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2024/04/19

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (5)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

 濱と江の島の間、潮水之を遮る其間半町[やぶちゃん注:五十四・五五メートル。]に足ず、涉人、往來を辨す、島の北端は平沙濱をなせり。海鷗群飛して悲鳴す。海蝦の漁甚多し。鳥居を過て一丁ばかり人家對列す、旅舍多し、之を西の町と云ふ。輙ち惠比須屋茂八方に宿し出で島上に遊ぶ。介貝を賣る肆[やぶちゃん注:「みせ」。]多し。每肆皆なホツスガイを列示す、この島專有の名產なり。坊の衝く所石壇有り、上れは[やぶちゃん注:ママ。]正面に石碑あり。東都吉原妓家の建る所、書して曰く、最勝銘最勝無最勝匹至鈔匪名、起滅來去香味色聲事物蕭寂眞空崢嶸顯處漠々暗裡明々 明治甲申 原坦山撰とあり。此邊に案内者あり、乃一人を雇ひ伴ひ行く。邊津社は舊下の宮と稱し、建永元年僧良眞が源實朝の命を請て開く所なり。沖津社[やぶちゃん注:ママ。「中津社」が正しい。]は舊上の宮と號し、文德帝の時慈覺大師の創造する所なり。中津社より奧津宮に至る其間の道を山二つといふ。進て行けば介肆[やぶちゃん注:貝殻を売る店。]多し。奧津社舊岩屋本宮の御殿と云ふ。養和二年文覺が賴朝の祈願により龍窟の神を此に勸請せるなり。社前に酒井雅樂頭の眞向きの龜と號する畫額あり。但し余の見を以てすれば、寧ろ眞拔けの龜と稱するが佳ならん。

[やぶちゃん注:「濱と江の島の間、潮水之を遮る其間半町に足ず、涉人、往來を辨す」当時の江ノ島は様子は、私の『サイト「鬼火」開設8周年記念 日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳 始動 / 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 1』以下の、同章を通読される(第五章は、カテゴリ『「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】』で全二十二回)と、私がグダグダ解説するより、目から鱗である。例えば、当時はしっかり砂州があって(満潮や荒天時は切れる)、平時は陸繋島であった。例えば、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 5 附江の島臨海実験所の同定」の私の注で引用した地図を見られたい。また、実は現在、江の島に初めて砂州の途中から桟橋が架けられたのは明治二四(一八九一)年とされているのだが、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 25 幻の桟橋」のモースの記載に明治一〇(一八七七)年夏の時点で、極めて脆弱ではあるが、「島から本土へかけた、一時的の歩橋」が、まさに砂州の途中から既に島に架かっていた事実が記されてあるのである!

「西の町」この呼称は現在知られていないので、貴重な当地での呼称として非常に貴重である。

「惠比須屋茂八」「恵比寿屋」として現存する(グーグル・マップ・データ)。「『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 15 惠比壽樓」を参照されたい。

「最勝銘無最勝匹、……」訓読を試みる。

   *

「最勝の銘」。「最勝、匹(たぐ)ひ無く、至妙、名に匪(あら)ず。起滅、來去(らいきよ)、香味、色聲(しきしやう)、事物は蕭寂(しせうじやく)、眞空(しんくう)は崢嶸(さうくわう)たり。顯處(けんしよ)は漠々、暗裡は明々たり。明治甲申 原擔山撰

   *

この「最勝」とは、仏教の教典の一つである「金光明最勝王經」のこと。「法華經」・「仁王經」(にんのうきょう)とともに、「国家鎮護」の「三部経」とされる経典である。「色聲」は字面上は同経典の有難い経文の美称であろうが、確信犯で吉原の妓女を通わせているに違いない。「眞空」は仏語で、一切は因縁によって生じ、我とか実体とか言ったものがなく、完全に空しいことを言う語である。「小乗」では、これを悟りの境地とするが、このように空と観ずることによって智慧が発現する際、その真空は、そのまま「妙有」(みょうう:真実の有。 相対的な有・無の対立を超えて初めて、その空の上にこそ存在の真実の姿が現れるとするもの)であり、それを「真空妙有」と呼ぶ。則ち、この「空」は、ただの「空」ではなく、「真如の理性の諸相を離れた姿」なのである。妓女を苦海から浄土へと導く引導としたものであろう。「明治甲申」は明治十七年(以下を参照のこと)。なお、この碑は江島神社の瑞心門の左手の無熱池の背後の崖の上に現存する。サイト「古今東西舎」のkokontouzai氏の『江の島(最勝銘碑)南方熊楠の「江島紀行」にも登場』に写真と解説があり、『新吉原の関係者が寄進した石碑』とあり、発起人として、『長崎屋、吉村屋、山口巴屋、尾張屋』の名が彫られてあり、『この石碑「最勝銘碑」は』、熊楠が訪れた前年の明治一七(一八八四)年に『建てられたもので、東京大学でインド哲学を教えた曹洞宗の僧の原担山の撰による文言が刻まれてい』るとあるから、実に、南方熊楠が訪れた前の年に建立された、出来たてホヤホヤのものであったことが判る。原担山(はらたんざん 文政二(一八一九)年~明治二五(一八九二)年)磐城出身。初め、江戸の「昌平黌」で儒学を学び、また、医学を修めた。後に曹洞宗の僧となり,明治一二(一八七九)年に東京大学和漢文学科で仏典の講義を行い、これが同大学の印度哲学科の端緒となった。 明治二四(一八九一)年に曹洞宗大学林(現在の駒澤大学)総監に就任している。著作は「心識論」・「心性實驗錄」など、多数ある。吉原遊廓とインド哲学者の取り合わせがグーだね! 今度行ったら、じっくりと見たいものだ。

「邊津社」現在の江島神社辺津宮(へつのみや;グーグル・マップ・データ。以下同じ)のこと。

「建永元年」一二〇六年。

「良眞」江の島の岩窟に籠もって修行した鶴岡八幡宮の供僧。サイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「聖天島~天女出現伝説:江の島~」を見られたい。

「沖津社」(✕)「中津社」(○)江島神社中津宮

「文德」(もんとく)「帝の時」在位は嘉祥三(八五〇)年~天安二(八五八)年。

「慈覺大師」円仁のこと。

「奧津宮」ここ

「山二つ」ここ

「介肆多し」ストリートビューで見たが、昔、嘗ての恋人にベニガイ(斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科ニッコウガイ科ベニガイ属ベニガイ Pharaonella sieboldii )を買った店に併設されていた「世界の貝の博物館」(旧主人が貝類学者とも親しかった方で貝類研究家でもあった。何度か親しくお話を聴いたのを思い出す)も既に閉じていた……

「養和二年」一一八二年。

「酒井雅樂頭の眞向きの龜と號する畫額あり。但し余の見を以てすれば、寧ろ眞拔けの龜と稱するが佳ならん」。「酒井雅樂頭」江戸後期の絵師俳人酒井抱一(ほういつ 宝暦一一(一七六一)年~文政一一(一八二九)年:本名酒井忠因(ただなお))のことだが、彼は権大僧都ではあったが、「雅樂頭」(うたのかみ)ではない。彼の父親(抱一は次男)が、老中や大老にも任じられた酒井雅楽頭家の姫路藩世嗣酒井雅楽頭忠仰であったのを、誤認したものである。さて。「龜」の絵だが、「眞向きの龜」ではなく、「八方睨みの亀」(どこから見てもこっちを睨んでいるように見える)である。奥津宮拝殿天井に描かれてあった。私が先の恋人と見た時は、原画であったが、現在のものは、彩色された復原画になってしまっている。私は原画が大好きだ。熊楠には物言いを叫ぶ!

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (4)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

  ○十八日

 黎明天を望むに、漸く南方の白きを見る。午前八時宿を出で、西方に向かふ、長谷觀音の境内を過ぐ。この觀音は行基菩薩の開眼する所にして隨分大軀なりと聞しが、堂宇の小なるは實に驚くべし。此を過ぎて御靈神社有り、後三年の役に奮鬪せる平景政を祭る。建久五年正月、八田知家此社へ奉幣使をつとめたる事有といふ。それより切通坂を經て七里ヶ濱に出づ。道傍に蛞蝓[やぶちゃん注:「なめくじ」。]の交尾するを見る。雌雄圓狀をなして草葉の上にあり、白涎[やぶちゃん注:「はくぜん」。白い涎(よだれ)。]の如きものを出せり。七里濱は關東一里を以て計(かぞ)ふるものにして、南に大洋を眺め、西に江島を見る、風景稍喜ぶべし。サンドホッパーの屬多し。一箇の木塊の化石せるを得たり、長さ四寸幅三寸許り、杭頭の化せるものならん、木理[やぶちゃん注:「もくり」。]鮮明にして體重多し。濱の中途に小流あり、行合川と名づく。僧日蓮の刑に遭ふや、奇怪の事多きを以て、其狀を具するの使と時賴が赦免狀を持てる使者と此邊に行き合ひたるを以て此名を傳ふといふ。此邊「海綿」、「ウミヒバ」等多く打上られたり。又、兩虎(あめふらし)の多く死せる有り。七里濱の終る處腰越村なり、卽ち源廷尉が兄の爲に追反[やぶちゃん注:「おひかへ」。]されたる處にして、村内万福寺今なほ腰越狀の草案を藏すといふ。海邊に小嶴[やぶちゃん注:「しやうあう」(しょうおう)で「山の中の平地」。]あり、岩上の松常に搖く[やぶちゃん注:「ゆらぐ」と読んでおく。]を以て、これを小動[やぶちゃん注:「こゆるぎ」。]と名けたり。北條氏康の歌に、「きのふ立ちけふ小ゆるぎのいその波いそゐでゆかん夕ぐれのみち」と有る、是れなり。村を出て亦沙濱有り、爰に寄居蟲[やぶちゃん注:「やどかり」。]の大さ三四寸なる者數個を見る。思ふに、此邊かゝる種に富めるならん。

[やぶちゃん注:「御靈神社」ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。この神社は私の好きな場所で、いろいろな記事でこれに言及しているが、とりあえず、「『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社」をリンクさせておく。「平」(鎌倉權五郞)「景政」や「八田知家」も注してある。

「切通坂」「極樂寺坂切通」

「サンドホッパーの屬」英名sand hopperである、甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ハマトビムシ科 Talitridaeのハマトビムシ類の仲間と考えてよい。体は左右に扁平で、頭部のほか、それぞれほぼ同大の七胸節、六腹節からなる。二対の触角のうち、第一触角は短い。満潮線付近の砂中に棲息する種が多く、海岸に打ち上げられた海藻などに附着するバクテリアを摂餌する。全国各地の海岸で普通に見られる体長十五ミリメートルの一般種である、ハマトビムシ科ヒメハマトビムシ属ヒメハマトビムシ Platorchestia platensis や、体長二十ミリメートルの大型種の、同科ヒメハマトビムシ属ホソハマトビムシ Paciforchestia pyatakovi を取り敢えず、挙げておく。

「行合川」(ゆきあひがは)は、この「行合橋」の架かる川。

「僧日蓮の刑に遭ふや、奇怪の事多きを以て、……」所謂、「龍ノ口の法難」である。文永八(一二七一)年、忍性や念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴え、さらに、平頼綱により、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕縛され、「腰越龍ノ口刑場」(現在の神奈川県藤沢市片瀬に日蓮宗龍口寺(りゅうこうじ)がある)で処刑されかけたが、奇瑞があって処刑を免れ、翌十月に佐渡へ流罪と変更された。但し、奇瑞なんぞは実際にはなく、執権北条時宗が死一等を減じたのは、この時に正妻(後の覚山尼)が懐妊していた(十二月に嫡男貞時を出産)ことが主たる理由(「比丘殺し」は部教信者には祟りが怖いのである)と私は踏んでいる。他に、幕閣内に日蓮に帰依している者が有意な数、いたことも大きい。「北條九代記 卷第九 日蓮上人宗門を開く」の私の注を参照されたい。

「海綿」海綿動物門普通海綿綱 Demospongiaeのカイメン類。

「ウミヒバ」「(2)」で既出既注

「兩虎(あめふらし)」腹足綱異鰓上目後鰓目無楯亜目アメフラシ上科アメフラシ科アメフラシ属アメフラシ Aplysia kurodai 。詳しくは、私の記事では、『畔田翠山「水族志」 (二四八) ウミシカ (アメフラシ)』が最も詳しい。なお、アメフラシが食べられることを御存知ない方が多いので、私の「隠岐日記4付録 ♪知夫里島のアメフラシの食べ方♪」もリンクさせておく。

「腰越村」神奈川県鎌倉市腰越

「源廷尉」源九郎義経のこと。「廷尉(ていゐ)」とは「検非違使の佐尉(さゐ:訓では「すけのじよう」)」を指す。彼は寿永三(一一八三)年八月に、平家追討の功により「左衛門少尉」に任じられ、「検非違使」に補せられたので、かく呼んだ。

「兄」異母兄源頼朝。

「万福寺」「滿福寺」の誤り。ここ

「腰越狀」「新編鎌倉志卷之六」の「滿福寺」の私渾身の「腰越狀」及び現代語訳、現在、満福寺に伝わる「腰越狀下書」と伝えられるもののテクスト化をご覧あれ。なお、これは私が三十四年前に満福寺を訪れた際に購入した縮刷された影印版を読み解いたものである。

「海邊に小嶴あり、岩上の松常に搖くを以て、これを小動と名けたり」現在の小動(こゆるぎ)神社(ここが平地となっている)のある「小動の鼻」(現行では「小動岬」と言う)のこと。

『北條氏康の歌に、「きのふ立ちけふ小ゆるぎのいその波いそゐでゆかん夕ぐれのみち」と有る』下句の表記に不審があったので、国立国会図書館デジタルコレクションの「相模國 こゆるぎ考」(呉文炳(くれふみあき:著名な経済学者であったが、「江の島」に関する浮世絵の収集家及び江の島・鎌倉の研究者としてもとみに知られる)・土屋憲二共著/昭和一七(一九四二)年邦光堂刊)の「第三章 散文・紀行にあらはれたこゆるぎ」のここを見ると、

   *

 きのふたちけふ小ゆるぎの磯の波いそぎて行かん夕暮のみち

   *

とあって、南方熊楠の引用の誤りであることが判った。因みに、この歌、私は、名将氏康は、この「小動の鼻」の磯辺に立って、ここを通って稲村ヶ崎の引き潮を受けて鎌倉攻めをし、幕府を滅ぼすことに成功した仁田義貞の面影を懐古したものと読む。

「村を出て亦沙濱有り」小動の鼻を東に超えた現在の腰越漁港、及び、その西に現在の「江の島大橋」まで続く藤沢市の片瀬海岸を指す。

「寄居蟲」「がうな」「かみな」或いは「やどかり」と読む。甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea に含まれる種群。サイト版「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部 寺島良安」の「寄居蟲(かうな かみな) [ヤドカリ類]」があるが、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 寄居蟲(カミナ/ヤドカリ)」も、多少、参考になるか。]

2024/04/18

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (3)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

  ○十七日

 朝六時起て戶を開けば則一天曇陰、一𨻶[やぶちゃん注:「いちげき」。]の陽光り漏らすなし。十時草鞋を穿ちて[やぶちゃん注:「うがちて」。穿(は)いて。]出づ。道路膏[やぶちゃん注:「あぶら」。]の如く一步悉く意を注す。道傍に空地有り、石碑に刻して日蓮上人牢屋敷の跡という。北に向かひ行く事數町、佛頭の高く門上に聳へたるを見る。則知[やぶちゃん注:「すなはち、しる」。]其果して鎌倉大佛なるを。門に額を揭て大異山と書せり。門を入りて大佛の前に至り、仰瞻良久[やぶちゃん注:「あふぎみる。やや、ひさし」。]、右側の家に鎌倉地圖大佛寫眞等を賣るあり、乃就て地圖と寫眞とを購ふ。僧予を延て[やぶちゃん注:「ひきて」。]佛の體内に入り階[やぶちゃん注:「きざはし」。]を上りて三尊及觀音を見せしむ。此觀音像は德川家康の納進する所と云ふ、それより鶴岡八幡宮に詣す。宮は南に向て立てり。社殿美なりと雖も、頗る聞く所より小なり。百聞一見不如の言、洵に[やぶちゃん注:「まことに」。]欺かざるなり。石壇を上りて之を見下て若宮を見る。若宮は本社の下右方に在り、又下の宮といふ。仁德天皇を奉祀す。靜女が袖を飜して「しづやしづ」の吟詠ありしは、この神前に於てせりといふ。此近傍に双枝の竹を栽[やぶちゃん注:「うゑ」。]たり。鶴岡の東方に賴朝の邸址あり。其地、方六町許瓦片[やぶちゃん注:「かはらけ」。]田圃の中に磊砢[やぶちゃん注:「らいら」。多く積み重なっているさま。]として、徒らに古色の日々古へを增すを致せり。北方の丘上に賴朝の墓有り。苔むし蘿[やぶちゃん注:「つた」。]纏ひ字々讀むべからず。其東に大江廣元・島津忠久の墓有り。二階堂村に至り鎌倉宮を見る。凡そ鎌倉の名所と稱する者、其數多しと雖も、其實一坪の墟禾麥箕子を泣かしめ、一个[やぶちゃん注:「いつこ」。]の穴、狐を棲しめ狸を息はしむるものに過ぎず。之を尋ね之を辨ずること、まことに難く、人をして識別に苦ましむ。名所か迷所か我れその何れか當れるを知らず。たとひ終日[やぶちゃん注:「ひねもす」。]杖を牽き足を痛ましむるも、其益を得る事實に少々ならん。且つ降雨益々盆を傾け、鞋損じ、衣霑ふを以て久しく止まる能はず、步を却して[やぶちゃん注:「かへして」。]宿に歸る。時已に二時なり。五六時の交に至り雨寖く[やぶちゃん注:「やうやく」。「漸」に同じ。]止む。しかれども、一天の陰闇少しも決𨻶[やぶちゃん注:隙間。ちょっとした一瞬の変化。]なし。夜九時に至り寢す。

[やぶちゃん注:「日蓮上人牢屋敷の跡」これは、移動の地理状況から、長谷寺の北西直近にある「光則寺」にある「日朗上人の土牢」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)の誤りである。

「若宮」これは鶴岡八幡宮本宮を下った、下に向かって左(東)にある「若宮」。但し、本来の「鶴岡八幡宮」が勧請された時の「若宮」は、ずっと海側の現在の材木座のここにある。ここの北西直近に藪野家の本家があった(昨年、父の兄は逝去)。因みに、その全く反対側の南東直近には、芥川龍之介が新婚時代に住んだ家があった。「辻の薬師」の横須賀線を挟んだ反対側である。私の偏愛する芥川龍之介との地理上の奇しき近き縁を知ったのは、遅蒔きながら、大学生の時であった。

「双枝の竹」如何なる竹なのか不詳。識者の御教授を乞う。

「賴朝の邸址」現在の「大倉幕府跡」

「賴朝の墓」「法華堂跡(源頼朝墓)」。但し、実際の法華堂(現行の頼朝の墳墓は島津氏が勝手にデッチアゲたものであり、頼朝は墓石ではなく、法華堂として存在した)は、「頼朝の墓」の登る手前の左にある「よりとも児童公園」がその跡地である。因みに、私が生まれる前後、私の父母は、この東にある荏柄天神の境内におり、母は老婆のやっていた「頼朝の墓」の右手にあった「よりとも茶屋」の女中をしていた。

「大江廣元・島津忠久の墓有り」Yahoo地図のここ。源頼朝墓の東側の山の中腹に三つの「やぐら」が並ぶが、その中央が大江広元の、左が、その子で毛利氏の祖となった毛利季光の、右が源頼朝の子ともいわれる島津忠久の墓であるが、大江広元のそれは、毛利の後代のデッチアゲである。実際の「伝広元の墓」は、もっと東方の十二所に近い浄妙寺の山の尾根にあるが、まず、訪ねる人は少ない。

「鎌倉宮」大塔宮護良親王が軟禁されて殺された屋敷跡(土牢はウソっぱち)にあり、同親王を祀る。ここ。明治天皇が作った新しいものである。

「一坪の墟」(きよ)「禾麥」(くわばく)「箕子」(きし)「を泣かしめ」所謂、「麦秀の嘆」である。「史記」の「宋微子世家」に基づく「亡国の嘆き」を言う。殷の箕子(きし)が、滅びた殷の都の跡を通り過ぎ、麦畑となっているのを見て、悲しみのあまり「麥秀の歌」を作った故事に依るもの。]

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (2)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

 道の左傍に旅宿あり、三橋與八と云ふ村の比較に取ては頗る壯美の家なり。一室に入りて茶を喫み婢に何時と問へば、則答へて五時過なりと云へり。每年今頃は京濱の士女續々と此邊へ出掛るなるに今年は陰雨の永へ[やぶちゃん注:「とこしへ」。]に續きて止さる[やぶちゃん注:ママ。]が爲めに、右幕府の故趾を訪ふの士も甚少しとみへ[やぶちゃん注:ママ。]、此宿舍の如きも寥々として各室槪ね人なし。未だ晚には早けれは[やぶちゃん注:ママ。]暫時其邊へ遊びに行んと宿を出で東に趣き由井濱に至る。此濱あまり長からず、又あまり廣からさる[やぶちゃん注:ママ。]やうに見受たり。渚沙の邊を緩步して何がな奇物をと探れども別に奇き[やぶちゃん注:「くしき」。]ものなし。たゞ一魚齒[やぶちゃん注:平凡社版には『(第二図)』とここにあるが、底本には、これも図も、ない。]及一二の介殼を拾へるのみ、「ウミヒバ」多く浪に打ち上られたり。又海星(シースタール)[やぶちゃん注:言わずもがな「sea star」で「ヒトデ」]。の屬を見る。濱の上邊にはハマヒルガオ、ハマビシ等生せり。六時頃宿に歸り晚餐を執る。其後、燈前に兀坐[やぶちゃん注:「こつざ」。凝っと座っていること。]し無聊爲す所なし。隣室に人多く集まり酒を飮て快談す。其音鴃舌[やぶちゃん注:「げきぜつ」。]とまでにはあらねども、なにやら一向解するに苦しみしが、靜かに之を詳悉[やぶちゃん注:「しやうしつ」。詳細に述べること。]するに、彼等の内五人は婦人にて一人は男なり。陸中の人なるが、今回東京を見おわり[やぶちゃん注:ママ。]ついでに此邊を見に來れるにて、五人の婦女一向東京語を曉らず[やぶちゃん注:「さとらず」。]、故に此男を雇ひ來りて通辯をなさしめ以て買物などを調へるなり。此男又國許に在し時、鎌倉節を習ひ、頗る熟せり。今鎌倉に來りて鎌倉節を謳ふは聲の所に應ずるなりなどいひて揚々と謳ひしに、衆婦皆笑ひのゝしれり。余是に於て亦婢を喚て酒三合を命し[やぶちゃん注:ママ。]、立ろ[やぶちゃん注:「たちどころ」。]に盡くす。乃ち傴臥[やぶちゃん注:「くが」。背を曲げて横になること。]して獨り浩々、夜半眼さめ、正に雨滴の石を打つを聞く。心之が爲めに呆然たり。

[やぶちゃん注:「道の左傍に旅宿あり、三橋與八と云ふ村の比較に取ては頗る壯美の家なり」旧「三橋旅館」。「『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 江島/旅舘」に、

   *

 三橋與八      長谷觀音前にあり。

   *

と出る。現存しないが、同旅館の蔵がここ(グーグル・マップ・データ)に残る。

「由井濱」この場合は、「坂ノ下海岸」にまずは出たものであろう。

「ウミヒバ」「海檜葉」で、刺胞動物門花虫綱八放サンゴ亜綱ウミトサカ目石灰軸亜目オオキンヤギ科ウミヒバ属ウミヒバ Callogorgia flabellum 。インド洋から西太平洋及び中央アメリカ大西洋岸の数百メートルの深海底に産し、日本では相模湾に多い。群体は交互羽状分岐をし、一平面状に広がり、樹木のヒノキの小枝に似ている。骨軸は細く淡褐色で、骨片を含まず、節部を持たない。また、骨軸は石灰化して強い。ポリプは鱗片状の骨片に包まれ、共肉内に退縮することはない。ポリプは枝上に四個ずつ輪生し、軸方向に強く弧状に屈曲し、背側に約十個、腹側に一、二個の鱗片を備える。上端には八個の蓋鱗(がいりん)を備える。群体は高さ、幅ともに一メートルを越え、細枝は十~二十センチメートル、各ポリプは一・五~二ミリメートルの長さである。近似種オオキンヤギPrimnoa resedaeformis pacificaやマクカブトヤギArthrogorgia ijimaiは二叉状に分岐をし、ホソウミヒバThouarella hilgendorfiやトゲハネウチワPlumarella spinosaは交互羽状分岐をするが、ポリプは弱く屈曲するのみで、腹側に三、四個の鱗片を備える。これらの種は、ともに日本の太平洋沿岸の数百メートルに及ぶ深所から採集される(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った。この場合、最後に載った近似種を含むと考えてよかろう。

「ハマヒルガオ」私の好きな「濱晝顏」。ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科ヒルガオ科ヒルガオ属ハマヒルガオ Calystegia soldanella 

「ハマビシ」「濱菱」。中文名「蒺黎」(いつれい)。ハマビシ目ハマビシ科ハマビシ属ハマビシ Tribulus terrestris。本邦では温暖な地方の砂浜に生える海浜植物であるが、乾燥地帯では内陸にも植生する。現在のハーブとして健康食品などに入れられており、果実を乾燥したものは「疾黎子(しつりし)」という生薬名で利尿・消炎作用を効能としている。

「鴃舌」「モズの囀り」の意から、「意味の判らない言葉・外国人などの話す意味の不明の言葉を卑しめて言う語。

「鎌倉節」幕末から明治にかけての流行唄の一つ。「鎌倉の御所のお庭」という歌詞からの名。「木遣(きやり)音頭」から出たので「木遣くずし」とも称した。江戸の飴屋が歌い始めて流行した。]

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (1)

[やぶちゃん注:書かれたのは、最後のクレジットから明治一八(一八八五)年五月二日である。「記行」はママである。当時の南方熊楠は満十八歳で、この前年に大学予備門に入学しているが、当該ウィキによれば、『学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れ』ていた。まさに、その一齣でもある。江の島へ行ったのは、同年四月のことであった。私が手掛ける南方熊楠のテクスト中、彼が最も若き日の記事である。

 底本は『南方熊楠全集』第五巻 「文集Ⅰ」(澁澤敬三編・一九五二年乾元社刊)の「江島記行」(目次のママ)に載るものを用いた。戦後のものだが、正字正仮名である。底本冒頭の「解說」(ここは正字(但し、新字体が多く混入)新仮名(但し、促音は小振りでない)によれば、この「江島記行」に続く「日光山記行」・「日高郡記行」の『紀行文三篇は一冊に纏められている和綴稿本「紀行卷一」に收められていて、細画が添えられている。「江島記行」は他の草稿と覺しき同様の書あつたが、「紀行卷一」の方に翁自身整理淨書されたものと考えて、この方に從つた。三篇中前二篇(江島記行と日光紀行[やぶちゃん注:ママ。本文では「日光記行」。])は明治十八年、大學豫備門時代の紀行であり、「日高紀行」は翌十九年、渡米前に帰省中の旅行記である』とある。なお、加工データとして「私設万葉文庫」の一九七三年平凡社刊『南方熊楠全集』第十巻『初期文集他』を用いた新字新仮名の電子化されたものを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本篇は紀行の性質から、文章がベタで続く箇所が殆んどであるが、注を施すのに、割注ばかりでは読者が不便極まりなくなるので、「私設万葉文庫」の平凡社版の改行を生かしておいた。また、長い文章ではないものの、語注や行動ルートの検証(熊楠の錯誤を含む)に、どうしても注が増えるため、分割してしめすこととした。

 本篇を電子化しようと思ったのは、ずっとオリジナル電子化注に携わっている南方熊楠の作品であること以外に、私自身がサイトとブログで鎌倉史を研究している関係上、「江の島」もその守備範囲内に完全に入っており、また、「江の島」は個人的に、青春の日の忘れ難い思い出の地でもあるからでもある。

 なお、本文に配された標題の「ノ」は、底本では右寄せ小振りである。本文中では「江島」である。本文の小振り右寄せは、総て下附きとした。]

 

     江  島 記 行

 

 予東京に來てより越二年、塵に吸ひ埃に喁し[やぶちゃん注:「ぎようし」。口をぱくぱくさせ。]足未だ一たび市外に出ざるなり。今年四月、大學、例により十數日の休業有り。予乃ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]此間を以て江島に一過せんと欲し、俄然行李を治す。不幸にして曇天雨天續て止まざるもの十數日、十六日に至り天漸く晴る。乃[やぶちゃん注:「すなはち」。]宿を出て新橋に至り、十一時發列車に搭して神奈川に至る途上、男女の海邊に徒步して蛤藻[やぶちゃん注:「がふさう」。]の屬を採るを觀る。神奈川より程ヶ谷へ行かんと思ひしに先日來の雨にて道路頗る泥濘なりと聞き、乃ち足を轉して橫濱に趣き、道を東南に取て進むこと二里餘日野に至る。此地橫濱鎌倉の中央に位すと云ふ。此邊道路狹窄泥濘甚だし。又迂廻にして步を浪費する事多し。既にして切通坂に至る道路の惡しきこと極れり。聞く往年橫濱の惡漢、是に於て車客に向て種〻の暴行を加えたりと。但それ寥落の地なるを以て方今と雖とも夫れ或は之有らん[やぶちゃん注:「方今」「はうこん」。現在只今。]。坂の下り口の左傍に土の崩れたるあり。近ついて之を案して一化石を得たり。第一圖に示すが如く靑白の土上に褐色の印痕あるものなり。

[やぶちゃん注:この化石の手書き図が底本に載るが、この画像は国立国会図書館デジタルコレクションの許諾を得ないと使用出来ないので、各人でアクセスして見て貰いたい。右端に手書きで、

   明治十八年四月十六日鎌倉所𫉬、

とあり、化石図の左上方に

  Fig.

とある。サンゴ虫類或いは海藻類の化石痕か。図が粗いので、特定不能である。なお、この採集地は「日野」と、次の「公田村」から、この中央附近の坂(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)であることが推定出来る。私は初任校が柏陽であったので、この辺りは何度も歩き(一番楽しかった横浜緑ケ丘時代には、大船の自宅から未明に出て、この坂を抜けて、長途を歩くこと、六回ほどやった)、聊か、土地勘があるのである。]

 坂を下りて往くこと數百步、公田村に至る。村内の老若、手に苞[やぶちゃん注:「つと」。]を持し、腕に數珠を掛けて囁喃步[やぶちゃん注:「せうなんぽ」。念仏或いは経文を呟きながら歩くこと。]し來る。之を問ふに、乃曰く圓覺寺、本日法會を修せるに詣せるなりと。山内村を通り行くに圓覺寺道路の衝[やぶちゃん注:「しよう」。突き当り。]に當れり。寺内を通りながら一見するに靑松蓊鬱[やぶちゃん注:「をううつ」。]として許由の瓢を鳴らして、堂宇甍を列べて徒らに蜂房[やぶちゃん注:「はうばう」。蜂の巢。アシナガバチのそれであろう。]を懸下せり。やがて寺門を通りぬけ進み行くに、當日法會の某所に在りし故にや僧徒數十人頭に笠を戴き、手に杖を鳴らしつゝ數十人列を成して步み來たれり。道を右傍に屈して坂路あり、走り下るに道傍延胡索の屬小なる者甚だ多きを見る。行く事數町、道の左傍に小祠を見る。佐助稻荷と書せり。西南の山側小村落を見る。卽ち長谷なり。余是に於て旅舍の近きに在るを知り、步を早くして行く。道の岐分する所に碑石あり、芭蕉翁が詠、「夏艸やつはものどもが夢の跡」といふを刻せり。長谷村に入りて街道の右に小祠あり、甘繩神社といふ此村の鎭守にして天照大神を奉祀せり。往時文治の頃賴朝この祠に詣して幣を奉け[やぶちゃん注:ママ。]たりといふ。當時それ或は莊美の祠殿なりしや知らされとも[やぶちゃん注:総て清音はママ。]、現今は矮陋[やぶちゃん注:「わいらう」。]何の見所もなき小祠也。

[やぶちゃん注:「許由の瓢を鳴らして」「蒙求」(もうぎゅう)に載る、孔子が最も愛した弟子顔回の「顏囘簞瓢」と、三皇五帝時代の伝説の隠者許由の「許由一瓢」に出る話である。顔回は、一瓢を携え、陋巷で貧窮の中にあっても、その清貧を楽しんでいた。許由は、樹の枝に掛けておいた瓢簞が風に吹かれて鳴るのを「五月蠅い」と言って、それさえも捨て去ったという故事。禅の公案として知られるもの。

「道を右傍」(みぎかたはら)「に屈して坂路あり」一見すると、旧「巨福呂坂(こぶくろざか)切通」、現在の国道二十一号の「巨福呂坂切通」の北西の建長寺の前の、この中央附近から圓應寺の山側を南南西に尾根を登り、南東に進み、青梅聖天社へ下って、鶴岡八幡宮の北西の向かいの国道二十一号に出るルートでのように一見、見える(私が「鎌倉七切通」の内、唯一、完全踏破していないものである。私は鎌倉側から青梅聖天社を経て登り詰めが、人家を抜けないと行けないため、通行不能であった。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」附録 鎌倉實測圖」の内、こちらの図(画像)の中央附近に点線で記されてあるのがそれである)が、しかし、熊楠は建長寺を記述しておらず、しかも「道を右傍に屈して坂路あり、走り下るに」とあることから、建長寺にさえ行っていないことが判り、熊楠は旧「巨福呂坂切通」を踏破したのではなく、その手前の「長壽寺」を右に折れて急坂の「龜ケ谷坂(かめがやつざか)」を下って「扇ケ谷」に出、さらに「海藏寺」手前から「化粧坂」(けわいざか)を登って、尾根伝いに「佐助稻荷」に至ったことが判明するのである。

「延胡索」「えんごさく」これは、キンポウゲ目ケシ科ケマンソウ亜科キケマン属 Corydalis を指す。本邦には二十種近くが分布するので、花の色や形状が記されていないので、これだけでは種同定は出来ない。

『道の岐分する所に碑石あり、芭蕉翁が詠、「夏艸やつはものどもが夢の跡」といふを刻せり』これは、ずっと南南西に行った鎌倉市街地のここにある「六地蔵」(旧地名を「飢渇畠(けかちばたけ)」と言う。鎌倉時代、この先にあった問注所で、死罪を宣告された罪人が、近くの裁許橋を渡りここにあった処刑場で処されたことによる。刑場ゆえに耕作をしない更地であったことによる地名である)の背後にある。狭い中に建立されているため、調べたが、同句の碑の写真が見当たらない。私も何度も行ったが、異様に狭苦しい状態で、見難い。そもそも、場違いな句碑で、私は感心しない。これは、鎌倉雪ノ下住で芭蕉の弟子であった松尾百遊が芭蕉の没後九十二年に建てたものであった。嘗ては、ここを「芭蕉の辻」とも称したらしい。この周辺については、私の「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 巽荒神/人丸墓/興禅寺/無景寺谷/法性寺屋敷/千葉屋敷/諏訪屋敷/左介谷/裁許橋/天狗堂/七観音谷/飢渇畠/笹目谷/塔辻/盛久首座/甘繩明神」を見られたい。なお、叙述では、この六地蔵が「長谷村」の中にあるように書かれているが、ここは「大町」である。但し、この六地蔵を南西に行く「由比ガ浜通り」は長谷往還の道ではある。

「甘繩神社」ここ。正しくは「甘繩神明宮」。私は、この神域の裏山を幼少期から密かに愛している。]

2024/04/17

譚 海 卷之十四 江戶町方往來道幅幷商物店出し寸尺の事

[やぶちゃん注:読みは、地下文書の「書付」であり、五月蠅いだけなので、特異的に全く入れていないし、句読点も底本のママで追加していない。「哉」はお伺いを示す「や」である。それにしても、ここまでやるか? って感じだね。]

 

○天明八年三月、町奉行所より御尋件々、年番名主、御答書付、寫し。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が最後まで一字下げ。]

一、所々町方往來にて、商物指置候儀、道幅の限り等も有ㇾ之候哉。此義、道具・古木・荒物、幷生舟取扱候類、都てかさ高成商賣仕候者、雨落下水の外へ三尺通積出し奉ㇾ願差置申候。

 但魚棚靑物棚の義は、壹間の場所も御座候。

一、町屋にて薪賣買の者、軒下幷河岸へ積候義、高さ何尺と申義、或は町屋軒下へ積候義、往來道幅何尺と申限りも有ㇾ之候哉。

此儀河岸通幷町家軒下に指置候ともに、高さ四尺、家前出候義は、雨落下水外へ三尺通り指置申候。

但高さ四尺と申御定杭有ㇾ之候場所も御座候。

一、大八車へ積候て引候義、何尺程積候哉。

此義何尺と申儀は、不ㇾ奉ㇾ存候へ共、大八車に物積引候義、多積崩不レ申候樣に可ㇾ仕義に御座候。

一、大八車町家前・河岸等にも並べ置候義。

右はかさ高成品故、地面内に指置候場所無御座候に付、家業隙幷夜分抔は、家前或は町内木戶際、又は河岸等其所により指置候義にて、右置場と申相願候義は、無御座候哉に奉ㇾ存候。尤往還の障に相成不ㇾ申樣に、右始末仕候義に御座候。

右御尋に付申上候。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(4)

 

   すてゝある石臼薄し桐の華 鶴 聲

 

 農家の庭などの有樣かと思ふ。桐の花の咲いてゐるほとりに、使はない石臼が捨てゝある。單に石臼が捨てゝあるだけで滿足せず、その石臼の薄いことを見遁さなかつたのは、この句の稍〻平凡を免れ得る所以であらう。

 元祿時代に「すてゝんぶし」と稱する唄がはやつたことは、人の知るところであり、其角の『焦尾琴』には「棄字ノ吟」の題下に「すてゝある」の語を詠み込んだ句十七を列記してある。この鶴聲の句は、それを引合に出すにも及ぶまいかと思ふが、時代が同じだから、いささか念を入れて置くことにする。

[やぶちゃん注:「焦尾琴」「しやうびきん」は元禄一四(一七〇一)年刊の榎本其角編になる俳諧選集。国立国会図書館デジタルコレクションの『俳人其角全集』第二巻(勝峯晋風編・彰考館昭一〇(一九三五)年刊)のここで十七句総てが、視認出来る。なお、この所収から、この「鶴聲」は蕉門と判る。]

 

   若竹や衣蹈洗ふいさゝ水 兀 峯

 

 たゞ洗濯すると云はず、「衣踏洗ふ[やぶちゃん注:「きぬふみあらふ」。]」と云つたところに特色がある。場所ははつきりしないけれども、「いさゝ水」といふ言葉から考へると、井戶端や何かでなしに、ささやかな流の類であらう。その水に衣を浸して、足で蹈んで洗ひつゝある。若竹の綠にさす日影も明るい上天氣に違ひない。鄙びた趣ではあるが、爽な感じのする句である。

[やぶちゃん注:「兀峯」桜井兀峰(さくらいこっぽう 寛文二(一六六二)年~享保七(一七二二)年)は近江出身で、備前岡山藩士。元禄五(一六九二)年、江戸勤番となり、俳諧を松尾芭蕉に学び、榎本其角・服部嵐雪らと交わる。同六年、編著「桃の實」を出版した。通称は藤左衛門・武右衛門。]

 

   芥子の花咲や傘ほす日の移り 烏 水

 

 芥子の句は由來散るといふことに捉はれ易い。越人の「散る時の心やすさよ芥子の花」などといふのは、その代表的なものである。「芥子畑や友呼て來る蜂の荒 潘川」の如きは、さう著しく表面に現れてゐないが、それでも「蜂の荒」といふことが、散りやすい芥子に對して或危惧を懷かしめる。他の花なら何でもないことでも、芥子の場合は散り易さに結びつけられる點があるのであらう。

 然るに烏水のこの句にはそれが全くない。雨の後であらう、庭に傘が干してある、芥子もその邊に咲いていゐる、といふ純客觀の句である。「日の移り」といふ言葉は、文字通りに解すると、此方から彼方へ移動するもののやうに思はれるが、映ずるといふ意味の「うつる」場合にも、昔はこの字を使つてゐる例がある。今まで干傘にさしてゐた日が芥子に移つたと見るよりも、干傘に照る日が芥子にうつろふと見た方がよささうな氣がする。

[やぶちゃん注:最後の解説は見事!

『越人の「散る時の心やすさよ芥子の花」』は「去來抄」の「同門評」に載る。

   *]

 

  ちる時の心やすさよけしのはな 越 人

 

其角・許六、共(とも)曰(いはく)、「此句は謂(いひ)不應(おうぜず)故(ゆゑ)に「別僧」[やぶちゃん注:「僧に別(わか)る」。]と前書あり。」。去來曰、「けし一體の句として謂應(いひおう)せたり。餞別となして、猶、見(けん)あり。」。

   *]

 

   撫て見る石の暑さや星の影 除 風

 

 暑さの句といふものは赫々たる趣を捉へたのが多いが、これは又一風變つたところに目をつけた。一日中照りつけられた石が、夜になつてもほてりがさめきらずにゐる。恐らく風も何もない晚で、空に見える星の影も、いづれかと云へば茫としたやうな場合であらう。作者の描いたものは、僅に手に觸れる石のほてりに過ぎぬやうだけれども、夜に入つても猶ほてりのさめぬ石から、その夜全體の暑さが自然と思ひやられるのである。

 鬼貫に「何と今日の暑さはと石の塵を吹く」といふ句があり、暑さを正面から描かず、塵を吹く人をして語らしめたのが一の趣向であるが、少しく趣向らしさに墮した憾がある。除風の句の石は何であるかわからぬけれども、「撫て見る」といふ以上、小さな石でないことは云ふまでもない。

[やぶちゃん注:「鬼貫」「何と今日の暑さはと石の塵を吹く」所持する岩波文庫復本一郎校注「鬼貫句選・独ごと」に、

   *

   夕涼

 なんとけふの署さはと石の塵を吹

   *

とある。「署」はママ。]

 

   供先に兀山みゆるあつさかな 虎 角

 

 支那、朝鮮あたりを旅行してゐた人が、内地に歸つて第一に感ずるのは、山の綠のうるはしいことだといふ。兀山[やぶちゃん注:「はげやま」。]の眺[やぶちゃん注:「ながめ」。]は何時にしても有難いものではないが、炎天下の兀山に至つては、慥に人を熱殺するに足るものがある。この句は大名などの行列を作つて行く場合であらう。その供先に兀山が見える。その赭い[やぶちゃん注:「あかい」。]山肌には烈々たる驕陽[やぶちゃん注:「けうやう」。灼熱の日光。]が照りつけてゐるに相違無い。これから進んでその兀山の下を通るのか、或はそれを越えなければならぬのか、そこまでは穿鑿するに及ばぬ。たゞそこに見えてゐるだけで、暑さの感じは十分だからである。

 蕪村の「日歸りの兀山越る暑さかな」といふ句は、時間的に長い點で知られてゐるだけに、この句よりは大分複雜なものを持つてゐる。一言にして云へば、この句より平面的でないといふことになるかも知れぬ。日歸りに兀山を越えなければならぬ暑さは、固より格別であらうが、炎天下の行列の暑さも同情に値する。大勢の人が蹴立てゝ行く砂埃を想像しただけでも、何だかむせつぽい感じがして來る。

[やぶちゃん注:明和六年六月十五日(グレゴリオ暦一七六九年七月七日)の作。]

南方熊楠 蟹と蛇 (正規表現版・オリジナル注附き(指示された古文の電子化注を可能な限り行った結果、注が超長大になった))

[やぶちゃん注:これは大正一三(一九二四)年五月十五日発行の月刊『日本及日本人』の四十八号初出である。国立国会図書館デジタルコレクションで、初出が視認出来る(狭いところに注のように入っているのは、南方熊楠にはちょっと可哀そうな気がしたわい)。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』「第七卷文集Ⅲ」(渋沢敬三編・一九五二年乾元社刊・正字正仮名)の当該部を視認した。]

 

 嵯峨帝の世に出來た日本靈異記中に、蟹が報恩の爲めに蛇を殺して人を助けた話が二つ出て居る。一つは行基大德の信徒置染の臣鯛女が、山中で大蛇が大蝦蟆を食ふ處を見て、汝の妻となるから免せと云ふと蛇が蝦蟆を放つ。後ち蟹を持た老人に逢ひ衣裳を脫で贖ひ放つた。扨(さて)蛇が此女を妻らんと來た處を其蟹が切り殺したと云ふので 今一つは山城紀伊郡の女に同樣の事有つたといふ。[やぶちゃん注:句点はないが、補った。]日本法華驗記、今昔物語、元亨釋書、古今著聞集には、久世郡の女とし、是等諸書には蛇の死と蟹の苦を救ひ弔はんとて蟹滿寺を建てたとある。山州名蹟志には、此寺、相樂郡に在りと見ゆ。入江曉風氏の臺灣人生蕃物語に、卑南山腹に住む蕃人が蟹を買ふて放ちやり、又娘を蛇の妻にやるとて蛙を助命させると、蛇が五位姿の男と化けて姬を求め來るを一旦辭し返すと、二三日立て蛇の姿のまゝ來り、娘が隱れた押入の戶を尾で敲く所を多くの蟹が現はれて切殺したとある。一九〇九年板ボムパス著サンタル・パルガナス俚談に較や似た話を出す。コラと名くる男、怠惰で兄弟に追出され土を掘て蟹を親友として持あるく。樹の下に宿ると、夜叉來り襲ふを、蟹が其喉を挾み切て殺す。王之を賞して其女婿とするに、新妻の鼻孔から蛇二疋出で、睡つたコラを殺さんとするを蟹が挾み殺した。其報恩にコラ、其蟹を池に放ち每日其水に浴し相會ふたと有る。

(大正一三、五、十五、日本及日本人、四八號) 

[やぶちゃん注:「日本靈異記中に、蟹が報恩の爲めに蛇を殺して人を助けた話が二つ出て居る」正式には「日本國現報善惡靈異記」で平安初期に書かれた(序と本文の記述から弘仁一三(八二二)年とする説がある)現存する最古の說話集である。著者は奈良右京の薬師寺の僧景戒。原文はかなりクセのある日本漢文である。一般には「日本靈異記」(にほんりょういき)という略称で呼ぶことが多い。熊楠の指すそれは、「中卷」の「蟹(かに)蝦(かへる)の命を贖(あが)ひて放生し、現報を得る緣第八」と、同「中卷」の「蟹と蝦との命を贖ひて放生(はうじやう)し、現報を得て、蟹に助けらるる緣第十二」である。所持する角川文庫昭和五二(一九七七)年五版の板橋倫行(ともゆき)校註「日本霊異記」を元としつつ、疑問部分は別の抄録本を参考に補正して電子化する。但し、読み易さを考え、句読点を追加し、一部の読みは推定で歴史的仮名遣で附し、段落を成形した。

   *

   蟹と蝦との命を贖ひて放生し、現報を得る緣第八

 置染(おきそめ)の臣(おみ)鯛女(たひめ)は、奈良の京の富(とみ)の尼寺の上座の尼(あま)、法邇(ほふに)が女(むすめ)なりき。道心純熟(もはら)にして、初婬、犯さず[やぶちゃん注:世間の男との交渉を一切持たなかった。]。

 常に、懇(ねもころ)に菜を採りて、一目も闕(か)かず、行基大德に供侍(つか)へ奉る。

 山に入りて、菜を採りき。

 見れば、大蛇(おほへび)の、大蝦(おほがへる)を飮めり。

 大きなる蛇に誂(あと)へて[やぶちゃん注:頼み。]曰はく、

「是の蝦を、我に免(ゆる)せ。」

といふ。

 免さずして、なほ、飮む。

 亦、誂へて曰はく、

「我、汝が妻とならむ。故に、幸(さひはひ)に、吾に免せ。」

といふ。

 大きなる蛇、聞き、高く頭を捧(あ)げて、女(をみなの面(おも)を瞻(まは)り[やぶちゃん注:じっと見つめて。]、蝦を吐きて、放ちぬ。

 女、蛇に期(ちぎ)りて曰はく、

「今日より、七日を經て、來よ。」

といふ。

 然して、期りし日に到り、屋(や)を閉ぢ、穴を塞ぎ、身を堅めて、内に居(を)り。

 誠に期りしが如く來(きた)り、尾もて、壁を拍(う)つ。

 女、恐(おそ)りて、明くる日に大德に白(まう)す。大德、生馬(いこま)の山寺にあり。告げて言はく、

「汝、免(まぬか)るること、得じ。唯、堅く、戒(いむこと)を受けよ。」

といふ。

 乃(すなは)ち、三歸五戒を受持し、然して、還り來(きた)る。

 道に、知らざる老人(おきな)、大蟹(おほがに)をもちて逢ふ。

 問ふ。

「誰(た)が老(らう)ぞ。乞(ねが)はくは、蟹を吾に免(ゆる)せ。」

といふ。

 老、答ふらく、

「我は攝津(つ[やぶちゃん注:二字への読み。])國兎原(うなひ)郡の人、畫問(ゑどひ)の邇麻呂(にまろ)なり。年、七十八にして、子息(うまご)無く、活命(わたら)ふに、便(たより)無し。難波(あには)に往きて、たまたま、この蟹を得たり。ただ、期(ちぎ)りし人、有るが故に、汝に免さじ。」

といふ。

 女、衣を脫ぎて贖(あが)ふに、なほ、免可(ゆる)さず。

 また裳(も)を脫ぎて贖ふに、老、乃(すなは)ち、免しつ。

 然して、蟹を持ち、更に返りて、大德を勸請(くわんじやう)し、咒願(じゆぐわん)して放(はな)つ。

 大德、歎じて言はく、

「貴(とふと)きかな、善きかな。」

といふ。

 その八日の夜、又、蛇、來り、屋の頂(むね)に登り、草を拔きて入(い)る。

 女、悚(おそ)り慄(お)づ。

 ただ、床(とこ)の前に、跳(をど)り爆(はため)く音のみ、有り。

 明くる日に見れば、大きなる蟹、一つ、有り。

 而も、彼の大きなる蛇、條然(つたつた)に段切(き[やぶちゃん注:二字への読み。])れたり。

 乃(すなは)ち、知る、贖ひ放てる蟹の、恩を報いしなり。幷(ならば)せて、戒を受くる力なることを。

 虛實(まこといつはり)を知らむと欲(こ)ひ、耆老(おきな)の姓名を問へども、遂に無し。定めて委(し)る、耆(おきな)は、これ、聖(ひじり)の化(け)ならむことを。これ、奇異の事なり。

   *

「奈良の京の富(とみ)の尼寺」板橋氏の脚注に、『行基が天平三』(七三一)『年に大和國添下郡』(そへじものこほり)『登美村(今、奈良県生駒郡富雄村』(とみおむら:現在は奈良市富雄地区)『に立てた隆福尼院であらう。奈良の京とあるのは正確ではない』とある。確かにこの附近(グーグル・マップ・データ)で、平城京の西方の地で、「奈良の京」とは言えない。但し、現行では、この寺の旧地は明らかではない。「三歸五戒」は三宝に帰依することと、殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒(おんじゅ)の五つを禁ずる誡しめ。

   *

 

     蟹蝦の命を購ひて放生し、現報を得て蟹に助けらるる緣第十二

 

 山背國紀伊郡の部内に、一(ひとり)の女人(をみな)あり。姓名、いまだ、詳(つまびらか)ならず。天年(ひととなり)慈の心ありて、ふかく因果を信(うべな)ひ、五戒と、十善とを、受持(うけも)ちて生物(いきもの)を殺さず。

 聖武天皇の代に、彼(そ)の里の牧牛(うしかひ)の村童(むらわらべ)、山川(やまかは)に、蟹を、八つ、取りて、燒き食はむとす。

 この女、見て、牧牛に勸めて曰はく、

「幸(さひはひ)に願はくは、此の蟹を我れに免(ゆる)せ。」

といふ。

 童男(わらべ)、辭(いな)みて、聽(ゆる)さずして曰はく、

「なほ、燒き瞰(く)はむ。」

といふ。

 慇(ねむごろ)に誂(あと)へ乞ひ、衣(ころも)を脫ぎて買ふ。

 童男等(わらべら)、すなはち、免(ゆる)しつ。

 義禪師(ぎぜんじ)[やぶちゃん注:臨時の頼んだ禅師の意か。]を勸請(くわんじやう)し、咒願(じゆぐわん)せしめて、放生す。

 然して後(のち)に、山に入りて見れば、大蛇(おほへび)の大蝦(おほかへる)を飮む。

 大蛇に眺へて言はく、

「この蝦を我れに免せ。多(あまた)の帛(みてぐら)を賂(まひ)し奉らむ[やぶちゃん注:御贈与を奉りましょう。]。」

といふ。

 蛇、聽(ゆる)さずして吞む。

 女、幣帛を募りて、禱(の)りて曰はく、

「汝を神として祀らむ。幸に乞(ねが)はくは、我れに免せ。」

といふ。

 聽さずして、なほ、飮む。

 また、蛇に語りて言はく、

「此の蝦に替ふるに、吾をもちて汝が妻とせよ。故に乞はくは、我に免せ。」

といふ。

 蛇、すなはち聽して、高く頭頸(くび)を棒(あ)げ、もちて、女の面を瞻(まはり)[やぶちゃん注:じっと見守り。]、蝦を吐きて放つ。

 女、蛇に期(ちぎ)りて言はく、

「今日より、七日を經て、來たれ。」

といふ。

 然して、父母に白(まう)して、具(つぶさ)に蛇の狀を陳(の)ぶ。

 父母(ぶも)、愁へて言はく、

「汝(いまし)や、たゞ了(つひ)の一子(ひとりご)、何に誑託(くる)へる[やぶちゃん注:如何なる霊(れい)がとり憑いた。]が故に、能(よ)くせざる語(こと)をなせる。」

といふ。

 時に行基大德(だいとこ)、紀伊の郡(こほり)の深長寺(ぢんちやうじ)にあり。往きて、事の狀を白す。

 大德、聞きて曰はく、

「ああ、量(はか)り難き語(こと)なり。ただ、能く三寶を信(う)けむのみ。」

といふ。

 敎(をしへ)を奉りて、家に歸り、期(ちぎ)りし日の夜に當り、屋(や)を閉ぢ、身を堅め、種々(しゆじゆ)、發願(ほつぎわん)して、三寶を信(う)く。

 蛇、屋を繞(めぐ)りて、婉轉(ゑんてん)腹行(ふくかう)し[やぶちゃん注:腹這いになって、しなやかに動き来たって。]、尾、もちて、壁を打ち、屋の頂(むね)に登り、草を咋(く)ひて、拔き開きて、女の前に落つ。

 然りといへども、蛇、女の身に就(つ)かず。

 ただ、爆(はため)く音あり。

 跳(をど)り䶩齧(か[やぶちゃん注:二字への読み。])むが如し。

 明くる日、見れば、大蟹、八つ、集(あつま)り、その蛇、條然𢶨段(つたつた)に切らる。

 すなはち、知る、贖(あが)ひ放ちし蟹の、恩に報いしことを。

 悟無(さとりな)き蟲だに、なほ恩を受くれば、返りて、恩に報ゆ。あに、人にして恩を忘るべしや。

 これより已後(のち[やぶちゃん注:二字への読み。])、山背の國にして、山川の大蟹を貴(たふと)み、善を爲して放生するたり。

   *

この「紀伊の郡の深長寺」は不詳。板橋氏の脚注に、『大秦廣隆寺の末寺に紀伊郡の法長寺が見え、深草寺ともいつたと見える。その寺か』とある。

「日本法華驗記」正しくは「大日本國法華驗記」(通称・異名は複数あり)。平安中期に書かれた仏教説話集。著者は比叡山の僧鎮源(伝不詳)。本文は変体日本漢文で拙い。これは同書の「下卷」の「第百廿三 山城國久世郡(くせのこほり)の女人」である。私は岩波書店の『日本思想体系新装版』の『続・日本仏教の思想――1』の「往生伝 法華験記」(注解・井上光貞/大曾根章介・一九九五年刊)を所持するが、漢字が新字であるので、恣意的に正字化して以下に示す。読点・記号・会話記号(改行)・読みの一部を推定して歴史的仮名遣で追加し、段落を成形した(底本も四段から成る)。

   *

    第百廿三 山城國久世郡の女人

 山城國久世郡に一の女人あり。年七歲より、「法華經觀音品」を誦して、每月(つきごと)の十八日に持齋して、觀音を念じ奉れり。十二歲に至りて、「法華經」一部を讀めり。深く善心ありて、一切を慈悲す。

 人ありて、蟹を捕へて、持ち行く。この女(むすめ)、問ひて云はく、

「何の料(れう)に充てむがために、この蟹は特ち行くぞ。」

といふ。答へて曰く、

「食(じき)に宛てむがためなり。」

といふ。女の言はく、

「この蟹、我に與へよ。我が家に、死にたる魚、多し。この蟹の代(しろ)に、汝に與へむ。」

と、いへり。

 卽ち、この蟹を得て、憐愍(れんみん)の心をもて、河の中に放ち入れり。

 その女人の父の翁(おきな)、田畠を耕作せり。

 一(いつ)の毒蛇あり、蝦蟇(かへる)を追ひ來りて、卽ち、これを吞まむ、と、せり。

 翁、不意(おもはず)して[やぶちゃん注:うっかりと。]曰く、

「汝、蛇、當(まさ)に蝦蟇を免(ゆる)すべし。もし、免し捨つれば、汝をもて聟(もこ)とせむ。」

と、いへり。

 蛇、このことを聞きて、頭(かしら)を擧げて、翁の面(おもて)を見、蝦蟇を吐き捨てて、還り走り、去りぬ。

 翁、後の時に、思念(おも[やぶちゃん注:二字へのルビ。])へらく、

『我、無益(むやく)の語(こと)を作(な)せり。この蛇、我を見て、蝦蟇を捨てて去りぬ。』

と、おもへり。

 心に歎き憂ふることを生じて、家に還りて食(じき)せずして、愁ひ歎げる形にて居(ゐ)たり。

 妻、及び、女(むすめ)の云はく、

「何等(なんら)のことに依りて、食せずして歎き居るぞや。」

といふ。

 翁、本緣(ほんえん)[やぶちゃん注:この嘆きの原因。]を說(と)けり。

 女の言はく、

「ただ早く食せられよ。歎息の念なかれ。」

と、いへり。

 翁、女の語に依りて、卽ち、食を用ゐ、了(を)へり。

 初夜[やぶちゃん注:現在の午後八時から九時頃。]の時に臨みて、門を叩く人、あり。

 翁、

『この蛇の、來れり。』

と知りて、女(むすめ)に語るに、女の言はく、

「三日を過ぎて、來(きた)れ。約束を作(な)すべし。」

と、いへり。

 翁、門を開きて見れば、五位の形[やぶちゃん注:頭注に『緋衣を着ている』とある。]なる人の云はく、

「今朝(けさ)の語(こと)に依りて、參り來れるところなり。」

といふ。

 翁の云はく、

「三日を過ぎて來り坐(ましま)すべし。」

と、いへり。

 蛇、卽ち、還り了(を)へぬ。

 この女(むすめ)、厚き板をもて、藏代(くらしろ)[やぶちゃん注:臨時に即製した蔵様(よう)のもの。]を造らしめて、極めて堅固ならしむ。

 その日の夕(ゆふべ)に臨みて、藏代に入り居(ゐ)て、門を閉ぢて籠り畢(を)へぬ。

 初夜の時に至りて、前(さき)の五位、來れり。門を開きて、入り來り、女の藏代に籠りたるを見て、忿(いか)り恨める心を生(おこ)し、本(もと)の蛇の形を現じて、藏代を圍み卷き、尾をもて、これを叩く。

 父母(ぶも)、大きに驚怖せり。

 夜半(よなか)の時に至りて、蛇の尾の、叩く音、聞えず。

 ただ、蛇の鳴く音(こゑ)のみ、聞ゆ。

 その後、また、聞えず。

 明朝に及びて、これを見れば、大きなる蟹を上首として、千萬の蟹、集りて、この蛇を螫(さ)し殺せり。諸(もろもろ)の蟹、皆、還り去りぬ。

 女、顏の色、鮮白にして[やぶちゃん注:まことに白く美しくして。]、門を開きて出(いで)て來り、父母に語りて云はく、

「我、通夜、「觀音經」を誦するに、一尺計(ばかり)の觀音、告げて言はく、『汝、怖畏することなかれ。當(まさ)に『蚖蛇及蝮蝎(ぐわんじやふくかつ)、氣毒煙火燃(けどくえんくわねん)』等の文(もん)を誦すべし。』と、のたまふ。我、妙法・觀音の威力(ゐりき)に依りて、この害を免(まぬか)るることを得たり。」

と、いへり。

 この蛇の死骸(しにかばね)を、この地に穿(うが)ち埋(うづ)みて、蛇の苦、及び、多くの蟹の罪苦を救はむがために、その地に寺を建(たて)て、佛を造り、經を寫して、供養恭敬(くぎやう)せり。

 その寺を「蟹滿多寺(かにまたでら)」と名づけて、今にありて、失(う)せず。時の人、ただ、「紙幡寺(かみはたでら)」と云ひて、本の名を稱(い)はず。

   *

「蚖蛇及蝮蝎、氣毒煙火燃」「觀世音菩薩普門品」の「偈」。次に「念彼觀音力(ねんぴかんおんりき) 尋聲自剋去(じんしやうじえこ)」とあり、これで、『蚖(毒蛇の一種)や蛇、及び蝮(マムシ)と蝎(サソリ)の気の毒気が、煙火の如く燃えようとも、かの観音力を念じれば、声に続いて、自(おのずか)ら帰り去る。』の意。「蟹滿多寺」底本の頭注に『京都府相楽郡山城町にある。その地域は』「和名抄」『の山城国相楽郡蟹幡(加無波太)郷にあたる』「山城名勝志」『に「今有小堂一宇、号光明山懺悔堂本尊觀音立像、又有釋迦之像」と記す。釈迦像は白鳳時代のもの』とある。ある、とするのは、京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗智山派普門山蟹満寺(かにまんじ)のこと。本尊は釈迦如来。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「今昔物語」「今昔物語集」の「卷第十六」の「山城國女人依觀音助遁蛇難語第十六」を指す。所持する小学館『日本古典文学全集』第二十二巻「今昔物語集 二」を参考に、前と同じ仕儀で示す。カタカナはひらがなにし、また、特に読みを減ずるために、読みの一部を多く送り仮名に出した。

   *

 山城の國の女人(によにん)觀音の助けに依りて蛇(へみ)の難を遁(のが)るる語(こと)第十六

今は昔、山城の國、久世(くぜ)の郡(こほり)に住みける人の娘、年七歲より、「觀音品」を受け習ひて讀誦しけり。

 月每(つきごと)の十八日には、精進にして、觀音を念じ奉りけり。

 十二歲に成るに、遂に「法花經」一部を習ひ畢(をは)んぬ。幼き心なりと云へども、慈悲深くして、人を哀(あは)れび、惡しき心、無し。

 而る間、此の女(をんな)、家を出でて遊び行く程に、人、蟹を捕へて、結びて持ち行く。

 此の女、此れを見て、問ひて云はく、

「其の蟹をば、何の料(れう)に持ち行くぞ。」

と。

 蟹持ち、答へて云はく、

「持(も)て行きて食(くら)はむずる也。」

と。

 女の云はく、

「其の蟹、我に得しめよ。食の料ならば、我が家(いへ)に死(しに)たる魚、多かり。其れを此の蟹の代(しろ)に與へむ。」

と。

 男(をのこ)、女の云ふに隨ひて蟹を得しめつ。

 女、蟹を得て、河に持(も)て行きて、放ち入れつ。

 其の後(のち)、女の父の翁(おきな)、田を作る間に、毒蛇(どくへみ)有りて、蝦(かへる)を吞まむが爲に追ひて來たる。

 翁、此れを見て、蝦を哀れびて、蛇に向ひて云はく、

「汝(なむ)ぢ、其の蝦を免(ゆる)せ。我が云はむに隨ひて免したらば、我れ、汝を聟(むこ)と爲(せ)む。」

と、意(おも)はず、騷ぎ云ひつ。

 蛇(へみ)、此れを聞きて、翁の顏を打ち見て、蝦を棄て、藪の中に這ひ入りぬ。

 翁、

『由無き事をも云ひてけるかな。』

と思ひて、家に返りて、此の事を歎きて、物を食はず。

 妻、幷びに、此の娘、父に問ひて云はく、

「何に依りて、物を食はずして歎きたる氣色(けしき)なるぞ。」

と。

 父の云はく、

「然々(しかじか)の事の有りつれば、我れ、不意(おもはぬ)に騷ぎて、然(し)か云ひつれば、其れを歎く也。」

と。

 娘の云はく、

「速かに、物、食ふべし。歎き給ふ事、無かれ。」

と。

 然(しか)れば、父、娘の云ふに隨ひて、物を食ひて、歎かず。

 而る間、其の夜の亥の時に臨むて、門を叩く人、有り。

 父、

『此(こ)の蛇の、來たるならむ。』

と心得て、娘に告ぐるに、娘の云はく、

「『今、三日を過ぎて來たれ。』と約し給へ。」

と。

 父、門(かど)を開(ひら)けて見れば、五位の姿なる人也。其の人の云はく、

「今朝の約に依りて、參り來れる也。」

と。

 父の云はく、

「今(いま)を、三日を過ぎて來給ふべし。」

と。

 五位、此の言を聞きて返りぬ。

 其の後(のち)、此の娘、厚き板を以つて、倉代(くらしろ)を造らしめて、𢌞(めぐり)を强く固め拈(したた)めて、三日と云ふ夕(ゆふべ)に、其の倉代に入居(いりゐ)て、戶を强く閉ぢて、父に云はく、

「今夜(こよひ)、彼(か)の蛇(へみ)、來りて、門(かど)を叩かば、速かに開くべし。我れ、偏へに觀音の加護を憑(たの)む也。」

と云ひ置きて、倉代に籠り居(ゐ)ぬ。

 初夜の時に至るに、前の五位、來たりて、門を叩くに、卽ち、門を開きつ。

 五位、入り來たりて、女の籠り居たる倉代を見て、大に怨(あた)の心を發して、本の蛇の形に現じて、倉代を圍み卷きて、尾を以つて、戶を叩く。父母(ぶも)、此れを聞きて、大きに驚き、恐るる事、限り無し。

 夜半許に成りて、此の叩きつる音、止みぬ。

 其の時に、蛇(へみ)の鳴く音(こゑ)、聞ゆ。

 亦、其の音も止みぬ。

 夜明けて見れば、大なる蟹を首(かしら)として、千萬の蟹、集まり來たりて、此の蛇を、螫(さ)し殺してけり。

 蟹共、皆、這ひ去りぬ。

 女、倉代を開きて、父ざまに[やぶちゃん注:父に向かって。]語りて云はく、

「今夜(こよひ)、我れ、終夜(よもすがら)、「觀音品(かんおむぼむ)」を誦し奉つるに、端正美麗の僧、來たりて、我に告げて云はく、

『汝ぢ、恐るべからず。只、「蚖蛇及蝮蝎氣毒烟火」等(とう)の文(もん)を憑(たの)むべし。』

と敎へ給ひつ。此れ、偏へに、觀音の加護に依りて、此の難を免(まぬ)かれぬる也。」

と。

 父母(ぶも)、此れを聞きて、喜ぶ事、限り無し。

 其の後、蛇の苦を救ひ、多の蟹の罪報を助けむが爲に、其の地を握(つか)ねて、此の蛇の屍骸を埋(うづ)みて、其の上に寺を立てて、佛像を造り、經卷を寫(うつ)して供養しつ。

 其の寺の名を「蟹滿多寺(かにまたでら)」と云ふ。其の寺、今に有り。世の人、和(やはら)かに「紙幡寺(かみはたでら)」と云ふ也けり。本緣(ことのもと)を知らざる故(ゆゑ)也。

 此れを思ふに、彼の家の娘、絲(いと)、只者には非ずとぞ思ゆる。

「觀音の靈驗、不可思議也。」

とぞ、世の人、貴(たふと)びける、となむ語り傳へたるとや。

   *

「元亨釋書」(げんこうしゃくしょ)は史書。鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史で、著者は知られた臨済宗の名僧虎関師錬(弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)で、全三十巻。無論、全文漢文。私は同書を所持しないが、ネットを始めた初期に電子化テクストを毎日のように集めた中に、どこが提供していたか忘れたが、同書の全ベタ・データを入手している。而して、私のテクスト同様、Unicode以前のものであるため、正字不全があるが、そこは国立国会図書館デジタルコレクションの『國史大系』「第十四卷」の「百鍊抄 愚管抄 元亨釋書」経済雑誌社編明治三四(一九〇一)年刊)の当該部(左ページ後ろから六行目以降)で補正して、そこにある通りの訓点を附して原文を示す。当該話は「卷二十八」の掉尾にある。段落を成形した。漢文であるが、既に電子化した同話から、簡単に訓読出来るはずである。

   *

 蟹滿寺者。在山州久世郡。有郡民。合家慈善奉ㇾ佛。有女[やぶちゃん注:「むすめ」。]、七歲誦法華普門品。數月而終全部。一日出遊。村人捕ㇾ蟹持去。女問。捕ㇾ此何爲。答曰。充ㇾ飡[やぶちゃん注:「くらふにあつる」。]。女曰、以ㇾ蟹惠ㇾ我。我家有ㇾ魚。相報酬。村人與ㇾ之[やぶちゃん注:「これにくみして」。]。女得放河中。歸ㇾ家貺多乾魚。[やぶちゃん注:「貺」「給(たまふ)」に同じ。]

 其父耕田中。一蛇追蝦蟆而含ㇾ之。父憐而不意曰。汝捨蝦蟆。以汝爲ㇾ壻。蛇聞ㇾ言。擧ㇾ頭見ㇾ翁、吐ㇾ蝦而去。父歸ㇾ舍思念。誤發ㇾ言。恐失愛子。懊惱不ㇾ食。婦及女問曰、翁何有憂色而不ㇾ食。父告ㇾ實。女曰、莫ㇾ慮也。早飡焉[やぶちゃん注:「慮(おもんぱか)る莫(な)かれ。早や、飡(くら)ひ焉(をは)られよ。」。]。父悅受膳。

 初夜、有叩ㇾ門人。女曰。是虵[やぶちゃん注:「蛇」に同じ。]也。只言三日後來。父開ㇾ門。有衣冠人曰。依ㇾ約來。父隨女語曰、且待三日。冠人去。女語ㇾ父。擇良材固造小室。室成。女入ㇾ内閉居。三日後。冠人果來。見女屛室。生忿恨心。乃復本形。長[やぶちゃん注:「たけ」。]數丈。以ㇾ身纏ㇾ室。擧ㇾ尾敲ㇾ戶。父母大恐。不ㇾ得爭奈[やぶちゃん注:対抗して争う事は出来なかった。]。半夜後。叩聲息聞悲鳴聲。頃刻[やぶちゃん注:暫くして。]悲聲又止。

 明旦、父見ㇾ之。大螃蟹[やぶちゃん注:「ばうかい」。中国語で「カニ」の意。]百千、手足亂離。蛇又被瘡百餘所。并皆死。女開室出。顏色不變曰、我聞戸外、大小蟹千百、夾-殺此虵。大蟹多歸。小蟹死。今存者皆小蟹耳。然大於尋常。我通夜誦普門品。有一菩薩。長尺餘。語ㇾ我曰、無ㇾ怖也。我擁-護汝。父母大悅。便穿ㇾ土埋衆蟹及蛇。就其地營ㇾ寺。薦冥福。故號蟹滿寺。又曰紙幡寺

   *

「古今著聞集」当該部は「卷第二十 魚蟲禽獸」の現行のよく知られた通し番号「六八二」の通用される仮標題「山城國久世郡(くぜんこほり)の娘、觀音經の功德と蟹の報恩とにより、蛇の難をのがれ得たる事」である。所持する『新潮日本古典集成』(第七十六回)「古今著聞集 下」(西尾光一・小林安治校注)を参考に先と同じ仕儀で示す。

   *

 山城國久世郡に、人のむすめ、ありけり。をさなくより、觀音に仕へけり。慈悲深くして、ものをあはれぶに、人、かにを捕りて殺さんとしけるを見て、あはれみて、買ひ取りて放ちてけり。

 その父、田をすかす[やぶちゃん注:「掘り起こす」。]とて、田づらにいでたりける時、「くちなは」、「かへる」を飮みてありけるを、うちはなたんとすれども、はなたざりければ、こころみに、なほざりがてら、

「そのかへる、はなて。さらば、わがむこにとらん。」

と、いひかけたりける時、くちなは、このぬしが顏を、うち見て、のみかけたる「かへる」を、はき出だして、藪の中へはひ入りぬ。

『げには、よしなきことをもいひつるものかな。「くちなは」はさるものにてあるに。』

とくやしく思へど、かひなし。さて、家に歸りぬ。

 夜にも入りぬれば、

「いかが。」

と案じゐたるに、五位のすがたしたる男(をのこ)、いりきたれり。

「今朝の御(おん)やくそくによりて參りたる。」

よしを、いふ。

 さればこそ、いよいよ、あさましく悔しき事、限りなし。何と言ふべきかたなくて、

「今、兩三日を經て來たるべき。」

よしを、いひければ、則ち、歸りぬ。

 むすめ、このことを聞きて、おぢわななきて、寢どころなど、深く、かためて、隱れゐたり。

 兩三日をへて、きたり。

 このたびは、もとの「くちなは」のかたちなり。

 むすめの隱れゐたる所を知りて、そのあたりをはひめぐりて、尾をもちて、その戶を叩きけり。

 これを聞くに、いよいよおそろしきこと、せんかたなし。

 心をいたして、「觀音經」を讀み奉りて、ゐたり。

 かかるほどに、夜半ばかりにいたりて、百千のかに、あつまりきて、この蛇(くちなは)を、さんざんに、はさみきりて、かには見えず。

 この事、信力(しんりき)にこたへて、觀音、加護し給ふゆゑに、かに、また、恩を報じけるなり。

 その夜、「觀音經」をよみたてまつりて、他念なく念じ入りたりけるに、御たけ一尺ばかりなる觀音、現ぜさせ給ひて、

「汝、恐るる事、なかれ。」

と仰せられける、とぞ。

 このむすめ、七歲より「觀音經」をよみたてまつり、十八日ごとに持齋(ぢさい)をなん、しける。十二歲よりは、さらに「法華經」一部を讀み奉りてけり。

 法力(ほふりき)、誠に、空(むな)しからず。現當の望み[やぶちゃん注:現世と来世ゐでの無事安楽の願い。]、たれかうあたがひを、なさんや。

   *

「十八日ごとに持齋をなん、しける」底本の頭注によれば、『毎年正月十八日に仁寿殿または真言院で観音供(かんのんぐ)が行われたことにちなみ、一般にも十八日を観音供養の日とするならはしとなっていた』とあり、「持齋」については、『節食の持戒。具体的には、日中、正午前に一度だけ食事をするという戒律を守ること』とある。そもそも、仏教に於いては、僧は一日に午前中の一回の食事だけが許されていたのである。

