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2025/11/04

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その13)~図版・注・分離公開(そのⅣ)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの右ページ。なお、本図版に就いては、(その10)の冒頭注記を、必ず、見られたい。

 

Iriko4

 

【図版4】

 

■「其 四」

 

■「光参」「三分ノ一。」「琉球産」

 「おして、海參ノ最上ナルモノ。」

 「表」

 「裏」

[やぶちゃん注:これは、産地・大きさ・形状と、自信を持って最高級の製品であるとすることから、(その11)で示した、楯手目クロナマコ科クロナマコ属クロナマコHolothuria (Halodeima) atra である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」同種のページの画像の二枚目を見ると、「裏」とする管足側の凸凹な感じ(管足自体は煎海鼠にすると、収縮してしまい、そこが、陥没したようになるのであろう)とも、よく一致する。

「おして」「推して」で、「ある状態に於いて最も相応しいものとして他者に薦める」の意。]

 

■「琉球産」

 「『長大ナル』ト、称《しやう》スルモノナリ。」

 「四分ノ一。」

 「表」

 「裏」

[やぶちゃん注:同前で、クロナマコである。スケール縮小から、前者より大きい。底本実物の高さは二十六センチメートルほどである。前掲のリンク先には、『35㎝前後になる』とあり、二枚目の画像の物差しも三十五センチメートルである。何度も引用している本川先生の「ナマコガイドブック」では、『体長5~25㎝』とするものの、『熱帯地方では、50㎝以上の大型個体もみられ、乾かして海参を製する。』とある。]

 

■「白ウサフ」 「沖縄下産」

 「表」

      「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:「白ウサフ」既に紹介した「九州大学附属図書館」公式サイトのここの、大島廣先生の論文「沖繩地方產食用海鼠の種類及び學名」(『九州帝國大學農學部學藝雜誌』昭和一〇(一九三五)年二月発行所収・PDF)の『亞屬 Microthele BRANDT』『13. Holothuria (Microthele) nobilis (SELENKA)』(=クロナマコ属イシナマコ亜属イシナマコHolothuria (Microthele) nobilis (Selenka, 1867)の項の解説の中で(部分引用。注番号はカットした)、

   《引用開始》

 本種の熬製品にはシロウサー(白鼠、第7圖), クロウサー(黒鼠, 8圖)の2品種があるが箕作博士は多分生時の色彩の変異に因るのであらうと云はれる。トルレス海峡[やぶちゃん注:トレス海峡。]產のものに石參(est fish),  白靴(hite test fish), 烏双蟲(black snke)等の外に乳房をもつ魚と云ふ意味の名がある。さてさきに引用したものにクラウソウ・白ウサフ[やぶちゃん注:☜]などと書いてあつたのは勿論本種のことであるが, 別の所に烏縐(ウスウ)[やぶちゃん注:「黒い縮んだもの」の意であろう。]卽ち肉刺なく縐あり色黒きものとあるのもこれに當ると思はれる。ウサー或はウソウは烏縐を讀んだもの, 烏双・鼠などの字は音に合せて作つたものではなからうか。

   《引用終了》

とあった。この次の150ページの冒頭に三体の乾燥写真が載るが、その一番右の『第9圖』『サバ  Holothnria (Microthcle)  nobilis  (SELENKA). × 3/4 八重山産・(原圖).』を、是非、見られたい! 本図の「表」を彷彿させる図である! なお、同論文は国立国会図書館デジタルコレクションでも見ることが出来るので、当該図のリンクを張っておく。 なお、大島先生の記載の中に『サバは八重山語で草履を意味する。』とあった。激しく、ナットク!

 さて、本川先生の「ナマコガイドブック」から、イシナマコの項の解説を引用しておく。『体長3040cm。 一名タラチネナマコ。体は堅く、やや平らな太い円筒形で、腹面はより平らである。背面は黒に近い褐色で、腹面は背面より淡い。生時は体表に砂を付ける。触手は20本。口は前端腹面に、肛門は後端に開き、やや石灰化した5個の肛歯がある。管足は腹面に密であるが、背面や側面には管足または疣足がまばらに分布する。浅海のサンゴ砂礫上に生息する。沖縄諸島、ニューカレドニア、オーストラリア、グアム、中国、台湾に分布。』とある。

「沖縄下産」は「おきなはか」で「沖縄県下」の意であろう。沖縄県は明治一二(一八七九)年三月二十七日に琉球藩を廃止して置かれていた。

「正面」製品の頭部の吻部を正面から描いたもの。]

 

■「琉球産」「ヒラカタニミーハイ」

 「二分ノ一。」

 「裏」

 「表」

[やぶちゃん注:「ヒラカタニミーハイ」意味不明。識者の御教授を乞う。ただ、図(変則で、裏→表の順である)を見るに、クロナマコと思われる。]

 

■「琉球産」 「丸形《まるがた》。」

 「五分ノ一。」

[やぶちゃん注:本図の最初と、二つ目の図との類似性から、クロナマコ比定。]

 

■「シビー」「沖縄縣下産」

 「凡、四分ノ一。」

 「表」

     「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:前掲の大島先生の論文「沖繩地方產食用海鼠の種類及び學名」の『亞屬Actinopyga BRONN, PEARSON emend.』『9. Holothuria (Actinopyga) lecanora (JAEGER)』の項の解説の中で(部分引用)、

   《引用開始》

箕作博士は沖繩島糸滿・喜屋武崎等で本種を採集されたが, 沖縄でも八重山でも本種の製品をシビーと稱する(第4圖)。箕作博士はこれに志比宇と云ふ字をあて, 子安貝に似ると云ふ意味なりと記して居られる。八重山では子安貝のことをシビーと云はず訛つてスビ(sbü

)と云ふ。この海鼠が體壁を縦に裂かれ强く短縮して圓くなつた製品の形がやゝ子安貝こ似てゐる所からかく呼ぶのであらう。CLARK1, p.188)によればトルレス海峽地方の漁夫はこれを石魚と云ふ意味の名で呼んでゐると云ふ。本種は上品に屬し, 八重山での價格は100斤につき50圓である。

   《引用終了》

とあって、右下方に』『第 4 圖』がある(国立国会図書館デジタルコレクションで、ここの右ページの左下方)。而して、このHolothuria (Actinopyga) lecanora であるが、後に属名が変更され、さらに近年、和名変更も行われて、ヨコスジオオナマコ Stichopus herrmanniとなっている。本川先生の「ナマコガイドブック」から、引用しておく。

   《引用開始》

ヨコスジオオナマコ(和名変更)[シカクナマコ科Stichopodidae

Stichopus herrmanni Semper, 1868

体長30cmを超える。体は角の丸い四角柱。体色は褐色、黄緑色、橙色と変化に富む。背面と側面には褐色から暗褐色の小さな疣足が散在し、体軸と垂直方向に多くの細い筋が見られる。触手は20本。沖縄以南の礁地の砂地に生息する。オーストラリア、フィリピン、スマトラ。『新星図鑑シリーズ第11巻 沖縄海中生物図鑑』(1990)でStichopus variegates var. hermanni Semperに対して和名ヨコスジナマコが用いられたが、その和名は以前から Actinopyga lecanoraJaeger, 1833)に対して用いられている。また学名については、F.W.E.Rowe1995)によって、hermanni が亜種名から種名に変更された。

   《引用終了》]

 

■「ゾーリゲタ」 「沖縄縣産」

 「凡、四分ノ一。」

 「表」

     「正面」

 「裏」

[やぶちゃん注:「ゾーリゲタ」は(その8)の「ぞうりげた」の私の注を見られたい。沖縄方言で、「草履下駄」で、楯手目クロナマコ科クリイロナマコ(栗色海鼠)クリイロナマコ Actinopyga mauritiana の沖縄での方言名である。]

 

■「カズマル」 「凡、一四分の一。」

 「沖縄縣産」

 「表」   「正面」   「裏」

[やぶちゃん注:この最後の煎海鼠は、特異的に三図が縦に並んでいる。

「カズマル」前掲の大島先生の論文「沖繩地方產食用海鼠の種類及び學名」の『緖言及び總論』の中で、

   《引用開始》

 琉球產海參の品種について水產局の調査した所(8,pp.9-10)に據ると“チリメン・シビー・ゾウリゲタ・クラウソウ・シロウソウ・カズマル・ハネヂイリコ・シナフヤシ・メーハヤー・ナンフウ等なり且つ其品位上好其價甚高し其中カズマルと稱するものは淸國にて開片梅花參と稱す上好のものなり又チリメンは百斤の淸貨百四十両(テール), 其他も上品五十兩, 中品四十三兩, 下品三十五兩の高價なりし” "とあり, この書には圖版にチリメンイリコ・シビー・ゾウリグタ・黑ウサー・白ウサフ・カズマル・羽地イリコ・シナフヤ・メーハヤー・ナンプ等の琉球產熬海鼠の圖を示してある(本文中の構呼と綴字を異にするものがあるがわざと原の通りに記して置く)。

   《引用終了》

とあった。この「開片梅花參」は、(その2)の注で示した通り、シカクナマコ科バイカナマコ属バイカナマコ Thelenota ananas  である。]

2025/11/03

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「山男」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を、ごく一部で補塡した。欠字は底本では、長方形二字分。「甲折處」の「折」は(てへん)ではなく、「土」で、「圻」である。この「圻」は、音「キ・ギン・ゲ・ゴン」で、訓は「かぎり(限り)・さかい(境)」である。「近世民間異聞怪談集成」では、『拆』とあり、これは音「タク・チャク」で、訓は「さく(割く)・ひらく(開く)」である。しかし、どうも、孰れも違う気がした。中国漢文の中で見かけた記憶があったからである。而して、これは『「甲」との熟語である』という気がしたのである。調べたところ、図に当たった。「甲坼」という熟語があり、小学館「日本国語大辞典」には、『こう‐たくカフ‥』『【甲坼】』とあり、『草木が芽を出すこと。実生(みしょう)。〔易経‐解卦〕』とあったのが、意味としても、しっくりくるので、それを採用した。漢文中の歴史的仮名遣の誤り、「見」はママである。

 

 「山男《やまをとこ》」 安倍郡□□村の深山《しんざん》にあり。「日本國事跡考」云《いはく》、

『阿部山中有ㇾ物、號山男、非ㇾ人非ㇾ獸、形似巨木斷キレニ四肢、以手足一、木皮有兩穴、以爲兩眼、甲坼處以爲鼻口、左肢曲木與一レ藤以弓弦、右肢細枝ㇾ矢。一旦獵師相逢射ㇾ之倒ㇾ之、大ケハㇾ之、觸ㇾ岩ㇾ血、又牽ケバ之甚不ㇾ動。驚歸ㇾ家與ㇾ衆共ルニㇾ之不ㇾ見焉、唯見クヲ岩石耳。云云。』。

 

[やぶちゃん注:漢文部を推定訓読する。一部の読み・句読点・訓点・記号(特に送り仮名)は、私が必要と考えたものを大幅に増量し、変更を行なってある。読み易さを考え、段落を形成した。「見へず」はママとした。「灑く」は古くは清音であるから、問題としない。

   *

 阿部山中(あべさんちゆう)、物(もの)有り。號(なづけ)て、「山男」と曰(い)ふ。

 人に非(あら)ず、獸(けだもの)に非ず。

 形(かたち)、巨木(きよぼく)の斷(たちき)れに似(に)、四肢(しし)、有り、以(も)つて、手足と爲(な)す。

 木皮(ぼくひ)には、兩(りやう)の穴(あな)、有り、以つて、兩眼(りゃうがん)と爲し、甲坼(かふたく)の處(ところ)、以つて、鼻・口と爲す。

 左肢(さし/ゆんで)に、曲木(まがりぎ)と、藤(ふぢ)とを、懸けて、以つて、弓弦(ゆづる)と爲し、右肢(うし/めて)に細枝(ほそえだ)を懸けて、以つて、矢と爲す。

 一旦[やぶちゃん注:一度。]、獵師(れうし)、相逢(あひあ)ひて、之れを射て、之れを倒(たふ)す。

 大(おほき)に、恠(おそ)れて、之れを牽(ひ)けば、岩に觸れて、血を流す。

 又、牽けば、之れ、甚だ、重くして、動かず。

 驚き、走り、家に歸る。

 衆(しう)と共(とも)に、徃(ゆ)きて、之れを尋(たづぬ)るに、見へず。

 唯(ただ)、血の、岩石に灑(そそ)くを見るのみ。云云(うんぬん)。

   *

「日本國事跡考」林羅山の三男で幕府儒官であった林春斎(林鵞峰(はやしがほう:元和四(一六一八)年~延宝八(一六八〇)年)が、諸国を行脚して、それぞれの事跡を記載・考証したもの。寛永二〇(一六四三)年に著したもので、特に、松島・天橋立・宮島を「日本三景」として絶賛した嚆矢として知られる。

「安部山中」平凡社「日本歴史地名大系」に「安部山 あべやま」がある。『静岡県』『静岡市旧安倍郡地区安部山』とし、『安倍川の上流(大河内川とも称する)域と、その支流である中河内(なかごうち)川』、及び、『西河内川流域一帯を含む中世の広域地名。およそ安倍川と中河内川合流地点以北の山間部をいう。阿部山・安倍山などとも記す。また』、『安部郷とか単に安部・安倍・阿部と記されている場合も、当地域一帯をさすと思われる』とあった。「ひなたGIS」で示しておく。]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その12)~図版・注・分離公開(そのⅢ)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの左ページ。なお、本図版に就いては、(その10)の冒頭注記を、必ず、見られたい。

 

Iriko3

 

【図版3】[やぶちゃん注:左ページ。]

 

■「其 三」

[やぶちゃん注:上罫外の標題。

 ここでは、左下方に、串二本で突き刺した五個体の製品と、軟らかい繩様の物で中央部を貫いた十二個体の図(かなり大きい)があるが、それらは、最後に配しておいた。

 

■「陸奥國《むつおくのくに》

  東津輕郡《ひがしつがるのこほり》

  小湊村産」

 「二匁ヨリ、十五匁。取交□。

[やぶちゃん注:最後の□は、東洋文庫版の巻末に近い位置にあるキャプションを活字に起こした表では、『□』となっていて、判読不能である。しかし、これは、私は「ゼ」、或いは、「也」であろうと判読している。前者なら、「とりまぜ」であり、後者なら、「とりかはせなり」となろうが、前で重量を述べているのであるから、前者の可能性(「重さ・大きさがマチマチのものを取り交ぜたものである」の意)が極めて高いと考えている。

「陸奥國《むつおくのくに》」「昆布の說」の本文で、河原田氏は、「陸奥」に、かくルビを振っているのに従った。

 マナマコ比定。]

 

■「讚岐國大內郡《おほちのこほり》

 日引村《ひけたむら》産」

[やぶちゃん注:「讚岐國大內郡日引村」旧大川郡引田町(ひけたちょう)大字引田で、現在の香川県東かがわ市引田(ひけた)。当該ウィキによれば、『播磨灘に面する港町で、醤油醸造で栄えていた時代の古い町並みとともに、世界で初めてハマチ』(スズキ(アジ)目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata の「出世魚」の大きさで分けた地方名の一つ。ウィキの「ブリ」によれば、『関西』で、『モジャコ(稚魚)→ ワカナ(兵庫県瀬戸内海側)→ ツバス、ヤズ(40 cm以下)→ ハマチ (40-60 cm) → メジロ (60-80 cm) → ブリ(80 cm以上)』、『南四国』で、『モジャコ(稚魚)→ ワカナゴ(35 cm以下)→ ハマチ (30-40 cm) → メジロ (40-60 cm) → オオイオ (60-70 cm) → スズイナ (70-80 cm) → ブリ(80 cm以上)』とあり、『80 cm 以上のものは関東・関西とも「ブリ」と呼ぶ。または80 cm以下でも8キログラム』『以上(関西では6 kg以上)のものをブリと呼ぶ場合もある。和歌山県は関西圏だが』、『関東名で呼ぶことが多い。流通過程では、大きさに関わらず養殖ものをハマチ、天然ものをブリと呼んで区別する場合もある』とある。なお、『「ハマチ」の漢字に「魬」が、「ワカシ」の漢字に「𮬆(魚偏に夏、魚+夏)」が使われる』とある)『の養殖に成功した地としても知られる。』とある。マナマコの産地としても知られる。]

 

■「後志國《しりべしのくに》

  岩内郡《いはないのこほり》

  三島町《みしまちやう》産」

[やぶちゃん注:「後志國岩内郡三島町」現在の岩内郡岩内町(いわないちょう)御崎(みさき:字名(あざめい))。平凡社「日本歴史地名大系」の「三島町」「みしままち」(この読みは不審。後を見よ)に、『明治初年(同二年八月―九年の間)から同三三年(一九〇〇)まで存続した町。岩内市街のうちで、堀江(ほりえ)町の西に位置する。明治九年の大小区画沿革表に三島町とある。同二一年の戸数八五・人口三二〇、同二四年の宅地は一町二反余(岩内古宇二郡誌)』とある。既に述べたが、北海道では、「町」を「まち」と読むのは、茅部郡(かやべぐん)森町(もりまち)のみである(ここ)。これは、北海道の開拓時代に於いて、行政区画としての「町」が設定された際、「ちょう」という読み方が採用されたことに由来するので、先に「不審」としたのである。

 本種は、間違いなくマナマコである。北海道岩内郡岩内町字大浜の「一八興業水産株式会社」公式サイト「一八食堂」の「ナマコのお話」に、『岩内町の市場では、さまざまな魚種の水揚げが減っていますが、ナマコの水揚げはそれなりにあります。価格も中国での需要が強いために、高値で取引されています』。『正式名称は「マナマコ」。岩内ではナマコと言えば、「生子」と書いて「生助子(なますけこ)」の事を指し、生スケトウダラの子、いわゆる』、『たらこの生の原料の事を言いますが、最近では』、『このイボイボの海鼠が一般的になりました』。『昔からナマコは薬効があるとされ、中国では陸の人参(朝鮮人参)と対比し、干しナマコは海参と呼ばれています。古書では強精剤としての効能が強調されていますが、外観の異様さからの思いこみのようで、真偽のほどは?です。試してみてはいかが?』とされ、『岩内のナマコは他地域のものにくらべ』、『イボイボのとんがりが強いために、評価が高いのです。岩内の荒波の海で生き延びたからでしょうか。目先だけの漁でなく、資源管理をしっかりしながらの漁獲を期待したいものです。』とあった。如何にも、がっちりした褐色の、上手そうな生体写真もあるので、見られたい。

 

■「靑森縣川內村《かはうちむら》産」

[やぶちゃん注:「靑森縣川內村」正確には、旧青森県三戸郡(さんのへぐん)切谷内村(きりやないむら)。旧村名では、現在の三戸郡五戸町(ごのへまち)切谷内(大字名)かそれに近いが、ご覧の通り、かなり内陸であり、一方の合併(明治二二(一八八九)年)して「川内村」となった上市川村(かみいちかわむら)の方が、比較的に海浜に近いので、少なくともナマコを採取していたのは、この上市川村であろうか。しかし、「ひなたGISの戦前の地図を見ると、上市川から、さらに海岸辺に当たる地域に「市川村」があり、ここが実際のナマコ漁を仕切っていたであったのであり、煎海鼠を作るのは、内陸の上市川・切谷内ででもあったものかも知れない。

 マナマコ比定。]

 

■「陸奥國西津輕郡《にしつがるのこほり》

  鯵ケ澤村《あぢがさはむら》産」

[やぶちゃん注:「陸奥國西津輕郡鯵ケ澤村」青森県西津軽郡鰺ヶ沢町(あじがさわまち)。

 塩谷亨氏の論文「青森県における魚類等の方言名について」(『北海道言語文化研究』(巻14・二〇一六年四月二十七日北海道言語研究会発行・「室蘭工業大学学術資源アーカイブ」のここでダウンロード可能・PDF)を見たところ、資料リストの中に以下のようにあった(標準和名の後の地方名の記号は、「SM」が石戸芳男著「八戸魚物語」(二〇〇八年デーリー東北新聞社刊)、「HM」が東北農政局青森統計情報事務所編「青森県さかな方言名」(一九九一年同事務所刊)、「HS」が 日下部元慰智(もといち)著「青森県さかな博物誌」(一九八八年東奥日報社刊)、「TN」が工藤祐著「津軽と南部の方言 青森県の文化シリーズ15」一九七九年北方新社刊にリストされている方言名を意味すると冒頭にあった。また、半濁音(「゜」)は、「津軽と南部の方言」『ではカ行に半濁点の付された表記がある。これについてはおそらく鼻濁音であろうと思われる。』とあった)。

   《引用開始》

  • <ナマコの仲間>

 ➢ ナマコ: [HM なまこ、あかなまこ] [TN ナマコ゜、ハナタラシ(津軽)]

 ➢ オキナマコ: [HM おきなまこ]

 ➢ マナマコ: [HS ナマコ] [TN クロナマゴ(八戸)]

 ➢ ムラサキクロナマコ: [TN アガナマゴ・シマナマゴ(津軽)]

 ➢  フジナマコ: [TN フンジナマコ(西海岸地方・大間)、フンチコ(青森・鰺ヶ沢)]

 ➢ 不詳(ナマコの一種): [TN アカナマゴ(八戸)]

 ➢ 不詳(ナマコの一種): [TN スナナマゴ・アオナマゴ(青森周辺)]

 ➢ 不詳(ナマコの一種): [TN イシナマゴ(鰺ヶ沢)]

 ➢ 不詳(ナマコの一種): [TN オギナマゴ(鰺ヶ沢)]

   《引用終了》

因みに、単なる

◎「ナマコ」は「マナマコ」

で、

◎「オキナマコ」は(その3)で示した楯手目シカクナマコ科マナマコ属オキナマコApostichopus nigripunctatus (シノニム:Parastichopus nigripunctatus

でよいが、

「ムラサキクロナマコ」というのは、標準和名に存在しない。

ムラサキクルマナマコ(紫車海鼠)=無足目クルマナマコ科ムラサキクルマナマコ属ムラサキクルマナマコ Polycheira rufescens は存在するが、相模湾以南にしか棲息しないので、違う。別に、

ナマコ綱樹手目Dendrochirotidaスクレロダクティラ科 Sclerodactylidae ムラサキグミモドキ属ムラサキグミモドキ Afrocucumis africana がいるが、これも、房総半島南部と、紀伊半島以南にしか棲息しないので、これもアウトである。

されば、

◎方言名の「アガナマゴ」は「アカナマコ」で「アカ型」のマナマコで、

◎「シマナマゴ」は「シマナマコ」=「縞海鼠」で、即ち、背部の地色が薄桃色、又は、淡赤褐色で、赤褐色、又は、暗赤褐色の模様が「斑(まだら)」に出るところの、同じく「アカ型」のマナマコ、

或いは、逆に、既に、私が(そのⅡ)の「藤海鼠(ふじこ)」の注で推理したように、

一般に暗青緑色=藤色を呈しているマナマコの「アオ」型のマナマコなのではないか?

という見解を述べておく。

かくなれば、次の「フジナマコ」も、やはり、(そのⅡ)の「藤海鼠(ふじこ)」の注で示した、三浦三崎・小湊・白浜・淡路島・壱岐島・豊後・高知を棲息域とする

クロナマコ科クロナマコ属フジナマコ亜属 Holothuria ( Thymiosycia )  decorata  フジナマコ

ではあり得ず、前掲の私のマナマコとするしかないと、私は断言するものである。

序でなので、終わりの頃の「不詳」とされる、方言の内の「イシナマコ」であるが、これも、同名和名種があることは、ある。

クロナマコ科クロナマコ属イシナマコ亜属イシナマコ Holothuria ( Microthele ) nobilis

であるが、本邦では、沖縄諸島にしか棲息しないので、ダメである。

 迂遠な注となった。この図の個体は、無論、マナマコ比定である。

 

■「隱岐國《おきのくに》和夫郡産」

[やぶちゃん注:「和夫郡」は「知夫郡」の誤記。読みは「ちぶのこほり」。現在の知夫島を中心とした隠岐郡西ノ島町(にしのしまちょう)知夫村(ちぶむら)に当たり、島根県で唯一の「村」である。私は一度、行ったことがある。悔しいのは、腹足綱異鰓上目真後鰓目無楯(アメフラシ)亜目アメフラシ上科アメフラシ科アメフラシ属アメフラシ Aplysia kurodai を食いそこなったことだった。離島は、どこも、大好きだ! 近々、五島列島に行く予定である。遂に、念願だったハコフグが食える!!!

 頭部が捩じれているが、マナマコ比定。]

 

■「三重縣甲賀村《こうかむら》産」

[やぶちゃん注:現在の滋賀県の甲賀市ではないので注意! 三重県志摩市阿児町甲賀(あごちょうこうか:大字)である。ここだ! 甲賀との関係は当該ウィキの「歴史」を見られたい。

 前図のものよりも強く、有意に捩じれている。これは乾した際の物理的に生じたものなのかも知れないという気がしてきた。マナマコ比定。]

 

■「串海鼠(くしこ)」

[やぶちゃん注:產地も何も書かれていない。ふと、『前の二図と、三つで、ある、合わせとして、河原田氏が、配したのではないか?』という思いつきが生じた。前の二個体の製品は頭部を捩じって、紐で縛った二個体を、一本の比較的太い橫竿に跨らせて乾したのではなかったか? 而して、それらより、小型のものは、串に刺してぶら下げたのではないか?……私の――煎乾海鼠妄想――である。マナマコ比定。]

 

■「福良海村産」

[やぶちゃん注:「福良海村」これは、恐らく「福良浦村《ふくうらむら》」の誤記である。現在の淡路島の南端中央にある、福良港を擁する兵庫県南あわじ市福良(ふくら)である。当該ウィキに、明治二二(一八八九)年四月一日に、『町村制の施行により、近世以来の福良浦が単独で自治体を形成して三原郡福良町が発足』しているとあることから、この繁盛がよく判る。しかも、『福良港や鳴門海峡で釣れる魚種は、鳴門鯛』(スズキ目スズキ亜目タイ科マダイ亜科マダイ属マダイ Pagrus major のブランド名)『をはじめとしてアオリ、カレイ、アジ、キス、サバ、タチウオ、サヨリ、ハマチ、スズキ、チヌ、メバルなどである』とある。食われるマナマコも、これまた、繁殖しているに違いない。]

 

■「伊勢木谷村《いせきだに》産」

[やぶちゃん注:「伊勢木谷村」現在の三重県度会郡南伊勢町(いせちょう)木谷(きだに)。マナマコ比定。]

 

■「天比國増毛郡《ましけのこほり》増毛村産」

[やぶちゃん注:「天比國増毛郡増毛村」「天比國」は、どうしたら、こんな誤記が出来てしまうのか、甚だ、不思議だが、「天塩國《しほのくに》」(今までは「天」と書くことが多かった)の誤りである。現在の北海道増毛郡増毛町である。

 マナマコ比定。]

 

■「山口縣大島郡《おほしまぐん》産」

 「背」

 「腹」

[やぶちゃん注:「山口縣大島郡」当該ウィキ(郡)によれば、現在は周防大島町(すおうおおしまちょう)『一町』(=屋代島(やしろじま))『で同郡を形成している。但し、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足した。当時の郡域は、』大島『町に柳井市の一部(平郡島)』(「へいぐんとう」と読む。ここ)『を加えた区域にあたる。なお』、『本州の神代村』(こうじろそん)『・大畠村』(おおばたけむら)『・遠崎村』(とおざきむら)『は』、『明治』九(一八七六)『年』『に大島郡から玖珂郡』(くがぐん)『へ移されていた』とあるので、本書刊行当時は、実質、屋代島及び平郡島産ということになろう。

 マナマコ比定。]

 

■「イリコ」

 「長嵜縣産」

 マナマコ比定。]

 

■「渡島國《としまのくに》

  茅部郡《かやべのこほり》

  砂原村《さはらむら》産」

 「一個量、六匁。」

[やぶちゃん注:「渡島國茅部郡砂原村」現在は、同じ茅部郡の森町(もりまち:既に述べた通り、現在の北海道で「町」を「まち」と読む唯一の町名である)と二〇〇四年に合併協定書を調印し、茅部郡森町砂原(さわら)となっている。「郵政その他、皆、「さわら」である。果して、明治十九年段階で歴史的仮名遣で正しく「さはら」と表記したことは、取り敢えず、「ひなたGIS」の戦前の地図では、駅名が、確かに「さはら」となっては、いる。しかし、ウィキの「砂原町」によれば、『町名の由来はアイヌ語の「サラキウシ」(鬼茅のある所の意)から』とあり、この「鬼茅」は、一応、「葦原」・「茅(かや)」の意味であるらしいあまいものこさんのサイト「甘藷岳山荘」の「山名考」の「砂原岳」の緻密な考証の中で意味を拾った)。私がここでの歴史的仮名遣に問題を感じるのは、アイヌ語由来であるものを、安易に漢字表記から歴史的仮名遣に無条件に変換してよいかどうかについて、甚だ疑問を感じるからである。確かに、旧近現代地名では「さはら」でも、現在は「さわら」である。しかし、本書刊行の明治十九年時点で、現地の人々、取り分け、原住民であるアイヌの方たちが、実際に現に「サワラ」と発音していたとすれば、それを「さはら」として、伝家の宝刀の如く、歴史的仮名遣表記をすること自体が、完全に無効となると、私は、考えるからである。

 マナマコ比定。]

 

■「廣島縣賀茂郡《かものこほり》産」

[やぶちゃん注:図は二個体を左右に並べている。

「廣島縣賀茂郡」当該ウィキによれば、明治一一(一八七八)『に行政区画として発足した当時の郡域は』、『広島市安芸区の一部(阿戸町)』・『呉市の一部(倉橋町・下蒲刈町各町・蒲刈町各町・豊浜町各町・豊町各町を除く阿賀南、阿賀町、阿賀北、郷原町以東)』・『東広島市の大部分(河内町各町・入野中山台・河内臨空団地・福富町各町・豊栄町各町・安芸津町木谷・高屋町小谷・高屋町造賀を除く)』・『竹原市の大部分(忠海各町・福田町・高崎町・吉名町・田万里町を除く)』とあるが、昭和三一(一九五六)年『に隣接する豊田郡との間で所属町村の入れ替えが実施されたことにより』、『郡域が大幅に変動し、広島県中南部の内陸部で構成される郡となった』とあるので、グーグル・マップ・データのこの瀬戸内海側の広い海岸地区を指すことになろう。「ひなたGIS」の戦前の地図も参照されたい。

 図は二つとも、今までの図と異なり、頭部が有意に大きい。一応、マナマコ比定としておく。]

 

■「肥前國産」

 「切斷したるもの。」

[やぶちゃん注:左右に二個体(後者はキャプション通りの製品断片)を左右に並べてある。

「肥前國」当時、既に現在の佐賀県と長崎県(厳密な旧国名に従うなら、壱岐・対馬は含まない)に相当する。

 マナマコ比定。]

 

■「筑前國産」

[やぶちゃん注:当時、既に福岡県の大部分に相当する。

 マナマコ比定。]

 

■「出雲國島村産」

[やぶちゃん注:図個体が異常である。噴門部が、左右に逆Y字に尖って出ている。後部に発生した傷で、左右に再生治癒してしまった個体か、内臓の抜き出しに失敗したものか? しかし、後者の場合は、凡そ、製品とする価値はないはずである。『この場合は、キビが悪い!』と当初は思ったが……しかし、これは、生物学的に、と言うよりも、製品としての正しい向きにしたままなのであって、清国に送った場合は、まず、上下を問題にしないと考えられる。則ち、「其二」の「第一」品等である双頭のマナマコと同じであって、問題なかろうと思うに至った。

「出雲國島村」大問題は、コッチだッツ!!! 当時、既に島根県で、現在の出雲市島村町(しまむらちょう)で、ここであるのであるが、非常に困った! ここは御覧の通り、★汽水湖である宍道湖の――しかも西端!――★で、しかも、斐伊川が流入する河口であるからである。汽水湖のこの位置では――塩分濃度は著しく下がるのである! いやさ、そもそも、宍道湖でナマコが採れるというネット記事は存在しないし、AIも生息していないとするのである。これ以上、私には、言い添えることが出来ない。識者の御教授を、切に乞うものである。見た感じは、マナマコではあろうが……或いは、この「島村」は煎海鼠を製品化する場所に過ぎず、生体は、同島村から最も近い、西北の島根半島西部にある、出雲市十六島町(うっぷるいちょう)の十六島湾(難読名で「十六島」で「うっぷるい」と読む。私の「大和本草卷之八 草之四 黑ノリ (ウップルイノリ)」の私の注「十六島」を見られたい)辺りで捕獲したマナマコをここへ運び、処理し、宍道湖を汽船で運び、出荷したものかも知れぬ。その辺りの、当時の情報が判る方が居られれば、是非、御教授願いたい!……しかし、だ!……先般より、河原田氏は、しばしば、地名を誤っていることを考えると……「島村」は……トンデモ誤記なのかも知れぬ……と……疑い始めているのでも、ある…………

 

■「熨斗海鼠(のしこ[やぶちゃん注:原図の四文字へのルビ。])」

 「北海道產」

[やぶちゃん注:冒頭注で述べた通り、ここでは、左下方に、串二本で突き刺した五個体の製品と、軟らかい繩様の物で中央部を貫いた十二個体の図(かなり大きい)の二図が示されてある。さても、この描き方は、二箇所のキャプションを合わせて見るに、明らかに、煎海鼠の、同じ「北海道産」の、異なる二つの製品を示しているとしか思われないのである。

 まず、上方の「熨斗海鼠」であるが、

――頭部と噴門部に、恐らく、丸い竹串を突き刺した(海鼠個体は五体)ものの部分画像で、思うに、それぞれのその串を、反対方向に引っ張って、日乾ししたものであろう。その結果、中央部が伸びて、細くなっているのである――

 なかなか、面白い図である。思うに、製品名のそれは、所謂、狭義の左右三角に尖った三つの出っ張りからなる「熨斗」ではなく、

熨斗の中央の「水引」の形に擬えたもの

と思われる。

 残念ながら、この図と同様の煎海鼠製品は、ネット上では、見当たらなかった。

 

……余談であるが、それを探すために多数のサイト(国立国会図書館デジタルコレクションを含む)・ブログを多様なフレーズ検索していた途中……『!?!?!!!』……明らかに、私が、サイト版やブログ版で電子化した複数の画像や原文、私の注記内容を――そのマンマ――流用しているものを見つけて、アいたナマコ口が閉まらなくなった。画像を検証したところ、私がトリミングしたものと、一ミリも違わない全く同じものであり、抄文原文も、私が神経症的に振ったオリジナルの句読点も! これまた! 全く以って――おんなじ――なのだ! しかし、私のものを使用したとする注記は、これ、どこにも、ないのである! 敢えて、どのブログかは、示さない。ブログ主のオリジナルな訳(ミスタイプが目立つ現代語訳や御意見は、まあ、そこそこに読めるシロモノだが――キサマの偸盗部分は! 生涯! 許さねえゼエッツ!!! 覚えトケ! クソ馬鹿野郎!!!……

 

閑話休題。下方の、編んだ縄(かなり細いが、編んであるのは、拡大すると斜めの筋が描かれているので、判る)一本で煎海鼠の中央部を貫いたもの(製品個体は全部で十二個で、大きさは、前の「熨斗海鼠」のように同じ大きさではない)である。

 これも、幾つかのフレーズ画像検索をしたが、見当らなかった。

 前の図とともに、御存知の方があれば、お教え下さると、恩幸、これに過ぎたるはない。

 これは、産地から、マナマコ比定である。]

2025/11/02

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注への独立記事注追加/明治期の煎海鼠の製造法に就いて

[やぶちゃん注:図注をやっている最中、ふと、気になることがあった。それは、

『ナマコの本書当時の「煎海鼠」の製造法は、実際には、如何なるものであったのか?』

という個人的な素朴な疑問であった。恐らく、現代の工程は、ネットのどこかで紹介されてあろうかとは思うのだが、私の希望は、明治期のそれをこそ、知りたいと感じたのである。そこで調べたところ、「昆布の說」で引用した国立国会図書館デジタルコレクションの「帝國水產書敎師用」(興文社編輯所編・明治三八(一九〇五)年興文社刊)の「第二十二課 海參」に、明治後期の内容ではあるが、判り易い解説があるのを見つけた(保護期間満了)。当初は、既に電子化した記事の中に追加しようと思ったが、それでは、数少ない何時も順番に読んで下さっている読者に不親切であろうと感じた。図版注にハマまっている最中ではあるが、ここは、一発、独立記事で示すこととした。当初、画像で取り込み、PDFに変換して活字化を試みたが、原本が古く、私の古いアプリでは、汚損した活字を判読することが殆んど不可能であったので、視認してタイピングすることとした。因みに、本書は「淸國輸出日本水產圖說」の十九年後のものであるが、記載には清国への販路の状況の記載もあり、非常に参考になろうとは思われる。原本の字下げ等は再現していない。無論、正字正仮名・歴史的仮名遣である。若い読者や、日本語がネイティヴでない読者のために難読で意味が判らないかと思われる箇所には割注を入れた。

 

    第二十二課 海參

 

〔目的〕海參ノ製法・功用・販路等ヲ敎フ。

〔敎材〕海參とは、海鼠を煮て乾したるものをいふ。その製法は、海鼠を捕りて潮水を滿たせる桶に入れ、脫膓管[やぶちゃん注:「だつちやうくわん」。以下の「資料」の中で解説が出る。]を肛門よりつき入れて、膓をぬき取り、內部をよく洗ひ、潮水にて煮ること一時間にして、箸にて容易に挾[やぶちゃん注:「狹」にしか見えない。誤植と断じて特異的に訂した。]むことを得るに至り、簀の上にあげて冷やし、さらに焙爐[やぶちゃん注:「ほいろ」。小学館「日本国語大辞典」を引くと、『(「ほい」は「焙」の唐宋音)木の枠(わく)や籠(かご)の底に厚手の和紙を張り、炭火を用いて遠火で茶の葉や薬草、海苔(のり)などを乾燥させる道具。ほいろう。』とある。]にかけて、一時間餘焙りたる後、また焙りて日に乾し、三回程この法をくり返して後、莚に包みて蒸し、さらに日に乾し、九分通り乾きたるを釜に入れて煮るなり。この煮水には、色付のため蓬[やぶちゃん注:「よもぎ」。]の枯葉を入るるを常とす。この後、なほ一回焙りて日に乾し、箱詰として淸國に輸出す。

海鼠は、疣の大小によりて、これを二種に分つ、その製品もまた隨って二種に分たる[やぶちゃん注:「わかたる」。]。有刺參・無刺參これなり。本土の產は、多く有刺參にして、主として北淸地方に向ひ、琉球等の產は、多く無刺參にして、主として南淸地方に向ふ。

〔資料〕海參ハ海鼠ヲ煮テ乾シタル水產製品ニシテ、煮乾品[やぶちゃん注:「にぼしひん」と読んでおく。]に屬ス。海參ノ原料ナル海鼠ハ、棘皮動物ノ一ニシテ、各地沿海ノ岩礁ニ棲息ス。

ソノ製法ハ、捕獲セル海鼠ヲ潮水ヲ充テタル[やぶちゃん注:「みてたる」。]大水槽中ニ入ル﹅時ハ、海底ニ棲息セル時ヨリ、外界ノ壓力減ズルガ故ニ、膓ノ軆外ニ脫出スルモノアレドモ、悉ク然ラザルヲ以テ、脫膓管ト稱シテ、細竹ヲ二個ニ縱割シテ、一端ヲ尖ラセタル半圓ノ溝状管ヲ海鼠ノ肛門ヨリ挿入スル時ハ、膓ハ溝中ヲ沿ウテ體外ニ出ヅ。ナホコレヲ淸淨ナラシメンガタメ、細キ針金ニ粗毛[やぶちゃん注:「そもう」。]ヲ捻リ込ミタル刷毛[やぶちゃん注:「はけ」。]ヲ肛門ヨリ通シテ口外ニ㧞[やぶちゃん注:「拔」の異体字。]キ出ダシ、體內ニ遺留セル砂オヨビ膓片ヲ除キ、淡水ニ海水ヲ少シ加ヘテ煮ルコトオヨソ一時間餘ニ及ビ箸ニテ容易ニ挾ムコトヲ得ルニ至リテ、コレヲ簀上ニ上ゲテ冷却ス。海鼠ニハ、多量ノ水分ヲ含有スルヲ以テ、ソノ水分ハ、煮熟中、釜中ニ出デ、大イニ煮液ノ量ヲ增スヲ以テ、時々コレヲ汲ミ取リ、カツ、浮上スル汚穢[やぶちゃん注:「をあい」。]ナル泡沫ヲモ抄ヒ[やぶちゃん注:「すくひ」。]取ルベシ。煮熟中、釜中ニ浮上スル海鼠ハ、體內ニ空氣ト水トヲ包有セルモノナレバ、取リ上ゲテ釘ニテ刺シ、コレヲ逸出セシメ、再ビ釜中ニ投ズベシ。冷却セルモノハ、コレヲ蒸籠[やぶちゃん注:「せいろ」。]ニ併ベ、焙爐ニ懸ケ、炭火ニテ一時間程焙乾[やぶちゃん注:「ばいかん」。]シタル後、日乾[やぶちゃん注:「ひぼし」。]シ、翌日マタ焙リテ日乾シ、カクノ如クスルコト三四回ニ及ベバ、上皮ヤ﹅硬固[やぶちゃん注:「かうご」。]トナルヲ以テ、莚ニ包ミテコレヲ罨蒸[やぶちゃん注:「あんじやう」。寝かせること。乾燥度合の均一化を図るために行う。一般には、コンブの結束処理の前処理の工程として知られる専門用語である。]ス。然ル時ハ、內部ノ水分漸クニ體外ニ出デ、內外ノ乾濕平均ス。ヨリテ更ニ日乾シ、九分通リ乾キタル時、マタ釜中ニ投ジテ煮熟ス。コレハオモニ染色ノ目的ニ出ヅルヲ以テ、コノ煮水ニハ、淡水一斗ニ乾蓬葉[やぶちゃん注:「ほしよもぎば」。]五十匁ノ割合ニ入レ、オヨソ四十分間コレヲ煮、ソノ液中ニ海鼠ヲ投ジテ、四五十分間煮ルモノトス。然ル時ハ、海鼠ハ、黑紫色ノ美澤ヲ呈ス。コレヲ最初ノ如ク、一回火乾[やぶちゃん注:「日乾」でないことに注意されたい。]シテ後、日乾ヲ繼續シ、全ク乾燥スルニ至リテ箱詰トナス。

海鼠製造上注意スベキ要點ハ、(一)脫膓ニ注意シ、腹中ニ砂ヲ止メザル樣ニセザレバ、煮熟中、體ノ破裂スル憂アリ。(二)蒸籠ニ併ブルニ相接觸セシムレバ、ソノ部分糜爛スル憂アリ。(三)煮水ニ多量ノ海水ヲ投ズレバ、製品ハ、梅雨中[やぶちゃん注:「ばいうちゆう」。]、濕潤シテ黴ヲ生ジ、淡水ノミナレバ、背上ノ刺、折ル﹅憂アリ。

海鼠ハ、疣即チ背上ニ生ズル凸起[やぶちゃん注:「とつき」。]ノ大小ニヨリテ、コレヲ二種ニ分ツ。故ニソノ製品モ、マタ隨ヒテ二種ニ分タル。即チ凸起ノ大ナルモノニテ製シタヲ有刺參ト稱シ、凸起小ナルモノ、或ハナキモノヨリ製シタルヲ無刺參ト稱ス。本土ノ產ハ、多ク有刺參ニシテ、漸ク北ニ進メバ、漸ク刺大ナリ。コレ等ハ、主トシテ天津・北京等ノ北淸地方ニ販路ヲ有ス、琉球等ノ產ハ、無刺參ニシテ、主トシテ福州・厦門[やぶちゃん注:「アモイ」。ここ。]ノ南淸地方ニ販路ヲ有ス。一種ちりめんノ如キハ、南洋產ニ酷似シ、高價ヲ有ス。

[やぶちゃん注:「一種ちりめんノ如キ」というのは、(その8)の注で示した、楯手目クロナマコ科クリイロナマコ属チリメンナマコ(縮緬海鼠) Actinopyga miliaris 及び、クロナマコ科クリイロナマコ(栗色海鼠)属トゲクリイロナマコ Actinopyga echinites を指す。

海參ハ、淸國輸出重要品ノ一ニシテ、ソノ輸出額明治三十四年ハ四十三萬圓以上、明治三十五年ハ三十五萬圓以上、明治三十六年ハ四十四萬圓以上ニ達セリ。宴席ノ膳ニ供シ、式膳中ノ三等ニ位ス。淸湯海參・胡蝶海參等ハ、調理ノ名稱ニシテ、鷄・家鴨等ノ肉汁オヨビ野菜等ト混煮[やぶちゃん注:「まぜに」と訓読しておく。]シテ、食膳ニ上ス[やぶちゃん注:「じやうす」。]。

2025/11/01

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「山神悅惣髮」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。]

 

 「山神悅惣髮《やまがみ そうはつを よろこぶ》」 安倍郡藁科村《わらしなむら》にあり。傳云《つたへいふ》、

「當村に山神あり。里人《さとびと》、病《やまひ》あれば、「一生、惣髮とならん。」事を誓ひ、是を祈る。必《かならず》、愈《い》ゆ。云云。」。

 奇《き》を好める、いかなる神にや。

[やぶちゃん注:「惣髮」「總髮」に同じ。「そうがみ」が原音で、「そうがう」とも読む。月代(さかやき)を剃らずに、伸ばした髪を、後ろで束ねて結った髪型。また、後ろへ撫でつけて、垂れ下げただけで、束ねないものも言う。江戸時代には、医者・儒者・浪人・神官・山伏などが多く結った。「四方髪」「撫で附け」とも呼ぶ。

「藁科村」「ひなたGIS」の戦前の地図のここで、北西に「中藁科村」、南東に「南藁科村」が確認出来る。古くは、この広域を、かく呼んだものか。但し、この山神を祀った、奇体な言い伝えのある神社は探し得なかった。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「こもとうの靈《りやう》」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。]

 

 「こもとうの靈《りやう》」 安倍郡《あべのこほり》口仙俣村《くちせんまたむら》にあり。傳云《つたへいふ》、

「『こもとう』は、徃昔《わうじやく》、柿島村《かきしまむら》の西平と云《いふ》所に居住する武人也。某《なにがし》の爲に、夜討《やうち》せられ、當村、廣海戶に落來《おちきた》り、終《つひ》に討死す。其《その》靈《りやう》、祟《たたり》を、なす。里人《さとびと》、恐れ、祭りて、山神《やまがみ》とす、云云《うんぬん》。」。

 今、古傳《こでん》を失《しつ》す、故に、事蹟、詳《つまびらか》ならず。

 

[やぶちゃん注:「靈」は、この場合、「御霊」(ごりょう)であるから、かく、読んでおいた。

「口仙俣村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『口仙俣村』『くちせんまたむら』とあり、『静岡県』『静岡市旧安倍郡地区口仙俣村』とし、現在の『静岡市口仙俣』とする。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。『中河内(なかごうち)川支流の仙俣川流域に位置し、南は柿島(かきしま)村枝郷』(えだごう)『上落合(かみおちあい)。戦国期には尊俣』(そんまた)『に含まれていた。領主は安西外(あんざいそと)新田と同じ』(同書で調べたところ、寛永九(一六三二)年、幕府領となり、幕末に至った、とあった。しかし、以上の話は、江戸以前であるから、領主は別。明確ではないが、以下の「柿島村」で示した国立国会図書館デジタルコレクションの資料が参考にはなろう)。『元禄郷帳では高六石余。旧高旧領取調帳では幕府領六石余・祐昌寺(涌泉寺)除地四斗余。「駿河記」では家数一七』とある。

「柿島村」口仙㑨の南方。ここ。北に口仙俣を配しておいた。但し、「駿河國新風土記」第七輯」(新庄道雄著・修訂/足立鍬太郎・昭和九(一九三四)年志豆波多會刊・ガリ版刷)では、「かきじま」と濁音になっている。しかも、「こもとう」は、そこでは、「トモトフ」(右傍線有り)となっている。そちらは、戦国時代とし(時期は『いづれの時にか有けん』と明確ではない)、もっと前後の史実的記載が詳しく書かれてあるので見られたい。

「西平」「ひなたGIS」で「柿島」の戦前の地図を見たが、同地区や周辺を見ても、見当たらない。

「廣海戶」この地名も同前で調べたが、見当たらない。読みも判らない。国立国会図書館デジタルコレクションの「湖西市史 資料編 6」(湖西市史編さん委員会編・一九八六年湖西市刊)のここ(一八一ページ下段の村方の地下文書の箇条の最後に『字廣海戶』とあったが、湖西市では、全く位置が合わないので、同名異所である。]

2025/10/31

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その11)~図版・注・分離公開(そのⅡ)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの右ページ。なお、本図版に就いては、(その10)の冒頭注記を、必ず、見られたい。 

 

【図版2】

[やぶちゃん注:左ページ。順序は、基本、上段から下段とするものの、一部、上段で、横に三つのセットなっていると思われる箇所では、それに従った。]

 

Iriko2

「其 ニ」[やぶちゃん注:上罫外の標題。] 

 

■「わらこ串ニ貫キタルモノ」 「二分ノ一。」

[やぶちゃん注:「わらこ串」「わらこ」は「わらっこ」で、小さなものを示す接尾語。藁の短いものを、串としたもの。頭部の口の左右にストロー状のそれが見える。実際には、長い頑丈な藁で、何匹かを、この部位に突き刺して、燻煙、或いは、乾かすのであろう。作業が終わった後、一匹ずつに切り分けるものと思われる。]

 

■「藤海鼠(ふじこ[やぶちゃん注:ママ。「ふぢこ」が正しい。本文「(その6)」でも、総て、間違っている。])」

 「『フヂ』ニ通ジタル名。」 「二分ノ一。」

[やぶちゃん注:今回、これには、実は、河原田氏が気づいていない、重層した意味があるように思われるように、初めて、感じた。「(その6)」では、本図のように、「藤蔓で縛って乾す」という謂いで、この名を与えていることは、主な由来ではあり、それで私は納得してしまっていたのだが、この藤蔓を通した煎海鼠にしたものを、じっと見つめているうちに――別な「藤」――が想起されたのである。

 所謂、「藤瘤」(ふじこぶ)である。藤には、蔓や幹に、ゴツゴツした瘤のように丸く脹れた部分があるものを見たことがある。

 これは、フジ(マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda )が発症する「フジ瘤病」という疾患で、原因菌は、

真正細菌ドメインのプロテオバクテリア門 Proteobacteria γプロテオバクテリア綱 Gammaproteobacteria エンテロバクター目 Enterobacterales 腸内細菌科 Enterobacteriaceae  エルウィニア属 Erwinia 種病変種 Erwinia herbicola pv. milletiae

である。その画像は、学名のグーグル画像検索で頭に出る四葉の写真を見られたいが、ご覧の通り、

その瘤状の塊りは、恰も、この「藤海鼠」に、非常に似ている

ように私には見えるのである。

 則ち、河原田氏は全く気づいていないが、

★製品を作る漁師たちは、乾して委縮してゴツゴツと小さな瘤が固まったように見える藤蔓にぶら下がった「藤海鼠」を、藤の木に、たまさか、生じる「藤瘤」に擬えて、「藤海鼠」と呼んだ

のではないか? と、私は思うのである。

そして、さらに私は、この「藤海鼠」は高い確率で、

シカクナマコ科 マナマコ属マナマコ Apostichopus armata の「アオ」型

ではないか? と考えるのである。而して、

★「アオ型」は般に暗青緑色を呈している

から、

★生体のそれは、まさに――藤色――と擬えることが出来る

と断言出来る。私の長年のナマコ観察では、味は、既に述べた通り、「アカ」型に軍配を挙げるものの、見た目の美しさは、はっきり言うと、「藤色」のナマコをこそ、愛するのである。

 則ち、ここには、

★「藤」――「藤蔓」――「藤瘤」――「青ナマコ」というハイブリッド

の関係が成り立つと考えるものである。

 なお、「フジコ」はナマコ綱樹手亜綱樹手目キンコ(金古・金海鼠)科キンコ属Orange-footed sea cucumber(英名・和名なし)亜種 Cucumaria frondosa japonica の異名としても知られているが、の図の製品形状は、キンコのそれではない。キンコは通常のナマコとは異なり、生体は、概ね、野菜のナス(茄子)に似た、ずんぐりとした形を成し、干しても、このような普通のマナマコの煎海鼠とそっくりなスマートな形状には、ならない。私は、盛岡でボイルしたキンコを見たが、掌に載る、「小型手榴弾」のようなものであった。既に図版1の右最下段に示された通り、普通、製品でも、開口直下頭部で、一度、くびれて狭くなり、後半部が膨らんだ形になるのである(最終図Ⅶにも「きんこ」として出る)。

 さらに、流通では、現在でも、面倒なことに、

主流であるマナマコやクロナマコの乾燥品の良品を「キンコ」「金ん子」等と言う

のである。嘘だと思うなら、御自分でネットを調べて見られよ。

 最後に、さらに付け加えると、実は、

フジナマコ=「藤海鼠」という種は、別に存在する

のである。

クロナマコ科クロナマコ属フジナマコ亜属 Holothuria ( Thymiosycia )  decorata  フジナマコ

である。既に示した本川逹雄先生の「ナマコガイドブック」から引用する。

   《引用開始》

フジナマコ[クロナマコ科Holothuriide

Holothuria Thymiosycia decorata von Marenzeller, 1882

体長1050cm。体は堅く、やや平らな円筒形で、腹はより平らである。体色は全体に褐色で、管足と疣足はより濃いが、外側の大きな疣足は淡い。触手は20本。管足は腹面全体に、小さな疣足は背面全体に分布する。大きな疣足は、背面と腹側面の歩帯に沿う。三浦三崎、小湊、白浜、淡路島、壱岐島、豊後、高知。水深0200m。浅海では磯帯に生息する。現在のところ日本固有種である。学名については、【解説】を参照のこと。和名は、その体表の色合いが、藤の木の樹皮に似ていることから名つけられた。

   《引用終了》

同ページ(121)の下に、以上の解説コラムがある。それも引く。

   《引用開始》

 解説 フジナマコの学名に関して

 和名フジナマコには最初、H. decorata von Marenzeller1882の学名があてられていた。箕作佳吉(1912)は、H. decorataH. monacariaLesson1830)の骨片の違いは成長にともなう変化であるとして、H. decorataH. monacariaのシノニムとした。だが、A.M.ClarkF. W. E. Rowe1969)は、H. monacariaの記載が不十分であるとして、学名を H. hilla  Lesson,  1830に変更した。そして、最近の図鑑類では、フジナマコの和名はH.hillaに対して用いられている。ところが、図鑑にフジナマコとして載せられている写真のほとんどは、じつは H. (Thymiosycia) hilla ではなく、H.(Lessonothuria) pardalis Selenka1867である。このように、フジナマコの学名と写真は誤って用いられていた。フジナマコの学名がH.T.decoralaに復旧されたのは1991年のことである(lmaoka,1991)。本書はこれに従う。また、H.L.Dardalisの和名は

イソナマコ(≫p.119[やぶちゃん注:これは、引用書のページ注・後も同じ。]で、一方、H.(T.)hilla の和名はリュウキュウフジナマコ(p.120)である。

   《引用終了》

最後の、この学名の問題は、所持する西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」(平成七(一九九五)年保育社刊)の「クロナマコ科」の解説内に、同一の内容があるのを確認した。

 而して、「じゃあ、この「ふじこ」というのは、そのフジナマコじゃないの?」と突っ込む方がいるだろうが、それは――ない――のである。何故か? このフジナマコは調べた限りでは――食用にはならない種だから――である。リッチャン (id:ama-diary) さん(プロフィールに『名古屋でOLをしていたのに、気付いたら鳥羽市で海女をしているリッチャンです。特技は英語とイラスト、好きな物は猫とサチバア』。『海女修行、漁師の嫁ライフ、ゲストハウスオーナーの日々をブログにつづっております。』とある第一次漁業者である! しかも! 私が偏愛する1954「ゴジラ」のロケ地である「石鏡」(いじか)の海女さんなのだ! 恐れ入ったかッツ!)のブログ「海女日記 < 新米海女リッチャン >」のズバり、「フジナマコ」の記事に(行換えがあるが、総て繋げた)、

   《引用開始》

石鏡ではアカナマコ(マナマコ)しか水揚げしないので、アオやクロを見つけても自分たちで食べるだけです。ただ、やたらいるくせに食べられないフジナマコというヤツ! 白っぽいナマコでデカくて長くて、でも硬すぎて食べられないナマコなんです。石鏡では通称『カケカケ』と呼ばれています。食べる人もいると、[やぶちゃん注:読点は私が打った。]あるばーちゃんは言っていましたが、本当かな。どうなんだろう?

   《引用終了》

とあるんだ! 恐れ入ったかッツ!?! それでも、疑る方のために、別に、男性のブログ主の「能登のさかな」の「フジナマコは食べられるのか?」を引用しよう!

   《引用開始》

 フジナマコは、本州中部以南の低潮線付近に生息するクロナマコ科の一種で、体長20cmほどに成長します(中には体長50cmを超える大物もいるそうです)。

 七尾湾を漁場とする漁師さんにとっては、マナマコは冬場の貴重な収入源ですが、フジナマコは市場に出荷されていません。

[やぶちゃん注:ここにフジナマコの写真有り。]

 写真ではわかりませんが、さわると固くざらざらしています。食べたことはありませんが、じゃりじゃりしてそうです。漁獲対象となっていないので味は推して知るべしでしょう。

  七尾湾の砂泥底にはマナマコが生息していますが、礫まじりのところではフジナマコの方が多いように思います。

 ところがネットで検索すると、青森県ではゆでて食べるとあります。こんなのが食べられるのか?と思い、さらに検索すると標準和名キンコというナマコを青森県ではふじなまこと呼ぶそうです。

 まぎらわしい話ですよね。標準和名と地方名がごっちゃになると話が通じなくなります。

 と言うことで、残念ながらフジナマコは食べられるのか?はわかりません。恐い物見たさで一度食べてみたいのですが、漁師さんにお願いするしかなさそうです。

   《引用終了》

これで、猜疑者は退場である! なお、たまたま、同じブログ「能登のさかな」の「きんこ・いりこ・干しなまこ」のページに、「きんこ」をキンコでなく使用している例や、現代の中国輸出ナマコの様子も記されてあったので、そこも引いておく。『きんこと呼ばれる高級加工品もあるんです。ご存知ですか?』『きんことは干しなまこのことです。但し、北海道や東北地方ではキンコという標準和名を持つなまこが市場流通してるのでややこしいんです』。『干しなまこをいりこと呼ぶ方が全国的には一般的のようですが、小さな雑魚を炒って干した物も炒子(いりこ)と呼ぶので、こちらも同様にややこしいんです』。『きんこの材料は マナマコ(青なまこ・黒なまこ)とオキナマコです。マナマコでも赤なまこは使われていません』。『赤なまこできんこを作ろうとしたことがありますが、皮の部分がごわごわになり、うまくできませんでした。このあたりが課題なのかもしれませんね』。『15年ほど前に作業中の方にお話を聞いたところ、同じきんこでも青なまこのものは一級品で中国へ輸出するが、黒なまこは二級品で台湾へ、おきなまこは三級品で韓国へ行くとのことでした』。『いずれにしても、殆どが中華料理の高級食材として利用されているようです。このため、私たちが普段目にすることがないわけです』。『中国ではなまこは健康に良いと信じられており、特にいぼいぼの大きい方が効果が高いと信じられているそうです』。『同じマナマコでも北海道産はいぼいぼが大きく、日本産の中でもブランド品となっています』。『そのことを知らなかった頃、北海道産のマナマコが能登産に比べて3倍以上の高値だったことが信じられませんでした』。『関係者に聞き取りして初めてそのことを知り納得した次第です』とあった。

 

■「神奈川縣武藏國橘柯郡産」

[やぶちゃん注:この「橘柯郡」は「橘樹郡《たちばなのこほり》」の誤り。ウィキの「橘樹郡」(たちばなぐん)によれば、明治一一(一八七八)年十一月に「郡区町村編制法」の『神奈川県での施行により、行政区画としての橘樹郡が発足。郡役所が神奈川町(現神奈川区神奈川本町)に置かれ』たとし、当時の郡域は、現在の『横浜市』では、『鶴見区、神奈川区の全域』、『西区の一部(同年に設置された横浜区に属した区域』『を除く)』、『保土ケ谷区の一部(上星川、川島町以北および今井町を除く)』、『港北区の一部(新羽町、北新横浜、新吉田東、高田東、高田町以西を除く)』で、『川崎市』では、『川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区の全域』と『麻生区の一部(金程、高石、百合丘、東百合丘以東)』とあり、最終的には昭和一三(一九三八)年十月に完全消滅している。リンク先の地図で確認されたいが、当時、海浜に接し、ナマコ(当時のここなら、マナマコであろう)を採取出来たとすると、現在の川崎市及び横浜市鶴見区に限られると思われる。「ひなたGIS」(戦前の地図有り)もリンクさせておく。]

 

■「ふじこ[やぶちゃん注:ママ。]」

[やぶちゃん注:前の注に同じ。]

 

■「春時海參」 「第一」

 「岩手縣」

[やぶちゃん注:「春時海參」これは、思うに、「海參」から、清輸出向けの製品名ではないかと思われる。本邦では、ナマコを呼称するのに、「海參」を用いるのは、中国の本草書の影響下にあった江戸時代の本草書由来の表記であり、一般人が日用的に用いる漢字表記ではないからである。さすれば、これは、「はるどきなまこ」とは読まず、「しゆんじかいさん」と読むのが正解であろうと私は思う。但し、完全な当時の中国語ではなく、中国人には意味が判るところの和製中国語であると思われる。この製品名で検索すると、圧倒的に中文サイトがずらずらと並ぶものの、完全一致するものは挙がってこず、「春捕」の表現が現代中国語では圧倒的であるからである。

「第一」製品の最上等の意。しかし、ここで非常に興味深いのは、この図である。これは、二個体が描かれているのではない。体部中央で、枝分かれしたように、右手にやや小さな頭部が伸びているのである。御存知の方も多いと思うが、ナマコ類は、外敵に襲われて、体部の一部が損壊し、例えば、頭部が引き裂かれた場合(この個体がそれである)、極めて驚くべき短時間で再生する。完全に分断された場合では、二個体として別々に再生することが出来る能力を持っているのである。例えば、中央部で切断実験した場合、実に僅か二十五分で二個体の切断面が閉じられるのである!!! この製品は、その再生した双頭(であろう。後部肛門部が割かれても、同様に再生するが、当然、そうした能力を知っていたに違いない河原田氏が、かく、上下を逆様に描いたとは私には思われないのである)の個体を煎海鼠の製したものと断定出来るのである(次の図版にも、後部が逆Y字型に分離した製品が載る)。さらに驚くのは、この奇体な双頭の生体を煎海鼠に製したものが、「第一」級の製品として評価されて、中国では売られていた(恐らく、現在もそうかも知れない)ことである(但し、現代の日本では、珍奇なものとして話題になっても、好んで最高級品として売っているとは、思われない。少なくとも日本の消費者は気味悪がるはずであるからである。私は生体でも、是非、食べてみたいとは思うが。それは、その個体が極めて正常な再生能力を持っている証しであり、当然、旨いと推定するからである)。少なくとも、清代の中国の国民は、これを異常な奇形ととらず、自然が送って呉れた目出度い縁起物として、重宝、或いは、特異な薬効能力を保持した稀な天恵品と考えたに違いない。中国の歴史的民俗社会を考える時、それは極く自然に納得出来るのである。なお、是非、お薦めの本がある。以上の再生時間もそこにある。医学部附属病院臨床研究ガバナンス部助教一橋(いちはし)和義氏の「ナマコは平気! 目・耳・脳がなくてもね!」(二〇二三さくら舎刊)である。内容は最新のナマコ学に基づくものであるが、小学生でも読める興味を持つに違いない形式・文体で書かれたものである。私が、野人となって買った書物の中で、極めて面白い本として、教え子の子や寿司屋のあんちゃんにも薦めた本である。なお、本種は、やはり、マナマコであろうと思う。

※ここでは、明らかに近似した製品名が左横に、二種、あるので、そこは、その順列に変えた。]

 

■「春時海參」

 「第二。」

    「宮城郡《みやぎのこほり》。」

[やぶちゃん注:非常に小さい。キンコは分布の南限に近い金華山より、少し南に下がるが、形があまりに小さいので、キンコの幼体の煎海鼠ともとれなくもないが、横並びの前後の「○時海鼠」の図は、孰れもマナマコであると比定したので、これも、マナマコと採る。そもそも、次の「秋時海參」も、しっかりマナマコ型で、産地を同じ「宮城郡」とするのだから。]

 

■「秋時海參」  「宮城郡」

[やぶちゃん注:前注を見よ。]

 

■「三重縣伊勢國《いせのくに》

  度會郡《わたらひのこほり》

  土路西條村《どろにしでうむら》」

 「一個量、七匁五分ヨリ、八匁五分迠《まで》。

  內國博覧會、出品。」

 「『白海参《しろなまこ》』。

  一《いつ》に、

  『ふぢこ』といふ。」

[やぶちゃん注:二行目上から二番目に戻る。

「三重縣伊勢國度會郡土路西條村」現在の伊勢市東豊浜(ひがしとよはま)町。ここ。平凡社「日本歴史地名大系」の「土路西条村」(どろにしじょうむら)に拠れば、『樫原(かしわら)村とともに宮川左岸の河口にあり、土路は最も川下にあって宮川の分流に囲まれたデルタにある。本来は土路と西条からなり』、『慶安郷帳(明大刑博蔵)では「土路・西条両村」とある。高合せて二七二石余のうち』、『畑方が二四〇石余。近世を通じて山田奉行』(やまだぶぎょう)『支配の幕府直轄領であった。』とある。「山田奉行」とは、当該ウィキによれば、『江戸期の読みは「ようだぶぎょう」』とあり、『江戸幕府の役職の一つ。伊勢神宮の守護・造営修理と祭礼、遷宮、門前町の支配、伊勢・志摩における訴訟、鳥羽港の警備・船舶点検などを担当した』。『遠国奉行の』一『つで』、『老中支配。定員は』一、二『名、元禄』九(一六九六)年『には』二『名となり、江戸と現地で交代勤務とな』ったとある。ウィキの「山田(伊勢市)」によれば、『古くは「ようだ」「やうだ」などと発音した』とあるが、理由は書かれていない。しかし、伊勢神宮は、『律令国家体制における神祇体系のうちで最高位を占め』(当該ウィキに拠る)ていた、最高の神社であり続けた対象であったから、その立地する「山田」という地名を、一般の「やまだ」の読みを変えた神聖表現であろう。

「七匁五分ヨリ、八匁五分迠」約三十八・四~四十三グラム。

「內國博覧會」これは、明治一〇(一八七七)年八月に上野公園地で行われた「第一回內國勸業博覽會」のこと。詳しくは、ウィキの「内国勧業博覧会」を見られたい。

「『白海参《しろなまこ》』。一《いつ》に、『ふぢこ』といふ。」「ぢ」は濁点部は点が一つしか視認出来ないが、かく、した。「白海参」は後の「ふぢこ」の呼称の並置から、現地での呼称別名に河原田氏が漢字を当てたものと断じ、音読みではなく、かく訓読みとした。さて。この「白海参」であるが、結論を言うと、これは形状から、

百%、マナマコの白化個体=アルビノ(albino)であると断定出来るから

である。それは、

◎形状が、今までの、この図版で私がマナマコと種同定(推定も含む)した製品画像と比べ、体色が白い以外に、差別化し得る部位・部分や、特異形態が全く認められない。

という点だけで、十分である。

 マナマコのアルビノについては、私自身、かなり以前に、たまたま、どこかの水族館で偶然に見たことがあり、ニュース画像でも、何度か視聴している。見たことがない読者が多いと思うので、

YouTubeの「小豆島の漁師はまゆう」氏の「幻の白ナマコとは⁉

という動画を見られたい。一目瞭然である。マナマコのアルビノであることの解説や、漁師の間の言い伝えもあり、採取から、生体の捌き・調理・食レポまでを、総て、見ることが出来る。その話の中で、『「白なまこ」は十万個に一つ確率で生まれる』と言っておられるのは、生物学的にも正確な事実である。

 最後に言っておくと、和名「シロナマコ」は実在する。

ナマコ綱隠足目 Molpadida カウディナ科 Caudinidae シロナマコ属シロナマコ Paracaudina chilensis

であるが、これは、それではない。小学館「日本国語大辞典」(初版)の『しろ‐なまこ【白海鼠】』に、『イモナマコ科の棘皮(きょくひ)動物。』(ママ。現在の分類では、上記のカウディナ科であり、科変更が行われた記載は、所持する学術書には記載がないので、これは誤りである)『北海道南部から東北地方、佐渡島の潮間帯付近の砂泥にすむ。体長約一〇センチメートル。紡錘形で、後方に細長い尾が伸びる。体表はなめらかで淡桃色を帯びた半透明の白濁色。砂泥上に高さ五センチメートルほどの小丘をつくって、その中央から肛門を上にして斜めにもぐってすむ。食用にはならない』(☜★:下線は私が附した)と明記されているので、煎海鼠にされていたはずが、ない、のである。先の本川先生の「ナマコガイドブック」から引くと、『シロナマコ[カウディナ科Coudinidoe]』[やぶちゃん注:ラテン科名は誤植であろう。]『Paracaudina chilensis (J. Maller 1850)』とし、『全長25cmに達する。体前半部は紡錘形で、後半部は細くなりながら尾のように長く伸びる。肛門は尾状部先端に開く。紡錘部と尾状部の長さはほぼ等しい。体色は淡いピンクで、体壁には横じわがある。触手は非常に小さく、15本で、それぞれ2対の小指を備える。函館、浅虫、佐渡真野湾および中国に分布。浅海の砂底に高さ510cmの小丘をつくり、肛門をそこに出す。排出腔中にシロナマコガニ』(甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目短尾下目カクレガニ上科カクレガニ科マメガニ亜科マメガニ属シロナマコガニ Pinnixa tumida )『がみいだされることもある。』とあり、また、「新潟大学佐渡自然共生科学センター臨海実験所」公式サイト内の「佐渡の海洋生物図鑑」の「シロナマコ」には、『砂地に生息するやや大型のナマコで普段は砂に潜って生活しています。体の後方が細くなっており、多くのナマコで見られる管足や疣足が無いのが特徴です。』(写真有り。下線太字は私が附した)とある。]

 

■「山口縣能毛郡」

[やぶちゃん注:「能毛郡」は瀬戸内海に面した「熊毛郡」の誤記である。当該ウィキによれば、現在の郡域は、『上関町(かみのせきちょう)』・『田布施町(たぶせちょう)』・『平生町(ひらおちょう)』で、明治一二(一八七九)年『に行政区画として発足した当時の郡域は、上記』三『町のほか』、『光市の全域』・『周南市の一部(八代より南東)』・『柳井市の一部(伊保庄・旭ケ丘・阿月)』であったとある。以上の市としての離脱は、昭和一八(一九四三)年以降であるから、同ウィキの地図の全カラー彩色地域全域となる。

 さて。この煎海鼠の図は、今までのものとは、見た目が大きく異なっている。思うに、これは、熬海鼠に製した際、背部と腹部を人工的に二、三回、捩じって、その形のままに乾しあげた個体のように見受けられる。マナマコとも見えなくもないが、或いは、産地から、クロナマコの可能性もある。但し、幾つかの同地区のナマコ関連の記載を見たところ、熊毛郡の「ふるさと納税」のページに周防大島産の名品として、『天然活赤なまこ』とあり、これは、生体画像も見たが、もろに立派なマナマコの「アカ型」であった。

 

■「山口縣水嵜村」

[やぶちゃん注:「山口縣水嵜村」は存在しない(「嵜」は「崎」の異体字)。AIが似た名前として、山口県長門市仙崎(せんざき)を示した。ここである。当該ウィキによれば、『仙崎(せんざき)は山口県長門市の一地域で旧大津郡仙崎町(せんざきちょう)一帯を指す。仙崎の地域は日本海に面した青海島と本土の両側にまたがるが、本土側は青海島との間の砂嘴により成り立つ地域であり、極めて平坦な地形となっている。日本海側屈指の漁港として、また蒲鉾の産地としても知られ、戦後の引き揚げ港としても知られる存在である』。『本項では』、『大津郡仙崎町、同町の町制前の名称である仙崎村(せんざきそん)』(☜)『についても述べる』とあった。『仙崎漁港は山口県内では下関漁港に次ぐ県内第二位の水揚げ高を誇る大規模な漁港となっている。イカ・アジなどの近海物の魚介類やウニ・アワビなどを主に取り扱い、関西・九州方面に出荷される。特にケンサキイカについては近年『仙崎イカ』のブランド名が名付けられ、流通価値が高まりつつある。また、近海の白身魚(エソなど)を用いた蒲鉾は仙崎の名産となっている』とあり、ナマコも採れそうだ。マナマコでよかろう。]

 

■「第二內國博覧會出品」

  「志摩神名浦村産」

 「一個十二匁。

  一斤ニ付《つき》、數《かず》、百六。」

[やぶちゃん注:三行目上から二番目に戻る。

「第二內國博覧會」は、本書刊行の五年前の明治一四(一八八一)年に開かれた正確には「第二回內國勸業博覽会」を指す。国立国会図書館公式サイト内の「博覧会 近代技術の展示場」の「第2回内国勧業博覧会 不況下でも大盛況」に拠れば、『第2回の内国勧業博覧会は、西南戦争の戦費捻出を契機とするインフレーション、幕末開港以来の貿易不均衡による正貨流出等による不況下で開かれた博覧会であったが、出品数は第1回の4倍にも増え、入場者数等ほとんどの分野で第1回の内国勧業博覧会の規模を凌ぐ結果となった。また、第1回の所管は内務省であったが、第2回ではさらに大蔵省も加わり、政府としても勧業博覧会に一層注力していることが伺える』。『会場約143,000平方メートルに、本館ほか6館の陳列館が建設された。上野の山の花見客を期待して3月に開会したことが功を奏したのか、会期中の入場者は82万人で、一日平均6,740人と、第1回の倍近くの人を集め大盛況だった。また、明治天皇も皇后と行幸し、熱心に観覧した』。『第1回に続き』、『第2回の内国勧業博覧会においても指導者的役割を果たしたお雇い外国人ワグネル(G. Wagener)は、日本政府への報告書の中で日本産業の現状分析と将来への提言を行い、例えば』、『日本農業を外国の資本や技術等を導入して発展させるべきだと述べているが、これは農商務省でお雇い外国人を廃止するなどしていた日本政府への抵抗であり、外国人技術者依存からの自立を目指していた当時の日本の政策との対照が浮き彫りとなっている』。『なお、第1回では出品物を府県別に陳列したが、第2回では出品者相互の競争心を煽ることを目的として種別に陳列した。また、第1回以後の改良発展を期待し、前回と同様のものの出品を禁じた。』とある。因みに、ワグネルとは、ゴットフリード・ワグネル(Gottfried Wagener 一八三一年~一八九二年)というドイツ出身のお雇い外国人で、当該ウィキによれば、『ドイツ語での発音はゴトフリート・ヴァーゲナー』であり、『事業参加のため』、『来日し、その後』、『政府に雇われた珍しい経緯を持つ。京都府立医学校(現・京都府立医科大学)、東京大学教師、および東京職工学校(現・東京工業大学)教授。また、陶磁器やガラスなどの製造を指導した。ヘンリー・ダイアーらと同時期に明治時代の日本で工学教育で大きな功績を残し、墓碑や記念碑が後年まで管理され残っている』という人物である。詳しい経緯はリンク先を見られたい。

「志摩神名浦村産」この村名は「神明浦村(しめのうらむら)」の誤りであり、現在の英虞湾湾奥の三重県志摩市阿児町神明(あごちょうしんめい)である。ここ。なお、「ひなたGISの戦前の地図で「神明村」の名を確認出来る。「浦」は入っていないが、漁民や出品者が、そう呼び、そう記したとしても、何ら、違和感はない。

「一個十二匁」四十二グラム。

「一斤」六百グラム。

 形状から、マナマコであろう。なお、この図には、背面中央に綺麗な楕円形の、同じく後部背面に小さいが、完全な丸い穴が開けられているのが判る。これは、傷による欠損ではなく(であれば、博覧会に出すはずがない)、思うに、「海鼠腸(このわた)」或いは「撥子(ばちこ)」(特に楕円形の部分がそれらしい。製品名で、ナマコの卵巣で、絶品である。因みに、ナマコの♀♂は外見からでは判らないし、繁殖期に精巣・卵巣が成長しないと、解剖しても判らない)を製品とするために、抜き取った時の痕と私は推定する。

 

■「フジコ[やぶちゃん注:ママ。]」 「即」

 「九州産」

 「白海參也。

    三分ノ一。」

[やぶちゃん注:「即」ここにあるのは、不審。但し、東洋文庫版で後半に表で活字化したキャプション一覧では、「説明」の欄で、『即白海参也』とあって、標題下の「即」を離れたキャプションに結合している。腑に落ちる。読みは、「すなはち、『しろなまこ』なり」となろう。而して、これは、マナマコの発色の薄い個体(着色から、アルビノとは、到底、思えない)であろう。しかし、生体は、かなり年を経た大物では、ある。

 

■「山口縣伊上村《いがみむら》産」

[やぶちゃん注:現在の油谷湾の湾奥の南部の沿岸の山口県長門市油谷伊上(ゆやいがみ)である。ナマナコ比定。同地の料理屋の食レポに、調理された生ナマナコの一品を確認した。]

 

■「安藝國《あきのくに》佐伯郡《さえきのこほり》

  大野村《おほのむら》産」 「一個。八匁五分。」

[やぶちゃん注:四行目上部から。

「安藝國佐伯郡大野村」厳島の対岸に当たる、現在の広島県廿日市市大野(おおの)。マナマコ比定。]

 

■「安藝國佐伯郡卄日市村《はつかいちむら》産」

    「一個、七匁。」

[やぶちゃん注:厳島の対岸の北北東、広島湾の西方の沿岸に当たる、現在の廿日市市街沿岸。「ひなたGIS」で示しておく。戦前の地図では「廿日市町」となっている。マナマコ比定。]

 

■「志摩國《しまのくに》英虞郡《あごのこほり》

  布施村(ふせむら)産」

[やぶちゃん注:三行目であるが、下の二段が左右に詰めてあるので、右から左の順とする。

「志摩國英虞郡布施村」これは、三重県志摩市志摩町(しまちょう)布施田(ふせだ)の誤りである。志摩市の南部、志摩半島最南端の先島半島(前島半島)ほぼ中央部に位置する、ここである。「ひなたGIS」の戦前の地図にも「布施田村」とある。マナマコ比定。やはり、この個体にも、頭部近くと、後部噴門部に有意な人工の穴と思しいものが認められる。]

 

■「周防國《すはうのくに》

     櫛濵村産」

    「一個、

      九匁。」

[やぶちゃん注:「周防國櫛濵村」現在の周南市櫛ヶ浜(くしがはま)。マナマコ比定。]

 

■「周防國都濃郡《つののこほり》

  福川村《ふくがはむら》」

    「一個量、十匁。」

[やぶちゃん注:「周防國都濃郡福川村」現在の山口県周南市福川。現在は、埋め立てられて、海岸線は東・西に、ごく一部しかない。「ひなたGIS」の戦前の地図でも、この埋立部は、早くも『社地』となっている。思うに、明治期には、ここは、福川の海岸線になっていたものと思われる。ナマナコ比定。やはり、後部噴門部にクネクネとした、切開痕が見られる。]

 

■「周防國大島郡《おほしまのこほり》

  外入村《とのにふむら》」

     「一個量、十五匁。」

[やぶちゃん注:「周防國大島郡外入村」現在の山口県大島郡の屋代島(やしろじま)の南岸の、周防大島町(すおうおおしまちょう)外入(とのにゅう)。ここ。マナマコ比定。]

 

■「安藝國豊田郡《とよたのこほり》

  大野村《おほのむら》産」

     「一個、十匁。」

[やぶちゃん注:「安藝國豊田郡大野村」不詳。ウィキの「豊田郡」を見ても、広島県豊田郡には、「大野村」は存在しない。万事休す。マナマコ比定。]

 

■「安藝國佐伯郡《さえきのこほり》

  小方村《おがたむら》産。」

[やぶちゃん注:「安藝國佐伯郡小方村」現在の広島県大竹市小方。ここ。厳島の南西の対岸。マナマコ比定。]

 

■「周防國能毛郡《くまげのこほり》

  佐賀村産」

    「一個量、

       十匁。」

[やぶちゃん注:「周防國能毛郡佐賀村」現在の熊毛郡平生町(ひらおちょう)内。合併により、佐賀の地名は消失している。ウィキの「平尾町」によれば、同町の佐賀(さが)・小郡(おぐに)・尾国(おくに)・佐合島(さごうじま:対岸の島嶼)が、旧佐賀村である(現行の地名の読みは郵政データで確認した)。「ひなたGIS」の戦前の地図で「佐賀村」を確認出来た。

 本図も、背の頭部開口部にVの字の切込み、後部中央に綺麗な「○」の孔、噴門部手前直近に逆ハート型に沿った切れ込みがある。マナマコ比定。]

 

■「周防國室木村産」

[やぶちゃん注:「周防國室木村」現在の山口県岩国市室の木町(むろのきちょう)。ここ。現在の町域は、かなり内陸になっているが、「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、もっと海浜に近い桑畑に「室木」とある。さらに、北直近に「新港」、東直近の海浜地に「南開作」、南直下に「新開」という、如何にもな、新開発の地名が並ぶので、この辺りは、明治以前は、海浜の漁師村であったのではないかと思われる。

 マナマコ比定。これも、背部中央やや下方に割いた痕跡がある。]

 

■「伊豆國賀茂郡《かものこほり》

  網代村《あじろむら》産」

[やぶちゃん注:「伊豆國賀茂郡網代村」以前は、お手軽な予算の温泉目当てで、よく行った(最近は個室露天風呂附きでないと行かないプチブル・ゼイタク三昧に堕してしまった)伊豆半島の東の根にある静岡県熱海市網代である。ここは、ウィキの「賀茂郡」によれば、明治一二(一八七九)年三月十二日に、『郡区町村編制法の静岡県での施行により』、『行政区画としての賀茂郡が発足。「賀茂那賀郡役所」が下田町に設置され、那賀郡とともに管轄』とある。本書は奥付相当ページに、『出版版權屆』が『明治十九年三月廿九日』で、『同』『年四月五日刻成』とある。何で。わざわざ以上のクレジットを記したかと言うと、ウィキの「網代(熱海市)」の「歴史」の「沿革」には、明治九(一八七六)年四月十八日に、『第2次府県統合により全域が静岡県の管轄となる』とあり、その直下に明治二二(一八八九)年四月一日に、『町村制施行に伴い、近世からの網代村が単独で自治体を形成し、賀茂郡網代村が発足する。』とあったからである。こちらのデータでは、賀茂郡網代村が発足したのは、本書刊行の三年後という訳の分からんことになってしまうからである。

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その10)~図版・注・分離公開(そのⅠ)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの左ページ。

 以下、全図七枚を今まで通り、キャプションを、総て、字起こしし、注が必要と考えた箇所では附記する。凡例・使用記号その他は、以前の仕儀に準ずる。★但し、余りにも興味深い図が多く、一方、河原田氏のキャプションの地名等に、甚だ、誤記が多いこともあり、今回は、各図版ごとに公開することとした。

 国立国会図書館デジタルコレクションの画像を最品質・最大でダウンロードし、念入りに汚れを清拭した。極めて小さな黒いドットであっても、製品としての煎海鼠、或いは、生体らしき物の本体から明らかに離れているものは、一部を除いて、全図七枚の九十五%以上は、総て、手動で消した(但し、製品に縦に入っている直線の白ノイズは、全く手を入れていない。これを黒く潰すと、本来の図の中にあった白点を消してしまうことになるからである)。実際の国立国会図書館デジタルコレクションの画像と比較して貰えば、目が覚めるような清澄な、見易いものに変じていることが納得されるであろう。今まで、画像の清拭を、多数、手掛けてきたが、これほどの出来栄えのものは、過去にはなかったと思う。実際、全図のその作業には、実に九時間ばかりかかったのである。

★さて、但し、今までのようには、図だけから、種を特定することは、殆んど出来ない。所謂、乾燥させて収縮した製品のモノクロームの煎海鼠の、特徴のない絵図のみからは、種を同定することは、私には、出来ないから、である。いや、図のみで、種まで即座に名指す人は、正直、今も昔も、そうそういない、と私は思う。ただ、キャプションの特異名や、産地で絞ることが出来る人は、いるであろう。後者の産地データでは、私は、そこに分布しない種を排除することは出来るものの、かと言って、同定までは、覚束ない。そういう意味で、「鰑」・「昆布」のようには出来ないのである。但し、その産地による種探索は、可能な限り、行うが、そもそも、本邦の現行では、

★シカクナマコ科 Stichopodidae、及び、クロナマコ科 Holothuriidae

が、食用ナマコの殆どを占めているのである。されば、実際には、

★楯手亜綱楯手目シカクナマコ科 Stichopodidae

或いは、その下位の、一般人に知られた

★マナマコ属 Apostichopus (同属は、本邦では、樺太から北海道を経て、鹿児島県種子島までが、分布域である)

或いは、

★クロナマコ科 Holothuriidae(同科は、本邦では、中部以南の浅海が分布域である)

が、素人の私の限界であろうと考えている。

 されば、私が種同定していないものの中で、それが特定出来る方があれば、是非、御教授あられたい。それは、私のためではない。今回の生物学書ではない、明治時代の本書の本文に対して行ったナマコ類の種同定は、恐らく、私の酔狂なものに過ぎず、向後、誰もやらないであろうと思うからである。未来の本書の一般の読者の方々に、より正しい情報を遺したいと私は、不遜乍ら、思うのである。

 

【図版1】

[やぶちゃん注:罫線が引かれてある【図版7】を除き、図の形状、及び、叙述から見て、最初の二行分は、上段から下段であるが、三行目以降は、大きさで右から左に並べて、下の三段に順に移っているので、その順で電子化する。但し、一製品個体の背側と腹側を右左に配したケースではセットになっているので、注意されたい。

 

Iriko1

 

「煎海鼠の圖第一」(上罫外の標題)

 

■「刺參《しじん》」

 「膽振國《いぶりのくに》

  室蘭郡《むろらんのこほり》産」

 「背」

 「腹」

[やぶちゃん注:「背」「腹」は右左の二図に対するキャプション。以下、これがあるものには、この注は示さない。

「刺參」は、(その8)で述べた通り、これは、ナマコ綱 Holothuroidea 楯手亜綱 Aspidochirotacea 楯手目 Aspidochirotida シカクナマコ科 Stichopodidaeを指す中国語である。而して、筆者が冒頭に持ってきていることからも、まず、

シカクナマコ科マナマコ属マナマコ Apostichopus armata

でよかろう。そもそも、北海道の公的な漁業関連のちゃんとしたサイト記事を見ても、単に「ナマコ」としか書かなかったり、丁寧な場合でも、「ナマコ(マナマコ)」としているほどであるからである。但し、一見した際、辺縁の背部の刺状の疣足が、細く異様に多く管のようになってツンツンしているのは、かなり、気にはなった。煮た際の温度が高かったか、乾燥が長かったものか。腹面も、管足列が全く見えないのも、同様に、内側に収縮してしまっていて、見た目、閉じてしまって見える。

 

■「海參《かいじん/なまこ》」

 「福岡縣志摩郡船越村産」

 「二分ノ一。」

[やぶちゃん注:「海參」は本文でも、以上の二様の読みを附している。形状(辺縁の背部の刺状の疣足)から見て、マナマコ Apostichopus armata でよいか。

「福岡縣志摩郡船越村」(その9)で既注済み。

「二分の一」図の実際の大きさの縮小スケールを示している。この断りは、先行する「河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 上卷(一)鰑の說(その5)――総て図版画像附・全キャプション電子化注附」の最終図版の上に、罫外に『縮寫減數ハ体長直經を以てす以下倣之』とある。]

 

■「光參《くわうじん》ノ一種 金海鼠(キンコ)」

 「宮城縣下産」

 「二分の一」

 「背」

    「同」

 「腹」

[やぶちゃん注:「光參」は、形状からも、明らかなのであるが、本文の(その8)で述べた通り、茨城県以北・北海道・サハリンに分布するナマコ綱樹手亜綱樹手目キンコ(金古・金海鼠)科キンコ属 Orange-footed sea cucumber(英名:和名なし) 亜種 Cucumaria frondosa japonica の異名である

「同」これは、単に、右の図と「同品」の意である。]

 

■「上等 海參」

 「福岡縣志摩志摩郡船越村」

       「四分《しぶ》。」

[やぶちゃん注:この図は、縦方向二行目の真ん中にある一個体なので、注意されたい。

「四分」は一・二センチメートル。右下方に、胴を横切りにした小さな見取り図があり、そこの断面図の縦方向の内径を示す直線に対する小さな図内キャプションである。]

 「目方七匁四分。長サ、三寸五分。」

[やぶちゃん注:マナマコであろう。]

 

■「十番」 「凡《およそ》、二分ノ一。」

 「北海道産」

[やぶちゃん注:図の上方の離れた位置に、くっきりとした「💧」型を引っ繰り返した、中抜け白の記号のようなものが、はっきりと見えるが、取り敢えず、汚損と採っておく(消さずに残しておいた)。

 「十番」これは番付ではなく、(その9)に出た寸法で、そこに『四寸五分內外』とあるから、十三・六センチメートル内外。以下、同じ。実際に、以下の図では、大きさが小さくなっている。以下、本図の最後まで総て、マナマコ比定で採る。

 

■「同」[やぶちゃん注:右横の図の「十番」を指す。]

 「凡、二分ノ一。」

 「諸國産。」

 

■「九番」 「凡、二分ノ一。」

 「凡、二分ノ一。」

[やぶちゃん注:これ以下、本図の最後まで産地を示さない。

「九番」は同じく(その9)に『四寸內外』とあるので、十二・一センチメートル内外。]

 

■「八番」 「凡、二分ノ一。」

[やぶちゃん注:「八番」は同じく『三寸五分內外』とある。十・六センチメートル内外。]

 

■「七番」 「二分ノ一。」

[やぶちゃん注:「七番」は同じく『三寸內外』で、九センチメートル内外。]

 

■「小七番」 「二分ノ一。」

[やぶちゃん注:「小七番」は(その9)にはない。『七番【三寸內外。】、六番【二寸五分內外。】』であったから、凡そ、七・九から八・七五センチメートル辺りか。]

 

■「六番」 「二分ノ一。」

[やぶちゃん注:以上から、七・五六センチメートル内外。]

 

■「五番」 「凡、二分ノ一。」

[やぶちゃん注:「五番」は『二寸內外』で、六・〇六センチメートル内外。]

 

■「四番」 「二分ノ一。」

[やぶちゃん注:「四番」は『一寸五分內外。』で、四・五五センチメートル内外。]

 

■「三番」 「二分ノ一。」

[やぶちゃん注:「三番は『一寸餘』で、四・四から三・一センチメートル以下か。]

 

■「二番」 「二分ノ一。」

[やぶちゃん注:「二番」は『一寸』であるから、三・〇三センチメートル。]

 

■「一番」 「二分ノ一。」

[やぶちゃん注:「一番」は一寸以内で、三・〇二センチメートル以下。]

 

■「無番」「疵付《きずつき》。」

[やぶちゃん注:描かれた製品個体は「七番」ほどの大きさであるが、頭部と後部で波型に捩じれている上、頭部の背面に匙状の白線が描かれている。これは、恐らく背部の表面が剝がれて内臓空間まで穴が開(あ)いているのであろう。更に、後部の左部分に「コ」の字型の大きな有意に欠損もある。個人的には、安い値段で売られるのだろうが、大きさから見て、多分、旨いはず。私なら、ホクホク顔で、買うね!

 

■「同」 「ヨレコ」

[やぶちゃん注:前のものより、一回り、小さく、前の図とほぼ同じような捩じりがある。この「ヨレコ」は「撚熬海鼠(よれこ)」で、そうした、捩じれの生じた不良品を、かく、呼称しているものと見える。僕なら、これも「買い」だね!]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說の図版電子化注に就いて

煎海鼠の図版が面白過ぎて、注がどんどん増えるため、今までの本書の電子化注と異なり、部分部分で公開することにした。しかし、午前中、屋根の雨樋の詰りを、命綱をつけて除去したため、公開開始は、午後とする。今、暫く、お待ちあれかし――

2025/10/27

昨日夕刻に俳優の佐野史郎さまから小泉八雲関連のメールを頂戴した件について

 

ナマコの清拭を行なって、一段落着き、夕食の手伝いをするためにネットを切ろうとした際、なんと!

