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2025/01/21

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「愁訴」

 

 愁 訴

 

ああどんなに總べては遠く

また長く過ぎ去つたらう。

私は思ふ、

私が光をうける星は、

千年以來もう死んでゐる。

私は思ふ、

漕ぎ去つた小舟の中で、

何か氣づかはしい事を云つてゐるのをきいたと。

家の中で一つの時計が

鳴つた……

何處の家だらう……

私は私のこころから

大空の下に出たい。

私は祈りたい。

凡ての星の中の一つは

なほ本當になくてはならないのに。

私は知つてゐるやうに思ふ、

何の星がひとり

續いてゐたか、

どの星が白い町のやうに

九天の光の端に立つてゐるかを……

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「ものおぢ」

 

 ものおぢ

 

うら枯れた森に鳥の聲が一つ。

それはその枯れた森では無意味に見える。

その圓い鳥の聲は、

それを作つた瞬間の中に

大空のやうに廣く枯れた森の上に休む。

萬物は軟かいこの叫びの中に入り、

全地は總べて音なくその中に橫はるやうに見える。

大風もその中へたわみ入るやうだ。

さうして步み續けようとする分(ミニツツ)は、

何人もそれで死ななくてはならない

物を知つてるやうに、蒼ざめて、靜に、

その叫びから踏み出した。

 

[やぶちゃん注:「分(ミニツツ)」ドイツ語の時間・角度の単位である「分」はMinuteで、音写は「ミヌーテ」であるから、ここは、英語のminuteの音写「ミニッツ」を振ったのもの。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「最終の人」

 

 最終の人

 

私は父の家を持たない。

また失つたのでもない。

母は私を世の中へ產み放つた。

私は今世の中に立つてゐて、

いよいよ深く世の中へ入つて行く。

そして幸福を持ち、苦痛を持つ、

皆な一人で持つ。

でも私は種々の相續者だ。

私の種族は三つの分れとなつて

森の中の七つの城で榮えた、

そして紋章に飽きた。

年をとり過ぎたのだ。――

私に遺された物、私が古い所有にと

得るものには故鄕が無い。

私の兩手に、私の内奧に

私は死ぬまでそれを保つてゐなくてはならない。

何故といふと、私の置くものは

世の中ヘ

落ちこむから。

波の上へ置かれた

やうに。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「隣人」

 

 隣 人

 

知らない提琴よ、お前は私の跡を追ふのか。

 

幾つの遠い都會で、お前の寂しい夜が、

私の夜に話したらう。

 

お前を奏でるのは多數の人か、または一人か。

 

凡ての大きな都會には。

お前なしでは流の中に消えさうな

そんな人たちが住むのか。

 

そして何故いつも私に出逢ふのだらう。

 

何故私はいつも、

生活はあらゆる物の重みより重いと

臆病のお前を强ひて歌はせ、云はせる

人々の隣人とはなるだらう。

 

[やぶちゃん注:「提琴」バイオリンのこと。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「花嫁」

 

 花 嫁

 

私を呼んで下さい、戀人よ、私を聲高く呼んで下さい。

あなたの花嫁をこんなに長く窗際に立たせてはいけません。

篠懸のふるい並木に

夕暮は最う番をして居りません。

並木は空虛です。

 

あなたが來て私を夜の家に

あなたの聲で閉ぢ込めないと、

私は自分の兩手から自分を

暗碧色の花園ヘ

注ぎ出してしまひますよ……

 

[やぶちゃん注:「篠懸」これで「すずかけ」と読む。双子葉植物綱ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキPlatanus orientalis に同定して良いだろう。これは、同種の上位タクソンにあたるウィキの「プラタナス」(=スズカケノキ属 Platanus )のページにある、『スズカケノキ Platanus orientalis 』の項に、『主にヨーロッパの種類で、種小名 orientalis(オリエンタリス)は、原産地がトルコ、ペルシア、ギリシアなどだったことに由来する』とあったからである。なお、本邦の漢字表記では「鈴掛の木」ともするが、寧ろ、我々の方が、種としては誤って認識している可能性が比較的に強い。何故なら、ウィキの「スズカケノキ」には、スズカケノキは、『属の学名であるプラタナスと呼ばれることが多いが、日本で見かけるプラタナスは、本種よりもモミジバスズカケノキ』( Platanus × hispanica )『であることが多』く、『日本では街路樹として、モミジバスズカケノキが多く使われる』が、『モミジバスズカケノキは、スズカケノキとアメリカスズカケノキ』( Platanus occidentalis )『との雑種である』とあるからである。

2025/01/20

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 櫠椵

 

Yukou

 

ゆかう   鐳柚 香欒

      臭柚

櫠椵【廢賈】 【和名柚柑】

        【俗左牟須】

さんす

 

本綱柚大者謂朱欒最大者謂香欒爾雅謂之櫠椵

△按櫠椵柚屬也其樹葉花皆與柚無異實形色亦似柚

 而最大芳馥如乳柑其瓣味如橙而苦微酸蓋此兼柚

 柑橙之三也和名抄謂柚柑亦相兼之義乎

 

   *

 

ゆかう   鐳柚《らいいう》 香欒《かうらん》

      臭柚《しういう》

櫠椵【≪音≫「廢賈」】 【和名、「柚柑《ゆかう》」。】

        【俗、「左牟須《さんず》」。】

さんず

 

「本綱」に曰はく、『柚《いう》の大なる者を、「朱欒(まゆ)」と謂《いふ》。最《もつとも》大なる者を、「香欒」と謂ふ。「爾雅」に、之れを、「櫠椵《はいか》」と謂ふ。』≪と≫。

△按ずるに、櫠椵《ゆかう》は、柚《いう》の屬なり。其の樹・葉・花、皆、柚と異なること、無く、實の形・色も亦、柚に似て、最《もつとも》、大≪にして≫、芳馥《はうふく》、「乳柑(くねんぼ)」のごとく、其の瓣《なかご》、味、橙《だいだい》のごとくにして、苦《にがく》、微《やや》、酸《すつぱし》。蓋し、此れ、柚《ゆず》・柑(くねんぼ)・橙《だいだい》の三《みつ》を兼《かねる》≪物≫なり。「和名抄」に、「柚柑」と謂《いふ》も、亦、相《あひ》兼《かね》るの義か。

 

[やぶちゃん注:まず、問題は、「椵」という漢語である。まず、この「椵」では、「維基百科」・「拼音百科」・「百度百科」の孰れもヒットしない。そこで、「」と「椵」でやってみたが、「」は「百度百科」で「柚属」とあるだけだった(『「椴」の字注を見よ』とあったが、収穫無し)。「椵」は「拼音百科」と「百度百科」で同じ記載が載っていた。中国語の「柚子」=ザボン(タイプ種: Citrus maxima )類の一種とし、果実は鉢のように大きく、皮が厚く、食用になる、という情報のみであった。しかも、情報元は、総て、古書なのである。なお、「廣漢和辭典」では、『柚(ゆず)の一種』として、引用書は、「說文』や「爾雅」等を引く。

 実は、当初、私は、この「」は、良安の語っているのは、日本原産種である、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属ユコウ(柚柑・柚香) Citrus yuko 

ではないか? と思っていたのだが、当該ウィキを、よく見ると、『徳島県や高知県で古くから栽培され』、昭和五六(一九八一)年の『の大寒波以前には、徳島県内に推定』百五十『年を超える老樹が散在していた』とあるのが、俄然、引っ掛かった。当該年から百五十年前は、文政一三・天保元(一八三一)年であるからである。そこで、調べてみたところ、「東京財団政策研究所」公式サイト内のYoko Kurokawa氏の“The Yuko, a Native Japanese Citrus”という論文(同サイトの日本語で調べたが、邦訳版はなかった)に(機械翻訳に手を加えた)、『この果物の歴史ははっきりしていない。一説によると、ユコウはユズやザボンなどの他の種との自然交配から生まれたと言われている。ユコウは種子から自然に成長し多胚性であるか、または単一の種子から複数の苗木を生産することができ、単性生殖、つまり無性生殖を行う。今日では百年以上も経っているユコウの木が数多くあり、この種は十九世紀半ばまでに明確に存在していたと考えられている。』とあったからである。他に、『現在、ユコウは長崎市内の土井首(どいのくび)地区』(長崎湾の現在の長崎市のここの広域地名:グーグル・マップ・データ)『や外海(そとうみ)地区』(サイト「長崎市 外海地域センター」のこのページの地図を見られたい)『などに自生している。江戸時代』『には佐賀藩に属していたが』、二十『キロメートルほど離れており、ユコウは両地区で独自に発達したと考えられている。』『土井首地区の住宅の庭や畑では、文旦や夏みかんの木のそばにユコウの木が生えており、外海と同様、人々がユコウの実を収穫して食べ​​てきた。しかし、この木は地域の道路沿いにも生えているため、鳥が種をまき散らして』、『さまざまな場所で芽を出させた可能性もある。長崎は伝統的にキリスト教徒が多く、江戸時代には禁教令が出されていたが、この地はキリスト教徒と深い繋がりがある。フランス人宣教師マルク・マリー・ド・ロ』(Marc Marie de Rotz 一八四〇年~一九一四年:来日は慶応四(一八六八)年六月:当該ウィキによれば、『長崎県西彼杵郡』(にしそのぎぐん)『外海地方(現・長崎県長崎市外海地区)において、キリスト教宣教活動の傍ら、貧困に苦しむ人々のため』、『社会福祉活動に尽力した』とある)『が、この地域の貧しい村人たちの生活水準を向上させる手段として』、『ユコウの栽培を広めようとしたと考える人もいる』と、あった。則ち、良安の生きた時代には、ユコウは存在しなかったと考えざるを得ないのである。

 こうなると、ここに出る、本邦の最も古い「」を検証せざるを得なくなる。当該箇所は、「卷十七」・「菓蓏部」(くわらぶ:「菓」は木に生る実、「蓏」は(蔓)草に成る実)第二十六・「菓類第二百二十一」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの「倭名類聚鈔」(二十卷本・村上勘兵衞版元・寛文七(一六六七)年)の当該部を視認して、訓読した。

   *

椵(ゆかん) 「爾雅」注に云はく、『椵【「廃」「加」の二音。「漢語抄」に云はく、『柚柑』。】は、柚の属《たぐ》ひなり。』≪と≫。

   *

因みに、「ユカン」というのは、現行の和名では、キントラノオ目コミカンソウ科コミカンソウ属ユカン(油甘) Phyllanthus emblica であって、全くの異種を指すので、言い添えておく。当該ウィキによれば、『インドから東南アジアにかけての原産で熱帯・亜熱帯に栽培され、果実が食用となる』ものであるが、混乱を起こすだけなので、リンクさせるに留める。

 しかし、これでは、堂々巡りだ!

 そこで、「本草綱目」を見ると、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「柚」([075-38b]以下)であるが、その「釋名」と「集解」を示すと(一部の手を入れた。太字・下線は私が附した)、

   *

【音又日華】

 釋名【櫾【與柚同】條【爾雅】壺柑【唐本】臭橙【食性】朱欒【時珍曰柚色油然其狀如卣故名壺亦象形今人呼其黃而小者爲蜜筩正此意也其大者謂之朱欒亦取團欒之象最大者謂之香欒爾雅謂之音廢又曰音賈廣雅謂之鐳柚鐳亦壺也桂海志謂之臭柚皆一物但以大小古今方言稱呼不同耳

 集解【恭曰柚皮厚味甘不似橘皮薄味辛而其肉亦如橘有甘有酸酸者名壺柑今俗人謂橙爲柚非矣案吕氏春秋云果之美者江浦之橘雲夢之柚郭璞云柚出江南似橙而實酢大如橘禹貢云揚州包橘柚孔安國云小曰橘大曰柚皆爲柑也頌曰閩中嶺外江南皆有柚比橘黃白色而大襄唐間柚色青黃而實小其味皆酢皮厚不堪入藥時珍曰柚樹葉皆似橙其實有大小二種小者如柑如橙大者如瓜如升有圍及尺餘者亦橙之類也今人呼爲朱欒形色圓正都類柑橙但皮厚而粗其味甘其氣臭其瓣堅而惡不可食其花甚香南人種其核長成以接柑橘云甚良也蓋橙乃橘屬故其皮皺厚而香味而辛柚乃柑屬故其皮粗厚而臭味甘而辛如此分柚與橙橘自明矣郭璞云大柚也實大如盞皮厚二三寸子似枳食之少味范成大云廣南臭柚大如瓜可食其皮甚厚染墨打碑可代氊刷且不損紙也列子云吳越之間有木焉其名爲櫾碧樹而冬青實丹而味食其皮汁已憤厥之疾渡淮而北化而爲枳此言地氣之不同如此】

   *

良安の引用部は「釋名」の下線部だが、そこでは、「櫠椵」は「爾雅」別々に漢字表記され、「櫠」、また、「椵」と言うとあるのである。ただ、「爾雅」では「廣漢和辭典」では『櫠は、椵。』とあり、共に『柚の一種』とある。則ち、」と「椵」というのは、ある柚の二つの同一種を示す単漢語なのであり、「倭名類聚鈔」の誤りが、蜿蜒と江戸時代まで引き継がれてしまったのであった。

さて、今度は、私が下線を附した箇所を見られたい。これらから、

――私は、良安は、ありもしない「椵」を、恰も、実際に観察して、実も食べた――かのように――「本草綱目」の記載からテキトーに組み合わせて、

……「樹も葉も花を見て柚(ゆず)と異なる所はなく、実の形も色も柚に似ていて、その柚類の中でも、最も大きい」と言い、「その実の芳香は、『乳柑(くねんぼ)』のようで、其の実の果肉は、橙(だいだい)のようで、苦く、やや、酸っぱい。」とやらかし、「これは、まず、柚(ゆず)・柑(くねんぼ)・橙(だいだい)の三つを兼ねる果樹である。」と言い放った……

と、信じてやまないのである。なに? 「くねんぼ」? いやいや! この良安の「クネンボ」と言うのはね、先行する「乳柑」でもやらかしているように――良安お得意の勝手次第にルビを振っている「思い込み」仕儀――なのだ!(「柑」にも堂々と「くえんぼ」と振っとるけんね!)

決して、現行のミカン属マンダリンオレンジ品種クネンボ(九年母)Citrus reticulata 'Kunenbo'

ではないことは、そちらで『「くねんぼ」と、少なくとも、中国で古くに称する「乳柑」「乳橘」の二つは、それぞれ、微妙に異なった種を指していると言ってよいように思われる』と私見を述べてあるので、見られたい。

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「石像の歌」

 

 石像の歌

 

誰だ。樂しい生命を捨てる程、

私を愛するのは誰だ。

若し一人が私の爲めに海で溺れると、

私は再び石から解かれて、

生命に、生命に歸るのだ。

 

私はそれ程鳴り饒(めぐ)る血にあこがれる。

石はほんたうに靜かだ。

私は生命を夢みる、生命は好ましい。

私をば蘇生させる

勇氣を誰も持たないか。

 

あらゆる最美なものを與へる

生命さへ私が得れば――

―― ―― ―― ―― ―― ―― ――

さうしたら私はひとり、

泣くだらう。石に焦れて泣くだらう。

葡萄酒のやうに熟すとも、私の血が何の役に立たう。

私を最も愛したその一人を

海から呼戾すことは出來ない。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「少女」

 

 少 女

 

他の人々は長い路を

ほの暗い詩人の許へ行かなくてはならない。

人の歌ふのを、

絃の上に手を置くのを見なかつたかと、

常に誰かに問(き)かなくてはならない。

ただ少女ばかりは問(き)かない、

どの橋が形象に通ずるかとは。

白銀の皿につける眞珠の紐よりも

なほ明るく微笑むだけだ。

 

少女等の生活からは、どの扉も

詩人へ通ずる。

それから世界へ。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「少女の憂鬱」

 

 少女の憂鬱

 

古い格言のやうに、

若い騎士が思ひだされる。

 

騎士は來た。森の中では、折々あんなやうに

大嵐が來てお前を包む。

騎士は去つた。時あつて祈禱の最中に、

大きな鐘の祝福が……

あんなやうにお前をひとり殘してゆく。

そんな時お前は靜けさの中へ叫ばうとするが、

でも唯全く小聲に

冷たい手巾に深く泣き入る。

 

武裝をつけて遠くゆく

若い騎士が思ひだされる。

 

その微笑の軟かさ、こまやかさは、

ふるい象牙の上の輝きのやうだ、

懷鄕の憂のやうだ、うす暗い村落の

クリスマスの雪降りのやうだ、

眞珠のみに取圍まれる土耳古石のやうだ、

好もしい書物の上の

月の光のやうだ。

 

[やぶちゃん注:「手巾」同時代人の芥川龍之介(と言っても、茅野の方が九歳年上だが)の「手巾(ハンケチ)」(大正五(一九一六)年初出。茅野の、この詩集は昭和二(一九二七)年刊)に倣って、そう読んでおく。

「土耳古石」「トルコいし」。ドイツ語では、“Türkis”(音写「チャキーズ」)。当該ウィキによれば、『英語では turquoise (ターコイズ)と言い、フランス語の pierre turquoise (トルコの石)に由来する。』とあり、『純度の高いものは鮮やかな青色だが、不純物に鉄を含むと緑色に近くなる。青色のものほど上級とされるが、チベットでは緑色のトルコ石が珍重される』らしい。騎士の色なら、青だろう。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「形象篇」「第一卷」 「四月から」

 

 

   形 象 篇

 

 

   第 一 卷

 

 

 四月から

 

再び森はにほふ。

浮き漂ふ雲雀の群は、

我々の肩に重かつた空を持上げ、

木の枝を透かして人はなほ空虛だつた日を見たが、――

長い雨の午後の後に

 黃金に日の照らした

 新らしい時間が來る。

それを避けて逃げながら、遠い家並の前面の傷いた總べての窗は、

臆病に翼扉をはためかす。

 

やがてそれも靜まり、雨さヘ一層靜に

鋪石の穩かに暮れてゆく輝きの上を步き、

すべての騷音は、小枝にひかる

莟の中へすつかりもぐり込む。

 

[やぶちゃん注:「雲雀」ドイツ語の同種のウィキを見る限り、タイプ種であるスズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis で、よい。博物誌、及び、本邦の分布種は、私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり) (ヒバリ)」を見られたい。

「窗」は「窓」の異体字。

「翼扉」見かけない熟語だが、「よくひ」でよかろう。ここは、窓の外に両開きになる扉を指している。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 (我々の夢は大理石の兜、……:序詩)・(高臺にはなほ日ざしがある。……)・(これは私が自分を見出す時間だ。……)・(夕ぐれは私の書物。花緞子の、……)・(屢〻臆病に身震ひして、私は……)・(そして我々の最初の沈默はかうだ。……)・(しかし夕ぐれは重くなる。……)・(私は人間の言葉を恐れる。……)・(誰が私に言ひ得る。……) / 「舊詩集」~了

 

 

我々の夢は大理石の兜、

それを我々は御寺(みてら)に置き、

我々の花輪で明るくし、

我々の願で暖める。

 

我々の言葉は黃金の胸像、

それを我々は我々の日に運び入れる、――

いきいきとした神々は

向ふ岸の涼しい中に聳えてゐる。

 

我々はいつも同じ無氣力の中にゐる、

働らかうとまた休まうと。

しかも我々は永久の身振をする

光る影を持つてゐる。

 

[やぶちゃん注:私が、ここを前のパートとは切れていると判断したのは、岩波文庫の校注に、再版の『『詩集』ではこの詩全体が小さい活字で組み直された』とある(以下、訳詩の四箇所を書き変えていることが書かれてある)。それは、今までの二箇所の前例によって、それが、謂わば、「序詩」に当たるものとして、茅野が、改変した、と考えざるを得ないからである無論、ここの校注では、「序詩」という語は使われていないのだが、私は、これを「序詩」として、以下の無題の詩篇を、ソリッドなものとして電子化することとした。

 なお、底本の終りにある、「目次」を見ると、「マリアヘ少女の祈禱(十一章)」とあった、後に、一行空けで、以上の九篇を載せている。則ち、これらの詩は、特にパート標題を使用せずに、リルケが「舊詩集」に記した詩篇群(全部ではあるまい)であることが判る。

 なお、再版「詩集」で訳文を変えたというのは、読者には、気になるであろうから、以下に、復元しておく。ポイント落ちは、再現していない。書き変えた箇所に下線を引いた。

   *

 

我々の夢は大理石の兜、

それを我々は御寺に置き、

我々の花輪で明るくし、

我々の願で暖める。

 

我々の言葉は黃金の胸像、

それを我々は我々の日に運び入れる、――

いきいきとした神々は

向ふ岸の涼しい中に聳えてゐる。

 

我々はいつもと同じ無氣力の中にゐる、

働らかうとまた休まうと。

しかも我々は永久の科(しぐさ)をする

輝く影を持つてゐる。

 

   *]

 

 

 

高臺にはなほ日ざしがある。

それで私は新しい喜悅を感ずる。

今若し私が夕ぐれの中を摑めたら、

私は凡ての街に黃金を

私の靜けさから蒔くことが出來るだらう。

 

私は今世の中から遠く離れ、

その晚い輝きで、

私の嚴肅な孤獨に笹緣をつける。

 

あだかも今誰かが

私が耻ぢない程にやさしく、

そつと私の名を奪ふやうだ。

 

それから私は最う名が要らないのを知つてゐる。

 

[やぶちゃん注:「晚い」「くらい」。

「笹緣」複数回既出既注。「ささべり」「ささへり」とも読む。衣服の縁、或いは、袋物や茣蓙(ござ)などの縁(へり)を、補強や装飾の目的で、布や扁平な組紐で細く縁取(ふちど)ったものを指す。

「最う」「もう」。]

 

 

 

これは私が自分を見出す時間だ。

うす暗く牧場は風の中にゆれ、

凡ての白樺の樹皮は輝いて、

夕暮がその上に來る。

 

私はその沈默の中に生ひ育つて、

多くの枝で花咲きたい、

それもただ總べてのものと一緖に

一つの調和に踊り入る爲め……

 

 

 

夕ぐれは私の書物。花緞子の

土の表紙が眼もあやだ。

佛はその金の止金(とめがね)を

冷たい手で外(はづ)す。急がずに。

 

それからその第一ペエヂを讀む、

馴染み深い調子に嬉しくなつて――

それから第二ペエヂを更にそつと讀むと、

もう第三ペエヂが夢想される。

 

[やぶちゃん注:「花緞子」「くわどんす」。「花曇子」とも書く。絹織物の一つ。花形(はながた)の紋様を織り出した緞子(どんす:それぞれの「ドン」・「ス」は、それぞれ、「緞」「子」の唐宋音)は、練糸で製し、地が厚く、光沢の多い絹織物を指す(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 

 

 

臆病に身震ひして、私は

どんなに深く自分が人生の中にゐるかを感ずる。

言葉はただ牆壁だ。

その背後(うしろ)、いつも一層靑い

山々に、其意味はかがやいてゐる。

 

何についても私は標號を知らないが、

私はその國に耳を傾ける。

そして聞く傾斜地に熊手を、

小舟等の沐浴を、

波うつ際の沈默を。

 

[やぶちゃん注:「牆壁」「しやうへき」。

「小舟等の沐浴を」「こぶねらの」。ここは擬人法である。

「際」「きは」。これは茅野が再版「詩集」で漢字をやめて、ひらがなで「きは」と、している。]

 

 

 

そして我々の最初の沈默はかうだ。

我々は身を風のものにし、

ふるへながら木の枝となり、

五月に耳を傾ける。

其處には影が一つ路上にある、

聞きいると――雨がはらはら。

全世界はそれを迎へて生ひ育つ、

その惠みに近づかうと。

 

 

 

しかし夕ぐれは重くなる。

すべては今孤兒(みなしご)に等しく、

大方は最う互に解らない。

知らない國の中のやうに、

家々の緣に沿つて徐に步いて

あらゆる園に耳を傾ける――

知りはしない、彼等が

一事の起るのを待つてゐるのだとは。

見え難い兩手が、

知らない生活から、

小聲に自分の歌を高めるとは。

 

 

 

私は人間の言葉を恐れる。

しかも人々は萬事を明瞭に云ふ、

これは犬、あれは家、

此處に始があり、彼處に終があると。

 

私に氣づかはれるは彼等の感覺と、嘲笑の戲れだ、

彼等は未來をも過去をも皆知つてゐる。

山も彼等には最早や不思議ではなく、

彼等の花園と屋敷とは丁度神に境してゐる。

 

私は幾時も離れて居ろと戒め防がう。

私は好く、物の歌ふを聞くのを。

お前等が物に觸れると、物は硬く默る。

お前等は皆私に物を殺すのだ。

 

[やぶちゃん注:「此處に始があり、彼處に終があると。」「ここにはじまりがあり、かしこにをはりがあると。」。

「幾時も」「いつも」。

「防がう」「ふせがう」。

「好く」「すく」。再版「詩集」で、これでルビを振っている。]

 

 

 

誰が私に言ひ得る。

何處に私の生が行きつくかを。

私も亦た嵐の中に過ぎゆき、

波として池に住むのではないか。

また私は末だ春に蒼白く凍つてゐる

白樺ではないのか。

 

 

2025/01/19

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 柚

 

Zabon-yuzu

 

ゆう   櫾【柚同】 條

     壺柑    臭燈

【音又】

     朱欒

     和名由宇【如字】

ユウ   𮔉筩

     【俗云花柚】

 

本綱柚樹葉皆似橙其實【味酸寒】有大小二種 小者如柑

如橙今人呼其黃而小者爲𮔉筩 大者如瓜如升有圍

[やぶちゃん注:「瓜」は異体字の「𤓰」の、中央下部分の左下方が斜めに伸びた字体で、表記出来ないのと、「𤓰」では、紛らわしいので、正規の「瓜」で示した。]

及尺餘者其大者謂之朱欒亦取團欒之象共形色正圓

都類柑橙伹皮厚而粗其味【甘辛】其氣臭其瓣堅而酸惡不

可食其花甚香凡柚狀如卣故名壺江南閩中最多有之

渡淮而北化而爲枳

 橙 橘  晚熟耐久 皺  香 苦

  乃 屬故    皮 厚而 味 而辛

 柚 柑  早黃難留 租  臭 廿

[やぶちゃん字注:「租」はおかしく、「本草綱目」の「柚」では、「粗」であり、誤刻であることが判ったので、訓読文では、訂した。]

柚實消食解酒毒治姙婦不思食口淡 柚皮下氣消食

 快膈化痰散憤懣之氣

△按柚樹髙𠀋許枝多刺葉比于橙長而不扁本叚葉亦

 狹小四月開小白花結實九月熟深黃色有臭香而其

 香好人多其皮厚粗皺味苦深冬熟乃帶甘味切片入

 鱠臛芳芬特佳俗謂之眞柚【朱欒是也】山中多而人家希有

[やぶちゃん字注:「特」は、原本では、(へん)の「牜」の第四画がないが、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版で当該部を見たところ、「特」となっているので、補正した。]

小柚【俗花柚】乃𮔉筩也葉畧薄小花亦小其實八月熟正黃

 色而小其皮皺脹起醜其瓣甚苦不可食惟其花最芬

 馥摘投於酒臛中或採莟及未黃者皮切片入亦香美

 勝於眞柚

凡柚汁誤注於布帛則藍及茶褐色物消爲白地


柚未醬

 用眞柚穿出瓣爲空殻用瓣去核和未醬及胡麻胡桃

 栗薑等復盛空柚置炭火上燒之煑沸食爲僧家嘉肴

柚脯 【俗云ゆひし】

 柚乾也造法用眞柚穿去瓣核用未醬汁溲糯粉合胡

 麻榧椒等𭀚空柚覆蓋用淡醬油煮熟攤于板以板徐

 徐壓之晒乾收之

 

   *

 

ゆう   櫾《ゆう》【「柚」に同じ。】 條《でう》

     壺柑《こかん》  臭燈《しうたう》

【音「又《イウ》」。】

     朱欒《しゆらん》

     和名「由宇《ゆう》」。【字のごとし。】

ユウ   𮔉筩《みつとう》

     【俗、云ふ、「花柚《はなゆず》」。】

 

「本綱」に曰はく、『柚《ゆう》樹、葉、皆、橙《たう》に似、其の實【味、酸、寒。】、大小二種、有り。』『小なる者、柑《かん》のごとく、橙のごとし。今の人、其の黃にして、小なる者を、呼んで、「𮔉筩《みつとう》」と爲《な》す。』。『大なる者、瓜《うり》のごとく、升《ます》のごとし。圍《めぐり》、尺餘に及ぶ者、有り。其の大なる者を、之れを「朱欒《しゆらん/ザボン》」と謂ふ。亦、「團欒《だんらん》」の象《しるし》と取《とる》。共に、形・色、正圓≪にして≫、都《すべ》て、柑・橙に類《るゐ》す。伹《ただし》、皮、厚《あつく》して、粗《あらく》、其の味、【甘、辛。】。其の氣(かざ)、臭く、其の瓣《なかご》[やぶちゃん注:ここでは、実の果肉部を言う。]、堅くして、酸惡《さんあく》にして、食はるべからず。其の花、甚だ、香《かんば》し。凡そ、柚の狀《かたち》、卣《ゆう》[やぶちゃん注:酒壺。酒樽。]のごとく、故《ゆゑ》、「壺《こ》」と名づく。江南・閩中《びんちゆう》に、最も多≪く≫、之れ、有り。淮≪水≫《わいすい》を渡りて、北にては、化《くわ》すて、枳《き/からたち》と爲る。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「枳殻《きこく/からたち》」日中ともに、双子葉類植物綱ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Citrus trifoliata でよいから、和名も添えた。

 以下、中央の共通項を繰り返して、二種を示した。]

『橙は、乃《すなはち》、橘(みかん)≪の≫屬なる故《ゆゑ》、晚《おそ》く熟して、久《ひさしき》に耐《たへ》、皮、皺(しは)あり、厚くして、香《かんばしく》、味、苦《にがく》して、辛し。』≪と≫。

『柚は、乃《すなはち》、柑(くねんぼ)の屬なる故、早く黃《きばめ》ども、留《とどめ》難く、皮、粗(あら)く、厚くして、臭《くさく》、廿≪くして≫辛し。』≪と≫。

柚の實は、食を消し、酒毒を解し、姙婦≪の≫、食を思はず、口、淡(みづくさ)きを治す。』。『柚の皮は、氣を下し、食を消し、膈を快くし、痰を化し、憤懣の氣を散ず。』≪と≫。

△按ずるに、柚《ゆ/ゆず》の樹、髙さ𠀋許《ばかり》、枝、刺《とげ》、多く、葉、橙《だいだい》に比すれば、長《ながく》して、扁(ひら)たかたず。本《もと》の叚葉《きざば》も亦、狹《せばく》小《ちさし》。四月、小≪とさき≫白花を開き、實を結ぶ。九月、熟して、深黃色≪となる≫。臭香《しうかう》、有りて、其の香を好(す)く人、多し。其の皮、厚く粗《あら》く、皺む。味、苦し。深冬、熟すれば、乃《すなはち》、甘味(あまみ)を帶ぶ。切-片(《きり》へ)ぎて、鱠《なます》・臛《あつもの》[やぶちゃん注:肉の吸い物。]に入≪るれば≫、芳芬《はうふん》≪にして≫、特に佳なり。俗、之れを「眞柚(まゆ)」と謂ふ。【朱欒、是れなり。】山中に多《おほく》して、人家に≪は≫、希《ま》れに、有り。

小柚《こゆ》【俗、「花柚《はなゆ》」。】は、乃《すなはち》、「𮔉筩」なり。葉、畧(ちと)、薄く、小《ちさ》く、花も亦、小なり。其の實、八月、熟す正黃色にして、小く、其の皮、皺、脹-起《ふくりおこり》て、醜《みにく》し。其の瓣《なかご》、甚だ、苦く、食《くふ》べからず。惟《ただ》、其花、最≪も≫芬馥(ふんいく)≪なれば≫、摘(むし)りて、酒・臛《あつもの》の中に投じ、或いは、莟(つぼみ)、及《および》、未だ黃ならざる者、採り、皮を、切-片《きりへぎ》、入《いる》るも亦、香美、眞柚に勝れり。

凡そ、柚の汁、誤《あやまり》て、布帛《ふはく》に注於げば、則《すなはち》、藍、及《および》、茶褐色の物、消《きえ》て、白地《しろぢ》と爲る。


柚未醬(ゆうみそ)

 眞柚を用《もちひ》て、穿-出《うがちいだ》し、瓣《なかご》を空-殻(から)と爲し、瓣を用て、核《さね》を去り、未醬《みそ》、及《および》、胡麻・胡桃《くるみ》・栗・薑《しやうが》等を、復た、和(まぜ)て、空柚《からゆ》に盛り、炭火の上に置《おき》て、之を燒き、煑沸《にふつ》して、食ふ。僧家の嘉肴《よきさかな》と爲《せ》り。

柚脯(ゆぼし) 【俗、云ふ、「ゆびし」。】

 柚≪を≫乾≪せる物≫なり。造る法《はう》。眞柚を用て、瓣《なかご》の核《さね》を、穿去《うがちさり》て、未醬汁(みそ《しる》)を用て、糯粉《もちごめこ》と溲(こ)ね、胡麻・榧《かやのみ》・椒《さんしやう》等を合《あはせ》、空柚に𭀚《み》ち《✕→たし》、蓋《ふた》を覆《おほひ》、淡醬油《うすじやうゆ》を用て、煮熟して、板に攤(ひろ)げ、板を以つて、徐徐(そろそろ)と、之れを、壓(お)して、晒乾《さらしほし》、之れを、收《をさ》む。

 

[やぶちゃん注:何度も注している通り、中国語の「柚」は、古くから、東南アジア・中国南部・台湾などを原産とする、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン亜連ミカン属ザボン Citrus maxima

を指すのに対し(「維基百科」の同種「柚子」を見よ)、本邦では、現行では、概ね、

ミカン属ユズ Citrus junos、及び、中国南部、或いは、日本を原産とするユズの一品種である、ハナユ(花柚) Citrus hanayu

を指す。まずは、ウィキの「ザボン」を引く(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)。漢字表記は『朱欒、香欒、謝文』。『ブンタン(文旦)の別名でも知られ、ほかにはボンタン』(「文旦」・古式では「文丹」)、『ウチムラサキ』(「内紫」:ザボンの中で、紅紫色の系統を指す。なお、この「ウチムラサキ」をザボンの原種とするという説が、ネット上にはあった)『、ザンボア、ジャボンとも呼ばれる』。『原生地は東南アジア・中国南部・台湾など。日本には』元禄元(一六八八)年『から』安永九(一七八〇)年『の間に伝来したとされる』(本「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年成立であるから、既に良安はザボンの存在は知っていたと考えてよい)。『一説では』、『広東と長崎を行き来する貿易船が難破し』、『阿久根に漂着し、船長の謝文旦から救助のお礼に贈られたという。日本伝来の地は鹿児島県の阿久根市』(ここ:グーグル・マップ・データ)『とされ、生産量も多いことなどから』、一九七一『年に市の木に制定されている。一方、琉球の書物』「質問本草」には、『ザボンの種子を浙江の船から得たという記述がある』。『インドシナやマレー半島に広がりながら』、『種類を増やし、西へはポメロの名で伝わり、東へは中国から台湾や沖縄、鹿児島へ柚(ゆ)やザボン、ブンタンなどの名で伝わったものと考えられている』。『品種の特徴によって呼び分ける場合もあり、果肉が白色の品種(白欒)をザボン、果肉が紅紫色の品種(朱欒)をウチムラサキ、果実が洋ナシ型の品種をブンタン(文旦)と呼び分けたとも言われる』。『前述の通り、「文旦」の名に関しては先述の船長の謝文旦の名からきているという説がある。難破した貿易船主である謝文旦という人名の潮州語読み(ジアブンタン、zia bhungdang )に因むという。別の説では、中国の「文」という名の役者の家に』、『おいしい実のなる木があり、当時は役者を「旦」といったことから、その木を「文旦」と呼ぶようになったという説もある。なお、福建地方の風物を記した』「漳州府志」には』「菓貴荔枝紅柑次之俗多種家比千戶侯綠山障野菓熟望之如火長泰柚名文旦者俗亦貴之不可多得」とあり、『明末から清初期の学者王象晋』『が著した』「二如亭群芳譜」(一六二一『年頃までに成立)において』、「俗呼爲朱欒有圍及尺餘者俗呼爲香欒閩中嶺外江南皆有之南人種其核云長成以接柑橘甚良又有名文蛋(=文旦)名仁崽者亦柚類也」『と記述されており、中国において清代初期には「文旦」と呼ばれていたと考えられ、上記謝文旦の伝説とは矛盾がある』。『「ザボン」の読みに関してはセイロン(スリランカ)でジャムボールと呼ばれた実をポルトガル人がザムボアと呼んでおり、それが日本に伝わったとする説がある』。宝永六(一七〇九)『年の』「大和本草」には』、「朱欒(ザンボ)」『とあり、筑前(福岡)では』「ザンボ」、土州(高知)では』「ジャボ」、『京師(京都)では』「ジャガタラ柚(ゆ)」『と呼ばれているとする。また』、享和三(一八〇三)年の「重修本草綱目啓蒙」『では』、『九州では』「ザンボ」、『豫州(愛媛)では』「ザンボウ」、『日州(宮崎)では』「トウクネンボ」『と呼んでいるとしている』。本「和漢三才圖會」『では、柚(ゆ)には二種あり、実が大きい種類は「朱欒(しゅらん)」とも呼ぶとしている。また、「ジャガタラ柚」はジャカルタから伝わったザボンの近縁種で「獅子柚子」ともいわれている。現代の中国語では一般に「柚子 ヨウズ」と呼ぶ(ユズは「香橙」と呼ぶ)』。『なお、英語のポメロ(pomelo)の語源は、インドネシアの村とされ、フランスでは「パンプルムス(pamplemousse)」、イタリアでは「ポンペルモ(pompelmo、グレープフルーツを指す)」と呼ぶ』。『ザボンの樹は』三『メートルほどまで』『育ち、その果実は品種により直径』十五~二十五『センチメートル、重さ』五百『グラムから』二『キログラムまで様々な大きさに育つ』。『果実の果皮は黄色。果皮の内側の白いスポンジ状のアルベド』(Albedo:ラテン語で「白さ」の意。柑橘類の果皮の内側にある、綿状、或いは、繊維状の白い部分)『の部分は』二『センチメートル程度の厚みがあり、これを取り去ると』、『大きさは半分くらいになる(ただし、アルベドの部分は文旦漬けに用いる)。果肉は果汁が少ないが』、『独特の甘みと風味を持つ。果肉は淡黄色だが』、『品種が多く、その色は淡乳白色から紅紫色まである。なお』、『果実の収穫は年末頃に行われることが多いが、採取したては』、『酸味が強すぎるので、数ヶ月間貯蔵して酸味を減らした後に出荷される』。『ザボンはマンダリンオレンジ』(Mandarin orange Citrus reticulata )『やシトロン』( Citrus medica );『などと並ぶミカン属の交雑種ではない真正の種の一つである』。『ザボンは自然交雑・人為的交配により色々な品種を生み出しており、グレープフルーツ』(grapefruitCitrus × paradisi )『・ナツミカン』( Citrus natsudaidai )『・ハッサク』( Citrus hassaku )『などはザボンの流れを汲んでいる。ザボンそのものも品種が多く、西日本(特に高知・熊本・鹿児島)では色々なザボンが栽培されている』。『日本における』二〇一〇『の収穫量は』九千七百十九『トンであり、そのうち約』九十『%が高知県において生産されている』。『果実は生食の他、ベトナム、カンボジア、タイ王国では果肉を和え物の素材とする』。『加工食品の原料としても用いられ、皮や果肉を用いた砂糖漬け(ザボン漬け、文旦漬け)、マーマレード、ボンタンアメなどは有名。近年、香港で流行しているデザート・楊枝甘露は、マンゴーと沙田柚(中国語版)を主原料にして作られる』。『果皮にはナリンギン』(NaringinC27H32O14当該ウィキによれば、『は天然に存在する化合物の』一『つであり、柑橘類の果皮などに含有される、苦味物質の』一『つである。なお、柑橘類の中には生薬として用いられる物も有る。ナリンギンが成分の』一『つとして含有される生薬としては、例えば、橙皮』・『枳実』・『陳皮』・『橘皮などが挙げられる』とある)『などのフラボノイドやリモネン、β-ミルセンが多く含まれ、中国において、光七爪、光五爪などと称し、生薬としても利用される。特に、化州柚の果皮は毛橘紅と呼ばれる。いずれも、皮の内側を剥ぎ、乾燥させた上で、咳止めなどの喉の薬、食欲不振の改善などに用いられる』。『外皮にはシトラール、リモネン、リナロールなど柑橘類に共通の揮発成分を含む他、特異的な香気成分としてノートカトン』(NootkatoneC15H22O)『を含む。ノートカトンは、グレープフルーツやナツミカン等のザボンからの交雑種にのみ含まれる成分である。皮には他にサンショウ』(山椒:ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum )『と同じく、舌にしびれを感じさせる(局所麻酔性)辛味成分サンショオール』(sanshoolC16H25NO2:多価不飽和脂肪酸アミド類の一種)『も含んでいる』とある。以下、「主なザボンの種類」として、十九品種が挙げてある(二種、中国産が含まれてある)が、省略するので、各自で見られたい。

 次に、ウィキの「ユズ」を引く(注記号はカットした。ザボンとダブる記載があるので、省略した)。漢字表記は『柚子』(中文名は「維基百科」の同種を「香橙」で標題し、別称で、「羅漢橙」「香圓」「柚子(日本柚子)」を挙げる。また、韓国のハングルでは、「유자」(音写「ユジャアー」)と載り、本邦の「柚子」の音転写である)『ホンユズ』(本柚子)『とも呼ばれる。消費量・生産量ともに日本が最大である。果実の酸味と香りが好まれて、果汁は少なく、主に果皮を日本料理の香りづけに使う』。『果実が小形で早熟性のハナユ(ハナユズ、一才ユズ、Citrus hanayu )とは別種である。日本では両方をユズと言い、混同している場合が多い。また、獅子柚子(鬼柚子)』( Citrus pseudogulgul )『は果実の形状からユズの仲間として扱われることがあるが、分類上はザボンの仲間であり、別種である』。『日本では古くから「柚」「由」「柚仔」といった表記や、「いず」「ゆのす」といった呼び方があった』「和名類聚鈔」『には、漢名で「柚」、和名も「由」として表されている。別名を、ユノスともいう。酸っぱいことから、日本で「柚酸(ユズ)」と書かれ、「柚ノ酸」の別名が生まれている』。『「柚(ゆ)」は古くはユズを意味したが、近世にはユズに近い大型柑橘類が伝わり』、認識に変化が起こった。』。『学名のジューノス(junos)は、四国・九州地方で使われた「ゆのす」に由来する。中国植物名(漢名)は香橙(こうとう)という。柚子は中国での古い名だが、今の中国語で柚や柚子はザボンを指している』。『ユズ(本柚子)は、中華人民共和国の中央および西域、揚子江上流の原産であると言われる。中国から日本へは平安時代初期には伝わったとみられ、各地に広まって栽培されている。また、日本の歴史書に飛鳥時代・奈良時代に栽培していたという記載がある』。『ハナユ(花柚子)は、日本原産とも言われるが、詳しいことは判っていない』。『日本では本州(東北南部以南)、四国、九州に分布する。生産量は日本が世界一であり、全国で広く栽培されるが、主な産地として高知県、徳島県がよく知られる。海外では、中国や、韓国最南部の済州島など、一部地域でのみ栽培されている』。

以下、「形態・生態」の項。『常緑広葉樹の小高木で、高さは』四『メートル』『ほどになり、樹勢が強く直立して大木になる。葉腋に棘があり、葉柄に翼がある。この葉柄の翼によって、ユズの葉は小さな葉と大きな葉が連なって、関節があるように見る。ユズは単葉とされるが、複葉への進化の途中が現れた姿だと考えられており、これを植物学では「単身複葉」とよんでいる』。『花期は初夏』五~六月頃で、『葉のわきに径』一~二『センチメートル』『ほどの白い』五『弁の花を咲かせる』。『果期は』九~十二『月で、秋には球形の果実を結ぶ。果実は直径』四~八センチメートル、『重さ約』百十『グラム』『になり、果皮の表面はでこぼこしている。種子の多いものが多い。酸味は強く、独特の爽やかな芳香を放つ』。『ミカン属の中で』、『もっとも耐寒性が強く、年平均気温』十二『度から』十五『度の涼しい気候を適地とする。柑橘類に多い』「そうか病」(瘡痂病:当該ウィキによれば、『子嚢菌や細菌などの感染によって起こる複数種の植物病害の便宜的な総称。瘡は「かさ・きず」、痂は「かさぶた」と訓み、瘡痂も』「かさぶた」『の意で、いずれの病気も罹病部にかさぶた状の病斑を生じることに由来する』とあり、カンキツ類の原因菌は、菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門クロイボタケ綱クロイボタケ亜綱ミリアンギウム目 Myriangiales Elsinoaceae 科のElsinoë fawcettii(リンクは英文ウィキ)とする)・「柑橘かいよう病」(柑橘潰瘍病:当該ウィキによれば、原因菌は好気性・グラム陰性の「カンキツかいよう病菌」(Xanthomonas campestris pv. citri)により引き起こされる)『への耐久があるため、ほとんど消毒の必要がなく、他の柑橘類より手が掛からないこと、無農薬栽培が比較的簡単にできることも特徴のひとつである』。『成長が遅いことでも知られ、栽培に当たっては、種子から育てる実生栽培では、結実まで』十『数年掛かってしまうため、結実までの期間を短縮する方法として、カラタチへの接ぎ木により、数年で収穫可能にすることが多い』。『現在の日本で栽培されるユズには主に』三『系統あり、本ユズとして「木頭系」・早期結実品種として「山根系」・無核(種無し)ユズとして「多田錦」がある。「多田錦」は本ユズと比較して果実がやや小さく、香りが僅かに劣るとされているが、トゲが少なくて種もほとんどなく、果汁が多いので、本ユズよりも多田錦の方が栽培しやすい面がある(長いトゲは強風で果実を傷つけ、商品価値を下げてしまうため)』。『なお、収穫時に』、『その実をすべて収穫しないカキノキの「木守柿」の風習と同様に、ユズにも「木守柚」という風習がある地方もある(相模原市沢井地区など)』。『農林水産省の統計によると昭和』四十『年代までは埼玉県が主な産地であったが』、一九七〇『年以降は高知県、徳島県などが主要な産地となっている。特に』一九九〇『年以後から大幅に収穫量が伸びており、今日では四国地方(高知県、徳島県、愛媛県)の』三『県で国産ユズの』・八『割近くを占める。また、四国山地を初め、九州山地、中国山地、紀伊山地といった山間部に産地が集中しているが、これは』一九六五『年頃から、それまでの主産業であった農耕馬生産、林業、木炭製造、和紙原料栽培の衰退やそれに伴う過疎化に対し、活性化策として産地形成されたものが多いためである』。『西日本の産地が大規模化する一方で、東日本の産地は相対的に規模縮小しており、関東地方全都県を合わせても』三百『トン程度(鹿児島県の半分未満)に過ぎない。その中でも、岩手県陸前高田市はゆず産地の北限『北限のゆず』としてブランド化を目指している』。『夏には青ユズ、秋から冬は熟した黄ユズが出回る。日本人に好まれる酸味と香りから、香辛料、薬味、調味料に使われる。冬場はユズの果実を風呂に入れて柚子湯にする。また、果実には薬効が期待されて、民間療法にも使われる』。『ユズの果汁や皮は、日本料理等において、香味・酸味を加えるために使われる。また、果肉部分だけでなく』、『皮も七味唐辛子に加えられるなど、香辛料・薬味として使用される。いずれも、青い状態・熟れた状態の両方とも用いられる。九州地方では、柚子胡椒と呼ばれる調味料としても使用される。これは柚子の皮に、皮が青い時は青唐辛子、黄色く熟している時は赤唐辛子と塩を混ぜて作るもので、緑色または赤色をしている』(私の御用達で欠かせないものである)。『熟したユズでも酸味が非常に強いため、普通は直接食用とすることはない。薬味としてではなくユズ自体を味わう調理例としては、保存食としてのゆべしの他、韓国の柚子茶のように果皮ごと』、『薄く輪切りにして砂糖や蜂蜜に漬け込む方法などがある。ユズの果汁を砂糖と無発泡水で割ったレモネードのような飲み物もある。果汁はチューハイ等にも用いられ、ユズから作られたワインもある』。『柚子の果実のうち』、『果肉の部分をくりぬいて器状にしたものは「柚子釜」と呼ばれ、料理の盛りつけなどに用いられる』(☜本篇で良安が言及している)『近年ではスペインの著名なレストランであったエル・ブジが柚子を大々的に喧伝したのが発端となり、フランス料理を始めとした西洋料理にも柚子の使用が広まりつつある』。『ユズ果汁にはクエン酸、酒石酸、シトラール約』九『%が含まれている。果実は、口内やのどの渇きを癒やす清涼止渇作用があり、果汁液にコレラ菌や腸チフス菌に対する制菌作用が報告されている。果皮にはビタミンCが豊富に含まれ、ウンシュウミカンとの比較で約』四『倍量(約』百五十ミリグラム『)ある』。『収穫時期の冬場に、果実全体または果皮を布袋にいれて、浴湯料として湯船に浮かべる。薬効の成分は特定されていないが、血行を促進させることにより』、『体温を上昇させ、風邪を引きにくくさせる効果があるとされている。肩こり、腰痛、神経痛、痛風、冷え症などに良いとされる』。『果実は橙子(とうし)、果皮は橙子皮(とうしひ)と称して薬用にする。悪心、嘔吐、二日酔い、魚やカニの食中毒に薬効があるとされ、果実を』十一~十二月に『採集して冷暗所に保存するか、輪切りに切って天日乾燥して用いる』。『民間療法として、乾燥果実』一『日量』二~三『グラムを』四百『ccの水で煎じて』三『回に分けて服用する用法が知られる。また、風邪の初期に、就寝前に生の果皮を削ったものを小さじ半分量か、果実』一『個分の果汁を搾り、砂糖か蜂蜜を適宜加えて熱湯を注いだ「ポン酢湯」を飲んで』、『すぐに就寝すると、咳も和らげて効果が期待できる。疲労回復、冷え症などには果実が青い未熟果を切って焼酎に漬けたユズ酒を、就寝前に盃』一~二『杯ほど飲むとよく、飲みにくいときは蜂蜜で甘く味付けしたり、水や湯で割ると良い』。『その他』、『果汁には、顔や手足にすり込むと』、『肌荒れやあかぎれ予防に役立つとされる』。『ユズの種子油には、メラニンの生成抑制やアレルギー性皮膚炎の症状緩和の効果があるとする研究報告もなされている』。

以下、「文化」の項。『ユズは生長が遅く、種子から育ってから結実するまでには長い年月を要する樹種で知られる』ことから、「桃・栗三年、柿八年、枇杷は九年でなりかかり、柚の大馬鹿十八年」『などと呼ばれ、ユズは』十八『年のほか』、九『年』、十六『年』、三十『年などと言い伝えられる地方がある』。『冬至の柚子湯は、日本の家庭に今も残る冬の季節の風習である』とある。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十」の「果之二」の「柚」の項(「漢籍リポジトリ」のここ[075-38b]以降)のパッチワークである。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」「マリアヘ少女の祈禱」 (何事か私等に起らせ給へ。……:序詩)・(みそなはせ、私等の日はこんなに狹く、……)・(多くのことの意味が私等に殘りました。……)・(最初私はあなたの園となり、……)・(マリアよ、……)・(何うして、どうしてあなたの膝から、……)・(私には明るい髮が重荷になりまする。……)・(それから昔はいつも……)・(皆は云ひます。お前には時がある。……)・(この激しい荒い憧れが……)・「祈りの後」

 

 マリアヘ少女の祈禱

 

何事か私等に起らせ給へ。

みそなはせ、私等は生命を求めてふるへてゐ、

また立ち上らうと思つてゐます。

光耀のやうに、また歌のやうに。

 

[やぶちゃん注:岩波文庫の校注に、『『詩抄』では「マリアヘ少女の祈禱」のタイトルを付し、活字も「マリアヘ少女の祈禱」という一篇の詩であるかのように普通の大きさで組まれていたが、『詩集』では「マリアヘ少女の祈禱」は以下の詩全体のタイトルであるため、扉として立てられ、ここは序詩として然るべく小さな活字で組み直された』とある。以下、無題の九篇と、最後の「祈りの後」を三行空けで示した。この詩篇群、ドイツ語のテクスト・サイトや、「Internet archive」で探したが、二時間以上、調べてみたが、遂に原文に当たることが出来なかった(それらしきものは見つけたものの、機械翻訳では、これらの詩篇群と類似するものを見出せなかった)。何故、原詩に拘ったかというと、これらで(序詩)の後の十篇が総てではない、と踏んだからである。理由は簡単で、「(私には明るい髮が重荷になりまする。……)」の詩篇は、校注によれば、後の再版「詩集」では、収録されていないからである。何方か、原詩を指示して戴き、この私のモヤモヤを解いて戴けると、恩倖、之に過ぎたるは莫い。

「みそなはせ」ご覧になって下さい。]

 

 

 

みそなはせ、私等の日はこんなに狹く、

夜の室は氣づかはしい。

私等はみな倦みたわまず、

赤い薔薇を願つてゐます。

 

マリアよ、あなたは私等に優しくしなくてはなりませぬ。

私らはあなたの血から花咲いたのです。

また憧憬がどんなに痛いかは

あなたのみ知ることが出來まする。

 

實に魂の少女の痛みを

あなたはみづから知つてゐられます。

魂はクリスマスの雪の如く感じながら、

それで全く燃えてゐる……

 

 

 

多くのことの意味が私等に殘りました。

わけても軟いもの、優しいものについては

私等が何かの知識を持つてゐます。

祕密の園のこととか、

まどろみの下に押入れられる

絹の枕のこととか、

惑はすやうな優しさで

私等を愛する或物のこととか。

 

しかし多くの言葉は遠い。

 

多くの言葉は意味から、

世界から逃去つて、

高まる音を取りまくやうに、

窺ひながらあなたの王座を取卷いてゐます。

母、マリアよ。

そしてあなたの子は

その言葉に笑ひかけてゐられる。

 

みそなはせ、あなたの子を。

 

 

 

最初私はあなたの園となり、

蔓草と花壇とで、

あなたの美を蔽はうと思ひました。

母らしく疲れた微笑をして

好んであなたが立歸るためにと。

 

しかし――あなたの往來(ゆきき)には

何かが一緖に入つて來て、

あなたが白い花壇から麾く時

赤い花壇から私を呼びまする。

 

[やぶちゃん注:「麾く」「さしまねく」。]

 

 

 

マリアよ、

あなたの泣かれるを――私は知つてゐます。

私もまた泣きたい

あなたの爲に。

額を石の上にして

泣きたい……

 

あなたの兩手はお熱い、

その下に鍵盤を押しやれたら、

あなたの歌が一つ殘つたのに。

 

しかし時間は死ぬ、遺言もなく……

 

 

 

何うして、どうしてあなたの膝から、

マリアよ、そんなに多くの光と、

そんなに多くの悲みが來ました。

あなたの花聟は誰でした。

 

あなたは呼ばれる、呼ばれる――そして

冷かだつた私へ來た

同じ方(かた)ではもう無いのを忘れてゐられる。

 

私は未だ花のやうに若いのです。

何うして足爪立てて

小兒から受胎告知へと、

あなたのあらゆる薄明を通つて

あなたの園へ行かれませう。

 

 

 

私には明るい髮が重荷になりまする。

丁度うす暗いレモンの枝の、

花ざかりで靑白み、

もう春が殆ど充ちたのを感ずるために、

いよいよ重くなるのが、

私の髮を搔き亂すやうです。

 

 取つて下さい、私の

 この悲しい飾を。

あなたは未だ冷(つめた)く綠でゐられる。

何故となら、あなたの荆棘の下には、

少女のミルテが咲いてゐますから。

 

[やぶちゃん注: 「荆棘の下には」「いばらのもとには」と訓じておく。

「ミルテ」双子葉植物綱フトモモ(蒲桃)目フトモモ科ギンバイカ属ギンバイカ Myrtus communis を指す。当該ウィキによれば、漢字表記は『銀梅花、銀盃花』で、『地中海沿岸原産。イタリア語でミルト(Mirto)。英語でマートル(Myrtle)。ドイツ語ではミュルテ(Myrte)』(☜)。『属名からミルトス(Myrtus)とも呼ぶ。花が結婚式などの飾りによく使われるので「祝いの木」ともいう』。「文化」の項に、『シュメールでは豊穣と愛と美と性と戦争の女神イナンナの聖花とされた。 古代ギリシアでは豊穣の女神デーメーテールと愛と美と性の女神アプロディーテーに捧げる花とされた。古代ローマでは愛と美の女神ウェヌスに捧げる花とされ、結婚式に用いられる他、ウェヌスを祀るウェネラリア祭では女性たちがギンバイカの花冠を頭に被って公共浴場で入浴した。その後も結婚式などの祝い事に使われ、愛や不死、純潔を象徴するともされて花嫁のブーケに使われる』。『ユダヤ教ではハダス』『と呼び、「仮庵の祭り」』((かりいおのまつり;当該ウィキによれば、『ザドク暦第七のホデシュの』十五『日から』七『日間』、『行われる。ユダヤ暦(太陰太陽暦)によると満月の日となる。一般には太陽暦』十『月頃に行われるヤハウェの祭りである』。『仮庵の祭りは、過越祭(ペサハ)と七週の祭り(シャブオット)とともにユダヤ教三大祭の一つ』で、『仮庵祭(かりいおさい)、スコット』(英語:Sukkot)『ともいう。Sukkot とはヘブライ語で「仮庵」のこと。ユダヤ人の祖先がエジプト脱出のとき』、『荒野で天幕に住んだことを記念し、祭りの際は』、『木の枝で仮設の家(仮庵)を建てて住む』『。)『で』、『新年』、『初めての降雨を祈願する儀式に用いる四種の植物』の一『つとされる。ユダヤ教の神秘学カバラでは男性原理を表すとされ、新床に入る花婿にギンバイカの枝を与えることがあった。生命の樹』(当該ウィキを見られたい)『の第六のセフィラであるティファレトや、エデンの園と』、『その香りの象徴ともされる』とあった。]

 

 

 

それから昔はいつも

私は氣だかく樂しうございました。

あなたの不思議をかこむでゐた

美しい天使の群のやうに。

……私の母はあなたによく似てゐました……

 

それから始めて母の接吻が

靑ざめた時以來私は悲しいのです。

私が聞耳をたてたり、せかせかしたり

豫感したりするのも、新しい

優しさを求める手探りです。

 

[やぶちゃん注:「氣だかく」「けだかく」。]

 

 

 

皆は云ひます。お前には時がある。

何が足りぬのだと。――

私には黃金の飾が足りませぬ。

私は子供の著物では步けませぬ。

皆はもう花嫁めかして

明るく又神々しいのですもの。

 

足りないのは少しの空間だけです。

私はある追放にあつてゐます。

さうして私の夢は愈狹くなります。

絹の笹緣(ささべり)から高く

花の木まで兩手を

さしあげられるだけの空間が……

 

[やぶちゃん注:「笹緣(ささべり)」「私の生家」で既出既注。「ささへり」とも読む。衣服の縁、或いは、袋物や茣蓙(ござ)などの縁(へり)を、補強や装飾の目的で、布や扁平な組紐で細く縁取(ふちど)ったものを指す。]

 

 

 

この激しい荒い憧れが

私の姉妹たちに重くなると、

彼等はあなたの御像(みざう)へ遁れてゆきます。

すると柔和なあなたは身を擴げて

彼等の前に海のやうになられます。

 

あなたはやさしく彼等に向いて流れ、

彼等はあなたの路を通つて

あなたの奧底へ身を救ひ――そして

願がやうやく靜まつて、

靑い夏の雨となつて

軟い島々の上に降るのを見るのです。

 

[やぶちゃん注:「願」「ねがひ」。]

 

 

 

  祈りの後

しかし私は感じます、私は暖く、

いよいよ暖くなつてゆくのを、女王よ、――

そして夕ゆふべに貧しく、

朝あさに疲れてゆくのを。

 

私は白い絹を裂き

私の臆病な夢は叫ぶ。

 ああ、私にあなたの惱みをなやませて下さい、

 ああ、私等二人を、

同じ不思議で傷かして下さいと。

 

[やぶちゃん注:「傷かして」「きずかして」で、全体は、かのキリストの受難と同じ、「物が皮膚を掠(かす)って生じる軽い傷(擦過傷)を与えて下さい」というのである。これは、「スティグマ」(英語:stigma )、則ち、「聖痕」、「スティグマータ」(ラテン語: stigmata)である。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 「一人の少女が歌ふ」

 

  一人の少女が歌ふ

私は遠い異國で子供だつた。

あはれに、やさしく、盲目に――

羞耻の中から忍出た時まで。

私は森や風の蔭に私といふものを

もう長い間待つてゐる、確に。

 

私は獨りだ、家からは遠い

そして靜かに思ふ、私はどんなに見えるのかと――

―― ―― ―― ―― ―― ―― ――

私を誰だと問ふ人があらうか。

……ああ私は若くて

     ブロンドだ

 そして祈禱も出來た。

そして確に無益(むだ)に輝らされて

知られずに私の側を行過ぎる。

 

[やぶちゃん注:標題の位置・ポイント(本文と同じ)はママ。

「確に」「たしかに」。

「輝らされて」「かがやからされて」では、リズムが悪い。「てらされて」であろう。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 「少女等がうたふ」

 

  少女等がうたふ

お母樣だちの話されたやうな時は、

私たちの寢室(ねま)にはなかつた。

そこでは總べて滑かで明(あきら)かだつた。

嵐に吹きまくられた或る年に

挫けたと云はれるが。

 

私らは知らない。何だらう、嵐とは。

 

私らは何時も深く塔の中に住み

をりをりただ遠くから

外の森が風に搖れるのを聞くばかり。

一度は見知らない星が

私たちの側に立止つた。

 

それから庭にゐると、

始まるのかと、震へて

日に日に待つてゐる――

 

しかし私らを撓(たわ)ましさうな

風は何處にもない。

 

[やぶちゃん注:標題の位置・ポイント(本文と同じ)はママ。

「挫けた」「くじけた」。

「何時も」「いつも」。

「側」「そば」。]

2025/01/18

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 「少女の歌」 (序詩)・(今彼等はもうみんな人妻、……)・(女王だ、お前らは富むでゐる。……)・(波はお前らに默つてはゐなかつた。……)・(少女らは見てゐる、小舟らが……)・(お前ら少女は小舟のやうだ。……)

 

 

 少女の歌

 

お前たち少女は四月の夕の

花園のやうだ。

春は數多の路の上にあるが、

なほ何處とめあてもない。

 

[やぶちゃん注:岩波文庫の校注に、『『詩抄』では「少女の歌」のタイトルを付し、活字も「少女の歌」という一篇の詩であるかのように普通の大きさで組まれていたが、『詩集』では「少女の歌」は以下の詩全体のタイトルであるため、扉として立てられ、ここは序詩として然(しか)るべく小さな活字で組み直された』とある。以下、無題の五篇を三行空けで示した。

「數多」「あまた」。]

 

 

 

今彼等はもうみんな人妻、

子供を持つて夢を失つた。

子供を生むだ、

子供を生むだ、

それから知つてゐる、これ等の門の中で

我々は皆な悲みに髮が白むのを。

 

彼等のものは皆家の中にある。

ただアヹ・マリアの鐘の音だけ

彼等の心になほ或る意味を持つ。

それで疲れながらも戶外へ出る。

 

路々(みちみち)が大きくなり始め、

靑白い花園から冷たい風がふくと、

昔の自分たちの微笑を思ひだす

古歌のやうに……

 

 

 

女王だ、お前らは富むでゐる。

花の咲いてる樹々よりも

歌だけ餘分に富むでゐる。

 

ねえ、あの見知らぬ人は蒼白い。

しかし更に更に蒼白いのは

あの人の好きな夢で、

池の中の薔薇のやうだ。

 

それをお前らは直ぐ感じた、

女王だお前らは、富むでゐる。

 

 

 

波はお前らに默つてはゐなかつた。

お前らも亦た靜ではなく

波のやうに歌つてる。

お前が心に深く思ふことは

諧調になる。

 

お前等の中にその響を生むのは

美の羞恥(はぢらひ)であつたか、

うら若い少女の悲みがそれを眼覺したのか――

誰の爲に。

 

歌は憧れのやうに來た。

そして徐に花聟と一緖に

消えるだらう……

 

[やぶちゃん注:この詩篇は、再版「詩集」では、茅野は、かなり、手を入れている。岩波文庫の校注に従って、以下に全体を示す。

   *

 

波はお前らに默つてはゐなかつた。

お前らも亦た靜ではなく

波のやうに歌つてる。

お前らが心に深く思ふことは

諧調になる。

 

お前らの中にその響を美の羞恥(はぢらひ)が

起こしたのか、

うら若い少女の悲みがそれを眼ざましたのか――

誰の爲に。

 

歌は憧れのやうに來た。

そして徐に花聟とともに

消えるだらう……

 

   *]

 

 

 

少女らは見てゐる、小舟らが

遠くから港に入るのを。

また臆病に寄添ひながら、

白い水の重くなるを眺めてゐる。

氣づかはしさのやうであるのは

夕暮のためしだから。

 

それにこんな歸港もないものだ。

疲れた大海から

舟は黑く大きく空虛(そら)で來る。

船旗一つなびかない。

總べてを何人かが

征服したやうに。

 

[やぶちゃん注:「船旗」「ふなばた」と訓じておく。]

 

 

 

お前ら少女は小舟のやうだ。

時間の岸に

いつも繫がれてゐる――

それ故そんなに蒼白い。

お前らは考へもせず

風に身を任せようと思ふ。

お前らの夢は池だ。

をりをり渚の風がお前らを連れて行つて

鎖は張りつめる、

するとお前等は風を愛する。

 姉妹よ、私らは今白鵠だ、

 黃金の紐で

 童話(めるひえん)の貝殼を曳いてゐる。

 

[やぶちゃん注:「白鵠」恐らく「はくてう」と読んでいると踏んだが(「鵠」は古文和語で「くぐひ」(現在仮名遣「くぐい」)と読み、「白鳥」の古称だからである)、原詩に当たらないと不安であった。ドイツ語が出来ないので、探すのに、かなり苦労したが、“Lieder der Madchen Rilke Märchen”のフーレズ検索で、やっと、ここで、見つけた。そこでは、“Schwäne”(音写「シュヴェーネ」)であった。確かに「白鳥」である。

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 (幾度か深い夜に、……)

 

 

幾度か深い夜に、

風は小兒のやうに眼を覺まして、

並木路をひとり

かすかに、かすかに村に入る。

 

池の邊まで探り寄つて、

風はあたりに耳を傾ける。

家々は皆な蒼ざめ、

樫の木は默してゐる……

 

[やぶちゃん注:「邊」「あたり」と訓じておく。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 (平(たひら)な國では期待(まちまうけ)てゐた。……)

 

 

平(たひら)な國では期待(まちまうけ)てゐた。

一度も來なかつた客をば。

氣づかはしげな花園は、なほ一度訊ねたが、

やがてその微笑は徐に萎びた。

 

暇な沼地には

夕暮に見すぼらしい並木。

林檎は枝に怖ぢおそれ、

どんな風もそれをうづかせる。

 

[やぶちゃん注:「徐に萎びた」「おもむろにしなびた」。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 (はじめての薔薇が眼ざめた。……)

 

 

はじめての薔薇が眼ざめた。

その匂は臆病に

ごく小聲の笑のやう。

燕のやうな平らな翼で、

さつと日をかすめた。

 

そしてお前の側では

未だ凡てが氣づかはしい。

 

ものの光もおづおづと、

どの音も末だ馴れないで、

夜は新らし過ぎ、

また美は羞耻(はぢらひ)だ。

 

[やぶちゃん注:「笑」「わらひ」。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 橙

 

Daidai

[やぶちゃん注:よく見ると、右の中央の実が三つ生っている枝には、ちゃんと棘(とげ)が、三本、描かれてある。枝ごと折れて、家の塀の庇に引っ掛かった果実が、描かれるなど、趣向が施されてある。]

 

かぶす   金毬 鵠殻

     【和名安倍太知波奈】

        俗云加布須

        又云太伊太伊

だいだい

 

本綱橙木高枝葉不甚類橘亦有刺其葉有兩刻缺如兩

段其実大者如𰤸頗似柚經霜早熟色黃皮厚蹙衂如沸

馥郁┏橙 橘    晚熟耐久
  ┃ 乃 屬之大者
  ┗柚 柑    早黃難留

[やぶちゃん字注:二行目の「𰤸」は「盌」(ワン)の異体字。橘と橙の対比部分は、原本では大きな丸括弧〔 ( 〕であるが、かく、した。]

橙皮【苦辛溫】可以𤋱衣可以芼鮮可以和𦵔醢可以爲醬虀

 可𮔉煎可以糖製【名之橙丁】可以𮔉制【名之橙膏】嗅之則香食

 之則美誠佳果也今止以爲果宿酒未解者食之速醒

  六帖わきも子にあはて久しくむましたのあへたちばなの苔おふる迠

△按橙樹大者高丈余許周過於尺嫩時有刺老則無剌

 其葉匾大似乳柑而短背色淡五月開小白花【橘柑橙柚花皆

 相似而小白花】凡歴八年者結實形圓其氣苦臭霜後黃熟

 其瓣苦微酸不堪食至春色濃耐久夏復變青新舊不

 可辨故俗呼名代代雖不噉而以爲歳始嘉祝果乾枯

 者經年不敗皮硬褐色用爲佩腰之具

 春月摘之破瓣漸汁乾粒粒離如覆盆子和沙糖食之

 至夏月則瓣中汁自枯竭每核皆生芽白根食之亦佳

 未離枝果中生芽者異物也

 凡用橙皮𤋱烟甚辛臭香能避蚊仍名加不須蚊𤋱之

 訓下畧也又乾橙皮用爲倭方疝氣藥也然本草謂消

 痰下氣利隔寛中解酒之功不謂爲肝膽疝氣藥而倭

 知其效驗亦妙也不唯橙如萍蓬草治折傷無花果解

 魚毒青鵐解諸毒或番椒治小鳥之病山𣾰治金魚之

 病之類不勝計誰人始試之耶

唐橙【加良加不須】葉似橙而微長其實正黃色皮厚理宻而形

 長團味酸微苦

△按此乃眞橙也近年希有之尋常稱橙者乃本草所謂

 有一種氣臭者是也凡橙葉本有刻缺爲叚如見果蒂

 乳柑柚温州橘櫠椵類皆然也

 𮔉柑柑子包橘金柑之類葉微窄而無叚狹長

 

   *

  

かぶす   金毬《きんきう》 鵠殻《こくかく》

     【和名、「安倍太知波奈《あべたちばな》」。】

        俗、云ふ、「加布須《かぶす》」。

        又、云ふ、「太伊太伊《だいだい》」。

だいだい

 

「本綱」に曰はく、『橙《たう》≪の≫木、高く、枝・葉、甚《はなはだ》、橘《きつ》に類《るゐ》せず。亦、刺《とげ》、有り。其の葉、兩《ふたつ》≪の≫刻缺《きざみかけ》[やぶちゃん注:東洋文庫訳のルビは『きれこみ』。サイト「花しらべ 花図鑑」の「ダイダイ」の、この写真を参照されたい。]、有り、≪恰(あたか)も、葉に、≫兩《ふたつ》≪の≫段《だん》のごとし。其の実、大なる者、𰤸(わん)[やぶちゃん注:蓋を持たない椀。]のごとく、頗《すこぶ》る、柚《ゆ》[やぶちゃん注:何度も注している通り、中国語の「柚」は、古くから、東南アジア・中国南部・台湾などを原産とするミカン属ザボン Citrus maxima を指す。]に似たり。霜を經て、早く、熟す。色、黃。皮、厚し。蹙-衂《しゆくぢく》[やぶちゃん注:強烈な香気で、鼻が曲がるほどであることを言う。「衂」は元来、「鼻血」を意味する感じである。]≪にして≫、沸《ふつす》がごとく、馥郁《ふくいく》たり。』≪と≫。

