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2021/12/05

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 病氣した魚介 / 筑摩版全集の「病氣した海底」或いは「病氣した魚介」(標題並存)の筑摩版が決定稿とするものの失われた別稿

 

  病氣した魚介

 

魚の耳

さざえの手

ぐにやぐにやにただれたうにの肉と

くさつた海綿のはらわたから

おまへの赤い椿がべつとりと咲き

ひもくらげのうすらあかりで

らうまちすのたこが足をたべたり

靑貝の肉をたべるいやな光景

またここの淺洲には

ながいしんけいのいたむ根をくふつめた貝

光る波のあなたに

いそぎんちやくの毛はたえずうごめいてゐる。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集の「未發表詩篇」に「病氣した海底」或いは「病氣した魚介」(後部並存。以下で私が打った「*」及び「//」で挟んだ部分はその並存を示す。)という題で、以下が載る。濁点落ち(「さゝえ」)や誤打ちと脱字(抹消部「らうまず」は「らうまちす」)は総てママ。

   *

 

 病氣した*海底//魚介*

 

ひとでの口

魚の耳

さゝえの手

ぐにやぐにやにただれたうにの肉と

くさつた海綿のはらわたから

なまこの赤い椿がさきべつとりと咲き

ひもくらげのうすらあかりで

病氣のらうまちすのたこが足をたべて くひきりたべたり

らうまず靑貝の肉をたべるいやな光景

またこゝの淺洲には

わがいたむわがしんけいのいたむ根をくふつめた貝

ほの光るささ浪の遠見にあなたに

いそぎんちやくの毛はたえずうごめいてゐる、

 

   *

また、更に同じ第三巻の『草稿詩篇「未發表詩篇」』の方に、上記の詩篇の草稿として『(本篇原稿二種二枚)』無題の以下がある。歴史的仮名遣はママ。

   *

 

  

 

うにのぐにやぐにやにただれたうにの肉

くさつた海綿のはらはたから

なまこの赤い花がさき

┃ひもくらげのうすらあかりで

病氣のたこが手をくひ

いそぎんちやくが手がしなりしなり

また遠い海岸の岬では

┃いそぎんちやくの纖毛が

くらげの ひとでのまるい口

┃魚の耳

┃ひとでの口

いそぎんちやくの 纖毛

┃さゞえの耳

┃いそぎんちやくの手

[やぶちゃん注:「┃」は底本では連続している。これは朔太郎が引いたものでソリッドなものを示す記号。「↕」は私が附したもので、前後の「┃」詩句群二つが並置残存していることを示す。]

足をたべる病氣のたこのたぐひが足をたべる光景

また水のしたには わがふむ水の底には

靑貝をたべる光景

またこゝの淺洲には

わがくさ れたるもの つた肉をくふ

わがしんけいの根をくふつめた貝

 

   *

なお、以上の倉庫には編者注があり、『本稿は未發表詩篇「晩景」と同一用紙に書かれている。』とある。「晩景」は本底本シリーズの「遺稿詩集」で電子化済みである。

 さて、本篇は、筑摩版全集の決定稿扱いの前者に近い。但し、相同ではない。されば、失われた別稿ととるべきであろう。

 因みに、私が萩原朔太郎を偏愛するようになったのは、この「月に吠える」時代の詩篇に私のフリークである海産無脊椎動物がワンサカ出ることにも起因している。]

2021/12/04

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(わが肱かけ椅子は木製にして)

 

  

 

わが肱かけ椅子は木製にして

するどきくるぶしのいたみを加ふ

今日しも

われは椅子をはなれず

手に捧ぐるは重たきくるうすの書物

ここに醫學のことばあり

「あまつさへ病毒は炎症」

 

[やぶちゃん注:「くるうす」は「くるす」で、キリスト教の書物か、と一読思わせるが、以下から「クロース」(cloth)装(布装)の書物の意である。筑摩版全集の「未發表詩篇」に以下がある。誤字(「レウマリス」「おとづゝる」)はママ。□は判読不能字。

   *

 

 

 

わが肱かけ椅子は木製にして

するどきくるぶしのいたみを加ふ

今日しもわれは椅子をはなれず

手に捧ぐるは重たき厚き油繪くろうすの書物

そこ

こゝに醫學のことばあり

疾患性「あまつさへ病毒は潛伏の發シンは旬日は炎症」

「麻□性疾患及びレウマリスの療法について記されるもの」

ここに祈禱のことばあり

然れども

今扉にひねもす

おとづゝるものはたれぞや

しきりに落葉するころほひ

日くれほのかにその瞳 とのもをうかゞへば扉のすきまより

 

 * 本稿には以下がない。

 

   *

小学館版は、この同一の原稿の後半の「麻□性疾患及びレウマリスの療法について記されるもの」以下が付属しない同一原稿の前半をもとに判読したものと推定してよい。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 大河内藤藏紀事 文宝堂

 

   ○大河内藤藏紀事【丙戊[やぶちゃん注:文政九(一八二六)年。]三月九日異聞。】

    口上書

私儀、生國甲斐國山梨郡藤木村[やぶちゃん注:現在の甲州市塩山藤木(えんざんふじき)(グーグル・マップ・データ)。]、御代官小野田三郞右衞門樣御支配、百姓甚左衞門忰にて、去々申年中、御當地へ罷出、知人深川八幡前佃町家主、彥兵衞、世話にて、去酉年八月中、一橋樣御小姓組頭取、瀧川主水方へ侍奉公に罷出、相勤罷在候處、傍輩中間三平と申者、常々、手荒成者にて、口論等仕、其上、博奕致候に付、當三月五日、主人より暇差出候處、「衣類等にも差支候間、外へ奉公濟[やぶちゃん注:「ほうこうずみ」で「奉公住み」か。或いは、仲介する口入れ屋を通じての「奉公替え」の仕儀を言うか。]も仕兼候間、差置吳候樣。」取計の義、相賴候に付、主人方へ取繕いたし遣し、差置候處、主人用向、相辨兼[やぶちゃん注:「あひわきまへかね」。]候に付、「右體の義にては難差置候間、其趣、當人へ申聞候樣。」、一昨七日、主人申付候間、其段、三平へ申聞候處、取用不ㇾ申、其上、今朝、明番[やぶちゃん注:「あけばん」。一晩二交代の勤務で夜半から明け方にかけての勤務で、三平がその後半に当たっていたことを指す。]に付、爲ㇾ迎[やぶちゃん注:「むかへんがため」。]に罷出候節、三平儀、昨日罷出候て、今朝歸り不ㇾ申候に付、奧方へ其段申聞候へば、先、私、幷、挾箱持市助に草履を爲ㇾ持[やぶちゃん注:「もたせ」。]、「兩人計、迎に罷越候樣。」申付候に付、則、同道仕、神田橋中屋敷へ罷越、主人退散を相待候處、三平罷越候に付、「何方へ罷越候哉。」と承候處、「一旦、暇出候身分の儀に付、何ㇾ罷越候共、勝手次第。」の儀に有ㇾ之旨申、主人始、私儀を惡口雜言等、申掛候へ共、平日、手荒成者故、取敢[やぶちゃん注:「とりあへず」。]不ㇾ申、程能、及挨拶候處、猶々、聲高に申募り候故、種々、理解[やぶちゃん注:「ことわり、とき」。]申聞候へ共、聞入不ㇾ申、「若年者。」と侮り、理不盡に打掛り、打擲[やぶちゃん注:「ちやうちやく」。]に逢、殊に主人外聞にも相拘り候に付、餘り殘念に存、不ㇾ得已事、刀、拔放し候處、猶又、罵り打掛候故、腕切落し候得ば、門外へ欠出し[やぶちゃん注:「かけいでし」。]候間、追懸罷出候處、又候[やぶちゃん注:「またぞろ」。]。私へ打掛り、其上、御屋敷前、構の下水へ、蹴込候に付、旁[やぶちゃん注:「かたがた」。]、心外に存、起上り、無是非打果申候。此外可申上儀無御座候。以上。

 三月九日  瀧川主水家來

           大河内藤藏【戌十七歲。】

   御從士目付

       依田源十郞殿

       神谷昇太夫殿

       瀧川主水草履取

           三   平【戌四十四歲】

   疵 所

左り二の腕臂際より切落。

面部左りの方、竪に三寸程、切下げ、同所橫三寸程一ケ所、胸に突疵二ケ所、右の腕中指の間より竪三寸程切割。止め、咽一ケ所。

   同人懷中物

半紙・鼻紙、少々。簺[やぶちゃん注:音「サイ」。骰子のことか。]、二ツ祇紙に包。

右死骸、三河町一丁目「地藏番屋」西の方にて見分、相濟、同十二日朝、瀧川主水家來某へ引渡。依ㇾ之、主人より、番組人宿[やぶちゃん注:「ばんぐみひとやど」。雇人などの周旋をする口入宿(くちいれやど)を「人宿」と言い、それを管理・統制するために複数(初期は三十単位で)で強制的に組合を作らせ、それを「番組人宿」とそうした。人宿は組合への加入が必須とされ、町奉行所はそれを通じて人宿運営についての指示や指導を行った。]神田多町中村屋茂助へ、引渡し。

            瀧川主水中小姓

            大河内藤藏【戌十七歲】

酒井左衞門尉、辻番所にて、見分者の口上差出、同十日暮六ツ時頃[やぶちゃん注:不定時法で午後六時前頃。]、町奉行筒井伊賀守役宅え、召連、相渡候處、翌十一日、一橋殿小人目付[やぶちゃん注:「こびとめつけ」。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張して、拷問・刑の執行などに立ち会った職。]、町奉行所へ御呼出、「右藤藏儀、吟味中、預け遣す。」旨、被二申渡候。同十二日、右藤藏幷に一橋殿裏門番三人、酒井左衞門尉辻番人四人、町奉行所へ呼出さる云々。裁許不ㇾ及ㇾ聞、追てたづぬべし。

一、藤藏、みづから、いふ。「享保九子年[やぶちゃん注:不審。享保九(一七二四)年は甲辰。子年は享保五年。]以前は、松平美濃守吉保、同伊勢守吉里、甲州府中領主の節迄、藤藏先祖は、二百五十石にて、家來なりし。」よし。「柳澤國替以來、鄕士に被ㇾ成候。今は百姓になりし。」とぞ。

一、三平は、八日に外へ奉公濟いたし、同日夕方、取替金をうける[やぶちゃん注:斡旋で仲介料を得た口入れ屋から出る当人への奉公替え用の支度給付金か。]。九日朝、三河町一丁目河岸の居酒屋にて、酒を飮居たりし故、主人の迎、遲刻に及びしとて、口論の節、主人の草履を以、藤藏を打擲し、腕を切落されても、猶、打かゝりし故、藤藏、全身、血に塗れし、といふ【大河内藤藏は、爾後、一橋樣の御徒士に召出されしと言。】。

一、當時の落咄に、「三平、切られて叫て言、『ヤレ人殺し、人殺し、庄内に、人は、ないか。【これは酒井公の辻番人をさすなりとぞ。絕倒。】[やぶちゃん注:この最後の落とし咄し、どこがどう面白いのか、さっぱり判らぬ。どなたか、御教授願えれば、幸いである。]。

    文政九年三月記

伽婢子卷之十二 早梅花妖精

 

[やぶちゃん注:挿絵は岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の鮮明なものを以下に掲げた。]

 

Soubaikanoyousei

 

   ○早梅花妖精(さうばいくわのえうせい)

 

 信州伊奈郡(いなのこほり)開善寺(かいぜんじ)の早梅花は、名におふ、たぐひなき名木にて、末だ冬至の前後より咲初めて、淸香(せいきやう)、四方に薰ず。近鄕隣村の人、心ある輩は、日每に、集まり、見る。元より、信州は陰氣がちにして、寒國(かんこく)也。冬は、雪、深く、消えぬが上に、又、降り積み、嵐、烈しく吹すさびて、なべての草木は、いとゞ遲く萠出(いづ)るに、此の寺の早梅花は、げにも「花の兄(このかみ)」として、淸寒(せいかん)に堪へて、綻(ほころ)び出《いで》つゝ、更に、其の時を、違(たが)へず。誰(たれ)か誠(まこと)に賞せざらん。

 その比(ころ)、村上賴平の家人《けにん》、埴科文次(はにしなのぶんじ)といふ者、心ざま、情け深く、武を學ぶ暇(いとま)には、敷き嶋の道を慕ひ、軍陣の砌(みきり)にも、陣所(じんしよ)の風景、面白きところにては、一首を綴りて、思ひをのべ、諸軍の興を催させけり。

 斯(かか)るやさしき男子(をのこ)なりければ、人、更に惡しくも思はず。

 其の比、甲州の武田、信州の村上、兩家、爭ひを起し、陣を張り、戰ひを決す。

 或る時、出陣のついで、

「開善寺の梅、今を盛り。」

と聞えしかば、文次、夕暮れ方(かた)、中間一人、具して、陣中をしのび出て、かの寺にうかれ行つゝ、香(か)を尋ねて、花に嘯(うそふ)き、

「南枝向ㇾ暖北枝寒(なんしはだんにむかひほくしはさむし)

 一種春風有兩般(いつしゆのしゆんぷうりやうはんにあり)」

といふ古詩を吟じける。

 月、すでに、山にのぼり、花に映じて、えならず、覺えければ、

 ひゞき行鐘の聲さへ匂ふらむ

   梅さく寺の入りあひの空

と、打ち詠じをる所に、此の邊(あたり)には思ひかけず、見馴れもせぬ女性(によしやう)一人、女(め)の童(わらは)、一人、具して、出來《いできた》れり。

 年のころ、廿(はたち)ばかりと見ゆ。

 白き「こうちぎ」に紅梅の「下がさね」、匂ひ、世の常ならず、月に、えいず。

 花に向ひて、

 ながむればしらぬ昔のにほひまで

   おもかげ殘る庭の梅がえ

と、よみて、少時(しばし)、休らひ居たり。

 文次、是れを聞くに、あやしみながら、堪へかね、近く立よりて、袖を引きつゝ、

「今宵の月に、光りを爭ふは、庭の梅のみか、君が姿と、袖のかをりも、同じ心に覺え侍り。」

なんど、戯れば、女、さしも驚きたる色なく、

「梅が香にいざなはれ、月に嘯く此の夕暮れに、やさしき人に逢ひ奉るこそ、嬉しけれ。」

とて、しめやかにもてなしける氣(け)はひ、此の世の人とも、覺えず。

 文次、則ち、中間に仰(おほ)せて、酒うる家を尋ねさせ、酒、買《かひ》求め、御堂(みだう)の軒に坐して、數盃(すはい)を傾け、醉(えひ)に和(くわ)して、語らひ、よりつゝ、

 袖のうへに落ちて匂へる梅の花

   枕に消ゆるゆめかとぞ思ふ

と、いひければ、女、返し、

 しきたへの手枕の野の梅ならば

   ねての朝(あさ)けの袖ににほはむ

と、詠(よみ)て、互ひに、わりなく契りけるが、數盃を傾けし醉ひにふして、夜、已に明方になり、東の空、橫雲、たなびきければ、夢、驚き、眠(ねふ)りさめて、起きあがりしに、文次、只、ひとり、梅の木の本《もと》に臥して、女も、めの童も、何地(いづち)行けむとも、知らず。

 明渡る空に、群鴉(むらがらす)の鳴く聲ばかり、月は西に落ちて、名殘りは我身にとゞまれり。

 昔、もろこしの崔護(さいご)と云ふ人、或る所の門の内に、桃の花、盛りに咲けるを見たりしに、諸友(もろ《とも》)に、酒のみ、歌、うたひしを、

「又、來春も、爰(ここ)にて逢はん。」

と契りしが、次の年の春、其の所に行けるに、女、更に見えざりしかば、門の戶の扉(とびら)に、

「去年今日此門中(きよねんこんにちこのもんぢう)

 人面桃花相映紅(じんめんとうかあひえいじてくれなゐなり)

 人面不ㇾ知何處去(じんめんはしらずいづれのところにかさる)

 桃花仍舊笑春風(たうくははむかしによつてしゆんぷうにえむ)」

と云ふ詩を題して書付けたり、とかや。

「夫れは、もろこしのためし。是れは、此の國の事也。又、後を、いかにとか契らむ。人ならば、又、巡りも逢ふべきに、是れは疑ひもなく、庭の梅花の妖精《えうせい》なるべし。」

と、袂(たもと)に殘る移り香(が)の、さながら、梅花の薰《かを》りに、たがはぬぞ奇特(きどく)なる。

 かくて、陣屋に歸りても、猶、其の面影の忘れ難く、夕暮になれば、そぞろに戀しく、淚の絕へる、ひま、なし。

 梅(むめ)の花にほふ袂のいかなれば

   夕ぐれごとに春さめのふる

「物ぢじきなく、世にすむかひも、有明のつきせぬ思ひに、くずをれて、こりつむ柴の歎きせむよりは。」

とて、其《その》次の日、打死《うちじに》しけり。

[やぶちゃん注:「信州伊奈郡(いなのこほり)開善寺(かいぜんじ)」長野県飯田市上川路(かみかわじ)に現存する臨済宗妙心寺派(現在)の畳秀山開善寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『寺伝によると、鎌倉時代に伊賀良荘に入部した四条頼基が創建し』、建武二(一三三五)年に『小笠原貞宗が清拙正澄』(せいせつしょうちょう:元の福州連江県に生まれ、鎌倉末期に来日して、北条氏の庇護を受け、南禅寺や建長寺のほか、五山派寺院の住持を歴任した。臨済宗大鑑派の祖。)『を開山として中興されたとされる』。暦応元(一三三八)年には『足利尊氏御教書により諸山に列し』、応永三(四四二七)年には『天与清啓の尽力により、室町幕府から十刹に列せられた』が、『室町時代後半になると寺は衰え』、明応八(一四九九)年には『火災による堂宇の焼失もあった。しかし』、天文一八(一五四九)年、『松尾城の小笠原信貴により復興され』、慶長六(一六〇一)年には、寺領三十五石に『なるまでに至った。この復興の頃、現在の妙心寺派に転派した』とある。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本話の主人公の主人「村上賴平」のモデルの一人を、『信州葛尾』(かつらお)『城主(現長野県埴科』(はにしな)『郡坂城町』(さかきまち)『)村上頼衡(よりひら)』としており、調べた限りでは、頼衡なる人物は明応三(一四九四)年没である。但し、他にも別な没年や候補者を載せており、いちいち出さないが、それらの没年は永正一七(一五二〇)年、天文二(一五三三)年、天文七年とあるから、孰れも堂宇消失の後で、寺自体が最も寂れていた時期となり、二人の邂逅の背後の寺の様子は、実際には荒廃したものを想起してよいかと思われる(挿絵ではしっかりした建物が見えるけれども)。なお、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」の脚注では、『武田信玄の菩提寺。快川和尚で有名。山門に二本の梅の木がある(『甲陽軍鑑』)』とある。

「花の兄(このかみ)」「このかみ」は「子の上」で「兄」となる。同前の高田氏の脚注に、『梅の異名。「梅花を花の兄ともいへり」(謡曲『難波』)』とある。

「淸寒(せいかん)」澄みきって切れるような厳しい寒さを指す。

「埴科文次(はにしなのぶんじ)」不詳。群名を名にに負うているので、土着の武家である。

「甲州の武田、信州の村上、兩家、爭ひを起し、陣を張り、戰ひを決す」「新日本古典文学大系」版脚注に、『村上家は、武田信虎と大永二年(一五二二)年頃より佐久郡を中心に戦った。とくに天文十七年(一五二二)、村上義清と武田信玄は信州上田原(現長野県上田市)で合戦に及び、義清が勝利した』とある。

「出陣のついで」「新日本古典文学大系」版脚注では、『信玄の伊奈侵攻が念頭に置かれたか。侵攻は天文十三年(一五四四)頃より開始され、上伊那は早く勢力下に置かれたが、下伊那は遅れ、天文末』(~一五五五年)『頃まで合戦が続いた』とある。

「南枝向ㇾ暖北枝寒(なんしはだんにむかひほくしはさむし) 一種春風有二兩般一(いつしゆのしゆんぷうりやうはんにあり)」宋の祝穆(しゅくぼく)編になる類書「古今事文類聚」(全百七十巻。一二四六年成立。先行する「芸文類聚」の体裁に倣って、古典の事物・詩文などを分類したもの)に、後に元の富大用が新集三十六巻・外集十五巻を、祝淵が遺集十五巻を追加し、総計二百三十六巻としたが、その「後集」の第二十八巻の「梅花」の「詩話」の「紅梅下婦人」の以下の一節。「中國哲學書電子化計劃」の影印本を視認しつつ(右手の機械翻字は致命的な誤りが甚だしいので参照すべからず)、「新日本古典文学大系」版脚注の書き下し文を参考に本文を確定した。後の訓読は後者を参考にした。

   *

蜀州有紅梅數本。郡侯建閣扄鑰。游人莫得見。一日有兩婦。髙髻大袖、凭欄語笑。郡侯啟鑰閣不見人。惟東壁有詩日、

「南枝向暖北枝寒

 一種春風有兩般

 憑仗髙樓莫吹笛

 大家留取倚欄干」。【摭遺。】

   *

 蜀州に、紅梅、數本、有り。郡侯、閣を建て、扄鑰(しやうやく)す[やぶちゃん注:門扉に鍵を掛けた。]。游人、得て見ること、莫し。一日、兩婦、有り。髙髻・大袖、欄に凭れて語り笑ふ。郡侯、鑰(かぎ)を啟(ひら)くも、閣に人を見ず。惟だ、東壁に、詩、有りて日はく、

 南枝は暖に向ひて 北枝 寒し

 一種の春風 兩般 有り

 髙樓に憑仗(ひようぢやう)して 笛吹くこと 莫かれ

 大家(たいか) 留取(りうしゆ)して 欄干に倚らん

と。【摭遺。[やぶちゃん注:「拾遺」に同じ。]】

   *

詩の意味は、

   *

 陽射しの当たる暖かな南の方の枝に対して、北の方の枝は、未だ、寒い。

 一つの春風は、それぞれの樹に結果としては等しく訪れるものの、二通りの至り方がある。

 高楼を頼りとして、その高みから、傲慢に笛を吹くことは、するな。

 真(まこと)を知る者は、それをよく悟って、静かに欄干に倚るであろう。

   *

といった感じか? 調べてみると、最初の二句は、しばしば禅の公案に出現する。

「ひゞき行鐘の聲さへ匂ふらむ梅さく寺の入りあひの空」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、藤原定家の「拾遺愚草」所収の(建暦二年十二月院よりめされし二十首)、

 雲路ゆくかりのは風も匂ふらん梅さく山の在明の月

を挙げる。私などは、本書よりも後代であるが、芭蕉の、

 鐘消えて花の香は撞く夕哉

の名句の方が遙かに好ましく想起される。現在、本句は天和・貞享(一六八一年~一六八八年)頃の作と考えられており、当時の芭蕉は数えで三十八から四十五歳である。

「ながむればしらぬ昔のにほひまでおもかげ殘る庭の梅がえ」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、「夫木和歌抄」の「春三」の「梅」にある式子内親王の一首、

 ながむればみぬいにしへの春までも面かげかをるやどの梅が枝

を掲げる。

「袖のうへに落ちて匂へる梅の花枕に消ゆるゆめかとぞ思ふ」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、「夫木和歌抄」の「春三」の「梅」にある式子内親王の一首(「新後拾遺和歌集」の「春上」では二句目が「垣ねの梅は」で載る)、

 袖の上に軒ばの梅はおとづれて枕にきゆるうたた寢の夢

を挙げる。

「しきたへの手枕の野の梅ならばねての朝(あさ)けの袖ににほはむ」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、同じ「夫木和歌抄」の「春三」の「梅」にある光俊の一首、

 しきたへの手枕の野の梅の花ねての朝けの袖ににほふらし

を挙げる。

「崔護(さいご)」唐の博陵(現在の河北省定県)出身。貞元一二(七九六)年に進士に登第した。引用される詩篇「題都城南莊」(都城の南莊に題す)と人面桃花の説話で知られる。昔からお世話になっている素晴らしい漢詩サイト「碇豊長の漢詩」の「題都城南莊」に詳しいので、是非、読まれたい。

「梅(むめ)の花にほふ袂のいかなれば夕ぐれごとに春さめのふる」「春さめ」は文次の涙であることは言うまでもない。「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、やはり「夫木和歌抄」の「春三」の「梅」にある為兼の一首、

 梅の花紅にほふ夕暮に柳なびきて春雨ぞふる

を挙げる。

「物あぢきなく」「もの」は、「急に訳もなく(訳は判っているのだが)なんとも言えず、全くもって~(となる)」の意で(心的にして霊的なものである)、「つまらない」から「はかない・世は無常である」と思うことを指す。

「世にすむかひも、有明のつきせぬ思ひ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「かひもあり」「有明の月」「つきせぬ」を掛詞的に連続』させた『表現』とされ、「新古今和歌集」の「雜下」の慈円の一首(一七八三番)、

 いかにしてもいままで世には在曙(ありあけ)のつきせぬ物をいとふ心は

を元にするものとして掲げておられる。

「こりつむ柴の歎きせむ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「樵る」「嘆き」(「投げ木」と掛詞)は歌語。柴の木を切って積み上げる。転じて思いが募ること』とされた上で、『金葉和歌集・恋下・読人知らず』の一首(四九四番)、

 こり積むるなげきをいかにせよとてか君にあふごの一筋(ひとすぢ)もなし

を掲げておられる。「あふご」は「おうご」(古くは清音で「あふこ」)で「㭷・柺」などと書き、天秤棒のこと。伐り集めた薪を荷うためのそれであるが、同時に「逢(あ)ふ期(ご)」が掛けてある。

「其《その》次の日、打死《うちじに》しけり」このエンディングはショッキングであるが、私には清新に感ぜられた。それはあたかもセイレーンに魅入られた若き舟人が命を落とすように、慄然とした恍惚(エクスタシー)であるから――。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(食卓の上の白い皿が) / 筑摩版全集『草稿詩篇「未發表詩篇」』の「未發表詩篇」の決定稿「家」の草稿の後半と同一原稿と推定

 

  

 

食卓の上の白い皿が

しぜんに𢌞轉をはじめました

 

まつ白の肉皿が

食卓のへりを旋轉する

しづかに

物哀しく

なんの音もなく

光る薄手の皿が

食卓のへりをめぐつて居る

さて窓の外では

ちらちら雪のふつて居る光景ですが

それもしづかに

まるで音もなく

淚ぐましい朝餉のあとでは

ひつそりとあなたを待つてゐる

 いつも寂しげに待つてゐるのに

夫人よ

雪の山路をはるばるとこえて

夫人よ

今朝のおとづれを待つてゐるあひだ

食卓の

 

[やぶちゃん注:これは、筑摩版全集の「未發表詩篇」にある「家」という詩篇の、その草稿の一つと一致することが判った。かなり面倒だが、まず、「未發表詩篇」パートにある「家」を示す。「永却」(「永劫」の誤記であろう)・「施囘」はママ。詩篇の後に編者注があり、以下の三項が箇条されてある。

   ◆

* 「ノート」より。

* 本篇の題名は「家」「空家」とも抹消されていないが、「家」は「○」で圍んであるので決定稿は「家」とした。

* 本稿右下欄に「カルヴアリの丘(キリスト磔刑の丘)」と記されている。

   *

 

 永却

 

 

 

 

まつ白の肉皿が、

食卓のへりを施囘するめぐつて居る、

しづかに

物哀しく、

なんの音もなく

光る薄手の皿が

食卓のへりをめぐつて居る

さて窓の外では

ちらちら雪のふつてる光景ですが

それもしづかに

まるで音もなく

くれてゆく一間の隅で

この人氣のな い屋敷の 庭では 中で

どこかの廣間にそつとかくれて居て

白いたましひが祈つて居る樣子です

 

   *

整序すると(題名は並置して残した。「空家」の方が私はいいと思うからである)、

   *

 

 

 空家

 

まつ白の肉皿が、

食卓のへりをめぐつて居る、

しづかに

物哀しく、

なんの音もなく

光る薄手の皿が

食卓のへりをめぐつて居る

さて窓の外では

ちらちら雪のふつてる光景ですが

それもしづかに

まるで音もなく

どこかの廣間にかくれて居て

白いたましひが祈つて居る

 

   *

となる。さて、次に『草稿詩篇「未發表詩篇」』の仮題して『家』『(本原稿三種四枚)』とあるものを、煩を厭わず、総て示す。歴史的仮名遣誤りや誤字は総てママ。□は判読不能字。

   *

 

  別れ

 

寒い冬の日のある朝のこと

光る銀の鐵砲は

光る白い鴨を擊つために

雪白の薄い 皿が 料理皿が

食卓の上で𢌞轉 する を始めていました

食卓の上の白い皿が

しぜんに𢌞轉を始めました

しづかに

しかも物悲しく

□□□なんの音もなく

┏光る雪白の皿が 薄いあまたの皿が

┗光るまつ白の光る肉皿が

[やぶちゃん注:最後の「┏」及び「┗」は私が附したもので、この二行は並置残存であることを示す。]