かの俳優の佐野史郎さまからのメールが届いており、吃驚仰天した。

ざっと読むと、佐野さんが、『小泉セツ著「思ひ出の記」や、小泉八雲作品で構成した

「小泉八雲朗読のしらべ〜セツが語ったへルンの怪談〜」


を、十一月十六日に、島根県松江市のプラバホールにて、十二月十二日に東京都北区の「北とぴあ つつじホール」で上演するに当たって、
解説文を観客の方々に配布予定されておられ、その中で、

『「やぶられた約束」の解説に、ぜひ、そちらのブログの記載の引用をお願いできればと、ご連絡させていただきました。』

という内容が記されてあり、解説の原稿を添付なさり、『ご検討のほど、何卒、よろしくお願い申し上げます。』と記されてあったのである。

私は夕食で酒を飲んでいたので、今朝、未明、佐野さまに、許諾のよしを含め、佐野さまが主人公を演じられた、私の好きなラヴ・クラフトの「インスマスの影」をインスパイアした、小中千昭(この方も私の好きな脚本家である)作の「蔭洲升を覆う影」をテレビ・ドラマにした、その主人公を演じられたのを、非常に面白く観たこと、また、私と同じ世代(佐野さまは私より二年年上)で、『ウルトラ第一世代』であり、私が尊敬して止まない、円谷プロで脚本を執筆した、沖縄出身の金城哲夫氏のドキュメント番組でエスコート役をされて、素晴らしかったこと等を書いて、申し入れを快諾したのであった。

先ほど、丁寧な返信を頂戴した。と、言うより、甚だ、恐縮したのであった。

その解説原稿では、まさに、先月末、「やぶられた約束」の原拠を指示されたメールを下った、怪談・妖怪の学術研究をされておられる文化人類学者・民俗学者で、国際日本文化研究センター名誉教授の小松和彦先生のお名前があり、そこに続けて、私が以前に電子化注していた、
諸國百物語卷之二 九 豐後の國何がしの女ばう死骸を漆にて塗りたる事」を、私のブログ名と、私の姓名を附してあったのである。

私の、先般、正字不全を補正した、

「小泉八雲 破約  (田部隆次譯)」

を見られたいが、正直言うと、私が暴虎馮河で小泉八雲の英文を訳した、

サイト版「破られし約束」 小泉八雲原作 藪野直史現代語訳(別に、英文原文と、拙訳の縦書版も作製してある)

を、憚り乍ら、お薦めしたいのである。特に冒頭の私の注で、作品中に出る亡くなった女性の戒名の、諸翻訳家の訳に対する不信は、私が秘かに自負している物言いなのである。

最後に、佐野史郎さまの、ますますのご活躍を、心より、願って、終わりとする。

2025/10/25

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その9)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。]

 

煎海鼠(いりこ)は、產地によりて、品位を異(こと)にすと雖も、第一ハ、製造[やぶちゃん注:ここに読点があるが、無視した。]の良否に關するもの、多し。刺參(しじん)は、肉刺(にくし)の長短、銳鈍(えいどん)、形狀、色澤(しよくたく)の美惡(びあく)、等(とう)、皆、製造の如何に由(よ)らざるは、なし。從來、劣視(れつし)せられし筑前產も、同國志摩郡(しまこほり)船越村(ふなこしむら)、高武喜三郞が、十六年、『水產博覽會』に出品せしものは、後志產(しりべしさん)と價(あたひ)を同(おなじ)ふするに至れり。是、皆、舊製を改良したる、其の結果に、よれり。南北數百里を隔ちて、產地の性質、彼是(かれこれ)、異(こと)なるも、製造の改良に由(より)て、品位・價額(かかく)を均(しとし[やぶちゃん注:ママ。「ひとし」。])ふする、此(かく)の如し。茲(ここ)に由(よつ)て、之を見れば、製造の改良は、目今(もくこん)の急務にして、苟(いやしく)も、水產經濟に志(こヽろざし)するものは、壹(あに)默止(もくし)すべけんや。

[やぶちゃん注:「同國志摩郡(しまこほり)船越村(ふなこしむら)」この村名は旧村名では、「ふなごしむら」が正しい。ウィキの「船越村(福岡県)」を見よ。但し、現行は「ふなこし」と清音である。現在の福岡県糸島市志摩船越(しまふなこし)で、ここ

「高武喜三郞」姓の読みは不明。「こうたけ/たかたけ/こうむ」の読みがある。

「均(しとし)」これ、誤植の可能性もあるが、或いは、うっかり、江戸弁(河原田氏は陸奥国会津郡宮沢村(現在の福島県南会津町)生まれであるが、ずっと関東で仕事を行なっている)で、かく振ってしまった可能性もある。]

 

海鼠を捕獲するは、網罟(もうこ/あみ[やぶちゃん注:右ルビはママ。])、及び、鈎(かぎ)にして、其種類、凡(およそ)、十餘種あり。網に、爬網(かぎあみ)、欓網(さであみ)の二《ふたつ》あり。鈎にて、衡(つ)[やぶちゃん注:漢字はママ。「衝」の誤字。]きとるものは、疵傷(きづ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])つきて、品位を害せり。沖にて捕るは、爬網にして、其使用は、網を、船に附けて、船を走らす。又、海底の石に着(つけ[やぶちゃん注:ママ。「つき」とすべきところ。])たるものを捕るには、魚油(うをのあぶら)を水面に滴(た)らし、塵埃(ちりあくた)を開かせ、水面(すいめん)を明(あき)らかにし、以て、欓網にて、とる。但し、其巧拙(かうせつ)によりて、收額(しうかく[やぶちゃん注:ママ。])の多少、あり。

[やぶちゃん注:「爬網(かぎあみ)」船の上から、長い柄を持った鉤(かぎ)を用いて、海底にいるナマコを箱眼鏡で視認しつつ、引っ掛けて引き上げる「ナマコ鉤漁法」を指す。

「欓網(さであみ)」「欓」の漢語は、歴史的仮名遣「タウ」・現代仮名遣「トウ」で、「木製の木桶(きおけ)」の意味しかないので、誤字と思ったが、小学館「日本大百科全書」の「さで網」に拠れば、『袋状の網地の網口を三角形や四角形の枠に装着し、柄をつけた小規模な漁具である。ナイロン製の網目の小さい網地や綟子(もじ)網が用いられている。設置した柴(しば)や篠(しの)の束に潜む小エビや、水面近くに集まっている小魚や小エビをすくいとる』「さで網」『(叉手網)、シラウオさでなどの抄網(すくいあみ)類と、網の上に水流により、または駆具(くぐ)によって集められた魚や小エビを』、『すくいとる羽川(はねかわ)網、ウナギさで、コイさで、フナさで、ワカサギさでなどの』、『さで網、鵜縄(うなわ)網、歩行(かち)網などの敷網類とに漁法上から分けられるが、形状は』、『ほとんど変わらない。さで網は、補助漁具として主漁具と併用されることもある。また、たも網は』、『地方によって』、『さで網』、『あるいは』、『攩(たま)とよばれている』(太字は私が附した)とあったので、この漢字が使われていることが確認出来た。所謂、網で作ったものが、ナマコを入れやすく寸胴の桶状に作るからであろう。

 

冬季の海鼠は、色、美にして、鮮食(なまくひ)に適するも、春季ハ、赤色(せきしよく)を帶び、鮮食に、よろしからず。夏季に至れば、肉、瘦せて、愈(いよいよ)、下直(やすね)となる。冬・春のものは、煎海鼠(なまこ)[やぶちゃん注:「煎」はママ。誤字。以下との対語であるから、「生海鼠」がよい。因みに、東洋文庫版の編者注でも、この部分を不審として、『文意から判断すると、未加工の「(生)海鼠」を指していると考えられる。』とある。]、十貫目(め)にて、煎海鼠(いりこ)三百五十目を得るも、夏季は二百六十目內外にして、其形(かたち[やぶちゃん注:ママ。])ち、三分一、或は五分一に減(げん)ぜり。

 

德川時代には海鼠の捕獲に、法則あり。各浦に定規(ていき)あり。春の彼岸より、秋の彼岸まで捕獲し、或は小きを捕ふるを禁じたる場所あり。春の彼岸に、長さ一寸、量(りやう)八分の海鼠は、秋の彼岸に至れば、長さ四、五寸、量八、九匁に至れり。春時(しゆんじ)、小なるもの、二百個(か)にして、僅(わづか)に一斤の量あるも、秋時の大なるものは、二十個にして一斤となり、小形、百斤の價は、三、四圓なるも、大形、百斤は三拾四圓にして、彼是(かれこれ)、比較すれば、秋時の價は、春時の二十倍に至る。價格の差も亦、大ならずや。

 

元來、淸國の貿易たる其創(そのはじめ)の唐物藥品(とふぶつ[やぶちゃん注:ルビの汚損があるが、まず、ママ。後の「とふぶつ」のルビも同じ。]やくひん)を、我に需(もと)むるの目的にて、我(わが)物產輸出を主眼となしたるには、あらざりしと雖も、德川時代、年々(としとし[やぶちゃん注:後の「とし」は底本では、踊り字「〱」。])、唐物(とふぶつ)の需用、多額に登るを以て、天明元年[やぶちゃん注:一七八一年。家治の治世。]、五番船持渡(ごばんせんもちわたし)の唐物(とふぶつ)代(かは)り物(もの)として、昆布を渡し、安永九年、十三番船唐物代(とふぶつだい)銀百五貫目の代り物に、煎海鼠を渡したりしことを「經濟祕書」に載せ、又「評定所覺書」に、往古(わうこ)より、銀子(ぎんす)を以て仕來(しきた)りしも、自今、半額は、品物を以てす可きことを、のせたり。當時は、煎海鼠を大番・中番・小番の三段(たん)に分(わか)ちしが、爾來、俵物役所(たわらものやくしよ[やぶちゃん注:ママ。])なるものを設けて、專ら、金貨の濫出を豫防し、物產を以て、唐物(とふぶつ)に代(かは)らしむること〻なり、我物產の等差(とうさ)を、細別(さいべつ)するに至り、煎海鼠を、十番に分ち、又、番中(ばんちう)にも、頂(てう[やぶちゃん注:ママ。])、大、中、小の區別あり。其(その)番立(ばんだて)は、左の如し。

 

(寸法)十番【四寸五分內外。】、九番【四寸內外。】、八番【三寸五分內外。】、七番【三寸內外。】、六番【二寸五分內外。】、五番【二寸內外。】、四番【一寸五分內外。】、三番【一寸餘。】、二番【一寸。】一番【一寸以內。】。(員數法)十番【一斤に付《つき》、拾五以上、三百六十迄の程合《ほどあひ》、平均六十五粒。】、九番【仝《どう》、八つ以上、五十五迄。仝斷《どうだん》、四十五粒。】、八番【仝、八つ以上、七十迄。仝斷、五十五粒。】、七番【仝《どう》、大《だい》、六十五より、八十五迄。小《しやう》、三百六十迄。仝斷、百五粒。】、六番【仝、九十以上、百五十迄。仝斷、百粒。】、五番【仝、百以上、二百迄。仝斷、百三十粒。】、四番【仝、二百以上、三百迄。仝斷、二百五十粒。】、三番【仝、百以上、仝斷、三百六十粒。】、二番【仝、四百以上、八百五十迄。仝斷、五百粒】、一番【千二百粒以上。】。

 

槪(おほむ)ね、右の如しと雖も、十番は、松前蝦夷地出產(しゆつさん)を本体[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]とし、形の大小あるも、肉刺(はり[やぶちゃん注:二字へのルビ。])、鮮(あざやか)、銳(するどく)なるを、此番に定め、津輕、南部、仙臺の內、上品の分を加へ、諸國出產の內にも、刺立(いらたで)、北海道產に似たるものは、組入(くみいれ)、九番は、津輕南部產、大小を本体として、諸國出產の內、形、大にして、刺立、宜(よろ)しきを、組入(くみいれ)、八番ハ、諸國出產の內、形、大きなるを、大・中、交(まぢ)へ、刺立に拘(かヽ)はらず、此番に組入(くみいれ)る。七番は、諸國出產の內、剌立あるもの〻中(うち)、小形を交(まじ)へ、此(この)番とす。尤(もつとも)、大形(おほがた)の分(ぶん)は、九番は組入れ、小形にても、刺立、宜しきは、『小七《しやうしち》』と唱へて、此番に加ふ。六番より二番までは、大小、次第に撰分(ゑりわ)け、大を、六番に定め、五番、四番、三番と撰下(ゑるさ)げ、小を、二番と定め、一番は、諸國出產の內、至(いたつ)て小(ちいさ)く、二番にも成らす[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]、壹粒(《いち》りう)の量、壹分四、五厘程のものを、此番に定む。無番は、疵物(きずもの)等(とう)[やぶちゃん注:「疵」は底本では「庇」であるが、誤植と断じて、特異的に訂した。]、番立(ばんだて)に加へざるものにて、「よれ」・「ちぎれ」の、二品、とす。「よれ」は、煮直(になを)して、番立に加へ、「ちぎれ」・砂食(すなくひ)等(とう)は、無番とす。

 

前條の番立は、長崎俵物方に於て取扱ひたる德川時代の慣行(くわんかう)たり。維新以來、舊法、廢(すた)れ、新法、立(たヽ)ざるに乘(じやう)じ、新業(しんぎやう)の商家(しやうか)、輩出し、番立の法も亦、一定せざるが如き有樣となりたり。而して、現今、上海(シヤウンハイ)に於ては、大・中・小の三等に分(わけ)て、喩(たちへ)ば、『大の九番』、『中の九番』、『小の九番』、と云ひ、其(その)、最も大なるを頂大(てうだい[やぶちゃん注:ママ。])とす。且(かつ)、其番號區分あるも、每俵(たはらごと[やぶちゃん注:二字へのルビ。])、內《うち》に、大、中、小、入交(いりまじ)りあるにより、是等は、見込(みこみ)を以て、賣買せり。面して、價額(かかく[やぶちゃん注:ママ。])の等數(とうすう)は、十番【七十圓。】、九番【六十五圓。】、八番【六十圓。】、七番【五十三圓。】、六番【四十五圓。】、五番【三十三圓。】、四番【二十圓。】、三番【九圓。】、二番【六圓。】、一番【三圓。】と云《いふ》か[やぶちゃん注:ママ。]如し。

 

本邦産煎海鼠(いりこ)ハ、年々(としとし)、淸國の販路を廣め、明治元年は、十五萬三千六百十二斤。此(この)代價、五萬四千拾圓餘(よ)なりしか[やぶちゃん注:ママ。「が」。]、年々(ねんねん)、增進して、十七年には、一ケ年に、六十二萬六千八百八十二斤、此價(あたひ)、拾五萬千五百六拾五圓の多きに至れり。右を輸出するは、函館、橫濱、神戶、長崎の四港より、之(これ)を、上海、香港(ホンコン)等に輸送し、夫(それ)より。各地に分輸せり。但し、從前、琉球より輸出せしものは、直輸(ちよくゆ)、出(いだ)せり。而して、之を分輸する地方は、左の如し。

 

大九番・小十番 十分の四〇〇 直隸省(ちよくれいしやう) 十分の二五〇 山西省 江蘇省 十分の一〇〇 山東省

大十番・小十番 十分の五〇 直隸省 十分の四〇〇 四川省 十分の三〇〇 江西省 十分の五〇 山西省 八、七、六、五番 直隸省 福建省 江西省 江蘇省 浙江省 山東省 安徽省 浙江省 湖南省 湖北省 雲南省 廣東省 此他(このた)、各省一般

三番・二番 十分の四〇〇 江蘇省 十分の二〇 福建省 十分の四〇〇 浙江省等(とう)なり。

 

近年、其輸出額を增したるも、未だ、淸國內部の需用は、普(あまね)からずして、益(ますます)、增進せんとす。而して、元來、淸國には『八饌《はつせん》』とて、大小海味八種を用ふる事、あり。即ち、煎海鼠は、大海味(だいかいみ)の一《いつ》にして、數種(すうしゆ)の割烹となして、客饌饗應(きやくさかなごちさう)に用(もちひ)て、敬意(うやまい[やぶちゃん注:ママ。])を表(ひやう)し、且(かち)、四川地方の『五色(ごしき)の菜(さい)』の一《いち》にして、其《その》愛《あい》、深く、其需用、甚だ、廣し。

[やぶちゃん注:「八饌」「百度百科」の「珍饌」には、『「珍」の本来の意味は、「真珠」や「玉(ぎょく)」を指し、後に、「高級な食べ物」という意味に広がった。古く「周禮」(しゅうらい)にも、『珍用八物』(八つの貴重な食材を使う)という八つの貴重な食材が挙げられている。また、「饌」は「料理を並べること」を指し、「論語」には「有盛饌」(盛大な宴(うたげ)が有る)という表現がある。この二つの文字を組み合わせた「珍饌」は「特に珍しく貴重な珍味」を指し、宴会の描写でも、よく用いられる。「漢語詞典」でが、「貴重な食べ物」と定義されており、標準中国語となっている』とある。

「四川地方の『五色(ごしき)の菜(さい)』」不思議に日中ともに、ズバリ! という「五色菜」の記載がない。ウィキの「五味」の「四川料理」の項を引いて、お茶を濁しておく。『四川料理においては』、『一般的に以下の五味が基本とされている。これらに苦み、香味を加えて七味が四川料理の基本とする説もある』。①『山椒の痺れるような味 - 麻』、②『辛味 - 辣(唐辛子に限定しない)』、③『甘味 - 甜』、④『塩味 - 鹹』、⑤『酸味 - 酸』である。あー、つまらん……]

 

以上、說く所によれば、此販路は、漸次、益(ますます)、進んで、需用を擴(ひろ)むるや、疑(うたがひ)を容(い)れざる所なり。故に、漁季を定(さだめ)て、海鼠(なまこ)を成長せしめ、漁具・漁法を改良して、捕𫉬を多からしめ、製法を精良(せいりやう)にし、荷造(にぜう)を改良し、販賣を確實にして、信用を厚からしめ、勤めて、增益を圖るべし。

 

夫れ、海鼠は、多肢類(たしるい[やぶちゃん注:ママ。])、芒刺虫(はうしちう)、沙潠部(しやせんぶ)の下等動物なれば、蕃殖・成長、共に甚(はなはだ)、速(すみや)かにして七ケ月間に、四倍以上に成長し、畜養の大利ある他(た)の魚介の及ぶ所に、非らず。故に、栅(さく)を結び、石を積んて[やぶちゃん注:ママ。]、區域を畫(くわく)し、畜養塲(ちくよじやう[やぶちゃん注:ママ。])を設くる如きは、本邦、已に、周防國(すはうのくに)都濃郡(つのこほり)福川村(ふくかはむら)、佐伯(さいき)古五郞等(とう)の實地經驗の、ある、あり。尙、進んで、人工煤助(ばいじよ)を施し、大(おほひ)に增殖を圖るが如きに進步あらんことを、希望の至りに堪(たへ)ざるなり。

[やぶちゃん注:「周防國(すはうのくに)都濃郡(つのこほり)福川村(ふくかはむら)」正しくは、旧山口県都濃郡(つのぐん)福川村(ふくがはそん)。現在の周南市の南東部、山陽本線・福川駅の周辺に当たる。ここ

「佐伯(さいき)古五郞」不詳。

 これを以って、「煎海鼠の說」の本文は終わっている。以下、七図版を残すのみである。

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その8)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。]

 

煎海鼠(いりこ)の產地は、近年、大(おほい)に區域を廣め、方今(はうこん)、產出の國を擧ぐれば、志摩、尾張、三河、相摸、武薩、陸前、陸中、陸奧(むつおく)、若狹、能登、佐渡、渡島(をしま)、後志(しりべし)、膽振(いぶり)、石狩、天䀋(てしほ)、北見、十勝、日高、釧路、根室、千島、播磨、備前、安藝、周防(すはう)、長門、丹後、伯耆(はうき)、出雲、紀伊、阿波、土佐、讃岐[やぶちゃん注:底本は「讀岐」となっているが、誤植と断じ、特異的に訂した。]、伊豫、豐後、豐前、筑前、肥前、肥後、壹岐(いつき[やぶちゃん注:ママ。「古事記」に、既に「伊伎島(いきのしま)」と書かれているので、誤りである。])、薩摩、大隅、琉球の四十四ケ國(こく)にして其產額、百八十八萬二千四百四十六斤、此價(このあたひ)、三拾六萬三千七百五拾八圓餘なり。其中(そのうち)に就(つい)て、一ケ年、千斤以上五千斤以下を產出するは、武藏、相摸、伊勢、三河、陸中、佐渡、隱岐、備前、讚岐、豐後、肥後、壹岐、對馬、膽振の十四國、五千斤以上、壹萬斤以下は、尾張、陸奧、日向(ひうが)の三國、壹萬斤以上は、志摩、陸前、若狹、能登、安藝、周防、伊豫、肥前、石狩、北見、渡島の十一國とす。而して、五萬斤以上は、後志、天䀋の二國にして、其品質も、遠く諸國の上にあり。是等の諸國に產するものは、槪ね、『剌參(しじん)』にして、琉球產の海參(かいじん)ハ、肉刺(にくし)、なく、眞(まこと)の『光參(かうじん)』なるものにして、從來、年々、三、四萬斤を製して、淸國に輸出し、尙(な)を[やぶちゃん注:ママ。]、明治七年に至りても、壹萬八千七百六十斤を輸出せり。而して、其品(そのしな)に數種(すうしゆ)あり。『ちりめん』・『しびー』・『ぞうりげた[やぶちゃん注:ママ。]』・『くらうそう』・『しろうそう』・『かずまる』・『はねぢいりこ』・『しなふやし』・『めーはやー』・『なんふう』等なり。且つ、其品位、上好(じやうこう)[やぶちゃん注:「最上」に同じ。]、其價(そのあたひ)、甚(はなはだ)、高し。其中(そのうち)、『かずまる』と稱するものは、淸國にて『開片梅花參(かいへんばいくわじん)』と稱する上好のものなり。又、縮緬(ちりめん)は、百斤の淸貨(せいか)[やぶちゃん注:既に述べた通り、本書では「淸」を一貫して「せい」と読んでいる。『清(しん)国での貨幣で』の意。]百四拾兩、其他も、上品(じやうひん)五拾兩、中品四拾三兩、下品三十五兩の高價(かうか)なりし。

[やぶちゃん注:「剌參(しじん)」これは、ナマコ綱 Holothuroidea楯手亜綱 Aspidochirotacea 楯手目 Aspidochirotida シカクナマコ科 Stichopodidae を指す中国語である。「維基百科」の「刺參科」を見よ。所持する西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」(平成七(一九九五)年保育社刊)の「シカクナマコ科(改称)」「Stichopodidae Haeckel, 1896」に拠れば、『体壁は通常厚く, 腹面はやや平らで, 背面は丸い. 腹側面および背面の歩帯に並ぶ疣足は一般に大きい. 世界から7属が知られるが, わが国には47種がを産する. これまでStichopus に対して和名マナマコ属が使われていたが,  Apostichopus armata Selenka を模式種とする Apostichopus Liao (1980)  によって創設されたので、Apostichopusの和名をシカクナマコ属に変更する. それにともない、科称もシカクナマコ科に変更する. 』とある。なお、 オキナマコ属 Parastichopus H. L. Clark, 1922 オキナマコ Parastichopus nigripunctatus は、マナマコ属に移っているようで、また、マナマコ属は、現在は以下の通り、Apostichopus Liao, 1986 に更新されている。しかも、種も激しく増加している。「BISMaL」(最新版)その他によれば、以下である(現在、和名未設定のものも、多数、ある)。

   *

 バイカナマコ(梅花海鼠:中国語:梅花參)属Thelenota Brandt, 1835 

 バイカナマコ Thelenota ananas Jäger, 1833

 アデヤカバイカナマコ Thelenota anax H. L. Clark, 1921

 Thelenota rubralineata Massin & Lane, 1991

シカクナマコ属Stichopus Brandt, 1835 

 シカクナマコ Stichopus chloronotus Brandt, 1835

 ヨコスジオオナマコ Stichopus herrmanni Semper, 1868

 オニイボナマコ Stichopus horrens Selenka, 1867

 アカオニナマコ Stichopus naso Semper, 1868

 Stichopus noctivagus Cherbonnier, 1980

Stichopus ocellatus Massin, Zulfigar, Hwai, Boss, 2002

 ムチイボナマコStichopus pseudohorrens Cherbonnier, 1967

 Stichopus quadrifasciatus Massin, 1999

 Stichopus rubermaculosus Massin, Zulfigar, Hwai, Boss, 2002

 タマナマコ Stichopus variegatus Semper, 1868

 Stichopus vastus Sluiter, 1887

マナマコ属Apostichopus Liao, 1986 

  マナマコApostichopus armata Selenka, 1867

  アカナマコ Apostichopus japonicus Selenka, 1867

 トゲオキナマコApostichopus multidentis Imaoka, 1991

 オキナマコ Apostichopus nigripunctatus Augustin, 1908

   *

数えてみると、三十年で、四種(オキナマコ属 Parastichopus H. L. Clark, 1922 の属名は「BISMaL」では、属としては生きているものの、種記載は、ない。“WoRMS”の“ Parastichopus Clark, 1922 ”を見ると、Parastichopus regalis Cuvier, 1817と、 Parastichopus tremulus (Gunnerus, 1767) の二種が記されてあるが、命名年を見れば判る通り、古過ぎ、鈴木雅大氏の「生きもの好きの語る自然誌」の「オキナマコ Apostichopus nigripunctatusのページを見ると、「Homotypic synonym」「Parastichopus nigripunctatus  (Angustin, 1908)とあるので、実質は三属である)十八種で、十一種も増えている。

「眞(まこと)の『光參(かうじん)』」本邦では、「光参」というのは、沖縄には分布しない、茨城県以北・北海道・サハリンに分布するナマコ綱樹手亜綱樹手目キンコ(金古・金海鼠)科キンコ属 Orange-footed sea cucumber 亜種 Cucumaria frondosa japonica の異名である(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見よ)。『或いは、河原田氏は中国語風に「光り輝く最高の海鼠」の意味で使ったものか?』と当初は思ったが、幸いにして、「九州大学附属図書館」公式サイトのここで、大島廣先生の論文「沖繩地方產食用海鼠の種類及び學名」(『九州帝國大學農學部學藝雜誌』昭和一〇(一九三五)年二月発行所収・PDF)を入手出来たので、参考にさせて戴いたところ、まさに、大島先生は初めの方で、本書のこの部分を引用されていた! 而して、以下、読んでみたところ、『亜屬 Bohadschia JAEGER, PEARSON』『5. Holothuria ( Bohadschia ) marmorata (JAEGER)』(これは、楯手目クロナマコ科ジャノメナマコ属チズナマコ Bohadschia marmorata  である。和名は背面の模様から「地図海鼠」であろうと推定する。画像は「しかたに自然案内」のブログ「あ〜まん海歩記 海を伝える」「なまこづくし:その弐」を見られたい)の項の終わり箇所に(割注した読みは、現代仮名遣を用いた。下線は私が附した)、

   《引用開始》

 本種はセイシェルからタヒチに, 北は大島・沖縄に及び南はクヰンスランドに亘つて[やぶちゃん注:「わたって」。]分布する。箕作[やぶちゃん注:「日本動物学会」を結成し、三崎臨海実験所を設立した海産動物の碩学であられる箕作佳吉(みつくりかきち)先生。]博士は奄美大島蘇苅[やぶちゃん注:「おかる」。], 沖縄島自謝加瀨[やぶちゃん注:「じじゃかびせ」。]・喜屋武(きやん)崎・知念崎・糸満等で本種を採集されたが, 筆者等も八重山諸島の珊瑚礁で屢々これを見た。箕作博士によれば奄美大島ではアヤミシキリ, 沖縄でメハヤー(目羽屋)と云ふ由, 八重山では訛つてミハヤーと云ふ。蓋しアヤミは綾目で美しい紋樣を意味するのである。なほ八重山でミーピカラー卽ち目光ると云ふ意味の名ある海鼠があると聞いたがこれも本種のことかと思ふ。蘭領印度[やぶちゃん注:現在のインドネシア。]では tripang oelarmata 及び t. patola の名があるが oelarmata は蛇の眼と云ふ意味である。本種の學名 argus を始めこれら諸地方の名稱はかの眼様紋に因んだ名であること勿論で, この他なほ豹魚・虎魚・斑魚等の意味で呼ばれることがあり, 筆者も和名としてジャノメナマコと呼んで居る。製品(第2圖)は沖縄で100斤の價17圓(箕作),八重山で15圓(照屋),南洋では1ピクルの價25グルデンすると云ふ。

   《引用終了》

以上の下線部で、「光參」とは、このチズナマコのことで間違いない。

「其品(そのしな)に數種(すうしゆ)あり」「品」とあるのだから、これは種だけではなく、ナマコ類の複数の沖縄に於けるナマコの別名、及び、製品呼称が混淆したものである。次の注を見よ。

「ちりめん」後に出る「縮緬」。大島先生の上記論文の『12. Holothuria ( Actinopyga ) echinites  (JAEGER)』(これは、楯手目クロナマコ科クリイロナマコ(栗色海鼠)属トゲクリイロナマコ Actinopyga echinites である)に(下線・太字は私が附した)

   《引用開始》

背面暗褐色, 腹面やゝ淡き褐色。皮膚の骨片は甚だしく分岐した稈状體と小形の花紋樣體との2種で,両者の間に移行型が見られる。分布はザンヂバル[やぶちゃん注:東アフリカの島。ここ。]からフィジー, 沖繩からクヰンスランド[やぶちゃん注:クイーンズランド。]に至る。箕作博士は那覇港外先原(さきばる)[やぶちゃん注:「ひなたGIS」の戦前の地図で「先原先燈台」を見つけた。ここ。]で本種を採集された。

 製品は H. miliaris [やぶちゃん注:クロナマコ科クリイロナマコ属チリメンナマコ(縮緬海鼠) Actinopyga miliaris である。と共にチリメンと呼ばれるが, 蘭領印度でも同様の混同があり, tripangkasik, t. koro などと呼ばれ, トルレス海峡地方[やぶちゃん注:]でも H. mauritiana [やぶちゃん注:これは、現在のクリイロナマコ Actinopyga mauritiana である。]と共に紅靴と, また miliaris と混同して烏参と呼ばれる。

   《引用終了》

トゲクリイロナマコの画像は、簡単な解説附きの「公益財団法人 黒潮生物研究所」の「トゲクリイロナマコ」を、クリイロナマコのそれは、「粟国アーカイブズ」の「クリイロナマコ(くりいろなまこ)」を見られたい(「粟国」は「あぐに」と読む。沖縄県島尻(しまじに)郡にある粟国島、粟国村(あぐにそん)である)。チリメンナマコは邦文サイトでは、目ぼしい画像がないので、英文ウィキ“ Actinopyga miliaris ”の画像をリンクしておく。

「しびー」は、沖縄方言では「小便」の意である。ナマコ類は海中から採り上げた際、体内の海水を吹き出すので、「ナマコ」の異名としては、私には、よく納得される。特定のナマコを指すのかも知れないが、判らない。御存知の方は、御教授を乞うものである。

「ぞうりげた」同じく大島先生の論文『11. Holothuria ( Actinofiyga ) mauritiana ( Quoy et GAIMARD )』に、

   《引用開始》

 長35cmに達する。 通常はオリーヴ褐色乃至琥珀色の地に疵足の基部を白斑が圍んでゐる。これらの褐色部と白色部との擴がりの比率に著しい変異がある。腹面は淡ピンク色。背面の骨片は多くの短い側枝を有する稈狀體と, 短い花紋様體。腹面では鋸齒狀の緣を有する太い稈狀體と, 多數重なり合つた橢圓[やぶちゃん注:「楕円」の正字。]形板狀の小體とである。分布は極めて廣く, 西はモザンビク及び紅海, 東はハワイ・マアケサス[やぶちゃん注:マルキーズ諸島。マルケサス諸島とも呼ぶ(フランス語:îles Marquises、英語:Marquesas Islands)。ここ。]及びパウモツ[やぶちゃん注:パウモトゥ諸島(Paumotu)=トゥアモトゥ諸島(Tuamotus)。南太平洋のフランス領ポリネシア中部の島群。ここ。]の諸群島, 北は沖繩, 南はフィジー群島に及ぶ。箕作博士は那覇伊那武瀨(いなんぜ)[やぶちゃん注:現在の沖縄県浦添市一丁目伊奈武瀬(いなん)。ここ。]產の標本の外に尖閣群島の黃尾島[やぶちゃん注:沖縄県石垣市久場島(くばしま)。先島諸島の島民たちは「クバシマ」と呼び、別名は「黄尾嶼」(こうびしょ)。日本が領有・実効支配し、中華人民共和国と中華民国が領有権を主張している。ここ。]の産(宮島幹之助博士採集)をも檢して居られる。

 本種の製品(第6圖)は沖縄でも八重山でもザウリ或はザウリゲタ(鞋海參)と呼ぶが,メナドではtripang goela, トルレス海峽地方では紅靴(red fish)の名を與へてゐると云ふ。八重山でアカスクルと云ふはこの種を指すのかと思ふ。價格は100斤につき沖繩で60-70圓(箕作), 八重山で35圓。上之中の品だと云ふ。

   《引用終了》

とあった。Holothuria ( Actinofiyga ) mauritiana は、前掲のクリイロナマコ Actinopyga mauritiana である

「くらうそう」「しろうそう」不詳。識者の御教授を乞う。ただ、この二種は並置されており、どうも「黒」と「白」のニュアンスがある。さすれば、(その2)で注した、『「白海參(はくかいじん)」クロナマコ亜属 Holothuria fuscogilva(和名なし。インド太平洋の島嶼付近やサンゴ礁周辺の浅瀬に棲息する。なお、本邦の函館・浅虫・佐渡真野湾、及び、中国に棲息する隠足目ウディナ科 Caudinidae シロナマコ属シロナマコ Paracaudina chilensis とは、全くの別種であるので注意)。』と、『「紅旗參(かうきじん)」中文の複数の記載を見て、シカクナマコ科マナマコ属アカナマコ Apostichopus japonicus であろうと判断出来る。』と、強い通性を感じはする。

「かずまる」(その2)の「開片梅花參(かいへんばいかじん)」の注で、現地の樹木ガジュマル由来の、ナマコ類の乾製品の沖縄地方で「ガジマル」とあったのと、著しい親和性を感じる。

「はねぢいりこ」これは、一見、製品名のように感じてしまうが、そうではなく、クロナマコ属ハネジナマコHolothuria ( Metriatyla ) scabra である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページに、「漢字・学名由来」に、『羽地海鼠』とあり、「由来・語源」に『沖縄本島の羽地村(現名護市羽地)にちなむ。』とある。羽地村(はねじそん)は、この附近の旧村名である。「基本情報」に『海参に加工する。沖縄県では輸出用に採取している』とし、『「海参(いりこ)」、干しナマコとしての名は「禿参」』とあった。

「しなふやし」(その3)で紹介した、前川喬氏の調査記事「琉球沿岸に産するナマコについて」(調査機関一九六四年十月二十日から同二十五日まで・実施場所は島尻郡『伊是名村沿岸』(村名は「いぜなそん」と読む。沖縄本島北方約三十五キロメートルに位置する島嶼である。ここ):PDF)が非常に役立った。前川氏に感謝申し上げる。さて、「1. ナマコの棲息状況」の項の棲息種の二つ目に(字配は再現していない)、

   《引用開始》

〇ふたすじナマコ(シナフヤー)

この種も低潮線付近の砂泥地帯に棲息し伊是名村沿岸に最も多い種である。体長は30㎝内外で全身は無地のもの、淡黄褐色のものもあるが、通常は無地のものに濃褐色の幅広い横帯が体の前部と後部に各一条あつて独特の外観を呈している。腹部は白色を呈しキュウグエイ氏器官を出す。

種名の「ふたすじ」は体色にちなんだものではなかろうか。

   《引用終了》

表記に若干の違いがあるが、同一と考えてよい。

クロナマコ科ジャノメナマコ属フタスジナマコ(二筋海鼠)Bohadschia bivittate

である。先の本川先生の「ナマコガイドブック」から引くと、『チズナマコ』(クロナマコ科ジャノメナマコ属チズナマコ Bohadschia marmorata  )『と酷似するが、本種では体前部と体後部に濃い褐色の模様がある。体色は全体に前種より淡く、背面はいっそう淡く、疣足を除いてほとんど白い。しかし、ジャノメナマコ属は一般に色彩変異が大きいので、全体の色調によって区別することはできないかもしれない。現時点では、前種との区別は体前部ち体後部にある褐色の模様によるのみ。沖縄の浅海に生息する。近似種 B. marmorata  jaeger, 1833 は、背面の花紋状体が本種よりやや単純。沖縄産。』とある。因みに、『キュウグエイ氏器官』というのは、「キュヴィエ器官」で、ナマコ綱Holothuroidea に属する多くの種に見られる、外敵から身を守るために内臓に装置されてある器官である。当該ウィキによれば、鰓、『または』、『直腸から変化したものであると考えられている。この器官を持つナマコは』、『外敵から襲われた際、キュビエ器官を体内から放出する。放出されたキュビエ器官は粘液の絡んだ細い糸から成る網のような形状をしており、ナマコを襲おうとした魚やカニなどの動きを封じる働きをする。放出された器官が体内に戻ることはなく、ナマコ本体からは切り離される。放出後』一~三『ヶ月程度で体内に再生する』。『日本でよく見られる食用に供されるマナマコはこの器官を持たない』。『粘液は接着性が強く』、一部の種では『毒を備える種もある』。『ナマコを手で刺激することで容易に放出を観察することができるが、手などに付着すると容易には取れない。その際は』、『乾燥させてから取ると良い』。『ナマコの血液の採取を行う際のサンプリングにも用いられる』とある。なお、名は、フランスの博物学者で、比較解剖学の大家にして古生物学にも大きな足跡を残した、ジョルジュ・キュヴィエ( Georges Léopold Chrétien Frédéric Dagobert Cuvier:一七六九年~一八三二年)に因む。サイト“Cook Islands Biodiversity & Natural Heritage” の“Biodiversity Database”の“Bohadschia marmorata Brown Sandfish”のページにある、キュヴィエ器官を放出した同種の個体画像をリンクしておく。なお、この器官には、サポニン(Saponin)の一種であるホロスリン(Holothurin)が高濃度で含まれているので、本器官を持つ種は有毒とされ、派手にそれをぶっ放すので、お馴染みのニセクロナマコは食べないようにという注意書きをネットでは見る(死んだヒトがいるというのは寡聞にして聴かぬ)。そもそも彼奴の吹き出すそれを見てしまうと、食べたい気には、流石に、起こらない。

「めーはやー」同じく前川氏の記事から引く。先の冒頭の「ナマコの生息状況」の、「い」の一番に載る。

   《引用開始》

〇じやのめナマコ(ミーハヤー)

この種は低潮線付近の砂地帯に棲息し、体色は淡褐灰色を呈し特異な蛇の目様の斑紋が不規則な縦列と攻つており、腹面にはこの様な斑紋はない。刺激を与えると白色粘状(白い糸のようなもの)キユヴエイ氏器官を出す。又この種にはほとんど「カクレ魚」が入つており伊是名沿岸に多く棲息している。

   《引用終了》

沖縄方言は多様で変異が多くあるが、基本、「母音の口蓋化」の影響で、母音が「ア・イ・ウ」に偏り、「め」は「み」に転訛し易いので、これである。さても、

クロナマコ科ジャノメナマコ属ジャノメナマコ Bohadschia argus

である。なお、「カクレ魚」というのは、ナマコに寄生するもので、代表的な種は、

顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区正真骨下区側棘鰭上目アシロ(阿代)目アシロ亜目カクレウオ(隠れ魚)科カクレウオ属テナガカクレウオ(手長隠れ魚) Encheliophis homei

であろう。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページに、『サンゴ礁の浅い場所』の『バイカナマコ、ジャノメナマコ、ニセジャノメナマコ、シカクナマコなどにもぐり込んでいる』。『サンゴ礁で昼間はナマコの肛門から内部に侵入して過ごし、夜になると外に出て甲殻類などを補食している。』とし、『沖縄県では食用ではなく、干しなまこ(海参)用のジャノメナマコなどをとるときに一緒にとれてしまうもの。好んで食べられているということはない』とある。漢字名は、『胸鰭(手)の長いカクレウオの意。』ともある。お、ウィキの「カクレウオ科」Carapidaeの同種の画像のキャプション見ると、『テナガカクレウオ Encheliophis homei (カクレウオ属)。主にナマコ類と共生する。胃内からは甲殻類や小魚が見出され、宿主を攻撃することはないと考えられている』とあった。この種は、私は実際に観察したことは、残念ながら、ない。な

 同じく本川先生の前掲書から引く。『体長3040㎝。奄美大島名アヤミシキリ、沖縄銘メハヤー、八重山名ハヤー。体は太い円筒形。体表には、灰白色地に単独または癒合した眼状紋がある。紋の周囲と中心部は黒く、それらの間は黄褐色。触手は20本。キュビエ器官はよく発達する。背面には小さな疣足と管足があり、腹面には管足がある。奄美大島以南の浅海に生息する。スリランカ、ティモール、セレベス、フィジー、サモア、タヒチ、フィリピン、ニューカレドニア、グアム、インドネシア、マレーシア、オーストラリア、中国、台湾に分布。ナマコマルガザミが寄生する。このカニは他にも沖縄産の大型のナマコによく寄生する。また、カクレウオ、ホソセトモノガイが寄生する』とある。このナマコマルガザミは、ガザミ類とは言え、一・五センチメートルほどの蟹で、

甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜短尾下目ガザミ/ワタリガニ上科ガザミ/ワタリガニ科トサカガザミ亜科マルガザミ属ナマコマルガザミ(海鼠丸蝤蛑) Lissocarcinus orbicularis

である。植田正恵氏と連れ合いの方とで運営している「海と島の雑貨屋さん」の「エビカニ倶楽部」の「ナマコマルガザミ」のページが、綺羅星の如きカニさんの写真が、いい。また、ホソセトモノガイは、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目ハナゴウナ上科ハナゴウナ科 Melanella 属ホソセトモノガイMelanella acicula 

この貝、所持する十数冊ある貝類図鑑を見ても、出てこなかった。幸い、中野智之氏の執筆になる、「ねばねばナマコは新発⾒がいっぱい ―ニセクロナマコの体内外に寄⽣するセトモノガイ」PDF)が、非常に素晴らしいもの(『世界初の事例』とある)であるので、是非、読まれたい。

「なんふう」最後の最後に、全く分らない名前がきた! 識者の御教授を乞う!]

2025/10/23

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その7)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。]

 

今時(こんじ)、改良せし良法を擧くれ[やぶちゃん注:ママ。]ば、先づ、海鼠を捕獲し、淸水(せいすい)に浸すこと、一夜(いちや)、腹中に存せる砂を、噴(は)き出(いだ)させしめ、若し出(だ)さ〻る[やぶちゃん注:ママ。]ときは、胴の後端(しり[やぶちゃん注:二字へのルビ。])を三、四分、下(さ)け[やぶちゃん注:ママ。]て、少しく、切り、內部の臟腑を除き、能く洗ひ、沸湯(にへる[やぶちゃん注:ママ。])に艾葉(よもぎのは)を、少し、入れ、此れにて煑ること、小(せう)なるもの、一時間より、大なるもの、二時間にして、銅製(あかヾねせい)の箸を以て、輙(たやす)く、狹[やぶちゃん注:ママ。「挾」の誤植。]〕み得らる〻を、度(ど)として、取揚(とりあ)げ、壹個づヽ、曲らぬよふ[やぶちゃん注:ママ。]、簀筐(すばこ)に幷(なら)べ、藁灰(わらばい)を撒布(ちらし[やぶちゃん注:「し」は衍字。])し、兩手にて、揉み、黑色(こくしよく)を表(あらわ[やぶちゃん注:ママ。])す。之れを焙爐(ほいろ)に上(の)せ、火力を以て、一晝夜の間(あひ)た[やぶちゃん注:ママ。]、乾(かは)かし、後(の)ち、大陽にて乾すこと、兩三目、全く、乾くを認め、箱、或は、樽に詰め、之を密閉するものとす。然(しか)るに、從前の製法の如く、單に大陽の力を以て乾(かはか)すときは、陰晴(いんせい)、常(つね)なきを以て、徒(いたづ)らに多日(たじつ)を費さ〻[やぶちゃん注:ママ。「〻」に濁点だが、当時も今も、そうした活字はないと思う。私は見たことがない。]るを得ず。加之(しかのみならず)、品位も亦、火力製に劣る[やぶちゃん注:「こと」が欲しい。]、數等(すうとう)なり。蓋し、北海道製の諸國に冠(くわん)たるは、夙(つと)に、火力法を用ひたるが故なり。

 

海鼠腸(このわた)に鹽を混和(まぜ)し[やぶちゃん注:ママ。十全に「まぜ」ることを「したる」のニュアンスならば、誤りではなかろうが、「こんわ」の音の方が躓かない。]たるものを、「このわた」と稱す。是亦、「延喜式」に、能登國より貢獻のことを載せ、近世は尾張、參河等(とう)の產、著名にして、『海醬(しほから)』中(ちう)の絕品、高價なるものなれども、熬海鼠を、盛(さかん)に製する地方にては、形狀を損傷するを以て、之を作ること、稀なり。

[やぶちゃん注:「海鼠腸(このわた)」私の好物でもあり、ナマコを買った時には、即席に、取り出して、大切に、切らないように柔らかに押しつつ洗浄して、薄い食塩水と日本酒を混ぜたものに寝かせた後、食するのを常としているいるので、注を附す必然性を感じずにいた。全く知らない、或いは、名前ばかりで食したことのない読者のために、取り敢えず、私の、博物学古記録翻刻訳注 11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載(これは「このわた」に特化していて、なかなか興味深い)をリンクさせておく。]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その6)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。]

 

製法も古來より時勢によりて變遷、或は、改良し、或は濫造に流れたること、あり。古(いにしへ)にありて、精良品を出(いだ)せしは、延喜(えんぎ)年間とす。其後(そのご)、兵亂、打續きしより、粗製、或は、廢業し、足利時代に、少しく囘復し、德川時代に至りて、幕府へ獻上と淸國貿易との爲めに、一層、改良したりしなり。

[やぶちゃん注:「延喜(えんぎ)年間」平安中期の九〇一年から九二三年まで。醍醐天皇の治世。]

 

煎海鼠を製するの法、數多(あまた)あり。腸(わた)を去るあり、去らざるあり。水を加へず、煑るあり。水を以て煮るあり。煮るに、潮水(まみづ)を用ふるあり、淡水を用ふるあり。胴を割(わ)るあり、割らざるあり。中部(ちうぶ)を切るあり、頭(かしら)を割るあり、尾(を)を割るあり、頭部より、三、四分、下(さけ[やぶちゃん注:ママ。])て、切るあり。乾かすに、火力、大陽力(たいようりよく[やぶちゃん注:ママ。])の二樣(にやう)あり。絲吊乾(いとつりほし)、藤吊乾(ふじつるほし[やぶちゃん注:ママ。以下、総て誤っている。「藤」の歴史的仮名遣は「ふぢ」である。])、串乾(くしほし)、簀乾(すほし)、筵乾(むしろほし)等(とう)あり。色を着(つ)くるあり、着けざるあり。着色にも、種々の法あれども、皆、不良にして、獨り、艾葉(よもぎは)を以て、色をそゆるを、善良とす。舊時の製法たる竹串(たけくし)を貫く【串海鼠《くしこ》といふ。】あり、藤蔓(ふじづる)を貫(つらぬ)く【藤海鼠《ふぢこ》といふ。】)あり。腹中(ふくちう)の砂を除かさる[やぶちゃん注:ママ。「ざる」。]、あり。乾燥、足らざるもの。あり。截割(さいかつ)の惡しきものあり。然(しか)るに、串乾(くしほし)、藤蔓乾(ふじづるほし)の如きは、漸次、廢(すた)れたりと雖ども、筵乾を止(や)めて簀乾に改(あらたむ)るが如きは、未だ。一般に行はれさる[やぶちゃん注:ママ。「ざる」の誤植。]なり。

[やぶちゃん注:以上は、私のサイト版『「和漢三才圖會」卷第五十一 魚類 江海無鱗魚』の「とらご 海鼠」の項の本文と私の注で十分である。当該項は、同巻の中でも、長く、良安が、かなりリキを入れて書いているもので、正直、この本文と私の注を見て戴ければ、今までの注の幾つかも、省略出来たのである。未見の方は、是非、読まれたい。

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その5)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。]

 

海鼠は、本邦の沿海中、淡水の注入せざる所は、槪ね、產せざるはなしと雖も、「本朝食鑑」に載する所、煎海鼠(いりこ)、及び、海鼠腸(このわた)を製して、世に賞賛せらるヽは、尾張の和田、參河(みかは)の栅島(さくじま)、相摸(さがみ)の三浦、武藏の金澤、本牧(ほんもく)、讃岐小豆島等(とう)なり。陸前の金華山(きんくわざん)に產する所の金海鼠(きんこ)ハ、其類(るゐ)、異(ことな)れども、其名、著(いいじる)しきより、世人(せじん)は、渾(すべ)て、「いりこ」を「きんこ」と唱(となふ)るものあり。凡そ、海鼠を串に貫き乾したるものを、「くしこ」、又、「からこ」と唱(とな)ひ、山陽道にて、簀乾(すぼし)したるを、「とうじんこ」、又は、「ほしこ」と稱し、「いりこ」を、筑前にて「いるこ」、東北地方にて「ゑるこ」と轉訛(てんくわ/なまり)して唱ふるあり。

[やぶちゃん注:「淡水の注入せざる所は、槪ね、產せざるはなし」現生のナマコは、成長した個体は浸透圧調節の機能を持っていないため、淡水では死に、淡水域・汽水域には棲息しないことになっている。ネットでは、池・沼等の淡水に棲息する外肛動物門掩喉綱掩喉目(えんこうもく)オオマリコケムシ(大毱苔虫)科オオマリコケムシ属オオマリコケムシ Pectinatella magnifica の小型個体をナマコと誤認した例が見受けられる(見た目から、誤認は納得は出来る。学名の画像をリンクしておく。御存知ない方のために当該ウィキもリンクさせておく)。しかし、私は、何回か、淡水が流入する河口、及び、岩場・砂浜の箇所に、いるのを見かけたことは、ある。但し、有意にそこから遡上するところは、未見ではある。

 しかし、今回、部署を『山形県水産試験場・浅海増殖部』と記した情報名「マナマコ種苗生産における地下淡水を利用した水温管理」と標題し、「要約」に『マナマコの種苗生産において、夏期でも低温の地下淡水を利用して飼育水温を25℃以下に維持することで高水温による成長停滞が回避され、秋期において全長20mm以上に成長した29百個体を吹浦漁港内に放流した。』とあり、『採苗後は高水温期の飼育となるため、成長停滞を防止する目的で注水の20%を水温約15℃の地下淡水とし、飼育水温を25℃以下に維持し』て、実験に成功したとする記事(論文ではない。PDF)を見出した(『研究担当者』は『野口大悟、角地祥哉(山形県水産振興協会)』とし、『研究期間:平成28年』(二〇一六年)『度(平成2731年度)』とクレジットされてある)。則ち、

マナマコの幼体は純淡水の地下水中で、問題なく生育することが立証されている

のであった。従って、伝家の宝刀のように言われている、

★「ナマコは淡水では生息出来ない」というのは、少なくともライフ・サイクル上は、誤りである

ことが判明しているのである。

『「本朝食鑑」に載する所、……』私の、膨大な作業と追加データを附した『博物学古記録翻刻訳注■12「本朝食鑑第十二巻」に現われたる海鼠の記載』を見られたい(九年前の仕儀で、Unicode仕様以前のものであるので正字不全ではある。修正するには、膨大であるので、未だ直していないのはお許しあれ)。地名等の注も完備させてある。但し、当時はグーグル・マップを使って示す仕儀を行なっていないので、それぞれの私の解説(一部の地名に疑問があるので、推定したものもある)に従って、各自で地図を見られたい。悪しからず。

『「からこ」と唱(とな)ひ、山陽道にて、簀乾(すぼし)したるを、「とうじんこ」、又は、「ほしこ」と稱し、「いりこ」を、筑前にて「いるこ」、東北地方にて「ゑるこ」と轉訛(てんくわ/なまり)して唱ふるあり』「からこ」は、後の「とうじんこ」から推理すると後者が「唐人海鼠」で、前者は「唐海鼠」であろう。「いるこ」「ゑるこ」も「轉訛」とする河原田氏のそれに従えば、「熬(煎)海鼠」の方言名である。なお、先の記事の注で述べているが、串海鼠には、トンデモない贋物がある! 「牛の革」或いは「驢馬の陰莖」(!)で作るんだぜ!!!

2025/10/22

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その4)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。以下、本書では珍しく、南海に進出し始めていた日本よろしく、南太平洋の海外の製品化し得るナマコについての解説が掲げられてある。この辺りの作品では、私も新刊書籍目録で一読、即、注文した一九九三年筑摩書房刊の鶴見良行「ナマコの眼」(同書は国立国会図書館デジタルコレクションで、本登録をしている方は、初版単行本をここで視認出来る)が多くの読者に知られていよう。確かに、民俗学的にも非常に面白く読んだが、真にそうした海外の有用ナマコを初めて本格的に記述されたのは、既出の中島廣先生の「ナマコとウニ」(昭和五八(一九八三)年・五版・内田老鶴圃刊)を嚆矢とすると私は思っている。同書の「海参(いりこ)と雲丹(うに)と人生」では、「北オーストラリアのナマコ漁と製法」(107113ページ)の条があり、後の「食用種について」の条で、本邦の食用海鼠についての歴史的文献を簡潔に交えながら、極めて勘所を押さえた記載がある、その途中の、『△アゲムシStichopus variegatus SEMPER 熱帯産大形の種で、体長九〇センチという記録がある。分布は非常に広く、西はザンジバル』(タンザニアの都市で、マダガスカルの北東対岸にある。ここ)『及び紅海、東はサモア諸島』(ここ)『まで、北は奄美大島および神津(こうづ)島まで拡がっている。色彩に色彩には濃緑色の斑条(はんじょう)があるもの、黄灰色後に暗褐色の斑点及び網様紋のあるもの、濃い黒色を帯びたものがある。』とある。この「アゲムシ」というのは、和名ではなく、次の段落の頭で、『パラオ地方』(ここ)『で本種をアゲムシというのは、ngims, ngimes 』(私には何語であるかも、意味も不明である。何方か、御教授下さい)『の訛(なまり)からきたものであろう。』と記されてある。同種は現在、和名として、シカクナマコ科シカクナマコ属タマナマコ Stichopus variegatus とされている。先の本川先生の「ナマコガイドブック」から引くと、『沖縄焼山名ダルガー。和名はパラオに日本の研究所があった時代に、現地の個体に対して付けられた。現在は沖縄に生息することが知られている』。『沖縄、紅海、オーストラリア、ニューカレドニア、インドネシア、フィリピン、パラオ、中国、台湾に分布。』とあった。さて、戻って、中島先生は、『そして島民が好んでその腸を生食するという事実は驚嘆に値する。早朝干潮時に礁原でこれを採集し、腸を抜き取り胴体は海中に捨てる。』とあり、外国研究者の話として、『サモアの原住民は、』『すなわちこの種のナマコを切って、その生殖腺と水肺』(「呼吸樹」のこと)『とを引き出して生(ナマ)で食べ、残りは胴体を捨てるが、これ等の臓器は後に再生するという』とあるのである。ナマコの再生力が驚異的に強いことは、大方の人は御存知であろう(「このわた」を作るために消化管だけをこっそり抜いておいて、知らんぷりして販売している悪徳業者に、私は、何度も煮え湯を飲まされたもんだ!)が、これは、古くからの南方の原住民の人々が、とっくに知っていた生活の知恵なのである! それは海鼠に限らないのだ! 私の「博物学古記録翻刻訳注 ■10 鈴木経勲「南洋探検実記」に現われたるパロロ Palola siciliensis の記載」を、是非、見られたい! 話を戻すと、中島先生は、同種の製品に就いても言及され、『中国で Tua Teong Bak と呼ぶそうである』とも記されておられ、三十三種ものナマコ種について、各個解説されておられる(数種は本邦にも棲息しているものが含まれている)。それを、抄録したい気持ちを強く感じるのであるが、引用の限界を感じるので、涙を呑んで終わりとする。是非、名著「ナマコとウニ」を読まれんことを、強くお薦めするものである。

 

近時、西洋の動物書によれば、海鼠の種類を三十三種とし、太平洋、及び、東方の海にて捕獲乾製して、商品となし、現今、『ニユケレドニヤ』にて、其價(あたひ)あるものは、唯(たヾ)五種あり。『新和蘭(ニユウビーランド)』より、『蘇門答刺(スマトラ)』に至る諸島の近海、及び、『マーナー』灣、其他、本平洋中(ちう)所々(しよしよ)に產すと雖も、『スルー』群島の東南より、『アルロー』島、及ひ[やぶちゃん注:ママ。]、『新グイニヤ』の『小珊瑚島(《しやう》さんごとう)』に於て、最も多量に產し、『マツカサ』及び『マニラ』を以て、之(これ)か[やぶちゃん注:ママ。]市場とせり。即ち、此地にて產するは、褐色(ちやいろ)、黑色(くろいろ)、淡靑色(うすあをいろ)、赤色(あかいろ)、白色(しろいろ)、是れなり。而して、淸國にては、黑色(こくしよく)なるものを『黑海參(ヘーハイサン)』と名づけ、上等なるものとし、白色(はくしよく)なるものを『白海參(ぺはいさん[やぶちゃん注:ひらがなはママ。])』と名づけ、下等のものとせり。又、印度(いんど)產は、多量なれども、品位、惡くして、低價(やすね)なれば、平常の食用とす。而して、本邦の外、海參(かいさん)を淸國に輸入する國は、近年、『プージー』諸島にて、海鼠(なまこ)漁業、流行し、其製品は『シドニー』に輸入し、夫より、轉送す。然れども、其製、粗(そ)にして、拾六貫二百目の量目(りやうめ)にて、八圓より拾圓に止(とヾま)り、或は、六圓に下落すること、あり。又、『タヒーチー』より『加利福尼耶(カリホルニヤー)』を經て、轉送せるものあり。

[やぶちゃん注:「近時、西洋の動物書によれば、海鼠の種類を三十三種とし、」ウィキの英語版“Sea cucumberによれば、ナマコ上科の世界の種数を約千七百八十六種とする。ウィキの「ナマコ」では、前者を約千五百種とし、日本には、その内の二百種ほどが分布するとある。この日本版ウィキの数値は、既に示した本川逹雄先生の「ナマコガイドブック」(二〇〇三年阪急コミュニケーションズ刊:八ページ)であるから、英文ウィキの方が、『Paulay, G. (2014). "Holothuroidea"World Register of Marine Species. Retrieved 2 March 2014.』であるから最新の正しい種数である。

「ニユケレドニヤ」ニューカレドニア(フランス語:Nouvelle-Calédonie)は、ニューカレドニア島(フランス語で「グランドテール」Grande Terre 、「本土」と呼ばれる)、及び、ロイヤルティ諸島(ロワイヨテ諸島)からなるフランスの海外領土(collectivité sui generis、特別共同体)である。ここ

「新和蘭(ニユウビーランド)」ニュージーランド(英語:New Zealand/マオリ語: Aotearoa)。

「蘇門答刺(スマトラ)」現在のパラオ共和国(パラオ語:Beluu er a Belau /英語:Republic of Palau)。本書の刊行年に、フィリピン総督の支配下に置かれた。

『「マーナー」灣』現在のシンガポールのマリーナ湾のことであろう。当時はイギリスの植民地。

「『スルー』群島」現在のフィリピン領のスールー諸島(英語:Sulu Archipelago)。

「『アルロー』島」インドネシア南部の小スンダ列島東部にあるアロル島Pulau Alor)であろう。「ブリタニカ国際大百科事典」に拠れば、『ヌサトゥンガラティムール州に属する。南方にはオンバイ海峡をへだててティモール島がある。はげ山が多く,森林はほとんどない。面積 2330km2。人口 12 4948 (1980) 。』とある。

「『新グイニヤ』の『小珊瑚島(《しやう》さんごとう)』「新グイニヤ」はニューギニア島の東半分、及び、周辺の島々からなる、現在のパプアニューギニア独立国であるが、「小珊瑚島」が判らない。ビスマルク諸島の最大のニューブリテン島があるが、島名からは、違う気がする。識者の御教授を乞う。本書刊行当時は、北半分をドイツが、南半分をイギリスが植民地としていた。

「マツカサ」不詳。識者の御教授を乞う。

『「プージー」諸島』現在の南太平洋のフィジー諸島と、その北方のロツマ島からなる群島国家フィジー共和国(英語:Republic of Fiji /フィジー語:Matanitu Tugalala o Viti )。当時は、イギリスの植民地。

「タヒーチー」現在の南太平洋フランス領ポリネシアに属するソシエテ諸島にあるタヒチ島Tahiti/タヒチ語音写「タヒティ」/フランス語音写「タイティ」)。本書刊行時は、既にフランスの植民地であった(一八八〇年八月二十九日にタヒチ国王ポマレⅤ世が主権譲渡を宣言している)。

「加利福尼耶(カリホルニヤー)」アメリカのカルフォルニア。]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その3)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。書名は、既に先行部分で注したもの(立項せず、何らかのフレーズや、別の注の中で述べたものは含まない)は、必要と判断した一部を除いて、再掲しない。]

 

海鼠の稱は、『和名鈔』に崔禹錫の「食鏡(しよくきやう)[やぶちゃん注:「鏡」は「經」の誤字。(その1)の私の注を見よ。]」を引(ひい)て、『海鼠(かいそ)、和名(わみやう)、古(こ)』とあり。而して「雨航雜錄(うこうざつろく)」、「寧波府志」等(とう)の漢書(かんしよ)によるに、『沙噀(しやそん)、一名、沙蒜(しやせん)』とし、「溫州府志」、「酉陽雜俎」等に、『塗筍(とじゆん)、海蛆(かいそ)』とす。熬海鼠に製す可き海鼠の種類も一樣ならずと雖ども、古人の著書に載する所、海鼠(なまこ)、金海鼠(きんこ)の二種に止(とヾ)まれり。而して、今、各地に唱(となふ)る所の名稱を擧ぐれば、『なまこ』【今、仮に『ほんなまこ』と稱す。】『とらなまこ』『ぎんこ』『おきなまこ』『いそなまこ』『あかなまこ』『たらこ』【淡州北村。】『こどら』『とらこ』『あかこ』【一名『ひしこ』。】『ふぢこ』『りうきうなまこ』等、あり。紅色(かうしよく)なるを、『あかこ』と云ひ、黑色(こくしよく)なるを『くろこ』、黃紅雜(きあかいろ)のものを、『なじこ』と云ふ。此(この)『なじこ』に五色(ごしき)のものあり。而して、本邦、及び、淸國にても、海鼠の鮮味(なまもの)を嗜好すること、古書に見へ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

[やぶちゃん注:「雨航雜錄」明代後期の文人馮時可(ひょうじか)が撰した雑文集。魚類の漢名典拠としてよく用いられる。四庫全書に含まれている。

「沙噀」「噀」は、「水などを吹く・吐く」の意である、この場合は、砂の中にいる水を吹き出すものとも、砂を吐くものとも、とれる。どちらもナマコの観察としては違和感がない。私の『海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載』を、是非、見られたい。

「沙蒜」これをナマコとするのは、少なくとも、現代中国語では、誤りである。「百度百科」の「海蒜」を見れば、はっきりするが、これは、現在の台州市の海湾にのみ棲息するイソギンチャク(刺胞動物門 Cnidaria花虫綱 Anthozoa六放サンゴ亜綱 Hexacoralliaイソギンチャク目 Actiniaria)を指す。そこにある画像を見ると、私の好きなユムシ(螠虫:環形動物門 ユムシ目ユムシ科ユムシ属 ユムシ Urechis unicinctus :韓国で好まれ、私も現地で食べ、後に日本の料理店で特注して食した好物である)の太った奴に似て見え、解説本文にもそう書いてあるが、中華料理を紹介するサイト「80C haochi」の、知られた料理長であられる方の「中国現地レポート  中華の真髄は郷土料理にあり!今注目される台州料理総まとめ[後編]山口祐介の江南食巡り⑧」の冒頭の「イソギンチャクってどんな味?沙蒜豆面(シャースァンドウミェン)」で掲げられている販売店と思われる写真(生体)を見ると、見事なイソギンチャクであることが判る。そこで、三十分以上かけて、所持するイソギンチャク関連書や博物書、あらゆるサイトや国立国会図書館デジタルコレクションで検索したが、全く、学名が出てこない。特定地域にしか棲息しないのに、どこにも学名がないというのは、おかしい。しかし、事実、ないのだから、仕方がない。学名を御存知の方は、是非、御教授願いたい。

「溫州府志」『浙江省温州府』、現在の温州市『の地誌。元の延祐四』(一三一七)『年の宮古島民の漂着記事が記載されている。乗員は「海外婆羅公管下密牙古人民」とあって「撒里即」(シンガポールと推測されているが不詳)に向かう途中で漂流したという。婆羅は宮古島南東の保良』(ぼら:ここ)、『密牙古は宮古のことで、保良勢力支配下の宮古島民が海外交易に赴いた記録と解されている』。以上は、平凡社「日本歴史地名大系」に拠った。

「酉陽雜俎」唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した、古今の神話・伝説・故事・風俗・儀礼など多分野にわたる異聞、及び、怪異記事を、多く集録した随筆集。本巻二十巻・続集十巻で、八六〇年頃の成立。

「塗筍」「百度百科」に「涂笋」で立項し、ナマコとする。

「金海鼠(きんこ)」ナマコ綱樹手亜綱樹手目キンコ(金古・金海鼠)科キンコ属ナマコ綱樹手亜綱樹手目キンコ(金古・金海鼠)科キンコ属 Orange-footed sea cucumber 亜種 Cucumaria frondosa japonica 十九年前の古いもので、正字不全その他、修正をしなくてはならないのだが、なかなか手をつけらずにいるものの、私のサイト版「仙臺 きんこの記  芝蘭堂大槻玄澤(磐水)」を見られたい。キンコの記事としては、非常に優れたものである。

「『なまこ』【今、仮に『ほんなまこ』と稱す。】」これは狭義には、種としてのマナマコを指す。但し、ここでは、河原田氏は、ここでは、取り敢えず、生物学的な種別を意識しておらず、広義の「ナマコ」類の別名を列挙している感じが強い。しかし、幾つかの別称の中には、明らかに特定種を示すものが含まれているので、総て検証し、必要のある場合は、以下に注した。

「とらなまこ」後の「とらこ」とともに、既に引用でも示した通り、これらは、関西でのマナマコ、或いは、ナマコ類の通称である。

「ぎんこ」これは「銀海鼠」で、個人的には、マナマコの「アオ型」の茶褐色のものを指すように思われるが、やはり、マナマコの異名でよい。ただ、ナマコ類では、クロナマコのように体表全体に砂を附着させている種があり、これは、昼光の中で観察した場合、銀色に見える(なお、ニセクロナマコは砂を附着させない)。なお、「銀海鼠」は「金海鼠」との強い通性が感じられる異名で、種としてのキンコとの対、或いは、異名呼称のようにも想起されるが、ホロスリン製薬株式会社の公式サイト「ホロスリン製薬」の「なまこの名称の由来」のページに、『わが国でとれるなまこの種類にキンコと呼ばれるなまこがありますが、この名は昔、なまこの別名として使われていたこともあります』(☜)。『これは、奥州の金華山(宮城県石巻市)の近海からとれたなまこは、形が丸く色が黄白色で、それに金産地でとれるなまこだから腹中に砂金を含んでいるとされて、金海鼠(キンコ)と言われたことによるものだそうです。』とあった。

「おきなまこ」これは「沖海鼠」であるが、表現からも判る通り、明らかに特定種である。

楯手目シカクナマコ科マナマコ属オキナマコApostichopus nigripunctatus (シノニム:Parastichopus nigripunctatus

である。『小学館「日本大百科全書」に拠れば、『オキコともよばれる。沖合いにすむナマコで、本州、四国、九州に分布し、水深80600メートルの海底の砂泥上にすむ。日本海にはとくに多産し、乾製品(いりこ)として中国などに輸出。形はマナマコに似ているが、全体がマナマコより平たい。腹面は平らで背面は丸みを帯び、背面には多数の突起がある。体の地色は灰色ないしは灰緑色で、背面正中線寄りの部分は暗色が強く、黒点が散在する。長さ40センチメートルぐらいになる。』とあった。より製品性に就いては、個人サイト「能登のさかな」の「魚屋さんには並ばないオキナマコ」に、『オキナマコは、本州から九州の水深100~600mの泥底に生息するマナマコ属の一種で、体長40cmほどに成長します』。『石川県では、カレイ類やズワイガニを狙った底びき網で混獲されます』。『オキナマコは魚屋さんには並ばないんです。ではどこに行くのかというと、なまこの加工業者さんに引き取られています。そこで、キンコ(なまこを干したもの)に加工されて殆どが海外に輸出されるそうです』。『ちなみに、オキナマコのキンコはランクが低く、三級品にしかならないそうです。というのは、加工する際にところどころ破れてしまうからだと聞いたことがあります』とあった。

「『たらこ』【淡州北村。】」この名は、「鱈子」に形状が似ているからか。現行では、使用例がないようだ。調べたが、淡路島に「北村」は過去にも存在していない。ウィキの淡路島の北部分の旧郡「津名郡」を見ると、明治初年に存在した村名に、「北谷村」・「北山村」・「草加北村」・「広石北村」を確認出来る。「ひなたGIS」の戦前の地図を見るに、「北山」が、党が地図の「郡家町」の北東に「北山」が確認でき、また、南西の「山田村」の「北組」という地名が確認は出来た。

「こどら」確認出来ない。「子虎」で、「とらご」の別名か。

「ひしこ」製品名を生体呼称に転用したもの。

「ふぢこ」キンコの異名。平凡社「世界大百科事典」の「キンコ」の項に、『フジの花の色をしているところからフジコとも呼ばれる』とあった。

「りうきうなまこ」「琉球海鼠」これは、清国向けの製品呼称としてではなく、フラットに沖縄に分布するナマコを指すと採ると、多数の種が含まれる。例えば、地域特性種としての一つに、

クロナマコ科ジャノメナマコ属フタスジナマコ(二筋海鼠)Bohadschia bivittate

がいる。 「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページには、『海参に加工する。沖縄県では輸出用に採取している』。但し、『「海参(いりこ)」としては』、『それほど高くはない。』とある。より詳しい種に就いては、前川喬氏の「琉球沿岸に産するナマコについて」PDF)に詳しいので、見られたい。

「黃紅雜(きあかいろ)のものを、『なじこ』と云ふ。此(この)『なじこ』に五色(ごしき)のものあり」孰れも文脈から、マナマコの「アカ型」、及び、色彩変異個体である。]

2025/10/20

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その2)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。書名は、既に先行部分で注したもの(立項せず、何らかのフレーズや、別の注の中で述べたものは含まない)は、必要と判断した一部を除いて、再掲しない。]

 

「食物本草」「五雜俎」「藥性纂要」等(とう)をはじめ、數部の漢書(からのしよもつ)を閱(けみ)するに、漢名(かんみやう)は『海參(かいじん)、一名、海男子(かいだんし)』、又、『海蛆(かいり[やぶちゃん注:ママ。「蛆」の音は漢音「シヨ」、呉音「ソ」である。])』とし、其(その)效(こう[やぶちゃん注:ママ。])、人參(にんじん)に均しきものなりとして、淸國人も往古(むかし)より賞美せり。

[やぶちゃん注:「食物本草」各種食品の薬効と料理方法などが記載された中国の本草書であるが、この書は成立に不審な点があり、一つには、古く、元の李杲(りこう:号は東垣(とうえん))著とされるものの、名を借りた別人である汪頴なる人物が明の一六二〇年に刊行したものともされる。全七巻。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。

「藥性纂要」「百度百科」の「药性纂要」に拠れば、『清代の康熙』二十五年(一六八六年)に『王勲(子禄)によって編纂された全四巻の本草書。本書には六百六種の薬草が収録されており、そのうち五百九十七種は「本草大全」から選抜されている。本書の章立てや、主要内容も同書から引用されている。各薬草に関する記述は、章立てに分かれておらず、各章を通して流れるように構成されている。薬草の効能に関する様々な理論を集大成することに重点が置かれており、臨床応用のメカニズムに関する個人的な見解も示されている。また、実績のある家庭の処方も掲載されており、貴重な参考資料となっている』とあった。所持する若き日より愛読の中島廣先生の「ナマコとウニ」(昭和五八(一九八三)年・五版・内田老鶴圃刊)に、同書に「イリコ」の異名として「海蛆」(103ページ)とあり、また、「薬用になるもの」として、「ナマコ類」の条で、『「補陰益精、与猪肉同煮食味美」』と同書から引用されておられる。]

 

「本草從新(ほんざうじうしん[やぶちゃん注:ママ。])」、『海參』の條に、刺(し)あるものを『刺參(しじん)』と名づけ、刺なきものを『光參(くわうじん)』と名づけ、『閩中(みんちうの)海參(かいじん)、色、獨り、白し。』とありて、三種に分(わか)ち、又、「食物本艸」は、瘣瘤(かいらい)あると、表裏潔きものとの二種に分(わか)ちたりしか[やぶちゃん注:ママ。「が」。]、今世(いまのよ)に至りて、其(その)數(すう)、多きを加へ、黑海參(こくかいじん)、白海參(はくかいじん)、紅旗參(かうきじん)、開片梅花參(かいへんばいかじん)、烏條(うでう)、赤參(せきじん)、烏元參(うげんじん)、靴參(くわじん)、紅參(かうじん)等(とう)なり。

[やぶちゃん注:「本草從新」清の呉儀洛が一七五七年に著した本草書。所謂、「冬虫夏草」を初めて記したものとして知られる(但し、同薬は、それ以前から用いられてはいた)。中文のサイト「中醫笈成」のここで、本文全部が電子化されていたので、「海參」の部分を引用する(一部の漢字に手を入れた)。

   *

補腎。

甘鹹溫。補腎益精。壯陽療痿。遼海產者良。(周櫟園閩小記云:閩中海參、色獨白、類撐以竹籤、大如掌、與膠州遼海所出異、味亦淡劣、海上人復有以生革僞爲之以愚人、不足尙也、膠州所出、生北海鹹水中、色又黑、以滋腎水、從其類也。)有刺者名刺參。無刺者名光參。以上無鱗類。

   *

因みに、「刺」と言うのは、背部にある疣足を指す(但し、ナマコ綱 Holothuroidea無足亜綱 Apodacea(無足目 Apodida と隠足目 Molpadida)は持たない)。

「黑海參(こくかいじん)」海鼠綱楯手目クロナマコ科クロナマコ属クロナマコ亜属クロナマコ Holothuria atra

「白海參(はくかいじん)」クロナマコ亜属 Holothuria fuscogilva(和名なし。インド太平洋の島嶼付近やサンゴ礁周辺の浅瀬に棲息する。なお、本邦の函館・浅虫・佐渡真野湾、及び、中国に棲息する隠足目ウディナ科 Caudinidaeシロナマコ属シロナマコ Paracaudina chilensis とは、全くの別種であるので注意)。

「紅旗參(かうきじん)」中文の複数の記載を見て、シカクナマコ科マナマコ属アカナマコApostichopus japonicus であろうと判断出来る。

「開片梅花參(かいへんばいかじん)」シカクナマコ科バイカナマコ属バイカナマコ Thelenota ananas  所持する、やはり私の好きな本川逹雄先生私は、三十代の時、教師を辞めて、ホヤの研究家としても知られた先生の聴講生になろうと、本気で考えていたことがあったの著になる「ナマコガイドブック」(二〇〇三年阪急コミュニケーションズ刊)によれば、『オーストラリア、フィジー、ニューカレドニア、インドネシア、グアム、中国、台湾に分布』し、『本種の乾製品は沖縄地方ではガジマル、中国では梅香参と呼ばれ、高級品である。』とある。因みに、「ガジマル」とは、沖縄でよく見られる、双子葉植物綱バラ目クワ科イチジク連イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa のことで、思うに、同種の根及び枝・根から出る気根の一部が、下に向かって地上に下り、その一部が支柱根となる様子を、体が太い円筒形を成すバイカナマコに擬えた地方名であろうと思う。

「烏條(うでう)」漢名から推測すると、「烏」は「黒」の意で、「條」は棒状のニュアンスであろうからして、そこから、クロナマコ科クロナマコ属クロナマコ Holothuria atra を想起した。「維基百科」の同種は「黑海參」である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページには、『海参に加工する。沖縄県では輸出用に採取している。』とし、『「海参(いりこ)」、干しナマコとしての名は「黒虫参」』で、『高級である』とされ、ダメ押しで『一般流通しない』とあった。私自身、沖縄で同種を観察はしたが、食したことがない。なお、見た目で、似た形状をするものに、クロナマコ属ニセクロナマコ Holothuria leucospilota がおり(沖縄修学旅行のイノー観察で、さんざん、女子生徒たちが、噴き出したベタベタくっ付くキュヴィエ―管を出した彼奴を面白がって、私に呉れたものだった。因みに、クロナマコは同器官を持たない)、「維基百科」の同種「玉足海參」を見ると、別名に『烏參、烏蟲參、黑狗參、紅參』とあるのだが、同種は、ナマコの中で唯一、ヒトに有毒とする種であるから、私は、排除する。

「赤參(せきじん)」これは、お馴染みのシカクナマコ科マナマコ属マナマコ Apostichopus armata の赤色個体のそれを指すものとしてよい。私は「食すなら、マナマコは赤に限る。」と主張するものだが、若き昔から、色の変異体を親しく観察し、食べ比べもしてみた経験から、「明らかに、生物学的に違うのではないか?」と秘かに考えていた。さても、ウィキの「マナマコ」の「分類学上の位置づけ」の項に拠れば(注記号はカットした)、『俗に、赤~赤褐色系の体色をもつアカコ(「アカナマコ」・トラコ:以下、「アカ型」と記す)・青緑色を基調とするアオコ (「アオナマコ」:以下、「アオ型」と記す)・黒色の体色を呈するクロコ(「クロナマコ」:以下、「クロ型」と記す)と呼ばれる三つのタイプが区別され、「アカ」型は外洋性の岩礁や磯帯に生息し、一方で「アオ」型と「クロ」型とは、内湾性の砂泥底に棲むとされていた』。『これらの三型については、骨片の形質の相違をも根拠として Stichopus japonicus 以外に S. armata という別種を設ける見解もあり、あるいは S. japonicus var. typicus なる変種が記載されたり、S. armatus および S. roseus という二種に区別する意見も提出されたが、「生息場所の相違と成長段階の違いとによって生じた、同一種内での体色の変異であり、異なる色彩は保護色の役割を果たしている」として S. japonicus に統一されて以来、これを踏襲する形で、体色の異なる三つの型は Apostichopus japonicus = Stichopus japonicus )の色彩変異とみなす考えが採用され、日本周辺海域に生息する「マナマコ」は唯一種であるとされていた。また、シトクロムcオキシダーゼサブユニット1および16S rRNAの解析結果から、これら三型を同一種の変異と結論づける見解が再び提出されている』。『しかし、「アカ」型は、薄桃色または淡赤褐色を地色とし、体背部は赤褐色または暗赤褐色の模様がまだらに配色されており、体腹部は例外なく赤色を呈する。一方で、「アオ」型は一般に暗青緑色を呈しているが、淡青緑色が優るものから黄茶褐色~暗茶褐色の変化がみられ、体腹部も体背部と同様な色調をとる。また「クロ」型は、全身黒色を呈し体色の変異は認め難いとされている。2年間にわたる飼育結果では、相互の型の間に体色の移行は起こらなかったとの観察例もある。アイソザイムマーカーを用いた集団遺伝学的な検討結果をもとに、マナマコとされている種類は、「アカ」型と「アオ型・クロ型」の体色で区別される、遺伝的に異なった二つの集団から形成されているとの報告もなされている。さらに外部形態および骨片の形態による分類学的再検討の結果から、狭義のマナマコは「アオ型・クロ型」群であると定義されるとともにApostichopus armata の学名が当てられた。一方で「アカ」群には A. japonicus の学名が適用され、新たにアカナマコの和名が提唱された』。『関西では、トラゴと呼ばれている』(この一行は、独立改行で入っているが、この「トラゴ」(恐らく「虎海鼠(とらご)」)は「マナマコ」の地方名であって、ここに入れるべきではない)。『mtDNAのマイクロサテライト解析の結果からは、「アカ」型・「アオ」型・「クロ」型の三型は少なくとも単系統ではないとされ、中国および韓国産のマナマコを用いた解析でも、「アカ」型と「アオ」型とは独立した分類群とみなすべきであるとの結果が報じられている』。『「アオ」型や「クロ型」と比較して、「アカ」型は海水中の塩分濃度の変化や高水温に対する抵抗性が弱いとされ、広島県下においても、アカナマコの産額が多いところは音戸町や豊島のような陸水の影響がほとんどないと思われる場所に限られているなど、生理・生態の面でも相違が認められている』。『環状水管に附着している1 (まれに2) のポーリ嚢の形態(一般に、「アカ」型では細長くて先端が突出しており、鈍円状を呈するものは少ないのに対し、「アオ」型のポーリ嚢の形態は太くて短かく、先端が鈍円状をなすものが多い)も、解剖学上の数少ない相違点のひとつになるとされている。また、「アカ」型・「アオ」型の間には、触手の棒状体骨片と体背部の櫓状体骨片においても若干の形態的相違点が認められる』。『すなわち、「アカ」型においては触手の棒状体の骨片形態が複雑化し、これをさらに二つの型(骨片周囲に顕著な枝状突起をもち、細かい刺状突起を欠くタイプと、枝状突起とともに細かい刺状突起が骨片全体に密生しているタイプ)とに分けることができ、体壁の櫓状骨片の底部はほぼ円形で、縁部が幅広く、孔は不定形で角のない形状を呈し、4-2本の柱からなる塔をもつのに対し、「アオ」型の触手の棒状体骨片は全体的に形態が単純で、骨片周囲には小さい枝状突起が散在し、さらに骨片の両端部に限って細かい刺状突起をもっており、いっぽう体壁の櫓状骨片の底部の外形は不定形で、角部は突出し』、『角張り、縁部の幅は狭く、孔はほぼ円形を呈し、4-2本の柱からなる塔をもつ』。『このほか、成熟卵の表面におけるゼラチン質の被膜 (gelatinous coating) の有無も、両者を区別する根拠の一つであるとされている』。なお、『体表面が』、『ほぼ全体的に白色を呈する個体がまれに見出され、一般にはアルビノであるとみなされている』。『中国の膠州湾で得られた白色個体について、相補的DNAの遺伝子オントロジー解析を試みた結果によれば、白色個体では、生体調節遺伝子や色素の合成・沈着を司る遺伝子に多くの欠落が生じているという』。『また、チロシンの代謝や分裂促進因子活性化タンパク質キナーゼ(MAPキナーゼ)経路を司りメラニンの生合成に関与する遺伝子として14個が特定されたが、白色個体では、線維芽細胞増殖因子4FGFR 4)やプロテインキナーゼAおよびプロテインキナーゼCあるいはRas遺伝子などの表現活性は著しく小さい一方で、ホモゲンチジン酸-1,2-ジオキシゲナーゼやCREB、あるいは転写因子AP-1およびカルモジュリンなどの表現活性は顕著に亢進していたとされ、これらの遺伝子群の活性の大小が、マナマコの体色の発現に大きく影響していると推定されている』とあった。私は、分離して学名を三つの種に分けるのを、強く支持するものである。

「烏元參(うげんじん)」う~ん、奇妙奇天烈である! 河原田氏は、「烏」と「參」で、トンデモ誤謬をしたのではなかろうか? これは、

双子葉植物綱シソ目ゴマノハグサ科ゲンジン(玄参)Scrophularia ningpoensis

の異名である! 「維基百科」の「玄參」に、別称を『元參、烏元參、黑玄參、黑參』とあるのである。中国原産で、「本草綱目」にも記載があり、古くから乾燥した根が生薬として使用されてきたものである。

「靴參(くわじん)」これは、クロナマコ科クリイロナマコ属クリイロナマコ Actinopyga mauritiana で決まりである。「維基百科」の同種のページ「白底輻肛參」に、『俗名』を『白底靴參、赤瓜參、靴海參、紅魚』とある。先の本川先生の「ナマコガイドブック」から引く。『体長2030㎝。一名ゾウリゲタ、沖縄・八重山名ザウリ、ザウリゲタ。体は堅く、扁平で、上からみると楕円形に近い。背面は褐色から濃い褐色で白い斑点があり、時に両端がほとんど白くなる。腹面は淡い褐色。触手は大きく、25本。口は前端下側に、肛門は後端に開き、石灰化した5個の肛歯がある。背面には疣足がほとんどなく滑らか。腹面の管足は密生する。小笠原、奄美大島以南の岩礁帯に普通にみられる。フィジー、ニューカレドニア、サモア、タヒチ、オーストラリア、グアム、中国、台湾に分布。』とあった。同種が可食であるかについては、水中写真家で屋久島在住の高久至氏のブログ「海を歩く The World編!」の「ナマコを歩く 〜クリイロナマコを食べてみた〜」で確認した(但し、サポニンが、かなりキツいらしい)。

「紅參(かうじん)」もう、タネも、根性も、尽きた。晩飯の手伝いもしなくてはならんから、ここまでとする。

【二〇二五年十月二十一日追記】かく、丸投げしたのだが……昨日、寝しなに、ふと、思いついたことがあった。

『……馬鹿正直に現在の生物種を比定同定すること自体が、前例に徴して、必ずしも正しい訳ではないな。……或いは、これは、失礼乍ら、清国内、或いは、日本以外の周辺諸国の「熬海鼠」製品として、清の国民に好まれる紅色の熬海鼠を、清、或いは、清からの要望で一部の日本の製造者が――捏造した可能性――が、ありは、しまいか?……』

と、独りごちて、眠りに落ちたのだった。されば、本未明、国立国会図書館デジタルコレクションで、「紅參 海鼠」で検索を掛けて、逐一、閲覧して見た。

――まさに!!! 図に当たったノダ!!!

――我乍らオロロイた「爆当たり」だったノダ!!!

『大日本水產會報 第百九十七號』(明治三一(一八九八)年十一月・大日本水產會發行・合本)の「論說」の冒頭にある同会『學藝委員』山本勝次氏の『○淸國の水產物に就て(大日本水產會第百二十回小集會演說筆記)』(本書より十二年後のもの)のここである!! 左丁の六行目中程から引用する。なお、句点は一切、ない。下線は私が附した。主に若い読者のために、注を入れておく。

   *

我邦から輸出致しまする所の海參多く有刺海參でございます、無刺海參は僅に臺灣から致しまして琉球小笠原島に止つて居るので後は悉く有刺でございます、支那人より申しますと海參を好まぬではない、鱶鰭同樣しますけれども其中で無刺を好みまする所とあります、有刺を好む地が多いか、無刺を好む地が多いかと申しますると北部の北京を始め天津、芝罘、牛莊邊までは我邦の北海道其他より產する所の有刺を好みます、詰り其好む所以はどこにあるかと云ふと有刺の方は種類が多い、各種類ありまして價も割合に廉い爲に需要が廣つて[やぶちゃん注:「ひろがつて」と読んでおく。]居るやうでございます、其無刺の部分には赤參と云ふ名が附いて居ります、日本で申しますると、白參であります、琉球あたりで取れるのでございまして白いのでありますが是れには紅參と云ふ名を持たせて居ります、琉球あたりで取れるのでございまして白いのでありますが是れは紅參と云ふ名を持たせて居ります、そこで白いのに彩りして紅參白參と云ふ云ふ譯で賣れます、是れは白參に色を附け紅參と申します、是れが大光赤參て[やぶちゃん注:「で」の誤植であろう。]呂宋[やぶちゃん注:フィリピンの「ルソン」島。]に產する種類の物、斯の[やぶちゃん注:「かくの」。]如き種類の物が多く輸入つて[やぶちゃん注:これは、引用外の前後を見るに、誤植ではなく、これで「輸入(はい)つて」と読ませている。]居りますので廉く[やぶちゃん注:「やすく」。]て形の大きい物を水に戾して料理にするときに使ひでがありて日本の有刺より德用であると云ふ話がどこの料理屋にもあります、上等の料理をするには日本產を使ふ、中央と南部に向ひましては皆無日本の有刺は行かぬかと云ふと好まぬではない、詰り損だから使用せぬと云ふのが多いやうであります、

   *

目から鱗! イヤさ! 口から海鼠ではないか!!!

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(三)煎海鼠の說(その1)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここ。書名は、既に先行部分で注したもの(立項せず、何らかのフレーズや、別の注の中で述べたものは含まない)は、必要と判断した一部を除いて、再掲しない。

 なお、私は、サイト(それは後に附した)及びブログで、夥しいナマコ関連の電子化注をしている。他の生物との混淆しているもの(但し、サイト版の「「和漢三才圖會」卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の中の「海(とらご)」は挙げておく)や、特殊なものを除き、以下に、目ぼしいものを古い順にリンクを附して掲げておく。

   *

「海鼠 附録 雨虎(海鹿) 栗本丹洲 (「栗氏千蟲譜」巻八より)」(サイト版)

「ナマコ分類表」

「海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載」

「海産生物古記録集■7 「守貞謾稿」に表われたるナマコの記載」

「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」

「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」

「畔田翠山「水族志」 (二四七) ナマコ」

「毛利梅園「梅園介譜」 海鼠 / マナマコ」

「「本朝食鑑」の「海鼠」の「華和異同」追加」

「毛利梅園「梅園介譜」 海鼠(前掲分とは別図三種)」

「日本山海名産図会 第四巻 生海鼠(𤎅海鼠・海鼠膓)」

   *

 私の大好きな海鼠なのだが、驚天動地! 昨日の早朝に始めて、今朝まで、実に延べ十時間はかかった。底本で、たった十行に、だ! 何故かは、私の注の錯綜でお判り戴けるであろう。

 

  (三)煎海鼠(いりこ)の說

煎海鼠は、「延喜式」に『熬海鼠(がうかいそ)』と書(しよ)し、「和名鈔」、これを『伊里古(いりこ)』と訓(よ)ましむ。「古事記」、及び、「和名鈔」・「本艸和名(ほんざわみやう)」等(とう)に『海鼠(かいそ)』を古(こ)とし、「本朝式」に、『海鼠(こ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])』に「熬(いる)」の字を加へて、『伊里古(いりこ)と云ふ』とあり。又、「類聚雜要(るいじうざつえう[やぶちゃん注:ママ。])」にも、『鮮(なま)なるを生海鼠(なまこ)』とし、『熬(い)りたるを熬海鼠(いりこ)とす』とありて、海鼠(なまこ)を熬り乾したるものヽ稱(しやう)なり。往昔(むかし)は、熬り、乾製(ほしせい)を是(よし)とし、「玉造(たまつくり)」に『焦鼠(いるこ)』とし、「伊勢守貞陸記(いせのかみていりくき)」に『くろもの』[やぶちゃん注:底本では、珍しく鍵括弧であるが、私の定めた凡例に従い、変えた。]の名ありしも、後世(のちのよ)、『煎乾(にぼし)』の製あるより、「塵添壒囊鈔(ぢんてんあいのうせう[やぶちゃん注:底本のルビは『あい』となっているが、誤植と断じて特異的に訂した。])」に『煎海鼠(ぜんかいそ)』の文字(もじ)あるに至れり。而して、此(この)煎海鼠(いりこ)は、「延喜式」神祗、主計(かぞへ)等の部に、志摩、若狹、能登、隱岐、筑前、肥前、肥後等より、朝貢(みつぎもの)とし、神饌(しんせん)、內繕(ないぜん)に供(きやう)し、賦役調庸(ふやくてうよう)の資(し)に充(あ)て、往古(わうこ)より、世に貴重せられたり。

[やぶちゃん注:「熬海鼠」「熬」は音「ガウ(現代仮名遣「ゴウ」)」、訓「いる」であり、第一義で「煎(い)る」の意である。

「古事記」所謂、『天宇受賣命(あめのうずめのみこと)』が、水中の『廣物鰭(ひろはたもの)』(ありとある水産生物総体)を集め、『天神(あまつかみ)の御子(みこ)に仕へ奉らむや』と問うた時に、『皆、仕へ奉らむ』と答えた中で、ただ、『海鼠(こ)、白(まを)さず』であったために、彼女が、『海鼠に謂ひけらく、「此の口や、答へせぬ口」と云ひて、紐小刀(ひもこがたな)以(も)ちて、其の口を拆(さ)きき。故(かれ)、今に海鼠の口、拆けたり』というシークエンスを指す。所謂、海鼠の口吻部の触手が開いているのは、そうした不遜のために、口を切られたのだとする神話解釈として、甚だ面白い生物学的観察視線が感じられる有名なシークエンスである。未読の方のために、国立国会図書館デジタルコレクションの幸田成友(しげとも)校訂「古事記」(昭和一二(一九四七)年岩波文庫刊)の当該部をリンクさせておく。謂わずもがなだが、本邦の古書中、初めて「海鼠」(ナマコ)を明確に同定して記述したものとされるものである。左ページの最終段落である。

『「和名鈔」、これを『伊里古(いりこ)』と訓(よ)ましむ』「和名類聚鈔」の「卷十九」の「鱗介部第三十」の「龜貝類第二百三十八」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)板を参考に推定訓読する。

   *

海䑕(コ) 崔禹錫が「食經」に云(いは)く、『海䑕(かいそ)【和名、古(いにしへ)、「本朝式」に、「𤎅」の字を加《くはへ》て、「伊里古(いりこ)」と云ふ。】は、蛭(ひる)に似て、大なる者なり。』と。

   *

この『崔禹錫が「食經」』というのは「崔禹錫食經」で、唐の崔禹錫撰になる食物本草書。「和名類聚鈔」に多く引用されるが、現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。

「本草和名」深根輔仁(ふかねのすけひと)の撰になる日本現存最古の薬物辞典(本草書)。「輔仁本草」(ほにんほんぞう)などの異名がある。当該ウィキによれば、『本書は醍醐天皇に侍医・権医博士として仕えた深根輔仁により』、『延喜』一八(九一八)年に『に編纂された。唐の』「新修本草」(高宗が蘇敬らに書かせた中国最古の勅撰本本草書。陶弘景の「神農本草經集注」(しんのうほんぞうきょうしっちゅう)を増訂したもの)を『範に取り、その他漢籍医学・薬学書に書かれた薬物に倭名を当てはめ、日本での産出の有無及び産地を記している。当時の学問水準』の限界のため、『比定の誤りなどが見られるが、平安初期以前の薬物の和名を』、『ことごとく記載しており』、且つ、『来歴も明らかで、本拠地である中国にも無い』所謂、『逸文が大量に含まれ、散逸医学文献の旧態を知る上で』も、『また』、『中国伝統医学の源を探る上でも貴重な資料である』。本書は、後の『丹波康頼の』知られた「医心方」にも『引用されるなど』、『後世の医学・博物学に影響を与えた。また、平安時代前期の国語学史の研究の上でも貴重な資料である』。後、永らく、『不明になっていたが、江戸幕府の医家多紀元簡が紅葉山文庫より上下』二『巻全』十八『編の古写本を発見し』、『再び世に伝えられるようになった。多紀元簡により発見された古写本の現時点の所在は不明であるが、多紀が寛政』八(一七九六)年に『校訂を行って刊行し』、六『年後に民間にも出された版本が存在する他、古写本を影写した森立之の蔵本が台湾の国立故宮博物院に現存する』とある。

「類聚雜要」平安時代に書かれた寝殿造の室礼と調度を記した古文献「類聚雜要抄」(歴史的仮名遣「るゐじゆうざうえうしやう」)は摂関家家司であった藤原親隆が久安二(一一四六)年頃に作成したと推定されているもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『群書類從』「新校・第二十卷」(内外書籍株式会社編・同社昭和四(一九二九)年刊)の当該部をリンクしておく。左ページ上段の四行目の『次酒器』の『次』の割注の最後に、『生海鼠』とある。これは、「和名類聚鈔」に照らせば、まず、「生」で「なま」、「海鼠」で「こ」で、全体で「なまこ」と読んでいるものと断じてよい。但し、私が調べた限りでは、この刊本には、「熬海鼠」は、ない。写本が国立国会図書館デジタルコレクションにはあるが、流石に、それを蜿蜒と探す気は起らない。悪しからず。但し、「本朝式」に載るのだから、あって当然であろうし、生の海鼠を食う以前に、熬(煎)海鼠は食されていたことは、百%、間違いない。

「玉造」ここで、大いに困った。これは、文章の前後から判断して、書名と採るしか、ない。ところが、東洋文庫版で、躓いた。そこでは、他の明らかな書名には、総て鍵括弧が打たれているのに、この「玉造」には、鍵括弧がないのである。注も、ない。ネットでこの書名の古書を探したが、存在しない。そこで、国立国会図書館デジタルコレクションで、「焦鼠 玉造」で検索した結果、一九七七年国書刊行会刊の北水協会編纂「北海道漁業志稿」を見つけた。ここである。そこでは、「焦鼠」に「いれるこ」という別なルビがあって、後に『(玉造)』とあったので、欣喜雀躍したのだが、この部分の文章を読むに、明らかに、本書の叙述とコンセプトが酷似しているのに、甚だ、疑問を持った。そこで、調べると、当該書の冒頭に書かれている『引用書目』(と言っても、引用注は存在しない参考書目である)のここ(左丁の上段六行目)に本書が挙がってあったので、無批判に使用したことが判ったから、これはアウトとなった。他には、「玉造」という書名は見出せなかった。ただ、私は、嘗つて、海産生物だったと思うが、「~たまつくり」と称した江戸期の随筆か、料理書を国立国会図書館デジタルコレクションで視認した記憶があったので、調べたが、徒労で、見出せなかった。そこで、一縷の望みを賭けて、「焦鼠」で同所で検索した結果、私の尊敬する大島廣先生の論文に載っているのを見出した。『九州帝國大學農學部學芸雜誌 』(6(2)・九州帝國大學農學部発行・一九三五年二月発行・雑誌合本)の「沖繩地方產食用海鼠の種類及び學名」の冒頭で、『海鼠の內臟を去り煮て乾燥し食用に製品となしたものを我國では延喜式以來“熬海鼠”と書いてイリコ(伊里古)と訓ましてあるが, なほ“焦鼠”“煎海鼠”なとと書く場合もある。』と述べておられるので、この「焦鼠」が、異称として存在したことは確かでは、ある。なお、この論文は、各個種を詳細に解説した優れたものである。全文をじっくりと読みたいものである(今は、そんな時間がないのが、悔しい!)。私に出来ることは、ここまでである。どなたか、「焦鼠」を載せた古書で、「玉造」或いは「たまつくり」を書名に持つものを御存知の方は、切に御教授願いたい。

「伊勢守貞陸記(いせのかみていりくき)」東洋文庫版では、『〔『伊勢貞陸自筆記』カ〕』(同書では、書名は二重括弧である)と割注してあったので、当該書を国立国会図書館デジタルコレクションで調べたが、ない。ネット検索で、「宮内省書陵部」公式サイトで「貞陸自筆記」を見つけたが、閲覧申請をしないと、見ることが出来ないので、諦めた。

因みに、作者は、室町・戦国時代の武将伊勢貞陸(いせさだみち 寛正四(一四六三)年~永正一八(一五二一)年)で、伊勢貞宗の長男。二度、山城守護となり、同国の一揆後の混乱収拾に当たった。将軍足利義稙に仕え、延徳二(一四九〇)年、幕府政所執事となった。武家の故実に通じ、「常照愚草」などを著わした。初名は貞隆で、後に貞綱と名乗った。通称は七郎で、号は汲古斎である(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「くろもの」確認は出来ないが、この呼称は如何にも納得出来る。

「後世(のちのよ)、『煎乾(にぼし)』の製あるより」この「」は、所謂、お馴染みの「煮干し」のことである。一般には、ニシン上目ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonicus で作ったものであるが、ニシン亜目ニシン科ニシン亜科マイワシ属マイワシ Sardinops melanostictus・ニシン科ウルメイワシ亜科ウルメイワシ属ウルメイワシ Etrumeus teres・ニシン科キビナゴ亜科(或いはウルメイワシ亜科)キビナゴ属キビナゴ Spratelloides gracilis 、また、アジ目アジ科

アジ亜科 Caranginae のアジ類・サバ亜目サバ科 Scombridaeに属するサバ類・新鰭亜綱棘鰭上目ダツ目トビウオ科 Exocoetidaeのトビウオ類の幼魚などを原料とするものもある。

「塵添壒囊鈔」単に「壒囊鈔」とも呼ぶ。十五世紀の室町時代に行誉らによって撰せられた百科辞書・古辞書。同書の記載は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本の、巻一の「五十九」条の、ここ、である

「『煎海鼠(ぜんかいそ)』の文字(もじ)ある」上記リンク先では、「イリコ」とルビが振られており、この「ぜんかいそ」というルビは、誤りである。

2025/10/19

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「異獸」

[やぶちゃん注:底本はここから。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。]

 

 「異獸」 安倍郡藥澤村《やくさはむら》にあり。傳云《つたへいふ》、

「當村の六兵衞、上田村の住《ぢゆう》、彥右衞門は、共《とも》に、木挽《こびき》を業《わざ》として、「七つ峯《みね》」の東に、小屋を造りて、住《すみ》けり。

 明和元年十二月、或《ある》雪の夜《よ》、連來《つれきた》りし犬の子、吠《ほゆる》事、頻《しきり》にして、何かは、知らず、小屋の巡《めぐ》りを、

「どたどた」

と、廻《まは》る音、す。

 六兵衞、生れ付《つき》、憶病《おくびやう》にして、大《おほい》に怖れ、彥右衞門をおこして、

「かく」

と、告ぐ。彥右衞門、怖れず、

「深山《しんざん》、怪《くわい》ある事、常なり。是《ここ》に限るべからず。」

と、聊《いささかも》、動《どう》ぜず、また、寢《いね》たり。

 時に、其音、彌《いよいよ》、高く、狗《いぬ》の吠《ほゆ》る事、ますます、烈《はげし》く、釣置《つりお》く所の材木、兩三本《りやうさんぼん》、響《ひびき》に應じて、落《おち》たり。

 彥右衞門、起《おき》て戶外《こがい》を見るに、尺五、六寸[やぶちゃん注:約四十五~四十八センチメートル。]の足跡、積雪に、

「ひし」

と殘れり。

 よく日《じつ》、二人共、小屋を出《いで》て、「大日嶺《だいにちれい》」の方《かた》に行《ゆく》に、彼《かの》、足蹟、あり、「一枚草履《いちまざうり》」と云《いふ》所に至《いたり》て、絕《たえ》たり。

 終に其姿を見ず。

 是《これ》、雪の、性《せい》、こりて、怪をなせる處也。

 山家《やまが》の民《たみ》、此怪を呼《よび》て、

『雪童(ゆきわ)』[やぶちゃん注:特異点の原本のルビ。]

と云《いへ》り。

 西河內《にしかはうち》の奧、藁科《わらしな》の邊《あたり》、此事、まヽあり。云云。」。

 是《これ》、世にいふ、『雪女《ゆきをんな》』の類《るゐ》にや、尋《たづね》べし。

 

[やぶちゃん注:本書の中で、細部の描写に至るまで、最も、リアリズムに富んだ怪奇談である!

「安倍郡藥澤村」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、『静岡市旧安倍郡地区』『薬沢村』とし、『現在地名』を『静岡市井川(いかわ)』とし、『大井川最上流部に位置し、右岸の河岸段丘に集落がある。南は上田(うえだ)村。戦国期は井河のうちに含まれ、役沢とも書く。天正七年(一五七九)一〇月二五日の武田家朱印状写(駿河志料)によると、海野弥兵衛尉に新恩分として下井河の「役沢」内の四〇〇文の地が与えられている。同一七年六月一八日刻銘の鰐口(井川神社蔵)に「井川郷薬沢之村十二天御宝前」との銘がある。近世は井川郷(井川七郷)の一村で、天正一八年に検地が行われている(一一月八日「井河中野・屋くさわ分畠帳」森竹家文書)。領主は安西外(あんざいそと)新田と同じ。』とあった。政令都市となったため、現在は葵区井川となって、ここ(グーグル・マップ・データ)である。「ひなたGIS」の左の戦前の地図を見られたいが、実は旧井川中心地区は、ダムによって、殆んどが水没している。しかし、右の現在の国土地理院図の、ここの中央に、「薬沢」の地名が現存していることが判った。同じ場所のグーグル・マップ・データ航空写真もリンクさせておく。

「七つ峯」ここは、「ひなたGIS」でないと、確認出来ない。しかも――井川――現在のダムの――ずっと南方向の山中――にあった。ここ(戦前の地図で「七ゥ峯」、国土地理院図で「七ッ峰」)であった(標高千五百三十三メートル)。

「明和元年十二月」この年は閏十二月がある。正の十二月は一七六四年十二月二十三日から一七六五年一月二十日までである。徳川家治の治世。

「大日嶺」ここも、「ひなたGIS」で、それらしいピークを見つけた。前の「七つ峯」から、東北の、ダムの南東の、比較的近い位置に「大日峠」を見出せる。そして、そのネームの南西直近に千二百・五メートルのピークがあるから、ここが、「大日嶺」であろう。

「一枚草履」これは、流石に、アカンわ! 国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、ダメだった。恐らく、当時の木樵り達が附けた呼称であろう。

「雪童(ゆきわ)」これは、静岡の民俗伝承としては、残っていないようである。御存知の方があれば、是非、御教授願いたい。

「西河內の奧、藁科の邊」「西河內」は、現在の西河内川(にしかわうちがわ)であろう(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)。この上流が、ロケーションの「七ッ峯」に当たるので、違和感はない。「藁科」は、ここで、この北に登る上流は、やはり「七ッ峯」に近い。

「雪女」う~ッ……こんなデッかい「雪女」……ああ! でも! そうだ!……私が電子化注した「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 化女 苦し 朧夜の雪」に(出現から結末の部分までを引いた)

   *

……ある曉、便事(べんじ)のため、枕にちかきやり戸押しあけ、東の方を見出でたれば、一たん計りむかふの竹藪の北の端(はし)に、怪しの女、ひとり、たてり。せいの高さ一丈もやあらん。かほより肌、すきとほる計り、白きに、しろきひとへの物を着たり。其の絹、未だ此國にみなれず、こまかにつやゝか也。糸筋(いとすぢ)、かくやくとあたりを照し、身を明らかに見す。容貌のたんごんなるさま、王母(わうぼ)が桃林(たうりん)にま見え。かくや姫の竹にあそびけん、かくやあらん。面色(めんしよく)によつて年のほどをうかゞはゞ、二十歳(はたとせ)にたらじ、と見ゆるに、髮の眞白(ましろ)に、四手(しで)を切りかけたるやうなるぞ、異(こと)やうなる、いかなるものぞ、名をとはん、とちかづき寄れば、彼(か)の女、靜かに薗生(そのふ)に步(あゆ)む。いかにする事にや、見屆けて、と思ふほどに、姿は消えてなく成りぬ。餘光(よくわう)、暫し、あたりを照して、又、くらく成りし、此の後、終(つひ)に見えず。明けて、此の事を人に語りければ、夫は、雪の精靈、俗に雪女といふものなるべし。かかる大雪の年は稀れに現はるといひ傳へ侍れど、當時(たうじ)、目(ま)のあたり見たる人もなし。ふしぎの事に逢ひ給ふかな、と、いはれし、予、不審をなす。誠(まこと)、雪の精ならば、深雪(しんせつ)の時こそ出づべけれ、なかば消失(きえう)せて春におよびて出づる事、雪女ともいふへからず、と、いへば答へて、去る事なれど、ちらんとて花うるはしく咲き、おちんとて紅葉(こうえふ)する、燈(ともしび)のきえんとき、光り、いや、ますがごとし、と、いはれし、左もあらんか。

    *

とあるのは(挿絵有り!)、この足跡のデカさでも、おかしくないワイナッツ!!!……でもね……やっぱ……小泉八雲の「雪女」が、ええなあ!!!(私の「小泉八雲 雪女  (田部隆次譯)」をどうぞ!♡!)

