郞、鳥《とり》の如くに、舞上《まひあが》り、虛空《こくう》をさして、翔《かけ》り行く。
並居《なみをり》し人々、膽《きも》を消《け》し、
「あれよ、あれよ、」
と云《いふ》內《うち》に、土居《どゐ》[やぶちゃん注:高級な武家屋敷の防御目的の相応の高さの土塁を指す。]より、高く、舞上《まひあが》り、龍爪山《りゆうさうざん》に飛行けり。是天狗の業成りとぞ。
其後、菅沼圖書《すがぬまづしよ》某《なにかし》の家士芦原源藏《あしはらげんざう》某《なにがし》と云《いふ》者、神隱しにあひて、見えざりけるが、謂《いはれ》、有りて、其譯《そのわけ》、立《たち》がたし。終《つゐ》に、菅沼家、斷絕す。
亦、其後《そののち》、御定番《ごじやうばん》金田遠江守某、中間《ちゆうげん》源藏と云《いふ》者、神隱しにて、行衞《ゆくゑ》、知れず。
亦、其後、御城代《ごじやうだい》杉浦出雲守某、中間金六と云《いふ》者、神隱しにあひけり。
「金六・源藏と名乘る者、四人迄、神隱しにあひけるも、不思議成《なり》し事。」
と、府中吳服町《ごふくちやう》の肴屋太兵衞《さかなやたへゑ》と云《いふ》者、語りし也《なり》。
[やぶちゃん注:家士は、主家によりけりであるが、プレッシャーは相対的に大きい。実直にしてよく勤ていたとあり、主人も重用していたからには、精神的には、逆に、かなり気配りを過剰に行っていたものと推察出来る。こうした、生まれつき、神経質な人物は、往々にして、生得的に癲癇気質を持っていたり、ストレスが限界を超えると、他虐的な統合失調症状に至ることは、まま、ある。一番、典型的なのは、菅沼図書某の家士である芦原源蔵某のケースで、「謂、有りて、其譯、立がたし。終に、菅沼家、斷絕す。」という部分で明白である。この主人菅沼図書某は、恐らく、城代等にも仕事や人格・素行に問題があると知られていた人物であったものと思われ、されば、家士の理由不明の失踪が、主人の扱いに耐え切れずに出奔したものと城代が判断したからこそ、相応の主人側の不埒な家士の扱いが悪しき「謂われ」こそが元凶であると断罪され、一家断絶となったと考えられるからである。後半に出る中間の場合は、もっと地位が低く、社会的安定性も極めてよくないことから、適当にこなすズル賢い知恵がない、却って真っ正直な者に限って、上手く立ち回ることが出来ず、情緒不安定に陥る可能性は、いや高くなる。これは、私が電子化注してきた有象無象の江戸の市井談集や怪奇談集の登場人物に、しばしば、半グレその者のような輩が、結構、見られ、その反対の実直な誠実な中間も、これまた、相応に、いるからである。
「龍爪山」複数回既出既注。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。
「府中吳服町」現在の静岡市葵区呉服町(ごふくちょう)。]
わうぎ 黃茋 戴糝
戴椹 芰草
黃耆 王孫 百本
【耆長也色黃爲
諸藥之長故名】
【倭名夜波良】
ハアン スウ 久佐
綱目黃茋葉似槐葉而微尖小又似蒺藜葉而微濶大青
白色開黃紫花大如槐花結小尖𧢲長寸許根長二三尺
[やぶちゃん注:「𧢲」は「角」の元字。]
以緊實如箭簳者爲良嫩苗亦可𤉬淘茹食其子收之十
月下種如種菜法亦可有數種
白水黃茋 赤水黃茋 綿黃茋 土黃茋
蓋白水赤水者共陝西之鄕名綿者出於山西沁州綿上
故名或云用其皮折之柔靱如綿者爲良乃謂之綿黃茋
木黃茋者短而理橫今人多以苜蓿根假之俗呼爲土黃
耆伹堅而脆味苦令人瘦黃耆柔而味甘令人肥大異用
者宜審木黃耆亦勿用
氣味【甘徵温氣薄味厚】 可升可降陰中陽也人參補中黃耆實
表藥中補益呼爲羊肉其用有五補諸虛不足一益元
氣二壯脾胃三去肌熱四排膿止痛活血內托陰疽爲
瘡家聖藥五元氣弱肥白而多汗者止之虛熱無汗
則發之防風能制黃耆黃耆得防風其功愈大乃相畏
相使也【伏苓爲之使悪𬹝甲白鮮皮】
[やぶちゃん字注:「𬹝」は「龜」の異体字。]
△按今藥肆不論出𠙚好悪皆號綿黃茋售之伹擇取切
口黃色柔靱者可用是亦經年者爲堅實而不佳故新
渡者良又出於倭者名富士黃耆經久則堅脆味亦不
甘疑此苜蓿根矣不堪用故令售者禁止也
*
わうぎ 黃茋《わうぎ》 戴糝《たいさん》
戴椹《たいじん》 芰草《きさう》
黃耆 王孫《わうそん》 百本《ひやくほん》
【「耆」は「長《ちやう》」なり。色、黃に
して、諸藥の「長」爲す。故、名づく。】
【倭名、「夜波良久佐《やはらぐさ》」。】
ハアン スウ
「綱目」に曰はく、『黃茋、葉、槐《えんじゆ》の葉に似て、微《やや》、尖《とが》り、小《ちさ》し。又、蒺藜《しつり》の葉に似て、微《やや》、濶(ひろ)く、大《おほき》く、青白色《せいはくしよく》。黃紫《きむらさき》の花を開く。大《おほい》さ、槐の花のごとく、小《ちさ》く、尖《とが》りたる𧢲《さや》を結ぶ。長さ、寸許《ばかり》。根の長さ、二、三尺。緊實《きんじつ》にして箭-簳(やがら)のごときなる者を以《もつて》、良と爲《なす》。嫩《わかき》苗≪も≫亦、𤉬(ゆ)で[やぶちゃん注:「茹で」に同じ。]、淘《よな》≪ぎて≫[やぶちゃん注:水で綺麗に洗い流して。]、茹-食(くら)ふべし。其《その》子《み》、之《これ》を收《をさ》めて、十月に、種《たね》を下《くだ》す。菜を種《うう》る法《はう》のごとくにして、亦、可なり。數種、有り。』≪と≫。
[やぶちゃん注:以下は、五つの名は、ブラウザの不具合を考えて、一行で分けた。]
『白水《はくすい》の黃茋《わうぎ》』
『赤水《せきすい》≪の≫黃茋』
『綿《めん》≪の≫黃茋』
『土《ど》≪の≫黃茋』
『蓋《けだ》し、「白水」・「赤水」とは、共に陝西の鄕《がう》の名なり。「綿」とは、山西《さんせい》の沁州《しんしう》綿上《めんじやう》より、出《いづ》る。故《ゆゑ》に名《なづく》るなり。或《ある》人の云《いは》く[やぶちゃん注:「人」は送り仮名にある。]、「其《その》皮を用《もちひ》て、之を折るに、柔-靱(しな)へて、綿のごとくなる者を、良《よし》と爲《なし》、乃《すなはち》、之を、『綿黃茋』と謂ふ。」と。「木黃茋」は、短《みじかく》して、理-橫(すぢざま)なり。今の人、多《おほく》、「苜蓿根《もくしゆくこん/むらさきむまごやしのね》」を以て、之に假(に)せる。俗、呼《よん》で、爲「土黃耆《どわうぎ》」と爲《なす》。伹《ただし》、堅《かたく》して脆《もろ》く、味、苦《にが》く、人をして瘦(や)させしむ。黃耆の《✕→は》、柔《やはらか》にして、味、甘く、人をして肥《こえ》れ《✕→せしむ》と、大《おほき》に異《こと》なり《✕→なれり》。用《もちふ》る者、宜《よろしく》、審(つまびら)かにすべし。「木黃耆」も亦、用ること、勿《なか》れ。』≪と≫。
『氣味【甘、徵温。氣、薄《うすく》、味、厚《あつ》し。】』『升《のぼ》すべく、降《くだ》すべく、陰中《いんちゆう》の陽《やう》なり。人參は、中《ちゆう》を補《おぎな》ひ、黃耆は、表《へう》[やぶちゃん注:皮膚。]を實《じつ》[やぶちゃん注:本来の正常な生き生きとした皮膚の状態を指す。]≪に≫す。藥中《やくちゆう》の補益、呼んで、「羊肉《やうにく》」と爲《なし》、其《その》用、五つ、有り。諸《もろもろ》≪の≫虛《きよ》≪の≫不足を補ふ【一つ。】。元氣を益す【二つ。】。脾胃《ひい》を壯《さう/さかん》にす【三つ。】。肌熱《ひねつ》を去る【四つ。】。膿《うみ》を排《のぞ》き、痛《いたみ》を止《と》め、血を活《かつ》し、陰疽《いんそ》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に『(表面に出ない瘍)』とある。]を內托《ないたく》す[やぶちゃん注:『膿を外へ追い出す力もないような』患者『の体力をつけて、体の内側の回復力(免疫力)を高めて、膿を排出させ、肉芽の形成を促進させる』こと。引用元等、必ず、後注を見られたい。]。瘡家《さうか》[やぶちゃん注:皮膚科医。]の聖藥と爲《なす》なり[やぶちゃん注:この「也」は割注の下にあるが、引き上げた。]【五つ。】。元氣、弱(《よ》は)く、肥白《ひはく》[やぶちゃん注:肉付きが強く、肌の色が白いこと。]にして、汗、多き者は、之を止《と》め、虛熱《きよねつ》にして、汗、無きは、則《すなはち》、之を發《はつ》す[やぶちゃん注:発汗させる。]。防風《ばうふう》、能く、黃耆を制し[やぶちゃん注:ここは、「最も効果的に制御し」の意。]、黃耆は、防風を得て、其功、愈(《いよ》いよ[やぶちゃん注:原本では「愈」の右下に踊り字「〱」がある。])、大なり。乃《すなはち》、相畏《あひおそ》れて、相《あひ》使《し》なり[やぶちゃん注:互いに相畏(そうい:互いに相手の作用を弱めることで、毒性や刺激性、副作用を軽減する配合のこと)であることを言う。「藥品(6) 相畏」を参照のこと。]【伏苓《ぶくりやう》、之れが使《し》と爲す。𬹝甲《きつかう》・白鮮皮《はくせんひ》を悪《い》む。】。』≪と≫。
△按ずるに、今、藥肆《やくし》に、出𠙚《しゆつしよ》・好悪《よしあし》を論ぜずして、皆、「綿黃茋《めんわうぎ》」と號《がう》して[やぶちゃん注:称して。]、之を售(う)る。伹《ただし》、切口《きりくち》≪の≫黃色にして、柔-靱(しな)へたる者を擇-取(えらびと)り、用《もち》ふべし。≪然れども、≫是《これ》亦、年《とし》經《へ》たる者は、爲(《た》め)に、堅實《けんじつ》にして、佳《か》ならず。故《ゆゑ》、新渡《しんわたり》の者、良し。又、倭《わ》より出《いづ》る者、「富士黃耆《ふじわうぎ》」と名《なづ》く。久《ひさしき》を經《へ》れば、則《すなはち》、堅《かたく》脆《もろ》く、味、亦、甘《あま》からず。疑《うたが》ふらくは、此《これ》、「苜蓿根」か。用《もちふ》るに、堪へず。故《ゆゑ》、售《う》り者をして、禁止しせし《むる》なり。
[やぶちゃん注:この「黃耆」=「黃茋」は二度ほど、注をしてあるが、独立項なので、詳細に解説する。まず、基原は、
双子葉植物綱マメ目マメ科ゲンゲ(紫雲英・翹揺)属キバナオウギ(黄花黄耆) Astragalus membranaceus の根
及び
ゲンゲ属ナイモウオウギ(黄花黄耆:別名モウコオウギ(蒙古黄耆))Astragalus mongholicus の根
で、「東京生薬協会」公式サイトの「新常用和漢薬集」の「オウギ (黄耆)」に拠れば、「産地」は『日本(北海道,岩手県),中国(内蒙古自治区,山西,黒竜江,河北省など),韓国,ロシアなどで栽培』するとあり、「性状」は『ほぼ円柱形を呈し,長さ 30 ~ 100 cm,径 0.7 ~ 2 cmで』、『ところどころに小さい側根の基部を付け,根頭部の近くはねじれている.外面は淡灰黄色 ~ 淡褐黄色で,不規則な粗い縦じわと』、『横長の皮目様の模様がある.折りにくく,折面は繊維性である.横切面をルーペ視するとき,最外層は周皮で,皮部は淡黄白色,木部は淡黄色,形成層付近は』、『やや褐色を帯びる.皮部の厚さは木部の径の約1/3 ~ 1/2で,細いものでは木部から皮部にわたって白色の放射組織が認められるが,太いものではしばしば放射状の裂け目となっている.通例,髄は認めない.』とし、『弱いにおいがあり,味は甘い.』とある。本文の選別に関わる点で、大事な部分は「選品」の項で、そこには『柔軟で質が緻密で甘味があり,香気の高いものが良い.質が粗雑で苦味があり,黒色をおびるものは良くない.』とする。「適応」の項には、『止汗,利尿,強壮の効を期待し,身体虚弱・皮下組織の水毒停滞を改善し,皮膚の増殖,排膿を目的とする薬方に配合する.』とあった(根・生体の写真有り)。因みに、「備考」に『基原植物の変種のタイツリオウギ A. membranaceus var. obtusus が日本に分布している.イワオウギ Hedysarum iwawogiは和黄耆として用いられたが』、『現在は共に正品ではない.』とある。
さても。やはり、久しぶりに各個植物に戻ったので、最も信頼している神農子さんのものを引用させて戴く。「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 黄耆(オウギ)」である。
《引用開始》
黄耆は『神農本草経』の上品に収載された補益薬(補気薬)で、「味甘微温。主癰疽久敗瘡排膿止痛大風癩疾五痔鼠瘻補虚小児百病」と記載されました。現在でも「補中益気湯」「十全大補湯」「防己黄耆湯」など虚証を対象とした多くの重要処方中に高い割合で配合されています。華岡青洲方に収載されている「帰耆建中湯」での黄耆の役割も、気血を補い、肌を生かし、托裏排毒であるとされ、まさに『神農本草経』の記載のとおりです。李時珍は、「耆」には長の意味があり、黄耆は黄色で補薬の長であるから名前がついたと書いています。黄耆は中国人が人参以上に愛する補益薬です。
黄耆にはいくつかの種類があります。それぞれ「綿黄耆」「紅耆(晋耆)」「土黄耆(木耆)」「和黄耆」などと称され、原植物が違っています。「綿黄耆」は現在黄耆の正品とされているもので、マメ科のキバナオウギ Astragalus membranaceus Bunge 又は ナイモウオウギ A.mongholicus Bunge の根とされます。また、「紅耆」はマメ科の Hedysarum polybotrys Hand.-Mazz.の根、「土黄耆」は中国安徽省や山西省に産し、やはりマメ科のムラサキウマゴヤシ Medicago sativa L.、シナガワハギ Melilotus suaveolens Ledeb.、コゴメハギ Melilotus albus Desr.などの根で、これらはすべて黄耆の代用品とされています。また、「和黄耆」はわが国に野生するイワオウギ Hedysarum vicioides Turcz.の根で、かつてわが国で黄耆が品薄のときに代用されていました。
以上のごとく原植物は4属にわたっていますが、『図経本草』に「黄耆の茎は一本立ちし、叢生する。根皮を折ると綿のように繊維質であるので綿黄耆と言うのだ」とあるところから、Astragalus 属植物を正品としてよいように思われますが、花の色が「黄紫」と記されている点は合致せず、宋代にはすでに原植物が混乱していた現れのように思われます。上述の植物の中ではムラサキウマゴヤシのみが紫系の花を咲かせます。なお、Astragalus と Hedysarum は互いによく似ていますが、植物分類学的な相違は、豆果が Astragalus 属では全体的に膨れるのに対し Hedysarum 属では種子毎にくびれて節状になることです。『図経本草』の図には花も豆果もなく属を判断することはできませんが、清代に書かれた中国初の植物図鑑『植物名実図考』の図は 、豆果が全体的に膨れていることから Astragalus 属だと判断されます。
Astragalus 属以外の黄耆のうち「紅耆」は、『中葯志』に黄耆とは別項に収載され、性味・功効は全く同じで、黄耆と同様に使用できるとされています。本品は古くから「晋耆」の名前で良質品として利用されてきたものです。この紅耆は中国の薬局方である『中華人民共和国薬典』では1977年度版には記載が見られますが、1985年度版以降は収載されていません。また和黄耆の原植物 Hedysarum vicioides も同様に利用できるとする書物もありますが、わが国では第8改正日本薬局方から純度試験の項で「内部形態的に繊維束の外辺にシュウ酸カルシウムの単晶を含む結晶細胞列のある」和黄耆は不適となりました。同時に、それまで良質品とされていた同属植物由来の紅耆も局方不適となりました。なお、品質的には、味がわずかに甘く、噛むと豆の香りがし、質は堅いが折れにくく、断面は繊維質で粉性に富み、内部は黄白色、外部の黄色いものが良質品であるとされます。[やぶちゃん注:この箇所、本本文の謂いと一致を見る。]
