立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き(★準備稿その1)
《★以下は、「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き」の私の準備稿である。このプロジェクトは非常に時間が掛かるため、部分公開をすることとする。疑問・反論があられる方は、是非、お伝え下されたい。その内容に納得出来た場合は、書き直しをすることを、厭わないつもりである。》
[やぶちゃん注:私は既にブログ・カテゴリ「立原道造」で、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集Ⅰ」(一九七一年角川書店刊)を用いて、「詩集 優しき歌 Ⅰ」の全篇を一篇ずつ、電子化し、オリジナル注を附したものを完遂している。総標題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む。以下の冒頭の引用を参照されたい。)とあり、本篇はここからである。
以下、第一回の「燕の歌」の冒頭注で、底本の「解説・編註」の一部を引用して述べた通り、本底本は――今までの全集とは異なる形で詩群が配置されている――ことが明記されており、しかも、★現在、流通している立川道造の詩集中の「優しき歌 Ⅰ」は、殆んどが、新字採用であり、しかも、本底本全集刊行以前の詩集の、全く異なった「優しき歌 Ⅰ」を以って読んで、鑑賞したきりの読者が、想像以上に多いと考えられるのである。私でさえ、本詩群が載る一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編/現在は品切れ)を古本で入手したのは、二〇一五年の夏であったのである。
されば、前にまず、ブログで「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ / 全篇一括ベタ版・附;縦書版(PDF)」を公開した。その縦書版PDFはこちらである。
今回は、私なりに、道造が「優しき歌 Ⅰ」として全体をソリッドなものとして意図した「流れ」を、ある意味では、批判的に分析することになる。
それは、既に、各篇を見てこられた読者も私と同じく、素朴に抱く根本的な疑問があるからである。簡単に言ってしまえば、
★この「優しき歌 Ⅰ」の十二篇からなる詩篇群は、
■巻頭を飾る「燕の歌」が創作されたのは、
昭和一〇(一九三五)年二月以前(「燕の歌」の初出は『四季』第五号(昭和十年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)
であり、而して、
■終曲である「淺き春に寄せて」が創作されたのは、
昭和一二(一九三七)年二月以前(「淺き春に寄せて」の初出は『四季』第二十五号(昭和十二年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)
で、
◆時間軸での創作時間は、実に、二年間に跨り、
しかも、以上の巻頭・終曲の初出が同じ詩誌『四季』であったのは、私には、たまたまであったと思われ、
◆その間にある十篇に至っては、発表されたのは、異なったバラバラな媒体だった
のである。
言うまでもないことだが、この二年間の間には、別な詩篇を、道造は、多数、創作している。いや! 何より大事なことは、
☆本「優しき歌 Ⅰ」としての叢書刊行の着想を道造が考えたのは、昭和十二年一月のこと推定されていること
である(以上に就いては、既に各篇の注で、底本全集の「解説」・「編註」を引用しつつ、詳細に記してある)。
則ち、
☆この「優しき歌 Ⅰ」は、道造の生前に実際の原稿として十二篇を纏めて組まれたことはなかっただけではなく、角川書店昭和四六(一九七一)年六月二十日刊の『立原道造全集』の『第一卷 詩集Ⅰ』で初めて――道造の死から実に三十二年一月二十一日も経った後に――忽然と姿を現した十二の詩篇群であった
のである。
思うに、
☆「優しき歌 Ⅰ」の構想をした道造は、その時点で、必ずや――全篇に亙って――細部に手を入れて変更を考えていたことは、火を見るより明らかである。
と言っても、それを見ることは、何人(なんぴと)にも出来ぬのだ。
私は、私の感性で、感じたことを注として語ることとするだけ、である。
なお、先の「ベタ版」のテクストを、そのまま使い、字注として添えたものも、注の冒頭に残しておいた。]
優しき歌 Ⅰ 風信子叢書 第四篇
燕の歌
春來にけらし春よ春
まだ白雪の積れども
――草枕
灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる
とほい村よ
あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き
山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた
やさしい朝でいつぱいであつた――
お聞き 春の空の山なみに
お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら
とほい村よ
僕はちつともかはらずに待つてゐる
あの頃も 今日も あの向うに
かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると
やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて
僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ
あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと
[やぶちゃん注:最近、電子化注した「立原道造草稿詩篇 燕の歌(二) (恣意的に発表された正編正規版「燕の歌」を頭に添えた)」があり、それは、編註で、昭和一〇(一九三五)年の春の制作と想定しており、草稿詩篇では、『(二)』としている以上、この「燕の歌」の後に続篇として創作したものであるが、明らかに、この詩篇に比べて、ネガティヴさが、相対的に遙かに色濃いのである。以下に示す。
*
燕の歌(二)
朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ
私はどこへ行くのだらう 海よ
私の羽根はもうくたびれた
海よ お前の掌は私を止らせてくれはしない
私はいつか信じてゐた 北の村には
昔の私が待つてゐると さうかしら
海よ お前は敎へてくれ きつと知つてゐるから
お前の身體が北の岸に觸れる村で
昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ
私の旅はもう長い 私の羽根はくたびれた
海よ お前は波立ち呟いてゐる
夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ
私はどこへ行くのだらう 海よ
敎へてくれ 北の村で昔の私がやさしい朝と一しよに
私の着くのを待つてゐると敎へてくれ
お前は波立ち呟いてゐる それが私には
何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ
私の羽根はもうくたびれた
私はどこへ行くのだらう 海よ
お前は大きく お前はむごく意地惡だ
*
私は、今回、この二篇を比較した際、微かに閃いたことは、
――『これは!⋯⋯フランス語の「半過去」と「複合過去」のニュアンス上の違いではなかろうか!?!――
ということであった。道造は、昭和七(一九三二)年八月二十八日(想定)附の堀辰雄宛書簡(底本全集の「第五卷 書翰」のここの「二二」。一高二年進級直後)で、立原は冒頭部で、『この夏は、たうとう東京でぼんやり過してしまひました、佛蘭西語などをすこしやつてみたりして、田舍へも行きたいと思ひましたけれど、結局どこへも行かずしまひでございました。頭のなかで、よい景色のことばかり考へて居りました。そいて、何だかそれが、僕に一番気に入る方法だと、新字ながら⋯⋯』と記しているように、独学で(彼は一高ではドイツ語を選んでいた)本篇を書いた凡そ二年半前から、フランス語を学び始めていた。
ここで、フランス語の当該文法の違いを簡単に述べると(私は英語が嫌いだったので、大学ではフランス語を第一外国語にしていた)、
「半過去形」は、その行為や状態には終結点がなく、未完了の行為となる。
それに対して、
「複合過去形」では、継続的行為や反復的行為であっても、その期間・回数が閉じた時制として具体的であり、はっきりと完了すると判る行為となる。
さて、以上の二篇を見てみよう。
正統である知られた「燕の歌」は、
*
燕の歌
灰色に ひとりぼつちに 僕の夢に★かかつてゐる
とほい村よ
あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を★咲き
山羊が啼いて 一日一日 ★過ぎてゐた
やさしい朝で★いつぱいであつた――
★お聞き 春の空の山なみに
お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消え★ながら
とほい村よ
僕は★ちつともかはらずに待つてゐる
★あの頃も 今日も あの向うに
★かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると
やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて
僕は訪ねて★行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ
あのさびしい海を ★望みと夢は靑くてはてなかつたと
*
ここで★と下線を引いた箇所は、
――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は、過去としては――閉じていない――
のである。
ところが、「燕の歌(二)」では、
*
燕の歌(二)
朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ
私はどこへ行くのだらう 海よ
私の羽根は★もうくたびれた
海よ お前の掌は私を★止らせてくれはしない
私は★いつか信じてゐた 北の村には
昔の私が待つてゐると ★さうかしら
海よ お前は敎へてくれ きつと★知つてゐるから
お前の身體が北の岸に觸れる村で
★昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ
私の旅は★もう長い 私の羽根は★くたびれた
海よ お前は波立ち呟いてゐる
夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ
★私はどこへ行くのだらう 海よ
敎へてくれ 北の村で★昔の私がやさしい朝と一しよに
私の着くのを待つてゐると敎へてくれ
お前は波立ち呟いてゐる ★それが私には
★何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ
私の羽根はもう★くたびれた
私はどこへ行くのだらう 海よ
お前は大きく ★お前はむごく意地惡だ
*
ここで下線を引いた箇所は、明らかに、
――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は――過去としては――殆どが――閉じてしまっている――
のである。
いや! この「燕の歌(二)」を、道造が「燕の歌」とセットする確信犯を持っていたら、私は、「燕の歌 Ⅰ」は、以下、続いた詩群を後に組むことは、到底、あり得ない――出来ないもの――と断ずることが出来る。さればこそ、この「燕の歌(二)」は草稿としてのみ、残されたのである。
そして、道造が、自身の比較的若き日の恋愛の思い出を、大学卒業を半年後に控え、また、新鋭詩人としての本格始動の一つの区切りとして――この――「優しき歌」の詩群(私は、この時点で、当初から、彼が、この詩群を「Ⅰ」として自覚し、後に「Ⅱ」を確信犯として企図していたかどうかは、微妙に留保するものである。それは、「覚書 Ⅱ」――底本の「第一卷 詩集Ⅰ」のここの左丁――には「Ⅰ」を打たず、また、前の右丁下の、現行では「優しき歌 Ⅱ」相当の「覚書Ⅱ」にも、「Ⅱ」は、打たれていないからである。だいたいからして、「Ⅰ」は「Ⅱ」の出版後に出現した――しかも、孰れも編者によるものである)を企画したと推理するものである。
なお、ここで言っておくが、これ以降の詩篇もそうだが――と言うより――多くの道造の詩の実際の彼の恋愛経験を基盤に埋め込んだ作品群に於いて、その相手が、誰(たれ)それであると特定し、姓名を挙げ、恋愛事実と、その破綻を解剖する注や分析を行う意思は――全く――私には――ない。その方面から、詩や物語を分析する必要を一ミクロンも――感じないから――である。「しかし君は、芥川龍之介の作品群では、恐るべき数の、それを、子細にやってきたじゃないか?」と言われるであろうが、それは、龍之介が、本来の結婚したかった女性との結婚を親族に拒否されたことに始まり、既婚者となった後も、驚くべき数の複数の不倫をし、それが、龍之介の作品群執筆の動機・原因となっているケースが有意にあり、それを示さなければ、作品の深層を分析出来ないからであり、さらに、龍之介の精神をも蝕むところの、病跡学的なメスを加えるに際して、絶対的に必要であったからである。道造は、私は一種の双極性障害を抱えていたと考えているが、龍之介よりも、遙かに健全な精神を保持し続けていたのである。]