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「淚雨」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。]

 

 「淚雨」 安倍郡、安部河原《あべかはら》にあり。傳云《つたへいふ》、

「往昔、有渡郡《うどのこほり》河鍋村《かはなべむら》天坪【小地名《せうちめい》。】に、七兵衞と云《いふ》農夫あり。

 一日《いちじつ》、彼《かの》居地《きよち》を穿《うがち》て、一《ひとつの》壺《つぼ》を得たり。其製、甚《はなはだ》、奇佳《きか》[やぶちゃん注:あまり見慣れない熟語だが、「珍奇佳麗」の意。]也。後《のち》、是を江都《かうと/えど》に獻ず。

 卽《すなはち》、上覽に備《そなふ》る處、頗《すこぶる》、名器たるに依り、永く、御數奇屋《おすきや》に納《をさめ》られて御寶物《ごはうもつ》となる。

 今に至《いたり》て、此壺、御茶詰入《おちやつめいれ》として、城州宇治に往來する時、安倍川を過《すぐ》れば、必《かならず》、雨、降る。

 里人《さとびと》、號《なづけ》て、

「故鄕を、すぐる、淚雨《なみだあめ》。」

と云《いふ》。

 又、其壺を得たる所を、「天坪《てんつぼ》」と唱へて、小地名とす。云云。」。

 按《あんず》るに、「天壺」と稱する御壺《おんつぼ》、御數奇屋にあるを聞かず。今、紀伊殿に「有明《ありあけ》」と號《がう》して、祕藏の名壺あり。是、大納言光貞卿[やぶちゃん注:後の時宗の父。]の時、大猷院殿大樹[やぶちゃん注:家光。「大樹」は征夷大将軍の唐名。]より拜領せらるヽ處の御茶壺也。『此壺を出《いだ》せば、極《きはめ》て、雨、ふる故に、近頃、是を出されず。云云。』。若《もしく》くは、此「有明」の名壺、彼《かの》「天坪」より、掘得《ほりえ》る處にして、後、光貞卿に玉《たま》ふか。或云《あるいはいふ》、『「天坪」は、壺を、改《あらた》め書《しよ》する處[やぶちゃん注:壺銘を改めて名付け変えた仕儀。]也。云云。』。

 

[やぶちゃん注:この地名として「天坪」であるが、「静岡観光コンベンション協会」ホームページ内のサイト「大御所四百年記念 家康公を学ぶ」の「安倍川をめぐる出来事」のページの、「樋泉(といずみ)」の項に、

   《引用開始》

 樋泉という地名が現在の駿河区泉町にある。「昭和6年までは「樋泉町」(といずみちょう)と呼ばれている地名で、戸籍にも記されている。その昔、現在の静岡駅周辺は、安倍川の伏流水として流れていたため、安倍奥を水源とする綺麗な水脈が流れ、この辺りで一気に溢れ出てて[やぶちゃん注:ママ。]いた。そのため清水尻(シミンジリ)とよばれた湧水池帯であった」と語るのは泉町にお住まいの萩原敦子さんである。この湧水は柿田川遊水地に劣らないほどの広大な規模であったという。

 この周辺は、新幹線と静岡駅の工事で一変したという。世紀の大工事で周辺人家の移転もさることながら、水を守るお地蔵さんも引越した。地続きの旧川辺村字天坪も昔は一つの村で、大御所時代には家康公に仁兵衛なる人物の井戸水は名水で、お城に御茶の水を運んでいたと伝えられている。仁兵衛の屋敷から一つの壺が出土し、名器とされて宇治に遣わす茶壷(天壺が茶壺の名前になったとも)の一つに加わったという(萩原敦子様談)。

   《引用終了》

とあることで、現在の安倍川河口近くの左岸で、駿府城の南東直近の市街地である駿河区泉町(いずみちょう)町内(グーグル・マップ・データ)である。ひなたGIS」の戦前の地図で、「樋泉」を確認出来る。

「御數奇屋」江戸幕府の職名の一つであった、若年寄の支配に属した数寄屋頭の指揮を受けて、将軍を始め、出仕の幕府諸役人に茶を調進し、茶礼・茶器を司った数寄屋坊主によって、茶・茶道具を管理した部署・部屋を指すのであろう。

「城州宇治に往來する時」所持する平凡社「世界大百科事典」の「茶壺道中」の項に、『江戸時代,幕府が毎年,茶道頭以下に命じて山城の宇治茶を取り寄せ』、『将軍に献上した行事,また,その茶壺の往来をいう。宇治から茶壺を禁裏などに進献する行事は,すでに室町時代にみられるが,統一政権の成立後は豊臣秀吉や徳川家康の代にその原型ができ,3代将軍徳川家光の1632年(寛永9)より制度化した。初期には茶壺を数寄屋坊主23人に持たせ,徒士頭(かちがしら)1人と走衆数人を引きつれて宇治にいたり,御物茶師の上林家らに銘茶を選んで詰めさせ,密封して山城愛宕山上に100余日格納したあと,江戸城に持ちかえって将軍や大奥などの飲用に供し,日光妓・久能山にも供え,一方,禁裏・仙洞へも進献した。その後,5代将軍綱吉の代になると,茶壺の愛宕山格納を廃して,帰路は中山道・甲州道中経由,甲斐都留郡の谷村(やむら)城内の風穴に格納したが,さらに1738年(元文3)には東海道を直送,江戸城内の富士見櫓の上層に納めることになった。茶壺道中は将軍家御用であるため,上使と三縁の中間に位する威儀をもち,東海道などの諸大名や沿道住民に対する横暴もはなはだしく,種々の弊害を生じた。なお,水戸徳川家など三家でも茶壺の往来があった。』とある。いやはや……。]

2025/10/18

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「祖益化牛」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。なお、最後の欠字二字分の二箇所の部分は、底本では、長方形である。]

 

 「祖益化牛《そえき うし に ばける》」 安倍郡《あべのこほり》牛妻村《うしづまむら》にあり。傳云《つたへいふ》、

「牛妻村の奧、行翁山《ぎやうわうさん》より、十八町計り、龍爪山《りゆうさうさん》【庵原郡《いはらのこほり》也。】の申酉《さるとり》の方《かた》、麓平山《ろくへいさん》と云《いふ》所に、庵室《あんじつ》をむすび、閑居する僧あり。道白《だうはく》と號す【今、此地を號《なづけ》て「道白平《だうはくだいら》」と云《いへ》り。】。此地、深山《しんざん》にして、民家に遠し。或時、一匹の牛、來《きた》り、日を經て、去らず。和尙、試《ここみ》に、其牛の角に、書《しよ》を結《むすび》て、安倍市《あべのいち》に用を求《もつむ》るに、至《いた》り、辨《べん》ずる事、人の如し。市人《いちびと》、書を見、其《その》品種《ひんしゆ》を賣り、牛の背に結び、返す。此《この》牛、和尙に仕《つか》ふる事、年を經て、かくの如し。其來由《らいゆう》を尋《たづぬ》るに、もと、道白が弟子に祖益と云《いふ》僧あり。或日、探鉢[やぶちゃん注:ママ。底本の異なる(写本)の「近世民間異聞怪談集成」でも同じであるが、これは、「托鉢」(たくはつ)の誤りであろう。]して、國主今川家の館《やかた》に入《いり》、美女【姓名、失《しつす》。】を見、忽《たちまち》、戀慕の心、起《おこ》り、終《つひ》に、想死《おもひじに》す。彼《かの》女は田野《たの》と云《いふ》所の產《うまれ》にして、後《のち》、舊里に歸る。時に、此牛、夜々《よなよな》、女の門《かど》に來《きたつ》て、臥《ふし》、晝は、道白に仕へたり。是より、「田野」を改《あらため》て「牛妻村」と云《いふ》也。彼《かの》道白、笑山宗誾《しやうざんそうぎん》大和尙は、天文年中の人にして、道德明知の僧也。後に、有渡郡《うどのこほり》今泉村《いまいづみむら》に一院を建立し、開山となる。補陀山楞嚴院《ほださんりやうごんゐん》【始《はじめ》、今泉山《いまいづみさん》と號す。曹洞、寺領五石、武州靑梅村《おむめむら》天寧寺末。】、是也。永祿十二年六月二日、寂す。彼《かの》道白一代の記は、上總國《かずさのくに》□□村□□山圓覺寺にあり、云云《うんぬん》。」。

 

[やぶちゃん注:「牛妻村」前篇「異人行翁」で注したのを、そのまま移す。現在の静岡市葵区牛妻(グーグル・マップ・データ)。竜爪山の東方部分。この村は、先行する「牛化石」で注を書いてあるので、見られたい。

「麓平山」確認出来ない。読みは、私が勝手に当てたものである。

「道白」後に出る「笑山宗誾大和尙」で、これは、戦国から織豊時代の曹洞宗の名僧笑巌宗誾(しょうがんそうぎん ?~慶長三(一五九八)年)である。石見佐波(島根)生まれで、講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠れば、『諸国遊歴ののち,周防(すおう)(山口県)竜文寺の雲庵透竜』(うんなんとうりゅう)『に師事し,その法をつぐ。永禄』一〇(一五六七)『年』、『三善隆芳』・恵雲『らが創建した石見(いわみ)(島根県)大竜寺の開山(かいさん)となる。晩年は出雲(いずも)(島根県)常福寺の住持をつとめた。』とある(一部は国立国会図書館デジタルコレクションの諸書で補ったが、関連人名は、調べてみても、よく判らなかった)。

「國主今川家の館《やかた》に入《いり》、美女【姓名、失《しつす》。】を見、忽《たちまち》、戀慕の心、起《おこ》り、終《つひ》に、想死《おもひじに》す。……」「テレビ静岡」の「テレしずWasabee わさび」内の「【珍地名】静岡市の「牛妻」 地名の由来は“叶わぬ恋”の切ない伝説だった!」に牛妻に八十年住んでおられ、牛妻の歴史に詳しい「理容かわづ」の店主川津通久さんからの聴き取り取材記事である。川津さんのお手製の紙芝居の画像もある。「祖益」が恋慕した娘の名もちゃんと出ている。

   《引用開始》

「昔々、今から450年くらい前のことですが、竜爪山の南側の山奥に、道白平というところがありました。人がめったに来られない深い山奥で、大勢のお坊様が日夜、仏様の教えを学ぶ修業を積んでいました。

仏の道を説く道白(どうはく)和尚は、祖益(そえき)という若者に期待し、指導をしていました。

ある日、祖益は修業の托鉢(たくはつ)を行うため今川家が治める城下町へ向かうと、そこである出会いが。

府中の町の今川家の館には、小萩という奥女中が奉公していました。

小萩は田野村、今の牛妻の田野の生まれで、とても美しく優しい心をもった娘でした。

祖益は小萩に会うたびに「なんて美しく優しい娘さんだろう」と、小萩に強い恋心を抱くようになりました。

道白和尚は祖益の様子から気がついて「仏の道を修行している者が、女性に恋心を抱いては畜生道(ちくしょうどう)におちるぞ」と、強く諭しました。

しかし、小萩のことをどうしても忘れることができない祖益は、とうとう恋の病に取りつかれ、看病のかいなく死んでしまいました。

恋の病で死んだ祖益は、和尚様の言う通り地獄の畜生道に落ちて、一頭の黒い雄牛に生まれ変わりました。

そこには、祖益とのうわさが原因で今川家の館を追い出された小萩がいました。

実家に戻っていた小萩はこの黒い牛を哀れんで、毎日親切に黒い牛にえさを与えました。

小萩の生まれた田野村の人々は、牛になっても小萩のことを思う祖益を哀れみ、この日以降、田野村を牛妻村と呼ぶようになり、橋には「小萩橋」という名前を付けました。

地名の由来は修行僧と村娘の叶わぬ恋にまつわる物語だったのです。

   《引用終了》

因みに、以下に、新たに作られた小萩橋の画像もあるので、見られたい。

「田野」この娘の生まれた地名だが、実は、「ひなたGIS」を調べたところ、「牛妻」地区には「丹野」の地名が、戦前から、あるのである。但し、これを「たの」と読むかどうかまでは、判らなかった。孰れ、どなたかが教えて下さるのを俟ちたい。

和漢三才圖會卷第九十二之本 目録 草類 藥品(6) 相畏

 

  相畏   十九種

 

官桂與石脂 牙硝與三稜 川鳥頭草烏頭與犀⻆

丁香與欝金 硫黃與朴消 狼毒與密陀𰂬

[やぶちゃん字注:「𰂬」は「僧」の異体字。]

水銀與砒霜 巴豆與牽牛 人參與五靈脂

 

   *

 

  相畏(さうい)   十九種

 

官桂《くわんけい》と石脂《せきし》と。

牙硝《がしやう》と三稜《さんりやう》と。

川烏頭《せんうす》と草烏頭《さうううず》と犀⻆《けいかく》《と》。

丁香《ちやうかう》と欝金《うこん》と。

硫黃《ゆわう》と朴消《ぼくしやう》と。

狼毒《らうどく》と密陀𰂬《みつだそう》と。

水銀(はらや)と砒霜《ひさう》と。

巴豆《はづ》と牽牛《あさがほ》と。

人參《にんじん》と五靈脂《ごれいし》と。

[やぶちゃん注:訓読では、総てを並置した。]

 

[やぶちゃん注:最初に断っておくと、「硫黃」を「いわう」ではなく、「ゆわう」と読んだことを述べておく。硫黄は現行の日本では、「いおう」と読んでいるが、本邦では、古くは「ゆわう」と読んでいたとされる。これに就いては、高圧洗浄機を始めとした専用工作機械を製作している「株式会社菅製作所」の公式サイト「AGUS」の「元素【硫黄】番号16・記号Sを詳しく知ろう!社会で役立つ化学の基礎知識」の「硫黄の歴史」の項で、『元素記号:S』『英語名:Sulfer』である『硫黄の語源は、二つの説があり、一つはラテン語で硫黄を意味する「sulpur」、もう一つはサンスクリット語で「火の元」を意味する「sulvere」です。発見については、紀元前と言われています』とあり、『ちなみに、日本語での「硫黄」の由来は、「湯黄(ゆおう)」がなまって言い伝えられ、「硫黄(いおう)」になったとされています。』とあるのである。而して、本「和漢三才圖會」の「卷六十一」の「雑石類」に「硫黃」があるのだが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の、私の底本と同じもので示すと、ここで、標題部に(推定訓読した。字配は、読み易くするために手を入れ、読みを一部に添えた)、

   *

ゆわう   石硫黃《せきいわう》 黃牙《わうが》

      黃硇砂《わうどしや》 陽侯《やうこう》

硫黃   將軍

     【和名、「由の阿和《ゆのあわ》」。】

リウ ハアン  俗、云ふ、「由王《ゆわう》」。

   *

とあり、「和名類聚鈔」の「卷一」の「水部第三」「河海類第十」にも(国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の当該部で推定訓読した)、

   *

流黃(ヲアハ/ユワウ[やぶちゃん注:右左のルビ。]) 「本草疏(《ほんざう》しよ)」に云《いは》く、『石流黃《いしいわう》、焚石《ふんせき》の液《しる》なり【和名「由《ゆ》の阿和《あわ》」。俗、云ふ、「由王《ゆわう》」。】』《と》。

   *

とある。以上から、良安は「硫黃」を「ゆわう」と訓じていると断じた。なお、東洋文庫訳でも、竹島氏も『ゆおう』と振っておられる。

「官桂」肉桂の異名。双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科ニッケイ属ニッケイ Cinnamomum sieboldii 。詳しくは先行する「肉桂」を参照されたい。

「石脂」前の「肉桂」で注したが、引いておくと、ハロイ石(HALLOYSITE:ハロイサイト)。粘土鉱物の一種で、火山灰に含まれる硝子質成分より変質して生じたもの。電子顕微鏡下で観察すると、ボール状の形態を成す。本邦では、現在は岐阜県中津川市八幡産のものが知られる。

「牙硝」「馬牙硝」(ばがしょう)の異名。硫曹石を再結晶させて精製した、天然の硫酸ナトリウムの水和物。「芒硝(ぼうしょう)」とも呼ぶ。漢方薬では乾燥させた硫酸ナトリウムが便秘の際の便の軟化に用いられており、また、「おでき」や湿疹による炎症を鎮静させる効果も認められる。「和漢三才図会巻第四十(末) 獸之用 角(つの)」で注したことがある。

「三稜」単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科ウキヤガラ(浮矢幹)属ウキヤガラ Bolboschoenus fluviatilis の塊茎の表皮を剝いで乾燥させたもの。漢方で通経・催乳薬等に用いる。当該ウィキによれば、『北海道から九州までの浅い池の周辺部等に生える。ウキヤガラの名は、浮き矢幹であり、真っすぐに伸びる花茎に由来するものである。その他、朝鮮、中国、北アメリカに分布する』とある。よく見かける野草である。

「川烏頭」「藥品(1)」で既出既注。そのまま移す。「烏頭」は猛毒で知られるモクレン亜綱キンポウゲ(金鳳花)目キンポウゲ科トリカブト(鳥兜・草鳥頭)属 Aconitum を指す。種にもよるが、致命的な毒性を持ち、狩猟や薬用に利用されてきた歴史がある。この「川烏頭」は四川省の栽培品名とされる。

「草烏頭」同じくトリカブト(モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum )のトリカブト類の若い根。猛毒で、殺虫・鎮痛・麻酔などの薬用に用いられる。「そううず」「いぶす」とも言う。

「犀⻆」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犀(さい) (サイ)」の私の注を見られたい。

「丁香」先行する「植物部 卷第八十二 木部 香木類 丁子」の私の注を見られたい。

「欝金」ウコン属ウコン Curcuma longa 。熱帯アジア原産であるが、十五世紀初めから十六世紀後半の間に、沖縄に持ち込まれ、九州・沖縄地方や薬草園で薬用(根)及び観葉植物として栽培された。

「朴消」ブログ「細野薬室 細野漢方薬局」の「芒硝について 第31話」に、

   《引用開始》

 生薬の長い歴史の中で、同名異物・異物同名の物を時折見かけますが、この芒硝もその一つに数えられます。後漢の頃に成立した本草書の「名医別録」には「芒硝」として記載されていましたが、最古の本草書である「神農本草経」には「朴消」と言う生薬名で記載されていました。そして、明代(16世紀)に李時珍が記した「本草綱目」で芒硝と朴消は同一の物とされました。両者の差は純度の問題であるとしたのです。

 天然の芒硝を煮て溶かし濾過し、濾液を冷却後析出してきた結晶を芒硝といい、下層に析出してきた物を朴消であるとされています。一般に、朴消は不純物を多く含むので朴消の方が良品であるとされています。

 主成分は、硫酸ナトリウムで他に微量の塩化ナトリウム、塩化マグネシウム、硫酸マグネシウムおよび硫酸カルシウムなどの無機塩が含まれています。

 奈良の正倉院には芒硝が現存しており、1200年を経た現在も風化せず灰褐色の柱状結晶を保っています。ただ、成分を調べたところ硫酸ナトリウムではなく硫酸マグネシウムであったとのことでありました。

 芒硝は、本草学的には鹹(塩からい)・苦で大寒の性質があります。鹹は、固い物を和らげる性質があるとされ、苦は下に引き下ろす、例えば瀉下作用があることを意味します。また、大寒は冷やす作用が非常に強いと言うことを意味します。つまり、芒硝は熱が原因で体内で硬くなった大便を柔らかくし(科学的には大腸内の水分を増す作用があるとされている)、排泄を促していると考えられます。

 東洋医学の古典の「傷寒論」には以下の条文があります。「陽明之為病、胃実家是也」。つまり、陽明病は裏位(身体の内部)に熱が充満していると言う病態を意味します。その結果、大腸が極度の乾燥状態になり硬くなるということです。

 芒硝は同じく瀉下作用のある大黄と組んで瀉下作用が増強され、その結果、解熱することになります。代表的な処方に「大承気湯」や「調胃承気湯」があげられます。

 大承気湯は、大黄・芒硝・枳実・厚朴の4味からなり、非常に強力な瀉下作用があります。細野史郎は、次男の高熱を大承気湯で解熱させました。何日も40度以上の高熱が続き柴葛解肌湯や大青竜湯でも解熱せず、当時師事していた新妻良輔先生に診ていただいて新続命湯と言う薬方を投与したがそれでも解熱しませんでした。そこで、死んでも構わないやと大承気湯をやるとオナラと一緒に大量の黒い大便が出て解熱したと言うことでした。死ぬか生きるかの瀬戸際の様な時に行く様な処方なのでしょう。細野の処方集にはありませんが、ツムラにはある様です。と言うこともあり、個人的には鳥頭湯と並んで非常に怖い薬方と言う印象があります。

   《引用終了》

とあった。

「狼毒」「藥品(2) 六陳」の当該注を参照されたい。

「密陀𰂬」しょう氏のブログ「漢方生薬辞典」の「密陀僧」に、『鉛の溶解したところを鉄の棒でかき回し、鉄の棒に付着した鉛を冷水に浸してできる一酸化鉛(リサージ:Litharge)』(PbO)『を密陀僧という。かつては方鉛鉱から銀や鉛を精錬する際に炉の底に沈着した副産物であった』。『橙黄色の不規則な塊状で、くずれやすく、かすかに得意な臭いがある。この粉末は酸にもアルカリにも溶け、空気中に放置しておくと徐々に二酸化炭素を吸収して塩基性炭酸鉛(鉛粉)となる。薬理学的には皮膚真菌に対して抑制作用が知られている』。『漢方では消腫・殺虫・生肌の効能があり、痔、湿疹、腫れ物、潰瘍、腋傷、腋臭の外用薬として用いる。庁瘡、火傷、切傷、梅毒性皮膚病などの治療薬に鉛丹・瀝青などと配合した神力膏がある。』とあった。ウィキの「一酸化鉛」によれば(下線太字は私が附した)、『鉛と酸素の化合物』。『組成比は1:1で、別名は酸化鉛(II)』。『両性酸化物である。赤色・正方晶系で室温で安定なα型と、黄色・斜方晶系で300℃以上で安定なβ型がある。β型への転移温度は587℃だが、酸素分圧に依存する。α型の別称は密陀僧(みつだそう)・リサージ』、『β型の別称は金密陀(きんみつだ)・マシコット』(Massicot)『共に、鉱物としても産出する』。『金属鉛の加熱、硝酸鉛のアルカリ処理、または炭酸鉛の加熱で得られる』。『古代ローマ時代などから顔料として用いられており、中世からマシコットと呼ばれるようになった』。『また、クリスタル・ガラスの製造にも用いられる。 皮蛋(ピータン)の熟成を促進する黄丹粉』(「おうにこ」と読んでおく)『の主成分も一酸化鉛である』。『セラミックス、ゴムの加硫』(かりゅう:硫黄を用いて材料に架橋を起こす製法。加硫を行うと、原材料に架橋反応が起こり、原材料の化学性質が変わる。以上は当該ウィキに拠った)に用いる。現代では、『鉛中毒を起こすので、顔料や皮蛋(ピータン)などでは使われなくなってきている』。『ただし、皮蛋の無鉛製品と命名されて、黄丹粉を使用していないとした製品にも』、その実、『鉛が使われている場合が指摘されている』と注意喚起がなされてある。

「水銀(はらや)」「藥品(1)」の複数の私の注を参照されたい。

「砒霜」猛毒の砒素を含む有毒の鉱物。砒霜石。砒石。同じく、しょう氏のブログ「漢方生薬辞典」の「砒石」に、『ヒ素を含む生薬には雄黄、雌黄、砒石、砒霜、石譽などがある。砒素の「砒」とは天然に産する無水亜ヒ酸(三酸化ヒ素)の砒華鉱石、つまり砒石のことである』。『しかし、現在では硫化物の鶏冠石やヒ化鉱物の石譽(硫砒鉄鉱:FeAsS)などを加工したものが砒石として用いられている。また砒石を昇華させて精製したものは砒霜という。無水亜ヒ酸』(As2O3:三酸化二砒素・三酸化砒素とも呼ばれる)『は単に亜ヒ酸とも呼ばれ、これは細胞を変成、壊死させる細胞毒で、内服すれば胃腸に出血性炎症を生じ、肝障害や腎障害、皮膚にヒ素疹などをひきおこす』。『致死量は約』0.1グラム『であり、急性中毒ではコレラ様の胃腸症状、筋肉痙攣をおこし、昏睡となり、死亡する。慢性中毒では食欲不振、皮膚の色素沈着や白斑、抹消神経障害や頭痛などがみられる。また発癌性物質として取り扱われている』。『かつてヒ素化合物のサルバルサンが水銀に代わる駆梅薬としてよく知られていた。ヒ素をごく微量だけ飲むと体力がつき、女性は肌が美しくなるという説もあり、アジア丸などが強壮薬として用いられたこともあった』。『漢方では性味は辛酸・熱・大毒で、去痰・抗瘧・殺虫・去腐の効能がある。おもに痔や瘰癧(頸部リンパ腺腫)、歯槽膿漏、皮膚潰瘍などの外用薬として利用された。内服では』、『ごく微量を慢性気管支炎やマラリアに用いる』とあった。

「巴豆」「卷第八十三 喬木類 巴豆」の私の注を見られたい。

「牽牛」お馴染みのナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科 Ipomoeeae 連サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil の種子の生薬名。黒色を呈するものと、白いものがあり、それぞれ、「黒牽牛子」「白牽牛子」と呼ぶ。両者の効能は変わらないが、古くは「白牽牛子」を尊んだ。今日では黒種子の方がよく用いられている。「譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(14)」の私の「黑牽牛子」の注を見られたい。

「人參」朝鮮人参。セリ目ウコギ(五加木)科トチバニンジン(栃葉人参)属オタネニンジン(御種人蔘) Panax ginseng

「五靈脂」中国に棲息する哺乳綱齧歯目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista の糞を基原とした生薬。「金澤 中屋彦十郎藥局」公式サイト内のこちらによれば、『成分としてはビタミンA類、その他で』、『炒りながら』、『酢や酒を加え、乾燥したものがよく用いられる』。『かつては解毒薬として蛇、ムカデ、サソリ等に咬まれたときに外用した』とある。]

2025/10/17

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その14)/「昆布の說」~了

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここの最終行から。表は、作り直すのは面倒なので、底本から画像で取り込み、トリミングして、かなり補正・清拭を加え、当該部に挿入した。前に比して、数字が、やや読み難いが、汚損を念入りに拭いつつ、各個の数値を確認したが、「四」の最終画がないものが多いものの、数値判読を迷うものは、一つもないと思う。]

 

【明治六年より十五年まで十ケ年。】淸國昆布輸入調《しらべ》

 

Tab2

 

此(こヽ)に因(より)て見れば、漢口(ハンコウ)、九江(キウコウ)、芝罘(シーフー)、天津(テンシン)を最(さい)とす。元來、本邦昆布は、從前は、長崎、琉球より輸出し、上海(シヤンハイ)、福州(フクシウ)に輸入したるも、即今(そくこん)は、悉(ことごと)く、一旦、上海へ輸入し、夫(それ)より、各港へ轉輸(てんゆ)するなり。茲(こヽ)に揭げた(かヽ)げたるは、一旦、上海へ輸入し、再び、分輸(ぶんゆ)したる高(たか)を、引去(ひきさ)りたる數量なり。天津、芝罘、牛莊(ぎうさう[やぶちゃん注:ひらがなはママ。])は上等を要(よう)せず。近年に至り、滿州產(まんしゅうさん)、及び、薩哈連島產(サガレンとうさん)の、低價のものを輸入するにより、本邦產は、彼地(かのち)に販路(はんろ)を失(うしな)へり。幸(さいわひ[やぶちゃん注:ママ。])にして、漢口、九江、鎭江(ちんかう[やぶちゃん注:ひらがなはママ。])の販路は、本邦產のみに限り、殊(こと)に、刻昆布(きざみこんぶ)は、彼地(かのち)に產せざるにより、利を、專有せり。上海に輸出するものは、揚子江を遡(さかのぼ)り、運搬するものにて、其中(そのうち)、漢口市塲(ハンカウしぢやう[やぶちゃん注:ママ。])より分輸するものを、尤(もつとも)、多し、とす。此他(このた)は、陜西(きやうさい[やぶちゃん注:ひらがなはママ。以下同じ。])、湖南(こなん)、四川(しせん)の要衝(ようしやう[やぶちゃん注:ママ。])に當り、殊に、茶、及び、藥品等(とう)の產、多く、其地(そのち)の物產に富(と)むを以て、貿易、甚(はなは)た[やぶちゃん注:ママ。]、盛(さかん)なるに、よれり。此地、河南(かなん)、陜西(きやうさい)、貴州(きしう)、山西(さんせい)、廣西(こうさい[やぶちゃん注:ママ。])へ輸送し、九江(きうこう)、漢口(ハンコウ)より、湖北(こほく)、安徽(あんき)、江西(こうせい)、其他へも、分輸せり。故(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、上海の相場は、漢口、九江の景況(けいきやう)[やぶちゃん注:経済上の景気の状態。]により、變動せり。而して、彼地にて價格を定むるや、品位に差ありて、海帶(かいたい)【板昆布。】に「頭番(とうばん)」[やぶちゃん注:一番。最優等品。]、「二番」、「次霉(じこう)」の三等あり。帶絲(たいし)【刻昆布《きざみこんぶ》。】に一番、二番あり。又、需用も、各地、異(ことなれ)り。海帶、頭番は、四川省【三分《ぶ》。】、湖南省【壹分四厘。】、陜西省【壹厘。】、甘肅省【二毛。】、浙江省【二厘。】、直隷省(ちよくれいしやう)【七厘。】、牛莊【二厘。】、湖北省【壹分五厘。】、江西省【二分。】、江蘇省【二毛。】、安徽省【四毛。】、福建省【五毛。】、山東省【五厘。】、山西省【二厘。】、雲南省【二毛。】、河南省【四毛。】の割。同二番は、山東省、山西省。同次霉は、山東省【十分の七。】、江蘇省【十分の三。】。又、帶絲は、四川省【十分の五。】、湖北省【十分の五。】、湖南省【十分の二。】の割合なり。同二は、四川省【十分の三。】、湖南省【十分の五。】、安徽省【十分の五厘。】、湖北省【十分の二。】、河南省【十分の二厘。】、江西省【十分二の八。】。同三は、四川省【十分の三。】、湖北省【十分の二。】、江西省【十分の四】、安徽省【十分の五】、河南省【十分の五厘。】なり。

[やぶちゃん注:地名は一部を除き、いちいち、注さない。但し、省の位置、及び、それぞれの民俗・習慣・嗜好・倹約等によって、製品の金額が異なるものと推定されるので、省の位置を色分けして判り易くしてあるサイト「旅情中国」の「中国地図」をリンクさせておくので、位置が判らない方は、そちらで、確認されたい。「お前は判るのか?」と言われるかも知れないが、私は高校時代に「地理B」まで受講した――これ自体が、当時は、極めて稀であった――地理フリークなのである(唯一、覚えるのに苦労したのは、無味乾燥なアルファベット記号の「ケッペンの気候区分」だったな……年号も覚えるのが苦手だったので、「日本史」「世界史」も大学試験では選ばず、「政治経済」をカップリングした)。

「芝罘(チーフー)」既出既注だが、これのみ、聴き馴れない旧名地名なので、特異的に再掲する。現在の山東省の地級市である煙台市(えんたい/イェンタイし)。山東半島東部に位置する港湾都市。当該ウィキによれば、『かつて西洋人にはチーフー(Chefoo)の名で知られたが、これは伝統的に煙台の行政中心であった市の東寄りにある「芝罘」([tʂí fǔ]、日本語読みは「しふう」)という陸繋島に由来する。今日の「煙台」という名は』、『明の洪武帝の治世だった』洪武三一(一三九八)年『に初出する。この年、倭寇対策のために奇山北麓に城が築かれ、その北の山に倭寇襲撃時に警報の狼煙を上げる塔が建設された。これが簡単に「煙台」とよばれるようになった』とある。

「直隷省」東洋文庫版の編者注に、単に『直隷ともいう。明代から清代にかげて、黄河下流の北部地域を指した行政区域である。現在の河北省にほぼ該当する。』とある。

「牛莊」この場所が、即座に正確に想起出来るのは、「地理」ではなく、「世界史」を受講し、しかも、「中国近代史」が好きな方だけであろうと思う。私も判らなかった。私は、所持する平凡社「世界大百科事典」の『営口  えいこう Yíng kǒu』を読んで、やっと納得できたのである。以下に引く(太字下線は私が附した)、『中国,遼寧省にある省直轄市。人口218万(うち市部61万,1994)。旧名は没溝営。鎮海営の駐屯地であったのと,遼河の河口に当たっていたので営子口とも呼ばれ,営口と略称されていた。清代,1866年(同治5)』、『営口海防同知がおかれ,1909年(宣統1)』、『海城・蓋平2県の地を割いて』、『営口直隷庁がおかれ,13年』、『県となり,38年』、『営口県の一部を割いて』、『市制施行。遼寧省の重要海港の一つで,1858年(咸豊8)』[やぶちゃん注:本邦では安政五年。]『天津条約による牛荘(ニユーチャン)の開港にともない,イギリス領事館が営口に設けられた。ために』、『当時外国では』、『ニューチャンの名で呼ばれていた。東北産の大豆の大部分を輸出したが,のち』、『大連に繁栄を奪われた。今は紡織,機械,化学,食品,紙パルプ工業の盛んな工業都市。営口県の県治は市の東方の大石橋におかれていたが,1992年から大石橋市と改名した。米,綿,リンゴ,サクサン糸を産し,マグネシウムの豊富な埋蔵で知られ,瀋大線(瀋陽~大連)に沿う。大石橋から営口市に支線の営口線が分岐。営口に近い海城県に原発建設の計画がある。』とある。現在、遼寧省鞍山市の県級市である海城市(ハイチョンし)の実際の現存する地名としての「牛荘」鎮は、内陸のここであり、実に、河口から遡ること、六十九キロメートルもあった、ここに本当の「牛荘」は、あったのである。しかし、以上にあるように、本書で「牛荘」と呼ばれている港は、当時は既に、営口(簡体字では「口」)にあったのであり、遼寧省中南部にある地級市営口市内の、「渤海」の北東の「遼東湾」の湾奥の、恐らく、この辺りにあったものと推定されるから、注意されたいのである。ウィキの「営口市」によれば(太字下線は私が附した)、『牛荘が土砂の堆積で使用できなくなったため、1864年に営口が条約港となり、遼東湾唯一の港として満州の大豆などの対欧州積出港となった。その後、南満州鉄道により大連が勃興したため、対日対欧州取引が衰退、営口は沿岸貿易港となった。』という経緯が書かれてある。実に、以上の「ややこしや」の事実を、やっと私が認識出来たのは、複数の論文を読んで判った――検索と読みで一時間以上かかった――ことなのであるが、特に、地図はないものの、賈微氏の論文「清末営口の開港と日本との貿易について」(『文化交渉 東アジア文化研究科院生論集』二〇一四年九月発行所収・ PDF「関西大学学術リポジトリ」のここで入手出来る)が最も役に立った。やや長いが、以上の私の解説が信じられない方は、必ず、ご覧あれかし!

「九江」現在の江西省北部に位置する地級市九江市。市区部は長江沿岸の重要港湾都市として知られる。当該ウィキによれば、『北に長江を臨み、南に名山・廬山』『が聳える。市名の由来は』「書經」の「禹貢」に『「九江孔殷」と見え、長江が』、『この付近で諸川を集め水勢を強めること』に由来する。『湖北、安徽、江西三省が交界し、兵家必争の地でもある』とある。

「次霉(じこう)」これが、判らない。ネット検索でも、中文でも掛かってこない。国立国会図書館デジタルコレクションの検索でも、昆布関連の古い書物に、確かに三等の呼称として出るものの、読みや意味を記すものは、ない。この「霉」は「廣漢和辭典」に載るが、音は「バイ・マイ」とあるだけで、「コウ」という音は、ない。第一義が、『梅雨。かび』(=黴)『の意で、梅雨は物をくさらせるのでいう。』とし、第二義が、『しめりしみ。』(湿り・染み)とあり、「中華大字典」を引き、『霉、今俗語潮涇汚點、通ジテㇾ霉。』とあって、最後に『黴』『の簡化字。』とあった。「潮涇」の「涇」は「濕」の本字であり、「維基詞典」の「潮濕」(=「潮涇」)には、「形容詞」とし、機械翻訳に手を加えると、『通常よりも多くの水分を含むさま』と言った意味である。なお、「Weblio」の白水社「中国語辞典」のには、名詞『カビ』と、動詞の『かびる』とする。拼音は『méi』である。以上から、まず、読みの「じこう」というのは、誤りと断じてよく、読もうなら、「ジマイ」がよいか。而して、「次霉」の意味であるが、幾ら、第三等の製品であっても、モロに「黴(かび)」のニュアンスを出すのは、食品呼称として、いただけない。されば、この熟語は、上製の二製品の「次」の最下品(さいかひん)であり、上製物と異なり、「乾燥が充分でなく、湿気をより含んでいて、見た目も黴(かび)を連想させるような汚点・傷等がある物」という意味で採っておく。別な読み・意味を御存知の方は、是非、御教授を乞うものである。

 

 抑(そもそも)、我(わが)昆布は、淸國輸出品中、第二等に位(くらひ[やぶちゃん注:ママ。])し、凡(およそ)一ケ年平均、二千五、六百萬斤內《うち》、壹分《いちぶ》を刻《きざみ》とす。而して、上海の通況(つうけう[やぶちゃん注:ママ。])[やぶちゃん注:見慣れない熟語であるが、「全般的に一般的な日本製の昆布についての評価等の状況」という謂いであろう。]によれば、刻昆布中(ちう)、「東京切(とうけいぎり[やぶちゃん注:ママ。私には違和感はない。])」と稱するは、其製、粗惡にして、「大坂切(おほさかぎり)」よりは、稍々(やや)、價格も下直(かちよく[やぶちゃん注:ママ。「値段が安いこと」であり、「げぢき」が正しい。])にして、加(くはふ)るに、明治十三年[やぶちゃん注:本書刊行の六年前。]、「東京切」の分(ぶん)、腐敗を生じ、殆(ほとん)ど、泥土(でいど)と等しく、顧(かへりみ)るもの、なきに、至る。故に、持主は、大損(おほぞん)を來(きた)せし輩(はい)も、少(すくな)からず。然(しか)るに、其後(そのご)、有志の回復する所(ところ)ありて、「大坂切」の上(かみ)に出(いづ)るの氣勢(きせい)あるも、未だ、全(まつた)く整理したるには、あらざるなり。亦、長切昆布は、從前の如く、短(みじか)きを棄去(ききよ)すべし[やぶちゃん注:製品から抜き取って廃棄せねばならない。]。如何(いかん)となれば、短きは、需用地にて、好(このま)ざればなり。其(その)好まざる所以(ゆゑん)は、惡葉(あくは)を切斷(きり[やぶちゃん注:ママであるが、ここは「せつだん」の方が続きがよい。])したるものと思考するより、忌嫌(きけん)するなり。近年、本邦輸出昆布の最も盛(さかん)なりしは明治六年にて、一ケ年千十一萬石餘に及べり。是れ、產出の多きと、五年より、函館に開通社(かいつうしや)を設立し、直輸(ちよくゆ)の道を開きしに、よれり。然(しか)るに、當時、輸出の程度は、六、七萬石なりしか[やぶちゃん注:ママ。「が」。]、如此(かくのごとく)、俄(にわ)かに、供給(きやうきう[やぶちゃん注:ママ。])の過度を生じ、價格に影響を及ぼし、七年には、價(あたひ)、頓(とみ)に下落し、前年、百石、七百貳拾圓のもの、五百五拾圓となり、輸出高も八萬六千石に減じ、爾後(じご)、十年に至る迄、甚(はなはだ)、不活發なりしか[やぶちゃん注:ママ。同前。「が」。]、十一年に至り、輸出額は增したるも、價格は洋銀の下落により、進まずして、當業者(たうぎやうしや)は、困弊(こんへい)を極めたり。故に、常に銷路(せうろ)[やぶちゃん注:「販路」に同じ。「商品の売り先・受け入れ市場」のこと。但し、本邦の熟語ではなく、中国語である。]の如何(いかん)に注意するを緊要とす。又、長昆布は、每年四月に新昆布を輸入し、十月に至る迄の間を、販賣の好季とす。十一月以後は、內地運輸の水路、氷塞(ひようそく[やぶちゃん注:ママ。])するが爲に、市場の氣配、自(をのづか)ら沈欝(ちんうつ)し、隨(したがつ)て、買客(かひて)も、各(をのをの)、歸鄕せり。但《ただし》、二、三の兩月中(ちう)にも、既に、多少の賣買(うりかひ)ありと雖も、未だ盛昌(せいしよう[やぶちゃん注:ママ。])なるに至らず。而して、上海市上(シヤンハイしじやう)に輸出する荷物の中(うち)、十の八、九は、漢口(ハンカウ)へ向け、再び、輸出して、宜昌(せんせう)、或は、四川地方に於て、消費し、殘餘の一、二は、天津、及び、山東(サントン)、九江、鎭江等(とう)へ回漕《くわいさう》し、該地方(《がい》ちはう)に於て、消費するものなれば、常に、當業者は、此販路、及び、賣買(うりかひ)の季節に注目をするを緊要とす。元來、本邦の昆布は、北海道出產、總額の五割七分餘は、輸出にして、四割二分を內國用となすを、常とせり。此外、三陸產八千六百石も皆、內國用なり。刻昆布は、舊來、大坂にて、專ら、製し、東京にては、天保の末に創(はじ)め、函館にては、嘉永四年[やぶちゃん注:一八五一年。徳川家慶の治世。]に創め、淸國行は、大坂、多く、函館、之に亞(つ)き[やぶちゃん注:ママ。「ぎ」。]、東京、又、之に亞ぎしが、今は之に反し、函館を第一とし、東京、大坂、之に亞げり。然(しか)れども、淸國人の信用は、函館製を、第一等とす。十年迄は、大坂製を多しと、したれども、十一年以來は、東京製の輸出、增進して、十五年に至(いたつ)ては、東京製、大坂に五倍せり。又、函館も、十年以來、大(おほい)に增加せり。然(しか)れども、內國用は、未だ、大坂に及ばず。

[やぶちゃん注:「開通社」「函館市/函館市地域史料アーカイブ」の「函館市史 通説編 第二巻」の「第4編 箱館から近代都市函館へ/第6章 内外貿易港としての成長と展開/ 第3節 外国貿易の展開/ 3 開拓使用達による直輸出」の「函館店開業と上海支店・開通洋行」に解説されている『北海道の輸出海産物を集荷するための』「開通洋行」のこと。

   《引用開始》

 一方北海道の輸出海産物を集荷するための函館店は翌65月に開業した。用達の名代として赤井善平と安達栄蔵の両名が4月に函館に到着して、函館支庁に51日から開業する旨の届けを提出したが、彼らは同時に保任社と運漕社の函館店の取扱も兼ねていた。函館支庁に提出した書類には「清国直輸 開拓使御用達商会」とあり、また清国直輸のために函館港に帆船弘業丸を定繋し、上海直通の便を開設する予定であることを述べている(明治6年「諸局往復留」道文蔵)。

 函館店の開業の準備を終えて、次に上海に売り捌き機関を設置することにした。5月に用達田中治郎右衛門と笠野熊吉両名から清国店を開業するので商号を付与されるように願書が提出され、開拓使は「開通号」とするように指示を出した。翌6月に袴塚次郎兵衛ら3名を社中名代として上海に派遣することを決めた(「開公」5740)。彼ら名代は7月に日本を立ったが、1010日付けで笠野から開拓使にあてて上海フランス公司路46番の地に開通洋行(洋行は号と同義)を開店した旨の通知を提出している(「開公」5750)。

 さて、それでは直輸商会の動向はどうであったろうか。函館で開業した69月に赤井善平はそれまでに買い付けした昆布や煎海鼠等3000石を函館に碇泊中のイギリス船シーベル号を雇船して上海へ輸出するために願書を函館支庁民事課に提出した。それは直輸商会函館店にとって始めての輸出であった。函館支庁は「何分直輸創業ノ事」であり、かつ「一応其地(編注・東京出張所)ヘ相伺候上差許可申ノ処昆布其他莫大ノ荷物モ相揃商法ノ時機難差延切迫」の事情があるため出帆を許可する決定をした。しかし5年に布達された「不開港場心得方条目」に抵触する可能性もあるため、今後の扱いについて東京出張所に照会した(「開公」5741)。この後支庁と東京との往復があり結局は願書提出してから1か月後に届書で処理するかたちで許可された。また同年12月には木村万平の手船善通丸に商会の昆布と万平の昆布1600石を積み込み上海の開通洋行に向け函館を出帆し、翌72月長崎に入港したが、外務省発行の出帆免状を携帯していなかったため、その取り扱いをめぐり開拓使と外務省が数度にわたり協議している。このように当初は手続きの不徹底や規則が関係者に充分浸透していないなど多くの障害があったようである(明治7年「往復綴込」道文蔵)。

 また保任社・運漕社・清国直輸商会という3本柱の経営形態で始められたにもかかわらず75月に保任社の解散を命じられ、さらに中枢の用達の足並みも揃わず、破産没落するものも出たため直輸商会の手で行われた輸出も僅少にとどまったようである。ちなみに上海の開通洋行に関しては71月の『新報節略』に掲載された「開拓使御用達商会ヘ行キ刻昆布ノ輸出ヲ依頼シ見本トシテ同会社枝店上海開通号ヘ送リ…」といった記事がみうけられる程度で詳しい実態は不明である。『大日本各港輸出半年表』によれば函館港における日本商人の手による輸出額は明治7年は48520円、8年は22042円であった。この時期において他の邦商が輸出に取り組んだかどうかは不明であるが、おそらくこの輸出のほとんどが清国直輸商会の手になったものであろう。開通洋行は104月に廃止するが、その母体である直輸商会は、その後北海道商会と衣がえして貿易業から撤退した。

   《引用終了》

「宜昌」現在の湖北省宜昌市

「鎭江」現在の江蘇省鎮江市。]

 

以上說く所によれば、本邦より淸國へ輸出する昆布の額は、彼(かの)需用者に比(ひ)すれば、九牛(きうぎう)の一毛(いちもう)にして、今、板昆布の輸出高、拾萬石を、四億萬の人口に割賦(かつぷ)すれば、僅(わづか)に、壹口(ひとくち)、貳勺五才《にしやくごさい》、則(すなはち)、量、壹匁《いちもんめ》に過(すぎ)ざるなり。若(も)し、壹口に貳升五合、卽(すなはち)、壹貫目を費すに至れば、四億萬貫目(しおくまんぐわんめ)、卽(すなはち)、一千萬石にして、代價も、百石、五百圓とすれば、五千萬圓の多きに至るにあらずや。故に、採收季(さいしうき)を制定し、製法を精良にし、冗費(じやうひ)を省き、價(あたひ)を廉(れん)にして、販路を擴(ひろ)め、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、繁殖法を施(ほどこ)すが如きに達せんことを、希望の至(いた)りに湛(たへ)ざるなり。

[やぶちゃん注:「九牛の一毛」「多くの牛の中にある僅か一本の毛」の意で、多数の中の極く一部分。取るに足りないことの意。出典は「漢書」「司馬遷傳」である。

「割賦」この語は「負債・代金などを月賦・年賦などで何回かに分割して支払うこと」であるから、相応しい語ではない。「割當(わりあて)れば」とすべきところ。]

2025/10/16

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その13)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここ。表は、作り直すのは面倒なので、底本から画像で取り込み、トリミングして、やや補正・清拭を加え、当該部に挿入した。]

 

抑(そもそも)、昆布の輸出は、開港前(かいこうぜん)は、一ケ年、三千石許(ばかり)に過ぎざりしも、漸次、增加し、明冶十四年[やぶちゃん注:一八八一年。]に至(いたつ)ては、拾貳萬七千石余《あまり》に至る。之を、開港前に比すれば、四拾二倍の增加に至りしか[やぶちゃん注:ママ。「が」。]、俄(にわか[やぶちゃん注:ママ。])に、輸出供需(きやうじゆ)の度(ど)を失ひたりと、粗製濫造(そせいらんぞう)と、商賣上、資力の乏しきとによりて、貿易上は、不活發、屢(しばしば)、不利を極(きわ[やぶちゃん注:ママ。])むること、あり。從來は、日高、三石近傍の產、盛(さかん)にして、現今は、根室の方(はう)、盛(さかん)なり。釧路、根室兩國(りやうこく)に於て、昆布採船(こんぶさいせん)の增加したること、左(さ)の如し。

 

Tab1

 

此(かく)の如く、昆布採船(こんぶさいせん)の增加したるは、其場所、增加し、資金貸與(しきんたいよ)等(とう)によると雖ども、前(ぜん)に云(いふ)如く、貿易上の不利ありて、昆布の產出は、次第に增加し、且(かつ)、製方の粗(そ)なるにより、其(その)需用、澁滯し、加之(しかのみならず)、銀貨、低落せるにより、兪(いよいよ)、其價(そのあたひ)を下落せしめ、出產者(しゆつさんしや)に影響を及ぼすこと、少(すくな)からず。廣業商會(こうぎやうせうくわい[やぶちゃん注:ママ。])【淸國貿易專業とす。】の如きは、十二年以來、年々、賣殘品(うりのこりひん)、多く、十二年の昆布を、十四年に至(いたつ)て尙(なほ)、三萬七千石餘(よ)、貯藏するに至れり。

[やぶちゃん注:「廣業商會」短いが、当該ウィキがある。『明治時代初期に存在した日本の総合商社で』、設立は明治九(一八七六)年六月で、『三井物産を凌ぐ規模を有し、東京本店、函館、長崎、神戸、大阪、横浜、上海、香港支店を設置していた、内務省・大蔵省の用達貿易会社である』が、『横浜正金銀行による外国人を対象に入れた荷為替営業の開始により、広業商会は縮小・整理され』、十四後の明治二三(一八九〇)年に『閉鎖』とある。サイト「森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト」の、非常に歴史的自然・文化をディグしている「1899年の幌泉郡」(一八八九年は明治三十二年)には、『1877(明治10)年以降は人口が少しずつ増え、廣業商会の資本投入によって出荷金額が増大した』。『1878(明治11)年、「廣業商会」が資金を投入して漁業を展開し、とりわけ昆布の水揚げ量が増えた』。『とりわけ1880(明治13)年は』、『とりわけ』、『豊漁に恵まれて非常な好景気に沸いた。ところがさほど経たないうちに弊害が出て、1882(明治15)年、廣業商会の経営悪化にともない』、『地方経済も不振に陥った』とあり、さらに「1899年の歌別村 うたべつむら」の項では、『かつて「昆布小屋」と「番屋」が建っていた。1870(明治3)年、南部(岩手県)出身の移入者が初めてこの地に定住するようになった。1872(明治5)年、昆布干場の割り渡し事業にともなって移入者数が増え、「出稼ぎ人」と合わせて42世帯を記録したが、早くも翌年1873(明治6)年には、税金を支払えずに十勝方面・西部方面に転出する人たちが出て、村内の世帯数は減った』とあり、『廣業商会や日本昆布会社が進出して一時的に活況を呈したのは、幌泉郡内のほかの村と同様である。しかし近年は昆布がぜんぜん育たなくなっていて、かつて場所請負制の時代には100石(18.0m3)の昆布を水揚げしていた同じ場所でも、現在はわずかに30石(5.4m3)しか収穫できなくなっている。このため』、『人口も減り続けている』とあった。最後に、東洋文庫版の編者注も挙げておく。『日本人商人が居留清商の金融支配を脱し、海外貿易を拡大することを目的に設立された明治時代の総合商社。明治一一年(一八七八)設立、同二三年閉鎖。東京本店、函館、長崎、神戸、大阪、横浜、上海、香港支店を設置した、内務省・大蔵省の用達貿易会社である。当初、清国輸出品の荷為替の取扱、委託販売、官品の販売の三点を業務とし、後、荷為替業務の国内での適用、荷為替の利用対象者に居留清国商も含めること、委託販売の国内適用、広業商会独自の買付等を認められている。松方財政の時期、国立銀行条例に準拠した横浜正金銀行(明治一三年)が、外国人を対象に入れた荷為替営業を開始し、多くの役割は代替され、広業商会は縮小・整理された。』とある。]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その12)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。]

 

昆布を淸國に輸出するの創始は、得て考ふ可らずといへども、德川時代の舊記によれば、慶長八年、海外貿易上、金銀貨濫出(らんしゆつ)を憂ひ、制限を立(たて)、專ら、物品を以てするの時に、あるが如し。然(しか)れども、「經濟秘書」によれば、明和の頃、長崎輸出昆布ハ、千三百石目《め》許(ばかり)に過(すぎ)ず。寶曆十四年、俵物受負人(たはらものうけおひにん)を派(は)して、買集(かいあつ)めしめ、天明五年に受負人を廢(はい)し、會所直買(くわいしよぢきかい[やぶちゃん注:ママ。])とし、爾來(じらい)、員數(いんず)、增加し、開港前迄にハ、一ケ年三千石目に至りしも、尙、今日(こんにち)の盛(さかん)なるに及ばざりしなり。而して輸出せる昆布ハ、往昔より、產地を變換し、最初は、陸中の產にて、夫(それ)より、渡島產(をじまさん[やぶちゃん注:ママ。])に移り、日高、根室と、漸次(ぜんじ)、奧地に移れり。「蝦夷奇觀」に【志苔、しのり。】昆布を淸國に輸送することを載せたるも、今は、此品(このしな)を輸出することなく、又、「長崎俵物役所明細帳」に、南部昆布を、天明五年より寬政六年迄、千石宛(づゝ)、翌年より文化五年迄は、二千石宛、同十年千石、翌年より文政二年までに千石宛、同三年より天保二年迄は、買入高(かいいれだか[やぶちゃん注:ママ。])、追々(おひおひ)、相減(あひげん)じ、同三年に至り、唐商(とうせう)の好まざるより、之を廢止す、とあり。然れども、陸奧產(むつおくさん)の元昆布、或(あるひ)は、濱昆布(はまこんぶ)と唱ふるものは、維新前(いしんぜん)迄、長門(ながと)の下關(しものせき)に輸送し、長崎に回(まは)して、廣東人(カントンじん)に賣渡(うりわた)し、又、琉球よりも、此(この)濱昆布と、廣昆布、三石昆布との、三品を輸出せり。長崎よりも、廣昆布は、近年迄も、輸出す。然(しか)れども、目今(もくこん)[やぶちゃん注:「目下・現今」に同じ。]、輸出するは、日高、根室、釧路、北見、十勝等(とう)の產に限れり。其中(そのうち)、根室の昆布は、天保三年、藤野喜兵衞《ふじのきへい》の花咲(はなさき)の地にて、採收したるより、はじまりたるものにて、輸出の如きは、全く、近年にあり。

[やぶちゃん注:「德川時代の舊記によれば、慶長八年、海外貿易上、金銀貨濫出(らんしゆつ)を憂ひ、制限を立(たて)、專ら、物品を以てするの時に、あるが如し」東洋文庫版の編者注に、「舊記」『として何を参照したかは不詳。慶長八年(一六〇三)は徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開かれた年である。室町時代以来の朱印船貿易と並行しながら、江戸時代には、慶長九年から糸割符制度によって貿易統制がなされ、以後、長崎においては、貨物市法(寛文一二年・一六七二)、および、それに代わる定高貿易法(貞享二年・。六八五)が実施され、正徳五年一七一五)には新井白石により、海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)か制定され、国際貿易額を制限するようになった。』とある。

「經濟秘書」、国立国会図書館デジタルコレクションの「農事参考書解題」(農商務省藏版・一九七〇年国書刊行会刊)のここに(ポイント・字空けは再現していない)、

   *

經濟秘書              寫本一冊

弘化四年[やぶちゃん注:一八四七年。家慶の治世。]正月佐藤信淵[やぶちゃん注:「さとうのぶひろ」と読む。明和六(一七六九)年生まれで、嘉永三(一八五〇)年没。江戸後期の思想家で、経世家・農学者・兵学者・農政家でもあるが、本業は医師。出羽国出身。]著ス所ニシテ復古法槪言、理財法大意ノ二項ト爲シ國土ヲ經營シ萬貨ヲ豐饒ニシテ人民ヲ救濟スルノ大要ヲ論ス織田完之[やぶちゃん注:「おだかんし」と読む。天保一三(一八四二)年生まれで、大正一二(一九二三)年没。農政家・歴史学者・著述家。]之ヲ藏ス復古法、經濟問答秘記等ト看スベシ

   *

とある。

「明和」一七六四年から一七七二年まで。徳川家治の治世。

「寶曆十四年」一七五一年から一七六四年まで。徳川家重・家治の治世。

「俵物受負人(たはらものうけおひにん)」「函館市/函館市地域史料アーカイブ」の「俵物指定問屋」に(冒頭をカットし、二行空けの箇所は一行にした)、

   《引用開始》

長崎会所では、延享元年から俵物一手請方制をとり、長崎商人のうち帯屋庄次郎が一手に請負うことになり、同3年引続き西川伝治が近江八幡商人代表者として、松前、箱館、江差3港の俵物集荷を命じられたが、彼らは松前の俵物を長崎へ直接送るほか、少しでも有利な所で取引を行うため、敦賀、大坂、下関においてそれぞれ問屋へ売渡していた(小川国治『江戸幕府輸出海産物の研究』)。こうした実情から宝暦41754)年に至り、長崎俵物一手請方問屋から、松前藩に対し一手買入れ願が出された。すなわち、俵物一手請方問屋のうち住吉屋新右衛門が、長崎から松前に乗り込み、松前藩と直接交渉の結果、昆布に400両、煎海鼠・白干鮑に4000両の運上金を納めて一手買請を許されたのである。かくて長崎俵物請方問屋では、松前、箱館、江差の3港にそれぞれ指定問屋を置き、各地の場所請負人および生産者から俵物を買入れさせ、その指定問屋は、松前は河内屋増右衛門、箱館は長崎屋半兵衛、江差は熊石屋吉三郎の3人であった。

 この指定問屋の設定以降は、これまで集荷に当っていた近江商人も、指定問屋に俵物を売渡さねばならず、集荷過程での近江商人の支配は著しく後退した。そしてこのことは、一方では幕府による俵物の独占集荷体制の統制・強化を意味し、同時に箱館にとっては、近江商人の支配から離れた集荷問屋の指定により、俵物生産者と地元問屋との関係が、より密接になったことを意味している。

 ことに宝暦13年、清国との唐銀貿易が開始されると、俵物はその見返り輸出品として一層重要性を増してきた。すなわち、

 

 宝暦十三年石谷備後守(長崎奉行)様御在勤の節、唐銀三百貫目持渡り、当年より始め二十年の間、年々持渡るべき由、右代り物は銅並びに俵物にて御渡方相成り候処、唐人共銅より俵物を相好み候趣、右に付是迄請高の外、俵物出方相増仕法申上げ候はば、誠に御国益の儀忠節に付、憚りなく存じ寄り申上げ候様、後藤惣左衛門殿より申聞かされ、岩原御勘定信田新助殿、篠本六左衛門殿よりも毎々御沙汰にて、猶御手頭を以て仰渡され候に付、新浦相開き、且出方相進め候ため、仲間手分致し回浦仕るべき段申上げ候処、御満足に思召され、諸国領主御代官等への御添翰下置かれ、当地在番の聞役えは御書付を以て、右の趣仰渡され候旨、仰せ聞かされ候(『長崎之俵物請方雑書』)。

 

 とあり、これによって同年10月長崎を出発して、諸国回浦が行われたが、松前、津軽・南部地方を担当したのは山下利右衛門で、この時の回浦は「諸国回浦に残る所なく相廻り、重立ち候場所場所へは詰切、新浦相開き候場所等えは、漁事の猟具拵え相与え、稼方仕立方等迄申教え、手付銀前渡し候」(前書)という徹底した増産対策をとっている。

   《引用終了》

とあった。

「天明五年」一七八五年。かの「天明の大飢饉」(天明二(一七八二)年~天明八(一七八八)年)の最中(さなか)である。

「開港」江戸幕府は安政五(一八五八)年の「日米修好通商条約」をはじめとする「安政五カ国条約」により、箱館(函館)・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の五港を開港することを決定した。神奈川の実際の開港場は街道沿いの「神奈川湊」ではなく、そこから外れた「横浜村」が選ばれ、翌安政六年に「横浜港」として開港された。

「蝦夷奇觀」(その5)で既出既注。

「【志苔、しのり。】昆布」(その4)で既出既注。

「長崎俵物役所明細帳」現在は東京大学史料編纂所所蔵。

「南部昆布」主として奥羽南部産の昆布を指した。

「天明五年より寬政六年迄」一七八五年から一七九四年まで。徳川家治・家斉の治世。

「翌年より文化五年迄」一七九五年から、享和を挟んで、一八〇八年まで。家斉の治世。

「翌年より文政二年まで」一八〇九年から一八一九年まで。同じく家斉の治世。

「同三年より天保二年迄」一八二〇年から一八三一年まで。同前。

「濱昆布(はまこんぶ)」国立国会図書館デジタルコレクションの「北水協會報告」(第五拾參號・一八九〇年一月北水協會事務所発行)のここに、『北海道厚岸邊に在りて俗に濵昆布と曰ふもの』とあるのが、それであろう。

「又、琉球よりも、此(この)濱昆布と、廣昆布、三石昆布との、三品を輸出せり」国立国会図書館デジタルコレクションの「日本昆布業資本主義史:支那輸出」(『慶應義塾経済史學會紀要』第二冊・羽原又吉著・一九四二年有斐閣刊)のここに、『恐らく之は密貿易であらう。』とあった。

「天保三年」一八三二年。家斉の治世。

「藤野喜兵衞」初代藤野喜兵衛(明和七(一七七〇)年~文政111828)年)は江戸時代後期の商人で、近江出身。十二歳で蝦夷地松前に渡り、寛政一二(一八〇〇)年、独立して海運業を営んだ。文化三(一八〇六)年、余市を手始めに、宗谷・斜里・国後に場所請負を拡大し、松前有数の豪商となった。松前藩御用達を務め、第六代藤野四郎兵衛を継いだ。屋号は柏屋(以上の主文は講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。但し、ここでは、「天保三年」とあるので、ウィキの「藤野喜兵衛」にある、初代喜兵衛の娘婿で、柏屋の全盛を築いたとある、二代藤野喜兵衛(弘化二(一八四五)年没)である。

「花咲(はなさき)の地」「図版6」で既注。「根室國花咲郡花咲」で、現在の北海道根室市花咲町「ひなたGIS」も添えておく。]

2025/10/15

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その11)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。]

 

前條は、本邦古來よりの用法なれども、淸國に就て需用の槪況を云(いは)んに、「唐書(とうしよ)」「渤海傳(ぼつかいでん)」に、『俗に貴(たつと)ぶ所、南海の昆布。』とありて、昆布の史傳に見る。甚(はなはだ)古く、唐宋時代にあり。而して、數部の本艸書(ほんざうしよ)に載(の)するところ、『昆布は醋(す)に拌(あへ)て葅(そ)となす。』[やぶちゃん注:「葅」は「野菜を塩や酢に漬ける。また、その野菜。漬け物。」を意味する漢語。]とし、『海帶(かいたい)は、器用(きよう)を束(つか)ぬる繩索(なわ[やぶちゃん注:ママ。])に代るもの。』[やぶちゃん注:「海帶」は、以下で解説しているが、より詳しくは、本篇の「(その1)」の本文及び私の注を見よ。]と、のせ、食法を詳らかにせずといへども、近時、淸國人は、「板昆布(いたこんぶ)」を「海帶」、「刻昆布(きざみこんぶ)」を「帶絲(たいし)」と、いひて、獸肉に混煑(こんしや)して嗜好(しこう[やぶちゃん注:底本では、「きこう」であるが、誤記・誤刻と断じて、特異的に訂した。])し、江西、湖南、湖北、陜西(きやうせい)、四川等(とう)の諸省に於て、『炭毒(たんどく)を銷解(せうげ)するの功あり。』とて、需(もと)むるもの、甚(はなはだ)、多し。北京等(とう)に於ては、官菜(ざしき)に用ゆることなく、多く、家常菜(さうざい)のものとすれども、四川等の地にありては、刻昆布を『五色(ごしき)の菜(さい)の一(いつ)』として珍膳に供するものとす【「五色菜」とは、「紅色鷄冠草」、「白色寒天」、「黑色海參」、「黃色鮑」、「靑色刻昆布」とす。】。

[やぶちゃん注:「炭毒」これは手強いと思っていたが、「神奈川大学学術機関リポジトリ」の『神奈川大学アジア・レビュー』第六号(二〇一五年三月発行)に載る中林広一氏の論文「昆布と炭毒 -多面的な文化理解の起点として-」PDF)を発見した。そこでは、まさに以上の本文も引用されてあった。中林氏に拠れば、『炭毒は石炭の使用に起因して発生する毒素であると考えて良い。イザベラ・バードの書き留めたところによると、とりわけ石炭を燃やす時に生じる硫黄の毒気を中和する効果が昆布には備わっていると考えられていたようである』。『当時の記述には昆布を「消毒薬」と称するものも見られることからすると、昆布と解毒作用を結びつける認識は一定の程度人々の間で共有されていたと考えられる』とされ、以上の河原田氏の示した中国の省名をもとに、『長江の上流から中流にかけての地域に限定された需要として示されている』と述べられ、『また、華北の一部地域においてもこの風習が行われていたが』、『以上の諸地域に共通する点は昆布と炭坑・鉱山との結びつきである。『満州に於ける塩干魚、寒天、昆布事情』に「昆布は炭毒の予防に効があり且つ滋養に富むと称して炭山地方の需要は殊に多し」と』、『『函館税関による報告書『昆布』に「猶ホ鉱山地方ニ於テハ鉱毒ノ防遏剤トシテ多食セラルトモ云ハル」と両者の関係性が明記されている』とあった(「防遏」は歴史的仮名遣「ばうあつ」、現代仮名遣「ぼうあつ」で、「侵入や拡大などを防ぎとめること」で「防止」と同義)。則ち、この「炭毒」とは、特定された疾患では、ないのである。以下、子細に検討された内容が続くのであるが、注記記号が随所にあることもあり、これ以上は引用をしない。是非、御自分で、お読みあれかし。

「官菜(ざしき)」この「ざしき」は「座敷」の当て訓であり、個人ブログ「酒好きおかみの独り言」の「官府菜(官府料理)」を見るに、『管府菜とは、宮廷料理ほど贅沢ではないが、貴族官僚にふさわしい料理を追求していくとともに発展してきた料理です』。『当時、士大夫階級の家で供されていた古くより伝わる中国料理のジャンルで』、『その味は四川料理の代名詞である花椒と唐辛子の麻婆味を基本に四川独特の七味を組み合わせ、火を大いに用います』。『食感はあくまでも柔らかく仕上げることにこだわったもの』で、『1.厳選素材』・『2.厳選調味料』・『3.十分な火力』・『4.細かな飾り』『が四大要素とされています』とあって、腑に落ちた。

「五色菜」言うまでもなく、中国では、陰陽五行説に基づく五の名数が定番である。ウィキの「五味五色」(ごみごしょく)によれば、『陰陽五行説に由来する五味と五色の概念を合わせた料理用語で』、『しばしば、「五味五色五法」「五味五感五色五法」などと、他の概念も組み合わせた表現をなされることがある』とし、「各国での五味五色」の「中国」の項には、『食材の味と色に対して、それぞれ力を与えるとする臓器を割り当てたものとなって』おり、『この考えの元では、「緑」「酸っぱい」は肝臓、「赤」「苦い」は心臓、「黄」「甘い」は脾臓、「白」「辛い」は肺、「黒」「塩辛い」は腎臓を養うとされている』とあり、『中国では、この考えに基づいて、食欲がない児童には脾臓と対応する甘い・黄色の食べ物を与えたり、風邪を引きやすい児童には肺と対応する白い・辛い食べ物を与える風習があ』り、『また、中国料理の薬膳は、五味五色にあたる料理の一例として考えられている』とある。

「紅色鷄冠草」ナデシコ目ヒユ科ケイトウ属ケイトウ Celosia argentea 「維基百科」の同種の解説に、『ケイトウの乾燥した花序は薬用として用いられる。味は甘く、性質は冷たく、肝経と大腸経絡に作用する。この薬材は主に中国各地で生産されている。中医学では、血清止血薬に分類される。漢方薬名は「鶏冠花」で、その薬用名は「賈有本草經」に初めて記載されている』。『収斂、清血、止血、瘀血、赤痢などの効能がある。主に女性の子宮出血、機能性子宮出血、腸出血、痔出血、赤痢、下痢、帯下などの治療に使われる。現代の臨床現場では、非機能性子宮出血、月経過多、尿路感染症、痔核、細菌性赤痢、抗老化、抗疲労、血中脂質低下、腫瘍抑制、骨粗鬆症予防、免疫増強、膣トリコモナスなどの治療に使われている。福建省では、白い花序は帯下や女性の月経調節によく使われている』。『また、鶏頭の苗木や種子も薬として使われる』とあった。但し、食材としての記載は、そこにはない。

「白色寒天」所謂、本邦で言う「寒天(かんてん)」である。テングサ(天草)=アーケプラスチダ Archaeplastida界紅色植物門 Rhodophyta紅藻綱 Rhodophyceaeテングサ目 Gelidialesテングサ科 Gelidiaceae、オゴノリ(於胡海苔・海髪)=紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla などの紅藻類の粘液質を固めたもの(=心太(ところてん))を凍結・乾燥させたもの。但し、この製法・製品は、本邦から中国に伝わったものである。

「黑色海參」棘皮動物門有棘動物亜門ナマコ綱ナマコ目(楯手目)クロナマコ科クロナマコ属クロナマコ Holothuria (Halodeima) atra 「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「生息域」には、『海水生。岩礁域』で、『トカラ列島以南。中国、台湾、紅海、スリランカ、ティモール、ニューカレドニア、グアム、セレベス、フィリピン、オーストラリア、ハワイ、フロリダ、ジャマイカ。』とし、「基本情報」に、『海参に加工する。沖縄県では輸出用に採取している。「海参(いりこ)」、干しナマコとしての名は「黒虫参」。高級である。』とある。私は大のナマコ・フリークであるが、未だ、食したことがない。残念!!!

「黃色鮑」腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis のアワビ類を茹でて乾燥させたもの。

「靑色刻昆布」この場合、本邦産では、既に述べた通り、使用された種はナガコンブ(長昆布=「浜中昆布」) Saccharina longissima となり、その大元は、本邦の昆布製品を指していると考えてよい。されば、以上の「五色(ごしき)の菜(さい)」は、確かに、当時の清(しん)で呼称されたものではあるものの、以上のように本邦産の製品が含まれてあり、当時の清での発音も私には判らないし、河原田氏もご存知ないと、私は思う(割注であるため、ルビは、ないのである)。さればこそ、これらは、総て、本邦の読みで、読んでよいと考えるものである。

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「異人行翁」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。]

 

 「異人行翁《いじん ぎやうわう》」 安倍郡《あべのこほり》牛妻村《うしづまむら》にあり。傳云《つたへいふ》、

「往昔、當村に行翁と云《いふ》異人あり。洞中【當村ゟ《より》十八町計《ばかり》登りて、洞《ほら》、あり。卽《すなはち》、龍爪山《りゆうさうさん》の內《うち》也。】〕に住み、千手千眼の神呪《しんじゆ》を唱ふる事、久し。貞觀《ぢやうぐわん》十七年夏、榎部《えのきべ》と云《いふ》所の者、此《この》翁《わう》に歸依《きえ》し、時々、來《きたり》て拜《はい》せり。其後《そののち》、翁、此地をさけんがため、鐵足駄《かなあしだ》・鐵杖《てつじやう》を樹下《じゆか》に止め、既に去《さら》んとす。時に、榎部の某《なにがし》、袂《たもと》にすがりて、名殘《なごり》をおしむ事、切《せつ》也。翁、卽《すなはち》、料紙《れうし》を、こひ、名號《みやうがう》を書《かき》て、與《あた》へ、去る。終《つひ》に行方《ゆくへ》を知らず。云云《うんぬん》。」。

 里人云《いふ》、

「此翁は「元亨釋書《げんかうしやくしよ》」に載る所の行睿居士《ぎやうえいこじ》にや。此足駄は一本齒にして、古松《こしよう》三株《みかぶ》のもとに、今、猶《なほ》、存す。云云。」。

 「駿河めぐり」云《いはく》、

『牛妻村、龍爪山福壽院【曹洞、桂山村長光寺末。】より十八町奧に、行玉《ゆきたま》の古跡あり。道、甚《はなはだ》、嶮難也。「むかし、行玉《ぎやうぎよく》と云《いふ》仙人の栖《すむ》也。」とて、窟《いはや》あり。深さ、三、四間も有《ある》べし。其中に石碑あり。「南無阿彌陀佛」の六字を置《おき》あげ[やぶちゃん注:陽刻のこと。]に彫《きざ》めり。傍《かたはら》に「行玉菩薩」と云《いふ》文字《もんじ》あり。村人、誤りて、「行玉《ゆきたま》」と呼ぶ。又、山上《さんじやう》に石の唐櫃《からびつ》あり、行玉《ぎやうぎよく》の石像を納む。傍《かたはら》に、七尺あまりの鐵杖に、「安永年中」と、きり付《つけ》たり。又、安永年中、武州東叡山の行丹《ぎやうたん》と云《いへ》る僧、此窟に住《ぢゆう》して行《おこなひ》けるを、人、いたはりて、小庵《しやうあん》を作りて、住《すまは》しめけるに[やぶちゃん注:この部分の読みは、「近世民間異聞怪談集成」にあるルビを採用した。]、其後《そののち》は、行衞《ゆくへ》、しらず。今、猶、行丹が厨具《づぐ》、其儘に殘りて、あり。云云。』。

 「駿州古蹟畧」云《いはく》、

『牛妻山下《さんか》の百姓、行翁が鐵杖を取《とり》て、鍬《くは》に打《うた》せたりしに、忽《たちまち》、祟《たたり》て、其家《そのいへ》、斷絕す。今は、足駄のみ、存《そん》せり。云云。』。

 

[やぶちゃん注:「安倍郡牛妻村」現在の静岡市葵区牛妻(グーグル・マップ・データ)。竜爪山の東方部分。この村は、先行する「牛化石」で注を書いてあるので、見られたい。而して、いろいろと検索してみた結果、実は、「行翁山」なるものが、今も存在することが、判明した! 情報は、サイト「YamaReco」のnaoschizu氏の「行翁山から文珠周回 三界の滝!知らんかった」で、「写真」のパートにある、二枚の現地にあった二枚の地図を元に、位置を探ってみたところ、「文殊岳」と高圧鉄塔と「三界の滝」の位置関係から、グーグル・マップ航空写真の、この中央附近がそれであると、比定した。naoschizu氏の各地点の解説が、これまた、素晴らしく、『伝説の山寺、修験の山だった』に始まり、『行翁堂』、『修験窟(地図では行翁窟)。50年程前は鉄下駄と錫杖が置いてあったそう(地本のお爺さんに、あったろう?と聞かれたが、なかったな)。』とあり、『行翁窟』の写真もある。さらに、『行翁堂を奥に進んで、ぐえとか言いそうになる痩せ尾根を上ると、お地蔵様と鐘堂跡があ』ったとある。是非、じっくりと見られたい。

「貞觀十七年」八七五年。清和天皇の治世。

「榎部」不詳。平凡社「日本歴史地名大系」に、「榎浦里」(えのうらのさと)があり、『静岡県:駿河国駿河郡榎浦里』とし、『古代郷里制下の宇良(うら)郷の里。天平七年(七三五)一〇月の平城京跡出土木簡(「平城宮木簡概報」二二―二三頁)に「宇羅郷榎浦里」とみえる。』とあるが、これであるかどうかは、判らぬ。

「鐵足駄」鉄製の下駄。修験道のものが、修行の際に用いたりした。

「元亨釋書《げんかうしやくしよ》」史書。鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史で、著者は知られた臨済宗の名僧虎関師錬(弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)で、全三十巻。無論、全文漢文。

「行睿居士」行叡(「睿」は古字)は古代の伝承上の僧。京都東山の音羽山(おとわやま)に庵を結び、実に二百年間、修行した。宝亀九(七七八)年、延鎮(奈良・平安前期の実在した法相(ほっそう)宗の僧。大和の子島寺(こじまでら)の報恩に学んだ。京都東山の音羽山に庵を結んだ。延暦一七(七九八)年、坂上田村麻呂が同地に建立した清水寺の開山となっている)に出逢った際、この地に寺を建て、観音像を安置するように告げて、東国へ去ったとされる(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」その他を参考にした。

「駿河めぐり」駿府城第一加晩であった松平定常の管内巡見日記。

「龍爪山福壽院【曹洞、桂山村長光寺末。】」ここ。但し、個人サイト「逍遥の山」の「牛妻坂下から竜爪山」のページに、『竜爪山福寿院』として、『元は穂積神社』(ここ)『の地にあって神仏習合していたが、明治の廃仏毀釈でこちらに下りてきたという。』と、あった。

「行玉の古跡あり」不詳。しかし、「十八町奧」という距離は、先の「行翁」の遺跡群と一致する。

「安永年中」一七七二年から一七八一年まで。徳川家治の治世。

「武州東叡山の行丹」言わずもがな、寛永寺のことだが、「行丹」という僧は不詳。

「厨具」台所道具。

「駿州古蹟畧」国立国会図書館デジタルコレクションで検索を掛けると、本「駿國雜志」、及び、静岡の地誌書等に三十四件ヒットするが、当該書自体はネット検索でも見当たらない。]

2025/10/14

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その10)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。]

 

昆布を食用に供するは、二千有餘年前よりのことなるは、古史に徵(ちよう)して明(あきら)かなり。「延喜式」、民部省、大膳寮(だいぜんりやう[やぶちゃん注:ママ。])等(とう)に貢獻し、春秋(しゆんしう)の祭祀、節供(せつぐ)、年料(ねんりやう)等(とう)に供(きやう)せしものは、索昆布(なわこんぶ[やぶちゃん注:ママ。])、鯛細昆布(たいぼうこんぶ[やぶちゃん注:ママ。])、廣昆布(ひろこんぶ)等(とう)にして、通常は、炙食(くわいしよく)、煑食(しやしょく)、味噌漬、佃煮、昆布卷、煑(に)だし等(とう)に用ふ。又、刻みたるものは大目魚吸(たらすい[やぶちゃん注:「すい」はママ。])もの、煑(に)しめ、昆布飯となし、之より昆布飯(こんぶめし)を【昆布液(こんぶえき)を結晶する者にて、昆布の糖分なり】)採り、料理に用ふること、あり。近年、砂糖漬(さたうつけ)をも、食せり。「本朝食鑑」にも、京師市《けいしいち》上製の京昆布(きやうこんぶ)、上品の乾果(かんくわ)となすとあり。又、同書に、凡そ、昆布は、大饗嘉儀(だいきやうかぎ)[やぶちゃん注:天皇の皇位継承の際に行われる「大嘗祭」(だいじょうさい)の儀が終了後、宮中に於いて行われる参列者を招いて酒食を共にされる「大饗の儀」のこと。]の贈(をくりもの)となし、冠昏壽生(くわんこんじゆせい)[やぶちゃん注:慶事である冠婚、及び、長生きを願うこと。但し、「壽生」自体は別に「祝うこと」の意でもある。]の賀を祝す、と。又、曰く、庖厨茶會(はうちうちやくわい)[やぶちゃん注:「庖厨」は本格的な食事会のこと。]の茶果(ちやくわ)となし、或は、齋日(さいじつ)、煎汁(せんじじる)を取(とつ)て、鰹煎汁(かつほのにだし[やぶちゃん注:ママ。])に代(か)へ、僧家(そうか)も亦、煎汁を以て、羹(かん)[やぶちゃん注:あつもの。]を調へて、甜味(かんみ)[やぶちゃん注:甘さ。糖分を含む味であることを言う。]を添へ、或(あるひは)、果(くわし)、及(および)、油具(あぶらけ)[やぶちゃん注:「油揚げ」の意であろう。]となす、と、ありて、古しへより、婚姻の禮儀式(れいぎしき)の膳に供し、臺に飾るの法あり、之を積むの式ありて、小笠原、伊勢流の諸禮書(しよれいしよ)、及び、天明、享保、元祿頃の割烹書(かちぽうしよ)に載せ、又、鎌倉北條氏(かまくらほうでううぢ)の頃には、結昆布(むすびこんぶ)を茶子(ちやのこ)に用ひ【茶子は、今の干菓《ほしくわ》に當る。】、應仁の頃に、『鮒の〆卷(しめまき)』[やぶちゃん注:「鮒」の下には句点があるが、誤植と断じて排した。]とあるは、今の昆布卷ならんか、と、「嬉遊笑覽(きゆうせうらん)」に見へたり。

[やぶちゃん注:「延喜式」平安中期に編纂された格式の式(律令の施行細則)を纏めた法典。延喜五(九〇五)年八月に醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は、時平の弟の一人である藤原忠平が編纂に当たった。「弘仁式」・「貞觀式」(じょうがんしき)と、その後の式を取捨編集し、延長五(九二七)年に完成した。所持する平凡社「世界大百科事典」の「コンブ」の項の、[食用]のパートを引くと、『日本では古く〈ひろめ〉〈えびすめ〉といった。〈昆布〉の文字も奈良時代から用いられており,《続日本紀》霊亀1年(71510月丁丑の条には,アイヌ人が〈先祖以来,昆布を貢献す〉と述べている記事があり,《延喜式》には〈御贄(おにえ)〉などとして陸奥から貢納されていたことが見える。祝儀に用いることについて,伊勢貞丈はひろめの名を,物をひろめる意味にとりなして用い,一説によろこぶ儀にとりなして用いる,といっている。そのまま,あるいは火であぶったものを適宜の大きさに切るか,結びこんぶにして食べることが多かったようで,だしの材料としての使用が見られるのは中世末期のことになる。江戸時代には北海道のコンブはまず大坂に運ばれ,そこから全国に出荷された。コンブの利用が関西で発達し,いまもコンブが大阪の名物とされるのはこのためである。ニシンを巻いて煮たこぶ巻や油で揚げた揚げこんぶ,それに〈みずから〉というこんぶ菓子の行商も京坂には多かった。みずから売りは《東海道中膝栗毛》では伏見の船つき場に登場し,《見た京物語》(1781)では芝居小屋の中で〈饅頭(まんじゆう)や水辛と売る〉としている。はじめは結びこんぶの中にサンショウを包みこんだもので,〈見ず辛〉の意とする説もあるが,《嬉遊笑覧》は,水から生じた意の〈水から〉で,こんぶ菓子一般の称としている。』とある。しかし、紀元前以前からコンブが食材となっていたことは確かで、「日本昆布協会」公式サイトの「こんぶネット」の「昆布の歴史」の冒頭「こんぶの名前の由来」に、『日本の味としてすっかり食生活に定着している昆布ですが、その歴史はあまりに古く、確かな記録は残っていません。縄文時代の末期、中国の江南地方から船上生活をしながら日本にやって来た人々が、昆布を食用としたり、大陸との交易や支配者への献上品としていたのではないかと言われています。昆布という名の由来は、はっきりしませんが、アイヌ人がコンプと呼び、これが中国に入って、再び外来語として日本に逆輸入されたと言われています。』とある。縄文時代後期は約三二〇〇年から二四〇〇年前で、本書は明治一九(一八八六)年刊であるから、実際には「昆布を食用に供するは、二千有餘年前よりのことなるは、古史に徵(ちよう)して明(あきら)かなり」というのは、辻褄が合うのである。

「民部省」山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」によれば、『大宝・養老令制の官司。八省の一つ。主計・主税寮を被管にもち,戸籍・計帳により諸国の人民を,田図・田籍により田地などの土地を把握し,これにもとづき国家財政を担った。主計寮とともに,計帳により把握された毎年の課口数にもとづき,諸国からの貢納物納入への立会いや調庸帳などの帳簿による監査を行い,主税寮とともに,正税帳や租帳などを通じて田租や正税などの諸国の財政を掌握した。諸国からの貢納物や帳簿の進上に問題がなければ返抄(受領証)を発行した。ほかにも諸国から庸として納入される米・塩を保管し,仕丁(しちょう)や衛士(えじ)の資養にあて,中央での労役を差配した。』とある。

「大膳寮」歴史的仮名遣は「だいぜんれう」が正しい。所持する小学館「日本国語大辞典」に拠れば、『旧宮内省の一部局。明治四〇年(一九〇七)に大膳職(だいぜんしょく)を改称したもの。供御および饗宴に関する事務をつかさどる。』とあるが、而して、文に即して言うなら、正しくは「大膳職(だいぜんしき)」とするのが正しい。所持する平凡社「世界大百科事典」に拠れば、「大膳職」は、『令制の宮内省所属の官司。和訓は〈おほかしはてのつかさ〉。職員は,大夫』(だいぶ)『(長官),亮』(すけ)『(次官),大進』(だいじょう)『・少進』(しょうじょう)『(判官』(はんがん)『),大属』(だいさかん)『・少属』(しょうさかん)『(主典』(さかん)『)各1人,主醬』(しゅしょう)『,主菓餅』(くだもののつかさ)『(品官』(ほんかん)『)各2人,膳部(かしわで)(伴部』(ともべ)『)160人,雑供戸』(ざつくど)『(品部』(しなべ)『)等。朝廷における恒例・臨時の職務に携わる官人等には,俸禄とは別に主食,副食,調味料が素材または調理品の形で給食されるが,主食は大炊寮』(おおいりやう)『が担当し,大膳職は副食,調味料の調達,製造,調理,供給を担当した。ただし,《延喜式》の段階では,神仏寺料等,節会料等の供給のほかは親王以下采女等までの内廷関係への月料支給に職掌が狭められている。主捺は醬(ひしお),豉(くき)』(豆を原料とした食物。味噌・納豆の類とも、たまり(味噌から滴った汁)の類ともいう)『,未醬(みそ)等を製造し,主菓餅は餅の製造や菓子のことをつかさどった。雑供戸』(ざつくこ)『には水産業に従う鵜飼,江人』(えびと)『,網引』(あびき)『と,未醬などを造る戸があった。膳部は調理,供進をつかさどる。食料品には主醬』(しゅしょう)『,主菓醬,雑供戸が調達,製造するもののほか,調雑物が充てられた。前身の官司は浄御原』律『令』(きよみはらりつりょう)『制以前から存在する膳職で,大宝令により大膳職と天皇の供御をつかさどる内膳司に分離された。官衙の所在地は,平安宮では大炊寮の北,東面中門の待賢門を入った南側の地であったが(醬院が西側に付属),平城宮については第1次内裏,第2次内裏の北側または第2次朝堂院と東院の間など,諸説がある。』とあるのが、それである。

「年料」諸役所で一年間に必要とする食糧や物資。

「索昆布(なわこんぶ)」「なはこんぶ」が正しい。但し、小学館「日本大百科全書」の「コンブ」の「民俗」の項で、「延喜式」『には陸奥国の納める昆布の名目に「索昆布(なひめ)・細昆布・広昆布」がみえる。』とあり、これは、「なは」=「繩」ではなく、「綯ふ」で「撚り合わせた(或いは、撚り合わせたような形の)昆布」の意の可能性もあるように私には思われた。ともかくも、「繩」でも、後者でも、細さを感じさせるから、ホソメコンブを第一候補としよう。

「鯛細昆布(たいぼうこんぶ)」国立国会図書館デジタルコレクションの昆布関連の書物他には、確かに複数に載るが、読みも、様態も、全く書かれていない。「鯛」が頭につくというのが、判じ物で(言っときますが、「鯛の昆布締め」なんていうのは、即、退場ですぞ!)、全くのお手上げ! 識者の御教授を乞う! 「鯛」さえなければ、採種場所の違いで、前と同じホソメコンブの地方異名と出来るのだが……(なお、それ以外の昆布種は――現行では――分布域が「陸奥國」では、ホソメコンブとマコンブに限られることは、頭の隅に置いておいてお考えあれ!

