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2021/03/09

横浜市金沢図書館開催の横浜市埋蔵文化財センター主催『「横浜の遺跡展」野島貝塚ー環境変動にみる縄文時代早期』の御案内

現在、横浜市金沢図書館で開催されている横浜市埋蔵文化財センター主催「横浜の遺跡展」野島貝塚ー環境変動にみる縄文時代早期
会場:横浜市金沢図書館 エントランス
時間:火曜日~金曜日 午前9時30分~午後7時00分、
   土曜日~月曜日、祝(休)日 午前9時30分~午後5時00分
休館日:3月15日(月)、4月19日(月)
料金:無料
主催:(公財)横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター
共催:横浜市金沢図書館
交通:京浜急行・シーサイドライン「金沢八景」駅徒歩7分/京急バス停「洲崎」下車徒歩6分(4、文15系統)
【期間】令和3年3月5日(金)~4月27日(火)
には、私の父藪野豊昭(健在)とその親友の故宇野小四郎氏(「ひょっこりひょうたん島」で知られる人形劇団「ひとみ座」の元座長)の二人で昭和22(1947)年に発掘調査した際の調査資料記録(父が横須賀市に寄贈したものの借り受け展示)が展示されています。写真は企画展チラシと、父と私に御礼として送付されてきた『埋文よこはま』43号企画展特大号の中の、その紹介ページです。
野島貝塚出土のイノシシ上顎骨図の描画など、私が言うのも何だが、描画――凄い!――
4月27日まで行われています。
お近くに行かれたら、ちょっと覗いて見て下されば、恩幸、これに過ぎたるはありません。
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大和本草附錄 裙帶菜 (ワカメ/エンドウ)

 

食物本草ニ所載ワカメナリ救荒野譜所

載爲豌豆葢二物而同名者也多食スレハ腹痛ス

○やぶちゃんの書き下し文

「食物本草」に載する所の「わかめ」なり。「救荒野譜」に載する所、「豌豆〔(ゑんどう)〕」と爲〔(な)〕す。葢し、二物にして名を同じくする者なり。多食すれば、腹痛す。

[やぶちゃん注:同名異物の追加記載であるが、一方が海産藻類なのでピックアップした。益軒は本巻で既に「大和本草卷之八 草之四 裙蔕菜(ワカメ)」として挙げている。そこで私は記載から、

褐藻綱コンブ目チガイソ科ワカメ属ワカメ Undaria pinnatifida

の他に本邦に分布する同属の非常によく似た、

アオワカメ Undaria peterseniana

ヒロメ Undaria undarioides

を挙げた。詳しくはそちらの私の注を読まれたい。因みに「エンドウ」は、

被子植物門双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科エンドウ属エンドウ Pisum sativum

である。

「食物本草」明の汪穎(おうえい)の撰になる食療食養専門書。

「救荒野譜」明の王西樓の撰で、同じく明の姚可成の校訂になる救荒植物譜。和刻本は享保元(一七一六)年に刊行されている。しかし、同書を「東京国立博物館デジタルライブラリーで二度縦覧したが、「裙帶菜」は見つからなかった。不審。

「多食すれば、腹痛す」どちらもそうなるから、まあ、いいか。]

大和本草附錄 朝鮮昆布(てうせんこんぶ) (アントクメ?)

 

朝鮮昆布 裙帶菜ニ似テ廣サ四寸許長コト三尺

許形狀昆布ニ似タレドモ短薄ニテ氣味モ裙帶菜

ニ似タリ西州ノ海ニ生ズ

○やぶちゃんの書き下し文

朝鮮昆布(てうせんこんぶ) 裙帶菜(わかめ)に似て、廣さ四寸許り、長きこと、三尺許り。形狀、昆布に似たれども、短薄〔(たんはく)〕にて、氣味も裙帶菜(わかめ)に似たり。西州の海(うみ)に生ず。

[やぶちゃん注:「大和本草卷之八 草之四 昆布 (コンブ類)」の追記であるが(「昆布」は不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科 Laminariaceae に属する多数のコンブ類の総称であり、「コンブ」という種は存在しない。含まれる種はリンク先の私の注を参照されたい)、これは同定が難しい。朝鮮半島にもワカメもコンブ類も植生するが、益軒の記載はコンブに似ているが、藻体が短くて薄く、味はワカメに似ているというのだから、「ややこしや」である。「朝鮮」と冠したのは、チョウセンハマグリと同じで、本来の本邦の真正種と異なるものへ附ける、本邦の勝手な和名の常套手段だから(チョウセンドジョウ=カムルーチのように朝鮮半島に棲息する生物の場合もあることはある)、ますます困るのである。少なくとも、この異名は現行では見当たらない。「短薄」で味がワカメに近いという条件から考えると、

コンブ目チガイソ科アイヌワカメ属チガイソ(千賀磯)Alaria crassifolia

アイヌワカメ属ホソメコンブ(細目昆布)Saccharina religiosa var. religiosa

ミツイシコンブ(三石昆布=日高昆布)Saccharina angustata

が候補となろうが、これらは実は孰れも本邦の北方種で「西州」には植生しないから、実は全部ダメなのである。ワカメも伊豆半島以南の暖流に曝される西日本では殆んど採れない。そうなると、西日本でワカメの代用品として用いられた(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアントクメの旧ページを参照されたい)、

コンブ目コンブ科カジメ属アントクメ(安徳布)Ecklonia radicosaura

が候補となろうか。グーグル画像検索「アントクメ」の内、生体写真を見て戴くと判るが、生時のアントクメはくすんだ黄色から緑色を呈していることが判る。何より、和名が安徳天皇由来で、西海と親和性が強くあるからである。ぼうずコンニャク氏は『和名アントクメは文治元年(1185年)』、『壇の浦の戦いに敗れた平家と運命をともにして入水した安徳帝(安徳天皇)による」。参考文献/「日本産コンブ類図鑑」川嶋昭二 北日本海洋センター』とあり、壇の浦附近で獲れなくては「名にし負」わぬことになってしまうわけで、続いて、『伊豆半島以南太平洋側の岩礁行きに棲息する』とあるから問題ない。『形はやや細長いうちわ状。表面にコブ状の凸凹がある。春先から初夏にかけて採取され、利用される』。『伊豆半島仁科では「しわめ」、土肥では「とんとんめ」』と呼ばれ、『これはワカメほどの旨味味わいはないけれど』も『美味』とされ、『また』、『みそ汁などに使うときには水で戻したものを適当に切り、それをみそ汁に入れるだけ。これなど』、『ワカメだけの日常的海藻利用に変化があっていい』と述べておられる。以上から、私はこれをアントクメに比定したい。

「裙帶菜」「裙帶」は「くんたい・くたい」とも読む。十一~十二世紀頃の公家の女房たちが晴装束の際に裳 の腰につけて左右に垂らした紐のことである。中国風のもので、羅 (ら) などの薄布で作られた。異なった色が相半ばするのを特徴とする。八世紀頃の裾 (きょ) に附されていた飾りの縁が、独立して装飾化したものと思われ、染色を施したものがある。儀式以外では五節(ごせち)の舞姬などが着用した。これを「わかめ」とも読むが、それは次項の「裙帶菜」を参照されたい。]

大和本草附錄 うけうと (おきゅうと)

 

ウケウト 海草也煮テトコロテンノ如クカタマル。コンニヤ

クノ色ナルモアリ非佳品不可食

○やぶちゃんの書き下し文

うけうと 海草なり。煮て、「ところてん」のごとく、かたまる。こんにやくの色なるも、あり。佳品に非ず。食ふべからず。

[やぶちゃん注:益軒にしては加工食品の独立であるが、原料が海藻であるから採り上げる。所謂、福岡の名物「おきゅうと」である。当該ウィキによれば(太字下線は私が附した)、『おきゅうととは、福岡県福岡市を中心に食べられている海藻加工食品。「お救人」』、『「浮太」、「沖独活」』『とも表記される』。『成分の内訳は96.5』%『が水分、残りのうちタンパク質が0.4%、炭水化物が3%、灰分が0.2%である』。『すなわち』、『栄養は高くないが、独特の食感などが評価されている』。『江戸時代の』「筑前国産物帳」では『「うけうと」の名称で紹介されている』。『元来は福岡市の博多地区で食したが、その後福岡市全体、九州各地に広がる。福岡市内は、毎朝に行商人が売り歩き、専門の製造卸が1997年ごろに約10店あった』。『福岡県内は1990年代から』主『原料のエゴノリの不漁が続き、2000年代は石川県の輪島市などから仕入れている。主食が米飯からパンなどへ変わりつつあることから』、『消費が低迷している』。『原料のエゴノリ(「えご草」、「おきゅうと草」、博多では「真草」)と沖天(イギス、博多ではケボ)やテングサ』(私の後注を必ず参照)『をそれぞれ水洗いし、状態を見ながら天日干し』『を1』~『5回繰り返す。歩留まりは7割程度だが、本工程を省くと風味が劣り』、『色調が黒く仕上がる。テングサは香りが薄れるため、自家用の場合は洗う回数を減らすことがある』。『次にそれぞれ天日干したえご草と沖天をおよそ7:3から6:4の割合で混ぜ、よく叩く』。『酢を加えて煮溶かしたものを裏ごし、小判型に成型し』、『常温で固める』。『博多では、小判型のおきゅうとを丸めたものが売られている』。『良し悪しとして、あめ色でひきがあるものは良く、黒っぽいあめ色のものは好まれない。緑色のものには、「おきゅうと」として売られているが』、『まったく』、『えご草が使われていないものもあり、天草が主原料のものは「ところてん」で「おきゅうと」ではない』。『新潟県や長野県では、えご草のみを原料に、おきゅうとと製法が同じ「いごねり(えごねり、えご、いご)」が食される。おきゅうととの製法上の相違点は、えご草を天日干しせず、沖天を使用しないところである』。『5ミリから1センチの短冊状に切り、鰹節のうえに薬味として』、『おろし生姜またはきざみねぎをのせ生醤油、芥子醤油、ポン酢醤油、ゴマ醤油などで食す。もっぱら朝食の際に食す』。『語源は諸説あり』、『沖で取れるウド』・『キューと絞る手順』。『享保の飢饉の際に作られて「救人(きゅうと)」と称された』・『漁師から製法を習い「沖人」』『などが挙げられる』。『第二次世界大戦前の博多では、他の地方の』「納豆売り」や「しじみ売り」の『ように、明け方から』「おきゅうと売り」が『売り歩』き、その『掛け声は』「おきうとワイとワイ、きうとワイ」『だった』とある。『山形県、秋田県、新潟県、長野県安曇野地方で食されている「えご」「いご」「えごねり」「いごねり」や宮崎県の「キリンサイ」も、形は少し異なるが』、『紅藻類の海藻を用いる点で共通しており、同様の食品である』。『えごは、飢饉の際に漁師が見つけた海草を煮詰めて固めたもので、飢えをしのいだ事が由来とされる』とある。則ち、その主原料は、

紅色植物門真正紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides

である。当該ウィキによれば、『分枝する糸状の藻体をもち、胞子体は長さ 15』~『25 cm、配偶体は数cmになる。大型の海藻、特にホンダワラ類(褐藻綱)のヤツマタモク』(褐藻綱ヒバマタ亜綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ亜属ヤツマタモク(八ツ股藻屑)Sargassum patens)『やヨレモク』(ホンダワラ属バクトロフィクス亜属 Bactrophycus ハロクロア節 Halochloa ヨレモク(撚れ藻屑)Sargassum siliquastrum)『に着生して生育する』。『枝の先端が鈎状になり、絡み付いて塊になる。北海道から九州、韓国、中国から報告がある』。『広く食用とされ、特に煮溶かして固めた料理は日本海側を中心に「いごねり」・「えごねり」(佐渡島)、「いご」・「えご」(新潟県、長野県)、「うご」(京都府)、「おきゅうと」・「おきうと」(福岡県)などの名称で利用されている』。『2012年現在、天然資源の採取に頼っており、主要な産地は青森県であるが、好不漁の変動が大きい』。『養殖技術の開発も試みられている』。『イギス目イギス科』Ceramiaceae『に属するイギス』(海髪)Ceramium kondoi や同属アミクサ(網草)Ceramium boydenii 『も同様に煮溶かして固めたもの(いぎす豆腐など)が食用とされる』。『「おきゅうと」の配合品として用いられることもある。また』、『名前が「エゴノリ」と似た』、『刺身のつまなどに利用される『「オゴノリ」』(真正紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla )『は全く別の紅藻であ』るので注意が必要である。

次に副材料として加えるものは、

真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イギス目イギス科ギス連イギス属イギス(海髪Ceramium kondoi

及び、テングサとあるのであるが、天草(テングサ)類は紅色植物門真正紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae の総称であって、テングサという種は存在しないので少し面倒である。幸い、既に「大和本草卷之八 草之四 海藻類 心太 (ココロフト=トコロテン)」で詳細に注をしてあるので、そちらを見られたい。

「佳品に非ず。食ふべからず」益軒は福岡の現地人でありながら、許し難い罵詈雑言であると福岡出身の方は言うであろう。但し、私は如何なる海藻も自身で生で齧って試すほどの海藻好きであるが、実は「おきゅうと」は別して例外で、食べないわけではなく、出されれば、食べるが、しかし、好んでは食べないし、自分で買ったことも一度もない。あの中途半端な食感がかえって海藻由来らしくないからかと思う。だから、何となく、益軒のこの暴言は判らぬでもないというのが正直な感想なのである。]

怪談老の杖卷之三 狸寶劍をあたふ / 怪談老の杖卷之三~了

 

   ○狸寶劍をあたふ

 豐後の國の家中に、名字は忘れたり、賴母といふ人あり、武勇のほまれありて、名高き人なり。

 その城下に化ものやしきあり、十四、五年もあきやしきにてありしを、

「拜領して住居仕度(すまゐしたき)。」

段、領主へ願はれければ、早速、給はりけり。

 後に山をおひ、南の方、ながれ川ありて、面白き所なれば、人夫を入れて、修理(しゆり)おもふ儘に調ひて、引うつりけるが、まづその身ばかり引(ひき)こして、樣子を伺がひける。

 勝手に、大いろり、切りて、木を多くたき、小豆がゆを煮て、家來にも、くはせ、我も喰ひ居たり。

 未だ、建具などは、なかりければ、座敷も取はらひて、一目に見渡さるゝ樣なりしに、雨戶をあけて、背の高さ、八尺ばかりなる法師、出來れり。

 賴母は、少もさわがず、

『いかゞするぞ。』

と、おもひ、主從、聲もせず、さあらぬ體(てい)にて見て居ければ、いろりへ來りて、

「むず」

と座しけり。

 賴母は、

『いかなるものゝ、人にばけて來りしや。』

とおもひければ、

「ぼうづ[やぶちゃん注:ママ。]は、いづ方の物なるや。此やしきは、我れ、此度(このたび)拜領して、うつり住むなり。さだめて其方は此地にすむものなるべし。領主の命なれば、はや、某(それがし)が家舗に相違なし。其方さへ、申分(まうしぶん)なくば、我等に於てはかまひなし。徒然(つれづれ)なる時は、いつにても、來りて話せ。相手になりてやらん。」

と云ひければ、かの法師、おもひの外に居なほりて、手をつき、

「奉畏(かしこみたてまつり)し。」

と、いひて、大に敬(うやま)ふ體(てい)なり。

 賴母は、

『さもあらん。』

と、おもひて、

「近々、女房どもをも、引つれてうつるなり。かならず、さまたげをなすべからず。」

と、いひければ、

「少しも不調法は致し申まじ。なにとぞ、御憐愍(ごれんびん)にあづかり、生涯を、おくり申度(まうしたし)。」

と、いひければ、

「心得たり。氣遣ひなせそ。」

といふに、いかにも、うれしげなる體(てい)なり。

「每晚、はなしに來(きた)れよ。」

と、いひければ、

「難ㇾ有存候。」

とて、その夜は歸りにけり。

 あけの日、人の尋ねければ、

「何もかはりたる事なし。」

と答へ、家來へも、口留したりける。

「もはや氣遣なし。」

とて、妻子をもむかへける。

 かゝる人のつまとなれる人とて、妻女も心は剛(かう)なりけり。

 あすの夜も、また、來りて、いろいろ、ふる事など、語りきかせけるに、古戰場の物語などは、誠にその時に臨みて、まのあたり、見聞するが如く、後は座頭などの、夜伽するが如く、來らぬ夜は、よびにもやらまほしき程なり[やぶちゃん注:「程なり」は底本では「樣なり」であるが、所持する版本の表記のこちらの方が文意には相応しいので、そちらを採った。]。

 然れども、いづ方より來(きた)るとも、問はず、語らず、すましける、あるじの心こそ不敵なりける。

 のちには、夏冬の衣類は、みな、妻女かたより、おくりけり。

 かくして、三とせばかりも過ぎけるが、ある夜、いつよりはうちしめりて、折ふし、なみだぐみけるけしきなりければ、賴母、あやしみて、

「御坊は、何ゆへ、今宵は物おもはしげなるや。」

と問はれければ、

「ふと、まいり奉しより、是まで、御慈悲をくはへ下(くださ)れつるありがたさ、中々、言葉には、つき申さず。しかるに、わたくし事、はや、命數つきて、一兩日の内には、命、終り申なり。夫につき、わたくし子孫、おほく、此山のうちにをり候が、私(わたくし)死後も、相かはらず、御(ご)れんみんを願ひ奉るなり。誠に、かく、あやしき姿にも、おぢさせ給はで、御ふたりともに、めぐみおはします御こゝろこそ、報じても、報じがたく、恐ながら、御なごりをしくこそ存候。」

とて、なきけり。

 夫婦も、なみだにくれてありけるが、彼(かの)法師、立(たち)あがりて、

「子ども、御目見えいたさせ度(た)しと、庭へ、よびよせおき申候。」

とて、障子を開きければ、月影に數十疋のたぬきども、あつまり、首をうなだれて敬ふ體也。

 かの法師、

「かれらが事、ひとへに賴みあぐる。」

と、いひければ、賴母、高聲(かうせい)に、

「きづかひするな。我等、めをかけてやらん。」

と云ひければ、うれしげにて、皆々、山の方へ行ぬ。

 法師も歸らんとしけるが、

「一大事を忘れたり。わたくし、持傳へし刀あり。何とぞ、さし上げ申たし。」

と、いひて、歸りけり。

 一兩日過(すぎ)て、賴母、上の山へ行(ゆき)てみければ、いくとせ、ふりしともしらぬたぬきの、毛などは、みな、ぬけたるが、死(しし)いたり。

 傍(かたはら)に、竹の皮にてつゝみたる長きものあり。

 是、則(すなはち)、「おくらん」と云へる刀なり。

 ぬき見るに、その光(ひかり)、爛々として、新(あらた)に砥(とぎ)より出(いだした)るがごとし。

 誠に無類の寶劍なり。

 依ㇾ之、賴母、つぶさに、その趣きを書(かき)つけて、領主へ獻上せられければ、殊に以(もつて)御感(ぎよかん)ありけり。

 今、その刀は中川家の重寶となれり。

[やぶちゃん注:「中川家」江戸時代の豊後国(現在の大分県の一部)にあった岡藩(藩庁は岡城(現在の大分県竹田竹田。グーグル・マップ・データ)は、織田信長・豊臣秀吉に仕えた中川清秀の子で播磨国三木城主であった中川秀成が、文禄三(一五九四)年に岡城に入封し、彼は「関ヶ原の戦い」で東軍に属したため、徳川家康より所領を安堵され、一度の移封もなく、廃藩置県まで中川氏が藩主として存続した。本書では、有意に古い時代の設定をしたものがないから、この頼母なる人物も岡藩藩士と読んで、特段、問題はあるまい。]

2021/03/08

怪談老の杖卷之三 狐のよめ入

 

   ○狐のよめ入

 上州のたばこ商人(あきんど)に、高田彥右衞門と云ふ者あり。神田村[やぶちゃん注:群馬県藤岡市神田じんだ:グーグル・マップ・データ)か。]といふ處に住みけり。

 或時、同村の商人仲間とつれ立て、□□□[やぶちゃん注:底本では枠囲みで『原文脫字』とある。版本も孰れもほぼ三字分である。]村と云ふ所へ行(ゆき)、日くれて歸るとて、はるかむかふに、三百張(ぱり)ばかり、提燈の來る體(てい)なり。

 三人ながら、

『あやしき事かな。海道にてもなければ、大名衆の通り給ふべき樣もなし、樣(やう)あらん。』[やぶちゃん注:「樣あらん」は、「具体には判らぬけれど、何か特別な訳があるのだろう」の意。]

と、おもひて、高き處へあがりて、見て居(をり)ければ、通りより少し下に、田のありける中を、かの、てうちん、とをりけるが[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、かちのもの[やぶちゃん注:「徒(かち)の者」。徒侍(かちざむらい)。徒歩で供奉する武士、或いは、行列の先導を務める侍。]・駕わき[やぶちゃん注:駕籠の脇に付く番士。]・中間(ちゆうげん)・おさへ[やぶちゃん注:行列の最後にあって、前の散乱を指摘して整える者。殿(しんがり)。]、六しやく[やぶちゃん注:「六尺」前後で駕籠を担ぐ役を言う。「怪談登志男 廿七、麤工醫冨貴」の私の注を参照。]、なに一(ひとつ)でもかけたる事、なし。

 てうちんには、紋所なく、明りも、常のてうちんとは、かはりて、たゞあかくみゆるばかりなり。

 田の中を、ま一文字に、とをりて、むかふの林の中へ入(いり)ぬ。

「扨こそ。『狐のよめ入(いり)』といふもの、なるべし。」

と、いひあへり。此村の近處には、「きつねのよめ入」といふ事、度々、見たる人あり、といへり。

[やぶちゃん注:ちょっと、ぞくっとした。私の父は若き日、敗戦の後、考古学者酒詰仲男先生とともに群馬県多野郡神流(かんな)町の神流川(グーグル・マップ・データ)上流で縄文・弥生の遺跡発掘をしたが、その時、泊まった農家の向かいの山に幾つもの灯が列を成して登ってゆくの見、主人に尋ねると、「狐の嫁入りじゃ」とこともなげに答えたというのだ。この「神田村」は――その神流川の下流に――ある――のである!

怪談老の杖卷之三 慢心怪を生ず

 

   ○慢心怪を生ず

 藤堂家の家士に、藤堂作兵衞といふ人あり。

 力つよく、武藝に達し、容貌も魁偉なる士なり。

 常に、自ら、材にほこりて、

『世にこはきものは、なき。』

と、思へる慢心ありしに、江戶屋敷にて、座敷に、ひとり、書物など讀(よみ)て居(ゐ)ければ、なげしの上に、女の首計(ばかり)ありて、

「からから」

と笑ひ居(ゐ)けり。

 作兵衞、不敵の人なれば、白眼(にらみ)つけて、

「何の妖怪ぞ。」

と、

「はた」

と、ねめければ、きへうせけり。

 とかくして、厠(かはや)へ行たくなりければ、ともしびを持行けるに、雪隱(せつちん)の窓より、外に、今の女の首ありて、

「けらけら」

と、笑ひけり。

 その時は、少し、こはき心おこりしかど、目をふさぎて、靜(しづか)に用事を達し、立出(たちいで)て手を洗ひ、座敷になをり[やぶちゃん注:ママ。]しは、覺えけれども、昏沈(こんぢん)して、其後(そののち)の事を、覺えず。

 傍(そば)につかふ者共、見付て、いろいろ、介抱して、正氣づきぬ。

 夫より、慢氣する心をば、持(もた)ざりけり。

「そののちは、なにも、あやしき事はなかりし。」

と、いへり。

 作兵衞、直(ぢき)の物語りなり。

[やぶちゃん注:短篇ながら、実話怪談としての殆んどの必要条件の実証要素を含んだ優れものである。実在する藤堂家で、しかも藤堂を名乗る主家筋に家臣の、直接の聴き取りである。彼のいる屋敷(次注参照)が孰れかがしっかりと示されていれば、完璧だった。

「藤堂家の家士に、藤堂作兵衞といふ人あり」「藤堂家」と言えば、伊勢安濃(あの)郡安濃津(あのつ:現在の三重県津市)にあった津(つ)藩の当主が有名。​そうして、ズバリ、その重臣の家系に藤堂作兵衛家があるのである。初代藩主藤堂高虎(弘治二(一五五六)年~寛永七(一六三〇)年)の母方の従兄弟(高虎の叔母が忠光の父箕浦忠秀の妻)であった藤堂作兵衛忠光を初代とする。サイト「藤堂高虎 ​藤堂高虎とその家臣」のこちらによれば、『箕浦氏は、近江国箕浦庄に拠った国人で、高虎の出身地とは近いため』、『縁戚関係を結んだものと思われます』。『忠光は当初、織田信忠や寺西筑後守に仕えましたが、高虎が紀伊国粉河城主となったときにその家臣となります。以後、忠光は朝鮮役や関が原戦で戦功を挙げ、高虎から侍組を預けられて士大将となります。大坂の陣にも高虎の信頼する重臣として出陣の命を受け取りますが、惜しい哉、病に倒れ、慶長十九年十月死去しました』。『忠光には兄と弟がいました。兄の箕浦大内蔵忠重は早くから明智光秀に仕え、本能寺の変に際しては寺内に突入して勇戦しますが、明智家の滅亡により流浪。後に豊臣秀長、秀保に仕え、大和中納言家断絶後は浅野長政に仕えています。末弟の箕浦少内家次は忠光と同じく高虎に仕えました』。『忠光の死去後、嫡子・忠久が家督を継ぎ、大坂冬の陣に叔父・家次の補佐を受けて父の侍組を率いて従軍、翌年は新七郎良勝の相備として出陣しています。但し忠久は病弱であった模様で士大将の職を自ら辞しています。高虎は信頼する忠光の長男でもあり、何処にでも療養に行く』よう、『懇ろの扱いとしましたが、寛永六年』、『若くして病死しました』。『忠久の嫡子・忠季は未だ幼少で勤務には早かったため禄高は半減し五百石とされましたが、高虎はこの幼い後継者が心配だった様で、自らの娘と婚約させています』とあり、下方の系図では、第四代藤堂作兵衛光狎(読み不詳)まで記されてある。この直系と見て間違いあるまい。なお、私などは「藤堂家」というと、直ちに津藩重臣藤堂修理家(初代藤堂長則)を思い出す。長則は上野城内の二の丸に屋敷を与えられて藩主家に仕えたが、この藤堂修理家こそが松尾芭蕉の実家(少なくとも芭蕉出生当時は大分以前から農民であった)が仕えた主家であったからである。なお、津藩上屋敷は東京都千代田区神田和泉町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった。地図上の「神田和泉町」のほぼ西三分の二近くがそこであった。下屋敷ならば現在の駒込四~五丁目でかなり広大であった(北西では現在の染霊園を殆んど呑み込んでいる。ロケーションとして後者の方がいいな。私は特異的にこの附近に詳しいのである。私の古いフェイク小説「こゝろ佚文」の写真は染井霊園である。因みに、その奥の東京都豊島区巣鴨五丁目に慈眼寺という寺があろう。芥川龍之介の墓がある(サイド・パネルの写真)。私はこの座布団一枚分の大きさ(龍之介が生前に盟友で画家の小穴隆一に託したもので、小穴がデザインした)の墓を、私は大学を卒業した直後に、お参りし、墓もごしごしと洗ったのだった。

「昏沈」(こんじん)は実は仏教用語でサンスクリット語に由来する仏教で説く煩悩の一つを指し、「心の沈鬱」・「心が上手く機能していないこと」・「心身が物憂いこと」・「塞ぎ込むこと」で、心を沈鬱で不活発な状態にさせる心理作用やそうした状態を指す。ここは、しかし、記憶を失って失神しているのだから、昏倒の意でよい。]

怪談老の杖卷之三 德島の心中

 

   ○德島の心中

 阿波の德島に筏屋(いかだや)といへる材木問屋ありしが、此店(たな)は大坂店(だん)にて、此先祖より世帶は大坂にたてゝ、阿波は手代持(てだいもち)の樣にし、主人も半年程づゝ、阿波に下りて世話しける。

 忠兵衞といへる主人の時、阿波の在邊に、宮部周庵とて、醫師をして、大百姓のありし。

 娘に「ちさ」とてありし。當年十五にて、其容儀、一國にもならびなき程なりしを、ふと、見そめて、人をたのみ、貰ひけるに[やぶちゃん注:仲人を立てて、嫁に貰うことを交渉して貰ったところが。]、周庵も、あらまし、合點しけれど、

「大坂へ遣はす事、船の上、氣遣ひなれば、德島の店におくならば、相談すべし。」

と、いひけるが、忠兵衞、身も世もあらぬ程に執心なれば、

「やすき事なり。」

とて、

「阿波の店へ迎へ取りて、婚禮、取結ばん。」

と、いひける。

 重手代共は、

「阿波の娘ばかり、女にてもあるべからず、先祖より、『世帶は大坂に定(さだま)りたる家法にて、決して阿波に妻子おくべからず。家の爲、あしき事、あるべし』と、遺言同然なれば、無用。」

と、いひけれど、忠兵衞、少しも用ひず、

「大坂にては、妻女ども、奢(おご)りて、家の爲にならず。結句、阿波へ世帶を引移(ひきうつ)したるがよし。そちたちが了簡は、杓子定規なり。むかしの法は、今のやくには立ぬ。」

とて、終(つひ)に阿波へ妻を引取り、大坂の店を手代にまかせおき、しばしの間をも、別れを悲(かなし)び、德島にのみ居(をり)けるが、命數限りありけるか、又、晝夜をわかぬ水遊び[やぶちゃん注:遊女を揚げて遊ぶこと。]の不養生にや、二月程、煩ひて、身まかりぬ。

 未だ、子なし。手代どものなげき、「ちさ」はかなしび、偏(ひとへ)に闇夜に燈(ともしび)の消(きえ)たる心なりしかど、阿波にも、手代ども、しつかりとありて、商賣のかけ引、油斷なければ、主人息才[やぶちゃん注:「息災」に同じ。]なりしときのごとく、繁昌しける。

 後家も、いまだ、十七になりければ、娘同然と、あどなき[やぶちゃん注:「あどけなし」に同じ。]程なるを、忌服(もふく)[やぶちゃん注:「服喪」のこと。通常は一年。]も過(すぎ)なば、

「外(ほか)より、入緣なりとも、取結びて、筏屋の、あと式を、かためん。」

と、年久しき久右衞門といへる老人の手代、阿波へ下りて居(ゐ)ける。

 爰に、此家に松之助とて前髮[やぶちゃん注:月代を施していない前髪姿の元服していない少年。]の小者あり。津の國長柄(ながら)[やぶちゃん注:現在の大阪府大阪市北区の長柄地区(グーグル・マップ・データ)。]の者にて、親元も賤しからざる者なるが、親、きびしき生れにて、

「人につかはれて見ねば、人はつかはれぬものなり。若きときは、何をしてもよし。」

とて、此家ヘ小僕《でつち》奉公に出し、阿波の店へ、下しおきける。

 生れつき、みやびやかにて、しかも發明なる生たちなりければ、忠兵衞、世にありしとき、殊の外、あいして、我(わが)そばをはなさず遣ひける。

 忠兵衞、楊弓[やぶちゃん注:「やうきゆう」。矢場で楊 (やなぎ) 製の小弓で的を射る遊戯。]・茶の湯・俳諧など好きければ、「ちさ」と、松之助、いつも相手にてありけるに、何事も器用にて、俳諧は忠兵衞よりも、よき程なりし。

 忠兵衞、おはりても、ちさが相手にて、楊弓など、ゐたり、茶、俳諧などもしける程に、「ちさ」が傍(かたはら)をはなれず、主從の樣にもなく、「遊びがたき」[やぶちゃん注:遊び相手。]にてありけるが、たがひに愛する心より、戀慕のやみに、禮義をわすれ、また「ちさ」も淋しきねやの内に、先夫のありしよの事など、おもひ出(いだ)せし雨の夜(よ)などは、松之助を、ねやへよび置(おき)て、

「そちは、且那の、殊の外、不便(ふびん)下されしものなり。そち計(ばかり)が且那の形見なり。」

など、たはぶれしより、いつとなく、偕老のちぎり、あさからず、

「外(ほか)に女の手をもとるまじき」

といふ起請まで書せて、「ちさ」が方へとり置けるを、家内のものは、夢にもしらず。

 はや、忌服もたちし事なれば、伴頭久右衞門、思ひけるは、

「若き後家御(ごけご)を、ひとり置かんも、いかゞなれば、大坂北濱[やぶちゃん注:大阪府大阪市中央区北浜。]に、先(さきの)忠兵衞從弟(いとこ)ありしを入緣(いりえん)に取りて、筏屋の跡を相續せん。」

と、まづ、周庵へ相談しけるは、

「後室さま事、未(いまだ)御若き事なれば、北濱の善右衞門、弐番目のむすこ、當(たう)三十餘(あまり)にて實體(じつてい)なる人なれば、入緣に取らんと存(ぞんず)るなり。貴公さへ御得心(ごとくしん)ならば、且那一家衆[やぶちゃん注:亡き旦那(忠兵衞)の親族一同。]は不ㇾ殘合點なり。おちささまへも申上候へども、とかく壱人おきてくれ候やうにと仰候が、是は御前さへ御のみ込なされば濟む事。」

と談じける。

 周庵も久右衞門が忠勤に感じて、悅(よろこび)に堪へず、

「娘事(むすめこと)は少しも氣遣ひ給ふな。我等、請(うけ)あふなり。善は急げなり、はやく、しるし[やぶちゃん注:婚約状。]を取給へ。」

とて、急ぎて相談しける。

 神ならぬ身こそ、かなしけれ、「ちさ」は、はや、忍び忍びのかたらひ、滯りて、五月になりければ[やぶちゃん注:妊娠していたのである。]、

「いかゞはせん。」

とかなしく、

『所せん、自害。』

と、おもひけれど、故鄕のおやにも、なごり、をしまれて、

「一度(ひとたび)、御目にかゝりし上、ともかくも。」

と、久右衞門に願ひて、

「親里へ見舞度(たき)。」

よし、云ひけるを、久右衞門は、

『周庵方より、此間(このあひだ)の相談に、呼びよせしなるべし。』

と推(お)しければ、悅びて、

「いか樣(さま)、御不幸よりのちは、ひさぐ氣も御つめ被ㇾ成候へば、御出被ㇾ成、ゆるゆる、御保養なさるべし。御前(ごぜん)の御氣に入りの松之助をつれて御出被ㇾ成よ。女共も、誰(たれ)かれ。」

と、如才なく世話しける。

 「ちさ」は、松之助が事、心の鬼[やぶちゃん注:ふと心に思い当たる「良心の呵責」の意。]に、はづかしく、

『若(もし)や、此事、さとりしにや。』

と、おもふ。

 とかくいふも[やぶちゃん注:そうは言っても。久右衛門が松之助を連れて行かれませと言ってくれたので。]、嬉しければ、松之助、其外、若き女共、引つれ、駕にのりて里へ行ぬ。

 道すがらは、我(われ)はおりて、松之助をのせなど、いたはりけれど、松之助は、おとなしく發明なるに、家内みなみな、かはゆがりて、贔屓(ひいき)しければ、氣を廻(まわ)すもの壱人(ひとり)もなかりけり。

『よくよく、松之助、愛ある生れなりし。』

と覺ヘぬ。

 扨、親周庵夫婦、悅びて、早速、久右衞門が入緣の相談せし物語をし、

「とかく、久右衞門殿、次第になりて居(を)るべし。」

と、いひけるを、

「その義は、いく重(ゑ)にも、御ゆるし。」

と、いひければ、後には、周庵、いかりて、殊の外、おどし、呵(しか)りける。

 かねては、

『松之助わけ[やぶちゃん注:松之助とわけありの関係になったことを。]うちあけて、母へなりといはん。』

と、おもひ、行しが、中々、云ひ出(いだ)すべきたよりもなければ、また、松之助をつれ、德しまへ歸りて後、弐人ながら、心中して死ぬるにきはまりて、あけの日、松之助に手箱の金(かね)もたせ、吳服物商(あきな)ふ家へ遣(つかは)し、死裝束(しにしやうぞく)を拵(こしら)へける。

 心のうちぞ、むざんなり。

 頃は十一月末の事なれば、我は白むく計(ばかり)拵へて、五つ、きたり。

 松之助にも、下へ淺黃(あさぎ)むく・黃むく、上に黑羽二重を着しける。

 いつも藏へ「ちさ」衣類など出(いだ)しに行(ゆく)ときは、松之助が、手燭を持行(もちゆ)ける間(あひだ)、今宵も、ふたりにて行しが、待(まち)ても、下(した)へおりず。

 召仕ひの女御《をなご》ども、あやしみて、二人づれにて、行て見れば、いつの間に、はこびおきけん、提子[やぶちゃん注:「ひさげ」。銀・錫製で鉉 (つる) と注ぎ口のある小鍋形の銚子 (ちょうし) 。]・さかづきなどあり。蒲團(ふとん)の上へ氈[やぶちゃん注:「かも」。獣毛で織った敷物。]を敷(しき)、松之助、さきへ死したりと見へて、ふえを、かき、うつぶしに、ふしたる上へ、「ちさ」も、打かゝりて死し居たり。

 いづれも、きれいに[やぶちゃん注:ママ。]死(しし)たり。

 下女は、是をみて、きもをつぶし、下ヘおりて、久右衞門にしらせけり。

 久右衞門、おちつきたるものなれば、下女の口をとめ、壱人、上(あが)りて、それより、、周庵、よびに遣はし、奉行所へ訴へ、檢死を乞ひて、別事なく、取おきぬ。

 久右衞門、こぶしを握り、

「かくと、夢にもしり候はゞ、若き夫婦ふたり、ころしは致申(いたしまうす)まじ、松之助も、此家のあとめに立(たち)ても恥かしからぬものなり、さても、殘念さよ。」

と、甚(はなはだ)くやみし、と云へり。

 夫より、筏屋の家、おとろへ、此家も人の手へ渡りぬ。

 此家藏(いへくら)を買(かひ)て來りし人、ある時、藏へ用事ありて、五ツ時分[やぶちゃん注:午後八時頃。]に、手燭をともし、上りければ、人影のみゆる樣(やう)なるを、

『盜人にや。』

と、怪しくて、伺ひみければ、松之助、「ちさ」が、ありし姿、あらはれて、ふたり、手をとりくみ、なきみ、笑ひみ、しける。

 かの者、不敵の者にて、事ともせず、上りて見ければ、はや、消えうせて、みへずなりける。

 夫(それ)より、藏をば、こぼちて、賣り、佛僧を請じて、經、よみ、いろいろの作善(さぜん)して、ふたりの菩提を懇(ねんごろ)に弔ひしと、いへり。

 

大和本草附錄 櫻苔(サクラノリ) (サクラノリ)

 

櫻苔 壹岐ノ島海岸ニ產ス其色紅白似櫻花片々

相屬浸酢鼓而食之脆鬆而潔淸味亦佳

○やぶちゃんの書き下し文

櫻苔(さくらのり) 壹岐(いき)の島、海岸に產す。其の色、紅白。櫻花に似たり。片々、相ひ屬す。酢鼓(すみそ)浸して之れを食ふ。脆(ぜい/もろし[やぶちゃん注:右ルビ/左ルビ、])鬆〔しよう/そう〕にして、潔淸〔たり〕。味も亦、佳(よ)し。

[やぶちゃん注:これは困った。まず、壹岐の海藻でかく呼ばれているものが見当たらないことが大きい。壹岐の海藻食品を調べてもそれらしいものがない。とすれば、恐らくは壹岐に限るなら、岩礁性海藻と考えた。しかも、流通に廻るような有意に多く採取をすることが難しく、養殖も出来ない或いはなされていない種であろうと仮定した。田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)を調べると、立項されていないものの、岩礁地帯に生育する紅藻植物門紅藻綱マサゴシバリ亜綱イソノハナ目ムカデノリ科ムカデノリ属スギノリ目ムカデノリ科マツノリ Polyopes affinis の項に類似種としてサクラノリが出ていた。さらに、鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」のこちらに、標準和名で、

紅藻植物門真正紅藻亜門真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イソノハナ目ムカデノリ科ムカデノリ属サクラノリ Grateloupia imbricata

として当該種の生態写真も見ることができた。そこには『海藻の多くは種同定に窮するものですが』、『本種は太平洋中部に生育する紅藻の中で』も、『普通種でありながら』、『自信を持って名前を付けた』(同定比定した)『経験がただの一度もありません。著者にとって苦手とする種類の一つで』、『台湾で採集した個体を見る限り,生殖器官が枝の前面に散在するのが最も顕著な特徴と考えられ』、『外形については,比較的体下部付近から分枝することが特徴となるようで』あるが、『他のムカデノリ属(Grateloupia)の例に漏れず』、『激しく形態変異し』、『淡路島で採集した個体(DNA鑑定済)は肉厚で幅広く』、『ミゾオゴノリ(Gracilaria incurvata)などのオゴノリ類かと思ったほどで』あると述べられ、さらに、『「肉厚な」というのは本種について図鑑等で良く見られる表現で』あり、寧ろ、『台湾の個体の方が変わっているのかもしれ』ないと言い添えておられる。この田中氏の採取した台湾産のそれが、肉厚でないとすれば、或いは、同じ対馬海流域にある壹岐のそれが或いは益軒の言うように、「脆」(もろ)くてしかも、藻体内が緻密でなく「鬆」(音「ショウ・ソウ」で、訓では「す」、則ち、「豆腐にすが入ってしまう」の「す」で、「内部が充実しておらず、空隙があること」を指す)が入っているというのもあり得ないことではないように思われる。写真を見るに、一見、がっしりして見えるのだが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のサクラノリのページを見ると、『長さ10cm前後にな』り、『根元は平たくクサビ』(楔)『状』を呈し、『触ると』、『柔らかい』とあって、肉厚でも、藻体は柔らかであるようである。また、和名についても、『漢字/桜海苔』とあって、『由来・語源/広げると』、『桜の花びらに似ているため』とあるのである。問題はそうなると、益軒の言う色、「紅白」である。しかし、そもそもが、海藻で生体が紅・白の二様にくっきりと分かれて個体や個体群があるのであれば、これはまず、非常に目立つし、潮間帯下の岩礁性海藻ならば、まず、一般的に非常に知られていなくてはならないはずである。しかし、そんな海藻は私は寡聞にして漏れ聴いたこともない。とすれば――この紅白とは、「個体によって紅色の強いものと、白っぽい二種がある」と言っているのではないか?――と思われるのである。そこで、鈴木氏のページの頭の四枚の写真を見ると、生体時には、褐色のやや強い個体と、明らかにそれが脱色したかのような白いとは言わぬまでも、かなり薄い褪赭色の個体があることが判明する。さすれば、前者を後者に比して「紅」と言い、後者を「白」と言っても、強ち、言い過ぎとも思えない気がしてくるのである。しかも和名は「桜海苔」なのだ(但し、藻の先の形とのことであるが)。「ほんのり桜色」というのは「紅」よりも「白」い色を私は意識する。益軒の記載が痩せているので、他の種である可能性もあるが、取り敢えず、私はサクラノリに同定しておく。

「潔淸」これは藻体を触った時の感触及び、切った内部、生で噛んだ場合などに、粘つきがないことを言っているものと思う。

「味も亦、佳(よ)し」田中氏はマツノリの記載の中で、『コメノリ同様ぷりぷりした感じでとても歯触りがよい』とされる。コメノリはスギノリ目ムカデノリ科コメノリ Polyopes prolifera で、前に述べた通り、この前で田中氏は『類似種のコメノリやサクラノリ』と述べておられるわけで、本サクラノリが食用になることは、この記載から私は間違いないと踏んでいる。]

芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6)十一月十九日附井川恭宛書簡

 

大正二(一九一三)年十一月十九日・京都帝國大學寄宿舎内 井川恭君 直披・十九日朝 芥川龍之介

 

菅さんの家へついたのは午後五時頃だつた

鎌倉から江の島へ行つて江の島から又由井ケ濱までかへつて來たのである 先生の家は電車(鎌倉藤澤間の)の停留所から一町[やぶちゃん注:百八メートル。]ほど離れてゐるがそれもおみやげに江の島から持つて來た榮螺を代る代るさげてあるく藤岡君と僕とには可成長い路のやうに思はれた

鼠がゝつた紺にぬられた木造の西洋建の窓にはもう灯があかくさしてゐる ごめん下さいと云ふと勢のいゝ足おとがして重い硝子戶があいた うすぐらい中に眼の凉しいかはいよ男の子の顏が見える「先生は御出でですか」とたづねると「はい」と會釋をしてすぐまたうすぐらい中にみえなくなる

靴をことこととならしながら待つてゐると菅さんの顏が玄關から出た「おはいり さあおはいり」

案内されたのは二階の先生の書齋だつた 戶口には斑竹へ白く字をうかせた聯がかゝつてゐる はいると四方の壁にも殆隙間なく幅がかけてあつた 悉支那人の書でそれが又悉何と考へてもよめさうもない字ばかりである 紫檀の机の上には法帖と藍い帙にはいつた唐本とがうづたかくつんである 隅のちがひ棚の上には古びた銅の置物と古めかしい陶器とがならんでゐる すべてが寂然として蒼古の色を帶びてゐるのである

今めかしいのは高い天井から下つてゐる電燈と廣い椽にすゑた籐椅子ばかり 白麻の緣をとつた疊も唐木の机も机の周圖に敷いた白い毛皮も靑い陶器の火入れも藍のつむぎの綿入をきた菅さんも何となく漢詩めいた氣分の中におさまつて見える

窓には帷がおりてゐたが晝は近く松林の上に海を見る事が出來るのであらう 窓のわきに黑い蝕んだ板がたてかけてゐる 上には模糊として文字のやうなものが蝸牛のはつた跡のやうにうすく光つてゐた あれは何ですときくと先生は道風ぢやと答へた 自分はしみじみ先生があの靑磁の甁に幽菊の一枝をさしあの古銅の香爐に一炷の篆煙を上らせないのを殘念に思つた 奧さんのなくなられたあとの三年間を先生は五人の御子さんの一緖に二人の下女を使つて此湘南の田園居に悠々とした日月を送つてゐられるのである 先生の書に於ける鑑識が天下に肩隨[やぶちゃん注:「けんずゐ」。]するもののない事は前からきいてゐた しかし書を作る上から云つても先生の造詣に及ぶものが何人ゐるであらう「此夏休みには日に一萬字づゝ書かうとしたがどうしても六七千字どまりぢやつた」と云ふ先生にとつて獨乙語の如きは閑余[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]の末技に過ぎないのであらう

自分たちはチヨコレートをすひながらこんな逸話をきいた

先生が此間なくなつた梠竹をたづねた事がある 三四度留守と稱して斷られたあげくにやつとあへた あふと七十余歲の梠竹は白鬚髯[やぶちゃん注:「はくしゆぜん」と読んでおく。しらひげ。]を撫しながら「お前さんは何用あつて來たのぢや」と云ふ

「書法についての御話がうけたまはりたくてまゐりました」

「わしは書法なんと云ふものはしりませんて さう云ふ事は世間に澤山話す人がゐるからその人たちにきゝなさい」

「その人たちの話がきゝたくないからあなたの所へあがつたんです」

この會話は先生の語(コトバ)[やぶちゃん注:ルビ。]をきいた通りにかいたのである

梠竹は何と云つても書法はしらないで押通す 先生もとうとう我を折つてかへつて來た さうすると一月あまりのうちに梠竹が死んだ。所が先生の親友に大井(?)哲太郞と云ふ詩人がゐる 詩の外に書もよくする人ださうだが梠竹と師弟のやうな關係で其上意氣相投ずる所から死ぬ迄親しく交つてゐたので先生がその人にあつた序に梠竹の話しをするとその人が云ふには

「そりやあ惜しい事をした あなたの來たあとで梠竹がわたしをよんで菅と云ふ男がこんな事を云つて來たがお前は同鄕だしどんな男か知つてゐるだらうと云ふから 知つてる所ぢやあない 支那に三年も行つてゐたこれこれかう云ふ男だと話してきかせると梠竹は大變殘念がつて 俺は早速鎌倉へ逢ひに行きたい お前案内をしてくれと云ひ出した 云ひ出してすぐ病氣になつて死んだのぢやから梠竹もあなた同樣殘念だらう」

と云ふ事だつた

自分はこんた話をきいてゐる中に非常に面白くなつた そこで書家の噂になると先生は「之はわしの先生がかいたのぢや ごらん」と云つて厚い紙にかいた五言の律詩を見せてくれた 字は六朝の正格である 不折の比ではない 自分は感心して見てゐた「たゞかいてゐたつて仕方がない かうしてみるがいゝ」先生はその紙を手に灯にすかすやうにして見せてくれた 字の劃が中央は黑く左右は銀のやうに墨がたまつて厚紙の上に字を凹彫にしたやうに見える「どうぢや かうなれば一家を成したと云へる 日本の書家には一人も之が出來ない」自分は愈感心した

先生は今度は李瑞淸の法帖をあけて「香」の字を指しながら

「この★を見なさい 内圓にして外方と云ふのが六朝の正体[やぶちゃん注:「せいたい」。ママ。]ぢや 日本の書家は之を能くしない」[やぶちゃん注:底本に挿入されてある芥川龍之介の直筆画像をトリミングして下に示した。]

Jikaku

大きな銅硯に唐墨をすつて鋒[やぶちゃん注:「ほこさき」。筆先。]の長い筆をひたすとそばの半紙の上へ同じ字をかいてみせる 内圓にして外方なる鉤が出來る

それから澤山の碑文や法帖や手簡や扇面をみせてくれた その中で「これが漢の古碑文ぢや 不折が復製を手に入れたと云うてうれしがつてゐたがわしのは原文だ」と云つて見せたくれた[やぶちゃん注:ママ。]のが最も古色を帶びたもので形容したら鳳篆龍章とも云ふやうな字が明滅して並んでゐた

かうしてゐるうちにいつか時がたつて汽車がなくなつてしまつた

先生は「とまつてゆきなさい」をくりかへす さう云へば一寸とまつて見たいやうな氣もする 何となく部屋のなかにみちてゐる瀟洒とした風韻が人を動す[やぶちゃん注:「うごかす」。]のだ そこでとうとうとめてもらう事にした 最後に先生は有合せの紙に

 

   沿河不見柳絲搖

   步向靑谿長板橋

   丁字簾前猶彷彿

   更誰間話到南朝

 

とかいてくれた

 

翌日先生の[やぶちゃん注:ママ。]一緖に東京へかへつてすぐ學校へ出て五時迄授業をうけたらへたへたになつた 文展の最終日にも行きそくなつてしまつた[やぶちゃん注:ママ。]

文展は昨日[やぶちゃん注:底本にママ注記。昨年の誤記であろう。]ほど振はなかつたが日本畫の第二部で牛田雞村の町三趣と土田麥僊の海女とがよかつた 唯癪にさはるのは久米の外に海女に同情を示す人がない事だ 石田君なんぞは全然不賛成だと云ふ(之は寧光柴榮に感じるが)谷森君のおぢさん(審査員)は「怪物」だと云つたさうだ 文展は大阪であるんだらう さうしたら殊にこの二つをみてくれ給へ 海女の海のウルトラマリンには僕も全然は賛成はしないが左の半雙の色調と海女の運動のよく現はれた點では成功が著しいと思ふ 町三趣は朝もいゝが夜が殊にいゝ(少し遠近法を無視しすぎて「夜」の石垣なんぞに變な所があるが)谷森君は「驛路の春」がすてきにすきださうだ

エレクトラはすこしほめすぎて大阪迄君をひき出したやうな氣がして恐縮だ 其後「夜の宿」を見て役者のどれよりも舞台[やぶちゃん注:ママ。]監督としての小山内氏の伎倆に敬服したが之はかく迄もない

帝國ホテルのヴエルヂイの紀念會があつた ドブロボルスキイと云ふ女のひとのうつくしいソロをきいた たゞおしまひの四部合唱に泣き佛の中島かね子さんとザルコリとタムとドブロボルスキイと出た時にはどうしても西洋人が四人で泣き佛をいぢめてるやうで氣の毒だつた ザルコリの音量は實際豐なものだと思ふ

大塚に地所をかりた 冬をこして二月頃から普請にかゝる 今より廣くなるから今度君がくるときにはもつと便利になる

石田君が一高へ歷史會を起した 講義をずべつて迄一高へ行つて世話をやいてゐる

山本のやつてる野外劇場は泉鏡花の紅玉を田端の白梅園でやつて失敗した 當事者の久米でさへ「見てられない位まづいんだからな」つて云つてた

谷森君は不相變眞面目にやつてゐる 佐野と根本とがずべつてゐる 成瀨は月謝を皆にかしてしまつた所へ月謝の催促が來たと云つて悲觀してゐる 根本なんぞは國から洋服をこしらへる金をとつてそれを使つてしまひ洋服は出來るとすぐ二度程きて勘定は拂ず[やぶちゃん注:「はらはず」。]に質へ入れてしまつたさうだ その金で今は三崎へ行つてゐる

まだあつた 黑田も石原もずべつてゐる 久米と成瀨は可成眞面目に學校へ出てゐる 佐伯君は大學の橡[やぶちゃん注:「とち」。]の木の下で午休みによく座禪をくんで腹式呼吸をやつてゐる

 

   DOVROVOLSKY夫人も秋の夜はさびしと思ふことありや灯を

   S1GJNORIA NAKAJIMAのきる紫の羽織もさむき夜となりにけり

   秋の夜のホテルの廊を画家南薰造のゆくにあひにけるかな

   バアナアドリイチと語る黑服の女はみゝづくによく似たるかな

        (帝國ホテルにて――四首)

[やぶちゃん注:第三首の「画」はママ。]

 

[やぶちゃん注:一箇所、行末改行で文が続いている箇所に字空けを施した。短歌の後書は実際には最終歌の下三字下げ位置から記されてある。

「菅さん」菅虎雄(すがとらお 元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)はドイツ語学者で書家。芥川龍之介の一高時代の恩師。名物教授として知られた。夏目漱石の親友で、芥川龍之介も甚だ崇敬し、処女作品集「羅生門」の題字の揮毫をしたことで知られる。私の『小穴隆一「二つの繪」(31) 「影照」(6) 「暮春には春服」』に画像を掲げてあるので見られたい。以下、当該ウィキによれば、『筑後国御井郡呉服町(現・福岡県久留米市城南町)の医師、菅京山の次男として生まれた』。明治一三(一八八〇)年、十七歳の時に上京し、明治二四(一八九一)年、『日本初のドイツ文学士として帝国大学文科大学独逸文学科を』『卒業後』(サイト「e- ざ鎌倉・ITタウン」の『「鎌倉文士村」ができたわけ(2)』の「菅虎雄の存在と夏目漱石」には、入学時は東京帝国大学医学部で後に転部したとある)、『教師として、東京外国語学校、第五高等学校、第三高等学校教授等を歴任』、明治二九(一八九六)年には『漱石を五高へ招い』ている。明治四〇(一九〇七)年九月に『第一高等学校に着任』、以後、昭和一五(一九四〇)年三月に『依願退職するまで』、『同校ドイツ語教師として勤務した』。『息子の菅忠雄は文藝春秋社に務め、川端康成の創刊した同人誌『文藝時代』の同人』として小説を書き、芥川龍之介とも親しかった。『菅が帝大にいた時、英文学科の』二『年後輩に夏目金之助がいた。菅は、漱石を五高へ招いたり、円覚寺への参禪を促したり』して、二『人は生涯に渡って親友であり続けた。ちなみに、漱石は』明治三〇(一八九七)年四月十八日に『正岡子規宛の手紙に、「今春期休に久留米に至り高良山に登り、それより山越を致し発心と申す処の桜を見物致候。……」と書いている』が、『これは親友の管虎雄が病気のため五高を辞して、郷里久留米に引きこもったのを、見舞うための旅行であったようだ』(小宮豊隆「夏目漱石」)。『能書家としても知られ、漱石の墓碑銘は菅虎雄の手になる。なお、新全集の宮坂年譜によれば、菅家を訪問したのは、この書簡日附の三日前の十一月十六日(日曜日)のことであった。

「電車(鎌倉藤澤間の)の停留所から一町ほど離れてゐる」現在の「江ノ電」(江ノ島電鉄)である(但し、正確には当時は「横浜電気株式会社江之島電気鉄道部」)。菅の家の位置が今一つ判然としないが、「藤岡君と僕とには可成長い路のやうに思はれた」と言っているところを見ると、「長谷」駅で降りて、東方向の路地を迷ったもののように思われる(グーグル・マップ・データ航空写真。あの辺りは今でも路次がうねうねしているから腑に落ちる。私は大学時分に月に一度は鎌倉探索をしたが、その途次、まさにあそこで日暮れて袋小路に入ってしまい、仕方なく段差を飛び降りて、危うく足を折りそうになったことがあった。それを下らぬ小説にして同人誌に書いたのでよく覚えている)。前掲のサイト「e- ざ鎌倉・ITタウン」の『「鎌倉文士村」ができたわけ(2』の「菅虎雄の存在と夏目漱石」によれば、菅は明治四三(一九一〇)年から「鎌倉町由井ケ濱海岸通り 小林米珂莊」に『移り住み』、大正一〇(一九二一)年には「鎌倉町亂橋材木座一一六六番地」に移転、さらに昭和一三(一九三八)年には「鎌倉町二階堂一二九番地」に移って『没するまでここに住』んだとある。この「小林米珂莊」(こばやしべいかそう)とは漱石の「こゝろ」の冒頭にちらと出る「鎌倉海浜院ホテル」(現在の由比ガ浜海浜公園付近にあった)の取締役であったイギリス人法律家で明治期に日本に帰化して小林米珂(一八六三年~一九二九年:Joseph Ernest De Beckerのペン・ネームで日本の性風俗や法律についての著作も出版しており、小林米珂名義で日本で弁護士登録をし、他に日清蓄音器・帝国木製・帝国船舶の取締役のほか、鎌倉で不動産業も営んだ。ここはウィキの「小林米珂」に拠った)が、ホテルとは別に鎌倉町材木座(現在の鎌倉市由比ヶ浜)に九戸の借家「小林米珂荘」を経営しており、その一つに菅が住んでいたのである。

「藤岡君」既出既注

「斑竹」(はんちく)は表面に斑紋のある竹の総称。

「聯」(れん)は中国で対句を書いたり刻んだりした細長い札のこと。中国では装飾として柱に左右対称に対聯(ついれん)として掛けたりする。

「帷」筑摩全集類聚版脚注は『たれぎぬ』とルビする(編者の勝手なルビ)が、従えない。「とばり」で読みたい。

「一炷」「いつちゆう(いっちゅう)」或いは「いつしゆ(いっしゅ)」は香を炷(た)いて煙を立ち昇らせることを言う。

「篆煙」篆書の字のように曲折しうねるように立ち昇る烟のこと。

「チヨコレート」「すひながら」で判ると思うが、これはココアのことである。

「梠竹」梧竹の誤り。発音も異なり、芥川龍之介にしては痛い誤記である。中林梧竹(なかばやしごちく 文政一〇(一八二七)年〜大正二(一九一三)年八月四日)は書家。日下部鳴鶴・厳谷一六とともに「明治の三筆」の一人。名を隆経。梧竹は号。他に剣閣主人とも称した。出身は代々鍋島藩の支藩小城(おぎ)藩(現在の佐賀県小城市。グーグル・マップ・データ)の家臣の家柄であった。幼い頃は草場佩川に師事し、十九歳の時に江戸に遊学して山内香雪に書を学んだ。二十八歳で帰藩して小城藩士として藩校興譲館指南役などを勤めた。維新後に長崎に移り住み、明治一一(一八七八)年には清国の初代長崎領事の余元眉から中国最新書法の拓本提供を受けている。その後、元眉の帰国に同行して清に渡航、明治十七年に帰国して後は、東京銀座の洋服店「伊勢幸」の二階に約三十年間住みながら、九州・北海道・韓国など各地に揮毫の旅をした。明治三十年には七十一歳で、再び清に渡航して各地を巡遊、約二ヶ月後に帰国している。しかし、大正元(一九一二)年十月に中風による軽い左半身不随となり、翌年(まさに龍之介が菅を訪問したその時から僅か三月前である)の八月、郷里の梧竹村荘にて八十七歳の生涯を閉じた。明治書家にあっては珍しい造形型を追求した独特の書風を確立し、その新書風で書壇への影響力が大きかった。六朝の書法を探究して、多くの碑拓を請来したため、書というよりも、寧ろ、絵画的な味わいがある。また、水墨画も数多く残している。同じく「明治の三筆」に数えられる日下部鳴鶴や巖谷一六と比べると、梧竹が手がけた石碑は少ないが、現在、全国に五十基ほどが確認出来る。石碑の文字にも独特の書風が現れているものが多いが、一部は正統の楷書で書かれてある。彼は「天下無双」とも称された書家であった(以上はネット上の信頼出来る複数の記載を合成した)。

「大井」「哲太郞」不詳。筑摩全集類聚版脚注も『未詳』とする。

「不折」中村不折。既出既注

「李瑞淸」(一八六七年~一九二〇年)は清から中華民国初期に生きた江西省臨川出身の書家。

「法帖」古今の名筆を鑑賞し、手本とするため、原本を写し取って、これを木や石に刻み、さらに拓本にとって折帖仕立てにしたもの。中国の五代の文人としても優れていた南唐後主李煜(りいく)の作った「昇元帖」が最初のものとされるが、現存する最古のものは宋の九九二年に作られた「淳化閣帖」。その他、明の文徴明による「停雲館帖」、呉廷の「余清斎帖」、董其昌(とうきしょう)の「戯鴻堂帖」、清の乾隆帝勅撰になる「三希堂帖」などが著名である。本邦のものでは細井広沢の「太極帖」が古く、韓天寿の「酔晋斎法帖」などが優れている(「ブリタニカ」国際大百科事典に拠った)。

「この★を見なさい」「香」のこれとなると、二画と四画の合成箇所を指しているか。

「鳳篆龍章」筑摩全集類聚版脚注に、『鳳凰や龍のような篆書で書いた文章か』とある。検索をかけると、「龍章鳳篆」の熟語が中文サイトで見つかる。それを見ると、「皇帝・帝王の文章・詔・勅令に対する尊称」・「道教の呪符」とある。

「沿河不見柳絲搖……」以下の七絶を訓読しておくが、筑摩全集類聚版の本文を見ると、結句が「更誰間話烈南朝」となっていて、「更(さら)に誰(だれ)か間話(かんわ)せん烈南(れつなん)の朝(あさ)」と訓じてある。孰れにしても結句末が不審で私には読めない。訓読は誤魔化しで、意味は判らぬ。

沿河不見柳絲搖

步向靑谿長板橋

丁字簾前猶彷彿

更誰間話到南朝

 沿河(えんが) 柳絲(りうし) 搖らぐを見ず

 靑谿(せいけい) 步向(ほかう)すれば 長板橋(ちやうはんきやう)

 丁字(ちやうじ) 簾前(れんぜん) 猶ほ彷彿

 更に誰(たれ)か 間話(かんわ)せん 南(みんなみ)の朝(あした)に到れるを

「文展は……」以下の文展批評の内容は既出で、そちらでしっかり注してある

「久米」後の作家久米正雄。一高同級生で親友。後の第三次『新思潮』に参加した。芥川龍之介の凄絶な遺稿「或阿呆の一生」は冒頭の辞が彼に当てられて書かれてある。

「谷森君」既出既注

「驛路の春」「うまやぢのはる」と読む。」木島桜谷の出品作。既出既注。注の「櫻谷」を見られたい。

「エレクトラはすこしほめすぎて大阪迄君をひき出したやうな氣がして恐縮だ」「芥川龍之介書簡抄17 / 大正二(一九一三)年書簡より(4)十月十七日附井川恭宛書簡」参照。

『「夜の宿」を見て役者のどれよりも舞台監督としての小山内氏の伎倆に敬服した』既出既注

「帝國ホテルのヴエルヂイの紀念會があつた……」以下の音楽会とその批評も既出既注

「大塚に地所をかりた 冬をこして二月頃から普請にかゝる」これは実際には中止され、翌大正三年の十月末に終の棲家となる田端に家を新築して移ることとなる。

「石田君」後に歴史学者・東洋学者となった一高の同級生で親友の石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年:千葉市出身)のこと。

「ずべつて」怠ける。ずるける。不良少女の意の卑語「ずべ公」の「ずべ」はこれ。

「山本」一高時代の同級生(但し、山本の年齢は五歳上)で劇作家・小説家の山本有三(明治二〇(一八八七)年~昭和四九(一九七四)年)。本名は勇造。東京帝国大学独文科卒。明治四三(一九一〇)年、作家デビューは芥川龍之介よりも早く、第一高等学校在学中に戯曲「穴」を書き、雑誌『歌舞伎』に掲載され、上演もされた。この翌年の大正三(一九一四)年三月、第三次『新思潮』を豊島与志雄・菊池寛・久米正雄・芥川龍之介らと創刊した。大正五(一九一六)年から同十三年まで早稲田大学の講師を勤め、辞任後に作家生活に入った。大正九年には『人間』誌上に発表した「生命の冠」が井上正夫一座によって上演され、劇作家としての地歩を固め、「嬰児殺し」・「坂崎出羽守」・「同志の人々」・「女人哀詞」・「米百俵」など 二十編余の戯曲を執筆大正十二年頃からは小説も書きはじめ、「波」・「女の一生」・「真実一路」・「路傍の石」などで流行作家となった。その作品は、社会的視野に立って、生活の中の理想と現実の相克を追求し、広い読者層から支持された。国語問題にも尽力し、帝国芸術院会員・貴族院議員・参議院議員も務めた(ブリタニカ国際大百科事典に拠った)。

「野外劇場」前注に出る井上一夫の起こした「井上会」が、この年の十一月に行ったもの(筑摩全集類聚版脚注に拠る)。

「泉鏡花の紅玉」本邦唯一の幻想文学の巨匠泉鏡花(明治六(一八七三)年~昭和一四(一九三九)年)が大正二(一九一三)年七月に『新小説』に発表した一幕物の戯曲。本邦でのシュールレアリスム劇の嚆矢とも言える夢幻劇である。

「白梅園」田端の後の芥川龍之介の家に近くにあった料亭。ここの裏の「佐竹の原」と呼ばれた松林の草原で野外劇として上演された(上演時間四十五分。この詳細は吉田昌志氏の編になる『泉鏡花「年譜」補訂㈥(PDF・『学苑 日本文学紀要』第八百四十三号・二〇一一年一月発行)を見られたい。当時のメディアの諸評も載る、もの凄い労作である)。因みに後に芥川が結婚式を挙げたのも、実はこの料亭であった。

「當事者の久米」上記吉田氏のそれによれば、久米正雄はこの公演の発起人の一人で、大道具の絵も彼が描いたとある。

「見てられない位まづいんだからな」招待されて観劇した鏡花夫妻が頗る気の毒!

「佐野」後の戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部佐野文夫(明治(二五(一八九二)年昭和六(一九三一)年)。当該ウィキによれば、『山形県米沢市生まれ。父は山口県立山口図書館長を務めた図書館学者・佐野友三郎。父の転勤に伴い、少年期を台湾、大分、山口で過ごす。第一高等学校に無試験で入り、菊池寛、井川(後の恒藤)恭、芥川龍之介と同級生となる』。『高校生時代、特にドイツ語に長け、在学中から西欧の哲学書を翻訳するほどの天才ぶりだった』。『この在学中に菊池寛との間で』「マント事件」(菊池寛が佐野の身代わりとなって同校を退学となった事件。明治四五(一九一二)年四月、佐野は日本女子大学校に通う倉田艶子(倉田百三の妹)とのデートに、一高のシンボルであるマントを着て行きたいと思ったが、自分のマントは質入れしていたため、他人のものを黙って着て行き、返さずにいた。二日ほど後、佐野と菊池は金に窮してマントを質入れすることにした。しかしそのマントはすでに盗難届が出されていたため、その夜、菊池は寄宿舎の舎監に呼び出された。しかし佐野は不在であり、菊池は親友を守るため、その場では「自分が盗んだ」として退出した。その後、帰寮した佐野に菊池がマントの件を質すと、佐野は親や親戚に合わせる顔がないと泣き出した。菊池は、そのまま自分が罪をかぶることを決意した。菊池は、佐野や他の同級生より四歳も年上(明治二一(一八八八)年生まれ)で親分気質があったことに加え、佐野には同性愛的慕情を抱いていたことから、佐野の将来を考え、自らが犠牲になる道を選んだとされる。菊池は後に、この事件をモデルにした作品青木の出京(『中央公論』大正七(一九一八)年十一月発行。リンク先は「青空文庫」)の中で、「自分が崇拝する親友を救うことこそ英雄的であると信じ、それに陶酔し、感激していた」とそのときの心情を主人公に語らせている。他にも、当時、菊池に大学に進学するだけの学資の当てがなかったことも一因であったともされる。ここはウィキの「マント事件」に拠った)が起きた。『事件の影響で』一旦、『休学して山口県で謹慎生活(秋吉台での大理石採掘)を送り、通常よりも遅れて』大正元(一九一二)年九月に『第一高等学校を卒業した』。『卒業後』は『東京帝国大学文科大学哲学科へ進』み、『在学中は第三次『新思潮』の創設に参加し、創刊号に「生を与ふる神―生命論三部作の一」という論文を発表した』。しかし、大正三(一九一四)年春に中退している。『中退の事情について、当時』、『芥川龍之介は井川恭に宛てた書簡で「何でも哲学科の研究室の本か何かもちだしたのを見つかって誰かになぐられて」と記している』。『中退後に山口県に戻り、約』二『年間』、『感化院に入院した』。『退院後は私立國學院の教員を務めた後』、大正七(一九一八)年に『大連にあった南満州鉄道の調査課図書館に就職した』が、三年後に退社し、大正一一(一九二二)年に『外務省情報部に入官するも、翌年』、『肺結核を理由に退職』している。また、この年に『市川正一と『無産階級』を創刊』し、翌年には『徳田球一の要請を受け』、『日本共産党(第一次)に入党』、翌大正一三(一九二四)年の『党協議会で解党』が『決議』されると、『党再建のため』、『再建ビューロー中央常任委員として残り、コミンテルン上海会議に荒畑寒村らと出席した』。大正一五(一九二六)年十二月に『山形県五色温泉で開かれた日本共産党第』三『回大会では中央委員長に選出された』。『党内では福本イズムを強く支持していた』。昭和二(一九二七)年、『日本共産党の使節団の一人としてモスクワを訪問し、コミンテルンの会合に出席した。モスクワ訪問時に赤の広場で他の日本共産党員たちとともに撮影された写真がモスクワで発見されている』。しかし、『福本イズムへの態度に一貫性が欠けるなどとして中央委員を罷免されたのち』昭和三(一九二八)年の「三・一五事件」で『検挙された』。『取り調べに対して党中央の秘密事項を供述し』、昭和四(一九二九)年には『獄中で事実上』、『転向し』ている。昭和五(一九三〇)年に仮出獄したが、翌年、死去した。死因は肺結核とされる。『菊池寛は、自著』「半自叙伝」の『なかで、佐野を「頭のいい男であるが、どこか狂的な火のようなものを持っていた」と評し』ている。また、『第一次共産党の関係者であった荒畑寒村、プロレタリア文学者の江口渙、労働運動研究者の山辺健太郎らは人格や行状、共産党指導者としての資質に批判的な見解を著書等で述べている』。『佐野と菊池寛の両名と親交のあった長崎太郎はマント事件の際、最初』、『佐野から「菊池は破廉恥なことをしたために退学になった」と聞かされ、後日』、『菊池から事件の真相を告げられて、改めて佐野を問い詰めても「菊池が、破廉恥をやったんだよ。何度言っても同じことだ」という反応を示したと記している』。『関口安義は佐野が「本質的にはやさしい人間」「決して根っからの悪人ではない」としながらも、「意志が弱く、弱点を見せまいと見栄を張ったり、嘘をついたりするところがあった」と評している』とある。

「根本」既出既注

「成瀨」一高・帝大時代の親友でフランス文学者となった成瀬正一(せいいち 明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年)。東京帝国大学文科大学英文科卒。第四次『新思潮』の創刊に加わった。大学卒業後、間もなく、創作から研究の道に転じ、九州帝国大学法文学部教授としてフランス・ロマン主義思想を専門とし、特にロマン・ロランの翻訳・紹介で知られる。横浜市生まれで、成瀬正恭(まさやす:「十五銀行」頭取)の長男であったから、「月謝を皆にかしてしまつた」というのが腑に落ちる。

「三崎へ行つてゐる」遊びに、の意か。

「石原」石原登(明治二五(一八九二)年~昭和五九(一九八四)年)であろう。新全集の「人名解説索引」に(ピリオド・コンマを句読点に代えた。以下同じ)、『一高時代の同級生。兵庫県の生まれ』で、東京帝大『哲学科卒。教育学研究室助手を勤めた後、メキシコ』を『放浪、帰国して教護施設武蔵野学院教官を長年つとめ、晩年は女子教護院国立きぬ川学院の初代院長となるなど、生涯を非行少年教育に捧げた』とある。

「佐伯君」同前で、『一高時代の同級生。東京の生まれ』で、東京帝大『哲学科卒。静岡県視学官を経て、神奈川県立秦野中学校長』とある。

「DOVROVOLSKY夫人」既出既注。以下の「S1GJNORIA NAKAJIMA」・「南薰造」・「バアナアドリイチ」も同じ。]

2021/03/07

南方熊楠を触発させて「四神と十二獸について」を書かせた八木奘三郎の論考「四神の十二肖屬との古𤲿」

 

[やぶちゃん注:南方熊楠の「「四神と十二獸について」を電子化注するに際して、これは別の人物の論考に触発されたものである故に、その原論考を先にここで示すこととする。

 その原論考は、熊楠が冒頭で述べるように、大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第三十四巻六号)に載った、八木奘三郎(やぎそうざぶろう)の論考「四神と十二肖屬の古畫」である。「肖屬」(せうぞく(しょうぞく))とは「見える姿として象形された諸像」の意であろう。

 筆者八木奘三郎(慶応二(一八六六)年~昭和一七(一九四二)年:南方熊楠より一つ年上)は考古学者。江戸青山(現在の東京都港区青山北町)で丹波国篠山藩(現在の京都府内)藩士の子として生まれた。明治二四(一八九一)年、帝国大学理科大学人類学教室に、標本取り扱い係として雇用され、坪井正五郎や若林勝邦らから教示を受けた。明治二七(一八九四)年、千葉県香取市の阿玉台(あたまだい)貝塚を発掘調査したが、この時、同貝塚から出土した縄文土器(阿玉台式土器)が、茨城県稲敷郡美浦村の陸平貝塚出土の縄文土器とは同じ形式だが、東京都品川から大田区にかけての大森貝塚出土の土器とは異なる形式であることに気づき、阿玉台・陸平(おかだいら)両貝塚の土器と、大森貝塚の土器との形式的な違いを、年代差によるものであると結論し、八木は大森貝塚の土器の方が年代的に古く、阿玉台が新しいとする編年を考えたが、その後の研究では順序が逆であることが判明している。しかし、「考古学黎明期であったこの時期に、この見解を導きだしたのは非凡である」という考古学者江坂輝彌による評価がある。明治三五(一九〇二)年、台湾に渡り、台湾総督府学務課に勤務し、大正二(一九一三)年には朝鮮半島に渡り、李王家博物館・旅順博物館・南満州鉄道に勤務した。昭和一一(一九三六)年に帰国して阿佐ヶ谷に住んだ。縄文時代だけでなく、朝鮮半島の古代遺物や古墳時代に関しても、多くの研究業績があり、徳富蘇峰と交流があった(以上は当該ウィキに拠った)。

 底本は「J-STAGE」のこちらの原本画像PDF)を視認した。基本、ここでは極力、必要と思われた部分(難読と判断したもの及び別論文や一部の不審を持った書名や不審・意味不明箇所など)以外には注を附さないこととする。そうしないと、何時まで経っても、本来の目的である熊楠の論考に移れないからである。なお、八木氏の表記は南方熊楠と似て、句点が甚だ少ない。また、頻繁に登場する「玄」は最終画のない「𤣥」であるが、この活字は私が生理的に嫌いなので、総て「玄」で表記した。傍点「●」は太字に代えた。引用の一部には不審があったため、原本等を確認して訂した箇所があるが、特にそれは指摘していない。初出と対応させれば、自ずとそれはお判り戴けることと思う。]

 

   ○四神と十二肖屬との古𤲿

           八木奘三耶

[やぶちゃん注:以下の序辞は底本では全体が一字下げである。]

 左の一篇は予が滿洲歴史地理學會の發會式に際して講演せしものなり、固より咄嵯の記述なるが上に資料乏しきを以て其詳細を盡すこと能はざれ共之を棄るは又鶏肋の感なきにあらず、因て本誌に掲げて看者の一粲に供せり、若し多少益する所あれば幸甚なり。

[やぶちゃん注:「鶏肋」「後漢書」楊修伝による故事成句。鶏の肋(あばら)骨には食べるほどの肉はないが、捨てるには惜しいところから、「たいして役に立たないが、捨てるには惜しいもの」の喩え。「一粲」は「いつさん(いっさん)」。「粲」は「白い歯を出して笑うこと」。一笑。謙辞。]

 予は本日四神と十二肖屬との古書に就て述んとする考へなるが、元來此二者は俱に支那に發源して更に近隣諸國に移りし風習なれば、其本源を知るには是非とも同國の上代に溯りて硏究せざるを得ず、因て先づ四神と十二肖屬との起源、及び其ものゝ意義、幷に用途等に就て大體の要點を述べ、次に實物上の種類變化等をも說ん[やぶちゃん注:「とかん」と訓じておく。]と欲す。

 

    (一) 四神の名稱と意義

 支那にて四神と稱するは、玄武、朱雀、靑龍、白虎の四者にして、之を天地四方に配屬せしものなり、而して朱雀の赤き雀、靑龍の靑き龍、白虎の白き虎たることは此文字上にて既に明かなれども、玄武の文字は不明なり、而も右は「和漢名數」[やぶちゃん注:貝原益軒編の和漢の命数集成。但し、ここで引かれいるのは、その続編(上田元周重編)で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらPDF)の17コマ目の左頁の「○四神相應の地」に出る。]に朱子の語を引て。

 玄武謂龜蛇、位住北方故日ㇾ玄、身有鱗甲、故曰ㇾ武。

とあれば、其身體に甲冑の如き鱗甲ある爲め斯く名けたる譯にして、他の鳥獸名とは異るを知る可し、而して何故四神に⑴龜蛇、⑵雀、⑶龍、⑷虎の四者を表せしやと云ふに、斯は天體の星形に象れりとの說やり、今其一例を曰んに。