   

 さて、実は、この同系説話は、以上だけではない。近世の焼き直し怪奇談集等まで含めると、実際には、かなりの改変物がある。取り敢えず、そこまで広げず、比較的知られる中古と中世から一本づつ、示しておくと、まずは、「三寶繪(詞)」である。永観二(九八四)年に成立した、二品尊子内親王ために学者源為憲が撰進したの仏教説話集である。その「中卷」に「置染郡臣鯛女(おきそめのこほりのおみたひめ)」を主人公としたものが、それである。所持する『新日本古典文学大系』の第三十一巻「三宝絵 注好選」(馬淵和夫・小泉弘校注/一九九七年刊)を同じき仕儀で以下に示す。底本は漢字・カタカナ混じりであるが、カタカナはひらがなに直した。

   *

 置染郡臣鯛女は、ならの尼寺の上座の尼の娘也。道心ふかくして、はじめより男(をとこ)、せず。つねに、花を、つみて、行基菩薩にたてまつる事、一日も不怠(おこたらず)。

 山に、いりて、花を擿(つ)むに、大なる蛇(くちなは)の、大蝦(おほかへる)を、のむを、みる。

 女(をんな)、かなしびて云はく、

「此蝦、我に、ゆるせ。」

といふに、猶(なほ)、のむ。深くかなしぶに、たへずして、「蛇は如此(かくのごとく)云ふになむ、ゆるすなる。」と云ひて[やぶちゃん注:一般に言われた俚諺を言ったもの。]、

「我、汝(なむじ)が妻と、ならむ。猶、ゆるせ。」

と云ふ時に、蛇、たかく、かしらを、もたげて、女を、まもりて、蝦を、はきいだして、ゆるしつ。女、

『あやし。』[やぶちゃん注:「怪しい」。]

と思ひて、日を、とをくなして[やぶちゃん注:再び逢う日(=婚姻の日)をわざと遠く隔てて。]、

「今(いま)、七日(なぬか)ありて、きたれ。」

と、たはぶれにいひて、さりぬ[やぶちゃん注:冗談に言って立ち去った。]。

 其夕(そのゆふべ)になりて、思ひいで、おそろしかりければ、「ねや」を、とぢ、「あな」を、ふたぎて、身をかためて、うちに、こもれり。

 蛇(くちなは)、來たりて、尾を、もちて、壁をたゝけども、いること、あたはずして、さりぬ。

 あくる朝に、いよいよ、をぢて、行基菩薩の山寺に居(ゐ)給へる所にゆきて、

「このことを、たすけよ。」

といふに、答へて云はく、

「汝、まぬかるゝことを、えじ。たゞ、かたく、戒を、うけよ。」

と云ひて、すなはち、三帰五戒を、うけて、女、歸るみちに、しらぬ「をきな」、あひて、大なる蟹を、もたり。

 女の云はく、

「汝、何人(なにびと)ぞ。この蟹、我に、ゆるせ。」

といふに、翁の云はく、

「我ハ攝津國宇原郡(うはらのこほり)に、すめり。姓名は某甲(しかいしか)と云ふ也。年、七十八に成りぬるに、一人(ひとり)の子、なし。よをふるに、たよりなければ、難波(なんば)のわたりにゆきて、たまたま、この蟹を、えたる也。人にとらせむと、ちぎれる[やぶちゃん注:約束した。]事あれば、こと人には、とらせがたし。」

と云ふ。

 女、きぬをぬぎて、かふに、ゆるさず。又、裳(も)をぬぎて、かふに、うりつ。

 女、蟹をもちて、寺に歸りて、行基菩薩して、呪願(しゆぐわん)せしめて、谷河に、はなつ。

 行基菩薩、ほめて云はく、

「善哉(よきかな)、貴哉(たふときかな)。」

と。

 女、家に歸りて、其夜、たのみ思ひて、ゐたるに、蛇(くちなは)、屋(や)上より、おりくだる。

 大(おほき)に、をそれて[やぶちゃん注:ママ。]、「とこ」をさりて、のがれ、かくれぬ。

 とこのまへを、きくに、踊り騒ぐ「こゑ」あり。

 あくる朝に、みれば、一つの大(おほき)なる蟹、ありて、蛇を、

「つだつだ」

と、きりをけり。

 即(すなはち)、しぬ。

「蟹の、我が恩を、むくひ、我が佛(ほとけ)の戒を、うけたる力(ちかr)なり。」

と。

「まこと、いつはりをしらむ。」

とて、人を攝津の國にやりて、翁(おきな)の家、尋ねとはするに、

「この郡里(こほりさと)に、さらに、なき人也。」

と云ふ。

 又、しりぬ。

「翁、變化(へんぐゑ[やぶちゃん注:ママ。])人也。」

と。

 「靈異記」に、みへ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

   *

 これは、珍しく、ちゃんと律儀にも最後に出典を明らかにしている。

 次に鎌倉後期に無住道暁(宇都宮頼綱の妻の甥。八宗兼学の学僧)の編した仮名交り文で書かれた仏教説話集「沙石集」(全十巻。弘安二(一二七九)年起筆、同六(一二八三)年成立。大きく分けても三系統の異なる伝本があり、話しの順列・標題も異なる)に載るものを示す。れは複数のカップリングの中の一つであるが、私は、この「沙石集」が好きで何度も読んでいる関係上、当該話を総て掲げることとする。底本は複数所持するもののうち、私が好んでいる正字正仮名の岩波文庫の筑土鈴寬(つくどれいかん)校訂本(一九四三年刊)を使用した。そこでは読みが殆んどないので、所持する岩波書店『日本古典文學大系』版をも参考に歴史的仮名遣で読みを振り、句読点・記号を変更・追加し、段落を成形した。

   *

      四 畜生の靈の事

 寬元年中のことにや、洛陽に騷ぐことありて、坂東の武士、馳せ上(のぼ)ること侍りき。相(あひ)知りたる武士、ひかせたる馬の中に、ことに憑(たの)みたる馬にむかひて、

「畜生も心あるものなれば、きけ。今度、自然(じねん)のこと[やぶちゃん注:変事。]もあらば、汝(なんぢ)を憑みて、君の御大事(おんだいじ)にあふべし。されば、餘の馬よりも、物を別にまして飼ふべし。返々(かへすがへす)不覺、すな。たのむぞよ。」

と言ひて、舍人(とねり)に云付(いひつ)けて、別に用途を下(くだ)したびけるを[やぶちゃん注:入用の費用を賜ったにも関わらず。]、此舍人、馬には、かはずして、私(わたくし)に用ひけり。

 さて、京へ上り着きぬ。

 此舍人、俄(にはか)に物に狂ひて、口ばしりていふやう、

「殿の仰せに、『汝をたのむなり。自然の大事もあらば、不覺、すな。』とて、別に物をそへて下したべば、『いかにも御勢[やぶちゃん注:元は「御前」か。]にあひ參らせん。』と思ふに、己(お)れが物を取り食(くら)ひて、我には、くれねば、力もあらばこそ、御大事にもあはめ、憎きやつなり。」

と云ひて、やうやうに狂ひけり。

 とかく、すかしこしらへて、治(なほ)りてけり。

 彼(か)の子息の物語なり。

 畜生なれども、かやうに心あるにこそ。みだりに狂惑(きやうわく)[やぶちゃん注:だましまどわすこと。]すべからず。

[やぶちゃん注:「寬元年中」一二四三年から一二四七年。鎌倉幕府執権は北条経時・北条時頼。

 以下が、本篇の同系話。

 むかし物語にも、或人の女(むすめ)、なさけ深く、慈悲ありて、よろづの者のあはれみけるに、遣水(やりみづ)の中に小き蟹のありけるを、常にやしなひけり。年ひさしく食物をあたへけるほどに、此むすめ、みめ・かたち、よろしかりけるを、蛇(じや)、思ひかけて、男に變じてきたりて、親にこひて、

「妻にすべき。」

よしを云ひつつ、隱す事なく、

「蛇なる。」

よしを云ふ。

 父、此事をなげきかなしみて、女に此やうを語る。

 女、心あるものにて、

「力及ばぬ、わが身の業報にてこそ候(さふらふ)らめ。『叶はじ。』と仰せらるるならば、それの御身も、我身も、徒(いたづ)らになりなんず。ただ、ゆるさせ給へ。この身をこそ、いたづらに、なさめ。かつは、孝養にこそ。」

と、打ちくどき、なくなく申しければ、父、かなしく思ひながら、理(ことわ)りにをれて、約束して、日どりしてけり。

 女、日比(ひごろ)養ひける蟹に、例の物食はせて、云ひけるは、

「年比、おのれを、哀れみ、やしなひつるに、今は、其日數(ひかず)、いくほどあるまじきこそ、あはれなれ。かかる不祥(ふしやう)にあひて、蛇(じや)に思ひかけられて、其日、われは何(いづ)くへか、とられて、ゆかんずらん。又もやしなはずして、やみなん事こそ、いとほしけれ。」

とて、さめざめと泣く。人と物語らん樣(やう)に、いひけるを聞きて、物も、くはで、はひさりぬ。

 その後(のち)、かの約束の日、蛇共(じやども)、大小、あまた、家の庭に、はひ來たる。

 恐しなんど、いふばかりなし。

 爰(ここ)に、山の方(かた)より、蟹、大小、いくらといふ數もしらず、はひ來たりて、此蛇(じや)を、皆、はさみ殺して、都(すべ)て、別のこと、なかりけり。

 恩を報ひけること、哀れにこそ、人は情(なさけ)あるべきにぞ。

 山陰の中納言の、河尻にて、海龜をかひて、はなたれける故に、其子の、海に、あやまちて落入(おちい)りてけるを、龜の、甲に乘せて、助けたる事、申し傳へたり。

 されば、八幡の御託宣にも、

「乞食・癩(らい)・蟻・螻(けら)までも、哀れむべし。慈悲、廣ければ、命、長し。」

と、のたまへり。蟹なんどの、恩を知るべしとも覺えねども、蟲類も、皆、佛性(ぶつしやう)あり、靈知あり。などか、心もなからむ。

[やぶちゃん注:当該話柄としては、ここまで。]

 ある澤の邊(ほとり)に、大・中・小の三つの蟹、ありけり。

 蛇(じや)をはさみけるに、蛇、木に登る。

 やがて、つづきて、大なると、中なる蟹、木に這ひ登りて、はさまんとするに、蛇、口より、白き水を、はきかく。

 蟹、是に、しじけて、はひおりて、力もなきてい[やぶちゃん注:「體」。]なり。

 小さき蟹、蕗(ふき)の葉をはさみきりて、うちかづき、木にのぼる。

 蛇、又、白き水を、はきかくれども、葉にかかりて、「かに」には、かからず。

 其時、葉をうちすてて、はひよりて、

「ひしひし」

とはさむ。

 蛇、たへずして、木よりおつ。

 二つの蟹、力、いできて、さしあはせて、はさみ殺しつ。

 さて、大なる「かに」、蛇を、三つにはさみきりて、頭(かしら)の方(かた)をば、我分(わがぶん)にし、中(なか)をば、中(ちゆう)の「かに」のまへに置き、尾の方をば、小蟹のまへにおくに、「小かに」、あわ[やぶちゃん注:ママ。「泡(あは)」。]をかみて、

「ふしふし」

として、うちしさりて、食はず。

『われこそ、奉公したれ。』

と言ふ心にや、と見えけり。

 其時、「大がに」、我分の頭の方を、「小かに」の前におき、尾の方を、我分にする時、「小がに」、食してけり。

 さも、ありぬべし。畜生も、心は、只人(ただびと)にかはらぬにや。

 遠州にも、「つばくらめ」[やぶちゃん注:「燕」。]の雌(めんどり)、死せり。

 雄(おんどり)、妻を尋ねて來たる。先(さき)の子、巢にありけるを、今の雌、「うばら」[やぶちゃん注:野茨(バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ Rosa multiflora )。同種の果実(偽果)にはマルチフロリン・クエルセチン・ラムノグルコシドなどのフラボノイド(フラボン配糖体)と、リコピンが含まれており、マルチフロチンは少量摂取しても緩下作用があり、ヒトでも腹痛や激しい下痢を引き起こすこともある。]の實を食はせて、皆、殺しつ。

 雄、これを見て、雌を食ひ殺してけり。

 嫉妬の心ありける人に、たがはず。是、たしかに見たる人の物語なり。

   *

因みに、最後の話は雌雄の誤りがあるが、事実である。ツバメは、子を出産後、別な雄が、前に産んだ子を巣から意図的に押し落して殺害して、その雌を略奪する行動が確認されている。嘘だと思うなら、サイト「ツバメ観察全国ネットワーク 子殺し」の動画を見られるがよい。実は、この話と以上の事実を、どうしても載せたかったので、私は全文を示したのである。

 さて。最後に、岩波書店の『日本思想体系新装版』の『続・日本仏教の思想――1』の「往生伝 法華験記」(注解・井上光貞/大曾根章介・一九九五年刊)の当該話の頭注の冒頭を引用して、本篇の同系話の纏めとしておく。『日本霊異記巻中八及び一二に類話があり、三宝絵巻中一二は前者による。この霊異記中八及び三宝絵の話は女を置染臣鯛女とし、本書とは別系統。霊異記巻中一二は本書と構成上類似しているが、女を山城国久世郡ではなく紀伊郡の一女人とし、観音信仰者でなく持戒者とし、観音信仰者でなく持戒者とし、

本人の父でなく、本人みずから蛇の妻となることを約すなどの違いがあり、本書の終りの蟹満多寺の一段もない。また本書は霊異記をみていないと認められるので』、『霊異記中一二に類似の話が変形して、たとえば蟹満多寺の縁起として伝えられ、本書にとりいれられたのであろう。今昔物語巻十六ノ一六・元亨釈書巻二十八、寺像志』(「元亨釈書」内のパート名)『の蟹満寺の話は、本書に類似する。本書によるか。古今著聞集巻二十・観音利益集『三十九(前後を欠く)』(説話集。成立年未詳で作者・編者も未詳。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「中世神佛說話」(『古典文庫』第三十八冊)近藤喜博校/一九五〇年刊(戦後のものだが、正字正仮名)のここから当該部が視認出来る。電子化しようとも思ったが、前後が欠損している断片なので、やめた)『は本書と同系統』とある。

「山州名蹟志には、此寺、相樂郡に在りと見ゆ」「山州名跡志」は全二十二巻二十五冊。釈白慧(坂内直頼)撰。成立は正徳元(一七一一)年で元禄一五(一七〇二)年の序がある。先に「山城四季物語」(六巻・延宝元(一六七三)年)を出した著者が、山城一国八郡三百八十六村を実地に踏査し、現状を片仮名混じりの和文で克明に描写している。旧本・古典籍のみに頼った大島武好の「山城名勝志」(同年)とは好対照をなしており、ともに山城研究の基本書とされる(平凡社「日本歴史地名大系」に拠った)。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本地誌大系』第十六巻「山州名跡志」(第一・二/蘆田伊人編・昭四(一九二九)年~同六年・雄山閣)のこちらの「相樂郡」(そうらくぐん)の「○普門山蟹滿寺(フモンザンカニマンジ)」で視認出来る。その「緣起」(全漢文・返り点附き)に本篇の内容と同じ話が載る。以上の私の注引用を読まれた方は、すらすらと読めること、請け合う。

「入江曉風氏の臺灣人生蕃物語に、卑南山腹に住む蕃人が蟹を買ふて放ちやり、又娘を蛇の妻にやるとて蛙を助命させると、蛇が五位姿の男と化けて姬を求め來るを一旦辭し返すと、二三日立て蛇の姿のまゝ來り、娘が隱れた押入の戶を尾で敲く所を多くの蟹が現はれて切殺したとある」「入江曉風」は「いりえぎょうふう」であるが、生没年未詳。本名は文太郎。「臺灣人生蕃物語」は大正九(一九二〇)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで大正十三年再版本を見つけた。当該部は、ここの『(二九)五位の蛇』だが、これ、どう考えても、本邦の原話が、台湾に日本人が意図的に輸入してデッチアゲたものとしか思われない。台湾で「五位」はないでショウ!

「一九〇九年板ボムパス著サンタル・パルガナス俚談に較や似た話を出す。コラと名くる男、怠惰で兄弟に追出され土を掘て蟹を親友として持あるく。樹の下に宿ると、夜叉來り襲ふを、蟹が其喉を挾み切て殺す。王之を賞して其女婿とするに、新妻の鼻孔から蛇二疋出で、睡つたコラを殺さんとするを蟹が挾み殺した。其報恩にコラ、其蟹を池に放ち每日其水に浴し相會ふたと有る」イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になるFolklore of the Santal Parganas(「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名。ここ(グーグル・マップ・データ))。「Internet archive」のこちらで(そこでは書誌にボディングが共著者として記してある)同原本(一九〇九年版)が視認出来る。この際、探してみた。あった! この“XCL ANOTHER LAZY MAN.”がそれだ! 私の注の大団円じゃ!!

2024/04/16

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(4)

 

   味噌の香に藏の戶前や五月雨 海 人

 

 陰鬱な五月雨の空氣の中に漂ふ侘しい香を見つけた――嗅ぎつけたのである。味噌は藏の中にあるのであらう。じめじめした暗い五月雨と、プンと鼻に感ずる味噌の香とを腦裏に浮べ得る人ならば、この句の趣は說かずともこれを了するに相違無い。

 子規居士に「秋雨や糠味噌臭ふ佛の間」といふ句があつたと記憶する。季節も違ひ、場所も違ひ、匂ふものも違ふけれども、嗅覺が捉へた句中の趣には、自ら相通ずるものがある。

[やぶちゃん注:「秋雨や糠味噌臭ふ佛の間」明治三〇(一八九七)年九月三十日の『病牀日記』に記されてある句。国立国会図書館デジタルコレクションの改造社刊『正岡子規全集』第四巻(昭和八(一九三三)年刊)のここ(右ページ最上段)で確認した。]

 

   中わろき鄰合せやかんこどり 一 夫

 

「さびしさに堪へたる人の又もあれな」といふやうな山里ででもあるか、閑古鳥が啼くと云へば、自ら幽寂な境地を想像せしめる。而もそこに住んでゐる人は、鄰合つていながら仲が惡い、といふ人間世界の已むを得ざる事實を描いたものらしい。

 併し吾々がこの句を讀んで感ずるところは、それだけの興味に盡きるわけではない。嘗て『ホトトギス』の俳談會が

 

   腹あしき鄰同志の蚊遣かな 蕪 村

 

   仲惡しく鄰り住む家や秋の暮 虛 子

 

といふ兩句の比較を問題にしたことがあつた。人事的葛藤を描く上から見ると、蕪村の句が最も力があり、活動してもゐるやうであるが、句の價値は姑く第二として、自然の趣はかえつてこの句に遜る[やぶちゃん注:「ゆづる」。]かと思ふ。かういふ趣向の源もまた元祿に存することは、句を談ずる者の看過すべからざるところであらう。

[やぶちゃん注:「さびしさに堪へたる人の又もあれな」「新古今和歌集」の「卷之六 冬歌」に載る西行の一首(六二七番)、

   題しらず

 さびしさにたへたる人のまたもあれな

   庵(いほり)ならべん冬の山里(やまざと)

で、これは「小倉百人一首」の二十八番で知られるところの、「古今和歌集」の「第六 冬歌」の源宗于(むねゆき)の、

   冬の歌とてよめる

 山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬとおもへば

の本歌取りである。「山家集」に収載してあり、「西行法師法師家集」では「山家の冬の心を」と前書する。

「腹あしき鄰同志の蚊遣かな」「腹あしき」は「怒りっぽい」の意。「蕪 村遺稿」にある句で、明和八(一七七一)年四月十八日の句。

「仲惡しく鄰り住む家や秋の暮」という高濱虛子の句については、国立国会図書館デジタルコレクションの大正七(一九一八)年十二月発行の『ホトトギス』誌上の「俳壇會」のここで(左ページ後ろから四行目以降)、山崎楽堂(やまざきがくどう 明治一八(一八八五)年~昭和一九(一九四四)年:能楽研究家・建築家にして俳人)が、この句を掲げて、詳細な批評を行っているので、是非、読まれたい。因みに、久女を俳壇から葬った糞虚子は、私は彼女と同様に「虛子嫌ひ」であるからして、この句も駄句以外の何物でもないと思っている。]

 

   飛ひかりよわげに蚊屋の螢かな 鶴 聲

 

 螢を蚊帳に放つといふ趣向は、早く西鶴が『一代男』の中で「夢見よかと入りて汗を悲む所へ、秋まで殘る螢を數包[やぶちゃん注:「かずつつ」。]みて禿[やぶちゃん注:「かぶろ」。]に遣し[やぶちゃん注:「つかはし」。]、蚊屋の内に飛ばして、水草の花桶入れて心の涼しき樣なして、都の人の野とや見るらむといひ樣に、寢懸姿[やぶちゃん注:「ねかけすがた」。]の美しく」云々と書いてゐる。

 

   蚊屋の内にほたる放してアヽ樂や 蕪 村

 

といふ句は、その放膽な句法によつて人に知られてゐるが、蕪村は果して西鶴の文中から得來つたものかどうか。蚊帳に螢を放つの一事が、それほど特別な事柄でないだけに、偶合と見る方が妥當であらう。「アヽ樂や」の句は一應人を驚かすに足るけれども、再三讀むに及んでは、蚊帳の中を光弱げに飛ぶ元祿の螢の方に心が惹かれて來る。這間[やぶちゃん注:「このかん」。]の消息は「自然」の一語を用いる外、適當な說明の方法も無ささうである。

 子規居士が「試問」として『ホトトギス』の讀者に課した中に、「子は寢入り螢は草に放ちけり」の句を批評せよ、といふ問題があつた。この句は誰の作かわからぬけれども、その答と共に居士が揭げた文章によると、享保頃に

 

   子を寢せて隙やる蚊帳の螢かな 喜 舌

 

といふ句があるらしい。居士は「子は寢入り」の趣向の古きものとして之を擧げたのであるが、更に遡れば元祿に

 

   ねいらせて姥がいなする螢かな たゝ女

 

といふ句がある。「試問」における居士の批評は、第一に句尾の「けり」を難じ、第二に「子は」「螢は」と二つ重ねた句法を難じ、第三に「子は寢入り」と云放したことを難じ、「若し句調を捨てゝ極めて簡單にせば『子寢ねて螢を放つ』とでもすべきか」と云つてゐる。「草に」の一語がこの場合、あまり働かぬ贅辭となつてゐることも自ら明である。

 享保の喜舌の句は、放つべき草を云はずに、今ゐる蚊帳を現した點が多少異つてゐるけれども、「隙やる」の一語は何としても俗臭を免れない。元祿のたゝ女に至ると、寢入つた子を主とせず、寢入らせた姥[やぶちゃん注:「うば」。]を主役にして、その姥が螢を放つことになつてゐる。これには草も無ければ蚊帳も無い。「ねいらせて」及「いなする」といふ言葉に厭味はあるが、「子寢ねて螢を放つ」といふことから見れば、この句が一番近いやうである。かういふ種類の句は、何時誰が作つたにしても、所詮俗を脫却し得ぬものであらう。たゞこの趣向に於いても亦、元祿の句が最も自然に近いとすれば、他の方面の事は推察に難くない。

[やぶちゃん注:『西鶴が『一代男』の中で「夢見よかと入りて汗を悲む所へ、……』国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第三巻「井原西鶴集」(昭二(一九二七)年国民図書刊)の「好色一代男」の「卷五」の「慾(よく)の世の中に是れは又」のここ(左ページ後ろから三行目以降)で、当該部を視認出来る。

「蚊屋の内にほたる放してアヽ樂や」この蕪村の句は明和六(一七六九)年五月十日の作。

『子規居士が「試問」として『ホトトギス』の讀者に課した中に、「子は寢入り螢は草に放ちけり」の句を批評せよ、といふ問題があつた』これは明治三二(一八九九)年の「俳句問答」の一節で、『○第四問 左の句を批評せよ、』『子は寢入り螢は草に放ちけり』である。国立国会図書館デジタルコレクションの「俳諧大要・俳人蕪村・俳句問答・俳句の四年間」(高濱淸(虛子)編・大正二(一九一三)年籾山書店刊)のここの『第四問の答』以下で視認出来る。この子規の批評は鋭い。]

2024/04/15

財産相続等に取り掛かる

本日、これより、財産相続に向かって司法書士を訪ねて、取り掛かる。恐ろしくエンドレスっぽいのに途方に暮れている。それとは別に、その他の神経症に細かな名義変更が異様に面倒くさいのである。「地球にやさしい」からと父が始めた(この軽薄な語は昔から私は最も嫌悪するエセ・エコである。エコロジーを標榜するもので真に生物学的に意義と効果があるものは、実は極めて少ない。地味で目立たない微小貝類などは日々続々と着実に滅亡しているのだ)太陽光発電名義人変更や、敷地内に立っている東京電力からの電信柱の使用料振り込み変更等々……気がつくと、隠れた南京虫のようにワラワラと出てきて、私の神経をバチッツ! と突き刺してくるのである――

譚 海 卷之十四 加茂社人鞠の露はらひの事 公人朝夕人の事 護持院・金地院の事 三島曆の事 はかり座の事 絲割符の事 藍甕運上の事 江戶曆問屋の事 淨瑠璃太夫受領號の事 江戶髮ゆひ株の事 連歌歌住宅の事 婦人旅行御關所手形の事 十夜念佛の事 酒造米の事 東西渡海舟御掟の事

 

 譚 海 卷の十四

 

 

〇主上御鞠(おんまり)の御遊(おあそび)ある時は、加茂社人、最初に「露拂ひ」といふ「まり」を仕(つかまつ)る事也。此作法、加茂の社人の家にのみ傳へて、外にしらざる所作也。

 

○「武鑑(ぶかん)」に「公人朝夕人(くにんてうじやくにん)」と有(ある)は、公方樣御上洛の時に便器を掌(つかさど)る役也。則(すなはち)。「おかは」の役人也、とぞ。

[やぶちゃん注:「武鑑」江戸時代に出版された大名や江戸幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋・役職・用人などを記した年鑑形式の紳士録。

「公人朝夕人」(くにんじゃくにん)は、当該ウィキによれば、『江戸時代にあった役職の一つ。世襲制』とあり、『高貴な身分の者が衣冠束帯姿である際、排尿が困難となる。衣類の着脱が必要となるが、その猶予が無い際、袴の脇から尿筒(しとづつ。尿瓶(しびん)にあたる銅製の筒。ポータブル』・『トイレの類)を差し込み、排尿中に支えるのが仕事である』。『江戸幕府将軍の上洛・参内、日光東照宮参拝(日光社参)などの際、将軍に近侍した』。『名前の由来は、“朝夕に公務を果たす人”ということから』。『将軍の道中は行列の二番に従う下部の左右にあって、警を唱える。同朋頭支配で定員は』一名で、『扶持高』十『人扶持』であったが、『土田家が』代々『世襲していた。土田家は鎌倉幕府』四『代将軍の藤原頼経の頃から』、『時の将軍に仕え、以降、室町幕府の将軍家(足利家)、織田信長、豊臣秀吉にも仕えていた。近世に入り江戸幕府を創始した徳川家康に仕えたことが幕臣としての始まりで』、『以後』、『土田家は「土田孫左衛門」という名前も世襲したため、公人朝夕人=土田孫左衛門となる』。但し、『身分は武士ではなく』、『武家奉公人いわゆる中間だったといわれている』。『職務は将軍が対象とはいえ、いわゆる「下の世話」なのであるが、鎌倉時代から家が続き代々世襲している事、雲の上の存在である将軍や時の権力者らに近侍すること、公人朝夕人といえば土田家であったこと、などを鑑みるに』、『いわゆる名家として扱われる』。『土田家の由緒書によれば、世襲の由来は』承久元(一二一九)年に『将軍藤原頼経が鎌倉に東下向の際、京都から扈従してまかり下るのに始まるという』。『江戸幕府において世襲となった起因は』、慶長八(一六〇三)年三月二十五日、『家康が将軍拝賀の礼の為に参内した折、尿筒の役「公人朝夕人」を家職としていた土田氏の先祖を召したこととされている』とあった。]

 

○國初より賓永の比(ころ)迄は、寺社御奉行と云(いふ)者は置(おか)れざる、よし。

「すべて、寺社の事は、護持院・金地院(こんちゐん)の兩寺にて、預り、沙汰せしゆゑ、此兩寺には舊記、おほく、あり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「國初より賓永の比」江戸幕府開府の慶長八年二月十二日(一六〇三年三月二十四日)から宝永八年四月二十五日(一七一一年六月十一日)まで。

「護持院」江戸神田橋外(現在の東京都千代田区神田錦町)にあった真言宗の寺院。奈良県桜井市の長谷寺一派。当該ウィキによれば、『筑波山の知足院中禅寺(筑波山神社の別当)が起源である。知足院は徳川家康以来、将軍家と幕府の祈祷を行っていた。知足院の江戸別院が湯島にあったのを、元禄元』(一六八八)年、『江戸幕府の』第五『代将軍徳川綱吉が神田橋・一ツ橋の間に移した。護摩堂、祖師堂、観音堂などの大伽藍を整備し、隆光を開山として、護持院と改称した』。享保二(一七一七)年、『火災により』、『一堂も残さずに焼失』したが、『徳川吉宗は同地での再建を許さず、跡地は火除地(護持院ヶ原)となった。護持院は音羽護国寺の境内に移され、護持院住職が護国寺住職を兼任することになった』。同寺は『明治維新後の廃仏毀釈で廃寺となった』とある。「護持院が原跡碑」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。護国寺はここ

「金地院」現在の東京都港区芝公園三丁目に現存する臨済宗南禅寺派の寺院。当該ウィキによれば、元和二(一六一九)年に『開山された。以心崇伝は南禅寺の僧侶で徳川家康の政治顧問を務めていた。そのため、江戸における拠点として与えられたのが当院の由来である。以心崇伝は京都では南禅寺塔頭の金地院を居所としており、江戸での居所も「金地院」と称した。そのため、以心崇伝は別名「金地院崇伝」ともいう』。『これまで当院は江戸城内に置かれていたが、以心崇伝の死後の』寛永一五(一六三八)年、『現在地に移転した。江戸時代の当院は独立性が高く、現在でいうところの「臨済宗系単立寺院」であったが、明治になり、関係の深かった南禅寺に属することになった』。昭和二〇(一九四五)年の「東京大空襲」によって、『本堂が焼失し』、昭和三一(一九五六)年に『再建された』とあった。ここ。]

 

○「三島こよみ」は、伊豆・相模の二ケ國に、商ふ事、免許なり。曆師河合龍節といふ者、每年、歲暮に江戶へ罷出(まかりいで)、公儀と御三家へ「こよみ」を奉り、目錄を拜領して歸國する事、定(さだま)りたる事也。

[やぶちゃん注:「三島曆」(みしまごよみ)は、室町時代の応安年間、伊豆国の三島神社の川合氏で発行した、極めて細かな仮名で記した暦。江戸時代には幕府の許可を得て、伊豆・相模の二国に行なわれた。なお、その書式から、「こまごました文字でくどくどと書いたものの喩え」にも用いる。「三島摺曆」とも呼ぶ。]

 

○「はかり座」は、西國・東國と兩人に分(わけ)て仰付(おほせつけ)られて有(あり)。東三十三國は守隨(しゆずい)彥太郞、西三十三ケ國は神谷善四郞、商ふ事也。

 

○京・大坂・境[やぶちゃん注:底本には編者に拠る補正右傍注があり、『堺』とする。]。長崎等に、「絲割符(いとわつぷ)」と云(いふ)者有(ある)は、皆、往古、異國渡船を仕立(したて)て渡海し、異國へ交易せし者の子孫也。國初、異國渡海の事、禁ぜられし砌(みぎり)、右の者、渡世成(なり)かたきに付(つき)て、「渡り絲の割符」を賜りて、家業とせさせ給ふゆゑ、「絲割符」と云(いふ)也。

[やぶちゃん注:「絲割符」(いとわっぷ)。「白糸割符」(しらいとわりふ)とも。慶長九(一六〇四)年以来、行われた中国産生糸(白糸:上質の絹糸)の一括輸入方式。初めは京都・堺・長崎、後には江戸・大坂を加えた五ヶ所の特定商人が作る「糸割符仲間」に生糸を一括購入させ、それを個々の商人に分配させた。彼らを通じて、それまでポルトガル船が独占していた外国貿易の利益を確保するのが、江戸幕府のねらいであった。十八世紀以降の国産生糸(和糸)の増産により、この糸割符制度は衰退した(主文は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]

 

○紺屋藍瓶の運上は、每度、瓶壹つに付(つき)、錢四百文づつ出(いだ)す事也。

 

○「江戸曆問屋」は十一人有(あり)、每年、町奉行より、曆の本紙を賜(たまは)り、再版して商ふ也。町年寄、預り掌る事也。

 

○淨瑠璃太夫の受領號を稱するは、元來、人形師に付(つけ)たる事也。其始(そのはじめ)、人形をあやどりながら、淨瑠璃をかたりたる故、受領號を免許ありし事也。

 

○江戶中、髮結の株は、承應(じようおう)年中より定められたる事也。上(かみ)より定(さだめ)られたる札に、皆、「承應」の文字、有(ある)、とぞ。

[やぶちゃん注:「承應年中」一六五二年から一六五五年まで。徳川家綱の治世。]

 

○連歌師の住宅、江戶は旅宿の御定(おさだめ)也。京都在住の積(つもり)に成(なり)てある事也。

 

○江戶町家女房、上京するには、御關所御判を頂戴して、登る時、箱根にては御改め一通(ひととほり)也。荒井御關所より、御判物(ごはんもつ)に引(きひ)かへ、日限定(にちげんさだま)りの書付、賜(たまは)る也。其書付の目限より、一日、延引しても、むづかしき事也。尤(もつとも)、書付、懷中して上京致し、歸りに、又、荒井御關所へ納(をさむ)ること也。夫故(それゆゑ)、女中、往還は、はなはだ氣づまりにて、迷惑成(なる)事、とぞ。右、日限に拘らず、上京いたし、

『ゆるりと見物せん。』と思ひ、又は、

『歸路に木曾路を通らん。』

など思はば、一旦、上方、親類、有(あり)て、其者の所へ引越(ふつこし)のつもりに、江戶にて申立(まうしたて)、御判を頂戴すれば、右、御判物を、荒井御關所へ、をさむる斗(ばか)りにて、書替の手形、賜る事なく、京都、こゝろよく、一見、をはりて、向方(さきかた)にて、あらたに木曾道中の御判物を頂戴するが、よろし。木曾路は女御改(をんなおあらため)、臼井[やぶちゃん注:底本には「臼」に編者に拠る補正右傍注があり、『(碓)』とする。]御關所斗(ばかり)也。其外は、番所、相斷(あひことわり)て通る斗也。

[やぶちゃん注:「荒井御關所」「新居御關所」の誤り。東海道の関所の一つで、現在の静岡県湖西市新居町(あらいちょう)新居のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった。但し、正式名称は「今切関所」(いまぎれせきしょ)であった。

「碓」「井御關所」「碓氷御關所」の誤り。中山道でここにあった関所。江戸時代には、東海道の箱根関所、中山道の福島関所とともに重要な関所とされた。当該ウィキによれば、『碓井関所は、中山道の福島関所、東海道の箱根関所、奥州街道・日光街道の房川渡中田関所、甲州街道の小仏関所、北国街道の関川関所』『と同様に、「入鉄砲に出女」を取り締まっていた』。『碓井関所では、徳川幕府による留守居証文により一元的に江戸からの不法な出女を監視していたが、関所近隣在住の女性の通関に対しては特別な配慮もあった』とある。]

 

○淨宗[やぶちゃん注:浄土宗。]に「十夜念佛」と云(いふ)事有(あり)。又、「七夜(ひちや)」・「四十八夜」など云(いふ)事も、あり。皆、別所に念佛を行(ぎやう)ずる事也。

 「十夜」の事は、大經(だいきやう)に出(いで)たり。

 「七夜」は、「彌陀經」によりて行ずる事也。

 「十夜念佛」は、京都眞如堂にて、行じたるを、はじめとす。關東にては、鎌倉光明寺を、はじめとす。

 「四十八夜」は、鎭西上人、行じはじめたる事也。

[やぶちゃん注:「大經」これは、その宗派で依るところの大部の経典を指す。浄土宗では「淨土三部經」の総称で知られる「無量壽經」・「觀無量壽經」・「阿彌陀經が根本経典であるが、その他に法然の著した「一枚起請文」と「一紙小消息」が含まれる。

「鎭西上人」弁長(応保二(一一六二)年~嘉禎四(一二三八)年)は平安末から鎌倉初期の浄土宗鎮西派の祖。号は聖光房、「鎭西上人」は敬称。「二祖上人」や勅諡の「大紹正宗國師」とも呼ばれる。寿永二(一一八三)年、比叡山に上り、宝地房証真から天台宗の奥義を受けた。弟の死に当たって無常を感じ、建久八(一一九七)年、法然に師事した。浄土宗の宗要を極めて、大いに念仏を広めた人物として知られる。主著に「浄土宗要集。「徹撰択集」・「末代念仏授手印」がある。現在の浄土宗は、この派の発展したものである(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 

○加州米・羽州秋田米等は、至(いたつ)て下品也。然れども、洒を造(つくる)には、此米ならでは、成(なし)がたし。大坂に來(きた)るといへども、皆、酒米(さかまい)にいたす事也。飯米に成(なり)がたし。

 

○渡海の船は、「北𢌞り」・「東𢌞り」の定(さだめ)ありて、其制を超(こゆ)る事、あたはず。

 「北𢌞り」は、武州浦賀より大坂をへ、出雲の北をめぐりて、羽州秋田土崎湊に至るを限りとす。

 「東𢌞り」は、浦賀より常陸をへて、仙臺南部の浦を過(すぎ)、津輕を𢌞り、羽州秋田に至るを限(かぎり)とす。

 「北廻り」は、「北𢌞り」の船を用ひ、「東𢌞り」は「東𢌞り」の船を用ゆ。他船をもちて往來する事、嚴禁也。

 各船、皆、定額(しやうがく)ある事ゆゑ、「北𢌞り」の船をもちて、津輕に出(いで)、浦賀へ來(きた)る時、其船頭、刑罪に處せらるゝ事也。「東まはり」の舟にて、「北𢌞り」するも、同じ刑に處せらるゝ事也。

 

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(3)

 

   美しき人の帶せぬ牡丹かな 四 睡

 

 ちよつと見ると、牡丹の咲いてゐる側に、美人が帶をしめずに立つてゐるかの如く解せられるが、實際はさうでなしに、牡丹そのものを帶せざる美人に見立てたものと思はれる。牡丹の妖艷嬌冶の態は單に「美しき人」だけでは十分に現れない。「帶せぬ」の一語あつて、はじめてこれを心裏に髣髴し得るのである。

 かういふ句法は今の人達には多少耳遠い感じがするかも知れないが、この場合强ひて目前の景色にしようとして、帶せぬ美人をそこに立たせたりしたら、牡丹の趣は減殺[やぶちゃん注:「げんさい」。]されるにきまつてゐる。句を解するにはどうしてもその時代の心持を顧慮しなければならぬ。

[やぶちゃん注:「嬌冶」「けうや」(きょうや)は「艶めかしい」の意。]

 

   捲あぐる簾のさきやかきつばた 如 行

 

『句兄弟』に「簾まけ雨に提來くる杜若」といふ其角の句がある。これは「雨の日や門提て行かきつばた」といふ信德の句に對したので、單に燕子花[やぶちゃん注:「かきつばた」。]を提げて通るといふだけの景色に、「簾まけ」の一語によつて山を作つたのが、其角一流の手段なのであらう。

 如行のこの句には、其角のやうな山は見えない。緣先の簾を捲上げると、すぐそこに燕子花の咲いてゐるのが見える、といふ眼前の趣を捉へたのである。簾を捲くと同時に、燕子花の色がぱつと鮮あざやかに浮んで來るやうに感ずるのは、この句が自然な爲に相違ない。自然に得來つたものは、一見平凡のやうでも棄て難いところがある。

[やぶちゃん注:「句兄弟」其角編で元禄七(一六九四)年刊。以上は、

      *

 五番

    兄 信德

   雨の日や門(かど)提(げ)て行(ゆく)かきつばた

    弟 [やぶちゃん注:ここは其角。]

   簾(すだれ)まけ雨に提來(さげくる)杜若

      *

この「信德」は伊藤信徳(寛永一〇(一六三三)年~元禄一一(一六三八)年)は京都の富商。高瀬梅盛の門人で、談林調から蕉風への一翼を担った人物として知られる。編著「江戶三吟」・「七百五十韻」などがある。]

 

   ほとゝぎす栗の花ちるてらてら日 李 千

 

 紛れもない晝のほとゝぎすである。ほとゝぎすの句といふものは、習慣的に夜を主とするやうになつてしまつたが、古句を點檢して見ると、必ずしもさうではない。この句は「てらえら日」といふのだから、相當日の照りつけている、明るい晝の世界である。

 

   ほとゝぎすあみだが峯の眞晝中 路 通

 

   郭公日高にとくや筒脚半 探 志

 

などといふのは、明に[やぶちゃん注:「あきらかに」。]晝の時間を現してゐるし、

 

   幟出す雨の晴間や時鳥 許 六

 

   ほとゝぎす傘さして行森の雨 洒 堂

 

の如きも、やはり晝と解した方がよささうに思はれる。元祿人は傳統に拘泥せず、句境を自然に求めて隨所にこの種の句を成したのであらう。

「ほとゝぎす」といふ言葉がその鳥を現すのみならず、直にその啼なく聲までを意味するのは、活用の範圍が廣きに失しはせぬかといふことを、鳴雪翁は云つて居られた。併しほとゝぎすは聲を主とする鳥で、啼く場合殆ど姿を見せぬといふことも考へなければならず、その名詞が五音であるため、他の語を添える便宜に乏しいといふ消息も認めなければなるまい。ここに擧げたのはいづれも晝のほとゝぎすであるに拘らず、一向句の表に姿を現してゐない。「栗の花ちるてらてら日」といふ明るい世界にあつても、ほとゝぎすは依然聲を主として扱はれてゐるのである。

 

   雞の餌袋おもし五月雨 胡 布

 

 雞の餌袋[やぶちゃん注:「ゑぶくろ」。]は胸のところにある。かつて少しばかり雞を飼つた頃の經驗によると、夕方雞舍をしめる時などに、よくその餌袋に手を觸れて、腹が十分であるかどうかをしらべたものであつた。貪食な雞の餌袋が一杯砂でも詰めたやうに固くなつてゐるのは常の事であるが、これは五月雨時なので、いさゝか運動が乏しく、特に餌袋の重きを感じたものかも知れない。

 この句の眼目は「おもし」の一語に盡きる。これによつて客觀的に雞の餌袋を重しと見るのみならず、何となく自分の事ででもあるかのやうな感じを與へる。雞に親しい生活の人でなければ、かういふことは捉へにくいだらうと思ふ。

 

2024/04/14

譚 海 卷之十三 風のしるしの事 時の候うらなふ事 霜にて風をうらなふ事 雪降んとする候の事 土用中雨候の事 雨降らざる候の事 二十四節晴雨占候の事 入梅心得の事 灸治の事 養生の心得の事 / 卷之十三~了

○正に開かんとする花、結(むすび)て開きかぬる日は、風を催すしるし也。蜘蛛、みづから網を破るも、「暴風雨、有(あり)。」と知(しる)べし。

 

○鐘の聲、姶めの一ツ、二ツ打樣(やう)に聞ゆるは、晴の候也。

 

○霜の深くふりたる朝は、晝、かならず、風を起す。冬月、霜・冰(こほり)、とくるは、雪の候也。霜やけのかゆきも、雪の候也。

 

○土用入(いり)て十三日目は、必(かならず)、雨、降(ふる)と、いふ。

 

○夕暮、「いはし雲」とて、雲のかたち、まばらに敷(しき)たるは、久敷(ひさしく)晴のつづくベきしるし也。詩にも「魚鱗天不ㇾ雨」とあり、とぞ。

[やぶちゃん注:津村は「詩」とするが、これは中国の諺で、「魚鱗天、不雨也風顚。」(魚鱗(ぎよりん)の天(てん)は、雨(あめふ)らずして、風(かぜ)、顚(はじ)む。)。]

 

○節(せつ)十五日の中(うち)に、五日め、殊に、時候、かはる也。又、節、換りて、五日の間、晴天なれば、その後(あと)の五日は雨天也。又、節より五日過ぎても、天氣つづきて晴(はる)る時は、十一日めより、雨、降(ふる)也。晴雨、如ㇾ是(かくのごとき)を以て、うらなふに、大樣(おほやう)、たがふ事、なし。旅行の人、殊に思ふべき事也。

[やぶちゃん注:「節十五日」太陰太陽暦に老いて各節分を基準に一年を二十四等分して約十五日ごとに分けた季節のことで、細かに言うと、二十四節気は、一ヶ月の前半を「節」と呼、後半を「中」と呼ぶ。その区分点となる日に季節を表すのに相応しい春・夏・秋・冬などの名称を附したのである。]

 

○入梅廿日目、土藏を掃除して、書籍・衣裳の類(るゐ)を出(いだ)し、土藏の外の室(へや)に置(おく)べし。出梅の後(のち)、「かび」を生ずといへども、土藏の外に有(ある)物は、「かび」を、おほく生ずる事、なし。

 

○灸治、冬月・春初までは、なすべからず。すうるといへども、功、薄し。春・秋は、體(からだ)ゆるみ、脈、ひらくる故、すべて、功、有(あり)。

 

○甘きものは、小兒に、害、有(あり)。愛におぼるゝとも、しばらく、あたふべからず。酒は、終(つひ)に、命を、そこなふ。

 長夜(ちやうや)の飮(いん)を、なすべからず。一獻三杯に限れば、一日、百飮すとも、さまたげず。

 飢(うゑ)て、大食するは、害を、なさず。美味ありといへども、滿腹にやみて[やぶちゃん注:「已みて」で「満腹することない異常な状態になって」の意であろう。]、かさね、くらふべからず。

 すみやかに、はしるべからず。元氣を損じ、且つ、まづまづ、あやまち有(あり)。

 形を勞(らう)して、心を勞すべからず。晝、緊要(きんえう)の事に處(しよ)するとも、寢るに就(つい)て、わするゝが如く、すべし。

 飯に石あるをば、愼(つつしみ)て、かむべからず。老に臨(のぞみ)て、齒さき、おとろへ安し。

 夜をつらねて、房宿すべからず。精を減じ、明(めい)を失(なく)し安(やす)し。

 思慮は、眠(ねむり)を、さまたげ、憂患(いうかん)は、死を、まねく。

 冨貴(ふうき)は願ふ所といへども、分(ぶん)を知りて、不義の行(おこなひ)をなすべからず。常に、我(われ)、つたなきをしり、人におくるることをせば、困窮の中(うち)に居(を)るといへども、安んずる事あるべし。天下の人、冥加をしり、幸(さひはひ)を得て、恐るる心あらば、こひねかはくは、一生を保(たもつ)べし。

[やぶちゃん注:「夜をつらねて、房宿すべからず」連夜、性交渉をもってはいけない。]

 

「ひとみ座」亡父弔問来訪

晩年の父のプロデュースになる人形劇「ぼくらのジョーモン旅行」を制作・公演して下さった「ひとみ座」(「ひょっこりひょうたん島」で著名)のトップ三人の方が父の弔問(「ひとみ座」の初代座長宇野小四郎氏は、父の中学時代からの親友で、ともに縄文・弥生の遺跡発掘をした)に来られた。最初の父の弔問者であった。心より御礼申し上げるものである。こちらと、こちらを見られたい。

譚 海 卷之十三 眼病療治所の事 小便不通の事 かくの病ひ妙藥の事 てんかん藥の事 痔疾藥の事 痢病藥の事 りん病治する事 中風にならざる藥の事 ひへむしかぶる藥の事 婦人陰所の事 そこ豆を治する方のまむしにさゝれたる藥の事 病犬にかまれたる藥の事 らい病療治の事 耳だれ出る藥の事 風邪あせをとる事 百草黑燒の事

○眼病療治は、上總國「ふた村」、藥王寺という[やぶちゃん注:ママ。]所に名方あり。右、江戶より海上十六里半を一日に乘る也。此舟賃、壹人貳百十六錢程、小網町壹丁目より乘船して、上總の「ほど村」に着(つき)、「ほど村」より「ふた村」まで、「から尻馬(じりうま)」、二百十六錢ほど也。扨(さて)、かしこにて、目藥代・扶持共に、一日に百十六賤ほど、一日に六度づつ、さし藥するなり。

[やぶちゃん注:『上總國「ふた村」、藥王寺』千葉県東金市上布田(かみふだ)にある法華系単立寺院不老山布田薬王寺ふだやくおうじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『布田の目薬』の項があり、『三世日正によって製造された霊薬で法華経の「是好良薬(ぜこうろうやく)・今留在日此(こんるざいし)・病即消滅(びょうそくしょうめつ)・不老不死(ふろうふし)」の妙文を感得して調剤したと伝えられ、代々の住職に口伝された家伝の漢方薬である』。『戦時中は統制会社に薬の権利を移され』、『その配下にあったものを』、『戦後』、『統制解除され、当山の第三十世「富田日覚上人」が権利を譲り受け』、『社長に就任』、昭和三〇(一九五五)年に『「千葉製薬株式会社布田薬王寺工場」として厚生省(現:厚生労働省)の許可を得て当山境内に工場が建設された。現在は薬事法の関係もあり』、『佐賀製薬株式会社が製法を受け継ぎ』、『製造、当山にて販売されている』とある。

「小網町」現在の東京都中央区日本橋小網町

「ほど村」不詳。富津の古名は「ほと」であるが、上記の「ふた村」(布田村)へ行くには、南下し過ぎるからおかしいと思う。識者の御教授を乞う。]

 

○小便不通の時、臍の下へ張(はり)て通ずる藥、東海道小田原に有(あり)。

[やぶちゃん注:調べたが、不詳。]

 

○「かく」の妙藥、根津總門の外右側、御書物方同心井田政右衞門殿といふ人に乞へば、得らるゝ。價二百錢ほどか。

[やぶちゃん注:「かく」「膈噎」(かくいつ)か。「膈」は「食物が胸に閊えて吐く病気」。「噎」は「食物が喉に閊えて吐く病気」。重病では、胃癌・食道癌の類とされる。今一つ、「霍亂」(かくらん)があり、これは、急性日射病で昏倒する症状や、真夏に激しく吐き下しする病気の古称である。後者は急性胃腸炎・コレラ・疫痢などの総称に該当するものとされるが、「霍亂」は古くから二字熟語で用いられることの方が多いので、前者で採っておく。]

 

○癲癇(てんかん)の藥、下總葛飾郡駒木(こまぎ)村百姓平右衞門と云(いふ)者の方(かた)に妙方、有(あり)。一服二百錢づつ也。二服を求(もとむ)べし。はじめ、一服を用(もちゆ)れば、「てんかん」、盛(さかん)に起(おこ)る。その期(き)にて、一服、用れば、根を切(きり)て、再び起る事、なし。

[やぶちゃん注:「駒木村」現在の千葉県流山市駒木(こまぎ)・美田(みた)・十太夫(じゅうだだゆう)。この附近(グーグル・マップ・データ。地図上で三地区が確認出来る)。]

 

○痔疾には、芝增上寺地中、淡島明神の社より出す、靑き油藥、奇功、有(あり)。痛所(つうしよ)に、指にて、ぬりて、吉。

[やぶちゃん注:現在は神仏分離により、増上寺の東方にある芝大神宮(グーグル・マップ・データ)に合祀されている。]

 

○又、「なめくじり」を胡麻油にひたし置(おく)時は、とろけて、白き油に成(なる)なり。それを付(つく)れば、痛(いたみ)を去る。冬月、「なめくじり」を得んとせば、山林の落葉の下を搜すべし。

[やぶちゃん注:ナメクジは声を良くするなどと言い、近代まで民間療法として知られていたが、危険。当該ウィキによれば、『種類によっては、生きたまま丸呑みにすると、心臓病や喉などに効くとする民間療法があるが、今日では世界から侵入した広東住血線虫による寄生虫感染の危険があることが分かっているため避ける。オーストラリアでは、ふざけてナメクジを食べ、寄生虫が大脳に感染し、脳髄膜炎で』四百二十『日間昏睡状態に陥り、意識が回復後も脳障害で体が麻痺』し、八『年後に死亡した例がある』とある。]

 

○痢病には、「かたつむり」を、みそにて、煮て、其汁をすゝる、よし。

[やぶちゃん注:同前でお薦め出来ない。煮ているので、まあ、問題はないかも知れないが、煮方が不完全だと、やはり危険。当該ウィキによれば、『日本でもカタツムリを食べる文化は古くからある。例えば飛騨地方ではクチベニマイマイが子供のおやつとして焼いて食べられていた』『他、喉や喘息の薬になると信じられ、殻を割って生食することが昭和時代まで一部で行われていた(後述にもあるがカタツムリは寄生虫の宿主であることが多く、衛生的に養殖されたものを除き生食する行為は危険である)。また殻ごと黒焼きにしたものは民間薬として使用され』、二十一『世紀初頭でも黒焼き専門店などで焼いたままのものや粉末にしたものなどが販売されている』が、『種類にもよるが、カタツムリやナメクジ、ヤマタニシやキセルガイなどの陸生貝及びタニシ類などの淡水生の巻貝は、広東住血線虫を持っていることがある。接触後は手や接触部分をしっかり石鹸や洗剤で洗い、乾燥させ、直接及び間接的に口・眼・鼻・陰部など、各粘膜及び傷口からの感染を予防しなければならない。体内に上記の寄生虫が迷入・感染すると広東住血線虫症となり、脳や視神経など中枢神経系で生育しようとするため、眼球や脳などの主要器官が迷入先である場合が多い。よって、好酸球性髄膜脳炎に罹患し死亡または脳に重い障害が残る可能性が大きい』とある。近年、保育園・幼稚園から中・高等学校まで、自然観察に於いて、直(じか)に触れることは、厳禁とされているほどであり、感染例も複数、確認されている。

 

○痲病[やぶちゃん注:底本には、編者に拠る右補正傍注があり、『(淋)』とある。性病の一首である「りんびやう(りんびょう)」のこと。]には、木瓜(ぼけ)の「つる」を煎じたる上、白砂糖を入(いれ)て飮(のむ)べし。よく小便を通ずる也。

[やぶちゃん注:『木瓜(ぼけ)の「つる」』ボケには蔓(つる)はない。当該ウィキによれば、『株立ちになり』、『茎は叢生してよく枝分かれし』、『若枝は褐色の毛があり、古くなると灰黒色。樹皮は灰色や灰褐色で皮目があり、縦に浅く裂け、小枝は刺となっている』とあるので、それらの分枝した枝を指していよう。]

 

○又、痛みて堪(たへ)がたきを治するには、靑竹を、「ふし」をかけて、二尺餘に切(きり)て、火吹竹の如く拵へ、底のふし、一つを殘し、殘りのふしをば、ぬき、「いさ石」を、いくらも、ひろひ置(おき)て、小便度每(たびごと)に石三づつを、火にて燒(やき)て、赤く成(なり)たる時、その石を、竹の底へ入れ、そのまゝ小便を仕懸(しかけ)る也。燒石、小便に鳴(なり)て、氣味わるき樣なれども、小便の度ごとに、いたみ、うすらぎ、通じよく成(なる)也。竹も、三日程は、用(もちい)らるゝ也。

[やぶちゃん注:「いさ石」不詳。しかし、「沙石(いさごいし)」で小石のことかと思われる。]

 

○中氣にならぬ灸、每年六月朔日、芝口新橋ふたば町大黑屋惣兵衞と云(いふ)者の方にて、山田喜右衞門と云(いふ)人、すうる也。夢想の灸の、よし。料物(れうもつ)三拾二錢を、いだす。

 

○「ひえ蟲」かぶるには、小日向本法寺の「大丸藥」、よし。壹丸三錢づつ也。かなつちにて、くだきて、少しづつ、用ゆべし。

[やぶちゃん注:「ひえ蟲」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

○婦人、陰所の疵(きず)治するには、古き雪踏(せつた)の皮を黑燒にして、胡麻の油にて付(つく)べし。

 

○足の「そこまめ」、針も、小刀も、通りがたく打捨置(うちすておけ)ば、「ちんば」にも成る也。「わらしべ」の、ほそきを、もちて、「そこ豆」の上の皮を、そろそろ、もむ時は、錐(きり)のやうに通り入(い)る。穴を明(あけ)、膿(うみ)、出(いづ)るを、能々(よくよく)押せば、治して、後(のち)の愁(うれひ)なし。但(ただし)、「わらしべ」をもみ入るに、眞直に入(いる)べからず、橫に入やうに、皮を破るべし。「わらしべ」、肉へ、さはれば、痛み、とがむる也。

[やぶちゃん注:「とがむる」気になる。]

 

○「まむし」に、さゝれたるには、「なめくじり」を付(つく)れば、立所(たちどころ)に治する也。和州は、「まむし」多き所(ところ)故、夜行にも、竹の筒へ、「たばこ」の「やに」をつめ、「なめくじり」を漬(つけ)て、けづりたる「竹べら」を、そへ、持(もち)あるく也。しつくりと、さゝれたると覺(おぼえ)れば、そのまゝ、「へら」にて、それへ、ぬりつくる故、「まむし」の害を、うれふる事、なし。

[やぶちゃん注:前掲通りで、甚だ、危険効果がないばかりではなく、ナメクジの寄生虫感染の危険性が高いからである。

 

○病犬(やみいぬ)にかまれたる藥、日本橋平松町井上藤藏といふ儒者の所に奇方、有(あり)。鼠に、くはれたるにも、よし。

[やぶちゃん注:狂犬病では、当時は効能のある薬は存在しない。狂犬病ではない単なる狂犬であれば、鼠咬症と同断に効果のある薬はあったかも知れない。]

 

○癩病の療治は、下野佐野に、その家あり、といふ。

[やぶちゃん注:「癩病」ハンセン病。限りなく嘘である。]

 

○「耳だれ」には、ぬかみそに漬(つけ)て、有(いう)二、三年へたる古き茄子を、引(ひき)さき、その汁を、耳中(みみなか)へ、しぼり入(いる)べし。

 

○風邪などにて、汗を取(とる)には、汗、出(いで)て、三里のあたりに、及(および)て、止(とむ)べし。

[やぶちゃん注:「三里」灸穴(きゅうけつ)の名称。膝頭の下で、外側の少し窪んだ所。どこから灸を打ち始めるのかが、書いてないのが、不審。]

 

○百草、黑燒にするには、五月五日、取(とり)て、その夜露を受(うけ)て、翌日より、每日、炎日(えんじつ)に、ほしかためて、後(のち)、燒(やく)べし。

[やぶちゃん注:「百草」は特定のものではない(「百草」(ひゃくそう)という、ミカン科の落葉高木キハダの内皮「黄檗」(おうばく)から抽出されるオウバクエキスを主成分とした胃腸薬が、現在もあるが)、漢方や民間で薬用となると考えられた植物を指していると採る。]

譚 海 卷之十三 日蓮上人まんだらの事 相州遊行寺蟲ぼしの事 本所辨才天堂平家琵琶の事 兩大師御番所御門主に當りたる月の事 慈眼大師御廟參詣の事 王子權現田樂おどりの事 六月晦日芝明神みそぎの事 九月十四日神田明神神輿御出の事 除夜淺草寺護摩札の事 橋場當摩寺ねり供養の事

[やぶちゃん注:標題中の「おどり」はママ。]

 

○日蓮上人眞蹟の「まんだら」は、すかして見る物の、よし。多くは臨模(りんも)せしうへを、墨にて、ぬりたるものゆゑ、二重文字を、よくよく穿鑿すべき事、とぞ。又、其宗門に、「十界勸請(じつかいくわんじやう)の曼荼羅」と稱するものは、佛神の名を書(かき)たるものをいふ、よし。

 

○六月廿五日、藤澤遊行寺の蟲干也。旅行の序(ついで)あらば、立寄(たちより)て見るベし。

 

○二月十六日・六月十九日は、本所一ツ目辨天堂にて、「平家びは」の興行、有(あり)。座頭・檢校(けんぎやう)の會(ゑ)也。朝、早く行(ゆき)て聽聞(ちやうもん)すべし。

[やぶちゃん注:「本所一ツ目辨天堂」東京都墨田区千歳にある江島杉山神社(グーグル・マップ・データ)。神奈川県藤沢市の江ノ島にある江島神社の弁財天の分霊を祀る。由緒は公式サイトのこちらを見られたい。]

 

○兩大師御番所、御門主にあたりたる月、本坊に故障あれば、中堂前、釋迦堂に、せん座あり。黃昏(たそがれ)に參りて、聲名(しやうみやう)を聽聞すべし。外(そと)にては、夜陰に行(おこなは)るゝ事ゆゑ、聞(きき)がたし。

[やぶちゃん注:「兩大師御番所」真言宗上野寛永寺の開山堂のこと。東叡山の開山である慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正を祀っている堂であるが、天海が尊崇していた慈惠大師良源大僧正を合わせて祀っているところから、一般に「両大師」と呼ばれ、庶民に信仰されてきた。初建は正保(一六四四)元年。

「聲名」「聲明」(しょうみょう)が正しい。仏教の儀式などに用いる古典の声楽を指し、経文に高低・抑揚や節をつけたもので,歌詞を梵語のままで歌う「梵讃」、漢語に翻訳した「漢讃」、日本語の「和讃」や講式・論義などがある。平安初期から天台声明と真言声明とがあり、後に浄土声明も発達し、また、平家琵琶や謡曲の源流となった。]

 

○七月十五日は、慈眼大師御廟參詣の日也。夜は三十六房の提燈(てうちん)を供(ぐ)し、殊勝なる事なり。必(かならず)、まゐりて拜すべし。

 

○七月十三日、王子權現の社頭にて、田樂躍(でんがくをどり)、有(あり)。古風成(なる)物也。晝八ツ時より始りて、一時(いつとき)斗(ばか)りにて終る也。

[やぶちゃん注:東京都北区王子本町(ほんちょう)にある王子神社(グーグル・マップ・データ)の旧称。]

 

○六月晦日は、芝神明社頭、御祓[やぶちゃん注:底本は「祓」の(へん)は「禾」であるが、国立国会図書館本は『祓』となっているので、誤植と断じて特異的に訂した。]の儀式あり。其外、此月、江戶諸社の御祓あり。日限、不同也。くはしくは「江戶砂子」にあり。

[やぶちゃん注:「芝神明社」現在の東京都港区芝大門一丁目にある芝大神宮(グーグル・マップ・データ)のこと。現行では六月三十日に大祓式(夏越(なごし))が行われている。

「江戶砂子」菊岡沾涼著。江戸の地誌・社寺・名所の由来などを記したもの。享保一七(一七三二)年作。六巻六冊。明和九(一七七二)年増補され、六巻八冊となった。在来の諸地誌に比して最も整った地誌として知られる。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(一九七六年東京堂出版刊・新字正仮名)で同神宮の記載はここである。]

 

○九月十四日は、神田明神祭禮の前夜なり。神輿、社頭へ出(いだ)し奉る時、神事、あり。晝七ツ時より、はじむるなり。

[やぶちゃん注:「晝七ツ時」午後四時頃。]

 

○三月廿一日は、眞言宗會式(ゑしき)にて、庭、見物諸人、拜觀す。目白音羽町、護持院・深川、永代寺・本所、彌勒寺などへ、參詣す。護持院の庭、殊に佳景也。海を望(のぞむ)所あり。

[やぶちゃん注:「目白音羽町、護持院」現在の東京都文京区大塚五丁目(現在の音羽町はその参道部)にある真言宗豊山派神齢山悉地院大聖護国寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「深川、永代寺」東京都江東区富岡にある高野山真言宗大榮山永代寺(えいたいじ)。ここ

「本所、彌勒寺」東京都墨田区立川にある真言宗豊山派万徳山聖宝院弥勒寺。ここ。]

 

○除夜には、黃昏(たそがれ)、法會(ほふゑ)あり。佛前に鬼形(きぎやう)の面を供する事あり。其外、三月、「やぶさめ」、時々の法會あり。日限、よく聞置(ききおき)て行(ゆき)てみるべし。

 

○橋場當摩寺「ねり供養」、芝增上寺「黑本尊開帳」、淺草西福寺「東照宮御影拜見」、湯島靈雲寺權現、根津權現「神樂」、諸道場の山門、ひらく日、已待辨天參詣、甲子大黑參詣等の日限、よく尋置(たづねおき)て參詣すべし。

[やぶちゃん注:知られた寺名・地区のものが多く、地図を指示するのはやめた。悪しからず。]考えられた植物を指していると採る。]

2024/04/13

譚 海 卷之十三 わらんじ豆の出來ざる方の事 おなじく豆の藥の事 旅立こゝろ得の事 他行の時用意の事 病身の者息才になる方の事 每朝齒をたゝくべき事 同髮をかきなづるべき事 うたゝね風をひかざるこゝろえの事 冬養生の事 紙襦袢の事 朝鮮國頭巾の事 敷物のみを去る事 かはうその皮財布の事 股引脚絆の製の事 爪の屑をすてざる事 人のあぶらの事 澀にて張たるもの臭をぬく事 薪を竈の上に釣置くべき事 夏月硯墨の事 鼻毛拔の事 暴風の時他行頭巾の事 辻うらの事

○「わらじまめ」出來ざる方、草烏頭(くさうづ)・細辛・防風、右、三味、等分に細末にして、わらじの上へ、ぬり、はくべし。まめ、出來る事、なし。

 又、まめ、出來たるには、其夜、まきわりを、火にあたゝめ、鐵(かね)の、うるほひたる所へ、足のまめを、押付(おしつく)べし。數度(すど)にて、直(なほ)る也。

[やぶちゃん注:「草烏頭」トリカブト(モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum )のトリカブト類。の若い根。猛毒で、殺虫・鎮痛・麻酔などの薬用に用いられる。「そううず」「いぶす」とも言う。

「細辛」薄葉細辛(コショウ目ウマノスズクサ科カンアオイ属ウスバサイシン Asarum sieboldii の別名。また、その根や根茎を乾燥させたもの。辛みと特有の香りがあり、漢方で鎮咳・鎮痛薬に使う。

「防風」セリ目セリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata 。但し、本種は中国原産で本邦には自生はしない。されば、ここはセリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis を指していよう。]

 

○奧道中、栗橋より古河の際に、沖田といふ宿あり。此所にまめの藥あり、求(もとめ)て、たくはふべし。功驗、奇妙なり。

[やぶちゃん注:「沖田といふ宿」日光街道の「栗橋」宿と「古賀」宿の間にある「中田」宿のこと。現在の茨城県古河市中田地先の利根川河川敷(グーグル・マップ・データ)に旧「中田宿」があった。]

 

○放行、思ひ立(たつ)時には、兼て入用の品を、おもひ出すまま、段々に書付(かきつけ)て置(おく)べし。期(き)に望(のぞん)では忘却する事、おほく、旅中にて大(おほい)に難儀するもの也。

 

○平日、一寸、出(いづ)る時にも、懷中持參の具、脇指・「あふぎ」に至るまで、いくつと、かぞへ覺へ[やぶちゃん注:ママ。]て出べし。先(さき)より賜(たまは)る時、又、心にて、しらべ持歸(もちかへ)れば、物を、わすれ落す事、なし。

「よそに在(あり)て歸らんとする時は、立歸り、跡を見るべし。」

と、人、常に云(いふ)事、理(ことわり)成(なる)事也。心に油斷出來(いでく)るは、物を忘る始(はじめ)也。

 

○病身成(なる)人、息才を欲(ほつ)せば、每朝、おきて、手桶に、冷水を一杯づつ、あぶべし。寒暑・風雨を、かくべからず。如ㇾ此すれば、數年(すねん)の後(のち)、達者に成(なる)事、疑(うたがひ)なし。但(ただし)、かしらより、あびざれば、功、なし。あびて後、髮をば、紙にて、ふき去るべし。

 

○又、每朝、起(おきて)て坐(ざ)し、齒を、上下、三度、たゝくべし。

 あくびと共に、淚、出(いで)て、精神を、さはやかにす。

 夜分寢るにも、如ㇾ此すべし。

 

○每朝、櫛を取(とり)て、髮を、かきなづるも、血氣を、めぐらし、養生也。

 

○うたゝねは、橫に、ふすべからず。物によりそひて、ねぶるべし。ねぶる時、「えり」のあたりを、手拭などにて包(つつみ)て、ねぶるべし、風を引(ひく)事、なし。胸のあたりも明(あか)ざるやうにすべし。

 

○冬は朝日の出(いづ)るを、まちて、おくべし。淸晨(せいしん)、寒氣にあたるは、あし。

 

○紙にて、襦袢を拵へ、肌に着(ちゃく)すべし。風を避(さく)る事、小袖、多く、重ねたるより勝れり。袖を、狹く、こしらふべし。

 

○朝鮮國の頭巾、うらを獸(けもの)の皮にて造り、表を黑繻子など、つけて、いたゞきに風穴(かざあな)を明(あけ)て、氣の、こもらぬやうにしたるもの也。殊に、寒氣を避(さく)るに、よし。

 往々、對馬の人、持來(もちきた)りて、かぶるを見たり。便(びん)を求(もとめ)て、その製にならふべし。

 

○熊・猪のしゝの皮、敷物にして、「のみ」を、さるに、よし。

「毛氈も、『のみ』をさる。」

と、いへり。但(ただし)、此邦にて製すること、なし。

 

○「『かはうそ』の皮にて、錢財布を拵(こしらへ)れば、火に、やくる事、なし。」

と、いへり。

 水獸なる故、然るにや、いまだ、試みず。

 

○股引・脚絆の類、藍にて染(そむ)べし。

「藍は『まむし』を避(さく)る。」

と、いへり。

 

○自身の爪をとりたるを、集めて、目形(めかた)壹匁、たくはふべし。自身、不快の時、せんじ用(もちゆ)るに、卽時に功ありと、いへり。

 

○「人の膏(あぶら)は、痔疾にぬりて、功、有(あり)。」

と、いへり。

「竹の筒か、瓢簞に貯へざれば、もりて、たまらず。本所囘向院裏、非人の小屋に就(つき)て求(もとむ)べし。其外、人油、功驗、多き事。」

と云(いへ)り。

[やぶちゃん注:「非人」これは、死罪人や住所不定の行路死病人等を処理する業務を請け負った被差別民である。]

 

○「澁にて張(はり)たる物、一夜、屋根に置(おき)て露氣(ろき)を受(うく)れば、澁の匂ひなく成(なる)。」

と、いへり。

 「おはぐろ」の匂ひも、同じく去るべし。

 

○薪(たきぎ)をば、竃(へつつい)の上に釣置(つりおく)樣(やう)構ふべし。早く、かはき安きがためなり。

 

○夏は、硯の墨を、すりためて置(おく)べからず。夜をこゆる時は、溫氣にて、くされやすし。筆のうちつけたる所、おほくは、にじみて、見ぐるし。

 

○鼻毛をぬくには、「しんちう」の毛ぬきを用べし、鐵は、さびやすし。

 

○小兒の「つふり」をそる剃刀とて、近來(ちかごろ)、上方より造りて下す。刄(は)のなかば、くりたるやうに、へこみて有(あり)。小兒、ねむりたる時、「つぶり」を剃(そる)に、痛まず、驚(おどろく)事、なし。

 

○せんぢか切れにて、「つぶり」より、耳の隱るゝまで、頭串(かしらぐし)を製し、暴風の日、出行(いでゆく)に、かぶりて、塵(ちり)を、さくべし。

[やぶちゃん注:「せんぢか」不詳。「せんぢが」で、「せんぢ」はブリキの異名として江戸時代に知られていたが、それか。ブリキのヘッド・キャップなら、暴風の中を行くのに、安全ではある。]

 

○鏡一面、懷中して、夜陰、辻に立(たち)、往來の人の言葉を聞(きき)て、吉凶をうらなひ定(さだむ)事、有(あり)。櫛を引(ひき)て問(とふ)に、同じ。

[やぶちゃん注:前者は明らかに「辻占」(つじうら)の古形として知られたものである。辻は運命共同体である「村」の異界に通じる「端」(はし)に当たり、四方から、異なった異界へ通ずる呪的境界であり、霊的な場所であったのである。

「櫛を引て問」これは「櫛占」(くしうら)と言い、民俗社会で、女・子どもが行なった占いの一つ。黄楊(つげ)の櫛を持って辻に立ち、「あふことをとふや夕げのうらまさにつげの小櫛もしるし見せなむ」という古歌を、三度、唱え、境を区切って、米を撒き、櫛の歯を鳴らし、その境界内に来た通行人の会話や独り言を聴いて吉凶を占ったものであり、「辻占」の一種。]

譚 海 卷之十三 血どめのまじなひの事 船駕にゑはざるまじなひの事 舟の醉を治する事(二条) むしばまじなひの事 はなぢまじなひの事

○血止(ちどめ)の「まじなひ」は、紙を、三つに折(をり)、又、夫(それ)を、三つに折(をり)て、血の出(いづ)る所を、押(おさ)ふべし。卽時に、血、とまる事、妙也。

 

○舟・駕籠に醉はざる「まじなひ」、乘(のら)んとする人の座する所に、指にて、「賦」の字を書(かき)て、「點(てん)」を、うたず、その人を坐(ざ)せしめ置(おき)て、「點」を、その人の「ひたひ」に、うつべし。ゑふ事、なし。

[やぶちゃん注:別な類似の対応の咒(まじな)い法が、「耳囊 卷之十 船駕に不醉奇呪の事」に載る。]

 