廣昆布(ひろこんぶ)」これは、まず、成長したマコンブの可能性が高いように思う。

「大目魚吸(たらすい[やぶちゃん注:「すい」はママ。])もの」まず、条鰭綱タラ目タラ科タラ亜科マダラ属マダラ Gadus macrocephalus の吸い物。

『「本朝食鑑」にも、京師市《けいしいち》上製の京昆布(きやうこんぶ)、上品の乾果(かんくわ)となすとあり。又、同書に、凡そ、昆布は、大饗嘉儀(だいきやうかぎ)の贈(をくりもの)となし、冠昏壽生(くわんこんじゆせい)の賀を祝す、と。又、曰く、庖厨茶會(はうちうちやくわい)の茶果(ちやくわ)となし、或は、齋日(さいじつ)、煎汁(せんじじる)を取(とつ)て、鰹煎汁(かつほのにだし)に代(か)へ、僧家(そうか)も亦、煎汁を以て、羹(かん)を調へて、甜味(かんみ)を添へ、或(あるひは)、果(くわし)、及(および)、油具(あぶらけ)となす』もう、疲れてきた。国立国会図書館デジタルコレクションの元禄一〇(一六九七)年板で当該部をリンクすることにする。ここの左丁一行目から七行目目までである。

「應仁の頃に、『鮒の〆卷(しめまき)』とあるは、今の昆布卷ならんか」同じく国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覽」(下卷・喜多村信節著・日本隨筆大成編輯部 編・成光館出版部)昭和七(一九三二)年刊)の当該部をリンクさせておく。ここの、右丁二行目下方の「【應仁別記】」以下。

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その9)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。]

 

乾燥法は、數時間にして手絡(てから)となし、每夜(まいや)、藁蓆(わらむしろ)を以て圍み、三日以上にして、全く乾燥したるを納屋(なうや)に堆積し、又藁蓆を以て、圍み掩(おほ)ひ、一週日間(いつしう《にち》かん)を過ぎ、靑綠色となるを度(と)とし、取出(とりいだ)して、整束す。

[やぶちゃん注:「手絡」通常は、「てがら」と読み、平凡社「百科事典マイペディア」には、『日本髪の髪飾の一種。初めは〈まげかけ〉と称し,江戸初期から用いられた。未婚女性は緋縮緬(ひぢりめん)の鹿の子絞など,既婚女性は浅黄や紫を用いた。江戸末期には紙製絞染のものが庶民の間で流行した。』とあるが、ここは作業上の単純表現で、素手で絡(から)める作業のことを言っている。

「度」程合い。]

 

整束の法たる、各種、異(ことな)るものにて、長切昆布は、之を仲長(しんてう[やぶちゃん注:ママ。]/のばし)し、鎌を以て、根莖(こんけい)を截斷(せつだん/きり)し、葉端(hさき)を切り去り、長さ四尺許(ばかり)に切斷するものなるが、近時、舊根室縣にては上等晶を四尺、並等(なみとう)を三尺五寸とし、日高國(ひだかのくに)にては、之を三等に區別せり。而して、如此(かくのごとく)切りたるものを、又、乾すこと、一兩日にして、一束の量八貫目を、昆布繩にて、三、四ヶ所を結束せり。之れを一駄(いちだ)といひ、五百駄、卽ち、四千貫目を百石とす。但(ただし)、水昆布は四尺三寸、量七貫目を一駄とす。乾燥度(かんそうど)に適するものは、貯藏、久(しさし)きに堪(たゆ)るも、濕氣(しつき)を帶びたるものは、腐敗を來(きた)せり。故に、結束する時に當り、宵露(よつゆ)に當(あ)て、又は、水霧(みづぎり)を吹き掛ける如きも、再び、之れを乾かし、販路先の信用に、專ら、注意すべし。又、赤葉(あかば)・枯葉を、悉く、除き去り、葉端(はさき)の短きものを混交するは、勿論、上品に下等を交ゆるが如きは、尤(もつとも)戒心(かいしん)すべきの要點なりとす。

[やぶちゃん注:「戒心」油断しないこと。よく用心すること。

 以下の段落は、底本では、全体が一字下げとなっているが、ブラウザでは、綺麗に整列させるのが難しいので、引き上げた。]

 

昆布一駄の貫目。及び、寸尺は、昔時に於ては、三石昆布、駄昆布、廣昆布、共に、壹丸《いちぐわん》、皆、掛《かけ》[やぶちゃん注:これは、細長いものを数える助数詞であるが、以下の結束縄と蓆を含んだ製品一纏まりの量を指すための頭に附したものに過ぎないと思われる。]百二十五斤と定め、繩菰(なはむしろ)五斤を引去る定法なりしか[やぶちゃん注:「が」の誤植。]、天保年間[やぶちゃん注:一八三一年から一八四五年まで。家斉・家慶の治世。]に至り、釧路產は一把拾貫目とし、其後(そのご)、改めて、六貫目、或は、七貫目とす。亦、安政二年[やぶちゃん注:一八五五年。家定の治世。]、日高國(ひだかのくに)の調(しらべ)に因れば、壹把四貫五百目とし、駄昆布を、長さ、二尺五寸に切り、壹駄の量、二貫目になし、幌泉(ほろいづみ)、十勝は、長さ、三尺二寸に、釧路は、三尺五寸にして、各量(かくりやう)を八貫目となしたりしが、近年に至り、四尺に伸(のば)したるは、之を包む莚の中(なか)、三尺にして、左右、五寸宛(づゝ)を顯(あらは)すときは、賣買上の都合よろし、とて、改めたるなり。

[やぶちゃん注:以下の段落は、通常通りに戻る。]

 

元揃昆布は、七、八月頃より鎌をおろし、九、十月頃に終るものにて、採收せる昆布の根を半月形(はんげつがた)に切り、乾塲(ほしば)に敷列(しきなら)べ、太陽に乾すも、初め、急劇に乾燥すれば、其品質を傷(そこな)ふが故に、漸次に、乾すを、よろしとす。且つ、幅の收縮せざる樣(よう[やぶちゃん注:ママ。])、一葉宛(ひとはづゝ)、伸(のば)し、度々(たびたび)、反覆して乾し、日夕(ゆうがた[やぶちゃん注:二字へのルビ。])に至れば、集めて累積し、菅菰(すげこも)を以て、蔽ひ、雨露(あまつゆ)を防ぐ。此(かく)の如くすること、四、五日にして、納屋にて、自然に燥(ほ)すこと、五、七日を週ごし、亦、晴天に乾し、日暮(ひくれ)より、枯草の上に、一葉宛(ひとはづゝ)、倂列(へいれつ)し置くこと、四時間、露濕(つゆしめり)にて、柔らかになりたる時、三拾五枚、或は、四拾枚を重ね、三ケ所を縛りて、把(たば)となす。其量は、二貫目を定度(ていど)とす。結束したる後(の)ちも、時々、太陽に乾すべし。花折昆布(はなをりこんぶ)は、前の如く、乾したるを、析板(をりいた)を以て、寸法を定め、折り重ねて結束す。又、三本松(さんぼんまつ)、五本結(ごほんむすび)と稱するは、昆布三葉(さんえう)、又は、五葉(ごえふ)を、二つに折(をり)たるものにして、之を上等とす。通常の花折は、三(みつ)に折り、兩端(りやうはじ)を內(うち)に折込(をりこ)むなり。「はなをり」の稱(しやう)は、蓋(けだ)し、端折(はしをり)より出たり、といふ。此他(このた)の長折は、長く折り、小鼻折(こばなをり)は、小さく折り、島田折は、婦人の島田わけ[やぶちゃん注:ママ。島田髷(しまだわげ)。]の如くに造るを、いふ。

 

刻昆布(きざみこんぶ)は、昆布を釜に入れ、綠靑(ろくせう)、少許(すこしばかり)を入れ、凡(およそ)、三、四十分時間程、煮て、之を揚げし後、乾場に移し、莚の上に散布し、微(すこし)、乾して後(のち)、一葉づ〻、卷きて皺を伸(のば)し、而(しか)して、又、之を伸し、凡(およそ)、三十貫目許(ばかり)宛(づゝ)に繩束(なわつかねを[やぶちゃん注:「を」はルビにある。])し、尺度を定めて、三切(さんせつ)し、之を、壓搾器(あつさくき)に幷(なら)べ、積重(つみかさ)ね、十分に締(しめ)ること、數回にして、鉋削(かんなけづり)す。而して、太陽に乾し、固結せる樣(やう)、兩手にて、揉むを、よろし、とす。然(しか)るに、近年、種々の着色法を施し、或は、䀋水(しほみづ)を用ひ、白土(はくど)[やぶちゃん注:文字通りの「白い土」。]を混和し、一時の色澤(しよくたく)を添へ、量目(りやうめ)を增加せしむる等の、惡弊(あくへい)、各地に行はれ、爲めに、淸國需用地(じゆようち)に至りて、悉(ことごと)く、腐敗せしより、大(おほい)に信用を失ひ、名聲をけがし、國損(こくそん)をかもしたるも、今に改良せざるものあるは、實(じつ)に遺憾の至りなり、とす。現今、製額(せいがく)は、凡(およそ)、函館四萬石、東京二萬石、大坂壹萬五千石とす。

 

細工昆布は、朧(おぼろ)、初霜(はつしも)、もづく、とろ〻、水晶(すいせう)、白髮(しらが)、雪(ゆき)の上(うへ)等(とう)、種々あり。其製方は、元揃(もとそろい[やぶちゃん注:ママ。])、山だしの類(るゐ)を、酢に投じ、直(すぐ)に引揚げ、酢を絞り、一夜(いちや)にして、乾きたるを【或は、一夜、重壓石《おもしいし》を置く。】、一葉宛(ひとはづゝ)を伸(のば)し、【又、一夜、重り石をおくこと、あり。】、庖刀(ほうてう)にて、沙(すな)と上皮(うへかは)を削剝(さくはく)し、左右の端(はし)を截斷し、目立庖刀(めだちはうてう)[やぶちゃん注:念入りに刃の部分を砥石に掛けたものを指すか。]と云ふものを以て、削る。之を「黑とろろ」と云(いふ)。次に削剝(けづりはが)するを「白とろ﹅」と云ふ。又、『「もつく[やぶちゃん注:ママ。]」朧(をぼろ[やぶちゃん注:ママ。])』は、昆布の厚きを撰(ゑら[やぶちゃん注:ママ。])み、削りし屑(くづ)を云(いふ)。兩種共(りやうしゆとも)、粗きものとす。雪の上は、『「もづく」朧(おぼろ)』に削り取りたる殘質(ざんしつ)を陰乾(かげほ)し、削製(けづりせい)とするなり。其色(そのいろ)、精白、又、食するに、舌上(ぜつじやう)、自(をのづか[やぶちゃん注:ママ。])ら氷解するの狀(ぜう[やぶちゃん注:ママ。])ありて、恰(あたか)も、雪に似たり。故に、其名、あり。水晶は、昆布の皮を削剝(けづりはが)せし中心(ちうしん)にして、初霜は、水晶を萬力臺(まんのうだい[やぶちゃん注:ママ。意味は判る。])にて壓搾し、鉋(なた[やぶちゃん注:ママ。「かんな」。])を以て削り、其狀(そのでう[やぶちゃん注:ママ。])、白髮(しらが)に似たり。故に、白髮昆布(しらがこんぶ)とも云ふ。又、雪の上を、初霜と稱するも、あり。切水晶と(きりすいせう[やぶちゃん注:ママ。])と云(いふ)は、此(この)中心を、太く削りたるを、口取物(くちとりもの)に用ふ錦糸昆布(きんしこんぶ)、是なり。

 

靑板昆布(あをいたこんぶ)は、大坂にて、揃切(そろいき)りて、靑綠色に製するものにて、其法たる、長さ、壹尺五寸、幅、二寸二、三分許(ばかり)に揃ひて、靑綠に着色し、百枚を束(つか)ねて壹把(ひとたば)とせり。二枚並べて束(つか)ぬるを、「大版(おほはん)」といひ、壹枚重ねを、小版(《せう》はん)といふ。此製、各地にて、昆布卷等に用ひ、其需用、尤(もつとも)、廣し。

 

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その8)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。]

 

採收の季節は、各地、幾分の遲速ありと雖ども、槪(ほむ)ね、夏、土用(どよう)に初まり、秋、彼岸に終(おわ[やぶちゃん注:ママ。])るものとす。三陸地方の如き、昔時(せきじ)は、官(くわん)の制令によりて土用入前(どよういりぜん)は鎌入(かまいり)を許さざりしなり。

 

 採收の器具、及(および)、採法の如きも、各地、大同小異あり。三陸地方にては、一艘に二人、或は、三人乘りの舟にて乘り出し、「丁字木(しゆもくじ)」と唱ふるものにて、捻(ひね)りとり、或は「めより」と唱ふる木製の尖股(さんまた)[やぶちゃん注:漢字も読みもママ。ネット検索でも、国立国会図書館デジタルコレクションで「尖股 さんまた 昆布」のフレーズ検索をしても、本書以外には掛かってこない。されば、ここは、「刺股(さすまた)」の誤記・誤植と断ずるものである。]を以て、島嶼(とうしよ)によりて、採り、又、水中に入りて、鎌にて、切り、又、手にても、拔取(ぬきと)れり。北海道の東海岸にては、六人乘の胴海船(どうかいぶね)、又は、三人乘持荷船(《さんにんのり》もちにぶね)の二舟(しう)を用ひ、西海岸にては、磯舟(いそぶね)、又は、「ちつふ」【土言《どげん》、「小舟」の義。】を用ふ。是等の舟は、槪ね、船底(せんてい)、平らかにして、淺く、能(よく)、岩石の間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])を往來し、又、舟を沙上(しやじやう)に引上(ひきあげ)、運搬に便利ならしむ。而して、此舟にて乘り出し、昆布棹(こんぶさほ[やぶちゃん注:ママ。以下の別字のルビでも「さほ」が出るが、ママ注記はしない。])、一名、「昆布鍵(こんぶかぎ)」と稱する鎌形(かまがた)の鈎(かぎ)を付(つけ)たる竿(さほ)を用ひて搦(から)め取れり。元來、日高國の如きも、昔時は、蝦夷土人の採收する所にして、素より器具を用(もちひ)ざるものなりしが、文化の頃[やぶちゃん注:一八〇四年から一八一八年まで。徳川家斉の治世。]、同地請負人栖原某(すはらそれがし)が、舟器具(ふねきぐ)を用ゆることをはじめ、文化五年[やぶちゃん注:一八〇八年一月二十八日から一八〇九年二月十三日まで。]、小林某、業(ぎやう)を繼ぎ、鉈(なた)を用ひ、又、改良して山刀(なた)【方言口《はうげんぐち》。】を用ひ、後(のち)、又、改めて通常の鎌を用ひたりしか[やぶちゃん注:ママ。東洋文庫版では、『が』となっている。「か」は誤植であろう。]、天保八、九年[やぶちゃん注:一八三六年から一八三八年一月末まで。]の頃に至(いたつ)て、浦川郡(うらかはこほり)[やぶちゃん注:「浦川郡」はママ。「浦河郡」の誤り。]に於て、熊谷(くまがへ)某、鎌を鋸刃(のこぎりば)[やぶちゃん注:原本では、「刃」は「グリフウィキ」のこの異体字。]に造りしより、便利なるを以て、各郡(かくぐん)に及べり。扨、是等(これら)の法にて採りたる昆布の、舟中(せんちう)に充積(じうせき)するや、岸に乘り回し、沙の上に引上げ、これを乾塲(ほしば)[やぶちゃん注:北海道では、昆布干し場は、かく表記して「かんば」と読むのが正しい。]に散布し、乾かせり。其塲所によりて、多少の適否、あり。卽ち、岩石、沙地(しやち)、芝生(しばおひ)等(とう)、其土地によりて異(ことな)れども、沙地は砂塵(しやじん)を付着せしめ、岩石は固硬(ここう)せしめ、芝生(しばおひ)は濕氣を含むの恐(をそれ[やぶちゃん注:ママ。])あり。砂の付着したるものは、腐敗を防ぐの功ありて、昔時は、幾分か、これを好みしも、夫等(それら)より斤量(きんりやう)を貪(むさぼ)らんとするものありて、嫌忌(けんき)するに至れり。魯國人(ろこくじん)「セミノー」氏か[やぶちゃん注:ママ。「が」。]薩恰連(サガレン)[やぶちゃん注:「サハリン」(樺太)。日本が実効支配していた頃は、「樺太」以外には、この「サガレン」が、一般的に用いられていた。私の『宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版』の詩「オホーツク挽歌」「樺太鐵道」「鈴谷平原」(すずやへいげん)を見られたい。但し、一般には漢字表記では「薩哈嗹」が圧倒的である。]島「西トンナイ」に於て經驗する所によれば、磽确不毛(げうかくふもう)[やぶちゃん注:「墝埆」とも書き、正しくは「かうかく」(現代仮名遣「こうかく」)であるが、慣用読みで現代仮名遣で「ぎょうかく」とも読む。小石等が多く、地味が痩せた土地。また、そのようなさまを指す語である。]の地を、第一、良好となせり。然れども、本邦の實驗家の說によれば、白光(はくくわう)にして光澤ある細砂(さいしや)の地を最良とし、光澤なきを亞(つ)ぎとす。砂礫(しやれき)の混じたるは、晴日(せいじつ)に斑㸃を生ず。眞土(まづち)は、濕氣(しつき)を含むを以て、下等とす。

 

[やぶちゃん注:「丁字木(しゆもくじ)」この漢字表記は、本来は、所謂、「クローブ」(Clove)のことで、

バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ(丁子黄の木・丁字の木) Syzygium aromaticum 

を指す。乾燥した花蕾が、丁度、「丁」の字や、錆びた釘の形に似ていることによる和名であるが、それが、本邦では、寺の鐘を突く橦木(しゅもく)に似ていることからの表現である。恐らく、海底まで伸ばす長い竿の先に、搦め採るための横木をT字型に接続したものを言うものと思う。

『「めより」と唱ふる木製の尖股』ネット・国立国会図書館デジタルコレクションの孰れも、掛かってこないので、推理すると、「め」は「昆布」の「布」を「め」と読み、コンブを絡め採る杈(さすまた:刺股。本来は、相手の動きを封じ込める武具、及び、捕具を指し、「指叉」・「刺又」とも書く。柄の先端部がU字形に分かれているものを指す)のことと考えてよかろう。

「胴海船(どうかいぶね)」度々、閲覧させて頂いている「函館市/函館市地域史料アーカイブ」の「函館市史 銭亀沢編」の「〈番屋〉」の項に、

   《引用開始》

 イワシ漁の時期に、漁師が寝泊まりする建物を番屋(納屋というほうが一般的)といった。古川町の木村の番屋は、この地域に残る最後のもので、建物の規模も大きい。

[やぶちゃん注:ここに当時の「木村漁場番屋」の写真がある。]

 写真の建物は、網船として使用した大型のサンパを入れた建物である。この建物の中には多くの漁具のほかに、ナカブネといわれる船が一艘残っているが、この船はここの漁場で使用した船の中では、一番小さい船であったという(口絵参照)。船型はサンパで三、四人乗りで使用した。このほかにここで使われた漁船には、ドカイ(胴海船)があった。ドカイはイワシを汲みとるための船でムダマの船であった(船の構造については後述する)。

   《引用終了》

続けて読んでみたが、ちょっと子細の後の解説が見当たらなかったので、ともかくも、この船は昆布漁に用いるものではなく、鰯漁用のものであることが判った。「ムダマ」に就いては、「青森県」公式サイト内の「教育委員会 」の「文化財保護課」の中の、「津軽海峡及び周辺地域のムダマハギ型漁船コレクション」に、

   《引用開始》

 ムダマハギとは、2枚の刳りぬいた木材(ブナ、カツラ、ヒバ、スギ等)を組み合わせてムダマと呼ばれる船底を作り、それに波よけの棚板をつけて作る船で、刳り抜きの船底が厚く丈夫であるため荒磯に耐え、重いため波に流されず安定し、磯漁に使いよいといわれている。

 この資料は、秋田県北部、岩手県北部から津軽海峡を挟んだ渡島半島南部までの地域で使用された、伝統的なムダマハギ型漁船とその変遷過程を示す漁船からなるコレクションである。

 丸木舟の次の技術段階を示すもので、日本の木造船の発達過程を理解する上で特に重要なものとして、はじめての木造漁船のコレクション指定となった。

   《引用終了》

とあった(複数の船の舳先部分の写真がある)。

「三人乘持荷船(《さんにんのり》もちにぶね)」調べた限りでは、複数の漁師や網元、或いは、船問屋などが持っている貨物船を指すようである。

「磯舟(いそぶね)」小学館「日本国語大辞典」に「磯船」として、『磯物をとるための小船。磯辺の海況にあった船型、構造をもつ。』とあった。

『「ちつふ」【土言《どげん》、「小舟」の義。】』「国土交通省」公式サイト内のPDFの「チプ(丸木舟)」に、『チプ(発音は Chip)は丸木をくり抜いたカヌー(日本語では「丸木舟」)です。運搬や商売、漁業に用いられる大切な道具として、伝統的なアイヌ生活の一部となっています。』とあり、以下に詳細な制作法、及び、アイヌの民俗社会での解説が詳しい。是非、読まれたい。

「同地請負人栖原某(すはらそれがし)」「コトバンク」の講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plusに、九名の「栖原角兵衛」(すはらかくべえ)が載る。「文化五年」とあるので、種々を勘案するに、第七代栖原角兵衛(安永九(一七八〇)年~嘉永四(一八五一)年)であろうと踏んだ。そこには、『松前藩の場所請負人。文化三年』、『蝦夷』『地』『石狩』十三『場所のうち』、五『場所をうけおい』、同七『年』、『初代伊達林右衛門と北蝦夷地(樺太(からふと))漁場をひらく。のち』、『根室』・『厚岸』『場所の開発にあたった』。。『本姓は中尾。名は信義。』とある。

「小林某」当該ウィキがある小林重吉(文政八(一八二五)年~明治三五(一九〇二)年)である。『幕末から明治にかけて活動した函館の商人。寛政年間に陸奥国北郡大畑村から蝦夷地へと渡った小林家の』五『代目』。明治二(一八九六)年『の箱館戦争に際しては明治新政府軍に味方し、旧幕府軍が海中に張った鋼索の存在を察知して警告するとともに、切断作業も行った』。『同』『年の場所請負制廃止』、明治九(一九〇三)年『の漁場持制度廃止と変転が続いても、三石郡の漁場を経営し続けた』。なお、明治三年『には大洲藩から洋式帆船「洪福丸」を』五千七百五十『両で購入して「万通丸」と改名。これは北海道で個人として洋式船を所有した最初の例といわれる』。『また』、『船員の育成にも力を注いでおり』、明治十年『に自宅で無料の夜学を開講し』、明治十二年『には村田駒吉や田中正右衛門らとともに函館商船学校を設立した』。『これらの功績から、北海道神宮末社の開拓神社祭神』三十七『柱に名を連ねている』という、大変な偉人である。無論、本書刊行時も、現役バリバリの方であり、官吏河原田の『某(それがし)』の謂いには、呆れかえった。

「山刀(なた)【方言口《はうげんぐち》。】」一般的な「山刀」に就いては、当該ウィキに詳しいので見られたいが、そこには、『(やまかたな、やまがたな、さんとう)とは、主に山林での作業に用いられる刃物の総称である。蛮刀山人刀(やまびとがたな、さんじんとう)と呼ばれることもある。』と冒頭にある。「函館市/函館市地域史料アーカイブ」の「戸井町史」の【昆布漁】の「(10)戸井の昆布漁の歴史」に(旧戸井町はここ「ひなたGIS」も示す。当該ウィキによれば、旧渡島支庁管内の亀田郡にあった。『渡島半島の南東部に位置し』、二〇〇四年『に同じく渡島半島南東部の亀田郡恵山町、椴法華村、茅部郡南茅部町とともに函館市に編入』『され』、『編入以降は函館市戸井支所管内に相当する』函館市戸井地区である。なお、引用には、本文以下の内容もあるので、太字・下線を私が附して判りやすくしておいた)。

   《引用開始》

 戸井草創の頃、南部、津軽地方から出稼ぎに来た人々、或は移住、定着した漁民は、数量が多く、価格の高い昆布を採取していた。汐首岬以東で和人が早くから定住したのは、瀬田來[やぶちゃん注:「せたらい」。]、鎌歌[やぶちゃん注:「かまうた」。]、原木[やぶちゃん注:「はらき」。]などで、昆布漁を主として生計をたてていた。原木、鎌歌に和人が定住し始めたのは享保年間からと思われ、蝦夷と混住していた時代である。

 寛政元年(一七八九)、菅江真澄が下海岸の昆布取の状況を見に来て「ひろめかり」という紀行文に、昆布取の状況や昆布取用具のことをくわしく書き、幕府や松前藩の役人、本州からの文人、墨客は必ず「日本一」の昆布場所と昆布のことを書いている。

 昆布取用具の移り変りの概要を調べて見ると、昔の蝦夷は道具を使わず、専ら手取であった。菅江真澄は寛政四年(一七九二)蝦夷地を去って下北地方を廻り「この地方の人々は昆布を取るのに、海へもぐって昆布を刈り取っている」と書いている。船を使って取るようになったのは近世になってからで、ずっと昔は、浅い所にはいって取ったり、深い所はもぐって取っていた。

 文化年間、日高国様似(さまに)の漁場請負人栖原(すはら)某[やぶちゃん注:ここでも呆れた「某」である。]が、始めて船と採取用具を使って昆布取を行い、大いに能率をあげてから、船で取ることが普及した[やぶちゃん注:既注済み。]。『新羅之記録』に書かれている噴火湾の昆布取舟は、丸木舟で道具を使わず、手取り[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの原本当該部で、傍点。かく太字に変えた。]していたものであろう。

 その後、文化五年(一八〇八)に小林某が試みに鉈(なた)[やぶちゃん注:☜。]を用いたが、それを改良して山刀(方言クチ)[やぶちゃん注:☜]を用い、後又改めて普通の鎌を使うようになった。

 天保八、九年(一八三七―三八)の頃、浦河郡で熊谷某が、鎌の刄を鋸刄につくり、各地でこれが用いられたがその後鎌は昆布に有害だということになり、ネジリ掉や二又棒を使うようになった。

 昆布取の鎌やネジリ掉の伝来は古く、宝暦、安永年間箱館住吉町の漁師某が使い始めたと伝えられている。

 下海岸では、幕末の頃まで鎌を使っていたが、明治時代に戸井村原木の〓[やぶちゃん注:表示不能になっている。同前の国立国会図書館デジタルコレクション当該部を確認すると、屋号と思われる上に「━」、間隙を挟んで「」となっている。]金沢福松が二又棒を発明し、それ以来各地で、専らこれが使われるようになったという。金沢福松は既に故人になったが、今でも戸井地方の人々は金沢福松の名を「マツカ爺(ぢい)」といい伝えている。「マツカ爺」というのは、「昆布取の二又棒を発明した爺さん」を意味している。

 近年鉄棒をねじ曲げたものを二本、掉の先につけたものが発案され、水深の深いところでは、これを使っている人もいる。このネジリ用具を「馬鹿マツカ」と称している。馬鹿でも昆布をたくさんとれるマツカという意見で名づけられたようだ。

   《引用終了》

とあった。

「浦川郡(うらかはこほり)」現在も、北海道日高振興局に浦河郡(うらかわぐん)としてある。

『魯國人(ろこくじん)「セミノー」氏』【2025年1025日全注削除・改稿】「函館市/函館市地域史料アーカイブ」の「函館市史」の「通説編 第二巻」の「鮭鱒豊漁の第二期」に、サガレン(サハリン・樺太)の『西海岸では明治10年代よりロシア商人セミヨーノフ(Семёнов)が伊達・栖原の建物を使用して、昆布を採取し(中国人および朝鮮人を雇用)清国の芝罘(チーフー)へ輸送・販売していたが、23年から日本漁民と合併で鰊漁業、鱒漁業を開始する。鰊締粕は神戸へ、塩切鱒は函館へ搬送するが、翌24年とその数量は次第に増加した。25年には、4、5名の日本人営業主がロシア・イギリス合併商(ロシア商人セミヨーノフとイギリス商人デンビーの合併)の仕込を受け、日本人漁夫200余名を雇用して鰊漁と締粕の製造をするが、その販売額は7万円余におよんだ。翌26年も同様に、日本人がデンビー商会と合併で収穫した鰊締粕は1万石となり、日本人に許可されている東海岸やアニワ湾の鰊締粕に倍する数量となった。もっとも日本人許可漁区でも鰊締粕の産出額は』、『この頃から急増し、29年には1万石をこえて鮭の数量と肩を並べるに至る。殊に29年から日本人に許可された西海岸の鰊漁業は30年には本格化し、一方鮭・鱒相場の騰貴もあって、樺太漁業の発展は目覚しいものとなった。』とある。

「西トンナイ」樺太にあった旧西富内(にしとんない)。ウィキの「真岡郡」にある地図の「1.真岡町」で位置が判る。現在、ロシアに不当占拠されて、ホルムスク(ロシア語:Холмск:グーグル・マップ・データ)となっている。

2025/10/12

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その7)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。]

 

前條各種の昆布も、其繁殖を妨(さまた)ぐる憂(うれい[やぶちゃん注:ママ。])ありて、之れを防除(ぼうじよ)し、亦、移植するの法あり。昆布に濕生(しつせい)せる「ごも」と稱するものヽ如きは、之を刈除(かりのぞ)かざれば、蕃生(はんせい)[やぶちゃん注:ここは、コンブが問題なく成長することを指す。]を妨ぐるも、刈除くときは、生長、よろしく、翌年の收獲を多量ならしむるのみならず、此(この)刈たる「ごも」は漁蓑((りやうしのみの)其他(そのた)の用に供すべし。又、昆布は適應の地には、移植するを得(う)べく、從來(じうらい)、其(その)効(こう[やぶちゃん注:ママ。])を見し例(ためし)、少(すくな)しとせず。卽ち、日高國(にだかのくに)沙流郡(さるごほり)に山田某《それがし[やぶちゃん注:少し後で、かく、ルビを振っているので、それとした。]》の移すもの、膽振國(いぶりのくに)白老郡(しらをひ《ごほり》に野口某の移すもの、陸奧(むつおく)西津輕郡(にしつがるごほり)鰺澤村(あぢがさわ《むら》)に戸澤某の移すもの等(とう)なり。

[やぶちゃん注:「ごも」ネット検索では不明なので、国立国会図書館デジタルコレクションで検索したが、「ごも」なるものを具体に記載したものが見当たらなかった。当てずっぽで、ネットで「昆布 附着 雑海藻」で調べたところ、『北海道立釧路水産試験場1995』とする『共同研究成果資料 `92~‘94』とある、『雑海藻駆除技術によるコンブ漁場の回復 釧路・根室地方の昆布漁業発展のために』という一般読者への公式リーフレットPDF)の中に(ベタで示した。原本には、雑海藻の各個画像もある)、

   《引用開始》

〇漁場を荒すのは大型雑海藻だ

■なぜ雑海藻は有害か?

◎ナガコンブなどの有用コンブにとつて有害な大型雑海藻は,漁場に大量に繁茂して游面まで(海底や海中も)占有してしまうため|に,本来コンブが着生する場所を狭くするばかりでなく,コンブの生活に必要な光や栄養塩などの供給を減らし,コンブの発生・生育を妨げるのです。

◎また,ナガコンブはガッガラコンブ(アツバコンブ)などのコンブ類とも競合関係にあります。ガッガラコンブなどの多い地域では,これらの挙動に注意することが必要です。

■有害な雑海藻の名前は?

◎ナガコンブ漁場に出現する主な雑海藻には,全長2lmのスジメ,アイヌワカメや直立して生育し全長78mにも達するウガノモク,ネブトモクなどの大型褐藻類があります。また,体こそ小さい(数十㎝)が大量に生育するカタワベニヒバ,クシベニヒバなどの紅藻類, さらには大型で大量に繁茂するスガモがあります。

◎なかでもウガノモクなどのホンダワラ類は非常に大きくなり,直立して海面まで覆うので,コンブの発生・生育の邪魔をします。また, スガモで覆われている場所では海底に砂が堆積するなど,底質環境の悪化が懸念さねるので注意が必要です。

   《引用終了》

が、この「ごも」であろうと推定した。引用に出る問題を引き起こす種は、

★スジメ=オクロ植物 Heterokontophyta 褐藻綱 Phaeophyceae コンブ目アナメ科スジメ(筋布)属スジメ Costaria costata(スジメの属名と種小名は、孰れも「筋がある」の意)

★アイヌワカメ=コンブ目アイヌワカメ(アイヌ若布(ワカメは他に「和布」・「若和布」・「稚海藻」・「裙蔕菜」とも漢字表記する)科アイヌワカメ属アイヌワカメAlaria praelonga

★ウガノモク=褐藻綱ヒバマタ(檜葉股)亜綱ヒバマタ目ホンダワラ(穂俵・馬尾藻・神馬藻)科ウガノモク(宇賀の藻屑)属ウガノモクStephanocystis hakodatensis

★ネブトモク=ウガノモク属ネブトモクStephanocystis crassipes (漢字表記は恐らく「根太藻屑」)

★カタワベニヒバ=カタバベニヒバ(※片葉紅檜葉:「カタワ」は「片輪」で差別表現であるため、二〇一五年に改称された)=紅藻綱 Florideophyceaeマサゴシバリ(真砂縛り)亜綱 Rhodymeniophycidae イギス目 Ceramiales ランゲリア科 Wrangeliaceae クシベニヒバ連 Ptiloteae クシベニヒバ属カタバベニヒバ Ptilota asplenioides 

★クシベニヒバ=クシベニヒバ属クシベニヒバ Ptilota filicina

★スガモ=種子植物亜門トクサ綱 Equisetopsida モクレン亜綱 Magnoliidae ユリ上目オモダカ目ベニアマモ/シオニラ科スガモ(菅藻)属スガモ/ハイスガモ Phyllospadix iwatensis

である(各種の詳細は、私は各個について確認をしたが、それぞれを解説し始めると、えらく時間がかかってしまうので、和名・学名で各自で検索されたい。そこまで、私は面倒は見られない。悪しからず)。しかし、「ごも」は、昆布収穫地の地方名と思われ、漢字もよく判らない。一つ考えたのは、「茣」蓙(ござ)のようにコンブ類の着底する海底に、蔓延る海「藻」で、「茣藻」かとも思ったが、漁師たちが呼称するものであろうからして、単に「ゴ」ミの「藻」の意が至当であろうとは思うのだが、一つ、大きな問題がある。それは、本文で、

★『昆布に』(☜「に」に着目!)『濕生(しつせい)せる』と言っている点

である。「濕生」とは、「湿ったところで、動・植物が生活すること。」を指す語であるからして、この言い方を狭義に読み取るなら

★「コンブそれ自体に着底して繁茂する藻」という意味に限定されてしまうから

である。しかし、

以上に掲げた七種は、調べる限り、コンブ類への着生寄生することを主とする種ではないと私は判断する

からである。但し、

著者の河原田氏は、海藻の専門家でもなければ、コンブの実際のエキスパートでもないから、そうした厳密性を持って、この表現を用いたとは、私には思われない

のである。識者の御判断を、是非、お教え下されば、幸いである。特に、「此(この)刈たる「ごも」は漁蓑((りやうしのみの)其他(そのた)の用に供すべし。」と河原田氏は仰っているのは、相応に当該海藻の葉体が細く、しかも、強靭であるからであろうと思われることから、種を幾つかの上記の種に限定出来るものと私は考えているので、その辺りの候補種を、推定で結構であるから、お教え下さると、恩幸、これに過ぎるものは無い。よろしく、おんがい申し上げるものである。

 

採收の季節は、各地、幾分の遲速ありと雖ども、槪(ほむ)ね、夏、土用(どよう)に初まり、秋、彼岸に終(おわ[やぶちゃん注:ママ。])るものとす。三陸地方の如き、昔時(せきじ)は、官(くわん)の制令によりて土用入前(どよういりぜん)は鎌入(かまいり)を許さざりしなり。

2025/10/11

八甲田山十和田湖奥入瀬渓流跋渉

昨日まで、二泊三日で二度目の、八甲田山・奥入瀬渓流・十和田湖周遊を本格リベンジした。二日目、連れ合いと一緒に、八甲田山の最も長いハイキング・コースを踏破し、三日目は2.7キロの渓流沿いを登り、遊覧船で十和田湖一周。連れ合いの万歩計は二万歩を越えた。彼女は、五年前に両足人工関節術をして以来、画期的な歩数で、元山屋の私にさして遅れもせず、よくぞ、こなしたものであった。写真は、

・「こゝろ」の先生宜しく、秘蔵っ子に贈るために、紅葉の葉をホテル前で物色している私。

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・「こころ旅」の火野正平のオマージュとして、ホテルのすぐ近くの「まんじゅう蒸かし」で撮ったもの。俯き横臥の写真も三枚あるが、連れ合い曰わく、「死体みたい。」と評した通りであったので、全部カット。

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・そこからホテルへ帰る山道の向こうに八甲田山。

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・八甲田山の最高地では、奇蹟のピー・カンだった。

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最後に、八甲田ホテル初日の和食場「寒水(しゃこみず)」の和食メニューを示した。私が永遠に一番としている、京都の花脊のつみくさ料理「美山荘」に、遂に並んだ、絶品であった。アプローチが掛かるが、お薦めである。

Hatukoudahotel

2025/10/07

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その6)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。]

 

各種の昆布ハ、產地によりて品質を異(こと)にし、價格・產額、共に差あり。其產地・收額は左の如し(明治十五年調)。

[やぶちゃん注:以下の表は、行に跨る「{」を用いているため、全く同じ電子化は出来ず、ブラウザの不具合も生ずるので、一行字数が制限されることから、似たように模造してある。重量・値段はポイント落ちだが、再現していない。]

       ┌陸前國 厚昆布  千三百貫目
       │          價二百貳拾圓余
       │陸中國    百三十五石
       │           價七百八拾圓余
一元昆布┤陸奥國    三千八百〇九石余
       │         價壹萬三千五百廿四圓余
       │渡島國    一萬〇百八二石一斗余
       │         價八萬六千貳百〇六圓余
       │日高、根室、釧路、  八百六十二石余  
       └十勝、四國      價六千〇三拾四圓余

一三石昆布 日高國   五萬〇二百六十三石余
                    價五拾壹萬貳千六百貳拾圓余

一長昆布 根室、釧路、十勝、千島四國(しかこく)
                 拾三萬〇二百六十二石余
                 價百拾八萬六千六百四拾圓余

一黑昆布 天䀋國     壹萬五千六百七十五石余
                  價拾貳萬四千六百三拾圓余

      ┌陸前國   六百石余 價六千四百圓余
      │
一黑昆布┤陸中國   二千六百二拾石余
      │         價壹萬〇貳百六拾圓余
      渡島國    五千七百六十二石余
                 價貳千八百拾二壹圓余

一ほつか昆布 陸前國  三十石 價未詳

一猫足昆布  釧路國  五百三十三石余 價未詳

一とろヽ昆布         未詳

右產額中(ちう)、渡島國の部に於て、元揃昆布と鼻折昆布との產額の區別、舊(きう)根室縣下にて、根室、釧路、十勝、千島の四國は、國別產額の區別、及び、水昆布の額を詳らかにせざるを以て、之を分たず。

[やぶちゃん注:一貫は三・七五キログラム、一石は百八十・三六リットル。一円は、既に述べたが、再掲すると、容易には、現在価値に換算は出来ないが、試みに、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の「明治時代の1円は現在いくらか。単純な答えが欲しい。」の回答例の三つの内、最も手っ取り早い『・給与(警察官の初任給)から考えると(⑦⑧⑨参照)、明治19年の1円は令和5年の2万~4万の価値がある。』(まさに本書の刊行は明治一九(一八八六)年である)。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「肥付石」

[やぶちゃん注:底本はここ。句読点・記号を変更・追加した。]

 

 「肥付石」 安倍郡淺畑東村にあり。其形《かたち》、洪鏡《こうきやう》[やぶちゃん注:大きな鏡。]に似て、色、黑く、光、あり、油を洒《そそぐ》が如し。號《なづけ》て「肥付石(こえつきいし)」と云《いふ》。『人、此石にふるれば、必《かならず》、足の太く成《なる》病を受く。云云。』。毒石《どくいし》の類《るゐ》にや。

 

[やぶちゃん注:この石は、現在の静岡県静岡市葵区東の、ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)のカーブの四角な屋根の延命地蔵堂の脇に、現存する。ストリートビューのこの、上部が丸くなった石が、それである。これは、個人ブログ「神が宿るところ」の「肥付石」で確認出来た。そこでブログ主は、

   《引用開始》

「肥付石」は、上部が丸くなった、特に変哲もないような石だが、説明板によれば、「罪深い人が触ると、足や身体が腫れる」というもの。「肥付」という名前からすると、単なる「腫れ」ではなく、かなり膨らんでしまうというイメージだろう。それで連想されるのが象皮病。象皮病は、フィラリアという寄生虫によってリンパ管に炎症が起きて浮腫(むくみ)ができ、皮膚が象のようになってしまう病気で、特に陰嚢に発症すると、陰嚢が腫れて人頭大まで巨大化することもある。この例で有名なのが西郷隆盛で、西郷が西南戦争で敗れて自害した際、首のない死体(首は政府軍に取られるのを恐れて隠された。)を識別したのは、巨大な陰嚢であったという。それはさておき、フィラリアは蚊によって媒介されるので、かつては広大な麻機沼を含む湿地帯だった、この地区に象皮病が蔓延していてもおかしくはない(わが国では、現在では根絶されている。)。 

なお、この石は、かつては山の中腹にあったものが、下ろされて現在の場所に置かれたともいい、また、一説には、舟の舫い綱を結びつける石だったともいわれている。「罪深い・・・」はともかく、触ると病気になる、祟られる、というのは、その石が神聖なものだったのかもしれない(因みに、病を治すには、針金で造った鳥居を供えて祈るしかないとされる。)。ひょっとすると、行政的な権威の象徴として尊重されるべきもの、例えば、古代官道には標識として「立石」が建てられたケースが多い。この場合、石自体は特に変哲もないが、政権の権威を示すものとしてアンタッチャブルだったかもしれない。この辺りも、安倍郡家の何らかの施設があった可能性がある場所である。

   《引用終了》

と述べておられる。他から援用された、より、明確な写真もあるので、見られたい。なお、「ひなたGIS」の戦前の地図で、「賤機村」(歴史的仮名遣で「しづはたむら」)が確認出来る。私も、本篇を一読した際、この「祟り」の病態「足の太く成病」とは、線形動物門 Nematoda 双腺綱 Secernentea 旋尾線虫亜綱 Spiruria 旋尾線虫目(センビセンチュウ目) Spirurida 旋尾線虫亜目 Spiruromorpha 糸状虫上科 Filarioidea に属するフィラリア(filaria)に違いないと思った。中でも、その病態から、人体寄生性で、感染後遺症として象皮症を引き起こすバンクロフト糸状虫 Wuchereria bancrofti だろう。発症機序等、詳しくは、当該ウィキを見られたい(但し、感染患者の凄絶な写真が載るので、閲覧は注意が必要)。]

和漢三才圖會卷第九十二之本 目録 草類 藥品(5) 相反

    相反   十八種

人參 沙參 玄参 苦參 丹参 紫參【以上五參】 芍藥

 細辛 以上藥反藜蘆逢之便殺人

[やぶちゃん字注:「參」と「参」の混在はママ。]

半夏 白笈 白歛 瓜樓 貝母

 以上反烏頭與烏喙逢之便疾反

大戟 海藻 芫花 甘遂 以上反甘草

𮔉蠟與葱 石决明與雲母 並相反

黎蘆莫把酒采浸 如犯之都是苦

 

   *

 

   相反(そうはん)   十八種

人參《にんじん》 沙參《しやじん》 玄参《げんじん》 苦參《くじん》 丹参《たんじん》 紫參《しじん》【以上、「五參《ごじん》」。】 芍藥《しやくやく》 細辛《さいしん》 以上の藥《やく》、藜蘆《りろ》に反す。之《これ》に逢へば、便ち、人を殺す。

半夏《はんげ》 白笈《しけい》 白歛《びやくれん》 瓜樓《からう》 貝母《ばいも》

 以上、烏頭《うず》と烏喙《うかい》と反す。之に逢へば、便ち、疾《やまひ》、反《かへ》る。

大戟《たいげき》 海藻 芫花《げんくわ》 甘遂《かんすい》 以上、甘草《かんざう》と反す。

𮔉蠟と葱(ひともじ)と、石决明《せきけつめい》と雲母《うんも》と、並《ならび》に、相《あひ》反す。

黎蘆《りろ》に酒を把(と)り、采(と)り浸《ひた》すこと、莫《なか》れ。如《も》し、之を犯《おか》せば、都(すべ)て、是れ、苦《くる》しむ。

 

[やぶちゃん注:やはり、訓読では、通常の読者は、意、やや採り難いので、東洋文庫訳(竹島淳夫氏訳)を引用しておく(仕儀は、前回と同じ)。

   《引用開始》

 相反(そうはん)  十八種

 人参・沙参(しゃじん)・玄参・苦参[やぶちゃん注:ママ注が右にあるが、後注無く、この漢方名は、実際にある。不審。私の後注を参照されたい。]・丹参・紫参〔以上五参〕・芍薬(しゃくやく)・細辛  以上の薬は藜蘆(りろ])(毒草類)と反する。この反の組合せは人を殺す。

 半夏・白笈(しけい)(山草類)・白斂(びゃくれん)・瓜楼(かろう)(栝楼と同じ)・貝母(ばいも)(山草類)  以上は烏頭(うず)と烏喙(草烏類。毒草類カラトリカブト) とに反する。この反の組合せは疾(やまい)となってかえってくる。

 大戟(たいげき)(毒草類)・海藻・芫花(げんか)(毒草類)・甘遂(かんずい)(毒草類)  以上は甘草と反する。

 蜜蠟と葱(ネギ)、石決明(せきけつめい)(介貝類アヮビ)と雲母(うんも)  いずれも反する。

 黎蘆(りろ)を酒に浸してはいけない。もしそうすれば毒で苦しむことになる。

   《引用終了》

「人參」「朝鮮人參」。セリ目ウコギ(五加木)科トチバニンジン(栃葉人参)属オタネニンジン(御種人蔘) Panax ginseng

「沙參」キキョウ目キキョウ科ツリガネニンジン(釣鐘人参)属トウシャジン(唐沙参) Adenophora stricta の根茎を乾したもの。去痰・鎮咳に効果があるとされる。

「玄参」「卷第八十四 灌木類 五加」で考証したが、再掲する。ウィキの「ゴマノハグサ」(シソ目ゴマノハグサ科ゴマノハグサ属ゴマノハグサ Scrophularia buergeriana )の「利用」の項に、『根を乾燥させたものを漢方薬で玄参(ゲンジン)といい、のどの病気に薬にするという』『が、ゴマノハグサの中国名は、北玄參という』。()『真正の玄参は、同属のオオヒナノウスツボ』(大雛の臼壺: Scrophularia kakudensis )『に近いScrophularia ningpoensis 』『(中国名、玄參)』『の根をいう』とあった。「維基百科」で検索したところ、同学名を挙げた「玄参」を見出せた。それによれば、『ゴマノハグサ属には約二百種が存在する。北半球の開けた森林地帯に自生し、植物体は背が高く、大きな分岐した花序に紫・薄緑、または黄色の花が咲く。昔は痔の治療に使用されていたため、英語名は「痔草」』(英文名は記されていない。”hemorrhoid grass”か?)『を意味する。中国の浙江省と四川省に分布する』とあった。

「苦參」マメ目マメ科マメ亜科クララ連クララ属クララ Sophora flavescens の根、又は、外の皮を除いて乾燥したものを基原とする生薬。当該ウィキによれば、『利尿、消炎、鎮痒作用、苦味健胃作用があ』る、とする。なお、『和名の由来は、根を噛むとクラクラするほど苦いことから、眩草(くららぐさ)と呼ばれ、これが転じてクララと呼ばれるようになったといわれる』とあった。

「丹参」「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 比翼鳥(ひよくのとり) (雌雄で一体の幻鳥・捏造剥製はフウチョウを使用)」の私の「丹沉」の注で示した。長いが、引用する。

   *

「丹沉」東洋文庫訳は割注して『丹参(たんじん)か。シソ科の薬草』(キク亜綱シソ目シソ科アキギリ属タンジン Salvia miltiorrhizaウィキの「丹参」によれば、『丹は朱色を意味し、参も薬用ニンジンのような赤い根っこを意味する。ウコギ科の薬用ニンジンや、野菜のニンジン(セリ科)とは、全く関係がなく、草花として親しまれているサルビアや、キッチンハーブのセージと同じシソ科アキギリ属の植物である』。『中国に分布する耐寒性の宿根草で、 草丈は』三十~八十センチメートル『くらいになる。茎は角張っていて、葉は単葉で有毛、鋸歯がある。花は初夏から秋にかけて咲き』、二センチメートル『ほどの藍色の唇形花が数輪から十数輪』、『総状花序を作る』。『中国原産であるため、中国で一番古い生薬書』「神農本草経」にも『掲載されて』は『いるが、日本で主に行われている古方派の漢方では、あまり用いられていない。時代が下るに従い』、『よく用いられる傾向があり』、「血の道」と『呼ばれていた月経不順や肝臓病、胸痛・腹痛などに用いられる。また、心筋梗塞、狭心症の特効薬として中国で近年よく用いられる「冠心II号」の主薬として用いられている』。『丹参には次の薬理作用があることが確認されている』。『血管拡張、血流増加、血圧降下、抗血栓、血液粘度低下、動脈硬化の予防・改善、抗酸化、鎮痛、抗炎症、抗菌、精神安定』とある)とするが、前に引用した中文サイトの原文でも「丹泥」で、「沉」は「沈」の異体字であるから、(さんずい)であることは間違いない(「參」は逆立ちしても「沈」「沉」と書き間違えない)と思われるから、東洋文庫「丹参」説は採らない(そもそもそこには耐寒性とあるので、「南海」とは親和性が悪い)私は一見した際、香木の水中の「泥」に「沈」んで「丹」色となったそれを想起し、香木の一種である「沈香(じんこう)」の内で強い赤みを帯びたそれを指すのではなかろうかと推察したウィキの「沈香」によれば、『東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属』『の植物である沈香木』『(アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha)』『などが、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積したものを乾燥させ、木部を削り取ったものである。原木は、比重が』〇・四『と非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる。これが「沈水」の由来となっている。幹、花、葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している』。『沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれ、非常に貴重なものとして乱獲された事から、現在では』、『沈香と伽羅を産するほぼすべての沈香属(ジンチョウゲ科ジンコウ属』 Aquilaria 『)及び(ジンチョウゲ科ゴニスティル属』 Gonystylus 『)全種はワシントン条約の希少品目第二種に指定されている』。『「沈香」には上記のような現象により、自然に樹脂化発生した、天然沈香と、植樹された沈香樹を故意にドリルなどで、穴をあけたり、化学薬品を投入して、人工的に樹脂化したものを採集した、栽培沈香が存在する』。『当然ながら、品質は前者が格段に優れている。稀に上記の製造過程から来たと思われる薬品臭の付いてしまっているものや、低品質な天然沈香に匹敵する栽培沈香も存在する。しかし、伽羅は現在のところ栽培に成功していない』。『また』、『栽培沈香は人工的に作ったものとして人工沈香ともよばれる』。『栽培沈香は天然沈香資源の乱獲により、原産国でも一般的になりつつあり、国内でも安価な香の原材料として相当数が流通している、なお、香木のにおい成分を含んだオイルに木のかけらを漬け込んだものや、沈香樹の沈香になっていない部分を着色した工芸品は、そもそも沈香とは呼べず、香木でもない。したがって栽培沈香でもない』。『「沈香」はサンスクリット語(梵語)で』「アグル」又は「アガル」『と言う。油分が多く色の濃いものを』「カーラーグル」、『つまり「黒沈香」と呼び、これが「伽羅」の語源とされる。伽南香、奇南香の別名でも呼ばれる』。『また、シャム沈香』『とは、インドシナ半島産の沈香を指し、香りの甘みが特徴である。タニ沈香』『は、インドネシア産の沈香を指し、香りの苦みが特徴』。『強壮、鎮静などの効果のある生薬でもあり、奇応丸などに配合されている』。『ラテン語では古来』、「aloe」『の名で呼ばれ、英語にも aloeswood の別名がある。このことからアロエ(aloe)が香木であるという誤解も生まれた。勿論、沈香とアロエはまったくの別物である』。『中東では』『自宅で焚いて香りを楽しむ文化がある』。本邦では、推古天皇三(五九五)年四月、『淡路島に香木が漂着したのが』、『沈香に関する最古の記録であり、沈香の日本伝来といわれる。漂着木片を火の中にくべたところ、よい香りがしたので、その木を朝廷に献上したところ重宝されたという伝説が』「日本書紀」に載る。『奈良の正倉院』には長さ百五十六センチメートル、最大径四十三センチメートル、重さ十一・六キログラムという『巨大な香木・黄熟香(おうじゅくこう)(蘭奢待』(らんじゃたい)『とも)が納められている。これは、鎌倉時代以前に日本に入ってきたと見られており、以後、権力者たちがこれを切り取り、足利義政・織田信長・明治天皇の』三『人は付箋によって切り取り跡が明示されている。特に信長は、東大寺の記録によれば』、一寸四方で二個を『切り取ったとされている』。『徳川家康が』慶長一一(一六〇六)年頃から始めた『東南アジアへの朱印船貿易の主目的は』、この『伽羅(奇楠香)の入手で、特に極上とされた伽羅の買い付けに絞っていた』。これは『香気による気分の緩和を得るために、薫物(香道)の用材として必要としていたからである』とある。奇体な比翼鳥が啣えて木の上に巣作りするのなら、その辺に生えている薬草なんぞではなくて、南海地方(ズバリ、合う)の赤い沈香木の方がどんなにかマシだと私は思うのだが? 如何?

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「紫參」「デジタル大辞泉」に『ハルトラノオの別名。』とあったが、以上の本文の原拠を捜し得ていないものの、まず、中国の本草書由来と思われる(全くのオリジナルに良安が書いたものとは到底、思われない)ので、日本固有種であるナデシコ目タデ科イブキトラノオ(伊吹虎の尾)属ハルトラノオ (春虎の尾)Bistorta tenuicaulis ではないとして、退ける而して、「維基百科」で「紫參」を検索したところ、ズバリ、当該種があった。

リンドウ目アカネ(茜)科アカネ亜科アカネ属 Rubia yunnanensis

である。和名は、ない。そこに種小名について、『雲南の』の意とあった。やっぱり、流石の、「跡見群芳譜」の「野草譜」の「あかね(茜)」に、Rubia yunnanensis (シノニム: R.ustulata )として、中文名『小紅參・滇紫參・帶褐茜草』とあった。

「五參」同じく、「跡見群芳譜」の「農産譜」の「ちょうせんにんじん(朝鮮人参)」に、『參(シン,shēn)の字は、転じては(オタネニンジンのように)食用・薬用にする太い根を持つ植物(その根)を言う』。『そのうち、特に人参る(ジンシン,rénshēn,にんじん)・玄參(ゲンシン,xuánshēn,げんじん)・丹參(タンシン,dānshēn,たんじん)・苦參(クシン,kŭshēn,くじん)・沙參(サシン,shāshēn,しゃじん)を、五參と呼ぶ。』とあり。「本草綱目」の「丹參」『の釈名に、「五參は五色、五臟に配す。故に人參は脾に入り、黃參と曰う。沙參は肺に入り、白參と曰う。玄參は腎に入り、黑參と曰う。牡蒙は肝に入り、紫參(シシン,zĭshēn)と曰う。丹參は心に入り、赤參と曰う。其の苦參は、則ち右腎命門の藥なり。古人、紫參を捨てて苦參を稱するは、未だ此の義に達せざるのみ」と。』とあった。以上は、「漢籍リポジトリ」の「卷十二下」の「草之一【山草類上一十八種】」の、ガイド・ナンバー[037-34a]以下の、「丹參」の「釋名」の冒頭で、時珍が(一部に手を入れた)、

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五參五色配五臓故人參入脾曰黃參沙參入肺曰白參玄參入腎曰黑參牡蒙入肝曰紫參丹參入心曰赤參其苦參則右腎命門之藥也古人拾紫參而稱苦參末逹此義爾炳曰丹參治風軟脚可逐奔馬故名奔馬草曾用實有效

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と述べている部分である。

「芍藥」ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora 、或いは、その近縁種も含む。漢方生剤としてのそれは、「日本漢方生薬製剤協会」の当該ページを見られたい。

「細辛」双子葉植物綱コショウ目ウマノスズクサ(馬の鈴草)科カンアオイ(寒葵)属ウスバサイシン(薄葉細辛)Asarum sieboldii 、又は、オクエゾサイシン(奥蝦夷細辛)変種ケイリンサイシン(鶏林細辛)Asarum heterotropoides var. mandshuricum (後者は中国には分布しない)の根及び根茎を基原とするもので、漢方薬品メーカー「つむら」の公式サイト「Kampo View」の「細辛」に拠れば、『主として、胸部、横隔膜のあたりに病邪のとどまっているもの、水毒(水分の偏在)を治す』とある。

「藜蘆」「藥七情」で注したが、転載する。サイト「イアトリズム」の「知っておきたい『漢方生薬』」の「藜芦」(りろ)のページによれば、基原を『ユリ科シュロソウ属シュロソウなどの根および根茎』とある。シュロソウは「棕櫚草」で、単子葉植物綱ユリ目シュロソウ科シュロソウ属シュロソウ Veratrum maackii 。以上の学名は、Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「シュロソウ 棕櫚草」のページのものを採用したが、そこには、『日本(北海道、本州)、朝鮮、中国、ロシア原産。中国名は毛穗藜芦 mao sui li lu。』とされ、『シュロソウの変異は多く、中間型も見られ、多数の変種などに分類され、異説も多いが、シュロソウ、ホソバシュロソウ、オオシュロソウ、アオヤギソウ、タカネアオヤギソウを Veratrum maackii の変種とするYlistの分類に従った。World Flora Onlineではvar. japonicum var. reymondianumを含める)とvar. parviflorumVeratrum coreanumを含む)2変種としている。Kewscienceではvar. maackii , var. parviflorum , var. longebracteatum3変種にまとめている。』とあり(学名は私が斜体にした)、ネットで「藜蘆」で検索すると、「イアトリズム」で『など』としているように、多数の種が基原であり、或いは、別な種も含まれているではないか? という疑義を附す記載もあった。因みに、「イアトリズム」の「適応疾患および対象症状」に、『脳血管障害、てんかん、毒物の誤飲、疥癬、頭部白癬症、咽喉炎など』とし、「薬理作用」には、『止痒作用、催吐作用、血行改善、意識回復、殺虫作用、解毒作用、消炎作用、発毛作用、創傷回復など』とあった。

「半夏」単子葉植物綱ヤシ亜綱サトイモ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク(烏柄杓)Pinellia ternata のコルク層を除いた塊茎。嘔気や嘔吐によく使われる生薬である。私の「耳囊 卷之七 咳の藥の事」も参照されたい。

「白笈」基原ハ、単子葉植物綱キジカクシ(雉隠し)目ラン科セッコク(石斛)亜科エビネ(海老根)連Coelogyninae 亜連シラン(紫蘭・朱蘭)属シラン Bletilla striata の球茎を乾燥したもの。薬効その他は、何時もの、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 白及または白芨(ビャクキュウ)」を見られたい。

「白歛」双子葉植物綱ブドウ目ブドウ科ノブドウ属カガミグサ(鏡草) Ampelopsis japonica の根。漢方では解熱作用があり、腫瘍・子供の癲癇・月経痛に効果があるとする。

「瓜樓」「括樓(からう)」に同じ。基原は、双子葉植物綱スミレ目ウリ科カラスウリ属カラスウリ Trichosanthes cucumeroides の仲間であるトウカラスウリ Trichosanthes kirilowii 、キカラスウリ Tkirilowii var. japonicum 、 又は、オオカラスウリ Tbracteata の皮層を除いた根。詳細は、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 括楼根(カロコン)」を見られたい。なお、本文での読みは、この記事に従った。

「貝母」中国原産の単子葉植物綱ユリ目ユリ科バイモ属アミガサユリ(編笠百合)Fritillaria verticillata var. thunbergii の鱗茎を乾燥させた生薬の名。去痰・鎮咳・催乳・鎮痛・止血などに処方され、用いられるが、心筋を侵す作用があり、副作用として血圧低下・呼吸麻痺・中枢神経麻痺が認められ、時に呼吸数・心拍数低下を引き起こすリスクもあるので注意が必要(ここはウィキの「アミガサユリ」に拠った)。

「烏頭と烏喙」「名義」で既注だが、再掲すると、猛毒植物(全草)として知られるキンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属ハナトリカブト(花鳥兜) Aconitum carmichaelii を基原とする古い漢方生薬名と思われる。同種は「カラトリカブト」(唐鳥兜)の異名がある。当該ウィキによれば、『ハナトリカブトの各部分には非常に強い有毒成分が含まれており、歴史的には、矢に塗る毒として用いられ、塊根を加熱して毒性を減らしたものは「附子(ぶし)」や「烏頭(うず)」として鎮痛や強精などの目的で生薬として用いられてきた』とある。「烏喙」は「カラスの喙(くちばし)」の意で、乾燥させた根の形状に由来するものであろう。

「大戟」「藥品(1)」で子細に注したので、見られたい。

「海藻」「養命酒ライフスタイルマガジン 元気通信」の『生薬ものしり事典 14 日本の神様も好物?和食に欠かせない伝統食材「海藻」』を見られたい。なお、本邦の海藻類の全体像は、私のサイト版の『「和漢三才圖會」卷第九十七 水草部 藻類 苔類』を見られたい。また、その中でも、最も知られるコンブ類に就いては、現在、電子化注をしている最中の、ブログ・カテゴリ「淸國輸出日本水產圖說」で、詳細に述べているので、見られたい。

「芫花」先行する「藥品(2) 六陳」で既注済み。

「甘遂」同じく、「藥品(2) 六陳」の私の「芫花」の引用内で語られてあるので、見られたい。

「甘草」マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza当該ウィキによれば、『漢方薬に広範囲にわたって用いられる生薬であり、日本国内で発売されている漢方薬の約』七『割に用いられている』とある。

「𮔉蠟」私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜜蠟」を見られたい。

「葱」お馴染みの、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ネギ変種ネギ  Allium fistulosum var. giganteum 。広義には、Allium fistulosum 。「熊本大学薬学部薬用植物園 薬草データベース」の「ネギ Allium fistulosum L.」に拠れば、「生薬名」は『葱白(ソウハク)』で、「薬用部位」は『葉鞘の白色部』とする。「成分」は『硫化合物(methyl sulfide, methyl propyl sulfide, allyl methyl sulfide)』であり、「産地と分布」には、『シベリア,アルタイ地方の原産といわれ,現在は野菜として広く世界で栽培される.』とし、『多年草.地上部は越冬して夏に枯れる.草丈約60 cmになる.通常分けつして叢生し,鱗茎はほとんど膨らまない.葉は地上15 cm内外の所に56個を2列互生するが下部は鞘状になり重なって偽茎となる.葉間から丸い茎を出し,白緑色花を多数,密生して付ける.』と解説され、「薬効と用途」には、『民間療法として,カゼの初期に刻んだネギと味噌を煮立て,熱いうちに服用する療法,不眠症や咳,喉の痛みにネギ湿布をする療法,痔や霜焼けに煎液で洗うといった療法などがある.漢方では偽茎の白い部分を弱い発汗作用を目的として,頭痛,悪寒,冷えによる腹痛や下痢に用いる.漢方処方の麗沢通気湯に配合される.』とあり、『別名をヒトモジというが,熊本県ではワケギ(ネギとタマネギの雑種,Allium x wakegi)をヒトモジとよぶ.』と記されてある。

「石决明」私の『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 石决明雌貝(アワビノメガイ)・石决明雄貝(アワビノヲカイ) / クロアワビの個体変異の著しい二個体 或いは メガイアワビとクロアワビ 或いは メガタワビとマダカアワビ』を見られたい。

「雲母」小学館「日本国語大辞典」に、『アルミニウム、カリウム、ナトリウムなどを含むケイ酸塩鉱物。花崗岩、結晶片岩、片麻岩などの造岩鉱物として重要。単斜晶系に属し、白雲母と黒雲母に大別される。六角板状の結晶で、平行に薄くはがれやすく、薄片は弾性がある。電気絶縁、耐熱材料として用いる。また、漢方薬としても用いられた。うんぼ。きら。きらら。マイカ。』とある。漢方としてのそれは、個人サイト「鉱物たちの庭」の「591.雲母 Mica (ミャンマー産)」の民俗学的解説が素晴らしい!]

2025/10/06

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その5)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。

 各号の間は、読み易さを考え、一行空けた。]

 

前條各種の區別を左に說明す。

(一)元昆布は陸前、陸中、陸奧(むつをく[やぶちゃん注:ママ。]より北海道の東海岸に產する乾品(かんひん)の、幅、三、四寸より七、八寸許(ばかり)、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は、尺余にして、長さは、六、七尺より𠀋餘に至り、質、厚く、濃綠色なるものをいふ。古來、松前昆布と稱し、賞用するものは、即(すなはち)、重(おも)なる種類なるを以て、今、此編(へん)[やぶちゃん注:纏まって製した品。]は元昆布と名けたり。而して、此種類中、整束を以て名けしものは、元揃昆布(もとそろいこんぶ[やぶちゃん注:ママ。])、鼻折昆布、折昆布(おりこんぶ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ「おり」には附さない。])、小鼻折昆布(こはなおりこんぶ)、島田折昆布(しまだおりこんぶ)等(とう)なり。然(しか)れども、產地により、厚薄(かうはく)、濃淡、長短の差、あり。其中(そのうち)、渡島國(としまのくに)松前、函館近傍の產を上等とせり。茅部郡(かやべこほり)木直(きなをし)、尾札部(をさつべ)、板木(いたぎ)、熊泊(くまどまり)、臼尻(うすじり)等(とう)の諸村に產するを、古來、「濵(はま)の內(うち)」と稱し、般も優等のものとし、元揃(もとそろい[やぶちゃん注:ママ。])、又は、鼻折(はなをり)の類(るゐ)に整束して、內國用に販賣せり。此種類の上等品を以て、上方(かみがた)にて種々の細工昆布を造れり。「蝦夷奇觀(えぞきくわん)」に、『御上(をあが[やぶちゃん注:ママ。])り昆布』、一(いつ)に『天下昆布(てんかこんぶ)』とあるものハ、此濱の內(うち)の產にして、幅、五、六寸、長(ながさ)、壹丈前後のもの、五十枚を、一把(ひとたば)となし、絕品とす、といふ。龜田郡(かめだこほり)志苔(しのり)、檜山郡(ひやまこほり)江刺(ゑさし)等の產は、槪ね、鼻折昆布の類(るひ[やぶちゃん注:ママ。])に作れり。元揃昆布に比すれば、薄くして、品位劣れりと雖ども、志苔昆布と稱し、重(おも)に東京に輸送せり。是(これ)、「庭訓往來(ていきんあうらい)」にいふ宇賀昆布(うがこんぶ)にして、龜田郡尻澤邊(しりさべ)より、茅部郡汐首岬(しほくびみさき)迄の間(あひだ)を、昔時(せきじ)は宇賀と稱せり。卽ち、「經濟要錄」にも『「庭訓往來」に、玄惠(げんゑ)か[やぶちゃん注:ママ。「が」。]所謂(いわゆる[やぶちゃん注:ママ。])宇賀昆布は、紫海苔(しのり)、尻澤邊(しりべ)、小安(こやす)の諸村なり』とす。玄惠は、後醍醐天皇の侍讀(しどく[やぶちゃん注:ママ。])たりし人なれば、已に元弘の昔も著名なりし、と見へたり[やぶちゃん注:ママ。]。東海岸(とうかいがん)にも、同質のものあれども、產出、僅少(きんせう)なり。又、陸奧(りくおく)下北郡(しもきたこほり)大間、上北郡(かみきたこほり)泊村(とまりむら)等(とう)の產は、厚くして、甚だ、良好なり。東津輕郡(ひがしつがるこほり)三厩(みむまや)の產は、其形、渡島國(としまのくに)茅部郡(かやべこほり)の元揃昆布(もとぞろひこんぶ)に似たれども、兩緣(りやうふち)、及び、末端(はさき)、褐赤色なるは、採收季(さいしうき)の晚(をそ[やぶちゃん注:ママ。])きによるなるべし。陸中(りくちう)閉伊郡(へいこほり)、陸前牡鹿郡(をじかこほり)等(とう)にも、元昆布、同質のものを產すと雖ども、產額、僅少なり。是等の品も、往時、廣昆布(ひろおんぶ)と稱して、長崎・琉球等より、輸出せしも、現今は、皆、內國用となる。元揃を造るには、根の方を揃(そろへ)て、三日月形に切り重ねて、三ケ所を縛り、長き把(たば)となし、又、鼻折の類(るゐ)を作るは、廣く伸ばして、折り並べ、重ねて二、三ケ所を縛り、把(たば)となすなり。陸奧(むつおく)の產は、長濱(ながはま)と稱し、根本(ねもと)を切り、元切造(もとぎりつく)りと云ひて、廣東向(こんたふむき[やぶちゃん注:ママ。広東(カントン)省。])の輸出品なりしか[やぶちゃん注:ママ。「が」。]、近年は、輸出すること、なきより、鼻折(はなをり)に造れり。

[やぶちゃん注:「元昆布」昆布の根元の柔らかい部分を用いた製品。但し、これは、後の叙述で、複数の種・製品を混淆して示すことが、今までの私の注で、ややこしい呼称であることが、図版の注で既に、複数、示したので、注意されたい。(その3)で、「元昆布」で検索して頂くと、その混乱が痙攣的であることが判然とされるであろう。

「茅部郡木直」旧茅部郡南茅部町木直で、現在の函館市木直町地名については、かなり手間取るが、私は地理フリークなので、今までの注で単独で示していないものは、基本、掲げることとする。

「尾札部」旧同前郡で、現在の函館市尾札部町

「板木」旧南茅部町臼尻村板木で、現在は函館市安浦町字安浦。「ひなたGIS」の戦前の地図で、「板木」が確認出来る。

「熊泊」旧南茅部町熊泊村で、現在は函館市南茅部町の、字(あざ)で大船(おおふね)・双見(ふたみ)・字岩戸(いわと)相当。「ひなたGIS」の戦前の地図で、「熊泊」が確認出来る。平凡社「日本歴史地名大系」の「熊泊村」に(太字は私が附した)、『明治六年(一八七三)から同三九年までの村。現町域の北西端近くにあたる。太平洋に面した狭小な海岸部を中心に集落がある。近世には箱館六箇場所の一つ尾札部』『場所のうちで、昆布・鱈・鰯・鯡などの漁が行われた。享保十二年所附に「一 おさつ辺 (中略)熊泊り 磯屋 ところ」などが記される。一七八〇年代の「松前国中記」では尾札部場所の小名として「タ(ク)マトマリ」とみえる。寛政一二年(一八〇〇)六箇場所が「村並」となり(休明光記附録)、天保郷帳の臼尻』『の持場のうちに熊泊とある。松浦武四郎は鹿部(しかべ)(現鹿部町)方面から南東に向い、磯谷(いそや)を通ってクマトマリに至り、「人家十七八軒。小商人壱軒、昆布小屋多し。村中に小流有」と記している。ヲタハマは「木立陰森として巨材を出す」という。また、「此辺りニ箱館西在并箱館町内、大野在中より出稼の人は中々すさまじき事ニ而、其多き年には浜ニ小屋を建而是ニ住居し居るニ、其取りし昆布の干場も無」と昆布漁の盛んな様子に言及している。』とある。

「臼尻」旧同郡臼尻村で、現在は函館市臼尻町

「蝦夷奇觀(えぞきくわん)」「蝦夷島奇觀」(えぞしまきかん)のことであろう。村上島之丞(允)(筆名:秦檍丸(麿):はたのあおきまろ 宝暦一〇(一七六〇) 年~文化五(一八〇八)年:伊勢生まれ)が寛政 一二(一八〇〇)年に著わした三巻から成る蝦夷風俗絵巻。アイヌの人物・礼式・家屋・狩猟具・飲酒・楽器・舞踊・オットセイ狩り・熊祭などが描かれ、説明が加えらている。伝写が多く、後世の蝦夷風俗画に少なからぬ影響を与えた。後に増補したと思われるものが、若干、見られるが、「續蝦夷島奇觀」・「蝦夷島奇觀拾遺」も島之丞の説明の増補伝写本を復元したものと見られている。「蝦夷みやげ」二冊は、明治に刊行された「蝦夷島奇觀」の刊本。以上は、概ね、「ブリタニカ国際大百科事典」に拠ったが、個人ブログ「気ままな風来人のたわごと」の「第5回 村上島之允のこと-蝦夷地を知り尽くした男- Ⅲ」に原書画像を含め、非常に詳しい記載があるので、是非、見られたい。それによれば、村上は、『年少のころから旅に明け暮れることが多く、生涯を旅に暮らした』とあり、また、彼は後に『幕府に仕えた役人』となり、『老中松平定信に才能を買われ、寛政、文化年間』『に、近藤重蔵に付いて松前に渡り、国後まで足を延ばすなどして、北海道を踏査。実際に見聞きした生活文化、地理などを記した』とある。

「庭訓往來」玄恵法印(南北朝時代の天台宗の僧で儒者)の作と伝えるが、疑問。室町前期の往来物で、全一巻。応永年間(一三九四年~一四二八年)頃の成立かとされる。往復書簡の形式を採り、手紙文の模範とするとともに、武士の日常生活に関する諸事実・用語を素材とする初等教科書として編まれた。後、室町・江戸時代に広く流布した(主文は小学館「日本国語大辞典」に拠ったが、少し弄った)。

「龜田郡尻澤邊」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、『現在地名』は『函館市住吉町(すみよしちょう)・谷地頭町(やちがしらちょう)・青柳町(あおやぎちょう)』とし(グーグル・マップ・データで、ここ)、『箱館市中の南、函館山の東に位置し、東は海に面する。かつては尻沢辺村と称する漁村であったが、のちに箱館市中から人々が物見遊山に訪れるようになり、近世末期には当時尻沢辺村内であった谷地頭に茶屋が建てられ、また新鋳銭所(銭座)が置かれるなど、繁華な地となった。慶応四年(一八六八)閏四月には尻沢辺町として箱館奉行から箱館裁判所に引継がれている(「箱館地方及蝦夷地引渡演説書」犀川会史料)。明治六年(一八七三)の町名町域再整理の際、町域は細分化され、一部は谷地頭町・住吉町・蔭(かげ)町・浦(うら)町・柳(やなぎ)町・赤石(あかいし)町となった。』とある。

「經濟要錄」江戸後期の経済書。十五巻。佐藤信淵(のぶひろ)著。文政一〇(一八二七)年成立、安政六(一八五九)年刊。総論・創業篇・開物篇・富国篇の四篇からなり、産業を興し、国を富ませて、人民を救済することを説いたもの(「デジタル大辞泉」に拠った)。

「小安」現在の函館市子安町

「侍讀」小学館「日本国語大辞典」に拠れば、『天皇、東宮のそばに仕え、学問を教授する学者。また、その職。通常は博士、尚復(しょうふく)の二人で、七経の進講には明経博士、史書の進講には紀伝博士、群書治要の進講には明経・紀伝の両博士の中から選ばれたものがあたった。後世は侍講という。』とある。]

 

(二)三石昆布と稱するは、日高國(ひだかのくに)に產するものにて、幅廣きところ、乾品、二、三寸にして、長さ三、四尺より大なるもの、一丈五、六尺に至り、中心に條(でう)あること、細布(ほそめ)の如く、暗綠色にして、其質、元昆布に比すれば、薄く、長昆布に比すれば、厚く、䀋氣(えんき)、少(すくな)く、甘味(かんみ)あり。此品(このしな)、根室地方の如く、遲くまで採收(さいしう)せず。大抵、暑中を過(すぐ)れば、止むものとす。「長崎俵物方調書(ながさきひやうもつからしらべしよ)」及び「琉球古記錄」によれば、享和年間[やぶちゃん注:一八〇一年から一八〇四年まで家斉の治世。]の頃、長崎・琉球等(とう)より、淸國に輸出し、此品(このひん)を最上とせり。元來、三石昆布の名は、日高國三石に產するを以て名くと雖ども、其近隣、浦河(うらかは)、樣似(さまに)、又、同樣のものを產するにより、これを三場所(さんばしよ)と稱す。然(しか)れども、尙(なほ)、其近傍、靜內(しづない)、幌泉(ほろいづみ)の如きも亦、同樣のものを產せり。長切昆布に整束するに、從前の仕方は、長さ、四尺餘にして、一束の量(りやう)、九貫四百目を以て、通常とせしが、方今(はうこん)[やぶちゃん注:「現今」に同じ。]、淸國輸出は、根室製と同樣の長切(ながきり)に作れり。維新前は、此地の產を『本塲(ほんば)』と稱し、『本昆布』と稱したりしも、近世、反(かへ)つて、根室產の方、一旦(いつたん)、上位をしめたり。其原因は採收・乾燥に注意せざりしに、よれり。然(しか)るに、亦、回復に趣(おもむ)くの勢ひあり。

[やぶちゃん注:「長崎俵物方調書」グーグルのAI による概要だが、元にしたものを確認した限りでは、間違っていないと判断したので、引用する。『「長崎俵物方調書」は、江戸時代の長崎で俵詰めにされて出荷されていた海産物(長崎俵物)の品質や取引に関する記録の可能性が高く、具体的な史料としては確認されていませんが、長崎県庁が認定する長崎俵物というブランドの概念として受け継がれています。現代の長崎俵物は、厳しい基準を満たした高品質な水産加工品を指し、当時の長崎俵物の歴史に由来するものです』。『長崎俵物とは』、『江戸時代の長崎俵物』は、十七『世紀末(元禄時代)の長崎港が物流拠点として栄えていた頃、俵に詰めて出荷された海産物を指しました』が、『現代』も『長崎俵物』が使われ、それは『長崎県庁が認定するブランドで、原材料や衛生面など厳しい認定基準を満たした高品質な水産加工品が「長崎俵物」として認定されています』。本来の『「長崎俵物方調書」』は『江戸時代に長崎俵物の品質や取引を管理・記録した文書』類を表わし、『結論として、「長崎俵物方調書」という個別の史料は見当たりませんが、当時の長崎俵物の歴史とその品質を現代に伝える「長崎俵物」という概念が存在しています』とある。

「琉球古記錄」これは、国立国会図書館デジタルコレクションの「農事参考書解題」(一九七〇年国書刊行会刊)のここによって、本書の作者である河原田盛美氏の所蔵するものであることが判った。当該部を起こす。書名は底本では、ポイント上げ。本文の字配は再現していない。

   《引用開始》

琉球古記錄          寫本四冊

 寬文ヨリ天保頃ニ及ブ琉球藩ノ記錄ニシテ農政物產ノ記錄ニ關スル公文類ヲ列載ス伹原本ノ文辭總テ本邦ノ普通文ナリト雖モ年月ハ淸曆ヲ用ヰ[やぶちゃん注:ママ。]康烈[やぶちゃん注:一六六二年から一七二二年まで。本邦は寛文元・二年で、家綱の治世。]ヨリ乾隆[やぶちゃん注:一七三六年から一七九五年まで。前に雍正がある。]嘉慶[やぶちゃん注:一七九六年から一八二〇年まで。]ヲ經テ道光[やぶちゃん注:一八二一年から一八五〇年まで。寛永三年から文政四年まで。家斉・家慶・家定の治世。]ニ至ル河原田盛美之ヲ藏ス

   《引用終了》]

 

(三)長昆布(ながこんぶ)、一名、本昆布(ほんこんぶ)、又、眞昆布(まこんぶ)と稱するものは、十勝、釧路、千島、根室等の產にして、乾品の幅二、三寸許、長さ、短きもの、二丈より六丈餘に至り、鮮綠色なり。而して、產地により、幾分か、厚薄(こうはく)長短(ちやうたん)ありと雖ども、皆、長切昆布(ながきりこんぶ)に造りて、淸國に輸出せり。此類の昆布を採收するは、近年の創始なれども、淸國輸出品として賞用せらるゝより、本昆布、眞昆布等の名あるに至れり。元來、長昆布は、三石昆布に比すれば、質、薄くして、長きこと、四倍に及べり。從前は、三石昆布を淸國輸出の重(おも)なるものとなしたるも、近年は、長昆布を多しとするに至れり。此中(このうち)、釧路、厚岸、濵中の產を、品位の優等のものとし、北方に至るに隨(したがつ)て、品位、劣(おとれ)り、一塲所(いちばしよ)每(ごと)に、百石、五拾圓づ〻の價(あたひ)を落(おと)せり。根室の志發(しぼち)產は、質、厚くして、鹽氣(えんき)、多く、國後に產するものも、根室に似て、質、厚く、輸出品なれども、品位、下等なり。十勝の產は、尤(もつとも)、近年、輸出するに至りたれども、現今、三、四千石を出(いだ)すに至れり。

[やぶちゃん注:「志發(しぼち)」現在、ロシアに不法占拠されている歯舞群島最大の志発島。なお、「しぼち」の読みは、見当たらないが、私には違和感はない。国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、この読みはないものの、古語の「新たに発心(ほっしん)して仏道に入った者」を「新發意(しんぼち・しぼち)」と呼ぶので、寧ろ親しいからである。されば、敢えてママ注記は附さなかった。

「三、四千石」「千石」は、現在の二百リットルドラム缶換算で、約九百二本。]

 

(四)水昆布と稱するは、幅、狹く、殆んど、細布(ほそめ)の如しと雖ども、中心に條(でう)なく、根莖、異(ことな)れり。此ものは、其質、薄弱にして、食して、味ひ、淡し。而して、長切に整束して、淸國にも輸出すべしと雖ども、品位、下等にして、廉價なり。故に、上等品の氷害に罹(かヽ)る等(とう)の事ある年は、採收して、利を得るも、豐年には、反(かへつ)て、上等品の價格に影響を及ぼすの憂(うれい[やぶちゃん注:ママ。])あり。鑑(かんが)みざるべけんや。

[やぶちゃん注:「水昆布」【図版2】を見よ。]

 

(五)黑昆布は、北海道の西海岸に產するものにて、外看(ぐわいかん)、黑色を帶び、質、厚く、乾品、幅三、四寸、長(なが[やぶちゃん注:ママ。])、二、三尺より、四、五尺に至り、天鹽の國の沿海《えんかい》に產するを、天鹽昆布といひ、利尻島(りしまじま)、禮文尻島(れいぶんじりじま)[やぶちゃん注:ママ。]等に產するを利尻昆布といふ。二品共に、煮だしに用ひて、佳味なり。故に俗に「だしこぶ」ともいふ。利尻島に產するものは、近來、淸國天津(テンシン)、芝罘(チーフー)等に輸出することあり。又、大坂にて、下等の細工昆布にも製して、外看(ぐわいかん)は、同じきも、味は元揃に劣れるを以て、價も安直なり。

[やぶちゃん注:「黑昆布」【図版2】を参照。

「禮文尻島(れいぶんじりじま)」「禮文島(れぶんじま)、利尻島(りしりじま)」の誤記と、ルビの誤刻。

「芝罘(チーフー)」現在の山東省の地級市である煙台市(えんたい/イェンタイし)。山東半島東部に位置する港湾都市。当該ウィキによれば、『かつて西洋人にはチーフー(Chefoo)の名で知られたが、これは伝統的に煙台の行政中心であった市の東寄りにある「芝罘」([tʂí fǔ]、日本語読みは「しふう」)という陸繋島に由来する。今日の「煙台」という名は』、『明の洪武帝の治世だった』洪武三一(一三九八)年『に初出する。この年、倭寇対策のために奇山北麓に城が築かれ、その北の山に倭寇襲撃時に警報の狼煙を上げる塔が建設された。これが簡単に「煙台」とよばれるようになった』とある。]

 

(六)細布(ほそめ)は、一《いつ》に盆布と稱す。形(かた)ち、三石昆布に似て、小さく、長さ、四、五尺より、七、八尺に至り、幅、一、二寸より廣きは、三寸許(ばかり)にして、中心に、條(でう)、あり。此ものは、三陸、及び、北海道各地に產すれども、陸前牡鹿郡(をじかこほり)大須濵(おほすはま)より、名振、船越、熊澤、桑濵等に產するを、皆、大須盆布(おほすぼめ)といひ、宮城郡(みやぎこほり)花淵(はなぶち)に產するを、花淵盆布、又、花淵昆布ともいふ。品位、大須產より、劣れり。岩代(いはしろ)、陸前等の習慣にて、中元、之を佛前に供し、又、必ず、煮物に加へる等、其需用、少(すくな)からず。故に盆布の名あり。然れども、煮食(しやしよく)には、美(び)と稱するに足らず、中元の後(のち)、人、之れを食する少なきを以て、多く、東京に輸送して、刻昆布(きざみこんぶ)と、なせり。此品の上等品は、長切の如(ごとく)にして、淸國へ輸出すること、あり。其質、薄くして、乾きよければ、將來、淸國の需用に適すべし。陸奧(りくをく)にては、「めのこ昆布」と稱し、地方人民の食川に供するあり。其仕法(しほふ[やぶちゃん注:ママ。])たる、雨露(あめつゆ)に晒して後(の)ち、大陽に乾かし、春、碎(さい)し、米粒位《ぐらゐ》の大(おほき)さとなし、貯(たくは)ふ。之を食するには、水に浸し、米に加へ、炊きて、食せり。此仕方は、米穀に乏しき時の食物として、謂以(いはゆる)、救荒の一《ひとつ》なれども、平日とても、これを用ふといふ。

[やぶちゃん注:以上については、【図版9】の『■「細布」』で、引用を含め、ガッツりと注をしてある。

 

(七)猫足昆布は、一名「みヽこんぶ」、又、「すこたんこんぶ」と稱す。其(その)根部(ねぶ)の兩端、挺出(ていしゆつ)[やぶちゃん注:特異的に抜き出ていること。]し、耳狀(みゝのかたち)をなす故(ゆゑ)に、此稱、あり。其乾品の幅、一寸許、長(なが[やぶちゃん注:ママ。])三、五尺ありて、全く、昆布中一種のものなり。根室、釧路等の海に產し、就中(なかんづく)、千島に、多し。此ものは、砂上(しやじやう)にて、乾(かわは[やぶちゃん注:ママ。])す時は、黑色となりて、あし〻。故に、必ず、吊乾(つりぼし)となす。煮だしに用(もちい[やぶちゃん注:ママ。])て、佳味(かみ)なり。又、長切の如く、整束すれば、淸國人も、之を求む、といふ。然(しか)れども、もとより、夥しく產するに非ず。又、形、小なるを以て、長昆布に比すれば、到底、收益あるものとは思はれざるなり。

[やぶちゃん注:「図版1」及び「図版10」を参照されたい。]

 

(八)粘液昆布(とろヽこんぶ)、一名、縮昆布(ちゞみこんぶ)、又、尾札部(をさつべ)邊(へん)にて、「がもめ昆布」といふは、粘液(ねんえき)を、多く含むところの、一種の昆布にして、乾品、幅一、二寸、長六、七尺、濃綠色にして殆ど黑色をなす。中央に條ありて、左右に、縮皺(しヾみしわ[やぶちゃん注:ママ。])多く、東海岸に產すれども、根室、釧路に最も多く、此品は、海水に洗ひ、砂のつかぬ樣に乾し貯(たくわ[やぶちゃん注:ママ。])ふ。從來、これを長切の中心に入れしことあれども、其質、異(こと)なるを以て、反(かへつ)て聲價(せいか)[やぶちゃん注:世間の評判。]を落せしこと、あり。此昆布は味(あじわ[やぶちゃん注:ママ。])ひ佳(か)ならざるを以て、た〻[やぶちゃん注:ママ。]粘液(とろヽ)を製するに用ふ。三打(みつうち)となして貯ふれば、長く保つといふ。此外に、尙、一種の粘液昆布あり。其葉(そのはの[やぶちゃん注:ママ。])面(めん)、濶(ひろ)くして、短く、中心の筋(すぢ)の左右に、小(ちいさ)き小凹所(しやうぼくしよ)、連(つらな)るのみ。

[やぶちゃん注:複数回、既出既注。]

 

(九)ほつか昆布は、淡綠色にして、質、至(いたつ)て薄く、裙帶菜(わかめ)の如く、長(ながさ)、五尺三、四寸、幅、𤄃(ひろ)きところ、七、八寸餘(よ)、根部(ねぶ)にちかきところ、壹尺許(ばかり)、幅、二寸許にして、漸次に濶く、七寸許に至れり。此ものは、昆布の產する所には、多少、產すれども、陸中牡鹿郡飯子濵(いひこはま)等(とう)に產し、今を去る十六、七年前より、採收し、明治十三年は、無比(むひ)の產出ありて、販賣するもの、二百五十石目の多きに至れり。爾來、年々、三、四十石の產あり。金華山(きんくわざん)、及び、長戶濱、瀨戶にも產すれども、採收すること、少(すくな)く、怒濤の爲めに、海濱に打揚(うちあげ)たるを採るのみ。此他(このた)、抦長昆布(えながこんぶ)、「かつから昆布」、一名、枝昆布(えだこんぶ)等(とう)をはじめとし、尙、異(こと)なる種類もありと雖ども、未だ、硏究し能はざるを以て、玆(こゝ)に載せず。

[やぶちゃん注:「ほつか昆布」いろいろの文献を複数確認して再考証したが、結論を先に言うと、これは、マコンブである。但し、河原田氏は、書き振りから、マコンブではないと考えているようにしか、見えないのが、まことに悩ましいのである。決定的な記載は、国立国会図書館デジタルコレクションで「ほつか昆布」で検索した(因みに、ネット検索では、この語は掛かってこない)数冊の中の、昭和一〇(一九三五)年刊の、函館師範学校敎諭であった白山友正氏の編した、ガリ版刷の「北海道水產讀本」(北海道経済史研究所発行)の「第八章 昆布」のここで、旧学名を掲げて、かく、書かれてあることで、間違いない(この白山氏は、ネット上の『漁業経済 学会短信』1963.7発行第一号・PDF)を確認したところ、著作権存続であることが確認されたので、転載される場合は、注意されたい。なお、旧学名の命名者が斜体となっているのは、ママ。また、命名者は略(正しくは、Areschoug (1851))なので、本来は、コンマが必要である)。白山氏は、明らかに専門家である。

   《引用開始》

⑴真昆布  Laminaria japonica Aresch  葉は革質柔靱で線状披針形をなし、「ひろめ」「はヾびろこんぶ」の称があり、基部は稍円く通常不等辺形をなし根糸は茎の周圍に輪生或は縱列する。全長六、七尺乃至廿四、五尺で十尺内外を普通とし、中七、八寸乃至一尺一、二寸に達する。地勢湾入せる寒暖末流の混淆する処に生じ、四、五尋乃至七、八尋の浅処に生ずるを普通とするが、治世により三、四十尋の深処にも生ずる。鈎卸は七月廿日で十月下旬に及ぶが最盛期は七月下旬八月上旬である。その間好天の日のみ旗の合図で採收する。採收器は「ねぢり」・「まつか」、及び「ひきかぎ」を用ふ。

 えびすめ(古名)ひろめ(古名)宇賀昆布。みんまや昆布・志苔昆布(尻沢部)・おき昆布・うち昆布はヾひろ昆布(室蘭)・もと昆布(陸前)・ほつか昆布(陸前)とも云ふ。

   《引用終了》

但し、そこで、「陸前」と出ることに注意が必要で(河原田氏の以上の「ほつか昆布」の記載にも出現するのである)、前にも問題にしたが、現行では、「陸前」は、そのギリギリ北方外で、マコンブの植生域は、切れていることである。しかし、既に「(その2)」の注等で述べたように――以前は、マコンブの太平洋岸の植生域が、もう少し、陸前中部まで広がっていた――と私は考えるものである。事実、調べた昭和以前の複数の水産書の中に――陸前で、マコンブが、漁業として成り立つ程度に漁獲されていた記載が確認出来る――のである。

「陸中牡鹿郡飯子濵(いひこはま)」陸前である、現在の宮城県牡鹿郡女川町(おながわちょう)飯子浜(いいごはま)。

「長戶濱」これが、まあ、不詳なのだ! 国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると、他の書籍に、昆布記載以下の「瀨戶」とともに出るのだが? 識者の御教授を乞うものである。

「瀨戶」宮城県のこの海峡である大島瀬戸陸前である。

『抦長昆布(えながこんぶ)、「がつから昆布」、一名、枝昆布(えだこんぶ)』さんざん注したガッガラコンブ Saccharina coriacea である。]

2025/10/04

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「淺畑池雩」+「老婆殺河伯」

[やぶちゃん注:二篇とも、底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。実は、この次の次に、「老婆殺河伯」とい連環の強い話が載るので、ここで、カップリングしておくのがよいと考え、特異的に二篇を示すことにした。

 

 「淺畑池《あさはたいけ》 雩《あまごひ》」 安倍郡、淺畑村《あさはたむら》、淺畑池《あさはたいけ》にあり。傳云《つたへいふ》、

「此池に、牛の頭《かしら》を沈《しづめ》て雩すれば、いか成《なる》旱《ひでり》も、忽《たちまち》、雨ふる。此事、祕すべし。人、もし、此《この》企《くはだて》を知る時は、雨、降らず。云云。」。

 河伯《かはく/かつぱ》、兒童の肛門を望《のぞま》ずして、牛肉を愛す、又、奇ならずや。

[やぶちゃん注:「淺畑池」に就いては、先行する「神木鳴動」、及び、「桃澤池奇怪」の注で、かなり考証し、当時の池の位置も推定したので、そちらを見られたい。

 

   *

 

 「老婆殺河伯《らうば かはく を ころす》」 安倍郡、淺畑東村にあり。傳云、

「當村の民、彥左衞門が祖に、一老婆あり。其孫《そのまご》、小吉《およし》と云《いへ》る小女《こをんな》、河伯の爲に、溺死す。

 老婆、是を、悲《かなし》み歎き、終《つひ》に、麻畑池《あさはたいけ》に入《いり》、水神《すいじん》となり、河伯を捕《とらへ》て、孫の讐《あた》を報じ、大谷村、瑞現山大正寺《だいしやうじ》【曹洞、寺領三十石。】開山《かいさん》行之《ぎやうし》のもとに行《ゆき》て、菩薩戒《ぼさつかい》を受《うけ》たり。今の諏訪明神の社《やしろ》は、此老婆が靈を祭る所也。云云。」。

 此事《このこと》、口碑《こうひ》に傳ふるのみ。「淺畑池由來」云《いはく》、

『建武年中、脇屋右衞門佐《うゑもんのすけ》義助《よしすけ》、守護として、在國の時、瀨名村《せなむら》の長《をさ》某《なにがし》が女《むすめ》小菊を幸愛《かうあい》して、一女子を儲《まう》く。小葭《およし》と名づく。觀應二年七月、祖母、病《やまひ》あり。小葭、淺間社《あさまのやしろ》に詣《まうで》して、祈《いのら》んとし、河合《かはひ》を越《こえ》て、巴河《ともへがは》に至り、河伯の爲に、とられて、水底《みなそこ》に入《いる》。祖母、歎《なげき》て、巴河《ともゑがは》に身を投じ、靈《れい》を止《とどめ》て、河伯を殺し、胡蓮を池中に生ぜしめて、人の助《たすけ》とす。云云。』。

 何《いづ》れか、可ならん。

 

[やぶちゃん注: 「麻畑池」前話の「淺畑池」に同じ。私が推定比定したこの附近(静岡県静岡市葵区内。グーグル・マップ・データ)に、現在も、「麻機遊水池」(あさはたゆうすいち)群が存在する。

「大谷村、瑞現山大正寺」静岡市駿河区大谷に現存する。ここ。山号の読み方と(「瑞現」は「ずいげん」であろう)、ここに出る住職の読み方は不詳。

「建武年中」一三三四年から一三三六年まで。

「脇屋右衞門佐義助」(嘉元三(一三〇五)年~興国三/康永元(一三四二)年)新田義貞の実弟。当該ウィキによれば、元弘三(一三三三)年五月に『兄義貞が新田荘にて鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵すると、関東近在の武家の援軍を受け北条氏率いる幕府軍と戦う。鎌倉の陥落により、執権北条氏が滅亡した後は、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、上洛。諸将の論功行賞によって、同年』八月五日、『正五位下に叙位され、左衛門佐に任官し』、『また、同年、一時期、駿河守にも補任され』たとある(太字は私が附した)。

「觀應二年七月」ユリウス暦一三五一年七月二十四日から八月二十二日まで。

「淺間社」現在の柚木浅間(ゆのきせんげん)神社(グーグル・マップ・データ)であろう。

「河合」葵区川合(グーグル・マップ・データ)であろう。「巴河」(=巴川)が側面を流れ、その北西直近に「麻機遊水池」がある。バッチリのロケーションである。

「胡蓮」読み不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『北支蒙疆地方學術調査團報告論文集 第一輯』(朝鮮自然科學協會発行・年次不詳)のここの『(86) 胡蓮』の箇所に、『生藥』『の胡黃蓮と同種のものであり、この生藥の母植物』(漢方の基原植物のこと)『は Picrorrhiza Kurroa なりと云はれてゐる. Hübotter 氏は蒙古藥の胡蓮は Scutellaria baicalensis となせり. 』とあったが、この Picrorrhiza Kurroa というのは、ヒマラヤ西部高地に植生するオオバコ科 Plantaginaceaeの植物で、Scutellaria baicalensisの方は、シソ科タツナミソウ(立浪草)属コガネバナ(黄金草)Scutellaria baicalensis であり、当該ウィキによれば、『ロシアの極東地方からモンゴル、中国北部、朝鮮半島にかけて分布する』陸生多年草であるから、本文の『池中に生ぜしめて』とは、一致しない。「胡蓮」という熟語は、素直に見るならば、「胡」は、中国で北西方の未開民族を指す語であるから、その地方から持ち込まれたハス(のような)水生植物と採るしかない。個人的には、「えびすはす」と訓読したい。

 なお、ウィキの「河童」にも、『静岡県』に、『老婆殺河伯』として、『安倍郡淺畑東村の淺畑池。小吉という少女を殺した河伯を小吉の祖母が捕えたという』。『瀬名村の巴河。観応27月、瀬名村の村長の娘小葭を殺した河伯を小葭の祖母が殺したという』とあり、『河童』として、『庵原郡の巴河に現れるという』とある。]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その4)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、ここから。

 なお、以下の九項は、「次の段落で解説する」と河原田氏は言っているのだが、河原田氏は種同定に関わる部分を製品異同扱いして混淆しているらしく、甚だ、問題があるので、ここの段落の後で注をしないと、読者が混乱を生ずると考えられるので、ここで注をしておいた。

 以下、各丸括弧項目は一字下げで、二行目以降は四字下げであるが、再現していない。

 また、図版パートの注で、既に示した箇所もあるが、一部は、読者諸君に、いちいち戻ってそれを見て貰う手間を省くために、再度、示した箇所もあることを断っておく。]

 

(一) 元昆布(もとこんぶ) 厚昆布(あつこんぶ) 廣昆布(ひろこんぶ) 鬼昆布(おにこんぶ)【此《この》三品、形狀に依《より》て名《なづ》くるもの。】 小本昆布(をもとこんぶ)[やぶちゃん注:この前の字空けは原本では、ないが、添えた。「をもと」は正しい。後注する。] 宮古昆布(みやここんぶ) 田老昆布(たらふこんぶ[やぶちゃん注:ママ。]) 大間昆布(おほまこんぶ) 泊昆布(とまりこんぶ) 三厩昆布(みむまやこんぶ) 松前昆布(まつまへこんぶ) 志苔昆布(しのりこんぶ)【此八品、地名を以て名《なづ》くるもの。】 元揃昆布(もとそろいこんぶ[やぶちゃん注:ママ。]) 鼻折昆布(はなおりこんぶ[やぶちゃん注:ママ。「おり」は、以下、正しい「をり」と、多く混在するので、注はしない。]) 小鼻折昆布(こはなおりこんぶ) 折昆布(おりこんぶ) 島田折昆布(しまだをりこんぶ) 長折昆布(ながおりこんぶ)【此六品、整束によりて名くるもの。】 等(とう)、之(これ)に屬す。

[やぶちゃん注:「鬼昆布」これは知床半島先端部、特に羅臼町周辺で採れる高級昆布で、マコンブ変種オニコンブSaccharina japonica var. diabolica指し、「羅臼昆布」の別名で、よく知られる。この和名は、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「由来・語源」で、『非常に大きくなるところから。』とする。この場合の「鬼」は、所謂、「強い・大きい」の意味に基づく命名である。「小本昆布(をもとこんぶ)」同前で説明落ち。これは、現在の岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)小本(おもと)である。小本漁港(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)があり、「岩手県」公式サイトの「宮古管内の漁港(7) 小本漁港」には、『集落は山沿いの平地に小本と中野の』二『つの集落があり、併せて約』三百五十『戸、うち』、『半分が漁家である』。『元々、木材や生活物資の搬入の基地となっていた』が、『現在は、採介藻漁業を中心とした磯漁業と船びき網、サケ延縄漁業等、岩泉町の沿岸漁業の拠点港として重要な役割を果たしている』とあった。而して、「をもと」だが、サイト「日本姓氏語源辞典」の「小本(こもと/おもと)さんの由来と分布」のページに、『①岩手県下閉伊郡岩泉町小本発祥。戦国時代に記録のある地名。地名はオモトで「小元」、「尾本」、「尾元」とも表記した。岩手県盛岡市内丸が藩庁の盛岡藩士に江戸時代にあった』あったことから、この「をもと」は、古い「尾本」・「尾元」の読みとして、正しいのである。なお、後の「昆布の圖」の第9図版の中に、「宮古昆布」として、また、左下方にポイント落ちで「小本昆布等」とあり、また、そこに斜め左下に「小本昆布」がある。この「小本」から、南に直線で二十キロメートル離れた位置に岩手県宮古市がある。宮古が昆布の集散地であったことは、まず、間違いない。

「厚昆布」厚みのある個所を用いた製品。但し、釧路・根室地方沿岸、貝殻島・歯舞諸島・国後島・択捉島周辺に分布する種である、ガッガラコンブ Saccharina coriacea は、異名を「アツバコンブ(厚葉昆布)」と呼ぶので、注意が必要である。【図版8】を参照。

「宮古昆布」岩手宮古産、或いは、最後に書いたように集散地の名を冠したもの。種は同定出来ない。同知地方では、マコンブ・ホソメコンブ・ミツイシコンブの三種類が採れるからである。

「田老昆布(たらふこんぶ)」「たらうこんぶ」が正しい。岩手県宮古市田老(たろう)には、田老漁港があり、そこが、一次集散地である。

「大間昆布」「大間のマグロ」(スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科マグロ族マグロ属クロマグロ Thunnus orientalis )で知られる、青森県下北郡大間町(おおままち)産である。但し、ここは高級品としてマコンブに比定してよいが、現行では、狭義の「コンブ」ではない、コンブ目レッソニア科 Lessoniaceae アラメ(荒布)属アラメ Eisenia bicyclis を用いた「とろろ昆布」も「特産品」として製造している。

「泊昆布」北海道古宇郡(こうぐん)泊村(とまりむら)であるが、ここは、マコンブとホソメコンブの分布域であるので、比定は出来ない。

「三厩昆布(みむまやこんぶ)」三厩村は青森県東津軽郡の北西の、津軽半島の最北端(東部)に位置していたが、現在は、外ヶ浜町となった。その中では、半島北端に広く三厩を持つ地名が存在する。なお、日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」では、マコンブに限定している。

「松前昆布(まつまへこんぶ)」松前藩が朝廷や将軍家に上納していた最高級の昆布は「獻上昆布」と呼ばれたから、マコンブとしてよい。但し、ウィキの「松前昆布」には、三つの意味を示し、「1」として、『北海道松前町を産地とする昆布のこと。』とし、「2」で、『昆布を細切りにしたもの。松前漬けなどに用いる。』、「3」で、『昆布を薄く板状に削いだ白板昆布の別称。おぼろ昆布の一種。』とする。以下、『元々は江戸時代に、松前藩が全国に昆布を流通させたことから、「松前」が昆布を用いた料理を指す言葉になった経緯がある』。『関西で作られる押し寿司(バッテラ)をくるむ白板昆布のことを指すのは、江戸時代の昆布が大阪を中心に流通しており、そこから転じて後に「松前昆布」と言われるようになったため。』と終わっている。「1」では、フラットに考えるなら、マコンブ以外も含まれる。「2」については、「Yahoo! JAPAN知恵袋」の回答に、『松前漬には羅臼昆布(一番味が良いが』、『高価)や日高昆布』(コンブ属ミツイシコンブ(三石昆布=「日高昆布」) Saccharina angustata )『(味はやや劣るが』、『柔らかく安価』』、そしてがごめ昆布(粘りが強く出るが』、『味は劣る)』(ガゴメ属ガゴメ(コンブ)(籠目(昆布)) Kjellmaniella crassifolia )『などが使われます』。『そのお店、製造者により使われる昆布には違いがあります』とあったので、限定は出来ない。「3」では、株式会社小倉屋松柏の公式サイト内の「白板昆布(バッテラ昆布)」の解説では、『白板昆布』の『作り方は真昆布』(☜ ☞)『白口浜』(しろぐちはま)『の』と、マコンブ限定で、しかも、産地限定がされており、『むき込み(黒とろろ)白おぼろ』、『白とろろを削ったあとの部分を 仕上げたものが白板昆布です。バッテラ昆布ともいいます バッテラ寿司にのせるのに』、『よく使われます』。『白板昆布使用方法』『は』、『一般的には』、『戻し方は』、『甘酢で煮て』、『バッテラ寿司に乗せる用途でつかわれます。押し寿司用昆布(鯖寿司用昆布)ですが、地域によっては昆布締めにつかったり』、『また』、『関西では鏡餅にのせたりします』。『鯖の巻き寿司』、『および』、『幅の広い用途にご利用使用される場合は』、『重ねてつかわれ』る『場合が多いです』。『白板昆布』は『年々品薄傾向が続きます』とあった。この「白口浜」については、北海道の「献上昆布の浜 昆布・海藻専門店」の「昆布村」の公式サイト内の「昆布のいろいろ」の「白口浜と黒口浜ってな~に?」に拠れば、『真昆布は同一種であっても成育する場所によって品質や味が異なります』。『【昆布村】のある尾札部を含む』、『南かやべ産真昆布を乾燥させたものは、切り口の色が淡いクリーム色で、他の地域で獲れる真昆布よりも白っぽいことから『白口』と区分されています』。『これとは別に、津軽海峡沿岸で採れる真昆布を『黒口』と言って扱いを 区分しています。どちらも染色体は全く同じです』。『このことから、生産地の南かやべ・尾札部は『白口浜』と呼ばれるようになり、『白口浜昆布』という銘柄が出来ました。』とあった。この「南かやべ・尾札部」地区はここである。

「志苔昆布(しのりこんぶ)」「函館市/函館市地域史料アーカイブ」の「函館史」(平成一〇(二〇〇一)年刊)の「銭亀沢編」の「第二章 自然環境と地域との相互連関 / 第三節 銭亀沢地区の海産動植物と自然環境 / 四 銭亀沢の漁業生活と動植物」の「マコンブと昆布食の歴史」に以下のようにある(「銭亀沢」は「ぜにがめざわ」と読み、現在の函館空港の東の海岸地区である。「ひなたGIS」で示した。戦前の地図に「錢龜澤村」が確認出来、その西方直近に「志苔」の地名もある。太字は私が附した)。

   《引用開始》

 銭亀沢でのマコンブの呼び名は、ただの「コンブ」である。「マコンブ」の名も「真昆布」に由来することから、本当の、まともな、昆布中の昆布という意味合いが読み取れる。古く昆布はヒロメなどとも呼ばれていたがコンブの語源はアイヌ語という説もある。羽原(1940)および大石(1987)によれば、銭亀沢のコンブ漁場としての開発の歴史は古く、製品は「宇賀(うが)昆布」「志苔(しのり)昆布」の名で広く知られており、現在でも数百年前に運ばれた昆布が富山の昆布蒲鉾などに珍重されているという。また、川嶋(1989)によれば、最初にマコンブの和名を付けたのは宮部金吾博士によるようで、水産上は「ホンコンブ」(本昆布)、あるいは砂原から椴法華[やぶちゃん注:「とどほっけ」。ここ。]までのマコンブを元昆布、汐首岬から函館の大森浜までのものを「宇賀昆布」または「志海苔昆布」として区別していたと言う。羽原(1940)が、江戸時代の文献『蝦夷嶋奇観』から「シノリ昆布。箱館東海に産す。長七尋余。巾一尺三四寸、緑色、味甘味、此昆布は唐山に送る。」と引用しているように、銭亀沢産のマコンブは、日本海航路で大阪、長崎に運ばれて加工され、一部は遠く中国にまで輸出された高級ブランドであった。このように、当時のコンブの呼び名に銭亀沢の地名「シノリ」が残っていることは、銭亀沢のマコンブが日本および中国の食文化にまで歴史的影響を与えた証拠とみなしてよいであろう。