食卓の上をへりを𢌞轉しためぐり始めたつて居る光況です

それをばだれ も知らずしづかにもうら哀しく

さて窓の外にはをながむればちらちら雪がふつて居ますが

この けしき ときの

この 今朝も

なん といふこのしんに淚ぐましい//心もちで//朝餉のあとで//

[やぶちゃん注:「//」は私が附したもので、「心もちで」と「朝餉のあとで」が並置残存されてあることを示す。]

この日ひつそりとあなたをたづねてきした

夫人よ

永久のお別れをつげ

お別れを いたし つげに

夢のうちにて

の小路 ふる路をばはるばると

だれも知ら 夢の 遠い世界からない山路をこえ

夢にも知らぬ その夫人よ

夫人よ

とこしなへの今朝お別れを告げにまゐりましたきました

夫人よ、

さよならとこしなへにさよなら

   *「ノート」より。

 

 

  

食卓の上の白い皿が

しぜんに𢌞轉をはじめました

――――

光るまつ白の肉皿が

食卓の上でヘリを運轉施轉して居るする

しづかに

物哀しく

なんの音もなく

光る薄手の皿が

食卓のへりをめぐつて居 ます

さて窓の外では

ちらちら雪のふつて居る光景ですが

それもしづかに

なんまるで音もなく

この淚ぐましい朝餉のあとではでは

ひつそりとあなたをまつて居るのに

今朝もいつも寂しげに待つて居るのに

夫人よ

だれも知らない山路をこえ

雪の山路をはるばるこえて

夫人よ夫人よ

あなた

今朝のおとづれを待つて居るあひだ

食卓の

  *この原稿には、以下がない。

 

   *

以上を総て整序すると(編者注は除去)、

   *

 

  別れ

 

冬の日のある朝

食卓の上の白い皿が

しぜんに𢌞轉を始めました

しづかに

物悲しく

なんの音もなく

┏光る雪白のあまたの皿が

┗光るまつ白の肉皿が

食卓のへりをめぐつて居る光況です[やぶちゃん注:「光景」の誤字。]

しづかにもうら哀しく

さて窓の外をながむればちらちら雪がふつて居ますが

このしんに淚ぐましい//心もちで//朝餉のあとで//

ひつそりとあなたをたづねてきした

だれも知らない山路をこえ

夫人よ

今朝お別れを告げにきました

夫人よ、

とこしなへにさよなら

 

  

食卓の上の白い皿が

しぜんに𢌞轉をはじめました

――――

まつ白の肉皿が

食卓のヘリを施轉する[やぶちゃん注:「旋轉」の誤字。]

しづかに

物哀しく

なんの音もなく

光る薄手の皿が

食卓のへりをめぐつて居る

さて窓の外では

ちらちら雪のふつて居る光景ですが

それもしづかに

まるで音もなく

淚ぐましい朝餉のあとでは

ひつそりとあなたをまつて居る

いつも寂しげに待つて居るのに

夫人よ

雪の山路をはるばるこえて

夫人よ

今朝のおとづれを待つて居るあひだ

食卓の

 

   *

「いつも寂しげに待つて居るのに」の字下げを除けば、本篇は以上の筑摩版全集の草稿の後の方と相同と言って問題ない。不審な字下げは(こうした仕儀はオノマトペイア以外では通常、萩原朔太郎は採らない形式である)、或いは、前行の「ひつそりとあなたをまつて居る」との多重性が見られることから、或いは「ひつそりとあなたをまつて居る」と「いつも寂しげに待つて居るのに」を候補として並置残存させただけのものである可能性が高いように感じられる。

 因みに……この詩篇……私は読みながら……図らずも……芥川龍之介が最後に愛した片山廣子を秘かに呼んだ――「越し人」――という名を想起していた。無論、未発表詩であり、龍之介が、この詩篇を見た可能性は、まず、ない、と言えるのではあるが……。

2021/12/03

本「萩原朔太郎詩集 遺珠」の注の改稿について

今までに公開したものの内、今日、一つ、「筑摩版全集不載」とした詩篇が、未発表の詩篇の決定稿とその複数の草稿詩篇の、一見、ハイブリッド重合であるということに気がついた。以下で、注を大幅に追加し、題名も以下の通り、改訂した。

『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 (無題)(狐がきたので) / 筑摩版全集の「未發表詩篇」収録の(無題)(にはとり鳴くと思ひきや)の草稿(複数有り)のそれら総てとハイブリッドに重合して酷似する失われた別稿と推定される』

「遺稿詩集」の時から、多分、こうしたケースがあるであろうとは既に予測していた。していたが、まさか、こんなに複雑なケースがあるとは、思っていなかった。筑摩版でバラバラに独立した決定稿と草稿三種が、順列を変えて、ここに新たに重合して、あたかも完成された誰も見たことがないソリッドな一篇として出現しているのである。

向後も、こうした訂正は、判り次第、改稿するが、言っておくと、この見落としは、主に、筑摩版全集の「未發表詩篇」の草稿詩篇が、決定稿とした題名を仮題として纏めて載せ、それらの草稿・断片を、索引には全く載せていないという不親切に由来するものである。

私には、流石に筑摩版全集の第一・第二・第三巻の総ての詩篇を記憶・暗記することは不可能である。悪しからず。

伽婢子卷之十一 魚膾(ぎよかい)の恠 / 伽婢子卷之十一~了

 

[やぶちゃん注:挿絵は岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の鮮明なものをトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。「魚膾」は「うをなます」とも訓じ、魚を生のままに細かく刻んだ料理(酢漬けではない。塩を振りはする)。]

 

  ○魚膾(ぎよかい)の恠(かい)

 

 大嶋藤五郞盛貞といふ者、應仁のころ、牢浪して、能登の國珠洲(すず)の御(み)崎に住居して、時を待《まち》けり。

 其性(しよう)、常に生魚(なまうを)の膾(なます)を好み、是なき日は、食、進まず。

 人に語りけるやう、

「浮世にありて、山海の珍味多しといへ共、膾の味に過たる物、なし。終《つひ》に又、腹に、飽かず。」

と云ひしが、或日、若き友達、五、六人、入來り、濱邊にいざなひ出《いで》て遊びしに、風もなく、浪、靜かなりければ、浦人、出て、網を引くに、種々(しゆじゆ)の魚、多く漁(すなどり)得て、岸に漕ぎ歸る。

 大嶋、是れを見て、

「いざ。買ひ取りて、膾、つくり、料理、調へ、今日の思出《おもひで》せん。」

とて、五籠(かご)、六籠、買取り、浦人の家に立寄り、料理の具、かりよせ、濱おもてに、むしろ、敷(しき)、膾、作り、大なる桶と鉢とに、堆(うづ)たかく入《いれ》て、其の外、魚共、種種に、とゝのへ、五、六人、なみ居て、飯、食けひるに、大嶋、箸を取り、膾を食ふ事、一鉢ばかり、忽ちに、喉(のんど)に物の障るやうに覺えしかば、喝(かつ)して、吐き出して見れば、大《おほい》さ、豆ばかりなる、骨(ほね)也。

 其色、薄(うす)色に赤くして、珠《たま》の如し。

 茶碗の中に入《いれ》て、皿を以て、蓋とし、傍(そば)に打おき、又、箸をとりて、膾を食せるに、未だ、座中、食し終らざるに、かの茶碗、打ち倒(たふ)れ、蓋も共(とも)に、轉(まろ)びけるを見れば、中に入おきたる骨の珠(たま)、一尺ばかりになり、人の形と化(け)して、動き立《たち》たり。

 

Namasukai

 

[やぶちゃん注:大嶋が魚の妖怪の右腕を斬り落としたシーン。切断された腕は鰭型に変じている。しかし、この魚の妖怪は大不服!(後述する)]

 

 五、六人の友達、驚き、怪しみ、目をすまして見ゐたれば、目の前に、俄かに、五尺ばかりの男となり、赤裸(あかはだか)にして、大嶋藤五郞に、取りかゝる。

 大嶋、側(そば)なる太刀を拔き持ちて、切《きり》つくれば、いなづまの如く、閃(ひらめ)き、蜻蛉(とんぼう)の如く、飛びめぐり、隙間を狙ひ、拳(こぶし)を握り、大嶋が首(かしら)を、

「礑(はた)」

と、撲つ。

 又、しばし、戰ふては、背(せなか)を、

「丁《ちやう》」

と、撲(う)つに、血、流れて、砂(いさご)を染めたり。

 大嶋、終に、太刀を打入《うちいれ》て、

「はた」

と、切付《きりつけ》しかば、腕・首(くび)、切落《きりお》とされ、かきけすやうに、失せたり。

 人々、

「助太刀せん。」

と、犇(ひし)めきけれ共、雲霧(《くも》きり)、ふさがりて、見え分かず、戰ふ音のみ聞えて、霧、已に霽(は)れて後、大嶋は、朱(あけ)になりつゝ、

「人々、是れ、見給へ、敵(かたき)の腕首(うでくび)、切落したり。ばけものは、行方(《ゆく》がた)なく、失(うせ)侍べり。」

と云を見れば、大《おほい》なる魚の鰭(ひれ)を切落したる也。

 大嶋、其儘、絕入(ぜつじゆ)したりけるを、さまざま、藥を與へしかば、生(いき)出たりしか共(ども)、人心地もなく、夢中の如くなりしが、疵、癒(いえ)てのち、漸(やうや)く、元の如く、正念(しやうねん)[やぶちゃん注:底本は「性念」。元禄版を採った。]、つきたり。

 さて、其の時の事を問ふに、

「露(つゆ)ばかりも、覺えず。」

といふ。

 當座に語りけるにぞ、子細は聞えし。

 これ、魚の精、現はれ集まりて、此恠異、ありけるにこそ。

 

伽婢子卷之十一終

[やぶちゃん注:これは了意にも絵師にも文句がある。了意はその妖怪の様態を子細に記していないのが不服、さればこそであろうが、絵師が困って、長い黒い(本文に即すなら、珠の色の薄い赤色のつもりかも知れぬ)尾鰭みたようなものを描き込んだこと、及び、頭をモロに鯰にしてしまったことへの激しい不満である。こんな頭部を持った海水魚はいない。敢えて同定するなら、本邦の純海産ナマズ類である硬骨魚綱ナマズ目ゴンズイ科ゴンズイ属ゴンズイ Plotosus japonicus となるが、ゴンズイは大きくなっても二十センチメートル止まりで、著しく迫力に欠く(但し、同種は背鰭と胸鰭の第一棘条が毒棘で、これに刺されると、激痛に襲われるから、そこは面付きと禍々しさを補いはするし、私は経験がないが、調べて見ると、ゴンズイは刺身にしても美味いらしい)。ただ、ナマズ類(ナマズ目 Siluriformes)は河口・汽水域でも塩分耐性を持つ種もいることはいる。しかし、沖に出た漁師が採ったもので、しかも生食出来る魚類の総代表としては、如何にも番外である。オニカサゴやミノカサゴ、巨大なマハタ、或いはヘラヤガラなど、幾らも異形の刺身で食える海水魚はワンサカいる。了意も絵師も、惜しむらくは、海産魚には詳しくなかったようである。

「大嶋藤五郞盛貞」不詳。

「應仁のころ」一四六七年から一四六九年まで。「応仁の乱」は応仁元年に始まり、文明91477)年まで、実に約十一年間に亙って継続した。

「能登の國珠洲(すず)の御(み)崎」能登半島先端の南側の石川県珠洲市三崎町付近(グーグル・マップ・データ)。高校二年の時、友人ら四人でテントを担いで能登半島を一周したのを思い出す。テントを買うのに、友人と二人で大学生と偽って、土方仕事を一週間ほどやった。忘れらない遠い懐かしい思い出である。

「時を待《まち》けり」孰れかに仕官が叶うのを待った。

「喝(かつ)して」「ゲエッツ!」という吐瀉のオノマトペイア。禅宗で悟らせる一喝のそれを表記としたのは、異常な魚の生喰らいの殺生の罰(ばち)に当たるのを伏線とするものであろう。

「目をすまして」凝(じっ)と見つめて。

「五尺ばかりの男」一・五一五メートル。本邦の中世の身長の標準よりも低い。縄文以来、最も平均身長が低かった江戸時代でも平均は百五十五センチメートルである。

「礑(はた)」副詞。唐突に物を打ったり、ぶつけたりするさまであるが、私は、やはり、その際のオノマトペイアと考える。

「當座に語りけるにぞ、子細は聞えし。」作者了意の台詞か。「さしあたってある人の語ったのを聴いたのであるが、凡その事件の子細は判った。」ということか。]

伽婢子卷之十一 魂蛻吟

 

[やぶちゃん注:挿絵は二枚あるが、一枚目は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のものを、二枚目は岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の鮮明なものを、それぞれトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。後者には一枚目の挿絵が所収されていないためである。]

 

  ○魂蛻吟(たましひ、もぬけて、さまよふ)

 

 河内の國弓削(ゆげ)と云所に、友勝(ともかつ)とて、鍛冶(かぢ)の侍べり。

 用の事ありて、大和の郡山に行て、日暮方に立歸りしに、あまりに草臥(くたびれ)侍べりしまゝ、山の傍らに休み居(ゐ)たり。

 かゝる所へ、或る人、馬に乘りて、又、一疋の馬には、鞍、置ながら、追ひ立て、打過《うちすぐ》る。

 友勝、いふやう、

「是れは、河内の方へ、おはするやらん。さもあらば、御馬一疋、借(か)し給へ。殊の外に道に勞れ侍べり。とても、乘る人もなき馬なれば、我を乘せてたびてむや。」

と云へば、馬の主《あるじ》、

「それこそ、いと易き事なれ。川の向ひの岸にて下りて給はらんには、それ迄は、乘り給へ。」

といふに、友勝、大に喜び、打のりてゆく。

 川をのり渡して、岸に着き、馬より、くだり、

「御なさけの程、喜び奉る。」

と、いうて、馬を返しければ、馬主、鞭(むち)うち、追立《おひたて》て、行く方(がた)なく歸ぬ[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版もこう(『帰りぬ』)なっているが、元禄版では『行がたなくなりぬ』となっている。そもそも「行く方」も判らないものを「歸りぬ」と言うのはおかしい。私は元禄版を支持する。]。

 友勝は、日、已に暮て後に、家に立歸へりて、見れば、妻の女房も、子供、其外、兄弟一族、悉く集り、膳を調へ、食《じき》[やぶちゃん注:底本は『しき』。元禄版は読みなし。「新日本古典文学大系」版に従った。]を設け、さまざま、もてなし、遊び居たり。

 

Syoutokutaisi1

 

[やぶちゃん注:自宅に帰った友勝が思い余って妻を打つシーン。左下に膳を前に座っているのが、友勝の娘であろう。その斜め右前にいる女は片口(かたくち)をのみ前に置いているから、家の女中でお酌をするために控えているのである。他の三名が友勝の兄弟姉妹である。]

 

 友勝、歸りしかども、人々、見向きもせず。

 友勝、我が子供の名を呼び、我が弟妹(おとと・いもと)の名をよべども、耳にも聞きいれず、物語し、酒、飮み、笑ひ、慰む事、もとの如し。

 友勝、大きに腹立て、大聲を揚げ、どよみ、めぐれ共、更に知る人、なし。

 餘りに、腹を立て、拳(こぶし)を握りて、妻子を打擲《ちやうちやく》すれ共、『それか』と思ひたる色もなく、

「友勝、内におはしたらば、いよいよ賑やかに侍らんものを。」

など、いふて、酒、飮みければ、友勝、思ふやう、

『扨は。我、忽ちに空(むな)しくなりて、魂《たましひ》ばかり、こゝに歸り、妻子も、一族も、我をば、見ざるらん。』

と、泪を流して、只、泣きになきけれ共、いよいよ、見る人もなかりければ、詮方なく、家を出《いで》て、村の外に出つゝ、立休(《たち》やす)らひければ、さしも氣高き人、驪(くろ)の馬にめされ、冠(かふり)を戴き、紫の直衣(なほし)・大紋の指貫(さしぬき)、着(ちやく)し給ひ、人、あまた、めし連れ、鞭を以て、友勝をさして、の給はく、

「あれは、未だ死ぬまじき者の魂なり。思はざる外の事に、さまよひ步(あり)く者かな。」

と、のたまふ。

 こゝに、赤き裝束に、鳥帽子、着たる人、來りて、

「弓削友勝は、未だ、定業《ぢやうごふ》來らざる者なるを、大和川の水神(すいじん)、現はれ出たるに、馬を借りたり。水神、戯れて、魂を引出し侍べり。只今、本(もと)の身に返し納むべき爲(ため)に、我、これまで參りたり。」

とて、馬の前に跪きけり。

貴人(きにん)、少し笑ひ給ひ、

「水神、まことに、道理もなき事に、人の命を誑(たぶら)かして、己《おのれ》が戯れとするこそ、安からね。明日、必ず、刑罸、行ふべし。」

と、の給ふに、此者、恐れたる氣色にて、急ぎ、立寄りて、友勝を招きて、いふやう、

「馬上の貴人は、是、聖德太子也。常に科長(しなが)の陵(みさゝぎ)より出て、國中を巡り、惡神(あくじん)を治(しづ)め、惡鬼(あくき)を戒(いまし)め、人民を護り給へり。我は、これ、水神の眷族として、こゝに來れり。汝を、二たび、人間に返すべし。暫く、目を、ふさげ。」

とて、うしろに廻り、推(お)す、と覺えて、大和川の西の岸に、夢の覺めたる如くにして、甦(よみがへ)り、起き上りて、家に歸りければ、妻子は、待うけて、大きに喜び、

「今日は、一門、集りて、遊びし侍べり。如何に、夜更けては、歸り給ふぞ。」

といふ。

 

Syoutokutaisi2

 

[やぶちゃん注:友勝が馬上の聖徳太子の霊に逢い、馬前に両手を揃えて跪くのは、水神の眷属で、太子に詫びに来て釈明しているところ。画面の左端下方に膝をついて、足先を爪先立てて聖徳太子を見上げているのが、友勝。右端は太子の傘持ちの布衣(ほい)の舎人(とねり)。]

 

  友勝、聞きて、

「我は、かうかうの事、ありけり。」

と語るに、皆人(みな《ひと》)、聞て、驚き、怪しみ侍べり。

[やぶちゃん注:「河内の國弓削(ゆげ)」大阪府八尾(やお)市弓削町(ゆげちょう)附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。聖徳太子と後に敵対することになる豪族物部守屋の父尾輿(おこし)の母は、弓削連(ゆげのむらじ)の祖倭古連(やまとこのむらじ)の娘の阿佐姫であった。その弓削連の本拠地が旧若江郡弓削郷であった。

「鍛冶(かぢ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『聖徳太子の従者の宮地鍛冶師丸という人物名』があるとされ、それを通わせたものか、とされる。

「とても」副詞で「結局のところ~(であるのだから)」の意。

「驪(くろ)」黒毛の馬。

「科長(しなが)の陵(みさゝぎ)」推古天皇二〇(六二二)年二月二十二日に斑鳩宮で病死した聖徳太子が葬られた磯長(しなが)陵。特異的に考古学的にも彼の墓の可能性が高いとされる古墳である。

「大和川」弓削町の南を流れる。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 炎天 / 筑摩版全集の「未發表詩篇」所収の「炎天」の別稿

 

  炎  天

 

ひとり樹木によりて

あふげぱ

しげる梢の葉うらから

天がまつさをに光つて居た

足をあげて强くふめぱ

土壤にふかく根がひろごり

わたのやうにもつくりとふくらんでゐた

八月下旬の炎天

ひとり樹木にすがりついて

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集の「未發表詩篇」に以下が載る。歴史的仮名遣の誤りは総てママ。□は判読不能字。

   *

 

 炎天

 

ひつそり ひとり樹 下に立ち 木により そひ

あほげぱ

しげる梢の葉うらから

天がまつさをに光つて居

樹の□下に足をあげて地を强くふめぱ

土壤にふかく根がひろごり

地面の下がもつくりとして、

地がわたのやうにもつくりとふくらんで居

八月下旬の炎天

ひとり樹木にすがりついて

おれは年も二十八。

女を知ら抱かぬ寂しさに

春の日ひねもす 一人生くる にたえ 日の寂しさに

八月下旬の炎天を

身うちの熱に たえかね こらへかね

七月中旬

┏樹木にすがり 抱きすがりついて泣いて居た、居る

┗炎えあがる樹木に抱きついた

 

   *

最後の「┏」及び「┗」は私が附したもので、この二行は並置残存であることを示す。整序して見る。

   *

 

 炎天

 

あほげぱ

しげる梢の葉うらから

天がまつさをに光つて居た

足をあげて强くふめぱ

土壤にふかく根がひろごり

わたのやうにもつくりとふくらんで居た

おれは年も二十八。

女を抱かぬ寂しさに

┏樹木にすがりついて泣いて居た、

┗炎えあがる樹木に抱きついた

 

   *

筑摩版の草稿で削除されたものが本篇では生きていること、表記に微妙な違いがあることから、思うに、筑摩版以前の同一の詩篇の別稿草稿と考えてよかろう。]

伽婢子卷之十一 七步虵の妖

 

[やぶちゃん注:挿絵は、今回は岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の鮮明なものをトリミング補正して冒頭に挿入した。

 さて、「七步虵」の読みであるが、底本には「虵」に「じや」ルビするのみで、元禄版を見たところ、標題には「步虵」に「ぶじや」の読みが振られてあったのだが、その元禄版の最後の方では「ふじや」と振ってあった。「新日本古典文学大系」版でも「七」に振らず、「ふじや」とルビしてある。「ぶ」は、少なくとも本邦では、長さの短い単位を想起させてしまい、咬まれたら、七歩(しちほ)歩くうちに必ず死ぬ猛毒の蛇の意に、如何にも相応しくない。因みに、古典籍の版本や近代の出版物では、所謂、「総ルビ」を謳っていても、数字には読みを振らないのが常識である(知らなかった人が多いかと思うが、現代の出版物でも、その仕来たりは意外に生き残っている)。しかし「七」は実は厄介で、現代の有意に多くの人は「ひち」と発音し、実際に発音通り、「ひち」と表記する傾向が若い人に多い。しかし、「七」の音は「シチ」(呉音。漢音は「シツ」であるが、これは「七珍」(しっちん)や「七宝」(しっぽう)等で、使用例はそう多くない)であって、「ヒチ」ではない。則ち、「ひち」は「しち」の発音上の転訛であり、表記はあくまで「しち」である(若い人の中には意外に思う人がいるはずである)。

 されば、校合の結果でも、本篇では「《しち》ふじや」と振らざるを得なかったが、個人的には一貫して私は「しちほだ」と読みたい。

 さて、当該の蛇の正体だが、当該ウィキでは、愚かにも冒頭から、『浅井了意の怪異小説集』「伽婢子」『の中で、京都東山に出現したとされる奇怪な蛇の一種』などと、まことしやかに、了意のオリジナル妖蛇のように記しているが、大嘘である(因みに私はつい先日、ウィキペデイアの記者をやめた。それは、幾つかの記載で致命的な誤りをいくら指摘しても、それを原記者や他のウィキペデイアンが放置し続け、直そうともせず、それどころか、面倒になって誰かが私の指摘した誤りの部分をごっそり削除して知らんふりしているのを見出し、完全にキレたからである。永久に記者に戻ることは、ない。但し、まず正しいと判断されるものは向後も引用はする)

 まず、最も古い記載は多くの仏典であるが、「新日本古典文学大系」版脚注も引いているその中の一つである「阿毘達磨大毘婆沙論」(あびだつまだいびばしゃろん:全二百巻。五百大阿羅漢らの原作を玄奘が訳したもの)の「四十六」の一節を引くと(比喩部分)、

   *

如人爲七步蛇所螫。大種力故能行七歩。毒勢力故不至第八。

(人の、七步蛇(しちほだ)に螫(さ)されたるがごとし。大種力(だいしゆりき)の故(ゆゑ)、能く行くこと、七步せるも、毒の勢力の故、第八には至らず。)

   *

などである。因みに、私は「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 赤翅蜂」の注で、この「七歩蛇」を以下のように現存するモデル種としては「ヒャッポダ」(百歩蛇)に同定している(但し、以下に記す通り、本邦には棲息せず、毒自体は猛毒ではない)。「褰鼻蛇〔(けんびだ)〕」の注である。

   *

東洋文庫版では『白花蛇。中国南方山中にいる』と割注するが、これは有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ上科クサリヘビ科マムシ亜科ヒャッポダ属ヒャッポダ Deinagkistrodon acutus のことである。「百歩蛇」でこれは、咬まれると百歩歩くうちに死ぬとされる伝説的な実在する毒蛇である(但し、後で引用するが、毒性そのものは強くはない)。ウィキの「ヒャッポダ」によれば、特に台湾で「百歩蛇」と呼ばれ、『日本名、英名もこれに準ずる。中国では』「白花蛇」「百花蛇」「五歩蛇」「七歩蛇」』(☜)『とも、また、その独特の頭部の形状から「尖吻蝮」(音なら「センフンフク」)とも呼ぶ。分布は『中国(南東部、海南島)、台湾、ベトナム』で全長は八〇~一二〇センチメートル、『ニホンマムシと同じく、全長に比して胴が太く体形は太短い。体色は濃褐色で、暗褐色の三角形に縁取られた明色の斑紋が入る。この斑紋は落ち葉の中では保護色になる。鱗には隆起(キール)が入る』。『頭部は三角形で吻端は尖り、上方に反り返っている。目は金色で細い縦長の瞳を持つ』。『毒自体の強さは高くないが、毒の量が多く』、咬まれた場合は危険である。『山地の森林に住み、特に水辺を好む。動きは緩怠』。『食性は動物食で、ネズミ、鳥類、カエル等を食べ』、『繁殖形態は卵生で』、一回で二十~三十個を産卵する。『数が少なく、蛇取りもなかなかお目に掛かることがないため、幻の蛇と呼ばれている』。

   *

ヒャッポダは個人的に面構えと模様が好きな蛇である。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。私は蛇好きである。練馬の大泉学園にいた幼稚園児の頃は、弁天池の周辺の水田で、友だちとアオダイショウを捕まえては、首に巻いて「僕の方が長い」などと競い合ったものだった。懐かしい遠い思い出だ……]

 

   ○七步虵(《しちほ》じや)の妖(えう)

 

Hitihoda

 

 京の東山の西の麓、岡崎より南の方、いにしへ、岡崎中納言の山庄(さんさう)あり。久しく荒れはてゝ、すむ人もなく、草のみ、生茂りて、茫々たる地なりけるを、浦井なにがし、此地を買ひ求めて、家を作る。

 或人、いふよう、

「此地は、本より、妖虵(えうじや)の怪しみ有りて、人、更に住む事、かなはず。」

といふ。

 浦井、是を信ぜず、家たち[やぶちゃん注:「家建ち」。新築。]、をはりければ、始《はじめ》て、移り入《いり》たりければ、虵(くちなは)の、三、四尺ばかりなる、五つ、六つ出《いで》て、天井の間に這ひめぐる。

 則ち、下部に仰せて、取り捨てんとするに、此へびども、鱗(うろこ)だち、頭(かしら)をそばだて、眼(まなこ)きらめきければ、僕共、すさまじく思ひて、退(しりぞ)く。

 浦井、大に怪しみて、杖をとり、突き落とし、桶に入て、賀茂川に流す。

 次の日、又、虵、十四、五、出たり。

 又、皆、取りすてければ、其の次の日は、三十あまり、出たり。

 取捨つるに隨ひて、益(ますます)、多く出《いで》て、後には、二、三百に及ぶ。

 其大さ、五、七尺あまり、白き、黑き、或は、靑(あお)き、斑なる、兩の耳、そばたち、口は紅(くれなゐ)の如く、間(まゝ)、又、足ある虵(へび)、其の形(かたち)、龍の如くなるもの、日每に倍々して、取れ共、捨れども、更に絕ゆる事、なし。

 浦井、不思議の事に思ひ、自(みづか)ら、香を焚き、幣(へい)を立てゝ、地祭(《ぢ》まつり)をいたす。

「某(それがし)、此の地を求め、金、若干(そこばく)兩を出して、買ひ得たり。是れより、此地は、某が、すむべき所なり。虵(へび)、何(なに)によりて障(さはり)をなし、恠(あや)しみを現はすや。凡《およそ》、地の神には、五帝龍王あり。其の司どる所、各(おのおの)、職、あり。如何でか、其の地に有りて、濫(みだ)りに、地の主《あるじ》を苦しましむる。龍王、物知る事あらば、此の虵(じや)の恠異(けい)を、はやく禳(はら)ひ給へ。然(しか)らずば、神職(しんしよく)の不敏(ふびん)[やぶちゃん注:「不憫」に同じ。]ならん。然らば、天帝の戒め、のがるゝに、道、あるべからず。」

と、書きて、讀み上げたり。

 其の夜、地の底に、物の騷ぐ音して、凄(すさ)まじき事、限りなし。

 夜あけて、みれば、草むら、悉く、一夜の程に枯れはてて、大なる石、ありて、碎け、傾ふきたり。

 家人等《けにんら》、怪しみて、靑草の枯れとまり、石の傾ふきたる所を、掘り返し、石を取り退(の)けしかば、長、四、五寸許の虵、はしり出《いで》て行く。

 其行く所の靑草、目の前に、枯れ焦(こが)るゝ。

 家人等、追ひ詰めて、打ち殺しければ、虵のたけ、僅かに四寸、色は紅(べに)の如く、兩の耳、四《よつ》の足、あり、鱗の間(あひだ)は金色(こんじき)にして、小龍の形に似たり。