[やぶちゃん注:以下、改行し、中央の共通項は、繰り返して、示す。全部引用によるパッチワークであるが、引用符は五月蠅いだけなので、附さなかった(無論、「本草綱目」のパッチワークではあるが)。ブラウザの不具合を考えて、それぞれ、一行を短くして、二行で組んだ。]

┏橙は、橘の屬の大なる者≪にして≫、晚《おそ》く
┃熟して、久《ひさしく》≪藏すに≫耐ふ。
┗柚は、柑の屬の大なる者≪にして≫、早《はや》く
 黃≪に熟≫して《✕→而れども》、留《とど》め難し。

『橙皮《たうひ》【苦辛、溫。】以つて、衣を𤋱(ふす)ぶべく、以つて、芼鮮《もうせん》[やぶちゃん注:「芼」は野菜、「鮮」は肉(魚・鳥獣のそれ)を指す。]≪に≫和すべく、以つて、醬虀《しやうさい》[やぶちゃん注:塩と塩水で漬け込んだ野菜。]に爲《な》す。以つて、𮔉煎《みついり》すべく、以つて、糖製《たうせい》[やぶちゃん注:砂糖煮。]【之れを「橙丁《たうてい》」と名づく。】すべく、以つて、𮔉制《みつせい》[やぶちゃん注:蜂蜜漬け。]【之れを「橙膏《たうかう》」と名づく。】すべく、之れを嗅《か》げば、則《すなはち》、香《かんばし》く、之れを食へば、則、美《うま》く、誠に佳《よき》果《くわ》なり。今、止(たゞ)以つて、果と爲≪して≫、宿酒《ふつかゑひ》、未だ解せざる者、之れを食へば、速《すみやか》に醒(さ)む。』≪と≫。

 「六帖」

   わぎも子《こ》に

     あはで久しく

    むましたの

       あへたちばなの

      苔《こけ》おふる迠《まで》

[やぶちゃん注:「六帖」は、平安中期に成立した類題和歌集「古今和歌六帖」のこと。全六巻。編者・成立年ともに未詳。「万葉集」・「古今集」・「後撰集」などの歌約四千五百首を、歳時・天象・地儀・人事・動植物などの二十五項・五百十六題に分類したもの。「第六 木」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」のそれの、ガイド・ナンバー「04260」で確認した。]

△按ずるに、橙《だいだい》の樹、大なる者、高さ、丈余許《ばかり》、周(めぐ)り、尺に過ぐ。嫩(わか)き時は、刺《とげ、》、有り、老(ひね)ては、則ち、剌、無し。其の葉、匾《ひらた》く、大《おほきく》、「乳柑(くねんぼ)」に似て、短く、背の色、淡し。五月、小≪さき≫白花を開く【橘《たちばな》・柑《かうじ》・橙・柚《ゆず》の花、皆、相ひ似て、小さき白き花なり。】。凡そ、八年を歴《へ》る者、實を結ぶ。形、圓《まろく》、其の氣、苦臭《にがくさ》く、霜の後《のち》、黃熟《わうじゆく》す。其の瓣《なかご》[やぶちゃん注:ここは果肉の意。]苦《にがく》、微《やや》、酸《すつぱく》≪して≫、食ふに堪へず。春に至《いたり》て、色、濃(こ)く、久《ひさ》に≪藏するに≫耐へ、夏、復た、青きに、變ず。新舊、辨ずべからず。故《ゆゑ》、俗、呼んで、「代代」と名づく。噉(くら)はざると雖も、以つて、歳始《としはじめ》の嘉祝の果と爲《なす》。乾枯《かはきかれ》≪たる≫者、年を經て、敗《くさら》ず、皮、硬く、褐色≪たり≫。用《もちひ》て、佩腰(ねつけ)[やぶちゃん注:根付。]の具と爲《なす》。

 春月、之れを摘(むし)りて、瓣《なかご》を破り、漸《やうや》く、汁《しる》、乾き、粒粒《つぶつぶ》、離《はなれ》て、「覆盆子(いちご)」[やぶちゃん注:双子葉植物綱バラ目バラ科バラ亜科キイチゴ(木苺)属 RubusIdaeobatus )亜属ヨーロッパキイチゴ Rubus idaeus 小アジア原産で、中国にも、古くから広く自生していた。European Raspberry。フランス語で、frambose(フランボワアズ)。]のごとし。沙糖に和して、之れを食ふ。夏月に至《いたり》ては、則《すなはち》、瓣の中、汁、自《おのづか》ら、枯《かれ》竭《つくし》、核《さね》每《ごと》≪に≫[やぶちゃん注:レ点はないが、返して読んだ。]、皆、芽《め》、白≪き≫根を生《しやうじ》、之れも、食ふも亦、佳《よし》。未だ、枝を離れずして、果中に芽(め)を生ずること、≪果類中の≫異物なり。

 凡《およそ》、橙皮を用《もちひ》て、烟《けぶり》に𤋱《ふす》≪ぶれば≫、甚《はなはだ》、辛臭《からくさ》き香《かをり》、能《よく》、蚊を避(さ)く。仍《より》て、「加不須《かぶす》」と名づく、「蚊𤋱《かふすべ》」の訓≪の≫下畧なり。又、乾橙皮《かんたうひ》、用て、倭方《わはう》、疝氣《せんき》[やぶちゃん注:急性の腹痛。]の藥と爲《なす》なり。然《しかれ》ども、「本草≪綱目≫」には、『痰を消し、氣を下《くだ》し、隔《かく》を利し、中《ちゆう》を寛《くつろげ》、酒を解《げ》する』の功を謂《いひ》て、肝膽・疝氣の藥《くすり》爲《な》ることを、謂はず。而《しか》≪れども≫、倭に、其の效驗《かうげん》を知るも、亦、妙なり[やぶちゃん注:素晴らしい事実である。]。≪これ≫、唯《ひと》り、橙《だいだい》のみならず、「萍蓬草(かはほね)」の、折-傷(うちみ)を治し、「無花果(いちじゆく)」の、魚毒を解し、「青鵐(あをじ)」の諸毒を解すがごとく、或いは、「番椒(たふがらし[やぶちゃん注:ママ。])」、小鳥《ことり》の病《やまひ》を治し、「山𣾰《やまうるし》」、金魚の病《やまひ》を治するの類《たぐひ》、勝《かつ》て、計(かぞ)へず。誰人《たれびと》か、始《はじめ》て、之れを、試《こころみ》るや。

[やぶちゃん注:『「本草≪綱目≫」には、『痰を消し、氣を下《くだ》し、隔《かく》を利し、中《ちゆう》を寛《くつろげ》、酒を解《げ》する』の功を謂《いひ》』「本草綱目」の「卷三十」の「果之二」の「橙」の項(「漢籍リポジトリ」のここ[075-37a]以降)の「主治」の時珍が記した、『糖作橙丁甘美消痰下氣利膈寛中解酒』に基づく。後回しになったが、前半部の引用も、そこのパッチワークである。

「萍蓬草(かはほね)」の、折-傷(うちみ)を治し』双子葉植物綱スイレン目スイレン科コウホネ属コウホネ Nuphar japonica私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 萍蓬草(かはほね) (コウホネ)」を参照されたい。序でに、挿絵のある「大和本草諸品圖上 カハホネ・河ヂサ (コウホネ・カワチシャ)」もリンクさせておく。

『「無花果(いちじゆく)」の、魚毒を解し』スイレン目スイレン科コウホネ属コウホネ Nuphar japonica私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 萍蓬草(かはほね) (コウホネ)」を参照されたい。

『「青鵐(あをじ)」の諸毒を解す』私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 蒿雀(あをじ) (アオジ)」を見られたい。本邦で普通に見かけるのは、スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属アオジ亜種アオジ Emberiza podocephala personata 。そこで、良安は、『肉【甘、溫。】 燒きて、性を存〔(そん)〕ぜし〔は〕、能く血を止む〔るに〕神効有り。又、能く毒を解し、食傷を治す。』と述べている。ただ、流石に、現行では、野鳥の肉の効能は、本邦では憚られることなので、見出せない。嘘だと思うなら、Googleで「アオジの肉 解毒」をやって御覧な。頭に出るのは、なんと! 私の上記の記事だから、さ。流石は、中国! 「百度百科」の同種の記事に(一部の簡体字を正字化し、記号も換えた)、『入部位』に、『肉或全体』とあり、『性味』は『味甘、性温。』、『功效』は『壮陽、解毒』、『主治』に『用于陽痿、酒中毒』(「陽痿」は「勃起不全」(!)のこと)、『相関配伍』(「配伍」は薬物を配合することを言う)「1」『治酒中毒:青頭』(アオジの中文異名)一『只。去毛及腸雜焦研面、白水冲服』(「冲服」は「服用」の意)『(「全國中草編」)』とし、「2」『治陽痿。青雀肉煮熟食。連續食用。(「全國中草藥彙編」)、『用法用量』に『内服。適量、煮食。或焦研面、白水冲服』とある。

『「番椒(たふがらし)」、小鳥《ことり》の病《やまひ》を治し』ムクロジ目ミカン科サンショウ属 Zanthoxylum 、及び、そのうちで、香辛料として使われるものを指すか、又は、ナス目ナス科トウガラシ属 Capsicum(タイプ種はトウガラシ Capsicum annuum )、或いは、コショウ目コショウ科コショウ属 Piper(タイプ種はコショウ Piper nigrum )を指す。まず、鳥はトウガラシを食べる。「YAHOO! JAPANニュース」の「唐辛子が辛いのは食べてもらうため!? 鳥と唐辛子の意外な関係性」に、『鳥類のカプサイシン受容体は哺乳類のものとは異なり、辛さに鈍感なことがわかっている。そのため、鳥は唐辛子を平気で食べることができる』とあり、サイト「中津動物病院グループ」の「飼い鳥の健康チェック」の「青菜」の項の最後に、『穀類には全くビタミンAが含まれていませんので、ピーマンやトウガラシ、にんじんや』、『その他の緑黄色野菜を時々与えることも必要です』とあった。

『「山𣾰《やまうるし》」、金魚の病《やまひ》を治する』ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ヤマウルシ(山漆)Toxicodendron trichocarpum 。中文名は、同種の「維基百科」で、「毛漆樹」である。しかし、ネットでは、この事実は見当たらない。私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」の「金魚」にも、ウルシの効用は載っていない。『白楊皮を得れば、蝨〔しらみ〕を生ぜざるなり』とはあった。しかし、『「白楊皮」はヤナギ科ヤマナラシ属ハコヤナギ Populus sieboldii 。なお、ヨーロッパでは古くから、この樹の皮を膀胱炎や、老人の排尿困難等に処方してきた歴史があるらしい。それを金魚のいる水に浸せば、その滲出液の持つ薬効成分が、前二者とは対照的に、以下の金魚につくウオジラミを退治してくれる、という意味である』と私は注した。ウルシでは、ない。何か、御存知の方は、是非、御教授願いたい。

唐橙(からかぶす)【「加良加不須」。】葉、橙《だいだい》に似て、微《やや》、長く、其の實、正黃色。皮、厚く、理《すぢめ》、宻《みつ》にして、形、長く、團《まろし》。味、酸《すつぱく》、微《やや》、苦《にがし》。[やぶちゃん注:「唐橙」不詳。]

△按ずるに、此れ、乃《すなは》ち[やぶちゃん注:ここは、原本では「イ」と振っているが、「チ」の誤刻と断じて、特異的に訂した。]、眞《まこと》≪の≫橙《かぶす》なり。近年、希《まれ》に、之れ、有り。尋-常(よのつね)の、「橙《だいだい》」と稱する者、乃《すなはち》、「本草≪綱目≫」に所謂《いはゆ》る、『一種、氣、臭き者、有《あり》。』と云≪へる≫[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、是れなり。凡そ、橙の葉、本《もと》に、刻缺《きざみかけ》、有《あり》て、叚《だん》を爲《なす》≪こと≫、果《くわ》の蒂(へた)を見るごとし。「乳柑(くねんぼ)」・「柚《ゆず》」・「温州橘(う《しう》きつ)」・「櫠椵(さんず)」の類《るゐ》、皆、然りなり。

[やぶちゃん注:「櫠椵(さんず)」なかなか、この種が何であるかは、難しい。次の次の項が「櫠椵 ゆこう」で、そこで考証を行う。

「𮔉柑」・「柑子《かうじ》」・「包橘(たちばな)」・「金柑《きんかん》」の類《るゐ》の葉、微《やや》、窄(すぼ)くして、叚《だん》、無く、狹《せば》く、長し。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属ダイダイ Citrus aurantium

である。中文名は「維基百科」の同種に拠れば、「代代橙」(この現代の中文名称は、日本からの逆輸入である。……しかし……このページ……写真から、主な記載……殆んど……日本語版のそのマンマだぜ!?!……天下の中華が、こんなんで、いいのかッツ!?!)。当該ウィキを引く(注記号はカットした。必要を感じない箇所は指示せずに省略した)。本邦の漢字表記は『橙、臭橙、回青橙』で、『名前が「代々」に通じることから縁起の良い果物とされ、正月の注連飾りや鏡餅に乗せるのでよく知られる。酸味のある未熟果の果汁はポン酢などの調味料に、熟した果皮は漢方薬にも使われる』。『和名ダイダイは、一つの株に数年代の果実がついていて見られる特徴から、「代々栄える」の意味で「ダイダイ」と呼ばれるようになったとされる』。『また、「回青橙」とも呼ばれる』。『インド、ヒマラヤが原産。日本へは中国から渡来した。また、ヨーロッパへも伝わり、「ビターオレンジ」あるいは「サワーオレンジ」として栽培されている』。『日本では静岡県の伊豆半島や和歌山県の田辺市が主産地。その多くは正月飾り用であったが、近年は消費が落ち込んでいるため、ポン酢などに加工されるようにもなった』。『高さ』四~五『メートル』『になる常緑小高木で、枝には刺がある。花期は初夏』で、五~六月。『枝の先に』一『輪から数輪の』五『弁ある白い花が咲き、冬に果実が黄熟する。果実の色は橙色と呼ばれる。葉柄は翼状になっており、葉身との境にくびれがある』(割注したリンク先を参照のこと)。『果実は直径』七~八『センチメートル』『になり、冬を過ぎても木から落ちず、そのまま木に置くと』二~三『年は枝についている。冬期は橙黄色となるが、収穫せずに残しておくと』、『翌年の夏にはまた』、『緑色に色づき、再び冬が来ると』、『その実は橙黄色になる』。十二月頃、『熟した果実を採集し、鏡餅、注連飾りなど正月飾りに使用する。また、果汁は酢として料理に利用したり、薬用にもする』。『果実には、リモネン』(limoneneC10H16:柑橘類に含まれる代表的な単環式のモノテルペン(Monoterpene)))『を主成分とする精油、糖分、クエン酸、リンゴ酸、ヘスペリジン、ナリンギンなどのフラボノン、ビタミンAB群・Cなどを含んでいる。果皮には、リモネン、シトラルなどを成分とする精油や、配糖体、カロチン、キサントフィル、ペクチン、脂肪油、フラボノイド、ビタミンAB群・Cなどを含んでいる。ダイダイの精油には、ヒトの胃液の分泌を高める健胃作用があり、皮膚につけば』、『血行促進作用がある。精油以外の成分は滋養保健効果があるといわれている』。『酸味と苦味が強いため、直接食するのには適さない。マーマレードおよび調味料として利用される。緑色の未熟果の果汁は酸味が強く風味がいいことから、ポン酢の材料としても好まれる』。『北欧では、クリスマスのときに飲む グロッグ(グレッグ)』(デンマーク語及びノルウェー語:Gløgg)(グリューワイン)』(ドイツ語:Glühwein)『にダイダイを用いる。スウェーデンのレシピの特徴は使うスパイスの種類にあり、起源は風味の落ちたワインを調味するためである。また』、『あらかじめ』、『干しぶどうを湯で戻し、アーモンドとともに小さなグラスに入れて準備しておいて、供する時に』、『そこにホットワインを注ぐ点は』、『スウェーデンならでは』、『という』(この以下の箇所は、外国語を下手に訳した結果、日本語として読めないので、カットした)。

以下、「薬用」の項。『漢方では、熟した橙色の果実を縦に』四『つ切りして、果実の皮を採集して乾燥させたものを橙皮(とうひ)といい、日本薬局方にも収載され、去痰薬・健胃薬として用いられたり、橙皮チンキ、橙皮シロップ、苦味チンキなどの製薬原料にされている。また、未熟果実を乾燥させたものを枳実(きじつ)といい、芳香性苦味健胃、去痰、排膿、緩下薬として用いられる』。『民間療法で、食欲不振、消化不良、胃もたれに、橙皮を細かく刻んで』、『すり潰し、粉末状にしたものを』一『回量』一~二『グラムとして毎食後に服用する。ひび、あかぎれなどには、生の果汁を塗るとよく、あらかじめ肌にすり込んでおけば』、『予防に役立つと言われている』。『ダイダイの皮と果実はシネフリン』(synephrineC9H13NO2:数種の動植物が生成するアルカロイドの一つ)『という化合物を含む。これは生薬の麻黄(エフェドラ)』(裸子植物門グネツム綱 Gnetopsidaグネツム目マオウ科マオウ属シナマオウ(支那麻黄)Ephedra sinica )『に含まれる成分(エフェドリン)』(ephedrine:薬学者・化学者で、日本薬学会初代会頭を勤めた長井長義(弘化二(一八四五)年~昭和四(一九二九)年)が明治一八(一八八五)年、『麻黄からエフェドリンを発見。その後、これが大量に合成可能であることを証明した。これは、気管支喘息患者にとって、呼吸困難から救われる福音となった』(当該ウィキより引用)ことから、彼は「エフェドリンの長井」として知られる)『と類似の構造をもつ。交感神経・副交感神経混合型興奮作用を有していることから、この成分を加工したものが「シトラス」という名称でアメリカでダイエット用の健康食品として使用されているが、エフェドラと同様の作用を示すことから、副作用報告も出ている。なお、「体脂肪を燃焼する」、「運動機能を向上させる」などの、ヒトでの有効性については、信頼できるデータが十分ではない』。

『精油を採取した部分で呼び名が異なる。これらは香料として香水や化粧品、食品等に使用される。アロマテラピーにも用いられる』。『果皮から圧搾法また水蒸気蒸留法で採取された精油はオレンジ油、ビターオレンジ油、橙油と呼ばれる』。『枝葉を水蒸気蒸留して採取された精油は プチグレイン』(Petitgrain)『と呼ばれる』。

以下、「台木」の項。『ダイダイは耐寒性が強く、普通に植えた場合は枯れてしまう種類の柑橘類を接ぎ木で育てる時に』、『根』の側面を『これにすることで、寒い地域でも他の柑橘類を育てられるようになる』。『しかし、カンキツトリステザウイルス』(第四群(Ⅰ本鎖RNA +鎖)クロステロウイルス科 Closteroviridae クロステロウイルス属カンキツトリステザウイルス Citrus tristeza virus 当該ウィキによれば、『全世界で多大な農業被害を与えている』とし、学名の「トリステザ 」は、一九三〇『年代』、『このウイルスの被害を受けた南米の農家が名付けたもので、スペイン語・ポルトガル語で』「悲しみ」『を意味する。ウイルスの媒介は主にミカンクロアブラムシ Toxoptera citricida による』とある)『に感染しやすいことが問題となっている』。

以下、「文化」の項。「大坂冬の陣」の「博労淵(ばくろうぶち)の戦い」で、『砦の指揮官の薄田兼相』(すすきだかねすけ)『は遊女屋に行っている夜』、『徳川勢に突入され、砦を制圧されてしまった。そのため』、『「橙武者」とあだ名がつけられた。理由は』、

『だいだいは、なり大きく、かう類の內、色能きものにて候へども、正月のかざりより外、何の用にも立ち申さず候。さて此(かく)の如く名付け申し』

『(だいだいは大きくて色はいいが、正月の飾りにするよりなんの役にもたたない。だからそう名がついた)」』(「大坂陣山口休庵咄」)『という』とあった。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 (傾聽と驚きのみで、靜であれ、……)

 

 

傾聽と驚きのみで、靜であれ、

私の深い深い生命よ。

風が欲することを、

白樺の震へぬ前に知る爲に。

 

そして若し沈默がお前に語つたら、

お前の官能にうち勝たせろ、

總べての氣息に身を與へろ、從へ。

氣息はお前を愛し搖ぶるだらう。

 

さうしたら、私の魂よ、廣くなれ、廣くなれ、

お前に人生が成功するやうに。

晴衣のやうに擴げろ、

物を思ふ事物の上へ。

 

 

[やぶちゃん注:「靜」「せい」と音読みすべきであろう。

「搖ぶる」再版「詩集」では、「ゆすぶる」とルビを振っている。]

2025/01/17

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 (お前は人生を理解してはならない。……)

 

お前は人生を理解してはならない。

すると人生は祭のやうになる。

丁度子供が進みながら

あらゆる風から

澤山の花を贈つて貰ふやうに、

每日そのやうにさせるのだ

 

その花を集めて、貯へる。

そんなことを子供は思はない。

花が捕はれてゐたがつた

髮から輕くそれを拂つて。

子供は愛らしい若い年々に

新しい花を求めて兩手を差出す。

 

[やぶちゃん注:……私は最近、「私の人生は、たいして面白くも、糞くもないものだった……」と独語を反復することが多いが、考えてみれば、それは、哲学者のように「人生を理解し」ようとする誤謬の結果としての――呪われたトートロジー――に過ぎないのであったと気づくのである…………。

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 (私は晝と夢との間に住む。……)

 

 

私は晝と夢との間に住む。

其處には心の熱い子供がまどろみ、

老人は夕ぐれに坐つて

竃は燃えてその部屋を照らしてゐる。

 

私は晝と夢との間に住む。

其處には夕の鐘が澄み渡つて消えゆき

少女等は餘韻に捕はれて

疲れて泉の緣にもたれてゐる。

 

一本の菩提樹が私の愛する樹、

その中に默つてゐるあらゆる夏は

その數千の枝の中に再び動いて

また晝と夜との間に番をする。

 

[やぶちゃん注:「竃」「かまど」。

「夕」「ゆふべ」と訓じておく。

「緣」先行する訳詩では、総て「へり」とルビしている。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 (私は今いつまでも同じ路を行く。……)

 

私は今いつまでも同じ路を行く。

薔薇の花が丁度身仕度をしてゐる

花園に沿ひながら。

しかし私は感じる、未だ長い長い間

總べてが私の迎へではない。

感謝も響もなく私は

薔薇のそばを通らなくてはならない。

 

私は贈物の與へられない、

行列を始める人に過ぎない。

もつと幸福な人々が來るまで、

光つた靜かな容姿が――

すると薔薇は風にふかれて

赤い旗のやうに開くだらう。

 

[やぶちゃん注:本篇は、再版「詩集」では、多数の手入れがされてあることが、岩波文庫の校注にある(五件)。確かに、以上の訳詩は、日本語として、大きく二箇所で、流れに違和感がある。ここで、正字で全体をそれに従って、書き変えられたものを再現しておく。

   *

 

私は今いつまでも同じ路を行く。

薔薇の花が丁度身仕度をしてゐる

花園に沿ひながら。

しかし私は感じる、未だ長い長い間

總べてが私を迎へはしない。

感謝も響もなく私は

薔薇のそばを通らなくてはならない。

 

私は、贈物の與へられない、

行列を始める人に過ぎない。

もつと幸福な人々が

光つた靜かな容姿が――來るまでに、

薔薇は風にふかれて

赤い旗のやうに開くだらう。

 

   *]

2025/01/16

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「舊詩集」 (序詩)・(日常の中に滅びた憐れな言葉、……)

 

 

      舊詩集

 

 

  憧憬は、波濤の中に住むで、

  時の中に故鄕を持たぬこと。

  願ひは、永遠と

  日々の時間との小聲の會話。

 

  生活は、昨日の中から

  あらゆる時間の一番寂しい時間が、

  他の姉妹等とは異つた微笑をしながら、

  昇つて來て永遠を默つて迎へるまで。

 

[やぶちゃん注:「(序詩)」は、岩波文庫の校注に、『〔旧詩集〕序詩』とあるのに従った。実際には、原本では、この詩は有意なポイント落ちになっているが、それは再現しなかった。]

 

 

 

日常の中に滅びた憐れな言葉、

目立たぬ言葉を私は愛する。

私の宴(うたげ)から私がそれに色を與へると

言葉は微笑むで徐に樂しくなる。

 

彼等が臆病に内へ押入れた本性が

はつきりと新になつて誰にも見えて來る。

一度も未だ歌の中で步まなかつたのが、

慄へながら私の小曲の中を步く。

 

[やぶちゃん注:「徐に」「おもむろに」。

「新になつて」「あらたになつて」。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「基督降誕節」(一八九八年) 「母たち」(二章) /「第一詩集」~了

 

 

  母たち

 

 

私は折々一人の母にあくがれる。

白髮に蔽はれた靜かな女に。

その愛に始めて私の自我が花咲かう。

私の魂へ氷のやうに忍入つた

あの荒い憎みもその母には消されよう。

 

その時我々は寄添つて坐らう。

暖爐には火が靜に鳴るだらう。

私は愛(いと)しい唇の語ることに耳傾け、

平和は茶の瓶の上に漂はう、

ランプをめぐる蛾のやうに。

 

[やぶちゃん注:第二連「私は愛(いと)しい唇の語ることに耳傾け、」は、底本では、末尾が句点になっている。岩波文庫の校注に、この読点は誤り(誤植?)であったので、再版「詩集」で読点に訂正している、とあったので、特異的に訂しておいた。なお、当該ウィキによれば、『オーストリア=ハンガリー帝国領プラハにルネ(・カール・ヴィルヘルム・ヨーハン・ヨーゼフ)・マリア・リルケ(René Karl Wilhelm Johann Josef Maria Rilke)として生まれる。父ヨーゼフ・リルケは軍人であり、性格の面でも軍人向きの人物だったが、病気のために退職した後』、『プラハの鉄道会社に勤めていた。母ゾフィー(フィアと呼ばれていた)は枢密顧問官の娘であり』、『ユダヤ系の出自であった。二人は結婚後まもなく女児をもうけたが』、『早くに亡くなり、その後』、『一人息子のルネが生まれた。彼が生まれる頃には両親の仲は』、『すでに冷え切っており、ルネが』九『歳のとき』、『母は父のもとを去っている。母ゾフィーは娘を切望していたことから』、『リルケを』五『歳まで女の子として育てるなどし、その奇抜で虚栄的な振る舞いや』、『夢想的で神経質な人柄によって』、『リルケの生と人格に複雑な陰影を落とすことになる。母に対するリルケの屈折した心情はのち』、『ルー・アンドレアス・ザロメや』、『エレン・ケイに当てた手紙などに記されている。リルケは父の実直な人柄を好んだが、しかし』、『父の意向で軍人向けの学校に入れられたことは』、『重い心身の負担となった』とある。

「憎み」「にくしみ」と訓じておく。]

 

 

 

痛みと憂とがお前の心を通る時、

人々はお前に汚辱だと云つてゐる。――

おお、微笑め、女よ。お前の立つのは

お前を淨める奇蹟の緣(へり)だ。

 

心の中に微にふくらむものを感ずるなら、

お前の身も魂も廣くなる――

おお、禱れ、女よ、それこそは

永遠の波である。

 

[やぶちゃん注:「憂」「うれひ」と訓じておく。

「微笑め」「ほほゑめ」。

「微に」「わづかに」。

「禱れ」「いのれ」。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 柑子

 

Kouji

 

かうじ   柑子

      【和名加無之

柑子    俗云加宇之】

      黃柑【今按】

 

 

[やぶちゃん注:最後の割注は、ママ。良安に書き忘れか。]

 

△按柑子乃柑類之總名也今單稱柑子者乃陳藏器之

 所謂黃柑是也然詳考形狀今柑子乃橘之屬也其樹

 似橘葉亦似橘而短實似𮔉柑而小皮薄純黃味酸苦

  夫木この程はいせに知る人をとつれて便り色ある花かうし哉慈圓

[やぶちゃん注:「をとつれて」はママ。]

一種有白和柑子出於遠州白和村故名之大如𮔉柑而

 味亦稍美

 

   *

 

かうじ   柑子

      【和名、「加無之《かむじ》」。

柑子    俗、云ふ、「加宇之」。】

      黃柑《わうかん》【今、按ずるに、】

 

 

[やぶちゃん注:最後の割注は、ママ。良安に書き忘れか。]

 

△按ずるに、柑子は、乃《すなはち》、柑類の總名なり。今、單に「柑子」と稱する者、乃《すなはち》、≪「本草綱目」に≫陳藏器が所謂《いはゆ》る、「黃柑」、是れなり。然《しか》るに、詳《つまびらか》に形狀を考《かんがふ》るに、今の柑子、乃ち、橘(みかん)の屬なり。其の樹、橘に似《に》、葉も亦、橘に似て、短く、實は𮔉柑に似て、小《ちさ》く、皮、薄く、純黃、味、酸《すぱ》く、苦《にが》し。

 「夫木」

  この程は

     いせに知る人

   をとづれて

      便《たよ》り色ある

          花かうじ哉《かな》 慈圓

一種、「白和柑子(しろわ《かうじ》)」、有り。遠州白和村[やぶちゃん注:現在の静岡県浜松市中央区白羽町(しろわちょう:グーグル・マップ・データ)]に出づ。故《ゆゑ》、之れを名づく。大いさ、𮔉柑のごとくにして、味も亦、稍《やや》、美なり。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属コウジ Citrus leiocarpa

である。当該ウィキによれば、漢字表記は『「甘子」または「柑子」』で、『「ウスカワ(薄皮)ミカン」とも言われる』。『古くから日本国内で栽培されている柑橘の一種だが』、八『世紀頃に中国から渡来したと言われる(一説には「タチバナ」』(日本固有種タチバナ Citrus tachibana )『の変種とも)。果実は一般的な「ウンシュウミカン」』( Citrus unshiu )『よりも糖度が低く酸味が強い。種は多いが』、『日持ちは良い』。『樹勢が強く』、『耐寒性に優れている』ため、『「ウンシュウミカン」の露地栽培が難しい日本海側の一部でも栽培されている』とある。小学館「日本国語大辞典」も引いておく。『「かんじ」の変化した語』で、『ミカン科』Rutaceae『の常緑小高木。在来ミカンの一種で』、『耐寒性が強く』、『山陰・北陸・東北地方にも家庭用として栽培されている。果実は扁平で小さい。果皮は蝋質黄色、滑らかで薄くむきやすい。果肉は淡黄色で、八~』十『室あり、酸味が強く』、『種子が多い。スルガユコウ』(駿河柚柑:Citrus leiocarpaSuruga-yuko’ )『フクレミカン』( Citrus tumida )『などの品種がある。新年の注連縄』・『蓬莱などの飾りに用いることがある。こうじみかん。また一般にミカンの異名としてもいう』とある。

『≪「本草綱目」に≫陳藏器が所謂《いはゆ》る、「黃柑」、是れなり』「本草綱目」の「卷三十」の「果之二」の「柑」の項(「漢籍リポジトリ」のここ[075-35b]以降)の「集解」の(一部の漢字を書き換え、句読点・記号を打ち、当該箇所に太字下線を附した)、

   *

藏器曰、『柑、有、朱柑・黃柑・乳柑・石柑・沙柑。橘、有、朱橘・乳橘・塌橘・山橘・黄淡子。此輩、皮、皆、去氣調也。中實俱、堪食。就中、以乳柑、爲上也。』。

   *

「夫木」「この程はいせに知る人をとづれて便《たよ》り色ある花かうじ哉《かな》」「慈圓」既注の「夫木和歌抄」に載る慈円の一首で、「卷八 夏二」の最後に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「02729」)。そこでは、

   *

このほとは-いせにしるひと-おとつれて-たよりいろある-はなかうしかな

   *

とある。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「基督降誕節」(一八九八年) 「贈物」

 

 贈  物

   さまざまの友ヘ

 

これが私の爭だ。

憧憬に身をささげて

每日を步み過ぎる。

それから、强く廣く

數千の根の條で

深く人生に摑み入る――

惱みを經て

遠く人生の外に熟す。

時代の外に。

 

 

 

私は好く、途方に暮れて

誰かを待つ、忘られた野中の聖母を。

寂しい泉へ夢みながら行く

ブロンドの髮に花を揷した少女を。

 

太陽に向いて歌ひ、

驚いて星を大きく見守る子供を。

私に歌を持つて來る晝を。

花の咲きさかつてゐる夜々を。

 

 

 

塵まみれな飾のついた

あはれな古い禮拜堂よ――

春は明るいお寺を

お前の側に立てる。

 

凍える澤山の女たちは

お前の香(かう)の安けさへ足をひく。

外では子供等が

總べての薔薇を麾(さしまね)く。

 

 

 

私はもう一度お前を見たい。

古い菩提樹の並木のある庭苑よ。

さうして一番もの靜かな女と

神聖な池へ行きたい。

 

輝く白鳥らは誇らしげな容姿で

滑かに光る水面をそつとすべり、

沈むだ町の傳說のやうに、

水底から浮ぶ蓮の花。

 

庭には私たちばかり、

そこに花は子供等のやうに立ち、

私たちは微笑み、耳傾けて待つてゐる。

そして互に訊ねない、誰をとは……

 

 

 

私の神聖な孤獨よ、

お前は富むで、純粹で、廣くて、

眼をさます園のやうだ。

私の神聖な孤獨よ――

その前に願らが待つてゐる

黃金の扉を閉めておいで。

 

[やぶちゃん注:岩波文庫の校注に、『『詩抄』では「贈物 さまざまの友へ」がこの詩[やぶちゃん注:以上の第一連の詩を指す。]のタイトルであるかのように活字が組まれているが、これは以下の詩全体のタイトルであり、『詩集』[やぶちゃん注:再版「詩集」のこと。]では扉として立てられているため、これを反映させて体裁を訂正』したとあって、「贈物 さまざまの友へ」として、左丁で独立して以上の五篇の総て(総てが改ページされている)の中標題化されてある。私は、原本に則り、各々の四つの詩の間を三行空けて示した。

 則ち、岩波文庫のそれは、この五篇の詩が、連続した「連」ということになるわけだが、然し乍ら、ドイツ語の電子テクストを調べてみても、これら五篇をソリッドに纏めた電子化物を見出すことが出来なかった。私はドイツ語が読めないので、自動翻訳で、以上の各詩篇をドイツ語のWikisource、第一篇・第二篇・第三篇・第五篇までの四篇まで、捜し得ることが出来た。以下に示す(リンクは前掲のドイツ語の「Wikisource」の「Advent(Sammelband)」の当該原詩。一部は、訳に合わせて行空けをしたものがある)。標題のうち、後の三篇の“,”内の人名は、その詩篇をリルケが、「贈り物」として捧げた人物名である。

 

〈第一篇〉=[9] “MirRilke)”

   *

 

Mir.

 

Das ist mein Streit:

Sehnsuchtgeweiht

Durch alle Tage schweifen.

Dann, stark und breit,

 

Mit tausend Wurzelstreifen

Tief in das Leben greifen –

Und durch das Leid

Weit aus dem Leben reifen,

Weit aus der Zeit!

 

   *

 

第二篇=[12] “Prinz Emil zu Schönaich-Carolath.

   *

 

Ich liebe vergessene Flurmadonnen,

Die rathlos warten auf irgendwen,

Und Mädchen, die an einsame Bronnen,

Blumen im Blondhaar, träumen gehn.

 

Und Kinder, die in die Sonne singen

Und staunend gross zu den Sternen sehn,

Und die Tage, wenn sie mir Lieder bringen,

Und die Nächte, wenn sie in Blüten stehn.

 

・この“Prinz Emil zu Schönaich-Carolath”は、プロイセンの皇子の子で、詩人・小説家であったエミール・ルドルフ・オスマン シェーナイヒ=カロラート=シルデン王子(Emil Rudolf Osman Prinz von Schoenaich-Carolath-Schilden(一八五二年~一九〇八年)。彼はリルケを支持した詩人であった。リルケより二十三歳も年上である(ドイツ語の彼のウィキに拠る)。

 

   *

 

第三篇=[22] “Hugo Salus.

   *

 

Du arme, alte Kapelle

Mit deiner verstaubten Zier –

Der Frühling baut eine helle

Kirche neben dir.

 

Viel frierende Frauen hinken

In deine Weihrauchruh,

Draussen die Kinder winken

Allen Rosen zu.

 

・この“Hugo Salus”は、ボヘミア生まれの婦人科医にして、ドイツ語の作家であったヒューゴ・サルース(Hugo Salus 一八六六年~一九二九年)で、ドイツ語の当該ウィキによれば、彼は『数多くの詩や物語を出版し、当時のドイツのプラハ文学の最も重要な代表者の一人であった』とある。リルケより九歳、年上である。

   *

 

第五篇=[10] “Jens Peter Jacobsen.

 

Du meine heilige Einsamkeit,

Du bist so reich und rein und weit

Wie ein erwachender Garten.

Meine heilige Einsamkeit du –

 

Halte die goldenen Thüren zu

Vor denen die Wünsche warten.

 

・この“Jens Peter Jacobsen”「イエンス・ペーター・ヤコブセン (Jens Peter Jacobsen184747日-1885430) は、邦文ウィキがあった。デンマークの詩人・小説家で、植物学者(専攻は藻類らしい)。『デンマーク語ではイェンス・ピーダ・ヤコプスンに近い発音で発音される』。一八七六『年の末に』「マリィエ・グルベ夫人」( Fru Marie Grubbe )』刊行。これは17世紀に実在した美貌の貴族女性で、国王の弟・姉婿の騎士・自家の下僕と男性遍歴を重ね、最後は渡船場の女将となったその生涯と内面を描いたものである。反響は大きく、諸外国からも翻訳の申し込みを受ける」。一八八〇『年、病』(ドイツ語の彼のウィキに“Tuberkulose”(音写「トゥベルクロゥーゼ」:薬剤「ツベルクリン」(ドイツ語:Tuberkulinはこの病原由来)=結核)と明記されてある)『が重くなる中で』、『奇跡的に』「ニルス・リューネ」( Niels Lyhne ’)を故郷の家で完成させる。イプセン、ドイツの詩人リルケ』(☜)『などをも感動させたこの作で、ヤコブセンは』、『神に反抗して』、『詩作と恋愛で人間性を高揚させようとし、生きる根拠と目的を失いつつ』、『信念を曲げない人物を創造し、〈無神論者の聖書〉と一部の人には呼ばれた』とある。

   *

 さて、私が、ここで、甚だ、疑問に思うのは、

――このドイツ語「Wikisource」での――順列ナンバー――

なのである。最後の第五篇が、第[10]であって、

★――前の三篇のうち――二篇が後にある詩篇である――★

ということなのである。無論、この「贈り物」と総題された詩篇群は、個々に、それぞれの人々に贈られた詩篇であって、独立しているのだから、「訳として並べるのは、おかしい。」とは言えない。しかし、まず、今までの茅野氏の、長い詩篇の抄訳では、順列で示されており、何より、

――読者は、当然、これが、原本の順列で並べられている――と百%――思って、読んでしまう

に違いないのである。則ち、

――茅野氏は、同詩群の中から、私には出所不明であった第四篇も含め、恣意的に組み替えられた訳詩であった――

ことが、はっきりしたのである。これは、茅野氏の不親切、というよりも

――この五篇を一つの通底した流れとして読者に錯覚させてしまう――

という点で、非常に問題がある、と、私は、感ずるのである。少なくとも、岩波文庫版の校注では、この恣意的な組み合わせについて、指摘すべき義務があると私は考えるのである(再版「詩集」で、どこに読みを振ったかなんてことより、こっちの方が、超必要だろ!)。未発見の第四篇の原詩を含め、識者のお考えをお教え下さると、幸いである。

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「基督降誕節」(一八九八年) 「基督降誕節」

 

 

   基督降誕節

        (一八九八年)

 

 

 基督降誕節

 

風は冬の森で雪片の群を

羊飼のやうに逐つてゐる。

多くの樅の木は、間もなく

敬虔に、また燭光で

神聖になるを豫感して、耳を傾け、

白い路の方へ枝を延ばす――用意し、

風を防ぎながら、華やかな

その一夜に向つて生育つ。

 

[やぶちゃん注:六行目「白い路の方へ枝を延ばす――用意し、」のダッシュは、底本では一字分しかないが、これは誤植と断じ、特異的に補正した。岩波文庫の校注には、これに就いての注は、ない。

「基督降誕節」ドイツ語の「Wikisource」のここに原詩があるが、その原題は‘ Advent ’(音写「アドベントゥ」)である。当該ウィキによれば(下線太字は私が附した)、『アドベント(Advent)は、キリスト教西方教会においてイエス・キリストの降誕を待ち望む期間のことである。日本語では待降節(たいこうせつ)、降臨節(こうりんせつ)、または待誕節(たいたんせつ)という。教派によって名称が異なり、主にカトリックや福音主義教会(ルター派)では待降節、聖公会では降臨節と呼ぶ』。『アドベントという単語は「到来」を意味するラテン語Adventus(=アドベントゥス)から来たもので、「キリストの到来」のことである』。ギリシャ『語の「エピファネイア(顕現)」と同義で、キリスト教においては、アドベントは人間世界へのキリストの到来、そして、キリストの再臨(ギリシア語のパルーシアに相当)を表現する語として用いられる』。『西方教会では』、『教会の』一『年は待降節から始まる』十一月三十日の『「聖アンデレの日」に最も近い日曜日からクリスマス』・『イブまでの約』四『週間で、最も早い年で』十一月二十七日、『遅い年でも』十二月三日に『に始まる』。五『世紀後半に、クリスマス前の断食の時期として、聖マルティヌスの日が開始日と定められたが、後にグレゴリウス』Ⅰ『世の時代に』、四『回の主日と定められた。最初のアドベントを待降節第一主日、もしくは降臨節第一主日と呼び、その後、第二、第三、第四と主日が続く』。『正教会では、アドベントという概念はない』。『正教会では』、『復活大祭および聖神降臨祭が教会暦の節目とされ、アドベントを基準に教会暦を数えることはせず』、十一月十四日から『クリスマスイブまでの』四十『日間』、『「使徒聖フィリップ(フィリポ、ピリポ、フィリポス)の斎」が行われる』。『これを英語圏などでアドベントと呼ぶことがある』但し、『日本の正教会でこの時期を公式にアドベント等と呼ぶことはない』。『正教会の暦は本来』、『ユリウス暦であるが、日本ハリストス正教会ではクリスマスをグレゴリオ暦で行う教会があるため、その場合は「フィリップの斎」の期間が短縮される』、但し、『クリスマスの前後の主日は特別な一連の祭を行う』とあった。]

2025/01/15

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「冠せられた夢」(一八九七年) 「愛する(二十二章の中)」「二二」 /「冠せられた夢」(一八九七年)~了

 

   二二

 

長いことだ――長いことだ……

何時――と私には全く云はれない……

鐘が響いた、雲雀がうたつた、――

心臟が幸福に鼓動した。

 

天は若い森の傾斜の上に澄み渡り、

リラは花を持つてゐた。

それから日曜著の少女が、すらりと、

驚異の間に充ちた眼……

長いことだ――長いことだ……

 

[やぶちゃん注:「何時」「いつ」。

「リラ」原文(ドイツ語の「Wikisource」の、ここの「XXII」で確認出来る)“Flieder”(ネイティヴ音写「フリィダー」)は、双子葉植物綱モクセイ目モクセイ科ハシドイ属ムラサキハシドイ(紫丁香花)Syringa vulgaris 。和名より、フランス語の「リラ」(Lilas)、或いは、英語の「ライラック」(Lilac)の方が親しい。当該ウィキに『花冠の先は普通』四『つに裂けているが、まれに』五『つに裂けているものがあり、これは「ラッキーライラック」と呼ばれ、恋のまじないに使われる』とあった。ブログ「日々是好日 とっつあんの雑記帳」の『初夏の花(^^♪見つけると幸運と言われ、恋が叶うという言い伝えもある「ラッキーライラック」』に、『ライラックの花びらは通常』四『枚ですが、四つ葉のクローバーのように珍しいライラック(花びらが』五『枚のラッキー』・『ライラック』( Lucky Lilac )『)が存在します。ラッキー』・『ライラックは、見つけると幸運と言われていますし、恋が叶うという言い伝えもあるとか!?』。『ちなみにライラックの花言葉は、紫色が「恋愛の最初の感情」、「初恋」と「恋の芽生え」、白色が「青春のよろこび」、「無邪気」と「若さ」だそうです』とあった。

「日曜著」「にちやうぎ」。日曜着。言わずもがな、教会へ礼拝に行く際の正装服。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「冠せられた夢」(一八九七年) 「愛する(二十二章の中)」「一八」

 

   一八

 

春に、それとも夢に、

私はお前に逢つた、嘗て。

そして今我々は一緖に行く、秋の日を。

そしてお前は私の手を握締めて泣く。

 

飛去る雲を泣くのか、

血のやうに赤い葉の爲か、さうではあるまい。

私は感ずる。お前は嘗て幸福だつた

春に、それとも夢に……

 

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「冠せられた夢」(一八九七年) 「愛する(二十二章の中)」「六」

 

   

 

我々は考込むで坐つてゐた、

葡萄の葉蔭に――お前と私と――

頭の上の香の高い蔓の中の

何處かで蜂がうなつてゐた。

 

五色の輪が、反射が

お前の髮に一寸の間休むだ……

私は何にも云はなかつた、ただ一度、

『何といふ美しい眼をお前は持つてるのだ。』

 

 

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「冠せられた夢」(一八九七年) 「愛する(二十二章の中)」「二」

 

   

 

それは白菊の日であつた。

私はその重々しい華美(はでやか)さが恐しい位だつた……

その時、あなたが私の魂をとりに來た。

夜ふけに。

 

私は恐ろしかつた。あなたはやさしく靜に來た――

丁度私は夢であなたを思つてゐた。

あなたは來た。童話の歌のやうに靜に

夜が鳴響いた……

 

[やぶちゃん注:「鳴響いた」再版「詩集」で「鳴り響いた」としている。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「冠せられた夢」(一八九七年) 「愛する(二十二章の中)」「一」

 

 

  愛 す る (二十二章の中)

 

 

   

 

それから愛はどんな風にお前に來たんだらう。

日の照るやうに、花吹雪のやうに來たか。

祈禱のやうに來たか。――お話し。

 

幸福が輝きながら天から離れて、

翼を疊むで大きく

私の花の咲いてる魂に懸つたのです……

 

 

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 乳柑

 

Kuenbo

 

くねんぽ  木加

       【俗云九年母】

乳柑

 

 

[やぶちゃん注:「ぽ」はママ。訓読では濁点にした。異名の「木加」は引用の誤りである。国立国会図書館デジタルコレクションの胡承竜版(万暦一八(一五九〇) 序)の当該部を見たところ、「柑」(この上欄外に旧蔵者が朱で、「柑」に『○』して、その右に『和ク子ンホ』と記しているのが嬉しいね!)の「釋名」に『木奴』とある。訓読文では訂した。

 

本綱乳柑樹無異于橘伹剌少耳其子大于橘而瓣味甘

伹未經霜時猶酸霜後甚甜故名柑子其皮比橘紋粗色

黃而厚內多白膜其味不苦而辛甘橘可久留柑易腐敗

柑樹畏氷雪橘樹畧可此柑橘之異

韓彥直橘譜云乳柑其木婆娑其葉纖長其花香韻其實

[やぶちゃん注:「纖」は、原本では、「織」の「日」が「月」になり、その上部も「甘」のようになっており、こんな漢字は存在しない。「漢籍リポジトリ」が作動していないので、「維基文庫」のこちらで、確認したところ、「果之二」の「柑」の「集解」の第五段落の一行目に『其葉纖長』と確認出来たので、特異的に訂した(初めは、国立国会図書館デジタルコレクションの胡承竜版(万暦一八(一五九〇) 序)の当該部を見たが、劣化がひどく、拡大しても、肝心の中央の字体が見えなかった)。

正圓膚理如澤蠟其大六七寸其皮薄而味珍脉不粘瓣

食不留滓一顆僅一三核亦有全無者擘之香霧噀人爲

柑中絕品【其皮辛甘寒橘皮苦辛溫】今人以乳柑皮僞爲橘皮可擇

凡柑類有八種

生枝柑形不圓色青膚粗味帶微酸留之枝間可耐久俟

味變甘乃帶葉折○海紅柑樹小而顆極大有圍及尺者

皮厚色紅可久藏○洞庭柑皮細味美其熟最早○甜柑

類洞庭而大毎顆必八瓣不待霜而黃也○木柑類洞庭

膚粗頑瓣大而少液○朱柑類洞庭而大色絕嫣紅其味

酸人不重之○饅頭柑近蒂起如饅顛尖味皆美也

△按乳柑俗云九年母也而未知所以其名蓋橘柑並總

 名而各有其種類惟曰橘者乃斥𮔉柑曰柑者是九年

 母也雖有八種而所有于本朝者不多蓋九年母形狀

 皆如上說伹葉似橙而長有淺粗刻耳

 

   *

 

くねんぼ  木奴

       【俗、云ふ、「九年母」。】

乳柑

 

 

「本綱」に曰はく、『乳柑《にゆうかん》の樹、橘《きつ》に異《ことなる》こと、無《なし》。伹《ただし》、剌《とげ》、少きのみ。其の子《み》、橘より、大にして、瓣《なかご》、味、甘し。伹《ただし》、未だ、霜を經ざる時、猶を[やぶちゃん注:ママ。]、酸《すつぱ》きがごとし。霜の後《のち》、甚だ、甜《あまし》。故に、「柑子《かうじ》」と名づく。其の皮、橘に比ぶれば、紋、粗く、色、黃にして、厚く、內に、白≪き≫膜《わた》、多く、其の味、苦からずして、辛く、甘し[やぶちゃん注:「辛甘(からあま)い」。]。橘(みかん)は、久《ひさし》く、留《とど》む[やぶちゃん注:永く保存出来る。]≪るに對し、≫柑(くねんぼ)は、腐敗≪し≫易し。柑の樹は、氷雪《ひようせつ》を畏《おそ》る。橘の樹は、畧《ちと》、可《か》なり。此《これ》、柑・橘の異なり。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「柑の樹は、氷雪《ひようせつ》を畏《おそ》る。橘の樹は、畧《ちと》、可《か》なり」東洋文庫訳では、この「柑」に、『(南地産ミカン)』、「橘」に、『北地産ミカン』』と割注している。既にこれらの見解は私の先行する項で、分布の棲み分け理論を示してあるので、そちらを見られたいが、この割注は、なかなかに、珍しく、的を射た添え文であるとは思う。

『韓彥直が「橘譜」[やぶちゃん注:既に前項「包橘」で注した通り、時珍の誤認で、「橘錄」が正しい。]に云はく、『乳柑は、其≪の≫木、婆娑《ばさ》たり[やぶちゃん注:舞う人の衣服の袖が美しく翻るさまの原義を、梢が風に揺れるさまを喩えた語。]。其の葉、纖長(ほそ《なが》)く、其の花、香韻《かういん》あり[やぶちゃん注:香りに余韻がある。]。其の實、正圓、膚理《ひり》、澤蠟《たくらう》のごとし[やぶちゃん注:艶やかで蠟(ろう)のようである。]。其の大いさ、六、七寸。其の皮、薄くして、味、珍《めづら》し。脉《すぢ》、瓣《わた》、粘《つ》がず、食ふに、≪口中に≫滓《かす》を留めず。一顆、僅《わづか》に一《いつ》、三《みつ》≪の≫核《さね》≪有るばかり≫、亦、全く無き者≪も≫、有り。之れを擘《さ》くに、香《かをり》≪の≫霧《きり》、人を《✕→に》、噀《ふ》≪きかせしむ≫[やぶちゃん注:この「噀」(音「ソン」)は「水などを噴き出す・吐く」の意であるから、かく使役形で読まないと、正常な文が成立しない。]。柑中の絕品なり【其の皮は、辛甘《しんかん》、寒。橘の皮は、苦辛《くしん》、溫。】。今≪の≫人、乳柑の皮を以《もつて》、僞《いつはり》て、「橘皮」と爲《なす》。≪宜しく≫擇《えら》ぶべし。』≪と≫。』≪と≫。『凡そ、柑類、八種、有り。』≪と≫。

[やぶちゃん注:以下、各個の解説であるので、改行し、最初の「」にも頭に「○」を附した。引用の「≪と≫」は五月蠅くなるだけなので、最後の総評部を除いて、附さなかった。但し、子細に調べてみると、前文の「韓彥直」の「橘錄」の引用は、実は、良安と同じく、時珍がパッチワークで記し、以下の各類の記載もまた、同書からのパッチワークである上に、前文も以下も、一部は時珍が表記を換えたり、勝手に彼の言葉を添えていることが、判った。極めて細部に亙るので、それを煩瑣なので指摘はしないが、「漢籍リポジトリ」にある「橘錄」の「卷上」の「真柑」以下、「生枝柑」・「海紅柑」・「洞庭柑」・「朱柑」をと、「本草綱目」の記載を見ると、「橘錄」にはない単語やフレーズが随所にあることが判るのである。是非、比較されたい。

『○「生枝柑《しやうしかん》」は、形、圓《まろ》からず、色、青く、膚《はだへ》、粗《そにして、》味、微《やや》酸《さん》を帶ぶ。之れを、留《とどめ》[やぶちゃん注:採果せずに(そのまま置いておけば)。]、枝≪の≫間《あひだ》に、久しく耐ふべ≪ければ≫、味、甘きに變《かは》るを俟《まち》て、乃《すなはち》、葉を帶《おび》て《✕→た儘(まま)に》、折る。』。

○『「海紅柑《かいこうかん》」は、樹、小にして、顆《くわ》、極《きはめ》て大にして、圍《めぐり》、尺に及≪ぶ≫[やぶちゃん注:返り点はないが、返して読んだ。]者、有り。皮、厚《あつく》、色、紅《くれなゐ》にして、久《ひさし》く藏《をさ》むべし。』。

○『「洞庭柑《どうていかん》」は、皮、細《こまか》にして、味、美なり。其《それ》、熟すること、最《もつとも》早し。』。

○『「甜柑《てんかん》」≪は≫、「洞庭」に類《るゐ》して、大なり。顆毎《ごと》≪に≫[やぶちゃん注:返り点はないが、返して読んだ。]、必《かならず》、八瓣《やつふさ》≪有り≫。霜を待たずして、黃≪となる≫なり。』≪と≫。

○『「木柑」≪は≫、「洞庭」に類《るゐ》して、膚《はだへ》、粗《あらく》、頑《ぐわん》なり[やぶちゃん注:ゴツゴツとしている。]。瓣《わた》、大。而《れども》、液、少し。』≪と≫。

○『「朱柑」は、「洞庭」に類《るゐ》して、大なり。色、絕嫣《ぜつえん》≪たる≫[やぶちゃん注:極めて美しい。]紅《くれなゐ》なり。≪然(しか)れども≫、其《その》味、酸《すつぱ》く、人、之れを重んぜず。』。

○『「饅頭柑(まんぢう《かん》)」は、蒂《へた》近《ちかく》に、起《おこり》≪有り≫て、饅顛の尖《さき》のごとし。』。

『味、皆、美なり。』≪と≫。

△按ずるに、乳柑は、俗に云ふ、「九年母《くねんぼ》」なり。而≪れども≫、未だ、其《その》名の所以《ゆゑん》を知らず。蓋し、「橘」・「柑」≪は≫、並《ならび》に、總名にして、各《おのおの》、其の種類、有り。惟《た》だ、「橘」と曰ふ者は、乃《すなはち》、「𮔉柑《みかん》」を斥《さ》す[やぶちゃん注:「指す」と同義。]。「柑」と曰ふ者は、是れ、「九年母」なり。『八種、有る。』と雖も、本朝《ほんてう》に有る所の者≪は≫、多《おほか》らず。蓋し、九年母、の形狀《けいじやう》、皆、上の說のごとし。伹《ただし》、葉≪は≫橙《だいだい》に似て、而《しかも》、長く、淺-粗(あさ《く、あ》ら)き刻(きざみ)、有るのみ。

 

[やぶちゃん注:「乳柑」は冒頭から、困難が窺えた。「維基百科」で調べると、「黃巖蜜橘」の品種に「乳橘」が挙がっている。これは、現行の中文の「橘」は、ミカン属マンダリンオレンジ Citrus reticulata であるから、マンダリンオレンジの品種のように思われるが、同ウィキの『浙江台州黃巖蜜橘「早橘」品種』の写真を見ると、これ、マンダリンオレンジの品種というより(但し、以下の引用に拠れば、近縁種、或いは、栽培品種ではあるようである)、本邦のミカンにクリソツなのだ!

そこで、仕切り直し、「百度百科」で「乳柑」を見たところが、これ、バッチ、グー! だぜ!

『乳柑,是一个汉语词汇,拼音rǔ ɡān释义为温州蜜柑,柑的良种之一』

とある。そうだ! 少なくとも、現在の中国語では、本邦の「みかん」の総代表種である、

双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属ウンシュウミカン(温州蜜柑) Citrus unshiu

を指すのだ!

既に引用しているが、再掲すると、当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『現代において「みかん」は、通常』、『ウンシュウミカンを指す。和名ウンシュウミカンの名称は、温州(』「三国志演義」『などで蜜柑の産地とされる中国浙江省の温州市)から入った種子を日本で蒔いてできた品種であるとの俗説があることに由来するが、本種の原産地は日本の薩摩地方(現在の鹿児島県)の長島であると考えられており、温州から伝来したというわけではない。ウンシュウミカンの名は江戸時代の後半に名付けられたが、九州では古くは仲島ミカンと呼ばれていた』。『中国浙江省の温州にあっては』、『昔からミカンで有名な地方で、温州の名をつけたアイデアは功をなし、学名(種小名)までも unshiu と名付けられている』。『「みかん」が専らウンシュウミカンを指すようになったのは明治以後である。江戸時代には種無しであることから不吉として広まらず、普及していたのは本種より小型の種がある小ミカン(紀州蜜柑)Citrus kinokuniであり、「みかん」を代表していたのは小ミカンであった』。『南宋の韓彦直が』一一七八『年に記した柑橘類の専門書』「橘錄」『には、柑橘は各地で産出されるが「みな温州のものの上と為すに如かざるなり」と記している。日本でも』、「和漢三才圖會」『に「温州橘は蜜柑である。温州とは浙江の南にあって柑橘の産地である」とあり、岡村尚謙』「桂園橘譜」(弘化五・嘉永元(一八四八)年刊)『も「温州橘」の美味は「蜜柑に優れる」と記す。温州は上質で甘い柑橘の産地と認識されていた。古典に通じた人物が、甘みに優れた本種に「温州」と名付けたという推測は成り立つが、確証といえるものはない』。「和漢三才圖會」『には「蜜柑」の品種として「紅蜜柑」「夏蜜柑」「温州橘」「無核蜜柑」「唐蜜柑」の』五『品種を挙げている。「温州橘」「無核蜜柑」は今日のウンシュウミカンの可能性があるが、ここで触れられている「温州橘」は特徴として「皮厚実絶酸芳芬」と書かれており、同一種か断定は難しい。「雲州蜜柑」という表記も見られ』、十九『世紀半ば以降成立の』「增訂豆州志稿」『には』「雲州蜜柑ト稱スル者、味、殊ニ美ナリ」『とあって、これは今日のウンシュウミカンとみられ』ている。明治七(一八七四)年『より全国規模の生産統計が取られるようになった』。『当初は、地域ごとに様々であった柑橘類の名称を統一しないまま統計がとられたが、名称を統一する過程で、小蜜柑などと呼ばれていた種が「普通蜜柑」、李夫人などと呼ばれていた種が「温州蜜柑」となったという。明治中期以降、温州蜜柑が全国的に普及し、他の柑橘類に卓越するようになる。安部熊之輔』「日本の蜜柑」』明治三七(一九〇四)年『は、蜜柑の種類として「紀州蜜柑」「温州蜜柑」「柑子蜜柑」の』三『種類が挙げられている』『英語では「satsuma mandarin」(サツママンダリン)と呼ばれ、欧米では「Satsuma」「Mikan」などの名称が一般的である』。『"satsuma" という名称は』明治九(一八七六)年、『本種が鹿児島県薩摩地方からアメリカ合衆国フロリダに導入されたことによる。なお、その後、愛知県尾張地方の種苗産地からアメリカに本種が渡り、"Owari satsuma" という名称で呼ばれるようにもなった』。『タンジェリン(Tangerine)・マンダリンオレンジ(Mandarin orange)と近縁であり、そこから派生した栽培種である(学名は共に Citrus reticulata )』(太字下線は私が附した)とあった。

 こうなると、「くねんぼ」と、少なくとも、中国で古くに称する「乳柑」「乳橘」の二つは、それぞれ、微妙に異なった種を指していると言ってよいように思われる。

 ともかくも、本邦の名誉のために、

ミカン属マンダリンオレンジ品種クネンボ(九年母)Citrus reticulata 'Kunenbo'

当該ウィキを引かねばならぬ(注記号はカットし、太字下線は私が附した)。『クネンボ』『は』『沖縄県ではクニブ、クニブーと呼ばれる』。『東南アジア原産の品種といわれ、日本には室町時代後半に琉球王国を経由しもたらされた。皮が厚く、独特の匂い(松脂臭、テレピン油臭)がある。果実の大きさから、江戸時代にキシュウミカンが広まるまでには日本の関東地方まで広まっていた。沖縄の主要産品の一つだったが』、一九一九『年にミカンコミバエ』(蜜柑小実蠅:双翅(ハエ)目短角亜(ハエ)亜目ハエ下目ミバエ上科ミバエ科 Bactrocera 属ミカンコミバエ Bactrocera dorsalis のミカンコミバエ種群(Bactrocera dorsalis species complex )『の侵入で移出禁止措置がとられてからは、生産量が激減し、さらに1982年に柑橘類の移出が解禁されてからは、ほとんどウンシュウミカンやタンカンなどが栽培されるようになった。現在は沖縄各地に数本ずつ残っており、伝統的な砂糖菓子の桔餅や皮の厚さと香りを利用したマーマレードなどに利用されている』。『クネンボは日本の柑橘類の祖先の一つとなっている。自家不和合性の遺伝子の研究により、ウンシュウミカンとハッサクはクネンボの雑種である事が示唆された。この事からクネンボが日本在来品種の成立に大きく関与している事が明らかになった』。二〇一六年『には、農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)果樹茶業研究部門が、DNA型鑑定により、ウンシュウミカンの種子親はキシュウミカン、花粉親はクネンボであることが分かったと発表した』。以下、最後の「落語」の項。『古典落語に』「九年母」『という噺がある。九年母をもらった商家でそれを土産として丁稚に持って行かせる。丁稚は九年母を知らず、不思議に思って袋の中を見ると』、『入っているのはミカンにしか見えない。その数がたまたま』九『個であったので勝手に納得し、その』一『つを懐に入れ、「八年母を持ってまいりました」。向こうの旦那が怪しんで』、『袋を覗き』、『「これは九年母ではないか」と問うと、猫ばばがばれたと思い』、『慌てて懐の』一『つを取り出して』、「残りの一年母は、ここに、御座います。」『と下げる』とある。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十」の「果之二」の「柑」の項(「漢籍リポジトリ」のここ[075-35b]以降)の「集解」のパッチワークである。

「生枝柑《しやうしかん》」不詳。因みに、本邦の「河内晩柑」(カワチバンカン Citrus kawachiensis は、別名を「美生柑」(みしょうかん)とも言うと、検索に勝手にAIがしゃしゃり出たので添えておく当該ウィキによれば、『河内晩柑は、昭和』一〇(一九三五)『年に熊本県飽託郡河内村(現・熊本市西区河内町』(かわちまち:ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)『)で発見された』固有『自生種で、ザボン(ブンタン)』(「朱欒・香欒・謝文」/「文旦」=ザボン Citrus maxima )『の血を引いていると考えられていたが、近年のゲノム解析により』、『弓削瓢柑』(ゆげひょうかん:「みすゞ飴本舗 飯島商店」公式サイトの「弓削瓢柑」(ジャム製品)に拠れば、『瀬戸内海の瀬戸田で収穫される柑橘で、昭和初期頃に、台湾より移入したものであると伝わっています。名前の由来は不明ですが、瀬戸内海の島のひとつである「弓削島」にちなんだものだと思われます』とある。瀬戸田は広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田地区で「生口島」(いくちじま)の大半を占める、「弓削島」(ゆげしま)は生口島の東南東のここ)『の変種である説が最有力となった』。学名不詳だが、「瓢柑」なら、Citrus ampullaceal ではあるものの、それの近縁種かどうかは不明。

「海紅柑《かいこうかん》」「維基百科」の「甌柑」に、

Citrus tangerina 或いは、Citrus suavissima

とし「歴史」の項に、『晉唐時代溫州柑桔一直列為貢品。在宋代,甌柑又稱海紅柑,南宋韓彥直在』「橘錄」『中有詳細記載』、『「海紅柑顆極大。有及尺以上圍者。皮厚而色紅。藏之久而味愈甘。木高二三尺。有生數十顆者。枝重委地亦可愛。是柑可以致遠。今都下堆積道旁者。多此種。初音近海。故以海紅得名。」』とあるので、この種としてよいだろう。Citrus tangerina ならば、既に「橘」で注した通り、オオベニミカン(大紅蜜柑) Citrus tangerina (インドに分布し、中国経由で日本に渡来した常緑高木で、本邦では、古くに奄美大島での栽培が知られ、後、九州・四国・和歌山県でも栽培されている。果期は十一月から十二月で、果皮から採れる精油は、化粧品などに利用されていることが検索で判った。因みに、種小名に注意されたい。これ、今やお馴染みのTangerine(タンジェリン:アフリカや米国で栽培されるミカンの一種。皮は薄く剥き易い。名はモロッコの都市タンジールに由来)で、英文の「Tangerine」のウィキでは、マンダリン・オレンジ(Mandarin orange:ミカン属マンダリンオレンジ Citrus reticulata )の雑種として、学名をCitrus × tangerina としてあるのである)に「維基百科」の「柑」では、比定している。

「洞庭柑《どうていかん》」これは、インド・ヒマラヤ原産のダイダイ Citrus aurantium であろう。

「甜柑《てんかん》」これは、中国南部・インド北東部・ミャンマーを含む地域を発祥とする、アマダイダイ(甘橙)Citrus sinensis =オレンジのことである。

「木柑」不詳。

「朱柑」これは、冒頭で出したウンシュウミカンの優良品種である。「黃巖蜜橘」の中国品種である。そこに、その品種の中でも、『「朱紅橘」・「大紅袍」とも呼ばれるものは、古くは「朱柑」と称され、「乳橘」とともに栽培の歴史は約千三百年である。果実は扁円形で、上部が僅かに凹んでいる。果肉は鮮黄色で柔らかく、ほどよい甘味と酸味があり、毎年、十月中旬に市場に出回るとある。

「饅頭柑(まんぢう《かん》)」不詳。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「冠せられた夢」(一八九七年) 「夢みる(二十八章の中)」「一三」 / 「冠せられた夢」~了

 

   一三

 

灰白な天、總べての色は

氣づかはしさうに褪せてしまつた。

遠く――ただ一つ眞赤な線が

燃えてる鞭の傷跡のやう。

 

怪しい反射が消えては現はれる。

そして空氣には

死につつある薔薇の香のやうな

また耐(こら)へてゐる涕泣のやうなものが……

 

[やぶちゃん注:「涕泣」「ていきふ」。]

2025/01/14

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「冠せられた夢」(一八九七年) 「夢みる(二十八章の中)」「一一」

 

 

   一一

 

一體私はどうしたのかしら。

そよ風の匂の靄の中に、

靑銅褐色の草の莖の中に

失はれた蟋蟀の歌。

 

私の魂の中にもひびく、

低い一つの響、哀れになつかしい――

恐らく熱病の小兒が、

死んだ母の歌ふを聞くのも斯うだらう。

 

[やぶちゃん注:「蟋蟀」「こほろぎ」である。一応、「Internet archive」の「Traumgekrönt : neue Gedichte」で当該詩を見つけた。そこでは、“ Grillenlied ”となっているから、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目Ensiferaコオロギ上科 Grylloidea のコオロギ類を指す語で、間違いない。気になったのは、日本語では、芥川龍之介の「羅生門」でご存知の通り、近代まで「蟋蟀」を「きりぎりす」と読むのが、支配的であったからである。但し、残念ながら、ドイツ語のウィキには「コオロギ上科」相当のウィキがなく、上位タクソンの「剣弁(キリギリス)亜目Ensifera」相当の「Langfühlerschrecken」しかなく、そこを見ても、種同定までは至らなかった。識者の御教授を乞うものである。

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「冠せられた夢」(一八九七年) 「夢みる(二十八章の中)」「八」

 

   

 

あの上に漂ふことの出來る

あの雲が羨ましい。

日の當つた草原に

黑い影を投げたこと。

 

太陽を暗くするなんて、

なんて大膽に出來たらう。

地は光を欲しがつて、

雲の飛ぶ下で恨むでるのに。

 

あの太陽の金色の光の潮を

私も遮つてやりたいな。

一瞬間であらうとも。

雲よ、お前が羨ましい。

 

[やぶちゃん注:「潮」「うしほ」と訓じておく。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「冠せられた夢」(一八九七年) 「夢みる(二十八章の中)」「一」

 

 

     冠せられた夢

      (一八九七年)

 

 

[やぶちゃん注:リルケ、二十一歳の詩群より。ドイツ語の「Wikisource」のここで、原綴りがあり、“ Traumgekrönt ”である。茅野のこの「冠せられた夢」という訳に、少し違和感を持ったが、サイト『梅丘歌曲会館「詩と音楽」』(管理者・藤井宏行氏)のここに、かの「十二音技法」の創始者として知られるオーストリアの作曲家シェーンベルク(Arnold Franz Walter Schönberg 一八七四年~一九五一年)に師事したアルバン・ベルク(Alban Maria Johannes Berg 一八八五年~一九三五年)が(二人ともレコードで、数枚、持っている)、この詩篇の中の『「愛 Liebe」と名のついたサブセクションの』二『番目の詩』に曲をつけたものが紹介されている(この詩は茅野も採用して、後で訳しているので、このページをそこで、また、紹介させて貰う)が、そこに、『リルケの詩のタイトルは厳密にいうと「夢が冠をかぶって」と主語と目的語の関係が違っているようではありますが、ここでは私の受けたイメージで「私」が夢をかぶっているようにしました』とされ、本総題を『夢を戴きて』と訳しておられるのを見、私の夢が頭に堕ちてくる杞憂は解消した。藤井氏に御礼申し上げるものである。]

 

 

     夢みる(二十八章の中)

 

 

[やぶちゃん注:原題は“Träumen”。ネイティヴの音写は「トロィメン」。「夢見る・夢を見る・夢に見る」の他に、ネットの辞書を管見するに、情動上の「夢想する・空想する」から、情態的に「空想に耽る」や「憧れる」、及び、見かけの様態上の「ぼんやりしている」の意にも用いるようである。なお、“Traum”(同前「トォム」)は名詞で、「夢」・「夢現(ゆめうつつ)・夢想・空想」の他、ポジティヴに「希望・(望むところの)夢・憧れ」、さらに派生的に「夢かと思われるほどに素敵な物・状況」をも指す。また、これらの発音から、現代では、直ちに想起されるのは、「トラウマ」であるが、これは、“Trauma”で、他にドイツ語では、“TraumasTraumenTraumata”とも表記する。所謂、現行通りの、心理学・精神医学用語である「精神的ショック・心的外傷・心的傷痕」の他、医学用語で、普通に「外傷」の意もある(所持する同学社版「新修ドイツ語辞典」一九七七年七版)。しかし、これは、本来は、後者の「外傷」が原義である。何故なら、この語源は、ギリシャ語の「τραύμα」(ギリシャ語のネイティヴの音写は、まさに「トラウマ」であった)に由来し、「傷」や「怪我」の意だからである。所持する「羅和辭典」(田中秀夫編・昭和三七(一九六二)年研究者辞書部刊)でも、“trauma”(能動態現在直接法二人称複数“-atis”)として、医学用語とのみあって、『多傷・傷瘡』とするからである。ネットを見ると、オーストリアの精神科医が「精神的な傷」という意味で使い始めたもので、ドイツ語圏で広がり、英語になった、とある。他にサンスクリット語源とする書き込みがあったが、これは、信が措けない。]