○舟に醉(ゑひ)たる時、「いわう」を、少し、なめて、よし。「いわう」なき時は、付本(つけぎ)の先を、なむべし。立所(たちどころ)に直(なほ)る事、妙也。

 

○蟲齒の「まじなひ」、紙を三十二に折(をり)て、「蟲」といふ字を書(かき)て、釘にて、ひとつ、ひとつ、うちて、柱の「われめ」に、はさむべし。

 

○鼻血出(いで)て、留(とま)らざるを、まじなふには、その人に對坐し、指にて、

「難波津に さくや此花 冬ごもり」

と云(いふ)歌を、鼻へ書(かき)て、「とまり」の、

「冬ごもり」

の「り」の字を、「理」の字に書(かく)べし。とまる事、妙也。下の句を書(かく)に及ばず。

譚 海 卷之十三 八木とくの事 品川海苔・日光海苔幷生のり事 蓴菜をふやす方の事 またゝびせん氣を治する事 ほんだらの事 しだの葉はの痛を治する事 はこべくらふべき事 山椒眼の出來物を治する事 藤ばかま臭氣を除く事 ふくべ便器に作る事 眼鏡くもりをみがく事 舌をくひて血出るを治する事 山城國八はた竹の事 日光山杖の事 野生黃菊便祕によき事 木うりみそ漬の事 白つゝじの花腫物を治する事 足の腫物を治する事

[やぶちゃん注:「目錄」の「山藥」は「サンヤク」で「山芋」の漢方名である。「かんぴう」はママ。]

 

○「八木とく」と云(いふ)もの、相州三浦海邊より出(いづ)る。奇怪成(なる)形也。

「多葉粉の葉を去(さり)たる跡の「しん」のごとく、又、「疊いはし」を網(あみ)たる物の如し。紅花の色にして、一、二尺より、三尺に及ぶ物、有(あり)。」

と、いへり。

 海底に生ずる物にして、食物の用、なし。只(ただ)、席上に置(おき)て翫(もてあそぶ)べし。

 時々、漁網にかかりて、取得(とりえ)れども、損じ安し。

「全形の物を取(とる)には、水を、くゞり入(いり)て、取る。」

と、いへり。

 水中にては、甚(はなはだ)、柔か也。水を、はなるゝときは、かたまりて、鐵鎖(てつぐさり)の如し。根は、石を帶(おび)て有(ある)也。

[やぶちゃん注: 「八木とく」叙述と「やぎ」から、これは、刺胞動物門花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱ヤギ(海楊)目Gorgonaceaの海産動物の古い総称であろう。個虫は羽状突起のある八本の触手と、八枚の隔膜とを持つ。総て群体となり、群体の中心に角質、或いは、それに石灰質を膠着した骨軸を保持し、下端で、岩礁などに固着することによって八放サンゴ類のほかの目から区別される。十八科約百二十属に属する多くの種が知られ、やや高緯度地方にも少数のものが棲息するが、殆んどの種は暖海の潮間帯より一千メートルの深海にまで分布する。特にインド洋から西太平洋と西インド諸島の熱帯海域に多い。群体は一般に平面的な樹枝状分岐をし、扇状となるが、なかには、全く分岐をせずに鞭状となるもの、さらに膜状、或いは、葉状となるものもある。骨軸上に共肉が厚く覆い、個虫は共肉中に埋まるか、若しくは、共肉表面より突出している。個虫の胃腔は短く、共肉内に埋まり、骨軸中へは侵入しない。共肉内を骨軸に沿って走る主縦管が縦方向に個虫の胃腔を貫くほか、細い共肉内細管が網目状に走り、それぞれの胃腔を連絡する。有性生殖でできたプラヌラ幼生が岩礁に付着し、変態して一個のポリプをもったヤギとなり、それが出芽法による無性生殖で個虫を増やし、大きな群体となる。この類は骨軸の性質によって二つの亜目に分けられ、石灰質の骨片が角質様物質で膠着された骨軸をもつ骨軸亜目Scleraxoniaと、角質の薄片が層状に固着し、骨片を含まない骨軸をもつ全軸亜目Holaxoniaである。両亜目とも、共肉部は多くの骨片を含み、皮部とよばれる。骨軸亜目には、骨軸が一続きで節がないウスカワヤギ科・ヒラヤギ科・サンゴ科などがあり、骨軸に節部と間節部が交互にあるイソバナ科・トクサモドキ科などがある。一方、全軸亜目には、骨軸に節がなく、骨軸がほとんど石灰化されず弾力のあるトゲヤギ科・フタヤギ科・フトヤギ科などがあり、骨軸に節がなく、強く石灰化するために弾力性のない骨軸をもつムチヤギ科・キンヤギ科・オオキンヤギ科などがあり、骨軸に節部と間節部が交互にあるトクサヤギ科がある。以上はネットの小学館「日本大百科全書」の「ヤギ(腔腸動物)」に拠ったが、そこに四種の画像があり、その中でも、本条は「紅花の色」と述べていることから、赤みがかったオレンジ色となると、ヤギ目ではない、花虫綱八放サンゴ亜綱ウミトサカ目石軸亜目イソバナ科イソバナ属オオイソバナ Melithaea ochraceaや、ウミトサカ目角軸亜目トゲヤギ科ウミウチワ属ウミウチワ Anthogorgia bocki などが候補になるように私には思われる。]

 

○「品川海苔」は、寒中に取(とり)て製したる、匂ひ、殊にはげしくして、賞翫に堪(たへ)たり。

 又、「駿州ふじのり」、一種、珍物也。吸物に調ずべし。

 日光山大谷川(だいやがは)より出(いづ)る「川海苔」と稱するもの、殊に匂ひはげし、絕品也といへども、久しく保ちがたし。疊一枚の大さ程に造りたる物にて、色は「伊勢のり」の如く靑し。然して、その味は「淺草のり」の如し。總じて、生のりを調じ遣ふには、先(まづ)、器物(うつはもの)に入(いれ)て、「あくた」を、さり、數へん、淸く、洗ひ、後(のち)、酒に、ときて用ゆる也。

[やぶちゃん注:「品川海苔」「淺草のり」と同一。「品川歴史館」の解説シート「品川の海苔」PDF)によれば、『浅草海苔の名が生まれたのは慶長年間』(一六一四年~一五九六年)『と言われ、続いて品川海苔の名称が有名になった』。『海苔の大量生産が可能になったのは、品川の漁業者が養殖方法を発明し、それが各地に伝わったからである。初めは各地方とも生産地名で売り出したが、浅草海苔の名に押されて伸び悩み、次第に商いの上から有利である、「浅草海海苔」の名で売り出すようになっていった』。『なお、「浅草海苔」の由来については、①品川・大森で採れた海苔を浅草に持って行って製したから、②浅草川(現隅田川)で採れたから、③大森の野口六郎左衛門が、浅草紙の作り方をまねて工夫をこらし、乾海苔を作り、これを浅草海苔と名付けたかから、といった諸説がある』とあった。本来の使われていたのは、紅色植物門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属アサクサノリ Neopyropia tenera であったが、同種は東京湾では絶滅したと考えられたいが、近年、多摩川の河口近くで残存個体群が発見されて、保護が行われている。

「駿州ふじのり」「川海苔」所謂、「川海苔」(かわのり)で、淡水河川に棲息する、緑藻植物門トレボウクシア藻綱カワノリ目カワノリ科カワノリ属 Prasiola(タイプ種はカワノリ Prasiola japonica当該ウィキによれば、岐阜県・栃木県・熊本県などの河川に棲息し、日本海側の河川からは発見されていない。渓流の岩石に着生して生活するが、棲息数は少なく、本邦では絶滅危惧種に指定されている)の一種。ウィキの「富士苔」によれば、『静岡県富士宮市に生息するもの』「芝川のり」『とも呼称される』。『芝川が生息域である』(ここ。グーグル・マップ・データ)。『古くは「富士海苔」・「富士苔」・「富士のり」と表記し「ふじのり」と呼称される例が多く、近世に入るとこれらの他に「芝川海苔」・「芝川苔」と表記し「しばかわのり」と呼称される例が見られる』。『古くより天皇・幕府への献上品として、そして公家からも嗜まれた名品であり、しばしば進上品として用いられてきた。例えば駿河国守護である今川範政は室町幕府将軍足利義教へ富士苔を送り、礼として太刀を送られている』。『富士氏は管領細川持之へ富士海苔等を献上している』。『葛山氏も足利義教に富士苔を送り、返書を受けている』。『当記録が所載される』「昔御内書符案」には『「若公様御誕生御礼」とあり、この進上品は将軍足利義教の子である足利義勝の誕生祝に伴う進上であった』。また、『公家に送られることも多く』、『三条西実隆』『や山科言継』『等に送られた記録が残る。また天皇への進上品としても選ばれ、三条西実隆が後奈良天皇に進上している』。『近世になっても名品の地位は揺るがず、江戸幕府への献上品として用いられた。天保』一四(一八四三)年の「駿国雑志」『十八之巻には「芝河苔」とあり、「富士郡半野村芝河より出す(中略)毎年十一、十二月の内発足、江戸に献す。世に富士苔と云ふ是也。(中略)宿次にて江戸に送り、御本丸御臺所に献す」「富士郡半野村芝川より出づ、故に富士苔と號す」とあり、江戸幕府へと献上されていた記録が残る。また同記録には「富士郡半野村、芝川にあり。故に芝川海苔と號す。其色緑にして味至て甘し』……『」と味を伝える』。「料理物語」には『「ふじのり」とあり、「ひや汁 あぶりざかな 色あをし」と説明がある』。『毛吹草』(寛永二一・正保元・二(一六四五)年)『には「富士苔 山中谷川二有之」とある。貝原益軒』の「大和本草」(宝永六(一七〇九)年)『には「富士山の麓柴川に柴川苔あり富士のりとも云」とあり』(私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 川苔(かはのり) (カワノリ・スイゼンジノリ)」を参照されたい)、『同じく貝原益軒』の「壬申紀行」『には「柴川は名所なり(中略)此川に富士苔と云物多し」とあ』り、「献上料理集」(天明六(一七八六)年)『には秋の料理として「御精進二ノ汁 御澄し 初たけ 富士海苔 ゆ(柚)」とある』。「駿河雑志」では『十一・十二月』とあり、「献上料理集」『では秋の料理として挙げられているため、秋冬が特に良いとされていたようである。その他、多くの書物に名物として記されている』。「和漢三才図会」巻九十七の『水草の部には「駿河国土産」として「富士苔」とあり、また同書に「富士苔 富士山の麓、精進川村より之を出し、形状紫菜に似て青緑色、味極めて美なり」とある』(私の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類   寺島良安」の「紫菜 あまのり」の附録の「富士苔」を見られたい。そこでは逐一、私が海苔類を詳注してある)。『このように、駿河国の土産品としても知られていたようであり、東泉院(富士市今泉に所在していた)の土産としても用いられていた』。文政三(一八二〇)年の「駿河記」『には「この川より水苔を出す 富士苔あるいは芝川苔と称す」とある』。『現在は収穫量が限られており』、『特に水力発電所の建設が大きな影響を与えた』。『近年「幻のカワノリ」とまで言われるまでに減少していたが』一九九八年『に特定の場所で多量に生育していることが確認され、調査が進められることとな』り、『今現在、芝川のりの保護・育成が図られている』とあった。

「日光山大谷川」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「伊勢のり」伊勢国で産出する海苔であるが、現在、三重漁連がアサクサノリをブランド化して、かく呼称している。]

 

○「じゆんさい」、池、あらば、うえ[やぶちゃん注:ママ。]置(おき)て生ずべし。一、二本、池へ植(うゑ)るときは、年々、はびこりて、羹(あつもの)に用るほどは出來(いでく)る也。敢て古池にかぎらず。

[やぶちゃん注: 「じゆんさい」「蓴菜」。多年生水生植物である双子葉植物綱スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ Brasenia schreberi 。私の大好物である。「大和本草卷之八 草之四 水草類 蓴 (ジュンサイ)」を見られたい。]

 

○「またゝび」の實を煎じて、疝氣・腰痛に用れば、よく治る也。

[やぶちゃん注:「藤天蓼(またゝび)」ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygama当該ウィキによれば、『蕾にマタタビミタマバエまたはマタタビアブラムシが寄生して』形成された虫瘤(むしこぶ:虫癭(ちゅうえい))に『なったものは』「木天蓼」(モクテンリョウ)又は「木天蓼子」(モクテンリョウシ)という『生薬』とされ、『鎮痛、保温(冷え性)、強壮、神経痛、リウマチ、腰痛などに効果があるとされる』とある。]

 

○「ほんだはら」、吸物に調ずべし。梅干抔(など)、加へて、精進に、よし。

[やぶちゃん注:私の「大和本草諸品圖上 ヒヱ藻(モ) (ホンダワラ属)」の私の注を参照されたい。]

 

○「しだ」の葉を收め置(おき)て、齒の痛むとき、煎じて、あらふべし。又、切(せつ)に、つゝみて、ふくみふくみ、唾(つば)を吐出(はきいだ)すべし。

 

○「はこべ」、又、ひたし物にすべし。よく、にて、用(もちい)ざれば、靑き匂ひ、うせず。

[やぶちゃん注:ナデシコ目ナデシコ科ハコベ属Stellariaの内、食用となる、一般に「ハコベ」(繁縷・蘩蔞)と呼ばれるコハコベ Stellaria media ・ミドリハコベ Stellaria neglecta ・ウシハコベ Stellaria aquatica などの葉。ほろ苦い野趣に富んだもので、私は好きだ。]

 

○山椒の實、「まぶた」に出來(でき)たる「物もらへ」と稱する出來物(できもの)を治す。宵に、五粒、丸のまゝにて、飮(のん)で寢(ねる)時は、翌朝、出來もの、うする也。

 

○藤ばかまの葉、雪隱に釣(つり)て臭氣を避(さく)べし。久敷(ひさしく)して、しほれかゝる時は、取りかへて懸(かく)べし。

 

○「ふくべ」、柄を木にて造り、便器にすべし。人の膚(はだへ)にさはる所、柔かにして、「しびん」にまさる事、萬々(ばんばん)也。

 

○「たばこ」の葉にて、眼がねを、ぬぐふべし。くもりとれて、明(あきらか)也。

 

○舌を、くひて、血の出(いづ)るには、何の草にても、三色(みいろ)を取(とり)かみて、口中に含せれば、血、すなはち、とまる也。

[やぶちゃん注:「何の草にても」乱暴で、毒草もあるから、試すべきではない。]

 

○山州の「八幡山竹(やはたやまだけ)」は、脇指の目釘によし。皆、此物也。

[やぶちゃん注:「八幡山」石清水八幡宮がある京都府八幡市北部にある男山(おとこやま:グーグル・マップ・データ)の異名。古くから、ここの産の竹は茶杓にも用いられている。]

 

○日光山より出す「みねばり」と云(いふ)杖(つゑ)、殊に堅固也。おるゝ事、なし。求めて用ゆべし。老人には缺(かく)べからざるもの也。

[やぶちゃん注:「みねばり」ブナ目カバノキ科カバノキ属オノオレカンバ Betula schmidtii の異名。満州・韓国・ロシア極東の沿海地方及び日本を原産とする。ほぼ黒色の樹皮を持つ高さ三十メートルにも達する巨木で、その材は浮き上がらないほど緻密にして、しかも丈夫で耐久性のある材料が求められるものに使用される。]

 

○野生の黃菊有(あり)。花、至(いたつ)てこまかなるもの也。花を取(とり)て、胡麻の油に、たくはふべし。大便、けつし[やぶちゃん注:「結し」。]、通じがたきとき、此油を、一滴、なむれば、よきほどに通る也。此葉・花とも、油にひたし置(おき)て、髮をすくときは、頭の「ふけ」を、さる也。

 

○木瓜(ぼけ)を、「みそ」にてくふも、大便を通ずる也。蔭干にして貯(たくはふ)れば、冬月の用にも備ふべし。

 

○白花のつゝじ、俗に「りうきう」と稱す。花を集(あつめ)て、目形(めかた)壹匁、貯ふべし。名のしれぬ出來(でき)ものを、せんじ、洗ふに、功、あり。

[やぶちゃん注: ツツジ目ツツジ科ツツジ属交雑種リュウキュウツツジ Rhododendron × mucronatum。何故、「琉球躑躅」なのかは、判然としない。]

 

○足、靑くはれる事、有(あり)。腫(はれ)たる足の入(いれ)らるゝ程に、地をほりて、穴を、こしらへ、穴の中へ、藁を、いくらも入(いれ)て、火を燒(やき)て、穴のうち、あたゝまりたるとき、藁灰を、殘らず、取出(とりいだ)し、捨(すて)、その跡へ、桃の靑葉を、澤山に取(とり)て入(いる)。扨(さて)、腫たる足を、穴へ入(いれ)、足の際(きは)をも、「桃のは」にて、よく、つめて、穴の側(かたはら)に莚(むしろ)を敷(しき)、片足、かしこまりゐて、一時(いつとき)近く、足を、火氣に蒸れて居(を)る也。如ㇾ此すれば、足の靑く腫たる、治する也。

 

○血止(ちどめ)の「まじなひ」は、紙を、三つに折(をり)、又、夫(それ)を、三つに折(をり)て、血の出(いづ)る所を、押(おさ)ふべし。卽時に、血、とまる事、妙也。

譚 海 卷之十三 葛もち加減の事 ところの粉の事 薩州そてつ餅の事 かたくりの事 山藥幷長いもの事 ねり柹うゑを助くる事 竹の實もちとなす事 そば飯の事 麥湯の事 胡椒にむれたるを治する事 餅のんどへつまりたるを治する事 五辛をくひて口氣のくさきを去方の事 からしねる事 鰹節けづる事 かんぴうこしらへの事 れいしの事

[やぶちゃん注:「目錄」の「山藥」は「サンヤク」で「山芋」の漢方名である。「かんぴう」はママ。]

 

○葛餅をねるには、茶碗に、葛の粉一盃、水三盃にて、よく出來る也。おほく拵(こしらへ)るも、此加減にすべし。

 

○天明七年、初(はじめ)て、「ところ」の根を製して、葛の如く用(もちゆ)る事を始(はじめ)たり。上・中・下、三品、有(あり)、上品の物は、葛の粉(こ)に、かはる事、なし。今年、飢饉に付(つき)て、常人、官ヘ訴へ、製法を弘(ひろ)く傳授する事也。

[やぶちゃん注:「ところ」ここは広義のヤマイモ類を指す。]

 

○薩摩に「蘇鐵餅」といふもの有(あり)。其國、そてつ樹、多き故、その實を取(とり)て製したるもの也。

「餅一つを、くふ時は、一日の食に當(あた)る。」

と、いへり。その家にては、

「兵粮(ひやうらう)に、たくはへ、三年に一度、取(とり)かふ事。」

とぞ。そてつの實、樹の「しん」の「きは」に有(あり)、「しん」を、ひらけば、ことごとく、實、付(つき)て有。

[やぶちゃん注:「そてつ樹」裸子植物上綱ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta 。但し、同種は幹や種子には多くのデンプンが貯留しているが、同時に有毒なサイカシン(cycasin)やL-アラニン誘導体であるβ-メチルアミノ-L-アラニン(=BMAA)を含むため、何度も水にさらして、それらを分離除去しなくてはならず、除去が不完全だと、死に至る。実際に琉球では、救荒食として古くからあったが、その処理の不備で、有意に多くの人々が亡くなり、「ソテツ地獄」と呼ばれた過去がある。]

 

○「かたくり」、腹瀉(はらくだし)を、能(よく)、治す。茶碗の内にて、「そばこ」をねる如くすれば、能(よく)、かたまり、出來(いできた)る也。砂糖を、くはへて、用ゆ。腹瀉を治するには、葛餅も又、よろし。

 

○山藥(さんやく/やまいも)を燒(やき)て服すれば、又、能、飢(うゑ)を、たすく。外の野菜は久敷(ひさしく)服すれば、なづむものなれども、「長いも」は、日日(ひび)服して、なづむ事、なし。

「燒たるは、殊に、よし。」

と、いへり。

 「長いも」を。水にて洗ひたるまゝ、紙に包(つつみ)て、あたゝか成(なる)灰の中に埋(うづ)め、上より、火にて蒸(むす)べし。熟して後(のち)、灰の中より取出(とりいだ)し、紙を、さり、燒鹽(やきじほ)にて、もちゆ。食(しよく)に、かふべし。

[やぶちゃん注:「山藥」「長いも」は、この場合は食用になる広義のヤマイモ類(分類学的には単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea に属する種の内の有毒種でない種となるが、有毒種でも適切な処理すれば、食用にしうる種もある)を指す。

「食」主食。]

 

○ねり柹、又、飢(うゑ)を助(たすく)るには、比類なきものの、よし。

「朽腹[やぶちゃん注:底本では「朽」の右に補正注があり、『(空)』とある。「すきはら」。空きっ腹(ぱら)。]に成(なり)たる時、壹つ、二つ、くへば、半日、食を思ふ事なし。」

とぞ。

 

○「竹に生(おい)たる實を粉(こ)にして、團子に、つくり、くふべし。飢饉には、『とちのみ』と、ならびて、功あり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「竹に生たる實」先行する「竹の實の事」の本文及び私の注を参照されたい。]

 

○蕎麥(そば)を「から」を脫(はが)し、丸のまゝにて、飯に焚(たき)て、服す。せうゆ[やぶちゃん注:ママ。「醬油」の歴史的仮名遣は「しやうゆ」が正しい。]の汁にて、そば切(ぎり)のごとく用ゆ。一品(いつぴん)異成(いなる)もの也。

 

○麥を、丸のまゝにて、いり、湯に入(いれ)て、「麥茶」と稱し、用ゆ。

 「うこぎ」の葉ばかりをも、ほし、かはかして、茶に用ゆべし。

[やぶちゃん注:「うこぎ」バラ亜綱セリ目ウコギ科ウコギ属 Eleutherococcus は多くの種があるが、本邦に広く植生するのはウコギ属ヤマウコギ変種ヤマウコギ Eleutherococcus spinosus var. spinosusである。ウィキの「ヤマウコギ」によれば、北海道と本州に植生するという説以外に、岩手県以南の本州と四国に広く分布するという説がある、とある。]

 

○胡椒の粉にむせたるは、打捨置(うちすておけ)ば死に至る也。胡麻の油を、一雫、飮(のむ)時は、立(たち)どころに治する也。

 

○餅を、くひて、のどへつまり迷惑するには、「おはぐろ」の水、少しばかり、のむべし。そのまゝ吐逆(とぎやく)して治する也。

 

○葱・「にんにく」の類を食して、口氣(こうき)、くさきには、飴を、一つ、くひて、水一ぱい飮(のむ)時は、口氣、うする也。又、「なんてん」の葉を、せんじて、その湯を飮(のむ)ときは、くさみ、うすると、いへり。

 

○「からし」の粉をねるには、水にて、かたく、ねり、其上へ、紙を、おほひ、ゆを一ぱい、つぎ、その湯へ、炭火を、いくつも落して、扨(さて)、湯をも、炭をも、捨去(すてさ)て、その「からし」のまゝ、器を、盆に移しおくべし。よく、からしの氣を生ずる也。

 

○鰹節、細(こまか)に、けづらんとならば、瀨戶物の、かけたるを求(もとめ)て、そのわれたる角(かど)ある所にて、けづるべし。

 

○「かんぴやう」を拵(こしらへ)るは、夕顏の實を、輪切にして、右の手に「ゆふがほ」をもち、左の手に、小刀を、あてたるばかりにて、右の手を、まはしまはしして、むく也。左を動(うごか)すときは、「かんぴやう」、厚薄(こうはく)、出來て、あしく、小刀は、かみそりを、ひらめて拵ると、いへり。

 すべて、柹をむくも、左の手、うごかすべからず。

 

○「れいし」、器に、たくはへて、茶菓子に供すべし。龍眼肉よりは、肉、多くして、よろし。

 嶺南の「橘皮(きつぴ)」といふもの、蜂蜜に漬(つけ)たる有(あり)、小口より切(きり)て、菓子に用ゆ。皆、佳品なり。

[やぶちゃん注:「れいし」「茘枝」。中国の嶺南地方原産の双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ Litchi chinensis の果実は、表面は皮革で、赤い鱗状の棘を持つ(新鮮な物ほど、棘が鋭い)。レイシの実は夏に熟し、その果皮を剝くと、白色半透明の多汁果肉(正しくは仮種皮(種子の表面を覆っている付属物)であって、狭義の意味での「果肉」ではない)があって高級な果物とする。

「嶺南」は中国の南部の「五嶺」(南嶺山脈)よりも南の地方を指す。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当する。部分的には「華南」と重なっている地域がある。参照した当該ウィキ地図を見られたい。

「橘皮」(キッピ)はミカン科のタチバナやウンシュウミカンなどの成熟果実の果皮を乾燥したもので、漢方では、理気・健脾・化痰の効能があり、消化不良による腹の張りや、吐き気、痰多くして胸が苦しい際に用いられる。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(2)

 

   薄紙にひかりをもらす牡丹かな 急 候

 

 子規居士の『牡丹句錄』の中に「薄樣に花包みある牡丹かな」といふ句があつた。これも同じやうな場合の句であらう。「ひかり」といふのは赫奕たる牡丹の形容で、同じく子規居士に「一輪の牡丹かゞやく病間かな」といふ句があり、また「いたつきに病みふせるわが枕邊に牡丹の花のい照りかゞやく」「くれなゐの光をはなつから草の牡丹の花は花のおほぎみ」などといふ歌もある。牡丹に「ひかり」といふ强い形容詞を用ゐたのは、この時代の句として注目に値するけれども、薄紙を隔てゝ「ひかりをもらす」などは頗る弱い言葉で、豐麗なる牡丹の姿に適せぬ憾みが無いでもない。「い照りかゞやく」にしろ、「光を放つ」にしろ、その形容の積極的に强い點から云へば、遙にこの句にまさつてゐる。

 尤もかういふ言葉の側から云ふと、元祿の句が稍〻力の乏しいのは、必ずしもこの句に限つたわけではない。牡丹に雨雲を配した

 

   雨雲のしばらくさます牡丹かな 白 獅

   方百里雨雲よせぬ牡丹かな 蕪 村

   雨雲の下りてはつゝむ牡丹かな 虛 子

 

の三句について見ても、言葉は蕪村の「方百里」が一番强い。しかして曲折の點から云へば、元祿の句は竟に大正に如かぬやうな氣がする。蓋し長所のこゝに存せぬためであらう。

[やぶちゃん注:因みに、サイト「増殖する俳句歳時記」のこちらで、松下育男氏の評があり、岩波文庫の本条をもとにこの句を紹介されつつ、そこでは、

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]柴田宵曲は『古句を観る』の中で、この句について次のように解説しています。「牡丹に「ひかり」という強い形容詞を用いたのは、この時代の句として注目に値するけれども、薄紙を隔てて「ひかりをもらす」などは頗る弱い言葉で、華麗なる牡丹の姿に適せぬ憾(うらみ)がないでもない。」なるほど、これだけ自信たっぷりに解説されると、そのようなものかといったんは納得させられます。ただ、軟弱な感性を持ったわたしなどには、むしろ「ひかりをもらす」と、わざわざひらがなで書かれたこのやわらかな動きに、ぐっときてしまうのです。薄紙を通した光を描くとは、江戸期の叙情もすでに、微細な感性に充分触れていたようです。華麗さで「花の王」とまで言われている牡丹であるからこそ、その隣に「薄さ」「弱さ」を置けば、いっそうその気品が際立つというものです。いえ、内に弱さを秘めていない華麗さなど、ありえないのではないかとも思えるのです。句中の「ひかり」が、句を読むものの顔を、うすく照らすようです。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

私は、それほど大振りの牡丹の花が実は好きではないが、松下氏の感想は、宵曲の評よりも遙かに共感を感じることを一言述べておく。

「赫奕たる」「かくやくたる」或いは「かくえきたる」と読み、光り輝くさまを言う語。

「子規居士の『牡丹句錄』の中に「薄樣に花包みある牡丹かな」といふ句があつた」明治三二(一八九九)年六月『ホトヽギス』初出の「牡丹句錄」の句の冒頭にある。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「牡丹句録册子」(森有一編・一九四四年翠松亭刊)のここで視認出来るが、

      *

   薄樣に花包みある牡丹かな

      *

とあるものの、国立国会図書館デジタルコレクションの一九四三年大塚巧芸社刊の自筆復刻版(カラー)の当該句を見ると、

      *

   薄樣花包みある牡丹哉

      *

となっていることが、判る。補正部分は塗り潰されていて、判読出来ないが、「の」かも知れない。

『子規居士に「一輪の牡丹かゞやく病間かな」といふ句があり』同じく「牡丹句錄」所収で、前の活字本では、冒頭の「薄樣に」の後の四句目に、

      *

   一輪の牡丹かゝやく病間かな

      *

とある。「輝く」は古くは清音であった。また、前掲自筆本を見ると、

      *

   一輪の牡丹かゝやく病間哉

      *

である。

「いたつきに病みふせるわが枕邊に牡丹の花のい照りかゞやく」明治三三(一九〇〇)年四月二十五日の一首。前書がある。

      *

   左千夫より牡丹二鉢を贈り來る
   一つは紅薄くして明石潟と名づ
   け一つは色濃くして日の扉と名
   づく

 いたつきに病みふせるわが枕邊に

     牡丹の花のい照りかゞやく

      *

「くれなゐの光をはなつから草の牡丹の花は花のおほぎみ」前の一首と同じ日の三首目で、

      *

 くれなゐの光をはなつから草の

     牡丹の花は花のおほぎみ

      *

とある(短歌はブラウザの不具合を考えて上句と下句を分けた)。

「方百里雨雲よせぬ牡丹かな」「蕪村」寛政九(一七九七)年刊の発句・俳文集「新花摘」の発句の部に出る。所持する小学館『日本古典文学全集』「近世俳諧俳文集」に、

      *

   方(はう)百里雨雲よせぬぼたん哉

      *

とあり、栗山理一氏の頭注で、『安永六(一七七七)年四月十三日付の書簡には中七「雨雲尽きて」の句形になっているが、初案であろう。牡丹の背景を整えるために夏空の快晴を描いたことになる』とある。牡丹は蕪村のとりわけ好きな花であったらしく、『『新花摘』には牡丹の句が十二句ある』ともあった。

「雨雲の下りてはつゝむ牡丹かな」「虛子」大正七(一九一八)年の作。]

2024/04/12

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(1)

[やぶちゃん注:底本では、内容本文はここから。]

 

              

 

   湯殿出る若葉の上の月夜かな 李 千

 

 爽快な句である。湯上りの若葉月夜などは、考へただけでもいゝ氣持がする。湯から上つたあとは何時でも惡いことはないが、一脈の懶さを伴つてゐる春の夜よりも、汗を流すのを第一とする夏の夜よりも、はつきりした空氣の中に多少の冷かさを含んでゐる若葉時分の夜が、爽快な點では最も勝まさつてゐるであらう。湯殿を出た人はそのまゝ庭に立つて、若葉に照る月のさやかな光を仰いでゐるのである。時刻を限る必要も無いけれども、あまり夜の更ふけぬうちの方がよささうに思ふ。

 この句は中七字が「靑葉の上の」となつている本がある。若葉にしても靑葉にしても、爽快な點に變りはない。その方には作者が「里仙」となつているが、恐らく同人であらう。珍碩――珍夕、曲翠――曲水その他、同音別字を用いた例はいくらもあるからである。

 

      病 後

   笋ときほひ出ばや衣がへ 吾 仲

 

 病が漸う癒えて衣を更へる場合であらう。その恢復に向ふ力に對して、土を抽づる笋[やぶちゃん注:「たけのこ」。]の勢を持つて來たのである。現在それほど元氣になつたといふわけではない。笋の勢に倣はうといふので、なお病後の弱々しい影の去りやらぬことは、前書及「出ばや」といふ言葉に現れてゐる。病後の更衣はその後にも屢〻見る趣向であるが、これは主觀的に笋を扱つて、恢復に向ふ力を描いたところに、元祿の句らしい特色がある。

 子規居士にも「病中」の前書で「人は皆衣など更へて來りけり」といふ句があつた。癒ゆべからざる長病の牀に在つて、更衣の圈外に置かれた居士の氣持は、この句を誦する者に或うらさびしさを感ぜしめずには置かぬであらう。笋と共にきおひ出でむとする病者は、癒ゆべき日を眼前に控へてゐるだけに、一句の底に明るい力が籠つてゐるやうに思はれる。

 

   定紋の下に鬼かく幟かな 秋 冬

 

などといふ句も、鯉にあらざる幟の樣子を最もよく現している。とかくの說明にも及ばぬが、前の句の參考資料たるだけの價値は十分にあると思ふ。

[やぶちゃん注:子規のそれは、明治二九(一八九六)年の作で、「寒山落木 卷五」に載る以下。

   *

     病 中

 人は皆衣など更へて來りけり

   *]

 

   山ごしに顏は見えけり幟の畫 峯 雪

 

 一目瞭然、說明するまでもない句であるが、幟[やぶちゃん注:「のぼり」。]の顏といふことは、近頃の人にはちよつとわかりにくいかも知れぬ。子規居士が「定紋[やぶちゃん注:「ぢやうもん」。]を染め鍾馗を畫きたる幟は吾等のかすかなる記憶に殘りて、今は最も俗なる鯉幟のみ風の空に飜りぬ」と云つて歎息したのは、已に四十餘年の昔だから、今の東京に鯉幟が幅を利きかしてゐるのも、勿論已むを得ぬ次第である。

 この句の働きは「山ごしに」といふ上五字に在る。大した山でないと同時に、さう遠距離でないことは、「顏は見えけり」といふ言葉から想像出來る。この顏は幟に畫いた鐘馗か何かの顏である。「幟の畫」とある以上、如何に鯉幟が天下を風靡したところで、鯉の顏と解釋される虞はなささうに思ふが、念の爲に蛇足的說明を加へることにした。

[やぶちゃん注:子規のそれは、二十八、九歳の頃に書いた随筆「松蘿玉液」の一節である。国立国会図書館デジタルコレクションの『正岡子規全集』第一巻 (改造社『日本文學大全集』の内・一九三一年刊)の正字正仮名の当該部(右ページ上段七行目から)を参考に、所持する岩波文庫一九八四年刊の同書を更に参考にした(国立国会図書館デジタルコレクションの諸種のものを見たが、傍点が複数あるのは、これだけであったため。「﹆」は「太字」とし、「﹅」は下線とした)。当該記事執筆は明治二九(一八九二)年の五月九日と思われる。

   *

幟の節句 は東京にては新曆を用ふることゝて舊曆の三月末に當りしかも立夏に立てあひたるもをかし。儀式は大方にすたれたるを幟樹つることばかりはいよいよはやり行くを見るに子を可愛がる親の心は文明開化も同じことなるべし、それさへ定紋を染め鍾旭を畫きたる幟は吾等のかすかなる記憶に殘りて今は最も俗なる鯉幟のみ風の空に飜りぬ。此日ある場末を通りけるに家の庇に菖蒲葺たる家あり。それをいと珍らしと見つゝ更に行けば極めて淋しき片側町の門邊に菖蒲と蓬とを束ねて掛けたるを見るに兎角に昔なつかしき心地せらる。

   君が代や縮緬の鯉菖蒲の太刀

   東京や菖蒲掛けたる家古し

   *

 なお、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本及日本人』第二巻第五号(J&Jコーポレーション一九五一年五月発行)のここで正字正仮名で、柴田宵曲の「俳諧漫筆 その八」の「幟」が視認でき、冒頭でここと同じことを述べているので、是非、見られたい。]

 

   長竿に板の武者繪や帋幟 汶 村

 

 この幟も同類である。長い竿の幟が立ててあるが、その幟は布でなしに紙で、而もその繪が肉筆でない。版で摺つてあるといふ。(板の字の傍に棒が引いてあるから、これはハンと音で讀むのである)いづれ簡畧なものであらう。その繪が武者繪であることも、この句は明にしてある。

 繪の幟の句があまり見當らぬ中に在つて、紙に板畫で武者繪を刷つたことまで描いたのは、慥に珍とするに足る。或は作者も珍しいと思つて、特に一句に纏めて置いたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「帋幟」「かみのぼり」。]

 

      五日

   旅なれや菖蒲も葺ず笠の軒 鶴 聲

 

 端午の句である。かういふ年中行事に對する古人の心持は、自ら今人と異るものがある。今日でも全く人の意識から離れ去つたわけではないけれども、各自之を守る心づかひに至つては、多大の軒輊を免れぬ。王維が九日山東の兄弟を懷ふの詩「獨在異鄕爲異客。每逢佳節倍思親。遙知兄弟登高處。遍插茱萸少一人」の如きも、單に家鄕の兄弟を懷ふだけでなく、かういふ年中行事の中に洩れた自分を顧るところに、自ら微妙な味が籠つてゐる。これは時代も古いし、さういふ懷鄕の情を正面から詠じたのであるが、一步俳諧の世界に踏入つて

 

      旅中佳節

   馬の背の高きに登り蕎麥の花 移 竹

      雨中九日病起

   試みに下駄の高きに登りけり 銕 僧

 

といふやうな句を見ると、そこに或轉化の迹が目につく。移竹の句の登高は本當の登高ではない。重陽の日も旅にあつて馬に跨りつゝあることを、「馬の背の高きに登り」と登高に擬して興じたのである。銕僧の句も重陽ではあるが、雨が降つてゐるし、病起の狀態でもあるので、高きに登ることなどは出來ない。そこで單に下駄を穿いて見たまでのことを、「試みに下駄の高きに登りけり」と誇張して云つたのである。この二句は元祿期の作ではないけれども、俳諧の一特色たる轉化の傾向を見るべきもので、正面から云ふのと違つたおかしみを伴つてゐる。

 鶴聲の菖蒲葺の句もやはりこの種類に屬する。旅中端午の節句に逢つて家鄕を想ふに當り、忽ち例の轉化を試みて、現在自分が被つてゐる笠を持出したのである。卽ち旅に在つて端午の菖蒲も葺かずにいるといふことから、笠の端を軒端に見立てゝ、そこに菖蒲を葺かぬといふことを以て一句の趣向にしたので、それが「馬の背の高き」に登つたり、「試みに下駄の高きに」登つたりするほど明快に片づかないのは、元祿調と天明調との相違によるのかも知れない。格別すぐれた句ではないが、一種の句として觀る價値はありさうである。

[やぶちゃん注:『王維が九日山東の兄弟を懷ふの詩「獨在異鄕爲異客。……」は、王維十七歳の時の七絶で、「唐詩選」にも載る有名なものである。所持する岩波書店『中国詩人選集』第六巻の都留春雄注「王維」を見ると、『多分、長安に遊学していて、故郷を憶って作ったものと推測される。因みに、彼が京兆府試』(けいちょうふし)『(都で行われるブロックごとの分館試験名)に合格したのは、十九歳の時である』とあった。所持するそれで、漢詩原文を示し、訓読は参考に留めた(新字新仮名で気持ちが悪いため)。

   *

 九月九日憶山東兄弟

獨在異鄕爲異客

每逢佳節倍思親

遙知兄弟登高處

徧插茱萸少一人

  九月九日 山東の兄弟(けいてい)を憶ふ

 獨り異鄕に在りて 異客(いきやく)と爲る

 佳節に逢ふ每(ごと)に 倍(ますます)親(しん)を思ふ

 遙かに知る 兄弟(けいてい) 高きに登る處(とき)

 徧(あま)ねく茱萸(しゆゆ)を插して一人(ひとり)を少(か)くを

   *

 陶淵明の詩で知られているから、言わずもがなだが、中国では九月九日の最も縁起の良い重陽の節句の日は別に「登高」(とうこう)と呼んで、一族が、頭髪に茱萸(ムクロジ目ミカン科ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum 或いは同変種ホンゴシュユ Tetradium ruticarpum var. officinale )の実を挿して、近くの小高い山や丘に登り、菊酒を飲んで、長生を祈念した。「兄弟」王維は長男で弟が四人いた。但し、この「兄弟」はより広い(所謂「排行」で範囲指定される)父方の従兄弟を含めた広い「兄弟」である。]

2024/04/11

ブログ2,140,000アクセス突破記念 柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(23) /「春」の部~了

[やぶちゃん注:因みに、この記事は、本日未明、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが2,140,000アクセスを突破した記念として公開するものである。【二〇二四年四月十一日 藪野直史】]

 

   雉子啼や藏のあちらの蜜柑畑 桃 先

 

 田舍の屋敷内などであらう。母家を離れたところに土藏があつて、その向うはずつと蜜柑畑になつてゐる。雉子はその邊まで來て啼くとも解せられるし、藏の向うに蜜柑畑の見えるやうな場所で、けんけんと啼く雉子の聲を聞いたといふことにしても構はない。

 雉子の聲の背景としては、これまでも隨分いろいろな世界を擧げて來たが、「藏のあちらの蜜柑畑」は正に一幅の畫圖である。こゝに雉子の聲を點じて、畫以上にすべてを生動せしめた。雉子の啼く頃では、蜜柑は枝頭に朱い玉をとゞめていないかも知れぬが、土藏の先に一面の蜜柑畑が展開しさへすれば、果の有無の如きは深く問ふに及ばぬであらう。

 

   山燒て峯の松見る曇かな 魚 口

 

 この句に於て多少の疑問があるのは、「山燒て」といふ言葉にかゝる時間である。山を燒いて然る後、どの位の時間を經てゐるか、それによつてこの句の味は異らなければならぬ。

 山燒の濟んだ後の峯に、何本かの松が聳そびえてゐる、燒かれて稍〻あらはになつた山の頂の松が、曇つた空に高く見える、といふ風にも解釋出來る。

 もう一つは現在なお山を燒きつゝある場合で、煙はそこら一面に流れてゐる、峯頭の松もその煙のために曇つて見えるか、或は實際曇つた空に聳えてゐるか、とにかく山燒が現に行はれてゐるものと解するのである。

「山燒て」といふ言葉は、本來はつきりした時間を現してゐないから、何方にも解し得ると思ふが、再案するに「峯の松見る曇かな」といふ十二字には、しづかに落著いた空氣が含まれてゐるので、現に火が燃えてゐる――山を燒きつつあるものとすると、感じの上においてそぐわぬところがある。やはり山を燒いてから多少の時間を經過したものと見るべきであらう。

[やぶちゃん注:後半の宵曲の推定はヴィジュアルな印象を検証したすこぶる優れた見解である。]

 

   にくまれてたはれありくや尾切猫 蘆 本

 

 猫の戀を詠んだ句は、比較的漠然たる趣のものが多く、猫そのものの樣子なり、動作なりを現したものは寧ろ少い。この句はその少い方に屬する一である。

 春の季題に猫の戀を取入れたのは誰か知らないが、戀猫といふものはそれほど雅趣に冨んでゐるとも思はれぬ。家を外に浮れ步くあの樣子は、平生猫に好意を持つてゐる人にすら、疎むとか、憎むとかいふ心持を起させ易い。さういふ猫の中に尾を短く切られたのが一匹おつて、日夜狂奔しつゝある。その樣子を皆が見て憎らしいと云ふが、猫はそんな世評には頓著せず、相變らず家を外に狂ひ步いてゐる、といふのである。

 猫を飼ふ趣味にもいろいろあつて、必ずしも同一標準に立つわけではないけれども、尾の長い方が見た恰好もいゝし、可愛らしくもある。この猫が人に憎まれるのは、尾の短いことも一理由になつてゐるかもわからぬが、作者はそれを正面に置いてはゐない。「にくまれて」はどこまでも「たはれありく」樣子にかゝるので、その猫は尾が切られてゐて短い、といふ特徵を描いたまでのものであらう。

「戀ひ負けて去りぎはの一目尾たれ猫 より江」といふ句は、さすがに近代の產物だけあつて、猫の樣子なり、動作なりについて更にこまかい觀察を試みてゐるが、「尾たれ猫」の一語は特に畫龍點睛の妙がある。蘆本の句は觀察の精粗に於て固より同日の談ではない。但この句の眼目は畢竟「尾切猫」の一語に在る。この一語が無かつたら、尋常一樣の漠然たる戀猫の句になつてしまつたに相違無い。

[やぶちゃん注:「尾切猫」民俗社会では、尻尾の長い猫が歳を重ねると、尾が二股になり、妖獣猫又になるという迷信があって、そのために尾を切るということが行われた事実もあるようである。但し、実際の切っているのではなく、元来、尻尾の短い中国から来た猫は、遺伝的に短い尻尾や鍵尻尾を持っていて、実際、江戸時代には尻尾の短い猫が好まれてきた事実があり、これも、前記のような理由から人為的に切ったのではなく、そうした猫をかく呼称したともとれる。

「より江」久保より江(明治一七(一八八四)年~昭和一六(一九四一)年)は女流俳人・歌人。郷里の愛媛県松山で夏目漱石や正岡子規に接し、句作を始め、上京後、府立第三高女を卒業し、耳鼻咽喉科学者で歌人の久保猪之吉(明治七(一八七四)年~昭和一四(一九三九)年:短歌を落合直文に学び、尾上柴舟らと「いかづち会」を結成、浪漫的な歌風で知られた)と結婚し、福岡に住み、高浜虚子に俳句を、服部躬治(もとはる)に和歌を学び、かの美貌の歌人柳原白蓮らと交友があった。旧姓は宮本。著作に「嫁ぬすみ」「より江句文集」等がある。]

 

   晝からは茶屋が素湯賣櫻かな 菐 言

 

 これはどういふ場所であるか、櫻があつて、茶屋があつて、人が見に來るやうなところらしいが、それ以上の想像は困難である。或は不必要かも知れぬ。

 特に「晝からは」と斷つたのは、午前は何も無いが、午後からは……といふ意味に解せられる。午前はあまり人が來ないのか、茶屋が開業しないのか、それもわからない。

 反對に人があまり來過ぎるので、午後からは茶屋が茶でなしに素湯[やぶちゃん注:「さゆ」。]を飮ませてゐる、といふ意味に解すると、素湯だから冷たくはないにしても、いさゝか冷遇の意味になつて來る。「晝からは」といふ以上、午前と午後とで何か異る事情がなければならぬ。その事情は大づかみに見て、消極、積極の二通りになるが、愈〻となると斷定は下しにくいやうに思ふ。

[やぶちゃん注:「菐言」寺島菐言(てらしまぼくげん 正保三(一六四六)年~元文元(一七三六)年)は江戸前・中期の蕉門俳人。尾張鳴海宿の本陣の子。貞享四(一六八七)年十一月五日、芭蕉を招いて句会を開いている。「鳴海六俳人」の一人。名は安規。通称は伊右衛門。]

 

   羽子板の箔にうけたり春の雪 吾 仲

 

 美しい句である。

 春降る雪の冬の雪と感じの違ふところはいくらもあるが、要するに季節を過ぎてゐるだけに、何となく一種のゆとりを生じて居り、雪片が大きいながらふはふはと降つて來る趣なども、この感じを大に助けてゐる。この句はその趣を捉へたもののやうに思はれる。

 箔を置いた羽子板をさしのべて、春の雪片を受けて見る。深窓に育つ羽子板の持主の嫣然たる趣を連想すれば更に美しい。「ロシヤ更紗の毛蒲團を、そつとぬけでてつむ雪を、銀のかざしでさしてみる、お染の髮の牡丹雪ぼたんゆき」といふ夢二氏の童謠を昔讀んだことがあるが、どこかそれと共通する浮世繪趣味に似たものが感ぜられぬでもない。併しそれは固より連想、餘情の範圍で、句の表に現れたものは、春の雪の降る中にさしのべた、美しい羽子板だけである。

「箔にうけたり」といふ言葉を、箔を置いた羽子板と取らずに、春の雪を受けて羽子板の箔とした――雪片そのものを箔と見る――といふ意味に解すると、多少技巧的な句になる。吾々はやはり箔ある羽子板をさしのべた、美しい句としてこれを見たい。

[やぶちゃん注:「夢二氏の童謠」は竹久夢二の「どんたく 繪入り小唄集」の中の「雪」の一節。私は彼の絵が嫌いなので所持しない。幸い、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで、原本(大正二(一九一三)年実業之日本社刊)を視認出来たので(ここと、ここ)、以下に電子化する。

   *

 

 雪

 

赤(あか)いわたしの襟卷(えりまき)に

ふわりとおちてふときえる

つもらぬほどの春(はる)の雪(ゆき)。

  これが砂糖(さたう)であつたなら

  乳母(うばも)でてきてたべよもの。

ロシヤ更紗(ざらさ)の毛布團(けぶとん)を

そつとぬけでてつむ雪(ゆき)を

銀(ぎん)のかざしでさしてみる

お染(そめ)の髮(かみ)の牡丹雪(ぼたんゆき)。

 

七番藏(ばんぐら)の戶(と)のまへで

手招(てまね)きをするとうじさん

顏(かほ)ににげない白(しろ)い手(て)で

ひねり餅(もち)をばくれました。

 

納戶(なんど)のおくはほのくらく

紀州蜜柑(きしうみかん)の香(か)もあはく

指(ゆび)にそまりし黃表紙(きべうし)の

炬燵(こたつ)で繪本(ゑほん)をよみました。

 

窓(まど)からみれば下町(したまち)の

角(かど)の床屋(とこや)のガラス戶(ど)に

大阪下(おほさかくだ)り雁二郞(がんじろ)の

春狂言(はるきやうげん)のびらの繪(ゑ)が

雪(ゆき)にふられておりました。

   *

最終行の「おり」はママ。]

 

   尋よる門やしまりて梅の花 野 紅

 

 この訪問者と居住者との關係はわからない。門前を通りかゝつたから寄つて見るといふやうな漫然たる訪問でないことだけは慥である。

 折角たずねて來た門がしまつてゐる。近頃は門がしまつてゐても、必ず不在だとはきまらない。ベルを押して、取次が出て來てからでも、眞の在否のわからぬ手合さへある。作者はこの場合「門やしまりて」の一語によつて、門がしまつてゐるといふことだけでなく、主の不在であることをも現している。「九日驅馳日閑。尋君不遇復空還。怪來詩思淸人骨。門對寒流一雪滿山」といふやうな趣であるとすれば、梅花に門を鎖した主は隱者らしくなつて來るが、この句はそこまではつきり描いてゐない。門のしまつてゐる爲に得た失望の感を、「尋よる」の一語に含ませてゐるに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:引用している漢詩は、「三體詩」宋の周弼撰の漢詩集。全三巻。一二五〇年成立。七言絶句・五言律詩・七言律詩三体の詩、四百九十四首を集録する。唐代中晩期の作品が中心で、「虛」(叙情)と「實」(叙景)に分類する。本邦では、室町時代に翻刻されて以来、盛んに流布した]の巻頭の「七言絕句」の「虛接」にある、中唐の韋應物の一篇。所持する朝日新聞社の『中国古典選』二十九巻(全巻吉川幸次郎監修)の村上哲見著を参考に正字で示し、訓読を示す。

   *

 

 休日訪人御不遇    韋應物

九日驅馳一日閑

尋君不遇又空還

怪來詩思淸人骨

門對寒流雪滿山

 

  休日人を訪ねて遇はず  韋應物

 九日(きうじつ)驅馳(くち)して 一日(いちじつ) 閑(かん)なり

 君を尋ねて遇はず 又た空しく還(かへ)る

 怪み來たる 詩思(しし)の人骨を淸(きよ)うするを

 門(もん)は寒流(かんりう)に對し 雪は山に滿つ

 

   *

語釈しておく。

・「驅馳」走り回ること。当代の官人は、九日、働き続けて、十日目に一日だけの休暇が与えられる決まりであった)。

・「怪來」…あやしむ。「來」は助辞で、何やらん、不思議に思われることを響かせるもの。

・「詩思」村上氏は『留守を残念におもいつつ、門前の景を眺めるうちに、詩情がわいてきた』という意を採っておられる。

・「骨」村上氏は『骨髄までも清められるおもいだった』と訳しておられる。]

 

   白梅の月をさゝげて寒さかな りん女

 

 明治の末に「寒月照梅花」といふ敕題が仰出された時、誰かがいろいろ古歌の例を引いたものを見たら、月に梅を配したものはあつても、寒月といふ感じのものは少かつた。當時詠進の歌には、何かの景物によつて寒さを現したものが多かつたやうに記憶する。歌では「寒月や」といふ風の言葉が使ひにくい爲、自然配合物の力を藉る[やぶちゃん注:「かりる」。]ことになるのであらう。

 この句は春になつてからの句かも知れぬが、寒さが主になつてゐるので、「寒月照梅花」の意にも適ふかと思ふ。皎々たる月の光の下に、白い梅の花が咲いてゐるといふ、見るからに寒い感じの句である。月下の梅といふことを云はずに、「月をさゝげて」といつたのは、月が中天にかゝつてゐることを現す爲もあるが、そこに作者の技巧らしいものが見えて、さういゝ句だといふわけではない。たゞ同じ作者の句に「白梅の月をおさゆる寒さかな」といふのがあり、彼此對照すれば、やはり「さゝげて」の方が優つてゐる。「おさゆる」では作者の技巧的主觀が强くなつて、自然の趣を損ずることが多いからである。

 

   爐ふさぎや上へあがりてふんでみる 朱 拙

 

 久しい間の爐を塞いで蓋をする。一冬を賴みにして來ただけに、愈〻塞いでしまふ段になると、うら寂しい感じもするが、同時にその邊が綺麗になつて、さつぱり片付くところもある。作者はさういふ氣分の下に、今塞いだばかりの爐を上から踏んで見たのであらう。

「上へあがりて」といふと、何だか高いものゝ上に上つたやうに聞えるが、實際は爐を塞いだ疊の上を踏むに過ぎまいと思ふ。今まで明いてゐたところを急に塞いだので、その慥たしかさを蹈み試みるといふ風にも解せられる。實際は年々歲々塞ぐことを繰返し、その度にかうやつて蹈んで見るのかも知れない。若し難を云へば、「上」といふことよりも「あがりて」の方にありさうである。

 

   桃さくや古き萱屋の雨いきれ 四 睡

 

 桃の咲く時分になつて、春の暖氣は俄に加はり、降る雨にも萬物を悉く蒸し返らすやうな力を生じて來る。この句はさういふ雨に濡れた、古い萱屋根の家を描いたのである。

 瓦屋根やトタン屋根では、到底かういふ感じは起らない。萱屋根にしても、新に葺かれたばかりの家だつたら、やはり感じが異るかも知れぬ。多くの歲月を經て眞黑に古びた萱屋根が、折からの雨に濡れて、ムーツといきれたやうになつてゐる。このいきれた空氣の中に、屋根草は芽を吹き、もろもろの蟲の卵は孵り、天地の春を形づくるのであらう。野趣といつただけではまだ盡さぬ、多くの詩歌の看過する春のいぶきを、俳人は容易に捉へ得た。この蒸れるやうな雨の感じに調和するものは、他の何の花よりも桃でなければなるまい。

 或はこの句は現在雨が降つてゐる場合でなしに、雨がやんだばかりに日がさして、水蒸氣が一面に立騰るといふやうな光景でもいゝかと思ふ。春らしい實感を十分に盛り得た點で、異色ある桃の句と云ふべきである。

[やぶちゃん注:「多摩市立図書館/多摩市デジタルアーカイブ」の「多摩市史 通史編1」の「地元の句合」に、現在の多摩市にあった連光寺村の俳人名に、この人物の号が載る。]

 

   はるの月またばや池にうつる迄 諷 竹

 

「猿澤邊に圓居[やぶちゃん注:「まどゐ」。]して」といふ前書がついてゐるから、この句の場所は明瞭である。もう程なく春の月が出る。それが少し高く上れば、猿澤の池の面にうつるやうになる。それまで待たう、待つて池にうつる春の月を見よう、といふ句意らしい。

 もう十年近くも前になるか、奈良に遊んで一宿したことがある。當時は燈火管制も何も無かつたが、春の夜の町へ散步に出るのに、驚いたのは道の暗いことであつた。元祿時代の奈良は更に暗かつたであらう。作者はどんなところに圓居してゐるのかわからぬが、日が暮れてから電車で京都や大阪へ歸り得る時代でないから、月を待つてどうしようといふのでもあるまい。猿澤の池にうつるまで、月の上るのを待つて、その眺を見囃さうといふに過ぎまいと思ふ。

 奈良の月は直に「春日なる三笠の山を出でし月」を連想せしめるが、作者はさういふ傳統に捉はれず、猿澤の春月といふ新な配合を見出し、更に「池にうつる迄」といふ興味を點じた。「はるの月またばや池にうつる迄」と繰返し誦して見ると、のんびりした昔の春の心持が、我身に近く感ぜられて來る。

[やぶちゃん注:「春日なる三笠の山を出でし月」「古今和歌集」「卷第九 羇旅歌」の冒頭に掲げられてある安倍仲麿の一首(四百六番)の以下である。

   *

   もろこしにて月をみてよみける 安倍仲麿

あまの原ふりさけみれは春日(かすが)なる

      三笠(みかさ)の山にいでし月かも

    このうたは、むかしなかまろを、もろこしに
    物ならはしにつかはしたりけるに、あまたの
    年をへて、えかへりまうでごさりけるを、こ
    のくにより又つかひまかりいたりけるにたぐ
    ひて、まうできなむとて、出(い)でたりけ
    るに、めいしうといふ所のうみべにて、かの
    國の人うまのはなむけしけり。よるになりて、
    月のいとおもしろくさしいでたりけるを見て
    よめる、となむかたりつたふる。

   *

語釈する。所持する角川文庫窪田章一郎校注「古今和歌集」昭和五二(一九七七)年刊八版の脚注を参考・引用した。

・「物ならはしにつかはしたりける」元正天皇の養老元(七一七)年遣唐使多治比縣守(たじひのあがたもり)に留学生として随行したことを指す。仲麿十七歳であった。

・「又つかひまかりいたりけるに」孝謙天皇の天平勝宝二(七五〇)年藤原淸河(きよかは)を遣唐大使に任じ、同四年に渡唐した、『仲麿は淸河とともに帰国しようとしたが』、『果たせず』強『風のため』に『安南に漂流』してしまい、『帰国を断念し、名を朝衡と改め、唐朝に仕え、長安に都で没した。称徳天皇の宝亀元』(七七〇)『年にあたり』、享年『七十歳』であった。現在、「阿倍仲麻呂紀念碑」が西安の興慶宮公園にある。私は実際に詣でた。奈良市と西安市とが、友好都市締結をした一九七九年に記念して建てられたもので、この和歌も刻まれていた。]

 

   我のせよ御形咲野のはだか馬 祐 甫

 

 御形[やぶちゃん注:「ごぎやう」。]の花の咲いた野に裸馬が放し飼になつてゐる。あの馬に乘つてこの野を乘廻して見たい、己を乘せてくれぬか、と云つたのである。「我のせよ」は單なる願望の意で、若し强いて對象を求めれば、その裸馬に對して述べたことになる。

 御形はハヽコグサである。この作者の感興の背景をなすものとしては、ハヽコグサは少し寂しい。五形と書くゲンゲの方なら、一望の野を美しくするかと思ふが、作者が御形と書いてゐる以上、やはりハヽコグサの眺と解して已むべきであらう。

[やぶちゃん注:「祐甫」神戶祐甫(かんべゆうほ 寛永九(一六三二)年~宝永七(一七一〇)年)は。伊賀上野の富商。芭蕉に学んだ「伊賀三十一人衆」の一人である。作品は「猿蓑」・「炭俵」・「續猿蓑」等に採録されており、「蕉門名家句集」にも収められてある。通称は八郎右衛門。

「ハヽコグサ」「母子草」。キク目キク科キク亜科ハハコグサ連ハハコグサ属ハハコグサ Pseudognaphalium affine

「ゲンゲ」「紫雲英」。マメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus 。私の偏愛する花。しかし、「げんげ畑」を見たのは、七年前に西伊豆の絶景の宿「富岳群青」に行く途中の山越えの時が最後だ……。]

 

   陽炎や身を干海士の日向ぼこ 朱 拙

 

 岩の上か、砂濱か、場所はわからぬ。今しがた海から上つたばかりの海士が、身體を乾かしながら日向ぼつこをしている。そのほとりから陽炎がゆらゆら立のぼる、といふ海岸の一小景である。

「身を干」といふ言葉がこの句の眼目であらう。この一語によつて、單に日向にゐるといふだけでなしに、海から上つたばかりの海士といふこともわかれば、風も無い海邊の日和の暖さも自ら連想に浮んで來る。

 現在の歲時記では「日向ぼこ」は冬と定められてゐるが、必ずしもそう限定するには及ぶまい。身體を乾かしながらの「日向ぼこ」には、冬よりも春の方が適切であらう。ゆらゆらと立つ陽炎は、この光景を一層效果あらしめているやうな氣がする。

 

   乳呑子の耳の早さや雉子の聲 りん女

 

 この句の舞臺に登場する者は、乳を含ませてゐる母親と、乳を飮みつゝある幼兒とだけである。しづかな春の日中であらう、どこかで鋭い雉子の聲がする、といふので、その空氣は一應描かれたことになるが、「耳の早さや」といふ中七字は、考へやうによつていろいろに解釋出來る。

 主要な登場人物の一人である乳呑子が、いち早く雉子の聲を聞きつけたといふ點に變りは無いが、たゞ聞耳を立てたといふだけか、あれは何の聲だといつて尋ねたのか、或は已に雉子の聲の何者たるかを知つてゐて聞きつけたのか、そこは俄に斷じがたい。乳呑子のことだから氣がつくまいと思つたのに、いち早く聞きつけたといふのか、母親がうつかりしてゐるうちに、乳呑子の方が聞きつけたといふのか、その點も解釋が二三になりさうである。

 けれどもこゝではつきりしてゐるのは、母親の乳を含みつゝある幼兒の小さい耳が、いち早く雉子の聲を聞きつけたといふことと、その耳の早さを先づ感じた者が母親だといふことである。女性たる作者がその母親であることも、略〻推定し得る。一句の眼目たる事實が動かぬ以上、その他の小さい連想は、各自の感ずるところに從つて差支あるまいと思ふ。

 

   夜の明ぬ松伐倒きりたおすさくらかな 陽 和

 

 山中の景色であらうかと想像する。

 まだ夜の明けぬうちに杣[やぶちゃん注:「そま」。]がやつて來て、そこにある松の木を伐り倒す。巨幹は地ひゞきして倒れると、又もとの靜寂に還る。あたりには櫻がたわゝの花をつけてゐる、といふやうな光景を描いたものらしい。

 この場合の松と櫻は、たゞ近くにあるといふだけで、深い因緣や交涉があるわけではない。「花の外には松ばかり」といふ山中自然の配合であらう。未明の天地に木を伐るといふ一の活動が起つて、間もなく松は伐倒される。その背景として爛漫たる櫻を描いたといふよりも、櫻の背景の前にかういふ活動が行はれたものと解すべきである。

 人の姿を點出せずに、たゞ松と櫻のみを描いたのは、如何にも未明伐木の光景にふさはしい。伐られる松と、しづかに咲いてゐる櫻とを對照的に扱つて、とかくの辯を費すが如きは、抑〻無用の沙汰であらう。

[やぶちゃん注:「陽和」山岸陽和(ようわ ?~享保四(一七一九)年)は伊賀上野の人。藤堂家に仕えた。芭蕉に学び、「有磯海」・「枯尾花」に句が収められてある。妻は芭蕉の姉である。名は宥軒。通称は重左衛門。]

2024/04/10

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(22)

 

   早梅や奧で機織長屋門 吏 明

 

 もうだんだん少くなつてしまつたが、それでも古い屋敷などで長屋門を存してゐるところが、東京にもいくつかある。門の兩側が長屋になつて、人の住むやうに出來てゐる、いかめしいと云へばいかめしいが、現代の邸宅にはちよつと緣の遠い門である。

 この句の早梅[やぶちゃん注:「さうばい」。]の花は、長屋門のどこに咲いてゐるかわからない。門のほとりに咲いてゐるとしないでも、長屋門のある屋敷の中なり、或は近所なり、とにかく背景的に存在すればいゝのである。その長屋門の奧で機[やぶちゃん注:「はた」。]を織つてゐる――目に見えるのでなしに、音が聞える方だらうと思ふが、それがこの句の眼目になつてゐる。早梅の花と、長屋門の奧に聞える機の音とが、季節的に或調和を得てゐることはいふまでもない。

[やぶちゃん注:「吏明」伊賀生まれの蕉門で月空居士露川の門下。]

 

   鶯やついと覗てついとゆく 白 雪

 

 鶯が庭先か何かにやつて來て、ちよつと覗くやうにしてゐたかと思ふと、そのまゝついと行つてしまつた。相手が鶯である以上、見つけた者はその啼くことを期待する。鶯に取つては迷惑かも知れぬが、人間の方で勝手にさうきめてゐる。しかし人間のために啼かなければならぬ理由は無いから、鶯は啼きたくなければ構はず澄して行つてしまふ。その期待外れのやうなところを詠んだのである。

 作者はこの句に「鳴はせで」といふ前書をつけた。前書があれば一層はつきりはするけれども、「ついと覗てついとゆく」といえば、その鶯が御誂通り啼かぬことは言外に含まれてゐる。「鳴はせで」と斷るのは蛇足である。今の人はあまりかういふ前書をつけないが、昔は屢〻前書によつて句意を補ふといふ方法を取つた。それだけ世の中がのんびりしてゐたのであらう。

[やぶちゃん注:「白雪」太田白雪(はくせつ 万治四(一六六一)年~享保二〇(一七三五)年)は三河新城(しんしろ)の富商で、庄屋。蕉門。各務支考・高島轍士らと親交があった。郷土史や百人一首の研究に努めた。名は長孝。通称は金左衛門。編著に「誹諧曾我」・「三河小町」等がある。]

 

   梅さぶし灯もきえず朝餉 素 覽

 

 この句にも「寒梅」といふ前書がある。特に寒梅と斷らずとも、「梅さぶし」の語がこれを現してゐるやうに思ふが、或は春立つ以前の――冬の梅といふ意味で、特にこの前書を置いたのかも知れぬ。

 朝餉は「アサガレヒ」である。宮中の場合に特に用ゐられることもあるが、この句はさういふ特別なものではあるまい。早朝の膳に向つて食事をする。この「灯[やぶちゃん注:「ともし」。]」は何の灯かわからぬが、前夜來の灯でなしに、曉の暗い爲に點したものらしく思はれる。寒梅のほのかに薰る早朝に、さういふ灯の消えぬ下で膳に向ふといふ、何となく引緊つた感じの句である。その感じを主にすれば、必ずしも如何なる家であるかを穿鑿する必要はない。

 

   種まきや當字だらけの紙帒 左 岡

 

 種を蒔かうとして去年しまつて置いた袋を取出す。その袋には種の名か何かが書いてある。いづれ農家の事であらうから、本當の名前を知つてゐるわけではない。いゝ加減な當字ばかり書いてある。滑稽といふほどでもないが、ちよつと微笑を誘ふやうなところがある。

 昔は敎育が普及してゐなかつたから、餘計さういふ傾があつたらうと思ふが、現代と雖もこの種の當字は絕無ではあるまい。專門語の中には、仲間だけに通用する特殊な當字があるかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「紙帒」「かみぶくろ」。]

 

   山やくや舟の片帆の片あかり 水颯

 

 湖か、川か、あるいは海に近い山を燒く場合であるか、とにかく春になつて山燒をする。その火の明りが水にうつり、またそこを行く舟の片帆にうつる、といふ西洋畫にでもありさうな景色である。

 一茶に「山燒の明りに下る夜舟の火」といふ句がある。『七番日記』には「夜舟かな」となつてゐるが、その方がかえつていゝかも知れない。山燒の明りが火である上に、更に火を點ずるのは、句として働きが無いからである。片帆に片明りするの遙に印象的なるに如かぬ。山燒と舟といふ稍〻變つた配合も、元祿の作家が早く先鞭を著けてゐたことになる。

[やぶちゃん注:筑前蕉門の久芳水颯。kenji氏のブログ「久芳姓の歴史上の人物」の「久芳(Kuba) 久芳姓について」に、『筑前の芭蕉門下で名の知れた俳人』で、『安芸国(広島)出身で当主の「忠左衛門」は東京の「久芳淳七氏」、門司の「久芳勇氏」の先祖にあたるそうです。俳号を「水札」と号していましたが、後に「水颯」と変えました』。『関屋も本陣守の竹屋の久芳家も分限者』『で、黒崎宿に伝わる古い謡(よう・唄)に歌われていました』とあり、

 花の黑崎 酒屋が五軒 心とむるな久芳 関屋

及び、

 久芳も關屋も 昔の事よ 今は熊手の 住吉屋

が掲げられてある。『黒崎の「御茶屋守」の竹屋の久芳氏の出身地、安芸国(広島県)には、中世に大内系国人「久芳氏」が見られるようです。また、「久芳」と言う地名も広島市近郊に残っています。この久芳と何らかの関係がある人物と考えられます』とあった。一応、姓の「くば」で読んでおく。

「山燒の明りに下る夜舟の火」これは「七番日記」の嘉永版の句形。]

 

   江戶留守の枕刀やおぼろ月 朱 拙

 

 主人が江戶に出てゐる場合であらう。留守の心細さに枕許に刀を置いて寢る。折からの朧月夜であるが、何となく寂しい留守の狀態を詠んだものであらう。

 天明期の作者は、屢〻かういふ複雜した場合を題材に採る。併し元祿期の作者も、全然興味が無かつたのでないことは、この句のみならず、「江戶留守」を詠んだ句が散見するによつて證し得られる。

 

   江戶留守や笋はえて納戶口 露 竹

 

   江戶留守を見込で鳴やかんこ鳥 宵 月

 

   江戶留守を嫁々の岡見ぞをかしけれ 涓 流

 

 江戶留守を題材にした點は同じであるが、一句の働きに於ては朱拙の朧月を首[やぶちゃん注:「はじめ」。]に推さなければなるまい。

 蕪村の「枕上秋の夜を守る刀かな」といふ句は、長き夜の或場合を捉へたものである。この句も或朧月夜を詠んだに相違無いが、江戶留守といふ事實を背景としてゐる爲に、もつと味が複雜になつてゐる。朧月といふものは必ず艷な趣に調和するとは限らない。かういふ留守居人の寂しい心持にも亦調和するのである。

[やぶちゃん注:「笋」「たけのこ」。

「枕上」(まくらがみ)「秋の夜」(よ)「を守る刀かな」岩波文庫「蕪村俳句集」(尾形仂校注・一九八九年刊)によれば、推定で、明和五(一七六八)年九月一日の作とする。]

 

   蹈なほす新木の弓やはるの雨 孟遠

 

 弓に關する知識は皆無に近いから、頗るおぼつかないけれども、新木[やぶちゃん注:「あらき」。]で拵へた弓は狂ひ易いといふやうなことがあるのであらう。春雨に降りこめられたつれづれに、その弓を足で蹈んで狂ひを矯め[やぶちゃん注:「ため」。]やうとする、といふ意味ではないかと思はれる。或は新木で拵へた弓である爲に、雨降の時には狂ひを生ずるといふやうなことがあるのかも知れぬ。

 弓から「はる」といふことを持出したので、「はるの雨」は「張る」にかけたのだ、といふやうな解釋を下す人があつても、それは取らない。さういふ解釋を妥當とするには、元祿より更に前に遡らなければならぬ。後世蕪村等の用ゐた緣語と雖も、勿論これとは趣を異にする。たゞこのまゝの句と見るべきである。

[やぶちゃん注:「孟遠」山本孟遠(もうゑん 寛文九(一六六九)年~享保一四(一七二九))は近江彦根藩士。森川許六の高弟。正徳四(一七一四)年に出家し、中国・九州に彦根蕉風を広めた別号に須弥仏(しゅみぶつ)・横斜庵。編著に「俳諧桃の杖」等がある。]

 

   魚懸にあたまばかりや春の雨 朱 拙

 

 西鶴の『永代藏』であつたか、『胸算用』であつたか、臺所に魚懸[やぶちゃん注:「さかなかけ」]といふものがあり、年末に鰤でも懸けてあるのを見て、出入の者がもう春の御支度も出來ましたと云ふ條があつたと記憶する。この句はさういふ魚懸の魚をだんだん食べてしまつて、頭だけが殘つてゐるといふのである。春の用意に懸けた魚が、春雨頃に頭だけになるのは自然の數であらう。

 魚懸は現在の吾々には緣が遠い。吾々が臺所にぶら下つてゐたのを知つてゐるのは、鹽引の鮭位のものである。「鹽鮭の頭ばかりや……」と云へば、今の人には通じいゝかも知れない。だんだんに食べて頭ばかりになつた魚と春雨との間には、趣としても相通ふものがある。

[やぶちゃん注:「西鶴の『永代藏』であつたか、『胸算用』であつたか、臺所に魚懸といふものがあり、……」「世間胸算用」の「七 祈るしるしの神の折敷(をしき)」の一節。但し、表記は「肴掛」。戦後のものであるが、正字正仮名の「日本永代藏・世間胸算用評解」の再版(守随憲治・大久保忠国共著/一九五二年有精堂刊)のここで確認出来る(左ページの最終行)。次のコマに「語釋」があり、そこに『○肴掛――干魚などを掛けて置く鉤。』とある。]

2024/04/09

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(21)

 

   寺の菜の喰のこされて咲にけり 龜 洞

 

 寺の中に畠があつて菜が作つてある。いづれ坊主どもの食用であらうが、その食ひ殘りの菜に薹が立つて花が咲いた、といふ風に解せられる。事實としては寺の畠の菜に花が咲いたといふに過ぎぬが、それを坊主どもに食ひ殘されたと見たのがこの句の眼目である。「喰のこされて」の一語によつて、この菜は油を取る目的や何かで花を咲かせたものでないことがわかると同時に、花の分量がそう多くないことも想像出來る。

「春雨や食はれ殘りの鴨が鳴く」といふ一茶の句がある。春まで池か沼にゐる鴨に對して、人に捕られず、食はれずに命を全うしたと見るのは、いさゝか持つて廻つた嫌があつて、素直に受取りにくいが、畠の菜が食ひ殘されて花が咲くといふ方は、句に現れた通り感じ得るやうに思ふ。それが寺の畠であるといふことも、場所に關する連想を補ふ效果があつて、而も不自然に亙る弊からは免れ得てゐる。奇拔といふ點から云へば、一茶に一籌[やぶちゃん注:「いつちう」。]を輸[やぶちゃん注:「ゆ」。]せねばならぬけれども、食はれ殘りの鴨よりは、食ひ殘されて春に逢ふ菜の花の方に眞のあはれはあるのである。