 人に見するに、

「更にかゝる虵(へび)は聞及ばず。」

といふに、南禪寺の僧、來りて、曰はく、

「是れは『七步虵(《しち》ふじや)』と名づく。もし、人、是れにさゝるれば、其儘、死す。毒力(どくりき)、烈しくて、七(なな)足、步む。此事は佛經に見えたり。」

とぞ、語られける。

 是れより、後は、虵(へび)、再び來らず。

「案ずるに、多く沸き出たる虵共(へびども)は、是れ、『七步虵』の精(せい)なるべし。」と、いへり。

[やぶちゃん注:「岡崎」京都市左京区岡崎附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、ここの『南側は東山区粟田口』に当たり(ここ)、『古来、貴族の別業地であった。』とある。

「岡崎中納言」「新日本古典文学大系」版脚注は『未詳』とするが、越後国国府(現在の新潟県上越市)に流罪になっていた親鸞に赦免状を齎した(但し、当時は既に出家しており、実際の赦免官は藤原光親であった)公卿藤原範光(仁平四(一一五四)年~建暦三(一二一三)年)は権中納言で「岡崎中納言」と呼ばれた。但し、本書の時代設定からは、平安末期から鎌倉初期の彼の山荘を云々言い出すのは、いささか不自然であるから、不詳でよかろうか。

「地祭(《ぢ》まつり)をいたす」彼は崇敬が薄いのか(以下の台詞で何より金のことを言い出している辺りはそれらしい現実主義者である)、地鎮祭を行わずに家を建てたのかも知れない。

「五帝龍王」ウィキの「龍王」によれば、本邦の陰陽道の書「簠簋内伝金烏玉兎集」(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう:かの安倍晴明が編纂したと伝承される占術の専門・実用書。実際は晴明死後の仮託作)の『巻二は、中国の盤古神話や仏教の教義を借りて、宇宙開闢の巨人神である盤牛王から十干十二支といった暦世界の構成要素が展開していくという創世神話を説いている』。『この中に五行神として登場するのが五帝五龍王で』盤牛王なる神が五人の『妻に』、『それぞれ』、『青帝青龍王、赤帝赤龍王、白帝白龍王、黒帝黒龍王、黄帝黄龍王を生ませ、その五帝五龍王の各々が十干・十二支といった王子をもうけたと物語っている』。『版本によっては黄帝黄龍王に異説』が『あり、それによると』、『盤牛王の』五『人目の子である天門玉女妃は』四十八『人の王子を生んだ後、男子に変じて黄帝黄龍王となり、王子たちとともに四龍王に戦いを挑んだ結果、四季土用の』七十二『日を領することになったという』とある。単にこの如何にも怪しげなそれを手軽に口に出しただけの話のようだ。「新日本古典文学大系」版脚注も以上と同じ内容を示しつつも、冒頭から『未詳』とする。

「南禪寺」岡崎の東直近。ここ。]

2021/12/02

伽婢子卷之十一 易生契

 

[やぶちゃん注:かなり長く、回想の展開部がやや変則的な構造になっているため、そこでは、特異的に行空け・ダッシュ・リーダを用いた。挿絵(二枚)は、今回は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のものをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。]

 

    ○易生契(しやうをかへてちぎる)

 

 肥前の國松浦郡(まつらのこほり)松浦の里に、豐田(とよだの)孫吉といふ者あり。

[やぶちゃん注:「松浦の里」旧肥前国松浦(まつら)郡は現在の佐賀県と長崎県に跨った広域の古称。その郡域は当該ウィキの地図を見られたい。現在は郡や町は「まつうら」と読んでいる。現行では狭義には、佐賀県伊万里市松浦町(まつうらちょう)となるが、ここに限定する根拠はない。「新日本古典文学大系」版脚注でも、『「松浦の里」とは、佐賀県東松浦郡浜玉町で松浦潟に注ぐ玉島川(古称松浦川)』(現在は唐津市浜玉町。この附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『や、同県唐津市で海に注ぐ松浦(まつうら)川流域』(玉島川の西方。この附近)『を指すか』とされる。]

 未だ若くして父母におくれ、妻もなくて、獨り住《すみ》けり。其家、貧しからず、いとけなき時より、耕作・商賣の營みをも、えさせず、元より、たゞ、ひとり子也ければ、親、こと更に、いとほしみて、儒學のかたはしに、心を傾け、講席(かうせき)にもつらなるを以て、所作(しよさ)とし、侍べらしむ。

 

Katiko1

 

[やぶちゃん注:二人の邂逅シーン。右手の娘の小袖の柄は蔦。下方中央にいるのは、犬か猫か区別がつかぬが(この絵では犬っぽいけれdど)、二枚目の挿絵の庭での仕草からは、猫であり、二枚ともに首輪をつけており、ぶち猫と断じてよい。本文には犬も猫も出てこないから、絵師に拘りがあったようである。右手上空に、夕方、巣に戻るのか、二羽の鳥が描かれている。或いは、絵師は、秘かに比翼鳥を匂わせたつもりだったのかも知れない。]

 

 或夕暮に、門に出て見ゐたれば、かたち、賤しからぬ女子《をなご》一人、南の方より、出來《いできた》る。年の程、十六、七と見ゆ。

 色よき小袖を重ねたるにはあらねど、姿かたちは、人に勝れて見ゆ。

 豐田、はしり出て、袖をひかへ、とかく語らひければ、女は岩木ならぬ身の、「いな」とはいはじ、「いな舟」の、さすがにかゝる浪枕、ならぶる袖を、かたしきつゝ、夜もすがら、語らひ、わりなく契りて、明方になりければ、名殘(なごり)盡きせず、女は、起き、別れて、歸りぬ。

 日、暮ければ、女、又、來れり。

[やぶちゃん注:「いな舟」「稻舟」。刈り取った稲を積んだ舟。歌語。

「浪枕」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「稲舟」の縁語である「波枕」に「枕」を掛け、「枕並ぶる」「並ぶる袖」と続く』とあり、さらにその「袖」を「かたしきつつ」(「片敷く」は本来は、男女が共寝をする際に互いの衣服を敷き交わして寝たことに対して、自分の衣服だけを敷いて「独り寂しく寝る」の意であるが、ここは「片」=それぞれが敷いてともに寝ると転じたもの)となりゆくのである。

「みづから」今までにも何度も出た、自称の一人称代名詞。「新日本古典文学大系」版脚注には、『多く高貴な女性が使う』とある。]

 豐田、

「其の家は、いづくぞ。親は、誰(たれ)人ぞ。」

と問ふに、更に、さだかにも、答へず。

 强て、たずぬれば、

「みづから、常に褐色(かちいろ)の衣に、蔦(つた)の唐草、染《そめ》たる小袖なれば、『褐子(かちこ)』とも、『蔦子(つたこ)』とも、名をば、呼び給へかし。」

とて、打笑へば、豐田、

『扨は。これ、由(よし)ある家に召し使はるゝ女の、暮(ゆふ)な暮(ゆふ)な、ひそかに出《いで》て、來《きた》るならん。此事、もし、顯はれ侍べらば、ゆゝしき咎(とが)めも如何(いか)なるべしや。』

と思ひて、更にも尋ね認(とめ)ず。

[やぶちゃん注:「唐草」(専ら「唐」が使われるが、これは実は当て字で、「絡草(からみぐさ)」の略とされる)蔓草の蔓や葉が絡み合って延びている様子を図案化した模様。古くエジプトやメソポタミアに始まり、本邦にはシルク・ロードから中国を経て、伝わった。]

 いよいよ睦(むつま)しく、比翼連理の契り、あさからず。

 或夜、豐田、酒に醉(ゑ)ひて、戯(たはふ)れて、いふやう、

「有の儘に、其すみどころを、語り給はざらんには、心、まだ、とけず、とぞ思はん。我は、かくこそ、思ひ侍べれ。」

とて、

 手枕のうへにみだるゝ朝寢髮

   下には人のこゝろとけずも

と、いひければ、女、限りなく恨みたる氣色にて、かくぞ、返しける、

 手枕をかはすちぎりに下紐の

   とけずと君がむすぼゝれつゝ

「今は、何をか隱し侍らん。君と、みづからは、古へより、よく知る事、侍べり。然らずば、如何に、かく、情深く契り侍らむ。まことは、我は、今の世の人には、あらず。君がため、更にたぶろかし參らする者にも、侍べらず。宿世(すくせ)の緣(えん)、深き故ぞや。昔、この松浦の里に、大友左衞門佐(すけ)なにがしとて、ゆゝしき武勇の大名、おはしき。みづからは杵島郡(きしまのこほり)の者にて、よく、歌、うたひ、碁、うつ事を得て、人、更に、みずからに勝つ者、なし。此故に、十七歲のころ、召されて、左衞門佐殿に仕へ參らせ、朝な夕な、側(そば)を離れず、寵愛、淺からず。其時は、君、まだ、其家の小姓(こせう)にて、近く召使はれ給ひしに、容貌(かほかたち)うるはしかりければ、自(みづか)ら、思ひを懸け、心を通はし侍べり。かくて、自ら、餘りに堪へ兼つゝ、或日の暮方、燈火(ともしび)、未だ取らざる闇(くら)まぎれに、

 よそながら目には懸(かか)れど雨雲の

   へだつる中にふるなみだかな

と、かきて、君が袂に投入れしかば、其次の日の夕暮に、君、また、

 よそにのみ嶺の白雲きへかへり

   たえずこゝろにふるなみだ哉

と、かきて、自らが袖に投入給ひしより、年も同じ年、所も同じ所に、人目を中の關守になして、互に、心ばかりを思ひ通はせ共、家の内外、嚴しき掟の、つらさのみ、恨みられて、契るべき便りも、なし。後に、傍輩の童に(わらは)、此《この》心ざしを顯はされ、左衞門佐殿に讒(ざん)せられしかば、則ち、大に怒りて、君と我と、高手(たかて)の繩をかけ、松浦川のはたに引出し、首(くび)を刎られ侍べり。君は今、已に、又、人間に生れ給ひ、みづからは、それより此方(かた)、猶、今までも、冥土(めいど)にあり。思ひひそめたる心の末、百餘年の後も朽ちず、空しき靈(たま)の現はれ來て、割りなき契を結ぶなり。昔を思へば、今も悲しき憂目(うきめ)見たりける事の、いとど、つらさは、勝るぞや。」

とて、淚を流す事、雨の如し。

[やぶちゃん注:「手枕のうへにみだるゝ朝寢髮下には人のこゝろとけずも」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、山科言緒(ときお 天正五(一五七七)年~元和六(一六二〇)年:公家)編の歌学書(部立アンソロジー)「和歌題林愚抄」(安土桃山から江戸前期の成立)「恋一」の「乍臥無実恋」の西住法師(俗名は源季正(或いは季政)。西行の弟子)の一首(引用は「千載和歌集」の恋二)を参考にしたらしい注が出る。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たるが出来た。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「20」コマ目の左頁の終わり(「戀一」の終り)から三行目である。起こす。

   *

 手枕のうへにみたるあさねかみしたにとけすと人はしらしな

   *

本編のインスパイアと比較するために整序すると、

   *

 手枕の上に亂るる朝寢髮(あさねがみ)下に解けずと人は知らじな

   *

である。了意の改変の方が妙なひねりがなくて、すんなり腑に落ちる。

「手枕をかはすちぎりに下紐のとけずと君がむすぼゝれつゝ」同じく「新日本古典文学大系」版脚注では、やはり「和歌題林愚抄」の「恋一」の「来不遇恋」の藤原道経(康平三(一〇六〇)年頃~?:平安後期の歌人。藤原顕綱の子。長治元(一一〇四)年から保延四(一一三八)年にかけて、多くの歌合に参加した。「藤原忠通家歌合」の主要歌人の一人。保延四年以後に出家し、その数年後に八十歳近くで没したとされる)の一首(引用は「続拾遺和歌集」)を類歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「20」コマ目の右頁の最終行である。起こす。

   *

 手枕をかはす斗のちきりにもなおとけかたきよはのした紐

   *

整序すると、

   *

 手枕を交はすばかりの契りにも猶(な)ほ解けがたき夜半(よは)の下紐(したひも)

   *

「たぶろかし」「誑(たぶら)かす」の訛ったもの。騙(だま)す。

「大友左衞門佐」不詳。「大友」と言えば、戦国時代の北九州東部を平定し、安土桃山時代まで生きた大友義鎮(よししげ)/宗麟(享禄三(一五三〇)年~天正一五(一五八七)年)がいるが、彼を真正モデルとしてしまうと、話柄内時制が本書全体の時代設定の下限を遙かにはみ出てしまうことになるので、あり得ない。大友宗麟から単に名を用いただけのことか。

「杵島郡(きしまのこほり)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『肥前国。佐賀県南西部の杵島郡白石町』(しろいしちょう)・『江北町』(こうほくまち)・『有明町』(現在は合併して先の杵島郡白石町となった)『等の地域。有明海に面した水田地帯』とある。有明海湾奥の北西部。ここ

「よそながら目には懸(かか)れど雨雲のへだつる中にふるなみだかな」「新日本古典文学大系」版脚注では、やはり「和歌題林愚抄」の「恋一」の「見恋」の前内大臣公忠(南北朝時代の三条公忠(元亨四(一三二四)年~永徳三/弘和三(一三八四)年)の一首(引用は「永徳御百首」)を類歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「12」コマ目の右頁の二行目である。起こす。

   *

 よそなからめにはかゝれとあま雲のへたつる中にゆく月日かな

   *

整序すると、

   *

 よそながら目にはかかれど雨雲隔つる中に行く月日かな

   *

了意の改変に軍配。

「よそにのみ嶺の白雲きへかへりたえずこゝろにふるなみだ哉」新日本古典文学大系」版脚注では、やはり「和歌題林愚抄」の「恋一」の「見恋」の十楽院宮の一首(引用は「永徳御百首」)を類歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「12」コマ目の右頁の四行目である。起こす。

   *

 よそにのみ峯の白雲きえかへりたへす心になにかゝるらん

   *

整序すると、

   *

 よそながら峯の白雲消え返り絕えず心に何掛かるらん

   *

了意の改変は男の返歌としては、よく出来ている。

「高手(たかて)の繩」「高手小手」(たかてこて)。「小手」は手首から肘(ひじ)までを指す語。両手を背の後ろに回し、首から肘・手首にかけて、厳重に縛り上げること。]

 豐田、此事を聞《きく》に、又、悲しさ、限りなし。

 されば、

「今、是を聞くに、まことに二世の緣なれば、ますます、わり無く語らひて、昔の思ひを、はらさん。誰《たれ》をか忍びて、暮(ゆふべ)にこし、朝(あした)に歸らん。只、是れに住《すみ》て、もろ友《とも》に夫婦とならん。」

とて、豐田が家に留(とど)めて、猶、睦しき、なからひ也。

 幽靈とは見ながら、宿世(すくせ)の緣、わりなくて、恐ろしとも、思ひ侍べらず。

 豐田は、更に、碁、うつ事、知らざりしに、女、ことごとく、其の祕妙(ひめう)を敎へしかば、此比(《この》ころ)、あたりに名を得し者、豐田にむかひて、碁に敵する人、なし。

 女、つねづねは、左衞門佐の事を語る。

 

――……まのあたり、今、見るやうに覺えたり。……左衞門佐、或時、女房達を召つれて、川の邊(ほとり)に遊びし所に、うるはしき男、二人、きらびやかに出たち、川の向ひを、遙《はるか》に行過《ゆきすぐ》る。

 女房達の中に、一人、云ふやう、

「男ならば、是れ程、美(うる)はしきをぞ、我が思ふ人とも、思はまし物を。」

といふ。

 左衞門佐、聞て、

「此男の妻と、成らまほしきか。」

と云ふ。

 其の女房、打ち笑ひ、顏、赤めて、物も、いはず。

 暫くありて、新しき桶に、蓋覆(ふたおほ)ひして、女房達の中に、出《いだ》す。

「是れ、先の男の許に、遣すべき祝ひの物。見よ。」

と、あり。

 開きて見れば、男をほめし女房の首(くび)、打ち切《きり》て、見せ侍べり。

 女房達、手足、ふるひ、目、くらみて、絕入《たえい》りけるも、多かりし。

……又、或時、鹽燒く浦に仰せて、私(わたくし)には售(うら)せず、我が領分の鹽を、皆、下直(げぢき)に買ひ取り、京方の商人に賣りけるを、何者か、したりけむ、左衞門佐の門に、落書(らくしよ)しける、

 さなきだに辛きおきめを左衞門が

   國の鹽やきにがりはてけり

左衞門、是れを聞て、

「いかさまにも。鹽燒どもの所爲(しわざ)なるべし。」

とて、鹽燒司(つかさ)三人を捕へて、濱おもてに礫(はりつけ)に懸けたり。

……又、年每(ごと)の春になれば、錢米《せんまい》を出し、國中の民百姓に借(か)し渡し、身上《しんしやう》宜しき者には、殊更に、多く借して、秋に至りて、大分の利を掛けて、元にそへて、取歸す。もし、返すべき力なき者は、其所の有德(うとく)人にかけて、辨(わきま)へさせ、或は、妻子を他所に售(うり)つかはし、資材・家屋敷、みな、沽却(こきやく)せしめ、年年《としどし》に、虐(はた)り、取りもぎとる故に、國中、大に衰微に及べり。何者か、詠みたりけむ、

 無理にかす利錢(りせん)の米の數よりも

   こぼす淚はいとゞおほとも

左衞門佐、是を聞て、

「賤しき百姓共は、是れ程の事も、よも、つらねまじ。有德人(うとく《じん》)ばらの所爲(しわざ)にこそ。」

とて、城下に住みける有德人、十餘人、闕所(けつしよ)して追出し、其の財寶ども、皆、奪ひとりぬ。

……或時、左衞門佐、父の年忌にあたり、國中の僧を集めて齋(とき)を行ひしに、一人の僧、遲く來れり。破れたる袈裟かけて、衣、甚だ、古し。

 諸人、あなづりて、奧にも請(しやう)せず、門の傍(かたはら)に居(すゑ)て、齋を食はせたれば、齋、過《すぎ》て、其鉢を、膳の上に覆(うつぶけ)て、彼僧は、去(いに)けり。

 跡にて、鉢を取上げんとするに、少も、動かず。

 諸人、奇特(きどく)の事に思ひて、集まりて、

「えいや、えいや。」

と引動かせ共、太山《たいざん》の如くに重くして、上らず。

 左衞門佐に、

「かく。」

といふに、自ら行て、これを上げられしかば、輕くあがりて、其下に、哥、二首、あり、

 花ちりて梢につけるくだ物の

   今幾(いく)かありて落ちんとすらむ

 我人につらき恨みをおほ友の

   家の風こそ吹きよはりけれ

 左衞門佐、これを見るに、驚く心もなく、いよいよ、國民をむさぼり、人を殺す事、草を薙(なぐ)かとも思はず、恣(ほしいまま)に惡行を致せしかば、それより、二年を待たずして、禍(わざはひ)、來り、身を失ひ、家を亡ぼしぬ。……――

 

……何事も、皆、天道より定まる事と云ひながら、法(ほふ)[やぶちゃん注:仏法。]に過《すぎ》たる科(とが)を犯せば、禍ひ、必ず、近く來《きた》る。然(さ)れば、みづから、昔の心ざしにひかれて、今、かく、契りを、なし侍べり。今より、一年にして、迷塗(めいど)の暇(いとま)、すでに、きはまるべし。」

と語りしが、月日程なく「くれ羽鳥」、あやなく過ぐる光陰、はや、一とせに、なりにけり。

[やぶちゃん注:「私(わたくし)には售(うら)せず」「新日本古典文学大系」版脚注に、『中世期』の『京都・奈良では既に塩座(しおざ)が設置され、汐の専売権を掌握し』ていたとある。

「下直(げぢき)」安値。

「さなぎだに辛きおきめを左衞門が國の鹽やきにがりはてけり」「辛き」「おきめ」は塩の縁語。「おきめ」は「沖布」(おきめ)で、「沖で穫れる海藻」を指し、所謂、「藻塩」(焼き)と強く連関する。ここでは、さらに「置目」(おきめ)で、「掟書」(おきてがき:主に中世後期から用いられた、幕府や領主が公布した「法度(はっと)」の一形式。元来は限られた集団・階層の中の取決め・仕来たりなどを記すものであったが、室町以降、法の発布者が、従来は規制の対象とされていた在地領主・土豪層にも広がると、その公布する法の形式として採用され、次第に法令と同様の意味を持った。室町幕府発布の「徳政令」などは幕府奉行人連署の下知状形式、その他は下文形式など、さまざまな形式をとるが、はじめに「掟」「御掟」「掟事」「定」「定申」などの語を記し、次いで法令の条文が「事(こと)」書きで記されるのが通例とされた)に掛けてある。下句では「塩焼き」の職人らの「苦り」切った顔と、塩の「ニガリ」が掛けてある。狂歌としては文字通り辛辣で、よく出来ている。

「鹽燒司(つかさ)」造塩業者の頭(かしら)。

「錢米《せんまい》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『銭と米。ここでは、領主自らが年貢などのために貸しつけたもの』とある。

「身上《しんしやう》宜しき者」暮らし向きのよい者。

「有德(うとく)人にかけて」裕福な者に課税して。

「辨(わきま)へさせ」「新日本古典文学大系」版脚注には、『「ワキマユル 本人が支払い得ないものを他人が弁済する」(日葡)』とある。強制的な不当な連帯責任を負わせているのである。

「虐(はた)り」「はたる」(徴る・債る)とは、「請求する・強く求める・取り立てる・徴収する」の意。

「無理にかす利錢(りせん)の米の數よりもこぼす淚はいとゞおほとも」「おほとも」は「多(い)とも」と悪逆の領主の姓「大友」に掛けた皮肉。

左衞門佐、是を聞て、

「ばら」「輩・原・儕」で、人を表す語に付いて、複数の意を表わす接尾語。「殿ばら」などを除けば、多くは、同輩以下に対して敬意を欠いた表現として用いられる。

「闕所(けつしよ)」中世に於いて、「所領・諸職を没収すること」を言う。

「齋(とき)」ここは法要に際して僧侶に食事を供することを指す。

を行ひしに、一人の僧、遲く來れり。破れたる袈裟かけて、衣、甚だ、古し。

「あなづりて」「侮(あなど)りて」の古い言い方。

「太山《たいざん》」山東省中部にある中国五岳の一つである名山泰山(標高千五百二十四メートル。「太山」「岱山」とも書く)を指すが、ここは一般名詞で「高く大きな山」の意。

「花ちりて梢につけるくだ物の今幾(いく)かありて落ちんとすらむ」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本話の原拠である「剪燈新話」の「四」の「五」の「綠衣人傳」にある『詩句を狂歌に翻案したもの』とする。原拠考証はしない約束なので、これ以上は注さない。

「我人につらき恨みをおほ友の家の風こそ吹きよはりけれ」「新日本古典文学大系」版では、「我」に『われ』、「人」に『ひと』と編者ルビが振られてあり、通釈では『皆』(この場合、「自他」であるが、自分を除いたでないとおかしいが、結局、それが最後に致命的な禍いとして降りかかってくるわけで、仏教的には自他と区別すル必要はないのでいいか)とある。「おほ」は「大友」に「多(おほ)」を掛けているのは言うまでもない。「風」は「かぜ」と訓じていよう。「家風」で、ここでは「権門家の威勢」の意。

 左衞門佐、これを見るに、驚く心もなく、いよいよ、國民をむさぼり、人を殺す事、草を薙(なぐ)かとも思はず、恣(ほしいまま)に惡行を致せしかば、それより、二年を待たずして、禍(わざはひ)、來り、身を失ひ、家を亡ぼしぬ。……――

「くれ羽鳥」「新日本古典文学大系」版では、『くれはどり』で、注では、『呉織。呉の国から伝来した職工や織物』とし、『「暮れ」の意で月日から続き、織物に綾があることや漢織(あやはどり)の併称から「あや」に掛かる』とある。辞書に枕詞とし、美しい綾のあるところから、「あや」「あやに」「あやし」に掛かる、とある。]

 

Katiko2

 [やぶちゃん注:二人の離別のシーン。ともに泣いている。但し、本文にはこうした位置関係でのシーンは描かれていない。猫は伏せているというより、ともに別れを惜しんで臥せっているようにも見える。]

 

 女、心地、煩ひければ、醫師(くすし)を賴み、藥を與ふれども、飮まずして、豐田が手をとりて、

「昔の語らひ、君と、緣、深く、夫婦の情(なさけ)は、こゝにして、盡き侍べり。自ら、幽冥陰氣(ゆうみやういんき)の形(かたち)を現はし、君に契り參らせ、いとほしみの恩を、受けたり。思へば、昔、一念の愛執(あいしう)を起して、思はざる外の禍ひに、おち入りたり。たとひ、なんぢは干潟(ひがた)となり、岩(いはほ)は、湯(ゆ)に沸(わ)くとも、此の恨みは、更に、消(けし)がたし。天、傾(かたふ)き、地、崩(くづ)るとも、此情(なさけ)は、忘れじ。今、已に、宿世のよしみを續けて、後の世の緣を契る。是より、我は、黃泉(よみぢ)に歸るべし。其のかみ、殺されてより、百餘年、此たび、重ねて契る事、一年、久くして、又、逢《あひ》奉れり。思ひの雲は、はれゆきたり。更に、戀《こひ》、悲しみ給ふな。」

とて、打ちなきけるを、豐田は、淚の中より、

「今、暫し、留(とどま)り給へ。飽かぬ別れに後《おく》れて、殘る身を、いかにとか、思ひ給はん。」

と云へば、女、なくなく、

 名ごりをも惜しまでいそぐ心こそ

   別れにまさるつらさ成りけれ

と、詠じて、壁に向ふて、臥しけるを、

「いかに、いかに。」

と呼べども、呼べども、はや、事切れ果てゝ、空しき「から」のみ、床に殘れり。

 豐田、悶え焦(こが)れ、泣き悲しめども、甲斐、なし。

 床に空しき衣をとりて、

 移り香になにしみにけん小夜衣(さよごろも)

   忘れぬつまと思ひしものを

 さて、棺(くわん)に納め、野邊に送くらんとするに、棺、甚だ、輕(かろ)かりければ、開きて見るに、只、衣のみ、殘りて、尸(かばね)は、なし。

 空しき棺を、寺に埋(うづ)み、佛事、いとなみ、懇ろに、跡、弔(とふら)ひ、二たび、妻を求めず。

 出家して、四國・九國を巡り、それより、唐土(もろこし)の商人舟に便船して、入唐(につたう)しつゝ、その終はる所を、知らず。

[やぶちゃん注:「たとひ、なんぢは干潟(ひがた)となり、岩(いはほ)は、湯(ゆ)に沸(わ)くとも」私は『なんだか、変わった喩えだなあ?』と思ったが、「新日本古典文学大系」版脚注に、原拠の『原話に「海枯レ石爛ルトモ」』とあるとされ、『「なんぢ(汝)」は草書体の類似から「海」を読み誤ったものか』とあって、納得した。なお、ここは続く以下の台詞から、「長恨歌」のコーダを確信犯で意識した形をとっている。

「殺されてより、百餘年」先に時代が下るのが問題だと私が言ったのは、この表現に基づく。

「名ごりをも惜しまでいそぐ心こそ別れにまさるつらさ成りけれ」同じく「和歌題林愚抄」の「恋二」の「恨別恋」の二条(藤原)為世(建長二(一二五〇)年~延元三/暦応(一三三八)年:鎌倉末期の歌人。藤原為氏の嫡子で為家の孫。彼に始まる二条家の平淡美を重んじる歌風は、中世全期を通じ、歌壇の主流となった。頓阿や吉田兼好らも門人であった)の一首(引用は「元亨後宇多十首」)を元歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「24」コマ目の右頁の十一行目。起こす。

   *

 なこりをもおしまていそく心こそわかれにまさるつらさ成けれ

   *

「から」ここは単なる骸(むころ)・亡骸(なきがら)の意。

「移り香になにしみにけん小夜衣(さよごろも)忘れぬつまと思ひしものを」同前で、「和歌題林愚抄」の「恋二」の「移香増恋」の権中納言経房(建長二(一二五〇)年~延元三/暦応(一三三八)年:鎌倉末期の歌人。藤原為氏の嫡子で為家の孫。彼に始まる二条家の平淡美を重んじる歌風は、中世全期を通じ、歌壇の主流となった。頓阿や吉田兼好らも門人であった)の一首(引用は「千載和歌集」の「恋四」)を類歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「25」コマ目の右頁の八行目。起こす。

   *

 うつりかになにしみにけんさよ衣わすれぬつまと成(なり)にし物を

   *

「つま」は「衣」の縁語で「褄」、さらに「妻」を掛けた。

「唐土(もろこし)の商人舟に便船して、入唐(につたう)し」「新日本古典文学大系」版脚注では、ここで、本話の今一つの当地ロケーションの伝承を示して(冒頭注でも出ている)、『入唐については、古代からの松浦佐用姫伝承の影響があるか』と注されておられる。佐用姫については、「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 無足の蛇 七手の蛸」の私の「松原姫(まつらひめ)」の注を参照されたい。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 尾藩秦鼎手筒 輪池堂