 なお、現在のマコンブの価格では最高が南茅部町の「白口浜」、次いで椴法華村、恵山町の「黒口浜」、銭亀沢は「本場折り浜」といわれ、いわば第三ランクの漁場に相当する。一般に養殖促成コンブの製品形態は長切りと呼ばれる九〇センチメートルに切ったものが普通であるが、銭亀沢の天然コンブは古来から「本場折り」「花(鼻)折り」とも呼ばれる長さ約五五センチメートルに折り畳んだ独特の形態がある。大石(1987)にしたがって昆布食文化の発展史と漁場開拓史をたどった場合、「だし昆布」としてのホソメコンブ、次いで「細工昆布」としてのマコンブ、味は劣るが生産量の多いナガコンブと続いてきたが、昆布そのものを食べる食文化が本格的に発生したのはマコンブからである。先人がコンブそのものを食べ始めたこととマコンブの味の良さは無関係とはいえないであろう。ほぼ最初に開拓された真昆布漁場がこの銭亀沢であり、最初に日本人が食物として口にした昆布が「宇賀昆布」「志苔昆布」であったとすれば、貴重品である真昆布を無駄なく利用しようとした先人の知恵が「本場折り」「花(鼻)折り」という独特の製品形態を今に残していることは十分うなずける。

   《引用終了》

「元揃昆布(もとそろいこんぶ)」「もとそろひこんぶ」が正しい。【図版2】を参照。

「鼻折昆布」【図版3】を参照。

「小鼻折昆布」同前。

「折昆布(おりこんぶ)」「をりこんぶ」が正しい。同前。

「島田折昆布」【図版4】を参照。

「長折昆布」ナガコンブ(長昆布=「浜中昆布」) Saccharina longissima の別称。【図版6】を参照。田中次郎先生の「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)の同種の記載を引用させて戴く(一部の属名解説は改定以前なのでカットする)。種小名は『もっとも長い』で、『【分布】 北海道(釧路・根室地方)』で、『【大きさ】長さ4~12m、葉部の幅6~18㎝』。『【解説】 長さ20mを超すものもあるが、多くはほぼ5m程度。中帯部は狭く、幅の4~5分の1。日本の海藻のなかでは一番長くなる種。北海道の中でも、もっとも寒冷な場所を好んで生育する。生産量は日本のコンブ類の中で最大。だし昆布ではなく、煮物や塩こんぶなどに使われる。多年生。一般にコンブというと、マコンブと思われているが、最近ではミツイシコンブ』、『リシリコンブ』、『オニコンブ、ナガコンブなどのほうが入手しやすくなっている。』とある。]

(二) 三石昆布 長切昆布 胴結昆布(どうむすびこんぶ) 䀋干昆布(しほぼしこんぶ) 若生昆布(わかをへこんぶ) 棹前昆布(さほまへこんぶ)【整束によりて名くるもの】等(とう)、之に屬す。

[やぶちゃん注:「長切昆布」「胴結昆布」「䀋干昆布」「若生昆布」総て、【図版1】を参照。

「棹前昆布」【図版1】及び【図版2】を参照。]

(三) 長昆布、一名、眞昆布 本昆布(ほんこん《ぶ》) 博多昆布【形狀によりて名くるもの】 根室昆布【地名により名くるもの】 長切昆布(ながきりこんぶ) 䀋干昆布(しほぼしこんぶ)【整束により名くるもの】等、之に屬す。

[やぶちゃん注:「博多昆布」【図版9】を参照。]

(四) 水昆布(みづこんぶ)

[やぶちゃん注:【図版2】を参照。]

(五) 黑昆布 天䀋昆布(てしお) 利尻昆布【地名によりて名くるもの】等、之に屬す。

[やぶちゃん注:「黑昆布」【図版2】を参照。]

(六) 細布(ほそめ)、一名、盆布(ぼんめ)。

[やぶちゃん注:私の複数の注があるが、【図版9】が、最もよい。

(七) 猫足昆布(ねこあしこんぶ)

[やぶちゃん注:【図版1】と【図版10】を参照されたい。]

(八) 粘液昆布(とろヽこんぶ) 縮昆布(ちゞみこんぶ) がもめ昆布 等、之に屬す。

[やぶちゃん注:「粘液昆布(とろヽこんぶ)」この漢字表記は初出。トロロコンブは【図版5】の私の注が、まず、お薦めである。

「縮昆布」チヂミコンブ(縮昆布) Saccharina cichorioides 。纏まった日本語のページが少ない(学術論文はある)ので、「北海道水産物検査協会」公式サイトの「ちぢみこんぶの詳細」のページ(但し、現在は消失しているようなので、「Internet archive」のアーカイブ版を用いた。そこでは、以下の通り、旧学名になっている。学名は私が斜体化した

   《引用開始》

学名:ラミナリア キコリオイデス

Laminaria cichorioides 縁が縮れた葉を持つキク科植物のような、という意)

呼称:とろろこんぶ(後志、稚内、宗谷、網走)

分布

 北海道日本海およびオホーツク海沿岸まで

生態

 チヂミコンブは、リシリコンブと同じように以前は日本海の南部まで点在的に分布していたといわれ、その南限には松前小島と記録されております。葉体はささの葉状で中央付近で最も幅広く、長さ0.71.2m、幅1016cm程、低潮線下から水深4mくらいまでの岩上に生育します。チヂミコンブは縁が断続的に強く縮れて鋸の歯の様にギザギザになっていることから付いた名前です。このような特徴のあるコンブは非常に珍しく、世界中にただ1種しか知られていません。

製品・用途

 製品は「ちぢみ加工用」。 

各種加工原料として用いられます。

   《引用終了》]

(九) ほつか昆布

[やぶちゃん注:ここが初出。ちょっと調べると、国立国会図書館デジタルコレクションの古い百科事典を見るに、マコンブの異名とあるのだが(例えば、これ)、以下の段落での解説を見るに、若干、疑問を感じたので、考証は、そちらで改めてやることとする。

和漢三才圖會卷第九十二之本 目録 草類 藥品(5) 藥七情

 

  藥七情

 

○單行 ○相須 ○相使 ○相畏 ○相悪 ○相反 ○相殺

 

單行者  單方不用輔也

相須者  同類不可離也【如人參與甘草知母與黃栢類】

相使者  我之佐使也【半夏使柴胡黃芪使茯苓】

相悪者  奪我之能也【黃芪悪龜甲白鮮皮人參悪皀莢黒豆】

相畏者  受彼之制也【附子畏人參甘草半夏畏生薑得之則不爲毒】

相反者  彼我交讎必不和合【人参反藜蘆半夏反烏頭】

相殺者  制彼之毒也

 相反者爲害㴱于相惡者【今畫家用雌黃胡粉相近便自黯妬可證矣】

[やぶちゃん字注:「黯」は、原本では、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、これにした。「㴱」は「深」の異体字。]

 然古方多有用相悪相反者【仙方甘草丸有防已細辛玉石散有括樓乾薑交泰

[やぶちゃん字注:「丸」は原本では、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、これにした。]

 丸用人參皂莢之類】此皆精微妙奧非達權衡者不能知

 

   *

 

  《やく》に七情《しちじやう》あり

 

○單行(たんかう) ○相須(さうしゆ) ○相使(さうし) ○相畏(さうい) ○相悪(さうを) ○相反(さうはん) ○相殺(さうせつ)

 

「單行」とは、 單方《たんはう》にして、輔(ほ)を用《もちひ》ざるなり。

「相須」とは、 同類、離《はな》るべからざるなり【人參と甘草《かんざう》と、知母《ちも》と黃栢《わうばく》と≪の≫類《るゐ》のごとし。】

「相使」とは、 我《あ》がの「佐使《さし》」なり【半夏《はんげ》は、柴胡《しこ》を使とし、黃芪《わうぎ》は、茯苓《ぶくりやう》を使≪とす≫。】。

「相悪(《さう》を)」は、 我《あ》が能(のう)を奪ふなり【黃芪《わうぎ》、龜甲《きつかう》・白鮮皮《はくせんぴ》を悪《い》み[やぶちゃん注:「忌み」に同じ。]、人參、皀莢《きやうきやう》・黒豆《くろまめ》を悪む。】。

「相畏《さうい》」は、 彼《か》れが制を受くなり【附子《ぶし》は、人參・甘草《かんざう》を畏《おそ》れ、半夏は、生薑《しやうきやう》を畏《おそれ》て、之れを得《う》。則ち、毒と爲《な》らず。】。

「相反《さうはん》」は、 彼我《ひが》、交(こもごも)、讎(あだ)とし、必ず、和合せず。【人参、藜蘆《りろ》に反《はん》し、半夏、烏頭《うづ》に反す。】

「相殺《さうさい》」は、 彼が毒を制すなり。

「相反」の者、害を爲すこと、「相惡(さうを)」の者より㴱《ふか》し【今、畫家《ぐわか》に、雌黃《しわう》を用《もちひ》て、胡粉《ごふん》、相《あひ》近《ちかけ》れば、便《すなは》ち、自《おのづから》、黯《くら》き妬《ねたみ》≪の≫、證とすべし。】

 然《さ》る古方、多《おほく》、用《もちひ》ること、「相悪」・「相反」の者を用ること、有り【仙方の「甘草丸《かんさうぐわん》」、防已《ばうい》・細辛《さいしん》、有り。「玉石散《ぎよくせきさん》」、括樓《からう》・乾薑《かんきやう》、有り。「泰交丸《たいかうぐわん》」、人參・皂莢《さうきやう》を用《もちひ》るの類《たぐひ》。】此れ、皆、精微・妙奧《めうわう》、權衡《ごんしやう》に達する者に非ざれば、知ること、能はず。

 

[やぶちゃん注:この部分、全体に、訓読だけでは、意味を採り難い感があるので、特異的に東洋文庫訳を、まず、総て引用することとする。ルビ(活版時代のものであるため、ルビは小書き表記がないのは、私が補正している)は、私には承服出来ない、おかしなところがあるが、そのまま示す。

   《引用開始》

  薬に七情がある

○単行(たんこう) ○相須(そうしよ) ○相使(そうし) ○相畏(そうい) ○相悪(そうあく) ○相反(そうはん) ○相殺(そうせつ)

 単行とは単一の処方で抽萌薬を用いないことである。

 相須とは同類のもので離すことのできないものである〔人参と甘草、知母(ちも)と黄栢薬の類のようなもの〕。

 相使とはこちらの効力を昂(たか)めるために相手を補助として用いることである〔半夏(はんげ)(毒草類)は柴胡(さいこ)を使(引薬)とし、黄芪(おうぎ)(山草類)は茯苓(ぶくりょう)を使とする〕。

 相悪とはこちらの能力を奪うもののことである〔黄芪は亀甲・白鮮皮(はくせんび)(山草類)を悪(い)み、人参は皀莢(そうきょう)(喬木類サイカシ)・黒豆を悪む〕。

 相畏とは相手から判圧されることである〔附子(ぶし)(毒草類)は人参・甘草を畏(おそ)れ、半夏(はんげ)(毒草類)は生薑(しょうきょう)を畏れる。制圧されると毒性はなくなってしまう〕。

 相反とは両者ともに敵対しあい、絶対に和合しないことである〔人参は藜蘆(りろ)(毒草類)と反し、半夏は烏頭(うず)(毒草類)と反する〕。

 相殺とは相手の毒を制圧することである。

 相反する場合の害は相悪の場合より深い〔今、画家が雌黄(しおう)を用いるが、これが胡粉(ごふん)と合うとくろずむ。嫉妬(しっと)する証拠である〕。

 けれども古方では相悪・相反のものを用いたものが多くある〔仙方の甘草丸に防已(蔓草類)・細辛(さいしん)(山草類)を用い、玉石散に括楼(かろう)(トウカラスウリ)・乾薑(かんきょう)を用い、交泰丸に人參・皂莢(そうきょう)(喬木類)を用いるといった類〕。これらの作用はみな精微妙奥なものなので、微妙な釣合い加減をよく会得したものでなければ、どうこういうことはできない。

   《引用終了》

訳者の竹島淳夫氏は、専門が東洋史で、中医学の専門家ではない。訳以外には、簡単な割注はあるものの、後注などもない。されば、私には以上の訳で、納得は出来ない。そこで鍼灸・漢方薬・薬膳等、東洋医学を通して社会に貢献している「東洋遊人会」公式サイト内の「中薬学・生薬用語」の瀬戸郁保(せといくやす)氏の解説になる「相須・相使・相畏・相殺・相悪・相反」を引用して補助することとする(一部はポイントが上げてあるが、同ポイントとし、途中にあるショート・コードは省略した。なお、「配伍」は「配合」のことである。例示されている漢方生剤は、いちいち説明すると、時間を食うばかりなので省略する)。

   《引用開始》

生薬を配伍した時に生じる関係性を、相須・相使・相畏・相殺・相悪・相反という6つに分類する。

 

相須・相使

効果が増強される組み合わせ

◦相須

2種類以上の生薬の効果が類似しており、配伍することで生薬の効果がさらに増強される組み合わせ。

たとえば、知母と黄柏の配伍は滋陰降火の作用を強める。乳香と没薬の配伍は理気活血作用を高める。

◦相使

主薬に対して臣薬(輔薬)が配伍されると主薬の効果が高まる組み合わせ。

たとえば、黄耆に茯苓を配伍すると黄耆の補気利水作用が増す。

 

相畏・相殺

毒性が減少する組み合わせ

◦相畏

ある生薬がもっている毒性や強烈な作用が、別の生薬との配伍によって軽減されたり、消除されたりすること。

たとえば半夏や天南星の毒性が、生姜によって制限される。

◦相殺

ある生薬が、他の生薬がもっている毒性や副作用を軽減したり、消除したりすること。

たとえば緑豆は巴豆の毒を除く。

 

相悪・相反

やってはいけない禁忌の組み合わせ

◦相悪

ある生薬が、他の生薬の効能を弱めたり、甚だしく喪失させてしまうこと。

たとえば莱菔子は人参の補気効果を失わせてしまう。

◦相反

2種類以上の薬物を同時に用いた場合に、強烈な毒性を産み出したり、毒性の副作用を発生させること。十八反はこの例である。

   《引用終了》

 以下、通常通り、語注をする。

「人參」「朝鮮人參」。セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジン Panax ginseng

「甘草」マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza当該ウィキによれば、『漢方薬に広範囲にわたって用いられる生薬であり、日本国内で発売されている漢方薬の約』七『割に用いられている』とある。

「知母」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ハナスゲ属ハナスゲ Anemarrhena asphodeloides の根茎の生薬名。当該ウィキによれば、『中国東北部・河北などに自生する多年生草本』『で』、五~六『月頃に』、『白黄色から淡青紫色の花を咲かせる』。『根茎は知母(チモ)という生薬で日本薬局方に収録されている』。『消炎・解熱作用、鎮静作用、利尿作用などがある』。「消風散」・「桂芍知母湯」(けいしゃくちもとう)・「酸棗仁湯」(さんそうにんとう)『などの漢方方剤に配合される』とある。

「黃栢」「卷第八十三 喬木類 目録・黃蘗」を見られたい。

「半夏」単子葉植物綱ヤシ亜綱サトイモ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク(烏柄杓)Pinellia ternata のコルク層を除いた塊茎。嘔気や嘔吐によく使われる生薬である。私の「耳囊 卷之七 咳の藥の事」も参照されたい。

「柴胡」セリ目セリ科ミシマサイコ(三島柴胡)属(或いはホタルサイコ属)ミシマサイコ Bupleurum stenophyllum の根。解熱・鎮痛作用があり、多くの著名な漢方方剤に配合されている。ウィキの「ミシマサイコ」によれば、『和名は、静岡県の三島市付近の柴胡が生薬の産地として優れていたことに由来する(現在の産地は、宮崎県、鹿児島県、中国、韓国など)。』とある。

「黃芪」マメ目マメ科ゲンゲ属キバナオウギ(黄花黄耆) Astragalus membranaceus 、或いは、同属のナイモウオウギ(内蒙黄耆: A. mongholicus )の根を基原とする生薬。当該ウィキによれば、『止汗、強壮、利尿作用、血圧降下等の作用がある』とある。

「茯苓」「卷第八十五 目録(寓木類・苞木(竹之類)・樹竹之用)・茯苓」を見よ。

「龜甲」「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 |亀板と鼈甲(キバンとベッコウ)」に拠れば、基原は、『亀板はクサガメChinemys reevesii Gray(カメ科 Emydidae)などの腹甲。鼈甲はシナスッポンAmyda sinensis Wiegmann(スッポン科 Trionychidae)の背甲または腹甲。』とあり、

   《引用開始》

 「鶴は千年,亀は万年」。他の動物に比して齢(よわい)が長いといわれる鶴と亀は,ともに古来めでたい動物として尊ばれてきました。中でもカメの仲間は薬用にも利用され,その滋陰の作用はまさに長寿を望むものにふさわしい薬物と言えます。

 カメの仲間は背面と腹面に甲羅があり,頭,四肢,尾のみを外に出した特異な体形をもつ動物で,脊椎動物爬虫綱カメ目に属し,生薬としては,「亀板」「鼈甲」「玳瑁」などが知られています。中でも,「亀板」と「鼈甲」は『神農本草経』のそれぞれ上品と中品に収載されている薬物です。

 亀板は「亀甲」の原名で収載され,「漏下赤白を主治し,体内の腫れ物やしこりなどを破り,五痔,陰蝕,湿痺,四肢の重弱,小児の頭骨の接合しないものを治す。久しく服すれば身を軽くし,飢えることはない。一名神屋。」とあります。「亀甲」という名称からは背甲が薬用に供されたように考えられますが,歴代の本草書中にはとくに背甲が使用されたという記載は見られません。陶弘景は「水中の神亀を用い,長さ一尺二寸の者がまさに善い。(甲羅は)卜占に用いるにもよく,薬用にもよい。また仙方に入れるにはこれを用いる。用時は醋で炒る。生亀で羹を作れば大補する。」などと記しています。『中華人民共和国葯典』では,1985年版までは「亀板」の名称で亀の腹甲のみを収載していましたが,1990年版からは名称を古来の「亀甲」に変え,腹甲に加えて背甲をも規定しています。市場の実情を反映した結果であると思われますが,昨今の主たる中国市場を見る限りは,亀板の名称で腹甲のみが利用されているようです。仮に背甲と腹甲に薬効的な差があるとすればいずれかの本草書に記されているはずであり,そうした記載がないということは,最近の『中華人民共和国葯典』が規定するようにいずれを用いてもよいものと思われます。一方の鼈甲については,『神農本草経』には「心腹の腫れ物やしこり,寒熱を主治し,痞,息肉,陰蝕,痔,悪肉を去る。」と記載されました。また陶弘景は「生の甲を取って肉をはぎ去ったものを良しとする。煮脱したものは用いない。」と記し,薬用には生体から得た甲羅を用いるとしています。なお,『名医別録』には肉の薬効について「味甘。消化吸収機能が傷ついたものを主治し,気を益し,不足を補う」とあり,昨今同様,スッポンは古来肉も強壮薬としてに[やぶちゃん注:ママ。衍字であろう。]食されてきました。カメには肉の薬効に関する記載は見られません。

 ちなみに,現世のカメ目動物は約220種類が知られ,10科に分類され,イシガメやクサガメはヌマガメ科に属し,スッポンはスッポン科に属します。中でもスッポン科は特異的で,背甲と腹甲が固着せずに離れていること,また表面に甲板(表皮が変形した角質物質)を欠くことなどが特徴です。また,陸生種と水生種がおり,薬用には専ら水生種が利用されてきました。亀板,鼈甲ともに,性味は鹹・平です。カメは古来神聖視され,カメとヘビの合体像である玄武(黒)は北を守り,水(腎)を司る役割を与えられてきたことは,薬用(鹹)に水生種が利用されたことと関係しているのかも知れません。

 品質的には生のものからできるだけきれいに肉を取り去ったものが良品であるとされ,加熱処理したものは劣品とされます。市販品にはしばしば肉片などが付着して汚れていますが,こうしたものが却って良質品の目安とされている所以です。現代中医学では,ともに肺胃,肝腎,心脾の陰虚や津虚を改善する滋陰薬に分類され,同様な目的で使用されますが,亀板は,滋陰補腎の力が強く,鼈甲は,退熱と軟堅散結の効力に勝るとされます。また,煮出して製した亀板膠の効果がより強いとされ,鹿角膠とともに製した「亀鹿二仙膠」が補腎薬としてよく知られています。また,亀板と鼈甲が同時に処方されたものとして「三甲復脈湯」が知られます。

 カメは以前は何処にでも普通に見られました.気がついてみると昨今は野外ではほとんど見られなくなってしまいました。我が国では動物性生薬の利用は比較的少ないのですが,生薬の資源確保を目した環境問題への取り組みは,実は動物性生薬ほど深刻に考えなければならない問題なのかも知れません。

   《引用終了》

とあった。

「白鮮皮」ムクロジ目ミカン科ハクセン属ハクセン Dictamnus albus の根皮を基原とする生薬で、当該ウィキによれば、『唐以降の書物に見られ』、『解毒や痒み止めなどに用いられていたが、現在は』殆んど『用いられない。ヨーロッパでは、皮膚病の薬や堕胎薬として用いられていた』とある。

「皀莢」「卷第八十三 喬木類 皂莢」を見よ。

「黒豆」言わずと知れた、マメ目マメ科マメ亜科ダイズ属ダイズGlycine max の品種「黒大豆」・「ぶどう豆」とも呼ぶ。漢方としてのデータは、サイト「薬読(やくよみ) 薬剤師のエナジーチャージ」の『第80回 「黒豆」の効能&かんたんレシピ!ありがたい効能が盛りだくさんな生薬』が詳しいので、見られたい。

「附子」後に出る「鳥頭」(うず)と同義。トリカブト(モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum )のトリカブト類の若い根。猛毒であるが、殺虫・鎮痛・麻酔などの薬用に用いられる。「そううず」「いぶす」とも言う。

「生薑」お馴染みの単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ショウガ Zingiber officinale の根茎を乾燥したもの、時に周皮を除いたものを基原とする。詳しくは、サイト「日本漢方生薬製剤協会」の「ショウキョウ (生姜)」を見られたい。

「藜蘆」サイト「イアトリズム」の「知っておきたい『漢方生薬』」の「藜芦」(りろ)のページによれば、基原を『ユリ科シュロソウ属シュロソウなどの根および根茎』とある。シュロソウは「棕櫚草」で、単子葉植物綱ユリ目シュロソウ科シュロソウ属シュロソウ Veratrum maackii 。以上の学名は、Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「シュロソウ 棕櫚草」のページのものを採用したが、そこには、『日本(北海道、本州)、朝鮮、中国、ロシア原産。中国名は毛穗藜芦 mao sui li lu。』とされ、『シュロソウの変異は多く、中間型も見られ、多数の変種などに分類され、異説も多いが、シュロソウ、ホソバシュロソウ、オオシュロソウ、アオヤギソウ、タカネアオヤギソウを Veratrum maackii の変種とするYlistの分類に従った。World Flora Onlineではvar. japonicum var. reymondianumを含める)とvar. parviflorumVeratrum coreanumを含む)2変種としている。Kewscienceではvar. maackii , var. parviflorum , var. longebracteatum3変種にまとめている。』とあり(学名は私が斜体にした)、ネットで「藜蘆」で検索すると、「イアトリズム」で『など』としているように、多数の種が基原であり、或いは、別な種も含まれているではないか? という疑義を附す記載もあった。因みに、「イアトリズム」の「適応疾患および対象症状」に、『脳血管障害、てんかん、毒物の誤飲、疥癬、頭部白癬症、咽喉炎など』とし、「薬理作用」には、『止痒作用、催吐作用、血行改善、意識回復、殺虫作用、解毒作用、消炎作用、発毛作用、創傷回復など』とあった。

「雌黃」(しおう(現代仮名遣):orpiment)は第一義的には砒素の硫化鉱物で「雄黄」「石黄」とも呼び、中世ごろまでは画材の黄色顔料として広く利用されたが、毒性があるため近現代では使用されなくなったのでこれは違う。されば、これはやはり黄色顔料として画材として用いられたガンボージ(gamboge)の別名としてのそれである。インド原産のキントラノオ目フクギ科フクギ属ガルシニア・モレラ Garcinia morella からとった黄色の樹脂である(辞書類ではキントラノオ目オトギリソウ科 Hypericaceae に属する植物であるとするが、紀井利臣著「新版 黄金テンペラ技法:イタリア古典絵画の研究と制作」(二〇一三年誠文堂新光社刊)の「題二章 工程と製作」に載る記載(グーグルブックスを使用)に従った)。黄色絵の具として日本画などで用いられ、「草雌黄」「藤黄(とうおう)」などと呼ばれ、東アジアでは数百年以上も昔から絵具として使用された歴史がある。主としてインド、中国、タイ等に自生するから採取される。ヨーロッパでは古くから商品として伝えられており、初期フランドル絵画に使用されたとも言われ、日本画にも盛んに使用された。主として水性絵具・揮発性ニス・金属ラッカーの用途がある。紀井氏の解説によれば、『有毒で、非常に辛い苛烈な味がすると言われ、古くから漢方薬として』も使用されたとあり、さらに、『水練りにして使用しますが、練る指先に傷がないように注意して下さい』とある。他のネット記載では、現在は毒性はないとするものもあるが、強い成分があることは確かである。なお、現在、通常の黄色絵具は化学顔料にとって代わられつつある。

「胡粉」小学館「日本大百科全書」に拠れば、『東洋画の白色顔料の一種。貝殻を焼いて粉末にしたもので、炭酸カルシウムを主成分とする。絵の地塗りや建築物の彩色に多く用いられ、また桃山時代の障屏画(しょうへいが)などでは、桜や菊などを胡粉の盛り上げ彩色で効果的に表現している。ただし材質上剥落(はくらく)しやすく、胡粉で彩色された作品は取扱いに注意が肝要。胡粉の語は、すでに早く奈良時代の文献にみえるが、実際に胡粉が顔料として使われるようになるのは室町時代以後のことで、それ以前は白土などが用いられた。これを含めて白色顔料を胡粉ということもある。また他の顔料に胡粉を混ぜたものを、具墨(ぐずみ)、朱(しゅ)の具、具まじりと称すように、具とよぶ。』とあった。

「仙方」本来は、中国の仙人が、不老不死・羽化登仙に到達するのを理想にして行なう古くからの方術の処方を指す。

「甘草丸」マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza は、当該ウィキによれば、『漢方薬に広範囲にわたって用いられる生薬であり、日本国内で発売されている漢方薬の約』七『割に用いられている』とある。多くの漢方処方に使われている。

「防已」本篇の冒頭の「卷第九十二之本 目録 草類 藥品(1)」の私の注を見られたい。

「細辛」は、双子葉植物綱コショウ目ウマノスズクサ(馬の鈴草)科カンアオイ(寒葵)属ウスバサイシン(薄葉細辛)Asarum sieboldii 、又は、オクエゾサイシン(奥蝦夷細辛)変種ケイリンサイシン(鶏林細辛)Asarum heterotropoides var. mandshuricum (後者は中国には分布しない)の根及び根茎を基原とするもので、漢方薬品メーカー「つむら」の公式サイト「Kampo View」の「細辛」に拠れば、『主として、胸部、横隔膜のあたりに病邪のとどまっているもの、水毒(水分の偏在)を治す』とある。

「玉石散」不詳だが、これは、まさに仙薬の古名であろう。鉱物由来と思われる。

「括樓《からう》」基原は、皆さんお馴染みの、私の好きな双子葉植物綱スミレ目ウリ科カラスウリ属カラスウリ Trichosanthes cucumeroides の仲間であるトウカラスウリ Trichosanthes kirilowii 、キカラスウリ Tkirilowii var. japonicum 、 又は、オオカラスウリ Tbracteata の皮層を除いた根。詳細は、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 括楼根(カロコン)」を見られたい。なお、本文での読みは、この記事に従った。

「乾薑」「卷第九十二之本 目録 草類 藥品(1)」の私の注を見られたい。

「泰交丸」「イアトリズム」の「交泰丸」を見られたい。

「精微」詳しく緻密であること。

「妙奧」奥深く、優れて、量り難いこと。「深遠」に同じ。

「權衡」「均衡」に同じ。]

2025/10/03

サイト「鬼火」再開

御不便をおかけしました。私のサイト「鬼火」は再開しました。

2025/10/02

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「海野某顯靈」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。]

 

 「海野某顯靈《うんのなにがし りやう を あらはす》」 安倍郡《あべのこほり》田代村にあり。傳云《つたへいふ》、

「岩崎《いはさき》・田代《たしろ》村長《むらをさ》、市郞左衞門《いちらうざゑもん》が祖、海野七郞三郞《うんのしちらうさぶらう》は、大剛《だいがう》の士《し》也。永祿年中、武田信玄、これを惡《にくみ》て、井河一揆《ゐかはいつき》に令《れい》し、謀《はかり》、落し穴に入れ、終《つひ》に、是を殺さしむ。里人《さとびと》、其首級を取《とり》て、江尻城代土屋右衞門尉信近がもとに、送る。實檢の後《のち》、濱河原《はまがはら》に晒《さら》す。時に、七郞三郞が靈、頻《しきり》に祟《たた》りを、なせり。井河の鄕民《がうみん》、是を憂ひ、社《やしろ》を建《たて》て、靈を鎭《しづ》む。今の八幡社、是也。此人の居蹟・石垣等、猶《なほ》、存せり。」。

 

[やぶちゃん注:タイトルの内の「靈」は、「御靈」(ごりょう)であるから、「れい」ではなく、「りやう」と読んでおいた。

「安倍郡田代村」平凡社「日本歴史地名大系」に、『田代村 たしろむら』として、『静岡県:静岡市旧安倍郡地区田代村』、『[現在地名]静岡市田代』とし、『大井川最上流部に位置し、右岸の河岸段丘上に集落がある。対岸は上坂本(かみさかもと)村。戦国期には上井川(かみいかわ)に含まれ、田代郷と称された。天正七年(一五七九)一〇月二五日の武田家朱印状写(駿河志料)によると、海野弥兵衛尉に新恩分として上井川の「田代之郷上山共」の四貫四〇〇文の地が与えられた。同一〇年一一月一五日に作成された海野元定領年貢帳(海野文書)に「田代」がみえる。近世は井川郷(井川七郷)の一村。天正一八年とみられる一一月八日の井河之郷わんた村畠帳(森竹家文書)は地内割田原(わんだばら)のものか。』とある。現在の静岡県榛原郡(はいばらぐん)川根本町(かわねほんちょう:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。

「岩崎・田代村長」この「岩崎」は、現在の大井川の上流の、静岡県静岡市葵区岩崎であろう。同じく「日本歴史地名大系」に、『岩崎村 いわさきろむら』として、『静岡県:静岡市旧安倍郡地区岩崎村』、『大井川最上流部に位置し、左岸の河岸段丘に集落がある。南は中野(なかの)村。右岸に枝郷中山(なかやま)がある(「駿河記」など)。中世は井河(いかわ)のうちに含まれる。天正七年(一五七九)一〇月二五日の武田家朱印状写(駿河志料)によると、海野弥兵衛尉』(☜)『に新恩分として下井河の「上井川岩崎」内の二貫六〇〇文の地が与えられた。同一〇年一一月一五日に作成された海野元定領年貢帳(海野文書)に「岩崎分」とみえる。近世は井川郷(井川七郷)の一村。領主は安西外(あんざいそと)新田と同じ。元禄郷帳では高一八石余。承応二年(一六五三)の家屋敷并人馬鉄砲数改(海野文書)によれば居屋敷一五・人数九三、鉄砲六。』とある。ここは、「田代」から直線でも十九キロメートルも上流であるが、この二つの村の村長を兼ねていた、という意味であろうと私は推定する。現行では、地区が異なるが、民俗社会の時代には、大井川を伝ってのみ、遡上可能な場所であり、如何に離れていても、村長を兼ねていても、何らおかしくない。同じく「日本歴史地名大系」の「井河」(本文の「井河一揆」の「井河」と地名である)を見ると、『大井川の最上流地域で、周囲は深い山に囲まれ、険しい峡谷に形成された郷村。大井川沿いの通行は接岨(せつそ)峡に阻まれるため、安倍川支流の中河内(なかごうち)川や』、『その支流西河内川をさかのぼり』、『分水嶺を越えて通う道が発達していた。近世には井川(いかわ)七郷とか七里とよばれる上田(うえだ)・薬沢(やくさわ)・中野(なかの)・田代(たしろ)』(☜!)『・岩崎(いわさき)』(☜!)『『『・上坂本(かみさかもと)・小河内(おごうち)の七ヵ村が存在した(「駿河記」など)。室町中期には下井川の地名がみられ、その頃には上井川・下井川に分れていたと思われるが、永正一八年(一五二一)五月四日に今川氏親が駿府浅間社(静岡浅間神社)社家村岡大夫に「井河河堰」の草の下刈を認める朱印状(村岡文書)を出している。河草の下刈は川からの砂金採取のためのもので、安部(あべ)金山の一つ井川金山の採取権を認めたものといえる。』とあったから、もう、決まりである。但し、次の引用と私の見解を見られたい。

「海野七郞三郞」サイト「立て幕府女神隊」のここに、

   《引用開始》

海野七郎太郎(駿河記)

 岩崎住人。海野七郎三郎と兄弟。武田家より嫌疑を受け、江尻城から派遣された人物に捕縛される。江尻守衛の土屋右衛門尉の下に引き出され拷問の上梟首された。

 (補記)海野弥兵衛の配下と思われる

海野七郎三郎(駿河記)

 田代住人。海野七郎太郎と兄弟。武勇絶倫であったという。武田家より嫌疑をうけ、捕縛命令が出る。田代住人に謀られ落とし穴に落とされて討ち取られ、兄の七郎太郎とともに梟首された。怨霊となったので八幡社に弔われた。

 (補記)海野弥兵衛の配下と思われる。

   《引用終了》

とあることから、これは、兄弟で別々に、田代村と岩崎村の村長を担当していたものと考えるのが、よろしいかと思われる。

「江尻城代土屋右衞門尉信近」甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。「武田二十四将」の一人に数えられる土屋昌続(つちやまさつぐ)のことである。詳しくは、当該ウィキを見られたいが、そこには「信近」の名はないが、サイト「歴史人」の「孫子の旗 信玄を師匠とした武将列伝 第2回」の「信玄の近習から侍大将に取り立てられた剛将・土屋右衛門尉昌次」(江宮隆之氏筆)の中に、『信玄はよほど弟子ともいえる昌次』(昌続の別名)『の奮戦が嬉しかったのであろう。感状を与え、その中で信玄の一字を与え「信近」と名乗るように、と記している。』とあるので、間違いない。「江尻城」はここ。詳しくは、私は戦国時代興味がないので、ウィキの「江尻城」を見られたい。

「濱河原」恐らく、現在の大井川河口の右岸の旧榛原郡吉田町川尻字浜河原で、現在の静岡県榛原郡吉田町川尻とみた。

「今の八幡社」これは、現在の駿河区八幡山にある静岡八幡神社のことであろう。根拠は、静岡新聞社・静岡放送が運営する公式サイト「アットエス」の「静岡八幡神社」に、『静岡八幡神社(はちまんじんじゃ)は推古5597)年に有渡八幡宮として鎮座されたと伝えられ、古来より源・今川・武田・徳川など多くの源氏武将に氏神として崇敬されてきました』。『守護・今川氏親、丸子城城主・斉藤安元などの名がある本殿棟札は、19456月の静岡空襲で徳川家康奉納の楼門などとともに焼失しています。境内には東照宮300年祭に奉納された狛犬や、東照宮本殿御簾とも家康が寄進したとも伝わる徳川家奉納の「御簾」があります』。『駿河では非業の死を遂げた人を「死霊八幡」「弥陀八幡」として祀る信仰があり、海野一族曾我一族などを祭神とする社や、八幡山城跡、境内社、小堀手水などの語り部が点在しています。』(太字・下線は私が附した)とあったからである。]

niftyが個人通知もなしにプラン変更をしたため私のサイトの方は三日ぐらい見られない

昨日、深夜零時前になって、ちょっと必要があって、クリックしたところ、私のサイト「鬼火」が見られなくなっていた。ただの、メンテナンスかと思っていたが、今朝、クリックしたら、「存在しません」と出たので、驚いて、調べたら、個人通知もなしに(私は確かに受け取っていない!)、ホームページのプラン変更を行ない、9月26日までに変更しなかった場合は一時的にアクセスが停止されることが、初めて判った。入っていた無料プランが無くなっていた。その事前通知も受け取っていない! 有料になるのは、何らの不満はない。問題は、突然、シラっとやらかしたイジメに等しいヤリクチが、甚だ不親切だ!!! と言うのだよ!!! 聞いてねえってんだ!!! 驚いて、先ほど、変更申請を行なった。ところが、それが適応されるのに、なんと! 三日ほどかかると、きた! 人を馬鹿にしている! 呆れ果てた! 不愉快千万だ!

2025/10/01

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注上卷(二)昆布の說(その3)――総て図版画像附・全キャプション電子化注附

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回は、先の「鰑の說」以上に、早々に、図版十枚を先に電子化注しないと、ダメであることが判明した。ここから、ここまでの全十図である。「鰑」の図版の際と全く同様の仕儀(長くなるので、繰り返さない。まず、「鰑」のそちらのリンク先を見られたい)で、以下に電子化する。

 但し、今回の図版は上罫線外には、図の標題が全くない。

 

【図版1】

[やぶちゃん注:ここでは、図の形状、及び、叙述から見て、まず、上段から下段で、而して、右へと移る記載である。その順で電子化する。

 

Konbu1

 

■「長切昆布《ながきりこんぶ》」

 「俗に『板昆布』と云《いふ》。」「根室産。」

 「原藻の長さ一𠀋許《ばかり》より、最も長きは、

  三𠀋五、六尺に至る。幅三、四寸許の葉は、

  花折《はなをり》・元揃《もとぞろ》ひの類《るゐ》

  に比すれハ[やぶちゃん注:「ば」。]、薄し。北海道

  昆布中、最《もつとも》、多く產収するものとす。

  一束《ひとたば》の量目、八貫目より、十貫とす。

  莖根、五、六寸を切捨《きりすて》、長さ四尺二寸

  に切断し、図の如く、結束《けつそく》す。概ね、

  葉の薄きものハ、多く、上海《シヤンハイ》へ輸送す。

[やぶちゃん注:「長切昆布」国立国会図書館デジタルコレクションの「北海道漁業志稿」(北水協會編・昭和一〇(一九三五)年北海道水產協會刊)の「第七篇 昆布」の冒頭の「名稱」の内に、『採取季節により名稱を異にせしもの左の如し。』とするここ以下の、次のページに、『四尺乃至三尺五、六寸位に揃へ元を切り捨て結束すること』とある。「四尺乃至三尺五、六寸位」というのは、一・二一~一・〇二メートル、或いは、一・〇六メートルである。現代の昆布業者のサイトでは、昆布を七十五センチメートルから一・〇五メートルの一定の長さに切り揃えて結束したものを指す、とあった。但し、「長切昆布 板昆布」でグーグル画像検索をしても、ラッピングが、このようになった製品は、最早、挙がってこない。

「三𠀋五、六尺」十・六一~一二・四三メートル。

「三、四寸」九・一~十二・一センチメートル。

「花折」同前の国立国会図書館デジタルコレクションの「北海道漁業志稿」の「第七篇 昆布」の同じ「名稱」の内に、『大小により三、四枚乃至五枚宛』(づつ)『を揃へ二つに折り』、『末っを切捨て結束す。その結束方に大・中・小の三種あり、㐧は一把二貫目』(七・五キログラム)『、小は一貫目』(三・七五キログラム)『内外を常とす』とあった。因みに、その後に単なる『折』の項があり、『五、六枚乃至十二三位を揃え末の方より卷き折り結束す』とあった。

「元揃ひ」同前で、『根を切捨て一本每に元と先を揃て結束するもの』とある。現代の昆布業者のサイトでは、乾し昆布の内、葉元を整形して、葉先から内側に折り畳み、葉元を揃えたものを指す、とあった。より詳しいものでは、「株式会社くらこん」の「こんぶのくらこん」の「昆布講座」のページの、「6. 昆布のいろいろな区分」の「加工調整(製品)による区分」の「元揃(もとぞろえ)昆布」の項で、『以前は長いまま根元をそろえ、その何箇所かを昆布で作った縄でしばって製品としていました。現在は、根元をそろえるのは同じですが、羅臼昆布はほとんどが』七十五センチメートル、『真昆布は』九十センチメートル『の長さに折って結束します』とあった。

「八貫目より、十貫」三十~三十七・五キログラム。

「五、六寸」十五・六~十八・二センチメートル。

「四尺二寸」一・四七メートル。

 さて、問題は種であるが、これは、根室産であるから、

ナガコンブ(長昆布=「浜中昆布」) Saccharina longissima

に限定してよい。

 

■「胴結昆布《どうむすびこんぶ》」

 「一名『だきり昆布』」

[やぶちゃん注:標題下にあるので、附属題と採る。]

 「原藻、長さ、一𠀋五尺より、二𠀋餘に至る。」

 

[やぶちゃん注:「胴結昆布」「一名『だきり昆布』」前掲の「北海道漁業志稿」(北水協會編・昭和一〇(一九三五)年北海道水產協會刊)の「第七篇 昆布」の「種類及形狀」の「元昆布」の次の「三石昆布」の項に認められる(この前の「元昆布」はマコンブ(真昆布) Saccharina japonica を指す内容であるが、どうも、おかしい。何故なら、以下の「三石昆布」の中に、突然、「眞昆布」が出現しているからである。これは、どうも今のところ、不審が解けないでいる。以下に全文を示す(原本は標題のみが一字目からで、解説は二行目以降、総て、一字下げであるが、適宜、読み易く手を加えた。【 】は二行割注。

   *

三石昆布 幅廣き處二、三寸、長さ三、四尺よる大なるもの數丈に至り、中心に條あること細目昆布の如く、暗綠色にして其質元昆布に比すれば厚く、鹽氣少く[やぶちゃん注:「すくなく」。]甘味あり。日高國三石郡に產するを以て名づく、古來著名なり。

結束により名を異にするもの長切昆布、胴結昆布【一名「ダキリ」昆布、根室產原草[やぶちゃん注:ママ。以下では注さない。]の長さ一丈五尺乃至二丈、幅二、三寸なり。日高國ては駄昆布と云ふ】鹽干昆布、若生昆布、棹前昆布【未熟のものを採取製造せしなり。原草の長三尺四、五寸、幅三寸許にして葉少しく薄し】拾昆布、屑昆布の數種あり。

眞昆布【長昆布と云ふ】幅二、三寸、長さ二丈より六丈餘に至る。鮮綠色にして三石昆布に比すれば質薄くして、長さ四倍餘に及べり。

結束により名を異にするもの長切昆布【根室產原草の長さ一丈乃至三丈五、六尺にして三四寸】鹽干昆布【日高國產原草の長さ七尺乃至一丈餘、幅二、三寸にして葉厚し】胴結昆布、棹前昆布、若生昆布等なり。

   *

これは、

コンブ属ミツイシコンブ(三石昆布=「日高昆布」) Saccharina angustata

としてよい。

  

■「仝」「日髙産。」

[やぶちゃん注:「仝」「廣漢和辭典」では「同」の古字とする。従って、ここは前と同じ「胴結昆布」である。しかし、図は前者よりも、その縛り方と、ややスマートな製品の見た目からは、最初の「長切昆布」とよく似ている(当初、そのために、私は、図の記載順序を縦方向ではなく、右から左の横方向に並べてあると錯覚したぐらいである)。さて、但し、ウィキの「仝」には、漢字ではない記号である『「々」は』、『この文字を基にしているという説がある』とあり、さらに『第二次漢字簡化方案の第二表に同音の漢字である「童」の簡化字として』、『この字が掲載されている』。『JIS X 0208では記号として扱われているが、『Unicodeでは漢字としての扱いである』と書かれてある。しかし、そこの「用例」の項に、中・晩唐の詩人である「盧仝」(ろどう)、明代に書かれた「水滸傳」の登場人物である「朱仝」(しゅどう)のケースがある以上、上記の『記号として扱われている』というのは、電子化コードが漢字不全であった時代の便宜上の扱いに過ぎない。

 さて、ここでは標題を「仝」として「胴結昆布」ということになる。而して、これも

コンブ属ミツイシコンブ(三石昆布=「日高昆布」) Saccharina angustata

「日高産」というこの一発で、現行では、「日高昆布」を指すからである。而して、北海道日高郡新ひだか町三石港町の「よしあり水産」公式サイトの「日高みついし昆布の歴史と伝統|北海道の豊かな海が育む逸品」に、「2.日高みついし昆布の歴史」、「江戸時代から続く昆布の歴史」として、『北海道の昆布漁は、江戸時代初期から行われていました。特に日高地方は、寒流と暖流が交わる豊かな漁場が広がり、質の良い昆布が採れる地域として知られていました』。『江戸時代には、昆布は貴重な交易品のひとつ であり、北海道から本州、さらに中国へと輸出される「昆布ロード」と呼ばれる交易ルートが確立されました』とあり、「みついし昆布のブランド化」と題して、『「みついし昆布」の名が広まったのは、明治時代以降のこと』(★☜)『三石地区で収穫される昆布は特に品質が高く、出汁用としてだけでなく、昆布巻きや佃煮などにも適していると評判になりました』。『地元の漁師たちは、昆布の品質を保つための工夫を重ね、現在では』『「みついし昆布」ブランド』『として全国に出荷されています』とあるので、本書でも、同定比定は揺るがないのである。

 なお、読者諸君の中には、「ナガコンブとミツイシコンブの分布域は重なるのではないか?」と物言いする方もいるであろう。確かに、十勝・釧路・根室で重なる箇所はあるものの、「日高産」というのは、まず、間違いなく――ミツイシコンブを指す――のである。

「北海道」公式サイトの「水産林務部」・「森林海洋環境局成長産業課」の「ナガコンブ[長昆布]のページに、「■分布図」の道内の地図画像があり、『釧路・根室地方の太平洋沿岸、貝殻島、歯舞諸島、国後、択捉』とあるのである。因みに、解説には、『世界の昆布属のうち』、『最も長くなる種』とし、『成長した葉は細長い帯状で、長さは通常』四~十二メートル、『なかには』十五メートル『を超える長いものもあります。幅は』六~十八センチメートル『で、縁辺部は縮れていないのが特徴。茎は円柱状からやや偏平で、長さは』三~六センチメートル、『直径は』五~七ミリメートル『になります』とある(但し、『世界の昆布属のうち』、『最も長くなる種』と言うのは、間違っていないが、誤解する方がいると思うので、注しておく。何故かというと、現行では、旧コンブ属(ゴヘイコンブ属) Laminaria とカラフトコンブ属 Saccharinaに移されていることは素人の場合、まず知らないこと、「昆布属」と言われてしまうと、その属の上位タクソンであるコンブ科 Laminariaceaeと採ってしまう可能性が高いことから、まずいのである。現行のコンブカ科の世界最大種は、“Giant kelp”の名で、アザラシ・ラッコの棲み家になっていることで知られる、コンブ科オオウキモ属オオウキモ Macrocsytis pyrifera である。南北アメリカ大陸の太平洋沿岸、オーストラリア・ニュージーランド南岸、アフリカ大陸南岸に分布する。一般的には食用は不適とされる。アメリカでは刈り採って、アルギン酸の原料に使用する)。『釧路、根室地方の太平洋沿岸、貝殻島、歯舞諸島、国後島、択捉島の周辺に分布し、寿命は』三『年といわれています。成長が速く、成長期には一日に最大』十三センチメートル『伸びます。ナガコンブの漁場は主に水深』三メートル『より浅いところですが、貝殻島などの海水の流れが強く透明度が高い地域では』、『水深』六メートル『まで群落ができます』。『だしには向きませんが煮えやすいので、おでん、昆布巻き、佃煮に利用されます。「早煮昆布」「野菜昆布」などの商品名でも売られており、家庭料理用の食材として人気があります』とある。

 一方、同サイトの「ミツイシコンブ[三石昆布]」のページを見ると、「■分布図」の道内の地図画像があり、地図上では、『十勝・釧路・根室』と『渡島・胆振』(いぶり)・『日高』とするものの、印字キャプションでは、『主産地は日高、十勝』とあるのである。同じく、解説を引くと、『別名ヒダカコンブ(日高昆布)とも呼ばれます』。『成長した葉は帯状で長さは』二~七メートル、『幅は』七~十五センチメートルで、『縁辺部は』、『ほとんど波打っていません。茎は円柱状で長さは』三~七センチメートル、『直径は』五~八ミリメートル『になります』。『名前のとおり』、『日高地方を主産地としており、津軽海峡東側から襟裳岬を経て』、『十勝沿岸までの広い海域に分布します。潮通しの良い岩礁に密生する性質をもち、主な漁場は海水の流れが強い海岸線に』、『ほぼ並行する岩礁地帯です。日高地方では、上浜、中浜、並浜と称する浜格差があり、浦河町』(うらかわちょう)『井寒台』(いかんたい)『地区』(ここ。グーグル・マップ・データ)『が最上といわれています』。『煮えやすく、身も柔らかいため、煮コンブや佃煮、コンブ巻、だしコンブなどに利用されます』とあった。]

 

■「猫足昆布」

 「原藻の莖根、猫足の形を爲《な》す。

  長さ、六、七尺。幅、三寸許にして、葉、厚し。

  夏、土用明《どようあけ》より、採収す結束ハ、

  長切昆布ニ同じ。多く、大坂、輸送し、

  細工昆布其他《そのた》の食用に供《きやう》す。

 

[やぶちゃん注:「猫足昆布」これは、

ネコアシコンブ属ネコアシコンブ(猫足昆布) Arthrothamnus bifidus GMELINRUPRECHT(別名「ミミコンブ(耳昆布)」)

である。私の所持する海藻愛読書の中で最も信頼している海藻の碩学であられる田中次郎先生の著になる「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊。この図鑑は写真(かの優れた海洋写真家中村庸夫先生!)も優れており、何より凄いのは総ての学名(種小名は総て!)の由来が記されてある点である)によれば、『生育場所』は『潮下帯』、『長さ1~3m、葉部の幅1015㎝』で、『ネコアシコンブ属 Arthrothamnus は「関節を持つ木」の意。日本には本種のみが知られる。和名は、付着部をつくる円柱状の仮根の先の形ネコの足先の形に似るのでつけられた。波の荒い岩礁域に生育する。1年目の藻体は』『1枚の葉体からなるが、2年目以降、付着部が2つに分かれて、2枚の葉体をもつようになる。北海道東部の地域でしか見られない』(★☜)。『多年生。』とある。適切な画像が見当たらないのだが、英文サイト“Algae Herbarium Portal A consortium of algae collections”の同種の干乾びた標本画像をリンクさせておく。引用底本の中村先生の生体採取された画像(全葉体と仮根との美しい二葉!)を是非、手に取って見て戴きたい!

 なお、引用はしないが、ネコアシコンブについて書かれた名畑進一氏の『「コワカレ」するコンブ』(『釧路水試だより』第六十五号・一九九一年三月発行・PDF)が興味深いお話しであるので、是非、読まれたい。

 

■「駄昆布《だこんぶ》」

 「原質其他、『胴結昆布』に同じ。伹《ただし》、

  結束、異にして、図の如く、長さ、三尺、二、

  三寸許。断《だん》して、結束す。」

[やぶちゃん注:種は不詳。結束法を見せるための図であるから、前掲二種の孰れか、或いは、両方であろうか?(但し、次の【図版2】の「元揃昆布」で解決した! 実は、これ、マコンブ変種リシリコンブ(利尻昆布) Saccharina japonica var. ochotensis であった!)

「駄昆布」先の「胴結昆布」で引用した、「三石昆布」にも割注で出ているが、その「北海道漁業志稿」(北水協會編・昭和一〇(一九三五)年北海道水產協會刊)の『結束法に、『駄昆布を長さ二尺五寸に切』(きり)『一駄の量二貫目』[やぶちゃん注:七・五キログラム。]『とし、縨泉[やぶちゃん注:「ほろいづみ」。現在の縨泉郡(ほろいずみぐん)。ここで、当該ウィキによれば、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足して以来、郡域は』一『町のまま』、『変更されていない』とある。]、十勝は長三尺二寸、釧路は長三尺五寸にして各量目を八貫目』[やぶちゃん注:三十キログラム。]『と爲したり。』とある。但し、「ヒロコンフース株式会社」公式サイト内の「昆布業界ならではの取引用語のご紹介」のページには、筆頭に『駄(だ)』を掲げてあり、そこには、『昆布の結束単位の総称で、基本的には1駄が20kgとなっております』。『人によっては「1駄」のことを「1本」と言う人もいます』。『駄と言われる由来としては、昔昆布を荷馬輸送していたことから呼ばれているという説があります。』とあるので、歴史的には「一駄」の量は変化していることが判る。]

 

■「塩亍昆布《しほぼしこんぶ》」

 「原藻の長さ、七尺より、一𠀋許。

  幅、二、三寸許。図の如く結束して、

  一束の量目、四貫目となす。葉、厚く

  して、五月中旬より、八月中《ちゆう》に

  採収するものとす。多く、大坂へ輸送し、

  『刻昆布《きざみこんぶ》』等に用ふ。」

[やぶちゃん注:「亍」は既に本文で使用されているが(そちらでは、『紛らわしいので、一律、「干」で起こした。』と注記した)、「干」の異体字。

 さて。この種は何か? 素人考えだと、「刻昆布」という用途は、横綱格の前二種には相応しくない(個人的には、幾つもの高級品を短冊にして舐めている関係上、全くそうは思わないのだが)と考え、例えば、安めで、しかも味が良い、

ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina religiosa var. religiosa

などかと思うかも知れぬが、同種は長さ四十センチメートルから、せいぜい一メートルしかないから(幅も五~十センチメートル前後しかない)、以上に書かれた原藻の長さが、全く当たらないから、違う。結局は、この[図版1]に組まれる以上、やはり、

 先の二種のものと同種

と考えるべきであろうか? 但し、この一図の中では、全体に結束紐が一本しかなく、図の描き方も、明らかにゾンザイであることが際立っていしまっている。そもそも「塩干」という処理法が同二種の優良品としては、まず、おかしい。されば、それらの切れてしまった流れものや、上製品作成の相応しくない個体を用いて、かく製品化したものと私は採るものである。先の「三石昆布」の引用の中に『鹽干昆布【日高國產原草の長さ七尺乃至一丈餘、幅二、三寸にして葉厚し】』にあるのだが、その記載のように、葉が厚くは見えないのである。識者の御斧正を乞うものである(但し、次の【図版2】の「元揃昆布」で解決した!)。

 

 

【図版2】

[やぶちゃん注:右ページ。ここでは、図の形状と配置から見て、まず、右の大物、次いで、上段中央から中段の右・左の順で、電子化する。

 

Konbu2

 

■「元揃昆布《もとそろへこんぶ》」

 「原藻の長さ、五尺許。幅、二、三寸より、

  五、六寸許。図の如く三處《さんしよ》を

  結束し、三十五、六枚より、四十枚を一把

  となし、其量目、二貫目にして、二千把を

  以て、百石となす。專ら、大坂へ輸送し、

  『細工昆布』に製す。」

[やぶちゃん注:「元揃昆布」先の「北海道漁業志稿」(北水協會編・昭和一〇(一九三五)年北海道水產協會刊)の『結束法(右ページ冒頭)に、『元揃昆布、原草は元昆布、黑昆布の二種にして、三十五枚或は四十枚を重ね根部を揃へて三日月形に切り、長さ五尺とし三ケ所を縛り一把とし、其量二貫目、二千把を以て百石とす。裁斷し餘りたる昆布は駄昆布に製す。』と、この記載と、ほぼ一致するものがあった。

 因みに、この「元昆布」はマコンブでよいのだが、「黑昆布」は、やはり、不審であった。再度、いろいろと調べてみたところ、遂に、判明した!

「函館市/函館市地域史料アーカイブ」の「恵山町史」(平成一三(二〇〇一)年刊)の「3、明治前期の昆布漁について」の、「<明治前・中期の昆布の実体> 『北海道水産全書 高雄北軒(明治26年刊)』より」という項の「主な昆布と形状」に(恵山町(えさんちょう)は渡島半島東部部分の北海道渡島支庁の波頭先端に嘗つてあった町。二〇〇四年に函館市に編入された。旧町域は参照したウィキの「恵山町」の地図を見られたい)、

   《引用開始》

・元昆布(マコンブ) 多少厚薄長短に差はあるが、概ね幅34寸(912センチメートル)より尺余り(30センチメートル)、長さ67尺(1.82.1メートル)より丈余り(3メートル)である。質は厚く濃緑色で、古来松前昆布と称して賞味されていたものはこれである。

・三石昆布(ミツイシコンブ) 幅23寸(69センチメートル)、長さ34尺(0.91.2メートル)より丈余り(3メートル)になるものもある。暗緑色で元昆布に比べて厚く塩分少なく甘みが多い。

・細目昆布(ホソメコンブ) 幅13寸(312センチメートル)、長さ45尺(1.21.5メートル)乃至78尺(2.12.4メートル)、中心に條があり葉薄く、盆布(ボンメ)ともいう。

・真昆布(ナガコンブ) 長昆布と呼ばれているもので、幅23寸(69センチメートル)、長さ数丈(3メートル~)になる。三石昆布に比べれば質薄い。

・黒昆布(リシリコンブ) 幅34寸(912センチメートル)、長さ45尺(1.21.5メートル)に及ぶ、黒色で質厚く天塩の沿岸に産するものを天塩昆布といい、利尻礼文等に産するものを利尻昆布という。一般に「ダシ」昆布と呼ばれているのはこれである。

・水昆布(幼生の昆布、若生をさしている) 細目昆布のように幅狭く中心に條がある。その質薄弱で味淡白である。

   《引用終了》

なんと!

★「真昆布」はマコンブ変種リシリコンブ(利尻昆布) Saccharina japonica var. ochotensis

であったのである!

 なお、さすれば、先の「駄昆布」と「塩というのは、マコンブやミツイシコンブ、及び、リシリコンブの余りを用いたものと推定してよいということになるのである。

 さらに、後の本文で出る、私は聴き馴れない「水昆布」なるものが、「若生」、この場合は、「わかおい」と読み、「薄く柔らかい一年昆布のこと」を指すことが判明した。

 但し、国立国会図書館デジタルコレクションで原本を確認したが、以上の和名と学名は、「恵山町史」で附加したものであることが判った。「ビューア」の当該ガイド・ナンバー「779」を見られたい。にしても、明治期のコンブ類の呼称に学名を比定した、正に、稀有のものなのである!!!

……にしても……この図の束……食べてみたいなぁ…………

 

■「若生昆布《わかおひこんぶ》」。

[やぶちゃん注:この図には標題のみで、キャプションが、ない。青森県の観光・物産・グルメの紹介サイト「まるごと青森」の「おにぎりでお馴染み”若生(わかおい)こんぶ”の可能性を探れ!〜いろんなメニューを試してみました〜」が、非常に、よい! 是非、見られたい。そこに、『若生こんぶとは、昆布の繊維が柔らかくて薄い』、一『年目の若芽の昆布のことです。青森では、炊き立てのあったかいご飯を若生昆布でシンプルに包んだ郷土料理「若生おにぎり」があり、主に津軽地方で食べられていたといわれています。私も若生おにぎりを初めて食べたときは、磯の香りをまとった昆布の塩味とご飯とのバランスが最高で、その美味しさに感動しました!』とあり、作り方も画像付きで書かれてある。食べたい!!! 太宰治が愛したとされる郷土料理らしい。種は「青森県産業技術センター」公式サイト内の「水産総合研究所」のここで、マコンブであることが確認出来た。

 

■「棹前昆布《さをまへこんぶ》」

 「原藻の長さ、サンジャク、四、五寸。

  幅三寸許にして、葉、少《すこ》しく

  薄く、長切昆布《ながきりこんぶ》の

  熱せざるものなり。図の如く、

  手繰《たぐり》にして、結束し、

  一束の量目、四貫目とす。

  多く、北越に輸送す。」

[やぶちゃん注:「棹前昆布」は、

ナガコンブ(長昆布=「浜中昆布」) Saccharina longissima

である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の当該種のページで、種同定出来た。「加工品・名産品」の項に、『棹前昆布●「早煮昆布」、「野菜昆布」とも。5月〜昆布の漁期7月初旬・中旬以前にとったま』だ『若い軟らかいコンブ』とあり、更に『早煮昆布(野菜昆布)●棹前昆布のことで、昆布が成長して硬くなる前にとったもの。あらかじめ蒸して煮えやすくして干したもの。以上の2種のこと。』とあった。さらに、その前の「食べ方・料理法・作り方」に『新潟県燕市で昆布巻き用に売られているもの。』というキャプションのある画像が、今も、この図のニュアンスを伝えて呉れている(これも食べたいなあ!!!)。 「棹前」に就いては、羅臼昆布の老舗のサイト「四十物(あいもの)こんぶ」に拠れば、『棹前煮昆布』に『棹前とは』として、『昆布は7月20日前後に棹を入れて採ります。その前に採る若い昆布を棹前昆布と言います。根室、釧路管内で採れ、毎年6月1日から採取します。6月末まで。7月5日くらいまでずれ込むこともあります』とあった。流石はプロ! 扱っている『北方領土の歯舞群島(貝殻島)の』ナガコンブの『貝殻棹前昆布』の過去に遡って採獲量も書かれてある! そこでは、『煮えやすいので、昆布巻、おでん、煮〆、佃煮に最適です。当社は貝殻産(歯舞)昆布を使用しています』。『特に元昆布(根の部分)は大変やわらかく、全国のたくさんの人に愛用されています』とあった。

 

■「細布《ほそめ》」

 「原藻の長《ながさ》、三尺許。

  幅、二寸許にして、葉、薄し。

  図の如く、結束して、四貫目を

  以て、一束とす。坂田・庄內に

  輸送し、食用に供す。又、東京

  に於て、刻昆布《きざみこんぶ》

  にも製す。」

[やぶちゃん注:これは、

マコンブ変種ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina japonica var. religiosa

但し、このホソメコンブ、鈴木雅大氏の「生きもの好きの語る自然誌」の「ホソメコンブ(細め昆布)のページを見ると、『ホソメコンブは,独立の種( Saccharina religiosa 又は Laminaria religiosa )として扱われてきましたが,Yotsukura et al. (2008)はホソメコンブをマコンブ( Saccharina japonica var. japonica )の変種としました。』とあり、以下、鈴木氏の見解が書かれてあるので、是非、読まれたい。因みに、学名の変更は、一般のネット記載では語られていない、と言うより、学名自体を挙げていないところが殆んどである。このマコンブ変種をちゃんと記されてあるのは、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の当該種のページぐらいなものである。なお、そこでは、「由来・語源」に『藻体の幅が細いため。』とある。「北海道」公式サイトの「水産林務部」の「森林海洋環境局成長産業課」にある、「ホソメコンブ[細目昆布]」のページには、「分布図」で『石狩・檜山』・『後志・留萌』とし、『留萌以南 主産地:檜山、後志』とし、「地方名」に『イソコンブ』(磯昆布)とあり、『成長した葉は帯状からささの葉状で、波打ち際に生息しているものは長さ0.4~1m、幅は5~10cm、茎は円柱状で長さ4~6cm、直径3~6mmになります』。『利尻島、礼文島から渡島半島の福島町まで分布し、漁場水深は0~10mで、波当たりの強いところでは深く、逆に弱いところでは浅くなります』。『北海道では』、『もっとも古くから採取されてきたコンブですが、現在は生産量が少なく価格も安いため、漁が行われていない地域もあります。増殖対策も行われていますが、近年、対馬暖流の流量が増加して冬の水温が上昇傾向にあることから、それほど増産にはつながっていないのが現状です』。『だし汁の香りは弱いですが、比較的粘りが強いため、とろろ昆布、きざみ昆布などに利用されます。』とある。「北海道立総合研究機構 水産研究本部」の「中央水産試験場」公式サイト内の「ホソメコンブ」には、『北海道には、マコンブ、リシリコンブ、ナガコンブ、オニコンブ、ミツイシコンブなど、産業的に重要なコンブの仲間が多くありますが、本道の中・南西部の日本海沿岸の浅みに生えているのがホソメコンブです。寿命は1年で、秋に遊走子というものが放出され、これが雄雌の配偶体になり、卵と精子を作って受精卵になります。発芽して、冬~春先に幼芽となり夏に最大になります。また秋になると遊走子を放出して枯れて死んでしまいます』。『図鑑などでは味は良くないとか』、『品質は良くないなど、あまり芳しい評価を得ていません。主にウニ・アワビ類の餌としての価値が重要視されています。』とあり、また、株式会社JTBが実施・運営するサイト「美食半島」の「積丹(北海道)」「ホソメコンブ[細目昆布]」には、『北海道積丹町は、基幹産業である漁業を中心に発展してきた町であり、観光入込は毎年6月から8月のウニ漁業の期間に集中しています。この期間に来訪する観光客の多くが、高級ブランドとして知られている「積丹ウニ」を求めて町内の飲食店を訪れており、「積丹ウニ」の人気や需要に応えるためには、安定的な生産や供給体制の確立を図る必要がありました。そこで、ウニの餌料となるホソメコンブの養殖を始めました』。『当初はウニの安定生産・安定供給を図るためのコンブ養殖でしたが、年間約100tにおよぶウニ殻の廃棄処理に苦慮していた漁業者グループが、コンブの生育を促進させる施肥材としてコンブ種苗糸ロープにウニ殻を混ぜたところ、多量のコンブが収穫できるようになりました』。『コンブに含まれる「アルギン酸」や「フコイダン」という成分は、糖質や脂質の吸収を抑え、コレステロール値の上昇を抑えてくれるほか、腸から免疫力を高める作用もあります。また、コンブには、うま味成分の「グルタミン酸」が多く含まれており、コンブで取るだしは上品でやさしいので、日本料理では必ずと言っていいほど利用されます』。『ホソメコンブは、栄養素・味ともに他のコンブと比べても何ら申し分ないのですが、利尻昆布や真昆布といった有名なコンブよりも知名度で劣っているため、市場にはほとんど出回っていないのが現状です』。『ホソメコンブは、1月ころ収穫したものはワカメのように柔らかいため、佃煮に、5月ころ収穫したものは太く長いため、だし用コンブや昆布巻きに最適です』とある。最後に、「日本昆布協会」公式サイトの「こんぶネット」の「細布昆布<細目昆布(ほそめこんぶ)>」には、『主な産地』を『北海道の日本海側沿岸』とし、『幅が細く、1年目に採取される。切り口が最も白く、細目の葉形で粘りが強い』とあり、「主な用途」として『とろろ昆布、納豆昆布、刻み昆布など』とあった。]

 

 

【図版3】

[やぶちゃん注:左ページ。ここでは、図版1に合わせて、順列を、上下を先に、右左を後にする。

 

Konbu3

 

■「新製折昆布」

 「根室國《ねむろのくに》花咲村《はなさきむら》。」

[やぶちゃん注:「折昆布」函館市川汲町かっくみちょう)の「南かやべ漁業協同組合 直販加工センター」公式サイト内の「真昆布 折り」に拠れば、『海から揚げた昆布は素干ししただけだと棒状になっていますが、それを平らにのばして折り込んだ物を「折り昆布」と言います。だし昆布として鍋などに使用する際、カットしやすく、昆布締めも簡単です』とあった。

「根室國花咲村」現在の根室花咲町。幅の派手な大きさと、丁寧な結束から、私は、マコンブよりも、マコンブ変種オニコンブSaccharina japonica var. diabolicaと比定するものである。]

 

■「鼻析昆布」[やぶちゃん注:「析」はママ。「折」の誤字。注では訂した。

 「渡島《としま》産」[やぶちゃん注:図の下部にある。]

 「原藻の長さ、五尺より、六尺許。

  幅、五寸より三寸許。胴の如く、

  結束し、一把の量目、八百目とす。

  大坂に輸送し、出《だ》し昆布、

  其他、食用に供す。

[やぶちゃん注:「鼻折昆布《はなをれこんぶ》」「知床三佐ヱ門本舗」の三佐ヱ門氏のブログ「知床の風だより」の『「花折(はなおり)昆布」って?』(「鼻折昆布」と「花折昆布」で漢字表記が異なるが、国立国会図書館デジタルコレクションの「大阪経済史料集成第六巻」(大阪昆布仲買商組合沿革・大阪諸商旧記)・大阪経済史料集成刊行委員会編・一九七四年・大阪商工会議所刊)の「大阪昆布仲買商組合沿革」のパートに(左の「二九」ページの四行目に、『南部花折昆布』の項に、『南部花折昆布 花折ハ鼻折トモ書ス』とし、産地を示し、最後に『元揃昆布に次グ』とあったから、同一と判る)の記事の『羅臼昆布一等品と、花折昆布の違いがわかりません、教えていただけませんか?』という問いに、『これについては実家が昆布漁をしている金沢からご説明します。』と前置きされて、『昆布は乾燥させると棒状になります』。『棒昆布は そのままカットしたもの』で、『花折昆布は 昆布のしわを伸ばし、根元・葉をカット後、整形し折りたたんだもの』『をいいます』。而して、『羅臼昆布は、製品が完成後』、『【等級検査】で、昆布の幅・重量や品質を選別し、1等級~5等級(他数種)に仕分けがされます』。『一等検とは、1等級のことで、羅臼昆布の中の最高品質のものでございます。』因みに、『今回のお届けの品は、羅臼昆布一等検(花折昆布)でございます。』と回答され、質問者は、『はい、「花折(はなおり)」とは』、『昆布の仕上がり形状』『を指す言葉なのですね』。『どうぞよろしくお願い申し上げます。』と質問者の謝辞が添えられてある。

 問題は、このケースの種で、羅臼昆布=マコンブ変種オニコンブ Saccharina japonica var. diabolica は、ここで産地としている「渡島」には、分布しないので、この場合のそれは、ミツイシコンブ(三石昆布=「日高昆布」) Saccharina angustata の「鼻(花)折昆布」ということになる。これは記載の長さ・幅とも、概ね、一致を見る。

 

■「菓子昆布」

[やぶちゃん注:「菓」の字は中央部が「田」型ではなく、「日」になっているが、このような異体字はないので、誤字であると断じた。当然、表示は出来ない。国立国会図書館デジタルコレクションの「北水試月報」(製本合本・北海道立中央水産試験場編・一九八三年北海道立中央水産試験場刊)の『40 40 42――62 1983(報文番号B1839)』のナンバーを持つ、田沢伸雄氏の「北海道昆布漁業史」の中の、「享保期(1716)以降」という項のここに、

   《引用開始》

 一、菓子昆布。色黒緑、長一丈ばかり味至って甘美、汐首岬よりシカベ海底に産す。

   《引用終了》

とあった。而して、このフレーズで調べたところ、「函館市」公式サイト内の「函館市地域史料アーカイブ」の「戸井町史」の「第八章 産業 /第一節 水産業 一、昆布漁」に(かなり、量があるが、部分的に示しては、話しが半可通になってしまうので、ソリッドに示した。丸括弧内の記号は傍点を指すようだ。下線は私が附した)、

   《引用開始》

 (8)寛政十二年(一八〇〇)に書かれた『蝦夷島奇観』に

   「昆布は東夷地に産し、西夷地にはない。六月土用から八月十五日まで取る。

   一、御上り昆布(一名天下昆布)

   汐首崎から東、鹿部海辺までに産する。長さ一丈三、四尺、幅五、六寸、紅黄緑色。取り上げて清浄な地を選んで乾す。五十枚を一把とし、その上を昆布で包み、十六ケ所を結び、役所に納める。これは昆布の絶品である。

   一、シノリ昆布

   これは箱館の東の海で産する。長さ七尋余、幅一尺三、四寸、緑色、味は甘美である。この昆布は唐山に送る。(註、唐山は支那をさしている)

   一、菓子昆布

   長さ一丈ばかり、色は黒緑、味は至って甘美である。この昆布は汐首崎から鹿部の海辺で産する。」とある。

 村上島之丞は、蝦夷地の昆布を①御上り昆布、②シノリ昆布、③菓子昆布の三種に分けて、その産地、大きさ、色、味、製法、用途などを簡明に記述している。島之烝が御上り昆布(○○○○○)と書いているのは、これ以前の古書の献上昆(○○○)布(○)であり、菓子昆布(○○○○)とあるのは、加工用の昆布(○○○○○○)を指しており、産地はいずれも「汐首崎から東シカベの海辺までに産する」と書いている。

 「シノリ昆布は、箱館の東海に産する」と書いており、「唐山へ送る」と書いているが、前に述べた『東遊記』に「志野利浜の昆布は、上品ではないが、長崎の俵物で、異国人が懇望するので金高である」と書いているのを併わせ考えて見ると、昔は支那への貿易品に指定され支那に輸出されたのは、専ら、シノリ(・・・)昆布であった。シノリ昆布は国内向でなく専ら国外向であったのである。「シノリ昆布は名代(なだい)の昆布、名代昆布はシノリの昆布」と民謡に歌われている昆布は、支那に昆布を輸出していた昔は、日本人の口には、はいらなかったのである。

 御上り昆布(・・・・・)と菓子昆布(・・・・)の産地は、「汐首崎から」と書いているが、「汐首崎から少し西方シロイハマ、釜谷から鹿部まで」と書いた方が正しい。『庭訓往来』の「宇賀昆布」は厳密にいうと「シロイハマ、釜谷の海辺で産する昆布」を称したのである。

 御上り昆布は、高貴な人々の口にはいり、庶民の口には、はいらなかったもので、天下昆布(・・・・)とか、献上昆布といわれたもので、最上の昆布であった。松前広長は極品(○○)と書き、村上島之丞は絶品(○○)と書いている。

 昆布についての古書、古記録を調べて見ても、村上島之丞の『蝦夷島奇観』の記述は、正に「絶品」である。島之丞は足を使って、下海岸、蔭海岸の昆布場所を実見して書いたものなので、記述は簡単であるが、最も正確であり、昆布場所と昆布を知っている人々の納得する内容である。

 昔の戸井町の昆布のうち、小安附近でとれたものの一部は「シノリ昆布」として、支那への輸出品になり、釜谷以東鎌歌、原木でとれた昆布の大部分は、「菓子昆布」の名で松前を経て、若狭方面に移出され、加工されて本州各地に広まった。その一部の上等品が天下昆布として献上品になったのである。

 近世になって、真(ま)昆布を「白口(しろくち)昆布」「黒口(くろくち)昆布」に大別している。戸井、尻岸内でとれる昆布は全部「黒口昆布」である。「白口昆布」の産地は川汲を中心として、尾札部、臼尻、木直(きなおし)、古部など現在の南茅部町産の昆布で、鹿部、椴法華産の昆布には一、二割程度の「白口昆布」が混っている。

 昆布の最高品は南茅部町の「白口昆布」であり、そのうちでも川汲産のものは、自他共に認める「日本一」の絶品である。昔皇室に献上された昆布は、斎戒沐浴(さいかいもくよく)して採取し、製品にしたものである。

 戸井、尻岸内、椴法華、鹿部などの昆布の上等品の一部は、尾札部昆布として関西市場で取引されたり、加工されたりしている。

   《引用終了》

とあった。以上の下線部の地名を注しておくと、

「汐首崎」現在の函館市汐首町(しおくびちょう)にある汐首岬であろう。

「シロイハマ」これは、正式地名ではなく、「道の駅 しかべ 間歇泉公園」公式サイトの「貴重な白口浜真昆布をぜひご家庭で」で、『北海道道南』『渡島半島の』現在の北海道道南の渡島半島の『鹿部町』(しかべちょう:ここ)『沿岸で採取される昆布を”白口浜真昆布”(しろくちはままこんぶ)といいます』とあることから、限定された名産コンブの特定地域での製品名であることが判る。鹿部町はここである。而して、ウィキの「コンブ」の「マコンブ」の項に(下線太字は私が附した)、『主に津軽海峡〜噴火湾沿岸で獲れる道南産のコンブ。昆布の最高級品とされることもある。非常に多くの銘柄と格付があり、旧南茅部町周辺(現在は函館市)に産する真昆布が最高級品とされ、「白口浜」と言う銘柄で呼ばれる。その他に旧恵山町周辺で産する「黒口浜」、津軽海峡の「本場折」、それ以外の海域で取れた物を「場違折」などの銘柄に分ける。市場価値も』、『おおよそこの順番となるが、銘柄内でも品質により数段階の等級に分けられる。だし汁は上品で透き通っていて、独特の甘味がある。大阪ではこの味が好まれ、だし昆布と言えば、大抵この真昆布を用いる。現在の分類においては、オニコンブ、リシリコンブ、ホソメコンブは本種の変種とされている』とあることから、★この「菓子昆布」は、マコンブに限定出来るのである。

「釜谷」汐首岬の北西直近の函館市釜谷町(かまやちょう)。]

 

■「小鼻折昆布」「渡島國」

[やぶちゃん注:同じくキャプションは、ない。一目瞭然、藻体の伸び上がった先端の、細く小さくなって尖った部分である。されば、これは、正当に昆布の「鼻」と言え、この「小鼻折」という冠は、名にし負う正統なる「小鼻折昆布」という名であると私は思う)。而して、前の「菓子昆布」の下に配し、同じくキャプションなしというのは、同じ地方の製品として河原田氏が配したものと、私は、読む。されば、前者がマコンブの最上品であるのだから、その先っぽの部分、或いは、「菓子昆布」にはしない(のかも知れない)、先の部分の乾燥品ではなかろうか? と推定するものである。

 

 

【図版4】

[やぶちゃん注:右ページ。同じく、順列は、上下を先に、右左を後にする。]

 

Konbu4

 

■「三厩昆布《みむまやこんぶ》」

 「五分の一。」

[やぶちゃん注:「三厩昆布」ブログ「青森県立郷土館ニュース」の「ふるさとの物語 第153回 今別の昆布  江戸時代はブランド品」(県立郷土館副館長・古川実氏筆)の全文を引用させて戴く。どの部分も、略すことが出来ない貴重な語りであられるため、普通、やらないことだが、お許し戴きたい。

   《引用開始》

 江戸時代、三厩湾の昆布はブランド品で、重要産物であった。今別町史によると、中国向け輸出品として長崎に出荷されたものは「津軽昆布」の名が付いた。能登・加賀などの商人が買い付け、三厩港から船積みしたものは「三厩昆布」、さらに若狭へ渡り、京都・大阪へ売り出されたものは「若狭昆布」とも呼ばれたという。

 昆布が最も繁茂した場所は今別町の沖合であり、その由来は同町本覚寺の高僧貞伝上人の伝説となって、この地域一帯に語り伝えられている。上人が多聞天様に祈願し、船上念仏読経しながら紙片を海上にまくと、それが沈んで昆布となり漁師たちに恵みをもたらした。あるいは、上人が海に石を投げ込むとそれが海を豊かにし、立派な昆布が採れるようになったというのである。

 2年前の8月下旬、今別町浜名の海岸でおじいさんから昆布漁のことを聞いた。漁期は夏の土用ごろから始まり、食事の時間も惜しみ家族総出で採ったもので、陸奥湾内の平館あたりからも、浜に泊まり込みで来て漁をしたという。お爺さんは海の方を眺めて、そのころ浜はもっと広かったと教えてくれた時、漁に励む人たちや昆布が敷きつめられている光景が浮かんだ。今別漁港に立ち寄ると一面に昆布を干していて、かつての昆布漁のことをまた思い浮かべたのだった。

   《引用終了》

この三厩湾は、青森県東津軽郡外ヶ浜町(そとがはままち)の旧三厩村の、この附近(見やすくするために、ここのみ、グーグル・マップ航空写真で示した)で、お話しに出る今別町(いまべつまち)浜名(はまな)は、その東に接するここである。「ひなたGIS」で戦前の地図を示そうとしたが、この箇所は、軍部の関係上であろう、それが示されない。最後に。「三厩昆布」は、古くからマコンブの別名である。なお、「コトバンク」の日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」では、『三厩昆布(ミウマコンブ)』と見出しに記し、『植物。コンブ科の褐藻。マコンブの別称』とし、ネット検索をすると、サイト「Mx((同)エムック, emukk LLC)」の英文論文(十一名によるもの)“Inhibition of SARS-CoV-2 Virus Entry by the Crude Polysaccharides of Seaweeds and Abalone Viscera In Vitroの邦文シノプシスに『ミウマコンブ』と記されてあるのだが、それ以外に「三厩昆布」を「ミウマコンブ」と記すものを見出せない。但し、「Yahoo!ニュース」の「青函トンネル建設工事を支えた津軽半島最北端の終着駅 津軽線 三厩駅(青森県東津軽郡外ヶ浜町)」の記事の中に、『駅名「三厩」の読みは当初「みうまや」で、村名に合わせて「みんまや」に合わせて改称されたのは平成31991)年316日のことだった。由来については諸説あり、生き延びた源義経が東北から蝦夷(北海道)へと渡る際に岩窟にいた3頭の駿馬を連れて行ったという伝説も残されている。「厩」は馬小屋、馬をつないでおくところを表す感じだ。「厩」がつく駅名は、もう一つ、岩手県の大船渡線千厩駅[やぶちゃん注:「せんまやえき」と読む。ここ。]があるのみで、こちらは奥州藤原氏が厩を建てて千頭の馬を飼ったことに由来すると言われる。奥州藤原氏の庇護を受けた義経もまた千厩産の馬を戦いで用いたとされており、「厩」の字を持つ二つの駅名は義経を通して繋がっていると言えよう。』とあるのを見つけた。しかし、地名由来の異名であり、「ミウマヤコンブ」は誤った読みと言うべきであろう。識者の御教授を乞うものである。なお、先行する本文では、一箇所だけ、「三厩昆布」に「みむやまこんぶ」のルビがある。「む」が「ん」になるのは、国語学では「転呼」と呼び、江戸時代には一般化していた。従って、このルビには問題が少ないと私は考える。そもそも「みむやま」と書いても、その通りに発音するのは、明治人であっても、その通りに発音せず(実際に喋って見れば判る通り、物理的に発音し難い)、「みんやま」と発音していたはずである。更に言えば、明治まで、一般人はもとより、知られた作家たちの内、必ず、原稿にルビをしっかりかっちり附した作家は、泉鏡花など、一部の作者に限られ、校正係や植字工が勝手に附していたのである。芥川龍之介なども然りで、「校正の神様」と呼ばれた神代種亮(こうじろたねすけ)が、滅多矢鱈に勝手なルビを振るのに、キレたことがある。岩波書店第一次「芥川龍之介全集」で、編集者の一人であった弟子堀辰雄が、小説をルビ無しにするのを提案しているほどである(他の編集者たちから却下された)。されば、本書も河原田氏のルビではない可能性も大なのである。されば、ここでは、私は「みんやまこんぶ」と読むことにする

 

■「折昆布」「渡島國《としまのくに》産」

 「結束、圖の如くにして、其他《そのほか》、

  花折に同し。」

[やぶちゃん注:「渡島國産」は、右に添えた解説キャプションの下方にあるが、ポイントが大きく、標題のサブであるから、上記のように配した。

 産地と図の幅から、オニコンブSaccharina japonica var. diabolicaと比定する。]

 

■「島田折昆布」

 「原藻の長さ、七、八尺より、一𠀋許。

  幅、四、五寸より、七、八寸にして、

  花折に比すれハ[やぶちゃん注:清音はママ。]、

  葉、少しく薄し。採集収季節ハ、花折等に同し。

  圖の如く、結束し、一把の量目一貫目とす。

  多く、東京へ輸送す。

[やぶちゃん注:「島田折昆布」前で示した、「函館市/函館市地域史料アーカイブ」の「恵山町史」(平成一三(二〇〇一)年刊)の「3、明治前期の昆布漁について」の、「<明治前・中期の昆布の実体> 『北海道水産全書 高雄北軒(明治26年刊)』より」という項の「結束法あるいは製品名」に、『・島田折昆布  原草は、元昆布・黒昆布の2種類で、婦人の島田髷』(しまだまげ)『(髪型)の形状に結束したもので、その重量は通常1貫目(3.75キログラム)とする。』とあった。既に考証した通り、「元昆布」はナガコンブ、「黒昆布」はミツイシコンブである。比喩の髪型が浮かばない方は、ウィキの「島田髷」を見られたい。]

 

■「小花折昆布《こばなをりこんぶ》」

 「陸奥上北郡《かみきたのこほり》泊村《とまりむら》産」

 

[やぶちゃん注:「小花折昆布」「図版3」で既出既注。

「泊村」「鰑の說(その5)」で既出既注だが、再掲しておく。現在の、原子燃料サイクル施設で知られる下北半島の太平洋岸側の、「斧の柄」に当たるところの中央の、ここにある。本書刊行の翌々年の、明治二一(一八八九)年四月一日、町村制の施行により、同郡内の倉内(くらうち)村・平沼村・鷹架(たかほこ)村・尾駮(おぶち)村・出戸(でと)村、及び、泊村の区域を以って「六ヶ所村」が発足している。なお、「日テレ」公式サイト内の「道草を食いながらどこまで行けるか?」の「道草マップ」の「六ヶ所村」に、『明治時代に』六『つの村が集まってできており、それぞれの村名が馬に由来するとされる。古来より名馬の産地として知られ、鎌倉時代には名馬『生食(いけずき)』が源頼朝の軍馬となり、「宇治川の合戦」でも活躍したという。その馬の門出』(かどで)『たところが「出戸(でと)」、身丈』(みたけ)『が鷹待場』(たかまちば)『の架』(ほこ:台架(だいほこ)。鷹を止まらせるとまり木)『のようだったので、「鷹架(たかほこ)」、背中が沼のように平らだったので「平沼(ひらぬま)」、尾が斑』(まだら)『になっているので「尾駮(おぶち)」、さらにその馬に鞍を打ったので「倉内(くらうち)」、鎌倉へ引き渡すために泊まったところが「泊(とまり)」となったとされる。また「尾駮の牧」は、青森県東北町と六ヶ所村にまたがる大牧場だったと推定され、ここから都へと供給された馬は、特に馬格に優れていた』とあった。これは、鎌倉史を研究している私は、全く知らない語源であったので、大いに驚いた。]

 

 

【図版5】

[やぶちゃん注:左ページ。同じく、順列は、上下を先に、右左を後にする。]

 

Konbu5

 

■「天塩昆布《てしほこんぶ》」

[やぶちゃん注:キャプションなし。

「天塩昆布」「図版2」の『■「元揃昆布」』で引用した通り、リシリコンブである。]

 

■「青板昆布《あをいたこんぶ》」

 「大にて製す。

  『大板《おほいた》』・『小板』、あり。

  『大板』ハ二枚並べにて、二百枚を

  以《もつ》て壱把と(□)『小板』ハ、

  百枚をもつて壱把とす。」

[やぶちゃん注:以下は、図の検束の間に入れてある製品の熨斗。「※」の箇所は、太いマスの「」の中に太字の「」が入ったもの。意味するところ、不詳。商売店の屋号か? その下の「本改」も意味不詳。]

 『※本改』

[やぶちゃん注:以上は右キャプション。次のそれは、左キャプション。]

 「長《ながさ》尺五寸。量目、二百六、七十目なり。」

[やぶちゃん注:このキャプションは字がスれて、判読が苦しい。かなり危ない判読であるので、その箇所に下線を施した。「大坂にて製す」の「坂」は「阪」のようにも見えるが、今までの本文では、「大坂」の表記であることに基づいた。「□」は、全く、白くして、痕跡がないのでお手上げだが、後文戶の対照から、「とす(。)」或いは「とし(、)」(正しいとするなら、後者の方が自然である)であろう。

「青板昆布」ネット検索を掛けると、複数の昆布販売店の記載で――「昆布を蒸してから、板状にした昆布」――といったものが確認出来る。また、サイト「日本の食べ物用語辞典」の「青板昆布」には、『昆布を蒸して柔らかくしてから板状にしたもの。鯖寿司、昆布巻(にしんの昆布巻、鮎の昆布巻等)などに用いられる。かつては「青竹」などの着色料を用いて、青色や緑色など色鮮やかに染めていたものもあったが、現在では自然の色をしたものが出回っている。』とあった。小学館「日本国語大辞典」には、『あおいた‐こんぶ』『あをいた‥【青板昆布】』に、『コンブを細長くそろえて切り、丹礬(たんばん)、緑礬(りょくばん)、青竹』(あおだけ)『などを用いて着色したもの。昆布巻などの料理に用いる。青昆布。』とある。但し、「丹礬」は誤用で、「胆礬」が正しい。銅の硫酸塩鉱物Chalcanthiteで、「カルカンサイト」。銅の鉱山などで採取され、結晶は青く、半透明で、ガラスのような光沢を持つ。硫酸イオンのため、強酸性を示し、有毒である。私は、高岡市立伏木中学校で理科部の海塩核を研究する班の班長(学生科学展で県の優秀賞を採った)であったが、秘かに思いを寄せていた女生徒に「硫酸銅の水溶液って、綺麗ね。」と囁かれ、成り行きで試験管に溶かしたそれを飲んだことがある。強烈な金属の味がし、翌日、腹が痛くなったわい。「緑礬」は硫酸鉄(Ⅱ)の七水和物の俗称である。

 さて、この程度では、今一つ、製品解説に納得出来なかったので、国立国会図書館デジタルコレクションで調べところ、「乾物類之栞」(小松忠五郎商店編・昭和一三(一九三八)年小松忠五郎商店刊)の「海藻製品」の「昆布」の項のここで、以下を見つけたので、視認して起こす(句点は最後のみで、読点も極めて少ない。字配は再現していない)。

   *

靑板昆布 用途 昆布卷及細工昆布

北海道三石近海の物を本場とし又產出高も一番です出昆布[やぶちゃん注:「だしこんぶ」。「出汁昆布」のこと。]とは全く性質が違ひ出しは一滴も出ませんし昆布其の物が人工味でも付けなければ喰ヘた物では無いのであります其れが爲め昆布卷とか昆布菓子とかの外にはあまり使ひ道が無い樣ですすべて靑板昆布にかぎらず昆布類の大取引を致さうとしま

すと大阪とか敦賀とか近江とかゞまるで原產地でも有るかの樣に思はれますが其れは北海道から大阪灣敦賀灣等に至る交通の便利で有つた關係[やぶちゃん注:ここ、「上」の脱字か。]昆布の味と云ふ物を昔から大阪の人々に植付け大阪料理は美味だ出しは昆布だと云つた具合に賣出し今日に至つた爲販賣力、智識、位置等は他にまねの出來ぬ力を以て居りますので產地はとても及ばぬ程です。

品質の見方 ⑴肉厚出[やぶちゃん注:後の部分で判るが、「厚手」の意である。] ⑵染色ムラなく ⑶赤葉なく ⑷水に漬けぬる[やぶちゃん注:「ヌメリ」のことであろう。]の出ない物

肉の厚出薄出は使用する人の思い思い[やぶちゃん注:ママ。後の「思い」は底本では踊り字「〱」。]で好き不好き[やぶちゃん注:「ぶすき」と読む。]があります。

   *

「二百六、七十目」この場合の「目」は「匁」で、九百七十五グラム~一・〇一二キログラム。

 さても。問題は、この種は何かである。先の「乾物類之栞」の引用冒頭の『三石近海の物を本場と』するという点では、名にし負う、

ミツイシコンブ(三石昆布=「日高昆布」) Saccharina angustata

である。しかし、現行の「青板昆布」のネット上の広告を見ると、例えば、「【楽天市場】北海道産 青板昆布」のページには、『昆布を蒸してから板状にした昆布で、昆布巻きなどに使います。「おせち」を極めるには欠かせない昆布です。原料には、繊維質が柔らかく煮て食べるには最適な「釧路あつば昆布」を使用しています。』とあり、下方の商品ワード部分には、『 1kg 送料無料 業務用 あおいた こんぶ お飾り 正月 釧路昆布 根室 昆布 半生 厚葉昆布 釧路あつば昆布:国産乾物問屋 「薩摩屋本店」』とある。この内、

「釧路あつば昆布」というのは、釧路・根室地方沿岸、貝殻島・歯舞諸島・国後島・択捉島周辺に分布する

ガッガラコンブ Saccharina coriacea

の異名「アツバコンブ(厚葉昆布)」である。ところが、その前にある、

「釧路昆布」というのは、既に述べた早期収穫する「棹前昆布」、

ナガコンブ(長昆布=「浜中昆布」) Saccharina longissima

を指すのである。さらに、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「地方名・市場名」を見られたいが、六『月初旬の若いものを茹でたもの 備考棹前昆布は本格的な収穫期である初夏、本州の梅雨時の』六『月初旬の若いもの。これをゆでたものを「青こんぶ」という。』とあるのである。

 図の幅の広さからは、前者のミツイシコンブ・ガッガラコンブであろうと、私は思うが、図のスケールが示されていないので、限定は出来ない。これまでである。

 

■「とろゝ昆布」

 「原藻の長さ、五尺より、六尺許《ばかり》。

  幅、三寸にして、葉、薄し。

  採収季節ハ、夏、土用とす。

  乾燥して、図の如く、組み、食用に

  供《きやう》す。

  するには、一寸許《ばかり》に

  細切《ほそぎり》し、

  水に浸《ひた》せハ[やぶちゃん注:ママ。]、

  『とろヽ』の如くなる。

[やぶちゃん注:まず、私の話を「枕」と、しよう。私は幼少期より、海岸動物が好きで(高じて、総合学習で、生物教師二人と組んで、横浜国立大学臨海環境センターを拠点に、海岸動物観察をやらかしたが、その採取終了の際、私を呼んだ生徒に岩場で振り返って、スッテンコロリンし、目出度く、右腕の根本(医学上は右腕遠位端と呼ぶ)を粉砕し、イリザノフ固定術をしたものの、医師のミスで、術後一ヶ月後に失敗となり、再手術をした。固定治癒するのに三ヶ月掛った。黒板に字が書けない国語教師としてガックり、きた)を現在、海岸動物図鑑だけでも、古書蒐集物も含めて二十冊を超える。そんな中でも、偏愛する一冊が、大学二年の時に買った、小学館の菅野徹先生の著になる『自然観察と生態シリーズ』8の「海辺の生物――水の生物 Ⅰ――」(昭和五一(一九七六)年)である。中でも、感激物は、「シラス干し」千円分の中から採取したシラスならざる生物の見開きであった。国立国会図書館デジタルコレクションに本登録されている方は、ここである。その次のコマに(127ページ)、「トロロコンブ」の項があり、そこには(傍点を太字とした。読みはカットした)、『長さ5メートル。幅10㎝ほど。名前に反して、とろろこんぶにはならない。しかし、細かくきざむとねばりけがでて、とろろのようになり、みそ汁の実などにする。干潮で干あがるようなところにも生えている。葉に型おししたような凹凸があるので、すぐみわけられる。極めて北方的な海藻。』とあった。菅野先生の『名前に反して、とろろこんぶにはならない』の一文を絶対の伝家の宝刀として、授業でも、よく言ったのだが……因みに、本種も低品質の「とろろ昆布」にトロロコンブが使用されていることを知ったのは、二〇一三年の終りぐらいに見た、ウィキの「トロロコンブ」で知った。現行では、『とろろ昆布、おぼろ昆布などの加工原料として利用されるが』、『経済的な重要性はナガコンブ、ガッガラコンブなどよりも落ちる』と、あり続けている。……因みに、私は、右腕遠位端骨折で、内心、ヤケのヤンパチになり、丁度、一名の国語科減となり、なり手がなかったので、教師人生で最も楽しかった横浜緑ケ丘から転勤希望を出してしまった。どこでもきて、続かなければ、止めちまおう、という気持ちだった。ところが、豈図らんや、進学校の横浜翠嵐に転勤となった。いやいや! 奇しくも、実は、先の菅野徹先生は、実は英語の神奈川県の教師で、この翠嵐におられたことがあったのである。生物の教師が、菅野先生が纏めた学校周辺の膨大な植物リストを見せて呉れたので、今も、コピーしたものを所持している。

 閑話休題。前に示した田中次郎先生の著になる「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)の同種の記載を引用させて戴く。

   《引用開始》

学名Kjellmaniella gyrata (KJELLMAN) MIYABE

学名の由来]円形の[漢字名]とろろ昆布

[分布]北海道

[生育場所]潮間帯

[大きさ]長さ1.5~4m、葉部の幅2040

[解説]トロロコンブ属Kjellmaniellaは、本種を最初に記載したKjellman博士にちなむ。-ellaは小さいの意。日本には2種が知られる。名前だけで食用の「とろろ昆布」(マコンブの製品名)と間違えられるが、携帯はまったく異なる別種のコンブである。中央にはっきりした中帯部のしわがよる。とくにへりには深いひだができる。色は薄い褐色なので他のコンブ類と区別が容易である。

   《引用終了》

Kjellman博士はスウェーデンの藻類学者フランス・レインホルド・キェルマン(Frans Reinhold Kjellman(一八四六年~一九〇七年)。一八七八年の、フィンランド大公国(現在のフィンランド共和国)出身のスウェーデン系フィンランド人で、鉱山学者・探検家であったルドニルス・アドルフ・エリク・ノルデンショアドルフ・エリク・ノルデンショルド(Nils Adolf Erik Nordenskiold 一八三二年~一九〇一年:北ヨーロッパと東アジアを結ぶ最短の北東航路の開拓を成功させ、日本にまで達したことで、世界的センセーションを巻き起こした人物)の「ヴェガ号」の「北東航路」による航海に参加し、北極海や日本の藻類の研究を行った人である。なお、トロロコンブの学名は、二〇〇六年に、トロロコンブ属( Kjellmaniella )からカラフトコンブ属( Saccharina )に移され、

Saccharina gyrata (Kjellman) C.E.Lane, C.Mayes, Druehl & G.W.Saunders 2006

となっている。また、田中先生が『二種ある』とおっしゃっているのは、

カラフトトロロコンブ(樺太薯蕷昆布) Saccharina sachalinensis

のことである。

 いやいや! 迂遠な注をしてしまった! 製品としての、「とろろ昆布」を示さねばならなかった! 以下、ウィキの「とろろ昆布」を引いておく(注記号はカットした。太字は私が附した)。『とろろ昆布(とろろこんぶ、とろろこぶ、薯蕷昆布)は、コンブ(昆布)を細長く糸状に削った昆布加工品の一種。手加工のものは稀になっており、昆布の耳や端材を集めてブロック状にプレスしたものの側面を機械で削った食品である。削りこんぶともいう。市販の製品は一般的にマコンブなどを削った製品であり、生物種としてのトロロコンブとは異なる』。『なお、おぼろ昆布は酢に漬けて柔らかくした昆布の表面を、職人が帯状に削った昆布加工品でとろろ昆布とは加工法も形状も異なる(おぼろ昆布を削る技術は機械化が困難とされている)。おぼろ昆布やとろろ昆布は細工昆布に分類される。本項では』、『便宜的に同じ細工昆布に分類される』、『おぼろ昆布についても述べる』。『北海道産の昆布は鎌倉時代の後期には若狭国の敦賀・小浜から陸路で大阪に運ばれていた。本格的な昆布加工業の発展は』十八『世紀からとされ、敦賀では宝暦年間に高木(米屋)善兵衛がおぼろ昆布や』、『とろろ昆布といった細工昆布の加工業を始めた。一方、北前船の寄港地として直接昆布が』、『もたらされるようになった堺には、刃物の技術(堺打刃物)があり、昆布を削ったおぼろ昆布や』、『とろろ昆布の加工業が盛んになった』。『福井県では』昭和二二(一九四七)年三月一日『に福井県昆布商工業協同組合が設立された』。『大阪府堺市では堺昆布加工業協同組合が組織されている』。『とろろ昆布は』、『昆布の耳や端材を集めてブロック状に圧縮し、それを側面から糸状に細く削ったもので機械加工が主になっている』。『おぼろ昆布は』、『酢に浸して柔らかくした乾燥昆布の表面を職人が専用の包丁で帯状に削ったもので、厚めの一枚物の昆布を必要とし、加工にも熟練の技術が必要なため機械化も困難とされている』。『昆布を削る際』、『刃をわずかに内側へ曲げることを「アキタをかける(いれる)」という』「株式会社小倉屋松柏」公式サイト(店長・下浩一郎氏)の『とろろ昆布とあきたの話』に、『ごくごく薄いおぼろ昆布、これを作る包丁はアキタといわれています』。『この包丁は、刃先を少し曲げて昆布の表面にひっかリ易くしてあります。名の由来は大正』五(一九一六)『年頃』、『高野甚三郎という昆布職人がいました。この職人は浪花節が好きで、それがエスカレートして浪花節一座の』一『員として地方巡業に出かけていったが、秋田県で興行成績があがらず』、『解散した』。『そこで、この職人は日銭を稼ぐため』、『地元の昆布屋に職を探した 作業場では、女性が透き通るようなおぼろ昆布を削っている。思わず』、『めを見張ると』、『昆布の両端を固定し刃先をわずかに曲げた包丁で削っているではないか』! 『包丁を借りて自分でもすると、さすが昆布職人』、『すぐにその技を自分のものにしてしまった』。『やがて堺に戻ると』、『昆布店に雇ってもらい、おぼろ昆布を削り出した』。『最初は刃先の秘密を知られぬように便所で隠れて茶碗の先でまげていたらしい』。『そのうち、うわさがひろがり』、『他の店でも遊郭で』一『晩遊ばせては』、『秘伝を教わったらしい』、『その後、改良を加えていき』、『おぼろ昆布の生産量は飛躍的に増えた』。『これにより、今でもこの包丁をアキタと呼ぶそうです』とあった。粋な話だなあ!)。『昆布は表面に近い外側ほど黒く風味が強く、内側ほど白く柔らかく、削り始めの外側の部分を「さらえ(黒おぼろ)」、表面から芯に近い部分を「むきこみ」、さらに中心に近い部分を「太白(白おぼろ)」という』。以下、「副産物」の項。『白板昆布』は、『おぼろ昆布を削り出した後に最後に残った芯の部分が白板昆布(バッテラ昆布)である。ただし、おぼろ昆布を削ったものだけではバッテラ寿司の需要をまかないきれないため、昆布の粉を固めた「バッテラシート」が販売されている』。『根昆布(爪昆布)』は、『昆布の根元にあたる爪の形に似た部分で、おぼろ昆布を削る際に手で持つために削れない部分である。そのまま食べたり』、『湯豆腐に用いる』。『耳昆布』は『昆布の縁(両端)にあたる部分で加工前に切り落としたもの。とろろ昆布の原料に混ぜて利用されるため』、『一般には』、『ほとんど販売されない。そのままか』、『素揚げにすると美味しいとされる』。以下、「利用」の項。『北陸地方では、使用する原料や加工方法などの違いにより、色々な種類のとろろ昆布が販売されている。特に富山県の昆布消費量はとろろ昆布を含め日本一(全国平均の約』二『倍)で、とろろ昆布のおにぎりなど昆布を使った料理が郷土料理として数多く食されている』とある。私が昆布にマニアックに魅せられたのは、六年間の富山の中高時代、であった……。

 

■「刺昆布《さしこんぶ》」

[やぶちゃん注:キャプションは、ない。国立国会図書館デジタルコレクションの「農家小學」(酒勾常明 著・吉備商會等編・明二〇(一八八七)年刊)の「六」のここに、『刺昆布ハ、細カク刻ミタルヲ謂ヒ、白髮昆布ハ、糸ノ如クウスク削リタルモノヲ稱ス、共ニ、內地ノ需要ノミナラズ、清國ニモ多ク輸出ス。』とあった。本書は明治十九年刊であるから、アップ・トゥ・デイトな記事である。因みに、「白髮昆布」というのは、国立国会図書館デジタルコレクションの「海苔と昆布」(『クロモシーリズ』・殖田三郞著・昭和五(一九三〇)年三省刊)の「こぶ(昆布)」の章のここに、『乾燥製品の表皮を去り、內部白色の部分のみを刻みますと所謂、白髮昆布が出來ます。それから、白髮昆布同樣、硬くて茶褐色をした表皮を去りまして、白色の部分のみににしたものを鉋[やぶちゃん注:「かんな」。]で削つたものが朧昆布[やぶちゃん注:「おぼろこんぶ」。]となり或はとろゝこぶ[やぶちゃん注:ママ。傍点を太字に代えた。以下同じ。]と云はれるものであります。之に用ふ原料は多くまこんぶりしりこんぶでありますが、こぶ類緣のものにとろゝこんぶと云ふ粘液の多いこぶでありまして、此の乾燥品から作つたとろゝこぶは上等でございます。』とあった。★これは、極めて興味深い記載である! この最後の粘りの強いそれは、明らかに真正の「トロロコンブ」を指しているからである! そも、前で「マコンブ」と「リシリコンブ」という正規和名を用いていることからも、実は!――今と違い、この真正の「トロロコンブ」製の「とろろ昆布」が上等品とされていた事実があった!――のである!!!

