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2026/09/30

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「宮內惣門にて妖怪を見る事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 宮內惣門《みやうちそうもん》にて妖怪《やうくわい》を見る事

 

 元祿年中に、友とする人、三、四人、湯所《ゆところ》[やぶちゃん注:村名。後注参照。]に夜話《よばなし》に行(ゆく)。

 夜《よる》、丑(うし)の刻過(こくすぎ)[やぶちゃん注:午前二時半から午前三時以降。]、同道にて、宮內惣門、過(すぎ)て、石橋《いしばし》の邊《あたり》へ、行(ゆき)かゝり、江崎《えざき》の方へ歸る迚(とて)、暗夜《やみよ》に見渡候(みわたしさうらふ)に、何やらん、黑き牛《うし》の如き物、大(おほき)さ、酒屋の五尺桶《をけ》程成(ほどな)る物、見へたり。

 四人の士、驚(おどろき)て、

「是は。何物《なにもの》ならん。」

と、見るや否(いな)、氣味惡敷(あしく)、

「いかゞ。」

と、ためらひたり。

 一人、申(まうし)けるは、

「いざいざ、上《うへ》の町《まち》へ𢌞《まは》りて、歸るべし。此道、歸らで、不叶事(かなはざる《こと》)も、あらず。」

と、言へば、

三人、

「尤(もつとも)。」

と、同意して、上の町へ、廻りけり。

 蹟(あと)、返り見れば、右の物、彼(かの)道を、次第に來《きた》ると、見て、

「いざいざ、急ぎ給へ。」

と、足早《あしばや》に行(ゆき)けり。

 然(しか)るに、件(くだん)のもの、はや、追付(おひつき)、石橋《いしばし》の邊《あたり》に來(きた)りたり。

 何(いづ)れも、角《かど》を、𢌞り、山田が屋敷[やぶちゃん注:これは、四人共通の同志で昵懇であった「山田」姓の人物で、その男の屋敷は、城下の直近の屋敷に住んでいたのであろう。この日は昼番だったものか。にしても、時間が時間で、迷惑ではある。]の內《うち》に、隱《かく》れ居(をり)たり。

 其恐敷事(そのおそろしきこと)、言斗(いふばかり)なし。

 暫(しばら)く有(あり)て、一人《ひとり》、外《そと》を覗(のぞき)て見れば、栗谷《くりたに》の方《はう》へ、通りたり。

 蹟に、何やらん、長き物、引(ひき)づり行(ゆく)樣(やう)に見へければ、人々、

「あれ、見給(みたま)へ。」

と、申(まう)せば、殘り三人も、見ける。

 漸(やうやう)、尾《を》も、見えずなりけり。

 何(いづ)れも、奇異の思ひを、なし、四人、門を出(いで)て、歸る道にて申(まうし)けるは、

「あれは、何物ならん。」

と言へば、一人の曰(いはく)、

「去れば、我(われ)、聞事(きくこと)、有り。『夜更(《よふけ》て、栗谷の牛頭天王(ごづてんのう《→こづてんわう》)出給(いでたま)ふ事、有(あ)り。』と言(いへ)り。左樣《さやう》の物《もの》にか。」

と、何(いづ)れも申(まうし)けり。

 其內(その《うち》)、あの所《ところ》にて、小川理兵衞《おがはりへゑ》が事《こと》も咄(はなし)けり。

 漸(やうやう)、我(われ)、家々《いへいへ》に、歸りたり。

 其後(その《のち》)、彼(かの)四人、人々に咄(はなし)けり。

 

[やぶちゃん注:「元祿六、七年」一六八八年から一七〇四年まで。徳川綱吉の治世。

「湯所《ゆところ》」平凡社「日本歴史地名大系」『湯所村(読み)ゆところむら』に拠れば(太字は私が附した)、『鳥取県』『鳥取市旧邑美郡地区湯所村』は『現在地名』では『鳥取市湯所町一―二丁目・材木町(ざいもくちょう)・丸山町(まるやまちょう)・東町(ひがしまち)三丁目・松並町(まつなみちょう)三丁目・青葉町(あおばちょう)三丁目』に当り、『久松(きゅうしょう)山の北西山麓、惣堀(そうぼり)と袋(ふくろ)川(旧袋川)の間に位置し、袋川を挟み』、『西は田島(たのしま)村。鳥取城の惣構中に』、『ただ一つ立地する在方の村。鳥取城下を発した但馬往来が通過する最初の村で、丸山山麓に支村丸山がある。永禄六年(一五六三)四月五日の山名豊数感状(中村文書)に「湯所」とみえ、同月三日の合戦で討死した中村伊豆守の働きを賞している。この合戦は高草(たかくさ)郡布施の天神山(ふせのてんじんやま)城を拠点とした因幡国守護山名豊数と、鳥取城を拠点とした』、『その臣武田高信との合戦で、湯所合戦とよばれる。羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、毛利方は当地東の雁金(かりがね)山頂に鳥取城と千代川際の出城丸山城とのつなぎのため』、『雁金城を築いたが、秀吉方の宮部継潤により』、『攻め落されたという(因幡民談記)』。『藩政期の拝領高は二七一石余、本免五ツ七分。安政五年(一八五八)の生高二一〇石余、物成一一二石余(「邑美郡下札帳」太田垣家文書)。「因幡志」によれば』、『家数四九、うち茶屋一七。安政五年の村々生高竈数取調帳によれば』、『竈数一二八、うち』、『家中自分屋敷七。当村の山は城山(久松山)に連なっているため、承応四年(一六五五)以来』、『入山が禁止され(寺社方御法度)、明暦三年(一六五七)には円護寺(えんごじ)村へ通じる坂道に』、『番所が建てられ』、『天徳(てんとく)口とよばれ、鉄砲衆が』、『二、三人番を勤めた(町方御定)。天徳寺前には山奉行の詰所も置かれ、文久三年(一八六三)には同寺前の坂道に木戸が建てられた(「在方諸事控」など)。宝暦一〇年(一七六〇)千代川と袋川の合流点近くの土手、通称小松原(こまつばら)に縊死人があり(因府年表)、その処理費用の分担をめぐって』、『田島村との間に牓示』(小学館「日本国語大辞典」に拠れば、「ほうじ(はうじ)」で漢字表記は他に『牓爾・榜示』とし、読みは『「ぼうじ」とも』あり、『① 領地・領田などの境界を示すために、杭・石・札などを立てること。また、その立てたもの。牓示杭。』とし、その初出例は平安後期の文集「朝野群載」(永久五(一一一七)年成立)である。而して、『② ものを書きつけて示す札。目印として書き記した札。立て札。』とあって、初出例を平安中期の「延喜式」(延長五(九二七)年成立)を掲げる。)『論争が起こり、藩は同一二年土手馬踏道の東を当村、西を田島村とする裁許を下した(在方諸事控)。』とあった。以上から、旧湯所村の村域は、鳥取城の西北方向に袋川に沿った形で存在していたことが判る。それが、最も視認し易いものとして、「ひなたGIS」のここの右の国土地理院図がよい。赤いドットが、現在の「湯所村(一)」で、鳥取城は直線で南東五百メートル強に配してある。さて、而して、登場人物は、皆、藩士であり、恐らく、城の前日の遅い交代番を丑三つ時遅くに終わって、下り、湯所村にあった茶屋辺りで、一杯やりながら、夜話を、やらかしたものと思われる。

「宮內惣門《みやうちそうもん》」「、」「過(すぎ)て、石橋《いしばし》の邊《あたり》へ、行(ゆき)かゝり、」ここで彼らは怪異に遭遇する。この「宮內惣門」というのは、同じく「日本歴史地名大系」『湯所村(読み)ゆところむら』に拠れば(太字は私が附した)、『江崎上の惣門 えざきうえのそうもん』に、『鳥取市鳥取城下江崎上の惣門』とし、『現在地名』『鳥取市東町(ひがしまち)一丁目』で、『鳥取城郭内九つの惣門の一で、宮内(みやうち)御門、また』、『宮内口ともいう。鳥取城南(みなみ)の御門から南東に向かい、東西両分知家の屋敷の間を通って』、『栗谷(くりたに)川に至る約一四〇間』(二百五十四・五メートル)『の道(宮内通)のうち、天王の尾(てんのうのお)の先端が八間』(十四・五メートル)『ほど突き出している地に造られていた。鳥取城および武士居住地である郭内への関門の一で、栗谷川から北に三〇間』(五十四・五四メートル)『ほどのところにあり、道幅は約八間。また』、『ここから西の大名(だいみょう)小路に向かって、西館家と堀の間を通って江崎下(えざきした)の惣門に続く幅二間』(三・六メートル)『ばかりの道もあった(安政六年城下絵図)』とある。以上の数値記述を地図上で検証し、確認するために「GeoNLP」の「江崎上の惣門」で調べたところ、地図があり、確定出来た。この★「宮內惣門」は、現在の鳥取県庁の北の角に存在したのである(如何なる他の地図上では、これは確認出来なかったので非常に時間を食った)。而して、次の問題は「栗谷(くりたに)川」とは、どこかという点であったが、これも苦労した。何故なら、如何なる公的資料(公的資料には文字で「栗谷川」はあっても、その流域の指示がないのである)や地図類に「栗谷川」が明記されていないのである。以上の位置関係、及び、「栗谷」という呼称、さらに新聞の事故記事まで動員して、やっと、これは、栗谷町(くりたにちょう)を南西に流れている川であると、私は断定した。グーグル・マップのここである。「江崎上の惣門」の位置(県庁北の角)を中央に於いて、「栗谷町」の名を右上に配した。

 さて、肝心の怪異出来の「石橋」だが、こればっかりは、流石に判らないのだが、以上の検証の結果して、グーグル・マップのここで、中央上の「(有)和光武道具」という会社が、嘗つての「宮內惣門」である。そして、やはり次の「江崎」の注で示す「鳥取藩士 岡崎可之邸」で判る通り、そこの左上の地域が、彼らの屋敷があるのである。とすれば、

★彼らが怪異に遭遇した場所は、現在の地図では、この中央を斜めに左上から右下に走る道の途中であろう

と推定する以外は不可能である。

★しかも「石橋」とある以上、現在の地図では、これは栗谷川に架かっていた「石橋」と採る以外には、ない。

のである。異論のある方は、何時でも、相手になる。⋯⋯蛇足だが⋯⋯因みに、ほぼ初めの方の先行する複数の話の注で、地図を調べた際、いち早く、気がついていたのだが、本作を電子化注を始めた時、この辺りの地図を見て、思わず、心臓が止まるかと、ドキッ! としたのである⋯⋯。上の地図の右の中央に「尾崎放哉句碑」とあるが、私の卒論は「尾崎放哉論」であり、私が中学時代から心酔した自由律俳句『層雲』の俳人で、私は直ちに誌友となり、二十五歳まで在籍していたのであった⋯⋯このロケーションの、やや南にある鳥取市義方町(よしかたちょう:グーグル・マップ)が、かの放哉の、生地なのである⋯⋯。

「江崎の方へ歸る」「江崎」はグーグル・マップのここで、鳥取城の真南である。この附近は、藩政時代は、江崎に接する日香寺(にちこうじ)附近一帯に、藩士の武家屋敷が多くあったらしいが、現在は荒廃している。サイト「攻城団」の「鳥取城」の「武家屋敷(岡崎邸)」の解説に、『鳥取市江崎町(日香寺付近)にありますが、ご覧の通り荒れ果てています。』とある。これは、「江崎鳥取藩士 岡崎可之邸」として(住所は鳥取市馬場町)「江崎町」を拡大すると、出る。

「暗夜《やみよ》に見渡候(みわたしさうらふ)に、何やらん、黑き牛《うし》の如き物、大(おほき)さ、酒屋の五尺桶《をけ》程成(ほどな)る物、見へたり。四人の士、驚(おどろき)て、「是は。何物《なにもの》ならん。」と、見るや否(いな)、氣味惡敷(あしく)、「いかゞ。」と、ためらひたり。一人、申(まうし)けるは、「いざいざ、上《うへ》の町《まち》へ𢌞《まは》りて、歸るべし。此道、歸らで、不叶事(かなはざる《こと》)も、あらず。」と、言へば、三人、「尤(もつとも)。」と、同意して、上の町へ、廻りけり。蹟(あと)、返り見れば、右の物、彼(かの)道を、次第に來《きた》ると、見て、「いざいざ、急ぎ給へ。」と、足早《あしばや》に行(ゆき)けり。然(しか)るに、件(くだん)のもの、はや、追付(おひつき)、石橋《いしばし》の邊《あたり》に來(きた)りたり。何(いづ)れも、角《かど》を、𢌞り、山田が屋敷の內《うち》に、隱《かく》れ居(をり)たり。其恐敷事(そのおそろしきこと)、言斗(いふばかり)なし。暫(しばら)く有(あり)て、一人《ひとり》、外《そと》を覗(のぞき)て見れば、栗谷《くりたに》の方《はう》へ、通りたり。蹟に、何やらん、長き物、引(ひき)づり行(ゆく)樣(やう)に見へければ、人々、「あれ、見給(みたま)へ。」と、申(まう)せば、殘り三人も、見ける。漸(やうやう)、尾《を》も、見えずなりけり。」前の注と合わせて事実を知ると、彼ら四人が、四人とも、総て、正直、武士とは思えぬ小心に震え上がって、強烈に恐懼畏怖したことが判ってくる。彼らの屋敷は、目と鼻の先なのに、今来た道を戻って、大きく反時計回りに町場を延々と遠回りして、栗谷 ( くりたに ) の南東の「上の町」、現在の鳥取市上町(うえまち:グーグル・マップ)、彼らの屋敷町の向う側へ大迂回して帰る、と言っているのである。

 その妖怪を考察しよう。

 しかし、ただ、「黑き牛《うし》の如き物、大(おほき)さ、酒屋の五尺桶《をけ》程成(ほどな)る物」と「巨大な黒い牛のような物」と表現するだけで、暗闇の中であればこそ、実体の細部が、全く以って表現されていない。この「五尺桶」とは、酒蔵や醤油蔵などで酒造りや仕込み• 酒や味噌、漬物、酒粕などの仕込みや貯蔵に広く使われた、高さ約一八〇メートル、直径約一・五〇メートルもある、杉などで作られた非常に大きな、昔の大きな木桶を指す。当時の人の背丈を優に超えるバカでかいものである。但し、このサイズが正しく、「黑き牛」に似ているとすれば、これは、出現場所周辺の自然形態と棲息地域を見るに、

哺乳綱食肉目クマ科クマ亜科クマ属ツキノワグマ(月輪熊)亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus

が、ごく、しっくりくる。平凡社「世界大百科事典」を見ると、体長は一・三~一・六メートルで、体重は百二十キログラム前後とあるが、当該ウィキでは、体長一~一・五メートル、体重は♂で六十~百二十キログラム、♀で四十~八十キログラムとしつつ、『最大の記録は1967年に宮城県で捕獲された』二百二十『キログラムの個体で、近年にも2001年に山形県で体長』一・六五メートル、体重』二百『キログラムの記録が報告されている』とある。なお、鳥取県内での本年度での出没件数は、鳥取県公式で、九月二十五日時点で百四十一件とあった。

 また、『蹟に、何やらん、長き物、引(ひき)づり行(ゆく)樣(やう)に見へければ、人々、「あれ、見給(みたま)へ。」と、申(まう)せば、殘り三人も、見ける。漸(やうやう)、尾《を》も、見えずなりけり。』というシークエンスは、やや、ほの明るくなったのであろうか、「その化け物が長い物を、引きずってゆくように見えたが、直(じき)に、その尾のような物も見えなくなってしまった。」と言うのだが、これも、これがニホンツキノワグマの♀だったと考えると、合点出来る。即ち、この「長き物」に見えたのは、♀が、子熊たちを引き連れていたのではなかったか?

『夜更(《よふけ》て、栗谷の牛頭天王(ごづてんのう《→こづてんわう》)出給(いでたま)ふ事、有(あ)り。』これは、現在の栗谷町のここ(グーグル・マップ)にある栗溪神社(くりたにじんじゃ)絡みの神威的な話である。サイト「鳥取縣神社廰」の「栗溪神社」に拠れば、「神社名」に『栗溪神社 〈通称 牛頭天王・天王さん〉』(☜)とあり、「由緒」に(太字は私が附した)、

   《引用開始》

創立年代不詳。社伝によると貞観の頃(860年頃)、因幡国内に疫病が流行した際に鎮疫の神として神徳の高い播磨国廣峯神社の分霊を勧請奉祀したものという。

『陰徳太平記』巻48に、元亀3年(1572)、山中鹿之助が久松の城に押寄せる際の記述に「天王の尾より山伝いに…」とあり、当時既に当社が鎮座していたことが知られる。

享保5年(1720)の石黒火事の際、社殿類焼、古記録等も焼失した。

元文3年(1738)、卜部神祇管領より正一位の宣旨があり、正一位牛頭天王と称し、社地を天王山といった。幣殿・拝殿は寛保2年(1742)建立の優美な建物。

文政9年(1826)、正一位牛頭天王祇園會永代講の棟札もあり、氏子地区のみならず、近隣の人々にも広く崇敬されている。

明治元年(1868)、栗溪神社と改称。

境内末社稲荷神社は、往古は地主神ともいい境内の鎮守として一段上の山口の方に鎮座していたが、正保あるいは慶安の頃(1644~51頃)に、藩主池田家の命により現社地に奉遷されたという。現存する最古の棟札は、享保5年(1720)、牛頭天王社宮殿再建のもの。

   《引用終了》

とある。

「小川理兵衞《おがはりへゑ》が事《こと》も咄(はなし)けり。」これは、『鳥取県立博物館研究報告』(第40号・2003年3月発行)の福代宏(ふくしろひろし)氏の論文『野間宗蔵の「怪談記」について』(国立国会図書館デジタルコレクションのここでダウンロード可能・『許諾』)に、書誌、及び、翻刻がある。書誌、及び、論文内容(作者の詳細な記載がある)は各自で見られたい。ともかくも、ここの「小川理兵衞が事」の当該話は「怪談記」の『(第十八段)』の『小河理兵衛、クサメノ化物ニ逢事』で、本底本の「小川」は『小河』の誤りである。翻刻本文は論文に『42』ページに、ある。「許諾」ではあるが、本来は、作者の許諾を受ける必要があるのだが、翻刻部であることと、翻刻が新字で表記されていることから、それを旧字に恣意的変換し、踊り字部分は恣意的に正字化し、以下に示させて戴く。なお、翻刻者からクレームが着いた場合は、カットし、その時は、不満足であるが、私の現代語訳に代えるつもりである。

   *

 小河理兵衞、クサメノ化物ニ逢事

小河ハ佛者ニテ、常ニ怪談多シ、アル時夜中ニ鳥府侍ヤシキノ邊ヨリ、クサメシテ大キナルヲ、小河カ頭ノ上一閒計ニテクサメクサメト云、己カ宅へ皈ルマテ如此ト、元祿ノ末寶永ノ初比取沙汰ナリ。或徒士ノ妻、江﨑竪町ニテ產ヲス、側ニ人モ居ラス、一人居タリシニ、側ノ障子ヲ開テ法師―人入來テ、小兒ヲヨクヨク見ル、產婦少モ驚カス見居タレハ、法師曰此子ハ能キ所有、年長テ物頭ニ可成ト云テ障子ノ外ヱ出、此時產婦上無シテ次ニ居タル人到レハ、シカシカト語ル、其後何ンノ沙汰モナカリシニ、此子物頭ニ成タルト云リ野閒夫左衞門正賢說。

 一說ニ、福住主膳カ出生ノ時ト云リ。

   *]

2026/09/29

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「須知の家靈の事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 須知《すち》の家靈《かれい》の事

 

 『近代は、家も、段々、養子《やうし》に成(なり)、其事(その《こと》)も止(やみ)けり。』と言(いへ)り。『先代《せんだい》には、晝《ひる》も出(いで)ける。』と、なむ。

 光仲公《みつなかこう》の時分、懇切なる朋友《ほういう》、咄會《はなし の くわい》、有之(これあり)、四、五輩、打寄(うちより)、咄《はなし》けり。

 或時(ある《とき》)、須知氏《すちし》、宿𢌞(やどまは)りにて、四、五輩、例(れい)の朋友《ほういう》、晝過(《ひる》すぎ)より、集《あつま》り、咄(はなし)けり。

 亭主も出《いで》て、咄(はなし)けり。

 然(しか)るに、亭主、用事、有りて、勝手へ入(いる)。

 然(しか)るに、勝手口より、年頃、十七歲斗(ばかり)の美女、覗(のぞき)たり。

 何れも、心《こころ》も付(つき)ざるに[やぶちゃん注:「特に、その女を、奇異に感じたり、妙に意識したというわけではなかったが。」の意。]、

「ずつ」

と、出《いで》て、暫(しばら)く、客の向(むか)ふに、立《たち》たり。

 初(はじめ)の程は、

『亭主の妾《めかけ》。』

と思ひ、何(いづ)れも、見向《みむき》せず、咄居(はなしをり)たり。

 され共(ども)、暫(しばら)く、動き、せず。

 然(しか)る所、亭主、出(いで)て、此樣子(この《やうす》)を見て、殊(こと)の外(ほか)、呵(しかり)て、

「又(また)、出給(いでたま)ふか。早く、退(の)き候(さふら)へ。」

と、申(まうす)。

 菓子《くわし》に有る、かき餠《もち》を、壹ツ與へて、

「早く入候(いりさふら)へ。」

と、呵(しか)りければ、返答《へんたふ》は、せず、かき餠を取(とり)、其儘(そのまゝ)、勝手へ、入(いり)けり。

 亭主、言(いひ)けるは、

「扨々(さてさえて、各(おのおの)、御覽の如(ごと)く、近頃、面目《めんぼく》もなき事。定(さだめ)て、各(おのおの)にも、御聞及(おきゝおよ)び候半(さうらはん)。あの女は、外《ほか》の者にも、無し。我家(わが《や》)の靈也(なり)。拙者先祖、代々、家《いへ》を離れず。其(その)子細、荒々(あらあら)、物語申(まう)さん。

 遙(はる)か古(いにしへ)の事とかや。美濃の國、何某《なにがし》と言(いふ)領主、有り。其時分は、殊(こと)の外(ほか)、亂國《らんごく》にて有りしとかや。

 與風(ふと)[やぶちゃん注:普通に現在も使う副詞。「俄かに・急に」。「風與・不圖」とも書く。]、或時、敵《てき》、打入《うちいり》けるに、折節(をりふし)、人、少《すくな》く、散々(ちりぢり)に成(なり)、父母《ふぼ》も、其儘(そのまゝ)、討死《うちじに》して、家來も皆、散々(ちりぢり)に成(なり)、我(わが)先祖、其時、二歲成(なる)を、乳母(めのと)、懷中《くわいちゆう》に抱出(かゝへいで)、逃延(にげの)び、近江(あふみ)の國に退《しりぞ》き、ある在鄕《ざいがう》[やぶちゃん注:「田舍(ゐなか)」に同じ。」]へ行(ゆき)、家《いへ》に入(いり)て見れば、只(たゞ)、夫婦、住(すみ)けり。

 乳母、申(まうし)けるは、

『此(この)懷《ふところ》の子《こ》は、我(わが)子にても、無し。主人の御子(おこ)也(なり)。風(ふ)と[やぶちゃん注:前出の「與風(ふと)」と同じ。]したる事《こと》、出來(いでき)て、其親達は、二人共(《ふたり》とも)、死なれたり。されば、みなし子の事、不便《ふびん》[やぶちゃん注:「不憫」に同じ。]也《なり》。見れば、各(おのおの)には、御子(おこ)も、なさそふ[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣では「なささう」が正しい。]に見請(みうけ)たり。此子(この《こ》)を養育して、實子《じつし》に被成閒敷哉(なされまじきや)。』

と、念頃(ねんごろ)に賴(たのみ)けり。

 夫婦、打(うち)うなづき、

『成程(なるほど)、御覽の通り、我々には、子も、無し。其通(そのとほり)にて候(さふら)はゞ、貰《もら》ひ可申(まうすべし)。給(たまは)り候(さうら)へ。』

と申(まうす)。

 乳母、懷より、男子《だんし》を出《いだ》し、與(あた)へたり。

 見れば、色、白く、能(よき)生《うま》れ付也《つきなり》。

 夫婦、悅(よろこ)んで、貰ひけり。

 乳母は、右の男子を渡し、出去《いでさ》りけり。

 扨、右の百姓、悅(よろこび)て、夫婦、馳走(ちさう)して[やぶちゃん注:この場合は「世話をして・面倒を見て」の意。]育《そだ》て、十歲斗(ばかり)に生立《おひたち》たり。

 養ひ親、彌(いよいよ)、悅《よろこ》び、育《そだて》けるに、又、女子《ぢよし》の實子《じつし》、出生《しゆつしやう》す。

 夫婦は、彌(いよいよ)悅び、兄弟共(《きやうだい》とも)、馳走しけり。

 漸(やうや)く、成長して、兄は、廿四、五歲、妹は、十四、五歲に成り、兩親、申(まうし)けるは、

『只(たゞ)二人、有(あ)る子、外《ほか》へ、出《いだ》すまじ。元より、兄は養子なり。娘と一所にして、家・田畑も讓《ゆづ》りて、夫婦は隱居すべし。』

と、平生《へいせい》、申(まうし)けり。

 依之(これにより)、先(まづ)、夫婦《めうと》の盃(さかづき)させて置(おき)けり。

 又(また)、或時(ある《とき》)、親共(《おや》ども)、留守の時に、浪人侍《らうにんざむらい》壹人《ひとり》、尋來(たづねきた)り、內《ういち》の樣子を聞(きゝ)、件(くだん)の若者を呼立(よびたて)、外《そと》へ連行(つれゆき)て、片原《かたはら》[やぶちゃん注:「傍(かたは)ら」の当て字。]にて、ひそかに語《かたり》けるは、

『是(これ)は。何《なん》としたる事にや。其分(その《ぶん》)にては、濟不申(すみまうさず)。私《わたくし》は、其古(そのいにし)ヘ、代々の家臣也(なり)。「貴公の御行末(《おん》ゆくすゑ)、いかゞ。」と存候內(ぞんじさうらふ《うち》)、彼(かの)乳母に行逢(ゆきあひ)、委細、聞(きゝ)たり。外《そと》へ出《いで》て、御身上《おんみのうへ》、御《おん》かせぎ候(さうら)へ。我々も、共々(ともども)に、御供仕候(おともつかまつりさうらひ)て、御身上の、有付(ありつき)、急《いそぎ》たし。能(よき)事も、多く、御座候(ござさうらふ)。早《はや》、疾々(とくとく)。』

と、進めけれ共(ども)、其身(その《み》)も、永々《ながなが》、此屋(この《や》)の亭主の世話に成仁《なるひと》[やぶちゃん注:「仁」は「人」の意(「御仁」と同じ)。]して、妻《つま》迄(まで)、つれたり。いかゞ、同心せず。しかれ共(ども)、彼(かの)浪人、樣々に、くどきければ、是非なく、內に入《いり》て、女房に、

『斯(かく)。』

と言(いふ)。

 元より、同心せず。

 すべき樣《やう》なく、召連(めしつれ)、出《いで》けり。

 夫(それ)より、彼(かの)浪人、樣々《さまざま》として[やぶちゃん注:表現としてはおかしい。一つ思ったのは、『「と」は約物の「͡と」で「事」、「樣々事《さまざまごと》して」(様々な手段を以って)ではないか?』ということである。]、はごくみ、身を、かせげども、思ふ樣成(やうなる)なる事もなく、打過(うち《すぎ》)けるが、

『何としても、彼(かの)女房《にやうばう》、つれては、猶以《なほもつて》、埒(らち)明不申(あけまうさず)に付(つき)、いかゞせむ。』

と言內(いふうち)[やぶちゃん注:以上は、無論、浪人の台詞である。]、件(くだん)の浪人、申(まうし)けるは、

『是非共(ぜひとも)、女を殺し給へ。さなくては、如何樣共(いかやうとも)すべき樣《やう》、なし。』

と言《いふ》。

 不便《ふびん》に思ひけれ共(ども)、或時、又、他國へ行道《ゆくみち》に、大河、有り。

 其(その)所へ行(ゆき)、流し、殺《ころ》しけり。

 其後(その《のち》)、方々《はうばう》、致し候得共(さうらえども)、身上《みのうへ》成(な)り兼(かね)、漸々(やうやう)、御家《おんけ》に出(いで)たり。

 然(しか)るに、彼女《かのをんな》、殺し、二、三年、過(すぎ)て、幻《まぼろし》の樣《やう》に、見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]來《きた》り。

 晝夜《ちうや》、放(はな)れず、樣々《さまざ》、蹟吊(あとゝむら)ひ候得共(さうらふえども)、靈《れい》、立去不申《たちさりまうさず》。

 其後(その《のち》)、代も、段々、替(かは)り候得共(さうらえども)、あの通り也(なり)。

 然(しか)れ共(ども)、我(わが)代になり、少々は遠ざまり候得共、時々、晝《ひる》共《とも》いわず[やぶちゃん注:ママ。「いはず」。]、あの通りに御座候(ござさうらふ)。

 然共(しかれども)、我(われ)も、不隱(かくさず)、何共(《なん》とも)思わず[やぶちゃん注:ママ。「思はず」。]、矢張(やはり)、使人《つかひびと》[やぶちゃん注:召使・使用人。]の樣《やう》に存出候得(ぞんじいでさうらえ)ば、

『又(また)、御出候哉(おひでさうらふや)。』

と、何《なん》ぞ、くわし[やぶちゃん注:「菓子」。]樣《やう》の物、出(だ)し候(さうら)へば、消失候。」

と語(かたる)。

 人々、興(けう)をさまして、退出《たいしゆつ》》しけり、と。

 其時分(その《じぶん》)の咄《はなし》也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「須知《すち》」「須知氏《すちし》」既に使用した鳥取藩の家士のリスト(鳥取図書館作成)には、「須知」の名を『藩士家譜』として、六つ、見出せる。リストの順番で示すと(後に出るのは作製年代)、①『須知正直家譜』・『元和6』(一六八二)『年』~『明治9』(一八七六)『年』]、②『須知善兵家譜』・『寛文5』(一六六五)『年』~『明治3』(一八七〇)『年』、③『須知平内家譜』・『寛永3』(一六二六)『年-享和3』(一八〇三)『年』、④『須知瀬兵衛家譜』『寛文5年』~『享和3年』、⑤『須知平録家譜』『享和4』(一六二七)『年』~『文政10』(一八二七)『年』、⑥『須知権之助家譜』・『享和4年』~『文政10年』である。底本の伊藤龍平氏の解題に拠れば、本書『所収のうち、年代の下限の下限は寛延二年(一七四九)で、成立はこの少し後と推察される』とあるので、六つ凡てが、クリアーはするが、このうち、作成年代の最も古いのは、③であり、この須知平内(へいない)家の後裔である可能性が最も確度が高いと言えるか。

 因みに、「御真兵(ごしんぺい)」氏の個人サイト「軍人顕彰会」の「鳥取県出身軍人」に、「須知源次郎(すちげんじろう)」が挙げられており、解説をごく一部のみ示すと(太字・下線は私が附した)、『鳥取市掛出町三三士族 鳥取藩士 森福三郎の二男にして幼少の頃、同藩士 須知正直(藩政期に大目付、維新後は藩主家令を勤めた人物)の養子となる』。『明治9年 陸軍教導団に入り』、『翌年の西南戦争に伍長として出征するも』、『途上で鹿児島鎮定となった』。『14年 陸軍士官学校に入り卒業後、17年 歩兵少尉に任じ』、『姫路連隊附に補せらる』(以下の兵経歴の詳細な過程はリンク先を見られたい)。『日清戦争では大尉に進み』、『第1軍副官として山縣有朋を補佐し九連城、鳳凰城等の戦いに参加した』。『山縣が病の為』、『帰国となるとこれに従い、後再び出征し』、『野津道貫の下副官を務め凱旋後、少佐に進み戦功により功五級及び単光旭日章を叙賜せらる』。『31年』には『フランス留学を命ぜられ』、『4年間』、『フランスを中心に各国を遊歴の後』、『34年8月帰朝』、同年『10月』、『近衛歩兵第2連隊第1大隊長に補し』、『フランス通として知られる』。『35年5月』、『寺内正毅陸軍大臣の秘書官となり』、『36年6月』、『近衛歩兵第1連隊附に転じた』。『この頃、後に戦う事となるクロパトキンが来日した際』、『接待員を務め』、『ロシアよりセントスタニラス二等勲章を受けている』。『日露開戦により』、『37年6月6日』、『近衛後備第1連隊長として部下を率い常陸丸に乗込み』、『勇躍して出征するも』、『15日』、『玄海洋上』、『敵艦の砲撃を受ける』。『砲撃の中、兵士達に訣別の辞を述べ、連隊長室に戻った源次郎は連隊旗を焼き』、『旗竿を折り、機密書類も全て焼き尽くし』、『飛来した巨弾の破片を受け』、『悲壮なる戦死を遂げた、享年45歳。』とあった。

 彼は、養子であるが、それこそ、本篇の冒頭に「養子」のことが云々されている。而して、少なくとも、この須知源次郎氏には、以上の通り、須知家の武士魂が十全に受け継がれていると言えよう。まあ、冒頭の謂いから考えれば、源次郎氏は、この若き女の亡霊を見ていないであろうが、出たら、彼女も、逆に怖くなって、二度とは出まいよ。

「咄會《はなし の くわい》」これは、江戸時代に始まった同好の士や素人が、自作の小噺のようなものや、滑稽な話を、集まって披露し合ったもので、時に、夜間に、和蝋燭や行灯の明かりのもとで、炉を囲んで語らって楽しむ、茶会を兼ねた夜咄(よばなし)などでもあったろう。そこから、既に出た百物語の会も同時的に派生していた。但し、ここでは、昼過ぎから開始していること、書かれている須知家の会場も全く異なっており、会の出席者に出されているのも「かき餠」であることなどから、百物語の会では、ない。いや、終りの方で、「人々、興(けう)をさまして、退出《たいしゆつ》》しけり、と。」とあることから、怪奇談は寧ろ、相応しくない集まりであったことが判る。

「光仲公《みつなかこう》の時分」既注だが、再掲すると、因幡鳥取藩初代藩主池田光仲(いけだみつなか 寛永七(一六三〇)年~元禄六(一六九三)年:脳卒中により死去で享年六十四(満六十三歳))。徳川家康の外曾孫で、別姓は松平。寛永九(一六三二)年四月三日に父忠雄(ただお/ただかつ)が死去し、わずか三歳で家督を継いだので、後見人が充てられた。彼が領国に初入国し、鳥取城へ入ったのは、寛永一八(一六四一)年であった。貞享二(一六八五)年に長男綱清(つなきよ)に家督を譲って、隠居している(以上はウィキの「池田光仲」に拠った)。

「宿𢌞(やどまは)り」江戸時代、参勤交代や藩主の社寺参詣に際して、各藩の「先触(さきぶれ)」の命令を受けて、宿場町へ先行し、宿泊・休憩の準備や交渉を行う実務、及び、その担当家臣(宿割役・宿泊係)のことを指す。読みは「しゆくまはり」の方が、一般的か。

「勝手口」最も納得出来る語源説は、江戸時代に、金を使う部署を「勝手方(かってがた)」と呼んでおり、調理をする「台所」は物流が扱われるため、「金が動く所」という意味から、屋敷内では、極めて直截的に「台所」を指めすこととなった、というものである。なお、「金さえあれば、如何なることも思い通りになる。」といった誤った認識から「勝手」が「勝手な振舞い」「身勝手」の意で、使われるようになったもののようである。

   *

 この話、やや似た怪談は、なくは、ない。しかし、この全体の結構は、全く創作怪談の域を離れていると言ってよい。若い女の出現、それを見た会衆は「誰か?」と不審に思う程度で、そこに、主人が、やおら、やんわりと声を掛け、「餅がき」を与えて退場させる。而して、訳の分からぬそれを、主人が、あれは霊であることを表明し(主人の台詞の初めに語られている通り、この屋敷の怪奇現象を既に知っている藩士も既にいたようである。)、何んと、戦国末辺りまで遡る、数奇な「須知家」の秘密が開陳されるのである。

 しかし、本話が優れているのは、「あってもおかしくない怪談実話」に留まらず、芸術的に結構されている点にある。それは

――全体が徹頭徹尾映像的である点

――現時制と遠い過去時制とがワザとらしい切れ目ががなく素敵に連続している点

にある。敢えて、それを実際の映画作品に当てるならば――アンドレイ・タルコフスキイ(Андрей Тарковский)の「鏡」(‘ЭЕРКАЛО’1974)である。私は、この話を電子化し、注を附しながら、脳裏に、それぞれのシークエンスが、ブレイクなく、連続したものとして「視えた」のである。]

2026/09/27

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「幽靈に出會、金子を請、以來出家思ひ立事」《☆ここまでの一押し!》

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 幽靈に出會(であひ)、金子(きんす)を請(うけ)、以來《いらい》、出家《しゆつけ》思《おもひ》ひ立《たつ》事

 

 寬保年中《かんぽうねんちゆう》、荒尾近江《あらをあふみ》、徒《かち》の者、生所《せいしよ》、伯州米子《はくしうよなご》の生《せい/うまれ》也。

 然(しかる)に、近年、御城下に出(いで)、近江方《あふみがた》へ、奉公人たり。

 隨分、(ずいぶん)、貞心者にて、能(よく)、勤《つとめ》けり。

 所用、有りて、日數《ひかず》の暇(いとま)を願(ねがひ)、伯州へ行(ゆき)けり。

 時しも、秋の末《すゑ》にて、短日《みじかび/たんじつ》の節《せつ》也迚(なりとて)、道を急ぎ、伯州八橋《やばせ》の先《さき》、劔《つる》が野《の》に懸(かゝ)りければ、日《ひ》、殊外(ことのほか)、かたむき、はや、日《ひ》、入《いり》ければ、べふべふたる[やぶちゃん注:ママ。「渺眇(べうべう)たる」。]廣野を、獨り趣(おもむ)けり。

 折節、道づれもなく、はや、くらぐらに[やぶちゃん注:「暗暗(くらぐら)に」。]成(な)り、雨も、少々、降出(ふいいで)たり。

 物凄く、蹟(あと)へも、戾られず。

「もはや、壹里半[やぶちゃん注:五・八九一キロメートル。]行(ゆけ)ば、在所《さいしよ》、有り。何とも、夫迄(それまで)。」

と、急ぐに、狐火共(きつねびども)、所々《ところどころ》に見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。後にも出るが、注さない。]、狼《おほかみ》の聲も、耳元に聞ゆ(きこ)。

『あら、物凄(ものすご)の所や。』

と、思ひながら、急ぐ道に、遙(はるか)に、火の光、かすかに見へたり。

「扨(さて)は。在所、近し。」

とて、競《きそ》ひて行(ゆく)に、次第に、近付(しかづき)見れば、門、有(あ)り。

 內に入(いり)て見れば、人《ひと》の、十人斗(ばかり)住(すむ)家と見へたり。

 思ふ樣(やう)、

『前々《まへまへ》、往來するに、此家は、無き樣(やう)に覺えたり。但(たゞ)し、近頃、新たに出來《でき》たるか。』

と、見ゆ。

 家居(いえゐ《→いへゐ》も、百姓の家共(とも)、見えず。先《まづ》は、士《し》の住居《すまゐ》也《なり》。內《うち》の體(てい)も靜(しづか)にて、りやうじに[やぶちゃん注:「聊而に」。「いい加減に・ぶしつけにして失礼な」の意。]物を言難(いひがた)く、そと[やぶちゃん注:「そっと」の意。]、案內、申(まうし)けり。

 答(こたへ)て小行燈(《こ》あんどん)を提(さげ)、年頃、五十斗(ばかり)の女、出《いで》て、

「何方(いづかた)より。」

と、いふ。

「苦《くる》しくも無《なき》き者也。夜のくらきに、行兼(ゆきかね)て、火の光を便《たよ》りに、立寄申(たいよりまうし)たり。我(われ)は鳥取御城下の者にて、米子迄(まで)行(ゆく)者にて候(さうらふ)。餘(あま)り、夜《よ》、くらく、明(あか)りは、持たず、雨、降る。殊(こと)の外(ほか)、草臥(くたびれ)は致す也(なり)。何卒(なんとぞ)、御家《おんけ》の隅《すみ》、庭の內《うち》成り共(とも)、一夜を明候樣(あかしさふらふやう)、御斗(おはから)ひ被下度(くだされたし)。」

と、念頃(ねんごろ)に賴(たのみ)けり。

 女、聞(きゝ)て、

「扨々(さてさて)、見れば、若き御士《おんし》、御難儀(ごなんぎ)、いたわ敷(しき)[やぶちゃん注:ママ。「いたは敷き」後にも出るが、注さない。。]こそ、思ひ候(さうら)へ。先(まづ)、是(これ)へ、御腰懸(《おんこし》か)け候(さうら)へ。あるじに、其通(その《とほ》)り可申《まうすべし》。」

迚(とて)、行燈(あんどん)は、其儘(そのまゝ)置《おい》て、其身は、奧に入(いり)けり。

 追付(おつゝけ)、件(くだん)の女房、立出(たちいで)て、

「あるじに其旨(その《むね》)

申候得(まうしさうらえ)ば、『御《お》いたわ敷存候(しくぞんじさうらふ)。暫(しばら)く御休息候(さうら)へ。』とて、最早(もはや)、御支度《おんしたく》も宜敷候半(よろしくさうらはん)。」

とて、したゝめの膳《ぜん》、拵(こしらへ)、菜𢌞《さいまは》り[やぶちゃん注:副食の「おかず」を指す。]、二ツ三ツ、調(とゝんへ)て、食《しよく》を、すゝめける。

「是は忝(かたじけなし)。」

とて、時分は能(よく)し[やぶちゃん注:おかしい。思うに、「よ」の崩し字の最後を「く」と分離して誤判読したもので、「よ」一字であって、「夕食を貰うにも、丁度、よかったから」。」と言う意味であろう。]、喰《くひ》けり。

 酒も出《いだ》し、すゝめけり。

 其後(その《のち》)、件(くだん)の女房、奧へ入(いり)て、暫(しばらく)して立出(たちいで)、

「扨(さて)、馴々敷(なれなれしく)思召候半(おぼしめしさうららはん)なれ共(ども)、亭主の女中《ぢよちゆう》、御目《おめ》に懸(かゝ)り度(たく)思召候(おぼしめしさうらふ)。あれへ、御通《おとほ》り候(さうら)へ。」[やぶちゃん注:ここで、錯覚している読者もおられるであろうから、先走って、バラしておかねばならないが、ここまで彼の前に出ている「女」(「女房」とも言い換えている)というのは、ここの家の実際の女中(じょちゅう)であり、この家の主人は奥にいて、その人物は「女主人」なのである。この女中が言う「亭主の女中」というのは、亭主だが、女性であることから、既にこの時代には、尊敬の称が消えて卑語となっている「女中」を、武士である主人公に説明するに際し、その女主人を「女中」と敢えて卑称したのであって、これは、何ら、違和感はないのである。]

とて、一閒《ひとま》の唐紙《からかみ》、引明(ひきあけ)たり。

「是(これ)へ、是(これ)へ。」

と申(まうす)に付(つき)、這入(はいゝり)たり。

 見れば、內《うち》の奇麗さ、申(まうす)も、中々(なかなか)、及(および)がたく、亭女は、三十斗(ばかり)と、見へたり。

 脇に、十七、八歲斗(ばかり)の女郞《ぢよらう》、有り。[やぶちゃん注:この場合の「女郞」はフラットな意味で、単に「若い女」である。]

 燈明(とうみやう)に、てらし、件(くだん)の女房も、側《そば》に居(をり)たり。

 扨(さて)、亭女《ていぢよ》、申(まうし)けるは、

「ふしぎの御緣《こゑん》にて、御目《おめ》に懸(かゝ)り候(さふらふ)。常《つね》ならば、中々(なかなか)、御立寄(《お》たちより)も有閒敷(あるまじき)に、能(よく)こそ御立寄被下(《お》たちよりくだされ)、いぶせく[やぶちゃん注:「不快に」の意。]思召候半(おぼしめしさうらはん)なれ共(ども)、今夜は御宿申(《おやど》まうす)べし。御休み候(さうら)へ。」

とて、念頃(ねんごろ)に挨拶にて、取肴《とりざかな》[やぶちゃん注:酒の肴(さかな)。]、取添《とりそへ》、酒を出《いだ》す。

 其(その)時、亭女、盃《さかづき》を取上(とりあげ)て、くわへて[やぶちゃん注:ママ。「くはへて」。]、彼(かの)男に、さす。

「忝(かたじけな)し。」

と、いたゞき、吞(のみ)けり。

 件(くだん)の老女《らうぢよ》、挨拶して、吞(のみ)けり。

 其後(その《のち》)、數盃《すはい》の上《うへ》にて、亭女、申(まうし)けるは、

「是(これ)に候(さうらふ)は、我娘(わが《むすめ》)にて候(さうらふ)。未(いま)だ、定(さだま)る夫《をつと》もなく候(さうらふ)。同じくは、それ、殿《との》のやうなる人に、緣《ゑん》を組度存候(くみたくぞんじさうらふ)。それ、殿にも、未(いま)だ若く見へ候(さふら)へば、定(さだめ)て、御妻《おんつま》も有閒敷候(あるまじきさうらふ)。率爾(そつじ)ながら、其元(そこもと)、一生《いつしやう》のつれ共(とも)思召被下候(おぼしめしくだされさうら)はゞ、何か扨(さて)、是(これ)に增(まし)たる悅(よろこ)び、有(ある)まじ。是非(ぜひ)、左樣《さやう》に思召被下候(おぼしめしくだされさうら)へ。」[やぶちゃん注:この台詞の中の三つの「それ」は感動詞で、「そら!」「ほら!」で、人を誘ったり、注意を促したりするときに発する語である。指示代名詞ではないので、注意。]

と、申(まうし)ければ、彼(かの)男、行當(ゆきあた)り、返答に、つまりたり。

 其(その)時、件(くだん)の老女、申樣(まうすやう)、

「是(これ)は。能(よ)き似合(にあひ)頃《ごろ》、是非(ぜひ)、其(その)通りに御極(おき)め候(さうら)へ。」

と申(まうす)。

 男、聞(きゝ)、當惑して居(をり)けるが、酒を、しひて[やぶちゃん注:ママ。「强(しひ)て」。]、多く、吞(のみ)、馳走には、あひ、結構成殊(《けつかう》なること)にては、有り、

「委細承(《ゐさい》うけたまは)り候(さうらふ)。我等(われら)も、未(いま)だ、定(さだま)る妻も、なし。仰(おほせ)に隨(したが)ひ可申(まうすべし)。」

と、返答す。

 依之(これにより)、何(いづ)れも、大(おほ)きに悅(よろこ)ぶ時、男の盃、娘に、さす。

 其時、

「目出《めで》たし。」[やぶちゃん注:女亭主の寿(ことほ)ぎである。]

とて、肴(さかな)、色々(いろいろ)、出し、もてなしけり。

 娘も、盃、くわへ[やぶちゃん注:ここは「加へ」。母に「次いで」男に銚子を執って、の意。]、男に、さす。

 其後(その《のち》)は、數盃《すはい》、重(かさな)り、亭女も、機嫌にて、盃、おさめけり[やぶちゃん注:「治・納める」で「をさめけり」が正しい。「満足して十全に呑み終えた」の意である。]。

 亭女、少《ちさ》きふくさ包《づつみ》一ツ出《いだ》し、

「是(これ)は、我(われ)、所持《しよじ》の金子(きんす)にて、十五兩、あり。是(これ)を、そもじ殿《どの》へ、遣(つかは)し申候(まうしさうらふ)。娘が行末(ゆくすゑ)、能(よき)樣(やう)に、それ、殿(との)、賴申也(たのみまうすなり)。」[やぶちゃん注:「そもじ殿《どの》」「そもじ」は漢字表記「其文字」で、二人称代名詞。「そなた」の「そ」に「もじ(文字)」を添えた語で、「そなた・あなた」の意。小学館「デジタル大辞泉」の補説に『中世には女性が目上の男性に対して用いる語であったが、近世以降、対等または目下の男性に、または男性から女性に用いるようになり、目上の場合には「そもじ様」』(この「そもじ殿」も同じ)『を用いるようになった。』とある。]

とて、遣(つかは)しけり。

 男、請取(うけとり)、押戴(おしいたゞ)き、忝(かたじけなき)旨《むね》、一禮す。

 其後(その《のち》)、老女、

「はや、夜も、更(ふけ)たり。御休み候(さうら)へ。」

と、其所(その《ところ》)に、寐所《ねどころ》、敷(しき)、老女、取持(とりもち)、娘も、休みけり。

 男は、酒、大分《だいぶん》、吞(のみ)、其上(その《うへ》)、草臥(くたびれ)ければ、前後も知らず、寐《ねり》けり。[やぶちゃん注:野暮であるが、当然、男は娘と同じ褥(しとね)に同衾したのである。]

 然(しか)るに、夜《よ》も、しらみ、明(あけ)て、鳥《とり》の聲、耳に入(いり)たり。

「是(これ)は。」

と、驚き、あたりを見れば、こはいかに、野原に、獨り、伏(ふし)たり。

 其儘(そのまゝ)、起上《おきあが》り、見れば、我(わが)腰の物も、側《かたはら》に、有り。

 扨(さて)、又(また)、亭女に貰ひし金子(きんす)も、有り。

「是(これ)は。ふしぎ。」

と、近邊《ちかきあたり》、見れば、古き塚、三ツ、有之(これあり)。

 彌(いよいよ)、不審に思ひながら、旅裝束(たびしやうぞく)、しめ直し、急ぎ、立出(たちいで)て、壹里斗(ばかり)行(ゆき)ければ、例(れい)の村里《むらざと》に出《いで》たり。[やぶちゃん注:この「例(れい)の村里」は、初めの部分に出た「もはや壹里半行(ゆけ)ば、在所《さいしよ》、有り。何とも、夫迄(それまで)。」という言葉の中にあった、嘗つて見て存在を知っていた村落を指している。]

 村の役人と見へたる大家《たいけ》に立寄(たつより)ければ、亭主と見へて、今、起出(おきいで)、多葉粉(たばこ)、すい居(をり)たり。

 彼(かの)男、腰掛(《こし》かけ)て、

「御免候(ごめんさうら)へ」。

と申す。

 亭主、申(まうす)は、

「何方(いづかた)より御出候哉(おいでさうらふや)。定(さだめ)て、夜《よ》を込(こめ)て被成御出哉(おいでなさるや)。殊外(ことのほか)に、早く、御通りにて候(さうらふ)。」

と申(まうす)。

 男、申(まうす)は、

「夕部(ゆふべ)、劔《つる》が野《の》に行懸(ゆきかゝ)り、くらさは、くらし、雨は、降る、殊外(ことのほか)、難儀に及び、然(しか)るに、ケ樣ケ樣(かやうかやう)。」[やぶちゃん注:「夕部(ゆうべ)」私は古俳句に『春雨に雀かぞゆる夕部(ゆふべ)かな  如嬰』とあるのを知っている。]

と、右の荒增(あらまし)を、語る。

 亭主、聞(きゝ)て、

「是(これ)は。野狐共(やこども)、化《ばか》し候哉(さうらふや)。」

と申(まうし)けり。

 其時(その《とき》)、男、件(くだん)のふくさに包(つゝみ)たる金子(きんす)を出《いだ》して、

「誠《まこと》の金《かね》なりや。見てもらいたし。」

と申(まうす)。

 亭主、請取(うけとり)、能々(よくよく)、見て、

「是(これ)は。實《まこと》の金子(きんす)也(なり)。然(しか)れば、野狐(やこ)の業(わざ)にも、あらじ。扨々(さてさて)、ふしぎ。」

と、暫(しばら)く、思案しけるが、又、申(まうす)樣(やう)、

「若(も)し、其當(その《あた》りに、古き塚《つか》共(ども)は、無候哉(なきさうらふや)。」

と申(まうす)。

 答(こたへ)て、

「成程(なるほど)、三ツ、有之(これあり)。」

と申(まうす)。

 亭主の曰(いはく)、

「昔物語の咄《はなし》、傳(つた)へ候(さうらふ)。いつの頃にや、歷々(れきれき)の內室《ないしつ》と見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]て、娘《むすめ》一人《ひとり》、つれ、幷(ならびに)、四十斗(ばかり)の乳母《めのと》と見へ、三人づれ、西の方《かた》より、此所(この《ところ》)へ來(きた)り。あなた、こなた、さまよひけるが、其時分は、世も騷がしくて、誰《たれ》、不便《ふびん》[やぶちゃん注:「不憫・不愍」に同じ。]を懸(かけ)るものもなくて有(あり)けるが、風病《ふうびやう》を煩(わづらひ)、程(ほど)なく、死(しに)たり[やぶちゃん注:以下で、「貳人《ふたり》の女房」と述べているから、亡くなったのは「娘」である。]。殊外(ことのほか)、悲しみけるが、程無(ほどな)く、貳人《ふたり》の女房も、同じ風病にて死(しに)けり。所の者、不便にも思ひしかども、折節(をりふち)、世の中、騷敷(さはがしく)、誰《たれ》吊(とふら)ふとも、なく、出家《しゆつけ》を呼(よぶ)といふ事も、なく、三人、共(とも)に其儘(そのまゝ)にて、あの野に、穴を掘(ほり)、埋(うめ)たり。其後、

『折々(をりをり)、幽靈、出《いづ》る。』

と、人々、申(まうす)。不思議なる事共(ことども)、有(あり)けるよし、咄《はなし》傳(つた)へけれ共(ども)、今は、久敷(ひさしく)なりて、近年《きんねん》、左樣《さやう》の咄も、聞不申候(きゝまうさずさうらふ)。定(さだめ)て、左樣《さやう》の事にても可有哉(あるべきや)。扨々(さてさて)、ふしぎ。」[やぶちゃん注:「風病」これは現在の流行性感冒よりも広い疾患・症状を指す。漢方では狭義の疾患としては、中風・リウマチ・痛風などを指す。「風疾」「風患」とも言う。]

と、申(まうし)けり。

 扨(さて)、其後(その《のち》)、彼(かの)男、米子《よなご》へ行(ゆき)、諸用、濟(すみ)し[やぶちゃん注:この読み「すみ」は「すま」の崩し字の誤判読ではなかろうか。]、彼(かの)金子(きんす)を出《いだ》し、人々に見せけるに、

「是(これ)は、當代《たうだい》の金子(きんす)に、あらず。古(いにしへ)の金《かね》にて、結構なる上品の金也(なり)。」

と、申(まうす)。

 夫(それ)より、當所《たうしよ》に歸り、沙汰なしに過(すぎ)けるが[やぶちゃん注:これは、例の数奇な体験は、暫くの間、「表沙汰にしない・人に話さないようにしていたが」の意。]、いかにしても、心底(しんてい)、濟(しま)ず、心安き朋友《ほういう》に、荒增(あらまし)、咄《はなし》けり。

 人々、聞(きゝ)て、

「是は。不思議。」

 隱《かく》すとすれ共(ども)、皆人《みなひと》、聞付(きゝつけ)、金子(きんす)を見て、彌(いよいよ)、驚きける。

 然(しか)れ共(ども)、右の男、悅《よろこば》ず、

「いかゞすべし。」

と、人々の了簡(りやうけん)を借《か》りけり。

 何(いづ)れも、評判して、

「たとへ、幽靈にても、夫婦と成(な)りて、其儘(そのまま)には、置《おか》れまじ。蹟(あと)、吊(とむら)ひて、可然(しかるべし)。」

と、申(まうす)に付(つき)、彼(かの)男も、

「我(われ)らも、左樣《さやう》に存也(ぞんずるなり)。され共(ども)、名も、しらず、𢌞向(ゑかう)せん事、いかゞ。」

迚(とて)、案じけるが、翌年、春、暇(いとま)を願(ねがひ)て、出(いで)けり。

 其後(その《のち》)、出家して、屋敷《やしき》[やぶちゃん注:主君である荒尾近江のそれ。]へも、參り、語《かたり》けるは、

「分《ぶん》なき事と言(いひ)ながら、死(しゝ)たる人の金を、請(う)け、蹟吊(あとゝむら)ひて、其儘(そのまゝ)にては、得心(とくしん)、せず。迚(とて)もの事に、出家して、永く、蹟(あと)を懇(ねむごろ[やぶちゃん注:ママ。「ねんごろ」・「ねもごろ」。])に、とわむ、と、斯(かく)、姿《すがた》を、かえて候(さうらふ)。」

と言(いふ)。

 人々、是(これ)を聞(きゝ)、

「扨々(さてさて)。貞心《ていしん》なる事や。」

と、打寄(うちより)、彌(いよいよ)、贊(さん)しけり。

 此言(このこと)、正說《しやうせつ》也(なり)。

 加藤重次郞方(かた)、別(わけ)て、入魂(じつこん)[やぶちゃん注:「昵懇」に同じ。]の人、荒尾、家士也(なり)。重次郞方《かた》へ來(きた)り、語る也(なり)。

 加藤、別(わけ)て、入魂(じつこん)故(ゆゑ)、具(つぶさ)に咄(はなし)也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「寬保年中《かんぽうねんちゆう》」「かんぽ」とも読む。一七四一年から一七四四年まで。徳川吉宗の治世。

「荒尾近江《あらをあふみ》」これは、江戸時代中期の鳥取藩家老で米子荒尾家代七代であった荒尾成熙(あらおなりひろ 享保二〇(一七三五)年~天明七(一七八七)年)である。「近江」は彼の通称であった。当該ウィキに拠れば、『鳥取藩家老荒尾成庸』(なりつね)『の次男として生まれる』。『寛延元年(1748年)7月、本家を相続していた兄荒尾成昌の死去により、急養子となって家督を相続し、米子城代となる。幼いため、実父の成庸が後見と米子の仕置代行を命じられたが、成庸は翌寛延2年(1749年)3月に死去した。同年8月、初めて米子入りする。寛延3年(1750年)10月、荒尾斯就の娘と結婚する。宝暦9年(1759年)、藩主池田重寛の将軍徳川家重への初御目見の際、共に登城し、拝謁を賜る』。『宝暦10年(1760年)11月、御職家老(執政家老)となり、若年の藩主重寛を補佐し、藩政を主導する。宝暦11年(1761年)10月、御根取となる。同年、宝暦の改革の推進者である郡代元締役安田成信を罷免させる。成信が推進してきた請免制を基礎とする農政は、商品作物の生産流通を重視する政策に変更された』。『明和8年(1771年)4月、後桃園天皇即位式の祝賀使を務める。安永7年(1778年)8月、病により』、『辞職する。天明3年(1783年)12月、藩主池田治道の家督相続御礼言上の際に、共に登城して将軍家治に拝謁する』。『天明7年(1787年)7月14日死去、享年53。家督は嫡男の成尚が相続した。』とある。

「徒《かち》の者」江戸時代には、主君に仕える下級武士の呼称。

「伯州米子《はくしうよなご》」現在の鳥取県米子市(グーグル・マップ)。

「御城下」鳥取城城下。

「貞心者」貞節な心・操(みさお)を守る心を持った誠実な人物。

「伯州八橋《やばせ》」現在の鳥取県東伯郡(とうはくぐん)琴浦町(ことうらちょう)八橋(やばせ:ここ:グーグル・マップ航空写真)。

「劔《つる》が野《の》」伯耆国立伯州学園中等部の史跡探検同好会のサイト「伯耆国 八橋郡 のつじょう 箆津城」の解説から別々の二箇所を以下に引用する(解説文中の太字・下線は私が附した)。塚や亡霊出現の内容が絡むのも、本話と同調していて、興味深い。

   《引用開始》

赤碕町誌(一部抜粋)

城の内(じょうのうち)と呼ばれ堀跡、土塁跡が残る。近くの畑には建物の礎石と思われる石が点在する。文政年間(1818年~1829年)の古地図には二町四方の地域を有したとある。元弘3年(1333年)の船上山合戦の後、名和氏の軍勢に攻められ焼討された当時の伯耆国守護代糟屋弥次郎の居城、中山城とする説、地域狭小で守護の居城としない説がある。城跡の近くには「剣が野(つるがの)」「御立山」「カジ山」「牧戸」の地名があり城との結びつきを残す。「剣が野」では永正の頃(1504年~1511年)に藤井氏の岡部七郎が討死し、その亡霊が残っていて往来の人を悩ましたと伝えている。付近には古墳も散在している。槇の城から約1Km半、箆津部落の東のはずれの墓地(字陣場)に箆津豊後守敦忠の墓がある。

   《引用終了》

   《引用開始》

伯耆民談記 槇城の項

安田郷箆津村にあり。槇氏代々居す。永正の頃かとよ、藤井何某か家人、岡辺七郎当城に攻寄せ今云ふ剣ノ野に於て大いに戦ひ討死す。其亡霊残りて往来の人を悩す事、暫く累年に及ぶと云へり。此野に七の塚あり。是、首塚とも、又、七塚とも云ふ。一つは岡辺七郎か首塚、残る六は従卒の塚と云伝ふ。剣ノ野以西の金谷村にある大地を金谷野とも云ふ。此野は槇、藤井、多年の戦場にして千戈をちりはめし処なる故、剣ノ野と称すかや。(中略)又、件の藤井某は今の信州上田の城主、松平伊賀守忠国の先祖なるか。是、本姓藤井氏なり。長臣代々岡辺七郎と云ふ。今は九郎兵衛と云へり。

   《引用終了》

以上の場所を、グーグル・マップ航空写真で示すと、ここである。右下中央に前の「赤橋」を配した。

「もはや、壹里半[やぶちゃん注:五・八九一キロメートル。]行(ゆけ)ば、在所《さいしよ》、有り。何とも、夫迄(それまで)。」この数値を考えると、本話後半で、主人公が辿り着いた「例の村里」は、グーグル・マップの子の左側辺り(右端中央に「箆津城城跡」を配した)になろうかと思われる。

    *

 さて、辿り着い亭主が語る話は「昔物語」と言って語り出している。そして、男が貰った金子(きんす)を、米子で、人々に見せたところが、「これは、今の時代の金子ではない。遥か昔のの金子であって、極めて精緻に造幣された上級の金子である。」と断定していることだ。これは、正直言って

――この母と娘と乳母が、ここに流れてきたのは戦国末期どころの話ではないのではないか?――

――室町時代後末期だったのではないか?――

と私は感じている。識者の御叱正を俟つものである。

    *

 この作品、私は、嘗つて読んだ際、なにか、しみじみとした印象を得たのを思い出す。今回、電子化注にした途中でも、そうした、ある種の感動を持った。死者との冥婚の怪談は、私の電子化した中にも、結構、多いが、ここまで、美しく、しかも、哀しい話は、そうそう、ないのである!

――武士を投げ捨て、僧となって、彼ら三人の後生を弔う――その後ろ姿が――点となるラスト・シーンまで――哀しくも心を打つものとなっているではないか!!]