 

   

 

私の心は忘られた禮拜堂に等しい。

聖壇の上には荒い五月が光つてゐる。

倨傲な若者の嵐は

疾うにもう小さい窓を破つたが、

今は寶庫(サクリスタイ)へまでも忍入つて、

其處で助祭の鈴を引くのだ。

けたたましい鈴の臆した憧憬の叫びは

疾うに廢れた犧牲(いけにへ)の場處ヘ

驚いてゐる遠くの神を呼び寄せる。

そこで風は笑つて窓から飛出したが、

怒つた神は響の波を摑むで

床石へ投げつけて碎いてしまふ。

 

あはれな願は長い列を作つて

門前に跪き、苔の生えた閾際で物乞ひする。

しかし最う一人の祈る者も行過ぎない。

 

[やぶちゃん注:これは、凄絶な――リルケのトラウマの信心の荒廃の記憶――である。

「倨傲」「きよがう」(きょごう)は、「おごり高ぶること・そのさま・傲慢」の意。

「疾うに」「とうに」。

「寶庫(サクリスタイ)」ドイツ語の「Wikisource」のここで、原綴りがあり、“ Sakristei ”とある。これは、カトリック用語では、祭服や、その他の教会の備品・聖餐用の道具や教区の記録などを保管する部屋「聖具室」を指し、日本のカトリック教会では「香部屋(こうべや)」と呼ぶ。参考にしたウィキの「聖具室」によれば、『大抵の古い教会堂では、聖具室は祭壇の近くの横方面に位置するか、もっと一般的には教会堂の主となる祭壇の裏か、横側に位置する』とあった。

「助祭」当該ウィキによれば、『キリスト教における教会職務のひとつで、ギリシャ語のδιάκονος』(ネィティヴの音写「ディアーコノゥス」)』(「奉仕者」の意)を語源とする。カトリック教会では、司祭につぐ職位。正教会では「輔祭」の訳語を、聖公会などプロテスタントでは「執事」という訳語を用いている』。『ラテン語ではdiaconus』(ディアコヌス)『といい、トリエント公会議では「聖職位階の上位」であったが、第』二『バチカン公会議では』、『それまで存在した副助祭、祓魔師、読師、守門という四つの下級叙品が廃止されたため、現代では「聖職位階の下位」』『となっている』。『第二バチカン公会議以来、助祭を司祭への通過点や、ミサなどの典礼における単なる「司祭の補助」と見なすのではなく、助祭として固有の職務を再確認する方向に進んでいる。これに伴い』、『司祭には叙階されず、既婚者もなりうる終身助祭(permanent deacon)の制度が復活し、最近では日本でも登場し始めている』とある。

「疾うに」「とうに」。

「廢れた」「すたれた」。

「床石」「ゆかいし」。

「閾際」「しきゐぎは」。]

2025/01/13

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「家神奉幣」(一八九五年) 「私の生家」 /「家神奉幣」~了

 

 私の生家

 

幼い日の至愛の家は

追億から消えはしない。

私が碧い絹張りの客間で

繪本を見た處、

太い銀糸で豐かに

笹緣(ささべり)をつけた人形の著物が

私の幸福であつた處、『計算』が

私に熱い淚を押出した處。

 

私が暗い呼聲に從つて、

詩に手を出したり、

窟の段の上で

電車や船の遊戲をした處。

 

向うの伯爵家から、いつも

一人の娘が私を差招いた處……

あの頃輝いてゐたあの宮殿が

今ではあんなに寐ぼけて見える。

 

それから男の子が接吻を投げると

笑つたブロンドの子供は

今は去つて、遠くに息(やす)んでゐる。

もう微笑(ほほゑ)むことも出來ない處に。

 

[やぶちゃん注:……これは……我が身に擬えれば……永劫に……哀しい…………

「笹緣(ささべり)」「ささへり」とも読む。衣服の縁、或いは、袋物や茣蓙(ござ)などの縁(へり)を、補強や装飾の目的で、布や扁平な組紐で細く縁取(ふちど)ったものを指す。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「家神奉幣」(一八九五年) 「中部ビョエメンの風景」

 

 中部ビョエメンの風景

 

遠くに霞む浪打つ森の

蔭になつた緣(へり)。

そして此處彼處に立木が、

高い麥の穗畑の

乳酪色の平面を破つてゐる。

煌然たる光の中に

馬鈴薯が芽ぐみ、それから

少し彼方には大麥、樅の木が

畫面を限る處まで。

若木の森の上に高く

金色に輝く寺の塔の十字。

松柏の中からは番人小屋の建物が聳え、

それから其上に

大空が被さる、ぴかぴかと碧く。

 

[やぶちゃん注:「中部ビョエメンの風景」ドイツ語の「Wikisource」のここで、原詩が電子化されてあるが、その題名は、“ MITTELBÖHMISCHE LANDSCHAFT ”である。この“ MITTELBÖHMISCHE”は、ドイツ語ウィキの「Středočeský kraj」(チェコ語綴り)で、これは、日本語のウィキの「中央ボヘミア州に当たる。それによれば、『チェコのボヘミア地方にある同国最大の州。州のほぼ中心にプラハが位置し、行政府も同市内に置かれているが、プラハは首都として独立した行政区分となっているため、中央ボヘミア州には含まれない。主要都市はクラドノ』とあった。既に注で示した通り、彼はプラハ生まれであるから、彼にとっては、生地の広大な辺縁地方を指すことになる。

「乳酪色」実は、底本では、ここは、「酪」の(へん)が「酉」ではなく、「月」になっている。この漢字は異体字にもないので、「※」にせざるを得なかったところなのだが、岩波文庫の校注で、茅野氏は再版「詩集」で、これを誤記、或いは、誤植であると気づかれて、訂正しておられるので、ここは特異的に修正した。

「煌然」「くわうぜん」(現代仮名遣「こうぜん」)で、「光り輝くさま・煌煌(こうこう)」の意である。

「松柏」原詩では、“Fichten”(フィヒテン)は、ドイツ語で「トウヒの葉・松葉」を意味します。また、“Fichte”(フィヒテ)は「トウヒ属・ドイツトウヒ・トウヒ材」を意味するから、裸子植物門マツ綱マツ目マツ科トウヒ属 Picea となるが、特に、ドイツトウヒ(独逸唐檜)Picea abies が相当する。なお、当該ウィキによれば、『ヨーロッパ原産でヨーロッパの固有種』で、『北はノルウェーから』、『南はバルカン半島まで』、『北欧全土と中欧・南欧の山岳地帯に分布する』。『北極圏の森の中の平地など寒冷な高地に分布する』。『アルプスなどの山岳地帯や、スカンジナビア半島の北方針葉樹林の主要樹種である。ピレネー山脈や地中海のコルシカ島にも分布している』。『日当たりを好み、乾燥を嫌う。日本では、公園や庭園に植えられている』。『日本語ではドイツトウヒ』が『標準和名』で『あるが、自然分布としては、ドイツでは』、『シュヴァルツヴァルトなど』、『南部の標高の高い一部地域に分布するに過ぎず、英語名 Norway Spruce(ノーウェイ・スプルース)が示す通り、本種の本来の分布の中心は、東ヨーロッパ』、及び、『北ヨーロッパにある』。『ドイツにおけるものは、ほとんどが人為的に植林されたものである』ともあった。因みに、本邦の近縁種を見ると、北海道及び北東アジアに広く分布する、トウヒ属エゾマツ変種トウヒ(唐檜) Picea jezoensis var. hondoensis となろう。訳の「松柏」は、中国と本邦では、マツ科 Pinaceaeのマツ類(日本では科マツ属 Pinus でいいが、中国ではアウトである。詳しくは、私の『「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 松』を見られたい)と、コノテガシワ(「児の手柏」・「児手柏」・「側柏」(中文名は最後のそれ):マツ綱ヒノキ目ヒノキ科ヒノキ亜科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis )を指すから、訳としては、厳密には誤訳となる。

「番人小屋」原文“ Hegerhütte ”。鳥獣保護員の待機するヒュッテ。

「碧く」「あをく」。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「家神奉幣」(一八九五年) 「民謠」

 

 民 謠

 

私を大變に動かす

ボヘミアの民謠の節。

あれがそつと忍び込むと

私の心は重くなる。

 

馬鈴薯掘りの子供が

そつと歌ふと、

その歌はなほ

夜の遲い夢にも響く。

 

國を越えて遠くヘ

旅をしてゐても、

幾年か經た後でも、

いつもそれが思ひ出される。

 

[やぶちゃん注:「ボヘミア」リルケは、当該ウィキによれば、『オーストリア=ハンガリー帝国領プラハにルネ(・カール・ヴィルヘルム・ヨーハン・ヨーゼフ)・マリア・リルケ(René Karl Wilhelm Johann Josef Maria Rilke)として生まれる。父ヨーゼフ・リルケは軍人であり、性格の面でも軍人向きの人物だったが、病気のために退職した後プラハの鉄道会社に勤めていた。母ゾフィー(フィアと呼ばれていた)は枢密顧問官の娘でありユダヤ系の出自であった。二人は結婚後まもなく女児をもうけたが早くに亡くなり、その後一人息子のルネが生まれた。彼が生まれる頃には両親の仲はすでに冷え切っており、ルネが』九『歳のとき』、『母は父のもとを去っている。母ゾフィーは娘を切望していたことからリルケを』五『歳まで女の子として育てるなどし、その奇抜で虚栄的な振る舞いや夢想的で神経質な人柄によって』、『リルケの生と人格に複雑な陰影を落とすことになる。母に対するリルケの屈折した心情は』後(のち)、『ルー・アンドレアス・ザロメやエレン・ケイに当てた手紙などに記されている。リルケは父の実直な人柄を好んだが、しかし』、『父の意向で軍人向けの学校に入れられたことは重い心身の負担となった』とある。一方、ウィキの「ボヘミア」によれば、『ボヘミア(ラテン語: Bohemia、チェコ語: Čechy、チェコ語発音: [ˈt͡ʃɛxɪ]、ドイツ語: Böhmen, ベーメン)は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。西に接するのはドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアである』。『この地方は牧畜が盛んである。牧童の黒い革の帽子に革のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちに好まれた。このスタイルは、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装になったといわれる。西欧にも伝わり』、(☞)『芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアン』(多様な意味があるので、ウィキの「ボヘミアン」(英語:Bohemian)を参照されたいが、ここで、私は、中でも、『ロマ』(Roma)『のこと。北インド起源の移動型民族。移動生活者、放浪者として知られてきたが、現代では定住生活をする者も多い。かつてはジプシーとも呼ばれたが、最近では彼等の自称とされるロマ(その単数形のロム)が使用されるようになってきている』と、『ボヘミアン・アーティスト』で、『芸術家や作家、世間に背を向けた者などで、伝統や習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている者。上記のロマの多くがフランスにおいてボヘミアからやってきたことから「ボヘミア人」=流浪の人と考えられ、転用された』とある部分に着目する。リルケは、まさに、真正の、後者の「ボヘミアン・アーティスト」であったから、である)『やボヘミアニズム』(当該ウィキによれば、(英語『:Bohemianism)は、自由奔放な生活を追求することを指す。そうした生き方を実践する者をボヘミアン(Bohemian)ないしはボエーム(仏: Bohème)と呼び、そうした人々が多く住むコミュニティーをボヘミア(Bohemia)という』。十五『世紀にフランスに流入していたジプシー(ロマ)が主にボヘミア地方(現在のチェコ)からの民であったため、フランス語でボエミアン(bohémien)という語はボヘミア人からジプシーの意味に変化した』。十九『世紀の中』頃、『フランスの小説家アンリ・ミュルジェールが』「ボヘミアン生活の情景」(‘ Scènes de la vie de bohème ’)の序文『で、「ボヘミアン」とは定職を持たない芸術家や作家、または世間に背を向けた者のことであると宣言した。この小説はプッチーニのオペラ』「ラ・ボエーム」(‘ La Bohème ’)にもなり、以降』、『ボヘミアンとは伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている芸術家気質の若者を指す言葉となった。そのニュアンスとしては、良い意味では「他人に使われることなく質素に暮らし、高尚な哲学を生活の主体とし、奔放で不可解」という含意、悪い意味では「定職がなく貧しい暮らしで、アルコールやドラッグを生活の主体とし、セックスや身だしなみにだらしない」とい』った『含意がある』とある)『という言い方も生まれた』(☜)。『ボヘミアをチェコ語ではチェヒ(チェコ語: Čechy)と呼び、チェコ共和国(チェコ語: Česká republika)、通称チェコ(チェコ語: Česko)をチェヒとも呼ぶ。由来は』六『世紀頃までに形成されたチェコ人(チェコ語: Češi)にあり、意味は「『人々/光』の土地」である』(☜)。『ラテン語における『ボヘミア』(ラテン語: Bohemia)の呼称は、古代にボヘミアからモラヴィア、スロバキアにかけての地域に居住していたケルト人の一派、ボイイ人(古代ギリシア語』の『ラテン語』転写『:Boii )に由来し』、『意味は「『(戦士の)人々』の土地」』(☜)『と考えられている。ドイツ語ではベーメン(ドイツ語: Böhmen)と言い、ラテン語の』「ボヘミア」『の語源と同じ由来と考えられている』とあり、後の「ルクセンブルク家」の項に、十二世紀にボヘミア王国を打ち立てた『プシェミスル家』が『断絶』した『後の』一三一〇『年からはドイツ貴族ルクセンブルク家がボヘミア王を受け継いだ。ローマ皇帝カール』Ⅳ『世となったルクセンブルク家のボヘミア王カレル』『Ⅰ世は』、一三四八『年にプラハ』(☜ ☞)『にプラハ大学を設立してボヘミアに学問を根付かせた。中世から近世にかけてはプラハを中心に学問、とくにキリスト教の学者が多く活躍した』。十五『世紀には』、『プラハ大学からヤン・フスが出て宗教改革に乗り出した』。一四一〇『年に始まった』「グルンヴァルトの戦い」で、『ヤン・ジシュカ率いるボヘミア義勇隊が、それまでチェコを実質支配していたドイツ人を追放し、ポーランドのフス派プロテスタントと協力して戦い抜いたことはスラヴ民族主義の萌芽として注目される。外圧により』、一四一五『年』、『フスがジギスムントに処刑されて宗教改革が失敗に終わると』、一四一九『年のプラハ窓外投擲事件をきっかけにフス戦争が始まった』とある。

――因みに、私は、今回、この詩を読んで、はた! と膝を打ったのであった!……それは……この「私を大變に動かす/ボヘミアの民謠の節。/あれがそつと忍び込むと/私の心は重くなる。」によって繰り出される以下の詩の全部が……私には……ある作品の「ボヘミア」の「歌」である――ことに気づいたからである! 語ると、エンドレスになるから、私のブログ・カテゴリ「プルートゥ」の、「ノース2号論ノート2 作品構造分析(完全版)」、及び、『ノース2号の「あの」曲』を、是非、見られたい!

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「家神奉幣」(一八九五年) 「大學へ入つた時」

 

 大學へ入つた時

 

私は顧る、年また年が

勞苦に重くころげて行つたのを。

今やつと私は、願つてゐたものに、

努力したものに、學徒になつた。

 

最初は『法』の硏究が私の計畫だつた。

しかし嚴しい塵埃(ほこり)つぽいパンデクテンは

私の輕い氣持を驚かした。

それで計畫は妄想になつた。

 

神學を私の愛が禁じた。

醫學に身を投ずることも出來なかつた。

それ故私の弱い神經には

哲理を考へる――ほか殘るものはなかつた。

 

高貴な母(アルマ・マアテル)の私に渡す

自由な藝術の華美な索引。――

マギスタアには成れないまでも、

私は努力した者に、學徒になつた。

 

 註 *高貴な母とは大學專門校に對する尊稱である。

 

[やぶちゃん注:岩波文庫の校注によれば、再版「詩集」では、本篇は削除されている。原詩はドイツ語の「Wikisource」のここで、電子化されてある。

「大學へ入つた時」当該ウィキによれば(幾つかのリンクを残して引用した。太字は私が附した)、一八八六『年に』十『歳のリルケはザンクト・ペルテンの陸軍幼年学校に入学したが、周囲に溶け込めず早くから詩作を始めた』。一八九〇『年にヴァイスキルヒェンの士官学校に進学したが』、一八九一年六月、『ついに病弱を理由に中途退学し』、九『月にリンツの商業学校に入学した。しかし』、『商業学校もリルケの性にあわず、恋愛事件を起こしたこともあり』、一『年足らずで退学してしまう(この出来事はリルケに軍人になる期待をかけていた父を失望させた)。一方』、一八九一『年にはウィーンの『ダス・インテレサント・ブラット』誌に懸賞応募した詩が掲載され、翌年より』、『各誌に詩の発表を始めている』。『プラハに戻ったリルケは大学進学を目指すことになり、貴族の称号を持つ富豪であった伯父ヤロスラフ・リルケの援助を受けてプラハ・ノエシュタットのギムナジウムの特別聴講生となった。すでに』十七『歳になっていたリルケは』、『伯父のはからいで』、『個人授業を受けることができ、ギムナジウムの全コース』八『年分を』三『年でやり遂げ』、『優秀な成績で卒業した。このギムナジウム時代にリルケは母の妹の紹介で知り合ったヴァリー(ダーフィト・ローエンフェルト・ヴァレリー)という年上の女性と恋に落ち』、三『年の交際期間の間に彼女のために多くの詩を書いた。これらの詩は』、一八九四『年に刊行された処女詩集『いのちと歌』として結実した』。一八九五より』、『リルケはプラハ大学、ついでミュンヘン大学文学、美術、哲学などを学び、その傍ら』、『詩や散文を多数』、『執筆した。初期の詩作品は自らの感情を詩篇にのせて歌う優美さによって特徴付けられ、そのころ隆盛してきていたユーゲントシュティールと軌を一にしていると見る向きもある』。『南ドイツの文化の中心であったミュンヘンでは他の作家・詩人と積極的に交流を持ち、リーリエンクローンデーメルゲオルゲなどと知り合い、またヤーコプ・ヴァッサーマンを通してデンマークの詩人ヤコブセンの作品を知り』、『大きな影響を受けた。またヴァッサーマンからはツルゲーネフを読むことを勧められ、ロシア文学への興味のきっかけとなった』。一八九七には』、『終生に渡って影響を受けた女性著述家ルー・アンドレアス・ザロメと知り合う』。同年十月、『ザロメ夫妻の後を追ってベルリンに移り、夫妻の近くの住居に住み』、『ベルリン大学に学んだ。翌』『年にはイタリアに旅しながら』、『ザロメに宛てて』、「フィレンツェ日記」『を執筆』し、また、『この頃にライナー・マリア・リルケに改名している』。一八九九年四月、『リルケが「本来の意味における私の最初の本」とエレン・ケイに語った詩集』「わがための祝い」『を出版する』。(『この詩集は』一九〇九年、「旧詩集」『として、多くの改訂が施されたうえで再刊され』ている)。『リルケはミュンヘン時代すでに一定の文名を得ていたが、これまで若さに任せて矢継ぎ早に模倣的な恋愛詩を多数描いたことを悔やみ』、「旧詩集」『以前の初期の詩集は生前に再刊を許さなかった』。一八九九年の四月下旬から六月『中旬にかけて、リルケはザロメ夫妻の案内でロシア旅行を行なった。ロシアでは多くの芸術家と交流を持ち、ことにモスクワで』七十一『歳のトルストイを訪れ』、『その人となりに多大な感銘を受けている』。翌一九〇〇『年にも』五『月上旬から』八『月下旬にかけて』再び、『ザロメとともにロシアを訪れた』。二『度のロシア旅行はリルケの精神生活に深い影響を与えることになり、また人々の素朴な信仰心に根ざした生活に触れた経験は』物語集「神さまの話」や「時禱詩集」『を生む契機の一つとなった』。『ロシア旅行に先立つ』一八九八年、『リルケはイタリア旅行を行なったが、このときフィレンツェで青年画家ハインリヒ・フォーゲラーと知り合い親交を結んだ。フォーゲラーは北ドイツの僻村ヴォルプスヴェーデに住んでおり、リルケは』一九〇〇年八月、『彼の招きを受けてこの地に滞在し、フォーゲラーや画家のオットー・モーダーゾーン女性画家パウラ・ベッカー(のちにモーダーゾーンと結婚)など若い芸術家と交流を持った』。一九〇一年四月、『リルケは』、『彼らのうちの一人であった女性彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚し、ヴォルプスヴェーデの隣村であるヴェストヴェーデに藁葺きの農家を構えた』とある、一八九五年から一九〇〇年辺りの閉区間内が、リルケの大学時代と考えてよかろう。

「顧る」「かへりみる」。

「パンデクテン」小学館「日本大百科全書」によれば、ドイツ語で“Pandekten” (ラテン語の“Pandectae”由来)で、『普通名詞では』「百科辞典」の意だが、『法学上は』、『次のような意味に用いられる。(1)古典時代ローマの法学者の学説を集成したユスティニアヌス帝の』「学説彙纂(いさん)」。『(2)後期注釈学派により形成され』、『ドイツに継受された普通法。法実務を通してローマ法を』、『当時の社会的』・『経済的条件に適合するように理論化』・『体系化する試みを「パンデクテンの現代的慣用」と称した。さらに』十九『世紀に』なると、『プフタ、ウィントシャイトを代表者とする』「パンデクテン法学」『が隆盛となり』、「ドイツ民法典」(一九〇〇年)や「スイス民法典」(一九〇七年)に『決定的役割を果たした』。『また、ドイツ法を継受した日本の民法典や民法学にも大きな影響を与えた』とある。

「高貴な母(アルマ・マアテル)」原文“ Alma mater ”。日本語の「母校」に同じであるが、茅野が述べているように、特に出身大学に対しての尊称である。

「マギスタア」“Magister”。マギスター。ドイツでは、主に文学部・理学部で“Diplom”(ディプロム:学士)と並ぶ学位である「修士」を指す。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「家神奉幣」(一八九五年) 「夕の王」

 

 夕の王

 

嘗てバルタザアル王が近づいたやうに、

額(ひたひ)を王冠で照らされて、

紫衣をつけた夕の王が

世界へ入つて來る。

 

第一の星は王を昔のやうに

一番遠い小山の緣(へり)へ導くと、

其處には子なる夢を抱いて

母の夜が凭りかかつてゐる。

 

王は丁度、あの東洋の賢者のやうに、

黃金を子に與へる、積重ねて。

その金を夢の童子は、

解きながらそつと蒔く、我々のまどろみへと。

 

[やぶちゃん注:岩波文庫の校注によれば、再版「詩集」では、本篇は削除されている。

「夕の王」「ふゆべのわう」と読んでおく。

「バルタザアル王」「旧約聖書」中でバビロニアの最後の王であったとされるバルダサル。ベルシャザル、又は、ベルシャツァルとも(英語:Belshazzar)。詳しくは、当該ウィキを見られたい。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「家神奉幣」(一八九五年) 「夢」

 

 

 

夜は來る、寶石で豐(ゆたか)に

飾られた碧いろの衣の緣(へり)。――

そのマドンナの兩手で、夜は

やはらかく私に夢を渡す。

 

やがて夜はその義務を果たさうと、

靜かな足どりで町を去る。

そして夢を與へたつぐのひに

病む兒の魂をつれてゆく。

 

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 包橘

 

Tatibana

 

たちはな  太知波奈

 

包橘

 

 

本綱載宋韓彥直橘譜云橘有十四品之內包橘外薄內

盈其脉瓣隔皮可數

△按太知波奈者橘類之總名而今稱之者乃包橘也其

 樹葉花無異于𮔉柑其實皮薄小而似金柑之大者瓣

 形自脹于外可數恐田道閒守所得來橘此矣於今歳

 始嘉祝必用之果也又甘美而盛所用之橘乃𮔉柑也

 凡包橘葉似金橘葉而畧柔也因葉異品見于後

   𮔉柑  金柑  柚  乳柑  橙

葉品      包橘

Hanosinajina

 

   *

 

たちばな  太知波奈

 

包橘

 

 

「本綱」に曰はく、宋の韓彥直《かんげんちよく》が「橘譜」を載《のせ》て、云はく、『橘、十四品、有り。之《この》內《うち》、「包橘《はうきつ》」≪は≫、外、薄≪く≫、內、盈《みてり》。其の脉《すぢ》・瓣《なかご》[やぶちゃん注:この場合は、蜜柑類の果肉の部分全体を指す。]、皮を隔《はなれ》て、數《かぞ》ふべし[やぶちゃん注:数えることが出来る。]。』≪と≫。

△按ずるに、「太知波奈」は、橘類《きつるゐ》の總名にして、今、之れを稱(なの)る者は、乃《すなはち》、「包橘《はうきつ/たちばな》」なり。其の樹・葉・花、𮔉柑に異なること、無く、其の實・皮、薄く小≪に≫して、「金柑」の大なる者に似たり。瓣《なかご》の形、自《おのづか》ら外に脹《ふく》れて、數へつべし。恐らくは、田道閒守(たぢのまもり)、得て來《きた》る所の橘(たちばな)、此《これ》ならん。今に於いて、歳始《としはじめ》の嘉祝に、必ず、之れを用《もちひ》る果《くわ》なり。又、甘美にして、盛んに用る所の橘、乃《すなはち》、𮔉柑(みかん)なり。凡《およそ》、包橘の葉、「金橘(きんかん)」に似て、葉、畧(ちと)、柔かなり。因《より》て、葉の異品、後《あと》に見る。

    𮔉柑(みかん) 金柑 柚(ゆ) 乳柑(くねんぼ) 橙(だいだい)


葉品(はのしなじな)      包橘《たちばな》

Hanosinajina

 

[やぶちゃん注:よく判らないが、日本固有種である、永らくルーツ不明であった、

双子葉植物綱バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン亜連ミカン属タチバナ(橘) Citrus tachibana

は、当該ウィキによれば(下線は私が附した)、二〇二一『年、タチバナは沖縄原産のタニブター( C. ryukyuensis )とアジア大陸産の詳細不明の種との交配により誕生したこと、日向夏』(ヒュウガナツ Citrus tamurana )、『黄金柑』(キミカン Citrus flaviculpus :通称「おうごんかん」)『などの日本産柑橘のルーツであることが』、『沖縄科学技術大学院大学などの研究により明らかとなった』とあるので、この『アジア大陸産の詳細不明の種』が、李時珍の言う「包橘《はうきつ》」がそれである可能性は高いのかも知れない。

『宋の韓彥直《かんげんちよく》が「橘譜」』この書名「橘譜」は、時珍の誤記で、「橘錄」が正しい。「韓彥直」(一一三一年~?)は「百度百科」の彼の記載によれば、南宋の著名な農業家・政治家で、一一四八年に進士に登第し、要職を歴任し、温州の知事となり、優れた農業政策を実施した。彼は、中国で初めて柑橘類を「柑」・「橘」・「橙」に三分類した人物であり、古代中国の柑橘類栽培技術に於いて、大きな功績を残しており、この「橘錄」は、まさに彼の農業思想が凝縮されたものであるとし、『この本は、古代中国の柑橘類の品種と栽培技術を説明した最古の単行本であり、ヨーロッパの果樹学者フェレッリによって書かれた「柑橘類」よりも 四百六十九年も前の、世界最古の柑橘類に関する総合的著書でもある。』といったことが書かれてあった。

「橘、十四品、有り」「百度百科」の「橘录」に、同書の内容が、子細に記されてあるが、そこに、十四種は(一部に手を加えた)、

   *

黃橘・塌橘・包橘・綿橘・沙橘・荔枝橘・軟条穿橘・油橘・綠橘・乳橘・金橘(可能属金柑属)・自然橘(可能是指橘的實生苗)・早黄橘・凍橘;還有橙(一作「棖」)属五種:橙・朱栾(可能是酸橙的變種)・香栾(可能是酸橙)・香圓・枸橘。

   *

とあり、古今の本草書にありがちな、名指すことだけではなく、驚くべきことに、『品種ごとに、樹冠の形、枝や葉の生長状況、果実の大きさや形、果実の熟れ方、果皮の色、厚さ、光沢などを記載してある。皮の剥がし難さ、瓤嚢(じょうのう:柑橘の果肉を包む)の大きさ・数や、皮の剥がし易さ、果実の風味、種(芯)の数など、及び、各品種の名前の根拠と、その品種が適応する地域についても説明している。』と書かれてあるである。

「本草綱目」の引用は、「卷三十」の「果之二」の「橘」の長い項(「漢籍リポジトリ」のここ[075-28a]以降)の「集解」ののパッチワークである。

 なお、先行項で既に注したものは、再掲しない。そこまで、私はお目出度くないし、残された時間も、限られているからな…………

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「家神奉幣」(一八九五年) 「冬の朝」

 

 冬の朝

 

瀧は凍りついた。

烏は池の直ぐ側にうづくまる。

私の美しい子は耳を赤くして、

何か惡戲(いたづら)を考へてゐる。

 

太陽が私たちに接吻する。

夢みごこちな響が木の枝の中を軟音(モル)で泳ぐ。

私たちは進んでゆく。毛孔は皆

强い朝の芳香に充たされて。

 

[やぶちゃん注:「軟音(モル)」原詩(ドイツ語サイトのここで原詩を確認した)では“Moll”。これは、辞書(ドイツ語の辞書は、去年、亡くなった親友が呉れた)を引くまでもなく、音楽用語の「短調」である。「軟音」という語は知らない。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版「第一詩集」「家神奉幣」(一八九五年) 「若い彫塑家」

 

 若い彫塑家

 

私は羅馬へ行かなくては。この町へは

年を經て名譽を擔つて歸つて來る。

泣くのではない。ねえ、戀人よ、

私は羅馬で傑作をつくるのだ。

 

さう云つて、彼は醉心地で

望むだ世界を步いて行つた。

しかし魂は屢心の中の

非難に耳を傾むけるやうだつた。

 

いやな不安が彼を故鄕へ返した。

彼は泣濡れた眼をして

棺の中の憐れな土色の戀人を彫むだ。

そしてそれが――それが彼の傑作だつた。

 

[やぶちゃん注:岩波文庫の校注によれば、再版「詩集」では、本篇は削除されている。ローマは永い間、芸術家が必ず行かねばならない必須のランドマークであった。私の偏愛する画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Caspar David Friedrich 一七七四年~一八四〇年)でさえ、ローマ旅行をせねばならないという重圧に悩んだほどであった。この詩は、読んだ瞬間、フロイト(私は少年期から心理学を専攻したく思い、特にフロイトは小学校高学年の時に「夢判断」を読み切り、二十代までに、著作集を粗方、読破していた)の「妄想と夢」を想起した。最もお薦めするのは、種村季弘訳の『W・イエンゼン「グラディーヴァ」/S・フロイト「妄想と夢」』(一九九六作品社刊)である(今は『平凡社ライブラリー』で読める)。因みに、大脱線になるが、私は、九年前、この訳を読んだ時、ふっと、中学一年の時、高岡で見た、「チップス先生さようなら」( Goodbye, Mr. Chips )を思い出したのを記憶している(原作の時代背景は第一次世界大戦で、チップスが旅するのは、イタリア(ローマ・ポンペイ)ではなく、イングランドの湖水地方であった)。大好きなピーター・オトゥールも良かったが、キャサリン役のペトゥラ・クラークに魅せられて、カメラでスクリーンの写真を撮ってしまったものだった(やってはいけない行為であったので、焦って、二眼レンズのカメラの蓋を取り忘れてしまい、写真はないが、何故か、その撮ろうとしたシーンは、脳裏に、こびりついている)。彼女がV-1の爆撃で亡くなった報知を授業中に受けたチップスのシークエンスは、今も思い出しただけで、涙が出る。……しかし……私は遂に……チップス先生には、なれなかったな、…………。

「望むだ」望んだ。

「彫むだ」「きざむだ」。彫(きざ)んだ。]

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版~始動 序・「第一詩集」「家神奉幣」(一八九五年) 「古い家」

[やぶちゃん注:昨日、堀辰雄の『ライネル・マリア・リルケ作 堀辰雄譯 「窓」 正字正仮名・オリジナル注版』を公開したところ、私の最初の担任(彼は、唯一、私が三年間、担任を持ち、私の「現代国語」を三年も受け続けた結果、私の陰鬱なる思想に染みてしまった不幸な男子生徒であった)から、『還暦が見えてきた今こそ、飴色の憂愁に沈むリルケの世界が、五臓六腑に沁み渡る気がします。』と感想が来た。そこで、一念発起し、最愛の教え子である彼のために、ブログ・カテゴリ『茅野蕭々「リルケ詩抄」』を創始し、リルケの茅野蕭々氏の訳された「リルケ詩抄」を正規表現で電子化することに決した。

 茅野蕭々明治一六(一八八三)年~昭和二一(一九四六)年はドイツ文学者・歌人。本名は儀太郎。長野県出身。東京帝国大学独文科卒。第一高等学校在学中から、『明星』に短歌を発表している。代表著作は本「リルケ詩抄」・「獨逸浪漫主義」など(小学館「日本国語大辞典」)。当該ウィキによれば、『「蕭々」は与謝野鉄幹から与えられたペンネームで』、『『明星』廃刊後は、森鷗外、与謝野鉄幹らの『スバル』で活躍した』。『リルケ』の他、『ゲーテその他の翻訳書が多数ある』。『茅野は当時、与謝野晶子、山川登美子とともに『明星』に短歌を寄せ活躍していた』三『歳年上の増田雅子に熱烈な求婚をし、親の反対を受けた雅子が日本女子大の卒業を待って、絶縁覚悟で大学生の蕭々と結婚した』。『戦時中は』「日本文學報國会外國文學部会長」『であった』敗戦直前の『東京大空襲で被災し』、『顔面に火傷を負い、翌』『年』、『失意のうちに脳溢血で急死し、雅子も後を追う』ように、四日『日後に病死した。墓所は雑司ヶ谷霊園』にある、とある。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの茅野蕭々譯「リルケ詩抄」(昭和二(一九二七)年五月発行・第一書房刊)を用いる(リンク先は扉。実は、変則的に標題扉の前の見返しらしき箇所(ここ)に別に「譯詩集」とだけ縦書したものがある。奥附はここ)。

 私はドイツ語が出来ないので、原詩との詳細対照等は出来ないため、注は、訳文で必要と思った箇所にのみ限ることとする。なお、本書には「目次」は最後にある。「小序」と「第一詩集」「家神奉幣」(一八九五年)の「古い家」から始める。

 但し、若い読者や、日本語がネイティヴでない方のために、やや戸惑うかもしれない漢字・熟語については、読みの注を附すこととする。

 なお、所持する岩波文庫版茅野蕭々訳「リルケ詩抄」(二〇〇八年第一刷・二〇一五年第二刷(新字正仮名変更版・但し、「小序」は新仮名である)をOCRで読み込み、加工データとして使用した。]

 

     小  序

 

 私がライネル・マリア・リルケの詩作に始めて接したのは、今から殆ど二十年前のことであるが、其後私は或る時期の間全く熱狂的に彼の詩を耽讀したものであった。ここに集めたものは、その頃から機會ある每に試譯したものに新に二、三十篇を加へて、時代順に配列したものであるが、一册の書物としての體裁を整へるために、以前の譯にも或る程度まで手を入れることにしてみた。當時文語脈を用いた詩も今は悉く口語に改めた如きは卽ちそれである。しかしながら譯語の選擇等に關しては成る可く譯した時の趣味を尊重して、多く改めることを敢てしなかつたのは、それに必要な多大の勞力を惜んだ故ばかりではなく、私にとっては忘れ難い追憶の幾つかがその間に織り込まれてゐるからでもある。そして選んだ詩は必ずしもリルケの代表的作品のみではないが、其數百五十餘、此詩人を知るに是非とも缺けてはならないと思ふやうな詩は出來るだけ入れることにした。しかし譯出不可能の爲に遺憾ながら其儘にしたものも少くはない。これは一つに譯者の伎倆の未熟に因るのであつて、原作者に對しても讀者に向つても深く恥ぢ入るところである。

 一體私の信條によると、西歐の詩を邦語に移すことは嚴格の意味に於ては全く不可能のことであって、特にリルケの場合のやうに、用語、詩形、律動等に複雜微妙な異色を持つてゐる時は尙更らである。從つて私の試みも原作の詩想の僅に一端を指唆し得ることを目標に置いて居るのみで、その滋味を完全に傳へるには遠く、寧ろリルケの詩を離れぬ私自身の詩作とも云ふべきものである。それ故私は卷末に此詩人に關する小論文を附して、他面から此詩抄の足りない處を補おうとしてみた。此論文は嘗て畏友阿部次郞君が主幹であった雜誌『思潮』に揭載したものに修補を加えたものであるが、此詩抄の中に採錄せられなかったリルケの其後の詩集『マリアの生涯』、『オルフォイスヘのソネット』、『ドゥイネエゼル・エレギエン』等には論及してはいないが、それによって此詩人の重大なものを云ひ落してはゐないだらうと思つてゐる。

 なほ最後に私の親愛な讀者に告げなくてはならないことは、此書の校正がほぼ終つた頃到着した獨逸新聞によると、リルケは近年住んでゐたスイスで壞血病の爲に舊臘二十九日終に永眠したといふ。療養地モントロェエで數週間病臥の後であるとのことである。私は此書が出來上った曉には、遙に一本を詩人の座右に送って、遠い東洋の果てにも彼の親しい友人のあることを知らせようと思っていたのに、今は此一卷が彼の在天の靈に捧げる私の誄辭に代ることになった。私はそれを心から悲しまずにはゐられない。

    昭和二年二月         譯  者

[やぶちゃん注:最後の「譯  者」は底本では三字上げ下インデント。

「卷末に此詩人に關する小論文を附して」この論文は国立国会図書館デジタルコレクションの右コンテンツの「目次」にはない(というか、この「目次」は不全である)。ここから始まる「ライネル・マリア・リルケ」が、それである。

「リルケは近年住んでゐたスイスで壞血病の爲に舊臘二十九日終に永眠したといふ。……」当該ウィキによれば、『晩年のリルケはヴァレリーの翻訳に精神を傾け(』一九二四『年にはヴァレリーがリルケを訪ねている)、またフランス語による詩作も行なっていたが』、一九二三『年より健康状態が悪化しヴァル・モンのサナトリウムに入院するようになった』。一九二六年十月、『白血病と診断されヴァルモン診療所に入院、同年』十二月二十九日、五十一『歳で死去した』。『遺言によって墓碑銘に指定された以下の詩は、「やってこい、わたしの認める・・・」ではじまる未完の遺稿とともに晩年の詩境を表すものとして名高い』。

   *

 

  Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,

  Niemandes Schlaf zu sein unter soviel

  Lidern.

 

  薔薇よ、おお純粋なる矛盾、

  それだけ多くのまぶたの下に、誰の眠りも宿さぬことの

  喜びよ。

 

   *

なお、私も聴いたことがあるが、鼻白んだ流言に、同脚注2に、『バラの棘を刺して白血病になった、という伝説があり、手塚富雄もそう書いているが』(「ドゥイノの悲歌」一九五七年岩波文庫刊)、『これは白血病の原因たりえず、英語版・ドイツ語版でも』、『この記述はない。神品芳夫』「リルケ 現代の吟遊詩人」(青土社・二〇一五年刊・294p)『には、ミュゾットの館で「彼女(ニメト・エルイ=ベルイ)のため庭に咲く薔薇を切ろうとして棘を指に刺し、出血が止まらなくなったという話はたちまち広まった。しかしそのときには』、『すでに彼は悪性の白血病との診断が確定していた」とある』とある。

「私は此書が出來上った曉には、遙に一本を詩人の座右に送って、遠い東洋の果てにも彼の親しい友人のあることを知らせようと思っていたのに、今は此一卷が彼の在天の靈に捧げる私の誄辭に代ることになった。私はそれを心から悲しまずにはゐられない」恐らく、生前に、この訳書をリルケが見ていたら、非常に喜んだものと思われる。リルケは晩年、日本の著作に強い関心を持ち、晩年の恋人であった、画家バラディーヌ・クロソウスカ(Baladine Klossowska 一八八六年~一九六九年)の子(夫であったエリク・クウォソフスキ(ドイツ語:Erich Klossowski)との間に生まれた第二子)であった、後の著名な画家として大成するバルテュス(Balthus)に、『リルケの薦めで』、『岡倉天心の』「茶の本」を読ん』(ウィキの「バルテュス」に拠る)でいるからである。

 なお、この「小序」は、岩波文庫の「校注」によれば、後の昭和一四(一九三九)年六月に、同じ第一書房から刊行された「リルケ詩集」(国立国会図書館デジタルコレクションでは出てこない)では、全面的に書き換えられてある。そこに載るものを、以下に示す(但し、新字新仮名に換えられており、適宜、読み仮名が附されてある。読み仮名は、かなり五月蠅いが(正直、総て不要である)、そのまま転写する)。

   *

 私がリルケ詩抄を公(おおやけ)にしたのは、今から既に十二年前のことである。当時我が国には、リルケについて何かを知っている人が必ずしも多いとは言い難かったが、今日に於(おい)てはその数も相当に達しているであろうし、この詩人について書く人も少くはないようである。詩人の本国及びフランス等に於て、リルケに関する研究や著述が今もなお引き続いて出版されることに刺戟(しげき)されるにも因るであろうが、兎に角喜ばしい現象と言わなくてはならない。私のように青年時から常に彼の詩作と親(したし)んで、殆ど心霊の生長を共にして来た者にとっては、特にその感が深い。実際この詩抄が再版を出そうなどとは、訳者の私自身さえ殆ど予期しなかったところである。

 しかしリルケの詩のよさは決して十年や二十年の歳月によって変るべきものではない。彼が世界の到(いた)る処(ところ)でなお盛(さかん)に読まれるのは当然と言わなくてはならない。しかし彼の詩作の価値が飜訳(ほんやく)によって果してよく伝えられるか否(いな)かとの疑は、私にとって昔も今も変らずに存している。今回版をかえるに際して増加したリルケ晩年の三詩集からの訳の如(ごと)き、その複雑多岐の思想情感を伝えることのみでも困難を感じたものが一、二に留まらない。況(いわ)んやその音響の美と意義との如きは、全く失われてしまった。実に、原詩の妙にうたれる時は、彼のすべての作を訳さずにはいられない切望に燃えるのであるが、訳筆の遠く及ばないことを顧(かえりみ)る時は、全訳詩を火中に投じたいほどの羞恥(しゅうち)にうたれる。旧訳についてもこれは同様であり、辞句の改訂したいものも少くないが、若い日の記念の為(ため)にと、成るべく旧体のままにし、僅(わずか)に数篇を削除したに過ぎない。巻末に附した論評も今日に於ては当時に於(お)けるほどの必要は無いように思われなくはないが、リルケを未(いま)だ多く知らない人には何等かの参考になろうと、敢(あえ)てその儘(まま)にした。更に附加した一節は、新に加えた三詩集の解説を主としたものである。書き出せば難解と思われる多くの詩句の註釈的説明をさえ試みたくなったが、またそれにも及ぶまいと考え直して、ただ概略に止(とど)めて置いた。彼の死後発表された書簡集、伝記、研究書等についても言いたいことがなくはないが、今はそれには言及しなかった。

  昭和十四年五月

                      訳 者

   *]

 

 

     第一詩集

 

 

     家神奉幣

       (一八九五年)

 

 

[やぶちゃん注:リルケ、二十歳の詩群より。原題は“ Larenopfer ”。「ラーレスへの捧げもの」の意。ラレース(Lares:古いスペルは“Lases”)は古代ローマ時代の守護神的な神々(複数)を指す。当該ウィキによれば、『その起源はよくわかっていない。家庭、道路、海路、境界、実り、無名の英雄の祖先などの守護神とされていた。共和政ローマの末期まで』、二『体の小さな彫像という形で祭られるのが一般的だった』。『ラレースは、その境界内で起きたあらゆることを観察し、影響を与えると考えられていた。家庭内のラレース像は、家族が食事中はそのテーブル上に置かれた。家族の重要な場面では、ラレース像が必須となっていたと見られている。このため古代の学者らはこれを「家の守護神」に分類していた。古代ローマの作家の記述を見ると、ラレースと同様の家の守護神とされていたペナーテースを混同している場合もある。ローマ神話の主な神々に比べると守備範囲も力も小さいが、ローマの文化には深く根付いていた。アナロジーから、本国に戻るローマ人を』“ ad Larem ”「ラレースに戻る」『と称した』。『ラレースはいくつかの公けの祭りで祝福され』、『礼拝された。中には vici (行政区)全体を守護するとされたラレースもある。また、ラレースを祭った交差点や境界線にある祠(コンピタレス;Compitales)は、宗教、社会生活、政治活動の自然な焦点となっていた。これらの文化はローマ帝国初期の宗教・社会・政治改革に取り込まれた。ラレースを家庭内に祭るという文化は変化しなかったようである。これらは少なくとも紀元』四『世紀まで持ちこたえた』とある(以下、詳細な記載があるので、そちらを見られたい)。]

 

 

 古い家

 

 

古い家の中で。私の前は開(ひら)けて

全プラアハが廣い圓になつて見える。

深く下を薄明(はくめい)の時間が

音もなく輕い步みで行きすぎる。

 

町は模糊として硝子で張つたやう。

ただ高く、甲を著(つけ)た巨人かと

眼前に判然(はつきり)聳える聖ニコラスの

綠靑(りよくしやう)いろの塔の圓屋根。

 

もう此處彼處(ここかしこ)に燈火(ともしび)が、遠く

蒸暑い町のどよみに瞬きだす――

古い家の中で、今、一つの聲が

『アアメン』といふやうに思はれる。

 

[やぶちゃん注:「プラアハ」現在のチェコ共和国の首都。プラハ(チェコ語・スロヴァキア語:Praha)。

「聖ニコラス」(二七〇年頃~三四五年または三五二年)はキリスト教の主教(司教)・神学者。「ミラのニコラオス」・「ミラの聖ニコラオ」とも呼ばれる。ウィキの「ミラのニコラオス」によれば、『小アジアのローマ帝国リュキア属州のパタラの町に生まれ、リュキアのミラで大主教をつとめた』。一〇八七『年にイタリアのバーリに聖遺物(不朽体)が移されたため』、『「バーリのニコラウス」とも呼ばれる』。『聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている』。『その生涯は早くから伝説化され、ニコラオス伝は好んでイコンに描かれる。東方教会および南イタリアで重視されたが、のちには西方教会全域にもその崇敬が広まった』。『西方教会では「無実の罪に苦しむ人」の守護聖人ともされる』。『正教会の伝える聖伝』『には弱い者を助けた話や、信仰の弱い者を教えて真理を守らせた話が数多く残っている。特に弱者を助ける際には、他人に知られないように行う事が常であった。また、数多くの奇蹟を行った事から奇蹟者との称号がある』とある。以下、詳しくはそちらを参照されたい。

「綠靑(りよくしやう)」読みはママ。岩波文庫の校注に、前掲した本詩集の再版である「詩集」で「綠靑(ろくしやう)」『に訂正された』とある。]

2025/01/12

ライネル・マリア・リルケ作 堀辰雄譯 「窓」 正字正仮名・オリジナル注版

[やぶちゃん注:オーストリア生まれで、ドイツ語詩人として知られるライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke 一八七五年~一九二六年)が、晩年にフランス語で書いた詩“ Les Fenêtres ”を、堀辰雄(明治三七(一九〇四)年~昭和二八(一九五三)年)が、昭和九(一九三四)年から昭和一一(一九三六)年にかけて翻訳したものである。

 さて、訳詩本文は、国立国会図書館デジタルコレクションの堀辰雄著「晩夏」(昭和一六(一九四一)年甲鳥書林刊)に収録されているものを底本とし(リンク先は標題部。そこでは「窓」とリルケ姓名の欧文表記のみがある)、画像で視認した。但し、底本では、各節は独立して印刷され、新規連は常に左丁から始まっているが、これは、再現していない。

 また、訳詩の後に附されてある、堀辰雄の「ノオト」の部分は、国立国会図書館デジタルコレクションの堀辰雄「雉子日記」(昭和一五(一九四〇)年河出書房刊)の中の一篇『リルケの「窓」』の末尾に置かれてある「ノオト」を参考として、画像で視認し、正字正仮名となるよう、電子化したものである。

 但し、この訳詩と「ノオト」をカップリングしたものは、所持する二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」であって、それをOCRで読み込み、加工データとしている。

 なお、ブログ標題の「ライネル・マリア・リルケ」の表記は、後者の「ノオト」の初めに書かれてあるリルケの辰雄の音写に基づいて示したものである。

 「立原道造・堀辰雄翻訳集」の解題に拠れば、この訳詩は、全篇を纏めて公開したのではなく、

「Ⅰ」と「Ⅲ」は、雑誌『文藝』(昭和 九(一九三四)年十二月号)

「Ⅱ」は、    雑誌『手帖』(昭和一一(一九三六)年四月発行)

「Ⅴ」と「Ⅹ」は、雑誌『四季』(昭和一〇(一九三五)年 六月号)

に、部分的に発表したが、『以上の本訳を推敲し、全十篇の翻訳を完成させ』、上記の前者の著作「晩夏」に収めたものであった。『末尾に付された「ノオト」は』、後者の著作「雉子日記」『の巻末記として書いたものを、のちに加筆訂正(年代未詳)したものだという』とあった。

 なお、この公開に先立ち、先ほど、『堀辰雄 リルケの「窓」 正字正仮名・オリジナル注版』を公開しておいたので、先ずは、そちらを見られんことを、強くお薦めするものである。

 

 

 

 

 

      Ⅰ

 

バルコンの上だとか、

窓枠のなかに、

一人の女がためらつてさへゐれば好い……

目のあたりに見ながらそれを失はなければならぬ

失意の人閒に私達がさせられるには。

 

が、その女が髮を結はうとして、その腕を

やさしい花瓶のやうに、もち上げでもしたら、

どんなにか、それを目に入れただけでも、

私達の失意は一瞬にして力づけられ、

私達の不幸は赫(かゞや)くことだらう!

 

      Ⅱ

 

お前は、不思議な窓よ、私に待つてゐてくれと合圖してゐる、

既にもうお前の鼠色の窓掛けは動きかけてゐる。

おお窓よ、私はお前の招待に應じなければならないだらうか?

それとも拒絕すべきだらうか、窓よ? 私の待つてゐるのは誰だ?

 

私はもう無緣ではないのではないか、この耳をそば立ててゐる生命に對して?

この戀を失つた女の充溢した心に對して?

私にはなほ行くべき道があるのに、かうして私を此處に引き止めながら、

私に夢みさせてゐる、かの女の心の過剩を、窓よ、お前は私に與へることが出來るのだらうか?

 

      Ⅲ

 

お前はわれわれの幾何學ではないのか?

窓よ、われわれの大きな人生を

雜作もなく區限(くぎ)つてゐる

いとも簡單な圖形。

 

お前の額緣のなかに、われわれの戀人が

姿を現はすのを見るときくらゐ、

かの女の美しく思はれることはない。おお窓よ、

お前はかの女の姿を殆ど永遠のものにする。

 

此處にはどんな偶然も入り込めない。

戀人は自分の戀の眞只中にゐる。

時分のものになり切つた

ささやかな空間に取り圍まれながら。

 

      IIII

 

窓よ、お前は期待の計量器だ。

一つの生命が他の生命の方ヘ

氣短かに自分を注がうとして

何遍それを一ぱいにさせたことか!

 

まるで移り氣な海のやうに

引き離したり、引き寄せたりするお前、――

かと思ふと、お前はその硝子に映る私達の姿を

その向う側に見えるものと混んぐらかせたりする。

 

運命の存在と妥協する

或種の自由の標本。

お前に調節されて、外部の過剩も、

われわれの内部では平衡する。

 

      V

 

お前は、窓よ、すべてのものに

儀式のやうな嚴肅な感じを加へる。

お前の窓枠の中で、何かを待つたり、物思ひにふけりながら、

人が直立不動になつてゐるのは、その所爲(せゐ)なのだ。

 

そんな風に、放心(うつけ)者だの、怠け者だのを、

お前はお小姓のやうに立たさせて置くのだ。

それはいつも似たりよつたりの姿勢をしてゐる。

それは自分の肖像畫となる。

 

漠とした倦怠にうち沈みながら、

少年がそれに凭(もた)れて、ぼんやりしてゐることがある。

少年は夢みてゐる。さうしてかれの上衣を汚してゐるのは、

少年自身ではなくて、それは過ぎゆく時間だ。

 

また戀する少女たちが、そこ居ることもある。

身じろがずに、いかにも脆さうに、

あたかもその翅の美しいために、

貼りつけられてゐる蝶のやうに。

 

[やぶちゃん注:実は、何故か、全く理由が判らないのだが(編集部注にも記載がない)、「立原道造・堀辰雄翻訳集」では、この「Ⅴ」の表現が、全体に有意に、違っている。以下に新字体のままで示す。異なる箇所に傍線を引いた。

   *

 

   V

 

窓よ、お前は、どんなものでも

何んと儀式めかしてしまふのだらう!

お前の窓枠の中で人は直立不動になつて

何かを待つたり、物思ひにふけつたりする。

 

そんな風に、放心者(うつけもの)だの、怠け者だのを、

お前はよくお小姓のやうに立たせてゐる。

彼はいつも同じやうな姿勢をしてゐる。

彼は自分の肖像画みたいになつてゐる。

 

漠とした倦怠にうち沈みながら、

少年が窓に凭(もた)れて、ぼんやりしてゐることがある。

少年は夢みてゐる。さうして彼の上衣を汚してゐるのは、

少年自身ではなくて、それは過ぎゆく時間なのだ。

 

又、恋する少女たちが、窓に倚つてゐることもある。

身じろがずに、いかにも脆さうに、

あたかもその翅の美しいために、

貼りつけられてゐる蝶のやうに。

 

   *

フランス語原文は、何故か、フランス語圏のサイトでは見当たらず、アメリカの作曲家のサイトで見つけたと思ったら、「Ⅲ」で終りで、全体を見ることが出来なかった。しかし、この「立原道造・堀辰雄翻訳集」の方の「Ⅴ」の方が、全体に、語彙の表現や順列が、より、自然であり、妙な躓きがなく、すらりと読めるとは言えると思う。先行させた『堀辰雄 リルケの「窓」 正字正仮名・オリジナル注版』で述べたが、国立国会図書館デジタルコレクションで、幾つかの、ここに出る書き換えで、フレーズ検索を掛けると、原本画像は見られないが、新潮社版(一九五四・五八年)・角川書店版(一九六三年)の全集による校訂された本文であることが判明した。則ち、辰雄は後に、大きく手を加えていることが判るのである。なお、第三連の「汚してゐるのは、」の「汚して」は、言わずもがなだと思うけれど、敢えて言っておくと、「けがして」ではなく、「よごして」と読んでいると思われる。]

 

     Ⅵ

 

部屋の奧、寢臺のあたりには、そこはかとない薄明しか漂はせてゐなかつた、

星形の窓は、いまや貪婪な窓と交代して、

飽くことなく日光を求めてゐる。

ああ、誰れか窓に走り寄り、それに凭れかかつて、ぢつとしてゐる。

夜の去つた跡で、こんどはその神聖なみづみづしい若さの番が來たのだ!

その戀する少女の眺めてゐる朝の空には、

靑空そのもの――あの大いなる模範、

深さと高さと――それ以外にはなんにもない。

その空の一部を圓舞臺にして、

ゆるやかな曲線を描いて飛び交ひながら

愛の復歸を告げ知らせてゐる鳩たちを除いては。

                   (朝 の 空)

[やぶちゃん注:「立原道造・堀辰雄翻訳集」では、第一行末には読点も句点もない。]

 

     Ⅶ

 

私達の區限(くぎ)られた部屋に、

闇が絕えず增大させる

未知の擴がりを與へるやうにと、

屢〻工夫せられた窓。

 

昔、その傍らにいつも坐つて、

一人の婦人が、俯向いたまま、

身じろぎもせず、物靜かな樣子で、

縫ひ物をしつづけてゐた窓。

 

明るい壜の中に嚥みこまれたまま、

そのなかで或像(すがた)の芽ばえてゐる窓。

われわれの廣漠たる眼界の

帶を結んでゐる環。

 

     Ⅷ

 

かの女は窓に凭れたまま、

何もかも任せ切つたやうな氣もちで、

うつとりと、心を張りつめて、

夢中で何時間も過すのだ。

 

獵犬たちが橫たはるとき

その前肢(まへあし)を揃へるやうに、

かの女の夢の本能が

不意と襲つて、そのしなやかな手を、

 

氣もちのいい具合に竝べてくれる。

その餘のものはそれに準(なら)つて落着くのだ。

さうしてしまふと、その腕も、胸も、肩も、

かの女自身も言はない、「もう飽(あ)いた」と。

[やぶちゃん注:「立原道造・堀辰雄翻訳集」では、第二連一行目の「橫たはるとき」は、「横はるとき」となっている。]

 

     Ⅸ

 

忍び泣いてゐる、ああ、忍び泣いてゐる、

あの誰も凭れてゐない窓!

慰みやうもなく、淚に咽(むせ)んでゐる、

あの被覆(おほひ)をせられたもの!

 

遲過ぎてからか、それとも早過ぎないと、

お前の姿ははつきりと摑めない。

いまは全くその姿を包んでゐるお前の窓掛け、

おお、空虛の衣!

 

      X

 

最後の日の窓に身を傾けてゐた

お前の姿を目のあたりに見ながらだつた、

私がわが身の深淵を隈なく知つて、

それをはじめてわが物となしたのは。

 

お前はその腕を闇の方へ向けて

私にそれを振つて見せながら、

私がお前から切り離して自分と一しよに持つて來たものを

私から更に切り離して、逃げて行つてしまはせた……

 

お前のその別離の手振りは、

永い別離の印なのではなかつただらうか?

遂には私が風に變身せしめられ、

水となつて川に注がれてしまふ日までの……

 

 

 

 

ノオト

 

 この「窓」(Les Fenêtres)一卷は、ライネル・マリア・リルケがその晚年餘技として佛蘭西語で試みたいくつかの小さな詩集のうちの一つである。その死後、詩人の女友達の一人だったバラデインといふ閨秀畫家が十枚の插繪を描いて、一九二七年に巴里のリブレリイ・ド・フランスといふ本屋から五百部限定で刊行せられた。

 リルケにはかういふ揷話がある。「リルケの思ひ出」といふ本を書いた、トウルン・ウント・タクジス公爵夫人といふ婦人が、その本の中に引用してゐる詩人の手紙の一節に據ると、――一月の或日(それは一九一三年のことで、リルケは巴里に居た)詩人はなんとも說明しがたい誘引を感じて、聖ルイ島の、ホテル・ラムベエルの方へ向ひ、アンジュウ河岸に沿つて步いて行つた。一つの町から他の町へと、簇がり起つてくるさまざまな思ひ出に一ぱいになりながら。それは本當に奇妙な午後だつた。町々の、注意深く覆はれた、ひつそりした、高い窓の下を通りかかると、きまつてその窓帷がふいと持ち上げられたやうな氣がし、そしてそれが何んだか自分のためにされたやうに思はれるのだつた。その度每に、自分が其處へはひつて行きさへすればいい、さうすれば何もかもが、そこいらに漂つてゐる匂まで、說明されるやうな氣がされた、――恰も自分が其處ではずつと前から待たれて居つて、そしてその中へ自分がはひつて行く決心さへすれば、それらの暗い、厭はしい家は思はずほつとするであらうやうな……

 この「窓」一卷を成してゐるすべての詩は、さういつた詩人の巴里滯在中のかずかずの經驗を背景にしてゐるのであらう。一九一九年以來、殆どその晚年を「ドウイノ悲歌」を書くために瑞西に隱栖してゐた詩人も、ときどきその好きな巴里にだけは出て來たらしい。しかし巴里にいても殆ど彼が何處でどう暮らしてゐるのかは誰にも分からなかつた。時としてリュクサンブウル公園などで小さな手帳をとり出して卽興的に短い詩などを書き込んでゐる、いかにも人生に疲憊したような詩人の姿が見うけられたとも云はれる。……

 これらの未熟な佛蘭西語で書かれた卽興詩だけではこの大いなる詩人の全貌が窺へないことは云ふを埃たない。しかし、これらの詩の或物、――たとへばその最後の「窓」の詩など――にも、詩人の心血を注いで書いた「悲歌」の沈痛なアクセントのほのかな餘韻のやうなものは感ぜられるのである。

[やぶちゃん注:参考底本では、最終行の下インデントで、『一九三七年二月』とある。なお、この「ノオト」は、先ほど、公開した『堀辰雄 リルケの「窓」 正字正仮名・オリジナル注版』で原型を電子化して、注を附し、一部の読みも割注してあるので、ここでは、添えていない。

堀辰雄 リルケの「窓」 正字正仮名・オリジナル注版

[やぶちゃん注:本篇は、堀辰雄が昭和一三(一九三八)年三月号の雑誌『むらさき』第五卷第三號に発表し、後に彼の著書「雉子日記」(昭和一五(一九四〇)年河出書房刊)の中の「讀書の日々」の一篇として収録したものである。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの堀辰雄「雉子日記」(昭和一五(一九四〇)年河出書房刊)の中の一篇『リルケの「窓」』を画像で視認し、電子化した。

 但し、所持する二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」(新字新仮名)にある、それをOCRで読み込み、加工データとしている。因みに、「青空文庫」で本篇は『詩集「窓」』の標題で、二〇一三年一月に『堀辰雄作品集第五卷』(昭和五七(一九八二)年九月三十日発行筑摩書房刊)を底本として旧字旧仮名で電子化されてあるが、私はそれを、一切、使用していない。「君の大嫌いな屋上屋をするのかね?」とツッコミを入れる御仁のために言っておくと、私は既に、昨日、堀辰雄が完全に訳した「窓」を正字正仮名で用意してあり、その校訂をしているうちに、本篇を正確に示す必要が生じたため、本日、これを以上の仕儀で、電子化することにしたのであり、「青空文庫」にそれがあることは、先程、知ったものである(私は、二〇一一年四月を以って、「青空文庫」の新着作品の完全蒐集ルーティンという下らない仕儀を、疾うに完全に罷めているのである)。既に、上記の通りで、オリジナルに電子化の用意を終えた後であった。言っておくと、管見したところ、「青空文庫」のものと、以下の私の電子化するものとは――★引用される詩篇訳が大きく異なっている★――ことが判る。これは、実は、昨日から気がついていた書誌学的校訂にとっては甚だ奇妙な異同なのだが……。他にも★――辰雄の説明の表現も――有意に――激しく――違う★――のである。これは、国立国会図書館デジタルコレクションで幾つかのフレーズ検索を掛けると、原本画像は見られないが、新潮社版(一九五四・五八年)・角川書店版(一九六三年)の全集による校訂された本文であることが判った。要するに、辰雄は後に、大きく手を加えていることが判るのである。無論、その違いも、注で、「立原道造・堀辰雄翻訳集」から引いて、比較させておいた。則ち、これは「屋上屋」どころか、★全然違う別ヴァージョン★――なのだよ!!!

 されば、本篇を公開後、私の既に出来上がっている『ライネル・マリア・リルケ作 堀辰雄譯 「窓」 正字正仮名・オリジナル注版』を公開することとする。それは、「青空文庫」には、ない。但し、この電子化を受けて、そちらの注を追加することにしているため、多少のタイム・ラグは掛かることをお許しあれかし。

 なお、作中、翻訳詩の引用部分は、ポイント落ちになっているが、読み難くなるだけなので、無視し、本文と同ポイントで示した。]

 

   リルケの「窓」

 

 私はいま自分の前に「窓」といふ、插繪人りの、薄い、クワルト判の佛蘭西語の詩集をひろげてゐる。その表題の示すごとく、ことごとく、窓を主題にした十篇の詩を集めたもので、そのおのおのに一枚づつ插繪が入つてゐるのである。

 その詩のいづれもが、とある窓の下を通りすがりにちらつと垣間見たその内側の人生だの、或はその窓のみを通してその内側の人生と持ち合つたはかない交涉だのを歌つたものだが、所詮さう云つたはかなさそのものこそ此の人生にいかにも似つかはしく、さういふ點からしてもそれ等のふとゆきずりに見たやうな窓といふ窓がこのわれわれの人生に對して持つてゐる大きな意味――さう云つたやうなものが知らず識らずのうちにわれわれにひしひしと感ぜられて來ずにはおかないのである……

[やぶちゃん注:「クワルト判」英語“quarto”(元はラテン語の「四分の一」の意)。四つ折り紙(判)。クォート判(全紙の二度折りの製判に当たる)。]

 それ等の詩はどれも難解といふほどではないが、ちよつと風變りな佛蘭西語で書かれてあるので、私などにはすつかり吞み込めないやうな奴がないでもない。そんなのにもしかし揷繪がついてゐるので、ともかくも大體の意味はわかる。若い女の畫家の描いたものらしいが、(ひよつとしたら少女かも知れない)繪そのものはいかにも素人らしくつて、稚拙だ。

[やぶちゃん注:「若い女の畫家の描いたものらしい」これは、最後の「ノオト」で名が示されるので、そこで注する。辰雄は、以下で、かなり、挿絵を貶しているが、この女性、とんでもない人物なのである。

 私はいまその十篇の詩の大意を、その揷繪でもつて補ひながら、此處に書き竝べて見るが、それがおのづから一つの人生風景を美しく繰りひろげてくれたら好い。

 

       I

 

 最初の詩は、われわれがバルコンの上だとか、窓枠のなかにちらりと現はれたのを見たきりで、姿を消してしまつた女の、われわれの心に殘す何とも云ひやうのない寂しさを歌つてゐる。

 

   が、その女が髮を結はうとして、

   その腕を上げたなら、やさしい瓶よ、

   いかほどそれによつて私達の無氣力は

   たちまちに力づけられ、そして、

   私達の不幸はその光輝を增さうものを。

 

[やぶちゃん注:以上の訳詩部分は「立原道造・堀辰雄翻訳集」のものとは、大きく異なる。新字旧仮名のままで以下に示す(以下、同じ)。

   *

 

   が、その女が髪を結はうとして、その腕を

   やさしい花瓶のやうに、もち上げでもしたら、

   どんなにか、それを目に入れただけでも、

   私達の失意は一瞬にして力づけられ。

   私達の不幸は赫(かがや)くことだらう。

 

   *]

 插繪は、その窓枠のなかに一人の女が裸かの腕をもち上げて髮を結はうとしてゐる姿をちらりと見せてゐる。明け方、たつたいま起きたばかりのところと見える。窓枠の奧はまだ薄ぐらい……

 

       Ⅱ

 

 その次ぎの插繪も、同じやうに、鼠色の窓帷[やぶちゃん注:「さうゐ」。カーテン。]のかげから何かの花を揷した花瓶を窓ぎはに置かうとしかけてゐる女の手だけをちらりと覗かせてゐる。――つい云ふのを忘れてゐたが、插繪はみんなエッチングである。

 さて、肝心の詩だが、詩の方にはそんな女の手は現はれてはいないのである。さうして唯、その鼠色の窓帷がなんだかごそごそと動いたのが目に止つたきり。……それだけでももう、それを見た者の胸ははずんで、もうすこし待つてゐるやうにと合圖をされたのだらうかしらと思ふ。さうしてそれに應じたものかどうかと迷はずにはゐられない。が、それにしても自分の待たうとする者は一體誰なのだ?

 かうやつてその路傍に佇んで、何か見知らぬ者にしきりに注意深くしてゐる自分、ひよつとしたら夢がかうやつて自分を立ち止まらせているのではないかとまで疑ひ出してゐる自分、――こんな自分をいまを限りに、もう昔のやうな自分ではないのではないのか知らん?

[やぶちゃん注:以上の第二段落以降は「立原道造・堀辰雄翻訳集」のものとは、激しく異なる。

   *

 さて、本文の詩だが、詩の方にはまだそういう女の手は現われてはいないのである。そうして唯(ただ)、その鼠色の窓帷がなんだかごそごそと動いたのが目に止(とま)ったきり。……それだけでももう、それを見た者の胸ははずんで、それが自分に来てくれるようにという合図なのではないかしらと思う。そうしてそれに応じたものかどうかと迷わずにはいられない。が、それにしてもそれは一体誰なのだろうか?

 そうやってその窓帷のかげにそっと隠れているのは、ひょっとしたら恋を失った女ではないのか? そうして彼女の心から溢(あふ)れでている生命が、こうして窓の下に立っている行きずりの私にまで、その飛沫(ひまつ)を与えているのではないだろうか?

   *]

 

     Ⅲ

 

 窓はわれわれの幾何學、――それはわれわれの大いなる人生を容易に區切つている、非常に簡單な圖形だ。

 

   お前の額緣のなかに

   戀人が現はれるのを見る時くらゐ

   彼女の美しく見えることはない。

   おゝ、窓よ、お前は彼女の姿を殆ど永遠化する。

 

 此處では偶然はすべて許されない。戀人は戀の眞只中にいる。彼女のものになり切つた、ささやかな空間にだけ取り圍まれながら。……この明瞭な詩の揷繪は、なんのことやらよく分からない。一人の女の片手をちよつと胸にあてがつてゐる立ち姿が描かれているが、さうやつて片手をしをらしく胸にあてながら、物思はしげに窓に倚つてゐる姿、――それこそ戀人の永遠の像だといふのであらうか。此處のところ、どうもすこし詩よりも插繪の方が晦澁である。

[やぶちゃん注:これは、最集段落の一箇所を除き、その間遠部分の異同が激し過ぎるので、全文を提示する。

   *

 窓はわれわれの幾何学、――それはわれわれの大いなる人生を無雑作に区切っている、いとも簡単な図形だ。

 

   お前の額縁のなかに、われわれの恋人が

   姿を現はすのを見るときくらゐ、

   かの女の美しく見えることはない。おお窓よ、

   お前はかの女の姿を殆ど永遠化する。

 

 此処にはどんな偶然も入り込めない。恋人は恋の真只中にいる。彼女のものになり切った、ささやかな空間にだけ取り囲まれながら。……この詩の挿絵は、なんのことやらよく分からない。一人の女の片手をちょっと胸にあてがっている立ち姿が描かれているが、そうやって片手をしおらしく胸にあてながら、物思わしげに窓に倚っている姿――それこそ恋人の永遠の像だというのであろうか。此処のところ、どうもすこし詩よりも挿絵の方が晦渋である。

   *]

 

       Ⅳ

 

 第三の詩で窓を幾何學的なものとして取扱つた詩人は、こんどは反對にそれを海のはうに千變萬化のものとして取扱はうとしてゐるとでも云へようか?

 揷繪もこんどはいくぶん詩に卽してゐる。一人の女が窓のところに手をかけながら、冲を走つてゆく船へぢつと切なさうな目を注いでゐる。無雜作にひつかけた肩掛けを强い海風になびくががままに任せながら……

 

   窓よ、お前は奇体の桝だ、――

   一つの生が他の方ヘ

   注ぎゆかんとしきりに焦つては

   それを何度一ぱいにさせたことか。……

 

[やぶちゃん注:訳詩の引用部が、全く異なる。

   *

 

   窓よ、お前は期待を量る器だ――

   の生命の方ヘ

   気短かに自分を注がうとして

   それを何度一ぱいにさせたことか。……

 

   *]

 

       V

 

 此處いらへんで、下手な譯だが、まあ一つ見本にその詩をそつくり譯してお目にかけて置くのも好かろう。あんまり間違つてゐないで吳れるといい。

 

   窓よ、何んとお前はすべてのものを

   そんなに儀式ばらせてしまふのだ!

