《★以下は、「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き」の私の準備稿である。このプロジェクトは非常に時間が掛かるため、部分公開をすることとする。疑問・反論があられる方は、是非、お伝え下されたい。その内容に納得出来た場合は、書き直しをすることを、厭わないつもりである。以下の部分公開は、増補を行う都度、前のものを削除し、新たに起こすこととし、その際、既に示した内容でも、修正を加えて書き変えてあるので、必ず、再度、全体に目を通されんことを望む。》
[やぶちゃん注:私は既にブログ・カテゴリ「立原道造」で、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集Ⅰ」(一九七一年角川書店刊)を用いて、「詩集 優しき歌 Ⅰ」の全篇を一篇ずつ、電子化し、オリジナル注を附したものを完遂している。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む。以下の冒頭の引用を参照されたい。)とあり、本篇はここからである。
以下、第一回の「燕の歌」の冒頭注で、底本の「解説・編註」の一部を引用して述べた通り、本底本は――今までの全集とは異なる形で詩群が配置されている――ことが明記されており、しかも、★現在、流通している立川道造の詩集中の「優しき歌 Ⅰ」は、殆んどが、新字採用であり、しかも、本底本全集刊行以前の詩集の、全く異なった「優しき歌 Ⅰ」を以って読んで、鑑賞したきりの読者が、想像以上に多いと考えられるのである。私でさえ、本詩群が載る一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編/現在は品切れ)を古本で入手したのは、二〇一五年の夏であったのである。
されば、前にまず、ブログで「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ / 全篇一括ベタ版・附;縦書版(PDF)」を公開した。その縦書版PDFはこちらである。
今回は、私なりに、道造が「優しき歌 Ⅰ」として全体をソリッドなものとして意図した「流れ」を、ある意味では、批判的に分析することになる。
それは、既に、各篇を見てこられた読者も私と同じく、素朴に抱く根本的な疑問があるからである。簡単に言ってしまえば、
★この「優しき歌 Ⅰ」の十二篇からなる詩篇群は、
■巻頭を飾る「燕の歌」が創作されたのは、
昭和一〇(一九三五)年二月以前(「燕の歌」の初出は『四季』第五号(昭和十年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)
であり、而して、
■終曲である「淺き春に寄せて」が創作されたのは、
昭和一二(一九三七)年二月以前(「淺き春に寄せて」の初出は『四季』第二十五号(昭和十二年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)
で、
◆時間軸での創作時間は、実に、二年間に跨り、
しかも、以上の巻頭・終曲の初出が同じ詩誌『四季』であったのは、私には、たまたまであったと思われ、
◆その間にある十篇に至っては、発表されたのは、異なったバラバラな媒体だった
のである。
言うまでもないことだが、この二年間の間には、別な詩篇を、道造は、多数、創作している。いや! 何より大事なことは、
☆本「優しき歌 Ⅰ」としての叢書刊行の着想を道造が考えたのは、昭和十二年一月のこと推定されていること
である(以上に就いては、既に各篇の注で、底本全集の「解説」・「編註」を引用しつつ、詳細に記してある)。
則ち、
☆この「優しき歌 Ⅰ」は、道造の生前に実際の原稿として十二篇を纏めて組まれたことはなかっただけではなく、角川書店昭和四六(一九七一)年六月二十日刊の『立原道造全集』の『第一卷 詩集Ⅰ』で初めて――道造の死から実に三十二年一月二十一日も経った後に――忽然と姿を現した十二の詩篇群であった
のである。
思うに、
☆「優しき歌 Ⅰ」の構想をした道造は、その時点で、必ずや――全篇に亙って――細部に手を入れて変更を考えていたことは、火を見るより明らかである。
と言っても、それを見ることは、何人(なんぴと)にも出来ぬのだ。
私は以下、私の感性で、感じたことを注として語ることとするだけ、である。
しかし、そこには、当然、致命的に
★二年もの間の時間経過に拠る道造の感性上の絶対矛盾が存在している
のであり、それを、
★私が道造を偏愛しているからといって、見て見ぬふりをすることは出来ない
ということである。
なお、先の「ベタ版」のテクストを、そのまま使い、個別公開した際、字注として添えたものも、必要と感じる部分を検証の冒頭に再掲しておいた。]
優しき歌 Ⅰ 風信子叢書 第四篇
燕の歌
春來にけらし春よ春
まだ白雪の積れども
――草枕
灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる
とほい村よ
あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き
山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた
やさしい朝でいつぱいであつた――
お聞き 春の空の山なみに
お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら
とほい村よ
僕はちつともかはらずに待つてゐる
あの頃も 今日も あの向うに
かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると
やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて
僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ
あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと
単体公開の注で既に述べた通り、最近、電子化注した「立原道造草稿詩篇 燕の歌(二) (恣意的に発表された正編正規版「燕の歌」を頭に添えた)」があり、それは、編註で、昭和一〇(一九三五)年の春の制作と想定しており、草稿詩篇では、『(二)』としている以上、この「燕の歌」の後に続篇として創作したものであるが、明らかに、この詩篇に比べて、ネガティヴさが、相対的に遙かに色濃いのである。以下に示す。
*
燕の歌(二)
朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ
私はどこへ行くのだらう 海よ
私の羽根はもうくたびれた
海よ お前の掌は私を止らせてくれはしない
私はいつか信じてゐた 北の村には
昔の私が待つてゐると さうかしら
海よ お前は敎へてくれ きつと知つてゐるから
お前の身體が北の岸に觸れる村で
昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ
私の旅はもう長い 私の羽根はくたびれた
海よ お前は波立ち呟いてゐる
夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ
私はどこへ行くのだらう 海よ
敎へてくれ 北の村で昔の私がやさしい朝と一しよに
私の着くのを待つてゐると敎へてくれ
お前は波立ち呟いてゐる それが私には
何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ
私の羽根はもうくたびれた
私はどこへ行くのだらう 海よ
お前は大きく お前はむごく意地惡だ
*
私は、今回、この二篇を比較した際、微かに閃いたことは、
――『これは!⋯⋯フランス語の「半過去」と「複合過去」のニュアンス上の違いではなかろうか!?!――
ということであった。道造は、昭和七(一九三二)年八月二十八日(想定)附の堀辰雄宛書簡(底本全集の「第五卷 書翰」のここの「二二」。一高二年進級直後)で、立原は冒頭部で、『この夏は、たうとう東京でぼんやり過してしまひました、佛蘭西語などをすこしやつてみたりして、田舍へも行きたいと思ひましたけれど、結局どこへも行かずしまひでございました。頭のなかで、よい景色のことばかり考へて居りました。そいて、何だかそれが、僕に一番気に入る方法だと、新字ながら⋯⋯』と記しているように、独学で(彼は一高ではドイツ語を選んでいた)本篇を書いた凡そ二年半前から、フランス語を学び始めていた。
ここで、フランス語の当該文法の違いを簡単に述べると(私は英語が嫌いだったので、大学ではフランス語を第一外国語にしていた)、
「半過去形」は、その行為や状態には終結点がなく、未完了の行為となる。
それに対して、
「複合過去形」では、継続的行為や反復的行為であっても、その期間・回数が閉じた時制として具体的であり、はっきりと完了すると判る行為となる。
さて、以上の二篇を見てみよう。
正統である知られた「燕の歌」は、
*
燕の歌
灰色に ひとりぼつちに 僕の夢に★かかつてゐる
とほい村よ
あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を★咲き
山羊が啼いて 一日一日 ★過ぎてゐた
やさしい朝で★いつぱいであつた――
★お聞き 春の空の山なみに
お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消え★ながら
とほい村よ
僕は★ちつともかはらずに待つてゐる
★あの頃も 今日も あの向うに
★かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると
やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて
僕は訪ねて★行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ
あのさびしい海を ★望みと夢は靑くてはてなかつたと
*
ここで★と下線を引いた箇所は、
――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は、過去としては――閉じていない――
のである。
ところが、「燕の歌(二)」では、
*
燕の歌(二)
朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ
私はどこへ行くのだらう 海よ
私の羽根は★もうくたびれた
海よ お前の掌は私を★止らせてくれはしない
私は★いつか信じてゐた 北の村には
昔の私が待つてゐると ★さうかしら
海よ お前は敎へてくれ きつと★知つてゐるから
お前の身體が北の岸に觸れる村で
★昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ
私の旅は★もう長い 私の羽根は★くたびれた
海よ お前は波立ち呟いてゐる
夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ
★私はどこへ行くのだらう 海よ
敎へてくれ 北の村で★昔の私がやさしい朝と一しよに
私の着くのを待つてゐると敎へてくれ
お前は波立ち呟いてゐる ★それが私には
★何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ
私の羽根はもう★くたびれた
私はどこへ行くのだらう 海よ
お前は大きく ★お前はむごく意地惡だ
*
ここで下線を引いた箇所は、明らかに、
――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は――過去としては――殆どが――閉じてしまっている――
のである。
いや! この「燕の歌(二)」を、道造が「燕の歌」とセットする確信犯を持っていたら、私は、「燕の歌 Ⅰ」は、以下、続いた詩群を後に組むことは、到底、あり得ない――出来ないもの――と断ずることが出来る。さればこそ、この「燕の歌(二)」は草稿としてのみ、残されたのである。
そして、道造が、自身の比較的若き日の恋愛の思い出を、大学卒業を半年後に控え、また、新鋭詩人としての本格始動の一つの区切りとして――この――「優しき歌」の詩群(私は、この時点で、当初から、彼が、この詩群を「Ⅰ」として自覚し、後に「Ⅱ」を確信犯として企図していたかどうかは、微妙に留保するものである。それは、「覚書 Ⅱ」――底本の「第一卷 詩集Ⅰ」のここの左丁――には「Ⅰ」を打たず、また、前の右丁下の、現行では「優しき歌 Ⅱ」相当の「覚書Ⅱ」にも、「Ⅱ」は、打たれていないからである。だいたいからして、「Ⅰ」は「Ⅱ」の出版後に出現した――しかも、孰れも編者によるものである)を企画したと推理するものである。
なお、ここで言っておくが、これ以降の詩篇もそうだが――と言うより――多くの道造の詩の実際の彼の恋愛経験を基盤に埋め込んだ作品群に於いて、その相手が、誰(たれ)それであると特定し、姓名を挙げ、恋愛事実と、その破綻を解剖する注や分析を行う意思は――全く――私には――ない。その方面から、詩や物語を分析する必要を一ミクロンも――感じないから――である。「しかし君は、芥川龍之介の作品群では、恐るべき数の、それを、子細にやってきたじゃないか?」と言われるであろうが、それは、龍之介が、本来の結婚したかった女性との結婚を親族に拒否されたことに始まり、既婚者となった後も、驚くべき数の複数の不倫をし、それが、龍之介の作品群執筆の動機・原因となっているケースが有意にあり、それを示さなければ、作品の深層を分析出来ないからであり、さらに、龍之介の精神をも蝕むところの、病跡学的なメスを加えるに際して、絶対的に必要であったからである。道造は、私は一種の双極性障害を抱えていたと考えているが、龍之介よりも、遙かに健全な精神を保持し続けていたのである。
うたふやうにゆつくりと⋯⋯
日なたには いつものやうに しづかな影が
こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと
花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯
すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた
私は待ちうけてゐた 一心に 私は
見つめてゐた 山の向うの また
山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を
ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯
古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も
たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに
風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を
ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど
待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを
私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯
一目瞭然、前の「燕の歌」との決定的な違いは、「燕の歌」が、まさに、プロローグ詩篇として、
ツバメが⋯⋯すぅーと⋯⋯遠い村を眺め⋯⋯暮れやすい花を咲かし⋯⋯山羊が啼いている軽井沢の野原を翔(と)び⋯⋯
音符のスラーのような春の空の山並みを掠めて⋯⋯夕焼けの中の遠景の村の遠景の色⋯⋯
と、水彩画で描き、次でブレイクして、
「僕はちつともかはらずに待つてゐる」「あの頃も 今日も あの向うに」「かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると」という確信犯の半過去の自己感懐の吐露をなした上で、「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ」「あのさびしい海を 望みと夢は靑くてはてなかつたと」という孤独な現在進行形の《閉じた時空間》に屹立しているのだ。
「燕」は客観的な自然生物体のツバメではなく、「道造という孤独な燕」にメタモルフォーゼしようとしているのである。
しかし、それを、道造は、読者に、その変容を気づかせないように――巧みに――フェイド・アウトさせているのである。
さればこそ、この第二篇「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」を、ここに配置することで、愛する永遠の女性像を最終第四聯を除いて、美事(私は「みごと」の漢字表記を国語教師であるのに――いや――国語教師である前に孤独な詩人面を確信犯として演じて――永く「見事」と書かずに、かく「美事」と書いてきた。何度か、男子生徒が「先生、『見事』の間違いではありませんか?」と注意しても、「僕は、こう書くことにしているんだ。」と応じて、ニヤッとしたものだった⋯⋯いや、これは、今も、私の個人的な拘りとして現に私の心の中で生きている私の絶対詩語言語なのである)に消し去って、「優しき歌」とするために――自分独りだけの半過去の詠唱にすり替えている――のである。
物理的な事実が、それを証明する。
★「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、
『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)
であるのに対し、
★本「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」の発表は、
『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊)
で、実に――★二年一ヶ月十二日――も離れているのである。
★恐らく、殆んどの読者は、本詩篇群が日の目を見た一九七一年当時だけではなく――本日只今にあっても――この事実を全く理解していないに違いないのである。
そして、最終聯、
*
ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど
待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを
私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯
*
には、注意が肝要である。
★本「優しき歌 Ⅰ」全十二篇の中で、初めて「優しい」という語(「やさしい」の語も含む)が使用された最初が、この二行目の「私の日々を優しくするひとを」のフレーズ中なのである。而して、実は、次の「優しい」は、「薊の花のすきな子に」パートの「Ⅱ 虹の輪」の第二聯の最終行「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」であり、次は、同じ「薊の花のすきな子に」パートの次の「Ⅲ 窓下樂」の第二聯の最終行「とほい やさしい唄のやう!」で、その後は、ずっと後の「鳥啼くときに」の第一聯の最終行「なんと優しい笑ひ聲だ!」で、これで終りで、計四回である。