 

[やぶちゃん注:「尾藩秦鼎手筒」は尾張藩秦鼎(はたかなえ)からの書簡の意。今までの「兎園小説」に何度も登場し、注記もしたが、再掲すると、秦鼎は儒者で尾張名古屋藩に仕えた秦滄浪(そうろう 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年)。美濃出身。鼎は名。寛政二(一七九〇)年に同藩に入り、翌年、藩校「明倫堂」典籍となり、後に教授となったが、驕慢で失脚したという。古書の校定を好み、「国語定本」・「春秋左氏伝校本」などをものしており、また三巻三冊から成る随筆「一宵話」(ひとよはなし)がよく知られる。本文でも言及されている通り、この直前の「唐船漂着の記 輪池堂」にも書簡を寄せている。謂わば、これは、まさに、その書簡に関わって、当該書簡を改めて全文で示した、書簡送付証明を期した追記増補記事の趣きを持つものである。後半は、文政八年十二月(グレゴリオ暦では既に一八二六年一月)に信濃国松本藩で発生した世直し一揆(打ちこわし)「赤蓑騒動」の記事である。当該ウィキによれば、「赤蓑」とは、『一揆勢がシナノキ』(アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica )『の皮の赤蓑を着ていたことに由来する。また発生地から』、「四ヶ庄(しかじょう)騒動」(佐野村・沢度村の広域通称。現在の白馬村神城(かみしろ)附近(グーグル・マップ・データ))とも『呼称される。一連の騒動は大町に滞在していた諏訪藩士の六角鬼洞により』、「赤蓑談」として纏められた。文政八年十二月十四日(一八二六年一月二十一日)、『信濃国安曇郡大町組に属する四ヶ庄地方』『から発生し』、十二月十七日の『朝にかけて、千国街道(糸魚川街道)沿道の村々の大半を巻き込んで、大町宿(大町市)、池田宿(池田町)、穂高宿・成相新田宿(安曇野市)の宿場の特権的問屋や、各組の大庄屋や在郷商人など』、約八十七軒を、約三万人もの『農民が打ちこわしした事件である。成相新田宿で松本藩兵に鎮圧され、城下への侵入は阻止された』。『この年は凶作であったが、四ヶ庄地方には米穀商がなく、農民たちは貯蔵米のある上層農民に借用・売却を申し入れたが』、『拒絶され、宿場町の米穀商は』、『米の買占めと』、『売り惜しみに走り、米不足にも関わらず』、『酒屋が酒造を始めたことが、一揆の発端となった』とある大規模な一揆である。]

 

   ○尾藩秦鼎手筒

   鈴木右平樣         秦 鼎

百一歲老人へ御傳言。此も正月廿一日に來遊。明五日、歸鄕申候。步行も二里は樂に出來、目がね、なし。小茶碗に、飯も、四、五盃づゝ、學堂[やぶちゃん注:底本では右にママ注記があるが、藩校明倫堂のことであろう。]にて、田樂豆腐、拙生は七本、百歲老人は十五本、たべ申候。誰か作工にや、今度、堀川傳馬橋[やぶちゃん注:現在の愛知県名古屋市中村区名駅にある古くより物流の重要な橋であった伝馬橋(てんまはし)。]、新規に御懸替、新造なれば、先例により、老人渡り初[やぶちゃん注:「わたりぞめ」。]、可ㇾ被仰付候處、御家中にも、名子屋[やぶちゃん注:ママ。]にも、其人なく、御手支御吟味の處、幸、美濃高田にて、百一歲老人、來合たれば、「此翁を。」といふに、「世に、事かいた樣似に、他國人をやとひ上げは、苦々し、これは、尾張には智多郡に萬歲あれば、これをよびよせ可ㇾ然。」との評定になりし所、「萬歲位の小兒輩を召るゝ事かは。我等が鄰には、「七億【質置。】親仁」[やぶちゃん注:「質置」は質屋のこと。「しちおく」で言祝ぎに「七億」の漢字を当てたものであろう。]あり。扨、遠州へ唐船漂着大騷動、遠州は稻佐風の海賊日本一の名所、大晦日夜、海中幽靈の出現日、殊に薄暮より風雨つよきに、丑滿比、漂流破船、押來りし樣子にて、海賊ども、「天のあたへ、よい正月せん。」と、我一に小舟こぎ出し、仰上れば[やぶちゃん注:「あふぎあぐれば」。]、船の異體なるに驚き、しばしためらふほどに、松明・燈火の光に、鬚の長き、異類異形の物、見ゆれば、「ヤレ、幽靈よ。」と、にげ歸る。曉天になれば、金鼓にて、大船、こぎ來る【これは元朝の祝の樂なり。】。これにて、遠州諸候大騷動、これから御察しあㇾば、相分るゝ事なり。此圖書ども、はや、御通覽かは難ㇾ測候得共、齋藤泰正、櫻井へ被ㇾ遣可ㇾ被ㇾ下候。櫻井介三郞子は、塙次郞へ被ㇾ參候故、塙へ送り度く、善、御取計可ㇾ被ㇾ下候。例の筆屋、玄書堂、御連可ㇾ被ㇾ下候。

舊臘[やぶちゃん注:底本は「舊獵」であるが、前年十二月の意であるから、吉川弘文館随筆大成版で訂した。]十二、三日比より、信州松本、民亂、此は加賀・越後界[やぶちゃん注:「さかひ」。「境」に同じ。]なり。四ケ庄などゝ言、北方深山僻地の山民、蜂起し、南へ南へ、と、村々の富民の居宅を打崩して、城下近く攻來り、小廿里計の間にて、七十五、六軒も潰し、信濃川の新橋にて防れ[やぶちゃん注:「ふせがれ」。]、同心・足輕の輩、亂民と同じ形になり、交り入、頭取たる者を、生捕中に[やぶちゃん注:「いけどるうちに」。]、亂民中に、馬上にて進退指揮する者を、大番頭の稻村小源太、「あれぞ、くせ者。」と、小筒[やぶちゃん注:「こづつ」。小筒鉄砲。]を以、此も、馬上にて馳向ふに、此前に、てつぽう百挺、虛空に向て、亂放する高聲に、亂民ども、恐愕せしや、小源太に恐れ、にげ走るを、逐かけ[やぶちゃん注:「おひかけ」。「追ひ驅け」。]、逐かけ、石路・溪間を、二里計も、逐かけ、逐かく、遂に、「小筒、放たん。」とせしに、「此こそ、生捕にすべき者なれ。」と心付、遂に、生捕しは、大功、「頭立し[やぶちゃん注:「かしらだてし」と訓じておく。]惡黨は、大略[やぶちゃん注:「おほよそ」]、越後高田の者なり。」と聞ゆ。ナタリ邑[やぶちゃん注:白馬村東北に接する長野県北安曇郡小谷村(おたにむら)のことか? 訛りかも知れない。]より、城下迄は、小廿里、其間の、富民も、田地も、踏潰されし大亂は、聞も苦々しき事、去年は、越前の勝山と松本の二侯、國、騷々敷[やぶちゃん注:「さうざうしく」。]候ひき。百歲老人、餞宴にて、今日は多忙、草々頓首。

 文政九年二月四日

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(この、なんて靑い顏をした人たちだ) / 筑摩版全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』所収の「○(このなんて納まり返つた人たちだ)」の草稿とするものと同一原稿と推定

 

  

 

この、なんて靑い顏をした人たちだ

なんて意地の惡い眼付をした人たちだ

長い單調な行列から

舌をたらしてゆく

尻尾にさきをひきづつて居るあるもののごとき實に

いやらしいらうまちずむの薄い肉體

それをびくびくさせて

手の光る

光る

光る

光る

白臘の模型先祖ら

みんな私は知つて居る

君たち一代のいやらしい秘密から

遠い世界の墓穴から

その長たらしいぷらつとほうむから

出てくる 出てくる

君たちのいんきな足音から

あなた方の腐蝕した靈魂の所在から

なにもかも私は知つて居る

それを永遠の子孫につたへるために

あなた方の疾患原理をつたへるために

お氣の毒だが私は生きてゐるのだ

やい、ひつこめ

白い先祖たち

馬鹿らしい行列をやめてくれ

 

[やぶちゃん注:「白臘」はママ(「白蠟」の誤記)。本篇は断片ではあるが、相当にソリッドな草稿(完全草稿の前方三分の二)である。しかも、この無題詩の完全草稿「(このなんで納まり返つた人たちだ)」は、実は、私が既に、先行する「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺 先祖」の注で筑摩版全集の「未發表詩篇」から引用して電子化している。そちらを参照されたいが、筑摩版全集には、別に『草稿詩篇「未發表詩篇」』の中に、その「(このなんで納まり返つた人たちだ)」の草稿とする『(本篇原稿二種四枚)』とするものがあり、それが見事に本篇とほぼ完全に一致するのである。以下に示す。「ぶらつとほうむ」を始めとして表記は総てママ。

   *

 

  

 

この、なんて靑い顏をした人たちだ

この、なんて意地の惡い眼付をした人たちだ

長い單調な行列から

舌をたしてらしてゆく

尻尾のさきをしきづりながらつ居る

あるものゝごとき實に白いいやらしいらうまぢずむの薄い肉體

それをびくびくさせて

手の光るそれでも

光る

光る

光る手のかげに顏を出す先祖ら

白臘人形のの模型先祖ら

みんなおれ私は知つて居る

君たち一代の祕密いやらしい祕密から

なんでも君たちの遠い世界の歷史墓穴から

一切のその長たらしいぶらつとほうむから

出てくる、出てくる、

またきみたちの額に刻まれた 晴衣の一件から、いんきな足音から

その 疾患の怖ろしい 陰氣くさい

あなた方の腐蝕した靈魂の所在までから

なにもかも私は明らかに知つて居る、

それを永遠の子孫につたへるために

あなた方の疾患原理をつたへるために

そのためにお氣の毒だが私は生きて居るのだ、

やいひつこめ先祖ら

白い御先祖の顏たち

犬のやうな

馬鹿らしい行列をやめてくれ

 

  *原稿用紙が破れているので、このあとは不明。

 

   *

削除部分の「晴衣の一件から、」というのは意味不明である。以下に、整序したものを示す。「ぶらつとほうむ」は流石に訂正した。

   *

 

  

 

この、なんて靑い顏をした人たちだ

この、なんて意地の惡い眼付をした人たちだ

長い單調な行列から

舌をたらしてゆく

尻尾のさきをしきづつ居る[やぶちゃん注:「ひきづつて」の訛りと脱字。]

あるものゝごとき實にいやらしいらうまぢずむの薄い肉體

それをびくびくさせて

手の光る

光る

光る

光る

白臘の模型先祖ら

みんな私は知つて居る

君たち一代のいやらしい祕密から

遠い世界の墓穴から

その長たらしいぷらつとほうむから

出てくる、出てくる、

きみたちのいんきな足音から

あなた方の腐蝕した靈魂の所在から

なにもかも私は知つて居る、

それを永遠の子孫につたへるために

あなた方の疾患原理をつたへるために

お氣の毒だが私は生きて居るのだ、

やいひつこめ

白い御先祖たち

馬鹿らしい行列をやめてくれ

 

   *

細部に異同がありはするが、重要な特異的なメルクマールの箇所が、これ、ほぼ完全に一致していることから、最早、同一原稿としか思われない。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(憂愁は影をひきます)

 

  

 

憂愁は影をひきます

走れ、走れ

靑い影法師よ、子供よ、小猫よ

走れ、走れ

小さな瀧のながれてゐるところで

幽邃なる谷の底まで

走れ

走れ

ああ神經は自然につかれてくる

つかれてくる、しづかな櫻月夜の圓窓

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(すべて憂鬱なる森の中に。) / 詩集「靑猫」所収の「恐ろしく憂鬱なる」の初期稿の標題を含む断片

 

  

 

すべて恐ろしく憂鬱なる森の中に。

 

ああこの恐ろしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげを見る

 

[やぶちゃん注:本断片と同一のものは筑摩版全集には見当たらないものの、これは明らかに詩集「靑猫」の「恐ろしく憂鬱なる」の極小の草稿断片と考えてよい。私の「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 恐ろしく憂鬱なる」を見られたいが、冒頭は、

   *

こんもりとした森の木立のなかで

   *

というロケーションの共時性があり、而して詩篇の最終行は、

   *

あまりに恐ろしく憂鬱なる。

   *

とあって、これは「あまりに恐ろしく憂鬱なる」「こんもりとした森の木立のなか」が仮想の詩想空間という点で極めて強いフレーズの親和性が認められ、しかも、そもそもが、本編の続く二行と酷似したフレーズが、コーダ部分に出現するのである(太字は私が附した)。

   *

ああこの恐ろしい地上の陰影

このなまめかしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる

その私の心はばたばたと羽ばたきして

小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ

ああこのたへがたく惱ましい性の感覺

あまりに恐ろしく憂鬱なる。

   *

これで充分だとおもうのだが、ダメ押しで決定打を言っておくと、

実はこれは、間違いなく「恐ろしく憂鬱なる」の草稿断片であり、恐らくは、その最初期形の一つの断片であることは、はっきりしている

のである。

 筑摩版全集第一巻には『草稿詩篇 靑猫』が付随し、そこの仮題して『恐ろしく憂鬱なる(本篇原稿二種五枚)』として、二種の草稿が示されているが、その第一草稿が以下なのである。「みぶひる」「きつついた」「やなましく」は「みぶるひ」「きずついた」「なやましく」の誤記。「羽ははき」「羽はばき」は衍字・濁点欠損(前者)・脱字。

   *

 

  すべてを恐ろしく憂鬱なる森の中に

 

ああこの恐ろしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる

私の心はみぶひるをして

醜くきつついた小鳥やうに

私の心はやなましく→いたましく 羽ばたきをして→みぶるひをして→びくびくとぢたばたと羽ははきをして

醜い小鳥のやうに 死ぬるやうに羽はばきするぬるときんでゆくときのやうだ

 

   *

これを整序してみる。以上の誤記その他は、ここでは極めて特異的に、優等生然とした筑摩版全集校訂本文よろしく「消毒」しておいた。

   *

 

  すべてを恐ろしく憂鬱なる森の中に

 

ああこの恐ろしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみる

私の心はぢたばたと羽ばたきをして

醜い小鳥の死んでゆくときのやうだ

 

   *

さて。本篇断片と比較されたい。

 この初期形の題名と冒頭二行を抜き出し、題名の末尾に句点を附し、詩篇二行目の「みる」を「見る」と書き変えれば、本篇に早変わりする。

 本篇は、思うに、この初期形断片を清書しようとした残骸ででも、あるのかも知れない。

2021/12/01

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(この景色のよい海岸の別莊はだれの家か)

 

  

 

この景色のよい海岸の別莊はだれの家か

浪の音さやかに垣根をこえ

まがりくねつた松の木の幹はなにの夢を夢みるか

ほのかにひびく琴の音はいかに美しき調べぞ

ああ 明日の空に澄みて 澄みわたりて

靑き木々の葉も砂山の上にしつとりと眠

 

[やぶちゃん注:立ち切れたように終わっているのはママ。筑摩版全集では、「未發表詩篇」に以下のように載る。「桓根」「澄りわたりて」はママ。

   *

 

  ○

 

この景色のよい海岸の別莊はだれの家か、

浪の音さやかに桓根をこえ、

まがりくねつた松の木の幹はなにの夢を夢みるか、

ほのかにひびく琴の音はいかに美しき調べぞ、

ああ 明月の空に澄みて澄りわたりて、

靑き木々の葉も砂山の上にしつとりと眠

 

  * 本稿には以下がない。

 

   *

異同があるが、まず、同一原稿であろう。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(私たちは舟を浮べる) / 筑摩版全集不載の一篇

 

  

 

われは空より雪のふりくるけしきをながめんとして

やうやく窓硝子のほとりにあゆみしに

たちまちにしてうつくしき

つつましやかに夫人の影ににたるもの

かうばしき

夕餉の皿をもちはこばんとしたりしが

わが窓の扉のにおとなひ

 

  *ここ一字不明

 

[やぶちゃん注:注に句点がないのはママ。本篇は筑摩版全集には所収しない。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(私たちは舟を浮べる)

 

  

 

私たちは舟を浮べる

浪まに浪をのりこえて海のしぶきにのりゆく舟を

舟、舟、舟、

するどき細きますとをもてるひとつの小舟

ろがいの音もゆたかにのりゆく浪路のうへ

こげよ、こげよ、こげよ、人々

いま私たちの心は悲しむ

どこに寂しむ、潮鳴りの千鳥を聲聲

ながるるものは水なるか

頰につめたき流星の

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。筑摩版全集では、「未發表詩篇」に、以下のように出る。「ま白つな」「千鳥を」はママ。太字部分はこちらでは傍点「◦」である。

   *

 

 ○

 

私たちは舟を浮べる、

浪また浪をのりこえて海のしぶきにのりゆく舟を、

舟、舟、舟、

ま白つな白帆するどき細きますとをはりあげたもてる ひとつの小舟

ろがいの音もゆたかにのりゆく浪路のうへ、

こげよ、こげよ、こげよ、人々、

いま私たちの心は悲しむ、

どこに寂しむ、海の鳴潮鳴の千鳥を聲々

ながるるものは水なるか、

みよや 孤獨の月は空に、

頰につめたき流星の

 

   *

後に編者注があって、『本稿には以下がない。五行目「ろがい」の横の〇印は原文のまま。』とある。まず、同じ草稿であろう。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(のるうゑあたりをながれゆく氷山のいただきに)

 

  

 

のるうゑあたりをながれゆく氷山のいただきに

けふもまたうらがなしげの太陽がなげいてゐる

寒い寒い北國の冬の物語である

雪は遠い牧場の小川のうへにもふつてゐた

雪は遠い森の梢のうへにもふつてゐた

どこもかしこも雪にうもれてほの白く光つてゐた

雪はまたお寺の家根の上にもふりしきつてゐた

雪はまたあばらやの煙突の上にもふつてゐた

煙突の窓からまつ白い煙がむくむくともりあがつてゐた

そのときお上人はひもぢかつた

たよりない旅人のこころの上にも

おほゆきはいちどに落ちかかつたのである

 

[やぶちゃん注:「のるうゑ」(言わずもがなだが、ノルウェー王国(ノルウェー語:Kongeriket Norge/Noreg)のこと)、「ひもぢかつた」はママ。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(このごろは低い木の枝などで)

 

  

 

このごろは低い木の枝などで

干からびた木の***がひらひらしてゐる

どこかの高原地方をあるいてゆきたい

はてしもなくひろい野原で

きれいな月夜の景色をながめてゐたい

途中でふしあはせの人にあふ

 

   *ここのところ三字不明。

 

[やぶちゃん注:底本では「*」は一字分であるが、示した注に従い、かく処理した。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 唐船漂着の記 輪池堂

 

   〇唐船漂着の記

 文政九戌年正月七日     榊原越中守

當月二日、異國船一艘相見候段御屆申候旨、昨朝申越候處、猶又同三日、久能山一の御門より及ㇾ見候處、遠州大井川下沖合に、異形の船一艘掛り居候樣子に相見候段、在所家來より申越候に付、御用番へ御屆申上候。

[やぶちゃん注:「文政九戌年正月」「二日」グレゴリオ暦一八二六年二月八日。正月早々、スッタモンダの大騒ぎだった。]

 同日            同   人

羽倉外記支配所、遠州榛原郡飯淵村沖合に、異國船と相見候船一艘相見候に付、當月二日爲見分外記致出立候趣、駿府町奉行牧野采女より通達有ㇾ之候間、久能山御備向、幷御山下領分海邊手當の儀、如先格申付置候段、在所家來の者より申越候に付、御用番へ御屆申上候旨、昨日申越候。

           大目付 石谷備後守

[やぶちゃん注:「榛原」(はいばら)「郡飯淵」(はぶち)「村」現在の静岡県焼津市飯淵(はぶち)(グーグル・マップ・データ。以下ただの地名のリンクは同じ)。まさに大井川河口東端(左岸の先頭の地区)。]

 同日            本多遠江守

羽倉外記御代官所、遠州榛原郡飯淵村沖合に、異國船相見候船一艘相見申候旨、當月二日夜、領分村方より屆出候處、同夜牧野采女よりも、外記出役の旨、申來候に付、早速、領分海邊手當の人數、差出候段、在所家來の者より申越候段、御用番へ御屆申上候。

           大目付 岩瀨伊豫守

 正月八日          田沼玄蕃頭

遠州榛原郡兵部卿殿御領分、川崎湊より東字三森[やぶちゃん注:「ひなたGPS」で飯淵周辺(戦前の地図)を探したが、見当たらない。]と申沖の邊へ、怪敷[やぶちゃん注:「あやしき」。]船、一艘相見候間、拙者領分同郡村役人より、當月朔日晝八時[やぶちゃん注:定時法で午後二時頃。]頃、申出候に付、彼地、諸家來罷越見受候處、領分より東南の方に一里半程隔り、長、凡二十五、六間[やぶちゃん注:約四十五・五から四十七・二七メートル。]程と相見、異國船一艘掛り居申候。尤、兵部卿殿御領分、同郡吉田村[やぶちゃん注:「ひなたGPS」で確認出来。大井川右岸の河口南西直近。]濱陸より六、七町[やぶちゃん注:六百五十四・五から七百六十三・六メートル。]沖合に、碇を卸居候樣子に付、右場所之人數差出候旨、同二日、中泉御代官竹垣庄藏より、在所家來共迄、申來候間、兼て手當申付、人數、早速、差出申候。尤、拙者領分相良・福岡[やぶちゃん注:同じく「吉田村」のかなり南西。]濱續の儀にも候間、人數手配等、申付置候段、彼地家來共より申越候。御用番え、御屆申上候旨、昨七日申越候。

 同日            太田攝津守

去二日、大井川邊、川尻村[やぶちゃん注:「ひなたGPS」で確認出来。大井川河口先端右岸。]境、海上に、異國船相見候旨、領分吉宗[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版に『(永カ)』と編者注があり、これで納得。「吉永」は飯淵の北に接する村で「ひなたGPS」で確認出来。]村より注進申出候間、早速、見分の者差出候處、海上、凡、五、六丁餘、隔、三十間餘も可ㇾ有ㇾ之相見候。船、帆柱三本立、碇、卸し、人數、四、五十人も乘候樣子にて、白き旗、又、赤き旗にて、磯の方に向招候得共、高浪にて難相分、多分、唐人商船に可ㇾ有ㇾ之趣に御座候。依ㇾ之惣人數、差出候旨、在所より申越候間、此段、御用番に御屆申上候旨、昨七日申越候。

   尾藩秦鼎手筒【二月四日、所郵附全文は、下に見えたり。】

扨、遠州へ唐船漂着、大騷動、遠州は稻佐風の海賊、日本一の名所、大晦日夜は、海中、幽靈の出現日、殊に、薄暮より、風雨つよき丑滿頃、漂流破船、押來之樣子にて、海賊ども、「天のあたへ、よい正月せん。」と、我一に小舟こぎ出し、仰みれば、船の異體なるに驚き、しばしタメラフほどに、松明・燈炎[やぶちゃん注:「ともしび」と訓じておく。]の光に、鬚の長き、異類・異形の物、見ゆれば、「ヤレ、幽靈よ。」と、にげ歸る。曉天になれば、金鼓、コキ、來る【これは元朝の祝の樂なり。】これにて、遠州諸侯、大騷動、此から御察しあれば相分るゝ事也。此圖書どもは、はや御通覽か、難ㇾ測候へ共云々。

[やぶちゃん注:「秦鼎」(はたかなえ)は儒者で尾張名古屋藩に仕えた秦滄浪(そうろう 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年)。美濃出身。鼎は名。寛政二(一七九〇)年に同藩に入り、翌年、藩校「明倫堂」典籍となり、後に教授となったが、驕慢で失脚したという。古書の校定を好み、「国語定本」・「春秋左氏伝校本」などをものしており、また三巻三冊から成る随筆「一宵話」(ひとよはなし)がよく知られる。

「稻佐風」(いなさかぜ)辰巳(南東)の風であるが、特に台風期の「強風」を指して言う。ここは、「特に荒っぽい」という形容であろう。

「元朝の祝の樂」は旧習。言わずもがな、当時の中国は清代。]

貴船唐山耶。將外夷耶。洋中不ㇾ辨ㇾ何。是暴風所ㇾ漂。想有損壞、鐵錨之類有ㇾ失否。柴米水菜之類有ㇾ乏否。貴國所ㇾ發之地。及船主之姓名。開駕漂著之月日。通船人名數行年州里。且船中帶品物。請審筆示ㇾ焉。[やぶちゃん注:「開駕」(かいが)「駕」は他者の往来を敬って言う語で、ここは「御出航月日」の意。]

 文政九年丙戌正月朔 日本遠州榛原縣

              海 岸 邑 正

 呈漂流船主

[やぶちゃん注:「海 岸 邑 正」海辺附近の村(「邑」)を管理監督する「正」規の役人・町役人の意であろう。以下が難破船からの返答であろう。中国語でよく判らない箇所があるが、以下読み進めると、どうも、この清の難破船には、ずっと昔に邦人の漂流者複数名を救助しており、その連中が、たまたま、同船していたらしいことが判ってくる。]

 本船在ㇾ唐。于十一月廿四日乍浦開行。

 往長崎貿易幷護送。

貴國漂流商民三人。本船共計已百十六人。因風不順。今于正月初一日漂收。

貴地 口前寄ㇾ掟。但風浪甚大。恐ㇾ有不測。伏乞俯念。遠商在ㇾ洋日。久苦楚異常。速卽禀明[やぶちゃん注:「りんめいせり」で、「詳しく説明する」の意か。]。

大頭目大人。餝備小船。將大船進内山嶴中。暫爲寄碇。再行縴送長崎。幷給附柴米各物。萬勿遲延是憾。[やぶちゃん注:「縴進」で、「縴」(音「ケン」)は「綱を以って引きつつ進む」の意。前の部分から「附属装備する小船を以ってタグ・ボート風に」という意であろう。「内山嶴中」「ないざんおうちゆう」と読んでおくが、よく意味が判らない。「嶴」は後に出る「岙」も同字で、名詞で、浙江省・福建省などの沿海地方で多くは陸の地名に用いて山間の平地を指すが、どうも馬琴の言っている「奥州」の誤りのような気がする。]

 計開、[やぶちゃん注:意味不明。「因みに当方の所持する対象物の数値を示すと、」といった謂いか?]