2026/09/26

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「法美郡しやく山城主の事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 法美郡《はうみのこほり》しやく山城主《やまじやうしゆ》の事

 

 淸源樣御代《せいげんさまみよ》、御臺所《みだいどころ》御煮方《おんにかた》某《なにがし》と言(いふ)者、元《もと》奧州仙臺《わうしふせんだい》の者也。

 若き時分、御當家御臺所板元御小人《いたもとおこびと》に出《いで》て、久年(きうねん)、宜(よろしく)相勤(あいつとめ《→あひつとめ》)、御上下《おんかみしも》の御供(おとも)、數度《すど/すたび》、勤(つとめ)けり。

 元より、丁寧に御奉公申(まうし)たり。

 去(さる)に依(よつ)て、頭役《かしらやく》の者共(ども)、其趣(《その》おもむき)、段々《だんだん》、申立(まうしたて)、御頭料理人《おんかしられうりにん》になり、其後(その《のち》)も勤(つとめ)て、老年に成(なり)ければ、江戶御供(おとも)御免被成(ごめんなられ)、御國勝手(おくにかつて)に成(なり)たり。

 然(しか)れば、

「難有存(ありがたくぞんず[やぶちゃん注:底本のママであるが、一介の彼が、形式上、城主から受けた許可に対して、「ぞんず」という終止形の謂い方、而して、後が読点というのは、私には、かなり違和感がある。「ぞんずる、」或いは、「ぞんずる。」であるべきであり(無論、その際の句読点は校訂者が附したもの)、さればこそ、読点で続くのも、普通に自然と読める。])、江戶御奉公も是迄(これまで)なり。古鄕《ふるさと》仙臺へ罷越(まかりこし)、親類共(ども)にも暇乞(いとまごひ)せん。」

と、其旨(その《むね》)、願奉(ねがひたてまつ)り、四十日《しじふにち》斗(ばかり)の御暇給(おいとまたまは)り、仙臺へ行(ゆき)けり。

 元より、出生(しゆつしよう《→しゆつしやう》)は在鄕なりければ、早速(さつそく)、親類共(ども)にも對面《たいめ/たいめん》して、今生(こんじやう)の暇乞(いとまごひ)して、緩々(ゆるゆる)、逗留《たうりう》して歸りけるが、其身(その《み》》、幼少《えうしやう》の時、奉公初《はうこうはじめ》に居(をり)たる御家中《ごかちゆう》、有り。是も又、厚恩《こうおん》の事共(《こと》ども)、存出(ぞんじ《いだ》)し、古主《ふるきあるじ》の家《いへ》に尋行(たづねゆき)、案內《あない》しければ、亭主、委細(いさい)、聞屆(きゝとゞけ)、

「久々(ひさびさ)の事、能(よく)こそ尋來(たづねきた)りたり。」

とて、早々(さうさう)、立出(たちいで)、座敷へ請《しやう》じ、物語、數刻(すうこく)に及ぶ。

 料理《れうり》抔(など)出《いだ》し、馳走《ちさう》して、

「物語の通りなれば、立身とは申(まうし)ながら、其御方(その《おんかた》)にも、老人の事、因幡へ居(をり)とまり候得(さうらえ)ば、對面も、限りなり。」

と盃《さかづき》を、とり替(かは)し、念頃(ねんごろ)に暇乞(いとまぎひ)し、泪(なみだ)、流しけり。

「拙者妻《せつしやつま》も、御目(おめ)に懸(かゝ)り度(たし)。」

と、勝手へ通す。

 辭退申(まうし)けれ共(ども)、聞入(きゝいれ)ず、奧の方《かた》へ通しける。

 亭主も、六百石の領主なれば、下人も、多く召仕(めしつか)ひけり。

 扨(さて)、內室《ないしつ》、出逢(であ)ふて、念頃(ねんごろ)の挨拶にて、其上(その《うへ》)にて、女房、申(まうし)けるは、

「こなたには、此度(このたび)、御供(おとも)にて、因幡へ御歸(おかへり)の由(よし)、承り申候(まうしさうらふ)。我等(われら)は、初めて御目(おめ)に懸(かゝ)り候得共(さうらえども)、兼(かね)て御事(おんこと)の樣子、承及(うけたまはり《およ》びけり。因幡と聞《きけ》ば、懷敷(なつかしく)思ひ候(さうらふ)。夫(それ)に付(つき)、率爾(そつじ)ながら、賴申度事(たのみまうしたき《こと》)、有り。御聞被下候半(おきゝくださりさうらはん)や。」

と、言(いふ)。

 御料理人《ごれうりにん》、申樣(まうすやう)、

「安き御事《おんこと》に候(さうらふ)。因幡への御用は、何にても、身に叶ひ候(さうらふ)事に候(さうら)はゞ、承(うけたまは)り可申(まうしべし)。」

と、言(いふ)。

 女房、悅び、

「さらば、賴可申(たのみまうしべし)。我(われ)は、元《もと》、因幡の生《うま》れ也(なり)。御城(おんしろ)もとに、大(おほい)なる池《いけ》・沼《ぬま》、有(ある)や。」

 答(こたへ)て申樣(まうすやう)、

「城下より壹(いち)里斗(ばかり)には、池も、段々《だんだん》[やぶちゃん注:副詞。「かずかず」。]、御座候(ござさうらふ)。いづれにて候哉(やうらふや)。」

と申(まうす)。

「いや、其(その)池の上に、『しやく山』と申(まうす)、城蹟、有りや。定(さだめ)て御存候半(ごぞんじさうらはん)。」

と、言(いふ)。

 答(こたへ)て言(いふ)やう、「しやく山は存居申候(ぞんじをりまうしさうらふ)。其邊(その《あたり》)には、池、御座(ござ)なく候(さうらふ)。其(その)近邊は、皆々、山野(さんや)にて、卯垣《ぼうがき》と申(まうす)村も御座候(ござさうらふ)。又、瀧山《たきやま》と申(まうす)所も御座候(ござさうらふ)。」

と、いふ。

 女房の曰(いはく)、

「我(われ)、四、五歲の時の頃、成(な)りければ、聢(しか)と覺へ[やぶちゃん注:ママ。後も出るが、注さない。]不申(まうさず)。事久敷(ことひさしく)成候(なりさうら)へば、池は、かすかに、覺(おぼ)へ候得共(さうらへども)、今は、池も、平地に成候(なりさうらふ)や。我(われ)、身は、其(その)しやく山の城主の娘也(なり)。其(その)時分、乳母《めのと/うば》に抱《だ》かれ、近邊の山に遊びに行(ゆき)しに、大木《たいぼく》の本(もと)に、老人、三、四人、寄合(よりあ)ふて、圍碁《ゐご》を圍《かこ》み居(をり)けるが、我(われ)、其所(その《ところ》)へ行(ゆき)ければ、老人の謂(いはく)、

『扨(さて)、此(この)小兒《しやうに》は、能(よき)生付(うまれつき)かな。』

と、つむり[やぶちゃん注:「頭(つむり)」。]を摩(さすり)て、

『され共(ども)、短命なり。不便《ふびん》の事。』

とて、側《かたはら》なる小德利《しやうとつくり》の酒《さけ》を猪口(ちよこ)に入(いれ)、吞(のま)せたり。其(その)甘き事、忘れがたし。其後(そのご)、乳母、『はや、日暮(ひぐれ)なり。歸らん。』

迚(とて)、我(われ)を抱《いだ》き、歸りけり。

 其夜(その《よ》)、敵、

『夜打(やうち)入候(いりさうらふ)。』

迚(とて)、皆々、ちりぢりに、立退(たちのき)たり。

 我をば、乳母、抱《いで》きて、何地共(いづちとも)なく、逃出《にげいで》たり。

 父母《ぶも/いちはは》も、別々に、行衞知(ゆくゑ《し》れず。我は、乳母と、京都の方《はう》へ立退(たちのき)、兔(と)や角(かく)と、しけれ共、其(その)時分、何方(いづかた)も、亂世の時分にて、何《なに》、國《くに》・住所《すむところ》も、難叶(かなひがたく)、諸國を𢌞(めぐ)りて、遠江(とほとみ[やぶちゃん注:ママ。「とほたふみ」が正しい。])の國に、暫(しばら)く、足を留(とゞみ)けれ共(ども)、爰(こゝ)も、騷《さは》がしく成(なり)、

「奧州《あうしふ》は靜(しづか)なり。」

と聞(きゝ)、元より、乳母は、早く過(すぎ)たり[やぶちゃん注:早くに亡くなってしまった。]。

 獨り身と成(な)り、諸國、𢌞り、此(この)所へ來りて、もはや、何十年と言(いふ)事を、知らず。

 夫《をつと》に添ふも、幾人《いくにん》か、不覺(おぼへず《→おぼえず》)。

 我が年《とし》、何百か、不覺(おぼへず《→おぼえず》)。

 扨々(さてさて)、不思議の事共也(どもなり)。

 子供は、始終、出生《しゆつしやう》せず。

 見らるゝ通り、いつも、廿歲《はたち》位(くらゐ)にて、少しも、年寄(としより)たる事、なし。

 今の夫も、はや、四十年過(すぎ)、夫婦也。

 扨々(さてさて)、我(われ)ながら、不思議の事也。

 夫(それ)に付(つき)、其元樣(そこもとさま)へ賴度事(たのみたきこと)は、我(われ)、其古(そのいにし)へ、「因幡しやく山城主の娘《むすめ》」とは、乳母の言《ことば》、聞《きく》を忘れはせね共(ども)、先祖の事も、しらず。其(その)しやく山近邊《きんぺん》、寺は、なく候(さうらふ)や。聞(きゝ)たし。」

と言(いふ)。

 答(こたへ)て、

「近邊には、寺は、御座(ござ)なく、夫(それ)より、半道《はんみち》過(すぎ)て、瀧山《たきやま》と申(まうす)所に、律宗の寺、有り。光淸寺《くわうせいじ》と申候(まうしさうらふ)。」

「然(しか)らば、其(その)寺へ、茶湯料(ちやたうれう)・金子(きんす)遣(つかは)し申度(まうしたし)。屆《とど》け可被下哉(くださるべきか)。」

と賴(たのみ)ければ、

「安き御用に御座候(ござさうらふ)。歸り候(さうら)はゞ、早々(さうさう)、其(その)寺へ屆け、金子請取證文(きんすうけとり《しやうもん》)、取(とり)、便《たよ》りに遣(つかは)し可申(まうすべし)。」

と申(まうし)けり。

「扨々(さてさて)、忝存(かたじけなくぞんず)る。必(かならず)、金子(きんす)五兩包置候閒(つつみおきさうらふ《あひだ》)、是(これ)を賴申(たのみまうす)。」

迚(とて)、金子(きんす)、渡しけり。

 其後(その《のち》)、色々(いろいろ)、馳走《ちさう》に逢(あひ)、暇乞(いとまご[やぶちゃん注:「ご」の濁音はママ。])ふて、歸りけり。

 其後(その《のち》)、江戶へ戾り、殿樣御供(おとも)して、御國《おくに》へ歸り、瀧山へ、金子(きんす)、屆け、請取手形(うけとりてがた)、取候(とりさうらひ)て、能(よく)、便《たよ》りを賴(たのみ)、江戶迄(まで)、遣(つかは)しけり。

 其後(その《のち》)、不知(しらず)、其身(その《み》)も七十斗餘(ばかりあま)り、又、江戶御免(ごめん)にて、御國《みくに》にて、果(はた)けり、と、なり。

 扨々(さてさて)、不思議の咄《はなし》也(なり)。

「則(すなはち)、其料理人、直談(ぢきだん)、聞(きゝけり。」

と、なむ。

 其(その)名字《みやうじ》、失念す。

 

[やぶちゃん注:「法美郡《はうみのこほり》」当該ウィキに拠れば、『法美郡(ほうみぐん)は、鳥取県(因幡国)にあった郡』で、『律令制のもとで7世紀後半に設置されたと推定されており、古代から近世まで存続した。明治維新に伴う制度改革で』一度、『廃止されたが、まもなく行政単位として復活、1896年(明治29年)に近隣の郡と合併して岩美郡とな』り、『郡域の多くは、現在は鳥取市の一部となっている』とある。同ウィキの法美郡の地図と、ウィキの「岩美郡」の地図をリンクさせておく。また、現在の鳥取市と旧岩美郡との位置関係を確認するには、「ひなたGIS」の戦前の地図と現在の地図のこれを見るのが、手っ取り早い。そこでは、現在の地図(右)で、左上中央に鳥取城跡の「⛫︎ 」、戦前の地図(左)の右下中央に旧「美岩」とあるので、確認出来る。

「しやく山城主《やまじやうしゆ》」私は戦国時代や城郭には疎いので、昔からお世話になっている個人サイト「城郭放浪記」で探し当てることが出来た。「因幡 爵山城(いなばしゃくやまじょう)」である(地図有り)。位置は、既に先の本書で何度もロケーションとして見てきたところで、実は、鳥取城の僅か南東二・六㎞の位置にある。旧法美郡は、実は兵庫県県境から西に伸びており、まさにその西の端に、この旧爵山城は、そこにあったのである。現在の取県鳥取市卯垣(ぼうがき)のここである(グーグル・マップ航空写真。中央上に鳥取城跡を配してある)。解説冒頭には、『詳細不明。『因幡誌』に「小西采女正と称するする人代々居城の跡と...」あり、城主は小西采女正と伝えられる。』とするだけで、残念ながら、城主の詳細も、時代も、判らない。『稲葉山地区公民館の駐車場が利用できる。西の尾根先、山陰本線の高架橋をくぐった先に鉄塔巡視路の登口があり、ここから登ることができる。』とある。GoogleのAIで調べると、

   *

『因幡志』などの地誌に小西采女正が代々居城とした跡である旨が記されています。戦国時代末期の元亀・天正期には、尼子再興軍の山中鹿介(幸盛)が因幡に進出した際、周辺の諸城主とともに同城主も鹿介側(尼子方)に味方したことが『陰徳太平記』などに描かれています。

   *

とあったが、国立国会図書館デジタルコレクションで「因幡志」及び「陰徳太平記」を調べたが、「小西采女正」の名を見出せない。しかし、この女の語る奇体に古過ぎる話からの感じからは、戦国末期というのは、当たりであろうとは思う。

「淸源樣御代《せいげんさまみよ》」これは、初代藩主池田光仲の長男であった因幡鳥取藩第二代藩主池田綱清(つなきよ:正保四(一六四八)年~正徳元(一七一一)年)のことである。「淸源」は彼の戒名「清源寺殿良宗常温大居士」に基づく。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、彼は、貞享二(一六八五)年、三十九『歳で家督を相続する。しかし』、『病弱であったため、父の光仲が後見人として政務を補助した』。『綱清には息子がなかったため』、元禄八(一六九五)年、『甥で鹿奴藩(鳥取東館新田藩)の初代藩主である弟・仲澄の嫡男長吉(後に輝清、吉泰と改名)を養嗣子に迎え』、元禄一三(一七〇〇)年、『綱清は病気を理由に隠居し、吉泰に家督を譲った』とある。従って、これは以上の閉区間の出来事となる。

「御臺所《みだいどころ》御煮方《おんにかた》」綱清の妻(南部重信の長女式姫)に供する料理の調理を担当した部署のことであろう。

「板元御小人《いたもとおこびと》」将軍家・貴人の家などで、主人の雑用をする少年。「御小者」で「おこびと」とも呼ぶ。

「御上下《おんかみしも》の御供(おとも)」これは、領主の外出・お国入り・上洛(京都へ行くこと)などをする際に、家臣が正装である「裃(かみしも)」を着用して行列に供奉することを指している。

「御頭料理人《おんかしられうりにん》」領主の調理の最高責任者。

「江戶御供(おとも)御免被成(ごめんなられ)、御國勝手(おくにかつて)に成(なり)たり」今回の参勤交代の際の追従を以って、これを免除され、当地で行う旧来の仕事以外は、私的に、ある程度、藩内で自由に生活することが許可されることとなった。

「半道《はんみち》」当時の一般には、一里(三・九四キロメートル)の半分を指すから、一・九七キロメートル、約二キロメートル。

「瀧山《たきやま》と申(まうす)所に、律宗の寺、有り。光淸寺《くわうせいじ》と申候(まうしさうらふ)」現存する。鳥取県鳥取市滝山(たきやま)のここである。中央下に爵山城跡を配しておいた(グーグル・マップ)。但し、宗派が時宗で、違う。サイト「MINAKONUSHI」の「光清寺」に同寺の写真があり、その中に「当山由来記」とする解説板が撮られてあるが、そこには、『当山は平安朝末期天台宗の碩学恵僧都の開基』(この前に『本尊は聖観音菩薩 恵信僧都作』とあるので、「恵僧都」で省略したものである。)とし、『鎌倉時代に時宗の開祖遊行上人当地に巡錫踊念仏を始めたのが縁となり以後時宗所属となり今日に至り開創以来一千百年になん』なん(踊り字「〱」なので正字にした)『とす藩政時代は池田家の尊崇篤く寺領を有していた』とある。

「茶湯料(ちやたうれう)・金子(きんす)」前者「茶湯料」(ちゃとうりょう)は「供養料」で、以下の「金子」は、「寺に対しての御布施」であって、全く別物である。現行の寺でも、二つを別物として、同額を要求するところがある。まあ、今、やられると、無神論者である私はムッとするが、ここでは、謂わば、恐るべき古えの先祖への回向を菩提寺でも何でもない寺に望む以上、当然あって、然るべきだろうとは、思う。]

2026/09/25

二十数年前に亡き母が植えた白い彼岸花が咲いた

二十数年前、亡き母が、連れ合いが手に入れた白い彼岸花の球根を、家の斜面に植えた。先月、知り合いの庭師(母が可愛がっていた)が、破格の値段で斜面の樹木を美事に手入れして呉れたのだが、それから一ヶ月経って、母の霊がやって呉れたものか、驚くべく、三本、咲いた。連れ合いが階段脇から携帯で望遠で撮ったものだが、ご披露しておく。

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2026/09/23

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「幽靈出て家主をたやせし事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 幽靈《いうれい》出《いで》て、家主《やぬし》を、たやせし事

 

 天和(てんな)年中[やぶちゃん注:一六八一年から一六八四年まで。徳川綱吉の治世。]、內丹後町《うちたんごまち》、材木藏《ざいもくぐら》の近邊、御堀端《おほりばた》の角《かど》に、何某《なにがし》と言へる御家士《おんかし》の屋敷、有り。

 いかなる幽靈か、

「夜每(よごと)に、出《いづ》る。」

迚(とて)、御家中《ごかちゆう》、若侍《わかざむらひ》、見屆(みとゞけ)に行(ゆく)者、多《おほ》かりき。

 され共(ども)、誰迚(だれとて)、慥(たしか)に見たる人も、なし。

 正說(しやうせつ)、慥(たしか)ならざりけり。

 程經(ほどへ)て、其家(その《いへ》)の若黨(わかたう)の部屋へ、入魂(じつこん)[やぶちゃん注:「昵懇(じつこん)」に同じ。]の人、見𢌞(みまはり)けり。

 折節(をりふし)、夏の事にて、涼みながら、物語抔(など)して居(をり)たり。

 月夜にては、有り、行燈(あんどん)も、たてず、亭主と差向(さしむかひ)て、夜更(よふけ)迄(まで)、咄《はな》し居(をり)けり。

 然(しか)るに、若き女《をんな》、白帷子(しろかたびら)を着《ちやく》し、髮を、みだし、部屋の前を、徘徊《はいくわい》しけれ共(ども)、何の氣《き》も付(つか)ず。時分柄(《じぶん》がら)と言ひ、

『本家《ほんけ》の下女《げぢよ》か。』

と、思ひしが、暫(しばら)く立休(たちやす)らひければ、又、思(おも)ひけるは、

『亭主の忍妻(しのびづま)にや。』

と、ふしん[やぶちゃん注:「不審」。]も、なさざりけり。

 此女、ひたもの[やぶちゃん注:副詞。漢字表記「直物」。「いちずに・ひたすら・やたらと」の意。]、部屋の內を覗(のぞ)きければ、彼(か)の若黨、いかり聲《ごゑ》にて、荒(あら)らかに、

「又、來りたり。そこを、立去(たち《さ》)れ。」

と、いふ。

 然(しか)れば、少し扣《ひか》へたる樣にて、去りも、せず。

 暫(しばら)く有りて、又、覗(のぞ)き、後《のち》には、部屋の沓(くつ)ぬぎ迄(まで)、來(きた)りたり。

 若黨(わかたう)、大《おほい》に、いかり、

「にくき事かな。」

とて、あたりに木刀《ぼくたう》有《あり》けるを、追取(おつとり)[やぶちゃん注:「直ちに手に取る・勢いよく取る」の意。]、女のすそを、したゝかに打(うち)けれ共(ども)、さして驚(おどろき)たる氣色(けしき)も、なし。

 庭の外へ、出(いで)けり。

 若黨、其儘(そのまゝ)、追《おひ》て出《いで》けるが、頓(やが)て、歸る。

 客人の曰(いはく)、

「何《なん》とて、左樣(さやう)に荒(あら)けなくし給(たま)ふぞ。但(たゞ)し、氣《き》の違《ちが》ひたる人にや。」

と、不審をなしければ、答(こたへ)て曰(いはく)、

「其方(その《はう》)には、未だ、あの者を御存じ不被成哉(なられずや)。此家(この《いへ》)の靈にて、夜更(よふけ)て、每夜《まいよ》、出(いで)、あの如く、我らが部屋へも、戶を明(あけ)て置候得(おきさうらえ)ば、內《うち》へ入(いり)、床(とこ)[やぶちゃん注:これは若党の「寝床」の意であろう。]の上《うへ》へも上《のぼ》り候。しかれ共(ども)、物も言(いは)ず。只(たゞ)、洗濯物抔(など)干《ほし》たるが如(ごと)し[やぶちゃん注:この表現は、自身の横たわっている寝具の上に彼女は立っているのである。しかし、その重量を全く感じないのだ。だから、『洗濯物なんどが干してあるように、女が立ちつくしているのだ!』と形容しているのである。]。あの如く、打候得共(うちさうらえども)、手ごたへも、せず。追候得(おいさうらえ→おひさうらえや[やぶちゃん注:但し、これは誤判読と思う。])ば、風に吹《ふか》るゝ如(ごと)く立去(たち《さ》)り候。我等(われら)も、初めの程(ほど)は、氣味惡敷(《きみ》あしく)思ひしが、今は慣(なれ)て、何共存不申(《なん》ともぞんじまうさず)。每夜の事、打捨置(うちすておけ)ば、部屋の內へも入《い》れば、あの如(ごと)く追捨(おいす)て、戶を差置(さしお)けば、內へは、入らず。窓よりは、覗(のぞ)き申候(まうしさうらふ)。」

と言(いふ)。

 客、以(もつて)の外(ほか)、けふざめ[やぶちゃん注:ママ。「興醒(きようざ)め」。]、

「扨(さて)は。あの者は、幽靈なりや。」

「しかり。」

と言(いふ)。

「幽靈といふもの、始(はじめ)て、見たり。」

迚(とて)、咄し、暇乞(いとまごひ)して、

「歸る。」

迚(とて)、見れば、屋敷の角《かど》に、大木《たいぼく》の「もくせい」、有り。

 件(くだん)の幽靈、此木(この《き》)に、上《のぼ》り居(をり)けり。

彌(いよいよ)、きみ惡敷(あしく)、足早《あしばや》に歸りけり。

 其後(その《あと》)も、度々(たびたび)、見たり。

 後《のち》には、木に上《のぼ》り、もくせいの小枝を、

「ほちほち」

と、折(をり)けるが、大かた、小枝を折盡(をりつく)しけり。

 木、終(つひ)に、枯れて、けり。

 夫(それ)より、靈も出《いっづ》る事、なし。

 夫(それ)より、其家(その《いへ》)も、程なく、家主《やぬし》、死(しに)うせ、子孫も、悉(ことごと)く、絕(たへ《→たえ》)てけり。

 今は、其家(その《いへ》)、筋《すぢ》、なし。

「不思議なる事。」

迚(とて)、野夫《やぶ》、若(わか)き時分、去(さ)る老人の物語なり。

「其(その)家屋敷は、伊豆屋敷《いづやしき》惣御門《そうごもん》、土橋《どばし》の外《そと》、御堀端道《おほりはしみち》の通り、角《かど》の屋敷也(なり)。もくせいの木は、屋敷の角《かど》の所に、有《あり》し。」

と。

 其老人、

「枯(かれ)たるも、見たり。」

とて、咄(はな)しけり。

 

[やぶちゃん注:「內丹後町《うちたんごまち》、材木藏《ざいもくぐら》の近邊、御堀端《おほりばた》の角《かど》に、何某《なにがし》と言へる御家士《おんかし》の屋敷、有り。」「鳥取県立図書館」公式サイト内の「鳥取こちずぶらり」(各地図のページでは「鳥取ぶらり」とある)の「材木町(内丹後町)」に、『町人地。当町の堀端沿いにはかつて大きな裏通りがあったが、正徳2年(1712)の麩屋火事で焼亡し、街路が変更されたようである。町名の由来は、材木商が袋川付近に多く居住していたことにちなむ。ただ「内丹後町」と呼ばれることの方が多く、安土桃山期の鳥取城主宮部継潤の時代(1581-1600)からあった古い町という。丹後の呼称は、人名に由来するものではないかとの推測もある。同町の為登(いと)は、材木や年貢米などの荷揚げ場で、城下町舟運の拠点となった。同町は文久3年(1863)以降、今田屋こと(穀物荒物商売)、浜屋文七(炭薪商売)が、宝隆院(11代藩主夫人)の御用聞を勤めた』。『寛永11年(1634)の竈数25、安永7年(1788)の家数101。』とあった。また、同じ古地図の別解説の「御作事」に、『小細工ともいう。「湯所下の惣門」の門外、材木町(内丹後町)へかかる場所にある。以前は城内にあったが、万治年間(1658-60)にこの地へ移されたという。敷地内に役所があり、御普請方の御役人たちが毎日出勤し、御城内をはじめ、城下の官舎の建築修繕、土木工事に関することを管轄した。』と解説がある。本篇の「材木藏」というのは、当然、その「御作事」の位置と同じ一角にあったものと考えてよいのではないかと思われるから、この古地図の周辺が、以上のロケーションであると思われる。よく見ると、その「御作事」の道を隔てた下方には、広大な「侍屋敷」とあり、上方は鳥取城の堀となっているから、本篇の最後の「御堀端道《おほりはしみち》の通り、角《かど》の屋敷也(なり)」という指定も、ここと一致を見るように認識出来るからである。現在の地図に当てると、この中央辺りとなろうか(グーグル・マップ)。

「何《なん》とて、左樣(さやう)に荒(あら)けなくし給(たま)ふぞ。但(たゞ)し、氣《き》の違《ちが》ひたる人にや。」前の台詞は、若党の乱暴な仕儀への指弾であり、後は、「但し、確かに、どう見ても、異常な風体(ふうてい)で、或いは、気が違った女性でもあるのではないか?」と現実的な解釈を添えたのである。

「もくせい」木犀。シソ(紫蘇)目モクセイ科オリーブ連Oleeaeモクセイ属モクセイ Osmanthus fragrans であるが、変種ギンモクセイ(銀木犀) O. f. var. fragrans・変種キンモクセイ(金木犀) O. f. var. aurantiacus・変品種シロモクセイ(白木犀) O. f. var. aurantiacus f. leucanthus ・ウスギモクセイ(薄黄木犀) O. f. var. aurantiacus f. thunbergii があり、単に「木犀」と言う場合、現代では、ギンモクセイ(銀木犀)を指すことが多い。本件の種が何であるかは、特定出来ない。されば、モクセイ類には、相応の民俗的な意味があるのだが、それを注することも出来ない。ただ、霊がこの「木犀」を枯らしていることから、霊には何らかの忌避する対象であることは伺えるだけである。

 なお、サイト「100話の百物語」の「百物語 第175話」に「キンモクセイの妖怪」は、出典を示していないが、明らかに本篇を元にしたものである(現代語訳)。また、嘗つては、毎日、新作をアーカイヴさせて戴いていたサイト「座敷浪人の壺蔵」の、「あやしい古典文学の壺」の「木に登る幽霊」は本篇を元に現代語訳したものである。共に見られたい。]

2026/09/22

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「香川氏、妖怪を見る事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 香川氏《かがはし》、妖怪《やうくわい》を見る事

 

 香川新七《かがはしんしち》、舍弟(しやてい)半七《はんしち》、若時分(わかき《じぶん》)、夜獵《やれふ》を好む。

 其折柄(そのをりから)、荒尾美作《あらをみまさか》、若名(わかな)、主斗《かずと》と申(まうし)たり。兄弟共(とも)に入魂(じつこん)[やぶちゃん注:「昵懇」に同じ。]にて、晝は、狐獵《きつねがり》・かわうそ獵《がり》に同道して出《いで》られたり。

 新七、「手嶋《てしま》」と言(いへ)る、ふしぎの名犬《めいけん》を、持てり。

 狐など、追出(おひだ)して得《う》る事、ならび、なし。

 大方(おほかた)の犬は、狐を見懸(みかけ)て追(おふ)に、蹟(あと)より、追(おふ)ゆへ[やぶちゃん注:ママ。「ゆゑ」。]、今、二、三閒《げん》[やぶちゃん注:三・六~五・五メートル。]になり、狐を得《え》取らず。[やぶちゃん注:ここまでが、「大方の犬」一般の失敗例は、ここで終り、以下は名犬「手嶋」の捕獲の巧妙なやり口に移る。]

 蕎畑《そばばたけ》などにて、狐を追出(おひだ)せば、二閒程、外道《そとみち》を行《ゆく》ゆへ[やぶちゃん注:ママ。同前。]、大かたは、狐と同じやうに、走りけり。時々、ほこ[やぶちゃん注:蕎麦の穂のことであろう。ソバは茎の先端や葉の脇から伸びて、小さな白い花や実をつける(これを「穂発芽」と言う)。]を、つき[やぶちゃん注:「跡を付ける」で「去ったあとに蕎麦の穂の痕跡を残したものを以って追跡し」の意と思われる。]、狐の在所を見定(みさだめ)て、先へ𢌞り、狐の行出(ゆきいづ)る所を見て、くわへ[やぶちゃん注:「銜(啣・咥)へ」。正しくは「くはへ」。口に軽く挟んで、支(ささ)え咬んで。]けるに、壹(ひと)つも、もらさず、とりけり。獺《かはおそ・かはうそ》も同じ。

 又、「小白《こしろ・おしろ》」と名付(なづけ)て、女犬《めいぬ》、有り。

 是又(これまた)、名犬にて、犬二つ、かせぎ[やぶちゃん注:「稼ぎ」。]、めざましき事[やぶちゃん注:「なり」が欲しい。]。

 去(さ)るに依(よつ)て、主斗《かずと》、新七に所望(しょまう)して、飼(かひ)けり。

「是(これ)は、矢野兵庫犬《やのひやうごけん》なり。」

とかや。「小白」とて、名高き犬也。

 或時、半七、煩(わづらひ)て、久敷(ひさしく)引龍居(ひきこみをり)ければ、主斗、

「病氣見舞。」

として、側《そば》に遣(つ)ひける小坊主(こばうず)[やぶちゃん注:江戸時代、武家・町家で雑用に使う坊主頭の子供を指す。]を遣(つかは)しける。

 半七、

「忝(かたじけな)し。」

し」とて、小坊主を、座敷、病床《びやうしやう》に招き、直(ぢか)に、見舞の口上《こうじやう》を聞(きゝ)、茶など、ふるまひ、數刻《すこく》の咄《はなし》に及(およぶ)。

 みな、夜獵の事なり。

「先頃《さきごろ》、我(われ)、犬を引(ひき)、夜半時分、野坂(のさか)の方《はう》へ、志《こころざし》して、出行(いでゆく)。古海《ふるみ》かい道[やぶちゃん注:「街道」。グーグル・マップ航空写真で、右中央に現在の鳥取市古海(ふるみ)を配し、そこから南西方向にある「野坂」を中央下に配した。但し、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ても、ここで言う「古海」街「道」というのが、どのルートなのかは判らなかった。或いは、古海から南東に走る街道の途中で、これは次の『本高の村』から、野坂に尾根を西に越える道を辿るつもりだったものと推理する。]の先は、本高《もとだか》の村[やぶちゃん注:グーグル・マップ航空写真の鳥取市本高(もとだか)を示した。]へ、少(すこし)手前の、田の繩手(なはて)、有りて、小河(をがは)の、流れたり。

 夫(それ)に、小《ちさ》き土橋《どばし》、有り。右の方は、山はなにて、古き、はか所《しよ》共(ども)、見へたり。

 其(その)あたりを、何やら、人《ひと》壹人(いちにん)、來(きた)る。

『夜更(《よ》ふけ)て、何者やらむ。』

と、あやしく思ひて、犬を、先にやるに、犬、すゝまず。

 やうやく、かのもの、近く寄《より》て、近寄(ちかより)、見れば、若女《わかきをんな》なり。

 白きかたびらを、着て、髮を、さばき、色の白き顏は、雪のごとし。

 折(をり)ふし、朧月(おぼろづき)の事なれば、能(よく)見へたり[やぶちゃん注:ママ。「見えたり」。]。

 道は、狹く、兩脇は、小いで[やぶちゃん注:「小井手」で「小さな堰(せき)・用水路」。]、又、溝《みぞ》なり。

 犬は、尾を、すぼめて蹟《あと》へ、しざり、我が股相(またあひ)[やぶちゃん注:両脚の間に]に、かゞみければ、步行《ほかう》しがたく、やうやく[やぶちゃん注:「漸く」。]、我(われ)と、すりちがひに、件(くだん)の女、通りたり。

 顏を見合《みあひ》けるに、女の氣色(けしき)、いやらしさ、言斗(いふばかり)なし。

 通り過《すぎ》て、蹟《あと》を、かへり見るに、女も又、見かへりざまに、息を、ふき懸(かけ)し、其(その)惡《わる》くさき事、言斗(いふばかり)なく、むせかへり、眼《め》、明(あけ)がたき程也(ほどなり)。

 行過《ゆきすぎ》て、蹟を見れば、古海《ふるみ》の在所《ざいしよ》の方《はう》へ通りたり。

 召連(めしつれ)たる若黨(わかたう)も、我(われ)に十閒斗(《じつけん》[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]ばかり)おくれしが、呼(よび)ければ、おひ付(つき)、此(この)有樣を言へば、若黨も、同じく、

『ふしぎの者也(なり)。』

といふ。

 扨(さて)、

『犬は。』

と、とふに、

『同じく、かゞみ、うごかず。』

と云(いふ)。

『扨は。人閒に、あらじ。ばけ物ならむ。』

といへば、答(こたへ)て云(いふ)、

『しかり。能々(よくよく)考候(《かんがへ》さうら)へば、此邊(この《あたり》は、山神《やまがみ》、度々(たびたび)、出《いで》て、行逢(ゆきあ)ふも、少なからず。』

と言(いふ)。

 夫(それ)にて、ふしむ[やぶちゃん注:「不審」。「ふしん」が正しい。]はれたり。」

と存《ぞんず》る也。

 度々(たびたび)、夜獵に出《いで》けれ共(ども)、かやうの事、出逢(いであは)ず。」

と、半七、物語也(なり)。

 小坊主は、後に柴田分五郞と言(いひ)し。則(すなはち)、此者(この《もの》)、物語也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「香川新七《かがはしんしち》、舍弟(しやてい)半七《はんしち》」例の鳥取藩の家士のリスト(鳥取図書館作成)には「香川」姓のものは皆無であった(姓名に誤りがある可能性を考えて名でも調べたが、ない)。不詳。しかし、以下の本文後半を見るに、弟半七には、若党がおり、以下の「荒尾美作《あらをみまさか》」には小坊主がいることから、少なくとも、郷士の相応のレベルであったことは、間違いないように思われる。

「荒尾美作《あらをみまさか》」これも前掲のリストには姓も名も見出せない。しかし、ウィキの「荒尾氏」を見たところ、『末裔に鳥取藩主池田氏に仕えた家老家があり、1つは但馬守成房を祖とし、米子城城代を務めた家(米子荒尾家、荒尾但馬家)』であったとあるから、この家老家の末裔であった可能性は高いようにも思われる。

「矢野兵庫犬」現在の兵庫県相生市矢野町(やのちょう:旧矢野村:「ひなたGIS」)か? 但し、名犬の産地としての記載は、ネットで調べても、見当たらない。国立国会図書館デジタルコレクションの検索でも、ゼロである。歴史的日本犬に識者の御教授を乞うものである。

「野坂」恐らく、現在の鳥取市野坂(のさか:グーグル・マップ航空写真)と思われる。「ひなたGIS」の戦前の「野坂」もリンクしておく。]

2026/09/20

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「八東郡にて大蛇殺事幷大人の足蹟の事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。なお、本篇は標題と異なり、「八東郡」の怪奇談として、先に短い「大人の足蹟の事」を配し、「大蛇、殺事」が後になっている。特に二話は同じ郡であるだけで、纏める必然性(巨大という点のみが通性すると言えば、言えるが)を感じない。そこで、その間を二行空けて分離させた。]

 

 八東郡《はつとうのこほり》にて大蛇《だいじや》殺(ころす)事幷《ならびに》大人《おほひと》の足蹟《あしあと》の事

 八東郡村里《そんり》、田畑に、石くま、多し。外(ほか)にも同じ事《こと》、有る事なれ共(ども)、取(とり)わけ、多きゆゑ、ふしむ[やぶちゃん注:ママ。「不審」。「ふしん」。]して尋(たづね)けるに、村老《そんらう》、答(こたへ)て言(いふ)、

「むかし、一夜《いちや》の閒《あひだ》に、長(たけ)六尺餘(あま)り[やぶちゃん注:「六尺」は一・八二メートルであるから、ほぼ二メートルととってよいだろう。]、幅、二、三尺[やぶちゃん注:六十一~九十一センチメートル。]も有るらむ人の足蹟《あしあと》、出來(いでき)たり。其閒(その《あひだ》)、三十閒斗《けんばかり》[やぶちゃん注:五十四・五四メートル。]、步行《ほかう》の蹟《あと》、有り。人々、見て、大きに驚き、評しけるは、

「人の足蹟に違(ちがひ)なし。指の蹟も、有り。いかさま、鬼にてや有(あり)けむ、思《おも》ひ寄《よる》なし。』[やぶちゃん注:「と。」が欲しい。]

扨(さて)は、何方(いづかた)迄(まで)行(ゆく)にや、したひ見るに、山ぎわ[やぶちゃん注:ママ。「山際(やまぎは)」。後にも出るが、注さない。]迄(まで)、つゞきて有り。「大人《おほひと》の足蹟」と名付申(なづけまうす)。足蹟をば、人々、おそれて、作農《さくのう》致(いた)さず、よけ申候(まうしさうらふ)。」

と、語る。

 

 

 又、何村とかや、山ぎわの村里、有り。

 其所(その《ところ》)に、有德(うとく)なる土民(どみん)、有り。田地も、大分、持(もち)、屋舖(やしき)も、山を渡して、百閒《ひやくけん》[やぶちゃん注:百八十一・八メートル。]四方程(ほど)の、かまへなり。

 土居(つちゐ)[やぶちゃん注:「土手」に同じい。]ありて、うしろの山ぎわ[やぶちゃん注:ママ。]に、大きなる銀杏(いてう[やぶちゃん注:ママ。「いちやう」が正しい。後も出るが、注さない。])の木、有り。

 高さ、廿丈餘(にじふぢやうあま)り[やぶちゃん注:六十・六メートル余り。]。枝葉、しげりて、森の如し。

 田畑《たはた》のさまたげに成りしかば、三、四年に一度づゝ、枝を切(きり)けり。

 然共(しかれども)、大木《たいぼく》と言(いひ)、梢《こづゑ》、遠《とほ》ければ、たやすく上《のぼ》る者、なし。

 同村に、七助《しちすけ》といふ、平生(へいぜい)、病氣なる土民(どみん)、有り。

 元より、顏色、靑く、常はのうげう[やぶちゃん注:ママ。「農業」。「のうげふ」が正しい。]にも出(いで)ず、いたりけり。

 此者(この《もの》)、木の上の達者《たつしや》にて、例のいてふの枝下しに、やとふて[やぶちゃん注:「雇ふて」。]、切(きら)せけり。

 或(ある)時、呼寄(よびよせ)、賴《たのみ》ければ、いつもの事なれば、早速(さうそく)、りやうせう[やぶちゃん注:ママ。正しくは、漢字表記が「了承」ならば「れうしよう」、「諒承・領承」ならば「りやうしよう」である。]して、おの・鎌・まさかり、用意して、かの大木《たいぼく》いてうの木に、上《のぼ》りけり。

 やうやう、半過(なかば《すぎ》)て、枝を切(きり)けるに、何やら、木の下《した》、騷敷(さがはしく)聞《きこ》へ[やぶちゃん注:ママ。「聞え」。]ければ、のぞき[やぶちゃん注:「覗(のぞ)き」。]見《み》れるに[やぶちゃん注:「見れるに」は、おかしい。これは「のぞき見ゆるに」の誤記か、誤判読である。「れ」と「ゆ」のくずし字はへたをすると見分けが付きにくいのである。]、何かはしらず、まつ黑《くろ》なる物、兩眼《りやうがん》、光りて、此(この)銀杏の木に上《のぼ》り來《く》る。

 七助、見て、きもをけし、ためらひ見るに、頭《かしら》は、五升なべ[やぶちゃん注:「農林水産研究に関する国内の論文・情報が探せるデータベース(アグリナレッジ)」「AgriKnowledge)」の「農機具データベース」に「五升なべ(はそり)」があり、「解説文」に『方言ではハソリ(端反)とも言う。煮物、汁物など汎用的な鍋である。大きさは高さ20㎝、径54.5㎝、重さ6.5kgである。』とあり、「使用年代」に『大正~昭和初期』、「収集地」に『大阪府池田市』とあった。大分、新しいが、基本、この大きさを基準に六、七割ととれば、よかろうかと思う。]程にて、眼は、びむかゞみ[やぶちゃん注:底本に右注をして『(鬢鏡)』とある。「びんかがみ」(鬢を映してみるのに使う柄つきの小さい手鏡)である。]程(ほど)にて光り、大《おほき》に、口、くれなひ[やぶちゃん注:ママ。「くれなゐ」。]の舌を出《いだ》し、其氣色(そのけしき)、すさまじさ、言斗(いふばかり)もなき大蛇《だいじや》也(なり)。

 七助、

『扨(さて)は。我(われ)を、のまむ爲(ため)なり。去(さり)ながら、大方(おほかた)にては、のまれまじ。』

と、思ひ定(さだめ)て、先(まづ)、我(わが)足もとの小枝、切拂(きりはらひ)て、たまり[やぶちゃん注:これは「溜まり」であるが、「一溜まり」の方が理解し易い。この語は、今は「ひとたまりもない」でしか使わないが、この語は本来は「他からの圧迫・攻撃に対して少しの間を耐え支えること/ちょっと持ち応えること」を意味する。ここもそれである。]、つよく拵(こしらへ)、まさかり、持(もち)かまへ、待《まち》かけたり。

 蛇は、一口に吞(のま)むと、早(はや)、足元へ、のび上《あが》りたり。

 いきを吹《ふき》かけゝる事、唯(たゞ)、霧のまくが、如(ごと)し。

 足もと、くらき、やうなく[やぶちゃん注:「益無(やくな)く」でこれは古語で「やうなく」とも表記する。「まずい」の意。]、され共(ども)、生(うまれ)つき、しぶとき勇成(《ゆう》なる)男ゆへ[やぶちゃん注:ママ。「ゆゑ」。]、少(すこし)も、さわがず。

 すでに、蛇、頭(かしら)を持上《もちあぐ》る所を、くだむ[やぶちゃん注:ママ。「件(くだん)」。]の斧《をの》を以(もつ)て、ひらいて[やぶちゃん注:「開きて」で「(斧を)力いっぱい振り上げて」の意をこの語で示したものと私は採る。]、聲《こゑ》をかけて、まつこうに[やぶちゃん注:「眞向(まつかう)に」。]、打(うち)こむたり[やぶちゃん注:「打ち込んだり」。]。

 何かは以てたまるべき、大木《たいぼく》か、大石《だいせき》など、落(おつ)るごとく、しむどう[やぶちゃん注:「振動(しんどう)」。]して、木の下へ、

「どう」

と、落《おち》たり。

 七助、

「しすましたり。」

と、嬉しく大音聲(だいおんじやう)を上‘あげ)て、息をかぎりに、わめきけり。

 此音(この《おと》)に、田畑に居る者、聞付(きゝつけ)て、集《あつま》り、見て、大(おほい)に驚(おどろき)、大蛇を見るに、半死半生《はんしはんしやう》にて、くるひけり。

 され共(ども)、くつきやう[やぶちゃん注:「屈强」。]の者共(《もの》ども)、

『棒《ばう》の、さすの、』[やぶちゃん注:「さす」「刺股(さすまた)」であろう。底本もそうした傍注を打っている。「刺股」は江戸時代に犯罪者を捕らえるのに用いた道具の一つで、二股(ふたまた)の金具に、長い木の柄を付けたもの。相手の喉首(のどくび)を押さえつけるのに用いた。]

と、ひしめき、大勢、立寄(たちより)、なむなく[やぶちゃん注:「難無(なんな)く」。]、打殺《うちころ》したり。

 近里《きんり》の者、はせ集《あつま》り、

「きたひの事。」[やぶちゃん注:「希代(稀代)の事」で正しくは「きたいの事」。]

とて、見物の者、男女老少《なんによらうしやう》、市(いち)をなす。

 七助も、木より、下《お》りければ、人々、見るに、もふもふとして、心持(こゝろもち)なし。[やぶちゃん注:「もふもふとして」恐らく「濛濛・朦朦」で「もうもう」が正しい。意味はあまりのあり得ない大蛇の出現と、それを果敢に退治した七助の勇猛さに「心がぼんやりとしているさま」を指すものである。]

 亭主、酒を取出《とりいだ》して、吞(のま)せ、藥など用意して、勞(いたはり)けり。

 其後(その《のち》)、廿日斗(はつかばかり)、煩(わづらひ)けるが、次第に、快《こころよ》く、何事も、なく、すみけり。

 扨(さて)、件(くだん)の蛇《へび》は、引(ひき)のばし見るに、長(たけ)。七閒半《しちけんはん》[やぶちゃん注:十三・六四メートル。]、有りける。

「か樣《やう》の物《もの》は、さらしたるが、よし。」

とて、大道の脇に、引出(ひきいだ)し、捨(すて)たり。

 其後(その《のち》)、肉も、くさり、いろこ[やぶちゃん注:「鱗」。「うろこ」の中古の古語。]、殘りけるに、其大(その《おほい》)さ、坪皿(つぼさら)のふた程(ほど)なり。[やぶちゃん注:「坪皿」は「膳部に用いる小さくて深い食器・壺の形をした小さな皿」で、この場合は、中国や本邦の古いものではなく、器の直径が十六センチメートルで、高さは七センチメートルものであろう。言っておくが、これは、この大蛇のたった一枚、それも、すっかり干乾びた鱗が、そのサイズであったのだから、恐懼すべき大きさである。]

 是(これ)を、亭主、取置(とりおき)、大いろり[やぶちゃん注:「圍爐裏」。]の內《うち》に立置《たておき》けるが、

「堅き事、石のごとし。いろりのふちに、あて、大火《おほひ》ばしにて、打(うつ)に、少しも、そんじ不申(まうさゞる)。」

由(よし)。

 今に、其民(その《たみ》)、所持致す、とかや。

 是(これ)、日笠甚九郞、咄《はなし》也(なり)。

 

[やぶちゃん注:注も「*」で二分割した。

「八東郡」は現代仮名遣では「はっとうこおり/ぐん」となる。この旧郡は因幡国の東端の内陸にあった郡で、明治一二(一八七九)年に行政区画として発足した当時の八東郡の郡域は、現在の八頭郡(やずぐん)若桜町(わかさちょう)、及び、八頭町(はっとうちょう)の一部(下峰寺・大坪・山田・西御門・上野・隼郡家・見槻中・西谷・志子部・才代・柿原以東)に当たる(リンクはグーグル・マップ)、と当該ウィキにあった。そこにある地図をリンクし、さらに現在の「八頭郡」をグーグル・マップで示しておく。

『長(たけ)六尺餘(あま)り[やぶちゃん注:「六尺」は一・八二メートルであるから、ほぼ二メートルととってよいだろう。]、幅、二、三尺[やぶちゃん注:六十一~九十一センチメートル。]も有るらむ人の足蹟』以上の条件で、GoogleのAI君に質問したところ(太字は私が附した)、『人間の一般的な「歩幅と身長の比率」の基準を当てはめると』、『約百二十一メートル〜百四十七メートルと推定されます』との答えで、更に、『ウォーキングや大股で歩く場合(身長 × 0.45)』では『54.54メートル ÷ 0.45 = 約121.2メートル』とし、さらに『普段通りに歩く場合(身長 × 0.37)』では『54.54メートル ÷ 0.37 = 約147.4メートル』とあり、最後に『このサイズは、アニメ『進撃の巨人』に登場する超大型巨人(60メートル)の約2倍から2.5倍に相当し、日本にある世界最大級の立像「牛久大仏」(全高120メートル)とほぼ同じか、それを超えるほどの圧倒的な巨大さになります。』とあった。若い方には、この最後の方がピンとくるであろう。なお、このあり得ない巨人の足跡は、纏まった考証としては、私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡』が、最も参考になるであろう。第一回は『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 一 巨人來往の衢』であるが、以下、九回まである、長丁場である。時間がある方は、そちらを読まれんことを、お薦めする。

   *

「大きなる銀杏(いてう[やぶちゃん注:ママ。「いちやう」が正しい。後も出るが、注さない。])の木、有り。高さ、廿丈餘(にじふぢやうあま)り[やぶちゃん注:六十・六メートル余り。]」裸子植物上綱イチョウ綱イチョウ目イチョウ科イチョウ属イチョウ Ginkgo biloba であるが、現生種は、この一種のみである。さて、この「廿丈餘り」は誇大に過ぎる。事典・辞書類を見ても、高さを、時に三十メートルで周囲十メートル(平凡社「世界大百科事典」)、高いところでは、当該ウィキで(太字は私が附した)、『大きいものは樹高40–45 m、直径4–5 mに達する』で、以下の「著名なイチョウの木」のうち、最高樹高を示しているのは、『去川のイチョウ(宮崎県宮崎市)』で、『高さ41.0 m、胴回りが10.0 m。島津忠久が』、『源頼朝に島津荘を与えられた時に』、『下向し』、『手づから植えたという伝説があり、樹齢は800年と伝わる』とあるものである。ネット上で高い樹高を持つイチョウを捜すと、国の天然記念物にも指定され、「日本一の大イチョウ」として知られている、青森県深浦町(ふかうらまち)大字北金ケ沢(きたかねがさわ)字塩見形(しおみがた)のイチョウ「北金ケ沢の大銀杏(おおいちょう)」が上がる。当該ウィキに拠れば、当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『樹高は31メートルである。ただし、40メートルとしている資料もある。目通り幹周は22メートルあり、環境省が2001年に実施した巨樹・巨木林調査においてイチョウの中では全国第1位と認定され、日本で最大のイチョウとして知られている。樹齢は1000年以上とされるが、環境省自然環境局は300年以上としている。樹形や樹勢は良好である』とあった。この内、最大樹高を示している四十五メートルであるが、当該個体が指示されていない。北金ケ沢の記載を見れば判る通り、イチョウは真っすぐに伸びる樹木でないところから、正確な樹高を表現出来ないのであろう。それにしても、ここに出る六十六メートルというのは、信じ得るデータが現存しないし、嘗つて、そこにあったと信ずることも、この数値では、肯んじ出来ない。実際に確かにある/この時代にはあったとする信じ得る読者があれば、御教授願いたい。

   *

 さても「大蛇」であるが、先の「佐藤太郞兵衞うわばみを打事」で注した通りで、話で語られるスケールを見るに、私の家の斜面下にも巣くっている、日本本土に於ける最大のヘビである爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ(並蛇)科ナミヘビ亜科ナメラ(滑羅)属アオダイショウ(青大将) Elaphe climacophora でも、通常の成体個体は一~二メートル程度(うちの居候は二メートル強である)で、現在、知られている大型個体でも、二・五~三メートル止まりであるから、誇張も甚だしい。]

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「重都と言盲人の妻、蛇の子を產する事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 重都《しげいち》と言(いふ)盲人《まうじん》の妻《つま》、蛇《へび》の子《こ》を產《さん》する事

 

 元祿年中に、重都と云(いふ)座頭《ざとう》、有り。

 藝も能(よく)、御家中《ごかちゆう》、取(とり)はやし、方々(ほうぼう《→はうばう》)へ行(ゆき)、內福《ないふく》にて、暮(くらし)けり。

 されば、殊外(ことのほか)、はやりければ、晝夜《ちうや》、出行(いでゆき)けり。

 女房《にうばう》は、三十《みそぢ》斗(ばかり)の女《をんな》なり。いつも、獨(ひとり)、留守をして過(すごし)けり。

 いつの頃にか、夢ともなく、十六、七歲斗成(ばかりな)る、みめ能(よき)、けむふく[やぶちゃん注:底本に右傍注して『(元服)』とある。歴史的仮名遣は「げんぷく」でよい。]したる男子、來(きた)り、添伏《そへぶし》して、さまざまと、くどきけれ共(ども)、初(はじめ)の程(ほど)は、女、承引(せういん《→しよういん》)せざりけれ共(ども)、每夜、來(きた)りて、いろいろ、言寄(いひよせ)ければ、女房も、いわき[やぶちゃん注:「岩木」。]ならねば、後《のち》は、ねむごろ[やぶちゃん注:「懇ろ」。歴史的仮名遣の読みは「めもごろ」、及び、後に音変化した「ねんごろ」である。但し、「めむごろ」の表記も、しばしば見かける。「ねむごろ」も違和感はない。]に語らひけり。

 隣《となり》の者、しらざりけり。

 後《のち》には、隣家《りんか》も、こそこそ、さゝやきけるは、

『亭主の音《こゑ》もせざるに、夜更(《よ》ふけ)て咄聲《はなしごゑ》聞(きこへ《→きこえ》)るは、誰《だれ》ぞ、忍(しのび)ものも、有るか。』

と、おもひける所(ところ)、程(ほど)なく、くわひにむ[やぶちゃん注:底本に右傍注して『(懐妊)』とある。「懷妊」は「くわいにん」が正しい。]してけり。

 やうやう、月もみたざるに、りうざん[やぶちゃん注:ママ。「流產」(りうざん)。]しけり。

 座頭は、くわひにむしけるを、悅(よろこび)けるに、力《ちから》を落《おと》しけり。

 其(その)りうざむ[やぶちゃん注:ママ。]のやうす[やぶちゃん注:「樣子」。]を聞(きけ)ば、小盥(こだらひ)に、大《おほ》みゝづ[やぶちゃん注:ママ。「蚯蚓(みみず)」。]のやうなる白き蛇の子を、三ッ程、產《うみ》ける、と、なむ。

 おんみつ[やぶちゃん注:「隱密」。]にしけれ共(ども)、人々、其時分の物語、もつぱら也(なり)。

 其(その)女房は、程(ほど)なく、死《し》しける、と、なむ。

 かやうの事も、有事(ある《こと》)にや。

「彼(かの)忍《しの》びづま[やぶちゃん注:この「つま」は「夫(つま)」である。]は、蛇《へび》なりけり。」

と、なむ。

 

[やぶちゃん注:「重都《しげいち》と言(いふ)盲人《まうじん》」「座頭《ざとう》」所持する平凡社「世界百科事典」第二版の「座頭 ざとう」から引く(コンマは読点に代えた)。『座の頭人の意味で、中世の商業や手工業の座、村落で結成された宮座、芸能の座などの長(おさ)をいう。これらの座頭は、座に加わった年数や年齢によって座役をつとめ、その回数が功労となって座頭となるのが普通である』。『室町時代に盲人の琵琶法師明石覚一によって形成されたと伝える当道座(当道)は、雨夜』『尊』(あまよのみこと)『(仁明天皇の皇子人康親王)を始祖とするという琵琶法師の座であった。座頭は』、『この当道座に設けられた四官(検校(けんぎよう)、別当、勾当(こうとう)、座頭)の最下位。剃髪した僧体の盲人で、その名の上に〈城〉』(じょう)『、あるいは下に〈一〉』(いち)『の字を多く使用し、琵琶を伴奏として《平家物語》や《曾我物語》を語り、ときには早歌や小歌をうたった。こうして平曲』(へいきょく)『が広く貴賤に愛好された室町時代に、都や地方において公家や武家や社寺の酒席や祭礼の場にはべって、あるいは平曲を語り、あるいは遊吟したりした。また、ときには〈勧進平家〉と称して、多くの聴衆を連日あつめて社寺造営などのために勧進興行を行うなど、中世芸能史上に大きな足跡を残した。15世紀中ころ、京都だけで数百人の座頭がいたという記録もあって、彼らの活躍がしのばれる。しかし、中世末から近世に入って、平曲の人気がすたれてくると、琵琶のほかに箏や三味線や胡弓を弾いて浄瑠璃などを語る者が多くなり、さらには音曲をはなれてあんま・はりにたずさわる人も現れて、やがては』、『これらを渡世とする法体の盲人が、座頭の大多数を占めるようになった。江戸時代になって、伊豆円一という人が徳川家康の許可を得て〈当道式目〉を定め、幕府の承認のもと、琵琶法師の保護と統制が強化された。当道座で定めた検校以下の四官は売買の対象となり、芸能や治療を渡世とする彼らのなかに買官による昇進組織がつくられた。座頭になると、紫の菊綴の長絹(ちようけん)に白袴をはき、塗杖を使うことが許され、また庶民の出産、結婚、建築、葬礼、法要など吉凶17種の場合に運上(うんじよう)金を取り立て、幕府から冥加金が与えられた。こうして幕府の保護のもと、当道の四官になると社会的地位も高く、財力も豊かとなり、さらに座頭金(ざとうがね)とよばれた高利貸の営業権が認められ、その貸付金は官金』(かんきん)『と称して他の債務に対して取り立ての優先権が保障された。座頭金は高利と過酷な取り立てで、民衆を苦しめる場合も多かった。この座頭のもつ諸権利は、1871年(明治4)に廃止された』とある。

「元祿年中」一六八八年から一七〇四年まで。徳川綱吉の治世。

「元服」以上の時代設定から、江戸中期で、数えで十五歳から十七歳前後に相当する。前者のそれは武家のもので、この男は満で十六歳前後と判断してよい。

   *

 この蛇云々の悲劇的怪奇的な「オチ」であるが、これは、まず、五百分に一の頻度で起こるとされる異常妊娠の一種「胞状奇胎」であろうと思われる。信頼出来る婦人科サイトのみを、複数、確認したが、さらに、この胞状奇胎の一部の組織が、子宮の筋肉中や血管中へ侵入した状態を「侵入奇胎」と称し、これがさらに癌へと推移し、「絨毛癌」となるケースもある。胎児の形を成しておらず、それが、三つの大きなミミズのような白い蛇の子というのは、バラバラになって変異した胎児の器官が、そのように見えたものであろう。

 問題は、本当に間夫(まぶ)が実際にいたかどうかである。

 初っ端で、『いつの頃にか、夢ともなく、十六、七歲斗成(ばかりな)る、みめ能(よき)、けむふくしたる男子、來(きた)り、添伏《そへぶし》して、さまざまと、くどきけれ共(ども)、初(はじめ)の程(ほど)は、女、承引(せういん《→しよういん》)せざりけれ共(ども)、每夜、來(きた)りて、いろいろ、言寄(いひよせ)ければ、女房も、いわきならねば、後《のち》は、ねむごろに語らひけり。』と言っているが、この部分、どうも時系列が正しいかどうか、甚だ、疑問である。

 そこでは、『夢ともなく』と言っている。これは、どう考えても、「重都」が、女房から聴いた語りであることを、図らずも証明していると言わざるを得ない。「謂いにくいことですけれど、毎夜、見知らぬ若い成人の男が、夢に出るのです。」と彼女自身が漏らしたのである。夫の「重都」は、それを、当然の如く、「悪い夢に過ぎぬよ。」と宥めたのが事実であろう。

 ところが、その話を、彼女が亡くなった後、彼が「女房が、かく、語っておっては、おりましたが。」と、周囲にうっかり語ってしまったのであろう。

 そうした時制列逆転が、この不幸な怪談話に書き換えられたものと私は断ずるものである。

 そして、重要なのは、続く隣人の証言である。

『隣《となり》の者、しらざりけり。後《のち》には、隣家《りんか》も、こそこそ、さゝやきけるは、『亭主の音《こゑ》もせざるに、夜更(《よ》ふけ)て咄聲《はなしごゑ》聞(きこへ)るは、誰《だれ》ぞ、忍(しのび)ものも、有るか。』と、おもひける所(ところ)、程(ほど)なく、くわひにむしてけり。』

 隣人は、一言も、若い男が夫の留守の夜にやって来たことを、全く、知らなかったのであり、程なく懐妊した、と証言しているに過ぎないのである。

 この隣人の証言のうち、「亭主(=「重都」)の声もしない(=亭主は帰っていない)のに、夜更けになって、話し声が聴こえたんじゃ。」と言っているが、この「話し声」は《二人の会話の声》ではないのだ。誰かと話している女房の声だけが聴こえたのである。それを、『誰と話しているんじゃろ? 』と疑問を抱いた、という意味以上ではないのである。

 私の結論を言おう。

 女房には、差別されていた座頭の妻であるという事実が、相応のプレッシャーではあったに違いない。それが、無意識の中で、『普通の、見目好い若者を夫と持っていたなら、妾(わらわ)の生涯も、また、違ったものになっていたかも、知れない。』という想いが膨れ上がり、こうした架空の間夫と交接する『夢』を見ていたに過ぎないのである。話し声? それは、その夢の中で、存在しない若い男と会話をする彼女の寝言だったのだ!