但し、この物理的事実は、これと言って、問題するべきものではなく、《優しい》ニュアンスが、他の八篇にも感知されていれば、それで良く、それは、確かに、ある、と言える。道造は、無論、それを意識して、これら十二篇を選別したことは、明らかである。
★しかし、そこは、時期を相応に隔てて、全く別個に詠んできた詩篇を、ある意味、無理矢理に「一緒くた」にしたことには、私は、かなりの問題があると感じているのである。
而して、最終聯の、
*
「私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」
*
の告解は、最早、特定の過去の複数の失恋相手誰(たれ)それなのではなく、
――架空の哀しい過去・現在・未来に於いて実現されない「私の日々を優しくするひと」を必死にイメージした産物――
であり、この「優しき歌 Ⅰ」全体に仕掛けられた
★「バッソ・コンティヌオ(Basso continuo)」=通奏低音となっている
と、私は信ずるものである。]
薊の花のすきな子に
Ⅰ 憩らひ
―― 薊の花のすきな子に――
風は 或るとき流れて行つた
繪のやうな うすい綠のなかを、
ひとつのたつたひとつの人の言葉を
はこんで行くと 人は誰でもうけとつた
ありがたうと ほほゑみながら。
開きかけた花のあひだに
色をかへない靑い空に
鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、
気づかはしげな恥らひが、
そのまはりを かろい翼で
にほひながら 羽ばたいてゐた……
何もかも あやまちはなかつた
みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた
ひろい風と光の萬物の世界であつた。
[やぶちゃん注:この作品の初出は『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)である。さても、ネットの個人評釈の中で、この添え題の中の『薊の花のすきな子』を、彼が勤めていた「石本(いしもと)建築事務所」【今回、「石本」の読みを確認するために、現在もある「石本建築事務所」公式サイトを訪ねた。そして、そこの「環境統合技術室」の『社会が変化しても「変わらない」想い』以下に、何んと! 道造の直筆原稿四葉から成る「建築衞⽣學と建築裝飾意匠に就ての⼩さい感想」が画像で示され、さらに字起こし(但し、現代仮名遣・新字である)もされているのを見て、驚愕した! 後の解説によれば、『本小論文は1936年(昭和11年)3月頃、立原道造が東京帝国大学建築学科2年次の終わり頃に書かれたものと言われています。』とあった。その年月日は――後に示す通り、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」三篇の書かれた時期のど真ん中の時の原稿――なのである!! 是非、見られたい! 道造の当時の優しい読み易い筆致を見るだけでも至福たること、保証する!!! しかも! ★この原稿は角川版「立原道造全集」にはこの論考は載っていない★のである! 調べたところ、引用した通り、同全集の書簡の昭和十一年二月十八日附小場晴夫宛『二〇八』の末尾の方に(ここの左丁の下段一行目)『試驗が近くなると、目がまはりさう。試驗前に出す、演習の製圖があり論文があり、學校の製圖があり、衞生の論文があり』とある最後のものがそれである。同巻の「編註」を見ると、まさに、この「衞生の論文」について、『平山嵩助教授の「建築衞生」の提出論文のこと。』とある。】に働いていた水戸部(みとべ)アサイであろうか? とするものを見たが――
✕それは、物理的にあり得ない
のである。底本全集の「第六卷 雜纂」の「年譜」によれば、道造が同建築事務所に初出勤したのは、昭和十二年四月一日であり、同年譜では、昭和十四年四月の項に、『四月』『上旬、同じ事務タイピストをしていた水戸部アサイの姿が、少しづつ始める』(ここの五月の右丁下段五行目から)とあり、それ以降、急速に親密になっている(同左丁上段後ろから七行目以降、及び、同左丁下段の六月の項を見られたい)。但し、以降、道造が水戸部アサイを死に至るまで愛し続けたことは、明らかである。亡くなる記事の載る、ここの三月(右丁上段後半部。道造の逝去は三月二十九日午前二時二十分で、『肉身にもみとられずにひとり息を引きとった。享年、二十六歲(満二十四歳八か月)』とある。具体には、候補者は信濃追分で出会った親戚筋の少女横田ケイ子、同地で出逢った弁護士の令嬢関鮎子であろうかとは思う。しかし、クドいが、既に述べたように、詩篇に登場する詩人が愛した女性を特定することには、私は全く興味がないし、必要性もない――誰であるかというのは、彼の詩を解読する鍵とは――全く――ならない、と断言するものである。なお、敢えて、『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ 薊の花のすきな子に Ⅰ 憩らひ ――薊のすきな子に――』の私の注では、「薊の花のすきな子」の注に、引用で示してあるから、どうしても詮索が好きで、具体な彼が愛した女性が知りたい向きは、そちらを見られたい。
因みに、「薊」の花の花言葉なんぞを意識したかどうかは、私には判らないが(私は「花言葉」には全く興味がない)、取り敢えず、サイト「GreenSnap STORE」の「【アザミの花言葉】怖い意味はないけど、色や種類で意味が違う?」から拾っておく。
『アザミの花言葉は「独立」「報復」「厳格」「触れないで」です』。『「独立」「報復」はスコットランドに伝わる伝説に由来します。「厳格」は動物を寄せ付けない雰囲気や、春から夏にかけて凜と咲くアザミの特徴が由来とされています。「触れないで」は、アザミの特徴である鋭いトゲが由来です』。『なお、アザミの花言葉に怖い意味はありません』。『アザミはさまざまな色の花を咲かせますが、それぞれにちがう花言葉がついています。ここでは4色のアザミについた花言葉をご紹介します』。『赤いアザミ』は『「権威」「報復」「復讐」』、『紫のアザミ』は『「厳格」「気品」「高貴」』、『白いアザミ』は『「ひとり立ち」「自立心」』、『青いアザミ』は『「安心」「満足」』、『赤いアザミの花言葉は「権威」「報復」「復讐」です。花以外にも葉や花の根元に鋭いトゲがついていることに由来すると考えられています』。『紫のアザミの花言葉は「厳格」「気品」「高貴」です。紫は古くから高位の人のみが身につけることを許されていた色です。紫のアザミにもどことなく高貴な印象があることにちなみ、これらの花言葉がついたと考えられています』。『白いアザミの花言葉は「ひとり立ち」「自立心」です。白は何色にも染まっていないピュアな色です。白だけでも十分に映えることにちなんで、これらの花言葉がついたのかも知れませんね』。『青いアザミの花言葉は「安心」「満足」です。一見、鋭いトゲがついていて近寄りがたい印象がありますが、側にアザミがいてくれれば、動物などを寄せ付けない安心感から、このような花言葉がついたのかも知れませんね。』とある。個人的には、アザミは好き💖 脱線だけど、寿司屋の「山牛蒡」は、モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis の根っこだ、って知ってましたか?
さて。分析に入ろう。何より、
本詩は――徹頭徹尾――「複合過去」である
ことだ。この一篇は、表題と添え辞の優しさに反して――その詩の謳う心を語りながら、それは、
★既に終わってしまった魂の陰翳に全体のホリゾントはテッテ的に沈んでいる
のである。以下、ここまでの三篇の初出年月を再掲すると、
○「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、
『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)
○第二篇の「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」の発表は、
・『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊)
で、二年一ヶ月十二日も離れているが、
○第三篇の「薊の花のすきな子に」の「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」の発表は、
『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)
で、実は、
★この詩篇は――★前の二篇の大まかには中間――但し、第一篇と第二篇のスパンが十ヶ月であるのに対し、第二篇と第三篇とは十五ヶ月も離れている――に当たる時期に創作されたもの★――
なのである。
※この物理的事実を知ると、以下のことが指摘出来る。
ほぼ半過去の「燕の歌」の感懐は、このざっくりと複合過去による吟詠である「Ⅰ 憩らひ ――薊の花のすきな子に――」にあっては、実は、表題の醸し出しているように見える恋情は――完全に過去のものとして永遠の彼方の地平に暗く屹立してしまっている――のである。
※ところが、「優しき歌Ⅰ」を読む読者の殆んどは、第一篇から第二、第三篇と読み進んでくると――その違和感を感じ取ることが困難であろう――と私は踏む。
而して――それは――まさしく――道造が「優しき歌Ⅰ」に仕掛けた巧妙なマジック――なのである!