   お前の窓枠の中に、ぢつと立つたきりで、

   何者かがよく人を待つたり、物思ひにふけつたりしてゐる。

 

   そんな放心者だの、怠け者ばかりを

   お前はお前の侍女に立たせてゐるのだ。

   彼女は彼女自身の繪姿になつてしまふ。

 

   又、漠とした倦怠に沈みながら、

   子供がそれに靠れて、ぽんやりしてゐることがある。

   その子は夢みてゐるのだ。そしてその上衣の汚れるのは、

   その子のせゐではなくて、そただ時間のせゐなのだ。

 

   又、戀人たちが、窓に倚つてゐることもある。

   身じろがずに、いかにも脆さうに、

   あたかもその翅の美しいために、

   貼りつけられてゐる蝶のやうに。

   [やぶちゃん注:「靠れて」「もたれて」。]

 

 この詩の揷繪は、窓から三人の少女が顏を出してゐるところが描かれてゐる。その中の一人の少女だけが唐草模樣のある欄干に腰かけて、何かをしきりに見ようとしてこちらへ體を捩ぢ向けてゐると、その背後からも二人の少女が肩に手をかけ合ひながら、やつぱりこちらへ注意深さうな目を注いでゐる。

[やぶちゃん注:訳詩が大きく異なる。

   *

 

   窓よ、お前はどんなものでも

   何んと儀式めかしてしまふのだらう!

   お前の窓枠の中では、人は直立不動になつて、

   何かを待つたり、物思ひにふけつたりする。

 

   そんな風に放心者だの、怠け者だのを

   お前はよくお小姓のやうに立たせてゐる。

   彼はいつも同じような姿勢をしてゐる。

   彼は自分の肖像画みたいになつてゐる。

 

   漠とした倦怠にうち沈みながら、

   少年が窓に靠れて、ぽんやりしてゐることがある。

   少年は夢みてゐる。さうして彼の上衣を汚してゐるのは、

   少年自身ではなくて、それは過ぎゆく時間だ。

 

   又、恋する少女たちが、窓に倚つてゐることもある。

   身じろがずに、いかにも脆さうに、

   あたかもその知の美しいために、

   貼りつけられてゐる蝶のやうに。

 

   *]

 

       Ⅵ

 

 この第六の詩にだけは特に「朝の空」といふ傍題が附せられてゐる。

 まだ部屋の奧にある寢臺のあたりは暗くつて、そこに寢てゐる者が誰だかさへもはつきりとは見分けられない位。だが窓ぎわはもう徐々に明るみ出してゐる。そのとき突然、寢臺から飛び下りて、その窓ぎわに走りより、それに倚りかかる者がある。それは一人のみづみづしい少女だ。

 その窓から少女の眺め入る曙の空には、しかし、それを見上げてゐる彼女自身の他には何も見えまい。その大空たるや、その深みにせよ、その高さにせよ、全くその少女とそつくりな生き寫しであるから、――ただ、その空中にやさしく飛び交つてゐる澤山の鳩たちを除いたら。――

 この「朝の空」と題された一篇の大意はまあさう云つたものだが、揷繪では、一人の裸體の少女がいま目を覺ましたばかりと云つたやうに、寢臺の上で半ば身を起しながら、窓のところに飛んできた二羽の鳩を無心さうに眺めてゐるところを繪にしてゐる。これでは、詩にあるように、その少女が夜そのものからのやうに寢臺から夜間着のまま拔け出し、窓に駈けよつて、身じろぎもせずに自分の新鮮な若さそのもののやうな曉の空を見入つてゐる、と云つた何か潑溂とした感じがあまり出ないやうだ。まあ、この揷繪は所詮讀者が詩を解するための何かの役に立てばいいと云つた位に考へてやつて置いた方がいい。餘人は知らず、少くとも私のためにいままでその方ではかなり役に立つたのだから、いまさらそれを知らん顔して、揷繪の惡口ばかり云ふのもすこし氣がさすといふもの。

[やぶちゃん注:この章も、激しく異なる。後半部がゴッソりカットされている。

   *

 この第六の詩にだけは特に「朝の空」という傍題が附(ふ)せられている。

 まだ部屋の奥にある寝台のあたりは暗くって、そこに寝ている者が誰だかさえもはっきりとは見分けられない位。だが窓ぎわはもう徐々に明るみ出している。そのとき突然、寝台から飛び下りて、その窓ぎわに走りより、それに倚りかかる者がある。それは一人のみずみずしい少女だ。

 しかし、その窓から少女の眺め入る曙の空には、青空そのものしかない。ただ、その空の一部に鳩たちがゆるやかに飛び交っているばかり。……

 この「朝の空」と題された一篇の大意はまあそう云ったものだが、挿絵では、一人の裸体の少女がいま目を覚ましたばかりと云ったように、寝台の上で半ば身を起しながら、窓のところに飛んできた二羽の鳩を無心そうに眺めているところを絵にしている。これでは、詩にあるように、その恋する少女が夜そのものからのように寝台から素足のまま抜け出し、窓に駈けよって、うっとりとして明けゆく空を見入っている、いかにもみずみずしい姿が、あまり描けていないのではないだろうか?

   *]

 

     Ⅶ

 

 とは云へ、この次ぎの頁をめくつたら、いやはや、一番困りものの揷繪が出て來てしまつた。どう見ても美しいとはいはれない女がぼんやりと窓のところで頰杖をついてゐる……

 その物思はしげな女の繪と詩との關係もよく分からない。まあ、大體この七番目の詩そのものが私にはよく分からない。意味は分かつても、その分かつた範圍だけでは面白いと思へない。ここいらへんから、詩集全體がどうも少し倦れてきたやうに見える。[やぶちゃん注:「倦れてきた」「うまれてきた」。意味からは「もてあやされてきた」と読むことも可能であろう。]

 この詩はその前の「朝の窓」に次いで、さまざまな夜の窓を歌つてゐるものと見える。狹い、限界のある部屋に闇を增させて無限の擴がりを與へることも出來る窓、昔その傍らで一人の女が俯向きながら、身じろぎもせずに、靜かに縫ひ物をしつづけてゐた窓、等々……

[やぶちゃん注:これは――全文圧縮系の書き直し――に近い。

   *

 次ぎの頁をめくると、どう見ても美しいとはいわれない女がぽんやりと窓のところで頰杖(ほおづえ)をついている挿絵がある……

 さて、その物思わしげな女の絵と詩との関係だが、それもどうも自分にはよく分からない。この詩は、私達の、狭い、限度のある部屋に無限の拡がりを与えるようにと工夫せられた窓だの、昔その傍らで一人の婦人が俯向いたまま、身じろぎもせずに、静かに縫い物をしつづけていた窓などを歌っているのだが……

   *]

 

     Ⅷ

 

 此處にも、いまのと似たり寄つたりの揷繪がついている。しかし、詩にはずつと卽してゐるから好い。その若い女は、何時間も何時間も、無心さうに、しかも緊張した面もちで、その窓に靠れながら過ごす。獵犬が橫になるや、きちんとその兩足を揃へるやうに、彼女の夢の本能といつたやうなものが、先づ、彼女しなやかな兩手を揃へさせる。それからはじめてその腕だとか、胸だとか、肩だとかがめいめいの配置につく。さうしていつまでもさうやつて凝つとしたまま、それらのものは「もういいの」なんぞとはおくびにも出さない……

[やぶちゃん注:言っていることは変わらないが、細部の表記・表現を書き換えてあるので全文を示す。

   *

 此処にも、いまのと似たり寄ったりの挿絵がついている。しかし、詩にはずっと即しているから好い。その若い女は、何時間も何時聞も、無心そうに、しかも緊張した面もちで、その窓に凭(もた)れがら過ごす。猟犬が横になるや、きちんとその前肢(まえあし)を揃えるように、彼女の夢の本能といつたようなものが、先(ま)ず、彼女のしなやかな手を気もちのいい具合に揃えさせる。それからはじめてその余(よ)の、腕だとか、胸だとか、肩だとかがめいめいの配置につく。そうしていつまでもそうやって凝(じ)っとしたままでいて、「もううんざり」なんぞとはおくびにも出さない……

   *]

 

     Ⅸ

 

 九番目の插繪は、これまでとはぐつと異つて、二本の木立ごしに或アパアトらしい二階建の小家をやや遠くに離して描いてゐる。二階には窓が三つ見え、地階には扉と窓が一つづつ見える。二階の一番左端の窓はひらかれて、窓帷をもたげながら一人の女が立つてゐる。それから地階の中央の窓からはやつぱり一人の女が格子ごしに顏を出してゐる。その上方の窓も、同じやうにひらかれてはゐるが、窓帷がひつそりと垂れたまま、人かげはない……

 さて、本文だが、その揷繪で補つて見ても、いまのところ私にはよく分からない。ただ、どうもその揷繪のなかで、窓帷で覆はれたまま何も見えない窓が、この詩の對象になつてゐるのらしい。その誰も見えない窓こそ、自分の歎きの原因だが、その正軆を知らうにはもう遲過ぎる、(それともまた早過ぎるのかしら?)いまは窓帷がそれをすつかり覆つてゐる、――と云つた意味らしいが、この自分の解釋には自信はない。ただ

   Sanglot, sanglot, pur sanglot !

 といふこの詩の第一行を口のなかで繰り返へし繰り返へししながら、その何かしら侘しげな揷繪を見てゐると、分かつたような分からないやうな裡[やぶちゃん注:「うち」。]にも、少しづつ自分の身についてくるやうな氣もしないことはない。

[やぶちゃん注:“ Sanglot ”(サァングロ)は名詞で、「しゃくり上げて泣くこと・咽び泣き・嗚咽」の意。因みに、フライングすると、辰雄は、この一行を、『忍び泣いてゐる、ああ、忍び泣いてゐる、』と訳している。]

 

       Ⅹ

 

 さて、最後の詩である。これはなかなか好い詩だ。揷繪は一人の若い女が窓に身をのり出して、去りゆく戀人にみ向つて絕望したやうに手を振つてゐる。髮さへふりみだしながら……

 

   別れの窓に身をかしげてゐた

   お前を見たがためだつた、

   私が自分の深淵のすべてを理解し、

   それを嚥み込んだのは。

   闇の方に差し伸べたお前の腕を

   私に示しながら、お前は

   私の裡ではとつくにお前から離れてゐたものを、

   徐(しづ)かに私から離し、私から出て行かせた。……

 

   お前の身ぶりは、本當に

   大なる別離の印(しるし)だつたのだ?

   それが私を風に變化させ、

   私の中に注ぎこませたほどに……

 

[やぶちゃん注:やはり前振りの一部と、訳詩が有意に異なるので、全文を示す。

   *

 さて、最後の詩である。これは恋人の別離を歌った詩だ。挿絵は一人の若い女が窓に身をのり出して、去りゆく恋人に向って絶望したように手を振っている。髪さえふりみだしながら……

 

   別れるとき窓から身をのり出すやうにしてゐた

   お前の姿をまざまざと目にしながら、

   私ははじめてわが身うちの深淵に気づき、

   それを隈なく知つてわが物となした……

   お前はその腕を闇の方へ向けて

   私にそれを振つて見せながら、

   私がお前から切り離して自分と一しよに持つて来たものを、

   私から更に切り離して、それを出て行かせた。……

   お前のその別離の手ぶりは、

   永久の別離の印(しるし)なのではなかつたらうか?

   遂に私が風となり、

   水となつて川に注がれてしまふ日までの……

 

   *]

 

 

 

ノオト

 

 この詩集の著者はライネル・マリア・リルケ。――この「窓」(Les Fenêtres)一卷は、この詩人がその晚年「ドウイノ悲歌」などを完成した後、卽興的に佛蘭西語で試みたいくつかの小さな詩集のうちの一つである。それにどうも些か稚拙がすぎるやうな揷繪をもつて飾つたのは、この詩人の年少の女友達らしい、バラデインといふ閨秀畫家。詩人の死後、一九二七年に五百部を限つて刊行せられた。その書肆はリブレリイ・ド・フランス。

 リルケにはかういふ揷話がある。「リルケの思ひ出」といふ本を書いた、トウルン・ウント・タクジス公爵夫人といふ婦人が、その本の中に引用してゐる詩人の手紙の一節に據ると、――一月の或日(それは一九一三年のことで、リルケは巴里に居た)詩人はなんとも說明しがたい誘引を感じて、聖ルイ島の、ホテル・ラムベエルの方へ向ひ、アンジュウ河岸[やぶちゃん注:「かし」。]に沿つて步いて行つた。一つの町から他の町へと、簇がり起つてくるさまざまな思ひ出に一ぱいになりながら。それは本當に奇妙な午後だつた。町々の、注意深く覆はれた、ひつそりした、高い窓の下を通りかかると、きまつてその窓帷がふいと持ち上げられたやうな氣がし、そしてそれが何んだか自分のためにされたやうに思はれるのだつた。その度每に[やぶちゃん注:「たびごとに」。]、自分が其處へはひつて行きさへすればいい、さうすれば何もかもが、そこいらに漂つてゐる匂[やぶちゃん注:「にほひ」。]まで、說明されるやうな氣がされた、――恰も[やぶちゃん注:「あたかも」。]自分が其處ではずつと前から待たれて居つて[やぶちゃん注:「をつて」。]、そしてその中へ自分がはひつて行く決心さへすれば、それらの暗い、厭はしい[やぶちゃん注:「いとはしい」。]家は思はずほつとするであらうやうな……

 この「窓」一卷を成してゐるすべての詩は、さういつた詩人の巴里滯在中のかずかずの經驗を背景にしてゐるのであらう。一九一九年以來、殆どその晚年を「ドウイノ悲歌」を書くために瑞西[やぶちゃん注:「スイス」。]に隱栖してゐた詩人も、ときどきその好きな巴里にだけは出て來たらしい。しかし巴里にいても殆ど彼が何處でどう暮らしてゐるのかは誰にも分からなかつた。時としてリュクサンブウル公園などで小さな手帳をとり出して卽興的に短い詩などを書き込んでゐる、いかにも人生に疲憊[やぶちゃん注:「ひはい」。]したような詩人の姿が見うけられたとも云はれる。……

 これらの未熟な佛蘭西語で書かれた卽興詩だけではこの大いなる詩人の全貌が窺へない[やぶちゃん注:「うかがへない」。]ことは云ふを埃たない。しかし、これらの詩の或物、――たとへばその最後の「窓」の詩など――にも、詩人の心血を注いで書いた「悲歌」の沈痛なアクセントのほのかな餘韻のやうなものは感ぜられるのである。

                                 一九三七年二月

[やぶちゃん注:底本では、「一九三七年二月」のクレジットは最終行の下インデントである。

「詩人の女友達の一人だったバラデインといふ閨秀畫家」これはバラディーヌ・クロソウスカ(リルケは彼女に「メルリーヌ」( Merline )という愛称をつけている)(Baladine Klossowska 一八八六年~一九六九年)である。彼女はリルケの「最後の恋人」としても知られている。邦文記事は皆無に等しいのだが、ポーランド西部にある古い都市ヴロツワフ(ポーランド語:Wrocław)生まれの女流画家で、驚くべきことに、彼女は、後に小説家・画家・思想家として知られる、かのピエール・クロソフスキー(Pierre Klossowski  一九〇五年~二〇〇一年)と、ピカソが「二十世紀最後の巨匠」と讃えた私の好きな画家バルテュス(Balthus  一九〇八年~ 二〇〇一年)の母親なのである。兄クロソフスキーリルケの知己だった作家アンドレ・ジッドの秘書を務めながら勉学に勤しんでおり、若き弟のバルテュスも、リルケに薦められて、岡倉天心の「茶の本」を読んだりしている。なお、彼女の刊行したそれを、主にフランスのネット上で捜したが、販売サイトばかりで、公開されたものは、見出せなかった。但し、その彼女が描いたその挿絵は、グーグル画像検索「Baladine Klossowska Les Fenêtres Rainer Maria Rilke」の中に、それらしいものが、数枚、見出すことは出来る。]

2025/01/11

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 橘

 

Mikan

 

みかん   橘 𮔉柑【俗】

      【和名太知波奈】

【居宻反】

     【雲五色爲慶二色爲

      矞外赤內黃非𤇆非

      霧橘實亦外赤內黃

      剖之香霧有似乎矞

      雲故字

      從矞也】

[やぶちゃん字注:「𤇆」は「烟」の異体字。]

 

本綱橘樹高𠀋許枝多生刺其葉兩頭尖綠色光靣大寸

餘長二寸許四月著小白花甚香結實至冬黃熟大者如

盃包中有瓣瓣中有核夫橘柚柑三者相類而不同橘實

小其瓣味微酸其皮薄而紅味辛而苦入藥名陳皮

橘下埋䑕則結實加倍【涅盤經云如橘見䑕其果實多】周禮云橘踰准而

[やぶちゃん字注:「盤」は「槃」の誤字。同じく「准」は「淮」の誤字。訓読では訂した。]

自變爲枳地氣然也其品十有四種

黃橘扁小而多香霧乃上品也○朱橘小而色赤如火○

綠橘紺碧可愛不待霜後色味已佳○乳橘狀似乳柑皮

堅瓤多○塌橘狀大而扁外綠心紅瓣巨多液經春乃甘

美○包橘外薄內盈其脉瓣隔皮可數○綿橘微小極軟

美可愛而不多結○沙橘細小甘美○油橘皮似油餠中

堅外黑乃下品也○早黃橘秋半已丹○凍橘八月開花

冬結實春采○穿心橘實大皮光而心虛可穿○荔枝橘

膚理皺宻如荔子也

 橘及柑之屬出蘓州台州西出荊州南出閩廣撫州皆

[やぶちゃん字注:「蘓」は「蘇」の異体字であるが、「グリフウィキ」のこれ(「魚」が「𩵋」)の字形であるため、表示出来ないので、これに代えた。]

 不如溫州者爲上陳眉公秘笈云越多橘柚歳有橘稅

 謂之橙橘戸亦曰橘籍

△按太知波奈和名橘類之總名也今單稱太知波奈者

 乃包橘也専爲菓其皮爲藥者乃𮔉柑也其實熟則甜

 如𮔉故名之不知何時有此名也橘類以爲柑誤也蓋

 其屬甚多而和漢共往昔不悉辨之

日本紀云埀仁帝九十年春命田道間守遣常世國令求

非時香菓今謂橘者是也同九十九年春得非時香菓八

竿八縵還來 或書曰天皇既崩田道間守向皇陵呌哭

而自死感其忠呼香菓號爲田道間名

                         仲實

 常世よりかくのこのみを移し植て山郭公便りにそ待て

[やぶちゃん注:この歌、「夫木和歌抄」の一首であるが、最後の五句目「便りにそ待て」は誤りで、正しくは、「時にしぞきく」である。訓読文では訂した。]

 所謂常世國者新羅國乎田道間守者仁帝三年春

 始來新羅國王子天日槍之玄孫也故所遣之乎

聖武帝天平八年譽葛城王之忠誠賜浮杯之橘勅曰橘

者果子之長上人所好【柯凌霜雪而繁茂葉經寒暑而不凋與珠玉共競光交金銀以逾美】

是以汝姓橘宿禰橘姓始于此

 橘宿稱者諸兄公也月令廣義云正月初二日賜橘於

[やぶちゃん注:「稱」は「禰」の誤字か誤刻。訓読文では訂した。]

 群臣則古今以橘爲嘉祝之菓今之包橘是也【詳于下條】

  万葉立花は實さへ花さへその葉さへ枝に霜をけましてときは木

[やぶちゃん注:この一首、下句「枝に霜ををけましてときは木」は、「万葉集」原文では、「枝尒霜離降 益常葉之樹」で、現行では、「枝(え)に霜降れどいや常葉(とこはり)の樹」と訓読されている。訓読文では訂した。]

 紀州有田郡𮔉柎肥大皮厚着柑𠙚少脹如乳甘美而

 其陳皮最勝矣大者徑二寸余一郡皆植𮔉柑蓋此與

[やぶちゃん注:「徑」は原本では、異体字の「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、通用字で示した。]

 中𬜻越地相同 薩州櫻島 豫州松山 之產美 駿

 州之產次之 肥後八代之產形小皮薄瓣皮亦薄而

 味美也又有異品者

紅𮔉柑色赤【本草所謂朱橘是乎】○夏𮔉柑五月黃熟【本艸所謂早黃橘是乎】無核𮔉柑希有之○温州橘其葉似柚葉而畧小其實乃

𮔉柑皮厚實絕酸芳芬用其汁和魚膾佳蓋溫州乃浙江

南柑橘名𠙚猶紀州疑移栽其樹者也【俗爲雲州橘者無據】○唐𮔉柑大而皮厚實味不美所謂塌橘此乎

 凡柚橘之類不宜子種皆宜接也而自相州箱根關北

 未曾有也唯柚者自奧州白川關北全無之試植橘於

[やぶちゃん字注:「白川」はママ。「白河」が正しい。]

 津輕則皆變成枳所謂江南橘爲嶺北枳者南北土地

 之異和漢相同

古今醫統云十月將橘樹有枝柯者埋土中尺餘以枝榦

 在外不可倒置待來春芽長傍堀坑澆糞水至十二月

 內橘根四圍澆犬糞三次至春用水澆二次花實俱茂

收貯法鋪乾棕或乾松毛間疊苞裹置不近酒𠙚不壞又

 藏菉豆中不近酒米亦不壞又用橘葉層層相閒收之

 入土壅之不壞橘柑橙之類皆如上

揷𮔉柑  伐枝杪遺葉貫大芋魁揷之【至時芋出芽者活芋腐者不活】


陳皮 橘皮  紅皮

   【陳者陳久之義曰

    久者爲佳故名之】

本綱古橘柚作一條後世以柚皮爲橘皮者誤也此乃六

陳之一天下日用所須也以廣中來者爲勝江西者次之

今人多以乳柑皮亂之不可不擇也

 橘皮 細 紅而薄  筋脉 苦辛 温

   紋 色   內多  味  性

 柑皮 粗 黃而厚  白膜 辛甘 冷

柚皮最厚虛紋更粗色黃內多膜無筋味【甘多辛少】性冷

 伹以此別之卽不差【然多柑皮相雜也柑皮猶可用柚皮則不可用】

陳皮【苦辛溫】 爲脾肺二經氣分藥寛隔降氣消痰飮極有

 殊功同補藥則補同瀉藥則瀉藥則瀉同外藥則升同降藥則

 降隨所配【入和中理胃藥則留白入下氣消痰藥則去白】凡橘皮下氣消痰其

 肉生痰聚飮表裏之異如此凡物皆然


青皮

本綱青皮乃橘皮之未黃而青色者薄而光其氣芳烈今

人多以小柑小柚小橙僞爲之不可不愼辨之

氣味【苦辛温】 肝膽二經氣分藥人多怒有滯氣脇下有鬱

 積或小腹疝疼用之以行其氣如無滯氣則損眞氣

 古無用青皮者至宋時醫家始用之小兒消積多用青

 皮最能發汗有汗者不可用

  陳皮浮 升 脾肺

     而 入  氣分 二物 一體 一用【物理之自然也】

  青皮沉 降 肝膽

 

   *

 

みかん   橘《きつ》 𮔉柑《みかん》【俗。】

      【和名、「太知波奈《たちばな》」。】

【「居」「宻」の反《はん》。】

     【雲の五色、「慶」と爲して、二つの

      色を「矞《いつ》」と爲す。外、赤

      く、內《うち》、黃にして、𤇆《け

      ぶり》に非ず、霧に非ず。橘の實も

      亦、外、赤く內、黃なり。之れを

      剖《わ》くれば、香《か》と霧と、

      似たる有るか。「矞雲《きつうん》」、

      故、字、「矞」に從ふなり。】

[やぶちゃん注:「反」は「反切」(はんせつ)で、既に「松」で、私が注してあるが、東洋文庫訳の後注に訳の「反切」を挙げて、『既知の二つの漢字「居」と「密」の上の字「居」の頭の子音と下の字「密」の闇とを合わせて一つの漢字「橘」の音をあらわす法。』とある。

「橘」東洋文庫訳の後注に「橘」を挙げて、『北村四郎氏(北村四郎選集Ⅱ『本草の植物』保育社)は次のように述べておられる。「橘(『本経』上品) ミカン属の一種であるが、よくわからない。この類は雑種を作りやすく、枝変りもあり、多くの品種は台木に接いで伝えられ、多くの類似のものがあり、それらが種として取り扱われている。古代のものを確定することはできない」と。そして、現在のものではキシュウミカンが橘に近いものであろうか、といわれている。』とある。東洋文庫訳では長い割注部を、達意の訳で、『五色の雲は慶雲といわれるが、その二色を矞(キツ)という。外は赤く内が黄色で、烟でなく霧でもなく紛々(ふんぷん)としている。橘の実も外は赤く内は黄で、これを剖(さ)くと香霧が紛郁(ふんいく)として矞雲(いつうん)に似ている。』とされてある。私はより音通の音写から見て、「キツ」「いつ」ではない「イツ」を採用した。要は、「橘」は中古・近世までの中国では、双子葉植物綱ムクロジ(無患子)目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン亜連ミカン属 Citrus 、或いは、その上位のタクソンに含まれる、広義のミカン類を総称するものであって、特定種に限定することは出来ないことを指摘していることを言っている、ということになる。

「本綱」に曰はく、『橘《きつ》の樹は、高さ、𠀋許《ばかり》。枝、多く、刺《とげ》≪を≫生《しやうず》、其≪の≫葉、兩頭、尖《とがり》て、綠色。光≪れる≫靣《おもて》≪にして≫、大いさ、寸餘。長さ、二寸許《ばかり》。四月、小き白き花を著《つく》。甚だ、香《かんば》し。實を結ぶ。冬に至《いたり》て、黃≪に≫熟す。大なる者、盃《さかづき》のごとく、包≪果《はうくわ》≫の中に。瓣《ふくろ》、有り。瓣の中に、核《さね》、有り。夫《そ》れ、橘《きつ》・柚《いう》・柑《かん》の三つ≪の≫者、相《あひ》、類《るゐ》にして、同じからず。橘の實は、小≪に≫して、其の瓣《ふくろ》、味、微《やや》、酸《すつぱく》、其の皮、薄くして、紅《くれなゐ》。味、辛にして苦《にが》し。藥に入≪れ≫、「陳皮《ちんぴ》」と名づく。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「橘《きつ》」これは、現在は、日中ともに、

双子葉植物綱バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン亜連ミカン属タチバナ(橘) Citrus tachibana

を指すが、同種は日本固有種であるから、

「本草綱目」の「橘」は――タチバナでは――ない――

では、如何なる種を指すかと言えば、

◎――蜜柑の一種――

と言わざるを得ず、種同定は出来ない。但し、「說文」及び「廣韻」を見るに、古くから

◎――江南地方から南、或いは、中国南部に分布するところの、温帯・亜熱帯のミカンの種群――

とは言える(後の本文で述べられる「橘」と「枳」の棲み分け論を見よ)。そもそも、この「橘」の字(形声)の「矞」は、「廣漢和辭典」によれば、

 

★――『木+逸声。矞は誇示するの意。その木に示威的なとげのある』樹木を示す――

 

のである。ここで面白いのは、現在の栽培されている一般的な蜜柑類には、トゲがない、のである。しかし、

 

原産を長江上流域とするカラタチ

本邦固有種のタチバナ

 

には、シッカり、トゲがあるのである。則ち、カラタチを遡る、トゲがある幻のミカンの樹こそ、原木と言えるのではあるまいか?

 

「柚《いう》」これは強い注意が必要である。本邦では、この「柚」は、「柚子」、則ち、日本固有種である、

◎ミカン属ユズ Citrus junos (シノニム:Citrus ichangensis × Citrus reticulata

及び、

別種であるユズの品種で、中国と日本原産とされる、

◎ハナユ(花柚子)Citrus hanayu

を一緒くたにして、一般に「ユズ」と呼んでいる。しかし、中国語で「柚」というと、現在では、上記のタチバナを「香橙」と称し、異名として「羅漢橙」・「香圓」・「柚子(日本柚子)」と呼んでいる(「維基百科」の「香橙」を見よ。因みに、実の写真が一枚、添えてあるのだが、私には、恣意的な悪意を感ずるほど、汚いもので、甚だ、不快になった)ものの、

★中国語の「柚」は、古くから、東南アジア・中国南部・台湾などを原産とするミカン属ザボン Citrus maxima

を指すからである(「維基百科」の「柚子」を見よ)。従って、「本草綱目」の「柚」は、このザボンで採るのが、無難だからである。

「柑《かん》」これも、甚だ、ムズいと言える。本邦では、「柑」は古くは特定種に比定せずに、広義のミカン類を指していたが、現行の日本では、

◎「柑子」で、ミカン属コウジ Citrus leiocarpaウィキの「コウジ(柑橘類)によれば、『「ウスカワ(薄皮)ミカン」とも言われる』。『古くから日本国内で栽培されている柑橘の一種だが』、八『世紀頃に中国から渡来したと言われる(一説には「タチバナ」の変種とも)。果実は一般的な「ウンシュウミカン」』( Citrus unshiu:鹿児島県原産とされる)『よりも糖度が低く酸味が強い。種は多いが日持ちは良い』。『樹勢が強く』、『耐寒性に優れている』ため、『「ウンシュウミカン」の露地栽培が難しい日本海側の一部でも栽培されている』とある)

を指すのだが、

中国語の「柑」は、やはり、中国でもミカン類の総称であるが、果して中国で、古くから、この種に同定比定していたかどうかは、かなりクエスチョンな気がするのだが、

「柑」を、オオベニミカン(大紅蜜柑) Citrus tangerina (インドに分布し、中国経由で日本に渡来した常緑高木で、本邦では、古くに奄美大島での栽培が知られ、後、九州・四国・和歌山県でも栽培されている。果期は十一月から十二月で、果皮から採れる精油は、化粧品などに利用されていることが検索で判った。因みに、種小名に注意されたい。これ、今やお馴染みのTangerine(タンジェリン:アフリカや米国で栽培されるミカンの一種。皮は薄く剥き易い。名はモロッコの都市タンジールに由来)で、英文の「Tangerine」のウィキでは、マンダリン・オレンジ(Mandarin orange:ミカン属マンダリンオレンジ Citrus reticulata )の雑種として、学名をCitrus × tangerina としてあるのである)に「維基百科」の「柑」では、比定しているからである。しかも、良安は、後掲する「陳皮」で、「柑」に『クネンボ』とルビをしているのである。これは、「九年母」で、マンダリンオレンジ品種クネンボ Citrus reticulata 'Kunenbo' のことである。

「陳皮」の「陳」は「古いもの」を意味し、古いものほど優れた薬効があることから、かく、呼ばれるようになった。]

『橘の下に、䑕(ねずみ)を埋(うず)めば、則《すなはち》、倍≪を≫加《くは》≪ふ≫[やぶちゃん注:ここは返り点はないが、達意の訓を考え、返って読んだ。「実の数が二倍になる」というのである。]。【「涅槃經」に云はく、『橘、䑕を見≪れば≫、其の果實、多し。』≪と≫。】。「周禮《しゆらい》」に云はく、『橘、淮《わい》を踰《へだて》て、自《おのづか》ら、變じて、枳《き》と爲《な》る。地氣、然《しか》しむるなり。其の品、十有四種≪あり≫。』≪と≫』≪と≫。

[やぶちゃん注:『「涅槃經」に云はく、『橘、䑕を見≪れば≫、其の果實、多し。』』「大蔵経データベース」は勿論、日中のありとある「大般涅槃經」を検索したが、見当たらない。不審。識者の御教授を乞う。

「周禮《しゆらい》」小学館「日本国語大辞典」に、『(「しゅ」「らい」はそれぞれ「周」「礼」の呉音)』とし、『中国の経書』で、儒家で聖典とされる「十三経經」『の一つ。六編、』三百六十『官』からなる礼書である。『周公旦の撰と伝え』るものの、前漢の学者『劉歆』(りゅうきん)の『偽作説もある。もと「周官」といったが、唐の賈公彦』(かこうげん)『の疏で』、『はじめて』「周禮」『と称するようになった。天地春夏秋冬にかたどって』、『官制を立て』、『天命の具現者である王の国家統一による理想国家の行政組織の細目規定を詳説』し、「儀禮」(ぎらい)・「禮記」(らいき)とともに「三禮」(さんらい)と呼ばれる』ものである。

「淮」淮水。中国中部の河川。河南省南端に源を発し、東流して大運河、及び、黄海・長江に分注する。全長約千百キロメートル。秦嶺―淮水線は中国を風土的に南北に分かち、歴史的に南北朝・南宋は、この長い水界線を境界とした。

「枳《き》」ムクロジ目ミカン科ミカン属カラタチ Citrus trifoliata を指す。同種を本邦では「枳殻」と表記する。これは、ザックり過ぎる、非科学的、とも思われるかも知れないが、「維基百科」の同種「枳」に、『中国の「燕子春秋」』(中国春秋時代の斉の明宰相で文人の晏嬰(?~紀元前五〇〇年)の著)『には「南橘北枳」という寓話があり、晏嬰はこの寓言故事を以って、自然環境が持つ役割分担を説明している。事実上、「橘」と「枳」は異なる種であって』、カラタチは『中国中部が原産で、北は黄河流域から、南は広東省まで分布している』とあることから、自然の植物の「棲み分け」を、正確に示しているのである。この晏嬰の話は、非常に知られた名寓話なのであり、当該ウィキにも、彼が使節として楚の霊王に会見した際、霊王が貧相に見える彼を侮り、『会見の宴のさなか、役人が縛られた者を連れてきた。霊王は「それは何者か」と聞いた。役人は「斉人です」と答えた。霊王はまた「何をしたのか」と聞いた。役人は「泥棒です」と答えた。霊王は晏嬰に向かい「斉の者は盗みが性分なのかね」と聞いた。晏嬰は、「江南に橘という樹があります。これを江北に植えると橘と為らずして、棘のある枳と為ります。これは土と水のためです。斉人は斉に居りては盗まず、その良民が楚に来たれば盗みをいたします。何故でしょうか?』 『楚の風土のせいでございましょう」』と答え、『霊王』は、『「聖人に戯れんとして、却って自ら恥をかいたか」と苦笑いした(故事成語「南橘北枳」の語源)』。『横道で天下に悪名高い霊王をへこませたことで、彼の名は更に上がった』とあるのである。

 以下、各個種を示すので、箇条書きにした。「黃橘」の頭にも「○」を打った。「≪と≫」は五月蠅くなるだけなので、附さなかった。]

○『「黃橘《わうきつ》」は、扁《ひらたく》、小≪にして≫、香《かほり》≪と≫霧《きり》、多し、乃《すなは》ち、上品なり。』

○『「朱橘」は、小にして、色、赤く、火のごとし。』。

○『「綠橘」は、紺碧《こんぺき》≪にして≫、愛すべし。霜の後を待たずして、色・味、已《すでに》佳なり。』。

○『「乳橘《にうきつ》」は、狀《かたち》、「乳柑《にうかん》」に似て、皮、堅く、瓤《わた》、多し。』。

○『「塌橘《たうきつ》」は、狀、大にして、扁く、外、綠《みど》り、心《しん》、紅《くれなゐ》。瓣《わた》[やぶちゃん注:果肉の柔らかい部分。]≪も≫巨《きよ》にして、液《しる》、多し。春を經て、乃《すなはち》、甘美なり。』。

○『「包橘《はうきつ》」は、外、薄く、內、盈《みち》て、其の脉《すぢ》≪と≫、瓣《わた》、皮を隔《へだて》て、數ぞふべし。』。

○『「綿橘」は、微《やや》、小にして、極《きはめ》て、軟《やはらかく》、美≪なり≫。愛すべし。而れども、多くは≪實を≫結ばず。』。

○『「沙橘《さきつ》」は、細小≪にして≫、甘美なり。』。

○『「油橘《ゆきつ》」は、皮、油餠《あぶらもち》に似、中、堅く、外、黑し。乃《すなは》ち、下品なり。』。

○『「早黃橘《さうわうきつ》」は、秋の半《なかば》に、已《すで》に、丹《あか》し。』。

○『「凍橘」は、八月、花を開き、冬、實を結ぶ。春、采る。』。

○『「穿心橘《さくしんきつ》」は、實、大に≪にして≫、皮、光《ひかり》て、心≪は≫虛《きよ》にして、穿《うが》つべし。』。

○『「荔枝橘《れいしきつ》」は、膚-理《きめ》、皺《しは》、宻(みつ)にして、「荔子《れいし》」のごとくなり。』。

『橘、及《および》、柑の屬、蘓州[やぶちゃん注:現在の江蘇省。]・台州《たいしう》[やぶちゃん注:浙江省。]より出づ。西は、荊州[やぶちゃん注:揚子江中流域。]より出づ。南は、閩廣《びんかう》・撫州より出づ。皆、溫州《うんしう》の者の上《じやう》たるが≪者に≫に如《し》かならず。陳眉公が、「秘笈《ひきふ》」に云はく、『越に、橘・柚、多し。歳《とし》ごとに、「橘稅(《きつ》ねんぐ)」、有り。之れを「橙橘戸《たうきつこ》」と謂ふ。亦、「橘籍《きつせき》」と曰ふ。』≪と≫。』≪と≫。

△按ずるに、「太知波奈」、和名、橘類《きつるゐ》の總名なり。今、單《ひとへ》に、「太知波奈」と稱する者は、乃ち、「包橘」なり。専ら、菓《かし》と爲す。其の皮、藥と爲る者は、乃《すなはち》、「𮔉柑《みかん》」なり。其の實、熟すれば、則《すなはち》、甜《あまき》こと、𮔉のごとし。故に、之れを名づく。何《いつ》の時≪より≫、此の名、有ることを、知らざるなり。「橘類」を以《もつて》、「柑」と爲(す)ること、誤《あやまり》なり。蓋《けだし》、其の屬、甚だ、多《おほく》して、和漢、共に、往昔《わうじやく》は、悉《ことごと》く≪は≫、之れを、辨ぜざる≪なり≫。

「日本紀」に云はく、『埀仁帝九十年の春』、『田道間守(たじまもり)に命じて、「常世國(とこよの《くに》)」に遣はし、「非時香菓(ときじくのかぐのみ)」を求めしむ。今、「橘《たちばな》」と謂ふ者、是れなり。』。『同九十九年の春、「非時香菓八竿八縵(《や》ほこ《や》かげ)」[やぶちゃん注:「竿」は「串挿しにしたもの」を謂い、「縵」は「干柿のように緒(いと)をもって綴り繋いだもの」を謂う。]を得て、還り來《きた》る』。或る書に曰はく、『天皇《すめらみこと》、既に崩《はうじ》玉ふ[やぶちゃん注:「玉」は送り仮名にある。]。田道間守、皇陵(みさゝぎ)に向《むかひ》、呌-哭(なきさけ)びて、自《みづか》ら、死す。其《その》忠を感じて、「香菓(かぐのこのみ)」の號(な)を、呼んで、「田道間名(たちまな)」と爲す。』≪と≫。

 常世《とこよ》より

    かぐのこのみを

   移し植《うゑ》て

      山郭公《やまほととぎす》

     時にしぞきく        仲實

[やぶちゃん注:これは、既注の「夫木和歌抄」に載る一首で、「卷五 春五」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「02722」)。]

 所謂《いはゆ》る、「常世の國」は、「新羅國」か。田道の間守は、仁帝の三年の春、始《はじめ》て、來りし。「新羅國《しらぎのくに》」の王子「天《あめ》の日槍(ひぼこ)」が玄孫なり。故に、之れを遣《つか》さらるゝか。

[やぶちゃん注:以下の葛城王のエピソード引用は、東洋文庫訳では何も注していないが、グチャグチャな部分引用パッチワークは、「續日本紀(しよくにほんぎ)」からであるので注意されたい。私は同書を所持していないので、国立国会図書館デジタルコレクションの旧『國史大系』「第二卷 續日本紀」(經濟雜誌社編・明治三〇(一八九七)年刊)の当該部(左ページ最終部以降、次ページ)を参考にして訓読した。

『「新羅國《しらぎのくに》」の王子「天の日槍(ひぼこ)」』平凡社「世界大百科事典」に拠れば(コンマを読点に代えた)、『日本神話にあらわれる人(あるいは神)の名』で、「古事記」『では天之日矛と記す。同書によれば、水辺で太陽の光を受けた女が赤玉』(あかだま)『を生み、それを得た新羅皇子アメノヒボコが玉を床辺』(とこのべ)『におくと、赤玉は女と変ずる。皇子はこの女を妻とするが、のちに逃げる女を追って日本に渡り』、『但馬国に住んだという。この話は、女を追ってはらませる太陽、女を妻とし追って海を渡るアメノヒボコ、という同一観念より変化した二つの話が重複している。アメノヒボコの神宝には日鏡、波や風をきる比礼(ひれ)もあり、アメノヒボコは但馬に本拠を置いた渡来人(出石(いずし)人)が奉じた海洋太陽神であろう。また』、「播磨國風土記」では、剣で水を』攪拌『して海中に宿ったという話もあり,剣光を表象とする神でもあった』。「風土記」『では土地の占有を土着神と争う神でもあり、その系譜に田道間守(たじまもり)や神功(じんぐう)皇后がつながる』とある。]

『聖武帝天平八年[やぶちゃん注:七三六年。]、葛城王(《かつらき》のおほきみ)の忠誠を譽(ほめ)て、「浮杯(うきはい)の橘《たちばな》」を賜ふ。勅して、曰はく、「橘は果子《くわし》の長上《ちやうじやう》、人の好《このむ》所なり【柯(ゑだ[やぶちゃん注:ママ。])は霜雪《さうせつ》を凌《しの》ぎて繁茂し、葉は、寒暑を經て、凋《しぼ》まず、珠玉と共に、光《ひかり》を競《きそ》ひ、金銀に交《まぢ》りて、以つて、逾《いよいよ》、美なり。】。是れを以《もつて》、汝が姓《かばね》には、「橘の宿禰《すくね》」を≪賜ふ≫。」≪となり≫。』≪と≫。「橘」≪の≫姓、此《これ》より始む。

 「橘の宿禰」は、「諸兄(もろゑ[やぶちゃん注:ママ。])公」なり。「月令廣義《がつりやうこうぎ》」に云はく、『正月初《はじめ》二日、「橘」をに群臣に賜ふ。』と云《いふ》時は[やぶちゃん注:「云時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、古今《ここん》、「橘」を以つて、「嘉祝《かしゆく》の菓《くわ》」と爲《す》ること≪なり≫。今の「包橘(たちばな)」、是れなり【下《しも》の條に詳《つまびらか》なり。[やぶちゃん注:これは、「和漢三才圖會」の次の項が「包橘(たちばな)」であり、そちらを指して「見よ注」をしてあるのである。]】。

[やぶちゃん注:「葛城王」当該ウィキによれば、生年未詳で、天武天皇八(六七九)年七月十七日没に『四位で死んだことが』本「日本書紀」『によって知られる』として、『日本の皇族』で、『父母、子孫とも不明だが、敏達天皇の子で同名の葛城王(当該ウィキへのリンク)の子孫かとする説がある』とある。

『「橘の宿禰」は、「諸兄(もろゑ[やぶちゃん注:ママ。])公」なり』ウィキの「橘諸兄」によれば、天平八(七三六)年、『弟の佐為王と共に母・橘三千代の氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを』、聖武天皇に『願い』出て、『許可され、以後は橘諸兄と名乗る』とは、ある。但し、前掲の葛城王との血縁関係は認められないので注意されたい。]

  「万葉」

    立花は

      實さへ花さへ

     その葉さへ

        枝《え》に霜降れど

       いや常葉《とこはり》の樹

[やぶちゃん注:中西進氏の講談社文庫「万葉集」(二)(昭和五五(一九八〇)年刊)を参考に示すと(漢字は正字化した)、

   *

  冬十一月に、左大辨葛城王(かつらきのおほきみ)等(たち)、姓(かばね)「橘氏(たちばなのうぢ)」を賜ふの時、御製歌(おほみうた)一首(一〇〇九番)。

 橘は實さへ花さへその葉さへ

  枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の樹(き)

   *

これは無論、橘諸兄の賜姓の折りの詠歌である。前掲書の脚注の訳に、『橘は実までも花までも輝き、その葉まで枝に霜が降りてもますます常緑である樹よ。』とある。これは、無論、伝説の不老不死の霊木・霊花・霊果としての「非時香菓(ときじくのかぐのみ)」を念頭に置いた祝祭歌である。]

 紀州有田郡《ありだのこほり》[やぶちゃん注:現在の和歌山県有田郡(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)に、有田市の大部分を加えた旧郡。]の𮔉柑、肥大≪にして≫、皮、厚く、柎《へた》[やぶちゃん注:これは、東洋文庫訳では、『柑(へた)』と訳してあるのだが、私は、原本を虚心に見て、「柑」ではなく、「柎」と判読した。而して、この「柎」は、花の「萼(がく・うてな)・花房」の意であるのだが、良安は、これは、構造上は、まさに、「萼」が実に残って「蒂(へた)」になったものとして同義であると考えたのではないか? 自信はなかったが、幸い、最後に調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの中近版の当該部でも、確かに「柎」と字起こしてあったので、確信が持てた。]の着《つく》𠙚、少《すこし》、脹《ふくれ》て、乳《ちち》のごとし。甘美≪に≫して、其《その》陳皮、最《もつとも》勝《まさ》れり。大なり者、徑《わた》し、二寸余。一郡《ひとごほり》、皆、𮔉柑を植《うう》。蓋し、此れ、中𬜻の越《えつ》[やぶちゃん注:揚子江以南の旧地域名。]の地と、相《あひ》同じ。 薩州櫻島・豫州松山の產、美なり。 駿州の產、之れに次ぐ。 肥後八代[やぶちゃん注:現在の熊本県八代(やつしろ)市。]の產、形、小《ちさ》く、皮、薄《うすく》して、瓣《わた》[やぶちゃん注:先に注したが、ここでは、「果肉の柔らかい部分」を言う。]の皮も亦、薄して、味、美なり。又、異品なる者、有り。

[やぶちゃん注:同前で改行する。頭の「紅𮔉」にも「○」を附した。]

○「紅𮔉柑(べに《みかん》)」色、赤し【「本草≪綱目≫」に所謂る、「朱橘」、是れか。】。

○「夏𮔉柑(なつ《みかん》)」五月、黃熟す【「本艸≪綱目≫」に所謂る、「早黃橘」、是れか。】。無核𮔉柑希有之

○「温州橘(うんしうきつ)」其の葉、柚[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、何を血迷ったか、ここに突然、『(ザボン)』という割注がある。何じゃ、これ!?!]の葉に似て、畧《ちと》、小《ちさ》く、其の實、乃《すなはち》、𮔉柑≪の≫皮、厚く、實、絕して、酸《すつぱ》く、芳芬《はうふん》たり[やぶちゃん注:芳(かんば)しい香りがするさま。]。其の汁を用《もちひ》て、魚膾《うをなます》を和(あ)へて、佳《よ》し。蓋し、「溫州」[やぶちゃん注:現在の浙江省温州市。同市の和名読みは「おんしゅう・うんしゅう」の二通りが現在も行われてはいる。]は、乃《すなはち》、浙江の南≪の≫、柑橘の名𠙚なり。猶を[やぶちゃん注:ママ。]、紀州のごとし。疑ふらくは、其の樹《き》を移栽《うつしうゑ》たる者か【俗、「雲州橘」と爲《な》すは、據《よんどころ》、無し。】。

[やぶちゃん注:この温州渡来説に就いては、ウィキの「ウンシュウミカン」の『「温州」について』に言及があるので、必要な箇所のみを引用する(注記号はカットした)。『南宋の韓彦直が』一一七八『年に記した柑橘類の専門書』「橘錄」『には、柑橘は各地で産出されるが』、『「みな』、『温州のものの上と』爲『すに如かざるなり」と記している。日本でも』「和漢三才圖會」に『「温州橘は蜜柑である。温州とは浙江の南にあって柑橘の産地である」とあり、岡村尚謙』(しょうけん:天保八(一八三七)年の「桂園橘譜」(死後の弘化五・嘉永元(一八四八)年刊)も「温州橘」の美味は「蜜柑に優れる」と記す。温州は上質で甘い柑橘の産地と認識されていた。古典に通じた人物が、甘みに優れた本種に「温州」と名付けたという推測は成り立つが、確証といえるものはない』。「和漢三才圖會」『には』、『「蜜柑」の品種として「紅蜜柑」「夏蜜柑」「温州橘」「無核蜜柑」「唐蜜柑」の』五『品種を挙げている。「温州橘」「無核蜜柑」は』、『今日のウンシュウミカンの可能性があるが、ここで触れられている「温州橘」は』、『特徴として』「皮厚實絕酸芳芬」『と書かれており、同一種か断定は難しい。「雲州蜜柑」という表記も見られ』、十九『世紀半ば以降成立の』「增訂豆州志稿」(「文化遺産データベース」の同書の解説に、伊豆在住の秋山章なる人物が、寛政年間(一七八九年~一八〇一年)に編纂した伊豆地誌で、ずっと後の明治時代に増補された。古文書や棟札を多く調べており、明応七(一四九八)年八月の津波に関する記事が散見される、とあった)『には』、「雲州蜜柑ト稱スル者、味、殊ニ美ナリ」『とあって、これは今日のウンシュウミカンとみられる』とある。

○「唐𮔉柑(たう《みかん》)」は、大にして、皮、厚≪く≫、實、味、美ならず。所謂る、「塌橘《たうきつ》」、此れか。

 凡そ、柚橘の類、子種《みうへ[やぶちゃん注:ママ。]》に≪は≫宜《よろ》しからず。皆、宜(よろし)く接(つぐき[やぶちゃん注:ママ。])にすべし。而して、相州箱根の關より、北に≪は≫、未だ曾つて、有らざるなり。唯《ただ》、柚は、奧州白川[やぶちゃん注:ママ。「白河」。]の關より北に、全く、之れ、無し。試《こころみ》に、橘《たちばな》を津輕に植《うう》れば、則、皆、變じて、枳《からたち》に成る[やぶちゃん注:そんな馬鹿なことはあるカイ! 糞ったれ! 良安センセ、マンマと騙されましたな!]。所謂る、江南の橘《きつ》は、嶺北の枳《き》と爲《な》ると云ふは[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、南北≪の≫土地の異≪に據るものにて≫、和漢、相《あひ》同じ。

「古今醫統」に云はく、『十月、橘樹《きつじゆ》を將《も》つて、枝-柯《えだ》、有る者を、土中に埋(うづ)むること、尺餘。枝・榦《みき》を以《もつて》、外《ほか》に在《あ》らしめ、倒《さかさ》まに置くべからず≪して≫、來春、芽の長ずるを待《まち》て、傍《かたはら》に、坑《あな》を堀[やぶちゃん注:ママ。]り、糞水《ふんすい》を澆(そゝ)ぐ。十二月に至《いたり》て、內《うち》に、橘の根の四圍≪に≫、犬の糞を澆ぎ、《✕→ぐこと》、三次《さんじ》。春に至《いたり》、水を用《もちひ》て、澆《そそぐ》こと、二次。花・實、俱に、茂《しげ》し。』≪と≫。

『收貯《たばふ》法[やぶちゃん注:既に、「果部[冒頭の総論]・種果法・收貯果」と、「石榴」で、この訓で出ている。「果実を貯蔵する(方法)」の意。]。乾《ほし》棕(すろ)[やぶちゃん注:棕櫚(シュロ)。]、或いは、乾松《ほしまつ》の毛≪のごとくなりたるを≫、鋪《しき》、間《あひだ》≪を空け≫、疊《たたみて》、苞-裹(つゝ)み置く。酒《さけ》ある𠙚《ところ》に近づけざれば[やぶちゃん注:禁忌条件。]、壞(そこ)ねず。又、「菉豆(ぶんどう)」の中《なか》に藏《ざう》じて、酒・米に近《ちかづ》けざれば[やぶちゃん注:同じく禁忌条件。]、亦、壞ねず。又、橘《きつ》の葉を用《もちひ》て、層層≪として≫[やぶちゃん注:何層にも積み上げ。]、相《あひ》閒《ま》≪を空けて≫、之れを收《をさめ》、土を入《いれ》て、之れを壅(ふさ)げば、壞ねず。橘・柑・橙の類、皆、上《うへ》のごとし。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「菉豆」の原本のルビは、実は「菉豆(ぶんとうふ)中《ちゆう》に」としか読めない。しかし、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版で当該部を見ると、『菉豆(ブントウ)ノ』となっている。東洋文庫訳も『菉豆(ぶんどう)の中に収蔵して』となっているので、それに従った。この「菉豆(ぶんどう)」は、マメ目マメ科マメ亜科ササゲ属ヤエナリ(八重生) Vigna radiata の種子を指す語である。同種の「維基百科」の「綠豆」を見ると、草体自体も「綠豆」である。本邦のウィキには、『アズキ』(小豆)『( V. angularis )とは同属』で、『グリーン』・『ピース』(green peas)『は別属別種のエンドウ』(エンドウ属エンドウ Pisum sativum )『の種子』とあり、『インド原産で、現在はおもに東アジアから南アジア、アフリカ』、『南アメリカ、オーストラリアで栽培されている。日本では』十七『世紀頃に栽培の記録がある』。『日本においては、もやしの原料(種子)として利用されることがほとんどで』、『ほぼ全量を中国(内モンゴル)から輸入している』。『中国では、春雨の原料にする』『ほか、月餅などの甘い餡や、粥、天津煎餅のような料理の材料としても食べられる』とあった。]

『𮔉柑を揷(さ)す≪法≫』。『枝を伐《き》り、杪(こずゑ)に葉を遺(のこ)し、大なる芋魁(《いも》がしら)に貫きて、之≪れを≫、揷《さす》【時、至りて、芋、芽を出だす者は、活(つ)く、と。芋、腐る者は、活かず。】。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「芋魁(《いも》がしら)」は「芋魁」(ウクワイ:ウカイ)は「芋頭」と同義であるから、単子葉植物綱オモダカ(沢瀉・澤瀉・面高)目サトイモ科サトイモ属サトイモ Colocasia esculenta の「塊茎」(=親芋)を指す。当該ウィキによれば、『サトイモの食用になる芋は、茎が変形したもので』、「塊茎」『といわれる部分である』。『種芋から芽を出して成長するにつれ、葉柄の基部が肥大して親イモとなり、その親芋の周りを囲むように芽があり子イモを生じ、さらに子イモには孫イモがついて増えていくユニークな育ち方をする』。『主に子イモを食べるもの、親イモを食べるもの、親イモと子イモの両方を食べる品種がある』とある。因みに、私は、幼少期から、サトイモが草体も芋も大好きだ。あの葉の上の水滴……転がしてもいいが、私は、決して、零さない。……『あの中には、閉じられた美しい別乾坤がある。』と、六十七になった今も、信じて疑わないのである……]


陳皮(ちんぴ) 橘皮《きつぴ》  紅皮《こうひ》

   【「陳」は、「陳久」の義なり。曰はく、

    久《ひさ》しきものは、「佳し」と爲

    《な》す。故、之れを名づく。】

「本綱」に曰はく、『古《いにし》へ、橘と柚《ゆ》と、一條《いちでふ》と作《な》す。後世、「柚の皮」を以つて、「橘の皮」と爲《な》す者、誤《あやまり》なり。此れ、乃《すなはち》、「六陳《りくちん》」の一《ひとつ》にして、天下、日用≪に≫、須(もち)ふる所なり。廣中《かうちゆう》より來《きた》る者を以《もつて》、勝《すぐ》れりと爲す。江西の者、之れに次ぐ。今の人、多《おほく》、「乳柑皮(くねんぼ)」の《かは》)を以《もつて》、之れを亂《みだ》す。擇《えら》まざらんばあるべからずなり。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「六陳《りくちん》」東洋文庫訳の後注に、『狼毒・枳実・橘皮・半夏・麻黄・呉茱萸をいう。いずれも用いるには陳(ふる)いものがよいので、こういう。』とある。以下、「・」で、各生薬を注する。

「狼毒」(歴史的仮名遣「らうどく」)は、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱 | 狼毒(ロウドク)」によれば(非常に詳しく、長いが、有毒物であるので、私のポリシーから、概ね、引いておいた。ピリオド・コンマは句読点に代えた)、キントラノオ目『トウダイグサ』(燈台草)『科(Euphorbiaceae)』トウダイグサ属『の Euphorbia pallasii 』(ヒロハタカトウダイ(広葉高燈台))・『 E. fischeriana 』(ウィキの「タカトウダイ」(高燈台:Euphorbia lasiocaula )では、前者のシノニムとする)・『 E. ebracteolata 』(マルミノウルシ(丸実野漆))『などの根を乾燥したもの』で、『狼毒は』「神農本草經」『の下品に収載され』、「咳逆上氣を主治し、積聚、飲食、寒熱水気を破り、惡瘡、鼠廔、疽蝕、鬼精、蠱毒を治し、飛鳥,走獸を殺す。」『とその効用が記されています。実際にオオカミ対策に使用したかどうかはわかりませんが、狼毒は』「神農本草經」『に記された薬効からはかなりの猛毒薬であったことがうかがえます。その有毒性を利用したとすれば』、『同効の様々な毒草が利用されたことが想像され、そのためか』、『古来』、『異物同名品が多く存在していたようです』。「圖經本草」『に描かれた石州狼毒の図は根頭に茎が叢生していることからは、Stellera 属』(アオイ目ジンチョウゲ科 Thymelaeaceae)『ともEuphorbia属とも受け取れますが、花の形はどちらかと言うとEuphorbia属に似ています』。『明代になると李時珍は「今の人は住々草䕡茹』(そうろじょ:本邦の現行では、トウダイグサ属ノウルシ(野漆) Euphorbia adenochlora:ムクロジ目ウルシ科Anacardiaceae或いはウルシ属 Toxicodendron の真正のウルシ類とは無縁なので注意されたい)『をこれにあてるが、誤りである」といっています。この草䕡茹は』「本草綱目」『の記文からも明らかに Euphorbia 属のもので,この頃の狼毒の主流はEuphorbia 属であったようです』。『清代の』「植物名實圖考」『には「本草書の狼毒は皆はっきりしない(中略)滇南に土瓜狼毒がある」と記され、また、草䕡茹の項に「滇南では土瓜狼毒と呼ぶ」とあり、このものは Euphorbia prolifera であるとされています。ところが、一時期』、『日本に輸入されていた香港市場の狼毒は』、『これらの植物とは全く異なり、サトイモ科』Araceae『のクワズイモ Alocasia odora の地下部を基源とするものでした。これは』「植物名實圖考」『の狼毒の項に』「紫莖南星を之に充てる」『と記されているサトイモ科の天南星の類( Arisaema 属植物)のものと考えられ、それが次第に飲片』(いんぺん:漢方で煎じ薬用の薬を指す)『の形状がよく似て』、『収量の多いクワズイモに代わったとされています』。『以上の三つの科にまたがる原植物は形態的にはかなり異なります。Euphorbia 属には白い乳液があり、Stellera 属は小さいが』、『きれいな花を咲かせ、クワズイモは他に比べると』、『はるかに大型になる』、『などです。それらに共通する有毒性が』、『この生薬の本質であるとすれば、やはり有害動物対策に使用されたことが考えられます。蒙古では今でも』、『オオカミを駆除するために動物の肉に有毒物質を混ぜて利用すると聞きます。オオカミがいない南方の地では殺鼠剤として使用されていたのでしょうか』。『現在、狼毒は専ら外用薬としてリンパ腫脹や疥癬などに用いられますが、内服薬としては、逐水、去痰、消積などの作用があるとされ、心下が塞がっておこる咳嗽、胸腹部の疼痛などに他薬とともに用いられます』。『実は、狼毒は正倉院の』「種々藥帳」『に記載があり、奈良時代には既に渡来していたようです。現在では稀用生薬ですが、当時は重要な生薬の一つであったものと考えられます。今では現物が失われて原植物が何であったかは定かではありませんが、時代から考えると Stellera 属であったように思われます。鑑真和尚が敢えて日本にもたらす薬物の中に狼毒を選んだと考えると、今となっては窺い知れない何か別の理由があったようにも思われます』とある。]

 以下は、ブラウザの不具合を考えて、二種を分離し、対象項目を繰り返して、分割し、前後と間を一行空けた。続く「柚皮」も、この二種に並列するべきものであるものであるから、同様に前後を空けておいた。

・「枳実」は、同じく「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱 | 枳実(キジツ)と枳穀(キコク)」によれば(これは、ミカン由来なので、ほぼ全文を引く。同前)、基原は、『ミカン属植物 Citrus spp.(ミカン科 Rutaceae)の果実』で、『幼果を「枳実」、更に成育の進んだ未熟果を「枳穀」とする』。『 Citrus 属植物の原産地は日本の南部地域をも含めた東アジアの熱帯で、果樹としての栽培品種はこれらの野生種あるいは栽培種の枝変わりや突然変異株から選別されたものです』。『また、苗木は主に接ぎ木により生産されますが、台木の影響が現れることもあり、その品種レベルでの分類は極めて困難になっています』。『植物分類学的な難しさのみならず、生薬市場においてもそれらの果実に由来する「枳実」と「枳殻」の基源が大変混乱しています』。『以下にわが国の生薬学の参考書等の記載内容をいくつか挙げてみたいと思います』。

『○枳実は自然落下した未熟果(大きいものは二半切り)を乾燥したもので、枳殻は成熟に近い緑色果実を二つに横切りにして乾燥したものである。』。

『○日本市場の枳実は未熟橙皮で、枳実(丸のまま)と枳殻(二つ割)とに大別する。』。

『○日本においては、枳実はダイダイ』( Citrus aurantium )『ナツミカン』( Citrus natsudaidai )、『ミカン』(通常は、ウンシュウミカン Citrus unshiu とされる)『あるいは近縁植物の未熟果またはその横半切品を乾燥したものである』。『未熟果そのままの「枳実」と二割した「枳殻」に大別される』。

『○枳殻はカラタチの未熟果実を』三『から四片に輪切りしたものであるが、日本の市場で枳殻、枳実とされるのはほとんど未熟橙実である。』。

『○枳殻はカラタチの未熟果実である。しかし現在ではダイダイ、その他の未熟果(未熟橙実)である。』。

『枳実は』「神農本草經」『中品収載品で、枳穀は』「開寳本草」『収載品です。歴代の本草学者の意見を総合しますと、「同一植物の未熟果実を枳実、成熟果実を枳穀として利用するが、その効能はほぼ同様である」ということに落ち着くようです。しかし原植物は』十『種類以上に及ぶとされており、その形状はそれぞれ異なっており、切り方のみならず大小も様々です。現在の中国市場品を見るかぎりはいずれの枳実も枳穀も皮(果皮)が厚く、ダイダイ『C. aurantium 』『の仲間』『や』、『イチャンレモン C. wilsonii 』(英語:Ichang lemon)『が主たる原植物のようです』。『一方、日本市場品は日本産のダイダイ C. aurantium 』『subsp. amara 』『や』、『ナツダイダイ C. natsudaidai 』『の未熟果実で、小さめで丸のままのものを枳実、大きめで半割したものを枳穀としています』。『また、他に原植物としてウンシュウミカン C. unshiu 』『も挙げられていますが、ウンシュウミカンの果皮は熟すと薄くなるため、枳実として未熟果を利用することはできても』、『枳穀として成熟果を利用するのは無理なように思われます』。『以上のようなことをまとめますと、多くのミカン属植物の未熟果実は枳実として利用でき、成熟果実の果皮の厚い品種のみが枳穀として利用できるものと考えられますが、現在市場にはかなり果皮の薄い枳穀もあります』。『ただし、原植物にカラタチ Poncirus trifoliata 』『を充てるのは日本の本草学者の誤りであり』、『正しくないとされ、このものは表面に細かい柔毛があることで他と容易に区別がつきます』。『さて問題は』、『これらの異物同名品の効能ですが、李時珍は「枳実・枳殻は、気味、功用ともに同じである。上代にも区別はなかった。枳実・枳殻を区別するようになったのは、魏晋以来である。張潔古氏、李東垣氏は、高いところの物を治すのと下のものを治すのとに使い分けたが、そもそもその効はみな気を利することにある。気が下がれば痰喘は止まり、気が行れば痞脹は消え、気が通れば痛刺は止まり、気が利すれば後重は除かれる。ゆえに枳実は胸隔を利し、枳殻は腸胃を治するのである。そうであったから張仲景は胸痺痞満を治する主要薬を枳実とし、下血、痔痢、大腸秘塞、裏急後重などの治薬に枳殻を通用しているのだ』。『よって、枳実はただ下を治すだけでなく、枳殻も高いところを治するだけではない。そもそも口から肛門までみな肺が主り、三焦相通じて一気であることを思えば、枳実と枳殻は分けても分けなくてもよい」と記しており、両薬物を厳密に使いわける必要はなさそうです』。『原植物としても、古来両生薬ともに産地による品質の優劣があまり論じられてこなかったことから察して、薬効的に多少の強弱があるにせよ、いずれを用いても良いように考えられます』。『ただし「陳皮」と同じく、あくまでも六陳の一つに数えられる生薬であるからには、陳旧品を使用するよう心がけたいものです』とあった。

・「橘皮」は、中国のそれは、前の「枳実」から類推出来るので、必要ない。

・「半夏」単子葉植物綱ヤシ亜綱サトイモ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク Pinellia ternata のコルク層を除いた塊茎。嘔気や嘔吐によく使われる生薬である。私の「耳囊 卷之七 咳の藥の事」も参照されたい。

・「麻黄」同じく、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱 | 麻黄(マオウ)」によれば(ピリオド・コンマは句読点に代えた)、『麻黄は、葛根湯、小青竜湯、麻黄湯、防風通聖散、麻杏甘石湯などの多くの漢方処方に配合され、年間約』七百『トンが輸入されています』。『また、喘息治療薬として有名なアルカロイド、エフェドリンを含有し、かつては塩酸エフェドリン』(ephedrine hydrochloride:後注に、『塩酸エフェドリンは現在、全合成の方法が確立され、製造原価の関係から専ら合成されて』い『る』とある)『の製造原料にされていました』。『現在』、『市場に出回っている麻黄の多くは、中国の遼寧、山西、陝西、内蒙古などに自生するマオウ』(裸子植物門グネツム綱 Gnetopsidaグネツム目 Gnetalesマオウ科 Ephedraceae)『( Ephedra )属植物の地上茎(草質茎)を乾燥したもので、原植物としては、E. sinica 』(シナマオウ(支那麻黄))、『E. distachya 』(フタマタマオウ(二又麻黄))。なお、後注に、『 Ephedra sinica E. distachya は、本来同一種で、生育環境の違いにより外見上』、『異なった形態を呈するのであるという説があり、今後詳細な検討が必要である』とある)、『E. equisetina 』(キダチマオウ(木立麻黄))、『E. intermedia 』(チュウマオウ(中麻黄))『などが知られています』。『マオウ属植物は、一見するとトクサ』(維管束植物門大葉植物亜門大葉シダ植物綱 Polypodiopsidaトクサ亜綱トクサ目 Equisetalesトクサ科トクサ属トクサ Equisetum hyemale )『によく似ています』(後注に、『本品はトクサ科(Equisetaceae)またはイネ科植物の茎またはその他の異物を含まない』『と規定されている』とある)『が、植物分類学上は裸子植物に属し、花博に展示され』、『有名になった砂漠の植物』、グネツム目ウェルウィッチア科 Welwitschiaceaeウェルウィッチア属 Welwitschiaウェルウィッチア Welwitschia mirabilis 『などと共に』、『裸子植物の中でも最も特殊化した植物群の一つで、マオウ属』一『属からなるマオウ科(Ephedraceae)として分類されています。またマオウ属植物は世界中の乾燥地に広く分布し、アジア、ヨーロッパ、地中海地方、北米の西海岸および南米のアンデス地方などで約』三十五『種が確認されています』。『ところで、植物の形態は生育地の環境の違いによって著しく変異します。これは生薬の原植物であっても同じで、生育環境の違いによって原植物の形態が変異し、最終的にこれらに由来する生薬に品質のバラツキとなって影響します』。『麻黄の産地として』四『ヶ所の名前を挙げましたが、一般に一つの生薬には主要な産地が数ヶ所あります。産地が異なると、原植物が異なったり、あるいは、同一原植物であっても生育環境の違いから形態に産地間差を生じます。また同一産地内であっても、場所によって日照量や土壌中の水分量などに差があり、それが形態の差となって現れるようです』。『生薬の多くは、生育環境の影響を大きく受けるこのような植物という生き物に由来しているため、当然、その品質は生育環境に大きく依存し、同じ名称の生薬であっても、産地、ロット』(lot:英語。同一仕様の製品や部品を生産単位として纏めた数量を言う)『等の違いによって品質が異なります。したがって、生薬を使用する際は各生薬の品質を見極め、より良い生薬を選んで用いることが効き目を左右する大きな要因になります』。『麻黄は、六陳』『の一つとされ、表面は粗く、淡緑色を呈し、中が充実していて、味は苦く渋いものが品質の良いものであるとされます』とあった。最後に、筆者である神農子氏に心より御礼申し上げるものである。

 以下は、変則的な、「橘皮」と「柑皮」は中央主軸左右の記載になっているので、主軸部分を繰り返しにして、訓読文を作り、二種と後の「柚皮」も、前後に一行空けを施した。

 

『橘皮(みかんの《かは》)≪は、≫紋《もん、》細《こまか》にして、色、紅《くれなゐ》にして薄く、內に、多く筋《すぢ》≪の≫脉《みやく》≪あり≫。味≪は≫、苦辛。性≪は≫温。』≪と≫。

 

『柑皮(くねんぼの《かは》)≪は、≫紋《もん、》粗《あら》く、色、黃にして、厚く、內に多く白≪き≫膜[やぶちゃん注:「わた」のこと。]≪あり≫。味≪は≫、辛甘。性≪は≫冷。』≪と≫。[やぶちゃん注:良安が振ったルビの「くねんぼ」は、マンダリンオレンジ品種クネンボ Citrus reticulata 'Kunenbo' 当該ウィキによれば(下線・太字は私が附した)、『東南アジア原産の品種といわれ、日本には室町時代後半に』、古くに渡来した中国から『琉球王国を経由し』て『もたらされた。皮が厚く、独特の匂い(松脂臭、テレピン油臭)がある。果実の大きさから、江戸時代にキシュウミカン』( Citrus reticulata 'Kinokuni' )『が広まるまでには』、『日本の関東地方まで広まっていた。沖縄の主要産品の一つだったが』、一九一九『年にミカンコミバエの侵入で移出禁止措置がとられてからは、生産量が激減し、さらに』一九八二『年に柑橘類の移出が解禁されてからは、ほとんどウンシュウミカンやタンカン』(桶柑・短柑:Citrus tankan 。当該ウィキによれば、『タンカンには「桶柑」(タンカン、台湾語:tháng-kam、タ̣ンカㇺ)の字があてられており、中国で行商人が木桶で持ち歩いた』の『が』、『この由来とされる。また「短柑」、「年柑」などとも呼ばれる』。『広東省が原産地で』、一七八九『年に台湾北部の新荘に導入された。日本には』明治三九(一八九六)年『頃に台湾から奄美大島を始めとする南西諸島へ移植され』、昭和九(一九二九)『年』『頃に本格的な栽培が始まった』。『現在の主な産地は』『広東省、福建省、台湾中・北部、日本の鹿児島県の屋久島、奄美大島などと沖縄県である』とある)『などが栽培されるようになった。現在は沖縄各地に数本ずつ残っており、伝統的な砂糖菓子の桔餅や皮の厚さと香りを利用したマーマレードなどに利用されている』。『クネンボは日本の柑橘類の祖先の一つとなっている。自家不和合性の遺伝子の研究により、ウンシュウミカンとハッサク』 Citrus hassaku )『はクネンボの雑種である事が示唆された。この事からクネンボが日本在来品種の成立に大きく関与している事が明らかになった』。二〇一六年十二『月には、農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)果樹茶業研究部門が、DNA型鑑定により、ウンシュウミカンの種子親はキシュウミカン』( Citrus reticulata  'Kinokuni' )、『花粉親はクネンボであることが分かったと発表した』とあった。]

 

『柚(ゆ)の皮、最《もつとも》厚≪く≫して、虛。紋、更に、粗《あら》く、色、黃。內≪に≫、膜、多く、筋、無し。味≪は≫【甘多、辛少。】、性≪は≫冷。

 