 無論、彼女の懐妊の相手は「重都」であった。

 しかし、以上の異常出産後、程なく、彼女が異常出産、或いは、その後の予後が悪くなって亡くなった事実を、周囲の村人や夫の知人らが、面白おかしく、かく、奇体(発音相似である「奇胎」でもある)な怪奇談へと語り変えてしまった――というのが、不幸な悲しい本話の事実だったのである、と私は思うのである。反論がある方は、何時でも相手になる。]

2026/09/19

上高地を散策してきた――

実は、今週半ば、二泊三日で連れ合いを案内して、四十二年前が最後だった、上高地周辺に行った。

(☆私の登山では、最も過酷だった。友人と二人で北穂高に直登して一泊――小屋仕舞い蚺前日――し、奥穂まで縦走、上高地に下山した。北穂の登りの最後で、人生一度だけの高度障害になって、一足を二、三分もかかり、辛うじて日没を五分前に見れた。)

彼女(両足とも人工関節)を帝国ホテルから明神池まで往復させたが、実に、一日で驚異の二万歩越えを達成し、二人とも、元気に帰宅出来た。

正確には、一日目に上高地に到着、周辺の散策をし、釜トンを戻って、岐阜県高山市奥飛騨温泉郷平湯の深山桜庵(みやまおうあん)に一泊、翌日、上高地に戻り、大正池ホテルから帝国ホテルまで軽く歩いて一泊、翌日、晴れ女である彼女のお蔭で、ロケーションは期待以上の上々であった。

以下、例によって画像は、彼女が撮ったものである。

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河童橋にて
【変顔で河童顔をしてみた。因みに、芥川龍之介には、「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」(サイト版:芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録)があるが、彼は、その後、槍ヶ岳も上高地も、行っていない。未定稿「槍ケ岳に登つた記」もあるが、これは二年後の明治四四(一九一一)年頃(第一高等学校一・二年次)に書かれたもので、前掲の経験に基づく回想文である。さらに、大正九(一九二〇)年七月の『改造』に発表した「槍ケ嶽紀行」があるが、研究者や登山家の間には、芥川龍之介が、この大正九(一九二〇)年の直近に槍ヶ岳に登山していると思い込んでいる方もいるのであるが(そう書かれた学術論文やエッセイが実際にある)、そのような事実は、年譜的事実からも認められず、実は十一年も前の、この時の経験をインスパイアした、確信犯の偽作紀行文なのである。彼の「河童」では、主人公が河童世界へ入り込むのが、上高地とされているけれども(「河童」は多種類の電子化注をサイト及びブログで公開している。サイト版では「河童 附草稿」 / 「芥川龍之介 「河童」 やぶちゃんマニアック 注釈」 / 芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史 / 「芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版)他がある)、龍之介は、以上の三中時代の一回ぽっきりで(私は四回登頂している)、槍ヶ岳も上高地も、その後に来てはいないのである。龍之介に因んでの「河童橋」であるが、正直、芥川龍之介を偏愛する私には、如何にも白々しい気がするのである。】


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「山菜喰い処 よし本」の「大ざるそば」
【二日目の昼食。大きな朴葉二枚に盛られたもの。旨い。お薦め!】

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大正池にて


【大正池ホテル前で降り、帝国ホテルへ行く途中で大正池池畔で。】

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帝国ホテル

【三日目。八時明神池を目指して出発。正面がレストランで、赤い斜面のちょっと上の窓が泊った部屋202。夕食は美味かったが、ワインを含め、バカ高かった。】

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【バスターミナルがある上高地終点への梓川右岸。このコースは殆んど平坦。以下、重い荷物一つを預けて、私のみが必要物を背負い、河童橋を越え、初日に散歩したキャンプ場の終わった上りになるところまで速足で稼ぐ。
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【40分・30分の二回休息で明神池への橋まで到着。連れ合いは植物やキノコが好きなので、それらで疲れを感じない様子だった。】

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【予想より、かなり早く明神池に向かう橋に至る。】

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【足の不自由な彼女が、このコースを四時間強で踏破したのには、内心、かなり驚嘆した。】

*私が指示して彼女が撮った、梓川の左岸、河童橋の少し上の小川の水草が美しい動画が、「X」と「フェイスブック」で見られる。

**「Instagram」では全画像を公開した。

2026/09/14

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「山根氏家にて百物語を興行する事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。冒頭の【 】は、底本では〔 〕でポイント落ちであるが、同ポイントで、私の電子化で使用する【 】に変えた。]

 

     山根氏家《やまねけ》にて百物語《ひやくものがたり》を興行《こうぎやう》する事《こと》

 山根四郞兵衞《やまねしらうひやうゑ》、嫡子《ちやくし》は傳九郞《でんくらう》と言《いふ》【後《のち》は庄右衞門《しやうゑもん》。】、尤(もつとも)、血氣《けつき》强き人なり。

 或時(ある《とき》)、其友(その《とも》)を、三、四人、申合(まうしあはせ)、

「何《なん》ぞ、珍しき事して、老後の咄《はなし》のたねにも、なれかし。」

と申合(まうしあはせ)、

「百物語を興行して見ばや。」

と言(いふ)。

 傳九郞、

「然(しか)るべし。」

とて、

「其催(その《もよほ》し、然(しか)らば、傳九郞宅にて、すべし。」

とて、若き衆《しう》、四人、申合(まうしあはせ)、寄合(よりあひ)ける。

 尤(もつとも)、みつみつ[やぶちゃん注:「密々」。]にしければ、知る人、なし。

 すでに、其日(その《:ひ》)になれば、

「例(れいの)咄候(はなしさうらふ)やう。」

にて、暮《くれ》過(すぎ)て、四人、來《きた》り、八疊の座敷、次の閒《ま》、六疊、有り。上の閒の床《とこ》に、行燈(あんどん)を置《おき》て、とうしむ[やぶちゃん注:「燈芯(とうしん)」。後でも出るが、そこでは注しない。]、百筋(ひやくすぢ)、入(いれ)、上に、おふひ[やぶちゃん注:「覆(おほひ)。」が正しい。]をかけ、

「幸(さひはひ)、今夕(こんせき)、やみなり。さらば、咄《はな》し、初(はじ)む。」

と、其閒(その《あひだ》)に有る「祈禱札(きとふ《→きたう》《ふだ》)」をとりて、亭主共(《ていしゆ》ども《→とも》)に、五人、次の閒に寄合(よりあひ)、壹人《ひとり》づゝ、上の閒に入(いり)、床の前にて、何ぞ、けう[やぶちゃん注:「稀有」。]成(なる)物語して、とうしむを、一つ、けし、かわるがわる[やぶちゃん注:ママ。「かはるがはる」。]、かくのごとくして、隨分、靜(しづか)にして、なみ居《をり》しに、夜四つ時分過《すぎ》て、其連中の內《うち》、宿《やど》より、人、來(きた)り、

「病人、有り。早々《さうさう》、歸り候(さうらう)やうに。」

申來(まうしきた)りぬ。

 壹人も、ふけう[やぶちゃん注:「不興」。「ふきよう」でよい。]にして、途中に、行《ゆき》、歸《かへ》りぬ。

 然(しから)ば、連中、壹人《ひとり》、不足なれば、

「いかゞすべし。」

と言(いふ)。

 傳九郞、言(いふ)は、

「我(わが)若黨(わかたう)を、壹人《ひとり》、入りべし[やぶちゃん注:この「り」は「る」が正しいが、「り」と「る」の崩し字は、よく似ているものがあるから、誤判読と思われる。]。」

と云(いふ)。

「然(しか)るべし。」

とて、呼出《よびいだ》し、くわへ[やぶちゃん注:ママ。「くはへ」が正しい。]けり。

扨(さて)、五人、終夜(よもすがら)、物語して、百筋《ひやくすぢ》のとうしむも、濟《すみ》ければ、其所(その《ところ》)[やぶちゃん注:百物語に使用した二部屋を指す。]を、しまひ、人々、暇乞(いとまごひ)して、歸りぬ。

 扨(さて)、亭主も通夜(つや)しければ、殊(こと)なふ[やぶちゃん注:「殊(こと)なく」と同義。「なふ」は「ず」の上代東国方言として存在する。]、ねふく[やぶちゃん注:「眠(ねぶ)く」。]部屋に入(いり)、休(やすみ)ける。

 然(しか)るに、親父(おやぢ)、四郞兵衞、朝、とく、おきて、裏庭に出(いで)て、さゑむ[やぶちゃん注:「さゑん」で「茶園」を指す。]を見るに、常々(つえづね)、調法《てうはふ》[やぶちゃん注:便利で都合がよいと思って使うこと。]の物にて、かりにも、出《いだ》し置《おき》ぬ手道具、樣々《さまざま》の物、みなみな、取出《とりいだ》し、庭中《にはぢゆう》に、つみて、あり。

 四郞兵衞、大(おほき)に驚きて、

「是(これ)は。盜人《ぬすびと》のわざなるべし。」

とて、傳九郞、幷(ならび)に、家臣・若黨を呼集《。よびあつ》めて、せむさく[やぶちゃん注:「詮索(せんさく)」。]するに、しれず。

 先(まづ)、道具、取入(とりいれ)、改見(あらためみ)るに、ふむしつ[やぶちゃん注:「紛失(ふんしつ)。」]も、なし。

 ふしむ[やぶちゃん注:「不審(ふしん)」。]ながら、其通(その《とほ》)りにて、止(やみ)ぬ。

 是(これ)、百物語の印(しるし)なり。

 傳九郞は、心に、あたりけれ共(ども)、四郞兵衞へ、ふかく、かくしければ、沙汰、なし。

 其後(その《ご》)に、傳九郞、物語也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「山根氏家」「山根四郞兵衞」既に使用した鳥取藩の家士のリスト(鳥取図書館作成)に『山根四郎兵衛家譜』と載り、作成年代は『寛文10』(一六七一)『年-享和3』(一八〇三)『年』とあった。

「百物語」私の記事では、実に五百件以上が引っ掛かる。特にそれについて、民俗学的に語りたいという熱意は、殆んど、ない。されば、当該ウィキをリンクするだけに留める。]

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「市川氏、夜獵に出て妖怪に逢ふ事 市川宗佐家」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。なお、本篇も、前話と同様、「宗榮」の話したものであるが、筆者が、メインは話者の直接話法で統一するべき箇所を、宗榮の第一人称を、「宗榮」に書き換えてしまっているため、現在の文章作法から見ると、かなりギクシャクしている。仕方がないので、同じく、そのままにした。]

 

 市川氏《いちかはし》、夜獵《よかり》に出《いで》て妖怪《やうくわい》に逢《あ》ふ事 市川宗佐家《いちかはそうさけ》

 

 市川宗榮《いちかはそうゑい》、老母《らうぼ》、大切に煩(わずらひ)けり[やぶちゃん注:この「大切」は、通常の使い方ではなく、病気が「緊急を要すること・さし迫っていること・油断してはいられない状態であること」を言う。]。

 老人の事なれば、近類《きんるゐ》、集(あつま)り、夜《よる》は、伽(とぎ)をして居(をり)たり[やぶちゃん注:この場合の「伽(とぎ)」は、老母が、病気の痛みのため、或いは、病いが気になって、じっくりと眠ることが困難なため、複数の人が、いろいろな話をしては、それを紛らせるために夜話しをしているのである。]。

 伽(とぎ)の人々に、宗榮、咄(はなし)しけるは、

「我(われ)、若き時、夜獵、はやり、我(われ)も好(この)ければ、每度《まいど》、出行(いでゆき)たり。

 或時(ある《とき》)、二月の末《すゑ》、夜四《よるよ》つ時《どき》[やぶちゃん注:不定時法であるので、凡そ午後九時半から十時前頃に相当する。]過《すぎ》て、犬壹疋(いつぴき)、引(ひき)て、百谷《ももだに》の方《かた》へ、行(ゆき)けり。

 二里斗(ばかり)、行(ゆき)て、月も出(いで)ければ、方々(ほうぼう《→はうばう》)、𢌞《まは》りけれども、獵も、なし。

 月しろ[やぶちゃん注:「月白・月代」。月が出ようとする時、東の空が白く明るく見えてくることを指す。]を見れば、八《や》つ時過(《どき》すぎ)[やぶちゃん注:これは、「月白」を見ての、定時法で述べていると思われるので、午前三時過ぎであろう。]、

『大かた、七つ前か。』[やぶちゃん注:同前の定時法で午前四時前と採る。]

と覺へ[やぶちゃん注:ママ。「覺え」。]、

『もはや、今夜は、仕合惡(しあはせあ)しく、得物《えもの》も、なし。歸らむ。』

と思ひ、犬を、つれ、瀧山《たきやま》の小坂《こさか》にかゝりけるに、見なれぬ小家(こや)、一軒、有り。

 やうやう、近付(ちかづき)、まどの內《うち》を見れば、七十《しちじふ》斗(ばかり)の老女、いろりに、火を、たきて、有り。

 さらば、

『たばこ、付(つけ)[やぶちゃん注:火を「點(つ)け」させて貰い。]、休まばや。』

と思ひ、犬をば、木立《こだち》に、つなぎ、內《うち》にいらむとせしが、思ふやう、

『此所(この《ところ》)は、近き頃も通りけるに、人家は、なし。然(しか)るに、近き頃、しつらひけるよ。』

と、おとなひして、戶を明(あけ)て、內に入(いる)に、老女は、ひざを、あぶりていたり[やぶちゃん注:ママ。「ゐたり」。]。

 宗榮、云やう、

「夜更(《よ》ふけ)、殊(こと)なふ[やぶちゃん注:ママ。「なう」。]、さむく、火を壹(ひと)つ。」

と申(まうし)ける。

 老女、いらゑ[やぶちゃん注:ママ。「答(いらひ)」。返事。]もせず、いろりのたきさしを、出《いだ》したり。

 宗榮、腰、打懸(うつかけ)て、たばこを、すい付(つけ)[やぶちゃん注:「吸ひつけ」。]、あたりを見れば、はなはた[やぶちゃん注:ママ。「甚(はなは)だ」。]、せまく、筵(むしろ)、二、三枚、敷程(しくほど)なり。

 宗榮、申(まうし)けるは、

「其方(そのほう[やぶちゃん注:ママ。「そのはう」。])、壹人《ひとり》、住(すむ)か。子共(こども)、有《ある》かや。』

と。

 ばゞ、曰(いはく)、

「子は、なし。ぢい、有り。とつとり[やぶちゃん注:「鳥取」。]へ行(ゆき)て、未(いまだ)、歸らず。追付(おつゝけ)、歸るべし。」

と言(いふ)。

 其時、いろりの明(あか)りにて、老女が顏を、よくよく、見れば、氣(け)しからぬつらつき[やぶちゃん注:「面付き」。]也。

 目は、大《おほき》にして、口、廣く、さけ、色の有(ある)事、言斗(いふばかり)なし[やぶちゃん注:口の左右が、大きく裂けており、口唇全体が、毒々しい(恐らく「赤い」)色をなし、その異形(いぎょう)さたるや、言うべくもない。]

 宗榮を見て、

「にこにこ」

笑(わらひ)けり。

『扨々(さてさて)、けう[やぶちゃん注:「稀有」。]なるやつかな。もし、取かゝりなば、切らむ。』

と思ひ、刀の柄《つか》に、手をかけ、ためらふ[やぶちゃん注:この場合は「様子を窺う・よくよく様子を注視する」の意である。]に、外《そと》より、人の足おと、して、

「ばゞ、歸りたり。」

とて、戶を、

「そろそろ」

と明《あく》る。

 ばゞは、

「おつ。」

と、答へて、立上(たちあが)ると思へば、我(われ)[やぶちゃん注:宗榮自身。]は、其まゝ、氣絕して、前後不覺也(なり)。

 おくしたりや[やぶちゃん注:「臆(おく)したりや」。普通は「気後(きおく)れしたものか」で、「相手の勢いや、その場の雰囲気などに押されて、すっかり呑(の)まれてしまい、心が、怯(ひる)んでしまったものか?」という意味であるが、ここは、それを突き抜けてしまって、「それに呑まれたままに、気絶してしまったものか?」という謂いとなっている。]、しばらく有つて、正氣付(《しやうき》づき)、あたりを見れば、人家《じんか》も、なし。

 犬は、能《よく》、寐伏(ねふし)たり。

 はや、夜明(よあけ)がたにて、東の方、しらみたり。

 所《ところ》は、いづく共《とも》、しれがたし。

 夜明《よあけ》て、よくよく見れば、奧谷一ノ宮の上に、古き墓所(はかしよ)、有り。

 此所(この《ところ》)に居(をり)たり。

 瀧山の邊《あたり》と思ひしが、大(おほひ)に違(ちがふ)なり。

 しばし、思案すれ共(ども)、すべきやう、なし。

 犬を引(ひき)、やうやう、歸りたり。

 此事(この《こと》)、今迄(《いま》まで)は、口外《こうがい》する事、なし。

 若き衆《しゆ》は、兼(かね)て、心得給へ。」

 と、咄《はな》しなり。

 

[やぶちゃん注:「市川氏《いちかはし》」「市川宗佐家《いちかはそうさけ》」「市川宗榮《いちかはそうゑい》」昨日来、これらの「市川氏」「市川宗佐家」「市川宗栄」に「因幡」「鳥取藩」「藩士」「医者」「茶人」を組み合わせて何回もブログや国立国会図書館デジタルコレクションで検索を掛けたが、まず、既に使用した鳥取藩の家士のリスト(鳥取図書館作成)には「市川」姓のものは皆無であった。従って、正規の藩士ではあり得ない。「市川宗榮]という名は、何となく医者が名乗りそうな感じはした(老母に医者を招くことをしないのは、彼自身が医者だからという気もしないではなかった)が、そのような医師が同藩にいた痕跡は全く見当たらなかった。「市川宗佐家」という字面(じづら)を眺めていると、茶道との関係を感じはした。AIも、そういう人物が鳥取藩にいたと断定したが、実際に添えてある茶道関係のサイトを幾ら調べても、それを立証する記載は、遂に、全くなかった。さらに言えば、若い時と限定しているが、茶人・医師が「夜獵」に入れ込むというのは、そもそも、私には強い違和感があった。結局、不詳とするしかなかった。万一、御存知の方があれば、切に御教授願いたい。

「百谷《ももだに》」鳥取城の東北東の奥の、現在の鳥取市百谷(グーグル・マップ航空写真)。

「二里ばかり」約七・八五キロメートル前後。宗榮の屋敷が城下の中央辺りであったと、一応、仮定すると、今までの多くあった夜猟のコースを参考に、現在の鳥取城跡と、鳥取東照宮の間の尾根を直登するものと仮定すると、百谷の中央位置までが、四キロ半か五キロほどにはなろうと推定出来ると思う。そこから、さらに、左右の百谷を盛んに跋渉したとすれば、この数値に違和感はない。なお、「百谷」に向かうには、反時計回りで、現在の立川町を経て、山陰道(現在の山陰本線が並行して走る)がある山裾を回って、北西に入って行くことも可能だが、これでは、その大半が平地を移動するので、凡そ「夜獵」と言うには恥ずかしいことと、私は思う。

「瀧山《たきやま》」「ひなたGIS」の戦前の地図で中心に置いた。現行の表記は「滝山」であるが、戦前の地図では「瀧山」である。ここは、前注で言ったアウトなコースであるが、そもそも、「夜獵」を始めて、実に深夜五時間半を費やして、一つの獲物も獲れなかった大失策であった以上、「獵」を止めて帰宅するのであるから、この楽なショート・カット・ルートを採って帰るのは、何ら不思議ではない。私も、そうするであろう。また、この宗榮が、当時、何の仕事に従事していたか判らぬが、藩士・医師あたりだったとして、江戸時代の彼らの勤務時間開始は「明け六つ」=午前五時半から六時半頃には、職場に出仕て居なくてならない。彼は猟を諦めたのが『七つ前』と推定し、私は午前四時前と示した。もう、屋敷に帰らねばならない、余裕を持った時刻として納得出来るのである。

「瀧山《たきやま》の小坂《こさか》にかゝりけるに、見なれぬ小家(こや)、一軒、有り。」この位置を推論してみたい。「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、百谷から真っすぐに下る山道は、ない。とすれば、「百谷」から西にある山道を下り、本陣山のすぐ下を辿ると、山道が十字に交差している。ここを南に下って、中央辺りで東南に下がってゆくと、ごく短く道が無くなるものの、直ぐ下に寺の記号「卍」があり、そこから階段らしきものが見え、完全に降りると「瀧山」の地名のすぐ脇に出られる。これが、彼が下ったルートであったと私は思う。而して、老女がいる「小家(こや)」は、以上からは、地名「小西谷」(「こざい」と読む)の打たれた辺りであったろうと推定する(但し、続く文章では、全く異なる場所にワープしてしまっているのだが⋯⋯しかし、これは、これで、ラビリンス怪奇談として極めて面白いのである。

「奧谷一ノ宮の上に、古き墓所(はかしよ)、有り。」これは、今まで、出てきていない、因幡国一の宮である宇倍神社である。地名が総て見られる「GIS」で示した。いたはずの「瀧山」は中央「+」の少し上、正気に戻ったのは、「宇倍神社」はその対称位置の南側であり、両地は、凡そ二キロ四百メートルほど離れている。因みに、時間的には、宗榮、出仕には間に合ったことであろう。]

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「岡村氏飼ける猫、ねこまたに成ける事 岡村作左衞門家」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。なお、本篇は、「自溫」の話したものであるが、筆者が、メインは話者の直接話法で統一するべき箇所を、自溫の第一人称を、「自溫」に書き換えてしまっているため、現在の文章作法から見ると、かなりギクシャクしている。仕方がないので、そのままにした。]

 

 岡村氏《をかむらし》飼(かひ)ける猫《ねこ》、ねこまたに成(なり)ける事 岡村作左衞門家《をかむらさくざゑもんけ》

 

 岡村自溫《をかむらじをん》、咄(はなし)けるは、

 我が方に、年久敷(としひさしく)飼《かひ》ける猫、有り。

 夏の事にて、居閒《ゐま》の掾はな[やぶちゃん注:「緣(ゑん)はな」=「緣端(ゑんばな)」の誤記。]に晝寐《ひるね》して居(をり)たり。

 自溫も、折(をり)ふし、座敷に休居(やすみをり)たり。

 そろそろ、ねむけ付(つき)、ねむらむとすれば、何やら、胸を、おそう[やぶちゃん注:「襲う」。正しくは「おそふ」。]やうに覺《おぼ》へ、ふと、目を、さまし、半眼(はんがん)にて、あたりを見れば、何も、なし。

 飼(かひ)ける猫斗也(ばかりなり)。

 しかし、猫、けしき、替(かは)りけれ共(ども)、手なれし猫なれば、何共(なんとも)、氣付(きづか)ず。

 又、とろとろと、寐入(ねいり)ける所に、ききかに[やぶちゃん注:ママ。底本も右傍注で『ママ』とする。恐らく「にはかに」のくずし字の誤判読である。「に」「は」のくずし字は、ひどい書き方だと、孰れも「き」に見えてしまうからである。]、驚(おどろき)、目覺《めざめ》、見《み》れば、くたむ[やぶちゃん注:ママ。「くだん」=「件」である。]の猫、自溫胸に[やぶちゃん注:ママ。「自溫の」の助詞の脱字。]飛付(とびつき)、唯々(たゞたゞ)、ひつかむ[やぶちゃん注:「引(ひ)つ嚙(か)む」。意味は判るが、「引つ搔む」ならいいが、この二つ動詞の組み合わせは、一般的成語表現としては強い違和感がある。]とせしを、側(かたはら)なる脇指(わきざし)を、ぬき、

『切(き)らむ。』

とせしに、其(その)まゝ、飛上《とびあが》り、何方(いづかた)とも、行衞(ゆくゑ)[やぶちゃん注:「行方(ゆくへ)」の「方」に「衛」を当てたもの。しかし、これは当て字の慣用語表現であるから、厳密には「ゆくへ」でないと正しくない。]しれず、逃失候(にげうせさうらふ)。其後(その《のち》)、近邊に、つひに、見へず。

 其(その)翌年、病家《びやうけ》へ出(いで)て、序(ついで)に、心安き後家中(ごか《ちゆう》)へ、見舞(みまひ)申(まうし)けるに[やぶちゃん注:ママ。この「後家中」の部分は「御家中」の誤記か、誤判読であろう。まず、「昵懇の病人のいる家へ見舞いに行き」、而して、「そのついでに、心安く付き合っている御家中のある方の屋敷に、ご挨拶申し上げたところが」であろう。]、掾先[やぶちゃん注:誤字。「緣先」。]に、大(おほ)き成(な)る猫、打(うち)ころし、繩にて、くゝりて、有り。

 亭主に尋(たづね)ければ、

「夜前《やぜん》[やぶちゃん注:前日の夜。「昨夜(よべ)」。]、此(この)猫、犬をば、喰(くひ)ころしたれ共(ども)、打《うち》ころしたり。」[やぶちゃん注:「共(ども)」は、甚だ、違和感のある用法である。思うに、ここは、筆者が、本文では「ば」と書いたものを、後から、読みを附す際に、崩し字の「ば」を、自ら「共」のそれと見誤って「ども」とやらかしたとしか、私には、思えない。]

と言《いふ》。

 自溫、立寄(たちより)、能々(よくよく)見れば、毛色、まがふ所なく、自溫、飼居(かひをり)たる猫也。

 前年の事共(ことども)、咄《はなし》しける、と、なむ。

 

[やぶちゃん注:「岡村作左衞門家《をかむらさくざゑもんけ》」「岡村自溫《をかむらじをん》」十一年前から、注で御世話になっている、ご夫婦で作成されておられるサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「岩崎神社」の「岩崎神社」(いわさきじんじゃ:鳥取市南隈(みなみなぐま)のここ:グーグル・マップ)に(太字・下線は私が附した)、『御祭神:少名彦名命』とし、『由緒:この社は寛文9年(1670)』、『旧鳥取藩主池田光仲公の医臣岡村自温の南隈給所[やぶちゃん注:「きゅうしょ」「給地」に同じ。]に医薬の祖神少名彦名命を京都五條の天神の宮から勧請し、南隈村の氏神としてお祀りしたと伝えられ今に崇敬されています』。『医臣岡村自温は』、『京都の故事に習って、毎年大晦には氏子中に薬草(オケラ)を配り、村人は元日に』、『この薬草を焚燻』(ふんくん)『し、身体壮健と無病息災を祈念したといわれています。この薬草は境内外に植樹され、近郊の人々にも配布されたことが、天和3年(1683)に小泉友賢の著した「岩崎神社縁記」に記され、医薬の神として崇められてきました。』とあった。]

2026/09/13

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「石河又太夫、猫またを半弓にて殺す事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 石河又太夫《いしかはまただいふ》、猫またを半弓(はんきゆう)にて殺す事

 

 昔、石河又太夫と言(いふ)人、有り。

 是(これ)も[やぶちゃん注:前の話を受けている。]夜獵《よかり》を好(このみ)けるが、或夜(ある《よ》)、上野山《うへのやま》を缺廻(かけめぐ)りけるに、得(え)ものもなく、犬を引(ひき)、國府一ノ宮の山へ上り、たばこなど、すひ付居(つきをり)たるに、又太夫、老母の聲にて、

「又太夫。」

を、二聲、三聲、呼音(よぶ《こゑ》)、聞(きこ)ゆ。

『不思議なる事哉(かな)。夜中といひ、更(ふけ)て、老母、是迄(こゝまで)來《きた》るべき事なし。是(これ)、狐狸(こり)の所爲(しよゐ)なるべし。』

と思ひ、木陰《こかげ》、くゞり、

『其所(その《ところ》)。』

と、思ひし所、ねらひ寄(より)、雲すき[やぶちゃん注:「雲」の「𨻶」。]に、うかゞひ見しに、まがふ所もなき、老母なり。

 然共(しかれども)、

『妖(ばけ)ものに、違《たが/ちが》ひ、なし。』

と、例《れい》も[やぶちゃん注:この「も」は「の」の誤判読と採る。二字の崩し字は、よく似ているからである。]所致[やぶちゃん注:この「致」も「持」の御判読である。やは二つの字の崩しは、よく似ている。なお、底本でも右傍注して『(持カ)』とある。]しける半弓(はんきゆう)、腰より、取出《とりいだ》し、能(よく)引(ひき)て、放《はな》しけるに、手ごたへして、あたりけるにや、

「あつ。」

といふ聲、聞(きこ)へ[やぶちゃん注:ママ。]て、笹原、

「かさかさ」

と、はしる音、聞ゆ。

 又太夫、飛《とび》かゝり、件(くだん)の所を見るに、何も、おらず。

 やうやう、夜明(よあけ)にて、其所(その《ところ》)を見𢌞(みまは)すに、血、ながれて、引(ひき)たり。

『すはや。』

と、思ひ、のり[やぶちゃん注:「血糊(ちのり)」。]を、したひみるに、大道《おほみち》の方《はう》へ、のり、引《ひき》たり。

 夜《よ》、明ければ、跡を、したひ、みるに、卯垣茶屋《ばうがきちやや》[やぶちゃん注:読みは、後注参照。]を過ぎ、矢津の橋迄(まで)、つゞきたり。

 夫(それ)より、町口《まちぐち》にかゝり、我が門前に引(ひき)たりければ、又太夫も、きもを、けし、

「萬一、老母なれば、是非、なし。自《じ》がひ[やぶちゃん注:ママ。「自害(じがい)」。]する迄。」

とて、內《うち》に入(いり)、臺所にて、樣子を、うかゞひ、人を、呼出《よびいだ》し、

「歸りたり。」

と。

 先(まづ)、

「留守、替(かは)る事、なきや。老母は、いかに。」

と尋《たづぬ》るに、下女、申《まうし》けるは、

「只今(たゞいま)、御部屋より、奧へ御出被成(おいでなさる)。」

と申(まうす)。

 先(まづ)、替(かは)る事、なく、案心(あんしん)いたし、扨(さて)、のりの引(ひき)たる蹟(あと)を見るに、上《あが》り口《ぐち》のゑむの下[やぶちゃん注:ママ。「緣《ゑん》の下」。]へ、つゞきたる、のり、有(あり)。

 疊《たたみ》を、はぐり、せんさくするに、老母の部屋と、物置との閒《あひだ》に、日頃、飼(かひ)ける年經《としへ》し大猫《おほねこ》、弓半[やぶちゃん注:ママ。「半弓」の誤字。]の矢に、あたり、死(しに)いたり。

 其色は、はひ毛色《げいろ》なり、とかや。

 是、『猫又(ねこまた)』と言(いふ)物成(なる)べし。

 

[やぶちゃん注:「石河又太夫」前話と同じく鳥取県立博物館所蔵の「鳥取藩政資料(藩士家譜)」の目録中に、寛永三(一六二六)年から享和三(一八〇三)年に至る『石河又太夫家譜』(藩士家譜)があるのを確認した。有力な当主であったことが判る。

「上野山《うへのやま》」鳥取県鳥取市福部町(ふくべちょう)久志羅(くじら)に「上野神社 本殿」がある。ここ(グーグル・マップ航空写真)。

「國府一ノ宮の山」これは、鳥取市国府町宮下にある國府神社であろう(同前)。前の上野神社の本殿から國府神社は、直線で約三キロメートルであるが、山を越えるルートであるから、ここへ至るには、実測では、かなりの距離がある。但し、本文では「國府一ノ宮の山」と言っているから、せいぜい山路で二キロメートルか。そもそも、「上野山」から石河又太夫が自分の屋敷(後注参照)に帰るためには、この國府神社に下(くだ)るのが、地図上で、最短距離であるから、違和感は、全く、ないのである。

「半弓(はんきゆう)」通常の弓の半分ほどの長さの弓。座ったままで射ることが出来るもので、射程距離は短くなるが、山での猟にあっては、対象の獲物は距離を置かないし、何より携帯するに、遥かに使い勝手がよいのである。

腰より、取出《とりいだ》し、能(よく)引(ひき)て、放《はな》しけるに、手ごたへして、あたりけるにや、

「すはや。」感動詞(感動詞「すは」に感動を示す間投助詞「や」の付いた)で、急の出来事に驚いた時などに発する「それ!」「あっ!」「すわ!」相当。

「大道《おほみち》」獣道(けものみち)、或いは、山越えの踏み分け道ではなく、よりしっかりと人工的にしっかり踏まれた幅のある山道(この場合は下り道)で、町屋に向かって続くものを指す。

「卯垣茶屋《ばうがきちやや》」平凡社「日本歴史地名大系」の「卯垣村 ぼうがきむら」に(太字は私が附した)、『鳥取県』『鳥取市旧法美郡地区卯垣村』で、『現在地名』は『鳥取市卯垣』(ぼうがき)『・卯垣一―五丁目・立川町(たちかわちょう)六―七丁目』とある。(グーグル・マップでは、鳥取市卯垣は、ここで、「立川町」はここ)。『矢津(やづ)村の南東、立川村の北東に位置する。法美往来』(ほうみおうらい:同大系の当該解説に『鳥取城下から』、『ほぼ袋(ふくろ)川に沿って通り、大茅(おおかや)山北東の十王(じゅうおう)峠を経て』、『岩井(いわい)郡蒲生(がもう)村(現岩美町)へ至る道』とある)『が通る。尺(しゃく)山の南西の狭間(はざま)にある古苗代(こなわしろ)と称される五畝(ほ)ほどの半月形の田地は、稲葉大明神が稲苗を植えた地で、因幡の国名の起源となったと伝える(岩美郡史)。永禄六年(一五六三)一二月一一日の山名豊数宛行状(譜録)によれば「法美郡之内坊垣百石」が秋里与四郎に与えられている。藩政期の拝領高は四六八石余、本免は五ツ五分。藪役銀七匁余・宇倍野山役米三斗余を課されており(藩史)、大場氏・吉田氏・野崎氏・藤田氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば』、『家数二一で、出茶屋が八軒あり、川苔を産した。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高四八七石余、竈数二七(うち家中四)、ほかに山奉行一。城下近郊のため』、『城下とのかかわりが多くみられ、享保三年(一七一八)滝山(たきやま)村在住の木戸十右衛門が武芸教授のため』、『当村に稽古場と屋敷地拝領を願』い『出ているのをはじめ、明和三年(一七六六)には高田平治郎が村内の七反の畑を拝領している(在方諸事控)。』とある。

「矢津の橋」「殿ダム・袋川流域風土記」(出版者明記無し《恐らくは公的機関》・発行日2012年3月15日)に、『袋川』の項に、『雨滝川 雨滝より国府町谷までの、現在の袋川上流は雨滝川と呼ばれている。国府川 雨滝川より下流で天神川と合流する矢津(現・立川町)辺りまでの、現在の袋川中流部分の別称。因幡川ともいう。』とあった。前の注で示したマップを確認されたい。

「町口《まちぐち》」鳥取の町場の入り口。普通名詞。

「我が門前」石川又丈夫の屋敷は、相応な長年の藩士であると推定されるから、鳥取城下で、しかも、鳥取城からは、そう離れていない場所でなくてはならない。そして、以上の注の書諸記載から、重要なヒントは前の注の終りの、現在の袋川中流の、恐らくは、城側に近い右岸にあったのではないか、と推理する。「ひなたGIS」を見ると、戦前の地図では、込み入った地区は、立川町より北であるから、この中心部辺りのどこかであろうと思われる。ここは、初めに措定した「鳥取東照宮」(戦前の地図では「樗溪神社」である)が東直近となる。異論があれば、何時でも議論する所存である。

「萬一、老母なれば、是非、なし。自《じ》がひする迄。」母を射たとなれば、母殺し、或いは、その未遂となるから、藩主は許さない。されば、藩士として切腹以外の選択肢はないのである。

「猫又(ねこまた)」私の記事では、二十数記事もある。中でも、かなり本格的なケースで、相応に注も、よく記した部類の一つとして、『「想山著聞奇集 卷の五」 「猫俣、老婆に化居たる事」』をリンクさせて終りとする。]

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「安倍氏、宮內の山にて妖怪逢事 安倍甚兵衞家」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 安倍氏《あべし》、宮內《みやうち》の山にて妖怪《やうくわい》逢(あふ)事 安倍甚兵衞家《あべじんべゑけ》

 

 光仲公《みつなかこう》御代(みよ)、安倍某《なにがし》、若(わかき)時分、夜獵《よかり》を好(このみ)けるが、或夜(ある《よ》)、御本陣山《ごほんじんやま》へ行(ゆき)、夜獵し、宮內の山、惣門《そうもん》の上《うへ》迄(まで)、出來(いできた)り。

 興禪寺上《こうぜんじうへ》、懸《かけ》て、犬、貳疋(にひき)つれ、若黨(わかたう)貳人、主從《しゆじゆう》三人、夜九つ時分過(すぎ)、山狩《やまりやう》し、宮內の上にて、犬、すゝまず。

 貳疋(にひき)共(とも)、足元へ、かゝみ[やぶちゃん注:「屈(かが)み」。]ければ、ふしぎに思ひ、しばらく、近邊《きんぺん》をすかし見るに、晴夜《せいや》にて、風も吹(ふか)ず。

 しかるに、甚兵衞、頭《かしら》より、二、三閒《げん》上《うへ》、まつ黑になる門《もん》の戶《と》のやうなる、つと、通り行過《ゆきすぎ》て、しはがれ聲《ごゑ》にて、

「何《なん》とすべし。」

と、言(いふ)。

 又(また)、こくう[やぶちゃん注:「虛空」。]にて、申(まうす)やう、

「氣强《きづよ》し。氣强し。」

と、二聲《ふたごゑ》、言(いふ)音、聞(きこ)ゆ。

 甚兵衞、

『すはや。』

と思ひ、刀《かたな》の柄手《つかで》を懸《かけ》みるに、腕、すくみ、刀、貫(ぬけ)ず。

「こは、無念。」

と、きば、かみけれ共(ども)、身、すくみて、力、出《いで》ず。

 すべきやうなく、若黨(わかたう)を呼(よぶ)に、二人の若黨(わかたう)も、やうやうと、來(きた)り。

 尋(たづぬ)るに、二人の者共(ども)も、甚兵衞、同事《おなじこと》にて、

「身、すくみ、力《ちから》、出《いで》ず。」

と、答ふ。

「不思議の事なり。」

とて、其夜(その《よ》)は、歸りぬ。

「思ふに、山神《やまがみ》の所爲(しよゐ)か、天狗の所行(しよぎやう)か。」

と申(まうし)けり。

 

[やぶちゃん注:「安倍氏《あべし》」「安倍甚兵衞家《あべじんべゑけ》」鳥取県立博物館所蔵の「鳥取藩政資料(藩士家譜)」の目録中(PDF)に、寛永三(一六二六)年から享和三(一八〇三)年に至る『安倍甚兵衛家譜』(藩士家譜)があるのを確認した。有力な当主であったことが判る。

「宮內《みやうち》の山」この名の山を鳥取城近辺には見当たらないが、本文注の「御本陣山《ごほんじんやま》」というのは、鳥取城跡の東北東の後背にある「本陣山」で、ここである(グーグル・マップ航空写真):中央に鳥取城を配した)。而して、その地図の鳥取城の近く南東南の位置に「鳥取東照宮」があり、ここは、まさに鳥取藩初代藩主池田光仲によって造営されている。慶安三(一六五〇年)年に「因幡東照宮」は完成している(明治七(一八七四)年)から平成二三(二〇一一)年までは「樗谿(おうちだに)神社」と称していたが、同二〇一一年に本来の神社名を鑑み、「鳥取東照宮」に改称している)。さて、現在の「本陣山」から、安倍某が、さらに北に向かい、直ぐに、西北西の鳥取東照宮の後背の山筯(グーグル・マップ航空写真)へと下ったとすることは、極めて自然である。而して、この「宮內の山」とは「因幡東照宮の内の山」で、ここ(グーグル・マップ航空写真:前より南方向にずらした)であると採って、何ら問題ないと思われる。

「光仲公《みつなかこう》御代(みよ)」先行する「高住善源寺、椿相と言僧死靈の事」で詳細に既出既注。

「惣門《そうもん》」ここは鳥取城の外郭にある大門・正門で、江戸時代には、最も重要な街道筋には「惣門」が置かれ、そこにある「改め番所」で往来を監察していた。調べたところ、これは、恐らく、鳥取城の郭内九つの惣門の一つであった「江崎下の惣門」であろうと推定した。ここは、現在の県庁第二庁舎と県立図書館の間に位置していた(「コトバンク」の平凡社「日本歴史地名大系」の「江崎下の惣門」で確認した)。市役所南西側にあった。ここは以下の「興禪寺」(これも、「高住善源寺、椿相と言僧死靈の事」で詳細に既出既注である。)の手前に当たる。「グーグル・マップ航空写真」を見られれば、以上の私のルート推定が、いやさかに堅固となってくるのが御理解戴けるものと思う。

「若黨(わかたう)」武士の身近(みじか)に仕える若い侍。

「夜九つ時分過(すぎ)」季節が示されていないが、これは、不定時法でも同じで、「夜九つ」は午前零時であるから、それを過ぎた頃。

「二、三閒《げん》」三・六~五・五メートル。

「まつ黑になる門《もん》の戶《と》のやうなる」老婆心乍ら、間違ってはいけない。これは、何らかの実際の大きな観音開きの扉を持つ黒門を指しているのではない。そもそも、山の中に、突如、出現した怪しい、それ、なのである。

「つと」副詞で、この場合は、「ふと・急に」の意。

「何《なん》とすべし。」「何をしておるのじゃ!」。声は、以下と同じく虚空から聴こえたのであろう。

「氣强《きづよ》し」「貴様、なかなかに気丈な奴じゃのう!」。

「すはや。」感動詞。急の事態に驚く時に発する語。「あっつ!」。

「刀《かたな》の柄手《つかで》を懸《かけ》みるに、」刀の柄(つか)に手をかけて抜こうとしたが。

「きば」「牙齒」。歯。

「山神《やまがみ》」「岩井郡浦留にての妖怪の事」で疑問注したが、ここでは、そこで示した強い違和感は、ない。詳しい時期が示されていないから、山の神の禁忌に係わる祭り日であった可能性を考えると、あり得ることであり、しかも、犬は怖じ竦むだけで、殺されてはいないからである。]

2026/09/12

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「高住善源寺、椿相と言僧死靈の事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 高住《たかずみ》善源寺《ぜんげんじ》、椿相《ちんさう》と言(いふ)僧死靈《しりやう》の事

 同郡《どうこほり》[やぶちゃん注:前話と同じく「高草郡《たかくさのこほり》」。]高住村《たかずみみら》善源寺は、龍峯寺《りゆうほうじ》末寺《まつじ》也。

 得翁和尙《とくわうおしやう》、享保(きようほう《→きやうほう》)子年《ねどし》、御城下、大半、火災の時より、御寺《おてら》も類燒《るゐしやう》に付(つき)、善源寺へ、しばらく、住居《すまゐ》にて、椿相と言(いふ)、納所(なつしよ)、有り。[やぶちゃん注:「納所(なつしよ)」これは、もと「禅宗の寺に於いて施し物を納めておく所」の意であるが、ここは、「納所坊主(ばうず)」の略で、「寺にあって、会計・庶務を取り扱う下級の僧。」を指す。寺の下働きとして雇われている民間人を除き、僧職としては、最も地位が低い。所謂、俗社会の金銭業務・実生活に係わる僧にとっては、広義の不浄な仕事に、仕方なく、係わらざるを得ないため、僧としてのランクは最下位となるのである。]

 此僧、いかなる事にや、内福《ないふく》也[やぶちゃん注:金回りが良いこと。](なり)。依之(これにより)、米・銀、村中《むらぢゆう》、又、近在、湖山村《こやまむら》迄(まで)、借《か》し、利分《りぶん》を取(とり)、ひゞ[やぶちゃん注:「日々」。]、『ほかき』とて、魚《うを》取《とる》所の物、ことごとく、質《しち》に取置(とりおき)、若《もし》、右の米《こめ》・金《かね》、不埒(ふらち)の時は、右の質物《しちもの》を取《とり》、自分乍(ながら)、作廻《つくりまはし》致(いたし)けり。

 村里《むらざと》の者、迷惑し、

「僧に不似合(ふにあい《→ふにあひ》)の事。」

と、つぶやく者も、多し。

 されば、いか成《な》る事や、風與(ふと)、惡病《あくびやう》、煩(わづら)ひ、後《のち》は、目病《めやみ》に成り、目、不通(ふつう)に不見(みえず)。

 しゆじゆに[やぶちゃん注:「種種に」。いろいろと。]養生《やうじやう》致(いた)しけれ共(ども)、印(しるし)なし。歎(なげき)くらし居《をり》けり。

 或(ある)時、𢌞國《くわい》の者、寺へ立寄(たちより)、休みけるが、椿相[やぶちゃん注:「が」或いは「の」が欲しい。]眼病《がんびやう/めやみ》を見て、

「いたわしき事也(なり)。我等、奇妙なる眼病の妙藥、有り。是(これ)を送るべし。鳶《とび》の生血《いきち》にて、とき、目に入候(いれさうら)はゞ、平ゆ[やぶちゃん注:「平癒」。]すべし。」

と、委(くはし)く語(かたり)て、黑燒(くろやき)の藥《くすり》を送る。

 椿相、悅(よろこび)、請取(うけと)り、用ひたく思《おもへ》ども、鳶の生血、才覺《さいかく》[やぶちゃん注:「工面・算段すること」。]に、こまりけるが、風與(ふと)思ひ付(つき)、同村に、今井某《なにがし》、在宅にて、平日《へいじつ》、入魂(じつこん)[やぶちゃん注:「昵懇」に同じ。]なれば、ひそかに、賴(たのみ)けり。

 今井、請込《うけこみ》、

「安き事。」

とて、鐵炮(てつぱう)にて、鳶を打(うち)やりければ、大(おほい)に悅(よろこび)、右の藥《くすり》を、生血にて、とき、目に入れければ、少《すこし》、快《くわい》なる。

 悅(よろこぶ)事、かぎりなし。

「何かな、お禮申さむ。」

とて、鍬(くは)に、鷄丸(にはとりまる)[やぶちゃん注:「鶏(にわとり)丸一羽」。殺生の極みであるから、今井の笑いの中に皮肉を含めた謂いは、尤もである。]、取《とり》そへ、送りけり。

 今井、見て、

「僧に似合(にあい《→にあひ》)もなき事。」

と一笑しける。

 其後(その《のち》)、又々、惡瘡《あくさう》、再發して煩《わづらひ》けるが、僧坊は、善源寺、門長屋《もんながや》に有り、病氣、重くて、ついに、死にけり。

「不便《ふびん》の事也(なり)。」[やぶちゃん注:この「不便」は「不憫・不愍」と同じで「不便」が正字であり、「可哀そうなこと。哀れむべきこと。また、そのさま」の意。」の意の名詞・形容動詞である。]

とて、和尙(おしやう《→をしやう》)より、十四、五歲なる沙味(しやみ)に命じて、死《しに》たる床《とこ》のわきに、夜中《よるぢゆう》、付置(つけおき)けるに、右《みぎ》の小僧主《こばうず》なれば、夜半過《やはんすぐ》る頃、死人《しびと》、

「むく」

と、起《おき》あがり、目を、ひらき、小僧に、いだきつく。

「是(これ)は。」と、小僧、きもをけし、

「わつ。」

と、さけび、ぜつ死《し》す。

 此音(この《おと》)[やぶちゃん注:小坊主が引っ繰り返った、その音。]に、部屋に休居(やすみを)る下男(げなん)、火を付(つけ)、見れば、しゆむそう[やぶちゃん注:「主務僧」。ここでは「納所」と同義である。即ち、死んだはずの椿相である。]、あたりを、なで、さぐり、巾着《きんちやく》[やぶちゃん注:金入(かねい)れ。]に入(いれ)たる小簞笥(こだんす)の鍵《かぎ》を取出《とりいだ》し、口(くち)に入(いれ)、

「かりかり」

と、かみ、又、其まゝ、たをれ[やぶちゃん注:ママ。「たふれ」が正しい。]、死《し》して、けり。

 下男、大《おほ》きに驚(おどろき)、寺へ、かけ行(ゆき)、和尙へ、此話(この《はなし》)を、ふるいふるい[やぶちゃん注:「ふるひふるひ」が正しい。「震ひ震ひ」で、「頻りに『ぶるぶると震え』ながら」の意である。]、物語、致(いたし)ければ、和尙、聞(きゝ)て、長屋へ行(ゆき)、見れば、椿相は、たをれ[やぶちゃん注:ママ「たふれ」が正しい。]死《し》して、小僧は、息絕(いきたへ)たり。

 先(まづ)、水を、そゝぎ、藥など、あたへ、やふやふと、呼(よび)たすけ、人心ち[やぶちゃん注:底本では、「ち」右注で『地』とある。「人心地(ひとごこち)」。」]付(つき)ければ、和尙、

「もはや、かわる事[やぶちゃん注:ママ。「變(か)はる事」である。ここでは「死体が動き出す異常事態」を指す。]、有(ある)まじ。追付(おつゝけ)、夜《よ》も、明(あけ)なむ。今、少し、とぎ[やぶちゃん注:「伽」。「夜伽(よとぎ)」。死者の傍(かたわ)らで、夜通し寝ずに守ること。所謂、「通夜(つや)」。]致べし。」

とて、小僧・下男、二人、付置(つけおき)、和尙は、寺へ歸りけり。

 その後《ご》は、何事も、なし。

 翌日、暮《くれ》に及(および)、村はづれにて、火そう[やぶちゃん注:ママ。「火葬(かさう)」。]にし、骨《ほね》は、取集(とりあつめ)、通《とほ》り道《みち》、東の方《ひがしのかた》、『うぶめがたに』と言所《いふところ》、山中《さんちゆう》に、うづめけり。

 其後《そのご》、日《ひ》、暮《くれ》、初夜《しよや》[やぶちゃん注:「そや」とも読む。これは、仏教で、一昼夜を「晨朝(じんじょう)」・「日中(にっちゅう)」・「日没(にちもつ)」・「初夜」・「中夜」(ちゅうや)]・「後夜(ごや)」の六つに分けたもの。この時刻毎(ごと)に念仏・読経などの勤行(ごんぎょう)をした。「初夜」は「戌(いぬ)の刻」で、現在の午後八時頃を指し、所謂、「宵(よい)の口(くち)」である。]、過(すぎ)て、此所(この《ところ》)より、光物(ひかりもの)、出《いで》て、湖《みづうみ》の上を、飛行《とびゆき》て、善源寺の邊(あたり)へ、行(ゆく)やうに見へし。

 村民《そんみん》、集(つどひ)、何(いづ)れも、見て、取々(とりどり)、ふしぎを、なしけり。[やぶちゃん注:奇体な光り物が飛行(ひぎょう)する怪異を、目の当たりに見て、不思議の感を強く感じたのである。]

 折節(をりふし)、夏の事、涼(すゞみ)ながら、近里《ちかきさと》[やぶちゃん注:ママ。「近い里の民草(たみぐさ)たちも」。]、集(あつま)り、

「椿相が靈魂《れいこん》に、違(ちがひ)なし。」

と、評議しけり。

 今井氏も、兄弟ながら、

「光物(ひかりもの)、度々(たびたび)、見たり。」

と、咄《はなし》しなり。

 有時、獵師何某《なにがし》と言(いふ)者、せひご網を揚《あげ》て、夜半時分に、湖水に、舟《ふね》、のり、出《いで》けるに、かの光物に、行逢《ゆきあひ》たり。

 此(この)光物(ひかりもの)、獵舟(りやうぶね)、部先(へさき)に行當(ゆきあた)り、暫(しばら)く、ゆうよ[やぶちゃん注:「猶予」。]しければ、是非なく、とくと、見るに、大(おほき)さ、菅笠《すげがさ》のごとく、內《うち》の光りは、飯わむ[やぶちゃん注:ママ。「飯椀(めしわん)」。]程(ほど)、赤く、又、內《うち》に、黑く、猿《さる》の樣《やう》なる物、見へたり。

「されば。」

と、見る內《うち》に、又(また)、立上《たちあが》り、寺の方《かた》へ、行《ゆき》たり。

 よくよく見れば、寺の石垣に、上へあがらむとすれ共(ども)、上《あが》り得ず。

 あなたこなたと、水ぎわ[やぶちゃん注:ママ。「水際(みづぎは)」。]を、まわりけるやうに見へたり。

 漁夫《ぎよふ》は、歸りけり。

「扨々(さてさて)、ふしぎの妖物(ばけもの)なり。」

と申(まうし)けり。

 雨夜《あまよ》には、日暮前より、出る、となむ。

「しゆむそう[やぶちゃん注:「主務僧」。]が靈《れい》に、まぎれ、なし。」

と、人々、申(まうし)けり。

 わけて、今井彌惣兵衞《いまゐやそべえ》、寺の和尙も、懇切なれば、此咄(この《はな》し、して、

「不便《ふびん》[やぶちゃん注:前出に同じ。]なる事、少し、法事共《はふじども》、成《な》され、跡(あと)、吊(とむら[やぶちゃん注:頭の「と」は前の「あと」に続いて「ゝ」であるが、読点を打った関係上、正字で添えた。])ひ被遣候(つかはされさうら)へ。」

と申(まうし)ければ、返答に、

「かやうの事は、佛法(ぶつぱう[やぶちゃん注:ママ。仏教用語の場合は「法」は歴史的仮名遣は「ほふ」が正しいので、「ぶつぽふ」が正しい。])の方《はう》にも有(ある)事に候(さうら)へ共(ども)、さして、かまひなき事也(なり)。跡吊(あとゝむら)ひ、申(まうす)に及不申(およびまうさず)。尤(もおつとも)、其身《そのみ》、銀子(ぎんす)少々、持居候(もちをりさうら)へ共(ども)、みな、寺の銀(ぎん)[やぶちゃん注:「金(かね)」の意。]なるまゝ、取《とり》かへし申《まうす》。」

との事也(なり)。

 其上(その《うへ》)は申(もうす)べく樣《やう》もなく、其まゝにて、止《やみ》ぬ。

 村民共(《そんみん》ども)、咄《はな》すには、

「光物(ひかりもの)、每夜、寺へ行(ゆき)、後《のち》は、戶・しやうじ[やぶちゃん注:「障子」。]に行當(ゆきあた)り、さうざう敷(しき)まゝ、『大《だい》はむにや[やぶちゃん注:「大般若經」のこと。]』の札(ふだ)、書《かき》て、所々《ところどころ》に押(おし)たり。」と申(まうす)。

 それよりは、靈火(れいび)も、寺の內《うち》へは、入《い》らず、湖水・石垣限り(かぎ)にて、上《うへ》へは、あがる事、なし、とかや。

 又、椿相、鍵をかみくだきける事は、たむす[やぶちゃん注:ママ。「簞笥」。]に銀錢五貫目程(ほど)、有るを、和尙に取られ、

『殘念。』

と思ひける執心(しうしん《→しふしん》)にや。

「和尙も、此銀《このぎん》にて、少《すこし》の法事を修行《しゆうぎやう》して、跡吊(あとゝむら)ひ候(さうら)はゞ、か程(ほど)には、くるひ申(もうす)まし[やぶちゃん注:ママ。「まじ」。]。」

と、人々の噂也(なり)。

 夫(それ)より、三年目に、果(はて)られたり[やぶちゃん注:善源寺に移っていた龍峯寺住職得翁和尚のことである。]。不思議なる事也(なり)。今井氏、物語也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「高住《たかずみ》善源寺《ぜんげんじ》」現在の鳥取県高住はここ(グーグル・マップ航空写真)だが、この寺は、最早、現存しない。残念ながら、旧地を捜し得なかった。

「龍峯寺《りゆうほうじ》」この寺は、発見出来た個人ブログ「お寺の風景と陶芸」の「龍峰寺 (鳥取県鳥取市) 鳥取藩主池田氏の四ヶ寺」に、『鳥取市街地の東端にあって、山麓に建つ龍峰寺は、鳥取藩主池田氏の関わる四ヶ寺の一つとして、江戸時代は栄えたといわれているが、現在は無住で、荒廃が進んでいる』。『龍峰寺は1585年』(天正十三年)、『岐阜城主池田輝政が父と兄の菩提を弔うために龍峰山広徳寺を開創したのに始まると伝えている』。『1600年』(慶長五年)、『輝政が姫路藩主となると、広徳寺も姫路に移った』。『輝政の次男・忠継が備前岡山藩主となると、広徳寺は岡山へ移ったが、1607年』(慶長十二年)、『輝政の菩提寺として、広徳寺の山号寺名を入れ替えて広徳山龍峰寺を創建し、1632年』(寛永九年)、『池田光仲が鳥取藩主となると、広徳寺、龍峰寺とも鳥取へ移転している』。『なお、輝政の菩提寺は龍峰寺を改名し』、『岡山に残った国清寺である』。『鳥取に移った龍峰寺は、宗派争いにより、1694年』(★元禄七年)、『黄檗宗に宗派を替え、龍峰山興禅寺となり、鳥取藩主菩提寺となった』。『その後』、『1701年』(元禄十四年)、『鳥取藩が現在地に広徳山龍峰寺を再建している』。『龍峰寺の変遷は複雑で、不詳の部分もあるが、姫路藩主池田輝政ゆかりのお寺として四ヶ寺に数えられている』とあって、『住所』を『鳥取県鳥取市栗谷41』とし、『山号』、『広徳山』、『宗派』は『臨済宗妙心寺派』。『本尊』は『薬師如来』とデータを載せてある。さらに、「参道」・「境内」・「本堂」・「鳥取市街地」の写真が並び、最後にグーグル・マップが附されてある。そこ(★←地形図で湖山地区を含んで中央に「竜峯寺」を置いた)と同じ箇所を、正規のそれで、航空写真で最大に拡大して見ると、ここである。ストリートビューでは、寺に入り込んでいないので、見ることは出来ないが、左パネルには、正式に「建造物」として「〒680-0012 鳥取県鳥取市栗谷町41 竜峯寺」とあるので、この寺で決まりであると、私は思った。ところが、実は、以下のウィキの「興禅寺(鳥取市)」で、★予想外の事実★が出来(しゅったい)したのであった。

 私にこの時点で、一つの問題が残っていた。それは、本篇の時代が『享保(きようほう《→きやうほう》)子年《ねどし》』、則ち、

享保五年庚子(かのえね)=一七二〇年二月八日から一七二一年一月二七日

であることであった。その時の宗派の問題である。そこで、別の鳥取藩主池田家の菩提寺で、「竜峯寺」の僅か西北西百八十四メートル離れた「興禅寺(こうぜんじ)」(ここ・グーグル・マップ)のウィキを見たところとんでもない寺の名の変更があったことが判明したのである!(太字・下線は私が附した)、『寛永9年(1632年)、池田光仲が岡山藩より鳥取藩に転封となった際、伯父で初代岡山藩主にあたる池田忠継の菩提寺を家臣団が鳥取に移したことに始まる。この際には臨済宗妙心寺派の寺院で忠継の院号である龍峯院殿より広徳山龍峯寺と名乗っていた』。『その後、住職は黄檗宗への転向を願い』、『光仲はそれを認めた。しかし、妙心寺は』、『これを不服とし』、『転向を認めず、両者間で争議が起こった。結局、光仲が没した後に寺号を返納する事で和解が成立した。元禄6年(1693年)に光仲が没し、翌年の元禄7年(1694年)』(☜★)、『寺号が妙心寺に返納された。こうして黄檗宗に改宗され、光仲の院号である興禅院殿より寺号が龍峯山興禅寺と改められた。その後、藩により』、(★☞)『興禅寺の隣地に再び』、『龍峯寺が建立され、忠継の他、輝政・忠雄の位牌が移された。池田家の菩提寺ではあるが』、『墓所はここにはなく、鳥取市国府町奥谷に墓所が造営された。』とあったのである! 一読では、理解し難く、一瞬、戸惑ったのだが、本篇で言う「龍峯寺」とは、やはり、現在の「鳥取県鳥取市栗谷町41 竜峯寺」で間違いないと、迂遠な過程を経て、ようよう、確認出来たのである(以上の注は、未明から、三時間も掛かってしまった)。而して、この時の宗派は黄檗宗なのである。

「得翁和尙《とくわうおしやう》」片付いたと思ったら、また、困った。この人物は黄檗宗の高僧でなくてはならない。ところが、滋賀県中山道柏原(かしわばら)宿にある黄檗宗慧日山(えにちざん)永明寺(ようめいじ:グーグル・マップ)の公式サイト内の「黄檗宗資料集 黄檗宗僧侶名鑑」を、総て、見たが、この名の僧は、見出せなかった。事績のない人物で、「無得海寧」なる僧がいるが、年代が合わない。「住職地」で「鳥取」の「興禅寺」とする人物が三人いるが、またしても、年代が合わない。万事休す!

「椿相《ちんさう》」不詳。

「湖山村」現在の鳥取市湖山町(こやまちょう)。湖山池(こやまいけ)沿岸の北と東北部(こちらが広い)に当たる。諸地図では、うまく示せないので、「ひなたGIS」で示した。

「惡瘡《あくさう》、再發して煩《わづらひ》けるが」彼の目は単に失明する眼疾患ではなかったものかも知れない。「再發」と言っているが、頭で「惡瘡」(現代仮名遣「あくそう」)と表現しており、これは、眼球、又は、その周辺が激しく腫れ膨れている、或るいは、腐って挫滅するのでなければ、「惡瘡」(「質(たち)の悪い腫れ物」の意)とは表現しないからで、しかもそれが原因で死に至るということは、可能性として、眼球に腫瘍が起こり、奥で、脳の視床下部が侵された結果、視路を侵す毛様細胞性星細胞腫等の難治性疾患による腫瘍死だったものかと思われる。

「僧坊は、善源寺、門長屋《もんながや》に有り」納所であった椿相が与えられていた部屋は、善源寺の門の前面に下級の下働きの者(武家屋敷では門番)や、最下級の僧の住居として造った門に附属した貧相な「長屋(ながや)」を指す。

「沙味(しやみ)」梵語(サンスクリット語“śrāmaṇera”)の漢音写で、「仏門に入り、髪を剃って十戒を受けた初心の男子。ここでは「修行未熟な僧」の意。

「右《みぎ》の小僧主《こばうず》なれば」[やぶちゃん注:この「右の」というのは、筆者が、読者に判り易くしようとして『「右(みぎ)で既に述べた通り、未だ、新米の小坊主であったため』という附加文をしたものと思われるが、却って、意味が判りにくくなってしまっている恨みがある。

「ぜつ死《し》す」「絕死」であるが、ここでは、以下で判る通り、「気絶をすること」の意であって、「死んだ」のではない。

「下男(げなん)」言うまでもないが、これは、僧でない寺の下働きの民間人で、この長屋の別室に住み込みでいた人物である。

『しゆむそう、あたりを、なで、さぐり、巾着《きんちやく》[やぶちゃん注:金入(かねい)れ。]に入(いれ)たる小簞笥(こだんす)の鍵《かぎ》を取出《とりいだ》し、口(くち)に入(いれ)、「かりかり」と、かみ、又、其まゝ、たをれ[やぶちゃん注:ママ。「たふれ」が正しい。]、死《し》して、けり。』本篇の中で、最もリアルな怪奇感が描かれている場面である。椿相は、まず、辺りを、手で、頻りに撫でては、探っている。これは、生前の通り、眼病で見えなかったから、ではなく、既に、少なくとも一眼は腐ってしまい、落ちているもの、と私は考える。死んでいるわけだから、仮に、一方の目は、生前は、見えていたかも知れないが、この時は既に、その目も見えなかったのに違いない。⋯⋯虚ろな目のない眼窩と見えぬ片目で⋯⋯懸命に何かを捜している⋯⋯首に掛けている頭陀袋(ずたぶくろ)の中の巾着(きんちゃく)を手探りして取り出す⋯⋯それは⋯⋯己(おのれ)が――それこそ後生大事に――大枚(たいまい)の金を入れていた小箪笥の鍵だ⋯⋯しかし、最早、箪笥の所在も分からないのだ⋯⋯而して⋯⋯彼は、その鍵を口腔に含み――ガリガリ!――と齧(かじ)ることで、その憤懣(ふんまん)遣(や)る方(かた)なきを示す以外になかったのである。この描写の優れている点は、怪談として細部のクロース・アップの多数のカットの積み上げの妙(みょう)であると言える。個人的に多数の怪談を電子化注してきたが、これは、稀に見る――死霊の妄執を描いているものとして、特に称揚したいものと感じている。

「うぶめがたに」漢字表記は「產女谷」であろう。「姑獲鳥谷」とも書けるが、地名としては、私は相応しいと思わない。善源寺の所在地も不明であり、ここも不詳である。「うぶめ」については、一般に難産で死んだ女性の霊(或いは、生んで死んだ子も附属するケースもあり、逆に子は墓場の中に生きている話もある)が妖怪化したものとされる。ここでは、それを語る余裕はないので、私の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)』や、「宿直草卷五 第一 うぶめの事」等を参照されたい。但し、当時、事実、「うぶめがたに」と地名呼称があったとすることに対しては、非常に興味を感じている。

「せひご網」底本では、「せひご」に右注して『(鮬)』とする。これは、「廣漢和辭典」に拠れば、漢語では、『鱊鮬(イツコ)は鮒(ふな)に似た小魚。たなご。にがぶな。』とすし、国字では、『せいご。すずきの当歳魚と二歳魚の称。』とする。前の「たなご」(鰱・鱮)=「にがぶな(苦鮒)」は、条鰭綱骨鰾上目コイ目タナゴ科タナゴ属 Acheilognathus の數種、或いは、タナゴ Acheilognathus melanogaster を指すが、ロケーション地には分布しない可能性が高いのと、漢語であることから、ここは後者の国字としての、棘鰭上目スズキ系スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus で採る。調べてみると、湖山池は、もともとは、僅かな塩分を含む汽水湖であったが、水質悪化を受けて、二〇一二年に水門を解放して塩分濃度の上げて、現在はスズキが採れる。「ひなたGIS」の戦前の地図を見るに、千代川河口近くで、湖山川が分流しており、江戸時代に、スズキがここを遡上して湖山池に棲息していた可能性は、極めて高い(スズキは淡水でも驚くべき内陸までも遡上する)と考える。即ち、この「せひご網」は「スズキを捕獲する網漁」と断定出来る。

「部先(へさき)」これには困った。まず、「部」を「さき」と読むケースは、福岡県北九州市門司区の企救半島北東端にある地名に「部埼」があり(ひなたGIS)、これで「へさき」と読む。しかし、本ロケーションからみて、この「さき」を用いる可能性は、ちょっとあり得ないと断じた。そこで、「部」の字が、誤判読である可能性を考えた。「部」の(へん)の「咅」と、(つくり)の(おおざと)=「⻏」を含む漢字の「くずし字」を図で調べてみた。何時もお世話になっている「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍くずし字データセット」では「舳」の字を検索しても、図像がないので、(へん)と(つくり)を含む漢字を別々に視認したところ、「咅」は、時に「舟」の崩し字に誤り易いケースがあること、及び、「⻏」はぞんざいに書いた場合、「由」と区別がつかないことが、複数、確認出来た。されば、私は、これは「舳先(へさき)」であると断ずるに至った。

「和尙も、此銀《このぎん》にて、少《すこし》の法事を修行《しゆうぎやう》して、跡吊(あとゝむら)ひ候(さうら)はゞ、か程(ほど)には、くるひ申(もうす)まし[やぶちゃん注:ママ。「まじ」。]。」まさしく、正論!!!]