さらに言えば、添え題「薊の花のすきな子に」がそのマジックに大きな役割を添えている。即ち、通常の読者は、
「薊の花をすきな子に」を見た瞬間、一万人が一万人、誰もが、その「子」は、特定の人物であると自動的にインプレットしてしまう
からである。何度も言っているが
――この「子」は本「優しき歌 Ⅰ」にあっては特定の少女ではない
のである。無論、具体に薊を愛した誰彼がいたことは事実であるが、
――それが誰であるかということを詮索しても、何らの読解の重大な鑰(かぎ)とはならないから
である。「優しき歌 Ⅰ」にあっては、最早、
――あらゆる道造の愛した女性像の昇華してしまったミラージュ(mirage)
なのである。
この「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」が発表された『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)から、四ヶ月後に発表された物語「ちひさき花の歌」(『未成年』第六号・昭一一(一九三六)年・五月号・五月一日刊)、八ヶ月後の物語「花散る里 FRAU R. KITA GEWIDMET」(『文藝懇話會』同年九月号・九月一日刊)にも――前者には『アンリエツト』=『鱵子』(さよりこ)が登場し、「Ⅵ」の終りで、『鱵子は、道のそばに咲いてゐた薊の花を摘みとると、手でくるくるまはしながら薊の花を摘みとると、手でくるくるまはしながら聞いてゐた。僕の頰はほてつてゐた。』と出ており(これは私は未電子化であるので、底本のものをリンクしておく。「ちひさき花の歌」の冒頭はここで、「Ⅳ」の当該部は、ここの左丁一~二行目)、後者では、第二パートの第二段落に『薊の花のすきな娘』が登場する(後者は、私がここで電子化している)。なお、この二篇の内、「ちいさき花の歌」は、作品内の記載から関鮎子がモデルであることが確実に判る。なお、関鮎子について知りたい方は、底本全集の「第六卷 雜纂」の年譜を読むのが最も判り易いと思われるので、昭和九(一九三一)年夏、軽井沢追分での初めての出逢いから、ここと、ここと、ここと、昭和一一(一九三六)年七月九日の最後の関鮎子との別離の最終記載までを、通して読まれたい。
但し、以上の箇所には、二箇所、関鮎子でない女性の可能性があるものが含まれている。
まず一つ目は、昭和一〇(一九三五)年十一月十月十二日の項の、ここの右丁下段後ろから五行目以下)『この日柴岡亥佐雄宛に書いた書簡に、「僕は不吉な恋をしてゐる。相手の人は Fiancé があるのだ、しかし僕らは愛しつくされない位互に愛しあつてゐる」と書いているのは、関鮎子、今井春枝のどちらのことか判然としない。鮎子は千葉市内の女学校を卒業後、当時は東京家政学院に通学していて、十一年春には結婚するはずの婚約者がいる身の上であったという』。『また春枝の方も、十一年八月には結婚しているので、当時すでに「Fiancé がある」という身の上だったかもしれない。ともあれ立原は、どのみち悲恋のコースをたどることを強いられてわけである。』とあるものである。
さらに、ここの(右丁下段後ろから六行目から)、昭和一一(一九三六)年二月一日の項の、道造の同「第六卷 雜纂」の「いろいろなこと㈡」の「★不秩序の祭典」の終りの方の『その焚火の煙のなかに、よき人の姿』(☜)『を見ることの出來たのはうれしかつた。』を引いて『ここで「よき人の姿」と言っているのは、幻影のことなのか、実在の女性(関鮎子・横田ケイ子・今井春枝など)のことなのか、判然としない。』とあるのがそれである。なお、以上の関鮎子の引用リンクには、「鮎子」をポイントしてあるので、そこだけを手取り速く拾い読み出来るようにしておいた。ともかくも、道造の恋愛史を詩篇分析に導入してしまうと、とんだ迷路に迷い込むことは必定なのである。]
Ⅱ 虹の輪
あたたかい香りがみちて 空から
花を播き散らす少女の天使の掌が
雲のやうにやはらかに 覗いてゐた
おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた
夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば
叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や
滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは
やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた
吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く
朝のしめつたその風の……さうして
一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた
おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに
もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが
こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた
[やぶちゃん注:既に「注」・「字注」で示したものを冒頭に再掲しておく。
第二聯三行目の「刃金」の「刃」は異体字で、「刅」の右側の「ヽ」を除去した「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので「刃」とした。「刅」なら表示出来るのだが、私は生理的に、この異体字が極めて嫌いであり、また、「刅金」を素直に「はがね」と一瞬には読めずに戸惑う若い読者のことを考えて、「刃」としたものである。
第二聯四行目の「おののいて」は、ママである。但し、今回、底本全集を検索すると、他では、道造は正しく「をののく」を用いている箇所もあるので、完全な思い込みの慣用語ではなく、たまたま、初出原稿で誤った可能性もある。
さて。この「Ⅱ 虹の輪」初出は『文藝汎論』(第六十号・昭和一一(一九三六)年八月号・八月一日刊)である。
而して、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」の四篇を、時間軸に合わせて並べ直すと、
「燕の歌」➤「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」➤「Ⅱ 虹の輪」➤「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」
となる。そして、年譜的事実に即すなら、
★最後の「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」は明らかに関鮎子との恋愛の破綻の後となるのである。
『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 I 薊の花のすきな子に Ⅱ 虹の輪』の注で、編註を引き、『初出副題は『夏への四つのプレリユウド』から」』であるが、その『副題の示す他の三篇は未詳である。』とあると示した後で、
《引用開始》
なお、この註にある未詳の「夏への四つのプレリユウド」は、一つの仮説に過ぎないが、これは、先行する「詩集 優しき歌 I 燕の歌」と、「詩集 優しき歌 I うたふやうにゆつくりと⋯⋯」と、「詩集 優しき歌 I 薊の花のすきな子に I 憩らひ ――薊のすきな子に――」の三篇のそれぞれの初稿に、これを加えて纏めた初期構想詩篇である可能性が、一番、あり得るのではないか? とも思われる。心情的には、その四篇のみを並べて、電子化して見たい欲求が強く生じているのだが、これは証拠が一切ないから、涙を呑んで、やめる。
《引用終了》
と述べた。ここでは、私の好き勝手にやらしてもらおう。そして、時間軸に従って、これを前に示した通りに作り替えて示す。
*
夏への四つのプレリユウド
燕の歌
春來にけらし春よ春
まだ白雪の積れども
――草枕
灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる
とほい村よ
あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き
山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた
やさしい朝でいつぱいであつた――
お聞き 春の空の山なみに
お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら
とほい村よ
僕はちつともかはらずに待つてゐる
あの頃も 今日も あの向うに
かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると
やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて
僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ
あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと
薊の花のすきな子に
Ⅰ 憩らひ
―― 薊の花のすきな子に――
風は 或るとき流れて行つた