黄耆の原植物の混乱は、マメ科植物の地上部や地下部の形態がよく似ていることに起因したものと考えられますが、一方で中国ではこれら原植物の異なる黄耆を同効品として扱ってきました。黄耆は、原植物が同属でなくとも同じ薬効を有する数少ない例なのかも知れません。日華子は「木耆の効能は黄耆とほとんど同じであるが、力が及ばないので倍量を用いればよい」としています。限りある資源の有効利用を考えるとき、こうした利用方法も選択枝として考えるべきかも知れません。
《引用終了》
『倭名、「夜波良久佐《やはらぐさ》」』これは、ゲンゲ属モメンヅル Astragalus reflexistipulus であるが、以上の記載に出現しない。しかし、「林野庁 近畿中国森林管理局」のパンフレットで、二〇一三年七月一日発行の第五十四号の『箕面森林ふれあい推進センター・こだま通信』(PDF)の、「箕面国有林の植物紹介モメンヅル(学名:Astragalus reflexistipulus)」(斜体でないのはママ)に、『牧野薬草大図鑑によれば、漢方のオウギの代用に使用されたこともあるそうです。』とあった。但し、この書名は、恐らく「原色牧野和漢藥草大圖鑑」が正式な書名と思われる。国立国会図書館デジタルコレクションでは、閲覧出来なかったので、確認はしていない。その内、図書館で確認しようとは思っているが、所持される方は、載っているかどうかだけでも、お教え下さると助かります。
「槐」「卷第八十三 喬木類 槐」を見られたい。
「蒺藜」漢方としてならば、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 蒺藜子(シツリシ)」に、基原を、ハマビシ目ハマビシ科ハマビシ属『ハマビシ Tribulus terrestris L. の未成熟果実』とする。当該ウィキに拠れば、『南アジアから東欧にかけてみられるハマビシ科の多年草である。砂浜に生える海浜植物であるが、乾燥地帯では内陸にも生育する』とある。私の好きな花である。
「茹-食(くら)ふ」「奈良文化研究所」公式サイトの「なぶんけんブログ」の『「茹でる」のナゾ』の一部を示す。
《引用開始》
さて、調理法の基本のキの一つは"ゆでる"です。魚やドングリをとっていた縄文時代でも、多彩なインスタント袋麺が並ぶ現代でも欠かせない調理法です。漢字では「茹でる」と書き、正倉院文書に残る写経所への食材配給の記録に「薪一荷 大豆茹料」や「薪十束 二束麦茹料」、市での買物記録に「羹茹料」などの表記が見られます。薪は燃料ですし羹は汁物料理なので「茹」も現代と同じ意味に見えますが、実はこれがなかなか曲者なのです。漢字発祥の国である中国ではこの字を"ゆでる"という意味では使わないからです。
「茹」の動詞での本来の意味は"たべる"だとされます。漢代成立の漢字字典であり日本でも律令制の大学寮で用いられた『爾雅』にも「茹」は「啜」の同義語として載っているので、大学寮で教育を受けた役人のタマゴたちも"たべる"という意味を知っていたと思われます。なお、くさかんむりの字ですが用例は草食限定ではなく、仏典に「茹菜」という文言もあるものの、儒家経典の『礼記』では「飲其血、茹其毛=まだ火を使えない頃の人類が肉を生で食べる様子」というかなり血なまぐさいイメージで使われています。
一方で「茹」は名詞としては"たべられる草"という意味になり、前漢の歴史を記す『漢書』に「菜茹は畦に有り」という語句があります。これは現代の日本で食用にする草しか「菜」と呼ばないのと同じような使い分けかもしれません。この点を考えると「羹茹」は"羹に入れる野菜"という意味でも通じます。中国でも時代が下る宋代の『爾雅翼』という辞書では"加熱調理した菜"という意味にとれる用例があるのですが、ヨモギ類の説明文中で「蒸して茹と為す」というので"ゆで野菜"ではありません。
ここで改めて日本における"ゆでる"という調理法の意味を確認すると、かなり限定的な調理法を指していることに気付きます。なぜなら野菜でも魚でも、ダシや調味料を加えた湯で加熱調理することは「煮る」というからです。つまり"ゆでる"とは特に白湯か塩湯で加熱調理する場合のみを指しており、日本の調理文化はこの違いを明確に区別しているのです。
《引用終了》
とあった。良安が、この二字に対して、かく振ったのは、まさに「食べる」の意としているのであり、「草本の一種を食べる」という正確な中国語の意味を正確に振っているのだと判明するのである。
「白水の黃茋」「白水」は以下にある通り、中国の地名である。「富山県薬業連合会」の富山県薬事研究所 付設薬用植物指導センター所長村上守一氏の「配置薬に使用される生薬の特徴②」(PDF)に、『黄耆はマメ科ゲンゲ属のキバナオウギ(A. membranaceus)とナイモウオウギ(A. mongholicus)の 2 種を原植物としています。中国では主に内蒙古、山西、黒龍江、河北省等で生産され、上述の山西省泌州綿上』(現在の山西省沁源県北部。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)『産の綿黄耆や陜西省同州白水』(現在の陝西省渭南市白水県。ここに「綿上学校」が確認出来る)『産の白水黄耆が良品のものとされ、質が柔靭で皮の色が微黄褐色、中が白色のものです。他に赤水黄耆、木黄耆、土黄耆等がありますが、いずれも品質がおちます。 日本では江戸時代に国産の黄耆が探されたようで、ゲンゲ属のモメンズルやムラサキモメンズル』( Astragalus adsurgens )『等が試験されたようです。特に「加州白山、越州立山、和州金剛山より出す者根、柔にして味甘し」と記されている種はキバナオウギの変種、タイツリオウギ』(鯛釣黄耆)『(A. membranaceus var. obtusus)と推測されます。名前の由来は鞘果にあります。1㎝程の柄があり、長さ2~3㎝、幅1~1.5㎝で大きく膨らんで下垂する鞘果の様子が数匹の鯛を吊り下げたように見えるためです。キバナオウギやナイモウオウギの鞘果も同様です。』とあった。
「赤水黃茋」これは、貴州省と四川省を経て、四川省瀘州市合江県(ごうこうけん)で長江に流入する赤水河(せいきすいが)の流域、或いは、貴州省遵義市に位置する赤水市辺りの産のものを指すものと思われる。
「苜蓿根《もくしゆくこん/むらさきむまごやしのね》」この場合の、「苜蓿」は、本邦で「アルファルファ」(スペイン語:alfalfa)で知られる、中央アジア原産の帰化植物(江戸時代頃、国外の荷物に挟み込む緩衝材として本邦に渡来した)であるマメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ連ウマゴヤシ(馬肥・苜蓿)属ウマゴヤシ Medicago polymorpha の、
西南アジア原産の古い品種であるムラサキウマゴヤシ(紫苜蓿・紫馬肥) Medicago sativa の根
を指す。ハーブのショップ/スクールサイトである「クラウターハウス」の「牧草の女王は栄養価の高い機能性野菜~アルファルファ」が、学術的で、非常によく書けている。転写出来ないようになっているので、各自で、お読みあれ。
「羊肉」サイト「ピヨの漢方」の「羊肉の薬効と活用法:東洋医学の視点から」に拠ると、漢方では、『羊肉は東洋医学において、非常に「熱性」の強い食材とされています』とした上で、『羊肉には主に3つの重要な薬効があります。特に冷えに悩む方や体力回復が必要な方に適した食材です。』とし、『1. 温陽暖下(おんようだんげ)』で、『体を内側から温め、下半身の冷えを改善する効果があります』。『脾胃虚寒(ひいきょかん)による食欲不振の改善』、『小腹冷痛(へその下)の冷え痛みの緩和』、『重症の冷え性の改善』とある。次に、『2. 益気補虚(えっきほきょ)』では、『気を補い、虚弱体質を改善する効果があります』。『過労による体力低下の回復』、『腎虚(じんきょ)による腰膝の痛みの緩和』、『脾腎両虚(ひじんりょうきょ)による慢性下痢の改善』、『気虚による不安定な精神を落ち着かせる』、『気虚による動悸の軽減』、『高齢者や虚弱体質の方の肩腰の痛みや冷えの解消』を列挙する。而して、『3. 通乳治帯(つうにゅうちたい)』で、『産後の健康回復を助ける効果があります。』として、『出産後の母乳分泌不足の改善』、『帯下(たいげ:おりもの)の調整』とあった。まさに、薬剤としての広範な有効性を持った模範的食材であり、そうした「羊肉」に匹敵する薬効を讃えて、この別名を与えたのであろうことが推察出来る。
「脾胃」何度も注しているが、漢方で「消化器系全般の働き」を指す。
「虛熱」陽気は正常値であるが、陰気が不足しているために発生する熱性症状を指す。
「防風」セリ目セリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata の根、及び、根茎を乾燥させた生薬名。但し、本種は中国原産で本邦には自生はしない。発汗・鎮痛作用があり、風邪の頭痛・眩暈(めまい)・関節痛などに効果を持つ。漢字名は「風邪から守る」の意である。なお、本邦産で和名の最後に「ボウフウ」を持つ種が多くあるが、本首都は全くの別属であり、植物学的にも、漢方薬剤としても、ボウフウとは全く無関係であるので注意されたい。
「伏苓」先行する「茯苓」を見よ。
「𬹝甲」「藥品(5) 藥七情」の「龜甲」の私の注の引用の中で、明らかにされている。
「白鮮皮」既出既注だが、再掲すると、ムクロジ目ミカン科ハクセン属ハクセン Dictamnus albus の根皮を基原とする生薬で、当該ウィキによれば、『唐以降の書物に見られ』、『解毒や痒み止めなどに用いられていたが、現在は』殆んど『用いられない。ヨーロッパでは、皮膚病の薬や堕胎薬として用いられていた』とある。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。画像は、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「印刷」で高解像度のものをダウンロードし、例によって、精密に汚損を清拭した。詳しい図版処理の仕儀は「(その8) 【図版1】」の冒頭注を参照されたい。なお、前回分と同じく、この図版でも、黒い貝殻表面の一部に、印刷スレの縦の白い筋が甚だしく目立つケースがあったため、特異的に、その部分を黒く潰して違和感を緩和しておいた。
これを以って、本書の「乾鮑の說」を、一ヶ月かかって、終わった。私は、幼少期からの貝類フリークであることから、拘りが、強く働いた。種同定等で誤りがある場合は、お知らせ下されば、幸いである。]
【図版8】
■「和泉《いづみ》」
[やぶちゃん注:クロアワビ比定。
「和泉」現在の大阪府南西部相当。クロアワビは、瀬戸内海にも分布する。]
■「志摩國《しまのくに》」
[やぶちゃん注:クロアワビ比定。]
■「伊勢國《いせのくに》産」
[やぶちゃん注:クロアワビ比定。]
■「常陸國《ひたちのくに》」
[やぶちゃん注:現在の茨城県。クロアワビ比定。]
■「磐城國《いはきのくに》
十名濱村産」
「めかい」
「七寸七分」
[やぶちゃん注:最後の「七寸七分」(二十三・三センチメートル)は、特異的に、貝殻の表面の上方の白い部分に記されてある。字体が全く以ってキャプションと同じであるから、スケッチした貝殻の上に書かれていたものではなく、図版作成者が書き込んだものである。考えてみると、本「乾鮑の說」では、先行する諸説パートと異なり、図のスケール(縮尺比)の記載が全くなかった。或いは、この時、図作成者(今まで見た限り、河原田氏本人ではない可能性が高いように感じている。既に述べた通り、一人ではない可能性が極めて高い)が、せめても、この貝殻部に於いて、大きなこれの、頭頂部から螺塔までの長半径を示してみようと考えたもの、と推定される。しかし、描いた殻の上に描き込んだ点で、この作図者は、タッチが非常に達者であるものの、ボタニカルの専門家ではない、と思う。そうした人なら、絵を汚さずにキャプションで附すはずだからである。
なお、これは形状から見て、
真正のメガイアワビである
が、通常の同種の殻長は、十六から二十センチメートルであるから、この個体は異様に大きい老成個体であることになる。その大きさが特異的であったからこそ、作成者は、思わず、それを記載したくなったのだ、という気が、するのである。
「十名濱村」どう見ても、「十」であるが、これは「小」の誤字と思われる。これは、間違いなく、現在の福島県いわき市小名浜(おなはま)である。但し、そうなると、大きな疑問が生ずる。現在、
メガイアワビの北限は、千葉県銚子、或いは、茨城県とされているから
である。しかし、本書の刊行が明治一九(一八八六)年で、この前に、黒潮の大蛇行が発生していれば、福島でメガイアワビで漁獲されたとしても、おかしくないと私は考えている。調べてみたところ、海洋研究開発機構(JAMSTEC)アプリケーションラボ(APL)が実施している日本沿海予測可能性実験(JCOPE)による予測実験と、関係する様々な話題を提供している「黒潮・親潮ウォッチ」の美山透氏の「黒潮大蛇行の歴史」を見ると、冒頭で、『ある程度まとまった黒潮の観測があるのは1960年代以降にな』るとされ、『1960年代以前の黒潮については、はっきりした観測がありません。しかし、限られた観測や、串本・浦神の潮位、漁師の体験談などから、黒潮大蛇行期間が推測されています』とあり、不確かなものだが、安政元(一八五四)年の、ペリー艦隊による観測として、あったことが推定され、さらに、明治三(一八七〇)年から明治八(一八七五)年の六年間、大蛇行があったとある。この時、メカイアワビが北上し、福島附近まで達していたことは、十分にあることだと、私には、思われるのである。なお、元資料を確認出来なかったものの、AIが、『福島県では、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故後、長らく休止していたアワビ漁(メガイアワビ含む)が試験操業を経て再開されており、漁獲されています。』ともあった。私に出来るディグは、ここまでである。確かな資料を御存知の方は、是非、お教え下さい。]
■「越後國《えちごのくに》
岩船郡《いはふねのこほり》
粟生島《あはしま》産」
[やぶちゃん注:ここは、現在の新潟県の北部の、日本海に浮かぶ粟島(あわしま)で、現在は、新潟県岩船郡(いわふねぐん)粟島浦村(あわしまうらむら)で、一島一村を形成する自治体(基礎自治体)である。クロアワビである。クロアワビは、日本海側では、北海道南部から九州にかけての外洋性岩礁域に広く分布する。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。画像は、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「印刷」で高解像度のものをダウンロードし、例によって、精密に汚損を清拭した。詳しい図版処理の仕儀は「(その8) 【図版1】」の冒頭注を参照されたい。なお、この図版では、黒い貝殻表面の一部に、印刷スレの縦の白い筋が甚だしく目立つケースがあったため、特異的に、その部分を黒く潰して違和感を緩和しておいた。]
【図版7】
■「薩摩國《さつまのくに》」
[やぶちゃん注:表側。クロアワビである。]
■「豊後《ぶんご》北海部《きたあまべ》
關村産」
[やぶちゃん注:裏側。クロアワビ比定。