[やぶちゃん注:「龜洞」比企郡番匠村(現在の埼玉県比企郡ときがわ町)の、代々、在村医で俳諧を嗜んだ小室家の二代田代通仙(享保一七(一七三二)年~文化 三(一八〇六)年)は幼名を波門と称し、俳号らしき自在庵亀洞を持つが、彼か。

「春雨や食はれ殘りの鴨が鳴く」「七番日記」所収。そこでは、

   春雨や食れ殘りの鴨が鳴

である。自筆本では下五が異なり、

   春雨や食はれ殘りの鴨の聲

である。]

 

   染物をならべて掛る柳かな 路 健

 

 綺麗な感じである。染物の色は何だかわからぬが、柳の綠に映發する鮮な色のやうな氣がする。色彩を表面に現さないで、色彩が目に浮ぶから妙である。

「ならべ」といふ言葉は、柳に竝んで染物を掛けたといふ風に解されぬこともないが、染物をいくつも竝べて掛ける、卽ち複數の場合と見る方が自然であらう。この十七字を誦して、駘蕩たる春風を面に感ぜぬ者は、竟に詩を解するの人ではない。

 

   笠かけて笠のゆらるゝ柳かな 荻 人

 

 この方は柳に掛けるものと見ていゝやうである。柳に近く茶屋の柱とでもいふべきものがあつて、そこに笠を掛けたのでも差支ないが、特に柳の木から切離す必要もなささうに思ふ。

 春風は徐に空を吹き、又柳を吹く。柳の枝の靡くにつれて、そこに掛けた笠も搖れるのである。笠を掛けて憩ふ者は旅人であらう。場所を描かず、人を描かず、柳と笠とだけで一幅の畫圖を構成してゐるから面白い。

「笠かけて笠の……」といふ風に同語を繰返す句法は、後世にも好んで用ゐる人がある。見方によれば一種の技巧であるが、この句の場合の如きは極めて自然で、一向斧鑿痕は感ぜられぬ。

[やぶちゃん注:「荻人」「てきじん」と読んでおく。蕉門であることは判った。]

 

   目ぐすりの看板かける柳かな 呂 風

 

 ついでだからもう一つ同じやうな句を擧げて置かう。

 讀んで字の如き市中の小景で、說明を要する點も無いが、この句に至ると、染物の句ほど柳を離す必要も無し、笠の句ほど柳につける必要も無い。配合趣味ともいふべきものが强くなつてゐる。「目ぐすりの看板かけむ絲柳」となつてゐる本もあるが、いづれにせよ店の前に柳の垂れた、長閑のどかな景色が目に浮ぶまでで、强ひて柳と看板との關係を限定するにも及ばぬやうである。

 この三句を併觀すると、柳といふ一の季題に關し、期せずして同じところへ落込んだといふ風にも考へられる。併しその落込んだ狹い領域の中で、三句三樣の變化を示してゐるのを見れば、俳諧の天地は容易に窮まらぬといふ感じもする。俳諧の變化は毛色の變つた句の中に求めるよりも、かういふ近似した句の中に求めた方が、却つてよく會得出來るのかも知れない。

 

   春雨や音こゝろよき板庇 蘆 角

 

 雨に古今の變りは無いが、之を受けるものには變りがある。この句は板庇に當る雨の音を快しと聞いたので、從つてこれは音もなく煙るやうな春雨でない、もつと强い降り方の場合と思はれる。

 香取秀眞氏が大學病院で詠まれた歌に「風の音あめのしづくの音聞かむ板葺やねを戀ひおもふかな」といふのがあつた。これは「雨ふれど音の聞えず、しぶきのみ露とぞ置く」コンクリート建築に慊焉たる結果、爽な[やぶちゃん注:「さはやかな」。]雨の音に想ひを馳はせられたものであらう。板庇にそゝぐ雨の音を愛づることは同じであつても、茅葺屋根に居住する人の心持と、トタン葺に馴れた人の心持とでは、その間に多大の逕庭あるを免れまい。この句の眼目は春雨の音を主にした點に在る。閑居徒然の耳を爽にする春雨は、相當降りの强い場合でなければならず、之を受けるのも板葺でなければならぬ。トタンでは爽を通り越して、少々やかましい憾がある。

[やぶちゃん注:「香取秀眞」既出既注

「慊焉」(けんえん)あきたらず思うさま。不満足なさま。]

 

   白鷺の雨にくれゆく柳かな 諷 竹

 

 柳に鷺の配合は、日の出に鶴ほどではないかも知れぬが、畫材としては頗る陳腐なものである。それに雨を添へただけでは、まだ格別のことも無い。たゞ「くれゆく」といふ時間的經過が加はるに及んで、稍〻陳套を脫すると同時に、繪畫の現し得る以外のものを取入れたことになる。

 柳の上にぢつとしてゐる鷺は、下の水にゐる魚でも狙つてゐるのであらうか、先刻から少しも動かぬ。霏々たる雨のやまぬ中に、水邊の空氣は徐に暮れかけて來た。白い塊のやうな鷺の姿も、影のやうな柳の木も、一つになつて夕闇の中に見えなくならうとしてゐる。――かう解して來ると、見慣れた常套的畫景の外に、何等か新なものが感ぜられる。作者が腦裏に組立てた景色でなく、實感より得來つた爲であらう。

 

   花の雨鯛に鹽するゆふべかな 仙 化

 

 これだけのことである。到來の鯛でもあるか、それに鹽をふつて置く。かういふ事實と、花の雨との間にどういふ繫りがあるかと云へば、こまかに說明することは困難だけれども、そこに或微妙なものが動いてゐる。その微妙なものを感ずるか、感ぜぬかで、この句に對する興味は岐れるのである。

 花の雨といふことに拘泥して、花見の料に用意した鯛が、雨の爲にむだになつたのを、夕方になつてから鹽をふるといふ風に解すると、誰にもわかり易いかも知れぬが、それでは一句が索然たるものになつてしまふ。この句の眼目は、鯛に鹽をふるといふことと、花の雨との調和にあるのだから、どうして鯛に鹽をふらなければならなくなつたか、といふ徑路や順序に就て、さう硏究したり闡明したりする必要は無い。そんなことが何處が面白いかといふやうな人は、むしろ最初からこの句に對する味覺を缺いてゐるのである。この作者が都會俳人であることは、贅するまでもあるまい。

[やぶちゃん注:「仙化」(生没年不詳)「仙花」とも書いた。江戸の人。蕉門。俳諧撰集「蛙合(かへるあはせ)」(貞享三(一六八九)年刊)を編している。「あら野」・「虛栗」・「續虛栗」などに入句している。]

 

   灸居てみる山近しはつ櫻 吾 仲

 

「灸居て」は「スヱテ」である。灸をすゑながら山を見るといふのか、灸をすゑてから山を見るといふのか、その邊は俳句の敍法の常で判然しないが、とにかく而して見た山の端に初櫻を認めた、といふ句意らしく思はれる。

 その山は近くに在る。從つてその櫻も霞か雲かと見まがうやうなものではない。初櫻といふものは花の量の乏しいことを現すと同時に、季節に於て稍〻早いといふところを蹈へてゐる。そこに灸をすゑる爲に脫いだ肌の寒さといふやうなものが感ぜられて來る。初櫻と灸との間には、それ以外に何の因緣も無ささうである。

 

   菜の花のふかみ見するや風移り 路 健

 

 一面の菜の花に風が吹渡る。さう强い風ではないが、花から花へと風の移つて行くのを見送ると、今更のやうに菜の花畑の廣さ、奧行の深さといふやうなものが感ぜられる、といふ意味であらう。

 ちよつと變つた句である。點景もなければ背景もない。たゞ菜の花といふものを――一本一輪の微[やぶちゃん注:「び」。]でなしに、一面に咲いた菜の花を見つめたところに、この句の特色がある。

 

   春雨の足もと細しみそさゝい りん女

 

 春雨の中を餌でもあさつてゐるのであらう、鷦鷯[やぶちゃん注:「みそさざい」。]がちよこちよこしてゐる、その足もとを細しと見たのである。

 小鳥の中でも小さい鷦鷯の足もとが細いといふことは、格別特異な觀察でもないが、作者は見た通り、感じた通りを句の中に持つて來た。この場合、鷦鷯がどこにゐるといふやうなことは問題にせず、細い足だけに注意を集中してゐる。鳥よりもむしろ人間に近い感じがせぬでもない。そこに女流の作たる所以があるかと思ふ。

[やぶちゃん注:スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい) (ミソサザイ)」を参照されたい。

「りん女」既注だが再掲すると、蕉門女流俳人。蕉門の筑前秋月の医師遠山柳山の妻。]

 

   菜畠に藪の曇りや雉子の聲 風 國

 

 菜畠の向うにどんより曇つた日の藪が見える、といふのがこの句の背景で、さういふしづかな舞臺の空氣を破つて、突然鋭い雉子の聲がした、といふのである。古風な云ひ方をすれば、靜中動ありとか何とかいふことになるのかも知れない。

 この菜畠は花が咲いてゐてもよし、春をよそにした靑菜畠であつても差支無い。要するに雉子が登場するまでの背景をつとめれば足るのだから、畫家の手心で一面の綠にしても、少々黃色をなすつても、そこは深く問ふに當らぬであらう。

 

   棚解てよごるゝ藤の長さかな 探志

 

 何かの必要があつて藤棚ふじだなの竹を解いたので、そこに下つていた藤の長房が地に垂れて、花の末を汚した、といふ意味であらう。藤棚の藤を句にする場合、その棚の竹を解く光景などは、容易に頭に浮ぶものでないから、こういふ實景に逢著して詠んだものに相違ない。

 藤の花はさう壽命の短いものでもないにせよ、棚の修理でもするなら、花が過ぎてからにしてもよささうな氣がする。何か事情があつたものと思ふが、作者はそんなことは穿鑿しない。たゞ眼前に棚を解いた爲、藤の花房が垂れて地に汚れてゐる、といふ事實だけを捉へてゐる。棚を外された藤などは慥に變つた眺であり、そこに又一種の趣も存する。

[やぶちゃん注:「探志」(生没年未詳)は元禄(一六八八年~一七〇四年)頃の近江膳所の鞘師。蕉門。作品は「ひさご」「千句づか」などに載る。通称は小兵衛。別号に探芝・探旨。]

2024/04/08

譚 海 卷之十三 山椒・とうがらしの事 くわりんの實たくはやうの事 へちまの水取る事 つりん酒の事 菊酒の事 淫羊霍酒につくる事 黃精酒にひたし置けば補益の效ある事 梅酒製法の事 盃をあらふ器の事 らんびきにて花の香を取事 櫻花の實酒肴に用ゆる事 銚子口つくりやうの事 茶を製する事 せん茶・五加茶の事 松葉たばこの事 かすてらこしらへやうの事 附羽州雪餅の事

[やぶちゃん注:冒頭の「目錄」の標題の「とうがらし」はママ。「つりん」もママ(「くわりん」であろう)。「淫羊霍」は「いんやうくわく」と読む。]

 

○山椒・たうがらしの類、「びいどろ」に貯(たくはふ)べし、あじはひ、損ずる事、なし。

 

○「くはりん」の實、小口より切(きり)て沙糖に漬置(つけおく)べし。痰を治すると、いへり。

[やぶちゃん注:「くわりん」シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensis 。中国原産のバラ科の落葉高木。樹皮は滑らかで、鱗状に剝がれる。春。新葉と同時に、芳香のある径さんセンチメートルほどの淡紅色花が短枝の先に単生する。果実は楕円形で、表面に毛がなく、長さ十~十五センチメートルの楕円形又は倒卵形をなし、紅葉する十~十一月に黄色に熟す。果肉は硬く、酸味も強くて生食出来ないが、砂糖漬としたり、芳香があるので、果実酒の材料とする。高校生の頃、親友がこっそり自室で作っていて、とても美味かった。]

 

○「へちま」の水、痰を治す。夜分、痰咳にて寢(いね)かぬるとき、「へちま」の水を、茶碗に半分ほど、あたゝめて、飮(のん)で寢る時は、極(きはめ)て、とほざくる也。

 「へちま」の水をうるは、八月十五夜を、よし、とす。「へちま」を、土より、一、二尺ほど置(おき)てきり、切たる小口をも、垣にからみたる小口をも、德利の口へ指込置(さしこみおく)時は、暫時に、水、したゝり、滿(みつ)る也。德利を、いくつも用意して、とりかへて、水を、たくはふべし。十五夜より後(のち)、廿日比(ごろ)迄は、日々、晝より、水を、とるべし。朝暮(てうぼ)、ゆだんすべからず。

 

○「つりん酒」、又、精氣を益(ます)べし。その方(はう)、黑豆四合・肉桂壹匁・冰砂糖(こほりざたう)半片、右、三味(さんみ)を取(とり)まぜ、ひたし置(おき)、一月(ひとつき)の後(のち)、飮(のむ)べし。

[やぶちゃん注:「つりん酒」恐らくは二つ前の「カリン酒」のことであろう。]

 

○「きく酒」は、壺に、古酒を、たゝへ、壺の口一杯に懸(かく)る程に、籠を、つくり、籠の内に、きくの花を、みつるほど、つめて、壺を、かたく封じ、靜成(しづかなる)所に收置(をさめおき)、來年、夏至の後(あと)、開飮(ひらきのむ)べし。

 菊花(きくくわ)、酒氣に蒸れて、悉く、しほれからび、その花の匂ひ、酒に移(うつり)て、尤(もつとも)、收(をさむ)る時、籠の底へ、酒、及(およば)ぬやうあにすべし。

 若(もし)、酒にて、籠を潤(うるほ)さば、菊花、くされて、酒氣、佳(か)ならず。

 また、黃菊酒(きぎくしゆ)の方(はう)、黃菊の苦き所を去り、花ばかりを、砂糖一斤と、古酒壹升に、ひたす。

 

○淫羊霍(いんやうくわく)も、「精を補ふ。」と云(いふ)。右一味を、酒にひたし置(おき)、時々、用ゆ。但(ただし)、おほくいるゝ時は、酒氣、か[やぶちゃん注:「佳」か。]ならず。

[やぶちゃん注:「淫羊霍」本来のこの名の種は、中国から渡来した薬草「ほざきいかりそう(穂咲碇草)」(モクレン亜綱キンポウゲ目メギ科ホザイキカリソウ Epimedium sagittatum )の漢名であるが、本邦に植生するのは、中国にはないイカリソウ属変種イカリソウ変種イカリソウ Epimedium grandiflorum var. thunbergianum を指す。また、その茎葉を乾燥させた漢方の強壮・強精薬をも言う。「淫」の字で判る通り、この属の幾つかは、陰萎の他、健忘症・神経衰弱・四肢痙攣などに効用がある。]

 

○黃精(わうせい)をも、酒にしたし置(おき)、くらふべし。補氣の功、あり。

[やぶちゃん注: 「黃精」は単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科アマドコロ連アマドコロ属ナルコユリ Polygonatum falcatum 及び、その近縁種の根茎から製せられる生薬名である。ここにある通り、果実酒として「黄精酒」が強精に功があると江戸時代より知られている。]

 

○梅酒を造るには、大きなる梅の實、疵なき物を、二つ、えりて、軸を、はなちさり、その跡へ、「めしつぶ」を牢く[やぶちゃん注:「かたく」。]ぬり、古酒壹升と、砂糖一斤に、ひたすベし。三月(みつき)の後(のち)、ひらき飮(のむ)べし。

 

○盃(さかづき)を洗ふ器(うつは)は、引出しの有(ある)箱を造り、引出しの上に、「かけご」を付(つけ)、「かけご」の底を「すのこ」にして、「すのこ」の上に「すいかん石」を敷(しき)て、水瓶(すいびん)を、そへ、酒宴の席に備置(そなへおく)べし。盃、ねばりたる時は、水瓶の水にて、洗ふ。水を引出し、より拔取(ぬきとり)て、こぼすべし。

[やぶちゃん注:「かけご」「懸子・掛子・掛籠」で、外側の箱の縁に、乗せ掛けて、中に嵌めるように作った箱。「Weblio 辞書」の「デジタル大辞泉」の画像が理解しやすい。

「すいかん石」「寒水石」のことか。炭酸カルシウムで出来た石灰石の最も上質なものを言う。現行では、福岡県産のものが最も優れた品質を持つとされる。水に溶け難い。]

 

○「らんびき」にて香薰(かうくん)をとるもの、七種、梅花・薔薇花・蕙蘭花・菊花・金銀花・石菖蒲・柚の花、右、七種の油、一箱に詰(つめ)て、芝太好庵に有(あり)。百疋ほどの價(あたひ)也。酒窻[やぶちゃん注:底本に「窻」に編者の右補正注があり、『(宴)』とある。]に臨(のぞみ)て、此花の油を、一滴、盃中(はいちゆう)に落せば、酒、悉く、その匂ひと成(なる)也。

[やぶちゃん注:「らんびき」江戸時代に海水・薬油・酒類(焼酎)などを蒸留する際に用いた器具。ここは香油に当たる。先行する「譚海 卷之一 同國の船洋中を渡るに水桶をたくはへざる事幷刄物をろくろにて硏事」の私の注を見られたい。

「蕙蘭花」は「けいらんくわ」で、既出既注だが、再掲すると、本来は単子葉植物綱キジカクシ目ラン科セッコク亜科エビネ連 Coelogyninae 亜連シラン属シラン Bletilla striata を指すが、本文は単に「蘭」となっているので、広義の蘭(ラン)を指すものと採っておく。

「金銀花」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica の別名。書家に開花する甘い香りを放つ。私の好きな香りの花である。

「石菖蒲」これも既出既注。単子葉植物綱ショウブ(菖蒲)目ショウブ科ショウブ属セキショウ(石菖) Acorus gramineus のこと。]

 

○櫻の實、鹽漬(しほづけ)にして、酒の肴に用ゆべし。京都祗園二軒茶屋にて調ずること也。

[やぶちゃん注:「京都祗園二軒茶屋」ここに現存する(グーグル・マップ・データ)。]

 

○銚子の口を、銀にて、長く造り、酒の出(いづ)る口へ、銀にて、網をかけて、網に、ときの花を、一りん、つみ入(いれ)て、翫(ぐわん)すべし。酒をつぐとき、酒、はなを、くゞり出(いづ)る故、酒氣、花の香を帶(おび)て、興(きやう)、有(あり)。

 

○茶の木を植(うゑ)て、茶を拵(こしらふ)るには、私(わたくし)の慰(なぐさめ)斗(ばか)りには、隨分、細芽の、小(ちいさ)なるを、つみて、酒に蒸(むし)て後(のち)、蔭干にして收置(をさめおき)、せんずる時、常の如く、「ほいろ」にかけて用(もちゆ)れば、うりかふ茶に、劣る事、なし。殊に味あるもの也。

 

○茶を、ほうじて、冷水にひたし置(おけ)ば、色、よく出(いで)て、匂ひも、減(げん)ぜず。

 外(ほか)に、「さ湯」をわかし置(おき)て、「さゆ」を茶わんに入(いれ)、冷水に、ある茶を、少しまぜて、出(いだ)せば、「にばな」の如く、風味、よし。

 

○五加茶(ごかちや)の方(はう)、枸杞葉(くこのは)・うこぎの葉・忍冬葉(すひかづらのは)・桑の葉・茶の葉、右、五種、等分にして、常に茶の代りに用(もいゆ)れば、養生の功、有(あり)と、いへり。

[やぶちゃん注:「五加茶」本来は、五加(うこぎ)の若葉を乾かして、茶の代用にしたもの。本邦のそれは、もともとは、主原料をヒゴウコギ Eleutherococcus higoensis とする。]

 

○松葉多葉粉(まつばたばこ)の方(はう)、靑き松の葉を「こしき」へ入(いれ)、湯氣(ゆげ)にて蒸(むし)、取出(とりいだ)して、日に、ほし、たばこに、ひとしく、用ゆべし。又、きざまずして、よき程の、たばこの如くに用らる也。但(ただし)、日に、ほす時、酒を、ふりかけて、ほすべし。

[やぶちゃん注:「松葉多葉粉」松葉を使用した煙草様のもの。ニコチンを含まないので、現行では「松葉香」と呼ばれている。私は吸ったことはない。]

 

○「かすていら」の方(はう)、玉子十五・「うは粉(こ)」壹升・砂糖一斤、右、三種を摺鉢にて、合(あは)し拵(こしらふ)る也。先(まづ)、砂糖を、摺鉢にて能(よく)摺置(すりおき)て、後(のち)、「うは粉」と、玉子とを、入(いれ)て、摺交(すりまぜ)、「かすていら鍋」へ、油を引(ひき)、鍋の底へ、厚き紙を敷(しき)て、其上へ、流しつめ、蓋をして、炭火にて燒(やく)也。

 火、ぬるき時は、蓋の上へも、少し、火を置(おく)べし。

 扨(さて)、能(よく)燒上(やきあが)りたるかと、試(こころみ)るには、「わら」の「みご」を通して、見るべし。「みご」に、「かすていら」の付(つか)かざるを出來上(できあが)りの期(き)とす。

 但(ただし)、「かすていら鍋」、なき時は、「ほうろく」を蓋にする程の鍋を用(もちい)て燒(やく)なり。「ほうろく」を鍋の蓋にして、「ほうろく」の上に、火を置(おき)て、上下(うへした)より、蒸(むし)て燒(やく)事也。先(まづ)、下より順にて燒(やく)時に、能(よく)、蒸(む)るゝ時は、玉子、にえあがる。そのとき、上へも炭火を置(おく)べし。精進には、白米の粉(こ)壹升と、白砂糖壹斤を、長芋の、とろとろにて、ねり合(あは)せて拵(こしらふ)る也。

 「うは粉」と云(いふ)は、「うどん」の粉の上品の、水、ひせしもの也。菓子店に有(あり)。精進には、白米の「こ」を用ゆ。「うはこ」を用れば、風味、凝(こり)て、よろしからず。

 羽州にて、「雪餅」と云(いふ)を製するには、寒中の雪を、玉子程(ほど)に、まろめて、その上を、「うどんの粉(こ)」を、ねり包みて、そのまゝ、「にえ湯」の内へ打(うち)こめば、雪は、消(きえ)て、内の、うつろ成(なる)團子に出來(でき)る也。汁粉餠にして、くふ事也。その國には、「しるこ餠」の事を、「ぜんびん」と稱す。此團子、わんへ、もりたるを、箸にて、はさみ切(きり)てくふ也。丸のまゝにて、くふ時は、やけどをする也。箸にて、はさみ切れば、團子の中より、あつき湯氣を、煙のやうに、もらす也。但(ただし)、北國の雪は、かたまりて、解(とく)る事、なければ、團子の製、出來(でき)るか。關東の雪は、とけやすきゆゑ、「だんご」に成(なる)べきや、いかゞ。いまだ、試みず。

[やぶちゃん注:ぐだぐだと和菓子の嫌いな私が述べるより、ウィキの「カステラ」を読まれた方がよかろう。悪しからず。

『その國には、「しるこ餠」の事を、「ぜんびん」と稱す』ネット上では確認出来ない。私は餅入りの「おしるこ」を最も苦手とする変奇人である。再度、悪しからず。]

譚 海 卷之十三 繪絹寸尺の事 耳かきの事 籠細工の事 刄がね火打の事 紙子の事 蓑の事 雪沓の事 桂籠の事 龍吐水幷水汲送る道具の事 竹一節に食物の粉三種たくはふる事 螢を竹の筒に集る事 石燈籠苔を作る事 行燈とうしんの事 居間座敷の事 書架の事 鼻緖途中にて切れたる時用意の事

○繪絹寸尺の事、壹尺二寸・壹尺ハ寸・貳尺・貳寸五分と四通り程、有(あり)。

 三幅對には、一尺二寸、よし。

 竪物(たてもの)にても、橫ものにても、一幅には一尺八寸、よし。

 大橫ものには、二尺二寸、よし。

 たうし竪(たて)一枚程のものには、二尺五寸、よし。

[やぶちゃん注:「たうし」「唐紙」か?]

 

○耳搔(みみかき)は大坂にて製したる、よし。價(あたひ)、廉(やすき)成(なる)ものといへども、先(まづ)、能(よく)こしらヘて耳の垢をすくひとるに、痛む事、なし。

 

○籠細工は駿府よりも、攝州有馬の產、よし。且(かつ)、制作も、風流。駿河より出すものに、勝れり。

 

○火打刄がねは、京都淸水坂より制し、いだすもの、勝れて、よし。

 

○紙子は、仙臺より製しいだすといへども、最上なるは、肥後の八代(やしろ)に勝るもの、なし。上品なるは、已に絹のごとし。

 

○蓑は、羽州秋田にて製する、精密にて、吉(よし)。加賀の產を稱すれども、風流には然るべし。平日用には、秋田、勝れり。

 

○雪沓(ゆきぐつ)は、出羽山形の產、よろし。油紙を、足の「そこ」の、ふむ所にも、つけて、寒氣、通らぬやうに拵(こしらへ)たるもの也。

 

○花生(はないけ)に「桂籠(かつらかご)」といふ有(あり)。是、山州桂川にて、鮎を取(とり)て入(いる)る籠也。

[やぶちゃん注:「桂籠」本来は、山城国桂川の鮎漁に用いたところから言うとされる、鮎を入れるための籠、鮎籠を指したが、その「鮎籠」を、茶人千利休が応用した花入れの一つの名となった。]

 

○龍吐水(りゆうどすい)、近來、大坂にて製し出(いだ)す。殊に工(たくみ)を極(きはめ)たり。

 又、井(ゐ)の水を、くみあぐるやうに製(せいし)たる、有(あり)。大竹を一本、井に入(いれ)、竹の上に箱を仕付(しつけ)て、傍(かたはら)に、人、有(あり)て、箱につくり添(そへ)たる木を、ゆりあぐれば、井の水、卷上(まきあげ)られて、つるベを用(もちい)ずして、自由に、くみとらるゝやうに、「からくり」たるもの也。「一人がかり」・「二人がかり」といふ。「一人がかり」は七拾五匁、「二人がかり」は九拾匁程のあたひ也。

 又、庭へ、水をうつ如露(じようろ)の製にも數品(すひん)あり、甚敷(はなはだしき)は、雨を、ふらするがごとし。

 

○竹、一節の間に、穴、三つ有(あり)。

 胡椒・たうがらし・陳皮(ちんぴ)など、三種、別々に入置(いれおく)製は、竹、一ふしぎりに、穴を、三つ有(あけ)、先(まづ)、一つの穴へ、細かに篩(ふるひ)たる灰を、三分一(さんぶのいち)、つめて、中の穴より、蠟を、わかして、少し、つぎこみ、蠟のかたまるを待(まち)て、蠟を取出(とりいだ)し、又、片々(へんぺん)の穴へ灰をつめ、中の穴より、蠟を、つぎ込(こめ)ば、竹一ふしの内、蠟にて、三つのへだて、出來(いでく)る也。其後、能々(よくよく)、竹の内を、水にて、あらひ、灰を除き盡して、何にても、三種の物を、別々に入置(いれおき)、用あるときは、其穴より、ふるひ出して用ゆる也。

 

○螢を靑竹の内に入(いれ)て、光、外へ通りて見ゆるやうにするには、靑竹の皮を、「すべりひやう」と云(いふ)草の汁にて、何べんも、すりみがく時は、竹の皮、すきとほりて、螢の光り、外へ、みゆる也。

[やぶちゃん注:「すべりひやう」名前の類似性からは、我が家の猫の額ほどの庭にも蔓延るナデシコ目スベリヒユ科スベリヒユ属スベリヒユ Portulaca oleracea を想起するが、根を除く部分が総て食用になる(なかなか旨い)ことは知っているが、竹を摺り磨くというのは知らなかった。先日、家の斜面に鬱蒼と生えていた竹(黒竹を含む)をさんざん伐採したから、今度、やってみようと思う。]

 

○石燈籠へ、早く苔を付(つけ)んとするには、冬月、落葉をあつめ、膠(にかは)にて、石の笠の上に、落葉、付置(つけおく)べし。落葉、風雨にくさりたる跡、苔を生ずる也。

 

○行燈(あんどん)の「とうしん」は、二、三夜づつ、取替(とりかへ)ずして、用ゆべし。あたらしきを、かへ、用(もちゆ)る時は、油へる事、おほし。

 

○行燈をば、繪樣(ゑざま)に漉(すき)たる美濃紙にて、はるべし。席上の淸翫(しんぐわん)、捨(すつ)べからず、白き紋、「しや」[やぶちゃん注:「紗」。]の切(きれ)にても、張る。

 

○居間の座敷には、四壁に物を懸(かけ)て用に備(そなふ)べし。用ある時は、竹の先ヘ、鍵を仕付(しつけ)たるものにて、かけて取(とる)べし、起居を煩(わづらは)さず、又、綱に、鈴をかけて、人を呼(よぶ)べし。聲色(せいしよく)を勞(らう)せずして、よし。

 

○書を架する棚は、板に造るとも、格子にすべし。風、通りて、書籍、蟲ばむ事、なし。

 

○常に「はりがね」を二尺ほど、なまして懷中すべし。途中にて下駄・足駄の緖(を)、きるゝ時、つなぎとむるに便宜(べんぎ)也。又、麻の「かなびき絲(いと)」、二寸針、壹本、そへて、懷中するも、よし。

父の通信(1979年10月28日附)

父が、私が教員になった二十二歳の秋、富山から寄越してきた、父自筆のケント紙にデフォルマシオンの線画を描いた中に、私へのアフォリズムが書かれた通信である――(四十五年前のもので、黄変がかなりあったが、念入りに補正して清拭した)

 

Titinotegami



因みに、この文の中の「十間道路」(グーグル・マップ・データ航空写真)とは、国道四百十五号の内、私の中学・高校附近を貫通する、富山県高岡市伏木市街の西方の道路を指す。家は最終的に伏木の南東の西の山際の矢田新町に新築したが、十間道路の、その南端のところにガソリン・スタンドがあったと記憶する。私は、この十間道路の西側にある伏木中学校と伏木高等学校に通った。青春の忘れられない六年間を過ごした伏木のメルクマールであった。

この、

   *

おなえは(この私である)例の茶色の空(から)の鞄に、黒々滅する内臓をひそませて あそこの「十間道路」のガソリンスタンドに立ってそこから步きだせばよいのだ。そこからおまえの詩・絵・音楽がはじまるのだ。

   *

というアフォリズムが、結構、気に入っている。特に「黒々滅する内臓をひそませて」のところが、だ。「例の茶色の空の鞄」というのは、私が伏木高校時代、好んで持っていたジーンズ地で出来た肩掛け鞄のことで、大学卒業まで愛用していた。

左下のクレジットは父の誕生日である。

 

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(20)

 

   梅が香や樣子の替る伯父の跡 岱 水

 

「伯父の跡」といふのは伯父の亡き跡――それも稍〻時間の經過した跡を指すのであらうと思ふ。一家の主人たる伯父が亡くなつて、その跡嗣の時代になると、どこといふことなしに家の樣子が變つて來る。必ずしも舊慣を悉く廢棄するわけでもないが、主人公が異るにつれて、その空氣に變化を生ずるのである。

 變化は家の内にはじまつて、漸次庭にも及んで來る。そこにある梅は昔ながらに咲いてゐるが、あたりの樣子は大分變つた。在りし日のまゝに梅が咲いてゐるといふ方を主とせず、跡の變化した方を描いたのが、この句の主眼であらう。

「伯父の跡」といふ言葉は、嘗て伯父の住んでゐた跡――屋敷跡と解せられぬこともない。その屋敷が人手に渡つて、面目一變したといふ風に見ると、どうやら吾々の周圍によくある現象のやうになつて來るが、强ひてさういふ變革を望むには當らぬ。先づ跡嗣の代になつて家の樣子が大分變つた、といふ程度に見て置きたい。いづれにしてもこの作者が「伯父の跡」の變化を喜んでゐないことだけは明である。

[やぶちゃん注:「岱水」(生没年不祥)江戸蕉門の一人。初め、苔翠と称した。芭蕉庵の近くに住み、芭蕉と頻繁に接していた。「木曽の谿」(宝永元(一七〇四)年序)を編している。岱水亭で開かれた影待(=日待:人々が集まって前夜から潔斎して一夜を眠らず、日の出を待って拝む行事。本来は、旧暦正月・五月・九月の三・十三・十七・二十三・二十七日、或いは吉日を選んで行なうとされるが、毎月とも、正月十五日と十月十五日に行なうともされ、一定しない。ただ、後には大勢の男女が寄り集まって徹夜で連歌・音曲・囲碁などをする酒宴遊興的なものと変じた)で、芭蕉は、以下の一句を詠んでいる。貞享四(一六八七)年五月で田植えを終えているので、十三日以降の四日の孰れかであろう。

     岱水亭影待に

   雨折々思ふことなき早苗哉

と詠んでいる。挨拶句と考えると、岱水も田を持っていたものと思われ、当時の深川には多く田圃が広がっていたことが判る。なお、元禄六(一六九三)年にも同じく、

     岱水亭にて

   影待や菊の香のする豆腐串(とうふぐし)

の句もある。これは秋の句であるから、収穫後の九月吉日の作であろう。]

 

   里坊の碓聞クやむめの花 昌 房

 

「里坊」は「山寺ノ僧ナドノ別ニ人里ニ構ヘ置ク住家」と『言海』に見えている。「里坊に兒やおはしていかのぼり」といふ召波の句の里坊と同じものである。

 米でも搗いてゐるのであらう、ずしりずしりといふ重い碓の音が里坊から聞えて來る、あたりに梅が咲いてゐる、といふ卽景を句にしたもので、里坊を持出して、特に趣向を凝したやうな跡は見えない。そこへ行くと召波の句は、里坊が非常に働いてゐる代りに、多少斧鑿の痕の存するを免れぬ。

 上五字が「里坊に」となつてゐるのもあるが、全體の意味は大差ないやうに思はれる。「聞クや」といふ言葉も、殊更に聽耳を立てたわけでなく、「聞ゆ」といふほどの意に解すべきである。

[やぶちゃん注:「碓」「からうす」。「唐臼」。

「召波」黒柳召波(享保一二(一七二七)年~明和八(一七七一)年)は京都の俳人。別号、春泥舎。服部南郭に漢詩を学ぶ。明和初(一七六四)年頃、蕪村の「三菓社」に加わり、俳諧に精進した。「春泥発句集」が知られる。]

 

   雨氣つく畠の梅のよごれけり 鼠 彈

 

 讀んだ通りの句である。梅の花の白さはあまり鮮麗なものでないから、曇つた日などは多少薄ぼんやりした感じを與へることがある。この句は雨催[やぶちゃん注:「あめもよひ」。]の畠の中にある梅の花で、或は稍〻盛を過ぎてゐるのかも知れない。花の色が汚れて見えるといふのである。

 取立てゝ云ふほどの句でもないし、俳句としては珍しいこともないが、文人趣味、南畫趣味でなしに、野趣橫溢の梅を描いたのが面白い。畫にするならば正に俳畫の世界である。どんよりした空の下に汚れた色の梅が咲いてゐるなどは、漢詩人も歌よみも恐らくは喜ばぬ趣であらう。自然を生命とする俳人の眼は、元祿の昔に於て悠々と如是[やぶちゃん注:「によぜ」。]の景を句中に取入れてゐる。

[やぶちゃん注:「雨氣」「あまけ」。雨の降りそうな様子。雨模様。雨はまだ降っていないので注意。]

 

   鶯の障子にかげや軒づたひ 素 覽

 

 鶯が庭に來て、軒端に近い木を彼方此方[やぶちゃん注:「あちらこちら」。]と飛び移つてゐる、その影が障子にうつる、といふのである。

 歌ならば「軒端木づたふ」といふところであらう。俳句は字數が少いから、「軒づたひ」の五字で濟してしまつたが、鶯の性質から考へて、軒端の木から木へ飛び移りつゝあることは疑を容れぬ。それだけなら平凡に了るべき景色を、障子にうつる影によつて變化あらしめたのが作者の手際である。

 一杯に日の當つた南軒の障子が目に浮んで來る。軒端木づたふ鶯の影は、その障子にはつきりうつるのである。障子のうちの作者は、影法師の動きだけで十分に鶯たることを鑑定し得るのであらうが、それだけではいさゝか曲が無い。一杯に日の當つた南軒の障子に對しても、影の主はその嬌舌を弄する義務がある。

[やぶちゃん注:「嬌舌」(きやうぜつ)は「艶めかしさ」「愛らしさ」の意。]

 

   谷川やうぐひすないて鮠二寸 水 札

 

 まだ谷の戶を出でぬ鶯が頻しきりに啼いている、谷川の鮠は已に二寸位になつている、といふ山間早春の景を敍したのである。「うぐひすないて」といふ中七字は、現在鶯が啼いていることを現すだけでなしに、もう鶯が啼くやうになつたといふ、季節の推移を現しているやうな氣がする。

 鶯と二寸位の鮠との間には、格別交涉があるわけではない。早春の季節が谷川を舞臺として、一見沒交涉らしい兩者を繋ぐ。そこに一種生々の氣が感ぜられる。

[やぶちゃん注:「水札」「すいさつ」であろうが、この語は「けり」も読むと、鳥綱チドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ属ケリ Vanellus cinereus を指す。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 計里 (ケリ)」を見られたいが、この人、鳥好きの俳人であったものと思われる。

「鮠」「はえ」或いは「はや」と読む。複数の淡水魚を指す総称で、「ハヤ」という種はいない。詳しくは「大和本草卷之十三 魚之上 𮬆 (ハエ) (ハヤ)」の私の注を見られたい。]

2024/04/07

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(19)

 

   行燈の一隅明しはるの雨 紫貞女

 

 古ぼけた行燈の隅のところだけ明るい、といふ風に一應解せられる。春雨が音もなく降るやうな晚、座邊の行燈をぢつと見つめて、かういふ趣を發見したのであらう。

 併し再案するに、行燈だけの一隅と解するのは、少しく世界を局限し過ぎる嫌がある。行燈を置いた座の一隅がぼんやり明るいといふ、やや廣い場合に解した方がいゝかも知れない。今から考へれば何の威力もなささうな行燈の光が、それだけ明るく感ぜられるといふことは、昔の夜の暗さ――戶外の闇ばかりでなしに、室内の暗さを語るものである。

「一隅明し」といふところにこの句の主眼がある。女流の句だから「イチグウ」とよまずに「ヒトスミ」とよむべきかと思ふ。

[やぶちゃん注:「紫貞女」木村紫貞女(していじょ)。現在の佐賀県三養基郡基山町園部の夫の与市とともに蕉門(野坡系)であった、裕福であったらしい女流俳人である。]

 

   鳴さかる雲雀や雨のたばね降 沙 明

 

 雨中の雲雀である。「たばね降」といふ言葉はあまり耳にせぬようであるが、相當强い降りであることは想像に難くない。ザアザア降る雨の中に、しきりに雲雀の聲が聞える、といふ意味らしい。

 太閤の「奧山にもみぢふみわけなく螢」の時に細川幽齋が持出した「武藏野やしのをつかねてふる雨に螢よりほかなく蟲もなし」といふ歌は、出所曖昧の三十一字だけれども、「たばね降」はこの「しのをつかねて」の意味に當るのではないかと思ふ。但地方語として何か特別の意味があれば、もう一度出直してかゝる必要がある。

[やぶちゃん注:「沙明」筑前蕉門。黒崎宿(現在の北九州市八幡西区)の町茶屋である脇本陣を経営していた関屋沙明。]

 

   氣うつりに酒のみ殘す櫻かな 桃 妖

 

 櫻に酒はつきものである。年々歲々相似たる花を見る人は、歲々年々同じやうに酒を飮んで、春を短しと歎ずるのであらう。是故に花見の句には古往今來、紛々たる酒氣がつき纏ふのを常とする。

 この句の主人公も型の如く酒を携へて出たのではあるが、愈〻出かけて見ると、それからそれへと氣が移るために、遂に持つて行つた酒を飮み殘した、といふのである。

 眼目であるべき酒を飮み殘したといふところに、別な意味の花見氣分が窺はれる。隨處の春が人を支配する爲であらう。

[やぶちゃん注:「桃妖」(たうやう)長谷部桃妖(はせべとうよう 延宝四(一六七六)年~宝暦元(一七五二)年)は「奥の細道」好きなら、横手を打つ著名な俳人。加賀山中温泉の旅宿「泉屋」の後の主人。元禄二(一六八九)年、「奥の細道」の旅で宿泊した松尾芭蕉から「桃妖」の号を贈られた美少年、謂わば〈芭蕉のタドジオ〉である。通称は甚左衛門。別号に桃葉。忠実な曾良が永い「奥の細道」の旅で、ここで胃痛激しくして、別れて先行したというのは、如何にも嘘臭フンプンで、実は芭蕉が彼を偏愛したことで最終的に(その直前の立花北枝が二人に同行したことも大いに気に入らなかったものとは思う)キレたのが真相の一つであると私は信じている。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 69 山中や菊はたおらぬ湯の匂ひ』以下、『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 79 名月の見所問はん旅寢せむ』までを、ブログ・カテゴリ「松尾芭蕉」で追体験されたい。

譚 海 卷之十三 銀道具・象牙等をみがく事(2) 沙子箱の事 木地の道具色を付る事 鷄冠石色付やうの事 角細工の事 油紙祕方の事 懷中のり製しやうの事 木をつぐ方の事 鐵釜等さびを拔方の事 ぬかみそ樽等のにほひをぬく方の事 鐵鍔のさびをおとす方の事 膏藥の物につきたるを落す方の事 紙にて甲冑を製する事 錢筒の事

[やぶちゃん注:冒頭のそれは、前回分の私の頭注を見られたい。]

 

○銀道具をみがくには、土(つち)間[やぶちゃん注:底本には編者の補正傍注が右にあり、『(眞)』とする。]似合(まことにあひ)の紙にて、磨くときは、よく、垢を落し、光を出(いだ)す、且(かつ)、疵付(きずつく)事、なし。象牙は、半紙にて、みがくべし。

 

○砂子(すなご)の箔を用(もちゆ)る事あるには、一步(いちぶ)四方の切箔(きりはく)を、おかんとせば、一步四方の箔と、好(よし)み、やるべし。箔細工の者、意、得て、其大さに箔を切(きり)て、こす事也。

 竹の筒の底に、絲にて、網を付(つけ)、一步、二步と、段々に拵へある也。夫(それ)を此方(こなた)にて、置(おか)んと思ふ紙を引(ひき)、此箔の入(いり)たる筒を片手に持(もち)、片于に筒を打(うつ)時は、箔、網のめより、こぽれて、心の如く、おかるゝ也。但(ただし)、箔をおしみて、そろそろ、筒を打(うつ)時は、却(かへつ)て、箔のこぼるゝ事、一かたまりに成(なり)て、「むら」、出來(いでき)て、あしき也。

 おしげなく、筒を打(うち)て、すらすらと、おく時は、箔むら、なく、能(よく)こぼるゝ也。

[やぶちゃん注:「砂子」ここは、「金銀の箔を細かい粉にしたもの」を指す。蒔絵・色紙(しきし)・襖紙などの装飾に用いる。]

 

○桐、何にても、木地の物、垢つかぬやうにせんと思ふには、「おはぐろ水」を、ぬりたるもよし。年を經て、薄黑く鼠色に成(なる)也。又、一際、こくぬらんと思ふ時は、「おはぐろの水」へ、石灰(いしばひ)を、少し、まぜてぬるべし。塗(ぬり)たる當座は、紫の色に似て、年をへて、「かきあはせぬり」の薄きものゝやうに、色、黑み出(いづ)る也。

[やぶちゃん注:「おはぐろ水」「町田歯科・矯正歯科」公式サイト内の『見た目と裏腹!?歯に効果的だった「お歯黒」』の「お歯黒の作り方」に詳しい。]

 

○鷄冠石、色(いろ)を付(つく)るには、石を梅酢にて、せんじ、一夜、鍋の内へひたし置(おき)、翌日、取出(とりいだ)し、石の上、皮の黑き所を。けづりされば、したより、紅色を生ずる也。

[やぶちゃん注:「鷄冠石」砒素の硫化鉱物。オーロラ赤色・オレンジ黄色などの樹脂光沢を持つ単斜晶系短柱状結晶。長時間光をあてると、石黄と方砒素鉱(ほうひそこう)に変質し、粉末状になる。熱水性・噴気性鉱床中に産する。花火に用いられる。リアルガー(realgar:これはアラビア語の「Rahj al ghar」(鉱石の粉末)に由来するとされる)。「雄黄(きに)」とも呼ぶ。]

 

○角細工(つのざいく)をするには、鹿の角を、砥(といし)にても、鮫(さめ)にても、細(こまか)に、おろし、竹の筒に、つめ、「馬ふん」の内へ、五、六日、埋め置(おき)、其後(そののち)、取出(とりいだ)せば、ねばりて、糊のやうに成(なる)也。それにて、何にても、思ふものを拵立(こしらへたて)、扨(さて)、「さんざし」にて、にる時は、もとの如く、かたまる也。

[やぶちゃん注:「さんざし」山査子・山樝子。バラ目バラ科サンザシ属サンザシ Crataegus cuneata 。当該ウィキによれば、『果実(偽果)には、オレアノール酸』、『フラボノイドのクエルシトリン・クエルセチン、タンニンのクロロゲン酸を含むほか、豊富なビタミンCも含んでいる』とあるので、それらのどれか、或いは、複数が、作用するものと思われる。]

 

○油紙の祕法、「ゑの油(あぶら)」壹合、滑石三匁四分、右二種、合(あはせ)て煎じ用ゆ。冬月、せんずるを、よしとす。三日煎じて後、器に入(いれ)て、かたく封じ、地中に埋め置(おき)、來年六月三伏日、地中より出(いだ)し、再び、せんずる事、しばらくして、用る也。但(ただし)、煎法の火加減、ゆるくなく、强くなく、油に、えあからぬやうに、ほどよくすべし。

[やぶちゃん注:「ゑの油」「荏の油」。荏胡麻(えごま:シソ目シソ科シソ亜科シソ属エゴマ変種エゴマ Perilla frutescens var. frutescens)の種子から採取した乾性油。日本の特産で、油紙・雨傘などに塗布して防水に用いる。

「滑石」(かっせき)は、珪酸塩鉱物の一種で、フィロケイ酸塩鉱物(Phyllosilicates)に分類される鉱物、或いは、この鉱物を主成分とする岩石の名称。世界的には「タルク(talc:英語)」のほか、「ステアタイト」(Steatite:凍石)・「ソープストーン」(Soapstone:石鹸石)・「フレンチ・チョーク」(French chalk)・「ラバ」(Lava:原義は「溶岩」。本鉱石は変成岩である)とも呼ばれる。Mg3Si4O10OH2。水酸化マグネシウムとケイ酸塩からなる鉱物で、粘土鉱物の一種(当該ウィキ他に拠った)。]

 

○「懷中糊」を拵(こしらへ)るには、米の粉(こ)にて拵へたる、大判、有(あり)。夫(それ)をくだき、細末に篩(ふるひ)て貯へ置(おく)べし。入用の時、「へら」に水を付(つけ)て、此粉を、まぶし、用ゆる時は、手紙の封など、殊に、よく付(つき)て、はなるゝ事、なし。「めしつぶ」は、殘りて、費(つひへ)あり。

 

○木にても、板にても、はなれたるを、つぐには、「めしつぶ」を、そくへ板にて、おして、飯の中のめを、よりのけ、「ふし」の粉を、半分ほど、まぜ、二品を水にて、かたく、とき和(やは)らげ、おはぐろの汁を、少し、まぜて、何にても、つぐべし。つぎて後、一夜、手をつけず置く時は、よく付(つき)て、離るる事、なし。

[やぶちゃん注:「そくへ板」不詳。木を突いて削り出した薄い単板を「突板」(つきいた)と言うが、それか?]

 

○又、白き板をつぐにも、「つはぶき」の汁と、「松やに」を、まじへて、つぐ時は、「うるし」にて、つぎたる如く、かたく、はなるゝ事、なし。

[やぶちゃん注:「つはぶき」キク目キク科キク亜科ツワブキ属ツワブキ Farfugium japonicum 。]

 

○鍋釜の「さび」をぬくには、梅の實を、五つ、六つ、入(いれ)、水にて煮る事、二、三日すれば、鐵氣(かねけ)、よく、ぬける也。譬(たとへ)、新敷(あたらしき)鍋なりとも、ぬけざる事、なし。實梅(みうめ)にても、梅ぼしにても、よし。元來、「さらしぬの」などへ、鐵氣の付(つき)たるを落す方也。

 

○香の物漬(つけ)たる明樽(あきだる)の匂ひをぬくには、柿澁を、ぬりて、水を入(いれ)おくべし。日をへて、にほひ、ある事、なし。

 

○鐵鍔(てつつば)のさび落すには、瀨戶物などの中へ、「粉(こな)ぬか」にて、鍔を、うづめ、上より、「ぬか」へ火を付(つく)れば、「ぬか」、もゆるに隨(したがひ)て、ぬかの油、したゝりて、鍔を、うるほす。鍔へ、火のとゞかぬ程を見はからひて、鍔を取出(とりいだ)し、そろそろ、さびを落せば、いかほどのさびにても、滯(とどこほり)なく、おとさるゝ也。

 

○膏藥、物に付(つき)たるを落すには、「わさび」を、おろし、絹に、つゝみ、其汁にて、する時は、落て、殘る事、なし。

 

○「紙にて甲胃を造り、夫(それ)へ、『なめくじり』を、すりつぶして、數度(すど)、ぬる時は、鐵炮玉も、刀劔(たうけん)のたぐひも、とほす事、なし。雨ふりたる時は、別(べつし)て、ねばりて、鐵炮の患(わづらひ)、なし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:……これは……信じがたいねぇ……。]

 

○錢を、たくはふるに、竹の筒を、「ふし」と「ふし」とを、きりて、用ゆべし。筒に錢一文、入(はい)るほどの穴を、橫に、ほそく付(つけ)て、錢を入(いる)べし。入(いれ)て、再び出す事、成(なし)がたし。用ある時は、筒を打(うち)くだき用る也。もろこしの錢筒也。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(18)

 

   あすの雨西にもちてやおぼろ月 林 陰

 

 空には朧な月がかゝつてゐる。明日は雨になるのであらうか、といふのである。それを漠然と雨になると云はずに、「あすの雨西にもちてや」といつたところに、この句の生命がある。「西が曇れば雨となる」といふ唄の文句の通り、西の空がどんより曇つては、明日の天氣はおぼつかないのであらう。

 

   梅が香や雞寢たる地のくぼみ 如 行

 

 農家の庭などの實景であらう。日向ひなたの土の窪んだところに、雞が寢て砂を浴びてゐる。あたりにある梅が馥郁たる香を放つてゐる、といふやうなところらしい。

 香といふことにはあまり執著する必要はない。梅の咲いてゐる日向に雞が砂を浴びてゐる、しづかな光景が浮べばいゝのである。「地のくぼみ」の一語がこの場合最も重要な働をなしてゐる。

[やぶちゃん注:「如行」(じよかう)は近藤如行(?~宝永五(一七〇八)年)は美濃大垣藩士。貞享元(一六八四)年、芭蕉に入門。元禄二(一六八九)年、「奥の細道」の旅を終えた芭蕉を自宅に迎えている。同八年の芭蕉百日忌追善集「後の旅」を編している。通称は源太夫。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 93 大垣入り』、及び、『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 94 胡蝶にもならで秋ふる菜虫哉』を見られたい。]

 

   廣庭や鳩の物くふ梅の花 昌 房

 

 梅に鶯は陳腐の極であるが、鳩を配したのはちよつと變つてゐる。廣庭の日當りのいゝところであらう、鳩が下りて餌を食つてゐる。この鳩は一羽や二羽ではあるまい。多くの鳩が一種の聲を立てながら、豆でも拾つてゐる光景らしく思はれる。

 神社か寺の境内のやうな感じもするが、そう限定する必要はない。前の雞の句と云ひ、この鳩の句と云ひ、自然を直に捉へ來つて一幅の畫圖を成してゐるのは、さすがに元祿人の世界である。

 

   雉子啼や見付た事の有やうに 野 紅

 

 一茶調である。曾呂利新左衞門の筆法を用ゐれば、太閤が猿に似たのではない、猿が太閤に似たのだといふところであらう。

 併しこの句は單に一茶調と云ひ去るには、あまりに似過ぎてゐる。『一茶發句集』にある「雉子なくや見かけた山のあるやうに」といふ句は、材料から云つても、調子からいつても、全くこの句の通りであるのみならず、「見かけた山」といふ言葉も自然の丘山でなしに、見込がついたといふ意味の諺ださうだからである。兩句の僅な相異點である中七字も、存外意味が近いことになつて來る。

 一茶の特色の一として擬人法が擧げられる。吾々もあの顯著な特色を認めぬわけではないが、あれを以て直に一茶獨造の乾坤とする說には贊成出來ない。その證據には現にかういふ句が元祿時代に存在してゐる。一茶調の先蹤をなすことは、野紅の名譽ではないかも知れぬ。但一茶としてはどうしても野紅に功を讓らなければなるまいと思ふ。

[やぶちゃん注:「雉子なくや見かけた山のあるやうに」「七番日記」(文化七(一八一〇)年正月から同十五年十二月までの日記で、筆者及び友人の俳句などをも収める、一茶の日記中、最も代表的なもの)所収。]

 

   尺八の庵は遠しおぼろ月 魯 九

 

 門を吹いて通る虛無僧の尺八ではない。どこかの庵で吹いてゐる尺八である。さう斷定する以上、作者はその尺八の音色を知り、吹く人を知り、その庵を知つてゐるのであらう。その庵は遠くに在る。かねて聞おぼえのある尺八がそこから聞えて來るので、この「遠し」は視覺に訴へる意味のものでなしに、聽覺に訴へる遠さであらうと思ふ。萬象は悉く朧なる月の下に眠つてゐる。その中に尺八の音だけ流れて來るといふのは、如何にも春の夜らしい感じである。

[やぶちゃん注:「魯九」堀部魯九(ろきゅう ?~寛保三(一七四三)年)は江美濃蜂屋生まれ。郷里に孤耕庵を結んだ。内藤丈草の唯一の門弟とされる。師の没後に追善集「幻之庵(まぼろしのいほり)」「鳰法華(にほほつけ)」等を出版している。名は佐七郎。別号に孤耕庵。編著に「春鹿集」「雪白河」等がある。]

 

   此日和つゞく雲雀の高音かな 夕 兆

 

 每日每日いゝ天氣が續く。その日和を喜ぶやうに雲雀が啼く。快適な春の感じを現した句である。

 これだけの客觀の句としても差支無いが、この句には「餞別」といふ前書があつて、路健の旅に出るのを送つたことになつてゐる。出立の際も已に天氣つゞきだつたので、眼前の景色をそのまゝ取入れたものであらうが、同時に旅立つ人に對し、この日和の更に續けかしと希ふ意が含まれてゐるやうな氣もする。日和の空に高く啼く雲雀の聲を聞きながら、徐に旅程に上る。かういふ風物を採つて直に餞別とするのは、俳句以外の詩のあまり執らぬ手段であらう。

[やぶちゃん注:「夕兆」(せきてう)は井波俳壇の浪化門の一人。]

 

   春雨や障子を破る猫の顏 十 丈

 

 障子の破れから猫がぬつと顏を出す、といふのでは平凡である。締出された障子の外から、猫が紙を破つて入つて來る、といふところに面白味がある。外から入る場合には限らぬ。内から破つて出るのでもいゝわけであるが、内から外へ出るのでは「顏」が利かない。紙を押破つてぬつと猫の顏が現れる。そこがこの句の主眼でなければならぬ。

 猫を飼つたことのある者なら、屢〻經驗する實景である。春雨に降り込められて徒然なる日、障子を破つて猫が顏を出すのは、俳味橫溢して面白い。春雨時分ならば障子に穴を明けられても、さう迷惑ではなからうなどと餘計なことを云ふ必要はない。

[やぶちゃん注:「十丈」竹内十丈(じゅうじょう ?~享保八(一七二三)年)は越中の人。元禄九(一六九六)年、伊勢・京都・大坂・粟津・彦根などの芭蕉の高弟を訪ねている。その折の句を上巻に、文通の句を下巻に収めて、同十四年、「射水川(いみづがは)」を刊行している。]

 

   落さうな神鳴雨や木瓜の花  路 靑

 

 中七字は「カミナリアメ」と讀むか、「カミナルアメ」と讀むか明でない。雷雨を訓じて「カミナリアメ」と讀むのが無理ならば、「カミナルアメ」でよからうと思ふ。全體の意味には大した變りは無いからである。

 春雷とはいふものの、すさまじく鳴りはためいて、今にも落ちさうになる。さういふ雷雨の中に木瓜の花がしづかに咲いてゐるといふのである。木瓜の咲いてゐるのはどういふ場所だかわからぬが、深く穿鑿する必要はない。たゞさういふ雷雨の下の木瓜の花といふだけで、この句の感じは十分である。春雷と木瓜との配合も、自然に或調和を得てゐる。

 

   春風やよごれて戾る手習子 吾 仲

 

 登場人物が手習子であれば、「よごれて戾る」材料は墨にきまつてゐる。「顏に書子と手に書と、人形書子は天窓搔」といふ寺子屋の文句は人の耳目に熟してゐるが、寺子屋といふものがなくなつた今日でも、この光景にあまり變りは無い。小學校の生徒も習字のある日などは、大槪顏や手足を汚して歸つて來る。

 併しあの「よごれて戾る」樣子は、頗るのんびりした情景である。「春風」を配合しないでも、慥に春風駘蕩たるところがある。

[やぶちゃん注:「顏に書子と手に書と、人形書子は天窓搔」これは何度か見ている人形浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」の冒頭の一節。

   *

一字千金二千金、三千世界の寶ぞと、敎へる人に習ふ子の中に交はる菅秀才、武部源藏夫婦の者、勞はり傅(かしず)きわが子ぞと、人目に見せて片山家、芹生(せりう)の里へ所がへ。子供集めて讀み書きの器用不器用淸書きを、顏に書く子と手に書くと人形書く子は頭かく、敎へる人は取分けて世話をかくとぞ見へにける。

   *]

古いサイト版の不具合を修正完了

昨日夕刻、サイト版の古層のかなりの一部がシフト・ジスで文字化けすることに気づいたので、本日、概ねUnicode-8(縦書版は改造に時間がかかるので、一部、シフト・ジスで見て貰うように注意書きを附した)に変換した。

2024/04/06

譚 海 卷之十三 ひちりき舌の事 琵琶の事 箏の事 十二調子の事 調藥懸皷の事 花は香木をきらふ事 丁字風呂の事 薫物の事 伽羅の事 釣香爐の事 せんかうの事 白芨の事 銀道具・象牙等をみがく事(1)

[やぶちゃん注:最後は前の「白芨」のからみで独立されてあるが、その後に独立項で「銀道具・象牙等をみがく事」に相当するものがあるので、(1)とした。]

○「ひちりき」の舌(ぜつ)をば、薄く、竹をけづりて後(のち)、「燒(やき)ばさみ」といふものにて、はさみて、ひらたくする也。舌、口授(くじゆ)といふ事を得ざれば、拵損(こしらへそん)ずる也。竹は攝州鵜殿(うどの)の蘆を用ゆ。又、さなくても、古き垣などにせし「よし」を、えり取(とり)て、こしらふるも、よし。

[やぶちゃん注:「ひちりき」篳篥。

「舌」篳篥の盧(廬)舌(ろぜつ)。リード。

「燒ばさみ」金属製の平らなペンチのようなものか。

「攝州鵜殿」大阪府高槻市鵜殿(グーグル・マップ・データ航空写真)。現在も葭原(よしはら)が広がり、ウィキの「鵜殿のヨシ原」によれば、『この鵜殿に生えるヨシ』(単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis )『は、高さが』三『メートルほどの大形のヨシで太く弾力性があり、古くから雅楽の篳篥(ひちりき)の蘆舌(西洋管楽器のリード部分に相当)として使用されており』、昭和二〇(一九四五)年『頃までは、毎年』百『本ずつ宮内庁に献上されていた。今でも宮内庁楽部で使われている蘆舌は、すべて鵜殿産のヨシで作られている。顕微鏡で観察すると』、『鵜殿のヨシは他の物より繊維の密度が高いため音色が独特である』とあり、『鵜殿一帯は、奈良時代には都の牧場として使用されていた。 鵜殿の地名については、紀元前』八八『年に起きた』第八代孝元天皇の皇子で、第十代崇神天皇に対する反乱を起こした「建波邇安王(たけはにやすおう)の乱」『以後、敗軍の将兵が追い詰められ』、『淀川に落ち』、『鵜のように浮いたので、一帯を「鵜河(川)」と呼ぶようになったと』「古事記」に『書かれており、 平安時代に鵜河の辺に造られた宿を「鵜殿」と呼び、それが土地の名になったと言われている』。承平五(九三五)年には、『紀貫之が土佐から帰京するおり、「うどの(鵜殿)といふところにとまる」という記述がある。江戸時代には「宇土野」という文字での記述もみられる』。『鵜殿のヨシは良質なことで知られ、特に雅楽で用いられる楽器・篳篥の吹き口として珍重され、貢物として献上されていると』、「摂津名所圖會」にも『記されている。 その他、江戸時代には、ヨシで編んだ葦簾が盛んに生産され』、昭和三〇(一九五〇年~一九六〇年代までは『葦簾、簾、寒天簾、建築資材などの材料として使用されていた』とある。]

 

○樂(がく)の琵琶は、柱(ぢ)、四つ、有(あり)。

 「平家」をうたふに用(もちゆ)る物は、柱、五つ、有。

 柱にて、見わくる也。

 又、樂の「びは」は、撥(ばち)を、皮の下に、はさむ樣に製しあり。

 「平家」は、撥、はさみがたし。

 「てんぢ」も、樂に用るは、直(すぐ)也。「平家」に用る物は、「てんぢ」、そりて付(つく)るもの也。

[やぶちゃん注:「てんぢ」「てんじゆ(てんじゅ)」のこと。一般には「轉手」「點手」「傳手」と書き、琵琶・三味線などで、棹の頭部に横から差し込んである、弦を巻きつける棒を指す。これを手で回して弦の張りを調節する。「糸巻き」「天柱」(てんじ)「轉軫」(てんじん)とも言い、最後のそれは「てんぢ」と読みそうになる(実際には音「シン」)。参照した「デジタル大辞泉」に部位解説の画像がある。]

 

○樂の箏(さう)は、平(たひら)にして、疊の上に居(をき)たる所、そらず、直(ちよく)也。

 「筑紫箏(つくしごと)」は、腹を、そらせて作りたる故、疊に居たる所、そりて、見ゆる也。腹、たひらかなれば、聲(こゑ)、大(おほき)く、ひゞくなり。そらせたるゆゑに、聲、ひきく響く事也。

[やぶちゃん注:「箏」弦楽器の一つ。長さ一・八〇メートル前後の中空の胴の上に、絹製の弦を十三本張り、柱(じ)で音階を調節し、右手の指にはめた爪(つめ)で演奏する。奈良時代に中国から伝来した。雅楽用の楽箏(がくそう)のほか、箏曲用の「筑紫箏」(つくしごと)や「俗箏」(ぞくそう)等がある。なお、私の連れ合いは、六十年に及ぶ琴の名手である。五歲から始め、一時は本邦初の「邦楽研究所」第一期生ともなった(修了直前に中退した)。]

 

○笛・「ひちりき」ともに、古器は、穴、自然(おのづ)と大きく、大・小、有(あり)。年久敷(ひさしく)、人の指のあたりたる所、すれて、しかり。然れども吹(ふく)時に至りては、穴の大小にかゝはらず、調子、たがふ事、なし。是又、古器の妙也。

 

○樂は「黃鐘(わうしよう)」を本(もと)とす。十二調子、皆、黃鐘より出(いづ)るゆゑ、黃鐘、定らずしては、律を製する事、成(なり)かたし。

 聖德太子、攝州天王寺の鐘を、黃鐘に造り置(おき)給ひし故、此鐘にあてて、「律」を製するゆゑ、本朝の樂は、萬(よろづ)、古調に違(たが)ふ事、なし。尤(もつとも)珍器也。

[やぶちゃん注:「黃鐘」日本音楽の用語。「十二律」の一つ。基音である壱越(いちこつ)の音(洋楽のd、ニ音)から八律目の音で、aの音(イ音)とほぼ同じ高さの音。雅楽で、この音を主音とする調子を「黄鐘調」と呼び、「六調子」の一つで「律」に属するとされる。なお、「こうしょう」と読まれることもあるが、これは「十二律」の本来の中国名で、別音であるので、歴史的仮名遣「わうしよう」が正しい。]

 

○俗人の家にて、調樂するには、太鼓、殊に目立(めだつ)物也。床(ゆか)の橫壁に、「風ぬき」とて、窓のやうに明(あけ)たる所、有(あり)、是に釻(かん)[やぶちゃん注:太鼓の取っ手・持ち手になる金属製の輪っか部分を指す語。]を打(うち)、太鼓を懸て、打(うつ)時は、事々しからず、又、風流成(なる)もの也。

 

○花は香薰(かうくん)の物を嫌ふ也。若花(わかはな)有(ある)所にて、伽羅(きやら)などを焚(たく)時は、花、ことごとく、しほるゝ也。心すべし。

 夫(それ)故に中央卓には、香爐を上に居(をき)て、下に「花がめ」を置(おく)事也。香氣、花と、きそはざるやうに取合(とりあひ)たる、古人の用意、思ふベし。

 

○丁子風呂(ちやうじぶろ)に、丁子十粒ばかり入置(いれおけ)けば、終日、香氣、絕(たゆ)る事、なし。多く入(いれ)れば、にえこぼれて、又、香氣の增(ます)事、なし。風呂の湯、少(すくな)くなれば、折々、心得て水をさすべし。夏座敷に缺べからざるもの也。

[やぶちゃん注:「丁子」風呂江戸時代、丁子(丁字とも書く。クローブ(Clove)のこと。ここはバラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum のこと。一般に知られた加工材のそれは、本種の蕾を乾燥したものを指し、漢方薬で芳香健胃剤として用いる生薬の一つを指し、肉料理等にもよく使用される香料)の香をつけた湯をたてたもの。丁字湯。]

 

○薰物(たきもの)、調合して、水邊(みづべ)へ埋め置(おか)かざれば、香氣を增(ます)事、なし。埋置(うめおく)日數、春・夏は一七日(ひとなぬか)、秋冬は二七日(ふたなぬか)也。

 

○薰物を調合するを、「かさぬる」と云(いふ)也。薰物の方(はう)、何にても、書付(かきつけ)ある藥味(やくみ)の順の通りかさねざれば、拵へて後(のち)、香氣、薄し。是、調合の一つの祕事也。

 方(はう)・組(くみ)を書(かき)たる書、等閑(いたづら)に見るべからず。

 

○にほひ袋(ぶくろ)の年へたるを、取出(とりいだ)して、薰物に製すべし。尋常のものに勝(まさり)たる香氣、有(あり)。

 

○伽羅(きやら)の木の澤山(たくさん)有(ある)は、伯耆樣の家に越(こゆ)る事、なし。大成(おほきな)る重箱の形のごとく切(きり)たる他羅、いくらも、あり。

「外(ほか)の家は、皆、銀の香合(かうがふ)にして、木を合せて拵(こしらへ)たる香合成(なり)。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「伽羅」香木の一種。沈香(じんこう)・白檀(びゃくだん)などとともに珍重される。伽羅はサンスクリット語で「黒」の意の漢音写。一説には香気の優れたものは黒色であるということから、この名がつけられたともいう。但し、特定種を原木するものではなく、また沈香の内の優良なものを「伽羅」と呼ぶこともある。詳しくはウィキの「沈香」を見られるのがよかろう。]

 

○釣香爐(つりかうろ)といふ物、有(あり)。床(とこ)の内に、釣花生(つりはないけ)の如く、天井より、紐を懸(かけ)おろして、夫(それ)に釣(つり)たるもの也。夏の座敷には、殊によろし。

 

○線香を製するには、野に生ずる「すまひとり草(ぐさ)」といふ物を取(とり)て、穗を切(きり)さり、日にさらし、たくはへ置(おき)、それを「しん」にして、花火・「せんかう」のごとく、香(かう)をときて、塗付(ぬりつく)る也。線香へぬり付(つく)るには、白芨(びやくきふ)と云(いふ)物の汁、よし。又、「ひめのり」を、ときて用(もちゆ)るも、よし。

[やぶちゃん注:「すまひとり草」不詳。というか、この名(相撲取り草)で一番に私が挙げるのは、シソ目オオバコ科オオバコ属オオバコ Plantago asiatica var. densiuscula なのだが、いくら調べても、線香の材料にされたとする記録がネット上では見当たらない。辞書で「すもうぐさ」「しまひぐさ」を引くと、スミレの異名、オヒシバ(雄日芝)の異名、メヒシバ(雌日芝)の異名、オグルマ(小車)」の異名と出るのだが、果してこの中にあるのか? それとも、別の種なのか? 万事休す。識者の御教授を乞うものである。

「白芨」単子葉植物綱キジカクシ目ラン科セッコク亜科エビネ連 Coelogyninae 亜連シラン属シラン Bletilla striata の偽球茎。漢方薬として止血・痛み止め・慢性胃炎にも用いられる。

「ひめのり」「姬糊」で、飯をやわらかく煮て、水を加え、挽き潰して作った糊。洗い張り・障子張り等のときに用いる、あれである。]

 

○白芨を、皮を、けづり去(さり)、竹の筒に、水を入(いれ)、ひたし置(おく)時は、一夜をへて、白笈の汁、「かづら」の如くねばりて出(いづ)る也。その筒へ、直)ただち)に此「すまひとり草」を入)(いれ)、引出(ひきいだ)して、盆中に香を合(あは)し置(おき)たるに、まろばし、付(つくる)事也。かはかして、又、筒に入(いれ)、香(かをり)を付(つく)る時は、ふとく、よく、つかるゝ也。少しづつ、こしらへて用(もちゆ)べし。多く一度に拵へたくはふれば、香(かをり)、かはき落(おち)て、快く用(もちい)がたし。

 

○白芨の汁、全體、彫物師の「かな物」を付(つく)る物也。小刀の柄抔(など)に付(つく)べきものをほり上(あげ)て、白芨汁をもちて、その所へ、ぬり付(つく)る。其上を、「はりがね」にて卷(まき)て、「ふい子(ご)」に入(いれ)て燒(やく)ときは、ふたたび、はなれ落(おつ)る事、なし。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(17)

[やぶちゃん注:頭の句の及び解説中の短歌の「雉子」は孰れも「きぎす」。中七は字余り。]

 

   鳴く雉子微雨に麥の莖立ぬ 鷺 雪

 

「微雨」はコサメと讀むのであらうか。どこかに雉子の聲がする。微雨の中の麥もいつか莖が伸び立つて來たといふので、單なる配合のやうに見えて、そこにいふべからざる陽春の氣が感ぜられる。雨に濡れた麥の色と、どこともわからぬ雉子の聲と、野外の春は一句に溢れてゐるといつて差支無い。

「ほろほろと椿こぼれて雨かすむ巨勢の春野に雉子なくなり」といふ歌は、美しいことは美しいけれども、大和繪風の纖麗に墮だした傾がある。莖立つ麥に啼く雉子の工まざるに如しかぬやうな氣がする。

[やぶちゃん注:「ほろほろと椿こぼれて雨かすむ巨勢の春野に雉子なくなり」不詳。識者の御教授を乞う。岩波文庫版では「巨勢」には『こぜ』とルビがある。しかし、これは大和國高市郡(たかいちのこほり)巨勢鄕(こせがうのことで、現在の奈良県御所(ごしょ)市古瀬(こせ:グーグル・マップ・データ)で、古くも清音の「こせ」である。]

 

   紅梅やひらきおほせて薄からず 睡 闇

 

 紅梅の花が開ききつて、尙濃かな色を保つてゐるといふのである。それだけのことで、格別すぐれた句でもないが、古人の觀察が往々この種の世界に觸れてゐるといふ點で、やはり棄てがたいものがある。

 子規居士の晚年、鉢植の紅梅を枕邊に置いて、日夕見ながら作つた歌の中に「紅のこそめと見えし梅の花さきの盛りは色薄かりけり」「ふゝめりし梅咲にけりさけれども紅の色薄くしなりけり」といふのがあつた。これは紅梅の花が開いたら、稍〻色のうすくなつたことを詠んだのである。「薄からず」にしろ、「薄かりけり」乃至「薄くしなりけり」にしろ、かういふ觀察は漫然紅梅に對する者からは生れない。比較的長い間、紅梅をぢつと見入つた結果の產物である。紅梅は紅いものだといふだけで、それ以上の觀察に及ばぬ人から見たら、この句も歌も蓋し興味索然たるものであらう。

[やぶちゃん注:「紅のこそめと見えし梅の花さきの盛りは色薄かりけり」所持する岩波文庫土屋文明編の「子規歌集」(一九五九年刊)では、

   *

 紅(くれなゐ)のこぞめと見えし梅の花さきの盛りは色薄かりけり

   *

となっている。

「ふゝめりし梅咲きにけりさけれども紅の色薄くしなりけり」同前で、

   *

 ふゝめりし梅咲にけりさけれども紅の色薄くしなりけり]

 

   はなの山のぼりすませば上廣し 淡 水

 

「二丁上れば大悲閣」ではないが、頂上まで登つて見たら、上に平なところがあつて、廣やかな感じがした、といふ意味らしい。作者は多分はじめてこの山に登り、思ひがけず上に平地を見出したものかと想像する。

 高い山ではなささうである。上廣くして人の遊ぶに任すのは、如何にも花の山にふさはしい。

[やぶちゃん注:「二丁上れば大悲閣」芭蕉の句とされて、ネット上にもある、

      嵐やま

   花の山二町のぼれば大悲閣

であるが、所持する中村俊定校注「芭蕉俳句集」では、「存疑の部」にあり、「もとの水」(重厚編・天明七(一七八七)年跋)に載るもので、脚注に「袖日記」(元禄四年)・「句解参考」・「一葉」(貞享・元禄年中)に載るとする。私の持つ複数の全芭蕉句集でも収録しているものは少ない。個人ブログ「徘徊の記憶」の「大悲閣千光寺」に、『千鳥ヶ淵の号で先の芭蕉の句碑について以下のように記している』として、『なにやら挨拶じみた句で、芭蕉の作品とするには気の毒のような出来である。芭蕉もこの句を『嵯峨日記』に入れていないし、重んじもしなかったようで、私の手もとの二種類の『芭蕉句集』にもこの句はない。おそらく地元で句会をひらいたとき、ひとびとの手帳にこの句が記録されたのであろう。』とあった。いかにも駄句である。]