『伹《ただし》、此≪れを≫以≪つて≫、之れを別《わくる》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、卽《すなはち》、差《たが》はず【然れども、柑皮は、多く、相《あひ》雜《まづ》りなり。柑皮は、猶ほ、用ふべし[やぶちゃん注:柑皮の場合は、それでも、混用して差支えはない。]。≪但し、≫柚の皮は、則ち、用ぶべからず。】。』≪と≫。

『陳皮【苦辛、溫。】』『脾・肺二經の氣分の藥と爲す。隔を寛《くつろげ》、氣を降《くだ》し、痰飮《たんいん》を消し、極《きはめ》て、殊《ことに》、功、有り。補藥と同《おなじく》すれば、則《すなはち》、補い[やぶちゃん注:ママ。]、瀉藥と同《おなじく》すれば、則《すなはち》、瀉し、外藥すれば、則《すなはち》、升(のぼ)り、降藥《かうやく》と同すれば、則《すなはち》、降(くだ)る。配す所に隨ふ[やぶちゃん注:東洋文庫訳に『それぞれ配する薬に応じて効力を出す』とある。]【中《ちゆう》[やぶちゃん注:脾胃。]を和《わ》し、胃を理《り》する[やぶちゃん注:整える。]藥に入れ、則ち、白≪膜≫[やぶちゃん注:皮の内側の「わた」。]を留《とど》む。氣を下し、痰を消す藥に入れ、則ち、白《膜》を去る。】。凡そ、橘《きつ》の皮は、氣を下《くだ》し、痰を消す。其の肉は、痰を生じ、飮《いん》を聚《あつ》む。表裏の異、此くのごとし。凡《およそ》、物、皆、然《しか》り。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「痰飮《たんいん》」東洋文庫訳の割注には、『体液が胃内で滞っておこる水毒。』とある。但し、後の私の単独の「飮」に就いての次の注も参照されたい。

「飮《いん》」漢方では「喘息」を指す語であるが、橘の肉部分が皮と異なり、反対にマイナスに働き、発症させる疾患を言っているように思われる。


青皮(しやうひ)

「本綱」に曰はく、『青皮は、乃《すなはち》、橘皮《きつひ》の未だ黃ならずして、青色《あをいろ》なる者≪なり≫。薄くして、光り、其の氣、芳-烈《はうれつ》なり。今の人、多《おほく》、小《ちさ》き柑《かん》・小き柚《いう》・小き橙《たう》を以つて、僞《いつはり》て、之≪れに≫爲《に》せる。愼《つつしん》で、之を辨《べん》ぜざるべからず。』≪と≫。

『氣味【苦辛、温。】』『肝・膽《たん》≪の≫二經≪の≫氣分の藥≪なり≫。人、多《おほく》、怒《いか》れば、滯氣《たいき》、有《あり》て、脇の下に、鬱積《うつせき》、有り、或《あるい》は、小腹《こばら》、疝疼《せんとう》[やぶちゃん注:寒冷によって引き起こされる腹部の疼痛を言う。]す。之れを用《もちひ》て、以《もつて》、其の氣を行(めぐら)す。如《も》し、滯氣、無き時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、眞氣《しんき》を損ず。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「眞氣」「家庭の中医学」の「真気(シンキ)」に、『正気・元気ともいう。先天の原気と後天の水穀の精気が結合して生成される生命の動力物質』を指し、『人体の各種の機能および抗病能力はすべて真気の現れであ』り、「靈樞」の「刺節眞邪」『には』「眞氣は、天より受くるところ、穀氣と倂(ならび)さりて身を充(みた)すものなり」『とある』とあった。]

『古へ、青皮《しやうひ》を用《もちひ》る者、無し。宋の時に至《いたり》て、醫家、始《はじめ》て、之れを用ふ。小兒の積《しやく》[やぶちゃん注:痞(つか)え。胸や心などがつまるように感じて苦しむ症状。]を消《しやう》するに、多《おほく》、青皮を用ふ。最≪も≫能く、汗を發す。汗≪の多く≫有る者は、用ふべからず。』≪と≫。

[やぶちゃん注:以下、前回の「陳皮」の二列と同じ仕儀で処理した。但し、最終部は、最後に行頭に引き上げて添えた。]

 

 『陳皮は、「浮《ふ》」で、而して、升《のぼ》り、脾肺《ひはい》の氣分に入《い》る。』

 

 『青皮は「沉《ちん》」で、而して、降《くだ》り、肝膽《かんたん》の氣分に入る。』

 

『二物《にぶつ》、一體一用《いつたいいちよう》≪なり≫【物理の自然なり。】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「橘」及び「柚」・「柑」・「柑」(≒「𮔉柑」)の違いは、既に割注で示した。ここでは、CDRで所持する古い平凡社の「世界大百科事典」(第二版・一九九八年)の「ミカン(蜜柑)」を引く(コンマを読点に代え、一部の読み・注をカットした。下線・太字は私が附した)。『ミカンという語は種々の意味で用いられる。その適用範囲は』、

『カラタチ、キンカン』(双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属キンカン(金柑)Citrus japonica :長江中流域原産)『を含めたかんきつ』(柑橘)『類全体をいう場合』。

『カラタチを除き、キンカンをも含めて食用にできるかんきつ類の総称として用いる場合』。

『カラタチ、キンカン以外のミカン属(カンキツ属)Citrus だけ、すなわちレモン』( Citrus limon:ヒマラヤ東部原産 )、『ブンタン』(ザボン(漢字表記:朱欒・香欒・謝文)Citrus maximaの異名。当該ウィキによれば、『原生地は東南アジア・中国南部・台湾など』とされ、『日本には』元禄元(一六八八)年『から』(安永九(一七八〇)年『の間に伝来したとされる』。『一説では広東と長崎を行き来する貿易船が難破して阿久根に漂着し、船長の謝文旦から救助のお礼に贈られたと』され、『日本伝来の地は鹿児島県の阿久根市とされ』ている、とある)、『ナツミカン、オレンジ』( Citrus sinensis :漢字表記「甜橙」。当該ウィキによれば、本邦では、『原産地インドからヨーロッパを経由して明治時代に日本に導入されたものを「オレンジ」と呼んでいる』とある)、『ユズなどをいう場合』。

『後述する田中長三郎の分類上のミカン区に属するもの、すなわち』、『果皮のむきやすい(寛皮性)ものを指す場合』。

ウンシュウミカンだけを特定して指す場合」。

『の』五『種類が考えられる。しかし、一般には寛皮性の』柑橘『類またはウンシュウミカンを指して用いられることが多い。農林水産省の統計におけるミカンはウンシュウミカンを指している。ここでは寛皮性の』柑橘『類をミカンとして記述する。いずれもミカン科の常緑果樹で、日本ではウンシュウミカンが代表種となる』。『ミカンを含む』柑橘『類の分類には異なった意見がある。田中はミカン属を総状花序を形成する初生カンキツ亜属と総状花序を形成しない(まれに形成することもある)後生カンキツ亜属に区分し、後者をユズ区、ミカン区、トウキンカン区の』三『区に分類した。さらにミカン区を』三十六『種に分類し、この中にクネンボ』、『ウンシュウミカン、ヤツシロ』( Citrus yatsushiro:熊本県八代地方産)、『ケラジ』(花良治: Citrus keraji :鹿児島県原産)、『ポンカン』(椪柑・凸柑:マンダリンオレンジ変種 Citrus reticulata var poonensis 当該ウィキによれば、『原産地はインドのスンタラ地方といわれ、東南アジア諸国、中国南部、台湾南部、日本などで広く栽培され、ブラジルにも一部分布している。日本には明治期に台湾から伝わった』とあり、また、『和名の中の「ポン」、および、変種名もしくは種小名 poonensis は、インドの地名プーナ (Poona) に由来する』。『当てられた漢字「椪」は単独では、タブノキ属 Machilus の』一『種 Machilus nanmu 、もしくは国訓でクヌギを意味するが、音による当て字である』。『中国語では「蘆柑」(ルーガン、拼音: lúgān)と称するが、中国の主産地である福建省』・『広東省や台湾で用いられている閩南語や潮州語では』、『漢字で「椪柑」と書き、「ポンカム、phòng-kam」と発音する』『ため、日本語は閩南語の音に拠っているという説もある』とあった。私は最後の説を支持する)、『オオベニミカン(ダンシータンゼリン)、クレメンティン』(英語:ClementineCitrus × clementina )、『タチバナ』、『キシュウミカン』、シークヮーサー(和名:ヒラミレモン(平実檸檬):Citrus × depressa )『コウジ』(柑子・甘子: Citrus leiocarpa :当該ウィキによれば、『古くから日本国内で栽培されている柑橘の一種だが』、八『世紀頃に中国から渡来したと言われる(一説には「タチバナ」の変種とも)』あり、『樹勢が強く耐寒性に優れている』ため、『「ウンシュウミカン」の露地栽培が難しい日本海側の一部でも栽培されている』とある)『などを含めた。一方、アメリカのスウィングル W. T. Swingle は、田中のユズ区の一部、トウキンカン区およびミカン区に属する植物を』、マンダリンオレンジ『 C. reticulata 』、『タチバナ C.tachibana 』、『インド野生ミカン C. indica 』『の』三『種とした。ウンシュウミカンは C.reticulata の一系統(栄養系)、他のものも変種あるいは雑種由来のものとした。したがって、タチバナ、インド野生ミカン以外の多くのものが C.reticulata に包含されている。田中の分類に基づき』、『ミカン区を細分すると、ウンシュウミカンのように葉の大きいもの(大葉寛皮』柑橘『類)とポンカン、クレメンティン、タチバナのように葉の小さいもの(小葉寛皮』柑橘『類)に分類できる。後者はさらにポンカンのように大果のものとタチバナのように小果のものに分けられる』。『このような分類についての異なった意見は、ミカン類が栄養系として多様に分化していることも原因となって生じた。英語でもタンゼリン tangerine、マンダリン mandarin はともに寛皮性』柑橘『類を表す。そして前者を果皮が紅橙色系のもの、後者を黄橙色系のものとして区別することがある。しかし、マンダリンの』方『が』、『タンゼリンを含めた広い意味のことばとして多用される。一方、タンゼロ』(tangelo:英語の合成語)『は寛皮性かんきつ類とグレープフルーツ』( Citrus × paradisi :ザボン(ブンタン)とオレンジ( Citrus sinensis )が自然交配したもの)『の雑種の総称だが、この場合はタンゼリンがマンダリンを包含した形で扱われる。これは、タンゼロの命名が当初』、『ダンシータンゼリン』(Dancy tangerineCitrus tangerina =先に示したオオベニミカン)『を片親にした雑種に対してなされたからである』。

以下、「起源と伝播」の項。『インド東北部、アッサムの東南部で生じたインド野生ミカンが寛皮性ミカン類の基になったものと考えられている。原生地から東進したこのミカン類は東南アジア一帯、中国、日本にまで分布域を拡大し、品種の分化発達をなしとげた。とくに中国南部では多様な品種群に発達したと考えられる。中国からヨーロッパに伝播』でんぱ)したのは』十九『世紀初期である。地中海西部の沿岸諸国で品種が分化発達し、クレメンティンなどの二次的原生地となった』十九『世紀中~後期にかけ』て、『ヨーロッパと中国からアメリカのフロリダ半島にポンカン、ダンシータンゼリンなどが伝播した。オレンジ、レモンに比べると世界各地への伝播は遅かったが、現在ではウンシュウミカン、ポンカンなどのミカン類が世界各地で栽培されている。日本にはタチバナが古くから野生しており、キシュウミカンも江戸時代以前のかなり古い時代に中国から伝播したといわれる。ウンシュウミカンは』、四百~五百『年前に中国のミカン類の種子から鹿児島県で生じた優良品種である』。

以下、「形状」の項。『ミカンの樹形は一般に半球形状で、樹高は』三~五メートル『になる。他の』柑橘『類に比べ、枝梢は細く、葉も小さい。普通』、『とげはない。翼葉はないものが多く、あっても小さい。花は白色』五『弁で中~小型』。五『月に咲く。果実は一般に小型で扁球形。ウンシュウミカンが最も大果の部類に属する。果皮は薄くむきやすい。果皮色、果肉色とも橙色を中心に変異があり、熟期の変異も大きい。果肉は軟らかく、多汁で苦みはない。クエン酸を主成分とする酸は、濃度が』一『%以下のものから』、五~六『%のものまである。種子は小型で丸みがある。多胚性と単胚性のものがあり、一般に緑色胚』は、柑橘『類の中では耐寒性が強い。また』、『かいよう病』(漢字表記「罹病」。「高知県農業情報サイト」とする「こうち農業ネット」の「かんきつ かいよう病」を見られたい)『やトリステザウイルス病』(第四群(Ⅰ本鎖RNA +鎖)クロステロウイルス科 Closteroviridaeクロステロウイルス属カンキツトリステザウイルス Closterovirus Citrus tristeza virus当該ウィキを見よ)『に対しても強い』。

以下、「利用」の項。『生食用として有名なものにウンシュウミカン、ポンカン、クレメンティンがある。ほかに、キシュウミカン、ダンシータンゼリン』(Dancy tangerineCitrus reticulata            'Dancy':マンダリンオレンジの品種)、『エレンディル(オーストラリアの晩生種)』(Ellendale:一八七八年に実生として発果に成功した品種)、『カラ』(カラマンダリン :: Kara Mandarin:ウンシュウミカンにキング・オレンジ(King orange Citrus reticulata × sinensis )を交配した雑種Citrus unshiu × Citrus noblis )、『キノウ』(キノー:Kinnow:キングマンダリン(King orange Citrus reticulata × sinensis )と、地中海マンダリン( Citrus deliciosa ))の交雑品種。綴りが判らず、往生したが、交配種を探し出し、そこから、英文ウィキの当該種を見出せた。そこでは、学名を“'King' ( Citrus nobilis ) × 'Willow Leaf' ( Citrus × deliciosa )”としてある。一九一五年に交配して育成し、一九三五年に発表された)、『アンコール』('Encore' mandarin:前者と同じ種の交配品種の一種。King x Willowleaf 'Encore'当該英文ウィキを見られたい)『などの栽培品種がある。ウンシュウミカン、ポンカンは果汁用にもされる。別名ヒラミレモン』(平実檸檬:こちらが正式和名)『ともいわれる』シークヮーサー『も果汁が市販されており、生果は酢みかんとして利用され、また古くから芭蕉布の洗濯にも用いられた。多胚性の』シークヮーサー、『スンキ』(酸桔:「株式会社乃万青果」公式サイトの「みかんペディア」によれば、『中国原産』で、『サンキツとも呼ばれる。台湾に伝わり、食用や薬用にされる他、台木としても用いられている』とある「維基百科」の「臺灣香檬」に、Citrus depressa とし、別名に「扁實檸檬」・「山桔仔」・閩南語で「酸桔仔」・「山柑仔」とある。分布は台灣・琉球・グアムとする)、『クレオパトラ』(Cleopatra mandarinCitrus reshni 。英名と学名は英文の同種のウィキに拠った)『などはポンカン、タンカン、イヨカン』( Citrus Iyo :本邦の在来種)『などの台木に利用される。小玉で果実が美しいタチバナ、キンカンとミカンとの雑種といわれ、トウキンカン区に分類される四季咲性のトウキンカン(シキキツ)』(唐金柑(四季橘)。「カラマンシー」とも呼ぶ。交雑種で、学名は Citrus × madurensis 当該ウィキを見られたいが、そこに、『欧米ではcalamondincalamondingcalamandarincalamondin orangeChina orangePanama orange等の名前で知られる』とあった)『などは、生食には不向きだが鉢物などの観賞用としても価値がある。台湾、ネパールなどではスンキなどを砂糖煮とか塩漬にし、食用、薬用に供するという』。

以下、「民俗」の項。柑橘『類は秋には黄色く輝く果実をつけ、冬でも緑を絶やさぬ常緑樹で、古くから長寿を祝福する神聖な木とされ、その実は太陽や霊魂の象徴とみなされた。沖縄の八重山では、ミカンの枝を魔よけとして祭事に用いたという。ミカンの実は、正月に鏡蛭の上に供えたり、蛭花とともに木にならせたり、若木や嫁たたき棒にも結びつける地方があり、小正月の成木責め(なりきぜめ)をミカンの木に対して行う所もある。また』、『家の上棟式に餅やミカンをまいたり、小正月に厄年の人が辻や村境でミカンをまいて厄払いする風もある。鍛冶屋では』、十一月八日『の吹子祭』(ふいごまつり)『にたいせつな火を象徴するミカンをまいて祝う風は広く、これを拾って食べると病気にならないという。一方で、ミカンの実を焼いて食べたり、皮や種子を火にくべると、顔が赤くなるとか貧乏になるといって忌む所が多く、ミカンを根もとから切ったり』、『接木すると、死ぬとか死人が出るという俗信もある。それだけミカンが神聖なものとされていたといえよう。このほか、房のくっついた双子のミカンを食べると』、『双子が生まれるとか、妊婦はミカンを食べてはいけないという伝承もみられた。またミカンの皮を風呂に入れたり』、『匙じて飲むと、諸病の薬になるともいわれた。島根県簸川』(ひかわ)『郡』(現在は合併により、出雲市の大部分と大田市の一部となった)『には』、「ミカン吸い」『という子どもの手遊びがあり、現在ではミカンはありふれたものとなっているが、以前は栽培量も少なく、駄菓子屋などで細々と売られていたにすぎなかった』。

以下、「ミカン科 Rutaceae」の項。『果樹として重要なミカンの仲間』(柑橘類)『を含み』、百五十『属約』九百『種から成る双子葉植物の一群。大部分は木本で、高木あるいは低木、草本、まれに』蔓『性で乾生型のものもある。温帯から熱帯まで分布する。葉は互生または対生、単葉または複葉、托葉はなく、通常、透明の腺点を有し強烈な香りがある。ミカン亜科の多くのものでは葉が退化した短枝が太いとげに変化している。花序はいろいろであるが、通常、集散花序でまれに葉上に花をつけるものがある。花は両性、まれに雑性、放射相称または左右相称、』五、四枚『で、子房の下部に大きな花盤を有する。萼片は』四、五『枚で瓦重ね状、花弁も』四、五『枚。おしべは通常』十『本』、『または』八『本、まれに』五『本』、三『本』二『本、または多数、通常皿状』、『または』、『環状の花盤の基部につく。めしべは』二~五『枚の心皮からなり、多少とも離生し、子房は下位または中位。果実は蒴果、液果、分離果、柑果など多様で、種子には胚乳がない。この科は精油を有するため、薬用としてヘンルーダ』(ミカン科ヘンルーダ属ヘンルーダ Ruta graveolens )、『サルカケミカン』(ミカン科サルカケミカン属サルカケミカン Toddalia asiatica )、『ゴシュユ』(「呉茱萸」。ムクロジ目ミカン科ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum 。)『キハダ』(キハダ属キハダ変種キハダ Phellodendron amurense var. amurense 。先行する「黃蘗」を見よ)『などや、香辛料としてサンショウ』(ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum )『が利用されている。かんきつ類は重要な果樹であるし、キハダ、インドシュスボク』(「インド繻木」。ミカン科クロロキシロン属インドシュボク Chloroxylon swietenia )、『ゲッキツ』(「月橘」。ミカン科ゲッキツ属ゲッキツ Murraya paniculata )『などは木材として利用される。ボロニア』(ミカン科ボロニア属 Boronia )、『ラベニア』(ミカン科 Ravenia 属)『など観賞用に栽植されるものもある。ミカン科は花盤があり、ときに合弁となる花の形態から、センダン科』(栴檀科Meliaceae)、『カンラン科』(橄欖科BurseraceaeAPG植物分類体系ではムクロジ目Sapindalesに属すが、その他の分類体系ではミカン目に属していた)、『ニガキ科』(苦木科Simaroubaceae)『などに近縁であると考えら』『れる』とある。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十」の「果之二」の、長大な「橘」の項(「漢籍リポジトリ」のここ[075-28a]以降)のパッチワークである。

 四日もかけて、訓読文に割注を施したので、ここですべき注は、今のところ、必要を感じない。

2025/01/07

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 石榴

 

Zakuro

 

ざくろ  安石榴 丹若

     金罌

石榴

     【本出於西域漢張

      鶱使西域得安石

      國榴之種以歸故

      名安石榴】

 

本綱石榴木不甚高大枝柯附榦自地便生作叢極昜種

[やぶちゃん注:「榦」は「幹」の異体字。]

折其條盤土中便生也五月開花有黃赤白三色實有甘

酸若三種甘者可食酸者入藥【若者山石榴】子大如盃赤色有

[やぶちゃん字注:「若」は「若い」のそれではなく、「苦」の異体字である。紛らわしいので、訓読文では「苦」とした。]

黑班㸃皮中如蜂窠有黃膜隔之中子如人齒淡紅色亦

有潔白如雪者經霜則自柝裂千房同膜千子如一也單

葉者結實千葉者不結實或亦無子

河陰石榴名三十八者其中子只有三十八子也 有四

季榴四時開花秋月結實實方綻隨復開花 有火石榴

赤色如火 海石榴高一二尺卽結實皆異種也

 甘石榴【甘酸溫濇】 多食損人肺損齒令黑

 酸石榴【酸溫濇】 治赤白痢腹痛【連子擣汁頓服神効】 治久瀉久

  痢治名黑神散【取一箇煆煙盡出火毒一夜研末仍以酸榴一塊𤋎湯服神効無比】

古今醫統云取其直枝大如拇指長尺許栽土中出枝頭

二寸水澆之卽生有叢生者傍枝攀倒他以土壓之來年

生根截分別栽又云截枝用火燒二寸揷入土卽生

藏石榴法連枝摘下用新瓦鑵安排在內用紙十餘重宻

封之又法取未裂者以米泔煑沸煠過數枚逐枚排籃中

勿用相俟挂當風𠙚可經夏

 六帖足引の山さくろ咲や峯こしにしかまつ君かいはひ待かも

[やぶちゃん注:この和歌、調べたところ、第三句「峯こしに」は「峯こえし」の誤りであることが判った。訓読文では、訂した。

△按石榴樹初叢生既長則有大木周二尺餘者凡花色

 鮮紅者莫如楉榴者鮮紫者無如燕子花者矣河州河

 內郡往生院之石榴大者周過於尺味最佳凡柘榴花

 紅者多黃白二種希有之千葉也黃者亦非正黃伹淡

 赤帶黃也耳

根【酸石榴東引者佳】 治寸白蚘蟲【水煎五更溫服至明取下虫大團永絕根本食粥補之佳】


石榴皮(せきりうひ)

[やぶちゃん注:以下の二文は、上の小項目の下に二字空けで、二行で記されてあるが、ブラウザの不具合を考え、以下のように引き上げた。]

  凡使之勿犯鐵不計乾濕皆以漿

  水浸一夜取出用其水如墨汁

[やぶちゃん字注:「犯」は、原本では、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、通用字で示した。]

止下痢下血脫肚崩漏帶下又治脚肛生瘡【初起如粟搔漸開黃水浸滛痒痛潰爛遂致遶脛而成痼疾者癒】用酸榴皮𤋎湯冷定日日掃之

[やぶちゃん字注:「搔」は、原本では、(つくり)の頭の部分が(はつがしら:「癶」)になっている字体だが、このような異体字はない(敢えて言うなら、「グリフウィキ」のこれに近い)ので、通用字にした。]

△按布帛黑茶染法下用藍染其上用石榴皮五倍子二

 味煎汁染漬砥水一宿成

 

   *

 

ざくろ  安石榴《あんせきりう》

     丹若《たんじやく》

     金罌《きんあう》

石榴

     【本《もと》は、西域に出づ。漢の

      張鶱《ちやうけん》西域に使《つ

      か》ひして、安石國《あんせきこ

      く》の「榴《りう》」の種《たね》

      を得《え》、以つて、歸る。故、

      「安石榴《あんせきりう》」と名づ

      く。】

[やぶちゃん注:「張騫」(?~紀元前一一四年)は前漢の軍人・外交官。本貫は漢中郡城固県。小学館「日本国語大辞典」に、『武帝の時、匈奴を牽制するため』、『大月氏と同盟を結ぼうと出発』、『同盟は不成立だったが、大宛、大月氏、大夏などをまわり、のちに烏孫にも使』い『して、西域への交通路と知識を中国にもたらした。また、その間、匈奴征伐に従って功をたて、博望侯に封ぜられた』(その翌年に没した)とある。当該ウィキが詳しい。]

 

「本綱」に曰はく、『石榴《せきりう》≪の≫木、甚だ≪しくは≫、高大ならず。枝-柯《えだ》、榦《みき》に附《つき》、地より、便《すなは》ち生ず。叢《むら》を作《なす》。極《きはめ》て、種ゑ昜《やす》し。其の條《えだ》を折《をり》て、≪又、折らずに≫土中へ盤《まげて》≪揷し入れても≫、便ち、生ずるなり。五月、花を開≪き≫、黃・赤・白、三色、有り。實≪にも≫、甘・酸・苦の三種、有り。甘≪き≫者は、食ふべし。酸《すぱ》き者は、藥に入《いるる》【苦き者は、「山石榴《さんせきりう/やまざくろ》」なり。】。子《み》の大いさ、盃《さかづき》のごとくして、赤色≪に≫黑《くろき》班㸃、有り。皮の中、蜂の窠《す》のごとく、黃≪なる≫膜《まく》、有り、之れを隔《へだ》つ。中《なか》の子《さね》は人の齒のごとくして、淡紅色。亦、潔白にして、雪のごとき者、有り。霜を經《へ》≪れば≫、自《おのづか》ら、柝-裂《さけ、さく》る。千房《すべてのふさ》、同≪じき≫膜≪に有り≫、千子《すべてのさね》、一《ひとつ》のごときなり。單葉《ひとへ》の者、實を結ぶ。千葉《やへ》の者、實を結ばず、或いは亦、≪實を結びても、≫子《さね》、無し。』≪と≫。

[やぶちゃん注:以下、「異種」とするものが列挙されるので、各個改行した。引用の「と」は五月蠅いので附さなかった。]

『河陰《かいん》[やぶちゃん注:黄河の南。また、現在の河南省洛陽市附近(グーグル・マップ・データ)。]の石榴、「三十八《さんじふはち》」と名づくは、其の中≪の≫子《さね》、只《ただ》、三十八の子、有り《✕→れば》なり。』。

『「四季榴《しきりう》」、有り。四時、花を開く。秋月、實を結ぶ。實、方《まさ》に、綻(ほころ)びて、《其れに》隨《したがひ》て、復た、花を開く。』。

『「火石榴《くわせきりう》」、有り。赤色にして、火のごとし。』。

『「海石榴《かいせきりう》」、≪有りて、≫高さ、一、二尺。卽《すなはち》、實を結ぶ。』。

≪以上は≫『皆、異種なり。』≪と≫。

『甘石榴(あま《ざくろ》)【甘酸、溫、濇《しぶし》。】』、『多食≪すれば≫、人の肺を損ず。≪又、≫齒を損じて、黑からしむ。』≪と≫。

『酸石榴《さんせきりう》【酸、溫、濇《しぶし》。】』、『赤白痢《せきはくり》・腹痛を治す【子《さね》も連《つら》ねて[やぶちゃん注:実と一緒にして。]、擣《つ》き、汁となして、頓服《とんぷく》とす。神効あり。】。』。『久瀉《きうしや》・久痢《きうり》を治す。「黑神散《こくしんさん》」と名づく【≪實≫一箇を取り、煆《やき》て、煙《けぶら》≪せ≫盡《つくし》、火《くわ》の毒を出《いだ》すこと一夜、研《けん》し、末《まつ》と《成し》、仍《よ》つて、≪別に、又、≫酸≪石≫榴一塊を以つて、《共に》湯にて𤋎《せん》じ、服す。神効、比ぶるもの無し。】。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「赤白痢」東洋文庫訳の後注に、『湿熱の毒のため腸内に気が滞り、また腸絡が傷つけられ、白い粘液質や血膿のまじった下痢をする症。』とある。「頓服」定期的に内服するのではなく、症状に応じて自在に服用すること。「久瀉・久痢」慢性化した吐瀉と下痢。]

「古今醫統」に云はく、『其の直《すぐなる》枝、大《✕→太《ふ》》とさ、拇指《おやゆび》のごときなるを、長さ、尺許《ばかり》、取《とり》て、土の中に栽う。枝の頭、二寸、出《いだす》。水に《✕→を》、之れに澆《そそ》げば、卽ち、生ず。叢生《さうせい》の者、有≪れば≫、傍《かたはら》≪の≫枝を攀(よ)ぢて[やぶちゃん注:強く引っ張って捩(ね)じ曲げ。]、他《✕→地》に倒《たふし》、土《つち》を以つて、之れを、壓《おさへ》≪覆(おほ)ふ≫。來年、根を生《しやうず》。≪其れを≫、截《き》り分《け》て、別に、栽ふ[やぶちゃん注:ママ。]。又、云ふ、枝を截り、火を用《もちひて》、燒≪こと≫二寸、土に揷-入《さしい》れば、卽ち、生《しやうず》。』≪と≫。

[やぶちゃん注:以上の「」で変更したもののうち、確実に原漢籍からの引用を誤っているのは、「地」である。「中醫笈成」の「古今醫統大全」の電子化の、「花木類第二」の「石榴」を見よ。

『石榴を藏(たば)ふ法[やぶちゃん注:「たばふ」は「庇ふ・貯ふ」等の漢字表記もあり、第一義が「大切にしまって置く・貯える」である。]。枝を連ねて、摘(むし)り下《おろ》し、新しき瓦-鑵《かめ》を用ひて、安-排(ならべ)て、內《うち》に在《あ》らしめて、紙を用ひて、十餘、重《かさねて》、宻《みつ》に、之れを封ず。又≪の≫法。未だ裂けざる者を取≪り≫、米≪の≫泔《ゆする》[やぶちゃん注:米の研ぎ汁。]を以つて、煑沸《しやふつ》し、煠《ゆで》過《すぐ》して、數枚《すまい》≪づつ≫、枚《まい》を逐《つづけ》[やぶちゃん注:返り点はないが、ここは明らかに、「一枚ずつ、順次、整然と」(=「逐」)」の意であるので、返って読んだ。]、籃《かご》の中に排《なら》≪ぶるなり≫。用て《✕→ふるに》、相《あひ》俟《うつ》こと、勿《なか》れ[やぶちゃん注:並べたそれぞれが、決して触れ合ってはいけない。]。風に當《あたる》𠙚に挂《か》けて、夏を經《ふる》べし。』≪と≫。

 「六帖」

   足引《あしびき》の

       山ざくろ咲《さく》や

      峯《みね》ごえし

         しかまつ君が

            いはひ待《まつ》かも

[やぶちゃん注:「六帖」は、平安中期に成立した類題和歌集「古今和歌六帖」のこと。全六巻。編者・成立年ともに未詳。「万葉集」・「古今集」・「後撰集」などの歌約四千五百首を、歳時・天象・地儀・人事・動植物などの二十五項・五百十六題に分類したもの。「第六 木」に所収する。]

△按ずるに、石-榴《ざくろ》の樹、初《はじめ》は、叢生して、既に長ずる時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、大木≪となり≫、周《めぐ》り二尺餘の者、有り。凡そ、花の色、鮮≪かな≫紅《くれなゐ》なる者、楉-榴《ざくろ》[やぶちゃん注:「石榴」「柘榴」の日中共通の別漢字。]のごときなる者は莫《な》く、鮮≪かな≫紫の者は、燕-子《かきつばた》の花の者のごとくなる者、無し。河州《かしう》河內郡往生院《わうじやうゐん》の石榴、大なる者、周り、尺に過ぐ。味、最≪も≫佳《よ》し、凡そ、柘榴の花、紅なる者、多≪く≫、黃《わう》・白《はく》の二種は、希《ま》れに之れ、有り。千葉《やへ》なり。「黃《き》なる者」≪と云へども≫、亦、正黃《せいかう》に非ず、伹《ただ》、淡《あはき》赤に、黃《き》を帶ぶる耳(のみ)。

根【酸。石榴の東に引く者、佳《よ》し。】 寸白《すばく》・蚘蟲《くわいちゆう》[やぶちゃん注:この辺りは、注のウィキの「ザクロ」の引用に挟み込んだ私の二つの記事を参照されたい。]を治す【水に煎じて、五更[やぶちゃん注:午前三時から五時。暁。]に、溫め、服す。明けに至りて、下せる虫の大きなる團《かたまり》を取れば、永く、根本を絕《た》てり。《後(あと)には》粥を食し、之れを補へば、佳し。】


石榴皮(せきりうひ)

[やぶちゃん注:以下の二文は、上の小項目の下に二字空けで、二行で記されてあるが、ブラウザの不具合を考え、以下のように引き上げた。]

  凡そ、之れを使ふに、鐵《てつ》を犯《おか》≪す≫勿《なか》れ。乾・濕に計《かかは》らず、皆、漿水《しやうすい》を以つて浸《ひた》し、一夜にして、取≪り≫出《いだ》し、用《もち》ふ。其の水、墨の汁のごとし。

[やぶちゃん字注:「犯」は、原本では、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、通用字で示した。]

下痢・下血・脫肛・崩漏《はうらう》[やぶちゃん注:子宮の不正出血。]・帶下《こしけ》を止む。又、脚・肚《はら》≪に≫瘡《かさ》を生≪ずるを≫治す【初め、起こるに、粟《あは》のごとく、搔《か》けば、漸《ぜんぜん》に開き、黃≪なる≫水、浸《しみい》で、滛《あふ》れ、痒く、痛く、潰れ、爛《ただ》れ、遂に、脛《はぎ》を遶《めぐ》るに致りて、痼疾《こしつ》と成る者を癒やす。】。「酸榴皮《さんりうひ》」の𤋎《せん》≪じ≫湯を用《もちひ》て、冷《さま》し定め、日日《ひにひに》、之れ≪を以つて≫、掃《はらふ》[やぶちゃん注:患部を綺麗に拭う。]。

△按ずるに、布帛《ふはく》、黑茶に染≪むる≫法≪は≫、下《した》[やぶちゃん注:下地。]を、藍を用《もちひ》て染《そめ》、其の上を、「石榴皮《せきりうひ》」・「五倍子《ふし》」≪の≫二味《にみ》の煎汁《せんじじる》を用て、染≪め≫、砥水(とみづ)に漬《つけ》て、一宿《いつしゆく》にして、成る。[やぶちゃん注:「漿水」東洋文庫訳の後注に、『炊いた熱い粟米を冷水中に五、六日つける。すると酢味となる。この水を漿水という。はやす。』とある。]

 

[やぶちゃん注:本項では、異名漢字表記が、複数、登場するが、日中のタイプ種は、

双子葉植物綱フトモモ(蒲桃)目Myrtalesミソハギ(禊萩)科Lythraceaeザクロ属ザクロ Punica granatum

である。なお、ザクロ属には二種あるが、今一つの種、

ザクロ属ソコトラザクロ Punica protopunica

は、東アフリカ沖のソコトラ島(英語:Socotra:イエメンのソコトラ県に属するインド洋上の島)に自然自生する原始的なザクロの一種にして同島のみの固有種である。その果実は、ザクロより小さく、種子は苦く、刺激性があり、舌に痛みを引き起こすとされ、未熟な果実の皮は非常に酸っぱく、人間の食用にはならない(以上は英文の同種のウィキの記載を参照した)。

 本邦のウィキの「ザクロ」を引く(注記号はカットした。今回は、樹も果実も私が大好きな種なので、不要と思われる箇所除き、かなりしっかり引用する。下線は私が附した)。本邦の漢字表記は『石榴・柘榴・若榴』・楉榴。中文では「安石榴」もよく使われる。「維基百科」の「石榴」を参照されたい。『英名:pomegranate』(音写「パムグラァナト」)。『落葉小高木、また、その果実のこと。庭木などの観賞用に栽培される。最も古くから栽培された果樹の一つで、果実は食用になる』。『Koehne (1881, 1903) は、下位に卵形の果実をつける』三『属、ザクロ属・ハマザクロ属 Sonneratia ・ドゥアバンガ属 Duabanga をミソハギ科と区別し、それぞれ単型科とした。すなわち、ザクロ属は単型のザクロ科 Punicaceae とした。しかし Johnson and Briggs (1984) などにより、それらが系統的にミソハギ科に含まれることが明らかになった』(このため、シノニムが多い)。『ザクロは果実の色などから』、二『つの亜種に分けられる』。

ザクロ亜種 Punica granatum subsp. chlorocarpa(和名はない。南コーカサス(アゼルバイジャン・アルメニア・ジョージアの三国の総称)産)

ザクロ亜種Punica granatum subsp. porphyrocarpa(和名はない。中央アジア産)

また、栽培品種として、

品種ヒメザクロ(姫石榴) Punica granatum 'Nana'(「矮性変種」とする記載もある)

がある。実際には、世界的には、栽培品種が多くあることが、以下に記されてある。『高さは』五~十二『メートルになる。木の寿命は』長く、二百『年ほどである。樹皮は灰褐色から褐色で、生長するとともに黒っぽくなって、細かく鱗片状に剥がれる。一年枝は』四『稜があり、短枝の先は』、『とげ状になる。葉は対生で楕円形から長楕円形で、深緑色をしており、なめらかで光沢がある』。『花期は初夏』(六月)。『漏斗状の硬い萼から、赤朱色の花弁を出して花をつける。花は子房下位で、萼と花弁は』六『枚、雄蕊は多数ある。花弁は薄くて』、『しわがある』。『果期は秋』(九~十月)で、『果実は花托の発達したもので、球状を呈する。果実の色はさまざまで、桃色がかった黄色から光沢のあるバラ色や葡萄色、茶色まである。大きさは直径』六~十『センチメートル』、『重さは』百~三百『グラム』『ほどある。果皮は厚く、秋に熟すと赤く硬い外皮が不規則に裂け、スポンジ状の薄膜の中に赤く透明な多汁性の果肉(仮種皮)の粒が数百個現れる。果肉』一『粒ずつの中心に種子が存在する』。『冬芽は対生し、芽鱗は』四~六『枚ある。冬芽は小さく、枝先の仮頂芽はあまり発達しない。落葉後の葉痕は、半円形で維管束痕は』一『個ある』。『ザクロには多くの品種や変種があり、一般的な赤身ザクロのほか、白い水晶ザクロや果肉が黒いザクロなどがあり、アメリカ合衆国ではワンダフル、ルビーレッドなど、中国では水晶石榴、剛石榴、大紅石榴などの品種が多く栽培されている』とある。ここで、「維基百科」の「石榴」を見ると、「品種」として、

◎突尼斯軟籽石榴(チュニジア共和国原産。一九八六年に同品種の苗木六本が中国に送られ、栽培化されて中国大陸各地に植えられている、とある)

◎黃里石榴(安徽省淮北市象山区の本品種は二千年以上の歴史があり、明代の嘉靖(一五二二年~一五六六年)時代の大夫であった吳夢騫の記した「隋年」に『黃里石榴は、容貌、美にして、氣・味、芬芳(ふんはう)として、粒、大きく、柔らかく、汁、甘くし、濃やか……』書いている。清代には宮廷への貢物とされ、国内でも珍しい果物の一つであった。 一九五八 年、安徽省林業局により、省内で「最高のザクロ」と認定され、二〇〇一 年から 二〇一一年にかけて、全国の主要なザクロ生産地で、本種は「高品質の佳品」として繰り返し、評価されている。「二〇〇七年中国安徽省優農産物交易会」に於いて、省・市の指導者及び農業専門家から好評を博した。黄色い種子を持つ本種は、脾胃を健やかにし、津(しん:漢方で体液を指す)を活性し、消化を促し、咳を止め、痰を鎮め、カルシウムを補給する働きがあり、消化を助ける良い果物である。明と清の時代には 二千エーカー(東京ドーム京ドーム約百七十四個分)以上の石榴園があり、長年の改善と拡大を経て、現在の植栽規模は一万エーカー(四十・四七平方キロメートル=千二百二十四万坪=東京ドーム八百六十五個分)に達した。主な品種には、「黃里軟籽一號」・同「二號」・「冰糖籽」・「瑪瑙籽」・「青皮糙」・「珍珠紅」等、数十種類の品種がある、とある)

◎懷遠石榴(安徽省淮源県産のザクロ品種「白花翡翠種子」は、柔らかい芯、高い甘み、白い花、薄緑色の果実、明るい翡翠のような種子で知られる、とある)

本邦ウィキの引用に戻る。『日本に輸入されて店頭にしばしば並ぶのは、イラン産やカリフォルニア州産が多く、輸入品は日本産の果実より大きい』。

以下、「分布・生育地」の項。『主に西南アジアや中東の原産といわれるが、原産地については諸説あり、トルコあるいはイランから北インドのヒマラヤ山地にいたる西南アジアとする説、南ヨーロッパ原産とする説』、及び、『カルタゴなど北アフリカ原産とする説などがある』。『世界各地で栽培されており、トルコから中東にかけては特にポピュラーである。原産地は乾燥した丘陵地であることから、今日の栽培品種も日中の暑さと』、『夜間の涼しさを好む。日本における植栽範囲は東北地方南部から沖縄までである。日当たりが良い場所を好む。増やし方には、挿し木、取り木、種まきがある。若木は、果実がつくまでに』十『年程度を要する場合もある。病虫害には強いが、カイガラムシ』(半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科 Coccoidea)『がつくと』、『スス病』(サイト「For your LIFE」のこちらに詳しい)『を併発する場合がある』。

以下、「歴史」の項。『ザクロは古代から栽培され、イラン付近の原産地から中国やヨーロッパへと広まったといわれる。祖先植物は、数千年前にイランとインド北部の間の乾燥した丘陵地に自生していた木とされる。新王国時代にエジプトに伝わり、ギリシア時代にはヨーロッパに広く伝わったとされる。ザクロは、古代エジプトや古代ギリシャの文書、旧約聖書、バビロニア・タルムード、コーランにも頻繁に登場する。東方への伝来は、前漢の武帝の命を受けた張騫が西域から帰国した際に、パルティアからザクロ(安石榴あるいは塗林)を持ち帰ったとする記述が』、「証類本草」(一〇九一年~一〇九三年:但し、平凡社「世界大百科事典」によれば、本来は北宋末の一〇九〇年頃、成都の医師唐慎微が「嘉祐本草」と「圖經本草」を合はせ、それに約六百六十種の薬と、多くの医書・本草書からの引用文を加えて作った「經史証類備急本草」の通称であるものの、「証類本草」の語は、未刊のまま終わったらしい唐慎微の書に、一一〇八年に艾晟(がいせい)がそれに多少の手を加えたものの刊本である「大觀本草」と、さらに一一一六年に曹孝忠らがそれを校正して刊行した「政和本草」を加えた、内容的に、殆んど同一の三書の総称として用いられることの方が多い。千七百四十余の薬物について記載した書で、前代の書の内容をそのまま伝えているということもあって、宋以前の薬物を研究する時には欠くことの出来ないものである、とあった)『以降の書物に見られるため、紀元前』二『世紀の伝来であるとの説があるが、今日では』三『世紀頃の伝来であると考えられている。日本には平安時代に渡ったとされ』、延長元(九二三)年『に中国から渡来した(』九『世紀の伝来説、朝鮮半島経由の伝来説もある)』。

以下、「人間との関わり」の項。『属名の Punica は「フェニキアの」を意味する Poeni に由来する。これは古代ローマの博物学者プリニウスが』「博物誌」『を著した当時、ザクロは「カルタゴのマルス」』( mālus pūnica )『としてカルタゴ周辺が原産地と考えていたためである。種小名の granatum は「種の」や「粒の」を意味し、英名の pomegranate(粒の多いリンゴ)は中世ラテン語の pōmum grānātumpōma grānāta(種の多いリンゴ)に由来する』。『中国語名の「石榴」および「安石榴」は、パルティアの王朝アルサケス(アルシャク:Arshak)を張騫が「安石」や「安息」と音訳したものであり、パルティアを意味する「安息国」に由来する。また、塗林と呼称した時代もあるが、これはサンスクリットでザクロを意味する darimdarima の音訳である。「榴」は実が瘤に似ていることに由来するという』。『日本語の「ザクロ」は、石榴、柘榴の字音からと考えられており、呉音では「ジャク・ル」、漢音では「セキ・リュウ」となる』。「本草和名」(ほんぞうわみょう:醍醐天皇に侍医・権医博士として仕えた深根輔仁(ふかねのすけひと:生没年未詳)により、延喜一八(九一八)年に編纂された本草書で、唐の「新修本草」を範に取り、その他、漢籍医学・薬学書に書かれた薬物に倭名を当てはめ、日本での産出の有無及び産地を記した、日本現存最古の薬物辞典である)『では「安石榴、別名 塗林・若榴、和名 佐久呂」とされている。また、古代イランと中国の文化交流を研究したベルトルト・ラウファー』(Berthold Laufer:一八七四年~一九三四年:ドイツ生まれのアメリカの人類学者・東洋学者)『は、若榴の中国語読みの「zak-lau」に由来するとの説を唱えている。また、有力な原産地のひとつと考えられるティグリス川およびペルシア湾の東方にそれに平行してザグロス山脈がある。ザクロの呼称は、ザグロス山脈を現地音に近い「石榴」の字で音訳したともいわれている』。

以下、「観賞用」の項。『花木として愛でられ、果実が熟して割れる美しさが好まれる。日本では庭木や盆栽など観賞用に栽培されることが多く、矮性のヒメザクロ(鉢植えにできる)や八重咲きなど多くの栽培品種がある。ただし、果実が結実するのは一重の花である。江戸時代の園芸書である』「花壇地錦抄」(かだんじきんしょう:伊藤伊兵衛著・元禄八(一六九五)年刊。本「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年である)『などに記載の見られる古典園芸植物のひとつでもある。縁起のよい木として昔から庭に植えられ、熟した果実に多数の赤い種子が入っていることから、子孫繁栄の意味をもち、世界的にも子宝のシンボルとされる』。

以下、「食用」の項。『食材としての旬の時期は』九~十一『月ごろで、果実の皮の赤色が濃くて割れていないものが市場価値のある良品とされる。可食部は果実の中にある赤い粒(種子)の多汁な外種皮で覆っている種衣の部分で、生食される。汁気の多い肉質種皮の味は甘酸っぱく、かすかに渋みがある』。『ザクロは地中海西岸から中東のイラン、南アジアにかけての広い地域で親しまれており、日本では米国カリフォルニア産の輸入品が多い。生で食べるだけでなく』、『加工にも適しており、果汁をジュースとしたり』、『清涼飲料水のグレナディンの原料とするほか』、『料理などに用いられる。ザクロ文化を大切にするイランでは、さまざまな品種のザクロジュースが専門の屋台で売られている』。『ザクロの可食部に含まれる栄養』『成分は』『カリウムが比較的多く含まれるほか、抗酸化作用があるアントシアニンなどのポリフェノール類が含まれていて、肌を美しく保ったり』、『生活習慣病予防によいといわれている』。『また、煮詰めた果汁は褐色の糖蜜となり、イランなどで調味料として使用され、鶏肉とクルミのシチュー「ホレシュテ・フェセンジャン」を作る』。以下、「薬用」の項。『ザクロは健康に良いとされ、古くから下痢や赤痢の治療や虫下しに利用されている』(☜本文にも詳細な記載がある☞)。『果皮、根皮ともに駆虫作用があり、細菌性、アメーバ性腸炎の下痢、条虫や回虫』「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)」を参照されたい)『の虫下しに用いる。果皮には止血作用があり、性器出血や脱肛に用いる。ただし根皮、樹皮には毒性があり、めまいや震えなどの副作用が起こるため』、『最近は使用されない。口内炎や虫歯などには果皮の煎液でうがいする』。『なお、以下の利用方法・治療方法は特記しない場合、過去の歴史的な治療法であり、科学的に効果が証明されたものであることを示すものではない』。『乾燥させた樹皮または根皮は、生薬名として「石榴皮」(ザクロヒまたはセキリュウヒ:Granati Cortex)または「石榴根皮」(セキリュウコンピ)といい、古くから条虫(特に有鉤条虫)』「生物學講話 丘淺次郞 四 寄生と共棲 四 成功の近道~(1)」の私の注を参照されたい)『の駆虫薬として用いられてきた。ディオスコリデス』(ラテン語転写:Pedanius Dioscorides 四〇年頃~九〇年)ローマ帝国期のギリシア語著述家で、医者・薬理学者・植物学者)『の』「薬物誌」(全五巻。百年後の紀元二世紀の終わりには、ローマ世界に広く浸透した名著である。彼のウィキに詳しい)『でも樹皮が駆虫薬として用いられている記述が見られる。近代になり』、一八八四年、『Schröder』(調べたが、人物不詳。以下、面倒なので、人物名だけのものは調べるのをやめた)『によって駆虫薬としての有効性が科学的に証明され、過去にはイギリスやアメリカ合衆国の薬局方にも収載されていた。日本薬局方には初版より「石榴根皮」として収載され(後にザクロヒ)、第』七『改正まで収載されていた』(以下、石榴皮の主成分が載るが、カットした)。『通常、駆虫には乾燥させた樹皮または根皮』を用いるが、『多量に服用すると』、『中毒を起こす場合がある』。『また』、(☞)「和漢三才圖會」『では下痢、下血、脱肛、崩漏、帯下を止めるのに用いるとの記述がある。さらに、口内炎や扁桃炎のうがい薬にも用いられたという』。『漢方薬としては、石榴根皮、苦楝皮(クレンピ)、檳榔子からなる「石榴根湯」(せきりゅうこんとう)があり、駆虫に用いられる』。『果皮を乾燥させたもの(石榴果皮:せきりゅうかひ)も樹皮や根皮と同様の目的で用いられることが多く、中国やヨーロッパでは駆虫薬として用いた。ただし、根皮に比べ揮発性アルカロイドの含有量は低く効果も劣る。また、回虫の駆除に用いられたこともあった』が、『犬回虫を用いた実験では強い活性はみられなかった』。『日本や中国では、下痢、下血に対して果皮の煎剤を内服し、口内炎や扁桃炎のうがい薬にも用いられた。プリニウスは、果皮を利尿に用いるとしている。熱がある人には服用は禁忌とされる』。『粉末にした花(石榴花)は、出血性の傷に用いられた』。種子は、一九六四年『Sharaf らが種子油(酸石榴)にエストロゲン』(ドイツ語:Estrogene:所謂、「女性ホルモン」である)『活性があることをマウスを用いた実験で見出し』、一九六六年、『 Hefumann らによってこの活性がエストロンによることが示され、乾燥種子』百グラム『中に』一ミリグラム『のエストロンが含まれることが』、一九八八年、『Moneam らによって報告され、更年期障害や乳癌などに対する効果が期待されたが、エストロンの含有量が微量であること、経口摂取ではエストロンは肝臓で速やかに代謝されること、また、エストロンの生理活性はエストラジオールの』十分の一『程度であることなどから実質的な効果は疑問視されている』。『果汁にエストロゲンが含まれるとして』一九九九『年から』二〇〇〇『年頃にブームとなったが、流通しているザクロジュースやエキス錠剤等』十『銘柄を用いた国民生活センターの分析では、いずれもエストロゲンは検出されなかった』。

以下、「その他の利用」の項。まず、冒頭は「石榴口(ざくろぐち)つき銭湯」について。『ザクロの実は、銅鏡の曇りを防止するために磨く材料として用いられた。江戸時代の銭湯は湯船の熱気を逃さないよう、背の低い出入口を設けていた。この出入口は「石榴口」と呼ばれていたが、これは「屈み入る」と「鏡鋳る」(鏡を磨くこと)とを掛けたものともいう』。『古代ローマでは、ザクロの果皮は皮革をなめすのに用いられた』。『木質は硬く、床柱や装飾用の柱に用いられる』。

以下、「文化」の項(私にとって興味深いものに限った)。『初夏に鮮紅色の花を咲かせ、他の樹木が緑の中で目立つため』、『中国の詩人王安石は』、『萬綠叢中紅一點』(「咏石榴詩」。但し、詩の全篇は残っていない)『と詩に詠んだ』。『日本の一部の地域では、凶事を招くとして忌み嫌われる場合もあるが、種子が多いことから豊穣や子宝に恵まれる吉木とされる国や地域が多い。トルコでは、新婚のとき新郎がザクロを地面に投げて割り、飛散した種子の数で、その夫婦のあいだに生まれる子どもの数を占った』。『古代ローマでは、婚姻と財富を象徴する女神ジュノーの好物とされていた』。『色が似ている』宝石の『ガーネット』(garnet)『を柘榴石と呼』ぶが、これは『中世ラテン語の grānātum(種の多い)に由来する』。『スペインのグラナダ(Granada)の地名は、ザクロの木が多く植えられていたことに由来する。スペインの国章の下部のザクロも過去のグラナダ王国を表』わす。『火薬と金属破片を内蔵し、爆発とともに破片を散らして敵を殺傷する爆弾の事を榴弾』「グレネード」『(英語:Grenade)と呼』ぶが、『この語はザクロに由来する(和訳も同じ)。球形の弾体が裂けて破片をこぼす様をザクロに見立てている』。

以下、「神話」の項。『ギリシャでは、新年に玄関前でザクロを床や玄関に叩きつけ、その年の幸運と繁栄を祈る風習がある』。『エジプト神話では、戦場で敵を皆殺しにするセクメトに対し、太陽神ラーは』七千『の水差しにザクロの果汁で魔法の薬を作った。セクメトはこれを血と思い込んで飲み、酩酊して殺戮を止めたという』。『ギリシア神話の女神ペルセポネーは、冥王ハーデースに攫われ』、六『つのザクロを口にしたことで』、六ヶ『月間を冥界で過』ご『すこととなり、母』『デーメーテール』が、『その期間』、『嘆き悲しむことで冬となり、穀物が全く育たなかったが、ペルセポネーが戻ると』、『花が咲き、木々には実がついたという。このため、多産と豊穣の象徴とされている』。『ローマ神話では、地上の女神プロセルピナと冥界の神プルトンとの結婚の逸話にザクロが登場する。プロセルピナの父、太陽神ユピテルは、プロセルピナをプルトンの妻に決めた。ユピテルの妻で豊穣の女神であるケレースは』、『それが気に入らず、地上に降りてしまう。プロセルピナも悲しみのあまり』、『食べ物を口にしなくなった。困惑したユピテルは、プルトンに』「結婚を諦めてくれ。」『と頼んだ。しかし、プルトンは一計を案じ、プロセルピナにザクロを一粒食べさせることができた。そして、結婚に成功。プロセルピナは』一『年の半分をオリュンポスで、残りの半分を冥界で暮らさなければならなくなった。ざくろは、「地獄の果実」とも呼ばれている』。

以下、「宗教」の項。『キリスト教では「聖母子像」でイエスがザクロを持っている図像もあり、後のキリストの受難を表』わす。『ユダヤ教では、虫がつかない唯一の果物として神殿の至聖所』(しせいじょ)『に持ち込むことを許された』。『釈迦が、子供を食う鬼神「可梨帝母」』(かりていも)『に柘榴の実を与え、人肉を食べないように約束させた。以後、可梨帝母は鬼子母神として子育ての神になった。柘榴が人肉の味に似ているという俗説も、この伝説より生まれた』とある。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十」の「果之二」の「安石榴」の項(「漢籍リポジトリ」のここ[075-24a]以降)のパッチワークである。

「山石榴《さんせきりう/やまざくろ》」これは、ザクロ類とは、全く異なる、

リンドウ(竜胆)目アカネ(茜)科クチナシ(梔子・山梔子)連ハリザクロ(針石榴)Catunaregam spinosa

である。「跡見群芳譜」の「野草譜」の「あかね(茜)」によれば、『臺灣・兩廣・雲南・インドシナ・マラヤ・インド・スリランカ・パキスタン産』とある。別名「ハリクチナシ」・「サボンノキ」。ウィキの「アカネ科」によれば、ハリザクロ属は『熱帯および南部アフリカ、熱帯および亜熱帯アフリカに』十四『種が分布』するとある。東洋文庫訳は、この事実(ザクロと無縁なこと)を全く注していない。

『河陰《かいん》の石榴』「拼音百科」の「河阴石榴」(「阴」は「陰」の簡体字)を見るに、ザクロの古名である。この「三十八の子、有ればなり。」の話も、そこに載っている。

『「四季榴《しきりう》」樹木名としては、中文サイトには見当たらない。

『「火石榴《くわせきりう》」、有り。赤色にして、火のごとし。』「百度百科」に「火石榴」があるが、例によって学名はない。しかし、花の画像を見た瞬間に、私は、これは、ヒメザクロ(姫石榴) Punica granatum 'Nana' 或いは、ごく近縁の種であると直感したのであった。グーグル画像検索「Punica granatum 'Nana'」をリンクさせておくので、見比べて見られたい。

『「海石榴《かいせきりう》」これは、少なくとも、現在の中国では、ザクロ Punica granatum の別名である。多くの近世までの日中の本草学者は、漢字表記の異なるものを、別種としてしまう古い博物学の轍を踏むことが多い。なお、現行のツバキの漢字と同じだからと言っても、ツバキとザクロを見間違える者は、素人衆にも、おらんでショウ!

「甘石榴(あま《ざくろ》)」これも、ザクロ Punica granatum の別名と思われる。「百度百科」に「金罂」(=「金罌」)があるが、これは、ザクロの別名であることが記され、そこの「主要価値」の項に、甘いタイプの果実の効能を記して、『甘石榴:咽喉燥渴,杀虫。』とあるからである。

「酸石榴《さんせきりう》」これも、前掲の「百度百科」に「金罂」(=「金罌」)の、同じく「主要価値」の項に、酸っぱいタイプの果実の効能を記して、『酸石榴』の「1」に、『肠滑久痢。有石榴一个,煅烟尽,出火毒一夜,研为末,以酸榴一块煎汤送下,神效无比。此方名:“黑神散”。』2に、『久泻不止。治方同上。』、3に、『小便不禁。用酸石榴烧存性,无石榴时,可用枝烧灰代替。每服二钱,用柏白皮切、焙四钱,煎激发一碗,加入榴灰再煎至八成,空心温服。晚上再服一次。』とあるのは、実に、良安が引用した「本草綱目」の以下の内容と、全く以ってクリソツなのである

「古今醫統」複数回、既出既注

「河州《かしう》河內郡往生院《わうじやうゐん》」現在の大阪府東大阪市六万寺町(ろくまんじちょう)にある臨済宗岩瀧山往生院(グーグル・マップ・データ)。但し、驚愕的な興亡(特に近代のそれは凄絶!)を持つ寺院で(当該ウィキを見られたい)、戦後にやっと復興されており、当然、往年のザクロの木は、ない。

「五倍子《ふし》」白膠木(ぬるで:ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis の虫癭(ちゅうえい)。当該ウィキに、『葉にできた虫』癭『を五倍子(ごばいし/ふし)という。お歯黒の材料にしたり、材は細工物や護摩を焚くのに使われる』とある。グーグル画像検索「ヌルデの虫癭」をリンクしておく。]

2025/01/06

小酒井不木 紅蜘蛛の怪異 (正規表現版・オリジナル注附)

[やぶちゃん注:本篇は大正一五(一九二六)年九月号『キング』初出である。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「稀有の犯罪」(昭和二(一九二七)年六月十八日初版発行・同年同月二十日再版発行・大日本雄辯會刊)を視認した。但し、所持する『叢書 新靑年』の『小酒井不木』(監修・天瀬裕康・長山靖生・一九九四博文館新社刊)所収のもの(新字旧仮名・パラルビ)をOCRで読み込み、加工データとした。なお、対照した結果、何箇所か、異なる表記部分があったことを言い添えておく。特に指摘する必要性を感じないので、それはしていない。

 本篇は、犯罪に遭遇するのが、後に警視庁の刑事となる人物を主人公とするのが、一つ、特異設定であると言えよう。

 底本は、漢数字を除いて総ルビであるが、読みが振れる、或いは、若い読者にはあった方がよいと判断したもののみのパラ・ルビとした。踊り字「〱」「〲」は生理的嫌いなので、正字化した。行間空けに打たれたアスタリスクは、ブラウザの不具合を考えて記号の間を縮め、さらに、引き上げてある。傍点「﹅」は太字に代えた。最後に出る見出し附き新聞記事は、底本では、最終行を除いて(これは、原本の植字工のミスではなく、確信犯。一字下げで組むと、当時の版組み上、最後の鈎括弧(『〕』)が次行の頭に出て禁則となってしまうからである。)全体が一字下げであるが、ブラウザの不具合を考え、一行字数を減じて示した。

 一部で、オリジナルに注を附した。]

 

      紅蜘蛛の怪異

 

         

『私(わたし)が警視廳の刑事になつた動機を話せといふのですか。さうですねえ、大して珍らしい動機ではないですが、そこに一寸(ちよつと)したロマンスがあるのですよ。などといふと聊か皆さんの好奇心をそゝるでせうが、話して見れば案外つまらぬかも知れません。然し、私自身にとつては一生涯忘れることの出來ぬ大冒險でした。』

 と、森一(もりはじめ)氏は語りはじめた。まだ四十三四の年輩であるのに、可なりに白髮の多いことは、氏の半生の苦勞をあからさまに物語つて居るといつてよい。此度(このたび)氏が、歐米の警察制度視察のため海外へ出張を命ぜられたについて、今宵は氏と懇意にして居(ゐ)るものが十人ほど集つて送別の宴を催ばしたのであるが、平素無口である氏が、非常に愉快に談笑に耽(ふけ)つたから、私は、かねて聞きたいと思つて居た氏の刑事志願の動機をたづねると、ほかの人たちも口を揃へて促(うな)がしたので、氏は遂に、今まで誰(だれ)にも話さなかつた秘密を快く打ちあけるに至つたのである。

   *         *         *

        *         *

 今迄、このことをどなたにもお話しなかつたのは、自分の恥をさらけ出さねばならぬからでした。若氣(わかげ)の至りとはいへ、あまりにも馬鹿々々しい目に出逢ひ、その結果、生命危篤に陷つたといふやうな、變な冒險なのですから、お話する勇氣がなかつたのですが、當分、皆さんに御別れしなければなりませんから、いはば置土產に、私一代の懺悔話(ざんげばなし)を致さうと思ひます。

 少し、餘談に亙(わた)るかも知れませんが、私は皆さんに、病氣といふものが、全く本人の心の持ち方一つで治るといふことを特に申し上げたいと思ひます。私も若いときには肺結核で瀕死の狀態に立ち至りましたが、それが一朝(てう)心に變動が起つてこの通りピンピンした身體(からだ)になつてしまつたので御座います。これから申し上げるお話も、實は私が二十年ほど前に、肺結核に罹(かゝ)つた時からはじまるので御座います。

 私は名古屋の舊藩士の一人息子として生れましたが、十八歲の時、父と母が相次いで肺病でなくなりましたから、中學を卒業するなり、私は家(うち)の財產を金に替へ、上京して早稻田大學の文科に入りました。三年級になる迄は無事に暮しましたが、友人たちと、ふしだらな遊びをしたのが祟(たゝ)つたのか、その秋のはじめから、何となく健康がすぐれませんでした。で、醫師に診てもらふと、右肺尖(みぎはいせん)カタルだから、是非今のうちに興津(おきつ)あたりで一年ぐらゐ靜養するがよいとの忠告を受けました。兩親が二人とも肺病で死にましたし、何事も命あつての物種(ものだね)ですから、醫師の言(げん)に從ひ、少くとも一ケ年興津に滯在しようと決心したのであります。中學の時分から髙山樗牛(ちよぎう)が大好きで、興津には可(か)なりのあこがれを持つて居りましたから、いよいよ私は、行李(かうり)をまとめて、鶴卷町(つるまきちやう)の下宿に別れを告げ、新橋停車場(ていしやじやう)に人力車を走らせました。

[やぶちゃん注:「肺尖カタル」肺尖部の結核性病変。肺結核の初期症状であるが、肺結核が治り難かった時代には、ぼかして言うのにも使われた。

「興津」現在の静岡県静岡市清水区の地名(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)として残り、古くからあった地名であり、海辺の宿場町で、漁村であった。この辺りの海辺は、古くから「清見潟」(きよみがた)と呼ばれ、歌枕としても著名で、風光明媚で知られ、明治以降は、皇族や夏目漱石・志賀直哉らの文豪の避寒地や、上流階級に別荘地として全国的にも知られていた。丁度、この主人公の記載の頃に当たるであろう、大正二(一九一三)年の夏、芥川龍之介は、東京帝国大学へ進学する直前の半月程を、この南西直近の現在の清水区北矢部にある新定院(しんじょういん)で避暑している。私の「芥川龍之介書簡抄14 / 大正二(一九一三)年書簡より(2) 三通」、及び、「芥川龍之介書簡抄16 / 大正二(一九一三)年書簡より(3) 四通」を見られたい。実は、当初は現在の清水区興津清見寺町(せいけんじちょう)にある清見寺(せいけんじ)を希望していたのだが、満室であったため、仕方なく、新定院に代えたのである。

「髙山樗牛」『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 文章』の「樗牛」の注を参照されたいが、高山樗牛は明治三三(一九〇〇)年十二月、まさに、その清見寺の門前にあった「三清館」に滞在した。現在、同寺に高山樗牛記念碑(「淸見寺鐘聲」という文章を刻してある)がある。「清見寺」公式サイト内のここを見られたい。

「鶴卷町」早稲田大学の東に接する新宿区早稲田鶴巻町。現在も、学生用の下宿屋が多い。]

 午後六時半發の列車に乘るために駈けつけたのですけれど、先方(せんぱう)へ眞夜中に着くのも面白くないから、いつそ、こちらを眞夜中に出發して先方へ朝着くことにしようと、ふと、氣が變つたのであります。その時、すなほに六時半の汽車に乘つて居たならば、これから申しあげるやうな、私の一生涯に於ける最大の冐險はしなかつたのですが、新橋へ着いて、當分大都會の空氣が吸へないかと思ふと、一種の悲哀が胸に迫つて來たので、三四時間付近を散步して見ようと決心し、かたがた出發を遲らせた譯なのです。で、荷物だけを先へ送つて、私は手ぶらになつて、夜の町へ出かけました。

 空は美しく晴れて、星が一ぱい輝いて居りました。秋の末のことヽて、妙に寒い風が和

服のすき閒からはいつて、感じ易くなつて居る私の皮膚に栗を生ぜしめましたが、私は中

析帽を眼深にかぶつて、何かに引摺られるやうに、白晝のごとき銀座通りの人ごみの中を、

縫ふやうにして、京橋の方に步いて行きました。その夜に限つて私は、はじめて上京した

時のやうに、見るものゝ 悉くを珍らしく思ひました。

 そのうちに私はある街角の洋品店の前に來ました。シヨウ・ウインドウに飾られてある蠟細工(らうざいく)の女人形(をんなにんぎやう)が、妙になつかしいやうに思はれたので、暫らくの間立ちどまつて、じつと眺めて居りました。

 ふと、氣が附くと、薄暗い橫町(よこちやう)に一人の若い女が、腰をかゞめて、苦しさうに立ちどまって居りました。私は氣の毒に思つて傍に近寄りますと、女は顏を上げましたが、その美しさは今もなほ目の前にちらつく程でした。女は私の顏を見て、何か怖いものに出逢つたやうな表情をしましたが、私はそれを苦痛のためであると解釋しました。さうして直感とでも言ひますか、女は飢(うゑ)に苦しんで居るやうにも思へました。よく見ると、女はあまりよい階級には屬して居ないらしく、古びた銘仙の羽織に銘仙の袷(あはせ)を着て、垢のついたメリンスの帶をしめて居りました。

 私はつとめて叮嚀な言葉づかひをして、

『どうかなさいましたか。苦しさうに見えますが、何でしたら、御宅まで御送りしませうか。』と言つて、右の手を差出(さしだ)しました。

 すると、彼女は再びチラと私の顏を見ましたが、さも苦しさうに腰をのばして、左手で私の手にすがり、

『すみません。』と、いひながら、私の身體(からだ)にもたれるやうに寄りそひました。

 大通りヘ出るのは何となく氣がひけましたし、それに彼女は、そはそはして、時々あたりを見まはしましたから、私たちは、そのうす暗い橫町をまつすぐに進みました。

『どこまで行きますか。』と私は步きながらたづねました。その時、彼女は突然立ちどまつて顏をしかめ、腰をかゞめました。

『お腹(なか)が痛いのですか。』と私は彼女の身體を抱くやうに手をかけました。ふつくりした肉の感じが、妙にはげしく私の心を剌戟しました。女は恥かしさうな顏をしながら、

『今朝からまだ何もいたゞきせん。』と細い聲で言ひました。

 私は直感の當つたことを知つて、

『それはお氣の毒ですねえ。』といひ乍ら、そのあたりを見まはすと、ちやうど五六軒先に蕎麥屋があつたので、私は默つて彼女を促(うな)がして中へはひりますと、彼女はすなほについて來ました。

 私たちは二階へ上つて種(たね)ものを注文しました。二階には客は一人も居りませんでしたが、女は恥かしさうにして、運ばれた蕎麥をおいしさうに喰べました。私はうす暗い電燈の下(した)で、つつましやかに箸を運ぶ彼女の姿をつくづく觀察しました。漆黑(しつこく)の髮は銀杏返(いちやうがへ)しに結(ゆ)はれ、色が拔ける程に白く、大つぶな眼を蔽ふ長い睫毛(まつげ)が、顏全體に幾分か悲しさうな表情を帶(お)ばせて居りました。私は生れてから、これ程美しい女に接したことがありませんでしたから、一種の威壓をさへ感じました。さうして、この女は一たい何ものであらうかといふ疑問が雲のやうに湧いて來ました。

 やがて女は、箸を置いて、

『どうも、大へん、御厄介(ごやくかい)になりました。』といつて輕く御辭儀をしました。その樣子は良家に育つた者のやうにも思はれました。女は更に言葉を續けました。

『こんなに御厄介になつても御恩報じの出來ないのが殘念で御座います。』

 かういつて彼女は顏を紅(あか)らめてうつむきました。

 私はこの言葉にどぎまぎして、

『これからどちらへ御行きになりますか。』とたづねました。

 すると女は急に悲しさうな顏をして言ひました。

『實は、今朝(けさ)まで番町のある御屋敷に奉公して居たので御座いますが、御ひまを貰つて、沼津の實家へ歸らうとしますと、新橋の停車場(ていしやば)で、男の人になれなれしく話しかけられ、いつの間にか、荷物もお金も盜(と)られてしまつたので御座います。それから途方に暮れて、的(あて)もなく步きまはりましたが、急に腹痛(はらいた)が起つて難儀して居るところを、あなたに救つて頂いたので御座います。』

 これをきいて私には同情の念がむらむらと起きました。

『今晚私は興津へ行きますから、よかつたら沼津まで御送りしませうか。』

 その時彼女は又もや顏をしかめました。

『有難う御座います。けれど私はかうなつた以上、何だか國元へ歸るのが厭で御座います。それに氣分も惡いですから、今晚は、どこかこの邊(へん)で泊りたいと思ひます。』

 かういつてから、彼女は太息(ためいき)をついて暫らく躊躇して居ましたが、やがて、決心したやうに言ひました。

『それに私、あなたの御親切に向つて御禮(おれい)がしたいと思ひますので……』

 彼女は俯向(うつむ)きました。私は彼女の言菓の意味をはつきり理解することが出來ました。さうして急に心臟の鼓動がはげしくなりました。皆さんは定めし私のその時の心持をよく理解して下さるだらうと思ひます。たうとう私たちは無言のうちにある約束をきめてしまひました。

 やがて、私たちは蕎麥屋を出ました。凡そ一町ほど步いて行きますと、宿屋が二三軒並んで居(ゐ)ましたので、とりつきの家にはひりますと、亭主は氣をきかせて、女中に命じて私たちを奧の離れ座敷に案内させました。宿(やど)へはひると私よりも彼女の方が度胸がすわつて、女中の持つて來た宿帳に、彼女自身、すらすらと筆を運ばせ、出鱈目(でたらめ)な名を書いて否應(いやおう)なく私たち二人を夫婦にしてしまひました。さうして、まだ九時を打つて間もないのに、女中に命じて床(とこ)をとらせました。

         