「北海部」は「北海部郡《きたあまべのこほり》」とすべきところであり、「関村」は現在の大分市佐賀関(さがのせき)である。ウィキの「佐賀関」によれば、『旧北海部郡佐賀関町時代の大字名は関』(☜)『であったが、大分市との合併後の』二〇〇六年四月一日『に現在の大字名に改称した』とある。]
■「肥前國《ひぜんのくに》
北松浦郡《きたまつうらのこほり》
平村海産」
[やぶちゃん注:「肥前國北松浦郡平村海」これは、探すのに苦労したが、AIのデータに、『「松浦郡平村」は、かつて長崎県北松浦郡に存在した行政区域であり、現在は主に佐世保市宇久町』(うくまち)『平』(たいら)『(旧北松浦郡宇久町の一部)』(長崎県の五島列島の北端の宇久島(うくじま)の北東部分の、ここである)『や』、『その他の周辺地域に相当します。』とあったのが手掛かりになった。ウィキの「宇久町」(うくまち)によれば、『五島列島の最北端に位置し、宇久島(面積24.92 km2) と寺島(面積1.27 km2)の2つの有人島とその属島からなる。人口のうち』、『ほとんどは』、『宇久島に住む』とある。にしても、この「平村」の下の「海」は、いらないように思われる。「宇久町観光協会」発行の観光パンフレット(PDF)に、『宇久島のアワビ漁は古来より営まれていましたが、来島した平家盛が地元海士に厚く歓迎を受け、お礼として五島一円の永久採鮑権を与えたことにより島の歴史舞台に登場することとなりました。 現在に至るまで続くアワビ漁は、宇久島の活性化に大きな影響をもたらした宇久島の伝統的な産業です。写真は昭和まで続いたアワビ漁の伝統のスタイル「裸もぐり」の様子です。浜方ふれあい館には当時の道具や記録が大切に保管されており、アワビ漁の歴史がわかりやすく展示されています。』とあった。クロアワビ比定。]
■「壹岐國《いきのくに》
石田郡《いしだのこほり》
渡良村《わたらむら》産」
[やぶちゃん注:「壹岐國石田郡渡良村」現在の長崎県壱岐市郷ノ浦町(ごうのうらちょう)渡良浦(わたらうら)に相当する。「ひなたGIS」の戦前の地図で「渡良村」及び「渡良浦」の明記が確認出来る。]
■「對馬國《つしまのくに》産」
[やぶちゃん注:私は、このページの図版は、一切の種名が示されないことから、初っ端は、『総てが、同一種で、クロアワビであろうか。』と思ったのだが、この図は、明らかに、本図版の前の四個体と異なり、貝殻は強い丸みを示していることから、これはメガイアワビと比定する。前の郷ノ浦町のアワビ漁獲を調べると、クロアワビとメガイアワビであることが確認出来た。]
■「隱岐國《いきのくに》産」
[やぶちゃん注:同前で、貝殻の丸みから、メガイアワビに比定する。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。画像は、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「印刷」で高解像度のものをダウンロードし、例によって、精密に汚損を清拭した。詳しい図版処理の仕儀は「(その8) 【図版1】」の冒頭注を参照されたい。図は、右上と中央→左上→最下段右→同左の順とする。]
【図版6】
■「めかひ」
「外面」
[やぶちゃん注:以下、同一個体の側面と考えてよいものが、ページ中央にあるので、ここに合わせる。]
「めかひ」
[やぶちゃん注:メカイアワビ。]
■「くろかひ」
「肉着內面《にくちやくないめん》」
[やぶちゃん注:クロアワビ。]
■「とこぶし」
「相摸國《さがみのくに》産」
[やぶちゃん注:以下は、真下に上下二段で書かれているが、読み方は、まず、上から下で、次いで、右から左への順で、さらに、ひらがなの崩し字があるため、一見、読み難いので、注意されたい。なお、既に述べた通り、本書では、中国の国名「淸・清」は、総て「しん」ではなく、「せい」とルビされている。今まで、それは現代から見て、違和感が大きいので、敢えて読みを附していないとするとしてきたが、ここは、それに則り、「せい」と読んでおくので、注意されたい。]
「此《この》ものハ、
清《せい》向《むけ》薄片《うすへん》を、
するに、よろし。」
[やぶちゃん注:異なった二個体の表を左右に配置。孰れも下が螺頂で、上が頭部。通気孔(アワビ同様、呼吸の他に排泄・生殖でも重要な器官である)の数が異なっている。右個体は、私に明確に認知出来るものが、八個で、左個体は、十個と読んだ。これは、同種の呼吸孔の数の、六~八個から十個、と一致する(この個数は諸記載でブレがあるが、成体個体で最も少ないものと最も多いものを採った)。図を描いた人もそれを示すために、かく、二個体を描いたと確認させる。
これは、図像の形状からも、ミミガイ科アワビ属基亜種フクトコブシ(福床臥)亜種トコブシ Haliotis diversicolor aquatilis(或いは、ミミガイ科トコブシ属(或いはミミガイ属 Haliotis )基亜種フクトコブシ亜種トコブシ Sulculus diversicolor supertexta )で間違いない。
「薄片」「(その10)」を見よ。以上の河原田氏の高評価から、やはり、そこで私が図について判断したことは、誤りでなかったと思う。]
■「みみかひ」
「琉球慶良間(けらま)島産」
[やぶちゃん注:同前で注意されたい。]
「此《この》みみかひハ、
清国《せいこく》向《むけ》の、
薄片鮑《うすへんあはび》に
製するに、よろし。」
[やぶちゃん注:アワビ属ミミガイ(耳貝) Haliotis asinina である。左右に二図だが、恐らくは、同一個体の裏(右)と表(左)の図であろう。何故なら、呼吸孔が、孰れも、はっきりと、十二、数えられ、しかも貝殻の形も、完全に一致するからである。なお、「(その5)」の最後の注で解説を引用したが、吉良図鑑も奥谷先生も、貫通孔数を5~7個としているが、これは完全に貫通している呼吸孔の数であって、古い孔は、順次、閉じて、実際には繋がっていないのである。而して、十二あっても、おかしくないのである。実際、所持する荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の103ページにある、クノールの「貝類図譜」(ドイツの版画家にして化石の収集家であったゲオルク・ヴォルフガンク・クノール Georg Wolfgang Knorr :一七〇五年~一七六一年:作の` Verlustging der Oogen en van den Geest & c. ’(1764年から1775年の作)からの図)のミミガイの呼吸孔は十三を数えるからである。
而して、かなり手古摺ったが、“Internet archive”の彼の“G. W. Knorrs Verlustiging der oogen en van den geest ; of Verzameling van allerley bekende hoorens en schulpen, die in haar eigen kleuren afgebeeld zyn”(書名は「目と心の喜び、或いは、それぞれの色で描かれた、よく知られたあらゆる種類の角と貝殻のコレクション」)の、ここの右丁の中央の「1」で見つけた。ご覧あれ! というか、画像を拡大して取り込んだものを、以下に示しておく。美しいですぞ!!!
なお、屋久島・奄美大島・沖縄で、ミミガイの生体を観察したことはあるが、私自身、食したことは、ない。そこで、調べたところ、沖縄雑貨「うりずん」さんのブログ「グロテスクな見かけによらず美味しいミミガイ」に写真二枚入りで、以下のようにあった(改行の一部を詰めさせて貰った)。
《引用開始》
昨日、久しぶりに海に行ってきたのですが、そこで珍しい貝を見つけました。ミミガイです。ミミガイといっても、なかなかピンと来ないかもしれませんが、ミミガイ科の代表選手はアワビです。トコブシも仲間です。
ミミガイは、貝足の部分がアワビのように美味しいです。薄くスライスにして刺身にします。ただアワビよりも固いです。でも、バター炒めにすれば、柔らかくなりとても美味しい貝です。滅多に取れません。
見た目はこのようにグロテスク。これでは食べれる貝には見えないでしょう。アメフラシの様にも見えます。でも味は抜群。アワビが捕れない沖縄では、このミミガイが美味しいですね。
《引用終了》
食って見たくなった!♡!
「慶良間(けらま)島」「慶良間島」という島は存在しない。「慶良間諸島」である。詳しくは、ウィキの「慶良間諸島」を見られたい。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。画像は、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「印刷」で高解像度のものをダウンロードし、例によって、精密に汚損を清拭した。詳しい図版処理の仕儀は「(その8) 【図版1】」の冒頭注を参照されたい。なお、ここからは、製品アワビではなく、貝殻の図で(図の描き手がもとの上手い方に戻っているのが嬉しい!)、名称がしっかり表示されてあり(但し、異名表記が多い)、種同定は、至って、容易である。]
【図版5】
■「石决明」
「またかひ」
「安房國《あはのくに》産」
「內面」
[やぶちゃん注:「またかひ」はマダカアワビの異名の一つである。「眼高貝」「またかがひ」の縮約。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「地方名・市場名」に、『アカ アワビ エビスガイ ケー ケーズケー コウダカ シロクチ ナガメラ マタカ マタガイ マタゲ メダカ』が挙げられてある。また、正式漢字名「眼高鮑」の「由来・語源」に就いて、同ページには、『眼は貝殻の孔で、これが煙突状に高いため』とある。因みに、附記されて、『アワビの語源にはいろいろ説がある。』とされ、以下の説が列挙されてある。
《引用開始》
■ 「あわぬみ(不合肉)」の意味で貝殻と身が合わないため。
■ 「あはすみ(合肉)」の意味で貝殻と身がぴたりと合うので。
■ 「あひ(合間)」の転化したもの。
■ 「あは(合)で「ひかる(ひかる)」の意味でふたがないことをいう。
■ 「あは(合)[やぶちゃん注:鍵括弧閉じる脱落はママ。]で「ひらく(開)」の意味でふたがないことをいう。
■ 「いはふ(岩触)」の転化。
■ 「いははひみ(岩這身)」で岩をはっているの意味。
《引用終了》
因みに、以上は小学館「日本国語大辞典」の「あわび」の語源説を元にされたと思われるが、同辞書には、さらに、『⑺肉の味がアハアハシクて、乾して種々の用途に用いられたためか〔和訓栞〕』、『⑻アマフカ(甘深)食の反〔名語記〕』、『⑼不逢陀の義〔桑家漢語抄〕』とある(但し、⑼の意味は、私には意味がよく判らぬ。「陀」には「崩れる」や「岸」の意があるから、『岩の「岸」に吸着して落ちて「崩れる」ことがない』の意か。識者の御教授を乞うものである)。]
■「くろかひ」 「內面」
「安房國産」
「外面」
「くろかひ」
「側面」
[やぶちゃん注:種名が二箇所にあり、以上の方向からの三図からなる。言うまでもないが、漁師や業者はクロアワビを「クロ」と呼ぶ。同じく「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「地方名・市場名」から引く。『オガイアワビ【雄貝】オガイ オトコ オトコアワビ オンガイ』。この最後は『備考』『メガイアワビを雌に見立てて』の謂い。『アオガイ アオッケ アオビ アオンギャー アワビ オンタ クロ クロクチ クロッカイ クロッケ クロンボ ケー ケーズケー デボウ ムクロ モクロ』とある。]
■「またかひ」
「外面」
「またかひ」
「側面」
[やぶちゃん注:同じく種名が二箇所で出る。マダカアワビ。]
■「めかひ」
「內面」
[やぶちゃん注:「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のメガイアワビのページの「地方名・市場名」が多数、示されてある。中でも興味深いものをピック・アップしておく(採集地と参考書が付随しているが、それはリンク元で確認されたい。『ケー』・『アカ』・『アカガイ』・『メンゲ』・『アカッカイ アカッケ アカッケイ』・『ケーズケー』・『オンナ』・『メケ メケー メゲー』・『メイラ』・『メン』・『オナゴアワビ』・『メンカイ メンガイ』・『アオビ』・『アオンギャー』・『ゴキガイ』・『ビワガイ』。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。画像は、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「印刷」で高解像度のものをダウンロードし、例によって、精密に汚損を清拭した。詳しい図版処理の仕儀は「(その8) 【図版1】」の冒頭注を参照されたい。]
【図版4】
■「磐城國《いはきのくに》
菊田郡《きくたのこほり》
関田村(せきたむら)」「産」
「裏面」
「表面」
「側面」
[やぶちゃん注:「磐城國菊田郡関田村」は現在、「勿来関(なこそのせき)跡」で知られる福島県いわき市勿来町(なこそまち)関田(せきた)である。この勿来町では、現在、主にクロアワビ・メガイアワビが漁獲されている。マダカアワビの漁獲量は僅かである。図からも、前の二種の孰れかと思われるが、ネットで、製品化されたメカイアワビを見ると、軟体部が、楕円的なクロアワビに比して、有意に円状に近い(生体の貝殻も丸い)。また、種々の料理を見ると、クロアワビの外套膜周縁部の形が、まさに「裏面」の図のような特有のリボン状になることが判った。以上から、クロアワビに比定する。]
■「陸奥《むつ》産」
[やぶちゃん注:これは、小さなものが上に、その下の別個体にキャプションを附す。そこには、凡そ、前のもののより二回り近く大きい個体が描かれてあるのだが、その表示法とバランスが、如何にも奇異な印象を与える。左右に見える凹みから、上の製品は右が尾部、逆に下のものは、左が尾部であるのも、何となく妙な感じを受ける。ともかくも、この「陸奥産」を狭義の青森県下北半島周辺とするならば、まさに製品化されたエゾアワビの乾したものの形状と完全に一致は、する。]
■「肥前平戸産」
[やぶちゃん注:図は、洋梨型を縦に伸ばした低音スピーカー然としている。この形は丸みを帯びたメガイアワビ(同種は平戸の名産とされている)として十全に納得出来る。]
■「常陸産」
「裏」 「表」
[やぶちゃん注:「常陸産」現在の茨城県相当であり、ここは、エゾアワビの太平洋側の自然棲息の南端に当たる。図の製品が楕円状であるのも、同種と一致する。]
■「薩摩國《さつまのくに》
諸縣郡《もろかたぐん》
夏井村《なつゐむら》産」
「裏」 「表」
[やぶちゃん注:下部の「表」(外套膜の内側部分)は、頭部の凹んだ形から、ハート形に見える。而して、キャプションがないが、「表」図の下部に、側面からの図も添えられてある。
「薩摩國諸縣郡夏井村」ここは、ややこしい。この「諸県郡(もろかたぐん)は、旧日向国(ひゅうがのくに)であり、宮崎県、及び、一部の鹿児島県に跨って存在した郡であり、「夏井村」は、現在の鹿児島県志布志市(しぶしし)志布志町(しぶしちょう)夏井(なつい)に当たる。志布志湾に臨む素敵な場所である(私は一九七〇年、中学二年の時、父母に「万博と鹿児島とどっちに行きたい?」と聴かれ、お祭りが大嫌いな私は、一つ返事で「鹿児島。」と答え、母の郷里の鹿児島県曽於市大隅町岩川に行った際に、母親の親族ら一同で避暑に行った。伯父らとともに、直ぐ前の岩礁で、二時間以上、膨大なウニを採りに採り、その場でみんな食べたのを覚えている。恐らく人生で、一番、ウニを食った特異点であった)。同地ではクロアワビが採れ、ハート形の中に配された図と相まって、間違いない。]