 一小船一百艘。[やぶちゃん注:小船は百艘もあるというのか? よく判らぬ。]

  文政九年正月初一日 寧波船主揚啓堂

 竹筒内有呈一張

貴國漂流民人長吉等十二人。于庚辰年十二月初九日。左岙州島船。𪳾魚油等物出口。往來國貨賣。過東北大風損傷。大桅隨ㇾ風漂流。于次年正月二十日暹羅沿海地方。搭數上岸。上年六月初三日。附搭金福全船。至七月十八日門口。二十九日起身。至八月初九日福州。九月十四日起身。十月十五日到乍浦。原船出口共計十二人。右暹羅亡遇五人。現存七人。兩扁「得泰」[やぶちゃん注:本船の名前。]全勝二艘。護送到長崎。「得泰」護送三人【解按、左「岙」之「岙」、恐「仚」之誤。「仚」與ㇾ「仙」同。左「仚」、卽、「仙臺地方」云歟。再按、「岙」此「嶴」之誤。當ㇾ作「奥州」。「左」、亦、「在」字之誤耳。】。

  計開、[やぶちゃん注:以下の「一」の後は恣意的に一字空けた。]

一 長吉。

一 鶴松。

一 喜太。

 「全勝」船、護送、四人。

  計開、

一 蒼(くら)松。

一 淸祐(すけ)。

一 米祉(よねじ)。

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『米社』。あり得ない名で、誤判読か誤植である。]

一 榮祐。       船名   得 泰

上書。護送貴國人名册。 船主   揚啓堂

         南部大膳大夫領分

          奧州閉伊郡

           山田村百姓

                 長 吉【歲三十六歲。】

           そけい村百姓

                 喜太郞【歲二十五歲。】

           同村百姓

      筒   松 歲二十八歲

      右中口

私共儀、唐船え、乘込、遠州へ漂着の上、當湊え、御引入に相成、此度於二元船。始末御糺に御座候。

此度私共儀、大法大領船越浦、黑澤屋六之助船、仲船頭平之丞等、水主倉松、淸助、龜之肋、久米兵衞、伊勢松、米次、私共【此乘組十二人の内、久助といふものあるべし。下に見えり。脫字ならん。右久助を加て、十二人也。この餘、本文の内、誤脫、少からず。聊、意をもて、補ひつゝうつしとりぬ。】二人、幷、炊[やぶちゃん注:「まかなひ」か。]榮助共、都合、十二人乘組、右六之助、商荷物・粕油・大豆・鹽・肴、幷、大つち村々より御領主へ納候干肴類之由、樽詰莚菰包、幷、江戶御屋敷え、差出候分、書面・荷物共、江戶問屋へ相屆候分、一同積入、七ケ年以前、去る辰年十一月廿六日[やぶちゃん注:文政三年。グレゴリオ暦では一九二〇年十二月三十一日。]、大つち領[やぶちゃん注:岩手県上閉伊郡大槌町か。幕府領。新巻の塩鮭を始めとして海産物を江戸・上方・長崎などに送った場所として栄えた。]、出帆、順風にて、十二月七日、仙臺領「とりなん湊」へ入津、滯船。同九日、同所出帆、同十二日、雨雪にて、地方[やぶちゃん注:「ぢかた」。陸。]を見失ひ、房州沖に漂。同夜、戌亥[やぶちゃん注:北西。]の强く、洋中へ被吹流。同十五日晝、あかの道付候間[やぶちゃん注:「あか」は水の智眼的な浸水で、それを「防ぐ術(すべ)が完全に尽きてしまったので」の意であろう。]、無ㇾ據打荷いたし、同十四日、大時化にて、帆柱も切捨候處、方角を取失ひ、いづ方より吹候風共、不相辨、被押流。同十五日、風少し靜り、あかの道を塞ぎ、同十六日、桁[やぶちゃん注:「けた」。船本体の内側の支えとしている材。]を帆柱に致し、陸の方を心差、走參候處、又候、同十九日、戊亥の風强く、被吹流、雨雪にて時化に相成、同廿二日、大あれにて、又候、打荷致し、同夜、揖を折、船中の者共、力を落し、一同、神社を祈、綱を揖に致し、流次第に相成、翌巳年正月六日、丑寅にて彼押流候處、洋中、至て暖氣に相成、奧州邊、六、七月頃の時候同樣にて、然處、追々船中呑水無ㇾ之難儀致し候處、同十九日より雨降、漸、呑水を取、尙又、廿日、大時化に相成、同夜、俄に波音聞付候間、地方へ着候儀と心付、碇を入候得共、保兼、磯ヘトモを當候間、一同上陸之支度致し、船頭平之丞は、浦賀御番所御切手・海上通手形持參、てんま船を卸し、乘移、一同乘込候處、磯、惡敷[やぶちゃん注:「いそ、あしく」。]、元船、破船、粮米共外、打捨、てんま船も水船に相成、乘組十二人の者共の内、平之丞・龜之助は溺死いたし、殘十人の者共、漸、一命を助り、上陸致し候處、兩人、死骸成[やぶちゃん注:「なり」。]とも見付度[やぶちゃん注:「みつけたく」。]、海邊、種々、相尋候得共、何分、見當[やぶちゃん注:「みあたり」。]兼候内、間もなく、夜明、廿一日も同樣、相尋候得共、見當不ㇾ申、人家も不ㇾ見候間、其夜は無是非、草木有ㇾ之山に相臥、廿二日、山へ登り見候處、遠方に小屋相見候に付、尋參候處、木の葉にて、厚さ三寸位に家根を葺、四壁共、同樣にて圍設[やぶちゃん注:「かこみまうけ」。]、丸竹を敷置候小屋にて、男は丸裸、女は木の皮樣の物を卷、男は手首より指先迄、腰より下、兩足黑節迄、入墨致し、女は、腕より爪先迄、竪筋に入墨致し、男女共、顏へ赤土樣の物を塗り、鬼形のごとく怖敷[やぶちゃん注:「おそろしき」。]姿にて、大勢、駈集、何角[やぶちゃん注:「なにかと」。]、私語・奔走致候處、間もなく役人體の者にも可ㇾ有ㇾ之哉、一人、罷越、差圖致し、食用として、私共へ、芋根樣の物を爲ㇾ給[やぶちゃん注:「たべさせ」。]、一軒に一人宛、引取、被養[やぶちゃん注:底本に『マヽ』傍注有り。]臥候節は、小屋一軒、兼て、請取置、十人一所に臥、夫[やぶちゃん注:「それ」。]、食は前書の品、朝夕、一つ、二つ宛、宛行候に付、當座は給足[やぶちゃん注:「たべたり」。]不ㇾ申候得共、追々、腹中、馴、飢にも及不ㇾ申、衣類も、追々、着破れ候得共、寒暑の差別もなく、凡四ケ年程も右場所に罷在、尤、何事にても不ㇾ仕、扶助而已[やぶちゃん注:「のみ」。]請罷在候内、久米兵衞・久助、相果候間、木の葉にて編候蓙に包、土中に埋置申候。且、言語の儀、一向不相分候得共、ハラヲとか申樣にも相聞候島にて[やぶちゃん注:「ハラヲ」フィリピン東方の「パラオ」か。]、夫より、未年七月中頃にも可ㇾ有ㇾ哉、影以馴・不二見馴一大船罷越、滯船、翌申年[やぶちゃん注:文政八(一八二五)年。]八月始比にも可ㇾ有ㇾ之、右船、出帆の體に付、手眞似等致し相願、右船へ爲ㇾ乘貰ひ、出帆の節、右島、形、海中より及ㇾ見候處、凡、竪二十四、五里程も可ㇾ有ㇾ之島に相見申候。夫より、八日程も西の方へ走り、ノレラン[やぶちゃん注:不詳だが、石川榮吉氏の論文「接触と変容の諸相 江戸時代漂流民によるオセアニア関係史料」(『国立民族学博物館研究報告別冊』(一九八九年二月発行)所収。国立民族学博物館学術情報リポジトリ「みんぱくリポジトリ」のこちらからPDFでダウン・ロード出来る)に本篇の日本人の漂流の方の事実が紹介されており、それによれば、パラオからはナマコ集荷に来た外国船に乗せて貰い、ヴェトナムに行き、マカオに移り、さらに転々とした後、浙江省乍浦(さほ:現在の浙江省嘉興市平湖市乍浦鎮)に至ったとあるので、ヴェトナムのどこかであろう。]と申候處の湊へ着船致、上陸間もなく、唐人體の者、罷越候間、乘組の内より、「日本人」の由、書付遣候處、人家へ引入、大切にいたはり吳申候。右場所の儀、家居の樣子、瓦葺にて、四壁とも、石にて疊上げ、相應の人家有ㇾ之、去酉六月三日、唐船參候間、爲ㇾ乘貰ひ、其節、八人の者へ、丸金四十枚、貰請、夫より出帆、同月十七日、船中にて、伊勢松、病死致し候節、「船には難差置」旨に付、無ㇾ據、海中へ捨、七月十八日、鴈門と申所へ着船いたし、同所、取扱を請。右場所の儀も、家居、瓦葺、四壁、漆食[やぶちゃん注:「しつくひ」。「漆喰」。]にて、又、家も相應に有ㇾ之、同廿九日、竹にて編候かご樣の物に被乘せ[やぶちゃん注:ママ。]、役人、差添、繼送[やぶちゃん注:「つぎおくる」。]。其節も、丸金にて、人々、二枚づゝ貰ひ受、八月七日、福州と申所へ着、同所、取扱を受、古衣類等、貰ひ請罷在。九月十四日、同所出立、同所にても役人、付添、或は陸路を步行[やぶちゃん注:「ありき」。]、或は川船にて下り、道中いたし、十月十五日、乍浦へ着、同所、取扱を受、衣類・羽織等迄も、日本風に致し貰ひ受候儀にて、同所に罷在候内、長崎商船出候間、倉松・淸助・米次・榮助、右四人は、十一月十九日、別船に乘、出帆致し、私共三人は當船へ乘船いたし參候内、洋中にて難風に逢ひ、此度、漂着仕候儀に御座候。尤、丸金貰受候分、彼地にて兩替いたし、追々、遣拂[やぶちゃん注:「つかひはらひ」。]、當時の着用衣類、幷、遣殘り錢等而已、所持罷在候儀に御座候。但、私共三人の内、長吉・鶴松は、女房、有ㇾ之、喜太郞は獨身に御座候。右御糺に付、相違不申上候以上。

 戌正月廿一日       長 吉左大指爪印

              喜太郞右同斷

              鶴 松左同斷

    羽 倉 外 記 樣

    竹 垣 庄 藏 樣

通船人數計開、

船主劉景筠【在留長崎。】   五十四歲 杭州人

[やぶちゃん注:「船主」唐船の荷主に代わって貿易業務の一切を主宰する人物を指す。]

同 揚啓堂        二十七歲 平湖人

財副朱柳橋        四十八歲 同

同 劉聖字        三十一歲 杭州人

[やぶちゃん注:「財副」積荷管理を担当し、船主を補佐する要職。]

顆長洪廷機        五十二歲 侯官人

[やぶちゃん注:「顆長」航海に於ける技術面を担当する現在の航海士の最高責任者。]

總官鄭資淳        四十一歲 長樂人

[やぶちゃん注:「總官」:船主の事務を処理して、船員を統率する事務長相当職。]

舵工郭光柱        四十歲  閩縣人

[やぶちゃん注:操舵の監督・責任者。]

同 傅照使        四十六歲 同安人

目侶曹發生        三十歲  長樂人

[やぶちゃん注:「目侶」(もくりよ(もくりょ))は一般船員。]

  傅分使        三十六歲 同安人

  陳忠信        四十八歲 寧波人

  游來文        三十歲  侯官人

  傅藏使        二十四歲 同安人

  鄭友波        三十六歲 閩縣人

  嚴五枝        四十歲  侯官人

  徐愈使        三十四歲 同安人

  傅忠使        三十五歲 同

  洪文科        三十一歲 同

  玉亭進        四十一歲 閩縣人

  曹用弟        四十二歲 同

  黃國文        三十六歲 侯官人

  傅騰霧        二十九歲 同安人

  呂疊使        四十三歲 同

  曹敍林        二十七歲 平湖人

  洪繼倫        三十五歲 侯官人

  高畑弟        三十九歲 同

  吳志就        三十六歲 同

  慮志揚        三十八歲 侯官人

  洪三捷        三十五歲 同

  林子暇        三十六歲 同

  劉鏡弟        四十四歲 長樂人

  洪仁聲        二十七歲 侯官人

  陳雲漳        四十三歲 閩縣人

  鄭法第        二十四歲 同

  鴆在彩        四十二歲 福州人

  高享泰        四十六歲 侯官人

  林德揚        四十歲  閩縣人

  林文光        三十八歲 長樂人

  林永暢        三十五歲 同

  鄭照鳳        四十歲  同

  鄧朗弟        二十五歲 同

  高煒弟        二十三歲 同

  陳克奕        四十二歲 同

  王家榮        二十八歲 同

  鄭國禎        二十七歲 長樂人

  盧玉琳        四十歲  寧波人

  周有利        三十歲  同安人

  林克新        三十歲  侯官人

  黃杏使        三十八歲 同安人

  强 六        □□歲  同

[やぶちゃん注:年齢はママ。]

  載大椿        三十二歲 平湖人

  張 湧        五十二歲 同

  陳福使        三十三歲 蘇州人

  葉留度        三十五歲 同安人

  揚習奎        四十歲  平湖人

  曹住弟        二十八歲 同

  董老大        二十六歲 長樂人

  王神童        三十六歲 閩縣人

  傅交使        三十歲  同安人

  王湓使        二十三歲 同

[やぶちゃん注:「湓」は「ほん」と読む。]

  周守使        三十四歲 同

  陳九使        三十一歲 同

  李墜使        二十八歲 同

  王溫使        二十一歲 同

  林阿取        三十三歲 同

  謝阿小        三十三歲 同

  姜江鎭        二十三歲 同

  傅祖癊        三十歲  同安人

[やぶちゃん注:「癊」は心臓の病名。或いは「痕跡・傷痕・血痕」の意で人名としてはおかしい。吉川弘文館随筆大成版は「蔭」とする。松浦章氏の論文「江戸時代における漂着唐船に関する一・二の資料――得泰船筆語を中心に――」(一九八〇年三月発行『関西大学東西学術研究所紀要』所収・ネット上でPDFファイルでダウン・ロード可能)の「通航一覧続輯」巻三六所引の「唐船漂着之記」の乗組員名簿を見たところ、「傅祖廕」となっており、これが正しいか。

  許安使        二十二歲 同

  邱君使        三十八歲 鄞縣人

[やぶちゃん注:「鄞」は「ぎん」と読む。]

  陶阿曹        四十七歲 同安人

  陳川使        二十八歲 同

  張純使        二十八歲 同

  陳尙德        三十歲  閩縣人

  陳道筆        三十二歲 龍溪人

  鄭攘使        三十歲  平湖人

  陳家相        四十八歲 同安人

  陳城弟        五十歲  惠安人

  黃振聲        三十七歲 福州人

  張淸興        三十八歲 同

  黃驥弟        三十八歲 同安人

  黃攘使        三十五歲 福州人

  王燕使        三十二歲 長樂人

  陳琳第        三十七歲 同

  鄭義盛        三十五歲 閩縣人

  何素文        四十五歲 同安人

  劉老使        三十六歲 同

  傅意使        二十二歲 長樂人

  博爾使        三十七歲 同

  王井使        三十一歲 福州人

  蘇錫連        四十二歲 同安人

  胡起龍        四十歲  同安人

  張慶元        三十二歲 同

  潘四觀        三十五歲 同

附搭黃國通        三十六歲 平湖人

[やぶちゃん注:船舶による貿易実務の担当者。]

  傅仙使        三十歲  同

  姜倫第        六十歲  同

  杜相第        二十九歲 同

  林奕弟        三十二歲 侯官人

  雛仁文        四十二歲 長樂人

隨便薛長生        三十二歲 同

[やぶちゃん注:「隨便」意味不明。現代中国語では、よい意味ではない。]

  錢 順        三十九歲 侯官人

  張得利        二十九歲 閩縣人

  袁 貴        三十五歲 侯官人

  吳四貴        三十二歲 同

  薛 渭        四十五歲 蘇州人

  張雙福        三十五歲 同

  頎順祥        二十一歲 蘇州人

[やぶちゃん注:「頎」は「き」と読む。]

  鄔 三        四十二歲 同

[やぶちゃん注:「鄔」は「う」と読む。]

  康福生        二十四歲 杭州人

  姜 全        三十一歲 蘇州人

  載言寶【護送通事】  三十一歲

   以上其計一百十六人

 文政八年        船主  劉 景 筠

             同   揚 啓 堂

             財副  朱 柳 橋

             同   劉 聖 字

             總 官 鄭 資 淳

 浦湊、酉十一月廿四日、出帆。

 寧波船【長四十間[やぶちゃん注:七十二・七二メートル。朱印船を一回り小さくしたかなりの大船である。]、巾八間[やぶちゃん注:十四・五四メートル。]。】

 帆檣【長十七丈二尺[やぶちゃん注:五十二・一二メートル。]、𢌞り二丈四尺[やぶちゃん注:七・二七メートル]。】

 船、水際より下、一丈八尺[やぶちゃん注:五・四五メートル。]。水上見上げ迄、二丈八尺[やぶちゃん注:八・二四メートル。]。總、高さ四丈六尺[やぶちゃん注:約十三・九四メートル。]。

 椗[やぶちゃん注:「いかり」。「碇・錨」に同じ。]三挺、長六間[やぶちゃん注:十・九四メートル。]、一挺目方、五百貫目[やぶちゃん注:一・八七五トン。]。

 綱𢌞り、凡、二尺餘。シユロ繩。

正月二日に、四斗樽一つ、船より、陸へ、流來る。右樽の上に、「竹筒内、有書翰。」と、札、付あり。

 米・薪水・玉子・豆腐・鮮魚。

 雛・木・ロハ【「ロハ」は「豆」之誤歟。】・大豆・刀豆、一斗。

 「得泰」船貨數。

 大呢【「呢」は泥。】・㕷吱【「㕷吱」は喎吧。[やぶちゃん注:㕷吱」(「かくし」か)も「喎吧」(「かは」か)も読みも意味も不明。識者の御教授を乞う。先の松浦章氏の同引用の荷物を見ると、「呷吱」「二箱」とあるが、やはりこの熟語でも正体が判らない。]】・藥材・糠・貸材。

 大淸福州寧波、船主、程氏揚啓堂。

百十六人乘。

 外【「外」、當ㇾ作ㇾ「内」。】に三人、日本、大土浦、黑澤屋六之助船、十二人乘、船頭、平之丞。是は奧州南部、宮古之人。

文政三辰年十一月廿六日、房州沖より被吹流、十二人の内、五人、死、七人、殘。

大淸國へ上陸の節、右七人の内、四人は外船へ、三人は此船へ乘。戌正月朔日、遠州住吉へ漂流着。六之助船水主[やぶちゃん注:「かこ」。]の者中[やぶちゃん注:「もののうち」。]、天竺「バラキ」と申島[やぶちゃん注:不詳。インドネシアのバリ島か?]へ、被吹流、「リス」[やぶちゃん注:不詳。イギリスか?]と申國の船、來り、此船を賴み、「メㇾラン」[やぶちゃん注:先の「ノレラン」と同じであろう。]と申國へ參り、同所より、大淸へ送る。

「バラキ」と申島は、芝と蘆の住居にて、蔀[やぶちゃん注:「しとみ」。]、なし。男女とも、丸裸。男は兩手・兩股に入墨あり。女は、なし。但し、バラキえ、巳正月廿日、漂流着。

[やぶちゃん注:以下二段落は底本では全体が一字下げ。]

右、唐船を長崎まで送り遣さるゝとき、林家より、筆談の爲、學問所の諸生二人を、遠州までつかはして、同船せしめらるゝといふ。この諸生等、歸府の後、必、異聞あらん、たづぬべし。

右、唐船紀事二本を、輪池翁の見せられしかば、二本を合して、その誤脫を補寫し卒[やぶちゃん注:「をはんぬ」。]。

  丙戊[やぶちゃん注:文政九](一八二六)年。]春三月廿九日

 

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 消息

 

  消  息

 

山は山の上に重つてゐる

ふかい谷の底では

瀧が流れてゐる

白い人間のむれが峯から峯をあるいてゐる

いちいちそんな愁をかんじてゐる

  *

おれは仙術をまなびたい

  *

見あげても見あげてもいただきの見えない山だ

その山をよぢのぼらうとして

おれの手はふるえた

まだらにゆるる手

 

  *これらは同じ紙片に書かれ、それぞれ獨立したものか、聯關するものかは定かでない。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集の「未發表詩篇」にソリッドに纏めて載っている酷似するものがある。□は筑摩版編者の判読不能字。誤字(「及はぬ」「ふるえた」)・脱字らしきもの(「ねこんで」(「ねころんで」か)・「よぢのぼう」「ふるえた」)はママ。

   ◆

 消息

 

山は山の上に重つてゐる

ふかい谷の底では

ゆめのやうないちにちほそい瀧が流れてゐる

白い人間の足が山の頂上 山のいたゞき峯から峯をあるいてゐる

いちいちそれをんな愁をかんじてゐる。

さびしい

靑い 靑い疊の上に ねこんで 座りこんで、

  *

 □□をみる

虫けらでさへ□きあるものを

おれは仙術をまなんでみたびたい、

 

山の頂は

眼にも及はぬ

見あげも見あげてもいたゞきの見えない山だ、

その山をよぢのぼうとして

おれの手はふるえた

まだらにゆるる手

 

   ◆

削除された「□□をみる」については、編者注があり、この『行は、他の行より少し下げて書かれており、題名かともみられるがはっきりしない。』とある。ともかくも整序して見る。なお、流石に「よぢのぼう」は「ら」を補った。

   ◆

 

 消息

 

山は山の上に重つてゐる

ふかい谷の底では

瀧が流れてゐる

白い人間の足が峯から峯をあるいてゐる

いちいちそんな愁をかんじてゐる。

  *

おれは仙術をまなびたい、

 

山の頂は

見あげも見あげてもいたゞきの見えない山だ、

その山をよぢのぼらうとして

おれの手はふるえた

まだらにゆるる手

 

  ◆

以下の有意な異同がある。

(本篇)「白い人間のむれ」→(筑摩)「白い人間の足が」

(本篇)〈第三連の頭〉✕→(筑摩)「山の頂」

しかし、「むれ」のひらがなを圧縮して書くと「足」と誤判読する可能性がないとは言えない。「山の頂は」次行とのジョイントが悪いから、例えば私ならカットする。されば、これは同一原稿である可能性が高いように思われる。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(ふかい路を下つてゆくと) / 筑摩版全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』に載る草稿を整序したものと酷似する(恐らくは同一)詩篇

 

  

ふかい路を下つてゆくと

たうたうといふ水の音がきこえた

どこかでおほきな瀧が流れてゐる

どこかに夢のやうな神が眠つてゐる

山みちをこえる旅びとは

 

[やぶちゃん注:「」は本底本では判読不能字を示す。筑摩版全集では、まず、前部が強い相似を示す詩篇が「未發表詩篇」に以下のように載る。「みやまりんどう」の表記はママ。「どこかでおほきな橋が流れてゐる」は不審だが、ママ。

   *

 

 ○

 

ふかい山みちを步いてゐる

たうたうといふ水の音がきこえるやうだ

どこかでおほきな橋が流れてゐる

 

高い山みちにはのいたゞきには

みやまりんどうの花が咲いてゐた

 

   *

ところが、後に筑摩版編者によって、『本稿は『月に吠える』の「海水旅館」』(決定稿はこれ。リンク先は私のブログの正規表現版)『の草稿と同一用紙の左上方に書かれている。別稿にもとづき一行目末尾に「と」を補った(本卷四九一頁參照)』(これは筑摩版編者の分をはみ出た不当な捏造であるから、上記の電子化では除去した)。『また三行目の「橋」は草稿では瀧となっている。』とある。そこで、その参照指示のある、同全集同三巻の『草稿詩篇「未發表詩篇」』の方を以下に示す。仮題は『○(ふかい山みちを步いてゐると』で、『(本稿原稿二種二枚)』とあるものである。

   *

 

 ○

 

ふかい 山路を下つてゆくと

たうたうといふ水の音がきこえた

どこかで 夢のやうな建築がある

しぜんに谷の底から

溫泉のどこかでおほきな瀧が流れてゐる

どこかに夢のやうな建築が眠つてゐる

山みちを 建築 たよりない旅びとの心が つかれた旅びとの心に

山みちのくらい竹やぶ のかげから にそふて

山みちをこえる旅びとは眼をあげてみると

まるい山の上にまた山が重なつてゐた、

 

   *

而して、以上の後に、ポイント落ち全体が二字下げで以下の注記がある。

   ◆

*同じ用紙の前半に次の一行及び四行が書かれている。

 

 ながるるごとき風の海濱の砂丘の上に

 

 高い丘を風がながれていゐる

 風はながれるや

  風にふかれてたゝずむ

 草をの花

 

*また同じ用紙裏面には「(ふかい山みちを步いてゐると)」本文と、『月に吠える』の「海水旅館」草稿とが書かれている。

   ◆

とある。しかし、先に掲げた筑摩版の二種の草稿の後者を整序してみると、

   *

 

 ○

 

ふかい山路を下つてゆくと

たうたうといふ水の音がきこえた

どこかでおほきな瀧が流れてゐる

どこかに夢のやうな建築が眠つてゐる

山みちをこえる旅びとは

 

   *

となって、本篇と酷似することが判る。一行目の「ふかい 山路を下つてゆくと」の抹消線が下方の山の最終画に触れていれば、それも削除対象と判読してもおかしくなく、「建築」も、見えない大きな瀧の瀑布音がする、山越えをせねばならぬ奥深い山中に、幻想の「建築」があるとは普通は思わないから、朔太郎のひどい崩し字の「建築」を「建築」とは読めず、それらしい「神*」と誤って読んだとしても、これまた、おかしくない。小学館編者の見たのは、まさしく、この筑摩版に載る後者の原稿であったと私は断言するものである。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(さびしい夢から眼がさめると)

 

  

 

さびしい夢から眼がさめると

わたしはふかい谷の底にねむつてゐた

どうどうといふ瀧の音がきこえる

この人里はなれた山の奧で

いましづかに夢をみてゐたのだ

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。さらに、実は、不審がある。この筑摩版の『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』は以上の通りの転載であることが、既出の「利根川の松林」を巻頭としてあるのだが、その「利根川の松林」の最後には、『利根川の松林」以下』「路次について」(既出)『までの三十二篇は小學館版『萩原朔太郞全集遺稿上』より轉載。』とあるだけで、順序を入れ替えているという記載はないから、筑摩書房版全集『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』の同転載詩篇の順序は親本のそのままと考えるのが普通である。ところが、少なくとも本コンパクト版底本では、本篇の次にある「(無題)(ひとのからだといふものは不思議なものだ)」が、前に置かれているのである。これは何を意味するか? それは唯一つだ。本底本コンパクト版「萩原朔太郎詩集」叢書は、やはり、元版である小學館版『萩原朔太郞全集遺稿上』(昭和一九(一九四四)年十月刊。下巻も同時刊行)からのただの抄出転載ではなく、独自のコンセプトで新編集されたものだということである(本底本「遺珠」は昭和二二(一九四七)年刊)。そこでは私は新たな遺稿(元版「遺稿」では未発見だった詩篇・遺稿・草稿・断片等々)が追加されたと考えるべきで、その過程で、詩篇の原稿用紙の連続性その他から、元版の詩篇の配置順列に変更をすべき事由が見つかったことなどもあったのではないか? でなくて、このような順序変更が生ずるはずがない、と私は思うのである。

2021/11/30

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(ひとのからだといふものは不思議なものだ)

 

  

 

ひとのからだといふものは不思議なものだ

おれはあるとき强いゴムをかむでゐた

いつしよけんめいでゴムをかむでみた

けれどもゴムのしんはかみきれなかつた

ひとのからだはゴムのやうなものだ

病人のからだのしんに

おそろしいゴムの力はねばりついてゐるのだ

ゴムでできてる人たちは

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 利根川の松林

 

  利根川の松林

 

むかしはよくあの松林を步いたものだ

いまでもあの松林へ行つてみると

うすやみの中にきのこが生えてゐたり

道ばたに椎の實のたぐひがおつこちてゐる

いつもゆめみるやうな木立のあたりから白い利根川が流れてゐる。

ところどころの砂の上には

蟻地獄の穴がくぼんでゐる

まがつた小松の列がいちめんに靑くつづいてみえる

わたしはそこいらの石の上に腰をかけて詠嘆をする

わざとらしく詩人ぶつた表情をしてみたりする

むかしはそのへんで小娘たちとあひびきをした

父に叱られて泣きにきたこともあつた

女が戀しさに抱きついた樹木もおぼえてゐる

なにもかも夢のやうだ

いまでも利根川は白くながれてゐるけれども

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。ところが、ここで今回、本底本が原拠としていると考えてよい、その小学館版「萩原朔太郞全集」の「別册 遺稿上卷」に載るものを、このコンパクト版では、新たに校訂して、少なくとも、この詩篇に於いては、歴史的仮名遣の誤りの一部や誤記(或いは誤植)を強制的補正(注記がない点で強制である)している(私が筑摩版の校訂本文を皮肉って言っている謂いでは「消毒」)ことが判明した。筑摩版は同全集からまず、そのまま引き写し乍らも、歴史的仮名遣の誤りや助詞の誤りを、筑摩版全集の絶対校訂規則に則り、〔 〕で誤りを補訂しているからである。それは以下の三箇所である。

・「まがつた小松の列がいちめんに靑くつづいてみへ〔え〕る」

・「女が戀しさた〔に〕抱きついた樹木もおぼへ〔え〕てゐる」(二箇所)

則ち、本底本は、やはり、元版全集を進化させていることは疑いがないことがはっきりした。さらに、私は以前にも述べた通り、筑摩版全集には、この小学館のコンパクト版「萩原朔太郎詩集」叢書が書誌リストに全く載っていないことから、この叢書シリーズをそもそも校合対象としていないのであり、私はこの叢書で初めて(則ち、元版小学館版「萩原朔太郎全集」の刊行以降に小学館コンパクト版「萩原朔太郎詩集」叢書編集者が見出した遺稿・草稿・断片を、伝家の宝刀の如く崇められている筑摩版「萩原朔太郎全集」は、実に、今日只今に至るまで、全くカヴァーせず、校訂どころか参考にさえもせず、幻しのそれらを、平然と放置し続けているという事実を知るに至ったのである。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 編註・(無題)(ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない)

 

    斷  片

 

[やぶちゃん注:パート標題。この裏に以下の編注(底本ではポイント落ち)が記されてある。]

 

編註 ノオト、斷片などに書きつけられた作品のうち、未完成のもの並びに前後の部分等が失はれてしまつたものを、「斷片」としてここに一括した。制作年次をすべて分類することは不可能なので、ここでは比較的新しいと思はれる作風のものを最初に置き、漸次古いものに遡るごとく配列した。

 

[やぶちゃん注:以上が右ページにあり、その見開きの左ページから以下の無題詩篇「(ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない)」が始まる。]

 

  

 

ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない

ああ いかなればこそ、夢にはかくもしたしき愛感の根ざしをもよほすものを

ゆめよりさむることなかれ。

ゆめよりさむることなかれ。

いまはしづかな風景のゆめにゆすられながら

わたしの心はおさな兒のやうにすやすやと眠つて居る

とほい傾斜をくだつてゆく、乳母ぐるまの中に身をよこたへて。

  *この作品は完成してゐたと思はれるが、前半に當る部分が見當らない。

 