繪のやうな うすい綠のなかを、
ひとつのたつたひとつの人の言葉を
はこんで行くと 人は誰でもうけとつた
ありがたうと ほほゑみながら。
開きかけた花のあひだに
色をかへない靑い空に
鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、
気づかはしげな恥らひが、
そのまはりを かろい翼で
にほひながら 羽ばたいてゐた……
何もかも あやまちはなかつた
みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた
ひろい風と光の萬物の世界であつた。
Ⅱ 虹の輪
あたたかい香りがみちて 空から
花を播き散らす少女の天使の掌が
雲のやうにやはらかに 覗いてゐた
おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた
夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば
叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や
滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは
やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた
吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く
朝のしめつたその風の……さうして
一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた
おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに
もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが
こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた
うたふやうにゆつくりと⋯⋯
日なたには いつものやうに しづかな影が
こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと
花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯
すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた
私は待ちうけてゐた 一心に 私は
見つめてゐた 山の向うの また
山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を
ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯
古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も
たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに
風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を
ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど
待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを
私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯
*
こう並べると、第一篇が「半過去」であるのに対し、第二・三・四篇は纏まって「複合過去」となり、時制上の、ギクシャクした流れが綺麗に整序されるのである。
しかも、「夏への四つのプレリユウド」である。
◆
「燕の歌」では――「お聞き 春の空の山なみに」「お前の知らない雲が燒けてゐる」が――「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう」「お前の夢へ」「僕の軒へ」「あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと」――と――「夏」と、夏の「海」を「前奏曲」の巻頭として予言する⋯⋯
◆
「憩らひ」では――「風は 或るとき流れて行つた」、春の「繪のやうな うすい綠のなかを」、「ひとつのたつたひとつの人の言葉を」「はこんで行くと 人は誰でもうけとつた」「開きかけた花のあひだに」「色をかへない」夏を呼ぶ春の「靑い空に」「鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた」、「気づかはしげな恥らひが」、「そのまはりを」燕のような「かろい翼で」「にほひながら 羽ばたいてゐた……」「何もかも あやまちはなかつた」「みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた」春風駘蕩たる「ひろい風と光の萬物の世界であつた」⋯⋯
◆
「虹の輪」では――「あたたかい香りがみちて 空から」「花を播き散らす少女の天使の掌が」「雲のやうにやはらかに 覗いてゐた」という春の空の下――「おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた」――心地よい前奏曲を聴くように――「夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば」「叢に露の雫が光つて見えた」――しかし――「眞珠や」「滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは」――そこに至福感と同時に――説明出来ない不吉な感じが――「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」――それは――遂に必ずやってきてしまう――終わりへの慄(おのの)きだ――すっかり変容してしまう夏の到来に慄いているのだ――「吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く」「朝のしめつたその風の……さうして」「一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた」――しかし、そこは――既に微妙に時空が変形した見たことのない夏へ向かって――である――だが、悲しいかな、「おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに」「もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが」「こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた」――のだった――永久に取り返しのつかないカタストロフへの通奏低音だ⋯⋯
◆
「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」では――「日なたには いつものやうに しづかな影が」「こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと」「花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯」――「すべては そして かなしげに」☜――「うつら うつらしてゐた」――そんな中――一人称単独で――「私は待ちうけてゐた 一心に 私は」「見つめてゐた 山の向うの また」「山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を」「ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯」呆然と眺めているばかり⋯⋯「古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も」「たのしくさへづつてゐた」けれど⋯⋯「きく人もゐないのに」☜⋯⋯「風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 」⋯⋯「ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」あの時「私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯」⋯⋯
◆
★この私が仮想した「夏への四つのプレリユウド」は、その総てが結果して――複合過去――なのだ!
★既にして――「私」は――「夏」にあって絶対の独りの存在であり、「優しくするひと」は永遠に「私」から去ってしまっているのである⋯⋯⋯⋯
Ⅲ 窓下樂
昨夜は 夜更けて
步いて 町をさまよつたが
ひとつの窓はとぢられて
あかりは僕からとほかつた
いいや! あかりは僕のそばにゐた
ひとつの窓はとぢられて
かすかな寢息が眠つてゐた
とほい やさしい唄のやう!
こつそりまねてその唄を僕はうたつた
それはたいへんまづかつた
昔の こはれた笛のやう!
僕はあはてて逃げて行つた
あれはたしかにわるかつた
あかりは消えた どこへやら?