 伊藤東涯の制度通に。[やぶちゃん注:「制度通」は中国の制度の沿革及び、それに対応するところの本邦の制度との関係を各項別に記述した歴史書。儒学者伊藤仁斎の長男であった儒学者伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)の著。成立は享保九(一七二四)年。]

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が一字下げ。]

蒼龍、朱雀、白虎、玄武ヲ四神相應ト云テ四方ニカクノゴトヰ鬼神ノ象アリト思フハ謨リナリ、本二十八宿ノ星象(卽ち形狀なり)ヨリ起ル、王者ハ天ニ體シテ行フニヨリテ、旗常ニコノ紋ヲ繪ガヰテ四方ノ星象ニカタドル、角・氐・房・心・箕・[やぶちゃん注:中黒はママ。]ノ七宿ソノ並ビヤウ龍ノ如シ、斗・牛・女・虛・危・室・壁ノ七宿ジノ並ビヤウ蛇ノ龜ヲマトフガ如シ、奎[やぶちゃん注:「けい」。]・婁・胃・昴[やぶちゃん注:「ぼう」。]・※・觜・參ノ七宿ソノ並ビヤウ虎ノ形ノ如シ、井・鬼・柳・星・張・翼・軫[やぶちゃん注:「しん」。]ノ七宿ソノ並ビヤウ短尾ノ鳥ノ如シ、是ヲ四方ノ色ニ配シテ蒼龍、朱雀、白虎、玄武ト云ナリ、ソノ詳ナルヿ[やぶちゃん注:「事(こと)」の約物。]爾雅釋天ノ疏ニアリ、云、四方皆有七宿、各成一形、東龍形、西方成虎形、皆南乄[やぶちゃん注:「シテ」の約物。]ㇾ首而北ㇾ足、南方成鳥形、北方成龜形皆西ㇾ首而東ㇾ尾。

[やぶちゃん注:「※」=(上)「已」+(下)「十」。「畢」の異体字。]

とあり、以て四神の由來と首尾の方向とを知る可し、然れども四神の名稱は漢以前の書に見へざれば、同代に此稱呼ありしや否やは明かならず、又其起源も初めより四者一時に生ぜしや否や判然せず、爾雅には春爲蒼天、夏爲朱明、秋爲白藏、冬爲玄英、とありて、此書は世に周公の作と稱すれば一見周初已に四季を四色に配せし事あり、隨て四神の四色も甚だ古く、又祖其起源(四神の)も周代に在らんかと思はるれども、其實爾雅は漢初の作ならんと云ふ說ありて、之を周初とは斷ず可からず、又尙書以下の書を按ずるに、五行の水・火・木・金・土を中央及び四方に配し、又木・火・金・水を東・西・南・北・春・夏・秋・冬に當てしことは書經、樂記・管子以下の書に見ゆれども、靑・赤・黑白の色を曰はず、唯だ周禮に方位と色とを記せし例あり、然れども此書世に漢儒の作と稱せらるれば、隨て爾雅の如きも、其漢初に出しことは略ぼ推測するに足る可く、又色と方位、色と四神名との起源も彼の漢代に在ることを察するに足る可し、而して四神の圖象も亦多くは僥代の器物上に創まれり[やぶちゃん注:「はじまれり」。]、但し秦瓦[やぶちゃん注:「しんぐわ(しんが)」。]と稱する瓦當[やぶちゃん注:「ぐわたう(がとう)」。軒丸瓦(のきまるがわら)の先端の円形又は半円形の部分。文様のある面。]中に四神を配せし例[やぶちゃん注:「れい」。]金石索に見ゆ、去れ共此もの果して秦代なりや、又右の圖が四神に相違なきや、是等の點甚だ疑はしき爲め今採らず、又史記の始皇本紀に

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]

始皇推終始五德之傳、以爲周得火德、秦代ㇾ周、德從所ㇾ不ㇾ勝、方今水德之始ナリ(中略)衣服、旌旗、節旗皆上ㇾ黑。

と記すれば水德と黑、水と北方との關係上方位と色彩との結合は已に泰代に行はれし有樣なれ共、是等は根本資料を明にする必要あり、又假令右が秦代に在ること疑ひなしとするも、猶周代の分は不明なり、故に予は其確實と信ずる點に從ひて漢代と云へり。

    (二) 十二支の起源と右の意義

 次に十二支の起源と其意義とを曰んに、斯は十干と相伴隨せること常なれば、便宜上二者併せ說くことゝなす可し。干支の原委を說て遺憾なしと云ふ書は世上多から

ざるが如し、而も予の知る所にては「淵海子平」[やぶちゃん注:現行の占いの四柱推命の元である宋の徐子平暦(九六〇年~一二七九年)撰になる算命学的易学書。]の記事尤も細密なるを覺ゆるにより先づ之を擧ぐ可し。

 同書「論天干地支所ㇾ出」の章に曰く。

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]

ルニ、奸詐生、妖怪出、黃帝時有蚩尤神、擾亂、當是之時、黃帝甚憂民之苦、遂戰蚩尤於涿鹿之野、流血百里、不ㇾ能ㇾ治ルコトㇾ之。不ㇾ能ㇾ治ルコトㇾ之、黃帝於ㇾ是齋戒、築ㇾ壇祀ㇾ天、方ニシテㇾ丘禮スㇾ地、天乃降十干、十二支、帝乃將十干ノ圓、布天形、十二支地形、始以ㇾ干爲天、支爲ㇾ地、合光仰職門、放ㇾ之、然後乃ムル也、自後有大撓氏、爲後人憂ㇾ之曰、嗟吁黃帝乃聖人ナリ、尙不ㇾ能ㇾ治二其惡煞一、萬一後世見ㇾ炎、被ラバㇾ苦、將何奈乎セントスル、遂に將天干十二支、分配シテスト六十甲子云。[やぶちゃん注:「布」「しきて」か。]

 此書の記事によれば十干、十二支は天降物の如くなれども、是等は彼の河圖洛書[やぶちゃん注:「かとらくしよ」。古代中国に於ける伝説上の瑞祥とされる河図(かと)と洛書(らくしょ)という超自然的現象を総称したもの。「河」は黄河、「洛」は洛水を表す。易の八卦や洪範九疇の起源とされている。]と同樣信するに足らず、又其起源を黃帝とするは支那事物起源の通弊なれば採る可からず、而も十干を天圓と云ひ、十二支を地方と稱することは他書の謂はざる處にして、稍や面白き點なり、何となれば十二支を地方に表せし例は漢代の古鏡と璧の一種及び其記事等に往々散見すればなり、併し孰れにしても此干支の論は採る可からず、寧ろ事物起源に擧ぐる所却て正しかる可し、同書に曰く。

[やぶちゃん注:以下同前。]

甲子。世本日、大撓造ルト甲子、呂氏春秋曰、黃帝師大撓、黃帝内傳曰、帝既斬蚩尤、命ジテ大撓甲子、正ㇾ時、「月分章句醫曰、大撓探五行之情、占斗剛ㇾ建、於ㇾ是始作甲乙、以、謂之幹、作子丑一[やぶちゃん注:底本は「ㇾ」。後文から誤りと断じて訂した。]、謂之支、支幹相配シテ以成二六旬

 此記事の圓文は別に論するの價値なしと雖も、月介章句に「作甲乙、以名ㇾ曰、作子丑」と云ふ語は頗る正確なるが如し、何となれば十干の數は元來十進法にして十位を整敎とすれば、日數に當てし名に相違なく又十二支の數は一年十二ケ月より來れるにより十二敷と定まれるに相違なし、而して月令に「占斗剛所ㇾ建、於ㇾ是始作甲子以名ㇾ曰、作子丑以名ㇾ月」とあるによれば、一旬卽ち十日の數も、一年十二ケ月の數も俱に北斗の劍先が運行する工合によりて命名せしが如くに思はれ、又十二支は月の出が大抵三日目より見ゆるにより(二日目より見ゆる事もあれど)其日より數へて十四日迄を十二に當て、滿月の十五日は盈虛の中心に置きし樣にも思はるれども、元來支那の天文曆數等に就ては予輩門外漢の容易く知り得ざる點あり、隨て其孰を孰れとも決し得ざれ共、何にせよ十干が日數より出で、十二支が月數より生ぜしことは略ぼ推測し得らる可く、又彼の淵海子平に十干を天圓に出で、十二支を地方に出ると云ふ事は、其起源說としては的中せざることを知る可し。(但し應用の古きは事實なり)

 次に十二支に十二獸名を當てしことは彼の事物起源に事始を引て。

 黃帝立子丑十二辰以名ㇾ月、又以十二名獸一屬ㇾ之。

とあれども、之は支那人側の解釋にて、實は印度の十二名獸が支那に移りて彼の十二支と結合せるが如し、斯は宿曜經なぞに記載しあれども、巳に我邦人の言明せし文章あれば、次に之を述ることゝなす可し。

 山岡俊明の類聚名物考に曰く。

[やぶちゃん注:以下同前。]

飜譯名義集に、「此十二支爲中渠之達觀也、と見ヘたり、經には鼠・牛・虎・兎・龍・蛇・馬・羊・猿・鷄・狗・猪の文字を用ゐ、此十二物は大權の聖者にして、年・月・日・時に四天下を巡りて同類形の衆生を濟度す」と說けり、此の十二獸の名を支那にて古く用ゐ居たる子丑等の字に配當したるを以て我國にて、ねうしの訓を充てたるなり。

山岡の說は當時に於て卓見と謂ふ可く、彼の鼠、牛以下の獸名は確に印度傳來に相違なく、夫が支那の子丑寅卯と結合せしことは疑ひなかる可きも、此點に就ては猶硏究の餘地あるにより、右は後に說くことゝして以下五行の起源と配置とを一言す可し。

    (三) 五行の起源

 支那に於ける五行の記載は書の洪範に見ゆる文を以て始と爲す、然れども其實由來の古きことは二典に五嶽を置き、五歲に一度巡狩し、又五典、五常を敎へ、五刑を備へ、其他五瑞、五玉を班ち、五岐を修むるなど云へる事は皆な五行の思想を示すものなり、又居所に四門を設け、國に四岳を置くが如きも、皆な五數より來るものにて、中央の己れも其數に加はる事は明かなり、已に二典時代に斯る思想の見ゆる以上は假令五行の名なしと雖も其實ありしことは疑ひなく、隨て洪範にも箕子が「我聞在昔(ムカシ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。以下の二箇所も同じ。]、※陻(フサ)洪水、汨(ミダ)其五行、(天帝)乃震怒」[やぶちゃん注:「※」―「魚」+「糸」。]云々と云へるならん、巳に支那最古の文章と稱せらるゝ二典(近來此文章を若く見る人あり、未だ其詳細を聞かざれども別に確證ありとも思はれず、且つ現存の他書を二典已前に當る次第にもあらざれば其最古たる點は動かざるなり)以下に五行思想の現はるゝ以上は今假に其起源を知ること能はざれども、年代の悠久なる點は疑ふ可からず[やぶちゃん注:ここ、行末改ページで句読点なし。]從て支那の漢民族は、天地・四方・上下・大小凡てのものに此の五行を配當して喜び居れり、例せば天に五星を置き、地に五嶽を設け、人に五倫を備へ、河に五色の河を置き、爵に五等を設け、罪に五逆を定むるが如く數ヘ來れば、殆んど際限なく、先づ天地萬物を此五行上にて律せんとする形迹を示せり、而して何故斯く五數を重んぜしやと云ふに、其起源は恐らく手指の數より來れるならん、此事は人類學上の硏究に涉れば絃には別に述べざる可きも、古く漢民族の用ひ居たる事物配合の數は甞て重野博士[やぶちゃん注:漢学者・歴史家で、日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学の泰斗にして日本最初の文学博士の一人である重野安繹(やすつぐ 文政一〇(一八二七)年~明治四三(一九一〇)年)か。]が結繩時代の遺風ならんと云はれしこと有り、乃ち彼の書經以下に見へたる、十二牧、九州、九族、八卦、七政、五行、三才なぞ云へる數は果して太古結繩の遺風に基くや否やを知らざれども、之を人類學上より見れば或は然らんかとも思はれ、又陰陽の二者は日月より來り三才は夫婦子供若くは祖父子より來り、五行は手指の五本より來りて、其後右の意義に哲學上の髙尙なる論說を當て箝め[やぶちゃん注:「はめ」。]、以て時代精神に隨伴せしむるに至りしものならんと考ふ、然れども斯る事物の配合數は印度にもあり[やぶちゃん注:行末改ページで句読点なし。]例せば彌陀に三尊あり、佛に三寶あり、法身に三身あり又塔に五輪ありて地水火風空を表し、如來に四天王ありて四隅を守り、其他國に五天竺あり、天人に五衰あり、殊に天體には五星・七曜・九星・十二宮・二十八宿の類ありて、殆んど支那と一致せる點あるを見る、是等は世界民族閒に起る隅然の暗合もあらんが其特種の類に至りては決して右の如く斷ずること能はず、殊に天文學上の事柄、原素上の種類等に至りては必ずや一の本源地ありて夫れより四方に傳派せしに相違なし、但し此天文學上の一致は新城博士[やぶちゃん注:天文学者・中国学者で理学博士であった新城新蔵(しんじょうしんぞう 明治六(一八七三)年~昭和一三(一九三八)年)であろう。京都帝国大学総長で名誉教授。専門は宇宙物理学と中国古代暦術というハイブリッドな研究者であった。]の說によるに春秋戰國の頃支那より印度に渡り、更に中央亞細亞に傳播せしならんとの事なるが、予輩考吉學上の硏究結果によるも、支那と其の西南部諸國との交通は豫想外に古きにより、同氏と似よりの結論に達することは敢て難事にあらざる可し。

    (四) 四神と十二肖屬との遺品

 以上干支五行の說は極めて大略なれども、支那の事物硏究上には頗る有用なるに依り參考の爲め申述し次第なり、次に實物上に就て曰んに、支那に於て、四神、十二支を物體上に現はせしは碑石以下諸種の品にあれ共、其古くして且つ多きは鑑鏡の類なるが如し、此鏡の論は他日別に詳說す可きに依り、本日は單に其中の四神と十二支とのみを曰んに、支那の鏡鑑は人文の大に發達せし漢代の作品甚だ精巧にして、且つ最古に屬するが如し、而して其數も割合に多ければ當時の思想を窺ふには便宜ある次第なるが、今是等の品を見るに方形のもの絕無にして必ず之を圓形に造りしは一に天圓に象りしに相違なし、世には秦の方鏡を報じ、又漢の方鏡として其圖を揭ぐるものあれども信ずるこ[やぶちゃん注:ママ。「に」の誤植であろう。]足らず、當時は凡て圓形と見て可なり、而して古書によるに鏡は初め月に象りしとか或は日に象りしとか云へど、其背面の紋樣より考ふれば天圓と見るが穩當なる可し、去れば地方は多く鈕の周圍に示して天の地を覆ふ有樣を示せり、又其紋様なる四神十二支の如きは最初星形にて表せしにより、世人は之を乳と呼びて星と解せざれども、其實右は星を現はせしに相違なく、隨て四神は俗に四乳鏡と稱する四星を以て之を表し、中央の鈕を加へて五行の意味を明にせし實例多く之れ有り、其他七曜・九曜等も見へ、中には工人が無意義の數を示せし類もあれど、大抵は規則正しく之を現せり、而して十二支は初め鈕の周圍に十二個の乳を置しが、後には右に滿足せずして文字を加へ、更に一轉して帶外に十二肖屬を示すに至れり、此風は四神も亦同樣にて星外に圖象を示し、又乳と併せ圖せし例もあり、次に是等の四神と十二肖屬とを墳墓の棺槨[やぶちゃん注:「くわんくわく(かんかく)」。遺体を納める柩(ひつぎ)。]に書き、或は後者を人體形に變化し始めたるは何時頃なりやと云ふに、其起源は不明なれども、周代は諸侯、大夫の棺に雲氣を書𤲿くのみにて他の圖容なければ無論其風の行はれざりしを知る可く、漢に至て四神の描寫を初めたるが如し。

 漢書董賢傳に日く。

[やぶちゃん注:以下、同前。]

董賢自殺伏ㇾ辜、死後父恭不ㇾ悔ㇾ過、乃復以硃砂𤲿棺四時之色、左蒼龍、右白虎、上著金銀日月、玉衣、珠璧

 董賢は前漢哀帝の臣にて、大司馬衞將軍の職に昇りしものなれば、四神を棺表に𤲿くことは古く前漢時代に行はれしことを知るに足れり[やぶちゃん注:董賢の生涯については当該ウィキを読まれたい。]、然れども當時の遺品は世に傳はらず、其今日に知られたる類は多く六朝以後の例なるにより、右の盛行せしは恐らく後漢より三國時代に在らんか、蓋し支那の古墳沿革は他日別に說く可きも、其六朝時代に屬する壁書の古墳は今日朝鮮の大同江兩岸又は扶餘地方、猶古き分は鴨綠江岸の通溝、卽ち高勾麗の舊都等に存在せり因て右の大略を曰んに、是等の古墳中、石槨内面の構造蛇腹式屋根形のものには往々四神の像あり、今其小地名を擧んか、大同江岸の分には平安南道の江西及び鶴林面、具池洞、梅山里、延東里、又は平讓の北方處々に在り、扶餘地方は僅に一個所に過ぎざれ共、猶將來發見の見込なしとせず、面して是等は朝鮮の三國時代、卽ち高勾麗、百濟、新羅等割據の時代にして支那は六朝頃に當れば、常時此國に右の風習盛行せしことは明かなり、猶右の中には支那の唐代卽ち新羅統一時代に屬するものもあれば、爾後連續せし有樣なるも、其の四神形は高麗に入りて壁𤲿に迹を絕ち、專ら石棺彫刻の上に遺風を留めたり。

 以上述るが如く、支那にて棺面に四神を𤲿くことは前漢に始り、而して後漢書にも、木棺の表面に「鳥、黿[やぶちゃん注:「げん」。鼈に同じい。]、龍、虎」を書くことを記するにより、爾後漸次に發達し來りし迹を知れども.、其遺品の存否は不明なり、唯だ實物上にては鏡鑑に其類多く、又作柄の大にして且つ着色の鮮麗、運筆の奇拔なるは六朝時代に屬する古墳壁𤲿の外、他に見ること能はざるなり。

 次に十二肖屬は四神と同樣鏡背に表示せし例最も古く、次は石棺彫刻の類なれども、之を人體形に𤲿きたるは支那の起源明かならず、併し朝鮮にては新羅統一時代に行はれしにより、唐代の盛行は略ぼ推測するに足れり只だ其已前に在りや無しやは今日未だ決定し居らざるなり、去れ共此時代に至りては朝鮮の文化も非常に進み、且つ交通頻繁となりて、唐風模倣の流行甚だしかりしにより、或は彼の風と新羅の風とは時期に大差なかりしやも圖られざるなり、若し然りとせば十二支の人體化は一に唐代に在りと謂ふも不可なかる可し、但し四神と十二支とは星形時代に於ては別に前後の隔りなきも、之を古墳に表せし點より見れば大差あり、卽ち四神描寫の時代には未だ十二肖屬の類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]世に現はれず、反之て[やぶちゃん注:「これにはんして」。]十二肖屬の行はれし頃は四神の風漸次衰へたるが如し、但し此十二肖屬の人體化は最初首丈を鳥獸形に示し、身體のみを人間風となせしが、髙麗卽ち五代以後に至りては、此全部を人間形となし、冠上の中央前立の邊に舊鳥獸形を表することゝなせり、今實例を擧げて之を日はゞ、朝鮮の慶州地方に存する王陵若くは金庾信の墓に存する腰石の浮彫り、又は墓中より出る小形の彫刻坐像は凡て前者に屬し、又開城附近に存する王陵の壁書及び石棺彫刻の分は後者に屬せり[やぶちゃん注:「金庾信」(キムユシン 五九五年~六七三年)は三国時代の新羅の将軍で新羅の朝鮮半島統一に最大の貢献をした人物として知られる。]、猶此十肖屬を墓側に立てし例は日本にもあり、卽ち奈良の元明天皇陵より出し七疋狐と稱するものは其類にて、本來は十二支の殘石なれども全部完備し居らざりしと、又偶ま狐に類する兎、狗の類殘れる爲め斯く傳稱せしものゝ如し、併し是等は人間風に立ち又は坐せし點のみが眞物と誤る譯にて手足と面貌とは猶ほ舊形を失はざるなり、去れば人體化の例としては確に古式を示すものにて、其類は未だ他國に見ること能はず[やぶちゃん注:読点なし。]故に學問上に取りてに實に得難き好資料と稱するを得可し。

    (五) 結 論

 以上述るが如く干支と四神とは支那の漢族間に發生し、其或ものは印度の古傳と結合せしも、本源は一に天體より出るが如く、又後世流れて各般の事物に應用せられし類には遂に人間化せしもあり、然れ共四神は龜蛇虎鳥の形體を變ずること能はず、十干は名稱以外に鎚化せず、單に十二支のみ數傳せしが、其源に溯れば文字以外の表示としては四神と十二支とは初め星形を用ひられ、後に鳥獸及び虫形と變ぜしなり、而して此類の智識が最初支那より印度に傳はれるや否やは、今俄に決すること能はざれども、其十二支に鼠、牛、虎の類が印度より流傳し、之に依て繪𤲿上に現はれしとすれば、其實例は夙に漢鏡に見ゆるにより、由來甚だ古きを知る可く、又其ものゝ日本、朝鮮等に流傳して種々變化し行く狀態を見れば、單に藝術上の巧拙を知る外に、思想上の異同と、應用上の如何とを知る媒[やぶちゃん注:「なかだち」。]ともなれば、其硏究上大に興味あるものと、云ふ可し。

  已上は大略なれども本題の起源、沿革等を述べ盡せるにより、本日は之にて終結とす可し。

 附言 講演の際は種々の材料を示せしも本誌には皆な之を省略せり。

[やぶちゃん注:最後の附言は、底本では全体が一字下げで二行に渡る。]

大和本草附錄 肥後の八代川苔 (スジアオノリ)

 

肥後八代川苔 色綠美長一尺餘味佳長崎ノ海ニ

靑苔アリ八代苔ヨリ短シ味尤ヨシ伊勢苔武藏ノ

淺草品川苔皆同類也靑苔ナリ肥後八代ノリノ

外皆海苔也

○やぶちゃんの書き下し文

肥後の八代(やつしろ)川苔(〔かは〕のり) 色、綠。美。長さ一尺餘り。味、佳し。長崎の海に靑苔〔(あをのり)〕あり。八代苔(やつしろのり)より、短し。味、尤〔(もつとも)〕よし。伊勢苔(〔いせ〕のり)、武藏の淺草(あさくさ)・品川苔(しながはのり)、皆、同類なり。靑苔なり。肥後の八代のりの外(ほか)、皆、海苔〔(うみのり)〕なり。

[やぶちゃん注:前の「海粉」の後には十条を数えるが、水辺に生えるものが数種あるものの、純粋な水草ではないので採らなかった。文政八(線八百二十五)年跋の版本編「物品識名拾遺」(尾張岡林清達の稿を水谷豊文(みずたにとよぶみ)が編したもので、「物品識名」の後編。日本産の動物・植物・鉱物名をイロハ順に列挙し、さらに「水」・「火」・「土」・「金」・「石」・「草」・「木」・「蟲」・「魚」・「介」・「禽」・「獣」に分類し、カタカナで和名を、その下に漢名を記載し、ものによっては出典なども付したもの)に七十五丁に(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書(PDF)で視認した。14コマ目)、

   *

ヤツシロノリ【肥後八城産】 紫菜(アマノリ)一種

   *

とあった。この「アマノリ」が正しいとすれば、紅色植物門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科 Bangiaceae の一種となるが、どうも違う。「八代漁業協同組合」公式サイトの「八代青のりを見ると、はっきり「スジアオノリ」とあり、これは

緑藻植物門緑藻綱アオサ目アオサ科アオサ属スジアオノリ(筋青苔)Ulva prolifera

が正解となる。前掲の田中氏の「日本の海藻 基本284」では、学名を「Enteromorpha prolifera」とするが、これは本種のシノニムなので問題ない。以下、田中氏の解説によれば、『四国の名産品』として『「青海苔』が知られるが、それは『この種が使われていることがほとんど』とある。『河口付近の淡水が混じる海域に生育することが多い。直径や長さ、江分かれの数など』、『個体ごとの形態の変異が大きい』。同属の『ボウアオノリ』Ulva intestinalis(異名にイトアオノリ。Enteromorpha intestinalisEnteromorpha capillarisはシノニム)『に似るが、藻体全体、とくに下部からの小枝が多く出ていることが識別点である』。『本種はアオノリのなかでももつとも美味とされ、食用として重要種である。徳島県吉野川や高知県四万十川での養殖が有名である』とある。ここでは、ここで名にし負う熊本県八代市の球磨川河口(グーグル・マップ・データ)のそれも付け加えておこう。また、各地の加工品のそれを画像で載せておられる「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のスジアオノリのページも必見。私はそこに載る、新鮮なそれの天ぷらを、食べたくて食べたくて仕方がない。

「長崎の海に靑苔あり」「伊勢苔(〔いせ〕のり)、武藏の淺草(あさくさ)・品川苔(しながはのり)」と示すのは孰れも殆んどが最初に示した縁の遠いウシケノリ類と考えられる。それらは「大和本草卷之八 草之四 紫菜(アマノリ)(現在の板海苔原材料のノリ類)」を参照されたい。]

怪談老の杖卷之三 小豆ばかりといふ化物

 

   ○小豆ばかりといふ化物

 麻布近所の事なり。貳百俵餘(あまり)程取りて、大番(おほばん)勤むる士あり。

 此宅には、むかしより、化物ありと云ひけり。主人も左(さ)のみ隱されざりしにや、ある友だち、化物の事を尋ねければ、

「さして、あやしきといふ程の事にもあらず。我等、幼少より、折ふし、ある事にて、宿にては馴(なれ)つこに成りて、誰(たれ)もあやしむものなし。」

と、いひけるにぞ、

「咄しの種に見たきもの也。」

と望みければ、

「やすき事也。來りて、一夜(ひとよ)も、とまり給へ。さりながら、何事もなきときもあるなり。四、五日、寐給はゞ、見はづし給ふまじ。」

と、云ひけるにぞ、好事(かうず)の人にてやありけん、

「幾日なりとも、參るべし。」

とて、其夜、行(ゆき)て、寐(い)ぬ。

「此間なり。」

といふ處に、主人とふたり、寐て、はなしけるが、さるにても、『いかなるばけものにや』と、ゆかしき事、かぎりなし。主(あるじ)に尋れば、

「まづ、だまりて、見たまへ。さはがしき夜(よ)には、出(いで)ず。」

と、息をつめて聞居(ききをり)ければ、天井の上、

「どしどし」

と、ふむ樣(やう)なる音、しけり。

「すはや。」

と聞居ければ、

「はらり」

「はらり」

と、小豆(あづき)をまく樣なる音、しけり。

「あの、おとか。」

と、きゝければ、亭主、うなづき、小聲になりて、

「あれなり。まだ、段々、藝あり。だまつて、見給へ。」

と、いひければ、夜着をかぶり、いきをつめて居けるに、かの小豆のおと、段々に、高くなりて、後(のち)は、壹斗(いつと)程の小豆を、天井の上ヘ、はかる樣なる體(てい)にて、間(ま)ありては、また、

「はらはら」

と、なる事、しばらくの間にて、やみぬ。

 また、聞ければ、庭なる路次下駄(ろしげた)、

「からり」

「からり」

と、飛石(とびいし)のなる音して、水手鉢(てうづばち)の水、

「さつさつ」

と、かけるおと、しけり。

「人や、する。」

と、障子をあけて見ければ、人もなきに、龍頭(りゆうづ)のくびひねりて、水、こぼれ、又、水、出(いで)やむにぞ、客人も驚きて、

「扨々、御影(おかげ)にて、はじめて、化ものを見たり。もはや、こはき事は、なしや。」

と、いひければ、

「此通りなり。外に、なにも、こはき事なし。時々、上より、土・紙くづなど、おとす事あり。何も、あしき事はせず。」

と、いはれける。

 其後、かたりつたへて、心やすきものは、皆、聞きたりけれども、習ひきゝては、よその者さへ、こはくも、おもしろくも、なかりけり。

 まして其家の者ども、事もなげにおもひしは理(ことわ)りなり。

 しかれども、かの士、一生、妻女なく、男世帶(をとこじよたい)にて暮されけり。妾(めかけ)ひとり、外(そと)にかこひおき、男女の子、三人ありけり。

 女などのある家ならば、かく、人もしらぬ樣にはあるべからず、いろいろの尾ひれをつけて、いひふらすべし。

 「世の怪談」とて云ひふらす事は、おくびやうなる下女などが、厠にて、猫の尾をさぐりあて、又は、鼠に、ひたひをなでられなどして、云ひふらす咄し、多し。

 この「小豆ばかり」は、何のわざといふ事を、しらず。

[やぶちゃん注:「小豆ばかり」これは「小豆計り」で、あたかも小豆を計量するために升にでも移しているかのような音を立てるこちに因むのであろう。最後のややくだくだしい「当世怪談考」らしきものや、その前の大番の主人の私生活を細かに描写するなど、かなりリアリズムに徹しようとする姿勢が見られ、妖怪「小豆研ぎ」なんどの眉唾ではなく、ポルター・ガイスト(Poltergeist)現象の都市伝説の真実味を、いや増しにさせる手法など、他の江戸怪談にはまず見受けられない、はなはだ上手いと私は思う。

「大番」将軍を直接警護する現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の中でも最も歴史が古い衛士職。大番頭の下に与力が配され、一組に附き、十騎(「騎」与力の数詞)配属された。

「路次下駄」露地下駄(ろじげた)に同じ。本来は雨天や雪の場合に露地を歩く際に履く下駄で。柾目の赤杉材に竹の皮を撚(ひね)った鼻緒を付けた下駄。数寄屋下駄(すきやげた)とも呼ぶ。ここは私邸内の庭下駄。

「龍頭(りゆうづ)のくび」筧などで引き込んだ水か、高い位置に桶を設えて竹などで蛇口・水栓を作ってあるようである。なかなかお洒落だ。今まで、こうした手水鉢の細部描写は私は見たことがない。]

怪談老の杖卷之三 吉原の化物

 

   ○吉原の化物

 和推(わすい)といへる俳諧師ありけり。或とき、人にいざなはれて新吉原へ行(ゆき)しに、夜更(よふけ)て、

「用事を、かなへん。」

とて、厠へ行ぬ。

 いたく醉ければ、足もとも定らず、ふみまたぎて、たれんとしけるが、何やらん、ある樣に覺えければ、よく見るに、女の首なり。

「ぎよつ」

と、せしが、不敵なる法師なりければ、少(すこし)もさわがず、

「そつ」

と、外へ出て、覗きてみて居(をり)ければ、此首、ふりかへり、笑ふ體(てい)、死(しし)たる者に、あらず。

 法師、手をのばして、髮をからまき、引(ひき)ければ、首ばかりにてはなく、紅(べに)がのこの、古き小袖を着たる女なり。

「ぐつ」

と、引(ひき)あげければ、上へ引出(ひきいだ)しぬ。

 裙(すそ)は、不淨にそまりて、くさき事、堪(たへ)がたし。

「何ものぞ。」

と、いへど、笑ふばかりにて、あいさつなし。

 和推、若き者をよびて、

「しかじかの事ありし。」

と云ひければ、はしり來りて見て、

「手前の女郞衆(ぢよらうしゆ)なり。此比(このごろ)、時疫(はやりやまひ)を煩(わづらひ)て、引(ひき)こみ居(をり)しが、いつの間に、はいりぬらん、むさき事かな。」

とて、皆、よりて、裸にして、水をかけ、洗ひけり。

 和推、打(うち)わらひて、

「扨は。ばけものゝ正體見たり。『左あらん』とおもひし事よ。」

とて、事もなげに、二階へ上りて寐(い)ぬ。

 翌朝、若い者方(ものがた)より、いひ出して、みな人、和推が心の剛(かう)なりし事を感じけり。

 うろたへたらん武士は、及ぶまじき、ふるまひなり。

 酒をよく飮みけるが、是等は「上戶(じやうご)の德(とく)」ともいふべし。

 韓退之(かんたいし)が文集の中に、厠の神の崇(たたり)にて、厠へ入りし事ありしと覺へぬ。よからぬ【不祥。】[やぶちゃん注:「よからぬ」の傍注。]事なるべし。

[やぶちゃん注:疑似怪談だが、短篇ながら、映像と臭いがよく伝わってくる。

「和推といへる俳諧師」享保年間の江戸の俳諧師に和推(二世調和)が実在する。松尾真知子氏の論文「享保時代の江戸俳壇 和推(二世調和)の動向」PDF・『国文論叢』一九九四年三月発行所収)参照。

「新吉原」浅草北部にあった遊郭。サイト「錦絵でたのしむ江戸の名所」のこちらによれば、当初は日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東側(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に開設されたが、明暦二(一六五六)年に移転を命ぜられ、翌年の「明暦の大火」の後、浅草千束村(吉原弁財天本宮をポイントした)へ移った。これ以前を「元吉原」、以後を「新吉原」と呼ぶ。最盛期には三千人の遊女を抱えており、『日本堤から衣紋坂を通り、堤から遊郭が見えないように曲がった五十間道を経て、大門をくぐって入る。日本堤から衣紋坂へと曲がる東角に柳があり、客が振りかえって名残を惜しむ位置にあるために「見返り柳」と呼ばれる。周囲には「御歯黒溝(おはぐろどぶ)」と呼ぶ堀をめぐらし、出入り口は大門一か所として、遊女の脱走を防いだ。中央の大通り「仲之町」には、春には桜を、秋には紅葉を移植するなど、人工的な楽園を演出した』とある。このサイトはヴィジュアルが豊富でとても楽しい。お薦めである。

「法師」僧だったわけでは無論、ない。俳諧師は僧形だったから、かく言ったものである。

「紅がのこ」「紅鹿子」。

「むさき事かな」ここはもろに「きたならしい限りじゃ!」。

「韓退之が文集の中に、厠の神の崇にて、厠へ入りし事ありし」中唐の詩人・思想家で「唐宋八家文」の一人韓愈(七六八年~八二四年)の字(あざな)。儒家でも特に孟子を尊び、道教・仏教を排撃したことで知られ、柳宗元とともに「古文復興運動」に努めた。「厠の神の崇にて、厠へ入りし事ありし」(便槽に落ちたということであろう)という話は知らない。識者のご教授を乞う。

「よからぬ【不祥。】事なるべし」これは一応、この厠の中に落ちてしまった女郎を限定しているととっておく。]

怪談老の杖卷之三 美濃の國仙境

 

怪談老の杖卷之三

 

   ○美濃の國仙境

 陶淵明が桃源、劉氏が天台を始(はじめ)として、古今、仙家に遊べる說、甚(はなはだ)多し。多くは是、譬喩寓言、茫として影を捕ゆる[やぶちゃん注:ママ。]が如く、實跡を知る事なし。操觚(さうこ)風流の士の前にいふべくして、田夫野翁の疑惑をして、渙然(くわんぜん)たらしむること、あたはず。予、常に是を恨みとす。然るに、一日(ひとひ)、奇異の話を聞(きけ)り。

[やぶちゃん注:「陶淵明が桃源」言わずもがな、六朝の東晋末・宋初の名詩人陶潛(三六五年~四二七年)の散文「桃花源之記」。武陵 (湖南省) の漁夫が舟に乗って道に迷い、桃の林の中を行くうち、異境に達したが、そこは秦(統一国家成立は紀元前二二一年で紀元前二〇六年に滅亡)の頃に戦乱の世を逃れて隠れ住み、外界との接触を絶っている人々の村であったという。「桃源境」という語の由来となり、古代ユートピア思想の一典型として後代に大きな影響を与えた。本来は「桃花源詩」という五言詩に附せられた記であるが,陶淵明の著と仮託されている文言志怪小説集「捜神後記」にも収められている。

「劉氏が天台」「劉・阮、天台」。「列仙全傳」(前漢末の官僚劉向(りゅうきょう 紀元前七七年~紀元前六年)作とされるが、仮託で、後漢の桓帝(在位:一四六年~一六八年)以降の成立と推定されている)巻三や、六朝の志怪小説集「幽明錄」載る遊仙譚。「桃花源之記」に似ている。漢の漢の永平五年(西暦六二年)、劉晨(りゅうしん)と阮肇(がんちょう)の二人が薬草採りに天台山に分け入ったが、道に迷って十三日も歩き回ったものの、帰れなかった。飢えて死が迫った。その時、遙かな山巓に一本の桃の木があって、沢山、実がなっているのを見つけ、苦労して攀じ登り、その桃の実を食って元気を取り戻した。かくして山を下り、谷の水を飲んでいると、上流から蕪の葉が流れてき、またその後に胡麻飯を持った杯が流れてくるのを見つけた。これで人家があると知り、更に山を越えて行くと、大きな谷間で、二人の美人と出逢った。二美人が二人を家に導くと、そこは豪華な御殿で、多くの侍女もいた。二人はそれぞれこの二美人の婿となった。しかし十日経って、二人が帰りたいと言い出すと、前世からの福運でここに来たのだ、と説明して帰さず、そのまま半年が過ぎた。再び、帰還を望むと、罪業に引きずられているのだから仕方がない、と帰した。帰ってみると親類縁者や知人は総て死に絶えていて、村も全く変わっていた。訪ね当てたのは自分らの七代後の子孫であった。晋の太康八年(三八四年:行方不明になってから実に三百二十二年後)、二人は姿を消してしまったという。この中の仙境歓楽の様子が「劉阮天台」と称する画題となり多く描かれている。原文は私の「三州奇談卷之一 鶴瀧の記事」に示してあるので参照されたい。

「操觚」「觚」は「四角い木札」で古代中国に於いてこれに文字を書いたことから、詩文を作ること、文筆に従事することの意。

「渙然」疑問・迷いなどがすっかり解けるさま。]

 

 京都西の洞院わたりに、荻沼(をぎぬま)半右衞門[やぶちゃん注:不詳。]といへる書生あり。弱冠[やぶちゃん注:数え二十歳。]の頃、美濃の國へ用事ありて行(ゆき)けるが、日暮(ひぐれ)て、逆旅(げきりよ)[やぶちゃん注:旅宿。]にやどりけるが、いまだ、日、高かりければ、やどの門先(かどさき)にたゝずみて、山川(さんせん)の氣色(けしき)など詠(なが)めたゝずみ居(をり)けるに、越後の大守、通りあひければ、逆旅のあるじ、年頃、七十有餘の老人、はしりいでゝ、いかにも屈敬(くつけい)の色をなし、餘所(よそ)ながら、拜する體(てい)也。何心もなく、見て居るうち、日もくれはてゝ、燈火(ともしび)つくる頃なれば、半右衞門は、傍(かたはら)により臥(ふし)て、まどろみける。

 暫くありて、外より、是も、よはひ高く、よし有りとみゆる老人、來りて、主人と物語りし、酒など出(いだ)して、くみかはす體(てい)、こと外の中(なか)と見えて、たがひに奥底(あうてい)なき[やぶちゃん注:心の隔たりが全くない。]體なりしが、やがて、床(とこ)の上の書物を出し、會讀(くわいどく)[やぶちゃん注:同じ書物を読み合って、その内容や意味を考え、論じ合うこと。]するを、半右衞門、

『何ならん。』

と、耳をそばたて、聞ければ、易の文言をよむなり。たがひに、義理など、解せざる處は問ひあひ、通ぜざる所に至りては、

「扨も。邊鄙(へんぴ)のかなしさ、尋問(たづねと)ふべき師友もなき事よ。」

と、歎息する事、たびだびなり。

 半右衞門も奇特におもひ、聞けるが、技癢(ぎやう)[やぶちゃん注:自分の技量を見せたくてうずうずすること。「癢」は「かゆい」或いは「はがゆい・もだえる」の意。]に堪(たへ)かね、おきなをりて、圍爐裏(ゐろり)へより、火にあたり、

「是は。御奇特に。御書物のせん義したまふ事よ。」

と、いひければ、主(あるじ)いふ樣は、

「御恥しく候へども、われら、幼少よりのすきにて、か樣に打寄、よみ候へども、あけてもくれても、兩人より外、友もなく、誠に固陋(ころう)[やぶちゃん注:古い習慣や考えに固執して新しいものを好まないこと。]寡聞、京都の御方(おかた)などへは、御耳に入るとも、憚(はばかり)なり。その上、草臥(くたぶれ)給ひて、ねむくおはしまさんに、御耳の端にて不遠慮の段、御免あれ。御酒(ごしゆ)など、召上れよ。」

とて、杯(さかづき)をさしけれぱ、半右衞門、

「われらも、書籍、好み申て、いさゝかの儒者にて候が、かやうに靜(しづか)なる山中にて、御樂しみあるは、羨しき義なり。拙者などは儒業(じゆぎやう)の名のみにて、ケ樣(かやう)に風塵に奔走して、年中、安き事もなく候。」

と、いひければ、兩人、手をうちて、

「何。儒を業となさるゝとは、耳よりなり。我等、師友を求めし誠(まこと)、天に通じ、今宵、君の此處にやどり給ひしものならん。」

と、悅び、なゝめならず、

「平(ひら)に。是へ御出ありて、御苦勞ながら、御講釋、賴む。」

よし、誠におもひ入(いれ)て云ひければ、

「是も、ふしぎの御緣なり。」

とて、絕(たえ)て[やぶちゃん注:全く。]辭する色もなく、紙、四、五枚が程、講釋したり。

 元來、半右衞門、能辨にて、義理明らかに述べければ、みなみな、なみだをながし、悅び、

「ひらに。二、三日も逗留。」

と、留めけれど、

「用事あれば、罷越也(まかしこしなり)。歸りには、また、逗留して御世話になるべし。」

と立別れて、用事、おはりて、歸路に趣きければ、はや、其家の子共など、酒肴(しゆかう)を調へ、道まで迎(むかへ)に出て、

「大方、今日御歸りと被ㇾ仰候間、迎に來りたり。」

とて、殊の外、馳走し、兩人家(りやうにんいへ)より、子供、殘らず、つれ來りて、

「われらは老人にて、もはや、行末、賴みなし。忰どもを弟子に上げ申たし。」

とて、すぐに、師弟子の杯など取かはし、留(とど)めおきて、いろいろ、馳走しける。

 あるじの翁、

「本(もと)は、越後、家(いへ)にて、名ある家なりしが、彼(かの)家の騷動のみぎり、御暇(おいとま)給はりて、もはや、武家の望みもなければ、此所にて、兩人ともに、田宅を買て、世をやすく暮す也。」

と、その外、いろいろ、めづらしき物語をしけるが、

「何も御馳走もなければ、此奧に内津(うつつ)といふ山奧に友達の侍るが、是は此方共(このはうども)と違(ちがひ)て、殊に風流なる老人にて、おもしろき處なれば、同道して御知(おし)り人(びと)に致し申べし。」

とて、いて、二里計りも行けば、内津の山へかゝる。

[やぶちゃん注:越後の御家騒動は江戸前期にもあるが、本書は宝暦四(一七五四)年序であり、今までの話柄も比較的近い時制の設定を行っているから、これは江戸中期の越後高田藩松平家に起った「越後騒動」である。藩主光長は江戸在府が長く、国政の実権は光長の妹婿であった家老小栗美作守正矩や糸魚川城代荻田主馬らにあった。延宝二(一六七四)年、光長の嫡子綱賢(つなかた)が亡くなり、光長の弟永見長頼の遺子万徳丸が一旦は養嗣子となったが、荻田や光長の弟永見長良(ながみながよし:大蔵)ら、「家老小栗が自分の子掃部(かもん:大六(だいろく))を嗣子にしようとしている」と批難して対立、抗争に及んだ。幕府は荻田一派を非として処罰したが,荻田一派は将軍代替に伴い、再審を要求し、天和元 (一六八一) 年、綱吉の親裁により、小栗・荻田両派ともに処断。藩主光長は城地没収の上、伊予松山藩にお預けとなり、万徳丸も備前岡山藩預りとなった事件であろう。

「内津」初めて具体な地名が登場する。旧美濃で、この名で、山深いとなると、現在の愛知県春日井市と岐阜県多治見市を結ぶ内津峠(うつつとうげ:標高三百二十メートル)か(グーグル・マップ・データ航空写真)。当該ウィキによれば、「日本書紀」には、『日本武尊が当地で副将軍の建稲種命』(たけいなだねのみこと:豪族で尾張国造の一人)『が水死したという報を聞いて、「あゝ現(うつつ)かな」と嘆き悲しんだことが地名の由来とされている』とあり、『江戸時代には中山道での輸送に使われて』いたとある。この「うつつ」の意味も逆接的に仙境に利いていて、なかなかいい。]

 

 其土地、淸川(せいせん)、ながれ、岩組(いはぐみ)、おもしろく、山々、幾重も入りまじはりて、行(ゆく)に順(したがひ)て、景色、かはり、中々、詞(ことば)に盡しがたし。

 通(とほり)より、左のかたへ、ふみわけたるに、徑(こみち)のあるより、入(いり)て、谷へ下り、また、山へ登りて、木立深き中に、白壁づくりの家、見へたり。

 大きなる門がまへにて、藏も幾むねといふ事なく、人も、おびたゞしく見へて、大きなる伽藍のごとくなる家にて、酒を造り、紙を漉(すき)、いろいろの業(わざ)をなす體(てい)なり。

 あるじは、年ごろ、六十あまりなるが、

「客來(きやくらい)。」

と聞(きき)て、門まで迎ひに出(いで)て、

「京都よりのまれ人とは、貴客の事にて侍(はべら)ふか。よくこそ。」

とて、坐敷へ伴ひ、種々の名酒・佳肴を備へて、饗應する事、かぎりなし。

 半右衞門も、あまりいたみ入りけれど、奧底なきもてなしに、興に乘じ、折からの詩作など、あいさつして居(を)るうち、小さきわらはの、きよげなるが出來りて、

「用意よく候。」

と申ければ、

「いざ。こなたへ。」

と、先へたちて、案内しければ、なほ、奧ふかく入りけるに、其坐敷の結構、言葉に述べがたく、庭には、名もしらぬ名花・名草、區(く)をわけて、樹(たて)ならべ、前には、諸山、開きわかれて、畫圖のごとく、庭におりて、くつをはき、白き石のしきならべたる一筋の道を行(ゆく)こと、百間[やぶちゃん注:約百八十二メートル。]計り、樹木のうちに入りて、夫より谷を下(くだ)りければ、自然のいはほを畫(ゑがき)たる[やぶちゃん注:比喩で「彫琢した」の意であろう。]流水あり。はしなどの結構なること、言葉、及ばず。

 それより、亭ありて、「彩霞亭」と額をうちたり。

 此内に美女、十六、七より十二、三の女子(をんなご)、十人ばかり居ならびて、珍膳をさゝげ、歌舞をなす事、京都の繁華といへども、いまだ見きかざる樂(たのし)みなり。

 かく、結構なる所、此山中にあるべしとはおもひよらず、

『若(もし)、狐狸などの化(け)するや。』

と、あやしき程なれば、暇乞(いとまごひ)して歸らんとしけるを、せちにとめられて、夜もすがら、諷(うた)ひ、舞ひ、さまざまの風流をつくし、翌日、馬などしたてゝ、送りかへしける。

 跡にて、委しく聞けば、此やどの老人の、おや、世にありしとき、召仕ひたる奴(やつこ)なるに、かく大きなる身上(しんしやう)になりしとかや。

 老人の浪人せしきざみも、早速、來りて、

「かならず、かならず、外(ほか)へゆき給ふ事、なかれ。」

とて、引(ひき)とりて、我が近所におき、

「忠勤、おとろへざりし。」

と、いヘり。

 あるじは、六十計(ばかり)とみえしが、やどの老人のいふは、

「あれにても、九十ばかりなるべし。われら、十ばかりになるとき、美濃へ引こみたりしを覺へおれり[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、いへり。

「子孫、みな、長壽にて、家内、弐百人餘(あまり)暮しける。」

となん。

 夫より、半右衞門も、折ふしは行きて、十日程づゝ逗留しけるが、誠に素封の富、南面、王の樂しみを極め、語(ことば)も心もおよばぬ榮華どもなりし。

 今も、榮へおれるや、しらず。

 半右衞門、のち、江戶靑山に來りて、名高き儒者となれり。

[やぶちゃん注:「南面、王の樂しみ」中国では古くより、天子は臣下に対面する際に陽の方位である南に面して座ったことから、天子となって国内を治めることを指し、ここは、それでのみ得られるような至上の歓楽を指す。]

2021/03/06

大和本草附錄 海粉(カイフン) / (ウミゾウメン(海藻))

 

海粉 長崎ニ自外國來ル海苔ノ類ナリ乾堅クシテ

來ル絲條ノ如シ色綠ナリ熱湯ニ浸セバ色淡シ食

之味美醫書ニ所謂海粉ハ別物也

○やぶちゃんの書き下し文

海粉(かいふん) 長崎に外國より來たる海苔〔(のり)〕の類〔(るゐ)〕なり。乾(ほ)し、堅(かた)くして來〔(きた)〕る。絲條(いとすぢ)のごとし。色、綠なり。熱湯に浸せば、色、淡し。之れを食ふ。味、美〔(よ)〕し。醫書に謂ふ所の「海粉」は別物なり。

[やぶちゃん注:紅藻植物門真正紅藻亜門真正紅藻綱ウミゾウメン(海素麺)亜綱ウミゾウメン目ウミゾウメン亜目ウミゾウメン科ウミゾウメン属ウミゾウメン Nemalion vermiculare

鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」の当該種をリンクさせておく。写真多数)及び同属の

ツクモノリ Nemalion multifidum

も挙げておく(ツクモノリは「九十九海苔」か。この「ツクモ」は思うに「白髪」では色が合わないので、単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科フトイ(太藺)属 フトイ Schoenoplectus tabernaemontani の異名のそれではないか? やや太い丸い長い茎を持つので親和性があるからである)。本邦にはこの二種しか棲息しないからである。前掲の田中氏の「日本の海藻 基本284」によれば、属名は「糸のような」、ウミゾウメンの種小名は「回虫の形をした」である。ただ、実は益軒は本巻で「大和本草卷之八 草之四 索麪苔(サウメンノリ) (ウミゾウメン)」を挙げてしまっており、彼は清から齎される乾燥加工されたそれを全く別物と認識していたことが判明する。彼はそこで「其の漢名と性〔(しやう)〕と、未だ詳かならず」とはっきり言っているからである。田中氏によれば、『本種は潮間帯の中部に生育し、岩上に数十本が並ぶ様はまさしく太めのそうめんである。但し乾燥すると干そうめんのように細くある。付着部が岩の上につき、そこからあまり太さの変わらない分岐しない円柱状のからだをもつ。粘液質で、大変にぬるぬるする。能登で半島氷見』『では「ながらも」と呼ばれる珍味である。生品は熱湯をかけて、乾燥品は水にもどして、二倍酢、酢味噌、味噌汁にして食す』とある。私は中高の六年間を氷見の手前の高岡市伏木で過ごしたお蔭で、大変な好物となった。なお、軟体動物門腹足綱異鰓上目後鰓目無楯亜目 Anaspidea に属するアメフラシ類(標準和名種としてはアメフラシ科アメフラシ属アメフラシ Aplysia kurodai )の卵塊を全く同じ「海素麺」と俗に呼ぶ。茹でた素麺のような形をしており、かなりどぎつい黄橙色を帯びる。三月から五月にかけて海岸の岩の下や隙間及び海藻の間などに普通に見られるが、毒性を有し、食べられない(上のリンク先の私の最後の部分を参照されたい)。

『醫書に謂ふ所の「海粉」』「五雑組」(明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ)の「七」に、

   *

海粉。乃龜黿之屬腹中腸胃也。以巨石屋其背、則從口中吐粉吐盡而斃。名曰拱。務待齋者常誤食之。

   *

とあるので、ウミガメの作答(さとう:体内生成異物)の類いと考えていたものらしく、その毒性を転じて吐瀉剤に用いていたとなら、アメフラシの卵塊を指している可能性がぐんと高くなるように思われる。]

大和本草附錄 牡丹苔(ボタンノリ) (ウスユキウチワ)

 

【倭品】

牡丹苔 長崎ノ海ニアリ牡丹ノ葩ノ如シ色潔白可

○やぶちゃんの書き下し文

【倭品】

牡丹苔(〔ぼたん〕のり) 長崎の海にあり。牡丹の葩〔(はな/はなびら)〕のごとし。色、潔白。食ふべし。

[やぶちゃん注:「長崎の海」で分布が確認でき、ボタンの花弁のような形状で、「色」は「潔白」であって、食用になるという、あまりに乏しい属性提示から比定同定するのは至難の技なんだが、最後の食用海藻であることを除くと、私は直ちに、

褐藻綱アミジグサ目アミジグサ科ウミウチワ属ウスユキウチワ(薄雪団扇) Padina minor

グーグル画像検索「Padina minorをリンクさせておく)或いは、同属の

オキナウチワ(翁団扇) Padina japonica

コナウミウチワ(粉海団扇)Padina crassa

(下の二種のリンクは鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」の当該種)を想起した(但し、コナウミウチワは北海道南部や中部地方(太平洋・日本海両側)で確認されているので、南を指向させている感じの本文から見て、個人的には外したい気がする)さて、私の愛する田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊。以前に述べたが、この図鑑は写真(かの優れた海洋写真家のプロ中村庸夫氏である!)も優れており、何より凄いのは総ての学名(種小名は総てである!)の由来が記されてある点である)によれば、ウスユキウチワ日本南部の潮下帯に植生し、直径は五~七センチメートルで、『沖縄など南西諸島の潮下帯にもっとも優占する海藻のひとつで』、『からだは薄く、断面で見ると2層の細胞からなる。からだの表面や内部に石灰質を沈着させる。石灰藻として有名なのは』『サンゴモ』(紅藻綱サンゴモ目サンゴモ科 Corallinaceae)『類であるが、褐藻』(褐藻綱Phaeophyceae)『のこの仲間も石灰藻である。また、緑藻』(緑藻植物門 Chlorophyta アオサ藻綱 Ulvophyceae カサノリ目 Dasycladales)『類、サボテングサ』(アオサ藻綱ハネモ目ハゴロモ科サボテングサ属 Halimeda )『類などは石灰藻である。和名は表面全体に白い粉をふいたようになることによる』(則ち、顕著に白く見えるということである。添えられた中村氏の写真(宮古島)のキャプションには『石灰が沈着して、白い扇のようだ』とある)。『オキナウチワ同様、同心円状の線が多数でき、四分胞子囊(紅藻植物の真正紅藻類(Florideophyceae:サンゴモ・テングサ・オゴノリ・トサカノリなど)や褐藻植物のアミジグサ目 Dictyotales にみられるもので、一個の胞子母細胞の内容が胞子嚢内で分割して四個の不動胞子(鞭毛がなく運動性を持たない胞子)となった状態を指す。分割様式によって環状・十文字状・三角錐の三型がある。真正紅藻類では、受精後、配偶体上に発達した果胞子体から生じた果胞子が発芽して四分胞子体となり、これに四分胞子嚢が生ずる。アミジグサ目では、真正紅藻類とは異なり、受精卵が発芽して四分胞子体となる。四分胞子嚢内で減数分裂が行われ、四分胞子は発芽して配偶体となる)『はそのすべての線に沿って形成される』とある。個人的なミミクリーの相違はあるが、私は本種の葉体様部位をボタンの花弁と形容したとしても違和感はない。なお、オキナウチワは、群落や個体により異なるが、石灰沈着がウスユキウチワよりも弱く、白さが鈍い傾向があるので、私は結論としては、ウスユキウチワに団扇を――基!――軍配を挙げることとする。但し、問題は「食ふべし」で、食って食えないことはないかも知れぬが、石灰沈着しているのだから、ご遠慮したい。食べたというネット記事も見当たらない。]

「大和本草附錄」及び「大和本草諸品圖」中の水族の抽出電子化始動 / 海椰子 (ニッパヤシ)

 

[やぶちゃん注:私は半年前の二〇二〇年九月十三日附で、本ブログのカテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』の完遂を宣言してしまっていた。しかし、その最後の記事の標題を『大和本草卷之十三 魚之下 ビリリ (神聖苦味薬) / 「大和本草」の水族の部~本巻分終了』と変更し、末尾のメッセージを以下の通り、改稿した。

   *

 これを以って二〇一四年一月二日に始めた「大和本草」の水族の部の本巻分の電子化注を終わる。この時、実は私は忘れていた。何を? 「大和本草」には別に――「大和本草附錄」二巻と「大和本草諸品圖」三冊(上・中・下)があることを――である。付図の方は理解していたのだが、正直、恐らくは画才の足りない弟子の描いたものが多く、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鱟」で示した如く、マスコット・キャラクターのようなトンデモないものがあることから、無視しようと思って黙っていた。しかし、今朝、総てを確認したところ、追加の「附錄」二巻の内には確かな海産生物が有意に含まれていることから、『「大和本草」の水族の部』の完遂とは逆立ちしても言えないことが、判ってきた。されば、カテゴリの最後の【完】を除去し、続行することに決した。お詫び申し上げる。因みに、これは誰彼から指摘を受けた訳ではない。あくまで自分の良心が「大和本草諸品図」の方に働いていたことからの自発的な確認に由ったものである。――というより――正直――『ああ! また「大和本草」とつき逢えるんだな!』という喜びの方が遙かに大きいことを告白しておく。

   *

というわけで、また――義務としては続けねばならないし――気持ちとしてはほぼ歓喜雀躍して続けられると感じている――のである。また、お附き合い戴こう。

 最初は「大和本草附錄卷之一」から始める。底本は従来通り、「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」PDF版を視認してタイプする(リンク先は目次のHTMLページ)。「大和本草附錄卷之一」はこれ。但し、判読に悩む場合は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを確認した(同一の版と思われるが、底本が読み易くするために明度を著しく上げた結果、一部の画数の多い字が潰れて判読しにくくなっているからである。例えば、冒頭の罫外頭注の「蠻」を見られたい。底本では、ちょっと判読に躊躇するのだが、後者では難なく判読出来る)。最初の「海椰子」は冒頭から三項目に出現する(PDFコマ数で「2」)凡例も同じとする。第一回の『カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』始動 /大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠』を参照されたい。なお、私は本巻分の植物は海産藻類に限っており、淡水産水草類は含めていないので、同じ仕儀でピックアップしてゆく。]

 

大和本草附錄卷之一

             貝原 益軒 輯

 ○草類【海藻水草ヲ雜記ス】

○やぶちゃんの書き下し文

「大和本草」「附錄」卷之一

             貝原 益軒 輯

 ○草類【海藻・水草を雜記す。】

[やぶちゃん注:とあるが、これは「草類の雑記であるが、海藻及び水草も含んで記す」という意味である。事実、最初に挙げる「百草霜」(ひやくさうそう(ひゃくそうそう))は、柴や雑草を竈で燃やした際に竈内部や煙突の内側に附着した灰炭を薬用に用いたものを指し、二番目は「日光黃スゲ」で単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ゼンテイカ(禅庭花)Hemerocallis dumortieri var. esculenta である(「ニッコウキスゲ」は通称で、正式和名はこの「ゼンテイカ」であるので注意されたい)。]

 

【蠻種】

海椰子 海中所生藻實也其形椰子ニ似テ小也

桃ノ大ニテ大腹皮ノ如ナル皮アリ暹羅國ヨリ

來ル病ヲ治スト云未詳其功

○やぶちゃんの書き下し文

【蠻種】

海椰子(うみやし/うみやしほ[やぶちゃん注:右ルビ/左ルビ。]) 海中に生ずる所の藻の實(〔み〕)なり。其の形、椰子に似て小なり。桃の大(〔おほき〕)さにて大腹皮(だいふくひ)のごとくなる皮あり。暹羅(しやむろ)國より來たる。「病ひを治す」と云ふ〔も〕、未だ其の功を詳かにせず。

[やぶちゃん注:先に注した二条の後の三番目で出る。左ルビの最後の「ホ」は「ネ」のようにも見えるが、他の「ホ」・「ネ」との比較から「ホ」で採った。その後に調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの大正一〇(一九二一)年本草図譜刊行会刊の岩崎常正著「本草圖譜 果部 六十五」の「果部【夷果類】」の「椰子」パートに「一種」として(目次では『一種 ウミヤシホ 【ドヾ子ウスの圖】』とする)以下の解説と図(トリミングした)が載る(句読点と記号を附し、一部に推定で歴史的仮名遣で読みを添えた)。

   *

Umiyasiho

一種

  ウミヤシホ

「ドヾ子ウス」に載る圖。又、海濱へ漂着す。形、椰子より小く、二寸許。囲(めぐ)り、二、三寸。外皮ハ椰子と同じ。内に堅き仁(じん/たね)ありて中実(ちゆうじつ)す。仁を削りて薬に用ふ。中風を治する効あり。價(あたひ)、賎(いや)しからず。田村氏は「廣東新語」の「石椰子」に充(あ)つ。

   *

と記載も一致するから間違いない。「ホ」は「穂」か。「ドヾ子ウス」は十六世紀のフランドルの医師で植物学者レンベルト・ドドエンス(Rembert Dodoens 一五一七年~一五八五年:ラテン語名はレンベルトゥス・ドドネウス(Rembertus Dodonaeus))である。一五五四年に刊行された本草譜「クリュードベック」(Cruydt-boeck:オランダ語で「草木誌」か)の著者である。彼の著書は、ヨンストンの「動物誌」とともに江戸時代に野呂元丈らによって蘭訳書から「阿蘭陀本草和解」などに抄訳されていた。ドドネウスの原著(オランダ語版)は一六一八年版と一六四四年版が本邦に伝わり、長く用いられた。訳は他に平賀源内・吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)らが翻訳を試みたが、孰れも抄訳であったため、松平定信が石井当光(あつみつ)・吉田正恭(まさやす)らに全訳を命じ、文政六(一八二三)年頃に、一旦、完成したものの、江戸の大火で大部分が失われてしまい、現存するものは、僅かにその十分の一に過ぎないとされる。「田村氏」は思うに、日本初の地方植物誌として知られる優れた南方本草書「琉球産物志」(明和七(一七七〇)年刊)を書いた本草学者田村藍水(年享保三(一七一八)年~安永五(一七七六)年:栗本丹洲の父で、平賀源内は門人)であろう。「廣東新語」は清初の屈大均撰になる広東における天文地理・経済物産・人物風俗などを詳しく記録した総合地誌。全二十八巻。「石椰子」探すのに少し苦労した。何故なら、これは同書の植物類の諸巻にではなく、第十六巻の「器語」の「椰器」に載っていたからである。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書のここである。全文を引く。下線太字は私が附した。

   *

椰殼有兩眼謂之萼、有斑纈點文甚堅。橫破成椀、縱破成杯、以盛酒、遇毒輒沸起、或至爆裂、征蠻將士率持之。故唐李衛公有椰杯一、嘗佩於玉帶環中。椰杯以小爲貴。一種石椰生子絕纖小、肉不可食、止宜作酒杯、其白色者尤貴、是曰白椰。粵人器用多以椰、其殼爲瓢以灌溉、皮爲帚以掃除、又爲盎以植掛蘭掛竹、葉爲席以坐臥。爲物甚賤而趙合德以椰葉席獻飛燕也。

   *

 初っ端からとんでもない(海藻・淡水産水草・水藻を考えていた私には意想外であったという点で)植物が登場した。これは単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ニッパヤシ属ニッパヤシ Nypa fruticans のことである。当該ウィキによれば、『熱帯から亜熱帯の干潟などの潮間帯に生育するマングローブ植物』で『ニッパヤシ属で現存するのは本種一種のみの一属一種であるが、近縁種の果実は』実に七千『万年前の地層から化石として発見されている』。『高さ9m前後に達する常緑の小高木。湿地の泥の中に二叉分枝した根茎を伸ばす(この茎(根茎)が二叉分枝をすることは種子植物では数少ない例である)。茎(地上茎)はなく地上部には根茎の先端から太い葉柄と羽状の複葉を持つ数枚の葉を束生する。葉の長さは5-10mで、小葉の長さは1m程度で、線状披針形、全縁、革質で光沢があり、先端は尖る。花期には葉の付け根から花序を伸ばし、長さ80-100cm程度の細長い雄花序および、その先端に球状の雌花序をつける。雌花序は頭状花序で、雄花序は尾状花序である。花弁は6枚。花期の後、雌花序は棘のある直径15-30cm程度の球状の集合果となる』。『繁殖は、根茎を伸ばした先から地上部を出す栄養繁殖のほか、種子による繁殖を行う。集合果から分離した種子は直径尾4.5cm程度の卵形で海水に浮き、海流に乗って漂着した場所に定着する海流散布により』、『分布を広げる』。『インド及びマレーシア、ミクロネシアの海岸に生育する。日本では、沖縄県の西表島及び内離島』(うちばなりじま:八重山列島の西表島の西側にある)『のみに分布する』(私は西表島に旅した際、現認した)。『ニッパヤシの葉は軽く』、『繊維質で丈夫であるため、植生が豊富な地域では屋根材・壁材として利用される。特にフィリピンでは伝統的に、竹を骨組みとして葉を編みこんだもの(nipa shingle)』(shingle:屋根や壁の杮(こけら)板・屋根板の意)『を作り、屋根材や壁材として用い、伝統的家屋(タガログ語:バハイクボ(bahay kubo)、(英語:ニパハット(nipa hut))を』建てる。『ニッパヤシの屋根は風雨に強い上』、『風通しが良く、特に台風』が『多く』、『湿度が高い熱帯アジアの風土に適している』。『また同様に、マレーシアやインドネシア等ではカゴを編む材料として用いられる』。『開花前の花茎を切断した部分から溢泌する樹液は糖分が豊富で、パームシュガー(ヤシ糖)』や『ヤシ酒』・『ヤシ酢の原料とされる。また、バイオエタノール原料への検討も行われている』。『未熟果は』『半透明の団子に似た食感』で、『東南アジアや香港のデザートに使用され』ているとある。調べた限りでは、特定の薬効には至らなかったが、分布する各地では古くからの種々の伝統薬に使われており、漢方でも現在の関節痛などに用いる薬の配合材料の中に認めることが出来た。

「海中に生ずる所の藻の實なり」現認出来ない(西表は当時は琉球国である)のだから、まあ、仕方がない誤りではある。益軒は巨大なホンダワラみたような海藻を想起したものか。少し微笑ましいではないか。

「大腹皮(だいふくひ)」漢方生薬名。「図経本草」(北宋末の一〇九〇年頃に成都の医師唐慎微が「嘉祐本草」と「図経本草」を合本し、それに約六百六十の薬と、多くの医書・本草書からの引用文を加えて作った「経史証類備急本草」の通称である。但し、実際には、それに艾晟(がいせい)が一一〇八年に手を加えたものの刊本である「大観本草」と、さらに一一一六年に曹孝忠らがそれを校正して刊行した「政和本草」を加えた、内容的には殆んど同一の三書の総称として用いられることの方が多い)には「大腹檳榔」と記載されてある。ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu 又は他の近縁植物の果皮が基原とされる(ビンロウの種子は漢方名では「檳榔子」である)。その産地は中国海南省・雲南省・福建省・フィリピン・インドネシアなどで、内部は椰子の皮のようであり、ビンロウではないと思われるが、果皮は「大腹皮」として出回るっているものと思われる。石川県の「中屋彦十郎薬舗株式会社」公式サイト内のこちらを主文として参照した。

「暹羅(しやむろ)國」タイ王国の前名「シャム」のこと。]

 

2021/03/05

譚海 卷之四 武州玉川百姓某才智の事

 

○武州玉川の邊(あたり)、府中に何がしと云もの有。此百姓、平生、才智にて、さまざま奇特なる事多き中に、一とせ、玉川の邊を通行せしに、百姓、大勢、集りて、畑の土中より大なる箱の、深さ廣さ二間四方もあるべき物を、六つ、掘(ほり)して騷合(さはぎあひ)たる所へ行かゝり、「是は何をする事ぞ」と尋ければ、「此箱年來(としごろ)土中に埋(うづま)りて、いつの代よりあるといふ事もしりがたき程の久敷(ひさしき)ものなり、年々畑作の妨(さまたげ)になるゆゑ、此度掘出(ひりいだ)せし」と云。「掘出して何やうの事にするぞ」と尋ければ、「何の用にたてんとも存ぜず、賣拂(うりはらひ)てなりとも片付べし」と云時、「いかほどに賣拂にや」と問ければ、「鳥目五六十疋ならば賣拂べし」といふ。「さらばわれは八十疋に買取べし」と約して、則(すなはち)價を遣し、「跡より取によこすべし」とて歸りしが、其後(そののち)一年にも取(とり)に來(きた)る事なし。二三年過(すぎ)又右の所を通りけるとき百姓見受て「此箱はいかゞいたさるゝや、かく三年に及ふまで取にもこされず、連々(つらつら)かたの如く朽損(くちそん)し[やぶちゃん注:「し」はママ。]侍る」といふ。此男聞て、「苦しからず、朽たらは[やぶちゃん注:ママ。]朽次第にしてをかれよ」といひて、其後又一年餘(あまり)をへて此男來り候時、百姓又見かけて、「もはや朽過(くちすぎ)ていかにもすべき樣なし、殊に所せきものにて畑作の進退にも妨になり侍るまゝ、ひらに引取申されよ」と云。「いやいや人を遣ひ引取(ひきとら)んとするにも人步(にんぷ)かゝりて詮方(せんかた)なし、此上は所せく思はれなば、燒すてて成(なり)とも仕𢌞(しまは)れよ」といひければ、百姓ら價を出し買取しものをかくいふはいぶかしくは思ひながら、餘りもちあつかひたる事なれば、「さらば買とられしぬしの左樣申さるるうへは、燒すて侍るべし」とて、終(つひ)に火をかけてやきすてたり。此男やきすてたるを見置て一日へて人を二三人つれ參り、此箱の燒たる跡の釘(くぎ)鐡物(てつもの)を殘りなく拾ひて歸り賣拂たるに、鐡ものの價三貫八百錢に成(なり)ぬるとぞ。『かゝる物をこしらへたるは普通の鐡物にはあらじ』と思ひて、さて買置て年月打捨置たる事也と、後に聞あざみて稱譽(しやうよ)しける。釘・かすがひなど殊に丁寧にせしもの也と、天明改元のとしの事也。

[やぶちゃん注:「府中」東京都府中市。玉川左岸。現在、府中市には多摩川に沿う形で古墳群が並び、国分寺跡もある(ともにグーグル・マップ・データ)。

「聞あざみて「聞淺みて」話の始終を聞いてその意外なことに驚き、あきれかえって。

「稱譽」褒めたたえること。

「天明改元のとし」安永十年四月二日(グレゴリオ暦一七八一年四月二十五日)改元。]

只野真葛 むかしばなし (19)

 

「父樣、養子にさだまりしは、至(いたつ)て、すみやかのことなりし。」

と、押本元長、かたりし。

 工藤・長井のぢゞ樣がたは、幼きより、友達にて、共に遠き祖は由有(よしある)人の、おちぶれたるにて有し故、ことに御懇意なり。

 御家へ、めしかゝへのせつ、奧へとほさるゝに、妻子持(さいしもち)でなければならず、

「養子もせねばならぬ。」

と、外にて御はなし被ㇾ成しを、其座の人、

「おかくいはずに、長井の末子(ばつし)を、もらはれよ。」

といひしを、

「それ。よし。」

と被ㇾ仰し故、すぐに長井へ傳へしに、

「よろしからん。」

とて、兩三日のうちに、かた付(つき)、すぐに對面に御いで被ㇾ成しとなり。

 其時は十一と被ㇾ仰し。さて、後、十三にて、後(あと)引とり、なるべし。

 元長は、もと、長井へ、十五、六にて草履取になりし人なり。心ざし誠なる故、樣々に御とりたて有(あり)て、弟子・若黨に被ㇾ成しを、其内、ぢゞ樣御不幸故、父樣、御せわにて衣躰(いたい)せし人なり。御弟子のはじめなり。後、長井樣の奧醫師と成(なり)て終る。子、なし。本草に器用にて、まねびし人なり。

[やぶちゃん注:「長井」真葛の父である仙台藩江戸詰医師工藤周庵平助の実の父は長井基孝大庵(もとたか 生没年不詳)は紀州藩藩医であった。当該ウィキによれば、『遠祖は播磨国の城主で、豊臣秀吉に滅ぼされ、そののちは郷士として比較的豊かに暮らして現地に暮らしていたという。基孝の父の代に田地調査の折に江戸幕府の怒りを買い、田畑を取り上げられて大坂に出ることとなった。父の没後、長井基孝は生計のために医業を身につけ、紀州藩に召し抱えられ、藩医となった。しかし、基孝は、医師であることを』寧ろ、『恥じており、医者は自分一代にしてほしいと紀州藩主に申し出ている』。『基孝の願いは聞き入れられ、柔術にすぐれた長男四郎左衛門(長井優渥』(「ゆうあく」と読んでおく。因みにこの熟語は一般名詞で「君が臣に対して懇ろに手厚いこと・恵みが厚いこと」を意味する語でもあるから、基孝が藩主に敬意を示してかく名づけたものかも知れない)『は武士として紀伊徳川家に仕え、弓術にすぐれた次男善助(長井基淳)は清水家に仕えることとなった。三男平助は、仙台藩第』五『代藩主伊達吉村の侍医であり、基孝の友人であった工藤安世が藩医として取り立てられる際、妻帯が条件であったため、上津浦ゑんと結婚するのと同時に』十三『歳で養子に出された』。延享三(一七四六)年頃の『ことであった。工藤安世没後、平助は安世の後を継ぎ』、『仙台藩医となった』とある。]

 

 工藤ぢゞ樣の實母は、黑田樣へ、はやくより、御つとめ被ㇾ成しが、はじめ若殿御誕生の御だきもりに御上り、其とのゝ御世(みよ)となりし故、一人にて有しなり。

 顏だて[やぶちゃん注:主語は若殿。]、りつぱに、鼻、たかく、殊の外、威《い》の有(ある)人にて、をそれぬ人、なし。思召(おぼしめし)に逢し人、壱人(ひとり)もなく、御殿中の人、おそれおのゝきて有しに、ばゞ樣ばかり、御氣に入にて、

「おゑん、おゑん。」

と被ㇾ仰し故、

「此人の氣に入(いる)人は、どのやうな人か、見たし。」

と、御殿の人、いひし、となり。

 ばゞ樣の、萬人に、にくまれぬ御生(おうまれ)なること、是にて、しるし。

[やぶちゃん注:「黑田樣」不詳。知られた黒田氏は福岡藩藩主であるが、歴代、養嗣子が多い。以上の情報からでは、よく判らない。]

怪談老の杖卷之二 多欲の人災にあふ / 怪談老の杖卷之二~了

 

   ○多欲の人災にあふ

 元文年中の事なり。

 江戶中橋に上州屋作右衞門とて、質・兩替などする商人の娘に、お吉とてありけり。生れ付も、なみなみなる娘なりしが、殊の外、癪もちにて、折ふし、さし、おこりては、氣絕する事、度々なり。

「やがて、人にも嫁する年ぱいなれば、病身にてはよろしからず。湯治にても、さすべし。」と云けるが、幸(さひはひ)、高崎に父方の伯父ありて、江戶へ見舞に來りけるにたのみ、伊香保の湯へ、下女一人添て、遣はしける。

 伯父方にて、暫く休息し、程近ければ、夜具・衣類は勿論、朝夕の菜の物まで馬一駄(むまいちだ)につけて、お吉をのせ、伯父、付添ひて、湯主(ゆぬし)金太夫といふもの方におちつき、養生しけるに、癪氣、段々に、心よく、中々、うつて、かはりたる樣子なれば、江戶へも書狀、遣はし、伯父も事なき機嫌なり。娘も、

「江戶よりは、氣もはれやかにて、よし。」

とて、三廻(みまは)りの餘(あまり)もありて、中々、江戶へ歸らんとも云はざりければ、伯父も、

「其體(てい)ならば、ゆるりと保養すべし。我も宿へ久しく見舞はねば、二、三日、高崎へ行て、また、來るべし。下女のさよを殘しおくなり。男ぎれなくて[やぶちゃん注:男っ気(け)がなくて。]、心細く思はんが、隣部屋の藤七殿をたのみおく間、萬事、此人をたのむべし。」

とて、爰かしこへ賴みおきて、高崎へ行きぬ。

 お吉も、はや、湯治なれ、友だちも多ければ、

「少しも心細きこともなく、かならず、私(わたくし)事は、あんじずとも、御宿の御用そまつになき樣に御したゝめ被ㇾ成(ならる)べし。江戶へも、文(ふみ)遣はし候まゝ、御たよりに屆け給へかし。おさよばかりにて、少しも、さびしき事なし。」

とて、至極、きげんよく、出(いだ)し立(たて)てやりぬ。

 此藤七と云ひしは、隣の部屋をかりて湯治しけるおとこにて、越谷(こしがや)邊のものなるよし。少し、いなかにて、小淨瑠璃にても語り、十分あぢをやるとおもふて居る男なるが、お吉が江戶風のとり廻はし、小(こ)りゝしきに、腰をぬかし、晝夜、入(いり)びたりて、

「折(をり)もあらば、口說きおとさん。」

と、いろいろ、おかしき身ぶりをし、いやらしき事計(ばかり)しかけける。

 お吉は、江戶のまん中にて、朝夕、當世風の男を見て、心のいたりたる上、みかけと、ちがひ、おとなしく、じみなる生れなれば、此田舍をとこを、うるさがりて、下女のさよを相手に、常に笑ひものにしける間、藤七おもひ入(いれ)、ひとつも、きかず。

 依(より)て、しあん[やぶちゃん注:「思案」。]して、伯父に取入り、尤(もつとも)らしくみせかけけるを、高崎の伯父、まうけにして、さい[やぶちゃん注:「菜」。飯のおかず。]ひとつ、拵へても、藤七方へおくり、手前にも、めづらしき料理出來れば、よびなど、殊の外、心やすくしたり。依ㇾ之(これによりて)、

「此度、高崎へ行(ゆく)あとは、こちへ來て寐てたもれ。お吉がさびしがるもしれぬ程に、そば、はなれぬ樣に、たのみます。」

など、賴み置きける。

 田舍の人の、慮(おもんぱか)りなきこそ、きのどくなれ。

 藤七は心にゑみをふくみ、

「伯父の留主(るす)に本意(ほい)を達せん。」

と、隨ぶん、色目をさとられず、賴もしく出(いだ)しやりて後は、自分の行李など、はこび來りて、偏(ひとへ)に、我がやどの如くしけるを、お吉は、

『うるさき事かな。』

と、おもひけれど、伯父の云ひつけなれば、力およばず、只、

「あい、あい。」

と計り、いふて、よらず障らず、ずいぶん、下女に内せういふて[やぶちゃん注:「内證言ふて」。こっそりと伝えて。]、そば、はなれぬ樣にしけるが、此下女も、守(も)り人の隙(ひま)なく、ふと、近所ヘ行(ゆき)、はなしける内に、かの藤七、小(こ)したゝるく口說(くどき)て、いろいろ、おどしごとなど云ひて、

「よしよし。此願、かなはずば、さしころして、我しなん。」

といふ樣に云ひけるにぞ、娘も恐ろしく、一寸(ちよつと)のがれに、

「いか樣(やう)とも。」

など、だまし、今宵、あふべき筈に云ひおき、

『下女、歸らば、迯やせん。家ぬしへや、斷らん。』

など、おもふうち、持病のしやく、再發して、むな先(さき)、板の如く、齒を喰ひしめ、

「うん。」

と、そりかへりぬ。

 藤七は、

「なむ三寶。」

と、下女をよびて、

「やれ、お吉どのが。」

といふより、やどの亭主もかけつけ、さわぎまはりぬ。

 藤七、生得(しやうとく)、淫欲ふかきものなるが、さき程より[やぶちゃん注:以前から。]、お吉がこと、よくいひなだめしを、僞(いつはり)とはしらず、欲情、火のごとくおこりければ、看病にかこつけ、

「それ、氣付(きづく)。」

と云へば、自(みづか)ら、口うつしにのませ、後(うしろ)よりだきしめなど、せわしき中に、ひとり、樂しみ居ける内、お吉、少し、人心ちつきて、みれば、藤七、我を抱(いだ)きて介抱する體(てい)。いよいよ、うるさくものはいはれず、只、顏をふり、いろいろするを、さよは、さつして、

「わたしが代りましよ。藤七樣、ちと、おやすみ。」

といへど、藤七、はなさず。

 その内、みなみな、歸り、藥などのませて、少しは、しやく、しづまりし樣なれど、舌、すじばりて、呂律(ろれつ)わからず、殊の外になやみけるを、藤七も、誠のなみだをながし、いろいろ看病しけるが、とかく、その夜も、くるしがるものを、とらへ、いろいろ、ばかをつくしけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、お吉は、氣をもみて、[やぶちゃん注:ここ、以下のシーンとつながりが上手くない。脱文があるか?]