 

■「刺昆布」

 「内國用」

[やぶちゃん注:しっかり箱入りになっているのに着目! 本「昆布」の図版の中で、ちゃんとした箱入りというのは、これと、下の物だけである!

 

■「仝 清國向《しんこくむけ》」

 「此《この》箱、必らず[やぶちゃん注:ママ。]。

  あり。入《いるる》に

  作るへし[やぶちゃん注:ママ。]。

  且つ、𠀋夫にせされハ[やぶちゃん注:ママ。]、

  上海《シヤンハイ》等に至ら

  ざるうちに、顚損《てんそん》し、

  爲めに、損毛《そんもう》を來《きた》せり。

[やぶちゃん注:「顚損」倒れ転んで損壊すること。]

 

 

【図版6】

[やぶちゃん注:右ページ。順列は、上下は無視し、右から左に順に起こす。]

 

Konbu6

 

「三石昆布」

[やぶちゃん注:ページ標題で右最上部に配置。ポイント大。六つの製品は、藻体から見て、総て、ミツイシコンブ(三石昆布=「日高昆布」) Saccharina angustata と比定してよい。「北海道」公式サイト内の「水産林務部」の「森林海洋環境局成長産業課」の「ミツイシコンブ[三石昆布]」に拠れば、「煮えやすく味も良い用途が広い万能型コンブ」と標題し、『別名ヒダカコンブ(日高昆布)とも呼ばれます』。『成長した葉は帯状で長さは2~7m、幅は7~15cm。縁辺部はほとんど波打っていません。茎は円柱状で長さは3~7cm、直径は5~8㎜になります』。『名前の』通り、『日高地方を主産地としており、津軽海峡東側から襟裳岬を経て十勝沿岸までの広い海域に分布します。潮通しの良い岩礁に密生する性質をもち、主な漁場は』、『海水の流れが強い海岸線に』、『ほぼ並行する岩礁地帯です。日高地方では、上浜、中浜、並浜と称する浜格差があり、浦河町井寒台地区が最上といわれています』。『煮えやすく、身も柔らかいため、煮コンブや佃煮、コンブ巻、だしコンブなどに利用されます』とある。]

 

■「日高國《ひだかのくに》三ツ石郡《みついしのこほり》三ツ石産」

[やぶちゃん注:「日高」日高支庁の旧三石町(みついしちょう)。本書刊行時(明治一九(一八八六)年)では、ウィキの「三石町(北海道)」では役に立たない(「沿革」は明治三九(一九〇六)年の二級町村制の「三石郡三石村」の発足からしかなく、しかも、その際に合併した旧村名には「三石」という文字は全くないため)。ウィキの「三石郡」が、それ以前の経緯が判った。『江戸時代に入ると、日高国で最初とされる松前藩の商場知行制および場所請負制によるミツイシ場所が現在の三石市街地区に開かれている。陸上交通は、渡島国の箱館から道東や千島国方面に至る道(国道』二百三十五『号の前身)が通じていた』。『ミツイシの名はアイヌ語のピットウシ=小石の多い土地に由来し、三石、三ツ石などと表記された』。天明六(一七八六)年に『阿部屋伝七が三石場所の請負人となる』。『江戸時代後期には東蝦夷地に属し』、寛政一一(一七九九)年、『天領(幕府直轄領)とされ』、『松前奉行の治世となるが』、文政四(一八二一)、一旦、『松前藩領に復す。このころ、三石場所請負人楢原屋(小林屋)半次郎が、姨布に市杵島比売神を祀る弁天社(後の三石神社)を奉る』。天保七(一八三六)年には『稲荷神社が創立される』。安政二(一八五六)年には『再び』、『天領となり、仙台藩が警固をおこなった』。「戊辰戦争(箱館戦争)」『終結直後の』明治二(一八六九)年八月、「大宝律令」『の国郡里制を踏襲して三石郡が置かれた』。明治二年八月十五日(一八六九年九月二十日)、『北海道で国郡里制が施行され、日高国および三石郡が設置され』、『開拓使が管轄』。明治五年四月(一八七二年五月)『全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)』となった。同年の十月十日(一八七二年十一月十日、七ヶ月前に『設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)』。明治八(一八七五)年三月、『姨布村』(おばふむら)『に』、『日高国で最初の戸長役場が置かれ』、翌明治九年、『カムイコタン村が神潭(かむいたん)村に改称』、明治一二(一八七九)年七月、『郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての三石郡が発足』、翌年の三月、『浦河郡』(うらかわぐん)『外』(ほか)『十郡役所』(浦河・三石・様似(さまに)・幌泉(ほろいずみ)・広尾・当縁(とうぶい)・十勝・中川・河西(かさい)・河東(かとう)上川郡役所[やぶちゃん注:正式名は読みと「・」は一切ないベタである。])の管轄となる)。明治十五『年』『神潭村が辺訪村』(べほうむら)『に、延出村』(のぶしゅつむら)『が幌毛村』(ほろけむら)『に合併』、同年二月、 北海道開拓史に於ける行政区分の一つである「三県一局時代」の『廃使置県により』、『札幌県の管轄とな』ったとある。「ひなたGIS」で戦前の地図の「三石」を中央に打ったものをリンクしておく。]

 

■「日髙國浦河《うらかは》産」

[やぶちゃん注:「浦河」ここ当該ウィキによれば、明治十二年『に行政区画として発足して以来、郡域は上記』一『町のまま』、『変更されていない』とあり、『江戸時代に入ると、松前藩の商場知行制および場所請負制による浦川場所(会所)が荻伏』(おぎふし)『地区に開かれている。浦川の名は』、『この時、今の元浦川(アイヌ語でウララペッ=霧深い川の意味)にちなんで名付けられた』とあった。]

 

■「日髙國樣似《さまに》產」

[やぶちゃん注:「樣似」現在の北海道様似郡様似町。ここ当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『サマニはアイヌ語起源で、サムンニ(倒れ木)、サンマウニ(寄り木)、エサマンペッ(カワウソの川)、シャンマニ(高山のあるところ)、シャマニ(横木)、女性の名前など、諸説ある』とあった。]

 

■「日髙國縨泉村《ほろいづみむら》産」

[やぶちゃん注:「縨泉村」これは、現在の北海道幌泉郡えりも町の襟裳岬の東北にある、「えりも港」を擁する、幌泉郡えりも町本町周辺の旧村名である。「ひなたGIS」の戦前の地図で、村名が確認出来る。]

 

■「日髙國新冠郡《にいかつぷのこほり》新冠村」

[やぶちゃん注:見開きで左の図を見ても、これを除き、総てに「産」があるので、脱字である。

「新冠郡新冠村」現在の新冠郡(にかっぷぐん)新冠町ウィキの「新冠町」によれば(注記号はカットした)、『「新冠」の名称が文献上初めて登場するのは』元禄一三(一七〇〇)年の「松前嶋鄕帳」(まつまえとうごうちょう)『にある「にかぶ」の記載であり』、元文四(一七三九)年『頃発行の「蝦夷商賣文書」には「ニイカップ」と記載されている。また、「新冠」の当て字が定着する以前には「新勝府」の当て字が使われたこともある』。『この名称はアイヌ語の「ニカㇷ゚(ni-kap)」(木・皮〔革〕)が原義とされるが、その名称となった理由については諸説あり、永田方正は、この地のアイヌがニレの木の樹皮から作った衣服を着用しており、他地域のアイヌの衣服と色が異なっていたことに由来する、と説明している』。『また、もとはアイヌ語で現在の新冠川河口付近の大岩(現在は判官館岬と呼称)が突き出している地形から「ピポㇰ(pi-pok)」(岩・下)と呼ばれていたところ、それが方言で』「密売」を表わ『す「ビイフク」という語と似ているため』、『良くない名称であるとして、音が近い「ニカㇷ゚(ni-kap)」に改めたとする説もある。この時期については松浦武四郎の』「東蝦夷日誌」『の記述に依れば』、文化六(一八〇九)年『に川尻の会所の名称を「呼び声のよろしからざるに依て」、「ビボク」から「ニイカツプ」と改めたとされているが、前述の「にかぶ」の記載の初出よりは』、『後のことである』とある。]

 

■「日髙國静内産」

[やぶちゃん注:「静内」現在の日高郡新ひだか町内の複数の静内地区があるが、豈図らんや、「ひなたGIS」の戦前の地図で見ると、現在の「新ひだか町」の町名があるところと、東の部分にも、大きく「靜內」とあるので、非常な広域であることが判明する。当該ウィキによれば、『町名の由来は、アイヌ語の「スッナイ」(祖母の沢)もしくは「ストゥナイ」(ぶどうづるの沢)といわれる』とある。]

 

 

【図版6】

[やぶちゃん注:左ページ。順列は、上下は無視し、右から左に順に起こす。]

 

Konbu7

 

■「長昆布」

[やぶちゃん注:ページ標題で右最上部に配置。ポイント大。八つの製品は、藻体から見て、総て、ページ標題で右最上部に配置。ポイント大。六つの製品は、藻体から見て、総て、ナガコンブ(長昆布=「浜中昆布」) Saccharina longissima と比定してよい。既注であるが、ほぼ再掲すると、「北海道」公式サイトの「水産林務部」・「森林海洋環境局成長産業課」の「ナガコンブ[長昆布]のページに、「■分布図」の道内の地図画像があり、『釧路・根室地方の太平洋沿岸、貝殻島、歯舞諸島、国後、択捉』とあり、『世界の昆布属のうち』、『最も長くなる種』とし、『成長した葉は細長い帯状で、長さは通常』四~十二メートル、『なかには』十五メートル『を超える長いものもあります。幅は』六~十八センチメートル『で、縁辺部は縮れていないのが特徴。茎は円柱状からやや偏平で、長さは』三~六センチメートル、『直径は』五~七ミリメートル『になります』とある(但し、『世界の昆布属のうち』、『最も長くなる種』と言うのは、間違っていないが、誤解する方がいると思うので、注しておく。何故かというと、現行では、旧コンブ属(ゴヘイコンブ属) Laminaria とカラフトコンブ属 Saccharinaに移されていることは素人の場合、まず知らないこと、「昆布属」と言われてしまうと、その属の上位タクソンであるコンブ科 Laminariaceaeと採ってしまう可能性が高いことから、まずいのである。現行のコンブカ科の世界最大種は、“Giant kelp”の名で、アザラシ・ラッコの棲み家になっていることで知られる、コンブ科オオウキモ属オオウキモ Macrocsytis pyrifera である。南北アメリカ大陸の太平洋沿岸、オーストラリア・ニュージーランド南岸、アフリカ大陸南岸に分布する。一般的には食用は不適とされる。アメリカでは刈り採って、アルギン酸の原料に使用する)。『釧路、根室地方の太平洋沿岸、貝殻島、歯舞諸島、国後島、択捉島の周辺に分布し、寿命は』三『年といわれています。成長が速く、成長期には一日に最大』十三センチメートル『伸びます。ナガコンブの漁場は主に水深』三メートル『より浅いところですが、貝殻島などの海水の流れが強く透明度が高い地域では』、『水深』六メートル『まで群落ができます』。『だしには向きませんが煮えやすいので、おでん、昆布巻き、佃煮に利用されます。「早煮昆布」「野菜昆布」などの商品名でも売られており、家庭料理用の食材として人気があります』とある。

 

■「根室國《ねむろのくに》花咲郡《はなさきのこほり》花咲産 上等」

[やぶちゃん注:「上等」は解説ではないものの、他の部分との関係から、半角を入れた。

「根室國花咲郡花咲」現在の北海道根室市花咲町「ひなたGIS」も添えておく。平凡社「日本歴史地名大系」の「花咲郡」によれば、『明治二年(一八六九)八月』十五『日に設置された根室国の郡(公文録)。近世は東蝦夷地のうちで、ネモロ場所(歯舞諸島・色丹島を含む)とクスリ場所の一部を継承した。根室国の南東部、根室半島先端部に位置し、現在の根室市域南東部にあたる。西は根室郡に接し、北は根室海峡、東と南は太平洋に臨む。郡名は松浦武四郎の提案で、半島先端部の「鼻岬」の文字を改めた(「郡名之儀ニ付奉申上候条」松浦家文書)。』とある。サイト「Bojan International  北海道のアイヌ語地名」の『(87)「花咲・長節・昆布盛」』の「花咲」によれば、アイヌ語の「poro-not」で、『大きな・岬』の意とされ、『この「花咲」は「花咲ガニ」でもお馴染みの、根室市花咲に由来する……んでしょうかねぇ?』とあり、『「花咲」という字であったり』、『「はなさき」という音からは、アイヌ語由来では無く和名のようにも思えるのですが……。山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。』とされ、『上原熊次郎地名考は「此地名故事相分からず」と書いた。アイヌ語では読めないからだったろう。永田地名解は「花咲郡。元名ポロ・ノッ poronot。大・岬の義(注:今の花咲岬)。花咲は鼻崎(はなさき),即ち岬の義。ポロノッの俚訳」と書いた。「岬の鼻の先」の意だったか。』『(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.243-244 より引用)』とあって、『というわけで……。比較的珍しい、意訳によるアイヌ語地名だったのでした。poro-not で「大きな・岬」ですが、もしかしたら poro-not-etok で「大きな・岬・出鼻」だったのかも知れませんね。』と記されておられる。]

 

■「釧路國《くしろのくに》釧路郡《くしろのこほり》釧路村産」

[やぶちゃん注:「釧路國釧路郡釧路村」平凡社「日本歴史地名大系」の「花咲村」によれば、『明治五年(一八七二)頃から同』十七『年まで存続した村。現釧路市域の中央部にあり、南部は海に臨む。村内に米(こめ)町などの釧路市街地を形成し、東は桂恋(かつらこい)村、西は鳥取(とつとり)村に接する』とある。「ひなたGIS」で示しておく。]

 

■「十勝國《とかちのくに》廣尾郡《ひろをのこほり》廣尾村産」

[やぶちゃん注:「十勝國廣尾郡廣尾村」ここは、現在の北海道十勝管内の最南端に位置する広尾郡広尾町であるが、複数の信頼出来る記載を調べてみると、この「廣尾村」というのは、通称で「村」を附しているものと判断される。ウィキの「広尾町」が判りがよいので引用すると(注記号はカットした)、ここは、昔は「茂寄村」(もよりむら)と呼んでいたことが判る(「コトバンク」の「日本歴史地名大系」の「広尾村」で確認済み)。『広尾は昔時「東、奥蝦夷」と称した地で、東南広尾川に沿えるアイヌが住んだ一集落である。当初』『松前藩士・蠣崎蔵人』(かきざきくろうど:室町時代に宇曽利郷田名部の蠣崎城主蠣崎蔵人信純による南部氏に対する反乱「蠣崎蔵人の乱」(当該ウィキを見られたい)で知られる人物)『の給地であった。幕吏・小林卯十郎が海に沿って東行』して『釧路に達する新道を開くに及び、始めて陸路交通の便を得る。寛政の頃から』、『十勝国全部をトカチ場所と称し、会所を』現在の『広尾に置いて』、『支配人に納税や宿泊等の取扱いをなさしめた』。『安政』六(一八五九)『年、仙台藩の領となり、目付、代官、勘定方等が人夫を伴い来て』、『丸山の麓に陣屋を構え、農家、大工、木挽等を移住させ、穀菜等の試作をなさしめる。同年』九『月』、『鹿児島藩領となり、同年』、『転じて』、『田安、一橋両侯家に分属され、田安家はビホロ川以北モンベツ川の間を領し、役宅を茂寄に、一橋家はビホロ川以南よりビタタヌンケまでを領し、役宅を音調津に設けた』。明治七(一八七一)『年、田安、一橋両家の支配を罷めた』。以下、年表になっており、それに先立つ明治四年、『浦河郡役所広尾』(☜)『出張所を置く』とある(以下、ポイントとなる地名を太字下線とした)。明治八(一八七五)年一月に、『茂寄郵便局を設ける』。同二月、『戸長』(こちょう:明治前期に区・町・村に設置された行政事務の責任者)『役場を置き、広尾、当縁二郡を管轄する』。明治二〇(一八八七)年、『釧路郡役所の管轄となる』。;明治三〇(一八九七)年、『河西支庁の管轄となり、戸長役場の管轄区域を改め、当縁郡を割き、管轄を広尾とし、茂寄村役場となる』。明治三十二年四月には、『釧路裁判所茂寄出張所を置く』。明治三九(一九〇六)年になって、『広尾郡茂寄村(もより)、当縁郡(とうぶい)大樹村、歴舟村(べるふね)、当縁村の一部が合併、二級町村制、広尾郡茂寄村が発足』したが、十四年後の、大正一五(一九二六)年になって、初めて広尾村に改称』とあるのである。

 則ち、本書の刊行された明治一九(一八八六)年には、「廣尾」は、あくまで、「廣尾郡」であって、村名ではなく、郡名であり、当該の場所は、あくまで、「茂寄村」であったのである!

 

■「釧路國厚岸郡《あつけしのこほり》厚岸村産」

[やぶちゃん注:「釧路國厚岸郡厚岸村」現在の厚岸郡(あっけしぐん)厚岸町ウィキの「厚岸町」によれば(注記号はカットした)、『町名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語に基づいている。有力な説は市街地の西にある現在のアツケシ沼で』、『アットウシ』(当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『(アイヌ語: Attus)は、オヒョウ(シナノキが使われることもある)などの木の内皮の繊維を織ったアイヌの織物。衣服として作られることが多い。アツシ、アトゥシ、アットゥシ織、アッシ織、厚司織とも表記される。また、経済産業省のプレスリリースでは小書きシを使い、「アットゥㇱ」と表記されている』とある)『の原料となるオヒョウニレ』(双子葉植物綱イラクサ(刺草:当該の同名種自体は草本)目ニレ(楡:無論、同名種は木本)科ニレ属オヒョウ(於瓢) Ulmus laciniata の異名。落葉高木。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『樺太の白浦地方では樹皮をアイヌ語でオピウ(opiw)とも呼び、和名「オヒョウ」の名称はこれに由来する。アイヌ語ではオヒョウの樹皮と繊維をアッ(at)、それが採れる木をアッニ(atni)ともよんでいる。樺太の方言ではそれぞれアㇵ(ah)、アㇵニ(ahni)という。ただし』、『アイヌ語学者の知里真志保によれば、アイヌ語には植物の部分の呼び名はあっても、元来は植物そのものの名前はないとされる。樹皮が特別にオピウとよばれるのは、アイヌにとって』、『この樹皮が特別役に立つものであったからである。俗説として、葉の形を魚のオヒョウになぞらえる人もいるが、これについては懐疑的な見方もされている』とある。私は厚岸産のカキが好物で、毎年、レストランに送られてくるのを楽しみにしている)『の皮を剥いだことに由来する「アッケウシイ(at-ke-us-i)」(オヒョウニレの皮・剥ぐ・いつもする・所)、あるいは「アッケシト(at-kes-to)」〔オヒョウニレ・下の・沼〕から転じたものとされている』。『このほか、アイヌ研究家のジョン・バチェラー』(John Batchelor(一八五四年~ 一九四四年):イギリス人の聖公会宣教師。半世紀以上に亙って、アイヌへの伝道・アイヌ文化、及び、アイヌ語の研究、困窮するアイヌの救済に尽力し、「アイヌの父」と呼ばれた。バチラーとも表記される。以上は当該ウィキに拠った)『が、「アッケシ」をカキの意とする説を挙げているが、町史では「一単語、一固有名詞が地名に転化する例は』、『ほとんど見あたらない、この説を採用したのは、厚岸のカキを宣伝するために用いたのではないだろうか」として否定している』とあった。]

 

■「釧路國白糖郡白糖村産」

[やぶちゃん注:「白糖」この二箇所の「白糖」は、「白糠」のイタい誤りである。則ち、

「白糠郡《しぬかのこほり》白糠村《しぬかむら》」

が正しい。ここは、現在の白糠郡(しらぬかぐん)白糠町である。「ひなたGIS」の戦前の地図で「白糠村」を確認出来る。]

 

■「千島國《ちしまのくに》國後郡《くなしりのこほり》國後村産」

[やぶちゃん注:「千島國國後郡國後村」これも、おかしい。言わずもがな、ロシアに不当占拠されている国後島であるが、同島には、西半分を占める泊村と、東半分を占める留夜別村(るよべつむら・るやべつむら)しかなく、国後村というのは、歴史的にも存在しない。ウィキの「国後島」の「近代以降」によれば、『第二次世界大戦前は、北海道本島からの船が発着した泊(ロシア名:ガラブニノ Головнино)に』、『国後島全体を管轄する官庁や神社がおかれ、中心集落であった。島の沿岸には、全域にわたり』八十『以上もの漁業集落が点在しており、産業としては、コンブやサケ、カニなどの漁獲高が多く、缶詰製造で栄えた。また、畜産や金属鉱石、硫黄の採掘も行われていた』とある。

 

■「璃瑠蘭《りるらん》産」

[やぶちゃん注:「璃瑠蘭」これも誤字で、「璃瑠が正しい。平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、「璃瑠灡村」で、『現在地名』は『厚岸郡厚岸町末広(まびろ)』(ここ)『・登喜岱(ときたい)』(ここ)とし、『明治初年』(一八六八年)『(同二年八月から同六年の間)から明治三三年(一九〇〇)まで存続した厚岸郡の村。末広村の東、厚岸半島の南端に位置し、南は太平洋に面する。全域が丘陵地で北に向かって傾斜し、海岸には断崖が屹立する。近世にはアッケシ場所のうち』であった。『明治初年』、『リルランなどの地を包含して成立した。村名は初め』、『リルラン村と記され、明治八年五月「璃瑠村」と漢字表記に改められた(開拓使根室支庁布達全書)』。「釧路國地誌提要」『には理流瀾村とみえ、明治六年の戸口は平民一戸・三人(男二・女一)。同年一一月五日、厚岸を出発した榎本武揚はリルランの小休所で昼食をとり、その後山坂を越えて浜中(はまなか)会所(現浜中町)へ向かった(北海道巡廻日記)。』とある。]

 

■「十勝國十勝郡十勝村産」

[やぶちゃん注:「十勝村」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、『明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三九年(一九〇六)まで存続した十勝郡の村。十勝川(現浦幌十勝川)河口部東岸にあり、西は同川・大津(おおつ)川(現』在の『十勝川)を挟んで同郡大津村、北は同郡生剛(おへこわし)村、東は直別(ちょくべつ)川を境に白糠しらぬか郡音別(おんべつ)村(現』在の『音別町)、南は太平洋に面する』とある。現在の十勝郡(とかちぐん)浦幌町(うらほろちょう:この町一つで、十勝郡を成す)。]

 

 

【図版8】

[やぶちゃん注:右ページ。順列は、まず、上から下、右から左の順に起こす。]

 

Konbu8

 

 

■「大間昆布《おほまこんぶ》」

 「青森縣陸奥國《むつおくのくに》

  下北郡《しもきたのこほり》

  大間村産」

 「長《ながさ》、六尺。乾品《かんぴん》にて、

  幅《はば》廣きところ、六、七寸。

  淺綠にして、兩緣《りやうゑん》、

  淡黄色《たんわうしよく》にして、

  『三厩昆布《みんまやこんぶ》』に似たり。

[やぶちゃん注:以下は、図の左橫にある。右傍線は下線にした。]

  質《しつ》、厚くして、味、頗《すこぶ》る

  佳《か》なり。故《ゆゑ》に、煮出《にだ》し

  て、又、削りて、

  をぼろ とろヽ はつゆき等の細工昆布となす

  に、よろし。」

[やぶちゃん注:「大間昆布」今や、希少価値にして、高額で取引される「大間まぐろ」(条鰭綱スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科マグロ族マグロ属クロマグロ Thunnus orientalis の天然個体)でお馴染みの、津軽海峡に面した下北半島西北端に位置する本州最北端の自治体である、青森県下北大間町郡大間(おおままち)町今回、「一般財団法人 海苔増殖振興会」公式サイト内の「海苔百景」の、同会の副会長にして東京水産大学名誉教授・理学博士有賀祐勝氏の「リレーエッセイ 2017・夏」の「沖縄の海でコンブを養殖したい」(別にPDFも有り)の中に、精緻な、北海道、及び、東北地方の有用コンブ七種(マコンブ・ホソメコンブ・リシリコンブ・オニコンブ・ミツイシコンブ・ナガコンブ・ガッガラコンブ)の分布域図を見つけたのだが、大間には、マコンブとホソメコンブが分布することが確認出来る(因みに、御存知の方も多いであろうが、沖縄県と富山県は、永らく、コンブ消費量の日本一を争っていた)。現行のネット上で見られる相応の値段のする「大間昆布」と名打っている販売品の原藻もマコンブである。なお、用心に用心を重ねて、「大間昆布」を、過去に遡って調べてみたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの「帝國水產書敎師用」(興文社編輯所編・明治三八(一九〇五)年興文社刊)の「第三十四課 昆布」のここ(右ページ十行目以降)に、

   *

ほんこんぶハ、まこんぶトモ稱セラレ、函館・福山[やぶちゃん注:これは、北海道松前町松城(まつしろ)の旧称。]ヲ有名ナル產地トシ、同種ニシテ陸奥大間ニ產スルヲ大間昆布ト稱シ、陸中三厩ニ產スルヲ三厩昆布ト稱ス。コレヲ製シタルヲ花折昆布トイフ。

   *

とあったので、間違いない。なお、検証のために、種々の記載を調べたのだが、一つ、「JF全漁連 政部 環境・生態系チーム」の「なぎさは海のゆりかご 海のゆりかご通信No,29 Feb,2012」の鹿児島大学水産学部准教授・博士鳥居享司氏の「なぎさシリーズNo.23 マグロの大間!コンブの大間?」の記事PDF)で、大間に於けるコンブ水揚げの激減(本文に『コンブの水揚金額は 1989年に約 7 億円を記録したが、2005 年には1,000 万円程度まで激減した。』とある)を受けて、大間の漁師たちが、コンブ場の復活・再生のために苦闘されている様子を読み、甚だ感動した。是非、読まれたい。

「陸奥國《むつおくのくに》」「昆布の說」本文では、かく「むつおく」のルビ(一部、歴史的仮名遣を誤っている)を振っているのに従った。

「はつゆき」どう見ても、こうしか読めないのだが、これ、「うすゆき」の誤記ではあるまいか? 「デジタル大辞泉」に『うすゆき‐こんぶ【薄雪昆布】』として、『ごく薄く削った白色のおぼろ昆布。』とあるからである。

 

■「本昆布《ほんこんぶ》」

■「本昆布」

 「乾品にて、幅廣きところ、

  一尺四、五寸あり。長さ、二尺餘に

  至り、一石《いつこく》に、四、五本も

  生《しやう》す[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]る、

  あり。末の細きところの幅ハ、二、三寸なり。

  凾館近傍の産。幅広きもの。」[やぶちゃん注:図の右下方にあるが、これは、キャプションとしては、物理的に繋げる余裕がなくなっているから、そこに配しただけで、前に続いていると読める。]

[やぶちゃん注:前者(二個体)には、キャプションがなく、次の行にある同名題の図と酷似しているので、セットにした。

「本昆布」は、前の本文のここで、『(三)長昆布(ながこんぶ)、一名、本昆布(ほんこんぶ)、又、眞昆布(まこんぶ)と稱するものは、十勝、釧路、千嶋、根室等の產にして、乾品の幅二、三寸許、長さ、短きもの、二丈より六丈餘に至り、鮮綠色なり。而して、產地により、幾分か、厚薄(こうはく)長短(ちやうたん)ありと雖ども、皆、長切昆布(ながきりこのぶ)に造りて、淸國に輸出せり。』とあり、マコンブ(真昆布) Saccharina japonica を指す異名である。ここは、図とキャプション、及び、後の二品から、それに同定比定してよい。「本場の昆布」という意味であろう。しかし、そうなると、他種の項品質のものにも、これを使うことがある可能性が、古今に、当然、あり、それを念頭に置いて、可能ならば、実物の生体及び製品を子細に観察して見極めることも必須であると言える、と、私は考える。

 

■「本昆布」「松前昆布」

[やぶちゃん注:「松前昆布」昔も今も、マコンブの松前産のブランド名。]

 

■「三厩昆布《みんまやこんぶ》」

[やぶちゃん注:【図版4】で既出既注。]

 

■「厚昆布《あつこんぶ》」

 「陸前國《りくぜんのくに》本𠮷郡《もとよしのこほり》階上村《はしかみむら》最知濵《さいちはま》産」

[やぶちゃん注:この図、産地を見なかったなら、前の酷似している六個体の図に引かれて、マコンブと思ってしまうところだった。

「陸前國本𠮷郡階上村最知濵」これは、現在の宮城県気仙沼市最知川原(さいちかわら)の海岸附近である(ドットは、同地の東日本旅客鉄道(JR東日本)気仙沼線BRT(バス高速輸送システム)の「最知駅」とした。嘗つては、同社の気仙沼線の鉄道駅であった)。「ひなたGIS」の戦前の地図を見られたい。「階上村」がある。

而して、この場所が決定的なのだ! ここは、先に示した「沖縄の海でコンブを養殖したい」の分布図を見れば、一目瞭然! ここは――マコンブの分布域限界から、遙か、南なのだ!

★ここに分布する有用コンブは、ただ一種、マコンブ変種ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina japonica var. religiosa なのだ!

因みに、地理フリークである私には、「階上村」が、気になった。青森県三戸郡階上町(はしかみちょう)赤保内寺下(あかぼないてらした)にある「寺下観音歴史資料館」公式サイト内の『「はしかみ」地名考』に以下のようにあった。

   《引用開始》

■宮城県気仙沼市階上地区

かつて、宮城県本吉(もとよし)郡に階上村という村が存在しました。昭和30年(1955年)に大島村、新月村とともに気仙沼市に編入されましたが、現在のJR気仙沼線「陸前階上駅」のあたりで、気仙沼市のほぼ中央に位置します。

  → 気仙沼階上(気仙沼市観光協会 階上支部)

この階上村は、明治8年(1875年)の村落統合によって、波路上(はじかみ)村、長磯(んがいそ)[やぶちゃん注:東北弁読みが、超スゴッツ!]村、最知(さいち)村、岩月(いわつき)村の4村が合併して誕生しましたが、「階上」の名前は、かつてこの地域が「階上郡」と呼ばれていたことに由来します。

なお、この「波路上」はもともと「波止上」であり、誤った字で伝えられたものです。

この階上郡は、続日本紀にも記述があります。

それによると、名取郡以南の14郡は山や海の僻地(へきち)であり、多賀城からも遠く離れていて、戦のような緊急時には間に合わないため、延暦(えんりゃく)4年(785年)に不慮(ふりょ)に備えて官員(かんいん)(役人)を置き、防御を固めるために郡に格上げしたとされます。

   《引用終了》

由来もスゴッツ!]

 

 

【図版9】

[やぶちゃん注:左ページ。順列は同前。]

 

Konbu9

 

■「昆布」

 「陸前國宮城郡七濱産」

[やぶちゃん注:「陸前國宮城郡七濱」現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町(しちがはままち)。標題が「昆布」とあるだけで、厳しい。直前の図と通性があるが、場所が、金華山を廻った場所で、現在の例の「沖縄の海でコンブを養殖したい」の分布図では、全くの埒外である。ネットで「七ヶ浜町 コンブ」で検索しても、全く掛かってこない。しかし、ふと、『現在のような温暖化が起こる以前は、親潮の勢力が強く回り込んで、或いは、ホソメコンブがこの地区でも繁茂し、有意に漁獲していたのではないか?』という疑問が浮かんだ。この場所は、宮城県の太平洋側の、丁度、中央に当たるのである。そこで、国立国会図書館デジタルコレクションで「宮城郡七 ホソメコンブ」で検索してみたところ、『「水産宮城」昭和五十三年版』(宮城県水産林業部編・出版・一九八〇年刊の中の、「93 水産加工研究所」の「業務内容」の「浅海養殖生産物利用加工試験」の「⑵」に、

   *

ホソメコンブを原料とした従来の抄きコンブの代わりに養殖マコンブを使用した抄コンブ製造の可能性を検討する。

   *

という一文を発見した。この「抄(き)コンブ」というのは、対象が「岩手県産」ではあるが、「農林水産省」公式サイト内の「うちの郷土料理」の「すき昆布の煮物 岩手県」にある、『「すき昆布」とは、三陸沿岸』(☜宮城県を含む)『でとれた若い昆布をボイルして細くカットし、板状にして乾燥させたものである。昭和44』(一九六九)『年頃、沿岸部の普代村』(ふだいむら:岩手県下閉伊郡普代村)『で昆布の養殖とすき昆布加工が始まり、保存食として県全体に広まった。普代のすき昆布は、間引きをしない若い昆布を使用しているため、やわらかな歯ごたえがある。』とあった(因みに、この岩手産の「抄き昆布」では、マコンブ・ホソメコンブの分布域であるから、両方とも使える)。しかも、先の引用文では、『ホソメコンブを原料とした従来の抄きコンブの代わりに養殖マコンブを』と言っている。「ホソメコンブ」には「養殖」は、頭に、ついてない。しかも『従来の抄きコンブ』と言っている。従って、少なくとも、同書の刊行昭和五五(一九八〇)年までは、宮城県海浜地区で、ホソメコンブが漁獲でき、それで「すき昆布」を製造していたことが判るのである。

 以上から、私は、この「昆布」はマコンブ変種ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina japonica var. religiosa に比定するものである。

 

■「細布」

 『「ほそめ」「ぼんめ」、「又じやうめ」と云《いふ》。

  ぼんめに、二《ふたつ》、あり。「大須《おにす》ぼんめ」・

  「ハなぶちぼんめ」なり。大須ハ、厚く、

  長《ながさ》、五尺余。「はなふち」ハ、

[やぶちゃん注:前行の「はなふち」の「ふ」の清音はママ。]

  較《おほむね》、厚し、廣し。此《この》ものハ、

[やぶちゃん注:「厚し」は、思うに、「厚く」の誤記であろう。]

  年、三度、採収《サイシウ》す。

 「陸前産」

[やぶちゃん注:ここでは、特異的にキャプション内で鍵括弧を筆者が使用している。

「ほそめ」は、ホソメコンブのことととってよかろう。

「ぼんめ」国立国会図書館デジタルコレクションの「水產動植物精義」(倉上政幹著・大正一四(一九二五)年杉山書店刊)の「ほそめこんぶ 細布昆布」の項の部分に、「異名」として、『ほそめ』・『ぼんめ』・『いそこんぶ』・『はなをりこんぶ』を挙げ、冒頭の『植物學上ノ位置』に、『羽越地方ニ移出シ中元ノ祭禮用ニ供スルヲ以テ「ぼんめ」ノ名ヲ以テ知ラルヽモノニシテ』とあることから、「盆布(ぼんめ)」と判る。次のページの『分布産額』[やぶちゃん注:「産」はママ。]の中にも、『三陸磐城地方』(現在の福島県の浜通り・中通り南部・宮城県南部相当)『ニ產スル「ぼんめ」ト稱スルモノモ亦本種ナルベシト云フ』と重ねて言っている。

「又じやうめ」(この「又」は鍵括弧の外に出して、『又、「じやうめ」』とあるべきところである)れは、思うに、「條布」であろう。ホソメコンブの生体は、葉部中央に入る中帯部が両脇に凹凸を持っており、くっきりした筋(=条)があるように見えることからであろう。但し、コンブ目アナメ科スジメ(筋布)属スジメ Costaria costata があるので、混同しないように注意されたい(因みに、スジメの属名と種小名は孰れも「筋がある」の意味である)。

『「大須ぼんめ」・「ハなぶちぼんめ」』国立国会図書館デジタルコレクションの「日本昆布業資本主義史 支那輸出 」(『慶応義塾經濟史學會紀要』(第二册)・羽原又吉著・昭和二四(一九四九)年有斐閣刊の「第三章 昆布の種類及產地」のここで、

   *

(六)細布は一に盆布にてにて三石昆布に似たり。北海道、三陸各沿岸に產するも特に陸前牡鹿郡大須濱より名振、船越、熊澤、桑濱產を「大須盆布(オニスボンメ)」といひ、宮城郡花淵盆布又は花淵昆布といふ。此地方の習慣として中元これを佛前に供し或は煮物に加へる等その需用少なからず故に盆布の名あり。中元後これを東京に送り刻獻昆布の原料とすと。陸奥にて「めのこ昆布」とは先づ雨露に晒し春碎して貯へ食する時は水に浸し米に加へ飲食す、すなわち救荒の一法である。

   *

とあった。この「大須濱」は宮城県石巻市雄勝半島の最東端にある雄勝町の漁村で、ここ、「名振」は、その半島の北西のここ、「船越」は、その二つの間のここ、「熊澤」はここ、「桑濱」はここだ! 何んと! 集中した共同体の民俗習慣と! 実用経済と! 救荒準備と!――素晴らしいではないか!

 

■「宮古昆布」

 「『小本昆布』等《など》。」

[やぶちゃん注:「宮古昆布」浄土ヶ浜で知られる岩手県宮古市であるが、ここは、マコンブとホソメコンブの分布域であるが、図の製品の細さから、ホソメコンブである。]

 

■「黑昆布」「天䀋國《てしほのくに》産」

[やぶちゃん注:「黑昆布」種は、「天䀋國産」とあるから、自動的にリシリコンブとなる。既出の「函館市/函館市地域史料アーカイブ」の「恵山町史」(平成一三(二〇〇一)年刊)の「3、明治前期の昆布漁について」の、「<明治前・中期の昆布の実体> 『北海道水産全書 高雄北軒(明治26年刊)』より」という項の「主な昆布と形状」に、

   《引用開始》

・黒昆布(リシリコンブ)  幅34寸(912センチメートル)、長さ45尺(1.21.5メートル)に及ぶ、黒色で質厚く天塩の沿岸に産するものを天塩昆布といい、利尻礼文等に産するものを利尻昆布という。一般に「ダシ」昆布と呼ばれているのはこれである。

   《引用終了》

但し、ひまわりさんのブログ「ひわりblog」の「北三陸漁師さんが作る【すき昆布】と【黒昆布】」を見ると、興味深い記載がある。

   《引用開始》

【「だし昆布」(黒昆布種)「すき昆布」は真昆布種。黒昆布種は天然昆布は田野畑村の断崖の下の岩礁にしかない昆布】

 実は、「黒昆布の種」、つまり黒昆布は三陸でも田野畑の特定の2箇所(北山崎・鵜の巣断崖の断崖の下)しかありません。

だから、漁協では、この種子を他には絶対に種を密漁されたりしないように、組合員や地元警察がアワビ密漁防止活動として、海域を船や車で周り監視しています。すぐ、警察に通報出来るようにしています。震災後に3回捕まっています。まあそれほど、アワビと並んで価値のあるものなのです。どっちにしても、黒昆布はいくら種を持って行っても死滅します。環境に合わないからです。 黒昆布を村の港の近くに根付かせようとしましたが、あの断崖の下のような環境がないと育たないのは実証済みです。

【だし昆布(黒昆布)は昆布そのものを、千切、煮付けにしたりして食べて欲しい昆布】

北海道や他の三陸の昆布は殆どが「真昆布」です。肉厚さ、粘りもが違うのです。販売してるのは、1年昆布ですが、2年昆布はもっと肉厚で長くなり、色も濃い茶褐色になり粘りも半端ではありません。しかし、養殖するには2年目になると重たくて落ちてしまいので、1年サイクルにしています(1年サイクルの方が効率化できて収入もふえますから)だから、例えば「出し汁」を取った後にも昆布そのものを、千切りにしたり、煮付けにしたりして食べて欲しい昆布なんです。

   《引用終了》

とあるのである。「田野畑」(たのはた)村はここで、「北山崎」(きたやまざき)はここ、「鵜の巣断崖の断崖」はここである(ここは、中腹にウミウ(カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus )、及び、カワウ( Phalacrocorax carbo )の営巣地があることに因んで、この名があり、ここは「三陸復興国立公園」内に属する)。しかも――その真正の「黒昆布」はマコンブ――なのである。事実、ネット検索を掛けると――天塩三産黒昆布――というのは、掛かってこないのである。現代では、狭義には――「ひまわりさん」の仰ることが正当――と言えるのである(因みに、次の次の引用で、戦後までは、リシリコンブを「黒昆布」と呼んでいたことが判る)。

「天䀋國」現在の北海道天塩郡天塩町。]

 

■「ほそめ」「一名、『ぼんめ』。」

 「青森縣下下北郡《しもきたのこほり》尻屋村《しりやむら》産」

 「此ものハ、七月頃、多く、採収し、中元、

  佛壇の飾《かざり》に用ふ。

  長さ、五尺許。色、暗綠色して、淡く、

  較〻《やや》、茶色を交《ま》づ。

  質、甚《はなはだ》、薄く、魚類を巻き、

  食《くひ》たるを常とす。」

[やぶちゃん注:「ほそめ」文字通り、ホソメコンブである。

「青森縣下下北郡《しもきたのこほり》尻屋村」青森県の下北半島の北東端をなす岬「尻屋崎」のある下北郡東通村尻屋。]

 

■「小元昆布《おもとこんぶ》」

[やぶちゃん注:キャプションなし。この「小本昆布」の「小本」は地名で、現在の龍泉洞で知られる岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)小本である。分布域と図の細さから、ホソメコンブに比定できる。]

 

■「めのこ」

 「宮古、大槻、小槌《こづち》、等にて、乾して、

  臼《うす》にて、搗《つ》き、䅟米に混《こん》じ、

  炊き、食ふなり。」

[やぶちゃん注:「めのこ」国立国会図書館デジタルコレクションの「日本昆布大觀」(日本昆布大觀編纂所編・昭和二二(一九四七)年日本昆布大觀編纂所刊)のここの、『(五)黑昆布(一名利尻昆布)』の最後の段落で(傍点「﹅」は太字とした)、『また、陸奥にては、「めのこ昆布」と稱し、地方人の食用に供するが、其の製法は雨露に晒して後ち日光にて乾かし、春碎して、米粒位の大きさにして貯藏して置き、食する時には水に浸して米に加えて炊くのである。卽ち米穀に乏しい場合の食糧――所謂救荒の一法であるが、平常食としても用ひられる。』とあることから、リシリコンブの異名であることが判明した「めのこ」とは、私は「女子」であろうと考える。所謂、当該地で採れる大型の厚いマコンブを「男」に喩え、それより遙かにスマートなリシリコンブに、この名を与えたものであろう。

「大槻」これは、現在の岩手県「宮古」市と、上閉伊郡(かみへいぐん)大槌町(おおつちまち)「小槌」の位置と地名から見て、小槌の北に接する大槌町「大槌」の誤字である。

「䅟米」これも、ちょっと疑問を感じた。「」は、「辞典オンライン」で見ると、音「サン」で、第一義が『稗(ひえ)の類』とあり、第二義に『「稴(れんさん)」は、稲の穂が実らないこと。』とある。後者は考証外であるから、「ヒエ」=単子葉植物イネ目イネ科キビ亜科キビ連ヒエ属ヒエ Echinochloa esculenta の種子のことと、まず、考えた。但し、別に、河原田氏が、今までも、誤字をしばしば記すことから、米」の誤字とも考えた。同じく「辞典オンライン」で「を見ると、「」は、音「サン・シン」で、意味に、『こながき。米を加えて煮た羹(あつもの)。』と、『めしつぶ。米の粒。』があった。しかし、前者にわざわざ混ぜるのもおかしく、後者も、少ない「飯粒」に混ぜるというのも、「量増(かさま)し」の意味と採れなくもない。特に、前に引用したものからも、可能性は半々かも知れない。

 

■「はかたこんぶ」

[やぶちゃん注:キャプションなし。

「はかたこんぶ」国立国会図書館デジタルコレクションで「博多昆布」を検索すると、昆布関連の記載で、複数、形状に拠る命名とし、料理書では(例えば、ここ(赤堀峯吉著「日本料理法」昭和三(一九二八)年大倉書店刊)の『(五)博多昆布(かたこんぶ)』。総ルビだが、一部に留めた)、『名の通り、博多の樣に美しく見える料理、燒肴(やきざかな)や口取(くちとり)の相手も、つとまります。』とあることから、これは、百%、「博多美人」の「博多」である。

 

 

【図版10】

[やぶちゃん注:右ページ。順列は同前。最後は、左下の七本の藻体を広げている図とした。]

 

Konbu10

 

■「縮み昆布」

 「一名、『とろ〻こぶ』。一種。」

[やぶちゃん注:「図版5」で既注済み。]

 

■「かもめこぶ」

[やぶちゃん注:キャプションなし。これは、

ガゴメ属ガゴメ(コンブ)(籠目(昆布)) Kjellmaniella crassifolia

であるが、誤りではない。国立国会図書館デジタルコレクションの「函館市史 銭亀沢編」(函館市史編さん室編・一九九八年函館市刊)の「第二節 銭亀沢の食生活」の「五 食べ物作り」に、『〈とろろ昆布〉 カモメコンブ』(☜「鷗昆布」の方が発音が綺麗!)『を乾燥させ、切ってからストーブの上においてカラカラに乾燥させ、擂り鉢で擂って粉にしてから、大根おろしと混ぜたり、ナス・キュウリ・するめを切ったものと混ぜて食べた。粉末昆布がその他の野菜から出る水分を吸収して軟らかくなる。味噌汁に入れても美味である。』とあるからである(無論、誤った異名ではあろうが)。ウィキの「ガゴメコンブ」を引く(注記号はカットした)。『ガゴメ、ガゴメコンブ(籠目昆布、学名:廃・Saccharina sculpera 、現・Kjellmaniella crassifolia )は、コンブ科ガゴメ属の褐藻の1種』。『潮下帯というより、マコンブの生息帯の、より深場にいる海藻で、岩場に固定する付着器(英語版)に茎と葉がつく、葉は分かれない大型褐藻類(コンブ類・ケルプ類)の典型的な形態である。葉全体に雲紋状の凹凸模様があるのが特徴で、その外見が籠目に似ていることから名付けられた。俗にガメと呼ばれる。カゴメノリ属』( Hydroclathrus )『(英語版)とは別』。『フコイダン』(fucoidan:硫酸化多糖の一種。コンブやワカメ(一部位であるメカブを含む)、モズクなど褐藻類の粘質物に多く含まれる食物繊維。類似の物質はナマコなどの動物からも見つかっている。以上は当該ウィキに拠った)『を多く含むことでも知られ、他の藻類と比較してもフコイダンの種類が多角的で、健康補助食品(サプリメント)、化粧品、加工食料品に利用される』。『日本近海では北海道南部から下北半島(青森県)北側の沿岸に分布する。さらに樺太南部、間宮海峡付近及び朝鮮半島東海岸北部にも分布する』。『食用になる。北海道函館市では、「がごめ飯」の名称で産官学共同で商品化し、新たな名産品として提供されている(刻みのガゴメの米飯に海産物を載せた品)。加工品では、とろろ昆布や』、『おぼろ昆布、松前漬け、塩昆布などの原料になっている。サプリメント商品も出ている』。『韓国においても採集や食料利用はあるとされる』。『函館ではコロナ禍のさなか、がごめ昆布飴が無償配布され、ゆるキャラの「ガゴメマン」(北大・安井肇が考案)も配布にくわわった。』とある。所持する柳町敬直著「新版 食材図典 生鮮食材篇」(小学館二〇〇三年刊)の解説も引いておく。『北海道室蘭から恵山(えさん)岬』(ここ)『を経て函館までの沿岸と、青森県の津軽海峡沿岸三厩(みんまや)から大間崎を経て岩屋』(ここ)『に至る沿岸、さらに朝鮮半島東海岸北部沿岸に分布する。葉体の長さは2m、幅30~40㎝に達し、基部は広い楔(くさび)型、外形はマコンブに似るが葉面全体に雲紋状の特徴的な凹凸模様が列をつくる粘質にとんでいるため、とろろこんぶ、おぼろこんぶ、ばってら用として利用される。最近は多量に含まれるフコダインが抗癌(がん)、肝炎予防、増毛、血圧降下の効果があるといわれ、また、動脈硬化、脳卒中、心筋梗塞(こうそく)などを予防する生物活性であることが確認されたため、これを原料に予防健康食品や化粧品の開発、発売がなされている。』とある。]

 

■「とろ〻昆布」

[やぶちゃん注:キャプションなし。二つ前と同じ。]

 

■「猫足昆布」

[やぶちゃん注:これは、

ネコアシコンブ属ネコアシコンブ(猫足昆布) Arthrothamnus bifidus(別名「ミミコンブ(耳昆布)」)

である。例の「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)の同種の記載を引用しておく。『[学名Arthrothamnus bifidus GMELINRUPRECHT』、『[学名の由来]2つの足の』、『[漢字名]猫足昆布』、『【分布】 北海道』、『【生育場所】 潮下帯』。『【大きさ】 長さ1~3m、葉部の幅1015㎝』、『【解説】 ネコアシコンブ属 Arthrothamnus は「関節を持つ木」の意。二歩には本種のみが知られる。和名は付着部の仮根がネコの足先の形に似るのでつけられた。波の荒い岩礁域に生育する。1年目の藻体は写真のような1枚の葉体からなるが、2年目以降、付着部が2つに分かれて、2枚の葉体をもつようになる。北海道東部の地域でしか見られない。多年生。』とある。中村康夫先生の素敵に美しい鮮明な新鮮な生体写真二枚をシラっと垣間見せようと思ってスキャンしたが、私のものでは、解像度が低く、話しにならなかった。学名で海外サイトも見たが、中村先生の、まさに「足」にも足らないクソ写真しかなかった! 是非、同書を買って見て戴きたい!!!

 

■「鬼昆布」

[やぶちゃん注:キャプションなし。これは、そのまま、

マコンブ変種オニコンブ(=「羅臼昆布」) Saccharina japonica var. diabolica

である。前掲の「新版 食材図典 生鮮食材篇」(小学館二〇〇三年刊)の解説を引いておく。同種の異名は多く、『ハバヒロ、オオハバヒロ、イタコンブ、モトゾロエコンブ、クキナガ、ハルクキナガ、オオアツバ、ロシアコンブ、メナシコンブ、ラウスコンブ』と冒頭に並び、『北海道の厚岸(あっけし)から根室を経て、尻床から羅臼(らうす)沿岸と、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)、樺太(からふと)各沿岸に生育し、比較的静穏な海域に分布する。二~三年生で、茎が太く、短く、葉は幅広で基部が広く張り出す。長さ3m、幅30㎝、厚さは5㎜、以上になるが、縁辺は薄く大きく波打つ。乾燥品の葉質はやわらかい。香りがよく、黄色みを帯びたコクのある出汁(だし)がとれる。出汁用、こんぶ茶、加工用に利用される。』とある。]

 

■「厚岸抦長昆布《あつけしえながこんぶ》」

[やぶちゃん注:キャプションなし。「抦」は「柄」の誤字である。国立国会図書館デジタルコレクションの「田中芳男君七六展覽會記念誌」(大日本山林會編・大正二(一九二三)年大日本山林會刊:田中芳男(天保九(一八三八)年~大正五(一九一六)年:博物学者。「日本の博物館の父」として知られる人物。詳しくは、参照した当該ウィキを見られたい)のここに、

   *

(三四九)柄長昆布搨寫圖幅[やぶちゃん注:「とふしやづふく」。模写した図。]  柄長い昆布一名大葉昆布と稱す北海道釧路國厚岸灣の產なり。下啓助氏該地に旅行の際携歸る所の者にして柄の長さ二尺許あるものを搨寫するものなり氏の話しに此品は土人は「チャンチャコブ」と稱し嫩小[やぶちゃん注:「どんしやう」か。「若く小さいこと」であろう。]のとき食して美味なりと云ふ。

   *

とある。さて、この種であるが、ネットでは、複数の学術的記載で、

エナガコンブ、或いは、カキジマコンブの和名

を示し、

学名を Saccharina longipedalis  [ Laminaria longipedalis ]

と記すのであるが、私が最も信頼する鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」のこちらで、

Saccharina longipedalisは、前掲のオニコンブのシノニム

としておられる。

 

■「桂昆布」

 「『がつからこぶ』といふ。」

[やぶちゃん注:これは、

ガッガラコンブ(=「厚葉昆布」)Saccharina coriacea

である。但し、この図、製品化したものを、恐らく、下方で結束したもの描いたもので、生態図と間違えないように注意されたい。本種は、仮根から一本に伸びた単体であり、このように放射状には、決して生えない。最後なので、田中次郎先生の著になる「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)の同種の記載を引用させて戴く(一部の属名解説は改定以前なのでカットする)。種小名は『革質の』で、『【分布】北海道北東部』、『【大きさ】長さ3~4m、葉部の幅8~20㎝ 【類似種】他のコンブ類』『【解説】』『本種では中帯部が広く、葉の幅の6~7割を占める。色は黒々としており、質は厚い革のようである。名前は乾燥したときに葉がぶつかりあう音に由来する。おもに釧路地方に見られる。ナガコンブと同じ場所に生育するが、低潮線下7mぐらいまで分布する。葉が厚く「厚葉コンブ」と呼ばれる。』とある。

「桂昆布」という漢字名は、当初、和名のミミクリーの漢字転写と思ったのだが、ふと、感ずることがあった。それは、アイヌの時代からのコンブ類の名産地の一つに、北海道釧路市桂恋(かつらこい)という素敵な地名があることを、かなり前から知っていたからであった。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『釧路市のホームページは「水鳥が波に集まる」という意味のアイヌ語に由来するとする一方、江戸時代のアイヌ語通詞だった上原熊次郎は「カチロコイ。此の山辺にカチロコイと囀る小鳥のある故字になすという」と記録し、幕末の探検家・松浦武四郎は』「東蝦夷日誌」『に「カツラコイ。名義は、往昔カツラコイ・チリといへる鳥が多く寄りしが故に号ると」と記している』。一九七五『年発行の』「北海道地名誌」『ではコシジロウミツバメ』(腰白海燕:ミズナギドリ目ウミツバメ科オーストンウミツバメ属コシジロウミツバメ Hydrobates leucorhous )『を表す「カンヂャラコイ」がなまったものとしている。』とあり、この「カンヂャラコイ」には、そこはかとなく、「ガッガラ」の音通の感じがしたからである。例えば、国立国会図書館デジタルコレクションの『釧路叢書』第二十六巻(一九八八年・釧路市刊)のここの、『昆布村桂恋』を見られたい。

「小泉八雲 破約  (田部隆次譯)」の原拠に就いて小松和彦先生からのメールを拝受し訂正を行った

昨日未明、かの怪談・妖怪の学術研究をされておられる文化人類学者・民俗学者で、国際日本文化研究センター名誉教授の小松和彦先生から、「小泉八雲 破約  (田部隆次譯)」で、私が、注で原拠不明としていたことについて、情報提供のメールを頂戴した。私自身、小松先生の御著作を多く読まさせて戴いていただけに、驚天動地で驚いた。いろいろと些事があったために、修正が遅れたが、先ほど修正公開したので、必ず、読まれたい。

2025/09/27

和漢三才圖會卷第九十二之本 目録 草類 藥品(4) 有南北土地之異

 

 有南北土地之異

 

朝廷進御常有不時之花然皆藏土窖中四周以火逼之

 故隆冬時卽有牡丹花計其工力一本至十數金此以

 難得爲貴耳其不時之物非天地之正也北方花木過

 九月霜降後卽掘坑塹深四尺寘花於其中周以草秸

 宻墐之春分後發不然卽槁死矣

南方攜入北地者如梅桂梔子之屬尤難過臘至茉莉則

 百無一存矣南方閩廣卽茉莉薔薇酴醿山茶之屬皆

 以編籬以語西北之人未必信也

有𪾶草却𪾶之草 醉草醒醉之草 宵明草晝暗之草

 夜合草夜舒之草物性相反有如此者

 

   *

 

 南北、土地の異(かは)り、有り。

 

朝廷(みかど)へ進-御(たてまつ)るに、常に、不時《ふじ》の花、有り。然《しか》れども、皆、土窖(あなぐら)の中に藏(をさ)め、四-周(めぐり)に、火を以《もつて》、之を逼(せ)むる。故《ゆゑ》に、隆冬《りゆうとう》の時《とき》に、卽ち、牡丹の花、有り。其《その》工力《こうりよく》を計《はか》るに、一本、十數金《じふすうきん》に至る。此《これ》、得難《うがたき》を以《もつて》、貴《とほとき》と爲《す》るのみ。其《それ》、不時の物は、天地の正《せい》に非《あら》ず。北方の花木《くわぼく》は、九月を過ぎ、霜《しも》、降《ふり》て後《のち》、卽ち、坑-塹(あなほり)を掘(ほ)ること、深さ、四尺。花を其《その》中に寘(を[やぶちゃん注:ママ。])き、周(めぐ)りに草-秸(わら)を以《もつて》、宻《みつ》に、之《これを》、墐(ぬりふさ)ぐ。春分の後《のち》に、發(ひら)く。然らざれば、卽《すなはち》、槁-死(か)れぬ。

南方より攜(たづさ)へて、北≪の≫地に入《い》る者、梅・桂《けい》・梔子《くちなし》の屬、尤《もつとも》、臘(しはす)[やぶちゃん注:師走。陰暦の十二月の別称。]を過ぎ難《がた》し。茉莉《まつりくわ》に至《いたり》ては、則《すなはち》、百《ひやく》に一つも、存(そだ)つこと、無《なし》。南方、閩《びん》・廣《くわう》には、卽ち、茉莉・薔薇《しやうび》・酴醿《とび》・山茶(さつき)の屬、皆、以《もつて》、籬(まがき)に編(あ)み、以《もつて》、西《せい》・北《ほく》の人に語るに、未だ、必ず、信ぜざりなり。

𪾶草《ねむりぐさ》と却𪾶《めむりざまし》の草、醉草《ゑひぐさ》と醒醉《ゑひざまし》の草、宵明草《よひあけぐさ》と晝暗《ひるくらし》の草、夜合草《よるあひぐさ》と夜舒《よるひらき》の草、有り。物性《ぶつしやう》の相-反《あひはん》すること、此《かく》のごとき者、有《あり》。

 

[やぶちゃん注:以上は、最終段に字空けがあるところから、調べたところ、「五雜組」(複数回既出既注。初回の「柏」の注を見られたい)の「卷十」の「物部二」の一節であることが判った。「中國哲學書電子化計劃」のここの、ガイド・ナンバー「79」から「82」までの、抄録である。但し、そこの電子化文は、表記に問題があるので、それを参考に、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の板本(訓点附き)のページ(ここと、ここと、ここ)で修正を加えて、訓読文(訓点に従えない箇所が多くあるので、結果的に私のオリジナル訓読となっている)で以下に示す。冒頭の尊敬の字空けは再現した。

   *

今 朝廷の進御(しんぎよ)、常に、不時(ふじ)の花、有り。然(しか)して、皆、土窖(どかう)の中に藏(ざう)し、四周(ししう)、火(くわ)を以つて、之れに逼(せま)る。故(ゆゑ)に隆冬(りゆうとう)の時、卽ち、牡丹花(ぼたんくわ)有り。計るに、其の工力(こうりよく)、一本、十數金(じふすうきん)に至る。此れ、得難きを以つて、貴きと爲すのみ。其の實(じつ)は、不時の物は、天地(てんち)の正(せい)に非ざるなり。大率(おほむ)ね、北方の花木(くわぼく)、九月、霜降(しもふり)を過(す)ぎて後(のち)は、卽ち、坑塹(こうざん)[やぶちゃん注:地表に掘られた溝や深い穴。]を掘る。深(ふか)さ、四尺、花を其の中に寘(お)き[やぶちゃん注:入れ置き。]、周(めぐ)らすに、草秸(さうきつ)[やぶちゃん注:稲や麦などから、穂や葉をとり去った藁(わら)。]を以(もつ)てして、密(みつ)に、之れを墐(ぬりふさ)ぐ。春分に、乃(すなは)ち、發(はつ)す。然(しか)らざれば、卽ち、槁死(かうし)す。南方より攜(たづさ)へて、北に入る者、梅(うめ)・桂(けい)[やぶちゃん注:これは「かつら」と訓じてはいけない。「卷第八十二 木部 香木類 桂」の私の注を、必ず、見られたい。]・梔子(くちなし)[やぶちゃん注:双子葉植物綱リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ品種クチナシ Gardenia jasminoides f. grandiflora (以上は狭義。広義には Gardenia jasminoides )。]の屬、尤(もつと)も臘(らう)を過ぎ難(がた)し。茉莉(まつりくわ)に至りては、則ち、百(ひやく)に一(いつ)も、存すること、無し。

 凡そ、花、六出(りくしゆつ)[やぶちゃん注:「雪」の美称。結晶が六弁の花の形に似るところから。]に咲く[やぶちゃん注:送り仮名の二番目を、私が、崩し字として「咲」と掟破りで判読したもの。]者、少(すく)なし。獨り、梔子の花、六出に咲き[やぶちゃん注:前の訓読を勝手に応用した。送り仮名は存在しない。]、其の色・香、亦(また)、皆、殊絕(しゆぜつ)[やぶちゃん注:特に優れていること。秀絶。]、故叚成式[やぶちゃん注:「叚」は「段」の異体字。中・晩唐の詩人にして、怪異記事を多く集録した「酉陽雜俎」の著者として著名。]、謂(いは)く、卽ち、「薝葡花《せんふくげ》」と。楊用修[やぶちゃん注:明の文人楊慎の字(あざな)。]、謂く、卽ち、「楊州瓊花(やうしうけいか)」と。然れども、皆、非なり[やぶちゃん注:調べたところ、現行では、後者の「楊州瓊花」はマツムシソウ目スイカズラ科ガマズミ属ビバーナム・マクロセファラム品種ケイカ Viburnum macrocephalum f. keteleeri に同定されているが、★前者の「薝葡花」の方は、正しくクチナシに同定されてある。]。此の花、閩中(びんちゆう)[やぶちゃん注:古くからの地方名で、福建省中部の三明市(永安市・沙県区)を中心とした地方を指す。ここ(グーグル・マップ・データ)。]に在り、極めて多く、且つ、賤(いや)し。素馨(そけい)[やぶちゃん注:シソ目モクセイ科ソケイ連ソケイ属ソケイ Jasminum grandiflorum 。]と、茉莉と、皆、地を擇(えら)ばずして、生(い)くる者なり。北の方[やぶちゃん注:「方」は送り仮名にある。]、吳楚に至りて、始めて、漸(やうや)く、貴重とするのみ。茉莉は、三吳[やぶちゃん注:三国時代に孫権が長江以南の揚州・荊州・交州に建てた呉王朝(二二二年~二八〇年)。領域は参照した当該ウィキの地図を見られたい。]に在りて、一本、千錢、齊(せい)[やぶちゃん注:呉の後に建国する三国時代の斉(四七九年~五〇二年)。当該ウィキにある地図を見れば、判る通り、現在の中国の南半分に当たる。]に入りては、輒(すなは)ち、三倍の直(あたい)を酬(むく)ふ。而して、閩・廣(かう)[やぶちゃん注:現在の広東省・広西省。]には、家家(いへいへ)、地に植え、籬(まがき)に編(あ)む。木槿と殊(こと)ならず。薔薇(さうび)・玫瑰(まいかい)[やぶちゃん注:バラ目バラ科バラ属 Eurosa 亜属 Cinnamomeae 節混雑種(ハマナス変種)マイカイ Rosa × maikai(= Rosa rugosa var. plena)。ハマナスの八重咲き変種。]・荼蘼(だび)[やぶちゃん注:バラ科トキンイバラ(兜巾茨) Rubus tokinibara 。]・山茶(さんちや)の屬に至りては、皆、以つて、籬(まがき)に編む。以つて、西(にし)・北(きた)の人に語れば、未だ、必ずや、信ぜざるなり。

 蜀の孟𭥢(まうちやう)、僭(せん)して[やぶちゃん注:擬(なぞら)えて。]、宮闕(きうけつ)[やぶちゃん注:宮城(きゅうじょう)。]に擬(ぎ)す。成都より四十里、盡(ことごと)く、木芙蓉[やぶちゃん注:アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属フヨウ Hibiscus mutabilis の中文名。]を種(う)ふ[やぶちゃん注:ママ。]。秋の時に至る每(ごと)に、鋪(し)くに、錦繡(きんしう)を以つてして、髙下(かうげ)、相照(あひて)らす。左右(さう)に謂ひて曰はく、「眞(まこと)の錦(にしき)の城(しろ)なり。然(しか)も、木芙蓉は極めて長(ちやう)じ易(やす)く、離披(りひ)[やぶちゃん注:花がいっぱいに開くこと。]散漫して、耐ふべからざるに至り、其の衰(おとろ)ふるに及びてや、「殘花敗葉 委藉狼狽して 蕭索(しやうさく)の狀 與(とも)に比(くら)び爲(な)すこと無し 此れ朝菌(てうきん)・木槿(むくげ)何ぞ異ならんや 而して乃(すなは)ち誇りて以つて麗と爲す 其の敗亡や、亦《また》、宜(よろし)からずや」と。

[やぶちゃん注:「蜀の孟𭥢」「𭥢」は「昶」の異体字。孟昶(九三四年~九六五年:現代仮名遣では「もうちょう」)は十国時代の後蜀(国域は当該ウィキの地図を見よ)の第二代皇帝にして、最後の皇帝。事績は当該ウィキを見られたい。]

 兗州(えんしう)張秋(ちやうしう)の河邊(かはべ)に「掛劔臺(けいけんだい)」有り。云はく、「卽ち、徐の君(くん)の墓、季札所の劔(つるぎ)を掛ける處なり。臺の下に。草、有り、一(いつ)は豎(たて)、一は橫、人の劔に倚(よ)るの狀(かたち)のごとく、之れを食へば、䏻(よ)く[やぶちゃん注:「能」の異体字。]人の心疾(しんしつ)を癒(いや)す[やぶちゃん注:この「癒」は「中國哲學書電子化計劃」のものに従った。]。余、謂(いは)く、『此の草、它所《たしよ》[やぶちゃん注:他(ほか)の場所。]生ぜずして、獨(ひと)り、掛劔臺[やぶちゃん注:この「掛」は「中國哲學書電子化計劃」のものに従った。]にのみ、豈(あ)に、季子が義氣(ぎき)の感ずる所にして、生(は)えるや。人の心の疾(やまひ)を療(りやう)するの說に至らば、亦、頑(かたくな)を廉(やす)きにし、懦(よは)きを立つるの遺意(いい)に過ぎざるのみ。其の偶然たるや、知らず。抑(そもそも)、事を好む者の附會(ふくわい)[やぶちゃん注:この「附」は「中國哲學書電子化計劃」のものに従った。]するや。余、張秋に在(あ)る時に、所謂(いはゆる)「掛劍草」と云ふ者を覓(み)るに、臺の前後には、乃(すなは)ち、有ること、無し。而して、鄰近の民莊(みんさう)、或いは、之れ、有り。水部(すいぶ)[やぶちゃん注:水利事務を司る機関。]の署中(しよちゆう)[やぶちゃん注:詰め所。]に至り、亦、閒(あひだ)に、數莖(すうきく)、有り。此れ、豈に、掛劍の風(ふう)を聞きて、興起(こうき)する者ものか。一笑に爲(な)すべきなり。』と。

[やぶちゃん注:ここに出る逸話は「史記」の「卷三十一」の「吳太伯世家第一」に載るものである。私はずっと昔に読んだ。御存知ない方は、原文は「ウィキソース」の「餘祭」がそれで、その内容の訳は、「Yahoo! JAPAN知恵袋」のohagitodaihukuさんの回答が非常によいので、見られたい。]

 「睡(すい)の草(くさ)」、有り、亦、「却睡(きやくすい)の草(くさ)」、有り。「醉(すゐ)の草」、有り、亦、「醒醉(せいすゐ)の草」、有り。「宵明(しやうめい)の草」、有り、亦、「晝暗(ちうあん)の草」、有り。「夜合(やがう)の草」、有り、亦、「夜舒(やじよ)の草」、有り。物性、相反(あひはん)すること、有此(か)くのごときの者、有り。

   *

「不時《ふじ》の花」花が必要なのに、思いがけず、予定以外の時季・時刻であるために、必要な花がないさまを指す。

「逼(せ)むる」火で、室(むろ)全体の温度を上げ、花が咲き続けるように保つことを言う。

「隆冬《りゆうとう》」「厳冬」に同じ。

「牡丹の花」ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa

「其《その》工力《こうりよく》」以上のシステムを保持するための労力や費用。

「不時の物は、天地の正《せい》に非《あら》ず。」この季節外れに用意されるものは、正常な天地の齎すものではない。

「寘(を)き」置き。保管し。

「墐(ぬりふさ)ぐ」「塞ぐ」。伝統的な日本家屋の土壁で知られるように、外気の侵入防止以外に、壁の割れ防止としての役割を主に持つ。

「發(ひら)く」密閉した室(むろ)を開く。

「梅」本邦と同じ。「卷第八十六 果部 五果類 梅」の私の注を見られたい。

「桂《けい》」「卷第八十二 木部 香木類 桂」で、良安は、項目の和訓に「かつら」と記しているから、「かつら」と読んでいると思う。しかし、これは、絶対に「かつら」と読んではいけない。日中では、全く、違うのである。詳しくは、リンク先の私の注を、必ず、参照されたい。

「梔子《くちなし》」本邦と同じ。「卷第八十四 灌木類 巵子」の私の注を見られたい。

「臘(しはす)」「臘月(らうげつ)」(ろうげつ)は旧暦十二月の異名。「臘」はもともとは、古代の民草が、年の終わりに、動物や鳥などを狩ってきて、先祖に供える祭りの意味であった。その祭祀の日は「臘日」と言い、陰暦十二月八日に当たるので、大切な先祖霊への祭祀を代表して、定められたものである。

「茉莉《まり》」「茉莉」は本邦では「まつり」と読み、ジャスミンの近縁種である「茉莉花(まつりか)」(アラビア・ジャスミンとも呼ぶ)ソケイ属マツリカ Jasminum sambac 、或いはジャスミンの異名でもある。

「存(そだ)つ」「育つ」に同じ。

「閩《びん》」」現在の福建省を中心とした広域の地方旧名。

「廣《くわう》」現在の広東省・広西チワン族自治区。

「薔薇《しやうび》」本邦のバラと同一。

「酴醿《とび》」バラ目バラ科バラ亜科キイチゴ属トキンイバラ(兜巾茨) Rubus tokinibara 

「山茶(さつき)」「さつき」は良安の致命的なルビ誤記。「つばき」が正しい。中国に於いては、現在も「ツバキ」は、主に「山茶」と書き表されている。

「𪾶草《ねむりぐさ》」日中ともに、マメ目マメ科ネムノキ亜科オジギソウ(お辞儀草・含羞草)属オジギソウ Mimosa pudica 本邦の異名でも「ネムリグサ(眠り草)」がある。私は、ネムノキに次いで、このオジギソウの葉と花が好きで、よく観察する。当該ウィキによれば、『葉は偶数羽状複葉で、接触、熱、風、振動といった刺激によって小葉が先端から』一『枚ずつ順番に閉じ、最後に葉全体がやや下向きに垂れ下がる。この一連の運動は、見る見るうちに数秒で行なわれる。この運動は、特定の部位の細胞が膨圧(細胞の液胞中の水やその他の含有物によって細胞壁にかかる力)を失うことによって起こる。このような運動を接触傾性運動(英語版)と呼ぶ』。『また、他のネムノキ類同様に、葉は夜間になると葉を閉じて垂れ下がる』。『これを』、まさに名にし負う『就眠運動という』。『オジギソウが刺激されると』、『茎の特定部位が刺激され、カルシウムイオンを含む化学物質が放出される。この化学物質が葉の付け根の葉枕に到達すると』、〇・一『秒後に葉が運動する』。『カルシウムイオンは液胞から水を排出させ、水は細胞外に拡散する。これによって細胞の圧が失われて収縮し、この異なる部位間での膨圧の差によって葉が閉じ、葉柄が収縮する。このような特徴は、マメ科のネムノキ亜科内で極めて一般的である。刺激は近くの葉にも伝達される。再度、葉が開くには閉じてから』三十『分程度』、『かかる』。『オジギソウは植物なのに、なぜ動くのか』は、十八『世紀より』、『多くの生物学者が研究をしてきていたが、お辞儀をする理由は長い間』、『解明されていなかった』。『埼玉大学と基礎生物学研究所などは、共同研究でオジギソウの遺伝子を組み換え、「触られても動かないオジギソウ」を育成し、普通の「動くオジギソウ」とともにバッタなどに食べさせる実験を行った。すると、お辞儀をするオジギソウと比べて、お辞儀ができないオジギソウは』、二『倍ほど虫にたくさん食べられるということが分かった』。『オジギソウの運動は自らの身を守り、種の保存につなげていると検証された』とある。

「西《せい》・北《ほく》の人」★東洋文庫訳では、『西北の人』と訳されてあるが、私は、ずっと昔、この表現を見て、大いに違和感を持ったのを覚えている。通常、中国で「西人」或いは「西戎」「西域」、「北人」或いは「北狄」であって、「西北人」(せいほくじん・せいほくのひと)という言い方を、まずしないと感じたからであった(無論、方向としての「西北」はある)。而して、今回、前で電子化した「五雜組」で、この違和感が、私の確信犯であったことが、証明出来たと考えるのである。則ち、そこでは、そこでは、

    *

……南方より攜(たづさ)へて、北に入る者、梅(うめ)・桂(けい)の屬、尤(もつと)も臘(らう)を過ぎ難(がた)し。茉莉(まつりくわ)に至りては、則ち、百(ひやく)に一(いつ)も、存すること、無し。

 凡そ、花、六出(りくしゆつ)に咲く者、少(すく)なし。獨り、梔子の花、六出に咲き、其の色・香、亦(また)、皆、殊絕(しゆぜつ)、故叚成式、謂(いは)く、卽ち、「薝葡花《せんふくげ》」と。楊用修、謂く、卽ち、「楊州瓊花(やうしうけいか)」と。然れども、皆、非なり。此の花、閩中(びんちゆう)に在り、極めて多く、且つ、賤(いや)し。素馨(そけい)と、茉莉と、皆、地を擇(えら)ばずして、生(い)くる者なり。北の方、吳楚に至りて、始めて、漸(やうや)く、貴重とするのみ。茉莉は、三吳に在りて、一本、千錢、齊(せい)に入りては、輒(すなは)ち、三倍の直(あたい)を酬(むく)ふ。而して、閩・廣(かう)[やぶちゃん注:現在の広東省・広西省。]には、家家(いへいへ)、地に植え、籬(まがき)に編(あ)む。木槿と殊(こと)ならず。薔薇(さうび)・玫瑰(まいかい)・荼蘼(だび)・山茶(さんちや)の屬に至りては、皆、以つて、籬(まがき)に編む。以つて、西(にし)・北(きた)の人に語れば、未だ、必ずや、信ぜざるなり。

   *

の全体の文脈が、私の違和感を払拭して呉れたからである。異論のある方は、何時でも相手になりましょう!

「却𪾶《めむりざまし》の草」これは実在しない、中国で、伝説上の草である。「百度百科」の「却睡草」を見られたい。そこには、『又の名を「五味草」とも呼ばれる。食べると眠気を覚ます効果がある。』、『伝説中の草で、又の名を「五味草」の知られ、食せば、人をして眠らせない。』出典を二種掲げるのみで、モデル植物も挙がっていない。

「醉草《ゑひぐさ》」「拼音百科」に「醉草」があるが、そこでは『胆科睡菜属』(=リンドウ科ミツガシワ(三槲)属)となっているものの、本邦のウィキの「ミツガシワ科」を見ると、『古くはリンドウ科に含めていたが、分離された。APG分類体系ではキク目に入れている』とあった。但し、何故か、学名が示されていない。しかし、則ち、これは、

キク目 Asteralesミツガシワ科 Menyanthaceaeミツガシワ属ミツガシワ Menyanthes trifoliata

である。ウィキの「ミツガシワ」によれば、『日本(北海道、本州、九州)を含め』、『北半球の主として寒冷地に分布し、湿地や浅い水中に生える』。『地下茎を横に伸ばして広がる。葉は複葉で』、三『小葉からなる』四~五『月に』、『白い花を総状花序に』、『多数』、『つける』。『亜寒帯や高山に多いが、京都市の深泥池』(みどろがいけ)『や』、『東京都練馬区の三宝寺池』(さんぽうじ)『など』、『暖帯の一部にも孤立的に自生している。これらは氷期の生き残り(残存植物)と考えられ、これらを含む水生植物群落は』、『天然記念物に指定されている。北海道岩内郡共和町の町の花』であるとし、最後に、簡単に、『睡菜(スイサイ)と称し』、『苦味健胃薬として用いる』とある。私は、幼少期に練馬の大泉学園に住んでいたため、幼稚園の時、三宝寺池で、不思議な花(白い花弁に、白い細かい毛が生えている。一説に氷河時代の記憶で寒さを防ぐためとも言われる)見たのを、鮮明に覚えている。実は、「百度百科」にも「醉草」あるが、そちらも、やはり、学名がない(頗る不審)。しかし、そこにある別名の「瞑菜」で、「維基百科」を検索すると、「睡菜」の項があり、ここで、目出度くミツガシワの学名が示されてあり、同一種であることが確定される。

 但し、「拼音百科」に「醉草」には、本邦の記載にない、「醉草」の由来が記されてある。このミツガシワは、『独特の香りは、これらの粒子に含まれる強力な駆風作用のある油性化学物質によるものです。この香りを嗅ぐと、酔ったような感覚になり、長時間立っていられないことがあります。』とあり、さらに、「文化的背景」の項に、『古代中国の文献には「醉草」という植物の記述が残されている。「尸子」』(戦国時代の思想家尸佼(しこう)の著。紀元前四世紀頃の成立。元は全二十編であったが、現存は二巻のみ。雑家的思想書とされている。以上は「デジタル大辞泉」に拠った)『には、赤仙州周辺に「毓紅草」という植物が生育し、その実を食べると』三百『年もの』、『昏睡状態に陥ると記されています。』とあり、また、以下で、『李白は、詩「醉草恐夷」の中で「酔草」に言及し、自由で束縛のない精神状態を暗示させている。彼はまた、「醉草」を草書の芸術と関連付けた』と機械翻訳では、記されているが、これは、李白知らずの半可通が書いたトンデモものだ! 実際には、明末の抱甕老人(ほうおうろうじん)と称する蔵書家が『三言二拍』と総称された宋代以来の白話小説群から選んで編した「今古奇觀」の「第八十卷 李謫仙醉草嚇蠻書」の話である。それは、「中國哲學書電子化計劃」のここで、電子化されたものが視認出来る。遙かに、「百度百科」の「醉草」、及び、その複数のリンク先の方が、正確である。しかし、これらを見るに、私には、こうした作品で示されたものが、現在のミツガシワと同種であるとは、思われない。一種の志怪小説紛いのもので、信を置けない、架空の妖草とするべきであろう。

「醒醉《ゑひざまし》の草」酔いを醒ます草というのは、私のような酒狂には、あってほしいものだが、昔からお世話になっている個人サイト「肝冷斎雑記」の「漢文日録」のこちらに、

   《引用開始》

五代・王仁裕の「開元天宝遺事」にいうに、唐・玄宗皇帝のころ、宮中・興慶池の南畔には葉むらさきに茎あかき草が生えていて、

有酔者摘葉嗅之、立醒。

酔う者、葉を摘みてこれを嗅ぐあれば、たちどころに醒む。

酒に酔った者はその草の葉をつみとり、その匂いをかぐと、たちどころに醒めた。

その草を「醒酔草」といい、皇帝も貴妃も宿酔のときにこれを用いたという。

あるいは唐末の李徳裕は「醒酒石」というものを持っており、

酔則踞之。

酔えばすなわちこれに踞(うずく)まる。

酔うと、この石の上に座るのであった。

そうすると酒酔からの回復が早くなったのである。(このこと、「五代史」に出る)

ただ酒酔については醒めるのが早いのがよいのか遅い方がよいのか。難しいところである。

   《引用終了》

とあった。「百度百科」に「醒醉草」があるが、実際の植物種を挙げていない。そもそも、この段落の、対抗性植物の記載は、基本、中国人が古くから好んでいる、陰陽思想に基づく自然のバランスによる均衡哲学に基づくもので、かく、真面目に当該植物を調べている私は、正直阿呆のレベルと言うべきかも知れないなぁ……。

「宵明草《よひあけぐさ》」これは、次の対として、馬鹿正直に書くと、「夜に開花する草」と、「昼に眠る草」となり、わらわらと孰れも実在の植物を、イヤさかに比定したくなるのは、私だけではあるまいが、しかし、「百度百科」の「宵明草」を見ると、それも叶わない。『「宵明草」は晋代の王嘉の「拾遺記」の前漢下に記された伝説に薬草で、その特性は、「晩・夜は蝋燭の如く光り輝き、昼間は薄暗く』、『光は完全に消失し、植物体自体も、それとともに』『消えている」という特徴を持つ。この草は独特な形をしており、一株に七枚の葉があり、葉の先端は内に卷いた形を示し、文学作品では、奇体で幻想的な平原地域に植生するとある。夜間に光ることから、また、時間が経過するとともに光が消えてゆくことから、「銷明草」とも呼ぶ別名がある。」とし、『「拾遺記」によると、『宵明草は背明国から貢献された珍奇な物の一つで、夜に蝋燭のように見えることから、その名が与えられた。時間の経過とともに光が弱まって消えるという周期的性質が明確に記述されている。』とある。而して、先にあった、『葉と葉の先端の形態的特徴により、伝奇的創作に於いて認識し易いイメージを供給している。』とあり、さらに、『地域伝説』として(以下は機械翻訳のママ)、『いくつかの文学作品では、ウォル平原でこの草本を見つけるには、リヴァイアの雪山を越えなければならないとされている。』とあった。最後の「别称来源」には、『「銷明草」という名前は、光が尽きると自ら消えるという性質に由来しており、この愛称は歴史書にも記されている。この命名方法は、古代の人々が自然現象を擬人化して解釈したことを反映している。』とあって、全く、モデル植物は示されていない。因みに、丁度、一年前、『中国の科学研究チームがゲノム編集を駆使し、高輝度夜間自発光植物の研究開発に成功した。』という記事を見たのを思い出した。「人民網日本語版」の『植物も「常夜灯」に? 中国の科学研究チームが植物の発光に成功』を見られたい。……しかし、これは……ファンタジーではないな……マッド・サイエンスの類いだ……

「晝暗《ひるくらし》の草」象徴的に、私の好きな別名「ネムリグサ(眠り草)」を持つ、葉を閉じるマメ目マメ科ネムノキ亜科オジギソウ属オジギソウ Mimosa pudica を挙げたくなるが、「維基百科」の同種のページでは、項目を「含羞草」とし、異名を「如見笑草」・「見笑花」・「愛睏草」・「驚擽草」・「畏擽草」・「喝呼草」・「知羞草」・「怕醜草」・「怕羞草」・「夫妻草」等があるが、「晝暗草」は、ないな……。

「夜合草《よるあひぐさ》」これは、実在する。タデ目タデ科ツルドクダミ(蕺・蕺草・蕺菜)属ツルドクダミ Reynoutria multiflora(英文の当該ウィキを見ると、属名タクソンで変更が多いため、シノニムが実に八つもある。Pleuropterus multiflorusAconogonon hypoleucumBilderdykia multifloraFagopyrum multiflorumFallopia multifloraHelxine multiflorumPleuropterus cordatusPleuropterus multiflorusPolygonum multiflorumFallopia multiflora である。「ブリタニカ国際大百科事典」に拠れば、『多年草。中国原産で』、『古く薬草として日本に渡来したが,各地に野生化している。地下に肥大した塊根があり,茎はつるになり他物に巻きついて茂る。塊根を乾かしたものをカシュウ(何首烏)といい,強壮剤とする。葉の形が先のとがったトランプのスペードの形で,ドクダミ』(全く縁のないコショウ目ドクダミ科ドクダミ属ドクダミ Houttuynia cordata )『に似ていることから』、『この名がある。夏の終りに,葉腋から大きな円錐花序を出し,白い小花を多数つける。花後に結ぶ実は』三『稜形で』、『翼があり』、『細長い』とある。サイト「庭木図鑑 植木ペディア」の「ツルドクダミ」に、『中国を原産とするタデ科ソバカズラ属の多年草。ドクダミの仲間ではないが、葉がドクダミに似て蔓性であるため』、『ツルドクダミと呼ばれるようになった』。『本州~沖縄の山野、道端などで野生化したものが普通に見られるが、いわゆる帰化植物であり、その起源は八代将軍徳川吉宗が長崎に取り寄せ』、享保五(一七二〇)『年に栽培を命じたことにある』。『別名及び漢方としての生薬名を「何首烏(カシュウ)」というが、これはツルドクダミの根を煎じて飲んだ親子三代が、黒髪のまま長生きしたという中国の伝説「何首烏伝」にちなむ』。『学名』の一つの『 Polygonum 』は、『膨らんだ節が多いことを意味し、地下を這う根の一部は細いサツマイモのような塊根になる。これに含まれるアントラキノン誘導体には緩下作用があり、煎じたものは便秘や整腸に効果があるとされる』。『漢方では「交藤」』(コウトウ)『「夜合」』(ヤゴウ)「『とも呼ばれ、上記の伝説にちなんで不老長寿、強壮、発毛、白髪対策に効果があるとして珍重してきたが、現代の日本においても栄養ドリンク(ユンケルなど)やシャンプー、美容液の原料に使われており、度々』、『注目される』とあった。なお、「維基百科」の「何首烏」には、肝毒性の注意喚起が出るので、着目されたい。ちゃんと「夜合」の由来が書かれたものが、ない。まあ、性的なそれに基づくのであろう。

「夜舒《よるひらき》の草」中文サイトでも掛かってこない。お手上げ。対の方が、具体な種が同定されているのだから、あるだろうと思うのだが? 識者の御教授を乞う。

2025/09/23

和漢三才圖會卷第九十二之本 目録 草類 藥品(3) 名義

 

  みやうぎ

  名義

 

以時名者 迎春 半夏 夏枯草 欵冬 忍冬

以人名者 杜仲 王孫 徐長卿 丁公藤 蒲公英

     劉寄奴 何首烏 使君子

以物名者 淫羊藿 糜衘草 鹿跑草

[やぶちゃん字注:「鹿跑草」の「跑」の字は、東洋文庫訳でママ傍注があるので、調べたところ、漢方名「鹿蹄草」が正しいことが判った。訓読では、訂した。

以地名者 常山 高良 天竺 迦南

以形名者 虎掌 狗脊 馬鞭 烏喙 鵝尾 鴨蹠

     鶴蝨 䑕耳 牛膝

[やぶちゃん字注:「牛膝」は、原本では、「膝」の(つくり)が「泰」になっているが、このような漢字は、ない。東洋文庫訳では、『牛膝』となっており、調べたところ、漢方名「牛膝」が正しいことが判った。訓読では、訂した。

以性名者 益母 狼毒 預知子 王不留行 骨碎補

强名之者 没藥 景天 三七 無名異 威靈仙

     沒石子

 

   *

 

  みやうぎ

  名義

[やぶちゃん注:以下、漢方名は、原本に従わず、一列に並べ、漢方名はカタカナで読みを添えた。

 

時《とき》を以《もつ》て、名《なづ》くる者は、「迎春《ワウバイ》」・「半夏《ハンゲ》」・「夏枯草《カゴサウ》」・「欵冬《カントウ》」・「忍冬《ニントウ》」。

人《ひと》を以《もつて》、名くる者は、「杜仲《トチユウ》」・「王孫《ワウソン》」・「徐長卿《ジヨチヤウケイ》」・「丁公藤《テイコウトウ》」・「蒲公英《ホコウエイ》」・「劉寄奴《リユウキド》」・「何首烏《カシユウ》」・「使君子《シクンシ》」。

物を以《もつて》、名くる者は、「淫羊藿《インヤウカク》」・「糜衘草《ビカンサウ》」・「鹿蹄草《ロクテイサウ》」。

[やぶちゃん注:この「物」は、示された漢方名から、「人ではない動物」の意味であるが、実は、植物を動物と誤ったもの(良安ではなく、李時珍である)が混入しているので、注を見られたい。

地を以、名くる者、「常山《ジヤウザン》」・「高良《カウリヤウ》」・「天竺《テンヂク》」・「迦南《カナン》」。

形《かたち》を以、名くる者は、「虎掌《コシヤウ》」・「狗脊《クセキ》」・「馬鞭《バベン》」・「烏喙《ウクワイ》」・「鵝尾《ガビ》」・「鴨蹠《アウシヨ》」・「鶴蝨《カクシツ》」・「䑕耳《ソジ》」・「牛膝《ゴシツ》」。

[やぶちゃん字注:「牛膝」は、原本では、「膝」の(つむり)が「泰」になっているが、このような漢字は、ない。東洋文庫訳では、『牛膝』となっており、調べたところ、漢方名「牛膝」が正しいことが判った。訓読では、訂した。また、この冒頭の部分であるが、東洋文庫訳では、『動物の身体や物の形をかりて名前をつけたものは、』となっている。

性《しやう》を以、名《なづく》る者は、「益母《ヤクモ》」・「狼毒《ラウドク》」・「預知子《ヨチシ》」・「王不留行《ワウフルカウ》」・「骨碎補《コツサイホ》」。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、冒頭の部分の「性」は、「それぞれの対象薬の持っている特性」の意である。]

强(しい)て之《これ》を名くる者は、「没藥《モツヤク》」・「景天《ケイテン》」・「三七《サンシチ》」・「無名異《ムミヤウイ》」・「威靈仙《イレイセン》」・「沒石子《モシクシ》」。

[やぶちゃん注:最後の「沒石子《モシクシ》」の読みは、先行する「卷第八十三 喬木類 没石子」の標題の読みを当てた。東洋文庫訳でも、『もしくし』とルビしている。しかし、そちらの注で、私が疑問を呈しているので、見られたい。なお、冒頭の「强(しい)て之《これ》を名くる者は」の部分は、東洋文庫訳では、『強いてこじつけて名前をつけたものは、』となっている。]

 

[やぶちゃん注:以下、解説するが、長くなるので、名義由来の根拠部分には、下線を附しておいた。読み難くなるので、段落に合わせて、行空きを施した。

 

「迎春《ワウバイ》」基原は、双子葉植物綱シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ(素馨)属 Primulina 節オウバイ Jasminum nudiflorum の花と葉が、別々な薬効を持つ。「山科植物資料館」公式サイト内の「オウバイ」に拠れば、『日本には寛永年間』(一六二四年~一六四四年)『に渡来したとされています。江戸時代の代表的な園芸書である「花壇地錦抄」』(伊藤伊兵衛(三之丞)著・元禄八(一六九五)年刊)『にも栽培法が書かれていて、現在でも庭木や生け垣として観賞用に植えられているのを見ることができます』。『このように人々の目を楽しませてくれるように日本に移入された植物ではありますが』「中薬大事典」(江蘇新医学院著・一九七七年上海人民出版社刊)『を見ますと、花と葉が別々な薬効を持つ生薬として収載されており、花は内服して解熱・利尿に利用され、葉は内服あるいは外用で、腫毒悪瘡、打撲傷、創傷出血などを治すとされています』。『因みに』、『この植物の属するソケイ属は、旧大陸の熱帯から暖帯にかけて』三百『種近く知られていますが、その中にはジャスミンティー(茉莉花茶)や香料にするマツリカ』 J. sambac 『も含まれています』とあった。この花は、二月の春分前後に黄色の花を開き、花が終ると、直ちに葉を生じ、枝が地に着くと、根を出す。また、春分の頃に分けて栽えるのがよい、とされる。

「半夏《ハンゲ》」前回で既出既注だが、転写すると、単子葉植物綱ヤシ亜綱サトイモ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク Pinellia ternata のコルク層を除いた塊茎。嘔気や嘔吐によく使われる生薬である。私の「耳囊 卷之七 咳の藥の事」も参照されたい。半夏の名は夏の半ばに花が咲き、その頃に採取することに由来する。

「夏枯草《カゴサウ》」基原は、シソ目シソ科ウツボグサ(靫草・空穂草)属セイヨウウツボグサ亜種ウツボグサ Prunella vulgaris subsp. asiatica の花穂。「養命酒製造株式会社」公式サイト内の「元気通信│生薬通信」の「生薬百選52 夏枯草(カゴソウ)」に、『日本、中国では生薬名を夏枯草(かごそう)と言いますが、これは』七『月から』八『月頃になると』、『写真右下のように花穂だけが枯れたようになることからついた名前です。日本薬局方には「本品はウツボグサ Prunella vulgaris Linne var. lilacina Nakai (Labiatae) の花穂である」と記載されています。成分はトリテルペンサポニンの prunellin などで、日本では主に利尿・消炎剤として用いられてきましたが、当帰・玄参・芍薬などと配合して(夏枯草散』(かごそうさん)『)眼の痛みに用いられてきたようです。また、抗がん作用、ヒトエイズウイルス(HIV)増殖抑制効果の報告もあります』とあった。

「欵冬《カントウ》」「藥品(1)」で既注だが、再掲すると、キク亜綱キク目キク科キク亜科フキ属フキ Petasites japonicus のこと。小学館「日本大百科全書」に、『雌雄異株。本州、四国、九州、沖縄、および朝鮮半島から中国にかけて分布する』。『数少ない日本原産の野菜の一つで、栽培は』十『世紀以前から始まった』とある。基原は、その花蕾を乾燥したもので、一般的に「咳」に使われる漢方薬「麦門冬湯」(ばくもんどうとう)に含まれていることで知られる。この「欵」の漢語は、『誠(まこと)・真心・誠意』、『よろこぶ・歓び楽しむ』、『叩く・門を敲く』、『記す・刻む・彫る』の意があり、言わずもがなであるが、所謂、「蕗の薹」は冬の終り、雪解けを待ちかねたように、頭を出すことから、春の使者とされることに拠る。

「忍冬《ニントウ》」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica の漢方生薬名「忍冬(にんどう)」「忍冬藤(にんどうとう)」。棒状の蕾を天日で乾燥したもの。利尿・健胃・解熱・浄血・収斂作用がある。同種の葉は、楕円形で対生し、冬でも残っているので、かく呼ぶ。

 

「杜仲《トチユウ》」「卷第八十三 喬木類 杜仲」の本文、及び、私の注を見られたい。

「王孫《ワウソン》」基原は、単子葉植物綱ユリ目シュロソウ(棕櫚草)科ツクバネソウ(衝羽根草)属のツクバネソウ Paris tetraphylla 、及び、クルマバツクバネソウ(車葉衝羽根草) Paris verticillata の根茎で、漢方で鎮痛に用いる。漢方サイトでは、由来を明らかにするものを見出せないが、平凡社「普及版 字通」の「王孫(おう(わう)そん)」に、『貴公子』として『漢』の『淮南王安』の「招隱士」にある、『王孫びて歸らず 春生じて萋萋たり』が語源であろうか。「萋萋たり」は「草木が生い茂るさま」を言う。

「徐長卿《ジヨチヤウケイ》」基原は、リンドウ目キョウチクトウ(夾竹桃)科カモメヅル(鴎蔓)属スズサイコ(鈴柴胡) Vincetoxicum pycnostelma の根・全草で、月経痛の鎮痛・咳止めなどに用いる。「百度百科」の同種の解説の中で、『李時珍によって名付けられた。「徐長卿とは人名である。彼は、この薬を悪病の治療によく用いたので、人々は、その名にちなんで名付けた。」』と記されてある。これは、「本草綱目」の「卷十三」の「草之二【山草類下三十九種】」の「徐長卿」で、「漢籍リポジトリ」のここの、ガイド・ナンバー[039-62a]の、冒頭部の「釋名」の太字部が、それである(一部に手を入れた)。

   *

釋名【鬼督郵本經别仙蹤蘇頌時珍曰徐長卿人名也常以此藥治邪病人遂以名之名醫别錄於有名未用復出石下長卿條云一名徐長卿陶弘景注云此是誤爾方家無用亦不復識今攷二條功療相似按吳普本草云徐長卿一名石下長卿其爲一物甚明但石間生者爲良前人欠審故爾差舛弘景曰鬼督郵之名甚多今俗用徐長卿者其根正如細辛小短扁扁爾氣亦相似今狗脊散用鬼督郵者取其强悍宜腰脚故知是徐長卿而非鬼箭赤箭】

   *

この由来は、taka@鍼灸師氏のサイト「鍼灸cafe」の「【中薬を故事で学ぶ】 徐長卿の故事 〜魏征の機転と『徐長卿』誕生の秘密〜」に非常に詳しい。それに拠れば、徐長卿は初唐の医師で、第二代皇帝太宗である李世民が、毒蛇に咬まれ、他の医師がお手上げであったのを、見事に癒した興味深い故事によることが記されてある。是非、そちらを見られたい。

「丁公藤《テイコウトウ》」基原は、ナス目ヒルガオ科ホルトカズラ(ホルト葛)​​属丁公藤(和名なし)Erycibe obtusifolia 、或いは、光叶丁公藤(和名なし)Erycibe schmidtii の乾燥した茎。「百度百科」の当該漢方薬のページで、やっと探し当てた。その記載の冒頭に拠れば、『麻辣子・包公藤とも呼ばれ、中国では広東省・海南省・雲南省などの省に分布している。一年中、収穫でき、スライスして乾燥させて薬用にする。双子葉植物綱ナス目に属す。僅かに毒性があり、乾燥した場所に保管する必要がある。この薬用物質には、クマリン、クロロゲン酸誘導体、アルカロイドが含まれている。丁公藤を主薬として、さまざまな中国の特許医薬品が開発されている』。『丁公藤は、辛・温で、肝・脾・胃経に入り、風湿を払い、腫れを抑え、痛みを和らげる作用がある。主に、リウマチ痛・半身不随・転倒による腫れや痛みの治療に用いられる。内服又は外用は通常三~六グラムで、酒の形で用いられることが多い。研究によると、加工方法によって、化学成分の含有量や毒性が影響を受けることが示されている。中でも、甘草汁と塩水煎じ液は、クロロゲン酸とスコポレチンの含有量が高く、アラニンアミノトランスフェラーゼやアスパラギン酸アミノトランスフェラーゼなどの肝毒性指標を大幅に低下させることが出来る。強い発汗作用があるため、体力の弱い者は注意して使用する必要があり、妊婦には禁止されている。』とあった。これが、人名であることは、AIの結果にあったので、調べたところが、瓢簞から駒で、「中國哲學書電子化計劃」の「五雜俎」の「卷十一」の「物部三」にあったが、何んとまあ! この部分(「□」は表示不能字)、

   *

迎春也,半夏也,忍冬也,以時名者也;劉寄奴也,徐長卿也,使君子也,王孫也,杜仲也,丁公藤也,蒲公英也,以人名者也;鹿跑草也,淫羊藿也,麋銜草也,以物名者也;高良、常山、天竺、迦南,以地名者也;虎掌、狗脊、馬鞭、烏喙、鵝尾、鴨□、鶴虱、鼠耳,以形名者也;預知子、不留行、骨碎補、益母、狼毒,以性名者也;無名異、沒石子、威靈仙、沒藥景、天三七,則無名而強名之者也。牝鹿銜草,以飴其牡,蜘蛛嚙芋,以磨其腹;物之微者,猶知藥餌,而人反不知也,可乎?