 

   三味線や借あふ花の幕鄰 柳 士

 

 其角の句に「花に來て都は幕の盛かな」といふのがある。花見の幕は上方風俗だつたらしい。この句の作者も恐らくは上方であらう。西鶴の『五人女』にも花見の幕が出て來るのは、お夏淸十郞のところであつた。

 幕を張つて花を見る、その幕の鄰同士が三味線を借合つて唄でもうたふといふ意味らしい。偶然幕を鄰合せただけの人に三味線を借りたりするのも、花見の一情景たるを失はぬ。花に浮れ、酒に興ずる人の間には、今でも珍しからぬことかも知れない。

[やぶちゃん注:「花に來て都は幕の盛かな」其角の句として確認は出来た。

「西鶴の『五人女』にも花見の幕が出て來るのは、お夏淸十郞のところであつた」国立国会図書館デジタルコレクションの「西鶴撰集」の「好色五人女」(大正九(一九二〇)年名作人情文庫刊行会刊。但し、一部に伏字がある)の「太鼓による獅子舞」と、続く「狀箱は宿に置いて來た男」のシークエンスである。]

 

   花散ていかの尾かゝる梢かな 從 吾

 

「いか」は「いかのぼり」の畧、紙鳶[やぶちゃん注:「たこ」。]のことである。花の散つた梢に紙鳶の尾の引かゝつてゐるのを發見した。多分花の咲く前からのものであらうが、花が散つてから今更のやうに目につく。それを「いかの尾かゝる」と云つたわけである。

 面白いところを見つけたものである。

 

   足洗ふ石川淺しもゝの花 市 中

 

「石川」といふのは地名でなしに、底に石の多い川の意であらう。「砂川」などといふ例もあつたやうな氣がする。

 見るから淸冽な流が想像される。さういふ淺い川で足を洗ふ。桃の花はその川のほとりに咲いてゐるらしい。桃の句といふと、とかく平遠な農村の景色がつきもののやうであるが、これは多少趣を異にする。

 桃花の趣は梅より櫻よりも明るい。さうして野趣がある。底の見える石川の流に日がさして、きらきら光るあたりに足を浸して洗ふなどは、慥に桃と或調和を持つてゐる。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(16)

 

   まよひ子の太鼓きく夜の朧かな 壺 中

 

 誰かゞ迷子になつた場合、家族はいふに及ばず、近鄰の者まで動員して、「迷子の迷子の――やい」といつて搜して步く。遠くからわかるやうに、鉦や太鼓でたづねるといふ話は、吾々の子供の頃までよく聞かされたが、交番といふ便利なものが出來てゐたので、實際にはもう無かつた。漱石氏が「坊ちやん」に用ゐた「鉦や太鼓でねえ、迷子の迷子の三太郞と、どんどこどんのちやんちきりん……」といふ唄なども、やはりこの迷子さがしを蹈へているやうだから、昔は屢〻かういふ事件があつたものであらう。

「まよひ子の太鼓」は「迷子を搜す太鼓」の意味である。迷子自身が太鼓を聞くわけではない。春の夜の朧の空に太鼓の音が聞える。又どこかに迷子があつて、それを搜してゐるのであらう、と想像したのである。

 迷子を搜すといふ事柄に對しては、寒月とか、木枯とかいふ配合の方が適切だといふ人があるかも知れない。併しそれは稍〻型に嵌つた見解で、哀れを强ひる嫌がある。この句の場合はさう立入つた氣持でない、あゝ又迷子があるな、といふ非人情的態度である。さうすれば背景が春の朧夜であることも、緩和的效果を與へてゐるやうに思ふ。

[やぶちゃん注:『漱石氏が「坊ちやん」に用ゐた「鉦や太鼓でねえ、迷子の迷子の三太郞と、どんどこどんのちやんちきりん……」』「九」の一節。

   *

 しばらくしたら、銘々(めいめい)胴間聲(どうまごゑ)を出して何か唄ひ始めた。おれの前へ來た一人の藝者が、あんた、なんぞ、唄ひなはれ、と三味線を抱へたから、おれは唄はない、貴樣唄つて見ろと云つたら、金(かね)や太鼓(たいこ)でねえ、迷子(まひご)の迷子(まひご)の三太郞と、どんどこ、どんのちやんちきりん。叩いて廻つて逢はれるものならば、わたしなんぞも、金(かね)や太鼓でどんどこ、どんのちやんちきりんと叩いて廻つて逢ひたい人がある、と二た息にうたつて、おゝしんどと云つた。おゝしんどなら、もつと樂なものをやればいゝのに。

   *

である。「青空文庫」(新字旧仮名で気持ちが悪いが)のこちらで、確認出来る。]

 

   春雨や戶板に白き餅の跡 酒 樂

 

 かつて餅搗の場合に、戶板を外してその上に餅を竝べた。その時の餅の粉が白く戶板に殘つてゐる、といふのである。作者はそれを春雨の際に發見したのであるが、この戶板は外されてゐるのか、それとも立つてゐるのであらうか。「戶板」といふ言葉だけ切離して考へると、外された場合のやうでもある。たゞ雨戶といつたのでは、何で餅の跡があるのかわからぬから、前に外した時のことを現す爲、殊更に戶板と云つたのかも知れない。必ずしも歲暮の餅搗でなしに、近く搗いた餅の跡としても差支無いが、とかくは無用の穿鑿であらう。春雨のつれづれなるに當つて、「戶板に白き餅の跡」を發見しただけで、作者は滿足なのである。

 面白い見つけどころの句である。戶板に殘る餅の跡などに興味を持つのは、俳人得意の世界でなければならぬ。

 

   子を運ぶ猫の思ひや春の雨 里 倫

 

 猫が自分の產んだ子を他の場所へ移す。人があまり覗いたりすると、危害を加へられるやうに思ふのか、知らぬ間に全く別の箇所へ運んでしまふ。子猫の首のところを銜へえて、一匹づつ運ぶ親猫の樣子は、慥に眞劍なものの一である。

 香取秀眞氏の古い歌に「おしいれの猫の產屋に雨もりて夜たゞ親鳴く子を守りがてに」といふのがあつた。この場合も或は雨漏の爲にどこかへ移すのかも知れない。雨の中を子を銜へて運ぶ親猫の樣子が見えるやうである。

 この句の面白味は「思ひ」といふところにある。「蛇を追ふ鱒のおもひや春の水」といふ蕪村の句も、動物の「思ひ」を捉へてゐるが、いささか特殊に過ぐる嫌が無いでもない。「子を運ぶ猫の思ひ」は平凡な代りに、何人にも窺ひ得る境地であらう。

[やぶちゃん注:「香取秀眞」鋳金工芸師の香取秀真(かとりほつま 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)は東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、何より、私にとっては、芥川龍之介の田端の家のすぐ隣りに住み、龍之介とは友人でもあった点で、よく知っている。

「蛇を追ふ鱒のおもひや春の水」所持する岩波文庫版尾形仂校注「蕪村句集」(一九八九年刊)では、

      *

   虵(へび)を追ふ鱒(ます)のおもひや春の水

      *

とあり、安永七(一七七八)年から天明三(一七八三)年の間の作とする。「虵を追ふ鱒」に脚注があり、「標註」からの引用で、『木より下りて鱒を捕らんとする蛇を、市中より躍りて尾をもて打ち落さんと』爭『ふ也』とある。「鱒」とあるが、これは蛇と争そうことから、一般的に広義の「マス類」ともされる、硬骨魚綱サケ目サケ科イワナ属イワナ Salvelinus leucomaenis のことだろうと考える。「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 いはな」の私の注を見られたい。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(15)

 

   寐はぐれるあけぼの白し梅の花 無 笛

 

「寐はぐれる」は今普通に「寐そびれる」などといふのに同じであらう。眠りそこねてぐづぐづしてゐるうちに、いつの間にか夜が明けかゝつた。この句では梅の咲いてゐる場所はわからぬが、それは漠然たる古句の常として、强ひて穿鑿するにも及ぶまい。寐はぐれた、眠りそこねた曉の空氣の中に、梅の花を認めたといふだけのことである。

「白し」はしらしら明にかかる言葉かと思ふが、この梅はやはり白梅のやうな氣がする。

 

   普請場にうぐひす鳴や朝日和 芙 雀

 

 市井の鶯といふほどではなくとも、人寰[やぶちゃん注:「じんくわん」。]を離れざる世界である。普請場小景といふところであるが、鑿や手斧[やぶちゃん注:「ちやうな」。]の音が盛にしはじめては、如何に來馴れた鶯でも、近づいて啼くほどにはなるまい。先づ大工たちがやつて來て、焚火でもしてゐる位の時間かと思ふ。

 周圍に多少の立木がある、ものしづかな場所らしく思はれる。今日も上天氣で、まだ寒い春の朝日が明るく普請場にさして來る。折ふし朗な[やぶちゃん注:「ほがらかな」。]鶯の聲を聞いたといふので、「普請場に」の語は「普請場のほとりに」といふ程度に解すべきであらうか。普請場の木材にとまつて啼くわけではない。

 鶯の句としては、ちよつと變つた場合を見つけたものである。「朝日和」の下五字も、ものしづかな普請場の樣子をよく現してゐる。

[やぶちゃん注:「芙雀」永田芙雀(ながたふじゃく 生没年未詳)は江戸前・中期の俳人。大坂の人。槐本之道(えもとしどう)に学び、蕉門に属する。榎並舎羅(えなみしゃら)と交遊した。作品は「蕉門名家句集」におさめられている。編著に元禄一二(一六九九)年刊の「鳥驚」(とりおどし)、その三年後の「駒掫」(こまざらえ)がある。通称は堺屋弥太郎。別号に風薫舎(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。]

 

   鶯や雨が霽れば日がくるゝ 釣 壺

 

 これは反對に夕方の景色を持出して來た。一日ほそぼそと降りゞいた雨が夕方近くやんで、あたりの空氣も明るくなると、ほどなく日が暮れて行く。雨が霽れて日が暮れる。その僅な間の時間に鶯が啼いたのである。

「雨が霽[やぶちゃん注:「はる」。]れば日がくるゝ」といふ時間的經過のみを敍して、他の何者をも描かずに鶯を點じたのは、巧といえば巧であるが、恐らくは技巧の產物でなく、自然の趣がそのまゝ句になつたのであらう。

 

   うぐひすや日のさし殘る小芝はら 路 柳

 

 これも夕方の鶯である。

 もう暮近くなつたが、芝原の上にはまだ日がさしてゐる。その明るいしづけさの中に鶯が啼く。前の句は雨が霽れて日が暮れるといふ、しづかな中にも變化ある空氣を捉へてゐるが、この方は暮れる前の靜止した空氣が主になつてゐる。「日のさし殘る小芝はら」の印象は頗る鮮[やぶちゃん注:「あざやか」。]である。

 

   世のさまや質屋にかゝる涅槃像 除 風

 

 寺になければならぬ涅槃像、年に一度涅槃會にかけて、世尊入滅の日を偲ぶべき涅槃像が質屋の壁にかゝつてゐる。在家の人の持つまじきものだから、寺の住持が金にでも困つて典[やぶちゃん注:「てん」。質入れ。]したのであらう。鳥も獸も齊しく淚を流してゐる涅槃像だけに、質屋にかゝつてゐるのは情無い。作者はそれを「世のさまや」と歎じたのである。この歎息は尤も千萬ではあるが、句としては却つてつまらぬことになつてゐる。

 年に一度あればいゝ品物だから、不斷は質に置いて、涅槃會の前に受出すのかもわからない。或は太夫が語り物を典し、雲助が褌を質に置くやうに、寺としてなければならぬものを置くので、質屋の方でも安心して取るのかも知れない。さういふ點を描いたら、少し平凡の嫌はあるけれども、西鶴あたりの一材料にならぬとも限らぬ。更に下つて川柳子の嘲笑を浴びさうな事實である。

 いづれ末世における賣僧[やぶちゃん注:「まいす」。]の仕業であるが、質屋の壁で風に吹かれてゐる有樣は、涅槃會ならぬ日の事と解したい。

 

   雪ちるや梅の垣根の魚の骨 巴 水

 

 梅の咲いてゐる垣根に魚の骨を捨てる、降出した雪がその上にかゝる、といふのである。古人としては梅に不調和な垣根の魚の骨が、雪のために隱れむことを希ふやうな心持があるかも知れない。

「雪ちるや」といふのは、雪の降りはじめの頃、まだ多く積らぬ場合らしく思はれる。從つて垣根に捨てた魚の骨も氣になるのである。

[やぶちゃん注:俳諧撰集「藤の實」に載る一句である。廣瀨惟然が素牛の号で編したもの。元禄七(一六九四)年跋。この句、私は若いき日に読み、そのフレーム・アップに印象に残った句である。]

 

   春の野も寂しや暮の馬一つ 由 水

 

 晝の間は行樂の人で賑つてゐた野が、夕暮近く急に寂しくなつた光景であらうか。あたりにはもう人影も見えず、たゞ一頭の馬がいるだけだ、といふ風にも解せられる。

「寂しや」といふ言葉は晝の光景に對したものではあるが、必ずしも行樂の人ばかりには限らぬ。野良へ出て働く人も、春は自ら多いわけだから、さういふ風に解しても構はない。要するに暮色が漸く迫つて、物音も無いやうな、寂しい春の野の樣である。

 たゞこの句で不明瞭なのは、唯一の登場者たる馬である。步いてゐるのか、路傍に繋がれてゐるのか、放し飼なのか、その邊は一切わからぬ。今日の句であつたら、この馬の狀態をもう少しはつきり描いたかも知れぬが、元祿の作者は一頭の馬を野中に點じたまゝ平然としてゐる。けれどもこの句を誦すると、薄墨色の野の暮色の中に唯一つ馬のゐる樣子が、髣髴として浮んで來るやうな氣がする。

[やぶちゃん注:私は、寧ろ、読者に「春の野」の「暮の馬一つ」を与え、各人が思うところの「寂し」さの映像を心に浮かべることで、それぞれの「寂し」い「馬」の姿を駘蕩たる「春の野」の夕「暮」れ「寂し」さに点じたところが、優れた一句だと感ずるものである。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(14)

 

   折々や蝶に手を出す馬の上 我 峯

 

 長閑な春の道中の樣である。

 馬はほくほくと步いて行く。馬上の人は屈託もなささうに搖られて行く。折々蝶がひらひら飛んで來るのを、馬上の人は捕へようともなく手を出す、といふのであらう。

 春日の永きに倦む馬上の旅の樣子がよく現れてゐる。煕々たる春光の中を飛ぶ蝶の姿が、ありありと眼に浮んで來るやうな氣がする。

[やぶちゃん注:「煕々たる」やわらぎ楽しむさま。また、広いさまの意も掛けているのであろう。]

 

   朝風や蛙鳴出す雨くもり 千 百

 

「雨くもり」といふのは、雨を催す曇り空の意であらう。しづかな朝風も自ら濕氣を含んでゐる。どこかで蛙の鳴く聲が聞える。この蛙は雨蛙のやうなものではないかも知れぬが、集團的合唱でなしに、少數の蛙の率先して鳴く場合が想像される。「鳴き出す」といふ語は、その聲の多からざることを示してゐるからである。

 

   泥足や緣にさげたる櫻がり 万 乎

 

 泥足といふと泥田の中にでも踏込んだやうに思はれるが、それほど限定しないでも差支あるまい。泥まみれになつた足をぶら下げて、緣に憩いこうている有樣を描いたのである。

「櫻がり」とあるだけで、この場所は明瞭でないから、他は想像で補うより仕方がない。寺か何かの髙い緣であれば、ぶら下げるといふことも適切なやうな氣がするが、それもそういふ氣がするまでである。泥足だから上へ上るわけに行かず、ぶらりと緣から垂れている。そこに草臥くたびれた樣子も窺われる。

 櫻狩中の一瑣事を捉えたのである。

[やぶちゃん注:「万乎」(まんこ ?~享保九(一七二四)年)は江戸前期から中期の俳人。当該ウィキによれば、『伊賀上野の豪商。屋号は大坂屋。通称は次郎大夫。剃髪して証厭坊(房)といった』。『伊賀上野において、俸禄米で金を融通する「お倉屋」を営む裕福な商人であった』。『松尾芭蕉の旧主家筋に当たる藤堂新七郎家に対し、金銀の貸し付けを行っていたと見られる証書が残されている』。元禄四(一六九一)年三月二十三日、『自邸に芭蕉を招いた際に彼の弟子(伊賀蕉門)となった』。「芭蕉翁全伝」では、『この日、芭蕉が詠んだ』、

      *

     万乎別墅(べつしよ)

   としどしや櫻をこやす花のちり

      *

『の句を伝える』(この句は服部土芳の「芭蕉翁全傳」では、万乎の別荘で催した花見で三月二十三日の詠で、この句を発句とした連句一折があったとするが、伝わっていない)。『万乎の発句の初出は』「猿蓑」で、入集された万乎の句(「㽗」は「うね・せ」で畑の畝(うね)を言う。しかし「田」であるから、これは「畦」か。「あぜ」と読みたくなるが、現行のこの句では「へり」と読んでいる。確かに「へり」の方がワイドになって躓かない)、

      *

   田の㽗の豆つたひ行(ゆく)螢かな

      *

『については、向井去来の』「去來抄」に『見える次の逸話がよく知られている。この句はもともと、芭蕉の添削が入った野沢凡兆の句であった。しかし、凡兆は「此の句見るところなし除くべし。」などと評価しなかったため、芭蕉が、伊賀の連中の句に似たものがあるので』、『それを直してこの句にしようと言い、ついに万乎の句として入集させたという』とある。「去來抄」の冒頭の「先師評」の一節。所持する岩波文庫ワイド版(一九九三年刊・正字正仮名)で引く。

      *

   田のへりの豆つたひ行螢かな

元トハ先師の斧正有し凡兆が句也。猿ミの撰の時、兆曰、此句見る處なし、のぞべし。去來曰、へり豆を傳ひ行く螢の光、闇夜の景色風姿ありと乞ふ。兆ゆるさず。先師曰、兆もし捨バ我ひろハん。幸いがの句に似たる有。其を直し此句となさんとて、終に□□が句と成けり。

      *

『作品は』ほかに、「有磯海」・「笈日記」に『収められている』。『伊賀蕉門の中にあっては多いといえる計』六十『余句が』、「猿蓑」『以降の複数の俳書において確認できる』。『それらは、安井小洒の』「蕉門名家句集」に『まとめられている』。享保九年八月十五日に没し、『伊賀上野の念仏寺に葬られた』。「代表句」の項に、他に、

      *

   子規なくや尻から夜も明る

   あはれさや日の照る山に鹿の聲

      *

が挙げられてある。]

南方熊楠「鰻」(正規表現版・オリジナル注附き)

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』「第七卷文集Ⅲ」(渋沢敬三編・一九五二年乾元社刊・正字正仮名)の当該部を視認した。]

 

     

 

 大草家料理書に、「鰻鱠は醬油を薄くして魚に掛て、少し火執り候て切りて右同加減にするなり。又は湯を暑かにして拭てもあぐる也、これは中也、鱠は口傳ある也。」嬉遊笑覽に、「鰻を燒て賣る家昔は郭[やぶちゃん注:「まち」と訓じておく。]の内に無かりしとぞ。寬延四年撰新增江戶鹿子、深川鰻名產也、八幡宮門前の町にて多く賣る云々。池の端不忍池にて採るに非ず、千住尾久の邊より取り來る物を賣る也、但し深川の佳味に不ㇾ及と云、此頃迄、未だ江戶前鰻と云名を云ず、深川には安永頃いてう屋と云るが高名なり。耳袋に、濱町河岸に大黑屋と云る鰻屋の名物ありと云は天明頃の事にや、此等御府内にて鰻屋の始なるべし。京師も元祿頃迄よき町には蒲燒無かりしにや、松葉端歌に、朱雀歸りの小歌に松原通りの蒲燒はめすまいかと卑しき物にいへり」と有れど、宮川氏の御說により輕少な鰻屋は元祿・享保間すでに江戶に在りと知る。但し萬葉集に鰻を詠むは夏瘦せの藥として勸めた迄だが、異制庭訓往來や尺素往來に其名を出せるを見ると、足利幕府の初世已に之を珍饌としたらしい。英國人は十一世紀に既に之を食うた證あり、十四世經に多くの鰻を和蘭[やぶちゃん注:「オランダ」。]から輸入したとハズリットが述べた。宮川氏は古羅馬で鰻を酒の肴に持囃した由言たが、日本でも昔はそうだつたと見え、狂言記三、末廣がりに、「鰻のすしをばえいやつと頰張てようか酒をのめかし」と有る。

(大正九、五、一、日本及日本人、七八二)  

  追  記

 嬉遊笑覽十上に、京都も元祿頃迄よき町には蒲燒無かりしにや、と見え、宮川氏の說に㨿と、元祿中、京都の鰻は專ら大道[やぶちゃん注:「だいだう」。]で燒て賣られた樣だが、大阪には多少滿足な町店で鰻を食はせたと見える。元祿の末年より三年後、寶永三年錦文流作熊谷女編笠二の二に、角屋與三次、手代小三郞と大阪新町遊廓を見るところ、「東口を出でて南北を見れば、表の見世を臺場に鮹木に登る氣色あり。殊にお家流の律義な手跡にて大和今井鮓、鰻の蒲燒、酒肴との書付け、爰にて腹中をよくせんと云へば、小三郞が云けるは、是は又重ね重ね大きな費え[やぶちゃん注:ママ。]のゆく事、こう[やぶちゃん注:ママ。]した事を知たらば晝の食行李に飯を入て、橋の上にても大事ない物をとつぶやくもおかし、與三次少し北へ步めば鹽屋とかや、行燈の光も薄々と、見れば相客もなさゝう也、主從二人冷飯に鰻の蒲燒、酒は玉子酒にして山の芋を辛子酢でどぜうが有ばたいて下されと、さても○○の可笑さ」[やぶちゃん注:鍵括弧閉じるは底本にないが、補った。]と有る。元祿末年頃まで、京で鼈[やぶちゃん注:「すつぽん」。]料理無かりしに大阪には之有りし事、元祿曾我物語三の一に見えたるなど、土地に由りて流行に早晚有つたのだ。

(大正九、七、一、同上、七八六)  

[やぶちゃん注:「大草家料理書」(おほくさけれうりしよ)は江戸後期に集成された『群書類従』に所収されている大草流の相伝書の一書。ウィキの「大草流庖丁道」によれば、『原典の成立年代は不明』で、前掲叢書の『「飮食部」に所収されてある』。『中世の日本料理の様子を伝える書で、料理および饗応の雑事』六十五『ヶ条を伝え、具体的な調理法の記事も見られるが、やや故実に関する記事が多い』とある。原本当該部は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。右丁の三行目の「一 うなき鱠は」以下である。

「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した、十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。以下、私は岩波文庫版で所持するが、今までの南方熊楠の電子化注の私の経験により、熊楠の所持本に底本が近いということが判っている、国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の下巻(正字正仮名)の当該部「鰻」(「○宇治丸」の中の一節)が視認出来る。

「寬延四年」一七五一年。

「新增江戶鹿子」正しくは「再板增補江戶惣鹿子名所大全」。奥村玉華子撰で、江戸藤木久市が板元で、同年に刊行されている。後に須原屋伊八が再刊している。編者奥村玉華子については不詳であるが、医術や宗教への深い造詣が窺え、それらの職業に携わっていたとも考えられる(以上はウィキの「江戸鹿子」に拠った)。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの「再板増補江戸惣鹿子名所大全」(花咲一男編・一九七三年渡辺書店刊)の本文で影印で再刊本の当該部が視認出来る。右ページ下段の四行目「○深川鰻(うなぎ)」の条がそれ。

「深川」「八幡宮門前の町」現在の江東区富岡一丁目の富岡八幡宮(深川八幡)の門前のこの中央附近(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「千住尾久の邊」現在の荒川区のこの附近。東に北千住、その南に南千住があり、この附近は荒川が北を、その直近の南を、分流した隅田川が蛇行し、如何にも鰻が獲れそうな一帯である。

「安永」一七七二年から一七八一年まで。第十代将軍徳川家治の治世。

「耳袋に、濱町河岸に大黑屋と云る鰻屋の名物ありと云」私の古い「耳囊  卷之二 又(かたり致せし出家の事 その二)」を参照されたい。私の注で、正長軒橘宗雪の「吾妻みやげ」の同系類話の「深川うなぎ屋かたりの事」も電子化してある。

「天明」一七八一年から一七八九年まで。

「元祿」一六八八年から一七〇四年まで。

「松葉」(まつのは)は秀松軒(しょうしゅうけん)の編になる歌謡書。全五巻で、元禄一六(一七〇三)年刊。編者の伝記は未詳であるが、第二巻の「長歌」の中の月見・夏草・花見の三章が、流石庵羽積(さすがあんはづみ)著「歌系圖」(安永一〇・天明元(一七八一)刊)に秀松軒作詞とあるのに依るなら、音曲や俳諧に遊んだ市井の一粋士かと思われる。書名の由来については、巻頭の序に『秀松軒の「木(こ)の下(もと)」に搔き集めぬれば「松の葉」と名づけぬるも宜(むべ)なるべし。』とある。近世前期における上方の三味線歌謡を集成した最初の書で、巻頭に三味線発達の由来を記した序があり、各巻首に目録を掲げる。第一巻は「本手(ほんて)」・「葉手(はで)」・「裏組(うらくみ)」の「組歌」二十一曲と、「祕曲相傳之次第」。第二巻は「長歌」五十曲で、目録に作者名がある。第三巻は「端歌(はうた)」で、「本調子」・「二上り」・「三下り」・「騷ぎ」など七十三曲。第四巻は「半太夫節」以下の「吾妻浄瑠璃」二十一曲。第五巻は「古今百首投節(なげぶし)」で、巻末に「歌音聲(うたおんせい)竝(ならびに)三味線彈方心得(さみせんひきかたこゝろえ)」と、跋文がある。近世歌謡の宝典ともいうべき貴重な資料である(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠ったが、内容細目等の表記は、所持する岩波文庫「校註 松の葉」(藤田德太郞校註・昭和六(一九三一)年刊)に拠って表示した)。喜多村の引用したのは、「第三卷」の「騷ぎ」の「二 山谷歸(さんやがへり)」の二つ目(「同じく」)の一節。以下に岩波文庫版で示す。

   *

世にこくに侘(わ)びた茶の湯は、朱雀通(すじやか)ひの浮れ人宵の騷ぎに聲(こゑ)枯(か)れて、あなたの方(かた)で投節、こなたの方でそも辨慶、二枚肩(まいがた)にも得(え)乘(の)らいで、燒印(やきいん)編笠(あみがさ)打翳(うちかざ)し、丹波口(たんばぐち)にて蹴躓(けつまづ)いて、裾繼(すそつぎ)まで踏裂(ふんざ)いた、何(なん)とした、氣根(きこん)がない、襤褸(ぼろ)を下(さ)げ下げ、松原通りの蒲燒(かばやき)は召すまいか、家來(けら)錢德(ぜにとく)ないないのない、とかく食はねば身が細る

   *

冒頭の「こくに」は「至極に」の意。

「宮川氏」宮川曼魚(みやがわまんぎょ 明治一九(一八八六)年~昭和三二(一九五七)年)は随筆家・江戸文化研究家。本名は渡辺兼次郎。当該ウィキによれば、『東京』『日本橋に生まれる』。(☞)『生家は鰻屋「喜代川」。 生家も鰻屋であったが、自身ものちに深川にあった鰻屋「宮川」を継いだ。 鰻屋の稼業のかたわら、独学で江戸文学の研究、とくにその背景となっている江戸文化の考証に打ち込んだ。 黄表紙と洒落本の収集家としても著名であった。その蔵書は、早稲田大学に寄贈された。 俳句を岡野知十に師事し、『文明』や『花月』などに作品を投稿した』。『著書』に「江戸売笑記」・「花鳥風月」、ズバり! 「深川のうなぎ」(一九五三年住吉書店刊)という著がある。国立国会図書館デジタルコレクションのここで、原本の、満を持して掉尾に配された「うなぎの話」を視認出来る。

「享保」一七一六年から一七三六年まで。

「萬葉集に鰻を詠むは夏瘦せの藥として勸めた迄」「万葉集」巻第十六に載る、大友家持の二首がそれ(三八五三・二八五四番)。引用は、所持する中西進全訳注(昭和五八(一九八三)年講談社文庫刊・第四巻)を参考に漢字を正字化して示した。

   *

   瘦せたる人を嗤咲(わら)へる歌一首

石麿(いしまろ)に我れ物申す夏瘦せに良しといふ物そ鰻(むなき)取り食(め)せ

   *

瘦(や)す瘦すも生(い)けらばあらむをはたやはた鰻をとると川に流るな

   右は、吉田連老(よしだのむらじおゆ)といふ
   人あり。字(あざな)をば、石麿と曰(い)ふ。
   所謂、仁敎(にんきやう)の子(し)なり。そ
   の老、人と爲(な)り、身體、いたく瘦せたり。
   多く喫飮すれども、形、飢饉に似たり。此(こ
   れ)に因りて、大伴宿禰(すくね)家持、聊か
   に、この歌を作りて、戲れ咲ふことを爲せり。

   *

「仁敎」は中西氏の注に、『儒教的徳目として世にいわれていたものであろう。いつくしびうやまい。子は尊称』とある。但し、調べてみると、「万葉集古義」では、『仁敎は石麻呂の父名なり』とある。

「異制庭訓往來」(いせいていくんわうらい)は「新撰之消息」「百舌鳥往來」「森月往來」などとも称する。南北朝時代の初学者向けの教科書。全一巻。江戸時代、虎関師錬の編とされたが、定かではない。正月から十二月までの行事や風物を述べた贈答の手紙を掲げ、貴族社会に於ける知識百般を体得できるように工夫されてある。『中世往来物』の一つ(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「尺素往來」(せきそわうらい)は室町中期の『往来物』。全一巻。一条兼良の著とされる。室町中期の成立。往復書簡の形式の中に、年中行事・各種事物の話題を盛り、消息文の書き方や、百科的教養を習得するのに便利なようにしたもの(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「ハズリット」熊楠の論文にかなり頻繁に引かれるイギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)。しかし、珍しく出典の書籍を示していないので、元引用は判らない。

「持囃した」「もてはやした」。

『狂言記三、末廣がりに、「鰻のすしをばえいやつと頰張てようか酒をのめかし」と有る』「狂言記」(きやうげんき)は江戸時代に刊行された能狂言の台本集。万治三(一六六〇)年刊の「狂言記」、元祿一三年(一七〇〇)刊の「續狂言記」「狂言記外五十番」、享保一五年(一七三〇)刊の「狂言記拾遺」(何れも初版)を総称したもの。絵入りで各集五冊五十番から成る。種々の異版が刊行され、読本として流布。群小諸派の台本を集めたものらしく、内容も一様でない(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。但し、この「鰻」であるが、先の宮川曼魚や「狂言記」(結局、元記載は発見出来なかった)を調べているうち、「瓢箪から駒」で、山本碩なる方が、国立国会図書館デジタルコレクションの雑誌『新文明』(新文明社一九五七年九月発行)で、南方熊楠を語りながら書かれた「馬の影」という記事で、まさにこの「鰻」の論考に触れているのを発見した。ところが、その最後に『筆者註』を添えられており、そこで山本氏は、『この』熊楠が終りの方で記している『鰻は穴子ではないかと思へる節もある』とあるのは、重要である。見られたい。

 以下、「追記」の注。

「寶永三年」一七六〇年。

「錦文流」(にしきぶんりう)「作」「熊谷女編笠」(くまがへをんなあみがさ)「二の二に、角屋與三次、手代小三郞と大阪新町遊廓を見るところ、「東口を出でて南北を見れば、……」「錦文流」(生没年不詳。享保五(一七二〇)年以後の没)は浮世草子・浄瑠璃作者。姓は山村、又は、島。号は錦頂子。浄瑠璃は「本海道虎石」(ほんかいどうとらがいし)等を竹本座などに提供した。浮世草子は他に「棠(からなし)大門屋敷」等で、実際の事件を扱う長編に特色があった。「熊谷女編笠」も実際にあった京都の女敵討(めがたきうち)を取り上げた作品である。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの『珍本全集』上 (『帝国文庫』第三十一編・博文館編輯局校訂・明治二八(一八九五)年博文館刊)のここ(右ページ三行目末)から視認出来る。熊楠の表記の不全と、原作の表記不全があるので、両者を参考に一部の誤字及び歴史的仮名遣の誤りを相互に比較して、以下に補正を加えた形で、改めて示す。読みも一部で示し、読み難い箇所に句読点・記号・改行・改段落を追加した。

   *

東口を出でて南北を見れば、表の見世(みせ)を臺場(だいどころ)に、鮹(たこ)、木(き)に登る氣色(けしき)あり。殊に、お家流の律義な手跡にて「大和今井(やまといまゐ)鮓(すし)、鰻(うなぎ)の蒲燒、酒肴(さけさかな)」との書付(かきつけ)、

「爰(ここ)にて腹中(ふくちゆう)をよくせん。」

と云へば、小三郞が云けるは、

「是は又、重ね重ね大きな費へのゆく事、かうした事を知(しつ)たらば、晝の食行李(めしがうり)に飯を入れて、橋の上にても大事ないものを。」

と、つぶやくも、おかし。

 與三次(よそじ[やぶちゃん注:推定。])、少し北へ步めば、「鹽屋(しほや)」とかや、行燈(あんどう)の光も薄々と、見れば、相客(あひきやく)も、なささう也。主從二人、

「冷飯(ひえめし)に鰻の蒲燒、酒は玉子酒にして、山の芋を辛子酢(からしす)で鰌(どぜう)が有らば、焚(た)いて下され。」

と、さても○○の可笑(をかし)さ。[やぶちゃん注:伏字は原本のママ。]

   *

「元祿末年頃まで、京で鼈料理無かりしに大阪には之有りし事、元祿曾我物語三の一に見えたる」「元祿曾我物語」は浮世草子作者都の錦(みやこのにしき 延宝三(一六七五)年~?:宍戸氏。通称は与一、名は光風。元禄十六年の夏、立身の志を抱いて、江戸に下ったが、放浪中を無宿人として捕らえられ、薩摩の金山の労役に送られた。宝永六(一七〇九年に許されて大坂に帰っている)作。元禄一五(一七〇二)年刊。別書名に「東海道敵討」( とうかいどうかたきうち )・「元祿曾我」。熊楠が出典内の章番号を細かに出して呉れていたので、国立国会図書館デジタルコレクションの原板本で短時間で発見出来た。ここの右丁の一行目下方。『料理したすつほんはわるわ』とある。

2024/04/05

譚 海 卷之十三 かやめうが陰所の藥の事 狐肝の事 狐の皮寒をふせぐ事 ちんの眼蠅を忌事 猿飼べからざる事 鼠にかまれたる藥の事 牛糞打身藥なる事 虎の爪の事 豪豬の事 龍角の事 鷄の事 鴨の羽繪筆とすべき事 時のはね羽ぼうきにつくるべき事 孔雀飼かたの事 京都で製する筆の事 江戶の筆の事 字けづりの事 硯をあらふ事 のづらの事 硯屛の事 唐紙とりあつかひの事 矢立墨の事 朱硯の事 ゑの具すゞり摺粉木の事 印肉の墨さらへの事 朱印肉油の事

○「かや茗荷」といふもの、野ぶかき萱(かやはら)原に出來(いでく)る。めうがの形に似たるもの也。血の小便せし跡に出來るもの也。是を黑燒にして、婦人、陰所の疵、出來(いでくる)ものなどに、ごまの油にて付(つく)るに、功驗あり。

[やぶちゃん注:「かや茗荷」単子葉植物綱ツユクサ目ツユクサ科ヤブミョウガ属ヤブミョウガ Pollia japonica のことであろう。当該ウィキによれば、『東アジア(中国、朝鮮半島、台湾、日本)に分布し、日本では関東地方以西の暖地の林縁などに自生するが、湿気の多い土地を好む』。五『月頃から発芽し、夏にかけて草丈』五十センチメートルから一メートル『前後に生長、ミョウガに似た長楕円形の葉を互生させ、葉の根元は茎を巻く葉鞘を形成する。葉は茎の先端部分だけに集中する。なお本種の葉は表面がざらつくところ、葉が』二『列に出ないことなどでミョウガ』(単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ミョウガ Zingiber mioga )『と区別できる。なお、ミョウガはショウガ科であり、花の構造は全く異なる』とある。薬用の記載はないが、『若芽は、初夏の葉が開ききらないうちに採取し、塩茹でしてそのままで、または炒め物や汁物などにして食用にされる』とあった。]

 

○狐の肝、藥物に用(もちゆ)るは、和州より來る也。五つほどづつ、串にさしてあるもの也。

「和州ほど、狐のおほき所、なし。」

と云へり。

 

○狐の皮を腰に卷(まく)時は、寒氣を防ぎ、疝氣(せんき)を、よくすべし。

[やぶちゃん注:「疝氣」大腸・小腸・生殖器などの下腹部の内臓が痛む疾患を広く指す。]

 

○「ちん」の目は、蠅を、いむ也。

「都(すべ)て獸(けもの)の目、蠅を、いむ。」

と、いへり。

 

○猿を人家に飼べからず。年久敷(ひさしき)後(のち)、長大に成(なり)ては、人に喰付(つき)、あれて、せんかたなき物也。

「猿は、時々、『松のは』にて、顏を突(つき)て、いからするが、養生なり。」

と、いへり。

 

○「鼠にかまれたるには、猫のよだれを付(つく)れば、治する也。猫の毛を黑燒にして、付るも、よし。」

と、いへり。

 猫の鼻へ、生姜をすりてぬるときは、よだれを流す也。

 又、

「『まつかう』を付(つけ)[やぶちゃん注:「付けるもよく、又」が欲しい。]、「しきみ」のはを、せんじ、腹(ふく)するも、奇功、有(あり)。」

と、いへり。

 

○牛の糞(ふん)、落馬打身に付(つけ)て能(よく)治する也。東海道にて、馬、驚き、乘(のり)たる人、萱屋根(かややね)の軒にて、口のわきを疵付(きずつけ)たるに、牛の糞を塗(ぬり)たれば、五日ばかり有(あり)て、本腹せり。

 

○虎の爪を根付(ねつけ)にしたる有(あり)しが、「猿𢌞し」來(きた)る時、夫(それ)を投(なげ)て、あたへしが、猿、手に取(とり)て嗅(かぎ)て、大(おほき)に、おどろき、にげ、はしりたり。

 

○「鷔鳥[やぶちゃん注:底本では、右に編者の補正注があり、『(豪豬)』とある。]といふもの、薩州より獻上ありしを見しに、猪の形の如く、背の上に、長き「さゝら」をあみたるやう成(なる)骨を、左右に羽の如く生じて有(あり)、怒る時は、此骨、さか立(だち)、嗚(なる)。」

と、いへり。珍敷(めづらしき)もの也。

「骨は、楊枝に用(もちい)て、齒の藥に、かふべし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「豪豬」歴史的仮名遣では「がうちよ」。現行では「ごうちょ」で、これで「やまあらし」とも読む。この場合、哺乳綱齧歯目ヤマアラシ科ヤマアラシ属マレーヤマアラシ Hystrix brachyura であろうと思う。当該ウィキによれば、『インド北東部、インドネシア(スマトラ島、ボルネオ島)、タイ王国、中華人民共和国中部および南部、ネパール、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、ラオス』に分布するとあるので、恐らくは、薩摩藩が秘密裏に実行支配していた琉球国が、多分、中国から献上されてきた同種を、薩摩が取り上げたものだろう。

「かふ」は「代(か)ふ」であろう。]

 

○「龍角(りゆうかく)」と云(いふ)もの有、甚(はなはだ)大(おほき)なる角(つの)にて、まはり三尺斗(ばかり)もあり。象牙の肌の如く、殘らず「とげ」有(あり)て、手を付(つく)る事も成(なし)がたし。程々、功能をしるせる事(こと)、書添(かきそへ)て有(あり)。立身、望(のぞみ)、有(ある)人、殊に重寶とするよし、見えたり。子細(しさい)、くはしくしらず。

[やぶちゃん注:「龍角」不詳。竜骨ならば、「日本薬局方」で、大型哺乳動物の化石化した骨で、主とし て炭酸カルシウムからなるものと規定される生薬であるが、ここでは、「象牙の肌の如く、殘らず「とげ」有て、手を付る事も成がたし」とあるのは、例えば、マンモスの化石になった象牙とは思われない。トゲトゲになっていて、とても触れることが出来ないというのは、何らかの針状の結晶が外部に突き出ているような印象を受ける。海獣のイッカクのそれとも一致しない。「竜骨」なら、真相検討はネットでも賑やかなのだが、「龍角」となると、真相追及はガックと少なく、信頼出来る記載は見当たらない。識者の御教授を乞うものである。]

 

○「鸛鶴(くわんかく)」、俗諺に「かうの鳥」と、いへり。くちばしをたゝく音、鳴聲(なくこゑ)の如し。あふむき、たゝく時は、雨をうらなふ。うつむき、たゝ時は、雨をうらなふ兆(きざし)とす。尾長鳥、むれ飛(とぶ)も、雨の兆也。

[やぶちゃん注:「鸛鶴」「かうの鳥」。鳥綱コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸛(こう)〔コウノトリ〕」を参照されたい。]

 

○かもの羽、二つ合(あはせ)て繪筆に造る也。唐畫(たうが)・山水などには專要(せんえう)のもの也。

「羽(は)ぶしの脇毛を用(もちゆ)る。」

と、いへり。羽筆(うふで)と稱するもの也。

[やぶちゃん注:「羽ぶし」羽の根元。羽茎(はぐき)のこと。]

 

○「とき」のはね、又、「羽(は)ぼうき」、製すべし。普通のものには、こえたり。

 金鷄(きんけい)のはねも「ほうき」に製したるは、至(いたつ)て見事也。

[やぶちゃん注:「とき」博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 朱鷺(トキ)」を参照されたい。]

 

○「孔雀には、鷄卵を、うちわりて、飼ふ。蛇をも、飼ふ。」

と、いへり。

 落(おち)たる毛を綴(つづり)て、「どうらん」に織(おり)たる、甚(はなはだ)、異物にみゆ。

[やぶちゃん注:博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 孔雀(くじやく) (インドジャク・マクジャク)」を参照されたい。]

 

○京都の筆は、麁(そ)なるものといへども、毛先、よし。京都にて、よき毛を、ぬきとりて、殘れる皮を、他邦へわかちやるゆゑ、京都の製には及(およば)ざる事、むベ也。

 又、若狹より出(いだ)す筆、殊に、よし。毛のもやう、けだもののやうに見えず、鳥の毛のごとし。

[やぶちゃん注:「皮」は、「はじかれた品質の悪い毛」の意であろう。]

 

○筆は、江戶にても、自身、拵(こしら)ゆる店の物を求(もとむ)れば、よき筆を、える事、あり。大成(おほきなる)店を構(かまへ)て賣る所のものは、多く、よき筆、なし。下細工(したざいく)[やぶちゃん注:仕事が落ちる下級の細工師。]より、取(とり)よせて、あきなふゆゑ、筆工(ひつこう)の手づから製するには劣るゆゑ也。

 

○京都に「字けづり」といふものを製する者、有(あり)。

 小刀(こがたな)と、「へら」と、紙を竹の先へ付(つけ)たるものと、三稜(さんりよう)、有(あり)。書損(かいそん)じたる文字を、小刀にて、けづり、其跡を「ヘら」にて、すりて、すりたる所のすべらかに光あるを、此紙を付(つけ)たる竹にて、なづれば、光、消(きゆ)る也。

 小刀も、文字をけづる勝手よき樣(やう)に拵へたる物也。

 竹の先へ付たる紙も、唐紙(からがみ)・「ならたうし」の柔らか成(なる)にてするゆゑ、「へら」にてすりたる光、消うする也。堂上何れの御方にか、工(たく)み出(いだ)されし物の、よしにて、此三種に各(おのおの)名字(みやうじ)を付(つけ)て、東崖先生の銘有(ある)箱に入(いれ)て、あきなふ、よしを、いへり。

[やぶちゃん注:「ならたうし」不詳。或いは「奈良たたう紙」の誤記か誤判読か。「たたう」(現在仮名遣「たとう」。漢字表記「疊紙・帖紙」)は「たたみがみ」の音変化で、折り畳んで懐中に入れ、鼻紙や詩歌の詠草などに用いる懐紙のこと。

「東崖先生」江戸中期の儒学者伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)か。]

 

○硯を洗ふには、「ところ」の根を用べし、停(とどまる)墨を、よく洗ひおとして、しかも硯に疵付(きずつく)事、なし。

[やぶちゃん注:「ところ」「野老」だが、ここでは、広義の山芋類を指す。]

 

○硯、自然石のまゝにて、海ばかりを、ほる事を、「のづら」と云(いふ)也。

 

○硯屛(けんびやう)には、銀をのべて、張(はる)べし。夜學(やがく)に硯にそひてたつるに、燈(ともし)の光、硯屛に映じて、硯の内を照(てら)し、筆を染(そむ)るに、便(びん)よろし。たとひ、銀を用ゐずとも、木の屛成(なり)とも、銀箔を置(おく)べし。又びいどろの唐鏡を用(もちゐ)るも、よろし。

 

○唐紙をさけぬやうにするには、風の通ふ所に、竿(さほ)にかけて、半日ばかり、さらすべし。尋常の紙よりは剛(つよ)く成(なる)也。

 

○矢立(やたて)の硯には、鵜(う)の毛を用ゐて、墨を、たくはふべし。墨、かはく事、なし。常に水中を離れざる鳥なれば也。

 

○朱硯(しゆすずり)は、「びいどろ」にて製したる、朱の光りを發して、ことに、よろし。さなくとも、瀨戶ものを用ゆべし、瓦石(ぐわせき)に勝(すぐ)る事、萬々(ばんばん)也。

 

○繪の具をとく摺木(すりき)にも、「びいどろ」にて製したる殊によし。

[やぶちゃん注:「摺木」擂粉木(すりこぎ)に同じ。]

 

○印石、朱肉にて、埋(うづま)りたるをば、茶にて、洗ふべし。

 

○朱印肉油の法、シラシボリ一合、胡根一粒、唐黃蠟三分五厘、明礬(みやうばん)三分、

右四種、調合する也。先(まづ)、油をゆるき火にて、そろそろせんじ、一時(いつとき)ほど過(すぎ)て水に落(おと)し見れば、玉の如くに成(なる)也。夫(それ)を期(き)として、火を脫(はず)する也。水に落して、ちらば、調(ととの)はざる也。隨分、いろつかぬやうに、うすきを、「上」とす。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落である。]

 又、一方、艾葉(よもぎば)・朱辰沙(しゆしんしや)、かたへに、少し、「蟬退紙竹(せんたいしちく)」。是は、竹のふしの内にある、紙のごときもの也。

[やぶちゃん注:私は書道に全く興味がない。字も悪字である。されば、以上の原料等も注する気はない。悪しからず。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(13)

 

   客亭主ともに老けり爐の名殘 諷 竹

 

 爐塞[やぶちゃん注:「ろふさぎ」。]の場合、そこに坐つてゐる客も主人も共に老人で、茶を啜りながら閑談に耽ふけつていゐる、といふやうなところらしい。侘びた趣である。

 天明の句にはかういふ世界を覘つたものが多い。この句はその先蹤とも見れば見らるるものである。

[やぶちゃん注:「諷竹」槐本諷竹。既出の大坂蕉門の有力者槐本之道(しどう)の別号。]

 

   陽炎や川の淺みの蚫から 范 孚

 

 陽炎が立つてゐる。さらさら流れる川の淺いところに、蚫[やぶちゃん注:「あはび」。]の殼が一つ沈んでゐて、きらきら光つてゐる。眩いやうな明るい趣である。

 吾々の子供の時分には、金魚池などに蚫の殼を鼬よけに吊すといふことがあつた。蚫の殼は裏がよく光るので、夜でも鼬が恐れて近寄らぬからだといふ。さういふ貝だけに、川の淺みに沈んでゐても、その光が目につくわけであらう。

[やぶちゃん注:「范孚」(はんぷ)は恐らく京か大坂の蕉門。別号に攴頤亭、而已舎。許六跋の「麻生」(元禄一七(一七〇四)年・京都)を編している。]

 

   玉椿落て浮けり水の上 諷 竹

 

 椿の花がぽたりと落ちて、しづかに水の上に浮ぶ、といふ意味である。かういふ風の句は近來の寫生句には極めて多いが、元祿時代に在つてはむしろ異とすべきであるかも知れぬ。

 椿が水に落ちるといふだけの句なら、古來無數にある。「玉椿」と最初に置いたのも、修辭的に趣を助けて居らぬことはないが、それよりもこの句に於て見るべきは中七の敍法である。「落て浮けり」といふ言葉には、自ら時間的な經過がある。椿の花がぽたりと水に落ちて、而して水面に浮ぶ。普通の落花と違つて、大きさから云つても、重量から云つても、どつしりしたものであるだけに、落ちて而して浮ぶといふ經過が、はつきり眼に映るのである。單に椿の花が水面に浮んでゐるといふだけのことではない。

 再考するに「落て浮けり」といふ言葉には、大まかな中に一種の働きがあつて、やはり元祿らしい特色が認められるかと思ふ。

 

   朧夜や化物になるざうりとり 長 年

 

 作者の肩書に「イカ小童」とあるから、これは少年俳句である。「女をともなふ野邊の歸り日くれて道をたどる」といふ前書によつて、この句の場合は明瞭になる。

 女を連れた野邊の歸りに日が暮れて、朧夜のほの暗い道を歸つて來る、供の草履取が女たちを威すべく化物の眞似をした、といふのである。「化物になる」といふのはどんなことかわからぬが、さういふ說明を十七字詩中に求めるのは無理であらう。殊に作者が少年である以上、先づこの邊で滿足するより仕方があるまい。

 太祇に「春の夜や女をおどす作り事」といふ句がある。これは化物になるところまで行かぬ、話頭の作り事なのであらう。かういふ趣向は降つて[やぶちゃん注:「くだつて」。]春水作中の一齣となり、お化蠟燭を持出したりして、道具立は愈〻こまかくなるけれども、あまり感心したものではない。太祇には又「後の月庭に化物つくりけり」といふ句もある。百物語などの趣向ででもあらうか、いづれ誰かを威すはかりごとに相違無い。

 野中の辻堂に集つて百物語を完了したが、未だ夜は明けず、別に怪しい事も起らぬから、もう歸らうと云つて立去らうとすると、一人が己だけ少し殘る、皆さきへ行つて貰ひたい、と云ひ出した。怪しんでその故を問うたところ、實は堂を下りようとした時に、うしろから腰を抱へた者がある、その手をしつかり押へてゐるのだ、といふ答であつた。そいつは化物だらう、少し切つて見よう、と刀を拔きかゝると、その化物の聲として、それは危いと云つた。百物語の中途で、氣分が惡いと云つて歸つた男が化物になつてゐたのだ、といふ話が「窓のすさみ」にある。百物語の化物などは、とかく仲間のうちから生れるものらしい。朧夜の野道の化物も、草履取が一足先に𢌞つて、そんな惡戲をするのではないかと思ふが、固より想像に過ぎぬ。萬事春の夜の朧々たる中に委して[やぶちゃん注:「まかして」。]置いて差支無い。

[やぶちゃん注:『太祇に「春の夜や女をおどす作り事」といふ句がある』炭太祇(たんたいぎ 宝永六(一七〇九)年~明和八(一七七一)年)の 句。「新五子稿」(不木の寛政五(一七九三)年序)所収。

「後の月庭に化物つくりけり」太祇は江戸生まれだが、当該ウィキによれば、宝暦元(一七五一)年に京都に上り、真珠庵大徳寺に寄寓し、宝暦四(一七五四)年には島原遊郭の妓楼の主人桔梗屋呑獅(どんし)の庇護を受け、不夜庵を営んで芭蕉を祀った。島原遊郭では、遊女に俳諧や手習いの教授を行っており、『太祇の編んだ歳旦には俳人や遊里の主人連中の他に、女性たちの名前が見える。それらの多くは島原遊里案内記』「一目千軒」と『照合が可能であり、実在の太夫や天神たちである。彼女らの句には百人一首のパロディや地歌の曲名を読み込むものなど、趣向が凝らされている』。『また、秋の島原を舞台に灯籠を飾る行事を復活させたと』、も『される』。『太祇は明和八』(一七七一)『年に没するまで島原に住まうことにな』ったとあるから、前の句も、この句も、島原での景と思われる。

「窓のすさみ」(江戸中期の儒者で丹波篠山(ささやま)藩(現在の兵庫県)の家老松崎白圭(はくけい 天和二(一六八二)年~宝暦三(一七五三)年)の考証随筆で代表作。丹波は荻生徂徠門の太宰春台らと親交があった。ここに出る「堯臣(げうしん)」は名。通称を左吉、別号に観瀾がある)の「安藤正次の百物語」である。国立国会図書館デジタルコレクションの『有朋堂文庫』第八十六(塚本哲三等編・大正四(一九一五)年)有朋堂書店刊)のここで視認出来るが、短いので、以下に電子化する。読みは、振れそうなものだけに留めた。読み易さを考え、直接話法を改行し、句読点・記号を添えた。

   *

○三河にて安藤彥兵衞正次、五六人打寄りて、世にいふなる百物語して見んとて野中なる辻堂に行きて、闇夜に燈心百筋を燭(とも)し、物語一つ終れば、一筋づつへらし、今少しに成りたる時、一人の士いふ、

「俄に、氣分、例ならず、座にたへがたし、暇申す。」

とて、立ちさりぬ。おのおの、

「かれが臆したるにこそ。」

と語りあひつ〻、猶、語り合ひて、百にみち、燈火(ともしび)さりつくして、火も消えぬるに、未だ夜も明けざれば、目さず[やぶちゃん注:ママ。「目ざす」の誤字か誤植であろう。]ともしらぬ暗さに、

「何のあやしき事もなければ、いざ、歸らん。」

とて、おのおの、堂を下りて立ち去らんとするに、正次、云ふ、

「我は據(よんどころ)なき事有て、少し殘るべし、各(おのおの)先へ往かれよ。」

とありしかば、皆々、

「何事にか、聞屆(き〻と〻゙け)ずしては去り難し。」

と云ふ。正次、

「さしたる事にはあらず、先へ行(ゆか)れよ。」

といへども、各(おのおの)聞入れず。そこにて、正次云ふ、

「堂を下るに、何とも知れず、後より腰を〻へたるゆゑ、その手を取放(とりはな)さじとか〻ヘ居るなり。」

とありしかば、一人いふ、

「それこそ化物ならめ、少し切つて見ん。」

と。刀を拔きければ、抱(だ)きたるもの、

「それは危(あぶな)し。」

と言(いひ)たるを聞けは、先に疾(やまひ)といひて立ち去りたる士なりける程(ほど)に、皆(みなみな)興に入りて、うちつれ歸りしとぞ。

   *]

2024/04/04

譚 海 卷之十三 松むしやしなひの事 井出の蛙の事 まむし守札の事 疝氣蟲の事 いもり黑燒の事 魚は水上に向ひ牧駒は風に向ふ事 金魚錦鯉の事 はぜ米こしらへやうの事 めだか魚やしなひやうの事 鰍の事 魚の餌みゝずたくはへやうの事 鯉鮒をいかす方の事 やまめ黑燒乳の薬の事

○松蟲・きりぎりすの類、冬、氣力ぬけて、動(うごく)事、あたはず。「ほいろ」に入(れ)て、下に、ゆるき火を置(おき)て養へば、來秋迄、たもたるゝ也。

 

○山州井手の蛙は、至(いたつ)て小(ちさ)く、うす黑き色也。取來(とりきたつ)て池澤(ちたく)へ、はなち、聲を聞(きく)に、堪(たへ)たり。鳴音(なきね)、精冷にして、翫(もてあそ)ぶべし。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 卷之十 井手蛙うたの事」を参照されたい。]

 

○大便へ、長き蟲くだる事、有(あり)。形、細く、「うんどん」を引延(ひきのば)したる如く、至(いたつ)て長きもの也。

 是、「疝氣蟲(せんきのむし)」也。

 此蟲、くだる時は、其人、生涯、せんきをやむ事、なし。

 此蟲を黑燒にして、たくはへ置(おく)べし。疝氣わづらふ人の大妙藥也。

氣(き)みぢかく、引出(ひきいだ)せば、切(きれ)る也。竹べら抔に卷付(まきつけ)て、靜(しづか)に、いきみ出(いだ)すべし。くだる事、甚(はなはだ)稀なる事也。

[やぶちゃん注:所謂「サナダムシ」の類である。私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)」の注を参照されたい。但し、「疝氣」との関連性は全くない。複数個体が寄生していても、殆んど自覚症状は出ないのが、普通である。]

 

○「いもりの黑燒」といふ物、世間に、まゝ、有(あり)。眞贋、辨じがたけれども、何(いづれ)も功驗(こうげん)、有(あり)。乳(ち)になづみかぬる小兒と、「うば」とに、二つに、わけて、「えり」に、ぬひ入(いれ)ておくに、よく、なづみて、乳に、のみつく也。

[やぶちゃん注:「いもりの黑燒」湯西川温泉に行った際、黒焼きの老人の経営する店で、食い損なった。やはり、テトロドトキシンが気になったからだが、その実、それはアカハライモリではなかったようだったのだが、惜しいことをした。]

 

○魚は、皆水、上に向ひて、さかのぼる。流にしたがふ時は、鱗(うろこ)、逆に成(なる)ゆゑ也。牧駒(まきごま)も、また風にむかひて立(たつ)と、いふ。

 

○金魚の類は、やしなひがたし。緋鯉の類は、養ふに、むづかしからず。せんべい・はぜ米(まい)のたぐひ、皆、飼ふべし。飯を飼へば、殊に生長す。一年に二寸ほどづつ、長ずるもの也。

[やぶちゃん注:「はぜ米」「はぜかけ米」。現行では、稲のままで天日干しをして乾燥させた米を指す。 米が、稲藁に残っている養分を吸収して、追熟されると言う。私は食べたことがない。だいたい、私はご飯を一週間に一回しか食べない。嫌いなわけではない。糖尿病であるため、つい、二杯食べてしまうのだが、決まって、食後に異様に咽喉が乾く。血糖値がピックで上がるのが体感されるからである。但し、次条の記載とは、ちょっと違う。]

 

○「はぜ米」をこしらふるには、餅米を、「もみ」のまゝにて、日にほして、其後、「はうろく」にて、いる時は、「米もみ」を脫して、とびちり、「はぜ米」と成(なる)なり。

 

○「めだか」を飼ふ事、冬は、飼(かひ)たる器ものを、淸(きよ)くあらひて、石をもちて、魚の隱るゝ所を、こしらへ、淸き水を入(いれ)て、其中に「めだか」を放し、器を、閑地に埋め、蓋をして置(おく)べし。

 時々、蓋を明(あけ)て、水、へる時は、水を、つぎたす也。春になりて、やうやう、うごき出(いで)て、水に浮ぶ時、器を掘出(ほりいだ)して、日のあたゝかなる所に置き、寒き日は、又、蓋をして收置(をさめおく)べし。

 うみたる子、きぬ絲の樣に成(なり)て、うごき、およぐ時は、親のめだか、腹、さけて死(しぬ)るなり。

 殘りたる子、又、「めだか」になりて、年々、種(たね)を殘すと、いへり。

 

○「かじか」鳴聲、殊に淸絕(せいぜつ)なる物也。是も、水中に石を組(くみ)て隱るゝ所を拵へ、養(やしなふ)べし。秋夜に至りて、聲を發す。殊に堪(たへ)たり。

[やぶちゃん注:底本では、最後の「殊に」の右に編者注があり、『(聽カ)』とある。納得。]

 

○魚を釣(つる)に、みゝずを用ゆ。みゝずを掘取(ほりとり)て、漉返(こしかへ)しの紙に包み、箱の内に入(いれ)て、牢(かた)く封じ、一夜、へて、取出(とりいだ)す時は、みゝず、土を、玉のごとく、吐露して有(あり)。引(ひき)のばしても、きるゝ事、なし。

 

○鯉・鮒の類(るゐ)、死なんとする時に、一夜、水のしたゝる音を聞(きか)すれば、活(いき)かヘるなり。とかく、流水ならでは、久しくたもつ事成(なし)がたし。

 

○「『やまめ』といふ魚、箱根、所々、山川にあるもの也。黑燒にして、小兒に乳(ち)をかまれたるに付(つけ)て、治する。」

と、いへり。

 又、「まいまいむり」の黑燒、唾(つば)にて、ぬるも、よし。

[やぶちゃん注:「やまめ」私の『フライング公開 畔田翠山「水族志」 ヤマベ (ヤマメ)』を見られたい。]

譚 海 卷之十三 石竹花種をまく方の事 花木の實女子におろさすべき事 毛むしの事 草木の蜘を去る事 樹木の蟻を去る方の事 毛蟲生ぜざるまじなひの事 蜂にさゝれたる痛をとむる方の事 のみを去る方の事 まむしをふせぐ方の事 權方散の事

○「石竹花の種を取(とり)て、八月十五夜、明月の下にて、うつくしき扇子にのせ、たねをまく時は、翌年、花、至(いたつ)てよろし。」と、いへり。

 

○「花木の實は、すべて女子(によし)にまかするが、よし。けはひを、とゝのへ、髮をゆひ、衣を改(あらため)て、まく時は、花實、うるはしく生ずる。」と、いへり。

 

○毛蟲は、蝶の「ふん」より化生(けしやう)する也。春末より、時々、心をとめて、枝葉の間を見れば、蝶のひりつけたる「ふん」、有(あり)。夫(それ)を、日々、取去(とりさ)る時は、毛蟲、おほく生ずる事、なし。橘の蟲も蝶の「ふん」也。

 

○夏月、草木に、蜘(くも)のすたゆる事、なし。是も、日々、「蛛のす」ある中へ、木のは、をくだきて落(おと)せば、珠(たま)むしの落(おち)たると心得て、穴より出る所を、「もち」にて、さして、取(とる)也。

[やぶちゃん注:「もち」鳥黐(とりもち)。製法は当該ウィキを参照されたい。]

 

○樹に付(つき)たる蟻を去るには、蟻のいづる穴へ、「熊のゐ」を、少し計(ばか)りぬりおけば、あり、出(いづ)る事、なし。

 

○「毛蟲を生ぜぬまじなひは、除夜に『するめ』の足を、一つづつ、竹の筒に入(いれ)て、本(もと)ごとに懸置(かけおく)ときは、毛蟲、すくなし。」と、いへり。

 

○蜂にさゝれたるには、「いもの葉」にても、「くき」にても、かみて、痛(いたむ)所にすり付(つく)べし。卽座に、いたみ、とまる也。

 

○蚤(のみ)をさる方、菖蒲(しやうぶ)にて、「むしろ」を、あみて、敷(しき)て寢るときは、「のみ」、よりつく事、なし。

 

○「まむし」のある所を過(すぐ)るには、「すね」に、「たばこのやに」を、ぬりて、通るべし。又、竹に「やに」をぬりて持行(もちゆく)も、よし。

 

○「かまきり」を日にほし細末にして、針・釘などの、ふみぬきしたる疵(きず)の口ヘ、「めしつぶ」にて、ぬり置(おく)時は、針、かしらを、いだすを、毛ぬきにて、ぬきとる也。甲州高坂彈正、祕法「權法散(ごんほふさん)」といふ藥なり。

[やぶちゃん注:「甲州高坂彈正」甲斐武田氏家臣で譜代家老衆として武田晴信(信玄)・勝頼に仕え、武田四天王の一人として数えられる春日虎綱/高坂(香坂)昌信(大永七(一五二七)年~天正六(一五七八)年)。

「權法散」(ごんほうさん)「カマキリに疣(いぼ)をかじらせると治る」という俗信は日本各地で昔から行われており、イボムシリ・イボジリ・イボムシなどの異名が残っている。また、鏃(やじり)が深く入って、抜き難い際、この虫を陰干しにしたものの粉末(それを「権法散」と称する)を、傷口に塗ると、鏃が自然に出てくると言われた(平凡社「世界大百科事典」の「カマキリ」の条に拠った)。]

譚 海 卷之十三 柹の樹の事 はこべ鹽製しやうの事 竹の實の事 ひつじ稻の事

○柿の樹は、植(うゑ)かふれば、大方、枯(かる)る也。冬葉の落盡したるを待(まち)て、木を栽(うう)る者に、よくはかりて、移し植(うう)べし。

 

○「はこべ鹽」を、こしらゆるには、はこべの靑きまゝを、ほうろくにて、ねり付(つけ)れば、水、出(いで)て、しぶる。猶々、ねり付れば、終(つひ)に、水、盡(つき)て、出(いづる)事、なし。其時、鹽をまぜて、いり上(あげ)て、收むべし。

[やぶちゃん注:「はこべ鹽」ナデシコ目ナデシコ科ハコベ属Stellariaの内、食用となる、一般に「ハコベ」(繁縷・蘩蔞)と呼ばれるコハコベ Stellaria media ・ミドリハコベ Stellaria neglecta ・ウシハコベ Stellaria aquatica などの葉を混ぜた「変わり塩」のこと。とある北関東の山深い宿で使ったことがある。ほろ苦い野趣に富んだものである。]

 

○「竹の實は、飢饉に團子になして、くふべし。」と、いへり。

[やぶちゃん注:私は富山に一時移転する直前の一九六九年の晩秋に、今の家の直近の崖で花と実を見たのをよく覚えている。その同じ場所で、数年前に、やはり見かけた。俗説では竹の開花は六十年・百二十年に一度と言われ(実際には種によって異なるものの、数十年に一度である)、開花後に実をつけるものの、枯れてしまうことが知られており、殆んど実をつけない種もある。このように開花後に一斉に枯死することから、竹の開花は「不吉の前兆」と民俗社会では言われてきている(最初に見た時、母が一緒でやはりそう呟いたのも、一緒に記憶に刻まれてある。今考えに、そこには、北の見知らぬ国への移住の不安が母に過ったのであろうと思う。父は、一年早く、単身赴任していた)。無論、科学的根拠は全くない。サイト「笹Japon」の「笹の実の味」が詳しいので、そちらを見られたい。]

 

○「ひつじ稻(いね)」の、ほに出(いで)たるみを收(をさめ)て、細末に、なし、砂糖に和し、「こがし」のごとくに用ゆ。

「腹瀉(はらくだり)の薬也。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「ひつじ稻」ウィキの「稲孫」によれば、『稲孫、穭(ひつじ・ひつち・ひづち)は、稲刈りをした後の株に再生した稲。いわば、稲の蘖(ひこばえ)である。学術的には「再生イネ」とい』い、『一般には二番穂とも呼ばれる。穭稲(ひつじいね)・穭生(ひつじばえ)ともいい、稲刈りのあと穭が茂った田を穭田(ひつじだ)という。俳句においては秋の季語である』。『現代の日本においては、稲刈りはせず』、『田に鋤きこまれ、わずかに家畜に利用されることがあるにすぎない』。『しかし、佐々木高明によれば、ヒコバエが中身を入れた状態で結実する久米島、奄美大島等で、旧暦の』十二『月に播種、』一『月に移植(田植え)し』、六~七『月に通常の収穫をしたまま家畜に踏ませ』、八~九『月にマタバエ、ヒッツ、ヒツジと呼ばれる稲孫の収穫をする農耕文化が』昭和二〇(一九四五)『年まで行われていた』。『また』、『佐々木の調査によれば、与那国島で同様の農耕が』一九八一『年まで行われていたという』。『佐々木は』「日本書紀」に、現在の『種子島で、稲を「一度植え、両収」するという記事をヒツジ育成栽培の証拠としている』。十五『世紀に沖縄諸島へ漂着した朝鮮人の文献に、このような農耕を行う旨があることから、その当時から行われていたらしい』とあった。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(12)

 

   川越せばあとに啼なり雉子の聲 文 砌

 

 今まで前路に當つて聞えてゐた雉子の聲が、川一つ越したら後の方になつた、といふ意味であらう。ぼうつと霞んだやうな、春の野の樣が眼に浮んで來る。

 この川はかなりの大河らしく思はれる。これを越すことによつて眼界も異り、今までの雉子の聲も遙かうしろの方に聞える。必ずしも同一の雉子が啼いてゐるわけではないかも知れぬが、その聲がうしろになつたといふので、川を越した感じはよく現れてゐる。

[やぶちゃん注:「文砌」は「ぶんせい」と読んでおく。]

 

   水汲の手拭落すやなぎかな 祐 子

 

 井戶端か、川のほとりか、それはわからぬ。手拭は被かぶつてゐるのか、持つてゐるのか、腰にでも插んでゐるのか、それもわからぬ。たゞ水を汲みに來た人が、手拭を地に落す、その白い色と、綠に埀れた柳との對照がこの句の主眼である。

 色彩の對照以外に、明るい、輕やかな感じが一句に溢れてゐることは、贅するまでもあるまい。

 

   ちかよりて見れば畑打女かな 枳 邑

 

 遠くに畑を打つ人の姿は、たゞそれと見えるばかりで、男だか女だかわからぬ。だんだん近寄るに及んで、はじめて女であることがわかつた、といふのである。「ちかよりて見れば」といふ言葉は、わざわざ近寄つて見る場合にも用ゐられるが、この際は作者の步いてゐる足が自然と畑打に近づくのである。

 去來の「動くとも見えで畑打つ麓かな」といふ句は、本によつては下五が「男かな」ともなつてゐる。「動くとも見えで」といふ語は遠景に適し、「男かな」は遠景に適せぬところがあるが、「麓かな」ならすべてが遠景になつて、その問題は消滅することになる。枳邑[やぶちゃん注:「きいう」。]の句は去來の句には無論及ばぬけれども、遠く畑打を望み、近づいてはじめてその女たることを知るといふ順序は、極めて自然に行つてゐるやうに思ふ。

[やぶちゃん注:この「畑打(はたうつ)」は、春の彼岸頃から、八十八夜頃までの、種を蒔く時期に、畑地を打つて、土を活性化することを指す。

「動くとも見えで畑打つ麓かな」嵐雪編・元禄三(一六九〇)年自序の「其帒」(=其袋)では、

      *

   うごくとも見えで畑打(はたうつ)男哉

      *

とある。この、

      *

   うごくとも見えで畑うつ麓かな

      *

は、本句の初案と思われるもので、芭蕉晩年の特徴である「軽み」の兆しが見られる、俳諧七部集の一つで、山本荷兮編「阿羅野」(元禄二(一六八九)年芭蕉序文。刊行は翌年らしい)の「仲春」五句目に出る。「麓かな」の方がワイドで広角の映像に於いて優れる。]

 

   春の夜や蕪にとぼす小挑灯 牧 童

 

 この句には「夜更ふけて歸る時に蠟燭なし、亭坊[やぶちゃん注:住職。または、隠居剃髪した亭主。]の細工にて火とぼす物でかしてわたされたり、むかし龍潭の紙燭はさとらんとおもふも骨をりならんとたはぶれて」といふ前書がついてゐる。夜更けて歸るのに蠟燭がないと云つたら、亭坊が蕪の中をくり拔いて――だらうと思ふ――燈をとぼすものを拵へてくれた、といふのである。西瓜燈籠[やぶちゃん注:「すいかどうろう」。]はありふれてゐるが、蕪の挑燈は面白い。よほど大きな蕪でないと、火をとぼすには工合が惡からうと思ふけれども、そこは然るべく工夫したのであらう。

「龍潭の紙燭」は「碧巖集」にある話である。德山がはじめて龍潭に參した時、侍立するほどにいつか夜が更けてしまつた。「潭云く何ぞ下り去らざると、山遂に珍重して簾[やぶちゃん注:「れん」。]を揭げて出で、外面[やぶちゃん注:「そとも」。]の黑きを見て、却囘[やぶちゃん注:「きやくくわい」。立ち返ること。]して云く、門外黑しと。潭遂に紙燭を點じて山に度與[やぶちゃん注:「どよ」。「与えること」。]せむとす。山接せむとするに方つて[やぶちゃん注:「あたつて」。]潭便ち吹滅す[やぶちゃん注:「ふきけす」。]。山豁然として大悟す。便ち禮拜す」とある。龍潭の紙燭は受取らうとするのを吹消すところにあるらしいが、牧童は蕪の挑燈で足下を照して家へ歸らなければならぬ。「さとらんとおもふも骨をりならん」といふのは、例の俳人一流の態度であらう。

 蕪の挑燈といふのは他にもあるかも知れぬが、私はまだ見たことが無い。併しこの句を讀むと、俳味津々たるのみならず、何だか春の夜に調和するやうに思はれるから妙である。異色ある句と云はなければならぬ。

[やぶちゃん注:「蕪」「かぶら」。

「小挑灯」「こぢやうちん」。

「牧童」立花牧童(?~享保元(一七一六)年頃?)加賀国の人。立花北枝の兄。研刀師で、加賀藩の御用を勤めた。蕉門。初めは談林俳諧に親しんだが、芭蕉の「奥の細道」での加賀来遊の時、その門に入った。北枝とともに加賀蕉門の中心を成した知られた俳人である。

『「龍潭の紙燭」は「碧巖集」にある話である』誤り。これは「碧巖錄」ではなく、南宋の無門慧開の著になる考案集「無門關」の第二十八則「久嚮龍潭」である。私のブログ版では「無門關 二十八 久嚮龍潭」がそれで、サイト一括版「無門關 全 淵藪野狐禅師訳注版」もある。是非、お読みあれかし!