「うん。」

と、のつけに、そりけるが、ふびんや、こと切(きれ)て、むなしくなり、宿のさわぎ、さよがなげき、よりくる人々、

「いとしや、いとしや。」

と計りにて、もはや、灸も通ぜず、次第に冷かへりてければ、此よし、又々、高崎へも追飛脚(おひびきやく)を出(いだ)し、死骸へは、屛風、引廻し、次の間に伽(とぎ)の人もあつまりけるが、皆、他人の水くさゝは、誰(たれ)なげくものもなく、藤七が、噂まじりに高笑(たかわらひ)して居(ゐ)けるうち、高崎の伯父、眞靑になりて、

「隨分、いそぎしが、間にあはざりし無念さよ。皆さまにも、さぞ、御世話。」

と、一禮、云(いひ)て、屛風の中(うち)へはいり、

「やれ、お吉か。かはいや。」

と、かけたるふすまを、まくりければ、こは、けしからず、藤七、お吉が死骸と抱き合(あひ)、前後もしらず、伏し居(ゐ)たり。

 伯父も、

「ぎよつ。」

とせしが、

『他國の人の中、なまじいなる事をいひ出しては、外聞あしゝ。』

と、にくさまぎれに、したゝか、つらを、くはせければ、目をまはして、赤面して、迯(にげ)て出けり。

 扨、お吉なきがらをば、高崎の寺へ葬り、さよを付(つけ)て、始末をきゝ、後悔すれども、甲斐なき事なり。

 此事、湯入(ゆいり)どもより、宿へ吹(ふき)こみ、

「藤七は、ばか者なり。久しく、さしおくは、よろしかるまじ。」

と、宿の亭主、片わきヘよびて、

「そこ元、高崎の客衆の事、以の外の事也。江戶より來りし人々、さよが咄(はなし)にて、不ㇾ殘(のこらず)しりて、『貴樣をうち殺さん』と云へり。お爲(ため)を存じて申間(まうすあひだ)[やぶちゃん注:意味不明。「どうしようもないお前さんのことを、まんず、考えて、好意で申すのだが。]、今日中に、在所へ歸り給へ。」

と、おどしければ、

「よくこそ、しらせ下されたり。」

とて、こそこそと、荷物を拵(こしらへ)、出(で)て行(ゆき)けり。

 扨、二、三日すぎて、處の子供、見付出して、

「おくの谷かげに、かの藤七、亂心して、いろいろに狂ひ居(を)る。」

と云ひければ、げん氣なる湯入(ゆいり)ども、

「それ、ぶちころせ。」

とて、二、三十人、

「我(われ)おとらじ。」

と、山へ行けるが、はるかの谷底に、藤七、さばき髮になり、帶も、ときひろげ、下帶もいづ方へおとせしや、所々、血だらけなるなりにて、ばうぜんと居たり。

 そばに、大(おほい)なる木の、たをれて朽(くち)たるありし上へ、はひあがりて、女など媾會[やぶちゃん注:「まぐはひ」と当て訓しておく。]する心にや、いろいろ、えもいはれぬ身ぶりをしけるにぞ、みる人、面(おもて)を掩(おほ)ひて、二目と見る人は、なかりけり。

 すべて、溫泉ある地は、中にも、山神(やまのかみ)の靈(れい)、いちじるく、婦女など、おかし、あなどるときは、罰を蒙ることあり。ことに、人、死して神靈なり。きたなき身を以て、神靈をけがし、山神を、あなどりし冥罰(みやうばつ)、立どころにむくひて、途中より亂心し、此山中へ入りしものならん。

「さるにても、心がらとはいひながら、むごき事なり。」

とて、だましすかして、山へともなひ來り、山の神へ御わびを申し、又々、入湯させければ、快氣したりけれど、右の恥辱、人の口に留(とどま)りて、在處(ざいしよ)へも、もどりがたく、乞食の樣(やう)になりて、いづちともなく、うせぬ。

 若き娘持(もち)たる人、又、わかきものなど、あとさきの勘(かんが)へなく、色に耽(ふけ)るものには、よき禁(いまし)めなれば、怪談といふにはあらねども、記しおき侍りぬ。

[やぶちゃん注:最後に遠慮して但し書きするが、何の! 見事な怪談である!!! 標題は「多欲の人、災(わざはひ)にあふ」である。

「元文年中」一七三六年から一七四一年まで。徳川吉宗の治世。

「江戶中橋」中橋は複数地名に含まれるが、一番知られているのは、中橋広小路か。現在の中央区日本橋三丁目及び八重洲一丁目に相当する。中橋という橋があった。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「上州屋作右衞門」不詳。

「癪」近代以前の日本の病名で、当時の医学水準でははっきり診別出来ぬまま、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていた俗称の一つ。単に「積(せき・しゃく)」とも「積聚(しゃくじゅ)」とも呼ばれ、また、疝気(せんき)と結んで「疝癪」などとも称した。平安時代の「医心方」には、陰陽の気が内臓の一部に集積して腫塊を形成し、種々の症状を発する、と説かれ、内臓に悪しき気が過剰に溜まって腫瘤のようなものができ、発症すると考えられていた。癪には日本人に多い胃癌なども含まれたと考えられている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「湯主(ゆぬし)金太夫」伊香保温泉には同名の温泉ホテルが現存する。私も、昔、泊まったことがある。

「三廻(みまは)り」この「まはり」は助数詞で、この場合は祈願・服薬などで、七日を一期として数えるのに用いる。三週間。

「越谷」埼玉県越谷市

「あぢをやる」気のきいた、味なことが出来る。

「とり廻はし」全体の風体(ふうてい)や物腰。

「小(こ)りゝしき」ちょいと凛々(りり)しい感じで。「小」はいい意味で、「わざとらしくない」ことを添える接頭辞であろう。

「まうけにして」渡りに舟として。ちょうど、いい男手と心得て。

「守(も)り人の隙(ひま)なく」ちょっと意味がとりにくいが、「守り人」は「お吉を守る人」の意で、それが「隙なく」=「ひっきりなしであり」、それで、時に気が緩んで、ちょっと近所に行って世間話がしたくなって、と続くのであろう。本篇、やや表現にこなれない部分が散見されるのが、玉に疵である。

「小したゝるく」「小舌怠く」。物の言い方が何となく(「小」)甘えたような調子であるさま。

「板の如く」非常に気になる発作症状である。この形容は見た目が、硬い板のようなかっちかちになっているか、身体が板状にピンと張ってしまったことを意味するとしか私には思われないからで、通常の「癪」というのは腹部や胸部激しい「差し込み」が発生して、しゃがみこんだり、中腰になって動けなくなることが私の知る限りでは、殆んどだからである。しかし、この表現は寧ろ、重い癲癇やヒステリー患者に見られる、頭と足先だけが床についてそのまま体が弓なりになって硬直する「ヒステリー弓(きゅう)」発作を想起させるからである。私は一つ、彼女の疾患はそうした重度の精神病であった可能性がある。内因・外因・心因かは判らないが、伊香保に来てすっかり平静になったこと、藤七の横暴によって再発したことから、これ自体は心因性のそれであるように思われる。但し、最後の死因は心不全であろうから、もともと(恐らくは先天的に)心臓に重い奇形或いは疾患があったものかとも思われる。

「口うつしにのませ」気付け薬を。

「せわしき」「忙(せわ)しき」。

「いろいろ、ばかをつくしける」所持する活字本は「ばか」は「破家」とある。意味不明。「いろいろ」とあるから、「はか」は「計・量・果・捗」で、「てごめ」にするための「種々の目論見」の意かと考えたが、一方で、これは「破瓜」で、処女を犯して交接することを暗示させているのではないか? とも疑った。この疑いは、最後の藤七の狂態をよく合うからでもある。

「のつけに」このままだと「最初に」だが、一度、発作で昏倒しているのだから、ピンとこない。「乘りつけに」で「上方へ向かって」で、伸び上がるように、急に、また、卒倒したのではないか?

「追飛脚を出し」追加の飛脚。書かれていないが、「さよ」は最初の発作の直後にその知らせを早飛脚で出しているのである。だから、伯父がこの直後にすぐに来たのである。

「かはいや」「可哀そうに」。

「ふすま」「衾」。今の掛布団相当。

「けしからず」「あるまじきことに」・「常識外れにも」・「異様にも」。ハイブリッドでいい。

藤七、お吉が死骸と抱き合(あひ)、前後もしらず、伏し居(ゐ)たり。

「なまじいなる事」異様なことは誰にでもわかることだから、敢えて口にすることは、事態を悪化させると考えたのである。

「くはせければ」殴ったところ。

「湯入ども」藤七のことを前から知っていた常連の湯治客。

「宿へ吹(ふき)こみ」宿の者に聞えよがしに批判を吹聴したのである。

「江戶より來りし人々、さよが咄(はなし)にて、不ㇾ殘(のこらず)しりて、『貴樣をうち殺さん』と云へり」これは金太夫の懲らしめのための作り話である。すんなり出払ってもらうための嚇しである。さればこそ、敬語がふんだんに使われていても、所謂、「慇懃無礼」そのものなのである。

「下帶」褌(ふんどし)。

「なり」「形(なり)。

「ばうぜん」「呆然」。

「そばに、大なる木の、たをれて朽たるありし上へ、はひあがりて、女など媾會する心にや、いろいろ、えもいはれぬ身ぶりをしける」ここが本篇の肝(キモ)の部分である。いいね!

「いちじるく」(その山の神の霊力は)想像を絶して激しく猛く。

「ことに、人、死して神靈なり」殊に、人であっても、亡くなれば、それは神霊となるのである。

「山へともなひ來り」彼が狂乱していたのは谷陰であった。]

芥川龍之介書簡抄18 / 大正二(一九一三)年書簡より(5)十一月一日附原善一郎宛書簡

 

大正二(一九一三)年十一月一日・新宿発信・原善一郞宛

 

        十一月一日午前大學圖書館にて

原君 カナヂアンロツキイの寫眞やバンフからの御手紙は確に落手致しました難有く御禮を申しあげます

もう今頃は紐育[やぶちゃん注:「ニューヨーク」。]で黃色くなつたプランターンの葉の落ちるのを見て御出の事と存じます東京もめつきり寒くなりました並木も秋の早い橡やすずかけは皆黃色く乾いてうすい鳶色の天鷲絨[やぶちゃん注:「ビロード」。]の樣に枯れた土手の草の上に柔なひわ色の羽をした小鳥が鳴いてゐるのを見ますとワイルドの「黃色のシムフォニイ」とか云ふ短い詩を思ひ出します

角帽をかぶつてからもう三月目です講義はあまり面白くありません美文學[やぶちゃん注:堀切透氏の「芥川龍之介書簡集」(新全集底本)では『英文学』となっている。]の主任はローレンスといふおぢいさんで頭のまん中に西洋の紙鳶[やぶちゃん注:「かみだこ」。凧。]の樣な形をした桃色の禿があります人の好い親切な人でよく物のわかつた人ですけれども殘念な事に文學はあんまりよくわかつてゐない樣ですいつでも鼠色のモーニングコートを着てズボンの下ヘカーキ色のゲートルをはいてゐます何故ゲートルなんぞを年中ズボンの下へはいてゐるのだかそれは未に判然しません今このおぢいさんの「Humuor in English Literature from Goldsmith to Bernard Shaw」「Plots&Characters in Shakespeare’s later plays」「English Pronounciation」をきいてゐます三番目のは Philological な講義でつまらないものです

文展がはじまりました吉例によつて少し妄評をかきます日本畫の第一科は期待以上に振ひませんでした小坂芝田氏や小室翠雲氏のさへ大した出來とは思はれません望月靑鳳氏の猿の毛描きがうまいと云つてほめる人もゐますさうした事をほめれば成程ほめる事がないでもありませんそれは文展の模倣が巧妙に出來上つてゐる事です文晁の惡い作より遙かにすぐれたものがあると云ふ事ですしかし之を自慢にするほど日本畫家は藝術的良心に訣陷はないでせうし又なからむ事を望みたいと思ひます津端道彥氏の「眞如」と云ふ佛畫の前へは東京觀光の田舍のおばあさんやおぢいさんが立つてをがんでゐますあんな手のゆがんだ片輪の佛さまをおがむ人たちはかあいさうです要するにこゝへ出品する人たちは見るも氣の毒な程貧弱な内生活をしてゐる人とより外は思はれません藝術にどれほどの理解と情熱があるかわかつたものではないと思ひます

第二科では私の興味を引いた作品が二あります一は牛田雞村氏の町三趣で一は土田麥僊氏の海女です町三趣はあまり遠近法を無視し過ぎた嫌がありますが私は之を今度の日本畫の中で最傑出した作だと思つてゐます「三趣」は朝と晝と夜とで朝の靜な町に漸く炊烟[やぶちゃん注:「すゐえん」。]がほのめいて石をのせた屋根には鳥の群がなきかはし人通のない往來を紅い着物をきた小兒が母親らしい女に手をひかれてあるいてゆくのも晝すぎの時雨に並藏[やぶちゃん注:「ならびぐら」。]の水におちる影もみえずぬれにぬれた柳の間うす白い川の面を筏の流れるのもそれぞれ興をひきますけれど宵の町の軒行燈[やぶちゃん注:「のきあんどん」。]のほの赤くともる頃を二人づれの梵論子[やぶちゃん注:「ぼろんじ」。虚無僧(こむそう)のこと。]が坂つゞきの町の軒づたひに尺八をふきながら下りてゆくなつかしさは此作家のゆたかな藝術的氣分を感じさせずにはおきません

海女は此頃またよみかへしたゴーガンの「ノアノア」の爲に一層興味を感じたのかもしれません土田氏は私の嫌な作家の一人です昨年の「島の女」も私の嫌な作品の一でしたしかし海女のすぐれてゐるのはどうしても認めなければならない事實です六曲の屛風一双へ砂山と海とをバックにして今海から出た海女と砂の上に坐つたり寢ころんだりしてゐる海女とを描いたものです泥のやうな灰色の中に黃色い月見艸もさいてゐます赫土の乾いたやうな色の船もひきあげてあります

砂山の向ふにひろがつてゐるウルトラマリンの海は不讚同ですけれどもねころんでゐる海女の肩から腰に及ぶ曲線や後むきになつた海女の背から腕に重みを託してゐる所や海草を運んでくる海女や小供の手足のリズミカルな運動は大へんによくかいてありますデッサンも「島の女」より遙に統一を持つてゐます槪して一双の中で右の半双海の出てゐる方はあまり感心しませんが左の半双は確に成功してゐます

唯誰もこの繪をほめる人のないのが悲觀です私の友だちは皆惡く云ひます先生にはまだ御目にかゝりませんが多分惡く云はれるだらうと思ひます私の知つてる限りではこの繪をほめたのは松本亦太郞氏だけです大觀氏は矢張たしかなものでした(咋年ほど人氣はありませんけれど)廣業氏の「千紫萬紅」はどうも感心しません栖鳳氏の「繪になる最初」は思ひきつて俗なものです山本春擧氏の「春夏秋冬」の四幅も月並です櫻谷氏の「驛路の春」は「勝者敗者」以來の作かもしれませんけれど私は一向心を動かされませんでした

玉堂氏の「夕月夜」と「雜木山」とも太平なものです「汐くみ」では多少なりとも何かつかまうとした努力がみえますけれど今年はまた元の銀灰色の霧と柔婉[やぶちゃん注:「じうゑん」素直で優しいこと。]な細い木立との中にかへつてしまひました何と云ふ安價なあきらめでせう

彫刻にも目ぼしいものは見當りませんでした又私には彫刻はまだよくわかりません世間の人も大抵はよくわかつてゐない樣な氣がします内藤伸氏の氣のきいた木彫が欲しいと思ひました藤井浩祐氏の「坑内の女」や「若者」も評判の惡い割に私にはよく思はれました

洋畫では石井柏亭氏が頭角を現はしてゐますこの人の心はとぎすました鏡のやうに冷に[やぶちゃん注:「ひややかに」。]澄んで居るのでせうその心の上に落ちる木の影石の影は寸毫も誤らない訓練を經た手でカンヴァスなりワットマン[やぶちゃん注:Whatman。画用紙。商標名。後注参照。]なりの上にうつされるのでせう此人の作品をみてゐると私はきつと森鷗外先生の短篇を思ひ出します今度の作品の中で船着きと云ふテンペラは其殊にすぐれたものだらうと思ひます「並び藏」と云ふ水彩「N氏の一家」と云ふ油繪もよく出來てゐました 南薰造氏は「瓦燒き」のやうな作品をもう見せてはくれませんけれどそれでも「春さき」はなつかしい作でした 土は皆春を呼吸してゐる丘と丘との間に僅にみえる紫がかつた海も春を呼吸してゐる低い木の芽うす白い桃の花「春」は今 MOTHER EARTH に KISS をしてゐるのです唯私は「瓦燒き」以來の南氏の作品をたどつてひそかに同氏の藝術的氛圍氣[やぶちゃん注:「ふんゐき」。雰囲気。]が比較的薄くなりつゝありはしないかと思はれない事もありません今から切に其杞憂に終らむ事を祈ります

かう上げてくると勢[やぶちゃん注:「いきほひ」。]藤島武二氏の「うつゝ」と齋藤豐作氏の「夕映の流」をも數へなければなりません「うつゝ」は TOUCH は實に達者なものです「夕映の流」は私にこんな氣分になる事の出來る作者を羨しく思はせました

其他不折は例の如く角のはえた「神農」と稱する老人の裸體をかいてゐますし吉田博氏は十年一日の如くあの董色を使つた「play of collars」に餘念のないやうに見うけられます

要するに多くの畫家はのんきですすべての氣分の和をその氣分の數の和で割つた商を描いてゐるんですある特殊の木なる槪念をある時間の槪念のうちに置いてかいてゐるのです彼等には天然色寫眞の發明は恐しい競走者の出現を意味するに違ひありません

Verdi の百年祭で音樂學校と帝國ホテルとで演奏會がありました兩方行つてみましたがあとの方で TROVATORE PRELUDE MISERERE のマンドリンをきゝましたザルコリがひくギターの太い澁い音が銀のやうなマンドリンの聲を縫つてゆくのがうれしう御座いました

   鳶色のギタラの絹をぬふ針かマンドリーヌのトレモロの銀

同じ日に藝術座が有樂座で音樂會をやりました新興藝術の爲に氣を吐く試みなんださうですがショルツのひいたドビュッシーや何かの外はあんまり感心したものはなかつたさうです前にかき落しましたが帝國ホテルでは RIGOLETTO の QUARTETTO がありました Soprano: Mrs. Dobrovolsky, Mezzo Soprano: Miss Nakajima, Tenor: Mr. Sarcoli, Baritone: Mr. Tham と云ふ順でしたがあの泣き佛と綽名した中島さんには大へん御氣の毒な話しですけれど西洋人が三人で日本人一人をいぢめてるやうできいててあんまりいゝ氣がしませんでした

自由劇場は帝劇でゴルキイの夜の宿をやりました昨夜行つてみましたが日本で演ぜられた此種類の芝居の中では一番成功したもののやうに見うけます役者の伎倆なり舞臺の裝置なりに始めて割引のない批判的の眼をむける事が出來且その結果それらの寧[やぶちゃん注:「むしろ」。]成功したのを認める事の出來たのは甚愉快です小山内さんはもつと愉快でせう

サロメはみましたか

鐘がなりました之から SWIFT と云ふ名前から早さうな西洋人の早い書取の授業をうけに行かなければなりません大急ぎで歌を二つ三つかいてやめます

   秋風よゆだやうまれの年老いし寶石商も淚するらむ

   秋たてばガラスのひゞのほの靑く心に來るかなしみのあり

   額緣のすゝびし金もそことなくほのかに靑む秋のつめたさ

   鳶色の牝鷄に似るぺッツオルド夫人の帽に秋の風ふく

   『秋』はいますゝりなきつゝほの白き素足に獨り町をあゆむや

               芥 川 生

追伸 これは講義をきゝながらかいてゐるのです今テニソンの「アサーの死」をやつてゐます「こゝのLはサイレントで發音はサッダアですサッダアは TO TAKE APART の意です」とか何とか SWIFT さんが云つてゐますこの人は私の見た西洋人の中で一番ジョンブルらしい西洋人ですその癖あめりか人でジョンブルではないのですが

講義をきゝながらかいた歌を御覽に入れます

     CONCERT にて

   ドヴロボルスキイ夫人も秋の夜はさびしと思ふことありや灯を

   ポンプの如く立ちてうたふそことなくさびしかりけり SIGNOR THAM

   秋の夜のホテルの廊を畫家南薰造のゆくにあひにけるかな

   バァナァドリーチとかたる黑服の女は梟によく似たるかな

   シニヨーリナ中嶋のきる紫の羽織もさむき夜となりにけり

     FREE THEATRE にて GORKY の〝夜の宿〟

   赤シヤツのすりのワシカも夕さればふさぎの虫がつのるなりけり

   のんだくれの役者のうたふ小唄より秋はランプにしのびよりけむ

   わが友のかげにかくれて歌つくるこの天才をさはなとがめそ

   肘つきてもの云ふときは SWIFT も白き牡牛の心ちこそすれ

之から LEADING の稽古がはじまるからやめます さやうなら

 

[やぶちゃん注:一箇所だけ行末改行で続く箇所に字空けを施した。

「原善一郞」「芥川龍之介書簡抄16 / 大正二(一九一三)年書簡より(3)」の四通目の「大正二(一九一三)年九月十七日(年月推定)・山本喜譽司宛」の本文及び私の注を参照されたい。そこで私が指摘したように、この洋行に出ている後輩への返信には、やはり、張り合おうとする負けん気が行間に窺われて仕方がない。

「カナヂアンロツキイ」カナディアン・ロッキー(Canadian Rockies)。アメリカ合衆国からカナダにかけて延びているロッキー山脈の内、カナダ国内のアルバータ州(バンフ・ジャスパー)、ブリティッシュ・コロンビア州、ユーコン準州を通る部分を指す。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「バンフ」一八八七年、カナダで最初に設立されたバンフ国立公園(Banff National Park)。私は一度、二十数年前、オーロラを見に訪れたことがある。

「プランターン」既出既注。但し、厳密なことを言うと、カナダのことを想起して言っているので、その場合は、本邦の「プラタナス」(ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis 或いはスズカケノキ属モミジバスズカケノキ Platanus × acerifolia )ではなく、後者の原種で北米原産のスズカケノキ属アメリカスズカケノキ Platanus occidentalis となる。

『ワイルドの「黃色のシムフォニイ」とか云ふ短い詩』龍之介の好きなオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)の詩‘Symphony In Yellow’。個人サイト「詩と音楽」のこちらに対訳が載る。

「ローレンス」ジョン・ローレンス(John Lawrence 一八五〇年~一九一六年)はイギリス人教師。苦学の末、パリ・ベルリン・プラハでの留学・勤務を挟んで、ロンドンとオックスフォード両大学を卒業、前者で数年、教鞭を取った後、明治三九(一九〇六)年東京帝大英吉利文学科で英語・英文学の教師となった。学位論文以外に研究業績はなく、本国では埋もれた存在であったが、ゲルマン語全体とギリシア・ラテンを縦横無尽に知り尽くした碩学であったと伝えられている。かの「お雇い外国人」として知られる同大で哲学・西洋古典学を講じたラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber 一八四八年~一九二三年:ロシア出身のドイツ系ロシア人哲学者・音楽家。ロシア語名はラファエリ・グスタヴォヴィチ・フォン・キョーベル(Рафаэ́ль Густа́вович фон Кёбер))は彼を「文科大学の誇りにして、名誉である」と讃えている(サイト「大阪言語研究会」のこちら他を参考にした)。なお、芥川龍之介は自死の五ヶ月前の昭和二(一九二七)年二月二十一日発行の『帝國大學新聞』のシリーズ・コラム「その頃の赤門生活」の第二十七回(『芥川龍之介氏記』とする)の中で、

   *

       二

 僕達のイギリス文學科の先生は故ロオレンス先生なり、先生は一日僕を路上に捉へ、娓々々(びび)數千言を述べられてやまず。然れども僕は先生の言を少しも解すること能はざりし故、唯雷に打たれたる啞の如く瞠目して先生の顏を見守り居(ゐ)たり、先生も亦僕の容子に多少の疑惑を感ぜられしなるべし。突如として僕に問うて曰く、“Are you Mr. K. ?” 僕、答へて曰く、“No, Sir.” 先生は――先生もまた雷に打たれたる啞の如く瞠目せらるゝこと少時(せうじ)の後(のち)、僕を後(うしろ)にして立ち去られたり。僕の親しく先生に接したるは實にこの路上の數分間なるのみ。

   *

と回想している。引用は私のサイトの古い電子化から。

「Humuor in English Literature from Goldsmith to Bernard Shaw」この講義、既出既注。龍之介の訳を参考にして現代表記するならば、「ゴールドスミスよりバーナード・ショウに至る英文学上のユーモア」OUR、沙翁の後年期の戲曲に現れたる PLユーモア

「Plots&Characters in Shakespeare’s later plays」同前で「シェークスピアの後期戯曲に現われたる構想と性格」。

「English Pronounciation」後の部分は「Prononciation」のミス・スペル。「英語の発音」。

「Philological」言語学的。

「文展」「芥川龍之介書簡抄17 / 大正二(一九一三)年書簡より(4)十月十七日附井川恭宛書簡」で既出既注。

「吉例によつて少し妄評をかきます」この目出度い何時もの「仕来たり」であるところの「妄評」という表面的な謙辞の背後に、寧ろ、挑戦的なもの(龍之介の芸術への審美眼や批評力への自信)が表われていると私は感ずる。

「小坂芝田」(こさかしでん 明治五(一八七二)年~大正六(一九一七)年)は長野県生まれの南画家。本名は晴道。中村不折は母方の従兄に当たる。グーグル画像検索「小坂芝田」(私が絵が想起出来ない作家はこれを附す)。

「小室翠雲」(明治七(一八七四)年~昭和二〇(一九四五)年)は栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市本町一丁目)生まれ(当時の邑楽郡は栃木県に属した)の南画家。本名は貞次郎。父桂邨も日本画家。翠雲は明治四〇(一九〇七)年の「文展」開設に当たっては、「正派同志会」を組織し、副委員長として「文展」をボイコットし、後も「文展新派」に対抗したことで知られる。グーグル画像検索「小室翠雲」

「望月靑鳳」(明治一九(一八八六)年~?)は神田生まれの日本画家。四条派の望月金鳳に師事、後に養子となった。その後、竹内栖鳳・山元春挙に学んだ。「文展」開設時には「正派同志会」の結成に評議員として参加している。しかし、第二回文展には出品し、「雪中群猿」で初入選、翌年第三回文展で「獅子」が、大正元年の第六回文展でも「群鹿」で褒状、この大正二年第七回文展の「猿」で三等賞を受賞している。当該の「猿」の画像は見当たらない(作品のヒット数が少ない)。

「文晁」江戸後期の画家谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四〇)年)江戸下谷根岸生まれ。通称文五郎。父は田安家の家臣で漢詩人としても知られた谷麓谷。十歳頃から狩野派の加藤文麗に絵を学び、十九歳の頃に南蘋(なんぴん)派の渡辺玄対に師事した。天明八(一七八八)年、田安徳川家に出仕して五人扶持となり、同年、長崎に遊学して清人の張秋谷に文人画を学んだ。寛政四(一七九二)年には白河侯松平定信付となり、翌年三月から四月にかけて、定信の江戸湾岸巡視に随従し、「公余探勝図」を制作している。宋・元・明・清の絵画や西洋画の研究の上に、土佐派・琳派・円山四条派などの画法をも摂取し、幅広い画業を示し、当時、江戸第一の大家とされた。私は好きな画家である。恐らくは、龍之介の言っている「惡い作」の方が私の好みであろうと推定される程度に好きである。

「津端道彥」(明治元(一八六九)年~昭和一三(一九三八)年)は越後生まれの日本画家。歴史人物画を得意とし、文展や日本美術協会などで受賞を重ね、大阪天満宮襖絵なども手がけた。「手のゆがんだ」「眞如」は残念ながら、ネット画像には見当たらない。グーグル画像検索「津端道彦」

「牛田雞村」(うしだけいそん 明治二三(一八九〇)年~昭和五一(一九七六)年)は横浜生まれの日本画家。本名は治(はる)。松本楓湖に入門し、巽(たつみ)画会に出品。大正三(一九一四)年の日本美術院の再興に参加し、同年には今村紫紅らと「赤曜会」を結成、大正六年の「鎌倉の一日」で院展樗牛賞を受賞。大和絵の伝統を踏まえた風景画を描いた。「町三趣」は惜しいかな、ネットには見出せない。グーグル画像検索「牛田雞村」

「土田麥僊」(つちだばくせん 明治二〇(一八八七)年~昭和一一(一九三六)年)は佐渡生まれの日本画家。「海女」は「独立行政法人国立美術館」公式サイト内のこちらで、京都国立近代美術館蔵の原画画像が見られる。

『ゴーガンの「ノアノア」』フランスの画家でゴッホとの交流で知られるウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin  一八四八年~一九〇三年)のタヒチ島滞在の内、第一回目のそれを回想した随筆(Noa Noa:パリ・一八九三年~一八九四年)。大正元(一九一二)年から翌年にかけて『白樺』に小泉鉄による訳が連載され、この大正二年十一月十八日には(本書簡の十七日後)挿絵も添えて洛陽堂から出版された(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該原本)。後ゴーギャンは私の好きな画家で、「ノア」ノア」は高校以来の私の偏愛書の一つである。

「島の女」同前のサイトのこちらで東京国立近代美術館蔵の原画画像が見られる。龍之介の見解は正しく、明らかにこれは画題と言い、対象の選び方と言い、ゴーギャンの影響下に描かれたものである。「海女」もそれに続く同工異曲乍ら、優れてよく描かれており、特に龍之介の言うように左半幅が非常に優れている。しかし、岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注よれば、『前年出展の「島の女」は「褒状」を得たが、「海女」は』この『文展では評価されなかった』とある。

「ウルトラマリン」ultramarine。群青色。本来は天然の半貴石ラピスラズリ(lapis lazuli:方ソーダ石グループの鉱物である青金石(lazurite:ラズライト)を主成分とする。和名は瑠璃(るり))から作られたが、ヨーロッパの近くではアフガニスタンでしか産出せず、それが地中海を越えて海路で運ばれてきたため、「海を越えて(来る青)」という意で命名されたもので、海の色に基づく由来ではない。恐らく誤解しておられる方が多いと思われるので一言した。

「デッサン」フランス語の‘dessin’で素描。英語はドローイング(drawing)。但し、ここは広義の用法で、実在感を具えた絵画に求められる描画力・観察力の技能及びその処理・手順・技法力の熟知性を指している。

「先生」先に出た三中の恩師廣瀨雄であろう。

「松本亦太郎」(またたろう 慶応元(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)は高崎生まれの心理学者。東京帝大卒業後、エール大学・ライプチヒ大学に学び、京都帝大を経て、大正二(一九一三)年に東京帝大教授となった。両帝大に日本最初の心理学実験室を開設して精神動作学を提唱したほか、航空心理・芸術心理などの応用心理学の領域をも開拓、「日本の実験心理学の祖」とされる。また、「日本心理学会」を創設して初代会長となった。

「大觀氏」横山大観(明治元(一八六八)年~昭和三三(一九五八)年)は水戸生れの日本画家。橋本雅邦に師事。明治二九(一八九六)年、東京美術学校助教授となったが、二年後、校長であった岡倉天心らと辞職、「日本美術院」の創設に参加、大正三年に日本美術院再興を主導し、終始、近代日本画の中心作家として活躍した

「廣業」寺崎広業(てらさきこうぎょう 慶応二(一八六六)年~大正八(一九一九)年)は秋田出身の日本画家。狩野派を小室秀俊に、四条派を平福穂庵に師事した。後に南画家菅原白龍にも学び、諸派の画法を取り入れ、「日本青年絵画協会」や「日本絵画協会」などで活躍、後に天心・大観らと「日本美術院」を創立、また「文展」開設に当たっては「国画玉成会」に参加し、審査員として同席に出品を重ねた。清新な山水画を多く描いたことで知られる。「千紫萬紅」はこの第七回文展出品作。秋田市立千秋美術館蔵。

「栖鳳」竹内栖鳳(元治元(一八六四)年~昭和一七(一九四二)年)は近代日本画の先駆者。戦前の京都画壇を代表する大家で、帝室技芸員・第一回文化勲章受章者。「繪になる最初」はやはりこの時の出品作。これ(当該ウィキの画像)。現在、重要文化財指定。

「山本春擧」(明治四(一八七二)年~昭和八(一九三三)年)は滋賀県生まれの円山四条派の画家。竹内栖鳳とともに近代京都画壇を代表する画家。「春夏秋冬」は「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。

「櫻谷」木島桜谷(このしまおうこく 明治一〇(一八七七)年~昭和一三(一九三八)年)は京都市三条室町生まれの四条派の画家。本名は文治郎。四条派の伝統を受け継いだ技巧的な写生力と情趣ある画風で、「大正の呉春」(呉春は江戸中期の絵師で四条派の始祖)・「最後の四条派」などと称された。「驛路の春」は正確には「驛路之春」で「うまやぢのはる」と読むデジタル「朝日新聞」のこちらで画像が見られる(左矢印で部分が二部見られる)。この第七回文展の審査員であった。「勝者敗者」という作品は不詳。

「玉堂」川合玉堂(明治六(一八七三)年~昭和三二(一九五七)年)は愛知生まれの日本画家。初めは四条派を、後に橋本雅邦に師事して狩野派を学び、詩情溢れる穏健な風景画に独自の画風を打ち立てた。「夕月夜」はこの第七回文展で好評を博した一品。「足立美術館」公式サイトのこちらで見られ、同時に出品された「雜木山」も「東京藝術大学大学美術館所蔵作品データベース」のこちらで見られる。「汐くみ」は不詳。岩波文庫注で石割氏が『前年の文展で大胆な画法が注目された「潮」のことか』と述べておられる。出品と題名は確認出来たが、画像は見当たらない。

「内藤伸」(しん 明治一五(一八八二)年~昭和四二(一九六七)年)は島根県生まれの彫刻家(木彫)。上京して高村光雲に師事、明治三七(一九〇四)年、東京美術学校選科卒。文展出品の後、大正三(一九一四)年に日本美術院同人となり、翌年の再興院展にも出品したが、大正八年に脱退した。後に帝展審査委員・帝国美術院会員となり、昭和四(一九二九)年には「日本木彫会」を設立して主宰した。

「藤井浩祐」(こうゆう 明治一五(一八八二)年~昭和三三(一九五八)年)は東京生まれの彫刻家。明治四〇(一九〇七)年、東京美術学校彫刻科卒。第一回文展に出品し、以後、出品を続けた。明治四四(一九一一)年の文展出品「鏡の前」から三等賞を連続して四度、受賞している。後に日本美術院同人、以後、院展に出品。文展審査員・帝国美術院会員・帝国芸術院会員。戦後は日展運営会理事。昭和二八(一九五三)年より名を「浩佑」と改称している。日本風の裸女の鋳造物が多い。グーグル画像検索「藤井浩

氏の「坑内の女」や「若者」も評判の惡い割に私にはよく思はれました

「石井柏亭」(明治一五(一八八二)年~昭和三三(一九五八)年)は版画家・洋画家。東京府下谷区下谷仲御徒町(現在の東京都台東区上野)生まれ。本名は石井満吉。とし、初め、父で日本画家であった石井鼎湖に日本画を学んだが、後、洋画を志し、浅井忠・中村不折に師事し、さらに東京美術学校に学んだ。明治四三(一九一〇)年に渡欧、帰国後、二科会の創立に加わったが、後に退いて一水会を設立した。作品は平明な写実主義で貫かれている。文筆にも優れ、著作も多い。私の電子化では、ブログ・カテゴリ「北原白秋」の「北原白秋 邪宗門 正規表現版」で装幀と多数の主挿画を担当しており、画像で総てを示してある。PDF縦書一括版もあるが、挿絵はブログ・リンクとなっている(但し、直接ブログを探すよりは、結局は後者の方が簡単に見られる。「石井柏亭」で検索すればよい)。以下の龍之介の画題は正確ではない。彼は「船着き」・「並び藏」・「N氏の一家」と記しているが、正確には第七回文展に出品したその三つはそれぞれ、「滯船」(テンペラ)・「N氏と其一家」・「並藏」(素描淡彩)である。なお、この内、龍之介がかっている「滯船」は二等賞を受賞している(以上の最後の部分はサイト「東京文化財研究所」の「石井柏亭」に拠って確認した)。

「ワットマン」Whatman。画用紙。一七四〇年に創業したイギリスの画用紙の製造会社名及び商標名。創業者ジェームズ・ワットマンが考案した「Whatman紙」は現在でも高級水彩画用紙として知られる。

「森鷗外先生の短篇を思ひ出します」具体的にどの、或いは、どれらのそれを指すのか私には判らぬ。

「テンペラ」tempera painting。絵画技法の一つ。水と混和する展色剤の中で練り合せた顔料の絵具。水と油を混和し、浮化性と定着性を持たせるため、レチシンを含む卵黄のほか、アラビアゴム・蜂蜜などが加えられた。エジプト・メソポタミアの古代文明の時代から使われたが、特に初期ルネサンスのイタリアの画家たちが好んで使用した。筆の動きが円滑でないため、色調が固くなる嫌いがあるが、硬化後は変質せず、罅割(ひびわ)れや剥落が生じない利点がある。薄い透明な絵具の層が光沢を帯び、重ねられた刷毛(はけ)の跡が、視覚的に混り合う効果を持ち、後、油絵が生れるまで、色調を混合する技術も開発されて多用された。

「南薰造」(みなみくんぞう 明治一六(一八八三)年~昭和二五(一九五〇)年)は広島県賀茂郡内海町(現呉市安浦町)出身の画家。東京美術学校西洋画科卒。明治四〇(一九〇七)年から明治四十三年にかけてイギリスに遊学した。文展・帝展・新文展・日展で活躍し、昭和七(一九三二)年から昭和八年にかけては東京美術学校教授を務めた。油画家・水彩画家として知られるが、版画の制作にも携わった。晩年は郷里の安浦町で暮らし、瀬戸内海を描き続けた。岩波文庫の石割氏の注によれば、『「春さき」は三等賞受賞。「瓦焼き」は』二年前の明治四三(一九一一)年の『第五回展の出品作。南は『白樺』』派『と関りが深く、有島壬生馬』(うぶま:洋画家・小説家有島生馬(有島武郎の弟で里見弴の兄)の本名)『との滞欧記念美術展は、『白樺』主宰で一九一〇年に開催』されたとある。「春さき」は絵葉書を「ヤフオク」に出品されているものに同文展の絵葉書の画像を見つけたので、以下に示す。龍之介が気に入っている「瓦燒き」の方が発見出来なかった。

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「MOTHER EARTH」「母なる大地」。

「藤島武二」(慶応三(一八六七)年~昭和一八(一九四三)年)は薩摩藩士の家に生まれた、洋画家。日本の近代洋画壇にあって長く指導的役割を果たしてきた重鎮。ロマン主義的な女性を配した作品を多く残した。「うつゝ」は「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。

「齋藤豐作」(とよさく 明治一三(一八八〇)年~昭和二六(一九五一)年)は埼玉県越谷生まれの洋画家。東京美術学校卒。黒田清輝(せいき)に師事し、明治三九(一九〇六)年に渡仏して印象派に傾倒、点描派風の画風を学んだ。帰国後、大正三(一九一四)年の二科会の創立に参加し、大正八年からはフランス人の妻とフランスのサルト県ベネベルにあった古城に住んだ。この「夕映」(ゆふばへ)「の流」(ながれ)は彼の代表作で、「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。

「TOUCH」タッチ。筆致。

「不折」中村不折(慶応二(一八六六)年~昭和一八(一九四三)年)は江戸京橋八丁堀(現在の中央区湊)生まれの洋画家・書家。太平洋美術学校校長。夏目漱石「吾輩は猫である」の挿絵画家としてとみに知られ、島崎藤村の詩集「若菜集」の装幀も彼である。他にも正岡子規・森鷗外とも親しかった。「神農」という作品はこの文展に「老孔二聖の会見」とともに出品しているが、龍之介の言う「例の如く角のはえた」の「例の如く」という形容は私には意味が判らない。

「吉田博」(明治九(一八七六)年~昭和二五(一九五〇)年)は洋画家・版画家。旧久留米藩士の次男として久留米に生まれ、福岡県立修猷館に入学するも中退したが、明治二四(一八九一)年にその修猷館の図画教師であった洋画家吉田嘉三郎に画才を見込まれ、吉田家の養子となり、近代風景画家の第一人者として活躍した。明治三二(一八九九)年に渡米し、デトロイト美術館展・ボストン美術館展に出品、翌年にはパリで行われた万国博覧会に出品した。明治美術会を経て、太平洋画会の創立に参加した。明治三十六年には義妹のふじをとともに再び外遊し、翌年のセントルイス万博で銅牌を受賞している。明治三十九年に帰国して展覧会を開催、「兄妹画家」として評判を呼び、世相漫画にもなった。これは夏目漱石の「三四郎」や「虞美人草」のヒントになったと言われている。明治四〇(一九〇七)年に、ふじをと結婚した。同年の第一回文展で「新月」が三等賞を受賞し、続く翌年及び翌々年の文展で「雨後の夕」と「千古の雪」が孰れも二等賞を受賞した。大正九(一九二〇)年になって木版画を手がけ始め、昭和二(一九二七)年第八回帝展に「帆船(朝・午前・霧・夜)」を出品。昭和二二(一九四七)年、太平洋画会会長を務めた。欧米・エジプト・インドなどに渡って写生したほか、登山が一般的でなかった大正末期に日本アルプスに登り、二百六十点余りもの版画を連作している。グーグル画像検索「吉田博」

「play of collars」色彩の遊び。

「Verdi の百年祭で音樂學校と帝國ホテルとで演奏會がありました」「兩方行つてみました」イタリアのロマン派の作曲家で主にオペラを制作して「オペラ王」の異名を持つジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 一八一三年~一九〇一年)。新全集の宮坂覺氏の年譜に、龍之介はこの前月の下旬に、本邦で行われたヴェルディ百年祭の、東京音楽学校や帝国ホテルなどで行われた演奏会に出かけている(といってもこの書簡がそのソースである)。

「TROVATORE」ヴェルディ作曲になる全四幕のオペラ「イル・トロヴァトーレ」(Il Trovatore:「吟遊詩人」)。一八五三年にローマで初演。ヴェルディ中期の傑作の一つとされる。

「PRELUDE」プレリュード。前奏曲。

「MISERERE」「ミゼレーレ」(Miserere:ラテン語「哀れみ給え」)或いは「ミゼレーレ・メイ、デウス」(Miserere mei, Deus:同前で「神よ、我を憐れみ給え」)。イタリアの司祭で作曲家・歌手でもあったグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri 一五八二年~一六五二年)が「旧約聖書」の「詩篇」第五十一篇をもとに作曲した合唱曲。

「ザルコリ」アドルフォ・サルコリ(Adolfo Sarcoli 一八六七年~一九三六年)はイタリアの声楽家・作曲家。当該ウィキによれば、シエナ出身で、当初はマンドリン工房で働いていたが、『テノール歌手に転向した。プッチーニと親交があり』、「ラ・ボエーム」の『ロドルフォ役を演じ』、『上海で出演する契約だったが、辛亥革命で契約がふいになった』ため、『仕方なく』明治四四(一九一一)年に『来日し、声楽とギター、マンドリンを教えた』。『報知新聞記者の千葉周甫の協力で、三浦環ら帝国劇場歌劇部と』「胡蝶の夢」(作曲はハインリヒ・ヴェルクマイスター(Heinrich Werkmeister 一八八三年~一九三六年:ドイツ出身で日本で活躍した作曲家・指揮者・チェロ奏者)を『一幕やり、好評を得』たため、『帝劇と契約』した。『その後』、『日本に定住し、声楽教師として日本で初めてイタリアのベルカント唱法を伝え』、『原信子・関屋敏子・喜波貞子らを育てた。また』、『マンドリン・ギター教師としても鈴木静一らを育てた。伊藤信吉の』、「ぎたる弾くひと」に『よれば、萩原朔太郎は慶應義塾大学在学中、サルコリからマンドリンの指導を受けている』という。すこぶる腑に落ちる。

「鳶色」茶褐色。

「ギタラ」ポルトガル・ギター(Guitarra portuguesa:ポルトガル語)。十二弦のポルトガルの民族弦楽器。実際にはギターとの関連性は薄く、恐らくはイングリッシュ・ギターとシターン(Cittern:水滴型の共鳴体を持った撥弦楽器)との融合から生まれたと考えられている。

「トレモロ」tremolo。イタリア語で同音又は異なる二音を急速に反復させる奏法。主に弦楽器で用いる。

「藝術座」この大正二(一九一三)年に島村抱月や松井須磨子を中心に東京で結成した新劇の劇団。先の石割氏の注に、これは、発足当時の『芸術座が、音楽界刷新を目的に開催した音楽会。二〇日有楽座で開催。薄田泣菫、北原白秋などの詩に基づく創作曲をソプラノ歌手の薗部房子が歌った』とある。しかし、後、二人の急死により、大正八(一九一九)年に解散した。

「ショルツ」パウル・ショルツ(Paul Scholz 一八八九年~昭和一九(一九四四)年)はドイツのピアニスト・音楽家。ライプツィヒ生まれ。ハンブルク音楽院からベルリン高等音楽学校に進み、一九一二年卒。翌大正二(一九一三)年に来日し、東京音楽学校でピアノ教師として多くの弟子を育てた。九年後の退職の後も東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)教師などを務め、東京を拠点にピアニスト・音楽教師としての活動を続けて演奏活動や後進の育成を行った。東京で亡くなった。

「RIGOLETTO」ヴェルディが作曲した全三幕からなるオペラ。一八五一年初演(イタリアのヴェネツィア・フェニーチェ座)。当時のフランス文学界の巨匠ヴィクトル・ユーゴー(Victor-Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)の戯曲「王は愉しむ」(Le Roi s'amuse)が原作。一八五一年にヴェネツィアのフェニーチェ座で初演された。ヴェルディ中期の傑作とされ、彼のオペラの評判を不動のものにした作品とされる。因みに、当該ウィキによれば、『ユーゴーには著作権料に相当する金銭の受取が一切なかったため』、ユーゴ―は『立腹』し、『フランスで訴訟まで提起した(結果は敗訴)。このため』、『同オペラのパリ初演は他の世界諸都市に大きく遅れて』、六年後の一八五七年一月(イタリア座)となった。『しかしヴィクトル・ユーゴー自身、ヴェルディの効果的な重唱の用い方には驚嘆せざるを得なかった。同オペラのパリ初演に観客として』『招かれ』、『不承不承』出向いた『ユーゴーは』第三幕の四重唱を聴いて』、「四人に同時に舞台で台詞を言わせて、個々の台詞の意味を観客に理解させるのは、芝居では不可能だ」と『述べたと伝えられている』とある。私はオペラ嫌いで、幾つかは持っているものの、ちゃんと聴いたためしが殆んどない。そんな中で、これだけは特異点で聴いている。何故か? 私の偏愛するイタリア映画(厳密は公開はテレビ用シネマ)のベルナルド・ベルトルッチ(Bernardo Bertolucci 一九四一年~二〇一八年)監督作品「暗殺のオペラ」(Strategia del ragno:「蜘蛛の戦略」。一九七〇年公開(本邦公開は一九七九年八月)。原作はアルゼンチンの巨匠ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges  一八九九年~一九八六年)の小説「裏切り者と英雄のテーマ」(Theme of the Traitor and the Hero)で重要なシークエンスに用いられていたからである。

「QUARTETTO」カルテット。イタリア語。四重唱。

「Mrs. Dobrovolsky」筑摩全集類聚版脚注によれば、『ロシア大使館付武官夫人』。

「Miss Nakajima」中島は旧姓。「白樺」派の柳宗悦の妻で声楽家(アルト歌手)であった柳兼子(明治二五(一八九二)年~昭和五九(一九八四)年)。私は関心がないので、詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「Mr. Tham」筑摩全集類聚版脚注に『不詳』とし、石割氏も注せず。

「自由劇場」劇作家・演出家・小説家小山内薫(明治一四(一八八一)年~昭和三(一九二八)年:広島生まれ。龍之介が引き継ぐ雑誌『新思潮』を創刊している)と歌舞伎俳優二代目市川左團次が始めた新劇運動。明治四二(一九〇九)年から大正八(一九一九)年にかけて九回の公演を行った。劇場や専属の俳優を持たない「無形劇場」で、年二回の公演を目標として会員制の組織とした。イプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」や、このゴーリキーの「夜の宿」、チェーホフの「犬」などの翻訳劇の他、森鷗外・吉井勇・秋田雨雀などの戯曲を上演した。自由劇場は前後して発足した坪内逍遙の「文芸協会」とともに新劇運動の旗手となり、当時の知識人には好評を以って迎えられた。

「帝劇でゴルキイの夜の宿をやりました」自由劇場の第七回公演で、知られた社会主義リアリズムの作家マクシム・ゴーリキー(Макси́м Го́рький 一八六八年~一九三六年)が一九〇一年から一九〇二年にかけて執筆した戯曲「どん底」(На дне)のこと。この年の十月二十九日から三十一日まで帝国劇場で公演された。

「サロメ」「芥川龍之介書簡抄9」参照。

「SWIFT と云ふ名前から早さうな西洋人」ジョン・トランブル・スウィフト(John Trumbull Swift 一八六一年~一九二八年)アメリカのコネチカット州出身の英語教師。当該ウィキによれば、『イェール大学卒業後、コロンビア大学で法律学を学』んだが、明治二一(一八八八)年に『母国の大学卒業生を対象』とした『日本の中学校の英語教師として来日した』。『その後』、『一旦帰国し』たが、翌明治二十二年に『再来日』して、『YMCA』(Young Men's Christian Association:キリスト教青年会)『国際委員を務め、東京の神田美土代町に東京YMCA会館の建設に携わった。日本におけるYMCA運動の活性化に貢献した』。九『年後の』明治三一(一八九八)年に『YMCAを退職』し、『再度の帰国を挟』んで、三『度目の来日で』、『東京高等師範学校や東京帝国大学、東京商科大学で英語や英文学の教鞭を執った』。昭和三年に『東京で死去』した。この龍之介のちゃらかしは、英語の一般形容詞としての‘swift’には「速い・迅速な・つかの間の・即座の」の意があるからである。

『テニソンの「アサーの死」』ヴィクトリア朝イギリスの桂冠詩人アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年:その美しい措辞と韻律から本邦でも愛読者が多い。私もその一人)が「アーサー王伝説」を元に書いたアーサー王や円卓の騎士たちが登場する「国王牧歌」(Idylls of the King)。十二の物語詩からなる。一八五六年から一八八五年の間に分割出版された。英文‘Wikisource’で全文が読める。

「こゝのLはサイレントで發音はサッダアですサッダアは TO TAKE APART の意です」「TO TAKE APART」は「離れて・離れること・ばらすこと」の意と思うが、「サッダア」はという単語を捜し得ない。

「ジョンブル」John Bull。「擬人化されたイギリスの国家像」或いは「擬人化された典型的イギリス人像」、「個々の保守的な典型的イギリス人」のこと。日本の「山田太郎」のようなもので、‘John’ はイギリス人に多い一般的な名で、‘Bull’は一般名詞では「去勢していない成長した雄牛・そのように大きくがっしりした男・強気な人物」を意味する。当該ウィキによれば、典型的なジョン・ブル像は、夜会服に半ズボン』に『ユニオンジャック柄のウェストコート(ベスト)の正装をした、中年太りの英国紳士で』『頭に着用している大きなトップ・ハットは』、『しばしば「ジョン・ブル・トッパー」として紹介される』とし(リンク先にカリカチャア有り)、『こうしたジョン・ブルのキャラクターは』一七一二年に『ジョン・アーバスノット』(John Arbuthnot 一六六七年~一七三五年:イギリスの医師で博物学者)『によって創作され、アーバスノットとガリバー旅行記の著者で友人のジョナサン・スウィフト、そして風刺家アレキサンダー・ポープらが手掛けた』パンフレット「Law is a Bottomless Pit」(「法律は底無しの沼」)に『掲載され』、『ついで』、『大西洋を渡ってアメリカの風刺漫画家トーマス・ナスト』(Thomas Nast 一八四〇年~一九〇二年:ドイツ系アメリカ人)『などによって一般に普及したと考えられて』おり、『ジョン・ブルのイメージは新聞の風刺漫画などでも用いられる』とある。見た目には、糞野郎のトランプそっくりだがね。

「ドヴロボルスキイ夫人」本文に出る通り、ソプラノ歌手。詳細不詳。

「SIGNOR」‘signor’はイタリア語で「~殿・~様」或いは「イタリア紳士」の意。

「バァナァドリーチ」イギリス人の画家・陶芸家バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach 一八八七年~一九七九年)日本をたびたび訪問し、「白樺派」や「民芸運動」にも関わりが深い。「日本民藝館」の設立にあたり、柳宗悦に協力した。ロンドン留学中の高村光太郎と知り合って日本に共感と郷愁(幼年期に四年ほど在日していた)を抱くようになり、明治四二(一九〇九)年に来日して東京上野に居を構えた。この当時、彼は日本いたのである。

「シニヨーリナ」‘signorina’はイタリア語で「お嬢さん」。

「FREE THEATRE」先の「自由座」。

「ワシカ」「どん底」の登場人物で若い泥棒のワーシカ・ペーペル(Васька Пепел)。

「牡牛」前に出した‘John Bull’の‘Bull’に引っ掛けたもの。]

2021/03/04

明恵上人夢記 93

 

93

一、同七月【十七日。十九日。】、深き心を起して、「六時(ろくじ)の行(ぎやう)」を企(くわだ)つ。又、深く心に十心(じふしん)を起す。同廿日の夢に云はく、淸淨の綿を以て、多宇佐儀(たふさぎ)に懸けたり。又、一人の女房有りて、護身と爲して、予に近づきて語る。「夢に云はく、和尙の邊に糞穢(ふんゑ)の香(か)、有り。只、護身、爲(な)らざるのみに非ず。剩(あまつさ)へ、此の穢れたる相(さう)有り。」。心に慙(は)ぢて、之を思ふ【之を思ふべし。】。

[やぶちゃん注:時制推定は「90」の私の冒頭注を参照されたい。彼を取り巻く「糞穢の香」は私には、「90」夢に出た、彼を「渡りに舟」の人物として陰で利用せんと画策している当時の現実社会の仏教や政治家らの汚物臭と感じる。

「六時の行」六時は六分した一昼夜を指す(その中はまた、「昼三時」と「夜三時」に纏められ、「晨朝(じんじょう)」・「日中」・「日没(にちもつ)」を昼三時と、「初夜」・「中夜」・「後夜(ごや)」を「夜三時」と称する)。則ち、一切の有意なインターミッションを持たない一昼夜連続の過酷な行法を指す。

「十心」恐らくは、「十住心」(じふじゆうしん)の「秘密荘厳住心」、則ち、「真言の秘密の法門を悟る心を観想すること」を意味しているものと思われる。「十住心」は空海が宗教意識の発達過程を十種の心の在り方に分類したもので、㊀「異生羝羊住心」(動物のような低俗な本能に支配される凡夫の心)、㊁「愚童持斎住心」(人倫の道を守る程度の人の心) 、㊂「嬰童無畏住心」(人間界の苦しみを厭離(おんり)して天上の楽を求むるレベルの心) 、㊃唯蘊(うん)無我(住心五蘊(存在を構成する要素(色(しき)・存在一般を構成する作用・機能の様態である「受」(感受)・「想」(表象)・「行」(意志)・「識」(識別))の法は実在するものの、我(が)はないと覚知する声聞(しょうもん)の心) 、㊄抜業因種住心(人間の苦の根本体である原因を完全に除去せんとする縁覚の心) 、㊅他縁大乗住心 (人法の二我を離れて慈悲心によって衆生を救おうとする心) 、㊆覚心不生(ふしょう)住心(心の不生を覚る心) 、㊇一道無為住心(あるがままの真理をそのままに悟る心)、㊈極無自性(ごくむじせい)住心(真如が縁によって現れることを直ちに知る心)の九段階を経なければ、摑むことは出来ないとされる。

「多宇佐儀(たふさぎ)」これは底本のルビである。原題仮名遣は「とうさぎ」。漢字表記は「犢鼻褌」「褌」。直接に肌につけて陰部を覆うもの。「下袴(したばかま)」。古くは「たふさき」と清音であったか。褌(ふんどし)一丁のみの姿である。そこにぶら下げた「綿」とは何か? 判らない。浄化された明恵自身の胞衣か?

 

□やぶちゃん現代語訳

93

 同七月[明恵注:十七日及び十九日の両日。】、思うところあって、心に決意を立てて、「六時の行(ぎょう)」を企(くわだ)てた。また、深く、心中に「十心(じゅうしん)」に至らんことを起請した。

 それを成就し得たと思った、明けた同二十日、こんな夢を見た――

 私は清浄な綿を以って、褌(とうさぎ)に懸けている。

 そこに、一人の女房がいて、私の護身役として在り、私に近づいて、次のように語った。

「私(わたくし)、夢にあなたさまについてのお告げを受けました。それは、『和尚さまの周辺に糞穢(ふんえ)の絶え切れぬほどに臭い気(かざ)が満ちている』と。されば、私は、ただ、あなたさまの護身のため、それのみならず、この忌まわしき穢れている御仁の相(そう)のためにここにおるのです。」

と。

 夢の中にあって、私は、心底、恥じて、その事実を強く感じていた[明恵注:この「恥」をよく考えなくてはならない!]。

明恵上人夢記 92

 

92

一、六月の禪中に、兜率天上(とそつてんじやう)に登る。彌勒の寶前に於いて、金(こがね)の桶を磨きて沈香(ぢんかう)を之に入れ、一人の菩薩、有りて、予を沐(あ)ましむと云々。

[やぶちゃん注:時制推定は「90」の私の冒頭注を参照されたい。ここでやっと翌月に転じている。

「禪中」坐禅中の観想の内に見た覚醒型の夢想である。

「兜率天」仏教の宇宙観にある天上界の一つ。サンスクリット語「トゥシタ」の漢音写。漢訳では「上足」「知足」とする。欲界の六天(四王天・忉利天・夜摩天・兜率天・化楽天(けらくてん)・他化自在天)の中の第四天。ここには七宝でできた宮殿があり、宮殿には内院と外院があって、内院には弥勒菩薩が住んで説法を行なっている。外院には天衆の遊楽の場所がある。ここでの寿命は四千歳で、その一日は人間界の四百年に相当するとされる。また、仏伝では、釈迦は、ここから降下して摩耶夫人の胎内に宿って生誕したとされている。弥勒は釈迦入滅から五十六億七千万年後、この兜率天での修行を終えて如来となり、地上に下って末法世の果ての総ての衆生を済度するとされてもいる。なお、底本の注には、『『比良山古人霊託』には明恵が兜率天に往生したと語られている』とある。「比良山古人霊託」(ひらさんこじんれいたく)は鎌倉前期の延応元(一二三九)年五月十一日に元関白・左大臣九条道家(当時は既に出家している)が病いとなり、慶政(けいせい:一説に道家の兄とする)が加持祈祷のために道家の住む法性寺に赴いた。慶政が法性寺にある間に二十一歳の女房に「比良山の大天狗」の霊が憑依し、自らを藤原鎌足の以前の祖であると称し、五月二十三日から二十八日までの間に慶政と三度の問答をしたが、その問答を慶政が記録したものである。その内容は、天狗が現れた意図・道家の病いの原因と治療法・関係者や著名人の後世(ごぜ)・狗の世界の状況などに及んでいる。

「沈香」狭義にはカンボジア産「沈香木(じんこうぼく)」を指す。東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属 Aquilaria の、例えば、アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha が、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際に、その防御策としてダメージを受けた部分の内側に樹脂を分泌する。その蓄積したものを採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを「沈香」と呼ぶ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することによって比重が増し、水に沈むようになることからかく呼ぶ。原木は幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても、微妙に香りが違うために、僅かな違いを利き分ける香道において「組香」での利用に適している(以上はウィキの「沈香」を参考にした)。]

 

□やぶちゃん現代語訳

92

 六月の禅観中の折り、こんな夢を見た――

 兜率天の天上へと登る。

 ありがたき弥勒菩薩の宝前に於いて、金で出来た桶(おけ)を、まばゆいばかり磨き上げた中に、沈香(じんこう)を入れ、一人の菩薩が来たって、私を、その沈香の香でもって、沐浴させて下さる……

 

2021/03/03

明恵上人夢記 91(二つの夢)

 

91

一、又、一人の若き僧有りて云はく、「先日、寶筐印陀羅尼(ほうきやういんだらに)を書きて賜はるべき由、申しき。書きて賜はるべし。」と云ふ。心に之を思惟(しゆい)す。其の後に、將に法衣を著(つけ)むとす。帶、少しき、しにくきに、此の僧、「借りて著(ちやく)せむ。」と欲するを、快くして、遮(さへぎ)らず。僧、感じて云はく、「御房、廣大なる心、まします也。」。頻りに之を感ず。

 又、夢に、南の尼御前有りて云はく、「佛を造りて給ふべき也。」。予、答へて曰はく、「何にしてか、造るべき。」。堪へざる由を稱す。夢の中に、彼(か)の人、現(うつつ)に存ずる由を思ふと云々。

[やぶちゃん注:時制推定は「90」の私の冒頭注を参照されたいが、そこでも書いたように、ここで明恵の母の姉らしき近親者が出るのも、「89」夢との関係に於いて、非常に重要であると私は思っている。

「一人の若き僧」私は一読して、「これは釈迦の若き日のそれではないか?」と思ったことを注しておく。

「寶筐印陀羅尼」釈迦が路辺の朽ちた塔(ストゥーパ)を礼拝し、「これこそ如来の全身舎利を集めた宝塔である」として、その塔の功徳などを述べた「宝篋印陀羅尼経」に説く陀羅尼。四十句からなる。

「思惟」この場合は、この若い僧僧に、私明恵が、今、宝筐院陀羅尼を書き与えてよいかどうか、ということを深く考えたことを指す。以下は、それを「諾」と明恵が判断し、さてもそれを書くための仕儀を整えていることを示すものと読める。

「借りて著せむ」私は若僧のこの僧が「私の致しておりますところの、この粗末な帯を、お貸し申し上げます」と申し出たものと思う。さればこそ、コーダが腑に落ちるからである。

「南の尼御前」底本の注には、『『明恵上人行状抄』には湯浅宗重女に「次女」とあり、この女性を指すか』とする。明恵の母は紀伊国の有力者であった湯浅宗重の四女であった(父は高倉上皇の武者所に伺候した平重国)。

「堪へざる由を稱す」とは、「南の尼御前」の本心である。とすれば、「南の尼御前」の事蹟を知り得ない我々にとって最も理解し易い真意は、実はこれは明恵自身の本音とは言えないだろうか? 前の「90」夢では、明恵は世間の自身への尊崇が単なる当時の状況下に於ける、如何にもいい加減なものに起因するものであることを語っていた(と私は思う)ことを考えれば、「堪えられない」のは明恵自身の正直な気持ちの外化された憤懣ではなかったか? と私は考えるのである。

「彼の人」記述上は「南の尼御前」を指すように思われるが、それでは、夢の中の明恵がわざわざ覚知することを言う必要がないと考える。少なくとも私自身の永年の夢記述の中にあってはこのような判り切った無駄な言い添えをするはずがないという確証を持っているからである。さすればこそ、第一夢との並置からみて、私はこれも「釈迦」であるように感ずるものである。]

 

□やぶちゃん現代語訳

91

また、こんな夢を見た――

一人の若い僧がいて、彼が言うには、

「先日、『「寶筐印陀羅尼」を書いて私に賜わる』と申された。されば、書いて賜はれたい。」

と。

 私は、静かに、そのことについて、その正否を心に思惟した。

 その後に、私はそれを「諾(だく)」と考え、それを自筆するために法衣を著ようとした。

 すると、私の用意した帯を廻(まわ)したところ、少しばかり、

『し難いな。』

と思った折り、この若い僧は、

「どうか。私の帯を借りて、お廻しなされよ。」

と切に望んだによって、私はそれを、すこぶる快く思い、断らなかった。

 すると、その若い僧は、いたく感じ入って、言ったのだ!

「御房! それ! 広大無辺なる心! ましまする!」

と。

 しきりに、私はそれに、心、撲(う)たれ、感じたのだ!