   *

とあって、良安は、ここから全体を写したことが、判明したわいナ!!!

「蒲公英《ホコウエイ》」本邦では、キク目キク科キクニガナ亜科タンポポ属 Taraxacum に属する多くのタンポポ、及び、外来種であるセイヨウタンポポ Taraxacum officinale を総称して「たんぽぽ」と呼称しており、基原は、ウィキの「タンポポ」によれば、『タンポポ属植物の開花前の根を付けた全草を、掘り上げて水洗いし、長さ』二~三『ミリメートルに刻んで』、『天日干ししたものが生薬になり、蒲公英(ほこうえい)とよんでいる』とし、『花が開く前の根を掘り起こして、水洗いして天日干ししたのが生薬名で蒲公英根(ほこうえいこん)と称している』。『全体、特に根に苦味があり、健胃作用、解熱作用、利尿作用、および胆汁分泌の促進作用があるといわれており、健胃薬として用いられる』とある。しかし、『中国の「蒲公英」は、モウコタンポポ』(蒙古蒲公英: Taraxacum mongolicum ウィキの「モウコタンポポ」には、『モンゴルから中国北部・中部、朝鮮半島に分布しており』、『中国では蒲公英といえば』、『本種を指す』とし、『日本では九州北部に分布している』とある)『である。』としてある。「維基百科」の当該種の方には、そういったことは書かれていないが、「百度百科」の「蒲公英」には、モウコタンポポの学名が記されているので、間違いあるまい。しかし、以上の各種記載でも、これが人名であるとする記載は見当たらない。調べたところ、「ハオ中国語アカデミー」の「博多校ブログ」の「中国文化」にある、「『蒲公英』名前の由来」に、『春先に道端に咲く黄色い草花の名前をご存じですか? 日本ではひらがなで『たんぽぽ』、またはカタカナで『タンポポ』と表され、漢字では『蒲公英』と書きます』。『実は、中国名も同じ漢字で『蒲公英』と書きますが、読み方は『pú gōng yīng (ほこうえい)』となります』。『では、蒲公英の名前の由来についてはご存じですか?』『伝説によると』、『その昔、ある16歳の少女の胸に、細菌感染による強いかゆみと腫れが出ました。 当時の中国は封建社会であり、医療知識もなかったため、その少女の家族は、少女が不道徳な関係を持ったせいだと疑いました』。『深く傷ついた少女は生きる希望を失い、川に飛び込んで自ら命を絶つという悲しい選択をしました。 しかし少女は、』『『蒲』という漁師と『小英』という娘さんに川から助け出され、命を救われました』。『16歳の少女が自ら命を絶つほど追い詰められた理由が何かを聞いた小英さんは、父親の指示に従い、ある黄色い植物を採集しました』。『それを砕いて少女の胸の傷に塗りました。 すると不思議なことに、だんだんと痛みと腫れが消えて、病気が治りました』。『16歳の少女は、この黄色い植物を記念に持ち帰り、植えることにしました。 そして感謝の気持ちを込めてこの植物に、命の恩人たちの名前から『蒲公英』と名づけました。 ちなみに『公』は、目上の人』、『または』、『年配の男性に対する尊敬の呼び方です。』(以下、略)とあった。大いに納得である。原文を捜したい。

「劉寄奴《リユウキド》」「金澤 中屋彦十郎薬局」の「●劉奇奴(リュウキド、りゅうきど)」に、『健康食品』としつつ、『劉奇奴は中国の南部に分布するキク科ヨモギ属の多年草、アルテミシア・アノラマ』(種小名は「アノマラ」の誤り。Artemisia anomala である。現代の中国語では、「奇蒿」で「維基百科」に載る)『の開花期の全草を用いる』。『劉奇奴の名は南朝、宋の初代皇帝である劉裕に由来する』(「奇奴」は彼の幼名)。『ただし』、『劉奇奴の基源植物は一定しておらず』、『南部のを南劉奇奴というのに対し、北部ではゴマノハグサ科のヒキヨモギ』(引蓬:現在は、シソ目ハマウツボ科に移動されており、ヒキヨモギ属ヒキヨモギ Siphonostegia chinensis である)『の果実をつけた全草を北劉奇奴といっている』。『四川省のキク科のタカヨモギ』(セイタカヨモギ(背高蓬)Artemisia selengensis の別名)『も劉奇奴といっている』。『本品はタカヨモギである。おけつ』(瘀血:血液が粘性を持ってしまっている状態を指す)『に利用される。』とあった。「人民网com.」の「唯一用皇帝名字命名的中——刘寄奴」「皇帝の名を冠した唯一の中医薬――劉寄奴」)に、具体的に記されてある。機械翻訳でも、概ね判るので、見られたい。

「何首烏《カシユウ》」「東北大学薬学研究科・薬学部 附属薬用植物園」公式サイト内の「カシュウ(何首烏)」に、基原は、中国原産の『タデ科(Polygonaeae)のツルドクダミ( Polygonum multiflorum Thunb.)の塊根を乾燥したもの』(当該ウィキでは、漢字表記は「蔓蕺草」)。『中国では基原植物が異なる「何首烏[= Cynanchum auriculatum Royle (Asclepiadaceae)]」もある』。『塊茎を乾燥したものは「生何首烏」で、熱で修治したものを「製何首烏」という。』とあった(学名を斜体に代えた)。『宋の時代の』「開寶本草」『に収載され、生何首烏は潤腸、瀉下、消炎作用が主な作用で、製何首烏は肝と腎(肝臓と腎臓ではない)を補益する作用が主である』。『強壮・緩下を目的として民間薬的にも利用される。』とあった。「つゆくさ医院」の「つゆくさONLINE」の「何首烏(カシュウ)」のページに『中国の何(カ)という名前の者が本薬を服し、首から上(頭髪)がカラスのように黒くなったという伝説から名づけられた。』とあった。

「使君子《シクンシ》」基原は、フトモモ目シクンシ科シクンシ属インドシクンシ Combretum indicum の種子で、駆虫薬である。「山科植物資料館」公式サイト内の「植物の話あれこれ 43」の『駆虫生薬として有名な「シクンシ」』に拠れば(学名は私が斜体化した)、『この植物の和名「シクンシ」は、生薬名の「使君子」に由来する。「使君子」の「使君」とは、「四方の国にさしつかわされる天子の使者」のことである。このことから、「使君子」は、「天子からつかわされた使者のような薬」、すなわち「天子が民の無病息災を願って賜った貴重な薬」と考えられ、このような名前がつけられたのだと思う。なお、「使君子」は、この植物の中国名にもなっている。このことから、和名「シクンシ」は、この植物の中国名に由来するとも考えられる。いずれにしても「この植物は、人々に大きな恵みをもたらすありがたい木」という意味で、このような名前がつけられたのだと思う』とあり、『「シクンシ」は、インド南部、ミャンマー~マレー半島、ニューギニア地域原産の常緑木本性つる植物である。この植物の学名(種小名)” indica ”は、「インドの」という意味である。また、この植物は、英名で、”Rangoon creeper”と呼ばれている。「ミャンマー(ビルマ)の旧首都ラングーン(ヤンゴン)のつる植物」という意味である。このような名前からも、「シクンシ」は、インドやミャンマーが原産地であることがうかがえる』とされ、中をカットして、『シクンシ科植物(Combretaceae)では、「シクンシ」のほか、「モモタマナ」が有名である。モモタマナ” Terminalia catappa L.”の果実は、”Indian almond”(インドのアーモンド)とか、”Sea almond “(海のアーモンド)と呼ばれ食用にされる。硬い核の中に脂肪分に富んだ緑色の胚があり、アーモンドの風味がある。これを炒って食べる。果実に含まれている脂肪は、「カタッパ油」と呼ばれ、果実中に5060%含まれている。モモタマナは、マレー半島原産といわれているが、熱帯各地に広く分布している。日本の沖縄や小笠原諸島にも自生している。材は、硬く、建築用材や家具に使われる。果実や樹皮には、タンニンが多く含まれており、染料の原料に用いられる。』ともあった。

 

「淫羊藿《インヤウカク》」これは、基原は、モクレン(木蓮)亜綱キンポウゲ(金鳳花)目メギ(目木)科イカリソウ(錨草)属イカリソウ変種イカリソウ品種イカリソウ Epimedium grandiflorum var. thunbergianum f. violaceum で、れっきとした植物であり、動物では、ない「東邦大学 薬学部付属薬用植物園」公式サイトの「イカリソウ」のページに拠れば、Epimedium grandiflorum var. thunbergianym とされ、『本州東北地方以南の太平洋側、四国の丘陵や山麓に分布する多年草です。草丈は1525cm、根茎は横に這い数本の茎を束生します。春先に根茎から出た根葉は、23出葉です。中の一つの小葉はゆがんだ卵形で、縁には毛があります。45月に咲く紅紫色の花が、錨に似ているのが名前の由来です。4枚の花弁は、先端にいくにつれて細くなる管状で、その先端は内側に曲がっています。萼片は8枚ありますが、開花するとき』、『外側の4枚は落ち、内側の4枚が大きくなり花弁と同じ紅紫色になります。冬期には地上部は枯れます。日本海側に多いトキワイカリソウEpimedium sempervirens 』『は冬期でも葉は枯れません。生薬名の淫羊霍は中国産のホザキイカリソウEpimedium sagittatum に付けられた中国名ですが、日本産の各種も』、『この名前で呼ばれています。古い中国の「本草綱目」(1500)によると、「四川の北部に淫羊と言う動物がいて、一日に百回も交尾する。それは霍と言う草を食うからと言うことだ。そこでこの草を淫羊霍と名付けた」とあるのが生薬名の由来ですが、霍とは、「豆の葉」のことで、イカリソウの葉が豆の葉に似ていることからです。トキワイカリソウを始めシロバナ、キバナ、バイカ、ゲンペイ花などの各地の変種が多数あり、植物分類学的に種を特定するのは困難な場合があります。』とあった。「本草綱目」の当該部は、「漢籍リポジトリ」の「卷十二下」の「草之一【山草類上一十八種】」のガイド・ナンバー[037-25b]の「淫羊藿」の項の「釋名」中だが、厳密には、時珍の記載ではなく、彼が引用した、梁の武帝に抜擢された医師・科学者にして道教の茅山派の開祖でもあった陶弘景(四五六年~五三六年)の以下である(一部に手を入れた)。

   *

剛前【本經弘景曰服之使人好爲隂陽西川[やぶちゃん注:原文の誤記。「四川」が正しい。]北部有淫羊一日百遍合蓋食此藿所致故名淫羊藿】

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「糜衘草《ビカンサウ》」この文字列でネットで検索しても、漢方名で確認出来なかったことから、このこの「衘」の字に疑問が生じた。そこで、中文のデータを調べてみたところ、「維基文庫」の「永樂大典/卷09762」に、「麋銜」の項名と、解説の「一名糜䘖」が見出せた。そこで、この文字で検索を調べたところ、「鍼道五経会」の運営するブログの「第2回 金匱植物同好会に行ってきました!登山口〜往路編」に、写真のキャプションに、『サワギク(薇銜)について説明される濱口先生』というのを見出した。「株式会社メテオ メディカルブックセンター」の「名医別録解説」という書籍の「目次」に、『210 薇銜 ( びかん )』とあるのを発見した。以上から、基原対象植物は、キク目キク科キク亜科サワギク(沢菊)連サワギク属サワギク Nemosenecio nikoensis でよいのであろう。基原部位は調べ得なかったが、ある薬用植物資源の調査論文のリストの中に、同種の和名と学名を確認出来た。私に出来ることはここまで、である。なお、この「糜衘草」の「糜」を用いる中国語の動物を探したところ、「糜鹿」があり、これは、シカ科シカ亜科シフゾウ属シフゾウ Elaphurus davidianus(現行の漢名でも「麋鹿」(音なら「ビロク」)と呼ぶ)がいる。同種の野生種は既に絶滅した。ウィキの「シフゾウ」を参照されたい。但し、これが、当該動物であるかどうかは、判らない。悪しからず。いろいろと、識者の御教授を乞うものである。

「鹿蹄草《ロクテイサウ》」「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 鹿蹄草(ろくていそう)」に拠れば、基原は、ビワモドキ(枇杷擬)亜綱ツツジ(躑躅)目『イチヤクソウ』(一薬草)『科(Pyrolaceae)のチョウセンイチヤクソウ Pyrola rotundifolia L.P. rotundifolia subsp. chinensis H. Andres、イチヤクソウ P. japonica Klenze ex Alef. などの全草を乾燥したもの。』とあり、以下、『近年日本では民間薬を利用する機会がめっきりと少なくなり、市場での流通も減っています。日本民間薬にはドクダミ、ゲンノショウコ、オオバコなど多数がありますが、その大半は中国からの影響で、特に明代に李時珍が著した』「本草綱目」『の影響が強く認められます』。「本草綱目」『には民間療法も多く掲載され、出版後間もなく日本に持ち込まれ、増刷されて各地に広まりました』。『そうした民間薬の中に「一薬草」があります。原植物はイチヤクソウで、薬名がそのまま和名になった一例です。一つの薬草で様々な病に効くことに由来すると伝わっています』。「本草綱目」『には「鹿蹄草」の名称で掲載されています』。『鹿蹄草は』同書『の草部に収載され、「鹿蹄草という』のは、『葉の形を形容したものだ。よく金瘡を合わせるものだから』、『試剣草と名づけたのだ。また山慈姑にも鹿蹄なる名称があるが』、『これとは異なる」と』、『その名の由来を説明しています。また』、同書『によると』、「軒轅述寶藏論」『に初めて収載され、「鹿蹄は江広地方の平陸及び寺院の荒地に多く生じる。淮北地方には絶えて少ない。川、陝にもある。苗は菫菜に似て』、『葉が頗』(すこぶる)『大きく、背面は紫だ。春紫の花を開き、天茄子のような青い実を結ぶ。」と記されています』同書『の付図および清代の』「植物名實圖考」『の鹿蹄草の図などから』、『ナス科植物のように思われますが、現在の』「中国薬用植物誌」『では』、『鹿蹄草にイチヤクソウ科のチョウセンイチヤクソウ Pyrola rotundifolia L. を充てており、一方』「中葯志」『では鹿銜草(ろくかんそう)の原植物としてチョウセンイチヤクソウを記載し、共に金瘡出血や蛇、犬、虫、などによる咬傷の解毒薬としています。鹿銜草は』「植物名實圖考」『に鹿蹄草とは別項で収載され、その付図は明らかにPyrola属と思われるなど、鹿蹄草と鹿銜草の間に混乱が認められます。我が国では、林羅山が』「本草綱目」『収載の品々に和名をあてた』「多識編」『に「鹿蹄草、今案加乃豆米久佐(かのつめくさ)」とあるのが最初で、その後』、『小野蘭山がイチヤクソウを充てて以来』、『通説となっています』。『日本では』、『「一薬草」は民間的に打撲傷、切り傷、蛇咬傷などに生葉の絞り汁を付けたり、肺結核や膀胱尿道炎に単味で用いられてきました。まさに』「本草綱目」『の影響だと考えられますが、かつての日本市場にはイチヤクソウ以外に異物同名品として』、『形態の類似からイワウチワ科の Shortia 属』(ビワモドキ亜綱イワウメ(岩梅)目イワウメ科イワウチワ(岩団扇)属)『植物に由来するものも市販されていました。なお、現代中国では「鹿蹄草」は利湿、強壮、鎮痛、鎮静、止血薬としてリウマチ、関節炎などの疼痛、驚悸不寧、足膝の無力などに応用されています』とあった。また、サイト「漢方薬のきぐすり.com」の「イチヤクソウ」には、『シカが踏み荒らしそうな林下に生えているので、鹿蹄草の名が与えられた。一薬草(いちやくそう)の名は、この葉をもんでつけると病が治るところからつけられた』とある。因みに、「跡見群芳譜」の「野草譜」の「いちやくそう(一薬草)」を見ると、イチヤクソウ Pyrola japonica の漢名として、『日本鹿蹄草(ニホンロクテイソウ)』とされ、以上の、P. rotundifolia subsp. chinensis(ページの下から三番目)に対して、★「鹿蹄草」の中文名が冠されてある★のを発見した。また、『中国では、同属植物のうち P.rotundifolia subsp. chinensis(鹿蹄草)などの全草を鹿蹄草(ロクテイソウ,lùtícăo)・鹿銜草(ロクカンソウ,lùxiáncăo)と呼び』、『薬用にする』とあって(学名は私が斜体にした)。恐らく、★このページが、邦文記事では、最も完備している★と思われるので、是非、見られたい。なお、前者の引用にある「本草綱目」の訳の原文は、「漢籍リポジトリ」の「卷十六」の「草之五【隰草類下七十三種】」のガイド・ナンバー [045-39b]の以下である。短いので、全文を示しておく(一部に手を入れた)。

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鹿蹄草【綱目】

 釋名小秦王草【綱目】秦王試劍草時珍曰鹿蹄象葉形能合金瘡故名試劍草又山慈姑亦名鹿蹄與此不同

 集解【時珍曰按軒轅述寳藏論云鹿蹄多生江廣平陸及寺院荒處淮北絕少川陜亦有苗似堇菜而葉頗大背紫色春生紫花結靑實如天茄子可制雌黃丹砂】

 氣味【缺】主治金瘡出血𢷬塗卽止又塗一切蛇蟲犬咬毒【時珍】

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「常山《ジヤウザン》」「伝統医薬データベース」の「常山」に拠れば、基原は、ユキノシタ(雪の下)目ユキノシタ科ジョウザンアジサイ(常山紫陽花) Dichroa febrifuga の『小くさぎと言う小木の根を採ったもので、黄色をしたものが良いとされる』とあった(因みに、和名に「アジサイ」とあるが、アジサイは、ミズキ(水木)目アジサイ科アジサイ属 Hydrangea とは、縁も所縁もないので、注意)。「臨床応用」の項に、『マラリアの要薬.解熱,吐痰薬として,各種のマラリア性疾患,胸脇脹満,痰飲積聚して吐けない病状など.』とする。M.Ohtake氏のサイト「四季の山野草」の「ジョウザンアジサイ」のページには、『中国南部、インドネシア、インドなどに分布。名前は中国山西省北部の常山(恒山)にちなむと思われる。漢方では根を常山、若枝を蜀漆(しょくしつ)といい』、『解熱・催吐剤に用いる』とあった。恒山はここ(グーグル・マップ・データ)。

「高良《カウリヤウ》」「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 良姜(リョウキョウ)」に拠れば、基原は、単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ハナミョウガ属コウリョウキョウ(高良姜)『 Alpinia officinarum Hance 』『の根茎を乾燥したもの』とあり、『良姜は』「名醫別錄」(作者不詳。「神農本草經」の薬三百六十五種に、漢・魏以来の名医が用いた薬三百六十五種を加えた漢方書。全三巻)『の中品に「高良姜」の名で収載され,「大温,暴冷,胃中の冷逆,霍乱腹痛を主治する。」と記されています』。『陶弘景(隠居)は「高良郡に出る。」と云い,李時珍は「陶隠居はこの薑は』、『はじめて産したところが』、『高良郡であったからこの名称があるのだと言っている。按ずるに』、『高良は当近の高州で,漢の時代には高涼県と言われ,−−−その地は山が高くて清く涼しいから地名がそのように呼ばれたというから,高良は高涼と書くのが正しいようである」としています。発音が同じなので「涼」が「良」に変わったものでしょうか。現在の広東省茂名県が治める地域です』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。以下に、『姜の字が示すとおり,原植物はショウガ科植物に由来します。ショウガ科植物由来の生薬には他に,ショウキョウ,ウコン,ガジュツ,ショウズク,シュクシャなどがあり,それらは一般に根茎や種子に芳香と辛味を有します。その中で,良姜とショウガを加熱後乾燥した乾姜は,中医学ではともに散寒薬に分類され,散寒止痛,温中止嘔に働く』、『よく似た薬物とされます。両者はともに脾胃に作用しますが,作用する臓腑に違いがあり,良姜は胃寒による浣腹冷痛,噫気嘔逆に適するのに対し,乾姜は脾寒による腹痛瀉泄に適するとされます』。『良姜が配合される繁用処方としては「安中散」が有名ですが,生姜に比べると使用頻度は格段に少ない生薬です』。『わが国では,江戸時代の』「和語本草綱目」(目録一巻・本篇二十三巻・全十冊・「廣益本草大成」の通用書名を持つ。岡本一抱(いっぽう:近松門左衛門は兄)著。「本草綱目」の内容・要点を平易な和語により解説した実用書。元禄一一(一六九八)年刊)『に「男女が怒って寒を受け,心腹痛あるいは胸先が痛むものに,良姜を酒で7回洗って焙って末にし,香附子を酢で7回洗って焙って末にし,もし寒が甚だしければ,良姜2gに対して香附子1gを,怒りが甚だしければ香附子1gに対して良姜2gを,寒怒が同程度に兼ねるものには各1.5gを米飲に生姜汁1さじ,塩ひとつまみを入れて服する。」と記されています』。「和漢三才圖會」『では,高良姜の項に「今は略して良姜の名になった。」と記され』、「手板發蒙」(蘭学書・大坂屋四郎兵衛著・文政六 (一八二三)年刊)『では,芳草として良薑の名で「本名高良姜クマタケラン』(ショウガ科ハナミョウガ属雑種クマタケラン Alpinia × formosana 当該ウィキによれば、『ゲットウ』(ハナミョウガ属ゲットウ(月桃)Alpinia zerumbet )『とアオノクマタケラン』(ハナミョウガ属アオノクマタケラン(青野熊竹蘭)Alpinia intermedia )『の中間的な形態を示し、両種の雑種と推測されている』とある)『の類である。…唐からのものには2品種,太めと細目があり,大きいものは紅色で味は辛い。細いものは色淡く香気は薄い。」とあります。一色直太郎氏』(大正期の和漢薬研究家)『は,「色相が赤褐色で能く肥ったものが良品で,その両端の切面がゆでだこの切り口のように肥厚してあるものがよろしい。故に良品をたこでといって居ります。」と生薬をゆでだこにたとえて選品を述べています。使用頻度の少ない良姜ですが,本草書への記載は多く,以前はわが国でも使用頻度の高い生薬であったことが窺がえます。なお,一色氏は調製法として,「昔は薄く刻みそれを火にかけ杉箸の先に胡麻油をつけて炒ったものであります。」と述べ,乾姜と同様,一度加熱した方が温める効能が増すようです。』(以下略)とある。

「天竺《テンヂク》」漢方の「天竺黃(テンヂクワウ)」のことか。サイト「家庭の中医学」の「天竺黄」には、基原を(学名は私が斜体にした)、単子葉植物綱イネ目『イネ科(Gramineae)』タケ亜科マダケ属『のハチク Phyllostachys nigra Munro var. henonis Stapf. 』、イネ科タケ亜科マダケ属『マダケ P. bambusoides Sieb.et Zucc. ほか』、『竹類の竹桿の節孔中に病的に生成した塊状物質』由来とし、『薬理作用』に、『清化熱痰・涼心定驚』・『鎮静・去痰作用』とある。また、『産地』を『中国、ベトナム、インドネシア、マレーシア』とする。「天竺」は、インドの古称であるがウィキの「天竺」に拠れば、『中世の日本では、いわゆる「倭寇」の活動や、琉球人たちの貿易活動などを通して』『東南アジアへの知見を得るようになるが、これによって』、『東南アジアも「天竺」と呼ばれる地域に含まれることとなった』とあり、中国でも、こうした広域の指し方も、あっておかしくないと思われる。

「迦南《カナン》」漢方薬としては不詳。識者の御教授を乞う。なお、東洋文庫訳では、割注して、『中央アジア地中海沿岸およびヨルダン流域』とする。

 

「虎掌《コシヤウ》」「家庭の中医学」の「テンナンショウ・・天南星」に拠れば、基原は、単子葉植物綱オモダカ目『サトイモ科(AraceaeArisaema consanguineum Schott. A. amurense Maxim 、マイズルテンナンショウ』(舞鶴天南星)『 A. heterophyllum Blume A. ambignum Engler 、コウライテンナンショウ A. japonicum Blume var. atropureum (Eng.) Kitam. ほか』、『同属植物の塊茎を乾燥したもの。日本産はムサシアブミ A. ringens (Thunb.) Schott. 、マムシグサ A. japonicum Blume などの塊茎を輪切りにして石灰をまぶし、乾燥したものである。生姜を加えて炮製したものを製南星、牛の胆汁で炮製したものを胆南星、薬品による炮製を加えていないものを生南星と呼ぶ。』(学名は私が斜体にした)とあり、「効能」には、『鎮静、鎮痙、去痰、消炎、抗腫瘍作用』とする。「原色和漢薬図鑑」では、『虎掌(葉の形に由来)』とある。

「狗脊《クセキ》」「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 狗脊(くせき)」に拠れば、大葉植物亜門大葉シダ綱薄嚢シダ亜綱ヘゴ(杪欏)目『タカワラビ』(高蕨)『科(Dicksoniaceae)のタカワラビ Cibotium barometz (L) J. Smith の根茎を輪切りにして乾燥させたもの』とする。以下、『現在』、『日本で使用される漢方生薬にシダ植物に由来するものはありませんが、民間的にはノキシノブやスギナなどのシダ植物が薬用にされてきました。一方、台湾や四川省の薬物市場などでよく見かけるのが』、『金毛狗脊を細工して作った動物の置物です。これを見ていると』、『中国では狗脊の需要が多いことがうかがえます』。『狗脊は中国では古くから薬用に供され』、「神農本草經」『の中品に収載されています。蘇敬は「地上部は貫衆に似て根が細く、多く分岐している。形状が狗の脊骨のようで、肉が青緑色を呈しているので、このように名付けたのだ」と述べ、李時珍は「狗脊に二種ある。一種は根が黒色で狗の脊骨のようなもので、一種は黄金色の毛があって狗の形のようなものだ。いずれも薬用になる。その茎は細く、葉、花は両々相対して生じ、さながら大葉蕨に似ており、貫衆の葉のようでもあるが、葉に歯があって表、裏共に光る。根は太さ拇指ほどで硬い黒鬚がむらがっている」と記し』、「本草綱目拾遺」『にも「即ち蕨である。根の形は狗の脊骨に似ており、毛は狗の毛のようで黄、黒の別がある」とあります。これらのことから当時かなり形態が異なった2種類の狗脊があり、シダ植物であったことがうかがえます。これらの記載から種の特定は難しいですが』、「植物名實圖考」『には』大葉シダ綱ウラボシ(裏星)目『シシガシラ』(獅子頭)『科(Blechnaceae)のコモチシダ Woodwardia 属と考えられる植物が描かれており、李時珍のいう黒狗脊に相当するものと思われます。一方の黄金色の毛があるものは』、『現在市場の金毛狗脊と同一で、タカワラビ科のタカワラビ Cibotium barometz の根茎と考えられます。昨今はこの金毛狗脊が一般的に用いられているようです。』とある。

「馬鞭《バベン》」岡山県倉敷市の「重井薬用植物園」(「しげい」と読む)の「おかやまの植物事典」の「クマツヅラ(クマツヅラ科)」に拠れば、基原は、シソ目クマツヅラ(熊葛)科クマツヅラ属クマツヅラ Verbena officinalis の全草。名は、『69月頃、枝の先に細長い花序をつける。姿が乗馬に用いるムチのようなので』、『中国では「馬鞭草」と呼ぶ』とある。『クマツヅラは、北海道をのぞく』、『日本全国の日当たりのよい原野や路傍に生育する高さ3080㎝ほどになる多年草(あるいは一年草)です。ヨーロッパや中国大陸にも広く分布します』とあり、『本種の和名を漢字で書くと「熊葛」ですが、本種の名が史料に確認されるのは、平安時代中期に編纂された』「和名類聚抄」『が初出のようで、漢名の「馬鞭草」の和名として「久末豆々良」と紹介されているのが初出とされています。漢名の「馬鞭草(ばべんそう)」の名は、細長く伸びた花序の様子を乗馬に用いるムチに例えたものとされ、生薬名ともなっています。「馬鞭草」は植物の形をよく表しており、納得がいきますが、「熊葛」については』、『特に動物のクマを連想させるような特徴は本種にはありません。本種の和名の由来には諸説あり、「馬鞭草」から、「ウマウツツラ(馬打葛)」であるとする説(木村陽二郎 監修,植物文化研究会 編.2005.図説 花と樹の事典.柏書房.p.156)、「その穂状花に米粒のような実が連なってつく」ので、「米ツヅラ」が由来であるとする説(中村浩 著,1998.植物名の由来.東京書籍.p.201)などがあります。』とあった。

「烏喙《ウクワイ》」猛毒植物(全草)として知られるキンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属ハナトリカブト(花鳥兜) Aconitum carmichaelii を基原とする古い漢方生薬名と思われる。同種は「カラトリカブト」(唐鳥兜)の異名がある。当該ウィキによれば、『ハナトリカブトの各部分には非常に強い有毒成分が含まれており、歴史的には、矢に塗る毒として用いられ、塊根を加熱して毒性を減らしたものは「附子(ぶし)」や「烏頭(うず)」として鎮痛や強精などの目的で生薬として用いられてきた』とある。「烏喙」は「カラスの喙(くちばし)」の意で、乾燥させた根の形状に由来するものであろう。

「鵝尾《ガビ》」東洋文庫訳では、『(毒草類鳶尾か)』と割注がある。これは、単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ(一初・一八・鳶尾草 Iris tectorum である。「跡見群芳譜 花卉譜(イチハツ)」の解説に、『漢名は』、『その形から』。『漢語別名』の『烏園も、正しくは烏鳶であろう(本草綱目)。ただし、本草綱目は、この草のどこがどのように鳶に似ているのかは、記していない』とあった。なお、鳶は、タカ科の鳥トビ(トンビ) Milvus migrans である。「熊本大学薬学部薬用植物園」の「植物データベース」の「イチハツ」に、「薬用部位」に『根茎』とあり、『食当たり,消化不良などに粉末を水で服用する.便秘には空腹時に同様に服用する.打撲傷や痔には粉末を患部に塗布する』とあった。ただ、多くの方は、同種が有毒植物であることを御存知ないようなので、一言言っておくと、植物サイト「PictureThisの「イチハツ(一初)」の「毒性」を引いておく。『イチハツ(一初)は庭で見られる魅力的なアイリスで、摂取によって子供に対して軽度の毒性リスクをもたらし、園芸家には皮膚接触を通じて影響を与えます。毒性のある部分には根、種子、樹液が含まれ、短期間の皮膚刺激を引き起こし、摂取された場合には腹痛、吐き気、嘔吐といった軽度の症状を引き起こす可能性があります。致死のリスクはありません。活性毒素:ペンタサイクリックテルペノイド』(Pentacyclic Terpenoids)『とイリジン』(=イルジン:illudin)とあった。

「鴨蹠《アウシヨ》」豊橋市の漢方薬局「桃華堂」公式サイト内の「生薬辞典」の「鴨跖草(おうせきそう)」に、基原は、お馴染みの単子葉植物綱ツユクサ目ツユクサ科ツユクサ亜科ツユクサ(露草・鴨跖草・鴨跖)属ツユクサ Commelina communis の全草とし、「効能・効果」に『①清熱解毒』・『②利水』とある。「特徴」の項で、『ツユクサは道端や野原でよく見られる雑草の一種です。朝咲いた花が昼にはしぼむことが朝露を連想させ、「露草」と名付けられたという説があります。古くは「ツキクサ」と呼ばれており、これが転じて「ツユクサ」になったという説もあります』。『ツユクサは「鴨跖草」という字が当てられることもあります。中国では「鴨跖草(おうせきそう)」の方で呼ばれており、名前の由来は正面から見た花の姿が鴨の堅い足の裏に似ていることからです。跖は中国語で足という意味です』。「万葉集」『には「鴨頭草」という表記もあります。万葉人は花の姿を鴨の頭と長い首に見立て、「鴨頭草」という字を当てたのではないかと言われています』。「万葉集」には、『ツユクサを詠った歌が9首存在します。このことから、日本人にとって古くから親しまれていた植物であることがわかります。朝咲いた花が昼にはしぼんでしまうことから儚さの例えとして詠まれたものが多いですが、実際のツユクサの生命力と繁殖力はとても強く、根ごと引っこ抜いても土に種を残し、引っこ抜いたまま放置しておくと』、『また』、『土に根付いてしまうほどで、儚さとは無縁の植物です』。『熱毒を治療する清熱解毒薬(せいねつげどくやく)に分類され、同じような効能を持つ生薬に十薬(じゅうやく)、金銀花(きんぎんか)、連翹(れんぎょう)、蒲公英(ほこうえい)、板藍根(ばんらんこん)、土茯苓(どぶくりょう)、白花蛇舌草(びゃっかじゃぜつそう)があります』。『漢方薬としては使われていませんが、清熱作用や解熱作用があるとされ、民間薬として風邪の解熱剤や喉の腫れに使われていました。虫刺されや腫れに新鮮なものをすり潰して外用としても使われていました』。『水の巡りを改善する効果があり、浮腫や尿量減少、排尿痛などに用いられました。』とあった。因みに、「万葉集」では、「つきくさ」の判読がなされている。

「鶴蝨《カクシツ》」「跡見群芳譜 花卉譜」の「やぶたばこ (藪たばこ)」のページの「漢語別名」に、『鶴蝨(カクシツ,hèshī,実の名)』とあった。   基原は、キク目キク科キク亜科オグルマ(小車)連ガンクビソウ(雁首)属ヤブタバコ(藪煙草) Carpesium abrotanoides の果実である。ウィキの「ヤブタバコ」によれば、『中国では』、『葉を乾燥させたものを』『天名精(てんみょうせい)』『の名で呼び、止血、解毒、腫れ物、打ち身の薬として用いた。痩果は鶴虱の名で呼ばれ、条虫駆除剤として用いられる。また』、『根や種子も薬用とする』とあった。「鶴」は判らないが、「蝨」=「虱」については、全くの別種であるが、「福岡市薬剤師会」公式サイト内の「福岡で観察できる薬草」の「ヤブジラミ」のページに、セリ目セリ科ヤブジラミ属ヤブジラミ Torilis japonica の中国名を『華南鶴虱』とあり、「由来」に『果実の形が』、『しらみを思わせることから、やぶに生育するしらみということによる。』とあるのと、同源であろう。実は、森立之著の「鶴虱攷」という考証書(嘉永二(一八四九)年奥書)を見つけたのだが、私は今、凡そ、それに目を通す精神的余裕を全く持たない。勝手に探して読まれたい。悪しからず。

「䑕耳《ソジ》」この起原は、お馴染みのキク亜科ハハコグサ(母子草)連ハハコグサ属ハハコグサ Pseudognaphalium affine の花がついた全草を採取し、細かく裁断して日干ししたものである。参考にした当該ウィキによれば、『漢名(中国植物名)は鼠麹草(そきくそう)で、葉に軟毛があって、形がネズミの耳に似ていて、黄色い花とその形から麹を連想して名付けたといわれている』とする。また、『鼠麹草(そきくそう)という生薬名があるが』、『伝統的な漢方方剤では使わない。民間療法として、風邪や咳止め、扁桃炎、のどの腫れなどの症状改善に』、『煎じ汁を、うがい薬として用いる用法が知られている』。『また』、『急性腎炎などで尿の出が悪く身体がむくんだときに』、『煎じ汁』を服用すると、『利尿作用でむくみを軽くするといわれている』。『肺を温める薬草で』あるが、『肺に熱があり、痰が黄色で、のどが渇く人には使用禁忌とされる』とあった。

「牛膝《ゴシツ》」「熊本大学薬学部薬用植物園」の「植物データベース」のこちらに拠れば、基原は、例の、実が「ひっつき虫」で知られる、ナデシコ目ヒユ科 Amaranthoideae 亜科イノコヅチ属イノコヅチ変種ヒナタイノコヅチ(日向猪子槌) Achyranthes bidentata var. fauriei の根と全草である。「薬効と用途」に、『根は通経,鎮痛,利尿作用があり,月経不順,産後出血,腰痛や関節痛,リウマチ,神経痛,打撲,小便難渋などに用いる.漢方処方では,折衝飲,芎帰調血飲,牛膝散などに配合される.外陰部の炎症には乾燥した全草の煎液で患部を洗う.路傍の雑草として知られる.』とある。当該ウィキによれば、和名のそれは、『茎の節にある太い膨らみの形が、イノシシの子どもの大きな膝頭と、物を打ちたたく道具である槌に例えられたところから来ている』とあり、別に、『本種または A. bidentata(本種の基本種)の根を、晩秋に地上部が枯れたはじめた頃に採取して、水洗いして天日乾燥させたものが、牛膝(ごしつ)という生薬になる』。『牛膝は、根が太く多肉質のが良品とされている』。『最も良質なのは』、『中国産の川牛漆(せんごしつ)といわれており、日本では、ヒナタイノコズチのうち、太い根をもつ系統を選んで栽培されている』とあるので、「牛膝」も納得がゆく。

 

「性《しやう》を以、名《なづく》る者は」東洋文庫訳では、『持っている特性によって名前をつけたものは、』とあり、さらに後注があり、以下の薬について、『益母の効能は婦人病。目を明らかにし精を益す。それで益母という。狼毒は読んで字のごとく毒性が甚だしいから。予知子[やぶちゃん注:「予」はママ。訳本文は正しく『預知子』となっているから、訳者竹島氏の誤記か、誤刻であろう。]はこの子を二個とって衣領(えり)に綴りこんでおくと、毒虫などの危険があると音をたてて予知してくれるという。王不留行はよく陽明の血分に走る性質があり、たとえ王命でもそれを留めることはできないという。骨砕補は折傷を主(つかさど)り、骨砕を補う効があるという。』と記してある。

「益母《ヤクモ》」基原は、シソ目シソ科オドリコソウ(踊子草)亜科メハジキ(目弾き)属メハジキ Leonurus japonicus の地上部位。大阪の「福田龍株式会社」の「生薬・漢方辞典」の「益母草(ヤクモソウ)」がよい。『和名 メハジキ:子供たちが』、『茎を短くちぎり』、『弓なりにまげて上下のまぶたにはさみ、まぶたを閉じる勢いで遠くへ弾き飛ばしたりして遊ぶことから』、『この名前がついたと言われている』とし、『別名 ヤクモソウ(益母草): 母の益になる草の意で、婦人薬として利用されてきた。』とあり、「産地」は『日本(本州以南)、台湾、朝鮮半島、中国など』で、「主な薬効」は『利尿、子宮収縮作用』とし、『月経不順、めまい、下腹痛、生理痛、打撲、痔のほか、利尿作用があるので急性糸球体腎炎にも用いられる』とあった。

「狼毒《ラウドク》」「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 狼毒(ロウドク)」が非常に詳しい。基原は、『白狼毒は』キントラノオ目 Malpighiales『トウダイグサ科(Euphorbiaceae)の Euphorbia pallasii Turcz. ex Ledeb., E. fischeriana Steud., E. ebracteolata Hayata などの根を乾燥したもの.西北狼毒はジンチョウゲ科(Thymelaeaceae)の Stellera chamaejasme L. の根を乾燥したもの.広狼毒はサトイモ科(Araceae)のクワズイモ Alocasia odora Spach の根茎を輪切りにして乾燥したもの.』とある。以下、非常に興味深い内容なので、特異的に全文を示す。『狼毒は』「神農本草經」『の下品に収載され,「咳逆上気を主治し,積聚,飲食,寒熱水気を破り,悪瘡,鼠廔,疽蝕,鬼精,蠱毒を治し,飛鳥,走獣を殺す」とその効用が記されています.実際にオオカミ対策に使用したかどうかはわかりませんが,狼毒は』同書『に記された薬効からは』、『かなりの猛毒薬であったことがうかがえます.その有毒性を利用したとすれば』、『同効の様々な毒草が利用されたことが想像され,そのためか古来』、『異物同名品が多く存在していたようです.』『産地に関して』「名醫別錄」『には「秦亭の山谷及び奉高に生ず」とあり,陶弘景は「宕昌にも出る」といっています.秦亭は今の隴西で,宕昌とともに甘粛省に位置します.謝宗万氏は甘粛省の蘭州,武都,宕昌などで市販されている狼毒を調査した結果,すべてジンチョウゲ科の Stellera chamaejasme の根であったと報告しています.しかし』、「名醫別錄」『にある』、『もう一つの産地の奉高は現在の山東省にあり,Stellera 属の分布は見られません.植物地理学的に考えると,この地から産するものは現東北地方市場の白狼毒の原植物 Euphorbia pallasii あるいは E. ebracteolata であったろうと考えられます.』「圖經本草」『に描かれた石州狼毒の図は根頭に茎が叢生していることからは,Stellera 属とも Euphorbia 属とも受け取れますが,花の形はどちらかと言うと Euphorbia 属に似ています.』『明代になると』、『李時珍は「今の人は住々』、『草䕡茹をこれにあてるが,誤りである」といっています.この草䕡茹は』「本草綱目」『の記文からも明らかに Euphorbia 属のもので,この頃の狼毒の主流は Euphorbia 属であったようです.清代の』「植物名實圖考」『には「本草書の狼毒は皆はっきりしない(中略)滇南に土瓜狼毒がある」と記され,また,草䕡茹の項に「滇南では土瓜狼毒と呼ぶ」とあり,このものは Euphorbia prolifera であるとされています.ところが,一時期日本に輸入されていた香港市場の狼毒はこれらの植物とは全く異なり,サトイモ科のクワズイモ Alocasia odora の地下部を基源とするものでした.これは』「植物名實圖考』『の狼毒の項に「紫茎南星を之に充てる」と記されているサトイモ科の天南星の類( Arisaema 属植物)のものと考えられ,それが次第に飲片の形状がよく似て収量の多いクワズイモに代わったとされています.』『以上の三つの科にまたがる原植物は形態的にはかなり異なります.Euphorbia 属には白い乳液があり,Stellera 属は小さいが』、『きれいな花を咲かせ,クワズイモは他に比べるとはるかに大型になるなどです.それらに共通する有毒性が』、『この生薬の本質であるとすれば,やはり有害動物対策に使用されたことが考えられます.蒙古では今でもオオカミを駆除するために動物の肉に有毒物質を混ぜて利用すると聞きます.オオカミがいない南方の地では殺鼠剤として使用されていたのでしょうか.』『現在,狼毒は』、『専ら』、『外用薬としてリンパ腫脹や疥癬などに用いられますが,内服薬としては,逐水,去痰,消積などの作用があるとされ,心下が塞がっておこる咳嗽,胸腹部の疼痛などに他薬とともに用いられます.』『実は,狼毒は正倉院の』「種々藥帳」しゅじゅやくちょう:天平勝宝八(七五六)年六月二十一日、光明皇后が六十種の薬物を東大寺大仏に献納した際の目録」『に記載があり,奈良時代には既に渡来していたようです.現在では稀用生薬ですが,当時は重要な生薬の一つであったものと考えられます.今では現物が失われて原植物が何であったかは定かではありませんが,時代から考えると Stellera 属であったように思われます.鑑真和尚が敢えて日本にもたらす薬物の中に狼毒を選んだと考えると,今となっては窺い知れない何か別の理由があったようにも思われます.』とあった。

「預知子《ヨチシ》」この起原は、キンポウゲ目アケビ科Lardizabaloideae亜科Lardizabaleae連アケビ属アケビ Akebia quinata の実。「熊本大学薬学部薬用植物園」の「植物データベース」の「アケビ」に、『果実は鎮痛,消炎作用などがあり胸脇疼痛,月経痛などのほか,乳汁不足,淋病,目の炎症,特に涙腺の炎症などに用いる.』とあった。なお、別に蔓『性の茎は消炎,利尿,清熱,通経作用などがあり,膀胱炎,排尿障害,浮腫,尿道炎,月経不順などに用いる.声がれや難聴にも用いる.漢方処方では竜胆瀉肝湯,五淋散,通導散などに配合される.』とあった。但し、幾つかのネット記載を見たが、「預知子」の意味を解説したものは、なかった。ただ、果実であることから、アケビの有難い「知」的薬効を「預」かっている「子」(さね)というニュアンスと採れば、私は、納得出来る。

「王不留行《ワウフルカウ》」「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 狼王不留行(オウフルギョウ)」が、やはり、いい。この筆者である神農子氏を、私は、最も信頼しているのである。何故と言えば、まさに、この作業で問題になる、基原生物が歴史的に別種であったり、微妙に変化していることを、子細に考証されておられるところで、である。さて、そこに拠れば、基原は、ナデシコ目『ナデシコ科(Caryophyllaceae)のドウカンソウ』( 道灌草)『 Vaccaria segetalis Garcke (= V. pyramidata Medik.) の種子、あるいは同科の』マンテマ属『ヒメケフシグロ』『 Silene aprica Turcz. ex Fisch. et C.A.Mey. の全草。』とある。以下、やはり、掟破りで全文を引用させて頂く。

   《引用開始》

 生薬には多少の異物同名品があるものですが、今回のテーマの王不留行には実に様々な異物同名品が存在します。異物同名品とは、基源(原動植鉱物の種類、薬用部位、加工調製方法など)が異なっているにも関わらず同じ名称が付けられている品目です。今回の王不留行の原植物は植物分類の「科」をまたぎ、また薬用部位も様々です。

 王不留行は、日本薬局方には収載されていませんが、中華人民共和国薬典(2015年版)ではナデシコ科の Vaccaria segetalis(中国名:麦藍菜、和名:ドウカンソウ)の成熟種子を乾燥したものが規定されています。生薬の形状は球形で直径約2 mm、表面は黒色でやや光沢があります。表面には顆粒状の突起があり質は硬く香りはほとんどありません。異物同名品の中で同じく種子に由来するものとして、マメ科のカスマグサ Vicia tetrasperma、スズメノエンドウ Vicia hirsuta Vicia sativa Vicia angustifolia などがあります。これらはいずれも黒褐色の種子で、Vaccaria segetalis の種子と類似しています。大型の果実に由来するものとして南方ではクワ科のオオイタビ Ficus pumila やノボタン科のノボタン Melastoma candidum などが使用されています。また、台湾ではノボタンやミカンソウ科のヒラミカンコノキ Glochidion rubrum Blume その他の木質の茎が使用されてきました。また、全草に由来するものとしてオトギリソウ科のトモエソウ Hypericum ascyron H. sampsoni 、アオイ科の Sida rhombifolia などがあります。日本でも以前はオオイタビの果実で縦に2分割され種子が除かれたものが使用されていました。『原色和漢薬図鑑』(難波恒雄、1980)にもオオイタビ由来の生薬の写真が掲載されています。これは、当時多くの生薬が香港から輸入されていたことを示しています。以上のように、王不留行には多種多様の異物同名品がありますが、古来の正品に関しては未だに不明です。

 一方、韓国市場の王不留行はナデシコ科のフシグロの仲間の全草です。牧野富太郎博士は漢名の王不留行にヒメケフシグロ Silene aprica (= Melandrium apricum ) をあてています。中国の本草書を見ると薬用部位に関する最も古い記述は『図経本草』に「5月内採茎」とあり、元は全草生薬であったようです。同書には「葉は尖って小さい匙の頭のようだ。また槐葉に似たものもある。四月に黄、紫色の花を開く(中略)河北に生じるものは葉が円く、花は紅色で、この物と少し違う」と記され、Silene属には赤い花や白い花などがあり、牧野博士は良く似た植物の中からヒメケフシグロと比定されたのでしょうか。

 薬効に関しては、初出の『神農本草経』に「主金瘡止血逐痛出刺除風痺内寒」、『名医別録』に「止心煩鼻衂癰疽悪瘡瘻乳婦人難産」とあり、外傷出血や鼻血の止血、棘、悪性の腫れ物、月経不順、難産などの要薬とされてきました。現在に伝わる処方として王不留行散が知られ、その組成は出典によって大きく異なりますが、王不留行を主薬として5〜11種類の生薬からなり、一般に黒焼きが多く用いられます。黒焼きにするのは止血効果を高めるためと考えられます。王不留行散を日本で作る場合には、ヒメケフシグロは日本では希な植物なので、フシグロ Silene firma Siebold et Zucc. の全草で代用されているようです。これも新たな異物同名品ということになります。

 現在中国で使用されているドウカンソウはヨーロッパ原産とされる1年生あるいは2年生の草本植物です。日本には江戸時代に中国から渡来し、江戸の道灌山(どうかんやま)の薬園で栽培されていたことが名称の由来とされることから、当時の中国では既にドウカンソウが使用されていたことが窺えます。茎は直立し高さ3060 cm で円柱形、フシグロに似て節はややふくれ、葉は対生して卵状から線状披針形、花は淡紅色で先が浅く裂した5弁花です。薬用部位は種子ですが、薬効的には古来と同様に使用され、問題は無いようです。多くの異物同名品が存在するのは、本草書の記載内容が曖昧なことと同効生薬の探索に試行錯誤した結果であったのでしょうか。

   《引用終了》

★なお、「マンテマ」(ヨーロッパ原産の一年草で帰化植物。当該ウィキによれば、『日本では』、『江戸時代に観賞用に持ちこまれ』、『後に逸出し』て、『野生化し、本州中部以南の河川敷、市街地、海岸などに見られる外来種となっている』とある)という奇体な和名であるが、東京大学新領域創成科学研究科の作製になる「PLANT LIFE SYSTEM」の「研究紹介」の「3. 植物SRY遺伝子:雄を決定する遺伝子と性染色体」の「3-2. Silene latifolia (ヒロハノマンテマ)」に、『「マンテマ」という不思議な和名の由来は、牧野の植物図鑑には、「海外から渡って来た当時の呼び名のマンテマンの略されたもので、このマンテマンは多分に Agrostemma(ムギセンノウ)という属名が転訛したものではないかと想像する。」と書かれています。因みに、「センノウ」は、嵯峨の仙翁寺にあったナデシコというような意味です。』とあった。数奇な和名なので、特に言い添えておく。

「骨碎補《コツサイホ》」「日本中医学院ブログ」の周氏の記載になる「骨碎補の由来」に(学名は私が斜体化した)、『骨碎補は』シダ植物門シダ綱ウラボシ(裏星)目『ウラボシ科Polypodiaceaeのハカマウラボシ』(袴裏星)『 Drynaria fortune などの根茎を乾燥したもので、骨砕補という名は骨折の治療に効果のあることに由来し、猴姜・胡孫姜・石毛姜などとも呼ばれます。中国の中南・西南及び浙江・福建・台湾省に分布します。性味は苦・温で、肝・腎経に帰経します。補腎・活血・止血・続傷作用があります。腎虚の腰痛・耳鳴・脚弱・久瀉、打撲外傷・切傷・骨折に用いられます。』とあり、次いで、『骨碎補の由来を紹介します。』とされ、『骨碎補は、五代十国後唐明宗皇帝・李嗣源』(九二六年~九三三年)『が命名したものです。その故事を紹介します』。『ある日、皇帝一行は狩に行きました。突然、猛獣』である『金銭豹』(食肉目ネコ科ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus )『が出てきて、皇后が吃驚して馬から落ちました、左足(脛骨)が骨折してしましました。民間草医(民間の医者)出身である衛士の一人は、ある草薬(のちに骨碎補と呼ばれるもの)を使い、皇后の骨折した足を治しました。皇帝は大喜び、その衛士に薬草の名を尋ねました。衛士は、「この草薬は、未だ名前がないですので、皇上(皇帝)名付けてください」と言いました。皇帝は、笑いながらこう言いました』。「『骨折の治療に効果があるので、骨碎補にしましょう』」と。『その後、李時珍は、形状から猴姜』(リンク先に乾燥根の画像があり、猿っぽく見える個体がある)『と呼び、ある地方は、胡孫姜・石毛姜とも呼びます。』とあった。

 

「没藥《モツヤク》」ここは、当該ウィキが手っ取り早くはある(しかし、正直、ショボい)ので、まず、引く(注記号はカットした)。『ムクロジ目カンラン科コンミフォラ属(ミルラノキ属)』 Commiphora 『の各種樹木から分泌される、赤褐色の植物性ゴム樹脂のことである。ミルラ(Myrrh)の和名が』「没薬」『になる』。『「ミルラ」も』、『中国で命名された没薬の「没」も』、『「苦味」を意味するヘブライ語のmor、あるいはアラビア語の murr を語源としているとされるほか、ギリシア神話に由来する』(アラビア語の“murr”は調べたところ、音写では「ムッル」で、「没」の拼音は“”で音写は「モォー」であった)『キプロス王キニュラースと』、『その妻ケンクレイスの間に生まれた娘ミュラーは、父であるキニュラースを愛してしまった。道ならぬ恋に苦しんだミュラーは、その後』、『アラビアのサバア王国へ追放される。ミュラーを憐れんだ神々は、ミュラーを一本の木へと姿を変えさせた。これがミルラ(没薬)の木で、ミュラーの流す涙は香り高い樹液となった』。『没薬樹はエジプト、オマーン、イエメン、など主にアラビア半島の紅海沿岸の乾燥した高地に自生し、エチオピア北部、スーダン、南アフリカなどにも自生する』。『起源については、アフリカであることは確実であるとされるが、エジプトに世界最古の没薬使用例がある事から』、『エジプト起源という説もある』。『古くから香として焚いて使用されていた記録が残されている。また、殺菌作用を持つことが知られており、鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていた』。『古代エジプトにおいて、日没の際に焚かれていた香であるキフィの調合には没薬が使用されていたと考えられている。また、ミイラ作りに遺体の防腐処理のために使用されていた。ミイラの語源はミルラから来ているという説がある』。『聖書にも没薬の記載が多く見られる』。旧約聖書の「創世記」に続く、二番目の書で、モーセが虐げられていたユダヤ人を率いてエジプトから脱出する物語を中心に描かれている「モーセ五書」の一つである『「出エジプト記」には』、『聖所を清めるための香の調合に没薬が見られる。東方の三博士がイエス・キリストに捧げた』三『つの贈り物の中にも没薬がある。没薬は医師が薬として使用していたことから、これは救世主を象徴しているとされる。また、イエス・キリストの埋葬の場面でも遺体とともに没薬を含む香料が埋葬されたことが記されている』。『東洋においては』、『線香や抹香の調合に粉砕したものが使用されていた』。『近代以降においては』、『主に男性用香水に使用する香料の調合にも使用されている。この用途には』、『粉砕した没薬を水蒸気蒸留したエッセンシャルオイルや溶剤抽出物のレジノイドが使用される』。『この他、歯磨剤やガムベースにも使用される』とある。やはり、「株式会社 ウチダ和漢薬」の「生薬の玉手箱 |モツヤク(没薬)」が、安心して読めるので、引用する。『 Commiphora 属植物は世界に約200種が知られ,アフリカの乾燥地帯,アラビア半島からインドにかけて,またマダガスカルなどに自生しています。本属植物は樹脂を含有することで知られ,属名の Commiphora はギリシャ語の kommi(ゴム)と phoreo(産する)に由来します。没薬は C. abyssinica Engl. C. molmol Engl. など数種から採取されます。黄白色をした樹脂が幹の皮部と髄でつくられ,幹に切傷をつけるか,あるいは』、『自然に流出して凝固したものを採取します。乾燥して黄褐色から赤褐色の堅い塊となった樹脂が没薬です。約半分がゴム質で,他に精油,樹脂,水分などを含みます』。『没薬は,その原植物と産地によって品質が異なり,数種に区別されます。最も品質が良いものは,ヘラボール・ミルラ(ソマリア・ミルラ)と呼ばれ,ソマリアやアラビア半島南部に分布する C. molmol から採集されます。他にアラビア・ミルラやビサボール・ミルラと呼ばれるものがあり,前者はエチオピア,ソマリア,イエメンなどの高地に分布している C. abyssinica C. schimperi Engl. などから,後者はソマリア,エチオピア東部などに分布する C. erythraea var. glabrescens Engl. から採集されます。東南アジアの生薬市場には花没薬と称する生薬が流通することがあり,水に溶解すると赤色になります。これはラックカイガラムシ』(有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科 Coccoideaラックカイガラムシ科 Kerriidaeのラックカイガラムシ類。説明すると、エンドレスになるので、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 五倍子 附 百藥煎」の私の注を見られたい)『の分泌物に由来するもので,カンラン科植物に由来する没薬とは異なるものです』。『没薬は香料のほか,古代ギリシャ医学では重要な生薬とされました。ディオスコリデス』(西暦四〇年頃~九〇年頃)『の』「薬物誌」『によると,「薬効は,暖める,粘液の分泌を抑える,催眠,収斂作用などで,豆粒ぐらいの量を服用すれば慢性の咳,脇腹や胸の痛み,下痢,血性下痢などを治療する」,また「ミルラ酒は,咳,胃液過多などの治療によい」とされています。現代の西洋では,ミルラが殺菌,脱臭作用を有することから,ミルラチンキとして風邪による咽などの炎症に塗布剤,含嗽剤とされます』。『中国へも伝わり,』「開寶本草」『に,「味苦,平。無毒。血を破り,痛みを止め,金瘡,杖瘡,諸悪瘡,痔瘻,卒下血,目中の瞖暈痛,膚赤を治す。波斯国に生じ,安息香に似て,その塊は大小一定せず,黒色である」と収載されています』。「本草衍義」『には,「滞った血を通じ,打撲損疼痛を治すには,没薬を酒にといて服用する。血が滞ると気がふさがり,気がふさがると経絡が満急し,経絡が満急するから痛み腫れるのである。打撲して肌肉が腫れるのは,経絡が傷み,気血がめぐらずふさがっているからである」と没薬の効能を中国医学的に詳しく説明しています。また』、「本草綱目」『には,「乳香は血を活かし,没薬は血を散らし,いずれも痛みを止め,腫れを消し,肌を生じる。よってこれらは,いつの場合でも合わせて用いる」とあり,没薬と乳香を併用することが記されています。現代中国では,没薬は駆瘀血,消腫,止痛などの効能がある生薬とされ,打撲傷,心腹の諸痛,癰疽による腫れや痛みなどの治療に用いられています。』とある。

「景天《ケイテン》」検索すると、漢方会社・薬局ばかりで、しかも、「紅景天」(こうけいてん)でしか、挙がってこない。あるサイトでは、「紅景天」は五十種類以上ある、とするので途方に暮れた。取り敢えず、信頼出来ると判断した「金澤 中屋彦十郎薬局」の「●紅景天(こうけいてん)」にある解説を引く(学名が斜体化した)。ユキノシタ(雪の下)目ベンケイソウ(弁慶草)科ムラサキベンケイソウ属『ベンケイソウ科 Rhodiola sacra 及び Rhodiola rosea(ロディオラ・ロゼア)などの根』及び『根茎を用いる。イワベンケイともいう。中国』、『チベット、雲南、四川を中心とする海抜2800m5500mの高山岩石地帯に自生する多年生の高山植物。根を抜いても枯れないことから』、『ベンケイの名があるといわれる』。『多年生の草本で高さは10cm20cmになる。根は太くて強く円錐形、肉質で褐色、根茎部には多数の』ヒゲ『根をもつ。根茎は短く、太くて強く円柱形、瓦状に並んだ多数の鱗片状の葉に覆われている。茎先端の葉腋より数本の花茎を出し、花茎の上下部分はみな肉質の葉がつき、葉身は楕円形、緑はあらい鋸歯状で先端は鋭尖形、基部は楔形で無柄。集散花序を頂生し、花は紅色。袋果をつける』。『チベット高山地帯に自生する紅景天は大きく4種類ある。大花紅景天、茎地紅景天、全弁紅景天、四裂紅景天である』。『チベット医学「四部医典」に収載され現地では千年前より利用されている』。「神農本草經」『には上薬で収載されている。近年の中国では』、『オリンピックの強化選手が高地トレーニングの際に使用した。また、旧ソビエト連邦は宇宙食として使用した』。『近年』、『ノルウェー、スウェーデンなど北欧などに波及し、日本にも伝来してきた。現在、日本の研究機関で盛んに研究が進んでいる』。『成分はフラボン配糖体、テルペン配糖体、芳香族配糖体、青酸配糖体、ミネラル、アミノ酸など』とし、『紅景天酒などにして利用することが多い。』とあった。

「三七《サンシチ》」「株式会社 ウチダ和漢薬」の「生薬の玉手箱 |三七人参(サンシチニンジン)」が、それ。基原は、『ウコギ科(Araliaceae)の Panax notoginseng (Burkill) F. H. Chen ex C. Y. Wu & K. M. Feng. の根。』とある。これは、バラ亜綱セリ目ウコギ科トチバニンジン属サンシチニンジン Panax notoginseng である。『中国雲南省東南部から広西壮族自治区西南部周辺に「三七人参」という人参類生薬が産出します。「田七人参(デンシチニンジン)」や単に「三七」、「田七」などとも称されるもので、原植物は人参と同じウコギ科 Panax 属であり、人参同様に優れた効果が認められています。一方、初収載された本草書は比較的新しい明代の』「本草綱目」(一五九六年に南京で上梓)『で、限られた地域でのみ使用されていたようです』。同書『には「三七」という名称で収載されています。項目名が「三七人参」ではないことや』、『別名にも「人参」が記載されていなことから、当時はまだ原植物が未解明で人参類生薬という認識がなかったことが窺い知れます。「三七」の附図も人参とは明らかに異なり、キク科のサンシチソウ Gynura japonica と考えられる植物が採用されています。著者の李時珍は「彼の地の者は、葉が左に三枚、右に四枚あるから三七と名付けるのだというが、恐らくはそうではあるまい」と述べています。Panax 属植物の葉は掌状複葉であり、小葉の付き方は左右対称です。もし李時珍が「三七」の本当の原植物を見ていれば「恐らくは」ではなく、誤りであることが断定できたはずです。一方で、「味は微し甘く苦く、頗る人参の味に似ている」と』、『味から人参との関連を指摘し、さらに「近頃中国に伝わった一種の草に、春苗が生えて』、『夏』、『三』、『四尺の高さになり、葉は菊艾に似て勁く厚く、岐尖があり、茎には赤い稜角があり、夏、秋に黄色の花を開いて(中略)。これを三七だというのだが、この草は根の太さが牛蒡の根ほどあって南方から来るのとは類似していない」と記し、真の原植物とは異なると考えていたようです。なお、附図は李時珍の弟子が付したものとされます』。『 Panax notoginseng の地上部の形態は人参の原植物 P. ginseng に酷似しています。葉の形状がやや異なり、小葉の枚数は P. ginseng が3〜5枚、一般に5枚であるのに対し、P. notoginseng は3〜7枚で一般に7枚です』。「本草綱目」の人参の項には』「人参讚」(国立国会図書館デジタルコレクションで見つけた。「朝鮮医学史及疾病史」(三木栄著・一九五五年刊・ガリ版刷)の、ここの左ページ四行目に、『人參讚[やぶちゃん注:傍点附き。]は、高麗人の作として現世に遺された詩の一つとして著名なもので、人參の植物學的生態を良く言ひ表してゐる。』とあった)『を引用して「三椏五葉、陽に背き陰に向ふ」と、三つの葉柄に』、『それぞれ小葉が五枚ずつ付いた状態の人参の原植物の形態が引用されています。このことから』、『「三七」とは「三椏七葉」に由来すると考えることもできます。実際、「三七」の名称の根拠については』、『確たる説がなく、別名の「山漆」に由来するという説、播種してから育つまでに三年から七年もかかるから』、『という説などもあるようです。なお』、『「田七」という別名は、かつてその集積地が広西壮族自治区の田陽であったことによるものです』。『「三七人参」の薬効について『本草綱目』では「この薬は近頃始めて世に現れたもので、南方番地の者は戦場で金瘡の要薬として用い、奇効があるという」とし、具体的に「血を止め、血を散じ。痛みを鎮める。金属の刃物、箭(矢)の傷、跌撲、杖瘡の出血の止まぬには、噛み爛(ただら)して塗り、或いは』、『末にして』、『ふれば』、『その血は直ちに止まる。」と、外用して止血、消炎、鎮痛に優れた効果を発揮していたことがわかります。その後』、「本草綱目拾遺」(淸の本草家趙学敏が、一八〇〇年頃に「本草綱目」の誤りを正したもの)『には』、『「昭参」と称する生薬が収載され「即ち人参三七であって昭通府(雲南省昭通県)に参する」と記載されています。この頃には「三七人参」は人参類生薬ということが認識されていたようです。ここでは』「宦遊筆記」(かんゆうひっき:清末の納蘭常安著)『を引用して、「人参は補気第一、三七は補血第一で、味が同じくして』、『功も』、『やはり』、『等しいところから、世間では並称して人参三七という。薬品中で最も珍貴なものとなっている」と記載があり、人参同様に高貴薬という位置づけだったことがわかります。ちなみに』、「本草綱目拾遺」『は広東人参をも「西洋参」として初収載した本草書です』。『現在、中国では「三七」として雲南省の文山などで生産され、全て栽培品です』(以下略)とある。

「無名異《ムミヤウイ》」サイト「イアトリズム」の「知っておきたい『漢方生薬』」の「無名異」のページによれば、基原は、鉱石で、『軟マンガン鉱』とし、「薬理作用」に、『創傷回復、皮膚再生、解毒作用、消腫作用、痔疾改善、止血作用、鎮痛作用、血行改善など』とあった。

「威靈仙《イレイセン》」まことに済まないが、最後にまたまた、「株式会社 ウチダ和漢薬」の「生薬の玉手箱 |威霊仙(イレイセン)」を引かさせて戴く。基原は、キンポウゲ目キンポウゲ科センニンソウ(仙人草)属『 Clematis chinensis Osbeck シナセンニンソウ(キンポウゲ科:Ranunculaceae)の根。』とある。但し、同種は別名で「サキシマボタンヅル(先島牡丹蔓)」の名がある。以下、『威霊仙は医療用漢方薬129処方中では』。『唯一「疎経活血湯」に配合される稀用生薬ですが、古来、関節リウマチなど』、『膝関節が腫れ痛む疾患の特効薬として知られてきました』。『もともと新羅』、『すなわち今の朝鮮半島で使用されていた薬物で、宋代に僧侶によって中国に伝えられたことが』、『崔玄亮』(七六八年~八三三年:中唐の官僚)『の』「海上集驗方」『に詳しく記載されています。中国の本草書に初収載されたのは』「開寶本草」『で、「茎方数葉相対花浅紫」という簡素な植物学的記載に加え、全国的に知られた薬物ではなかったために、地方的に一時期』、『ゴマノハグサ科のクガイソウ』(九蓋草・九階草:但し、現在はタクソン変更があり、シソ目オオバコ科の、クワガタソウ(鍬形草)連クガイソウ属クガイソウ Veronicastrum japonicum である)『の仲間が利用されたようです。それが』、『たまたま』「圖經本草」『に掲載されたがために、長い間』、『クガイソウが正品であると考えられてきましたが、近年になって』、『正品はクレマチス』(=センニンソウ属 Clematis )『の仲間であることが明らかにされました。これは現在の市場品の基源と一致するもので、歴史的には中国でも原産地の朝鮮半島でも主としてClematisが利用されてきました。ただし、原植物の種類は異なり、真の正品は C.patens カザグルマ』(風車)『であり、中国では』。『それによく似た C.florida テッセン』(鉄線)『であったようです。これらの植物は、今でもそうですが、古来』、『観賞用植物として価値があり、また湿地という特殊な環境に生えるため、すぐに資源が枯渇してしまったようです。我が国でもカザグルマはレッドデータブックに収載されています。そうした意味で、今のシナセンニンソウは次善の代用品ということができます。また、朝鮮半島でも、今ではカザグルマが少なくなり、C.terniflora タチセンニンソウ』(立仙人草)、『 C.brachyura イチリンサキセンニンソウ』「跡見群芳譜」の「野草譜」の「せんにんそう(仙人草)」では、『イチリンザキセンニンソウ』 C. brachyura 『朝鮮産』とある。「一輪咲き仙人草」であろう)『などが利用されています。わが国では江戸時代から近縁の C.terniflora var.robusta センニンソウが代用されており、同様の薬効が期待されます』。『一方、クレマチス以外の異物同名品として、先述のクガイソウのほか、ユリ科の Smilax 属植物(ヤマカシュウ』(山何首鳥)『の仲間)、ガガイモ科の』イケマ(生馬・牛皮消)『 Chynanchum 属植物、キク科植物など、根の形が類似する植物が代用されてきましたが、威霊仙としての薬効がなかったものか、現在ではSmilax属以外は利用されていません。Smilax 属由来の威霊仙は』、『現在でも』、『北京をはじめ』、『北方地方で』、『よく利用されているもので、とくに現在の中医学では』、『一般に』、『このものが使用されています。本品は清代になってから使用されるようになったもので、今後の薬効的な評価が必要と思われます』。『これらの異物同名品は根の形状がよく似ていますが、次のようにして鑑別可能です。Clematis 由来の威霊仙は根が折れやすく、断面はややでん粉質です。Smilax 由来のものは硬くて噛んでも壊れません。Chynanchum 由来のものは噛むと白前や白薇に似た特有の香りがあります。キク科由来のものにはでん粉がありません。また、Clematis 由来のものの中では、中国産の C.chinensis では根の外面が灰褐色〜灰黒色で、基部がやや細くて紡錐形になり、太いものでは2mmを越えます。韓国産は根の外面が黒褐色で、径1〜2mmです。中国東北部の C.hexapetala では根が細くて1mm以下で、外面は茶褐色です。日本のセンニンソウは最近では市場性がありませんが、全体に韓国産に似て、やや黒みが少なく、全体にやや大型です。なお、古来の正品と考えられるカザグルマやテッセンでは根の外面が淡色でやや橙色がかっています』。『ところで、カザグルマとテッセンは良く似ていて、巷では混乱しています。見分け方は、長い花柄の中程に2枚の苞葉があるのがテッセンで、カザグル』マ『にはありません。また、花びら(ガク片)の数がテッセンでは6枚、カザグルマでは7〜8枚です。花屋さんで見る「テッセン」の多くはカザグルマの仲間の園芸品種です。ともに、初夏に大形で美しい花を咲かせます。今後は生薬供給を目的とした栽培も期待されます。』とある。神農子さんに、心より御礼申し上げるものである。

「沒石子《モシクシ》」先行する「卷第八十三 喬木類 没石子」の私の注を参照されたい。]

2025/09/17

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「鯨か池龍」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。以下の、標題(「か」はママ)の推定訓読では、「か」に濁点を打ち、助詞「の」を添えた。]

 

 「鯨か池龍《くじらがいけ の りゆう》」 安倍郡《あべのこほり》下村、「鯨か池」にあり。「駿河誌」云《いはく》、

『鯨か池に、九尺の靑龍《せいりゆう》あり。一夏九旬《いちげくじゆん》には、龍燈《りゆうとう》を現《あらは》す。云云《うんぬん》。』。

 今は絕《たえ》たるか、見る者、あるを、聞かず。

 

[やぶちゃん注:「鯨か池」既に「神木鳴動」で既出既注なので、そちらを見られたい。なお、関連して、私自身が古くの池沼の遷移に拘っているので、「桃澤池奇怪」と、最近の「椎田池の怪」も合わせてお読み頂ければ、幸いである。

「九尺」約二・七三メートル。

「一夏九旬」本来は、仏教用語である。「(一)旬」は「十日間」の義。「一夏九十日」の意で、その間の「安居(あんご)」を指す。元来は、インドの僧伽(そうが)に於いて、雨季の間は、行脚托鉢を休んで、専ら、阿蘭若(あらんにゃ:寺院)の内に籠って、座禅修学することを言った。本邦では、雨季の有無に拘わらず、専ら、本邦の暑い時期にプラグマティクな理由で行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して、各教団や大寺院では、種々の安居行事がある。安居の開始は「結夏」(けつげ)といい、終了は「解夏」(げげ)というが、解夏の日は多くの供養が行われて、僧侶は満腹するまで食べることが出来る。雨安居(うあんご)・夏安居(げあんご)ともいう(所持する平凡社「世界大百科事典」等の記載を参考にした)。龍と仏教の連環を象徴していて、興味深い。「龍燈」の博物誌は、私のサイト版の、南方熊楠「龍燈に就て」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・2.9MB51頁)がよい。三分割のブログ版(私のブログ・カテゴリ「南方熊楠」から、どうぞ!)もある。]

甲子夜話卷之八 28 西丸の御多門は伏見の御城より移されしこと幷同處さはらずの柱、不ㇾ掃の事

8―28 西丸(にしのまる)の御多門(ごたもん)は、伏見の御城(ごじやう)より移されしこと、幷(ならびに)、同處(どうしよ)、「さはらずの柱(はしら)」、掃(はらは)ずの事

 

 西丸御玄關前の御多門は、もと、伏見の御城の燒餘(やけあまり)を引移(ひきうつ)されしもの也、とぞ。

 故に、御多門の上には、鳥井彥右衞門(とりゐひこゑもん)【元忠。】生害(しやうがい)の蹟あり、と云(いふ)。

 正しく見し人に聞(きく)に、其上の間(ま)の方(かた)は、今、御書院番頭(ごしよゐんばんがしら)の詰處(つめしよ)なり。

 其間の側(そば)の柱に、「さはらずの柱」と唱(となふ)る、あり。此(この)柱、卽(すなはち)、元忠が自害のとき、倚(より)かゝりて腹切(はらき)たる柱ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、今に其(その)精爽、遺(のこ)りて、人、倚(よ)るときは、變、あり、と傳ふ。

 又、其間の奧の上に、「掃はずの間」と云(いふ)あり。

 廣き處には非(あら)ず。昔より掃(はき)たること、なし。

 其間の中(うち)に、元忠自害のとき、敷(し)たる席(たたみ)、今に、有り。

 又、死せんと爲(せ)しとき、水吞(みづのみ)し石の手水鉢(ちやうずばち)・柄杓(ひしゃく)等も納(をさめ)てあり、と云。

 もし、それ等(ら)の物を動かせば、亦、變を生ず、と傳ふ。夫(それ)ゆゑ、今に、掃除せざる、となり。

 又、番頭(ばんがしら)の詰處(うめしよ)より、二た間(ま)を隔(へだて)て、家賴の詰處あり。此間の外がは、物見牖(ものみまど)のある所、左右の柱に、席(たたみ)より、一尺ばかり上と覺しき所、火箭(ひや)の痕(あと)か、徑(わた)り五寸、深さ三寸餘(あまり)ほども、燒込(やけこみ)たる蹟(あと)、あり。

 伏見城攻(ふしみじやうぜめ)に、火箭を打(うち)たること、記錄には見へざれども、燒痕(やけあと)は、正しく、火箭の中(あた)りたるなるべし、と。

 御家人某の話なり。

 

■やぶちゃんの呟き

 二ヶ月半ほど、ほおっておいたところが、理由は全く判らないが、今月に入って、本カテゴリそのものへのアクセスが一番(281アクセス)になっていたので、お茶濁しに作成した。

 私は城郭に全く興味がないので、伏見城からの移転説については、渡辺功一氏のブログ「大江戸歴史散歩を楽しむ会」の「江戸城西丸の伏見櫓」が参考になるので、リンクさせておく。

「鳥井彥右衞門【元忠。】」一般には「鳥居」であるが、当該ウィキの脚注の「3」に『高野山成慶院の記録『檀那御寄進幷消息』中に「鳥井』(☜)『彦右衛門室馬場美濃守息女之文」記述あり』とあり、ネットでも、「鳥井」一族を「鳥居」とも書くケースを見出せた。小学館「日本大百科全書」によれば、鳥居元忠(天文八(一五三九)年~慶長五(一六〇〇)年)安土桃山時代の武将。通称、彦右衛門。松平氏の家臣鳥居忠吉の子として生まれ、幼少より徳川家康の側近として仕えた。「姉川の戦い」に先駆けしたのをはじめ、各地に転戦して戦功を重ね、「三方ヶ原の戦い」では、負傷して片方の足が不自由になったと伝えられる。天正一〇(一五八二)年、北条氏勝を甲斐に破り、甲斐郡内地方において、領地を与えられ「城持衆」(しろもちしゅう)の一人として一手を預かった。その後は、徳川氏の武将として先手(さきて)を勤め、天正一八(一五九〇)年の「小田原攻め」では、相模の築井(つくい)城(現在の相模原市緑区内)、武蔵の岩槻(いわつき)城(現埼玉県)を攻め下し、功により下総国矢作(やはぎ)(現千葉市)で四万石を与えられた。「関ヶ原の戦い」に際し、伏見城を守ったが、豊臣方の包囲され、落城・戦死した、とある。この最期については、当該ウィキに、やや詳しい。そこに、本篇の絡みでは、『最期の地になった伏見城に残された血染め畳は』、『元忠の忠義を賞賛した家康が』、『江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちの頭上に掲げられた。明治維新による江戸城明け渡しの後、その畳は』、『明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、壬生城内にあり』、『元忠を祭神とする精忠神社』(せいちゅうじんじゃ)『の境内に「畳塚」を築いて埋納された。床板は「血天井」として京都市の養源院』『をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も伝えられている』とある。

2025/09/13

和漢三才圖會卷第九十二之本 目録 草類 藥品(2) 六陳

 

  りくちん

  六陳

 狼毒 枳實 橘皮 半夏 麻黃 吳茱萸

陶隱居曰六種皆須陳久者良其餘須精新也

 大黃 木賊 荆芥 芫花 槐花

李果曰是等亦宜陳久不獨六陳也

[やぶちゃん字注:「李果」は「李杲」の誤記。東洋文庫訳では、直されてある。訓読文では、訂した。

 

   *

 

  りくちん

  六陳

 狼毒《らうどく》 枳實《きじつ》 橘皮《きつぴ》

 半夏《はんげ》  麻黃《まわう》 吳茱萸《ご》

陶隱居が曰《いはく》、「六種、皆、陳(ふる)く久しき者を須(もち)いて[やぶちゃん注:ママ。]、良し。其《その》餘《よ》は、精-新(あたらし)きを須《もちふ》なり。」≪と≫。

 大黃《だいわう》 木賊《もくぞく/とくさ》

 荆芥《けいがい》 芫花《げんくわ》

 槐花《くわいくわ》

李杲《りかう》が曰く、「是等も亦、陳久《ちんきゆう》、宜《よろ》し。獨り、『六陳《りくちん》』のみならざるなり。」≪と≫。

 

[やぶちゃん注:以上の訓読は、ブラウザの不具合を考え、一行字数を減じた。

「六陳」「ユンケル」公式サイトの「陳皮」のページの「豆知識」に、『陳皮の陳は「古い」という意味の漢字です。生薬の伝統的な考え方の一つに「六陳」というものがあります。生薬を選ぶときには古く熟成した方が良いものと、新しく鮮度がある方が良いものがあり、「古い方が良い代表的な』六『種類の生薬」が「六陳」です。「六陳」には陳皮のほか、呉茱萸・枳実・半夏・麻黄・狼毒があるとされます。これらの生薬には、強烈で刺激が強い成分が含まれているため有毒ですが、時間の経過により、安全で効き目の高い成分に変化します。ミカンの皮をそのまま食べたら、苦くて気持ち悪くなってしまった』……『そんな経験はありませんか?』 『なお、古ければ良いというわけではなく、陳皮であれば』、一~二『年の熟成が良いとされています。これ以上経つと、薬効成分も減り、効果が失われてしまうのです。ただの「古い皮」ではなく、手間暇かけて一番良い所で選ばれたのが「陳皮」というわけです』とある。

「狼毒」「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱 | 狼毒(ロウドク)」によれば(非常に詳しく、長いが、有毒物であるので、私のポリシーから、概ね、引いておいた。ピリオド・コンマは句読点に代えた)、キントラノオ目『トウダイグサ』(燈台草)『科(Euphorbiaceae)』トウダイグサ属『の Euphorbia pallasii 』(ヒロハタカトウダイ(広葉高燈台))・『 E. fischeriana 』(ウィキの「タカトウダイ」(高燈台:Euphorbia lasiocaula )では、前者のシノニムとする)・『 E. ebracteolata 』(マルミノウルシ(丸実野漆))『などの根を乾燥したもの』で、『狼毒は』「神農本草經」『の下品に収載され』、「咳逆上氣を主治し、積聚、飲食、寒熱水気を破り、惡瘡、鼠廔、疽蝕、鬼精、蠱毒を治し、飛鳥,走獸を殺す。」『とその効用が記されています。実際にオオカミ対策に使用したかどうかはわかりませんが、狼毒は』「神農本草經」『に記された薬効からはかなりの猛毒薬であったことがうかがえます。その有毒性を利用したとすれば』、『同効の様々な毒草が利用されたことが想像され、そのためか』、『古来』、『異物同名品が多く存在していたようです』。「圖經本草」『に描かれた石州狼毒の図は根頭に茎が叢生していることからは、Stellera 属』(アオイ目ジンチョウゲ科 Thymelaeaceae)『ともEuphorbia属とも受け取れますが、花の形はどちらかと言うとEuphorbia属に似ています』。『明代になると李時珍は「今の人は住々草䕡茹』(そうろじょ:本邦の現行では、トウダイグサ属ノウルシ(野漆) Euphorbia adenochlora:ムクロジ目ウルシ科Anacardiaceae或いはウルシ属 Toxicodendron の真正のウルシ類とは無縁なので注意されたい)『をこれにあてるが、誤りである」といっています。この草䕡茹は』「本草綱目」『の記文からも明らかに Euphorbia 属のもので,この頃の狼毒の主流はEuphorbia 属であったようです』。『清代の』「植物名實圖考」『には「本草書の狼毒は皆はっきりしない(中略)滇南に土瓜狼毒がある」と記され、また、草䕡茹の項に「滇南では土瓜狼毒と呼ぶ」とあり、このものは Euphorbia prolifera であるとされています。ところが、一時期』、『日本に輸入されていた香港市場の狼毒は』、『これらの植物とは全く異なり、サトイモ科』Araceae『のクワズイモ Alocasia odora の地下部を基源とするものでした。これは』「植物名實圖考」『の狼毒の項に』「紫莖南星を之に充てる」『と記されているサトイモ科の天南星の類( Arisaema 属植物)のものと考えられ、それが次第に飲片』(いんぺん:漢方で煎じ薬用の薬を指す)『の形状がよく似て』、『収量の多いクワズイモに代わったとされています』。『以上の三つの科にまたがる原植物は形態的にはかなり異なります。Euphorbia 属には白い乳液があり、Stellera 属は小さいが』、『きれいな花を咲かせ、クワズイモは他に比べると』、『はるかに大型になる』、『などです。それらに共通する有毒性が』、『この生薬の本質であるとすれば、やはり有害動物対策に使用されたことが考えられます。蒙古では今でも』、『オオカミを駆除するために動物の肉に有毒物質を混ぜて利用すると聞きます。オオカミがいない南方の地では殺鼠剤として使用されていたのでしょうか』。『現在、狼毒は専ら外用薬としてリンパ腫脹や疥癬などに用いられますが、内服薬としては、逐水、去痰、消積などの作用があるとされ、心下が塞がっておこる咳嗽、胸腹部の疼痛などに他薬とともに用いられます』。『実は、狼毒は正倉院の』「種々藥帳」『に記載があり、奈良時代には既に渡来していたようです。現在では稀用生薬ですが、当時は重要な生薬の一つであったものと考えられます。今では現物が失われて原植物が何であったかは定かではありませんが、時代から考えると Stellera 属であったように思われます。鑑真和尚が敢えて日本にもたらす薬物の中に狼毒を選んだと考えると、今となっては窺い知れない何か別の理由があったようにも思われます』とある(先行する「第八十七 山果類 橘」の私の注から転写した)。

「枳實」先行する「卷第八十四 灌木類 枳殻」の中の「枳實」の本文、及び、私の注を参照されたい。

「橘皮」先行する「卷第八十七 山果類 橘」の、本文及び私の「枳実」の注を見られたい。

「半夏」前回で既出既注だが、転写すると、単子葉植物綱ヤシ亜綱サトイモ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク Pinellia ternata のコルク層を除いた塊茎。嘔気や嘔吐によく使われる生薬である。私の「耳囊 卷之七 咳の藥の事」も参照されたい。

「麻黃」中国では、裸子植物門グネツム綱グネツム目マオウ科マオウ属シナマオウEphedra sinica(「草麻黄」)などの地上茎が、古くから生薬の麻黄として用いられた。日本薬局方では、そのシナマオウ・チュウマオウEphedra intermedia(中麻黄)・モクゾクマオウEphedra equisetina(木賊麻黄:「トクサマオウ」とも読む)を麻黄の基原植物とし、それらの地上茎を用いると定義している(ウィキの「マオウ属」によった)。また、漢方内科「証(あかし)クリニック」公式サイト内の「暮らしと漢方」の「麻黄…エフェドリンのお話」が非常に詳しいので、見られたい。

「吳茱萸」先行する「卷第八十九 味果類 呉茱萸」の本文と私の注を参照されたい。

「陶隱居」六朝時代の梁の医学者・科学者にして道教の茅山派の開祖でもある陶弘景(四五六年~五三六年)の自称。彼の「名醫別錄」(全七巻)は「本草綱目」で頻繁に引かれている。

「大黃」タデ目タデ科ダイオウ属 Rheum の根茎の外皮をり去って乾燥したもので、健胃剤・潟下剤とする。「唐大黄」と「朝鮮大黄」との種別がある

「木賊」シダ植物門トクサ綱トクサ目トクサ科トクサ属トクサ Equisetum hyemale (漢字表記:「砥草」・「木賊」)全草を乾燥したもの。「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 |  砥草、木賊(トクサ、モクゾク)」に拠れば、『属名のEquisetumは「馬の毛」を意味しており、スギナやトクサは英語ではホーステイル(Horsetail)とも呼ばれています。古代ギリシャの植物学者ディオスコリデスがミズドクサの水中にある茎に生じる黒い根にちなんでつけた名に由来します。トクサの仲間は古くから薬用としても利用されてきましたが、古来』、『麻黄との混乱が見られる薬物です』(☜)。『「木賊」の名は』「嘉祐本草」(本来は北宋末の一〇九〇年頃に、成都の医師唐慎微が「嘉祐本草」と「圖經本草」を合はせ、それに約六百六十の薬と、多くの医書・本草書からの引用文を加えて作った「經史證類備急本草」の通称。しかし、「證類本草」の語は未刊のまま終わったらしい唐慎微の書に、一一〇八年に艾晟(がいせい)が、それに多少の手を加えたものの刊本である「大觀本草」と、さらに一一一六年に曹孝忠らが、それを校正して刊行した「政和本草」を加えた、内容的に殆んど同一の三書の総称として用いられることの方が多い。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)『に初見され、「目疾に用いて翳膜を退け、積塊を消し、肝、膽を益し、腸風を療じ、痢を止め、また婦人の水月が断えぬもの、崩中赤白を止める」薬物とされています。掌禹錫は』「嘉祐補註本草」『の中で「木賊は秦、隴、華、成諸郡の水に近い土地に出る。苗は長さ一尺ばかり、叢生するものだ。毎根一幹で花も葉もなく、一寸位ずつに節があって色は青い。冬を凌いで凋まない。四月に採取する」といっており、トクサの形状を記したものと考えられます。また名義については』、『明代の李時珍が「この草は節があって表面が糙澀である。木骨の細工に用い、木を磋』(みが)『き擦れば粗い理が取れて滑らかになる。それ故木の賊というわけだ」と述べています。前漢時代の馬王堆漢墓の埋蔵品の中から「木賊」が見つかっており、古くから薬用とされていたことが推察されます』。『一方、麻黄との混乱も見られ、李時珍は「木賊は中空で節があり、麻黄の茎と似ている。形を同じくし性も麻黄と同じものだ。故にやはり能く汗を発し、肌を解し、火鬱、風湿を升散し、眼目の諸血疾を治す」と述べており、明代には麻黄と混用されていた記載が見られます。「木賊」と「麻黄」の原植物の混乱に関しては『薬史学雑誌』』(二〇〇六年)『に詳細な報告があり』、『それによりますと、麻黄に関する記載の中に「木賊に似ている」とする内容はないが、宋代の』「圖經本草」『に「雄は花がない」との記載がある。マオウ属植物は雌雄異株であり雌花はあまり目立たないが』、『雄花は黄色で目立つことから、この記文は花が咲かないトクサ属植物を指していた可能性が考えられる。また、マオウ属植物の茎には髄があり中実であるのに対して、清代の本草書には「中空である」との記載が多く見られる。同時期の「木賊」の原植物の特徴として「中空」が頻出することからも明らかにトクサ属植物を記したものと判断される』。「本草匯箋」(ほんぞうかいせん)『には「麻黄は中空で細い枝が繁る」との記載から麻黄との混乱はトクサではなくイヌドクサ』(犬木賊)『 Equisetum ramosissimum Desf.であったと考えられ、李時珍の「茎が麻黄に似ている」との記載も茎が太いトクサではなく、細いイヌドクサの方が合致する。また江戸時代の『本草綱目啓蒙』には「舶来の麻黄中にイヌドクサが多く混ざっている」との記載もあり、中国では明代から清代にかけて「麻黄」と「木賊」の原植物の混乱があったため、日本に輸入された麻黄にもイヌドクサが混入していたようです』。『トクサは高さ』一『メートルにもなる植物で、暗緑色の地上茎は分枝せず』、『直立します。茎の先端に楕円体の胞子嚢穂がつきます。トクサ属植物の茎は表面にある無水』珪『酸のせいで』、『ざらついており、トクサでは』、『それが顕著で』、『以前は研磨材として用いられたため』、『「砥草」の和名がついたとされています。イヌドクサはトクサに似ていますが、やや小型で茎が細く節に枝を生じます』。『木賊の含有成分としてパルストリン、ジメチルスルフォンの他、多数のトリテルペンやフラボノイドなどが報告されていますが、もちろん麻黄に含まれるようなエフェドリン』(ephedrine:充血除去薬(特に気管支拡張剤)、又は、局所麻酔時の低血圧に対処するために使われる交感神経興奮剤)『などのアルカロイドは含有されていません。なお、李時珍が記しているように麻黄と同じ効能があるのかどうかに関する研究はないようです。両者は植物学的に余りにも異なる植物ですから』、『検討の余地はなさそうですが、麻黄の資源問題やエフェドリンのドーピング問題などを考えるとき、李時珍の一文が』、『ふと』、『頭をよぎります』とある。

「荆芥」シソ目シソ科イヌハッカ属ケイガイ Schizonepeta tenuifolia で、花穂が発汗・解熱。鎮痛・止血作用を持つ漢方生剤。

「芫花」アオイ目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属フジモドキ(藤擬) Daphne genkwa の花蕾。豊橋市の漢方薬局「桃華堂」の「芫花(げんか)」に拠れば、「効能・効果」に『①瀉水除湿』、『②逐痰滌飲』、③殺虫療癬』とあり、『フジモドキは中国・台湾原産の落葉樹であり、日本には江戸時代初期に渡来しました。庭や公園などに植栽され、九州では野生化しています。名前に「藤」とついていますが、フジモドキはジンチョウゲ科の植物であり、マメ科のフジとはまったく別の植物です。花の形も似ておらず、どこがフジ「モドキ」なのかというと、おそらく花の色がフジの花に似ていたためにつけられた名前であると考えられています。「チョウジザクラ」という別名もあり、園芸店ではこちらの名前でよく売られていますが、桜の仲間であるチョウジザクラとはまったく別の植物です。他にも「サツマフジ」という名前もあります』。『花の乱れがなく、苦味の強い、香気の高いものが良品とされています。また、新しいものよりも古いものほどよいとされています』。『瀉下薬の中でも作用が非常に激しく、下痢を起こさせ体内の水分を排出させる峻下逐水薬(しゅんげちくすいやく)に分類され、同じような効能を持つ生薬に甘遂(かんつい)、大戟(たいげき)、牽牛子(けんごし)などがあります。峻下逐水薬作用が非常に激しいため、常用はせず、安易な使用は避けるようにと多くの書物に書かれています』。『甘遂・大戟・芫花の中で薬効は甘遂がもっとも強く、大戟がこれに次ぎ、芫花はやや緩やかです。毒性は芫花がもっとも強く、甘遂・大戟はやや緩やかです』。「神農本草經」『の下品に収載されており、古くから逐水薬として使われていました。毒性の強さから、一般的には炒めたりすることで毒性を軽減してから利用されています。利尿作用があり、腹水・浮腫・尿量減少・便秘などに用いられていました。代表的な漢方薬に甘遂や大黄(だいおう)と一緒に配合された舟車丸(しゅうしゃがん)があります』。『去痰・鎮咳作用があり、呼吸困難・咳嗽・胸脇痛などの症状を改善します。特に甘遂・大戟・芫花の』三『つの峻下逐水薬を併用することで、胸水や腹水の治療に用いられます。代表的な漢方薬に十棗湯(じっそうとう)があります。十棗湯は』三『つの峻下逐水薬を併用することによる消耗を抑え、作用を緩和するために大棗(たいそう)』十『個を服用することからこのような名前がつきました』。『駆虫作用があり、虫積(寄生虫)による腹痛に用いられます。頭部白癬症に単味の粉末を豚脂で調整し外用します』。『生薬の配合で混ぜると』、『毒性が強く出やすい組み合わせを「十八反(じゅうはっぱん)」と言います。芫花もこの中に含まれており、配合禁忌とされている生薬に甘草(かんぞう)があります』。『気力・体力が十分ない人に軽々しく使用してはいけません。妊婦には禁忌です』とあった。