[やぶちゃん注:「おさな兒」の表記はママ。筑摩版全集では、酷似するものが、「未發表詩篇」に同じく無題で載る。以下に示す。同前で「おさな兒」の表記はママ。

   *

 

 

 

ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない、

ああ いかなればこそ、夢にはかくもしたしき愛感をもよほすものをの根ざしをもよほすものを、

ゆめよりさむることなかれ、

ゆめよりさむることなかれ。

いまはしづかな風景のゆめにゆすられながら、

わたしの心はおさな兒のやうにすやすやと眠つて居る。

とほい傾斜をくだつてゆく乳母ぐるまの中に身をよこたへて。

              一九一六・七

 

   *

クレジットは大正五年七月で満二十九歳(朔太郎は明治一九(一八八六)年十一月一日生まれ)。この年の十月頃に詩集出版の計画を本格化し始め、早くも書名に「月に吠える」を候補として考えており、上京して、挿絵等について、恩地孝四郎と相談、十一月十六日には北原白秋に詩集序文を依頼、十二月中旬には詩集の編集を終えた。「月に吠える」の刊行は翌大正六年二月(奥付は二月十五日発行。感情詩社と白日社の共同刊行。自費出版)であった。

 筑摩版全集では、以上の後に、編者注があり、そこに『三九七頁の「(わたしは)」參照。』とある。この「(わたしは)」は原稿では誤字で「(したしは)」となっている(筑摩版編者による消毒補正)。以下に示す。総てママで示す。

   *

 

 

 

したしは

ああいつも夢の中なる愛憐をかんするときは、

やせ地の草木にさへふかいあはれをさしぐむやうた、

わたしは素足にじようろをもつてたづさへて

すべての生物つめたい地面の上にそそぎかける、

すべての生物のすべての芽生にそそぎかける、

ああ、いかなればこそ、

ゆめにはかくもやさしき愛憐の根ざしをかんするものを

夢よりさむること勿れ、

夢………

 

   *

而して、後に、編者注が以下の通りに続く(底本では全体が二字下げのポイント落ち)。〈空〉は筑摩版の抹消を指す記号で、〔 〕は筑摩版編者による誤字修正と脱字補填を示す記号である(実際には「向」の右には誤字を示す編者による「・」が傍点されてある)。

   ◆

* 本稿には以下がない。

* 右端欄外に次の二行がある。

 

  とほい空でかみなりがなる

  とほい〈空〉人氣のない傾向〔斜〕の上を乳母〔車〕

 

* 原稿末尾に五字下げて次の二行がある。

 

  夢よりさむることはくるしい

  〈夢よりさむることは〉

   ◆

本篇は削除してあるはずの部分が生きているが、まず、筑摩と同一の原稿と思われる。小学館編者は、削除部分の削除線には気づいていたものの、それを一度は完成された詩篇の後半部の草稿と断片と捉えた結果として、コーダとして復活させたもののように思われる。而して、筑摩版編者がなぜ、「したしは」への参照注を記したかは、小学館編者の注と並べた時、妙にしっくりくる。「(したしは)」という無題詩を、この無題詩「(ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない、)」の前半原型であった採ると、何んとなく、しっくりくる部分があるからである。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 鳥の巢の内部

 

  鳥の巢の内部

 

鳥の巢をうかがへば

巢の中はぼんやりとうすぐらく

鼠いろの卵がひとつばかり

氣味わるく光りて

そのあたりいちめん

病人のかみの毛だらけなり。

ああ、じつに無數の髮の毛なり。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集では、「未發表詩篇」に以下のように載る。

   *

 

  鳥の巢の内部

 

鳥の巢をうかがへば

巢の中はぼんやりとうすぐらく

鼠いろの卵がひとつばかり

氣味わるく光りて

そのあたりいちめん

病人のかみの毛だらけなり。

ああ、じつに無數のかみの毛なり。

              三月十六日

   *

詩篇の後に筑摩版編者による、『本稿は未發表詩篇「梢」と同じ原稿用紙に書かれている。』とある。「梢」は本底本では、同じ「遺稿詩篇」パートの、本篇より十二篇前に配されてある。最終行の「髮」が「かみ」である以外には異同がないので、恐らくは筑摩版と同一原稿であろうと私は推測する。なお、このクレジットは全集の「未發表詩篇」内の配列から見て、大正四(一九二五)年三月十六日である可能性が高い。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 (無題)(山の森の中に住んでゐると) / 筑摩版全集未収録詩篇

 

  

 

山の森の中に住んでゐると

くさつた食物がきらひになる

うまい羊の肉がたべたいね

まつ白い手袋をはめこんで

いちばん上等の夫人たちと

每朝なかよしで散步がしてゐたい

もう少しして日陰の雪がとけだしたら

ほんとにわたしをたづねておくれよみるくの皿にうぐひす菜のさらだをつけますよ

鉋丁なんかぴかぴかさせて

テーブルのすみからすみがきたてるんだ

ああどんなにおれがやつれはててしまつたか

どんなにおれがかわいさうな子供になつたか

おれは每日二階の窓によりかかつて

遠い森のはづれをながめてゐる。

 

[やぶちゃん注:「うぐひす菜」「鶯菜」で、広義にはコマツナ・アブラナ・カブなどの菜の類を総称し、春に十センチメートルほどに伸びたものを「つまみ菜」とするものを指すが、狭義には特にコマツナを指すことが多く、鶯が鳴く頃に出、色も似ているところから、かく、言う。「鉋丁」は「かんな」と当て訓しておく。筑摩版全集の一九八九年刊の増補された補巻の索引にも載らない筑摩版全集未収録詩篇である。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 信仰

 

 信  仰

 

わたしがはりつけになるまへにも、

わたしはくるすをきらんとする、

これはむやみに話すべきことではない

わたしは酒亂であるし

ああ信仰のなにものもない

すべて愛より出づるものは毒草の花よりも危險である

おなごの手にするものはぴすとるの玩具である

わたしは人をしばつたり人を殺したりするまへに

わたしの智慧を殺さねばならぬ

いちにちあなたのまへに淚をながし

信じられないものを信じやうとする

わたし一人のために

わたしの兄弟たちは斷食した

ああ神さま

それがまつたくしんじつであるならば

わたしがはりつけになるまへに

すつぱりとくるすを切つてかくしごとを懺悔してしまひたいのだ。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。筑摩版では酷似する同題詩篇が「未發表詩篇」にある。以下に示す。歴史的仮名遣の誤り「おなご」「信じやう」や、誤字と思しい「ぴすどる」・「あなたのまへの」の「の」・「しんじみ」等は総てママである。太字は同前。

   *

 

 信仰

 

わたしがはりつけになるときまへにも、

わたしはくるすきらんとする、

わたしこれはあなたに→にくらしいむやみに話すべきことであるないが

たゞしそれはわたしは信心酒亂である

そして邪いん淫である

ああ信仰のなにものもない

すべて愛より出づるものは毒藥ばかりである草の花よりも危險である

おなごの手にするものはぴすどるの玩具である

わたしはわたしは人をしばつたり人を殺すまへにもしたりするまへに

わたしの戀人を智慧を殺らせさねばならぬ

わたしはにちにちあなたのまへの淚をながし

にちにち信じられないものを信じやうとする、

にちにちわたし一人のために

わたしの兄弟たちは斷食するした、

ああ神さま

ああ、それがまつたくしんじみであるならば

わたしがはりつけになるまへにも

わたしはつぱりとくるすを切つて、

のこらずのあらゆるかくしごとをいつさいの→この秘密を懺悔をするものだ→するのだ、→したいのだ、してしまひたいのだ。

 

   *

整序すると(意味が採れなくなる誤字の「ぴすどる」・「あなたのまへの」の「の」・「しんじみ」は訂正した)、

   *

 

 信仰

 

わたしがはりつけになるまへにも、

わたしはくるすをきらんとする、

これはむやみに話すべきことでないが

たゞしそれはわたしは酒亂であるし

そして邪淫である

ああ信仰のなにものもない

すべて愛より出づるものは毒草の花よりも危險である

おなごの手にするものはぴすとるの玩具である

わたしは人をしばつたり人をしたりするまへに

わたしの智慧を殺さねばならぬ

にちにちあなたのまへの淚をながし

信じられないものを信じやうとする、

わたし一人のために

わたしの兄弟たちは斷食した、

ああ神さま

それがまつたくしんじつであるならば

わたしがはりつけになるまへにも

さつぱりとくるすを切つて、

あらゆるかくしごとを懺悔してしまひたいのだ。

 

   *

微妙に表現や表記に異同があるが、小学館の編者が筑摩版が採用した原稿と同じものをもとに整序した可能性が高いようにも思われる。別稿というには当たらないものであろう。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 九月の月光

 

  九 月 の 月 光

 

光は白

光は綠

光は伴奏

光は隨圓

光は賭博

光は感傷

光は乳酪

光は立體

光は白

光は綠

 

[やぶちゃん注:「隨圓」は意味不明。以下に示す筑摩版全集所収のそこでは、校訂本文で「楕圓」としている。「楕圓」(楕円形のそれ)は「橢圓」とも書くから、腑に落ちる気はする。その全集では、「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」に以下のように載る。

   *

 

 九月の月光

 

光は白

光は綠

光は伴奏

光は隨圓

光は賭博

光は感傷

光は乳酪

光は立體

光は白

光は綠

 

   *

同一原稿である。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 病氣の探偵 / 筑摩版全集所収の「病氣の探偵」の草稿原稿と同一と推定

 

  病 氣 の 探 偵

 

がらんどうの空家の五階

永遠に閉ぢられた九つの窓

厚ぼつたいかあてんの沈默

このへんに蒸しあつい晚だが

探偵は部屋の隅から

一方の隅へ步いて居る。

部屋のまん中に木製の椅子

電氣仕掛の秘密の椅子だ

だがかわいそうに

私の探偵はなにも知らずに

不幸な瞳(ひとみ)がぢつと見つめて居る。

みつめる床の上に

亞砒酸の光る粉末

鑛物性の哀しい微光……

どうかして靑白い肢體が

エレキじみた哀傷にしびれるときさヘ

探偵はなにも知らないのだ。

その背後(うしろ)の壁に

ぬりこめられた幼兒の毒殺屍體でさヘ。

この遠い祕密の空部屋に

ぢつと自分のたましひをみつめながら

たつた一人でふるえて居るよ

おお氣の毒な病氣の探偵よ

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。「かわいそうに」「ぢつと」はママ。筑摩版全集では、「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」に同題で以下のようにある。歴史的仮名遣の誤り及び誤字らしい「徵光」等はママ。

   *

 

  病氣の探偵

 

がらんどうの空家の五階

永遠に閉ぢられた九つの窓

厚ぼつたいかあてんの沈默

このへんに蒸しあつい晚だが

探偵は部屋の隅から

一方の隅へ步いて居る

部屋のまん中に木製の椅子

電氣仕掛の祕密の椅子だ

だがか愛いそうに

私の探偵はなにも知らずに

不幸な瞳がぢつと見つめて居る

みつめる床の上に

亞砒酸の光る粉末

鑛物性の哀しい徵光……

どうかして靑白い肢體が

エレキじみた哀傷にしびれるときさヘ

探偵はなにも知らないのだ

その背後の壁にぬりこめられた幼兒の毒殺屍體でさヘ

この遠い祕密の空部屋に

ぢつと自分のたましひをみつめながら

たつた一人でふるえて居るよ

おお氣の毒な病氣の探偵

 

   *

本篇には、以上のコーダの四行が存在しない。傍点やルビもなく、表記も微妙に違う。とところが、同全集同巻の後にある『草稿詩篇「習作集第八卷・第卷」』に以下がある。太字は底本では傍点「ヽ」。歴史的仮名遣の誤りや誤字(「空部家」は「空部屋」(からべや)の誤記か)はママ。

   *

 

 毒殺事件病氣の探偵

 

がらんどうの空家(あきや)の五階、

永遠に閉ぢられた九つの窓、

この厚ぼつたいかあてんの沈默、

このへんに蒸あつい晩だが、

探偵は部屋の隅から、

一方の隅へ步いてくる、

部屋のまん中に木製の椅子、

電氣仕掛の木製 殺人の祕密の椅子

だがかわいそうに

不幸な探偵は何も知らないのだ、

不幸な瞳がぢつとみつめて居る、

みつめる床の上に

亜砥酸の光る粉末

鑛物性の哀しい微光……

探偵のどうかして瘠せた肢體が

エレキじみた哀感にしびれるときさヘ

だが探偵はなにも知らないんだ

そのうしろの暗い壁には、塗りこめられた毒殺*幼兒の毒殺死體でをさヘ//女の手、足さへ、*[やぶちゃん注:以上の「*」「//」の記号は私が打った。これで挟んだ二つの詩句は並置残存である。]

靑ざめた 我執

この氣持の惡い

ああこの遠い遠い世界の祕密の靈智空部家のまん中に、にぢつと自分をみつめて居る、

たつた一人でふるへて居る

ぢつと想に

おお氣の毒な私の病氣の探偵よ、

 

   *

細部の異同や並置部などの問題はあるものの、これはほぼ相同に近いと言える。同一原稿と見做してよいように私には思われる。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 センチメンタリズムの黎明 / 筑摩版全集所収の同題の詩の別稿

 

  センチメンタリズムの黎明

 

どんな太陽の前にも怖れない

ちいさい、するどい

おお、私はラジウムを生む。

光の光

靈の靈

勁力の元子

科學の精髓

センチメンタルの實體

あらゆる美しいものの中で

もつとも美しい光輝體

それを、私の母體が生む。

母體は透明な玻璃のやうにいちめんに螢が光つて居る。

螢が光つて居る。

 

[やぶちゃん注:「ちいさい」「元子」(「げんし」であるが、私は、誤字ではなく、物理学上の「原子」を朔太郎なりの宇宙・神霊観(元素認識)で言い換えた確信犯と採っておく)はママ。筑摩書房版全集では、同題の詩篇が「未發表詩篇」に載る。以下に示す。誤字(「合唄」。「合唱」と思われる)や歴史的仮名遣の誤り(多数ある。なお、「そうびいろ」は「さうびろ」(薔薇色)で「さうびいろ」が正しい)は総てママである。

   *

 

 センチメンタリズムの黎明

      (感想)

 

私の母體が合唄するラジウムをうむ

 

どんな大きな太陽の前にも怖れない

ちいさい、するどい

おお、私はラジウムを生む。

光の光

靈の靈

動力の元子

科學の精髓

センチメンタルの實體

あらゆる美しいものゝ中で

もつとも美しい光輝體

それを、私の母體が生む。

母體は

母體は玻璃のやうに透明だ透明な玻璃のやう 螢がいちめんに光つて居る からだ中が螢いちめんに螢が光つて居る、

あまたの 靑白い螢が、靑白く ユウレイのやうに光つて居る。

 ……………………

いまきけ

いま、あけぼのゝ遠い地平線で

幽かな幽かな、赤ん坊(ぼ)の泣聲合唄がきこゑる

 

おゝ見給ヘ

黎明のそうびいろの空に

感傷の純金の母體がうつ映つて居る

それは歡喜と苦痛にふるへながら

第一の奇蹟の扉のまへに合掌して居る

〈私の、〉おお、私のほんとういぢらしい

ほんとうの、センチメンタリズムの姿だ。

       ――八月十六日ノ日記ヨリ――

 

   *

整序すると(「合唄」だけは「合唱」とした)、

   *

 

 センチメンタリズムの黎明

      (感想)

 

私の母體がラジウムをうむ

 

どんな太陽の前にも怖れない

ちいさい、するどい

おお、私はラジウムを生む。

光の光

靈の靈

動力の元子

科學の精髓

センチメンタルの實體

あらゆる美しいものゝ中で

もつとも美しい光輝體

それを、私の母體が生む。

母體は透明な玻璃のやうにいちめんに螢が光つて居る、

螢が、光つて居る。

 ……………………

いま、あけぼのゝ遠い地平線で

幽かな幽かな、赤ん坊(ぼ)の合唱がきこゑる

 

見給ヘ

黎明のそうびいろの空に

純金の母體が映つて居る

それは歡喜と苦痛にふるへながら

第一の奇蹟の扉のまへに合掌して居る

おお、私のいぢらしい

ほんとうの、センチメンタリズムの姿だ。

       ――八月十六日ノ日記ヨリ――

 

   *

となる。本篇との異同は(踊り字は問題にしない)、筑摩版には、

・題の添辞「(感想)」があること。

・冒頭に独立一行の「私の母體がラジウムをうむ」の第一連が存在すること。

・「母體は透明な玻璃のやうにいちめんに螢が光つて居る、」と行末が読点であること。

・「螢が、光つて居る。」の次の「……………………」のリーダ以降のコーダがごっそりと存在しないこと。

・最後に附された月日入りの後書が存在しないこと。

である。以上から、私は本篇は筑摩版が拠った原稿とは異なる別稿と考える。なお、月日は筑摩版全集の「未發表詩篇」の位置からは、大正三(一九一四)年かと推測される。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 手の感傷 / 筑摩版全集の「手の感觸」と同一原稿と推定(但し、順列に有意な異同が認められる)

 

  手 の 感 傷

 

その手はびらうど

その手は絹製(もみ)

その手はふつくりしてあつたかい

その手はこそばゆい愛の感觸

その手にくちびるをおしあてたい

その手はうしろにまわるゆうわくの手

その手をあげられ

その手を磨かれ

その手をもつてわれの指を握り

その手をして聖像たらしめ

女よ。

 

[やぶちゃん注:「びらうど」(歴史的仮名遣でも「びろうど」(「天鵞絨」「ビロード」のこと。絹織物で、経糸(たていと)をパイル状(ループ状にしたもの)にした、比較的、毛足の長いパイル織物の一種。平織股は綾織の二枚の織物を経糸によってパイル糸とともに織り込み、それを二枚に切り分けて製造する。繊維が高密度に揃い、繊維の末端周辺に特有の肌触りを持つ。英語で「ベルベット」(velvet)、ポルトガル語(veludo)・スペイン語(velludo)で「ビロード」)「ゆうわく」(「誘惑」の歴史的仮名遣「いうわく」)はママ。

 さて筑摩書房版全集では、この同題の詩篇はない。しかし、「未發表詩篇」には、内容が酷似する「手の感觸」がある。以下に示す。「まわる」「ゆうわく」はママ。

   *

 

 女の手の感觸

 

その手はびろうど

その手は絹製(もみ)

その手は愛は感觸ふつくりしてあつたかい

その手はこそばゆい愛の感觸

その手はせんちめんたるのうしろにまわる女の子→手ゆうわくの手

その手にくちびるをあて るの手 たいおしあてたい

その手をあげられ

その手〈は〉を磨かれ

その手をもつて握られ→神聖たらしめ この手われの指を握り

その手は女の手

その手をしていんよくの聖餐をひらかしめ像たらしめ

女よ、

 

   *

これを整序すると、

   *

 

 手の感觸

 

その手はびろうど

その手は絹製(もみ)

その手はふつくりしてあつたかい

その手はこそばゆい愛の感觸

その手はうしろにまわるゆうわくの手

その手にくちびるをおしあてたい

その手をあげられ

その手を磨かれ

その手をもつてわれの指を握り

その手をしていんよくの聖像たらしめ

女よ、

 

   *

となり、本篇とは、題名と「その手はうしろにまわるゆうわくの手」「その手にくちびるをおしあてたい」の順列が異なるが、私は同一の原稿を判読したものではないかと考えている。「觸」と「傷」はいい加減に書けば、判読が困難になるし、五行目と六行目は筑摩版全集では激しい推敲が二行ともに行われており、ごちゃごちゃになったそれを小学館の編者がうっかり前後を入れ替えてしまったとしても不思議ではないからである。但し、本当に小学館の編者が誤りで、筑摩書房の編者が正しいかどうかは、原稿を見ない以上は、実は判らない。例えば、私個人は「その手にくちびるをおしあてたい」は本詩篇の中の大きな転回点となる一行である。「は」で並べて整序されるよりも、私は、ここにその強いブレイクが挟み込まれ、そこにまた、徐に「は」の「その手はうしろにまわるゆうわくの手」があって以下が続く方が、内在律は遙かに上下して鼓動を打つように思われるからである。

2021/11/29

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 群盜

 

  群  盜

 

足なき足の步みをきくの日ぐれ

この寂しき市街に住まへる

ぬすびとどもの心は强くかつ正直であつた

あるひは路に居てぱんを喰べ

あるひは路に居て水をのむ

わたくしどもは宿なし犬のたぐひにして

また夕ぐれの窓より細き手をのばして

人の食卓より鴨をぬすむの盜人である

ああ 十一月仲秋の夜

めんめん懺悔ををへ

酒盃をあげて悲しむの鼠盜である。

 

[やぶちゃん注:二箇所の「あるひは」はママ。九行目の「十一月仲秋」は不審な表現だが、これも原文のママである。「鼠盜」は音では「そたう(現代仮名遣:そとう)」であるが、「小さな盗みをする泥棒」の意であり、ここは意訓で「こそどろ」と読みたい。筑摩書房版全集では、「未發表詩篇」に、同題で以下のようにある。二箇所の「あるひは」「おへ」はママ。

   *

 

 群盜

 

足なき足の步みをきくの日ぐれ、

この寂しき市街に住まへる、

ぬすびとどもの心は强くかつ正直であつた、

あるひは路に居てぱんを喰べ、

あるひは路に居て水をのむ、

わたくしどもは宿なし犬のたぐひにして、

また夕ぐれの窓より細き手をのばして、

人の食卓より鴨をぬすむの盜人である。

ああ 十一月仲秋の夜、

めんめん懺悔をおへ、

酒盃をあげて悲しむの鼠盜である。

 

   *

これは、もう、同一原稿である。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 (無題)(狐がきたので) / 筑摩版全集の「未發表詩篇」収録の(無題)(にはとり鳴くと思ひきや)の草稿(複数有り)のそれら総てを纏めて並べたもの

 

[やぶちゃん注:判読不明を示す『*』は底本では一つしか打たれていないが、後注にある通り、六字分に増やした。

 

  

 

狐がきたので

雞が鳴くのだ

雞が鳴くと思つて******とび出せば

木の葉が落ちてるのだ

いまも夜天にしろじろと

懺悔するもののうしろに

みよ

永遠の圓

まつくろの氷山があり

懺悔の姿いぢらしく

 

狐がきたので

雞が鳴くのだ

雞が鳴くのかと思へば

木の葉が落ちてるのだ

ああ冬の夜の空にしろじろ

懺悔者の姿が

おれの姿が光つて居る

 

にはとり鳴くと思ひきや

いま夜天にしろじろと

光る懺悔のわがすがた

われの淚のうすあかり。

 

  *印のところ、六字不明

 

[やぶちゃん注:編注の末に句点がないのはママ。「雞」(音「ケイ」)は「にはとり」と読む。筑摩版全集未収録詩篇として公開したが、調べるうちに、筑摩版全集の「未發表詩篇」に載る無題の「(にはとり鳴くと思ひきや)」という詩篇の草稿と推理出来ることが判明した。まず、「(にはとり鳴くと思ひきや)」を示す。便宜上、これを《◆決定稿》とする。

   *

《◆決定稿》

 

 

にはとり鳴くと思ひきや

いまも夜天にしろしろと

光る懺悔のすがたわがすがた

われの淚のうすあかり

 

   *

而して、『草稿詩篇「未發表詩篇」』にある草稿(仮題して『(にはとり鳴くと思ひきや)』『(本篇原稿三種一枚)』(二種しか載らない)を以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字、及び、抹消のし忘れは、総てママ。便宜上、これらに《◆草稿1》《◆草稿2》《◆草稿3》という名を与える。

   *

 《◆草稿1》

 

狐がきたので

鷄が鳴くのだ

鷄が鳴くと思ひきやくと思つててつぽうもつてとび出せば

柳の葉の木が葉が落ちてるのだ

いまも夜天にしろしろと

 

《◆草稿2》

懺悔するものゝうしろに

みよ

永遠の闇なり

極光なり

まつくろの氷山なりがある

懺悔の姿いぢるしく

 

《◆草稿3》

 

狐が鶏(とり)を追ひかけたきたので

鶏(にはとり)が鳴くのだ

鶏が鳴くのではないのかと思へば

木の葉が落ちてるのだ

狐が鳴くのだ

ああああ冬の夜に いぢらしくの空にくつきりとしろじろと

いまも夜天にしろしろと

の姿がうつつて居のだ

おれの淚が光つて居る

 

   *

さて、次に以上の四篇を纏めて「○」を除き、整序してみる。

   *

《◆決定稿》

にはとり鳴くと思ひきや

いまも夜天にしろしろと

光る懺悔のわがすがた

われの淚のうすあかり

 

《◆草稿1》

狐がきたので

鷄が鳴くのだ

鷄が鳴くと思つててつぽうもつてとび出せば

柳の葉の木が葉が落ちてるのだ

いまも夜天にしろしろと

 

《◆草稿2》

懺悔するものゝうしろに

みよ

永遠の闇る

まつくろの氷山がある

懺悔の姿いぢるしく

 

《◆草稿3》

狐がきたので

鶏(にはとり)が鳴くのだ

鶏が鳴くのかと思へば

木の葉が落ちてるのだ

ああ冬の夜にの空にしろじろと

いまも夜天にしろしろと

悔の姿がうつつて居る

おれの淚が光つて居る

 

   *

ここで、本篇とこれらを比較するに、草稿と決定稿を全部、順に並べたものを以下に示してみる。

   *

《◆草稿1》[やぶちゃん注:頭に「○」を入れた。]

 

  ○

 

狐がきたので

鷄が鳴くのだ

鷄が鳴くと思つててつぽうもつてとび出せば

柳の葉の木が葉が落ちてるのだ

いまも夜天にしろしろと

《◆草稿2》[やぶちゃん注:本篇に合わせて結合させた。]

懺悔するものゝうしろに

みよ

永遠の闇る[やぶちゃん注:「る」は抹消し忘れ。]

まつくろの氷山がある

懺悔の姿いぢるしく

 

《◆草稿3》

狐がきたので

鶏(にはとり)が鳴くのだ

鶏が鳴くのかと思へば

木の葉が落ちてるのだ

ああ冬の夜にの空にしろじろと

懺悔の姿がうつつて居る

おれの淚が光つて居る

 

《◆決定稿》

にはとり鳴くと思ひきや

いまも夜天にしろしろと

光る懺悔のわがすがた

われの淚のうすあかり

 

   *

小学館編者は、恐らく筑摩版が依拠した一連の本詩篇の複数枚の推敲原稿と同じものを対象とし、しかも筑摩版が決定稿とする「家」と称する詩篇を決定稿とはみなさず、全体が一つの詩篇草稿であると判断して、かくソリッドに纏めて載せたのである。これは、恣意的な強制校訂や、独断の決定稿指定などをしている筑摩版全集の態度よりも、遙かに誠実であると私は感じている。]

エレーヌ・グリモー


最近、このフランス人ピアニストのエレーヌ・グリモー(Hélène-Rose-Paule Grimaud 一九六九年生まれ)のバッハの演奏に惹かれている。大学で動物学を専攻し、今はオオカミの生態を研究しながら、その養育を続けており、共感覚(音と色彩) の所有者としても知らている、私には魅力的な人物でもある。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 (無題)(夕日の松に首を縊(つ)る) / 詩集「月に吠える」所収の「天上縊死」の筑摩版全集不掲載の草稿

 

  

 

夕日の松に首を縊(つ)る

懺悔をはれる人ひとり

銀のアルバムを手にさげしが

頸に靑き紐をまきつけ

あはれあはれ

天上の松に首を縊らんと

懺悔おはれる人ひとり

はや瞳はしびれ

眼はめしひ

松にかかれば

身肉たちどころに電光發し

あはれあはれ

夕日さんさんたる梢につられ

この哀しめる

罪びとの手はさげられぬ。

 

[やぶちゃん注:この無題詩としては、筑摩版全集の索引に出ないので、試みに、ネットで「萩原朔太郎 夕日の松に首を」のフレーズで検索を掛けたところ――哀しいというか、嬉しいというか――私の九年前の二〇一三年の投稿記事がトップに出できたのだった。「月に吠える」の「天上縊死」(リンク先は二〇一八年に私がものした同詩集の正規表現版の当該詩篇)草稿群を電子化したものの一つ、「(無題) 萩原朔太郎 (「天上縊死」草稿3)」であった。そこに推敲されたものが示してあり、その抹消部を除去したものも電子化したが、それは本篇と酷似はする。異同は、

本篇七行目「人ひとり」→「ひとひとり」

本篇八行目「はや瞳はしびれ」→「はや肢體はしだれ」

本篇最終行「罪びとの手はさげられぬ。」→「罪びとの手はさげられぬ、」

だけである。しかし、八行目の違いは有意であって、誤判読の可能性もあり得ないから、これは私が仮に『「天上縊死」草稿3)』と呼んだものの失われた別稿と採るべきものであろう。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 あいんざあむ

 

  あいんざあむ

 

じめじめした土壤の中から

ぽつくり土をもちあげて

白い菌のるいが

出る

出る

出る

この出る菌のあたまが

まつくらの林の中で

ほんのり光る。

 

すこしはなれたところから

しつとり濡れた顏が

ぼんやりとみつめて居た。

 