譚 海 卷之十三 水仙花めぐすりたる事 萍葉蚊遣につかふ事 べほうの事

○水仙の根にある玉、「つき目」によし。玉を、すり鉢にて、すりつぶし、糊のやうに成(なり)たるを、紙にぬり、目の上にはりて、一夜、寢る時は疵(きず)なく治する也。

 紙は、目より、隨分、大きく拵(こしらへ)たる、よし。

 又、水仙のはなを貯置(ためおき)て、眼のかゆき、或は、痛(いたむ)時など、目藥のごとく用ゆべし。湯に、花をひたして、洗ふ也。

[やぶちゃん注:「水仙」単子葉諸仏類キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科スイセン連スイセン属ニホンズイセン Narcissus tazetta var. chinensis 。但し、和名に日本とあるが、原産地は地中海沿岸で、本邦へは古くに中国南部を経由して渡来たものである。関東以西から九州で暖地の海岸線に自生する。ウィキの「スイセン属」によれば、知られた事実であるが、『有毒植物で、毒成分はリコリン(lycorine)やタゼチン(tazettine)、ガランタミン(galanthamine)のアルカロイド類』『とシュウ酸カルシウム (calcium oxalate) 』で、『全草が有毒で、鱗茎に特に毒成分が多い。スイセンの致死量はマウスで10.7g/kgである。食中毒症状と接触性皮膚炎症状を起こす。中毒は初期に強い嘔吐があり摂取物の大半が吐き出されるため』、『症状が重篤に到ることは稀であるが、鱗茎をアサツキと間違えて食べ死亡した例がある』。『葉がニラととてもよく似ており、家庭菜園でニラを栽培すると同時に、観賞用として本種を栽培した場合などに、間違えて食べ中毒症状を起こすという事件が時々報告・報道される』。『厚生労働省によると、2008年~2017年に起きた有毒植物による食中毒188件のうち、最多はスイセン(47件)だった』とある。しかし、『スイセンは有毒植物であるが、含まれている成分リコリンは、食中毒などのときに吐かせる吐剤でもあり』、『これを人工的に水素化してヒドロリコリンにすると、アメーバ赤痢の薬として役立つとされる』。また、(☞)『民間療法で、乳腺炎、乳房炎、咳が出るときの腫れに、鱗茎を掘り上げて黒褐色の外皮を除き、白い部分をすりおろしてガーゼに包んで外用薬として患部に当てておくと、消炎や鎮咳に役立つと言われている』。『身体にむくみがあるときも同様に、足裏の土踏まずに冷湿布すると』、『方法が知られている』とあるので、ここに書かれた療法は、強ち、否定出来ないようである。

「つき目」「突き目(つきめ)」で、眼球の角膜中央部の小さな外傷に化膿菌が感染して起こる細菌性角膜潰瘍の一種。「稲の葉先」や「麦の芒(のぎ)」、また、「逆(さか)まつ毛」などによる「突き傷」によって起こることが多いので、この名がある。異物感・流涙・眩しさ・痛みなどがあり、角膜に混濁が生じ、進行すると、前眼房に膿(うみ)が溜まり、放置しておくと、遂には角膜穿孔が起こり、虹彩が脱出,失明に至る。早期の抗生物質の投与・点眼が有効で、近年では重症例は少ない。角膜に混濁が残る場合は角膜移植を行う(主文は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]

 

○萍(うきくさ)は、「かたばみ」の葉の如く、夏月、水面に、ひまなく、うかび、生ずるもの也。すくひとり、かわかして、「蚊いぶし」にすべし。

[やぶちゃん注:「萍」単子葉植物綱オモダカ(澤瀉・面高)目サトイモ科ウキクサ亜科ウキクサ属ウキクサ Spirodela polyrhiza 。漢字表記は他に「浮草」「蘋」。これを「蚊いぶし」にしたという記載は、探し得なかった。あってもおかしくないが、その効果は、私が思うに、ボウフラとの共時的競合的(水面を覆って呼吸を邪魔する)な意味に於いて、多分に、共感呪術的な意味が臭うように感じられる。

「かたばみ」カタバミ目カタバミ科カタバミ属 Oxalis 亜属Corniculatae節カタバミ品種カタバミ Oxalis corniculata  f. villosa 。]

 

○「べぼう」と云(いふ)木も、蚊遣(かやり)に、よろし。さつまより出(いづ)るもの也。江戶にて數寄屋河岸(すきやがし)、「さつま問屋」といふに、あり。

[やぶちゃん注:「べぼう」裸子植物門マツ綱ヒノキ目ヒノキ科ヒノキ亜科ビャクシン(柏槇)(ネズミサシ(鼠刺))属 Juniperus 節ネズ Juniperus rigida の地方名。個人ブログ「ここでも道草」の「企画展8/蚊遣り/ベボウ/カヤノキ」に、『蚊燻し(かいぶし)(=蚊遣り)は、マツやスギなどを燻して使いますが、山の近くに住む人々はベボウを燻しました』。『ベボウはムロノキ・ネズミサシなどと呼ばれるヒノキ科の針葉樹で、三河・遠江(とおとうみ)地域の方』言『名です』とあった。ウィキの「ネズ」によれば、和名は、『針葉が硬く尖っているため、ネズミの通り道に置いておくことでネズミ除けになるという意味で「ネズミサシ(鼠刺)」の名前がつき、これが縮まって「ネズ」となったとされる』とある。

「さつまより出るもの也」とあるが、同前ウィキによれば、『本州(岩手県以南)、四国、九州、朝鮮半島、中国北部、ロシアに分布する』。本邦では『瀬戸内地方に多い』とあり、薩摩名産というわけではない。]

2024/04/03

譚 海 卷之十三 諸木實をむすぶを催す方事 蓮花からたちばなの事 菖蒲蛇を呼ぶ事 藪茗花の事 附朝鮮朝顏毒草たる事

○「蜜柑・柚の類、年をへて、實を結ばざるには、其實を、外(ほか)より取り來りて、ゆひそへて置(おく)時は、來年より、實を生ずる。」

と、いへり。俗諺に、是を、

「養子をする。」

と。いへり。

 

○蓮華は不淨を嫌ふ也。池へ小便などする事あれば、やがて、枯(かれ)うする也。「からたち花」も同前也。

[やぶちゃん注:「からたち花」ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Citrus trifoliata当該ウィキによれば、『和名カラタチの名は唐橘(からたちばな)が詰まったものである。別名でもカラタチバナともよばれる』。『別名では、キコク(枳殻)ともよばれる。中国植物名(漢名)は、枸橘(くきつ)という』。『中国中部の原産』であるが、『日本へは古くに渡来し、奈良時代末期に成立したと』される「万葉集」『にも名が見られる』。『平安時代には果実が薬用にされた』。『現代では、生け垣などに植栽されているのが見られる』。『柑橘類の中でも最も耐寒性が強く、やせた土地にも耐えて生育でき』、『東北地方でも生育する』とある。]

 

○「菖蒲(しやうぶ)は、『へび』の好(すく)もの。」

と、いへり。澤邊(あたり)、此草ある所に行(ゆき)ては、必(かならず)、蛇蝎(だかつ)の用心、すべし。

 

○「藪茗荷」といふもの有(あり)。詩に作れる「杜衡」といふものなる、よし。

 「朝鮮朝顏」と云ふものあり。毒、あり、人を狂惑さするもの也。此はなの種(たね)、惧(おそれ)て、一粒も、のむべからず。

[やぶちゃん注: 「藪茗荷」単子葉植物綱ツユクサ目ツユクサ科ヤブミョウガ属ヤブミョウガ Pollia japonica

『詩に作れる「杜衡」といふものなる、よし』誤り。「杜衡」は絶滅危惧II類(VU)となっている美しいギフチョウ(鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科ウスバアゲハ亜科ギフチョウ族ギフチョウ属ギフチョウ Luehdorfia japonica )の幼虫の食草としても知られるコショウ目ウマノスズクサ科カンアオイ属カンアオイ Asarum nipponicum var. nipponicum の同属の中国産のカンアオイ属の誤認漢名。そもそもカンアオイは日本固有種である。

「朝鮮朝顏」ナス目ナス科チョウセンアサガオ属チョウセンアサガオ Datura metel 。園芸用としては「ダツラ」「ダチュラ」の名で広く知られ、他に「マンダラゲ」(曼陀羅華)、「キチガイナスビ」(気違い茄子)、「ロコ草」などの異名もあり、英名の一つ「Angel's trumpet」もよく知られる。当該ウィキによれば、『原産地はアメリカ合衆国テキサス州からコロンビアにかけてとされ』たが、『熱帯アジア原産という説もある』。『日本へは、江戸時代』(天和四・貞享元(一六八四)年)『に薬用植物としてもたらされ、現在は本州以南で帰化・野生化したものが見られる』とある。『全草、特に種子に有毒なアルカロイド成分を含み、誤食すると瞳孔が開き、強い興奮、精神錯乱から、量が多いと』、『死に至る』。『成分はヒヨスチアミン (Hyoscyamine)、スコポラミン (Scopolamine) などのトロパンアルカロイドなどである。植物体の汁が目に入っても危険である』とある。ああっ! 私は若い頃から、ずっと、この花に魅せられている。梅崎春生「幻化」だ! ブログ版では、『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (7)』『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (9)』『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (10)~「白い花」了』を、サイト版一括PDF「幻化 附やぶちゃん注 (PDF縦書決定版)」を見られたい。

譚 海 卷之十三 桃花の事 姬笹の事 石菖蒲の事 よもぎの事 毒ある樹の事 またゝびの事 ほとゝぎす草の事 孟宗竹の事 竹を伐方の事

○桃は、水邊には、かじけて[やぶちゃん注:「萎(しぼ)んで」。]、生じ難し。市中(いちなか)には、生長す。五年めに、枝を切るべし。花をひらく事、さらに、おほし。

 

○「ひめ笹」といふものあり。「いさは」とて、殊に小き笹也。雨(あま)だりに植(うゑ)て、「りうの髭」に、かふるべし。

[やぶちゃん注:「ひめ笹」「姬笹」。イネ科タケ亜科ササ属ミヤコザサ(都笹)Sasa nipponica の別名。「いさは」は見当たらないが、似た「イトザサ」があり、「いさは」は「斑葉(いさは)」で、草木の葉の表面に白・黄・赤など色の異なった斑点、線紋などがあることを言う語であり、グーグル画像検索で学名を検索すると、所謂、葉の辺縁全体に、白い「隈」=線紋があるから、それであろう。

「雨だり」「雨垂り」で、あまだれが落ちる軒下。

「りうの髭」「龍の髭」。常緑多年草であるユリ目ユリ科ジャノヒゲOphiopogon japonicusの別名。]

 

○石菖蒲(せきしやうぶ)は、春、古葉(ふるば)を、殘らず、切取(きりとる)べし。夏月、若葉を生じて、翠色(みどりいろ)、尤(もつとも)奇麗なり。

[やぶちゃん注:「石菖蒲」単子葉植物綱ショウブ(菖蒲)目ショウブ科ショウブ属セキショウ(石菖) Acorus gramineus のこと。]

 

○「またゝび」は、垣に造りて、まとはすべし。四月、白花をひらく。梅花のごとし。葉をば、「ひたしもの」にして用(もちひ)る也。

[やぶちゃん注:ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygama当該ウィキによれば、『春から初夏にかけて若芽やつる先を摘み取り、塩を多めに入れて茹でて、水にさらしてアク抜きする』。『若芽やつる先は、おひたしや和え物、油炒め、椀種、生のまま天ぷらにもする』『葉は、おひたしにして食べる事がある』『が、アレルギーを生じる事がある』。『花は酢の物に利用する』とあった。]

 

○蓬(よもぎ)をば、「そへ木」をして、すぐに、そだつべし。長(たけ)、五、六尺に成(なる)也。花をば、めを、あらふに、用(もち)ゆ。葉をも、「かげぼし」にして、用ゆべし。

 

○「やつで」といふ樹、植(うう)べからず。毒、有(あり)。

「料理の『かいしき』に用(もちひ)て、人を害する事、ありし。」

と、いへり。

「『すわう』の樹も、毒、有。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「やつで」セリ目ウコギ科Aralioideae亜科ヤツデ属ヤツデ Fatsia japonica の当該ウィキによれば、『葉などには』、石鹸成分と同じサポニン(saponin)の一種である『ヤツデサポニンという物質が含まれ、過剰摂取すると下痢や嘔吐、溶血を起こす』とあった。

「『すわう』の樹」小高木でインド・マレー諸島原産のマメ目マメ科ジャケツイバラ亜科ジャケツイバラ連ジャケツイバラ属スオウ Biancaea sappan があり、本邦には古く八世紀以前に渡来している(色の「蘇芳」の元)が、漢方薬であるが、有毒ではない。この場合は、「スオウ」の異名を持つ、沖縄を除く日本全国に普通に見られる裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata を指している。当該ウィキによれば、『果肉を除く葉や植物全体に有毒・アルカロイドのタキシン(taxine)が含まれている』。『種子を誤って飲み込むと中毒を起こす。摂取量によっては痙攣を起こし、呼吸困難で死亡することがあるため』、『注意が必要である』とある。なお、イチイは「一位」「櫟」と漢字表記するが、『神官が使う笏がイチイの材から作られたことから、仁徳天皇がこの樹に正一位を授けたので「イチイ」の名が出たとされている』とあった。]

 

○「ほとゝぎす」といふ草、秋、花をひらく。葉は「めうか」の如く、花は百合に似たり。

「八丈島より、わたり來(きた)る。」

といふ。

[やぶちゃん注:「ほとゝぎす」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ホトトギス属ホトトギス Tricyrtis hirt 。私は、独身の頃、老夫婦が経営する飲み屋によく行ったが、その奥方(旦那より遙かに若く美しい方だった)から、この少し成長した若草を頂戴し、昔の今の家の庭に植え、二年ほど美しい花を咲かしていた。

「めうか」不詳だが、多分、ショウガ目ショウガ科ショウガ属ミョウガ Zingiber mioga のことであろう。]

 

○孟宗竹といふもの、近年、「さつま」より渡り來る。冬より、竹の子を生じ、春半(なかば)、すでに、一、二尺に及ぶ。暖地に植(うゑ)て、よろし。竹は、殊に、大きなるもの也。葉は、こまかし。

[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属品種モウソウチク Phyllostachys heterocycla f. pubescens 。]

 

○竹を切(きる)には、根を、ほりて、切取(きりとり)、その跡へ、土を、かけおけば、よく生長する也。土より上にて、きれば、切(きり)たる所より、露・霜、通りて、其根、枯(かれ)て、ふたたび生ずる事、なし。

譚 海 卷之十三 松の實うへの事 杉の事 柳の事 杜若實生の事 水あふひの事 吳茱萸の事 木瓜の實酢に製する事 うこぎの事

○「松かさ」を、くだきて見れば、細(こまか)なる實(み)有(あり)。夫(それ)を鉢に、まきおけば、ことごとく松苗(まつなへ)を生ず。然れ共、二、三寸に立(たち)のびる時は、皆、根より、くさりて、たふれ枯(かるる)る也。松葉を、根の間に敷(sき)て、たふれぬかひもの[やぶちゃん注:「甲斐物」か。]のやうにすれば、たまたま、生(しやう)ずる事、あり。

 

○杉は、濕氣(しつき)を、ふくみ、「ひの木」は、火を生(しやう)ず。人家に、ちかづけて、植(うう)べからず。

 

○柳は、山の手には少(すくな)く、本所には、至る所に有(あり)。水を、よろこぶ樹なるゆゑ成(なる)べし。柳は、軒に近く植(うう)べからず、年久敷(としひさしく)なれば、いつとなく、根は朽(くち)て、外の皮ばかりにて、立(たち)てあるものゆゑ、大風(たいふう)の時、たふれて、家を損ずる事、有(あり)。

 

○「かきつばた」の實生(みしやう)は、三年を經て、初(はじめ)て生(しやう)ずる事也。樽のうちに、泥を、たくはへ、實をまぜて、泥に「ふん」を、「こやし」にすれば、一年にして、生ずると、云へり。

 

○「水あふひ」といふもの、秋、水中に、紺の花を、ひらく。自然に生ずる物にして、移して植(うう)れば、翌年、生ずる事、なし。

[やぶちゃん注:「水あふひ」「水葵」。単子葉植物綱ツユクサ目ミズアオイ科ミズアオイ属ミズアオイ Monochoria korsakowii 。]

 

○吳茱萸は、井のもとに植(うう)べし。

「實(み)、落(おち)て、水に入れば、水毒を消す。」

と、いヘり。

[やぶちゃん注:「吳茱萸」「ごしゆゆ」と読む。ムクロジ目ミカン科ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum 当該ウィキによれば、『中国』の『中』部から『南部に自生する落葉小高木。日本では帰化植物。雌雄異株であるが』、『日本には雄株がなく』、『果実はなっても種ができない。地下茎で繁殖する』八『月頃に黄白色の花を咲かせる』。『本種またはホンゴシュユ(学名 Tetradium ruticarpum var. officinale、シノニム Euodia officinalis )の果実は、呉茱萸(ゴシュユ)という生薬である。独特の匂いと強い苦みを有し、強心作用、子宮収縮作用などがある。呉茱萸湯、温経湯などの漢方方剤に使われる』とあった。漢方薬剤としては平安時代に伝来しているが、本邦への本格的渡来は享保年間(一七一六年から一七三六年まで)とされる。]

 

○「ぼけ」、一名「しとみ」と、いへり。

「田舍にては、實を釀(かも)して、酢に、かへ、つかふ。」

と、いへり。

「甚(はなはだ)、酢氣、つよくして、用ひがたき物。」

と云(いへ)り。

[やぶちゃん注: 「ぼけ」「しとみ」本邦に自生する「木瓜」はバラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ属クサボケ(草木瓜)Chaenomeles japonica である。齧ったことがあるが、非常に酸っぱい味はする。酢を作るというのは私は知らないが、果実酒としては、かなり有名である。]

 

○「うこぎ」、生垣にすべし。二月末、若葉を摘(つみ)て、「ひたし物」にするに、佳品也。又、茶にも用(もちゆ)べし。枸杞(くこ)と、ならべ、植(うう)べし。

[やぶちゃん注: 「うこぎ」本邦に自生するのは(ウィキの「ヤマウコギ」によれば、『北海道と本州に分布するという説と』、『岩手県以南の本州と四国に広く分布するという説がある』とある)、セリ目ウコギ科ウコギ属ヤマウコギ変種ヤマウコギ Eleutherococcus spinosus var. spinosus である。

「ひたし物」同前で、『春の新芽と若葉は山菜になり、摘んでお浸し』(☜)『や炊き込みご飯(ウコギ飯)にする』。『根皮は薬用になる』とあった。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(11)

 

   新道の置土かわく堇かな 里 東

 

 堇といふ花は、明治以後所謂星堇趣味の普及によつて、一種の型を生じたが、昔の日本にはそんなハイカラなものは無い。野草として普通の待遇を受けるにとゞまつてゐた。赤人の「野をなつかしみ一夜ねにける」にしても、芭蕉の「山路來て何やらゆかし」にしても、明治の若い連中が隨喜したやうなものでないことは勿論である。

 この里東の句なども當り前の田舍の景色で、新しく作つた道の上に置土をする、その土の乾いたところに堇が咲いてゐる、といふまでである。ハイカラでもなし、艷でもない。たゞさういふ置土の間にある、小さな野草の紫色が人の目を惹くに過ぎぬ。

 

   小便に連まつ岨の堇かな    松 白

 

に至つては、一層野趣の甚しいもので、星堇黨に見せたら憤慨しさうな句であるが、わざわざかういふ材料を持出したのではない。古人は自然の間に堇を認め、或觀念を以て臨まなかつたから、岨道[やぶちゃん注:「そばみち」。崖に沿った道。]に小便をする男なども、句に取入れられることになつたのであらう。反對に古人が或觀念を以て臨み、今人は却つて無關心なものもある。時代趣味の上からいろいろ對照して見たら、存外面白い結果になるかも知れない。

[やぶちゃん注:「星堇趣味」星堇派(せいきんは)のこと。当該ウィキによれば、『星や』花のスミレ『に託して、恋愛や甘い感傷を詩歌に』謳った『ロマン主義文学者のこと』或いは、『一般的に、そのような感傷的作品しか作れない詩人を揶揄する際にも用いられる』。一九〇〇(同年は明治三十三年)『年代初頭、与謝野鉄幹・晶子夫妻を中心とする雑誌『明星』によって活躍した人たちを指す』とある。]

 

   あひさしの傘ゆかし花の雨 淀 水

 

「あひさし」は二人でさすの意、相合傘のことであらう。かういふ言葉があるかどうか、『大言海』などにも擧げてはないが、相住、相客等の用例から考へて、當然さう解釋出來る。

 花の雨の中を相合傘で來る人がある。「ゆかし」は「暖簾の奧ものゆかし」とか、「御子良子[やぶちゃん注:「おこらご」。]の一もとゆかし」とかいふのと同じで、傘の内の人は誰だか知りたい、といふ意味である。艷と云へば艷なやうなものの、少しつき過ぎる嫌がある。但普通の春雨よりは、花の雨の方がいくらかいゝかと思ふ。

[やぶちゃん注:句の「傘」は「からかさ」と読む。

「淀水」取り敢えず「てんすい」と読んでおく。]

 

   鶯や籠からまほる外のあめ 朱 拙

 

 飼鶯である。「まほる」は「まぼる」卽ち「まもる」の意であらう。雨の日の鶯が籠の中からぢつと外を見てゐる。雨の降る樣を見守つてゐるやうだ、といふのである。

 鶯には限らぬが、動物には時にかういふところがある。彼等は實際外の雨を見てゐるのかも知れない。或は人間にさう見えるだけで、うつろな眼には雨も何も映つてゐないのかも知れない。いづれにしても作者は自己の感じたまゝを句にしたので、つれづれな雨の日の觀察がこゝに及んだことはい云ふまでもあるまい。

 

   鶯や目をこすり來る手習子 溫 故

 

 鶯が啼いてゐる。手習子[やぶちゃん注:「てならひご」と読みたい。岩波文庫では「てららひこ」。]がやつて來る。朝早いのに無理に起されたと見えて、眠さうな眼をこすりながらやつて來る、といふのである。「目をこすり來る」の一語によつて、朝の早い樣子と、その子の年の行かぬ樣子とをよく現してゐる。さうした可憐な趣が鶯と或調和を得るのである。

[やぶちゃん注:「溫故」初代久居(ひさい)藩主藤堂高通(俳号は任口)が、外宮の弘氏の宿所に「神風館」と命名し、扁額を与えたことによると伝えられる俳諧号「神風館」主、の第六代が「溫故」。]

 

   ふたつみつ花になりけり苔の梅 從 吾

 

 老木の梅と見える。幹には深々と苔をつけた梅の木が、僅に二輪か三輪の花を著けてゐる。「花になりけり」といふ言葉は、單に花が咲いたといふだけでなしに、咲くべくも思はれなかつたのに咲いた、といふやうな意が寓せられてゐるやうに思ふ。

 森田義郞氏の歌に「苔むせる老木のつはり痛々しかくて幾世の春を飾れる」といふのがあつた。花と芽との相違はあるけれども、老木を憐むの情に於ては略〻この句と趣を同じうしてゐる。「苔の梅」といふ言葉は多少無理な感じが無いでもないが、苔むせる老木の梅を現す場合、他に適當な言葉も無さそうである。

[やぶちゃん注:「森田義郞」(ぎろう 明治一一(一八七八)年~昭和一五(一九四〇)年)は歌人。愛媛県生まれ。本名は森田義良。國學院大學卒。明治三三(一九〇〇)年、「根岸短歌会」に参加し、『馬酔木』の創刊にも関わったが、意見の対立により離脱し、従来から関係していた『心の花』に拠った。後、右翼政治運動に加わり、日本主義歌人として活動した。「万葉ぶり」の作風で、論客としても知られた(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。]

 

   朱鞘さす人物すごしんめの花 一 庸

 

 この梅の咲いてゐるのはどんな場所かわからぬ。が、恐らくは梅見に人の來るやうなところで、特に朱鞘の人が目立つといふのであらう。講談に出て來る中山安兵衞のやうな浪人者であるかどうか、とにかく一見物凄いやうな感じを與へる人物がいる。「人物すごし」は「ヒトモノスゴシ」で「ジンブツスゴシ」でないことは勿論である。

「何事ぞ花見る人の長刀」といふ櫻の下では、到底この種の人物は調和しない。假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]朱鞘の浪人者が徘徊するにしても、空氣は一變して春風駘蕩の圖とならざるを得ぬであらう。物凄い朱鞘の人物に調和するのは、やはり梅より外はあるまいと思ふ。

 梅を「んめ」と書くのは古俳書によくある例である。蕪村は「梅さきぬどれがむめやらうめぢややら」と言つたが、文字面[やぶちゃん注:「もじづら」。]からいふと、もう一つ「んめ」がある。但發音は「む」と同じだから、特に云ふほどのことは無いかも知れぬ。

 

   いかのぼり見事にあがるあほうかな 林 紅

 

 凧たも得揚げまいと思つてゐた阿房[やぶちゃん注:「あほう」。阿呆。]が、見事に凧を揚げたといふだけでは面白くない。皆が揚げ惱んでゐる風の日であるとか、人の目をそばだてるやうな大凧であるとか、何か特別な事實がないと、いくら阿房でも揚げ甲斐があるまいと思ふ。「見事にあぐる」でなしに、「見事にあがる」である點にも注意しなければならぬ。凧を揚げ得た阿房が主眼ではない。阿房の手から見事に大空に揚つた凧が主眼なのである。

 他に何の能も無いが、凧を揚げることは名人だといふ解釋も成立ち得るかも知れぬ。吾々は阿房の手によつて見事に揚つた凧を仰ぎ見るだけにとゞめて置きたい。

 

   羽織著た禰宜の指圖や梅の垣 素 覽

 

 垣の修理か、庭の手入かわからぬが、羽織を著た禰宜がそこに出て、何かしきりに指圖してゐる。その垣根には梅が咲いてゐる、といふ趣である。平服の禰宜を捉へたのが一風變つてゐて面白い。

「その後」の中にある「地祭り」といふ文章の最後のところに、地祭が濟んで地主の家へ行つて見ると、神官は束帶を脫いで只の人で坐つてゐた、そして目白の話をしたりしてゐたが、歸る時に好い序だからと云つて接骨木[やぶちゃん注:「にはとこ」。]小苗を貰つて行つた、といふことがある。

 この句を讀んだらすぐあの一節を思ひ出した。平服の神官に興味を持つたりするのは、俳人的觀察の一であらう。

[やぶちゃん注:「素覽」三輪素覧(生没年未詳)は尾張蕉門で、沢露川と交わった。露川門と蕉門諸家の句集「幾人水主」(いくたりかこ)を元禄一六(一七〇三)に編している。通称は四郎兵衛・四郎太夫。別号に松隣軒・鶏頭山・鶏頭野客。

『「その後」の中にある「地祭り」』俳人・小説家であった篠原温亭(明治五(一八七二)年~大正一五(一九二六)年:熊本県宇土郡宇土町(現在の宇土市)生まれ。本名は英喜。京都本願寺文学寮(現在の龍谷大学)に学んだ後、上京し、徳富蘇峰主宰の『國民新聞』に勤め、活躍した。その傍ら、『ホトトギス』の同人となり、正岡子規・高浜虚子らに俳句を学んだ。温厚な人柄で、人望があった)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションで、亡くなる二年前に出た大正一三(一九二四)年民友社刊のもので、ここから視認出来る。終りの部分というのは、ここ。]

 

   飛咲の菜の花寒し麥の中 三 徑

 

「飛咲」といふのは飛び離れて咲くの意であらう。靑い麥の中にぽつつり離れて菜の花の咲いてゐる趣である。萬綠叢中黃一點といふほどではないが、とにかく菜の花の甚だ優勢ならざることを示してゐる。「寒し」は氣候の感じでもあり、また乏しい菜の花の感じでもある。春色未だ遍から[やぶちゃん注:「あまれから」。]ざる野の景色であらうと思ふ。

 麥綠菜黃をはつきり描いた句に、子規居士の「菜の花の四角に咲きぬ麥の中」がある。印象明瞭の一點では、三徑の句はこれに及ばぬであらう。たゞ感じの複雜なところは、あるいは勝つているかも知れぬ。「飛咲」といふ耳慣れぬやうな言葉も、この場合相當な效果を收めてゐる。

[やぶちゃん注:断然、子規のものより遙かに優れている。

「麥綠菜黃」「ばくりよくさいわう」では如何にも無粋な熟語である。敢えて「むぎのみどりなのき」と読んでおく。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(10)

 

   霞む目やまばゆき紅の水洗   里 東

 

「紅」はモミと讀むのであらう。紅い絹の意である。うらうらと霞む長閑な日の下に、水に浸してざぶざぶと洗ふ、その絹の紅が日に映えて眩いやうな感じがする、といふ趣を詠じたものと思はれる。

 上に「霞む目」と置いたところを見ると、普通の井戶端などでない、多少眺[やぶちゃん注:「ながめ」。]の展けた流[やぶちゃん注:「ひらけたながれ」。]のほとりかも知れない。さうすれば又一句の連想が複雜になつて來る。或は霞む日の空を遠い背景として、水洗をした紅絹がそこに干してある、その紅の眩いやうな感じを捉へたものとも解せられぬことはない。一句の主眼は春の日を集めた紅絹の眩さにあるのだから、他は各自の連想に任せていゝやうなものであるが、姑く[やぶちゃん注:「しばらく」。]前のやうに解して置く。

 

   默禮の跡見かへるや朧月 柳 之

 

 夜道を步いて行くと、默つて御辭儀をする人がある、此方も禮を返して行き違つたが、何步か行つてあとを振返つて見たら、今の人は朧月の下を向うへ步みつゝある、と云つたやうな趣かと思ふ。相手は誰であるかわからぬ、御辭儀をするから此方でも御辭儀をしたものの、訝しいやうな氣がして振返つたものとも解せられる。それほど面倒に考へずに、默禮をしたまゝすれ違った人を、少し行き過ぎてから振返つた、といふだけでもいゝかも知れない。何とも挨拶せぬ爲に、いくらか無氣味な影が附纏ふやうだけれども、その人を怪しむといふほど强い感じでもなささうである。

 人通りなどのあまり無い場所であらう。朧月の下に顧る人影の、遠からず而も明[やぶちゃん注:「あきらか」。]ならざるところに一種の趣がある。

 

   さらば又かき餅燒んおぼろ月 露 堂

 

「舍羅除風に草庵に押こまれて」といふ前書があるから、その場合は一應わかるが、舍羅、除風と作者との關係はあまり明瞭でない。この前書によつて按あんずるに、二人が突然やつて來たので、いさゝかもてなしの爲、夜話の伽にするやうな意味で、かき餅でも燒かうと云つたのであらう。「さらば又」といふところを見れば、こんな事は屢〻あるので、御互に親しい間柄らしいことも、「押こまれて」の一語から想像し得る。

 この句を讀んでふと思ひ出したのは、吉野左衞門氏の「十三夜行」である。月夜の松濤庵に淸流を汲んで茶を淹れ、何か無いかと戶棚を搜したら一袋の掻餅が出て來た、それを泉鏡花氏が喜んで食べた、といふことが書いてある。春と秋で情景は全く異るけれども、夜の客に對して掻餅を持出すところ、相手が二人であるところなども頗る趣を同じうしてゐる。この句が目についたのも、事によつたら「十三夜行」の記事が頭に在つたせゐかも知れない。

 簡素な昔の生活の思ひやられる句である。

[やぶちゃん注:『吉野左衞門氏の「十三夜行」』「吉野左衞門」(明治一二(一八七九)年~大正九(一九二〇)年)は俳人。三鷹市野崎生まれ。子規に入門し、近代俳句確立期に俳壇の主流となった人物。「十三夜行」は明治三一(一八九八)年に書かれた伊勢参りの紀行文。国立国会図書館の「次世代デジタルライブラリー」の句文集「栗の花」(明治四一(一九〇八)年民友社刊)のこちらから視認でき、当該箇所はここである。]

 

   吹上る墋の中の雲雀かな 呈 笑

 

 畠であるか、河原であるか、それはわからぬ。强い風が吹いて濛々と埃[やぶちゃん注:「ほこり」。]が揚る、その中に雲雀の聲がする、といふのである。

 雲雀の聲は多くの場合、長閑のどかな光景に配せられてゐる。この句は風が吹いてゐる上に、濛々たる砂塵まで揚つてゐるのだから、平安朝流の歌よみなどは閉口しさうな趣であるが、それで雲雀の感じは少しも損はれてゐないところが面白い。

[やぶちゃん注:「墋」「ほこり」と読む。]

 

   蛙子や尾先ににごす小田の水 淵 龍

 

 田の水の淺いところに、蝌蚪[やぶちゃん注:「おたまじやくし」。]が澤山かたまつてゐる。あの軈て消え去るべき短い尾を動かすたびに、田の水にさゝやかな濁りが立つ。大まかなやうで纖細な趣を捉へたものである。

「尾先ににごす」といふ言葉だけ切離して考へると、もう少し大きな動物であつてもよささうな感じがする。從つてこの蝌蚪も一疋の動作と見た方が、印象がはつきりするかも知れぬが、蝌蚪そのものとしてはやはり黑くかたまつて、絕えず動いてゐる方がよささうに思ふ。蝌蚪の尾によつて絕えず濁りを生ずるところに、淺い田の水の樣子が窺はれる。

[やぶちゃん注:私は幼い日の記憶から、断然、複数のそれを想起する。

「蛙子」「かへるご」。

「小田」「おだ」。]

 

   肩もみてともに眠るか春の雨 百 洞

 

 春雨の懶さとでもいふべきものを現した句である。肩を揉ませてゐるうちにいゝ氣持になつて、ついうとうとする。揉んでゐる方も眠くなつたのであらう、揉む手に力が入らなくなる、外は春雨がしとしと降つてゐる、といふのである。

「ともに眠るや」では斷定に過ぎる。眠つてゐるのかゐないのか判然せぬ狀態、揉ませてゐる方の意識も稍〻朦朧たる點が、春雨の趣に調和するのであらう。

 

   枯蘆に雪の殘りや春の鷺 怒 風

 

 これは見立みたての句であらうと思ふ。枯蘆のほとりにゐる鷺の白いのを、殘ン[やぶちゃん注:「のこん」。]の雪に擬したので、實際枯蘆に雪が殘つてゐるわけではない。散文的に解釋すれば、春の鷺の白きは枯蘆に殘れる雪の如し、といふことになるわけであるが、作者は机上にこの趣向を案出したのではなく、現在眼の前に枯蘆を見、白鷺を見てゐるのである。さうでなしに單にこれだけの譬喩を持出したものとすれば、一箇の思ひつきに過ぎぬことになつてしまふ。「枯蘆に雪の殘りや」といふ十二字だけなら、或は枯蘆の上の殘雪と解することも出來るかも知れない。たゞそのあとから登場するものが白鷺なので、雪に色を奪はれたのでは折角出て來た甲斐が無いから、こゝはどうしても枯蘆の鷺を殘雪に見立てたといふ解釋によるべきであらう。この邊は今の句とは大分勝手の違ふところがある。

 尤も鷺を雪に見立てるのは、必ずしも珍しい趣向ではない。宗鑑にも「聲なくば鷺こそ雪の一つくね」といふ句があつた。これは「雪の一つくね」といふ語が鷺の形容に適切であるといふ外、全然理智的譬喩になり了つてゐる。從つて吾人の眼前には何も浮んで來ず、文學的價値も頗る乏しいわけである。然るに鷗外博士の「佐橋甚五郞」を讀むと、中に次のやうな描寫がある。[やぶちゃん注:以下、後で原文を示すが、完全な引用ではない。なお、底本では、以下は二字下げとなっているが、ブラウザの不具合が生ずるため、「*」を前後に入れて示した。]

   *

丁度春の初で、水のぬるみ初めた頃である。とある廣い沼の遙か向うに、鷺が一羽おりてゐた。銀色に光る水が一筋うねつてゐる例の黑ずんだ土の上に、鷺は綿を一撮み投げたやうに見えてゐる。

   *

 この鷺を擊てるか擊てぬかの賭かけになつて、甚五郞が鐵砲で擊つ。そこに「其儘黑ずんだ土の上に、綿一撮みほどの白い形をして殘つた」と、もう一度同じ形容が繰返してある。嘗てこの條を讀んだ時、譬喩の文學的效果といふことに就て、少し考へて見たことがあつた。散文或は長詩の一節として之を用ゐれば、大に[やぶちゃん注:「おほいに」。]效果のある譬喩的形容でも、俳句の如き短い詩に在つては、他に補足的な文字を添える餘裕が無いため、譬喩倒れに了る傾向がある。「佐橋甚五郞」の一節としては效果のある「一撮みの綿」の如きも、俳句に於ては成功せぬ場合が多くないかと思はれる。

 宗鑑の鷺は姑く問題の外としても差支ない。怒風の句が或程度まで早春水邊の景色を展開してゐるに拘らず、全體の感じを弱めてゐるのは、主として譬喩の一點にある。これは俳句に適するか否かの問題で、必ずしも形容の巧拙に關するものではなささうである。

[やぶちゃん注:「佐橋甚五郞」大正二(一九一三)年四月一日発行の『中央公論』(二八ノ五)初出(後の単行本「意地」に所収)。所持する岩波の『鷗外選集』第四巻を元に、漢字を恣意的に正字化して示した。一シークエンスが終わるところまで、引用する。

   *

 或る時信康は物詣(ものまうで)に往つた歸りに、城下のはづれを通つた。丁度春の初で、水のぬるみ初(そ)めた頃である。とある廣い沼の遙か向うに、鷺が一羽おりてゐた。銀色に光る水が一筋うねつてゐる側の黑ずんだ土の上に、鷺は綿を一撮(つま)み投げたやうに見えてゐる。ふと小姓の一人(ひとり)が、あれが擊てるだらうかと云ひ出したが、衆議は所詮擊てぬと云ふことに極まつた。甚五郞は最初默つて聞いてゐたが、皆が擊てぬと云ひ切つたあとで、獨語(ひとりごと)のやうに「なに擊てぬにも限らぬ」とつぶやいた。それを蜂谷(はちや)と云ふ小姓が聞き咎めて、「おぬし一人がさう思ふなら、擊つてみるが好い」と言つた。「隨分擊つて見ても好いが、何か賭かけるか」と甚五郞が云ふと、蜂谷が「今ここに持つてゐる物をなんでも賭けう」と云つた。「好し、そんなら擊つて見る」と云つて、甚五郞は信康の前に出て許しを請うた。信康は興ある事と思つて、足輕に持たせてゐた鐵砲を取り寄せて甚五郞に渡した。

 「中(あた)るも中らぬも運ぢや。はづれたら笑ふまいぞ。」甚五郞はかう云つて置いて、少しもためらはずに擊ち放した。上下擧(こぞ)つて息を屛(つ)めて見てゐた鷺は、羽を廣げて飛び立ちさうに見えたが、其儘黑ずんだ土の上に、綿一撮み程の白い形をして殘つた。信康を始めとして、一同覺えず聲を揚げて譽めた。田舟(たぶね)を借りて鷺を取りに行く足輕を跡に殘して、一同は館へ歸つた。

 翌日の朝思ひ掛けぬ出來事が城内の人々を驚かした。それは小姓蜂谷が、體中に疵もないのに死んでゐて、甚五郞は行方が知れなくなつたのである。小姓一人(にん)は鷺を擊つた跡で、お供をして歸る時、甚五郞が蜂谷に「約束の事は跡で談合するぞ」と云ふのを聞いた。死んだ蜂谷の身のまはりを調べた役人は、兼て見知つてゐる蜂谷の金熨斗附(きんのしつき)の大小の代りに、甚五郞の物らしい大小の置いてあるのに氣が附いた。その外にはこの奇怪な出來事を判斷する種になりさうな事は格別無い。只小姓達の云ふのを聞けば、蜂谷は今度紛失した大小を平生由緖のある品だと云つて、大切にしてゐたさうである。又其大小を甚五郞が不斷褒めてゐたさうである。

   *

同作をお持ちでない方は、新字新仮名であるが、「青空文庫」のここで全篇が読める。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(9)

 

   老僧の理窟いはるゝ接木かな   重 就

 

 これは別にいゝ句ではない。老僧の接木といふ言葉があつて、齡已に傾ゐた老僧が接木をする。猶幾程未来恃んでそんなことをするのかといふと、自分の爲にするのではない、かうやつて接いでさへ置けば、何時かは大きくなつて人の役に立つ時があらう、と答へるのである。鳩巢[やぶちゃん注:「きうさう」。]の『駿臺雜話』にも「老僧が接木」なる一章があり、三代將軍が谷中邊へ鷹狩に出た時、將軍とは知らずに今のやうな理窟を云つて聞かした、といふ話が出てゐる。その眞僞はわからぬが、さういふ考で接木をした者はいくらもあつたらうと思ふ。子規居士の沒前數日に口授[やぶちゃん注:「くじゆ」。]した「九月十四日の朝」といふ文章を讀むと、朝納豆賣が來たのを聞いて、家人にこれを買はせる話が書いてある。「余の家の南側は小路にはなつて居るが、もと加賀の別邸内であるので、この小路も行きどまりであるところから、豆腐賣りでさへ此裏路へ來る事は極て少ないのである。それで偶〻珍しい飮食商人が來ると、余は奬勵の爲にそれを買ふてやりたくなる」といふのであるが、これなどもやはり老僧の接木の一種であらう。

 重就の句は老僧が理窟を云つたといふまでで、その内容には觸れていない。けれども老僧が接木をしながらの理窟である以上、先づ例の話と見て間違は無さそさうである。たゞその理窟を御尤とも何とも云はず、「理窟いはるゝ」とだけ云つたところに、多少のをかしみを生じてゐるやうな氣がする。

[やぶちゃん注:「重就」歌人香川景樹の門下。

「鳩巢の『駿臺雜話』」江戸中期の儒学者室鳩巣(むろきゅうそう 万治元(一六五八)年〜享保一九(一七三四)年:江戸生まれ。名は直清。加賀前田家に仕え、藩命により、木下順庵に学び、朱子学を信奉した。後、新井白石の推挙で、将軍徳川吉宗の侍講となった)の著した随筆にして儒学書。成立は没する二年前の享保一七(一七三二)年。全五巻で、仁・義・礼・智・信の五常を五巻に配してある。朱子学的な観点から、学術・道徳などを奨励した教訓的な作品。室鳩巣による著作物の中でも最も著名なものであり、江戸随筆の中でも代表的作品である。当該話は以下。所持しないので、国立国会図書館デジタルコレクションの『名家隨筆集』上 (大正二(一九一三)年有朋堂文庫刊)の当該部を視認した。【 】は底本では編者による頭注。読みは一部に留めた。直接話法に準ずる部分は改行した。また、一部に句読点・記号を挿入した。

   *

      ○ 老僧が接木

されば是につけて思ひ出しし事あり。忍が岡のあなた谷中(やなか)のさとに、何がしの院とてひとつの眞言寺(しんごんでら)あり。翁いとけなかりし頃、其住僧をしりてしばしば寺に行きつ〻、木の實ひろひなどして遊びしが、住僧かたへの人にむかひて前住の時の事をなん語りしをき〻侍りしに、寬永の頃の事になん、將軍家【「寛永のころ」と先にあれば、三代家光なるべし。】谷中わたり御鷹狩のありし時、徒歩(かち)にてこ〻やかしこ御過(す)ぎがてに御覽ましましけるが、此寺へもおもほえず渡御ありしに、折ふし其時の住僧はや八旬に及びて、庭に出でて、みづはぐみつゝ【い屈まりて[やぶちゃん注:「老い屈(かが)まりて」であろう。「非常に年老いて腰が曲がっていて」の意。]】手づから接木(つぎき)して居けるが、御供の人々おくれ奉りて、お側(そば)に二人三人つき奉りしを、中々やんごとなき御事をば思ひよらねば、そのまゝ背(そむ)き居たりしを、

「房主[やぶちゃん注:「ばうず」。]なに事するぞ。」

と仰せられしを、老僧心に、

『あやし。』

と思ひて、いとはしたなく、

「接木するよ。」

と御いらへ申せしかば、御笑ひありて、

「老僧が年にて今接木したりとも、其木の大きになるまでの命も知れがたし。それにさやうに心をつくす事の不用なるぞ。」

と上意ありしかば、老僧、

「御身は誰人(たれひと)なればかく心なき事をきこゆる[やぶちゃん注:ママ。]ものかな。よくおもうて見給へ。今此木どもつぎておきなば、後住(こうぢう)の代に至りていづれも大きになりぬべし。然らば『林も茂り寺も黑みなん。』と、我は寺の爲をおもうてする事なり。あながちに我一代に限るべき事かは。」

と言ひしをきこしめして、

「老僧が申すこそ實(げ)にも【原本「實も」とあり。】理(ことわり)なれ。」

と御感ありけり。その程に御供(おんとも)の人々おひおひ來りつ〻御紋(ごもん)の御物ども多くつどひしかば、老僧それに心得て、大きに恐れて奧へ逃(にげ)入りしを、御めし出しありて、物など賜りけるとなん。今翁も此老僧が接木するごとく、老朽ちぬれども、ある限(かぎり)は舊學(きうがく)をきはめて、人にも傳へ書にものこして、後世に至りて正學(せいがく)の開(ひら)くる端(はし)にもなり、此道のために萬一の助(たすけ)ともなりなば、翁死しても猶いけるが如し。古人のいはゆる死しても骨(ほね)くちじといひしこそ、思ひあたり侍れ。いさ〻か我身のために謀(はか)るにあらず。諸君も翁がこの意(こゝろ)を信じ給へかし。

   *

『子規居士の沒前數日に口授した「九月十四日の朝」といふ文章』これは、所持する岩波文庫の「飯待つ間――正岡子規随筆集」によれば、『ホトトギス』第五卷第十一号(明治三五(一九〇二)年九月二十日発行。子規逝去の翌日である)に載ったもの。幸い、正規表現で「青空文庫」のこちらに電子化されているので、見られたい。]

 

   新井戶や春たつけふの釣甁竿 釣 眠

 

 立春の日に古今の相違は無い。違ふのは曆の上の日だけである。けれども正月の初に春が立つのと、二月の初に春が立つのとでは、連想に著しい相違がある。この感じは畢竟新年と立春とが一致すると否とによつて分れるのであらう。

 尤も現在でも農村あたりでは一般に舊曆が用ゐられてゐる。折衷的に一月おくれといふところも少からずある。それも遠い地方ではない、先年大東京に編入された府下の某村などでも、役場とか、學校とか、工場とかいふ文明的施設の場所では、勿論一月一日に新年を祝ふけれども、農家の方は二月にならないと正月の行事をやらぬといふ話であつた。つまり年賀狀は一月、雜煮は二月といふわけで、或は今の人の氣には入らぬかも知れぬが、そこに日本らしい面白味があるやうに思ふ。由來統一論者の弊は、狹い範圍の主張を强ひて一般に推及ぼさうとする點に在る。吾々の考へ方が時に都會本位になる虞があるのも、不知不識の間に同樣の誤に陷つてゐるのかも知れない。

 この釣眠の句なども、一陽來復といふ言葉が、そのまゝ新年に通用する時代ならば、とかくの說明を要せぬのである。年内に掘つた井戶を春立つと共に汲みはじめる。井戶が新しいのだから、釣瓶も竿も悉く改つてゐるに相違無い。新しい木の香を帶びて汲上げられる水にも、同じく新春のよろこびを感ずる、といふ新な氣持である。この氣持は「春立つ」を「年たつ」としたら、今の人にもわかりよくなるかと思ふ。

 尤もこの「新井戶」は單に新しい井戶といふまでで、若水から汲みはじめるものとまで限定しなくとも差支無い。以上は昔の春が大體に於て年と共に改ることを說く爲に、新しい感じを稍〻强めて云つたに過ぎぬのである。

[やぶちゃん注:宵曲は、本句に限って解説しているので、書く必要を認めなかったのだが、一言言っておくと、本邦の旧暦では、「立春」は、実は新年を迎えての「立春」よりも、僅かであるが、頻度から言うと、「年内立春」(前の年の十二月半ばから大晦日の間に立春が来ること)の方が、実は、多いのである。参考にした平凡社「世界大百科事典」の「立春」によれば、『暦法上では冬至を』十一『月のうちに置くということが基本になっているので』、『その約』四十五『日後にくる立春は』十二月十五日『から正月』十五『日の間におさまって』、『平均すれば』、『元旦立春ということになる』とある。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(8)

 

   うぐひすや鞍の内ほす朝日影 遲 候

 

 緣側などであらうか、鞍の内側を日に當てる爲に干してある、どこかで鶯が啼いてゐる、といふ靜な朝の光景である。

 單に鞍を干すといふのでなしに、「鞍の内ほす」といふのが面白い。早春の朝の日影だけに、うすら寒い感じがする。塗鞍の日を受けて光る樣なども想像される。鶯と鞍との配合も、一の取合に過ぎぬやうであつて、決してさうではない。季節の感じが的確に現れた句である。

[やぶちゃん注:今朝、朝四時に起床したが、外面(そとも)で、頻りに鶯が鳴いていた。今年に入って最も囀りを聴いた朝であった。]

 

   うぐひすや有明の燈のありやなし 舍 羅

 

 鶯といふ鳥は早朝に來て啼くことが多いようである。夜を徹して机に向つてゐる時など、室内は燈火がかんかんついてゐるので、天明の近づゐたことも知らぬうちに、思ひがけず鶯の聲を耳にすることがある。しずかな曉闇を破つて、朗かな鶯の聲を聞く每に、「鶯の曉寒し」という其角の句を、今更のやうに思ひ出す。

 この句の作者は燈を挑げて起きてゐるわけではない。終夜點して置く灯[やぶちゃん注:「ひ」。次も同じ。]を有明の灯といふ。昔は固より、明治のラムプ時代にも、古風な家では行燈を有明の灯に用いてゐた。「ありやなし」は「ありやなしや」で、蕪村の「若竹や橋本の遊女ありやなし」なども同意であらう。鶯に對する曉の情といふべきものを捉へた句である。「有明の燈のありやなし」と續くあたり、歌ならば調子を取つたといふところであるが、この句はたゞ自然にそうなつたと見た方がいいかも知れない。

[やぶちゃん注:「鶯の曉寒し」四十七歳で他界した宝井其角の辞世の句で、

   *

   鶯の曉寒しきりぎりす

   *

である。彼の逝去は宝永四年二月三十日(一七〇七年四月二日)、或いは、二月二十九日(四月一日)とされる。

「若竹や橋本の遊女ありやなし」蕪村六十歳の安永四(一七七五)年の作。「文化遺産オンライン」の蕪村筆になる「若竹図」の解説に、『橋本は、淀川の左岸、京都山崎の対岸にあり、竹の名所であると同時に、淀川を往来する舟の寄港地であった。またこの地は、遊女町が開けていた』とある。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(7)

 

   雲に入鳥の行衞や星ひとつ 其 由

 

「鳥雲に入る」といふ季題は、春になつて鳥の北地に歸ることを意味するらしい。古來の句を見るのに、いづれもたゞ鳥の遙に眼界より消え去ることを詠んでゐるやうである。「げに歌人、詩人といふは可笑しきものかな。蝶二つ飛ぶを見れば、必ず女夫[やぶちゃん注:「めをと」。]なりと思へり。塒[やぶちゃん注:「ねぐら」。]に還る夕鳥、嘗て曲亭馬琴に告げて曰く、おれは用達に行くのだ」といつた明治の皮肉家の筆法を以てすれば、果して北地へ歸る鳥であるかどうか、一々吟味がつかぬはずであるが、雲に入つてしまふのだから、その邊は大まかに見てよからうと思ふ。

 この句は夕方の景色で、雲に入る鳥を目送してゐると、蒼茫と暮れ初めた空の中に、一點の星が見えて來た、といふのである。星光一點は巧に似てしかも自然なところがある。芭蕉の「ほとゝぎす消行く方や嶋一つ」と同じやうな調子であるが、印象はこの方がはつきりしてゐる。飛鳥の影の消え去つたあとに、しづかに一點の星光を認めるのは、大景のうちに引緊つたところがあつて面白い。

[やぶちゃん注:「雲に入鳥の行衞や星ひとつ」「くもにいる とりのゆくへや ほしひとつ」。

「其由」多賀其由。信頼出来る論文等によると、蕉風俳諧の復興を志した京都の俳人蝶夢の門下で、近江蕉門の一人であり、江戸の夏目成美とも親交があった月川法師が、その人で、多賀社造営に尽力した、とあった。

「げに歌人、詩人といふは可笑しきものかな。蝶二つ飛ぶを見れば、……」これは明治時代の小説家・評論家として知られる斎藤緑雨(慶応三(一八六八)年~明治三七(一九〇四)年)の「綠雨警語」の一節。同書は『讀賣新聞』に連載したアフォリズムの一篇で、初出は明治三二(一八九九)年六月二十六日附に掲載された以下の一条。

   *

○古の歌人の月花を脫し得ざるが如く、今の新體詩人は、唯一つの星を脫し得ずとは、某批評家の言なりと聞く。げに歌人、詩人といふは可笑しきものかな。蝶二つ飛ぶを見れば、必ず女夫なりと思へり。塒に還る夕烏、嘗て曲亭馬琴に告げて曰く、おれは用達に行くのだ。

   *

「ほとゝぎす消行く方や嶋一つ」「笈の小文」の掉尾に、

   *

   時鳥消えゆく方(かた)や島一つ

   *

と出るもの。詳しくは、私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ――須磨~最終回』を見られたい。]

 

   もまるゝや花見の中の相僕とり 李 千

 

 花見の群集の中に相僕取が一人まじつてゐる。人波に揉まれながらも、その巨軀が目立つて見える。一人の相撲取をここに點じたのは、群集に或ポイントを與へたもので、その大きな身體が揉まれることによつて、夥しい周圍の人波が想像されるのである。

 

   行過て女見返す汐干かな 露 桂

 

 川柳子は「三月はいとなまめゐた漁師出る」といつた。春の干潟は慥に汐干狩の女によつて彩られる。「汐干けふ女草履や一からげ 兎園」などといふ句は、干潟に下り立つた女の草履を、一まとめにしてからげて置くといふに過ぎないが、それでも何となく艷なる趣を感ぜしめる。平生何も無い海上だけに、特にさういふ色彩が著しく感ぜられるのであらう。

「行過て」の句は、汐干潟で出逢つた女が、行過ぎてから此方を見返した、といふだけのことである。向うが見返したのを認める以上、此方からも見返つたか、そのまま見送つてゐたかしたに相違無い。或は女の方から見返したものとせずに、行き過ぎてから此方が見返した、と解することも出來る。「女(が)見返す」と見るか、「女(を)見返す」と見るかの相違であるが、そうやかましく僉議するほどのこともあるまいと思はれる。

 子規居士にも「春の野に女見返る女かな」といふ句がある。これは行違つた女同士が互に見返るといふ點で、多少複雜な變化を生じてゐる。

[やぶちゃん注:「春の野に女見返る女かな」子規の明治二五(一八九二)年の二十六歳の作。]

 

   春雨に雀かぞゆる夕部かな 如 嬰

 

 稺拙な句である。春雨の夕方、庭先か軒端かに來て雀が啼き交してゐる。それが何羽ゐるか、數を算えて見たといふに過ぎない。

 その實雀が何羽ゐるかはさのみ問題ではないので、數を算へて見るといふところに、徒然な春雨の夕方の心持を感じ得ればいいのである。

 

   小でまりや花に座を組雨蛙 伊 珊

 

 このまゝの景色であらう。粉團花の白い花の上に坐つてゐる綠色の雨蛙は、色彩の上からも訓和か得てゐる。「座を組」といふのは單なる蛙の形容で、佛樣に見立てたりしたわけではない。

 雨蛙といふ季題は、今では獨立して夏になつてゐるが、古くは蛙の下に包括されて、春の部に入つてゐた。この句もその一例である。

[やぶちゃん注:「小でまり」「粉團花」バラ目バラ科シモツケ亜科シモツケ属コデマリ Spiraea cantoniensis の中文名の一つ。]

 

   合羽干日影に白きつゝじかな 不 流

 

 合羽がひろげて干してある、その傍に白い躑躅が咲いてゐる、といふ趣である。合羽と躑躅との間には格別重大な關係は無い。躑躅は躑躅で白く咲き、合羽は合羽で目に乾きさえすればいゝのである。

 雨のあがつた庭先などの景色であらうか、日光の漲つた、明るい空氣が眼に浮ぶ。

狸と接近遭遇

先ほど、新聞を取りに出たところ、家の前の道を、狸が横切って行った。猫かと思って、門扉越しに見たところが、そ奴が立ち止まって、完全に体を入れ替えて、こっちを見た。二メートル弱しか離れていなかった。体長は四十センチメートルほど。尻尾も顔も、明らかに狸だった。驚くこともなく、すたすたと消えて行った。私は、小学二年生の時、近くの藤沢との切通しで、車に轢かれて死んだ狸を見たが、それ以降、初めての五十年振りの見参だった。父の弔いに現われたのかな。ここいらでは、私の父は最古参の一人だったから。

2024/04/02

父 自筆年譜 (1987年7月15日筆)

 

以下は、その日に、父(当時満57歳)から、黙って渡されたものである。ここに画像で公開することとする。

 

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柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(6)

 

   一雨に椿落ち來ん藪の水 莊 人

 

 藪の中に累々たる花をつけた椿がある。今一雨來たならば、あの花がぽたぽた落ちるであらう、といつたのである。「藪の水」といふのは、藪の中に溜つてゐる水であるか、藪の根をめぐる流であるかわからぬが、後者と解した方が景色としても面白いし、「落ち來ん」といふ言葉から考へても、單に藪中の溜り水に落ちるだけでなく、落ちて流れるといふ動きがあつた方がよさそうに思ふ。

 櫻などに配した雨は、多くは花のうつろふことを惜しむ意に用ゐられるが、この「一雨」は、それによつて椿の花の落ちることに、或風情を認めてゐるのである。「一雨」は將來の假定と解さないでも、「この一雨」の意味として、現在降りつゝある場合でも差支無い。――この句を讀むと、田舍の藪などに累々と花をつけた、比較的大樹の椿が想像される。この花もやはり紅と見たい。

 

   雉子鳴や川の向ひの小松原 楚 舟

 

 大きな川ではあるまい。その向側が小松原になつてゐて、そこからケンケーンといふ雉子の聲が聞えて來る。雄子の聲は銳いから、かなり遠きに及ぶものであらうが、この句の場合は、さう多く距離を必要とせぬやうに思はれる。

 雉子の聲が過去において相當人に親しいものだつたらしいことは、前に述べた。[やぶちゃん注:これは『「春」(1)』の蓑立の「雉子啼や茶屋より見ゆる萱の中」を参照されたい。]

 

   塀越に庭の深さや雄子の聲   笑 醉

 

といふに至つては、山野を離れて庭園に入込んでゐる。何人の住居であるか知らぬが、塀越に深々とした庭があつて、そこから雉子の聲が聞えて來るのである。春日の閑なる趣は、ありふれた小鳥の嚇よりも、雞の鳴聲よりも、かえつてこの雉子の聲において深められたかの感がある。

 如何に昔の世の中にしても、庭に雄子が來て啼くのは野趣橫溢に過ぎる、といふ說が起るかも知れぬ。しかしこの句の雉子は、場合によつては野生のそれでなしに、庭籠に飼つたものと見ても差支無い。西鶴が『五人女』の中で「廣間をすぎて緣より梯のはるかに熊笹むらむらとして其奧に庭籠ありてはつがん唐鳩金鷄さまさまの聲なして」と書ゐたやうな庭籠が、大きな屋敷などにはあつたらしいからである。

[やぶちゃん注:「西鶴が『五人女』の中で「廣間をすぎて……』「好色五人女」の「卷五」の「もろきは命(いのち)の鳥さし」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの『西鶴文集』下(一九一三年有朋堂文庫刊)のここで正規表現で視認出来る。右ページの後ろから六行目が当該部。]

 

   春雨や燈花(テウギガシラ)のくらみ立 汶 江

 

 電燈萬能の世の中になつてしまつては、丁子々々吉丁子などといふ、昔人の緣起がわからなくなるのもやむをえない。丁子などといふと、吾々の連想はとかく神棚の御燈明に行きがちであるが、かういふ油火が一般の燈火であつたことに留意しなければならぬ。

 春雨のしとしと降る夜、座邊の燈火に丁子が立つて、俄に暗くなつた、といふだけのことである。作者はむやみに擔いでゐるわけではないが、丁子の吉兆たることは十分意識した上の句であらう。

 丁子のことは夙に漢時代にあつた迷信で、『西京雜記』に「火華則拜之」とあるのがそれだと、三村竹淸氏の書かれたものにあつた。由つて來ること遠しといふべきである。電燈の世界にも停電、漏電その他いろいろの現象があるが、こういふ迷信の種にはなりさうもない。丁子頭によつて暗くなる燈火は、慥に春雨と調和を得てゐる。

[やぶちゃん注:「西京雜記」(せいけいざっき)当該ウィキによれば、『前漢の出来事に関する逸話を集めた書物。著者は晋の葛洪ともされるが、明らかでない。その内容の多くは史実とは考えにくく、小説と呼んだほうが近い』。『「西京」とは前漢の首都であった長安のことで、前漢に関する逸話・逸事が集められている』とある。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで当該話の影印本画像が視認出来る。]

 

   かりそめにはえて桃さく畠かな 心 流

 

 若木の桃であらう。種を蒔ゐたのでもなければ、苗を植ゑたのでもない。畠の隅に桃の木が生えたのを打棄つて置いたら、いつの間にか花が咲くやうになつた。「桃栗三年柹八年」といふ。種のこぼれからでも生えたらしい桃の木が花をつけるまでには、さう多くの年月を要せぬのである。

 別にいゝ句でもないが、何となくのんびりしてゐる。かういふ技巧の無い、大まかな句を作ることは、近代人にはむずかしいかも知れない。

 

   大竹をからげて靑しもゝの花 桐 之

 

 太い竹を繩か何かでからげる、その竹が眞靑な色をしてゐる。場所はどんなところであつても差支無い。眞靑な竹の色と、桃の花の色との配合が、この句の眼目である。

 かういふ句法で、「……靑し」から「桃の花」へかかる場合と、かからぬ場合とがある。この句は上十二字が竹の敍述で、「靑し」で言葉が切れるのみならず、意味もはつきり切れる。桃の紅はその背景を彩るに過ぎないが、慥に美しい一幅の圖をなしてゐる。

 

   はるもやゝ雞の蹴爪や牡丹の芽 磊 石

 

 見立の句である。「はるもやゝ」は芭蕉の「春もやゝけしきときのふ月と梅」などと同じく、「漸々」の意であらうと思ふ。單に「牡丹の芽は雞の蹴爪の如し」といつたのでは、さういふ思ひつきを述べたまでのものであるが、漸くに春がとゝのひ來るといふ背景の下にこれを置くと、見立以外に或感じを伴つて來る。「雞の蹴爪」も漫然たる思ひつきでなしに、春の感じを助けてゐることがわかる。俳句が季節の詩であることは、約束的に季題の力を借りる爲ばかりではない。季題以外のものを捉へ來つても、よく季節の感じを助けしむる點に注意すべきである。

[やぶちゃん注:「磊石」江戸時代中期の国学者加藤磯足(いそたり 延享五(一七四八)年~文化六(一八〇九)年)か。当該ウィキによれば、尾張国美濃路起宿本陣十一代目。本姓は藤原氏で、名は要次郎。通称は右衛門七、隠居後に寿作。俳号は磊石である。私の好きな久村曉台(くむらきょうたい)門の俳人である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここに、彼が編した「類題發句集」(天明六(一七八六)年自序)がある。初めて、ウィキペディアに載る有名人の句が出た。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(5)

 

   鶯もわたる日和リや濱の松   玄 指

 

 明治二十六年春であつたか、子規居士がどこかの運座で、「鶯の淡路へ渡る日和かな」といふ句を作つた。それが最高點だつたので、多人數の評判のあてにならぬことはこれでわかる、といふ意味の手紙が殘つてゐる。

 鶯が淡路島まで渡つて行く、それほどうらゝかな日和であるといふことは、俗人にもなるほどと合點し得るところがある。考へて成つた趣向だからであらう。

 玄指の句には鶯の渡る距離の問題は含まれていない。その代り鶯の渡つて來た濱の樣子――松の生えてゐる景色が現れてゐる。この方が遙に自然である。

[やぶちゃん注:「明治二十六年」一八九三年。「日本新聞社」入社の翌年。

「鶯の淡路へ渡る日和かな」「寒山落木」の「卷二」に『「鶯の淡路へわたる日和哉』で載る。

「この方が遙に自然である」私は宵曲と違って、子規の俳句をそれほど高く評価しない人間であるから、すこぶる同感!]