表題「窓下樂」は、調べてみると、オーストリアのウィーン出身の世界的ヴァイオリニストのフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler 一八七五年~一九六二年)が、フランスの作曲家フランソワ・クープランの様式をもとに作曲した一九一一年のヴァイオリン曲“ Aubade Provençale ” :フランス語・音写「オーヴァード・プロヴァンサル」・逐語訳「プロヴァンスの朝の歌」)があるが、この曲は、日本語に訳された古い楽譜では「プロヴェンス人の窓下樂」と邦訳されていたことが、「CiNii」のここで、確認出来た。東京芸術大学 附属図書館蔵で、この出版社はセノオ音樂出版社、出版年は大正一五(一九二六)年二月発行である(この曲はYouTubeのKochan's Channel氏の“"Aubade Provençale in the style of Couperin" by Fritz Kreisler”で視聴出来る)。その「窓下樂」は、また、国立国会図書館デジタルコレクションの「音樂と詩歌との境」(『音樂叢書』第四編/アムブロオス著・辻莊一訳・岩波書店大正一五(一九二六)年刊)のここに、『窓下樂 Ständchen』という下りがあった。しかし、このドイツ語、平凡社「世界大百科事典」の「セレナード Serenade // Serenatka[イタリア])」の解説の中に(コンマは読点に代えた)、『元来は、夕べに恋人の窓の下で歌う歌であるが、ここに含まれる〈夕方〉〈野外〉〈下から上にささげる〉といった意味から派生した各種の芸術音楽の総称となっている。〈夜曲〉〈小夜曲〉と訳されることがある。楽曲の形式を規定せずに演奏の方法や機会を指す名称であるため種類は非常に多いが、大きく次の三つに分けることができる。』『第1は、元来の〈夕べに男性が窓の下で恋人をたたえて歌う〉セレナードで、ルネサンス期のヨーロッパ全体に広まった習慣だった。曲は単純な民謡風のものからポリフォニックな重唱曲にまで及び、求愛する人物自身がリュート、ギター、マンドリンなどで伴奏する場合も多かった。18世紀以後モーツァルトらのオペラの一場面として,あるいはグノー、トスティらによって芸術歌曲として作曲された場合も、伴奏にはしばしばこれらの楽器か』、『楽器特有の音型が用いられる。また』、『このような歌曲を模したバイオリンやピアノの小品も作られている。19世紀ドイツではこの種のセレナードをシュテンチェン Ständchen といい、シューベルトの作品をはじめ』、『多くの歌曲・合唱曲がつくられた。』とあったので、こちらのドイツ語で「小夜曲(セレナーデ)」を意味する言葉と解説された方が、我々には(私には)、すんなり納得でき、また、道造は建築の関係上、ドイツ語を選んでいることから、この単語には、親しかったものと考えられる。因みに、私は、当初、見慣れぬ熟語で、読みに戸惑ったが、所持する昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」のルビの『さうかがく』で適切と思われる。
また、第一聯一行目の「昨夜」は、私は、嘗つて、うっかり「さくや」と読みかけたが、の「ゆふべ」が、確かに、しっくりくる。
なお、第四聯一行目の「あはてて」は、底本の編註にはママ表記がないが、道造の誤り(慣用表現)であることが判明した。底本の全集を横断して調べたところ、彼は詩篇に限らず、書簡でも、しばしば「あわてて」を「あはてて」と誤記していることが横断検索で確認出来た。
初出は『文藝汎論』第六十号の昭和一一(一九三六)年八月号(八月一日刊)である。ロケーションは軽井沢である(以下の「年譜」を見よ)。
なお、底本全集の年譜を見ると、或いは、この詩作の字背と関係があるかも知れない、三人の女性についてのエピソードが確認出来るので、参考までに引用しておく。
『七月八日、上野を立ち、夜追分着。「僕にメエルヘンを贈[やぶちゃん注:ママ。「贈」。以下、数ヶ所に正字不全があるので、後は私がブレイクして挿入しておいた。]つてくれた少女(注・今井春枝)が、この月ずゑにHeriratenする。』[やぶちゃん注:ドイツ語で「結婚する」。]『追分に來るとき、その少女と偶然汽車でいつしよになり、雨の小半日を輕井澤ですごした(書簡、七月十一日・猪野謙二宛)。』[やぶちゃん注:同全集第五巻「二五〇」。]』『その夜は春枝も油屋に宿り、翌九日、彼女は帰京。「別れのときに、汽車の窓で、肌につけてゐた水晶のちひさな十字架を』贈『つてくれた。そして.一生涯もうお會ひすることも出來ないだらうと言つた。これが夏の出來事のプレリユードだつた。この少女と別れたやうにしてまた僕は鮎子さんとも別れねあなるまい。まだ、わがひとはここの村に』來『てゐない。そして僕がこの村に』來『てゐることを知らせるにもすぺがない」(書簡、前掲猪野宛)。春技が立原に水晶の十字架を贈ったのは、ジイド作「窄き門」のアリサの行為にならったものであろう。その日彼女は、小雨の中を追分まで立原に送ってもらうが、汽車に乗りそこない、タクシーで軽井沢まで汽車を追ったものの間にあわなかった。けっきょく一汽車遅らせて乗車の際、十字架を立原に渡した(「雨の小半日を』輕井澤『ですごした」とあるのは、この次の列車を待つ間のことをいったのであろう)。そうして彼女は翌八月四日に結婚している。さて立原は春枝との別離のあと、鮎子の出現をしきりに心待ちする。「僕がこの村に来てゐることを知らせるにもすべがない」とは、鮎子がすでに結婚していることを意味することばであろう。彼女はこの年の春に東大出の農学士の内田源太郎と結婚し、十五年一月元日、腸捻耘により二児を残して急逝した(享年二十三歳)。その夫君も、十八年四月に戦死している。』とある。今一人は、既に本記事で登場しており、以上の引用にも出た関鮎子で、七月『十二日』の記載の後に(ここの右丁一行最下部から)、『このころ、物語「かろやかな異ある風の歌」を書き始め、『また春枝との別れを主題とする物語「花散る里」』(これは私の電子化物がここにある)『を構想。同時に鮎子に捧げる幾つかのソネットを構想し』た、とある。実は、以上の春枝と鮎子の記載の間に、道造が「エルザベート」読んだ女性、「横田ケイ子」に就いての記載があるのだが(ここの左丁の下段の後ろから二行目)、既に表明しているように、私は道造の愛した実在の女性たちを詮索することは、全く興味がないので、調べる気は全くない。この横田ケイ子については、ネットで論文もあるので(一応、ダウンロードしたものを持ってはいるが、今のところ、読む気はないし、そんな余裕は、私には、ない)、ご自身で捜されたい。
なお、既に述べたが、本「優しき歌 Ⅰ」の中で「優しい・やさしい」の単語が第三番めに使われている。第二聯最終行「とほい やさしい唄のやう!」である。
分析に入る。
まず、全体が複合過去相当であるが、詩を書いているのは、その翌日の設定であり、昨夜の実際の体験の体裁を採っている点で、今までの四篇の時制的複雑性のカラクリは、完全に後退してしまっている。しかも、詩篇は徹頭徹尾、「僕」の独白であり、象徴的な意味深長の「窓」は終始、「とぢられ」ているのであり、「かすかな寢息が眠つてゐ」るに過ぎず、「僕」もまた、独り、「夜更け」の「町」を「さまよ」っている彷徨の影法師でしかないのである。それを如何に「いいや! あかりは僕のそばにゐた」と謳歌しても、「とほい やさしい唄のやう! 」と謳っても、「かすかな寢息」が「とほい やさしい唄のやう!」と「こつそりまねてその唄を僕はうたつ」てセレナードを気取ってみても、「いいや! あかりは僕のそばにゐた」と断言しても、結局は、「それはたいへんまづかつた」ために、「昔の こはれた笛のやう!」と茶化したように叫び、「僕はあはてて逃げて行」くばかりで、「あれはたしかにわるかつた」と自己の不甲斐なさを感じざるを得ず、相手のいない「夜更け」の漆黒の中を疾走するのである! だからこそ、最終フレーズは「あかりは消えた どこへやら?」と投げ出したままに、「羅生門」のラストよろしく――『下人』ならざる「僕」『の行方は、誰も知らない』なのである!
(ブレイク注:個人的に私は同作のエンディングの「誰」を「たれ」と読まねばならないと考えている。そもそも同作では、芥川龍之介は「だれ」ではなく「たれ」と読みを振っていることから、しかして、突き放したコーダは絶対強調の「たれ」の以外にはあり得ないのである)
更に言っておくと、私は、
★この第三聯の「それはたいへんまづかつた」「昔の こはれた笛のやう!」及び第四聯の「あかりは消えた どこへやら?」に対して『道造が表面上チャラかしてわざと言っているのだ!』と初読した際に強く感じた
のである。
この詩は、初読者の中には、総表題「優しき歌 Ⅰ」、中標題のほんわかした「薊の花のすきな子に」に引かれて、夜の詩人の、ちょっとブラッキーを添えつつ、失恋のちょっとしたメンタル・ダウンを諧謔したものだろうと勘違いする者が、いるのではないか? と思っている。
しかし、そんなもんじゃない!!!
以下、「Ⅳ 薄明」と「Ⅴ 民謠 ――エリザのために」でこのパートは閉じるが、過ぎ去った失恋の回想を、さりげなくシャレてカッコよく
――この「Ⅲ 窓下樂」では特異的に、ちょいとコミックな演技をさせているかのようなミミックを導入している――
に組み立てただけの、安普請のセットを並べただけの、「しようがないよ⋯⋯」的の終曲では――これ、ない、のである!