    *

 また、こんな夢を見た――

 南の尼御前がいて、言うことには、

「仏のお姿をお造り下さるようお願い申し上げます。」

と。

 私は、それに応じて、言った。

「何のために造らねばならぬのか?」

と。

 南の尼御前は、

「堪えられぬから!」

といった旨を語った。

 その時、私は、夢の中で、

「これは。『かの人』が、たまさか、私の夢の中に現われて示現されたのだ!」

ということを、心に深く感じたのであった……

 

明恵上人夢記 90

 

90

一、其の夜、夢に、常圓房【尼。】有りて云はく、「南都には、御事(おほんこと)を、『北京(ほくけい)の諸僧【山(ひえ)・寺(みゐ)等也[やぶちゃん注:それぞれの漢字への当て訓としてのルビである。]。】、尊重し奉る』とて歸敬(ききやう)し奉る。」と云ふ。心に思はく、『南都には、「北京に大事ある」とて大事にし、北京には又、「大事にせる一切の僧の中に尊重を蒙るべき」也。』と云々。

[やぶちゃん注:重大な「89」夢の続きであるのかも知れぬし、そうでない錯簡の可能性も疑われる。しかし、それを夢の内容から推理することは不可能である。しかし、河合氏のようなユング派であるなら、これを「89」夢と連関して解釈するのが普通ではないかと思うのだが、河合氏は何故か、これも、また、次の「91」(二つの夢記述のカップリングで、日附がなく、孰れも唐突に「又」で始まる)も全く採り上げておられない。フロイト派のような超自我の検閲が強力に夢に行われていると、考えるなら、寧ろ、やはり、「89」とも関連をつけた夢解釈が行われるようには思われる。但し、私は「89」夢の後に、「89」夢とは何の関係もない夢を連続して見ることは、最新の脳科学上から考えれば、何も奇異なことではないと感ずる人間である。夢は過剰になった記憶の整理のためにシステマティクに自動的機械的に脳の物理的機能として行われる現象であり、実は夢そのものには全く意味がないとするいう学説をも、私は決して否定しないからである。しかし、この夢、「其の夜」という指示語で始まること以外にも、やはり「89」との関連が私は激しく疑われると思われる箇所があり、河合氏が続けて考察されていないのを、実は不満に思っている。何故なら、登場するのが、明恵の姉妹である「常圓房」だからである。彼女は「65」に登場し、その夢を河合氏が明恵の夢の中でも特異点の夢の一つとして採り上げ、『唯一つ、彼の母と姉妹が出現している珍しい夢であ』り、『これは女性との「結合」を経験し、以後のより深い世界へと突入してゆこうとする明恵にとって、一度はその肉親に会うことが必要だったということであろう』とされ、『明恵の場合は』、『あるいは、慰めの意味で母』や姉妹『に会ったのであろう。母』と姉妹『は既に尼になっていて、仏門に帰依している。明恵は安心して深層への旅を志した』の『であろう』とまで述べておられるからである(リンク先ではソリッドに引用してある)。

「山(ひえ)」天台宗の比叡山延暦寺。

「寺(みゐ)」天台宗の三井寺、則ち、長等山(ながらさん)園城寺(おんじょうじ)。言わずもがなであるが、明恵は華厳宗である。]

 

□やぶちゃん現代語訳

90

 その夜、別に、こんな夢を見た――

 私の姉妹の一人である常円房【既に尼となっている。】がおり、私に言うことには、

「南の奈良にておきましは、あなたさまのことを、『北の京都の諸々の知られた僧徒[明恵注:言うまでもないが、比叡山・三井寺などの僧徒を指す。]は、皆、尊重し申し上げている』と言うて、仏・菩薩の如く、崇敬しておりますよ。」

と。

 しかし、私は心の中で思った。

『南の奈良に於いては、専ら、「北の京都には種々の現実上の直面する重大な問題がある」という観点から、「明恵は、暫く、大切にせねばならない」と考えているからに過ぎず、北の京都に於いては、これまた、「大事にしておかねばならない一切の僧徒の中でも、明恵は取り敢えず、現実上の諸問題を解決するために、特に尊重を蒙っても、まあ、しかるべき存在ではある」と考えているだけのことである。』

と……

 

怪談老の杖卷之二 貉童に化る

 

   ○貉童に化る

 是も上總への田舍にて、秋の頃、「すぐりわら」をするとて、そのくずわら、百姓の門口(かどぐち)にしきて、和(やは)らかなれば、童(わらは)どもの、あつまりて、「かへりごくら」をする事あり。

 あるとき、長太郞といへる童、弐、三人の友だちと、れいの「とんぼがへり」をして、餘念なく遊び居(をり)けるに、ひとりの童、きるものを、あたまよりかぶりて、貌(かほ)をかくし、ひたもの、

「くるり くるり」

中返りを、しけり。

 かの童ども、始(はじめ)は、

『友のうちなるべし。』

と何心なく居けるに、ものもいはず、貌もみえねば、

「誰(たれ)じや、誰じや。」

ととがめても、ものも、いはず。

『じやれてかゝる。』

と、おもひて、かぷりたるあはせを取らんとすれば、

「きゝ」

と、いひて、はなさず、皆、よりて、手をさしいれ、うでをとらへんとしければ、毛の、

「むくむく」

生ひたるに驚きて、

「ばけ物よ。」

と、さわぎければ、おとなしきもの共(ども)、立出(たちいで)て、棒など、持出(もちいだし)けるを見て、かの、あはせをかぶりしまゝにて、林の中へはい[やぶちゃん注:ママ。]入りけるを、

「それよ、それよ。」

と追かけければ、のちは、あはせをうちすてゝ、大(おほい)なるむじなの姿を、あらはして、ましぐらに、かけ行(ゆき)ける。

 かの長太郞、のちに、をとこになりて、堀留(ほりどめ)邊に奉公して居(をり)たるが、直(ぢき)にかたりぬ。

 かの男は、僞(いつはり)などいふものにあらねば、實事なるべし。

[やぶちゃん注:「貉」(むじな)は「狸」の意でとる。

「すぐりわら」農具に使う藁を選別すること。

「かへりごくら」不詳。しかし「こぐら」には「腓(こむら)」「ふくらはぎ」の意があり、直後に『れいの「とんぼがへり」』という表現が出るから、「蜻蛉返り」、宙返り前屈反転の遊びを言っているものと思われる。

「ひたもの」副詞。ひたすら。矢鱈と。

「じやれてかゝる」「戲(じゃ)れてかかりよって!」「悪(わる)ふざけして、戯(たわむ)れやがってからに! 堪忍なんらん!」といった苛立ちの表現。

「きゝ」既にして人ではない「もの」、獸(けもの)の声として発声している感じである。

「おとなしきもの共」大人の連中。

「堀留」現在の中央区日本橋堀留町一丁目付近か(グーグル・マップ・データ)。]

怪談老の杖卷之二 化物水を汲

 

   ○化物水を汲

 上總の浦方に、「大唐が鼻」とて、海の中へ、なり出(いで)し處あり。

 あるとき、房州鉢田といふ所より、出(いで)しふね、此處につけて、水をくみけるが、上の草野に井戶ありて、いとうつくしき女、水を汲み居(をり)けれぱ、そばへよりて、待居けるを、彼(かの)女、

「わたし、汲(くみ)て進ぜ申べし。」

とて、になひ桶に一荷(ひとに)、汲みいれけり。

 扨、荷ひて、船へ持行(もてゆき)ぬ。

「何方(いづかた)にて汲し。」

と問ひければ、

「此上の野中にて汲たり。よき井戶あり。よき娘もありて、くみてくれたり。女郞町にてもあるか。よき娘の、よき、きる物、きて、ものいひ・けはひ、常の娘にはあらず。」

と、いひけるを、船頭、きゝて、

「此上に、井戶も、なき筈(はず)なり。前方(さきがた)[やぶちゃん注:以前。]、此(この)はなにて、水くみにあがりし者、行方(ゆきがた)なくなりし事あり。はやく、船を出(いだ)せ。『あやかし』なり。」

と、さはぎければ、

「としや、おそし。」

と、船を漕出しけるに、はや、かの娘、來りて、海の中へ、飛こみ、およぎ來(きた)るを、櫓にて、なぐりければ、櫓へ、かぢりつきしを、たゝきはなして、

「ゑい。」

聲を出(いだ)し、こぎのけて、にげけり。

「かしこくも、船頭、心づきて、はやく船を出しける程に、皆々、いのちを助かりけり。左なくば、あやふかるべき事なり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:標題は「化物(ばけもの)、水を汲(くむ)」。

「大唐が鼻」現在の千葉県長尾郡太東岬(たいとうみさき)と考えられる(グーグル・マップ・データ)。

「鉢田」不詳。太東岬の北方に「八田」や「八日市」の地名があるが、現在のこれらは海浜部の地名ではない。候補地があれば、御教授願いたい。

「ゑい」感動詞で、力を込めたり、勇気を奮い起こしたり、決断したりしたときに発する語であるが、歴史的仮名遣は「えい」でよい。底本は無論、「ゑい聲」であるが、臨場感を出すために、かくした。

「あやかし」は現行では一般に「不思議なこと・妖怪」の意で汎用されるが、本来は「船が難破する際に海上に現れるという化け物」を指し、ここでは正統な使用法である。

「としや」不詳。「疾(と)しや」で、「早く! 早く!」の意か。

「こぎのけて」「漕ぎ退(の)けて」。辛くも漕ぎ退(しりぞ)けての意であろう。]

怪談老の杖卷之二 くらやみ坂の怪

 

   ○くらやみ坂の怪

 くらやみ坂の上にある武家屋敷にて、あるとき、屋敷の内の土、二、三間(げん)[やぶちゃん注:四メートル弱から五メートル半。]が間(あひだ)、くづれて、下のがけへ落たり。

 そのあおより、石の唐櫃(からびつ)、出(いで)たり。

 人を葬(はふり)し石槨(せきかく)なるべし。

 中に矢の根[やぶちゃん注:鏃(やじり)。]などの、くさりつきたるもの[やぶちゃん注:「腐り盡きたる物」。]、されたる[やぶちゃん注:「曝れたる」。長い間、風雨や太陽に曝されて、色褪せて朽ちたことを言う。「されこうべ」「しゃれこうべ」のそれである。]骨などありしを、また脇へ埋(うづみ)ける。

 そののち、その傍(かたはら)に井戶のありけるそばにて、下女二人、行水をしたりしに、何の事もなく、ふたりともに氣を失ひ、倒れ居(をり)たるを、皆々、參りて、介抱して、心つきたり。

「兩人(りやうにん)ながら、氣を失ひしは、いかなる事ぞ。」

と、いひければ、

「わたくしども兩人にて、湯をあみおり候へば、柳の木の影より、色白く、きれいなる男、裝束(しやうぞく)して、あゆみ來り候。恐しく存候(ぞんじさふらふ)て、人をよび申(まう)さんと存候計(ばかり)にて、あとは覺へ[やぶちゃん注:ママ。]申さず。」

と、口をそろへて、いひけり。

 其後(そののち)、主人の祖母、七十有餘の老女ありけるが、屋敷のすみにて、

「草を摘まん。」

とて、出行て、みへず。

「御ば樣の、みへ[やぶちゃん注:ママ。]給はぬ。」

と、さはぎて、尋ねければ、藏のうしろに、倒れて、死(し)し居(をり)ける。

 其外、あやしき事ありしかば、祈禱など、いろいろして、近頃は、さる事もなきやらん、沙汰なし。

 たしかなる物語なり。

[やぶちゃん注:「くらやみ坂」このなの坂は江戸市中には、複数、存在する(ウィキの「暗闇坂」を参照)が、ここはまず、最も知られた東京都港区麻布十番二丁目から元麻布三丁目方面に上る「暗闇坂(くらやみざか)」であろう。別名「くらがり坂」。また、元の地名(麻布宮村町)から「宮村坂」とも称され、嘗ては「暗坂」とも表記された。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

怪談老の杖卷之二 狐鬼女に化し話

 

   ○狐鬼女に化し話

 麹町十二丁目、大黑屋長助といふ者の下人に、權助とて、十七、八の小僕あり。

 或時、大窪百人町の御組(おんくみ)まで、手紙をもちて行(ゆき)、返事を取りて歸りけり。

 はや、暮に及び、しかも、雨、つよくふりければ、傘をさし來りけるに、先へ立(たち)て、女のづぶぬれにて行(ゆく)ありければ、

「傘へ、はいりて御出被ㇾ成(おいでなされ)よ。」

と、聲をかけて、立より、其女の顏をみれば、口、耳のきわ[やぶちゃん注:ママ。]までさけて、髮かつさばきたるばけ物なり。

「あつ。」

と、いふて、卽座にたふれ、絕入(たえいり)けり。

 その内に、人、見つけて、

「たをれものあり。」[やぶちゃん注:ママ。]

とて、所のものなど、立合ひ、吟味しければ、手紙あり。

 まづ、百人町のあて名の處へ、人を遣はしければ、さきの人、近所など、出合(いであ)ひて、氣つけを用ひ、

「なにゆへ氣を失ひし。」

と尋ねければ、右のあらましを語りしを、駕(かご)にのせ、麹町へおくり返しぬ。

 よくよく恐ろしかりしとみへて[やぶちゃん注:ママ。]、上下の齒、ことごとく、かけけり。

 夫より、あほうの樣になりて、間もなく、死にたり。

「大久保新田近所には、きつねありて、夜に入れば、人をあやなす。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:標題は「狐(きつね)、鬼女(きぢよ)に化(ばけ)し話」。都市伝説「口裂け女」の江戸版。

本篇は既に「柴田宵曲 續妖異博物館 雨夜の怪」の注で電子化しているが、今回は零からやり直した。

「麹町十二丁目」現在の千代田区麹町・平河町附近(グーグル・マップ・データ)。

「大黑屋長助」不詳。

「大窪百人町」後にある通り、「大窪」は「大久保」に同じい。現在の新宿区百人町一丁目から三丁目及び大久保三丁目相当(グーグル・マップ・データ)。よくお世話になる「江戸町巡り」の「百人町」によれば、『西大久保村の西に位置』し、『町名は近世、徳川氏の家臣・内藤清成が率いていた伊賀組百人鉄砲隊の同心屋敷地で、「大久保百人組大縄屋敷」、「大久保百人大縄屋敷」、「百人組大縄給地」、「百人組同心大縄地」等と俗称された場所であったことに由来する。はじめは陣屋形式の屋敷であったが』、寛永一二(一六三五)年から万治三(一六六〇)年『頃までに間口が狭く、奥行きの深い武家屋敷となった。俗に「南町(南百人町)」、「仲町(中百人町)」、「北町(北百人町)」と称する』三『本の通りがあった』。『江戸時代、幕府の下級武士たちは同じ職務で集団を作っており、これを「組」と呼んだ。当時、鉄砲を持って戦いに出た集団・鉄砲組の中で「同心」と呼ばれる武士たちが百人ずついた組を「百人組」といい、大久保の鉄砲百人組もこれにあたる。同じ組に属する者は纏まって屋敷を与えられたが、大久保の鉄砲百人組の屋敷のあったところが、ほぼ現在の百人町一丁目から三丁目にあたる』。『百人組は江戸の街の警護を担当した。その鉄砲術が江戸でも』、一、二『を争うほどの腕前であったという。JR新大久保駅前にある皆中稲荷』(かいちゅういなり:「総て中(あた)る」の意である)『はそれに因んでいる。嘗ては同じ由来を持つ青山百人町、市谷の根来百人町も存在したが、町名の統廃合で姿を消し、当地に大久保百人町に相当する地名が残るのみである』。『平和な江戸時代、警護以外に仕事は殆どなく、鉄砲隊は部下を食べさせていくために副業を行う必要があり、躑躅の栽培に手を出したところ、それが人気を得て、当町は躑躅の名所となった』とある(歴史の解説はもっと詳しく、戦国から近代にまで及んでいる。必見。

「大久保新田」不詳。そもそも大久保地区の北(百人町の北)は江戸時代には狭義の江戸御府内の外縁に当たり、意想外の田舎であった。「今昔マップ」を見ても、明治時代には原野である。]

2021/03/02

怪談老の杖卷之二 生靈の心得違

 

   ○生靈の心得違

 世に死靈の生(いき)たる人に取(とり)つきしはあれど、爰に、めづらしき物語あり。

 生たる人、死人にとりつきたりといふは、此物語なるべし。

 戶田家の家中なりしと聞り。

 ある侍、妻におくれて、又、後妻を迎へけるが、隨分、挨拶柄もよく、波風なく暮しける。

 ある夏、土用ぼしをしたりしに、歌書などの寫したる、又、かきすてし反古(ほうご)、詠み歌などの詠草の、よくつゝみたるなど、出けり。

 女筆(をんなふで)にて、ことにうつくしく、かきなせり。

 後妻、夫に尋けるは、

「是は、何人(なんぴと)の書(かき)給ひしにや。扨も、扨も、かはゆらしき筆のすさみかな。」

と、目がれもせず、ながめけるを、

「それは。十二日の佛の手なり。よからぬものを出(いだ)し給へり。」

とて、取あげける。

 十二日は、先妻の銘日[やぶちゃん注:「命日」の誤記。]也。

 つま、いふ樣(やう)は、

「扨も、かく手跡といひ、志しといひ、こゝろある御方(おかた)なりとは、今まで、終に御物語もなし。御心(みこころ)、ふかき御事かな。さだめて、わらはが心、よかるまじきと思召(おぼしめし)て、御物語なきものならん。扨も、扨も、世には、かやうなるはつめいなる女中もあるに、わたくしなど、かやうにかたくなものは、御心にもいらぬはづなり。」

など、たはぶれのやうにいひけるが、そのけしき、露(つゆ)もねためる樣子なく、誠に亡妻の手跡を、おもひ入(いり)たるさまなり。

 その夜、閨(ねや)に入りても、妻の方より、晝の事、いひ出して、

「さても、前の御新造(ごしんぞ)さまは、賢女なるべし。さぞ、何か、御(おん)しほらしかりし御(お)はなしもあるべし。きかさせ給へ。」

など、うらなく云ひかけられて、日頃、心には絕(たえ)ざれども、後妻にむかひ云ひ出(いだ)すべき筋にもあらねば、心ひとつ、むかしを忍び過(すぐ)し來りしを、かく、後のつまの心ありていふ一言(ひとこと)に、おもはず、口をむしられて、

「かくいへば、いかゞなれど、ことの外、おとなしき生れにて、何事も立ちいらぬさまに、ものはぢして、うち見には、いとおろかなる樣にて、手かき・歌よみ・茶の湯などいふ事まで、心えぬ事なく、しかも、いさゝか、そのけはひ、みせし事なく、歌など書たる時、行(ゆき)かゝりても、ふかく、かくして、顏、うちあかめ、ありけるまゝに、

『さぞかし、手前細工にて、よみ習ひたらん歌、さぞあるべし。なまじゐに見あらはして、はぢがはしくおもはせんも、せんなき事。』

と、おもひて、見ずにやみし事、度々なるが、死してののちは、この、そこにかきおける詠草などをみれば、いにしへの作者にも、おとらず。世にありし時、是をしらば、よき友ひとりまうけし心地すべきを、殘りおほき事なり。さて、かく、よき事に才覺なる計(ばかり)にあらず。朝夕の家のをさめ方、つづまやかにて、三味せん・淨瑠璃の『ばさら事』などは、夢にもしらず、只、けんやく・しつそを本(もと)として、召仕ふものにも、なさけふかく、細工は何にてもしたり。[庖丁もきゝて]、料理も、同役などの夜ばなしなどに、ちょとした吸物などにても、手をうたせる程の事にてありし。しかし、色めきしかたはなくて、平生、我ら、きのつまる樣なる生れなりしが、いかなる事にや、かりふしにいひけるやうは、

『わたくし、此世になくなり候とも、もはや、こと人をむかへ給ふ事は、かならず、かならず、被ㇾ成(なされ)まじ。もし左樣なる事、なされ候はゞ、御恨(おうらみ)申べし。』

など、いひしが、是ばかりは、氣質とは相違して、

『みれんなる事を、いひし。』

と、いまにおもへり。その外は、夫婦の中にても、禮義、たゞしく、われら、酒などのめば、度々、いけんしたり。そなたと同じ事にて、下戶(げこ)にてありしが、芝居は嫌ひなるは、また、そなたとは違(たが)ひし所もあり。」

など、いひ出(いあだ)しては、とめどもなく、我を忘れて、もの語りせしをきゝ居たりしが、女房、ためいきを、

「ほつ。」

と、つきて、何とやら、風(かぜ)なみ、あしくなりけれぱ、『それよ』と、心づきて、外(ほか)のはなしに、まぎらしぬ。

 そののち、ふと、

「風(かぜ)の心ち。」

とて、打ふしてより、次第におもり、食事、すゝまず、只、やせに、やせける。

 醫師も、

「氣の方(かた)なり。」

と、いひ、見分(みわけ)も氣病(きびやう)と、みへければ、さとは濱町なれば、時分柄、屋形舟(やかたぶね)などもおほく行(ゆき)かふに、

「補養の爲。」

とて、舅(しうと)の方(かた)へ出しけるが、次第に、病氣、おもりければ、心ならず、あんじありける折ふし、旦那寺深川の淨滿寺といふ禪寺より使僧あり。

「和尙の手紙。」

とて、さし出すをみれぱ、自筆にて、

「ちと、密々に御目にかゝり度(たき)事候間、今日中、御出。」

との文言なり。

 幸(さひはひ)、非番なれば出行(いでゆき)しに、和尙、下間(したのま)へ、まねき、いはれけるは、

「今日(けふ)申入れし事は別儀にてもなし。此間、每夜、卵塔へ『光り物』、とび來(き)候(さふらふ)て、墓處のうちへ落ち候由、寺僧共(ども)申(まうす)に付(つき)、昨夜、卵塔に相(あひ)まち、拙僧、直(ぢき)にためしみ候へば、成程、人魂ともいふべき光りもの、とび來りて、そこ元(もと)御亡妻(おんばうさい)の墓所の上にて、消へ候と[やぶちゃん注:「さふらへど」か。]、はか内(うち)、『どろどろ』と、なり[やぶちゃん注:「鳴り」]候事、しばしの間にて、また、かの光り、とび出て、歸り候。尤(もつとも)、一夜の内、二度程もまいるとき、あり。まづ、一度は、かけ不ㇾ申(まうさず)[やぶちゃん注:一夜に一度は必ず来て、来ないときはないということ。]。あまり、ふしぎに存候間(ぞんじさふらふあひだ)、そと、貴樣へ御咄(おはなし)申(まうす)なり。何ぞ、思召(おぼしめす)あたりは、なく候や。」

と問ければ、しばらく思案して、

「それは、何方(いづかた)より。」

と問へば、

「まづ、河より、西の方と存候。」

と、いふ。

「扨々、驚入(おどりいり)候。尤、貴僧樣の御ことばを疑ひ申にてはなく候へども、今晚にも、私(わたくし)、今一應、相糺(あひただ)し度(たし)。」

と、いひければ、

「御尤なる事なり。宵より、御こしありて、御談(おはなし)あるべし。出申(いでまう)さぬとても、愚僧、いつはりを申べき道理なし。かならず御越あるべし。」

と約して歸り、とかくはからひて、暮六ツ過[やぶちゃん注:土用干しから夏・秋として、不定時法で午後六時半から午後八時前と思われる。]より宿を出、深川の旦那寺へ行ぬ。

 和尙よりも、

「同宿にても差(さし)おくべし。」

と、いはれけれど、

「存(ぞんじ)よりあれば。」

とて、只、壹人(ひとり)、しきものをしきて、夜の更(ふけ)るをまちけるに、九ツ[やぶちゃん注:定時法で午前零時。]の鐘、なるより、

「すは。時刻ぞ。」

と、片づをのみ[やぶちゃん注:「固唾を吞み」。]、守り居(をり)けるに、光り、

「はつ」

と飛來りて、墓の上にて、きゆるとひとしく、墓のうち、土中、なりさはぎて、

「ごとごと」

「どろどろ」

と、人などの、くみあふ樣(やう)なる音するに、

「そこは。あやしや。」

と、身がまへして、待ちけるに、一とき[やぶちゃん注:二時間。]計(ばかり)すぎて、

「まつぷたつに。」

と、切付(きりつ)ければ、手ごたへして、火は、消へうせぬ。

「妖怪の所爲(しよゐ)なるべし。」

と、月影に、そこらあたりを尋ねけれど、何もなし。

 刀をみれば、のり[やぶちゃん注:血糊。]、つきたり。【蜀山、按(あんずるに)、田にし金魚所ㇾ著(あらはすところの)、「妓者呼子島(げいしやよぶこじま)」の趣向は、是に本づきて差出(さしいだ)しもなるべし。乙亥七月廿七、記(しるす)。】旁(かたはら)、ふしんはれねど、寺僧へ斷り、

「成程、椙違なき段、見屆(みとどけ)申(まうし)たり。拙者は屋敷へ罷歸(まかりかへり)候間、またまた、かはる事あらば、御人(おひと)、被ㇾ下べし。」

とて、いそぎ、やどへ歸られ、とくと、思案して見けれども、合點ゆかず、心をいため居(を)る處へ、

「はま町より、使、來りたり。」

といふ間、心ならず立出、

「病人は、いかゞあるぞ。」

と尋ねければ、

「御かはりもなし。」

と、いふ。

 まづ、安堵して、書狀をみれば、

「密(ひそかに)申送り候 吟(ぎん)[やぶちゃん注:後妻の名。]事(こと) 殊の外 とりつめ候間 いそぎ御越」

との文體(ぶんてい)。

 驚き、早速、頭(かしら)へ屆けて、見舞(みまは)れければ、はや、しうとめなどは、なき、たをれ、召仕ひの女なども、みな、なみだを目にもちて居るにぞ、

『はや、埒は明(あけ)たり。』

とおもひ、奥へ通りければ、あるじ、一間へよびて、

「扨、吟、事も、養生、相(あひ)かなはず、相はてたり。夫(それ)につき、何とも、合點ゆかざる臨終ゆへ、早速、貴殿を呼よせたり。昨日は、いついつよりも、少(すこし)快よく候ひしが、例のごとく、四ツ過[やぶちゃん注:定時法(以下同じ)で午後十時過ぎ。]より、正體なく寐入り、我々も、少々、まどろみしに、八ツ時分[やぶちゃん注:午前二時。]とおもふ頃、

『あつ。』

と、おそはるゝ樣にてありし間、さつそく、立よりてみれば、あへなく、事きれたり。その體(てい)、甚(はなはだ)以(もつて)あやし。先(まづ)、是を見給へ。」

とて、夜着をとり、みせられければ、後(うしろ)のかたさきより、胸板へかけて、切(きり)つけたる、刀きづなり。

 夫も、默然と、さしうつむき、しばし、思案しけるが、

「なる程。けうなる義なり。夫(それ)には、夜前、ケ樣(かやう)々々の次第あり。定(さだめ)て、妻が嫉妬の心より、たましゐ[やぶちゃん注:ママ。]、身をさりて、妖怪をなせしなるべし。以(もつて)の外の義なり。扨々、不便(ふびん)の次第なり。後悔、くやみて、歸らず。」

と語られけるにぞ、舅も、我ををりて、菩提所へも其趣(おもむき)、相(あひ)たのみ、はふむりもらひ、跡をば、念比(ねんごろ)にとぶらひける、といへり。

 享保七年の事なり。

[やぶちゃん注:オリジナリティのある怪談であるが、何か、曰く言い難い切なくなる、誰(たれ)も実は悪くない、故にこそ、哀しい話ではないか。

「戶田家」江戸時代の戸田家は大名・旗本及びそれらに仕えた家士に多い。ウィキの「戸田氏」に詳しい。

「筆のすさみ」「筆の遊び」。気持ちよく肩肘張らぬ慰みのための詠歌の遊び。

「目がれ」見飽きること。

「十二日」旧暦の夏の土用は立秋の前の約十八日間に相当する。

「かやうなるはつめいなる女中」「斯樣なる發明なる女中」。女中は女性。

「御新造」他人の妻の敬称。古くは、武家の妻、後には富裕な町家の妻の敬称となった。特に新妻や若女房に用いた。

「しほらしかり」「慎み深く、いじらしい」・「かわいらしく、可憐な」・「けなげで殊勝な」・「上品にして優美な」。ハイブリッドの意でよい。

「うらなく」真心から。妙なかんぐりどは一切なく。

「心には絕ざれども」心の中では亡き妻への思いは決して忘れることがなかったのだけれども。

「心ひとつ」ただ独り、己れが心の内に秘めて。

「口をむしられて」そうした、言わんかたない秘めた思いを掻きたてられて。

「ばさら事」「婆娑羅」元は「放逸・放恣」であるが、ここは広義の「見るからに派手なこと」の意。

「庖丁もきゝて」庖丁の扱いも上手く。

「風(かぜ)なみ、あしくなりけれぱ」聴いている後妻の気持ちの風向きが怪しくなったように感ぜられたによって。

「見分(みわけ)も氣病(きびやう)と、みへければ」はたから素人目で見ても、身体の病いではなく、心の不調(心気症)に見えたによって。

「濱町」現在の東京都中央区日本橋浜町(グーグル・マップ・データ)。隅田川右岸で両国・深川の対岸。

「深川の淨滿寺」不詳。近似した名の寺も見当たらない。これは痛く残念である。

「河より、西の方」まさに浜町は深川の西北に当たる。

「出申(いでまう)さぬとても」万一、今宵に限って、光り物が現われなかったとしても。

「同宿にても差(さし)おくべし」屋敷内の御家来衆のをも、さし添えて連れ来らるるが宜しいでしょう。

「存(ぞんじ)よりあれば」「思うところの御座ればこそ。」。

「しきもの」座るための敷物。

「そこは。あやしや。」「そこ」は「其處」ではなく、「それこそ」で一種の感動詞的用法であろう。「何んということかッツ!?! 怪しきことぞッツ!!!」。

「【蜀山、按(あんずるに)、田にし金魚所ㇾ著、妓者呼子島の趣向は、是に本づきて差出(さしいだ)しもなるべし。乙亥七月廿七、記(しるす)。】」本書最初の注で述べた通り、本書の元は御家人で勘定所支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚にして文人であった大田(蜀山人)南畝の旧蔵書「平秩東作全集」の下巻の一部と考えられ、彼自身が書き添えた割注である。「田にし金魚」田螺金魚(たにしきんぎょ 生没年不詳)は江戸中期に活躍した戯作者。江戸神田白壁町居住の医者鈴木位庵のペン・ネームともされるが、不明。別号に「田水金魚」「茶にし金魚」。「妓者呼子鳥」は彼の処女作で、安永六(一七七七)年板行。ウィキの「田螺金魚」によれば、『町芸者の生活に取材し、実在のお豊・お富の名前を借りて、芸者』二人と客一人の『三角関係を描いた作品。誤解によって女性を殺した男性が自害したり、女の生霊が女の死霊を苦しめたりと、伝奇的要素が強い』とある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらと、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらに当寺の版本原本があるが、なかなか読み取る気には私はなれない。「乙亥」(きのとゐ/いつがい)は宝暦五(一七七五)年。

「頭(かしら)」彼の勤仕する上役である役頭。

「けうなる」「稀有なる」。

「享保七年」一七七二年。]

南方熊楠 厠神(PDF縦書ルビ版) 公開

「南方隨筆」底本の「厠神」のPDF縦書ルビ版を、サイトの「心朽窩旧館」に公開した。

「南方隨筆」底本 南方熊楠 厠神

 

[やぶちゃん注:「厠神」(かはやがみ)は大正三(一九一四)年五月発行の『人類學雜誌』二十九巻五号初出(リンク先は「J-STAGE」のPDF)。冒頭に出る、熊楠が触発された出口米吉氏の方の論考「厠神」はこれに先立って既に電子化してあるので、まずはそちらを読まれたい。

 本篇は、素人の私がさっと見ても、漢籍や経典引用の部分にはかなりの不審があり、ちょっと調べただけで多くは漢字の誤字であることが判った。一部は当該原文を探して確認し、或いはそれと並行して初出及び平凡社「選集」と対照し、正しい字を補ったり、訂したりしたが、それをいちいち指示するのは五月蠅いだけなので、原則、それらは注していない(かなりひどい。数十ヶ所に及んでいる。「人彘」を「人厠」と誤植したのを見た時は全身が脱力した)。但し、本篇は漢文原文の引用が訓点無しで、ごっそりと挿入されており、後注で読むとなると、読者自身が甚だ面倒に感じられると思うたので、特異的に当該漢文の後に訓読文を太字で挿入した。訓読には訓読されている「選集」を参考にはしたが、従えない読みが多く、私の我流で読んだ部分が殆んどである。本文のみに挑戦されたければ、太字を抜かして読まれればよい(但し、経文のそれは一部の漢字がかなり難読である)。訓読でも難解或いは意味不明な部分は後に注してある。書誌データの一部も「選集」で訂してある(これも特に指示はしていない)。

 

      厠       神

 

 自分の抄錄中より出口君の所輯(二九卷一號)を補はんに、君が玉手襁より引かれし、流行眼病を厠神に祈ること今も紀州にあり、田邊々には、眼病流行の際厠前に線香を焚き兩側に小き赤旗を樹て[やぶちゃん注:「たてて」。]祈り、又家内の人數程小き赤旗を作り厠壁に插し祈れば、かの病に罹らずと云ふ、厠神盲目なる故其爲に厠を掃除すれば神悅ぶ、孕婦[やぶちゃん注:「はらみめ」。]屢ば手づから掃除すれば美貌の子を生むと傳ふ、諸經要集卷八下、福田經云、佛自攝宿命所行、昔我前生爲婆羅奈國、近大道邊安設圊厠、國中人衆得輕安者莫不感義、緣此功德世々淸淨、累劫行道穢汚不汙、金色晃昱塵垢不著、食自消化無便利之患[やぶちゃん注:「『福田經』に云はく、『佛、自(みづ)から宿命の行(ぎやう)ずる所を說(と)くらく、「昔、我、前生(ぜんしやう)に婆羅奈(はらな)國の爲めに、大道の邊(ほとり)に近く、圊厠(せいし)[やぶちゃん注:「圊」も厠に同じい。]を安じ設(まう)く。國中の人衆、輕安を得る者、義に感ぜざる莫し。此の功德に緣りて、世々、淸淨なり。劫(こう)を累(かさ)ねて、道(だう)を行(ぎやう)じ、穢染(ゑぜん)も汙(けが)さず、金色(こんじき)、晃昱(くわいく)として塵垢(ぢんこう)も著かず、食、自(おのづ)から消化し、便利の患(わづらひ)無し」と。』。]、是は厠を立て公衆に便せし福報を述たるなれど、由來除糞人を極て卑めし印度にも不淨の掃除を必要とせしは、賢愚經に、除糞人尼提出家を許され得道せし事、除恐災患經に無類の美妓奈女前身塔地の狗糞を除きし功德もて、後身每に[やぶちゃん注:「つねに」。]胞胎臭處より生れず花中より生まれしことを記せり、四十年計り前和歌山で聞しは、厠神一手で大便、他の一手で小便を受く、如し[やぶちゃん注:「もし」。]人、厠中に唾吐けば不得已[やぶちゃん注:「やむをえず」。]口もて之を受く、故に厠中に唾吐けば神怒ると、又傳ふ、厠神盲[やぶちゃん注:「めしひ」。]にして人に見らるゝを忌めば、厠に入る者必ず燈を携え[やぶちゃん注:ママ。]咳して後入るべしと、是れ、其作法出口君が上の四一頁に引ける朝鮮の風に同じ[やぶちゃん注:「四一頁」は「三一頁」(初出4コマ目)の誤りではないか。しかし、空咳することは書かれておらず、物理的に必ずしも必要でない燈を灯すのは中国の風俗として出、朝鮮ではない。]、毘尼母經に、若上厠去時、應先取籌草至戶前、三彈指作聲、若人非人、令得覺知[やぶちゃん注:「若(も)し、厠に上り去(ゆ)く時は、應(まさ)に籌草(ちうさう)を取りて戶前に至り、三たび彈指(だんし)して聲を作(な)すべし。若し、人にても、非人にても、覺知するを得せしむ。」。]と有れば印度にも古く厠に入る前聲を發して人と鬼神に知しむる敎有りし也、雜譬喩經[やぶちゃん注:「ざつひゆきやう」。]に有一比丘、不彈指來、大小便臢汙中鬼面上、魔鬼大恚、欲殺沙門云々、[やぶちゃん注:「一比丘、有り。彈指して來たらず、大小便、中鬼の面上を臢汙(さんを)す。魔鬼、大いに恚(いか)りて、沙門を殺さんと欲すと云々。」。]大灌頂神呪經に厠溷中鬼[やぶちゃん注:「しこんちゆうき」。厠に巣食う悪鬼の名。「溷」も「厠」に同じい。]を載せ、卷七に噉人屎尿鬼[やぶちゃん注:「たんじんしにねうき」。同前の類いで、「人の屎(くそ)や尿(いばり)を好んで噉(くら)う鬼」の意。]を載す、正法念處經十六に、男若女、慳嫉覆心、以不淨食、誑諸出家沙門道士、言是淸淨、令其信用而便食之、或時復以非處應食、施淨行人、數爲此業、復敎他人、令行誑惑、不行布施、不持禁戒、不近善友、不順正法、樂以不淨而持與人、如是惡人、身壞命終、生惡道中、受于㖉托餓鬼、(魏言食唾)爲飢渴火、常燒其身、于不淨處、若壁若地、以求人唾、食之活命、餘一切食、生不得食、乃至惡業、不盡不壞不朽、故不得脫云々、若生人中、貧窮下賤、多病消瘦、鼻齆膿爛、生除厠家、或于僧中、乞求殘食、以自濟命[やぶちゃん注:「男、若しくは、女にして、慳嫉(けんしつ)もて心を覆(ふさ)ぎ、不淨食を以つて、諸出家・沙門・道士を誑(あざむ)き、『是れ、淸淨なり』と言ひて、其れ、信用せしめて、便(すなは)ち、之れを食はしめ、或る時は、復た、應に食ふべき處に非ざるものを以つて、淨行(じやうぎやう)の人に施し、數(しばし)ば此の業(おこなひ)を爲し、復た、他人をして、誑惑(きやうわく)を行ひせしめ、布施を行はせず、禁戒を持させず、善友に近づかせず、正法(しやうほふ)に順はざらしめ、不淨を以つて人に與ふを持つて樂しむ。是(かく)のごとき惡人は、身、壞(く)え、命、終らば、惡道の中(うち)に生じ、托餓鬼(きたがき)(魏にて「唾(つば)を食(の)むこと」を言ふ[やぶちゃん注:「托」の注。])の身を受く。飢渴の火の爲めに、常に其の身を燒かれ、不淨の處、壁、若しくは、地にありて、以つて人の唾を求め、之れを食みて命を活(い)かす。餘(ほか)の一切の食は、生(しやう)、食らふを得ず。乃(すなは)ち、惡業に至りて、盡きず、壞(く)えず、朽ちず。故に脫するを得ず云々。若(も)し、人中に生まるるも、貧窮にして下賤、多病にして消(おとろ)へ瘦せ、鼻、齆(ふさが)り、膿み爛れ、除厠(くみとり)の家に生まれ、或いは僧中に、殘食(ざんぱん)を乞ひ求め、以つて自(みづ)から、命を濟(たす)くのみ。」。]と云ひ、如此衆生、貪嫉覆心、或爲沙門、破所受戒、而被法服、自遊衆落、諂誑求財、言爲病者、隨病供給、竟不施與、便自食之、爲乞求故、嚴飾衣服、遍諸城邑、廣求所須、不施病者、以上因緣云々、生阿毘遮羅(疾行)餓鬼之中、受鬼神已、于不淨處、噉食不淨、常患飢渴、自燒其身、若有衆生、行不淨者、如是餓鬼、則多惱之、自現其身、爲作怖畏、而求人便、或示惡夢、令其恐怖、遊行冢間、樂近死屍、其身火燃、煙炎俱起、若見世間疫病流行、死亡者衆、心則喜悅、若有惡咒、喚之則來、能爲衆生、爲不饒益、其行迅疾、一念能走百千由旬、是故名爲疾行餓鬼、凡世愚人、所共供養、咸皆號之、以爲大力神通夜叉、如是種々、爲人殃禍、令人怖畏、乃至惡業不盡不壞不朽、故不脫得云々、若生人中、生呪師家、屬諸鬼神、守鬼神廟、[やぶちゃん注:「此くのごとき衆生、貪嫉もて心を覆ぎ、或いは沙門と爲るも、受くる所の戒を破り、而して法服を被(かぶ)りて、自(みづ)から衆落に遊び、諂(おもね)り誑(あざむ)きて財を求め、『病者の爲めに、病に隨ひて、供給す』と言ひて、竟(つひ)に施與せず、便(すなは)ち、自(みづ)から之れを食らふ。乞ひ求めんが爲め故に、衣服を嚴飾(ごんしよく)し、諸城邑(しよじやういう)を遍(めぐ)りて、廣く須(もと)めらるるを求め、病者に施さず、以上の緣に因りて云々」。「阿毘遮羅(「疾く行く」。)餓鬼(あびしやらがき)に生まれ、鬼身を受け已(をは)りて、不淨の處にて、不淨を噉ひ食ひ、常に飢渴に患(くるし)み、自(みづ)から其の身を燒く、若し、衆生の不淨を行ずる者有れば、是のごとき餓鬼、則ち、多く、之れを惱まし、自(みづ)から其の身を現じ、爲めに怖畏を作(な)して、而して人の便(すき)を求(うかが)ひ、或いは惡夢を示し、其れを恐怖せしめ、冢(つか)[やぶちゃん注:墓場。]の間を遊行しては、死屍に近(したし)むを樂しみ、其の身は火と燃え、煙・炎、俱(とも)に起こる。若し、世間に疫病流行し、死亡せる者の衆(おほ)きを見れば、心、則ち、喜悅す。若し、惡咒有りて、之れを喚(よ)べば、則ち、來たり、能く衆生の爲めに不饒益(ふねうやく)[やぶちゃん注:無慈悲な災厄。]を爲す。その行くや、迅疾にして、一たぴ念ずれば、能く百千由旬(ゆじゆん)[やぶちゃん注:凡そ八百八十万キロメートル。]を走る。是の故に名づけて疾行餓鬼(しつかうがき)となす、凡そ世の愚人、共に供養され、咸(あまね)く、皆、之れを號(とな)へ、以つて大力神通夜叉(だいりきじんづうやしや)と爲す。是のごとく、種々(しゆじゆ)に人に殃禍(わざはひ)を爲し、人をして怖畏せしむ。乃(すなは)ち、惡業は至り、盡きず、壞えず、朽ちず。故に脫するを得ず云々。若し、人中に生まるるも、呪師の家に生まれ、諸鬼神に屬して、鬼神の廟を守る。」。]斯る食不淨惡鬼を祀るより、自然厠神の觀念を生ぜしやらん、劉宋譯彌沙塞五分律廿七に有一比丘、在不應小便處小便、鬼神捉其男根、牽至屛處、語言大德應在此處小便[やぶちゃん注:「一比丘有り。應(まさ)に小便をすべからざる處に小便す。鬼神、其の男根を捉へ、牽きて屛處(へいしよ)[やぶちゃん注:仕切られた場所。]に至り、語りて言はく、『大德、應に此の處に在りて小便すべし。』と。」。]、これは厠神にあらず、僧が厠外に放尿したるをその處の鬼神が戒めたる也、增壹阿含經四四に、佛未來彌勒佛の世界を記す、鷄頭城中有羅刹鬼、名曰葉華、所行順法、不違正敎、常伺人民寢寐後、除去穢惡諸不淨者、又以香汁而灑其地、極爲香淨[やぶちゃん注:「鷄頭城の中(うち)に羅刹鬼あり。名づけて葉華(えふくわ)と曰ふ。行なふ所、法に順ひ、正敎(しやうぎやう)に違(たが)はず。常に人民の寢寐(しんび)したる後(のち)を伺ひ、穢惡(ゑを)したる諸不淨の者を除け去り、又、香汁を以つて其の地に灑(そそ)ぎ、極めて香淨と爲す。」。]これは好意もて人糞を掃除する鬼神也、印度の咒法中厠に關する者有り、例せば不空譯大藥叉女歡喜母並愛子成就法に、得貴人歡喜、取彼人門下土、以唾和作丸、加持一百八遍置於厠中、彼人必相敬順歡喜、[やぶちゃん注:「貴人の歡喜(くわんぎ)を得んとせば、彼(か)の人の門の下の土を取り、唾を以つて和(あ)へて丸(ぐわん)と作(な)し、加持すること、一百八遍し、厠の中(うち)に置かば、彼の人、必ず、相ひ敬順し、歡喜せん。」。]支那にも、厠中に祕法を行ひし例、明の祝穆の事類全書續集十に郭璞素與桓彜友善、每造之或値璞在婦間便入、璞曰、卿來他處自可徑前、但不可厠上相尋耳、必客主有殃、彜後因醉詣璞、正逢在厠、掩而觀之、見璞裸身被髮銜刀設醊、璞見彜撫心大驚曰、吾每囑卿勿來、反更如是、非但禍吾、卿亦不免矣、璞終受王敦之禍、彜亦死蘇峻之難、[やぶちゃん注:「郭璞(かくはく)、素(も)とは桓彜(くわんい)と友として善(よろ)し。每(つね)に之れに造(いた)り、或いは、璞、婦の間に在るに値(あ)ふも、便(すなは)ち、入る。璞曰く、『卿の他處(よそ)より來たる時は、自(おのづ)から徑(すぐ)に前(すす)むべし。但し、厠の上のみは相ひ尋ぬべからず。必ず、客・主に殃(わざはひ)あらん』と。彜、後、醉ふに因つて、璞を詣(たづ)ぬ。正(まさ)に厠に在るに逢ふ。掩(かく)れて之れを觀るに、璞、裸身・被髮して、刀を銜(くは)へ、醊(てつ)を設くるを見る。璞、彜を見て、心(むね)を撫(う)ちて、大きに驚きて曰はく、『吾、每に卿に『來たる勿れ』と囑(しよく)せるに、反つて更に是のごとし。但(ただ)、吾に禍(わざはひ)あるのみに非ず。卿も亦、免れざらん。』と。璞は終(つひ)に王敦(わうとん)の禍(くわ)を受け、彜も亦、蘇峻(そしゆん)の難に死す。」。]醊は字典に祭酹[やぶちゃん注:「さいらい」。「酹」は神を祀るに際して地面に酒を注ぐことを指す。]なりと見ゆれば、厠中に神酒を供えて[やぶちゃん注:ママ。]祀り行ひし也、甲陽軍鑑に、武田信玄每に軍謀を厠中に運らせしと有る如く、祕處では有り、且つ臭穢にして本主神外の鬼神忌みて近づかざるより、密法を修むるに便とせしならん、普明王經に、阿群佛法に歸し比丘となり、王一たび之を見んと望むも此比丘眼睛耀射にして當たり難きを以て、王之を厠中に請じ見る事有り、書紀二に猿田彥大神眼力强く、八十萬神皆目勝ちて[やぶちゃん注:「まかちて」。初出にルビ有り]。相問ふを得ずと有る如し、糞穢を以て邪視を破る事は、かつて本誌に述たり[やぶちゃん注:明治四二(一九〇九)年五月発行の『東京人類學雜誌』二百七十九号で、初出原題は「出口君の『小兒と魔除』を讀む」。後の「小兒と魔除」(リンク先は私のPDF一括版)。冒頭から「屎」を名に持つ人名リストがバーンと出る。]、無能勝三藏が譯せる穢蹟金剛說神通大滿陀羅尼法術靈要門經には、佛涅槃に入て諸天大衆皆來て供養せるも、螺髻梵王[やぶちゃん注:「らけいぼんわう」。]のみ來らず、千萬の天女に圍繞されて相娛樂す諸大衆その我慢を惡み、百千衆呪仙をして往て取り來らしむるに、梵王種々不淨を以て城塹(じやうざん)となし、諸仙各々犯咒(咒破らるゝ事)されて死す、復た無量の金剛衆をして往かしむるも七日迄取り得ず、如來大遍知力もて其左心より不壞金剛[やぶちゃん注:「ふゑこんがう」。]を化出[やぶちゃん注:「けしゆつ」。]し、不壞金剛往て梵王所を指させば、種々穢物變じて大地となり、螺髻梵王發心して如來所に至ると有り、梵王糞穢もて呪仙を破りし也、酉陽雜俎十四、厠鬼の名は頊天竺[やぶちゃん注:「ぎよくてんじく」。](一曰笙[やぶちゃん注:これは「いつにいはく「しやう」。で一書では「天竺」ではなく「天笙」とするの意。])上の八三頁[やぶちゃん注:ここは「選集」では「『人類学雑誌』二九巻二号の八三頁」とされてある。残念ながら、当該ページは「J-STAGE」では読めないので誰の論文かも判らない。]に淵鑑類凾より引れし厠神狀如大猪と云る話は、支那にも朝鮮琉球等と齋しく、厠に家猪[やぶちゃん注:ここは豚(ブタ)のこと。前の「大猪」も「大きな豚」であって野猪(イノシシ)のことではないので注意。]を畜て糞を食しむる風有りしに基くなるべく、漢書に、賈姬如厠、有野彘、入厠中、[やぶちゃん注:「賈姬(かき)、厠へ如(ゆ)く。野彘(やてい/ゐのしし)あり。厠の中に入れり。」。]又呂后が戚天人を傷害して厠中に置き人彘と名けし事有り、事類全書續十に、侍御史錢義方居常樂第、夜如厠、忽見蓬頭靑衣者數尺來逼、義方曰、汝非郭登、曰然、餘乃厠神每月出巡、(續玄怪錄)、[やぶちゃん注:「侍御史の錢義方、常樂第に居(を)り。夜、厠に如(ゆ)くに、忽ち、蓬頭・靑衣の者、長(たけ)數尺なるが、來たりて逼(せま)るを見る。義方曰はく、『汝は郭登にあらずや。』と。曰く、『然り。余は、乃(すなは)ち厠神なり。每月、出でて巡る』と。」。]類函厠の條に晉書陶侃甞如厠、見一人朱衣介幘劒履、曰以君長者、故來相報、若後當爲公矦、侃至八州都督、又庾翼鎭荊州、如厠見一物、頭如方相、兩眼大有光、翼擊之入地、因病而薨、[やぶちゃん注:「陶侃(とうかん)、甞つて厠に如(ゆ)き、一人の、朱衣にして、介幘(かいさく)をかぶり、劒をはき、履(くつ)をはけるものを見たり。曰く、『君、長者なるを以つて、故に來たりて相ひ報ず。君、後に當(まさ)に公侯たるべし。』と。侃、八州の都督に至れり。又、庾翼(ゆよく)、荊州に鎭(ちん)たり。厠に如(ゆ)き、一物(いちぶつ)を見る。頭は方相(はうさう)のごとく、兩眼、大いに、光、有り。翼、之れを擊てば、地に入れり。因りて病みて薨ず。」。]是れ人死して厠神となり、厠中に吉凶を告る神有り、又人を驚かす鬼物有りとせる也、類凾卷十七と二五八に歲時記と異錄傳を引て厠の女神の傳を載す、文差や[やぶちゃん注:「やや」。]相異なるを以て綜合して記さんに、廬陵歐明從賈客、道經彭澤湖、每以舟中所有、投湖中爲禮、後復過湖、忽有一人著禪衣乘馬、來候明云、是靑湖君使也、靑湖君感君有禮、故邀君、必有重遺、君皆勿取、但求如願、明既見靑湖君、乃求如願、如願者靑湖君之神婢也、靑湖君不得已、呼如願送明去、明將如願歸、所願卽得、數年大富、後正旦如願晚起、明醉撻之、走入糞壤中不見、今人、正旦以繩繫偶人、投糞壤中、云令願以此、[やぶちゃん注:「廬陵の歐明(わうめい)、賈客(こかく)[やぶちゃん注:商人。]に從ひ、道に彭澤湖(はうたくこ)を經(とほ)るに、每(つね)に舟中に有る所のものを以つて、湖中に投じて禮と爲す。後、復た、湖を過ぐるに、忽ち、一人(いちにん)有り、禪衣(ぜんえ)を著(き)て馬に乘り、來たって明に候(つか)へて曰く、『是(これ)は靑湖君が使ひなり。靑湖君、君の禮あるに感じ、故に君を邀(むか)ふ。必ず、重き遺(おくりもの)有らんも、君、皆、取る勿れ。但(ただ)、如願(じよぐわん)のみ、求めよ。』と、明、既に靑湖君に見(まみ)え、乃(すなは)ち、如願を求む。如願とは靑湖君の神婢なり。靑湖君、已むを得ず、如願を呼び、明を送り去らしむ。明は如願を將(つ)れ歸るに、願ふ所あらば、卽ち得(え)、數年にして、大いに富めり。後の正旦(ぐわんたん)、如願、晚(おそ)く起くるに、明、醉ひて之れを撻(う)つ。糞壤[やぶちゃん注:堆肥置き場。]の中(うち)に走りて入りて見えず。今人(きんじん)、正旦に繩を以つて偶人(ぐうじん[やぶちゃん注:傀儡(くぐつ)。人形。])に繋び、糞壤の中に投じ、『願ひのごとくならしめよ』と云ふは、此れを以つてなり。」。]淸湖君、一に靑洪君に作る、事類全書前集六には有商人過靑湖見淸湖君云々[やぶちゃん注:「商人有りて靑湖を過ぐるに、淸湖君に見ゆ云々」。]とせり、予幼かりし時亡母つねに語りしは、厠を輕んずるは禮に非ず、昔し泉州の飯(めし)と呼ぶ富家は、其祖先が元旦雪隱の踏板に飯三粒落たるを見、戴いて食ひしより打ち續き幸運を得て大に繁昌に及べりと、平賀鳩溪實記卷一三井八郞右衞門源内へ對面の事の條、源内の詞に、「是の三井家は誠に日本一の金持にして、鴻池抔よりも名譽の家筋也云々、凡そ富貴人と申すは泉州岸和田に住居致す飯の彌三郞と三井計と存ずる也」と有る飯氏なるべし、是れも厠を敬せしより其神幸運を與えし[やぶちゃん注:ママ。]とせしならん、倭漢三才圖會八一に白澤圖云、厠惟精名倚(上の三〇頁出口君が引きしには「停衣と名づく」とあり[やぶちゃん注:出口米吉「厠神」の初出の2コマ目(私の電子化はこちら)。正確には『白澤圖ヲ引テ厠神名停衣トアリ』である。])、著靑衣持白杖、知其名呼之者除、不知其名呼之則死、又云築室三年不居其中、見人則掩面、見之有福、居家必用云、厠神姓廓名登、是庭天飛騎大殺將軍、不可觸犯、能賜災福、[やぶちゃん注:以上は後注で同書の「厠」の項の全部を示す。]鬼神其名を人に知れて敗亡せし諸例は、「鄕土硏究」一卷七號なる「南方隨筆」に擧たり[やぶちゃん注:これは後の「續南方隨筆」で総括された「『鄕土硏究』一至三號を讀む」の一節。後注参照。]、廓登卽ち上に引る事類全書の郭登なるべし、厠神人を見て面を掩ふは日本で厠神に見らるゝを忌むと云ふに近きも、其面を見れば福有りと云ふは此邊で傳ふる所に反せり、熊野の或部分には今も厠を至極淸淨にし、四壁に棚を設け干瓢椎茸麪粉[やぶちゃん注:「むぎこ」。]氷豆腐等の食物及び挽臼等を置き貯へ、上に玉萄黍、蕃椒[やぶちゃん注:「たうがらし」。]等を懸下す、其體、一見のみでは不淨處と信ぜられず、予夜分始て之に入り、自ら夢裡に有るかと疑ひ、燈を携へて見廻り又身體諸部を撚り[やぶちゃん注:「ひねり」。]驗[やぶちゃん注:「けみ」。]せし程也、後ち其邊の人來る每に子細を尋ぬるも耻ると見えて一向然る事無しと答ふ、去年酒井忠一子に此事を語りしに、日向とかにも斯る風有る地方有り、古え厠を殊の外に重んぜし遺俗と聞りと話されつ、件の熊野山村の俗語に放蕩息子を罵りて、汝は親の雪隱に糞垂るべき者に非ずと云ふを攷ふれば、酒井子の言の如く厠を家の重要部と尊ぶ土俗も存せしにや、定めて彼諸村には多少厠神崇拜の遺風も傳はり居る事なるべければ再度自ら往て調査せんと欲す、序に言ふ、南洋のツイトンガ島民は、死人の魂が諸神に食れ竟れば[やぶちゃん注:「くはれをはれば」。]得脫すと信じ、島中最も重んぜらるゝ人の葬禮後、貴族の男六十人十四夜續けて死人の墓に大便し其人々の妻女來て之を取除く、是れ死人の魂諸神に食れて淨化し盡されたるを表す、又速かに得脫するを促がす者ならんとは椿事也(Waitz und Gerland, ‘Geschichte der Naturvölker, ’Band 6, s. 329, Leipzig, 1872)、又同卷三〇五頁に、新西蘭[やぶちゃん注:ニュージーランド。]の人、死して樂土に行ざる魂は糞と蠅を常食とすと云ひ、曾て此世なる幼兒を育てん迚樂土より還る婦人、途中其親族の死靈が住る村を通るに彼輩之に人糞を食へと迫る、其亡父の靈獨り之を制禦し、クマラ根二本を與えて[やぶちゃん注:ママ。]遁れ去らしむるに、惡靈二個なほ追來るを件の二根を抛て[やぶちゃん注:「なげうちて」。]遮り歸りし話有りと載たり、其事、書紀卷一、伊弉册尊已に黃泉之竈(よもつへぐひ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]して此世に還るを得ず、伊弉諾尊之を見て黃泉より逃出るを、醜女八人追ければ、尊黑鬘[やぶちゃん注:「くろみかづら」。]と湯津爪櫛[やぶちゃん注:「ゆつつまぐし」。]を投て葡萄と筍を化成し、醜女之を食ふ間に泉津平坂[やぶちゃん注:「よもつひらさか」。]に到り玉へえるに似たり、新西蘭の神話葬儀が糞に緣有る事如斯なれば必ず厠神に關する譚も行はれし事と察すれど、予の筆記不備にして只今其詳を知るに由無し。

 

 追 記

 種々の物を用て追ふ者を妨げし譚は日本と新西蘭の外にもあり、支那には梁の慧皎[やぶちゃん注:「ゑかう」。]の高僧傳八に、劉宋の釋玄暢北虜滅法の際平城より逃れ、路經幽冀、南轉將至孟津、唯手把一束楊枝一扼葱葉、虜騎逐追、將欲及之、乃以楊枝擊沙、沙起天闇、人馬不能前、有頃沙息、騎已復至、於是投身河中、唯以葱葉内鼻孔中、通氣度水、以八月一日〔元嘉二十二年〕達于揚州、[やぶちゃん注:「路(みち)に幽・冀を經(へ)、南に轉じて將に孟津に至らんとす。唯、手には一束の楊枝と、一扼(やく)の葱葉(ねぎ)とを把(も)てるのみ。虜騎、逐追(ちくつい)して、將に之れに及ばんとす。乃(すなは)ち、楊枝を以つて沙を擊つに、沙、起りて、天、闇(くら)み、人馬、前(すす)む能はず。頃(しばら)く有りて、沙、息(や)み、騎、已に復た至る。是に於いて身を河中に投じ、唯、葱葉を以つて鼻孔の中(うち)に内(い)れ、氣を通じて、水を度(わた)る。八月一日〔元嘉二十二年[やぶちゃん注:南北朝時代の劉宋の文帝の時代の年号。ユリウス暦四四五年。]〕を以つて揚州に達す。」。]歐州には希臘譚に、繼母魔質にして一男一女童を殺し食はんとし、二童犬の敎により逃るゝを魔母追來る、其時童男小刀を投れば廣原となり、次に櫛を投れば密林となり、最後に鹽を投れば浩海と成て遂に遁れ去るを得と有り、スカンヂナヴヰア譚に一童子巨鬼[やぶちゃん注:「トール」のこと。]に逐れ走る時其騎馬に敎えられて三物を携ふ、鬼逐うふ事急なるに臨み、先づ山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属セイヨウサンザシ Crataegus monogyna。]の枝を投れば彼木の密林生じ、石を投れば大巖と成り、甁水を投れば大湖と成て鬼を障え[やぶちゃん注:「さえ」。遮(さえぎ)り。]童子脫するを得と有り (Tozer,‘Researches in the Highlands of Turkey,’1869,vol,ii,pp.276-274)、蘇格蘭[やぶちゃん注:スコットランド。]、印度等にも似たる譚有りて Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol. i, pp. 439-443 に委細載せたり。

     (大正三年五月、人類第二十九卷)

 

[やぶちゃん注:「厠神」「ブリタニカ国際大百科事典」の「厠神」から引いておく(コンマをピリオドに代えた)。『便所の神のことで、便所神、雪隠 (せっちん) 神、おへや神などとも呼ばれている。厠とは便所のことで、その語源については、川の上あるいは川のほとりに設けられた川屋にあるとする説が有力である。その祀り方は地方によって異なり、便所をいつも清浄にして灯明をあげたり、人形を祀り』、『花を供えたり、小さな神棚を設けたり、新設するときに』は、『甕の下に人形を埋めたり,大病になった』際には、『願を掛けて』、『花や酒を供えたりする。また、お産とも関係が深く、妊婦が美しい子の誕生を祈願して厠を清めたり、臨月に便所にお参りをし』、『お産が軽くすむように祈願したりするが、これは排便の様子が』、『お産の様子に類似するところから生じた類感呪術の一種と思われる。関東地方には赤子の初外出に便所参りをする風習がある』。

「諸經要集」唐の律宗 (南山宗) の僧道世(?~六八三年)著。全二十巻。仏教の典籍の中から,特に善悪の行為と、それに対する報いについて抜き出し、三十部に分類して整理したもの。仏教文献を検索するのに便利な書物で、同じ著者に依る同じ範疇に属する書物に、かなり知られた「法苑珠林』(全百巻)がある。なお、以下に出る経典類は煩瑣なだけなので、注しない。

「婆羅奈(はらな)國」古代インドの王国。「ワーラーナシ」の漢音写で、別称「カーシー国」。マガダ国の西、コーサラ国の北にあり、現在のワーラーナシ(バラナシ・ヴァラナシ)(グーグル・マップ・データ)を中心とした地方。釈尊が成道後、波羅奈国の鹿野苑 (サールナート) で初めて五比丘に説法をしたことで知られ、アショーカ王がこれを記念して二石柱を建立している。

「穢染(ゑぜん)も汙(けが)さず」重語表現になっているが、ようは「一点の穢れも成さず」の意であろう。

「晃昱(くわいく)」(こういく)は明らかな光を発して輝くさま。「選集」は『晃々』とするが、経典類を検索したところ、「南方隨筆」の通りで正しいものを見出すことが出来た。

「除糞人」便器・便槽の糞尿を始末することを生業とする人々。

「除糞人尼提出家を許され得道せし事」芥川龍之介が(大正一四(一九二五)年九月発行の『文藝春秋』に発表した短篇「尼提(にだい)」に描かれている。「青空文庫」のこちらで読める(但し、新字新仮名)。

「除恐災患經に無類の美妓奈女前身塔地の狗糞を除きし功德もて、後身每に胞胎臭處より生れず花中より生まれしことを記せり」「大蔵経DB」の当該経典「仏說除恐災患經」から見出せた。以下。一部の漢字を正字化した。

   *

時有衆女。欲供養塔。便共相率。掃除塔地。時有狗糞。汚穢塔地。有一女人。手撮除棄。復有一女。見其以手除地狗糞。便唾笑之曰。汝手以汚不可復近。彼女逆罵。汝弊婬物。水洗我手。便可得淨。佛天人師。敬意無已。手除不淨。已便澡手。遶塔求願。今掃塔地。汚穢得除。令我來世勞垢消滅淸淨無穢。時諸女人。掃塔地者。今此會中。諸女人是。爾時掃地。願滅塵勞。服甘露味。爾時以手。除狗糞女。今柰女是。爾時發願。不與汚穢會。所生淸淨。以是福報。不因胞胎臭穢之處。毎因花生。

   *

そこで原版本の当該部も確認したが、「奈女」ではなく、「柰女」であった。但し、異体字なので問題はない。ウィキの「アンバパーリー」(彼女のことである。生没年は不詳)によれば、『アームラパーリー』とも。漢音写は『菴摩羅、菴没羅など多数』あり、漢訳では『㮈女、柰女、非浄護など』があり、『釈迦仏の女性の弟子(比丘尼)の』一人とする。『ヴェーサーリー(毘舎離)の人でヴァイシャ出身。ヴェーサーリー城外のマンゴー林に捨てられ、その番人に育てられたので、アンバパーリー』、則ち、『マンゴー林の番人の子といわれるようになった。アンバパーリーは、遠くの町にまで名声が伝わっていた遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得ていた』。『釈迦仏に帰依し、その所有していた林を僧団に献納した』。「長老尼偈註」に『よれば、出家し』、『高名な長老となった自分の息子ヴィマラ・コンダンニャの説法をきき、みずからも出家、比丘尼となり、阿羅漢果を得たとされる』。「テーリーガーター」では、『彼女の美貌に心を奪われた比丘衆に阿難が誡めのために偈を説いて』おり、「大般涅槃経」では、『リッチャヴィ(離車)族の公子らに先んじて釈尊を招待している。公子らがその招待を譲り受けんと乞うも』、『彼女は譲らなかったという。その所有していた菴摩羅樹苑(マンゴー樹園)を僧団に寄進した。後の天竺五精舎の』一『つ菴羅樹園精舎である。この件は諸文献に通じるエピソードである』。南伝「マハーヴァッガ」では、『彼女の美貌により』、『ますます多くの人々が街に引き寄せられてヴェーサーリーが潤ったという』。「雑阿含経」及び「長部註」に『よると、菴摩羅樹苑にて、彼女が来るのを見て、釈尊は弟子』衆に、『その美貌で心が揺れないよう』、『四念処を説いたとある』。「㮈女祇域因縁経」では、『彼女はヴェーサーリーのバラモンの㮈樹の肉瘤(にくこぶ)から生まれたとし、美人なるをもって』十五『歳の時に』七『人の王が求婚したが』、『すべて断った』といい、須漫と波曇と称した二人の娘も『彼女と同じように』、『各々』、『樹華より生まれたという。彼女と二女は共に』五百『人の女性を率いていたが、釈尊の説法を聞いて出家し』、『悟りを得たという』とある。さて、この「胞胎」とは、母胎内で胎児を包んでいる胞衣 (えな) を指し、胎生のことで、 胎生は「輪廻の迷い」を繰り返すことであることに注意。だから、そこからではなく、香良き清浄なる花から彼女たちは生まれたのである。

「厠中に唾吐けば神怒る」これは私もよく聴いた風俗であるが、この場合は、理由がよく判らない。或いは、唾は便ではなく、しかも眉唾などで知られる(一般には狐狸などが人を化かすに際しては、その人物の眉の本数を数えて知ることが必須条件とするというが、私はどうもあまりそれを信じていない)が、唾にはある種の生臭さがあり、それを妖魔が嫌うのではないかと私は考えており、厠神が元は鬼神であったという熊楠の挙げる例を考えるとなら、陰気である汚物である大便でも小便でもない、しかも腥い人間の体液(汚物ではない陽の生気に属するもの)だから、嫌悪し、怒るのではないかと考えたことを言い添えておく。

「厠神盲にして人に見らるゝを忌めば」物の怪・鬼神は先に見られる(見切られる)ことで、相手に負けるというのは民俗社会のお約束ごとである。ただ、ここで「厠に入る者必ず燈を携え[やぶちゃん注:ママ。]咳して後入るべし」というのは、目が見えなくても、光は感ずるのかとも思う。

「籌草(ちうさう)」不詳。当初は物理的に尻の後始末をする竹箆(たけべら)や拭き取る草かと思ったが、それは当たり前のことで書くべきことではないから違う。「籌」は占いに用いる竹製の算木を指すことが多いから、何らかの呪具のようにも思われる。

「彈指(だんし)」爪弾(つまはじ)きをすること。呪的には音を出して邪気を払う仕草として知られるが、ここは本来のそれが善神たる厠神となるとともに変容し、相手に「姿をお現わしになられませぬように」と事前の注意を促すという意に変化しているのかも知れない。

「非人」厠神以外の鬼神・神仏、果ては、物の怪。

「臢汙(さんを)」穢すこと。

「慳嫉(けんしつ)」自分の利益のためだけの物惜しみと嫉妬心。

「㖉托餓鬼」サイト「三蔵法師の館」の「餓鬼道」に、「食唾(じきた)餓鬼」を載せ、まさにこの原文を訳した通りに、『男、若し』く『は』、『女が』、『慳嫉で心を覆い、不浄の食を以て諸の出家の沙門・道士を誑かして、「この食は清浄であります。信用してください。」と言い、これを食べさせる。或いはまた浄行人に非所(食べる場所ではない)で施して食わせる。此の業』(ごう)『を数々造り、また他人にも教えて誑惑を行う。布施を行わず、禁戒を持たず、善友に近づかず、正法に順ぜず、不浄を楽しみ、さらに人にも教える。このような悪人は身壊れて命終し、悪道の中に生まれ、食唾餓鬼の身を受ける。常に其の身を焼かれる。不浄の処に於いて、壁、若しは地で、人の唾を求めて食べて自活する。余の一切の食は悉く食べることができない。悪業が尽きず壊れず朽ちないため、脱することができない。業が尽きてようやく脱することができる。此より命終して業に随って生死を流転して苦を受ける』とある。ウィキの「餓鬼」では、『食唾(じきた)、僧侶や出家者に、不浄な食物を清浄だと偽って施した者がなる。人が吐いた唾しか食べられない』とする。

「衆落」人々の集団。「聚落」「集落」に同じ。

「嚴飾」立派に飾ること。相応の上流階級の者たちをも信用させて布施を得るためである。

「諸城邑(しよじやういう)」それぞれの地方の城壁に囲まれた首都及びその周辺を領する諸侯・大夫の領地・封土。

「廣く須(もと)めらるるを求め」あらゆる求め得ることの出来るものはその総てを貪欲に求め。

「阿毘遮羅(「疾く行く」。)餓鬼(あびらがき)」サイト「三蔵法師の館」の「餓鬼道二」の「疾行餓鬼」に、同じくここを訳した如く、『此の衆生は貪嫉で心を覆い、若し沙門と為れば破戒するが、されども法服を着て集落に遊び、諂誑して財を求めて「病者には病に随って供給すべし。」と言いながら結局自分は施しを与えず、自ら之を食べる。乞求の為に衣服を飾り、諸の城邑を巡り、広く施を求め、病者には施さない。この因縁を以て身壊れて命終し、悪道に堕ち、疾行鬼の身を受ける』。『不浄の処に於いて不浄を食し、常に飢渇に患わされ、其の身を焼かれる。若しは』、ある『衆生が不浄を行うなら、この餓鬼はすぐにこの者を多く悩ます。其の身を自ら現して怖畏を与える。人の便りを求め、或いは悪夢を示し、恐怖を与える。塚の間を遊行し、死屍に楽近し、其の身は燃え盛って火炎が起こり、若し世間に疫病が流行して死亡者が出るならすぐに心が喜悦する。若しは悪呪が有って召喚されるなら直ぐにやって来て、衆生によく不利益になること』なす。『其の動作は迅疾で、一念でよく百千由旬を至る。この故に「疾行餓鬼」と名』づ『けられる。凡世の愚人の供養する所。咸いは皆之を「大力神通夜叉である」と号す。このように人に種種の災禍をもたらす。悪業は尽きず壊れず朽ちないため、脱することができない。業が尽きてようやく脱することができる。此より命終して業に随って生死を流転して 、苦を受ける。若し人に生まれるなら呪師の家に生まれて諸の鬼神に属し 、鬼神の廟を守る。余』、『業』(ごう)『を以ての故』に、こ『のような報いを受ける』とある。ウィキの「餓鬼」では、『疾行(しっこう)、僧の身で遊興に浸り、病者に与えるべき飲食物を自分で喰ってしまった者がなる。墓地を荒らし』、『屍を食べる。疫病などで大量の死者が出た場所に、一瞬で駆けつける』とある。

「呪師」この場合は狭義の魔神・淫祠邪教を崇める邪悪極まりない呪われた呪術師の限定。

「劉宋譯彌沙塞五分律」(みしやそくごぶりつ(みしゃそくごぶりつ))は南北朝時代の劉宋(四二〇年~四七九年)の建国直後に仏陀什(ぶっだじゅう)・竺道生(じくどうしょう)らによって訳された(四二二年から四二三年)「彌沙塞部和醯五分律」(みしゃそくぶわけいごぶりつ)。仏教教団(サンガ)を正しく維持運営してゆくために必要な教団規則と運営法を記した一つ。

「大德」個人的には上田秋成の「雨月物語 卷之五」の名作「靑頭巾(あをづきん)」(リンク先は私の古い電子化。私の高校教師時代の授業ノート及びオリジナルの現代語訳もある)以来、私は「だいとこ」としか読まない。

「羅刹鬼」羅刹天(らせつてん)は仏教の天部の一つである十二天に属する西南の護法善神。単に「羅刹」とも呼ぶ。当該ウィキによれば、『羅刹とは鬼神の総称であり、羅刹鬼(らせつき)・速疾鬼(そくしつき)・可畏(かい)とも訳される。また羅刹天は別名涅哩底王』(ねいりちおう/にりちおう)。『破壊と滅亡を司る神。また、地獄の獄卒(地獄卒)のことを指す時もある。四天王の一である多聞天(毘沙門天)に夜叉と共に仕える』。『ヒンドゥー教に登場する鬼神ラークシャサが仏教に取り入れられたもので』、『その起源は』『アーリア人のインド侵入以前からの木石水界の精霊と思われ、ヴェーダ神話では財宝の神クヴェーラ(毘沙門天)をその王として、南方の島、ランカー島(現在のスリランカ)を根城としていた』。「ラーマーヤナ」では、『クヴェーラの異母弟ラーヴァナが島の覇権を握り、ラークシャサを率いて神々に戦いを挑み、コーサラ国の王子ラーマに退治される伝説が語られている。概ね』、『バラモン・ヒンズー教では』、『人を惑わし』、『食らう魔物として描かれることが多い』が、『仏教普及後は、夜叉と同様に毘沙門天の眷属として仏法守護の役目を担わされるようにな』り、『十二天では「羅刹天」として西南を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれる。図像は鎧を身につけ左手を剣印の印契を結び、右手に刀を持つ姿で描かれる。全身黒色で、髪の毛だけが赤い鬼とされる』。『中国以東では羅刹の魔物としての性格が強調され、地獄の獄卒と同一視されて恐れられることが多かった』。十『世紀の延暦寺の僧』で、本邦の浄土教の祖である源信の「往生要集」は、『その凄惨な地獄描写で有名だが、そこでも羅刹は亡者を責める地獄の怪物として描かれている』。一般に『羅刹の男は醜く、羅刹の女は美しいとされ、男を羅刹娑・羅刹婆(ラークシャサ、ラークシャス、ラクシャーサ、ラクシャス、ラクシャサ、ラクササ)、女を羅刹斯・羅刹私(ラークシャシー)・羅刹女(らせつにょ)という。また』、『羅刹女といえば』、「法華経」の「陀羅尼品」に『説かれる十羅刹女が知られるが、これとは別の十大羅刹女や八大羅刹女、十二大羅刹女として、それぞれ名称が挙げられており、さらに』「孔雀経」では』七十二もの『羅刹女の名前が列記されている』とある。

「葉華(えふくわ)」竺法護(じくほうご 二三一年~三〇八年?:西晋の僧。遊牧民であった月氏(げっし)の出身。西域諸国を巡遊して経典を収集し、般若思想の仏典を中心に漢訳した。月氏菩薩・敦煌菩薩とも称された)の訳になる「彌勒下生經」(みろくげしょうきょう)にも「是時翅頭城中、有羅刹鬼、名曰葉華、所行順法、不違正敎、每向人民寝寐之後、除去穢惡不浄者、常以香汁而灑其地極爲香淨」(是の時、翅頭城の中に羅刹鬼有り。名を葉華と曰ふ。所行、法に順ひ、正教違はず、每(つね)に人民に向きて、寝寐の後、穢惡不淨の者を除け去り、常に香汁を以つて其地に灑ぎ、極めて香淨と爲す)とほぼ同じようにあり、この方が熊楠が引く「增壹阿含經」より古い漢訳と思われる。

「祝穆の事類全書續集」、南宋の学者祝穆(しゅくぼく 生没年不詳:彼の曾祖父祝確は朱熹の母方の祖父で、祝穆自身も朱熹に学んだ)類書で正しくは正篇は「古今事文類聚」で「續集」の他に「後集」「外集」もある。「中國哲學書電子化計劃」で影印本で当該部の「戒厠上相尋」(厠の上に相ひ尋ぬることを戒む)が読める。

「郭璞(かくはく)」空想地誌で魯迅も耽読した「山海經(せんがいきょう)」の最古の注釈で知られる西晋・東晋の文学者にして卜占家として有名であった郭璞(二七六年~三二四年)。河東郡聞喜県(現在の山西省運城市聞喜県)の人。文才と卜占術により、建国間もなかった東晋王朝の権力者たちに重用され、史書や「捜神記」などの志怪小説においては、超人的な予言者や妖術師として様々な逸話が残されている。卜占・五行・天文暦法に通じたのみならず、古典にも造詣が深く、「山海経」の他にも「爾雅」などに注したことで知られる。文学作品では「遊仙詩」・「江賦」などが代表作として残る。参照した当該ウィキによれば、低い家柄に生まれ、『訥弁であったが、博学で文章に巧みであった。また郭公なる人物から』「青囊中書」という『書物を授かり、これによって五行・天文・卜筮のあらゆる術に通じ、いにしえの』漢の「易経」の専門家『京房』(けいぼう)や三国時代の占い師として有名な管輅(かんろ)をも『凌ぐほどであったという』。後続同士の内乱である「八王の乱」によって『中原が戦乱に見舞われると、郭璞は筮竹で将来を占い、この地が遠からず異民族に蹂躙されることを予見した。そこで親類・友人たち数十家とともに江南に避難した。史書によると、江南までの道中、様々な術や予言を行い、それによって難を逃れたという』。『江南に来た郭璞は、その後、司馬睿』(えい)『(後の東晋の元帝)の腹心王導に招かれ、彼の参軍となり、その卜筮の術によって大いに重用された。司馬睿が皇帝に即位する前後、その将来を占い、銅鐸の出土や泉の出現などの東晋中興の正統性を裏付ける瑞祥を予見し、司馬睿の寵愛も受けるに至った』。『東晋が建国されると、郭璞は「江賦」「南郊賦」を献上し、それらは世間で大いに評判になった。元帝にも賞賛され、著作左郎に任じられ、ついで尚書郎に移った。皇太子司馬紹(後の明帝)からは、その才能と学識を尊敬され、当時の有力者であった』政治家温嶠(おんきょう)や庾亮(ゆりょう)『らと同等の待遇を受けた』。しかし、三二四年、司馬睿から大将軍の地位を賜った『王敦』(おうとん)が『反乱を企て、郭璞に』、『その成否を占わせたところ』が、『「成る無し」の結果がでた。占いを命じた王敦は、『かねてから郭璞が温嶠・庾亮らと親しく、彼らに自らの討伐をそそのかしていると疑っていたので』、その『結果に激怒し』、『郭璞を処刑した。享年』四十九。「王敦の乱」が『平定されると、弘農郡太守を追贈され、子の郭驁』(かくごう)『が父の後を継いで、官位は臨賀郡太守に至った』。

「桓彜(くわんい)」(二七六年~三二八年)は西晋末から東晋初期の官僚・政治家。譙国竜亢県(現在の安徽省蚌埠市懐遠県)の人。東晋の朝廷の運営や地方の統治で活躍したが、「蘇峻の乱で討死した。当該ウィキによれば、貧しい家柄の出であったが、『朗らかで早くから盛名を得』、『道徳的秩序や物事の本質を見極めることに長け、幼少の頃から』、『才は抜きん出ていた』という。『西晋に仕え、兗州』(えんしゅう)『の主簿』から、三〇一年三月には『斉王司馬冏』(けい)『の挙兵に赴き、騎都尉に任じられた』。その後、当時、安東将軍であった『司馬睿から逡遒』(しゅんしゅう)『県令に任じられ』、三一一年十二月には『江南に渡り』、既に『丞相』となっていた『司馬睿に仕えた』。その後、『丞相中兵属・中書郎・尚書吏部郎を歴任、朝廷内で名声を高め』、『河北から温嶠がやってくると、王導・周顗』(しゅうぎ)・『謝鯤・庾亮らとともに親交を結んだ』。『大将軍王敦が権力を握ると、桓彝は病と称して職を辞したが。後の『皇帝司馬紹から散騎常侍に任じられ、王敦討伐の密謀に参画した。王敦の乱平定後、万年県男に封じられた』。『丹陽尹温嶠の推薦を受け、司馬紹自ら詔勅を発して宣城内史に任じられた。桓彝は宣城を治める任に堪えられないと上疏した』ものの、『しばらくして、宣城内史就任を承諾した。郡内に善政を敷き、百姓らに親しまれた』。三二七年十二月、『冠軍将軍蘇峻が朝廷に対し、反乱を起こした。桓彝は兵を率いて建康に赴こうとした。長史裨恵』(ひけい)『は、宣城郡の兵は』少ない上に脆弱な上、『民は動揺しやす』かった『ため、備えを解いて』、『反乱が終わるのを待つことを勧めた』が、『桓彝は』色を変え、「『君主に無礼をする者には、たとえ、相手が強い鷹鸇(ようせん:「鸇」はハイタカ又はハヤブサ)で、自分が弱い鳥雀(うじゃく)であったとしても、これを追い払うべきものである』と言いうではないか。今、社稷に危機が迫っているのに、義を無くして、くつろぎ楽しんでおれようか」と怒り、『将軍朱綽』(しゅしゃく)『を遣わし、蕪湖で蘇峻軍を破った。桓彝は蕪湖に進んで屯した。蘇峻軍の将韓晃は桓彝を破り、宣城に進攻した。桓彝は広徳に退いた。韓晃は周囲の諸県を掠奪して帰還した』。三二八年五月、『桓彝は建康が陥落したと聞き、涙を流して歎き悲しみ、涇県に進んで屯した。この頃、州郡の多くが蘇峻に降伏していた。裨恵は蘇峻に使いを送り、友好を結んで災いを避けるように説いた。桓彝は「私は国から厚恩を受けており、義のために死ぬつもりだ。恥を忍んで、逆臣と通ずる』ことなど思いもよらぬ。『たとえ揃わずとも、私の考えに変わりはない」と断った。桓彝は将軍兪縦に蘭石を守らせた。蘇峻は韓晃に攻撃させた。兪縦は敗れ』、激戦の『末』、『討ち取られた』。『韓晃は宣城を攻めた。援軍はなく、韓晃軍は「桓彝が降伏すれば、礼をもって優遇する」と降伏を呼びかけた。将兵の多くは、偽りの降伏をして後々の機会を待つように勧めた。桓彝は従わず、抗戦の意志を変えなかった』。六月、『宣城は陥落、桓彝は韓晃に討ち取られた。享年』五十三。『蘇峻の乱平定後、廷尉を追贈され、簡と諡され』、『咸安年間に太常に改贈された』とある。『幼少から庾亮とは親交があり、雅で上品であったため』、『周顗に重用された。周顗は』、「彼の人品高潔なさまと言ったら、「思わず笑う人がいるに違いない」とまで嘆いたという。『江南に渡った際、桓彝は司馬睿の朝廷が微弱であるのを見て、軍諮祭酒周顗に「私は中原の混乱を避け、安全を求めて来たというのに、こんなに弱々しくては、どうして事を成すことができようか!」と憂いと懼れのため』、『楽しめずにいた。軍諮祭酒王導のもとを訪れ、ともに世事のことについて語り合った。その後、周顗に「管夷吾(管仲)を見た。もう憂うことなどないぞ」と喜んだ』という。(以下は本エピソードの訳)『占術者の郭璞と親交を結んでいた。桓彝はいつも郭璞の妻がいる間にやってきた。郭璞は妻に「卿が他所から来られたら、小道の前で迎えるように。ただし、廁に入っているときは様子を探らなければだめだ。必ず客や私に災いが有るだろう」と告げた。桓彝が酔って郭璞の家にやってきて、廁で郭璞と会ってしまった。郭璞は裸になって髪を振り乱し、刀を咥えて祭壇を設けた。郭璞は桓彝を見て、心をなだめつつ』、『大いに驚き』、『「あなたと私は友ではあるが、今、来てはいけなかった。もう少し遅ければ、このようにはならなかった!』 『災いは私だけでなく、あなたも免れないだろう。これは天が成したことで、誰に罪があろうか」と言った。郭璞は王敦の乱で、桓彝は蘇峻の乱でいずれも殺害された』とある。さても、これは注に「晋書」の巻七十二の「郭璞」からとするのだが、例えば、中文サイトのこちらで、そちらの部分を読めるのだが、その禁忌の戒め部分は婦人に郭璞は妻に言ったように書き分けられてはいないし、私自身「戒」とする以上、これは郭璞が桓彝に禁忌として言ったとしか読まなかったし、読めないのである。ともかくもこのシークエンスは――郭璞が――誰にも見られないようにして――厠の中で厠の神を祀る秘密の儀式を行っていた――この秘儀が人に見られた場合には――祭祀をしている自分だけでなく――それを見てしまった人間にも災いが齎される――と言っているということである(そもそもが、この戒を妻に言った場合には、覗き見するのは、妻の可能性が志怪小説なら非常に高くなる気がするから、そうした意味からも、先の訳は、ちょっと変であると私は思う)。最後に言っておくと、桓彝が戦死するのは郭璞が殺された四年後のことであった。郭璞の予言は見かけ上は当たっていたようには見えないこともない。

「甲陽軍鑑」江戸初期に集成された軍学書。全二十巻。甲斐の武田晴信・勝頼二代の事績によって、甲州流軍法や武士道を説いたもの。異本が多く、作者は諸説あるが、武田家の老臣高坂弾正昌信の遺記を元に、春日惣二郎・小幡下野(おばたしもつけ)が書き継ぎ、小幡景憲が集大成したと見られている。現存する最古の板本は明暦二(一六五六)年のもの。

「阿群」一応、「あぐん」と読んでおくが、どのような由来を持つ僧侶かは全く不詳。

「眼睛耀射にして當たり難きを以て」その目の瞳の輝き照射する眼光が眩しく鋭いために、直接に対面して向き合うことが出来にくいことから。

「書紀二に猿田彥大神眼力强く、八十萬神皆目勝ちて、相問ふを得ずと有る」「南方熊楠 小兒と魔除 (4)」の私の注で「日本書紀」の当該箇所の原文及び訓読を電子化してある。

「無能勝三藏」「能く勝れるもの無き三藏法師」の意で、玄奘(げんじょう 六〇二年~六六四年)の尊称の一つ。

「螺髻梵王」以下は梵天の伝承の一つか。

「呪仙」ありとある呪術呪文・仙術法を駆使して。

「城塹」城壁と塹壕。

「如來」この場合は涅槃を経て成った「釋迦如來」のことのようである。

「不壞金剛」本来は「極めて堅固で決して壊れないこと・志を堅く守って変えないこと」で仏の身体について言った語とされる。「金剛」は金石(きんせき)の中で最も硬いダイヤモンド、或いは金又は鉄鋼石であるが、ここは釈迦如来の体内から遣わした金剛力士として仏身の変化の一部とされてある。

「酉陽雜俎十四、厠鬼の名は……」巻十四「諾皋記上」の『「太真科經」說』で始まる一節に、

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厠鬼名頊天竺【一曰笙。】。(厠の鬼は「頊天竺(ぎよくてんぢく)」と名づく【一つに「笙」と曰ふ。】。

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とある。私が面白く思ったのは、それに続けて、

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語忘、敬遺、二鬼名、婦人臨產呼之、不害人。長三寸三分、上下烏衣。(「語忘と「敬遺」とは、二鬼の名なり。婦人の產に臨むに、之れを呼ばば、人を害せず。長(た)け三寸三分、上下(かみしも)は烏衣(うい[やぶちゃん注:黒い着物。])たり。)

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ことである。熊楠も言っているように排泄と出産及び厠は親和性が強いのである。

「淵鑑類凾」(底本では「凾」と「函」が混用されている。統一する必要はないのでそのまま電子化してある)は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。巻三百五十の「厠一」の一節に(「中國哲學書電子化計劃」の影印本のこの最後から視認し、一部の漢字は正字化した)、

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紀聞曰宣城太守刁緬初爲玉門軍使有厠神形見狀如大猪遍體皆有眼出入溷中游行院内緬時不在官吏兵卒見者千餘人如是數日緬歸祭以祈福厠神乃滅旬日遷伊州刺史歷官至翰林左將軍 語林曰石崇厠常有十餘婢列皆佳麗藻飾置甲煎沈香無不畢具又與新衣客多不能著王敦爲將軍年少往脫故衣著新衣氣色傲然羣婢謂曰此客必能作賊 世說曰王大將軍敦初尙主如厠見漆箱中盛乾棗本以塞鼻王謂厠上下果食遂至盡既還婢擎金澡盤盛水琉璃碗盛澡豆敦自倒著水中而飮之謂之乾飯羣婢掩口而笑之葆光錄曰台州有民姓王常祭厠神一日至其所見著黃女子云某台州人也君聞螻蟻言否民曰不聞遂懷中取小合子以指㸃少膏如口脂塗民右耳下戒之曰或見蟻子側耳聆之必有所得民明旦見柱礎下羣蟻紛紜聽之果聞相語移穴去暖處傍有問之何故云其下有寶甚寒住不安民伺蟻出訖尋之獲白金十錠

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これは後学の方のために写し置いただけで、よく意味が判らぬのだが、ここに出る王敦って、さっき出た郭璞を殺した彼か? 何か、因縁っぽい!