[やぶちゃん注:「るい」はママ(「類」であるから、歴史的仮名遣は「るゐ」が正しい)。「あいんざあむ」はドイツ語の‘einsam’(アインザーム)で、「孤独な・独りの・淋しい」(他に「人里離れた・辺鄙な」の意もある)という形容詞。「菌」は「きのこ」。筑摩書房版全集では、「未發表詩篇」に、同題で以下のようにある。

   *

 

  あいんざあむ

 

じめじめした土壤の中から、

ぽつくり土をもちあげて、

白い菌のるいが、

出る、

出る、

出る、

この出る菌のあたまが、

まつくらの林の中で、

ほんのり光る。

 

すこしはなれたところから、

しつとり濡れた顏が、

ぼんやりとみつめて居た。

 

   *

同一草稿と考えてよい。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 最後の奇蹟

 

  最 後 の 奇 蹟

 

おれは日ましにするどくなつてくる

おれの手はしんちうになり

おれの足はゆきにうづまれ

おれの髮の毛ははがねになり

おれのゆびさきは錐になつてしまつた

 

おれの胴體はふくらみあがつた

かへるをのんだ蛇のやうになり

そこらをのたうちまわつてくるしがる

おれはしんじつおれのただれた母體から

さくらの花をさかせてみせる

おれのくさつたたましひから

らじうむの月を生んでみせる

おれはしなびる

おれはやつれる

ああおれの足音はだんだんと墓場に近づいてくる

みろ、おれは齒くひしめながらきりきりいつしよけんめいで

おそろしい最後の奇蹟を祈つてゐるのだ。

 

[やぶちゃん注:「しんちう」(「眞鍮」)(歴史的仮名遣では「しんちゆう」が正しい)、「うづまれ」「そうして」(二箇所ある)「近いてくる」「齒をくひしめなから」はママ。筑摩書房版全集では、「未發表詩篇」に、同題で以下のようにある。□は筑摩版編者の判読不能字。

   *

 

 最後の奇蹟

 

おれは日ましにするどくなつてくる

おれの乎はゆきしんちうになり

おれの足はゆきにうづまれ

おれの髮の毛はへびはがねになり

おれのゆびさきは錐になつてしまつた

おれは空の胴體はふくらみあがつて

かへるをのんだ蛇 やうだ 如く→にさも似たるのやうになり

おれは おれはそこらのたうちまわつてくるしがる

おれはしんじつ苦しいのだ

らぢうむ 光線しかけておれのくさつたただれた母體から

さくらの花をさかせてみせる

おれのくさつたたましひから

らじうむの 太陽を光らしてみせる月を生んでみせる

おれはしなびる

おれはやつれる

そうして そのなああおれはだ □□□□の足音はだんだんと墓場 墓場に近いてくる

そうしてああみろ、おれは齒をくひしめなから

きりきりいつしよけんめいで

しつかりと 靑白いおそろしい最後の奇蹟を祈つてゐるのだ。

 

   *

本篇と異同はあるが、以上の筑摩版のそれをみるに、烈しい推敲跡があり、この草稿は、かなり判読が難しいものであることが窺えるから、私は本篇と筑摩版のそれは、同一のものと考えてよいか、或いは、朔太郎が決定草稿として以上を書き直したものの孰れかであると考えてよいと思われる。因みに、筑摩版では、上記草稿の後に、編者注記があり、『本稿は未發表詩篇の「(きみがやへばのうすなさけ)」と同じ用紙に書かれている。』とあるのであるが、こういう注記が読者に対して甚だ不親切の極みなのであって、これは『草稿詩篇「拾遺詩篇」』にある、勝手に仮題した『敍情小曲』『(本稿原稿一種一枚)』にあるものを指す。但し、ここに示すべき必要はない。読みたい方のために言っておくと、第三巻の447ページにある。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 梢

 

  

 

病人の靑い帽子の下から

かみの毛ぼうぼうと生え

月てつぺんに冴え

雀その毛にて巢をかけ。

 

[やぶちゃん注:筑摩書房版全集では、「未發表詩篇」に、同題で以下のようにある。

   *

 

 梢

 

病人の靑い帽子の下から

かみの毛ぼうぼうと生え

月てんぺんに冴え

雀その毛にて巢をかけ。

 

  * 別稿の題名に「春夜」とある。

 

   *

「てつぺん」よりも「てんぺん」(「天邊」か)の方がいい。「ん」を「つ」と誤判読することは、腑に落ちる。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 月光の夜に見たる家屋の印象

 

  月光の夜に見たる家屋の印象

 

内部に病人がある

そのはあるみにうむ製

窓は*らず三角形

うすでの雪がふり

さくらぎ靑き花つけ

いたいたしいがらすかけにて床はいちめん

貸間の二階に金屬の椅子があり

家根の上に黑い猫がねむつて居る。

 

[やぶちゃん注:「*」は編者注がないが、判読不能字であろう。筑摩書房版全集では「未發表詩篇」に、同題の草稿が載る。以下に示す。表記不全(不審な「決」、「古るき」、「からす」、「からんど」)は総てママ。

   *

 

 月夜に見たる光の夜に見たる家屋の印象

 

内部に病人がある

その家の壁はあるみにうむでつくられ

窓にさくらの花がさき

窗は決らず三角形

戶にもうすでの雪がふり

さくらぎ靑き花つけ

その 二階に古るき額あり

疾患

いたいたしいからすかけにて床はいちめん

からんど貸間の二階に一脚の金屬の椅子があり

家根の上に黑い猫がねむつて居る

 

   *

筑摩書房版全集校訂本文では「決らず」を「必らず」とする。本篇の「*」であり、確かにこの処理は、意味上はしっくりと肯ずることが出来る。抹消部の後ろから二行目の「からんど」は「か」に濁点を忘れたもので、「がらんどう」に同じ(その縮約表現として「がらんど」は辞書に載る)。

 本篇は、四行目「うすでの雪がふり」の頭の欠損が気になるが、二行目の「*」が「決」ならば、敢えて判読不能としたことが納得できることと、四行目は、或いは「戶と」が判読し難く、或いは上の削除線が下まで伸びているように錯覚されたものと考えると、同一原稿である可能性が高いと考えられる。]

父の発掘した縄文(推定)の石器を贈与しに行く

本朝、これより、父が五十六年前に今の住んでいる所からほど近い、横浜市内で発掘した石器を、横浜市歴史博物館に贈与するため、大船駅で落ち合って引き渡しに行く。朝の散歩がてら――

2021/11/28

ブログ・アクセス1,630,000突破記念 梅崎春生 狸の夢

 

[やぶちゃん注:本篇は学研が発行していた高校生向け雑誌である昭和三三(一九五八)年一月号『高校コース』に発表された。梅崎春生の作品としては、かなり珍しい青少年向けの、ありがちな学園を舞台とした推理物風(梅崎春生は推理物が実は好きなのである)の短編である。しかも新年号である。春生の作品としては、ロケーション設定の特異性や、表現や言及対象に、読者対象をかなり意識して、彼なりの気をつかっている感じがよく伝わってきて、読んでいて、そういう気遣いが、かなり面白い。

 文中にオリジナルに注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日、先ほど、1,630,000アクセスを突破した記念として公開する。【20211128日 藪野直史】]

 

   狸 の 夢

 

 秋葉次郎は近頃よく狸(たぬき)の夢をみます。夢のなかで狸はいつも人間の姿に化(ば)けているのです。いいえ、厳密な意味では、人間が突如(とつじょ)狸に変ってしまうというべきでしょう。

 狸が人間に化けているといおうが、人間がふと狸に変ったといおうが、同じ現象みたいに思われますが、内容的にはかならずしも同じであるとはいえません。

 冬休みにはいってからも、秋葉は二度ばかりこれを経験しています。暮れのうちにみた最初の夢は、ビキニスタイルの美女たちにとりまかれて、ターザンのような男が気どっている図柄でした。総天然色の、華(はな)やいだ光景です。これに反して二度目の夢は――事もあろうに、これが今年の初夢になりましたが――墨染めの破れ衣をまとい、とぼとぼと枯れ野をたどる雲水(うんすい)の旅姿ときています。こちらは淡いセピアのモノトーン・カラーで、孤独や暗黒の押しつけがましい象徴のようでした。

[やぶちゃん注:「ターザン」(Tarzan )はアメリカの小説家エドガー・ライス・バローズ(Edgar Rice Burroughs 一八七五年~一九五〇年)が創造した冒険小説の架空キャラクターの野生児の名。小説ターザン・シリーズ及び映画化作品の主人公としてよく知られるが、本篇発表時少し前までは、元水泳の金メダリスト(一九二八年のアムステルダム・オリンピックに於いて百メートル自由形・自由形リレーの二つで獲得)で俳優に転身したジョニー・ワイズミュラー(Johnny Weissmuller 一九〇四年~一九八四年:オーストリア・ハンガリー帝国出身でアメリカ合衆国で活躍した)が演じた映画が大ヒットしていた。私(昭和三二(一九五七)年生まれ)の幼少時の記憶でも、現在の想起に於いても、ターザンは彼以外には浮かばないほどである。]

 色のついた夢はめったにみません。でも、色つきの夢をみるのは精神病者だ、と以前聞いたおぼえがあるので、ちょっと心配になった秋葉は精神分析の入門書を調べてみたのですが、最近の学説では、かならずしもそうとはかぎらないというのです。

 それにしても、こうやたらに狸の夢ばかりみるようでは、健全な状態とはいえないでしょう。二学年の三分の二が終ったとはいえ、じつはまだ大学入試ノイローゼにかかるほど、受験勉強に精出してはいないのです。

 夢の登場人物については、主役一人だけのこともあれば、その他大勢が出て賑わうこともありますが、夢の舞台に立つ主人公は最後にきまって尻尾(しっぽ)を出します。それを待ちかねて秋葉は夢の外から、つまり画面にあらわれない観客席のかぶりつきのようなところから、やにわに両手をのばし、ふさふさした見事な尻尾をぎゅうっとつかまえると、相手は突然狸の姿に変ってしまいます。その拍子(ひょうし)に目がさめて、たいていすがすがしい気分を味わうという段取りなのです。

 気がついてみると、よじれた毛布や電気スタンドの柱などを握っていたり、あるいはまた、枕もとにおいてある肌着や英語の辞書をまるめて、汗ばんだ両手でしっかりつかまえているのでした。いつも爽快な目覚めを迎えるとはかぎりません。自分の脚(あし)に、それもくるぶしのあたりに、ここを先途(せんど)としがみついていたときは、味けないものでした。寝相のぐあいでベッドの脚をつかまえそこねて、転げ落ちたときのほうがむしろ後味はよかったのです。行為の目的をはなれて、人間は方法や派生的な結果で、のべつ心を痛めるようにできているのですから仕方がありません。

 おかしな夢をみる直接の原因はわかっています。中学二年生の妹にせがまれるまま、近所のくたびれた映画館にお伴をして、『狸の歌合戦』とかいう歯の浮くような国産ミュージカルをみたのがいけなかったのです。しかしこの映画見物は、精神分析医にいわせれば、それと気づかず胸の奥に眠っていたものを、夢のなかで映像化するのに一役買っただけなのでしょう。いいえ、秋葉はうすうす気づいていたのでした。真の原因は他にあったのです。だから、秋葉次郎はめざめたあとで、「いつかは春海鯛介(はるみたいすけ)もきっと尻尾をだす。尻尾のない狸なんて……いや、尻尾をださない人間なんてあるものか」と考えて、すっとんきょうな狸の顔を、表情の乏しい春海の顔とすげかえてみるのでした。

[やぶちゃん注:「狸の歌合戦」これは「歌まつり満月狸合戦」(うたまつりまんげつたぬきがっせん)であろう。昭和三〇(一九五五)年五月に公開されたモノクロのスタンダードで九十三分。脚本は中田竜雄、監督は斎藤寅次郎、音楽は原六郎。「新藝術プロダクション」製作で、新東宝配給。主演の美空ひばり(「お春」・「お菊」の姉妹二役)と、助演の雪村いづみ(「お雪」役)が初めて顔を合せたほか、トニー谷・堺駿二(堺正章の実父)・山茶花究(さざんか きゅう)といった当代の名コメディアンが出演している。サイト「MOVIE WALKER」の同作の「ストーリー」によれば、『讃岐の狸国夕月城主高康公』(藤間林太郎演。藤田まことの実父)は、日本の大正時代から昭和時代にかけての俳優。無声映画時代のスターの一人。本名は、原田林太郎(はらだりんたろう)。藤田まことの父。)『は老年で退く事になったが、十余年前、正室の姫君が何者かに拐』(かどわ)『かされたので、愛妾お浅の方が生んだ幼君以外に子供がない。お浅の方と密通の家老穴倉』(山茶花究演)『に実権を渡さないため、忠臣蝶七郎に姫の探索を命じた。彼は姫が持っている筈の「鼓の模様入りの守り袋」を手がかりに探すうち、人さらいが芸人一座に売った娘が姫らしいと聞き、阿波の国へ行く。そこの鼓の森の休み茶屋夢廼家にはお峯とお春の娘がいた。お春は主人甚兵衛が芸人一座から金の代りに受けとった娘で、甚兵衛に酷使されていた。蝶七郎は彼女が姫だと思うが、穴倉の配下黒左衛門の一隊も姫の命を狙っていた。お春は水の精から狸の化け方虎の巻を与えられ、その力で魔術師風天斎』(トニー谷演)『とドブ六』(堺駿二演)『に捕えられていた九州狸お雪を助けた。お雪は夕月城下青山針磨』(若山富三郎演)『の屋敷に働く姉お菊とお春が瓜二つなのに驚く。風天斎とドブ六が青山家の家宝の皿を盗んでお菊に罪をかぶせ、そのため彼女は井戸に投身自殺した。皿はお菊に惚れていた河童の五六兵衛のもとに隠された。かくして狸と河童の間に善悪入り乱れての大合戦となり、ついに正は勝利をしめ、お春は夕月城の家督をついだ。』とある。]

 あの小狡[やぶちゃん注:「こずる」。]そうな狸の顔と、ひどく無愛想な、厳しくキリッとした、そのくせどこか憂いをたたえた春海鯛介の顔とのあいだに、なにひとつ共通点はないのです。容貌や表情をあげつらっているのではありません。肝腎なのは、狸が春海に化けたかどうかではなく、春海が狸に……いいえ、つまりですな、問題は狸ではなくて尻尾のほうなのです。

 春海鯛介は転校生です。夫年の九月、東北の地方都市から東京郊外のH高校に転校してきました。秋葉がクラス委員をつとめている二年C組に編入されて、まだほんの四月ほどにしかなりません。担任の風間先生の話では、なんでも春海はお父さんが亡くなったので、上京して伯父さんの世話になっているとのことでした。

 春海は無愛想な男でした。無口でとっつきにくいのです。新しい仲間になじめないのかと思い、秋葉はクラス委員という肩書きの手前、つとめて気をくばり話しかけてみるのですが、春海はいっこうにのってきません。誰が話しかけても、動きののろい目もと口もとに心もち笑いをうかべ、ひととおり必要な受け答えはするのです。その代り誰も声をかけたければ、一日中でも、いいえ、二年が三年でも黙りこくっているでしょう。そんな感じの男でした。

「もう、だいぶなれたろうな。二週間になるかな」

 秋葉がそう話しかけると、春海は口をむすんだまま、ちょっとはにかむような笑いをうかべ、

「……まあね」

 十五秒ほど間をおいて答えます。

 二年の四クラスのうちでは、C組が一番おとなしいのでした。二学年全体が一年、三年に比べて、おとなしいのです。そもそも学校自体がもとの府立中学で、中流サラリーマンの子弟が多いせいか、おっとり構えた恰好なのです。わるくいえば趣味的で、これといった特徴はなく、自治会活動も低調ですから、秋葉のクラス委員としての仕事は単調なものでした。

 いってみれば二年C組は羊の群れを集めたようなクラスです。もっとも冬岡忠治という番長気どりの男と、数人の取り巻きがいて、異端者ぶりを発揮していますが、それも多少血の気が多いだけのことで、C組のなまぬるい空気が余計反撥させるのかもしれません。

「文化部でも運動部でも、なにかクラブにはいってやってみるかい。文化部はかなり盛んだけれど、鼻につくよ。運動部はどこもパッとしないから、経験があれば、レギュラーになれるぜ。前の学校では、なにをやってたの」

 秋葉がそう言うと、春海はまた何秒か時をおいて、

「……べつに……」

 と返事は短いのです。

「どこでも一通りやってみていいんだぜ。ひとりで行きにくいなら、話をつけてやるよ。ひやかしのつもりで、あちこちのぞいてみるといいね」

「……ありがとう」

 うなずいて春海はゆっくり答えます。

 伏し目がちに、そうです、春海鯛介はいつも半分瞼をとじていますが、ときどき目をあげて無作法なほど見つめるのです。べつに不快をおぼえないのは、目の運びに節度があって迷いがないせいでしょう。不快どころか、目の動きだけについていえば、チラチラと揺れることのない澄んだ強い光が、あとあとまで心に残るのでした。しかし、こんなでは、不快感は与えないにせよ、とてもクラスメートに好感はもたれません。

「精薄児でなけりゃ、ニヒリストの目つきだよ。イヤーな感じ」

「どうも、ズレてるね。鈍いことはたしかだな」

「オツムは弱くもなさそうだけど、つきあえないね。申しわけない。こちとらは、ツーてばカーとこなくちゃ」

 こんな陰口が秋葉の耳にはいります。クラスメートの三分の一は女生徒ですが、こちらの評判もまあ似たようなものでした。

「ブッてるわね。イカスつもりかしら」

「田舎者コンプレックスよ。ご誠実だわ」

「素朴でいいじゃない。そっとしといてあげなさいよ。気の毒に」

 春海は同情され、半(なか)ば無視されてしまいました。秋葉ものれんに腕押しみたいで、いい加減拍子ぬけがしてサジを投げた恰好です。

 こうして春海鯛介はふた月あまりもごく目立たない存在でした。その評価ががらりと一変したのは、十一月初めに教室内で起った盗難事件以来のことです。

 

 いまでも秋葉はその事件に疑問をもっています。一応解決はしたのですが、どうも釈然(しゃくぜん)としません。事の真相が判らないのです。

 この冬休みにスキーにいくのを諦めて家にいるのも、受験勉強というのは体(てい)のいい口実で、じつは春海に会って事実を聞きだそうという下心からでした。これまでのところ三遍会って探りを入れてみたのですが、成功しません。とどのつまり狸の夢をみるのが落ちです。収穫は皆無でした。

 事件の二、三日前に模擬試験の成績発表がありました。H高校では、進学志望率がわりと高いため、受験指導にはかなり力こぶを入れ、二年生の進学志望者は年四回、学年別の模擬テストを受けることになっています。

 受験者はだいたい百五十人くらいで、そのうち五十番までの成績表が廊下に貼りだされるのです。秋葉次郎の過去二回の総合成績は、十二番と八番でした。Z工大志望者としては、十番前後なら、まあまあの成績です。安心もできないが、そう心配するにも及ばない。そんな相場でした。

 春海鯛介が最初に人目をひいたのは、十月中旬に行われた第三回テストの成績が、月末に発表されたときといえましょう。

 秋葉は前回よりも二番さがって、ちょうど十番でした。そして秋葉のもとの位置、八番には春海鯛介の名がみえます。

 しかし級友のあいだに格別反応はありませんでした。

「成績が人間のすべてじゃないからな」

 成績の悪いものはそう考えます。C組には十番以内が春海のほかに四人もいるのですから、こんなことでいちいちおどろいてはいられません。春海については、精薄児という見方が妥当でないことは判りましたが、そのほかの評価が改められた様子はないのです。してみると、春海の好成績はむしろ、手ごたえのない反感に恰好をつけたきらいがあります。

 盗難事件が起ったのはそんな時期でした。

 十一月二十日の昼休みのことです。秋葉は夏川ユリに廊下に呼びだされました。

「お金がなくなったの。どうしよう」

 ユリは小声でそう言いました。

 机のなかに入れておいた財布の位置が、いま見ると変っている。中身を調べたら、五千円札が消えていたというのです。

「思い違いじゃないのかい。例えば……」

「けさ机にしまうとき、あらためたのよ」

「厄介なことになったぞ。きみ、いつもそんな金を持ちあるくの」

「あしたお休みでしょ。朝、出がけにパパにねだって、まきあげてきたのよ」

 ユリの父親は一流会社の重役だそうです。父は会社の車が使えるので、自家用車のほうは母とユリがかわるがわる乗りまわすという結構な身分でした。

 夏川ユリはC組の人気者です。ちょっとした女王格で、庭球部では花形選手の一人でした。同性にも異性にも受けがいいのは、美人で才気煥発(かんぱつ)で金持なのに、へんに気どらないせいでしょう。しかしあいにくなもので、美貌が逆にわざわいして、気さくにふるまえばふるまうほど、異和感がつきまとうふうなのです。やはり美人はうぬぼれ、才女は小才を見せびらかし、金持はお高くとまるのが、気楽なようです。

「クラスに泥棒がいるなんて思いたくないが、仕方がない。早速みんなを集めよう。夏川くん、これはぼくの考えだが、一応クラス内だけの問題として扱いたいのだけれど。どうしても解決がつかなければ、そのときは風間先生に相談することにして……」

 秋葉がそう提案すると、

「あくまでクラス内の間題にしてほしいわ。内輪のことですもの。お金は、出なければ出ないでいいのよ。間題を外部に持ちだすようなら、盗られたのは嘘だって言うわ」

 夏川ユリは美しい眉をかげらせて答えました。

 ほかのクラスには知られないように非常呼集がかけられ、校内に散らばっているクラスメートが教室に集ったところで、秋葉は事情を説明しました。すぐさま議長を選んで善後策の討議にはいったのですが、議論百出して容易に対策のメドがつきません。

「犯人は外部の人間かもしれないのになぜ、内部の問題にするのか」

 まずこんな意見が出て、しばらくもめました。

「かりに、かりにだ、このなかに犯人がいた場合、罪人にしたいか。問題を外に持ちだせば、いやおうなく罪の烙印を押されるだろう。泥棒にも三分の理窟、わけもなく罪を犯すものはいない。しいて罪を追究せず、金が戻らぬ場合は、一人百円ずつ持ち寄ればすむではないか、クラス内の問題とすべし」

「反対。校内の問題なら、法的な罪人とはならない。動機いかんにかかわらず、罪は罪だ。罪はまぬがれても、人間、犯した罪は償わなければならない。それが本人のためでもある。もし外部からの犯行なら無実の級友同士が疑い合って、厭な思いをすることはないだろう。学校の間題とせよ」

 ともに一理ある意見です。その罪を憎み、その人を憎まず、救済を願う友情の美しさ。深遠な思想も織り込まれて、なかなか有益ですが、秋葉はどちらもちょっと大げさすぎるような気がしました。第一、これは討論会ではないのです。

 結局、「暫定的にクラス内の問題とする」という秋葉次郎の意見が通って、方法論に移りました。

「不愉快な仮定を忍んでもらいます。紛失した金がこの室内にある、と仮定します。発見方法についてご意見を求めます」

 議長も苦しそうだな、と秋葉は同情しました。

「議論の余地はない。所持品検査と身休検査をするまでだ」

「室内にあるとは限らないから、手分けをして校内くまなく捜す必要がある」

 いくら不愉快な仮定を忍ぶにしても、魂の救済について激論した同じ口から、刑事の手口が提案されるとは意外でした。これにも反対の火の手があがります。

「人権無視の暴挙だ。所特品検査だなんて、許せない」と叫んだ男は、人に知られたくない恋人の写真でも持っているのでしょうか。一方、身休検査は女生徒側からのいっせい反対にあいました。

「たとえ同性でも、おのれの意志に反して、からだにふれられるのは絶対いやよ」

 そう言われてみると、判るような気がするので、男性側も無理じいはできません。といって、身休検査ぬきの所持品検査は無意味です。

 こうなれば、捜査の方法は自然、限られてくるので、誰でも思いつきます。

 「消去法だ。アリバイを調べてみよう」

 こんな簡単なことに気がつかなかったのは、本質論に心をうばわれていたからでしょう。

 この日の課業をみると、物理実験と体操がつづき、教室がからになるのはこの二課目の授業中だけです。人目があるのに他人の机はあけられません。実験室への行き帰り、運動場への行き帰り。犯人がクラス内にいるなら、この四回の機会にしぼられてきます。最後に教室を出るか、最初に教室へはいるか。こんなときには、たいてい誰かと連れ立って、もしくは前後して出はいりをするものです。

 偶然一人になることもあるので、この方法は完全とはいえませんが、犯人捜しが狙いではなく、ほしいのは全員無罪の証明です。

「では一人でもアリバイのあいまいな人が出た場合は、この方法はいさぎよく撤回することにして……」

 議長がそういいだしたとき、秋葉は何人かの目が春海のほうに注がれているのに気づきました。単独行動といえば、誰しもまず春海鯛介のことが頭にうかぶのです。

「議長、反対」

 と、秋葉は思わず叫んで手をあげていました。

 

「たとえ撤回しても、一度かけられた疑いは消えない」

 と秋葉は立って述べます。

「人けのない教室のなかに、ただ一人ぼんやり居残った経験、教室に戻って気がつくと空家同然で、自分の存在があやふやになる経験、こんな経験は誰にもある。ここでは、疑ワシキハコレヲ罰セズ、では足りない。疑ワシキハコレヲ疑ワズ、といきたいのです。要するに、全員がシロであることを証明できれば、これに越したことはないのですが、功をあせって思わぬ犠牲者を出しては困る。その意味で只今のアリバイ捜査は、不完全かつ不適当な方法だと考えます」

 秋葉は午後の始業時間が迫っているので、気が気でないのです。国会のように、審議未了につき放課後まで休会、とずるずる順延できればいいが、突然のことですから、放課後まで持ち越すと、課外授業やクラブ活動、その他もろもろの予定をもつ人々に、迷惑が及びます。いまでさえ、ドアをあけてのぞきこみ、「なんだ、秘密会議か」と、からかって立ち去るほかのクラスの生徒たちが、うさんくさげに好奇のまなざしを投げていくのですから、もう一度くりかえせば、対策の立たぬうちに事が外部に洩(も)れかねません。そうなると余計面倒です。どうしても昼休みのうちに目鼻をつけておきたいのでした。

「最初にお断りしたように、被害者の夏川ユリも、あくまで内輪の問題として、とくに捜査方法については充分慎重に……」

 秋葉がそう言いだしたとき、

「金の保管も慎重に」

 と半畳を入れた者があります。はじめて笑い声が起りました。

「その点、夏川ユリはくれぐれも無用の疑惑を生ぜしめないよう……」

 つづいて秋葉がそう言いかけると、「生ぜしめた。もうおそい」とそこでまた野次がとびました。

 その通りです。哲学者や宗教家のような口ぶりで論じあっているうちに、一同の頭上には早くも疑惑の雲がたれこめていたのでした。

 考えると馬鹿らしい。万一、これがクラス内部の犯行だとしても、夏川ユリは別にして、四十八人のうち四十七人までが潔白です。かりに一人二人、共犯者のおまけがついても、四十五、六人は無関係で、とんでもないとばっちりを食ったわけです。もしかすると四十八人の全員が潔白なのですが、困るのは、四十八人の誰もが「わたしはやらなかった」とは言えても、「きみはやらなかった」と言いきれないことでした。それに第一、こう議論が長びくばかりで、方策も立たないときては、夏川ユリの名前がでたとき、「盗まれたのが悪い」という非難もこめて、うっぷんばらしの野次がとぶのも当然でしょう。

 まもなく始業のベルが鳴るころです。

「こうしようじゃないか」

 と、秋葉はくだけたことばで言いました。

「今日はこれで打ち切りにする。もしこの中に、金を……つまり、だまって借りた人がいたら、あした登校してから……」

「あしたは文化の日」

「そうか。そんならあさってだ。教室で返してもらうことにする。元金の五千円だけでいい。利息は要りません」

 秋葉は時間に追われて、思いつきをしゃべるうちに、ふと冗談が口に出て、笑い声を聞いたとたんに、うまい手を思いつきました。

「自白と同じじゃないか。そんならいま返してもらえばいい」

 と誰かが言いました。

 そうもいかないので、口々に返済方法をもちだして、どうやら秋葉の思う壺です。いろいろと名案珍案がでて、なかでは教室のどこかに落しておく方法が最も有力でしたが、全員手ぬぐいで目かくしをしてから、室内の壁に沿って手探りで三回以上ぐるぐる歩きまわるという形式が嫌われ、結局秋葉のもちだした方法を採用することになったのです。

 それはこうです。全員が封筒を用意する。ごく普通の細長い封筒で、色は白。これを手に握れるように四つ折りにして、投票の要領で箱のなかに入れるのです。昼休みのそのときまで封筒は身につけて持ち、決して他人に見せないこと。型や色の違った封筒は厳禁。デパートの紙袋やピンクの封筒などは沙汰の限りです。封筒にインクや爪でしるしをつけないこと。要するに、金が戻った場合、自分だけの潔白を証明しようとしないこと。公平を期すためには、こんな条件も必要なのでした。