うたふやうにゆつくりと⋯⋯
日なたには いつものやうに しづかな影が
こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと
花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯
すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた
私は待ちうけてゐた 一心に 私は
見つめてゐた 山の向うの また
山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を
ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯
古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も
たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに
風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を
ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど
待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを
私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯
[やぶちゃん注:前の「燕の歌」との決定的な違いは、「燕の歌」が、まさに、プロローグ詩篇として、
ツバメが⋯⋯すぅーと⋯⋯遠い村を眺め⋯⋯暮れやすい花を咲かし⋯⋯山羊が啼いている軽井沢の野原を翔(と)び⋯⋯
音符のスラーのような春の空の山並みを掠めて⋯⋯夕焼けの中の遠景の村の遠景の色⋯⋯
と、水彩画で描き、次でブレイクして、
「僕はちつともかはらずに待つてゐる」「あの頃も 今日も あの向うに」「かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると」という確信犯の半過去の自己感懐の吐露をなした上で、「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ」「あのさびしい海を 望みと夢は靑くてはてなかつたと」という孤独な現在進行形の《閉じた時空間》に屹立しているのだ。
「燕」は客観的な自然生物体のツバメではなく、「道造という孤独な燕」にメタモルフォーゼしようとしているのである。
しかし、それを、道造は、読者に、その変容を気づかせないように――巧みに――フェイド・アウトさせているのである。
さればこそ、この第二篇「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」を、ここに配置することで、愛する永遠の女性像を最終第四聯を除いて、美事(私は「みごと」の漢字表記を国語教師であるのに――いや――国語教師である前に孤独な詩人面を確信犯として演じて――永く「見事」と書かずに、かく「美事」と書いてきた。何度か、男子生徒が「先生、『見事』の間違いではありませんか?」と注意しても、「僕は、こう書くことにしているんだ。」と応じて、ニヤッとしたものだった⋯⋯いや、これは、今も、私の個人的な拘りとして現に私の心の中で生きている私の絶対詩語言語なのである)に消し去って、「優しき歌」とするために――自分独りだけの半過去の詠唱にすり替えている――のである。
物理的な事実が、それを証明する。
★「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、
『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)
であるのに対し、
★本「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」の発表は、
『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊)
で、実に――★二年一ヶ月十二日――も離れているのである。
★恐らく、殆んどの読者は、本詩篇群が日の目を見た一九七一年当時だけではなく――本日只今にあっても――この事実を全く理解していないに違いないのである。
そして、最終聯、
*
ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど
待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを
私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯
*
には、注意が肝要である。
★本「優しき歌 Ⅰ」全十二篇の中で、初めて「優しい」という語(「やさしい」の語も含む)が使用された最初が、この二行目の「私の日々を優しくするひとを」のフレーズ中なのである。而して、実は、次の「優しい」は、「薊の花のすきな子に」パートの「Ⅱ 虹の輪」の第二聯の最終行「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」であり、次は、同じ「薊の花のすきな子に」パートの次の「Ⅲ 窓下樂」の第二聯の最終行「とほい やさしい唄のやう!」で、その後は、ずっと後の「鳥啼くときに」の第一聯の最終行「なんと優しい笑ひ聲だ!」で、これで終りで、計四回である。
但し、この物理的事実は、これと言って、問題するべきものではなく、《優しい》ニュアンスが、他の八篇にも感知されていれば、それで良く、それは、確かに、ある、と言える。道造は、無論、それを意識して、これら十二篇を選別したことは、明らかである。
★しかし、そこは、時期を相応に隔てて、全く別個に詠んできた詩篇を、ある意味、無理矢理に「一緒くた」にしたことには、私は、かなりの問題があると感じているのである。
而して、最終聯の、
*
「私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」
*
の告解は、最早、特定の過去の複数の失恋相手誰(たれ)それなのではなく、
――架空の哀しい過去・現在・未来に於いて実現されない「私の日々を優しくするひと」を必死にイメージした産物――
であり、この「優しき歌 Ⅰ」全体に仕掛けられた
★「バッソ・コンティヌオ(Basso continuo)」=通奏低音となっている
と、私は信ずるものである。]