 思ひがけない幸福に浴して、私は床の中で眼(め)をふさいで、今夜の冒險の顚末(てんまつ)を、まるで夢を見るかのやうに思ひめぐらして居(ゐ)ますと、ふと、女が身を顫(ふる)はせて居るのに氣附きました。見ると彼女は頻りに啜泣(すゝりなき)をして居(を)りました。私はびつくりして事情をたづねましたが、彼女はたゞ泣くばかりでした。私は彼女が私に身を任せたことを後悔しはじめたのであらうと考へて、そのことをたづねますと、彼女は突然むくりと床の上に起き上りました。私も共に起き上つて、何事が起きたのかと、彼女の樣子を見つめて居(ゐ)ますと、彼女は突然、

『わたしはもう生きて居(を)れません。』といひ放ちました。

 私はぎよつとしました。

『どうしたのです? 何故(なぜ)です?』と私は聲を顫はせてたづねました。

『私は今朝(けさ)御屋敷の寶石を盜んで逃げて米たのです。それは私の出來心でしたことではありません。御前樣(ごぜんさま)に對する復讐をしたのです。…………』

『え、復讐?』と、私は思はずたづね返しました。

 彼女はうなづいて、何思(なにおも)つたか、にはかに寢衣(ねまき)を脫いで、大理石のやうな美しい肌をあらはし、さうして、その背中を私の方に向けました。私は彼女の背中を見た瞬間、私の全身の血液が凍(こゞ)るかと思ひました。といふのは、彼女の背中一ぱいに、巨大な蜘蛛(くも)が六本(ほん)[やぶちゃん注:「六」はママ。]の足を擴(ひろ)げて蟠(わだかま)つて居(ゐ)る文身(いれずみ)が丁度(ちやうど)、握拳(にぎりこぶし)ばどの血を一滴(てき)したじらしたかのやうに、眞紅(まつか)な繪具で施され彼女の呼吸(こきふ)と共に、その蜘蛛が生きて居(ゐ)るやうに見えたからです。

 私は小さい時から、非常に蜘蛛が嫌ひでした。それだのに今かうした巨大な紅蜘蛛(べにぐも)を見たのですから、私は卒倒しさうになつて、ぶるぶる身を顫はせました。

『この蜘蛛の文身は、御前樣が私に麻醉をかけ、知らぬ間(ま)に刺靑師(ほりものし)に入れさせになつたものです。御前樣は私の身を汚(けが)した上に、かうした罪の深いことをなさつたのです。私は心の中で何とかして、うらみが晴らしたいと思ひ、たうとう、すきを窺(うかが)つて、御前樣の一ばん大切にして居(を)られる寶石を盜んで逃げたのですが、運惡くそれも、停車場で盜られてしまつたのです。私はもう生きて居(を)れません。』

 かういつて彼女はさめざめと泣きました、私は、その巨大な紅蜘蛛を見てから、彼女自身までが、何となく恐ろしく見え、どう答へてよいかわからずに、途方にくれて默つて居(ゐ)ました。

『ね、あなた。』と彼女は淚の顏をあげて私を見つめました。

『ね、お願ひですから私を殺して下さい。私はあなたの手に罹(かゝ)つて死にたいのです。今日(けふ)まで私は男の人を澤山見ましたけれど、あなた程戀しい人に逢つたのは始めてゞす。だから、あなたの手に罹つて死ねば本望(ほんまう)です。』

 私は愈〻(いよいよ)恐ろしくなりました。すると彼女は突然何處(どこ)からともなく白鞘(しらさや)の短刀を取り出して、ぎらりと拔きました。さうしてそれを私の方へ差出(さしだ)しました。

『ね、早く、これで一思(ひとおも)ひに私を突刺(つきさ)して下さい。紅蜘蛛の眼(め)のところをづぶりと剌して下さい。』

 私は恐怖のために舌の根が硬(こは)ばつたやうに感じました。身動きもせず、たゞ眼をぱちくりさせて坐つて居(ゐ)ました。すると彼女は、にやりと笑つて、さげすむやうな態度で言ひました。

『あなたは案外に意氣地(いくぢ)がないですのねえ。いゝわ、それぢやわたし、自分で死ぬから。けれどあなたも、わたしに見込まれたが最後、生命(いのち)がないから、さう思つていらつしやい。私はこの文身をされてから、私の心も蜘蛛のやうに執念深くなつたのよ。あなたは私を弄(もてあそ)んで置いて、今になつて私の願ひをきかぬのだもの、きつと復讐してやるわ。もうあなたには用がないから、さつさと出て行つて下さい。これから、私はこの短刀で自殺して、あなたに殺されたやうに見せかけ、あなたを死刑にさせずに置かぬからさう思つていらつしやい。たとひ、あなたが警察の手をのがれても、蜘蛛の一念で、きつとあなたに祟つてやるわよ。』

 かう言つて彼女は短刀を取り上げました。

 

 ふと、氣がついて見ると、私は銀座の裏通りを夢遊病者のやうに步いて居(ゐ)ました。私がどうして、あの離れ座敷から逃げ出したかを私ははつきり思ひ出すことが出米ませんでした。私はあの室(へや)から逃げ出す拍子に一二度蒲團(ふとん)に躓(つまづ)いて轉(ころ)んだやうな氣がしました。然し、彼女は私を追つては來ませんでした。

 寒い夜風に觸れて、私の神經はだんだん沈靜して來ました。それと同時に、彼女はあれからどうしたゞらうかといふ疑問が頻りに浮かんで來ました。彼女は果して自殺しただらうか。それとも、何かの目的があつて、あのやうな狂言を行(おこな)つたであらうか。ことによると、彼女は私のあとから、あの宿(やど)を立ち出るかも知れない。彼女は何ものだらう。若(も)し宿から出て來れば、あとをつけて、その行先(ゆくさき)を知ることが出來る。かう思つて私は、一種の好奇心にかられ、停車場(ていしやば)附近まで步いて來たのを再び引き返して、私たちのかりそめの宿の方をさして步いて行きました。

 と、宿屋のある△△町(まち)の角までくると、前方に人だかりがして居(ゐ)ました。近よつて見ると、警官が二三人私たちの宿の前に立つて居ました。私は、はつと思つて、群衆の中の一人の男に、何事が起きたのかとたづねました。するとその男は、私の顏をじろじろながめながら答へました。

 『いま、あの宿屋で人殺しがあつたのです。殺されたのは若い女で、犯人は女の情夫らしく、早くも逃げてしまつたさうです。…………』

         

 それから私がどんな行動をとつたかは、皆さんにも想像がつくだらうと思ひます。私は無我夢中で駈(か)けて來て、新橋停車場から、ちやうど都合よく、まさに發車せんとする十二時三十分の列車に乘りこみました。

 汽車が出てから暫らくの間、私はたゞもうぼんやりとして、全身の筋肉がまるで水母(くらげ)のやうにぐつたりして居ましたが、だんだん我(われ)に返るにつれて、はげしい恐怖に驅(か)られました。たとひ自分で手を下さなかつたとはいへ、あゝした事情のもとに於(おい)ては、彼女が自殺したと認定される譯はなく、定(さだ)めし今頃は警察で私をさがして居(ゐ)るだらうと思つて、じつとしては居(を)られぬやうな氣がしました。私は心を沈(しづ)めて[やぶちゃん注:ママ。]考へました。宿帳には彼女が出鱈目(でたらめ)の名と往所とを書いたから、恐らく今頃は、それによつて搜索が行はれて居るにちがひないと思ひ、幾分か心が輕くなりましたが、その時、私はふと、懷(ふところ)に手を入れてぎくりとしました。

 私は卽ち紙入(かみいれ)の紛失して居(ゐ)ることに氣付いたのです。私はその日、下宿を出るとき、腹卷(はらまき)に私の全財產を入れ、紙入に五十圓ばかり、錢入(ぜにいれ)に銀貨を十圓ばかり入れて出ましたが、切符と荷物の預り證(しよう)とは錢入に入れてあつたので、それまで紙入の紛失したことに氣付かなかつたのです。紙入の中には、住所の書いてない私の名刺があリましたので、若(も)し私が宿屋で落したものとすれば、警察にはすぐ私の本名が知れる譯(わけ)です。若し幸に新橋まで夢中で驅けつけたときに落したものとすればよいけれども、兎(と)に角(かく)私の本名を名乘るのは危險だと思ひましたので、以後は僞名を使ふことに決心しました。

 私はことによると興津へつく前に逮捕されるかも知れぬと思ひました。一晚中まんじりともせずに、今後どうしたならば、身を晦(くら)ますことが出來るかといふことを一生懸命に考へました。その結果私は僞名で興津の療養所(れうやうじよ)にはひつたならば、きつと巧(たく)みに身をかくすことが出來るにちがひないと思ひました。まさか病人が殺人を行(おこな)はうとは警察でも考へないであらうから、それが一番安全な方法だらうと考へたのです。

 興津へ着いたのは朝でした。今にも警官が近寄つて來はしないかとびくびくしましたが、幸(さいはひ)にも何ごともありませんでした。私は人力車に乘つて結核療養所をたづね、所長の診察を受けて、日本式の病室を與へられました。

 翌日、私が、東京の新聞を見ると、果して殺人の記事が出て居(ゐ)ました。京橋區△△町(まち)御納屋(おなや)といふ宿(やど)で一人の若い女が殺され、犯人が行衞不明(ゆくゑふめい)だから警察では嚴探中(げんたんちう)だと書かれてあるのみで、私の名も彼女の名も書かれてはあリませんでした。多分警察では、何もかも秘密にして活動しつゝあるのだらうと思ひました。たゞ私はその時、始めて私たちの入つた宿が御納屋といふ名であることを知りました。

 一週間は不安と焦燥(せうさう)との間(あひだ)に暮れました。然(しか)し何事も起りませんでした。前に見渡す美しい興津の海も、綠(みどり)ゆかしい背後の山々も、私には何の慰安(ゐあん)も與(あた)へませんでした。どうやら私は警察の手から逃(のが)れたやうに思ひましたが、それと同時に、彼女の恐ろしい言葉が耳の底に浮び上りました。

『たとひ、あなたが警察の手を逃れても、蜘蛛の一念で、きつと祟つてやるわよ。』といつた言葉が、ひしひしと私の胸に迫つて來ました。さうして、病室に居ても、あの巨大の紅蜘蛛(べにぐも)が、どこかの隅(すみ)から私を睨(にら)んで居(ゐ)るやうな氣がしたのです。

 皆さんは私のその時の迷信的な氣持を御笑ひになりませう。然し肺病になると、誰(だれ)でも迷信家になります。ことに、その夜(よ)のことを思ふと、たとひ、自分で手を下さなかつたにしても、彼女の死にはまんざら責任のないことはないやうな氣がして、いはゞ良心の苛責(かしやく)が手傳つて、愈〻(いよいよ)私は迷信家となつたのであります。さうして、自分は早晚(さうばん)、紅蜘蛛の祟りによつて生命(いのち)を取られるにちがひないと信じてしまひました。

 二週間經(た)ち、三週間經つても、別に警察の人はたづねて來ませんでした。新聞を見ましても、もはや何も書かれて居(ゐ)なくなりました。つまり御納屋(おなや)の殺人事件は迷宮にはいつたらしいのでした。私は多少安心しましたけれど、紅蜘蛛の幻想は日每(ひごと)に强く、私を惱ませました。

 私の食慾はだんだん減(げん)じて行きました。咳嗽(がいそう)と咯痰(かくたん)が日ごとに殖(ふ)えて行(ゆ)きました[やぶちゃん注:「咳嗽」は広義の「咳(せき)」のこと。「咯痰」は広義の「痰(たん)」のこと。]。醫師は興津へ來てから病勢がにはかに進行したことに頭を傾(かし)げました。今でこそ、かうして、平氣で御話(おはなし)が出來ますけれど、その當時の私の氣持(きもち)は何にたとへんやうもない遺瀨(やるせ)ないものでした。いはば死刑の日を待つ囚人(しうじん)の心持(こゝろもち)にもたとふべきものでした。紅蜘蛛の姿がたえず眼(め)の前にちらつきました。私は彼女の恐ろしい執念が目に見えぬ絆(きづな)をもつて十重(へ)二十重(へ)[やぶちゃん注:「とへはたへ」。]に私をしばりつけて居るやうに思ひました。しまひには每朝暗く痰のねばねばした形が、巨大な蜘蛛の絲(いと)のやうに思はれました。滋養分を無理に攝取しても、藥劑を浴びるやうに呑(の)んでも、私の身體(からだ)は瘦せて行くばかりでした。熱は每日三十八度五分に上(のぼ)りました。たうとう、私は、寢床から起き上ることを禁ぜられてしまひました。さうして每晚(まいばん)私は、巨大な蜘蛛のために、その絲(いと)で締めつけられる夢を見て眼をさますと、油のやうな盜汗(ねあせ)をびつしよりかいて居るのでした。こんなに蜘蛛の幻想のために責められる位(くらゐ)ならば、いつそ、警察へ自首した方が、遙かに樂だらうと思ひましたが、もはや如何(いかん)ともすることが出來ませんでした。

 二ケ月過ぎた頃には、私は衰弱の極(きよく)に達しました。醫師は私に新聞を見ることをさへ禁じました。たまたま空を見ましても、雲の形が蜘蛛のうづくまつて居るやうに見えたり、看護婦の使用して居る楕圓形の懷鏡(ふところかがみ)が、巨大な蜘蛛の眼球(がんきう)に見えたり、眼を開いても、眼を閉ぢても、蜘蛛は一刻(こく)の休みもなく私をせめるのでありました。[やぶちゃん注:「看護婦の使用して居る楕圓形の懷鏡」言わずもがなであるが、診察用のものではなく、看護婦が自身の身だしなみを見るための小型の手鏡である。]

 ある朝、――それは何となく陰欝な曇り日(び)でした。看護婦に食事を與(あた)へてもらつて居ると、突然私は、これまで經驗したことのない、はげしい咳嗽(がいそう)に襲はれ、次の瞬間思はずも、あたり一面に眞紅な血の飛沫(ひまつ)をとばせました。看護婦は驚いて醫師を呼びに行きました。けたゝましい咳嗽は續けざまに起つて、白い蒲團の上や疊の上は、點々たる血痕(けつこん)で一ぱいに染められました。はじめは、精神が比較的はつきりして居(ゐ)ましたが、後(のち)に、ぼーつとした氣持になりました。と、その時です。疊の上や敷布の上に飛び散つた一滴一滴の血痕が、そのまゝ小さいのは小さいなりに、大きいのは大きいなりにそれぞれ無數の紅蜘蛛(べにぐも)となつて、一齊(せい)に私の口元(くちもと)めがけてさらさらと動いて來ました。はつと思ふ拍子に私は人事不省に陷(おちい)つて居ました。

         

 幾分かの後(のち)、氣がついて見ますと、私は醫師と看護婦とに介抱されて居ました。

 『氣がつきましたか、よかつた、よかつた。靜かになさい。』と醫師はやさしく言ひました。私が何か言はうとすると醫師は手を振つて制しました。人事不省(じんじふせい)の間(あひだ)に注射が行はれたと見え、左の腕がしくしく痛みました。

 醫師は看護婦に向つて、私の胸に氷囊(ひやうなう)を當てるやうに命じ、私に向つて、もう大丈夫だから、絕對安靜にして居(ゐ)なさいと言つて病室を去りました。私ははじめ、ぼんやりして居ましたが、だんだん意識が明瞭になるに連(つ)れ、愈〻紅蜘蛛の祟りで死なねばならぬことを悟りました。

 死ぬと定(き)まつた以上私は醫師に向つて懺悔(ざんげ)して置きたいと思ひました。で、私は、看護婦に醫師を呼ばせました。醫師はすぐ樣(さま)やつて來て、私の意志をきいて、はじめは話しをすることに猛烈に反對しましたが、私の態度が眞劍であつたので、遂に内證聲(なんしよごゑ)で話すことを許しました。

 私は私の冒險の一伍一什(いちぶしじふ)を話し、紅蜘蛛の幻想に惱まされた顚末を告げ、さうして最後に、

『かういふ譯ですから、私が死んだら、どうかあなたから、警察の人に委細を告げて下さ

い。』と申しました。

 語り終ると、私は何となく胸がすがくしくなるのを覺えました。醫師ははじめ好奇心をもつて聞いて居ましたが、後(のち)には意外であるといふやうな顏附(かほつき)をしました。さうして私が語り終るや否や、

『一寸(ちよつと)、御待ちなさい。』といつて、急いで病室を出て行(ゆ)きましたが、暫らくすると、手に一枚の新聞を携(たづさ)へて歸つてきました。さうして醫師は三面を開き、ある寫眞を指(さ)して、

『これに見覺えがありますか。』とたづねました。

 私はその寫眞を見て血を咯(は)きさうになる位(くらゐ)びつくりしました。その寫眞こそ、私が夢寐(むび)にも忘れぬ彼女――卽ち紅蜘蛛の女であつたからです。[やぶちゃん注:「夢寐」「眠って夢を見ること」、また、「その間」の意。]

『あなたの先刻(せんこく)御話しになつたのはこの女(をんな)でせう。これを讀んで御覽なさい。』と、醫師はそのそばの新聞記事を指(さ)しました。

   ………紅蜘蛛(べにぐも)お辰(たつ)

      補縛(ほばく)さる………

  かねて、淺草、京橋方面に出沒して、幾多の男を

 餌食(ゑじき)にして居た女賊(ぢよぞく)紅蜘蛛

 お辰は、一昨夜、京橋署の手に逮捕された。彼女は

 病人を裝(よそほ)つて男を釣り、附近の宿屋に連

 れこんで、脊中(せなか)の紅蜘蛛の文身(いれず

 み)を示して、男の度膽(どぎも)を拔き、後(あ

 と)に短刀を出して殺してくれと迫(せま)り、男

 が狼狽(らうばい)して逃げ出す𨻶(すき)に、男

 の懷中物(くわいちうもの)を拔き取つて居たので

 あるが、一昨夜、同樣の手段で××町(まち)の宿

 屋に男を連れ込んだところを、張込中の警官に逮捕

 されたものである。彼女の毒牙にかゝつた男は數へ

 きれぬ程で、目下關係者を引致(いんち)して取調中

 である。〔寫眞は紅蜘蛛お辰〕

 あまりのことに私は私の眼を疑ひました。氣が遠くなるやうに覺えました。その時醫師は微笑(にせう)をうかべて言ひました。

『これは一昨日の新聞ですよ。どうやらあなたも被害者の一人のやうですねえ。紅蜘蛛は死んだどころかぴんぴんして居たのですよ。さあ、しつかりして下さい。もう紅蜘蛛の幻想は起りませんよ…………』

 

 こゝまで語つて森氏はほつと一息した。私たち一同はこの不思議な話に息をこらして聞き入つた。

『すると、その殺された女は誰でしたか。』と、私は待ち切れないでたづねた。

『實は、私もそれが不審でならなかつたのですよ。で、その時から、私は刑事にならうと決心したのです。一つにはその殺された女が誰だつたかをたしかめる爲、今一つには、私のやうな世間知らずの男をだます女賊(ぢよぞく)をなくしたいと思つたからです。

 さう決心すると、不思議にもその目から私の病氣は恢復(くわいふく)に向ひ、食慾(しよくよく)も盛んになる、熱も下(さが)る、盜汗(ねあせ)も出なくなる、體重も殖(ふ)えるといふ工合(ぎあひ)に、いはゞ薄紙(うすがみ)をはぐやうによくなつて、約四ケ月の後には以前にまさる健康狀態になつてしまひました。

 そこで私は上京して、早稻田大學を退(しりぞ)き、警視廳の刑事を志願して、首尾よく採用されました。さうして、その夜の事件を探索して見ると、御納屋(おなや)で一人の女が殺されたのは事實でしたが、私たちがはひつた宿屋は御納屋ではなく、實はその隣りの錢屋(ぜにや)といふので、全く偶然に、御納屋の殺人の時間と、錢屋で私が紅蜘蛛の女を殘して去つた時間とが一致したのです。御納屋で殺された女は、たうとう身許(みもと)もわからず、又、その犯人も知れませんでした。いや、私は、偶然の事件のために、思はぬ災難を蒙(かうむ)りましたが、かうして健康を恢復した今日(こんにち)から見れば、まことに尊(たふと)い經驗をしたと思ふのであります。………………』

 

[やぶちゃん注:最後に。医学博士にして推理小説家であった小酒井不木(明治二三(一八九〇)年~昭和四(一九二九)年)は愛知県海東郡新蟹江村(現在の海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家に生まれた。本名は光次(みつじ)。大正三(一九一四)年、東京帝国大学医学部卒業後、東京帝国大学大学院に進み、生理学・血清学を専攻した(血清学の教授は三田定則で、彼は犯罪学の権威でもあり、不木や同窓生らは、後の学術雑誌『犯罪學雜誌』の創刊に尽力している)。大正四(一九一五)年十二月に肺炎を病み、転地療養しているが、半年後には快癒し、再び、研究に従事し、大正六年十二月には二十七歳で東北帝国大学医学部衛生学助教授に任ぜられた。その後、文部省から衛生学研究のために海外留学を命じられ、渡英したが、ロンドンで喀血し、ブライトン海岸(私の好きなリチャード・バラム・ミドルトン(Richard Barham Middleton 一八八二年~一九一一年) の怪奇小説「ブライトン街道」(On the Brighton Road )だ!)で転地療養し、小康を得て、一旦、ロンドンに戻った。大正九(一九二〇)年の春にはフランスのパリに渡ったが、再び喀血し、南仏で療養、小康を得て、帰国、同年十月、東北帝国大学医学部衛生学教授就任の辞令を受けたが、病いのため、任地に赴けず、長男を親元に預け、愛知県津島市の妻の実家で静養した。翌年、医学博士の学位を取得した。『東京日日新聞』に「學者氣質」を連載するが、篇中にあった「探偵小說」の一項が、前年に創刊された探偵雑誌『新靑年』(博文館)編集長森下雨村(うそん)の目に留まり、森下は不木に手紙を書き、不木も「喜んで寄稿し、今後腰を入れて探偵文學に力を注ぎたい」と返書している。大正一三(一九二四)年には、詩人で同じく医学博士であった木下杢太郎(明治一八(一八八五)年~昭和二〇(一九四五)年:本名は太田正雄)が愛知医科大学皮膚科学教授となり、名古屋市において、不木と木下を中心とした一種のサロンが形成された。以後、医学的研究の解説に海外推理小説を多く引用して,日本の推理小説に影響を与えた。自身も「戀愛曲線」・「疑問の黑枠」・「鬪爭」などの推理小説・SF小説を書き、科学に立脚した本格推理小説の発展に寄与した。三十九歳で急性肺炎(実際の死因は結核である)で亡くなった(以上はウィキの「小酒井不木」他を参考にした)。彼は、この主人公とは逆に、医学者として嘱望されながら、遂には「紅蜘蛛の血の網に絡み捕られた」生涯だったのである。

2025/01/05

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 君遷子

 

Mamegaki

 

ぶどうがき 㮕棗 牛奶柹

さるかき  藍棗 下香柹

      紅梬棗

君遷子

      【俗云蒲萄柹

        又云猿柹】

キュン ツヱン ツウ

 

本綱君遭子其木髙𠀋餘類柹而葉長結實小而長狀如

牛奶熟則紫黑色中有汁味甘支濇

一種小圓如指頭大者名丁香柹味尤美

△按君遷子俗云蒲萄柹也其實附生葉背朶梗而狀似

 柹有蒂大如蒲萄味澀經霜熟紫黑色稍甘

 

   *

 

ぶどうがき 㮕棗《なんさう》

さるがき  牛奶柹《ぎうだいし》

      紅藍棗《こうらんさう》

      下香柹《ちやうかうし》

      梬棗《えいさう》

君遷子

      【俗、云ふ、「葡萄柹《ぶだうがき》」。

        又、云ふ、「猿柹《さるがき》。」。】

キュン ツヱン ツウ

 

「本綱」に曰はく、『君遷子《くんせんし》、其の木、髙さ𠀋餘。柹に類《るゐ》して、葉、長《ながく》、實を實を結≪ぶも≫、小にして、長く、狀《かたち》、牛≪の≫奶《ちち》[やぶちゃん注:乳房。]のごとし。熟する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、紫黑色。中に、汁、有り。味、甘《あまく》、濇《しぶし》。』≪と≫。

『一種、小≪さく≫圓《まどか》≪に≫して、指頭《ひとさしゆび》のごとくなる、大いさ≪の≫者、「丁香柹《ちやうかうし》」と名づく。味、尤《もつとも》、美なり。』≪と≫。

△按ずるに、君遷子は、俗、云《いふ》、「葡萄柹《ぶだうがき》」なり。其の實、葉の背、朶-梗《ふさえだ》に附≪きて≫生ず。狀《かたち》、柹に似て、蒂、有り。大いさ、葡萄のごとし。味、澀《しぶ》し。霜を經て、熟≪し≫、紫黑色。稍《やや》、甘し。

 

[やぶちゃん注:これは、 東北アジア原産の、

双子葉植物綱カキノキ目カキノキ科カキノキ属マメガキ(豆柿)Diospyros lotus

である。和名異名に「シナノガキ(信濃柿)」「ブドウガキ(葡萄柿)」がある。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『種小名はオデュッセイアに登場するロートスの木』(当該ウィキによれば、英語は『Lotus tree』で、『ギリシア神話の』二『つの話に登場する植物である。ホメーロスの叙事詩』「オデュッセイア」『では、心地よい眠りに誘う実をつける木で、ロートパゴス族と呼ばれる島民の唯一の食物として描かれている。彼らがロートスの実を食べると、彼らは友人や家のことも忘れ、故郷の土地に戻って安逸な生活を送るという願望も失ってしまったという』。『この植物の候補としては』この『マメガキや』、『北アフリカとガベス湾の島が原産で、ナツメに似た実をつける』野生ナツメであるバラ目クロウメモドキ科ハマナツメ連ナツメ属ジズフス・ロータス『 Ziziphus lotusであるとも言われている』。『オウィディウスの』「変身物語」では、『ニュンペー』(妖精)『のロティスは、海と水の神ネプトゥーヌスの美しい娘で』あったが、『プリアーポスの暴力的な求愛から逃れるため、彼女は神の助けを求め、神は、彼女をロートスの木に変えることで』、『その祈りに答えたとされる』。『ロートスの木は』「旧約聖書」の「ヨブ記」(私が聖書中、最も優れた作品と思っているものである)の第四十章第二十一~二十二節『でも、ベヒモスと呼ばれる巨大な生物について書かれた詩の中で言及されている』とある)『に由来する。英名の「date plum」は』、『デーツ』(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ナツメヤシ属ナツメヤシ Phoenix dactylifera の実を指す英語)『とプラム』(Plum:双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科スモモ亜科スモモ属スモモ亜属 Prunus の実を指す英語)『を合わせたような味がすることに由来する。別名は小柿』。『葉は互生し、裏面が白味』が、か『かる』。六『月頃に黄味掛かった白色の花を着ける。雄花は雄しべ』十六本、『雌花は雌しべ』一本『と』、『退化した雄しべ』八本『を持つ。秋には小さな液果が生り、熟すと』、『黄から黒紫に色付く』。『液果は』、『霜が降りる頃に渋が抜ける』ため、『一部』で『食用にも供せられるが、主に未熟果が柿渋の採取に用いられる。 また、幹は稀に』(正倉院御物でも知られるカキ材)『黒柿(くろがき)が取れる』とある。画像はShu Suehiro氏のサイト「ボタニックガーデン」の「まめがき(豆柿)」のページがよい。画像を見ると、「葡萄柿」の謂いが、よく納得される。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十」の「果之二」の「君遷子」の項(「漢籍リポジトリ」のここ[075-23b]以降)のパッチワークである。短いので、一部に手を加えて、以下に示しておく。

   *

君遷子【拾遺】

 釋名 【千金作軟棗】【廣志音逞】牛奶柹【名苑】丁香柹【日用】紅藍棗【齊民要術其時珍曰君遷子名始見於左思吳都賦而著狀於劉欣期交州記名義莫詳㮕棗其形似棗而軟也司馬光名苑云君遷子似馬奶卽今牛奶柹也以形得名崔豹古今注云牛奶柹卽㮕棗葉如柹子亦如柹而小唐宋諸家不知君遷㮕棗牛奶柹皆一物故詳證之】

 集解【藏器曰君遷子生海南樹髙丈餘子中有汁如乳汁甜美呉都賦平仲君遷是也時珍曰君遷卽㮕棗其木類柹而葉長但結實小而長狀如牛奶乾熟則紫黑色一種小圓如指頂大者名丁香柹味尤美救荒本草以為羊矢棗誤矣其樹接大柹最佳廣志云㮕棗小柹也肌細而厚少核可以供御卽此】

 氣味甘濇平無毒主治止消渴去煩熱令人潤澤【藏器】

 鎮心久服悅人顔色令人輕健【珣】

   *

この「釋名」の時珍の解説を見ると、「君遷子」の初出は晉の左思が十年を費やして構想した「三都賦」(「蜀都賦」・「吳都賦」・「魏都賦」)の「吳都賦」である(因みに、この賦が完成して、人々が競って伝写したため、洛陽の紙価が高くなったとされ、「洛陽の紙価を高らしむ」の故事成句の元となった)が、「君遷子」そのものの故事は不明らしい。

「丁香柹《ちやうかうし》」「丁香」は、所謂、「クローブ」(Clove)のことで、バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum である。一般に知られた加工材のそれは、本種の蕾を乾燥したものを指し、漢方薬で芳香健胃剤として用いる生薬の一つであり、また、現行の肉料理等にも、よく使用される香料である。先行する「丁子」を見られたい。この柿の香りが、似ているからか。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 椑柹

 

Aburagaki

 

しぶかき   𣾰柹 花椑

       烏椑 青椑

       緑柹 赤棠椑

椑柹

       【俗云之布加木】

       此木老者心黒

ピイ スウ  堅俗名黒柹

 

本綱椑柹乃柹之小而卑者大如杏他柹至熟則黃赤惟

此柹雖熟亦青黑色擣碎浸汁謂之柹𣾰可以染𫅋扇諸

不可與蟹同食

△按柹𣾰【俗云之布】造法椑柹一斗去蒂和水二升五合碓擣

 盛桶經宿搾之渣亦和水經二日再搾之其用甚多染

 紙爲衣爲行李裹染布爲酒搾帒或和墨塗筧皆爲水

 不昜朽或𣾰塗之下先用柹𣾰凡柹𣾰夏月焦枯難貯

 茄子【切片】可投入又流柹𣾰於川上則鰷鯽大醉浮出

 

   *

 

しぶがき  𣾰柹《うるしがき》 花椑《くわひ》

      烏椑《うひ》 青椑《せいひ》

      緑柹《りよくし》 赤棠椑《せきたうひ》

椑柹

      【俗、云ふ、「之布加木《しぶがき》」。】

      此の木、老《らう》する者、心《しん》

      黒く、堅し。俗、「黒柹《くろがき》」と

ピイ スウ   名づく。

 

「本綱」に曰はく、『椑柹《ひし》は、乃《すなはち》、柹の小《しやう》にして、卑《いやし》き者なり。大いさ、杏《あんず》のごとし。他《ほか》柹は、熟するに至り、則《すなはち》、黃赤《わうせき》≪とたるも≫、惟《ただ》、此の柹≪のみ≫、熟すと雖《いへども》、亦、青黑色≪なり≫、擣《つ》き碎《くだき》、汁に浸≪し≫、之れを、「柹𣾰《かきうるし》」と謂《いふ》。以≪つて≫、𫅋《あみ》[やぶちゃん注:漁網。]・扇、諸物を染む。蟹と同≪じく≫食ふべからず。』≪と≫。

△按ずるに、柹-𣾰(しぶ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])【俗、云ふ、「之布《しぶ》」。】、造る法。椑柹《しぶがき》一斗、蒂《へた》を去《さり》、水、二升五合に、和(ま)ぜて、碓-擣《つきうち》、桶《をけ》に盛り、宿《しゆく》を經て、之れを搾(しぼ)り、渣(かす)も亦、水に和して、二日を經《へ》、再たび、之れを搾《しぼ》る。其の用、甚だ多し。紙を染《そめ》、衣《ころも》と爲《なし》、行李裹(かうりつゝみ)と爲し、布を染《そめ》て、酒搾帒(さかぶくろ)と爲《なし》、或≪いは≫、墨≪を≫和(ま)ぜて、筧(かけひ)を塗(ぬ)る。皆、水の爲めに、朽ち昜《やす》からず。或《あるい》は、𣾰塗《うるしぬり》の下《した》≪に≫、先づ、柹-𣾰《しぶ》を用ふ。凡そ、柹-𣾰(しぶ)、夏月、焦-枯(やけ《かれ》)て、貯へ難し。茄子《なすび》【切片で。】≪を≫投入《なげいる》るべし。又、柹-𣾰を川上に流せば、則《すなはち》、鰷・鯽、大《おほい》に醉《ゑひ》て浮出《うかびい》づ。

 

[やぶちゃん注:一見、寒冷性の渋柿(前項の「柹」の注で示した「完全渋柿」を指すと考えてよかろう)群でよいと考えてしまうが、東洋文庫訳では、「本草綱目」の引用で出す「椑柹《ひし》」に割注して、『(カキノキ科アブラガキ)』と特定するので、これは、狭義の、本邦で野生種のカキノキとする、

双子葉類植物綱ツツジ目カキノキ科カキノキ属カキノキ変種ヤマガキ Diospyros var. sylverstris

を指すかとも思われたのだが、これに就いては、「跡見群芳譜 樹木譜 かき(柿)」にある中国産の「野柿・油柿・山柿」であり、そこでは、『福建・江西・兩廣・雲南』原産とするものであるが、しかし乍ら、同ページには、別に、

◎アブラガキ Diospyros oleifera

を「油柿」と表記し、原産地を『安徽・浙江・江西・福建・湖南・兩廣産』と記している。

さらに、★「維基百科」では、「椑柿」が「油柿」の独立項に送られてあり、そこでも、

◎油柿 Diospyros oleifera

という学名が示されてある。同属の英文ウィキをみても、この油柿 Diospyros oleifera Diospyros var. sylverstris をシノニムとする記載はなく、そもそも、英文ウィキで全検索をしても、どこにも、Diospyros var. sylverstris 自体の記載が存在しないので、油柿 Diospyros oleifera が正しいことが判った。明確には言い難いが、この事実は、本邦でまことしやかにカキノキ変種ヤマガキ Diospyros var. sylverstris と記載される種は、公的に全世界的に認められているものではない臭さが感じられなくもない。参考に、グーグル画像「油柿 Diospyros oleifera」をリンクさせておく。上から二段目半ばまでは、中国のサイトのものであるから、同種の画像として安心して見ることが出来る。青柿の実の有意な丸さや、割った実の核(さね)の様子など、私の知っている本邦のカキでは、見知ったものとは、ちょっと違うように感ずる。見られたい。

 ウィキの「カキノキ」「渋柿」の項があるが、既に前項で当該部を整理して引用してあるので、繰り返す気はないので、そちらを見られたい。悪しからず。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十」の「果之二」の「椑柹」の項(「漢籍リポジトリ」のここ[075-23a]以降)のパッチワークである。短いので、一部に手を加えて、以下に示しておく。

   *

椑柹【音卑士宋開寶】

 釋名漆柹【日華】綠柹【日用】靑椑【廣志】烏椑【開寳】花椑【日用】赤棠椑

【時珍曰椑乃柹之小而卑者故謂之椑他柹至熟則黃赤惟此雖熟亦靑黑色擣碎浸汁謂之柹漆可以染罾扇諸物故有漆柹之名】

 集解【志曰椑柹生江淮以南似柹而靑黃潘岳閒居賦所謂梁侯烏椑之柹是也頌曰椑柹出宣歙荆襄閩廣諸州柹大如杏惟堪生啖不可爲乾也】

 氣味甘寒濇無毒【弘景曰椑生啖性冷服石家宜之不入藥用不可與蟹同食】

 主治壓丹石藥發熱利水解酒毒去胃中熱久食令人

 寒中【開寶】止煩渴潤心肺除腹臟冷熱【日華】

   *

 後は、特に注の必要を認めないので、これにて終わる。]

2025/01/04

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 柹

 

Kaki_20250104182101

 

かき  胡國名鎭頭迦

     枾【本字】 柿【俗字】

【音士】

     【柿音肺

      削木片】

 

      和名加岐

フウ

[やぶちゃん注:「柹」の字は、全体に異体字の「𣐈に近いものが含まれるが、統一しないと、ただ読み難くなるだけなので、一貫して「柹」を用いた。

 

本綱柹髙樹大葉圓而光澤四月開小花黃白色結實青

綠色八九月乃熟其核形扁狀如木龞子仁而硬堅其根

[やぶちゃん字注:「龞」は「鼈」の異体字。]

甚固謂之柹盤世傳柹有七絕一多壽二多陰三無鳥巢

四無蟲蠧五霜葉可玩六嘉實七落葉肥滑可以臨書也

有數種皆以核少者爲佳 著葢柹蔕下別有一重也

蒸餠柹狀如市賣蒸餠 牛心柹゚雞子鹿心皆以狀名

朱柹小而深紅 塔柹大于諸柹 大者如楪八稜梢扁

 凡柹同蟹食令人腹痛作瀉如中之者服木香則解

[やぶちゃん注:「腹」の字は、原本では、(つくり)の頭が(うかんむり」)で、その下の中間部は「且」であるが、このような異体字はないので、通用字とした。]

古今醫統云柹樹按及三次則全無核

                        泰覺法印

 著聞集霜おけるこねりの柹はおのつからふくめは消る物にそ

                         有ける

△按柹之澀者用灰汁灌於根則翌年無澀味矣柹老樹

 中心帶黑色其柹名黑柹用堪爲噐用凡柹品類甚多

 和州五所之產最勝今畿內皆移種之軆圓扁微帶方

 微尖肉紅色味甘潤脆其蔕𠙚縮陷形異於諸柹其核

 小肥團尖俗呼名五所柹【或名大和柹又云木煉柹】事類合壁所謂

[やぶちゃん字注:「事類合壁」の書名(短縮表記)の「壁」は「璧」の誤りであることが判明したので、訓読文では訂した。

 八稜梢扁柹此類乎畿內之外種之接之皆不佳試移

 種於薩州甚澀不堪食伹甲州之産亞于和州耳

似柹【尒太利】 似五所而肥滿不扁者味大劣

伽羅柹 一名透徹柹形長圓微尖肉中如沉香木理而

 味脆美亞五所柹而上品

圓座柹 形大肥圓附蔕𠙚肉起作㿔者所謂著蓋柹乎

筆柹 形小而長本草所謂鹿心柹【和名夜末加岐】是乎

樹練柹 形如鳥卵者攝津丹波多出之所謂雞子柹乎

田倉柹 形圓大於諸柹而味澀以爲醂柹所謂塔柹乎

烘柹

本綱此非謂火烘也卽青綠之生柹置器中自紅熟如烘

成澀味盡去其甘如𮔉


白柹  柹餠 柹花

     又云鉤柹又云枝柹

本綱白柹卽乾柹生霜者其法用大柹去皮捻扁日晒夜

露至乾內瓮中待生白霜乃取出謂之白柹

△按白柹用澀柹連枝曝乾或繫糸晒乾初用蕎麥稭稻

 藁包宿乃能生霜豫州西條之產甘美柔而如沙糖餠

 備州之者次之濃州及尾州蜂屋之産長三四寸重三

 十錢目許本草所謂牛心柹是乎

胡盧柹 一名豆柹卽乾柹大如頭指生淡霜硬淡甘

串柹 貫竹串乾者也或貫繩乾之共下品也

 凡乾柹乃脾肺血分之果也【甘濇平】能收故有健脾澀腸

 治嗽止血之功蓋大腸者肺合而胃之子也能治反

 胃吐食【乾柹三枚連蒂擣爛酒服甚効切勿以佗藥襍之】治臟毒下血【乾柹燒灰飮服】治産後欬逆

△按俗傳産後七十五日忌食乾柹也然本草以爲血分

 藥而産後欬逆用之聊齟齬矣宜參考

又能解酒毒 割乾柹作兩片一以塞臍縛定後飮酒連

日不醉


烏柹  俗云阿末保之

     阿末者屋間也

本綱烏柹【甘溫】火𤋱乾者也凡服藥口若及嘔逆者食少

[やぶちゃん字注:「若」は「苦」の異体字。]

許卽止

△按用澀柹剥皮火𤋱懸屋間晒乾之或不火𤋱而乾亦

 可並成黑色未生霜時食之烏者黑色也


醂柹  醂【音覽】藏柹也

     【俗云阿波世加岐】

本綱醂柹用灰汁澡三四度令汁盡着噐中經十餘日卽

可食

△按醂柹今造法用澀柹浸石灰或蕎麥稭灰汁二三日

 取出食味變甘最下品也


柹蒂  加岐乃倍太

柹蒂【濇平】 治欬逆柹蒂散【柹蒂丁香各二錢生薑五片水煎或爲末虛者加參】

 欬逆者氣自臍下冲脉直上至咽膈作呃忒蹇逆之聲


柹皮 柹核

△按柹皮晒乾入用醬油煑之則汁甜美不劣於鰹煎汁

 今僧家所重也

柹核長扁形如豆莢而本稍尖黃黑色中有白瓤形似飯

 臿而向下伹五所柹核小肥短

 

   *

 

かき  胡國には、「鎭頭迦《ちんとうか》」と名づく。

    「枾」【本字。】 「柿」【俗字。】

【音「士」。】

     【「柿」は、音「肺《はい》」。

      「木を削《けづり》たる

      片《へん》」なり。】

 

      和名「加岐《かき》」。

フウ

 

「本綱」に曰はく、『柹《シ/かき》は髙き樹≪にして≫、大なる葉、圓《まろく》して、光澤≪有り≫。四月、小≪さき≫花を開く。黃白色。實を結ぶ。青綠色。八、九月に、乃《すなはち》、熟す。其の核《さね》の形、扁(ひらた)く、狀《かたち》、「木龞子《もくべつし》」[やぶちゃん注:後注するが、双子葉植物綱ウリ目ウリ科ツルレイシ(蔓茘枝・蔓荔枝)属ナンバンカラスウリ Momordica cochinchinensis 。取り敢えず、当該ウィキと、グーグル画像検索の学名と種をリンクさせておく。]の仁《にん》のごとくにして、硬堅≪なり≫。其の根、甚だ、固(かた)し。之れを「柹盤《しばん》」と謂ふ。世に傳ふ、「柹に七絕《しちぜつ》[やぶちゃん注:七つの優れた特異な性質。]、有り。一《い》つに、多壽《たじゆ》[やぶちゃん注:寿命が長いこと。]。二つには、多陰《たいん》[やぶちゃん注:木蔭が豊かであること。]、三つには、鳥《とり》の巢、無し[やぶちゃん注:鳥類が営巣しない。]。四《よ》つに、蟲-蠧(むし くふこと)、無し。五つに、霜《しも》の葉[やぶちゃん注:霜にうたれて黄や紅などに変色した紅葉。]、玩(もてあそ)ぶべし。六つには、嘉-實《よきみ》[やぶちゃん注:果実が美味であること。]。七つに、落葉、肥≪えて≫滑《なめら》≪かにして≫、以つて、臨書[やぶちゃん注:字を書き写すこと。]すべしなり。」≪と≫。』≪と≫。『數種、有り、皆、核《さね》少《すくな》き者を以つて、佳《よし》と爲す。』≪と≫。[やぶちゃん注:以下、柿の品種等を列挙するので、改行する。]

『「著葢柹(ちよかふ《し》)」は、蔕(へた)の下、別に一重《ひとへ》有るなり。』≪と≫。

『「蒸餠柹《じようへいし》」は、狀《かたち》、市《いち》に賣る蒸餠《むしもち》のごとし。』≪と≫。

『「牛心柹《ぎうしんし》」・『雞子≪柹≫《けいしし》』・「鹿心≪柹≫《ろくしんし》」、皆、狀《かたち》を以つて、名づく。』≪と≫。

『「朱柹《しゆし》」は、小にして、深紅なり。』≪と≫。

『「塔柹《たふし》」は、諸柹より大なり』。『大なり者は、楪(ちやつ)のごとく、八稜(《や》かど)にして、梢(すえ[やぶちゃん注:ママ。])、扁(ひらた)し。』≪と≫。

『凡そ、柹と蟹と同じく食へば、人をして腹痛≪と≫瀉《しや》を作《な》さしむ。如《も》し、之れに中《あた》れば、木香《もくかう》を服して、則ち、解す。』≪と≫。

「古今醫統」に云はく、『柹の樹、按くこと《✕→(なでさ)すること》、三次(みたび)に及べば、則《すなはち》、全《まつた》く、核(さね)、無し。』≪と≫。

 「著聞集」

   霜おける

      こねりの柹は

    おのづから

       ふくめば消《きゆ》る

     物にぞ有《あり》ける   泰覺法印

△按ずるに、柹《かき》の澀(しぶ)き者、灰汁(あく)を用《もちひ》て、根に灌《そそ》げば、則ち、翌年、澀味、無し。柹の老樹(をひき[やぶちゃん注:ママ。])は、中心、黑色を帶ぶ。其の柹、「黑柹《くろがき》」と名づく。≪その材を≫用ひて、噐用と爲《す》るに堪へたり。凡そ、柹の品類、甚だ、多し。和州五所《ごせ》[やぶちゃん注:現在の奈良県御所(ごせ)市(グーグル・マップ・データ)。後注するが、現在も同地原産の品種「御所柿(ごしょがき)」(ツツジ目カキノキ科カキノキ属カキノキ品種ゴショガキ Diospyros kaki 'Gosho'が名産である。]の產、最も勝《すぐ》れり。今、畿內、皆、之れ、移-種《うつしうう》。軆《てい》、圓《まろく》、扁《かたよ》り、微《やや》、方《はう》[やぶちゃん注:四角形。]を帶びて、微、尖《とが》り、肉、紅色。味、甘く、潤《うるほひ》、脆《もろし》。其の蔕《へた》の𠙚、縮(ちゞ)みて、陷(くぼ)みて、形、諸柹に異なり。其の核《さね》、小《ちさ》く、肥《こえ》、團《まろく》、尖(とが)る。俗、呼んで、「五所柹《ごせがき/ごしよがき[やぶちゃん注:地名に因むなら、前者であるが、ここの地名起源説に「三室」→「御室」→「御所」があるのに従うなら、「御所」を憚って「五所」と書いて「ごしょ」と読んだ可能性もあると考える。]》」と名づく。【或いは、「大和柹《やまとがき》」と名づく。又、云ふ、「木煉柹(こねり《がき》)」と。】「事類合璧《じるゐがつぺき》」に所謂《いはゆ》る、『八稜(やかど)にして、梢《さき》、扁《ひらたし》。』と云《いふ》柹≪は≫、此の類《るゐ》か。畿內の外《そと》≪にては≫、之れを種≪ゑ≫、之れを接ぐ≪も≫、皆、佳《よ》からず。試《こころみ》≪に≫、薩州に移種《うつしうう》るに、甚だ、澀《しぶ》く、食ふに堪へず。伹《ただ》、甲州の産、和州に亞《つ》ぐのみ。

「似柹(にたり《がき》)」【「尒太利《にたり》」。】 「五所」に似て、肥滿≪して≫、扁《ひらた》からざる者。味、大≪きに≫劣れり。

「伽羅柹(きやら《がき》)」 一名、「透徹柹(すきとほり《がき》)」。形、長《ながく》、圓《まろ》く、微《やや》、尖り、肉≪の≫中《うち》、「沉香《ぢんかう》」の木理(きめ)のごとくして、味、脆《もろ》く、美なり。「五所柹」に亞《つぎ》て、上品なり。

「圓座柹《ゑんざがき》」 形、大≪きく≫、肥《こえ》、圓《まろ》く、蔕《へた》の附《つく》る𠙚、肉、起《おこ》り、㿔《こぶ》を作《な》す者、≪「本草綱目」に≫所謂《いはゆ》る、「著蓋柹《ちよかふし》」か。

「筆柹《ふでがき》」 形、小《しやう》にして、長く、「本草」に謂《いへ》る所≪の≫、「鹿心柹《ろくしんし》」【和名、「夜末加岐《やまがき》」。】、是れか。

「樹練柹《こねりがき》」 形、鳥の卵のごとくなる者。攝津・丹波、多く、之れを出《いだす》。≪「本草綱目」に≫所謂る、「雞子柹《けいしし》」か。

「田倉柹《たくらがき》」 形、圓く、諸柹より大にして、味、澀《しぶし》。以つて、「醂柹(あはせがき)」[やぶちゃん注:本項で後で立項される。]と爲す。≪「本草綱目」に≫所謂る、「塔柹《たうし》」か。


烘柹(つつみがき)

本綱に曰はく、『此れ、「火烘《くはきやう》[やぶちゃん注:「火に炙(あぶ)ること」。]」の謂に非ざるなり。卽ち、青綠りの生柹《なまがき》を器《うつは》の中に置き、自《おのづから》、紅《くれなゐ》に熟して、烘成《あぶりなす》ごとく≪成るなり≫。澀味、盡《ことごと》く去《さり》て、甘《あまき》こと、𮔉《みつ》のごとし。』≪と≫。


白柹(つるしがき)  柹餠《しへい》 柹花《しくは》

     又、云ふ、「鉤柹《つるしがき》」、又、云ふ、「枝柹《えだがき》」。

「本綱」に曰はく、『白柹《はくし》は、卽ち、乾柹《ほしがき》≪なり≫。霜[やぶちゃん注:「霜のような白い粉」の意。]の生ずる者なり。其の法、大柹を用ひて、皮を去《さり》、捻《ねぢ》り、扁《たひら》にして、日に晒し、夜露、乾くに至りて、瓮《かめ》≪の≫中に內《い》れ、白霜《しろじも》の生ずる待《まち》て、乃《すなはち》、取出《とりいだ》す。之れを、「白柹」と謂ふ。』≪と≫。

△按ずるに、「白柹」、澀柹《しぶがき》を用ひて、枝を連《つらね》≪たまま≫、曝乾《さらしほし》、或≪いは≫、糸に繫ぎ、晒乾≪す≫。初《はじめ》、蕎麥稭(《そば》がら)・稻藁を用ひて、包《つつみ》、宿《しゆくす》[やぶちゃん注:包んだままにして何日か置いておく。]。乃《すなはち》、能く、霜を生ず。豫州西條[やぶちゃん注:現在の愛媛県西条市(グーグル・マップ・データ)。後注するが、ウィキに「西条柿」があり、本品種は『干し柿としては最高級原料とされている』とある。]の產、甘美、柔《やはらか》にして、沙糖餠《さたうもち》のごとし。備州の者、之れに次ぐ。濃州、及《および》、尾州蜂屋[やぶちゃん注:現在の岐阜県美濃加茂市蜂屋町(はちやちょう:グーグル・マップ・データ)]の産は、長さ、三、四寸、重さ、三十錢目許《ばかり》あり。「本草≪綱目≫」に所謂る、「牛心柹《ぎうしんし》」、是れか。

胡盧柹(ころがき) 一名、「豆柹《まめがき》」。卽ち、乾柹≪なり≫。大いさ、頭指《とうし/ひとさしゆび[やぶちゃん注:東洋文庫訳では『指頭』とするが、それでは、異様に小さ過ぎる。]》のごとく、淡≪き≫霜、生《しやうじ》、硬く、淡《あはく》、甘し。

串柹(くしがき) 竹串に貫《つきぬき》て、乾す者なり。或いは、繩に貫きて、之れを乾す。共に下品なり。

 凡そ、「乾柹」は、乃《すなはち》、脾肺の血分の果《くわ》なり。【甘濇、平。】能く收《をさむ》る故《ゆゑ》、脾を健《すこやかに》、腸を澀《しぶ》≪らせ≫[やぶちゃん注:通じを良くし。]、嗽《せき》を治《ぢし》、血を止《とむ》るの功、有り。蓋し、大腸は肺の合《がふ》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に、『互いに密接な関係にあること』とある。]にして、胃の子《こ》なり。能く、反胃[やぶちゃん注:朝食を夕方に吐き、夕食を、翌朝、吐く症状。]・吐食[やぶちゃん注:吐き戻し。]を治す【乾柹《ほしがき》三枚、蒂を連ね、擣-爛《つきただ》らして、酒にて服す。甚だ、効あり。切《せつに》、佗藥《たやく》[やぶちゃん注:他(ほか)の薬物。]を以つて、之れを襍《まぢらする》≪こと≫、勿《な》かれ。】。臟毒≪に據る≫下血を治す【乾柹、灰に燒きて、飮服《いんぷく》す。】。産後の欬逆《がいぎやく/しやつくり》を治す。

△按ずるに、俗、傳ふ、「産後七十五日、乾柹を食《くふ》を忌むなり。」≪と≫。然《しか》るに、「本草≪綱目≫」には、以つて、『血分の藥』と爲し、『産後の欬逆(しやくり)に、之れを用ふ。』と云ふ[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]。聊《いささ》か、齟-齬(くひちが)へり。宜しく、參考すべし。

 又、能く、酒毒を解す。 柹を割乾《わりほ》して、兩片《りやうへん》と作《なし》、一づゝ、以≪つて≫、臍を塞ぎ、縛(くゝ)り定め、後《のち》、酒を飮≪むこと≫、連日≪なれども≫、醉はず。

烏柹(あまぼし)  俗、云《いふ》、「阿末保之《あまぼし》」。

     「阿末《あま》」とは、「屋間(あま)」なり。

「本綱」に曰はく、『烏柹《うし》【甘、溫。】火にて、𤋱(ふす)べ、乾(ほ)す者なり。凡《およそ》、藥を服して、口、若《にが》く、及《および》、嘔逆《わうぎやく》する者、少《すこし》許《ばかり》を食へば、卽ち、止む。』≪と≫。

△按ずるに、澀柹を用《もちひ》て、皮を剥(む)き、火《ひ》に𤋱《ふすべ》、屋-間《あま》に懸け、之れを晒乾《さらしほ》し、或いは、火に𤋱べずして、乾《かはか》すも亦、可なり。並《ならびに》、黑色と成り、未だ霜を生ぜざる時、之れを食ふ。「烏《ウ》」とは、「黑色」なり。

[やぶちゃん注:「屋間(あま)」「日本国語大辞典」の『あま【天】』の項の大項目の「方言」の項に、『①高い所。静岡県』、『②いろりの上につるしてある棚。福井県』・『長野県下伊那郡』・『岐阜』・『三重県飯南郡』(いいなんぐん:現在は松坂市の大部分と多気郡多気町の一部)・『対馬仁村千尋藻』(にむらちろも:現在の長崎県対馬市豊玉町千尋藻(とよたまちょうとろも)。グーグル・マップ・データ)、『③天井裏。また、天井。秋田県河辺郡』・『八丈島』・『富山県』・『石川県』・『静岡県』・『愛知県北設楽郡』・『京都府加佐郡』・『山口県防府』あった。この内、良安の事実上の守備フィールドであるのは、京都府加佐郡である。ここは現在、京都府加佐郡舞鶴市の全域・福知山市の一部・宮津市の一部に相当する。良安の情報提供者の中に、この地域の出身者がいたものと、一つは、推定される。無論、他の地方の情報ソースであっても、特段、構わない。


醂柹(あはせがき)  「醂」は【音「覽」。】、「藏柹《くらがき》」なり。

     【俗、云《いふ》、「阿波世加岐《あはせがき》」。】

「本綱」に曰はく、『「醂柹」、灰-汁《あく》を用≪ひて≫、澡(あら)ふこと、三、四度、汁、盡《つく》さしめ、噐《うつは》の中に着《つけいれ》、十餘日を經《ふ》れば、卽ち、食ふべし。』≪と≫。

△按ずるに、「醂柹」、今、造る法、澀柹を用《もちひ》、石灰、或いは、蕎麥稭《そばがら》の灰-汁《あく》に浸《ひた》すこと、二、三日、取出《とりいだ》して、食ふ。味、甘《かん》に變ず。最《もつとも》下品なり。


柹蒂(かきのへた) 「加岐乃倍太《かはのへた》」。

柹蒂(《かきの》へた)【濇、平。】 欬逆(しやくり)を治す。「柹蒂散《していさん》」【柹の蒂・丁香《ちやうかう》、各二錢[やぶちゃん注:二・七五グラム。]、生薑《しやうが》五片。水に煎じて、或いは、末《まつ》と爲す。虛[やぶちゃん注:虚弱。]の者≪には≫參《さん/にんじん》を加ふ。】。

「欬逆《しやつくり》」とは、氣、臍《へそ》の下より、脉に冲《つきてひろがり》、直《ただち》に上《あがり》て、咽《のど》・膈《かく》[やぶちゃん注:漢方で「胸の内部」、「胸と脾とを隔てる膜」を指す。]に至り、呃忒蹇逆(だあくけんぎやく)の聲《こえ/おと》を作《な》すなり。

[やぶちゃん注:この項は、「本草綱目」の「柹」の項の「柹蒂」(「漢籍リポジトリ」のここ[075-22a]の四行目以降)の内容と、ほぼ一致するが、纏まった引用ではなく、良安が整理したものであるので、引用扱いの鍵括弧は附さなかった。]


柹皮(かきのかは) 柹核(かきのさね)

△按ずるに、柹皮、晒乾《さらしほ》して、醬油に入≪れ≫用《もちひ》て、之れを煑れば、則ち、汁、甜美《かんび》≪にして≫、鰹(かつほ[やぶちゃん注:ママ。])の煎-汁(だし)に劣らず。今、僧家《そうけ》に、重んずる所なり。

柹の核は、長《ながく》、扁《ひらた》く、形、豆《まめ》の莢(さや)のごとくにして、本《もと》、稍《やや》、尖り、黃黑色≪にして≫、中≪に≫、白≪き≫瓤《わた》、有り。形、「飯臿《いひがひ》」[やぶちゃん注:杓文字(しゃもじ)。]に似て、下に向《むく》。伹《ただし》、「五所柹《ごしよがき》[やぶちゃん注:漢字表記はママ。]」の核は、小《ちさ》く、肥《こえ》て、短し。

 

[やぶちゃん注: この「柹」=「柿」は、日中ともに、タイプ種は、

双子葉類植物綱ツツジ目カキノキ科カキノキ属カキノキ Diospyros kaki

或いは、野生状態のものの中には、

カキノキ変種ヤマガキ Diospyros kaki var. sylvestris

がある。但し、中国産の種は、遙かに多種多様で、「維基百科」の同属「柿樹屬」には、膨大な種が記されてある。だが、これは、本邦のウィキの「カキノキ属」と同じで、中国産でない種も挙がっている。而して、それらの中から、一つ一つ、中国産のものを拾い出すことは、凡そ、私に出来る仕儀ではない。そこで、例によって、「跡見群芳譜 樹木譜 かき(柿)」にある中国産の種に限って(移入されたものもあるが、中国に渡来した年代が明らかにし得ないものが多いので、それは採らない)、以下に掲げておくこととする。引用の一部は、同サイトの独立ページから引いたものも多い。但し、それは非常な煩瑣となるので、特に指示していない。和名の不明なものは中文名をヘッドに出した)

○タマフリノキ(魂振木)Diospyros cathayensis (和名異名シセントキワガキ(四川常磐柿):『安徽・兩湖・四川・貴州・雲南に分布』。『中国では、根・葉を薬用にする』)

○五蒂柿 Diospyros corallina (『海南島産』)

○海南山柿(カイナンヤマガキ)Diospyros diversilimba (漢名『光葉柿』。『廣東・海南島産』)

○八重山黒檀(ヤエヤマコクタン)Diospyros egbert-walkeri (漢名『象牙樹』。『琉球・臺灣に分布』)

○ヤワラケガキ Diospyros eriantha(漢名『烏材』。『琉球・臺灣・兩廣・ベトナム・フィリピン・マレー半島・インドネシア産』)

Diospyros howii (漢名『瓊南柿・鏡面柿』。『廣東・海南島産』)

○リュウキュウマメガキ(琉球豆柿)Diospyros japonica(シノニム:D. kaki var. glabraD. lotus var. glabraD. lotus var. japonicaD. kuroiwaeD. glaucifolia /漢名『山柿(サンシ , shānshì)』。『本州(関東南部以西)・四国・九州・臺灣・浙江・福建・江西・江蘇・安徽に分布。柿渋を採るために栽培』)

○マメガキ(豆柿)Diospyros lotus (漢名『君遷子・黑棗・柔棗・紅藍棗』。当該ウィキによれば、『東北アジア原産』。『種小名はオデュッセイアに登場するロートスの木に由来する。英名の「date plum」はデーツとプラムを合わせたような味がすることに由来する。別名は小柿』とある。本邦でも栽培されている)

○リュウキュウガキ(クサノガキ)Diospyros maritima(シノニム:D. liukiuensis 。漢名『海邊柿』。『琉球・臺灣・東南アジア・オーストラリア・ポリネシアに分布』。『果実に毒があり、魚毒・矢毒に用いる』)

○南海柿 Diospyros metcalfii

Diospyros mollifolia (漢名『小葉柿・紫藿香・澀藿香』)

○トキワガキ(トキワマメガキ)Diospyros morrisiana (シノニム:D. nipponica 。漢名『羅浮柿・山柿・山埤柿・野柿花』。日本の『本州(伊豆半島以西)・四国・九州・琉球・臺灣・華東・湖南・兩廣・四川・貴州・雲南産』)

Diospyros nigricortex(漢名『黑皮柿』。『雲南産』)

○オルドガキDiospyros oldhamii(シノニム:D. sasakiiD. hayataeD. odashimae 。漢名『紅柿』。『琉球・臺灣産』)

○アブラガキ(油柿)Diospyros oleifera(『安徽・浙江・江西・福建・湖南・兩廣産』)

○ツクバネガキ(ロウヤガキ)Diospyros rhombifolia(漢名『老鴉柿・山柿子・野山柿・野柿子』。『安徽・江蘇・浙江・福建産』)

○アカケガキ Diospyros strigosa(漢名『毛柿』。『廣東産』)

○コケモモガキ Diospyros vaccinoides(漢名『小果柿』。『廣東産』)

以下、ウィキの「カキノキ」を引く(注記号はカットし、指示せずに省略した箇所もある。下線は私が附した)。『東アジア原産の同地域固有種。日本や韓国、中国に多くの在来品種があり、特に中国・長江流域に自生している。属名のDiospyrosとはギリシャ語』(ラテン文字転写)『でdios(「神の」)+ pyros (「穀物、あるいは小麦」)から成る造語であり、「神の食物」という意味である』。『熟した果実(柿)は食用とされ、日本では果樹として、各地で広く栽培されている。果実はビタミン類や食物繊維を多く含むことから、現代では東アジア以外の地域でも栽培・消費されている。ヨーロッパ産』『ではスペインが』九『割を占め、中国に次ぐ世界第』二『位の生産国である』。『幹は家具材として用いられる。葉は茶の代わり(茶外茶)として加工され飲まれることがある。果実はタンニンを多く含み、柿渋は防腐剤として用いられる。現在では世界中の温暖な地域(渋柿は寒冷地)で栽培されている』。『学術上の植物名はカキノキ、果実はカキ、あるいは一般的に両方を含めてカキ(柿)と呼んでいる』。『和名カキノキの語源は、赤木(あかき)、暁(あかつき)の略語説、あるいは「輝き」の転訛説など諸説あるが、正確にははっきりしない。一説には、赤色に熟した実から「赤き実がなる木」が転訛したものともいわれている。原産である中国の植物名(漢名)は柿(し)である。学名は、ディオスピロス・カキ(Diospyros kaki)といい、日本から』一七八九(天明九・寛政元)『年にヨーロッパへ』。一八七〇(明治二~三年)『年に北アメリカへ伝わったことから、学名にも和名の発音と同じ kaki の名が使われている。果実は日本で食用として親しまれた果物で、英語でもカキ・フルーツ( kaki fruit )、ドイツ語やフランス語など英語圏外の大抵の地域でもカキ( kaki )の名で通っている』。『英語で柿を表すパーシモン( persimmon )の語源は、アメリカ合衆国東部の先住民(インディアン)の言語であるポウハタン語で「干し果物」を意味する名詞「ペッサミン」( putchamin, pasiminan, pessamin ) であり、先住民がアメリカガキ Diospyros virginiana の実を干して保存食としていたことに基づく』。『東アジアの日本・中国の揚子江沿岸の原産といわれている』。『日本で果樹として改良され、営農作物としては』、『北海道南部から本州・四国・九州までの各地で栽培されている。日本国外では、中国、朝鮮半島、済州島に分布する。暖地には野性があり、ヤマガキとよんでいる。カキノキは、野生種のヤマガキから作出されたという説と、古来から在来種として存在したという説とがある』。十六『世紀にポルトガル人によりヨーロッパに渡り、その後』、『アメリカ大陸にも広まった。現在、世界各地で栽培されているカキノキの品種の多くは甘柿であるが、原産地である東アジア地域では未だに渋柿も栽培されている。日本では昔から人里の民家近くに植えられていることが多く、よく手入れが行き届いて実もよくなることもあって、俗に「柿の木は竈(かまど)の煙の当たるところを好む」「根元を踏むと実がよくなる」などと言われている』。『落葉の小高木で、高さは』四~十『メートルになる。一年目の若枝には毛があり、基部には前年の芽鱗が残る。樹皮は灰褐色で、網目状に裂ける。枝は人の手が加えられないまま放って置かれると、自重で折れてしまうこともあり、折れやすい木として認知されている。葉は互生し、長さ』八~十五『センチメートルの楕円形から卵形をしていて先が尖り、表面にややつやがある。葉縁に鋸歯はない。葉柄は長さ』一『センチメートル前後で、太くて短い。秋には鮮やかな橙色から赤色に紅葉するが、一斉に色づくわけではなく、実が色づくのに前後して、葉も』一『枚』、二『枚と少しずつ色づいて落葉していく。紅葉した葉の中には、しばし』ば、『緑色の斑点が混じっているものがあるが、これは病気や虫食いによるものである』。『花期は初夏』五~六月で、『本年生』の『枝の基部近くの葉腋に花がつく。花弁は白色から淡黄色で』四『枚ある。雌雄同株であり、雌雄雑居性で雌花は点々と離れて』一『か所に』一『つ』、『黄白色のものが咲き、柱頭が』四『つに分かれた雌しべがあり、周辺には痕跡的な雄蕊がある。雄花はたくさん集まって付き、雌花よりも小さい。萼は』四『裂し、花冠は鐘形をしている。日本では』、五『月の終わり頃から』六『月にかけて』、『白黄色の地味な花をつける』。『果期は秋から初冬にかけて(』九~十二『月)。果実は柿(かき)と呼ばれ、品種によって大小様々な形があり、秋に橙色に熟す。萼(がく)は「ヘタ」とよばれ、後まで残っている。ヤマガキは』、『枝』・『葉に毛が多く、果実は小さい。柿の果実は、年によりなり方の差が大きい。果樹を叩いたり、傷つけたりすると、花芽形成が促進されて実がなることが知られ、樹木の採種園でも樹皮を円周状に傷つける環状剥皮が行われる。果実は、タヌキやサル、カラスなどにも食べられて、種子が人里近い山林に運ばれて芽を出すこともある』。『冬芽は互生し、丸みがある三角形で短毛がある。枝の先端に仮頂芽、その下には側芽がつき、芽鱗は』四、五『枚ある。葉痕は仮頂芽の背後と、側芽のすぐ下にあり、半円形で維管束痕は』一『個ある』。『農村の過疎化や高齢化などで、取られないまま放置される柿の実が増え、それらがニホンザルやニホンジカなどの野生動物の餌になっているという指摘がある。特にツキノワグマは柿の実にひきつけられて人里に出没するという』。以下、「品種」の項。『一般に実が渋い「渋柿」と、実が甘い「甘柿」に大別され、さらに渋の多寡、種子の有無、渋の抜け方でさらに完全甘柿と不完全甘柿、不完全渋柿と完全渋柿に分けられる。甘柿よりも渋柿の方が原種に近く、病虫害に強い。また、甘柿であっても接ぎ木の台木に渋柿を使う。現在』、『栽培されている品種の多くは』、十八『世紀中期』(江戸時代の中期から後期)『にはすでにあったといわれ、地方品種を含めると』一千種『を超える。品種により果実の大きさも大小あり、形状も角張っているもの、丸いもの、長いもの、平たいものなど多様である』。『食用の栽培品種のほとんどが 2n = 90 の』六『倍体であるが、一部の種なし品種(平核無(ひらたねなし)や宮崎無核(みやざきたねなし))は 2n = 135 の』九『倍体である。播種から結実までの期間は長く、諺では「桃栗三年、柿八年」とも言われるが、接ぎ木の技術を併用すると』、『実際』に『は』四『年程度で結実する。品種改良に際して甘渋は重要な要素で甘柿同士を交配しても渋柿となる場合もあり、品種選抜の効率化の観点から播種後』一『年で甘渋を判定する方法が考案されている』。『甘柿は渋柿の突然変異種と考えられて』おり、建暦三・建保元・二(一二一四)年『に現在の神奈川県川崎市麻生区にある』真言宗豊山派星宿山(せいしゅくざん)蓮華蔵院王禅寺(ここ。グーグル・マップ・データ)『で』、『偶然』、『発見された』「禅寺丸」(ぜんじまる: Diospyros kaki 'Zenjimaru' 『が、日本初の甘柿と位置づけられている。なお、中国の羅田県周囲にも羅田甜柿という甘柿が生育しており、京都大学の調査によると、日本産甘柿の形質発現は劣性遺伝であるのに対し、羅田甜柿は優性遺伝で、タンニンの制御方法も全く異なっていると分かった』。『日本の突然変異種が知られているが、アフリカのジャッカルベリー』( jackalberryDiospyros mespiliformis )『も甘く、食用や飲用への利用、薬用、皮加工のタンニングに利用される』。『渋が元々少ない品種で樹になった状態で成熟とともに渋が抜けていくものを完全甘柿という。完全甘柿の代表的な品種は』、「富有」と「次郎」と「御所」である。「富有」は『岐阜県瑞穂市居倉が発祥で原木がある』「次郎」は『静岡県森町に住んでいた松本次郎吉に由来する』。「御所」は『奈良県御所市が発祥で、突然変異で生まれた最も古い完全甘柿である』。以下、各個品種であるが、学名は、調べても、正確と思われないものしか見当たらないものは、掲げていない。

○富有(ふゆう)Diospyros kaki 'Fuyu'(『岐阜県原産の甘柿で、明治』三五(一九〇二)『年に命名された品種。やや扁平な丸い形で、果肉はやわらかく瑞々しい』。当該ウィキを参照されたい)

○次郎(じろう)Diospyros kaki 'Jiro'(『静岡県原産の完全甘柿で、扁平で』、『尻は平らな形をしている』。十『月下旬から』十一『月中旬に成熟する』。当該ウィキを参照されたい)

○御所(ごしょ) Diospyros kaki 'Gosho'(『奈良県御所市原産の甘柿。扁平でやや方型をしている。かつては盛んに栽培されたが、富有などに取って代わられ、現代では希少な品種となっている』。当該ウィキを参照されたい)

○太秋(たいしゅう)(一九九四『年に育成された完全甘柿で、果実は約』四百『グラムもあって大きい。糖度』十六~十八『度と高いため』、『甘く、果汁が多くて瑞々しい』)

○愛秋豊(あいしゅうほう)(一九九四年品種登録)

以下、「伊豆」・「早秋」・「貴秋」・「晩御所」・「花御所」・「天神御所」が品種名のみ記されてある。以下、「不完全甘柿」の項。『種子が多く入ると』、『渋が抜けるものを不完全甘柿という。不完全甘柿の代表的な品種は、上記の禅寺丸や愛知県が発祥の筆柿などがある。太秋は』『中生種で熊本県が中心となって栽培しており、全国で急速に人気を高めている』。○禅寺丸(ぜんじまる)Diospyros kaki 'Zenjimaru'(『川崎市麻生区原産の柿で、甘柿としては日本最古の品種とされる。熟すと果肉に黒い班が入ると』、『甘柿になる』)

○筆柿(ふでがき)Diospyros kaki 'Fudegaki'(『愛知県原産の早生種で』、九『月下旬から』十『月上旬に出回る。筆先のように縦長の形をしている』)