■「磐城國《いはきのくに》産」
[やぶちゃん注:「磐城國」現在の福島県の浜通り、及び、中通りの南部と、宮城県南部に相当する。この地域はエゾアワビが採れる。図は、かなり不格好だが、まず、エゾアワビに比定してよかろう。]
■「越中産」
[やぶちゃん注:側面図が上、下に肉部内部側上方(正直、絵は、かなり汚い)から見た図。「北日本新聞」の二〇〇三年一月十六日の『「アワビ」「高価な貝」漁獲アップを』という記事に拠れば、『富山県内で馭飼するアワビ類はクロアワビ、エゾアワビ、メガイアワビ、トコブシである』とあった。汚いものの、形状から、クロアワビか、エゾアワビの孰れかと思われる。]
■「陸中産」
[やぶちゃん注:産地と形状から、エゾアワビに比定する。]
■「志摩國《しまのくに》産」
[やぶちゃん注:クロアワビであろうと思うが、肉部内側上方を描いているが、屹立した断崖の盆景のように描かれており、これは、肉部の襞を描いたものらしい。この絵を描いた人物は、正直、絵が下手であると言わざるを得ない。悪しからず。]
■「陸奥産」
[やぶちゃん注:一個体を斜めに上方から描いている。一応、エゾアワビに比定するが、明らかにやる気ゼロの絵で、全く以って、アウトの一発退場もの酷いものだ。]
■「北海道産」
[やぶちゃん注:同前の為体(ていたらく)。エゾアワビに比定。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。画像は、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「印刷」で高解像度のものをダウンロードし、例によって、精密に汚損を清拭した。詳しい図版処理の仕儀は「(その8) 【図版1】」の冒頭注を参照されたい。]
【図版3】
■「肥後國《ひごのくに》産」
「表」
「仝」[やぶちゃん注:「同」の異体字。]
「裏」
[やぶちゃん注:表・裏の二図。なお、このページと、次のページは、明らかに、今までの作図者とは異なり、塗り潰しに近い黒地を用いていない。そのため、細部はよく見える。しかし、先の黒過ぎである瑕疵はあったものの、リアルな質感があったのに比して、全体に稚拙な感じが漂っており、干し鮑のボリュームや、何より、高級感が全体に認められないのが、ちょっと、残念ではある。
「肥後國産」熊本県で獲れるアワビは、にクロアワビ・メガイアワビ・マダカアワビで、特に現代では、高級品とされるクロアワビの養殖も盛んである。肥後産としてページ・トップに配していることと、形状から見て、クロアワビとしてよかろう。]
■「薩摩産」
[やぶちゃん注:同じく、クロアワビとしておく。]
■「肥前産」
「仝」
「側面」
[やぶちゃん注:二図。最初の図は、今までの図ではないもので、串を、厚みから見て、恐らく頭部上に貫いた串状のものを描いてあり、今までにない恐らく右手からの側面図である、左には腹足の内側の、有意にこんもりしたものが描かれてある。やや上から斜めに見下ろした全体像であるため、全体の形状が判らないのだが、推測するに、全体は、かなり潰した円錐の形であるように推定出来る。その推定形状に最も合う、殻も肉も有意に丸みを帯びるメカイアワビを候補としておく。「側面」図は、どうしたら、前の製品を真側面から描いたら、どうなるのか、私にはよく判らない。方向としては、左方向でよく発達し、その外套膜の波型、さらに、左手で肉部が内側に大きく湾曲して高くなっていることから、左が頭部であると始めは思ったが、肉部の右側上部の方が、遙かに高く厚いから、頭部は右であろうと結論した。ともかくも、第一図を、ただ串を抜いたものの側面ではなく、製品を上部に手を加えて変形したものであることは、最早、確かである。]
■「佐渡産」
[やぶちゃん注:佐渡で知られた高級品はクロアワビである。形状も一致する。]
■「越後産」
[やぶちゃん注:新潟も同然であり、形状からもクロアワビに比定して良いだろう。]
■「志摩産」
[やぶちゃん注:三重県ではクロアワビ・メガイアワビ・マダカアワビの三種が水揚げされる。形状と製品上品から、クロアワビであろう。]
■「壹岐《いき》産」
[やぶちゃん注:形状からクロアワビであろう。]
■「對州《たいしう》産」
[やぶちゃん注:「對州」対馬国の異称。やはりクロアワビとしておく。]
■「とこぶし薄片試製」
[やぶちゃん注:図もトコブシの大きさに合わせて、ごく小さく、載る。原本では「とこぶし薄」とあって一字ほど空いて、しかも左行に「片試製」とあるのだが、後者は、右下方に前の行の図があるために、移しただけであり、字空けは不自然だが、私は、文字列八字で一単語と判断して、かく、した。これは無論、ミミガイ科アワビ属基亜種フクトコブシ(福床臥)亜種トコブシ Haliotis diversicolor aquatilis(或いは、ミミガイ科トコブシ属(或いはミミガイ属 Haliotis )基亜種フクトコブシ亜種トコブシ Sulculus diversicolor supertexta )を茹でる・乾す等の保存調整をした肉部を、薄片に、試験的に製品としてみたものという意味である。]
■「薄片試製」
[やぶちゃん注:戸惑った図である。「とこぶし薄片試製」の左下部分を左罫まで、大きく占めており、しかも、前の「とこぶし薄片試製」品と、非常によく似た三個体くっ付いた描き方がよく似ているが、細部の形状はよく見ると、上編部分の形状が異なるので、別個体である。或いは、河原田氏が、前の図が、如何にも小さいのに難色を示し、改めて、別試験のそれを、ここに載せたようにも見える。そんなことは、実は、どうでもいいので、私が迷っているのは、これが、果して前と同じく「トコブシ」の「薄片試製」であるかどうかという点にあるのである。――而して、私の最終判断としては、以上のトコブシのそれの再別図掲載と判断する。もし、トコブシでなく、アワビ類を「薄片試製」したものであるなら、河原田氏は、必ずや、「鮑薄片試製」と記すはずだからである。]
■「灰鮑《はひはう》」
「渡島國《としまのくに》
淺草村
産」
「表」 「裏」 「側」
[やぶちゃん注:「表」側と、「裏」側と、「側」面の三図。
「灰鮑」「(その4)」を見よ。その注の引用で、クロアワビやエゾアワビが用いられるとある。産地(次の注を見よ)から考えると、クロアワビか、亜種エゾアワビ(蝦夷鮑) Haliotis discus hannai のどちらかは、判断出来ない。図からも、差別化は不能である。
「渡島國淺草村」旧北海道渡島郡には「淺草村」は過去にも存在しない。調べたところ、「茂草村(もぐさむら)」ならあった。これは、その誤記と思われる。平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、『北海道』『渡島支庁松前町茂草村』で『現在地名』は『松前郡松前町字茂草』とし、『近世から大正一二年(一九二三)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、雨垂石(あまだれいし)村の北方にあり、日本海に注ぐ茂草川河口域に位置する。文化六年(一八〇九)の村鑑下組帳(松前町蔵)の当村旧跡の項に「茂草村古名はしののた、即しののた川之向ニ有之」とあり、茂草川(しののた川)を境に北側の「しののた村」と、後に発展してきた南側の茂草村とを合せて茂草村とよばれるようになったと考えられる。地名の由来は「地名考并里程記」に「夷語モムチヤなり。則、小柴の流るゝと訳す。扨、モムとは流れるといふ事。チヤは小柴の事にて、此川出水の節小柴の海岸へ流れ寄る故、此名ありといふ」とある。』とあった。北海道松前郡松前町茂草で、ここ。]
■「塩入製」
「陸中産」
[やぶちゃん注:「塩入製」は本文にも出ない。塩漬けか、表面に塩が噴き出しているものを言うか、判断不能。産地からエゾアワビであろうと思われる。]
■「同國産」
[やぶちゃん注:図の位置から、同前以外の注は打てない。]
[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を補塡した。なお、太字部分は、底本では、総て、欠字で、『△』になっているのだが、別底本の「近世民間異聞怪談集成」では、しっかり表示されているので、それを採用した。但し、この欠字、どうも、内容から、風紀上、よろしくないと判断して、本底本の出版社の編者が、政府を憚って、わざと伏字にした可能性が高いように思われる。他で欠字を『△』としたものが、無いからである。]
「御城內犬の奇《ごじやうない の き》」 安倍郡《あべのこほり》府中御城に有り。「駿府雜談」云《いはく》、
『今は昔、駿府御城內に、犬、數多《あまた》、あり。東西《とうざい》に分れて、能く黨《たう》を結《むす》び、東の犬、西に往《ゆ》く時は、忽《たちまち》、是を喰殺《くひころ》す。西の犬、東に來《きた》る時は、亦、然《しか》り。其《その》强き事、譬《たとふ》るに、物《もの》、なし。人には、よく馴《なれ》たり。
居人《すむひと》、代《かは》れ共《ども》、年來《そしごろ》、飼《かひ》たるが如し。夜中《よなか》、人を、吠へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。
「牝牡《めすをす》、交合するに、婬穴《いんけつ》に、陽根《やうこん》止《とどむ》る事、なし。故《ゆゑ》に、其《その》とつぐを、見る者、なし。」
と、通詞《つうじ》淸右衞門と云《いふ》者、語りし也。云云。」。
猛犬、黨を結ぶ事、累年、互《たがひ》に、威《い》を逞《たくまし》ふす、と、いへども、人を害せず。「奇。」と云《いふ》べし。
[やぶちゃん注:実話性が高い、しかも、他に類を見ない動物怪奇談と言える。
「通詞」幕府附きの阿蘭陀通詞。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページ。画像は、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「印刷」で高解像度のものをダウンロードし、例によって、精密に汚損を清拭した。詳しい図版処理の仕儀は「(その8) 【図版1】」の冒頭注を参照されたい。]
【図版2】
■「串鮑《くしあはび》」
「隱岐國《いきのくに》産」
「表」 「裏」
[やぶちゃん注:上下二図。
「串鮑」「(その3)」で注済み。一応、竹製の串と採っておくが、描き方が簡易で、竹であると断定は出来ない。刺してある箇所は、口吻部である。隠岐では、現在も鮑は名産であり、クロアワビ・アワビ属メガイアワビ(雌貝鮑) Haliotis gigantea・マダカアワビが採れるが、肉部を貫く串鮑に製していること(上質処理ではない)、形状が楕円形をしていることから、クロアワビか、メガイカワビであろうと思われる。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「クロアワビ」に拠れば、『「おんがい」』(「雄貝」の意)『と呼ばれるのはクロアワビで、殻はやや細く、水管の高まりが高く、足は緑灰色である。「めんがい」』(「雌貝」の意)『と呼ばれるのはメガイアワビで、殻は丸みが強く、水管の高まりが低く、足は灰色がかったクリーム色をしている。』とあるが、この下図からは、色では識別不能である。総合的に考えると、私は上質製品でないことから、メガイアワビとしたい感じはする。]
■「古代放耳鮑(みヽはなれ《あはび》)」
[やぶちゃん注:原図を拡大してみて、ルビが判明した。図の白い周回から、所謂、外套膜の辺縁部(薄く絞(しぼ)状となっている箇所)を丁寧に切り取ったものと推定される。調べたところ、サイト「風俗博物館」の「御幸の演出」の「天皇の御膳」の『【四種の干物】』に(写真有り)、『右上・蒸し鮑、左上・鮭楚割、右下・雉脯、左下・干鯛。蒸し鮑は、鮑を蒸して干したもの。とくに耳を切った鮑の場合は「放耳鮑」とよぶ。楚割(すわやり)は鮭の肉を細く削って干したもので、ほかにも鮫やえいなどの楚割もあった。雉は鳥肉の代表格で、脯(ほじし)はその肉を干したもの。あとの干鯛も含めて、いずれも堅いものばかりで、実際にどのようにして食べたのであろうか』とあった。国立国会図書館デジタルコレクションで検索したが、八つ、掛かってきたものの、読みは、本書の、この図のキャプションのみにあった。なお、右上方に二本の桿状の突起のようなものが見られるが、これは、アワビの口吻部のすぐ下の左右にある鰓と思われる。なお、この鰓の直ぐ下方に肛門がある。アワビは前鰓類Prosobranchiaで、同類では、鰓が心臓よりも前にあり、肛門も前方に開くのである。]
■「古代つヾきあハび」
[やぶちゃん注:「續き鮑」。四製品を頭部で紐で貫いたもの。左奥の二個体と、右手前の二個体は、向きが反対になっており、最も旨い部分をカバーする形になっている。]
■「明鮑」
「上總國《かづさのくに》
夷隅郡《いすみのこほり》
久保村産」
「側靣」
[やぶちゃん注:腹(腹足部底部)の図の下に、その図の右側面から描いた図がある。
「上總國夷隅郡久保村」旧安房郡千倉町(ちくらまち)久保、及び、丸山町久保で、現在は南房総市に合併した。前者「南房総市千倉町久保」ここに残るが(東に接して「南房総市久保」も確認出来る)、後者は地名としてはないものの、「丸山」を名乗る諸施設が、ここに散在し、そこを貫通する川の名「丸山川」が確認出来る。「丸山」の地名は、「ひなたGPS」の戦前の地図でも、確認出来ない。現在の南房総で採取されているものは、クロアワビ・マダカアワビ・メカイアワビ、及び、トコブシであるが、ここは最上品を示す「明鮑」とするので、クロアワビとしておく。]
■「虫入鮑」
[やぶちゃん注:読み不詳。国立国会図書館デジタルコレクションでも、新字・旧字ともに全く掛かってこない。このような文字列にすること自体が、製品としては印象が悪いから、不審である。思うに、これは「蒸し入れ鮑」で、蒸した鮑の謂いであろう。或いは、漁師や加工業者が「蒸」という漢字を嫌って(個人的に私はこの「蒸」という漢字はバランスが悪く、上手く書けない――特に下部の「烝」が生理的に嫌いである――ので、厭な感じである)簡単に書ける「虫」にしたものかとも推察する。真っ黒けで、種は不詳。]
■「ちきれ干鮑」
[やぶちゃん注:「ちきれ」は見た通り、「ちぎれ」で、「千切れた鮑」。或いは、製品としてあるわけだから、成品なら、高級のマダカアワビの大きな欠損品であろうと推定はする。]
■「北海道産の中形狀《ちゆうがたじやう》」
[やぶちゃん注:三方向からの三図。ひっくり返した腹(腹足部底部)の図の下に、右側に側面(右が頭部)、左側に後部を描いた図。「中形」であるから、エゾアワビの生体の若い個体だろう。]
■「陸奥國《むつのくに》
東津輕郡《ひがしつがるのこほり》
字鉄村産」
[やぶちゃん注:上部に縄が通してある。