2026/09/09

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「高草郡布施の山下にて幽靈を見る事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 高草郡《たかくさのこほり》布施《ふせ》の山下《やました》にて幽靈《いうれい》を見る事

 

 高草郡布施村(ふせむら)に、與一兵衞《よいちへうべゑ》と言(いへ)る村民、有り。

 生付(うまれつき)、强勇(ごうゆう《→がうゆう》)なり。

 萬治年中《まんぢねんちゆう》、五月の末(すゑ)、山王《さんわう》の山下《やました》に『嵐が鼻《あらしがはな》』と言(いふ)所、有り。

 此邊(このへん)、田畑《でんぱた》、多し。布施の屋形《やかた》の時分は、繁昌の地也。與一兵衞が田地も、有り。

 夜《よる》、更(ふけ)て、只壹人(たゞいちにん)、鍬(くわ)を持(もち)、水を田にしかけ入(いれ)て、田(た)くろ[やぶちゃん注:「田畦」。「畦」は「あぜ」とも読む。]に腰を懸(かけ)て休(やすみ)けるが、たばこなど、すい[やぶちゃん注:ママ。「吸ひ」。]、何心《なにごころ》なく、居(をり)たり。

 然(しか)るに、

「ざわざわ」

と風吹(ふき)て、何《なん》とやら、身に、しみしみと覺ゆ[やぶちゃん注:「心に、何やらん、感じ入るさま」で、「何んとも言えず、しんみりとした気になった」といった感じである。この理由の判らぬ不思議な感じ方が冥界とのアクセスの始まりである。]。

 しかるに、何もの共(とも)しらず、若き女《をんな》壹人(いちにん)、白帷子(しろかたびら)を着《ちやく》し、さばき髮《がみ》にて、來《きた》り。

 與一兵衞、驚(おどろき)けれ共(ども)、しづめて、

「何《なに》ものそ[やぶちゃん注:終助詞。「ぞ」と同源と考えられ、強調。或いは、濁点を打ち忘れたものかも知れない。]。」

と、とがめける。

 女、申(まうす)は、

「左樣(さやう)にとがめ給ふ者にても、なし。我(われ)は、昔、此所(《この》ところ)、繁昌せし時、ある醫者の娘なり。其時は、山名源七郞殿の御在世にて、度々、(たびたび)、軍(いくさ)、さわがしかりし。我、其(その)時、病死しけるに、葬《はうむ》りもせず、其まゝ、此山のわきに埋(づ)めたり。もとより、髮をも、そらず、置(おき)しなり。願」(ねがは)くは、我に、髮(かみ)を、そり給はれ。」

と、ねむころ[やぶちゃん注:「懇ろ」。]に賴みけり。

 與一兵衞、

「安き事。しかし、剃刀《かみそり》、爰(こゝ)に、なし。明夜(みやうや)、剃刀を持參して、望(のぞみ)、かなふべし。其方も、必(かならず)、出《いで》られ候《さふら》へ。」

と言(いふ)。

 女、悅(よろこび)て、

「扨々(さてさて)、忝(かたじけな)し。」

と、言(いひ)て、失(うせ)にけり。

 與一兵衞、不思議に思ふやう、

『昔咄《むかしばな》しに聞(きゝ)し幽靈成(なる)べし。」

と。

 されば、短夜(みじかよ)の時分なれば、程なく、夜《よ》、明(あけ)にけり。

 與一兵衞は、我が家に歸り、思ふやう、

『たとへ妖物(ばけもの)なり共(とも)、かたがたの[やぶちゃん注:これは副詞で、「いずれにしても・どの点から見ても」の意であろう。]約束なり。行(ゆか)ずむば、我(わが)男道《をとこのみち》、立(たつ)まじ。』

と思ひ、剃刀を用意して、暮(くれ)を待(まち)けるが、

『しかし、我ひとり行(ゆき)たり共(とも)、何を證據に、人に語(かたる)べけんや。誰《たれ》にても、一兩人《いちりやうにん》へ知らせ、遠(とお《→とほ》)ながらに、此體《このてい》を、見すべし。』

と思ひ、若き者、二、三人に、委細(いさい)を咄《はな》し、二、三十閒《けん》[やぶちゃん注:三十六・四~七十二・七メートル。]も見へぬ所へ、しのばせ置(おく)。

 扨(さて)、夜《よる》も更(ふけ)、與一兵衞、件(くだん)の所へ行(ゆき)、

「今や、今や。」

と、待居(まちをり)たり。

 しばらくして、女、出來(いできた)り、與一兵衞が前に立寄(たちより)、手を合(あはせ)、拜(おが)み、

「扨々(さてさて)。忝(かたじけな)し。さらば、賴候(たのみさふら)わん[やぶちゃん注:ママ。]。」

と言(いふ)。

 與一兵衞、

「髮を洗候(あらひさふら)へ。」

と言(いふ)。

 女、心得て、水にて、洗ければ、與一兵衞、剃刀、取出《とりいだ》し、念頃(ねんごろ)[やぶちゃん注:「懇ろ」。]に、そる。

 女、ちさき[やぶちゃん注:「小(ち)さき」。]袋《ふくろ》を取出《とりいだ》し、髮を、うけて、悅(よろぶ)事、かぎりなし。

「我、年久敷(としひさしく)、此望(こののぞみ)ありて、人を見かけ、賴(たのみ)けれ共(ども)、人、驚《おどろき》て、近付(ちかづか)ず。貴邊《きへん》のやう成(なる)、丈夫《じやうぶ》成(なる)人を、見ず。扨(さて)も、扨も、御禮《おんれい》は申盡(まうしつくし)かたし。是(これ)にて、成佛得達《じやうぶつとくだつ》致(いたし)申候(まうしさうらふ)。『此(この)御禮(おんれい)、何《な》そ。』と思へ共(ども)、すべきやう、なし。是成共(これなりとも)。」

と、小(ちいさ)き書物《しよもつ》壹册(いつさつ)、取出《とりいだ》し、與一兵衞へ與《あた》へて、

「必《かなら》ず、必ず、人に見せ給ふな。此書を見て、りやうじ[やぶちゃん注:「療治」。]仕給(つかまつりたま》へ。ふしぎに、小兒《しやうに》の病《やまひ》は、いゆるべし。」

とて、又、何方(いづかた)へ行(っゆく)とも見へず、きへ失(うせ)たり。

 與一兵衞も、夢のように覺へ[やぶちゃん注:ママ。「覺え」。]けるが、かの書物を、ふところへ入(いれ)、『歸らむ』と、兼(かね)て、二、三人、置ける人を尋(たづね)て、右の次第を語るに、三人共、

「寐《ね》て、とくと、此(この)人を、見ず。」

と言(いふ)。

 扨々(さてさて)、ふしぎなる事共也(どもなり)。

 其後(その《のち》)、與一兵衞、此(この)書物を見るに、平がなにて、小兒の、かむの蟲[やぶちゃん注:疳(かん)の虫(むし)。]の、りやうじ[やぶちゃん注:「療治」。]一切《いつさい》、小兒の、りやうじ本《ほん》也。

 是(これ)を見て、村中《むらぢゆう》、近村の小兒の病を治(ぢ)する所、だんだん、ひろく、りやうじ、はやり[やぶちゃん注:「流行り」。]、荒尾但馬(あらをたじま)の家(いへ)にも呼(よば)れ、後《のち》には、家も、繁昌して、内福(ないふ)になり、其後(その《ご》)、右の書物、佛だん[やぶちゃん注:「佛壇」。]に入置(いれおき)けるが、いつとなく、失(うせ)けり。

 ふしぎなる事共也《ことどもなり》。

 與一兵衞、小兒りやうじ、御家中《ごかちゆう》、町方《まちかた》へも、もつぱら、行(ゆき)けり。其(その)子孫、のちに、有り。

 

[やぶちゃん注:「高草郡《たかくさのこほり》」「施村(ふせむら)」これは、現在の鳥取県鳥取市布勢(ふせ)が正しいと思われる。グーグル・マップ航空写真の、ここである。本文で「山王の山下」とロケーションが紹介されているが、この「山王」は、その地区にある山を後背とした「日吉神社」で、ここは、通称「布勢の山王さん」と呼ばれ、幼児やこどもの守護神として親しまれている。「鳥取縣神社廰」公式サイト内の「日吉神社」の「由緒」に、

   《引用開始》

興国6年(1345)、布勢天神山城主山名時氏が国中無双の大社として九院の仏閣を巡らし、九相天台の奥義をもって、叡山山麓の坂本「日吉大社(山王二一社)」の分霊を勧請し奉斎したと伝えられる。

天正8年(1580)、羽柴秀吉の因幡攻めにかかり焼亡、神職は神霊を奉じて鳥取魚町日吉彦資邸に難を避けた。

慶長9年(1604)、亀井茲矩によって復興された。

元和3年(1617)、池田光政が因伯両国の藩主となるに及び、布勢の町勢は鳥取に移り、山王社も衰微の様相を呈したが、その後も藩の祈祷所として崇敬され、享保元年(1716)、嘉永3年(1850)に本殿等が建立されている。

藩主の若殿姫君以下、士分、町人の幼童まで、幼児愛護の神徳が伝播されていった[やぶちゃん注:☜。]。

明治初年に山王権現の旧称を廃し、日吉神社と改称した。

昭和前期の例祭日には参拝者が2万人を超え、臨時列車を増発する程の盛儀であった。

明治25年に銅猿が鋳造奉納されたが、大東亜戦争に供出。昭和25年5月に再建された。

参拝者に「お猿さん(ぬいぐるみの猿)」を奉納する慣わしがある。

   《引用終了》

とある。

 但し、この話では、「山王の山下」とあり、日吉神社の「山」の「下」方にある「嵐が鼻」というのが、正確なロケ地である。そこで、それを探って見たところ、サイト「土木学会 選奨土木遺産」の「安長土手(嵐ヶ鼻土手)」に行きあたった。そこに、

   《引用開始》

名称

安長土手(嵐ヶ鼻土手)

やすながどて(あらしがはなどて)

所在地

鳥取県鳥取市

竣工年

13世紀以降

選奨年

2013年 平成25年度

選奨理由

安長土手(嵐ヶ鼻土手)は、周辺が宅地開発される中で奇跡的に残った中世の河川堤防で、周辺住民の散策路として利用されている貴重な土木遺産であります。

   《引用終了》

とあった。この「安長土手」でグーグル・マップを調べたところ、山王=日吉神社のずっと東北東に直線で二・九六キロメートルの位置に、千代川(せんだいがわ)左岸に「安長土手」が確認でき、左のサイド・パネルのここに、同遺産のプレートの写真があり、そこの名称に『安長土手(嵐ヶ鼻土手)』を確認出来た。「鳥取教育委員会」の解説板の写真も見つけたので、それを字起こしして、終りとしておく。

   《引用開始》

ふるさと文化探訪

 安 長 土 手

 平安末期~鎌倉初期に出現した安長保は、恋地として安定性に欠き、古代においては千代川溢流[やぶちゃん注:「いつりゅう」で、「あふれ流れること」。]と野坂川[やぶちゃん注:「のさかがわ」。グーグル・マップ航空写真の布施村を東北に流れて千代川に合流する川。ここ。]落水[やぶちゃん注:ここは「らくすい」で、単に、下流に流れる水が、溢れて周囲に浸水することを言っている。]におびやかされる地域であった。

 この両川に洪水から耕地・集落を守るために築かれたのが「安長の土手」である。

 現在、このような古代から中世頃に築かれた土手は鳥取市内ではほとんど見られず、安長土手も周辺に急速な住宅開発にともなってその景観を失いつつある。

 平成四年三月

        鳥取教育委員会

   《引用終了》

「萬治年中」一六五八年から一六六一年まで。徳川家綱の治世である。これは、本作の中では、比較的古い話柄に属する。さればこそ、作者は「布施の屋形《やかた》の時分は、繁昌の地也。與一兵衞が田地も、有り。」という謂い方をして、当時の読者に対し、かなり時制を巻き直して、更に遡って、この地域の、嘗つての繁華な過去を嗅がせているものと判断する。実は、中世の因幡国にあっては、守護山名氏(因幡山名氏)が拠点とした居館(守護所)が、現在の鳥取市湖山町南、及び、布勢に跨(またが)る「天神山城」(ふせてんじんやまじょう)があり、それは、まさに「日吉神社」の北直近の、ここにあったのである(グーグル・マップ航空写真)。即ち、戦国から江戸初期にかけて、因幡山名氏は徐々に後退・衰微方向に向かっていったものの、依然、この布勢は、相応に過去の「屋形」の栄光・繁華な場所として、その地に住む民草には、相応のプライドがあったのである。だから、わざわざ、その末裔としての農民であった「與一兵衞が田地も、有り。」という言上(ことあ)げを附すことで、この話の「與一兵衞」にスポット・ライトを当てたものと、私は感じている。即ち、作者は「今に比べると、この男は、これから語る不思議な話の主人公になるだけの精神的力量を持っている」というニュアンスを、当時の読者に暗示しているのである。

「山名源七郞殿」私の前注が、正しかったことが判る。この人物は、戦国時代の武将で因幡国守護であった山名誠通(やまなのぶみち ?~天文一七(一五四八)年:詳しくは当該ウィキを見られたい)の嫡男であった源七郎=山名豊通(とよみち ?~天文二一(一五五二)年)のことであろう。彼は、室町幕府から因幡守護に任じられた尼子晴久の後援を受け、鹿野城(しかのじょう:現在の鳥取市鹿野町鹿野にあった)を拠点に、山名祐豊の弟豊定と争ったが、晴久の死去により、尼子氏の支援は無くなり、布勢屋形に反旗を翻した武田高信によって毒殺されている。

「荒尾但馬(あらをたじま)」江戸時代に因幡・伯耆を治めた鳥取藩池田家の筆頭家老家「米子荒尾家」の当主が、代々、名乗った通称。米子荒尾家初代は荒尾成利(あらおなりとし 天正一七(一五八九)年~明暦元(一六五五)年)であるが、冒頭の年代から、彼の嫡男荒尾成直(なりなお 元和四(一六一八)年~延宝七(一六七九)年)と思われる。リンクは当該ウィキ。]

2026/09/08

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「法美郡國府村神職の娘、死て其はか所もゆる事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。【2026年9月9日修正・追記】再見したところ、杜撰な箇所が多くあったので、仕切り直して、全部を修正し、注も増加した。お詫び申し上げる。]

 

 法美郡《はふみのこほり》國府村《こくふむら》神職《しんしよく》の娘《むすめ》、死《しし》て其(その)はか所《しよ》もゆる事

 

 法美郡國府村に、元祿六、七年の頃、山田何某《なにがし》、在宅して居(をり)けり。

 同村に、何《なん》の主膳《しゆぜん》といへる神職《しんしよく》、有(あ)り。子共(こども)、二、三人有りて、兄は、權《ごん》の少輔《しやうすけ》といゝ[やぶちゃん注:ママ。「いひ」(言ひ)が正しい。]、妹《いもうと》は、長《たけ》と言(いひ)て、十六、七歲也(なり)。生付(うまれつき)も、人なみにて、あしからず。

 常《つね》に、近所なれば、山田方《かた》へ出入《でい》りして、客來《きやくらい》の時分、又は、月待(つきまち)・日待(ひまち)は、呼寄(よびよせ)、小うたなど所望(しよまう)するに、聲、よく、面白く、うたひけり。又(また)、はやり踊(おどり《→をどり》)など、しなよく[やぶちゃん注:「品良く」。「上品に」の意。]してければ、皆々、興《きやう》じけり。

 然(しか)るに、此女(この《をんな》)、内《うち》に、かくし夫(つま)、有(あり)けるにや、くわゐにむ[やぶちゃん注:底本に右注して『懐妊』(歴史的仮名遣「くわいにん」)とある。]して、未(いま)だ、月も、みちざるに、流產《りうざん》して、死(し)しけり。

 父母(ふぼ)、兄弟、なげゝども、歸らず。

 是非なく、村より、一丁斗(ばかり)[やぶちゃん注:約百九メートル。]有(あり)ける所に、土葬《どさう》して置(おき)たり。

 まだ、一日も過《すぎ》ざるに、

「此《この》はか所《しよ》、靈火《れいくわ》、もへ[やぶちゃん注:ママ。「燃え」。以下も繰返し出るが、注さない。]ける。」

とて、村中《むらぢゆう》、こぞりて、女子共(《をんな》こども)、おそれあへり。

 山田氏居所《きよしよ》、奧の閒《ま》、壹閒《いつけん》[やぶちゃん注:一・一八メートル。]斗(ばかり)の、まど、有り。

 それより、向(むかひ)、長《たけ》がはか所は、三十閒《けん》[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]斗(ばかり)有りて、ちかちか[やぶちゃん注:「強い光が、目を刺激するさま」を表わす。なお、一般に「暗い中で目立つさま」をも、言う。両義でよいが、錯覚や、何らかの見間違いではないことをはっきりと示すものである。]と、見ゆる。

 元(もと)より、神子《みこ》の事なれば、白紙《しらがみ》のへい[やぶちゃん注:「御幣」(ごへい)のこと。]など、能(よく)、あかあかと[やぶちゃん注:ここは「赤々と」の火炎の色ではなく、「はっきりと」の意であると、私は、採る。]見ゆるほどなれば、人々、ふしぎの思ひをなし、又、常々、人々、なれちかづき[やぶちゃん注:「馴(な)れ近づき」。「馴れ親しんでいたこと」を言う。]なれば、皆々、

「不便《ふびん》[やぶちゃん注:「不憫(ふびん)」に同じ。]なり。」

と申(まうし)あへり。

 はや、廿日斗(はつかばかり)も、もへけるうち、家臣某(なにがし)も見て、

「さてさて、靈魂、まよひ居(をり)けるが、ふびんの者也(なり)。」

とて、

「我、聞傳(きゝつたへ)たる事、有(あり)。『側(そば)へ行(ゆき)、見屆《みとど》け、言葉を、かくれば、其まゝ、靈火、消(きへ《→きえ》)て、二度《ふたたび》、もへず。』と聞(きけ)り。さらば、行(ゆき)て、ためし見む。」

とて、件(くだん)の長《たけ》がはか所へ行(ゆき)、とくと、見るに、はかを、はなれ、火氣《くわき》、もへ、上《のぼ/あが》りけり。

『是(これ)、則(すなわち《→すなはち》)、靈火なり。』

と、思ひて、言葉を、かけ、

「いかに、長《たけ》。扨々(さてさて)、不便《ふびん》の事也(なり)。氣をしづめおさめて[やぶちゃん注:ママ。「をさめて」。]、佛ち[やぶちゃん注:「佛地」。]に、至れ。」

と言(いひ)て、念佛十《じつ》ヘん斗(ばかり)、高《たか》ごへ[やぶちゃん注:ママ。「高聲(たかごゑ)」。]に、となへければ、其まゝ、火は、消《きえ》て、暗夜《やみよ》と、なりたり。

 それより、もへざりしが、其後(その《のち》)、又、もへけるが、又、何ごとか、したりけん、其後《そののち》は、不通に[やぶちゃん注:「途絶えているさま」の意の形容動詞連用形。]、もへ[やぶちゃん注:ママ。同前。]ざりけり、となむ。

 又、其所(その《ところ》)より、十丁[やぶちゃん注:一・〇九キロメートル。]斗(ばかり)過《すぎ》て、松四本、はへて[やぶちゃん注:「はへ」はママ。「生(は)ゆ」であるから、「はえ」が正しい。]、

「國分寺の犬の塚なり。」

とて、有り。是(これ)は、

「雨、降り、しめやかなる夜《よ》は、いつも、火ゑん、もへける。」

となむ、村民《そんみん》、語りけり。

 

[やぶちゃん注:「法美郡《はふみのこほり》國府村《こくふむら》」現在の鳥取市国府町(こくふちょう)、この辺り(グーグル・マップ:鳥取城を中心に置いた)。

「元祿六、七年」一六八八年から一七〇四年まで。徳川綱吉の治世。

「山田何某《なにがし》」職業不詳であるが、以下の行動・台詞から、相当な知的能力を有する人物である。後で「家臣某(なにがし)」と出てくるのは、その続きから見て、「山田」某の「家臣某」という別人ではなく、「山田」が鳥取藩の「家臣」の端くれであるようにも読める。さればこそ、彼の教養・言葉遣いの堅実さに納得も出来るのである。

「同村に、何《なん》の主膳《しゆぜん》といへる神職《しんしよく》、有り。」グーグル・マップで検索しても、現在、十五社を数えるので、特定不能。あくまで、父を「神職」と言っているだけなので、厳密に旧国府村内と限定出来る訳でも、ない。しかし、最後にあ文章が強力なヒントを与えている。娘長(たけ:☆但し、これは、私が勝手に私の好みで訓じたに過ぎない。他に「をさ」「つね」「のぶ」「ひさ」「まさ」「ます」等の読み方がある。読者自身の好き嫌いに合わせ、読み変えて頂いて結構である)の墓から約一キロメートルのところにある「犬塚」が、それである。サイト「とっとりリサーチ」の『2026年 6月7日「鳥取市国府の犬塚」』で確認出来た。確かに、鳥取市国府町法花寺(ほっけじ)のここである(グーグル・マップ)。ストリビューでは、ここ)解説には、『奈良時代、因幡国の国分寺と尼寺の両寺に飼われていた一匹の犬が、食事どきに鳴らす鐘の早い方へ行ってはご飯を食べていたんですっ』。『ですが』、『ある時、両寺が同時に鐘を鳴らしたところ、犬は国分寺に行こうか、尼寺に行こうか迷い、ついには両寺の真ん中で倒れてしまったんです…』『その後、坊さんや尼さんたちが塚を造って犬を葬ってやったそうなんですが…』『食いしん坊がゆえに招いてしまった、悲しいお話ですね〜』とあり、六葉の画像もある。ともかくも――この場所から東西南北の一キロ圏内に、長の墓は、あった――のである!!!

「月待(つきまち)」小学館「日本国語大辞典」より引く。『月の出を待って拝む行事。多くは』、『講の形で行なわれ、当日は』、『当番の家に仲間が集まり、念仏をとなえたり、飲食したりしながら』、『語りあう。毎月の行事であるが、正月・五月・九月に限る所もあり、地域によって行なわれる月が異なる。十三夜待、十九夜待、二十三夜待などがある。』。

「日待(ひまち)」同前。『人々が集まり』、『前夜から潔斎して一夜を眠らず、日の出を待って拝む行事。普通、正月・五月・九月の三・一三・一七・二三・二七日、または吉日をえらんで行なうというが』、『毎月とも、正月一五日と一〇月一五日に行なうともいい、一定しない。後には、大勢の男女が』、『寄り集まり』、『徹夜で連歌・音曲・囲碁などをする酒宴遊興的なものとなる』。『影待』とも言う。]

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「佐藤太郞兵衞うわばみを打事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。標題の「うわばみ」は歴史仮名遣では「うはばみ」が正しい。]

 

 佐藤太郞兵衞《さとうたらうひやうゑ》うわばみを打(うつ)事

 光仲公《みつなかこう》御代(みよ)、佐藤太郞兵衞と言(いへ)る御家士(《おん》かし)、有(あり)。

 高草郡《たかくさのこほり》上段《かみだん》と言(いふ)村に在宅して居(をり)たり。

 常に、鐵炮獵(てつぱう《がり/りやう》)を好(このみ)けり。

 依之(これより)、白毛《しろげ》の犬を飼(かひ)けり。

 或(ある)時、其(その)犬、村はづれの山裾(やますそ)の茶園《ちやゑん》に行(ゆき)て伏居(ふしゐ)けるが、しきりに、ほへ[やぶちゃん注:「吠え」であるから、「ほえ」が正しい。以下、これの訂正注はしない。]、太郞兵衞居宅《きよたく》の裏口《うらぐち》に逃入(にげいり)て、猶(なほ)、ほへける。

 下女《げぢよ》、見付(みつけ)て、大(おほい)に驚き、主人に告げて、

「あれ、見給(みたま)へ。」

と言(いふ)。

 太郞兵衞、心得(こゝろえ)、戶口より、見れば、裏口より、四、五閒《けん》[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]前に、井《ゐ》、有(あり)。

 其つるべを、あぐる木、鳥居《とりゐ》のごとくして有(あり)けるに、何かは、しらず、まつ黑な大《おほ》やかん程成(《ほど》なる)もの、大《おほい》に、ひかり、くだんの犬を見込(みこみ)[やぶちゃん注:「目をつけて狙いとしていて」の意。]、舌を出《いだ》し居(をり)けるが、赤き事、火《ひ》のごとし。

 能々(よくよく)見れば、大蛇《うはばみ》なり。

 長(たけ)は、六、七閒[やぶちゃん注:十・九~十二・七メートル。]共(とも)見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]、勢(いきほひ)、すさまじさ、言斗(いふばかり)なし。

 太郞兵衞、其まゝ、鐵炮(てつぱう)を執出(とりいだ)し、玉藥《たまぐすり》を、强く、しかけ、火繩(ひなわ《→ひなは》)を、はさみ、ねらひすまして、放(はなち)けるに、あやまたず、蛇の、のむど[やぶちゃん注:「喉(のむど/のんど)」。]の下《した》より、頭《かしら》をかけて、打貫(うちつらぬ)きければ、鐵炮の煙《けむり》と共(とも)に、

「どう」

と、地に、ひゞきて、落ける故(ゆへ《→ゆゑ》)、其(その)まゝ、留矢(とめや)[やぶちゃん注:とどめを刺すための矢。]を打(うち)ければ、しばらくして、死(しに)たり。

 村民共(《そんみん》ども)、聞傳(きゝつた)へ、大勢、集り、よくよく、見れば、長(た)け、四閒半(七・八六メートル)、大さ[やぶちゃん注:「太さ」の誤記であろう。]、壹尺貳寸[やぶちゃん注:三十六・四センチメートル。]廻《まは》り、有(あり)ける、となり。

 則(すなはち)、孫《まご》の分太夫《ぶんだいふ[やぶちゃん注:現代仮名遣「ぶんだゆう」。]》、咄(はなし)なり。

 

[やぶちゃん注:「佐藤太郞兵衞」不詳。

「うわばみ」漢字では「蟒蛇」。しかし、以下、話で語られるスケールを見るに、私の家の斜面下にも巣くっている、日本本土に於ける最大のヘビである爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ(並蛇)科ナミヘビ亜科ナメラ(滑羅)属アオダイショウ(青大将) Elaphe climacophora でも、通常の成体個体は一~二メートル程度(うちの居候は二メートル強である)で、現在、知られている大型個体でも、二・五~三メートル止まりであるから、誇張も甚だしい。なお、「うはばみ」は十五世紀の室町時代から使われたもので(小学館「日本国語大辞典」では、初期出典を「三國傳記」(沙弥玄棟(しゃみげんとう・伝不詳)の説話集。先行説話・漢籍・仏典に拠るものが多いが、「太平記」の影響も大きいとされる)とする。古代の「をろち」に変わって用いられるようになったとされる。「うはばみ」の「うは」は、「上回(うはまは)る」「上手(うはて)」等と同様の「うは」とする説、「大(おほ/うは)」が転じたとする等がある。「ばみ」は「はみ」(食み)、「食(は)む」の連用形「はみ」から転じたとする説、「へび」の古形「へみ」から転じたとする説、マムシ(有鱗目クサリヘビ(鎖蛇)科マムシ(蝮:「眞蟲」が語源と思われる)亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii :日本列島、及び、その周辺の島(北海道・本州・四国・九州・国後島・焼尻島・天売島・佐渡島・隠岐・壱岐・五島列島・甑島列島・屋久島・種子島・伊豆大島)にのみ棲息する日本固有種。)の古語である「はみ」(語源は「食(は)み)から転じたとする説などがあるが、これらは、どれが正統というのものではなく、複数の同源とするとするのが、正しいと思われる。

「光仲公《みつなかこう》御代(みよ)」先行する「阿波國の浪士に生靈の付居ける事」で既出既注。

「高草郡《たかくさのこほり》上段《かみだん》と言(いふ)村」現在の鳥取市上段(かみだん)。ここ(グーグル・マップ航空写真)。「ひなたGIS」を見ても、戦前も今も、北西の半分は水田で、北東は山裾である。なお、ここは、鳥取城からは、直線でも、八・四二キロメートルも離れていることから、主人公は、藩士としても、高位の者では、ない。鉄砲を使った狩猟が好みであるから、彼にとっては、仕事よりも、都合のよい場所である。

「孫《まご》の分太夫」不詳。]

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「用ヶ瀨藤太郞明神の事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。なお、最終の文章の中には、加工データでは、柿の実の図が、挿入されてある。そこだけ改行して、中央に、その画像を見易く補正して、掲げておいた。]

 

 用ヶ瀨《もちがせ》藤太郞明神《とうたらうみやうじん》の事

 用ヶ瀨の外《そと》に、古《いにしへ》、用ヶ瀨《ふるもちがせ》と言(いふ)村、有り。

 此處(このところ)に岡崎兵太郞《をかざきへいたらう》と言(いふ)人、在宅して居(をり)けるが、同所に藤太郞明神(とうたらうみやうじん)といふ小社(しやうしや)、有り。ことごと敷(しく)、鳥井《とりゐ》など建(たて)、皆々、あがめ、祭(まつり)けり。

 兵太郞、其(その)神名(しんめい)を不審に思ひ、村民《そんみん》に、其ゆへ[やぶちゃん注:ママ。「故(ゆゑ)」]を尋(たづね)ければ、古老の民《たみ》、答(こたへ)て申(まうす)やう、

「是(これ)は、元(もと)、犬《いぬ》にて、二、三十年も已前(いぜん)、此(この)山の奧に、少し、平地《ひらち》、有之(これあり)。牛馬《ぎうば》の飼所《かひどころ》にて、何(いづ)れも放置(はなしおき)、日暮(ひぐれ)には、皆々、引(ひき)て、家に歸りけるが、或時、日暮時分に、七、八歲斗(ばかり)の小童《こわらは》、大勢、集(あつま)り、おどり居候(をりさふら)へども、近在に見なれぬ童にて、村民も、ふしん[やぶちゃん注:「不審」。]ながら、牛馬を引(ひき)、歸りけり。夫(それ)より、每ばん[やぶちゃん注:「晩」。]、右の童共(《わらは》ども)、出(いで)て、遊び、たわむれ[やぶちゃん注:ママ。「たはむれ」が正しい。]おどり候(さうらふ)事、其面白さ、言斗(いふばかり)なく、ひやうし、とり、こゑも、よく、能々(よくよく)うたひ候(さうらふ)を聞候(きゝさうら)へば、

『藤太郞、御(ご)ざらねば、面白し、面白し。』

と、うたひ候(さうらふ)よし。此咄(この《はなし》)、かくれなく、村民、とりとりに[やぶちゃん注:ママ。「とりどりに」。]評《ひやう》し、大(おほ)かた、狸《たぬき》ならん。そのゆへ[やぶちゃん注:ママ。「ゆゑ」。]は、此山(この《やま》)の脇に、大きな穴、有(あり)て、狸、大分(だいぶん)、かくれ、すみけり。是(これ)らが、子共(《こ》ども)にばけて、おどるなるべし。」

と云(いふ)。

 されば、

「うたに、『藤太郞、御ざらねば、面白し。』と言(いふ)は、いかなる事や。」

と言(いふ)に、

「是は、此(この)川向《かはむかひ》、『さじ谷《たに》村《むら》』に居(をり)ける犬の事成(なる)べし。」

と言(いふ)。

 されば、

「其犬を借り、狸を取せて見ばや。」

といふより、若者ども、

「面白からむ。」

と、いさみたち、右、さじ谷の犬主《いぬぬし》を尋ね行(ゆき)、右の趣向を咄《はな》し、

「是非、借候(かしさうら)へ。」

と、賴みければ、犬主、

「成程、かし申(まうす)べし。」

とて、よび出《いだ》し、

「此犬は、一物《いつもつ》[やぶちゃん注:加工データでは右に『(逸物)』と補注する。]にて、何にても、毛もの[やぶちゃん注:「獸(けもの)」。]をとらずと言(いふ)事、なし。去(さり)ながら、物數《ものかず》をとらせ候(さうらふ)には、其數(その《かず》)ほど、にぎりめし[やぶちゃん注:「握り飯」。]を、あたへざれば、とらず。」

と、いふ。

 犬は、黑ぶちにて、四、五歲斗(ばかり)の中犬《ちゆうけん》也。

「其旨(その《むね》)、心得たり。」

とて、綱をかけ、つれ[やぶちゃん注:「連れ」。]歸り、右の咄《はな》しを致しければ、人々、悅(よろこび)て、にぎり飯を、二、三十斗(ばか)り、用意して、大勢、集(あつま)り、藤太郞、犬を引(ひき)、件(くだん)の山に行(ゆき)、かの穴口《あなぐち》に至りて、犬を入候(いれさうら)へば、さつそく、狸を、壹疋、くわへ、出(いで)けり。

 其時、にぎり飯《めし》を壹(ひと)つ、くわせて、又(また)、入(いり)けるに、其儘(そのまゝ)、又、壹(ひと)つ、くわへ出候故(いでさうらふゆへ《→ゆゑ》)、又、めしを、くわせ、又(また)、入候(いれさふら)へば、又、くわへ出(いで)、かくする程に、二、三十斗り(ばか)、狸を取候所(とりさうらふところ)、にぎり飯、つきはて、また、二、三十、用意して、穴に入《いれ》けるに、又、飯、つきて、すべきやう、なし。

「いかにすべき。」

と申(まうす)内(うち)、又、壹疋、くわへ出《いで》て、せいりき[やぶちゃん注:「精力」。]つきけるにや、犬も、其まゝ、いきたへ[やぶちゃん注:ママ。「息絕え」。]、死(しに)けり。村氏《むらうぢ》ども、

「面白き事。」

にて、見物《けんぶつ》しけるが、狸五十疋(ぴき)餘り、取候(とりさうらひ)て、いきたへ候故、皆々、ふびん[やぶちゃん注:「不憫」。]に思ひ、いろいろとすれども、かへらず。

 無據(よんどころなく)、犬主へ、右のわけを、咄し、斷《ことわ》り、餘りの事ゆへ[やぶちゃん注:ママ。「ゆゑ」。]、塚《つか》を、つき[やぶちゃん注:「築(つ)き」。ここは、「土石を突き固めて積み上げる」で「墓を作ること」を指す。]、置(おき)けるが、其後(その《のち》)、小社《しやうしや》を建《た》て、神に、いはゐこめ[やぶちゃん注:ママ。「いはひこめ」が正しい。この場合は、「祝ふ」ではなく、「齋(いは)ふ」である。「神として崇(あが)め祭る」或いは「大切に守る。慎み守る」の意である。「こめ」は「込め」で、「哀悼・信心の気持ちを注ぎ入れる」の意。]候(さふらふ)。

「ふしぎは、其後(その《のち》)、此邊(この《あたり》)に、狸、壹疋(いつぴき)も、見へ不申(まうさず)。」

と語りしと、兵太郞、物語なり。

 傳言(つたへいふ)、

「藤太郞塚ニ、餘程の大木《たいぼく》ノ柹《かき》ノ木、壹本(いつぽん)、アリ。是(これ)ヲ『藤太郞柹(とうたらうかき)』ト言(いふ)。至極(しごく)、味、よき、よし。今に、有之(これあり)ト、ナリ。柹ノ大キサ、『ジンベイ柹』ホドニシテ、形、左ノ如ク、

Hujtarougaki

カヤウニ、長キヨシ。」。

 

[やぶちゃん注:「用ヶ瀨《もちがせ》藤太郞明神《とうたらうみやうじん》」「用ヶ瀨」は現在の鳥取市用瀬町(もちがせちょう)。ここ(当該ウィキ内のマップ)。小学館「日本大百科全書」の「用瀬 もちがせ」に拠れば(必要な一部を太字にした)、『鳥取県東部、八頭郡(やずぐん)にあった旧町名(用瀬町(ちょう))。現在は鳥取市の南端部を占める地区。旧用瀬町は1918年(大正7)町制施行。1955年(昭和30)社(やしろ)、大村(おおむら)の2村と合併。2004年(平成16)国府(こくふ)町、河原(かわはら)町、気高(けたか)町、鹿野(しかの)町、青谷(あおや)町、福部(ふくべ)村、佐治(さじ)村とともに鳥取市に編入。JR因美(いんび)線、国道53号(智頭(ちず)街道)、482号が通じる。西部は岡山県と接する。中心の用瀬は千代(せんだい)川とその支流佐治(さじ)川の合流点に発達した谷口集落で在方商業町。天正』『年間(1573~1592)には景石(かげいし)城があり、近世は智頭街道の宿場町。産業は農林業が主体であるが』、『農家人口は減少傾向にあり、兼業化が進んでいる。米作のほか、ナシ、カキ、ネギ、茶を栽培する。人形(ひとがた)に穢(けがれ)を託して川に流す流し雛(ながしびな)の「用瀬のひな送り」(県の無形民俗文化財)の行事や、県保護文化財絹本着色釈迦』『十六善神(ぜんじん)像、県天然記念物犬山(いぬやま)神社社叢(しゃそう)などがある。』とある。而して、核心の「藤太郞明神」であるが、恐らく、この「犬山(いぬやま)神社」がモデルであろう、と考えられる。グーグル・マップの鳥取市用瀬町宮原にある「犬山神社」の、サイド・パネルにある、拝殿(航空写真:まさに本文のローケーションに合致する「山」の上に拝殿がある。リンクは張らないが、狛犬の造形も、なかなかよく、実際のワンちゃんが、赤いベベを附けた写真もある)の正面上部にある「由緒書」の画像(正式な標題は「因幡葦男(あしおさん)」「犬山神社 由緒」)の冒頭に(読点がないので、読み難い箇所に振り、読み(古代の名称は歴史的仮名遣とした)も推定で一部に添えた)、

   *

大昔弓矢を以つて、鳥や獣を狩をして居た時代、犬を飼いならして、其の猟い用いました。其の犬を飼いならす人等(ひとら)の集りを(犬飼部(いぬかひべ))と云ひました。我が因幡國の犬飼部が本居[やぶちゃん注:ママ。「本拠」。]として住んで居たのは此の地方であり、其狩猟の御山(おやま)として此の山を(犬山)と云います。此の御山(犬山)に御宮を建てて大國主神(おほくにぬし)を初め五柱の神神(かみがみ)を御杞[やぶちゃん注:ママ。「祀」の誤字。](おまつ)りしたので(犬山神社)と申します。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

当該画像は、最後まで読むことが出来ないが、個人サイト「ふらっと神社」の「犬山(いぬやま)神社」で、ズラした二枚の全画像が見られる。しかし、以上の後には、犬関連の記載はなかった。なお、犬飼部(いぬかひべ)については、当該ウィキ(そこでは標題漢字は「犬養部」である。この「養」(或いは「犬甘部」)が正式である)を見られたい。この本文との直接の関係性を、私は、感じないので、特に引用はしない。なお、万一、この神社がモデルではない、と主張される方は、御教授願いたい。

「岡崎兵太郞」不詳。

「是は、此(この)川向《かはむかひ》、『さじ谷《たに》村《むら》』に居(をり)ける犬の事成(なる)べし。」グーグル・マップ「犬山神社」を見ると、東直近に千代川(せんだいがわ)が流れる。但し、「川向」の「さじ谷村」は、「ひなたGIS」の戦前の地図でも、そのように読める村名は見当たらなかった。ご存知の方は、御教授願いたい。

「ジンベイ柹」通称、「甚平(甚兵衛)柿」という品種は存在するが、特に鳥取地方特産というものではないようだ。所謂、図から、丸くなく、実の蔕(へた)の反対側が尖ったものであるが、私がネットで見た「じんべいがき」は丸かった。なお、連れ合いが所持していた柿を特集した、かなり詳しい記事を見るに、私もどこかで、そう教わったのだが、尖った柿は、基本、渋柿であるようだ。
詳細を御存知の方は、お教え下さると嬉しい。

   *

なお、昨日、投稿出来なかった理由を述べる。――昨日、一日掛かって、やっと一月前に発覚した水道洩れは直った。但し、浴室の浴槽をドリルで破壊して、その下の洩れであったから、浴槽はぶっ壊したままである。ずっと、工事を立ち見して、疲れた。まだまだ続く水難である。―― ]

2026/09/06

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「小池元類と言醫師、家の二階に妖物居る事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 小池元類《こいけげんるゐ》と言《いふ》醫師、家の二階に妖物(ばけもの)居(を)る事

 

 近頃、四丁目に小池元類と言(いふ)醫師、有(あ)り。冬の事にて、

「二階に薪(たきゞ)を下《おろ》し候(さうら)へ。」

と、召使の下人《げにん》に申付(まうしつけ)たり。

 下人、心得、其まゝ一階へ上りけるが、

「はつ。」

と、聲を立(たて)、逃下(にげお)りたり。

 人々、

「何事ぞ。」

と、尋ねければ、此男、申(まうす)やう、

「二階には、何やら、ばけ物、出(いで)て、我に、喰付(くひつき)たり。是、御覽候(ごらんさうら)へ。」

と言(いふ)。

 見れば、ひざがしらより、血、ながれて、

「痛(いたみ)、たへかたき[やぶちゃん注:ママ。「絕難き」で「たえがたき」が正しい。]。」

と申す。

 其(その)まゝ、藥《くすり》など、付(つけ)て後《のち》、

「去(さる)にても、喰付(くひつき)たる物、猫か、鼠か、其まゝにては、置(おか)れず。さて、如何樣成(いかやうなる)物、くひ付(つき)ける。」

と尋(たづね)ければ、其人(その《ひと》)、申(まうす)やう、

「何かは、しらず、くらまぎれ[やぶちゃん注:「暗紛れ」。]より、大猫《おほねこ》位(くらゐ)成(なる)もの、目は、二つ、光り、其(その)まゝ、飛(とび)かゝり、喰付(くひつき)たり。」

と、言(いひ)ければ、其(その)まゝにては、置(おき)がたく、近所へ、人を、まはし、賴(たのみ)ければ、卽時に、くつきよう[やぶちゃん注:ママ。「屈强」であるから「くつきやう」が正しい。]の若者共(ども)、寄集(よりあつまり)て、

「棒《ぼう》、飛口(とびぐち)よ。」

と、ひしめき、二階へ上《あが》り、見(み)、薪(たきゞ)を、ことごとく、下(おろ)し、火を、とぼし、四、五人、上り見れば、くたむ[やぶちゃん注:「件(くだん)」。後注参照。]の妖物(ばけもの)、出《いで》たり。

「すわや。」[やぶちゃん注:ママ。「すはや」が正しい。 感動詞 で、感動詞「すは」(「それ! そら!」で、相手の注意を惹(ひ)くために発する語。それに、強調の関頭助詞「や」を付けたもの。]

と、飛口を打付(うちつけ)、引下(ひきおろ)したり。

 庭へ、出(いだ)し、見れば、こは、いかに、壹尺貳三寸(いつしやくさんずん)[やぶちゃん注:三十六・四~三十九・四センチメートル。]程の、さむしやう魚[やぶちゃん注:「山椒魚(さんしやううを)」。後の同表記では注をしない。]なり。

 是(これ)を聞付(きゝつけ)、近邊《きんぺん》の男女《なんによ》、はせ[やぶちゃん注:「馳せ」。]集《あつま》り、見る者、矯し、

「何として、ケ樣(かやう)の物、二階、住(すみ)けるや。」

と、人々、不審すれば、其時、亭主、

「是(これ)は、存當(ぞんじあた)りたる事、有り。二、三年已前(いぜん)、六、七寸[やぶちゃん注:十八・二~二十一・二センチメートル。]なる『さむしやう魚』、さる山家(さんか)より、もらひ、裏庭に、小《ちさ/ちいさ》き池を、しつらひ、此魚(この《うを》)を、はなし置(おき)つるに、いつの頃か、ふつうに[やぶちゃん注:形容詞「不通に」で「よく判らないうちに」の意。]、失《うせ》たり。『扨(さて)は、犬、猫などに、取(とら)れたるか。』と思ひすぎしに、二階に住居(すみをり)けるにや。此者(この《もの》)は、水を、はなれ、かやうの所にも住《すみ》ける物か、ふしん[やぶちゃん注:「不審」。]也。」

と、申(まうし)ければ、何《いづ》れも、けうざめ[やぶちゃん注:「興醒め」。動詞連用形。]、『さむしやう魚』は打殺(うちころ)し、皆々、歸りけり。

 是(これ)、則(すなはち)、玄類の咄《はなし》也。

 

[やぶちゃん注:「小池元類」不詳。最後の一文に拠って、筆者の知り合いであったことが判る。さらに、筆者は町名を出さずに「四丁目」と言っていることから、筆者の住む町と同じ町名と読める。第一話では、ロケーションとして、鳥取県岩美郡岩美町大字浦富(グーグル・マップ右上:向後、指定がない場合は同じとする)であったが、筆者が、そこに住んでいたとするよりも、彼が因幡藩士であったとして、本書を書くに、情報を最も得易いのは、当然、旧因幡國邑美郡(おうみのこおり)の鳥取城(中央)のあった、現在の鳥取県鳥取市内であった可能性が高いと思われる。

「下《おろ》し候(さうら)へ」違和感はない。この場合の「下(おろ)す」は「納めてある物・事前に作ってある物を取り出す」の意である。これは、二階の火鉢等の燃料であろうが、この指示から見て、この時節は晩秋であった可能性が高いと思われる。

「飛口(とびぐち)」「鳶口」が正しい。樫(かし:ブナ科Fagalesの常緑高木の一群の総称。狭義には一般にコナラ属 Quercus のうちの常緑性の種群を、かく、呼ぶ)の棒の先に鳶(タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans )の嘴(くちばし)に似た形の、鉄製の鉤(かぎ)を附けたもの。火事の際に家屋を壊したり、材木運搬の際に引っ掛けたりするのに用いる。単に「鳶」とも呼ぶ。

「さむしやう魚」これは、ローケーション・サイズから、間違いなく、岐阜県以西に棲息する日本固有種である、両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ上科オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus である。大きさから見て、既に成体である。詳しくは、当該ウィキを見られたいが、そこに、『完全水生であり』、『主に標高400メートルから600メートルにある河川の上流域に生息する』が、『河川の中流や下流でも見られることがあり、市街地近くや』、『水田の水路に生息していたことも観察されて』おり、『夜行性で』、『昼間は』、『水辺に掘った巣穴などで休む』とあり、『魚類やサワガニなどを食べるほか』、貪欲であり、『ヘビ類やカワネズミ』(哺乳綱真無盲腸目トガリネズミ(尖鼠)科カワネズミ(川鼠)属カワネズミ Chimarrogale platycephalus :日本(本州・九州)固有種)『を食べた例もある』とする。但し、集まった連中も、小池も驚いている通り、人家の二階に棲息していたというのは、異例なことである。しかし、それは、最後の以下の小池の話で、氷解し、概ね、納得される。そこだけ、訳してみよう。

「二、三年前、六、七寸ほどの大山椒魚を、とある山間の家から生きたものをもらい受け、裏庭に小さな池を拵え、この魚を放しておいたところが、何時(いつ)のころだったか、よく判らぬうちに、見えんようになってしまったのだ。『さては、犬や猫なんどに獲られて食われてしまったものか⋯⋯』と思いつつ、過ぎてしまったのだが⋯⋯二階に住んでおったのであろうか? この生き物、水を離れ、まあ、斯様(かよう)な所にも住んでおったものか?⋯⋯というのも、如何にも不審ではあるのう⋯⋯。」

思うに、オオサンショウウオは、その池の石積みの池畔の間に潜り込んでいたのであろう。しかし、小池がいなくなったと思って、ある時期から餌を撒くこともなくなり、オオサンショウウオに飢餓が始まった。いい加減、ジッとしているわけにも行かず、やおら、池から這い出て、小池邸の外壁の隙間にモゾモゾと入り込み、鼠なんどを食っては、飢えを凌いでいた。そのうち、あちこちと歩き回っているうち、遂に、壁の建て付けの隙間を二階へと登ったものの、今度は、そこから出られなくなってしまい、天井の雨漏りで湿ったところや、樋(とい)の壊れたところで、かろうじて悶々としていたところが、下人が薪を運んでいた納戸の辺りの上か下かで、音を聴きつけ、獲物がいると勘違いし、そこに這い出して、下人に噛みついたものではないか、と、私には思われる。因みに、序でに言っておくと、嘗つては、山陰地方等で、オオサンショウウオは、立派に、人間の食用にされていた。私は、無論、食べたことはない。しかし、食べたことがある人の話を聴いたことがある。石見(いわみ)地方の内陸の山間が出身であった先輩(私より五つ上)で、尊敬していたリベラルな英語教師であった。彼は小さな頃のオオサンショウウオの捕獲法と調理法を、細かく、臨場感タップりに、語って呉れたのだった。茹でる時の強烈な臭いは山椒の域ではないこと、そうして、「ほんと! 美味かったなぁ!」という一言とともに、である。因みに、同種は昭和二七(一九五二)年に特別天然記念物に指定されているから、無論、先輩は、違法であった。

「見る者、矯し」この「矯し」の注に、三日間、悩みに悩んだ。

(*第一日め)■まず、「矯」の字では、しっくりくる読み方が不可能だと感じたのである。大修館書店「廣漢和辭典」を見るに(二行割注は【 】で示した。凡そ、関係ないことが明確なものは、カットした)、第一の意味群には、『①ためる【たむる】』には、『ためてまっすぐにする。』・『ただす。ためなおす。悪いことを但し改める。』・『いつわる。事実をまげいつわる。かこつける。』で、『②ためぎ。矢のまがりをなおす器具。』、『③みだる。みだりに。』、『④もとる。さからう【さからふ】』、『⑤はげむ。』、『⑥つよい【つよし】。たけし。勇ましい。』、『⑦あげる(挙)。』、『⑧とぶ(飛ぶ)。』とあり、第二群には、『①いつわる【いつはる】』、『②たかぶる。また、超然とする。』、第三群には、『①矢が飛びだす。』、『②超然とするさま。』である。どれも、訓読するにしても、音読みして、当て訓をするにしても、どうも、上手くないのである。これらのうちで、一見、宛てられることが出来そうに見えるのは、「强し」「猛し」であるものの、この「見る者」に続く語としては、やっぱりおかしくて、無理なのだ。しかし、苦し紛れに、拘った挙句、

フレーズとしての――「矯めつ眇めつ」――「ためつすがめつ」を勝手に想起した――

のであった。これは

――「人や物に対して色々な方向からつくづくと眺めるさま」――

の意である。本文を「嬌(きやう)し」と読んでおいて、

――「見る者」たちが、皆、「いろいろとなんだかんだと、『納得出来る』正しい答えを探って」――

の意で理解しようとしたのであった。⋯⋯しかし⋯⋯それを直に受ける直後の、野次馬連中の異口同音の台詞は――

「何としてケ樣(かやう)の物、二階、住(すみ)けるや。」

であって、これは、

「一体全体、こんな(水の中にいるはずの)奴が、(こともあろうに、トンデモ場違いの家の中の、それも)二階に棲んでおったんじゃ?!?」

という素朴な疑義の台詞なのである。

⋯⋯取り敢えず、もやもやが残ったままで、就寝したのであった⋯⋯

(*第二日め)■そこで、私は『この「矯」の漢字が誤字・誤判読ではないか?』と考えた。崩し字で似ている漢字を、片っ端から送りがな「し」が続くものを探索した。まず、第一に考えたのは、

――「嬌」の誤字とするもの――

であった。しかし、「嬌」を同じく引くと、『①みめよい【みめよし】。なまめく。なまめかしい。あでやかで媚びを含むさま。』で、『②愛らしい。』、『③愛する。可愛がる。』、『④美女。また、むすめ。』、『⑤嬌娃【キョウアイ】は子供。』、『⑥女のあざな』、『⑦たかぶる。おごる。』で、これでは、凡そ、「し」に繋がらないので、ダメ、である。

(*三日め)■されば、今度は、(つくり)が「喬」の字である漢字を、片っ端から「くずし字」検索にかけて検証し、後に「し」が続いて、しっくりくる漢字を捜した。

――これは――やってみて――全くの徒労であった。

✕それらしい意味があり、且つ、送りがなで「し」を持つ漢字が――全く――見当たらなかった――のである。

 結果して、私は、(第一日め)の最終見解に戻ったのであった。

『まあ⋯⋯「矯めつ眇めつ」観察してみたものの⋯⋯とどの詰りは⋯⋯「なんじゃこりゃあッツ!?!」という台詞に――周囲の人々は――一致した――という意味で採れなくはないかぁ⋯⋯』

という、やや逃げを打ったのであった。⋯⋯しかし、やはり――確信は――ない⋯⋯読者諸君の中に、「もっと、ぴったりな訓読・解釈が出来る!」と言う方、五体投地して御受け申し上げるものである。]

2026/09/05

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「靑木氏家に靈有る事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 靑木氏家《あをきしいへ》に靈《れい》有る事

 

 天祥院公《てんしやう》御代《みよ》、御用人《ごようにん》、相勤居《あひつとめをり》ける人、

「此家《このいへ》に、靈、有りて、見たる人、多《おほく》有りけり。」

と沙汰《さた》しけり。

 佐藤庄助《さとうしやうすけ》は、其《その》時、奧に出來《いでき》、書記役にて、每日、行(ゆき)けり。

 夏の時分にて、夕飯後に、座敷の次の閒(ま)にて、書狀など、したゝめ、すでに晚、申(さる)の刻(こく)過《すぎ》て、大形(おほかた)、暮前《くれまへ》也。

 用事、調度[やぶちゃん注:ここは副詞「丁度(ちやうど)」の誤記であろう。]、思ひ、雪隱(せつちん)[やぶちゃん注:厠(かはや)・便所。]へ、行(ゆき)けり。

 庭の木立《こだち》、しげり、ほのぐらき所なり。

 何心《なにこころ》なく、雪隱の戶を明《あ》けるに、內(うち)に、歲《とし》の頃、十七、八歲斗(ばかり)なる女《をんな》、居(をり)けり。

 庄助も、ふしむ[やぶちゃん注:「不審(ふしん)」。既に第一話にも出た、本書の作者の慣用誤字。]に思ひけるが、

『ぞつ』

として、身の毛も立斗(たつばかり)にや、覺へ[やぶちゃん注:ママ。「覺(おぼ)え」の誤記。]けり。

 其(その)まゝ戶を立(たて)、出(いで)けるが、心の內《うち》、いよいよ、ふしむ[やぶちゃん注:先に同じで「不審」。]し、

『是(これ)は。亭主の妻か。何樣(なにさま)、勝手《かつて》は、遠し。女など、入來(いりき)る所に、あらず。』

と思ふ所に、其家(その《いへ》)の若黨(わかとう)、いそぎ、來(きた)りけるが、庄助が顏色《かほいろ》も、常《つね》ならず、見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]ければ、若黨、庄助に申(まうす)やう、

「御用事《ごようじ》、御調候(《おん》とゝのひさうら)はゞ、此方(この《かた》)へ御越《おこし》し候《さふら》へ。」

といふ。

 庄助、心得て、案內《あない》する所へ行(ゆき)けり。

 扨(さて)、歸りて、若黨(わかとう《→わかたう》)、庄助に申(まうし)けるは、

「何《なん》ぞ、かわり[やぶちゃん注:ママ。「かはり」(變り)。]たる事も御座候哉(ござさうらふや[やぶちゃん注:ママ。「ござさふらふや」が正しい。])。御《おん》けしき、惡敷御座候(あしくござさうらふや)。御咄候(おはなしさうら)へ。」

と、申(まうす)。

 庄助、つゝまず、右の次第を、語る。

 若黨(わかとう《→わかたう》、うなづき、

「とくにも[やぶちゃん注:「疾(とく)にも」。「もっと前から」の意。]、御咄申筈(おはなしもうすはず《→おはなしまうすはず》)に御座候所(ござさうらふところ)、失念致候(しつねんいたしさうらふ)。あの雪隱(せつちん)は、折惡敷《をりあしく》參り候(さうら)へば、每度、ケ樣(かやう)の事、御座候(ござさうらふ)。去共(されども)、くるしからぬものなり。」

と申(まうす)。

 庄助も、

「かの女を見《み》、ぞつと、身の毛立《けだち》て、顏色《がんしよく》あしく成(なる)事、若黨(わかとう《→わかたう》)のおもわく[やぶちゃん注:「思惑」。]、はづかしく存《ぞんず》る。」

と言《いひ》けり。

 其時、此(この)家に、靈、有(ある)事を、知りけり。

 夫(それ)より、十四、五年も過(すぎ)て、米村平作、御城にて、庄助《しやうすけ》に逢(あひ)、ひそかに、右の咄《はなし》、聞(きゝ)けり。

「我やしきがへ致候(いたしさうらふ)に付(つき)、其(その)實《じつ》を承度(うけたまはりたし)。」と、言《いひ》ける、と、なむ。

 其(その)時分は、庄助、御祐筆役(ごひつやく)なり。

 此(この)咄、庄助、物語(ものがた)り也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「靑木氏家《あをきしいへ》」ネット検索したところ、信頼出来る複数のサイトで「青木」姓の藩士は、いる。しかし、本話のニュアンスでは、ロケーションとなる屋敷は、一介の藩士の家ではなく、御用人・書記役が出入りする屋敷であるからには、相応の高い地位にある人物でなくてはならない。と言うより、標題の「青木氏」の「家」とする具体な表現が、本文そのものに出現しないのは、極めて奇異である。これは、青木家が、由々しき高位の人物ゆえなればこそ、姓を示すのを、遠慮したものとも考えられた。そこで、国立国会図書館デジタルコレクションで「因幡 青木 御用人」で検索を行ったところ、一つの論文を見つけた。大嶋陽一・四井幸子・芝田尚子共著『鳥取県鳥取藩領因幡国岩井郡大庄屋中島家「御用日記」翻刻 その二』(『鳥取県立博物館研究報告』・二〇一三年三月三十日発行)で、そこに『御郡奉行』で『吟味役』の『青木甚太夫』なる人物が記載されてあった。解説に『正徳元、二年』『(一七一二、一三)』の『当時の』『関係役人』『在方役人』であることが示されており、この青木甚太夫の十数件の記載が確認出来る。この時期は、次で注した本話の時制内に含まれている。されば、この「靑木家」とは、この『青木甚太夫』であることが、ほぼ確定出来るのではあるまいか?

「天祥院公《てんしやう》御代《みよ》」「天祥院」は因幡国鳥取藩第三代藩主池田吉泰(貞享四(一六八七)年~元文四(一七三九)年)の戒名の院号。彼は、鳥取藩主池田光仲の次男池田仲澄の長男であったが、元禄八(一六九五)年、九歳の時、鳥取藩二代藩主池田綱清の養子となった。元禄一三(一七〇〇)年、十四歳で、綱清より、家督を譲られ、没年まで藩主を務めた。

「佐藤庄助」最後に、聴き取りした際には「御祐筆役」であったとあるが、調べてみたが、不詳。

「申(さる)の刻(こく)」午後三時から午後五時だが、続いて「過《すぎ》て、大形(おほかた)、暮前《くれまへ》也」とあるので、午後五時過ぎである。

「用事、調度、思ひ、雪隱(せつちん)へ、行(ゆき)けり。」割注では、『副詞「丁度(ちやうど)」の誤記であろう。』と書いたが、この一文を眺めるに、文章としては、おかしい。『やらねばならない「用事」を忘れていたのを思い出したのだが、丁度、便意を催していたので、ともかく、急ぎ、雪隠に行った。』という謂いであろう。なお、「雪隱」の語源は、ネットに幾つかあるが、森本行洋(もりもとゆきよし)氏のサイト「古墳のある町並みから」の『「せっちん」の由来について考える』がよい。複数説をそれぞれ考証しており、お薦めである。

「勝手」台所。

「若黨」武家奉公人の一種。中世では、年輩の侍である「老党」に対し、主人の身辺に仕えた若輩(じゃくはい)の侍に使った。近世では、大身の武家に仕えた軽輩を指し、その身分は徒士(かち)と足軽との中間に置かれ、始終、主人の身辺にあって、雑務・警固を担当した。彼らは百姓・町人出身の一季・半季の出替(でがわり)奉公人であり、給金は一ヶ年三、四両を相場とした(以上は小学館「日本大百科全書」を主文とした)。

「米村平作」国立国会図書館デジタルコレクションの「鳥取県の諸職 鳥取県諸職関係民俗文化財調査報告書」(鳥取県立博物館編・一九八六年鳥取県教育委員会刊)のここで、『享保16年、米村平作の領内大船造りの奨励策があり』とあり、時制上も問題ないので、この人物である。一応、「こめむらへいさく」と読んでおく。

「御祐筆役(ごいうひつやく)」。「祐筆」(祐筆:現代仮名遣「ゆうひつ」)は「右筆」「執筆」とも表記する。中世・近世に置かれた武家の秘書役を行なう文官。本来は、文章の代筆が本来の職務であったが、徐々に公文書・記録作成等も行った結果、事務官僚としての重い役目を担うようになっていった。]

2026/09/04

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「阿波國の浪士に生靈の付居ける事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。] 

 

 阿波國《あはのくに》の浪士《らうし》に生靈《いきりやう》の付居(つきをり)ける事

 

 光仲公《みつなかこう》御代(みよ)、阿波の浪士壹人(いちにん)、因幡に來(きた)り。身上《しんしやう》、望居(のぞみをり)ける程に、若き衆(しふ→《しゆう》)、ちなみ、多く成り、其(その)中にも、わけて、四、五輩、こむせつに[やぶちゃん注:「懇切(こんせつ)に」。]參會《さんくわい》しけり。

 然(しか)るに、此(この)浪人、夜《よる》は、咄《はなし》に出(いで)けれ共(ども)、五時分《いつつじぶん》[やぶちゃん注:近世の時刻の数え方。ここは、「夜五ツ」で、現在の夏至で午後九時過ぎ、春分・秋分では八時半頃、冬至で午後八時前頃を指す。]には、

「用事あり。」

とて、早く歸りけり。

 度々(たびたび)の事なれば、人々、ふしむ[やぶちゃん注:「不審(ふしん)」。後に複数回出るが、注は、しない。]して居(おり《→をり》)けり。

 其身(その《み》)の宅へ呼(よび)ても、五時分には、いねぶり[やぶちゃん注:「居眠り」。]ければ、咄に行(ゆき)ける人も、早く、歸りけり。

 人々、打寄(うちより)、

「いかにとしても、ふしむなり。其身(その《み》)、獨身成(な)り。外《そと》に、用事、可有(あるべき)に、あらず。如何樣(いかさま)、『忍《しの》び妻《つま》』なども有りけるや。其儀(その《ぎ》)ならば、申合(もうしあはせ《→まうしあはせ》)、四、五人、夜話《よばなし》に行(ゆき)、樣子をうかゞひ、一笑《いつしやう》すべし。」

と、三、四人、言合《いひあは》せ、暮《くれ》時分より、壹人(いちにん)づゝ、寄集(よりあつま)り、申《まうし》けるは、

「今夕(こんせき)は、幸(さいわい《→さいはひ》、何れも𨻶(ひま)也(なり)。夜更《よふけ》る迄(まで)、咄(はなす)べし。」

と、いへば、亭主も悅(よろこび)、

「忝(かたじけな)し。」

とて、もてなし、物語、時をうつしける。

 夜も、やうやう、更(ふけ)ぬれば、

「もはや、皆々、御歸り候(さうら)へ。」

と、いへば、四人の若者、申(まうし)けるは、

「『今夕(こんせき)は、迚(とて)もの事に、夜明(よあか)しに咄(はなす)べし。』とて、申合(まうしあはせ)、來《きた》りたり。御ふせう[やぶちゃん注:「御不承」。]ながら、御咄(おはなし)候(さふら)へ。」

と、いへば、亭主、打笑(うちわらひ)、

「たゞし、何も、もてなしはなけれども、夜明(よあか)しに語給(かたりたま)へ。」

とて、木枕(きまくら)取出(とりいだ)し、樂《らく》に、ねころび[やぶちゃん注:「寢轉び」。]、咄(はなし)ける。

 夜も、やうやう、丑(うし)の刻(こく)になりければ、いねぶり、しきりに付(つき)たり。

 然共(しかれども)、四人、目と目を見合(みあはせ)て、こらへたり。

 亭主は、とくより、ね入て[やぶちゃん注:「寢入(ねい)りて」。]、前後も、しらず。

 然(しか)るに、誰共(《たれ》とも)しらず、緣《えん》のしやうじを、しづかに明(あけ)て、入者(いるもの)あり。

「何ものぞ。」

と、見れば、十六、七斗(ばかり)なる、みめよき女房なり。

「さればこそ。」

とて、四人ながら、ね入(いれ)たるたい[やぶちゃん注:「體・躰」等だが、「てい」が普通。]にて居(をり)けるに、此女房、亭主が側《そば》へ、立寄(たちより)、見て、立上(たちあが)り、座敷のてい[やぶちゃん注:漢字は前に同じ。]を見て、立出(たちいで)て、又、しやうじを、しづかに明(あけ)て、外へ出《いで》て、しやうじを、たてける時、見けるに、しやうじに、かゝりける指、うつくしき事、言ふ斗(ばかり)なし。

「扨は、いよいよ、しのびものに、違《たがひ/ちがひ》、なし。」

と思へども、此(この)女《をんな》、入來(いりきた)る時分より、歸るまで、夢うつゝ共(とも)、しかと、覺へず[やぶちゃん注:「覺えず」が正しい。]。

 是(これ)、ふしむ[やぶちゃん注:前に同じ。]の所なり。

 とかくする內(うち)、夜明(よあけ)近くなりければ、みなみな、

「歸らむ。」

とて、亭主に、いとまごひをするに、能(よく)、ね入(いり)て居(をり)けり。

 人々、立寄(たちより)、

「もはや、目さまし給へ。」

と、いへば、亭主、目を覺《さま》しければ、四人の者、口を揃(そろへ)て、くたむ[やぶちゃん注:「件(くだん)」。]の樣子を物語(ものがたり)、

「こなたには、隨分、入魂(じつこん)に致(いたし)、御咄し申(まうす)に、かくのていは、よそがまし。」

と、うらみ、かこち、申(まうし)けれは、亭主、聞《きき》て、

「御ふしむ、御尤に候。扨々(さてさて)、はづかしき事ながら、其(その)實(じつ)を明(あか)さむ。我(われ)、生國《しやうごく》阿波(あは)にて、若き時、去(さる)町人の娘《むすめ》、みめ好(よき)に、ほだされ、ふと、なじみて通《かよ》ひけるが、元(もと)より、身上《みのうへ》、望(のぞみ)有れば、『妻など、相具(あいぐ《→あひぐ》)すべきやう、なし。』と思ひ、緣を切り、其後(その《のち》)、御當國《おんたうごく》へ參りけるが、女は、ふかく、思ひにしづみけるにや、さまざま、はなれがたきやうす[やぶちゃん注:「樣子」。]申越(まうしこし)けるが、され共(ども)、二盃《ふたつさかづき》とり、合(あひ)もせざりしに、親どもは、此事を、しらざりしにや。まもなく、同じ町人の方《かた》へ、遣(つかは)しけり[やぶちゃん注:嫁に行った。]。されば、なじみて、子も、二人、出來《できたる》たるよし。され共(ども)、此女(この《をんな》)、執心(しうしん)、今に殘りけるか、『阿波より、爰元(ここもと)へは、海上《かいじやう》を、かけ、山川(さんせん)、數十里をへだてたれ共(ども)、其(その)執心(しうしん)は、かよひ申(まうす)や』と覺へ[やぶちゃん注:ママ。「覺え」が正しい。]候《さふらふ》。しかれば、每夜、丑(うし)の刻(こく)[やぶちゃん注:午前二時。或いは、午前一時から午前三時の間。]の頃に、ゆめのやうに覺(おぼへ《→おぼえ》)、見へ[やぶちゃん注:ママ。「見(まみ)え」。]來《きた》り候(さうらふ)。今夕(こんせき)、皆々へ見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]ける事、近頃《ちかごろ》、近頃、はづかしき事《こと》。かならず、外《ほか》へ、御沙汰(おさた)、御無用(ごむよう)。」

と、申(まうし)ける。

 人々も、きひ[やぶちゃん注:ママ。「奇異(きい)」。]の思ひを、なしけり。

 扨(さて)、退參《たいさん》して後《のち》は、此(この)浪士、ふらふらと煩(わずらひ《→わづらひ》)けるが、半年斗(ばかり)過《すぎ》て、むなしく成(なり)けり。此咄(この《はなし》)、其(その)出合《いであひ》し四人の內《うち》、吉田氏(よしだし)の物語なり。

 

[やぶちゃん注:「光仲公《みつなかこう》御代(みよ)」因幡鳥取藩初代藩主池田光仲(いけだみつなか 寛永七(一六三〇)年~元禄六(一六九三)年:脳卒中による死去で享年六十四(満六十三歳))。徳川家康の外曾孫で、別姓は松平。寛永九(一六三二)年四月三日に父忠雄(ただお/ただかつ)が死去し、わずか三歳で家督を継いだので、後見人が充てられた。彼が領国に初入国し、鳥取城へ入ったのは、寛永一八(一六四一)年であった。貞享二(一六八五)年に長男綱清(つなきよ)に家督を譲って、隠居している(以上はウィキの「池田光仲」に拠った)。さて、この「御代」は、物理的には、事実上の寛永九(一六三二)年から貞享二(一六八五)年までを閉区間となるもの、冒頭注で示した通り、本「因幡怪談集」の所収の話の中で、年代の下限は寛延二(一七四九)年であると、校訂者伊藤龍平氏は述べておられることを考慮すると、最後に出る、実際に、この話に登場する『吉田氏』が存命でないとおかしい(未詳の本書の筆者が直(じか)に聴いた話とするのが、この手の怪談の鉄則である)ので、自ずと、この「御代」は、実際には以上の区間の、かなり後半での時制に限られてこよう。なお、初回に冒頭注でも触れたが、伊藤龍平氏は「解題」の中で、この「因幡怪談集」の作者は『武士階級に属する者であったのは間違いない』とし、さらに各話の年代設定に言及され、この光仲に係わる話を指示して、『これ以前の話は『因幡怪談集』にはない。編者が因幡藩士であることを思えば当然の仕儀ではある』と述べておられる。