以下、名前のみで「西村早生」がある。以下、「渋柿」の項。『渋柿は、実が熟しても果肉が固いうちは渋が残る柿である。代表的な品種は』「平核無」と「刀根早生」『である』。「平核無」は『新潟県が発祥である』「刀根早生」は『奈良県天理市の刀根淑民の農園で栽培されていた平核無から』一九五九『年に枝変わりとして見出され』、一九八〇『年に品種登録された』。以下、「不完全渋柿」の項。『種子が入っても』、『渋が一部に残るものを不完全渋柿という』。

○平核無(ひらたねなし)(『新潟県原産の不完全渋柿で、新潟では「おけさ柿」、山形では「庄内柿」「八珍」ともよばれる。果実は種なしで扁平の形をしており、果肉はなめらか』)

○刀根(とね)(『平核無(ひらたねなし)柿の変種の早生柿で、果肉はやわらかめ。出回り期は』九~十『月ごろで、ハウス栽培もおこなわれており、早いものは夏から出回る』)

○甲州百目(こうしゅうひゃくめ)(『尻すぼみ型の渋柿で約』三百『グラムと大きい。あんぽ柿の材料として知られる』)

○堂上蜂屋柿(どうじょうはちやがき)(『岐阜県美濃加茂市蜂屋町が原産の渋柿で、大ぶりな干し柿にする品種。堂上とは朝廷への昇殿を許された格をもつという意味で、平安時代から天皇や歴代将軍へ献上された歴史がある』)

○江戸柿(えどがき)(『「代白柿」ともよばれる京都産の渋柿で、京都中央卸売市場にのみ流通する。アルコールで渋抜きして、とろとろに甘い完熟柿になる』)

以上の外に途中に「蜂屋」・「富士」・「会津身知らず」の品種名が入っている。

●紀ノ川柿(きのかわがき)(『品種名ではなく、平核無柿を樹上で実をつけたままアルコール入りビニールを被せて渋抜きした柿。果肉は渋みのタンニンが固形化した黒い斑があり、甘みが強い』)

以下、「完全渋柿」の項。『種子が入っても渋が抜けないものを完全渋柿という。ただし、完全渋柿も熟柿になれば』、『渋は抜ける』。

○西条柿(さいじょうがき)(『広島県原産の渋柿で、近畿以西に多く見られる。果実は側面に』四『本のへこみが現れる独特な形をしている』)

○市田柿(いちだがき)(『長野県高森町の市田地域で栽培されてことから名付けられた在来渋柿で、長野県産干し柿を代表する品種』)

○愛宕(あたご)(『愛媛県原産の晩生品種で、長形の大型の果実は皮の色が黄色に近い。渋抜きに日数がかかり』、十一『月下旬から』『十二月上旬に出回る』)

以下、「柿の利用」の項。『柿は弥生時代以降に桃や梅、杏子などとともに栽培種が大陸から伝来したものと考えられている。鎌倉時代の考古遺跡からは立木の検出事例があり、この頃には甘柿が作られ、果実収穫を目的とした植栽が行われていたと考えられている。カキの実の食材としての旬は』九~十『月ごろとされる』。『カキの実は甘柿と渋柿があり、カキの未熟な若い実は甘柿にも渋柿にも果肉にタンニン細胞があり、渋みの原因になるタンニンが含まれている。品種によりタンニン細胞の数や形状は異なる。完全甘柿のように渋がもともと少ない品種もある。渋柿には』一~二『%のカキタンニンを含む。カキタンニンは緑茶タンニンとは異なり』、『分子量が大きく、特にたんぱく結合力が強く唾液たんぱくと結合して不溶物を生成して渋味になると考えられている』。『果実中のカキタンニンは、水に溶ける可溶性の間は味覚が渋く感じ、果実が成熟する過程で水に溶けない不溶性に変わる褐斑(かっぱん:いわゆるゴマ)になると、渋味を感じなくなって「甘柿」になる。具体的には成熟によりアセトアルデヒド』(acetaldehydeCH3CHO)『が増えて水溶性のタンニンの間に架橋が起こりタンニンが不溶性となることで渋みを感じなくなる。甘柿の中でも、種子に関係なく甘くなるものを「完全甘柿」といい、種子が数個以上できないと渋みが抜けず』、『甘くならないものを「不完全甘柿」という。実が熟しても甘くならない「渋柿」は、アルコールや炭酸ガスで渋抜き処理をして出荷したり、干し柿にして食べられている。熟柿になると実は軟化するが、熟柿になる前の軟化していない状態でも果実中にアセトアルデヒドを生成させることで渋を抜くことができる』。『食べ方は多様で、生食するのが一般的であるが、完熟して崩れんばかりのものを賞味する場合があったり、渋柿は干し柿にしたり、柿羊羹などの菓子材料などに加工したりする。中国の北京では、冬にシャーベット状に凍ったものを食べるという食べ方もある』。『カキの実は追熟すれば甘くなるというものではなく、常温でおけば』二『日ほどでやわらかくなってしまう。生のカキの実を保存するときは、ポリ袋に入れて冷蔵保存し、熟しすぎた場合は冷凍保存する。干し柿は常温で保存できる』。『胃切除者や糖尿病患者など胃の働きが弱い者が、柿の果実を大量に食べた場合タンニン(シブオール)が胃酸と反応し』、『固まることで胃石を生じることがある。植物胃石の一種で「柿胃石」として単独で知られるほど』、『原因の割合としては多い。胃石そのものが症状を起こすわけではないものの』、『胃閉塞・腸閉塞を起こすと食欲不振・腹痛・嘔吐などを引き起こす。治療にあたっては胃石を砕く治療が行われるが、症状が軽い場合は』、『市販のコーラが病院で使われることもある。コーラの強い炭酸と強い酸が胃石を砕くとみられる』。以下、「渋抜き」の項。『渋柿の果肉ではタンニンが水溶性で渋味が強いため生食できず、渋柿を食用にするには果肉が軟らかくなった熟柿(じゅくし)になるのを待つか、タンニンを不溶性にする渋抜きの加工をする必要がある。湯やアルコールで渋を抜くことを動詞で「醂(さわ)す」といい、これらの方法で渋抜きを施した柿は「さわし柿」と呼ばれる。ほとんどの場合収穫後に渋抜き処理を行うが、品種によっては収穫前に樹上で渋抜きを行うことも出来る。渋柿のタンニンの性質は品種間で異なっており、適する渋抜き方法は異なる』。

以下、「栄養価・効能」の項の一部。『果実に含まれる主な有効成分は、グルコース・マンニットなどの糖質』十『%、ペクチン、色素のカロチノイド、カキタンニン(柿渋)などがある。栄養素としてはカロテン(体内でビタミンAになる)、ビタミンC、糖質に富み、カリウム、β-クリプトキサンチン、リコピンも多く含んでいる。ただし、干し柿に加工するとビタミンCはほとんど失われる。カロテンやβ-クリプトキサンチン、リコピンは強い抗酸化作用でがん予防によいとされる。カキタンニンはビタミンPによく似た分子構造で、毛細血管の透過性を高めて、高血圧を防ぐ効果があるといわれている。また、アルコール分解の働きがあり、飲酒前に食べると二日酔い予防になるといわれる』。『生の果実は身体を冷やすが、干し柿(柿霜:しそう)はあまり身体を冷やさないという説がある。凍結乾燥したカキの摂取実験では体表温の低下が認められており、拡張期血圧の上昇と表面血流量の減少が起きているとする研究がある。なお、柿に含まれるカリウムには利尿作用もあるが、食べ過ぎに注意すれば問題はないとされる。生の果実を薬効目的に用いるときは』「柿子(かきし)」『とも称され、生食すれば咳、二日酔いに効果があるともいわれていて、昔から酒の飲み過ぎのときに果実を食べるとよいといわれている』。

以下、「柿渋」の項。

『渋柿の汁を発酵させたものが柿渋である。萼を除いた青い未熟果を砕いてすり潰して水を加え』、二~三『日ほど放置後、布で汁を搾ったものを生渋(きしぶ)という。柿渋は、生渋をビンなど密封できる容器に詰めて半年から』一『年ほど冷暗所に置いて保存・熟成して作られるが、古いものほど珍重される』。『柿渋は、紙に塗ると』、『耐水性を持たせることができ、和傘や団扇の紙に塗られた。柿渋の塗られた紙を渋紙と呼ぶ。また、防腐用の塗料としても用いられた。石鹸の原料ともなる(柿渋石鹸)。民間療法では柿渋を柿漆(ししつ)と称して、高血圧症予防に』一『日量で柿渋』十『 ccに水』百『 ccを加えて薄めて飲んだり、猪口』一『杯をそのまま飲んだりする利用法が知られる。また湿疹、かぶれのときには、柿渋を水で』三『倍ほど薄めてガーゼに含ませ、患部に湿布する用法が知られている』。

以下、「ヘタ」(蔕・蒂)の項。

『果実のヘタを乾燥したものは柿蒂(してい、「柿蔕」とも書く)という生薬で、夏から秋にかけて未熟果の萼(ヘタ)を採って天日乾燥して調製したものである。柿蒂はしゃっくり止めに用いられ』、一『日量』八~十『グラムを水』三百~六百『ccで煎じて』三『回に分けて服用する用法が知られる』。『ヘタには、ヘミセルロースやオレイン酸、ウルソール酸などの成分が含まれ、ヘミセルロース質が胃の中で凝固することから、しゃっくり止めに使われたと考えられている』。

以下、「葉」の項。

『若葉にビタミンCKB類、ケンフェロール、クエルセチン、カキタンニンといったミネラル分フラボノイドなどを多く含み、血管を強化する作用や止血作用を持つとされるため、飲用する(柿葉茶)などで民間療法に古くから用いられてきた。また近年では花粉症予防に有効とされ、従来の茶葉としてだけではなく』、『成分をサプリメント等に加工され』、『商品化されたものも流通している』。五『月ころの若葉を採集して日干ししたものを「柿の葉茶」とよんでいる。咳、出血、高血圧症予防の薬効目的で茶料として飲用する方法としては、夏に採取した成葉をきざみ天日で乾燥させた葉を柿葉(しよう)と称して、炒って急須に入れてお茶代わりに飲み、常用するのがよいとされる。薬草としての葉は身体を冷やす作用があることから、冷え症の人への服用は禁忌とされる』。『また』、『その殺菌効果から押し寿司を葉で巻いた柿の葉寿司や、柿の葉餅を包むために使われる。柿の葉の抗菌物質としてポリフェノール、アスコルビン酸、タンニンが知られている』。『柔らかい初春の若葉は天ぷらにして食用にできる』。以下、「木材」の項。『木質は緻密で堅く、家具や茶道具、桶や和傘など器具の材料として利用される。芯材が黒いものは、特に珍重される。ただし、加工がやや難しく割れやすいため、建築材としては装飾用以外には使われない』。『柿木は堅い樹であるが』、『枝が突然に折れる性質があり、昔から柿の樹に登る行為は極めて危険とされている』。『黒色の縞や柄が生じ、部分的に黒色となった材はクロガキと呼ばれて珍重され、産出量が極めて少ない銘木中の銘木である』とあった。最後の部分は、良安も言及している。

 既に割注でも部分を示したが、「本草綱目」の引用は、「卷三十」の「果之二」の「柹」の長い項(「漢籍リポジトリ」のここ[075-18b]以降)のパッチワークである。

「胡國」古代中国以来の北方・西方民族に対する蔑称。

「木龞子《もくべつし》」双子葉植物綱ウリ目ウリ科ツルレイシ(蔓茘枝・蔓荔枝)属ナンバンカラスウリ(南蛮烏瓜) Momordica cochinchinensis当該ウィキによれば、『中国南部からオーストラリア北東部、タイ王国、ラオス、ミャンマー、カンボジア、ベトナムに分布する』蔓『植物で』、『別名ナンバンキカラスウリ、モクベツシ(木鼈子)。ベトナム語の名称から』「ガック」『とも呼ばれる』。『雌雄異株』『で、果実は普通』、『長さ』十三センチメートル、『直径』十センチメートル『ほどの球形から楕円形となる。熟した果実の表面は暗橙色で短い刺におおわれ、内部の仮種皮は暗赤色である。収穫期は比較的短く』、十に『月から』一『月が最盛期となる。農村部の家の玄関や庭園の垣にからんで生えているのがよく見られる』。『ナンバンカラスウリの実は垣根に這わせている植物や自生している植物から収穫される。利用されるのは仮種皮と種子で、もち米と炊き込んでソーイ・ガック』『という濃い橙色の甘いおこわにすることが多い』。『ソーイ・ガックは、旧正月(テト)や結婚式などの慶事に供される料理である。米などと混ぜる前に、仮種皮と種子を取り出し、度数の高い酒をふりかけて下処理をすると』、『仮種皮の赤色がより鮮やかになり、種子が外れやすくなる』、本種『の果実は薬用としても利用される』とある。私は、二〇〇六年に、ヴェトナムで食したことがある。ちょっとドぎつい色だったが、美味しかった。割注同様、グーグル画像検索の学名と種をリンクさせておく。

「著葢柹(ちよかふ《し》)」不詳。中文サイトでも全く掛からない。

「蒸餠柹《じようへいし》」同前。

『「牛心柹《ぎうしんし》」カキノキの中国産の品種 Diospyros kaki 'niuxin' である。「維基百科」では「柿」Diospyros kaki相当)の「栽培種」の最後に「牛心柿」とあるだけだが、「拼音百科」にガッツリと独立ページ「牛心柿」があり、「百度百科」にも「牛心柿」が、しっかりある。しかし、中文サイトでしばしば見受けられることなのだが、学名を記さない記事が多過ぎる。掲げた二つの記事にも、どこにも、ない、のだ。いろいろやってみて、遂に臺灣のサイト(うっかりして当のページをリンクするのを失念した(私は、毎回、パソコンをシャットダウンする際に履歴を完全削除するのを常としているため)。しかし、Diospyros kaki 'niuxin' で検索すると、多数の英文サイトで確認出来るので間違いない)で発見した。さんざん探したが、和名はないようである。

「雞子≪柹≫《けいしし》」不詳。

「鹿心≪柹≫《ろくしんし》」これは、「和名類聚鈔」の「卷十七」の「菓蓏部第二十六」の「菓類第二百二十一」に出ていた(国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年の版本の当該部を参考に訓読した)。

   *

柹(かき)  「說文」に云はく、『柹【音「市《シ》」。和名「賀岐《かき》」。】は、赤《あかき》実の菓《くわ》なり。』≪と≫。

鹿心柹  「兼名苑」注に云はく、『鹿心柹【和名「夜末加岐《やまかき》」。】は、柿の小《ちさく》して長《ながき》なり。』≪と≫。

   *

また、江戸後期の国語辞書「倭訓栞」(わくんのしほり:全九十三巻。国学者谷川士清(たにかはことすが)編。彼の死後の翌年の安永六(一七七七)年から実に明治二〇(一八八七)年にかけて編纂・刊行されたもの)に『柹は實の赤きより名を得たるにや』とあった。これは、既に示した、カキノキ、というより、その変種とされる野生種ヤマガキに同定してよいと思う。

「朱柹《しゆし》」これはカキノキでよいだろう。「跡見群芳譜 樹木譜 かき(柿)」の「漢語別名」に『朱果』があるからである。

『「塔柹《たふし》」は、諸柹より大なり』『大なり者は、楪(ちやつ)のごとく、八稜(《や》かど)にして、梢(すえ[やぶちゃん注:ママ。])、扁(ひらた)し』まず、思ったのは、実の形状からして(「塔」は言い得て妙!)、さらに、実の味を時珍が述べていないことから、私自身の体験からしても、『如何にも、これ、シブ柿でしょ!』と思った。而して、検索したところ、「東海国立大学機構学術デジタルアーカイブ」の「伊藤圭介文庫 錦窠図譜の世界」の「柿樹科 柿譜」のここに(電子化されたものを、原本画像で修正した。独自に濁点・記号・読み等を加えた)、

   *

塔柿 ミノカキ也。美濃デ、「ツルシガキ」ニスル「シブガキ」ナリ。状《かたち》、大《おほき》ク、長ク、四寸許《ばかり》、幅、三寸計《ばかり》。濃州ノ名產ナリ。皮ヲ去リ、乾シテ、白柿トナシ、蜂谷ハ濃州ノ地名ナリ。此柿、尾州ヨリ獻上アリ。又、藝州ヨリ白柿ヲ出ス。西城柿モ、此状也。皆、シブガキ也。

   *

なお、この記事は、他にも、興味深い時珍の示す柿類の、独自の比定同定(和物に当てているので、必ずしも、総てが正当とは思われないが)が記されているので、是非、見られたい。

「凡そ、柹と蟹と同じく食へば、人をして腹痛≪と≫瀉《しや》を作《な》さしむ。如《も》し、之れに中《あた》れば、木香《もくかう》を服して、則ち、解す」「JAいび川」の「柿と食べ合わせが良い食材&悪い食材とは?健康や美容にプラスになる食べ方を知ろう!」に、『カニには、さつまいもと同様に食物繊維が豊富に含まれています。そのため』、『体を冷やす働きがある柿との食べ合わせは、悪いといえます』(直前で『さつまいもには、便の排出を促し、お腹の調子を整える食物繊維が豊富に含まれています。食物繊維は消化吸収に時間がかかり、柿には体を冷やす働きがあるため、一緒に食べると胃や腸の負担が大きくなり、消化不良を起こしてしまいます』。『また』、『さつまいもには胃酸の分泌を促す働きがあり、柿に含まれるタンニンと胃酸が混ざり合うと』、『結石を形成しやすくするともいわれています』とある)。『またカニは、柿と同じで体を冷やす「寒性」という性質を持っているため、この』二『つを一緒に食べると体が冷えすぎてしまい、健康に害を及ぼす恐れがあります。これらの理由から、柿とカニの食べ合わせは、薬膳の観点でも良くないとされています』とあった。古くからの「食い合わせ」、侮るべからず、だ!

「古今醫統」複数回、既出既注。以下の話は、信じられない。

「著聞集」「霜おけるこねりの柹はおのづからふくめば消《きゆ》る物にぞ有《あり》ける」「泰覺法印」「古今著聞集」の「卷第十八」の「六三七」の「藤原季經、泰覺法印の許へ瓜を遣はして寫經を乞ひ、法印詠歌の事」に出る四首目。

   *

季經卿、泰覺法印がもとへ、瓜を遣はして、

「この瓜、食ひて、これが代はりには、この『大般若』書きて。」

とて、料紙を、一兩卷、送りたりける返事に、

  なめみつる五つの色の味はひも

   黃蘗(きはだ)の紙に苦くなりぬる

 同じ法印が家の例飯(れいはん)を米の飯にしたりければ、

  人はみな米をぞ飯(いひ)にかしくめる

   このみかしきは飯を米にす

 亥(ゐ)の子餠を詠めりける、

  何よりも心にぞつく亥の子餠

   貧苦(ひんく)うすなるものと思へば

 木練(こね)りの柿を詠み侍りける、

  霜置ける木練りの柹はおのづから

   含めば消ゆるものにぞありける

   *

所持する『新潮日本古典集成』(第七十六回・西尾光一・小葉保治校注)「古今著聞集 下」(昭和六一(一九八六)年)等によれば、「泰覺法印」とは、高階泰覚は法橋㤗尋の子で、三井寺の僧。和歌に長じ、元暦(げんりゃく)二(一一八五)年に三十五歳で法橋となり、後に法印となった人物。「季經卿」は公家で歌人の藤原季経(天承元(一一三一)年~承久三(一二二一)年)。左京大夫・藤原顕輔の子。官位は正三位・宮内卿。一首目は、同書の頭注訳に、『瓜はおいしくいただきましたが、写経用の五色の紙をいただいて、その中の黄色のきはだ染めの紙を見ましすっかり苦しくなりました。』とあり、注で『五色は瓜の異名。黄蘗(きはだ)の樹皮は黄色の染料。また胃腸薬とされ、苦い。』とあった。「黄蘗」はムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ変種キハダ Phellodendron amurense var. amurense である。先行する「黃蘗」を参照されたい。「例飯(れいはん)」については、『冷飯か。「米の飯」は乾飯(ほしいい)を婉曲に言うか。』とする。二首目は、『人は皆、米を煮たり蒸したりして飯にするようだが、この飯炊(めした)き人は飯をぼろぼろした食えないような固い米にしてしまう、の意か。』とし、『「みかしき」は「御炊」で、飯を炊(かし)ぐ人の意』とする。「亥の子餠」は『十月の亥の日に、万病除去および子孫繁栄を祈って食べた餅』とある。正確には、旧暦十月(=「亥」の月)の上旬の、則ち、最初の亥の日を指す。なお、「何故、十月が亥の月なのか?」ということを説明しているネット記事がまるでない。何故か、あなたは言えますか? これは、陰暦十月に北斗星が亥(北西)の方角を指すからである。第三首目は、『亥子餅は何より心をこめて搗(つ)きます。貧苦を失(う)すと言い伝えられているものと思いますので。』とある。さて、肝心の最後の歌は、『霜に当って木』に生った『ままで甘く熟した柿の実は、口に入れるとすっととろけてしまうようにうまいものです。』とある。どうも、こういう才気ヒケラカシ短歌は、私は大嫌いだ。

「事類合璧」「古今合壁(ここんがつぺき)事類備要」が正式書名。東洋文庫訳の書名注に、『宋の謝維新撰。前集六十九巻、後集八十一巻、続集五十六巻、別集九十四巻、外集六十六巻。前集は天文・地理・歳事・科挙・民事・宗教・葬祭など四』十『一門、後集は君道・臣道から宋代の官職など四』十『八門、続集は氏族・家世など六門、別集は国都・草木・鳥獣など六門、外集は礼楽・刑法・服飾・器用など』十『六門より成る百科全書。』とある。幸いにも、「漢籍リポジトリ」の「古今合璧事類備要別集卷四十八」の冒頭「菓門」の「柿 附 椑」に(一部に手を加えた。引用箇所を下線太字とした)、

   *

 格物總論【柿朱果也數種大者如楪圓八稜稍匾次者如拳又有如牛心者有如鴨卵雞卵者又有名鹿心者又一種至小如折二錢大號爲猴柿然皆以少核者爲佳皆八九月後方熟有如南劍尤溪柿處州松陽柿最爲竒品其餘皆

不及之】

   *

とあった。

「似柹(にたり《がき》)」小学館「日本国語大辞典」に、『柿の品種。御所柿に似て』、『やや大きいが』、『味が劣る。』とあった。

「伽羅柹(きやら《がき》)」諸記事があるので、接合すると、カキの栽培品種で、果は扁球形で、二百~二百六十グラム。果皮は、やや暗い橙黄色を帯び、果粉が多い。果肉のゴマが沈香の木目のように詰まっていることからの名で、佐賀県原産の不完全甘柿である。福岡県筑後地方では「元山(がんざん)」と呼ばれている。三十年以上の古木にならないと本来の甘味が出ないとされる。

『「圓座柹《ゑんざがき》」形、大≪きく≫、肥《こえ》、圓《まろ》く、蔕《へた》の附《つく》る𠙚、肉、起《おこ》り、㿔《こぶ》を作《な》す者、≪「本草綱目」に≫所謂《いはゆ》る、「著蓋柹《ちよかふし》」か』「圓座柹」は小学館「日本国語大辞典」に、『柿の栽培品種。果実は円形で大きく』、蒂『のまわりの肉が高く盛り上がっていて、円座のようになっている』とある。また、』『≪「本草綱目」に≫所謂《いはゆ》る、「著蓋柹《ちよかふし》」か』とあるが、嘗つて、非常に「耳囊」の注で、お世話になった「佐渡人名録」の、「柿」に、『『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より』として、『(佐渡の古い柿)』に、『文化年中(一八〇四~一七)』『に佐渡奉行所の広間役田中従太郎が、西川明雅と共に奉行の命で書いたといわれる「佐渡志」には、佐渡の柿のことが次のように書いてある』。『「柿 和名かき所々多くあり 品類も亦甚多し 就中「栗の江」と名つくるもの殊に多し 粟野江村より出ればなり 海南甫史に所謂方蔕(へた)柿なり 又真光寺村より出るものを「だらり」と名付く 長さ三寸広さ二寸ばかりの牛心柿といふものなり 「れんげ柿」といふもの形大にして蔕の周りの肉高く出て円座したる様なり 著蓋柿』(☜)『といふものなるべし 羽茂郡に「藤内柿」あり つり柿くし柿となして奥州松前に送り交易すといふ 又方言「めめ柿」といふあり「やまかき」ともいふ 実小さくして数多く生ずるなり 猴棗(こうそう)と云ふにや 交易する時賎むなり」』と引用され、『最後の方言「めめ柿」は山柿ともいうとあるから、在来柿の総称とも受け取れよう。他の四種は佐渡を代表する柿で、それぞれ産地を名称に冠している。羽茂でも昭和初年ころまでは、これらの柿が家々にあったものであるが、「おけさ柿」の普及段階で高接更新の台木にされたり、落葉病媒体除去のために切られた。たまたま免れたものも、その後の道路拡幅等の環境整備のために切られ、はとんど見ることができなくなった』とあったが、或いは、中国産の「著蓋柿」なる種(中文サイトでは記載がない)が、佐渡に渡来していた可能性はゼロではないようにも思われる。なお、同リンク先には佐渡の別な柿類の記載が、さわにあるので、お時間のある方は、是非、見られたい。因みに、私は大の「佐渡好き」で、既に、三度、友人らと旅している。

『「筆柹《ふでがき》」 形、小《しやう》にして、長く、「本草」に謂《いへ》る所≪の≫、「鹿心柹《ろくしんし》」【和名、「夜末加岐《やまがき》」。】、是れか』先の「東海国立大学機構学術デジタルアーカイブ」の「伊藤圭介文庫 錦窠図譜の世界」の「柿樹科 柿譜」のここに(電子化されたものを、原本画像で修正した。独自に濁点・記号・読み等を加えた。太字・下線は私が附した)、

   *

著蓋子作柿 エンザカキ レンゲガキ メウタン シウタカキ越中 丸キ柿也。長《ながき》モアリ。柿ノ木ノ上ヘ、一重、坐、アリ。圓坐ヲシクガ如シ。其中、状《かたち》、丸キハ甘シ。ミ、多シ。長キハ、澁ミアリ。熟シテ甘シ。河内ノ「靏[やぶちゃん注:「つる」。字起こしでは「霍」であるが、私は以下の叙述から「靏」の誤記と判じた。]ノ子」ト云アリ。是ハ、ズツト、大《おほき》ナ柿、「御所柿」ノ大《おほきさ》ニシテ、上ヘ、長ク、先、尖リ、蒂ノ上ニ[やぶちゃん注:「ノ」の誤記か。]クルリニ、スツト出《いづ》。圓坐ヲ、シイタ如ク、其上ニ、玉ヲ置《おく》狀《かたち》也。面白キ狀也。味、ヨシ。石州デ、「シンシメウタン」ト云《いふ》。是ヲ、ワレば、眞中ニ、小《ちさ》キ柿、入《いれ》コニシテ、一ツ、アリ。皮モ、アリ。故《ゆゑ》、「鶴ノ子」ト云。「著蓋子」ノ品類也。「牛心柿」、心ノ臟ノ狀ニシテ、大キヲ云。「京デフデガキ」・「筆ゴネリ」・「ヲソゴネリ」紀州・「霜ネリ」肥前・「ダシヌキ」越前。幅二寸斗《ばかり》、長《ながさ》三寸餘。長キ、カキ也。サキ、細ク、トガル。遲ク出《いづ》ルカキ也。色靑キ内ヨリ。食ス。澁ミ、ナク、食フベシ。十月ニ出ヅ。後、末《すゑ》カラ、ジタジタ、黃色ニ成《なる》。此類ニ、形、小キアリ、此《これ》ヲ、「イノキモ」ト云。ヤハリ、「筆ガキ」トモ云。此ハ、「鹿心柿」也。時珍ノ說。石見国津和野ニ「人丸ノ社[やぶちゃん注:字起こしは「程」。現行の津和野には同神社はないが、萩や、より津和野に近い下松市(くだまつし)桜町(さくらちょう)に「人丸神社」(グーグル・マップ・データ)があるからである。]」ニ、「筆ガキ」、アリ。其処《そこ》ノ名物也。長《ながさ》、一寸斗ニシテ、筆頭《ふでがしら》ノ狀ニシテ、他所《よそ》ニ不生《しやうぜず》ト云。ヤハリ、「鹿心柿」也。

   *

この和種を「鹿心柿」に同定比定しているのは、正しいか、どうかは、甚だ、心許なくはあるものの、昔の古名を挙げて満足するばかりで、真摯に考証しようとすることさえしない現代人(日中共に、である)は、文献上からの一致を自分なりに考察した伊藤圭介を、誰も、一笑に付すこと、これ、出来ないと私は強く思うのである。

『「樹練柹《こねりがき》」』『形、鳥の卵のごとくなる者。攝津・丹波、多く、之れを出《いだす》。≪「本草綱目」に≫所謂る、「雞子柹《けいしし》」か』小学館「日本国語大辞典」に、「木練柿」(こねりがき)を立項し、『①木になったままで熟し、あまくなる柿の類。木練りの柿。木練り』とする(②として『「ごしょがき(御所柿)」の異名』ともあるが、採らない)。「雞子柹《けいしし》」は不詳であるが、この良安の形状解説から、これに似た柿の種であることは間違いない。

『「田倉柹《たくらがき》」』『形、圓く、諸柹より大にして、味、澀《しぶし》。以つて、「醂柹(あはせがき)」[やぶちゃん注:本項で後で立項される。]と爲す。≪「本草綱目」に≫所謂る、「塔柹《たうし》」か』小学館「日本国語大辞典」に、「田倉柿」(但し、読みは「たくらかき」と清音)に、『柿の栽培品種。古くから大阪を中心に栽培された渋柿で、果実は中形、甘味は強いが渋抜きがややむずかしく、干柿にして用いる。』とあった。既に注した、渋柿の「塔柹《たうし》」をここに出すのは、心情的には肯ける。

「烘柹(つつみがき)」実は先に、久々に、「百度百科」でカキノキの在来種として「烘柿」として立項しているのを見出した。原産地を山西省運城市とし、『太陽光を好み、乾燥に強い』。『結実が早く、接ぎ木後三年目に結実期に入り、五月上旬に果実が成熟する』。『樹冠は幅広で卵形、枝の角度は中程度、果実の上部は果肉が薄』く、『果肉はオレンジ色』を呈するとある。但し、ここで時珍が述べているように、当時の「烘柿」は柿の種名ではなく、「百度百科」の別の「烘柿」で、ここにある通り、未熟な青柿を、容器に入れ、自然に赤く熟させる処理を指している。

「白柹(つるしがき)」「柹餠《しへい》」「柹花《しくは》」「「鉤柹《つるしがき》」「枝柹《えだがき》」「白柿」は「しろがき」で、小学館「日本国語大辞典」に、『干して白く粉をふいた柿。かきばな。』とあった。

「蕎麥稭(《そば》がら)」言うまでもないが、ナデシコ目タデ科ソバ属ソバ Fagopyrum esculentum を収穫して、数日間、天日で乾燥させ、ソバの実を取り去った後に残った殻(から)である。

「沙糖餠《さたうもち》」AIによれば、砂糖を混ぜて甘味をつけた餅のことで、西日本の多くの県では、焼き餅に醤油と砂糖をかけるのが一般的である、とある。

「胡盧柹(ころがき)」『一名、「豆柹《まめがき》」。卽ち、乾柹≪なり≫。大いさ、頭指《とうし/ひとさしゆび》のごとく、淡≪き≫霜、生《しやうじ》、硬く、淡《あはく》、甘し』「農林水産省」公式サイト内の「枯露柿(ころがき)」を引く。「主な伝承地域」は『甲州市塩山松里地区、南アルプス市』で、『枯露柿は、大きめの品種の柿を使い、水分が』二十五~三十『%ぐらいになるまで長期間干して乾燥させた干し柿である。表面には結晶化した甘み成分が白く粉を吹き、その隙間から飴色の果肉がのぞく。しっとり肉厚で羊羹のような食感と凝縮された甘さをもち、干し柿の最高峰とも呼ばれる。そのため年末年始の贈答品として人気が高い』。『乾燥しつつもしっとりと仕上がるその理由は、日光を十分に浴びながら朝夕の冷たい風で湿度を保ち、じっくり熟成されるため。枯露柿のこの美しさとおいしさは、松里地区ならではの風土と、長い生産の歴史の賜物といえる』。『甲州市塩山の松里地区ではまた、毎年』十一月から十二『月初旬頃、民家の軒先や庭で枯露柿が吊るされ、柿のオレンジ色のカーテンのように美しく彩られる。この姿は晩秋・初冬の甲州市の風物詩となっている』。『なお、同じ干し柿でも水分を』五十『%前後残すものを』、「あんぽ柿」『と呼ぶ。枯露柿より色鮮やかで、ゼリーのような食感が特徴である』。『武田信玄の奨励により、保存食として生産が広まったとされる枯露柿は、江戸時代には甲州名産の一つに数えられ、幕府への献上品にも使われた』。『皮をむいた柿を並べて棚干しする際、日光がまんべんなく当たるよう、ころころ転がして位置を変えるところから、その名がついたとされる』(☜)。『使用するのは主に甲州市産の甲州百目柿。元々は「甲州百匁柿」と呼ばれ、百匁(ひゃくもんめ』/約三百七十五グラム『)の名前の通り』、一『個』四百グラム『を超える大きな渋柿である』。昭和四〇(一九六五)『年頃まで、柿の皮むきは』、『近所の女衆が大勢集まっての夜なべ仕事とされていた。夜中の』十二~一『時頃まで行った後、小豆粥をみんなで食べて解散したという話も伝わる』。「製造方法」の項。十一『月上旬、赤くなった柿の柄の部分をT字に残して収穫し、ヘタなどを取り除いて皮をむく。燻蒸した後、タコ糸やビニール紐を輪っかに結び、T字の柄をかけて柿を結ぶ。竿に吊るし、カーテンのように約』十四~二十『日ほど、軒先で天日干しする。あんぽ柿(表面が乾き、中が柔らかくなった状態)になったら、果肉と種をつなぐ繊維を切り離すイメージで軽く揉み、竿から下ろして平置きし、さらに天日干しする。以降』、七~十『日間ほど、揉み作業ところころと転がす作業を毎日繰り返しながら乾燥させ、形を整えていく。十分に乾燥し、表面に白い粉が吹いたら出来上がり』とある。「保護・継承の取り組み」の項。『江戸時代後期の屋敷構えをそのまま歴史公園として活用する旧高野家住宅(甘草屋敷)でも、毎年枯露柿が干され、その様子を誰もが見学できるようになっている』。『特産品を扱う店舗などで売られ、木箱に入った贈答用のものが多く並ぶが、インターネットで比較的気軽に購入できるものもある』。「主な食べ方」の項。『深みのある甘さを、そのままお茶請けで楽しむのが一般的だが、おせち料理の「なます」に入れて「柿なます」にするほか、硬くなったものは天ぷらにすることもある』とあり、写真もレシピ完備した素敵なページで、オロロいたわい! ネットを始めて十九年、膨大な電子テクストを書いてきたが、農林水産省の記事を引用したのは、これが、初めてじゃ! ようやった! 褒めて遣わす!

「烏柹(あまぼし)  俗、云《いふ》、「阿末保之《あまぼし》」。

     「阿末《あま》」とは、「屋間(あま)」なり。

「本綱」曰はく、『烏柹《うし》【甘、溫。】火𤋱乾者也凡服藥口若及嘔逆者食少許卽止

△按用澀柹剥皮火𤋱懸屋間晒乾之或不火𤋱而乾亦

 可並成黑色未生霜時食之烏者黑色也

[やぶちゃん注:「屋間(あま)」「日本国語大辞典」の『あま【天】』の項の大項目の「方言」の項に、『①高い所。静岡県』、『②いろりの上につるしてある棚。福井県』・『長野県下伊那郡』・『岐阜』・『三重県飯南郡』(いいなんぐん:現在は松坂市の大部分と多気郡多気町の一部)・『対馬仁村千尋藻』(にむらちろも:現在の長崎県対馬市豊玉町千尋藻(とよたまちょうとろも)。グーグル・マップ・データ)、『③天井裏。また、天井。秋田県河辺郡』・『八丈島』・『富山県』・『石川県』・『静岡県』・『愛知県北設楽郡』・『京都府加佐郡』・『山口県防府』あった。この内、良安の事実上の守備フィールドであるのは、京都府加佐郡である。ここは現在、京都府加佐郡舞鶴市の全域・福知山市の一部・宮津市の一部に相当する。良安の情報提供者の中に、この地域の出身者がいたものと、一つは、推定される。無論、他の地方の情報ソースであっても、特段、構わない。

「醂柹(あはせがき)」小学館「日本国語大辞典」に、『醂柿』で読みを「さはしがき」(現代仮名遣「さわしがき」)とし、『渋を取り去った柿。焼酎(しょうちゅう)か』、『湯をかけて渋を抜く。さわしらがき。さわせがき。たるがき。』とあった(別に単に『熟した柿』の意もあるとする)。

「柹蒂散《していさん》」

「丁香《ちやうかう》」これは、所謂、「クローブ」(Clove)のことで、バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum である。一般に知られた加工材のそれは、本種の蕾を乾燥したものを指し、漢方薬で芳香健胃剤として用いる生薬の一つであり、また、現行の肉料理等にも、よく使用される香料である。先行する「丁子」を見られたい。

各二錢[やぶちゃん注:二・七五グラム。]、生薑《しやうが》五片。水に煎じて、或いは、末《まつ》と爲す。虛[やぶちゃん注:虚弱。]の者≪には≫參《さん/にんじん》を加ふ。】。

「呃忒蹇逆(だあくけんぎやく)の聲《こえ/おと》を作《な》すなり」東洋文庫訳の「呃忒蹇逆」のルビは『(つまつたとりのようなこえ)』(同書は一九九〇年発行であるから、ルビは促音になっていない)である。則ち、ここは、

   *

「欬逆(しゃっくり)」とは、体内の気が、臍(へそ)の下から、脈に附き、上方へと広がって行き、直ちにに上へと昇ってきて、咽(のど)や胸の内部へと到達してしまい、その結果として、「呃忒蹇逆(だあくけんぎゃく)」=「喉が詰まってしまった鳥が出すような「ギャッツ!」という声を発する病態を言うのである。」

   *

という意味である。うむ! 見事な表現じゃ、おぬし、出来るなッツ!

「僧家《そうけ》に、重んずる所なり」タテマエは殺生禁断で、生臭さ物はアウトだから、これは、マジ、重宝! 重宝! 今度、僕もやってみようっと!]

2025/01/02

西尾正 青い鴉 オリジナル注附

[やぶちゃん注:西尾正の履歴、及び、本電子化注の凡例は、初回の「海蛇」の冒頭注を見られたい。本篇は『新靑年』昭和一〇(一九三五)年十月号(十六巻十二号)に発表。以下の底本の横井司氏の「解題」によれば、単行本に収録されたのは底本が始めてである由の記載がある。底本は、所持する二〇〇七年二月論創社刊行の「西尾正探偵小説集Ⅰ」(新字新仮名)を用いた。本篇はルビが少ない。私が個人的に若い読者のためには、振った方がいい、と判断した推定ルビも加えた(五月蠅いだけなので、同じ丸括弧で附加し、注も施さない)。オリジナル注は、例によってストイック乍ら、マニアックに附した。なお、同書の横井司氏の「解題」によれば、本篇は、現在、『確認されている限りでは戦後第一弾となる』とある。なお、底本や解題では、標題を「めつかち」としているが、原作の歴史的仮名遣なら、「めつかち」でよいが、本文でも促音で「めっかち」となっているので、「めっかち」と正した。なお、主人公は既に結核に罹患し、喀血も始まっている。西尾自身の宿痾となった結核の罹患は、戦前とあるのみであるが、横井司氏の「解題」を読むに、遅くとも、本篇発表の前年の昭和十年には罹患していたと読める。既にして、登場人物の一人は西尾の影を背負っているのである。

 なお、冒頭に出る「パテエ・ベビイの映写機」については、同書の横井司氏の「解題」に、

   《引用開始》

 なお、本作品にも自伝的描写が散見される。冒頭で菓子屋が「パテエ・ベビイの映写機」で撮影する場面がある。パテーベビー Pathe-Babyはフランスのパテー社がアマチュア向けに開発した家庭用撮影・映写機で、大正末から昭和初期にかけて流行、西尾もまたパテーベビーで夫人をモデルに撮影していたそうだ(前掲「凩を抱く怪奇派・西尾正」[やぶちゃん注:これは、同解題で前掲された鮎川哲也「幻の作家を求めて・6/凩を抱く怪奇派。西尾正」(『幻影城』一九七五年十月所収)を指す。])。語り手のNと菓子屋とは「土地のテイームの野球友達」とあるが、西尾もまた海岸でやる「裸野球という軟式野球」に駆り出されていたという(同)。

   《引用終了》

とあった。ウィキの「パテベビー」によれば、『Pathé-Baby』はフランス語で、『「小型のパテ」の意』であり、一九二二年(大正十一年)に『に発売された』九・五ミリ『フィルムによる、個人映画・家庭内上映向けのフィルム、撮影機、映写機のシステムである。フランスのパテ社が開発した』ものであり、八ミリ『フィルムが登場するまで、小型映画の主流をなした』。『フランスでは』この年、『パテベビーが発表され、のちにさらに小型のパテキッド、手回し式を脱して電動でリールが回転するパテリュックス映写機を発売した』。『日本では』大正一二(一九二三)年に、『東京・日本橋の髙島屋東京支店が、その玩具売場で初めて発売するも、同年』九『月』一『日の関東大震災で高島屋が消失、翌』『年』、『東京・銀座の伴野文三郎商店(伴野は堀越商店の元パリ支店長。現在の伴野貿易)が』五『台のパテベビー映写機を輸入、改めて日本への導入が開始された』。『その後、日本における小型映画は盛んになり』、昭和二(一九二七)年、『初めての全国組織、日本アマチュア・シネマ・リーグが設立され』、昭和四年『には、時事新報社主催、同リーグ協力により、パテベビーや』十六ミリ『フィルム用撮影機によって撮影されたフィルムを集めた、初めての全国規模の個人映画コンテストが行われた』。『家庭でのパテベビー撮影機・映写機の普及とともに、マキノ・プロダクション、松竹キネマ等の映画会社が劇場用映画を家庭向けの短縮版を製作、販売するようになる。このパテベビー短縮版は、太平洋戦争などにより』、『ほとんどが失われた戦前映画の貴重な復元素材として現在では活用されている』。『伴野商店は、パテベビーのフィルムを映写できる国産の機材「アルマ映写機」を開発』し、『昭和』十年『には、名古屋のエルモ社が』十六ミリ『フィルムや』八ミリ『フィルムと互換性のある映写機を開発した』が、昭和十六年『に太平洋戦争が始まり、フィルムの入手が困難になり』、昭和二十年『の終戦後には』、八ミリ『フィルムのシステムに小型映画の主流をとって代わられることになる』とあった。

 また、既に「海蛇」で注した通り、敗戦から三年余りの昭和二四(一九四九)年三月十日(別資料では一日とする)、四十一歳の若さで、鎌倉にて肺結核のために逝去した。奥谷孝哉「鎌倉もうひとつの貌」(蒼海出版一九八〇年刊)によれば、彼は戦前の昭和八(一九三二)年頃から、鎌倉に住んでおり、海岸橋の近くに家があったとし、『乱橋材木座九七七という旧標記』があるとあるので、恐らく、滑川の左岸の乱橋(泉鏡花のドッペルゲンガーの近代小説の嚆矢たる「星あかり」(正規表現・私のオリジナル注附・PDF縦書版)所縁の「妙長寺」附近のここ。グーグル・マップ・データ)から、若宮大路の海岸橋の間に住居していたものと推定され、本作作中のロケーションも見慣れた実景を用いているのである。割注でロケーション特定をしておいた。

 傍点「﹅」は太字とした。今回はルビは表記のママに起こした。また、今回は、ブレる可能性のある語でも、読みは、割注で挿入した。]

 

 青い鴉

 

   序、菓子屋と鴉と溺死体と

 

 夕陽が細長い稲村ケ崎にすれすれの所に回って、堤防の崖下に真っ赤な縮緬模様の波があった。西の空に縁の黒い入道雲が頑張っているので、時折陽が隠れた。――夕刻になると、何処からともなく雨雲が湧き、定(き)まって俄雨の襲来があるのが、その頃の日和癖であった。

 夏の過ぎ去った海岸一帯には、菓子屋と小僧と私より他、人影らしい者は見えなかった。海に背中を向けて小型映画撮影機のファインダアを覗いている色の真黒な団栗(どんぐり)頭の小僧の前を、白槻衣(ホワイト・シヤツ)にニッカアを穿いた菓子屋が、位置を定めるために、往ったり来たりしていた。閑人(ひまじん)の私は彼らから五間ほど離れ、膝を抱えて見物していた。

「いいな、分かったな。しくじると承知しねえぞ」菓子屋は立ち上がると、太い低音(バス)で言った。「――よし、スウイッチ!」

 微かなシャッタアの音がカタカタと響いた。

 菓子屋は一定の姿勢(ポオズ)を取ると、レンズの前でできるだけ様々な表情をして見せた。

 菓子屋は二年前まで、神田の菓子舗「風流」の職人であった。腕に自信がつくと鎌倉駅裏に一本立ちの店を開いた。二十五歳の独身だが、二年の間に土地の商人の間で相当幅を利かすようになった。独立するに際し、主家の若旦那から記念に頂戴したパテエ・ベビイの映写機があるので、いつか自分の動く姿を撮って置きたいと、出入りの得意から撮影機を借りて、仕事が終わると自転車を素ッ飛ばして来たのであった。私と彼とは土地のティームの野球友達であった。

 ――撮(うつ)し終わった時には、それまで山の上に在った陽が蔭になり、海がのたりのたりと油を流したような黝(くろ)ずんだ色になっていた。

 「どうもハッキリしませんね、毎日(まいにち)――」

 機械の始末をしている小僧を尻目に、菓子屋はこうお愛想を言いながら近寄って来た。額が狭く、唇が厚過ぎるのが何となく無智を思わせて欠点だが、鼻筋も通り、眉も濃く、背(せい)もスラリとして、中々の美男であった。左の二ノ腕が纏帯で膨らんでいるので、どうしたのかと訊くと、数日前横須賀安浦の婬売窟へ冷やかしに行って土地の与太者と斬り合いをやり、三寸ばかり剌されたとのことであった。

[やぶちゃん注:「横須賀安浦」現在の横須賀市安浦町(やすうらちょう:グーグル・マップ・データ)。海軍の本拠地であった横須賀の赤線地区の一つとして、戦後まで知られた。]

 「旦那、鴉ですよオ?」

 尻上がりの頓狂な声が起こった。見上ぐれば、何時(いつ)の間にやら真っ黒な雲が頭上低く垂れ、鴉が五六羽、その暗い空を過(よ)って渚に下り立ち、海藻の間に巣喰う虫類を啄(ついば)み始めた。菓子屋の頰に小気昧よげな微笑が認かんだ。

 「わたしア鴉が大嫌いなんです。何でもわたしの祖父(じい)さんが目黒三田村で百姓をしていた時分、作物を荒らす鴉を殺したら、そのご祟りがあって、他の鴉どもに目玉を刳(えぐ)られ盲目(めくら)にされたそうですが、その故か、鴉を見ると、どうも殺したくなるんです。いつかは殺して見せると、実ア、小僧と約束したんでね」

 菓子屋は足許の石を拾って、一歩一歩、獲物を狙う猫のような狡猾な足取りで近寄って行った。そして、それ以上一歩でも進めば飛びこ上(た)ってしまいそうな際どい位置から、体を前のめりにさせて、力委せに投げつけた。石は正しく命中したが、鴉はしかし、泣き声を立てなかった。置いてけ堀にされた一疋が俛首(うなだ)れたまま二三度試みのようにのろのろ羽根を拡げた。が、石は急所を逸(そ)れたらしく、首を亀のようにながく延ばすと、海の方へふらふら飛び立った。力尽きると、カアカア悲痛な声を挙げ、二度ほど黒々とした海面に墜落したが、必死に羽根を搏って仲間の飛んで行った陸の方、後ろの山へ飛び去って行った。……

 「さ、帰ろう」

 菓子屋が歩き出し小僧が自転車に乗った時であった。ふと目を転ずれば、――遠く堤防寄りの渚に黒山の人集(ひとだか)りが見え、私達の前をも、多勢の男女が、藻を踏み越えながら、小刻みにその方向に走っていた。

 この時砂丘を下って、私達の前へ、髪の長い面長の、一見して結核患者を思わせる、肩の骨張った男が現れた。菓子屋と同い年の画家今井であった。彼は私に目顔で挨拶し、近寄り掛けたが、傍らに菓子屋のいるのに気付くと、迫った眉に露骨な嫌忌と軽蔑の表情を現し、そのまま立ち去ろうとした。

 「今井君、何ですか、あれは?」

 と、私が呼んだ。

 「女の身投げが上がったんだそうです」

 今井はブッキラ棒にこう答えると、それきり、他の人達に混じって小刻みに遠去かって行った。

 「女か、エロだな。みにゆきませんか?」

 菓子屋がニヤニヤ笑いながら言った。私は、しかし、大した好奇心もなく、それに今にも俄雨の襲来がありそうなので、帰ると言うと、彼も、詰まらないね、溺死体なんか、わたしも帰ります、と言って二三歩砂丘を登り始めた。

 「さよなら」

 「さよなら」

 こう言い交わして左右に分かれた途端雨がサアッと降り出した。

 「いけねッ! 来やがった!」

 菓子屋はこう叫んで両手で頭を抱え、

 〽旅ホレたホレたよ、女学校のまえで

 と唄い出し、肩を揺すり、足拍子を取って駈け上がって行った。

 〽――馬がションペンして、オハラハア、地が掘れた……

 私も駈け出し、しばらく行って振り返って見ると、雨の重吹(しぶき)と夜の幽暗を通し、菓子屋の砂丘を登る猿のような姿と、遥か遠方の溺死体を取り囲む黒い人垣が浮かび、海岸に添った家々や街灯の灯が点いて、そこには言いようもない秋の寂しさがあった。とりわけ、人集りの中の提灯の火は、暗く、かそけく、何かしら死人に因む不吉なものを象徴していた。

 ――九月十七日のことであった。

[やぶちゃん注:以上に「砂丘」と出ることで、ここのロケーションが明確に限定される。冒頭で「夕陽が細長い稲村ケ崎にすれすれの所に回って、堤防の崖下に真っ赤な縮緬模様の波があった」と言っており、「砂丘」が後半に出現するから、これは、現在の由比ヶ浜の中央に流れ出る滑川より東方部分の、俗に「坂ノ下海岸」と称される箇所に限られる。現在のグーグル・マップ航空写真の、この海浜地区である。稲村ヶ崎の東側(「江の島」側)にも、戦前は、ごく小さな砂丘が極楽寺川の右岸にあることはあったが、ここからは「夕陽が細長い稲村ケ崎にすれすれの所に回って」見えるという景観は物理的にあり得ない。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」附録 鎌倉實測圖」(明治三十五年八月二十五日発行)の、二枚目の地図を見られれば、一目瞭然である。「今昔マップ」の「1917~1924」年や、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、稲村ヶ崎の東側には砂丘の痕跡は全くない。また、稲村ヶ崎の東側は、坂ノ下海岸東端から先は、「靈山ヶ崎」と称し、古くから、断崖と岩礁帯(同前「ひなたGPS」)なっており、難所として、かなり以前から「堤防」(グーグル・マップ・データ航空写真)が作られてあったからである。また、由比ヶ浜には、中央部に向かって干渉波が寄せるため、昔の砂丘は、中央ほど、内陸部まで発達し、明治時代まで、若宮大路の一の鳥居手前附近まで、砂丘はあった。されば、「菓子屋」を「鎌倉駅裏」に持っている男のそれは、現在の駅の西口を出て、西南西に「由比ガ浜大通り」に下る「御成通り」にあったことになる(現行、西側には鎌倉市役所があることから、こちら側が正式な「駅表」であり、「こまち通り」の繁華な東口が、実は「裏駅」に当たるが、私の幼少期、「御成通り」は駅周辺以外は店もそう多くなく、夜は人通りも多くなく、淋しい感じで、私も、私を可愛がって呉れた亡き伯母も、駅西を「裏駅」と呼んでいた。これは戦前の鎌倉も同じであったと考えて問題ない。寧ろ、「由比ガ浜大通り」の方が圧倒的に老舗が多かった)。主人公の住居も、西尾正が住んでいた滑川左岸でもよいが、芥川龍之介が海軍機関学校教官時代の一時期に下宿した、現行の江ノ電「由比ヶ浜」駅から東南東に延びて、「和田塚入口」交差点の間周辺にあったとするのが、最も自然であるように思われる。「〽」は「鹿児島おはら節」の替え歌。正規歌詞は当該ウィキを見られたい。]

 

   一、お葉の顔――GHOST MOVIE

 

 締まりのない雨がびしょびしょ降り続く陰気な晩であった。「この手紙を受け取り次第すぐ来てくれ、是非聞いてもらいたい洵(まこと)に不思議な、わたし一人では解決に苦しむ事件が起こってしまった」云々(うんぬん)と、走り書きに記された菓子屋の手紙を、私は受け取った。

 先日砂丘で会って以来、どうしたことか御用聞きも来ず、目と目と会わせると借金取りにでも出会った時のように妙に他所他所(よそよそ)しく側方(そっぽ)を向き、目も何となく落ち窪んで顔色も蒼褪めている模様なので、菓子屋の身辺に何か起こったに相違ないと睨んでいた。そこへ不意の奇妙な手紙なので、私はいささか好奇心を覚え、雨を衝いて菓子屋の店を訪れたのである。

 部屋の隅に蹲(うずくま)って私の来るのを待っていた菓子屋の面上には、病的な憂悶の色が漂っていた。彼は私を見ると、オドオドと落ち着きのない素振りで室内に請じ入れたが、何とそこには、――古ぼけて地塗りの剝げたパテエ・ペビイの映写機が据えられ、雑誌や古新聞の積まれた薄汚い床ノ間には、映写幕(スクリイン)代わりに、幅三尺の掛軸が裏返しにされて下がっているではないか? 菓子屋は、暢気(のんき)らしく映写の支度などをして、一体何を見せようと言うのであろうか? 雨戸は閉め切られ、電灯が畳間近に引き下ろされているので、室内は不気味な薄暗に閉ざされ、私達の影がゆらりゆらりと壁を這って動き、小歇(こや)みもなく降りしきる雨の音がびしょびしょ絶え間なく響いている。……

 菓子屋は小僧を次の間に追い払うと、私を上目使いに覗き込みながら、呟くような小声で、

 「Nさん……」と言い掛けたが、何となく力が弱く二度ほどエヘンエヘンと痰を切った。「実は、こないだ撮った写真の中に、映るはずのない女の顔が写っているんです。わたしア怪談なんて決して信じやしません。けど、あんまり不思議なんで、Nさんに来て戴いたんです。今、現物をお目にかけますが、一体、こんなことが今時の世間にあるもんでしょうか?……いや、―その前に、わたしの過去の一伍一什(いちぶしじゅう)を聞いてもらわなければなりません。……」

 菓子屋はこう前置きすると、綿々たる長広舌を以て、次のような草双紙風の「情話」を語った。

 ――その「映るはずのない女」をお葉と言った。彼女は菓子屋が神田で年期奉公の頃惚れ合っていた近所の洋食屋の一人娘であった。お葉は周囲の婬らな環境から反動的に浮かび上がった可憐な処女で、恋愛を至高のものと考える感傷の子であった。しかし菓子屋は、多くの男がそうであるように、年期明けが待ち切れず、執拗にお葉の肉体を求め、彼女を深い悲哀のどん底に突き落とした。折も折、二人の間に、三年越しお葉に惚れ抜いていたと言う大学生が現れた。ここで、菓子屋は振られてしまったのである。――意地ッ張りな菓子屋は、女の本心を見極めもせず二度と神田の土を踏まぬ心算(つもり)で鎌倉へ逃げて来た。二年の歳月が夢のように流れ、お葉のこともいつとはなしに忘れ掛けていた。本年初頭、――お葉と学生の情事が如何なる経過を辿ったのか、当のお葉の思いも掛けぬ手紙が続け態(ざま)に菓子屋の店に投ぜられた。

 「貴男が妾(わたし)の前から急にいなくなってから毎日毎日重い神経衰弱で夜も睡られず貴男のことばかり想っては泣き暮らしている。妾の好きなのはやッぱり貴男だ。乱暴で我が儘で怒りッぽいけど、――。捨てるなら捨てられてもいい、でもどうか一度会ってハッキリ貴男の口から聞きたいんだ」と、愛の復活を図る女の愁訴が縷々(るる)と認(したた)められてあった。菓子屋は、都合の好い時には側方を向き痛い目に会ったら泣きついて来る女の露骨な態度に腹を立てた。それまでは、別れた女として秘かに甘い記憶を暖めていたのに、と思うと、何本手紙を受け取っても返事一つ書く気も起こらず、最近では読まずに竃(かまど)に指り込んでいる。そして、お葉は時折遠見に菓子屋の様子を探りに来るらしく、駅前と八幡境内をウロついている姿を数回自転車の上から見掛けた。……[やぶちゃん注:私の「駅裏」が正しいことが、この最後の箇所で判る。]

 「こういう訳で、わたしアお葉にはできるだけ冷淡にしてきたんですが、それだけで生霊が乗り移るなんてことがあるもんでしょうか?」と菓子屋は最後に言った。「――まあ見て下さい、お葉の横顔がじっとわたしを睨んでいるんです」

 菓子屋は素早く開閉器(スウイツチ)を映写機の口に切り代えた。やがてカタカタと鳴る手回しに連れて、床ノ間の掛軸が長方形の光線によって刳(く)り抜かれたのである。[やぶちゃん注:つい十年数程前まで、ルビの促音・拗音、小さな「ゥ」は小さくしないのが活版業界の常識慣例であった(この事実を知らなかった人は非常に多い、というか、知っていた人は驚くほど、少なかった。彼らは、勝手に脳の中で小文字にして読んでいたのだ。私は、青年期から気づいていた。みんな、知らないのにゾッとしたものだ)。歴史的仮名遣でも古くはルビでなくても「スウイツチ」であった。

 

   二、痴情

 

 映写の模様については精(くわ)しくは語るまい。ただ、事実、菓子屋の上半身(バスト)に二重となって誰か若い女の横顔が映っていることと、その夜の菓子屋が如何に心底からその「不可思議現象」に怖(おそ)れ戦いていたかを知ってもらえばいいのである。

 いずれにせよ、ここで問題となるのは菓子屋のお葉に対する今後の態度である。そこで私は、――もし君に女を容れてやれるだけの気持ちが残っているなら一度会ってやってその上でキッパリけじめをつけたらどうか、と言ってみた。するとまたしても、今度は進行形の、しかも私自身の知人、序章にちょっと紹介して置いた肺病画家今井の関係しているいささか、Erotique(エロテイーク)な事件が、続いて菓子屋の口から洩れた。――これにはいったん立ち掛けた私も再び腰を下ろしてしまったのである。

 「――現在のわたしにとって、お葉なんか問題じゃないんです」菓子屋はギロリとした眼に堪えやらぬ憤懣の情を漲らせて語り出した。「実は今、ある男を相手に一人の女をとるか盗られるか、命がけの角力(すもう)をとっているんです。男はあの肺病の今井です。そして女は、――こうなったら皆きいてもらいますが、わたしのお得意の家にいる春栄(はるえ)という出戻り女なんです」

 ――その家は、門から玄関までの踏み石の両側に、赤、青、白、黄、---色とりどりの大輪の花が咲き揃うて、華やかな、何かしらSweet(スイート)なものの潜んでいそうな家であった。その家にその年の四月頃からそれまで一度も見たことのない女が見え出したのである。新しい女は、それらの花が放つ雰囲気にも似た艶めかしさを発散していた。菓子屋は爾来その門を潜るのが愉しみになった。新たに菓子屋の心を捉えた女は過去のどの女とも違って、澄み切った聡明に見える瞳と、白い、静脈の浮いた手とが、彼の胸を揺すった。

 春から梅雨の期節になると、仲間の商人達の口から、彼女が旦耶に死別した出戻り女であることが耳に入った。その家の主婦の実妹で、死別したと言うのは嘘で何か不義をして離縁になったのではないかと噂している者があった。どちらが真(まこと)であるか判らなかったが、そういう疑いを起こさせるだけの陰性の色っぽさが眼や腰付きに潜んでいると菓子屋は思った。望みの法外であることを知りながらも菓子屋は日とともに春栄の肉体を慕う情欲に堪え切れず、大胆な手紙をそっと手渡して、一かバチかの骰子(さい)を投げた。ところが、先方から時日を指定し、北鎌倉の駅前へ来い、その時はあまり可笑しくないなりで、という返事が菓子屋を喜ばせた。夏も終わりの、そろそろ蛼(こおろぎ)の鳴き出そうという夜のことであった。初秋の寂寞とした田舎駅の前に菓子屋が彳(たたず)んでいると、一電車遅れて、黒い着物に赤い帯を締めた春栄の姿がちらりと歩廊(プラツトフオーム)に見えた。「――別々に歩くのよ」菓子屋はこういわれて円覚寺の方向へ女に痕(つ)いて歩いて行ったが、その間、薄月に浮かぶ女の白い頰や豊かな腰を貪るように観察し続けていた。狭い道路に空き車が乗り掛かると、春栄は立ち止まって面を伏せたまま、人違いと思われるほど冷静な調子で、「豊風園……」と運転手に命じた。豊風園と言うのは、蓊鬱(おううつ)とした松林の中の峠のような山道の中腹に在る豪奢を極めた料理屋兼旅館であった。――二人がそこを出たのは、その夜の十二時頃であった。春栄は菓子屋の指に自分の指を搦ませてから、来た時と同じように別々に帰って行った。

[やぶちゃん注:「豊風園」これは、亀谷坂(かめがやつさか)の下方にあった、戦前戦後にかけて、鎌倉文士らの交流の場になっていた、隧道坑門のような形状をした正門を持つ、旧温泉旅館「香風園」(グーグル・マップ・データ)である。現在はマンションになっている。四十年程前、私の亡き親友が、知人を泊まらせようと、部屋を見にせて貰ったが、既に連れ込み宿みたようなものになり下がっていた、と言っていた。]

 菓子屋はこの夜初めて女の肉を如何に魅力の強いものであるかを悟った。が、どうしたことか、女の方は、逆にその夜を境として急に冷淡になって行った。気紛れ(ホイム)な出戻り女の一時の戯れと菓子屋は思ったが、そう気の付いた時には前よりも一層女の痴情に狂っている自分を見出し、焦燥の裡に女の乖離の原因を探った。そしてその原因をハッキリ摑むことができたのである。すなわち、春栄は、夏以来彼女の甥に図画を教えるために繁々(しげしげ)と出入りしている今井に新しい関心を持ち始めていたのだ。[やぶちゃん注:「気紛れ(ホイム)な」英語“whim”(音写「ホイム・ホゥイム」)。「思い付き・気まぐれ」の意の名詞。思い付きが突然であることを強調する語である。]

 「わたしがどれほど春栄を慕い、今井を憎く思っているか、Nさんに分かったらなあ!」

 菓子屋は悲哀と憤怒から唇を嚙んだ。

 「いっそ今井を殺して、春栄を拐(かどわ)かそうと思ったことも、何度あったか知れやしません。――僕アもう絶望です。実は、Nさんに来て頂いたのも、新潟の親類を頼って、きょう限り鎌倉を売ろうと決心したんです。その旅費に、Nさん、三十円ばかり、ひとつ――」

 私はたちどころに不愉快になった。無軌道な菓子屋の話を真面目に聴いた「Nさん」自身こそ戯画化もんだという感じを抱き、返事をせずに家へ帰った。

 

   三、画家今井と彼の死

 

 しかしながら、菓子屋の語った事実は、満更根もないつくりごとではなかった。それらは相互に微妙な関聯を見せ、終局に読者は、四つの死を発見するであろう。――現実という奴は毎時(いつも)予想よりも不快なものなので、その度に私は悒鬱(ゆううつ)になるのだ。が、私はその最後の破局に筆を転ずる前に、春栄を繞(めぐ)る菓子屋と今井の三角関係が生んだ、海岸の球場における浅間しい争闘について記さねばならない。

 今井は知人の子供達を集めて野球をすることが好きであった。風もないのに海鳴りの強い日、私は今井の訪問を受け、請われるままに、子供試合の審判官(アンパイアー)として立ち会った。ちょうど中途から仲間に入った菓子屋が投手で今井が打者の時、菓子屋の投球が低過ぎたので「ボオル」と宣告すると、

 「ボオル? 今のがボオルというテはないでしょう!」と、つかつかと本塁に歩み寄り、変に陰に罩(こ)もった声音で、私よりはむしろ今井に搦み始めた。

 「いや、ボオルだよ。とても低過ぎたよ。無茶をいうな、無茶を!」

 今井も肺患者特有の気の強さで、対抗的に鋭く応酬した。

 「――無茶? 何が無茶だい!」

 こう叫んで躙(んじ)り寄った菓子屋の右手が将(まさ)に今井の頰に飛んで行きそうになった。と、この気配を素早く感じた今井は、ひょいと頰を避(よ)けると同時に、逆に、右手で菓子屋の横面を殴った。肉と肉の打(ぶ)つかる嫌な音がした。一撃を先手で喰った菓子屋は、何事か不明瞭な叫びを上げて今井に組みついて行った。元々体も弱く力もない今井が胸を相手の頭で突かれて後ろへ反(の)めると、菓子屋が、こん畜生! と叫びざま脇腹を蹴上げたから堪らない、見る見る今井の相貌が激怒と苦痛のために真っ青に変じた。彼は、傍らのバットを素早く摑み上げ、蹲(うずくま)ったまま死に物狂いに投げつけた。バットは、慌てて身を躱(かわ)した菓子屋の左肩を掠め、四五回クルンクルンと唸りを生じて飛んで行った。振り向いた菓子屋の顔に惨忍な光が射した。彼は、一度相手を凝視すると、のろのろとバットを拾い上げ、それをだらんと右手に下げると、再びのろのろ今井に近寄って行った。私はこれから飛んでもない事件が起こることを予感し、最早冷静に見物していることができなくなった。そこで今井に、「帰りたまえ、早く帰りたまえ!」と叫んだ。――今井も、相手の剣幕に圧倒されたのであろう、両手を胸の辺りに握り、哀願するような素振りをすると、菓子屋を瞶(みつ)めたままガクガクと震え出した。

 「帰れ、危ないから早く帰れ!」

 私はもう一度叫ぶが早いか、ちょうど私の前を過ぎる菓子屋の下顎を力委せに突き上げた。倒れた所へ馬乗りとなり、三度今井に振り向いて、

 「帰れ、帰らないか馬鹿!」と叫んだ。

 すると今井の脣から、世にも浅間しい叫びが洩れた。

 「キ、貴様は、俺に春栄をとられたので、それで口惜しがっているんだろう! そんならそうと、もっと堂々と戦え! いつでも来い、相手になってやる!」

 仰向きの菓子屋が、畜(ちく)――生(しょう)! と唸(うめ)きながら、起き上がろうと手足をバタバタさせた。

 「放せ、放してくれ、奴を殺すんだ!」

 私は菓子屋に間違いを起こさせてはならぬと、必死になって押さえつけた。今井はこの有り様を尻目になおも二言三言[やぶちゃん注:「ふたことみこと」。]強がりを吐いたが、傍らの春栄の甥の手を引いて一散に砂丘を駈け上がり、見えなくなってしまった。菓子屋は、追うことを諦めたのであろう、眼を閉じ体をぐったりさせてしまった。と同時に、目には見る見る泪が湧き出し、ウーウーと情けない声を立てて哭(な)き出した。……

[やぶちゃん注:「傍らの春栄の甥」ここで初めて、これを出したのは、西尾の確信犯だろうが、どうだろう? 私は、初めに出しておいた方が、カタストロフの予兆を不安させる効果は、より出ると思うが。]

 それから数日の後、散歩の途上、光明寺裏の今井の独居を訪れた折、私は今井のあまりにも憔悴した姿を見て驚いた。薄暗い部屋一面には、ひとりでに気の滅入り込む孤寂の気配が測々として漲り、窓下に寝床が敷いてあって、その前に胡座を搔いて滅切り落ち窪んだ眼を、――そしてそのためにますます陰険になった眼を力なげに瞬きながら、来春の展覧会に尠(すくな)くとも三点は出品する意気込みだと言って、「夏日游泳」と題する油絵で言えば十五号ぐらいの十度刷りにあまる木版画を、見るも痛々しい瘦せ腕でゴリゴリ板を削っていた。菓子屋に会うかと訊くから、その後会わないと答えると、彼は仕事の手を休め、青白んだ額を伝う生汗[やぶちゃん注:「なまあせ」。]を拭き拭き、次のようなことを述べた。

 「……この頃、僕、あまり外出しませんが、体に悪いからだけじゃないんです。実は、菓子屋の素振りがどうも訝(いぶか)しいんですよ。先だってなど、こないだの喧嘩のお詫びだといって、出来立てのアップル・パイを持って来て、喰ってくれというじゃありませんか。それから後も、注文違いや半端もんをチョクチョク持って来るんです。そうかと思うと、道で会っても顔をそむけて通りすぎるし、風呂屋で偶然一緒になると、気味の悪くなるほど僕の体をジロジロ眼めるんです。やなもんですね、体を見られるのは――。気になるのはそればかりでなく、夜淋しい所を歩いていると、奇態に出ッ喰わすんです。いつかの怨みを根に持っているんじゃないかと思うと、警察ヘ一応話しておこうかとも考えているんですがねえ。何(な)アに、奴(やつこ)さんは誤解しているんですよ。こないだは、僕も機勢(はずみ)で心にもないことをいってしまいましたが、奴さん、ある女に片思いして相手にされないもんで、僕とその女とが関係があるようにいいふらして困るんです。――僕、今の所、女なんて興味ありませんよ。ふふふふ……」

 こう猾(ずる)そうに苦笑いをしたまではよかったが、一気に喋って息が切れたらしくクフンクフンと咳き込むと、胸を両手で押さえて立ち上がり、北窗(きたまど)を開くと、私の方をチラッと盗み見ながらドロリと痰を吐いた。それが紅生姜のように真っ赤であった。

 この今井が、それから間もなく、突如大喀血に襲われ、ぽっかり死んでしまったのである。

 しかし、事件はこれで終結したのではない。

 

   四、夜半の散歩

 

 ……月の明るい静かな晩であった。今井が死んでから四日の後のことであった。私は晩食後書斎に籠もり、庭に射し込む青い透明な光に、時折疲れた眼を休ませながら、上田秋成の「雨月物語」を読んでいた。もう寝ようかと気付いた時は既に夜半の一時に近く、ちょうど「浅茅(あさじ)が宿」の「――窓の紙松風を啜りて夜もすがら涼しきに、途の長手に労(つか)れ熟(うま)く寝(いね)たり」という所へ栞[やぶちゃん注:「しおり」。]を挟んで立ち掛けた時、何者かが家の前を駈け上がる慌ただしい跫音(あしおと)を聞いた。波の音も死んで四囲(あたり)が閴然(げきぜん)たる[やぶちゃん注:ひっそりとして淋しいさま。静かで淋しいさま。]静寂であるために、その男の、――男であることはすぐ判った、――苦し気に喘ぐ逼迫した息までがはっきり聞き取れるのだ。私は、跫音が何方(どちら)へ消えるかじっと耳を済ませていると、意外それは私の家の門前で留まり、と同時に、ドンドン……今晩は今晩は……ドンドンと、憚るように木戸が鳴った。私は、何者が今時分訪ねて来たのであろう、ことによったら心中の片割れが跳び込んで来るのではあるまいか、と臆測を巡らせながら戸外(そと)へ出て見た。するとそこには、眩いばかりの月光を顔の半面に浴びて、小綺麗な洋服を纏うたモダン・ボオイが、口を開けてぶるぶる震えながら立っていた。そして、よくよく見ると、その男こそ野球場の喧嘩以来一度も顔を見せなかった菓子屋だったのである。私は、何はともあれ彼を座敷にあげて、一杯の葡萄酒をのませてやった。