「支那にも朝鮮琉球等と齋しく、厠に家猪を畜て糞を食しむる風有りし」これはかなり知られた話である。家屋の厠の下が豚舎になっていて、人糞を豚が餌にしていたのである。実は便所を意味する「溷」或いは「圂」とはもともとは「豚小屋」の意である。「豕」+「囗」の会意で、「説文」に「囗に從ひ、豕の囗中に在るに象る」とあり、「囲いに豚がいる」という字で、「囲いに豚を飼い、また、その傍らで用を足しては人糞を豚の餌とする」ことを見する。「溷」は排泄で「水が濁る」の意と、「豢」が「家畜」という意に通ずる。畑の肥料ばかりではなかったのだ! 驚く勿れ! 嘗ては、瀬戸内海の食用マガキの養殖場では、中型船で人糞を肥料として大々的に撒いていたのだ。我々の幼少の頃の生牡蠣は俺たちの糞で育ったのだ!

「賈姬」前漢の第六代皇帝景帝が寵愛した邯鄲の出の賈姫(趙敬粛王劉彭祖と中山靖王劉勝の生母)。ウィキの「郅都」(しつと:景帝時代の酷吏として知られる)によれば、景帝が彼女を伴って、上林苑へ狩りに出かけ、郅都も同伴した。時に、賈姫が厠で用を足した折りに、突然、野生の猪が彼女がいる厠に猛進した。景帝はこれを見て、郅都に目配せしたが、郅都は助けに行こうとしなかったので、景帝は自ら武器を取って、助けに行こうとした。すると郅都は景帝の前に平伏して言った。「側室が失われようとも、陛下には数多の側室が御座います。しかし、陛下はたったお一人であります。陛下の身に何かあった時には、漢の宗廟や御生母の竇(とう)太后はどうなされますか?」と直言した。景帝は行くのを止め、やがて猪は厠から出て来て、森林に立ち去ったという。幸い賈姫は無事だった。景帝の生母の竇太后はこれを聞いて彼に金百斤を与え、また、これ以来、郅都は天子や竇太后の信頼が絶大となり、重用された、とある。

「呂后が戚天人を傷害して厠中に置き人彘と名けし事」「呂后」呂雉(りょち 紀元前二四一年~紀元前一八〇年)。恵帝の母。中国で「三大悪女」として唐の武則天(則天武后)・清の西太后とともに名が挙げられる。高祖の没後、彼女の子である恵帝が即位して間もなく、呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子斉王劉肥や趙王劉如意の殺害を企てた。斉王の暗殺は恵帝によって失敗したものの、趙王を謀殺、その生母戚夫人を奴隷に落として両手両足を切断した上、両目を刳り抜いた上に、薬を用いて耳と声帯を潰し、その後、便所に置いて「人彘」(人豚(ひとぶた))と呼ばせ、そのさまを笑い転げながら見ていたと史書にはある(ウィキの「呂雉」に拠った)。

「郭登」中国伝来で本邦でも厠神の一名として知られた。ウィキの「加牟波理入道」(かんばりにゅうどう)によれば、『鳥山石燕の妖怪画集』「今昔画図続百鬼」に載る『日本の妖怪、および日本各地の厠(便所)の俗信に見られる妖怪。同画集では、『厠に現れる妖怪として口から鳥を吐く入道姿で描かれ、解説文には以下のようにあり、大晦日に「がんばり入道郭公(がんばりにゅうどうほととぎす)」と唱えると、この妖怪が現れないと述べられて』ある。所持する同画集(一九九二年国書刊行会刊「鳥山石燕  画図百鬼夜行」の原画図)により電子化した。仮名遣いは総てママである。

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  加牟波理入道(かんばりにうどう)

大晦日の夜厠(かはや)にゆきてがんばり入道郭公(ほとゝきす)と唱(とな)ふれば妖怪(よふかひ)を見ざるよし世俗(せぞく)のしる所也もろこしにては厠神(かはやかみ)の名を郭登(くはくとう)といへりこれ遊天飛騎大殺(ゆうてんひきだいさつ)將軍とて人に禍福(くはふく)をあたふと云郭登(くはくとう)郭公(かつこう)同日(どうじつ)の談(だん)なるべし

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同書解説に、この郭登は実在する明の武将とする。郭登(一四〇三年~一四七二年)である。実在した郭登については九州大学中国文学会二〇一七年十二月発行の『中国文学論集』所収の井口千雪氏の論文『明朝勲戚武定侯郭氏と文学 「諸葛の如き」定襄伯郭登PDF)が詳細を極めるが、彼が何故、厠神とされるかの記載は、残念ながらなく、不明である。ウィキの引用を続ける。『兵庫県姫路地方では、大晦日に厠で「頑張り入道時鳥(がんばりにゅうどうほととぎす)」と』三『回唱えると、人間の生首が落ちてくるといい、これを褄に包んで部屋に持ち帰って灯りにかざして見ると、黄金になっていたという話もある』。松浦静山の「甲子夜話」にも『これと似た話で、丑三つ時に厠に入り、「雁婆梨入道(がんばりにゅうどう)」と名を呼んで下を覗くと、入道の頭が現れるので、その頭をとって左の袖に入れてから取り出すと、その頭は』、『たちまち』、『小判に変わると記述されている』(私は「甲子夜話」の電子化注を行っているが(全部所持してはいる)、調べたところ「甲子夜話第三篇」にあるという情報は得たものの、探し得ていない。見つけたら、電子化し、ここにリンクを張る)。『一方で、この呪文が禍をもたらすこともあるといい、江戸時代の辞書』「諺苑」では、『大晦日に「がんばり入道ほととぎす」の言葉を思い出すのは不吉とされる』とあるという。『加牟波理入道とホトトギスの関連については、文政時代の風俗百科事典』「喜遊笑覧」に、『厠でホトトギスの鳴き声を聞くと不祥事が起きるとの俗信が由来で、子供が大晦日に厠で「がつはり入道ほととぎす」とまじないを唱えるとの記述があり(「がつはり」は「がんばり」の訛り)』、『中国の六朝時代の書』「荊楚歳時記」にも』同様に、『厠でホトトギスの鳴き声を聞くのは不吉と述べられている』。『また、ホトトギスの漢字表記のひとつ・郭公(かっこう)が中国の便所の神・郭登(かくとう)に通じるとの指摘もある』。『岡山県の一部では、加牟波理入道の俗信が見越し入道と混同されており、厠で見越し入道が人を脅かすといい、大晦日の夜に厠で「見越し入道、ホトトギス」と唱えると見越し入道が現れるなどといわれている』。『中国の巨人状の妖怪「山都」が日本に伝わり、厠神(便所の神)と混同された結果、この妖怪の伝承が発祥したとの説もある』(「山都」については、私の古い電子化注寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」にある「みこし入道 山都」を参照されたい)。『十返舎一九による読本』「列国怪談聞書帖」には『「がんばり入道」と題した以下の話がある』。『大和国(現・奈良県)で、淫楽に取りつかれた男が、一族の者に性癖を諌められたために剃髪して山中の小屋におり、白目をむいて女たちを見張るので、「眼張(がんばり)入道」とあだ名されていた』。『あるとき』、『入道の留守中に盗賊が小屋に忍び込むと、入道にさらわれた娘が閉じ込められていた。盗賊は娘を哀れんで』、『家から連れ出そうとしたところ、入道が帰って来て』、『娘を帰すまいとしたので、盗賊は入道を殺し、娘を親元に帰した』。『以来、白い着物姿の入道の霊が娘の家に現れるようになった。親が娘を隠すと、入道は娘を捜して村中の家、馬屋、便所を狂い歩き、村人たちを恐れさせた』。『しかしある晩、入道は犬に噛み殺されてしまった。夜が明けると、そこには白い着物をまとったキツネが死んでいた。人々は笑い、キツネが入道を真似た挙句に呆気ない最期を遂げたと言い合ったという』とある。

「陶侃(とうかん)」(二五九年~三三四年)は東晋初期の名将。鄱陽 (江西省) の人。荊州刺史として先に出た司馬睿の命を受けて流民集団杜弢 (ととう)の討伐に当たった。一旦、広州刺史に左遷されたが、後に再び荊州刺史となって。「蘇峻の乱」の平定に功があった。東晋最大の州鎮の統帥として大きな勢力を持ち、長沙郡公となり、在任のまま没した。彼をどうしても注したかったのは、彼の曾孫が、かの名詩人陶淵明であるからである。

「介幘(かいさく)」髻(もとどり)を覆い隠して髪を包むのに附けた頭巾。

「庾翼(ゆよく)」(三〇五年~三四五年)は東晋前期の政治家・武将・書家。潁川郡鄢陵県(現在の河南省許昌市鄢陵県)の出身。当該ウィキによれば、『風儀に優れ、幼くして経綸大略に通ずると評され』、『後に南蛮校尉・南郡太守・輔国将軍と叙任し』、三四〇年、『都督江荊司雍梁益六州諸軍事・安西将軍・』荊州刺史となり、『武昌に鎮した。庾翼は領地の地方都にまで軍令を行き届かせ、数年の内に官府の庫や人民たちの財までも充実させるなど』、『良政を敷いた』ことから、『黄河以南の地の人民から支持を得たという』。三四三年、『後趙の汝南郡太守である戴開が数千人を伴って投降してきた事を機に、庾翼も北伐の大志を抱くようになり、前燕の慕容皝と前涼の張駿に使者を送って期が来れば同調して起兵するよう求めた。またこれに伴って領内での賦役を強化するようになり、広州の海道の人を百姓として徒民させた』。『康帝(司馬岳)に庾翼は北伐を上表し、加えて鎮を対後趙の最前線である襄陽へと移すことへの許可を求め、承認も得ぬうちから六州から牛や驢馬を徴発し始めていたが』、『朝廷に却下され、続いて安陸への移鎮を求めるも』、『これも却下された。これらの行動を車騎参軍の孫綽に諌められるも』、『聞く耳』を『持たず、夏口へと勝手に軍団を移動させて再度襄陽への移鎮を上表すると、実兄の庾冰や桓温、譙王司馬無忌らの賛成によって襄陽への移鎮が承認され、都督征討諸軍事(後に征西将軍・南蛮校尉も追加)となり、庾翼の代わりに庾冰が武昌へと移り、後任に入った』。三四四年、『庾翼は桓宣に後趙に占拠されていた樊城の攻略を命じたが、桓宣は丹水の戦いで後趙の李羆の前に大敗を喫し、これに激怒した庾翼は桓宣を建威将軍に降格した上で峴山へと左遷した。同年中に成漢討伐に周撫と曹璩を向かわせたが、江陽で李桓に敗れた。また』、十一月に『庾冰が亡くなると』、『長子の庾方之に襄陽の守備を任せて夏口へと移り、庾冰の領兵を自らの指揮下に置き、朝廷からは江州・豫州刺史に任じられたが』、『豫州刺史は辞退し、替わりに楽郷への移鎮の許可を要求したが朝廷に拒否された』。三四五年、『背中の疽からにわかに発病して七月』『に亡くなった。享年』四十一であった。『朝廷より車騎将軍を追贈され、諡号は粛とされた。亡くなった際の官途は持節・都督江荊司梁雍益寧七州諸軍事・江州刺史・征西将軍・都亭侯。死に際して庾翼自身は次子である庾爰之を後継に望んだが、宰相何充は荊州の戦略的重要性から能力のある人間が当たるべき職務であるとして桓温を後任に据え、庾翼の持っていた強大な軍権をほぼそのまま桓温に引き継がせた』とある。悪性の腫瘍で亡くなったというのは、厠神を撃ったそれと親和性は感じられる。『東晋国内では書家としても著名であり「故史従事帖」などの作がある。草隷に優れ、当時においては王羲之と並ぶほどの人気があったという』。『桓温については若年』の時から『目を掛けており、明帝(司馬紹)に桓温を推挙する際に「若くして武略を知るので特別な職を与えるべき」「いずれ国の艱難を救う」と評した』という。

「方相(はうさう)」方相氏。本来は中国周代の官名。宮中にあって年末の大切な追儺 (ついな)の節会に於いて、悪鬼を追い払う役を担当した。黄金の四つ目の仮面を被り、黒い衣に朱の裳 を着し、矛と盾を持って、内裏の四方の門を回っては鬼を追い出した。グーグル画像検索「方相氏」をリンクさせておく。

「歲時記」六朝時代(二二二年~五八九年)の荊楚(現在の湖北・湖南省)地方の年中行事や風俗を記録した梁の宗懍(そうりん)の撰になる「荊楚歳時記」か。六世紀半ば頃の成立。

「異錄傳」不詳。前蜀(九〇七年~九二五年)の杜光庭撰の志怪小説集「錄異記」か。但し、以下の話は東晋の政治家・文人干宝(?~三三六年)の知られた志怪小説集「搜神記」に後半を除くと、概ね同型話で載るものである。

「廬陵」江西省。

「歐明(わうめい)」不詳。

「彭澤湖(はうたくこ)」現在の江西省にある鄱陽(はよう)湖。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「禪衣(ぜんえ)」僧衣でよい。

「靑湖君」「搜神記」では「靑洪君」。

「如願(じよぐわん)」語としては「願い事が叶う」の意。

「婢」侍女。

「後の正旦(ぐわんたん)、如願、晚(おそ)く起くるに、明、醉ひて之れを撻(う)つ。糞壤[やぶちゃん注:堆肥置き場。]の中(うち)に走り入りて見えず。今人(きんじん)、正旦に繩を以つて偶人(ぐうじん[やぶちゃん注:傀儡(くぐつ)。人形。])に繋び、糞壤の中に投じ、『願ひのごとくならしめよ』と云ふは、此れを以つてなり」この部分は「搜神記」にはなく、「神婢」の「如願」が「厠神」らしきものになった由来譚として形成されてある。しかし、何故に元旦に如願が寝坊したのかが、明らかでなく、後の風俗として、何故、繩で傀儡を縛り、肥溜めの中に投じ、「願いの通りにならしめよ」と呪文するようになったのかといった、核心部分が、孰れも上手く繋がらず、そこにこそ超自然の因果を感じさせはするものの、私にはやはり、竹で鼻を括ったような納得出来ない不快感が感じられる。酔ってやってはならないことを成してしまい、幸福が永遠に去るというのは、神話に於ける禁忌システムの発動ではあるのだが。

「平賀鳩溪實記」「鳩溪」は平賀源内(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年)の号。竹窓櫟齋(ちくそうれきさい)なる不詳の人物による天明八(一七八八)年頃に書かれた源内の実録伝奇風の読物。その「卷一」の「三井八郞右衞門源内へ對面の事」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちら(写本。標題は「平賀實記」)から読める。遊女白糸を請け出して三井八郎右衛門(かの三井家総領家である北家の当主が代々名乗った名)に恩を売ったとったことが書かれている。但し、本書は実録性が疑われている。自制的には三井家四代目当主代三井高美(たかよし 正徳五(一七一五)年~天明二(一七八二)年)となろう。熊楠の引用はここの左頁五行目からで、重大な箇所「凡そ富貴人と申すは泉州岸和田に住居致す飯の彌三郞と三井計と存ずる也」ここの右頁の三~四行目に現われるが、ネット上では「泉州岸和田」の「飯の彌三郞」は如何なる人物か具体的には書かれているものが見当たらない。【202133日追記】私の各種のテクスト注に対して、いつも情報を頂戴するT氏より、これは「平賀鳩溪實記」や南方熊楠の表記に問題があり、この当時は(後述する)「食野」(めしの)であったと御指摘を受けた。ウィキの「食野家」(めしのけ)によれば、食野家は、江戸『中期から幕末にかけて和泉国日根郡佐野村(現在の大阪府泉佐野市)を拠点として栄えた豪商の一族。北前船による廻船業や商業を行うほか、大名貸や御用金などの金融業も行い、巨財を築いた。 屋号は「和泉屋」。同じく同地で栄えた唐金家(からかねけ)とともに、江戸時代の全国長者番付「諸国家業じまん」でも上位に記されている』。『食野家の出自は、楠木正成の子孫の大饗(おおあえ)氏。初代正久のときに武士から廻船業に乗り出したとされている』。「食野家系譜」などの『資料によると、食野家の廻船業は西回り航路が開かれて北前船が天下の台所に入港する』十七『世紀後半には』、百『隻近い船を所有して全国市場に進出するなど』、『大いに発展した。大坂から出航するときは木綿、綿実や菜種油などを運び、奥州からの帰りには米やニシンや干鰯(ほしか)などを運ぶなどして、廻船業や大名貸しなどで巨財を築き、大豪商となった。』。『摂津国西成郡春日出新田(現在の大阪市此花区春日出中)を入手し、さらに西道頓堀川付近、幸町や南堀江一帯に家屋倉庫を所有したほか、本拠である佐野村では豪壮な邸宅と海岸沿いの道路の両側に「いろは四十八蔵」と呼ばれた大小数十の倉庫群が建てられるなど、現在の泉佐野駅から浜側一帯が貝塚寺内や岸和田城下を凌ぐ「佐野町場(さのまちば)」として栄える中心的存在となった。岸和田藩では藩札の札元に任命されるなど、唐金家とともに同藩の財政を支える上で重要な役割を果していた』。宝暦一一(一七六一)年には『鴻池家、三井家、加島屋など』の『名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け』、文化三 (一八〇六)年には『三井家とともに本家が』三『万石、分家が』一『万石の買米を命じられた。大名貸しでは岸和田藩はもちろん』、『尾張徳川家・紀州徳川家など』、実に『全国の約』三十『藩に』四百『万両ともいわれる多額の資金を用立てた』。しかし、『その後、幕末には廻船業が停滞したことや、廃藩置県で大名への莫大な貸金がほとんど返金されなかったこと、家人の放蕩などにより』、『一気に没落に至り、同家は同地に現存していない。屋敷跡は』弘化元・二(一八四五)年に『佐野村が買収し、現在の泉佐野市立第一小学校となっており、松の木と井戸枠、石碑が残されている。また』、『いろは四十八蔵も海岸筋に』八『棟が現存している』。『末裔にプロサッカー選手の食野亮太郎がいる』。『食野家の当時の発展ぶりを示すエピソードが多数残されている』。例えば、『地元の盆踊り(佐野くどき)では「加賀国の銭屋五兵衛か和泉のメシか」と唄われて』おり、『大名貸しをしていた紀州藩では、参勤交代の往復に紀州公が食野家に立ち寄ったといわれ、ざれ歌で「紀州の殿さんなんで佐野こわい、佐野の食野に借りがある」と唄われた』。また、『食野の当主(佐太郎を世襲)が、にわか雨で雨宿りした紀州公の家来』一千『人を』、『とりあえず』、飯櫃(めしびつ)『に残っていた冷や飯でまかなったことから、「佐太郎」は冷や飯の代名詞とされ、川柳に「佐太郎を三度いただく居候」や「佐太郎は茶金の上に腰を掛け」など唄われた』という。また、『井原西鶴の』「日本永代蔵」には、『唐金家とともにモデルとなったといわれている。(同作品中に』は『食野家の所有する千石船「大通丸」をもじった「神通丸」が登場する』。『上方落語「莨(たばこ)の火」に、気前のいいお大尽「食(めし)の旦那」として実名登場する』とある。また、T氏は、「国文学研究資料館(歴史資料)和泉国日根郡佐野村食野家文書」(大永二(一五二二)年~明治四二(一九〇九)年)の書誌データも紹介して下さった。それを見ると、『佐野村は現泉佐野市の北西端に位置し、北は大阪湾に面する大村で』、『和泉九カ浦の中で最も繁栄し』、『特に食野家と唐金家は廻船業と大名貸で財をなしたことで有名である。食野家の初代多右衛門正久は、大饗二郎左衛門正虎から分かれ、故があって大饗の姓を食と改め、武を捨てて商家となったと伝えられている』。「食野」はこの文書の初期のそれにあっては、「めし」・「食」であって、本文書群の中では元禄から享保(一六八八~一七三四年)頃から「食野」となっている。『食野家の存在を示す最も古い文書は売券』(ばいけん・うりけん:売り渡し証文。沽券)で、天正一五(一五八七)年八月附のもので、売却先を『「めし左太郎」』と記し、元和四(一六一八)年五月28日附のそれでは、『十良大夫』なる人物が『屋敷地を』『「めし二良左衛門尉」に売却していることなどから、天正年間から佐野に住居し、土地集積を行っていたことがわかる。食野家は』十七『世紀後半には全国市場に進出して活躍するが、その活動資金がどのように蓄積されたかについては未詳である。全盛期の主業は廻船業と大名貸で、この富を背景にして』、享保七(一七二二)年に『大坂春日出新田を入手し、さらに西道頓堀付近、幸町、堀江一帯にわたって家屋倉庫を所有している。本拠である佐野においても』、『富を象徴する豪壮な邸宅と海岸に沿う道路の両側に「いろは四十八蔵」を建てた』。『一方で』、『岸和田藩との関係も密接で、藩札の札元に任命されているし、藩財政を支える上で重要な役割を果している。幕末になると食野家は廻船業の停滞と、大名貸の焦げ付きが原因となって急速に衰退する』とある。則ち、同家は姓として、戦国末期には「めし」を、元禄頃からは「食野」を使ったことが判る。T氏は他にも、泉佐野市立中央図書館の「いずみさのなんでも百科」の「食野家」と、「新庄デジタルアーカイブ」内の「諸国家業じまん」番付表の画像を紹介して下さった。前者には、『本家は幼名佐太郎、次郎左衛門を襲名。分家は吉左衛門を名乗り』、『食野家は楠木氏の子孫で室町時代中頃にはすでに佐野に住んでいた』らしく、『大饗(おおあえ)氏を名乗ってい』『たが、初代正久のときに』『食を名乗り、武士を捨て』、『廻船業に乗り出し』たとし、『食の姓はいつしか 通りがいい食野に変わっていったようで』、『江戸時代中期の』宝暦一一(一七六一)年には『鴻池、三井、加島屋など名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け、後期の』文化三(一八〇六)年には『三井とともに本家が』三『万石、分家が』一『万石の買米』(かいまい:米価引き上げなどの目的から幕府・諸藩が大名や市中の商人に米の買いつけを命じたこと。また、その米。幕府や藩自身が買い取る場合もあった)『を命じられるほどで』、『食野家の当時の発展ぶりは「加賀の銭屋か和泉のメシか」といわれるほどで、佐野くどきにも数々のエピソードが唄いこまれてい』るとある。後者の「諸国家業じまん」番付表では、東の大関(当時は横綱はないので最高位)に「三井八郎右ヱ門」が、西の大関に「飯野佐太郎」と記されてあるのが見られる。いつも乍ら、T氏に心より感謝申し上げるものである。

「倭漢三才圖會八一に白澤圖云、……」同書の「厠」の項を所持する原本から以下に訓読して示す。「【音 】」の実際の漢字が欠字なのは総て同じ。一部の読みや送り仮名は私が推定で附した。字の大小は項目の「廁」以外は無視した。

   *

かはや      圂【音 】 溷【音 】

 せつちん    圊【音 】 偃【音 】

【音差】     和名「加波夜」。

         俗云雪隱

ツアヽ

「說文」に徐氏が云はく、「廁、古へ之れを『清』と謂ふ。言ふこころは、其の不潔、常に當に清く之れを除くべきを以つてなり。

「白澤圖」に云はく、「厠の精を倚(い)と名づく。靑衣を著(き)、白き杖を持つ。其の名を知りて之れを呼べば、除く[やぶちゃん注:姿を隠す。]。其の名を知らずして之れを呼べば、則ち、[やぶちゃん注:声に出して呼んでしまったその人間は。]死す。又、云はく、室を築けば[やぶちゃん注:新築した家の廁には。]、三年、其の中に居らず。人を見るときは、則ち、面(おもて)を掩(おほ)ひ、之れを見れば、福、有り。」と。

「居家必用」に云はく、「厠の神【姓は】、廓、【名は】、登、是れ、『庭天飛騎大殺將軍』なり。觸れ犯(おか)すべからず。能く灾福(さいふく)[やぶちゃん注:「灾」は「災」の異体字。]を賜ふ。」と。

「五雜爼」に云はく、「今、大江[やぶちゃん注:長江。]より北の人家、復た厠を作らず。但し、江南は廁を作りて、皆、以つて、農夫と[やぶちゃん注:人糞を。]交易すればなり。江北には水田無き故、糞、用いる所、無し。其れ、地上に乾くを、然るの後(のち)、土に和して、以って田に漑(そゝ)ぐ。京師(みやこ)には、則ち、溝の中に停(とゞ)めて、春を俟(ま)ちて後(のち)、之れを發(あば)き、日中に暴(さら)す。其の穢氣(をき)、近づくべからず。」と。

   *

『「鄕土硏究」一卷七號なる「南方隨筆」に擧たり』既に注した通り、これは後の「續南方隨筆」(本書(五月刊)と同じ大正一五(一九二六)年十一月に同じ岡書院から出版)の中で単発初出などを総括した「『鄕土硏究』一至三號を讀む」の一節にある「呼名の靈」で、これは『鄕土硏究』三号の一五八頁に載る桜井秀氏の論考「呼名の靈」に対する熊楠お得意の触発された追加論考である。これは半世界的に神話・伝説に典型的に見られる「言上(ことあ)げ」の先に名指したものが勝つタイプの先手必勝型の「名指し」=「見切り」型のそれについての事例である。私は本書の電子化注の後に「續南方隨筆」に取り掛かる予定である(何時になるか判らぬが)。今、読まれたい方は、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから読め、「万葉文庫」のこちらで一九七一平凡社刊「南方熊楠全集第二巻」の新字新仮名に変えた電子化本文が読める。

「酒井忠一子」「子」は子爵の意。伊勢崎藩九代藩主で子爵酒井忠彰の子(次男以下)。生没年未詳。

「ツイトンガ島」南太平洋に浮かぶ約百七十の島群からなるトンガ王国(グーグル・マップ・データ)。イギリス連邦加盟国の一つ。オセアニアのうちポリネシアに属し、サモアの南、フィジーの東に位置し、首都のヌクアロファは最大の島トンガタプ島にある。サイト「ポリネシアの神話・伝説」の「トンガの島々と人々の起源(トンガ)」によれば、本来、この「ツイ・トンガ」とは『トンガの聖なる人々の系譜』を意味するという。その興味深い創世神話がリンク先に記されているので、是非、読まれたい。

「得脫」生死の境を脱して永遠の神の世界の存在となること。仏教用語の転用。

「Waitz und Gerland, ‘Geschichte der Naturvölker, ’Band 6, s. 329, Leipzig, 1872」ドイツの心理学者・人類学者フランツ・テオドール・ワイツ(Franz Theodor Waitz 一八二一年~一八六四年)と、ドイツの地理学者ゲオルク・コーネリアス・カール・ガーランド(Georg Cornelius Karl Gerland 一八三三年~一九一九年)の共著になる‘Anthropologie der Naturvölker’ (「原始人人類学」。全六巻で実際の著者はワイツ。一八五九~年一八六四年刊。第五・六巻をガーランドがワイツの死後に編集したもの)の第六巻‘Die Völker der Südsee. 3. Abt. Die Polynesier, Melanesier, Australier und Tasmanier.’(「南洋の人々」第三部[やぶちゃん注:これは第五巻からの続いたものである。]「ポリネシア人・メラネシア人・オーストラリア人・タスマニア人」)。ドイツ語が読める方は、‘Internet archive’のこちらで同六巻の全原本がある(一八七二年版)

「クマラ」。南アメリカ大陸、ペルー熱帯地方原産地とされる、ナス目ヒルガオ科サツマイモ属サツマイモ Ipomoea batatas の南洋一帯での呼称。当該ウィキによれば、例えば、ニュージーランドへは十『世紀頃に伝播し、「クマラ」(kumara)の名称で広く消費されている。西洋人の来航前に』、『既にポリネシア域内では広く栽培されていたため、古代ポリネシア人は南米までの航海を行っていたのではないかと推測されている』とある。

「其事、書紀卷一、伊弉册尊已に黃泉之竈(よもつへぐひ)して此世に還るを得ず、伊弉諾尊之を見て黃泉より逃出るを、醜女八人追ければ、尊黑鬘と湯津爪櫛を投て葡萄と筍を化成し、醜女之を食ふ間に泉津平坂に到り玉へえるに似たり」私の好きな「呪的逃走(呪物投擲逃走)」システムの起動を示す、本邦の神話の最初の出現である。「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(18) 神道の發達(Ⅰ)」の私の注で訓読文を示してあるので、是非、読まれたい。また、本神話や熊楠の以下に挙げるような西洋の類型譚については、福島秋穗氏の論文「記紀に載録された呪物投擲逃走譚について」(『国文学研究』一九七九年十月発行。「早稲田大学リポジトリ」のこちらPDFでダウウ・ロード出来る)が優れている。必読!

梁の慧皎の高僧傳」中国南朝梁の僧慧皎(四九七年~五五四年)の撰になるした中国への伝来以来、後漢(西暦六七年)から梁の西暦五一九年までの四百五十三年間に及ぶ期間の高僧二百五十七名及び附伝する二百四十三名から成る壮大な伝記である。高僧の伝記を集めたもの。「梁高僧傳」「梁傳」とも呼ぶ。全十四巻。五一九年成立。当該ウィキによれば、『慧皎以前にも、梁の宝唱撰の「名僧伝」のように数種の僧伝が既に存在していたが、慧皎は、それら先行する類書の編集方針に満足できず、自ら新たに「高僧伝」を撰しようと思い立ったと、巻末に収められる自序において述べている。具体的には、「名僧伝」等は、世間で有名な僧、あるいは著名な僧の伝記を集めている。しかし、仏教の教えの観点から言えば、たとえ無名であっても、すぐれた僧、高僧は居る筈である。そういった僧の伝記が失われてしまうのを恐れて、「高僧伝」という名を立て、また、その観点から見て相応しいと判断した僧の伝記を収録した、と述べている』。以下の当該部は、「中國哲學書電子化計劃」のここから影印本で原本が読める。第八卷の「齊蜀齊后山釋玄暢」である。

「劉宋」南北朝時代の劉宋(四二〇年~四七九年)。

「釋玄暢」北方の著名な高僧玄高の弟子で、師に従って平城に行くが、ここある通ように北魏の太武帝が仏教を弾圧して、滅法を行った際には劉宋に逃げ込んでいる。彼は三論・華厳に通じており、「法華文句」の中にも、その名が見える(以上は信頼出来る複数の仏教論文に拠った)。

「幽」幽州。漢代に設置されたそれは現在の河北省・遼寧省・北京市・天津市を中心とする地域に当たる。

「冀」冀州(きしゅう)。現在の山西・遼寧・河北・北京・天津・フフホト(呼和浩特)・ウランチャブ(烏蘭察布)など、七つの省市に分属する附近。

「孟津」河南省洛陽市孟津県(もうしんけん)附近(グーグル・マップ・データ)。黄河右岸。

「揚州」中国古代のそれは「九州」の一つで、淮河南岸から南シナ海沿岸までの地方が想定されているが、理化し易いのは、隋代以降の州で、現在の江蘇省揚州市(グーグル・マップ・データ)に相当する。

「希臘譚に、繼母魔質にして一男一女童を殺し食はんとし、二童犬の敎により逃るゝを魔母追來る、其時童男小刀を投れば廣原となり、次に櫛を投れば密林となり、最後に鹽を投れば浩海と成て遂に遁れ去るを得と有り」この話、非常に惹かれるのだが、その話を知らない。先の福島氏の論文にもぴったりくるものを見出せない。

「スカンヂナヴヰア譚に一童子巨鬼に逐れ走る時其騎馬に敎えられて三物を携ふ、鬼逐うふ事急なるに臨み、先づ山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属山査子[やぶちゃん注:「さんざし」。バラ目バラ科サンザシ属セイヨウサンザシ Crataegus monogyna。]。]の枝を投れば彼木の密林生じ、石を投れば大巖と成り、甁水を投れば大湖と成て鬼を障え童子脫するを得と有り」同前。なお、セイヨウサンザシについては、呪的効果が知られ、例えば、吸血鬼を滅ぼすために胸に打ち込む杭は同種である必要がある。

「Tozer,‘Researches in the Highlands of Turkey,’1869, vol. ii, pp. 273-274」イギリスの牧師で作家・地理学者としても知られたヘンリー・ファンショー・トーザー(一八二九年~一九一六年)の「トルコ高地の研究」。‘Internet archive’で原本が見られ、当該部はこちらから。

「Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol. i, pp. 439-443」スコットランドの民俗学者ウィリアム・アレクサンダー・クローストン(一八四三年~一八九六年)の「知られた話群と虚構」。Internet archive’で原本が見られ、当該部はこちらから。]

2021/02/28

怪談老の杖卷之二 半婢の亡靈

 

怪談老の杖卷之二

 

   ○半婢《はしたもの》の亡靈

 官醫佐田玉川といふ人、駿河臺に居られける。其草履取(ざうりとり)に關助(くわんすけ)といふ中間(ちゆうげん)ありしが、身持惡しき好色者にて、茶の間・はしたなど、たぶらかしける。

 柳(りう)といひける半婢、生れつきも奇麗にて、心だても、よきものなり。しかも、親元も相應なる百姓のむすめなりしが、田舍は自陀落なるものなれば、盛りの娘をやどに置(おき)ては、萬一、不行義なる事ありては、あしく、

「江戶の屋敷方にては、『女部屋に錠(じやうぐち)口』とて、金箱(かねばこ)同前に油斷なく、男たるものは出入する事もならぬよし。左こそ有(あり)たきものなれ。」

と、田舍の律義なる心より、少(すこし)の緣をたよりに、何の辨(わきま)へもなく、ある御旗元衆の家へ奉公させけるが、まづ、山出(やまだ)しなれば、縫針(ぬひばり)はならず、食(めし)たきはしたに住みけるが、ふと、此中間が口に乘せられて、念頃(ねんごろ)にものし、

「末は夫婦(めをと)になるべし。」

と、衣類なども、親里より、數多く持來(もちきた)りしを、一つ、二つづゝ、だましとられけるが、法度(はつと)つよき家にては、思ふ樣(やう)に出會(であ)ふ事もならねば、夫(それ)のみなげき暮しけるが、かの中間、その屋敷を暇出(いとまだ)されて、此家へありつきけるを、此女、殊の外にしたひて、あくる年の出(で)がはりより、同じ家に勤め、小身なる家なれば、人目も少く、心のまゝに逢ふ事を樂しみに、女のはかなさは、うさ・つらさもなぐさみて勤(はたらき)けるが、不作法のかず、かさなりて、懷姙(くわいにん)しけるを、

「柳(やなぎ)はら邊(あたり)の『おろし藥』にて埓明(らちあけ)ん。」

と、關助、調へ來りて、むりにすゝめ、あたへけるが、「運のきはめ」とて、事をあやまちて、くるしみ、殊の外の大病となりける。

 主人も、

「心だて、よきものなれば。」

と憐みて、養生も致吳(いたしくれ)られけれど、

「十(とを)が九つ、助かるべき樣子ならねば。」

迚、やどへ下げられ、十日計(ばかり)も、晝夜、くるしみて、相はてぬ、屋敷のうちのものは、その始末を知りけれど、田舍の親は夢にもしらず、たゞ一通りの病氣とおもひ、むすめも深くかくして、命をはりけんさま、いたましき事なり。

 夫(それ)より、關助が部屋へ、每夜、每夜、かの女の亡靈、來りて、

「關助殿、々々々。」

と、枕元によりて、おどろかし、

「こなたゆゑに、非業の死をとげたり。そのときの苦しみを知らせば、いか計(ばかり)の苦痛とか思ふ。」

など、かきくどきける事、每夜なり。

 のちには、關助、うるさくなりて、草鞋(わらぢ)をつくるよこ槌(づち)などにて打たゝきなどしければ、傍輩の中間ども、あやしみて、いろいろ尋ける程に、有のまゝに語りければ、後には、ほうばひも、きみをわるがり、一ツ部屋にもおかず、關助ひとりさし置ければ、夜一夜(よひとよ)、よこ槌にて、部屋の内を、たゝき廻りけるが、すこやかものにて、奉公をも引かず、勤めけれど、次第に疲(つかれ)おとろへける。

 用人(ようにん)何某といふ人、不便(ふびん)におもひて、關助を招き、

「その方、每夜、死靈のために苦(くるし)むと聞けり。是、決して死靈にあらず。その方が心の内に、『彼が事を、むごき目をみせたり。もし、死靈にも成(なり)やせん』と、疑ひ思ふ念慮、凝(こ)りて、形の目に見ゆるなり。」

とて、その頃、駒込に禪僧の悟りたる人、幸ひ、主人、歸依にて、折ふし、やしきへ來られけるをたのみて、さまざま、云ひきかせ、碁石など、つゝみて、かの亡靈に、

「是は、何ぞ。」

など、尋させければ、

「碁石なり。」

といふを、また、此度(このたび)は、かずをあてさせ、終りには、白石・黑石、かずをかへして、關助にあたへ、尋させけるに、亡靈、それは返答せざりける故、

「是、汝がしりたる事は、死靈も知り、汝が知らぬことは死靈も知らず。是を以てしるべし。元來、その方が心想中(しんさうちゆう)に靈は、あり。外よりは、來らず。」

など、いろいろ、さとされけれど、もとより、文盲なる中間風情(ふぜい)、さる理(ことわ)り、合點(がてん)すべき樣(やう)なく、每夜、來る事、始(はじめ)のごとくなり。

 用人、ある時、關助をよびて、

「亡靈、今に來るよし、いか樣(やう)なる樣子ぞ。」

と問はれければ、

「とかく、外よりはいりて、枕元に立(たつ)より、つめたき顏にて、私のかほを、こすり、手など、とらへ、いろいろに、恨みを申す。」

と、いひければ、

「扨は。狐狸などの業(しわざ)なるべし、今宵、もし、來らば、つれ來れ。」

と、いはれければ、

「ずいぶん、つれて參るべし。」

と約束しけり、

 扨、其夜、九ツ時[やぶちゃん注:午前零時。]に來りて、部屋の戶をたゝきける。

「誰(た)ぞ。」

と問へば、

「關助にて候。幽靈を、つれだち、參りたり。御出合下されよ。」

といふ。

 用人の妻女などは、こはがりて、

「かならず、そとへは御無用なり。」

と、とゞめけれど、用人のいはく、

「よもや、つれ來るべしとは、思ひよらず。『來(きた)れ』と、いひしが、今、出(いで)あはぬは、いかにしても。かれがおもはん所も、よろしからず。」

と、帶、しめなをし[やぶちゃん注:ママ。]、腰の物をさして、

「かならず。はなすな。しつかりと、とらへておるべし。」

と、内より、聲、かけければ、

「御氣づかひ被ㇾ成(なされ)まじ。ずいぶん、しつかりと、とらへ居(をり)候。」

と、いふゆゑ、戶をあけて、出(いで)、見(み)けるに、たゞ、關助、壱人(ひとり)、門に立てり。

「どれ。幽靈は、いづ方にいるぞ。」

と、いひければ、

「今まで、しつかりと、とらへおり候が、いづ方へまいりしや、おり申さず。」[やぶちゃん注:仮名遣い誤り三ヶ所は総てママ。]

と、いふにぞ、大(おほい)に呵(しか)りて、歸しぬ。

 そののち、いろいろ、したりけれど、來(きた)る事、やまず。

 次第に、やせ衰へければ、暇を出されたり。

 其のちは、餘りに苦しがりて、

「江戶に居ては、いつ迄も來(きた)るべし。」

とて、大坂の御番衆に、つきて、のぼりけるが、幽靈の事なれば、いづ方へ行たりとて、いかで、あとを慕はざるべき、東海道のとまり、とまり、大坂の御城内までも、つきあるきて、終(つひ)に大坂にて、是を氣やみに、終りけり、と聞けり。

 かの用人、直(ぢき)のもの語り也。

[やぶちゃん注:「官醫佐田玉川」実在する。香取俊光氏の論文「江戸幕府の医療制度に関する史料(八) ―鍼科医員佐田・増田・山崎家『官医家譜』など―」PDF・『日本医史学雑誌』一九九六年十二月発行)の冒頭に、江戸幕府の鍼医の家系として「佐田分家」を挙げられ、その系図の初代『(某)』に『(新助 玉緑 佐田玉川貞重が長男)』(下線太字は私が附した)として、『(針術をもって尾張大納言光友卿に仕ふ)』とし(出自も伊勢国司教具の子定具の四代の孫と示す)、初代を佐田定之(さだゆき)とし、この『定之が終わり光友の侍医から幕府の鍼医という経緯で登用され、子孫は明治まで鍼科医員を勤めた』とある。定之が徳川家綱に初見は延宝七(一六七九)年で、幕府医官となったのは元禄五(一六九二)年である。本書は宝暦四(一七五四)年作であるから、この定之(元禄十年没)の少し古い話か、或いはそれを嗣いだ養子佐田道故(みちふる 宝暦六年没)と考えられる。リアリズム怪談として初めから堅固に作ってある。すこぶる頼もしい。

「駿河臺」現在の東京都千代田区神田駿河台(グーグル・マップ・データ)。江戸城の東北で「お茶の水」駅周辺。

「茶の間」「茶の間女」。武家で、主に家族が食事や団欒などをする茶の間の雑用を担当した下女。

「はした」「端女」。広く召使いの女。

「自陀落」「自堕落」。

「かの中間、その屋敷を暇出(いとまだ)されて、此家へありつきけるを、此女、殊の外にしたひて、あくる年の出(で)がはりより、同じ家に勤め、小身なる家なれば、人目も少く、心のまゝに逢ふ事を樂しみに、女のはかなさは、うさ・つらさもなぐさみて勤(はたらき)ける」折角のリアリズムだったが、医官の家では屋敷内の風紀が厳しく、話が展開し難いと考えたものか、勤め先を小身の武家の家に二人とも転出させている。やや唐突であり、かえって不自然な感じは拭えず、現実感が殺がれるのは瑕疵と言わざるを得ない。

「柳はら」柳原土手。現在の東京都千代田区北東部の神田川南岸の万世橋から浅草橋に至る地域。江戸時代は古着屋が並んでいた。この中央東西(グーグル・マップ・データ)。現在、右岸に「柳原通り」の名が残る。

「おろし藥」怪しげな違法な堕胎薬。

「やどへ下げられ」この場合は、勤め替えに関わった斡旋業者が「蛸部屋」として借りている長屋であろう。最初に佐田玉川の家へ彼女を斡旋した人物のところも考えたが、それでは、親元に知らせが行かないのがおかしくなる。

「命をはりけんさま」「命を張りけん樣」。これ、哀れさ、いや、増す言辞である。

「用人」その小身の武家の用人。用人とは、家臣中の有能者を選び、これに任じて、財政・庶務万端を取り扱わせた職。

「駒込」嘗ての豊島郡駒込村は文京区本駒込・千駄木などを含んだ広域であった。「今昔マップ」のこの辺り

「白石・黑石、かずをかへして、關助にあたへ、尋させけるに、亡靈、それは返答せざりける故」ここではその禅僧があらかじめ白黒の碁石の数を変えたものを紙に包み、緘封して、関助には開き見ることを禁じさせたのである。

「是、汝がしりたる事は、死靈も知り、汝が知らぬことは死靈も知らず。是を以てしるべし。元來、その方が心想中(しんさうちゆう)に靈はあり。外よりは、來らず」お見事! 座布団二枚!

「ずいぶん」「隨分」。出来る限りのことをして。

「いかにしても。」「如何にしても出でざるべからず」の略として、句点を打った。

「大坂の御番衆」各藩や旗本に割り当てられた大坂城の交替警備勤番衆のこと。

「幽靈の事なれば、いづ方へ行たりとて、いかで、あとを慕はざるべき、東海道のとまり、とまり、大坂の御城内までも、つきあるきて、終(つひ)に大坂にて、是を氣やみに、終りけり」これ、惜しい! 道中逐一、最後の大坂城内までを一大ロケーションを敢行して、「怪談東海道中膝栗毛」式にすれば、もっと面白くなったろうに!

「かの用人、直(ぢき)のもの語り也」又聞きの噂話ではないというダメ押しのリアリズムである。しかし、やはり、奉公替えをしていて、無名化してしまっているのが残念である。]

2021/02/27

明恵上人夢記 89

89

一、同廿日の夜、夢に云はく、十藏房、一つの香爐【茶埦(ちやわん)也。】[やぶちゃん注:これは底本では割注ではなく、本文で、ポイント落ち。]を持てり。心に思はく、『崎山三郞【貞重。】、唐(から)より之を渡して十藏房に奉る』。之を見るに、其の中に隔(へだ)て有りて、種々の唐物(からもの)有り。廿餘種許り、之(これ)在り。兩(ふたつ)の龜、交合(かふがふ)せる形等(など)あり。心に、『此(こ)は、世間之祝物(いはひもの)也』と思ふ。其の中に、五寸許りの唐女(からむすめ)の形、有り。同じく是(これ)、茶埦也。人有りて云はく、「此の女の形、大きに、唐より渡れる事を歎く也。」。卽ち、予、問ひて曰はく、「此の朝(てう)に來(きた)れる事を歎くか、如何(いかん)。」。答へて、うなづく。又、問ふ、「糸惜(いとほし)くすべし。歎くべからず。」。卽ち、頭を振る。其の後(のち)、暫時ありて、取り出(いだ)して見れば、淚を流して、泣く。其の淚、眼に湛(たた)ふ。又、肩を濕(うる)ふ。此(これ)、日本に來れる事を歎く也。卽ち、語(ことば)を出(いだ)して云はく、「曲問(ごくもん)之(の)人にてやおはしますらむに、其の事、無益(むやく)に候。」と云ふ。予、答へて云はく、「何(いか)に。僧と申す許(ばか)りにては然(しか)るべき、思ひ寄らざる事也。此の國には、隨分に、大聖人(だいしやうにん)之(の)思(おぼ)え有りて、諸人、我を崇(あが)むる也。然れば、糸惜くせむ。」と云ふ。女の形、之を聞き、甚だ快心(くわいしん)之(の)氣色ありて、うなづきて、「然れば、御糸惜み有るべし。」と云ふ。予、之を領掌(りやうじやう)す。忽ちに變じて、生身(しやうしん)の女人(によにん)と成る。卽ち、心に思はく、『明日、他所(たしよ)に往きて、佛事、有るべし。結緣(けちえん)の爲(ため)に彼(か)の所に往かむと欲す。彼(か)の所に相具(あひぐ)すべし。』。女人、悅びを爲(な)して、「相朋(あひともな)はむ」と欲す。予、語りて云はく、「彼(かしこ)に公(こう)之(の)有緣之人(うえんのひと)、有り。」【心に、崎山の尼公、彼の所に在り。聽聞の爲に至れる也。三郞之(の)母の故(こと)なり。此の女(むすめ)の形は、三郞、渡れる故に此の說を作(な)す。】。卽ち、具(とも)に此の所に至る。十藏房、有りて云はく、「此の女、蛇と通ぜる也。」。予、此の語(こと)を聞きて、『蛇と婚(ま)ぎ合ふに非ず。只、此の女人、又、蛇身(じやしん)、有る也』。此の思ひを作(な)す間(あひだ)、十藏房、相(あひ)次ぎて云はく、「此の女人は蛇を兼(けん)したる也。」と云々。覺め了んぬ。

  案じて曰はく、此(これ)、善妙也。
  云はく、善妙は、龍人にて、又、
  蛇身、有り。又、茶埦なるは、
  石身(せきしん)也。

[やぶちゃん注:何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。河合隼雄氏が「明惠 夢に生きる」(京都松柏社一九八七年刊)で一章を立てて分析し、特に「善妙の夢」と名づけておられる、明恵の意識+無意識内の女性像の一つ頂点を成すものである。注を附す前に、河合氏の分析を引用する。かなり長くなるが、梗概を記したのでは、河合氏の意とするところが枉がってしまう可能性があるので、途中を中略させながら、引く。「第六章 明恵と女性」の「3 善妙」パートである。

   《引用開始》

明恵の夢に現われた善妙は、明恵が編纂した『華厳宗祖師絵伝』(華厳縁起)に登場する女性である。『華厳宗祖師絵伝』は幸いにも、一部の欠損と錯簡はあるが、今日まで高山寺に伝えられている。これによって、われわれは善妙がどのような女性であり、明恵が彼女にどのようなイメージを託していたかをよく伺い知ることができる。この絵巻は、『宋高僧伝』に語られる新羅の華厳宗の祖師、元暁と義湘に関する物語を絵巻としたもので、詞書の原文は明恵によって作られたと推定されている。明恵の善妙に対する思い入れの深かったことは、貞応二年(一二二三)、彼が承久の乱による戦争未亡人たちの救済のために建てた尼寺を、善妙寺と名づけている事実によっても知ることができる。[やぶちゃん注:以下、「善妙の夢」と名づけて、本文が引かれるが、略す。既に述べたが、河合氏はここまでの一連の夢を総て承久二(一二二〇)年と設定している。]

 この夢は、明恵にとっても重要な夢であることが意識されていたのであろう、最後のところに「案じて曰はく、此善妙也。……」と彼自身の解釈を書き記している。それに原文を見ると、この陶器の人形が泣くところ、「其の後、暫時ありて取り出して見れば、……此、日本に来れる事を歎く也」の文は、上欄の余白に書き足してあり、彼がいかにこの夢を大切に考え、少しの書き落としもないように努めたかが了解されるのである。[やぶちゃん注:河合氏は原本(高山寺蔵本十六篇。岩波文庫はこれをのみ底本としている)を確認されている点に注意されたい。]

 この夢では、明恵が十蔵房から唐より渡来の香炉を受けとる。そのなかには仕切りがあっていろいろな唐物がはいっており、亀が交合している形のもある。五寸ばかりの女性の形をした焼き物があり、唐から日本に来たことを嘆いているということなので、明恵が問いただすと、人形がうなずく。そこで明恵は「糸惜(いとほし)くすべし。歎くべからず」と言うが、人形は頭を振って拒否。そんなことは無用のことと言う(ここの曲問之人という表現の意昧は不明)。これに対して明恵は自分は単に僧侶というだけではなく、この国では大聖人として諸人にあがめられているのだと言う。人形はこれを聞いて嬉しく思ったようで、「それならおいとしみ下さい」と答え、明恵が了承すると、たちまち生身の女になった。この突然の変容が、この夢における重要な点と思われる。明恵はそこで明日他所で仏事があるから、そこへこの女性を連れて行こうと考える。実際に行ってみると十蔵房が居て、この女性は蛇と通じたと言う。明恵は、そうではなくてこの女性は蛇身を持ち合わせているのだと思う。そう思っている間に、十蔵房は、この女は蛇を兼ねているのだと言った。

 この夢を見て、明恵のような聖人でも性的な夢を見るのだとか、やっぱり性欲は抑え切れぬものだ、などと思う人もあろう。しかし、性欲はあって当然で、それに対してどのように感じ、どのように生きたかが問題なのである。既に述べたように、性の意味は極めて多様で深い。先に紹介した「性夢」は相当に直接的なものであったが[やぶちゃん注:ここと同じ「第六章 明恵と女性」の「2 女性の夢」の「性夢」パートである。実は河合氏の「明惠 夢に生きる」が「夢記」の底本としているのは私の底本としている岩波文庫を主とするのであるが、一部で京都国立博物館蔵の「夢記」が用いられてあり、これがそれで、岩波文庫には残念乍ら、含まれていない。底本を終わった後に同書からそうした箇所を総て引こうとは考えている。簡略に述べると、建暦元(一二一一)年十二月二十四日の夢で――ある大きな堂で異様に太った貴女と対面し、明恵は心の内でこの女性は香象大師(「12」の私の注を参照)の持つ諸特徴と似ていると思う。そして、ダイレクトに『此人と合宿、交接す。人、皆、菩提の因と成るべき儀と云々。卽ち互ひに相抱き馴れ親しむ。哀憐深し』(本文の漢字は恣意的に正字化した)とある夢を指す。]、それに比してこの夢は、はるかに物語性をもち感情がこめられている。意識と無意識との相譲らぬ対決のなかから、物語は生み出されてくるのである。

 この夢のなかで、明恵が自分のことを「大聖人として諸人にあがめられている」と言うところがある。これだけを見ると、明恵という人が大変に思い上がっているように思えるが、この点については、『伝記』のなかの次のようなエピソードを紹介しておきたい。ある時、建礼門院[やぶちゃん注:建礼門院平徳子(久寿二(一一五五)年~建保元(一二一四)年)は元暦二(一一八五)年三月二十四日の壇ノ浦での平家滅亡から凡そ一ヶ月後の五月一日に出家して直如覚と名乗っているが、本話は事実とすれば、ちょっと私はおかしい気がしている。]が明恵に戒を受けることになった。そのとき、院は寝殿の中央の間の御簾(みす)の内に居て、手だけを御簾から差し出して合掌し、明恵を下段に坐らせて戒を受けようとした。これに討して明恵は、自分は地位の低い者だが、仏門にはいったからには、国王・人臣にも臣下としての礼をとることはできない。授戒・説法のためには僧は常に上座につくべきであると経典にも明記されている。自分は釈尊の教示に背いて、院の気に入るようにはできないので、自分以外の誰か他の僧に受戒されるとよろしいでしょうと言い、そのまま帰ろうとした。建礼門院は非を悟って詑び、明恵を上座に坐らせて戒を受けた。この場合でも、明恵はまったく個人的なことではなく、仏教者としての誇りを明確に示したと言うべきである[やぶちゃん注:私の「栂尾明恵上人伝記 57 明恵、建礼門院徳子に受戒す」(本文は正字)を参照されたい。]。先述の夢に対して、奥田勲も「夢記の中の自負は、それだけみるとそのあまりの誇りの高さは異様だが、このような明恵の思考体系に位置づけを求めれば決して不思議ではない」と述べている。

 この点については、この人形が唐から来たものだということも関連しているように思われる。仏教は中国を経由して日本に渡ってきた。その間に、既に述べたように中国化、日本化の波をかぶってきたのであるが、明恵はひたすら釈尊の教えとしての仏教に心を惹かれ、当時の日本の仏僧たちとは異なる生き方をしていた。明恵は言うならば、仏教の魂が日本に移ってくる間に、生気を失って石化してしまったことを嘆いていたのではなかろうか。この人形が「日本に来た」ことを嘆いているのは、それと関連しているように思われる。明恵が日本における聖人としてあがめられている者だ、などと言うとき、彼は日本における仏教の在り方について責任をもたねばならぬものとして、日本に渡来した「石化した魂」の問題に直面しなくてはならぬという自覚を示しているようにも思われる。女性像を魂の像としても考えるべきことは、ユングの主張しているところである。

 生身のものが石化するとか、石化していたものが生きた姿に還るとかいうテーマは、古来から多くの神話や昔話に生じてきたものである。石化しているものを活性化することは、困難ではあるが大切なことである。われわれはこのテーマを、既に「石眼の夢」において見てきた[やぶちゃん注:これも陽明文庫本「夢記」に載るもので岩波文庫には所収しない。建保二(一二一四)・三年辺りに見たと推定されるも夢。「一つの石を得た。『長さ一寸許り、廣さ七八分、厚さ二三分許り』で、その石の中に『當(まさ)に眼あり。長さ五分許り、廣さ二三分許りなり。其の石、白色なり。而して純白ならず、少(やや)鈍色(にびいろ)なり。此の眼あるに依りて、甚だ大靈驗あり。手を放ちて之を置くに、動躍すること、魚の陸地に在るが如し』とあって、随喜している上師に対し、明恵がこの魚の名を「石眼」と伝える。さてその時、屋根の下に腸(はらわた)などを失った魚がぶら下げられており、片眼が飛び出しているような感じである。ところが、その眼が少し動く(以下、少し錯文が疑われる)。その傍らに獣の革のような物もある。その奇体な魚を明恵は上師に見せたく思う。さて、今度は、そこに一人の女房が来て、ぶらさがった魚を取って行ってしまう。一方、革は小鹿のような生きたものであって、四足を持っているが、その背の部分には多数の穴が穿(宇賀)たれている。女房が言う。『我、ただならぬに、此(かく)の如き物を手をかくる、何ぞあるべきやらん』と。明恵は心の内で『姬子なり』(姫の子)と思う。この獣を可哀そうに思い、労(いた)わる。すると、この獣は軒先から地に降ろされるや、『只、本(もと)の如く釣り懸けられよ』と人語を操る。明恵は心の中で『久しく釣り習はされて、此の如く云ふなり』と思う。その獣は恐ろしく苦痛な様子であり、片手は切れていた。仕方なく、言うに任せてこれをもと通りに釣った」という夢。明恵の解釈が附されてあり、この「上師」は釈迦、「女房」は文殊菩薩、「姫」は覚母殿(これは文殊菩薩の異名とも、「現図胎蔵界曼荼羅」の持明院の中尊で知恵の象徴にして総ての仏陀の母ともされる)とし、『石眼の眼は此の生類の眼に勝(まさ)るべきなり』(本文の漢字は恣意的に正字化した)と記している、難解な夢である。私はシュールレアリスム映画の傑作「アンダルシアの犬」(Un Chien Andalou:ルイス・ブニュエルLuis Buñuel)とサルバドール・ダリ(Salvador Dalí)による一九二八年に製作され、一九二九年に公開されたフランス映画)を見ているような気になった。]。それがここに継承されていることに気づかされる。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

以下、本夢を解釈するには「華厳宗祖師絵伝」の善妙を知らねばならないとされ、「華厳縁起」のパートを立てておられる。そこから引く。

   《引用開始》

その話の要約を次に示すが、もともとこれは「足暁絵」二巻と「義湘絵」四巻に分けられていたものである。善妙は「義湘絵」に現われるのであるが、この物語はどららも明恵を理解するために大切なので、両者を紹介することにする。

 まず「義湘絵」から述べる。義湘と元暁は二人一緒に唐に行き、仏教を学ぼうとする。たまたま旅の途中で雨に会い、そこにあった洞穴で雨宿りをする。ところが翌日になってみると、ただの穴だと思っていたところは墓場で、骸骨などが散らばっているので、二人はぞっとする。しかし、その日も雨で出発できずにそこに宿ることにした。すると夢に恐ろしい鬼が出てきて、二人を襲おうとする。これは二人が同時に恐ろしい夢を見たことになるわけだが、目覚めた途端、元暁の方は悟るところがあった。前日、何も知らないで安心して寝ていた場所も、墓と知ったときには鬼に襲われた。つまり、一切のことは皆自分の心から生じるので、心のほかに師を尋ねてみても意味がないと悟り、元暁は志をひるがえして、新羅に留まることを決意する。義湘はこれまでの志を変えなかったので、旅が始まってすぐ二人は別れ、義湘一人が唐に渡ることになる。元暁の翻意を知ったとき、義湘はそれに同意をするのでもなく、また反対をするのでもなく、二人は別々にあっさりと異なる道を選ぶところが、なかなか印象的である。

 義湘は船で唐に着き、里へ出て物乞いをはしめる。そのうち善妙という美しい娘と出会うが、容姿端麗な義湘を見て、善妙は一目ぼれをしてしまう。そこで善妙は巧みな声で、「法師、高く欲境を出て、広く法界を利す。清くその功徳を渇仰し奉るに、尚、色欲の執着抑へ難し。法師の貌を見奉るに、我が心、忽ちに動く。願はくは、慈悲を垂れて、我が妄情を遂げしめ給へ」と言う。義湘はこれに対しても「心堅きこと石の如し」で、「我は仏戒を守りて、身命を次にせり。浄法を授けて、衆生を利す。色欲不浄の境界、久しくこれを捨てたり。汝、我が功徳を信して、長く我を恨むること勿れ」と答える。

 これを聞いた善妙はたちまちに道心を発して、義湘の功徳を仰ぎ、義湘が衆生のためにつくすのを「影の如くに添ひ奉りて」助けようと述べる。その後、義湘は長安に行き、至相大師のもとで仏法の奥儀を極め、帰国することになる。義湘の帰国を知った善妙は贈り物を整え港に駈けつけるが、船は出た後であった。彼女は歎き悲しむが、贈り物のはいった箱を、義湘のところに届けと祈って海中に投げ入れる。すると、その箱は奇跡的にも義湘の船に届いたのである。善妙はそれに勇気づけられて、義湘を守ろうとする大願を起こし、波のなかに飛びこんでゆく。このとき善妙は龍に変身し、義湘の乗った船を背中に乗せ、無事に新羅まで到達する。

 この次に続く義湘絵は戦火によって夫われているが、詞書は錯簡によって現存の「元暁絵」の方に入っている。それによって話を続けると、義湘は新羅に帰り、自分の教えを広める場所を求め、一つの山寺を適当なところと考える。しかし、そこには「小乗雑学」の僧が五百人も居るので困ってしまう。そのとき、善妙は「方一里の大盤石」に変身して、寺の上で上がった下がったりしたので、僧たちは恐がって逃げてしまう。そこで、義湘はその寺で華厳宗を興隆することになり、浮石大師と呼ばれるようになった。これが「義湘絵」の物語である。

 次に「元暁絵」の物語を紹介するが、こちらは義湘の物語ほどには話に起伏がないように思われる。最初の部分は「義湘絵」と同じであり、元暁は義湘と別れて新羅に留まることになる。元暁はそこで内外のすべての経典に通じることになるが、一方では「或時は巷間に留まりて歌を歌ひ、琴を弾きて、僧の律儀を忘れたるが如し」という生き方をする。義湘が戒を守る厳しい態度をとり続けたのに対して、元暁は極めて自由奔放な生活態度をとったのである。絵巻には明確に言われていないが、この話の元となった『宋高憎伝』によると、「居士に同じく酒肆・倡家[やぶちゃん注:「しょうか」。]に入り」と述べられているので、酒屋や遊女屋に出入りしていたことがわかるのである。元暁はこのような行為の反面、「経論の疏(そ)を作りて、大会[やぶちゃん注:「だいえ」。]の中にして講讃するに、聴衆皆涙を流す」有様であり、「或時は山水の辺に坐禅す。禽鳥虎狼、自ら屈伏す」というほどの徳の高さがあった。

 ある日、国王が「百坐の仁王会[やぶちゃん注:「にんのうえ」。]」に元暁を招こうとする。しかし、「愚昧の人」が居て、「元暁法師、その行儀狂人の如し」というわけで、何もそんな僧を招く必要がないと申し入れ、国王は元暁を招くのをあきらめる。

 その頃、国王の最愛の后が重病となり、祈禱や医術をつくすが効果がない。そこで救いを求めて勅使を唐に派遣する。ところが勅使の一行は船で海を渡ろうとするとき、海上で不思議な老人に会い、老人の案内で海底の龍宮に導かれる。そこで龍王から一巻の経を授けられ、新羅に帰ってまず大安聖者という人にその経の整理をさせ、元暁に注釈を頼めば、后の病いは直ちに治るであろうと言われる。勅使は帰国して以上のことを国王につげ、国王は早速に大安聖者を召して、経の整理にあたらせる。続いて、元暁に対して、経のために注釈をつくり講義をすることが求められる。元暁は早速その仕事にかかるが、それを嫉む人に注釈を盗まれ、三日の日延べをして貰って完成する。

 元暁は法座に臨んで経を講ずるときに、「一個の微僧無徳に依りて、先の百坐の会に洩れにき。今日に当たりて、独り講匠の床に上る。甚だ恐れ、甚だ戦く」と言ったので、それを聞いた列席の僧たちは皆顔を伏せて、大いに恥じいったという。元暁は無事に講義を終え、后の病いも快癒する。元暁のその経に対する注釈は、金剛三味論と名づけられ、世間に広く流布するところとなった。以上が「元暁絵」の話の大略である。

 これらの物語における義湘と元暁の性格は、極めて対照的である。そして、これまで論じてきたことからも明らかなように、この二人は、明恵の内面に存在する対立的要素を際立てて表現しているように思われる。先学が指摘するように、絵巻に描かれた元暁の顔が、しばしば樹上坐禅像の明恵の顔に似ているのが印象的である。「島への手紙」[やぶちゃん注:私の『尾明恵上人伝記 20 「おしま殿」への恋文』を参照されたい。何も言わずに読まれると面白い。だから何も言わない。]にも自ら記していたように、「物狂おしい」ところがあるのをよく自覚していた明恵は、「その行儀狂人の如し」と言われた元暁の行ないに、強い親近感を抱いたことと思われる。

 「義湘絵」の方には理論的とも言えるような長い説明文がついており、そのなかで、善妙が龍に化して義湘を追ったのは「執着の咎」に値しないか、という問いに答えるところがある。確かに男女の愛欲による執着から、女が蛇や龍に化身して男を追いかける話はよくあるところだ。それと善妙の場合とはどう違うのか、というのである。義湘と善妙の物語を読んでただ感心してしまうのではなく、このような疑問を発し、それに答える形で思索を深めてゆくのが明恵の特徴の一つである。

 ここで明恵は、善妙の最初の義湘に対する気持ちは確かに煩悩のなす業には違いないが、善妙は単に龍になったのみでなく、大盤石と化して仏法を護った。これを見ると、単なる執着などというものではなく、高められた菩提心となっていると主張している。そして、愛には親愛と法愛があり、前者は人間の煩悩にもかかわるものであるが、法愛は清らかなものである、と注目すべき意見を述べている。ところが、『華厳縁起』の詞書には、校注者の小松茂美によれば、二か所の書き損じがあるとされる。それをそのまま次に示す。書き損じの所は、小松による推定を( )内に記す。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が一字下げ。]

「愛に親愛・法愛有り。法愛は一向に潔(きよ)し、親愛は染浄(「汚」か)に近せり。信位の凡夫は、親愛は優れ、法愛は劣なり。三賢十地は、法愛は優れ、親愛は劣なり。或は、十地にはただ法愛のみ有り。若し愛心の事識地を所依(しよい)として、染汗(「汚」か)の行相に起こるをば、乖道の愛と名づく」

 ここに述べられた「三賢十地」の三賢は、華厳における菩薩の五十二位の階位のうち、十住、十行、十回向の階位の総称であり、十地は最高の十階位を指している。つまり、凡夫は親愛が多く法愛が少ないが、菩薩となって階位が高くなるにつれ、法愛のみになるというのである。この文において、極めて興昧深いのは、親愛は染汚と書くべきところを誤って、「浄」とまったく逆の字を書いてしまっていることである(染汗の「汗」は、原文おそらく「汗」〈「汚」と同字〉であって、こちらは問題はないのではなかろうか)。原文を書いた明恵が既に書き損じていたのか、その文を書写した人物が間違ったのか、今では確かめようがないが、ともかく興味深いことである。[やぶちゃん注:私はこの「書き間違い」にフロイトの当該理論も当て嵌めたくなる。ユング派は旧主フロイトをテツテ的に無視する傾向が強い。どうも気に入らないね。]

 愛を親愛と法愛に分けることは、頭では納得できるとしても、そんなことが本当に可能であろうか。法愛のみの世界など存在するのであろうか。親愛は、果たして単純に「染汚」と決めつけられるのであろうか。ここには、簡単には答え難い問題が多く内包されているのである。事実、明恵もこの段に続いて、「彼の十住の菩薩、如来の微妙の色身を愛して、菩提心を発す。これ即ち、親愛の菩提心なり。況や、軽毛退位[やぶちゃん注:風に吹かれて飛ぶ軽い毛のように信心が薄いことと、凡そ正法の菩薩の位階に進むことは出来ない存在であることの意であろう。]の凡夫有徳の人に於て、愛心無きは、即ち法器に非ざる人なり」と明言している。親愛が生してこそ、そこから深い信仰が生まれてくるのである。

 愛の問題には、永遠の謎を含んでいると言ってもいいほどのものがある。明恵が親愛と法愛という言葉でこれを割り切り、親愛に「汚」の字を当てようとしたとき、彼の無意識は、はっきりとそれに抵抗を示した、と見ることができるようである。

   《引用終了》

以下で続く「女性像の結実」では、「華厳縁起」の極めて対照的な元暁と義湘の対応関係を分析されておられるが、それは当該本を読んで戴こう(私は全部引用したいが、著作権に触れそうになるので、敢えて部分引用に留める。そこで河合氏は、『義湘の物語を見ると、義湘と善妙の関係こそ』、『アニマの軸において生じていると思われ』、『善妙の義湘に対する情念は強い拒否に遭うが、それによって彼女の愛は浄化され、宗教的なものへと高められる。海の底を泳ぐような龍から空に浮かぶ石への変身は、その高さへの昇華を示しており、物語はその宗教的な価値に重点をおいて語られる』と述べておられる。

   《引用開始》

 しかし、龍が最後に石化したことは、何を意昧しているだろうか。石化はその永続性を示すものである一方、そこに生じた情念が生命力を失うことを意味する。義湘と善妙が成した偉人な仕事は、アニマ軸上における情念の石化という犠牲の上に立ってなされたと言えないであろうか。石化された善妙は、いつの日か再活性化され救済されることを待って、そこに立ちつくすことになったと思われる。『華厳縁起』は兵火のなかをくぐって奇跡的に現在まで残ったのであるが、善妙の龍が石化する部分のみは、そのとき失われてしまったのである。筆者にはこれは単なる偶然とは思われない。石のなかに閉じこめられていた情念の火が、ある時に突如として燃えあがり、自らを焼きつくしてしまったのだとさえ思われるのである。

 このように考えてくると、明恵の「善妙の夢」が成就した仕事の意義が、はっきりと認められてくる。夢のなかで、明恵は石化していた善妙を活性化することに成功したのである。このような課題の遂行に結びついていたので、明恵も夢のなかで、自分は大聖人として諸人にあがめられているのだ、などと言明する必要を感じたのであろう。よほどの態度でもって臨まないかぎり、陶器に生命力を賦活することは不可能であっただろう。

[やぶちゃん注:以下、元暁・義湘及び明恵の夢に於ける女性像を明恵の内界における女性像として図示して分析が行われるが、図がないと判りにくいので大幅にカットする。]

 石化した善妙に生気を与えた明恵は、言うならば、「九相詩絵」に示されていたようなアニマの死に対して、それを再生せしむる仕事を、日本文化のなかで行なったとも言うことができる。ただ明恵の仕事は、あまりにも他の日本の人々とスケールが異なっていたので、その真の後継者は一人もなかったと言えるだろう。明恵自身も、後継者をつくる意志がなかった。しかし、彼の成し遂げたことは、わが国が西洋の文化と接触し、本当の意味でのそれとの対決がはじまろうとしている現在、意義をもつのではないか、と筆者は考えている。

   《引用終了》

 以下、私の語注に入る。

「十藏房」不詳。「52」に初出し、明恵の夢の登場人物としては、出が多い。また、本夢では明恵にある種の開明を示す立場にあるように私には読めるから、弟子とは思えない。

「崎山三郞【貞重。】」底本注に、『咲山良貞男。のちの記述には崎山の尼公の子とある』とある。「崎山の尼公」は「73」を参照。

「曲問(ごくもん)」河合氏もおっしゃった通り、意味不明である。そのままで訳に用いた。

「糸惜く」「愛おしく」。可愛がって。

「快心」よい気持ち。

「領掌(りやうじやう)す」了承・諒承・領承に同じい。相手の申し出や事情などを納得して承知するの意。

「生身」河合氏は「なまみ」と読んでいるようだが、私は納得出来ない。私は仏・菩薩が、衆生済度のため、父母の体内に宿ってこの世に生まれ出ること。また、その身、仏の化身の意で「しょうしん」(「しょうじん」でもよい)と読む。

「結緣(けちえん)」「仏・菩薩が世の人を救うために手をさしのべて縁を結ぶこと」が原義。他に、「世の人が仏法と縁を結ぶこと。仏法に触れることによって未来の成仏・得道の可能性を得ること」の意があり、ここはハイブリッドでよい。

「彼(かしこ)に公(こう)之(の)有緣之人(うえんのひと)、有り。【心に、崎山の尼公、彼の所に在り。聽聞の爲に至れる也。三郞之(の)母の故なり。此の女(むすめ)の形は、三郞、渡れる故に此の說を作(な)す。】」「公」は割注によって、「崎山の尼公」を指すことは明らかである。「有緣」は仏・菩薩などに逢って、教えを聞くところの縁があることを言う。

「善妙」河合氏の引用で尽きているが、底本の注に、『明恵は貞応』(じょうおう)『二年(一二二三)に善妙寺を建て、この女性を祀ったと』「華厳縁起」にあるとある。この寺は高山寺別院として建立したものであるが、現存しない模様で、善妙大明神として高山寺の南にあるのがそれらしい(グーグル・マップ・データ)。

「石身」石化(ここは陶器)して示現・垂迹(すいじゃく)したもの。]

 

□やぶちゃん現代語訳

89

同じく二十日の夜、こんな夢を見た――

 十蔵房が、一つの「香爐」【実際には茶碗である。】を持って来た。

 心の内で思うたことには、

『崎山三郞[明恵注:咲山貞重のこと。]が、中国から、これを手に入れて、十蔵房に進上したものである。』

と、見た。

 これを閲(けみ)したところ、その中には区分けされた隔てがあって、いろいろな唐物(からもの)が入っている。二十あまりの品物がこの中に納めてある。例えば、二匹の亀が交接している形に象(かたど)った物などがある。

 さてもまた、心の内で、

『これは、中国の世俗の祝い物だな。』

と、思うた。

 その中に、五寸ばかりの「唐娘(からむすめ)」を象(かたど)った人形(ひとがた)があった。

 同じく、これも、茶碗、則ち、陶器製であった。

 そこに、別な人がおり、その人が言うには、

「この娘の人形(にんぎょう)は、ひどく、中国から渡ってきてしまったことを、嘆いておる。」

と断じた。

 そこで、私が、その人に問うて言った。

「この日本に来てしまったことを、嘆いているのか? どうだ?」

と。

 その人は答えて、頷(うなず)く。

 そこで、また、私は、その人形に問うた。

「可愛がってやろうぞ。嘆いては、いけないよ。」

と。

 ところが、即座に人形は、頭を振って、それを拒んだ。

 その後(のち)、暫くしてから、その人形を取り出して見たところが、涙を流して、泣いているのだった。

 その涙は、眼に満々と湛(たた)えられている。

 また、そこから、零(こぼ)れ落ち、彼女の肩をさえ、湿らせているのであった。

 これは、疑いもなく、日本に来てしまったことを嘆いているのであった。

 そして、人形は、即座に言葉を発して、言うた。

「曲問(ごくもん)の人にてあられると、お見受け致しますが、その御配慮は、全く益のないことにて、御座います。」

と答えた。

 私は、それに答えて、

「なんと! ただの僧と申すばかりの凡僧にては、さにあらず! そなたには思いよらざることであろう。が、しかし、この国においては、我れ、これ、随分、大聖人(だいしょうにん)の評判の覚えあって、諸人(もろびと)が我れを崇(あが)めておるのじゃ! さればこそ、可愛がってやろうぞ!」

と、言うた。

 娘の人形は、これを聞くと、甚だ、快心の気色(けしき)を浮かべ、

「こつくり」

と、頷いて、

「されば、可愛がって下さいませ。」

と、言うた。

 私は、それを、心から了承した。

すると――

忽ち――

その陶器の人形は――

変じて――

――生身(しょうしん)の女人(にょにん)となった。

 その瞬間、私は心に思うた。

『明日(あす)、寺から他所(よそ)へ行き、仏事を修することになっている。結縁(けちえん)のために、かの所に往くことになっている。さすれば、この女人を、かの所にあい具して、行こう!』

と。

 女人は、即座に、その私の内心の思いを知り得て、悦びの体(てい)を示し、

「あい伴のうて! 参りましょう!」

と、自(おのずか)ら告げた。

 私は、語って言うた。

「そこには私の知れる尼公(にこう)の有縁(うえん)の人がおるのだ。」[明恵注:夢にあっても、私の覚醒していた意識の中で、『崎山の尼公がそこに居られる。聴聞のために至るのである。尼公は三郎の母のことである。この娘の姿は、三郞が中国から手に入れたことにその怨言がある』と、この解釈をしっかりと意識していたことを言い添えておく。]。

 その通りに、ともに、翌日、その所へと、彼女を連れて至った。

 すると、そこに、十蔵房がいて、私に言うことには、

「この女は、蛇と通じておるぞ!」

と。

 しかし、私はこの言葉を聞いて、

『蛇とまぐわったのでは、ない。ただ、この女人は、また、蛇身をも、一つの垂迹(すいじゃく)の姿として、持っているのである。』

と、思うた。

 この思いを心に抱いた、その直後、十蔵房は、忽ち、次いで、言うたのだった。

「うむ! この女人は、確かに! 蛇身をも、兼ねて持っておるの!」

と……

 この瞬間、覚醒した。

[明恵注:この夢を勘案して解釈するならば、これは、かの「善妙」のことである。そうさ! 謂おう! 「善妙は龍人(りゅうじん)にて、また、蛇身を持つ! また、茶碗=陶器であるというのは、これ、言わずもがな、「石身(せきしん)」であるからに他ならない!」と。]

[やぶちゃん注追記:私も島や絵の中の善妙を愛そうと思う。生身(なまみ)の女は、これ、「こりごり」だ。]

明恵上人夢記 88

 

88

一、同五月上旬の比(ころ)、靈鰻菩薩(りやうまんぼさつ)の飛び騰(のぼ)れる形の事を議(はか)る間(あひだ)、日中、假(かり)に眠る【此の時、此の事を心に懸けず。】。忽然に夢に云はく、一つの淸く澄める池、有り。其の中より鰻(うなぎ)の如き魚の跳り擧がる【長さ一尺餘り也。】。其の形、頭・尾、倶に垂(た)る。其の形、★【此(かく)の如く也。】。是、卽ち、靈鰻之應驗(わうげん)也。

 

88

 

[やぶちゃん注:「★」の部分に入る絵を、底本よりトリミングして上に掲げた。何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。「【此の時、此も事を心に懸けず。】」の部分は底本では二行割注ではなく、ポイント落ちで一行で本文に入れ込んである。添え書きという感じでもない。凡例に説明もない。思うに、本文を書いている最中に、明らかに字を小さくして注記してあるもの、ということであろう。

「靈鰻菩薩」石井修道氏の論文「中国の五山十刹制度の基礎的研究㈠」PDF。『駒澤大學佛敎學部論集』第十三号(昭和五七(一九八二)年十月発行)所収)の「九二」ページから載る「〔資料 一〕 大唐禅刹位次」の中に(文中の「鄮」(音「ボウ」)の(へん)は底本では「貿」。前者は異体字なので問題ない。底本では頭の<第五>が本文一字目から書かれ、二行目以降は総て一字下げである)、

   《引用開始》

<第五>阿育王山。鄮山廣利禅寺。明州の慶元府にあり。玉几蜂、玉几亭、妙喜泉<張九成幷び大慧禅師、泉の銘を作す>、無畏堂、鄮峯、舎利道場<又た妙勝之殿と云う>、霊鰻池<又た(霊鰻を)聖井魚と云う>あり。開山は宜密素禅師、第二は初禅師、第三は(常)坦禅師、第四は(澄)逸禅師、第五は大覺(懷)璉禅師、第六は宝鑑(法達)禅師、第七は正覚禅師なり<三十三代は無準和尚なり。入唐記>。