「字鉄村」これは、「宇鉄村」の誤り。「コトバンク」の平凡社「日本歴史地名大系」の「宇鉄村」に、『青森県:東津軽郡』『三厩村』(みんやまむら)『宇鉄村』で、『現在地名』は『三厩村宇鉄』とし、『東は三厩村支村の中浜(なかはま)に接し、津軽半島の北端までの海岸沿いの地域。北東は津軽海峡に面し、西は中山(なかやま)山地で小泊(こどまり)村(現北津軽郡小泊村)に接する。浜名(はまな)村(現』・『今別町)の支村の六条間(ろくじようま)・藤島(ふじしま)・釜野沢(かまのさわ)・元宇鉄(もとうてつ)の小集落が海岸に沿って点在し、藩政期には』、『それぞれ』、『村とよばれた。明治一一年(一八七八)一括して宇鉄村となる』。『正保二年(一六四五)の津軽郡之絵図に村名はないが「うてつ崎」「うてつの間弁才三艘ほと掛間北風悪 但此間より松前江船路六里と申伝候」などとあり、遠見番所が描かれ、「狄村」ともある。貧しい漁村のみで、寛文一〇年(一六七〇)の松前への海上船道積(津軽一統志)に「うてつより七里」とあり、御領分狄の覚(同書)に「宇鉄村 四郎三郎」「宇鉄村 藤蔵」とあるが、検地帳や郷帳にはまったく現れない』とあった。ウィキの「宇鉄」に『(江戸時代末期)東津軽郡元宇鉄村、及び上宇鉄村。のち六条間村、藤島村、釜野沢村と合併し』、『宇鉄村。』とする。グーグル・マップで見ると、現行は、青森県東津軽郡外ヶ浜町(そとがまち)三厩上宇鉄(みんまやかみうてつ)があり、龍飛岬方向に接して、三厩宇鉄山(うてつやま)もある。調べたところ、エゾアワビである。また、ブログ「龍飛岬観光案内所 太宰治・棟方志功ゆかりの宿 龍飛館」の『「十三の洞門」物語』に拠れば、『上宇鉄(かみうてつ)~龍飛までの間に見られる洞門群』がり、『昭和4年の完成時には13あったものの現在は7つが姿を残しており』、『利用されているものに限れば4つのみとなっている』とされ、『大正時代。三厩(みんまや)漁港付近から龍飛までの約12kmにわたる区間には道路と呼べるようなものはなく、人々は海岸を通行しているようなものだった』。『特に上宇鉄(かみうてつ)地区から龍飛の区間は岩礁地帯が続いていたため、人々は岩から岩へ波間を縫って飛び歩いたり、崖浜をよじ登ったり、海中の洞穴をくぐったり、穴を開けた岩に挿した棒杭を渡る等、大変な危険を冒して通行する他無い状態だった』。『そのような状況に変化の兆しが見えたのは、大正末期』で、『宇鉄漁業協同組合の長・牧野逸蔵氏が「文化はまず道路から」の旗印の許、決然と立ち上がったのだ』とあり、続いて「宇鉄漁業組合の黄金時代」と標題されて、『旧宇鉄村は大正以前よりアワビが豊富に獲れ、「アワビの村」と呼ばれていた。古くは貝をヤスで突き刺す漁法だったが、明治二十年代頃からは潜水夫が潜って貝を獲る「潜水器漁法」を取り入れていた。この漁法により貝に傷をつけることがなくなったため、アワビはとても高値で売れるようになっていた。当時はアワビの収益金だけで村の行政費の2~3年分はあったと言われるほどで、県下有数の組合だったのだ』。「開削工事」の項。『牧野氏は、このアワビの収益金を以って、大正12』(一九二三)『年、難工事が予想される村内の悪路開削工事に着手した』。『開削工事は固い岩盤をダイナマイトで発破し、手掘りをする・・・という、想像を絶する過酷な作業だった。このような危険を伴う作業をひたすら繰り返し、昭和4年、約12kmの道路及び「十三の洞門」は無事に完成した。牧野氏を中心とする道づくりにかける者達の熱意によって、難工事を乗り越えたのだ。道路開通当日、地元の老婆達は余りの喜びに赤襦袢に下駄履きといういでたちで祝賀踊りに興じたという』。以下、『「アワビ道路」と「十三の洞門」のいま』の項。『先人達の献身的な努力により造られた道は「アワビ道路」と呼ばれるようになり、住民達の生活に大きな文明の光を運ぶこととなった。そして現在は国道339号に移行されている。また、歴史的に妙味を残す「十三の洞門」は、度重なる道路拡張工事により姿を変えていき、原形を残しているものはわずかとなっている。しかし、現存する洞門及び洞門跡には看板が掲げられ、当時の様子をうかがい知ることが出来る』(以下略)とある。写真もあり、先人の苦労を知る上でも、必見である。]
■「羽前國《うぜんのくに》
鮑海郡飛島《とびしま》産」
[やぶちゃん注:縦に二個体の図。非常によく似ている。
「鮑海郡」これは、「飽海郡(あくみのこほり)」の誤記。
「飛島」山形県酒田市に属する。現在の人口は二百七十五人。当該ウィキの「名産」に、『烏賊、サザエ、あわびを使った塩辛』とある。山形県農林水産部内の「おいしい山形推進機構事務局」の「おいしい山形」の「アワビ(一口あわび・庄内あわび)」の「丸のまま一口で、アワビを食べる贅沢」に、『庄内浜では、天然物と養殖物のアワビの両方が水揚げされるが、1987年に飛島で養殖された「一口あわび」が本県アワビ養殖の始まりだ。海がきれいなこと、波が穏やかで水温が低い点が適していたといわれている。一口あわびの正式名称はエゾアワビで、本来は大きくなるものだが、3cmほどのエゾアワビの稚貝を2~3年かけ、あえて小ぶりな6.5cmサイズに育て差別化していた。エサには、地元に自生する「もく」と呼ばれるアカモクなどの海藻に加え、昆布を与えることで美味しさが向上する』。『一口あわびは、何よりも丸ごと一個食べられるということがとても贅沢だ。バター焼きや酒蒸しなど、火を通すとさらに奥深い旨みが味わえる』。『 現在は、県の栽培漁業センターで育てられた一口サイズの「庄内あわび」とともに地元旅館の名物として重宝されているほか、沿岸北部の遊佐町でも養殖の取組みが進められている』とある。]
■「紀伊國《きいのくに》産」
「よろしきもの。」
[やぶちゃん注:和歌山県沿岸で漁獲されるものは、クロアワビ・マダカアワビ・メカイアワビ、及び、トコブシであるが、県下全域で獲れるもので、敢えて「よろしきもの。」と言ったら、まず、マダカアワビとしてよいであろう。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページ。画像は、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「印刷」で高解像度のものをダウンロードし、例によって、精密に汚損を清拭した。本日未明から始めたが、その清拭だけに四十分かかった。特に、製品の軟体部の腹足部の底部分は、製品として可能な限り、綺麗に仕上げるのが基本鉄則であるから、その部分の、陰部分(やや変色したものの表現を含む)ではない、推定される汚損は小さなドットまで、注意深く取り去った。特に、アワビの成体なら未だしも、製品化されたものの体表に、極めて細い針狀部分、或いは、根の細い先に球形や四角の突起様の物があることは、通常はないと推定出来るので、非常に小さなそうした部分は、汚損として、細心の注意を以って消してある。但し、今までにもしばしば見えた、印刷上の図内の白線状の摩擦痕などは、そのままにする他なかった。かなり、自信の持てるレベルには至っている状態に綺麗にすうる能力を私は保持していると思っている。現に、上のリンク先のものを同大にして比べて見て戴ければ幸いである。今まで通りの記号・体裁を問踏襲し、キャプションを電子化し、必要と思われる注を附す。製品のモノクローム画像で、手書きものであるため、種の同定は、産地等で可能な限り、種或いは種群を示す。前回の注で述べた通り、総ての図版を終わるのには、かなり時間が必要であることが確実となった。記号等は本文に準じて、私のやり方で添えてある。]
【図版1】
[やぶちゃん注:本図集は、今までのような上罫線の上への題名は、一切、掲げられていない。順番は、基本、上から下、次いで、左方向へ配する。]
■「明鮑《めいはう》」
「安房國《あはのくに》」
「上品。『またかひ』にて、
製するもの。」
[やぶちゃん注:冒頭に掲げるに相応しい、非常に大きな、しかも形も美しい最上の製品個体である。本図は以上の「またかひ」によって、アワビ中の最大種で最も美味とされる、
腹足綱直腹足亜綱古腹足上目原始腹足目ミミガイ科アワビ属マダカアワビ(眼高鮑) Haliotis madaka
と判明する。「(その5)」で注してあるので、見られたい。]
■「白乾《しらほし/しらぼし》」
「陸中産」
[やぶちゃん注:第一図の二番目に配されていること、産地が陸中で、形状が楕円形を成していることから、アワビ属クロアワビ(黒鮑) Haliotis discus discus と推定される。但し、腹足を下にしたもので、全体に黒々としており、見た目は、あまり製品としての質は、よくないように見えてしまっている。
「白乾」「(その6)」の注(初めの方)で既注済み。]
■「明鮑《めいはう》」
「三番」
[やぶちゃん注:マダカアワビだろうが、製品落ちの下品(かひん)である。]
■「一番鮑《いちばんあはび》」
[やぶちゃん注:形状から見て、マダカアワビの最上製品であろう。]
■「二番鮑」
[やぶちゃん注:三方向から三図。一番上に、やや斜め右上方向から腹足部から描いたもの、その下に、同個体を腹足を引っ繰り返して置いた横からのもの(但し、スケールは前より小さい)、左下方に、一番上の左端のマダカアワビの口吻部を上に立てたもの(さらにスケールが小さい)が描かれてある。]
■「灰鮑《はひはう》」
「北海道渡島國(としまのくに)産」
[やぶちゃん注:二図。腹足を下にしたものが上図で、腹足側をこちらに向けたものが下図。「灰鮑」「(その4)」を見よ。その注の引用で、クロアワビやエゾアワビが用いられるとある。産地から考えると、クロアワビか、亜種エゾアワビ(蝦夷鮑) Haliotis discus hannai のどちらかは、判断出来ない。]
■「白乾一番鮑」
[やぶちゃん注:「一番」であるから、マダカアワビであろう。]
■「無番鮑」
[やぶちゃん注:無番とするからには、製品として最下級となるが、見た目は、そのようには見えない。産地も示されていないので、万事休すだが、縦列から見ると、前と対比して最下品として配しているようにも見え、その場合は、マダカアワビとなる。]
■「古代製法 薄鮑(うすあはひ)」
[やぶちゃん注:「うすあはひ」はママ。
「薄鮑」は「(その2)」に、『出雲、石見、長門、肥前、日向に『薄鮑(うすあはび)』あり。』とあり、恐らく、これは、アワビを湯通しにして、後に乾したものであろうと推測する。薄切りにして、食する。ただ、真っ黒な塊(二図)で、製品としては、よく認識出来ない。種も不明であるが、以上の地名を考慮すれば、マダカアワビであろうかとは思うものの、よく判らない。識者の御教授を乞うものである。]
■「熨斗鮑(のしあはび)」
「伊勢産」
[やぶちゃん注:長大な正しく熨斗のものであるので、一応、最大種であるマダカアワビ製のものと推定しておく。]
■「灰鮑」
「後志國《しりべしのくに》産」
[やぶちゃん注:この図からはよく判らないが、産地からエゾアワビであろう。]
■「天塩國《てしほのくに》
増毛《ましけ》産」
[やぶちゃん注:「増毛」北海道増毛郡増毛町。ここは、現在もエゾアワビ名産地であるから、決まりである。]
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページからで、今回を以って、「乾鮑の說」の本文は総て終わっている。但し、この後に八枚の図版がある。種同定は製品図からは、難しいが、キャプションにある産地等があるものからは、ある程度の種群に狭めることは可能である。面倒だが、今までのケースとバランスをとるため、非力乍ら、今までのように、可能な限り、検討するつもりでは、いる。しかし、その結果として、恐ろしく時間を食うことが想定される。気長に、お待ちあれかし。]
灰鮑にも數法ありと雖ども、其最も要(かなめ)とするは、乾燥(ほしかた[やぶちゃん注:「乾し方」の当て訓であろう。])にあり。北海道粗造品の、他國產より、高價(たかね)を占(しむ)るものは、乾しかたのよろしきによるのみ。他國產も、北海道の如く、乾燥(かんそう[やぶちゃん注:ママ。])せば、極めて良價(よきねんだん)を得へく[やぶちゃん注:ママ。]、北海道產をして、他國良製品の如くならしめば、一層の良價(りやうか)を得るや、必(ひつ)せり。故に、茲(こヽ)に、灰鮑の尤(もつとも)適切なる方法を擧くれは[やぶちゃん注:二箇所ともママ。]、鮮肉(なまあはび)百顆(くわ)に鹽三合許(ばかり)を以て、漬け、暑中は、二日間、寒中は、四日間を經て、淡水(まみづ)にて洗ひ、沸湯(にへゆ[やぶちゃん注:ママ。])に投(とう)して[やぶちゃん注:ママ。]、煑沸(にわか)し、復た、淡水にて洗ひし竹簀(たけす)に並べ、水分を飛散せしめ、太陽にて、乾かすこと、五日、乃至(ないし)、十日間にして、箱に收め、蓋(ふた)を覆ひ置き、自(おのづか)ら、表面に白粉(しろこ)を發せしむなり。
[やぶちゃん注:「表面に白粉(しろこ)を發せしむなり」複数の干し鮑業者の記載を確認したところ、「旨味が滲み出たもの」、及び、「塩分」と記し、黴(かび)ではない由の記述があって、「最良の状態である」と記してあった。]
兩製共(とも)に、日光を借り、乾製するの習慣(ならはし)なりと雖ども、若(も)し、霖雨(ながあめ)に遭ふときは、糸に繫(つな)ぎ、急に焚火(たきび)の上に掛け、薰(いぶ)し、燥(かわか)すが故(ゆゑ)に、其色、變じて、暗黑色(まつくろいろ)となる、あり。三陸・北海道に於ては、日光に乾かすに、鮑の中心を、蔓(かづら)、或(あるひ)は、蒲葉(がま)を以て、貫(つらぬ)くの弊(へい)あり。此等(これら)の製法の如きものは、價格の下(くだ)る、實(じつ)に夥(おびたヾ)し。現に、明治十五年中、橫濱其他(そのた)、各港の貿易上に就(つい)て見るに、百斤[やぶちゃん注:60㎏。]の價(あたひ)、僅(わづか)に貳拾三圓にして、千葉縣製『明鮑』、及び、北海道・三陸等(とう)の『白乾上製(しらぼしじやうせい)』の如きは、百斤五拾圓、乃至、五拾五圓に昇り、其差(そのたがひ)、最も甚(はなはだ)し。然(しか)れども、北海道の如きは、竹簀(たけす)に並べ乾すときは、烏(からす)の啄(はむ)ところ、夥しく、爲(た)めに、之れが、番衞(ばんにん)等(とう)に費(つひや)すこと、多く、寧(むしろ)、賣價(ばいか)は、幾分の廉(やすね)なるも、斯(かヽ)る煩-冗(わづらはしき)を免(まぬか)るゝに、若(し)かず、とて、舊慣(きうくわん)の蔓吊乾(かづらつりぼし)を、改めざるあり。亦、靑森縣下にて、貫穿(ぬきとうし[やぶちゃん注:ママ。])の舊法を改めざるが如き、共に遺憾の至りなり。千葉縣の如きは、近時、焙爐(ほいろ)に掛け、炭火(すみび)を以て、之を乾製するの方法に改め、上製をなすも、あり。
[やぶちゃん注:「蔓(かづら)」平凡社「世界大百科事典」の「カズラ(蔓//葛)」に拠れば、多数の全く異なった植物である『つる草の総称。ヒカゲノカズラ』(ヒカゲノカズラ(日陰の鬘・日陰の蔓)植物門ヒカゲノカズラ綱ヒカゲノカズラ目ヒカゲノカズラ科ヒカゲノカズラ属ヒカゲノカズラ Lycopodium clavatum )・『テイカカズラ』(双子葉植物綱リンドウ目キョウチクトウ科キョウチクトウ亜科 Apocyneae 連テイカカズラ(定家葛)属テイカカズラ Trachelospermum asiaticum )・『スイカズラ』(マツムシソウ目スイカズラ(吸い葛)科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica )・『サネカズラ』(被子植物門アウストロバイレヤ目Austrobaileyalesマツブサ(松房)科サネカズラ(実葛)属サネカズラ Kadsura japonica:以下では、知られる種は、一部を除き、学名追記をしない)『などは』、『その例である。上代つる草を髪に結んだり,巻きつけたりして頭の飾りとし,これを鬘(かずら)といった。そのためつる草を〈かずら〉と称するようになったという。鬘は〈髪つら〉の略,〈髪つら〉の〈つら〉は〈つる〉の古名で,長く連なるので〈つら〉といったものらしい。ただし,のちにはつる草に限らず,ヤナギ,タチバナ,サクラ,ウメ,ユリ,ショウブ,ムラサキグサ』(これは、蔓性植物の代表の一つである正式和名フジ(藤)の異名であろう。事典としては、甚だ、よろしくない記載である)『,イネ,藻などの植物も鬘に用いられた。このように,草木のつるや』、『茎や花などを取って髪飾りとすることを〈鬘く〉』(「かずらく」、歴史的仮名遣「かづらく」)『といい,もともと,植物の盛んな生命力を人間の体に取り入れようと願ったことから始まった』。『地方により特定の植物,例えばテイカカズラ(岡山),クズ』(マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属亜種クズ Pueraria lobata subsp. lobata )『(香川)などを単に〈かずら〉と呼んでいる。また蔓水,蔓壺というと,それぞれサネカズラ(美男蔓)』『の粘液と』、『そのつるを浸すに用いる壺のことである。』(サネカズラの粘液は奈良時代に整髪料として使われていた)とあった。