   *

この話、実話談の体裁を採っており、全体に創作的な臭さが、ない。似たような怪談は私の電子化注したものには、かなりあるが、必ず、わざとらしい箇所があるのが普通である。されば、私は、これを高く評価するものである。]

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)~起動/「岩井郡浦留にての妖怪の事」

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」で『「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)』を起動する。この作品は、ネットで調べても、ちゃんとした書誌データが見当らないものであり、筆者不明で、これは、現在、鳥取県立図書館が所蔵するもの以外には存在しないものであり、恐らく、御存知ない方の方が圧倒的に多いと思われる。所持する二〇〇三年国書刊行会刊『江戸怪異綺想文芸大系 第五巻』(高田衛監修・堤邦彦/杉本好伸編)の「近世民間異聞怪談集成」(二〇〇三年刊初版)に所収する伊藤龍平氏が校訂されているもののみが、現在、活字で読める唯一のものである。国立国会図書館デジタルコレクションで横断検索しても、ものになる記載は皆無であった。結果して、信頼出来る書誌情報は、前掲書の伊藤氏の解題に拠る以外には、ない。以下、ポイントを押さえて示す。

 本鳥取県立図書館蔵の「因幡怪談集」は、写本で、現在まで、他の伝本は見つかっていない。但し、写本を書いた人物は『裏表紙の「重松宣喜』(のぶき? のぶよし?)『蔵書」『とあり、書写の時点で』、『すでにこの題が用いられていたらしい』と述べられた後、初っ端から『成立については不分明な点が多い。』と記しておられる。そして、この写本は、実際の本文を持つ立項話は『三十八話から成るが、目録題の後には「追加」と記されており、現存の『因幡怪談集』よりも収録説話の多い原『因幡怪談集』と呼ぶべき作品が存在していたことが推察できる』とし、「目錄」の途中に、書写した重松氏によって――本文がなく、目録だけで、その当該話柄が載っていない。追って知れる者があったなら、追加して、書き入れる。――と言った意味の注意書きがあって、しかしながら、実際に、その十二の目録標題に相当する本文は、遂に写されていない、と解説され、『この点からも原『因幡怪談集』の存在が裏付られよう。』とある。しかも、私自身も、解題を読まずに、「近世民間異聞怪談集成」本文を読んだ際、奇妙に感じたのだが、本文の途中に、別な目録が十四題、突如、載るのである。そこで、伊藤氏の解題を見たところが、これを『不可解』とされ、『二つ目の目録以前の話』『と以後の話』『を比べてみると、記述に若干の相違が見られる』とされ、『前半の話に多い年代の明示』『が後半にはほとんど見られず、わずか一話にとどまる』ことなどから、『これを単純な錯簡とは見做せないのである』と述べておられる。而して、伊藤氏は、よく似た同一地方に限った怪奇談集を考証して見るに、『当時の因幡地方において、怪談が好まれる気風があったことは想像に難くない。『因府夜話』は寛保年間の成立、『雪窓夜話』は宝暦年間の成立である。『因幡怪談集』所収のうち、年代の『因幡怪談集』所収の話のうち、年代の下限は寛延二年(一七四九)で、成立はこの少し後と推察される』と述べておられる。以下、本篇の怪談を、柳田國男が提唱した『今日の説話の分類でいうところの世間話(同時代が舞台の、いくぶん真実味のある話)に相当』するとされ、さらに、各話の主人公の身分から、『原本の編者が、武士階級に属する者であったのは間違いない』と解析されておられる。伊藤氏の解題は、本「近世民間異聞怪談集成」の中でも、目から鱗で、群を抜いて素晴らしいものである。同書から、今まで複数の「怪奇談集」で基礎データを使用して電子化注をしてきたが、この本の他のものの中には、驚くべき杜撰な箇所が散見するものがあり、定価一万九千八百円という大枚に何度も憤激を感じたものだったが、今回は、溜飲を下げたものであった。そういう意味で、不肖な私乍ら、伊藤氏を非常に高く評価させて戴くものである。

 なお、以上の伊藤龍平氏校訂になる「近世民間異聞怪談集成」の本文をOCRで読み込み、加工データとした。ここに御礼申し上げる。

 ここでは、私のポリシーとして、以下の仕儀を凡例と規定した。

◎漢字は、基本、恣意的に適切と判断した旧字に変更した。複数の字形があるものは、私の好みのものを当てた。少なくとも、その方が、結果して原本に近い可能性が高くなるという推断からである。

◎各個標題は五字下げポイント上げであるが、ブラウザの不具合を考え、一字下げ同ポイントとした。これは、ブログ表題が、既に、その役割を代替していると判断したからである。なお、ブログ表題については、五月蠅いので、読みはカットし、句読点などの追加もしていない。

◎ルビは、( )で添えた。

◎原本を原作者が歴史的仮名遣を誤っている箇所(かなり多い)は《→ 》で正しい仮名遣を添えた。

◎読みの補助が必要と私が判断したものについては、推定で歴史的仮名遣で《 》を以って、訂した。読みが複数ある場合は、第一候補を先頭にし、後の候補を「/」を挟んで示した。実際、読みを附さないと、普通の若い読者でも、戸惑うものが多いため、結果して、多量に読みを追加することとなった。初めは、対象を高校卒業レベルで禁欲的に施そうとしたが、ネイティヴでない読者には、それでは、随所で躓くと予想されたからである。因みに、私の怪奇談テクストで、ここまでオリジナルに読みを附したものは、特異点である。

◎句読点については、私が正しいと判断したものに変え、或いは、あった方がいいと判断した箇所には、独自に、多く、追加してある。

◎直接(間接)話法、及び、あった方が読み易いと考えた箇所には、鍵括弧・二重鍵括弧を用い(加工データでは、二重括弧を独立して使用している箇所があるが、原本にそれが使用されていることは、通常、あり得ないので、勝手に変更してある)、また、恣意的に自由に改行した箇所を設けた。

◎心内語の場合は、必ず、二重括弧で括った。

◎踊り字「〱」「〲」は、私が生理的に嫌いなので、正字に換えた。

◎概ね、若い読者・ネイティヴでない読者を対象として、注を附した。

★最後に述べておくと、加工データを見るに、明らかに、意味を以って読めないフレーズや漢字が、複数、認められる。それは、原本を見られないため、原本の誤記なのか(但し、その場合は、加工データでは、必ず、傍注が附されてある)、いや、失礼ながら、校訂者伊藤龍平氏、或いは、判読に係わった伊藤氏の関係者の方々が誤読した可能性もゼロとは言えない(底本の他の別な担当者が校訂している怪談集で、別に私が原本・異本を判読したものもある。その中には、凡そ、ド素人が判読したのではないか? と呆れるほど、杜撰なものがあり、校訂者に質問状を出そうと思って調べると、既に仕事をやめているらしく、所在不明であったことがあった)。そこでは、一々、「失礼ながら」という前置きを附さないこととした。悪しからず。

 なお、二つ存在する標題目録は、凡てが終わったところで示すこととする。]

 

 岩井郡《いはゐのこほり》浦留《うらどめ》にての妖怪《やうくわい》の事

 

 享保(きようほう《→きやうほう》)年中の事也(なり)。

 浦留は、鵜殿《うどの》大隅領所《おほすみりやうしよ》也。屋敷茶屋、有り、家來も數輩(すはい)、住(ぢゆう)す。

 然(しか)るに、給人分《きふにんぶん》の者何某(なにがし)、此人(この《ひと》)、夜獵《やれふ》を好(このみ)て、大方(おほかた)、每夜《まいよ》、出行(いでゆき)けり。

 又、或(ある)時、日暮《ひぐれ》て、秋の事也(なり)しに、例のごとく、出行(いでゆき)けり。

 常に出入(いでいり)ける町人《ちやうにん》、來り、其人を尋(たずね《→たづね》)けるに、はや、例《ためし》の通(とおり《→とほり》)、夜獵に出《いで》て、留守なり。少し用事も有《あり》けるにや、其人の歸るを待《まち》て、夜半過(やはんすぎ)まで居(をり)けれども、歸らざりければ、ふしむ[やぶちゃん注:「ふしん(=不審)」の原本の誤記。]をなし、

「いつも、亥(ゐ)の刻(こく)の時分には御歸《おんかへ》り候(さうらふ)が、何とて、ケ樣(かやう)におそく御歸候(《おん》かへりさうらう《→かへりさふらふ》)や。若(もし)、又(また)、氣分共(とも《→ども》)、惡敷(あしき)は、是(これ)、なきや、心もとなし。」

とて、

「むかゐがてら[やぶちゃん注:「迎へがてら」の誤記。]に參候半(まゐりさうらはん)。」

と、男壹人(いちにん)、召連(めしつれ)、いつも行(ゆく)山路《やまぢ/やまみち》は存《ぞんじ》の事なれば、男と貳人(ににん)、松明(たいまつ)を、とぼし、むかい[やぶちゃん注:ママ。「むかひ」。]に出(いで)けり。

 いつも行(ゆく)山路へ行(ゆき)けるに、道より、少し、ひきゝ[やぶちゃん注:「低(ひき)き」。]所、有(あり)。

 たれ共(とも)しらず、人の、ふし[やぶちゃん注:「臥し」。]たるやうに見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]ければ、松明(たいまつ)を、ふり上(あげ)、あかりにて、能々(よくよく)見れば、其(その)人なり。

 立寄見(たちより《み》)れば、息たへ[やぶちゃん注:ママ。「息たえ」。「息絕え」。]て、伏《ふ》しい[やぶちゃん注:ママ。「ゐ」]たり。

 貳人(ににん)の者、驚(おどろき)て、水など、求め、口にそゝき[やぶちゃん注:「注(そそ)き」。]ければ、いき出(いで)たり。

 やうやう、人心付(《ひとごころ》つき)、本正(ほんせう[やぶちゃん注:ママ。「ほんしやう」。])になりて、

「これは。いかやうの事にてか。」

と、尋(たずね《→たづね》)ければ、其(その)人、申(まうす)やう、

「例《れい》の通り、引(ひき)[やぶちゃん注:目的語は「犬を」。]、方々(ほうぼう[やぶちゃん注:ママ。「はうばう」。])あるきけれども、得物(えもの)も、なし。『もはや、夜、(ふけ)更たり。歸らむ。』と、犬を引(ひき)、歸りけるに、此上の山にて、犬、すゝまず。しかれ共(とも[やぶちゃん注:「ども」に同じ。])、追立(おひたて)て、前ヘ、やりけるに、犬、何方(いずかた[やぶちゃん注:ママ。「いづかた」。])へやら、不通(ふつう)に、見へず[やぶちゃん注:犬の反応がなく、闇の中に見えなくなって、姿を失ったことを言う。]。くらき夜なれば、しばし[やぶちゃん注:「暫し」。]、たゝずみ、犬を呼《よび》けるに、何ものともしらず、犬を、我(われ)に、打(うち)つけたり。『こは、いかに。』と思ひ、刀《かたな》の柄(つか)に、手をかけ、見るに、ぬけず。とやかくする內《うち》に、何やら、我(わが)首筋《くびすぢ》を、つかみ、『中《ちゆう》を、なけられし。』[やぶちゃん注:何者かに中空(ちゅうくう)に投げられた。]と思へば、氣をうしなひ、前後不覺(ぜんごふかく)。」

と言(いふ)。

 犬を尋ねけるに、四、五閒(けん)[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]外《そと》の笹原《ささはら》に、二つに引(ひき)さき、捨《すて》て、有(あ)り。

「まづ、はやく、歸られ候(さうら)へ。」

と打連(うちつれ)、宿《やど》に歸りけるに、夜《よ/よる》も、ほのぼのと明(あけ)たり。

 其後(その《のち/ご》)、かはりたる事も、なし。

 思へば、天狗か、山の神の所爲(しよゐ)と見へたり。

 

[やぶちゃん注:「岩井郡《いはゐのこほり》浦留《うらどめ》」平凡社「日本歴史地名大系」の「浦富村 うらどめむら」に拠れば、旧『鳥取県岩美郡』(いわみのこおり)『岩美町』(いわみちょう)『浦富村』とし、現在地名を『岩美町浦富』とし、『現岩美町域の中央北端に位置する。する。正確には、現在は鳥取県岩美郡(いわみぐん)岩美町(いわみちょう)大字(おおあざ)浦富(うらどめ)で、ここである(グーグル・マップ)。以下、『正保期(一六四四―四八)作成と推定される因幡国絵図(県立博物館蔵)に浦住宿とみえる。元禄郷帳作成時に浦富村と改めたが(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)、浦留』(☜)『とも記し(「在方御定」など)、南の町浦富(まちうらどめ)村に対して、本浦住村・本浦留(もとうらどめ)村・浜浦富(はまうらどめ)村とも通称された(「檀徒寄進帳」金剛院旧蔵など)。天正九年(一五八一)から慶長五年(一六〇〇)まで巨濃(この)郡を領有した垣屋恒総』(かきやつねふさ)『が南西の桐山(きりやま)城を本拠地として桐山東麓に居館を構えていた。西にある支村の田後(たじり)村は享保一九年(一七三四)以前に領内限りで一村となっていたと考えられる(同年鈴木孫三郎所持本「因幡誌」など)。藩政期の拝領高は六三〇石余。本免は四ツ九分。山役米一斗を課されており、天保三年(一八三二)の山林は二八町三反余(藩史)。鵜殿氏』(☜)『の給地であった(給人所付帳)。前掲「因幡誌」によれば高八七〇石、竈数四〇余。文政五年(一八二二)の岩井郡組合帳(勝山家文書)によれば家数九五』とあった。

「享保(きようほう《→きやうほう》)」一七一六年から一七三六年まで。謂わずと知れた吉宗の治世。

「鵜殿《うどの》大隅領所《おほすみりやうしよ》」まず、鵜殿氏であるが、しばしばお世話になっているサイト「城郭放浪記」の「因幡 鵜殿大隅陣屋」に拠れば、『鵜殿氏は鳥取藩主池田氏の家老で五千石を領した。池田光仲の父池田忠雄の生母督姫は家康と鵜殿長持の娘との間に生まれた子で、鳥取藩鵜殿氏はその縁によって家老を務めた。』とある。そして、ネットで調べると、この鵜殿氏は、代々、通称として「大隅(おおすみ)」を名乗る人物(「鵜殿大隅守」など)を多く輩出しており、彼らが治めた鳥取県内の自分手政治(じぶんてせいじ:家老が独自の裁量で治める特別な領地)の区域・拠点を「大隅領」あるいは「大隅陣屋」と呼ばれたのであった(ネットのサイトによっては、「大隅」を「大隈」と表記するものもある。読みは同じであろう)。而して、現在、浦富地区に「旧:御陣屋(鵜殿大隅陣屋跡)」がある。本話のロケーションを理解し易くするため、同陣屋後背にある山地地帯を見ることが出来るグーグル・マップ航空写真をリンクしておいた。また、左のサイド・パネルのこの画像で、岩美町教育委員会による解説板「御陣屋跡」を視認出来るので、見られたい。

「屋敷茶屋」これは、狭義には、恐らく「お茶屋屋敷」で、江戸初期に徳川家康が上洛の往還に際し、休泊のために岐阜県大垣市に設けた施設を指すが(当該ウィキを見よ)、ここでは、鳥取藩(因幡国・伯耆国)にあって、前に出した重臣が治めた自分手政治の特別な地区内の武家屋敷(陣屋・自分屋敷)の周辺に、商業的な茶屋が附属的にあったものを言っているものと思われる。

「給人分《きふにんぶん》の者」この場合は、広義の、主君から領地・扶持(俸禄)を貰っている家臣の上・中級の武士を指していよう。下級武士になると、領地はない場合もあろうが、この男、「夜獵《やれふ》を好(このみ)て、大方(おほかた)、每夜《まいよ》、出行(いでゆき)けり」とあることから、以上のように採った。でなければ、夕刻から夜間に、年がら年中、自由に、正式には陣屋領である後背の山間などに入って、自由に狩猟をするなどというのは、絶対にあり得ないことだからである。

「亥(ゐ)の刻(こく)」定時法では、ほぼ午後九時から午後十一時。不定期法では、秋は九時頃から十時四十~五十分頃まで。

「山の神の所爲(しよゐ)」個人的には、これには違和感がある。山の神は禁忌に厳しいとされ、山の神の祭日とされる期間の人の入山を嫌い、ウィキの「山の神」には、『長野県南佐久郡』の例として、『大晦日に山に入ることを忌まれており、これを破ると「ミソカヨー」または「ミソカヨーイ」という何者かの叫び声が聞こえ、何者か確かめようとして振り返ろうとしても首が回らないといい、山の神や鬼の仕業と伝えられている』とある。当事者の語りの中の『何やら、我(わが)首筋《くびすぢ》を、つかみ、『中《ちゆう》を、なけられし。』』という異常体験と、やや似ているように見えはするが、私が知っている限りで、確かに「山の神」の行為として――犬をまっ二つに引き裂いて捨てる――という残忍な仕打ちをするというのは、彼女らしくないからである。]

2026/09/02

「駿國雜志」(内/怪奇談)電子化注~同怪奇談の部の「目錄」(全)

[やぶちゃん注:今年の六月九日に本文注を終えていたのだが、他の複数のプロジェクトがあったこと、及び、私の意志ではない下界の仕事が意想外に増えたため、最後に「目錄」を附すのを、すっかり忘れていた。ここに、お詫びする。

 底本では「目錄」は、ここからと、ここからに分離してある。原文は御覧の通り、四段組であるが、ブログのブラウザの不具合を考え、二段組とした。また、底本が綺麗に各標題を各段で均等割にしてあることや、字下げ・各中標題(郡名)・標題の中の字空け等は、一部を除いて、再現していない。各話へのリンクも面倒なので、附していない。但し、私のブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」を開いた状態でご覧になられれば、容易に当該話を見出せるので、それでお願いする。]

 

駿 國 雜 志 卷之廿四上目錄

 

   怪    異

    有  渡  郡

天女失羽衣      子安神奇

献蠶產成字      㷠火

猫蜜柑        龍飛舟

石燈龍靈驗      馬骨治病馬

地藏佛食麪      笛吹松

神戱         姥か池

櫻塚         古墳靈驗

靈佛顯梢上      地藏佛好酒

面形有靈       村神忌縨

楠皮治瘧       臺所町無井

奇獸         蛇怪

弁忍田池龍      彌陀佛苗植

軍神坊の奇      狐唄謠

釜領の怪

    庵  原  郡

諸貝化石       北條氏堯現靈

孕女爲崇       龍落爪爲山名

龍爪神異       三角白鹿

白髭社怪       牛化石

布疊         蛸化爲僧

奇兒現橋上      幽靈火

藥師佛乘蟹出現    菊女爲祟

大船若經の奇怪    淸見關觀音告凶

    富  士  郡

雨灰         大宮神木發煙

獵師殺鬼       毒龍受牲

人穴怪        富士河怪

富士山北麓鼠怪    富士沼水鳥怪

人穴奇怪       富士山奇景

曾我祐成幽魂告苦

 

 

 

駿 國 雜 志 卷之廿四下目錄

 

   怪    異

    駿  東  郡

神木鳴動       釜化河伯

箭柄墳奇事      桃澤池奇怪

小龍爲佛身      私雨

    安  倍  郡

國分寺大蛇呑經    國分寺藥師佛奇

賤機山奇瑞      白狐裂死

雨米花        稻荷神爲方違

山吹猫        出世猫

禁杜若謠       禿榎

山姬井        杜若小屋

狸小屋        嘹小屋

逆柱爲怪       良眞靈

花畠怪        僧眞範怨鬼

兩蝕         怪男

奇男         奇火

夕日如火       府中町怪異

飛神         怪雷告凶

怪雲         大風雨遲速

飢饉騷動       狸施灸治

陰摩羅鬼       法明寺楠

椎田池怪       木枯森奇

鯨池龍        海野某顯靈

淺畑池夥池雩     肥付石

老婆殺河伯      異人行翁

祖益化牛       淚雨

異獸         こもとうの靈

山神悅惣髮      山男

產女         生奇竹

壯士契亡妻      うば狐

芭蕉謠の怪      杜若の精靈告凶

御城內犬の奇     神隱

燈明榎の怪      淸水御櫓の奇

瘧神人と媱

    止  駄  郡

水上池惡龍      大蛇

臼祖母岩       鬼巖

不動尊告夢      如意寳網珠

阿彌陀佛遁火災    翡翠啄佛像

富土見井       狼携嬰兒

震動         楚世乃木

狒々         隣村禁婚

鬼火         於魯知

蛇蛻         奇火

朝比奈河奇      蛇崩

白蛇         沙中木佛示靈

蛇玉         木葉天狗

    益  頭  郡

巨蟒化美童      猪田墓

僞の橋        福井長者爲念佛質

神木古楠       觀音奇瑞

逢異叟        めやかし

舟幽靈        楓樹の奇火

怪榎         諸木爲柊

餅米代        靑池雩

幽靈歸舊里謁寺僧

 

 

2026/09/01

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その15) 乾火魚

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   乾火魚《ほしかながしら》

火魚(かながしら)は「本朝食鑑」に『鐵頭魚(かながしら)』とす。處々(しよしよ)、多くあり。世俗(せぞく)、子(こ)を誕(たん)するの家(いへ)、必ず、此魚を以て、賀膳(かぜん)に供するの舊例(きうれい)あり。鮮食(なまぐひ)、炙食(あぶりぐひ)、煑食(にぐひ)し、䀋燒(しほやき)を、此(こヽ)に珍(ちん)とす。淡乾(しらほし)、鹹乾(しほほし)、共(とも)に、味(あじわ[やぶちゃん注:ママ。])ひ、淡白にして、美(び)なり。近年、淸國に輸出すること、屢々(しばしば)、あり。

[やぶちゃん注:これは、私が、嘗つて、七尾市百海で釣り上げ、その美しさに魅了された魴鮄=条鰭綱ペルカ目 Perciformesホウボウ科ホウボウ属ホウボウ Chelidonichthys spinosus に、似た形状で知られる、

ホウボウ科カナガシラ(金頭)属カナガシラ Lepidotrigla microptera

である。但し、BISMaLで見ると、同属で、カナガシラ以外に、

ソコカナガシラ(底金頭) Lepidotrigla abyssalis

イゴダカホデリ(伊吾高火照) Lepidotrigla alata

カナド(金戸) Lepidotrigla guentheri

ヒメソコカナガシラ(恐らくは「姫底金頭」) Lepidotrigla hime

トゲカナガシラ(棘金頭) Lepidotrigla japonica

ヒレナガカナガシラ(鰭長金頭) Lepidotrigla kanagashira

オニカナガシラ(鬼金頭) Lepidotrigla kishinouyei

ツラナガソコカナガシラ(恐らくは「面長底金頭」) Lepidotrigla longifaciata

ヒレホシカナガシラ(鰭長金頭) Lepidotrigla punctipectoralis

の九種がいるので、この十種をリストしておく。漢字表記は、を除いて「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」を参考にした。

ウィキの「カナガシラ」を引く(注記記号はカットした)。漢字表記は他に『方頭魚』・『六角魚』・『火魚』を挙げてある。『北海道南部以南から黄海、東シナ海、南シナ海まで分布し、水深50-300mほどの砂泥底に生息する』。『成魚の全長は30cmほどで、ホウボウより小さい。背面は一様に橙色 - 赤褐色をしているが、腹面は白色をしている』。『「カナガシラ」の和名は、頭部が大きく、形が金槌に似ていることに由来する。頭の骨が固いことに由来するとも言う。この硬い頭部を義憤に駆られて癇癪を起こした』、かの、江戸後期の儒学者にして、元大坂町奉行組与力で、「大塩平八郎の乱」を起こした義人である彼が『が、バリバリと噛み砕いて』、『骨ごと食べて』、『呆れられたことが、当時の記録に残されている。鼻先が前方にとがっていて、小さなとげが左右に数本ずつかたまって生え、その下に大きな口が開く。胴体はザラザラした細かい鱗に覆われる(ホウボウのウロコよりは大きい)』。『胸びれはホウボウよりも小さく、色も赤一色である。胸びれの一番下の鰭条3対はホウボウ同様、味を感知できる感覚器官があり、これを脚のように動かして海底を歩く』。『他のひれの構造もホウボウに似ているが、第1背びれに鮮紅色の大きな斑点があるのが特徴で、これは他のカナガシラ属( Lepidotrigla 属)の魚にも共通する特徴である。この斑点は液浸標本にすると黒くな』ってしまう。『食性は肉食性で、エビ、カニ、小魚、貝などを大きな口で捕食する』。『旬は冬で、底引き網で多く漁獲される。体の大きさのわりに身は少ないが、旨みと歯ごたえがある美味な白身魚で、料理法も煮付け、唐揚げ、塩焼き、鍋料理、干物など多種多様である。小さなものは蒲鉾など』、『魚肉練り製品の原料にも用いられる』。『この魚を縁起物にしている地域もある。長崎県では、丈夫な歯が生え』、『骨が丈夫になるように、お箸初の膳にカナガシラの焼きものを乗せる習慣がある。また、カナガシラという名が「お金が貯まる」に通じるとされ、節分にカナガシラを食べる風習がある』。別名は『キミヨ(秋田県)、キントウ(宮城県。金頭の音読)、カナ(関東地方)、カナド(関東地方、四国地方)、シシッポ(石川県)、カナンド(兵庫県)、カナゴ(愛知県)、ガッツ(長崎県)、ギダユウガタリ(鹿児島県)など』多い。『ホウボウと特に区別せず扱う地域もある』。既に示した通り、同属には他に九種があり、『種類によって』、『胸びれの模様や体のまだら模様、鼻先のとげなどに違いがある。カナガシラと同様、底引き網で多く漁獲され食用になる』。以下、カナド Lepidotrigla guentheri・トゲカナガシラ Lepidotrigla japonica のチョイスされた短い解説が載るが、それは、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「カラガシラ」以下、八種(左に「カナガシラ属」のリンク・リストがある)の記載の方が、写真もあり、詳しいので、各種の項を見られたい。

『「本朝食鑑」に『鐵頭魚(かながしら)』とす。處々(しよしよ)、多くあり。世俗(せぞく)、子(こ)を誕(たん)するの家(いへ)、必ず、此魚を以て、賀膳(かぜん)に供するの舊例(きうれい)あり。』今まで通り、河原田氏は以上の後の三分の二を、恰(あたか)も自身の言説のように書いている。本当に不快なやり口である。国立国会図書館デジタルコレクションの元禄一〇 (一六九七)年板の当該部(ここの左丁最終行のみで表題部一行だけで、本文は次のコマの左丁六行が続く)をリンクさせておくので、お読みあれ。]

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 山草類 上卷・知母

 

Timo

 

ちも

     蚔母  貨母

知母  連母  地參

     蝭母  莐藩

     水参  苦心

ツウ モウ 兒草  𧂇【音單】

 

本綱知母生𠙚𠙚山上形似菖蒲而柔潤葉如韮至難死

掘出隨生須枯燥乃止四月開青花如韮花八月結實宿

根之旁初生子根形如蚔蝱之狀故名蚔母訛爲知母

氣味【辛苦寒氣味共厚】 沉而降陰也腎經本藥入足陽明手太

 陰其用有四瀉無根腎火一療有汗之骨蒸二止虛

 勞之熱三滋化源之陰四也下則潤腎燥而滋陰上則

[やぶちゃん注:この「四」(この右附きの数字群は良安が附したもの。訓読では、本文に[ ]で同ポイントで挿入した。)の下の「也」は、上の文末にあるべき断定の助字である。訓読では「なり」と読んで、前の文に繰り込んだ。]

 清肺金而潟火乃二經氣分藥也【上行則浸酒焙乾下行則浸鹽水焙】得

 黃栢良【忌鐵】黃栢則是腎經血分藥二藥必相須而

 行譬之蝦與水母必相依附

△按知母【和名夜萬之】其葉忌人手觸也花如穗而淡紫色

 

   *

 

ちも

     蚔母《きも》  貨母《くわも》

知母  連母《れんも》  地參《ちじん》

     蝭母《しも/じも》  莐藩《ちんはん》

     水参《すいじん》  苦心《くしん》

ツウ モウ 兒草《じさう》  𧂇【音「單《タン》」。】

 

「本綱」に曰はく、『知母、𠙚𠙚《しよしよ》、山上《さんじやう》に生ず。形、菖蒲《しやうぶ》に似て、柔潤《じうかつ》、葉、韮《にら》のごとく、至《いたつ》て、死(か)れ難《がた》≪し≫。掘出《ほりいだせ》ども、隨《したがひ》て、生《しやう》ず。須《すべからく》、枯燥《こさう》[やぶちゃん注:枯れて完全に乾燥してしまうこと。]≪して≫乃《すなは》ち、止《や》む。四月に、青き花を開く。韮の花のごとし。八月に、實《み》を結ぶ。宿根(ふるね)[やぶちゃん注:古根。]の旁(そば)に、初め、子《さね》を生ず。根の形、蚔-蝱(あぶ)の狀《かたち》のごとし。故《ゆゑ》、「蚔母(き《も》)」と名《なづ》く。訛《なまり》て「知母」と爲《なす》。』≪と≫。

『氣味【辛、苦、寒。氣味、共《とも》に厚し。】』『沉《しづみ》て、降《くだ》る。陰《いん》なり。腎經《じんけい》の本藥《ほんやく》にして、足《あし》の陽明、手《て》の太陰に入《い》る。其《その》用《よう》、四《よつ》つ、有り。無根《むこん》の腎火《じんくわ》を瀉《しや》す。』[一つ。]。『有汗《いうかん》の骨蒸《こつじやう》を療《れう》す。』[二つ。]。『虛勞《きよらう》の熱《ねつ》を止《と》め、』[三つ。]、『化源《くわげん》の陰を滋《じ》す。』[四つ。]。『下(《し》も)には、則《すなはち》、腎の燥(かは)くを、潤(うるほ)して、陰を滋し、上《かみ》は、則《すなはち》、肺金《はいきん》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注で『(肺は五行説で金)』(ごん)『にあたる』とある。]を清《せい》して、火《くわ》を潟《しや》す。乃《すなはち》、二經《にけい》の氣分《きぶん》の藥《くすり》なり【上行《じやうかう》すれば、則ち、酒《さけ》に浸《ひた》して焙《あぶ》り、乾《ほ》す。下行《げかう》すれば、則ち、鹽水《しほみづ》に浸《ひた》して焙《あぶ》る。】。黃栢(わうばく)を得て、良《よし》【鐵《てつ》を忌む。】。黃栢は、則《すなはち》、是れ、腎經《じんけい》≪の≫血分《けつぶん》の藥≪なれば≫、二藥、必《かならず》、相《あひ》須(も)ちて、行《ゆ》く。蝦(ゑび[やぶちゃん注:ママ。])と水母(くらげ)と、必≪ず≫、相《あひ》、依附《よりつき》するに、之《これ》を譬《たと》ふ。』≪と≫。

△按ずるに、知母【和名、「夜萬之(やまし)」。】、其《その》葉《は》、人《ひと》の手、觸(ふる)ゝことを忌《い》むなり。花、穗のごとくして、淡紫色≪なり≫。

 

[やぶちゃん注:これは、

単子葉植物綱キジカクシ(雉隠し)目キジカクシ科リュウゼツラン(竜舌蘭)亜科ハナスゲ(花菅)属ハナスゲ Anemarrhena asphodeloides

である。当該ウィキは貧弱で、私が必要とする事柄に全く言及していないので、「福田龍株式会社」の「医薬品原料(漢方系生薬)」の「チモ(知母)」(https://www.fukudaryu.co.jp/sozai2/chimoHP.pdf :リンクではchromeがブロックするのでアドレスで示した)を引用する(特殊なテンプレートなので、以下のような変則的な形になった)。私が特に重要とした部分は太字下線とした。

   《引用開始》

『語源』『ハナスゲ属 Anemarrhena は、ギリシャ語の否定の接頭辞 ア+ネーマ 「糸」+アッレーン 「男、雄」で、ハナスゲ属の植物が花糸のない葯(やく)であることを指すとする説や、ギリシャ語でアネモス「風」+ アッレーン「男、雄」で、ハナスゲが丈夫で風に強いことに由来するという説がある。種小名の asphodeloidesは、「ツルボラン属 Asphodelus のような」の意。和名のハナスゲとは、葉がスゲ[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ(蚊帳吊草・莎草)科スゲ(菅)属 Carex 。ハナスゲとは、目タクソンで異なる全く異なる種であることに注意!]に似て、スゲよりきれいな花が咲くことから。また、生薬名の知母は、ハナスゲの古い根のそばに子球あるいは株が生じ、その根の形が「蚳母(チボウ)」[やぶちゃん注:「蚳」は「蚔」の同字・異体字として使用される。](アリやアブの卵のこと)に似ていたことからチボウと呼ばれ、それが訛って知母となったという説、あるいは、知母に関する民話で、身寄りのない薬草採りの老婆が、自分を母親のように親切に助けた木こりの夫婦に、「母の心を知る息子にめぐりあえた」といってハナスゲの根が薬草であることを教えたことから、その名が「知母」になったという説もある。』。

『基原』『 Anemarrhena asphodeloides Bunge ハナスゲ(花菅) ウマノスズクサ科 多年生草本』。

『薬用部分』『根及び根茎』

『産地』『中国(河北、山西、内蒙古、甘粛、陝西、東北など)日本へは享保年間(江戸時代中期)に渡来し栽培されているが、生薬の生産はない。』。

『主な成分』『ステロイドサポニンのチモサポニンA-I、A-II、A-IV、キサントンのマンギフェリン、その他、イソマンギフェリン、タンニン、パントテン酸、ニコチン酸』。

『主な薬効』『鎮静、鎮咳、解熱、利尿、消炎、止瀉』。

『代表的処方』『漢方処方用薬である。解熱薬とみなされる処方及びその他の処方に少数例配合されている。』

『【辛夷清肺湯】シンイセイハイトウ

体力中等度以上で、濃い鼻汁が出て、ときに熱感を伴うものの次の諸症:鼻づまり、慢性鼻炎、蓄膿症(副鼻腔炎)(処方内容) 辛夷/知母/百合/黄  /山梔子/麦門冬/石膏/升麻/枇杷葉今』

『【酸棗仁湯】サンソウニントウ

体力中等度以下で、心身が疲れ、精神不安、不眠などがあるものの次の諸症:不眠症、神経症(処方内容) 酸棗仁/知母/川 /茯苓/甘草弓』

『【消風散】ショウフウサン

体力中等度以上の人の皮膚疾患で、かゆみが強くて分泌物が多く、ときに局所の熱感があるものの次の諸症:湿疹・皮膚炎、じんましん、水虫、あせも(処方内容) 当帰/知母/地黄/胡麻/石膏/蝉退/防風/苦参/蒼朮(白朮)/荊芥/木通/甘草/牛蒡子』

『【白虎加人参湯】ビャッコカニンジントウ

体力中等度以上で、熱感と口渇が強いものの次の諸症:のどの渇き、ほてり、湿疹・皮膚炎、皮膚のかゆみ(処方内容) 知母/石膏/甘草/粳米/人参』

   《引用終了》

ここで大事なことは、

★ハナスゲは中国原産であること

で、諸辞書・事典類・ネットのサイト記事には、掲載そのものが多くはないが、それでも十数件を閲したところ、中国原産で、本邦には自生していなかったことは、共通している。

★ハナスゲの本邦への伝来は享保年間(一七一六年から一七三六年まで)であること

も、以上の閲覧から、ほぼ確定的事実であることも確認出来た。

問題は、本「和漢三才図会」の成立時期である。同書全巻は、

  • 正徳二(一七一二)年自序で、同五(一七一五)年跋

である。即ち、非常に際どいものの、ハナスゲ伝来と同書刊行とは、辛うじて重ならず、

★良安が本「知母」の項を書いた時点ではハナズゲの現草体或いは実種子を現認した可能性はゼロである

と断言してよいということである。ただ、気になるのは、東洋文庫版の後注に、

  • 本文最後の良安の評言の版の違い

が附されてあることである。即ち、『△按ずるに、知母【和名、「夜萬之(やまし)」。】、其《その》葉《は》、人《ひと》の手、觸(ふる)ゝことを忌《い》むなり。花、穗のごとくして、淡紫色≪なり≫。』の箇所の、竹島淳夫氏の訳『△思うに、知母〔和名は夜万之(やまし)〕の葉は人の手が触れるのを忌(い)む。花は穂状で淡(うす)紫色である。』について、注として、『の葉は⋯⋯の淡紫色である この部分、杏林堂版では、「は往昔(むかし)はわが国にもあった。しかし現今はない」となっている。』とあるのである。この「杏林堂版」というのは、正確には「五書肆名連記版」で、江戸時代の木版本出版では、一つの版木を複数の書肆が共同で出資して刊行・流通させることが一般的であり、五書肆名連記を 巻末の「奥付」に五つの書肆名が連記されている版である。これは、本書の正徳五年の初版、或いは、それに極めて近い後に出版された初期のオリジナルであることを示す書誌学的特徴であり、後に版木が売却されて再版されたものや、明治期に出た縮刷版などとは異なり、当時のオリジナルの版木・構成を、そのままに伝える資料であることを示すものである。

 則ち、良安は、当初、そのように記載したが、後に、そこをカットしたということになる。ということは、初稿では、

  • 良安は――日本にハナスゲは自生していた――しかし――今はハナスゲは日本では見られなくなった――絶滅した

と言っていることになるのである!?!?

 これについては、或いは

⋯⋯正徳二年(清の康熙五十一年/李氏朝鮮粛宗三十八年)以前に、大陸からハナスゲの種子が持ち込まれ、一度は、根付いたものの、繁殖に至らず、絶滅した⋯⋯

という解釈が成り立つ。

◎しかも、実際に、平安時代に、既に、この「知母」に対して、和名「やまし」が与えられているのである!

「跡見群芳譜」の「はなすげ (花菅)」に、『Anemarrhena asphodeloides』とし、

☆『『本草和名』知母に、「和名也末止古呂」と。』

☆『『倭名類聚抄』知母に、「和名夜万之」と。』

とあり、さらに、

☆「古今和歌集」を引き、『巻10物名に「やまし」として』載る、平篤行(たいらのあつゆき)の一首(卷第十 物名(のののな)・四四七番。以下は、「新日本古典文学大系」版を参考に前書が「やまじ」とあるのを、脚注の『中世注には「やまし」とも示す』というのに従って清音にしておいた。)。

   *

    やまし

 ほとゝぎす峰の雲にやまじりにし

   ありとは聞(き)けどみるよしもなき

   *

も記されているのである。しかも、同底本の脚注では、「やまじ」を普通に種名として『ハナスゲ(花菅)』としているのである。日本に植生していないはずなのに?⋯⋯

⋯⋯ということになると⋯⋯

?■平安時代にはハナスゲが日本に大陸から送られて植生していた■?

ということになるのだが⋯⋯これ⋯⋯流石にお目出度い私も⋯⋯どうも信じられないのだ!⋯⋯おかしい⋯⋯と⋯⋯思ったのは、この和歌だ! この歌、和歌嫌いの私にも、変な前書じゃないカイ?!? 私の持つ他の「古今和歌集」の注釈でも何も書かれてないのだが、要するに「やまし・やまじ」というのは、失礼乍ら、『これ、国文学者の知的範疇では、埒外なんじゃないか?』と思ったのだ!

☆この一首の核心は「ホトトギスが鳴いているのが聴こえるが、姿を見る手だてがないことよ」という感懐だろ! それに詞書「やまし」を判じ物のように添えたんじゃないのか?!?

則ち、これ、篤行は、

☆『この歌のように、古いお偉いさまの書いた、「本草和名」に中国の「知母」を「也末止古呂(やましころ)」とか、或いは「倭名類聚抄」に同じく「知母」を「夜万之(よまし)」とか、読んでいるのだけれど、これ、呼び名だけで、肝心な「知母」というありがたい薬草の実物を、全然、見たことがないんだが?』

と言っているのではあるまいか? 私には、そうしか、読めないのである。

即ち、

★私は、中古から江戸中期まで、ハナスゲが、日本に植生していたなどということは、あり得ないと断言するものである。★

当初、良安の最初の書き変えたのは、所謂、本当の「菅(すげ)」=単子葉類植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex(最新のデータらしきものを調べたところ、本邦には現在、二百六十九種も分布している!)の中の、「本草綱目」の「知母」の記載その他を筆頭に、中国の本草書の「知母」の記載を見て、本邦の花が似ている、ある本邦産のスゲ属の希少種を、ハナスゲと間違ったに過ぎないと思っていたのだが、寧ろ、以上の通り、

◎『中古の記載にはあるから、嘗ては、日本に「やまし」(=ハナスゲ)は、確かに、あったのだが、その後、絶滅した。』

と書いたのを、彼自身、『それは、ない。やっぱり、日本には、ない。』と断じて、書き変えたものであるという結論に至った。異論のあられる方は、御教授下さると幸いである。因みに、私の連れ合いは源氏物語が専門だが、この和歌についての私の解釈に対しては、『単なる「やまじり」(山尻=山の峰)に「やまじ・やまし」という草の名前を掛けただけの遊びでしょ。』とケンモホロロであった。

 以下、各個注に移る。

「菖蒲」これは一応、単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属ショウブ Acorus calamus L.(1753)(シノニム: Acorus asiaticus Nakai (1936)/ショウブ変種ショウブAcorus calamus L. var. angustatus Besser (1834) (これは日本を含めた東アジアのものに対して用いられる。その他、シノニムは数多く存在する)としてよい。ただ、実は、李時珍が生きた明代以降には、同属のセキショウ(石菖: A. gramineus Soland. )(漢名は同じく「菖蒲」があった)が、特に文人たちの園芸や机上の飾り(瓶生・盆玩)として非常に好まれたからである。即ち、この「菖蒲」という文字を見ると、有意に後者を想起する者が、多くいたからである。但し、時珍は、「本草綱目」の「草之八【水草類二十二種内附四種】の「菖蒲」の項の中で、「石菖」を、ちゃんと、別に使用しているから、ここは問題ない。

「韮」日中ともに、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ Allium tuberosum 。

「腎經」足の少陰腎経を指し、生命力の根源である「精(せい)」を蓄え、発育・生殖・老化をコントロールする重要な経絡である。

「足の陽明」足の陽明胃経。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「手の太陰」手の太陰肺経。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「無根の腎火」命門(めいもん:腰部の、体後面の正中線上で、第二腰椎棘突起の下にある窪み。ヤコビー線(左右の腰骨の最も高い位置を結んだ線)と、脊柱との交点が第四腰椎棘突起に当たるが、そこから二つ上の棘突起の下の窪みを指す。)の火(腎陽)が、本来あるべき下半身(腎)に留まることがなく、本来の位置を失い、上半身へ浮き上がって「虚熱」の状態になることを指す。以下、中医学用語は、信頼出来る中医学や治療院のサイトで、比較的判り易いと思われるものを、複数、使用している。

「有汗の骨蒸」東洋文庫訳の割注に『(肉体衰弱による発熱)』とある。

「虛勞の熱」東洋文庫訳の割注に『(骨が蒸されるように熱く肉体衰弱による発熱)』とある。

「化源の陰」気・血・津液(体液)といった生命体を維持するために必要な、あらゆる物質を生み出す源泉が「化源」で、ここでの「陰(いん)」は「体を潤し、熱を抑える物質」であり、中医学の根本である「陰陽論」に於いて、「陰」は「血液(血)・体液(津液)・精髄」などの、身体の形にあって、「潤い」や「栄養」の成分全般を指す。

「火を潟す」余分な火(か)を下す。

「黃栢(わうばく)を得て、良《よし》【鐵《てつ》を忌む。】。」先行する「卷第八十三 喬木類 目録・黃蘗」を参照されたい。

「蝦(ゑび)と水母(くらげ)と、必≪ず≫、相《あひ》、依附《よりつき》するに、之《これ》を譬《たと》ふ。」前に示した「二つの薬物は、それぞれが、それぞれの得意の箇所の変異に作用して、絶妙に補い合って効果を出すのである。」という様態を、「海のエビと、クラゲとが、一緒におり、必ず、互いに助け合っている事例があるが、まさにそれを喩えて表現するに相応しいのである。」と言っているのである。この現象の実例に就いては、語り出すと、一晩かかるぐらい、私の独自の持ち論がある。大好きな話だから、幾らでも書けるのだが、まんず、『河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(七)乾鰕の說(その2)』の私の「水母目(すいぼもく)」の注を見られたい。これでも、端折ったものである。

 さて、ここまで「本草綱目の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷十二上」の「草之一【山草類上一十三種】」のガイド・ナンバー[036-41b]の「知母」の項のパッチワークである。]

2026/08/30

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その14) 鰺乾物

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

   鰺乾物《あぢのひもの》

 鰺(あぢ)は「倭名鈔」・「新撰字鏡」ともに『阿遲(あぢ)』と訓す。而して、漢名は『小竹筴魚(しようちくきようぎよ[やぶちゃん注:ママ。正しくは「せうちくけふぎよ」。])』と書(しよ)し、全國の海に產す。鰺の乾物(ひもの)を製するも、往古(わうこ)よりのことにして、「延喜式」に『內膳司食料(ないぜんししよくりやう[やぶちゃん注:ママ。「りやう」は「れう」が正しい。])』『干鰺《ほしあぢ》三十隻《せき》』とあり。「本朝食鑑」曰く、『駿(するが)・豆(いづ)・房(あは)・總(かづさ)の海濵采者(かいひんにとるもの)、最(もつとも)美(び)なり。』と。夏月(かげつ)、圓肥(まるくこへ[やぶちゃん注:ママ。「こえ」でよい。])たるもの、味、甚(はなはだ)、香美(かうび)にして、炙食(あぶりぐひ)に、最(もつとも)宜(よ)し。鮓(すし)となし、煑魚(にぐひ[やぶちゃん注:意訓。])、又は、膾(なます)となして、佳(か)なり。『中脹(ちうてう[やぶちゃん注:ママ。厳密には「ちゆうちやう」が正しい。])』と號《がう》す。腊鮝(さくしやう)となすも、味、亦、佳良なり。冬(とう)・春(しゆん)の際(さい)、魚(うを)、瘠(やせ)、味なき故(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、之れを、乾曝(ほしかわか[やぶちゃん注:ママ。])して民間の用(よう)とす。一種、『室鰺(むろあぢ)』といふもの、あり。狹小肉薄(きょうしようにくはく)故(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、乾燥(かんそう[やぶちゃん注:ママ。])す。又、『島鰺(しまあぢ)』といふもの、あり。伊豆七島の鹹乾(しほほし)のものを『くさやの乾物(ひもの)』といふ。近時(きんじ)、淸國輸出乾魚中(ひしうをちう)の一(いち)とす。

[やぶちゃん注:「(その2)」で、『代表種は条鰭綱アジ目アジ科アジ亜科マアジ(真鯵)属マアジ Trachurus japonicus であるが、広義のアジは、マアジを含むムロアジ(室鯵)群・ヨロイアジ(鎧鰺)群・ギンガメアジ(銀紙鯵・銀亀鯵・銀河目鯵)群に分類され、非常に種が多い。各個解説に譲る。』と注したが、以上の各個解説は、結果して、マアジを語っていると考えてよく(正直、貧弱である)、終りの部分は、先にバラシてしまうと、実は河原田氏は恰(あたか)も自分が言っているように書いているように見えるが、後で見る通り、実は、そこも、概ね、「本朝食鑑」の本文を、ほぼ元にしているので、その後の注で、ムロアジとシマアジは示すこととする。『何で、マアジをメインにして、それで、いいのか?』と疑問を持たれる方のために、小学館「日本大百科全書」の「マアジ」の項の冒頭を引用しておく(太字は私が附した)。『北海道南部以南の日本各地の沿岸、東シナ海、朝鮮半島の沿岸に分布する。マアジ属は背びれと臀(しり)びれの後ろに小離鰭(しょうりき)がないこと、稜鱗(りょうりん)(鋭い突起を備えた肥大した鱗(うろこ)。一般には「ぜんご」「ぜいご」ともいう)が側線の全体にわたって発達することなどで特徴づけられ、日本には本種しかいない。』(☜★☞)『日本産アジ類のなかでもっとも普通の種類である』とあるからである。以下、ウィキの「マアジ」を引いておく(注記記号はカットした。一部、私が太字にした。)。『北西太平洋の沿岸域に分布する海水魚である。日本では重要な食用魚の一つで、単に「アジ」といえば』、『通常は本種を指す』。『成魚の全長は50cmに達するが、よく漁獲されるのは30cm程度までである。体は紡錘形で』、『やや側扁し、頭長は体高より長い。側線は体の中ほどで下方に湾曲し、背鰭第8軟条下から尾まで直走する。この側線上には全体にわたって稜鱗(りょうりん:俗称「ぜんご」「ぜいご」)と呼ばれる棘状の鱗が69-73個並ぶ。臀鰭の前端部には2本の棘条がある。鰓蓋(さいがい、えらぶた)上縁には1つの黒色斑がある。口内では両顎・口蓋骨・鋤骨(じょこつ)・舌に細歯がある。背側は緑黒色で腹側は銀白色、中間域は金色である』。『体色と体型は、浅海の岩礁域に定着する「居つき型(瀬付き群)」と、外洋を回遊する「回遊型(沖合回遊群)」で異なる。居つき型は全体的に黄色みが強く、体高が高い。一方、「回遊型」は体色が黒っぽく、前後に細長い体型をしている。例えば、東京湾沿岸では居つき型を「キンアジ」「キアジ」、回遊型を「ノドグロ」「クロアジ」などと呼んで区別する』。『ムロアジ属 Decapterus 諸種、メアジ Selar crumenophthalmus などの類似種がいるが、本種は第二背鰭・臀鰭の後ろに小離鰭が無いこと、側線のすべてが稜鱗で覆われること、側線が体の中ほどで大きく下方に湾曲することにより、区別できる。関西ではマアジを赤アジ、ムロアジを青アジとも呼ぶ』。『北西太平洋の固有種で、北海道から九州までの日本各地、朝鮮半島周辺から東シナ海などに分布する。特に日本海や東シナ海で個体数が多い。地方毎に独立した地方系群もあると考えられ、これらは』、『遺伝子プール・形態・生態・産卵地も』、『わずかずつ』、『異なる』、『とされる。主なものは九州北部群、東シナ海中部群、東シナ海南部群、小さい群として九州南方域、高知沖、関東伊豆付近、瀬戸内海、富山湾がある』。『回遊型は』、『沿岸から沖合の中層・底層を群れで遊泳する。季節に応じた長距離の回遊を行い、春に北上・秋に南下する。一方、居つき型は』、『浅海の岩礁付近に定着し、季節的な回遊をしない。食性は肉食で、動物プランクトン、甲殻類、多毛類、イカ、他の小魚などを捕食する』。『産卵期は地域の気候によって異なり、東シナ海では1月だが』、『北海道では8月となる。早春の東シナ海で仔魚・稚魚が多数見られることから、回遊型は東シナ海で産卵し、これらが黒潮に乗って東アジア沿岸域に分散すると考えられている。産卵数は全長20cm台のメスが約10万-30万、全長34cm以上で36万-56万に達する。卵は直径0.8-0.9mmの分離浮性卵で、40時間ほどで全長2.5mmの仔魚が孵化する。幼魚は流れ藻に付くことがあり、内湾の浅い海でも見られる。2-3年で成熟し、寿命は最長12年という記録がある』。『主として薄明薄暮性(crepuscular)』(クリスパキュラー:生物学では「薄明や薄暮の時間帯に活動する性質」を指す)『の行動様式を示す沿岸性回遊魚であるが、その日周リズムは環境条件に応じて柔軟に変化し、弱いカテメラリティ(cathemerality)』(:昼夜の区別なく、二十四時間の周期を通じて、不規則、且つ、断続的に活動する行動パターン指す語。)『を併せ持つとされる。日中は中層から深場に散開して回遊するが、潮流の変化やベイトの集中が生じた場合には積極的に採餌活動を行う。夕暮れから夜間にかけては警戒性が低下し、岸近くや常夜灯周辺に接岸して活発な摂餌行動を示す。朝夕の薄明薄暮時が最も高い捕食活動を示す一方、昼夜を問わず条件が整えば高活性を示す点から、生態学的には厳密な夜行性には分類されず、薄明薄暮性を基調としつつ』、『カテメラル的な柔軟性を備えた種として位置づけられる』。『マアジは薄明薄暮性を主体とするが、捕食圧・潮流・ベイトの分布など環境条件に応じて日中および夜間にも活動を行う弱カテメラル性を示す。この柔軟な行動リズムは、捕食者から行動時間を予測されにくくする時間的不可視性(temporal crypticity)』(=テンポラル・クライプティシティ=時間的隠蔽性)『の一形態とも解釈され、捕食回避戦略として機能している可能性が指摘されている』。マアジの『寿命は』五~六『年』である。以下、「名称」の項。『本種は日本産アジ類の中でも』、『特に漁獲量が多く代表種となっていることから、「真」が付く。新井白石は「アジとは味也、その味の美をいふなりといへり」と記している。食用に利用する際は大きさによって「小アジ」「中アジ」「大アジ」などとも呼ばれる』(ウィキの「アジ」=アジ亜科 Caranginaeの「語源」に拠れば、『諸説はあるが、日本語の「アジ」は味が良いことに由来するといわれる。「魚」に「参」と書く漢字が当てられるが、この由来は諸説あり』、「鱢」(音「ソウ」。意味は「魚が生臭い」」の意の漢語)。『の字の写し間違いであるとする説、「おいしくて参ってしまう」の意であるとする説、最も美味の季節が旧暦の』三『月に当たるので』、『旁』(つくり)『に数字の「参」が使われたとする説などがある。』とある。)『地方名も多く、アヅ(富山・秋田)、メダマ(東京)、ノドクロ、クロアジ(東京:回遊型を指す)キアジ、キンアジ(東京:居つき型を指す)、アカアジ(関西:稚魚を指す)、ヒラアジ(和歌山・大阪・広島)、ホンアジ(和歌山)、トツカアジ、トツカワ(和歌山)、オオアジ(神戸・松江)、オニアジ(兵庫明石)、メックリアジ(神戸・明石・淡路島北部周辺)、ゼンゴ(中国・四国地方)、アジゴ(中国・四国地方:小型のもの)、キンベアジ(鹿児島)、ジンタン(鹿児島:稚魚を指す)などがある。関アジは豊予海峡で漁獲し、大分県大分市佐賀関で水揚げしたアジの』ブランド名『である』。『日本では重要な食用魚として、定置網、巻き網、引き網、刺し網、釣りなど各種の漁法で大量に漁獲される。ほぼ季節を問わず漁獲されるが、旬は夏とされている』。『身はピンク色で、ある程度の脂肪を含む。白身魚と赤身魚の中間の身質をもち、青魚の一種に数えられる。回遊型は漁獲量が多く、身の脂が少ない。居つき型は漁獲量が少なく、身の脂が多い』。『用途は唐揚げ・南蛮漬け・フライ(アジフライ)・ムニエル・塩焼き・煮付け・刺身・たたき・寿司種・干物・つみれなど極めて幅広い。大きさによって調理法も異なり、小さなものは唐揚げにされることが多い。薬味にはネギやショウガを用いる。房総半島周辺のなめろうなど、郷土料理も各地にある』。以下、「釣り」の項であるが、前置きのみで、以下はカットした。『大型個体は一本釣りなどで狙うこともあるが、中型・小型のものはアミ類などをまき餌(コマセ)として使い、サビキで釣り上げる方法が一般的である。中には』、『茨城や千葉などコマセなしで行う地域もある。夜には船舶や漁港などの集魚灯によく集まるので、夜釣りの対象ともなっている。陸からの釣りはサビキ釣り、カゴ釣り、ウキフカセ釣り、延べ竿のウキ釣り (float fishing) 、ルアー釣り』(Fishing lure)『などもある』とある。

『「延喜式」に『內膳司食料(ないぜんししよくりやう)』『干鰺《ほしあぢ》三十隻《せき》』とあり。』国立歴史民俗博物館の「デジタル延喜式 Engi shiki Database」(底本は「凡例」を見られたい)で当該部を見ることが出来る。画像は「内膳 1 春日春祭条 項1」の「6」コマ目(そのコマを手動で動かす必要がある)の右丁の二行目である。リンク先に同箇所の校訂文と現代語訳が載るので、以下、引用する(現代語訳の読みはルビであるが、そのままコピー・ペーストしたので、前後は半角空けとなっている)。【 】内は同データベースの「引用の記載例」をそのまま用いた。

   *

校訂文

六月神今食料〈十二月准此、〉

淡路 塩二升、東鰒七斤五両、薄鰒六斤十両、堅魚五斤、干鯛六隻、干鯵卅隻、鮨鰒・煮塩年魚・ 醤鮒 各二升、甘塩鯛四隻、海松・海藻各六斤十両、干棗子・生栗子・搗栗子・菱子各二升、〈十二月以橘子代菱子、〉瓫四口、堝十口、〈大四、小六、〉松明八束、供奉官人二人、膳部六人、各給暴布襅一条、〈長八尺、〉【『デジタル延喜式(国立歴史民俗博物館 khirin t)』校訂文(内膳 6 神今食条 項1)、https://khirin-t.rekihaku.ac.jp/engishiki/item/39200601/、2026年8月30日閲覧】

現代語訳

六月の 神今食 かんいまけ に供給する品〈十二月もこれに準じる〉

淡路 あわじ の塩二升、 東 あずま アワビ七斤五両、 薄 うす アワビ六斤一〇両、カツオ五斤、干し 鯛 だい 六尾、干し 鰺 あじ 三〇尾、アワビのなれ 鮨 ずし ・ 煮塩 にしお のアユ・ 醤漬 ひしおづ けの 鮒 ふな それぞれ二升、 甘塩 あまじお の鯛四尾、 海松 みる ・ワカメそれぞれ六斤一〇両、干しナツメ・生栗・干してむき身にした 搗 か ち栗・ 菱 ひし の実それぞれ二升〈十二月は菱の実の代わりに 橘 たちばな の実を用いる〉、 瓫 ほとぎ 四 口 く 、 堝 なべ 一〇口〈大四、小六〉、たいまつ八束。奉仕する 内膳司 ないぜんし の官人二人・調理担当の 膳部 かしわで 六人にそれぞれ麻のさらしの 襅 ちはや 一条〈長さ八尺〉を支給せよ。【『デジタル延喜式(国立歴史民俗博物館 khirin t)』現代語訳(内膳 6 神今食条 項1)、https://khirin-t.rekihaku.ac.jp/engishiki/item/39200601/、2026年8月30日閲覧】

   *

『「本朝食鑑」曰く、『駿(するが)・豆(いづ)・房(あは)・總(かづさ)の海濵采者(かいひんにとるもの)、最(もつとも)美(び)なり。』と。夏月(かげつ)、圓肥(まるくこへ)たるもの、味、甚(はなはだ)、香美(かうび)にして、炙食(あぶりぐひ)に、最(もつとも)宜(よ)し。鮓(すし)となし、煑魚(にぐひ)、又は、膾(なます)となして、佳(か)なり。『中脹(ちうてう)』と號《がう》す。腊鮝(さくしやう)となすも、味、亦、佳良なり。冬(とう)・春(しゆん)の際(さい)、魚(うを)、瘠(やせ)、味なき故(ゆへ)に、之れを、乾曝(ほしかわか)して民間の用(よう)とす。一種、『室鰺(むろあぢ)』といふもの、あり。狹小肉薄(きょうしようにくはく)故に、乾燥(かんそう)す。又、『島鰺(しまあぢ)』といふもの、あり。』国立国会図書館デジタルコレクションの「本朝食鑑」(元禄一〇(一六九七)年板)の当該部を見られたい。訓点附きで、はっきり言って、江戸時代の本草書(=博物学書)としては、非常に読み易いものであるので、訓読はしない。先に前触れした通り、河原田は最後の二文のみが、彼の実際のオリジナル部分なのである。簡単に語注をしておく。

・「鮓(すし)」この場合の以上は、古(いにし)えからあった御飯と魚を発酵させた「熟(な)れ鮓(ずし)・馴(な)れ鮓)とは違って(変態好きの私の『カテゴリ「今昔物語集」を読む 始動 / 卷第三十一 人見醉酒販婦所行語第三十二』を参照されたい)、発酵をさせずに、酢をさっと加えて調理した「早鮓(はやずし)」を指す。この処理は、一六〇〇年代=慶長五年から元禄十二年の間に生じて、急速にポピュラーになっていったものとされる。

・「中脹(ちうてう)」「なかふくらみ」とは、腹部が、腐れているのではなく、豊かに膨れ上がっているさまを言っている。

・「腊鮝(さくしやう)」干し魚。

「室鰺(むろあぢ)」狭義には、

アジ亜科ムロアジ属タイプ種ムロアジ Decapterus muroadsi  

ムロアジ Caranx kurra

であるが、本邦に分布する種として、「BISMaL」では、ムロアジの他に以下の六種が、挙げられてある。

アカアジ(赤鯵)Decapterus akaadsi

クサヤモロ(臭屋鰘) Decapterus macarellus

モロ(鰘) Decapterus macrosoma

マルアジ(丸鯵) Decapterus maruadsi

インドマルアジ(インド丸鯵)Species Decapterus

オアカムロ(尾赤室) Decapterus tabl

以下、ウィキの「ムロアジ」(但し、実質は「ムロアジ属」の内容である)に拠れば(注記記号はカットした)、『ムロアジ(室鯵、鰘)は、狭義にはアジ目アジ科の海水魚の一種 Decapterus muroadsi を指すが、広義にはムロアジ属 Decapterus に属する魚の総称として使われる』。『全世界の熱帯・温帯海域に約10種が知られる。ただしマルアジ D. maruadsi はマアジ Trachurus japonicus によく似ていて、ムロアジ類とは』、『また』、『別に扱うことも多い』。『アジ亜科の分類でムロアジ属に特徴的なのは、小離鰭(しょうりき)と呼ばれる、背鰭と臀鰭の後ろに分離した小さな鰭である。他にも側線上の稜鱗(ぜんご・ぜいご)が体の後半の直線部にしかないこと、体型が前後に細長い円筒形であることなども特徴となる。また、本種には生時に黄色の縦線がある』。『外洋に面した沿岸部や島嶼周辺に生息する。海の表層-中層で群れを作り、活発に遊泳する。食性は肉食性で、小魚や甲殻類、頭足類、動物プランクトンなどを捕食する。産卵期は5-6月で、この時期には沿岸の浅場に接近する』。『分布域の沿岸各地で定置網・巻き網・釣りなどで漁獲される。旬は夏とされている』。『用途としては、マアジより血合肉が多いことと、脂肪分や旨みが少ないことから干物にされることが多い。ムロアジ類の干物として日本で有名なのが』、『伊豆諸島で作られる』「くさや」『である』。「くさや」『に使う』「くさや液」『のことを』「魚室(むろ)」『と呼んだことからムロアジの名が付いたともいわれる』(以上の「くさや」についての記載は、正確さを欠く。これでは、「くさや」がムロアジしか使用しないように読め、それは誤りだからである。「くさや」に用いられるのは、ムロアジ類の他に、トビウオ類(「(その12) 乾飛魚」の私の注を見よ)・シイラ(アジ目シイラ科シイラ属シイラ Coryphaena hippurus )などの複数に魚が用いられいている。因みに、私は「くさや」で最も旨いのは「トビウオ」に限る、と信じている。若き日に行った神津島で「くさや」の製造元を訪ね、若いご主人と意気投合、「くさや液」の原液も、直接、嘗めさせて呉れた。臭くなく、実に清(すが)しいのであった。その時、ご主人が「一番旨いのは飛び魚だよ。」と教えてくれ、その場で買い、民宿で焼いて貰ったのが、最初の素敵な経験であった。同宿だった女子大生二人が、あまりの臭さに大騒ぎになったが⋯⋯)。『また、鰹節のように燻製にして硬く干したもの(鯵節/むろ節)は、ダシ取り用に鰹節同様に用いられ、特に中部地方で好まれる。新鮮なものは』、『刺身・たたき、焼き魚などで食べられる』。『食用以外の利用法として、ブリ類・マグロ類・ハタ類など大型肉食魚の釣り餌に使われることもある』。『本属のうち、オアカムロ種群(The red-fin Decapterus group)と呼ばれるアカアジ・オアカムロ・サクラアジ・キツネアカアジの4種は尾鰭が赤色を呈することで区別される』。以下、「種類」の項であるが、原拠が違うので、学名の一部が違っているから、省略し、本邦に棲息しない種、不審な種等もカットした。

ムロアジ(『日本での地方名にアカゼ(東京)、モロ(東京・長崎)、アジサバ(富山)、マムロ(和歌山)、ウルメ(鹿児島)などがある。全長60 cmほど。重さは1.5㎏が最大。体型は前後に細長い円筒形で、尾鰭は灰色を帯びた黄色である。稜鱗は側線直線部の3/4にある。新鮮なものは体側に金色の細い縦帯がある。インド洋・太平洋の熱帯・温帯域と、大西洋のアフリカ南部沿岸に広く分布する。日本でも北海道南部以南で見られる。』)

アカアジ(赤鯵;『全長 30 cm。ムロアジより体高が高く』、『マアジに似るが、小離鰭があるので区別できる。和名は尾鰭が赤いことに由来するが、オアカムロほど赤くない。日本南岸から南シナ海までの太平洋西部沿岸に分布する。』)

オアカムロ(『日本での地方名はオアカ(東京・和歌山)、アカムロ(和歌山・高知)、アカアジ(鹿児島)、アカムツなどがある』。『全長 50 cm。体型はムロアジに似るが、和名通り尾鰭が全体的に赤い。アカアジよりも体高が低い。日本・オーストラリア・ハワイまでの西太平洋、インド洋のアフリカ南東部沿岸、ノースカロライナからベネズエラまでの大西洋西岸に分布する。』)

モロ(『全長 35 cm。尾鰭は褐色が強い以外はムロアジによく似ている。インド太平洋の熱帯・温帯域沿岸に広く分布する。大洋を群れを作って泳ぐ。

クサヤモロ (『日本での地方名としてシロムロ、アオムロ(伊豆大島)、アオサギ(和歌山)などがある。全長 40 cm。口先がやや前方に突き出ること、稜鱗は側線直線部の1/2に留まること、尾鰭は褐色が強いことでムロアジと区別する。また、体側に1本の青い縦線が走る。全世界の熱帯・温帯海域に広く分布する。水深40-200 m の海、特に岩礁の周辺などに群れを成して生息する。動物プランクトンを食べる。クサヤモロで作ったクサヤは高級品で、最も美味とされる。』とあるが、くどいが、私は絶対にトビウオである!)