「槐花」バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicumの花、若しくは、花蕾を基原とする。同種に就いては、先行する「卷第八十三 喬木類 槐」を参照されたい。同前のサイトの「槐花」のページに、「効能・効果」に『①涼血止血』、『②清肝降火』とし、『エンジュは古くから日本で植栽されている植物です。学名にjaponicaとあり、学名がついた当時は日本原産であると考えられていたようですが、原産は中国です』。『古くは「えにす」と呼ばれており、これが転化してエンジュになりました。「延寿」に通じることから、日本では』、『めでたい木であるとされています』。『若葉は茹でると食べることができます』。『エンジュに似た植物でイヌエンジュ』(マメ科イヌエンジュ属イヌエンジュ Maackia amurensis )『がありますが、こちらは日本の固有種です。育てやすく長命なため、日本全国の街路樹や庭木などとして植えられています。イヌエンジュにはエンジュのような薬効はないと考えられています』。『エンジュは使用部位で生薬の名前が異なります。花を乾燥させたものを「槐花」、花蕾を乾燥させたものを「槐米(かいべい)」または「槐花米(かいかべい)」、果実を乾燥させたものを「槐角(かいかく)」と言います。現在生薬として使われることが多いのは槐花と槐角です。効能はほぼ同じですが、涼血止血(血液の熱を冷まして止血する働き)は槐花の方が優れ、瀉熱下降(熱を冷まして気を下に降ろす働き)は槐角の方が優れていると言われています』。『生薬を採取してから保存期間が短いものほど良品とされる「八新(はっしん)」の一つです。時間が経つほど気味が抜けやすく、効能が落ちてしまうという特徴があります。八新には他にも薄荷(はっか)、菊花(きくか)、桃花(とうか)、赤小豆(せきしょうず)、蘇葉(そよう)、沢蘭(たくらん)、款冬花(かんとうか)があります』。『出血を止める止血薬(しけつやく)に分類され、同じような効能を持つ生薬に三七(さんしち)、仙鶴草(せんかくそう)、地楡(ちゆ)などがあります』。『涼血止血作用があることから、血便・痔出血・鼻血などに用いられます』。『肝の熱を冷ます効果があることから、肝火上炎(かんかじょうえん:精神的ストレスに熱が加わった状態)による目の充血や頭痛・イライラなどに黄苓(おうごん)や菊花と一緒に用いられます』。『成分としてフラボノイドのルチンが含まれています。ルチンはかつてビタミンPとよばれていたビタミン様物質で、毛細血管の働きを安定・強化させることで高血圧・動脈硬化・脳卒中などの予防効果があると言われています。ルチンを主成分とした健康食品も販売されており、槐花はルチンの抽出原料として使われています。ルチンは他にもソバなどにも含まれています』とある。

「李杲」金・元医学の四大家の一人とされる医師李東垣(一一八〇年~一二五一年)。名は杲(こう)、字(あざな)は明之(めいし)、東垣は号。河北省正定県真定の生で幼時から医薬を好み、張元素に師事、その業をすべて得たという。富家であったので医を職業とはせず、世人は危急の際以外は診てもらえなかったが「神医」と称されたという。病因は外邪によるもの以外に精神的な刺激・飲食の不摂生・生活の不規則・寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとして「内傷説」を唱えた。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると百病が生じる」との「脾胃論」を主張、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。朱震亨(しゅしんこう)とあわせて李朱医学と称された(小学館「日本大百科全書」に拠る))の「食物本草」で知られるが、これは、明代の汪穎の類題の書と区別するために「李東垣食物本草」とも呼ぶ。]

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「木枯森の奇」

[やぶちゃん注:底本はここ。段落を成形し、句読点・記号を変更・追加した。]

 

 「木枯森《こがらし の もり》の奇《き》」 安倍郡《あべのこほり》羽鳥村《はとりむら》木枯の杜《もり》にあり。「風土記」云《いはく》、

『安弁郡木枯森、廣野姫天皇庚寅十月、府官史生、吏部、奉ㇾ役入山中暴風陣々、樹木顚倒、荒忽如酒醉、于ㇾ時風雨一行、後已至黃昏月淸朗焉、有一大男、居巖頭、其威風如ㇾ生毛髮、暫時難ㇾ對顏眉、史生秦助右、解腰劔當ㇾ之、下ㇾ手不ㇾ覺目眩、四邊無ㇾ物、唯如ㇾ覺醉夢吏部並餘生如ㇾ此、其後不ㇾ知其過蹤。云云。』。

 木枯の森、今猶、存して、八幡宮あり。

 

[やぶちゃん注:まず、やや長いが、この「木枯森」の地名について、非常に興味深い地名伝承を含む解説を見出したので、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河記 上卷」(桑原藤泰著・足立鍬太郎校・出版者/加藤弘造・昭和七(一九三二)年刊:作者は島田宿の素封家桑原藤泰(号は黙斎)の編になる駿河国地誌。文政元(一八一八)年完成。詳しくは、先行する「神戱」の私の注の引用中にある、私が挿入した太字部分に詳しい)の「卷五 安倍郡卷之五」の「〇木魂明神社」の項(ここから)を視認して電子化する。

   *

〇木魂明神社  祭神句々迺馳命(ククノチ)也 本社と相殿神主內野右近

 文明二年並天正元年壬辰祭主內野掃部介等記する棟札あり。

 當社緣起に曰かみつ代此里に原阪氏夫婦のものあり。そが中に一人のかほよき女子をもてり。玆にいつ地とも知れず、年の程二八許なる美童、水干に袴付てよくたち[やぶちゃん注:四文字に右注で『(夜更)』とある。]に女子の閨房に通ひ交りを通しけり。ある夜女子美童にむかひ、御身は何地に住給ひ侍ると尋けるに、さだかなるいらへもなかりしかば、女子ふしぎにたへかねて、恥をしのびて母にかくと告たり。母驚き、そは人間のわざにあらじと、女子に敎へていふ、今より七夜に七におけの麻を績(う)み、其緖に針を付て、彼人のかへるさに袴の腰に結ひ付て見よかしとありけるにぞ、敎の如くある夜半に美童の袴に鍼さしけり。明る日彼千尋の糸にしたがひて尋見けるに、きりくひ[やぶちゃん注:同じく四文字に右注して、『(伐杭)』とある。]本社の【今云白鬚神社の社中くひは後の地名】大杉の木に止りけり。あたりの人々驚きいふ。こは木魂のくせ事にや、あな恐ろしきことにこそと申あへり。父是を聞てかゝるくせことこそ安からねとて、いといきどろし[やぶちゃん注:ママ。](と思ひ)つゝ人夫に仰せて大杉を伐果し、控[やぶちゃん注:右に『(空)』と傍注する。]舟に造なして、女子を乘て、藁科川に流しけり。母は生別の悲しさに川邊に出て嘆きかなしみ止むれど、父のいかりのたゆまねば、止るに力なく、其身も浴盤[やぶちゃん注:行水盥(ぎょうずいだらい)。]に乘じつゝ女子をしたひて同じ流に乘下り、なきこがれて呼さけびてぞ流ける其聲かすかにかすかに聞えしかば、母の悲嘆の悲さにせめてもの形見にもとや思ひけむ。櫛笥[やぶちゃん注:「くしげ」。櫛や化粧の道具を入れておく箱。取てぞ河水に投じける。【櫛笥の止る處寺島の里なり今社あり】時しも山河震ひ動き、疾風疾(猛)雨[やぶちゃん注:前の括弧のそれは、「疾」と誤った正しい字を示したものであろう。]降りしきり、洪水溢れ漲て[やぶちゃん注:「みなぎりて」。]控舟遙に遠く流しに[やぶちゃん注:「ながれしに」。]、一島の元に至り俄然にくつがへりぬ。母の乘たる浴盤同じ流の上の一島の元にくへかつりて[やぶちゃん注:「くへ」は「壞(く)え」の誤りで、「かつり」は「潛(かづ)く」の活用の誤りであろう。「浴盤が、壊れて水の中に潜ってしまい」の意で採る。]水底に沈ける。この二島を校正に呼て一を舟山と云一をこかれし[やぶちゃん注:母が娘を「こがれし」の意であろう。]森といふ。なをはた後の代には木枯の森とは號しけるとなむ。なほ後の代に、彼木を切し跡を木魂明神と齋り[やぶちゃん注:「いつけり」或いは「いはへり」であろう。]、その地をきりぐひと名號[やぶちゃん注:「みやうがう」。]しも皆此本緣[やぶちゃん注:「ほんえん」。「緣起」に同じ。]今に原阪氏の子孫忠左衛門といふものゝ家には麻を植うる事を禁すといふ。又神社邊古木の朽殘れる跡徑り七步許、今猶存す。【此說和州三輪の說にひとし、古たる物語なれば信僞を不ㇾ論こゝに載。〇前半は三輪物語なれども後半は異なりたる地名傳說なり。此文原本の方おもしろし。故につとめて其の面影を存す。】

   *

 以下、漢文部を推定訓読する。

   *

 安弁郡[やぶちゃん注:「安倍郡」の誤り。]木枯森(こがらしのもり)、廣野姫天皇庚寅(かのえとら)十月、府官、史生(ししゃう)、吏部(りぶ)、役を奉りて、山中に入れば、暴風、陣々(ぢんぢん)、樹木、顚倒(てんたう)し、荒忽(くわうこつ)として[やぶちゃん注:空漠として。]、酒に醉(ゑ)ふがごとく、時に、風雨、一行(いつかう)[やぶちゃん注:一たび、行き過ぎること。]、後(のち)、已(やみ)、黃昏(くわうこん)に至り、月、淸朗(せいらう)たり。一(ひとつ)の大男(おほをとこ)、有り、巖頭に居(を)り、其の威風、毛髮、生ずるがごとく、暫時、顏《かほ》・眉《まゆ》、對し難く、史生の秦助右(はたのすけゑ)、腰の劔(つるぎ)を解き、之れを當(あ)つるも、手を下(おろ)すも覺えず、目、眩(くら)む。四邊、物、無く、唯(ただ)、醉(ゑひ)たる夢より覺むるがごとし。吏部、並(ならび)に、餘生《よしやう》、此くのごとし。其の後(のち)、其の過ぎし蹤(あと)、知れず。云云(うんうん)。

   *

「廣野姫天皇庚寅」持統天皇の別名で、この干支は持統天皇六年で、ユリウス暦六九〇年相当。

「史生」官司の四等官の下に置かれた職員。書記官相当で、公文書を作成し、四等官の署名を得ることを主職掌とした。

「吏部」太政官八省の一つである式部省相当の役人。文官の考課・選叙・禄賜等の人事一般を取り扱った。

「安倍郡羽鳥村木枯の杜」現在の静岡市葵区羽鳥に現存する。「静岡市」公式サイト内の「木枯ノ森」に、『安倍川最大の支流「藁科川(わらしながわ)」が安倍川に合流する手前にある川中島で、森はお椀を伏せたような丘を形成し、小さな島は木々に覆われています。「枕草子」のころから、駿河国の歌枕として親しまれてきた場所です。また、本居宣長が撰文を刻んだ石碑「木枯森碑」も森の中に佇んでいます』。『木枯ノ森の中には石段や鳥居などが見受けられ、頂には木枯八幡宮があり』、『八幡神が祀られていましたが、度重なる災害や参拝の困難さから羽鳥八幡神社にご神体は移されました。毎年』九『月頃に、羽鳥八幡神社から八幡様が木枯ノ森へ「本家帰り」する祭りが行われています』。『川の真ん中にあるため周囲には駐車場もなく、木枯ノ森に渡るための橋なども整備されていないため、訪れるには川の中を通らなければなりません。静岡の不思議な秘境スポットです』とある。地図はそちらのものを見るのが、よい。当該ウィキ(そこでは「木枯森」とする)に拠れば、長さ百メートル、高さ十メートル『ほどの小さな丘』とする。平凡社「日本歴史地名大系」では、『現在の羽鳥(はとり)と牧ヶ谷』(まきがや)『を結ぶ藁科(わらしな)川の牧ヶ谷橋付近の中洲に存在する小丘の森。県指定名勝。森の中には木枯神社(八幡神社)が鎮座する。近くを古代の東海道が走っていたことにより、景勝地として古くから歌枕とされ、「能因歌枕」に駿河国の歌枕の一つとして載る。「後撰集」に「こがらしのもりのした草風はやみ人のなげきはおひそひにけり」(読人知らず)、「枕草子」の「森は」の段にも「木枯の森」とある』。但し、『山城国の歌枕ともされ』(「能因歌枕」)、『現京都市右京区の木枯神社付近の森をさすともいわれ、その所在は判然としない』とあった。静岡放送が運営する公式サイト「@Sアットエス」の「藁科川の舟山と木枯森を訪ねる」が詳しい。既出と重複する箇所があるが、全文を引く。動画もあるのでお勧めである。『安倍川と藁科川の合流点にある舟山』(ふなやま)。『ここに、かつて舟山神社と呼ばれる神社がありました』。『この場所は、安倍川が増水すると参拝できなくなったため、明治』二二(一八八九)『年に、舟山神社は安倍川の右岸の神明宮に移されることになりました。藁科川が安倍川に合流する手前には、川の中洲に木々に覆われた小さな島、「木枯森」(こがらしのもり)があります。伝説によると、神である大蛇との間に子供を生んだ娘に父親が怒り、その子どもを川に流してしまいました。娘は子どもを追いかけましたが、この辺りで別れ別れになってしまい』、『嘆き悲しんだ娘が』、『子に焦がれた場所として木枯森と呼ばれるようになったとされています。「木枯森」は、清少納言の「枕草子」にも記され、美しい風景として、数多くの歌に詠まれてきました。森の山頂には八幡神社が祀られ、江戸時代の国学者本居宣長の撰文を刻んだ「木枯森碑」や、駿府の医師であった花野井有年』(はなのいありとし 寛政一一(一七九九)年~慶応元(一八六六)年:江戸後期の医師。江戸・大坂などで漢方・蘭方を学び、文政八(一八二五)年、郷里の駿府で開業、後、皇国医方(日本固有の医術。「和方」とも言う)に転向した。著作に「醫方正傳」・「辛丑(しんちゅう)雜記」等がある。以上は、講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に基づく)『の歌碑が建てられました。現在』、『ここに石段や鳥居は残るものの、度重なる災害や参拝の難しさから、羽鳥の八幡神社にご神体が移されました。毎年』九『月頃には』、『羽鳥の八幡神社からご神体を神輿に乗せて木枯森へ戻す祭りが行われます』。『東海道の旅の名所を記した』「東街便覽圖畧」『にも、安倍川と藁科川が描かれ、「舟山や木枯森などが川の中に浮かんだ様子は、非常に面白い。ここから見る富士山の姿は見事である。」と紹介されています』とある。また、サイト「YamaReco」のJA12V氏の投稿記事「地元の珍山_舟山(ふなやま)_安倍川の川中島」には、他では見られない跋渉された詳しい画像が豊富にある。

 さても。冒頭に私が起こした話があってこそ、この話、想像が膨らむというものであろう。

2025/09/12

和漢三才圖會卷第九十二之本 目録 草類 藥品(1)

[やぶちゃん注:漢方名を、逐一、附した結果、膨大な時間がかかり、容量もトンデモないものになってしまった。]

 

 藥品(やくひん)

 凡諸藥多用草故字从艸今金石木土之劑皆爲藥而

[やぶちゃん注:原本では、「今」は「グリフウィキ」の、この異体字だが、表示出来ないので「今」とした。今までは、あまり、見たことがない。]

 草木根梢收採惟宜秋末春初春初則津潤始萠未𠑽

[やぶちゃん字注:「𠑽」は「充」の異体字。]

 枝葉秋末則氣汁下降悉歸本根諺曰賣藥者兩眼用

 藥者一眼服藥者無眼非虛語也毉不能識藥惟聽市

 人市人又不辨究皆委採送之家傳習造作眞僞好惡

[やぶちゃん字注:「究」の字は、原本では、最終画の縦部分に「﹅」が交わっているが、このような異体字はない。恐らく、「究」の異体字「䆒」を誤ったものと思われる。]

 並皆莫測

 鍾乳醋煑令白 細辛水漬使直 黃茋𮔉蒸爲甜

 當歸酒洒取潤 蜈蚣朱足令赤 古壙灰云死龍骨

 以齋苨亂人參 用木通混防已 苜蓿根謂土黃耆

 螵蛸膠于桑枝 藿香采茄葉襍 麝香搗茘枝核攙

[やぶちゃん字注:「攙」の原本の、この漢字は、(つくり)の上下ともに、上から、〔「ク」+「『口』の二個の結合」+「比」〕を重ねたものとなっているが、こんな漢字は存在しない。東洋文庫訳では、この字を「まぜる」と訳していることから、その意を持つ、この字に確定した。

 研石膏和輕粉 以薑黃言鬱金 嫩松梢爲肉蓯蓉

 枇杷蘃代欵冬 草仁𠑽草豆蔲 松脂混騏麟竭

[やぶちゃん字注:「蘃」は「蘂」(しべ)の異体字。]

 西呆代南木香 驢脚脛作虎骨 畨硝和龍腦香

 或半夏煑黃爲玄胡索 或熬廣膠入蕎麵【炒黒】作阿膠

[やぶちゃん注:「麵」は「グリフウィキ」のこの異体字だが、表示出来ないので、かく、した。]

 或煑雞子及鯖魚枕爲琥珀之類巧詐百般爲忌畏毒

 甚致殺人歸咎用藥【本草綱目本草必讀之說拾要記之】

△按百草黒燒用鍋底墨陳倉米用三年米者雖不中不

 遠以猿尾贋鹿茸以膠飴襍蜂𮔉以黃獨爲何首烏者

 其用藥有何益耶


凡藥品來於中𬜻者 大君命遣識藥人于長崎悉辨正

[やぶちゃん注:「大君」の前の字空けは、尊敬のそれである。訓読では、カットした。]

 之以聽交昜出於日本藥品贋僞者嚴所禁止

 藿香 黃茋 白歛 白芷 白鮮皮 桑寄生

 常山 辰砂 滑石 阿膠 代赭石 爐眼石

右件倭藥不佳所以禁交易

 官桂 大戟 茵陳 續斷 牛黃 白丁香

 熊膽 虎膽 麝香 琥珀 阿仙藥【俗云斧割】 五加皮

右件藥贋僞多有所以禁賣僞藥

 熟地黃 麹半夏 神麯 乾薑

右件藥修製宜隨古法如省略者禁賣

 川烏頭僞名新附子 大風子油僞名雷丸油

 倭當藥僞名胡黃蓮

右件藥自今以後用本名須賣買之

 重目輕粉 平戸人參 熊野小人参

右件藥性功不佳所以禁賣買

 明暦四年法令詳審如之然恐詐送者嘗綿宻之擇求

者毎等閑也蓋藥店肆有言不欲價賤輒可得眞者

 

   *

 

 藥品(やくひん)

 凡《およそ》、諸藥、多くは、草を用ふ。故に、字、「艸」に从《したがふ》。今、金・石・木・土の劑、皆、藥と爲《な》して、草木根梢《さうもくこんしやう》を收-採《をさめと》るに、惟《ただ》、秋の末《すゑ》、春の初に、宜《よろ》し。春の初めには、則《すなはち》、津(しる)[やぶちゃん注:「汁」に同じ。植物体の体液。]、潤《うるほひ》て、始《はじめ》て萠《もえ》、未だ、枝葉に𠑽(み)たらず、秋の末には、則《すなはち》、氣汁《きじる》[やぶちゃん注:全体の体液から生み出されるからこその、全体の「氣汁」なのである。]下降≪し≫、悉《ことごと》く、本《もと》≪の≫根へ歸《き》す。諺《ことわざ》に曰《いふ》、「藥を賣る者は兩眼《ふたつめ》、藥を用《もちふ》る者は一眼《ひとつめ》、藥を服する者≪は≫眼無《めな》し。」と。虛語《きよご》に非《あら》ず。毉《い》、能≪くは≫藥を識《し》らずして、惟《ただ》、市(う)る人に聽(まか)す。市る人も又、辨究《べんきゆう》せずして、皆、採-送《とりおく》るの家に委(まか)す。傳習《でんしふ》・造作《ざうさ》・眞僞・好惡(よしあし)、並《ならび》に、皆、測(はか)ること、莫《な》し[やぶちゃん注:医師寺島良安自身、自戒の意味を込めつつ、ズバリと、述べている。「和漢三才圖會」の電子化を永くやっているが、ここで初めて等身大の良安を感じ、心から尊敬した。]。

[やぶちゃん注:以下、訓読では、一項目を独立させて示し、各個に後注を附す。]

「鍾乳《しようにゆう》」は、醋《す》にて煑て、白《しろ》からしむ。

[やぶちゃん注:これは所謂、鍾乳石を指す。「地層科学研究所」公式サイト内の「地層と健康いろいろ(前編)」に、「鍾乳床(しょうにゅうしょう)」とし、『正倉院に現存する』とあり、『鍾乳石の破片であり、鉱物としては方解石(CaCO3)』(=炭酸カルシウム)『です。用途は止渇薬、利尿薬などです』とある。食酢のような弱酸の薄い溶液でも、表面を溶かすことが出来る。]

「細辛《さいしん》」は、水に漬《つけ》して、直《なほ》からしむ。

[やぶちゃん注:「細辛」は、双子葉植物綱コショウ目ウマノスズクサ(馬の鈴草)科カンアオイ(寒葵)属ウスバサイシン(薄葉細辛)Asarum sieboldii 、又は、オクエゾサイシン(奥蝦夷細辛)変種ケイリンサイシン(鶏林細辛)Asarum heterotropoides var. mandshuricum (後者は中国には分布しない)の根及び根茎を基原とするもので、漢方薬品メーカー「つむら」の公式サイト「Kampo View」の「細辛」に拠れば、『主として、胸部、横隔膜のあたりに病邪のとどまっているもの、水毒(水分の偏在)を治す』とある。]

「黃茋《わうぎ》」は、𮔉にて蒸(む)し、甜(あま)みを爲《な》≪す≫。

[やぶちゃん注:は「黄耆」「黄蓍」とも書く、双子葉植物綱マメ目マメ科ゲンゲ(紫雲英・翹揺)属キバナオウギ(黄花黄耆) Astragalus membranaceus の根から精製される漢方薬。同種は本邦の本州中部以北・北海道・中国・朝鮮半島の亜高山帯から高山帯にかけての草地・砂礫地に分布する。花期は七~八月頃に淡黄色の蝶形花を咲かせ、その根茎から製剤され、「日本薬局方」にも載る。有効成分はフラボノイド・サポニン・γ-アミノ酪酸(ギャバ・GABA)などで、利尿・血圧下降・血管拡張・発汗抑制作用を示し、強壮剤とされる。]

「當歸《たうき》」は、酒にて洒《ひた》して、潤《うるほひ》を取る。

[やぶちゃん注:知られた生薬名。被子植物門双子葉植物綱セリ目セリ科シシウド(猪独活)属トウキ Angelica acutiloba の根。]

「蜈蚣《むかで》」は、足を朱《しゆ》にして、赤《あか》からしむ。

[やぶちゃん注:博物誌は、私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蜈蚣(むかで)」を参照。漢方に就いては、「金澤 中屋彦十郎薬局」の「●百足(ひゃくそく、ムカデ)」に、『健康食品』としつつ、「神農本草經」『の下品に収載され、古来害虫の毒、悪血を去り、小児ひきつけ、蛇傷に用いられたりした』。『蜈蚣(ごこう)、天龍、百足虫と呼ばれたりしている。足の赤いムカデを良品とする』。『タイワンオオムカデ、アカズムカデなどがある。現在市場で良品とされるものは、体が長く、よく乾燥し、頭が赤く、背面は黒褐色、腹部が黄色で歩脚は脱落せず、乾いていても靭性に富み、折れがたいものとされている』。『一般には冬至から立春までに捉えたものが良品とされている』。『秋分後』十五『日以降のものは肉質が薄く、乾燥すれば腹面が黒くなり、破損しやすく、品質が劣る』。『「基源」』は『オオムカデ科』(=多足亜門唇脚(ムカデ)綱Chilopoda側気門亜綱 Pleurostigmophoraオオムカデ目 Scolopendromorpha オオムカデ科Scolopendridae『のタイワンムカデ』(タイワンオオムカデ Scolopendra morsitans のことと思われる)『およびアカズムカデ』( Scolopendra multidens )『の乾燥虫体である』。『「産地」』は『殆ど中国全土に産するが』、『主産地は浙江省、河南省、湖北省、安徽省、江蘇省などである』とある。『「成分」』は『蜂毒に似た』二『種の有毒成分が含まれる。その他ヒスタミン様物質と溶血蛋白質とである』とある。しかし、この記載では、「朱」、則ち、赤色の硫化水銀(HgS)で赤く着色しているのだから、以上の引用から見ても、以下に出る、似非物の製造法の記載と考えるべきである。

「古壙灰《こかうばひ》」を「死龍骨《しりゆうこつ》」と云ふ。

[やぶちゃん注:ここは「偽って言う」の意。以下、この特殊な言い方は、しばしば用いられる。

「古壙灰」東洋文庫訳では、『古壙(ふるつか)の灰』とある。

「死龍骨」は「龍骨」そのものが、漢方で、古くからある文字通り、伝説上の「龍の骨」として信じられてあったものであり、大杉製薬株式会社の公式サイトの「竜骨(リュウコツ)」に拠れば、『大型ほ乳動物の化石化した骨で、主として炭酸カルシウムからなる』もので、『鎮静・収斂・止瀉作用などがあり、動悸・不眠・健忘などに用いられる。漢方処方の柴胡加竜骨牡蛎湯・桂枝加竜骨牡蛎湯に配合されている』とあり、その物の写真もあり、「竜骨(リュウコツ)採掘地、陝西省延安市」の記事が続き、『採掘直後の竜骨は水気を含んで重く、土も付着していますが、この後、村の加工場へ搬送され、水洗、天日乾燥された後に出荷されます』。『実際に輸入した品では、表面の土は殆ど除かれており、乾燥も充分。金属の沈着に依るとされる様々な色紋が確認出来ます』。『日本国内で刻加工の後、製造に供します』とある通り、現役の漢方品なのである。私の小学生時代、歴史図鑑だったか、中国の巨大な墳墓の断面図が描かれてあり、その形に龍の絵をダブらせてあったのをはっきりと覚えている。されば、この「古壙灰」の「死龍骨」というのは、古くは、発掘する採集者も、それを売る薬肆者も、騙すつもりというよりは、確信犯的にやっていたものとも思われてくるのである。「死龍骨」というのは、私は当初、「龍骨」の偽物の後ろめたさから「死」を被せたものと思っていたが、今は、その見解を正しいとは思ってない。]。

「齋苨(せいねい)」を以《もつ》て「人參《にんじん》」と亂《みだ》し、

[やぶちゃん注:「齋苨(せいねい)」は、「維基百科」の「薺苨」にある、

キク亜綱キキョウ目キキョウ科ツリガネニンジン(釣鐘人参)属アツバソバナ(厚葉岨菜)Adenophora trachelioides

である。そこには、『中国本土の安徽省・浙江省・山東省・遼寧省・河北省・江蘇省に分布している。標高千メートルまでの高山帯の、主に丘陵地の草原や林縁に生育する。栽培は未だ行われていない』とある。当初、「園遊舎主人のブログ」の「茶花と花材の植物名その10に、『ソバナ(キキョウ科)・・・種名』として、『齋苨=ソバナ』とされ、「生花百競」『明和五』(一七六八)『年』『に記される』とあったのだが、このソバナというのは、

ツリガネニンジン属ソバナ Adenophora remotiflora

であり、同属ではあるが、異種である。そこで、さらに調べたところ、何時もお世話になるKatou氏のサイト「三河の植物観察」の「ツリガネニンジン 釣鐘人参」のページで、氷解した。そこのメインは、よく知られる、

ツリガネニンジン属サイヨウシャジン(細葉沙参)変種ツリガネニンジン Adenophora triphylla var. japonica

であるが、後にある「ツリガネニンジン属の主な種と園芸品種」の「20番目に、あった! 冒頭に、Adenophora trachelioidesMaxim. アツバソバナ 厚葉岨菜』とされ、『中国(安徽省、河北省、江蘇省、遼寧省、内モンゴル、山東省、浙江省)原産。中国名は ji ni。標高』二千四百メートル『以下の山や丘の斜面、草原、森林の縁に生える。』とあるのが、それである。しかし、漢方でどのように使用される(された?)かは、検索では全く出てこないので、ここまで、である。因みに、ウィキの「ツリガネニンジン」には、『日本では沙参というとツリガネニンジンを指すが、中国ではハマボウフウ』(セリ目セリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis )『のことをいう』。『これを区別するため、ツリガネニンジンを南沙参、ハマボウフウを北沙参(ほくしゃじん)と呼ぶ』。『昔は朝鮮人参の偽物に用いたといわれるが、朝鮮人参とは薬効は異なり代用にはならない』とはあった。参考までに。ともかくも、識者の御教授を乞うものである。

「木通《もくつう/あけび》」を用ひて、「防已《ばうい》」を混(ま)ぜ、

[やぶちゃん注:「木通」日中ともに、双子葉植物綱キンポウゲ目アケビ科Lardizabaloideae亜科Lardizabaleae連アケビ属アケビ Akebia quinata

「防已」これは、大いに問題がある。本邦では、この漢方薬の基原は、

キンポウゲ目ツヅラフジ科ツヅラフジ属オオツヅラフジ(大葛藤)Sinomenium acutum の蔓性の茎と根茎

である。当該ウィキによれば、『鎮痛作用や利尿作用などを持』ち、『有効成分としてアルカロイドのシノメニン』『などを含む。しかし、作用が強力なので、用法を間違えると』、『中枢神経麻痺などの中毒を起こす』とあるのだが、その後に、『中国では、防已をオオツヅラフジではなくウマノスズクサ科』(コショウ目ウマノスズクサ科 Aristolochiaceae)『の植物としていることがある。このウマノスズクサ科の植物の防已はアリストロキア酸という物質を含み、これが重大な腎障害を引き起こすことがある。このため、中国の健康食品や漢方薬には十分注意する必要がある』とあった。そこで、まず、「維基百科」の Sinomenium acutum 相当を見ると、標題は(以下、「臺灣正體」にしても、漢字の「已」は「己」になっているので、書き変えておいた)

『漢防已』

とあるが、本文は、

『風龍(學名:Sinomenium acutum)也稱漢防已、青風藤、青藤、大青藤、毛青藤,為防已科風龍屬下的一個種。』

で――漢方生薬関連の記載が全くなく、以上で――終わり――なのである。辛うじて、「外部連結」の『青風藤 Qing Feng Teng』『(頁面存檔備份,存於網際網路檔案館) 中藥標本資料庫 (香港浸會大學中醫藥學院)』のリンク先(これは、直後に記されてある通り、私の御用達である“Internet archive”のストックである)で、Sinomenium acutum の簡素な漢方データが見られるばかりである。

 されば、「維基百科」の検索ウィンドウで「防已」(ここは「已」にしないとダメ!)を調べると、『中草藥防巳』と『關木通屬植物廣防己Isotrema fangchi )』の二つの候補が示される。

前者は、中医学の漢方としての立項であるが、その「基原」植物には(ここでは「己」ではなく「巳」なので「已」に代え、学名を斜体にした)

『粉防已 Stephania tetrandra Moore

とあるのである。而して、この「Stephania tetrandra」を「維基百科」で調べると(「己」を「已」に代えた)、

「廣防己」

に突き当たる。そこには、『廣防己(學名: Isotrema fangchi )又名防已、藤防已,』(表字はママ)とあり、機械翻訳を参考にすると、『ウマノスズクサ』(馬の鈴草)『科(Aristolochiaceae)の植物である。中国本土では、貴州省・雲南省・広東省・広西チワン族自治区、及び、ベトナムに分布している。標高五百~千メートルの地域に自生し、主に丘陵地の密林や低木に生育する。人工栽培は、未だ、行われていない。葉は片長楕円形から長楕円形を成し、基部は丸みを帯びているが、稀に浅い心形の基部を持つ。正面から見ると、葉の檐(ひさし)が管状部分を完全に覆い、喉部は白色である』。アリストロキア酸』(Aristolochic acids:芳香族カルボン酸の一つ)『は、もともと、中国漢方草薬として使われており、その成分であるアリストロキア酸には利尿作用があり、減量、肺の浄化、咳止め、産後の強壮剤として使われている。しかし、アリストロキア酸は腎臓への毒性があり、尿路感染症や移行上皮癌』(主に膀胱の尿路粘膜の細胞が癌化するもの)『を引き起こす可能性がある。また、百万核酸塩基当たり百五十の核酸塩基に変異を有する。アリストロキア酸の遺伝子変異能は、知られている発癌性物質の中で最も強力である。少量の摂取でも、将来の癌リスクが大幅に高まるため、中国を含む多くの国で禁止されている』とあった(因みに、日本語の当該種のウィキは存在せず、和名や漢字名を記す記事のネットには見出せなかった)。

   *

 以上から、この一文の「防已」は、オオツヅラフジ Sinomenium acutum ではなく、この全くの別種で、和名のない、Isotrema fangchi であることが判明した。

 而して、これも、本来の生薬である「防已」の根に、「木通」の蔓性の蔓を混ぜて不法に量を増やすことを指している。

「苜蓿《もくしゆく/うまごやし》」≪の≫根を「土黃耆《どわうぎ》」と謂《いふ》。

[やぶちゃん注:「苜蓿」は日中共に、マメ目マメ科マメ亜科ウマゴヤシ(馬肥・苜蓿)属ウマゴヤシ Medicago polymorpha 若しくは、ウマゴヤシ属 Medicago の種名。ヨーロッパ(地中海周辺)原産の牧草。本邦では、江戸時代頃、国外の荷物に挟み込む緩衝材として本邦に渡来した帰化植物である。葉の形はシロツメクサ(クローバー:マメ科シャジクソウ(車軸草)属 Trifolium 亜属 Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens )に似ている。但し、ウマゴヤシ属は中国語で「苜蓿屬」であるが、種は「南苜蓿」である。その根は、中医学では「苜蓿根」と言うが、中文サイト「中醫世家」の「苜蓿根」のページで、別名を「土黃耆」とすることが確認出来る。その「功能主治」には、『清湿热,利尿。治黄疸,尿路结石,夜盲』とあった。]

「螵蛸」(をうふぢがふぐり[やぶちゃん注:ママ。])を桑の枝に膠(つ)け、

[やぶちゃん注:「螵蛸(をうふがふぐり)」歴史的仮名遣は「おほぢがふぐり」が正しい。小学館「日本国語大辞典」に、『(「老人の陰嚢」の意)カマキリの卵のかたまり。秋に木の枝や家の壁などに生みつけられた泡状の分泌物がかたまって黒褐色になったもの。おおじのふぐり。おおじふぐり。』とある。東洋文庫訳では、『螵蛸(おおじがふぐり[やぶちゃん注:ママ。])を桑の枝に膠(にかわ)でつける。』とある。これも、やはり、今までに出ている――贋造――である。私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 桑螵蛸」を見られたい。そこで、良安は「本草綱目」を引き(そちらの訓読文を示す)、

   *

「本綱」、桑螵蛸は蟷蜋の子房、桑樹〔の〕枝に生ずる者、藥に入れ用ふ。味、甘・平にして、肝腎命門の藥なり。襍樹〔(ざふき)〕の上に生ずる者を用ふること勿れ。惟だ枝を連ね、斷〔(き)〕り取る者を眞と爲す。僞は亦、膠〔(にかは)〕を以て桑の枝の上に着くるなり。村人、毎〔(つね)〕に灸焦〔(いりこが)し〕、小兒に飼〔(あたへ)〕て云く、「夜尿(よばり)を止む。」と。蓋し、能く五淋を通じ、小便を利す。又、能く遺尿・遺精を治す、と。

△按ずるに、桑螵蛸、山人、之れを取り、熱湯を灌〔(そそぎ)〕て之れを貨〔(う)〕る。藥肆(くすりや)に紙袋の中に収む。温に乘ずれば、蟷蜋の子、孚(かへ)り出ずる者も亦、有り。

   *

とある通りで、私は、

   *

・「襍樹〔(ざふき)〕」雑木。桑の枝のカマキリの卵塊でないと薬方としては、だめ、という辺り、拘りがあって面白い。

   *

と注した。

「藿香《かくかう》」に、茄(なす)の葉を采(とり)て、襍(ま)ぜ、

[やぶちゃん注:「藿香」は、シソ目シソ科ミズトラノオ(水虎の尾)属パチョリ(英語:patchouli)Pogostemon cablin の地上部を基原とするもの。「日本薬学会」公式サイト内の「薬学コラム」の「生薬の花」の「パチョリ」「 Pogostemon cablin (Blanco) Benth. (シソ科)」に拠れば、『漢方医学や中医学では,パチョリの地上部を生薬藿香(カッコウ)として使用し,解熱・鎮吐・健胃作用を目的に藿香正気散(かっこうしょうきさん)や香砂平胃散(こうしゃへいいさん),香砂六君子湯(こうしゃりっくんしとう)などの処方に配合しています。成分としてはパチョリアルコールやメチルチャビコール,シンナムアルデヒド,オイゲノール等を含みます。藿香の基原植物として,パチョリ以外にシソ科のカワミドリ( Agastache rugosa  (Fisch. et C.A.Mey.) Kuntze )が使用されることがあります。カワミドリに由来するものを土藿香,川藿香と呼ぶのに対し,パチョリに由来するものは広藿香と呼びますが,これは東南アジアから導入されたパチョリが中国の広州で栽培されてきたためです。中国の本草書や植物誌の藿香に関する記述の中にはパチョリについて記載したものとカワミドリについて記載したものが両方存在し,古くから基原植物が混乱していたようです。一般に市場に流通するものの多くはパチョリに由来する広藿香であり,第十八改正日本薬局方でも基原植物は Pogostemon cablin 1種のみとなっています』とある。因みに、「維基百科」のパチョリは「廣藿香」となっている。「茄(なす)」は、日中ともに、ナス目ナス科ナス属ナス Solanum melongena 。言わずもがなだが、続いて、贋造膨らましである。]

「麝香《じやかう》」に、茘枝《れいし》の核《さね》を搗《つき》て、攙《まぜ》、

[やぶちゃん注:「攙《まぜ》」には送り仮名がない(私の所収本では、潰れて、見えないので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該画像(左丁一行目最下部)を見たが、明らかになかった)の訓は、私の推定。連用形にしたのは、前後に合わせたもの。これも贋造増量。

「麝香」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

「茘枝」私の「和漢三才圖會卷第八十八 夷果類 (序)・目録・荔枝」を、どうぞ。]

「石膏」を研(をろ)し[やぶちゃん注:ママ。]て、「輕粉《けいふん》」に和(ま)ぜ、

[やぶちゃん注:「石膏」は漢方では、天然の含水硫酸カルシウムで、組成は、ほぼCaSO₄2H₂Oである。先の「Kampo View」の「石膏」の「薬能」に拠れば、『主として激しい口渇を治す。また、うわごと、苦しみもだえるもの、体全体に熱感のあるものを治す。(薬徴)』とある。

「硏(をろ)し」「をろす」は「下ろす」で、切ったり擦ったりして「削り落とす」の意であるから、歴史的仮名遣は「おろす」でよい。

「輕粉」小学館「日本国語大辞典」に、『水銀、食塩、にがり、赤土をこね合わせ、加熱して得られた昇華物で、本質は塩化第一水銀(甘汞』(かんこう)『)』。本邦では『伊勢地方で』十三『世紀頃から製造された。駆梅、利尿、抗菌作用がある。はらや』・「伊勢おしろい」とも言う(実際に「おしろい」の原料とした。但し、そのために水銀中毒をも起こた)。やはり、増倍贋造である。]

「薑黃《きやうわう》」を以《もつて》、「鬱金《うこん》」と言《いふ》。

[やぶちゃん注:ここでは、「薑黃」と「鬱金」を異なる種として扱っているのであるが、なかなかに悩ましい。何故かと言えば、ネット上でも、また、辞書類でも、「薑黄」を「鬱金」とイコールであとする記載が、有意に見られるからである。それどころか、東洋文庫版でも、後の「巻第九十三」の「芳草類」に、「薑黄」の項が先に、次に「鬱金」の項が出現するのであるが、竹島淳夫氏は、「薑黄」の本文の「本草綱目」引用部の最初に出現する「薑黄」の部分で『薑黄(きょうおう)』の下に割注して、『(ショウガ科ウコン)』とし、次の「鬱金」の項でも、全く同様に、『「鬱金(うこん)」』の下に割注して、『(ショウガ科)』として、両項には、一切の後注もない状態で、放置プレイになっているのである。

 そこで、本邦のウィキで「薑黄」を探ってみると、「キョウオウ」が存在し、そこには、漢字表記を『姜黄、薑黄』としてあるのである。而して、この「薑黃」は、

単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ウコン属キョウオウ Curcuma aromatica 

なのである。一方、「ウコン」のウィキを見ると、漢字表記「鬱金」とあり、

ウコン属ウコン Curcuma longa

なのである。

 されば、それぞれの「維基百科」を見たところが、驚くべきことに、

!★前者の「キョウオウ」相当のそれは――★「鬱金」★の標題!!!

であり、

!◎後者の「ウコン」相当のそれは――――◎「薑黃」◎の標題!!!

であり、『又稱』は『寶鼎香』とあるだけで、「鬱金」は前注と後注のリンクの二箇所を除いて、本文部分には――どこにも――ない――のである。何? 「ウコン属の部分は?」と聴かれるであろうが、

!そのウコン属の箇所には「薑黃屬」とある!

のである! さても、ここまでの確認と、記載をするだけで、昼飯を作って食った前後、実に、延べ一時間半を費やしてしまった。中国語での、この錯綜に就いては、凡そ、解説し得ない。何処かに書かれている人がいるであろうとは思うが、これ以上、私は疲弊し、調べる気にならないのである。悪しからず。

「言」言うまでもないが、これは「偽(いつは)る」の意である。]

 嫩(わか)き松の梢《こづえ》を「肉蓯蓉《にくじゆうよう》」と爲《なす》。

[やぶちゃん注:「肉蓯蓉」シソ目ハマウツボ(浜靫)科ホンオニク(本御肉)属ホンオニク Cistanche salsa の肉質茎を乾燥した生薬。中国内陸部から内蒙古・中央アジアの乾燥地に分布する。本邦には植生しない。当該ウィキによれば、『滋養強壮作用を有する生薬として用いられる。ニクジュヨウは黒褐色で甘い香りがする。ニクジュヨウの主な有効成分はフェニルプロパノイド配糖体やモノテルペンである』とある。多分、知らないというお方が多いだろうが、結構、それを用いたものを日本人は飲んでいる。『ニクジュヨウは、薬用酒である養命酒(養命酒製造)、遼伝来福酒(薩州濵田屋』・『プラントテクノロジー』『)、生薬配合の滋養強壮剤であるゼナ(大正製薬)、ナンパオ(田辺三菱製薬)、ユンケル黄帝ゴールド(佐藤製薬)、ユースゲンキング(エスエス製薬)などに配合されている』とあるからである。]

「枇杷《びは》」の蘃《しべ》、「欵冬《かんとう》」に代へ、

[やぶちゃん注:「枇杷」お馴染みの、双子葉植物綱バラ目バラ科ナシ亜科シャリンバイ(車輪梅)属ビワ Rhaphiolepis bibas「和漢三才圖會卷第八十七 山果類 枇杷」を見よ。

「欵冬」キク亜綱キク目キク科キク亜科フキ属フキ Petasites japonicus のこと。小学館「日本大百科全書」に、『雌雄異株。本州、四国、九州、沖縄、および朝鮮半島から中国にかけて分布する』。『数少ない日本原産の野菜の一つで、栽培は』十『世紀以前から始まった』とある。基原は、その花蕾を乾燥したもので、一般的に「咳」に使われる漢方薬「麦門冬湯」(ばくもんどうとう)に含まれていることで知られる。

 但し、この代用にするという記載は、ネットで調べて見たが、見当たらなかった。識者の御教授を乞うものである。]

 草《くさ》の仁《さね》」を「草豆蔲《さうづく》」に𠑽《あ》つ。

[やぶちゃん注:「草仁」東洋文庫訳では『そうにん』とルビするのだが、漢方生剤として見当たらず、原文漢字列を以って検索しても、本草書には見当たらないことから、「ただの何でもない、草豆蔲の種子の塊りに似た、あれこれの雑草の実を偽って使用する」の意で採った。万一、「草仁」を限定することが出来る識者がおられれば、是非、御教授を乞うものである。

「草豆蔲」サイト「伝統医薬データベース」の「草豆蔲(そうずく)」のページその他を参考にすると、基原は、

単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科Alpinioideae亜科Alpinieae連ハナミョウガ属アルピニア・カツマダイ(和名なし)Alpiniae katsumadai の種子の塊

とある。リンク先には、「臨床応用」の項に、『芳香性健胃,駆風薬として,消化不良,胃腸の痛み,嘔吐などに応用する.』とあり、「頻用疾患」の項に、『食欲不振, 嘔吐, 下腹痛, 冷え, 悪心, 消化不良』とする。しかし、「備考」の欄に(学名部は斜体になっていないので、私が斜体化した)『Amomum globosum Lour. = Alpinia globosa Horan. とする説もあるが,このものはベトナム産で,中国では近年雲南省に分布がみられている.現在の市場品はこのものではない.しかし,古来本草の草豆蔲の基源の詳細は不明である.』とあった。従って、現行では、この良安の引用(本パート最後を参照)の「草豆蔲」の実態は――不詳――と言わざるを得ない。

 松脂《まつやに》≪を≫、「騏麟竭《きりんけつ》」に混(ま)ぜ、

[やぶちゃん注:「騏麟竭」先行する「卷第八十二 木部 香木類 麒麟竭」の、私の迂遠にして迷走的注を見られたい。現行の信頼出来る漢方記載でも、基原植物が異なる痙攣的記載になっており、最早、過去に遡って、基原植物を特定することは不可能(というより、甚だ異なった複数の対象物を基原としていた、或いは、今も、している)もののようである。

「西呆(《せい/さい》はい)」を「南木香《なんぼくかう》」に代へ、

[やぶちゃん注:これは、何をやってもお手上げに近い。まず、躓くのは、「西呆」だ。草類の名称としては、おかしい。東洋文庫訳では、この「西呆」自体に右で『ママ』を打っているのだが、では、ママにした理由を何処にも注していない。国立国会図書館デジタルコレクションの「國譯本草綱目」第一冊の当該部(右の「七八」ページの八行目)を見ても、『西呆(せいばい)を南木香(なんちくかう)に代へ、』とあって、頭注も何も、ない。そもそも「呆」には「ホウ・ガイ(漢音)/ホ・ガイ(呉音)/ボウ・タイ(慣用音)」しかないのだから、そもそもの良安の振ったルビがおかしいのである。引用元を探そうと思っても、「西呆」が話にならず、先ず、「本草綱目」では見当たらない。

 ただ、いろいろと検索を掛けている中で、ヒントらしきものが、かの「跡見群芳譜」の「外来植物譜」の「もっこう (木香)」の解説の中に見出せた気がしている。以下である。

   《引用開始》

 李時珍『本草綱目』木香に〔以下、{}内は嶋田〕、「木香{モッコウ}は、{木の香とはいうが}草類なり。本との名は蜜香、其の香気 蜜の如きに因む。{ところで、木本である}沈香{ジンコウ}の中に蜜香有るに縁り、遂に訛って{ジンコウを木香}と為すのみ。昔人 之{モッコウ}を靑木香と謂う。後人 馬兜鈴{ウマノスズクサ}の根を呼びて靑木香と為すに因り、乃ち此{モッコウ}を呼びて南木香・廣木香と為し、以て之を別つ。今人 又た一種の薔薇{モッコウバラ}を呼びて木香と為す。愈々真を乱せり」と。

 今日の漢名を雲木香というのは、雲南で栽培されることから。廣木香は、昔インドから廣東経由で輸入したことから。

   《引用終了》

即ち、時珍の時代にあっても、既に、木香はニセ物に関わらず、種を正確に断定出来ない状態にあったことを感じさせるのである。ここまでにして、解明出来るかどうかは判らぬが、後の「卷第九十三」に出る「木香」で考証してみることを約束しておく。

 驢《うさぎむま》の脚《あし》≪の≫脛《はぎ》を、「虎骨《ここつ》」に作り、

[やぶちゃん注:「驢」読みは、私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 驢(うさぎむま) (ロバ)」の良安の和訓に従った。

「虎骨」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 虎(とら) (トラ)」には、『虎骨〔(ここつ)〕【辛、微熱。】 頭及び頸骨を用ふ。色、黃なる者、佳なり【〔毒〕藥の箭〔(や)にて〕射殺すは、藥に入るるべからず。能く人を傷つくる。】初生の小兒、煎〔じて〕湯にして之れに浴すれば、惡鬼を辟(さ)く。瘡疥・驚癇を去り、溫瘧〔(うんぎやく)〕及び犬の咬(か)みたる毒を治す。枕に作すれば、惡夢に魘(をそ[やぶちゃん注:ママ。])はるゝを辟く【又、云ふ、「虎の一身〔の〕筋節〔の〕氣力〔は〕、皆、前足に出づ。故に脛骨を以つて勝れりと爲す」〔と〕。】。』とある。]

「畨硝《ばんしやう》」を、「龍腦香《りゆうなうかう》」に和(ま)ぜ、

[やぶちゃん注:「畨硝」「畨」は「蠻」であるから、「南蛮の硝石」の意。硝酸塩鉱物の一種である硝酸カリウム(KNO3)。サイト「イアトリズム」の「知っておきたい『漢方生薬』」の「硝石」のページによれば、「適応疾患および対象症状」に、『嘔吐、腹痛、下痢、手足の冷え、高熱、便秘、意識障害、筋肉の痙攣、尿路結石、排尿障害、ノドの腫れ、ノドの痛み、むくみ、皮膚化膿症、結膜炎、角膜の混濁、落ち着かないなど』とあり、漢方では立派な薬物ではある。

「龍腦香」双子葉植物綱アオイ目フタバガキ(双葉柿)科リュウノウジュ(龍脳樹)属リュウノウジュ Dryobalanops aromatica の樹幹の空隙に析出される、ボルネオール(borneol:ボルネオショウノウとも呼ばれる二環式モノテルペンで、化学式は C10H18O)を指す。先行する「卷第八十二 木部 香木類 龍腦香」を見られたい。

 或《あるい》は、「半夏《はんげ》」≪を≫煑て、黃《き》にして、「玄胡索《げんごさく》」と爲《なし》、

[やぶちゃん注:「半夏」単子葉植物綱ヤシ亜綱サトイモ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク(烏柄杓Pinellia ternata のコルク層を除いた塊茎。嘔気や嘔吐によく使われる生薬である。私の「耳囊 卷之七 咳の藥の事」も参照されたい。

「玄胡索」キンポウゲ目ケシ科ケマンソウ(華鬘草)亜科キケマン(黄華鬘)属エンゴサク(延胡索) Corydalis yanhusuo 、及び、東北延胡索 Corydalis ambigua の塊茎を基原とする漢方生薬。日本語のウィキもあるが、対象種の学名(しかも品種である)が不審なので、中文の「維基百科」の「延胡索」に基づいた。そこに異名として「玄胡索」もあるのである。そこに『中国本土の安徽省・山東省・浙江省・江蘇省・湖北省・河北省・河南省桔河市及び信陽市に分布し、主に丘陵地帯の草原で見られ、模式種の原産地は浙江省杭州』とあり、『辛味、苦味、温感を持つ様々なアルカロイドが含まれており、主に血液循環の促進・気の促進・鎮痛・鎮静・催眠効果がある』といったことが書かれてある。

 言うまでもないが、やはり贋物製造である。]

 或は、「廣膠《くわうかう》」を熬《い》りて、「蕎麵《きやうめん》」【炒りて黒≪くせしもの≫。】を入《いれ》、「阿膠《あけう》」に作り、

[やぶちゃん注:贋造物。

「廣膠」現代仮名遣「こうきょう」。書道具店「文房四寶 鑑璞斎」の主人であられる龍尾山人氏のブログ「断箋残墨記」の「膠の試作」の記事に、『上海墨廠の時代まで製墨に使われた「廣膠」は、すなわち黄明膠の異称であり、牛皮を原料とする膠である。』とある。東洋文庫訳では『すきにかわ』とルビする。

「蕎麵」蕎麦、或いは、蕎麦粉。後者であろう。

「阿膠」山東省東阿県で作られる上質の膠(にかわ)を指し、接合剤のほか、漢方薬などにも用いる。東洋文庫訳には割注して『(第一級のにかわ)』とある。本項は漢方薬物であるから、薬物としてのそれであろうとしておく。]

 或は、雞子《けいらん》、及《および》、鯖《さば》の魚枕《うをまくら》を煑《に》て、「琥珀」と爲《する》の類《たぐひ》、巧(たく)み、詐(いつは)ること、百般《ひやくぱん》、忌畏《きい》の毒を爲《な》し、甚《はなはだし》きは、人を殺すに致り、咎《とが》を用藥に歸す【「本草綱目」・「本草必讀」の說、拾《ひろひ》要《えう》して、之《ここ》に記す。】

[やぶちゃん注:やっと、この部分を終わる。この最後は「琥珀」の贋物作りであるが、「人を殺すに致り、咎を用藥に歸す」とあることから、宝石の捏造ではなく、やはり、薬である。ウィキの「琥珀」の「薬用」に、『その他の利用法として、漢方医学で用いられることがあったという』。『南北朝時代の医学者陶弘景は、著書』「名醫別錄」『の中で、琥珀の効能について』「一に去驚定神、二に活血散淤、三に利尿通淋」『(精神を安定させ、滞る血液を流し、排尿障害を改善するとの意)と著している』。また、現在でも『ポーランドのグダンスク地方では琥珀を酒に浸し、琥珀を取り出して飲んでいる』とある。

「鯖の魚枕」東洋文庫訳では、「魚枕」に『かしらぼね』とルビする。暫く、これに従う。

「本草必讀」東洋文庫の巻末の「書名注」に、『「本草綱目必読」か。清の林起竜撰』とある。なお、別に「本草綱目類纂必讀」という同じく清の何鎮撰のものもある。この二種の本は中文でもネット上には見当たらないので、確認出来ない。]

△按ずるに、「百草の黒燒《くろやき》」に、鍋の底の墨を用ひ、「陳倉米《ちんさうべい》」を、「三年米」に用ひるは、中(《あ》た)らずと雖も、遠からず。「猿の尾」を以《もつ》て、「鹿茸《ろくじよう》」に贋(に)せ、「膠飴(ぢわうせん)」を以《もつて》、「蜂𮔉」に襍(ま)ぜ、「黃獨(けいも)」を以て、「何首烏《かしゆう》」と爲《す》るは、其《その》用藥、何の益、有らんや。

[やぶちゃん注:「陳倉米」これは、読者の大方は、読み間違える人が多いと思われるので、特に詳しく示す。後の「卷第百三」の「穀類」の筆頭にある「粳(うるのこめ)」の「陳倉米(ちんさうべい)」を、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版で当該部を見られたい。そちらで訓読して示す。歴史的仮名遣の誤りはママ。一部をブラウザの不具合を考えて改行してある。

   *

陳倉米(しんさうべい)

           陣廩米

           老米《らうまい》

           火米《くわまい》

            俗、云《いふ》、

           「大比禰古女(をほ《ひねこめ》)」。

[やぶちゃん注:「陣廩米」は「陳廩米《ちんりんまい》」の良安の誤字。]

「本綱」曰はく、『久しく倉に入れて、陳(ふる)く、赤き者、「陳倉米」と名《なづ》く。火≪に≫蒸(む)して治成《をさめな》す者、有り、火に燒き治成≪す≫者、有り、故に「火米《くわまい》」と名く。北人《ほくじん》は、多《おほく》、粟を用ふ。南人は、多≪く≫、粳《うるち》、及《および》、秈《とうぼし》[やぶちゃん注:インディカ米の中で粘り気の少ない米を指す。「占城米(チャンパまい)」と呼ばれ、宋代に盛んに栽培された。]を用ふ。年、久《ひさし》き者は、性、凉《りやう》にして、氣《き》を下《くだ》し、煩渇《はんかつ》[やぶちゃん注:激しく口の渇く症状。]を除き、胃を調へ、洩《えい》[やぶちゃん注:下痢。]を止め、霍亂《かくらん》・大≪なる≫渇(かわき)を治す。』≪と≫。

△按ずるに、陳倉米は、十年以上の者を用ふ。疫痢・禁口痢、及《おいび》、嘔吐を止むる。薬中に入れ、用ふ。然《しかれ》ども、倉米は、四、五月の濕熱に値《あひ》て、多くは、蛀-蠹(むしい)りて、孔《あな》を穿《うが》つ。俗、「宇登(うと)」と稱す。凡そ、陳-臭(ふるくさ)き米を、「《こう》」【「粠《こう》」に同じ。】と曰《いふ》。官庫に貯《たくは》へて兵粮の爲(ため)とする者は、黄柏汁《わうばくじる》に浸《ひた》して、蒸して、之≪を≫治《をさ》む。數百年を經ても亦、新《しん》なるがごとし。凡《およそ》、新米は、飯と爲《なす》≪とも≫殖(ふ)へず、其《その》味、厚美《かうび》なり。病人、之を食《くひ》て、消化、遲し。惟《ただ》、粥《かゆ》に爲《なす》に堪《たへ》たり。陳米(ひね《まい》)の飯は、多《おほく》、殖《ふへ》≪れども≫、味、淡《あは》し。病人、食《くひ》ても亦、化《くわ》し易し。

   *

而して、お判り戴けるだろう、「陳倉米」は「三年」ぽっちでは、「陳倉米」ではないのである。


凡《およそ》、藥品、中𬜻より來《きた》る者、大君《たいくん》[やぶちゃん注:ここは、徳川家将軍を指す。]、命じて、藥を識《し》る人を長崎に遣《つかは》して、悉《ことごと》く、之を、辨正《べんせい》して[やぶちゃん注:分別・検査をし。]、以《もつて》、交昜《かうえき》を聽《ちやう》し玉《たま》ふ[やぶちゃん注:「玉」は送り仮名にある。]。日本より出《いづ》る藥品、贋僞(にせ、いつは)る者、嚴しく、禁止せらる。[やぶちゃん注:ここに、東洋文庫訳では、割注で、『(次は幕府より出された禁令である。)』とある。

 以下、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を減らした。]

 藿香《かくかう》 黃茋《わうし》 白歛《びやくれん》

 白芷《びやくし》 白鮮皮《はくせんぴ》

 桑寄生《さうきせい》  常山《じやうざん》

 辰砂《しんしや》 滑石《かつせき》 阿膠《あきやう》

 代赭石《たいしやせき》 爐眼石《ろがんせき》

右、件《くだん》の倭藥、佳ならず、所-以(ことゆへに[やぶちゃん注:「へ」はママ。])交易を禁ず。

[やぶちゃん注:「藿香」シソ目シソ科ミズトラノオ属パチョリ Pogostemon cablin の地上部を基原とするもの。「日本薬学会」公式サイト内の「薬学コラム」の「生薬の花」の「パチョリ」「 Pogostemon cablin (Blanco) Benth. (シソ科)」に拠れば、『漢方医学や中医学では,パチョリの地上部を生薬藿香(カッコウ)として使用し,解熱・鎮吐・健胃作用を目的に藿香正気散(かっこうしょうきさん)や香砂平胃散(こうしゃへいいさん),香砂六君子湯(こうしゃりっくんしとう)などの処方に配合しています。成分としてはパチョリアルコールやメチルチャビコール,シンナムアルデヒド,オイゲノール等を含みます。藿香の基原植物として,パチョリ以外にシソ科のカワミドリ( Agastache rugosa  (Fisch. et C.A.Mey.) Kuntze )が使用されることがあります。カワミドリに由来するものを土藿香,川藿香と呼ぶのに対し,パチョリに由来するものは広藿香と呼びますが,これは東南アジアから導入されたパチョリが中国の広州で栽培されてきたためです。中国の本草書や植物誌の藿香に関する記述の中にはパチョリについて記載したものと』、『カワミドリについて記載したものが両方存在し,古くから基原植物が混乱していたようです。一般に市場に流通するものの多くはパチョリに由来する広藿香であり,第十八改正日本薬局方でも基原植物は Pogostemon cablin 1種のみとなっています』とある。仮に「かはみどり」と読んでいるとすれば、薄荷の匂いのするシソ目シソ科カワミドリ属カワミドリAgastache rugosa がある。当該ウィキによれば、『葉や茎は漢方に用いられる』。『乾燥した葉に芳香があり、生薬名に藿香(かっこう)を当てているが、これは誤りで、日本では排香草ともいう』。『かぜ薬などの漢方薬として、茎、葉、根を乾燥させたものを用いる』。『民間では』、六~七月に、『茎の上部だけを切り取り、水洗いしたあとに吊るして陰干ししたものを、解熱薬として、また健胃薬として用いられる』とある。

「黃茋」これは、「黃芪(わうぎ)」の誤りである。マメ目マメ科ゲンゲ属キバナオウギ Astragalus membranaceus の根を基原とする生薬。当該ウィキによれば、『止汗、強壮、利尿作用、血圧降下等の作用がある』とある。

「白歛」双子葉植物綱ブドウ目ブドウ科ノブドウ属カガミグサ Ampelopsis japonica の根。漢方では解熱作用があり、腫瘍・子供の癲癇・月経痛に効果があるとする。

「白芷」セリ目セリ科シシウド属ビャクシ Angelica dahurica の根。当該ウィキによれば、『薬効成分はフロクマリン誘導体及び精油。消炎・鎮痛・排膿・肉芽形成作用がある。皮膚の痒みをとる。日本薬局方にも記載』。『血管拡張と消炎の作用から、肌を潤しむくみを取るとして、古来中国の宮廷の女性達により美容用とされていた。また鎮痛、鎮静の効果のため、五積散などの漢方処方に配合される』とある。なお、『中国産は』、『その変種のカラビャクシの根』とあった。そちらの学名は、Angelica dahurica var. pai-chi である。

「白鮮皮」ムクロジ目ミカン科ハクセン属ハクセン Dictamnus albus の根皮を基原とする生薬で、当該ウィキによれば、『唐以降の書物に見られ』、『解毒や痒み止めなどに用いられていたが、現在は』殆んど『用いられない。ヨーロッパでは、皮膚病の薬や堕胎薬として用いられていた』とある。

「桑寄生」先行する「卷第八十五 寓木類 桑寄生」を見られたい。多数の基原植物がある。そちらの注で詳細に掲げてある。

「常山」「山科植物資料館」公式サイト内の「ジョウザン」によれば、ユキノシタ科ジョウザン属ジョウザン Dichroa febrifuga の根を基原とする。そこに、『ジョウザンは中国、ヒマラヤから東南アジアにかけて広く分布する落葉低木です。和名は中国名「常山 chang shan」の音読みです。「常山アジサイ」という流通名でも知られています。かつての学名はジョウザン属』Dichroa febrifugaLour.で、アジサイ属とは区別されていました。従来のアジサイ属の果実が蒴果(果実が乾燥し、熟すと袋が裂けて中の種子が飛び出すタイプの果実)であるところ、ジョウザン属の果実は液果(果肉の細胞が水分を含み液質になる果実)であることが大きな違いでした。しかし』、二〇一五『年にDe Smetらによってアジサイ科の系統関係が遺伝情報に基づいて整理され、アジサイ属に含まれることになりました』とある(他の漢方記事では、ジョウザン属の旧学名で出ているものがあるので、注意されたい)。『断面が黄色で、中国では薬用とされます。マラリアの治療に使われ、特に解熱に効果があるとされます。学名の種形容語、febrifugaも「解熱」という意味です』とあった。

「辰砂」水銀と硫黄とからなる鉱物。深紅色又は褐赤色で、塊状・粒状で産出する。水銀製造の原料、また、赤色顔料の主要材料とされる。漢方では、消炎・鎮静薬などに用いる。「丹砂」「朱砂」とも呼ぶ。

「滑石」珪酸塩鉱物の一種で、フィロケイ酸塩鉱物(Phyllosilicates)に分類される鉱物、或いは、この鉱物を主成分とする岩石の名称。世界的には「タルク(talc:英語)」のほか、「ステアタイト」(Steatite:凍石)・「ソープストーン」(Soapstone:石鹸石)・「フレンチ・チョーク」(French chalk)・「ラバ」(Lava:原義は「溶岩」。本鉱石は変成岩である)とも呼ばれる。Mg3Si4O10OH2。水酸化マグネシウムとケイ酸塩からなる鉱物で、粘土鉱物の一種(当該ウィキ他に拠った)。利尿・清熱・消炎作用を持ち、むくみ・排尿困難・膀胱炎・夏の口渇・下痢・皮膚の湿疹などに用いられる。

「阿膠」(あきょう)は、本来は、山東省東阿県で作られる上質の膠(にかわ)を指し、接合剤のほか、漢方薬などにも用いる。

「代赭石」酸化鉄(Ⅲ)(酸化第二鉄,Fe2O3)を主成分とする赤鉄鉱Hematiteの塊り。「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | タイシャセキ(代赭石)」に拠れば、『代赭石には補血,止血,収斂の効があるとされます.配合される代表的な処方として,代赭石とともに旋覆花(センプクカ,オグルマの小頭花),大棗,甘草,人参,半夏,および生姜が加えられる旋覆花代赭石湯が知られています.虚証で胃のあたりがつかえて下らない状態が慢性化したものに用いられ,多くは胃に関連する疾患(胃酸過多,胃拡張など)に応用されます.代赭石は日本薬局方に収載されておらず,また,国内年間消費量も800 kg程度と決して多くはありませんが,鉱物性生薬は植物に由来する生薬とは異なり栽培などの手段が取れない有限資源であり,将来にわたり資源を安定して供給する方法を検討する必要があります』。『代赭石は』「神農本草經」『の下品に収載されており,その後,数々の本草書に名を連ね,当然ながら日本の本草書にも散見されます』。「本草正譌」(ほんぞうせいか:山岡君山著・安永五(一七七六)年刊)の代赭石の項には』、「濃州赤坂山ニ出ルハ漢渡(かんわたり)ト同ジ」『との記載があります.濃州赤坂山とは現在の岐阜県大垣市金生山のことで,江戸時代から良質な石灰岩の産地として知られています.掘り出した石灰岩は,東海道本線支線(美濃赤坂―大垣)を経由して運びだし,セメント等に加工されているようです.一方で,古くは金生山において赤鉄鉱を産出していたことも知られています.金生山赤鉄鉱研究会によると,国内で製鉄が行われるようになったとされる6世紀以前から,金生山において製鉄が行われていたとのことです.薬用利用のきっかけが何であったにせよ,鉄の原料さえも薬として利用してしまう先人の知恵には,頭が下がる思いです.』とある。

「爐眼石」サイト「イアトリズム」の「知っておきたい『漢方生薬』」の「炉眼石」のページによれば、「基原炮製(この生薬の原材料と加工法)」に『水亜鉛土』とし、「適応疾患および対象症状」に、『眼瞼炎、翼状片、結膜炎、角膜の混濁、眼の充血、眼の痛み、慢性皮膚潰瘍、湿疹など』とあった。

 以下も、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を減らした。]

 官桂《くわんけい》   大戟《たいげき》

 茵陳《いんちん》    續斷《ぞくだん》

 菊花《きくか》     牛黃《ごわう》

 白丁香《はくちやうか》 熊膽《くまのい》

 虎膽《とらのい》    麝香

 琥珀

 阿仙藥【俗、云ふ、「斧割《よきわり》」。】

 五加皮《ごかひ》

[やぶちゃん注:「官桂」ここでは、本邦産なので、双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科ニッケイ属ニッケイ Cinnamomum sieboldii の樹皮を指す。「卷第八十二 木部 香木類 肉桂」本「本草綱目」引用本文に『「官桂《くわんけい》」と稱する者は、乃《すなはち》、上等≪にして≫、官に供≪する≫の「桂」なり。』以下で、詳しく書かれているので、見られたい。

「大戟」本邦では、キントラノオ目トウダイグサ科トウダイグサ属タカトウダイ(高燈台) Euphorbia lasiocaula の根を指す。但し、「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 大戟(タイゲキ)」に拠れば、基原は『紅大戟はアカネ科(Rubiaceae)の Knoxia valerianoides Thorel ex Pit. の根を乾燥したもの。京大戟はトウダイグサ科(Euphorbiaceae)の Euphorbia pekinensis Rupr. の根を乾燥したもの』とあり、『イワタイゲキやセンダイタイゲキなどトウダイグサ科の植物には「タイゲキ」と名づけられた種が多くあります。これはトウダイグサ科に由来する生薬「大戟(タイゲキ)」に由来していますが、「大戟」の原植物はトウダイグサ科だけではありません。現在、中国には複数の科の植物に由来する「大戟」が流通しています。主なものに「紅大戟」と称されるアカネ科植物に由来する生薬と、「京大戟」と称されるトウダイグサ科植物に由来する生薬が挙げられます。前者は「紅芽大戟」や「紅牙大戟」などとも称されています。中華人民共和国薬典では両生薬をそれぞれ別項目として収載しています』。『大戟は』「神農本草經」『の下品に収載され』、「本草綱目」『には「その根が辛く苦く、人の咽喉を鋭く刺戟するから名付けたものだ」と記載されています。さらに『大戟は平澤に甚だ多く生える。直径で高さ二〜三尺、中が空で折れば白漿が出る。葉は細く狭く、柳葉のようで円くはない。その梢には葉が密に集って上に着く』とあります』。』(十世紀後半の宋の「日華子本草」『には「苗は甘遂に似て高く大きく、葉に白汁があり、花は黄色だ」とあります。甘遂もトウダイグサ科に由来する生薬ですが、大戟の原植物に関する記載もトウダイグサ科植物の特徴を示しています。効能面からも』「本草綱目」『に「甚だ峻烈に下痢をするもので、よく人体を傷う。弱い患者が服すれば吐血することがあるから注意を要する」と記載があります。これらの記載からも大戟の正品はトウダイグサ科植物に由来することが示唆されます。これが現在の「京大戟」に対応すると考えられます』。『他の一種の「紅大戟」は、中国南部の福建、広東、広西、雲南などで生産されています。原植物のアカネ科』シソノミグサ連シソノミグサ属『Knoxia valerianoidesは低山の斜面の草原で半日陰の場所に生育しています。多年生の草本で高さ0.31.0メートル、葉は長さ210センチ、幅0.53.0センチで対生しています。夏に淡紫紅色の花をつけ、花冠は筒状漏斗型で長さ2.03.0センチ、先端は4裂します。花後、種子を2個結実させます。秋に収穫した根は沸騰水に通したのち乾燥させます。形状はやや紡錘形で希に分枝があり、やや湾曲しています。長さは310センチ、直径は0.61.2センチです。外面は赤褐色を呈し、断面は周囲が赤褐色で内部は黄褐色です。質は堅く、匂いは薄く、味は甘くやや辛いとされています』とあり、さらに、『「京大戟」は中国の江蘇、湖北、山西などで生産されています。原植物の』『 Euphorbia pekinensis は道端や山の斜面、荒れ地や比較的日が当たらない湿った樹林に生育しています。多年生の草本で高さ 3080 センチ、全草に白色の乳液を含みます。ほぼ無柄の葉が互生して付きます。葉は長さ36センチ、幅6312ミリで全縁、下面は白い粉で覆われています。4月から5月にかけてトウダイグサ科に特徴的である杯状の集散花序の花をつけます。雌花、雄花には花被がなく、腎臓形の包葉がつきます。6月から7月に三稜状の球形のさく果を結実させ、卵円形の種子をつけます。秋に収穫した根は洗浄後、日干し乾燥させます。形状は不揃いな長い円錐形で時々分枝があり、やや湾曲しています。長さは1020センチ、直径は1.54.0センチです。外面は灰褐色を呈し、断面は類白色から淡黄色で繊維性を呈します。質は堅く、匂いは薄く、味はやや苦くて渋いとされています』。『「大戟」の効能に、水腫実証の腹水、浮腫、尿量減少、便秘、脈が実などの症候に甘遂、芫花、牽牛子などと使用すると記載されています。大戟は臓腑の水湿を泄し、甘遂は経隧の水湿を行かせ、うまく用いると奇効を収めることができるとされています。しかし前述のとおり「大戟」には少なくとも2種類以上の異物同名生薬が存在しています。アカネ科とトウダイグサ科のように明らかに含有成分が異なる分類群ですから、使用時は原植物に充分注意しなければなりません』とあった。

「茵陳」ネット検索では、「茵陳蒿」(いんちんこう)で掛かる。「大峰堂薬品工業株式会社」公式サイトの「生薬辞典」の「茵蔯蒿(いんちんこう)」では、基原をキク亜綱キク目キク科ヨモギ属カワラヨモギ(河原蓬・河原艾)Artemisia capillaris 『の頭花。地上部を乾燥させてから花穂と茎を分離させる』とし、「主な薬効」に『消炎、利胆、解熱、利尿作用』とある。

「續斷」「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 | 続断(ゾクダン)」では、「基原」として『中国産は』 Dipsacus asperoidesC.Y Cheng et T.M.Ai(マツムシソウ科 Dipsacaceae)の根を乾燥したもの』としており、最後に『続断の原植物は未だに混乱し,明らかにはされていません。一般に,本生薬のように,薬効が生薬名となったものには異物同名品が多いようです』と記されてある。

「菊花」漢方薬品メーカー「つむら」の公式サイト「Kampo View」の「菊花」に拠れば、「基原」で、キク目キク科『シマカンギク』(島寒菊) Chrysanthemum indicum Linné 又はキク』 Chrysanthemum morifoliumRamatuelleCompositae)の頭花』とし、「薬能」には、『眼疾患を治す。目のカスミを取り去り、洗眼にも用いる。(一本堂薬選)』とある。

「牛黃」牛の体内結石、及び、悪性・良性の腫瘍や変性物質等である。私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 牛黃(ごわう・うしのたま) (ウシの結石など)」の私の注を参照されたい。

「白丁香」「雀白屎(じやくはくし:「雀の白い糞」のこと)」とも呼ぶ。腹部の腫瘤・虫歯・目の混濁などの治療に用いられる。漢方では鳥の糞が、しばしば登場する。例えば鶏の白い糞は「鶏屎白」と称し、糞の白い部分を日干しした後、白酒(パイチュウ)を加えながらとろ火であぶって乾燥し、それをすって粉末にする(一般に雄鶏のものがよいとされる)。これは「黃帝內經素門」にも「鶏矢」として出る古方で、鼓脹積聚・黄疸・淋病をし、利水・泄熱・去風・解毒作用を持つとされる。本邦で「鶯の糞」が美顔料として親しまれていることを考えれば、奇異でも何でもない。

「熊膽」或いは「くまのい」。「熊の胆」。ツキノワグマの胆嚢。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 熊(くま) (ツキノワグマ・ヒグマ)」を参照されたい。

「虎膽」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 虎(とら) (トラ)」を見よ。

「麝香」既出既注。

「琥珀」既出既注。

「阿仙藥【俗、云ふ、「斧割《よきわり》」。】」「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 阿仙藥」私の注を見られたい。一言では、言い難いものなればこそ。

「五加皮」]私の『「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 五加』を見られたい。同前なれば。

右の件の藥、贋《にせ》・僞り多《おほく》有り。所以《ゆゑ》に、僞藥《ぎやく》を賣《うる》ことを禁ず。

[やぶちゃん注:以下、やはり、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を減らした。]

 熟地黃《じゆくじわう》 麹半夏《きくはんげ》

 神麯《しんきく/しんぎく》 乾薑《かんきやう》

[やぶちゃん注:「熟地黃」キク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科アカヤジオウ(赤矢地黄)属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa の根を陰干しした生薬を「生地黃(しやうぢわう)」と称するのに対して、この「熟地黃」は、生地黄を酒と一緒に蒸して作った生薬。但し、酒が含まれるため、性は、寒が殺がれて、温に近くなる。

「麹半夏」ネットでは「半夏麹」(はんげきく)なら、ある。サイト「イアトリズム」の「知っておきたい『漢方生薬』」の「半夏麹」のページによれば、「基原」は、『外皮を除いたサトイモ科ハンゲ属カラスビシャク』(単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク Pinellia ternata )『の塊茎粉・小麦粉・生姜汁の発酵塊』とあり、「適応疾患および対象症状」は『せき、多痰、呼吸困難、胸苦しさ、めまい、動悸、不眠、悪心、嘔吐、頭痛、身体のしびれ、顔面神経麻痺、半身不随、心窩部のつかえ、便秘など』とある。

「神麯」サイト「漢方薬のきぐすり.com」の「神麴」が、それ(「麴」は「こうじ」を表わし、「麹」とは異なる同義の漢字である)。『シンギク(神麴)は、小麦粉または米の麩(ふすま)にセキショウズ(アズキ)、キョウニン(アンズまたはホンアンズの果実の仁)、セイコウ(カワラニンジン』(キク科ヨモギ属 Artemisia carvifolia )『の全草)』、キク亜科オナモミ属『ソウジシ(オナモミ』 Xanthium strumarium subsp. sibiricum『の果実)、タデ(ヤナギタデ』(ナデシコ目タデ科 Polygonoideae亜科PersicarieaePersicariinae亜連イヌタデ属ヤナギタデ Persicaria hydropiper )『の全草)などを混合し、発酵させたものです』とあり、『漢方的には、健脾、消化、止瀉の効能があり、消化不良や食欲不振、腹部膨満感、下痢などの症状に用いられます』とあった。

「乾薑」単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ショウガ Zingiber officinale の根。

 最後に。東洋文庫訳では、後注があり、以上の「熟地黃」から「乾薑」のそれぞれを、以下のように簡便に注してある。

   《引用開始》

熟地黄は補腎・補血薬。地黄と酒と縮砂仁の粉末をよくまぜ、こしきに入れ、これを瓦鍋で蒸す。それを晒(さら)し乾す。九度、蒸しと晒しを繰り返して作る。麹半夏は嗽痰薬。半夏を粉末にし、薑汁・白礬(ばん)湯で餅にし、楮(こうぞ)の葉に包み、黄衣が生えるのを待って日に乾したもの。神麯は消化薬。白麪[やぶちゃん注:「はくめん」。精製された小麦粉。]・赤小豆・杏仁などに青蒿(こう)・蒼耳[やぶちゃん注:「おもなみ」。キク目キク科キク亜科オナモミ(葈耳・巻耳)属オナモミ亜種オナモミ Xanthium strumarium subsp. sibiricum 再来月の同窓会に呼ばれた柏陽の、私が始めて持った担任の子らよ! 君らが、校庭の掃除の時、みんなで、みっちり、私の背中にその実をつけた、あの「ひっつき虫」の草体名だよ!♡!]の汁を加えて作る。乾薑は胃腸冷痛の薬。良い薑を採り、流水でよく洗い、皮を刮(は)ぎ日に晒して作る。白浄結実のものが良く、それで白薑ともいう。

   《引用終了》

 以下、各項、独立させた。]

右、件の藥、修製、宜しく古法に隨ふべし。如《も》し、省略する者、賣《うる》を禁ず。

「川烏頭《せんうづ》」を、僞《いつはり》て、「新附子《しんぶし》」と名《なづ》け、

「大風子」の油《あぶら》を、僞て、「雷丸《らいぎわん》の油」と名け、

倭の「當藥《たうやく》」を、僞て、「胡黃蓮《こわうれん》」と名く。

[やぶちゃん注:「川烏頭」「烏頭」は猛毒で知られるモクレン亜綱キンポウゲ(金鳳花)目キンポウゲ科トリカブト(鳥兜・草鳥頭)属 Aconitum を指す。種にもよるが、致命的な毒性を持ち、狩猟や薬用に利用されてきた歴史がある。この「川烏頭」は四川省の栽培品名とされる。

「「鳥頭《うず》」前掲のトリカブト属 Aconitum のトリカブト類の若い根。猛毒で、殺虫・鎮痛・麻酔などの薬用に用いられる。「そううず」「いぶす」とも言う。

「新附子」の「附子」は「烏頭」に同じ。

「大風子」大風子油(だいふうしゆ)のこと。当該ウィキによれば、キントラノオ目『アカリア科(旧イイギリ科)ダイフウシノキ属』 Hydnocarpus 『の植物の種子から作った油脂』で、『古くからハンセン病の治療に使われたが、グルコスルホンナトリウムなどスルフォン剤系のハンセン病に対する有効性が発見されてから、使われなくなった』とあり、『日本においては江戸時代以降』、「本草綱目」『などに書かれていたので、使用されていた。エルヴィン・フォン・ベルツ、土肥慶蔵、遠山郁三、中條資俊などは』、『ある程度の』ハンセン病への『効果を認めていた』とある。]

右、件の藥、自今《じこん》[やぶちゃん注:これより。]以後、本名《ほんみやう》を用《もちひ》て、須らく、之≪れを≫賣買すべし。

[やぶちゃん注:以下、三つとも独立させる。]

 重目《おもめ》の輕粉《けいふん/おしろひ》

 平戸の人參《にんじん》

 熊野の小人参《せうにんじん》

[やぶちゃん注:「重目の輕粉」「輕粉」は既注。ここは、正規の「輕粉」に比して、異様に重さがあるものを(水銀は本来、重い物であるが、それが、度を越している状態を指す)水銀ではない別なものを混入していることが疑われるのである。

「平戸の人參」不詳。識者の御教示を乞う。

「熊野の小人参」同前。

右、件の藥、性・功、佳《か》ならず。所以《ゆ》へに[やぶちゃん注:ママ。]、賣買を禁ず。

 明暦四年の法令、詳-審(つまびら)かなること、之(かく)のごとし。然《しかれども》、恐らくは、詐《いつは》り送る者は、嘗(もと)より、之を、綿宻《めんみつ》に擇-求《えらみもとむ》る者は、毎《つね》に等閑(なをざり[やぶちゃん注:ママ。])なることを。蓋し、藥--肆(くすりや)に言へること、有り。「不欲價(あたい[やぶちゃん注:ママ。])賤(やす)からんことを欲《ほつ》せざれば、輒《すなは》ち、眞《まこと》なる者を得《う》べし。」と。

[やぶちゃん注:「明暦四年」一六五八年。徳川家綱の治世。

 以上の最終段落の東洋文庫訳を、以下に引用して、おしまいとする。

   《引用開始》

 明暦四年(一六五八)の法令はこのように詳審[やぶちゃん注:「しょうしん」。くわしいこと。細かいところにまでゆきとどくこと。また、そのさま。]をきわめている。けれども恐らく詐(いつわ)るのは綿密に作っているであろうし、買い求める側はあまり厳重に弁別しようとはしないであろう。ところで薬店では次のようにいう。値の賤(やす)いものを求めようとさえしなければ真物[やぶちゃん注:「まもの」。「本物」に同じ。]を手に入れるごとができる、と。

   《引用終了》]

2025/09/08

和漢三才圖會卷第九十二之本 目録 草類

[やぶちゃん注:原本では、大標題は以下の通り、「和漢三才圖會卷第九十二之本目録」とあるが、以下の内容であることから、「目録」を分離した。要は以下、続く「山草類【上卷】」(「卷第九十二」の「本」)・「山草類【下卷】」(「卷第九十二」の「末」)・「芳草類」(「卷第九十三」)・「濕草類」(「卷第九十四」の「本」)・第二の「濕草類」(「卷第九十四」の「末」)・「毒草類」(「卷第九十五」)・「蔓草類」(「卷第九十六」)・「水草」・「苔類」(「卷第九十七」。これは、既にサイト版『「和漢三才圖會」卷第九十七 水草部 藻類 苔類』で電子化注済みである)・「石草類」(「卷第九十八」)・「葷草類」(「卷第九十九」)の総論に当たるもので、「草類」という短い総論が始めにあり、続いて、長大な「藥品」の部が続くという体裁を採っている。今までの植物部では、こうした仕儀は行われていないので、特異点と言える。

 而して、その後に「山草類」の「目録」があって、各個項目に入るようになっている。私は、別の複数の電子化注テクストを扱っていることと、「藥品」が、各個項目で蜿蜒とあるため、纏めて電子化注すると、甚だ読み難くなるため、各個を分離して示すこととする。なお、以下、「山草類」の前までのパートには、挿絵は、一切、ない。

 

和漢三才圖會卷第九十二之本目録

   草類

△按凡草始生曰苗【音妙和訓奈倍】萠出曰芽【音牙和訓女】枝葉豊盛

 曰茂【音懋和訓之介流】花下柎曰萼【音諤俗云花乃倍太】𭇥實曰繩【音孕俗云

[やぶちゃん注:「𭇥」は「含」の俗字。]

 花乃止知】周禮注曰芟其繩則實不成又綴實底曰蔕【瓜蔕柿蔕】

[やぶちゃん注:「芟」原本では、「艾」の左(はらい)の起点に、「﹅」が打たれてあるのだが、こんな漢字は、ない。]

 應劭曰木實曰果草實曰蓏【音裸】又有核曰果無核曰蓏

[やぶちゃん字注:「蓏」は、字の彫りが不全であるが、原本(「漢籍リポジトリ」の「前漢書」の「食貨志」の「註」)を確認し、この字体で示した。]

時珍曰天造地化而草木生焉剛交于柔而成根荄柔交

于剛而成枝幹葉蕚屬陽𬜻實屬隂由是草中有木木中

有草得氣之粹者爲良得氣之戾者爲毒故有五形【金木水火

土】五氣【香臭臊腥膻】五色【青赤黃白黒】五味【酸苦甘辛鹹】五性【寒熱温凉平】五用【升降浮沉中】神農嘗而辨之黃帝述而著之

書物に著わした、と。

[やぶちゃん字注:「嘗」は、原本では、「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、かく、した。「述」も、原本では、「グリフウィキ」のこれであるが、同前で、かく、した。]

 神農本草經一百六十四種漢魏唐宋良毉代有增益

[やぶちゃん字注:「毉」は「醫」の異体字。]

 除穀菜外凡得草屬之可供醫藥者六百一十種分類

 曰山曰芳曰濕曰毒曰蔓曰水曰石曰苔

 本草綱目所載亦如有名未用之類省之而不出

 三才圖會農政全書畫譜所載者兼本朝所見者出之

 然未攷其功能者唯記形狀而已

 

   *

 

和漢三才圖會卷第九十二之本 目録

   草類

△按ずるに、凡そ、草、始《はじめ》て生(は)へる[やぶちゃん注:ママ。]を、「苗(なへ)」【音「妙《メウ》」。和訓「奈倍《なへ》」。】と曰《いふ》。萠(も)へ[やぶちゃん注:ママ。]出《いづ》るを、「芽(め)」【音「牙《ガ》」。和訓「女《め》」。】と曰《いふ》。枝・葉、豊《ゆたかに》盛《さかん》なるを、「茂(しげ)る」【音「懋《ボウ》」[やぶちゃん注:「茂」の漢音は「ボウ」である。一般に用いられる「モ」は呉音。]。和訓「之介流《しげる》」。】と曰《いふ》。花の下の柎《フ》[やぶちゃん注:呉音・漢音共に「フ」。]「萼(へた)」【音「諤《ガク》」。俗に云ふ、「花乃倍太《はなのへた》」。】と曰《いふ》。實《み》を𭇥《ふく》むを、「繩(とち)」【音「孕《ヨウ》」[やぶちゃん注:呉音・漢音共に「ヨウ」。]。俗に云ふ、「花の止知(とち)」。】と曰《いふ》。「周禮《しゆらい》」の注に曰《いはく》、『其の繩《ヨウ》を芟(か)る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、實、成らず』と云《いへ》り[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]。又、實の底を綴《つづ》るをも、「蔕《へた》」【瓜《うり》の蔕、柹《かき》の蔕≪など≫。】と曰《いふ》。應劭《おうせう》が曰く、『木の實を「果(このみ)」と曰《いひ》、草の實を「蓏(くさのみ)」【音「裸」。】と曰《いひ》、又、核(さね)有るを、「果」と曰《いひ》、核、無《なき》を「蓏《ラ》」と曰ふ。』≪と≫。

時珍の≪「本草綱目」に≫曰く、『天造《てんざう》、地化《ちくわ》して、草木、生ず。剛《がう》、柔《じう》に交《まじは》りて、根荄《こんがい》[やぶちゃん注:草木の根。なお、この語は転じて、「物事の根本・基礎」の意がある。]を成し、柔、剛に交りて、枝・幹を成す。葉・蕚《へた》は、陽に屬し、𬜻・實は、隂に屬す。是《これ》に由《より》て、草の中に、木、有り、木の中に、草、有り、氣の粹(すゐ)なる者を得て、良《りやう》と爲《なす》。氣《き》の戾(もと)の者を得て、毒と爲る。故に、五形【金・木・水・火・土。】・五氣【香・臭・臊《さう》[やぶちゃん注:油臭さ。]・腥《せい》[やぶちゃん注:生臭さ。]・膻《せん》[やぶちゃん注:肉ような生臭さ。しかし、前の「腥」との違いが、今一、判らぬ。]。】・五色《ごしき》【青・赤・黃・白・黒。】・五味【酸・苦・甘・辛、鹹《かん》。】・五性《ごせい》【寒・熱・温・凉・平。】・五用【升《しやう》・降・浮・沉《ちん》・中《ちゆう》。】、有り[やぶちゃん注:原本では、返り点「一」は「五形」の下にあるが、これは、誤りであるので、従わなかった。後注を参照されたい。]。神農、嘗(な)めて、之≪を≫辨《べん》し[やぶちゃん注:弁別し。]、黃帝、述《のべ》て、之を著はす。』≪と≫。

「神農本草經」、一百六十四種、漢・魏・唐・宋の良毉《りやうい》、代々[やぶちゃん注:原本では踊り字「〱」が送り仮名にある。]、增益《ざうえき》すること、有り。穀・菜を除《のぞい》て、外《ほか》≪に≫、凡そ、草≪の≫屬の醫藥に供《きやう》すべき者、六百一十種≪を≫、得、類《るゐ》を分《わかち》、曰《いは》く、「山《さん》」、曰く、「芳《はう》」、曰く、「濕《しつ》」、曰く、「毒」、曰く、「蔓《まん》」、曰く、「水《すい》」、曰く、「石《せき》」、曰く、「苔《たい》」≪とせり≫。

[やぶちゃん注:以上の一段落は、恰も、良安が書いたかのように見えるが、実際には「本草綱目」のパッチワークである。後注参照。

「本草綱目」に載する所も亦、名、有《ある》≪も≫、未だ、用《もちひ》ざるの類《るゐ》のごとき≪は≫、之≪を≫省(はぶ)きて、出《いだ》さず。

 ≪以下、次なる「藥品」には、≫「三才圖會」・「農政全書」・「畫譜」に載する所の者と、兼《かね》て本朝《ほんちやう》に見る所の者、之《これ》≪を≫、出《いだ》す。然れども、未だ、其≪の≫功能を攷《かんが》へざる者≪は≫、唯《ただ》、形狀《けいじやう》を記すのみ。

 

[やぶちゃん注:「實を𭇥むを、「繩(とち)」【音「孕」。俗に云ふ、「花の止知(とち)」。】」「廣漢和辭典」で「繩」を見ると、最後の方に『🈔みのる。⇒孕。〔通訓〕。〔周禮、秋官、薙氏〕秋繩リテ而芟ㇾ之。〔注〕含ムヲㇾ實ㇾ繩。』とある。この後にもルビ付きで出るように、「芟」は「刈る・取り除く」の意である。しかし、ここで良安が附した「とち」というのが、判らない。当初は、「栃・橡」で「トチの実」、或いは、「団栗(どんぐり)」の意から、それを「實」に連用したものかと思ったが、如何なる辞書を見ても、それを広義の「實」に転用する意味が見当たらない。一つ、ふと思ったのは、『これ、歴史的仮名遣が違うが、「とぢ」→「閉じ」ではないか?』という説である。「花が受粉して花を閉じて(枯れて)、子房に実が出来る」という意味ではないかという仮説である。大方の御叱正を俟つ。

「周禮」小学館「日本国語大辞典」に、『(「しゅ」「らい」はそれぞれ「周」「礼」の呉音)』とし、『中国の経書』で、儒家で聖典とされる「十三経經」『の一つ。六編、』三百六十『官』からなる礼書である。『周公旦の撰と伝え』るものの、前漢の学者『劉歆』(りゅうきん)の『偽作説もある。もと「周官」といったが、唐の賈公彦』(かこうげん)『の疏で』、『はじめて』「周禮」『と称するようになった。天地春夏秋冬にかたどって』、『官制を立て』、『天命の具現者である王の国家統一による理想国家の行政組織の細目規定を詳説』し、「儀禮」(ぎらい)・「禮記」(らいき)とともに「三禮」(さんらい)と呼ばれる』ものである。

「應劭」(原題仮名遣「おうしょう」:生没年未詳)は後漢末の学者。字は仲遠。河南南頓の人。葉博学多識で、後漢末の混乱期にあって、制度・典礼・故事などが忘れられるのを惧れて「漢官」「禮儀故事」を著わし、また、事物の名称を正そうとして「風俗通義」を書いた(以上の主文は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

『時珍≪の「本草綱目」に≫曰く、『天造《てんざう》、地化《ちくわ》して、草木、生ず。……』』既に割注した通り、ここから二段落に亙っての部分は、実際には、「本草綱目」のパッチワークで、「漢籍リポジトリ」の「卷十二目錄」の冒頭の「草部」が、そこである。以下、少し手を入れて示す。

   *

 本草綱目卷十二目錄

  草部

李時珍曰天造地化而草木生焉剛交于柔而成根荄柔交于剛而成枝幹葉萼屬陽華實屬隂由是草巾有木木中有草得氣之粹者爲良得氣之戾者爲毒故有五形焉【金木水火土】五氣焉【香臭臊腥膻】五色焉【靑赤黃白黑】五味焉【酸苦甘辛鹹】五性焉【寒熱溫涼平】五用焉【升降浮沉中】炎農嘗而辨之軒岐述而著之漢魏唐宋明賢良醫代有增益但三品雖存淄澠交混諸條重出涇渭不分不察其精審其善惡何以權七方衡十劑而寄死生耶于是翦繁去複繩繆補遺析族區類振綱分目除穀菜外凡得草屬之可供醫藥者六百一十種分爲十類曰山曰芳曰隰曰毒曰蔓曰水曰石曰苔曰雜曰有名未用【舊本草部上中下三品共四百四十七種今倂入三十一種移二十三種入菜部三種入穀部四種入果部二種入木部自木部移倂十四種蔓草二十九種菜部移倂一十三種果部移倂四種外類有名未用共二百四十七種

   *

内容的に難しいので、訓読せず、国立国会図書館デジタルコレクションの「頭註國譯本草綱目 第四册」(鈴木真海訳・白井光太郎他校注・一九七三年春陽堂書店刊)の当該部分(ここと、ここ)を引用させて貰う。一部の本文の割注相当箇所がポイント落ちになっているが、同ポイントとした。頭注があるが、必要と判断したもののみを、適切な箇所に【 】で挿入した。

   《引用開始》

    本草綱目草昌目鍛第十二巻

 李時珍曰く、天の創造と地の化育とに由つて草、木なるものがここに生ずるのであつて、剛が柔に交りて根と荄(かい[やぶちゃん注:ママ。])【荄ハ草根ヲ云フ。】との質が成立し、柔が剛に交りて枝と幹との質が成立し、また葉と蕚【蕚ハ花瓣ノ外部ニアリ、數片輪生スルモノ。】とは陽の性に屬し、華と宵とは陰の性に屬するものである。これ等の關係がそのものに現るる差異、程度に従つて、自ら草の中にも木に近いものもあり、木の中にも草に近いものもあるのだが、そのいづれを問はず、そのものの本來の特質の中心たるべき天然に禀(う)くる氣の最も純粹中正なものが良となり、その氣の純粹中正ならざるものが毒となるのである。而してそれ等良、毒の特異はそのものの有する如何なる條件に據つて現れてゐるかといへば、それは五形――金、木、水、火、土――となつて現れてゐる。五氣――香(かう)、臭(しう)、臊(さう)、腥(せい)、膻(せん)――となつて現れてゐる。五色――靑、赤、黃、白、黑――となつて現れてゐる。五性――寒、熱、溫、涼、平――となつて現れてゐる。五用――升、降、浮、沈、中――となつて現れてゐるのである。炎帝神農氏は實驗の基礎に立つて之を識別した。黃帝、岐伯はその基礎に據つて理論的に推究し宣揚した。更に漢、魏、唐、宋の各時代に排出した博識明哲の良醫大家がそれぞれの識見と實驗とを之に加へたので、斯学の内容はますます開展し增大されて來たのである。けれどもそれだけに神農當時に設けた三品の區分は僅に[やぶちゃん注:「わづかに」。]形骸を遺すだけとなつて、品級は淄澠(しじよう)【淄ハ淄水、山東省萊蕪縣ニ源ヲ發シテ淸水泊ニ注グ。澠水ハ山東省臨淄縣ノ西北麻大湖ニ入リ、更ニ淸水泊ニ通シテ終ニ海ニ入ル。二水味異ナレドモ合スレバ則チ辨ジ難シトイフ。】交混し[やぶちゃん注:頭注がやたら長いが、中国で「淄澠を辨ず」で「しばしばものの良し悪しを見分けることが難しいこと」指すフレーズである。]、記載の諸條項が重複するやうになつたために、事實は涇渭分たざる【涇ハ涇水、渭ハ渭水、水部甘露蜜、金部金、諸鐵器ノ註ヲ見ヨ。涇ハ濁リ、渭ハ淸ム。以テ淸濁ノ喩トス。[やぶちゃん注:別に新字の補注があり、『涇水は甘粛省に発し東南に流れて陝西省で渭水に注ぐ。渭水甘粛省に発し東流して陝西省を横断し黄河に注ぐ』とある。]】の有樣となつてゐるのである。しかし苟も[やぶちゃん注:「いやしくも」。]そのものの事實に就いての精微を詳察し、善惡を審悉[やぶちゃん注:「しんしつ」。詳しく知ること。]にすることあらずんば、いかで七方、十劑の調制を的正にして、貴重なる生命を托することが出來やうぞ。この意味から、ここに繁冗なるものは剪(けづ)り、重複せるものは除き、誤謬の點は正し、遺漏せるものは補ひ、族と類とを明に[やぶちゃん注:「あきらかに」。]區別して綱と目とを整然と配列し、穀と菜とに屬するものは除外して、凡そ草に屬するものにして醫藥に供し得るもの者六百十種を擧げ、これを山草、芳草、隰草、毒草、蔓草、水草、石草、苔草、雜草、有名未用の十類に別けて記述することとした。舊本【舊本ハ證類本草ヲ指ス。[やぶちゃん注:「證類本草」は宋代の本草書。四川省の名医であった唐慎微が、その時代までに出版されていた本草書や医方書を合併・引用して纏めた。正式名は「經史證類備急本草」で、完成年代は一一〇〇年頃と推定されている。]】には草部上、中、下三品共四百四十七種あるが、今はその三十一種をそれぞれの條下に併入して、二十三種は菜部に移入し、三種は穀部に四種は果部に、二種は木部に入れ、また木部から十四種をこの部に併入し、蔓草の二十九種中に菜部から十三種を併入し、果部から四種を併入し、外類、有名未用共二百四十七種とした【此處ニ註スル移入併入ノ數而ヲ合計スルモ、草部六百十種ノ數ニ合セズ。頗ル疑フベシ。】。

   《引用終了》

以上の訳で、私は概ね、意味不明の箇所は片付いた。一つ、「五行」の並べ方が、一般に知られる「木・火・土・金・水」でないのに躓いたが、「維基百科」の「五行」を見ると、「春秋左傳」の「襄公二十七年」中の「杜預注」の「五材」の並びが、「金・木・水・火・土」なり、とあったので、よく判らんが、この順で意味があるんだろうな。あんまり興味がないので、これ以上はツッコまないことにする。識者の御教授を俟つ。

「神農本草經」漢代に書かれた最古の本草書。

「三才圖會」明の類書。明の一六〇九年に刊行された王圻(おうき)とその次男王思義によって編纂された。全百六巻。

「農政全書」明代の暦数学者でダ・ヴィンチばりの碩学徐光啓が編纂した農業書。当該ウィキによれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎』十二『年』(一六三九年)『に刊行された』とある。光啓は一六〇三年にポルトガルの宣教師によって洗礼を受け、キリスト教徒(洗礼名パウルス(Paulus))となっている。

「畫譜」東洋文庫の巻末の「書名注」によれば、『七巻。撰者不詳。内容は『唐六如画譜』『五言唐詩画譜』『六言唐詩画譜』『七言唐詩画譜』『木本花譜』『草木花譜』『扇譜』それぞれ各一巻より成っている』とあった。]

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