[やぶちゃん注:『「浅茅(あさじ)が宿」の「――窓の紙松風を啜りて夜もすがら涼しきに、途の長手に労(つか)れ熟(うま)く寝(いね)たり」』これは私の偏愛する「雨月物語」の、「卷之二」の「淺茅が宿」の、農家を再興せんとして、商人となって永く無沙汰していた主人公勝四郎が、故郷『葛飾郡(かつしかのこほり)眞間(まま)の鄕(さと)』の茅舍に戻り、待ち続けていた最愛の妻宮木(みやぎ)に逢い、その夜、二人で共寝に就くシークエンスの終行である。翌早朝、目覚めれば、家は朽ち果てており、妻の姿はない、というカタストロフが続く、哀しくも印象的なシークエンスが続くジョイント部である。原文は新字体だが、全原文が電子化されている「紺雀 – Konjaku」氏の優れたサイト「日本古典文学摘集」のこちらを見られたい。現代語訳もある]

 「夜中の海岸て、気味の悪いもんですねえ!」と、菓子屋は突然至極平凡なことを口走った。

 「――Nさんはチョクチョク夜中の散歩をするそうですね。わたしも今夜眠られないんで、真似をして海岸を歩いてみたんです。けど、飯島岬の手前まで行ったら無性に怕(こわ)くなって、一散に逃げ帰って来た始末なんです。窓に灯もついているんで、一人じゃ怕いから、Nさんと一緒に歩いてみたいと思ってお訪ねしたんですよ」

[やぶちゃん注:「飯島岬」(いいじまみさき)由比が浜の東側の材木座海岸の東南の、御崎(みさき)で、鎌倉時代からある地名である(但し、現行では「飯島」で、「飯島岬」と呼ぶ人は少ない)。ここ(現在は、酷い開発によって、全体の形状が全く変化してしまっているので、「ひなたGPS」の戦前の地図の方を見られたい)。直近の東の海上には(干潮時は岩礁を伝って先端まで行ける)、現存する鎌倉時代最古の築港である「和賀江島」(わかえじま)がある。]

 一体、――この無造作を装う菓子屋を信じてもいいのであろうか? 私は、彼に対する疑惑の一層深まるのを覚えながらも何とかして本音を引き出してやろうと、警戒を忘れずに黙って立ち上がった。

[やぶちゃん注:前注の戦前の地図を見れば判るが、嘗つては、飯島御崎の辺縁の岩礁と狭い砂浜の海岸を廻り込んで、現在の逗子市小坪へ行けた。]

 ……菓子屋が小坪の方へ行ってみたいと言うので私達は渚を左に歩き始めた。その夜満月は鎌倉一帯を真昼のごとく明るく照らし出していた。人は誰もいなかった。海岸に添うて、所々に土岩[やぶちゃん注:「つちいわ」と読もうと思ったが、後で「土岩性」という熟語が出るので、「どがん」と読んでおく。]の肌を露した森の姿は、遠く月光を透して樹々の色彩か黝(くろ)ずみ、物淋しい骸骨のように絡み合っていた。ザザン、サア……という海の歔欷(すすりなき)と、何やら得体の知れぬ音のような大気の感覚が、深々と私の胸に響いて来る。――私は脚に力を入れて、サクサクと砂を踏んで行った。

 左に渚が尽きると、そこが飯島岬である。この岬を登って右に海を瞰下(みお)ろし、左に山を仰ぎながら崖淵[やぶちゃん注:「がけぶち」。]の道を進めば、小坪海岸に出るのだが、何故か菓子屋はこの近道を避け、砂丘を上って隧道(トンネル)を潜り本道を通ろうと言い出した。私達が緩い勾配(スロウプ)を登り始めた頃、菓子屋の素振りが次第に変化して行った。眉間には深い皺が刻まれ、運ぶ歩調も鈍った。隧道を抜けると、眼前に長い山が展(ひら)け、細い下り勾配が、青々と光を湛えて一直線に続いていた。両側には亜鉛(トタン)屋根の藁葺きの粗末な家々が並び、いわゆる「風雅な別荘(コツテエジ・オルネエ)」は全く影を潜め、軒からは薄汚い腰巻きや髪の毛のような若布(わかめ)がぶら下がって、強烈な肥料の臭気がそれまでの海の香に代わってプウンと鼻を衝いた。小坪は、花やかな避暑地の雰囲気の一毫一厘も見出されぬ。暗い、陰鬱な漁村の風貌を具えているのだ。ぶらりぶらりとその道を下り始めると、菓子屋は最早堪えられぬもののごとく語り始めた。――

[やぶちゃん注:「砂丘を上って隧道(トンネル)を潜り本道を通ろう」これは、飯島の御崎の頭頂部にある「住吉隧道」(グーグル・マップ・データ航空写真)であろう(但し、そこに登る途中には、まず、当時でも砂丘はなかったはずである。この当時は段状の地面(旧農地)であったと思う。なお、この隧道は逗子市内になっている)。私は二十代に二度、不法に通行している(当時は隧道を抜けたところが私有地(と張り紙にあった)であって、栅があったのを越えて入った。この存在は、その頃、一般には殆んど知られていなかった)。現在は、通行出来るように整備されているようだが(HETIMA.NET氏のブログ「HETIMA DIARY 産業遺産・廃道・廃線・隧道など」を見られたい)、飯島の正覚寺の裏を登った先にある。私が探索した際のそれは、廃道研究家平沼義之のHP「山さ行がねが~」にあるものが、かなり近い。画像を見るだけでもゾクゾクワクワクしてくること請け合いだ。「謎のゲジ穴」(前編後編)をご覧あれ! 私が行った時も、隧道内の天井部に、わんさか、ゲジゲジがいた。但し、私の二度の踏破では、奥は閉鎖されておらず、二度目の時は、この小説の通り、山上に出て、小坪に向かって下った。私は、長く、この隧道は、近代のものではなく、戦国時代の三浦氏が、光明寺後背の山から小坪にかけて建造した山寨(さんさい)「飯島城跡」の中の、「くらやみやぐら」と呼ばれる隧道であると思い込んでいたが、実際には、現在の「住吉隧道」は、戦後、地元の人たちが自宅と農地とを往復するための近道として掘ったものであることが判明している。実際の「くらやみやぐら」は、この「住吉隧道」より有意に南側の位置に、この隧道よりも凡そ倍弱の長さ(百メートル弱か)の隧道が嘗つてはあり、それこそが真の「くらがりやぐら」なのであった。十年も前のものだが、私の「『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 住吉古城蹟」の私の注を、是非、見られたい。いや! まてよ? 本作は戦前の作品だぞ?! ということは……実は! 「くらやみやぐら」は、戦前には、残っていたのではないか!?! なお、この城の実戦史は、後の永正九(一五一二)年に、北条早雲に追われた三浦同寸が籠ったものの、三日で落城した記録のみである。

 「Nさん、僕ア人を殺したんです、殺したに相違ないんです!」

 来たぞ、――と私は身構えた。

 「――いや、そう驚かずに、どうか終いまできいて下さい。……あんたは、今井さんが肺病で死んだんだと思っているでしょう? けど、そいつア見当違いで、実はこのわたしが、毒を盛って殺したんです。今でこそわたしア、あの出戻り女が底知れぬ毒婦に思われて、いやでいやでなりません。けど、一時はマルッキリのぼせ上がって、あの女を他愛なく横取りした今井が憎くて憎くてならず、何とかして怨みを晴らしてやろうと、毎日毎夜、仕事そっちのけで考えていました。――するうちに、わたしの店にしょっちゅう出入りしている友達の薬剤師に、半年ほど前、キチガイナスビという毒を貰って、机の曳出しに蔵(しま)っておいたことを思い出したんです、そんな時アたぶん、毒って珍しいもんだという気持ちで、そっと蔵っておいたに相違ありません。あんたは、今井さんがどんなに甘党だかよく知っているこってしょう。一通りや二通りじゃありません。夜中に起き出して砂糖壺を舐めるほど、まアいってみりゃあれも一種の病的なんです。そいつに思いつくと、わるいことをするのが変に嬉しくなり、体中がブルブル震えました。そうだ、こいつで今井を殺してやろう、と決心したんです!」

「しかし――」

「ま、し、静かにして下さい。お願いです!……で、で、――一遍にたくさん盛ったんじゃ必ずバレるに違いない。だからわたしア、菓子の中に少し宛(ずつ)いれて半端もんだといっちゃ持ってって、あの人にたべさせたんです。そのうちに、案の定、今井さんは、段々体が弱っていきました。毒が利いたに間違いはないんです! 何でも、あいつをのむと、徐々に体が参って、気が変になり、終いには死んでしまうんですから! ああ、僕ア、今井さんを殺してしまったんだ!」

 私は驚くよりもむしろ呆気にとられて菓子屋を見戍(みまも)った。ちょっと考えればこんな馬鹿気た話はないのである。もし今井の死が毒殺に拠るものであるならば、彼を診察した医師がそれを見逃すはずはないし、真実に菓子屋が菓子の中にキチガイナスビ(atropin(アトロピン))を投じたとしても、毒物の知識を欠く菓子屋が罪の発覚を惧(おそ)れるあまり、全然無害に終わる程度の少量を混じたに過ぎないのではあるまいか。仮に一歩を譲って、それが致死量であったにしても、菓子屋の不審な挙措[やぶちゃん注:「きょそ」。]に感付いてそれとなく警戒していた今井に、前陳[やぶちゃん注:「ぜんちん」。「前述」に同じ。]のごとき頓狂な贈物を胃の俯に収める勇気があったであろうか。私は菓子屋の肩を抱き、根もない杞憂に心を曇らせる愚を説いた。そして一刻も早く菓子屋を家まで送り帰すに如(し)かず、と左に曲がり掛けた。すると相手は、私の袂を押さえ、まだ帰らないでくれ、もっと聴いてもらいたいことがある、と哀願するので、止むなく右に歩き出した。溝(どぶ)に添うて数十間(けん)行くと、我々の前に再び深夜の海が展開した。

[やぶちゃん注:「キチガイナスビ」「(atropin(アトロピン))」この場合は、「ダチュラ」の名で私は親しい、双子葉植物綱ナス目ナス科チョウセンアサガオ(朝鮮朝顔)属チョウセンアサガオ Datura metel である。当該ウィキによれば、『薬用植物で毒性も著しく強く、「キチガイナスビ」といった別名を持つ』。『全草、特に種子に有毒なアルカロイド成分を含み、誤食すると瞳孔が開き、強い興奮、精神錯乱から、量が多いと死に至る』。『成分はヒヨスチアミン(Hyoscyamine)、スコポラミン(Scopolamine)などのトロパンアルカロイドなどである。植物体の汁が目に入っても危険である』。『なお、キダチチョウセンアサガオ』(木立朝鮮朝顔)『属』(ナス科キダチチョウセンアサガオ属 Brugmansia )の『などの仲間もすべて有毒である』。以下、「中毒事例」の項。『家の畑から引き抜いた植物の根を使って調理したきんぴらを食べた人』二名『が、約』三十『分後にめまい、沈鬱となり、以後瞳孔拡大・頻脈・幻視等の症状を呈して入院。ゴボウと「チョウセンアサガオの根」を間違えて採取・調理し食べていた』。『家庭菜園でチョウセンアサガオを台木としてナスを接ぎ木し、実ったナスを加熱調理し喫食したところ、意識混濁などの中毒症状を発症した』とある。「アトロピン」(但し、英語の綴りは“Atropine”)はC17H23NO3のアルカロイド(alkaloid)。当該ウィキによれば、『アトロピンは天然ではl-ヒヨスチアミンとして存在する。他の抗コリンアルカロイド同様、主にナス科の植物に含まれる』として四種を挙げた中に、「チョウセンアサガオ」が挙がっている。]

 

   五、九月十七日

 

 「そうでしょうか、本当にそうでしょうか?」

 陸に上げられた大きな伝馬船[やぶちゃん注:「てんません」。]に二人が倚り掛かると、菓子屋は再び語り出した。

 「――そうだとすれば本当に助かります。けど、だからといって、わたしの自殺の決心はなくなりやしない!――Nさん、今夜に限って一帳羅(いっちょうら(の洋服を着、夜中の海岸をホッツキ歩いたのにも、チャアンとした訳があるんです。死ぬ時には精々キレイな身なりをしたいと思いましてねえ。……」

 一体菓子屋は、次々に何を語り出そうと言うのであろうか? さすがに物好きな私も、そろそろこの辺から菓子屋に圧倒され始めて来た。それではならじと、視線をギユッと相手に縛りつけて観察の眼を据えた。

 「――それはお葉のことなんです。春栄に邪慳(じゃけん)にされると、わたしの胸に甦ってくるのは、やっぱしお葉の幻影でした。わたしのような一文の値打ちもないヨタモンを、あれほどまでに思い暮ってくれる女はお葉をおいて他にゃアいなんだ、今でもお葉がわたしを容(い)れてくれるならその日にでも鎌倉へつれてきて、二人で一生懸命働こう、-―こう決心すると、昨日の晩、とるものもとりあえず、久方ぶりに神田のお葉の店を訪ねました。ところが、二年前と少しも変わらぬ懐かしい神田の街や店や人ではありましたが、ただ、お葉だけが、もうとっくに、ちっぼけな、情けない、位牌に変わっていました。……」

 「……?」

 「遅すぎたんだ、俺の気のつきようが遅すぎたんだ! お葉のお袋は、泣きながらその新聞を見せてくれました。――」

 「……新聞を?」

 「九月の十七日――Nさんは憶えているでしょう、海岸で雨の降った日、長谷の海岸で女の溺死体の上がった日のことを? あの溺死体がお葉だったんです。お葉はわたしを怨みながら、病体をわざわざ鎌倉まで運んで、そして海へとびこんだんです。――あの日撮った写真にお葉が映ったのも、お葉が死んでいたとなりゃア肯(うなず)けます」

 これはしかし、かなり大きな衝動(シヨツク)であった。あの雨の中の夕景が妙に物淋しく、不吉の風が漂っていたが、もしあの時菓子屋が溺死体を見に行ったとしたら、この度の事件も、後述するようにこれほどアクドイ経過を辿らなかったかも知れぬのだ。私は、一種の宿命論的な虚無感に襲われ、危うく菓子屋が、最早芝居ではなく芯から恐怖している所の幽霊映画の神秘に憑(つ)かれそうになった。私の胸には、幽霊写真に関する米人Hartmanや英人Beattieの記録や数年前東京府下✕✕✕✕橋開通記念写真に現出した竣工犠牲、三人の自由労働者の「幽霊像事件」の未解決に埋没した事実が、徂徠[やぶちゃん注:「そらい」。「去来」に同じ。行き来すること。]した。

[やぶちゃん注:「霊写真に関する米人Hartman(ハートマン)や英人Beattie(ビイテイ)の記録」孰れも不詳。

「数年前東京府下✕✕✕✕橋開通記念写真に現出した竣工犠牲」不詳。

『三人の自由労働者の「幽霊像事件」』不詳。前の三点について、何かご存知の方は、御教授を願うものである。]

 だが、この怪奇(バロツク)も永くは続かなかった。と言うのは、それまで無言で私を凝視していた菓子屋がぐうっと重苦しくのし掛かって来ると、私の手首をギユッと握り締めたからである。私がハッとして思わず、何をするんだ、と詰問すると同時に、右手がガアンと私の左頰に飛んだ。私は突然の故無き乱暴に面喰らい、何をするんだ何をするんだを繰り返し、両手を翳して[やぶちゃん注:「かざして」。]顔面を擁護しながら、後へ後へと退いて行った。菓子屋は顔中を引き攣(つ)らせ、餓鬼大将に苛められた弱虫のようにワアワア泣き喚き[やぶちゃん注:「うめき」。]ながら、続けざまに拳を振り下ろした。最初に受けた鋭い一撃が、私自身の過去における懐かしい殺伐な生活を思い出させた。と、私は奇妙に冷静になり、相手の発作的逆上を鎮めるにはこうするに如(し)かずと、形の崩れを待って力委せの応酬を返した。菓子屋は砂を蹴上げて後ろへつんのめった。そして、案の定、再び起き直らずに、砂地に丸く蹲(うずくま)ったまま、一層高々と泣いた。

 「すんません……かにして下さい[やぶちゃん注:堪忍して下さい。]……Nさんを殴る心算はなかったんだ……ただ無性に、やみくもに乱暴がしたくなったんだ! わ、訳なんてありません……僕、僕アたぶん、気が変になってしまったんだ!」

 それは恐らく噓ではあるまい。私は最早救い難い神経の倒錯を目の辺り[やぶちゃん注:「まのあたり」。]に見て、施す術(すべ)もなく暫時は放心していたのである。

[やぶちゃん注:「怪奇(バロツク)」ウィキの「バロック」に、一六九四『年(バロック期の最中)には、この語』(フランス語:baroque)『はアカデミー・フランセーズ』(l'Académie française:フランスの国立学術団体。フランス学士院を構成する五つのアカデミーの一角を占め、その中でも最古のアカデミー)『の辞書では「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う。『バロック真珠のネックレス』」と定義されていた』。一七六二『年、バロック期の終結した頃には、第』一『義に加え』(☞)『「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則さも指す。」』『という定義が加わった』とある。]

 

   六、黎明の惨死

 

 夜が、――明けた。春、ではないが、「ようよう白くなりゆく」時が来た。それまでの青黝(あおぐろ)い大気が次第に紫色に変じ、青がことごとく空に吸い込まれると、代わって赤が勝ち、眼を射るような真紅の太陽が闇の底から首を出した。月も星も消え去り、海面の一部が血を流したようにゆらゆらと揺れ始めた。薄(う)っすら霞がかった沖にはあたかも幽霊船のような絵の島[やぶちゃん注:「江の島」のこと。]がぽっかり浮かび出し、大空の扉から流れ出るように薔薇色の微風が私達の頰を撫でた。万象(ものみな)が醒(さ)めたのだ! 夜の次に朝が来るというのは、何という有り難い神様の思し召しだろう! 嗟(ああ)、現世のあらゆる鬼火(イブネス・フアトウイ)を消し払う白色の明るさ!――私は菓子屋を促して、材木座海岸に出る砂丘を登り始めたのである。

[やぶちゃん注:「鬼火(イブネス・フアトウイ)」これは、英語の“ignis fatuus”であろう。特に、「沼地のような場所に、夜、見られる青白い鬼火」を言う。これはラテン語の“ignis fatuus”(音写「インギス・ファトウス」)の同義の熟語が語源であろう。]

 菓子屋は、今流した泪で心の陰(くも)りがすっかり霽(は)れた、もうNさんに心配をかけることはない、僕は今井さんを殺したんじゃないんですね、それで安心だ安心だと繰り返しながら、歩(はこ)ぶ歩調にも力が罩(こ)もって来た。やがて二人は、鎌倉と小坪の海岸を繋ぐ崖淵の、二間幅の狭い道路に差し掛かった。右には電光状の亀裂を生じた数十丈の裸岩[やぶちゃん注:「はだかいわ」。]が屹立し、左には、七八丈の眼下に海を瞰下(みお)ろす豁然(かつぜん)たる展望(パノラマ)が開けていた。崖縁《がけふち》の脊の高い枯れ薄(すすき)がそよそよと弱い音を立て、土岩性[やぶちゃん注:「どがんせい」。]の道に二人の跫音(あしおと)が疳(かん)高く鴫った。潮は最高の干潮時で、眼に入る岸辺の大部分が褐色の岩を露出し、その間を置いてけ堀にされた水がちょろちょろと流れていた。[やぶちゃん注:この岩礁帯が、先に注した「和賀江島」である。]

 心に痛手を負う者は遠くの眺望を避けるものだが、菓子屋は知り合い初めた頃のごとく快活な調子で、懐かしいオハラ節を唄い出した。それが終わると、例によってトゼルリのセレナタに変わった。そして、私より数間先に立って、

 「Nさん、きょうこれから、皆で野球をしませんか? わたしももうだいぶカーヴが抛れる[やぶちゃん注:「なげれる」。]ようになりましたよ。Nさんにもそうそう打たせやしませんよ。ね、しましょうよ、ね?」

 と言いながら、女学生のようにぴょんぴょん跳び撥ねて行った。

 ……数間先の菓子屋が突然立ち留まった。そこは薄も栅もない、二本の丸太ん棒で崖崩れの防いである危険な曲がり角であった。彼は、ちょっとの間崖下を覗いていたが、突然くるりと振り向くと、

 「Nさアん!」と呼び掛けた。「――ここ、ここですよ、わたしがさっきNさんのお宅にゆく前に、春栄を突き落とした所は! あんたは、夜鴉の鳴き声を聞いたことがありますか? あいつア気味の悪いもんですぜ? 僕ア奴と無理心中をする心算(つもり)で、言葉巧みにここまで誘い出して来たんです。すると、どこからか、ガアガアと、ゾッとするような声が聞こえて来ました。そいつが、殺せ殺せ? と聞こえたんです。僕ア急に惨忍な気持ちになって、欺し討ちにやっちまいました。僕ア奴に、死ぬほど惚れているんだ! ははは……Nさんは常談だと思っていますね? ホラホラ見てごらんなさい、わたしもこれから曲芸をやらかすデス!」

 私が駈け寄った時は、既に言い終わっていた。菓子屋は、光なく生気なく、瞳さえないように見える眼に儚い笑いの痙攣を起こすと、体が丸まったままぷいと崖縁から消えた。と同時に、ドスンと鈍い音が響いて、続いてバサバサバサ……と、何かの羽音が黎明の沈黙を破って聞こえた。そして、一疋の、小犬ほどもある大鴉が髪の毛のようなものを啣(くわ)えて眼下から遠く海面に飛び立った。度胆を抜かれた私の砕けた鏡のような眼に、岩と岩との間に墜死した血みどろの菓子屋の姿が、さながら踏み潰された弁慶蟹の形で、幾つにも映った。そして、そこから一間ほど離れた水溜まりの中には、蠟色の下半身を丸出しにした春栄の仰向けの屍体が転がっていた。更にそして、面喰らったことには、――菓子屋の落下に驚いて飛び立った鴉の、嘴も胴も羽根も脚も、要するに何処から何処までが、私には青く見えたのである。

[やぶちゃん注:「弁慶蟹」短尾下目イワガニ上科ベンケイガニ科クロベンケイガニ属ベンケイガニ Sesarmops intermedius 。私の『毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 コブシガニ / ベンケイガニ』を見られたい。]

 

     ○    ○    ○

 

 付記――最後に読者諸氏は、撮影日と屍体の上がった
 日とが一致を示した幽霊映画の神秘に関して、一応の解
 決を要求するかも知れない。しかし、フィルムは既に焼
 き捨てられて再点 検のよすがもなく、ただ、次の事実
 を付記して、疑問のまま、突っ放すより詮方ない。すな
 わち、―空家となった菓子屋の部屋から、映写の際、ス
 クリイン代わりに用いられた、古 ぼけた掛軸、広耕散
 史作「歌をよむ女」が発見されたが、その裏には表の女
 の顔が浸み出ていたのである。

[やぶちゃん注:「広耕散史」不詳。]

2025/01/01

林檎みのる頃 シユトルム(立原道造譯) 正字正仮名版・オリジナル注附

[やぶちゃん注:立原道造の訳になる、ドイツの司法官で、詩的リアリズムの詩人・作家として知られるハンス・テーオドール・ウォルゼン・シュトルム(Hans Theodor Woldsen Storm 一八一七年~一八八八年)の“ Wenn die Äpfel reif sind (「林檎の熟する時」:一八五六九年)。因みに、シュトルムは「みずうみ」( Immensee 一八四九年)を始めとして若き日より私の偏愛する作家である。立原道造のこの訳は、以下の底本に所収されたものである。

 底本はテオドル・シユトルム・立原道造譯「林檎みのる頃」(昭和一一(一九三六)年十一月山本書店刊。道造が肺結核で亡くなる直前の前年末の刊行。道造は昭和一四(一九三九)年三月二十九日に満二十四歳で没した)を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した。題名の後に原作者・原題・訳者名をオリジナルに附した。正字正仮名である。

 但し、所持する二〇〇八年岩波文庫刊「立原道造・堀辰雄翻訳集」をOCRで読み込み、加工データとした。

 なお、本底本にはルビは、極めて、少ない。それは《 》で示した。ただ、若い読者、日本語がネイティヴでない読者のために、私が附すべきだと感じたところに、ストイックに正仮名で丸括弧で読みを振った。

 さらに、特異的に、最初に簡単に注をしておく。なお、参照した本作の原文は、ドイツ語の文学サイト“LITERATUR PORT”の、こちらにある電子化されたものを参考にした。

●本作中、六ケ所、出てくる「ちようど」は総てママである。恐らくは、立原の慣用的な書き癖であったようである。

●第二段落の「黃鼬」は「てん」と読んでいるものと思われる。岩波文庫でもそう振っている。事実、原文は“Marder”であるから、それで――取り敢えずは――よい。但し、「黃鼬」は、私に言わせると、正直、全く戴けない訳で、せめても「黃貂」であってほしかったところなのである。何故かというと、結果的に、立原は多重的に誤っているからである。確かに、○本邦では、「黄鼬」(言うまでもないが、「鼬」は食肉(ネコ)目イタチ科イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela 、或いは、日本固有種ニホンイタチ Mustela itatsi を指す)と書いて「黄貂」を指す事実がある。また、○彼らを呼ぶ場合、個体異名として「キテン」(これは、見た目で、軀体部が黄色を呈する個体を指し、褐色の個体を「スス(煤)テン」と称する)があることも事実である。学名はイタチ亜科テン属テン亜種ホンドテン Martes melampus melampus である。立原は軽井沢で、このホンドテンを見かけているはずである。私は、小学生の時、軽井沢で、実際に見ているから確かである。則ち、「本土貂」の和名で判る通り、日本固有種であるから、①原作者のイメージしている種ではないものを、本邦の読者にイメージさせてしまう点で第一の大きな誤りであるのである。細かいことを言うと、実は、②「キテン」の語源も、「黄貂」ではなく、木登りが非常に上手いことに基づく「木貂」とする説があるのである(ウィキの「ホンドテン」を見られたい)。さらに、③シュトルムが知っているドイツに棲息するテンは、テン属マツテン Martes martes であり、当該ウィキを見て戴くと判るが、頰から頸部にかけてのみに明黄色、或いは、淡黄色の斑紋が入るだけで、軀体部は赤茶色・灰褐色・濃褐色の、言わば、「スステン」系であって、「黃鼬」ではないから、なのである。

●「マンチエスタア」原文“Manchester”。ここでは、「各種綿製品」の代名詞として使われているか。後に引用する高橋秀夫氏に解説によれば、『コール天』のこととされる。所謂、「コーデュロイ」(英語:corduroy)で、綿を横ビロード織りにしたパイル(pile:元は「平織か綾織で編地の片面または両面に下地から出ている繊維」を指すが、そうした加工を施した毛羽やループを有する生地で、タオルや絨毯などに使われる)織物の一つである。

●「石庭」原文“Steinhof”。「石をあしらった中庭」。「せきてい」と読むと、本邦では、概ね、寺院の「枯山水」を指すので、「いしには」と訓じておいた。

●「二タアレル貨幣」原文“Doppeltaler”。これは、当該ウィキによれば、『ターラー(ターレル、ThalerTalerとも)は』、十六『世紀以来』、『数百年に』亙って、『ヨーロッパ中で使われていた大型銀貨』を指す。同ウィキには、「ドイツのターラー」の項があるが、本作が発表されたのは、一八五六九年であるが、『プロイセン王国は』十四『分の』一『ケルンマルクの銀を含むターラー銀貨を使用していたが、プロイセンの勢力伸長とともに』、一八三七年『の関税同盟ではプロイセン・ターラーが「南ドイツグルデン」』(Gulden:七分の四ターラーに等しい)『とともにドイツ南部やラインラントの通貨となった』、一八五〇年『には、多くの領邦が自前通貨とともにこのターラーを用いていた』。一八五七年に『オーストリア帝国がフェアアインスターラー(統一ターラー、ユニオンダラー、Vereinsthaler)を定め、ドイツ全土で通用するようになった。各地でこれに』伴い、『フェアアインスターラーが通貨となった(プロイセン王国のプロイセン・フェアアインスターラー、ザクセン王国のザクセン・フェアアインスターラーなど)。フェアアインスターラーは』「普墺(ふおう)戦争」(一八六六年に起こった『プロイセン王国とオーストリア帝国との戦争。当初は、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が脱退したプロイセンに宣戦するという形で開始されたが、その後』、『ドイツ連邦内にもプロイセン側につく領邦が相次ぎ、連邦を二分しての統一主導権争いとなった』「ケーニヒグレーツの戦い」で、『プロイセン軍がオーストリア軍に完勝し、戦争は急速に終結した』。「七週間戦争」・「プロイセン=オーストリア戦争」『とも呼ばれる。この戦争によって、ドイツ統一は』、『オーストリアを除外してプロイセン中心に進められることになった』とウィキの「普墺戦争」にあった)の結果』、一八六七年、『オーストリア帝国での』ターラーの『打刻が停止され、ドイツ統一後の』一八七二年『には』、『ドイツ帝国でも金マルクに切り替えられた』とある。

●「つぐのんでゐる」「噤吞んでゐる」。「ぐっと口を結んで黙っている」の意。

●「思ひもうけぬ」ママ。「思ひ設(まう)けぬ」。「思いもしていなかった」の意。

 私はドイツ語には冥いのだが、それでも、読んでみると、三人しか登場しないのに、人物の認識が錯雑して、思わず、読み返す箇所がある。「立原道造・堀辰雄翻訳集」の末尾にある著名なドイツ文学者で、優れた文芸評論家でもあられた高橋秀夫氏(二〇一九年に逝去された)の解説に当たる「青春の本訳」にも、以下のように記されてある。

   《引用開始》

 実際、立原でも堀でもところどころ、誤訳やピンボケに出あう。立原訳「林檎みのる頃」では、幹に攀じ登り林檎を盗んでいる腕白小僧のズボンの尻を、青年がぐいと摑(つか)む個所がある。そこの青年の科白を、立原は「おまえに何かしるしをつけといてやる!」を「まあ何て、ひどい布なんだ!」と訳しているのだが、これは「おまえにお灸をすえてやる!」「何て丈夫な布なんだ!」ぐらいが正しいだろう。ズボンは「マンチェスタア」(Manchester)と原文にあるが、これは英国マンチェスターから製造が始まって普及した「コール天」のこと。ただし「林檎みのる頃」はどうやら立原道造訳が本邦初訳らしいので、あちこちに点在するミスは、あえて肯定的かつ比喩的に受け取るならば、満天に鏤(ちりば)められた言葉の星空に、ときどき流れ星が走って消えるようなものか、こんなふうに思うことはできよう。

   《引用終了》

とあった。

 なお、本公開は、二〇二五年元旦に公開した。昨年の後半は、「和漢三才圖會」植物部 に入れ込んで、純文学の電子化が、例年に比して、有意に少なかったのが、甚だ、不満であったので、大晦日に用意を開始し、今朝未明に起き、やっと今、公開に漕ぎつけた。私はシュトルムも立原道造も、偏愛する詩人であるが、今回は、別に意識して選んだのではなかったが、たまたま、リンク先のプロジェクトで、リンゴ類で七転八倒した直後であったからであろう、半無意識的に題名に引かれたものででも、あったのかも知れない。昨年は、実父の逝去があり、年始の挨拶はしない代わりに、本作を年初の儀礼的エポックとして配しておく。

 

   林檎みのる頃

     Wenn die Äpfel reif sind  Theodor Storm 

                   立原道造譯

 

 それは眞夜中であつた。庭の板塀に沿うて立つてゐる菩提樹のかげからちようど月がのぼり果樹の尖(さき)を透して家の裏壁をてらした。やがて垣で庭とは仕切られてゐる狹い石庭にさしいつた。白い窓掛が低い小窓のかげにすつかりその光にてらされた。ときをり小さい手がその窓掛を摑(つか)むと、こつそりとおしあけるのである。そこには少女の姿が窓臺に凭れてゐた。かの女は白い小さな首卷を頤(あご)の下に結んでゐた。女持ちの小型の時計を月の光に向けては針の向きを注意ぶかく讀まうとするやうに見えた。外の敎會の塔から四十五分を知らせる鐘がちようど鳴ったのである。

 下の方では、庭の茂みの間に、坂徑(さかみち)や芝生はくらくひつそりしてゐた。ただすももの木のなかにゐる黃鼬ばかりは舌鼓を打つて食事をしてゐた。爪で樹皮を引搔いてゐた。不意に黃鼬は鼻をあげた。何かが塀の外を滑る音がした、大きな頭がこちらを覗いてゐるのである。黃鼬は一跳(ひとつと)びで地に飛びおりると家の間(あひだ)に消えてしまつた。すると外からはずんぐりした腕白小僧がのそりのそりと庭のなかに塀を攀(よ)ぢてしのびいつた。

 すももの木と向ひあひに、塀から間近に、そんなにも高くはない林檎の木があつた、林檎はちようど實つてゐて、枝は折れさうに鈴生(すずな)りであった。腕白小憎はずつと前からそれを知つてゐたにちがひない、齒をむき出して笑ふとその木に向つてうなづいたから。さうして爪先立ちでそのまはりをぐるりと一まはりしたのである。それから、しばらくぢつと佇(たたず)んで聞き耳をたててから、身體(からだ)から大きな袋をとりはづし、考へぶかげに木登りにとりかかつた。間もなく上の方の枝の間でぽきぽきと小枝が折れ、林檎はひとつびとつ短い規則正しい時をおいて袋のなかに落ちこむのである。

 そのうちに、ひとつの林檎が偶然に地に落ちてころころと轉がるとすこし先の茂みのなかにころげこんだ、そこには茂みにすつかり蔽(おほ)はれて、石で出來た庭卓《にはづくゑ》の前にひとつのベンチがおいてあつた。その卓(つくゑ)には――小僧の思ひもよらなかつたことだが――ひとりの若い男が頰杖(ほおづゑ)をついて身動(み)《じろ》ぎもせずに坐つてゐたのである。林檎が足もとに觸《さは》ると、その男はびつくりして飛びあがつた。ほんのしばらくのあと、彼は用心ぶかく小徑(こみち)に踏み出してゐた。見上げると、月の照つてゐるところに、よく熟(う)れた實をつけた林檎の枝がはじめは氣づかない程だつたがやがて次第次第にはげしくあちらこちらへと搖れうごいていた。そしてひとつの手が月の光のなかに飛び出してすぐにまた林檎をひとつ摑むと木の葉のふかいかげのなかに隱れてしまつた。

 下にゐる男はこつそりと木の下にしのびよつて、たうとう腕白小僧が大きい眞黑な毛蟲のやうに幹にぶらさがってゐるのを見つけた。この男が獵人《かりうど》かどうかは、小さい口髭(くちひげ)と刻目(きざみめ)のある獵服(れうふく)にも拘らず、定めることはむずかしい。しかしこの時には彼に何かはげしい獵の熱病のようなものが取憑(とりつ)いたにちがひない。この腕白小僧を林檎の木のなかに捕へるためにのみここにかうして半夜を待つてゐたかのやうに、枝のなかに手を延ばして、しづかにしかししつかりと力なく幹にぶらさがつてゐる長靴を手に摑んだのである。長靴はぴくりぴくりと動いた、上の方の林檎むしりはやんだ。しかしまだ何の言葉もかわされないのである。腕白小僧は足をひいた、獵人はそれを捕へてかかつた、しばらくの間は全くこのままである。しかしたうとう腕白小僧は命乞ひにとりかかつた。

「且那!」

「泥棒め!」

「夏中あいつらは塀の上からちらちらしてゐたんですもの!」

「まあ、待て、おれがおまへに何かしるしをつけといてやる!」

 さう言ひながら、男は高く摑みかかり、腕白小僧のズボンの尻を鷲摑みにした。

「まあ何て、ひどい布なんだ!」と言つた。

「マンチエスタアなんです、且那!」

 獵人はポケツトからナイフを取り出した、あいている方の手で刄(は)をひらこうとした。腕白小僧はばねのぱちんという音を聞くとじたばたと木から降りようとした。一方では降りさせまいとするのである。

「すこしさうしてゐろよ!」と男は言つた、「おまへがぶらさがつてゐる方が、こつちは都合がいいんだ!」

 腕白小僧はすつかり面喰(めんくら)つてしまつた。

「ヒヤア……!」と言つた。「そいつは師匠のズボンなんです!――旦那(だんな)鞭(むち)を持つちやいらつしやいませんか? この身體《からだ》だけで御勘辨(ごかんべん)なすって! それでどうか御滿足なすって! これや運動服なんです。師匠も言つてます、散步服にもいい位(ぐらゐ)だって!」

 だが駄目だった――獵人は切つてしまつた。腕白小僧は、つめたいナイフが肌近く辷(すべ)り落ちたのを感じると、いつぱいになつてゐた袋を地に落してしまつた。しかし男の方では切取つた布を大切にチョツキのボケットにおさめた[やぶちゃん注:ママ。]。

「さあ、もうおりて來たつていいんだよ!」と彼は言つた。

 何の答もそれにはなかつた。刻一刻と時が移って行った、しかし腕白小僧はおりては來なかつた。下からひどい目にあわされてゐる間に、彼は高見から、突然に向うの狹い小窓が開くのを眺めてゐたのである。小さな足が突出(つきで)た――腕白小僧は白い靴下が月の光にてらされるのを見た――そして間もなく娘の姿がすつかりと石庭(いしには)の上におり立つてゐた。しばらくの間、娘は片手に明け開いたままの窓の扉の片方をおさへてゐた。それからかの女(をんな)はゆっくりと木栅(もくさく)の潛門《くぐり》のところに步みより暗い庭の方に半身を埋(う)め凭(もた)れかかつてゐた。

 腕白小僧は何もかも見屆けようとして頸(くび)が外(はづ)れさうになる程つき出してゐた。その間(あひだ)にいろいろなことがわかったらしく見えた、口を耳のあたりまでずるそうに歪(ゆが)めると、向ひの二本の枝の間に橫柄(わうへい)な格好で足をのせたのである、その間も片方の手では切られたズボンをかき合はせてゐた。

「さあ、もういいかい?」と一方では尋ねた。

「もうでせう」と腕白小僧は言つた。

「さうなら、降りて來い!」

「はじまりませんや」と腕白小僧は答えて林檎に喰(くら)ひついた、下で獵人はさくさくと嚙(か)む音を聞いた。「はじまりませんや、正(まさ)に靴屋なんですからね。」

「どうなるんだい、もしおまへが靴屋ぢやなかったら!」

「仕立屋だったら、自分でこの穴をかがつちまふんですよ。」かう言ふと、また林檎を食(く)ひつづけた。

 若い男はポケットをさぐつて見た、小錢(こぜに)がありはしないかとおもつたが、ただ大きな二タアレル貨幣があるきりだった。それでもう彼は手を引(ひつ)こめようとした、そのとき下の方の庭門のところでかけがねが鳴るのをはつきりと耳にしたのである。敎會の塔の上からは、ちようど十二時の鐘が鴫った。――若い男はちぢみ上る程びつくりした。

「ばかみた!」

 若い男は呟(つぶや)きながら額(ひたひ)を平手で叩いた。それからもう一度ポケットに手をつつこむと優しく言つた。

「おまえは貧乏人の子供なんだろうね?」

「御承知のとおりです」と腕白小憎は言った。「みんな骨の折れる儲(まう)けばつかりでさ!」

「ぢやこれを投げてやる、それで縫つておもらひ!」

 さうして若い男は貨幣を腕白小僧の方に投げてやつた。腕白小憎はそれを摑むと、月の光にあちらこちらと引(ひつ)くりかへしてみて檢(しら)べた擧句(あげく)、ほくそ笑(ゑみ)ながらポケットにねぢこんだ。

 林檎の木は花園のなかに立つていたが、それに通じて長い小徑(こみち)がつづいてゐた。そこを小刻(こきざ)みな足音と砂の上を觸れる衣摺(きぬず)れの音が向うからだんだんと聞えて來た。獵人は唇を嚙んだ。力ずくで腕白小僧を引きずり下(おろ)さうとした、しかし彼は大事そうに片方づつ足を引き上げた。どうにもならないのである。

「わかったかい?」と喘(あへ)ぐやうに男は言つた。「さあ、行つてもいいんだよ!」

「勿論!」と腕白小僧は言った。「ただ袋さへあつたら!」

「袋だつて?」

「先刻(さつき)、落したんです。」

「それがおれにどうしたつていふのかい?」

「ところで、旦那、あなたはちようど下においでです。」

 一方は身を屈(かが)めて袋を取り、ほんのすこし地(ぢ)から持上(もちあ)げて、また落した。

「かまはずにぐつと投げて下さい!」と腕白小僧は言つた。「たしかに受けとめますから。」

 獵人は諦(あき)らめきつた眼つきで木の上を見やつた、そこには薄黑いずんぐりした姿が枝の間に立つてゐる、大股をひろげて身動きもせずにつぐのんでゐるのである。しかし外から小刻みな足音が短い間をおいてだんだんと近よつて來たとき、男はあはてきつて小徑に步み出(で)た。

 思ひもうけぬうちにもう娘が男の頸(くび)にぶらさがつた。

「ハインリッヒ!」

「まあまあすこし!」と男は娘の口をふさぎ木の上を指さした。娘は男をぼんやりとして眺めた。しかし男はそんなことには頓着なく、兩手でもつて娘を茂みのなかへと押しこんだ。

「いまいましい腕白小僧め!――だが、もう二度とは來るな!」と言ひながら男は重い袋を地から引摑(ひつつか)むと、ふうふう言ふつて枝の方へ投げあげた。

「わかった、わかった!」と腕白小僧は、男の手から用心ぶかく自分の荷物を受け取りながら、言った。「これは熟したやつです、目方(めかた)もありますよ。」

 そこで、彼は紐のきれはしをポケットから取出(とりだ)して、齒で袋の端(はし)を引つぱりながら、林檎袋の上の方五寸ばかりのところにその紐を卷きつけた。それから用心深くきちんと、それを肩にのせた、荷はおなじように胸の方と脊中の方とに分(わか)たれた。この仕事を滿足のゆくようにやりをへると、頭の上に聳えてゐる大枝を握つて、兩方の掌(てのひら)でゆさぶつた。

「林檎盜人(りんごぬすつと)!」と腕白小僧は叫んだ。さうして、四方八方へ熟(う)れた實が枝を通してぱらぱらと飛散った。

 すると下の茂みから娘の聲で銳い叫び聲がした、庭のくぐり門がきしんだ。そして、腕白小僧がもう一度頸(くび)をさし出したときには、ちようどあの小さな窓がまたぱたんと言つて閉じ白い靴下がそのなかに消えるのが見えた。

 間もなく、腕白小僧は庭の板塀(いたべい)に馬乘りになり、道のかなたをうかがつた、そこにはたつた今知り合いになつたばかりの男が大股で月の光のなかをあちらへ駈け去つて行くのである。腕白小僧はポケットのなかに手をいれて銀貨を指で撫でてみて、うす氣味わるくしのび笑ひを洩(も)らした、それで肩の上では林檎が踊るのである。たうとう、家の人たちが出そろつて杖やあかりを持つて庭のなかをあちらこちらと走つてゐる間に、音も立てずに塀のあちら側に滑りおりた。さうして、道を橫切るとぶらりと隣りの庭にはいつた、そこが實に腕白小僧の家であつたのである。

 

2024/12/31

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 林檎

 

Waringo

[やぶちゃん注:左下方に、花が二つ、描かれてある。] 

 

りんご  文林卽果

     來禽

     【和名利宇古宇

林檎   今利牟五】

 

 【初從河中浮來有文林卽

  拾得種之因以爲名云云】

[やぶちゃん字注:異名筆頭、及び、最後の割注にある「文林卽」は、孰れも「文林郎」の誤記か誤刻。訓読文では訂した。]

 

本綱林檎樹似柰而二月開粉紅花子亦如柰而差圓六

七月熟卽柰之小而圓者其味酸澀卽梣【一名楸子】也其類

多金【林檎】紅【林檎】水【林檎】𮔉【林檎】黑【林檎】皆以色味立

名有冬月再實者林檎熟時晒乾研末㸃湯服甚差謂之

[やぶちゃん字注:「差」は引用の誤りか、誤刻で、「美」である。訓読文では、訂した。]

林檎麨若林檎樹生毛䖝埋蠶蟻于下或以洗魚水澆之

[やぶちゃん字注:「蠶」は、原文では、最上部が「先先」になったものだが、表示出来ないので、通用字で示した。「蟻」は「蛾」の誤り、又は、誤刻。訓読文では、訂した。]

卽止皆物性之妙也

林檎【酸甘温】 下氣消痰治霍亂肚痛消渴者宜食之

 多食令人好𪾶或生瘡癤其子食之令人煩心

古今醫統云收貯法林檎毎百顆內取十顆椎碎入水前

[やぶちゃん注:最後の「前」は「煎」の誤記か誤植。訓読文では訂した。]

 候冷內缸中浸滿爲度宻封缸口久留佳

△按林檎花葉類海棠花莟紅色開則白帶微紅似海棠

 花而小其實有窪溝如繩痕徐熟半青半紅味淡甘微

 酸脆美今病人口中凋乾好吃之如實熱消渴者不害

 虛熱煩渴者生冷物不宜食

 

   *

 

りんご  文林郞果《ぶんりんらうくわ》

     來禽《らいきん》

     【和名、「利宇古宇《りうこう》」。

林檎   今、「利牟五《りんご》」。】

 

 【初め≪黃≫河の中より、浮き來たりしを、

  文林郞と云ふ人、有りて、拾ひ得て、之

  れを、種う。因りて、以つて、名を爲す

  と云云《うんぬん》。】

[やぶちゃん注:最後の割注の「云」「人」の漢字は送り仮名にある。]

 

「本綱」に曰はく、『林檎《りんきん》の樹、「柰《だい》」に似て、二月に粉紅《うすべに》≪の≫花を開く。子《み》も亦、「柰」ごとくにして、差《やゝ》、圓《まろ》く、六、七月、熟す。卽ち、柰の小《せう》にして、圓《まろ》き者なり。其の味、酸《すぱ》く、澀(しぶ)き者は、卽ち、「梣《しん》」【一名、「楸子《しうし》」。】なり。其の類《るゐ》、多し。「金」【林檎。】・「紅《こう》」【林檎。】・「水《すい》」【林檎。】・𮔉《みつ》【林檎。】・「黑《くろ》」【林檎。】、皆、色・味を以つて、名を立つ。冬月、再び實(み)のる者、有り。林檎、熟する時、晒乾《さらしほ》し、研《けん》し、末《みがき》≪な≫して、湯に㸃じて、服す。甚だ、美なり。之れを「林檎麨《りんごしやう》」と謂ふ。若《も》し、林檎の樹、毛䖝を生ぜば、蠶蛾《かいこが》を下に埋(うづ)み、或いは、魚を洗《あらひ》らる水を以つて、之れを澆《そそ》げば、卽ち、止《やむ》。皆、物性《ぶつせい》の妙なり。』≪と≫。

『林檎【酸甘、温。】』『氣を下《くだ》し、痰を消《けし》、霍亂・肚痛《はらいた》を治す。消渴《しやうけつ》[やぶちゃん注:口が渇き、小便が近い症状。私と同じ糖尿病のこと。]の者、宜しく、之れを食ふべし。』≪と≫。

『多≪く≫食へば、人をして、𪾶《ねむる》ことを好み、或いは、瘡癤《さうせつ》[やぶちゃん注:吹き出物。]を生ず。其の子《み》、之れを食へば、人をして煩心《はんしん》[やぶちゃん注:心臓が激しく悶え、苦しむこと。]せしむ。』≪と≫。

「古今醫統」に云はく、『收貯(たく《は》)ふ法。林檎、百顆《ひやくくわ》毎《ごと》[やぶちゃん注:返り点はないが、返して読んだ。]の內、十顆を取りて、椎(つ)き碎(くだ)き、水に入《いれ》、煎《せんじ》、冷《ひゆ》るを候《まち》て、缸《かめ》[やぶちゃん注:水を入れる大きな甕。]の中に內(い)れて、浸《ひたし》滿《みち》るを、度《たびたび》爲《な》し、宻《みつ》に缸の口を封ず。久《ひさしく》留《とど》めて、佳なり』≪と≫。

△按ずるに、林檎《りんご》の花・葉、海棠に類《るゐ》す。花・莟、紅色、開けば、則ち、白≪に≫微紅を帶ぶ。海棠の花に似て、小《ちさ》し。其の實、窪(くぼ)き溝《みぞ》、有り、繩《なは》の痕(あと)のごとし。徐(やや)、熟して、半《なかば》、青く、半、紅《あかく》、味、淡甘≪にして≫、微《やや》、酸《すぱく》、脆《もろ》く、美《うまき》なり。今、病人の口中、凋(ねば)り、乾《かはく》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、好《このん》で、之れを、吃《こ》ふ。實熱にして消渴のごときなる者は、害、ああらず。虛熱にして、煩渴《はんかつ》[やぶちゃん注:激しい渇き。]の者は、生《なま》≪の≫冷《つめたき》物、宜《よろ》しく、食すべからず。

 

[やぶちゃん注:前々項以降、相応の覚悟をしてこれを電子化しているのだが、思いの外、すっきりと出来そうなことが、早速、判ってきた。それは、東洋文庫訳の「本草綱目」の引用の頭の「林檎」に割注で、『バラ科ワリンゴ』とあったからである。これは、漢字表記「和林檎」なのだが、実は、このワリンゴは中国原産なのである。

双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ属ワリンゴ Malus asiatica Nakai (1915)

である。当該ウィキのシノニム(synonym)をそのまま掲げておく。

Malus domestica var. asiatica (Nakai) Ponomar. (1991)

Malus domestica var. rinki (Koidzumi) Ohle (1986)

Malus dulcissima var. asiatica (Nakai) Koidz. (1934)

Malus dulcissima var. rinki (Koidz.) Koidz. (1916)

Malus matsumurae Koidz. (1909)

Malus prunifolia var. rinki (Koidz.) Rehder (1915)

Malus pumila var. rinki Koidz. (1913)

Pyrus matsumurae (Koidz.) Cardot (1918)

Pyrus ringo K.Koch (1869)

以上は主なもので、まだ他にもある。「維基百科」では、同種は「花紅」で立項し、異名を「沙果」(河北)・「文林郎果」(「本草綱目」)・「文林果」・「林檎」を挙げてある。

――♡いやいや! 地獄で仏の気分だね♡

気持ちよく、当該ウィキを引く(注記号はカットした。不要と判断した箇所は予告せずに省略した。下線・太字は私が附した)。『和林檎』は『ジリンゴ(地林檎)ともよばれる。春に白から薄ピンク色の花をつけ』、『黄色から赤色の果実が実る。中国原産であり、古くから栽培されて果実が利用されてきた。また』、『日本にも導入され、少なくとも鎌倉時代以降には栽培され』、『果実が食用や供え物として利用されていた。古くは本種が「リンゴ(林檎)」とよばれていたが、セイヨウリンゴの導入・普及とともにワリンゴ栽培は減少し、それに伴ってセイヨウリンゴがリンゴとよばれるようになった』。『葉は単葉。托葉は早落性、披針形、長さ』三~五『ミリメートル』、『縁に鋸歯があり、先は尖鋭形。葉柄は長さ』一・五~五『センチメートル』、『有毛』である。『葉身は卵形から楕円形』五~十一×四~五・五センチメートル、『基部は円形から広楔形、葉縁には鋸歯があり、先端は鋭頭から鋭尖頭、葉裏には密に毛があり、葉表は最初は有毛であるが』、『後に無毛』となる。『花期は』四~五『月』で、『短枝の先端に』四~七個から十個の『花からなる散形状の花序がつく。苞は早落性、披針形、有毛、先端は鋭尖形。花柄は長さ』一・五~二センチメートル、『密に毛がある。花は直径』三~四センチメートル、『花托に密に毛がある。萼片は三角形から披針形、長さ』四~五ミリメートル、『花托より』、『わずかに長く、両面に密に毛があり、縁は全縁、先端は尖鋭形。花弁は白色から』、『ややピンク色、倒卵形から長楕円形、長さ』〇・八~一・三センチメートル、『基部は短い爪状、先端は丸い。雄しべは』十七~二十『本、長さは不等で花弁より短い。花柱は』四~五『本、雄しべより長く、基部に綿毛がある。子房下位、子房は』四、五『室、中軸胎座で各室は』二『個の胚珠を含む』。『果期は』七~九『月。熟すと』、『果皮は黄色から赤色、直径』三・五~五センチメートル、『卵形から亜球形であり、基部が凹んでいる。果柄は長さ』一・五~二・五センチメートル、『軟毛がある。萼片は残存する。果肉には甘みもあるが、酸味や渋味が強い。貯蔵性は低い』。中国原産であり、おもに中国北部から東部に分布する。日当たりの良い斜面から平地の砂質土壌に生育する。朝鮮半島や日本にも導入され、古くから栽培されている』。さらに、ゲノム解析からは、カザフスタンなどに分布する Malus sieversii が中国北部に運ばれ、シベリアリンゴ Malus baccata と交雑することでワリンゴが生まれたと考えられている。一方で、 Malus sieversii (和名無し)『は西へも運ばれ、ヨーロッパで Malus sylvestris と交雑することでセイヨウリンゴ(現在の一般的な意味での「リンゴ」=セイヨウリンゴ Malus domestica 『が生まれた』★。

以下、「人間との関わり」の項。

『ワリンゴは、中国で「林檎」と表記されていた。中国では、「林檎」は遅くとも』六『世紀』(魏晋南北朝時代の混乱期を経て、世紀末に隋が統一した時期)『の本草書に記されており、この名は』(☞)『果実を食べに鳥が集まることを示す「来禽」に由来するともされる。特に中国北部から東北部で』、『果実利用のため』、『古くから栽培され、果実の形や色、大きさ、成熟期が異なるさまざまな栽培品種が作出された。しかし』、十九『世紀半ばにセイヨウリンゴが中国に導入され、下記の日本と同様に、現在では商業的に生産されている「リンゴ」のほとんどはセイヨウリンゴとなっている。中国では、現在』、『ワリンゴは「花や「沙果」、「文林郎果」と表記され、セイヨウリンゴは「苹果」や「蘋果」と表記されることが多い』。

一方、『日本における「林檎」の初出は』、『平安時代中頃』(承平年間(九三一年~九三八年)編纂)『の漢和辞典である』「和名類聚鈔」『であり、「カラナシ(カリン)に似て小さい実をつけるもの」とし、読みを「利宇古宇(りうこう/りうごう/りんごう)」としている。中世以降はリンキ、リンキン、リンゴの読みも見られるようになり、近世になるとリンゴの読みが一般的となった』。但し、「和名類聚鈔」は漢和辞典に過ぎず、『この時代に実際にワリンゴが日本で栽培されていたか否かは定かではない』。

しかし、『鎌倉時代の公家である藤原定家による』「明月記」の嘉禎元』(一二三五)年『の記に「庭樹林檎」とあり、少なくとも鎌倉時代には日本でも栽培されるようになったと考えられている。また、室町時代前期の』「庭訓往來」『や室町時代後期の』「尺素往來」(往来物は平安末期から明治初期にかけて編集・使用された一種の初歩教科書の総称で、当初は手紙の模範文例集であったが、近世に至って項目も多様化して、寺子屋の教科書となった)『にも記述があり、菓子(果物)の』一『つとして「林檎」が挙げられている。戦国大名である浅井長政による貰い受けた林檎に対する礼状が残っており、また』、『公家の山科言経』(ことつね)『による』「言經卿記」の天正一九(一五九一)年六月の記に、『林檎一盆が送られた』という『記述があることから、室町末期には上流階級では贈答などに用いられる果物であったことを示している』。

『江戸時代には、ワリンゴはさらに一般化し、東北地方から九州まで一部の地域で栽培されるようになったと考えられている』。十七『世紀』(「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年である)『の黒川道祐』(元和九(一六二三)年~元禄四(一六九一)年)は医者で歴史家。京都在住)『の書には』、「六月『下鴨納涼祭には売店が出てウナギの蒲焼やマクワウリ、桃、林檎が売られる」との記事があり、京都庶民の夏の果物となるほど普及していた』。『また天明』七(一七八七)年六『月、天明の大飢饉で困窮した民衆が京都御所に嘆願に集まった(御所千度参り)際に、後桜町上皇が皇室に献上されていた林檎』三『万個を民衆に下賜したとの記録がある。また』、『これに倣って』、『光格天皇が幕府と掛け合って二条城の米を放出させ、これらの行為が後の皇室敬慕、尊王思想につながったともされる。日本においては果期がお盆と重なるため、供え物としても利用されていた』。

『明治時代になると、日本政府はリンゴ属の別種である Malus domestica の苗木を大量に欧米から導入し、全国に配布した。Malus domestica の栽培が拡大するにつれ、林檎(ワリンゴ)の栽培は激減した。当初、Malus domestica はセイヨウリンゴ、オオリンゴ、トウリンゴ、苹果(へいか)などとよばれたが、単にリンゴと呼ばれることが多くなり、それに伴って』、『それまでの「リンゴ」はワリンゴまたはジリンゴとよばれるようになった』とある。

 なお、「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「山果類」の「林檎」([075-17b]以下)のパッチワークである。必要があろうから、引用しておく(一部の表記に手を加えた)。

   *

林檎【宋開寶】 校正【併入拾遺文林郞果】

 釋名 來禽【法帖】文林郞果【藏器曰文林郞生渤海間云其樹從河中浮來有文林郞拾得種之因以爲名珣曰文林郞南人呼爲榲桲是矣時珍曰案洪玉父云此果味甘能來衆禽於林故有林禽來禽之名又唐髙宗時紀王李謹得五色林檎似朱柰以貢帝大恱賜謹爲文林郞人因呼林檎爲文林郞果又述征記云林檎實佳美其榲桲微大而狀醜有毛而香闗輔乃有江南甚希據此則林檎是文林郞非榲桲矣】

 集解【志曰林檎在處有之樹似柰皆二月開粉紅花亦如柰而差圓六月七月熟頌曰亦有甘酢二種白者早熟而味脆美酢者差晚須爛熟乃堪噉今醫家乾之入治傷寒藥謂之林檎散時珍曰林檎卽柰之小而圓者其味酢者卽楸子也其類有金林檎紅林檎水林檎蜜林檎黑林檎皆以色味立名黑者色似紫柰有冬月再實者林檎熟時晒乾研末㸃湯服甚美謂之林檎麨僧賛寧物類相感志云林檎樹生毛蟲埋蠶蛾於下或以洗魚水澆之卽止皆物性之妙也】

 氣味酸甘温無毒思【邈曰酸苦平濇無毒多食令人百脈弱志曰多食發熱及冷痰澀氣令人好唾或生瘡癤閉脈其子食之令人煩心】主治下氣消痰治霍亂肚痛【大明】消渴者宜食之【蘇頌】療水糓痢洩精【孟詵】小兒閃癖【時珍】

 附方【舊三】水痢不止【林檎半熟者十枚水二升煎一升并林檎食之【食醫心鏡】】小兒下痢【林檎構子同杵汁任意服之【子母秘録】】小兒閃癖【頭髮豎黃瘰㾧瘦弱者乾林檎脯研末和醋傅之【同上】】

 東行根主治白蟲蚘蟲消渴好唾【孟詵】

   *

「文林郞果」上記の「本草綱目」には、三名の語る故事が記されてあるが、時代が明確に記されてある二番目の時珍の語るそれを見るに、初唐の第三代高宗(在位:六四九年~六八三年)の時、紀王であった李謹が、既存の林檎の「朱柰」(しゅだい)に似た、五色の林檎を献貢したところ、高宗は、大いに悦んで、李謹に「文林郎」の位を賜った。因って、それ以後、「林檎」を「文林郎果」と称するようになった、とある。

「林檎麨《りんごしやう》」「麨」は「麦焦がし・はったい粉(こ)」を意味する。以上のような処理をした粉末が似ていたからであろう。中文検索を掛けたが、現在は作られていないようである。

「古今醫統」複数回、既出既注。]

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 柰

 

Dai

 

からなし 頻婆【梵言】

 

【音耐】

 

 

本綱柰江南雖有而北國最豊作脯食之【苦寒有小毒】與林檎

[やぶちゃん注:「雖」は、原本では、「グリフウィキ」のこれに近いが、(へん)の貫く「口」が、もう一つある奇体な字体で、表示出来ない。通用字で示した。]

一類二種樹實皆似林檎而大有赤白青三色白者爲素

柰赤者爲丹柰【一名朱柰】青者爲綠柰皆夏熟

又有冬柰冬熟子帶碧色【凉州有之】

 

   *

 

からなし 頻婆《ひんば》【梵言。】

 

【音「耐(タイ)」。】

 

 

「本綱」に曰はく、『柰《だい》は、江南[やぶちゃん注:現在の江蘇省・浙江省。]にも有ると雖《いへども》、北國《ほくこく》には、最も豊《おほ》し。脯《ほしもの》と作《なし》、之れを食ふ【苦、寒。小毒、有り。】林檎と、一類、二種なり。樹・實、皆、林檎に似て、大なり。赤・白・青、三色、有り。白≪き≫者を、「素柰《そだい》」と爲し、赤き者、「丹柰《たんだい》」【一名、「朱柰《しゆだい》」。】と爲し、青き者を「綠柰《りよくだい》」と爲す。皆、夏、熟す。』≪と≫。

『又、「冬柰《とうだい》」、有り。冬、熟す。子《み》、碧色《みどりいろ》を帶ぶ【凉州[やぶちゃん注:現在の甘粛省。]、之れ、有り。】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:前の「菴羅果」の項の最後の注で、中央アジア原産であるサクラ亜科リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica としたが(東洋文庫訳では、そっちも、こっちも、割注で「セイヨウリンゴ」に同定している)、その最後で、私は中国のリンゴの野生種の祖先として、

新疆野蘋果 Malus sieversii

を挙げ、英文の同種のページに於いて、その種が、セイヨウリンゴ Malus domestica の主な祖先であると断定されていることを示した結果、どうも、附和雷同的に「セイヨウリンゴ」でケリをつけるのが、厭になった。寧ろ、「菴羅果」の注で示した、中国原産、或いは、中国に分布する古いリンゴ類の孰れかである、とするのが、最も良心的であると考える。かと言って、ここに列挙される「素柰」・「丹柰」=「朱柰」・「綠柰」・「冬柰」を中文検索をしても、種名は、全く掛かってこないので、同定比定は不可能である。されば、これを以って、あっさりと注を終わることとする。逃げ? フフフ……いや、そうじゃないさ……だって――次の項はね、……「林檎」……なんだゼ?!?…………

 ただ、最後に、良安が勝手に「柰」につけた訓、「からなし」は、先行する「和漢三才圖會卷第八十六 果部 果部[冒頭の総論]・種果法・收貯果」で示した注を再掲しておく。現代中国語では、バラ科モモ亜科ナシ連ナシ(リンゴ)亜連リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica を指すが、宋代の「柰」は広義のリンゴ(リンゴ属)に留めておくのがよかろう。なお、この漢字は本邦では、まず、別にリンゴ属ベニリンゴ Malus beniringo を指す。小学館「日本大百科全書」によれば、葉は互生し、楕円形、又は、広卵形で、縁(へり)に細かな鋸歯(きょし)がある。四~五月、太く短い花柄の先に、白色、又は、淡紅色の花を上向きに開く。この形状から別名「ウケザキカイドウ」(受咲海棠)とも呼ぶ。楕円形のリンゴに似た果実が垂れ下がる。先端に宿存萼(しゅくそんがく:花が枯れ落ちた後になっても枯れずに残っている萼のこと)があり、十月頃、紅色、又は、黄色に熟す。本州北部原産で(従って、ここでの「柰」としては無効)、おもに盆栽にするが、切り花にも用いる。日当りのよい肥沃な砂質壌土を好み、寒地でよく育つ、とある。ところが、実は、この漢字、また、別に、日本では「からなし」(唐梨)と訓じ、一般名詞では赤い色をした林檎を指す以外に、面倒なことに、バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensisの異名としても通用しているのである(但し、カリンの中文ウィキ「木瓜(薔薇科)」の解説(非常に短い)には、この「柰」の字は載っていないし、前に出した「植物名實圖考(道光刻本)」の「第三十二卷」の「木瓜」の解説にも「柰」の字は使われていないから、「柰」には中国語としてはカリンの意はないと考えてよかろう)。ネット上でも、「柰」の字の示す種、或いは、標準和名や通称名・別名が、ごちゃごちゃになって記載されており、甚だ混乱錯綜してしまっている。――ダメ押しで、再度、中文検索サイト三箇所で旧漢名・ラテン語学名で検索したが、新しい発見は、なかった……。

 なお、「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十」の「果之二」の「山果類」の「菴羅果」([075-16b]以下)のパッチワークである。必要があろうから、引用しておく(一部の表記に手を加えた)。

   *

【别録下品】

 釋名 頻婆【音波言時珍曰篆文柰字象子綴於木之形梵謂之頻婆今北人亦呼之猶云端好也】

 集解【弘景曰柰江南雖有而北國最豐作脯食之不宜人林檎相似而小俱不益人士良曰此有三種大而長者爲柰圓者爲林檎皆夏熟小者味澀爲梣秋熟一名楸子時珍曰柰與林檎一類二種也樹實皆似林檎而大西土最多可栽可壓有白赤靑三色白者爲素柰赤者爲丹柰亦曰朱柰靑者爲綠柰皆夏熟凉州有冬柰冬熟子帶碧色孔氏六帖言凉州白柰大如兎頭西京雜記言上林苑紫柰大如升核紫花青其汁如漆著衣不可浣名脂衣柰此皆異種也郭義恭廣志云西方例多柰家家收切暴乾爲脯數十百斛以爲蓄積謂之頻婆粮亦取柰汁爲䜴用其法取熟柰納瓮中勿令蠅入六七日待爛以酒醃痛拌令如粥狀下水更拌濾去皮子良久去淸汁傾布上以灰在下引汁盡劃開日乾爲末調物甘酸得所也劉熈釋名載柰油以柰擣汁塗繒上暴燥取下色如油也今闗西人以赤柰楸子取汁塗器中暴乾名果單是矣味甘酸可以饋遠杜恕篤論云日給之花似柰柰實而日給零落虛僞與真實相似也則日給乃柰之不實者而王羲之帖云來禽日給皆囊盛爲佳果則又似指柰爲日給矣木槿花亦名日及或同名耳】

  氣味苦寒有小毒多食令人肺壅臚脹有病人尤甚【别錄曰思邈曰酸苦寒濇無毒時珍案正要云頻婆甘無毒】主治補中焦諸不足氣和脾治卒食飽氣壅不通者擣汁服【孟詵】益心氣耐飢【千金】生津止渴【正要】

   *]

2024/12/30

和漢三才圖會卷第八十七 山果類 菴羅果

 

Mango

 

てんぢくなし  菴摩羅迦果

        香蓋

菴羅果

         此種未有於此

アン ロウ コウ

 

本綱菴羅果出西域梨及柰之類也葉似茶葉實似棃

[やぶちゃん字注:最後の「棃」は「梨」の異体字。]

五六月熟色黃色七夕前後已堪噉味甘温果中極品【多食亦無害】

 

   *

 

てんぢくなし  菴摩羅迦果《アンマラカクワ》

        香蓋《かうがい》

菴羅果

         此の種、未だ、此《ここ》に有らず。

アン ロウ コウ

 

「本綱」に曰はく、『菴羅果《あんらくわ》、西域の出づ。梨《なし》、及び、柰《だい》の類《るゐ》なり。葉、茶の葉に似て、實《み》、棃《なし》に似《にる》。五、六月に熟して、色、黃色なり。七夕《たなばた》の前後、已《すで》に、噉《くら》ふに堪《たへ》たり。味、甘、温。果中《くだものちゆう》の極品《ごくひん》≪なり≫【多食しても、亦、害、無し。】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科マンゴー属マンゴー Mangifera indica

である。「維基百科」の同種「芒果樹」も見られたい。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『檬果・芒果』英語『Mango』、『別名で、菴羅(あんら)、菴摩羅(あんまら)ともいう。マンゴーの栽培は古く、紀元前のインドで始まっており、仏教では、聖なる樹とされ、ヒンドゥー教では、マンゴーは万物を支配する神「プラジャーパティ」の化身とされている』。『日本語のマンゴーは、英語の mango から、さらには、ポルトガル語の manga、マレー語(現代マレーシア語・インドネシア語でも同じ)の mangga、タミル語』(南インドのタミル人の言語)『の』『マーンカーイ』『から伝わった』。『漢字表記の「芒果(現代中国語拼音: mángguǒ)」は、マレー語の mangga もしくは他の東南アジアの言語からの直接の音写である』。『仏典の菴羅・奄羅・菴摩羅・菴没羅などは、サンスクリットの』本種を意味する『āmra(アームラ)の音写である。ただし、同じウルシ科』Anacardiaceae『のアムラタマゴノキ』(アムラ卵の木)アムラノキ属『 Spondias pinnata 』『を意味する amra(アムラ)との混同が見られる』。『原産地はインドからインドシナ半島周辺と推定されている。そのうち、単胚性(一つの種から一個体繁殖する)の種類はインドのアッサム地方からチッタゴン高原(ミャンマー国境付近)辺りと考えられ、多胚性(一つの種から複数の個体が繁殖する)の種類はマレー半島辺りと考えられている。インドでは』四千『年以上前から栽培が始まっており、仏教の経典にもその名が見られる。現在では』五百『以上の品種が栽培されている。インド・メキシコ・フィリピン・タイ・オーストラリア・台湾が主な生産国で、日本では』、『沖縄県・宮崎県・鹿児島県・和歌山県・熊本県で主にハウス栽培されている』。『マンゴーの木は常緑高木で、樹高は』四十『メートル以上に達する。開花と結実時期は地域により』、『差がある。枝の先端に萌黄色の複総状花序を多数付ける。花は総状花序と呼ばれる小さな花が房状で咲く状態になり、開花後に強烈な腐敗臭を放つ。この腐敗臭により受粉を助けるクロバエ科』(有翅昆虫亜綱双翅(ハエ)目ヒツジバエ(羊蠅)上科クロバエ(黒蠅)科 Calliphoridae)『などのハエを引寄せている。マンゴーの原産地の熱帯地域は、ミツバチ』(膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apis )『にとって気温が高すぎるため、マンゴーは受粉昆虫としてハエを選んだと考えられている(日本のハウス栽培では受粉を助ける昆虫としてミツバチをビニールハウス内に飼っている)。果実は系統によって長さ』三~二十五『センチ、幅』一・五~十五『センチと大きさに開きがあり、その形は広卵形とも勾玉形とも評される。果皮は緑色から黄色、桃紅色などと変異に富むが、果肉は黄橙色をしていて多汁。果皮は強靱(きょうじん)で』、『やや厚く、熟すと皮が容易に剥けるようになる。未熟果は非常に酸味が強いが、完熟すると濃厚な甘みを帯び、松脂に喩えられる独得の芳香を放つ』。『マンゴーはウルシオール』(Urushiol)『に似た「マンゴール」』(Mangol)『という接触性皮膚炎(かゆみ)の原因となる物質が含まれており、高率にかぶれを引き起こすため』、『注意が必要である。痒みを伴う湿疹などのかぶれ症状は』、『食べてから数日経って発症・悪化する場合があり、ヘルペスなどと誤診されることもある』(私は、二十四年前の四十三の時、伊豆高原を散策中にウルシの葉に触れ、ウルシかぶれが起動してしまった。その時に調べたら、マンゴーもウルシオールと似たマンゴールを含むとあった。マンゴーは私の好物だったが、それ以来、口にしていない(因みに青マンゴーというのをお食べになったことはあるか? あれはとっても上品で美味しいですぞ!)『熟した実を中心にある種に沿って切り、生のまま食用にするのが一般的だが、ジュ