マルアジ(丸鯵)『地方名にはマル(東京)、アオアジ(高知・和歌山)などがある。全長 25 cm。マアジに似るが、小離鰭があることや』、『稜鱗が側線直線部のみにあることから区別できる。ムロアジと総称される中には含まない場合が多い。西太平洋とインド洋東部の熱帯・亜熱帯域に分布する。』)

インドマルアジ(『全長 45 cmほど。尾鰭は淡黄色-淡紅色。インド太平洋の熱帯域に分布し、南日本でも見られる。』)

「島鰺(しまあぢ)」アジ科シマアジ属シマアジ Pseudocaranx dentex 。当該ウィキに拠れば(注記記号、及び、不用と判断した箇所はカットした)、『亜熱帯・温帯海域の沿岸部に生息する大型のアジである。食用にもなり、日本ではアジ類の中で最高級の食材として扱われる』。『標準和名「シマアジ」はもともと東京・和歌山・富山・高知など各地で呼ばれていた呼称で、体側に縦帯があることから「縞鯵」、もしくは伊豆諸島など島嶼での漁獲が多いことから「島鯵」の名がある。他に日本での地方名はオオカミ(伊豆諸島での大型個体の呼称)、ヌクモメ(小笠原諸島)、コセ(和歌山)、コセアジ(高知)、ヒラアジ(熊本)、カツオアジ(鹿児島)、カイワリなどがある。「カイワリ」「ヒラアジ」は本種のみならず大型・扁平な体をしたアジ類の混称で用いられる。カイワリは別のアジの一種 Carangoides equula の標準和名でもある』。『学名の種名"dentex"は「鯛」の意で、扁平な体型がタイ類に似ることに因る』。『成魚は最大で全長122cm・体重18.1kgの記録があるが、通常は全長1mほどまでである。体は長楕円形で体高が高く、側扁する。体色は背側が青緑色、腹側が銀白色をしている。幼魚は体側中央に幅広い黄色の縦線があるが、成長に従い不明瞭になる』。但し、『食餌がカニ、エビなど栄養価の高いものであった場合、成魚であっても体側の黄色の縦線が現れる。また』、『鰓蓋中央部・胸鰭のすぐ上に黒斑が一つある』。『目は頭部に比して』、『やや小さく、脂瞼』(しけん:当該ウィキに拠れば、一部の『魚類の眼に』見『られる半透明の膜で、まぶた状に眼の一部、あるいは』、殆んど『全部を覆っている』個体や種もある。『真骨魚類のうち、回遊性をもつ浮魚でよくみられる。脂瞼を持つ魚の例として、ボラや、ニシン』、『サバやアジの仲間などが挙げられる。その機能については』、『結論が出ていないが、いくつかの可能性が提唱されている』とある)『は』、『ない。吻は眼径よりも長く前に突き出る。唇は薄くあまり頑丈ではないが、筒のように前に突き出すことができる。各鰭の鰭条は、第一背鰭8棘・第二背鰭1棘23-26軟条・臀鰭2遊離棘1棘21-23軟条である。側線の前半部は上向きの弧を描き、第二背鰭第13軟条下から直走する。稜鱗は直走部の3/4程度に25-31枚が並ぶ』。『全世界の亜熱帯・温帯海域に広く分布するが、東部太平洋には分布しない。また』、『赤道付近の熱帯海域にもいない。日本沿岸の分布域は、日本海側が新潟県以南、太平洋側が岩手県南部以南である。沿岸から沖合いの水深200m付近までの浅い海に生息する』。『群れで海中を遊泳する。食性は肉食で、小魚や甲殻類などの小動物を捕食する。遊泳するものを追って捕食する他にも、海底の砂を口で掘り、砂中に潜む小動物を吸い込んで食べる。繁殖期は冬で、日本近海では12-3月に産卵する。卵は分離浮遊卵である』。『釣り、定置網などの沿岸漁業で漁獲される。大型魚で美味なため』、『釣りの対象としても人気が高いが、唇が薄いので釣り針が外れ易い。また定置網では大型個体が入ることは少ない』。『関東の釣り人の間では、体長80cmを超えるものは「オオカミ」と呼ぶ地域がある。餌は小魚、甲殻類等。ルアーでも釣れる』。『日本ではアジ類の中で最高級の食材として珍重され』、『高価である。刺身、寿司種、塩焼き、蒸し物、鍋、などの料理で食べられる。沿岸各地で漁獲される他に養殖も行われている』とある。「本朝食鑑」の最後では「味も佳ならず、最も下品なり。」と、のたもうているが、私は、毎週一回、連れ合いと寿司屋に行くが、シマアジがあれば、必ず、刺し身で注文する。]

2026/08/29

佐野花子「遺詠」(「芥川龍之介の思い出」短歌新聞社『彩光叢書第8篇』・昭和四八(一九七三)年刊底本)

[やぶちゃん注:底本は佐野花子・山田芳子(花子さんの実娘)「芥川龍之介の思い出」(短歌新聞社『彩光叢書第8篇』・昭和四八(一九七三)年刊)の中の「遺詠」パートを用いた。表記は歴史的仮名遣であるが、促音は小さく打ってある。漢字は新字体であるが、一部、旧字を使用している箇所もある。思うに、元原稿は旧字体であったものを、概ね、新字体に書き換えたものと思われる。また、歌の下に稀に前書き風の記載がポイント落ちであるが、これは最小ポイントに落とした。短歌の間は一コマ空隙とした。その記載附きではなく、短歌単独でも、二行に渡ってしまうものもある。

 佐野花子の経歴は、よく纏まったものが少ないので、底本の芳子さんの「母の著書成りて」(①で示す。以下同じ。)、及び、同書の歌人片山恵美子さんの「序として」(②)をメインとし、翰林書房の関口安義編「芥川龍之介新事典」の「佐野花子」の項(③)を参考にしつつ、以下にオリジナルに示す。

   *

 佐野花子(旧姓・山田)は明治二八(一八九五)年一月十七日に、長野県諏訪郡下諏訪町東山田(「ひなたGIS」)で生まれた。父山田力之丞、母ゑいの長女で、旧家の和やかな大家族の中で育まれ、諏訪高等女学校を首席で卒業し、数え年十七歳で東京女子師範学校(現在の「お茶の水女子大学」の前身)に入学した。国文学者・歌人として知られる尾上芝舟(おのえさいしゅう)に、本「遺詠」の巻頭を飾る、

 よどみなく坂を車の登るごとわがはたとせは過ぎさりにけり

を詠み、褒められたとされる。卒業から一年後の大正六(一九一七)年春、当時、横須賀機関学校で(以上は①)物理担当に教授(ここのみ③)であった佐野慶造と結婚した。慶造は、前年大正五年十二月、同校の英語担当の教授嘱託となった芥川龍之介と知り合いとなっていたため、夫婦ともに龍之介との交際があった。花子の兄は関東大震災の折り、赤痢で病死し、慶造は五十一歳(昭和一二(一九三七)年(この没年は五島正夫氏の論文「芥川龍之介はなぜ横須賀を去ったかⅡ―佐野花子―」(ネット(「神奈川歯科大学リポジトリ」)のものがPDFで入手出来る)の「序」の記載に拠った))で急死、花子と弟由信は、労苦の末に結核に罹患した母親を看病したが、この由信も第二次世界大戦の東京空襲にて死亡している(①)。花子は昭和三六(一九六一)年八月二十六日、満六十六歳で亡くなった(②)。なお、死因は孰れにも記載がない。

   *

 なお、必要と感じた部分、特にネイティヴでない読者に向けて、私の注を附した。しかし、私は、中学生の時から自由律俳句の『層雲』に入っており、大学時分は俳諧・俳句研究を主としていたが、実は、大の和歌・短歌嫌いであるので、或いは、とんでもない解釈をし、誤った注をしている可能性がある。されば、誤った部分を見つけられた方は、是非指摘され、御教授願いたい。よろしくお願い申し上げるものである。]

 

 

   遺 詠    佐 野 花 子

 

 

音もなく坂を車ののぼるごとわがはたとせは過ぎ去りにけり

 

紅梅の花の香りをあびて立つ朝な夕なの春のわが庭

 

なすこともなくて過ぎゆくこの頃を惜しとも思ひのどかとも見る

 

心より心に通ふ道ありきこの長月の空の遙けさ

 

汲み交はすその盃に千代かけて君がみ幸を寿ぎまつる 芥川氏結婚

 

[やぶちゃん注:「芥川氏」芥川龍之介。彼は、大正七年二月二日、田端で、塚本文と結婚式を挙げている。]

 

柿の実は朱くつぶらに色づきて君を待ちつつ秋更けてゆく

 

暮れてゆくみ空眺めてたたずめば雁なきてゆく父ます方へ 信濃なる父上ヘ

 

果てしなきみ空仰ぎて得ることは雲なかりきといふやすらけさ

 

大空はいよよ冴えたり仰ぎみる瞳にうつる上弦の月

 

木犀の花の香りをあびて立つ朝な夕なの秋のわが庭

 

大輪の黄色の菊のいみぢしさにつとふれし手のつめたきあした

 

ほのかにもぱっと漂ふ一輪の花の薫りぞ今朝のよろこび

 

わが庭の紅の芙蓉のいろまして秋のあしたの雨のめでたさ

 

萩の花光に匂ひつつ薄むらさきの露ぞこぼるる

 

かにかくに思ひわづらふ一事も我なきあとはただに消えなむ

 

一筋に思ひしことの数々もわれなきあとはただに消ゆべし

 

還暦を迎へたる身の衰へよ思へばかなしうれしはかなし

 

もの皆がただに消ぬべき死にといふことを思ふも病みてあるゆゑ

 

お茶の水四年の友の懐かしき面輪浮かび来老いて病む身に

 

六十路が程逝くはよろしと八十の父言ひましきわが病む六十路

 

六十路にて逝くはよろしと父言ひぬ六十路となりて病みぬこの身は

 

[やぶちゃん注:以上の二首の「六十路」は「むそぢ」と読む。前の歌は上句初句が字余りであるが、父の台詞として第二句で繋がるため、声を挙げて読んでみると、全く、違和感がないことが判る。]

 

うれしさもかなしさも世のきびしさも聞き給へかし同窓の友よ

 

哀へのかすかにかすかに癒えてゆくこの命こそあやしかりける

 

おとろへの癒えて行くてふうれしさを夢とも思ひうつつともみる

 

わが病ひ癒ゆると知りて吾子芳子心よりこそよろこびくるる

 

[やぶちゃん注:「よろこびくるる」の「くるる」は「呉(く)る」の連用形「くるる」。余情・なごりを添える連体中止法(連体止め)。]

 

食欲は常にも増してあるものをなど細りゆくいとしこの身よ

 

癒えぬれば庭におり立ち踏む上の柔らかくして春はうれしも

 

春の庭に立ちて思へば死ぬことも老いたる身にはうれしきものを

 

熱なくて衰へてゆくわが病ひ不思議と思ひつつ病みてをり

 

宵々の夢に来まして語らひぬ老いて病む身に父母は恋しき

 

夜の夢に父母の来まして語らへど老いて病む身ぞしづこころなき

 

半年の長きいたつき癒えしゆゑ心いささか清くなりにき

 

慕ひ寄る二人の孫のいとしさにつなぎとめたるわが命かも

 

なつかしき君が面輪の浮かび来て語らまほしもはかなごとなど

 

[やぶちゃん注:この「君」⋯⋯私は、つい、芥川龍之介を想定してしまうのである。]

 

人目には事なきごとく歩み来て還暦といふ年迎へたり

 

八十四の父逝きましぬその病ひ老衰ときけば心やすらか

 

病み臥せど心やすらかわが夫の形見と思ふ恩給あれば

 

[やぶちゃん注:「夫」は古語・詩歌で「つま」と読む。言わずもがな、この「つま」は「配偶者」の意味である。]

 

おだやかに沈みゆく陽のやすらけさ静けさにわが命死なまし

 

重なれる注射のあとの痛みさへ馴れてわびしも長病みなれば

 

[やぶちゃん注:「重なれる」「かさなれる」。]

 

悲しみも憂ひも持たぬこの身ぞと思ふ端より物案じする

 

かりそめの事に憂へてかりそめのことに心の和みけるかな

 

いささ川水のめでたささらさらと底のさざれの数みせてゆく

 

[やぶちゃん注:「いささ川」「いささがは」。「いささ」は造語で、接頭語として「小さい・僅かな・細(ささ)やかな」の意を表わし、「小川・川幅の狭い川」で、時には「雨水の流れるのを小川に喩えて言う語」でもある。]

 

いささ川浮べば消ゆるうたかたのそれにも似たるわが思ひかな

 

思ひ葉を流して吉と占ひぬ心うれしき朝なりしかな

 

[やぶちゃん注:「思ひ葉」(おもひば)は「触れ合って重なり合うように茂っている草木の葉」を指すが、多く、「男女の恋慕・相愛」などに喩える。]

 

何ごともよしとみて皆よろこばむさやけき秋に心やすかれ

 

[やぶちゃん注:「さやけし」「明けし・清けし・爽けし」で、この場合は、「清らかである・さっぱりしている・(気分が)さわやかである・すがすがしい」の意。]

 

まことあるわれとし生きむ願ひあり君や知りますわれの心を

 

[やぶちゃん注:この「君」もまた、私は、芥川龍之介を想起してしまう。]

 

蕗の薹三つ四つ二つふくらみてわが庭隅に春訪づるる

 

[やぶちゃん注:「蕗の薹」歴史的仮名遣「ふきのたう」、現代仮名遣「ふきのとう」。キク亜綱キク目キク科キク亜科フキ属フキ Petasites japonicus の若い花茎。食用。日本原産で、樺太・朝鮮半島・中国でも見られる。]

 

しかなりと知り得し時の嬉しさにはた悲しさに泪流るる

 

[やぶちゃん注:「泪」「なみだ」。]

 

ほのかにも漂ふ菊はくくられて十三夜の月にかげをあらそふ

 

君がまこと残さむものと思ひけり老いて病む身のはかな心に

 

[やぶちゃん注:この「君」は、直前に公開した「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」をものした以上、芥川龍之介ではあり得ないと断言出来る。]

 

人恋し人は恋しく懐かしくかくてわが身のいつか果つべき

 

[やぶちゃん注:同前。]

 

懐しき君のおもわをありありと想ひてあかず月光青し

 

[やぶちゃん注:「月光」から、間違いなく、同前。]

 

君がみ影浮びては消ゆうれしさにひたりて過ごす今日の一日も

 

[やぶちゃん注:やはり「君」は芥川龍之介であろう。]

 

わが命消えなむとして又保つかなしきものぞ我れの終りは

 

新たなる年を迎へて嬉しきは君健やかにいますといふこと

 

[やぶちゃん注:「君」これは花子さんの実娘山田芳子さんであろう。]

 

逢ひがたき君(きみ)に見えし嬉しさも束の間にして過ぎしそのかみ

 

[やぶちゃん注:特異的な「君(きみ)」(底本ではルビ)は、やはり、嘗つて、芥川龍之介と邂逅した折の過去詠であろう。]

 

霙ふりまうら悲しき元且に思ふいつまでわが命ありや

 

[やぶちゃん注:「霙」「みぞれ」。「まうら」は「目裏」で「瞼(まぶた)の裏側」であるが、ここは、そこから、「目裏(めうら)」=「心」で「心に思い浮かべること」の意である。]

 

うらうらと日はさし初めて臘梅の蕾ながらに透くはさびしゑ

 

[やぶちゃん注:「臘梅」(歴史的仮名遣「らうばい」・現代仮名遣「ろうばい」)はクスノキ目ロウバイ科ロウバイ亜科ロウバイ属ロウバイ Chimonanthus praecox 。

「さびしゑ」これは「さぶしゑ」とも使い、「寂しさ」を表わす形容詞「さびし(さぶし)」に、嘆息・強い詠嘆(感嘆)の情を伴なう古代の終助詞「ゑ」が附いたもので、「万葉集」などの上代語に既に見られるが、明治以降の『根岸派』(この派によってこの語句が再生再興させたともされる)や、近現代の歌人らによって、短歌の中で好んで使われたものである。]

 

消えわびぬ憂ひかさねて来しものをまたあらたなる年は来にけり

 

池いちめんきらめき止まぬうすらひのうすきを歩む青き小鳥は

 

[やぶちゃん注:「うすらひ」もとは万葉語で、古くは「うすらび」とも。「薄く張った氷(こおり)・薄氷(うすらい)・薄氷(はくひょう)」の意。]

 

君がみたより読みつつあればそのかみの御声韻き来思ひほのかなり

 

[やぶちゃん注:「御声」は「みこゑ」で、「韻き来」は「ひびきく」。さても、その「声」の主たる「君」は、やはり芥川龍之介である。詠んだのは、彼自作の短歌か俳句か、まず、短歌であろう。]

 

風邪癒えてこころさやけき朝なれど君がみたより見ぬがかなしき

 

[やぶちゃん注:下句の「君がみたより」は、それに続く「見ぬがかなしき」の表記の違いから、「君が見たより」ではなく、「君が御便り」であろうと解釈した。「君が見たより」で採ってしまうと、論理的に意味が通じなくなってしまう以前に、既にお判りであろうが、「見た」では、現代仮名遣となってしまうから、そもそも、あり得ないのである。翻って、さらに、この一首を、物理的に、じっと眺めてみると、上句は、画数の多い漢字が詰まっていて、頭でっかちになっている印象が、ある。さても、それに加えて、もし、「君が御便り」と表記してしまうと、さらに字画がゴチャついてしまい、純粋に視覚的観点から、佶屈聱牙(きっくつごうが)な雰囲気を醸してしまう、と感ずるのである。仮に、そうして表記を変えてみよう。

 風邪癒えてこころさやけき朝なれど君が御便り見ぬがかなしき

これ、私でも、『ちょっと、「漢字」が「感じ」悪くて、ゴツゴツしてるぞ⋯⋯』と感じるのである。それを避けるために、わざわざ「みたより」と平仮名としたのだ、と、私は、考える。いや、何より、そう解釈すると、

「風邪が治って、心持ちも、すっきりと迎えた朝であったのに、あなたさまの御便(みたより)を見ることができない⋯⋯それだけで、私は、なんとも、哀しかったのでした⋯⋯」

と、きわめてなめらかに、音楽のスラーのように読解することが可能となるのである。而して、この「君」は、亡き芥川龍之介の幻(まぼろ)しと、私が読むことは、言うまでもない。]

 

恋ふべかる君にもあらず恋はるべき我ならなくに忘れかねつも

 

[やぶちゃん注:この「君」は、やはり、芥川龍之介である。]

 

あらたなる年を迎へていよいよにふかきいたはりのまなざし持つ娘(こ)

 

スプートニク飛ぶとふ空を仰ぎみれば事もなげにも澄める朝月

 

[やぶちゃん注:「スプートニク」ロシア語で“спутник” は「衛星」の意。ソビエト連邦が一九五七(昭和三二)年十月四日に打ち上げた世界初の人工衛星「スプートニク1号」(спутник-1)である(私はこの年の二月に生まれた)。本「遺詠」の中で、初めて作歌時期が特定出来る一首である。花子、満三十八歳の時である。作中の背景は明確に現在形であるから、無論、ずっと二十年以上も前の過去の詠では、ある。恐らく、当時の現代風の一首として、彼女は、特に気に入っていた一首であったのだろう。しかし、或いは、ずっと晩年になって多少の改作をしているかも知れない。

「朝月」「あさつき・あさづき」。私は前者で読む。]

 

めぐり来し春のよろこび誰とかも語らむものぞ沈丁花咲く

 

[やぶちゃん注:私は「来し」は「こし」で、「誰」は「たれ」で読む。]

 

人の死も人の泪も知らぬげに牡丹のつぼみふくらみてゆく

 

[やぶちゃん注:「泪」「なみだ」。彼女に名誉のために「人の死」は、ここでは、夫慶造(彼の忌日は不明である)の死と採っておく。芥川龍之介の自死とするには、各種ボタンの開花期の初めとは、全く一致しないからでもある。]

 

御たよりを読みもてゆけばわが袖の泪に濡れてくるる春の日

 

[やぶちゃん注:言い方から便りの主は芥川龍之介であろう。過去詠が元か。]

 

娘が買ひ来し初いちごの実つぶらにて故郷の野苺おもひつつ食む

 

[やぶちゃん注:「娘が買ひ来し」「こがかひこし」。字余り。

「故郷の野苺」「さとののいちご」。花子の郷里は諏訪湖の北岸であるが、対岸には、今、「諏訪湖いちご園」があり、よく知られている。

「食む」「はむ」。]

 

逢ひがたき人に逢ひにしうれしさよ命あやふき今日このごろに

 

御姉妹いと健やけく嵯峨の野にたたすみ姿思ひやるわれ 学友中島様京都散策

 

[やぶちゃん注:「御姉妹」「おんしまい」。

「健やけく」「すこやけく」。

「たたみ姿」「たたみすがた」。

「学友中島様」不詳。但し、次の一首によって、東京女子師範学校の学友であることが判明する。]

 

病むことも老いも思はずお茶の水の友と行きにし関西の旅

 

[やぶちゃん注:これは、また、次の一首によって、東京女子師範学校時代の関西(京都含む)への修学旅行であった可能性が極めて高い。さればこそ、先の一首で、その修学旅行での、過去の嵯峨野の背景を以って容易に想像出来たわけである。]

 

関西の旅を想へばまなうらにありありと浮かぶ亡き師のみかげ

 

[やぶちゃん注:「まなうら」「眼裏」。「鮮烈な印象が焼き付く場所としての目の奥」の意。]

 

さやさやと野の宮近き竹の葉の音鳴り出づれ行くべくも無し

 

[やぶちゃん注:「野の宮」京都市右京区嵯峨野宮町(さがののみやちょう)にある野宮神社(グーグル・マップ)であろう。同神社は数万本の竹が茂る「竹林(ちくりん)の小径(こみち)」の中心にある。]

 

遙けくも世に経しこの身いたはりて子の為孫のため永らへむ

 

[やぶちゃん注:これは、花子の思いであるが、前の野宮神社との意識上の連想が感じられる。同神社は、学問・恋愛成就・子宝安産等の祭神を祀っている。

「遙けくも」「はるけくも」。

「経し」「へし」。

「為」「ため」。]

 

速やかに廻りまはれよ待つ我に早く来れよ回覧のふみ お茶の水文化同級生の回覧文

 

[やぶちゃん注:永く東京女子師範学校時代の校友の通知が来ているのであろう。]

 

かしこしや陸奥の国より病む我をみまもり給ふ君いますこと

 

[やぶちゃん注:「陸奥」「むつ」。現在の青森県と、岩手県の一部に相当するが、ここは青森県であろう。]

 

今さらに何か嘆かむ病みながきこの身かなしとあきらめをれば

 

うれしさとはたかなしさとゆき通ひ心乱るる君います日は

 

[やぶちゃん注:「はた」副詞。この場合は、テンションのマックスを、「唐突に」行ったり来たりする心情の振(ぶ)れを指す。]

 

面影の昔にまさる清しさに君がみ幸を祈りこそすれ

 

[やぶちゃん注:「清しさ」「すがしさ」。

「み幸」「みさち」であろう。お幸(おしあわ)せ。この「君(きみ)」は誰かは判らない。しかし、ふと、この一首が、例えば、芥川龍之介が文さんと婚約、或いは、結婚した時期に、花子が詠んだものだと仮定すると、しっくりはくる、と、一瞬、感じたりした。しかし、これは、私が花子の意識に対して、龍之介バイアスが、強くかかってしまっているから、そう考えただけであり、よく見れば、この前後の歌群は、連続した連作であって、「かしこしや陸奥の国より病む我をみまもり給ふ君いますこと」に読み込まれた花子の友人が、花子のことを気にかけて呉れていることへの、素直な感謝の念を詠んだものと、とるのが、自然だった。悪しからず。]

 

相あひて別れしのちのわびしきに一人想ふもみちのくの空

 

[やぶちゃん注:以下、「みちのく」の友は、結局、花子のもとに見舞いに来たのであろう。]

 

病む身こそいとどつらかれ君と居て語らふことの能はざりしよ

 

語らむこと残りしものをとのたまひしその郷言葉忘られなくに

 

[やぶちゃん注:「郷言葉」「さとことば」。東北方言。]

 

その昔君に見えし中里のかりの住居も恋ひしかりける

 

[やぶちゃん注:「見えし」「まみえし」。この言い方から、この「君」は、明らかに再び、芥川龍之介であると私は思う。]

 

隣室にきこゆるみ声なつかしみ泪するかな病みあつき身は

 

[やぶちゃん注:これは、芥川龍之介が慶造の家に呼ばれたが、花子は体調不良で、隣りの部屋で病臥していたというシチュエーションであろう。]

 

君をおもひ眺むる夜半の月かげの天心にしてはかなかりける

 

[やぶちゃん注:これも「君」は芥川龍之介。]

 

中里にありし日君のおとづれをいかに待ちけむ君は知らじな

 

[やぶちゃん注:「中里にありし日」この「中里」は不詳であるが、試しに、見当をつけて知らべたら、頭に当たった(と考えている)。現在の横須賀市上町(うわまち)に、嘗つて「中里村(なかざとむら)」があった。明治二二(一八八九)年に周辺の村と合併し、豊島(としま)村となり、その後、町制施行で「豊島町」になった後、明治三九(一九〇六)年に横須賀町(現在の横須賀市)へ編入された結果、「中里」の地名は残っていない。しかし、「中里通り商店会」や町内会の名称、而して、同所の中里神社にその名残が残っていると、ガイド・サイト「三浦半島日和」のこちらにあった。この旧上里は現在の横須賀市上町内(グーグル・マップ。以下、無指示は同じ)にあることになる。さて、旧横須賀機関学校は、ここに「海軍機関学校跡の碑」がある。ここは、三笠桟橋・猿島渡船場の東北直近で、この一帯が同機関学校であったのである。「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、中央にあるのが、学校である。ここで視認すると、横須賀駅と学校の間は、直線で六百メートルほどで、近い。佐野花子の作品の記載に拠れば、芥川龍之介が佐野慶造と一緒の花子に初めて逢ったのは、横須賀駅である。二人は、この日、新婚旅行に出かけるところであった。さて、一方、横須賀駅から旧中里までは(「ひなたGIS」の戦前の地図に中央に「中里」とある)、直線で東南東に二キロ強である。即ち、佐野夫婦の住まいが、この旧中里にあったと考えても、仕事場との関係からも、何ら問題がないのである。さすれば、この一首の「君のおとづれをいかに待ちけむ」というのは、龍之介の訪問を彼女が何時も秘かに待っていたことを告白していると断じてよい、と私は、思うのである。]

 

寝てはさめ覚めては思ふこのごろのはかな心を何にたとへむ

 

[やぶちゃん注:これは花子の「老いの儚(はかな)さ」を詠んだものと採る。]

 

君がためこの身いとしむ老いの身のかなしきおもひ知る人ぞ知る

 

[やぶちゃん注:同前。]

 

夕されば萩をみなへしなびかせて優しの野辺の風の彩かな

 

[やぶちゃん注:「夕されば」夕べが来ると。「彩」は「あや」。この場合は「風(かぜ)」であるから、「風の起こす様(さま)」の意。]

 

師の君に逢ひ参らせしうれしさは何にたとへむものならなくに 小松先生

 

[やぶちゃん注:「小松先生」これは、短歌の彼女の師であろうか。時代的に、『アララギ』派の有力な歌人で、選者としても知られていた小松三郎が想起されるが、花子が如何なる短歌結社に属していたかが、全く判らないことから、考証のしようがない。その辺りについて、御存知の方は、御教授下されたい。]

 

三十年を思ひ煩ひ経し我れに花咲く春のめぐり来むとは

 

[やぶちゃん注:前の一首と合わせるなら、新たに歌人としての再起の話があったものか。]

 

思ひきやとだえ絶えにし友情の老いて病む身にかへり来むとは

 

[やぶちゃん注:「小松先生」――「春のめぐり来(こ)む」――「とだえ絶えてしまった友情」――の連関性は、以上の通り、よく判らない。万事休す。]

 

絶対安静まもりて過ぎし幾月を心軽くも顧みるかな

 

わが病よろしとききてよろこびを告げなむ人のあまりに遠し

 

[やぶちゃん注:「告げなむ人のあまりに遠し」先に出た青森の旧友か。]

 

小春日のさやけき光身にうけて庭にたたずむひな鳥見つつ

 

ふる里の赤き柿の実送り来ぬこの愛しさを誰に告ぐべき

 

[やぶちゃん注:「愛しさ」「いとしさ」。「誰」は強意で「たれ」と読みたい。直(じか)に語る人が、いないという、当時の花子の孤独感をよく表現している。]

 

言はざるは言ふに優るとききにしを君言はざるははかなかりける

 

[やぶちゃん注:これは亡き芥川龍之介への恨み言(ごと)であろう。自分を愛していながら、明確なそれを、遂に作品の中で示さなかったことへの恨み節と採る。]

 

相生ひの松とも仰ぐ御夫妻は嫗翁ぞこれのうつしゑ

 

[やぶちゃん注:「嫗翁」七音に合わせる以上は、「おみなおきな」であろう。但し、一般的な語は「翁嫗」(をうあう/をうをん)で、この順列とするのが普通である。なお、私は、この一首は、後の四首目の「悼名取春山翁」と添えられた詞書(ことばがき)を持つ一首と遠くない、彼女の中の感情的な無意識的関連(関係妄想的と言ってもよい)があるように感じている。そちらの私のやや長い注を参照されたい。]

 

師の君に逢ひ参らせし心地しぬ御うつしゑにまなこ疑らせば

 

[やぶちゃん注:「疑らせば」は、明らかに「凝」(こ)「らせば」の花子の誤記、若しくは、本「遺詠」の編者である花子の娘山田芳子さんの判読ミスであると思われる。]

 

初めしは誰ぞや別れとふことをはかなさ知らぬ人やはじめし

 

[やぶちゃん注:この一首、音数律から「はじめしは/たれぞやわかれ/とふことを/はかなさしらぬ/ひとやはじめし」であろう。「とふ」は「問ふ」。しかし、上句は表現としては上手くない。]

 

光足らふ春を心に持ちてよりいのちふふめる土になじみぬ

 

[やぶちゃん注:「光足らふ」「ひかりたらふ」(字余り)であろう。

「いのちふふめる」「ふふめる」は「含める」で、この場合は「花や葉がふくらんでいるが、未だ、開ききらないで蕾(つぼみ)のままでいる。」の意で、それを、初「春」の「土」に広げた表徴表現である。しかし、少々、語音としては、スマートさを欠いているように感ずる。]

 

芹なづなさはに摘み来し幼ならよ夕げの膳にみどり匂へり

 

[やぶちゃん注:思うに「幼ならよ」は、芳子さんの誤判読で、「幼(をさ)なけよ」「幼なげよ」(和歌では普通に、また近現代短歌でも濁点を打たないことが、よくある)であろう。

「芹」「せり」。セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica 。本種は日本原産。「ぺんぺん草(グサ)」の異名で知られ、古代から食用にした「春の七草」の筆頭。

「なづな」アブラナ目アブラナ科ナズナ属ナズナCapsella bursa-pastoris(シノニム: Capsella bursa-pastoris var. triangularis 。北半球に広く分布する。同じく「春の七草」の一つ。]

 

信濃なる山裾の野辺夢にたつ蕗の薹摘み雪消えの春

 

[やぶちゃん注:「信濃」花子の故郷。]

 

既に世に在らずと思ひし春仙が毒死の報を受けて泪す 悼名取春仙翁

 

[やぶちゃん注:詞書「悼名取春仙翁」(たう なとりしゆんせんをう)。名取春仙(明治一九(一八八六)年~昭和三五(一九六〇)年)は版画家・挿絵画家・浮世絵師・日本画家。中巨摩郡(なかこまぐん)明穂村(あけほむら)、現在の南アルプス市小笠原(おがさわらちょう)生まれで、久保田米僊(べいせん)に師事し、明治四〇(一九〇七)年、『東京朝日新聞社』に入社し、夏目漱石の「虞美人草」「三四郎」「それから」「明暗」等の挿絵を描いて、ジャーナリズムに認められ、以降、多くの挿絵を手掛け、長塚節の「土」、島崎藤村の「春」、泉鏡花の「白鷺」、石川啄木の「一握の砂」などの名作の挿絵で知られる。花子の郷里長野県諏訪郡下諏訪町東山田とは、直線で六十一キロメートル離れるが、この一帯は中部地方の中央高地地域に包含され、彼女には文化的に彼への近親感があったものであろう。但し、本首の「既に世に在らずと思ひし」の謂いから、実際に本人と面会したことはなかったものと思われる。以上を一部、参考にした当該ウィキに拠れば、昭和三三(一九五八)年二月に、『長女を肺炎で亡くし』、二年後の(以下は私が太字とした)昭和三五(一九五七)年三月三十日午前七時、『妻の繁子とともに』現在の東京都港区北青山の『高徳寺境内』にあった『名取家』の『墓前で』、『服毒自殺した』。満七十四歳であった。『法名は浄閑院芳雲春仙信士。遺書には、寺院へ迷惑をかけることの詫びと、将来、夫婦のどちらか一人だけが残されることは望まぬため、娘の傍で二人で逝くことにした旨が記されていた』とあった。恐らく、彼の凄絶な自死、さらに妻との冥途への道行という事実に、花子は強烈な共振的(愛した芥川龍之介の自死・夫慶造の急死等)ショックを受けたものと推測するに難くない。以下二首が同じく春仙を詠んでいることからも判る。読者に異論があれば、何時でも相手になる。なお、この一首も、作歌時期が限定出来る一首である。]

 

生きながら世に忘られて居たりける名取春仙その身断ちしか

 

夏目漱石泉鏡花の小説のさしゑ今なほ目にぞのこるを

 

拡ごりて光れる雪の野を遠く小さく汽車の進みゆく見ゆ

 

[やぶちゃん注:「拡ごりて」「ひろごりて」。但し、私は「拡」(原稿は「擴」であるかもしれない)の字は、この短歌では、生理的に厭な感じがする。]

 

いたづらの孫を叱ればいたづらを止めしが淋し春の日向に

 

[やぶちゃん注:「日向」「ひなた」。]

 

娘がくれし座椅子によりてウィルヘルム・マイスター読みぬ年よりの日よ 昭和三十五年九月十五日

 

[やぶちゃん注:珍しい作歌クレジットがある。昭和三十五年は一九六〇年で、花子は満六十五歲。逝去の約一年前の作歌である。

「ウィルヘルム・マイスター」ドイツの巨匠ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ( Johann Wolfgang von Goethe )が書いた教養小説の古典「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」(‘ Wilhelm Meisters Lehrjahre ’)。一七九六年発であるが、後に続篇「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」(‘ Wilhelm Meisters Wanderjahre ’)がある。両方ともに読んだものとしておく。]

 

ペンとればそのきしみさへしるくして夜半しづけしも秋のわが室

 

[やぶちゃん注:「しるくして」はっきりと(厭(いや)に)ギシギシと聴こえて。

「室」「へや」。]

 

山牛蒡の佃煮買ひぬ信濃路にみねばとよびて摘みし日恋し

 

[やぶちゃん注:「山牛蒡」(やまごばう)という、一般に、寿司屋などで、この名で供されるものは――漬物――で――「佃煮」――ではないのである。その材料は広義のアザミ(薊)様(よう)の植物の☆根で、

○キク目キク科アザミ属モリアザミ(森薊) Cirsium dipsacolepis

○同属オニアザミ(鬼薊)Cirsium borealinipponense

○キク科ヤマボクチ(山火口)属オヤマボクチ(雄山火口)Synurus pungens

等などの☆根の総称である。さらに困ったことに、「ヤマゴボウ」という正式和名を持つのは、日本在来種の、目タクソンで異なる、全く違う、

✕ナデシコ(撫子)目ヤマゴボウ(山牛蒡)科ヤマゴボウ属マルミノヤマゴボウ(丸実山牛蒡) Phytolacca japonica

中国原産で本邦に帰化している、

✕ヤマゴボウ(山牛蒡)Phytolacca acinosa

等で、これは、上記のアザミ様のグループとは、全く、異なる種であり、しかも、このヤマゴボウ類は、全草に強い毒(アルカロイドのフィトラッカトキシンphytolaccatoxin 等)があり、食用にはならないのである。更に、残念ながら、

★花子の言う「みねば」というのは「山牛蒡」ではない

のである。次の注を見られたい。

「みねば」これは、キク亜綱キキョウ目キキョウ科ツリガネニンジン(釣鐘人参)属サイヨウシャジン(細葉沙参)変種ツリガネニンジン Adenophora triphylla var. japonica の地方名で、若苗・若葉・花を食用にする。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『地方によって別名は、トトキ』(何故か知らんが、太字になっている)、『アマナ、ツリガネソウ、チョウチンバナ、ヌノバ、ミネバ』(☜)『ヤマシャジンなどの方言名でも呼ばれている』とあり、また、根については、『姿が朝鮮人参に似た根は強壮作用があるといわれ、年間を通じて採取でき、細いひげを取ってから千切りにしてきんぴらなどにする』とあった。ところが、実は、ここでも悩ましいものがあって、「きんぴら(金平)」は炒め物であって、「佃煮」ではないのである。しかし、この場合、この「みねば」という方が本命であるからして

「山牛蒡」=「みねば」=ツリガネリンジン

と採らざるを得ないと結論しておく。個人的には、私の大好物で寿司屋で食うのは前者だから、極めて残念なのだが⋯⋯。]

 

亡母が語りし雪女むじなの昔ばなし孫はわが膝にすがりて聴ける

 

[やぶちゃん注:これは、詠み方で困り果てた。「亡母」は音数律から「なきはは」と読んで見たが、そうすると、以下の「語りし雪女むじなの」パートがえらく字余りになって、現実的でない。そこで、苦し紛れに、以下のように考えた。

「亡母が語りし」は、硬い響きだが、「ばうもがかたりし」で一字余りとし、

「雪女むじなの」の「雪女」を「ゆきをんな」と詠まずに(あまりに音数が多過ぎるため)「ゆきめ」とし、「ゆきめむじなの」で、きっちり、七音となり、

※【但し、私は中世以降の怪奇談を多量に電子化注しているが、「雪女」を「ゆきめ」と呼んだ例は、記憶に、ない。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」でも存在しない。ただ、一つだけ、「雪女」が「うぶめ」の姿をしているという事例があるものの、採取地は会津であり、ピンと来ない。そもそも、花子が、これを以って「うぶめ」と訓じる可能性は、極めてゼロに近いと思う。『⋯⋯だったら、「ゆきめ」だろう!』と私は思ったである。】

「昔ばなし」は、そのままで、

「孫はわが膝に」で一字字余り、

「すがりて聴ける」は、七音、

で、まあ、いささか、ギクシャクはするものの、詠唱は可能であると思う。さても、もっとよい読み方があると言われる方は、御教授願いたい。]

 

桔れのこる胡瓜の茎にこほろぎは黒く澄みたるまなこもてすがる

 

[やぶちゃん注:「胡瓜」「きうり」。最後は、一字余り。]

 

初袷清しみ庭に降りたちぬ鶏頭の冷え身にせまり来る

 

[やぶちゃん注:「初袷」「はつあはせ」は「その年はじめて袷(あわせ)を着ること・その袷」で、所謂、「衣替(ころもが)え」で、陰暦四月一日(新暦では五月上旬から六月上旬)、冬衣(ふゆごろも)を袷と着替える行事を指す。

「清しみ」「すずしみ」。この「み」は接尾語で、原因・理由の意で連用修飾の関係を示す。この場合、『涼しいので、(庭に)「降りたちぬ」』となるのである。

「鶏頭」ナデシコ目ヒユ科ケイトウ属ケイトウ Celosia argentea 。原産地はアジア・アフリカの熱帯地方と推定されるが、本邦には、奈良時代に中国を経由して渡来した。花期は五月から始まる。実際に、あのニワトリの鶏冠みたような「花」に触ったことは、誰も、あられるであろう。すると、実際――「ひんやりと」する――のである。さて、ご存知とは思うが、ケイトウの鮮やかな赤い(他にもピンク・オレンジ等がある)のふさふさした「花」と呼びたくなる部分は、茎が変形したものであり、「花」のように見える部分は「花序・花穂(かすい)」である(実際の花は、珊瑚のように見える箇所の、その下にあって、細かな毛のようなものが附いているだけであって、花弁は存在しないのである)。さて、ケイトウの花序は、夏から秋の暑い時期に咲くため、何より、強い日光から自分を守るため、盛んに蒸散を行って、自(みずか)らの組織の温度を、周囲の気温よりも低く保っている。さても、水分が空気中に蒸発する際には、周囲の熱を奪う気化熱が発生する。そのため、花序に触れた際、時に「ひんやり」と感ずるのである。]

 

ひたすらに娘を頼み過ぐる日日にしてこのやすけさに病癒えなむ

 

[やぶちゃん注:「やすけさ」「安けさ」。「身体の感覚が穏やかになること・良くなること」で、「さすけし」の名詞形であるが、この「やすけし」という語は、実は万葉語としてこの意味の用例があったが、暫くして、使われることが少なくなった。しかし、江戸時代には、再び歌人や国学者らが用いたことがあり、近代、またしても歌人らが、その意味で再興して盛んに用いるようになったものなのである。]

 

蜜吸ひし蜂ふくらみて優しけれ菊の花むら明るきところ

 

[やぶちゃん注:「花むら」「花叢」で「花が群がり咲いている場所・花の咲いた草叢」を指す語。]

 

惜しからぬ命なりなど思ひしに経り居れば斯く楽しき日ある

 

[やぶちゃん注:「惜しからぬ」「をしからぬ」。惜しくもない。

「経り居れば」「へりをれば」。少しそうした状態でいられるようになったので。]

 

亡き母の眉にも似たる朝月のひそけきを見ぬ烏啼き過ぐ

 

[やぶちゃん注:「朝月」「あさつき」。早朝の空に昇って見える月。

「ひそけき」「ひそけし」は、「物音或いは対象物が静かで目立たない様子」或いは「もの寂しくひっそりとしているさま」を表わす語。

「烏」「からす」。]

 

ほととぎす庭をよぎりぬ故郷の柿の実は赤からむ亡き父母恋し

 

[やぶちゃん注:「故郷」「ふるさと」。

「柿の実は赤からむ」「かきんみはかからむ」で二字余り。]

 

御眉のただ懐しく偲ばれて恩師の米寿祝ぎまつるわれ 吉田熊次先生三十六年一月十日

 

[やぶちゃん注:「吉田熊次先生」この人物は、花子が東京女子高等師範学校在学中の教授であった文学博士吉田熊次(よしだくまじ 明治七(一八七四)年~昭和三九(一九六四)年)。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「御眉」「おほんまゆ」。

「三十六年一月十日」昭和三十六年は一九六一年。花子は、この時から約八ヶ月後、逝去している。]

 

高齢の母が欲りせし塩鯟ほしとこそ思へわれもこのごろ

 

[やぶちゃん注:「欲り」「ほせり」。

「塩鯟」「しほにしん」。実際に花子が料(つく)ったのは、「春告魚(はるつげうお)」の異名を持つ条鰭綱ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii のニシンの一塩にしたものであろう。脂がのって旨い。但し、花子に母の想起していたのは、長野での記憶であるから、強力に塩漬けにした、強力に塩辛かったそれでは、あろう。]

 

並みいますみ仏のなかに立ちまじり満ち足りいます君を夢みき 田丸やす子様

 

[やぶちゃん注:「田丸やす子」不詳。]

 

夢にみし君が面輪の今日ひと日心を去らずほのぼのとあり

 

[やぶちゃん注:前の連作であろう。「面輪」「おもわ」。「輪」は「輪郭」の意。狭義には、人の顔や顔の輪郭及び表情を表わす古語であるが、この場合は、もっと幅のある「面影」(おもかげ)の意である。]

 

裏山に朝のひかりのさだまれば若葉のなかに百鳥啼けり

 

[やぶちゃん注:「百鳥」音数律と清音優先で「ももとり」。たくさんの鳥たち。ここでは、いろいろな種の鳥とも合わせた意で採る。]

 

花の庭にたちて思へば死てふ事もおとろへし身にうれしきものを

 

[やぶちゃん注:「死てふ事も」「しぬてふことも」。死ぬということも。]

 

なす事もなくて過ぎゆくこの頃を憂しとも思ひのどかとも見る

 

ゆく川の水にしづきて春の野のすみれたんぽぽゆれ止まぬ昼

 

[やぶちゃん注:「しづきて」は動詞で「靜(しづ)く」である。「万葉集」では「水底(みなそこ)に沈んでいる」の意で使われてあり、平安前期の「古今和歌集」では「水に映って見える」の用法がある。ここでは、後者で採り、川辺に花を咲かせている菫(すみれ)や蒲公英(たんぽぽ)の花たちが流れる川面(かわも)に映って揺れて止まないでいるモーション・シークエンスとして詠じたもので、妙な技巧を用いずに、よく描いていると言える。]

 

雪かとも散る夕桜手にとめて異国の友への文にはさまむ

 

花いかだ浮べてはゆく小川辺に野ぜりひたすらつむ少女居り

 

[やぶちゃん注:「花いかだ」「花筏」。この場合は、水面に散った花弁(はなびら)が連なって流れているのを筏に見立てた語である。即ち、その主語たる主体は「小川」である。

「野ぜり」セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica 。私は裏山の嘗つてあった農業水源地(そこは既に藤沢市であり、そこを下ると、まさにフジの鬱蒼と生えた渓谷が続いていた)の周辺で、母と山ほど、摘んでは、食べたものだった。そこは⋯⋯今や、総て、住宅地となってしまった⋯⋯。]

 

菜の花の翳りもあらず咲く道を子らとし行けばもの思ひもなし

 

[やぶちゃん注:「翳り」「かげり」。花子の一連の叙景歌は、捩じれた感情や、奇妙な衒(てら)いが、全くなく、よい。]

 

君が賜ひし羽織の裏の友禅を老いて見出でし宵のおどろき 芥川様より三十二年春

 

[やぶちゃん注:この詞書は「芥川様より」で切れ、短歌に出る「羽織の裏の友禅」を芥川龍之介から花子が頂戴したことを指す。これは、花子の「芥川龍之介の思い出」に、その話が載っている。当該部分を以下に示す(前後部分はブログの『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (五)~その1』を見られたい)。

   *

 或る日、帰宅した夫は、今度は当方から芥川君の新居をお祝いかたがた訪問することにして来たと申しました。私は子供連れでたいへんだからと、ためらっては見ましたもののやはり夫の意見に従い、出かけることにいたしました。

 新居は松原を背に茂る青葉に包まれた小ぎれいな構えでございました。門辺には大きな芭蕉の葉がそよいでおりました。

 彼は私ども一家揃っての訪問を心から待ち受けて呉れておりました。新夫人も初めての挨拶を私に与えられ、都育ちのあでやかさを清楚に整えた初々しさで若紫ということばにも例えたい佳人でいられました。この新妻のもてなし振りに私はすっかり嬉しくなり、しまいには初対面ということも忘れて寛いでおりました。私の田舎育ちの荒さや、女学校時代のスパルタ教育の名残りがどこかに出るようで、注意をしながらもはしゃいでしまうのです。彼の方は今日の訪問客のために髪を洗い、仕立て下ろしの浴衣を着て、すがすがしさを身につけた感じでした。若主人振りを私は心中まことに可愛らしいと思ったのです。

 「実は今日、親友、久米正雄をご紹介しようと思いましてね。もうすぐ来ることになっているんですよ。どうぞ、夕方までおくつろぎ下さい。赤ちゃんは女中さんと海岸へでもおやりになっては如何ですか。うちの女中もお伴させますよ」

と、しきりに引きとめられたのですが、子供連れであり、初めての外出でございましたので、名残り惜しくも、頃よい時に辞去することになりました。

 考えればこのときが、あとにも先にも、私にとっては彼を訪う一度の日だったのです。

 ついでに思い出を書きますと、このとき、彼から贈られた初着は、男の子の柄ですから如何にも、すかっとした、見立てのよいもので、私自身がすっかり気に入り、実は、主人を通して彼の承諾も得てありましたが、私の羽織の裏に使わせていただくことになったのです。

 機関学校では各々に子供誕生の折りには、初着用三丈の布を贈り合うことになっていたのです。彼もその規則にしたがって、彼自身の見立てで贈ってくれたのでございました。

 また、当方からのお返しには、お盆をそれぞれ送りましたが、まだ、独身の彼のみは、お盆でも困るだろうとの話が、うちうちに交わされまして、主人と私で、お誘いかたがた横須賀の町でご馳走し、「さいか屋」という店で財布を買って差し上げ喜ばれました。財布は使って下さった由。羽織裏は長く、色あせるまで使用いたしました…………。

   *

因みに、昭和「三十二年」は一九五七年(注している私の生まれた年である)であり、この「遺詠」は作歌年代が、殆んど整列していないことが、明らかとなる。]

 

ただひと目相見し故に人の世を独り経しとてたより賜ひき

 

[やぶちゃん注:この「たより」は芥川龍之介からのもののように読めるが、不詳。しかし、実際に芥川龍之介直筆の佐野花子宛書簡があって、晩年までその実物を所持していたのなら、それを花子は何故、何回かの全集編纂の際に報知しなかったのか、少々疑問である。夫慶造の目に触れないように廃棄したのかも知れない。また、彼が、このような秘密の懊悩を花子宛に書く可能性は、決してありえないとは断言出来ないと私は感ずる。龍之介なら、やらかし兼ねないと思うからである。]

 

寝てはさめさめては思ふこの頃のはかな心を何に譬へむ

 

何かは知らず早く明けたる春清し心はずみて筆をはしらす

 

[やぶちゃん注:「清し」「すがし」。]

 

四十年の昔一度相見し君なれどみたよりあればうれしかりける

 

[やぶちゃん注:「君」は、明らかに芥川龍之介である。]

 

古と変らぬものとのたまひてみちのく里に独りすむ君

 

[やぶちゃん注:読み込んだ「君」は既に出た青森に友人である。]

 

吹雪して散り来る桜手にうけぬ待てるわが子の家づとにせむ

 

[やぶちゃん注:「家づと」は「いへづと」で「家苞」。 家へ持ち帰るお土産。]

 

つと落ちし簪の草にふれしよりよき露のたまはらとこぼれぬ

 

[やぶちゃん注:「簪」「かんざし」。何らかのシンボライズされた朦朧とした一首である。しかし、本邦の文楽や歌舞伎に於いては、「かんざしを落とす」という行為が「秘密の発覚」や「動揺」を象徴する。されば、この歌は、夫を持つ花子が、芥川龍之介が彼女に赤らさまに向けた誘惑のモーションを、内心に於いて、実は受け入れたかったことを暗示しているように私には見えるのである。]

 

露の玉こぼれて消えてあともなしわれの思ひもかくあらまほし

 

[やぶちゃん注:前の――危険がアブナい歌――を、実景で言い直し、その過去のものであった不倫誘惑衝動を断ち切ろうとする希望を「あらまほし」(そうあってほしい)と述懐しているものと執る。]

 

つき草はかなしき花につゆおびて夕の憂ひをかたり気に咲く

 

[やぶちゃん注:「つき草」既に「万葉集」に用例がある「露草」=単子葉植物綱ツユクサ目ツユクサ科ツユクサ亜科ツユクサ属ツユクサ Commelina communis の古名。同種は、朝、咲いた花が、昼早くには凋(しぼ)み始めてしまうことから、「儚(はかな)さ」の象徴として詠まれたものが多い。

「夕」「ゆふ」。

「憂」(うれ)「ひを」「かたり気に咲く」「かたりげにさく」。憂いの悶々とした気持ちを語りたいかの如く「咲く」よ、というのである。無論、花子の内心の表象である。]

 

夕暮の雲にほのめく三日月のはつかなるより秋うらがなし

 

[やぶちゃん注:「はつかなる」形容動詞ナリ活用で、「はつ」は、「はつはつ」(=「わずか(に)・かすか(に)」。「万葉集」に用例がある「ほんのかすかに」「こんなにも~となるまでに」)と同語源で、「か」は接尾語である。「物事のはじめの部分がちらりと現われるさま・かすか・ほのか」の意で、特に「視覚・聴覚に感じられる度合が少ないさま」を表わす語である。]

 

病葉に弱き光を投げかけて澄みきはまりぬ十三夜の月

 

[やぶちゃん注:「病葉」「わくらば」と読む。これは、第一義に「木の若葉」であるが、第二義に「病気や虫に犯されて枯れた葉。特に夏の頃、紅葉のように、赤、又は、黄白色に色づき、枯れた葉」を指す。この場合は、後者の意味であるが、言わずもがな、それは花子自身の身体のメタファー(隠喩・暗喩)である。]

 

十三夜の月見むとしてはりの戸を明くればさむし長つきの空

 

[やぶちゃん注:「十三夜の月」陰暦九月十三日の夜。八月十五日の夜の「十五夜」に次いで月が美しいとされ、「後(のち)の月」とも言う。十五夜の月を「芋名月(いもめいげつ)」というのに対し、「豆名月・栗名月」とも呼ぶ。

「はり」「玻璃」。ガラス。

「長つき」長月。九月の異名。]

 

還暦を迎へたる身の衰へよ衰えヘばかなしうれしはかなし

 

[やぶちゃん注:「還暦」花子は明治二八(一八九五)年一月十七日生まれであるから、数えで還暦は昭和三一(一九五六)年一月一日である。彼女は昭和三六(一九六一)年八月二十六日に逝去しているから、狭義には、亡くなる五年前の元旦の詠と措定しておく。]

 

心経の墨いろ冴ゆる扇より風立つごとく秋に入りたり

 

[やぶちゃん注:「心経」「般若心経」、正確には「般若波羅蜜多心經」(はんにゃはらみったしんぎょう)である。現在、最も流布しているのは、玄奘三蔵訳とされる『小本系(しょうほんけい)』の漢訳であり、通常は、これを指す。冒頭の「佛說摩訶般若波羅蜜多心經」十二文字、及び、最後の締めの「般若心經」四文字題名を含めると二百七十八字となる。これは、小さな文字で扇に毛筆で書くことは可能であり、私も持っている(但し、蔵書の藻屑となっているので、見当たらない)。]

 

六十路が程逝くはよろしと八十の父言ひましき吾はいま病む

 

[やぶちゃん注:「六十路」「むそじ」。数え。花子の父山田力之丞は生没年が判らないので、本作の作歌時期を特定出来ない。

「八十」「やそ」。]

 

衰へのいえてゆくてふ嬉しさを夢とも思ひ現ともみる

 

[やぶちゃん注:「てふ」「という」の意。

「現」「うつつ」。現実。]

 

病いえぬ庭に下り立ちふむ土の軟らかにして春は来にけり

 

[やぶちゃん注:「病」「やまひ」。「いえぬ」「癒えた」の意。「下り立ち」「おりたち」。]

 

もち草の芽のやはらかさそとふれしおよびにも沁む春のいきほひ

 

[やぶちゃん注:「もち草」「もちぐさ」。「餅草」で、お馴染みのキク目キク科キク亜ヨモギ属ニシヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii のこと。

「そと」そっと。

「および」「指(および)」。]

 

静かにもまた苦しくも歩み来て還暦といふ年迎へたり

 

病みぬれどなじか嘆かんこの日頃心足らひてすぎゆく我を

 

吾子とゐて病の床にふしたれば心尽して看取られてをり

 

[やぶちゃん注:「吾子」「あこ」。我が子。]

 

八十四の父逝きましぬその病老衰ときけば心暗むも

 

病みてあれど心は安しわが夫が形見の一つ病めるこの身も

 

ひとすぢに思ひし事の数かずよ我がなきあとをただに消ゆるな

 

宵よひの夢に来まして語らひぬ老いて病む身に霊は悲しき

 

[やぶちゃん注:「宵よひ」「よひよひ」。宵毎(よいごと)。毎晩。ここの来たる「霊」は、前後の歌の詠唱から見て、夫慶造か、実父、或いは、実母であろう。]

 

夜の夢に父母の来まして語らふよ老いて病む身ぞしづ心なき

 

半年といふ長きいたつき経し故に心何ほどか清まりにけん

 

[やぶちゃん注:「いたつき」古語の「労(いたつ)き・病(いたつ)き」で、この場合は、第一義的には「骨折り・苦労」であるが、この場合は、第二義の自身の「病気」である。]

 

慕ひ寄る二人の孫のいとしさにつなぎとめたる命とも見し

 

毎日の注射の針の痛みさへなれてわびしも長く病みゐて

 

なつかしき君がおもわを浮べては独り語らむはかな事など

 

[やぶちゃん注:「はかな事」「はかなごと」。「儚(はかな)い事がら」の意。頭の「なつかしき君」という語り方から、私は芥川龍之介であろうと思う。]

 

はかなくも思ひてすぎし君が上遙けく経てはわが事思ふ

 

[やぶちゃん注:上句の謂いから、「君」は芥川龍之介であろう。

「上」「うへ」。

「遙けく」「はるけく」。この場合、意味は「時空間的に遠い・久しい・ずっと昔である」を表としつつ、「心理的に隔たっている」を重層させているに違いない。さればこそ、この「君」は芥川龍之介である。]

 

花見ても人懐しく思ふかな老いて病む身のはかな心に

 

御たよりを読みもてゆけばわが袖の涙にぬれて読めずなりたり

 

幾年を思ひてすぎし吾れなれど君に見えむ時近づきぬ

 

[やぶちゃん注:花子の芥川龍之介への執心から、この「君」も芥川龍之介である。]

 

熱なくて哀へてゆくわが病ひ不思議と思ひ思ひつつやむ

 

食慾は常に変らであるものをなどてこの身の細りゆくらむ

 

紫は母が好める花なりとあまた摘み来る子は汗ばみて

 

降りくれし牡丹雪こそめでたけれ手に受けたればただに消えゆく

 

[やぶちゃん注:これは、辞世とは断定出来ぬが、詠唱対象の季節性と「ただに消えゆく」の謂いから、それに相応しいとは思われる。花子の素直な諦念が伝わってくる。]

 

 

佐野花子「遺詠」/終わり

 

2026/08/25

佐野花子「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」禁欲的必要最低限注附き

[やぶちゃん注:これは、昭和三六(一九六一)年四月一日発行の小学館の雑誌『マドモアゼル』(第2巻第4号)に掲載された佐野花子さんの随筆である。未知の読者の方から、この作品の存在をお教え戴き、しかも、当該作品の全画像を頂戴した。この作品は、私は今まで全く未見のもので、正直、非常に驚いた。私は、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」やサイトで電子化注してきた、この方の書いた『佐野花子「芥川龍之介の思い出」(原文のみ)』や、『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注(PDF縦書版・上記ブログ版原稿)』や、彼女の書いたものをもとに小説化したもの(サイト版の田中純『二本のステッキ』・昭和三一(一九五六)年二月『小説新潮』発表)等を手掛け、それらを用いて、彼女と芥川龍之介について考察した拙考もものしているが、関口安義氏の編になる「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房)にも、この記事は記載がないものであった。されば、提供者の方の許諾を受け、私が、電子化することとした。ここでは、読者に小生の独断のバイアスを与えないように、明らかな誤り、或いは、及び、明らかな勘違い等、普通に、芥川龍之介の愛読者、或いは、高校生・大学生程度の読書好きの方が、どう考えても、躓くであろうと考える箇所ついては、最低、必要と考える注を附して公開することとした。実は、当初、完全ベタ版注無しで公開しようと思ったが、それでは、初めから、「何、これ!?!」と、作者を初っ端から「この人! まるっきり! おかしい!」として全否定されて、ブン投げられてしまうことになりかねないことが明白であるから、あるところでは、花子さんの勘違い・思い込みが出現していることが判るように、また、時には――なるべく、フラットに彼女を守れるところはキッチりとサポートするように――注を附加するという方針に変更した。

 個人的には、先に示した、

『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注(PDF縦書版・上記ブログ版原稿)』

或いは、

ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」の『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (一)』から、『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その6 / 佐野花子「芥川龍之介の思い出」~了』の全十二回

をお読み頂くことを、強くお薦めするものである。

 改めて、情報を下さった方に、心から御礼申し上げるものである。

 なお、作品のヘッドには『■文学者の恋』とあるが、これは無論、雑誌編集者の附したものであるから、ここではカットし、同じく、標題の後に、『それは愛に似て苦しく、悲しみに似て甘かった⋯⋯若き日の天才とのひそやかな魂の交換を、一女性がここにはじめて公開する⋯⋯』というキャプションがあるが、これも同じ理由から電子化しない。いやいや! 標題「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」は見るからに、花子さんが附したとは、過去の自筆ものと照らして、ちょっと思えないスキャンダラスなもので、編集者が、花子さんに許可を得て、或いは、任せて貰う言質を得て、勝手に決定・標示したものである可能性が極めて高く、また、原文中の複数のパート・タイトルも、同じ疑いが濃厚である。しかしこれらは、かく、公開されてしまっている以上、これを正規なものとするしかないと判断する。なお、表題の次にある作者名「佐野花子」は「さのはなこ」のルビがあるが、この版では、カットした。なお、作品中の本文は二段組・明朝体で、パート見出しのみゴシック体であるが、明朝で統一し、そこだけ、太字とした。また、字起こしは、元画像の解像度が低いため、私のポンコツのリーダー・ソフトではダメだったので、総て、視認してタイピングした。

 なお、文中で芥川龍之介が彼女に贈った自書に書き添えた句の第一句の下の句「※夫人」の「※」は「郛-(おおざと)+虎」の字体である。但し、このような漢字は、「大漢和辭典」にも存在しない。私のサイト版の「やぶちゃん浣芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の注で示した通り、「虢夫人」と誤記で、芥川自身の誤字である。因みに「虢夫人」は、楊貴妃の姉で、正しくは虢國夫人と呼ばれた美女である。注を可能な限り、ベタ版本文に入れたくないので、ここで注しておく。

 また、表題の後の姓名の上には、「私は」の「は」の半ばからやや下から、三行からなるゴシックで、

   *

 それは愛に似て著しく、悲しみに似て甘かった⋯⋯

 若き日の天才とのひそやかな魂の交換を、一女性が

 ここにはじめて公開する⋯⋯

   *

という、明らかに編集者による文章があるが、これも、カットした。

 本記事は同誌の「198」ページから「201」ページまで二段組となっている。

 最後に。佐野花子さんは明治二八(一八九五)年一月十七日生まれで、昭和三六(一九六一)年八月二十六日、六十六歳で亡くなっている。掲載雑誌の発行日は昭和三六(一九六一)年四月一日であるから、逝去される約五ヶ月前の公表であり、彼女が、本作を書かれたのは、まさに六十五、六歳で、最晩年に書かれたものであることが明らかになる。因みに、既に知られている「芥川龍之介の思い出」については、歌人片山恵美子さんの「序として」に、『この稿は、昭和二十五年八月二十六日封切の映画、「羅生門」を見てから筆を起こしてありますので、永眠の日と、この映画封切の後とを考え合わせてみますと、五十五歳ごろから、六十歳以後の執筆と思われます。』とある。

 而して――本作品は――「芥川龍之介の思い出」執筆前に――花子さんが書いたものである――

ことが明確に推定されたのである。

 その理由は――実は、本記事について、花子さんは、既に「芥川龍之介の思い出」の中で言及している事実を、遅蒔き乍ら、発見できた――のである!