 

   梅がかや客おくり出る燭明り   梅 坡

 

 燭を秉る[やぶちゃん注:「とる」。]といふことは、近頃は停電でもないとあまり見られなくなつた。人氣の無い玄關のやうなところでも、スヰツチを一つ捻りさへすれば、直に皎々たる電燈の世界になるのだから、便利になつたには相違無いが、それだけ趣を失つたとも云へるであらう。ラムプを持つて玄關まで送り出たり、マツチを擦つて穿くべき下駄を檢[やぶちゃん注:「けみ」。]したりしたのは、ついこの間のやうに思ふけれども、どうやら過去の風俗誌中のものになりかけてしまつた。

 この句は燭を秉つて客を送り出た場合である。定らぬ燭の灯に、送る主の影も、送られる客の影もゆらぐ。そういふ夜氣の中に漂う梅が香を感ずるのは、電燈世界にはあるまじきほのかな趣である。

 梅が香なるものは歌よみがいふほど强い匂ではない、代々の歌人がよんだ梅が香の量は大變なものだから、それを香水の料にでも用ゐるのは格別、歌の材料としては今後見合せたらどうだ、といつて嗤つた[やぶちゃん注:「わらつた」。]のは子規居士であつた。俳句に用ゐられた梅が香を見ても、單に梅といふのと變らぬやうなのもあるが、香に卽したものは動[やぶちゃん注:「やや」。]もすると利き過ぎる弊に陷る。この句の如きは不卽不離の間に於て、よく梅が香の趣を發揮し得たものと云ふべきであらう。

 

   茜うらふきかへす春に成にけり 耕 月

 

「田家春」といふ前書がある。正に蕩々たる天下の春である。

 謠曲作者が「四條五條の橋の上、橋の上老若男女貴賤都鄙、いろめく花衣、袖をつらねてゆくすゑの」といつた洛中の春ではない。「世界を輪切りに立て切つた、山門の扉を左右に颯と開いた中を――赤いものが通る、靑いものが通る。女が通る。子供が通る。嵯峨の春を傾けて、京の人は繽紛絡繹と嵐山に行く」と漱石氏が書ゐた洛外の春でもない。そこにはただ村娘の茜裏を吹きかへす春風があるだけである。この一色の齎す太平の氣は、洛中洛外の春に優るとも劣るものではない。

 滿々たる野趣は「茜うら」の一語に集つてゐる。一茶流の俗語を驅使するばかりが、野趣の表現に適うわけではない。大まかを極めたこの種の敍法も、猶這般の野趣を盛つて餘あるのである。或は天下の春は彼に在らずしてこれにあるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「「四條五條の橋の上、……」謡曲「熊野(ゆや)」の地謠(じうたい)の一節。

「繽紛絡繹」多くのものが入り乱れているさまと、人馬の往来などの絶え間なく続くさまを言う語。以上の「漱石氏が書ゐた洛外の春」とは「虞美人草」の「五」の地の文に出る。

   *

 世界を輪切りに立て切つた、山門の扉を左右に颯と開いた中を、――赤いものが通る、靑いものが通る。女が通る。小供が通る。嵯峨の春を傾けて、京の人は繽紛絡繹と嵐山(らんざん)に行く。「あれだ」と甲野さんが云ふ。二人はまた色の世界に出た。

   *]

 

   正月を直す二月の文字ふとし 端 當

 

 二月になつてからついうつかりして正月と書いた、その正の字を二と改めた爲に、二月といふ字が太くなつたといふ風にも解せられる。あるいは已に書いてあつた正月の文字を、二月といふ字に改めた、といふ風にも解せられる。いづれにしても二月になつてから書改めたので、それがこの句の季になつてゐる。

 つまらぬ句だといふ人があるかも知れない。吾々も別に大した句だとは思はぬ。明治年代にも「文月や水無月と書いて消しにけり 麥人」といふ句があつて、『春夏秋冬』撰の時、碧虛兩氏の間に議論を生じ、結局採用にならなかつたと傳へられてゐる。これも無論大した句ではないが、要はこの瑣末な事實に興味を持つか否かに在る。吾々がその事實の瑣末なことを認めながら、これを俳句にした點に一種の興味を感ずるのは、自分でも屢〻これに似たことを繰返しつゝある爲であらうか。

「正月」の句と「水無月」の句とは、全く揆を一にするわけではないが、ほぼ同じやうな點を覘つて[やぶちゃん注:「ねらつて」。]ゐる。但書損つて[やぶちゃん注:「かきそこなつて」。]消したといふよりは、正の字を二に改めたのが太くなつたといふ方が、事柄として纒つてゐるであらう。そこに元祿の句と明治の句との相違があると云へば云へる。

 

   出かはりや猫抱あげていとまごひ 慈 竹

 

 出代といふ季題は、束京などでは夙に[やぶちゃん注:「つとに」。]その實[やぶちゃん注:「じつ」。]が無くなつた。京都あたりでは比較的近くまで、その風を存してゐたさうであるが、それもこの頃では如何であらうか。雇人交代といふことは永久に續くとしても、それが三月を待つてはじめて動くといふ季節的意味がなくなるのである。近代生活にあつてはむしろ卒業生の就職の方が、季節的意義を持つてゐるであらう。

 出代の句は舊人物の名殘を借しむ意味か、代つて登場する新人物の樣子か、大體この二通りを出でぬやうになつてゐる。この句は退場する雇人が、今まで自分に馴れた猫を抱上げて、名殘を惜しむ趣である。あるいは子供の無い家庭で、この猫も大事に飼はれてゐるのかと思ふが、文字以外の連想は人によつて違ふ。强ひて限定するには及ばぬことである。

[やぶちゃん注:「慈竹」筑前甘木の野坡門の一人。]

 

   寄かゝる裸火燵やはるの雨 意 裡

 

 もう大分暖くなつて、火燵[やぶちゃん注:「炬燵(こたつ)」に同じ。]の必要も無いのであるが、未だ全く撤去せざる狀態に在る。裸火燵といふのは中に火も置かず、布團も掛けてないのであらう。かういふ言葉があつたものかどうかわからぬが、作者の造語であるにしても、十分その意味を受取ることが出來る。

 外には春雨が煙るやうに降つてゐる。暖を取る必要も何も無いのだけれども、習慣的に火燧に寄かゝつてゐる。懶い[やぶちゃん注:「ものうい」。]やうな春雨の感じが溢れてゐるやうに思はれる。

 

   春雨や藪に投込む海老の殼 广 盤

 

 面白いところを見つけたものである。いづれ田舍の景色であるに相違無い。食膳に上せた[やぶちゃん注:「のぼせた」。]海老の赤い殼を、藪の中に抛り込んだ。濕つぽい、薄暗いやうなあたりの空氣に對して、赤い海老の殼が鮮に[やぶちゃん注:「あざやかに」。]眼に映るのである。

 一茶の「掃溜の赤元結や春の雨」といふ句も略〻似たやうな趣に目をつけてゐるが、何となく重みに乏しいやうな感じがするのは、必ずしも元結と海老の殼だけの相違ではあるまい。春雨の寂しい華かさとでもいふべき趣は、殆どこの海老の殼に集つてゐるやうな氣がする。

[やぶちゃん注:「广盤」「げんばん」と読んでおく。

「掃溜の赤元結や春の雨」「八番日記」文政二(一八一九)年の作。一茶五十七歳。この年六月、最初の妻の菊との間に生まれた寵愛した女児さとを、疱瘡で亡くしている。]

 

   雪ふりの明る日ぬくし藪椿   之 道

 

「ヤブツバキ」といふ植物は別にあるらしい。『本草圖譜』などは女貞(ネズミモチ)の一名として「ヤブツバキ」を擧げてゐる。さういふ事の當否は專門家の知識に俟たなければならぬが、もともと俳句は博物學に立脚したものでなし、俳人は植物學者ではないのだから、どう解決がついたにしろ、それのみに則るわけには行きさうもない。この句なども女貞と解したのでは、やはり面白くないやうである。

 春になつてからのことであらう。雪の降つた翌日が非常に暖い天氣になつた。その麗な[やぶちゃん注:「うららかな」。]、明るい天氣の中に椿の花が咲いてゐる。(この場合「藪椿」は藪の中の椿の意に解したい。崖椿などといふ言葉が通用してゐる今日から考へれば、藪椿を藪中の椿と解することは、決して無理ではあるまいと思ふ)暖い、明るい雪晴の藪に咲く椿の花は、白では工合が惡いから、ここは紅と見るべきであらう。

 尤も女貞は常綠樹である。强ひて云へば雪後の女貞を詠んだものと解されぬこともないが、それでは「ぬくし」といふ趣が一向利いて來ない。雪後の麗な日和を生かす爲には、どうしても藪中の椿として別個の色彩を點ずる必要がある。

[やぶちゃん注:まず、第一段落の宵曲に物申すことがある。だったら、昔からある半ば以上、博物誌を気取った「歳時記」なんぞ(私は馬琴のものを持っているが、そもそも「歳時記」類は大嫌いである)座右にするな! 現行の「歳時記」類の動植物の好い加減な比定には呆れかえることが多い。博物学者+民俗学者が共同して編集しろ! 趣味の偏頗が強い俳人の書いた歳時記ぐらい杜撰なものはない。知られたものでも動物類の記載の杜撰さは、破って捨てたくなるほどである。なお、私は無季語俳人(中学から大学卒までは自由律俳句の「層雲」所属ではあった。卒業論文は「尾崎放哉論」である)である。かの芭蕉は「季の詞にならないものは何もない」と言っている。それでいい。

「之道」「しだう」。槐本之道(えのもとしどう 万治二(一六五九)年?~宝永五(一七〇八)年)。本名久右衛門。別号に諷竹(本書ではこちらの号でも出る)。大坂道修町(どうしゅうまち:現在の大阪府大阪市中央区道修町。薬種問屋街。当時、清やオランダから入った薬は一旦、この道修町に集められてその後に全国に流通していた。それらの薬種を一手に扱う「薬種中買仲間」がここに店を出していた。現在でも製薬会社や薬品会社のオフィスが多い)の薬種問屋伏見屋の主人。大坂蕉門の重鎮の一人。元禄七年九月九日に伊賀から大坂に着いた芭蕉は、最初、酒堂(しゃどう:浜田洒堂(?~元文二(一七三七)年:近江膳所の医師で、菅沼曲水と並ぶ近江蕉門の重鎮であったが、この頃、大坂に移住していた)亭に入るが、後に之道亭に、その後、花屋仁左衛門方へと移っている。酒堂と之道は、この頃、激しく対立しており、芭蕉は之道の同輩であった膳所の正秀らの懇請を受けて両者の和解を策すため、病体を押して、大阪へ出向いて、発病し、酒堂と之道の懸命の治療を受けたが、逝去した。なお、和睦は、一応、成功したように見えたが、実際には失敗であった。

「ヤブツバキ」「女貞(ネズミモチ)」ツツジ目ツバキ科ツバキ属ツバキ(ヤブツバキ) Camellia japonica (慣習的に野生種を「ヤブツバキ」と呼んでいる)と、ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum である。両者は御覧の通り、全くの異種であり、ツバキとやや似ているのは葉の見た目ぐらいで、凡そ、ツバキとの通性は全くないと言ってよい。「庭木図鑑 植木ペディア」の「ネズミモチ」の画像を参照されたい。

「本草圖譜」江戸後期の本草学者岩崎灌園(かんえん 天明六(一七八六)年~天保一三(一八四二)年:本草学を小野蘭山に学び、若年より本草家として薬草採取を行った。文化六(一八〇九)年に徒士見習いとして出仕し、文化一一(一八一四)年、二十八歳の時に、屋代弘賢編「古今要覧稿」の編集・図版製作の助手に命ぜられている。文政三(一八二〇)年には小石川火除地の一部を貸与され、薬種植場を設けている)が二十代に始め、文政一一(一八一二八)年に完成したもので、全九十六巻。

「この句なども女貞と解したのでは、やはり面白くないやうである」ネヅミモチは花期は初夏であり、白い。この句の映像は、どうみても藪の中に咲く赤い椿でなくてはならぬ。]

2024/04/01

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(4)

 

   梅がかや雨だれ傳ふやれ簾   古 道

 

 閑窓春雨の眺は決して新しいものではない。けれども「つくづくと春のながめのさびしきはしのぶに傳ふ軒の玉水」といふ新古今の歌から、「春雨や蜂の巢つたふ屋根の漏」といふ芭蕉の句に眼を移すと、そこに歌と俳句との相異を感ずる。同じ閑中の趣にしても、蜂の巢を傳ふ屋根の漏の侘しさ、面白さは、自ら案を拍たしむる[やぶちゃん注:「うたしむる」。]ものがある。

「雨だれ傳ふやれ簾」は所詮蜂の巢の斬新なるに如かぬ。たゞ去年のまゝの破簾に雨垂の雫が傳ふ趣は、やはり俳人の擅場[やぶちゃん注:「せんじやう」。]ともいふべき天地である。蜂の巢に遜る[やぶちゃん注:「ゆづる」。]の故を以て、輕視するわけには行くまいと思ふ。

[やぶちゃん注:宵曲は判り切ったものとして、上五の嗅覚感覚を述べていないが、視覚表現に「やれ簾」を抜けて香ってくる梅の香を多重している巧みさに触れないのは、やはり残念と言わざるを得ない。

「つくづくと春のながめのさびしきはしのぶに傳ふ軒の玉水」「新古今和歌集」の「卷第一 春歌上」に載る(六四番)、大僧正行慶行慶(ぎょうけい 康和三(一一〇一)年~永万元(一一六五)年:平安後期の天台僧。白河天皇の皇子で、母は源政長の娘。大僧正行尊に天台をまなぶ。保延元(一一三五)年、摂津四天王寺別当となった。権僧正となり、仁平二(一一五二)年には近衛天皇の護持僧ともなっている。同年、近江園城寺(おんじょうじ)長吏に就任している)の一首で、

   *

  閑中春雨といふことを

つくづくと春のながめのさびしきは

 しのぶにつたふ軒(のき)の玉水(たまみづ)

   *

とあるもの。「しのぶ」はノキシノブ(軒忍・瓦韋剣丹:シダ植物門ウラボシ(裏星)綱ウラボシ目ウラボシ科アヤメシダ(菖蒲羊歯)亜科ノキシノブ属ノキシノブ Lepisorus thunbergianus )の古名に「忍ぶ」(寂しさをじっと耐える)を掛けている。

「春雨や蜂の巢つたふ屋根の漏」「漏」は「もり」。「炭俵」所収。「蕉翁句集」で元禄七(一六九四)年五十一歳の作とする。「許野消息」(きょやしょうそこ)の野坡書簡に『「春雨の蜂の巢、是はまことに世の人のさほどに沙汰をせぬ句なりといへども、奇妙天然の作なり。」と、翁、つねづね吟じ申され候。此蜂の巢の草菴の軒に殘たるに、春雨のつたひたる靜さ、面白くいひとりたる、深川の菴の體(てい)そのまゝにて、幾度も落淚致申候』とある。正慶の「しのぶにつたふ」と「蜂の巢つたふ」に歴然とした近世俳諧精神の侘びの真骨頂が示されてあると言える。]

 

   うぐひすの音にうち當る割木かな 李 邦

 

 木を割る音の中に鶯の聲を聞いたのである。もう少し委しく云へば、戛然[やぶちゃん注:「かつぜん」。堅い物が触れ合って音を発するさま。]として木を打ち割つた音と同時に鶯が啼ゐたので、「音[やぶちゃん注:「ね」。]にうち當る」と云つたものであらう。音に形あつてぶつかるものの如く云つたのは、一種の技巧ではあるが、又その場合の感じをよく現してゐる。

 單に二つの音が空中にかち合つたといふだけでなしに、作者が現在木を割りつゝある場合と思はれる。「鶯の音にうち當る」といふのは、慥に木を割る方が主になつてゐる感じである。

[やぶちゃん注:「李邦」九州蕉門の一人と思われる。]

 

   鶯や寺のはさかる制の中 野 紅

 

 必ずしもその寺に鳴くと限らなくても宜しい。町中に寺の介在してゐる、さういふ場所で鶯が啼くのである。「はさかる」は「はさまる」と同義であらう。

 一茶に「五月雨の竹にはさまる在所かな」といふ句がある。竹にはさまる在所は、じめじめした五月雨時の陰鬱さを想像せしむると共に、その在所の小さなものであることをも語つてゐる。市中に介在する寺も、勿論さう大きなものではあるまい。寧ろそこに寺のあることが、周圍に對して多少不調和なやうな場所ではないかと思はれる。

[やぶちゃん注:「野紅」長野野紅(やこう 万治三(一六六〇)年~元文五(一七四一)年)は蕉門で志太野坡の門下。豊後生まれで、名は直玄、通称は三郎右衛門。家は代々、庄屋を務めた。享保元(一七一六)年、妻の「りん」とともに「歌仙貝発句」(かせんかいほっく)を編んでいる。編著に「梅ケ香」・「小柑子」(しょうこうじ)がある。

「五月雨の竹にはさまる在所かな」一茶四十一歳の享和三年の作、

   五月雨の竹に隱るゝ在所かな

の句が「享和句帖」にあり、ずっと後の文政版では、この句は、ここにあるように、

   五月雨の竹にはさまる在所かな

の句形で載る。]

譚 海 卷之十三 和歌に詠ずる草木の事

○和歌に詠ずる所の「夕がほ」は、「へうたん」の花也。

 「かづら」と稱するものは、「もくせい」の事也。

 「あふち」と稱するは、「せんだん」の事也。

 荻は、薄と同物にて、わかちがたし。

 「はゝそ」といへるは、「小なら」の事也と、いへり。

 「はじ」といへるは、「はぜ」といふ木の、紅葉せる也。

 「梶」と云(いふ)は、紙に製する「かぞ」と云(いふ)木の事也。

 「さるなめり」と詠(えい)ずるは、百日紅(さるすべり)の事也。

 「からすあふぎ」といへるは、胡蝶花(こてふくわ)の事也。

 「ぬるで」といへるは、「うるし」の木を稱すると、いへり。

 「まゆみ」とよめるは、「にしき木」の事也と、いへり。

 「楸(ひさぎ)」と云(いへ)るは、「くさ木」とて、紙にすく木也。

[やぶちゃん注:詠ぜられた和歌は、どうぞ、ご勝手にお調べあれ。私は発句好きの短歌嫌いであるからして。

「夕がほ」「夕顏」。

「へうたん」「瓢簞」。

『「かづら」と稱するものは、「もくせい」の事也』「もくせい」は「木犀」だが、モクセイの異名を「かづら」というのは知らない。何か錯誤があるか。

「あふち」「楝」。

「せんだん」「栴檀」。

「はゝそ」柞。この語はコナラ(小楢)の古名とも、広義のナラ・クヌギ類の総称ともされる。

「はじ」「櫨(はぜ)」の転訛。ウィキの「ハゼノキ」によれば、『俳句の世界では秋に美しく紅葉するハゼノキを櫨紅葉(はぜもみじ)と』呼び、『秋の季語としている』とあるので、その縮約であろう。

『「梶」と云は、紙に製する「かぞ」と云木の事也』ウィキの「コウゾ」によれば、『コウゾは、ヒメコウゾとカジノキの雑種』(交雑種)『という説が有力視されている』(学名もバラ目クワ科コウゾ属コウゾ Broussonetia × kazinoki 。)『本来、コウゾは繊維を取る目的で栽培されているもので、カジノキは山野に野生するものであるが、野生化したコウゾも多くある』。『古代においては、コウゾとカジノキは区別していない』とあった。

『「さるなめり」と詠ずるは、百日紅の事也』「サルスベリ」は漢字では「猿滑」と書いちて、 「サルスベリ」以外に「サルナメリ」の読みの異名がある。

『「からすあふぎ」といへるは、胡蝶花の事也。』亡き母の好きだった単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属シャガ Iris japonica の異名。「胡蝶花」は同種の中文名であるから、よいが、「からすあふぎ」は「烏扇」で、同種ではなく、キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ヒオウギ Iris domestica のことであるから、誤りである。

『「ぬるで」といへるは、「うるし」の木を稱すると、いへり』誤り。「ぬるで」はムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensi を指し、「うるし」はウルシ科ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum で、同じウルシ科 Anacardiaceaeではあるが、全くの別種である。ウィキの「ヌルデ」によれば、『和名「ヌルデ」の由来は、かつて幹を傷つけて白い樹液を採り、漆のように器物の塗料として使ったことから「塗る手」となり』、『転訛したとされる』とある。

『「まゆみ」とよめるは、「にしき木」の事也』厳密には現行では誤りである。「まゆみ」は「檀」「眞弓」で、ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属変種マユミ Euonymus sieboldianus var. sieboldianus で、「にしき木」は「錦木」で、同じニシキギ属ではあるが、ニシキギEuonymus alatus であって、別種である。

「楸(ひさぎ)」これは、一説にキササゲ(木大角豆・楸・木豇:シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata )、一説にアカメガシワ(赤芽槲・赤芽柏:キントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ属アカメガシワ Mallotus japonicus )というが、未詳である。以上の二種は紙漉きの材料にはならない

「くさ木」「臭木」。枝や葉などを傷つけると、不快な強い臭気があることによる和名である。シソ目シソ科キランソウ亜科クサギ属クサギ変種クサギClerodendrum trichotomum var. trichotomum 。私も富山にいた頃、好んで山間部の跋渉をしたが、藪コギで、こやつに出くわすと、トンデモない臭さに悩まされた。調べたところ、このクサギの方は、確かに紙漉きに使用される。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(3)

 

   菜の花や山路出れば夕日影 舍 六

 

 今まで步いてゐた山路を出て、濶然たる眺[やぶちゃん注:「ながめ」]]が展けた[やぶちゃん注:「ひらけた」。]感じと、菜の花に夕日の當つてゐる明るい感じとが、ぴたりと一緖になつてゐる。「山路出れば」といふ中七字は、作者が菜の花を見るまでの經過であり、「夕日影」に至るまでの順序でもある。言葉で說明すると面倒になるけれども、要は山路を出ると共に眼に入つた、菜の花に夕日の景を直敍したに過ぎない。この句を一誦して、ぱつと眺の變つた明るい感じを受取り得れば、それで差支無いのである。形よりも感じを主とする點に元祿俳句の長所があるともいえる。

 

   穴市の仕舞を掃やむめの花 路 圭

 

 普通には「穴一」と書いてある。「言海」に從へば「穴打の轉」といふことだから、一にしろ、市にしろ、皆借字なのであらう。地上に小さい穴を穿つて、少し離れたところから錢なりメンコなりを投げる、穴に入つたものを勝とし、もし穴の外へ出た場合には、次の者が別の錢なりメンコなりを打つて、中つたら[やぶちゃん注:「あたつたら」。]勝とする、といふやうな說明がある。吾々が子供の時に石ケリ玉(文法學者は蹴といふ字にケリといふ活用は無いといふが、實際石ケリと云ひ、石ケリ玉といふのだから仕方が無い)と稱する平たいガラス玉でやつたのは、穴の代りに地上に圓なり角なりを劃して[やぶちゃん注:「かくして」。区分けして。区切って。]置いて、その中へ先づ投入れる、次の者がまた同じやうに投げて、前の玉をその區劃の外へ跳ね出させる、といふ勝負のやうであつた。その時は何とも思はなかつたが、今この說明を讀んで見ると、やはり穴一の系統に屬するものらしい。穴一錢と稱して兩面に惠比須大黑だの、富士山だのを鑄出した[やぶちゃん注:「いだした」。]ものがあつたといふ。石ケリ玉にも先輩があつたのである。

 穴一をして遊んでゐた子供が歸つてしまつた。地上に穿つた穴をはじめ、蹈荒したあとの土を掃き淸める。その邊に梅の花が咲いてゐる、といふ趣である。梅の花といふと、とかく文人墨客が幅を利かして、矢立瓢簞と最も調和するやうに考へる人もあるかも知れぬが、この句は右のやうな兒童遊戲に配して立派に成功してゐる。兒童の歸り去つた後、遊び荒した土を掃くといふのは、梅の花の靜な趣味によく調和してゐる。

[やぶちゃん注:中七「掃や」は「はくや」。この句の宵曲の解説は、まことに映像的で優れた解である。

「穴市」「穴一」『「言海」に從へば「穴打の轉」といふこと』所持する「言海」を引く。「穴一」は実際には、左傍線のみ空いた罫線で囲われてある。

   *

あな-いち(名)│穴一│錢打ノ一種、地ニ穴ヲ穿チ、錢ヲ抛チテ取ルモノ。

   *

所持する小学館「日本国語大辞典」には(「メートル」は底本では二行割注風)、

   *

「あな-いち【穴一】〘名〙子供の遊びの一種。直径一〇センチメートルくらいの穴を掘り、その前一メートルほどの所に一線を引き、そこに立ってムクロジ、ぜぜ貝、小石、木の実などを投げる。穴に入った方が勝ちとなるが、一つでも入らないのがあったら、他のムクロジ、ぜぜ貝などをぶつけて、当てたほうが勝ちとなる。銭、穴一銭を用いるようになって、大人のばくちに近くなった。後には、地面に一メートル程の間を置いて二線を引き、一線上にぜぜ貝などをいくつか置いて他の一線の外からぜぜ貝など一つを投げて当たったほうを勝ちとする遊びをいうようになった(守貞漫稿二五)。

   *

とあった。この「ぜぜ貝」は所謂、貝殻上表層に赤色・褐色・暗褐色・黄色などのバラエティに富んだ色を有する石畳状の模様を持つ腹足類(巻貝)で個体が有意に多い、キサゴ類、

腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科キサゴ亜科キサゴ属キサゴ Umbonium costatum

キサゴ属イボキサゴ Umbonium moniliferum

上記種などよりも青灰色・藍がかった黒色の斑紋に白い部分が有意に多く認められる、

サラサキサゴ属ダンベイキサゴ Umbonium giganteum

が挙げられる。しかし、広義の

キサゴ亜科Umboniinaeのキサゴ類

も含むと考えねばならない。例えば、

キサゴ亜科 Monilea 属ヘソワゴマ Monilea belcheri 

であるとか、

キサゴ亜科Ethalia 属キサゴモドキ Ethalia guamensis

などは非常によく似ていて、一緒に並べたら、素人には全く区別がつかないと思われるからである。但し、キサゴ類は他にも「シタダミ」「ゼゼガイ」などの異名が多いが、その分だけ、上記以外の、巻き方に扁平性が有意にあり、同一域に棲息する似たような他種も多いことから、それらをも広く包含して称して(いた)いる可能性は現在でも非常に高いので、これらだけに限定するのは考えものではある。別に「チシャゴ」とも呼ぶが、これは「小さき子(かひ)」の意ととるよりは、「キサゴ」の転訛とするのが良いと思うし、通汎の「きさ」とは古語に「橒(きさ)」があり、これは「樹の木目(もくめ)」の意であるから、これらの貝類の表面の模様から見ても、それが語源の可能性が高いように私には思われる。上記ダンベイキサゴ(本集中部以南に分布)の成貝は殻幅四・五センチメートルを越える個体も珍しくない、日本産キサゴ類の最大種であるが、漢字では「団平喜佐古」と書き、この「団平(團平)」は、昔、荷を運んんだ頑丈な川船を指す名であるから、腑に落ちる。キサゴ類は、古く(縄文時代)から食用とされ、また、その殻が子どもの「おはじき」の原材料とされたことでも知られるが、特に私の住む三浦・湘南や関東地区では、「シタダミ」という呼称は、明らかに現在も普通に食用とするダンベイキサゴを専ら指す。吉良図鑑(教育社昭和三四(一九五九)年改訂版)では、キサゴとイボキサゴ(本集中部以南に分布)の殻形状上の明瞭な判別法はないとしつつ、吉良先生の永年の観察記録から、①キサゴは三・五センチメートル以上に大きくなるが、イボキサゴは二センチメートル以下が通常個体である。②キサゴは棲息深度がやや深く外洋性であるのに対し、イボキサゴは甚だ浅く、内湾性である(ということは、死貝のビーチ・コーミングは別としても、我々が海浜域で見かける生貝は多くがイボキサゴであるということになる)。③キサゴは臍の領域が狭いのに対して、イボキサゴはキサゴの約二倍と広い。④キサゴは『その色斑紋が殆ど一定して単に濃淡』の差がある』『のみである』のに対し、『イボキサゴは斑紋』に『多くの変化』『があり、且つ、『地色も赤褐色』から『藍黒色まで雑多である』という違いがあると推定される、と記しておられる。以上は、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 チシヤコ(キサゴ)」の私の注を少し書き換えたものであるが、実際の形状は、私の『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 光螺(キシヤゴ・キサゴ) / キサゴ(イボキサゴ・ダンベイキサゴをも含む可能性有り)四個体+同属種の殻に入ったヤドカリ(生体)一個体』を見られたい。因みに、私は貝フリークである。

「路圭」肥前長崎の稲佐江に住んだ蕉門の野坡の門下のようである。]

 

   うそくらき木々の寐起や梅の花 木 兆

 

 この句は稍〻擬人的な敍法を用いてゐる。夜がまだ明けきらぬ、ほの暗い木々の樣を形容して「寐起」といつたのは、氣の利き過ぎた憾はあるが、或感じを現し得て妙である。恐らく作者も寐起のところで、さういふ曉闇の中に咲く梅花を認めたのであらう。自己の寐起を移して植物の上に及ぼしたなどといふと、少し話が面倒になつて來る。讀者はこの語によつて、昧爽の靜な空氣の中に匂ふ梅の花の趣を感じさへすればいゝのである。

[やぶちゃん注:「昧爽」「昧」は「ほの暗い」、「爽」は「明らか」の意で、「夜の明け方・夜が明けかかっている時・暁・未明」を指す語である。]

 

   むめちるやその木蔭なる雪の上 有 節

 

 梅の木の陰に解け殘つた雪がある、その上に梅の花が散る、と云つたのである。「その木蔭」といふのは、多少說明的な云ひ方のやうに見えるが、上に「むめちるや」と云つて、その散るところが梅の木の下であることを現す爲には、かういふより仕方が無いかも知れない。子規居士も嘗て「梅の木に近くその木の梅を干す」といふ句を作つたことがあつた。「その」の字の使い方は全く同じである。但因果關係から云へば、自分の枝になつた實を梅干にして、その木に近く干すといふよりも、たゞその下蔭の雪に散る花の方が、複雜でないことは云ふまでもない。

[やぶちゃん注:「有節」五仲庵有節(文化二(一八〇五)年~明治五(一八七二)年)は、本書では例外的に近代まで生きた江戸後期の京都の宗匠。信州上田生塚生まれ。本名沢元衡。若き頃は大工を生業としていたらしい。初め、同地で門葉を広げていた碓嶺の門に入った。後、天保期から諸国を遍歴、天保一一(一八四〇)年、三十六歳の時、に京に定住し、五仲庵を開いた。]

2024/03/31

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(2)

 [やぶちゃん注:今日は、明日、父のために買ったものの、封を開けずに残った百枚以上の紙オムツと、五回ほどしか乗らなかった車椅子を社会福祉士の方を通して施設に寄贈するために当該の方がくることから、父の家の大掃除を、朝五時頃から六時間ほどかけて、一階を清掃した。さらに、午後は一時に町内会(私は副会長をしている)の本監査であったため、この一本のみを、やっと公開することが出来た。]

 

   宿取て裏見廻ルやあか椿 壽 仙

 

 田舍宿の趣であらう。日高いといふほどでなくても、まだ明るいうちに宿を取つた場合と思はれる。夕飯にも多少間があるので、庭へ下りて見た。「見廻ル」といふ言葉は、今日では或目的を持つて巡囘するやうな意味になつてしまつたが、これは無論そんなわけではない。無目的な、輕い氣持でぶらぶらしてゐるので、偶然その家の裏に眞紅な椿の咲いてゐるのを發見した、といふだけのことである。「庭」と云はずに「裏」と云つたのは、實際裏であつたに相違無いが、つくろつた樣子の庭でないことも窺はれる。

 

   散花や猫はね入てうごく耳 什 佐

 

 庭前か何かの光景であらう。猫が睡つてゐる上に櫻の花が散りかゝる、睡つてゐながらも猫は時々無心にその耳を動かす、といふスケツチである。

 其角は四睡圖に題して「陽炎にねても動くや虎の耳」といふ句を作つた。多分猫から連想したのであらうが、この虎の句にしろ、猫の句にしろ、一句の主眼といふべきものは、睡つてゐても耳が動くといふ事實の興味にあるので、陽炎なり落花なりは背景として趣を添えてゐるに過ぎない。が、同時にこの背景によつて、その事實が麗な[やぶちゃん注:「うららかな」。]春の中に浮んで來ることは、俳句の特色として多言を要せぬであらう。

[やぶちゃん注:『其角は四睡圖に題して「陽炎にねても動くや虎の耳」といふ句を作つた』個人ブログ「press-Yahantei」のこちらの記事(「酒井抱一句集」の紹介ページ)によれば、榎本其角の「其角發句集」(其角の死後、約百年後の文化一一(一八一四)年・刊坎窩久蔵(かんかきゅうぞう)の考訂になるもの)に、『「四睡図」という前書が付してあり、『其角発句集(坎窩久臧考訂)』では、「豊干禅師、寒山、拾得と虎との睡りたる図」との頭注(同書p180)がある』とあり、『其角が、どういう「四睡図」を見たのかは定かではないが、実は、其角の師匠の芭蕉にも、次のような「四睡図」を見ての即興句が遺されている』として、 

    月か花かとへど四睡の鼾(いびき)哉  ばせお 

『(真蹟画賛、「奥羽の日記」)』が紹介されてあって、『この芭蕉の句は、「おくの細道」の「羽黒山」での、「羽黒山五十代の別当・天宥法印の『四睡図』の画賛」なのである』とある。以下、本邦の「四睡図」の図が当該ウィキから引いて掲げられている。そのリンク先にもある通り、「四睡圖」とは、『豊干、寒山及び拾得が虎と共に睡る姿が描かれた禅画』、『道釈画の画題で』、『禅の真理、妙理、境地を示すとされる』。但し、『豊干禅師と寒山、拾得は親しい関係にあったが、この三人と虎を一緒に描くことの根拠となる文献は見つかっていない』とある。なお、ブログ主は、さらに、解説して、『其角の「かげろふに寝ても動くや虎の耳」の「虎の耳」は、芭蕉の「月か花かとへど四睡の鼾哉」の「四睡図」に描かれている「虎の耳」を背景にしているのかも知れない。と同時に、この其角の句は、同じく、芭蕉の、その『猿蓑』に収載されている「陽炎」の句の、「陽炎や柴胡(さいこ)の糸の薄曇」をも、その背景にしているように思われる』。『この「柴胡(さいこ)の糸」というのは、薬草の「セリ科の植物のミシマサイコの漢名、和名=翁草」で、その糸ような繊細な「柴胡」を、「糸遊」の別名を有する「陽炎」と「見立て」の句なのである』。『そして、其角は、芭蕉の、その「糸ような繊細な『柴胡』=「陽炎」という「見立て」を、「かげろふ」=「陽炎」=「薬草の糸のような柴胡」(芭蕉)=「蜉蝣(透明な羽の薄翅蜉蝣・薄羽蜉蝣・蚊蜻蛉)」(其角)と「見立て替え」して、「蕉風俳諧・正風俳諧」(『猿蓑』の景情融合・姿情兼備の俳風)から「洒落風俳諧」(しゃれ・奇抜・機知を主とする俳風)への脱皮を意図しているような雰囲気なのである』と優れた考証をなさっておられる。]

 

   ひよどりの虻とりに來るさくらかな 細 石

 

 芭蕉に「花にあそぶ虻な食ひそ友雀」といふ句がある。材料は大體同じであるが、この句はさういふ主觀を加へずに、花に遊ぶ虻を鴨が取りに來る、といふ眼前の事實をそのまま敍したものである。

 昆蟲學者の書いたものを見ると、蟲の多く集る花の上は卽ち强食弱肉の小世界で、蜜を吸ふ以外に何の用意も無い蝶や虻などは、しばしば悲慘な運命に陷るといふ。季節は違ふけれども、螳螂なども花のほとりに身を潛めて、得意の斧を揮ふものらしい。その點は人の多く集るところに犯罪者が入り込み、それをつけ狙ふ探偵も亦こゝに集る、といふのと略〻[やぶちゃん注:「ほぼ」。]傾向を同じうするやうである。莊子の言を借用すれば「一蟬方に美蔭を得て而して其身を忘れ、螳螂翳を執りて而して之を搏たん[やぶちゃん注:「うたん」。]とし、得るを見て而して其形を忘れ、異鵲[やぶちゃん注:「いじやく」。奇妙な姿のカササギ。]從つて而して之を利し、利を得て而して其眞を忘る」といふところであらう。

 芭蕉は風雅の眼から、雀が花に遊ぶ虻を食ふことを憎んだのである。この句はさういふ寓意なしに、ただ鵯が虻を逐つて櫻のほとりに來ることを詠んでゐる。鳥を配し蟲を配するだけなら敢て珍とするに足らぬが、鳥蟲交錯の世界を描いたところに、櫻の句としてはいさゝか異色がある。

[やぶちゃん注:『芭蕉に「花にあそぶ虻な食ひそ友雀」といふ句がある』「續虛栗(ぞくみなしぐり)」に載る、

   *

     物皆自得(ものみなじとく)

   花にあそぶ虻(あぶ)なくらひそ友雀(ともすずめ)

   *

「蕉翁句集」では貞享四(一六八七)年四十四歲の時の作とする。草稿があり、そこでは中七を「虻なつかみそ」とある。宵曲の言う通り、この句の根源は「莊子」の「外篇」の「山木篇 第二十」の「八」で「蟷螂搏蟬」(とうろうはくせん)の成句で知られるもの。幾つかの記事を比較して見たが(私は教員三年目の夏に一ヶ月かけてメモや疑義を書き添えつつ「荘子」全篇を精読した。漢籍の哲学書で完璧に読み尽くしたのは「荘子」のみである)、京都大学人文科学研究所教授古勝隆一氏のサイト「学退筆談」の「身を忘れること」がよい。]

 

   岨を行袂の下のさくらかな 潘 川

 

 ちよつと變つたところを見つけてゐる。岨の下に櫻が咲いてゐる、と云つてしまへばそれまでのことであるのを、「岨を行袂の下」と云つた爲に、その岨道の細いこと、その道のすぐ下まで花の梢の迫つてゐることなどが連想されて來る。「袂の下」といふ言葉はかなり際どい云現し[やぶちゃん注:「いひあらはし」。]方であるが、この場合は細い岨道をとぼとぼと步みつつある姿を髣髴し得る點で、成功してゐると云はなければなるまい。

[やぶちゃん注:「岨」「そは」。崖。

「行」は「ゆく」。

「潘川」丈艸の知人で大津附近に住んでいた俳人と思われる。芭蕉没後、丈艸が彼に宛てた書簡が残る。]

 

   むし立る饅頭日和や山櫻 理 曲

 

 山中の茶店などであらうか、蒸し上つた饅頭の湯氣が、濛々と春日の空へ立騰る、あたりに櫻が咲いてゐる、といふ光景である。同じ白い湯氣であつても、寒い陰鬱な空に立つ場合と、麗に[やぶちゃん注:「うららかに」。]晴れた空に立つ場合とでは大分感じが違ふ。「饅頭日和」[やぶちゃん注:「まんぢゆうびより」。]といふのは隨分大膽な言葉であるが、恐らく作者の造語であらう。一見無理なやうなこの一語によつて、櫻の花に湯氣の立騰る明るい感じを受取ることが出來る。俳句獨得の表現である。

 

   山吹の岸をつたふや山葵掘 支 浪

 

 これは吾々が見馴れてゐる庭園の山吹ではない、山中の景色であらうと思ふ。山葵掘の人が淸らかな流れに沿うて岸傳いに來る。山吹はその淸流に影を願して咲いてゐるのである。

 子規居士の早い頃の句に「山吹の下へはひるや鰌取」といふのがあつた。景色は違ふけれども、調子は大分この句に似てゐる。或目的を持つた人物を山吹に配した點も、共通してゐるといふべきであらう。

[やぶちゃん注:「山葵掘」「わさびほり」。

「山吹の下へはひるや鰌取」下五「どぢやうとり」。「寒山落木」巻二に所収する。明治二六(一八九三)年の作。帝国大学文科大学哲学科を退学し、日本新聞社に入社した翌年で、数え二十七歳の時の句。季語は「山吹」で晩春。]

 

   杉菜喰ふ馬ひつたつる別かな 關 節

 

「餞別」といふ前書がついてゐる。如何なる人が如何なる人を送る場合か、それはわからない。わかつてゐるのは送られる方の人が、これから馬に乘つて行くらしいといふことだけである。

 名殘を惜しんで暫く語り合つたが、どうしても出發しなければならなくなつて、馬を引立てて行かうとする。今まで人間の世界と沒交涉に、そこらに生えてゐる杉菜を食つてゐた馬が、急に引立てられることによつて、二人は袂を分つわけになる。「杉菜喰ふ」で多少その邊の景色も現れてゐるし、「ひつたつる」といふ荒い言葉の裏に、送る者の別を惜しむ情が籠つてゐるやうに思はれる。餞別句としては巧なところを捉へたものである。

 

2024/03/30

譚 海 卷之十三 まんさく枇杷の事 木蘭の事 卯木の事 長春花の事 鳩やばらの事 の事 梅櫻桃の植やうの事 すみれ叢生の方の事 鐵線花の事

○「まんさく」といふ樹、冬、白き花を、ひらく。「もくらん」の形の如し。是も、近年、渡りたるもの也。冬月、花のなき比(ころ)、珍重すべし。枇杷・ひひらぎ、冬さく花、すべて、香氣、有(あり)、ともに捨(すて)がたきもの也。

[やぶちゃん注:「まんさく」ユキノシタ目マンサク科マンサク亜科マンサク属マンサク Hamamelis japonica は本邦固有種。独特の花で、萼は赤褐色、又は、緑色で円く、花弁は黄色で長さ一・五センチメートルほどの細長い紐状を呈する。開花期は二~三月で、まあ、合うものの、「白き花」というのが合わないので、調べたところ、マンサク科トキワマンサク属トキワマンサク Loropetalum chinense がそれらしい。当該ウィキによれば、『本州中部以南から九州、台湾、中国南部、インド東北部に分布する。但し、日本での自生は極めて限定的で、静岡県湖西市・三重県伊勢神宮・熊本県荒尾市のみ知られる。常緑小高木。花期は』五『月頃で』、『細長い』四『枚の花弁の花を咲かせる』(開花の季節は合わない)。『花の色は、基本種はごく薄い黄色である』とあり、グーグル画像検索で「トキワマンサク Loropetalum chinense」を探すと、幾つかの写真で「トキワマンサク」として、殆んど白くしか見えない花のページが存在する。やはり、花期に不審があるので、冬に「もくらん」(モクレン目モクレン科モクレン属ハクモクレン節モクレン Magnolia liliiflora )に似た白い花を咲かせる「近年、渡りたるもの」に当たりそうな木本類を探してみたが、ピンとくるものはない。ただ、ツツジ目モッコク科(サカキ科)ヒサカキ属ハマヒサカキ Eurya emarginata に目が止まった。花期は十一~十二月で、白い五枚の花弁は小振りだが、壺状に寄り添っている。グーグル画像検索「ハマヒサカキ 花 冬」をリンクさせておく。一つ一つは小さいが、枝に密生して咲いているそれは、なかなかに見応えがある。しかも、当該ウィキによれば、『本州では千葉県以西、四国、九州から琉球列島に見られ』、『国外では朝鮮南部、中国に分布する。海岸に生える』。『琉球列島では変異種が多』いとあり、江戸時代は形式上は琉球は国外であるから、「渡りたるもの」に違和感はない。これを、第一候補とすべきか。]

 

○もくらん・こふじ[やぶちゃん注:ママ。「こぶし」の錯字であろう。]は、折(をり)て生花に、なしがたし。つぼみたる花、ひらく事、なし、只、庭中の觀(みる)物也。

 

○卯木(うつぎ)、市中に植(うゑ)れば、あぶら蟲を生ず。眞(まこと)に山林のはな也。

 

○長春花、生垣にすべし。四季、花、絕(たえ)る事、なし。

[やぶちゃん注:リンドウ目キョウチクトウ科インドジャボク亜科 Vinceae 連ニチニチソウ属ニチニチソウ Catharanthus roseus の異名。当該ウィキによれば、『初夏から晩秋まで次々に花が咲くので、「日々草」という』とある。但し、本種は]『「ビンカアルカロイド」』(Vinca alkaloid)『と総称される』、十『種以上のアルカロイドが、全草に含まれる』毒草である。]

 

○「はとやばら」といふあり。花、大輪にして、蔓生(つるせい)するもの也。樹上、或は、衡門(かうもん)の上に、はひかゝいて、花、咲(さき)たるけしき、一品あるもの也。

[やぶちゃん注:「はとやばら」バラ科バラ属バラ亜属ナニワイバラ節ナニワノイバラ Rosa laevigata の淡紅種、或いは、変種らしい。ウィキの「バラ属」では、帰化植物とする。

「衡門」二本の柱の上に横木の冠木(かぶき)を渡しただけの門。「冠木門」に同じ。]

 

○梅をば、遠く、うへ、櫻・桃などを、近く植(うう)べし、然らざれば、さくらの咲(さく)比(ころ)は、梅の若葉に、さへられて、無念なるもの也。

 

○「すみれ」は鉢の中に植(うう)べし。花の跡の實(み)、鉢の中に落(おち)て、翌年には、あまた、生ずる也。庭中・垣のもとなどに植れば、風に、實、吹散(ふきち)らされて、あまた生(しやうず)る事、なし。

 

○「てつせん」も、垣を造りて、まとはすべし。書齋の窻前(さうぜん)[やぶちゃん注:「窓前」に同じ。]抔(など)に、殊に觀(みる)物に備へて、幽奇、限(かぎりな)なきもの也。

[やぶちゃん注:「てつせん」「鐵線」。キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ亜科 Anemoneae 連センニンソウ属 Clematis亜属Viticella 節テッセン Clematis florida。原産地は中国で、現地では「鉄線蓮」と呼ばれ、本邦への移入は万治四・寛文元(一六六一)年~寛文一一(一六七一)年頃とされる。]

譚 海 卷之十三 菊根わけの事 牡丹の事 芍藥花つけやうの事 山吹植やうの事 椿垣となすべき事 霧島つゝじこやしの事 花木香氣賞翫の事 山茱萸の事

[やぶちゃん注:「山茱萸」は「やまぐみ」ではなく、「さんしゆゆ」と読む。]

 

○菊の根を分(わく)るは、淸明の時を、よし、とす。わけて、其まま、花檀に植(うう)れば、たけ高く成過(なりすぎ)て、あしく、わけて、後先(あとさき)、假(かり)に植置(うゑおき)て、四月の初旬比(ころ)、秋の「花だん」に植(うう)べし。市中にては、下水の土と、常の土、等分なるが、よし。

[やぶちゃん注:「淸明」清明節は二十四節気の一つ。天文学的には、太陽が黄道上の十五度の点を通過する時で、暦の上では、陰暦三月、春分の後の十五日目、新暦の四月五、六日頃に当たる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 

○牡丹は、皆、つぎき也。實生は十年餘ならでは、花さく事、なし。八十八夜を花の盛りとするに、大體、違(たが)ふ事、なし。大坂生玉(いくたま)の植木屋へ、牡丹をあつらへてやれば、冬に成(なり)て、箱に入(いれ)て、根を藻に包(つつみ)て越(よこ)す也。それを、花檀へ、うつせば、花、ひらくなり。

 

○芍藥は、年を經れば、花、さかず。是は、根の、はびこるゆゑ、根へ、生氣、みつるゆゑ、花を咲(さか)ぬ也。二月比、芍藥を、ほり出(いだ)して見れば、ことごとく、孫根、さして、あり。夫(それ)を切去(きりさり)て、親根ばかりを、根に殘して植(うゑ)れば、花を着(つく)る也。

 

○山吹は、山草なれば、市中に植(うう)るときは、生ぜす、決して、枯(かる)る也。山林にても、竹樹の蔭にあるは、よく叢生(さうせい)す。日を直(ぢき)に受(うく)る所にては、花を、つくる事、なし。

 

○椿は、生垣に、つくりて、高く刈(かり)こむべし。花の時、錦步障(にしきほしやう)のごとし。珍花數品(すひん)を集(あつめ)たる、殊に、よろし。

[やぶちゃん注:「錦步障」「步障」は移動用の屏障具。あからさまに内部を覗かせないようにするために、幔(まん)や几帳で周囲を囲って柱を持参させる大型のものと、外出者自身で持参する小型のものがある。大型のものは遷宮の時、霊の移徙や葬礼の渡御具であり、小型のものは女子の物忌の外出用である(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。ここは錦で作ったそれのように見えることを言う。]

 

○霧島は二月末、雪隱の「ふん」を「こやし」にすべし。樹のめぐり、一尺ほどヘだてて、土を掘(ほり)、「こやし」を、つぎこむなり。

[やぶちゃん注:「霧島」「霧島躑躅」。日本固有種ビワモドキ亜綱ツツジ科ツツジ属栽培品種キリシマツツジ Rhododendron × obtusum 。]

 

○花木の香薰あるもの、桐花を第一とす。一りん花を、とりて、坐右にさし置(おく)に、一室、にほひみ、つる也。

 

○「さんせい」といふ樹は、「さんしゆゆ」の事也。正月比(ごろ)、黃花を、ひらく。葉は、花の後(あと)にいづる也。近年、わたり來(きたる)也。初春、白梅・椿などにまじへ、うゑて、同時に、花ひらく。暮春の花の景の如く、殊に愛すべきもの也。

[やぶちゃん注:ミズキ目ミズキ科ミズキ属サンシュユ Cornus officinalis当該ウィキによれば、『山茱萸(サンシュユ)は漢名(中国植物名)で』、『この音読みが和名の由来である』。『日本名の別名ハルコガネバナ(春黄金花)は、早春、葉がつく前に』、『木一面に黄色の花をつけることからついた呼び名で』、『植物学者』『牧野富太郎が山茱萸に対する呼び名として提唱したものである』。『秋になると枝一面にグミのような赤い実がつく様子から珊瑚に例えて、「アキサンゴ」の別名でも呼ばれる』。『中国浙江省及び朝鮮半島中・北部が原産といわれ』、『中国・朝鮮半島に分布する』。『江戸時代』、『享保年間に朝鮮経由で漢種の種子が日本に持ち込まれ、薬用植物として栽培されるようになった』。『日本における植栽可能地域は、東北地方から九州までの地域である』。『日本では、一般に花を観賞用とするため、庭木などに利用されている』。『日当たりの良い肥沃地などに生育する』。『落葉広葉樹の小高木から高木で』、『樹高は』五~十『メートル』『内外になる』。『枝は斜めに立ち上がる』。『成木の幹は褐色で樹皮が剥がれた跡が残って』、『まだら模様になることがあり、若木の幹や枝は赤褐色や薄茶色で、表面は荒く剥がれ落ちる』。『葉は有柄で互生し』、『葉身は長さ』四~十センチメートル『ほどの卵形から長楕円形で、全縁、葉裏には毛が生える』。『側脈は』五~七『対あって、葉先の方に湾曲する』。『葉はハナミズキやヤマボウシに似ているが、やや細長い』。『秋は紅葉する』。『葉が小さめのため』、『派手さはないが、色濃く渋めに紅葉する』。『花期は早春から春』(三~四月上旬)『にかけ』て、『若葉に先立って』、『木全体に開花する』。『短枝の先に直径』二~三『センチメートル』『の散形花序を出して』、四『枚の苞葉に包まれた鮮黄色の小花を多数つける』とある。]

譚 海 卷之十三 ばせう布の事 石菖蒲眼をやしなふ事 鄰家の竹引うつし植やうの事 松山生濕生異なる事 樹木室の事 蕙蘭こやし土幷植やうの事 蘭花賞翫の事

[やぶちゃん注:「蕙蘭」は「けいらん」で、本来は単子葉植物綱キジカクシ目ラン科セッコク亜科エビネ連 Coelogyninae 亜連シラン属シラン Bletilla striata を指すが、本文は単に「蘭」となっているので、広義の蘭(ラン)を指すものと採っておく。]

 

○芭蕉は、廣き庭には數(す)百本植(うゑ)て、皮をはぎて、「ばせを布(ふ)」を織(おる)べし。ばせを樹の皮、自然に脫し、見苦敷(みぐるしき)ものなれば、集(あつめ)て、たくはへ置(おき)、米をとぎたる水に、一夜、ひたし、一日、烈日にさらし、櫛をもちて、引(ひき)ならすときは、櫛の齒に隨(したがひ)て、こまかに、破(や)れ、わかれ、絲のごとし、それを、よりて、機(はた)にかくる也。

 

○石菖蒲(せきしやうぶ)、磁器に、うふる[やぶちゃん注:ママ。]といへども、土をもちて植(うゑ)れば、茂り生ずる事、甚(はなはだ)、美也。夏月、早朝に、葉の先へ、露を、あげて、懸(かか)る日は、風雨なく快晴の兆(きざし)也。その露を、指にうけて、眼に點ずれば、目をやむ事、なし。

[やぶちゃん注:「石菖蒲」「椽の下に植る草の事」で既出既注。]

 

○鄰家の竹を、我(わが)庭に引(ひか)んとするには、引んと思ふ所まで、地中を、一、二尺、掘(ほり)て、その内へ「馬ふん」を埋(うづ)め、土をかけ置(おく)時は、竹、堀(ほり)の内[やぶちゃん注:「前に掘った場所の中」の意であろう。]を、根ざしきて、我庭に生ずる也。

[やぶちゃん注:これは現在の民法上も、何ら、問題ない。根を伸ばして、他人の地所に竹が生えた場合は、隣家に連絡する必要はなくして(地中権は土地の所有者に帰するからである)、それから出た筍を食う場合でも、全くの合法だからである。但し、空中の場合は所有権は認められないので、柿の木が垣根を越えて自宅の空中に実をつけた場合は、連絡(相手が在宅で明らかに聴こえていることが確認出来れば、声掛けをするだけでもよいとされている)して、叩き落して食うことは、合法とされる。]

 

○山の手の樹を、本所(ほんじよ)[やぶちゃん注:市中の平地。]邊(あたり)の濕地に植(うゑ)るには、根の土を、よく、あらひ落(おと)して植(うゑ)れば、よく叢生(さうせい)する也。根に付(つき)たる土を、洗ひ落(おと)すゆゑ、新(あらた)なる土地の土に、なじみて、かじけぬなり[やぶちゃん注:「萎(しぼ)まないものである」の意。]。然らざれば、土氣、變らざる故、枯(かれ)て、うえ[やぶちゃん注:ママ。]つかず。

 

○山の手の松は、「親根(おやね)」とて、一筋、長く付(つき)たる根、有(あり)、夫(それ)に小(しさ)き根、おほく付(つき)て、ある也。其「親根」、土中へ入る事、ふかき故、掘出(ほりいだ)す時、損ずべからず。是は赤土にて、地面和らかなる故也。本所邊の松は、濕地ゆゑ、松の根、深く土中ヘ入ること、なし。四方へひろがりて、淺く叢生する也。されば、市中(いちなか)へ移すには、龜井戶うけ地邊(あたり)の松、よく生ずる也。山の手より移せば、「親根」、くさりて、枯(かる)る也。

[やぶちゃん注:「うけ地」「請地」で、この場合は、本来の地主から、誰かが貰った田地、或いは、誰かが、耕作・作物栽培・収穫を請け負った土地のことを言っていると考えられる。]

 

○植木の室(むろ)は、水氣(みづけ)なき穴藏ならでは、あしゝ。

 

○「蘭は、小石川水戶殿門前の土を、よし。」

と、いへり。又、

「紺屋(こうや)の藍瓶(あゐがめ)の底の土、こやしに、よし。」

と、いへども、何れも、年を逐(へ)て、かじけ、やせて、全(まつたき)功(こう)を見ず。

 爰(ここ)に、一奇法、有(あり)、下水の泥を、掘取(ほりとり)て、竹管(たけづつ)の上に置(おき)て、二日程、日に、ほし、「みゝず」などを、ほし殺して後(のち)、その泥を碎(くだき)て、細(こま)かなる水能(すいのう)[やぶちゃん注:「水囊」帆布製の携帯用のバケツ様のもの。或いは、食品等を掬って水を切るための篩(ふるい)。水漉し。]にて、ふるひ、細末になし、「ぬか」を。いりて、土を、ひとつに、まぜ、蘭を植(うう)る也。但(ただし)、いりたる「ぬか」は、土の十分一、まずべし。

 扨(さて)、蘭の根を、流水にて、よく洗(あらひ)て後、根に付(つき)たる「ひげ」のやうなる根を、ことごとく、切り去(さり)て、ふとき根ばかり、殘し、蘭の葉をくゝりて、植(うゑ)んとおもふ器(うつは)の中へ置(おき)、左の手にて、蘭を、もち、右手にて、土を、段々、入(いれ)て、蘭の、根と、根と、ひとつにならぬやうに、土にて隔(へだ)てつゝ植る。土を入れる事、九步(くぶ)通りの時、根の下まで、土の行(ゆき)わたりたるを見て、土を止め、指にて、よく、かため置(おき)て、其後、水を「ひしやく」にて、かける。器の下の穴より、水の出(いづ)るを、合圖にして、水を止める也。其後、再び、手をつくる事を、せず。

 蘭、よく生じて、年々、かじける事、なし。

[やぶちゃん注:「小石川水戶殿門前」水戸徳川家小石川屋敷。現在の小石川後楽園附近。明治になって陸軍東京砲兵工廠となった。なお、その北方に当たる高台の上の方に「こゝろ」の「先生」の大学時代の下宿があったことになっている。それは、私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回」の注が、まず、絶対に誰にも負けない方法で、当時の古地図を駆使して、厳密に検証してあるので、未見の方は、是非々々、読まれたい。

 

○蘭の花、咲(さき)たる時は、座敷にすゑ、「のうれん」・幕などにて。圍ひて、にほひの、外(そと)へ、散らぬやうに、すべし。

譚 海 卷之十三 梅花楓樹植付の事 萩原市町に植やうの事 柑子の類こやしの事

[やぶちゃん注:三番目の標題の「柑子」は「かうじ」であるが、ここは以下の本文記載から、種としてのバラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属コウジ Citrus leiocarpa を指しているのではなく、広義のミカン類を指している。]

 

○櫻は、市中に植(うう)るといへども、かじけ[やぶちゃん注:「萎(しぼ)んで」。]、枯れやすし。楓樹(かえで)は、市中にては紅葉せず。櫻・楓等を植るには、平地より、三尺ばかり高く、土手をつきて、其上に植べし。櫻は久敷(ひさしく)たもつべし。楓抔(など)も、年をへては、紅葉する事有(ある)べし。

 櫻は、愼(つつしみ)て、一枝をも、折(をる)べからず。折(をり)たる所より、枯(かれ)はじめて、終(つひ)に、たもちがたし。

 梅は、年々、土用に枝をきれば、花を、もち安し。それも、したゝかに枝をきるときは、痛(いたみ)て、枯(かる)るなり。

 

○萩も、市中には保(たもち)がたし。年々、刈盡(かりつく)すべからず。大きなる枝、二、三本、かり殘して置(おけ)ば、樹に成(なり)て、花、つき安し。

 

○蜜柑・たちばな・九年ぼうのたぐひ、花の後は、白靑(しろあを)き蟲を生じ、臭き香を吐(はく)もの也。市中には、えらみて、蟲を生ぜざるものを植(うう)べし。みかん・橘(たちばな)の類(るゐ)には、鼠のこやし、殊に、よろし。死(しし)たる鼠を、水にひたし置(おく)ときは、久しくして、たゞれ、浮ぶ也。夫(それ)を樹の根へ埋(うづ)むときは、花實、よく榮(さか)ふる也。

[やぶちゃん注:「九年ぼう」「九年母(くねんぼ)」。ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン属コウキツ(香橘)Citrus nobilis Lour. var. kunep Tanaka のこと。現行では「クネンボ」の方が知られる。他に「クニブ」、沖繩方言では「九年母木」(くんぶぬき/くぬぶんぎ/ふにゃらぎ)と呼び、沖縄在来の柑橘カーブチーやオート―、及び、本土の温州蜜柑の祖先とされる蜜柑品種の一つ。名の由来については、種を植えてから実がなるのに九年かかるというものや、「クニブ」という音の「ニブ」がヒンディー語の「酸味の強い小さいレモン」の意で、それが語源とも、される。本来はインドシナ半島原産で南中国を経て琉球に渡り、羽地(はねじ:現在の名護市)で栽培が盛んに行われたことから「羽地蜜柑」とも呼ばれた。果皮は厚く、表面に凹凸が見られ、味は濃厚で、酸味が強く、テレピン油に似た独特の香りを特徴とする。十六世紀室町期には琉球から日本本土にも伝えられて栽培もされ、果実サイズが大きなために持て囃された。水戸黄門はこれをマーマレードにして食したという記録も残っている。中でも美味しさを誇る琉球産は重宝されたという。江戸期までは日本本土に於ける柑橘の主要品種であったものの、その後、紀州蜜柑が広まり、また、近代に至って大正八(一九一九)年からのミカンコミバエ(双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ミバエ上科ミバエ科 Bactrocera 属ミカンコミバエ Bactrocera dorsalis )の侵入阻止のための移出禁止措置がとられてからは、生産量が激減、今では沖縄本島にも数本しか残っていない貴重な木となってしまった(以上は主に、非常によく纏められてあるpuremcolumn 氏のブログ「The Herb of Ryukyu」の「クネンボ 01 柑橘の母」の記載及び同記載のリンク先などを参考にさせて戴いた)。

「白靑き蟲を生じ、臭き香を吐もの也」ミカン類を有意に食害し、「白靑」色(これは江戸以前に感覚では緑色に近い明るい色を言っているように思う)で、臭さが強烈となると、昆虫綱カメムシ目カメムシ亜目カメムシ科カメムシ亜科 Glaucias 属ツヤアオカメムシ Glaucias subpunctatu を指している可能性が高いと思われる。]

譚 海 卷之十三 ついたて製の事 風りんの事 椽の下に植る草の事

○ついたては、二枚障子を仕付(しつける)たる、よし。障子をひらきて、用を辨ずるに便(びん)、有(あり)。狹き座敷などの「へだて」には、障子、殊に、よし。

 

○風鈴は長物(ながもの)なれば、觀物(みるもの)に成るやうにすべ。短册など付(つけ)たるは、俗に近し。花にて、しだり櫻か、柳か藤のたぐひを付(つく)べし。風になびたる體(てい)、風流なるもの也。

[やぶちゃん注:今度、やってみたくなった。]

 

○椽(えん)がはの下には、必(かならず)、觀音草(くわんのんさう)か、石菖蒲(せきしやうぶ)か、「しやが」などを植(うう)べし。幽致(いうち)ありて、冬月、又、色を變ぜず、翫(もてあそぶ)べし。

[やぶちゃん注: 「觀音草」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科キチジョウソウ(吉祥草)属キチジョウソウ Reineckea carnea の異名。当該ウィキによれば、『日本国内では関東から九州、また中国の林内に自生し、栽培されることもある』。『家に植えておいて花が咲くと』、『縁起がよいといわれるので、吉祥草の名がある』。『地下茎が長くのびて広がり、細長い葉が根元から出る』。『花は秋に咲く。根元にヤブランにやや似た穂状花序を出し、下部は両性花、上部は雌蕊のない雄花が混じり、茎は紫色。花は白い花被が基部で合生し筒状となり、先は』六『裂して反り返り』、六『本の雄蕊が突き出る』。『果実は赤紫色の液果』であるとある。そこの画像もリンクさせておく。

「石菖蒲」単子葉植物綱ショウブ(菖蒲)目ショウブ科ショウブ属セキショウ(石菖) Acorus gramineus のこと。

「しやが」単子葉植物綱ユリ目アヤメ科アヤメ属シャガ Iris japonica十一日前に十三年忌を迎えたALS(筋萎縮性側索硬化症)で亡くなった母テレジア聖子(若き日に洗礼を受け、修道院に入って、後には長島愛生園に行ってハンセン病患者の世話をすると決めていた。しかし従兄であった父が強引に結婚を申し込んで、母曰く、亡くなる直前まで、「『放蕩息子』になってしまった。」と呟いていた。亡くなる直前にキリスト系病院であったことから、私が過去の事実を述べ、最期の時、外人の司祭さまが来られ、葬送の儀を行って呉れた。母は慶応大学医学部に献体しており(私と連れ合いも同じ)、そのまま大学が病院まで迎えに来て呉れた。見送ったのは、父と私と連れ合いと看護婦の方の四人だけだった。遺骨は多磨霊園の同大医学部の霊廟に入っている。私と連れ合いも後、同じ骨壺に入る)が大好きな花で、よく植えていた(父は入院中で、遺影を父に見せようと持って行ったが、遂に目を開けなかった。而して、その三日後に心筋梗塞で父は逝ったが、考えてみれば、亡き母が天国から迎えに来て呉れたものと、今は思う)。父の逝去の前後、私は黙々と家の斜面の葛と竹を伐採し続けた。連れ合い曰く、「お母さんの好きだったシャガの繁殖地が戻ったわ。」と言った。私も好きな花である。母さん、父さん、「エリス・ヤポニクス 村上昭夫」を捧げます――

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(1)

[やぶちゃん注:以下、長いので、分割する。]

 

 

      

 

 

[やぶちゃん注:季標題。以下、本文。]

 

 

   桃色に雲の入日やいかのぼり 其 木

 

 句意は格別說明するまでのこともあるまい。この句の生命は云ふまでもなく「桃色」にある。夕日の空に凧の上つてゐるところは、必ずしも特色ある景色といふことは出來ないが、「桃色」を先づ點じ來つた爲、夕雲の鮮な色が眼に浮ぶやうに思はれる。

 北原白秋氏の歌に「鳩鳥の葛飾小野の夕霞桃いろふかし春もいぬらむ」といふのがあつた。かういふ色彩に對する感覺は、近代人の得意とするところであるが、古人も決して閑却してゐたわけでないことは、この一句によつても自ら明であらう。

[やぶちゃん注:白秋の一首は歌集「雀の卵」(大正一〇(一九二一)年)に後に補填したもので、決定版で「野ゆき山ゆき」の「一」に出る一首。国立国会図書館デジタルコレクションの『白秋文庫』第一(昭和一二(一九三七)年アルス刊)の「文庫版『雀の卵』覺書」の「Ⅱ 訂正作について」の中に、そこでは、「『花樫』葛飾閑吟集」の冒頭に、

   *

     野ゆき山ゆき

鳰鳥(にほどり)の葛飾(かつしか)小野(おの)の夕霞ねもごろあかし春もいぬらむ

   *

とあり、更に、「現代短歌全集『北原白秋集』葛飾閑吟集」の冒頭に、

   *

     野ゆき山ゆき

鳰鳥(にほどり)の葛飾(かつしか)小野(おの)のゆふがすみねもごろあかし春もいぬらむ

   *

の形で出るが、先行する同コレクションの「雀の卵」三部歌集同巻(大正一〇(一九二一)年アルス刊)では、「野ゆき山ゆき」の「一」(二首)の二首目に、ここにある通り、

   *

鳩鳥(にほどり)の葛飾小野の夕霞桃いろふかし春もいぬらむ

   *

とあった。]

 

   鍬の刅の夕日に光ル田打かな 嘯 風

 

 今日の眼から見ると、何となく平凡な句のやうに見える。併しこの句の出來た元祿時分にも、果して平凡だつたかどうかは疑問である。夕日に光る鍬の刅は、當時にあつてはむしろ新しい見つけどころではなかつたろうかといふ氣もする。

 振上げ打おろす鍬の刄が、夕日を受けてきらりと光る。さういふ動作は句の表面に現れてはゐないけれども、「田打」といふ言葉によつて、同じやうな動作を繰返しつゝあることが連想されるのである。

「振あぐる鍬のひかりや春の野ら」といふ杉風の句も、略〻[やぶちゃん注:「ほぼ」。]同樣な光景に著眼しているが、この句に比べるとよほど大まかなところがある。杉風は「振あぐる」といふ動作に重きを置いてゐるに反し、嘯風はそれを「田打」といふ語に包含せしめ、夕日を點ずることによつて時閒的背景を明にした。兩句の相異は主としてその點から來てゐる。

[やぶちゃん注:句の「刅」は右端の「﹅」がない「刃」(ここは「は」と訓じてゐる)の異体字で「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、最も近い「刅」に代えた。

「嘯風」兼松嘯風(かねまつしょうふう 承応三(一六五四)年~宝永三(一七〇六)年)は蕉門の俳人。加茂郡深田村(現在の美濃加茂市深田町)の農家の生まれ。内藤丈草と各務支考と交流があった。宝永元(一七〇四)年、美濃派俳諧の集大成として編んだ美濃派俳人の句集「國の華」(全十二巻)の第四巻「藪の花」の選を担当し、可児・加茂地区の部分を担当した。蜂屋の俳人堀部魯九は嘯風に俳諧の手解きを受けている。交流のあった俳人たちとともに宝永二年の秋、句集「ふくろ角」を選集したが、刊行前の翌年五月に病没した。嘯風の子で俳人の水尺が嘯風追悼の句を加えて刊行している(以上は「美濃加茂市民ミュージアム」公式サイト内の「美濃加茂事典」のこちらに拠った)。]

 

   うぐひすや内等の者の食時分 默 進

 

 この句を讀むと直に蕪村の「うぐひすや家内揃うて飯時分」を思ひ出す。「食時分」はやはり「メシジブン」とよむのであらう。かう二つ竝べて見ると、「内等の者の」は「家内揃うて」よりも表現が不束な[やぶちゃん注:「ふつつかな」。]やうに思はれる。そこに修辭上における元祿と天明との差が認められるのであるが、「家内揃うて飯時分」といふ言葉には多少の俗氣があつて、蕪村の句としては上乘のものといふことは出來ない。食事時に鶯が啼くといふ全體の趣向からいつても、已に元祿にこの句がある以上、蕪村の手柄はやや少いわけである。

 鶯の句には尙元祿に

 

   鶯や宮のあかりの起時分 幾 勇

 

といふのがあり、天明にも

 

   鶯のなくやきのふの今時分 樗 良

 

といふのがある。「何時分」といふ語で結ぶ句がいくつもあるのは偶然であるか、どれかの先縱に倣つたものであるか、その邊はよくわからない。

[やぶちゃん注:「樗良」三浦樗良(ちょら 享保一四(一七二九)年~安永九(一七八〇)年)。名は元克。志摩国鳥羽の人。初め、貞門系の百雄に学んだが、次第に伊勢派に近づき、伊勢笠付(かさづけ)の点業にも携わった。宝暦九(一七五九)年、南紀に旅して「白頭鴉」(しらががらす)を編み、翌年には加賀へ、翌々年は、再び南紀に在って「ふたまた川」を編した。後、伊勢山田に庵を結び、門下を擁して「我庵」で自風の確立を示した。既白・闌更らと往来し、明和八(一七七一)年にも信濃から加越を巡って「石をあるじ」を編み、翌年は播磨に青蘿を訪ねた。安永二(一七七三)年からは、たびたび上洛して蕪村一派と親しく交わり、三年後には京に定住の居を得た。加越には、その後も、再三旅して俳圏を広げ、京近辺にも門人を増やし、中興諸家と交流して、その運動の一端を担って「天明俳諧」の立役者の一人となった。性格は放縦の一面、純心素朴で、句は平淡ながら、自然を深く詠みとって、微妙に香気を放つ。和歌の「あはれ」に心を寄せ,詩人風の繊細な感受性と、みずみずしい情感は、蕪村一派の共感を得た。編書は、そのほかにも多く、「樗良七書」、また『樗良七部集』が編まれている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。私の非常に好きな俳人である。]

 

   鶯や片足あげて啼て見る 桃 若

 

 スケッチである。鶯は昔から愛玩される鳥だけに、その形についてもいろいろな觀察が下されてゐるが、其角の「鶯の身を逆にはつねかな」にしろ、蕪村の「うぐひすの啼くやちひさき口明て」にしろ、梅室の「尾をそらす鶯やがて鳴きにけり」にしろ、皆これを遠く見ず、近く觀察してゐる點に注意すべきであらう。而もその動作がいづれも啼く場合のものであるのは、聲に重きを置く鳥だからである。桃若の句も鶯が片足あげてちよつと啼いて見たといふ、平凡な事柄のようでありながら、そこに一脈の生氣が動いてゐる。實際觸目の句なるが故に相違ない。

 この作者は「豐後少年」といふ肩書がついてゐる。由來少年の句といふものは、大人の影響が多いせいか、子供らしいところを失ひがちなものであるが、この句などは比較的單純率直な部類に屬する。

 

   籾ひたす池さらへけり藪の中 鶴 聲

 

 苗代に種を蒔くに先つて[やぶちゃん注:「さきだつて」。]、籾種を水に浸して置く。普通に「種浸」[やぶちゃん注:「たねひ(び)たし」。]とか「種かし」とかいふのがそれで、浸す場所によつて「種井」とも「種池」とも呼ばれてゐる。この句はその籾を浸す前に池を浚つたといふ、やや特別な趣を捉へたのである。

 藪の中にあるといふのだから、この池はさう大きなものとは思はれない。池を浚つて冬以來溜つてゐた水を一掃するのは、籾種を浸す爲に先づその水を淸からしむるのであらうと思ふ。農家の人々から見たら、あるいは平凡な事柄であるかも知れぬが、こういふ句は机上種浸の題を按じただけで拈出し[やぶちゃん注:「ひねだし」。]得るものではない。實感より得來つた、工[やぶちゃん注:「たくま」。]まざるところに妙味がある。

 

   草に來て髭をうごかす胡蝶かな 素 翠

 

 このままの句として解すべきである。「草に來て」といふ上五字に重きを置いて、花に來ないで草に來た、といふ風に解すると、理窟に墮する虞がある。この句の特色は蝶が草にとまつて髭を動かしてゐるといふ、こまかな觀察をしてゐる點にあるので、表現法の問題はともかく、古人の觀察も往々かくの如く微細な方面に亙ることを認めなければならぬ。

 其角に「すむ月や髭を立てたる蛬[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]」といふ句がある。きりぎリすは姿態の美を見るべき蟲でないから、長い髭が目につくのも當然であるが、蝶は翅の美に先づ目を惹かれるものだけに――又その髭がさう著しいものでもないだけに、これに著眼することが、いさゝか特異な觀察になるのである。尤も觀察の精疎は直に句の價値を決定する所以にはならぬから、以上の理由だけを以て、この句をすぐれたものとするわけではない。

 

   拍子木も絕て御堀の蛙かな 一 箭

 

 拍子木を打つて廻つてゐた音が聞えなくなつて、御堀の蛙がしきりに鳴立てる。句の上にはこれだけしか現れてゐないけれども、城のほとりか何かで、夜も稍〻更けた場合かと想像される。「拍子木」と云ひ「蛙」と云つただけで、その音なり聲なりを連想させるのも、馴れては誰も怪しまぬが、俳諧一流の省略的表現である。

 子規居士の「石垣や蛙も鳴かず深き濠」といふ句は、蛙が鳴くべくして鳴かぬ、閑寂たる深い濠を想像せしめるが、見方によつては夜と限らないでもよさそうな氣がする。この「御堀の蛙」が直に夜景を思ひ浮べしむるのは、上に「拍子木も絕て」の語があるからである。かういふ連想の力を除去すれば、俳句はかなり索然たるものになり了るに相違ない。

 

   打はらふ袂の砂やつくくし 源 女

 

 一見何人も婦人の句たることを肯定するであらう。女流俳句の妙味は常にこういふ趣を發揮する點にある。

 吾々は元祿のこの句に逢著する以前、明治の『春夏秋冬』に於て

 

   裏がへす袂の土や土筆 秋 竹

 

といふ句を讀んでゐた。頭に入つた順序は全く逆であるが、この「裏がへす」の句は「打はらふ」の句を換骨奪胎したものとは思はない。むしろ作者も選者も元祿にかういふ句のあることを、全然知らなかつたのではないかといふ氣がする。土筆を採つて袂に入れて歸る場合、いくらも起り得べき事實であるだけに、二百年を隔てて殆ど同一地點に掘り當てるやうなことになるのかも知れない。

[やぶちゃん注:「秋竹」竹村秋竹(しゅうちく 明治八(一八七五)年~大正四(一九一五)年)愛媛県生まれ。本名は修。四高在学中、金沢で正岡子規派の結社「北声会」を組織。東京帝大在学中、子規庵に出入りしたが、明治三四(一九〇一)年、子規の選句を無断で掲載した「明治俳句」を刊行して子規の怒りに触れ、一門を離れた。]

 併し正直に云ふと、甞て「裏がへす」の句を讀んだ時には、別に女性的な句だとも感じなかつた。さう考へるやうになつたのは、「打はらふ」の句を知つた後である。吾々の鑑賞とか批評とかいふことも、存外種々な先入觀念に支配されがちなものであるらしい。

 

   春雨や桐の芽作る伐木口 本 好

 

 根もとから伐つた桐の株に新な芽を吹いて來る。桐の芽立は勢のいゝものではあるが、「桐の芽作る」といふ言葉から考へると、これはまだあまり伸び立たぬ時分であらう。春雨はしづかにこの伐株の上に降る。「伐木口」とあるが爲に、その木口も鮮に浮んで來るし、そこに「芽作る」新な勢の籠つてゐることも想像される。

 桐の芽立は春の木の芽の中では遲い方である。長塚節氏の「春雨になまめきわたる庭の内に愚かなりける梧桐の木か」といふ歌は、その芽立の遲いところ、他の木におくれて猶芽吹かずにゐる有樣を詠んだのであるが、本好の句は已に芽吹かんとする趣を捉へてゐる。普通の芽立と、伐株の芽立との相違はあるにしろ、春雨の中の桐の木を描いたことは同じである。春もよほど暖になつてからの雨であることは云ふまでもない。

 

   雉子啼や茶屋より見ゆる萱の中 蓑 立

 

 野景である。今憩ひつゝある茶店から萱原が見える。その萱の中から雉子の啼く聲が聞えて來る、といふ句であるが、この茶店と萱との距離は、そう遠くないやうに思はれる。

 雉子の聲といふものは、現在の吾々にはあまり親しい交涉を持つていない。眼に訴へる方の雄雉子ならば、距[やぶちゃん注:「けづめ」。中・大型の鳥の後脚の後部にある突起。]で「美しき貌かく」其角のそれにしても、「木瓜の陰に貌たぐひすむ」蕪村のそれにしても、胸裏に浮べ易いに拘らず、雄子の聲になると、直に連想に訴へにくいのである。勿論これは吾々の見聞の狹い結果に過ぎぬ、柳田國男氏に從へば、雉子の聲を聽くには東京が却つて適してゐたといふことで、「春の末に代官町の兵營の前を竹橋へ通ると、右手の吹上の禁苑の中から、いつでも雉子の聲が聞えてゐた」といふし、「駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切賣されぬ前には、盛んに雉子が遊んでゐた」といふ。束京にいても耳にする機會はいくらもあつたらしいのである。

 けれどもこの「萱の中」の句は、吾々が讀んでも雉子の聲が身に親しく感ぜられる。萱との距離が遠くなささうに思はれるのも、畢竟雉子の聲の親しさによるのであらう。その點は

   雉子啼や菜を引跡のあたりより 鞭 石

といふ句もさうである。畑に來て何かを求食り[やぶちゃん注:「もとめあさり」。]つつある雉子の聲は、前の句より更に人に近い親しさを持つてゐる。尤もこの「引跡」といふ言葉は、文字通りに現在菜を引きつつある、その近くまで雉子が來て啼くものと考へなくても差支ない。菜を引いた跡の畑に來て啼くといふことでよからうと思ふ。

 前の句は萱の中から聲が聞えるので、無論雉子の姿は見えて居らず、後の句も「あたりより」といふ漠然たる言葉によつて、やはり姿を表面に現さないでゐる。しかもこの場合、雉子の聲が毫も他のものに紛れぬ響を持つてゐるのは、實感の然らしむる所に相違ない。

[やぶちゃん注:「雉子の聲といふものは、現在の吾々にはあまり親しい交涉を持つていない」私は親しい。ワンダーフォーゲル部や山岳部の顧問であったから、山行でも何度も見かけたし、また、二校目に勤務した戸塚の舞岡高等学校の校門の上の斜面には、仲のいい雌雄のキジが住んでいて、毎日のように鳴き声や姿を見た。六年ほど前、千葉の夷隅地方に連れ合いと旅した際、「いすみ鉄道」のある駅(駅名失念。私は鉄ちゃんではない)で、向かいの畑地を行く雌雄の雉子を見た。いかにも長閑にともに歩き鳴いていた。この時、連れ合いは初めて野生の雉子を初めて見たのだった(私は職場結婚であったが、彼女が転任してきた私の最後の一年には、同校では雉子は見なくなっていた)。

[やぶちゃん注:『柳田國男氏に從へば、雉子の聲を聽くには東京が却つて適してゐたといふことで、「春の末に代官町の兵營の前を竹橋へ通ると、右手の吹上の禁苑の中から、いつでも雉子の聲が聞えてゐた」といふし、「駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切賣されぬ前には、盛んに雉子が遊んでゐた」といふ』これは、柳田國男の「おがさべり――男鹿風景談――」(『東京朝日新聞』秋田版(大正七(一九一八)年六月一日附発行)が初出で、当該条は「雉の聲」の一節である。後に「雪國の春」(昭和三(一九二八)年岡書院刊)に収録された。国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここが当該条で、当該部はここの左ページ一行目からの段落に当たる。短いので、同条総てを視認して電子化しておく。

   *

      雉  の  聲

 斯ういふ心持から、自分が男鹿の風景の將來の爲に、最も嬉しい印象を以て聞いて還ったのは、到る處の雉の聲であつた。雉だけは今でもまだ此半島の中に、稍多過ぎるかと思ふ程も遊んで居る。それがもう他の地方の旅では、さう普通の現象では無いのである。

 又例の餘計な漫談であるが、雉の聲で思ひ出す自分の旅の記念は、多くは無いが皆美しいものであつた。若狹の海岸は島が内陸と繫がつて、中間に潟湖を作つた點は男鹿とよく似て居る。たゞ其山が迫つて、水が小さく幾つかに區切られて居るだけである。この湖岸の林にはやはり雉が多く啼いて居た。六月始めの頃であつたが、小舟に乘つて三つ續いた湖水を縱に渡つて行くと、よく熟した枇杷の實を滿載して來る幾つかの舟とすれちがつた。紺のきものを著た娘などの乘つて居る舟もあつた。岸には高桑の畠が多かつた。此鳥の住んで居るやうな土地にはどこかにゆつたりとした寂しい春がある。

 信州の高府(タカブ)[やぶちゃん注:ルビではなく本文。]街道といふのは、犀川から支流の土尻川[やぶちゃん注:「どじりがは」。]の岸に沿うて越える山路だが、水分れの高原には靑具[やぶちゃん注:「あをく」。現在の長野県大町市美麻青具(みあさあおく:グーグル・マップ・データ)]といふ村があつて、五月の月末に桃山吹山櫻が盛りであった。それから下つて行かうとすると、眞黑な火山灰の岡を開いて、菜種の畠が一面の花であり、そこを過ぎると忽ち淺綠の唐松の林で、其上に所謂日本アルプスの雪の峰が連なつて見える。雉が此間に啼いて居たのである。山の斜面は細かな花剛岩の砂になつて居て、音も立てずに車が其上を軋つて下ると、折々は路上に出て遊ぶ雉の、急いで林の中に入つて行く羽毛の鮮やかなる後影を見たことであつた。

 斯ういふ算へる程しかない遭遇以外には、東京が却つて此鳥の聲を聞くに適して居た。春の末に代官町の兵營の前を竹橋へ通ると、右手の吹上の禁苑の中からいつでも雉の聲が聞こえて居た。年々繁殖して今はよほどの數になつて居る樣子である。駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切賣されぬ前には、盛んに雉が遊んで居て啼いた。

 男鹿の北浦などは、獵區設定の計算づくのもので、多分もう農夫の苦情もぽつぽつと出て居るであらうと思ふが、何とか方法を講じて此狀態を保存させたいのは、春から夏の境の一番旅に適した季節に、斯うして雉の聲を聞きにでも行かうかといふ土地が、今では非常に少なくなつてしまつたからである。瀨戶内海の小さな島などでは、或は保存に適したものもあらうが、實はあの邊では人間が少し多過ぎて、おまけに精巧をきわめた鐵砲を持ち、一日に七十打つたの百羽捕つたのと、自慢をしたがる馬鹿な人が直ぐ遣つて來る。秋田縣の北のはづれの獵區の如きは、設定者の爲には少し氣の毒かも知れぬが、そんな金持はまだ當分は來ても少なさうである。

   *

「鞭石」福田鞭石(べんせき 慶安二(一六四九)年~享保一三(一七二八)年)は江戸前・中期の俳人。京都生まれ。富尾似船(じせん)に学んだ。編著に「磯馴松」(そなれまつ)がある。]

2024/03/29

南方熊楠「赤沼の鴛鴦」(正規表現版・オリジナル注附き)