霊鰻菩薩、護鰻菩薩は、育王の土地神にして、仏舎利を護る。云云。育王寺の井に霊鰻有り、即ち大現修理菩薩なり。東晋の時、中印土の宝掌禅師は、東の方、震旦に游び、此に戾止[やぶちゃん注:「れいし」。戻り留まる。]し、世に住すること一千七十二年なり。唐の咸亨中に云りて[やぶちゃん注:ママ。「至りて」の誤字ではないか?]示寂す。云云。蒲室疏序。

   《引用終了》

私は当初、鰻というと、本邦では虚空蔵菩薩と関係が深いと言われているから、その異名かと思ったが、これを見るに、そうではなく、浙江省寧波にある阿育王山(あいくおうざん:浙江省寧波の阿育王禅寺。西晉の武帝の二八一年に西晋の劉薩訶(りゅうさっか)が釈迦入滅の百年(または二百年)後の古代インドで仏教を守護した阿育王(アショーカ王)の舎利塔の古塔を発見して建立した地で、宋代には広利寺と称して禅宗五山の第五となった。私は専ら「北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相模守諌言 竝 唐船を造る」の話を想起する。私の現代語訳もあるでよ!)の土地神であった。さらに、「何故、こんなことを明恵が弟子たちと議論するのか?」という理由も判った。サイト「東北大学東北アジア研究センター磯部研究室」の「~高山寺五種目録室町期文書 一巻~」に『明恵の夢日記には鰻が登場してその図解まであるが、これも宋国より輸入した『明州阿育山如来舎利塔伝并護塔霊鰻菩薩伝』という本を読んでいた印象が、彼の夢の世界に再現したものと見られる。そのような環境を理解して始めて、明恵の傍らに木彫の小犬や鹿などの動物キャラクターがあったことが素直に理解できるのではないか』と述べておられるので氷解した。なお、ウィキの「大権修利菩薩」には、この大権修利菩薩(だいげんしゅりぼさつ)が阿育王山の鎮守であったと書かれてある。但し、「霊鰻」の名は全くなく、両者の関係はどうなってるのかさっぱり解らないのだが、海の守護者であるところなんぞは、鰻っぽい感じはする。一応、引いておく。大権修利菩薩は『禅宗、特に曹洞宗寺院で尊重され祀られる尊格である。伽藍神の』一『つとされる。したがって、大権修利は菩薩という尊号にはなっているものの、護法善神の一尊と見る向きもある』。『大権は「だいごん」とも読み、大権菩薩と略称される。なお、修利を修理と書かれる場合もあるが、本来これは誤りとされる。多くの像容は右手を額にあてて遠くを見る姿勢で表現され、身体には唐時代の帝王の服装をまとっている』。『もと』は『唐の阿育王山の鎮守であった。阿育王山は東海に臨み海を渡る人々が、毎度山を望んで航海の安全を祈ったというが、その右手をもって額にかざすのは遥かにその船を望んでこれを保護する意があった』。「西遊記」の『古い形を残す元曲雑劇である、楊景賢の』「西遊記雑劇」では、『伽藍を守護する役割として知られる華光神と韋駄天と共に、この大権修利菩薩が登場する』。『一説に』、一二七七年に『道元が唐より帰国する際、姿を潜(ひそ)めて随って日本に来朝して法を護ると誓った招宝七郎と一体であると伝えられる。この招宝七郎の名は』「水滸伝」にも出るとある。「育王録」に『「僧問。大権菩薩因甚以手加頞。師云。行船全在樞梢人」とあることから、曹洞宗の寺院が招宝七郎と称して山門守護の神とするものをこれを同体、あるいは本地垂迹と見たてて、招宝七郎大権修理菩薩として祀る。しかし、その出所があまり明らかでない』。『この点について、臨済宗の無著道忠』(むじゃくどうちゅう 江戸後期の妙心寺派の学僧)『は、修利を修理とするのは間違いと指摘した上で「伝説では大権修利はインドの阿育王の郎子であり、阿育王の建てた舎利塔を守るものと言われ、その神力によって中国明州の招宝山に来たりて、手を額にかざし四百州を回望する、また阿育王寺でこれを祀り土地神とした。各寺院がこれに倣ってこの尊神を祀ることになった」と述べている。さらに、招宝七郎とは道元和尚が帰国する際に、白蛇に化けて随伴し来たった護法善神で』(ここにはちょっと不審があるので略した)、『大権修利と同体であると言う者も多いが疑わしい、と疑義を呈している』。『また織田得能』(万延元(一八六〇)年~明治四四(一九一一)年:浄土真宗の学僧。東京浅草松清町の宗恩寺に入り、没するまで、生涯をかけて「仏教大辞典」(全一巻。死後の大正六(一九一七)年刊行された)を完成した。『も、無著の説を引き継ぎ、自身が編集した』『辞典で、大権修利と招宝七郎を一体とすることは、たやすく信じるべきではなく、招宝とは寧波府定海縣にある山の名称である、と記述している』とある。

「此の時、此も事を心に懸けず」どうも気になる意味と書き方である。少なくとも直前まで霊鰻菩薩のことを語り合っていたのに、わざわざ霊鰻菩薩のことを気にかけることもなく、急速に深い眠りに落ちたということか。しかしおかしな言い方だ。明恵は夢解釈をする点から見ても、人間の中に無意識の心理パートがあることは気づいていたと考えねばならぬ。でなくては河合隼雄の言うような予知夢を生じて、それが確かに自分の将来の変化として実現されるという認識は持てないはずだからである。明恵が予知夢を外部の超自然的刺激から惹起すると考えていたならば、そもそもが夢は明恵の意識外に完全に外化されてしまうことになり、明恵自身が夢記述への関心を持たないはずだと私は考えるからである。

「應驗」「おうけん」と清音でも読む。ここは神仏などが示現(じげん)する不思議な働きで、霊験に同じい。]

□やぶちゃん現代語訳

88

 同じ年の五月上旬の頃、霊鰻菩薩(りょうまんぼさつ)の飛び騰(のぼ)れる形態のことについて弟子たちと議論をした。その途中、日中であったが、少しばかり眠って――なお、この仮眠時には、私は全く霊鰻菩薩のことを気にかけていなかったことを明言しておく――忽然と――こんな、夢を見た――

 一つの清く澄んでいる池がある。

 その中から――鰻(うなぎ)のごとき魚が――跳り挙がった【長さは一尺あまりであった。】。その形は、頭も、尾も、ともに垂れている。その形は、★【こんな感じの様態である。】。

 私は、この夢は、即ち、確かな、霊鰻菩薩の応現と断ずるものである。

 

明恵上人夢記 87

 

87

一、同四月五日、槇尾(まきを)に渡る事を議(はか)る。案(つくえ)に倚(よ)り懸かり、晝の休息之(の)次(つい)でに、眠り入る。夢に云はく、道忠僧都有りて、予之(の)後(うしろ)に在り。心に不審有らば、之を問ふべし。卽ち、定量(ぢやうりやう)を爲すべき由を思ひて、問ひて曰はく、「槇尾に住むべきか。」。答へて曰はく、「尓(しか)也。」。卽ち、勸めて云はく、「相構(あひかま)へて槇尾に住ましめ給ふべき也。」。又、問ひて曰はく、「百日(ひやつかにち)之(の)中(うち)に死せむ事は實(まこと)か。」。答へて曰はく、「實(まこと)ならざる也。死ぬべからざる也。」。卽ち、覺(さ)め了(をは)んぬ。

[やぶちゃん注:何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。珍しい強力な問答形式の夢である。

「槇尾」既出既注であるが再掲する。現在、京都市右京区にある真言宗大覚寺派槇尾山西明寺(まきのおさんさいみょうじ)。京都市街の北西、周山街道から清滝川を渡った対岸の山腹に位置する。周山街道沿いの高雄山神護寺、栂尾山高山寺とともに三尾(さんび)の名刹として知られる。寺伝によれば、天長年間(八二四年~八三四年)に空海の高弟智泉大徳が神護寺別院として創建したと伝える。その後荒廃したが、建治年間(一一七五年~一一七八年)に和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興、本堂・経蔵・宝塔・鎮守等が建てられた。後、正応三(一二九〇)年に神護寺から独立した(以上はウィキの「西明寺」に拠る)。明恵がいる高山寺とは、直線で南西に五百メートルほどしか離れていない。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「案(つくえ)」文机(ふづくえ)。

「道忠僧都」底本注に、『明恵の弟子の一人か。円明寺大納言平時忠男の道忠と同一人物か』とあるが、検索しても平時忠にその名の男子は見当たらない。不審。

「定量」不詳。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。真の自分の確かな思いを慮ることか。]

 

□やぶちゃん現代語訳

87

同じ四月五日、槇尾(まきお)に移ることを弟子たちに諮(はか)った。文案(ふづくえ)に倚(よ)り懸かかって、昼の休息の次(つい)でに、ふと、眠りに入った。

 その時、こんな夢を見た――

 道忠僧都がいて、私の後ろに座っている。

 私の心に不審があるならば、この者にを問うてやろう、と思うた。

 されば、即座に、定量(じょうりょう)を確かめるべき必要を感じたによって、道忠に問うて言うに、

「槇尾に住(じゅう)すべきか?」

と。

 道忠が答えて言うことには、

「それが、よろしいです。」

 即座に重ねて、勧めて言うことには、

「相い構えへて。確かに槇尾にお住み遊ばされるべきで御座る。」

と。

 さて、また、私は問うて言うことには、

「百日(ひゃっかにち)のうちに、私が死ぬであろうことはまことか?」

と。

 道忠、答えて曰うことには、

「まことでは御座らぬ! 死ぬはずが御座らぬ!」

と。

――その瞬間、私は覚醒した。

 

明恵上人夢記 86

 

86

一、同四月一二日の比(ころ)【日付、能くも覺えず。】、夜、夢に云はく、余、中宮御產の安穩(あんをん)を祈り奉る。太平にして產み生ましめ給ひ了んぬ。諸人、之に感じて、大僧正の御房と之を祈り奉る【疑ひ思ひて、此の比(ころ)、死生(ししやう)の事を聞く所之間の夢也。本尊を祈請せし夜也。】。

[やぶちゃん注:何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。なお、この明恵の割注の内、少なくとも後者は、かなり後になって書き添えたもののように読める。

「中宮」底本の岩波書店一九八一年刊久保田淳・山口明徳校注「明恵上人集」の注に、『順徳天皇の中宮藤原立子』(りっし/たつこ)『(良経女)か。立子は建保六年(一二一八)年十月十日懐成親王(仲恭天皇)を出産している』とある。「良経」摂政で太政大臣九条良経。但し、この時には既に亡くなっている。

「大僧正の御房」同前で、『慈円か。彼は中宮立子の御産の祈禱をしており、夢告を得ている』とある。慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年)は天台僧。諡号は慈鎭。関白藤原忠通の子で、関白・太政大臣九条兼実の弟。永万元 (一一六五) 年、覚快法親王の室に入って道快と称し、翌々年に出家得度した。治承四(一一八〇)年頃、慈円と改名。兼実の尽力により、順調な昇進をとげ、建久三(一一九二)年に権僧正・天台座主・護持僧となった。同七年に源通親のために、一旦、座主の地位を追われたが,建仁元 (一二〇一) 年には、再び、座主となって以来、実に四度も座主を務めた。同三年に大僧正となり、まもなく辞退した。その著「愚管抄」は日本最初の歴史哲学書として有名で、また、歌人としても聞え、「新古今和歌集」・「千載和歌集」以後、歴代の勅撰集に入り、家集に「拾玉集」がある。

「死生(ししやう)の事を聞く」これは実際の事実を記していると読める。とすれば、この慈円らしき「僧正の御房」に聴聞したものと流れでは読める。訳でもそうした。]

 

□やぶちゃん現代語訳

86

同じ四月十二日の頃[明恵注:日付はあまりよく覚えていない。]、夜、こんな夢を見た――

 私は、中宮のお産の安穏(あんのん)を祈禱し申し上げている。

 全く健やかに、産み生ましめ遊ばれて、ことなく、終わった。

 諸人は、これに感激して、大僧正の御房とともに、この祈禱成就を仏に感謝の祈りを申し上げた。[明恵注:不審を感じたので想起してみると、この頃、私は死生(ししょう)のことについて、大僧正の御房に親しく聴聞申し上げた間に見た夢である。本尊に祈請し申し上げた夜のことである。]

明恵上人夢記 85

 

85

一、同二月十四日の夜、夢に云はく、一つの池を構(かま)ふ。僅かに、二、三段許りにして、水、少なくして乏(とぼ)し。雨、忽ちに降りて、水、溢(あふ)る。其の水は淸く澄めり。其の傍(かたはら)に、又、大きなる池、有り。古き河の如し。此の小さき池に、水、滿つる時、大きなる池を隔(へだ)つる事、一尺許りなり。『今少し、雨下(ふ)らば、大きなる池と通(かよ)ふべし。通ひ已(をは)りて、魚・龜等、皆、小さき池に通ふべし。』と思ふ。卽ち、心に『二月十五日也。』と思ふ。『今夜の月、此の池に浮かびて、定めて、面白かるべし。』と思ふ。

  案じて云はく、小さき池は此(これ)、禪觀也。
  大きなる池は諸佛菩薩所證の根本三昧也。魚等
  は諸(もろもろ)の聖者(しやうじや)也。
  一々に深き義なり。之を思ふに、水少なきは
  修(しゆ)せざる時也。溢るゝは修する時也。
  今少し、信ぜば、諸佛菩薩、通ふべき也。當時、
  小さき池に魚無きは初心也と云々。

[やぶちゃん注:何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。後半部は明恵自身による卓抜した夢解釈である。

「二月十五日」釈迦の入滅、即ち、釈迦が如来と成った日。この夢が二月十四日の夢であることに注意。

「二、三段許り」地面から少しばかり掘られた浅い池であることを言う。

「禪觀」「坐禪觀法」の略。心を一つの対象にのみ集中し、正しい智慧により、真理を洞察すること。

「所證」修行によって得られた悟りの内容。

「根本三昧」(こんぽんざんまい)仏教の真理のみを心に集中して、一切、動揺しない状態。雑念を完全に去って、それに没入することによって、正しく捉えること。]

 

□やぶちゃん現代語訳

85

 同じ二月十四日の夜、こんな夢を見た――

 一つの池がそこに造られてある。

 僅かに、二、三段ばかりの浅い池で、水も少なくて、如何にも乏(とぼ)しい。

 ところが、雨が俄かに降りきたって、水が溢(あふ)れた。

 その水は、とても清くして澄んでいた。

 ふと、見ると、その傍らに、また、大きな池が出現していた。

 あたかも、それは古くからあった河のようにも見えた。

 先の、その小さな池に、雨で水が滿ちた、その時、大きなその池とは、隔てること、僅かに一尺ばかりなのであった。

 夢の中の私は、思うた。

『今、少し、雨が降ったならば、この小さな池は、あの大きな池と通うに違いない。通い終ったならば、魚(さかな)や亀など、皆、小さい池の方にも通うに違いない。』

と。

 その時、夢の中の私は、即座に、心に、

『それは明日――二月十五日――のことである。』

と思うた。

『今宵の月が、この小さな池に浮かんで、それはそれは、必ず、興趣に富んだ景観に違いない。』

と思うた。

[明恵注:この夢を解釈するに、「小さな池」は、これ、「禅観」を象徴するものである。「大きな池」は、諸(もろもろ)の仏・菩薩を所証するところの「根本三昧」を象徴するものである。「魚」や「亀」などは、仏教草創以来の諸の聖人たちを象徴するものである。夢の中の対象物の一つ一つが深い意義を表わしているのである。これを思うに、「水が少ない」という様態は修行が不全なる時を意味する。「水が溢れる」という様態は修行が完遂される時を意味する。今、少し、正法(しょうぼう)を信ずれば、諸の仏・菩薩が、通ってくるはずであるという意味である。されば、今、現在、「小さき池に魚がいない」という様態は、取りも直さず、私が未だ初心にして不全であることを意味するのである……]

明恵上人夢記 84

84

一、同二月の夜、夢に云はく、船に乘りて大きなる海を渡る。海の上に、浮かべる物、有り。徑(わたり)五寸許りの圓(まどか)なる物也。形は金色にして、將に之を取らむとする間(ま)、飛びて手に入る。其の下に、七、八枚を重ねて、物を書けり。之を取りて懷(ふところ)に入ると云々。

[やぶちゃん注:順列ではおかしい。前の「83」夢は承久二年十二月八日(同年旧暦十二月は既に六日でユリウス暦一二二一年一月一日、グレゴリオ暦換算で一月八日)だからである。この「同」を同じ「承久」ととるなら、承久三年か、或いは記載が前後して「83」の前の承久二年の二月なのかも知れない。河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」(京都松柏社一九八七年刊)では承久二年と推定されておられるが、失礼乍ら、これは河合氏の総合的な予知夢としての夢解釈の順列上での認識に基づくものであって、必ずしも物理的な資料上書誌学上の推定とは思われない感じはする。そこで河合氏は『内界への旅は夢のなかで舟の旅に擬せられることがよくある。明恵は舟に乗って海へ出て、図らずも金色の円形の物を入手する。この物が何を意味するかは不明であるが、これ以後の続く内界の旅によって、彼が極めて貴重なものを手に入れるだろうことを、この夢は予示している。そして、五月には「善妙の夢」が出現する』とされる。「善妙の夢」はこの後の「89」で特異的に記載が長く、興味深い夢である。

「五寸」約十五センチメートル。]

 

□やぶちゃん現代語訳

84

 同じ二月の夜、こんな夢を見た――

 船に乗って、大きな海を渡っている。

 その海の上に、浮かんでいる物がある。

 直径は五寸ほどの丸い感じの物である。

 全体に、金色を呈しており、さても、まさにこれを私がとろうとした瞬間、その物の方が、自然に飛んで、私の手中に入った。

 よく見ると、その下に、七、八枚の紙を重ねて、何か物が書かれてある。

 私は、その書をとって、懐(ふところ)に入れる……

 

只野真葛 むかしばなし (18)

 

 ぢゞ樣の多藝なるも、みな、このやうな人はづれなる御まねびやうと察しられたり。

 御家へ、めしかゝへの頃は、ぢゞ樣、三十四、五にもあらんに、あまたの藝、御きわめ被ㇾ成しは、凡人ならず。

 父樣には書物御をしヘ被ㇾ成しのみにて、醫の道は少しもつたへなく、たゞ藥こしらへにいとまなくて有しとなり。中年にて御病死故、其身にも、あとのこと、つたふる御かくごもなかりしは、惜しきことなりし。

 父樣、醫業は、實家のぢゞ樣、又は、其世にすぐれたる醫師などにたよりて、みづから御くふうも被ㇾ成しことなり。

 父樣、數寄屋町(すきやちやう)より袖崎へ御かよひ被ㇾ遊し時、さる町の茶屋に御休被ㇾ遊しに、老人壱人、やすみ合(あひ)て有しが、

「あなたは工藤丈庵樣の御あとにて。」

と聞(きき)かけし故[やぶちゃん注:底本は「かけ故」。「仙台叢書」も同じ。「日本庶民生活史料集成」で補った。]、

「左樣。」と御こたへ被ㇾ成しに、

「さて。丈庵樣はかくべつの御名醫にて有し。私が、わかい[やぶちゃん注:ママ。]時分、松坂屋の手代と懇意にて候へしが、其者、いたつて、丈夫の人なりしが、ふと、小用不通じにて、『はれ病(やまひ)』となりて、いろいろ、療治いたしても、さらにしるしもなし。諸(もろもろ)の醫も斷(ことわり)申せしを、私がたのまれて、丈庵樣へ上(あが)りまして、やう子(す)を申上(まうしあぐ)るを御聞被ㇾ成、

『それはかねて淺葱《あさつき》を好(このみ)ておほく食(くひ)はせぬか。』

と、おたづね被ㇾ成し故、私、隨分、存じてをること、

『成程。左樣にてござりました。』

と申上たれば、

『それなら、行(ゆき)て見るにもおよばぬ。藥をひかへて、生姜のしぽり汁を一日に茶わんに一ぱい、三度(みたび)ばかりに用(もちひ)よ。平癒すべし。』

と被ㇾ仰ましたが、其通りにいたしましたれば、たちまち、通じ付(つき)、誠に、よく成(なり)まして、御禮に上りました。御名の、たかきほど有て、きめう[やぶちゃん注:「奇妙」。神妙。]の御療治でござりました。」

と、いひしとぞ。

「御紋所(ごもんどころ)を見おぼヘて居(をり)し故、ふと、ぞんじ出(いだ)しました。」

と、いひてわかれしが、何の故といふこと、しれず。」

と、御歸り後(のち)、はなしなりし。

 一を聞(きき)てさへ、かやうのことなるを、少しも、御つたへにならぬは、口惜しきことなり[やぶちゃん注:底本は「のなり」。「日本庶民生活史料集成」で除去した。]。

 父樣、御實家のことは、よく御傳へも有て御存(ごぞんじ)なれども、養家のことは、一向御傳へなき故、御ぞんじなし。

 いつも知れたことゝおもひすごすうちに、傳へもらすものなり。

「是もおぽへよ、かれもこうよ。」

と、源四郞へ被ㇾ仰しを、それもかひなきことなりと、思ひ出づれば、かなしき。

[やぶちゃん注:「數寄屋町」現在の中央区八重洲一丁目・日本橋二丁目(グーグル・マップ・データ)。ただ、ここから周庵(平助)が通ったという意味がよく判らない。

「小用不通じにて、『はれ病(やまひ)』となりて」急性腎不全による浮腫か。

「淺葱《あさつき》」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属エゾネギ変種アサツキ Allium schoenoprasum var. foliosum。但し、それと腎不全の関係はよく判らない。普通のネギ属ネギ Allium fistulosum は大蒜(ネギ属ニンニク Allium sativum。ネギ属の属名はラテン語で「ニンニク」の意)の主成分であるアリシン(allicin)を多く含み、強い殺菌作用で、多食すると腹痛は起こすが、腎臓に悪さしたり、浮腫は起こさないように思う。

「松坂屋」当該ウィキ等によれば、慶長一六(一六一一)年に、織田信長の小姓であった伊藤蘭丸祐広の子である『伊藤蘭丸祐道』(すけみち)『が名古屋本町で 呉服小間物商「いとう呉服店」創業』した。『祐道は』後の慶長二〇(一六一五)年の「大坂夏の陣」で『豊臣方について戦死し、呉服店は一旦』、『閉店とな』ったが、万治二(一六五九)年に『祐道の遺児』『伊藤次郎左衞門祐基が名古屋茶屋町に呉服小間物問屋を再開』した。元文元(一七三六)年、『呉服太物小売商に業態転換。正札販売を開始。徳川家の呉服御用達とな』った。元文五(一七四〇)年には『尾張藩の呉服御用とな』り、延亨二(一七四五)年に『京都室町錦小路に仕入店を開設』、寛延二(一七四九)年、『新町通六角町に移転』したとある。無論、現在の「松坂屋」である。]

2021/02/26

譚海 卷之四 大坂に加賀屋某が事

 

○同年四月、大坂に加賀屋某と云もの有。此もの前年(さきのとし)は豪家にて、五十年前西國うんかの付(つき)たる年も、金子を出(いだ)し飢饉をすくひたるもののよしにて、此ものの先祖金子貳百兩指出(さしいだ)せし事有、すべて此うんかの救ひを出せし時の金主(かねぬし)の名をば、公儀の帳面にとめられ、御勘定所に納めあり。又別に右の名目を書(かき)しるされ、諸國の大社へ奉納遊されしとぞ。かゝるほどのものの跡なれども、漸(やうやう)微祿に成(なり)、身上(しんしやう)立(たち)がたく、其上右主人も近來(ちかごろ)死去致し、後家ぐらしにて、すでに借金七百兩に及び、借金のものより公訴に及び、家内離散の次第に至りし時、再應御吟味ありし所、右うんかの節(せつ)救(すくひ)を出せしものの内なる故、容易にも潰させられがたきよしにて、公裁(こうさい)日をへたる所、なをまた委しく御しらべありしに、此加賀屋先祖うんかのすくひ上納せし後(のち)、外に金子五百兩公儀へ指上置(さしあげおき)、私事當時金子不足無御座候得共、町人の事に有ㇾ之候へば、子孫いかやうなる儀あるべきも計りがたく奉ㇾ存候ゆゑ指上置度よし願にて上候金子有ㇾ之、其節右の金子大坂御奉行所にて御借付金に被ㇾ成被指置たる所、すでに今年まで五百兩の金子元利二千兩餘に成たる事御吟味相濟、右の金子此度かゞや後家へ御返し被ㇾ下、身上相立候やうに被仰付候まゝ七百兩の借金の所へ二千兩の金子頂戴致し、暴富に成たりとて大坂中御慈悲をよろこび、上裁(じやうさい)の直(ちよく)なる事を嘆美せしと聞侍りし。

[やぶちゃん注:「関西・大阪21世紀協会」公式サイトの「なにわ大坂をつくった100人」の「第84話 加賀屋甚兵衛」(延宝八(一六八〇)年〜宝暦一二(一七六二)年)が『西大坂最大の新田を開発した一族の祖』とあるから、これはこの後裔の誰彼の話であろう。『加賀屋甚兵衛は』『河内国石川郡喜志村(現在の大阪府富田林市喜志町)で生まれ』、十一『歳のとき、大坂淡路町の両替商加賀屋嘉右衛門の店に奉公人として入った。加賀屋は天王寺屋、鍵屋、鴻池など十人両替と呼ばれる大店に次ぐランクの店であった。甚兵衛は』三十五『歳で暖簾分けを許され、加賀屋甚兵衛として新たに自分の店を持つ』。『甚兵衛は商用で堺に行く途次、紀州街道の西に広がる大和川の浅瀬が新田開発に適していることを知り、新たな事業に投資すべく』、四十五『歳の年に初めて新田開発に手を染めた。宝永元年』(一七〇四年)『に付け替え工事が完成した新しい大和川は、上流から運ばれる大量の土砂で河口に砂の堆積が進み、その結果、堺の港が機能を衰退させていった。そのような中、大坂の豪商が相次いで進出した北河内の旧大和川跡での新田開発は、木綿栽培を中心に概ね順調に推移していた。とくに大坂最大の両替商の鴻池は、新田開発でも成功を収めた豪商の一つである。同業者である甚兵衛もその流れに乗ることを決断する』。『大和川付替え後、最も早く開発されたのは摂津住吉郡(現在の大阪府堺市)の南島(みなみじま)新田である。享保』一三(一七二八年)『に計画され、河内国川辺村(現在の大阪市平野区)の惣左衛門ら』四『人が請け負ったものを甚兵衛ら』二『名が権利を譲り受けたもので、甚兵衛は新大和川を挟んで南北に二分した北側(後の北島新田)の開発を請け負った』。『甚兵衛は開発工事の進捗に応じて検地を受け』、延享三(一七四六)年には『「会所幷(ならびに)借家」を建て、ほとんど常駐のかたちで同地に詰めた。翌年、家業を任せたものの』、『不行跡を繰り返す婿養子を離縁、大坂淡路町にあった店をたたんで北島新田に居を移した。そのようなことがあっても、甚兵衛は前年の』延享二(一七四五)年、『北島新田の北西地続きの砂州を選定して後の加賀屋新田となる新規の開発事業に着手していた。その一方、北島新田は着工以来』、実に二十三『年を経て、宝暦元年』(一七五一年)『に完成』した。『北島新田に転居後、甚兵衛はすでに工事を手掛けていた(加賀屋)新田開発に注力するも、資金が底をついたため、やむなく完成して間もない』、『北島新田を堺の小山屋久兵衛に売却』している。『そうした苦労の末、ようやく』宝暦五(一七五五)年に六町歩余り(約6六ヘクタール)の『(加賀屋)新田が完成した。その前年には「加賀屋新田会所」(現在の大阪市住之江区南加賀屋)を建てており、甚兵衛はここを終(つい)の棲家(すみか)としたのである。大坂代官角倉与一の検地を受け』、『「加賀屋新田」の村名を与えられた。苗字帯刀が許された甚兵衛は、出身地に因み櫻井姓を名乗ることとした』。宝暦七(一七五七)年、『甚兵衛は二人目の婿養子の利兵衛に家督を譲った。翌年剃髪して圓信と改名、会所での静かな隠居生活を送』り、宝暦一二(一七六二)年に八十三歳で没した。この『初代甚兵衛没後、二代目の櫻井利兵衛、三代・四代目の櫻井甚兵衛らによって次々と新田開発が行われ』、天保一四(一八四三)年には『加賀屋新田は』一〇五町歩余り(約百四ヘクタール)の『大新田となった。その後の拡張も含め、幕末には櫻井家(旧加賀屋)一族による新田開発総面積は住吉浦の過半を占め、西大坂随一の規模となった』。『二代目は利兵衛と称し甚兵衛の名を継いでいない。三代目以降は櫻井甚兵衛』と称したとあるから、或いはこの分家ででもあったのかも知れない。

「同年」前条を受けるので、天明元(一八七一)年。徳川家治の治世。知られた「天明の大飢饉」はこの翌年の天明二年から八年(一七八二年~一七八八年)まで続いた。

「此加賀屋先祖うんかのすくひ上納せし後(のち)、外に……」以下、一部が準公文書の書付を写したものなので、やや硬いから、多少の手を加えて訓読しておく。

   *

此れ、加賀屋先祖、浮塵子(うんか)の救ひ、上納せし後(のち)、外(ほか)に金子(きんす)五百兩、公儀へ指し上げ置き、

私(わたくし)事、當時、金子、不足御座無く候得(さふらえ)ども、町人の事に之れ有り候へば、子孫、如何やうなる儀あるべきも計(はか)りがたく存じ奉り候ふ故(ゆゑ)、指し上げ置き度(た)き

よし願ひにて、上げ候ふ金子之れ、有り。其の節、右の金子、大坂御奉行所にて、御借付金(おかしつけきん)に成され、指し置かれたる所、すでに今年まで、五百兩の金子元利、二千兩餘りに成りたる事、御吟味、相ひ濟み、右の金子、此の度(たび)、加賀屋後家(ごけ)へ御返し下され、身上(しんしやう)相ひ立ち候ふやうに仰せ付けられ候ふまま、七百兩の借金の所へ、二千兩の金子、頂戴致し、暴富(ぼうふ)[やぶちゃん注:急に金持ちになること。]に成りたり。

「直(ちよく)なる事」正しいこと。]

譚海 卷之四 下野國にて五銖錢を土中より掘出せし事

 

○天明元年五月、下野國某と云所にて、五銖錢(ごしゆせん)を夥敷(おびただしく)ほり出(いだ)したり。又黃金を掘(ほり)得たるが、みな慶長已前のもの也とぞ。是は小田原北條の臣某と云ものゝ屋敷の跡なり、太闇小田原責(ぜめ)の時、某は小田原に在陣せし跡へ、間道(かんだう)より太閤軍兵を遣し、燒うちにせられし所なれば、其陪臣などうづみおきたるにや、上へ言上(ごんじやう)に及(および)しとぞ。

[やぶちゃん注:「天明元年」一八七一年。徳川家治の治世。

「五銖錢」中国古代に流通した貨幣で、紀元前一一八年に前漢の武帝により初鋳造された。量目(重さ)が当時の度量衡で五銖(二・九五グラム)であり、また表面に「五銖」の文字が刻印されていることから、「五銖銭」と称され隋代(六一八年滅亡)まで用いられた。参照した当該ウィキによれば、『通貨としてより』も、『中国からもたらされた貴重な文物として受け入れられたと考えられ、最も早い例は、弥生時代中期(紀元前』一『世紀)の遺跡である北九州市守恒遺跡から出土した前漢時代の五銖銭(紀元前』一一八年『初鋳)』があるとする。

「慶長」一五九六年から一六一五年まで。慶長八(一六〇三)年二月十二日に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府が開府している。

「太閤小田原責」関白太政大臣豊臣秀吉が小田原北条氏(後北条氏)を滅ぼした「小田原征伐」天正一八(一五九〇)年二月から七月のこと。]

譚海 卷之四 上杉家士志津田孫兵衞まむし守札の事

上杉家士志津田孫兵衞まむし守札の事

○上杉家の士に志津田孫兵衞といふ人有。此家よりまむしよけの守札を出す、まむしをよくる事甚(はなはだ)奇妙なり。每年正月十六日・七月十六日兩度、此守札を百ふくづつ出す。禮物(れいもつ)鳥目(てうもく)百文にて受(うく)る事也。平常懇望すれば金子百疋禮物に出(いだ)す事也。相州三浦の專福寺奥州旅行に持參し、甚效驗に逢しよし物語也。

[やぶちゃん注:「上杉家士志津田孫兵衞」不詳。「志津田」は「しづた・しつた」と読める。上杉氏家臣で似た名前では、上杉謙信・景勝・定勝に仕え、「上杉二十五将」に数えられた志駄(しだ)義秀がいるが。

「百ふく」百服。「服」は「帯びる・持っている」の意があるので守札の数詞としては腑に落ちる。

「百文」現在の二千五百円前後か。

「百疋」一千文。ぼったくり!

「專福寺」神奈川県横須賀市佐島に浄土真宗本願寺派のそれがあり、別に神奈川県横須賀市東浦賀にも同名の浄土宗の寺がある。孰れもこの時代にはあったが、そこを「三浦」と呼ぶとなら、私は前者がしっくりくる。]

譚海 卷之四 信州須坂勝善寺の事

信州須坂勝善寺の事

○信州にもすざりの勝善寺(しやうぜんじ)とて、一向宗のある所一村みな他宗なし。此村の風俗は女子一度(ひとたび)嫁すれば再嫁する事成がたきならはしにて、能き掟なり。

[やぶちゃん注:「勝善寺」長野県須坂(すざか)市須坂にある真宗大谷派柳島山勝善寺(グーグル・マップ・データ)。通称「中俣勝善寺」。当該ウィキによれば、『開基は信濃源氏井上氏の井上頼重で、建久』四(一一九三)年に『比叡山で出家し、釈明空と名乗り、正治元』(一一九九)年、『信濃国水内郡中俣に勝善寺を創建した。その後、下総国磯部に移り、親鸞の弟子となり、再び信濃に戻り、当寺と普願寺(須坂市)、西厳寺、光蓮寺(長野市)、願生寺(新潟県妙高市)、本誓寺(同上越市)からなる』「磯部六か寺」『を形成した』。第九『世法印、権大僧都顕順は石山合戦で戦死し、門主により、水内郡浄興寺の鳥羽伝内』(第十世教了)『が跡目を相続した。本願寺が東西に分裂すると、伝内は東本願寺に随身し、東本願寺派全国寺院の』八『か寺に数えられ、巡讃の寺として、歴代の住職は本山に長期滞在した』。慶長三(一五九八)年の『海津城主・田丸直昌の時代に高井郡八町村に移った。江戸時代には須坂藩の庇護を受け、勝善寺文書の中に、堀直政や初代藩主堀直重から』『教了に充てられた書状が残る』。元和九(一六二三)年、第二代『藩主堀直升に迎えられ』、『現在地に遷移した』とある。この「すざり」は「すざか」の誤記・誤植かと思われる。

「一向宗」は現行では浄土真宗と同義に使用されることが多いが、狭義には、鎌倉時代の僧侶一向俊聖を祖とする浄土真宗の中の一宗派で、一向宗は自らを「一向衆」と称した。葬儀関連サイト「よりそうお葬式」のこちらによれば、一向宗は、『弥陀如来以外の仏を信仰する人々や神社に参詣する人などを排斥していきました。一応は踊り念仏を行事としますが、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出すことはなかったようです』。『一向宗の開祖は一向俊聖と言って良いでしょう。一向は現在の福岡県久留米市の草野永泰の第』二『子として生まれました』。寛元三(一二四五)年に『播磨国書写山圓教寺に入寺して天台教学を修め』、建長五(一二五三)年には『剃髪受戒して名を俊聖とします。しかし、翌年の夏には書写山を下り』、『南都興福寺などで修行しますが、悟りを得られませんでした』。『その後、鎌倉蓮華寺の然阿良忠の門弟となり』、文永一〇(一二七三)年から『各地を遊行回国します。そこで踊り念仏や天道念仏』(てんどうねんぶつ:念仏踊りの一種。天道とは太陽のことで、その名の通り、太陽を拝み、五穀豊穣を祈念する念仏踊りで、関東一円から福島県にかけての各地に分布している。福島県白河市関辺(せきべ)の八幡神社で旧六月一日に行われる天道念仏は、俗に「さんじもさ踊り」とよばれるが、「天祭り」「稲祭り」「いなご追い」「除蝗祭(じょこうさい)」とも呼ばれ、浴衣がけの男子が舞い庭の中央に組まれたお棚を回って踊る。同県郡山市内にも「てんとう念仏」の名で分布している。千葉県印西(いんざい)市武西(むざい)では「称念仏踊」と呼ばれ、二月十五日に行われるが、「江戸名所図会」に記されているように、船橋市を始め、習志野市・柏市などでも嘗ては盛んであった。他に茨城県新治(にいはり)郡や群馬県高崎市などに伝承する。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)『を修して道場を設け、近江国番場宿の蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えました』。『以後、この寺を本山として東北や関東、近江などに一向の法流を伝える寺院が分布し、教団を形成するようになりました』。『親鸞の教えを浄土真宗と言いますが、一向宗とも呼ぶこともあるようです。もともと親鸞が一向宗と言っていたのではなく、親鸞が「阿弥陀仏一仏に向け」と教えていたため、世間の人が「あれは一向宗ではないか」と勝手に呼ばれていったと伝えられています。しかも、親鸞の教えに「一向専念無量寿仏」というものがあることから、わざわざ一向宗と呼ばれていることに対して否定はしませんでした』とある。

「一向宗のある所一村みな他宗なし」少なくとも、現在の須坂地区には浄土宗・曹洞宗の寺院を確認出来た。

「此村の風俗は女子一度嫁すれば再嫁する事成がたきならはしにて」無論、このようなことは現在は確認出来ない。]

出口米吉「厠神」(南方熊楠「厠神」を触発させた原論考)

 

[やぶちゃん注:南方熊楠の「厠神」(かはやがみ)を電子化注するに際して、これは別の人物の論考に触発されたものである故に、その原論考を先にここで示すこととする。

 その原論考は、熊楠が冒頭で述べるように、大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第二十九巻一号)に載った、出口米吉氏の「厠神」である。在野の民俗学研究者であった出口米吉については、私の『出口米吉「小兒と魔除」(南方熊楠「小兒と魔除」を触発させた原論考)』の冒頭注を参照されたい。

 底本は「J-STAGE」のこちらの原本画像PDF)を視認した。【 】は底本では二行割注。基本、ここでは極力、必要と思われた部分(難読と判断したもの及び別論文や一部の不審を持った書名や不審・意味不明箇所など)以外には注を附さないこととする。そうしないと、何時まで経っても、本来の目的である熊楠の論考に移れないからである。]

 

    ○厠 神

              出 口 米 吉

 故坪井博士の「陸前名取郡地方に於ける見聞」【本誌二六七號[やぶちゃん注:「本誌」と言っているが、先行する『東京人類學雜誌』である。明治四一(一九〇八)年六月二十日発行で、知られた筆者民俗学者坪井正五郎である。「J-STAGE」のこちらで原本画像PDF)で見られる。以下の出口の引用は「三二五」ページ上段中央からの部分(PDF3コマ目)。]】の中に「休息中(道祖神社にて)畑中の便所へ行きましたが、其所で妙な物を見ました。便所内の妙な物とは、片隅に釣つた棚に並べて有る數個の土人形で有ります。これは閑所神(かんじよがみ)と云ふものださうで、仙臺地方の古風の家では、皆閑所即便所に置くと云ふ事であります。土人形は玩具と同じ樣に見えますが、特別に作られたものとの事で、其形には座つたのや、立つたのや、子供を背負つたの等の種類が有りまして、何れも女の樣に見受けられます。人形が直に神を表すのか、人形を神に供へるのか、多く置くのは何の故か、其邊の事は一向分りませんが、要するに便所を護る意味を以て置かれる樣子で有ります」とあり。便所の片隅に棚を設け、每日朔竪[やぶちゃん注:「ついたち」と訓じておく。]に燈明を其上に點じて厠神を祀ることは、作州津山にて行はると聞けり。大阪附近にては、便所内にて線香を立て、燈明を奉る所もありと云ふ。

 厠神を祀ることは、我國に於て古代より行はれたることありや否や明ならず。平田翁の玉手襁[やぶちゃん注:「たまだすき」。平田篤胤の主著の一つ「玉襷」。]八にては「厠を掌[やぶちゃん注:「つかさどり」]給ふ神の名は、古書に此者厠神と載傳たる文は無れど、世に卜家の神道また橘家の神道など傳ふる人々の說に、埴山毘賣神[やぶちゃん注:「はにやすひめのかみ」。]と水波能賣神[やぶちゃん注:「みづはのひめかみ」。]なりと云ふは、實に然も有べく覺ゆ。其は此二神は土神水神にて(世に井戸神とカウカ神と同じと云は水神の坐す故なるべし)伊弉那美神の御屎と御尿に成坐ればなり」と云へり。

 酣中淸話[やぶちゃん注:「かんちゆうせいわ」。江戸後期の小島知足の随筆。]上に曰く「今ノ世ニ後架神(コウカカミ)ト云フハ、白氏六帖ニ續幽怪錄ヲ引テ、厠神每月六巡トアリ。又柳宗元が文ヲ引テ厠鬼ト出セリ。皆ソノ事ナリ。サレド委シク知レガタキニ、玉燭寳典ニ劉升ガ異苑ヲ引テ、紫女本人家妾、爲大婦(シウトメ)所ㇾ妒、正月十五日感激而死、故世人作其形於厠、迎ㇾ之咒云、子胥【云是其夫】不在、曹夫以行【云是其姑】小姑可ㇾ出【南方多婦人爲ㇾ姑】トアリ。又俗云厠溷(カハヤ)之間、必須淸淨、然後能降紫女トモアリ。又白澤圖ヲ引テ厠神名停衣トアリ。雜五行書ヲ引タ後帝トアリテ、ソノ下ニ異苑ヲ引テ、陶偘如ㇾ厠、見ㇾ人自稱後帝、着單衣平上幘、謂ㇾ偘曰、君莫ㇾ說貴不ㇾ可ㇾ言、將後帝之靈馮紫姑見ㇾ女言也。ナド云フコトモ見エタリ。西土ニテモ古昔ハ專云ヒシコトニゾ有ケル。」

 靜軒痴談[やぶちゃん注:明治八(一八七五)年刊の寺門静軒の随筆。]二に曰く「佛家ニテ厠ノ神ヲ鳥瑟沙摩(ウスシヤマ)明王トイフ。不勤ノ化身ナリト云。佛說ニ修羅ト梵天帝釋ト戰ヒシ時、修羅ガ不動明王へ援ヲ乞フ。爾時帝釋ハカリ思フニ、佛ハ甚タ臭氣ヲキラヘバ、穢ヲ用テ防クベシト、糞ヲ以タ城ヲ築キイダセリ。明王少モ不潔ヲ忌ズ、其城ヲ一時ニ食ヒ盡シタリ。故ヲ以テ烏瑟沙摩明王ヲ厠ノ神トナスト云」と。玉手襁八には「俗には佛家の鳥芻瑟摩(ウスシマ)明王と云ふ物を厠の神なりと云ふは、密宗より出たる說なるが、谷川士淸も云る如く、謨りにて、信るに足らず。殊に此明王の穢をさけず功をなす由を記せる穢跡金剛法禁百變法門經、穢跡金剛說法術靈要門と云ふ物ありて、一切經に收めたれど、唐土の僧が玄家法術說をぬすみて僞作せること疑なき物なるをや。こは寂照堂谷響集[やぶちゃん注:運敞(うんしょう)著で元禄四(一六九一)年自序の仏教説話集。]にも早く其辯ありと所ㇾ思たり」と辨せり。

 厠神に對する祈願につきては、玉手襁八には、俗に流行目病は厠神に治癒を祈り、常に厠の穴に唾すれば眼を病むと云ひ、亦女は日々に厠を掃き淨めて、晦日每に燈明を献れば、腰より下の病を憂ひずと云ふといヘり。大阪持明院の本堂のほとりに厠ありて、其内に入りて離緣を祈れば必らず緣切れると云ひ、洛東淸水寺の本堂と奧の院との間にも同樣の厠あり、是は厠二個所並び建て、其一方の内には離緣を祈り、又一方に緣結びを祈るに功驗ありと傳ふるよし浪華百事談七に見ゆ。獄屋に入る者が厠室を祭りたることは類聚名物考に云へり。アイヌは厠神(ミンダルカムイ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]に人知れず咒咀の言葉を捧げて、人を殺すと本志[やぶちゃん注:「誌」の誤植か誤字。]二八卷六號吉田氏の文に記されたり[やぶちゃん注:大正元(一九一二)年六月十日発行の『人類學會雜誌』の吉田巖の論考「アイヌの卜筮禁厭」。「J-STAGE」のこちらの原本画像PDF)の「三二七」ページ(14コマ目)に現われる。]。

 我國にて除夜燈を厠に點して厠神を祀ることは、支那より移りし風習なるべし。鹽尻十四に「世說故事苑[やぶちゃん注:江戸後期の大阪生玉真蔵院住職であった子登の類書。]云、異聞總錄云、京師風俗、每除夜、必明燈於厨厠等所、謂之照虛㲞[やぶちゃん注:「虛㲞」意味不明。]。趙林再といふもの。婢に命じて此燈を燃させけるが、此燈を見るに、麻油にして髮に塗に佳と思ひて、これを竊に陰し[やぶちゃん注:「かくし」。]、桐油を易て厠にともしけり。然して彼婢夜分に厠に行き、戶を排き見れば、長三尺五寸斗の婦人、披髮絳居[やぶちゃん注:後半、意味不明。]にして出で、小き箱に謳色所衣を盛て、携壁[やぶちゃん注:隔ての壁のことか。]の角にたゝずみ、衣を摺み[やぶちゃん注:「たたみ」か。「摑み」辺りでないと意味が判らぬ。]けるを、婢見て驚き叫ぶ。家内の人々往て見れば早失けり。此時油を易ふ者大に叫び、地に倒るゝ。衆人湯劑を以て扶還[やぶちゃん注:「たすけかへり」。]、甦即語曰、我輙桐膏易、以鬼之爲一ㇾ所ㇾ擊甚苦と云々」と云へり。昔は轉宅の時にも之を祀りしと見え、類聚雜要抄二に「康平六年[やぶちゃん注:一〇六三年。]七月三日壬寅内大臣(師實)移御花山院。(略)同移徙作法、(略)入ㇾ宅、明旦祀諸神、(諸神者門、戸、井、竃、堂、庭、厠等也)以甑内盛五穀祀ㇾ之、三日亦祀、以童女擊水火、炊釜内五穀祀ㇾ之、御移徙之後、三日之内(略)不ㇾ上ㇾ厠(下略)と云へり。

 

怪談老の杖卷之一 石塔の飛行 / 怪談老の杖卷之一~了

   ○石塔の飛行

 武州多摩郡に本鄕村といふ所あり。此所に西心(さいしん)といふ道心すみけり。本は江戶にてせんざいものなど賣し捧千振(ぼてぶり)にて、若きときは達者なる者なりしが、いかゞしてか、發心して、なまじいの、もの知りだてする出家よりは、殊勝に勤(つとめ)ける。

 此本鄕村は中野の南にて、田など、すこしつゞきたる處あり。その東の方の小高き岡ある處より、小さき提燈などの、光り物、飛びいでゝ、向の山へ行(ゆく)とて、日、くるれば、なはてのうちは、人通りなし。誰(だれ)は、

「江戶よりの歸りに見たり。」

誰は、

「用事ありて、隣村へ行とて、見付しが、おびたゞしき光りなり。」

など云ひふらし、西心庵(さいしんがいほり)などにより合ひて、

「ひた」

と噂したり。

 かの坊、いふ樣(やう)は、

「ちかきあたりに、左樣の噂あるこそ、やすからね。いつはりとも誠とも見極めぬといふ事は、まづ、村の若い衆(しゆ)の大(おほ)きなる恥辱なり。なんと、今宵、わわらに隨がひて行たまひ、とくと、正體を見屆け給ふまじきや。」

と、いひければ、

「尤なり。さらば、今よりたんぼに出(いで)て、光り物を待(まつ)べし。」

と、若きもの、三、四人、酒など引かけ、かの道心を先にたてゝ、

「いかなる變化(へんげ)なりとも、からめとつて、手柄をみせん。」

など、血氣の者ども、出行けるが、なはての中にむしろなど敷て、

「今や、今や。」

と待けれど、四ツ過までも、化もの出でず、その内、夜は、段々、更けければ、

「せんなき事なり。歸るべし。」

と、いふものありけるを、西心、しかりて、

「旁はともかくも、愚僧におきては、夜あくるまで、この繩手にありて、實否を糺すべし。」と、なを、十間も先の方へ出(いで)て、

「むず」

と坐し、虛空を白眼(にら)んで居たるさまに、皆々も、力を得て、四方山(よもやま)のもの語して居(ゐ)候間、九ツ時とも覺ゆるころ、かの岡の木の中より、大きなる光りもの、

「ぱつ」

と、飛びいづるとひとしく、

「わつ。」

と、いふてにげるもあり。

「それ西心坊、出たは、出たは。」

と、さわぐものも有けるを、西心は、かねて、皆よりは、はるか脇にしづまり返りて居たりしが、いつの間に才覺して來りけん、大きなるたけのこ笠をもて、かの光りものを目あてに、おどりあがりて、うちかぶぜければ、光りは消へて、何やらん、田の中へ、うち落したり。

「やれ、しとめたるぞ、おりあへやつ。」

と呼(よば)はつて、かさのうへより、おさへ居(をり)けり。

 皆々、かけあつまりて、てうちんなど、とりよせて見ければ、大きなる石塔のかけを、田の中へ落(おとし)てあり。

「扨は。此ものなるべし。」

とて、すぐに、西心、かろがろと引(ひつ)かたげ來りて、持佛の前へなをし、夜すがら、念佛して、夜あけて見ければ、年號、かすかに見へて、よほどふるき石碑也。

 年號を見るもの、

「東山どの時代の年號也。」

と、いへり。

「今にかの西心が持佛のむかふに、かの石塔のかけ、あり。西心が庵(いほり)は、中野のとりつきなり。」

と大和屋なにがし、もの語りなり。

[やぶちゃん注:標題の「飛行」は「ひぎやう」と読んでおく。

「武州多摩郡に本鄕村といふ所あり」東京都中野区本町のこの附近であろう(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「中野町(東京府)」によれば、『江戸時代には中野村・本郷村・本郷新田・雑色村の』四『村があり、天領または旗本および鉄砲玉薬組同心の知行地であった』とある。「今昔マップ」で見ると、明治時代には南部分の神田上水の両岸が田圃であったことが判る。確かに「中野」中心街「の南」である。但し、「今昔マップ」を東に移動してみると、ここに「本鄕」の名を見出せる。ここも現在の中野区本町一丁目であり、その北を見ると、伏見宮邸があり、ここは旧地図でも高台であることが判るから、或いは怪火の出所はこの辺りかも知れない。

「西心」不詳。

「せんざいもの」「前栽物」で青物・野菜類のこと。

「捧千振(ぼてぶり)」室町時代から近世まで盛んに行われていた商業の一形態。笊(ざる)・木桶・木箱・駕籠を前後に取り付けた天秤棒を振り担いで、商品又は諸事勝手のサービスを売り歩く者を言う。「棒手賣」(ぼてふり)「振賣」(ふりうり)とも呼んだ。

「なまじいの」「憖の」。中途半端なさま。なまじっか。

もの知りだてする出家よりは、殊勝に勤ける。

「向の山」先の怪火の出所が判然と特定は出来ないのだが、仮に措定するなら、「向かひの山」は「今昔マップ」の神田上水の右岸のうってつけの地名である「小向」或いはその西の川島にある「正藏院」のある辺りが針葉樹の記号が多く見られ、等高線もやや高くなっている感じがある。

「なんと」「何んと」で感動詞。相談や質問などを相手に持ちかける際に用いる。「どうだ?!」。

「四ツ過」午後十時過ぎ。

「十間」約十八メートル。

「九ツ時」午前零時。

「才覺して」考え、工夫して。

「たけのこ笠」「筍笠」。竹の皮を裂いて編んだ被り笠。丸く大きい。「竹の皮笠」「法性寺 (ほっしょうじ) 笠」とも呼ぶ。グーグル画像検索「筍笠」をリンクさせておく。

「おりあへやつ」最後の「つ」は当時の口語表記で、現在の促音の「っ」。

「てうちん」「提灯」。正しい歴史的仮名遣「ちやうちん」。

「かけ」欠片(かけら)。

を、田の中へ落(おとし)てあり。

「扨は。此ものなるべし。」

「東山どの時代の年號」足利義政のこと。将軍職を子義尚に譲って東山に隠居したところからかく称し、これは生前から既にあった。彼の在位中の年号となら、宝徳・享徳・康正(こうしょう)・長禄・寛正(かんしょう)・文正(ぶんしょう)・応仁・文明(彼の正式な在職は文安六年七月二十八日(ユリウス暦一四四九年八月十六日)の宝徳への改元後から、文明の途中の文明五(一四七三)年十二月十九日(義政が次男の義尚に将軍職を移譲)までが厳密な閉区間となる)となる。

「とりつき」町域が始まる場所。とば口。取っ付き。

「大和屋なにがし」不詳。噂話・都市伝説のお約束の「又聞き」であるが、ちゃんと屋号を出すところにリアリズムがある。]

怪談老の杖卷之一 幽靈の筆跡

 

   ○幽靈の筆跡

 泉州貝塚の近きわたりに、尾崎といふ處あり。此所を開きし人は、「難波戰記」に載せし吉田九右衞門といふ者也。今も代々九右衞門とて、大庄屋なり。其始祖は鳥捕氏(ととりうぢ)にて、上古より綿々と打續き、南朝の時は南源左衞門尉と稱し、代々、歷々なり。

 此一族に玉井忠山といへる隱士あり。殊の外の異人にて、詩作など好み、紀三井寺(きみゐでら)の住職など、詩の友なり。

 五十餘の年、廻國の志しにて、國を出(いで)、東武ヘ來りて、予も知る人になりしが、り、つゝがなく國々をめぐりて故鄕へ歸り、間もなく、重病をうけて、終りける。

 死後、間もなき事なるが、近鄕の庄屋六郞左衞門といふ者の家へ來れり。

 平生にかはる事なく、案内を乞て、

「忠山なり。御見舞申す。」

と云ひ、入(いり)ければ、六郞左衞門、聞(きき)て、

「其意を得ぬ事かな。忠山は、『此程、死(しな)れたり』ときゝて、知りたる中に、野邊の送りにまで出(いで)あふたる人、慥(たしか)にあり。人たがひなるべし。」

と、玄關へ出むかひてみれば、ちがいなき[やぶちゃん注:ママ。]、忠山なり。

 紬(つむ)ぎのひとへものに、小紋の麻の羽織を着、間口をさし、法體(ほふたい)の姿、世に在りしときに、かはる事なし。

 六郞左衞門を見て、

「久しう御座る。」

と、

「につこり」

と笑ふ體(てい)、六郞左衞門も氣情(きじやう)なるすくやか者なれど、是ばかりは、衿もと、

「ぞつ」

と、したるが、

『子細ぞあらん。』

と、まづ、書院へ伴ひ、茶を出せば、とりてのむ事、平生の如く、盃を出しければ、

「酒は給(た)べ申さず。」

とて、何もくはず、どこやら、影もうすく、あいさつも間(ま)ぬけたり。

 主人、いふ樣(やう)、

「そこには、御大病ときゝて、いか計(ばかり)、案じたり。まづ、御快氣の體(てい)、大慶に存候(ぞんじさふらふ)。」

と、いひければ、このとき、うち笑ひて、

「それは、貴殿のあいさつとも覺えず。某(それがし)が死したる事は存じなるべし。此世の命數盡(つき)て、黃泉(よみ)の客とはなりしかど、こゝろにかゝる事ありて、暫く存生(ぞんしやう)の姿をあらはし、まみへ申すなり。一族どもの中にも、こゝろのすはりたる者なければ、おそれおのゝきて、事を記するに足らず。そこには、こゝろ、たくましく、理(り)にくらからぬ人なれば、申すなり。我が死(しし)たる跡式(あとしき)の事は、かきおきの通(とほり)取計(とりはから)ひくれたれば、おもふ事なし。しかし、戒名に、二字、こゝろに叶はぬ字あり。菩提處の住持にたのみ、かき替(かへ)給はるべし。」

と、いと、こまごまと、いふにぞ、

『ふしぎ。』

とは、おもひけれど、

「死(しし)て後も、尋ね來(きた)る朋友の誠(まこと)こそ、うれしけれ。」

と、なつかしくて、こはきこゝろはなかりしが、

「さて。その文字は、そこもと、望みにても、ありや。」

と、いひければ、

「いかにも。望みあり。紙筆を。」

と乞ひて、

「『忠山』といへる下(しも)の二字を、『亨安』となほして給へ。」

と、「亨安」の二字を、かきて、さし置(おき)ぬ。

 文字の大きさは、五分程あり。

 勝手にては、みな、恐れあいて[やぶちゃん注:ママ。]、出(いづ)るものも、なし。

 暫く、もの語りして、

「いとま申。」

とて、出行ぬ。

 六郞左衞門、送り出ければ、いつもの通り、門を出でゝ行しが、

「見送らん。」

とて、あとより出しに、はや、形は、なかりけり。

 さつそく、尾崎へ持行(もちゆき)きて、一家衆(いつかしゆ)と談じ、石碑のおもてを、きりなをしけり。

 忠山、能書にて、餘人のまねぶべき筆にあらず。

 手跡、うたがひなければ、みな人、奇怪のおもひをなしぬ。

 右の手跡は、六郞左衞門家に祕藏して、「幽靈の手跡」とて傳へぬ。

 江戶へ來りしは、五、六年已前の事にて、汐留の觀音の寺にとまりおれり[やぶちゃん注:ママ。]、といひし。

 忠山おとゝ平七といふものあり。四ツ谷「鮫(さめ)がはし」に、たばこうりて、今も存命なり。

 うたがはしき人は、行て尋ぬべし。

[やぶちゃん注:最後の三文『忠山おとゝ平七といふものあり。四ツ谷「鮫がはし」にたばこうりて、今も存命なり。うたがはしき人は、行て尋ぬべし。』が凄い! 今時の怪談で、最後にこう書ける奴は、まず皆無だ! これは所謂、噂話・都市伝説のあまっちょろさを遙かに凌駕している!! 因みに「四ツ谷鮫がはし」は鮫河橋(さめがはし)で東京都新宿区にあり、桜川支流鮫川に架けられていた橋及びその周辺の地名である。現在の新宿区若葉二丁目・三丁目及び南元町一帯を指す。この附近(グーグル・マップ・データ。南元町をポイントし、その北が若葉二・三丁目である。以下同じ)。江戸時代は岡場所であった。現在の赤坂御所北部外の西北部に当たる。

「泉州貝塚の近きわたりに、尾崎といふ處あり」大阪府阪南市尾崎町であろう。地図の右上部に貝塚が見えるように配した。貝塚市であるが、奥に細く広がった市域で尾崎とは十一キロメートルほど離れている。

「難波戰記」(なにわせんき/なんばせんき)は別に「大坂軍記」とも称し、「大坂の陣」についての軍記物。寛文一二(一六七二)年初板で十二巻十二冊本が作られたが、その後、増補され、増補版の中でも特に初板と同年の三宅可参(衝雪斎)の序・跋を持つものが普及した。本「怪談老の杖」は序のクレジットでは宝暦四(一七五四)年。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認出来る。流石に「吉田九右衞門」を探すほどには、私はお目出度くはない。

「鳥捕氏」は、恐らく、本邦の古代朝廷に属して鳥を捕捉することを職業とした捕鳥部(鳥取部)は品部(しなべ/ともべ)の出自であろう。飛鳥時代の武人に捕鳥部万(ととりべの よろず)がいる(姓はない)。同人のウィキによれば、『物部氏の本拠である河内国には、鳥取部の伴造氏族で、角凝魂命』(つのこりむすびのみこと)『の三世の孫である天湯川田奈命』(あめのゆかわたなのみこと)『の後裔を称する無姓の鳥取氏があり』、『万もこの一族の可能性がある』。『物部守屋の資人。用明天皇』二(五八七)年の「丁未の乱」に『おいて物部方に属して戦い』、百『人を率いて守屋の難波の邸宅を守備した。主君の守屋が討たれたのを聞いて、茅渟県』(ちぬのあがた)『の有真香邑』(ありまかむら:現在の大阪府貝塚市大久保近辺か?)『の妻の家を経由して山中に逃亡した。逃げた竹藪の中で、竹を縄でつないで動かし、自分の居場所をあざむいて、敵が近づいたところで弓矢を放ち』(「日本書紀」)、『衛士』(えじ)『の攻撃を受けつつ、「自分は天皇の楯として勇武を示してきたけれども、取り調べを受けることがなく、追い詰められて、このような事態に陥った。自分が殺されるべきか、捕らえられるべきか、語るものがいたら、自分のところへ来い」と弓をつがえながら地に伏して大声で叫んだ。その後、膝に矢を受けるも引き抜きながら』、『なおも剣で矢を払い』、『三十人ほど射殺し』、『朝廷の兵士を防ぎ続けるが、弓や剣を破壊後、首を小刀で刺して自害した』(「日本書紀」)。『朝廷は』、『万の死体を八つに切り、串刺しにして八つの国にさらせ』、『と河内国司に命じたが、串刺しにしようとした時、雷鳴して、大雨が降った。さらに万が飼っていた白犬は万の頭を咥えて古い墓に収めると、万の頭のそばに臥して横たわり、やがて飢死したという。不思議に思った朝廷が調べさせ、哀れに思って、万の同族に命じて、万と犬の墓を有真香邑に並べて作らせた』とある。

「南源左衞門尉」南朝期なら、何かの資料に出るであろうが、私はそれを調べる気はさらさらない。悪しからず。

「玉井忠山」不詳。

「紀三井寺」和歌山県和歌山市紀三井寺にある紀三井山護国院金剛宝寺。「紀三井寺」の名で専ら知られる。真言宗であったが、昭和二六(一九五一)年(年)に独立して救世(ぐぜ)観音宗総本山を名乗っている。寺史は当該ウィキを見られたい。

の住職など、詩の友なり。

「紬ぎ」蚕の繭から糸を取り出し、撚りをかけて丈夫な糸に仕上げて織った絹織物のこと。織物の中で最も渋く、深い味わいを持つ着物で、着物通の人が好む織物と言われている。世界一緻密な織物ともされる。

「間口をさし」「表玄関にすっくと立っており」の意か。

「氣情」「氣丈」の意であろう。(きじやう)なるすくやか者なれど、是ばかりは、衿もと。

「それは、貴殿のあいさつとも覺えず。某が死したる事は存じなるべし。此世の命數、盡て黃泉の客とはなりしかど、こゝろにかゝる事ありて、暫く存生の姿をあらはしまみへ申すなり。一族どもの中にも、こゝろのすはりたる者なければ、おそれおのゝきて、事を記するに足らず。そこには、こゝろ、たくましく、理にくらからぬ人なれば、申すなり。我が死たる跡式の事は、かきおきの通取計ひくれたれば、おもふ事なし。しかし、戒名に、二字、こゝろに叶はぬ字あり。菩提處の住持にたのみ、かき替給はるべし」と「うち笑ひて」言うこのシークエンス以下は絶品だ! 死霊が思いきれぬことを告解するパターンは数多あるものの、戒名を変えて呉れというのは、私の知る限りでは、ちょっとない。ないが故に、オリジナリティがあり、会話の平静さと、受ける六郎左衛門が、死霊が死霊と表明するのを内心は恐懼しつつも、何んとか平静を保って、生時の折りの交わりと変わらずに対座し、その願いを聞き入れる。何と、素敵なリアリズム怪談であろう! 上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年)の傑作「菊花の約(ちぎり)」と似ていると思われる方もあろうが、本作は序文が宝暦四(一七五四)年で、二十二年も前なのである。最近では、一ヶ月余り前に電子化した風雅な動態と解き明かしの名篇「怪談登志男 八、亡魂の舞踏」に次いで佳作としたい。

「『忠山』といへる下の二字を、『亨安』となほして給へ」問題は「何故か?」という疑問である。「玉井忠山六郞左衞門」の忠山は明らかに隠居遁世した後の法号染みた雅号である。それを何故、今になって、「亨安」に書き変えて呉れと言い出すのか? 彼が晩年、この「忠山」の号が自身に相応しくないと思っていたのであれば、「我が死たる跡式の事は、かきおきの通取計ひくれたれば、おもふ事なし」とある「書置き」(遺言状)に書き入れれば済んだことだ。則ち、この書き変えはそのような生前の意識に起因するものではない。とすれば、忠山の来訪は、逝去から四十九日の中有(ちゅうう)であることは明らかである。中有は仏教用語で、衆生が死んでから次の縁を得るまでの間を指す「四有(しう)」の一つである。通常は、輪廻に於いて、無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有(しょうう)」、死の刹那を「死有(しう)」、「生有」と「死有」の生まれてから死ぬまでの身を「本有(ほんう)」とする。「中有(ちゅうう)」は「中陰」とも呼ぶ。この七七日(しちしちにち・なななぬか:四十九日に同じい)がその「中有」に当てられ、中国で作られた偽経に基づく「十王信仰」(具体な諸地獄の区分・様態と亡者の徹底した審判制度。但し、後者は寧ろ総ての亡者を救いとるための多審制度として評価出来る)では、この中陰の期間中に閻魔王他の十王による審判を受け、生前の罪が悉く裁かれるとされた。罪が重ければ、相当の地獄に落とされるが、遺族が中陰法要を七日目ごとに行って、追善の功徳を故人に廻向すると。微罪は赦されるとされ、これは本邦でも最も広く多くの宗派で受け入れられた思想である。されば、この戒名改名もその審判に絡むと考えるのが自然である。玉井忠山の戒名全体が示されないのが、本怪談の実録怪談としての大きな瑕疵であるが、想像するに、生者に理解出来る可能性のある理由としては、その玉井の「忠山」の号をそのまま使ってしまった(これ自体は必ずしも一般的とは言えない。ばらすか、一字を入れるのが普通)結果、彼の父母或いは祖父又は先祖代々歴々の戒名と並べた際に、たまたま、それらの誰彼或いは特定の一部又は総ての戒名より断然、頭抜けてしまう不遜な戒名として「忠山」があることになってしまうという総合対照に於ける死者の名の絶対的違背性である(或いは前の父母の同一の漢字を続けて横に読むと不遜不敬の意となるやも知れぬ)。不遜な戒名自体が亡者の罪となるのである。怪談や講談・落語では、あの世からの拘引者や書記・使者或いは本人が、文書の文字や俗名・戒名を書き変えて、主人公が生き延びるという笑い話に近いものがよく見かけられるが、そうした笑話のような雰囲気はここにはない。至って真面目な最後の願いとして親友に頼むというそれは、寧ろ、哀切々たるのもがある。それが本篇の眼目でもあるのである。

「江戶へ來りしは、五、六年已前の事にて、汐留の觀音の寺にとまりおれり」話を生前に戻したダメ押しのリアリズムである。上手いが、やや五月蠅過ぎる感はなくもない。「汐留の觀音の寺」は現在の浜離宮恩賜庭園内にある観音堂跡か。サイト「4travel.jp」のこちらを参照されたい(地図有り)。旧時の観音堂の絵を入れた説明版写真。それによれば、ここには稲生神社があり、観音堂と鐘楼もあったとあるから別当寺も古くはあったはずである。しかし、関東大震災で崩壊し、今は小高い丘となって石段のみが残るとある。]

2021/02/25

怪談老の杖卷之一 水虎かしらぬ


 
   ○水虎かしらぬ

 小幡一學といふ浪人ありける。上總之介の末葉なりと聞しが、さもあるべし、人柄よく、小(すこし)、學文(がくもん)などありて、武術も彼是、流義極めし男なり。若きとき、小川町邊(あたり)に食客のやうにてありし頃、櫻田へ用事ありて行けるが、日くれて、麹町二丁目の御堀端を歸りぬ。雨つよく降りければ、傘をさし、腕まくりして、小急(こいそぎ)ぎに、いそぎをりけるが、是も、十ばかりなりとみゆる小童(こわらは)の、笠もきず、先へ立(たち)て行(ゆく)を、不便(ふびん)におもひて、わらはに、

「此傘の中(うち)へ、はへりて行べし。」[やぶちゃん注:「はへりて」はママ。「はいりて」の原本の誤記であろう。]

と、よびかけけれど、恥かしくや思ひけん、あいさつもせず、

「くしくし。」[やぶちゃん注:「哀れげに泣くさまを表わす語で「しくしく」に同じい。]

と、なく樣(やう)にて行けば、いとゞふびんにて、後より、傘、さしかけ、我が脇の方へ引つけてあゆみながら、

「小僧は、いづ方へ使(つかひ)にゆきしや。さぞ、こまるべし。いくつになるぞ。」

など、懇(ねんごろ)にいひけれど、いらゑせず、やゝもすれば、傘をはづれて、濡るゝ樣(やう)なるを、

「さて。ばかなる小僧なり。ぬるゝ程に、傘の内へ、はひれ、はいれ。」

と、云ひければ、又、はひる。

 とかくして、堀のはたへ行(ゆき)ぬるとおぼゆる樣にて、さしかけつゝ、

「此かさの柄を、とらへて、行べし。さなくては、濡るゝものぞ。」

など、我子をいたはる樣に云ひけるが、堀のはたにて、彼(かの)わらは、よは腰を兩手にて、

「しつか」

と取り、無二無三に、堀の中へ引こまんとしけるにぞ、

「扨は。妖怪め、ござんなれ、おのれに引こまれて、たまるものか。」

と、金剛力にて引あひけれど、かのわつぱ、力、まさりしにや、どてを下(くだ)り、引ゆくに、むかふ下(くだ)りにて、足たまりなければ、すでに堀ぎはの、石がけのきはまで、引立(ひつたて)られしを、

『南無三寶、河童(かつぱ)の食(ゑじき)になる事か。』

と、かなしくて、心中に氏神を念じて、力を出して、つきたをしければ、傘ともに、水の中へしづみぬ。

 命からがら、はひ上(のぼ)りてけれど、腰たゝぬ程なりければ、一丁目の方(かた)へ、もどり、駕籠にのりて屋敷へ歸りぬ。

 夫より、こりはてゝ、其身は勿論、人までも、

「かの御堀ばたを通る事、なかれ。」

と制しける。

 是ぞ、世上にいふ「水虎《かつぱ》」なるべし。心得すべき事なりと聞(きけ)り。

[やぶちゃん注:標題は「水虎(かつぱ)か知らぬ」で「河童かどうかよく判らぬ化け物」の意。これも実は既に「柴田宵曲 妖異博物館 河童の力」の私の注で電子化している。無論、また、零からやり直してある。個人的には河童の存在を全く信じていないものの、この話は河童と組み合う前後の描写が極めて実録的でリアリズムがあるので、蒐集した有象無象の河童譚(私は信じていないにも拘らず河童フリークではある。火野葦平「河童曼陀羅」も完全電子化注を四年前に終わっているし、『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」』の分割詳細注もカテゴリ「柳田國男」で二年前に完遂している)の中でも短い乍ら、優れた一篇であると感じている。

「水虎」これは河童に似た属性を持つ漢籍に出現する人型の妖怪(妖獣)である。寺島良安の「和漢三才図会」の「第四十 寓類 恠類」(リンク先は私の古いサイト版全電子化注)に確かに、この「水虎」で載る。

   *

すいこ

水虎

シユイ フウ

【「本草」蟲の部の附錄に水虎を出だす。蓋し、此れ、蟲類に非ず。今、改めて恠類に出だす。】

「本綱」に、『水虎は「襄沔記(じやうべんき)」注に云はく、中廬(ちうろ)縣に涑水(そくすい)有りて、沔中に注(そゝ)ぐ。物有り、三、四歳の小兒のごとく、甲(かう)は鯪鯉(りやうり)[やぶちゃん注:脊椎動物亜門哺乳綱センザンコウ目センザンコウ科Manidae センザンコウ属Manis。]のごとく、射(ゆみい)ても、入ること、能はず。秋、沙上に曝す。膝の頭、虎の掌・爪に似たり。常に水に没し、膝を出だして、人に示す。小兒、之れを弄(もてあそ)べば、便(すなは)ち、人を咬(か)む。人、生(いき)ながら得ば、其の鼻を摘(つま)んで、之れを小使(こづかひ)にすべし』と。

△按ずるに、水虎の形狀、本朝、川太郎の類(るゐ)にして、異同、有り。而れども、未だ聞かず。此くのごとき物、有るや否や。

   *

しかし、良安が言うように、これは私は同じ東洋の日中の民俗思念の中での平行進化の結果であって(九州の河童伝承には先祖が中国から本邦へ渡って来たとするものがあることはあるが、では、それが漢籍に登場する「水虎」や似たような人型水怪である「河伯」であった証左はどこにもないのである)、「河童」を完全に中国伝来とする考え方には組しないので、個人的に「河童」を「水虎」と自律的に書いたことは一度もない。因みに良安もそう考えているからこそ、この次に独自に「河童」を配しているのである。以下に示す。

   *

かはたらう

川太郞    一名川童(かはらう)

【深山に山童有り。同類異なり。性、好みて人の舌を食ふ。鐵物を見るを忌むなり。】

△按ずるに、川太郞は西國九州溪澗池川に多く之れ有り。狀(かた)ち、十歲許りの小兒のごとく、裸形(はだか)にて、能く立行(りつかう)して人言(じんげん)を爲す。髮毛、短く、少頭の巓(いただき)、凹(へこ)み、一匊水(いつきくすい)を盛る。每(つね)に水中に棲(す)みて、夕陽に、多く、河邊に出でて、瓜・茄(なすび)・圃穀(はたけもの)を竊(ぬす)む。性、相撲(すまひ)を好み、人を見れば、則ち、招きて、之を比(くら)べんことを請ふ。健夫、有りて、之れに對するに、先づ、俯仰(ふぎやう)して頭を搖せば、乃(すなは)ち川太郞も亦、覆(うつふ)き仰(あをむ)くこと數回にして、頭の水、流れ盡ることを知らず、力竭(つ)きて仆(たふ)る。如(も)し其の頭、水、有れば、則ち、力、勇士に倍す。且つ、其の手の肱(かひな)、能く左右に通(とほ)り脫(ぬけ)て、滑利(なめら)かなり。故に、之を如何(いかん)ともすること能はざるなり。動(ややも)すれば、則ち、牛馬を水灣に引入れて、尻より血を吮(す)ひ盡くすなり。渉河(さはわたり)する人、最も愼むべし。

 いにしへの約束せしを忘るなよ川だち男氏(うぢ)は菅原

相傳ふ、『菅公、筑紫に在りし時に、所以(ゆゑん)有りて之れを詠(よま)せらる。今に於いて、河を渡る人、之を吟ずれば、則ち、川太郞の災無しと云云。』と。偶々、之れを捕ふる有ると雖も、後の祟(たゝり)を恐れて之れを放つ。

   *

引用元では私が細かな注を附しているので参照されたい(なお、リンク先は十二年も前の仕儀で、漢字表記が不全であるので(当時はユニコードがまだ使用出来なかった)、引用に際しては、正字に直した箇所がかなりある)。

「小幡一學」不詳。

「上總之介」織田信長(初期の名乗り)であろう。私などはすぐにして源頼朝の命で梶原景時に謀殺された上総介広常を想起してしまうのだが、かの上総氏の末裔は宝治元(一二四七)年の「宝治合戦」で姻族の三浦泰村に属して族滅している。

「小川町」現在の千代田区神田小川町(グーグル・マップ・データ)。江戸時代は武家屋敷であった。ここから「櫻田」から帰るにには北へ上ると思うのだが、何故か時計回りで西に回っている。「麹町二丁目」はここだもの。さすれば、「御堀端」ここの東の江戸城西側の半蔵濠(ぼり)か、そこの北を東に折れた「千鳥ケ淵」ということになる。河童には、やはり。淵が似合うな。おう! ようやった! 河童殿! 江戸城の御堀に住もうとはな!

「とらへて」捉えて。摑(つか)んで。一学! 男だね!