 それは同作(リンク先はブログ版『佐野花子「芥川龍之介の思い出」(原文のみ)』)の最終部の『㈤』の後半の一段落である。以下に引用する。決定的事実箇所を太字にした。

   *

 私は自分でもこういうことに気づきまして病人になりましてから、ノートに覚えていることを書きはじめました。小説の形にしてまず書き残しても見ました。また、文壇で問題にしている「或阿呆の一生」中の四人の女性を私であるとも仮定して断定的な口調で書いても見ました。または、手当たりしだいの紙片に覚え書きを記しました。娘の耳にも語り聞かせました。病いは既に治りそうもなく先も長いとは思えず、書いたものは、ちぐはぐであるようです。私の言いたいことは一貫して頭の中にあるのですが、死後それはどのように語り伝えられて行くのでしょうか。

   *

 この太字部分は、いっかな厳しい書誌学者・芥川龍之介研究者も、この『書いても見』たものというのが、「本記事を指してはいない」と、反論は出来ないであろうと、私は、確認するものである。]

 

   私は芥川龍之介のかくれた愛人だった

               佐 野   花 子

 

    まじわりの日々

 

 私がはじめて芥川龍之介に会ったのは横須賀駅の入り口の所でした。大正六年四月七日のことです。私はその前日ささやかな結婚式をあげ、知人のお宅で初床をすごした後、新婚旅行に旅立つところだったのです。当時夫は横須賀の海軍機関学校の理科教官をしており、私は二十三歳、夫、慶造は三十歳を越しておりました。

 太陽と月との何気ない出合日食のように、ごく自然な、だが滅多に起こらない、しかも何か宿命を感じさせるような出合いというものがあります。私と芥川さんの出合いがそんな風でした。人力車で横須賀駅頭に乗りつけた私たちに、優しく笑いかけながら近づいて来る背の高い青年が芥川さんだとすぐにわかりました。夫から彼の話をよく聞いていましたし、新聞などでその写真を見たことがありましたから。

 その時、芥川さんは二十五歳で、新進作家としてその作品を発表するかたわら、海軍機関学校の文科教官として鎌倉の下宿から横須賀に通勤する身でした。紺の背広にステッキ、中折帽をかぶった芥川さんは、当時の言葉でいうならハイカラで純真そうで礼儀正しく、しかも気さくな話ぶり、芥川さんには人の心を紹介し合い、出発までの時間をおしゃべりに費やしました。思えば最初の出合いが、新婚旅行の旅立ちの時だったというのは、なんという運命の皮肉でしょう。彼は人妻としての私しか知りません。人妻――そのことが終生彼を息苦しい懊悩の淵にひたらせようとは思ってもみないことでした。

 横須賀の小さな家に世帯を持った私たちは、お近づきのしるしに芥川さんを鎌倉の小町園という料亭に招待いたしました。彼はたいへん喜んでくれたそうで、その時は私に着物を着て白粉をつけて来るようにと夫に言っていたということでした。その日、夫も芥川さんもわずかの酒に酔って嬉しそうに学校や文壇の話に花を咲かせていました。

「結婚っていいものですね。佐野さんご夫妻を見ているとつくづくそう思いますね。」[やぶちゃん注:この直接話法は、前の行の末尾が、行末で句点で終わっており、それに続いて繋がっている可能性がある。或いは、その方が可能性が高いともとれるのだが(次の段落がそうなっている)、初出の芥川龍之介の台詞であるので、私は、敢えて改行することとした。私は、恣意的にそうしても流れとして、違和感は全くない、と思ったからである。]

 芥川さんはその鋭い瞳を微笑に包んで、あくまで柔和でした。夫は人の好さを丸出しにして、「そう思ってくれますか。ありがとう。」と嬉しくてならない風でした。

「佐野さんの婚約者は女高師出だと聞いて、どんなこわい人か知らん。おとなしい佐野さんがそんな怖い人と結婚したらどうなるんだろうと心配していましたが、奥さんにお会いして安心しました。優しくお美しいし、月光のような理知に輝いていらっしゃるようにお見受けしましたから。」

 それから芥川さんは急に打ち沈んでことばを続けました。

「ぼくは今さびしくてならないのです。なぜだかわかりますか⋯⋯。僕はもう幸福な家庭を作れそうもありません。」

「何言うんだい、龍ちゃん(芥川さんを夫はこう呼んでいました)そんなことはないよ。酔ったんじゃないのかい。」

 芥川さんは急に明るい声になって、

「ああ、酔いました。酔いましたよ。奥さん、歌ができました。差し上げます。」と言って、短冊にさらさらと書いてくださいました。

[やぶちゃん注:前の『「ぼくは今さびしくてならない』から、以上の上段の最終行の始まりの『にさらさらと書いてくださいま』までの上段部(一行字数で半分相当)に(下部に細かい「■」を並べた区切りがある)、『芥川龍之介氏(左)と、交際のあった当時の佐野花子夫人』というキャプションを下部に配し、上に二人の写真(別個)が、二葉、掲げてある。

Ryunosuketohanako

かなり粗いが、花子さんのものは、所持する佐野花子・山田芳子(花子さんの実娘)「芥川龍之介の思い出」(短歌新聞社『彩光叢書第8篇』・昭和四八(一九七三)年刊)の扉にある『大正七年写 長男清一を抱く著者佐野花子と夫君』からのトリミングと断定出来る。一方、龍之介のものは、私の所持する芥川龍之介関連書籍中の複数の写真を見ても、同一のものは見出せなかった。瘠せた方から上で、頭部の髪は少し切れており、左から斜めに撮ったものであるが、龍之介であろうとは、概ね、判るものの、かなり瘠せており、しかも、ムッとした顔つきである。目の鋭さや髪型から、私は、龍之介の晩年の、やや前期のものかと思う。全くポーズをしていない画像の雰囲気から、個人を撮ったポートレートには見えず、恐らく、複数の人物と一緒に撮られたものを、彼の部分だけを切り取ったものと推定する。この選択は、編集者に拠るものと思われる。当初、画像が粗く、綺麗でないので、載せなかったが、「X」のGrokの助言を受け、急遽、以上の通り、掲げた。]

 〝悲しみは君がためたるその宵の 印度更紗の帯よりや来し〟と。

 この歌の意味は一読すればどなたにもわかるはずです。それは私への思慕の情を訴えたものにほかなりません。しかしその夜の私は楽しさにまぎれて、歌の意味を深く考えてみようとともしませんでした。その夜ほど芥川さんが感情の起伏をあらわに見せたことはありません。横須賀駅で会った時、ひと目で私の愛を感じた芥川さんは、人妻を恋することの怖れに耐える心の準備も整わず、やみくもに思い乱れていたのでしょう。

[やぶちゃん注:この「悲しみは君がためたるその宵の 印度更紗の帯よりや来し」という短歌であるが、これは、ブログ版の私の「完全還暦記念 二本のステッキ 田中純 佐藤泰治 畫」にも、『悲しみは君がしめたるその宵の印度更沙の帶よりや來し』の表記で出ている。しかし、芥川龍之介の直筆のものとしては、私のサイト版「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」で、まず、Lucio Antonio名義の連作「さすらへる都人の歌」の「Ⅵ」に、

   *

かなしみは 君がしめたる 其宵の

 印度更紗の帶よりや來し

   *

の表記で載り、また、

   *

連作「思慕巴調 Leiden des jünger Werthers」の第四首に、

   *

かなしみは 君がしめたる其宵の

 印度更紗の帶よりや來し

   *

の表記で載り、さらに、連作「客中戀」第八首に、

   *

かなしみは君がしめたる其宵の印度更紗の帶よりや來し

   *

の表記で載る。さて――ここからは、後に考えている本作のオリジナル注版の分析領域に含まれるが、判ってしまった以上、ここで言っておくと、これら酷似した三篇の最も古いものは、推定作成時期は大正三(一九一四)年夏である。芥川龍之介が佐野花子と邂逅したのは、大正六年である。即ち、この一首は、花子さんに悪いが――彼女を詠んだ歌ではない――のである。但し、龍之介は、他の女性にも、こうした以前に用いた表現や詩句を示すことは、茶判事であったから、彼女が、そう思い込んだのも、これ、無理はないのである。]

 それから数日後、芥川さんは先日のお返しにと再び私たちを小町園に招いてくださいました。その日の芥川さんはいつも明るいもの静かな態度を崩すことではありませんでした。

 こうして私たちと芥川さんの交わりは何気なくはじまり続きました。それは普通の友人同志の交際とかわりありませんでした。芥川さんは学校の帰りによく私たちの新居に立ち寄るようになりました。私はなれぬ手つきで料理を作って彼を歓待しました。

 そのころ出版された彼の著作『煙草と悪魔』を私にくださった時、その表紙の裏につぎのような俳句を書いてくださいました。

   秋立って白粉うすし※夫人

   白粉の水すてしかり芙蓉なる    龍之介

   追加  妻ぶりも襟白粉も夜は寒き

 私の身動き一つにさえ女の匂いを感じ、自分の恋心の激しさを静かに見つめている芥川さんの息吹きが思われます。

[やぶちゃん注:「※」は冒頭注を見られたい。

「煙草と悪魔」は新潮社『新進作家叢書』の第八篇で、通常、第一短編集『羅生門』に次ぐ芥川龍之介の第二短編集である。発行は大正六(一九一七)年十一月十日である。さても、そこに添えた、この三句は、私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」に載るが、これは、佐野花子による「芥川龍之介の思い出」にのみ発見出来るもので、類型句は、他にない。されば、これらの句は、龍之介が、確かに花子さんへのオード(ode:頌歌)として詠じたものと言って、差し支えないのである。]

 このころ、芥川さんは文子夫人と婚約中でした。

「ぼくは彼女を静かな愛情で包んでやるつもりです。しかし、その前に自分の神経衰弱を克服しなければいけません。」

 そんな風にいう彼の瞳に諦めに似た光があるのを感じ、彼の胸のうちを推し測りかねる私でした。彼は通勤に不便だから私たちの世話で横須賀に下宿をかえました。しかし、友人にあてた手紙に横須賀の息苦しさを訴えています。私の存在を身近に感じるのは彼には苦痛すぎたのでしょう。私たちに神経の疲労を訴えるようになったのもそのころからです。芥川さんと私との間にはいつも夫が介在していました。二人で会ったことは一度もありません。それは私との間に人妻としての垣根をかたく据えようとする彼の悲しい努力だったのです。そんな状態の交際は、芥川さんが文子夫人と結婚され、再び鎌倉に居を移してからは次第に縁遠くなり、私たちの住いをお訪ねになることも少なくなりました。そして大正八年に海軍機関学校を辞められ、東京の田端に帰って文筆生活に専心されるようになってからは、わずかな文通だけが私たちの間を通わせるよすがとなりました。長男比呂志さんの誕生の噂を聞いて、お祝いのベビー服を送ったのを最後に、芥川さんは決して私たちにおたよりをくださるようなことはなくなってしまいました。

[やぶちゃん注:「このころ、芥川さんは文子夫人と婚約中でした」大正五(一九一六)年十二月、塚本文との婚約が成立している。

「精神衰弱」これは、言うまでもないが、この時の芥川龍之介のそれは、狭義の旧疾患名としてのそれではなく、大雑把なポジティヴな感じや、個人的な過労やストレスに拠る、心や神経のエネルギーが、すり減って、意欲や気力が、何んとなく低下した状態全般を指したものである。この前後、龍之介は、初めから不愉快であった作家と教職の二重生活に、かなり強い嫌気がさしており、ボルテージが下がっていたのである。しかし、その大きな元凶は、かなり前であるが、大学在学中、初恋の相手吉田弥生との結婚が芥川家の猛反対によって、大正三(一九一七)年から、翌年二月にかけて、破恋に終わったことが、大きい。

「横須賀に下宿をかえました」大正六(一九一七)年九月十二日、龍之介は鎌倉から横須賀市汐入に下宿を移している。

「芥川さんが文子夫人と結婚され」大正七年二月二日、龍之介は、田端で、塚本文と結婚式を挙げている。

「再び鎌倉に居を移してから」大正七年三月一日、文とともに鎌倉町大町字辻小山別邸内に引っ越している(半月ほどは、龍之介の伯母ふきも同居していた)。

「大正八年に海軍機関学校を辞められ」龍之介が、実質上、海軍機関学校を辞職したのは、大正八年四月三十一日である。

「長男比呂志さんの誕生」大正九(一九二〇)年四月十日。因みに、龍之介の最大最悪の不倫相手秀しげ子との関係は、既に前年の大正八年の後半以降、ずんずんと深みへと入ってしまっていた。]

 

    愛 の さ ざ 波

 

 その後二年ほどたって雑誌『新潮』に芥川さんが、「佐野先生」と題する随筆を発表されたことがあります。それには夫をいちじるしく罵倒して書いてありました。あれほど夫に親しみ、しかもつつしみ深い芥川さんが、そのような随筆を仮名も使わずに発表したのは驚ろかされました。夫は動ずる風もなく、

「龍ちゃんはお前を好きだったのだよ。それが逆に私への嫉妬になり、こんなものをヒステリックに書いてしまったのだろう。」と言いました。彼が私を愛していた! そんなことを思ってもみなかった私には夫のことばは二重の驚きとなって襲いかかりました。胸の中で懸命にそれを打ち消そうとする私は、決定的な証拠を見て崩れ落ちる心の谺を感じるのでした。そのころ私の愛読していた『淑女画報』に田端居士という書名で「私の好きな女性」という小文がのったことがありました。芥川さんの作品をくわしく読んでいた私にはその文章の匂いと、東京の田端に住んでいることから、それは芥川さんが書いたものだとすぐに直感できました。それには「私の仕事(文学)を理解して、仕事を刺戟しない女性が好きだ」とあり、以前に知り合った横須賀の一女性がそんな人だと書いてありました。それを読んで芥川さんが私を愛していたというのはほんとうだったと確信したのです。

[やぶちゃん注:「その後二年ほどたって雑誌『新潮』に芥川さんが、「佐野先生」と題する随筆を発表されたことがあります。」「佐野先生」という題名の作品を芥川龍之介は書いていない。先行する『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (五)~その2』を見ると、そちらでは、「佐野先生」ではなく、「佐野さん」となっている。この芥川龍之介作とする「佐野さん」の謎について、私の推理を、そこで公開しているので見られたい。これは、一種の言語上の病的な入れ替えに拠る関係妄想・作話症と言える。しかも、全体の会話や認識は、このシチュエーションでは、奇異でなく、事実のように読める(則ち、夫の何でもない会話を、彼女自身の脳内で、自由に単語を特定的恣意的なものに無意識のうちに変形させ、しかもそれが不自然ではないものに置換させている)点が、なおのこと、恐ろしい仮想現実を現前させて、それを心底、真実として、彼女が脳に記憶して、がっちりと保存させているのである。]

 

    『或阿呆の一生』から

 

 芥川さんがその死に際して書き残した遺書と共に筐底に秘めていた『或阿呆の一生』という作品があります。これは彼の友人久米正雄氏にあてたもので、彼の生涯の事件や心象を印象的に五十一の短章にまとめたもので、暗示に富む筆致と手法の中に、真実が語られています。

 『或阿呆の一生』の十七の章は「蝶」と題されています。

  藻(も)の匂(におい)の満ちた風の中に蝶が一羽

  ひらめいてゐた。彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇

  (くちびる)の上へこの蝶の翅(つばさ)の觸れる

  のを感じた。が、彼の唇の上へいつか捺(なす)つ

  て行つた翅(つばさ)の粉だけは數年後にもまだき

  らめいてゐた。

[やぶちゃん注:以上の引用とするものは、原文では、全体が三字下げ四行になっているが、ブログのブラウザでは不具合が生ずるので、特異的に二字下げで、一行字数を短くした(後の引用も同じ)。なお、芥川の公開された原文では、以上の読み(原文はルビであるが、丸括弧仕様とした)は附されていない(私のサイト版「或阿呆の一生 附未定稿(草稿)」を参照されたい)。ルビ(読み)の現代仮名遣はママ。]

 このはじめにでてくる「藻の匂の満ちた風の中」というのは横須賀のことだと思います。そして、この「蝶」というのは私のことです。唇との触れ合いを唇をなすって行った蝶の羽の粉にたとえているのは芥川さんの心の悩ましさを表現しています。この悩ましさは恋にほかなりません。

 同じく二十八「殺人」の章には、

  (前略)「殺せ、殺せ。……」

   彼はいつか口の中にかう言ふ言葉を繰り返してい

  た。誰を?――それは彼には明らかだった。彼は如

  何にも卑屈らしい五分刈の男を思ひ出してゐた。(後

  略)とあります。

[やぶちゃん注:サイト版「或阿呆の一生 附未定稿(草稿)」の「二十八 殺  人」を見られたいが、芥川の原文では「⋯⋯」は九点リーダである。「誰」は「たれ」とルビが振られている。最終行で改行すべき花子さんの言葉が附いてしまっているのも、ママである。]

 この「殺せ、殺せ」と彼がヒステリックに心の中で叫んでいる相手は私の夫のことは確かです。親しく往き来してきたころは夫を侮蔑するような態度はひとかけらも見せず、心から打ち解けている風でしたのに急に私の夫を罵倒した随筆をそれも実名で発表したのは、やはり嫉妬と考えるほかありません。それは逆に言えば私への愛情の深さを物語るものでしょう。それに当時夫はたしかに五分刈でした。

[やぶちゃん注:この「五分刈りの男」について、ロケーション同定を含め、私が考証した記事がある。かなりマニアックな自信のある『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察』がある。未見の方は、是非、見られたい。そこで私は、この「五分刈りの男」を花子さんが言っている通り、佐野慶造と比定しているのである。]

 このほかにも、芥川さんの詩には恋い慕う人の夫をのろったと思われるものがいくつかあります。

   この身は鱶の餌ともなれ

   汝を賭け物に搏打たむ

   ぴるぜん、まりあも見そなはせ

   汝に夫(つま)あるはたへがたし

[やぶちゃん注:原文では同前で詩の四節を二字空けで二行で配されてあるが、同じ理由で、かく、四行で分離した。「搏打たむ」はママ。芥川の原文は「博打」である(佐藤春夫の芥川龍之介直筆からの字起こしに拠る)。但し、「ぴるぜん、まりあ」は、芥川の原文(私の「澄江堂遺珠 本文Ⅶ」)では「ぴるぜん・まりあ」で字起こしされてあり、末尾に字下げで『船乘りのざれ歌』という添え題がある。]

 また「夏」という詩では「虎疫(ころり)は殺せ汝が夫を」と書いています。

[やぶちゃん注:これは私の「澄江堂遺珠 本文Ⅵ」にある。但し、「夫」には「つま」のルビがある。]

 私への愛情が報われないのは夫の存在ゆえです。彼の呪いも私には納得できると思うのです。

 

    愚 か 心 に⋯⋯

 

 芥川さんとかかわり合った女性は何人かありました。S夫人、彼がその才能に畏敬した十七歳も年上のアイルランド文学者夫人、彼が死を共にしようとした文子夫人の友人Hさん。この人たちの名はすでにその道の専門家によって明らかにされていますが、しかし、彼が真実の愛情を抱いていたのは、これらのことから私だと思うのです。彼は私を愛していたのです。彼の女性遍歴は、私の面影を慕い求めたさすらいにほかなりません。それは彼の女性を書いた文学の微妙に屈折した筆使いの中にもうかがうことができます。彼は私のことをあからさまには何一つ書きませんでした。筆にするにはあまりにもその思いは重く激しいものだったのでしょう。しかし、どの作品にも私の面影が投影されているのを感じずにはいられません。

[やぶちゃん注:自分一人にのみ、鮮やかに焦点を絞る花子さんの絶対の自信には、流石に呆れ返る以上に、最早、病的と批判するよりも、素直に『凄い』と感嘆せざるを得ない。この自信あればこそ、貴重な芥川龍之介関連の知られていなかった事実が彼女によって残ったのであるから。

「S夫人」歌人秀しげ子。既婚者。以下、判り切った芥川龍之介の愛した女性として、誰もが知られた人物であり、私の記事も多くあるので、今さらに各個解説は附さない。

「彼がその才能に畏敬した十七歳も年上のアイルランド文学者夫人」片山廣子。未亡人。

「彼が死を共にしようとした文子夫人の友人Hさん」文の幼馴染みの友人平松麻素子。独身。]

 私は今、芥川さんとのまじわりの地横須賀で静かな余生を送っています。このまま芥川さんへの思いを胸に秘めて、どなたにも告げずにこの世を立ち去ろうかとも思いますが、彼の真実を知らずに、芥川さんの文学が読まれていくことは、彼への不実のような気がしてならず、はじめて筆をとった次第です。

 窓べから仰ぎ見る横須賀の空には芥川さんの私への愛を秘めた瞳の光があります。今もなお、私への愛をそそいでいる芥川さんの思慕を私はひしひしと感じ、それは私を見詰めてはなしません。彼のそばに寄りそって、苦しみの孤独な影をひきずって歩み続けた彼の白い涙をぬぐってやれるのは私だけなのです。

  君がまこと残さんものと思いけり 老いて涙む身の愚か心に

[やぶちゃん注:言うまでもないが、最後の短歌は、佐野花子さんの自作である。但し、前掲した佐野花子・山田芳子(花子さんの実娘)「芥川龍之介の思い出」の佐野花子「遺詠」パートの中に、酷似する一首を確認出来る。以下に示す。

   *

君がまこと残さむものと思ひけり老いて病む身のはかな心に

   *

字空け、及び、下句の表現に違いが認められるものの、この一首の初期形、或いは、別稿・異稿と見て全く問題ない、と私は断ずるものである。

 

 最後に。⋯⋯自らの遠くないであろう死を自覚され、而して

――自身の最も美しかった時間――芥川龍之介に愛された時間――を切り取って、ここに――永遠の若き自身と若き『愛人』芥川龍之介とを――永久に二人だけの世界として結晶させること――

が、花子さんの願いであったものと思う。後半部の異様な言い換えの部分はさて置いて、私は、この作品を電子化注して良かったと、素直に、今は、感じている。

 

追伸。この「遺詠」は、近日中に、全首を電子化注しようと考えている。]

 

 

佐野花子「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」禁欲的必要最低限注附き/終り

2026/08/24

「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」は「ベタ版」をやめて「禁欲的必要最低限注附き」とする

当初、「ベタ版」と指定していたが、

『このままでは、凡そ、芥川龍之介研究者は鼻で笑い、

芥川龍之介愛好家は、花子さんを「やっぱり、ちょっとイカれてるね。」と唾を吐き、

あまり芥川龍之介の作品を読んでいない迂闊な青年は、無批判に、「そうなんだ!」と信じてしまう。

そして、結局は――「百害あって一利なし」の作品――となってしまうに違いない!』

と、考えるに至った。されば、

『「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」禁欲的必要最低限注附き』

に変更することとし、現在、最終章の注に取り掛かっている。今少し、お待ちあれ。

2026/08/23

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その13) 三摩乾物

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   三摩乾物《さんまほしもの》

 三摩(さんま)は西京(さいきよう[やぶちゃん注:ママ。])にては「さより」、大阪にては「さハら」といふ。而して、漢名は詳(つまびらか)ならず。「水族志」に『「さより」、一名「さんま」・「だつ」・「おきざより」・「水針魚《すいしんぎよ》」(淸俗)』とす。「魚鑑(うをかヾみ)」に、『秋冬(しうとう)の交(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])、房(あわ[やぶちゃん注:ママ。])・總(かづさ)、海(かい[やぶちゃん注:ママ。素直に「うみ」だろう。])に多し。淡䀋(うすしほ)して鬻(ひさ)ぐ。鮮(なま)なるもの、炙食(やきしよく)するに、よし。上饌(おあがり)[やぶちゃん注:「たべもの(食物)」の尊敬語。召し上がり物。]に充(あた)らずとあれ共(ども)、鱠(なます)となす。又、薰乾(くんかん)するときは、淡味(たんみ)にして、佳なり。食鹽(しよくえん)の量を適度にし、久しく貯藏せらる〻製法のものは、淸國人も嗜好し、橫濵港より、折々(おりおり)、輸出することあり。

[やぶちゃん注:これは、すっきりと、

条鰭綱ダツ(駄津)目ダツ上目サンマ(秋刀魚)科サンマ属サンマ Cololabis saira

である。本邦には他種はいない(太平洋には、東太平洋に分布する別種 ololabis adocetus が棲息する。英語名は本邦のサンマと一緒に“saury” (ソゥリィ)であるが、この単語自体を殆どの英語圏の人は知らない。欧米人は、これらを食用としていないこともあるが、御存知とは思うが、そもそも欧米人は、一般の日本人のように海産生物の各個の種を正確に分けて表現する当たり前の習慣を、殆んど持っていないのである。なお、大西洋産の別属の種が、三種、棲息する。以下の引用中で示す)。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした。必要を感じない箇所は、断らずに省略した。一部のリンクを生かした)、漢字表記を別に『青串魚』・『秋光魚』とするが、私はこの二つの漢字名を使用したことも、見たこともない。『北太平洋に広く生息する』。『日本では秋の味覚を代表する食材のひとつとして供される他、季節を問わず』、『缶詰食品などの具材としても利用される』。『2010年代以降、水揚量が激減していたが、2025年、久しぶりに大漁になった』。『サンマを欧米に紹介したのは、1854年に日米和親条約締結のため来日したマシュー・ペリーが連れてきた学術調査団の一員であったジェイムズ・カーソン・ブレボートである。サクラマス/ヤマメ・マアナゴ・イトウなど日本産の「新種」62種の中にサンマが含まれている。彼は大西洋に生息するニシサンマ』( Scomberesox )『と同属の新種と判断し』、 Scomberesox saira 『の学名を1856年に発表した。ニシサンマとサンマは鰭の位置や形状が酷似しているが、ニシサンマの吻が長いのに対し、サンマは短いことをはじめ、異なる点も多かった。1896年、セオドア・ニコラウス・ジルが新属』 Cololabis 『を提唱し、サンマを移したため、現在の学名に変更された。属名』 Cololabis 『は、ギリシア語の「kolos(コロス、短い)」とラテン語「labia(ラビア、唇)」を合成したもの。種小名』 saira 『は、日本語での一古称であり』、『紀伊半島の方言名である「サイラ(佐伊羅魚)」に由来している』。以下、「各国語名」の項。『和名「サンマ」の由来については、2つの有力な説がある。「サ(狭、意:狭い、細い)」に起源があるとして「細長い魚」を意する古称「サマナ(狭真魚)」が「サマ」 - 「サンマ」と変化したとする説が一つ、大群をなして泳ぐ習性を持つことから「大きな群れ」を意する「サワ(沢)」と「魚」を意する「マ」からなる「サワンマ」が語源となったという説が一つである』。『サンマは古くは「サイラ(佐伊羅魚)」「サマナ(狭真魚)」「サンマ(青串魚)」などと読み書きされており、また、明治の文豪・夏目漱石は、1906年(明治39年)発表の『吾輩は猫である』の中でサンマを「三馬(サンマ)」と記している。これらに対して「秋刀魚」という漢字表記の登場は遅く、大正時代まで待たねばならない。現代では使用されるほとんど唯一の漢字表記となっている「秋刀魚」の由来は、秋に旬を迎え』、『よく獲れることと、細い柳葉形で銀色に輝くその魚体が刀を連想させることにあり、「秋に獲れる刀のような形をした魚」との含意があると考えられている。1922年(大正10年)の佐藤春夫の詩『秋刀魚の歌』で、広くこの漢字が知れわたるようになった。ただし、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)の幼少期のエピソードから、「秋刀魚」の表記は明治後期に流布していたとみなすこともできる。生後間もなく川村純義海軍中将の元に里子に出されていた親王は、川村邸では「アキガタナ」と呼ばれていたサンマを好んだという。日本語のほか、中国語でも同じ漢字で記して「qiūdāoyú」と読まれている』。『他に朝鮮語では「꽁치(kkongchi)」、ロシア語では「сайра(saira)」、英語では「Pacific saury」と称する』。『体は細長く、上下顎は』、『くちばし状で』、『下顎は上顎より突出した形状。背鰭の後方に6個程度、尻鰭の後方に7個の程度の小離鰭を有する。体の背部は暗青色、腹部は銀白色。胃が無く短く直行する腸が肛門に繋がる。腸が短いため』、『摂食した餌は、20分から30分程度の短時間で消化され』、『体外に排出される』。『鱗が小さい上にはがれやすく、棒受け網で漁獲されたものは漁船から水揚げされる際に』、殆んどの『鱗が』、『はがれ落ちてしまうため、状況によっては』、『水揚げの直前に自らや』、『他の個体から剥がれた鱗を』、『多数』、『呑み込んで内臓に溜める個体が少なくない。サンマの内臓には多くの鱗が含まれている場合があるが、これらはサンマが捕食した小魚の鱗ではなく、そのような形で呑み込まれたサンマ自らの鱗である』。『北太平洋に広く生息し、日本海を含む日本近海から、アメリカ大陸沿岸のアラスカおよびメキシコまでの海域に分布する。季節によって広い範囲を回遊する魚として知られるが回遊経路は十分に解明されていない。かつて分布群は北西太平洋系群、中央太平洋系群、東部太平洋系群の3系統が考えられていたが、分布に明瞭な境界が無く連続して分布し、また遺伝子解析の結果からも明瞭な差がないとされている』。『日本近海の群れは、太平洋側では』、『黒潮の暖流域で孵化し』、『海流とともに北上する、夏季はオホーツク海方面で回遊し』、『成長する。成魚になると』、『秋に』、『産卵のために寒流(親潮)に乗って』、『太平洋側では東北、関東沖を通過し、近畿・九州沖までに南下する。日本海側でも同様に山口県沖の対馬海流の暖流域で産卵し』、『新潟県沖など日本列島を囲むように南下を行う』。『寿命は1年から2年程度であり、通常2年で全長35cm程度まで、まれに40cmを超える大きさに成長する。28cm未満は、0歳魚と考えられる。成魚は海洋の表層近く(昼間の成魚の分布水深は表層から10-15m程度、仔魚は昼夜に無関係で少なくとも水深20cm以浅)を大群をつくって泳ぐ。千島列島沖で群れが形成される際は』、『表面水温10℃から18℃で水深25mの温度が8℃の等温線に沿って分布するとする研究がある。捕食者から逃げるときにはトビウオのように水面から飛び出して滑翔することもある。動物性プランクトン・甲殻類・小魚・魚の卵などを食べる』。『海域によって産卵時期は異なり』、『ニシンの様な特定の季節に集中した産卵ではなく、一定の大きさを超え成熟した個体が産卵するが、「年2回のピークを持った産卵」とする説と「冬を産卵期」とする説があり』、『解明されていない。また、一度に全ての卵を産卵するのか、あるいは複数回に分けて産卵するのか等も不明である。たとえば、日本列島の南側の産卵場は、黒潮本流のやや南側の海域とされるが、日本海側では5月から6月に山口県沖』である。『人工照明下で昼夜を擬似的に再現した環境下での産卵は8時から13時の時間帯に多く、少数ながらも深夜1時台にも観察された。強い照度変化が産卵誘発の要因として示唆される』。『卵は1.7-2.2mmと大型で』、『付属糸を有し、同じダツ目のメダカの卵によく似ている。メスはこの卵を流れ藻などに産着させる。卵は水温10℃から25℃の範囲で孵化することが確認されており,この範囲では水温が高いほど』、『孵化日数が短く、20℃では10日前後となる』。『DNAなど分子レベルの研究は決して盛んではなかったが、日本を含むいくつかの機関が別々にゲノム解析に取り組み、2024年には、アクアマリンふくしまと国立遺伝学研究所などが率いる共同チームによって、初の染色体レベルでの高精度なDNA塩基配列が解読・報告された。この配列情報は、水産資源としての研究や比較生物学における有用な基盤データとして活用されることが期待されている』。

以下、「食用」の項。『秋のサンマは脂肪分が多く独特の風味があり、特に塩焼きは日本の秋の味覚の代表のひとつして親しまれており、しばしば「究極の美味」などと表現されることもある』。『日本では、塩焼きにしてカボスや、スダチ、ユズなどの搾り汁やポン酢、醤油などをかけ、大根おろしを添えて食べることが多い。サンマは餌を食べてから排出する時間が30分程度と短いため、内臓に独特のクセはあるが』、『えぐみは少なく、塩焼きのはらわたを好んで食べる人も多い。またイワシ類ほどではないが』、『小骨が多い。日本各地でサンマ祭りが行われる』。『蒲焼きの缶詰は水産物缶詰のなかでも人気が高い。近年では刺身としても流通しており、脂の乗り切らない初秋が食べ頃とされ、他の青魚と同様に酢じめして食べる事も寿司にすることもある。また、押し寿司としても利用される』。『関西や紀伊半島(南紀、熊野)、志摩半島の一部において「サイラ」と呼び(学名はここから取られた)、秋刀魚寿司や開きにして一夜干しにしたものを焼いて食べるのが』、『一般的。志摩では天岩戸の神饌の一つ。11月23日には岩戸の前でサンマを焼いて食べる』。『伊豆や紀州、北陸などでは』、『脂の落ちたサンマを丸干しに加工することもある。特にサンマの若魚を丸干しにしたものは「針子(ハリコ)」、鈴鹿ではカドと呼ぶ』。『岐阜県の中濃地方、東濃地方の郷土料理として、塩漬けしたサンマを使用した炊き込みご飯である』。『さよりめしがある』。『サンマには、血液の流れを良くするといわれるエイコサペンタエン酸』(Eicosapentaenoic acid(EPA)、又は、イコサペンタエン酸(Icosapentaenoic acid)。ω-3脂肪酸の一つで必須脂肪酸。)『が含まれており、脳梗塞・心筋梗塞などの病気を予防する効果があるとされている。また、ドコサヘキサエン酸』(Docosahexaenoic acid(DHA)。不飽和脂肪酸の一つで、僅かに黄色を呈する油状物質。)『も豊富に含まれており、体内の悪玉コレステロール(LDL)を減らす作用、脳細胞を活発化させ、頭の回転を良くする効果もあるとされている』。『生のサンマの鮮度の見極めは』、『・尾を持ちサンマの頭を上に向けたとき、体が曲がらずにできるだけまっすぐに立つもの』。『・目が濁っていないもの』。『・口先がほんのり黄色いこと』。『などと言われている。おいしいサンマは口先だけでなく』、『尾も黄色く、極まれに全身が黄色のサンマも獲れる。これらは高級魚として高値で取り引きされる。サンマが黄色くなる理由はいまだ解明されていない』。以下、「寄生虫」の項。『サンマの内臓には小さく赤いミミズのような虫が含まれていることがあるが、これはラジノリンクス』(扁形動物上門鉤頭動物門古鉤頭虫綱鉤頭虫(エキノリンクス)目Echinorhynchidaラジノリンクス科Rhadinorhynchidaeラジノリンクス属ラジノリンクス・セルキルキRhadinorhynchus selkirki )『という名の寄生虫である。気味は悪いが、人体に寄生することはなく、無害である。また、黒い糸は』(節足動物門甲殻亜門顎脚綱カイアシ(橈脚)亜綱新カイアシ下綱後脚上目シフォノストム目Siphonostomatoida ヒジキムシ(ペンネラ)科Pennellidaeヒジキムシ(鹿尾菜虫)属)『サンマヒジキムシ』( Pennella filosa )『で、甲殻類であるため』、『甲殻アレルギーを持つ人は注意するように管理栄養士は述べている』。『一方で、アニサキス』(=線形動物門双腺綱回虫目回虫上科アニサキス科 Anisakidae アニサキス亜科 Anisakinae アニサキス属 Anisakis 等)『が寄生している場合もあり、生食やそれに近い調理方法には注意が必要である』(私は小学生の時から生物学上の寄生虫のフリークであり、大学一年の時、飲み屋で供されたイカの生焼けを食ってアニサキスに罹患して七転八倒した経験もあるので、以上の差し込みには、根性を入れて添えてある)。『焼き魚として調理する場合、取り除くべき大きな鱗を持たず、内臓やえらを取り出すことも少ないので』、『包丁を必要とせずに扱いやすく、料理書で入門用鮮魚とされることがある』。『沿岸漁業でサンマが獲れる地域が日本近海に限定されるため、サンマを食べる習慣があるのは日本とロシアのサハリンとカムチャツカ半島周辺に限られていたが、近年では中国などでも和食ブームでサンマを出す日本食レストランが増え、人気が高まっている。ロシアでは焼いた物にスメタナ』(smetana/ロシア語смета́на /ポーランド語 śmietana /ウクライナ語cметана;東欧など原産の発酵乳の一種。)『をつけたり、生の切り身をマリネにするなどして食べる。初競りの際には1匹で万単位の価格が付くこともあり、この時だけ超高級魚の扱いを受けるという』。以下、「漁業」の項(データ表などはカットした)。『日本付近の主漁場は根室沖 - 三陸沖 - 銚子沖である。日本におけるサンマ漁の漁期はかつては9月から11月だったが、乱獲などによるサンマ資源の減少に伴い、不漁対策として2018年より通年の操業が許可されているため、2019年以降は1年中漁獲することができる。日本近海で漁獲する場合、夏期にオホーツク海や北海道東方沖で成長した個体群は、9月頃から親潮とともに南下するが、30cm程度に成長し南下する群れを対象として流し網漁や光に集まる習性を利用する棒受け網漁によって行われる。棒受け網漁は敷き網の一種で、一まとめに漁獲しようとする趣旨の漁法である。北海道道東地方で漁獲されるサンマの多くは』、『この漁法による(知事許可漁業)。このほか、刺し網による漁業も行われている。また、産卵しようと流れ藻に入り込むサンマを手づかみで捕らえる漁が、日本の佐渡島や北海道西岸沿海で行われている』。『三陸沖から銚子沖での漁場は、親潮第一分枝の先端や三陸沖暖水塊に巻き込まれた細長い第二分枝、第三分枝の先端に形成される』。『単位当たりの卸売価格は、シーズン初期(8月)の主要陸揚げ港である北海道・道東の港で高く、三陸海岸沖に魚群が南下してくるシーズン中期以降の主要陸揚げ港である東北地方太平洋側諸港で安くなる傾向がある。ただし、魚群の南下スピードや漁期、市場の需要と供給などにより、細かく魚価は変化している』。『2020年8月12日に解禁された北海道東部漁場の小型船によるサンマ棒受け網漁は、極端な不漁となり』、『漁獲が』、『ほぼゼロに近い状態となった』。『2010年代後半の低調なサンマの水揚げについて、水産学者の勝川俊雄は、日本の近隣諸国の乱獲によってでなく』『、日本に来遊するサンマが減っているからだとしている。それと同時に、各国ごとの漁獲枠についての国際的なルールの設定を主張している』。『北太平洋漁業委員会参加国におけるサンマの漁獲量について、日本以外の国の漁獲が占める割合が増えている。サンマの資源量の減少もあって、2015年以降の日本のサンマの漁獲は激減している』。『サンマは太平洋全域に生息するが、日本は主に排他的経済水域内で漁獲し、公海上では少ない(日本の2013年の漁獲量約15万7千トンのうち、公海で取ったのは約8千トン)。一方、2010年代前半から日本の排他的経済水域の外側公海でサンマ漁をする海外の船の急増が見られ、漁獲の大半は北太平洋の公海で、サンマの群れが日本付近に来遊する前に先取りする。中国、台湾、韓国の漁船は多いときには1つの漁場に50 - 60隻が集まり、日本では見られない1,000トン級の大型船も用いられている。北太平洋漁業委員会参加国・地域のうちで最大の漁獲量を上げているのが台湾で、2013年には日本の漁獲量を上回り、豊漁だった2014年には台湾の漁獲量はおよそ23万トンに達している。2013年よりサンマ漁を開始した中国も、2010年代後半には日本の漁獲量の半分を超える規模となっている』。『日本ではサンマ漁船の大きさは200トン未満に制限されており、20トン未満の小型漁船も多いため、公海での遠洋漁業には向かない。日本の漁船が漁獲したサンマは氷蔵され』、『漁港に運ばれ、加工などは漁港で行う。公海で漁獲したサンマも日本の漁港に持ち帰るか、ロシア船に洋上販売する。一方、台湾の大型漁船は公海上で冷凍・加工まで行う。総トン数およそ1,000トンという日本の一般的なサンマ漁船の50倍の大きさの船が台湾全体で90隻以上あるという』。『サンマの漁獲量の減少もあり、日本では2019年より法令が改正され、サンマ漁の漁期が撤廃されてサンマ漁の通年操業が可能となった。もともと、ロシアが2016年にロシアの200海里内における日本漁船のサケ・マス流網漁を禁止したことへの代替漁業として、2016年より国の補助を得て北太平洋公海においてサンマ漁を行う「公海さんま」事業が試験的に行われていたが、サンマ漁の通年操業が解禁されたことを受けて2019年より公海さんま事業が本格的にスタートした。ただし、全国さんま棒受網漁業協同組合は北太平洋公海における漁期を5月1日から7月20日までに自主規制を行っている。日本近海のサンマはTAC制度(漁獲可能量制度)に従って水産庁により資源量が調査され、日本近海における漁獲量は管理されている。そのため、日本が北太平洋公海において通年操業を行っても』、『サンマの資源量には影響しないと水産庁は評価している』。以下、「飼育」の項。『生存したままでの捕獲が極めて難しく、従来は養殖の需要もなかったため、飼育はほとんど行われていない。ただし、昨今の情勢変化により一部の企業が養殖に興味を示す動きも見られる』。『日本の福島県にあるアクアマリンふくしまにおいて継続的な展示用飼育が行われており、2000年の開館当初からサンマの展示を続け、世界初の水槽内繁殖にも成功している。同館は生きたサンマを見られる全国で唯一の水族館として、「継代飼育」を重ねてきた』。『しかし、サンマは非常に臆病な魚でパニックを起こしやすく、水槽から飛び出たり』、『壁にぶつかって体が曲がってしまったりするほか、ウロコもはがれやすいなど傷つきやすい体質を持つ。さらに胃を持たない魚であるため、1日3回の給餌や自動給餌器の設置など細心の注意が払われている。水槽内では水温を20度ほどに調節し、人工産卵床を設置することで』、『産卵・ふ化の生態調査を進めながら飼育数を確保しているが、当初は1000匹いたのが2014年10月には30匹に減少したこともあった。また、東日本大震災により予備飼育施設「水生生物保全センター」が被災した際には、2012年8月に展示を一時中止し、2013年5月に展示を再開するなどの苦労を経ている』とある。

『西京(さいきよう)にては「さより」、大阪にては「さハら」といふ』「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のサンマのページを見ると、「地方名・市場名」に「サヨリ」とし、『阜県下呂市萩原町、愛知県三谷、岐阜県大垣市、和歌山県由良町白崎・田辺、石川県大聖寺、富山県、京都』とある。個人的には、甚だ、気に入らない。生魚の下顎の美しい赤を忘れられないダツ目ダツ亜目トビウオ上科サヨリ科サヨリ属サヨリ Hyporhamphus sajori は、私の中では、ホウボウと並ぶ美魚だからである。

『「水族志」に『「さより」、一名「さんま」・「だつ」・「おきざより」・「水針魚《すいしんぎよ》」(淸俗)』とす』国立国会図書館デジタルコレクションの当該部をリンクさせておく。

「魚鑑(うをかヾみ)」複数回既注。江戸後期の外科医武井周作の著書。天保二(一八三一)刊。絵入り本。挿絵の画力は絶品である。]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その12) 乾飛魚

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

   乾飛魚《ほしとびうを》

飛魚(とびうを)は、「倭名鈔」に『鰩(よう[やぶちゃん注:ママ。「えう」が正しい。])』を『止比乎(とびを)』と訓ず。「多識篇」に、『文鰩魚(ぶんようぎよ[やぶちゃん注:ママ。「ぶんやうぎよ」が正しい。])、本草を考(かんがふ)るに、一名、飛魚(ひぎよ)』とし、「酉陽雜俎(やうようざつし[やぶちゃん注:ママ。])」には『飛魚』とす。九州・中國等にて、一名『あこ』、長門にて『つばくらうを』、石見にて『つばめうを』とす。漢名は、「典籍便覽」に『鰩魚』、又、『五色魚』とし、「正字通」に『𩹉(ひ)』、又、『鯡(ひ)』とす。一種、薩州の飛魚は兩鰭(りやうし)、相交(あひまじわ[やぶちゃん注:ママ。])るもの、あり。又、一種『くさい』は、仙臺にて、『とびうを』とも、『ともきす』とも、いひ、讃岐にて、『みのかさご』、紀伊にて、『しまをこぜ』、又、『やまのかみ』、淡路にて、『くろぼう』、安藝にて、『なぬかぼしり』、伊豫松山にて、『うみしてう』、仝國(どうこく)吉田にて、「ほご」といふもの、あり。

[やぶちゃん注:これは、

条鰭綱ダツ目トビウオ科Exocoetidaeのトビウオ類

を指す。以下、「BISMaL」を参考に本邦に分布する種を示すと(漢字名は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」他を参考にしたが、全く判らないものは、示さなかった)、

ツクシトビウオ(筑紫飛魚)(=ハマトビウオ(浜飛魚))亜科Cypselurinae

 ツクシトビウオ属 Cheilopogon

 ・サンノジダマシ(恐らく「三の字騙し」) Cheilopogon abei

 ・トビウオ Cheilopogon agoo

 ・イマイトビウオ(恐らく魚類学者今井貞彦氏に因んだ「今井飛魚」) Cheilopogon arcticeps

 ・アカトビ(赤飛) Cheilopogon atrisignis

 ・カラストビウオ(烏飛魚) Cheilopogon cyanopterus

 ・オジロトビ Cheilopogon exsiliens

 ・シロフチトビウオ (白縁飛魚)Cheilopogon furcatus

 ・ハマトビウオ(浜飛魚) Cheilopogon pinnatibarbatus  japonicus

 ・チャバネトビウオ(茶羽飛魚) Cheilopogon spilonotopterus

 ・マトウトビウオ(的飛魚) Cheilopogon spilopterus

 ・オオアカトビ(恐らく「大赤飛」) Cheilopogon suttoni

 ・オオメナツトビ(大目夏飛) Cheilopogon unicolor

 ・ツクシトビウオ(筑紫飛魚)属Cypselurus

 ・ヒメアカトビ Cypselurus angusticeps

 ・ツクシトビウオ Cypselurus doederleinii

 ・ Cypselurus hexazona

 ・ホソトビウオ(細飛魚) Cypselurus hiraii

 ・ウチダトビウオ(内田飛魚) Cypselurus naresii

 ・Cypselurus oligolepis (漢名「少鱗燕鰩」)

 ・アヤトビウオ(綾飛魚) Cypselurus poecilopterus

 ・アリアケトビウオ(有明飛魚) Cypselurus starksi

 ニノジトビウオ(二ノ字飛魚)属 Hirundichthys 

 ・ ツマジロトビウオ(恐らくは「爪白飛魚」) Hirundichthys affinis

 ・ Hirundichthys albimaculatus

 ・ホソアオトビ(細青飛) Hirundichthys oxycephalus

 ・ Hirundichthys rondeletii

 ・ニノジトビウオHirundichthys speculiger

 ダルマトビ(恐らくは「達磨飛」)属Prognichthys

 ・ザカトビウオ Prognichthys brevipinnis

 ・ダルマトビ Prognichthys sealei

の☆二十七種である。ウィキの「トビウオ」を引く(注記記号はカットした。「分類」の項は上記のものが正確と断ずるので、カットした)。『トビウオ(止比乎、飛魚、鰩、𩹉 、文鰩魚、英: Flying fish)は、ダツ目トビウオ科に属する魚類の総称。太平洋、インド洋、大西洋の亜熱帯から温帯の海に生息する海水魚で、世界で50種ほど、日本近海でも30種弱ほどが知られる』。『「トビウオ」の名前の由来は、水上に飛び出し、胸ビレを広げて滑空することから。日本では食用魚として漁業の対象となり、九州や日本海側ではアゴの別名で呼ばれる。島根県の「県の魚」に指定されている』。『細い筒状の逆三角形の断面を持つ体をしており、最大の種でも、全長は約30-40 cm。体色は背は藍色、腹は白色で、青魚の一つ。胸ビレが発達して著しく大きく、尾ビレは』、『上端と下端が長く伸びたV字状で、特に下端が長く』、『水面滑走時に水中へ推進力を効率よく伝えられるようになっている。滑空時には胸ビレを広げるので、これがグライダーの翼のような役割をする。腹ビレも大きい種もおり、この場合には翼が4枚あるように見える』。『一般に陸地に近い沿岸部に多い。海の表層近くに生息し、動物プランクトンなどを食べる。水上に飛び出して、海面すれすれを猛スピードで滑空する。これは主に、マグロやカジキ、シイラなどの捕食者から逃げるためといわれる。滑空時は100 mくらいは当たり前に飛ぶことができ、水面滑走時の速度は35 km/h、空中滑空時の速度は50-70 km/h、高さ3-5 mに達する(大型のものであれば600 m程度滑空するものがある)』。『平均的には、風上に向かって、海面の上約2 mを、100-300 m飛ぶ。滑空中に急に海中に入る必要が生じた時は、急ブレーキをかけることもでき、また、空中で方向転換も可能である』。『勢い余って漁船などに自ら飛び込むこともある。2008年5月、NHKのクルーが鹿児島県沖のフェリーから45秒にわたって(時々水面を尾びれで叩きながら)飛び続ける様子を撮影し、映像として捉えられた記録としてはおそらく過去最長であると報じられた』。『産卵は、流木や海藻に粘着性のある卵を産みつける。』以下、「食材としてのトビウオ」の項。ノルウェーの人類学者・海洋生物学者にして探検家としても知られる『トール・ヘイエルダール』(Thor Heyerdahl 一九一四年~二〇〇二年)は、著書「コンチキ号漂流記」‘ The Kon-Tiki Expedition ’(一九四八年刊)『にトビウオに関しての記述がある。昼夜別なく、イカダの上の乗組員にぶつかって来るので』、『辟易したが、食べると』、『美味なので怒りを忘れてしまうという話であった。夜間にイカダ上に落下したトビウオを集めて朝食にしたとの記述もある』。以下、「日本における利用」の大項目。『食用としての利用』――『旬は初夏から夏。小骨の多い魚だが、脂肪分が少なく淡白な味で、成魚は塩焼き、フライ等にして食べる。新鮮なものは刺身が美味。新島や八丈島ではくさやに加工される。房総半島の郷土料理なめろうの材料にもなる』。『単一の漁業協同組合としては』、『トビウオ漁獲量が国内最多である屋久島(鹿児島県)、トビウオをアゴと呼ぶ日本海沿岸地域では、鮮魚としてよりも練り物(すり身)や出汁(アゴだし)の材料として利用されることが多い』。『アゴを原料とした竹輪は「あごちくわ」と呼ばれ、鳥取県・兵庫県の特産品。島根県では、形や食感が竹輪に似ているものの製法は異なる「あご野焼き」と呼ばれる焼き抜きかまぼこの特産品がある』。『日本海沿岸では素干しした「アゴ干し」が作られる。アゴ干し自体のほか、それを破砕した「トビ節」や火であぶって焦がした「焼きアゴ」が、味噌汁や料理のダシをとるために使われることが多い。山形県飛島でも、天日干しと炭火による「焼き干し」が作られており、対岸本土側の酒田市のラーメンでは、ほとんどがトビウオでダシを取っている』。『あごだし発祥地の平戸がある長崎県でもトビウオのダシ入りつゆで麺が多く食べられ、その他九州の醤油・調味料メーカーがそれを真似て「あごだし」を商品名に冠した粉末だし、めんつゆ、だしパックを商品化しており、他地方の家庭や飲食店にも、あごだしが浸透しつつある。マスコミによるPR等で知られるようになった「五島うどん」(長崎県南松浦郡新上五島町でつくられる郷土料理)も、あごだしを使って食べるうどんである。長崎県平戸市生月発祥の、あごだしラーメンも評判を呼びつつある』。『トビウオの卵は』『とびこ』『と呼ばれ、珍味や寿司ネタになる』とある。個人的には、私はダントツが、神津島で食べた「くさや」で、第二は屋久島での二泊の間、堪能した同種の多数な料理類であった。以下、本邦での「文化的な利用」の項。『古事記上巻第五部天宇受賣命に登場し「是以御世嶋之速贄獻之時給猿女君等也」と古くから、現代にいたるまで、三重県志摩市大王町波切では速贄(トビウオ)を毎年の様に皇室に奉納し、皇室では猿女君(アメノウズメ)に奉納している。現在は、伊勢市にある猿田彦神社でも、これに習い、猿田彦に奉納している。この他、他の神社でも皇室を見習ったのか』、『「景気が跳ねる(上向く)」などの縁起物として供えられることがい多い』。『この他、万葉集には「阿胡」(あご)と言う単語が多数登場し、トビウオを指している物と見られている』。以下、「日本近海のトビウオと漁業」の項。『トビウオ漁には、刺網、定置網、ロープ曳き漁、たも抄網などがある』。『屋久島の「ロープ引き漁」は、2隻の漁船が円状に漁網を張り、漁師が海に飛び込んでトビウオを網に追い入れる』。『カツオ、サンマなどと同様、季節回遊をする魚で、春先から夏にかけて日本付近まで北上してきて産卵し、秋に南下する。日本で漁獲量が多いトビウオには、ハマトビウオ、ホソトビウオ、ツクシトビウオ、トビウオ(ホントビウオ)などがある。種類により、漁の時期、分布が異なり、また味や用途も違う。漁業の対象となっているこれらの種類は、いずれもハマトビウオ属に含まれる種類である』。『3月、4月に春先に最初に関東などの市場に出回るトビウオは、八丈島などからのハマトビウオである。最も大型のトビウオで味も良く、くさやの材料にも使われる。ハマトビウオは、九州南部では晩秋に回遊してくるのを獲る』。『それに続いて、初夏にはツクシトビウオ、ホソトビウオなどが北上してくる。これらの種は、太平洋側とともに、日本海側にも北上し、九州北部、山陰、北陸地方などでは、ホソトビウオ、ツクシトビウオが主に獲られる。トビウオ(ホントビウオ)、アカトビウオ、オオメナツトビウオ、ホソアオトビなどもこの時期から夏にかけての種類である』。『これらのトビウオの種類は、市場によって様々な通称で呼ばれる。関東では、春に出回るハマトビウオなどを春トビ、その後の夏に出回る種類を「夏トビ」(あるいは「本トビ」)と呼ぶことがある。各地で獲れるホソトビウオは頭部、体つきが丸いことから「丸トビ」(西日本・日本海側では「丸アゴ」)と呼ばれ、それに対して頭部が角張った種類を「角トビ」(角アゴ)と呼ぶ。ホソトビウオとツクシトビウオが主なトビウオである日本海側ではツクシトビウオを角トビと呼ぶが、太平洋側ではハマトビウオも角トビと呼ぶ場合がある。愛称で「トッピー」と呼ぶ地域もある』とある。

『「倭名鈔」に『鰩(よう)』を『止比乎(とびを)』と訓ず。』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の当該画像(左丁五行目)を視認して、推定訓読を示す。

   *

鰩(トビヲ) 陸詞が「切韻」に云はく、『鰩【音「遙(エウ)」。和名「止比乎(とひを)」。】魚の鳥翼(とりのつばさ)あ≪り≫て、能(よ)く飛ぶなり。』≪と≫。

   *

この「鰩」(音の現代仮名遣は「ヨウ」)の字は、漢語で古くからトビウオを指す語である。

『「多識篇」に、『文鰩魚(ぶんようぎよ)、本草を考(かんがふ)るに、一名、飛魚(ひぎよ)』とし』「多識篇」は複数回既注だが再掲すると、本草辞書。林羅山編。全五巻。明の林兆珂が「詩経」中の動植物を分類して注を施した「多識篇」に倣ったもので、「本草綱目」から物の名を抜き出し、万葉仮名で和訓を施したもの。「羅山林先生文集」の「多識編跋」に、「壬子之歲本草綱目を拔き寫して附するに國訓を以てす」とあり、慶長一七(一六一二)年の著述であることが判る。配列は「水部門」から「蔴苧(おま)門」までの部門別。版本に寛永七(一六三〇)年古活字版三巻本があるが、翌寛永八年に、諸漢籍から、異名を抜き出して追加し、万葉仮名に片仮名ルビを施し、五巻に仕立て直した整版が出た。以上は国立国会図書館デジタルコレクションの解題・抄録に拠ったが、そこには、当館本は慶安』二年(一六四九)『版で、寛永』八『年版の覆せ彫りである。本草学者白井光太郎の「白井氏蔵書」の印記あり』とあり、当該部はここの六行目で、「鱗部」第五に配されてある。推定訓読すると(「鰩」の字は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、近い「鰩」で示した。「異名」は黒地で白抜きだが、太字に換えた。)、

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文鰩魚【登(ト)比宇於】異名飛(ヒ)魚

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「酉陽雜俎(やうようざつし)」(いうやうざつそ)は複数回既出既注だが、再掲すると、唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した、古今の神話・伝説・故事・風俗・儀礼など多分野にわたる異聞、及び、怪異記事を、多く集録した随筆集。本巻二十巻・続集十巻で、八六〇年頃の成立。当該部は「卷十七」の「廣動植之二」の以下。

   *

飛魚、朗山浪水有魚、長一尺、能飛、飛卽凌雲空、息即歸潭底。

   *

推定訓読すると、

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飛魚は、朗山(らうざん)の浪水(らうすい)に有り。魚、長さ一尺、能(よ)く飛び、飛べば、卽ち、雲空(うんくう)を凌(しの)ぎ、息(いき)せば、卽(すなは)ち、潭(たん)の底(そこ)に歸る。

   *

所持する東洋文庫版現代語訳(今村与志雄訳注)の注に拠れば、『これは淡水産らしい。』されており、だとすると、これは、純粋な海産魚であるトビウオではあり得ず、また、淡水魚で、このような習性を持つ種を私は想起出来ない。中国の誇張性を勘案すれば、コイ類・サケ類の遡上時の運動性能を言ったとも思えなくはない。

『九州・中國等にて、一名『あこ』』これは「あご」の誤植か、聴き違いである。私自身全く聴いたことがないし、調べても、「あこ」は、ない。九州あご文化推進委員会公式サイトの「九州あご」の「あごいろは」の冒頭で、『「あご」とは、九州北部から日本海側の地域で呼ばれている「トビウオ」の呼称です。ダツ目トビウオ科、亜熱帯〜温帯の海域に生息する海産魚で、世界で50種類ほど存在すると言われています。回遊魚のため地域によって漁期は異なりますが、日本近海では20〜30種類のトビウオが生息しています。トビウオが九州などの地域で「あご」と呼ばれるようになった由来は「あごが落ちるほど美味しいから」「食べるときに硬くてあごをよく使うから」「トビウオを前からみると顎が出ているから」「トビウオの学名:Cypselurus agooから」など諸説あります。』とある。学名(斜体でないのはママ)のそれは、前掲の通り、種として「トビウオ」の学名である。

「長門にて『つばくらうを』、石見にて『つばめうを』とす」漢字では「燕魚」で、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の種トビウオ Cheilopogon agoo の「地方名・市場名」に、『ツンバクロ』とし、採取地(以下は総て文献よりとある)を『新潟県能生、富山県旧下新川郡(現朝日町・入善町)』とあり、以下、『ツバメウオ』で『茨城県水戸、山陰、島根県石見』、『ツバクロウヲ』・『ツバクロウオ』で『兵庫県播磨灘、山口』及び『山口県長門』を確認出来る。

『漢名は、「典籍便覽」に『鰩魚』、又、『五色魚』とし』「典籍便覽」は明の范泓(はんおう)の纂輯になる本草物産名の類書(百科事典)。

『「正字通」に『𩹉(ひ)』、又、『鯡(ひ)』とす』「正字通」は中国の字書。明末の張自烈の著。初刻本は一六七一年刊行、直後に本邦にも渡来して多く読まれた。現行通行本には清の廖(りょう)文英撰とするが、実際には原稿を買って自著として刊行したものである。十二支の符号を付した十二巻を、それぞれ上・中・下に分け、部首と画数によって文字を配列し、解説を加えたもの。形式は、ほぼ明の梅膺祚(ばいようそ)の「字彙」に基づくが、その誤りを正し、訓詁を増したものである。但し、本書自体にも誤りが少くない。「字彙」とともに後の「康煕字典」の基礎となった。「廣漢和辭典」を見ると、飛魚の意を漢語として明確に持つのは、「𩹉」の方のみである。

「一種、薩州の飛魚は兩鰭(りやうし)、相交(あひまじわ)るもの、あり」これは、私には、トビウオ類の種が異なるものを指しているもののように思われるが、私の貧しい知見では、それをそれぞれ仮定比定は出来ない。

「一種『くさい』は、仙臺にて、『とびうを』とも、『ともきす』とも、いひ」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「トビウオ」の「地方名・市場名」に「クサイ」があり、『宮城県仙台』(文献に拠るとある)とあった。問題は「ともきす」であるが、確認出来なかったものの、個人的には、魚体のフォルムがやや似ている、条鰭綱ニザダイ目キス科 Sillaginidaeのキス類、或いは、ソトイワシ目ソトイワシ科ギス(義須)属ギス Pterothrissus gissu と擬えたものではなかろうか? とは思った。

「讃岐にて、『みのかさご』、紀伊にて、『しまをこぜ』、又、『やまのかみ』」孰れも地方名として確認出来ない。但し、学術的立場からの見解ではないものの、私には、非常に納得できる面白い語りを見つけた。ebisutokyojapanのサイト「tobiuo」の「fish & fish」の「"No. 17 - ミノカサゴ"」である。そこの『トビウオとの相性は?』で『異常に発達した胸ビレは、ミノカサゴとトビウオの共通点。かたや誘惑の手招き、かたや高性能の翼として、まさに胸ビレは彼らのステイタスシンボルになった。もし胸ビレが普通だったなら、ミノカサゴはキンキ、トビウオはサンマだったかもしれない。美味しそう。なるほど、胸ビレは食べられないための武器になったのかもしれない。(多分に空想を含んでいます)』とあった。こういう連想空想は、まっこと! 面白いじゃないか!!!

「淡路にて、『くろぼう』」確認出来ず。「黑棒」か?

「安藝にて、『なぬかぼしり』」同前。但し、思いつきに過ぎぬが、これは「なぬかはしり」で「七日走り」ではなかろうか? 非常な距離を「水切り」遊びのように連続して飛行するという私の解釈である。

「伊豫松山にて、『うみしてう』」同前。「海士(司・師)長」? 先立てて指揮するように飛ぶさまを比喩したものか?