「蒲葉(がま)」単子葉植物綱イネ目ガマ科ガマ属ガマ Typha latifolia の葉や茎は、莚(むしろ)や簾(すだれ)の材料として使われてきた。
「貫穿(ぬきとうし)の舊法」不詳。前後から、アワビのど真ん中を穿孔し、そこに太い蔓や繩を通して、軒端に乾し吊るすといったような、損壊リスクが高まる乾し方を言っているようではある。
「蔓吊乾(かづらつりぼし)を、改めざるあり」老婆心乍ら、解説しておくと、太陽光に当たる場所に竹簀を組んんで並べて乾す方法を採ると、カラスが容易に竹簀に飛来して、悠々と鮑を突(つつ)き、咥えて持って行くリスクが非常に高いため、蔓に縦に突き刺して、日の当たる庇(ひさし)の下にぶら下げ、外側には魚網等を張って、カラスが侵入し難いようにするのが、効果的であるということであろうと思う。]
元來、乾鮑(ほしあはび)は乾燥の良否によりて、淸國の需用を伸縮せしむるものにして、北海道製の如き、形色(かたちいろ)の粗惡なるも、貯藏(たくはへ)久しきを保つを以て、上海(シヤンハイ)地方、大(おほい)に、之を、購收(かうしう)し、漢口(ハンカウ)・天津(テンシン)等(とう)の市場に於て、名聲を博せり。故に、世人は、灰鮑(はいはう)の疎製は、明鮑(めいはう)の精好なるに優(まさ)れりとするもの、あり。然(しか)れども、決して、明鮑、あしきに非らず。畢竟、明鮑の疎製なるに、よれり。明鮑は廣東(かんとん)人の、大(おほい)に嗜好する處にして、亦、四川・江南・江北・浙江等へも轉鬻(またうり)するものにして、今、商務局の販路圖に依(よつ)て見るに、本品の需用は、啻(たヾ)に淸國の一部に止(とヾ)まるのみならず、將に麻剌加(マラツカ)地方に及ばんとす。故に、乾鮑の輸出は、方今、上海と香港(ほんこん[やぶちゃん注:ひらがなはママ。])とは、嗜好、自(おのづか)ら、其製を異(こと)にするが如し。上海には、明鮑を輸出すと雖も、品の拂底(ふつてい)なるか、亦は、價格の騰貴(とうき)せるときは、黑色製の如きを、再製して、明鮑の如くならしめ、分輸(ぶんゆ)をなす、といふ。故に明鮑は、上海に輸出し、灰鮑、及び、馬爪色(ばづいろ)[やぶちゃん注:「(その6)」の私の「馬爪(ばず)」の注を見よ。]、白色(はくしよく)、䀋入製乾鮑(しほいりせいかんはう)は香港(ホンコン)に輸出す。此外黑色は香港に輸出し、又、時としては、米國桑港(サンフランシスコ)在留(ざいりう)淸國人に輸出せり。但し、明治十三年に岩手縣陸中國(りくちうの)東閉伊郡(ひがしへいこほり)飯岡村(いひをかむら)鈴木善助製造の明鮑を、創(はじ)めて、香港に輸出せり。三陸製の灰鮑は、其製法、北海道產に類似するを以て、外見は、殆んど同一なるも、肉、厚くして、味、佳(か)ならず。北海道製は、佳-味(よひあぢはひ)なれば、價格も優(まさ)り、北海道產百斤三十圓なれば、三陸產は二十二圓五十錢なり。
[やぶちゃん注:「商務局の販路圖」東洋文庫版の後注に、『『日本水産物海外販路図附・説略』(農商務省商務局、一ハ八三年)のこと。』とある。国立国会図書館デジタルコレクションのここの、冒頭に織り込まれている図がそれだが、図が、ばらばらに画像化されており、キャプションも小さく、容易に認識は出来ない。ここから、ブチブチに切れている。
「麻剌加(マラツカ)地方」現在のマレーシア州の州都であるマラッカ周辺であろう(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。マレー半島西海岸南部に位置し、東西交通の要衝マラッカ海峡に面する。但し、当時は、イギリス領の海峡植民地であった。
「岩手縣陸中國(りくちうの)東閉伊郡(ひがしへいこほり)飯岡村(いひをかむら)」ここは、現在の下閉伊郡山田町(やまだまち)飯岡(いいおか)。
「鈴木善助」不詳。]
灰鮑の販路は將來に見込あるは香港なり。目下、該港の價格(ねぐらい)は、左の如し。
[やぶちゃん注:以下は、冒頭の製品を八字分の中で均等配置しているが、ブラウザの不具合を考えて、字間をカットした。一部の地名がポイント落ちで入っているが、これも同ポイントとした。「仝」は「同」の古字異体字。読みの歴史的仮名遣の誤りと「しほいろ」はママ。但し、これは誤植ではなく、「白色」ではなく、「䀋色」の当て訓であろう。]
灰鮑(北海道產)【上等三拾二圓・二拾七、八圓・二拾五圓・二拾一圓・一八、九圓・拾六圓迄。】
大形明鮑(おほかためいはう)(房州・伊勢・志摩・隱岐產)(【仝上三拾圓・二拾六、七圓・二拾四、五圓迄。】
中形明鮑(ちうかためいはう)(磐城・常陸產)【仝上二拾九圓・二拾五、六圓迄。】
小形明鮑(しようかためいはう)(陸前・陸中產)【仝上二拾七圓・二拾四、五圓・二拾三、四圓迄。】
馬爪色(ばづいろ)及び黑色鮑(こくしよくあわび)(陸中產)【仝上二拾二圓・拾八圓迄。】
白色鮑(しほいろ)(仝上)【仝上二拾四圓・二拾圓・拾八圓迄。】
䀋入鮑(しほいろあわび)(仝上)【仝上二拾圓・拾六圓迄。】
明鮑、灰鮑の上海、香港兩港に輸出するの比較は、左の如し。
[やぶちゃん注:「䀋入鮑(しほいろあわび)」これは、「しほいりあはび」(塩蔵にしたアワビを乾したもの)の二箇所の誤植と思われる。
なお、以下では、「{」が三行に亙る大きなものだが、表示出来ないので、以下の罫線で代わりとした。「灰鮑」は「明鮑」の下方にあるが、引き上げて並べた。]
┌香港拾分の一
明鮑│
└上海拾分の九
┌香港十分の九
灰鮑│
└上海十分の一
右を、淸國人に賣買するには、從來、之を、三番・二番・一番・無番の四等に分ち、又、番每に大・中・小に區別せり。其(その)番立法(ばんたてはふ)たる三番は、平戶・五島等の產の內(うち)、上品三步(《さん》ぶ)通(とふり[やぶちゃん注:ママ。])、諸國出產の內、上品四步通、北海道・三陸の產、小形なれども、上品の分《ぶん》、三步通を交(まじ)へ、步割(ぶわり)に拘はらず、上品の分は、此(この)番(ばん)に加ひ[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]、二番は諸國出產の三番に成らざる、大《だい》の分、六步通、三陸產、四步通ほどを加(くは)ひ[やぶちゃん注:ママ。「加へ」が正しい。]、此番に定む。但(たヾし)、步割(ぶわり)に拘(かヽは)らず、諸國出產の內、三番に成らざる大の分、又は、北海道產の內、三番に成らざる分を交(まじ)ゆ。一番は、諸國出產の中(うち)、至(いたつ)て小《しやう》の分を此番とす。無番は疵付(きづつき、並(ならび)に、色合、惡(あし)く、渾(すべ)て、形狀・色合の不良のものをいふ。而して、本邦より淸國ヘ輸出するの總額は、明治元年には、二十一萬〇二百四十斤、此代價、六萬瓦千五百三十四圓なりしが、爾來(じらい)、年々、多少の增減あるも、槪(おほむ)ね、增額に趣(おもむ)き、十五年には百〇七萬千九百五十斤、此價二十八萬五千九百二十一圓に至れり。
[やぶちゃん注:「三步(《さん》ぶ)通(とふり)」この「さんぶとほり」というのは、「三歩留(さんぶと)まり」を言っているものと思われる。則ち、本来、期待予想される乾アワビ製造に於いて、「原料であるアワビ一個体の量から期待される生産量に対し、実際に得られた製品生産数の比率」の謂いであると考えられる。
「步割」これも同様に「歩合」で、前の「歩留り」と類似した意で使っているものと思われる。]
上海・香港より分輸(ぶんゆ)するの地方は、湖北・湖南・江南・河南・陝西(きやうせい)・四川等《とう》の諸省(しよしよう[やぶちゃん注:ママ。])にして、四川省の如きは、有名なる『五色菜(ごしきさい)』の一《ひとつ》【黃色。】にして、遊客(ゆうかく)の饗膳(ごちさう)に欠(か)く可(べか)らざる大海味(だいかいみ)の一として、之を割烹(りやうり)するには、『鮑魚絲(ほうぎよし/ぼうきり[やぶちゃん注:「ほう」「ぼう」はママ。次も同じ。])』・『鮑魚片(ほうぎよへん/うすへぎ)』等(とう)の切り方ありて、『榮鮑魚(ゑいはうぎよ[やぶちゃん注:ママ。])』・『紅燒鮑魚(こうしようほうぎよ[やぶちゃん注:ママ。])』・『細滷鮑魚(さいろはうぎよ)』・『淸湯鮑魚(せいとうはうぎよ[やぶちゃん注:ママ。])』等(とう)、種々(しゆしゆ)大碗(たいわん)の調理(ちやうり)に供せり。而して其煮方たる、乾鮑(ほしあわび[やぶちゃん注:ママ。])を溫湯(ぬるまゆ)に、五、六日間、浸(ひた)して、充分、柔(やわらか[やぶちゃん注:ママ。])になして、切り、他(た)の菌菜(きんさい)とともに、火腿(くわ
たい)の煮汁、及び、氷砂糖熬汁(こほりさとういりしる[やぶちゃん注:ママ。])に調理せり。
[やぶちゃん注:「五色菜」「煎海鼠の說(その9)」で、お茶濁しの当たり前の注は、打ったので見られたい。
「大海味」本邦の「海の幸」、或いは、「海産物中の珍味」の意であろう。
「鮑魚絲」「百度百科」の「鲍鱼丝」に、『主に鮑の薄切りを使った料理で、中華料理でよく見られる。通常は鮑を細切りにし、柔らかくなるまで加熱調理するもの。この料理は様々な調理法があり、例えば、「韓国風のピリ辛炒め」は、生姜・大蒜・チリソースでサッと炒めるだけで、「鮑の細切りチリ炒め」は、豚バラ肉とピーマンを加えて風味を強める。また、鮑の細切りは、「太史五蛇羹」などの高級料理にも使われる』。これ『は、蛇の肉や魚の浮き袋などを細切りにし、包丁の腕と味の融合を強調している』とある。文中の「太史五蛇羹」は、ウィキの「蛇スープ」に拠れば、『五蛇羹(五種類の蛇のとろみスープ)』とあり、『広東料理の一つで、三蛇羹の食材の他に、ヒャッポダ』(有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科ヒャッポダ(百歩蛇)属ヒャッポダ Deinagkistrodon acutus:猛毒種 )『とホウシャナメラ』(中文名「三索錦蛇」・和名は「眼を中心とした放射線状の黒色を持った滑らかな甲羅の蛇」の意:ナミヘビ科アギトナメラ属ホウシャナメラ Coelognathus radiatus:無毒種)の二『種のヘビ肉を加えたもの』で、清の一九〇四年に『科挙で進士となった江孔殷は、役人となり』、『江太史と呼ばれたが、グルメとしても有名で、江太史の屋敷で考案された』ことから、『太史五蛇羹とも呼ばれる』とあった。
「鮑魚片」これは、料理名ではなく、食材名のようだ。あまり使いたくないが、AIによれば、鮑を乾燥保存し、調理し易いように薄切りにしたもので、スープや煮込み料理の出汁(だし)や具材として使われる。乾燥鮑は、水で戻すのに、非常に時間がかかるが、スライスされているため、短時間で戻すことができ、手軽に高級なアワビの風味と食感を楽しむことが出来る、とあった。
「榮鮑魚」(正:えいはうぎよ)いちいち、中文の料理法を調べるのが面倒なので、当該名を含む料理画像・解説画像(動画も含む)を示して注の代わりとする。却って、判り易い。「老爺大酒店尊榮鮑魚美饌上菜」。
「紅燒鮑魚」(正:こうしやうはうぎよ)「〈職人吹水 〉紅燒鮑魚 金盞 白花球 勁大隻 罕有兩頭紅燒鮑魚 刀叉享受 簡單易做 花點心思 母親節快樂」(YouTube動画)。
「細滷鮑魚(さいろはうぎよ)」この文字列では、見当たらない。「滷」は「内陸産の岩塩」を意味する「鹵」に由来する漢字で、「醤油や香辛料を煮込んだスープ。または、そのスープで作った食べ物」を意味する。「美食天下」の「卤水鲍鱼:冰鲜的更好吃」。
「淸湯鮑魚」(正:せいたうはうぎよ)「@鈺贊貿易冷凍水產批發」の「這罐鮑魚竟然逼瘋南北貨老闆!再不搶就沒了」(YouTubeリール動画)。
「菌菜(きんさい)」この場合は、前後から見て、文字通りの「キノコ類と野菜」の意味である。
「火腿(くわたい)」拼音“huǒtuǐ”(音写:フオトェイ)で「中国式ハム」を指す。豚の腿肉を塩漬・乾燥・発酵させて作る保存食。漢名は「断面が火のように赤いこと」に由来する。
「氷砂糖熬汁」(正:こほりさたういりしる)は中国語で「氷砂糖を煮詰めて作ったシロップやソース」を指すようである。]
鮑に『あはび』『とこぶし』『みヽかひ』の三種あり。『あはび』に『またかひ』【一《いつ》に『また』、又、『またか』。】『めかひ』『くろかひ』【一に『くろ』。】の三品(ぴん)あり。『まだか』は、凡そ、十五尋(ひろ)以上、三十尋許(ばかり)、深き處に棲み、其肉の外面(ぐわいめん)、淡黃色(うすきいろ)をなし、肉緣(みヽ)、厚く、其殼、深しと雖ども、『くろかひ』に比すれば、淺し。『めかひ』は、十三尋より十七、八尋の處に棲み、肉の外面、黃色を帶び、殼、甚だ、淺く、肉緣(みヽ)、薄し。『くろ』は、十三尋以下にありて、肉の外面、淡黑色、或は、梢々(やヽ)靑色をなすものありて、肉、及び、肉緣、厚くして、殼、深し。此三品は、其質(そのしつ)、各(おのおの)、異(こと)にして、『くろがひ』は、鮮肉(なまにく)の味(あぢは)ひは、他の二品に優(まさ)ると雖ども、『明鮑』には、色、あしく、『灰鮑』には、形、よからず。故に、『乾鮑(ほしあはび』に適せざる品(しな)なり。『またがひ』は、煮て食するに、味、よろしく、『乾鮑』にも適せり。『めがひ』は、煮て食するには、『またがひ』に[やぶちゃん注:原文では『「またがひに」』であるが、誤植と断じて修正した。]劣るも、『乾鮑』となすに、最(もつとも)適せり。以上三品に就(つい)て、海底の深淺をいふは、總(しもふさ)・房(あわ[やぶちゃん注:ママ。])の海に就て、撿査(けんさ)[やぶちゃん注:「檢査」に同じ。]せし所なれども、地方によりて、多小の異同、あるべし。又、『とこぶし』は、鮑を產する海に多けれども、東京以北の地は、次第に、少なく、北海道には、全く、なし。其棲息する所は、鮑に比して、極めて淺く、其形、小(ちいさ)きを以て、世(よ)に「鮑の兒(こ)なり。」と云ふもの、あれども、全く、別種なり。是を煮て、食し、或は、䀋辛(しをから[やぶちゃん注:ママ。])となすの外(ほか)、世(よ)の需要、狹きにより、從(したがつ)て、其價(そのあたひ)も、低(ひく)きを以て、之を、薄片製(うすはぎせい)と、なし、淸國に輸出せば、遂には、一《ひとつ》の製產(せいさん)となるに至るべし。而して、「みヽかひ」は、沖繩請島に多く產するものにて、其形(そのかたち)、較(やヽ)、「とこぶし」に似て、長き灣形(わんけい)をなし、殼に比すれば、其肉、頗(すこぶ)る大(たい[やぶちゃん注:ママ。])なり。其需用、及び、將來の目的、ともに、前(せん)[やぶちゃん注:「前に語った」の意。]、「とこぶし」に同(おな)し。
[やぶちゃん注:ここに出た種の詳細は、既に「(その5)」で注してある。