「よは腰」「弱腰」。一学の腰。「よは」は、これ、連れが童子なれば、用心も全くせず、寧ろ、同時に気を遣って、穏やかに寄り添っていた上に、雨に打たれて冷えているので、腰に力が入っていなかったというだけのことを言っていよう。

「金剛力」「こんがうりき(こんごうりき)」は金剛力士のような大力。非常に強い力。

「むかふ下(くだ)り」「向ふ下り」は一語で、「向こうに行くに従って(堀へ)下っている場所」という名詞。

「足たまり」「足溜まり」。しっかと踏みしめる足場。

「腰たゝぬ程なりければ」如何に組んだ河童の力が想像絶したものであったかが判る。

「一丁目」麹町一丁目。現在のそれならば、既に半蔵濠の東岸であるから、やはり、一学を河童が引き込もうとしたのは「千鳥ケ淵」と考えてよい。]

怪談老の杖卷之一 小島屋怪異に逢し話

 

   ○小島屋怪異に逢し話

 四ツ谷の通(とほり)に小島屋喜右衞門と云(いふ)人、麻布なる武家方へ鶉(うづら)を賣けるが、

「代物(だいもつ)不足なれば、屋敷にて渡すべし。」

といふに、喜右衞門、幸(さひはひ)、御近處迄、用事あれば、

「持參すべし。」

とて、鶉を持行(もてゆき)けるが、中の口の次に、八疊敷の間のある所に、

「爰にひかへをれ。」

とて、鶉をば、奧へもち行(ゆき)ぬ。

 座敷の體(てい)も普請前の家居と見へて、天井・疊の上に雨漏(あまもり)の痕(あと)、ところどころ、かびて、敷居・鴨居も、爰(ここ)かしこ、さがり、ふすまも破れたる家なり。

 鶉の代(しろ)も、小判にて拂ふ程なりしかば、喜右衞門、心の内に、

『殊の外、不勝手らしき家なるが、彼是、むづかしく云はずに、金子、渡さるればよきが。』

と、きづかひながら、たばこのみ居(ゐ)けり。

 しかるに、いつの間に來りたるともしらず、十(とを)ばかりの小僧、床(とこ)にかけありし紙表具の掛ものを、上へまきあぐる樣(やう)にしては、手をはなして、

「はらはら」

と落し、又は、まきあげ、いく度といふ事なく、したり。

 喜右衞門、心に、

『きのどくなる事かな。かけものなど損じて呵(しか)られなば、我等がわざにかづけんもしらず。』

と、目も放さで見て居けるが、あまりに堪《こらへ》[やぶちゃん注:底本は『こたへ』であるが、所持する版本のそれを採った。]かねて、

「さるわるあがきは、せぬものなり。いまに、掛もの損じ申べし。」

と、いひければ、かの小僧、ふり歸りて、

「だまつて居よ。」

と、云ひけるが、顏を見れば、眼(まなこ)、たゞ、ひとつありて、

「わつ。」

と、いふて、倒れ、氣を失ひけるを、屋敷の者ども、驚きて、駕(かご)にのせ、宿へ送り返し、鶉の代をば、あのかたより爲ㇾ持(もてなし)おこされ、そののちも、度々、使(つかひ)などおくりて、

「心よきや。」

など、懇(ねんごろ)に尋られける。

 その使の者の語りけるは、

「必ず、沙汰ばしし給ふな。こちの家には、一年の内には、四、五度づゝも、怪しき事あるなり。此春も、殿の居間に小き禿(かむろ)、なほり居て、菓子だんすの菓子を喰ひ居(をり)たりしを、奧方の見て、

『何者ぞ。』

と、いはれければ、

『だまつて居よ。』

と、いふて、消(きえ)てなくなりたりと、きけり。必(かならず)、だまつて居(をり)たまへ。なにも、あしき事はせぬ。」

と、語りぬ。

 喜右衞門は、廿日ほども、やみて、快氣し、其のちは、何もかはりたる沙汰なかりけり。

 其屋敷の名も聞(きき)しかど、よからぬ事なれば、憚(はばか)りてしるさず。

[やぶちゃん注:実は本作は既に一度、『柴田宵曲 妖異博物館 「一つ目小僧」』の注で同じ底本で電子化しているが、今回、一からやり直した。柴田は本篇をかなり上手く現代語訳した後で私の溺愛する岡本綺堂の「半七捕物帳」の中の一篇「一つ目小僧」にも触れ、また、先般電子化したばかりの「怪談登志男 七、老醫妖古狸」も挙げ、昨年私が電子化注した「萬世百物語卷之二 五、一眼一足の化生」も紹介(但し、書名を誤っている)されているから、「一つ目小僧」好きにははなはだ魅力のあるものである。未読の方は、かなり面白いので、一読されたい。個人的には、「柴田宵曲 妖異博物館」の冒頭に出る「化物振舞」実録物である出雲松江藩の第七代藩主松平治郷(はるさと)がやらかした話が絶品で、松浦静山の「甲子夜話 卷五十一」の「貧醫思はず侯第に招かる事」が超お薦めである。リンク先では原話を私が電子化してある。どうぞ!

「四ツ谷の通」江戸時代の「四ツ谷」は現在の四谷見附から新宿三丁目まで「新宿通り」を真ん中に南北に広がった地域(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。南に見える「六本木ヒルズ」附近が現在の「麻布」である。

「小島屋喜右衞門」不詳。

「鶉」キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica 。ている。本邦では古来、歌にも詠まれ親しまれてきた。ペットとしての飼育は室町時代には籠を用いて行われており、江戸時代には武士の間で、鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が行われ、慶長(一五九六年~一六一五年)から寛永(一六二四年~一六四五年:間には元和(げんな)が挟まる)をピークとしつつ、近代の大正時代まで行われていた。本種が古くから好まれ理由には、その鳴き声の「聞きなし」として「御吉兆」などがあったことにもよる。博物誌など、詳しくは私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を参照されたい。ここ小判で買うほどの高値(こうじき)であるのは、そうした江戸時代の奇妙な流行りが背景があることを知っておく必要がある。木賊(とくさ)であるとか、金魚であるとか、ともかくも、江戸では妙なもの(私にとっては)が流行ったのである。

「代物」代金。

「普請前」改修前。或いはこの屋敷は現在の持ち主のものではなかったものを、新たに買ったものであるのかも知れない。にしても、鶉は大枚払うが、このばたばたをば、まず直さないというのは、ろくな武家ではあるまい。そういう因果者のところにこそ、確かに妖異は好んで巣食うものなのである。

「きのどくなる」この「氣の毒」は「自分にとって困ってしまうこと・迷惑」の意。

「呵られなば」叱られたりしては。

「わるあがき」悪戯(いたずら)。

「あのかたより」あの鶉を飼った御武家方より。

「沙汰ばしし給ふな」の「ばし」は副助詞で、係助詞「は」に副助詞「し」の付いた「はし」の転じたもの。上の語をとり立てて強調する意を表わす。禁止・命令などの文中に用いられることが多い。

「禿(かむろ)」本来は「かぶろ」。髪の末を切り揃えて結ばずに垂らした、今の「おかっぱ」に似た髪型をした子供。少女を指すことが多く、江戸時代には別に、遊里で太夫(たゆう)などの上級遊女に仕える見習いの少女。七、八歳から十三、四歳ぐらいまでで、その後は遊女になった者を狭義に指した。ここは普通に年少の少女の意でよい。

「なほり居て」「直り居りて」。きちんと正座して座ってそこにおり。

「菓子だんす」「菓子簞笥」。衣装簞笥に似せて小形に作り、漆などを塗ったり、螺鈿細工を施したりした高級な菓子入れ。手箱のように小さいから、禿が座って引き出して菓子を食うというシークエンスには何の問題もない。

「必、だまつて居たまへ。なにも、あしき事はせぬ」前者は、武家であるから化け物屋敷と噂されては面目が立たなくからであり、後者は、過度に怯える喜右衛門を安心させるための配慮である。事実、怪異は数々出来しても、その後には、別段、続く怪異や祟り・変事はなかったのであろう。実際、喜右衛門は快癒して後、やはり何事も起こらなかったのだから。されば、家にとり憑いた怨霊の類いではなく、狐狸のそれと考えてよかろうか。いやいや! 松平治郷の例もある。或いは、この鶉狂いの武家の主人が変態で、かく人を驚かすのが好きな変態でなかったとは言えまいよ。今だって、旧来の遊園施設の「お化け屋敷」は滅んでいないし、ゴースト・スポットを好んで訪れる連中も世界中にゴマンといるじゃないか。]

只野真葛 むかしばなし (17)

 

 父樣には十九迄、惣髮(そうはつ)にて有しとなり。御年若のときは、すぐれし美男にて有しとなり。むかし、長井家にひさしくつとめし「かぢ」といふ女、たへず[やぶちゃん注:ママ。]、氣嫌うかゞひにも上(あが)り、母樣御產などの時は、よとぎなどにもきたりしが、女共として、いつものはなしに、

「こちのだんな樣、おわかい時は役者の樣にて有し。麹町へ御いで被ㇾ成ると、近所の御孃樣がたは、『役者が來た』とて、かけだして御覽被ㇾ成し。今は、一向前(いつかうまへ)の人のやうにおなり被ㇾ成し。」

といふを、そのかみは久しきもの、『をかしきはなしよ』など、おもゑて有しが、今おもへ[やぶちゃん注:ママ。]いだせば、『それも、さなきだちのさまよ』と、書(かき)おくなり。

[やぶちゃん注:「惣髮」「總髮」とも書く。男子の髪形の一つで、月代(さかやき)を剃らずに髪を全体に伸ばし、頭頂で後ろ向きに束ねたもの。束ねずに後ろへなでつけて垂らしたものもかく呼ぶ。江戸時代には医者・儒者・山伏などが多く結った。

「長井家」父の実家。既に述べたが、真葛の父工藤周庵(平助)は紀州藩江戸詰医師長井大庵の三男であったが、工藤家に養子に入ったのである。

「一向前」全くの御成人の普通の男性の謂い。

「久しきもの」長いこと。

「さなきだち」「仙台叢書」も「日本庶民生活史料集成」も『をさなきだち』とする。「幼き立ち」で「幼い顔立ち」「美少年」のことで腑に落ちる。但し、絶対にそうだとは言わない。「さなきだにのさまよ」「然なきだにの樣よ」、「そうでなくてさえ美少年であられたのだなあ」という誤判読の可能性も排除出来ないからである。私は無心に最初に読んだ時はそう感じたからでもある。]

 

 工藤ぢゞ樣の敎へかたは、きびしきこと、いふばかりなし。父樣、養子に御いでがけ、

「書物は、よみしや。」

と、たづねられしに、里にては末の子にて御ひぞうばかり被ㇾ成し故、

「いまだ、まねばず。」

と御こたへ被ㇾ成しに、

「其(そこ)ほどになるもの、少しよませれば、よいことを。さあらば、『大學』、もて、こよ。」

とて、とりよせ、序(じよ)より終(をはり)まで、三べん、をしへて、

「あすまでに、よく復されよ。」

とて御出勤なり。

 はじめて四角な字をよみしに、「大學」一册を、たゞ、三べんにては、一字もくだらず、弟子に宇引をひかへさせて、御膳も上(あが)らず、夜も、やすまぬほどにして、折々、書をよみながら、むすびなど上りて、やうやう、一晝夜によまるゝ樣(やう)に御おぼし、明朝、持(もち)いでゝ御よみ被ㇾ成ば、

「よし。さあらば、『論語』。」

とて、又、三べんにて御出勤、日々、前のごとくにして御よみ、「四書」を十日に御しまひ、「五經」もおなじ敎へる樣(やう)被ㇾ成(なされ)、

「二、三月のうちには、立(たち)まわる書は、みな、よめる樣に成し。」

と、御はなしなり。

[やぶちゃん注:「養子に御いでがけ」養子に来られたばかりの折り。父平助が丈庵の養子となったのは延享三(一七四六)年頃で、未だ満十二歳前後であった。

「まねばず」「學ばず」ではなく、意味の理解を条件としない素読の「眞似ばず」であろう。

と御こたへ被ㇾ成しに、

「一字もくだらず」意味を理解することはおろか、漢字一字をも読むことさえも出来ず。

「立まわる書」周囲に置かれてあった書物。]

譚海 卷之四 江州風俗の事

江州風俗の事

○近江湖(あふみのうみ)の土を、村民夏に至ればとりて、日にほしかためて火入(ひいれ)にいゝるに、炭の如くよく火をたもつ也。その名をすくもと云。又同國鏡の宿に源九郞義經の住宅今に殘りて有、その地の神主の宅地の内にあり。此所に鏡の宿の長(をさ)の子孫といふものも有、またゑこまの德勝寺といふ禪寺有、卽(すなはち)ゑこまといふ所は淺井家の領地にして、淺井三代の墓も此寺にあり、御朱印二百石の寺也。長澤といふ所に福田寺(ふくでんじ)といふ本願寺派あり、開山は淺井家の臣にて、德勝寺の旦那也。今は京都より藤浪殿御子息住職にて華麗なる事なり。又高宮には金光寺といふ本願寺派あり。是も開山は高宮三河守とて、淺井家の味方せし人の末也。太閤秀吉公若年の時、此金光寺に奉公せられしよし、其時の自筆の日記什物にて今にあり。太閤若年よりなでしこを愛せられしとて、はしかたしごきといふ事、今にことわざにいひ傳ふ。金光寺は元來淺井家草創の寺也。又長濱といふ所に大通寺とて本願寺派有、開山は後鳥羽院の御末にて、播磨の御房と申(まうす)人の御弟子也、此末寺八百箇寺に及べり。その内に毛坊主と稱するもの有、頭をざんぎりの如くして、衣を着し妻帶にして、一村の旦那寺の事を取行ふ、毛坊主村とて一村有。

[やぶちゃん注:「火入」煙草などの火種を入れておく小さな器。

「すくも」葦や萱などの枯れたもの。一説に藻屑或いは葦の根とも。

「鏡の宿」平安時代から見える近江国蒲生郡鏡山の北(現在の滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡。グーグル・マップ・データ)にある東山道の宿駅。早朝に都を出た旅人の多くが最初の宿泊地とした。「平治物語」で源義経が自ら元服した地として知られる。承安四(一一七四)年三月三日、十六歳であった遮那王(牛若丸)は、稚児として預けられていた鞍馬寺を出奔し、その日の晩、この鏡の宿に到着すると、夜も更けてから、自分で髻(もとどり)を結い、懐から取り出した烏帽子を被って元服したとされる。成人した名を付ける烏帽子親もいないかったことから、自ら「源九郎義経」と名乗ったとされる(以上は概ね当該ウィキに拠った)。

「源九郞義經の住宅今に殘りて有、その地の神主の宅地の内にあり」この場所は現在の鏡神社(前記同地に所在)の近くと考えられる(後注参照)。「竜王町観光協会」公式サイトの「鏡神社」の解説に、『垂仁(すいにん)天皇の御代(紀元元年)に帰化した新羅(しらぎ)国の王子天日槍(あめのひぼこ)の従人がこの地に住んで陶芸、金工を業とするに及び祖神として彼を祀ったことに始まり、のち近江源氏佐々木氏の一族鏡氏が崇敬して護持(ごじ)したと伝えられています』。『本殿は三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)、こけら葺(ぶき)で南北朝時代の建築で国の重要文化財に指定されています』とあり、さらに『源義経(みなもとのよしつね)元服のおり参拝』をした神社とし、『鞍馬をこっそり抜け出した牛若丸は兄頼朝を尋ねんと、奥州の金売り吉次と下総の深栖(ふかす)の三郎光重が子、陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同伴して東下りの途中近江の「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥傳(さわやでん)」の屋敷に泊まります』。『平家の追っ手が探しているのを聞き、稚児(ちご)姿で見つかりやすいのを避けるために元服することを決心します』。『そこで地元「鏡」の烏帽子屋五郎大夫(ごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子(えぼし)を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし』、『元服をしたと伝えられています』。『自らが鳥帽子親となって名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)と名乗り、源氏の祖である新羅大明神(しらぎだいみょうじん)と同じ天日槍(あめのひぼこ)を祀る鏡神社へ参拝し、源氏の再興と武運長久を祈願したのでした』とした後、『源氏は新羅系、平家は百済系と言われています』と注する。『鏡神社の参道には義経が参拝したときに松の枝に鳥帽子をかけたとされる鳥帽子掛けの松があります』ともある。恐らくグーグル・マップの同神社のサイド・パネルのこちらの切株がそれらしい。

「鏡の宿の長」前注の引用に出るところの澤彌傳であろう。同じく「竜王町観光協会」の「源義経宿泊の館「白木屋」(しらきや)跡」の解説に、『本陣の東隣りが「源義経宿泊館跡」で現在は畑地となっており、中央に石碑が建てられています』。『京都の鞍馬寺より奥州下向の途中、近江の「鏡の宿」(滋賀県竜王町)に着いた牛若丸一行は、当時の宿駅の長(おさ)であった澤弥伝』『の「白木屋」の旅籠に泊まりました』。『源九郎義経となる義経誕生の地です』。『写真のような藁葺きの屋根でしたが』(旧写真有り)、『現在は台風のため』、『壊れてしまい、取り除かれて石碑のみとなっています』。昭和三十『年代までは義経にあやかる男児の「とがらい祭り」』(サイト「祭の日」のこちらによれば、毎年十二月第二の午の日に鏡の宿で元服した源義経を忍び、子供と老人が語り合う祭りで、義経の御霊を招き奉る「湯たて神楽」や神事を行った後、子供たちが、鐘と太鼓を打ち鳴らし、「とうがらい、まあがらい、まぁがあったらとうがらい」と大声で囃しながら里山を練り歩く、その囃子から「とがらい祭り」と呼ばれるようになったとあり、この囃言葉は、当時の宿場町としての鏡の白木屋などの宿屋が、客引きのために「泊まらい、まあ上がらい、まあ上がって泊まらい」と言っていたのが起源とされているとある)『の斎場として使われていました』。『烏帽子屋五郎大夫の屋敷は廃絶し』、今は『民家裏側の竹やぶになっています』とある。位置はサイト「4travel.jp」の「白木屋跡」にあるグーグル・マップで確認出来る。グーグル・ストリートビューのここ。鏡神社の東北東百六十メートルほどの位置である。

「ゑこまの德勝寺」現在の滋賀県長浜市平方町にある曹洞宗徳勝寺。前身は応永年間(一三九四年~一四三八年)に東浅井郡上山田村(現在の長浜市小谷上山田町)に建立された医王寺で、小谷城内に移って浅井氏の菩提寺となったが、浅井氏の滅亡によって長浜城内に移り、江戸時代に長浜城下に、また、移転した。境内には浅井亮政・久政・長政の浅井三代の墓がある(ここまではサイト旅マガジン「プレスマンユニオン」のこちらに拠った)。冠してある地名「ゑこま」の現在地は不詳で漢字表記も判らない。津村が「淺井三代の墓も此寺にあり」と書いているからには、長浜市或いは平方町の旧名でなくてはならないはずだが、判らない。

「長澤といふ所に福田寺といふ本願寺派あり」滋賀県米原市長沢にある浄土真宗本願寺派布施山福田寺(ふくでんじ)。「長沢御坊」とも称される。サイト旅マガジン「プレスマンユニオン」のこちらによれば、『開創当時は布施寺と』称し、『現在の長浜市布施町にあり、三輪法相宗(みわほっそうしゅう)に属し』『たが、後に天台宗となり、鎌倉時代末に今の浄土真宗本願寺派に改められ』、『現在地に移ったのは南北朝時代で』あるとする。『朝廷と関わりの深かった近江の豪族・息長氏(おきながうじ)の菩提寺でもあったことから』、『息長寺とも呼ばれて』おり、『息長氏は、古代、伊吹山山麓で製鉄にかかわったといわれる豪族で』三『世紀の後半』から六『世紀にかけて大和朝廷に皇后を送り込』んだ有力豪族で『米原市の近江町には息長氏の古墳が残されてい』るとある。寺の『南庭は』『国の名勝に指定され』ており、『浅井長政寄進の室町時代前期の石灯篭も優れたもの』であるとあることで、浅井と繋がった。但し、「德勝寺の旦那」はいいとしても、「開山は淺井家の臣」とするのは不審である。再興したのが、その人物というのならば、まだ、判るが。

「藤浪殿」不詳。

「高宮には金光寺といふ本願寺派あり」滋賀県彦根市葛籠町(つづらまち)にある浄土真宗本願寺派金光寺。東北直近が旧高宮宿である。

「高宮三河守」高宮城主高宮三河守頼勝。浅井長政に仕えたが、後に織田信長に応じた。

「太閤秀吉公若年の時、此金光寺に奉公せられしよし、其時の自筆の日記什物にて今にあり」こうした事実や、それらが現存するかどうかも、ネット上では全く確認出来ない。

「太閤若年よりなでしこを愛せられしとて、はしかたしごきといふ事、今にことわざにいひ傳ふ」全く不詳。「はしかたしごき」の意味も諺というのも丸で判らない。お手上げ。

「長濱といふ所に大通寺とて本願寺派有」滋賀県長浜市にある真宗大谷派別院無礙智山(むげちざん)大通寺。「長浜御坊」「御坊さん」と呼ばれる。やはり、サイト旅マガジン「プレスマンユニオン」のこちらに、慶長七(一六〇二)年に本願寺第十二代『教如(きょうにょ)を開基として長浜城内に長浜御堂を創建』されたが、『翌年、慶長』八(一六〇三)年に『本願寺は東西に分立』、『その後、長浜城の廃城に伴って大通寺(長浜御坊)も』慶安四(一六五二)年に『現在地に移転し』たとする。『もともと湖北は、蓮如』『が他力念仏の教えを広める布教活動の拠点だった地』であり、『真宗王国と呼ばれた湖北三郡(坂田、浅井、伊香)の中心道場であった総坊を前身として、長浜城内に長浜御堂を創建した』。『寺伝によれば、入母屋造りの本堂(阿弥陀堂)と書院造りの大広間(附玄関)は、伏見城の建物を徳川家康から東本願寺』の『教如へと寄進されたもので、本願寺(東本願寺)の御影堂として用いたものを、承応年間』(一六五二年〜一六五四年)『に移建したものと』されるとある。

「播磨の御房」不詳。

「毛坊主」「真宗大辞典」の「毛坊主」よれば、『普段は妻子とともに生活し、農林業などを営んでいるが、俗人のままで僧侶の役をする者。近世には、山深く、近くに寺僧がいない所では、そうした家筋があった。俗家の一間を道場とよび、大津絵の十三仏や弥陀の画像、名号などをかけ、袈裟を着て』、『経を読み』、『念仏を称えて、死者を葬した。髪を伸ばした俗人が導師となって弔うので』、『このように称したが、正規の僧ではない』。「本朝俗諺志」四や「笈埃随筆」などを見ると、『飛驒にみられたことが出ている。近江や安芸』『にもそのような道場があって』、『一向宗の手次坊主』(てつぎぼうず:農民・町人などが僧形になって仏事を行う者を指す)『となっていた。この毛坊主の前身は』、『古代から存在した在俗性の強い聖(ひじり)であった』。「日本霊異記」や「三州俗聖起請十二箇条事」などに『出てくる、得度をしない半僧半俗の民間宗教者がそれである。有髪に袈裟を着た法師が俗間に遊行するものもあり』、『彼らをも毛坊主といえないことはない』とある。

「毛坊主村」確認不能。非差別的な臭いがする。]

怪談老の杖卷之一 紺屋何某が夢

 

   ○紺屋何某が夢

 江戶赤坂傳馬町に、京紺屋なにがしといふ者、弟子一人に、夫婦にてくらしける。自分は藍瓶(あゐがめ)にかゝり、弟子は豆をひき、女房は、しいしをはりなど、いとまなくかせぐをのこ有(あり)。

[やぶちゃん注:「赤坂傳馬町」現在の東京都港区元赤坂一丁目内にあった旧町名(グーグル・マップ・データ)。由来と旧町名の対応された地図のある港区赤坂地区総合支所作製の「赤坂地区旧町名由来板」PDF)も参照されたい。

「豆をひき」藍染めの初期工程の一つに「呉入(ごい)れ」といって、大豆を絞った液で引き染めすることで、糊の表面を補強するとともにに藍の染付をよくする作業がある。秩父の「齋藤染物店」公式サイトの「製作工程」で確認した。

しいしをはり」。上記のページに次の工程として「伸子がけ(しんしがけ)」がある。「伸子」は「籡」とも書き、読みは「しいし」「しし」とも呼ぶ。布の染色や洗い張りの際に用いる両端に針の附いた竹製の細い串。竹の弾力を利用して布幅を張り伸ばすように、布の両縁に跨らせて刺し留める器具。古くは串の両端を細く尖らせて用いた。]

 十一月ごろの事なり。外より來れる手間取[やぶちゃん注:手間賃を貰って雇われている通いの使用人。]共は、おのが宿々へ歸り、でつちは釜の前に居眠(ゐねむる)まゝに、女房、ふとんをかけ、火などけし、一人のおさなきものにしゝなどやりて[やぶちゃん注:「しゝ」は小便の幼児語。おしっこをさせて。]、しほたう[やぶちゃん注:底本は右にママ傍注。思うに「しをへた」(仕終へた)「しまふた」(仕舞ふた)という意味の口語表現の写し取りを誤ったものであろう。]と、たすき、前だれときて、添乳のまゝに寐入りぬ。亭主は染ものまきたて、あすの細工の手配り、帳面のしらべなどして、九ツ過[やぶちゃん注:午前零時過ぎ。]にやすみけるが、暫くありて、さもくるしき聲にてうめきけるを、女房、ゆりおこして、

「いかに、恐ろしき夢にても見給ひたるや。」

といふに、心づきて、

「扨も、恐ろしや。」

と、色靑ざめ、額に汗をくみ流して語るやう、

「四ツ谷の得意衆まで行て歸るとて、紀伊の國坂の上にて、侍に逢しが、

『きみあしき男かな。』

とおもふうち、刀を引ぬきて追かけしまゝに、

『命かぎりに逃(にげ)ん。』

として、おもはず、おそはれたり。やれやれ、夢にて、ありがたや。誠の事ならば、妻子ども、長き別れなるべし。」

と、わかしざましの茶などのむで、むね、なでおろし居(ゐ)る處に、門の戶を、

「ほとほと」

と、たゝく音するを、

「今頃に何人(なんぴと)ぞ。」

と、とがとが敷(しく)とがめければ、

「いや、往來の者なるが、御家内に、あやしき事はなく候や。火の用心にかゝる事ゆゑ、見すぐしがたく、告知(つげし)らせ候。」

と、いひけるに、亭主も、いよいよ恐ろしけれど、

『戶はしめて、貫(ぬき)の木をさしければ、きづかひ無し。』[やぶちゃん注:「ければ」は既にちゃんとそうして「あるので」の意。]

と、さしあしして、すき合より覗きみれば、夢のうちに、我を追かけし侍なり。

 あやしさ、いはんかたなく、

「何事にて候。」

と尋けれぱ、

「われら、きの國坂の上より、ちやわんほどの火の玉を見つけて、あまりあやしく候間、切割(きりわら)んと存(ぞんじ)、刀をぬきけれぱ、此玉、人などの逃(にぐ)るごとく、坂をころびおちて、大路をまろび、此家の戶の間(あひだ)より、内へ入り候ひぬ。心得ずながら、行過(ゆきすぎ)候が、時分がら、火事にてもありては、外々(ほかほか)の難儀なるべしと、屆け置(おき)候なり、かはる事なくば、其分なり、。心をつけられよ。斷申(ことわりまうし)たるぞ。」

と云ひすてゝゆき、四、五間[やぶちゃん注:七~九メートルほど。]も行過て、聲よく、歌などうたひて、さりぬ。

「扨は。わが魂のうかれ出たるを、火の玉とみて、追はれし物ならん。あやぶかりし身の上かな。」

と、夫婦ともに神棚など拜して、その夜は日待(ひまち)同前に夜を明(あか)しぬ。

 夢は、晝のおもひ、夜の夢なれば、さる事あるべき道理はあるまじと思へど、天下の事、ことごとく理(り)を以て、はかりがたき事、此類(たぐひ)なり。是はうける事にあらず。しかも、いと近きもの語りなり。

[やぶちゃん注:最終部は少し意味をとり難い。「夢というものは、当人が昼の覚醒時に感じたことが、夜の夢となって現れるに過ぎないから、そのような怪異が起こったこととの因果関係はあるはずがあるまいとは思われるが、この世に起ることは、総てが論理的に考察し得、説明出来るものではないという事実こそ、こうした事例を物語るものである。されば、そうした怪異を理路整然と解釈することは受け入れられるものではない」という意味であろうととっておく。

 さても本篇は江戸市街の、筆者の今現に書いている折りの直近の怪異譚と言うことから、典型的なアーバン・レジェンド(都市伝説)であって、しかも、その怪異出来のロケーションが「紀伊の國坂」(グーグル・マップ・データ)であって、まさに「小泉八雲 貉 (戸川明三訳) 附・原拠「百物語」第三十三席(御山苔松・話)」(リンク先は私の原拠附きの電子化注)で知られた強力なゴースト・スポットであることからも、民俗社会的には定番とも言える話ではある(但し、何らの新味もなく、ちょっとしょぼいのが残念であるが)。なお、先行する私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「ノツペラポウ」 附 小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)』では、小泉八雲の原文も電子化してあるので参照されたい。]

2021/02/24

「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注(PDF縦書版)公開

『「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注』PDF縦書版をサイトの「心朽窩旧館」に公開した。

「南方隨筆」底本 南方熊楠 秘魯國に漂著せる日本人 正字正仮名・附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:標題は「ペルーこくにへうちやくせるにほんじん」と読む。初出は大正元(一九一二)年十月発行の『人類學雜誌』第二十八巻十号で、初出は「J-Stage」のこちらで原雑誌のそれを読むことが出来る。底本は国立国会図書館デジタルコレクションのここからである。これは「南方隨筆」の先の論文などが載る『東京人類學雜誌』が正しいのではないかと思われる方がいるかも知れぬので言っておくと、『東京人類學雜誌』は明治四四(一九一一)年に会誌名を『人類學雜誌』と改めており、編集方針も大きく変わっていた。]

 

      秘魯國に漂著せる日本人

 

 英譯 Ratzel, ‘The History of Mankind,’ 1896,vol. i, p. 164 に、東西南半球間過去の交通を論じ、「日本と支那より西北亞米利加に漂著せる人あり。又米國の貨品が布哇[やぶちゃん注:「ハワイ」。]に漂著せる例あり。然れども南半球に至りては、高緯度に有て風と潮流が西より南米大陸に向ひ、赤道近くに隨ひ、風潮並びに南米より東方に赴き去り、凡て東半球と南米間に人類の彼此往來ありし確證實例なし。たゞ民俗相似の點多きより推して、曾て斯る交通有たるを知るのみ」と述たり。

[やぶちゃん注:「Ratzel, ‘The History of Mankind,’ 1896,vol. i, p. 164」ドイツの地理学者・生物学者フリードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:当時、隆盛であった社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖でもある)の「民族学」(Völkerkunde:全三巻。一八八五年)の第一巻の英訳本。当該英訳原本を‘Internet archive’で読め、当該箇所はこちら(左ページ)である。

 以下の段落は底本では全体が一字下げである。]

 未開の民が、風と潮流に逆うて弘まり行きし例あるは、第二板「エンサイクロペヂア・ブリタンニカ」卷二十二、三四頁に、多島海人[やぶちゃん注:ポリネシア人。]、古へ航海に長じ、其邊の風と潮流主として東よりすれども、時に西よりする事有るを利用し、印度洋島より發程して、遂に遠く多島海諸島に移住せる由を言へり。Daniel Wilson, ‘Prehistoric Man,’ 1862, ch. vi & xxv. に、南太平洋に太古今よりも遙かに島數多かりしが、漸々海底に沈みし由を論じ、多島海人が往昔航海術に長ぜる記述に及ぼし、人間が東半球より西半球に弘まりしは、第一に多島海より南米に移りて秘魯中米等の開化を建立し、第二に大西洋を經て西印度中米「ブラジル」等に及ぼし、第三に「ベーリング」海峽及び北太平洋諸島より北米に入りし者の如しと說きたり。

[やぶちゃん注:『「エンサイクロペヂア・ブリタンニカ」卷二十二、三四頁』一七六八年に初版が発行された英語で書かれた百科事典「ブリタニカ百科事典」(表記はラテン語で‘Encyclopædia Britannica’)。第二版はスコットランドの著述家、航空のパイオニアであったジェームズ・タイトラー(James Tytler 一七四五年~ 一八〇四年)の編集になり、一七七七年から一七八四年にかけて刊行された。これもやはり、‘Internet archive’のここで当該部分(左ページ)が読める。

「Daniel Wilson, ‘Prehistoric Man,’ 1862, ch. vi & xxv.」スコットランド生まれのカナダの考古学者・民族学者・作家ダニエル・ウィルソン(一八一六年~一八九二年)の「先史時代の人間」。一八六二年刊。原本は、やはり‘Internet archive’のこちらで読める。

 以下、本文位置へ戻る。]

 今東半球の赤道以北よりすら、甞て南米に漂著せる人の絕無ならざるを證する爲に、予の日記の一節を略ぼ原文の儘寫し出す事次の如し。

 明治二十六年七月十一日夕、龍動市「クラパム」區「トレマドク」街二十八番館主美津田(みつた)瀧次郞氏を訪ふ。此月六日、皇太孫「ジヨールジ」(現在位英皇)の婚儀行列を見ん迚、「ビシヨプスゲイト」街、橫濱正金銀行支店に往し時相識と成し也。此人武州の產、四十餘歲、壯快なる氣質、足藝を業とし、每度水晶宮等にて演じ、今は活計豐足すと見ゆ。近日西班牙に赴き興行の後歸朝すべしと云ふ。子二人、實子は既に歸朝、養子のみ留り在り、其人日本料理を調へ饗せらる。主人明治四年十一月本邦出立支那印度等に旅する事數年、歸朝して三年間京濱間に興行し、再び北米を經て歐州各國より英國に來り、三年前より今の家に住すと云々。旅行中見聞の種々の奇談を聞く。西印度諸島等の事、大抵予が三四年前親く見し所に合り、氏秘魯國に住しは明治八年十二月にて、六週間計り留りし内奇事有り。平田某次郞と云ふ人、七十餘歲と見え、其甥三十餘と見えたり。此老人字は書けども、本朝の言語多く忘却しぬ。美津田氏一行本邦人十四人有て、每日話し相手に成し故、後には九分迄本邦の語を能する[やぶちゃん注:「よくする」。]に及び、此物彼品を日本にて何と言りや抔問たり。兵庫邊の海にて、風に遭ひ漂流しつ。卅一人乘たる船中三人死し、他は安全にて秘魯に著せり。甥なる男當時十一歲なりし。

[やぶちゃん注:「明治二十六年」一八九三年。南方熊楠は明治一九(一八八六)年十二月二十二日に横浜港より渡米し(満十九歳)、六年後の一八九二(明治二十五)年九月にイギリスに渡った。この年には科学雑誌『ネイチャー』(NATURE)十月五日号に初めて論文‘The Constellations of the Far East’(「極東の星座」)を、同十月十二日号には‘Early Chinese Observations on Colour Adaptations’(「動物の保護色に関する中国人による先駆的観察」)を寄稿している。

「龍動」ロンドン」。

『「クラパム」區』Clapham。クラパム。南ロンドンの広域地区名。

「トレマドク」底本は「トレマドリ」。初出で訂した。Tremadoc。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に「トレマドック通り」がある。

「美津田(みつた)瀧次郞」ルビは底本では「みつだ」とあるが、初出及び「選集」は「みつた」であり、「南方熊楠 履歴書(その5) ロンドンにて(1)」(私の五年前の電子化注)でも「みつた」とルビするので特異的に訂した。そこで私は美津田瀧次郎(嘉永二(一八四九)年?~?)は足芸(あしげい:仰向いて寝て挙げた足だけで樽や盥などを回したりする曲芸)を得意としたサーカス芸人で、「南方熊楠コレクション」(河出文庫)の注によれば、南方熊楠の明治二六(一八九三)年『七月の日記に「美津田滝次郎を訪、色々の奇談をきく」とあるように、しばしば親交を結んだという注した後、本篇のこの前後を初出で電子化している。

『皇太孫「ジヨールジ」(現在位英皇)』後のウィンザー朝初代君主イギリス国王ジョージⅤ世(George V 全名:ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート:George Frederick Ernest Albert 一八六五年~一九三六年)。一八九三年七月六日にメアリー・オブ・テック(Mary of Teck 一八六七年~一九五三年:現女王エリザベスⅡ世の祖母)と結婚した。

「ビシヨプスゲイト」Bishopsgate。ロンドンのビショップスゲート地区。この通り

「橫濱正金」(しやうかね(しょうかね))「銀行支店」明治一三(一八八〇)年に「国立銀行条例」に基づいて設立された貿易金融専門銀行。資本金三百万円の三分の一は政府の出資。明治三〇(一八九七)年には「横浜正金銀行条例」により特殊銀行に改組され、「日露戦争」以後、満蒙で植民地銀行の役割も果たした。世界各地に支店を置き、昭和に入って政府の為替統制機関となった。ロンドン支店は明治一六(一八八四)年十二月一日開業。

「水晶宮」The Crystal Palace。原型は一八五一年にロンドンのハイド・パークで開かれた「第一回万国博覧会」の会場として建てられた建造物。造園家・建築家であったジョセフ・パクストン(Joseph Paxton  一八〇三年~一八六五年)の設計になり、鉄骨とガラスで作られた巨大な建物で、プレハブ建築物の先駆ともされる。パクストンの設計では長さ約五百六十三メートル、幅約百二十四メートルのであった(「水晶宮」という名称はイギリスの雑誌『パンチ』(PUNCH)御用達の投稿者であった劇作家で作家のダグラス・ウィリアム・ジェロルド(Douglas William Jerrold)が名づけた)。参考にしたウィキの「水晶宮」によれば、『万博終了後は一度解体されたものの』、一八五四年には『ロンドン南郊シデナムの丘において、さらに大きなスケールで再建され、ウィンター・ガーデン、コンサート・ホール、植物園、博物館、美術館、催事場などが入居した複合施設となり、多くの来客を集めていた』。しかし、一八七〇『年代頃から人気に陰りが見え始め』、一九〇九『年に破産し』、『その後は政府に買い取られ、第一次世界大戦中に軍隊の施設として利用され、戦後』に『一般公開が再開されたが』、一九三六年十一月に『火事で全焼して』再建されなかったとある。

「活計豐足す」「かつけいほうそくす」。生活は満ち足りている。

「明治四年十一月」本邦では明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)まで太陰太陽暦(旧暦)を採用していたため、西暦とはズレが生じる。熊楠が換算している可能性は限りなく低いから、この月は旧暦十二月一日はグレゴリオ暦では一八七一年十二月十二日で、晦日(この年は小の月で十一月二十九日)は一八七二年一月九日である。

「平田某次郞」「某」はママ。こんな名は聴いたことがない。熊楠は正確な名をその場では聴いたが、覚えていなかったから、かく記したものかも知れない。]

 其後他は盡く歿し、二人のみ殘り、老人は政府より給助され、銀行に預金して暮し、甥は可なり奇麗なる古着商を營み居れりと。老人も、以前は手工を營みし由、健全長壽の相有て、西班牙人を妻れりと[やぶちゃん注:「めとれりと」。]、其乘來りし船は、美津田氏一行が著せし三年前迄、公園に由來を記して列し有りしが、遂に朽失せぬ。美津田氏一行出立に臨み、醵金して彼人に與へ、且つ手書して履歷を記せしめ、後桑港[やぶちゃん注:「サンフランシスコ」。]に著するに及び、領事館へ出せしに、秘魯政府に照會の上送還せしむべしと也。以後の事を聞き及ばずと云ふ。一行「リマ」市を立ち離るゝ時、老人も送り來り、名殘惜げに手巾を振り廻し居りしと、美津田氏ら桑港に著せし時、在留の邦人纔に三人、領事柳谷と云ふ人親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]旅館へ來訪されたり云々。

[やぶちゃん注:「醵金」「きよきん(きょきん)」。ある目的のために金を出し合うこと。

「領事柳谷」在サンフランシスコ日本領事館の開設は明治三(一八七〇)年の秋で、明治九(一八七六)年に最初の日本人領事柳谷謙太郎が着任している(その間はアメリカ人が代理を務めた。以上は「在サンフランシスコ日本国総領事館」公式サイト内の歴史記載に拠った)。

 以下の一段落は、底本では全体が一字半下げでポイント落ち。]

 美津田氏は、質直不文の人なれど[やぶちゃん注:「ど」は底本は「ば」であるが、初出で訂した。]、假名付の小說を能く讀みたり、其談話は一に記憶より出し故に、誤謬も多少有るべきと同時に、虛構潤色を加ること無しと知らる。又予が日記には書かざれど、確かに美津田氏の言として覺ゆるは、件の老人に歸國を勸めしに、最初中々承引せず。吾等既に牛肉を食ひたれば身穢れたり。日本に歸るべきに非ずと言ひしとか。

[やぶちゃん注:「質直」「しつちよく(しっちょく)」は地味で真面目なさま。質朴。

「不文」正規の日本の教育を殆んど受けていなということ。

「吾等既に牛肉を食ひたれば身穢れたり。日本に歸るべきに非ず」平田老人のこの言葉、何か私は頭が下がる思いがする。

 以下、本文に戻る。]

 件の美津田氏は、その後二子(共に養子也。日記右の文に一人は實子とせるは謬り也。)俱に違背して重き家累を生じ、自ら[やぶちゃん注:「おのづから」。]歸朝するを得ず。更に「もと」と名づくる一女(邦人と英婦の間種、芳紀十五六、中々の美人也)を養ひ、龍動に二三年留り居[やぶちゃん注:「をり」。]、予も一二囘訪しが、其後の事を知らず。右の日記に書留めたる外にも、種々平田父子の事を聞きたるも、予只今記憶惡く成て、一筆を留めざるは遺憾甚し。近頃柳田國男氏に問合せしに、柳谷謙太郞氏明治九年十月九日より十六年三月三十一日迄、桑港領事として留任せりと答へらる。因て考るに、美津田氏一行、九年正月中「リマ」を出立し、諸方を興行し廻り、其年十月後桑港に著きたるならん。「ブラジル」「アルゼンチン」等に到りし話も聞きたれば、斯く思はるゝ也。

[やぶちゃん注:南方熊楠は事実関係をしかり確認している。

「家累」(かるい)は家族内の悩み事。「違背」とあるから、犯罪に近い非行を働いてしまったものか。]

 序に述ぶ、右の日記二十六年七月二十二日の條に「美津田氏宅にて玉村仲吉(ちうきち)に面會す。埼玉縣邊[やぶちゃん注:「あたり」。]の人。少時足藝師の子分と成り、外遊中病で置去られ、阿弗利加沿岸の地諸所多く流寓、十七年の間、或は金剛石[やぶちゃん注:「ダイヤモンド」。]坑に働き、又「ペンキ」塗り抔を業とせし由、「ズールー」の戰爭に英軍に從ひ出で、賞牌三つ計り受用すと。予も其一を見たり。白蟻の大窠等の事話さる。日本語全く忘れしを、近頃日本人と往復し、少しく話す樣に成れりと。龍動の西南區に英人を妻とし棲み二年有りと也」と有り。所謂「ズールー」の戰爭は、明治十二年の事にて、「ナポレオン」三世の唯一子、廿三歲にて此軍中蠻民に襲はれ犬死せり。當時從軍の玉村氏廿歲計りの事と察せらる。日本人が早く南阿の軍に加はり、多少の功有りしも珍しければ附記す。明治二十四年頃、予西印度に在りし時京都の長谷川長次郞とて、十七八歲の足藝師、肺病にて「ジヤマイカ」島の病院にて單身呻吟し居たりし。斯る事猶ほ多からん。

         (大正元年十月人類二八卷)

[やぶちゃん注:「金剛石」ダイヤモンド。

『「ズールー」の戰爭』英語‘Anglo-Zulu War’は一八七九年にイギリス帝国と南部アフリカのズールー王国(インド洋の沿岸部に十九世紀に南アフリカ東海岸部に建国された君主国。十九世紀初め、ズールー族の王となったシャカが軍事組織と武器を改革し、周辺の部族を次々と統合して、一八二四年にはポート・ナタール(現在のダーバン)のイギリス人入植者と友好関係を結んで、鉄砲を入手し、それを使って、さらに王国の版図を広げた。一八二八年には異母弟のディンガネがシャカを殺して王位に就き、さらに領土の拡大を図った)との間で戦われた戦争。この戦争は幾つかの血生臭い戦闘と、南アフリカに於ける植民地支配の画期となったことで知られる。イギリス植民地当局の思惑により、本国政府の意向から離れて開戦したものの、英国軍は緒戦の「イサンドルワナの戦い」で、槍と盾が主兵装で火器を殆んど持たなかったズールー軍に大敗を喫し、思わぬ苦戦を強いられた。その後、帝国各地から大規模な増援部隊が送り込まれ、「ウルンディの戦い」で近代兵器を用いたイギリス軍が王都ウルンディを陥落させ、勝利し、ズールー国家の独立は失われた(以上はウィキの「ズールー戦争」に拠った)。

「大窠」(だいくわ(だいか))は大きな巣のこと。

『「ナポレオン」三世の唯一子』父ナポレオンⅢ世の嫡出子でフランス第二帝政時代の皇太子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(Napoléon Eugène Louis Bonaparte 一八五六年~一八七九年)。父ナポレオンⅢ世に溺愛されたという。「普仏」戦争の初期、フランス軍が各地で劣勢となり、ナポレオンⅢ世は捕虜となり、一八七〇年九月二日から四日までの二日間だけ、彼が表面上の政務を取り仕切ったが、その四日、パリで民衆の暴動が起こり、九月六日にイギリスへ亡命した。イギリスでは砲兵学校に入学し、好成績で卒業、ヴィクトリア女王に愛称の「ルル」で呼ばれて寵愛され、末娘ベアトリス王女との縁談も持ち上がるほどであった。イギリスへの恩返しとして「ズールー戦争」に従軍、ズールー族の襲撃を受けて戦死した。子はなく、ナポレオンⅢ世の直系は絶えた(以上は彼のウィキに拠った)。

「明治二十四年」一九〇一年。

「長谷川長次郞」詳細事績不詳。]

怪談老の杖 電子化注 始動 / 序・目次・卷之一 杖の靈異

 

[やぶちゃん注:「怪談老の杖」は底本(後述)の朝倉治彦氏の「後記」によれば、序文からの推定で宝暦四(一七五四)年、元は友人で文人御家人・狂歌師の大田蜀山人の旧蔵書(途中に二箇所の大田の識語がある)「平秩東作全集」の下巻の一部であるらしい。

作者平秩東作(へづつとうさく 享保一一(一七二六)年~寛政元(一七八九)年)は戯作者・狂歌師・漢詩人。姓は立松。名は懐之(かねゆき)。平秩東作は戯号。号に東蒙山人。内藤新宿生まれ。父道佐は元尾州藩士で、屋号を稲毛屋金右衛門と名乗った。東作が十歳の時に父が亡くなり、十四歳で父の後を継いで、馬宿(うまやど:自分の馬で旅をする者が宿に泊まる際、その馬を宿で預かったり、馬を預かる設備のある宿屋を営むこと)及び煙草商になった。漢文学や和歌の教養があり、平賀源内(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年)と親交を持った。天明三(一七八三)年から翌年までは松前と江差に滞在しており、アイヌ風俗及び蝦夷地風土について見聞したところを記した「東遊記」を著しており、狂歌師としても知られ、四方赤良(よものあから:大田(蜀山人)南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)の狂号)らとも交友を持った。田沼意次絡みの幕府関連事業にも手を染めたが、「寛政の改革」によって幕府の咎めを受けており、そちらの実業面では「山師」的な側面をも持っていたようであるが、一方で、知己であった旗本土山(つちやま)宗次郎が買米金五百両を横領で逐電した際には彼を匿って捕縛されたり(宗次郎は斬首)、平賀源内が獄死した後、罪人なれば、遺体の引き取り手のなかった中、公儀に目をつけられることを覚悟の上で、東作が引き取ったともされ、一種、男気のある人物でもあった。

 底本は「燕石十種」(大正二(一九一三)年国書刊行会刊明治45-正字正仮名)の国立国会図書館デジタルコレクションの画像としたが、所持する同書の昭和五六(一九八一)国書刊行会刊「新燕石十種 第五巻」(新字正仮名)をOCRで読み込み、加工データとしつつ、校合した。

 本文にはごく僅かにルビが附されてあるので、それは《 》で示し、難読と判読した箇所には私の推定で歴史的仮名遣で( )で読みを附した。序を除く本文では、段落を成形し、句読点や記号も変更・追加した(底本は読点のみで句点はない)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。注はストイックに附した。【2021224日 藪野直史】]

 

  怪談老の杖

 

  怪談老の杖序

            平 原 子 編 輯

逍遙軒太田翁は、持資入道の遠裔にして、世(よゝ)控弦(こうげん)の家なり、壯なりし時は、豐後の國の城主に仕(つかへ)て、食祿三百石を賜り、威焰(いえん)手をあぶる勢なりしが、主侯うせ給ひて、其後睚眦(がいさい)の士多く、その口語に中(あて)られて、藩邸を退き、葛飾の邊に閉居して、奉祿の餘りありて、豐(ゆたか)に暮されしが、池魚の災(わざはひ)に逢ふ事、しばしば、生產漸(やうやく)盡きて、城西の膝子(ひざこ)驛にうつり、門を杜(とぢ)て出ざる事二十餘年、性、淸潔にして世に謟(へつら)はず、文武の業に精(くは)しかりければ、武邊の物語を好み、又怪異の話を嗜(たしな)みて、明暮、是を娛(たのしみ)とせり、若き頃、西海の往返(わうへん)年を重ね、爰かしこの奇談をしるしおかれけるが、老後の著述を合せて、頗る卷(かん)帙(ちつ)をなせり、翁八十にちかくて終り給ひぬ。歿後、その書、散逸して全(まつた)からず。一婢あり、幼(いとけなき)より翁に事(つか)へて恭敬(きやうけい)衰へず、のち、尼となりて、好運尼とよべり。こころざま、誠ありて、手など、拙(つたな)からず書(かき)けるが、反古堆(ほぐつい)の中(うち)より、ひとつ、ふたつと、求めいでゝ、箱のうちに祕めおきしものあり。乞ふてみれば、翁の手澤もなつかしく、また、みん人のこゝろをなぐさめ、善に勸むのはしともならば、翁の志しもむなしからじと、[怪談の卷を集めて]しげきを刪(けづ)り、疑しきを闕(はぶき)て、十あまりの卷となりぬ、書林なにがし、いたく乞ひてやまず、いなみがたくて是を與ふ。翁、姓名を變じては福井氏となり、流憩子と號す。語は淵明が賦中にとれり。此書、まづ、はじめに、杖の怪あるも、そのゑにしなきにあらず、よて、取あへず、老の杖と題し、これが序、かきてつかはす事になりぬ。

  寶曆丙戌の春

                 紫桃軒主人謹誌

[やぶちゃん注:「平原子」「紫桃軒主人」孰れも平秩東作の号。

「逍遙軒太田翁」「福井」「流憩子」本篇の原作者とするが、不詳。

「持資入道」室町後期の扇谷上杉家の家宰にして武蔵守護代で、江戸城の築城で知られる太田道灌(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)の諱(いみな)。

「控弦」弓術。

「豐後の國の城主」小藩が分立した豊後には九つもの藩があるので、特定は不能。最大の石高(七万石)で城持ちとなると、岡藩(藩庁は岡城(グーグル・マップ・データ)。豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)にあった)である。しかも、第一話の主人公がまさに「岡の城外」に住んでいるからして、そこでよかろうか。

「威焰」権勢。

「睚眦」「睚」は「睨む」、「眦」は「まなじり」の意。目を怒らして睨みつけること。憎そうに人を見ること。

「口語」語り合い。ここは前の「睚眦の士」から、分相応の扱いを得られないことへの憤懣の主張や言い争いを指すものと思われる。

「池魚の災」思いがけない災難に巻き込まれること。側杖を食うこと。特に回禄(火事)で類焼に遇うことを指すことが多い。原拠は、「池に投ぜられた宝珠を得ようと池を浚ったため、中の魚が総て死んだ」という「呂氏春秋」の「孝行覧 必己」の故事によるが、語源を語る中では、「城門が焼けた時、池の水を使ったために死んだ」として引用されることが多い。江戸は甚大な大火が多かったから、腑に落ちる謂いである。

「生產」ここは「生活に必要な物資の蓄え」の意。「しやうざん(しょうざん)」とも読む。

「膝子驛」現在の埼玉県さいたま市見沼区膝子(グーグル・マップ・データ)。旧北足立郡膝子(ひざこ)村。江戸時代は立場(たてば:五街道や脇街道に設けられた施設で「継立場(つぎたてば)」「継場(つぎば)」とも称する。江戸時代の宿場は、原則、道中奉行が管轄した町を指すが、五街道などで次の宿場町が遠い場合、その途中に、或いは、峠のような難所がある場合、その難所の近くに休憩施設として設けられたものを立場と称した)として栄えたという。

「杜て」「杜」には「塞ぐ・閉じる」の意がある。

「全(まつた)からず」取り纏めて残ることがなかった。

「好運尼」不詳。当初、この由来そのものが総て架空の話で、本篇は仮託であるように私には思われたが、先の朝倉氏の「後記」に、『巻四の終りの第四話は、福井翁の直話を記してあるから、この条は原稿からの抄出ではあるまい。それに続いて、蜀人が東作から聞いた、幼時の実話が書きそえてある』とされるのを見るに、必ずしも仮託とは言い切れぬ感じがする。

「反古堆」書き散らして定稿としなかった文章片の山。

「手澤」(しゆたく(しゅたく))「手沢本」の略。先人が生前に愛読した本。先人の書き入れなどがある本を指す。

[怪談の卷を集めて]底本では全体が四角で囲われている。この仕儀は以降、このように示し([ ]に下線)向後はいちいち注さない。底本編者に拠る諸本を校合した推定補填と思われる。

「しげき」あまりに煩わしい記載部分を示す。

「十あまりの卷となりぬ。書林なにがし、いたく乞ひてやまず、いなみがたくて是を與ふ」所持する刊本の朝倉氏に「後記」によれば、刊行された事実は見当たらないとある。本篇の巻数も、また、合わない。

「流憩子と號す。語は淵明が賦中にとれり」知られた陶淵明の「歸去來兮辭」の一節に、

   *

策扶老以流憩(扶老(ふらう)を策(つゑつ)き 以て 流憩し)

   *

がある。言うまでもないが、「扶老」は「杖」のことであり、この新たに「逍遙軒太田翁」「福井」氏が号したそれを説明するとともに、本篇の題名「老の杖」の由来も第一話のみならず、それに淵源することを「此書、まづ、はじめに、杖の怪あるも、そのゑにしなきにあらず」と但し書きするのである。

「よて」「依りて」。

「寶曆丙戌」宝暦には「丙戌」(ひのえいぬ/へいじゆつ(へいじゅつ)はない。朝倉氏の「後記」では、太田蜀山人は、「甲戌」で宝暦四年(一七五四年)或いは「丙子」で宝暦六年『と考えて朱を入れているが、甲戌(四年)ではあるまいか』と注されておられ、冒頭注ではそれを採用させて戴いた。

 

 

怪談老の杖目次

 

  卷之一

 杖の靈異

 紺屋何某が夢

 小島屋怪異に逢し話

 水虎かしらぬ

 幽靈の筆跡

 石塔の飛行

 

  卷之二

 半婢の亡靈

 生靈の心得違

 狐鬼女に化し話

 くらやみ坂の怪

 化物水を汲む

 貉童に化る

 多慾の人災にあふ

 

  卷之三

 美濃の國仙境

 吉原の化物

 小豆ばかりといふ化物[やぶちゃん注:底本は「小豆はかり」と清音であるが、本文で「ばかり」と濁っており、所蔵の同書も濁音であるので、特異的に訂した。]

 德島の心中

 慢心怪を生ず

 狐のよめ入

 狸寶劔をあたふ

 

   卷之四

 藝術に至るの話

 厩橋の百物語

 (失題)

 福井氏高名の話

 

 

怪談老の杖卷之一

 

   ○杖の靈異

「ちはやぶる神やきりけんつくからにちとせの坂も越えぬべらなり」

と、よみて、杖はめでたき具なり。されば、費長房が杖は龍と化し、[やぶちゃん注:底本はここに囲み字で『原本缺字』とする。四字分相当。]杖は鶴となりし例(ため)しありといふに、爰にもまた、奇異の物語を傳へぬ。

 豐後の國岡の城外に、物外(ぶつぐわい)といへる隱士あり。もとは諸侯に仕官の身なりしが、心にそまずやありけん、病(やまひ)に託して、身、退き、世をやすく暮しぬ。

 常にまがれる竹の杖を愛して、いづ方へも攜(たづさ)へ出られけるが、そのかたち、ふし、しげく、所々、くびれ、入りて、いとめづらなるさま、[なか杖][やぶちゃん注:所持する刊本ではこの囲み字(則ち、推定で補った欠字)が『なる杖』でこの方がすんなり読めることは事実である。]なりしを、いたく、けふじて、

「謝靈運が笠のためしも引出つべう、おのが心のゆがめるには、よき、いさめ草なり。」

など、愛せるあまり、常にも袋に入れ、あからさまなる處にもおかず、逸樂の身なれば、あるは、釣(つり)、たれ、野山の花もみぢに、一日(いちじつ)も、宿にある日は、まれなるに、いづかたへ行ても、かたはらに引そばめて、あたかも、寶鼎・重器のごとくかしづかれけるを、そしれる人も多かりけり。

 ある日、城下より三里程脇に、心やすく語う[やぶちゃん注:「かたらう」。ママ。実は底本は「語り」。所持する刊本で特異的に訂した。]僧のありしを訪(とぶら)はんとて、宵より僕(しもべ)にいひつけて、土產やうのものなど、取したゝめ、いつよりもはやく、閨(ねや)に入りて、休まれける夢に、同じ僧のがりゆくとて、野道にふみ迷ひ、茫然たる折ふし、むかふより若き男の、たけ高く、ふとりたるが、あゆみ來りて、

「きみには、いづこへおはしますにか。」

と、いと馴れ馴れしげにいふを、『あやし』と、おもひて、

「そこには、誰(た)れぞ。」

と問ヘば、

「我は、朝夕に君の傍(かたはら)を離れぬものを。うとうとしき仰(おほせ)かな。道に迷ひ給ふにこそ。我に順ひて來り給へ。」

と、先にたつを、『あやし』と、おもふおもふ、つきて行しに、その傍の岸、にはかに崩れて、下に、あめうしのありしが、うたれて死したり、と見て、夢さめぬ。

「さても。夢にてありし。」

と、兎角して、又、寐入り、翌の日、何心なく出行(いでゆき)ぬるに、主從ともに道にふみ迷ひて、爰(ここ)よ、かしこと、尋(たづね)さまよへど、ふつうに、知れず。

「狐などの化(ばか)すにや。」

と、眉につばなどぬり、心を靜めて尋ぬれど、畑道にて、しれざりしに、よべの夢の事、おもひ出(いで)て、

「さては。杖のしらせたるなるべし、實(げ)にも、『道に迷へる人は、杖を立て知る』といふ事も侍るにや。」

と、杖を念じて立(たて)つゝ、さて、杖のたふれたるかたを、めあてに、行ぬ。

 いつもゆく道とはたがふ、と覺へけれど、

「かく心付しうへは、しかるべき敎(をしへ)ぞ。」

と、信じ行けるに、巳の時[やぶちゃん注:午前十時頃。]ばかりにや、おびたゞしき地震、ゆりいでゝ、みるがうちに、過來(すぎこ)し道、くづれ、日頃すみし家も、上の山、崩れて、ひしげぬ。

 爰かしこにて、人も死し、牛馬もうせけるに、物外主從はつゝがなくて、橫難(わうなん)をまぬがれける。

「是、またく、杖の靈異なり。」

とて、囊を、改め、箱をつくりて、いとゞ貴(たふと)みける。

 その子孫、今になほ敬ひて、神のごとく奉ずるといへり。

 かの「徒然草」にかける土おほねも、愛するよりぞ、今はの時の災(わざはひ)を助けけん。心なきものといへども、いと哀れに年頃の情(なさけ)をば、おもひしりけるにこそ、まして、人たるものの、さる心なき、論ずるにも足らず、淺ましといへり。

 物外子、仕官の時の名は、山田半右衞門といへり。その子、外記(げき)、その孫、又半右衞門といふ。正德年中の事なり。

[やぶちゃん注:「ちはやぶる神やきりけんつくからにちとせの坂も越えぬべらなり」「古今和歌集」の巻第七「賀歌」の僧正遍照の一首(三四八番歌)、

   *

    仁和の帝(みかど)の、親王(みこ)に
    おはしましける時に、御をばの、
    八十(やそぢ)の賀に、
    銀(しろがね)を杖に作れりけるを
    見て、かの御をばに代りてよみける

 ちはやぶる神や伐りけむ突くからに

      千とせの坂も越えぬべらなり

   *

である。「この銀の杖は、神がお伐り出しなさったものなのでしょうか。お突きになってお歩きになれば、必ず、千年の長寿の坂さえもきっとお越えになられるに違い御座いません」という意である。

「費長房が杖は龍と化し」(ひちやうばう(ひちょうぼう))は後漢の方士・仙人(生没年未詳)。『柴田宵曲 續妖異博物館 「空を飛ぶ話」(1)』の冒頭本文と私の注を参照されたい。

「杖は鶴となりし」原本がどの伝承を引いたかは判らぬが、鶴は仙人の常用する乗り物であるから、腑に落ちる。

「物外(ぶつぐわい)」この名も人を食った名である。「物外」とは「物質界を超越した世界・俗世間の外」の意である。

「病に託して」病気を口実として。無論、仮病である。

「謝靈運が笠のためし」「謝靈運」(しゃれいうん 三八五年~四三三年)は六朝時代の宋の詩人。貴族で祖父謝玄は晋の車騎将軍康楽公。その祖父の爵位を若くして継いだので「謝康楽」とも呼ばれる。自負心が強く、野心家であったが、宋代には不遇で、永嘉太守などを務めた後、辞任し、畜財にまかせて山水を遊歴したが、「謀反を企てた」として広州に流され、処刑された。当時、最高の教養を持ち、六朝を代表する詩人で、洗練された感覚と繊細な表現で山水の美を謳った。仏典に関する著述もある。一族の謝恵連・謝朓(しゃちょう)とともに「三謝」と呼ばれる。これは「世說新語」の「言語」の掉尾に、

   *

謝靈運、好戴曲柄笠、孔隱士謂曰、「卿欲希心高遠、何不能遺曲蓋之貌。」。謝答曰、「將不畏影者、未能忘懷。」。

(謝靈運、好んで曲柄笠(きよくへいりう)を戴く。孔隱士、謂ひて曰はく、「卿、心に高遠を希(ねが)はんと欲するに、何ぞ曲蓋(きよくがい)の貌(ばう)を遺(わす)るること、能(あた)はざる。」と。謝、答へて曰はく、「將(は)た影(かげ)を畏るる者は、未だ懷(おも)ふことを忘すること、能はざらんや。」と。)

   *

とあるのに基づく。「曲柄笠」は元は柄の曲がつた車蓋(車に立てる大きな傘)であるが、後に貴人の儀仗として用いた。「孔隱士」(孔淳之)は彼が「曲柄笠」という物の外形に拘ることを批判して言ったのに対して、霊運は、「君のように影を恐れて批難する者は、実は未だに影という対象たる事物が念頭を去っていないということを示してはいないかね?」とパラドキシャルに返したのである。

「がり」名詞。~のもと(所)へ。多く、このように人を表す名詞・代名詞に格助詞「の」が付いた形に続く。

「うとうとしき」「疎疎しき」。如何にもな「よそよそしい」応答であることをたしなめたのである。

「道に迷ひ給ふにこそ。」結びの省略。強意。

「岸」切岸(きりぎし)。崖。

「あめうし」「黃牛」飴色の毛色の牛。古くは立派な牛として貴ばれた。

「眉につばなどぬり」狐に化かされないようにためには、眉に唾をつけるとよいと言う。これは「狐に化かされるのは眉毛の数を読まれるからだ」と信じられたからで、濡らしてくっ付けて数えることが出来ないようにするという謂いとされる。但し、私は唾の腥い臭いも呪的効果を持つものと考えている。

「畑道にて、しれざりしに」ずっと畑の続く、それ以外に何も変化のない道で、全くどこであるか判らない事態に陥り、の意。現在で言うところの、所謂、単調な高速道路を走行中に運転者が眠気などを催す「ハイウェイ・ヒプノーシス」(Highway hypnosis)や、山中や雪・霧の中でしばしば起こる人が方向感覚を失って無意識のうちに円を描くように同一地点を彷徨(さまよ)い歩く「ルングワンダリング」(和製ドイツ語:Ringwanderung:輪(環)形彷徨)に類似した疑似超常現象とも言える。

「道に迷へる人は、杖を立て知る」「杖を念じて立つゝ、さて、杖のたふれたるかたを、めあてに、行ぬ」民俗社会に於ける呪的なお約束ごとである。

「橫難」不慮の災難。

『かの「徒然草」にかける土おほね』同書第六十八段の大根好きの男の不思議な話である。以下に示す。

   *

 筑紫(つくし)に、某(なにがし)の押領使(あふりやうし)[やぶちゃん注:警察官相当。]などいふ樣(やう)なる者のありけるが、土大根(つちおほね)を萬(よろづ)にいみじき藥とて、朝ごとに二つづゝ燒きて食ひける事、年久ひさしくなりぬ。

 或る時、館(たち)の内に人もなかりける隙(ひま)をはかりて、敵(かたき)襲ひ來(き)て、圍(かこ)み攻めけるに、館の内に、兵(つはもの)、二人、出で來て、命を惜(を)しまず、戰ひて、皆、追ひ返してけり。いと不思議に覺えて、

「日比(ひごろ)こゝにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戰ひし給ふは、いかなる人ぞ。」

と問ひければ、

「年來(としごろ)賴みて、朝な朝な、召しつる土大根にさぶらふ。」

と言ひて、失せにけり。

 深く信を致しぬれば、かゝる德もありけるにこそ。

   *

「山田半右衞門」「その子、外記(げき)」「その孫、又半右衞門」似たような名を探すことは出来るが、ここはさような詮索は無粋としておこう。

「正德」宝永の後で享保の前。一七一一年から一七一六年まで。徳川家宣・家継の治世。]

2021/02/23

譚海 卷之四 肥前國溫泉ケ嶽の事

 

○肥前溫泉ケ嶽(うんぜんがだけ)の湯は、わきあがる事數丈にいたる、嶽上(がくじやう)より望めば、深(ふかき)谷の底より沸騰して、はしらの如く數丈立のぼり、たふるゝ音雷(いかづち)のごとく、恐しき事云ばかりなし、溫泉(おんせん)皆黑水(こくすい)の如しとぞ。入湯の所は別村にありて、湯も澄(すん)であつからずと云。

[やぶちゃん注:【2021224日改稿】何時も情報を戴くT氏より、これは「和漢三才図会」の巻第八十の「肥前」の「溫泉嶽(ウンゼンガダケ)」の記載に基づくものであろうという御指摘を頂いた。以下に所持する同書原本から訓読して電子化する。〔 〕は私が推定で附した読みで、句読点や記号も私が附した。原文の一部は略字・異体字を使用しているが、通用の正字に改めて統一した。

   *

溫泉嶽(うんぜんがだけ) 髙木郡[やぶちゃん注:現在の長崎県雲仙市小浜町雲仙にある雲仙岳。グーグル・マップ・データ航空写真。標高九一一メートル。]に在り【五十町[やぶちゃん注:約五キロメートル半。これは山尾根伝いの実測距離と思われる。]上に普賢嶽[やぶちゃん注:「国土地理院図」で示す。そこでは標高を千三百五十九・三メートルとする。]に在り。】。

往昔(そのかみ)、大伽藍有り、日本山[やぶちゃん注:ママ。「溫泉山(うんぜんさん)」が正しい。]大乘院滿明蜜寺と號す。文武帝大寶元年[やぶちゃん注:七〇一年。]、行基、建立。三千八百坊、塔、十九基りと云ふ。天正年中[やぶちゃん注:一五七三年~一五九二年。])耶蘇(やそ)の宗門、盛んに行はれ、僧俗、邪法に陷いる者、多し。當寺の僧侶、亦、然り。故に破却せられ、正法〔しやうぼふ〕に歸せざる者は、生-身(いきながら)、當山「地獄池」の中に陷いる。礎石或いは石佛のみ、今、唯〔ただ〕、僅〔わづか〕に一箇寺及び大佛有り[やぶちゃん注:「る」の誤記。]のみ。方一里許〔ばかり〕の中〔うち〕、「地獄」と稱す。穴、數十箇處、兩處、相並〔あひなら〕び、髙さ五、六尺、黑泥の煙、湧(わ)き起〔た〕つ。之れを「兄弟〔はらから〕の地獄」と名づく。黃白に靑色を帶びて、沫滓〔あはかす〕、麹(かうじ)に似る者、之れを「麹造屋(かうじや)地獄」と名づく。靑綠色、藍汁に似たる者、之れを「藍染家〔あをや〕の地獄」と名づく。濁白色、稍〔やや〕冷えて、米泔(しろみづ)に似たる者、之れを「酒造家(さかや)の地獄」と名づくるの類〔たぐひ〕の名目、亦、可笑(をか)し。猛火〔みやうくわ〕、出〔いで〕て、「等活大焦熱」[やぶちゃん注:等活大焦熱地獄のこと。]と謂つべし。流水、稍、熱くして、湯のごとくなるの小川の中に、每〔つね〕に、小魚、多く游行〔ゆぎやう〕するも奇なり。凡そ、一山の地、皆、熱濕。鞋〔わらぢ〕を透(とを)す。跣足〔はだし〕の者は、行き難し。麓に溫泉多く有りて、浴湯、人、絕へず。

   *

「日本山大乘院滿明蜜寺」真言宗雲仙山(うんぜんさん)大乗院満明寺(まんみょうじ)は雲仙温泉(「入湯の所」。雲仙岳南で普賢岳の南西のここ(グーグル・マップ・データ航空写真))のここ(同前)にある。]

只野真葛 むかしばなし (16)

 

 御守殿(ごしゆでん)樣御腹に、たゞ御壱人の御姬樣いらせられしが、獅山樣御孫なり。はやく御守殿樣はかくれさせ給ひし故、御ぢゞ樣、御ひぞう被ㇾ遊、

「時わかぬ御たのしみなりし。」

となり。

 田植を御覽に入らるゝと申こと、年々有しが、いつも天氣あしき内、苗のび過(すぎ)などしてやみしを、

「ことし、御ぜひ。」

と被ㇾ仰し時、

「御屋敷より見ゆるは、わづかなり。」

とて、少し、御はこび有て、大家(たいか)の百姓の座敷をかりて、御しつらひ、御覽被ㇾ遊しことの有しが、うゆる人には、すげ笠と、半てん壹(ひとつ)ヅヽ被ㇾ下しとなり。

 女は赤、男は紺とやらにて有し。

 晝休(ひるやすみ)の時分、むし物・にしめ・御酒等、被ㇾ下て、田中にて、皆、給りしを御覽有しとなり。ワ、アヤ、おやの藤浦といひし人は、其頃、御中老にて、

「御供せし。」

と、はなしなり。月に、一、二度、袖が崎へいらせられしとなり。

[やぶちゃん注:「御守殿樣」第五代藩主伊達吉村の息子で第六代藩主を継いだ吉村の四男宗村の正室は雲松院(享保二(一七一七)年~延享二(一七四六)年)は紀州徳川家当主徳川宗直の娘で第八代将軍徳川吉宗の養女であった。後の第七代藩主伊達重村の養母。本名は峰姫で、後に利根姫(とねひめ)。伊達家に入ってからは温子(はるこ)と名乗った。この「御守殿」というのは、江戸時代に於いて三位以上の大名に嫁いだ徳川将軍家の娘にのみ用いる敬称である(その女性の住む奥向きの御殿をも指す)。しかし、父吉村も宗村も従四位上であるのが不審であるのだが、ところが、どっこい、ウィキの「御守殿」を見ると、何んと! 「仙台藩の御守殿の例」にこの二人の例が引かれているのである! 享保二〇(一七三七)年に『仙台藩主伊達吉村の嗣子である伊達宗村と徳川吉宗の養女の利根姫との婚礼が行われたが、これに合わせて藩主嗣子の居住する江戸藩邸中屋敷の一角に御守殿が、幕府の指示の下に造営されることとなる』。『女中居住区画を「長局」と呼称したり』、二『階建ての構造、造営の竣工検査を幕府役人が行った際に鴨居の規模は江戸城大奥の規模に合わせて高くするよう指示されるという具合に、江戸城大奥と共通するように造営された。その後、宗村が』寛保三(一七四三)年に『藩主になり、利根姫が藩主正室として上屋敷に移るのに際して、中屋敷の御守殿に合わせて上屋敷の奥方が改築され』、延享二(一七四五)年に『上屋敷に移住した』。『中屋敷での御守殿の規模は中屋敷の表のおよそ』三『倍で、上屋敷に建設された際は表とほぼ同じ規模であった』とあるから、恐るべし! ともかくも、私の不審をどなたか、晴らして戴けませんかねえ。どんな辞書にも「三位以上」って書いてあるんですけど!?! ウィキの「雲松院」によれば、婚姻とともに、『仙台領内での「とね」と称する女性名の禁止、および利根姫の敬称を将軍養女である点を考慮して「姫君様」と呼ぶよう通達された。また、利根姫の年間経費を』六千『両と決定された』。元文四(一七三九)年に『源姫を出産。源姫は後に佐賀藩主鍋島重茂の正室とな』った(これがここ出る工藤丈庵が可愛がったという「姬樣」である。数え八つで母は亡くなっている。『なお「寛政重修諸家譜」の伊達氏系図の記述では何故か元文元』(一七三六)年に『娘の源姫とともに江戸城大奥に参ったとある』。寛保三(一七四三)年に『夫の宗村が吉村の隠居を受けて仙台藩主を相続すると、芝口の江戸藩邸上屋敷奥方』『が中屋敷の御守殿に準じて改築され』、延享二(一七四五)年に『温子は上屋敷に移』った。同年十二月三日に二番目の『女児を出産するが』、『夭折し、本人も同年』閏十二月十六日に逝去した。亡くなった時は満二十九であった。

「時わかぬ」どんな時でも。

「苗のび過(すぎ)などしてやみしを」これは獅山公吉村が、梅雨の晴れた日を狙って出向こうと思って、それまで百姓らに「田植えを待つように」と命じさせたところ、「苗が伸びてきってしまって、だめになってしまう」と反対されたのであろう。

「ワ、アヤ、おやの藤浦といひし人」「私(綾(あや))の」であろうが、「おやの」が判らない。「藤浦」「中老」仙台藩に藤浦と姓の重役(中老は家老の次位に当たる)はいない。これは思うに、女性名で、武家の奥女中で老女の次位に当たる同名の中老職だった人物ではなかろうか。]

 

 ぢゞ樣も至極御首尾よく御つとめ被ㇾ成しに、いくばく年をもへずして、御不例[やぶちゃん注:吉村が病気になったことを指す。]にならせられしが、極暑のみぎり、ぢゞ樣、氣根者といへども、晝夜の定詰(じやうづめ)、御居間(おんゐま)はたてこめたる所にて、暑氣にたへかね、御下(おさがり)被ㇾ成(ならるれ)ば、水漬(みづづけ)のめしを上り、物干に、ほろかや[やぶちゃん注:「襤褸蚊帳」であろう。]かけて、御休被ㇾ成しとなり。かの氣根者の一世一度と御つとめ被ㇾ成こと、おろかなることあるべからず。御たんせいのかひもなく、かくれさせ給ひしかば、後(のち)、外宅(ぐわいたく)被ㇾ成しなり。はじめより、はやく、御免の後(のち)外宅の後約束(あとやくそく)にて、召しかゝへと成しや、かく、すみしなり。故御家中に外宅といふはぢゞ樣が、はじめなり。

[やぶちゃん注:吉村は隠居していた袖ヶ崎の仙台藩下屋敷で、宝暦元年十二月二十四日(一七五二年二月八日)に逝去した。享年七十二。工藤丈庵は宝暦元(一七五一)年の主君伊達吉村逝去の際に願い出て、藩邸外に屋敷を構えることを許され、伝馬町に借地して二間間口の広い玄関をもつ家を建てて住んだ。これは既に、まだ、吉村が健康だった早い頃に、「自分(吉村)が、万一、亡くなった後には、工藤丈庵に外に住居を構えることを許すように」という約束を交わしており、恐らく、それを遺言状などにも認(したた)め、息子の現藩主である宗村や藩重臣らにもそのように厳命していたものと推察される。]

芥川龍之介書簡抄17 / 大正二(一九一三)年書簡より(4)十月十七日附井川恭宛書簡

 

大正二(一九一三)年十月十七日・京都市吉田京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣 親披・「十月十七日 東京にて 芥川生」

 

エレクトラをみに行つた

第一 マクペスの舞臺稽古 第二 茶をつくる家 第三 エレクトラ 第四 女がたと順で 第一はモオリスベアリングの飜譯 第二は松居松葉氏の新作 第四は鷗外先生の喜劇だ

「マクペスの舞臺稽古」を序幕に据へたのは甚不都合な話で劇場内の氣分を統一するために日本の芝居ではお目見えのだんまりをやるが(モンナヷンナに室内が先立つたのも) マクベスの舞臺稽古は此點から見てどうしても故意に看客の氣分を搔亂する爲に選ばれたものとしか思ふことは出來ない この PLAY DEMUNITIVE DRAMAS(いつか寮へもつて行つてゐた事があるから君はみたらう)からとつたのだがあの中にある PLAY 中でこれが一番騷々しい 何しろ舞臺稽古に役者が皆我儘をならべたり 喧嘩をしたり 沙翁が怒つたり 大夫元[やぶちゃん注:「たいふもと」。]が怒鳴つたりするのをかいたんだから これ以上に騷々しい芝居があまりあるものではない 大詰にでもはねを惜む心をまぎらすにはこんな喜劇もよいかもしれないがエレクトラを演ずるにさきだつてこんな亂雜なものをやるのは言語道斷である

「茶をつくる家」をみたら猶いやになつた

舞臺のデザインは中々うまく行つてゐたが作そのものは〝完く駄目だ〟第一これでみると松居さんの頭も餘程怪しいものぢやあないかと思ふ 筋は宇治の春日井と云ふ茶屋が零落してとうとう老主人が保險金をとる爲に自分で放火をする迄になる そこで一旦東京の新橋で文學藝者と云はれたその家の娘のお花が足を洗つてうちへかへつて來てゐたがまた身をうつて二千圓の金をこしらへ音信不通になつてゐた兄から送つてくれたと云ふ事にして自分は東京へかへる 父や兄は娘の心をしらずに義理しらずと云つてお花を罵ると云ふのだ 第一どこに我々のすんでゐる時代が見えるのだらう 保險金をとらうとして放火する位の事は氣のきいた活動寫眞にでも仕くまれてゐる 且家運の微祿を救ふのに娘が身をうると云ふのは壯士芝居所か古くはお輕勘平の昔からある お輕が文學藝者に變つたからと云つてそれが何で SOCIAL DRAMA と云へやう 何で婦人問題に解決を與へたと云へやう(作者は解決を與へたと自稱してゐるのだからおどろく)

さてエレクトラになつた

灰色の石の壁 石の柱 赤瓦の屋根 同じ灰色の石の井戶 その傍に僅な一叢の綠 SCENE は大へんよかつた

水甕をもつた女が四五人出て來て水をくむのから事件が發展しはじめる 始めは退屈だつた 譯文が恐しくぎごつちないのである 一例を示すと

  おまへはどんなにあれがわれわれを見てゐたか見たか山猫のやうに妻かつた

  そして………

と云つたやうな調子である いくらギリシアだつてあんまりスパルタンすぎる クリテムネストラが出てて話すときも、そんなに面白くなかつた 之も譯文が崇りをなしてゐるのである 唯クリテムネストラは緋の袍に寶石の首かざりをして金の腕環を二つと金の冠とをかゞやかせ BARE ARMS に長い SCEPTRE をとつた姿が如何にも淫婦らしかつた 第一 この役者は顏が大へん淫蕩らしい顏に出來上つてゐるのだから八割方得である 殘念な事に聲は驢馬に似てゐた

オレステスの死んだと云ふ報知がくる クリテムネストラが勝誇つて手にセプタアをあげながら戶の中に走り入るかはいゝクリソテミスがエレクトラにオレステスが馬から落ちて死んだとつげる エレクトラが獨りなつてから[やぶちゃん注:ママ。]右の手をあげて「あゝとうとうひとりになつてしまつた」と叫ぶ 其時沈痛な聲の中に海のやうな悲哀をつたへるエレクトラがはじめて生きた 河合でないエレクトラが自分たちの前に立つてゐる その上に幕が急に下りた

前よりも以上の期待をもつて二幕目をみる 幕があくと下手の石の柱に紫の袍をきた若いオレステスが腕ぐみをしてよりかゝりながら立つてゐる 上手の戶口――靑銅の戶をとざした戸口の前には黑いやぶれた衣に繩の帶をしたエレクトラが後むきにうづくまつてゐる エジステスが父のアガメンノンを弑した斧の地に埋まつてゐるのを堀[やぶちゃん注:ママ。]つてゐるのである 二人の上にはほの靑い月の光がさす 舞臺は繪の樣に美しい

オレステスとエレクトラと姊弟の名のりをする オレステスの養父が來る 事件は息もつけない緊密な PLOT に從つて進んでゆく 靜な部屋のうちから叫聲を起る クリテムネストラが殺されたのである エレトク[やぶちゃん注:ママ。]は「オレステス オレステス うてうて」と叫ぶかと思ふと地に匍伏して獸のやうにうなる

エジステスが來る エレクトラに欺かれて部屋のうちへはいる 再「人殺し人殺し」と云ふ叫聲が起る 窓から刺されて仆れるエジステスの姿が見える

靜な舞臺には急に松明の火が幾十となくはせちがふ 劍と劍と相うつ音がする 人々の叫び罵る聲がする オレステスの敵とオレステスの味方と爭ふのである 其叫喚の中にエレクトラは又獸の如く唸つて地に匍伏する

松明の光は多きを加へる 人々は叫びながら部屋のうちに亂れ入る 剣の音 怒號の聲は益高くなる エレクトラは醉つたやうによろめきながら立上る さうして手をあげて足をあげてひた狂ひに狂ふのである

遠い紀元前から今日まで幾十代の人間の心の底を音もなく流れる大潮流のひゞきは此時エレクトラの踊る手足の運動に形をかへた やぶれた黑衣をいやが上にやぶれよと靑白い顏も火のやうに熱してうめきにうめき踊りに踊るエレクトラは日本の俳優が扮した西洋の男女の中で其最も生動したものの一であつた クリソテミスがひとり來て復仇の始末をつげる エレクトラは耳にもかけず踊る つかれては仆れ仆れては又踊る クリソテミスはなくなく靑銅の扉をたゝいて「オレステス オレステス」と叫ぶ 誰も答へない 幕はこの時 泣きくづれるクリソテミスと狂ひ舞ふエレクトラとの上に下りる

自分は何時か淚をながしてゐた

女がたは地方興行へ出てゐる俳優がある溫泉宿で富豪に部屋を占領される業腹さに女がたが女にばけてその富豪の好色なのにつけこんで一ぱいくはせると云ふ下らないものである 唯出る人間が皆普通の人間である 一人も馬鹿々々しい奴はゐない 悉我々と同じ飯をくつて同じ空氣を呼吸してゐる人間である こゝに鷗外先生の面目が見えない事もない

兎に角エレクトラはよかつた エレクトラエレクトラと思ひながら其晚電車にゆられて新宿へかへつた 今でも時々エレクトラの踊を思ひ出す

 

芝居の話はもうきり上げる事にする

牛込の家はあの翌日外から大体[やぶちゃん注:ママ。]みに行つた 場所は非常にいゝんだがうちが古いのとあの途中の急な坂とでおやぢは二の足をふんだ 所へ大塚の方から地所とうちがあるのをしらせてくれた人がある そのうちの方は去年建てたと云ふ新しいので恐しい凝り方をした普請(天井なんぞは神代杉でね)なんだが狹いので落第(割合に價は安いんだが)地所は貸地だが高燥なのと靜[やぶちゃん注:「しづか」。]なのと地代が安いのとで八割方及第した 多分二百坪ばかり借りてうちを建てる事になるだらうと思ふ 大塚の豐島岡御陵墓のうしろにあたる所で狩野[やぶちゃん注:ママ。]治五郞の塾に近い 緩慢な坂が一つあるだけで電車へ五町[やぶちゃん注:五百四十五メートル強。]と云ふのがとしよりには誘惑なのだらう 本鄕迄電車で二十分だからそんなに便利も惡くない

學校は不相變つまらない

シンヂはよみ完つた DEIDE OF SORROWS と云ふのが大へんよかつた 文はむづかしい 關係代名詞を主格でも目的格でも無暗にぬく 獨乙語流に from the house out とやる 大分面倒だ

Forerunner をよみだした 大へん面白い 長崎君が本をもつてゐたと思ふ あれでよんでみたまへ 割合にやさしくつていゝ

 

大學の橡はすつかり落葉した プランターンも黃色くなつた 朝夕は手足のさきがつめたい 夕方散步に出ると靄の下りた明地に草の枯れてゆくにほひがする

文展があしたから始まる

每日同じやうな講義をきいて每日同じやうな生活をしてゆくのはさびしい

 

   ゆゑしらずたゞにかなしくひとり小笛を

   かはたれのうすらあかりにほうぼうと銀の小笛を

   しみじみとかすかにふけばほの靑きはたおり虫か

   しくしくとすゝなきするわが心[やぶちゃん注:「すゝなき」はママ。]

   ゆえしらずたゞにかなしく

 

京都も秋がふかくなつたらう 寄宿舍の畫はがきにうつゝてゐる木も黃葉したかもしれない

 

   われは織る

   鳶色の絹

   うすれゆくヴィオラのひゞき

   うす黃なる Orange 模樣……

   われは織る われは織る

   十月の、秋の、Lieder.