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』「第七卷文集Ⅲ」(渋沢敬三編・一九五二年乾元社刊・正字正仮名)の当該部を視認した。同書では、「動物隨筆」という「大標題」の下に短い動物関連の論考が、古いものから新しいものまで、集められた中に含まれているが、これは編者による便宜上の仕儀であると考える。]

 

       赤 沼 の 鴛 鴦

 

 此話し著聞集に陸奥の赤沼と有るが、沙石集には下野の阿曾沼で有つた事として居る。是等よりも古く書かれた今昔物語には、京都の美々度呂池で雄鴨を射殺して持歸ると、雌鴨が慕ひ來りしを見付けて其人出家した記事有りて、鳥が歌詠んだ由は更に見えぬ。支那にも元魏の顯宗が鴛鴦の雄を獲しに雌が悲鳴して去ざるを見、鷹を飼ふを禁じたと云ふ(淵濫類凾[やぶちゃん注:ママ。「淵鑑類函」が正しい。誤植であろう。]四二六)。琅琊代醉篇三八に、明の成化六年十月淮安の漁人鴛鴦の雄を烹るに雌戀々飛鳴し沸湯中に投死す、漁入其意を悲しみ、羹を捨てゝ食はず、人之れを烈鴛といふと、双槐歲抄から引いて其著考の詠んだ詩をも出し居る。欧洲でも似た譚有り。十七世紀の初め頃、英國ヰンゾル邊の天鵝、其雌が他の雄と狎れ親しむを見、先づ姦夫を追ひ尋ねて、之れを殺し、還つて又其雌を殺したとハズリットのフェース・エンド・フォークロール二卷五七六頁に出づ。

(大正八、四、一、日本及日本人、七五三)

[やぶちゃん注:この話、「小泉八雲 をしどり (田部隆次訳) 附・原拠及び類話二種」(八雲が原拠としたのは、「古今著聞集」に載るもの)で、詳細なオリジナル注を附してあり、そこで「古今著聞集」だけでなく、「今昔物語集」・「沙石集」の当該類話も完全電子化してあるので、是非、見られたい。

「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。全四百五十巻。一七一〇年成立。南方熊楠御用達の書。当該部は「漢籍リポジトリ」のこちらのページのガイド・ナンバー[431-30a]から[431-31b]までで、テクスト化されてあり、原影印本も視認出来る。

「琅琊代醉篇」明の張鼎思(ていし)が、さまざまな漢籍から文章を集めて編纂した類書(百科事典)。一五九七年序。全四十巻。延宝三(一六七五)年に和刻され、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」(文化一一(一八一四)年初編刊)を始め、複数の浮世草子等が素材として利用している。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで版本の当該部「貞燕烈鴛」が、ここと、ここと、ここで視認出来る。

「成化六年」一四七〇年。

「ヰンゾル」“Windsor”。ウィンザー。ロンドンのすぐ西側のイングランド南東部に位置する、テムズ川沿いの町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「天鵝」(てんが)はハクチョウの異名。

「ハズリットのフェース・エンド・フォークロール」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の‘ Faiths and Folklore(「信仰と民俗学」)。「Internet archive」のこちらで、同原本の当該部が視認出来る。左パートの十七行目からの段落である。

ブログ・アクセス2,130,000突破記念 柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 始動 / 表紙・扉・「はじめに」・「新年」

[やぶちゃん注:私は既にブログ・カテゴり「柴田宵曲」「柴田宵曲Ⅱ」に於いて、「妖異博物館」・「續妖異博物館」、及び、一九九九年岩波文庫刊小出昌洋編「新編 俳諧博物誌」を加工データとして「俳諧博物誌」(若干の別作品を含む)を、更に「子規居士」・「俳諧随筆 蕉門の人々」、そして、先般、完遂した「随筆辞典 奇談異聞篇」を電子化注している。而して、本日より、私が活字本として所持する最後の本書を参考に「柴田宵曲Ⅱ」にて電子化注を開始する。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの保護期間満了の昭和一八(一九三三)年七丈書院刊(正字正仮名版)を使用する。但し、加工データとして所持する新字・新仮名(句や古文の引用では正仮名。但し、ルビは句や古文でも新仮名である)版の岩波文庫「古句を観る」(一九八四年刊)をOCRで読み込んだものを使用した。ここに岩波書店に御礼申し上げる。以上の通り、底本は書籍全体がパブりック・ドメインであるので、画像をダウンロードし、トりミングして配した。

 句については、底本では、四字下げで、さらに字間が有意に空いているが(全篇で主要の俳句が同じ形で並ぶようにするため)、これでは、ブラウザの不具合が生じるため、無視して三字下げで、後は詰めた。作者名もその下に三字弱空けで、やはり字間が二字空いているが、句の下一字空けで字空けなしで配した。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字にした。注については、適当と思う箇所に挿入した。但し、本書に採句された元禄期前後の俳人は、生没年や事績の不明な人物も多く、宵曲自身もそうしたデータを本文に示していないので、基本的にはそれらの事績注は附さないこととする。但し、一応は調べて、判る事績がある俳人については、注することとし、不詳注は附さない。一度、注した俳人事績は繰り返さないので、順に読まれんことを望む。お人よしに、いちいち、既出既注を示すほどには、私の精神状態は多忙のため、回復してはいないからである。また、今までのように、私が判っているものも含め、何でもかんでも注することは、労多くして、私の益には全くならぬので、ストイックに注は選ぶ。

 因みに、本プロジェクトは、昨日三月二十八日深夜に、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが2,130,000アクセスを突破した記念として、また、先日、父が亡くなったことによる禁欲的な電子化注に踏ん切りをつけるために、公開するものである。【二〇二四年三月二十九日 藪野直史】]

 

 

Kokuwomiruhyousi

 

 古句を觀る

 

[やぶちゃん注:表紙。底本の画像。トウモロコシ中央に左右に別な草を描く。右の草の根に「淳」のサインがある。次の「扉」に示された通り、主に児童向けの絵を描いた画家鈴木淳(じゅん 明治二五(一八九二)年~昭和三三(一九五八)年:パブりック・ドメイン)の手になるものである。彼の事績は襟裳屋氏のブログ「襟裳屋Ameba館」の「鈴木淳」に詳しいので、参照されたい。]

 

 

Kokuwomirutobira

 

          柴 田 宵 曲 著

 古句を觀る

          鈴 木  淳  繪

 

[やぶちゃん注:。底本の画像。著者名と画家名は書名の真下に左右に配されてある。]

 

 

     は じ め に

 

 ケーベル博士の常に心を去らなかつた著作上の仕事は「文學における、特に哲學における看過されたる者及忘れられたる考」であつたといふ。この問題は一たびこれを讀んで以來、又吾々の心頭を離れぬものとなつてゐる。世に持囃される者、廣く人に知られたものばかりが、見るべき内容を有するのではない。各方面における看過されたる者、忘れられたる者の中から、眞に價値あるものを發見することは、多くの人々によつて常に企てられなければならぬ仕事の一であらうと思はれる。

 古句を說き、古俳人を論ずる傾向は、今の世に於て決して乏しとせぬ。見方によつては過去のあらゆる時代より盛であると云へるかも知れない。たゞ吾々がひそかに遺憾とするのは、多くの場合それが有名な人の作品に限られて、有名ならざる人の作品は閑却され勝だといふ點である。一の撰集が材料として取上げられるに當つては、その中に含まれた有名ならざる作家に及ばぬことも無いけれども、そういう撰集を單位にして見れば、これもまた有名な集の引合に出されることが多く、有名ならざる俳書は依然として下積になつている。有名な作家、有名な作家、有名な俳書に佳句が多いということは、常識的に一應尤な話ではあるが、その故を以て爾餘の作家乃至俳書を看過するのは、どう考へても道に忠なる所以ではない。

 芭蕉を中心とした元祿の盛時は、その身邊に才俊を集め得たのみならず、遠く邊陬の地にまで多くの作家を輩出せしめた。本書はその元祿期(元祿年間ではない)に成つた俳書の中から、なるべく有名でない作家の、あまり有名でない句を取上げて見ようとしたものである。勿論有名とか、有名でないとかいうのも比較的の話で、中には相當人に知られた作家の句も混つてゐるが、その場合は人口に膾炙した、有名な句をつとめて避けることにした。比較的有名ならざる作家の、比較的有名ならざる俳句の中にどんなものがあるか、それは本書に擧げる實例が明に示す筈である。

 吾々は沙の中から金を搜すやうなつもりで、閑却された名句を拾ひ出さうといふのではない。自分一個のおぼつかない標準によつて、妄に古句の價値を判定してかゝるよりも、もう少し廣い意味から古句に注意を拂ひたいのである。從つて本書に記すところも、所謂硏究とか、鑑賞とかいふことでなしに吾々のおぼえ書に類することが多いかも知れない。吾々は標題の通り「古句を觀る」のである。若しその觀た結果がつまらなければ觀る者の頭がつまらない爲で、古句がつまらないわけでは決してない。

  昭和十八年八月十日

                     著  者

 

[やぶちゃん注:自序。底本のここから。

「ケーベル博士」ドイツの哲学者ラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber 一八四八年~一九二三年)。ドイツ系ロシア人の高級官僚の子として帝政ロシアの古都ニジニー・ノブゴロド(現在のゴーりキー市)に生まれる。一八六七年、「モスクワ音楽院」に入学、ピアノをニコライ・ルビンシュテイン(Nikolai Grigoryevich Rubinstein 一八三五年~一八八一年:当該ウィキを参照されたい)に習った。一八七二年、優秀な成績で同音楽院を卒業したが、生来の内気な性格から音楽家としてたつことを断念して、翌一八七三年、ドイツに留学、「イエナ大学」・「ハイデルベルク大学」で哲学・文学を専攻した。一八八〇年、F・シェリングの人間的自由に関する論文で学位を得、一八八四年に「ハルトマンの哲学体系」、一八八八年には「ショーペンハウエルの哲学」を出版した。一八九三年(明治二十六年)、「帝国大学文科大学」(後の「東京帝国大学」文学部)の哲学教師として来日し、哲学概論・ギりシア哲学・中世及び近世哲学史・キりスト教史、及び、カントやヘーゲルに関する特殊講義といった哲学科目と、西洋古典語・ドイツ語・ドイツ文学をも講義した。その間、「東京音楽学校」でピアノの教授も行っている。二十一年間の「東京帝国大学」在職中、ケーベルは賜暇帰国などで講義を中断することもなく、文字通り、一身を講義と学生指導に捧げた。大正三(一九一四)年、教壇を去ってドイツへ帰国しようとしたが、「第一次世界大戦」のため、帰国不可能となり、横浜の友人宅に九年間。寄寓したまま、同所で逝去した。芸術家の感性と資質に満ちたケーベルは、同時に哲学教師としてギりシア的自由の精神とキりスト教的敬虔の体現者として、彼の講筵に連なった波多野精一・和辻哲郎ら、多くの学生に深い感銘を与えた(以上は小学館「日本大百科全書」に主文を拠った。当該ウィキも見られたい)。

「邊陬」「へんすう」と読み、「国の果て・辺境・僻地・田舎」の意。「邊垂・邊陲」(へんすい)とも言う。]

 

 

   目   次

新年

 

[やぶちゃん注:目次。五つの季は、全体が、外が太い二重罫線に囲われてあり、季の間は縦傍線である。底本のここ。各項の下方のノンブルは省略した。]

 

 

              新   年

 

[やぶちゃん注:季標題。見開きの左ぺージ

 以下は以上の標題の裏、見開きの右ページにある前書。]

 

 順序上新年の句を最初に置くことにする。今の新年は冬の中に介在してゐるが、昔の新年は春の中に在つた。從つてその空氣なり、背景なりには、大分今と異つたものがある。古人も俳書を編むに當り、あるいは歲旦を獨立せしめ、或は春の部に混在せしめるといふ風で、必ずしも一樣の扱方をしてゐない。廣い意味で春に包含すると見れば差支無いやうなものの、藤や山吹と前後して正月の句を說くのは、感じの上に於てそぐはぬところがある。乃ちこれを獨立地帶として、歲旦といふ特別な氣分の下に生れた句を一括する所以である。

 

[やぶちゃん注:以下、本文となる。]

 

 

   正月はどこまでわせた小松賣 圓解

 

「どこまでわせた」は、正月はどこまで來たか、と云つて小松賣に尋ねる意であらう。正月といふものに對して次第に無關心になりつゝあるわれわれも、この句を讀むといろいろなことを思ひ出す。

[やぶちゃん注:「わせ」「座(わ)す」(いらっしゃる・おいでになる。「あり」「来(く)」の尊敬語)自動詞サ行下二段活用の連用形に、既に当時の過去の助動詞「き」の口語「た」がついたもの。]

 京傳の黃表紙に子供の唄として「正月がござつた。かんだまでござつた。ゆづりはにこしをかけて、ゆづりゆづりござつた」といふのが引いてある。泉鏡花氏の書いたものによると、「正月はどうこまで、からから山の下(しいた)まで……」といふ童謠を「故鄕の兒等は皆師走に入つて、半頃から吟ずる」と書いてあつた。各地方にそれぞれ同じ意味の唄が、少しづつ言葉が違つて傳へられてゐるのであろう。「どこまでわせた」もさういふ文句を蹈へたものに相違ない。

[やぶちゃん注:泉鏡花のこの唄は、一幕物の怪奇幻想戯曲「多神敎」(初出は『文藝春秋』昭和二(一九二七)年三月)の初めの方に出る「女兒三」の台詞内にある。但し、そこでは(所持する岩波書店の旧『鏡花全集』巻二十六に拠った)、

   *

「お正月(しやうぐわつ)は何處(どこ)どこまで、

 からから山(やま)の下(した)まで、

 土産(みやげ)は何(なん)ぢや。

 榧(かや)や、勝栗(かちぐり)、蜜柑(みかん)、柑子(かうじ)、橘(たちばな)。」……

   *

で、「下」には、「しいた」とは、なっていない。初出に拠っものか。]

 正月を擬人した句は他にいくらもある。一茶の「今春が來た樣子なり煙草盆」などは、最も人間的に扱つた例として知られてゐるが、それより前に「正月が來たか畠に下駄の跡」といふ誰かの句があつた。圓解の句はこの二句ほど氣が利いてゐないかも知れない。併しかう三句竝べて見ると、一番鷹揚で上品な趣に富んでゐる。

 

   元朝やにこめく老のたて鏡 松葉

 

「にこめく」といふ言葉はあまり耳慣れぬやうであるが、漢字を當てるとすれば「和」の字であらうか。「物堅き老の化粧やころもがへ」といふ太祇の句ほど面倒なものではない。元朝を迎へた老人が、にこやかに鏡に對してゐるところである。

[やぶちゃん注:「元朝」は「ぐわんてう」で「元日の朝」の意。]

 

   蓬萊や日のさしかゝる枕もと 釣壺

 

 めでたい句である。朝目のはなやかにさしたる、とでも形容すべきところであらう。晏起の主人はまだ牀中にあつて、天下の春を領してゐるやうな氣がする。

 新年の句のめでたいのは何も不思議は無いが、かういふ巧まざるめでたさを捉へたものは却つて少い。「さしかゝる」といふ言葉も、蓬萊を飾つた枕許だけに、頗る氣が利いてゐるやうに思ふ。

[やぶちゃん注:「釣壺」(慶安三(一六五〇)年~享保一五(一七三〇)年)は豊後国日田郡小竹村の医師で、蕉門。各務支考と犬猿の仲で、晩年は志太野坡の門に入っていたか、とする(大内初夫氏の論文「朱拙・釣壼の歿年について」PDF)を参照した)。]

 

   萬歲のゑぼしをはしる霰かな   胡 布

 

 この句の趣は今の正月としても味はゝれる。萬歲の被つた烏帽子を霰がたばしるといふのは、寂しいながら正月らしい趣である。春の正月と、冬の正月とによつて、感じに變化を生ずるほどのものではない。

「ものゝふの矢なみつくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」という實朝の歌は、殆ど森嚴に近いやうな霰の趣である。芭蕉は身に親しく霰を受けて「いかめしき音や霰の檜木笠」と詠んだ。萬歲の鳥帽子にたばしる霰は、さういふいかめしい性質のものではない。もつと輕快な、さらさらとした霰である。

[やぶちゃん注:「ものゝふの矢なみつくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」「金槐和歌集」の「卷之上 冬部」に「霰」と前書する一首(三四八番)。

「いかめしき音や霰の檜木笠」貞亨元(一六八四)年作。「野ざらし紀行」の途次の詠で、自画讃が残る。]

 

   犢鼻褌を腮にはさむや著そ始 汶 村

 著衣始といふのは年頭に衣を著初るの意、三ケ日のうち吉日を選ぶとある。この句は讀んだまでのもので、格別說明を要するところは無い。著衣始の句としてはむしろ品格の乏しい方に屬するが、吾々は別個の興味から看過し難いのである。

『浮世風呂』の中であつたか、犢鼻褌を腮でしめた時分の話だ、といふやうな意味のことがあつた。川柳子もこの說明に都合のいゝやうに「古風なる男犢鼻褌面でしめ」「元祿の生れ犢鼻褌腮でしめ」と二通りの句を殘している。汶村の句は正德二年の『正風彥根躰』に出ているのだから、さういふ人間がまだ古風扱を受けるに至らぬ、現役の時代である。川柳の方は時代の推移を知るに便宜な爲、屢〻人の引くところとなつてゐるけれども、汶村の句は從來あまり問題になつてゐない。眼前瑣末のスケツチに過ぎぬ著衣始の句も、かうなると慥に風俗資料に入るべき價値がある。

[やぶちゃん注:「腮」「あご」。

「汶村」(ぶんそん ?~正徳二(一七一二)年)。近江彦根藩士で、姓は松井或いは松居。別号に九華亭・野蓼斎。蕉門の森川許六(きょりく)に俳諧・画を学んだ。

「着衣始」「きそはじめ」と読む。

「正德二年」一七一二年。]

 

   戶をさして樞の内や羽子の音 毛 紈

 

 正月――少くとも松の内位の間、夜早くから店をしめて、人通りもあまり無いのは、以前も同じことであるが、點燈夫がつけて步く軒ラムプの時代には、とてもその光で羽子をつくことは出來なかつた。軒ラムプが電燈に變つてからも、はじめのうちはかなり暗いもので、街燈の光がその度を加へ、店鋪が内外の電燈に强烈な光を競ふやうになつたのは、まださう久しいことではない。そのため夜は店を閉ぢても外の明りで十分羽子をつくに足り、夏の郊外などでは眞夜中に蟬が鳴き蜩が鳴くやうになつた。かういふ燈火の作用は明治時代の人の想像も及ばぬところであろう。

 毛紈のこの句は風の强い日などであるか、戶をしめた樞の内から羽子の音が聞える、といふ變つた場合を見つけたのである。今なら廣い土間か何かに光の强い電燈をつけて、夜でも羽子をつき得るわけであるが、元祿時代の燈火ではそんなことを望むべくもない。たゞさういふ風の當らぬ別天地に、頻に羽子をつく音が聞える。そこに作者は興味を持つたらしい。羽子の句としては珍しいものである。この珍しさは夜間街燈に追羽子を見得るやうになつた現代と雖も、依然これを感ずることが出來る。

[やぶちゃん注:「毛紈」(もうがん ?~元文三(一七三八)年)本名は喜多山十蔵正矩。百五十石取りの彦根藩士。許六門。蕉門きっての画才の持ち主として知られる。

「そのため夜は店を閉ぢても外の明りで十分羽子をつくに足り、夏の郊外などでは眞夜中に蟬が鳴き蜩が鳴くやうになつた。かういふ燈火の作用は明治時代の人の想像も及ばぬところであろう」この「蟬」・「蜩」が夜間に鳴く理由は間違いではないが、不全である。セミが夜間に鳴くのは、「明るさ」と「一定の温度以上になった場合」の孰れかの条件によって発声するのである。具体的には、温度のみの場合は摂氏二十五度以上(熱帯夜)になると、鳴き出す。これは私自身が体験したから、間違いない。教員になった三年ほど、私は鎌倉市岩瀬の古いアパートに住んでいた(既に現存しない。ポットン便所に雨水が入り、甚だ悩ましいかったことが今も忘れられない)が、アパートの後ろは所謂、「谷戸」の奥で、土地の富豪の古い屋敷になっていた(ここ。グーグル・マップ・データ航空写真。冠木門で、嘗つては、時代劇の撮影に来たと下宿の美しい奥方が言っていた)。そこには、丁度、私の部屋の向かいのその屋敷の庭に、壮大な栗林と大きな池があった(リンク先で見たら、これらも現存しない。その池から巨大なヒキガエルが多量に発生し、道に何十匹も這い出て、夜、自転車で泥の塊りと勘違いして轢き、「ゲッツ!」と鳴かれて驚き、キビが悪かったのも記憶に鮮明である)。最初の年の夏の午後一時頃、甚だ寝苦しい日だったが(無論、クーラーなぞ、ない。二つあった窓(台所の高窓と部屋のそれ)を開けっぱなしにしていた。私は現在の自宅にエアコンを入れたのは、実に九年前の夏である。連れ合いは体温が低い性質(たち)でクーラー嫌いであったからで、私もクーラーが欲しいとも思わなかったのだが、パソコンに悪影響が出ると友人に言われて、つけた)、突然、シンバルを鳴らすように、大きな音が聴こえてきて、跳び起きた。外に出てみると――その栗林でミンミンゼミの群れが一斉に鳴いていたのであった。その数は数百であろうと感じられた。何せ、「ミン、ミン、ミーン」の読点と長音符部分に他の個体の鳴き声が多重的に入り込んでいて、「ビッツーーーーーー!」という怪音にしか聴こえなかったのである。二年後、顧問をしていたワンダーフォーゲル部の親しくしていた卒業生が泊りに来たときも、彼はその怪音に「なんじゃッツ!!!」と叫びつつ、見事に跳ね起きたのを思い出す。]

 

   蠟燭に帶のあふちや著そはじめ 魚珞

 

 この蠟燭は夜でなしに、朝非常に早い室内の燭ではないかと思ふ。衣を更へ、帶を結ぶに當つて、そこにかすかな風が起る。その風によつてしづかな燭の火がゆらぐといふのである。「あふち」といふ語は煽りと同意であらう。

 纖細な見つけどころの句で、燭の火に衣を改める人の面影が髣髴として浮んで來るやうな氣がする。同じく衣を改めることを詠じながら、夏の更衣と全然別の趣を捉へてゐるのを多としなければならぬ。

 

   萬歲の春をさし出す扇かな 子 直

 

 萬歲のさし出す扇から春が生れるやうに感ずる、といふよりも更に進んで、萬歲が扇によつて春そのものを差出す、と見たのである。かういふ云ひ現し方は今の句とは大分異つた點があるやうに思ふ。

「今朝春の小槌を出たり四方の人 存義」という句と全然同じ行き方ではないが、新春そのものを包括して、或形の下に現したのが、この種の句の特色をなしてゐる。

[やぶちゃん注:「存義」馬場存義(ぞんぎ 元禄一六(一七〇三)年~天明二(一七八二)年)は江戸生まれ。二代前田青峨に学び、享保十九年、俳諧宗匠となり、門下を率いて「江戸座」の代表的点者として活躍した。与謝蕪村とも交友があった。]

 

   七くさやそこに有あふ板のきれ 吏 全

 

 七種の薺をたたく行事は、今でもところによつては行はれてゐるのであらうか。かういふ行事のあつた時代は、それだけ正月の賑かさを添へたことと思ふが、師走の餅搗の音でさへ、動力機械に壓倒された今日、さういふことを望む方が無理であらう。

 古人の七種の句を通覽すると、多くは薺をたゝく拍子が問題になつてゐる。「七種や明ぬに聟のまくらもと」という其角の句も、今日だつたらどういふ解釋になるかわからぬが、夜の明けないうちから聟の枕許で、わざとトントンやるのが主眼らしく思はれる。各人各戶に拍子を取つてやつたものとすれば、蒲鉾屋や經師屋の音から類推することはむづかしさうである。 

   七草や拍子こたへて竹ばやし り ん 

といふやうな閑寂な世界もある。

 [やぶちゃん注:「七種の薺をたたく行事」「七種叩き」(ななくさたたき)。七種の節句の前夜又は当日の朝、俎板の上に「春の七草」を載せ、「ななくさなずな、唐土(とうど)の鳥が日本の土地へ渡らぬさきに、ストトントンとたたきなせえ」などと、囃しながら包丁や擂り粉木などで叩くこと。「七草囃子」とも言う。私は、ごく最近、尼さんが、それをやっている映像を見た。

「りん」蕉門女流俳人。蕉門の筑前秋月の医師遠山柳山の妻。]

 

   七種のついでにたゝく鳥の骨 薄 月

 

といふやうな、餘興だか、實用だかわからぬこともあつたのであらう。幾人も寄つてたゝく中には、自らたたき馴れた先達があつて、先ず範を示してかうやれと云ふ。その結果は、

 

   七種の手本にも似ぬ拍子かな 車 要

 

ということになつて、新に笑を催すこともあつたらしい。かういふいろいろな句によつて、その賑かさを想像するより外は無いことを考へると、吾々の次の時代には餅搗の趣を解することがだんだん困難になるのも、またやむをえぬ順序になつて來る。

[やぶちゃん注:「車要」潮江車要(しおえしゃよう 生没年未詳)は本名潮江長兵衛。裕福な町人であったらしい。大坂蕉門の一人で、芭蕉の晩年の句「おもしろき秋の朝寢や亭主ぶり」は、元禄七年九月二十一日、車要亭で開催された句会の翌朝の朝寝坊を詠んだもの。また、その句会では「秋の夜を打ち崩したる咄かな」と詠んでいる。それより有名な芭蕉の句、私の「秋の夜を打崩したる咄かな」を詠んだのも、彼の邸宅である。]

 薺を打つ板は元來きまつたものがあつたのであらうが、大勢の手に行渡るほどは無いので、そこらにあり合せの板切でたたいてゐる、といふのが吏全の句意である。かういふ先生は單に員[やぶちゃん注:「かず」と読んでおく。]に備るだけで、手本に似ぬ拍子をやる仲間だらうと思ふが、それが又却つて一座を賑かにするのであらう。

 物の足らぬ勝な家で、薺をたゝくにもあり合せの板切ですまして置く、といふ簡素な趣を詠じたものと解されぬことも無い。たゞ薺打を賑やかなものとして考へると、及ばずながら板切を取つて加はる方が、新春の趣にふさはしいやうな氣もするのである。事實を知らぬ者の想像だから、これも間違つてゐるかも知れない。

 

   君が代をかざれ橙二萬籠 舟 泉

 

 橙は御飾に用ゐられるので、歲旦の季題になつてゐる。作者は現實に二萬籠といふ橙を眼に浮べてゐるわけではない。君が代の春を飾るべき多くの橙といふことを現す爲に、極めて漠然たる數字を持出したのである。二萬と限つたのも恐らくは調子の關係から來たので、中七字であつたら更に他の數詞に替えたかも知れぬ。算術の問題ならば、一籠いくつとして總計どの位になるかと云ふところであるが、「李白一斗詩百篇」や「白髮三千丈」の國でないだけに、大きく見せた二萬といふ言葉も、それほど驚くべき感じを與へないやうに思ふ。

 西鶴の『胸算用』に橙のはずれ年があつて、一つ四五分づつの賣買であつた爲、九年母を代用品にして埒を明けた、といふ話が出てゐる。これを二萬籠の方に持込めば、又一つ數學の問題が殖えるわけであるが、それは吾々の領分ではない。二萬籠の檀の量は、常人の想像以上に屬する。この數字は文學的形容として、なるべく輕く見なければならぬが、元祿の句としては稍〻奇道を行くものといふべきであらう。

[やぶちゃん注:「舟泉」永田舟泉(ながたしゅうせん 元禄一四(一七〇一)年~元文二(一七三七)年)は尾張名古屋の人。三河挙母(ころも)(現在の豊田市挙母町(ころもちょう))生まれ。通称は六兵衛。貞亨四(一六八七)年に蕉門に入った。「あら野」・「曠野後集」などに入句している。]

 

   わか水やよべより井桁越せる音 孚 先

 

 年立つ朝の水はどこでも若水とへえるが、この井戶はまた格別である。溢れやまぬ水は絕えず井桁を越して外へ落ちる。持越した去年の水は溢れ盡して、眞に新なる水ばかりを湛へてゐるやうな氣がする。

 井は水の豐なるよりめでたきはない。井桁をこぼれる水の上に、しづかに元朝の光のゆらぐ樣を思へば、自ら爽快の感を禁じ得ぬものがある。

 

  廊に蓬萊重きあゆみかな 友 靜

 

「廊」は「ワタドノ」或は「ホソドノ」とでも讀むのであらうか。蓬萊と云へば飾つてあるところの句が多いのに、これは運ぶ揚合であるのが珍しく思はれる。蓬萊を大事に捧げて、長い廊下をしづしづと步く人の姿が眼に浮んで來る。「蓬萊重きあゆみ」というだけで、運ぶ樣子を髣髴せしめるのは、技巧といふよりも寧ろ眞實の力であらう。

[やぶちゃん注:「友靜」井狩友静(生没年未詳)は京生まれで、芭蕉の師北村季吟の門人。通称は二郎兵衛。後に菅野谷高政(すがのやたかまさ)の門人ともなった。]

 

     八  日

   薺粥またたかせけり二日醉 洗 古

 

 七種の日に飮み過ぎて、宿醒未ださめやらぬ結果、薺粥をもう一度炊くことを家人に命じた、といふのである。七日のものときまつてゐる薺粥を、翌日にまた炊かせたといふところに、破格というのも少し大袈裟であるが、一種の面白味がある。

 かつて西鶴輪講の時、『一代男』の「衞士の燒火は薄鍋に燃て、ざつと水雜水をとこのみしは、下戶のしらぬ事成べし」といふのが問題になつて、いろいろ說の出たことがあつた。三馬は『式亭雜記』の中で「世にいふ水雜炊は湯澤山の菜粥にて雜炊の名むなし」といつて、味噌入雜炊の作り方を述べてゐるが、山﨑樂堂氏はこれに對して、酒後の腹直しには味噌氣の無い、鹽味一つの淡泊なのが最もいゝ、と云はれた。水雜炊と薺粥とを一緖にするのは少し妙だけれども、この筆法を以てすれば、薺粥にも似たやうな效能があるのかも知れぬ。盃中の趣を解せぬ吾々は宿醉の對策も亦不案内である。酒徒の示敎を俟つより外は無い。

 

   七種や茶漬に直す家ならひ 朱 拙

 

 この句も七種の句としては破格の部であろう。薺粥といふものがあまり口に合はないので、その後で茶漬を食ふの意かと想像する。「直す」といふのが十分にわからぬが、「口直し」などとといふ言葉もあるから、便宜上さう解して見たのである。儀式的に薺粥を食べて、あとは直ぐさつぱりした茶漬にする。嗜好から出發した家例で、每年それを繰返すといふのではなからうか。

 或は七種の粥を全然やめてしまつて、茶漬を食ふ家例に改めたといふ「直す」かとも思ふが、それではどこか落著かぬやうである。宿醉の爲に翌日再版を發行する人もあれば、當日のきまりすら略して茶漬にする人もある。一の薺粥について反對の傾向の窺はれるのが面白い。

[やぶちゃん注:「朱拙」坂本朱拙(明暦二(一六五六)年~享保一八(一七三三)年)。蕉門。]

 

   家々の懷ふかし松かざり 舟 泉

 

「懷」といつたのは作者の働きで、奧深い家の樣であろう。さういふ家がいくつも竝んでいるところらしい。奧深い家の門に松飾が立ててある樣とも、松飾もまた道路から引込んだあたりに立ててある樣とも解せられるが、先づ前の解に從ふべきものかと思ふ。大した句ではないが、松飾の或趣は現れてゐる。

 

   あら玉の文の返事やちらし書 方橋妻

 

 年始狀も印刷の端書と相場がきまつてしまふと甚だ殺風景である。以前には繪端書が大分あつて、その色彩だけでも春らしいものを感じさせたが、近年はそれも少くなつてしまつた。

 この句は元祿だから、勿論年賀端書などではない。作者が婦人である以上、返事をよこす人も婦人であろう。細くめでたい筆蹟で、散らし書に書いてある。いづれきまりきつた文句ではあらうが、何となくゆかしい感じがする。假名の稽古に疎い吾々の世界では、散らし書の文などはちょつと望むべくもない。

「あら玉」と云つただけで、直に新年の意味になる。必ずしも「新玉」という字を當てるからではない。枕詞などといふ約束を飛び踰えて、自由に活動するのは俳譜得意のところである。

 

   蓬萊に飾りならべん米俵 道 賢

 

 北枝が「元日や疊の上に米だはら」といふ句を詠んだ時、芭蕉は「さてさて感心不斜、神代のこともおもはるゝと云ける句の下にたゝん事かたく候、神代の句は守武神主身分相應に情の奇なる處御座候、俵は其元相應に姿の妙なる處有之候、別而歲旦歲暮不相應なるは名句にても感慨なきものに候、今天下第一の歲旦なるべしと京大津の作者も致稱美候」という手紙を送つて賞めた。疊の上の米俵は慥にめでたい感じがする。作者の境涯より生れたとすれば尙更であらう。

 道賢の句は北枝のと違つて、現在疊の上に米俵が置いてあるわけではない。この飾つてある蓬萊の側に米俵を置き竝べよう、といつたのである。別にいゝ句でもないが、何となく豐な感じがする。「蓬萊の山まつりせん老の春」といふ蕪村の句より、却つて親しく感ぜられるのは、やはり身分相應な爲かも知れない。

 

   山出しの町馴にけり門の松 釣 玄

 

「山出し」といふ言葉は、今では人間のことになつてしまつたが、元來は材木に使はれた言葉だといふ說を、どこかで聞いたおぼえがある。山から出したまゝの材木でも、町へ持つて來るには大分手數をかけなければ々らぬが、門松からば人工を要せぬ。全く山出しのまゝで直ぐ使用出來る。

 山から持つて來た松の木が、門に立てると町馴れた樣子に見える、といふだけのことらしい。山出しの人間が都會馴れて來た、という事實が引かけてあつたりすると、擬人的色彩が强くなるが、それは「山出し」を人間とのみ心得た現在の吾々の考かも知れない。

 句としてはつまらないけれども、「山出し」といふ言葉を考へる上には、一顧の價値なしとせぬであらう。

 

   遣羽子や子供に似せて親の前 定 依

 

 「老父を慰て」といふ前書がついている。さういふ意識の下に羽子をついて見せた、といふことになるらしい。

 ツネといふ婦人の句に「羽子をつく童部心に替りたし」といふのがある。昔の世の中ではなお更のことであらう。羽子板を手にしたところで、嬉々として遊ぶ子供に返ることは出來ない、あゝいふ心持に今一度なつて見たいといふのは人情であるが、定依の句は老父を慰める爲に、わざと子供のやうに羽子をついて見せるのである。「子供に似せて」といふところに、どうしても子供になりきれぬ氣持が窺はれる。

 羽子をついて老父を慰めるといふのは、愚に返つた老人を喜ばすだけの事か、更に何か意味があるのか、十分にわからない。例の老萊子をはじめ、孝子譚にはよく出る話であるが、孝の一點からのみこの句を見るのは不贊成である。

[やぶちゃん注:「老萊子」「らうらいし」と読む。生没年未詳の春秋時代の楚の賢人。世を避けて隠棲し、楚王の招きにも応じなかった。親に孝を尽くし、七十歳で、なお、五色の模様のある衣を着、嬰児の仕草(しぐさ)をして、親に歳を忘れさせ、喜ばせたとされる。]

 

   御代の春蟇も秀歌を仕れ 鷺 水

 

「いづれか歌をよまざりける」と古今集の序に書かれて以來、蛙に歌はつき物になつた。宗鑑の「手をついて歌申上る蛙かな」などといふ句も、蛙の樣子を擬人しただけのやうで、やはりちやんと古今集の序が利かせてあるから妙である。但同じ蛙の仲間でも蟇となると、風采が風采だけに、古來あまり歌よみの方には編入されてゐないらしい。この句はそこを覘つた[やぶちゃん注:「ねらつた」。]ので、歌を得[やぶちゃん注:思うに、これは呼応の不可能の副詞「え」への当て字であろうと推定する。]詠むまじき蟇も秀歌を仕れ、といつたのである。そこに俳諧一流の轉化がある。昔の新年は今と違ふにしたところで、蟇がのそのそ步くにはまだ寒過ぎるが、「御代の春」に蟇を持出したのは、一の奇想たるを失はぬ。

 

   元日や一の祕藏の無分別 木 因

 

 妙な句を持出した。

『本朝文鑑』の中に「影法師對」という文章があつて、冒頭に「老の暮鏡の中に又ひとり」の句を置き、最後をこの句で結んである。歲暮にはじまり元旦で終るので、囘文格だなどと支考は理窟を云つてゐるが、俳文の格などはどうでもいゝ。「影法師對」の内容は近頃の人も時々やる形影問答である。「白髮を淸めて元日を待所に、汝何人なれば我が白櫻下に來り、我と對して座せるや」というに筆を起して、此方が何か云ふと、向うも何か云ふ。「我いかれば彼いかり、我笑へば彼笑ふ。此公事は漢の棠陰比事にも見えず、倭の板倉殿の捌にも聞えず。爰に我ひとつの發明あり。實に我紋は左巴なり、汝が著せしは右巴なりといはれて、終に此論みてたり」――左巴と右巴で埒が明くなどは、形影問答としても簡單過ぎるやうであるが、作者は更に數行を加へてゐる。卽ち「我また我心を責て曰、一論に勝ほこりて、是を智なりと思へるや。その所詮を見るに、たゞ唇に骨をらせ、意識をあからせたるまで也。いでや隱士の境界は世間の理屈を外に置て、内に無盡の寶あり、その寶は」とあつて「元日や」の句があるのである。

 この句を解するのに、右の形影問答はそれほど必要とも思はれぬが、「世間の理屈を外に置て、内に無盡の寶あり」の一句は頗る注目に値する。こゝに云ふ「無分別」は今の所謂無分別ではない。濱田珍碩が洒落堂の戒旛[やぶちゃん注:「かいへん/かいばん」は身の戒めとする文を書いてある旗、又は、幟(のぼり)」で「戒幡」とも書く。]に「分別の門内に入るをゆるさず」と書いたのと同じ意味である。風雅の骨髓は世間の理窟の外にある。今の無分別と紛れぬやうに言ひ換へれば、分別を離れたところに風雅の天地がある、といふことになるのであらう。木因はこの無分別を以て「無盡の寶」とし、句に於ても「一の祕藏の無分別」と繰返してゐる。元日の朝だけ分別を離れてゐるのなら格別のことも無い。平生この心を一の祕藏としてゐることを、今更の如く元日に當つて省るのである。吾々も木因のこの寶に敬意を表せざるを得ない。

[やぶちゃん注:「木因」谷木因(たにぼくいん 正保三(一六四六)年~享保一〇(一七二五)年)芭蕉の友人で俳人。美濃国生まれ。家は、代々、大垣の船問屋であった。初め、芭蕉の師季吟に学び、貞門・談林を経て、蕉門に帰し、大垣蕉門の中心となって活躍した。]

 

   三方の海老の赤みや初日影 昌 房

 

 三方の上に飾つてある海老の赤い色に、うらうらと初日の影がさして來る、といふ風に限定して考えないでも、初日の光がさし上るといふことと、三方の上の海老の赤いのとを、新春の景象として受取ればいゝのである。ありふれた材料ではあるが、そのありふれたところに又新年らしい感じがある。たゞ「赤み」といふ言葉は、普通にはもう少し色彩の薄い場合――少くとも海老ほど眞赤でない場合に用ゐられるものかと思ふけれども、或は吾々だけの感じかも知れぬ。

[やぶちゃん注:磯田昌房(しょうぼう 生没年不詳)。元禄二(一六八九)年に入門した膳所蕉門の一人。通称は茶屋与次兵衛。]

 

   萬歲のゑぼし取たるはなしかな   小 春

 

 萬歲同士であるか、他の人を相手に話すのか、それはいづれでも差支無い。萬歲が烏帽子を取つて話をしつゝある。衣裳はそのまゝで、鳥帽子が無いといふところが作者の興味を惹いたのである。

 特に新春らしい背景も何も描かずに、烏帽子を取つた萬歲が誰かと話してゐる、といふ變つた場合を捉へた。そこにちよつと人の意表に出た面白味がある。

 

   雜煮ぞと引おこされし旅寢かな 路 通

 

「備後の靹にて」という前書がある。旅中の氣樂さは元日といえども悠々と朝寢をしてゐる。もう御雜煮が出來ましたから御起き下さい、と云はれて漸く起出すところである。ものに拘束されぬ旅中の元日、殊に路通のような漂泊的人物の元日を如實に見るやうな氣がする。

 一茶に「船が著て候とはぐふとんかな」といふ句がある。同じやうなところを覘つたものであるが、路通の方が元日だけに、いろいろな連想が浮ぶやうである。恐らく悠々と寢過して、去年今年の分別も無いところから、宿の者が堪りかねて起しに來たものであらう。「引おこされし」の一語がよくこれを現してゐる。

 

   門松や黑き格子の一つゞき 呂 風

 

 あまり大きくない家が竝んでゐるやうなところであらう。裏町ではないかも知れぬが、道幅なども廣くない光景が目に浮ぶ。そこに在る一連の格子が黑いといふのは、固より塗つたものでもなければ、用材の關係でもない。年を經たその住ひと共に黑光を生じたので、古い方の感じが主になつているものと思ふ。從つてこの黑は漆とか、墨とかいふやうな種類の色彩ではない、もう少し感じの側[やぶちゃん注:「がは」。]に屬する黑である。

 さういふ古びた、小さい家竝が一齊に門松を立ててゐる。一陽來復の氣は自らそこに溢れているが、この句の中心をなすものは全く古びた格子である。鏝も人目を惹かぬ筈のものが、門松を配するに及んで却つて人の目につく。そこに正月があり、俳句らしい世界がある。堂々たる大きな門構でなければ、正月らしく感ぜぬ人たちは、かういふ句のめでたさとは竟に沒交涉であるかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「呂風」蕉門。安房勝山(現在の鋸南町)の人。]

 

   萬歲に蝶々とまれたびら雪 左 次

 

 昔の正月は今ほど寒くはないにしても、本當の蝶が飛出すには少々早過ぎる。この句は雪のひらひらと舞い散る樣を、蝶々に見立てたものと思はれる。「たびら雪」は雪片の大なるものだから、この見立には適當なわけである。

 萬歲が袖を飜して舞ふ。折から翻々と散るたびら雪を蝶と見て、萬歲の上にとまれと云つたのであらう。吾々の子供の時分の唱歌にも「蝶々蝶々、菜の葉にとまれ」といふのがあつたが、昔にも何かさういふ唄がありさうな氣がする。雪片そのものの形容を省いて、直に「蝶々とまれ」と云つてのけたところにこの句の特色がある。萬歲の句として一風變つたものであらう。

 

   母親や薺賣子に見えがくれ 鼠 彈

 

「はるの野をふご手にうけて行賤のたゞなとやらんものあはれ也とは慈鎭の言なり」といふ前書がついてゐるが、この句を解する上に、それほど必要なものとも思はれぬ。本によつては「薺賣子に母親や見えがくれ」ともなつてゐる。句としては「母親や」と眞先に置くよりも、「薺賣子に母親や」とした方がいゝやうであり、作者が後に改めたものかと思ふが、句意の上には格別の相違は無い。(賣子はウリコでなしにウルコと讀むのである)

 子供が正月の薺賣に出る。まだいとけない子であるか、あるいは今年はじめて賣りに出るとかいうやうな場合で、子供は一人で大丈夫だと云つて出かけたが、母親は何となく心許なく思つて、見え隱れにあとからついて行く、といふのであらう。一面母の愛といふ人情に立脚していると共に、他の一面に於て、その場限りで濟まぬものを持つてゐる。元祿期の句としては、いささか單純ならざる種類に屬する。

[やぶちゃん注:「鼠彈」(そだん 生没年未詳)尾張名古屋浄土寺の僧侶。「あら野」・「あら野後集」・「其袋」などに入句している。]

 

   藏開き順に入るゝや孫息子 夕 兆

 

 藏を持たぬ吾々に取つて、藏開という季題はあま旦父涉が無い。子供の時分には鏡餠を割つて汁粉にする日を藏開といふのだと、漫然心得ていたこともあつた。

 藏開の句は古來どの位あるか、殆ど記億に存するものが無いが、この句はまがふ方なき藏開である。いづれ富貴繁昌の大店であらう。藏開の目には一家の者を藏に入れる慣例でもあると見えて、家格の順か、年齡順かによつて順々に孫の男の子を藏へ入れる。金銀の氣が直に眉宇に迫つて來るやうな氣がするのは、必ずしも吾々が藏を持たぬ爲ばかりではあるまい。

「孫息子」といふのは、孫及息子の意味に解されぬこともないが、「孫娘」などといふ言葉の例もあるから、孫の男の子と解した方がよくはないかと思ふ。大勢の孫どもが相次いで藏に入る。大黑頭巾でも被つた隱居がにこにこしながら、それを眺めてゐる。西鶴の『永代藏』にでもありさうな、めでたい展開である。

[やぶちゃん注:「夕兆」(せきちょう)は元禄期の浪化上人の築いた井波俳壇の一人。]

 

   元日やずいと延たる木々の枝 芙 雀

 

 たゞ眼前の景色である。上天氣の元日であらう。しすかな空へ木々の枝が手をさし出すやうに、ずつとのびてゐる。別に元日らしいこともない景色のようであるが、すくよかにのびた木々の枝の感じと、希望の多い年頭の氣分との間には、何らか繫るものがあるやうに思はれる。

 昔の元日のことだから、冬の中にある今の正月と違つて、一陽來復の氣が行渡つて居り、木木の枝の伸び方にも著しく目に立つものがあるかも知れぬ。併し「ずいと延たる」は元日になつて俄に延びたのではない。已に伸びた枝に目をとめたのである。その伸びた枝に或よろこびを感ずるのは、元日の氣分が然らしめたものであるにしても、作者は特にそれを强調しようとしてゐない。そこに元祿の句らしい自然の趣がある。

 版で刷つたやうな、おめでたい普通の元日の句より、こうした句に眞のめでたさはあるとも云ひ得るであらう。

[やぶちゃん注:「芙雀」永田芙雀(ながたふじゃく 生没年未詳)は大坂の人。槐本之道(えもとしどう)に学び、蕉門に属した。作品は「蕉門名家句集」に収められている。編著に元禄一二(一六九九)年刊の「鳥驚」(とりおどし)、その三年後の「駒掫」(こまざらえ)がある。通称は堺屋弥太郎。]

 

   靑竹の神々しさよえ方棚 遲 望

 

 惠方といふものは每年干支によつて異る。その方に向つて高く棚を張り、葦索[やぶちゃん注:「ゐさく」。葦(あし)を綯(な)って作った綱。東北の鬼門に神荼(しんと)と鬱塁(うつりつ)の二神があり、悪鬼を捕まえる際、この綱を用いて捕え、虎に食わせると言われる。元旦に門にかけて、魔よけ・邪気払いにする。]を飾り、松竹を立て、供物竝に燈火を獻じて之を祭るのを年德棚[やぶちゃん注:「としとくだな」。]といひ、又惠方棚ともいふと歲時記に書いてある。その惠方棚の中で、眞新しい靑竹の色が神々しく作者の眼に映じた。その印象を直に一句としたのである。

 靑竹の色ほど鮮麗なすがすがしい感じのものは少い。路傍の建仁寺垣が新に結ひへられた時などは、實際目のさめるやうな感じがする。一時トタン塀を建仁寺まがひに作つて、靑いぺンキで竹らしく見せようとしたものがあつたが、芝居の書割以上に俗惡であるのみならず、色彩の一點から云つても、人工の天然に及ばざることを暴露するに過ぎなかつた。あゝいふ塀の中に住んだのでは、孔雀の羽で身を飾らうとする鴉を嗤ふわけには行かない。

「古寺の簀子も靑し冬かまへ」という凡兆の句は、新に仕替へられた簀子の靑さを捉へたので、背景がもの寂びた古寺だけに、靑竹の效果も極めて顯著であるが、惠方棚の靑竹も、淨らかな燈火、供物その他に對して又別個の趣を發揮している。作者の靑竹から受けた印象が、そのまま讀者の前に現れて來るやうに思ふ。

 

   七草や多賀の杓子のあら削り 龜 洞

 

「多賀の杓子」といふのは、江州の多賀社から御守に出す杓子のことであらう。柳亭種彥は昔の杓子の柄はいたく曲つていたものだといふ考證をして、「尤の草紙」のまがれる物品々の段に「大工のかねや、藏のかぎ、檜物屋の仕事、なべのつる、おたがじやく」とあるのを引き、蛙の子を「お玉じやくし」といふのは「おたが杓子」の誤だと云つてゐる。柄の曲つた杓子の古風を最後まで存してゐたのが多賀の杓子で、蛙の子が水中で尾をうねうねする樣が、その形に似てゐるから名づけたものに相違無い、といふのである。おたが杓子か、お玉杓子かなどと云ひ出すと、何だか外郞賣の臺詞のやうになつて來て、甚だ事面倒だから、そんな問題は春永の節に讓つてよろしい。杓子の柄の曲直もそれほど重大視する必要は無いが、種彥が『玉海集』から引いた

    ゆがみなりにも壽命ながかれ

   手づよさはお多賀杓子の荒けづり 正 式

という俳諧は、參考に擧げて置いた方がよささうである。種彥の說によれば、多賀の杓子の柄が曲つてゐたのは百餘年前までだといふ。百餘年といふ數はいさゝか漠然としてゐるから、龜洞の句もいづれに屬するかわからぬが、「お多賀杓子の荒けづり」は已に先縱があるわけである。但正式の句が多賀杓子の說明を脫し得ぬに反し、龜洞の方は慥に或空氣を描き出してゐる。勿論この杓子がどういふ役割をつとめるのか、この句の表からは明にしにくいけれども、七草という簡素な、明るい新年の行事と、荒削りな多賀の杓子とは、趣の上に於てぴたりと合ふものがある。多賀の杓子が壽命の御守であるに至つては尙更であらう。句もまた荒削りで頗る工合がいゝ。

[やぶちゃん注:「龜洞」(きどう 生没年未詳)は尾張蕉門の一人。

「江州の多賀社」多賀大社(グーグル・マップ・データ)。

「正式」池田正式 (まさのり 生没年未詳)は江戸前期の俳人。貞徳門下の武士。通称は十郎右衛門。早くから京都で和漢の学を修め、寛永八(一六三一)年、播州姫路本多政勝に仕官、寛永十六年、主君の転封に従って、大和国郡山に移ったが、家中の内紛と病弱に悩み、浪人して奈良に移住したが、寛文末年(寛文は一三(一六七三)年まで)頃、自害したと伝える。著書は「毛吹草」を難じた書「郡山」や「土佐日記講注」「堀河狂歌集」等がある文人でもあった。]

 

   晝過にゝきて見たる薺かな 不 玉

 

 前の句が少し面倒だつたから、今度は思ひきつて簡單なのを持出す。薺をたゝくのは「唐土の鳥が日本の國へ渡らぬ先に」だから、どこでも早きを競ふ中に、これは晝過になつて敲いて見たといつて澄してゐる。或は晝頃になつて起出す我黨の士かも知れぬ。さういふ無性者でも行事の薺だけは敲いて見る。これも亦太平の姿である。

[やぶちゃん注:「不玉」伊東不玉(いとうふぎょく 慶安元(一六四八)年~元禄一〇(一六九七)年)は江戸前期の俳人で、出羽酒田の医師。名は玄順。俳諧を大淀三千風に学んだが、元禄二(一六八九)年、「奥の細道」の旅の途中の芭蕉を迎えて、入門した。各務支考らと交わり、酒田俳壇の基礎を築いた。編著に「継尾集」「葛の松原」などがある。]

 

   元朝にはくべき物や藁草履 風 國

 

 一夜明けて元日になつた氣分は、一口に云へば淸淨、簡素である。華麗だの、豪奢だのといふ種類のものは、どう考へても元日氣分と調和しないやうに思ふ。正月用の調度なり食物なりが淸淨、簡素の妙を示してゐるのは、一歲の始に當つて節儉を旨とするやうな、理窟を含んだ意味からだけではない。手の込んだ、きらびやかな種類のものでは、年が改つたばかりの氣分に合致せぬからであらう。

 藁草履は穿物の中の簡素なものである。末だ一度も人の足に觸れぬ新しい草履なら、極めて淸淨でもある。元日氣分と調和する點から云へば、革の沓や塗木履の比ではない。淸らかな神域の砂を蹈むやうな場合、新しい藁草履は他の何よりも處を得た穿物でなければならぬ。作者は背景となるべき場所も描かず、現在藁草履を穿いてゐる樣も敍べず、藁草履の新なことにも言及せず、ただ「元朝にはくべき物や」といふ風に語を下し來つた爲、稍〻觀念的に墮した嫌はあるけれども、元日に藁草履を捉へた著眼は決して捨つべきではない。憾むらくは元日氣分との調和にとどまつて、藁草履の趣があまり發揮されてゐないことである。

 

   參宮の小幡どまりや明の春 里 東

 

 小幡といふ地名は方々にあつて、どこを指したものか、はつきりわからない。尾張の東春日戶井郡にもあれば、近江の神崎郡にもある。伊勢の三重郡には大治田と書いて「オバタ」と讀む地名があつて、一に小幡にも作る。二條院讚岐の知行だつた時代、富田基度の爲に押領されたのを、鎌倉に愁訴して舊に復したなどといふ由來も傳へられてゐる。更に伊勢の度會郡には小俣といふ村があつて、「オバタ」と讀む。宮川の西岸で、宇治山田とは橋一つ隔てているだけだとある。作者は膳所の人だから、どれが一番適當かわからぬが、參宮の因[やぶちゃん注:「ちなみ」。]を以て見れば、あるいは最後のそれを擧ぐべきであらうか。ヲバタと發音する爲に、俣を幡に誤つたものと見れば、地理上の面倒はなささうである。

 今日のやうに夜東京を發して、翌朝神路山を拜し得る便利な時世ではない。幾日幾夜の旅を續けて小俣まで辿り著いたら、その年は暮れてしまつた。眼が覺めて見れば元日である。身も心もすがすがしくなつて、今日は内宮外宮を拜さうといふ。小俣に泊つて新年を迎へたところがこの句の眼目である。或はかねて元日に兩宮を拜むつもりで、大晦日に小俣に著くやうに計畫したのかも知れない。元日參宮といふことに就ては、今と昔でいろいろ事情の異るものもあらうが、めでたく長き年の初である點は同じであらう。

 但以上は小幡を小俣として解したのである。小幡が他の土地であるとすれば、右の解釋は抛棄[やぶちゃん注:「はうき」。放棄に同じ。]しなければならぬ。「小幡どまり」といふことが、めでたい參宮の春の感じを損はぬ限り、必ずしも小俣を固執するわけではない。

[やぶちゃん注:「里東」(りとう 生没年未詳)蕉門。膳所の人。「花摘」に入集しており、芭蕉宛書簡一通が残る。

「伊勢の度會郡」「小俣といふ村」現在の伊勢市小俣町元町(おばたちょうもとまち)附近(グーグル・マップ・データ)。

「神路山」(かみじやま)は三重県伊勢市宇治にある山域で、南方面から伊勢神宮の内宮へ流れる五十鈴川上流域の流域の総称。当該ウィキ写真が最も判り易い。]

 

   七種や八百屋が帳のつけはじめ 汶 村

 

 新年も松の内位までは、めでたく平穩な目が續く上に、いろいろ暮にとゝのへた物があつて、庖厨に事を缺かぬ。七日に至つてはじめて八百屋に用が出來るのは、七種粥の關係もあるが、この日あたりを境界として、漸く平生の生活に還らうとする爲であらう。八百屋の帳面にもはじめて記載事項が出て來る。つい二、三年前まで、吾々もかういふ感じを繰返してゐたのであつた。

「八百屋が帳のつけはじめ」は瑣事中の瑣事である。かういふ事柄を捉へながら、さのみ俗に墮せず、のんびりした趣を失はぬのは、元祿の句の及びがたい所以である。

 

2024/03/28

譚 海 卷之十三 京大坂雅會厨下の物語の事 客來給仕人を用ざる仕やうの事 市中書齋かまへ樣の事 土藏板敷の事 瓦に草を生ぜざる方の事 湯殿かまへ樣の事 庭に池を掘べき事 あかり障子こしらへやうの事 雨戶の事 炬燵の事 雪隱こしらへやうの事 家に南北に口有べき事

○京・大坂にて、豪富のもの、朝夕、親友の閑話往來は、僕從を勞する事、なし。

 別室に招侍の座敷を拵へ、戶棚・肩下の具、殘らず備置(そなへおき)、其日、くふべき魚・鳥・菜(さい)・羹(あつもの)の品を調味し、器物に、たくはへ、酒醬油の類(たぐひ)までを收置(をさめおき)て、客を引(ひき)て、室(へや)に入(いり)、主客ともに、手づから、煮やきをして、心ゆくまで、うちくひ、閑話する也。

 室中に爐を開(ひらき)て、用に適する、と云へり。

 

○座敷に、平生、亭主、坐する所の壁に近よせて、敷居より、五、六寸、高く、二枚、ふずま[やぶちゃん注:ママ。]を拵へおけば、親友、來りて話するにも、家僕を勞する事、なし。茶・たばこぼんをも、次の間まで、人、持來(きたり)て、あなたより、小ぶすまを開(あけ)て、さし出(いだ)す。亭主、請取(うけとり)、客に供するに、便宜、よし。膳部を、此ふすまより出(いだ)べし。主客の閑話を、さまたげずして、大(おほい)に雅趣を助(たすく)る事也。

 

○市中の狹き住居には、座敷の隅に、六尺に三尺の張出(はりだ)しを造(つくり)て、疊、壹でう[やぶちゃん注:ママ。「でふ」が正しい。]分(ぶん)を書齋として、机・書籍などを置(おく)べし。俗人、來(きた)るときは、則(すなはち)、屛風にて、書齋を、おほひ隱(かく)せば、常の座敷のやうに成(なる)なり。白眼(はくがん)の側目(そばめ)を免(まぬか)るベし。

 

○土藏の床板は、殘らず格子にすべし。入梅の節に至らば、疊を、のけて、格子より、風を通ずるやうにすべし。

 

○土藏の瓦の際(きは)に、草を生ぜぬやうするには、瓦を置(おく)時、家根の土に、「あらめ」を切(きり)まぜて、瓦の下に置(おく)ときは、皆、鹽氣(しほけ)にて、草を生ずる事、なし。

[やぶちゃん注:「あらめ」不等毛植物門褐藻綱コンブ目レッソニア科 Lessoniaceae アラメ(荒布)属アラメ Eisenia bicyclis 。私のブログの「大和本草卷之八 草之四 海藻類 / 海帶 (アラメ)」を、サイトが見られるなら、「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類 寺島良安」の「海帶(あらめ)」の項を参照されたい。海藻類を、恐らくは一種の強靭な「つなぎ」としたものと私は思うが、幾つかの古文献に見られる。]

 

○湯殿は、板敷を用ひず、「たゝき」にすべし。長く損ずる事なく、且(かつ)、板敷(いたじき)を取(とり)かふる費(つひへ)を、はぶく。湯に入終(いりをは)りて、風呂袖桶を、かたむけ、風を通すにも、能(よく)有(あり)。湯をつかふ時は、「たゝき」の上に、三尺四方ばかりの格子を置(おき)て、その上にて、つかふ也。

 

○庭に、閑地(あきち)あらば、池を掘(ほる)べし。急火(きふくわ)のときに、物をなげ入(いれ)て立退(たちのく)べし。

 

○障子の「こし」は、半紙にて張(はる)やうに、こしらふべし。半紙は、座右の紙ゆゑ、「せうじ」の破れ、つくろふにも、用を辨じやすし。

 

○椽(えん)のある家も、戶をば、内雨戶(うちあまど)に造るべし。椽の外へ、雨戶をつくる時は、椽の板のすきより、風、吹入(ふきいり)て、冬は、殊に寒し。

 

○火達(こたつ)は、少し、勝手よからずとも、無用の所に拵ふべし。火にあたるは、大てい、夜陰ばかりの物なれば、無用の所にありても、さのみ、不自由には、なきもの也。勝手よき所に、こしらふれば、客來の時に妨(さまたげ)になりて、あしし。

 

○雪隱(せつちん)は、狹き方(はう)、勝手に、よろし。大きく造らば、まへに橫木を渡して、よりかゝるやうにすべし。あやまりても、ふみ落(おつる事、なし。掃除口[やぶちゃん注:便槽の汲み取り口。]は、三尺四方ばかりの、戶ひらきに造りて、内より、かけがねを付(つく)べし。掃除のときは、戶をひらき置(おき)て、「ひさく」[やぶちゃん注:「柄杓」。]をつかふに、つかへる事、なくして、よし。

 

○家は、かならず、南北に、口、なくしては、冬・夏、暴雨のとき、家の内、くらし。南ばかりの口ならば、北には窻(まど)なりとも、設(まうく)べし。

譚 海 卷之十三 土藏戶前へさや板こしらへやうの事

○土藏の戶前の「したみ」は、半(なかば)より下(さがる)る程に造るべし。上のかたは「したみ」なくても、人、さわる事なければ、無用也。「したみ」半分に拵らゆる時、かけはづしにも便宜也。

[やぶちゃん注:「下見」前の二番目の本文内に注済み。]

譚 海 卷之十三 室形作り家作よろしき事 夏月小屋に涼氣を生ずる事 火事の節疊出すやう取仕舞べきやうの事

[やぶちゃん注:底本の「目錄」では本文と順序に異同があるので順列を修正した。「室形作り」は「むろがたづくり」と読んでおく。なお、「目錄」では「夏月小屋に涼氣を生ずる事」の後に「火事の節疊出すやう取仕舞べきやうの事」とあるが、これは既に「譚海 卷之十二 火事用心の事」があり、ダブりと言わざるを得ない。

 

○二階造りの家は、必(かならず)、室形(むろがた)に建(たつ)べし。暴風雨にも、ただよふ事、なし。

 土藏は、別(べつし)て、室形にすべし。たとひ、土藏、ゆるみ、藏(くら)、かたぶきても、壁、破(やぶる)る事、なし。

 常の「うし」を上(あげ)たる「屋(や)ね」は、土藏、くつろぐ時は、壁の、わるゝのみにあらず、「うし」へ、もたせ造(つくり)たる木、はづれて、くつがへり、たふるゝあやまち、あり。

[やぶちゃん注:「うし」不詳。建築会社の詳細な呼称を調べたが、出てこない。ただ、これは通常の「軒」の「端」の部分ではなかろうか。何故なら、屋根の軒部分の先端に出た鼻先を隠すために取りつけられた横板を「鼻隠し」(はなかくし)というからで、これを牛の鼻ととり、その「牛」のみで呼んだのではないかと思ったからである。]

 

○市中の家、建つゞきたる中(なか)は、暑月、炎氣にむされて、堪(たへ)がたし。ひあはひか[やぶちゃん注:底本には「か」の右に編者の補正注で、『(の)』とある。「ひあはひ」は「廂間・日間」で、「廂(ひさし)が両方から突き出ているところ・家と家との間の小路・日のあたらないところ」の意。]便宜よき所に、風穴(かざあな)を明(あけ)て、風を入(いる)べし。

 風穴の造りやうは、南か、東西にある壁へ、疊つら[やぶちゃん注:意味不明。]と同じ所に、四、五寸四方ほどの穴をあけ、壁の外、したみ[やぶちゃん注:「下見」。家の外部の壁を覆う横板張り。端を少しずつ重ね、縦に細い木を打って押さえる。]へ付(つけ)て、段々に、箱を、空へむけて、大きく造るべし。其箱より、風、吹入(ふきいり)て、穴より、吹出(ふきいだ)すゆゑ、家の内、自然に涼氣、有(あり)。

 たとへば、東の壁に穴を造れば、箱の口は、外にて南へ向ふように[やぶちゃん注:ママ。]すべし。西の壁に穴を造れば、箱の口、又、南へ向ひて、風を受(うけ)るやうにすべし。

 

○ある人、

「座敷の疊は、常のごとくに、こしらへ、居間より臺所をかけて、殘らず、疊三尺四方の床(ゆか)に、こしらへたり。火急のとき、婦人の仕舞(しまひ)にも、便宜、よし。」

と云(いへ)り。

譚 海 卷之十三 浮萍の養ひ方 梅と鰻は相敵なる事 玉子ふはふはの歌の事 鍋より物にあまらざる方の事 そば切製方の事 ひやむぎ製方の事 茄子たくはへやうの事 大根淺漬仕やうの事

[やぶちゃん注:二番目の「相敵」は「あひかたき」と訓じておく。]

 

○浮萍(うきくさ)は、大方、水氣(すいき)去らず。先(まづ)、鉢に水を、十分、いれ、上に竹管(ちくかん)を、かけ、其上に、ならべて、炎天に、ほすべし。

[やぶちゃん注:「浮萍」広義には、淡水域の水面に生育する単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ウキクサ亜科Lemnoideae或いはウキクサ属 Spirodela に属する種群を指し、狭義には同属ウキクサ Spirodela polyrhiza を指す。ウキクサ類は、タイをはじめとして東南アジアでは昔から一般的な食材として消費されてきており、中国では古くから薬用としている。私も幼少の頃、帰郷した母の実家の鹿児島の岩川で、食べた記憶がある(種は不明)。その時はヒシの実も採取して、私の生涯の内、最初に美味しいと思った食物であった。タイに旅行した際、藁苞に入れた真っ黒に焼いたヒシを見つけたが、若いとても優しい女性ガイドのチップチャン(タイ語で「蝶々」の意)さんが、「日本語ではこの植物はなんというのですか?」と聴かれて教えてあげたところ、その苞一本を自費で買って僕にプレゼントして呉れたのを忘れない。今も元気かなぁ? 私のタイの妖精チップチャン――]

 

○總て、梅の實を入(いれ)たる酒、其外、何にても、うなぎ、大敵(たいてき)なり。

[やぶちゃん注:所謂、奈良時代に始まり、近代まで民俗社会で信じられていた「食い合わせ」である。その殆んどは、科学的根拠に照らして根拠がないものが殆んどで、この知られた「鰻と梅干」は全く根拠がない。]

 

○「玉子ふはふは」の歌、

  玉七つ

  貝杓子(かひびしやく)にて

  だし二つ

  酒とせうゆうは

  一つににるなり

[やぶちゃん注:「せうゆう」はママ。「醬油」。]

 

○鍋釜にて、物をにるとき、物、多くして、にゑあがるときには、すり木(ぎ)を鍋のうへに釣(つる)べし、にえあがる事、なし。

[やぶちゃん注:「すり木」擂粉木(すりこぎ)であろうが、「釣」るという仕儀から、迷信の類いである。]

 

○そばを製するに、そば粉を、少し、湯に、くはへて、その湯にて、ねりかたむる時は、そば、つなぎ、よろしく出來(いでき)て、きれぎれに成(なる)事、なし。玉子、何にても、まぜ用ふに、及ばず。

 

○「ひやむぎ」を調合するには、「うどん」の粉、壹升に、鹽(しほ)を中かさに、六分、まぜるなり。

[やぶちゃん注:「中かさ」は「なかさ」の衍字か。私は「練っている中頃に」の意で採る。]

 

○茄子、疵なきを、えりて、「もみぬか」の内へ、玉子をたくはふるごとくに收置(をさめおく)時は、來春、取出(とりいだ)しても、取(とり)だてのごとし。

 

○大根、淺漬(あさづけ)にするには、大根五拾本に、鹽壹升五合・糀(かうじ)一枚を和して、漬置(つけお)けば、能(よく)鹽梅に出來(でき)る也。漬(つけ)てのち、五十日斗(ばか)りをへて、出(いだ)し用ゆべし。

譚 海 卷之十三 山掛豆腐の事 鮭魚粕漬仕やうの事 南天飯焚やうの事 小豆茶漬飯の事 からし菜酒肴につかふ樣事 飯すえざる心得の事 柳庫裏百人前辨當卽時に辨ずる事

○「芋かけどふふ」は、すりたる「いも」を、大根のしぼり汁にて、ときたるがよし。一品あるもの也。

 

○鮭を粕漬にするには、鮭を丸のまゝにて、「半ぎり」に、ひたし、鹽出(しほだ)しをする事、二日ほどへて、取出(とりいだ)し、よくよく、ぬぐひて、焚火(たきび)の上に掛置(かけおく)事、廿日ばかりにして、取(とり)おろし、「ふきん」にて、ぬぐひ、煤(すす)を取(とり)て、扨(さ)て、粕を、すり鉢にて、よく、すりやはらげて、鮭を切身にして漬(つけ)る事也。

○「靑梅飯(せいばいはん)」と云(いふ)は、もろこしにて、道士の、中元に製して送饋(さうき)[やぶちゃん注:贈答品。]するもの也。南天の葉を、すりくだき、その汁にて焚上(たきあげ)たる飯(めし)也。少しばかり、色、付(つき)て、赤く成(なる)もの也。

「精氣を益功ある。」

よし、云(いふ)。

[やぶちゃん注:「南天」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica

「精氣を益功ある」はママ。「を」は「に」の誤記・誤判読か。]

 

○小豆を煮あげて、丸のまゝにて飯へ少しかけ、燒鹽(やきじほ)を、少し、加へ、にばなの茶をかけて、かきまはして、くふ。菜には肴(さかな)一種、味噌の汁を用ふ。羽州秋田の俗、常に調ずる事也。

[やぶちゃん注:「にばなの茶」「煮端」で煮たばかりの茶の意か。]

 

○湯を、にゑ[やぶちゃん注:ママ。]かへらし、鹽を、よほど入(いれ)て、ひやし置(おき)、からし菜を切(きり)て、此湯にて器物(うつはもの)に漬(つけ)て、そのまゝかたく封じて、氣(かざ)をもらぬやうにして、翌朝より、開封して用ゆ。からしの匂ひ、殊に愛すべし、酒の肴に用(もちひ)て、すつる事を得ず。

[やぶちゃん注:「からし菜」アブラナ目アブラナ科アブラナ属セイヨウカラシナ変種カラシナ Brassica juncea var. cernua 。「芥子菜」「辛子菜」。日本への伝来は古く弥生時代ともされ、平安中期編纂になる「本草和名」や、源順の辞書「和名類聚鈔」に既に記載がある。]

 

○飯は少しやわらかに焚(たき)て、飯櫃の内へおしつけて、つめ、風にあてぬやうにしてをけば、暑中も、すえる事、なし。

 

○辨當庫裏[やぶちゃん注:底本では「庫裏」には右に編者による補正傍注があり、『(行李)』とある。これで納得出来た。]といふものは、雜人(ざうにん)[やぶちゃん注:「雜色(ぞうしき/ざつしき)」に同じ。貴顕の家や官司などに仕えて、雑役を勤めた卑賤の者の称。]の具に拵へたるもの也。急に、二、三百人の辨雷を調じ出(いだ)さんとする時は、此「こり」へ、米を一人何合と定め、はかり入(いれ)て、其まゝ「こり」を、いとにて、からげ、大釜の中へなげ入(いれ)、なげ入して、暫時、「こり」とともに、引出(ひきいだ)して、そのまゝ持行(もちゆく)事也。持行路次(ろし)の間(あひだ)に、この米、水、かはきて、くはんとするとき、ひらきて見れば、よき程成(なる)飯に成(なり)てある也。

譚 海 卷之十三 鰹にゑひたるをさます方の事 しゞみ土をさる事 鯛はんぺんの製法の事 鮹魚やはらかくにる事

○鰹にゑひたるには、枇杷(びは)の葉をかむべし。ゑひ、さむる也。

 

○蜆(しじみ)、數升、煮るには、餅ごめを、四、五粒、入(いれ)て、にるべし。しじみの身、一とつ、一とつ、離れて、鍋の底に、とゞまり、貝ばかり取(とり)て、すてらるゝやうに成(なる)也。

 扨、身ばかりを、ぬたあへにしても、くふべし。但(ただし)、餅米なきときは、もちを入(いれ)てにたるも、同じ功なり。

[やぶちゃん注:今度、やってみよう。]

 

○鯛を「はんぺん」にするには、鯛壹枚に、玉子五つ、長いも壹本、もちの三文(さんもんめ)どりほどなるを、二つ、まぜて作るべし。「はんぺん」、やはらかに出來る也。

[やぶちゃん注:「三文」これは「三文目(さんもんめ)」で、当時の一文銭の三文相当で、十一・二五グラム相当。]

 

○章魚(たこ)を煮て柔(やはらか)にするには、ゆの實(み)と、皮をまぜて、にるべし。やはらかに、にえる也。

[やぶちゃん注:「ゆの實」「柚の實」。ここはムクロジ目ミカン科ミカン属ユズ Citrus junos に同定してよかろう。]

譚 海 卷之十三 信州そば切の事 宵のそば切翌朝つかふ事 そば切滿腹の事

○信州、「冰(こほり)そば」といふ有(あり)。うちあげて、其國(そのくに)にて、冰らせたるもの也。用(もちひ)んとするとき、あつき湯をかけて、「ふた」ある物に入(いれ)、しばし置(おく)ときは、うであげたるそばのごとくになる也。

[やぶちゃん注:「冰そば」「氷蕎麥・凍蕎麥」。茹で上げた蕎麦を冷水に曝(さら)し、寒夜に凍結した後、約一ヶ月、乾燥させた蕎麦。長野県上水内郡(かみみのちぐん)柏原(かしわばら)地方(グーグル・マップ・データ)の名産。私は食べたことがない。]

 

○宵に拵へたるそばを、翌朝、くふ時は、そばを水能(すいのう)に入(いれ)て、そばへ、あつき茶を、二、三ばい、かけて、水能を、ぬり盆へ、のせ、同じものにて、ふたをして、しばらく置(おい)て用(もちふ)れば、昨日の調味に、まさるもの也。

[やぶちゃん注:「水能」「水囊」。濾(こ)し器の一種で、曲げ物の底部に、馬の尾の毛や金属などの細かい網を張ったもの。「裏ごし」に似るが、「すいのう」は網の側を下にして、出汁(だし)や煮汁・寒天液などを、濾したりするのに用いる。茹でた麺類を掬って、湯切りするのに用いる、卵形の網に長い柄の付いたものをいうこともあり、ここは後者。]

 

○蕎妄切にて滿腹せしには、「しぶ木」といふものを、少し、かむべし。立どころに、腹、へるなり。しぶ木、藥店(くすりみせ)に有(あり)。

[やぶちゃん注