「下總」現代仮名遣「しもうさ」。現在の千葉県北部と茨城県の南部相当。なお、古くは、現在の旧東京府・埼玉県・千葉県・茨城県にあった葛飾郡全域を含んだが、同郡の太日川(ふといがわ:現在の江戸川の旧名。流域も現在とは大きく異なる)以西は江戸初期に武蔵国に移されている。
「安房」「あは」が正しい。現在の千葉県南端部。本書刊行から十五年後の明治三〇(一八九七)年には、「平(へい)」・「長狭」・「朝夷」の三郡を合併し、旧安房国全域を占める郡となっている。]
抑(そもそも)、鮑殼(あはびがら)は、其(その)色(しよく)・質(しつ)・閃彩(しうさい[やぶちゃん注:ママ。])、美麗なるが故に、磨(みがき)て、器皿(きびやう[やぶちゃん注:ママ。])とし、截(きり)て釦鈕(ぼたん)とし、或は、螺鈕(らちう)の用に充つべく、介殼(かいがら)中(ちう)、頗る、用あるものなりと雖ども、本邦、未だ鏇製(ろくろざいく)に巧(たくみ)ならざるを以て、其殼を、歐洲に輸出し、却(かへつ)て、其製品を求むるは、遺憾の至りならずや。若(も)し、機械を使用し、釦鈕を作るに至らば、其利、極めて多かるべし。凡そ、鮑を捕るには、海人(あま)の水中に潜沒(くヽりいり[やぶちゃん注:ママ。「くヾりいり」の誤植。])して、其(その)在る所を認(みと)め、急に、鐵箆(かなへら)[やぶちゃん注:磯金(いそがね)。]を以て、刮(けづ)り起して、捕ると、魚叉(さす)を用(もち)て、突捕(つきと)るの舊慣(きうくわん)なりしが、近年、潜水器(しんすいき[やぶちゃん注:ママ。「せんすいき」の誤植であろう。])を使用するに至り、從來、海人(かいじん)の達せざる深き所のものをも、捕るに至れり。然(しか)れども、一利、興(おこ)れば、一害の生ずるは、數(すふ[やぶちゃん注:ママ。])の免(まぬか)れざる所にして、各所、此器械を以て、一時(いちじ)に多量の收獲を得るのみならず、鮑兒(はうじ)をも捕𫉬(ほかく)せしにより、遂(つひ[やぶちゃん注:ママ。])に、繁殖に害を及ぼすに至る。既に、遠江(とふとふみ[やぶちゃん注:ママ。])の如きは、明治十三年に、二萬斤の收利(しうり)ありしも、十五年には、絕(たへ[やぶちゃん注:ママ。])て產出を見ず。又、全國の統計は、十三年に、百十一萬八千七六十二斤となり、三十一萬斤の產額なりしも、十五年には八十萬六千五百二十八斤となり、三十一萬斤の滅少を來(きた)せしのみならず、小貝(ちいさきかい[やぶちゃん注:ママ。])と、粗製との價(あたひ)は、殆ど、半額に及べり。
[やぶちゃん注:「閃彩(しうさい)」どう逆立ちしても「閃」は「しう」とは読めない。「閃」の音は「セン」のみである。但し、国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると、「ピカピカと光の彩(いろど)り」の意味で、使用例が複数あった。ルビはないが、それらは「センサイ」と音読みし、「光り輝く彩り」の意味と採れた。しかし、辞書類には載らない。思うに、前後を見るに、ここは「色(しよく)・質(しつ)・閃(せん)・彩(さい)」であって、「アワビの真珠層が燦然と綺羅星の如く輝く、その光り」のことを言っているのだと思う。「彩」は、さらに、よくその「閃光」は虹色を成しているということであろうと判断する。
「器皿(きびやう)」この「皿」も「ビョウ」とは読めない。「皿」の音は(括弧内は歴史的仮名遣)「メイ・ミョウ(ミヤウ)・モウ(マウ)」と慣用音の「ベイ」があるのみである。恐らく、河原田氏は「きべい」とする所を、歴史的仮名遣染みたミスで「きびやう」とやらかしたのではないかと推理する(彼は今までもトンデモ歴史的仮名遣を使っている前歴がある)。「器皿(きべい)」は小学館「日本国語大辞典」に『うつわ。器具。皿や小ばちの類。』とある。アワビの殻は、御存知の通り、「さんが」(山家・山河)等、種々の海産珍味を出す際に、よく使われ、洒落た小鉢や、灰皿にもされる。
「截(きり)て釦鈕(ぼたん)とし」貝ボタンとして、今や、誰もが知っているが、ネット上では、どこも、貝ボタン産業は、明治二〇(一八八七)年頃、ドイツ人の技術指導によって、兵庫県神戸市に初めて伝わった、とされている。本書は明治十五年刊であるから、以下の河原田氏の遺憾の歎きは、よく判る。
「鏇製(ろくろざいく)」「轆轤細工」。但し、ここでの河原田氏の遺憾とするキモは、精密な電動穿孔機の導入による将来的な量産を期待した思いであろう。しかし、言っておくと、ウィキの「ボタン(服飾)」によれば、『最も古いものとして5000年前のモヘンジョダロ遺跡で湾曲した貝から作られたボタンが見つかっている』とあり、『日本では江戸時代の末期になってに牛骨や金属の留め具が作られるようになったが足袋の小鉤(こはぜ)に近いもので、本格的なボタンは明治になってから製造されるようになった』。『これは、軍隊の制服需要によって本格化し、需要が生まれたことから輸出に頼っていたボタンが国産化され、水牛ボタン、馬蹄ボタンが作られ、明治期に貝を使ったボタン貝釦が作られるようになった。生産は増え続け、第二次世界大戦前にはボタンを輸出するようになっていた』とあり、河原田氏の以上の感懐吐露は、まさに、アップ・トゥ・デイトな言上げであったのである。]
夫(そ)れ、本邦は、全國の沿海に鮑魚(はうぎよ)を產するを以て、濫捕(らんほ)を制限して、繁殖を圖(はか)り、製造を改良して、品位を善良にし、浪費を省きて、價(あたひ)を廉(れん)ならしめ、容函(ようかん/いればこ)を堅固にして、濕氣(しつき)を防ぎ、商賣を確實にして、需用者の信用を厚(あつ)からしめ、以て、其利を永遠に傳へ、國家の經濟を助けずんば、あらざるなり。
[やぶちゃん注:その通り!!!]
[やぶちゃん注:まず、「目録」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の私と同じ画像で示すと、ここと、ここである。原本は三段で記載されてあるが、一段で示した。ルビは丸括弧で下に附した。歴史的仮名遣としておかしい箇所があるが、そのまま示した。ママ注記は附していない。また、下にある附記(別名・ポイント落ち)は【 】で普通のポイントで示した。なお、現在、一般に見知られていない植物名が多く出るが、ここでは、種同定はしない。既に、概ね、「藥品」パートの私の注で同定比定しているものではある。]
山草類
甘草(かんざう)
黃茋(わうぎ)
人參(にんじん)
尾人參(ひげにんじん)
和人參(わにんじん)
沙參(しやじん)
羊⻆菜(つるにんじん)【和沙參】
躍草(をどりぐさ)
薺苨(さいねい)
桔梗(ききやう)
長松(まつばぐさ)
黃精(わうせい)
萎甤(いずい)
[やぶちゃん注:「甤」原本は異体字で、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、かく、した。]
知母(ちも)
肉蓯蓉(にくじうよう)
草蓯蓉(さうじうやう)
鎻陽(さやう)
惠布里古(ゑぶりこ)
天麻(てんま)
蒼术(さうじゆつ)
[やぶちゃん注:「术」は「朮」の異体字。次も同じ。]
白术(びやくじゆつ)
狗脊(ぜんまい)
貫衆(やまぐさ)
巴戟天(はげぎてん)
觀音草(くわんおんさう)
遠志(をんじ)
淫羊藿(おんようくはく)
[やぶちゃん注:「羊」原本は異体字で、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、かく、した。]
仙茅(せんばう)
玄參(げんしん)
地榆(ちゆ)
丹參(たんざん)
[やぶちゃん注:「丹」原本は異体字で、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、かく、した。]
紫參(しじん)
王孫(ぬはりぐさ)
紫草(むらさき)
白頭翁(かくづをう)【をきな草】
山芹菜(くさぼたん)
伊波奈之(いばなし)
* * *
和漢三才圖會卷第九十二之本
攝陽 城醫法橋寺島良安尚順編
山草類上卷
かんざう 𮔉甘 𮔉草
美草 蕗草
甘草 靈通 國老
【其大美者
唐音 名粉草】
【和名阿末木】
本綱春生靑苗枝葉悉如槐髙五六尺伹葉端微尖而糙
濇似有白毛七月開紫花似柰冬結實作𧢲如相思⻆作
一本生至熟時𧢲折子扁如小豆極堅齒囓不破根長者
三四尺粗細不定皮赤色上有横梁梁下皆細根也以大
徑寸而結緊斷文者爲佳謂之粉草其輕虛細小者不及
之安南國甘草大者如柱土人以架屋不識果然否也
氣味【甘平氣薄味厚】 可升可降陰中陽也此草治七十二種
乳石毒解一千二百般草木毒調和衆藥有功故爲國
老經方少有不用者猶如香中有沉香也凡使須去頭
尾尖𠙚其頭尾吐人【苦參乾𣾰爲之使惡遠志反大戟芫花甘遂海藻】
生用則【氣平】補脾胃不足而大潟心火
炙用則【氣温】補三焦元氣而散表寒除邪熱去咽痛
凡甘草性能緩急而又協和諸藥使之不争故熱藥得
之緩其熱寒藥得之緩其寒寒熱相雜者用之得其平
凡中滿嘔吐酒客之病不可用甘草甘者令人中滿
△按甘草出於南京陝西河東山西者爲上皆稱之南京
甘草出於福州者細脆帶微苦味又細而如䅌者俗謂
之藁手又大者名粉草俗謂之鞭手
徃昔日本有甘草延喜式云陸奧出羽常陸毎年貢之
如今絶不出雖希有而細硬不佳
*
かんざう 𮔉甘《みつかん》 𮔉草《みつさう》
美草《びさう》 蕗草《ろさう》
甘草 靈通《れいつう》 國老《こくらう》
【其《その》大《おほき》く美なる者、
唐音 「粉草《ふんさう》」と名づく。】
【和名「阿末木《あまき》」。】
「本綱」に曰はく、『春、靑苗《せいびやう》を生ず。枝葉、悉《ことごと》く、槐(ゑえんじゆ)のごとく、髙《たかさ》、五、六尺。伹《ただし》、葉の端《はし》、微《やや》、尖《とが》りて、糙-濇(あらあら)しく、白毛《はくもう》、有るに似たり。
七月に紫≪の≫花を開く。柰《だい》[やぶちゃん注:広義のリンゴ=リンゴ属 Malus 。「卷第八十七 山果類 柰」の私の注の冒頭にある比定考証部を見よ。東洋文庫訳では割注で『セイヨウリンゴ』とするが、私は従えない。]に似て、冬、實を結び、𧢲《さや》[やぶちゃん注:この漢字は「角」の本字。篆文(てんぶん)にごく近い字体である。ここは「莢(さや)」の意である。]を作る。「相思《さうし/たうごま》」の⻆《さや》に《✕→の》ごとく、一本を作《な》して、生ず。熟する時に至《いたり》て、𧢲《さや》、折(くじ)け、子《み》、扁《ひら》たく、小豆《あずき》のごとし。極《きはめ》て堅《かたく》して、齒にて囓(か)むに、破れず。根、長き者、三、四尺。粗(ふと)・細(ほそ)、定まらず。皮、赤色。上に、横≪に≫梁(ふしくれ)、有り。梁《ふしくれ》の下。皆、細≪き≫根なり。以大《おほい》さ、徑《さしわた》し、寸[やぶちゃん注:三センチメートル。]にして、結緊《けつきん》・斷文《だんもん》の者[やぶちゃん注:「節くれが、堅く引き締まっているもの・切れ切れに紋様が続いて生じているもの」の意。]、佳《よし》と爲《なす》。之《これ》を「粉草《ふんさう》」と謂《いふ》。其《それ》、輕虛《けいきよ》・細小なる者、之《これ》に及ばず。安南國《アンナンこく》の甘草は、大なる者、柱《はしら》のごとし。土人、以て、屋に架(つく)りす。《→と雖も、》識らず。果《はた》して、然《しか》るや否や。』≪と≫。
『氣味【甘、平。氣、薄く、味、厚《あつ》し。】 升(のぼ)すべく、降《くだ》すべく、陰中《いんちゆう》の陽《やう》なり。此の草、七十二種の乳石《にゆうせき》[やぶちゃん注:これは、本間久英・中田正隆・新井利枝共同論文「薬石に関する資料」(『東京学芸大学紀要』第4部門(数学・自然科学)・巻四十八・一九九六年八月発行・「東京学芸大学リポジトリ」のここからダウンロード可能)を管見した限りでは、恐らくは、鍾乳石由来の薬、及び、諸石・鉱物由来の薬全般を指している語と推定された。]の毒を治し、一千二百般[やぶちゃん注:「種」に同じ。]の草木の毒を解して、衆藥《しゆやく》を調和するの功、有る故《ゆゑ》に、「國老」と爲《なす》。經《けい》[やぶちゃん注:中医学で「気血の通路」を指す。]≪の≫方《はう》で、用《もちひ》ざる者、有ること、少《すくな》し。猶を[やぶちゃん注:ママ。]、香中《かうちゆう》に沉香《ぢんかう》有るがごとし。凡そ、使ふに、須《よろしく》、頭尾≪の≫尖《とがれる》𠙚《ところ》を去るべし。其《その》頭尾、人を吐《はか》す《✕→人をして吐かせしむ》。【「苦參《くじん》」・「乾𣾰《かんしつ》」、之れの使《し》と爲す。「遠志《をんじ》」を惡《にく》み、「大戟《たいげき》」・「芫花《げんくわ》」・「甘遂《かんすい》」・「海藻」に反《はん》す。】。』≪と≫。
『生《なま》にて用《もちふ》れば、則《すなはち》【氣、平。】、脾胃の不足を補《おぎなひ》て、大《おほき》に心火《しんくわ》[やぶちゃん注:五行思想で「心」は「火」に属す。]を潟《しや》す。』≪と≫。
『炙《あぶ》り用れば、則《すなはち》【氣、温。】、三焦の元氣を補ひて、表寒《へうかん》を散じ、邪熱を除《のぞ》き、咽《のど》の痛《いたみ》を去る。』≪と≫。『凡《およそ》、甘草の性《しやう》、能く、急《きふ》を緩(ゆる)め、而《しかして》又、諸藥を協和す。之をして、争(《あら》そ)はざらしむ。故《ゆゑ》、熱藥≪は≫、之を得《う》れば、其熱を緩《ゆる》くし[やぶちゃん注:原本では、この下に「ハ」とあるが、衍字か誤刻であろうと判断し、カットした。]、寒藥、之を得れば、其寒を緩くし、寒・熱、相《あひ》雜《まぢ》る者は、之を用《もちひ》て、其《その》平《へい》を得《う》。』≪と≫。
『凡《およそ》、中滿《ちゆうまん》[やぶちゃん注:「肥満」の意。]・嘔吐・酒客《しゆかく》[やぶちゃん注:酒飲み。酒精中毒者。]の病《やまひ》には、甘草を用ふべからず。甘《かん/あまき》は、人をして中滿ならしむ。』≪と≫。
△按ずるに、甘草、南京・陝西・河東・山西(《シヤン》スイ)[やぶちゃん注:「山西」は現在、拼音で“Shānxī” (shān xī)では、音写は「シャン・シー」となる。「スイ」というのは音写の一つとしておかしくはないと思われる。]より出《いづ》る者、上《じやう》と爲《なす》。皆、之『南京甘草』と稱す。福州(ホクチウ)[やぶちゃん注:閩東語で「福州」(Hók-ciŭ:音写「フッチュ」)であるから、その音写の一つとして違和感はない。]より出る者は、細《ほそ》≪く≫脆《もろ》く、微《やや》、苦味を帶《おび》て、又、細くして、䅌(むぎわら)のごとくなる者を、俗、之を、『藁手(わらで)』と謂《いふ》。又、大《だい》なる者を、俗、『粉草《ふんさう》』と名《なづ》く。俗、之を『鞭手(ぶちで)』[やぶちゃん注:「鞭」には「ぶち」の訓読みが存在する。大学生になった際に購入した「角川新版 古語辞典」(五十五版・昭和五〇(一九七五)年刊)に『「むち」の転。「―ばかり腰に差いておぢやる』〔狂・鞍馬婿〕」とある。通常は「鞍馬聟」であるが、制作年は未詳なものの、この用法を良安が用いてもおかしくないと私は判断する。]と謂ふ。
徃昔(いにしへ)は、日本に、甘草、有り。「延喜式」に云《いは》く、『陸奧・出羽・常陸、毎年、之を貢す』と。如今《ぢよこん》、絶《たえ》て、出《い》≪で≫ず。希(《ま》れ)に有ると雖も、細く、硬《かたく》佳《か》ならず。