 

十月幾日だかわすれた

水曜日なのはたしかだ

                   龍

   恭 君

 

[やぶちゃん注:詩篇は前後を一行空けた。

「エレクトラ」これはギリシャ三代悲劇のそれを素材とした、オーストリアのウィーン世紀末文化を代表する〈青年ウィーン〉(Jung-Wien)の一員で印象主義的な新ロマン主義の代表的作家フーゴ・ラウレンツ・アウグスト・ホーフマン・フォン・ホフマンスタール(Hugo Laurenz August Hofmann von Hofmannsthal 一八七四年~一九二九年)の戯曲「エレクトラ」(Elektra)で一九〇三年作。二〇〇九年岩波文庫刊「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注によれば、この複数作の一挙公演は、この年の十月の『帝国劇場での公衆劇団第一回公演』(一日初日)で、この『公演は京都でも』、この後の『一一月一一日から新京極明治座で上演された』とあるので、龍之介が京都の井川に細かく感想を述べているのが首肯出来るものの、これを読んだら、私だったら、こんなとんでもないごった煮のオムニバス、絶対、見には行かないね。なお、「エレクトラ」の元の筋を御存じない方は、ウィキの「エレクトラ(ソポクレス)や、「エレクトラ(エウリピデス)を参照されたい。その梗概まで記すほどに私はお目出度くない。

「マクペスの舞臺稽古」イギリスの作家モーリス・ベアリング(Maurice Baring 一八七四年~一九四五年)作の戯曲。原題は‘The Rehearsal’(一九一一年出版)。後の「DEMUNITIVE DRAMAS」の私の注を必ず参照されたい。

「茶をつくる家」劇作家・演出家・小説家・翻訳家の松居松葉(しょうよう 明治三(一八七〇)年~昭和八(一九三三)年:陸前塩釜生まれ。国民英学会卒。文学を志して坪内逍遙に師事し、明治二四(一八九一)年に創刊された『早稲田文学』の編集に発刊から従事し、『報知新聞』や『万朝報』などの記者も務めた。明治四二(一九〇九)年には三越の嘱託となって『三越タイムス』を編集し、発足した坪内逍遙・島村抱月の「文芸協会演劇研究所」に招かれ、講師を勤めた。明治四四(一九一一)年、新たに開業した帝国劇場の演劇主任を引き受けたものの、三越側の苦情で辞退し、大正二(一九一三)年には抱月脱退後の「文芸協会」を指導したが、間もなく解散となり、次いで、河合武雄とともに、この龍之介が見た公演の劇団「公衆劇団」を組織している。別号に「松翁」「駿河町人」「大久保二八」など)のこの年に書かれた新作翻訳劇。アイルランドの劇作家・演劇家レノックス・ロビンソン(Lennox Robinson  一八八六年~一九五八年)の ‘Harvest’(「収穫」:一九一〇年作)。

「女がた」この「公衆劇団」旗揚公演のために、森鷗外が書き下ろした彼の戯曲中、唯一の現代喜劇。大正二(一九一三)年十月発行の『三越』初出。藤本直実氏の論文『森鷗外「女がた」のセクシュアリティ』(PDF)が読める。私はその「女がた」を読んだことがないが、藤本氏の論文によれば、本作は『従来、演劇史においては全否定を以て遇され、鷗外研究からの論文も存在しなかった』という驚くべき鬼っ子扱いの作品らしい。

「モンナヷンナ」ベルギー象徴主義の詩人で劇作家モーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck 一八六二年~一九四九年)の戯曲「モンナ・ヴァンナ」(Monna Vanna:一九〇二年初演)。龍之介は既に見た通り「青い鳥」のファンであった。なお、この年、島村抱月が訳(南北社)しており、芥川龍之介は恐らくそれも読んでいるであろうが、その抱月の序文を見ると(幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める)、『數年前山岸荷葉氏が川上一座のために翻案して、明治座で演ぜしめたものがある』とあることから、或いは、芝居好きの龍之介だから、その翻案公演を観た可能性もある。なお、翌年には岩野泡鳴と村上静人も訳しているらしい。同作の第一幕は殿中、第二幕は戦場の幕営である。

「DEMUNITIVE DRAMAS」‘DIMINUTIVE DRAMAS’の誤記。先のモーリス・ベアリングの一九一一年作の短篇戯曲集‘Diminutive Dramas’(「小さなドラマ」)。Internet archive’のこちらで原本が読め、The Rehearsal’はここから始まる

「大夫元」「たゆうもと」。演劇の興行責任者。俳優や裏方をやとって一座を組織し、これを金主や座主に売り込んで興行する人。江戸時代には俳優の上に立つ監督者で、江戸では座元がこれを兼ねた。但し、ここは原本を見ると、‘The Stage Manager’のことを指しているから、舞台監督・演出家である。

「松居さん」作者で演出家の松居松葉。

「SOCIAL DRAMA」社会劇。劇中の出来事や登場人物が置かれる状況を、社会的環境や社会問題との関連のなかで描いた演劇。近代以降に登場した形態で、市民劇や写実劇は、しばしば社会劇の形をとる。イプセンやバーナード・ショーの諸作品を正統派の淵源とする。

「婦人問題」筑摩全集類聚版脚注に、『明治四十年頃から盛んになった婦人解放運動』とある。

「譯文」松井のそれ。

「スパルタン」所謂、現在の一般名詞としての「スパルタ」の意。あまりに言辞不全にして無骨に過ぎ、舞台台詞としてこなれていないことを批判しているのである。

「袍」(はう(ほう))は、ここでは、すっぽりとからだを包む上着。古代ギリシャでは亜麻の襞を持った優美なそれを「キトン」と呼んだ。

「BARE ARMS」外に曝し出した両腕。

「SCEPTRE」セプター。君主が持つ象徴的且つ装飾的な杖・笏。

「聲は驢馬に似てゐた」芥川龍之介、結構、辛辣!

「匍伏」匍匐に同じい。

「牛込の家はあの翌日外から大体みに行つた……」この十月上旬、芥川家は、龍之介の実父新原敏三の持ち家である彼の牧場の傍の家を出ることを考えて始めており、どうも龍之介が先頭に立て家探しを始めていたようである。新全集の宮坂年譜によれば、同年十月の条に、『家探しを始める。牛込や大塚に土地や家を見に出かけており、結局、翌年』十『月末』に龍之介の終の棲家となる『田端に家を新築して転居する』こととなることが記されてある。「あの」の指示語がやや不審だが(或いは旧全集には載らないこの前の書簡に家探しのことを書いていたのかも知れない。とすれば、やや腑に落ちる)、「翌日」に、「外(そと)から大体(だいたい)み」(見)「に行つた」で、家屋には入らず、周囲を検分したということであろう。

「神代杉」「じんだいすぎ」と読む。水中或いは土中に埋もれて長い年月を経過した杉材のこと。過去に火山灰の中に埋没したものとされる。青黒く、木目が細かくて美しい。伊豆半島・箱根・京都・福井・屋久島などから掘り出され、工芸品や天井板などの材料として珍重される。

「高燥」(かうさう(こうそう))は、土地が高所にあって乾燥していることを言う。

「靜」「しづか」。

「大塚の豐島岡御陵墓」豊島岡墓地(としまがおかぼち:グーグル・マップ・データ航空写真)。現在の東京都文京区大塚五丁目にある、皇族(皇后を除く)専用の墓地で護国寺に隣接する。

「狩野治五郞」「嘉納治五郞」(万延元(一八六〇)年~昭和一三(一九三八)年)の誤記。言わずと知れた、兵庫県生まれの柔道家・教育者で「講道館柔道」の創始者にして、日本のオリンピック初参加に尽力した彼である。

「塾」不詳。当初、嘉納が清国からの中国人留学生の受け入れに努め、彼らのために明治三二(一八九九)年に牛込に作った「弘文学院」(校長は松本亀次郎)のことではなかろうかと思ったが、あれは新宿区西五軒町で南東に一・七キロメートルも離れていて遠くはないが、「近い」とは言うまい。彼は別に英語学校「弘文館」を創立しているが、これは南神保町でさらに離れてしまう。

「シンヂ」アイルランドの劇作家にして詩人であったジョン・ミリントン・シング(John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)。前記宮坂年譜の同年十月七日の条に、『John M. Synge “The well of the saints ; a play” “The tinker’s wedding , riders to sea and the shadow of the glen”を読了』とある(後は作品集らしいが、作品名の一部が略されていて不備があるので、以下に正確なものを示した)。前者は三幕物の諧謔的戯曲「聖者の泉」(The Well of the Saints)で一九〇五年の戯曲、後者は最初のそれが同前の二幕物「鋳掛(いか)け屋の婚礼」(The Tinker's Wedding:一九〇八年)、二番目が一幕物の悲劇「海に騎(の)り行く者たち」(Riders to the Sea:一九〇四年)、最後のそれが民話・民俗素材を取り入れた一幕物「谷間の影」(In the Shadow of the Glen:一九〇三年)。この内、“Riders to the Sea”は、後に芥川からの慫慂を受けて、この井川恭が、第三次『新思潮』に「海への騎者」という邦題で翻訳を載せている。さらに奇しくも「聖者の泉」は芥川龍之介が晩年、人生の最後に真剣な恋をした相手アイルランド文学者片山廣子が松村みね子名義で訳したものをサイトで公開しているし(言っておくと、この「聖者の泉」は芥川龍之介の「鼻」や「芋粥」の主題のヒントとしたとも考えられている)、また、シング著でウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵という贅沢な作品「アラン島」(The Aran Islands)も挿絵附きで「姉崎正見訳 附やぶちゃん注」をずっと昔に私のサイト「鬼火」の「心朽窩新館」で同じく公開している。

「DEIDE OF SORROWS」シングの一九一〇年の作の三幕物の詩的悲劇「悲運のディアドレ」(Deirdre of the Sollows)。非常に優れた作品であるが(中に出る乳母の長い呪詛シーンなどは「シェイクスピアの再来」という賛辞さえ寄せられた)、残念なことに本篇の完全な推敲を終えぬうちにシングは白玉楼中の人となってしまったのであった。

「from the house out」‘get out of the house’ の意であろう。

「Forerunner」英語で「先駆者」。筑摩全集類聚版脚注及び石割氏に注ともに、ロシア象徴主義草創期の詩人で最も著名な思想家ディミトリー・セルギェーヴィチ・メレシュコフスキー(Дмитрий Сергеевич Мережковский:ラテン文字転写:Dmitry Sergeyevich Merezhkovsky 一八六六年~一九四一年)の歴史小説三部作「キリストと反キリスト」中の一篇「神々の復活」(Воскресшие боги. Леонардо да Винчи:「神々の復活。レオナルド・ダ・ヴィンチ」。一八九六年)の英訳名とする。芥川龍之介は後の大正九(一九二〇)年四・五・六月発行の雑誌『人間』に「壽陵余子」の署名で連載されたアフォリズム集「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」(リンク先は私のサイトの電子化注)の「妖婆」の標題で、

   *

 英語に witch と唱ふるもの、大むねは妖婆と飜譯すれど、年少美貌のウイツチ亦決して少しとは云ふべからず。メレジユウコウスキイが「先覺者」ダンヌンツイオが「ジヨリオの娘」或は遙に品下れどクロオフオオドが Witch of Prague など、顏玉の如きウイツチを描きしもの、尋ぬれば猶多かるべし。されど白髮蒼顏のウイツチの如く、活躍せる性格少きは否み難き事實ならんか。スコツト、ホオソオンが昔は問はず、近代の英米文學中、妖婆を描きて出色なるものは、キツプリングが The Courting of Dinah Shadd の如き、或は隨一とも稱すべき乎。ハアデイが小説にも、妖婆に材を取る事珍らしからず。名高き Under the Greenwood の中なる、エリザベス・エンダアフイルドもこの類なり。日本にては山姥〔やまうば〕鬼婆共に純然たるウイツチならず。支那にてはかの夜譚隨録載〔の〕する所の夜星子なるもの、略妖婆たるに近かるべし。(二月八日)

   *

と触れている。なお、トーマス・ハーディの作品名を芥川は‘Under the Greenwood’と記しているが、正しくは‘Under the Greenwood Tree’である。因みに、私は以上の「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」を、暴虎馮河で現代語訳した『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み やぶちゃん』として、やはりサイトに公開してある。]

「長崎君」一高時代の同級生。長崎太郎(明治二五(一八九二)年~昭和四四(一九六九)年)高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)生まれ。旧同級だった芥川龍之介や、菊池寛らとも親交を持った。一高卒業後、井川と同じく京都帝国大学法科大学に進学(さればこそここに名が出て腑に落ちる)、大正六(一九一七)年の卒業後は日本郵船株式会社に入社、米国に駐在し、趣味として古書や版画を収集し、特にウィリアム・ブレイクに関連した書籍の収集に力を入れた。同一三(一九二四)年に欧州美術巡覧の後に帰国した。翌十四年、武蔵高等学校教授となり、昭和四 (一九二九) 年には母校京都帝国大学の学生主事に就任した。同二十年、山口高等学校の校長となり、山口大学への昇格の任に当たった。同二四(一九四九)年には京都市立美術専門学校校長となったが、ここも新制大学へ昇格、翌年、京都市立美術大学学長となって、多くの人材を育てた。

「橡」ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata

「プランターン」「プランターヌ」(フランス語:Platane)の誤記。ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis 。属の学名である「プラタナス」と呼ばれることが多いが、本邦で見かける「プラタナス」は、本種よりもスズカケノキ属モミジバスズカケノキ Platanus × acerifolia であることの方が多い。

「明地」「あきち」。空き地。

「文展があしたから始まる」石割氏注によれば、第七回文部省美術展覧会で、この月の十月十五日から『上野竹の台陳列館』(現存しない。東京帝室博物館が管理する施設で、美術関係団体に貸し出された。この文展を始めとして各種美術展会場として使用されたが、東京府美術館の開館で、その役割を終えた。この陳列館は江戸時代に寛永寺中堂があった場所で、陳列館は現在の東京国立博物館の南側の噴水と奏楽堂の中間附近にあった)『で開催。京都』では十一月二十五日から開催されたとある。

「Lieder」「リーダア」。ドイツ語で‘Lied’の複数形で「歌曲」の意。

「十月幾日だかわすれた」「水曜日なのはたしかだ」当初、電子化しながら腑に落ちなかった。何故なら、底本の標題する大正二(一九一三)年十月十七日は万年カレンダーを調べると金曜日だからだった。しかし、石割氏の注で腑に落ちたのだった。彼は「文展があしたから始まる」と書いているから、書いているのは大正二年十月十四日か、日付が変わった十五日未明なのである(日付を忘れたとして調べようがないのは、深夜で自室で書いていたからであろうから、後者の可能性が高い)。彼は、これを翌日には出さずに(今までの書簡を見ると、しばしば龍之介はそういうことをしている。これは、或いは言い忘れたことを用心してのこと(追伸をするため、或いは、内容が気に入らず書き変えるケースもあろう)であることが多いように私は感じている)、二、三日ばかり経った十七日朝にでも封筒に入れて表裏書きをし、投函したものと考えると、腑に落ちたのであった。

譚海 卷之四 阿波國石筒權現の事

 

譚 海 卷の四

 

○阿波國に石筒權現と申(まうす)おはします。橫崎といふ所より八里半のぼりて、高山の上に御社有、其間の嶮岨言語同斷也。絕頂にいたる處鐡のくさりにすがりてのぼる、其くさりの長さ三十三間有、つゝじの古かぶにつなぎてあれども、とりすがりてのぼるに、切るゝ事なし。くさりを登りはつる所に鳩の息つきの水といふ有、わづかなる淸水のたまりたる岩の上に、石にて造りたる鳩ひとつ水にのぞみて有、此水人々すくひのめども、終にたゆる事なし。每年六月十八日より七日の間參詣する事也。殊の外をそろしき山にて、時々人のけがされて血にまみれたるかばねなど、樹のうらにかゝりてある事多し、諸人潔齋して登る山也。

[やぶちゃん注:「阿波國に石筒權現」底本の「日本庶民生活史料集成」第八巻の武内利美氏の注に『四国の石鎚山』(いしづちさん)『の神。阿波ではなく、伊予の国の石鎚山』(千九百八十二メートル)『であろう。四国第一の高峰で、山上に石鎚神社があり、役』の『行者の開創と伝える。山岳信仰の中心の一つで、今日も七月一日から十日にわたる大祭には、多数の白衣行者が登拝する』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルの写真を見ると、険しさの様子が判る。当該ウィキによれば、『石鎚山は古くから山岳信仰の山とされ』、『奈良時代には修行道場として知れ渡った。役小角や空海も修行したとされ山岳仏教や修験道が発達し、信仰の拠点として石鎚神社、前神寺』(ぜんじんじ)、『極楽寺、横峰寺がある。(石鎚神社中宮成就社のある成就は明治初期の神仏分離以前は常住と呼ばれていた。)』。『古代の石鎚山は笹ヶ峰、瓶ヶ森』(かめがもり)『および子持権現山が石鈇信仰の中心であったとする説、あるいは現在の石鎚山と笹ヶ峰の東西』二『つの霊域を想定する説がある』。『(新居浜市の正法寺では奈良時代の石鎚山が笹ヶ峰を指していたことに基づき、現在でも石鎚権現の別当として毎年七『月に笹ヶ峰お山開き登拝が行われている。)』。『開山の伝承として』、斉明天皇三(六五七)年に『役の行者とその供をした法仙が龍王山(瓶ヶ森の中腹標高』八百四十メートル『辺り)で修行のすえ石土』(いしづち)『蔵王権現を感得したという。そして、そのすぐ下の広い場所に天河寺を開創する』。天平九(七三七)年に石土蔵王権現はさらに高い瓶ヶ森の絶頂に祀られ』「宮とこ」と呼ばれ、天平勝宝五(七五三)年には『芳元が熊野権現を勧請した。その山は石土山』(いしづちさん)『と云われていて、天河寺はその別当として栄えた。一方、現在の石鎚山となる山は石撮峰と呼ばれ、法安寺(愛媛県西条市小松、飛鳥時代創建)の住職である石仙(灼然)により横峰寺が開かれ、さらに当山中腹の常住に前神寺の前身となる堂が造られた。その後、黒川谷で修業をした上仙菩薩(伊予国神野郡出身)が石鎚蔵王大権現を称え、登山道を山頂へと開く。そして』、天長五(八二八)年には、『瓶ヶ森より石土山を現在の石鎚山へ光定』(こうじょう)『(伊予国風早郡出身)により移され、石鈇山』(いしづちさん)『と呼ばれるようになる』。『平安時代前半には神仏習合が行われたとされ、山岳信仰特有の金剛蔵王権現および子持権現が祀られた。そして、桓武天皇』(七八二年〜八〇五年)『が自身の病気平癒祈願と平安京奉謝などの成就をしたことにより、国司に命じ常住に七堂伽藍を建て勅願寺とし「金色院前神寺」の称号を下賜された。天正年間には河野通直、村上通聴』(読み不明)『が社領』を、慶長一五(一六一〇)年には『豊臣秀頼が社殿を前神寺に寄進した。寛文年間には小松藩主一柳氏、西条藩主松平氏の帰依により社殿が整備された』。『江戸時代初期には信者の増加に伴い、前神寺は麓に出張所を設置してからは常住の本寺を奥前神寺、麓の出張所を里前神寺と呼ぶようになった。その後、本寺機能は里に移っていった。そして、別当職や奥前神寺の地所をめぐって西条藩領の前神寺と小松藩領の横峰寺との間に紛争が起こった。古来、石鈇山蔵王権現別当は前神寺が専称していたのに対し』、享保一四(一七二九)年に『横峰寺が「石鈇山蔵王権現別當横峰寺」の印形を使用したのが発端であるとされ、双方が京都の御所に出訴するに至った。そこで、地所は小松藩領の千足山村、管理権と「石鈇山蔵王権現別當」の専称は前神寺とし、奥前神寺は常住社と名称変更され、横峰寺は「佛光山石鈇社』『別當」と称するとの裁決が下された』。明治四(一八七一)年の『神仏分離により、石鈇蔵王権現は石土毘古命』(いわつちびこのかみ)『となり』、『前神寺の寺地は全て石鉄』(『いしづち』神社に、前神寺は廃寺に、横峰寺は横峰社となった。両寺はその後すぐに復興し』、『真言宗に所属することとなった。明治三五(一九〇二)年に『石鉄神社から石鎚神社に変更が決定され』、『石鎚毘古命(石鎚大神)、石鎚山となる。そして明治時代中期以降は石鎚神社、前神寺、横峰寺はさらに多くの信者を集めるに至った』。『毎年』、七月一日から十日までの『間に「お山開き」の神事が執り行われ、多くの信者が参拝登山に訪れる。古くからお山開きの期間中は女人禁制とされてきたが、現在では』七月一日『だけが女人禁制となった。当日は女性は成就社まで、また土小屋遥拝殿までで山頂まで登る事が出来ない』。『石鎚山の頂は、通常は天狗岳のことを指すが、弥山から天狗岳までが岩場であることや、天狗岳に多人数がとどまれるスペースがないこともあり、天狗岳直前(約』二百メートル『手前)の弥山』(みせん)『までの登山者も多い。弥山には石鎚神社の鎮座のほか』、『山頂小屋がある』。『弥山まで』三『箇所の鎖場があり、下から』「一の鎖」(三十三メートル)・「二の鎖」(六十五メートル)・最後も「三の鎖」(六十七メートル)と続くが、『迂回路もある。「一の鎖」の手前に前社ヶ森』(千五百九十二メートル)『の岩峰にかかる「試しの鎖」』(七十四メートル)『があり、これが最も急勾配である。弥山への鎖は近世頃より掛けられたとされ、安永八(一七七九)年に』鎖が切れ、翌安永九年に『鎖の掛け替えを行ったとする記録である』「石鉄山弥山鎖筋之覚」が『前神寺旧記に残されている。山頂からは瀬戸内海、および土佐湾、見通しのよい日には大山を始めとする中国山地、九州の九重連山まで望むことができる』。『主な登山コースは、石鎚登山ロープウェイ使用の成就社コース、石鎚スカイラインまたは瓶ガ森林道を使用の土小屋コース、面河渓谷コースの』三『つが一般的であるが、ロープウェイを使わないコースとして』、『西ノ川登山口から夜明かし峠に至るコースや、今宮道から成就社に至るコースもある。成就からの登山道が表参道、面河からが裏参道と呼ばれる』。『西ノ川登山口からのコースで毎年遭難騒ぎが起きているので不十分な用意は禁物である。天狗岳直下には傾斜が強くオーバーハングした北壁が落ちており、四国一といってもよいロッククライミングのフィールドを提供している』。『さらに、「石鎚山旧跡三十六王子社」という行場を巡りながらの登拝もあるが』、『経験者の案内のもとに行かないと行き着けない』とある。

「橫崎といふ所より八里半のぼりて」この地名は現在の地図やスタンフォード大学の旧地図を見ても見出せない。思うに、これは原本の「橫峰」の誤字或いは判読の誤りではあるまいか? 但し、これは地名ではなく、寺名で、現在の愛媛県西条市小松町にある真言宗石鈇山(いしづちざん)福智院横峰寺で、四国八十八箇所の第六十番札所。グーグル・マップ・データ航空写真を見て戴くと判るが、石鎚山の真北(直線で八キロ弱)に位置し、東西を迂回して行くとしても、恐らく登攀実測では三十キロメートルはあるからである。この寺は標高七百四十五メートル付近にあり、伊予国では最高所の寺であり、八十八箇所の全体の中でも二番目の高地に建っている。私の試算がおかしいとなら、ウィキの「横峰寺」に、以下のように書かれている事実をお示しする。『いつのころか四国霊場巡拝は、当寺を打った後、当寺より』五『町未申の方角』(約五百メートル南西)『に上がった鉄ノ鳥居(星ヶ森)で参拝し、ここより』九里(注に「奉納四國中邊路之日記」(元禄九(一六九六)年)の記述の距離に拠るとある)『先の山中にある石鈇山蔵王権現(前神寺)への参拝を済ますようになっていた』とあるので如何か?

「三十三間」約六十メートル。先の引用を参照。山頂の石鎚神社への鎖り場の最後の「三の鎖」りの現在の長さも六十七メートルである。

「鳩の息つきの水」現行では確認出来なかった。

「けがされて」「怪我されて」ではおかしいから、潔斎をせずに登って「穢されて」(権現さまから「穢れたる身」と断ぜられて)の謂いととる。]

2021/02/22

只野真葛 むかしばなし (15)

 

「奧より茶の間迄、引とほしの緣側にて、下は崖にて、むかふは、皆、田なり。殊の外、見はらしよく、田植などは、庭にみる如くなりし。」

と被ㇾ仰し。

「螢おほく、しかも袖ケ崎は並より大きなほたるなり。夕やみにとびちがふはすゞしくてよかりし。」

と被ㇾ仰し。子共の時分、つねに御はなしを伺(うかがひ)て、

「袖が崎へ行(ゆき)て見たし。」

と申せしに、

「其御長屋は借地(かりち)にて、今は御返しになりし故、あとかたもなし。」

と被ㇾ仰し。

「庭のむかふの崖ぎわは、三尺ばかり、薔薇垣なりしが、其ばら、春、花咲て、ちるやいなや、又、つぽみ、いでゝ、二度(ふたたび)、花、咲(さき)たりしが、はじめの花は、ひとへにて白大輪、あとは一めんに極紅(きよくこう)の八重小輪なり。其時は、父樣にも、御とし若(わか)にて、餘りおほく有もの故、めづらしきものともおぼしめさゞりしが、とし經て考へるほど、よき花にて、たぐひなきものなりし、其後、終に見しこともなし。」

と折々被ㇾ仰し。誠(まつこと)、此御代は御富貴(ふうき)のさかりにて有し故、そのふしの御はなしは、何を聞ても、心いさましきことなりし。

 唐鳥のわたりを、「無益のこと」ゝて、公儀より、とゞめられしに、御富貴の餘りには、珍らしき鳥などかわせらるゝを[やぶちゃん注:ママ。]、このませられしに、『あやにくのこと』ゝ思召(おぼしめさ)れしを、御出入(おでいり)の町人、いのちにかえて、いろいろの鳥を、長崎より獻上したりしを、御悅(およろこび)被ㇾ遊て、御そばちかく召され、御酒(ごしゆ)など被ㇾ下、

「あたひは、のぞみ次第なり。いかほどにも、とらるゝほども、もちて行べし。さりながら、御門をいづる迄に、つまづきころびなば、みな、御とりもどしなるぞ。」

と、被ㇾ仰るかとひとしく、廣蓋《ひろぶた》にうづたかく金をつみて、二人にて荷なひいづること、片側に三(みたり)づゝなり。廣ぶたに六(むつ)の金を左右におきて、

「いざ、とれ。」

と、御意なり。町人、立上りて、袂に入(いれ)、懷に入、いろいろのことして取しが、一(ひとり)、廣ぶたも、とらざりしとなり。手ぬぐひをいだして、金をとりいれ、よくつゝみ、鉢卷にしたるが、殊にをかしくて、御意に被ㇾ遊しとなり。餘り、袂へ入過(いれすぐ)して立(たち)かねて、のこしなどするてい、殊の外、御興(ごきやう)なり。やうやう、御門をいでしが、御地輻(じゆふく)をまたぐと、腰が、ぬけし、となり。かごをよびて置し故、すぐすぐ、のりて下(さが)りしが、あとにて御しらべに成(なり)しが、

「七百兩ばかり取りし。」

と、なり。包(つつみ)がねならば、今少しも取らるべきを、みだし重(がさね)故、結句《けつく》とりかねしなり。

 其頃、名代(なだ)のおごり、細川樣もおなじ御心にて、つねに御あそび御出入有しとなり。細川樣御もてなしのためにばかり、凉月亭の下一町[やぶちゃん注:百九メートル。]餘(あまり)兩がわを商人屋《あき》(んどや)に作らせられて、武具・馬具・大小の小道具、其外吳服物、すべての賣物を「ひし」とかざりて、人なしにして、

「御通筋、御意に入(いり)し物、何にても御とゝのへ被ㇾ遊べく。」

と申上(まうしあげ)しに、細川樣、御座に付せられて、

「さやうなら、其かたがわ[やぶちゃん注:ママ。]の品、のこらず、御かい上(あげ)。」

と仰られしとなり。

「其世の御あそびは格別なるものぞ。」

と、御はなしに伺(うかがひ)し。

[やぶちゃん注:以上の話の後半は、「七百兩」という大金を惜しげもなく遣わすことや、お仲間の名代の太っ腹の「細川樣」(「日本庶民生活史料集成」の中山氏にの注に『九州の細川家の一族か』とされ、『名代のおごり人でその遊興振りの素晴らしかったことが書かれてある』とある)買い上げざまから見て、これは袖ヶ崎の下屋敷に隠居するに際して工藤丈庵を侍医として召し抱えた仙台藩第五代藩主伊達吉村(寛保三(一七四三)年七月に四男久村(宗村)に家督を譲った。宝暦元(一七五二)年没)の、丈庵が親しく実見したエピソードと読める。

『唐鳥のわたりを、「無益のこと」ゝて、公儀より、とゞめられし』中国やオランダとの貿易の中で、西洋から渡来した異鳥の取引を無益な取引として、公儀が表向き禁じたということであろう。徳川家重の治世で何となく腑に落ちる。

「廣蓋《ひろぶた》」縁のある漆塗りの大きな盆。

「一(ひとり)、廣ぶたも、とらざりしとなり」誰一人として広蓋ごと取ろうとはしなかったとのことである、の意であろう。

「地輻(じゆふく)」歴史的仮名遣は「ぢふく」が正しい。ここは下屋敷の門の最下部に地面に接して上方に突き出て取り付けてある横木のこと。

「包(つつみ)がね」包金銀(つつみきんぎん)。江戸幕府への上納や公用取引のために所定の形式の紙を用いて包装・封印された金貨・銀貨のこと。対するのが「みだし重(がさね)」で、バラのそれらを捻りに投げこんだものであろう。

「凉月亭」不詳。仙台藩下屋敷にあった離れか。

「商人屋《あき》(んどや)」商店のように拵えさせ。

「人なしにして」無人にしておき。]

ブログ・アクセス1,500,000アクセス突破記念 梅崎春生 その夜のこと

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二九(一九五四)年一月発行の『別冊小説新潮』初出で、後の昭和三四(一九五九)年に刊行した作品集「拐帯者」(光書房)に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。

 今回は思うところあって敢えて或る核心に踏み込んだ注は附さないことにした。その〈意味〉は恐らく、凡そ、また一ヶ月後ぐらいには判るであろう。お待ちあれかし。文中に軽く割注を入れた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが今日の午前中に1,500,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021222日 藪野直史】]

 

   その夜のこと 

 

 僕はその時、玄関の土間につっ立っていた。僕は怒りに燃えていた。婆さんは帳場の火鉢のそばに中腰になっていた。右手は火箸の頭をにぎりしめていた。そして婆さんは早口でなにかを言い返した。言い返したというより、それはもう口汚い罵声に近かった。

 次の三十秒ほどの間、僕の記億はぶっつりとぎれる。憤怒(ふんぬ)が頂点に達し、ついくらくらと分別を失ったのだろう。

 婆さんの顔が急に変って見えた。右の眼の上の部分が、見る見る青黒くせり出してきたのだ。

 婆さんは畳に尻餅をついた姿勢になっていた。顔はゆがんで、まっさおだった。灰から引抜いた火箸で僕を指しながら、乱れた声でわめきたてた。

「こいつが。この極道者。ゴクツブシが!」

 帳場の台の上にあった糊(のり)の壺を、僕の手が無意識につかんで、婆さんの顔にたたきつけたらしいのだ。それが右眼の上に命中して、その部分はごく短い時間に、急速に団子状にふくれ上ってきた。それを見て僕はますます兇暴な気持にかき立てられた。婆さんはさらに声を高めてわめいた。

「ああ、誰か来て。この極道者があたしを殺す!」

「黙れ、クソ婆あ」

 と僕も怒鳴りかえした。

「わめくなら、もっとあばれてやるぞ!」

 僕は土間を見廻した。土間のすみに小さな椅子があった。僕は急いでそこに行き、その背を摑(つか)んだ。両手でふり上げた。破滅するなら破滅しろ。僕はもう気ちがいじみたかけ声と共に、その椅子を力いっぱい帳場のガラスに叩きつけた。痛快な破裂音と共に、三尺四方もある大ガラスは無数の三角形に砕け散って、畳や台の上に散乱した。框(かまち)に残った部分は、するどい牙状になって、深夜の電燈の光にギラギラと光った。

 大きな叫び声といっしょに、廊下をどたどたと走ってくる音がした。

「クソ!」

 僕はも一度椅子の背を握りしめた。勢いよく別のガラスめがけて投げつけた。

 乱れた人声や跫音(あしおと)が、またたく間に玄関に集ってきて、そこら中が人だらけになった感じだった。皆寝巻姿だ。酒の酔いと極度の亢奮(こうふん)のために、眼がちらちらとして定まらない。茫然と土間につっ立っている、と他人眼(はため)には見えたかも知れない。玄関にうろうろと出てきたその中の一人が、足袋はだしのままそっと土間へ下りてきて、へんにやさしい猫撫で声で僕にささやきかけてきた。僕と同じ年頃のこの下宿の止宿人らしい、眼鏡をかけた男だった。

「ねえ、もうこれで、気がすんだでしょう。だからね、もう乱暴はよしなさいね」

「うん」

 と僕は割合素直にうなずいた。こう沢山集ってきては、もうあばれてもムダだし、それに婆さんがお岩みたいな顔になったので、すこしは気の毒にもなってきたからだ。

しかしまだ僕の身体は、余憤のためにぶるぶるふるえていた。男は僕の肩にそっと手をかけた。

「ね、お互いに最高学府の学生なんだから。暴力なんかふるうのは――」

 そこまで言いかけた時、帳場の中から婆さんがふたたびいきり立った。火箸をにぎりしめて、立ち上ろうとしている。その婆さんをこの下宿の女将が必死にはがいじめにして、しきりになだめているらしい。婆さんの顔はすっかり形相(ぎょうそう)が変り、双の眼はぎらぎらと憎悪に燃え立っていた。それはもう人間の顔ではなかった。

「あ、あの悪党を、つかまえて。ぶ、ぶっ殺してやる」

 向うが逆上したので、かえって僕は平静になって来た。平静になってくると、急に寒さが身に沁みてきた。僕は肩をすくめて、しょんぼりした形になった。婆さんはなおもはげしく怒号している。

 そこへ道路の方から、霜多が玄関に顔をのぞかせ、僕を見て低いあわてた声で言った。

「巡査が来たようだよ。静かにしてた方がいいよ」

 僕はうなずいて見せた。しかし静かにしていたって、もう遅い。僕が静かにしても、婆さんがさかんに騒ぎ立てているではないか。僕は観念した。

 やがて巡査が二人、のっそりと玄関に入って来た。深夜のパトロールをしていたのらしい。その巡査の一人の眼がキラリと光って、射るように僕の顔を見た。コメカミがぎりぎり痛み出すのを感じながら、僕はそっぽ向いた。

 

 その夜、その夜というのは、今から十六年前、昭和十二年の一月八日のことなのだが、僕は霜多という友人といっしょに、浅草に遊びに行ったのだ。とにかくそれは寒い夜だった。

 浅草で常盤(ときわ)座の『笑いの王国』にワリビキから入り、それが終って二人は、バスで本郷に戻ってきた。その頃、僕も霜多も『東京帝国大学』という学校の文学部学生で、霜多は中野、僕は駒込千駄木町の『愛静館』という下宿に止宿していた。三十か四十ぐらい部屋がある、通りに面したかなり大きな二階建ての下宿屋だった。僕があばれたのは、その下宿の玄関先だが、そのことはまたあとで書く。[やぶちゃん注:「常盤(ときわ)座の『笑いの王国』」浅草公園六区初の劇場・映画館として明治一七(一八八四)年十月一日に開業したのが常盤座で、大正六(一九一七)年一月二十二日に「歌舞劇協会」のオペラ「女軍出征」を上演して大ヒットし、これが「浅草オペラ」の濫觴とされ(「浅草オペラ」自体は後に「金龍館」が主な舞台となった)、かのエノケン劇団もここの舞台に立っている。大正十二年九月一日の関東大震災で関東大震災で常盤座は大打撃を受けたものの、松竹傘下に入って興行は繋がれ、大正一三(一九二四)年三月以降、常盤座は帝国キネマ演芸の封切館となった。昭和八(一九三三)年四月一日には古川緑波(古川ロッパ)・徳川夢声らが常盤座で、軽演劇劇団「笑の王国」の旗揚げ公演を行ない(絶頂期のエノケン一座への対抗馬という意味合いが強かったらしい)、それ以来、戦時下の昭和一八(一九四三)年六月の同劇団解散まで、同劇団は常盤座を根城にしていた。参照したウィキの「常盤座」に、まさに作品内時制と完全に一致する昭和一二(一九三七)年一月の写真が載る(右手前が常盤座とあり、その上によく見ると「笑の王國」の幟(のぼり)もまさに見えるのだ)。序でにYouTube の「東京節」(作曲:添田啞蟬坊・唄:大工哲弘)を視聴されたい。その2:50のところの「浅草」とテロップの出る動画内(カラー・着色か)に「WARAINOOKOKU」の看板と、次いで切り替わった画像にも「笑いの王國 公演 常盤座」の幟が見える(その少し後にも同一場所を少し引いた画像が出る。これらの画像は太平洋戦争前のものと思われる。必見!)。「ワリビキ」というのは劇場や映画館などで早朝や深夜その他の客入りの少ない一定時間内に於いて通常の値段よりも安い料金で客を入れることを指す。]

 で、本郷に戻ってきても、二人はひどく寒かった。そこらあたりがしんかんとつめたく、いわゆる霜夜というやつだ。そこで屋台のオデン屋で、コップ酒をかたむけることにたちまち相談がまとまった。酒を飲むのは、しかし寒かったからだけではない。他にもう一つ理由があって、つまり初めからの予定でもあったわけだ。

 屋台に入り、酒がなみなみと注がれると、霜多はコップをちょいと持ち上げ、僕の顔を見て、

「おめでとう」

 と笑いながら言った。いたわるような、からかうような、そんな妙な調子だった。そしてつけ加えた。

「ほんとによかったな」

「うん」

 僕はコップに目をつけた。何箇月ぶりかのその酒は僕の食道をじりじりとやき、しずかに胃の方におちて行った。その味は、旨いとか不味いとかいうものでなく、言わばその彼方のものの味だった。しかし僕はすこしヤセ我慢のような気持で、

「うん。酒というものは、やっぱり旨いもんだな」

 などと答えたりした。久しぶりの酒に、そんな照れかくしを言わねばならないほどに、僕には複雑な感懐があったのだ。しかしまあ、あの頃だったから複雑なので、今だったら複雑でも何でもない、カンタンな話なのだが。

 その筋道をちょっと言いておく。

 その前年の七月の末、当時二十一歳の僕はある種の病気にかかったのだ。ある種の病気というのもへんだから、この病名を仮にXということにしておこう。このXは現今においては、注射の一、二本でカンタンに治癒するらしいけれども、当時は当時、医業医薬の未発達のため、なかなか難治の病気とされていた。その難治なるXに不運にも僕がとりつかれたというわけだ。僕は夏休みの帰郷をも取止めて、大急ぎで医者に飛んで行った。

 こうして僕の憂鬱な口々が始まった。

 Xという病気ははなはだ面白くない病気で、酒はいけない、刺戟物はいけない、あまり動き廻ることもよくない、とにかくあらゆる欲望をつつしまなければならない病気なので、そこで僕は毎日下宿にごろごろして、そして医者に通う。その医者は町医者で、僕が学生だからというので、特に治療費を月極め二十五円にして呉れた。当時にしてもこれは安い方だったと思う。医院は千駄木町にあった。僕が弓町の下宿を引払い、この愛静館に引移ってきたというのも、そんな事情からだった。毎日通うのに遠くでは都合が悪いのだ。

 ところが次にむつかしい問題があった。愛静館の下宿代が一月二十五円、医者代と合わせると、月に五十円となる。それなのに僕が仕送りを受けている学資が、月額五十円なので、下宿代と医療費にまるまる消えてしまうのだ。あとは何も出来ないというわけだが、僕だって人間だから、何もしないというわけには行かない。本も読みたければ、タバコもすいたい。そんなことをするにはどうしても金が要る。

 それではも少し余計に仕送りさせればいいじゃないか、と思う人もあるだろうが、そういう訳にも行かない。Xのことは故郷には秘密になっているし、夏休み不帰郷のことは学術研究ということにしてある。だからどうしてもその範囲でやらねばならなかったのだ。僕ははなはだしく憂鬱だった。

 ところがその憂鬱にまた輪をかけることが起きて出たのだ。病状は順調に回復におもむいていると思っていたのに、九月に入ったとたん、Xがある種のこじれ方をして、大いに痛みを発し、僕はどっと床についた。痛くて痛くて動けないのだ。退屈なものだから、バスに揺られて浅草にレビューなどを見に行ったのが、覿面(てきめん)にたたったらしい。

 それから下宿に寝たっきりの三週間、医者は毎日往診して来る。動けないのだから、付添いの女を派出婦会からやとう。どうにでもなれと思って、僕はヤケッパチな安静をつづけていた。将来のことを考えると、眼の先がまっくらになるような気がするので、一日中もうひたすら無念無想とつとめている。八方ふさがりだから、僕とてもそういう擬態をとらざるを得ないのだ。

 こういう僕に対して、下宿側はどう考えていたか。それを想像すると、僕は今でも舌打ちしたくなるような面白くない気分になる。

 

 Xのことはもちろん下宿側には秘密にしてあった。しかし事態がこうなれば、向うは感づくにきまっていた。そうそう僕もかくし立ては出来ない。

 無論感づかれたって一向かまわないのだけれども、事情が事情だから、いろんな支出の関係上、どうしても下宿料がとどこおってくる。下宿料のたまった止宿人ほど肩身のせまいものはない。経験のある人には判って貰えると思うが、そうなれば女中だって鬼みたいに見えてくるものだ。

 そんな絶対安静のある日、付添いの女が食事から部屋に戻ってきて、僕に言った。ひどく不快そうな表情だった。

「御飯どきにあたしをいじめるんですのよ」

 付添いは二十四、五の素直な女だった。もちろん食事代は僕持ちのわけだが、下宿ではその食膳を僕の部屋に持って来ず、初めから女中部屋で食事をするように命じたらしい。これは僕を踏みつけにしたやり方なのだが、宿料がとどこおっているのだから仕方がない。だから付添いは食事毎に女中部屋にかよっていたのだ。

 僕は訊(たず)ねた。

「誰がだい。オカミかね?」

「いえ、オカミさんじゃない。あの婆さんです。とてもひどいことを言うのよ」

「どんなこと言った?」

「あなたのことなど、学生のくせにXなんかにかかって、仕様のないダラク学生だって」

「ダラク学生?」

「あんなのを産んだ親御の顔が見たいなんて、わざと聞えよがしに話すのよ」

 僕は寝床にじっとあおむけに横たわり、大げさに言うと、歯をかみ鳴らして悲憤の涙を呑んだ。こんなにも日常は憂鬱なのに、八方ふさがりでどうしていいのか判らないのに、何も開係のないあのババアから、なんでこんなことまで言われねばならないのか。

 ここでこの婆さんのことを、ちょっと説明をして置く必要がある。この婆さんというのは、この下宿の経営者ではない。はっきり言えば一介の雇い婆に過ぎないのだ。つれあいの爺さんと一紺にこの下宿に住みつき、それも相当古くから居付いているらしく、相当の実権と発言権を持っている風(ふう)で、仕事と言えば炊事や掃除の指図など、ちょっと女中頭みたいな地位にあるようだった。年齢はその頃五十五、六ぐらいだったかしら。色の黒い、説がぎろぎろして、いかにも頑固一徹そうな風貌だった。これに反してつれあいの爺さんは全くの好々爺だったが、婆さんの尻にしかれて影のうすい存在だった。

 僕は初めからこの婆さんから好意を持たれていないらしかった。

 今思うと、この婆さんの止宿人に対する好悪あるいは価値判断は、しごくハッキリしていたと思う。学校に毎日真面目に出席し、そして下宿代もキチンキチンと払う、そういう止宿人に婆さんは好意を持ち、その反対のものに悪意を持ったというわけらしい。彼女は雇い婆だから、下宿代を溜めようが溜めまいが関係ない筈なのに、そこが価値判断のひとつの基準になっている。つまり彼女の好悪は、彼女独特の倫理観から出てきているようだった。

 この下宿に入った早々、僕はハガキを出しに、玄関にあった誰かの古下駄をつっかけて出かけ、そしてこの婆さんにがみがみ叱られたことがある。僕も反撥した。

「ちょっとそこまでだから、いいじゃないですか。穿いて減るものじゃなし」

「だってあんたさんは、自分の下駄を持ってなさるんじゃろ」

 と婆さんは僕をにらみつけた。僕としては、ついそこらのポストまで行くのに、わざわざ下駄箱から下駄を出すのは面倒くさい。だからちょっと無断使用したわけだ。それはもうすっかりすり減って、捨てても惜しくないようなよごれた古下駄だったのに。

「ケチケチするなよ、婆さん」

 僕は捨ぜりふを残して、一気に階段をかけ上った。僕の部屋は二階の一番外(はず)れの、北向きの日当りの悪い四畳半だった。愛静館の中でも最も悪い部屋のひとつだったと思そう。

 

 その四畳半の部屋で、面白くない明け暮れをむかえ、そして僕の病気がやっと治(なお)ったのは、翌年の正月に入ってからだった。七月の末からのことだから、五箇月を越える計算となる。一夜の歓の代償としては、若い僕にとって犠牲が少々大き過ぎた、と言えるだろう、現今なら何でもない話だから、僕は十五年ばかり早く生れ過ぎた。しかしこの五箇月の忍苦の生活の中で、僕は人の世のいろいろのことを学び、またさまざまな考えや態度を身につけた。すなわち少しは図太くなってきたとも言うわけだ。図太くなったとしても苦しく憂鬱な条件にはかわりなかったのだが。

 その僕に、霜多がいつかこんなことを言ったことがある。

「君の生活が僕には大変うらやましいな。だって、君は、酒は飲めないんだろ。コーヒーも飲めないだろ。女も抱けないだろ。そうなってしまえば、勉強がいくらでも出来るじゃないか。うらやましい身分だよ。それに君の生活の全目的は、Xの治癒ということにかかっているから、つまり生活の大義名分というものがハッキリしてるというわけだ。それだけでも大したもんだよ。今の青年たちを見なさい。皆生活の目的を失って、右往左往してるだけじゃないか。この僕だってそんなもんだよ。ほんとに君がうらやましい」

 しかしこれが霜多の本音であったかどうか。後年霜多が同じくこの病にとりつかれて憂鬱な顔をしていた時、僕はわざと今の言葉をそっくり彼に言ってやった。こんな言葉は、傍観者にとって本音であるとして、当事者にとっては全然的外れの、むしろじりじりと腹が立って来るような言葉なのだ。やはりこんなことは当事者同士じゃないと判らない。そこで僕は今でも、どんな種類の病人に対しても、しかつめらしい同情や激励の言葉は絶対に出さないことにしている。

 本郷のオデン屋で霜多がコップを上げて、おめでとうと祝福して呉れた時も、だから僕は必ずしも調子を合わせて嬉々とするわけにも行かなかったのだ。と言って全然嬉しくないということはない。嬉しいにはきまっている。医者から、もう酒でもコーヒーでもいくらでも飲んでもいい、と言われた時の嬉しさはちょっと形容を絶するようなものだった。ただそれが他人から祝福されるところからは、少しずれていたというだけの話だ。それに完全に癒(なお)ったとしても、まだ色々の問題が残っている。この五箇月間の気持のムリ、生活のムリ、ことに経済上のムリは、全部現在にシワヨセになって来て、それはもうどうしようもない程度に達していたのだ。医者の払いも半分近く残っているし、親類や知友たちにも不義理の借金、下宿代にいたっては三箇月分以上もとどこおっている。前年の大みそか、つまり十日ほど前のことだが、愛静館のオカミは僕の部屋にでんと坐りこみ、是非ともここで片をつけて呉れ、片をつけねば正月から食事も出さぬとの強(こわ)談判に、僕はひたすら哀願の一手で、年があけたら必ず金を調達してお払いする、と堅い約束までさせられている。ところが今日となっても、調達のメドすらついていないのだ。

 下宿の玄関を出入りする度に、オカミや婆さんや女中たちが、じろりと僕を険をふくんだ白い眼で見る。背中に汗が滲み出るような気特で、僕は寒空に飛び出す。飛び出したが最後、下宿がすべて寝しずまってしまうまでは、全然戻る気持になれないのだ。今にして思えば、どうも僕はいくらか神経衰弱的な、強迫症状みたいなものにおち入っていたのかもしれない。

 で、その屋台のオデン屋で適当に祝杯をあげ、有り金もすっかり使い果たし、そこで中野へ帰ろうとする霜多を懸命に引き止めたのは、僕の方だった。霜多の外套(がいとう)の袖を、僕はつかんで離さなかった。

「ねえ。も少し飲もうよ。まだ早いんだから」

「だって金がないんだろ」

「紫苑に行けば、ツケで飲めるよ。とにかく飲んでしまって、金は明日持って来ると言えばいい」

 紫苑というのは、愛静館の近くにある小さなうらぶれた喫茶店の名だ。病気中時間つぶしに僕はほとんど毎日そこに行き、紅茶をのんでレコードを聞いてばかりいたのだ。

 しかし霜多はなおも渋(しぶ)った。終電を逸(のが)すと困るというのだ。

「僕の下宿に泊ればいいじゃないか」

「一緒に寝るのは寒いからイヤだよ」

「心配するな。ちゃんと客蒲団を出させるよ」

「へえ、大丈夫かい」

 霜多はそう言ってニヤリと笑った。信用がおけないという表情でだ。僕と下宿との現在の状況をうすうす知っているものだから、そんな笑い方をしたのだろう。僕は強引に彼の外套の袖を引っぱった。霜多はしぶしぶ眼いて来た。

 実のところ僕も、こんな状況において、下宿に客蒲団を出させる事が出来るかどうか、はなはだ心もとなかった。心もとないと言うより、それは不可能だと言ってよかった。しかし一旦保証した以上、戦後的表現で言えば不可能を可能としないわけには行かないのだ。そのためにも、もっとアルコール分を入れて酔っぱらう必要があった。酔ってしまえばどんな厚顔な申し出だって出来る。それで失敗すればそれまでの話だ。――そしてその時の僕の胸に、いわば破滅的な予感とでも言ったものが、たしかにあったように思う。

 屋台を出て僕らは追分の方に歩いた。半年ぶりの飲酒だから、生酔いなのかしたたか酔っているのか、自分でもはっきりしない。身休の芯(しん)はグニャグニャしている感じだが、夜風は頰にひりひりとつめたい。それはへんに確かなつめたさだった。そして僕らは横町に折れ込んだ。紫苑はその静かな横町にぽつんとあるのだ。僕らはその扉を押した。マダムが僕を見て目顔であいさつした。部屋の中はストーブでむっとあたたかかった。僕らはすみの卓に腰をおろした。卓と言っても三つか四つしかないのだから、たかが知れている。

 そして僕らはビールを注文してどんどん飲み始めた。部屋中があったかいから、ビールはひとしお旨(うま)かった。つまみものは南京豆。つまみもの付きでビール一本が五十銭だ。思えば当時は物価が安かったものだ。僕らはここでビールをきっかり十本飲んだ。後日紫苑でこの夜の借金として五円支払った記億がある。一人当り五本だから、あの年齢にしては相当な酒量だと言えるだろう。もっとも僕としては祝い酒かヤケ酒か、よく判らないような状態だったけれども。

 向うの卓でもビールをじゃんじゃん飲んで騒いでいる四、五人連れの一組があった。マダムがそっと僕らの卓に近づいて、小声で教えて呉れた。

「あれが川崎長太郎よ。その横が浅見淵。立ってるあのノッポが檀一雄よ」[やぶちゃん注:「川崎長太郎」(明治三四(一九〇一)年~昭和五〇(一九八五)年)は小田原出身の小説家。小田原中学校中退(図書館の本を盗んで退学処分を受けた)。初期にはアナーキズム・ダダイズム系の詩を書いていたが、関東大震災後、それらの動きを離れ、私小説に転じた。「無題」(大正一四(一九二五)年)や、郷里小田原の私娼窟に材をとった「抹香町(まっこうちょう)」(昭和二五(一九五〇)年)などで一時期、ブームを呼んだ。「浅見淵」(あさみふかし 明治三二(一八九九)年~昭和四八(一九七三)年)は。兵庫県神戸市生まれの小説家・評論家。早稲田大学国文学科卒。中学時代から『文章世界』に詩などを投稿し、早大在学中に『朝』同人となり、大正一四(一九二五)年に「山」を発表。以後、『文芸城』『新正統派』などの多くの同人雑誌に参加して創作・評論を多数発表した。昭和一一(一九三六)年に「現代作家研究」を出版、翌年には創作集「目醒時計」を刊行している。近代文学史の研究でも知られる。「檀一雄」(明治四五(一九一二)年~昭和五一(一九七六)年)は山梨県生れの小説家。東京帝国大学経済学部在学中、太宰治らを知り、佐藤春夫に師事した。芥川賞候補となった「張胡亭塾景観」(昭和一〇(一九三五)年)などを収めた処女作品集「花筐 (はながたみ) 」(昭和十二年) を刊行後、約十年間の沈黙の後、「リツ子・その愛」・「リツ子・その死」(昭和二五(一九五〇)年)で文壇に復帰、「長恨歌」「真説石川五右衛門」で同年下半期の直木賞を受賞した。しかし、三人とも梅崎春生(大正四(一九一五)年二月十五日生まれ)の先輩作家でありながら、彼よりも長生きしていることが何とも言えない。]

 マダムは三十過ぎの小柄な女で、ドイツ人か何かと関係があるとかあったとか、そんな噂のある女性だった。年甲斐もなく文学少女(?)で、そういう高名な文士たちがやって来たことが、なかなか嬉しいらしいのだ。そしてその嬉しさを僕ら大学生たちにも分けたかったのだろう。

 僕も東京に来てまだ一年足らずだから、文士飲酒の光景に接するのは、これが始めてだ。ちょっと珍しいことだから、時に横目でそちらを眺めながら、こちらもピッチを上げる。俺もいつかは文士となりあんな具合に酒を飲んでやろうと、僕がその時思ったかどうか、十六年も前のことだから覚えていない。そのうちに座が乱れて、酔える川崎長太郎はビール瓶をぶら下げ、ひょろひょろとこちらにやって来て、いきなり僕の肩をがしりと摑(つか)み、

「やい、大学生、ビールを飲め!」

 ビール瓶の口を僕の口にあてがい、ごくごくと注(そそ)ぎ入れた。僕は突然のことだから、ビールにむせて泡を宙にふき出したりした。

 かれこれしてカンバンになり、僕らが外に出たのは、もう午前二時を過ぎていたと思う。正確に言うと、一月九日ということになる。月が出ていた。月はつめたく本郷の家家の瓦を照らしていた。

 もちろん僕らは相当に酔っていた。愛静館まで二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]足らずしかない。僕らはよろめきながらその道を歩いた。

 客蒲団の交渉をしてくるから君はここで待ってろと、霜多を表の電信柱の下に待たせ、僕は勢いよく愛静館の玄関の大ガラス扉をがたがたと押しあけた。

 帳場にはれいの婆さんがひとり火鉢にうずくまっていたが、その音を聞きつけて顔を上げた。ぎろりと僕の顔を見た。

 僕はつかつかと帳場の台まで行き、その仕切りのガラス障子を押しひらいた。

 婆さんは極端につめたい眼付きで、僕をにらんでいる。僕も負けずに婆さんをにらみつけながら、押しつけるような声で言った。

「客が泊るんだから、客蒲団を出して呉れ」

「蒲団を出せって、あんた今何時だと思ってんだね」

「何時だって、時計を見りゃ判るだろ」

 と僕は大玄関の大時計の方をあごでしゃくった。婆さんは少しむっとしたらしかった。

「こんなに遅く帰ってきて、そんなムリはお断り!」

「なに。ムリだと?」

 僕もむっとした。ムリは最初から承知はしているが、僕は承知していても、僕の酔いがそれを承知しなかったのだ。それに霜多も表で待っている。

「ムリだとは何だ。ここは客商売だろう。そんなら客の言うことをきけ!」

「うちでは客蒲団は十二時までですよ。それ以後は出せません。皆寝てるんだよ」

「寝てるって、婆さんがそこに起きてるじゃないか。骨惜しみもいい加減にしたらどうだね。なんだい、俺の付添いをいじめたりしやがって!」

「おや、あたしが何時誰をいじめました?」

「付添いだよ。それに俺のことをダラク書生とか何とか、カゲ口をきいたそうだな」

「何だね、あんたは」

 婆さんは急に鎌首をもたげて、中腰になった。

「真夜中に帰ってきて客蒲団を出せとか、カゲ口をきいたとかきかんとか、そりゃちゃんと下宿料を払ってから言うもんだよ。第一あたしゃあんたに雇われちゃいないんだ」

 僕はたちまち逆上した。この一夜の酔いが一時に顔に燃え上るようで、くらくらと何もかも判らなかった。帳場の台の上には、どういうわけか小さな糊壺が一つおかれてあった。反射的に僕はそれを摑(つか)んで、婆さんめがけて力一ぱい投げつけたらしかった。

「おまわりさん。おまわりさん。その悪党をひっくくって下さい。死刑にして下さい。なんだい、あんなの、死刑にしたっていいんだ。くたばってしまえ」

 巡査たちが来ると、婆さんは更に狂乱状態になって、大声でわめき、しきりに罵り続けた。今考えると、おでこのコブがあまりにも痛いので、それをまぎらわすためにわめいていたのではないかとも思う。それならば気の毒なことをした。

 一方僕は土間にしょんぼりと佇(た)ち、小刻みにがたがたと慄えていた。巡査が恐いからではなく、寒さがひしひしと身に沁みてきたからだ。糊壺を投げ椅子をふり廻した、それだけの運動で、あれだけの酔いが一時に発散してしまったらしい。しらじらとしたものが、そのかわりに僕の胸をいっぱいに充たしてきた。

 巡査は婆さんの怒声にあまり耳もかさず、寝巻姿の連中に事情を聴取したり、糊壺を証拠品として押収したり、そんなことばかりをしている。僕のことも、逃亡のおそれなしと見たのか、あまりかまわない風だった。僕ももうジタバタしたって仕様がないので、そこにつっ立って、巡査の動作をぼんやりと眺めているだけだった。その時僕が感じていたのは、悔悟の念というよりも、むしろ開放感というものに近かったかも知れない。

(これでとにかく一応の決着がついたというわけかな)

 僕はぼんやりと、そして呑気にもそんなことを考えた。今思っても、これで決着がついたと考えたのは、呑気も甚だしいことだった。実際新しい苦労がそこから始まったようなものだったからだ。そして僕は考えた。

(俺は俺を取巻く現実を憎んでいた。ところが現実一般を漠然と憎悪するわけには行かないので、この婆さんを代表に立てて、唯一の仮想敵だと思ってたのかも知れないな)

 事件もそろそろ終ったと見極めたのか、それとも寒いのか、そこらにうろうろしていた寝巻姿の止宿人たちは、一人減り二人減り、そして皆部屋に戻ってしまったらしい。やがて婆さんもいくらか落着いて、くどくどと巡査の一人に何か訴えている。

 もう一人の巡査が急に僕に近づいて、僕の肩をごくんとこづき、そして険のある声で言った。

「おい、一緒に来るんだ」

 その巡査と一緒に、僕は表へ出た。霜多があとからついて出た。表へ出ると巡査はぶるっと身ぶるいをした。

「やけに寒いな、車でも拾うか。おい、お前、金あるか?」

「持ち合せありません」

 と僕は出来るだけおだやかに答えた。巡査は舌打ちをした。そして霜多の方をふりむいた。

「あんたは少し金ないですかね?」

 霜多に対しては言葉使いがていねいだった。そういうことかも知れないけれど、実のところ僕はあまり愉快な気持ではなかった。

「ないです」と霜多がカンタンに答えた。巡査はフンといった顔をした。

 そして僕の腕をつかんで、不機嫌な声でうながした。

「さあ、さっさと歩くんだ。手間をとらせやがって!」

 そして僕ら三人は、各々の月の影を平たく地面に引きずって、駒込警察署の方にむかって歩き出した。

 

譚海 卷之三 譚海の事 / 譚海 卷之三 電子化注~了

譚海の事

○譚海一書時々人の物語を聞置しわざのわすれがたき事を書とめぬれど、わかき程は聞捨たるまゝにて書(かき)も止めざりしを、四十歲計(ばかり)の此より思ひ立てかくはしるしたれど、もと聞し事も覺束なく成(なり)て書もらしぬる事多し。殊に此卷は傳聞のたがひ、事案のあやまりもおほかるべけれども、せめては聞すてん事の名殘(なごり)なく覺えて、閑(かん)を消(しやう)するなぐさめに一わたり書しるせる事となりぬ。猶あやまりあらん事をば、見ん人あらため補(おぎなは)んわざをねがふにこそ。

[やぶちゃん注:「譚海」の一つの区切りとして記したもの。これを以って「譚海」の「卷之三」は終わっている。]

   *

今日は、睡眠薬を飲んでいるのに、御前三時前にすっかり目が覚めてしまった。仕方なく、只管、「譚海 卷之三」完結に勤しんだ。七時間ぶっ通しで、やっと終わった。2015年2月9日に始めて六年で全三巻、か……しかし……「譚海」は……全十五巻……このペースでは……生きてるうちには無理かもな…………

譚海 卷之三 山崎の妙喜庵

山崎の妙喜庵

○山崎に妙喜庵と云寺あり。其數寄屋(すきや)三疊大目(さんじやうだいめ)の根本也、千宗易作る所にて、豐臣太閤の袖すり松と云も此庭に有。今は枯たるを其樹を取て香合(かふがふ)に製したるもの、名ぶつにて世中に有。京都はすべて數寄屋の本色(ほんしよく)とするもの、千家をはじめ諸寺院にあまたあり、大德寺塔中は殊に多し。茶器の細工も釜師を始め、一閑張(いつかんばり)細工・茶碗師の類迄、その家を傳へて今に絕ず、精密なる事いふべからざるもの也。

[やぶちゃん注:「妙喜庵」京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町(おおやまざきちょう)にある現在は臨済宗。山号は豊興山。江戸時代には一時、地蔵寺の塔頭であった。室町時代の明応年間(一四九二年~一五〇一年)の開創で、開山は東福寺開創聖一国師法嗣の春嶽士芳。国宝の茶室「待庵(たいあん)」があることで知られる。当該ウィキによれば、待庵は『日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室である。現在一般化している、にじり口が設けられた小間(こま)の茶室の原型かつ数奇屋建築の原型とされる。寺伝には』、天正一〇(一五八二)年の「山崎の戦い」の折り、『羽柴秀吉の陣中に千利休により建てられた二畳隅炉の茶室を解体し』、『移築したとある』。慶長一一(一六〇六)年に『描かれた「宝積寺絵図」には、現在の妙喜庵の位置あたりに「かこひ」(囲い)の書き込みがありこのときにはすでに現在地に移築されていたものと考えられる。同図には、妙喜庵の西方、現在の島本町の』連歌師山崎宗鑑の『旧居跡付近に「宗鑑やしき」そして「利休」の書き込みもあり、利休がこの付近に住んでいたことを伺わせる。したがって待庵はこの利休屋敷から移築されたとも考えられる』。『茶室は切妻造杮葺きで、書院の南側に接して建つ。茶席は二畳、次の間と勝手の間を含んだ全体の広さが四畳半大という、狭小な空間である。南東隅ににじり口を開け、にじり口から見た正面に床(とこ)を設ける』。『室内の壁は黒ずんだ荒壁仕上げで、藁すさの見える草庵風とする。この荒壁は仕上げ塗りを施さない民家では当たり前の手法であったが、細い部材を使用したため壁厚に制限を受ける草庵茶室では当然の選択でもあった。床は』四尺幅(内法三尺八寸)で、『隅、天井とも柱や廻り縁が表面に見えないように土で塗りまわした「室床(むろどこ)」である。天井高は』五尺二寸ほどで、『一般的な掛け軸は掛けられないほど低い。これは利休の意図というより』、『屋根の勾配に制限されてのことと考えられる。床柱は杉の細い丸太、床框は桐材で』、三『つの節がある。室内東壁は』二『箇所に下地窓、南壁には連子窓を開ける。下地窓(塗り残し)の小舞』(「木舞」とも書く。屋根や壁の下地で、竹や貫を縦横に組んだもの)『には葭が皮付きのまま使用されている。炉はにじり口から見て』、『部屋の左奥に隅切りとする。現在では炉と畳縁の間に必ず入れる「小板」はない。この炉に接した北西隅の柱も、壁を塗り回して隠しており、これは室床とともに』二『畳の室内を少しでも広く見せようとする工夫とされている。ただ隅炉でしかも小板がないのだから、炉の熱から隅柱を保護する目的もあったと考えられる。天井は、わずか』二『畳の広さながら』、三『つの部分に分かれている。すなわち、床の間前は床の間の格を示して平天井、炉のある点前座側はこれと直交する平天井とし、残りの部分(にじり口側)を東から西へと高くなる掛け込みの化粧屋根裏とする。この掛け込み天井は、にじりから入った客に少しでも圧迫感を感じさせない工夫と解せられる。二つの平天井を分ける南北に渡された桁材の一方は床柱が支えていて、この桁材が手前座と客座の掛け込み天井の境をも区切っている。つまり』、『一見』、『複雑な待庵の天井の中心には床柱があり、この明晰性が二畳の天井を三つに区切っていても』、『煩わしさを感じさせない理由となっている。平天井の竿縁や化粧屋根裏の垂木などには竹が使用されており、障子の桟にも竹が使われている。このように竹材の多用が目立ち、下地窓、荒壁の採用と合わせ、当時の民家の影響を感じさせる。二畳茶室の西隣には襖を隔てて』一『畳に幅』八『寸ほどの板敷きを添えた「次の間」が設けられ、続けて次の間の北側に一畳の「勝手の間」がある。一重棚を備えた次の間と、三重棚を備え、ひと隅をやはり塗り回しとする勝手の間の用途については江戸時代以来茶人や研究者がさまざま説を唱えているが未だ明らかになっていない』とある(茶室の一九五二年刊の「国宝図録」第一集所収のモノクロームの写真が有る)。

「三疊大目」「三疊臺目」とも書く。丸畳三畳の客座と台目畳一畳の点前座で構成された茶席のこと。サイト「茶道」のこちらに詳しい。

「千宗易」千利休の号。

「豐臣太閤の袖すり松」「古美術ささき」のこちらに、その松材で作った茶杓(銘「老松」)というのがあった。製作者は武田士延(昭和六(一九三一)年生)氏で彼は妙喜庵住職(昭和三五(一九六〇)年就任)である。

「香合」「香盒」とも書く。香を入れる小さな容器。香箱。

「一閑張」紙漆(かみうるし)細工或いはその紙漆細工を作る方法のこと。「一貫張」とも書く。当該ウィキによれば、『明から日本に亡命した飛来一閑が伝えて広めた技術なので一閑張になったという説がある。農民が農閑期の閑な時に作っていたものなので』、『一閑張と呼ばれるようになったという説もある』。『一貫』(三・七五キログラム)『の重さにも耐えるほど丈夫なのが由来なので漢字の書き方も一貫張という地方もある』。『竹や木で組んだ骨組み(最近では紙ひもを用いた物もある)に和紙を何度も張り重ねて形を作る。また、木や粘土の型に和紙を張り重ねた後に剥がして形をとる方法もある。形が完成したら柿渋や漆を塗って、色をつけたり防水加工や補強にする。張り子と作り方が似ている』。『食器や笠、机などの日用品に使われたが、現在はあまり一般的に使われていない。人形やお面などにも使われている』。『食器は高級料亭等でお皿として現在も利用されるが、日用品としては高価で一般に普及することがあまりない』とある。ウルシ・アレルギの私には永久に縁がない代物である。]

譚海 卷之三 桂昌院殿御寄附の燈籠

桂昌院殿御寄附の燈籠

○常憲院公方樣の御母堂桂昌院殿御寄附の燈籠といふもの、京都をはじめ五畿内諸寺社にあまた有、皆からかねの燈籠にして甚(はなはだ)精工也。又京都南山の石淸水には、古來の名將英哲の奉納ありし石燈籠甚多し。又堺(さかひ)住吉明神には、渡海の船頭はじめ海方(うみがた)のあきなひをするもの、みな石燈籠を奉納する事となり、年々に建(たて)つゞけたる事其數をしらず。又大和春日明神の末社に祓(はら)ひ殿と云(いふ)あり、その前にある燈籠は、世に用ふる火口(ほぐち)に鹿(しか)を鑱(ほら)[やぶちゃん注:底本のルビ。]したるものにて、春日形(かすががた)と稱する燈籠の本色(ほんしよく)也。又京都八瀨市原村小町寺にも燈籠あり、石のふりたるさま殊に幽致あり、世に小町形(こまちがた)と稱するもの也。雪見形(ゆきみがた)といふ燈籠の本色とするものは相國寺にあり。

[やぶちゃん注:「桂昌院」(寛永四(一六二七)年~宝永二(一七〇五)年)は徳川家光の側室で、第五代将軍綱吉(ここに出る「常憲院」は彼の諡号)の生母。通称は「玉」。当該ウィキによれば、『京都の大徳寺付近で産まれ』た。「徳川実紀」では『父は関白・二条光平の家司である北小路(本庄)太郎兵衛宗正だが、実際の出身はもっと低い身分であるという噂が生前からあった。桂昌院と同時代の人物の記録では、朝日重章の日記』「鸚鵡籠中記」に、『従一位の官位を賜ったときに西陣織屋の娘であるという落首があったことが記されており、また戸田茂睡の』「御当代記」には『畳屋の娘という説が記されて』あり、また黒川道祐の「遠碧軒記」の「人倫部」には『二条家家司北小路宮内が「久しく使ふ高麗人の女」に産ませた娘とする。死後やや経ってからの』「元正間記」には『大根売りの妹、さらに後の』「玉輿記」(ぎょくよき)には、『父は八百屋の仁左衛門で養父が北小路太郎兵衛宗正という説が記されている』。寛永一六(一六三九)年に『部屋子』(へやご:江戸時代に大奥や大名屋敷などの御殿の奥女中に仕えた召使い。部屋方(へやがた))『として家光の側室・お万の方に仕え、後に春日局の目にとまり、「秋野」という候名で、局の指導を受けるようになる』。『長じて将軍付き御中』﨟『となり、家光に見初められて側室とな』って、正保三(一六四六)年に『綱吉を産んだ』。慶安四(一六五一)年)に『家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入』ったが、第四『代将軍・家綱の死後』の延宝八(一六八〇)年に『綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入った。貞享元(一六八四)年に従三位、元禄一五(一七〇二)年には『女性最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜』っている。享年七十九。

「大和春日明神の末社に祓ひ殿と云あり」現在の春日大社の末社祓戸神社(はらえどじんじゃ)。春日大社本殿へ向かう参道沿いにある「二の鳥居」の近くにある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「その前にある燈籠」個人サイト「アフター古希親父の霊場巡り」のこちらにある四枚の写真が細部まで見えてよい。笠が独特である。

「火口に鹿を鑱(ほら)したるもの」「鑱」は音「サン・ザン」で「彫る」の意がある。燈籠の灯を灯す部分を「火袋(ひぶくろ)」と称し、開口していない部分には彫刻を彫る。しかし、上記のリンク先の画像と解説には『火袋に飛天と家紋』とあり、不審。ただ、鹿を彫るものもある。次注参照。

「春日形」奈良の春日大社の石灯籠の形。また、その形を真似た灯籠。「土江明夫石材」公式サイトの「春日形」見本を見られたい。鹿が彫られてある。

「本色」本来の形質。本領。

「京都八瀨市原村小町寺」現在の京都府京都市左京区静市市原町(しずいちいちはらちょう)にある補陀洛寺(ふだらくじ)の通称。小野小町が晩年をこの地で過ごしたという伝説に基づいて、造立されたと伝えられる小町九十歳の頃の像が本堂内脇に祀られてある。小町燈籠があると書かれてあるが、画像は確認出来なかった。しかし、「京都府造園協同組合」公式サイト内の「八角石燈籠」に、「小町寺形」として石川県金沢市所在燈籠の画像があり、そこに『もと京都の小町寺にあったもの。京都系の特色がよく出ている名品の一つである。特に火袋の大面取式八角の四隅に半肉彫で刻出した四天王は、京都系では珍しい。鎌倉時代』とあった。私はこれで満足。

「雪見形」名の由来は諸説あるようだ。傘を広げた上に雪が積もった形に似ているとも、近江八景の「浮見堂」に因んで作られたものが訛ったなどの説がある。石材店の解説では「浮見」から「雪見」と言葉が変化したという