すなわち、
★この「Ⅲ 窓下樂」は――道造の恐ろしいまでの《自身の恋愛の致命的敗北》と――《絶対暗黒の孤独感懐》を巧妙に、コントで塗(まぶ)して「擬態」させたものである
と私は断言するものである。
ここで、最後に、話を変える。
このところ、私は、複数の私的なプロジェクトに関して、概ね、各種データの正確な収集のために、私の注釈について、時々、GoogleのAIと親しくやり取りをやっているのだが、先日、なかなか進まない、この「Ⅲ 窓下樂」の初期分析稿の初っ端を読んで貰い、その評価を乞うたのだが、その返事は、概ね、恥ずかしくなるほどの過褒であった。
が、そこで、彼が、この『「Ⅲ 窓下樂」の「草稿」』なるものと比較した内容が含まれていた。
それを見て、正直、息が止まるほど、驚愕した。それは、私が、先に終えた「立原道造草稿詩篇」として、三ヶ月前の四月二日に電子化した一篇「(この闇のなかで⋯⋯)」であったからであった。
しかし、これは、残念乍ら、物理的に「草稿」ではあり得ないものなのであった。既に述べたが、
☆本「窓下樂」は昭和一一(一九三六)年八月初出である
のに対し、「後記草稿詩篇」の全集の配列では、底本の堀內達夫氏の編註の前後によれば(こことここ)、
★「(この闇のなかで⋯⋯)」は昭和一三(一九三八)年九月から十月初め(奇しくも道造が喀血して盛岡へ旅立つ直前から、療養生活へ入る時期に相当する)である
からである。もっとも、この間にある九篇については、堀內氏は、各個に草稿想定年月を記載していない。しかし、「前期草稿詩篇」「後期草稿詩篇」を編集された堀內氏は、原稿用紙の印刷元や紙質、道造が使用したインクの色の違い等を検証して、たった独りでその詩篇群を組み立てられておられるのである。従って、これらが、実は昭和一一(一九三六)年八月以前に書かれた草稿であったという可能性は、まず、あり得ないと断言してよいのである。なお、同「立原道造草稿詩篇」は時系列で電子化注しており、続けて認識しないと、この制作時期は直ぐには判らないので、AIが誤って「Ⅲ 窓下樂」の原作品「窓下樂」の草稿としたことは判らぬではない。
しかし、以上をAIに伝えたところ、『一筋縄ではいかない立原道造という詩人の内的宇宙において、この「2年の時間差(逆行)」こそが、むしろ病跡学的・表現史的にとてつもない意味を持ってくるのではないでしょうか。』と返事があった。
私も、実は、今――この草稿詩篇の数篇に対して――非常に強く――『「Ⅲ 窓下樂」の改変草稿ではないか?』と感じたのであった。
そこで、以下、『対比するに価値あり』と私が判断した角川書店刊「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年刊)の「後期草稿詩篇」の連続した四篇を、まず、示す。
一つ目は、「立原道造草稿詩篇 僕は おまへに (添え題:「夜の歌」)」)(以下、リンク先は総て私の記事)である(但し、そこでは、編者堀內氏の推理に基づいた可能性の状態の全篇を参考に、私が電子化したものを示してあるが、それは省略する。)。
※
僕は おまへに
夜の歌
僕は おまへに
何も ねがはなければ
何も 强ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)
そして 拒むことなく おまへを
去らせる 夜のなかへ なほとほく
つめたい雨が降つてゐるのを
僕は おまへに をしへよう
おまへが そこで そのやうに
ためらつてゐるのは 何であるかを
僕は とうに 知つてゐるのだ
おまへの大きな聲が
犬たちの吠えるのを叱りながら
きこえなくなるときに
やうやく 僕は ひとりになつて
僕の內の言葉に耳をすます
※
次は「立原道造草稿詩篇 それが どういふことか (添え題:「夜の歌」)」である。
※
それが どういふことか
夜の歌
それが どういふことか
僕は とうに 知つてゐるのだ
おろかしいこととも あるひは
ひどいこととも しかし それを
僕は ふせがうとはしない
窓の外で 風が 雨をかきみだす
その叫びが 僕の內からのやうに
僕に 語りかける――あれは いま
歩きなやんでゐる
倒れかかるやうに 光のとぼしい道を
步きなやんでゐると
ここはしづかだ 花やいだ
灯の下には紫の花が咲いてゐる
※
次は「立原道造草稿詩篇 (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)」である。
※
(昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)
昨日と今日とがいりまじる
僕のなかの 深い淵に
萎えた僕のにくしみよ
身を投げるがいい 消えるがいい
おまへが眠れようが 眠れまいが
僕の知つたことではないのだ
この あはれな 恥も知らない魂よ
出て行くがいい くらい夜のなかへ
外に 秋は まだつづいてゐる
靑白くつめたい光が
虫たちをうたはせてゐる
だれが ここに 耐へてゐて
明日を待ちわびてゐる?
聞くすべもない 大きな 夜の歌
※
最後は、「立原道造草稿詩篇 (この闇のなかで⋯⋯)」である。
※
この闇のなかで
この闇のなかで 私に
うたへ と呼びかけるもの
この闇のなかで だれが
うたへ と呼びかけるのか
時はしづかだ 私らの
ちひさいささやきに耐へぬほど
時はみちてゐる 私らの
ひとつの聲で 溢れ出るほど
とほい涯のやうに闇が
私らを拒んでゐる つめたく
身體は 彫像のやうだ
しかし すでに この闇の底に
信じられない光が 信じられる
私らの聲を それは 待つてゐる!
※
さて。この四篇は、前の二篇が、添え題として「夜の歌」を持ち、第三篇の最終第四聯の最終行が『聞くすべもない 大きな 夜の歌』で終わっている点で、同一の詩想下で、連続して創作された確信犯の――「夜の歌」群――であることは、誰も異義を挟まないであろう。
而して、第四篇であるが、表題を「この闇のなかで」としてロケーションが「闇」で統一されている。第二聯を除いて「闇」が現前されている。第二聯はソネットとして、必然的変化を与えるために、「闇」を字背に暗示させるように、取り立ての係助詞「は」を使って――「時はしづかだ」「時はみちてゐる」――という「時」のみを用いたものであろう。しかし、この部分、単なる詩作上のレトリック(修辞学)ではない。
これは、ただの「夜」の「闇」ではないのだ。
作者だけに理解されている「闇」の中の「時」なのである。
それは、永劫続く蒼褪めた物理的時間の「時」ではないのだ。
作者だけに理解される固有の心理的な――「現存在」としての「時」――なのである。
結果して、第二聯は
――私だけに理解される独自の「時」空間の――その彼の孤独な「闇」空間が――背後に読者に、何とかして、伝わって貰えるようにと、操作したもの――
と私は推理する。
されば、この第四篇は、前の三篇の「闇の歌」群の「コーダ」に相当する終篇として私は〈聴く〉のである。
そして、読者は、もう、お判りになるだろう。「優しき歌 Ⅰ 薊の花のすきな子に Ⅲ 窓下樂」が、殆んど、「夜」の「闇」の中のロケーションであることで、直に、この全四篇から成る「夜の歌」群と強い親和性を持っているのである。
先走って、この道造としては、特異点である異様に徹底的にブラッキーな「夜の歌」群に私が感じた解釈を述べてしまった。以下、順に見てゆこう。
*
僕は おまへに
夜の歌
僕は おまへに
何も ねがはなければ
何も 强ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)
そして 拒むことなく おまへを
去らせる 夜のなかへ なほとほく
つめたい雨が降つてゐるのを
僕は おまへに をしへよう
おまへが そこで そのやうに
ためらつてゐるのは 何であるかを
僕は とうに 知つてゐるのだ
おまへの大きな聲が
犬たちの吠えるのを叱りながら
きこえなくなるときに
やうやく 僕は ひとりになつて
僕の內の言葉に耳をすます
*