[やぶちゃん注:私は、長い間、愚かにも、カンゾウは本邦にも自生すると思っていた。しかし、数年前、小学館「日本国語大辞典」の記載を見て、『中国に野生し、日本では、まれに栽培される』と知って、我の愚かさを知ったのであった。そこで、「甘草」に就いては、まず、ボリュームのある平凡社「世界大百科事典」を引くこととしよう。『カンゾウ(甘草)』『カンゾウ Glycyrrhiza uralensis Fisch.』は、『根や茎の基部が漢方薬で甘草と呼ばれ重用されるマメ科の多年草。カンゾウ属 Glycyrrhiza の2,3種が同じ用途に利用される。これらを英名でlicorice という。高さ数十cm,ときには1mになり,根茎は円柱状で,それにつづく主根は深く土中にのびる。直立する地上茎には白色の短毛や腺毛がある。葉は互生,奇数羽状複葉で4~8対の小葉がある。花は6~7月,腋生(えきせい)した花梗の先端に密集してつき淡紫色,1.5~2cmほど。豆果は長楕円形で鎌状に曲がり,長さ6~8cm,褐色のとげ状腺毛を密生する。種子は黒色で光沢がある。同属で,果実に腺毛のない G. glabra L.(中国名は洋甘草,欧甘草)や,G. kansuensis Chang et Peng(中国名は黄甘草)なども前種と同様に用いられる。カンゾウはシベリアから中国北部に,G. glabra はヨーロッパ南部からアフガニスタンに分布している。甘みはサポニン,グリチルリチン glycyrrhizin(ショ糖の150倍の甘みがある)やブドウ糖を含有していることによる。そのほかにフラボノイド flavonoid も含み,鎮咳(ちんがい),鎮痛や利尿作用がある。そのため風邪や咽喉の病気,さらに胃腸薬として用いられている。また漢方薬の甘味づけや錠剤の形成薬にも利用されている。日本ではしょうゆの甘味料として大量に消費され,また人工甘味料としての用途が広い』。『なお』、全く縁のない『カヤツリグサ科のカンエンガヤツリ[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ(蚊帳吊)科カンエンガヤツリ(灌園蚊帳吊)Cyperus exaltatus var. iwasakii 。]やユリ科のキスゲ類[やぶちゃん注:単子葉植物綱ユリ目ユリ科キジカクシ目ワスレグサ科ワスレグサ亜科ワスレグサ属 Hemerocallis の異名。]もそれぞれカンゾウ(莞草,萱草)と呼ばれる』とある。特に、後者のワスレグサ属を中国ではモロに「萱草屬(或いは「黃花菜屬」)とする(「維基百科」の当該属を見よ)ので、注意が必要である。)。
次いで、基原を示すと、「日本漢方生薬製剤協会」の「カンゾウ (甘草)」のページに拠ると、二種が掲げられている。
双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属の
ウラルカンゾウ Glycyrrhiza uralensis (当該ウィキに拠れば、別名を「東北甘草」と呼び、)
スペインカンゾウ Glycyrrhiza glabra
の根、及び、ストロンを乾燥したもの、時には周皮を除いたもの
である。前者の、ウラルカンゾウは『草丈30~80cm,時には1mにも達する.葉は互生し,長さ8~24cm,奇数羽状複葉で小葉は5~17枚,倒卵形から楕円形.6~7月に葉腋の総状花序に淡紫色の花を多数密生する.莢果は常に湾曲し,鎌刀状或いは環状を呈し,密に腺毛で被われている.』とあり、後者、スペインカンゾウは『草丈60~90cm,葉は互生し,奇数羽状複葉で小葉は,9~17枚,楕円形~長楕円形,鈍頭,裏面は,小腺点を有し粘る.総状花序に淡青色の花を多数密生する.莢果はまっすぐ或いは微かに曲がり,無毛或いはまばらに柔毛がある.』とある(二種とも生体写真が有る)。
「産地」は『中国 (内蒙古自治区,甘粛省,陝西省,寧夏回族自治区,黒龍江省,吉林省,新彊ウイグル自治区等),アフガニスタン,オーストラリア,ロシア等』で、「生薬の性状」の項に、『本品はほぼ円柱形を呈し,径0.5~3cm,長さ1m以上に及ぶ.外面は暗褐色 ~ 赤褐色で縦じわがあり,しばしば皮目,小芽及び鱗片葉を付ける.周皮を除いたものは外面が淡黄色で繊維性である.横切面では,皮部と木部の境界がほぼ明らかで,放射状の構造を現し,しばしば放射状に裂け目がある.ストロンに基づくものでは髄を認めるが,根に基づくものではこれを認めない』。『本品は弱いにおいがあり,味は甘い』とし、『本品の横切片を鏡検するとき,黄褐色の多細胞層のコルク層と』、『その内側に1~3細胞層のコルク皮層がある.二次皮層には放射組織が師部と交互に放射状に配列し,師部』(植物の維管束の内、体内物質の移動の通路となり、また、機械組織・貯蔵組織ともなる部分を言う語)『には』、『厚壁で木化不十分な師部繊維群があり,その周囲に結晶細胞が認められる.周皮を除いたものでは』、『二次皮層の一部を欠くものがある.木部には黄色で巨大な道管の列と3~10細胞列の放射組織が交互に放射状に配列する.道管は結晶細胞で囲まれた木部繊維及び木部柔細胞を伴う.ストロンに基づくものでは』、『柔細胞性の髄がある.柔細胞は』、『でんぷん粒を含み,また,しばしばシュウ酸カルシウムの単晶を含む.縦切片の鏡検では,師部繊維又は木部繊維の周囲の結晶細胞は列をなす.』とある。この解説の下には、『東北甘草(2号)内蒙古自治区産』・『西北甘草(西正甘草・乙)内蒙古自治区産』のキャプションを持つ生薬製品の写真がある。以下、「成分」と本邦での「規格値」があるが、各自で見られたい。次に、「適用」として、『かぜ薬,解熱鎮痛消炎薬,鎮痛鎮痙薬,鎮咳去痰薬,健胃消化薬,止瀉整腸薬とみなされる処方に配合されている.』とあった。(最後に「配合される主な漢方処方」が列挙されるが、これも各自で見られたい)。
なお、ウィキの「ウラルカンゾウ」に拠れば、別名を「東北甘草」と呼び、『日本では主に中国から輸入しているが、中国政府は2000年ごろより土地の砂漠化を理由に甘草の輸出を制限するようになり、甘草の取り扱いを許可制とした。日本の漢方薬企業大手のツムラは、甘草の日本国内での大規模栽培を行い、中国産からの切り替えを始めている』。『また、日本の製薬企業によるオーストラリアでの本格的な栽培も行われている』。『日本国内でも栽培可能だが』、『ウラルカンゾウ・スペインカンゾウ』、『いずれも種子の発芽率はあまり良くない。発芽しても初期の成長がかなり遅い上に土壌の過湿に弱い。ストロン(走出茎)は数センチ毎に節があり芽が付いているのでストロンを切り離して植えつけたほうが成長が早い。ストロンは地中で株元から伸び始めた当初は表面が白いが時間の経過と共に茶色くなって木の枝のような色になる。ハーブや生薬として利用する時は乾燥させるが生の状態でかじっても甘味を感じる。5~6月に紫色の花が開花する事もあるが、日本の気候では開花結実しにくいとされている』とある。ウィキの「スペインカンゾウ」もあるが、こちらは特に新知見はない。而して、やはり、最も読みたくなり、信頼している神農子さんの記載を引用して、皮切りのシメとしたい。特に第一段落の本邦への渡来の箇所が、良安に評言の事実を確認するキモとなる。しかも、良安が本書を成立させた八年後に甲府で甘草が発見され、幕府が栽培奨励を行ったという、新知見が見出せた! これに就いては、「甲州市」公式サイトの「旧高野家住宅 (甘草屋敷)」で解説されている。また、中国のカンゾウ栽培による砂漠化問題も、大切な部分だ。神農子様さまである!
《引用開始》
甘草は『神農本草経』の上品に収載され,解毒や諸薬の調和など多数の効を有し,「国老(皇帝の師の意味)」とも称される重要な生薬です。日本にもたらされた時期は不明確ですが,正倉院薬物として現存していることから,8世紀にはすでに日本にあったことがわかります。正倉院薬物の調査結果によると,甘草は当初は960斤納められていたのですが,100年後には45斤2両にまで減っており,この間に多量に消費されていたそうです。このことから,甘草は当時から需要の高い薬物であったことが伺えます。現在の日本においても,漢方処方中に配合される生薬の中で,甘草は最も配合機会が多い生薬です。また,主要成分であるグリチルリチンの製剤や甘草エキスなど多数の製品が製造販売されています。さらに,甘草は甘味料や醤油の味付けにも使われています。このように,甘草は古くから現在に至るまで繁用され続けている生薬です。
甘草の原植物である Glycyrrhiza 属植物(以後カンゾウ)は日本に自生せず,国内の需要は,これまで輸入に頼ってきました。しかし,近年,主な輸入相手国であった中国が,野生甘草の採取や輸出に関する規制を強化しつつあります。規制強化の背景には,甘草の中国内外での需要の高まりにともない野生のカンゾウが乱獲され,環境破壊や資源の枯渇が深刻な問題になってきたことがあります。カンゾウは地表面に水分がほとんど存在しない乾燥した地域に生育しており,地下水脈など地中深くの水分を利用して生きています。そのため,カンゾウの根茎は水平に四方に伸び広がるとともに,根は下方に深く伸びています。そこで,薬用部位である根茎や根を採集するためには,大きく深い穴を掘る必要があり,カンゾウを採集することにより周囲の環境が大きく破壊されてしまうのです。そのため,生育地は砂漠化し,風により上空に舞い上がった砂は現地では砂嵐となり,また黄砂の一因にもなっています。
以上のような事情から,今後日本において甘草の入手がより難しくなる恐れがあります。現在中国ではカンゾウの自生地などで栽培が行われていますが,日本薬局方カンゾウにおけるグリチルリチン酸含量の規定値(2.5% 以上)を超える薬材を産出するのには数年かかることが知られています。そこで,近年,日本においてもカンゾウの栽培研究が行われつつあり,最近では,大学,研究所,企業の共同研究成果として,水耕栽培により,短期間でグリチルリチン酸含量の規定値を超える根が生産できることが発表されました。今後,研究がさらに進み,国内で需要がまかなえるようになることが期待されています。
カンゾウの栽培は,かつては日本においても行われていました。江戸時代の享保五年(1720)に,甲州上於曽村(現在の山梨県塩山市)の伊兵衛の屋敷でカンゾウらしきものが栽培されているのが見つかり,幕府が専門家にその植物を調査させところ,本物のカンゾウであることが確認されました。折しも幕府は財政を立て直すために国産品生薬を奨励していましたので,上於曽村のカンゾウに対して費用などを拠出し,保護,栽培の拡大を行ったといいます。伊兵衛の屋敷は,その後一般に「甘草屋敷」と称されるようになりました。一方,甘草が甲州で栽培されていたという記録は大永五年(1525)の薬種寄附状の記載にまで遡るともいわれており,甲州ではかなり古くからカンゾウが栽培されていたようです。江戸時代に甘草の生産は幕府の保護のもとに行われており,その製品は幕府に納められていたといいます。しかし,江戸時代から現在に至る間にカンゾウの栽培は廃れ,現在の日本では商業的な規模での栽培は行われていません。
甘草は重要な生薬であることから資源枯渇の問題は一層深刻ですが,甘草以外にも資源的に対処すべき生薬は数多くあります。今後はそのような生薬にもスポットをあて,栽培化に向けた研究など,早急な資源確保対策の推進が望まれます。
《引用終了》
「相思《さうし/たうごま》」双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科トウアズキ属トウアズキ Abrus precatorius である。「卷第八十三 喬木類 相思子」を見よ。
「梁(ふしくれ)」「梁」には「節くれ」の意はないが、ウィキの「ウラルカンゾウ」のストロンの乾燥して裁断した写真を見ると、見た目、家屋の梁(はり)の横木のようなものが固まっているように見えるので、納得出来る。
「安南國《アンナンこく》の甘草は、大なる者、柱《はしら》のごとし。土人、以て、屋に架(つく)りす。《→と雖も、》識らず。果《はた》して、然《しか》るた否や。』「安南國」はヴェトナム北部から中部を指す歴史的地域名称で、唐代に置かれた安南都護府に由来する呼称である。しかし、草本で、堅い根とはいえ、実際の家屋の屋柱となるというのは、流石に、私も信じられない。事実、そういうものが存在するということを御存知の方は是非、お教え下さい!
「苦參《くじん》」既注だが、再掲すると、マメ目マメ科マメ亜科クララ連クララ属クララ Sophora flavescens の根、又は、外の皮を除いて乾燥したものを基原とする生薬。当該ウィキによれば、『利尿、消炎、鎮痒作用、苦味健胃作用があ』る、とする。なお、『和名の由来は、根を噛むとクラクラするほど苦いことから、眩草(くららぐさ)と呼ばれ、これが転じてクララと呼ばれるようになったといわれる』とあった。
「乾𣾰《かんしつ》」「卷第八十三 喬木類 𣾰」を見られたい。
「遠志《をんじ》」「藥品(11) 製法毋輕忽」の私の注を見られたい。
「大戟《たいげき》」「藥品(1)」で子細に注したので、見られたい。
「芫花《げんくわ》」「藥品(2) 六陳」で既注済み。
「甘遂《かんすい》」同じく、「藥品(2) 六陳」の私の「芫花」の引用内で語られてあるので、見られたい。
「三焦」既出既注だが、再掲すると、伝統中医学に於ける仮想の「六腑」の一つ「三焦」(さんしょう)。「上焦」・「中焦」・「下焦」の三つからなり、「上焦」は「心臓の下、胃の上にあって飲食物を胃の中へ入れる器官で、心・肺を含み、その生理機能は呼吸や血脈を掌り、飲食物の栄養分(飲食水穀の精気)を全身に巡らし、全身の臓腑・組織を滋養する器官とされる」とされ、「中焦」は「胃の中脘(ちゅうかん:本来は当該部のツボ名)にあって消化器官」とされ、「下焦」は「膀胱の上にあって排泄をつかさどる器官」とされる。因みに、所謂、「病い、膏肓に入る。」の諺の「膏肓」とは、この「三焦」を指し、これらが人体の内、最も奥に存在し、漢方の処方も、そこを原因とする病いの場合、うまく届けることが困難であることから、医師も「匙を投げる」部位なのである。
「表寒《へうかん》」中医学の「風寒表証」に同じい。「こだま堂漢方」のこちらに、『「証」が短期間に変化しやすい代表的な病気としては「風邪」があげられます。初めはゾクゾク寒気がしていたのに、2~3日後には寒気が無くなり発熱と熱感へ、また数日経つと今度は鼻水や咳が出てきて…というように数時間~1日単位で症状が変わりますが、これが「証」の変化です。初めにゾクゾク寒気がするのは、風寒邪が肌表を侵襲し、正気と邪気が戦っている状態です。このときの証は「風寒表証」といい、風寒の邪気を外に追い出す働きがある辛温解表剤(桂枝湯・葛根湯など)を用います。ここで風邪を追い出せたら、その先には症状が進まずに治りますが、体内に入ってしまい、邪気が鬱して化熱してしまうこともあります。そうなると「証」が変わり、もう辛温解表薬を使う時期ではありません。例えば「寒鬱化熱証」に使う柴葛解肌湯などに変えなければなりません。』とあった。
なお、以上の「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」「卷十二上」の「草之一【山草類上一十三種】」の冒頭の長い「甘草」のパッチワークである。
「南京甘草」現行では使用される様子はないが、江戸中期には、この語が本草書の中にあることが、関西医療大学の基礎医学ユニットの戸田静男氏の『総説』『甘草と炙甘草の修治について 本草書からの考察』(PDF)で確認出来た。]
連れ合いは、参加している音声ボランティア「戸塚朗読会」での仕事がどんどん増えてきて、忙しくなり、また、私の送った写真が私のパソコンに届いていなかったトラブルがあったこともあって、写真の公開が遅くなった。ここに掲げる。例によって、総て、彼女が撮ったものである。時に貧相な漱石の亡霊が入った心霊写真が数枚あるが、霊障は、ない――
修善寺奥の院正覚院内にて(殆んどは修善寺庭園特別公開)