「仝國(どうこく)吉田にて、「ほご」といふもの、あり」愛媛県松山市南吉田町のことか。漁業とミカンの町として知られる。現在は町内の約半分が、松山空港に中央部を占められているので、「ひなたGIS」の戦前の地図を見られたい。「ほご」は確認出来ない。]

 

「廣東通志」・「泉州府志」・「廣東新語(かんとんしんご)」・「正字通」等(とう)に『飛魚(とびうを[やぶちゃん注:ママ。以上は中文書籍であるから、「ひぎよ」とすべきものである。])』とし、「臺灣續志」には『飛籍魚(ひせきぎよ)』とす。「中山傳信錄(ちうざんでんしんろく)」・「海島逸志(かいとういつし)」等に、『燕魚(ゑんぎよ[やぶちゃん注:ママ。])、古名『鰩』、俗、『飛魚(ひぎよ)』と呼ふ[やぶちゃん注:ママ。誤植。]とし、「閩中海錯疏」には、『海燕(かいゑん[やぶちゃん注:ママ。])』と『飛魚(ひぎよ)』と分(わか)ち、本邦、亦、二、三種あり。從來、鹽乾(しほほし)となしたるを、京都に出(いだ)せり。東京は鮮(なま)なるもの、多し。近年、伊豆七島(いづしちたう)より出(いだ)す鹽乾製(しほほしせい)を、橫濱より、淸國に輸出せり。又、十七年の輸出調(ゆしゆつしらべ)に、神戶港は四萬八千八百九十斤、價(あたい[やぶちゃん注:ママ。])千二百十七圓、大坂港百斤、價三圓二十錢を載せたり。其製法は、背を割(わ)り、腸(わた)を去り、一度(いちど)、食䀋(しよくゑん[やぶちゃん注:ママ。])に和(くわ)し、一日(いちじつ)を過ぎて、風乾(ふうかん)するに過(すぎ)ざれども、能(よ)く乾燥するを、よろし、とす。

[やぶちゃん注:中文書の解説は、概ね既注であり、原文を確認する必然性を感じない。悪しからず。

「四萬八千八百九十斤」二百九十三・三三二八トン。

「百斤」六十キログラム。]

2026/08/21

佐野花子「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」ベタ版に就いて

佐野花子「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」ベタ版を、最低、表現部分への注を附したものを、今朝、完成した。データを送って下さった方に、御校正・御意見を伺うため、先ほど、送付した。公開は今少し、待たれたい。

2026/08/19

現状のお知らせ(急遽、芥川龍之介関連記事の未見記事のテクスト化作業に入ること)

先週、我が家の水道で莫大な水漏れ(三万円超え)が発覚し、昨日、県から紹介された業者が来られ、検査を受け、最も怪しい浴槽を完全リニューアルすることになった。物理的に水が普通に使えない(二世帯住宅で水道は別個にあるので、隣りが使用は出来る)ことの不便と、精神的なストレスがマックスになっている。そんな中、河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」の電子化注で、著者の記載の引用の杜撰さに、遂に怒髪天を衝く状態になっている。ところが、先般、未知の方が、私が、ブログ・サイトで電子化注している芥川龍之介の関係者佐野花子の、見たことのない直筆記事(昭和三六(一九六一)年発行・雑誌掲載)、題名はショッキングな「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」を紹介して呉れ、昨日、そのデータを、その方から画像を頂戴した。されば、悶々たる現状の中、健全なる精神状態に浸かって、第一に作業出来ることとして、まず、今日から、そのベタ・データを作ることと決した。現況まで――

2026/08/18

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その11) 乾梭魚

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。本文は貧弱なので、注は最後に回した。]

 

   乾梭魚(ほしかます)

梭魚(かます)は「かます」と訓じ、又、魳(かます)、𩶸(かます)、鮊(かます)等(とう)の文字をも用(もち)う[やぶちゃん注:ママ。]。「本朝食鑑」に、『近世、「魳(しう)」の字を用ふ。字書に惟名(いめい)の名と爲すのみ[やぶちゃん注:これは、惟(ただ)、「魚」と示すだけであり、それ以外の固有種名・形状・性質などを含んでいない漢語であることを言う。後注する。]。長崎の市人(しじん)、中華の船客(せんきやく)に逢ふて、此の魚を指して問ひしに、『梭子魚(しゆんしぎよ)なり。』と答(こたへ)たり。』と。『「閩書」に『梭魚(しゆんぎよ)、織梭(をりをさ)の如し。豐肉脆骨(はうにくぜいこつ)、此れを魳魚(しうぎよ)と謂ふ乎(か)。』と載せたり。

 

 此ものは全國の海にあり、『鮝(しやう[やぶちゃん注:最後は「ふ」にしか見えないが、正しい歴史的仮名遣で「う」と判じた。])』と作(な)して賞美し、脂(あぶら)多きものは、色、淡赤(たんせき)、脂少きものは、色、黃白(こうはく[やぶちゃん注:ママ。])なり。

[やぶちゃん注:「乾舒(ほしかます)」アジ目カマス(魳・梭子魚・梭魚・魣)科カマス属 Sphyraena の干物。同属は、世界では二十七種を数えるが、本邦産食用種として重要な種は、

ヤマトカマス(大和叺・大和梭子) Sphyraena japonica

アカカマス(赤梭子魚) Sphyraena pinguis

アオカマス(青梭子魚) Sphyraena japonica

の三種である。今回は、当該ウィキは内容的に不満足なので、小学館「日本大百科全書」「カマス」の項を引用することとする(太字は私が附した)。『硬骨魚綱スズキ目カマス科Sphyraenidaeの海水魚の総称。口を大きくあけて餌物』『を大食するさまが、蓆(むしろ)を二つ折りにして穀物や塩などを入れた袋(叺(かます))に似ているので、この名があるという。体は細長く頭は細くとがる。下顎(かがく)は上顎より突出し、上下両顎に牙(きば)状の強い歯がある。背びれは2基で互いによく離れており、第1背びれは小さくて5本の棘条(きょくじょう)しかない。胸びれは短く、腹びれは胸びれの基部よりやや後方にある』。『沿岸の表層を遊泳し、小形魚は群れをつくるが、大形魚は成長とともに群れなくなり、しだいに単独で行動するようになる。代表的な肉食魚であり、群れをつくる小魚を追って食べる。サンゴ礁海域では』、『大形魚はサメ類やハタ類などとともに食物連鎖で最高の地位にあり、イワシ類、アジ類、ベラ類、スズメダイ類などを餌』『としている。他物の形や行動に敏感に反応する性質があり、異常な行動をするもの、光るものなどに興味を示し、目にも留まらぬほどの速さで相手を攻撃して大きな傷害を与える。大形魚はとくに気が荒く、ダイバーや海水浴中の人間を襲う。場所によってはサメ類による被害よりも多いことがあり、暗い水中や濁った水中での被害が多い』。『産卵は春から夏にかけてなされるが、多くの個体は1産卵期に数回に分けて放卵する。卵は分離浮性卵であり、卵径は1ミリメートル以下である。アカカマスの熟卵は卵膜が透明で多くの亀裂』『があり、油球は1個ないしは2個である。1回の産卵で20万粒を産むので、産卵期間を通じて多いものでは100万粒前後を放卵する。水温23℃では受精後1日余りで孵化(ふか)する』。『熱帯のサンゴ礁にすむものは、シガトキシンciguatoxin』(同全書の当該項から引くと(以下でダブりがある)、『名前はカリブ海に生息する巻き貝のシガcigua(チャウダーガイ)』(腹足綱古腹足亜綱ニシキウズガイ目ニシキウズガイ上科クボガイ科 シッタリアム属チャウダーガイ Cittarium pica )『による食中毒に由来する。世界の熱帯、亜熱帯海域に生息する400種以上の魚種から報告されている。魚の餌(えさ)になるサンゴ礁で育っている石灰藻類を藻食魚が食べると、それに付着する渦鞭毛藻(うずべんもうそう)Gambierdiscus toxicus でつくられた毒が、藻食魚から食物連鎖を通して、ほかの魚の体内に蓄積することがある。毒は筋肉より内臓に多い。これらの魚を食べると、口や手足などのしびれ、ドライアイスセンセーション(温度感覚異常)、めまいなどの神経障害、腹痛、嘔吐』『、下痢などの胃腸障害をおこし、ときには死ぬことがある。日本での死亡例は報告されていない。神経障害は回復が遅くて数か月続くことがある。日本では亜熱帯の沖縄、奄美』『諸島周辺にいるハタ類(バラハタ、マダラハタなど)、フエダイ類(バラフエダイ、イッテンフエダイなど)、ニザダイ類(サザナミハギなど)、カマス類(オオカマスなど)のほか、ある種のブダイ類、ベラ類、カマス類など20種ほどがこの毒をもつことが知られ、これらを食べて食中毒がおきているが、2000年ごろから、地球温暖化によって本州でも疑われるような症状が報告されている。』とある)『という毒素をもつことがある。この毒素をもった魚を食べるとシガテラciguatera『とよばれる中毒症状をおこし、ときに死亡することがある。この中毒症は神経障害が主であり、感覚がしびれ、全身に悪寒やふるえ、吐き気があり、ひどくなると腕や足の筋肉や関節に激痛がおこる。この徴候は徐々に』、『または』、『急激に現れる。毒素は地域や季節によって著しく異なるが、カマス類が食べた餌から体内に蓄積されたものである。毒素はもともと海藻類に含まれており、これを食べたサザナミハギなどの藻食魚に移され、さらにこれらを食べたカマス類に蓄積される。大形魚は小形魚より毒性が大きい傾向がある。オニカマスは国によっては』、『産卵期に販売を停止することがある』(以上、落合明氏)。『カマス類は世界には20種余りが知られている。そのうち世界的にもっとも有名なのは、英名でバラクーダbarracudaとよばれるオニカマス(別名ドクカマス)Sphyraena barracuda である。世界中の熱帯から亜熱帯に分布しており、日本でも』、『南日本の太平洋岸、琉球』『諸島海域の内湾や、サンゴ礁域に生息する。鱗』『が大きく、側線に沿って75~87枚、側線より背方に数列に並ぶこと、体側の側線の上半分に青色の横縞』『があることが大きな特徴である。カリフォルニアカマス Sphyraena argentea も体長が1.2メートルになり、カリフォルニア沿岸を中心に北アメリカ太平洋沿岸の広い範囲に生息している』。『日本の沿岸では体長数十センチメートルになるアカカマス Sphyraena pinguis 、アオカマス Sphyraena nigripinnis 、ヤマトカマス Sphyraena japonica などは漁獲量が多く』、『産業的に重要である。とくにアカカマスは一般にカマスとよばれ、美味である。琉球諸島以南の太平洋や』、『インド洋の熱帯域にはオオカマス Sphyraena putnamae 、南日本からインド洋にかけてはオオメカマス』(大目梭子)『 Sphyraena forsteri などが広く分布している。オオカマスは体長2メートルほど、オオメカマスは体長90センチメートル前後になり、毒性は弱いが、まれに中毒することがある。そのほかに、日本からタイワンカマス Sphyraena flavicauda 、ホソカマス Sphyraena helleri 、オオヤマトカマス Sphyraena africana が知られている』(以上は落合明・尼岡邦夫氏)。以下、「食用」の項。『肉は白身で淡泊な味であるから、料理には幅広く利用できる。新鮮なものは、身がしまっていて刺身にもなるが、一般的には水分が多いため、薄塩干しにして食用にすることが多い。なまの場合は、塩をしてしばらく置き、身をしめてから塩焼きにするとよい。洋風ではフライ、ムニエルによい。秋に味がよいとされるが、年中とれる。良質のかまぼこの材料でもある』とある。

『「本朝食鑑」に、『近世、「魳(しう)」の字を用ふ。字書に惟名(いめい)の名と爲すのみ。長崎の市人(しじん)、中華の船客(せんきやく)に逢ふて、此の魚を指して問ひしに、『梭子魚(しゆんしぎよ)なり。』と答(こたへ)たり。』と。『「閩書」に『梭魚(しゆんぎよ)、織梭(をりをさ)の如し。豐肉脆骨(はうにくぜいこつ)、此れを魳魚(しうぎよ)と謂ふ乎(か)。』と載せたり。』国立国会図書館デジタルコレクションの当該部(「卷之八」の「鱗介部之二」の「江海有鱗部之二」の「魳」を示し、推定訓読する。読みでは、河原田氏の読みに従はず、私が正しいと判断したものを用いた。また、訳であるが、東洋文庫版を一部参考にした。

   *

魳【「帀(ソウ)」・「沓(タウ)」・「師(シ)」三音、義、同じ。「加麻沫(かます)」と訓ず。】

釋名 𩶤(せん)【「先」・「顕」の切(せつ)。音「銑(セン)。」。】・𩶧(きう)【釋師練。】・梭子魚(さしぎよ)【按ずるに、「𩶤」「𩶧」、「字彙」に曰く、『倶(とも)に魚の名。、音「臼(ハク)」。「其(キ)」・「九(キユウ)」の切(せつ)』。師錬の「下學集(かがくしふ)」、此の字を用ゆなり。近世、「魳」の字を用ゆ。字書(じしよ)には、惟(ただ)、魚の名のみ。「梭子魚」、今、間(まま)、之(これ)を稱す。或いは、曰はく、『長﨑の市人(いちびと)、中華の船客に逢(あふ)に、而(しかして)、此の魚を指し、問ひて曰はく、『本邦、何を以つて、之を名づくや。』と云ふに、客(かく)、曰はく、「梭子魚。」と』。愚(ぐ)[やぶちゃん注:筆者人見必大の卑称。]、謂(い)へらく、『諸魚を「水梭花(すいひくわ)」と曰ふ時は、則ち、魚(うを)に於いて、相當(あひあた)れり。然(しかれ)ども、「閩書南産志(びんしよなんざんし)」に、『梭魚、織梭(しよくさ)のごとし。豊肉脆骨(はうにくぜいこつ)、此れを、「魳魚(せんぎよ)」と謂ふか。】

集觧【形、鰺(あじ)のごとくして、細鱗(さいりん)は、光色(つや)、有り、色、淡黒(あはぐろ)有り、鉛白(なまりじろ)なる有り、嘴(くしばし)、尖(とが)りて、鋒頭(ほこさき)のごとく、首尾、狹(せま)く尖(とが)り、身(み)、圓(まろ)く、肥えにして、最も、織梭(しよくさ)[やぶちゃん注:機織(はたお)り機の「梭(ひ)」。]に似たり。大なる者、數寸に過ぎず、脂(あぶら)、多く、味、美なり。又、細刺(ほそきとげ)、有り。惟(ただ)、炙食(あぶりぐひ)に宜(よろ)し。膾(なます)・烹(に)には、堪(た)へざるなり。𠙚𠙚(しよしよ)、江海、之れ、有り。鮝(ほしもの)に作(な)して、多く賞美す。脂、多き者は、色、淡赤、脂、少き者は、色、黃白(わうはく)、京師難波(けいしなんば)の漁市(れふいち)、其の子(こ)、一、二寸なる者を採(と)りて、「美(よ)し。」と稱す。一種、色、淡黒(あはぐろ)、形、短小、漸(やうや)く、三、四寸の者に過ぎざる者の、脂、少なく、味、佳なり。「志豆岐魳(しづきかます)」と曰(い)ふ。其の魚、黒き腸(わた)、美味なる者、有り。亦、「志豆岐」と曰ふ。海市(うみいち)、醢(しほから)と作(な)して、國守に獻(けん)ず。國守、上厨(じやううちゆう)に獻じ、四方に贈る。世(よ)、以つて、「珍。」と爲す。尾・勢の産、最も、上品たり。賀・越も亦、出(いづ)れども、佳(か)ならず。

肉 氣味【微温。毒、無し。】。【主治】五臓を補ひ、氣血を調へ、陰精(いんせい)を添へ、肌肉(ひにく)を潤(うるほ)し、身を輕くし、髮を黒くす。、惟(ただ)、蟲積(ちゆうしやく)[やぶちゃん注:現在の口経性の寄生虫症を指す漢方用語。]・濕痰(しつたん)[やぶちゃん注:漢方で、体内の水分代謝が滞って、余分な水分(湿)や粘り気のある老廃物(痰)が体に溜まっている状態を言う。]の者は、食ふべからず。多き時は、嘔吐(わうと)せしむなり。鮝(ひもの)と作(な)して、尤も、人に、可なり。赤鮝(あかのひもの)、脂、多くして、血を潤(うるほ)す。白鮝(しろきひもの)は、脂、少くして、氣を順(なごやかに)するのみ。

   *

・「𩶧(きう)【釋師練。】」「師錬の「下學集(かがくしふ)」、此の字を用ゆなり。」この人見の記述は、おかしい。「下學集」は室町中期の国語辞書(全二巻)であるが、著者未詳。文安元(一四四四)年成立で、天地・時節・神祇・言辞など十八部門に分類し、用字・意味・語源を簡単に記したものである。この不明の作者を「釋師練」とは、決して言わないからである。見た瞬間に、私は、鎌倉後期から南北朝にかけての臨済宗の名僧であった虎関師錬(こかんしれん)を考えたが、彼が、カマスに係る記載を記することは、あり得ないからである。

・「大なる者、數寸に過ぎず」このスケールから、必大の視認しているカマスは、最全長三十五センチメートルであるヤマトカマス Sphyraena japonica に比定出来る。

・「膾(なます)・烹(に)には、堪(た)へざるなり」嘗つては、カマスの鮮魚は流通しておらず、専ら、塩焼き魚とされたからである。]

2026/08/16

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その10) 乾鰈

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   乾鰈《ほしかれひ》

鰈(かれひ)ハ、「倭名鈔」には『王餘魚(わうよぎよ)』を『加禮比(かれひ)』と訓(くん)し、「閩書」に『比目魚(ひもくぎよ)』とし、『「比(ひ)」は「並(ならび)」なり。東方にありて、其名(そのな)を「蝶(てう)」と曰(いふ)。』とす。此外(このほか)、種々(しゆじゆ)の異名あるも、形狀によりて、名(なづ)くるもの、多し。「北戶錄(ほくとろく)」には『鰜(けん)』と謂ひ、「吳都賦(ごとうふ[やぶちゃん注:ママ。誤植であろう。])」には『魪(かい)』といひ、「上林賦(じやうりんふ)」にハ、『魼(きよ)』といふ。閩廣(みんくわう)は『鞋底(けいてい)』と名《なづ》け、「臨海志」は『婢簁(ひと)[やぶちゃん注:底本では「簁」は(たけかんむり)の下は「徒」となっており、ルビは「ひと」となっているのだが、これは後注で示すが、「徙」で、音は「シ」でないと、おかしい。東洋文庫版もそうなっている。されば、特異的に「簁」に変え、ルビも「ひし」と差し替えた。]』に、「臨海風土記(りんかいふうどき)」は『奴屩(どきやう)』に、「南越志」ハ『南版(なんはん)』とし、「南方異物志」[やぶちゃん注:底本では「南」がなく、「方異物志」とするのだが、これは明らかに脱字であるから、「南」を補った。東洋文庫版もそうなっている。]は『箬葉(にやくよう[やぶちゃん注:ママ。「じやくえふ」が正しい。])』に、「朱厓記(しゆかいき[やぶちゃん注:ママ。「しゆがいき」が正しい。])」にハ『王餘魚(わうよぎよ)』の字を用(もちひ)たり。

而して、此ものは、本邦の沿海に、悉(ことごと)く產し、種類、尤(もつとも)多く、大(おほひ)さ、一、二尺、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は、五、六寸、裏(うら)の白皮(しらかわ[やぶちゃん注:ママ。])に、黑點、あるものを『星蝶(ほしかれい[やぶちゃん注:ママ。])』といひ、大(だい)なるもの、尺許(ばかり)、或は、七、八寸より、一、二寸に至るもの、表の黑皮、鰭(ひれ)の兩邊、上より下に向つて、黑片石子(こくへんせきし)あり、『石蝶(いしかれい[やぶちゃん注:ママ。以下、多くあるが、ママ注記は附さない。])』といふ。六、七寸に過(すぎ)ず。形(かた)ち、尋常の小蝶(こかれい)に比(ひ)すれば、狹少(けうしよう[やぶちゃん注:ママ。「けふせう」が正しい。])にして、肉、薄く、卵(たまご)、腹(はら)に滿(み[やぶちゃん注:ママ。「みつ」の脱字。])るといへども、味(あじわ)ひ、佳(か)ならす[やぶちゃん注:ママ。濁点落ち。]。『藻蝶(もかれい)』、又、『霜月蝶(すもつきかれい)』といふ。形、略(ほ)ぼ、同じ表裏(おもてうら)、あり。鱗(うろこ)なきもの、號(なづ)けて『雌板蝶(《め》いたひらめ[やぶちゃん注:ママ。後注する。])』といふ。又、『片口蝶(かたくちかれい)』といふものあり。其(その)表裏(ひようり[やぶちゃん注:ママ。])、相反(あいはん[やぶちゃん注:ママ。])するものを『平目(ひらめ)』といふ。大なるもの、二、三尺許(ばかり)に至る。

[やぶちゃん注:本書の出版時、未だ、近代魚類学上のカレイ類とヒラメ類の弁別認識の確立が科学的に明確でなく、前代の古典的博物学に頼るほか、なかったから、以上の記載に多くの違和感があるのは仕方がないことである。主題に従い、カレイ類から示すと、

条鰭綱アジ目カレイ亜目カレイ科 Pleuronectidae

は、現在、「BISMaL」に拠れば(ツリーの分岐記載の種タクソンに疑問があったが、上位タクソンを優先した。また、和名の漢字表記は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の各種のページを概ね参考にした)、日本産では、まず、

ムシガレイ(虫鰈)亜科Eopsettinae

オヒョウ(大鮃・大兵)亜科Hippoglossinae

アカガレイ(赤鰈)亜科Hippoglossoidinae

カレイ(鰈)亜科Pleuronectinae

の五亜科に分かれ(本邦種まで示す。以下同じ)、

ムシガレイ亜科は、

・ムシガレイ属ムシガレイ Eopsetta grigorjewi 

 オヒョウ亜科は、

・オヒョウ属オヒョウHippoglossus stenolepis

アカガレイ(赤鰈)亜科は、アカガレイ属Hippoglossoidesの、

・アカガレイ(赤鰈)Hippoglossoides dubius

・ウマガレイ(馬鰈) Hippoglossoides elassodon

・ドロガレイ(泥鰈)Hippoglossoides robustus

大所帯のカレイ亜科は、

・ウロコメガレイ(鱗眼鰈)属ウロコメガレイAcanthopsetta nadeshnyi

・アブラガレイ(油鰈)属アブラガレイ Atheresthes evermanni

・ソウハチ(宗八・惣八)属ソウハチCleisthenes pinetorum

・サメガレイ(鮫鰈)属サメガレイClidoderma asperrimum

・ミギガレイ(右鰈)属ミギガレイ Dexistes rikuzenius

・シモフリガレイ(霜降鰈)属シモフリガレイ Embassichthys bathybius

・ヒレグロ(鰭黒)属ヒレグロGlyptocephalus stelleri

・イシガレイ(石鰈)属イシガレイKareius bicoloratus

・シュムシュガレイ(占守鰈)属シュムシュガレイLepidopsetta bilineata

・シュムシュガレイ属アサバガレイ(浅場鰈・浅羽鰈) Lepidopsetta mochigarei

スナガレイ属Limanda

 ・コガネガレイ(黄金鰈)Limanda aspera

 ・ハナガレイ(漢字表記不詳。個人的には英名が“ longhead dab”であり、学名で写真を複数視認したところ、他の種類に比べて、吻(口先・鼻先)が、やや突き出ていることから、「鼻鰈」であろうと思う) Limanda proboscidea

 ・スナガレイ(砂鰈) Limanda punctatissima

 ・カラフトガレイ(樺太鰈)Limanda sakhalinensis

ババガレイ(婆鰈・母鰈)属

 ・ババガレイ Microstomus achne

 ・ヌマガレイ(沼鰈)属ヌマガレイ  Platichthys stellatus

 ・ツノガレイ(角鰈)属ツノガレイPleuronectes quadrituberculatus

メイタガレイ(痛鰈・目板鰈)属

・メイタガレイ Pleuronichthys cornutus

・ナガレメイタガレイ(流目痛鰈・流目板鰈)Pleuronichthys japonicus

マガレイ(真鰈)属

 ・マガレイ Pseudopleuronectes herzensteini

 ・ クロガレイ(黒鰈)Pseudopleuronectes obscurus

 ・クロガシラガレイ(黒頭鰈) Pseudopleuronectes schrenki

 ・マコガレイ(真子鰈)Pseudopleuronectes yokohamae

・カラスガレイ(烏鰈)属カラスガレイReinhardtius hippoglossoides

・ヤナギムシガレイ(柳虫鰈・柳蒸鰈)属ヤナギムシガレイTanakius kitaharae

マツカワ(松皮・松川)属

 ・マツカワVerasper moseri

 ・ホシガレイ(星鰈) Verasper variegatus

計三十二種である。

問題は、ここでは、しかし、河原田氏は、

〘✕?〙「形、略(ほ)ぼ、同じ表裏(おもてうら)、あり。鱗(うろこ)なきもの、號(なづ)けて『雌板蝶(《め》いたひらめ)』といふ。」という、奇体な名前と記載を記している。しかし、この「雌板鰈」「めいたひらめ」という「もの」は、これ、調べても、掛かってこず、異名としても見つからず、種を同定出来ないものなのである。

〘✕?〙しかも、「其(その)表裏(ひようり[やぶちゃん注:ママ。])、相反(あいはん)するものを『平目(ひらめ)』といふ。大なるもの、二、三尺許(ばかり)に至る。」と、明らかに「鮃」(=ヒラメ類)を一緒に記しており、最悪なことに、『雌板蝶(《め》いたひらめ)』という「鰈」に「ひらめ」とルビしてしまっているのである。

〘✕?〙この「ひらめ」のルビは

――うっかり誤ったものか?

それとも、

――確信犯なのか?

全く、判らない、のである。

 まあ、

〘★?★〙河原田氏は、平然と、以上の現在の我々には理解出来ない記載をしているとするなら、

■彼は、広義の「ヒラメ類」=カレイ亜目ヒラメ(鮃)科 Paralichthyidae・ダルマガレイ科 Bothidaeも、広義の「カレイ類」に包括している

としか読めないのである。

★されば、ここで河原田氏は、カレイ亜目ヒラメ科ヒラメ属ヒラメ Paralichthys olivaceusに代表されるヒラメ類――正確に述べるならば、

〘✕〙ヒラメ科 Paralichthyidae 及びダルマガレイ科 Bothidae のヒラメ類をカレイ類と一括して認識している

と採る以外はないのである。或いは、

――これは当時の一般人の一般認識であった――

のかも、知れない。

 以上で、私が注をするに、困惑せざるを得ないことが、お分かり戴けたと思う。

 されば、当初は、広義の「カレイ類」を先にし、次に、広義の「ヒラメ類」を説明するつもりであったが、それは、諦めることにした。何故なら、「ヒラメ類」を解説するとなると、まず、「カレイ類」と同じ程度の分量が必要になるであろうからである。

 取り敢えず、ウィキの「ヒラメ」の、最低必要と見做した一部だけを引用する。「特徴」の中の前半部である(注記記号はカットし、太字にした)。

   *

太平洋西部(千島列島、樺太、日本の北海道から九州)、朝鮮半島などの沿岸から南シナ海まで)に分布。最大で全長1m、体重10kgほどになる。他のカレイ目の魚と同じように左右に扁平な体型をしていてカレイと区別が付きにくいが、俗に「左ヒラメに右カレイ」と言われるように、ヒラメの目は両目とも頭部の左側半分に偏って付いているのが大きな特徴である。また、ヒラメはカレイと比べて口が大きく、歯も1つ1つが大きく鋭い。

ヒラメは海底で両目のある体の左側を上に向けて生活しているため、その両目は常に上の方を向いている。

ヒラメという名が現れたのは14世紀ごろだが、日本では19世紀以前にはカレイとヒラメは区別されておらず、大きいものをヒラメ、小さいものをカレイと呼んでいた。はっきりと別種として扱った文献は小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(1803年)が初出である。

   *

 以下、ウィキの「カレイ」を部分引用する(注記記号はカットした。なお、「分類」の項は、既に冒頭で精密なものを示したので省略した。また、注意箇所と、ヒラメとの相違解説には、太字・下線を私が附した)。カレイ類は『砂や泥の海底に生息し、海底に潜むのに適した平たい体をしており、目が体の右側の面に2つともある特徴的な形態をしている。北極海、太平洋、インド洋、大西洋の沿岸の浅い海から水深1000mの深海までに生息する海水魚。汽水に生息する種もいる』。『体は平たく、両目は、ヌマガレイなどの一部の例外を除き、原則として体の右側の面に集まっている。逆にヒラメ類では、目は体の左側側面に集まる。しかし、個別の個体では偶発的に逆となる変異現象(reversal of sides)がある。両目のある側を上にして海底に横向きになり、砂や泥に潜るなどして潜む。体の目のある側は黒褐色から褐色。特有の斑点を持つものもある。この体色は体表にたくさん散らばっている色素細胞である黒色素胞(メラノフォア)』(=melanophore・メラニン顆粒を含む色素胞)『の大きさを変えることにより、周囲の環境に合わせて変えることができ、保護色となる。両目のない側は白色。背ビレと尻ビレが長く、背ビレは頭部からはじまり尾ビレの根元まで、尻ビレは、頭部のそばにある小さな腹ビレから尾ビレの根元まで続く』。『幼生は目が普通の魚と同様に左右に分かれて付いており、体も平たくない。成長とともに変態し、目がだんだんと右側に移動していき、体が平たくなり、また浮き袋がなくなり底生の成体となる。カレイは概して長寿命で、ヨーロッパ産の1種 プレイス(European plaice)』(日本語名「ツノガレイ」=Pleuronectes platessa )『で50年、オヒョウで40年などの記録がある』。『主に肉食性で、小魚や海底の無脊椎動物を食べるが、似たような外見でフィッシュイーター』(Fish-eater)『であるヒラメとは異なり、捕食行動は』、『やや大雑把である。そのため、ヒラメ釣りでは』、『生き餌の イワシ、キス、 キビナゴ等の小魚や俊敏な動きのルアーを用いるのに対し、カレイ釣りではゴカイ・イソメ、アサリのほか、鈍重な動きのワームを用いる。冬の釣りの対象魚として知れられる』。以下、「名称」の項。『日本語の「かれい」は「唐鱏」(からえい)または「涸れ鱏」の転訛とされる。漢名は「鰈」であるが、ヒラメとの混称で「偏口魚」、「比目魚」などとも呼ばれる』。『漢字の「鰈」は、発音を表す「枼」と意味を示す「魚」とを組み合わせた形声文字である(なお、「枼」は葉に由来し』、『薄いものの意味だと説明されることがあるが、これは民間俗説に過ぎない』(ここには[独自研究?]の要請が附されてある)。『王が魚を半分食べたところを水に放すと』、『泳ぎだした』、『との中国の故事から「王余魚、王餘魚」とも書くが、ヒラメをも含めた言い方である。このほか「鰕魿」、「嘉列乙」、「嘉鰈」、「魪」、「鮙」、「鰜魚」などの漢字表記もある』。『カレイはフランス語ではリマンド(limande)』(リマァーン(ドゥ):「女性の胸が貧弱である/卑屈な態度をとる」が原義)『。英語では、カレイ、ヒラメ、シタビラメなどカレイ目の魚を "flatfish" と総称する。そのうち、カレイ、ヒラメは「flounder」』(フゥラウダァ)『と呼び、体の右側に目が寄っているカレイ科などの魚を、「righteye flounder」、ヒラメ科、ダルマガレイ科などの目が左側に寄っているものを「lefteye flounder」と呼ぶ。カレイ科のうち、オヒョウ類を特に「halibut」』(ハリバァット)『と呼ぶが、その区別はあいまいである。また、ウシノシタ科』(Cynoglossidae)『などに用いられる「sole」』(ソーォル:「靴の底」)『を名の一部に持つカレイ科の魚も少なくない』。『カレイ目には、カレイ科以外でも「〜カレイ」の名で呼ばれる種は多い。ヒラメ科のアラメガレイ、テンジクガレイ、メガレイ、ダルマガレイ科のダルマガレイ、トゲダルマガレイ、コウベダルマガレイ、ヤリガレイなど。これらはヒラメを参照。また、地方名ではウシノシタ科のクロウシノシタ』(イヌノシタ亜科タイワンシタビラメ属クロウシノシタ Paraplagusia japonica )『をスジガレイやニジリガレイなどと呼ぶ例もある』。以下、「主な種」の項であるが、本邦に棲息しない種はカットし、解説の一部も不要と見做したものはカットした。

   *

メイタガレイ(目痛鰈) Pleuronichthys lighti (Ridged-eye flounder)

30cm。北海道以南の日本沿岸、朝鮮半島沿岸、黄海、渤海、東シナ海。目の間に棘があり、「目痛」が語源とされる。関西では「本メイタ」と呼ばれ特に人気がある。

ナガレメイタガレイ(流目痛鰈) Pleuronichthys cornutus

メイタガレイに非常に似た外見を持つが、体が細目で、味はかなり落ちる。関西では「化けメイタ」と呼ばれる。

ヤナギムシガレイ(柳虫鰈) Glyptocephalus kitaharai (Willowy flounder)

30cm。北海道以南の日本沿岸、朝鮮半島沿岸、黄海、渤海、東シナ海。「若狭がれい」は若狭湾で獲れるヤナギムシガレイで、これを一夜干しにしたものが京都でよく食べられる「笹かれい」。以前はヤナギムシガレイ属(学名:Tanakius)に分類されていた。

ニシナメタガレイ Microstomus kitt (lemon sole)

北ヨーロッパの約200メートルの浅い岩礁に分布し、体長65cm、約3kgに成長する。

ババガレイ(婆鰈、別名:ナメタガレイ) Microstomus achne (Slime flounder)

60cmになる。中部日本沿岸以北、千島列島南部、樺太、日本海、黄海、渤海、東シナ海に分布。体表が、粘液を多く分泌するためぬるぬるしており、滑多鰈の呼び名がある。煮付など。東北、北陸の一部などでは、年越しにババガレイを食べるため、年末に市場価格が数倍に跳ね上がる。通年出回り大きな物は高価だが小さなものは安い。煮付け、塩焼き、干物にして非常に美味。

オヒョウ (大鮃) Hippoglossus stenolepis (Pacific halibut)

最大2.5m、350kgに達するカレイ科では最大の種。北太平洋に広く分布する。日本の東北地方以北、オホーツク海、ベーリング海、チュクチ海の南部、カリフォルニア半島からメキシコ沿岸まで。またハリバッド(halibut)という名前でも呼ばれておりゲームフィッシングのターゲットとされているらしい。

カラスガレイ (烏鰈) Reinhardtius hippoglossoides (Greenland halibut)

100cm以上。北部大西洋および北部太平洋の水深約200〜1,600 m (700〜5,200 ft)。底生魚。左目は成長と共に頭部右側に移動するが、カレイのように完全には移動せず、前方への視界も保持。表面は斑点のある褐色で、左側もやや薄い色だが白色ではない。カラスガレイ属は本種一種のみの単型属。

マツカワ (松川、松皮) Verasper moseri (Barfin flounder)

メスは、体長80cm、体重6kgになるものもある。太平洋北西部。日本の中北部沿岸(太平洋側、日本海側)からオホーツク海南部、樺太、千島列島まで。目のある側の鱗が大きくざらざらしており、松の樹皮のようであることから。背ビレと尻ビレに黒い縞状の紋が入る。水揚げ量が減少している。北海道では、えりも以西海域マツカワ資源回復計画を策定し種苗放流等に取り組んでいる。これに関連し、えりも以西栽培漁業振興推進協議会では、この海域で水揚げされる本種を「王鰈」と名付けた。また近年養殖も試みられている。

ホシガレイ (星鰈) Verasper variegatus (Spotted halibut)

60cm。太平洋北西部。日本中部、朝鮮半島沿岸、東シナ海まで。比較的暖かい海のカレイ。背ビレと尻ビレに黒い縞状の紋が入る。目のない側の表面、尾ビレの根元などに黒い斑点がある。水揚げ量が減少しており、珍重される。

ソウハチ(宗八) Cleisthenes pinetorum (Pointhead flounder)

太平洋北西部。日本中北部の近海。アカガレイ属に分類する説もある。

痛みが早いため鮮魚で出回ることはない。脂に独特の風味があり、干物に加工されることが多い。

アカガレイ (赤鰈) Hippoglossoides dubius (Flathead flounder)

45cmになる。太平洋北西部。オホーツク海、日本海などに分布。カムチャツカ半島から朝鮮半島、日本沿岸など。目のない側の体色が血がにじんだように赤みがかる。

ドロガレイ (泥鰈) Hippoglossoides robustus (Bering flounder)

30cmほど。北太平洋。北海道沿岸(オホーツク海)、アリューシャン列島、アラスカ付近まで。

アサバガレイ (浅羽鰈) Lepidopsetta mochigarei (Dusky sole)

40cmほど。太平洋北西部。オホーツク海南部から朝鮮半島、日本では本州北部以北の沿岸にかけて。マガレイ、マコガレイに似ている。

スナガレイ (砂鰈) Myzopsetta punctatissima (Sand flounder)

30cmほど。千島列島、オホーツク海南部から日本海北部(朝鮮半島、日本沿岸)にかけて分布。北海道、東北北部に水揚げされる。身が薄く、脂があまり乗らない。口が細長くとがっている。体高は高く体形が菱形。目のある側に砂粒のような細かい斑点がある。目のない側には背ビレ、尻ビレに沿って幅の広い黄色い帯がある。泳ぐ姿がまるで海底の砂を食べるように見えることからスナガレイの名称がついたという。また、カレイ類の中では最も価格が安い。

ヌマガレイ (沼鰈) Platichthys stellatus

30cm。カレイ科に属する数少ない眼が左側にある種。汽水域や淡水にも入ることがあるのでこの和名がついている。実際に、その名のとおり河川でも釣れる。

イシガレイ (石鰈) Platichthys bicoloratus (Stone flounder)

50cmほど。太平洋北西部。日本(北海道から九州西岸)、千島列島、樺太、朝鮮半島、中国、台湾。沿岸の海域。河川や湖沼などの汽水、淡水域まで侵入する。目のある側の背ビレ、尻ビレの根元に沿うように、骨片の突起が並ぶ。以前はイシガレイ属(学名:Kareius)に分類されていた。

マガレイ (真鰈) Pseudopleuronectes herzensteini (Littlemouth flounder)

最大50cmほどになる。他種より口が小さくとがっており、クチボソなどの別名がある。太平洋北西部。千島列島、樺太、沿海州から、黄海、渤海、朝鮮半島沿岸、日本沿岸、東シナ海中部まで分布。日本では北海道、本州沿岸、瀬戸内海など。水揚げ量が多い。

クロガレイ (黒鰈) Pseudopleuronectes obscurus

クロガシラガレイとよく似ており、区別せずに扱われることが多い。

クロガシラガレイ (黒頭鰈) Pseudopleuronectes schrenki (Cresthead flounder)

最大50cmほどになる。太平洋北西部。千島列島、オホーツク海南部から、日本の北部(北海道や青森県)の沿岸、日本海の朝鮮半島東岸まで。クロガシラとも呼ばれる。クロガレイとよく似ており、クロガレイと呼ばれることも多い。北海道では釣りの対象として人気が高い。

マコガレイ (真子鰈) Pseudopleuronectes yokohamae (Marbled flounder)

最大45cm程度。太平洋北西部。北海道南岸以南の日本沿岸、瀬戸内海、朝鮮半島沿岸、黄海、渤海、東シナ海北部まで。水揚げ量が多い。

「城下かれい」(しろしたかれい)はマコガレイの地方名で、大分県日出町沿岸で獲れるもののこと。特においしいとされ、高値で取引されるブランド魚である。

   *

以下、「利用」の項(一部をカットした)。『ほぼ全ての種が食用になり、日本では、刺身 (新鮮な物に限る)、寿司、煮付け、焼き物、揚げ物などさまざまな料理に用いられる。また、冬のカレイ、特に産卵前の時期のメスは大きな卵巣をもっており、子持ちガレイと呼ばれ、甘辛く煮付けたものが日本の冬の味覚として好まれる。干物、特に一夜干しもよく行われる。日本料理では多くの場合、魚の頭を左に配膳するのに対し、頭を右に配膳する珍しい魚でもある。中華料理では、唐揚げ、蒸し魚、煮魚などとして食べられている。またソウハチ、ババガレイの干物は数ある魚類の干物の中でも非常に美味である』。『京都市では福井県の若狭地方で水揚げされて一夜干しにされた笹かれいが、京都を代表する食材の一つとなっている』。『カレイは人気の高い食用魚であるが、寿命が長い分、成長が遅く、大きく育てるには長い年月が必要であるため、養殖に適しているとは言いがたい。そのため、出荷サイズまでの養殖はほとんど行われていないが、親魚から採取した卵を孵化させ、稚魚になるまで育ててから放流する試みが行われ、種類によっては一定の成果を得ている。特に市場価値の高いマツカワなどは2000年代から養殖も行われている』。以下、最後の「アレルギー」の項。『子持ちカレイに強いアレルギーをもつ人がいる。これはカレイの魚卵蛋白に由来する抗原によるアレルギーで、蕁麻疹やアナフィラキシーを起こす。この子持ちカレイのアレルギーは、牛肉や豚肉にも交差反応を起こすことが知られ、高い確率で牛肉や豚肉の摂取によってもアレルギー反応を起こす』。但し、『AB型やB型の血液型の人には』、『これらのアレルギー症状をもつ比率が極めて低いことが知られる。これらのアレルギーの原因は、過去にマダニ』(真蜱:節足動物門鋏角亜門クモ綱 Parasitiformes 上目ダニ目Acari/マダニ目 Ixodidaマダニ上科マダニ科 Ixodidae)『に噛まれたことにより、マダニの唾液腺に存在するgalactose-α-1, 3-galactose(以下α-gal)によって対象者の免疫が感作されたことが原因であると推測されている。なお、このα-galに対してアレルギー(α-galアレルギー)を持つ人は、上記の子持ちカレイや牛肉、豚肉の他、セツキシマブ』(Cetuximab:上皮成長因子受容体(Epidermal Growth Factor Receptor:EGFR)に結合して、その働きを阻害するモノクローナル抗体(monoclonal antibody/mAb/moAb:単一の抗体産生細胞をクローニングして作られた抗体))『にもアレルギーを呈する(セツキシマブの分子構造にα-galが存在するため)』とある。この最後のアレルギーは、私も迂闊にして、知らなかったのでオロロイた。私はB型であるが、子持ちカレイが好物である。発症したことはないので、安心した。

『「倭名鈔」には『王餘魚(わうよぎよ)』を『加禮比(かれひ)』と訓(くん)し』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の「卷十九」の「鱗介部第三十」・「龍魚類第二百三十六」の当該部(右丁二行目以降)を視認して推定訓読する。

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王餘魚(かれい) 「朱厓記」に云はく、『南海に王餘魚(わうよぎよ)有り【和名「加良衣比(からいひ)」、俗に云ふ「加禮比」。】。昔、越王、鱠(なます)に作り、盡(つく)さず、餘(よ)、半(なかば)、水に棄(す)つ。因(より)て、半身(はんみ)を以(もつ)て、魚(うを)と爲(な)る。故(ゆゑ)、「王餘魚」と曰ふなり。』と。

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この「朱厓記」は、後に出るが、河原田氏は以上を受けて言ったもので、原本に当たったのではない。何故なら、これは中国で、古い時代について記された遠く昔に失われた逸書だからである。こういうやり口も、極めて、気に食わないね、河原田!

『「閩書」に『比目魚(ひもくぎよ)』とし』ここから後も、実は、人見必大の「本朝食鑑」の「卷十二」の末尾にある「中華異同」の「鰈」からの河原田の孫引きなのである!! 国立国会図書館デジタルコレクションの元禄一〇(一六九七)年板の当該画像を視認して推定訓読する。

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   鰈(かれひ)

鰈(かれひ)と比目(ひらめ)、本(もと)、同類なり。今(い)ま、本邦、二名を以つて、之を分(わか)つ。氣味・形色の異(い)、有り。李時珍、一物の者と爲すは、未だ、詳(つまびらか)ならず。「閩書南産志(びんじよなんざんし)」に曰はく、『鰈魦魚(てうせさぎよ)、漯沙(たふさ)と名づく。音(おん)は、撻(タツ)。魚、江(こう)に在り、行くこと、漯漯(たふたふ)[やぶちゃん注:「集まる」の形容。]たり。又、占沙(せんさ)と名づく。今、閩(びん)[やぶちゃん注:現在の福建省を中心とした地方。]・広(かう)[やぶちゃん注:現在の広東省地方。]、此の魚(うを)を以つて、比目(ひめ)と名づく。』と。比目、又、一魚(いちぎよ)なることを知らざるなり。按ずるに、比目、諸書、倶(とも)に『「比」は「並(ならぶ)」、魚、各(おのおの)、一目(いちもく)を相並(あひならび)て、行くなり。』と言ふ。是れ、未だ、解し得ず。細(こまか)に魚の形を視(み)れば、則ち、黒きを表(おもて)と爲(な)し、白きを裏と爲す。其の黒き𠙚(ところ)、頭中(とうちゆう)に兩眼(りやうがん)、有り。相並(あひなら)ぶこと、甚(はなは)だ、邇(ちか)し。然らば、則(すなはち)、他魚(たぎよ)の相並びて行くに非ざるなり。大抵、此の魚、名義(めいぎ)、多し。「上林賦(じやうりんふ)」の、之を『魼(きよ)』と謂ふ。『相胠(あひきよ)する』と、なり。「呉都賦」に、之を『魪(かい)』と謂ふ。『相介(あひたす)くるなり。段公路(だんこうろ)が「北戶錄」に、之を『鰜』、《音、》『兼』と謂ふなり。「臨海志」に『婢𥱰(ひし)』と名(なづ)く。「臨海風土記」は『奴屩(どきやう)』と名く。宋の沈懐遠(しんくわいゑん)が「南越志」に、『版魚(はんぎよ)』と名づく。房千里(ばうせんり)が「南方異物志」、『箬葉(じやくえふ)』と名づく。皆、『形(かたち)』に因(より)てなり。

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以上の引用に出る書籍は、総て、知っているものを除いて、作者・年代を総て確認した。全部が古い中国の書である。本来ならば、今まで通り、注するのだが、正直、河原田氏のやり口に、かなり、怒髪天を衝く思いをしているのだ! それに加えて、自宅の水道が洩れていることが三日前に発覚、イライラが波状的に続いている。そこで、流暢な注など、本当は出来ない状況にさえ、ある。されば、これで、お許しあれかし。なお、せめても、私の二〇二〇年に公開した「大和本草卷之十三 魚之下 比目魚(カレイ) (カレイ・ヒラメ・シタビラメ)」を参照して戴けると、多少はお慰めになろうかとも思う。

石蝶(いしかれい[やぶちゃん注:ママ。以下、多くあるが、ママ注記は附さない。])』といふ。六、七寸に過(すぎ)ず。形(かた)ち、尋常の小蝶(こかれい)に比(ひ)すれば、狹少(けうしよう[やぶちゃん注:ママ。「けふせう」が正しい。])にして、肉、薄く、卵(たまご)、腹(はら)に滿(み[やぶちゃん注:ママ。「みつ」の脱字。])るといへども、味(あじわ)ひ、佳(か)ならす[やぶちゃん注:ママ。濁点落ち。]。『藻蝶(もかれい)』、又、『霜月蝶(すもつきかれい)』といふ。形、略(ほ)ぼ、同じ表裏(おもてうら)、あり。鱗(うろこ)なきもの、號(なづ)けて『雌板蝶(《め》いたひらめ[やぶちゃん注:ママ。後注する。])』といふ。又、『片口蝶(かたくちかれい)』といふものあり。其(その)表裏(ひようり[やぶちゃん注:ママ。])、相反(あいはん[やぶちゃん注:ママ。])するものを『平目(ひらめ)』といふ。大なるもの、二、三尺許(ばかり)に至る。]

 

 此ものは、鱠(なます)、羹(あつもの)、煑食(にくひ)、炙食(あぶりぐひ)、蒲鉾(かまぼこ)等(とう)、種々(しゆじゆ)の割烹(りやうり[やぶちゃん注:意訓。])にも供せり。乾製に種々あり。蒸蝶(むしかれい)は若狹・越前等(とう)より出(いだ)すものを上好(じようかう[やぶちゃん注:ママ。])とす。其法、鮮蝶(なまかれい)、多子(たし)のもの[やぶちゃん注:多くの卵を持った個体。]を採りて、䀋水(しほみづ)を以て、之を、蒸(む)す。半熟ならしめて、取出(とりいだ)し、陰乾(かげほし)すること數月(すげつ)にて貯(たくわ[やぶちゃん注:ママ。])ふ。乾蝶ハ、尋常、乾脯(かんほ)にして、和泉(いづみ)・紀伊等(とう)の產を、著名とす。『木葉蝶(このはかれい)』は、長さ、寸餘の者を哺(ほ)[やぶちゃん注:ママ。「脯」の誤植。]となす。是れ和泉・紀伊・下總(しもうさ[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「しもふさ」。])等の珍品(ちんひん)なり。和泉より出(いだ)すものを、名を『岡田鰈(をかだかれい)』といふ。

[やぶちゃん注:「木葉蝶(このはかれい)」「デジタル大辞泉」の「このは‐がれい〔‐がれひ〕【木の葉×鰈】」に『1 メイタガレイの別名』、『2 小さなカレイを重ね合うように並べて干したもの。ささのはがれい。あしのはがれい。』とある。

「岡田鰈(をかだかれい)」「泉南市」及び「泉南市泉南市商工会」が作っている「泉南市観光ガイド 恋するせんなん」の「里外神社」(りげじんじゃ)に、『里外神社(りげじんじゃ)は、仁徳天皇(在位313-399年)の代に呉服(くれは)大明神を産土神として創立された社です。呉服大明神は、大阪池田市の呉服神社(くれはじんじゃ)に祀られている事でも知られている、呉の国から渡来し日本に機織(はたおり)技術を伝えたとされる織姫で、「機織」の守り神として崇敬されています』。『また、境内に残る王餘魚淵(かれいがぶち)には、後鳥羽上皇に献上した「岡田ガレイ」が飼育されていたといわれています。現在のご祭神は素戔嗚尊(スサノオのミコト)です』とあり、さらに「後鳥羽上皇の岡田ガレイ」に、『建仁元年(1201年)10月、後鳥羽院が熊野行幸の折、岡田カレイに興味をもたれたので、里外神社境内にある池で飼育していたカレイを捕らえ献上したところ大変喜ばれ、この淵を王餘魚淵(かれいがふち)と名づけられました。その後は行幸のたびに王餘魚淵で飼育したカレイを献上してもらうのが通例になったということです』とあった。里外神社は泉南市岡田のここにある(グーグル・マップ)。サイド・パネルの説明板の写真にも終わりの方に、記載がある。]

2026/08/15

姪っ子の可愛い娘の墓参り

不信心の我が家に、連れ合いの妹一家の名古屋の義父母の墓参りの写真が届いた。一所懸命の三歳の合掌――そして可愛い姿をお目に掛けよう。

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2026/08/14

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その9) 乾鱈

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   乾鱈《ほしたら》

 

 鱈(たら)は古名『由支(ゆき)』にして、「新撰字鏡(しんせんじきよう[やぶちゃん注:ママ。])」に『𩺴』を『由支(ゆき)』と訓ず。「古名錄(こめいろく)」に『多樂(たら)』、『韓名(かんめう[やぶちゃん注:ママ。「かんめい」でよい。現代仮名遣「かんみょう」なら「かんみやう」。])、呑魚(どんきよ[やぶちゃん注:ママ。])』とす。『鱈』の字は、諸往來物(しよおうらいもの[やぶちゃん注:ママ])等(とう)の外(ほか)、古書に見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。漢名は『大口魚《だいこうぎよ》』といふ。北海(ほくかい)に產し、寒(かん)を喜(よろこん)で暖(だん)を喜ばす[やぶちゃん注:ママ。「ず」の誤植。]。味(あぢは)ひ、䀋(しほ)に宜(よろ)しくして、初め、之を採る。先つ[やぶちゃん注:ママ。「づ」の誤植。]、䀋を以(もつ)て、口腹(くちはら)に盈(みつ)る時は、久(ひさしく)して、腐(くさ)れず。偶々(たまたま)、些(すこし)の臭氣(しうき)あり、梢(やヽ)可(か)なり。又、微(すこし)、䀋(しほ)を以てするもの、『一(ひ)と䀋(しほ)』と名《なづ》けて、其(その)味(あじは[やぶちゃん注:ママ。])ひ、上品とす。多䀋(たゑん[やぶちゃん注:ママ。])のものを、下品(かひん)とす。生鮮(せいせん)のものは、淡白(たんぱく)にして、美味とす。亦(ま)た、新奇(しんき)を賞(しよう[やぶちゃん注:ママ。])す舊幕時代(きうばくじだい)には、奧羽の諸侯、之を朝貢(てうこう)せり。孟冬(もうとう[やぶちゃん注:ママ。「まうとう」が正しい。「孟」は初めの意で、「冬の初め・初冬」、また、「陰暦十月の異称」である。])、開爐茗會(ろひらきちやくわい)の際、京都・江戸、新奇を好み、或(あるひ)は歲旦(さいたん)、之(これ)を、昆布鱈(こんぶたら)、吸(すい)ものとし、冠昏大饗(かんこんだいけやう[やぶちゃん注:ママ。「かんこんだいきやう」が正しい。冠婚・宴会料理。])の餽(おく)りもの[やぶちゃん注:「餽」は訓「おくる」で原義は「祭(まつ)る・死者の霊に食物を供えてまつる」であるが、別に「食物や金品を贈る」の意を持つ。]とせり。之を『眞鱈(まだら)』といふ。一種、『介黨(すけとう[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣では「すけたう」が正しいが、ここでは、以下、現代仮名遣で述べている。])』と稱するもの、あり。形、小(ちいさ)きも、味(あじは)ひ、亦、佳(か)なり。朝鮮(てうせん)にて、是(これ)を『明大魚(めいたいぎよ)』といふ。乾製(かんせい)に二法(にはう)あり。胴(どう)を割(わ)り、淡乾(しらほし)するものを『棒鱈(ぼうたら)』といひ、胴を開きて䀋乾(しほほし)するものを『干鱈(ひだら)』といふ。『棒鱈』は眞鱈(まだら)に限れり。而(しか)して、此ものは、近年、淸國に輸出すること、逐年(ちくねん)[やぶちゃん注:「年々・毎年」の意。]に、多きを加へたり。十七年、橫濱輸出「棒だら」、二百萬斤、價(あたひ)拾萬圓、『すけと』、五萬斤、價千七百五十圓なり。又、「すけと[やぶちゃん注:ママ。「すけとう」。]」の一種に、九州にて「すけそう」といふもの、あり。明治十八年、脊割乾(せわりほし)となして、長崎港にて、淸人へ、百斤の價、五圓五十錢にて販賣せり。尤(もつと)も、北海道の「すけとう」と、九州の「すけそう」とは、少しく、異(こと)なれり。此魚は、對州(たいしう)[やぶちゃん注:対馬(つしま)。]にて『めぐだい』、朝鮮にて『明大魚(めいたいぎよ)』と稱せり。

[やぶちゃん注:これは広義には、

条鰭綱タラ目タラ亜目タラ科 Gadidae

に属するタラ類を指し、本邦では、

タラ科マダラ(真鱈)属マダラGadus macrocephalus

タラ属スケトウダラ(介党鱈・鯳) Gadus chalcogrammus

コマイ(氷下魚)属コマイ Eleginus gracilis

の三属三種が分布する。但し、狭義にはマダラを指す。しかし、この本文では、

スケトウダラがメイン

で語られている(漢名「介党鱈」は、ご覧の通り、歴史的仮名遣では「すけたうだら」となる)から、以下、ウィキの「スケトウダラ」を引用する(注記記号はカットした)。

『スケトウダラ』『は』、『スケソウダラ(介宗鱈・助惣鱈)とも呼ばれる。北太平洋に広く分布するタラの一種で、重要な漁業資源となっている。深海魚でもある』。『北太平洋に広く分布し、その範囲は日本海、宮城県以北の太平洋沿岸、オホーツク海、ベーリング海、カリフォルニア州沿岸までとなっている。しかし、広い範囲を回遊せず』、『比較的狭い範囲の群れを形成していると考えられている。なお』、『南方の海域で漁獲された事例としては、1984年(昭和59年)5月17日に千葉県館山市平砂浦の伊戸沖2 kmに設置された定置網で、スケトウダラ(体長約40 cm)数匹がマスノスケ』(鱒の介・𮫼:サケ亜科タイヘイヨウサケ属マスノスケ Oncorhynchus tschawytscha )『(体長115 cm、体重16 kg)やヒラマサ』(平政・平鰤:条鰭綱アジ目アジ科ブリ属ヒラマサ Seriola lalandi )、『ブリ』(鰤=異名:ハマチ・八町)アジ科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata )『などとともに漁獲されたという事例があるが、千葉県内水面水産試験場によれば、スケトウダラはアリューシャン方面で漁獲される魚であり、千葉県内の海で漁獲されることは』、『通常』、『考えられないという』。『産卵期以外は水深500 mまでの沿岸や大陸棚斜面の海底近くに生息する。最も多いのは水深300 m 前後。海水温が低下する産卵期には、浅場や海面近くに現れることもある』。『体長約70cm、最大で全長1m程度、体重1,400 gに達するが寿命は不明である。3歳以上で性成熟し、産卵期は海域によって異なり12月から翌年3月、分離沈性卵を産卵する。稚魚は春先の藍藻類の大増殖期の頃に孵化し、成長すると沖合の深い海域に移動する。年級と魚体の大きさの関係は、4歳 36cm 499g、5歳 41cm 525g、6歳 44cm 592g、7歳 47cm 660g』。『マダラ』(マダラ属マダラ Gadus macrocephalus 。最大で全長一・二メートル、体重二十三キログラム程に達する)『よりは小さい。背側の体色は褐色で、まだら模様が繋がった2本の縦帯模様がある。腹側は白色。タラ類に共通の特徴である、3基の背鰭と2基の臀鰭(しりびれ)をもつ。外見はマダラやコマイに似るが、スケトウダラは目が大きく、下顎が上顎より前に出ており、口ひげは』、『ほとんど目立たない』。『肉食性で、貝類、頭足類、甲殻類、小魚などいろいろな小動物を捕食する』。『産卵期のスケトウダラは、威嚇・攻撃行動時に800Hz以下の鳴音、求愛・産卵時に500Hz以下の鳴音を発する』。『日本付近の群れは』、『産卵場所と生育場所が異なる「日本海北部系群」「根室海峡」「オホーツク海南部」「太平洋系群」に分けられる』。『独立行政法人 水産総合研究センターの報告によれば、スケトウダラ太平洋系群の資源量は、1981年から2005年度までは約90万トン~130万トン程度の範囲で増減していたが、1993年度以降急減し2006年度以降も減少傾向が続き2010年度は、83万トン程度と推定されている。0歳魚の新規加入量の多かった年は、1981,1982,1991,1994,1995,2000であるが、1996年以降は』、『概ね』、『新規加入量/親魚の比率が低い値で推移している』。『日本周辺での漁獲量減少は、乱獲が指摘されているほか、対馬暖流の強勢や』、『水温の上昇による回遊経路の変化から産卵海域が縮小している可能性も報告されている』。『漁獲の対象となるのは2歳魚以上で、オホーツク海を中心として沿岸での底引き網や延縄などで漁獲されるが、TAC』(Total allowable catch)『制度(漁獲可能量制度)により海域毎に漁法と期間が規定されている。ロシアの排他的経済水域設定以前は、オホーツク海、樺太沿岸、北方四島周辺海域は好漁場でトロール船による漁獲量が多かった』。『1814年に』ドイツの動物学者・植物学者で、ロシアのサンクトペテルブルク科学アカデミーの教授であった『ペーター・ジーモン・パラスによって記載され、タラ属の一種としてGadus chalcogrammusの学名が与えられた。種小名 chalcogrammus は古代ギリシア語のχαλκός(真鍮)とγράμμα(線)の複合語で、体の模様に由来する。その後』、『1898年に本種のみを含むTheragra 属が設立された。Theragraは古代ギリシア語のθήρ(獣)とἄγρα(獲物)の複合語で、キタオットセイ』(哺乳綱ネコ目アシカ(海驢・葦鹿)科キタオットセイ(北膃肭臍)属キタオットセイ Callorhinus ursinus )『の主食となっていることに由来する。しかしmtDNA』(mitochondria deoxyribonucleic acid)『を用いた分子系統解析により』、『本種はタイセイヨウダラと近縁であることが示され、2008年には本種を再びタラ属に戻すことが提案された。FDA』(アメリカ食品医薬品局:Food and Drug Administration)『もこの提案を追認している』。『日本では』、『一般にスケソあるいはスケソウとも呼ばれ、その名の由来には諸説がある。佐渡について書かれた史料』「秉穗錄」(現代仮名遣で「へいすいろく」と読む。「秉」は、これ自体が「一本の稲穂を取り持つ」ことを意味する)。尾張藩に仕えた儒者岡田新川(しんせん)、号雲霞堂老人による考証随筆で、寛政一一(一七九九)年に成立。)『によれば、佐渡にはスケトウという魚があり、漢字で「佐渡」と書く、と記述されており、佐渡を名前の由来とした魚だという』(同書は私も所持しているが、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行會刊)のこちらと、こちらで確認出来る)。『また』、スケトウダラ研究者(所持する末広恭雄「魚の博物事典」(講談社学術文庫・一九八九年刊)で確認した)『竹野肇の主張によれば、元々はスケソという名前であり、『助宗鱈』という字が当て字されたことに由来するという』。「大言海」『によれば、「鮭の鱈」が転訛して「スケタラ」となったのが』、『名前の由来とされる』(国立国会図書館デジタルコレクションのここの「すけとだら」で確認出来るが、推定である)。『また、タラを漁獲するのには人手が必要であることから、漁に助っ人が必要なタラということで「助っ人ダラ」を由来とする説もあるが、この由来は「いささか穿った見方」だと指摘されている』(前掲書で確認した)。『地方によりさまざまな呼び名があり、新潟県でスケトウ・ナツトオダラ・ヨイダラ、富山県でキジダラ・キダラ・シラミダラ、島根県でスケドオなどと呼ばれるほか、中国語ではミンタイ(míngtài / 明太)/ ミンタイユィ(míngtàiyú / 明太魚)、朝鮮語ではミョンテ(명태 / 明太、myeongtae)、ロシア語ではミンターイ(минтай / mintaj / mintay)と呼ぶ。メンタイ・ミンタイという名称と「明太子(めんたいこ)」の名はここから来ている。また、2-3歳くらいの未成魚をピンスケ、ピンコ、それより小さいものをマゴスケ、くぎなどと呼び分けることもある』。『日本においては重要な水産資源である一方で、傷みが早いため』、『鮮魚として流通することは少なく、かまぼこを初めとする魚肉練り製品の主原料としての需要が多い。また、養殖魚の配合飼料のほか加工残渣は家畜類の飼料や肥料として利用される。冷凍技術が発達する以前は、鮮度が低下した魚は肥料として利用されていた。 加工用途以外ではフライやムニエル、乾物の棒鱈に多く利用される。脂肪が少ない身質で水っぽく生食には適さない。 また、スケトウダラの卵巣は比較的珍重されており、塩漬けにしたたらこや唐辛子を加えた辛子明太子が作られる。また、白子はタチと呼ばれ味噌汁等に利用されるが、マダラの白子に比べると味が劣るため価格は安い。 最近では、麺にも加工されている』。マクドナルドのサンドイッチ『フィレオフィッシュ』(Filet-O-Fish)『の材料としても多く利用されている』。『釣りの対象魚でもあり、餌にはイカや小魚が使用される』とある。

「新撰字鏡」は平安時代の漢和字書。全十二巻。僧の昌住(しょうじゅう)著とされるが、事績は不詳。昌泰年間(八九八年~九〇一年)に成立。漢字二万余字を偏・旁などによって百六十部に分け、字音・字義・和訓を付したもので、現存する最古の漢和字書である。一説に寛平四(八九二)年に三巻本が完成したとされるが、原本や写本は伝わっていない。その三巻本を元に増補した十二巻本が同年間に完成したとされ、写本が現存する。この十二巻本には約二万千字を収録する。当該部は、「国書データベース」のここの、右丁下段三行目で確認出来る。

『「古名錄(こめいろく)」に『多樂(たら)』、『韓名(かんめう)、呑魚(どんきよ[やぶちゃん注:ママ。])』とす。』「古名錄」江戸末期の本草学者・博物学者であった畔田翠山(くろだ すいざん/源伴存)が天保一四(一八四三)年に纏めた、本邦の植物・動物・魚介などの古名・方言・異名に関する大著。著者に関しては、私の『カテゴリ 畔田翠山「水族志」 創始 / (二四六) クラゲ 《リロード》』を見られたい。当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本古典全集』 第五期(正宗敦夫編・日本古典全集刊行會・昭和一〇(一九三五)年刊)の同書の「卷第五十四」の「魚部 海魚類 上」のここの左丁「多樂(タラ)」以下を見よ。そこでは、その出典を「尺素往來」(せきそわうらい(せきそおうらい))とする。同書は、室町時代後期に一条兼良によって編纂されたと言われている往来物で、全二巻。この「往来物」とは、平安後期から明治初頭にかけて、主に往復書簡などの手紙類の形式をとって作成された初等教育用の教科書の総称である。直後で、河原田氏は、「『鱈』の字は、諸往來物(しよおうらいもの)等(とう)の外(ほか)、古書に見へず」と言っており、ということは、「鱈」(=広義のタラ類)という使用は、明治初頭以前には、一般的には使われていなかったらしいことが、判る。また、「韓名(かんめう)、『呑魚』とす。」というのは、出典を「東醫寶鑑」とする。これは、李氏朝鮮時代の医書で全二十三編二十五巻から成る医書で、作者は医師の許浚(きょしゅん/ホ・ジュン)の著。一六一三年に刊行され、「朝鮮第一の医書」として評価が高く、中国・日本を含め、広く流布した。探すのに往生したが、国立国会図書館デジタルコレクションの「続東医宝鑑」(笠原之也訳・一九七三年日韓経済新聞社刊)の「湯液篇㈡」の「八、魚部」のここで見つけた。標題の「夻魚」の「夻」は「吞(呑)」の異体字である。

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   一七、 夻魚

 性は平らで味は鹹、無毒である。補気には腸と脂が良い。(俗方)

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「漢名は『大口魚《だいこうぎよ》』といふ」私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「たら 㕦魚」を見られたいが、そこで「魚の大口の者を㕦と云ふ。」に注して、私は『「廣漢和辭典」の「㕦」には、原義は「大声」とし、二番目の意味に「大きい口」として、明代の字書である「字彙」から『㕦、魚之大口者曰㕦』と引用する。』と書いた。

「開爐茗會(ろひらきちやくわい)」茶道に於ける大切な茶会で、冬になって初めて囲炉裏(いろり)又は茶事の炉(ろ)を開いて用いること。正式には、十月の終わりから十一月初めにかけて行事である。

「二百萬斤」百二十キログラム。

「五萬斤」三十トン。

『「すけと[やぶちゃん注:ママ。「すけとう」。]」の一種に、九州にて「すけそう」といふもの、あり。』九州というのは、怪しい。スケソウダラは、日本海側でも山口県以北が南の限界である。タラ科 Gadidaeのマダラとコマイもあり得ない。従って、これは、まったく別種の魚である。検索してみたところ、正体が判明した。これは、私も好物だが、市場への入荷量が少ないため、高級魚とされる、

条鰭綱ペルカ目Perciformes(目名は「パーチに似た魚類」の意で、旧カサゴ目、及び、旧トゲウオ目の一部が統合された二〇一六年に独立した極めて新しい目名である)アラ(𩺊・阿羅・敏魚)科アラ属アラ Niphon spinosus

である。サイト「日本の旬   魚のお話(秋の魚-20)」の「𩺊(あら)」の「地方名」の頭に、

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スケソウダラ(長崎)・・・・・・・・長崎で助宗タラが獲れるということで調査船まで出して調べたら、その正体はアラだったとわかった。

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とあった。なお、以下、「此魚は、對州(たいしう)にて『めぐだい』、朝鮮にて『明大魚(めいたいぎよ)』と稱せり。」というのは、訳が判らない。対馬でアラを「メグダイ」と呼んでいるという事実を、ネット上では確認出来ず、「明大魚」は、少なくとも現在の韓国では、スケソウダラを指すからである。]

 

本邦北海(ほつかい)の『大口魚(たら)』漁塲(ぎよじやう)は、地球上、屈指の良塲(りやうじやう)にして、殊に、此ものヽ肝油(かんゆ)は、貴重の藥品となるものなれば、漁船を改良して、增益(ぞうゑき[やぶちゃん注:ママ。「ぞうえき」でよい。])せんことを、希望す。

 

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