この第一詩篇には、見慣れた道造の持ち味であるロマンティクな雰囲気は、微塵もない。以下の四篇まで、それは、少なくとも第三篇まで、孤独な独白として対象者を突き放した状態で続いているのだ。第四篇のみ、第二聯以降の三聯には、「私ら」という対象者を含んだ表現に、唐突に(吃驚するほど、である)変容し、そこには、「私ら」の希望のように見える形で終わっている。これは、前の三篇の「闇」に塗り固めたそれに、私たちの知っている、彼の魅力と信じている優しさで、予感が響いては、いるように、一見、見える。それは、そこで検証するが、しかし、どうにも、その「闇」に苦しくなってしまった詩人道造が、やらかしてしまった「附けたし」のようにしか、私には、見えないのである。
基(もとい)! この一篇で、道造は、愛する女たちに、敢然と、己れの最終宣告を言い放つのだ。
――「僕は」最早「おまへに」「何も」「ねがは」ない――「何も」「强ひ」ることも「しない」――いや、私が、そう言う前から、「おまへはふたたびかへらないだらう」ことを知っているのだ――「そして」全く「拒むことなく」「おまへを」「去らせ」せてやる――「夜のなかへ」「なほとほく」へだ――いや、途轍もない「つめたい雨が」既に「降つて」しまって「ゐるのを」、「僕は」何も判ってはいない「おまへに」冷徹に「をしへよう」――「おまへが」「そこで」「そのやうに」「ためらつてゐる」ような様子を、私に見せている「のは」、実際には、「何であるかを」、「僕は」まるで理解してないおまえとは違って「とうに」最早「知つてゐるのだ」――僕は思い出すのだ――「おまへの大きな聲が」「犬たちの吠えるのを叱りながら」「きこえなくなる」あの、ひと「とき」の情景の中「に」だ――そうして「やうやく」「僕は」「ひとりになつて」――「僕の內の言葉に」のみ「耳をすます」ことにする――
*
それが どういふことか
夜の歌
それが どういふことか
僕は とうに 知つてゐるのだ
おろかしいこととも あるひは
ひどいこととも しかし それを
僕は ふせがうとはしない
窓の外で 風が 雨をかきみだす
その叫びが 僕の內からのやうに
僕に 語りかける――あれは いま
歩きなやんでゐる
倒れかかるやうに 光のとぼしい道を
步きなやんでゐると
ここはしづかだ 花やいだ
灯の下には紫の花が咲いてゐる
*
これは、もう、完全な――己れの最終宣告の「夜の歌」続篇――である。
――「それが どういふことか」なんてことは「僕は」「とう」の昔「に」「知つてゐるのだ」――僕と、お前の、「おろかしいこととも」「あるひは」「ひどいこととも」「しかし」「それを」「僕は」全く以って「ふせがう」(=防禦しよう)「とはしない」のだ――「窓の外で」「風が」「雨をかきみだす」――「その叫びが」「僕の內からのやうに」直(ちょく)に「僕に」「語りかける」のだ「――」「あれ」(=彼=道造)「は」「いま」「歩きなやんでゐる」のだ、と――「倒れかかるやうに」「光のとぼしい道を」「步きなやんでゐる」のだ――「と」僕に語りかけるのだ――「ここはしづかだ」――「花やいだ」「灯の下には紫の花が咲いてゐる」――僕は僕だけで十全に生きているのだ――
*
(昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)
昨日と今日とがいりまじる
僕のなかの 深い淵に
萎えた僕のにくしみよ
身を投げるがいい 消えるがいい
おまへが眠れようが 眠れまいが
僕の知つたことではないのだ
この あはれな 恥も知らない魂よ
出て行くがいい くらい夜のなかへ
外に 秋は まだつづいてゐる
靑白くつめたい光が
虫たちをうたはせてゐる
だれが ここに 耐へてゐて
明日を待ちわびてゐる?
聞くすべもない 大きな 夜の歌
*
ここで道造は、さらに宣告に重要な――孤高の精神性へのメタモルフォーゼ――を加えてゆく。
――「昨日と今日とが」――即ち、物理的な直線上の立ち戻りしないはずの「昨日」と「今日」(「きのふ と けふ」と読んでおく)が――絶対的であるはずの蒼褪めた無限遠の時空間が――変容を始めて「いりまじる」=「昨日」「今日」という区別が消失し、一つの永遠の複合体へと変容してしまったのだ――「僕のなかの」「深い淵に」――「萎」(な)「えた僕のにくしみよ」――今こそ「身を投げるがいい」「消えるがいい」――それが今の僕には瞬時に出来るんだ――僕が愛した「おまへ」たち「が眠れようが」「眠れまいが」、そんなことは――今や、「僕の知つたことではないのだ」よ――――「この」「あはれな」「恥も知らない魂よ」[これは、「この」と言う指示語から、表現上では、変容する前の「僕」=道造自身の魂を指していようが――それは末尾の「出て行くがいい」「くらい夜のなかへ」以下最後までの叙述で限定は出来る――しかし、考えてみれば、この決定的な時空間変容の中では、彼我(ひが)の違いも無化されるからして、「僕」と「おまへ」たちの区別もあり得ないのであるから、愛した女たち総体も含まれると読むべきであろう。]――「出て行くがいい」「くらい夜のなかへ」――「外に」「秋は」「まだつづいてゐる」「靑白くつめたい光が」「虫たちをうたはせてゐる」――いや、それはこの変容の中では、至極、当然なのだ――しかし、それは――私独りだけに判る感覚なのだ――いや! 一体、「だれが」「ここ」(=変容した特異な「僕」の時空間)「に」「耐へてゐて」、一体、誰が「明日を待ちわびてゐる?」――そんなことは、僕以外には――絶対に――感官することは不可能なのだ!――まさに「聞くすべもない」「大きな」「夜の歌」なのだ!!!
この最後の「聞くすべもない」を解析するとなら、これは、文字通りの意味ではなく、
★変容した「僕」にとっては、それを「聞く」(=説明する)ための「すべ」(=くだらない「手段・行為」)を必要「もない」
の謂いであろう。即ち、「僕にとっては何らの判らないところのない当然のこと」の意だろう。謂い添えておくと、
★「僕」以外の存在とは――「愛した女たち」だけでなく――「この詩を読んでいる読者たち」さえも――理解不能なことだ――「僕」は言っているのだと私は思うのである。
*
この闇のなかで
この闇のなかで 私に
うたへ と呼びかけるもの
この闇のなかで だれが
うたへ と呼びかけるのか
時はしづかだ 私らの
ちひさいささやきに耐へぬほど
時はみちてゐる 私らの
ひとつの聲で 溢れ出るほど
とほい涯のやうに闇が
私らを拒んでゐる つめたく
身體は 彫像のやうだ
しかし すでに この闇の底に
信じられない光が 信じられる
私らの聲を それは 待つてゐる!
*
最終篇である。既に冒頭で指摘してしまったが、この篇は、明らかに、前の三篇のダークな突き放した折角の異様にダークにして強烈な哲学的認識が、私たちよく知っている道造の優しい希望を含んだ「闇の底に」「信じられない光が 信じられる」「私らの聲を それは 待つてゐる!」と全体が完全なフランスで言う「直説法現在」であり、今まで解説してきた「半過去」「複合過去」でさえない。されば、『前三篇の「夜の歌」群と外してしまって、分析した方がいいのではないか?』と思われる人が多いかも知れぬが、草稿篇の並びから物理的に、これだけが別個の草稿であるとは採れない以上、掲げておいた。
思うに、道造には、前の三篇が、今まで過去に詠じてきたものと、激しく違ったものとなったことから、この一篇を書いて、永遠に「闇」に屹立してしまった自分を救助する必要があったものと推定される。
しかし、この最終篇は、如何にも前の三篇を穢(けが)すものとしか採れない(私は私自身がそう強く感じる)。それは、一つのソリッドな「夜の歌」として、この第四篇でアウトである。それは、道造自身こそが、痛烈に感じたのである。さればこそ、この「夜の歌」は、お蔵入りとなったと考えられる。
さて、私は、
★これらの「夜の歌」群は、後に「優しき歌 Ⅰ」を構想し出した以降、「薊の花のすきな子に Ⅲ 窓下樂」に相当する一篇(或いは複数篇)を、新たにしっくりくるものを道造は探しつつ、どうも見たらないので、新たに試作しようとしたのではなかったか?
と考えるものである。その可能性は十分にある。というより、そもそもが、私自身が強烈に違和感を感ずるところの、
✕既存の作詩だけで、ロケーションも、詠じた動機も、内容の登場人物や季節や自然が異なり、どれもがバラバラの感覚で詠じた、全然、異なったものを寄せ集めて、「優しき歌 Ⅰ」という題名で、十二篇のセット、しかも、その中を四パートに分割するというのは、所詮、無理な話
なのである! 私の、この分析は、
★そうした「優しき歌 Ⅰ」を批判する目的を主としている
と言ってもよいのである。