 犯人は金を封筒に入れるだけで、罪をつぐなうことができるのです。

「返す気がなければそれまでだな」

 そう言いだした男はみんなの嘲笑を買いました。

「なんのために討議したのだ。そんなことをいうと、おまえが盗んだと思われるぞ」

「封筒から金が出なければ、全員シロさ。万一出てきたら、水に流しておしまいだ」

「これだけお膳立てをととのえたら、誰だって返すわね。どっちにしても、あさってのお昼までに片づくじゃない」

 ともかく一応の対策ができたところで、うまいぐあいに始業ベルが鳴ったのです。[やぶちゃん注:以下、改ページで行空けはないが、改行をそれに転用した可能性があるので、一行空けた。]

 

 なか一日おいて四日の昼、予定通り四十八枚の封筒が箱のなかにおさまりました。被害者の夏川ユリは、クラス委員の秋葉と議長をつとめた男の両名立ち会いのもとに、一枚一枚封筒を調べていきます。お祭り気分の空気がひきしまって、静かな室内にペーパーナイフで封筒を切りひらく音だけが聞えてきます。

 四十八枚目の封筒をひらく音がひときわ高くひびきました。

「開封の結果をご報告します。紙幣は発見できません」と議長がいいました。

 溜息が洩れ、どこからともなく拍手が起ってしばらく鳴りやみません。紙吹雪をとばしたいたずら者もいます。感動的な瞬間でした。

「よって本法廷は」

 と議長がきまじめな顔でいいだしました。

「ここに次の通り判決をくだす。判決……全員無罪」

「ありがとう、みなさん」

 と夏川ユリがつづいて発言します。

「お騒がせしてごめんなさい。じつはあたし、お詫びしなければなりません。お金をとられたというのは嘘でした。この問題は今日かぎりで忘れてください」

 もう一度拍手が起りました。これでなにもかも元の白紙に返ったのです。

 しかし緊張がとけると、なにかしらじらしい感じがただよいはじめました。時がたつにつれて、室内の空気が重苦しく濁っていくようなのです。「チェッ、つまんねえの」といったのは、紙吹雪を投げた男。ご苦労千万にも紙吹雪を用意しながら、一方で五千円札がでる場面を期待していたのでしょう。そういえば、「返す気がなければそれまでだな」といったのも、この男でした。

「このままでいいのか。夏川くんはああいうけどさ。いまや全員の問題だものな」

「罪を追究せず百円持ち寄れといったのは、きみだぜ。だからおれは最初から学校の問題にしろといったのだ」

「しかしクラスの恥をさらすことはない」

「盗難にあうのが恥か」

「迷宮入りになればね。C組の全員シロを、ほかの連中が信じてくれると思うのか」

 秋葉は級友たちの会話を耳にして「勝手なものだ」と思いながら、彼らを笑えませんでした。夏川ユリには諦(あきら)めてもらえばいい。彼女の五千円は、官庁づとめの父をもつ秋葉の百円王ひとつにも当るまい。だがもし、クラスの内外にかかわらず盗難が再発したら、責任を間われるだろう。「封筒に金がはいっていればよかったのに」秋葉自身、そんなことを考えていたのです。いくつかの視線がまたチラチラと春海にそそがれているのを見ても、秋葉はなぜか今度は気になりませんでした。

 そんなときです、春海鯛介が立ち上ったのは。汚ないものでもつまむように、二本の指で胸先にささえた紙幣を、じっと伏し目に見つめたまま、春海はやっと口をひらきました。

「……封筒に……入れたつもりで……」

 

 これが盗難事件のあらましです。

 春海はことばすくなに謝罪し、処置をまかせました。

 処分といっても、当の夏川ユリが、二つ折りにした真新しい紙幣を春海の手から直接受けとり、むしろはにかみながら、それをまた二つに折って小さな財布におさめて、

「いいわ。許してあげる」

 といったのですから、ほかの連中がとやかく言うことはないのです。

 それに春海の態度が立派でした。卑屈にすぎず、といって、ずうずうしくもない。万引き女が泣きわめき、訴え、ふてくされるのをみると、余計醜悪で同情も消えますが、春海の場合は反対に、ふだんと変りない態度がかえって好感をもたれたようです。自白に踏み切った勇気がたたえられたのかもしれません。「じたばたしすぎたからな、みんなは」と秋葉は思いました。じっさい、みっともないのは潔白な連中のほうでした。

 結果からいえば、春海鯛介は盗みを働いて株をあげたのです。株があがったといっても、時価百円とすれば、ほんの二、三円程度でしょう。一部には「やっぱりね」といった気分がつよいのです。むしろみんなは、事件が今度こそ片づいたことを喜ぶふうでした。

 相手が春海ですから、なぜ盗んだのかは判りません。聞くだけ骨折り損だとあきらめているのでしょう。

 ともかく春海が骨のある男として見直されたのはたしかでした。しかもこの事件には、ちょっとしたおまけがついたのです。

 五日の日曜日をはさんで翌六日の朝、秋葉は春海の額にかなりのコブができているのに気がつきました。よく見ると、目尻にうすいあざがひろがり、上唇は腫(は)れていたいたしく、耳の下にもバンソウ膏(こう)が貼ってあります。

「どうした春海、その顔は」

 一時限目に風間先生が見とがめて聞くと、春海は顔をしかめて、恥かしそうに、

「……自転車に、きのう、はねられて……」

 と答えたので、失笑が湧きました。同じコブでも、トラックやバイクにとばされてできたコブなら、誰も笑わなかったでしょう。

「自動車でなくて、よかったな。みんなも気をつけてくれよ」

 風間先生は、にこりともしないで、いわくありげにみんなの顔を見まわしました。盗難事件が洩れたかな。そう秋葉は思いましたが、べつにそんな様子も見えません。

 この日はじめてユーモラスな一面をみせた春海鯛介は、コブの代償に級友の同情を買ったのです。また一、二円がところ、株をあげたわけです。

 この同情相場は休憩時間ごとにじりじりと上げて、午後の課業が終るころには、ざっと十五円ほども高値がついたでしょうか。春海の怪我はリンチによるものだと判ったからです。

 自首した日の放課後、春海は冬岡忠治とその仲間に運動場の隅へ呼びだされ、なぐる蹴るの制裁を受けたらしいのです。冬岡の番長気取りも困りものです。人権尊重の時代ですから、これが露見したら、新聞沙汰になりかねません。

 べつに街のやくざなどとのつながりはなく、「男一匹」がどうの、「男のいのちの純情」がどうやらしたとかいう歌を口ずさみ、そとでは喧嘩(けんか)のまねごともやるようですが、教室では秋葉の言いなりになるくらいですから、手に負えない乱暴者ではないのです。根は純情な感激屋でした。

 校内でもまれに、「正義のため」やら「仁義を教えるため」に、悪くすると「虫の居所」のぐあいで、ご法度(はっと)の制裁もやりかねませんが、それもせいぜい痛くないビンタを張る程度で、今度のように怪我をさせたためしはないのでした。

 こんな噂はたちまち広がります。秋葉は冬岡をつかまえて、事の真偽をたしかめました。

「春海のコブはおまえがつけたって、本当か、冬岡」

「コブはおれじゃないけどよオ……ぬすっとたけだけしいって、あんなのだよ、な。おれは引きずり倒しただけさ……うんともすんとも、言わないだろ、あいつ……AとBがアタマにきちゃって、靴でやったんだ……やりすぎたよ、な。こう、背中をまるめて、音(ね)もあげずにいるんだ、あいつ」

「バカだよ、おまえたちは。訴えられて、表沙汰になれば、退校ものだぞ」

「ぬけ目はないよ。ぬすっとは訴えやしないさ。言ってやったよ、でけえつらするなって……」

 冬岡は得意の鼻をうごめかしていましたが、一週間後には、その鼻柱をへし折られるようなはめにおちたのです。

 冬岡も、その腰巾着(こしぎんちゃく)のAもBも、柔道部員です。あまり稽古には出ないので、来年も対外試合の選手になれる見込みはありません。

 たまたま冬岡が稽古に出た日に、春海は道場にあらわれ、稽古着を借りて着換えました。

「いい心がけだ。一丁、もんでやろか」

 冬岡が声をかけると、春海は気がなさそうにうなずいて、

「……このなかでは、誰が……つまり、一番つよいのは、誰だ」

 といいました。

「そうだな、三年生はもうあまり出てこないが、あそこの五分刈り頭が、副将だった人だ」

「……あとで……よかったら、もんでくれ」

「ああ、いいとも。おやすいご用だよ」

 しかし冬岡はやがて、穴があったらはいりたいような気もちを味わいました。副将といえば、C高校では一、二を争う実力者です。それが春海との乱取りで、藁(わら)人形みたいに振りまわされているではありませんか。

 春海がもどってきて、まだ消えない額のコブを指先でなでながら、「よかったら、もんでくれ」と言ったとき、冬岡は胴ぶるいがとまらなかったといいます。

 「……いやなら、いいんだ……人はみかけによらないだろう……前の学校には、おれなんか歯が立たないのが、十人はいた……上には上があるものだ……でけえつらをするなよ、冬岡」

 口も利(き)けないでいる冬岡に、春海はそういってめずらしく白い歯をみせ、笑いかけました。

 副将がその場にきて入部をすすめましたが、春海は断りました。対外試合のときだけでいい、という頼みにも応じません。

「……やりたいけど、だめなんです。友人を……片輪にしてから……久しぶりに今日……やっぱり、だめだった。気もちが……腕がちぢんで……」

 あの日もし、なにかの拍子で腕がちぢまなかったら……と考えて、冬岡はぞっとしたそうです。

 この話が伝わると、春海の株はいっぺんに……まあ、そうですな、三十八円分ほどはねあがりました。暴落をつづけてきた兜町とはあべこべに、春海の株はあがる一方です。

 十一月末に発表された模擬テストの成績で、春海はもう一度注目を浴びました。前回の八番から四番にあがったのです。秋葉は逆に四番さがって十四番に落ちていました。

 秋葉が狸の夢か見るようになったのは、それからまもなくです。

 

 同じ模擬テストでも前回のは春海の株価に影響がなく、今度のそれは、金額にして……毎度金の話で恐れいりますが、数字はやはり便利な尺度ですからな……ざっと四十五円ほど株をあげています。理窟に合わないようですが、世の中では、現象としてはよく似た材料でも、決して同じ結果は生みません。

 今回のテスト成績は、秋葉次郎にはショッキングなものでした。席次だけについていえば、四番と十四番では、相撲の番付なら小結と前頭十枚目くらいなひらきで、まあ大した違いではない。二場所もすれば、入れ替わる可能性もあるのですが、秋葉は最近、春海鯛介が自分と同じZ工大志望であることを風間先生にきいて知ったばかりです。春海に差をつけられたのが問題ではなく、春海がたまたまZ工大志望だったことが不都合なのでした。

 席次ばかりでなく、このところ株をあげ放題にあげているあの春海鯛介が、です。いいえ、田舎者とさげすまれ、存在を無視され、出来心にせよ、級友の金を盗んでスキャンダルの種をまいたあの春海が、です。

 短期間にその変りようはどうでしょう。いまや春海は畏敬の的(まと)です。リンチの首謀者、冬岡忠治にいたっては、春海鯛介を英雄視さえしているのです。

 そのころ秋葉は風間先生に呼ばれて、妙なことを聞かされました。

「どうだい、春海と自転車は。うまくいってるようじゃないか」

「自転車ですって」

「とぼけるな。国定村の親分だよ」

 長岡ならぬ冬岡忠治のリソチ事件を、先生は知っているのでした。

「スパイがいるのですか」

「バカをいうな。勘でわかるさ。それにおしゃべりが多いしな。盗難騒ぎも判っていたが、きみたちの自治にまかせて、様子をみていた。しかしあれは一杯くわされたようだな」

 そのときはぼんやり聞き流しましたが、秋葉はあとで「一杯くわされたようだな」という一言が気になりました。

 どんな意味か。春海が騒ぎを起して、一杯くわしたのか。それとも、春海は無実で、姿なき犯人に一杯くわされたのか。

 春海以外に犯人はない、という最初の空気は、いつからともなく、五分五分に変りました。級友の見方が半々に割れている意味ではなくて、級友個人の心のなかに、二つの見方が争っていたのです。シロかもしれない。クロかもしれない。しかし間題をむしかえすのは面倒だ、といったぐあいに。

 春海が厳格清廉(せいれん)で鳴らした判事の遺児であることも、あとでわかりました。判事の息子だからシロとはいえませんが、秋葉はあのただごとでないストイシズムが判るような気がします。なにしろ、伯父さんの大きな邸宅で優遇されながら、年の瀬というのに、火の気のない殺風景な小部屋にこもって、ひざ小僧を毛布にくるみ、机に向っているのですから。

 級友たちには、春海がシロかクロかはもうどうでもいいのです。やはりクロだとしても、自白した勇気は、罪をつぐなってお釣りがきます。それに被害者は毎月二万円も小遣いをつかう夏川ユリです。口にこそ出しませんが、心ひそかに溜飲をさげた者も多いはずです。

 月野好子のように無実を信じるものさえ出てきました。春海の返した五干円札は、手の切れそうなサラの札を二つ折りにしたもの。ユリはそれをまた二つに折って財布に入れたのですが、ユリの財布は小さくて二つ折りのままではおさまらない。つまりあの五干円札はユリの財布にあったものとは違う。だから春海は無実だ、というのが好子の論法でした。

 しかし返したのは盗難のあった翌々日ですから、同じ紙幣を返すとはかぎりません。財布の大きさに目をつけたのはさすがに女性ですが「どうも女の論理には飛躍がある」と秋葉は思うのです。

 夏川ユリの春海を見る目つきも尋常ではありません。事件直後はこだわりなく話しあっていたのに、やがてユリは春海を避けはじめました。秋葉がそれとなく観察すると、ユリはときどき遠くからじっと春海を見つめています。

 いいえ、ユリのことはどうでもいい。秋葉が胸を痛めているのは、花田千枝子の心変りでした。

 駅前のひなびた商店街に、「花田屋」というソバ屋があります。千枝子はそこの娘でした。手不足なので昼のうちは店を手伝い、夜は定時制の高校に通っています。

「結婚するなら、鼻低く、愛嬌第一、料理好き」

 これは結婚相談所の広告ではなく、秋葉次郎が兄の太郎からもらった葉書の全文です。大学三年のとき年上の美人と結婚した兄から、半年後に送られたものでした。恐らく最初の幻滅を歌ったものでしょう。

 秋葉は経済的にも苦労した兄の見本があるので、学生結婚はしないつもりですが、千枝子をみていると、受験一色に塗られた心がほのぼのとあたたまる思いでした。

 はじめて「花田屋」に誘ったのは冬岡です。食べるものはいつもキツネうどんでしたが、三回目ごろから秋葉は、三角に切った油揚げが自分のだけ三枚浮かせてあるのに気がつきました。みると冬岡たちのはどれも二枚ずつです。間違えたのではなく、四回目も同じでした。そういえば、ネギの量も倍近くあるのです。ウスアゲとネギを入れるのは千枝子の役目でした。冬岡たちは軽口をいって千枝子を笑わせています。

「へえー、ゼリー雪井が結婚したの。知らなかったな。愚か」

 秋葉にしてみれば、油揚げの足りないのを知らずにいる彼らのほうこそ、愚かです。

 兄の言ってよこした三つの条件のうち、料理の点は不明ですが、さきの二つ「鼻低く、愛嬌第一」が千枝子の身上でした。ひと頃の秋葉には、キツネうどんが生甲斐といえたくらいです。

 ところが春海を誘ってから事情が変りました。はやくも二回目に春海の油揚げが三枚にふえたのです。そして三回目には、「おれはタヌキだ」と春海がいうのを、「キツネにしろよ」「タヌキが滋養になる」「この店はキツネにかぎるのだ」と説き伏せた秋葉は、自分の油揚げが二枚に減っているのを見たのです。千枝子は多分、春海にほれこんでいる冬岡の宣伝にのったのでしょう。女心はあさはかなものです。兄貴の忠告もいい加減なものだ、と秋葉は思いました。その後は「花田屋」に誘われても、秋葉はもう、「うどんかけ」しか食べません。

 冬休みにはいる前に、月野好子が秋葉にこんなことを言いました。盗難事件は夏川ユリの打った芝居だ。ユリは何度か、春海について、「いじめてやりたい衝動を感じる」といっていた。それに近頃街に出るとき、ほそい金のネックレスをつけて、聞きもしないのに、「ちょうど五千円よ」

と吹聴している。つまりあの事件は、疑いが春海にかかるのを見ぬいて計画した狂言だ。それがいまは春海にイカレているというのです。

 そうかもしれません。しかし秋葉は一方、こうも考えます。いまとなれば、春海が盗んだとは思えない。そんなら退校程度の犠牲を覚悟で、無実の罪を背負ったのか。クラス内の問題としておさまることを計算の上、「勇気」を効果的に示したのではないのか。冬岡を恨ませずに心服させたのも、老獪(ろうかい)な手口といえないだろうか。

 秋葉は冬休みになって春海を三度訪ねたのですが、あいまいに笑うだけで、春海はことばを濁すのです。「一杯食わされたようだな」といった風間先生はなにを考えていたのでしょう。

 冬休みもあとわずかです。秋葉は休みのうちにもう一度春海に、できれば夏川ユリにも会って、真相をつきとめたいのですが、もうどうでもいいような気がします。

 いくら捜しても尻尾はないかもしれません。尻尾があるものなら、無理につかまえなくとも、自然に見えてくるでしょう。たとえ尻尾をとらえても、ベッドから落ちて頓死(とんし)でもしたら、つまりません。じたばたすればするほど悪くなるのが世の中です。そう思えば、狸の夢も消えるでしょう。先は長いのです。

[やぶちゃん注:「ゼリー雪井」不詳。架空の歌手か俳優か。

 因みに、本作中で、月(十一月)日付や曜日を細かに示しているが、試みに調べて見たが、発表された一九五八年以前直近数年を遡っても、それに完全に一致する年は、なかった。簡単に出来ることを敢えて合わせようとしなかったのは、あくまで創作物という矜持からであろう。]

甲子夜話卷之六 35 婦人の居所を長局と云說

6―35 婦人の居所を長局と云說

妾婢を置く處を長局と謂ふ。近頃、字書を視に、『「增韻」宮中長廡相通ルヲ永巷。「列女傳」宣姜后脫管珥永巷』と見ゆ。これ、「長局」とは「永巷」より云起せるか。又、『「三輔黃圖」『永巷宮中之長巷。幽官女之有ㇾ罪者。武帝時改掖庭ㇾ獄焉。』。』。これ、官女の獄と聞ゆ。今も咎を受たる女婢を、長局に押込申付るなど云も、この遺事か。

■やぶちゃんの呟き

まず、漢文部を訓読しておく。一部は本訓点に従っていない。文中、「字書」とあるが、これは普通は一般名詞で単なる漢字字書を指すが、ここは、その完備した代表格である「康煕字典」のことである。同字書の「巷」の記載を見たところ、以上の漢文の二節が、丸ごと、載っていた。但し、「管珥」は静山のそれか、判読の誤りか知らぬが、「簪珥」(しんじ)が正しい。「簪珥」は、冠を留めるのに用いる簪(かんざし)と、耳の飾りに垂れる耳玉で、ここは、何らかの罪を得て、後宮から下がることを、「脫管珥」と言っているようである。

   *

「增韻」に『宮中の長廡(ちやうぶ)[やぶちゃん注:長い軒(のき)。]の相ひ通づるを「永巷(えいこう)」と曰ふ』と。「列女傳」に、『周の宣の姜后(きやうこう)、簪珥を脫(ぬ)ぎて、罪を永巷に待つ。』と。

   *

「宣」は西周の第十一代の王(在位:紀元前八二八年~紀元前七八二年)。

   *

「三輔黃圖(さんぽくわうず)」に、『永巷は宮中の長巷なり。官女の、罪有る者を幽閉す。武帝の時、改めて、「掖庭(えきてい)」と爲(な)して、獄を置く。』と。

   *

「長局」「ながつぼね」。宮中や江戸城大奥などで、長い一棟の中を、幾つもの局(女房の部屋)に仕切った住居。局町(つぼねまち)とも呼ぶ。

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 文政八乙酉年九月十一日紀伊殿より御用番御老中大久保加賀守殿え御屆書付の寫し / 曲亭馬琴「兎園小説外集」第一~了

 

   ○文政八乙酉年九月十一日、紀伊殿より、

    御用番御老中大久保加賀守殿え、御屆

    書付の寫し。

私領分紀州三山、御用に付、材木御尋有ㇾ之候處、奧熊野より、四十三里、深山に、大木一本有ㇾ之候、左之通り。

一 榎

  太さ、百二十抱、高さ、凡、八十七間程。

  南西え、出候、大枝、何れも十九抱

  より、三十抱程。

右の榎、東西南三方え、割れ有ㇾ之候處、宿木、生出候。左之通り。

一 椎

 高さ、二間位より、三間程迄、太さ一抱程。

 十三本。

一 松

 高さ、各、三、四間位より、太さ一抱半より、

 二抱程。九本。

一 黃楊

 高さ、二間位より、三間程迄。太さ、一抱位

 より、一抱半迄。十三本。

一 南天

 高さ、三間位より、太さ、四尺位迄。七本。

一 楓

 高さ、各、五間位より、太さ、何れも一抱位

 迄。七本。

一 竹

 高さ、三間程、太さ、二尺程。三十七本。

右之通りに御座候。此段御屆仕候。

 酉七月          紀州殿御城附

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

解、按ずるに、此大榎の事は、これより先、「月堂見聞集」、享保の卷に見えたり。「見聞集」に載せし所、樹の大小、幷に「やどり木」の數、大かた、違はず。それよりして、又、百年ばかりを經て、こたび、人の見出せし也。

 

 

兎園小說外集第一

[やぶちゃん注:リストの頭の「一」の後に字空けを施した。

「文政八乙酉年」一八二五年。

「紀州殿」徳川斉順(なりゆき 享和元(一八〇一)年~弘化三(一八四六)年)。紀州藩第十一代藩主。第十四代将軍徳川家茂の実父。

「大久保加賀守」大久保忠真(ただざね 安永七(一七七八)年(一説に天明元(一七八二)年とも)~天保八(一八三七)年)。譜代大名・老中。相模国小田原藩第七代藩主。小田原藩大久保家第九代。

「八十七間」百五十八・一七メートル。以下、「一間」は一・八二メートル。

「月堂見聞集」(げつどうけんもんしゅう:現代仮名遣)元禄一〇(一六九七)年から享保一九(一七三四)年までの見聞雑録。「岡野随筆」「月堂見聞類従」とも呼ぶ。本島知辰(ともたつ)著。全二十九巻。江戸・京都・大坂を主として、諸国の巷説を記し、政治経済から時事風俗にまで亙る。自己の意見を記さず、淡々と事蹟を書き記したもので、大火・地震・洪水の天災記事や、将軍宣下・大名国替や、朝鮮・琉球人の来聘、正徳二(一七一二)年に発生した寄合松平左門家家中の騒動、江島ら奥女中の一件、享保十年の水野隼人正刃傷事件、同十二年の美作津山の百姓一揆、翌十三年の象(ぞう)献上のことなどが記された実録体記事である。

「享保」一七一六年~一七三六年。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 上毛多胡郡碑文註釋抄錄 乾齋

 

   ○上毛多胡郡碑文註釋抄錄

『弁官符、上野國片岡郡綠野郡甘良郡、幷せて三郡内、三百戶郡成給羊多胡郡成、和銅四年三月九日甲寅、宜左中辨正五位下多治比眞人、太政官二品穗積親王、左大臣正二位石上尊、右大臣二位[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、ここに『(正脫カ)』と傍注する。]藤原尊。』。

【「宣」の字、上へかへりて、よむべし。】[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、以上を『〔附箋〕』とする。]

 右の如くに可ㇾ讀。

「弁」の字は「辨」字の代に用る也。天下の政事を司る役所を太政官といふ。知太政官事【後に太政大臣といふ。】、其役所の頭也。その下に「辨官」といふ役あり。此辨官は太政官の中の肝煎、「しまり」となる役也。「符」は、「字彙」に、『驗也。證也。』と註して、『すべて、證據にする書付を「符」と云。』。「辨官、符す。」とは、後の證據の爲に、辨官から、「此碑に書記して置。」と、文の初に、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]たる詞也。甘良郡、「和名鈔」には、『甘樂郡』とあり。同事也。「郡となし給ふ」とは、「片岡郡綠野内より、民家三百戶を取分て、新に一郡と定め玉ふ。」といふこと也。「半多胡郡成」とは、「三郡の内、民戶を分て、多胡郡と成す。」といふこと也。「左中辨云々」「藤原尊」とは、「是等の人々、新に多胡郡を置くことを、仰付られたるぞ。」といふこと也。「公卿補任」、『穗積親王は知太政官事。』とあり。是、太政大臣の職分に同じ。「右大臣正二位藤原朝臣」は「不比等」也。「尊」の字は「朝臣」也。「補任」には『朝臣』とあり、「石上朝臣」は「麻呂」といふ人也。

「郡成給」は「郡ト成シ給フ」とよむべし。如ㇾ此の書樣、此邦の古書には、多く、例あり。漢土の文の書樣には、なき事なり。漢土の文の書樣にてよめば、義理、通ぜざるなり。「郡成テ」とよむは、誤也。

「羊」、此「羊」の字は、「半」の字を書誤たる也。上古は、いまだ、文華、開ざりし故、文字のあつかひなど、誤ること、此邦の古書には、間[やぶちゃん注:「まま」。]あることなり。「半」の字、「玉篇」の註に、『物の中分也。ワカツとよむ也。』。然るを、誰人か、其誤を推察せず。文に隨ひ、且、漢土の文をよむ如く、「羊に給フ」と、よみしより、『人の名なり。』と思ひ、剩[やぶちゃん注:「あまつさへ」。]、「大夫」の爵を添て、「羊大夫の墓銘也。」と言傳るは、腹を捧て、絕倒するに、餘りあり。「羊大夫」といふ人、史傳に、曾て見ざるもの也。古の碑は、今の世にていへば、境目の定杭のやうなる物也。「續日本紀」、和銅四年[やぶちゃん注:七一一年。]三月、多胡郡を置ことは見えたれ共、「羊に給ふ」といふことは、見えず。是を證とすべし。

 安永四年乙未閏十二月  伊勢平藏貞丈考

又云、

辨官符。今割上野國片岡綠野甘良三郡中三百戶。新爲一郡。名曰多胡郡。和銅四年辛亥三月九日甲寅。在中辨正五位多治比眞人。太政官二品桔積親王。左大臣正二位石上尊。右大臣正二位藤原尊奉行。

右の如く書けば、分明なるべきに、古代の文、迂遠也。

              平 貞丈 書

右上毛多胡郡古碑の事、古より讀兼たるをもて、東涯子の「盍簪錄」に、此碑の事を論じ、又、東江子など、亦、此古質を論じ置たり。しかれども、皆、以、人口の膾炙する所に過ぎず。獨、伊勢平藏子の解釋、頗、痛快を覺ゆ。今、こゝに錄して、もて、異聞に備ふ。

 文政九年丙戌春二月十五日  中井 豐民

[やぶちゃん注:ここで問題にしている碑文は、現在の群馬県高崎市吉井町(よしいまち)池(いけ)に現存する、国の特別史跡に指定されている古碑(金石文)の「多胡碑(たごひ)」である。「山ノ上碑」・「金井沢碑」とともに「上野三碑」と総称され、また、書道史の上からも「日本三古碑」の一つとされる貴重なものである。建碑は、その内容から、八世紀後半とされている。本碑については、ブログ版「耳囊 卷之二 上州池村石文の事」(二〇一〇年五月公開)、及び、サイト版「耳囊」の一括「卷之二」(二〇一〇年にブログと共時的に公開)の同話で、オリジナルに詳細な考証を行なっているので、そちらを参照されたい。相当に入れ込んで注を作成したものなので、ここでは繰り返す気は、全く、ない。電子化注の差別化を図るために、後者で作成した図等は、前者では省略しているので、是非、後者で見られたい。また、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 四 百合若と八束脛』でも、本碑に言及されてあるため、注を添えてあるから、そちらも参照されたい。

「玉篇」中国の字書。全三十巻。梁の顧野王(こやおう)の撰。五四三年、成立。「説文解字」に倣って、字数を大幅に増加した部首分類体の字書で、後に唐の孫強が増補し、また、宋の陳彭年らが勅命により、増補修訂した。原本の顧野王の写本の一部は日本にのみ現存する。

「定杭」(ぢゃうくひ(じょうくい))は、境界などを規定するために建立した杭。

「安永四年乙未閏十二月」はグレゴリオ暦では旧暦十二月一日で既に一七七六年一月二十一日である。

「伊勢平藏貞丈」「伊勢貞丈」(いせさだたけ 享保二(一七一八)年~天明四(一七八四)年)は江戸中期の旗本(幕臣)で伊勢流有職故実の研究家。ウィキの「伊勢貞丈」によれば、『江戸幕府寄合・御小姓組蕃士。旗本・伊勢貞益の次男』。『有職読み』(中世の歌学で歌人の名を音で読むことに始まった尊敬の訓読法)『でテイジョウと呼ばれることもある』。平蔵は通称。『伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄であり』、『礼法に精通し、江戸幕府』三『代将軍徳川家光の時に貞丈の曾祖父伊勢貞衡(さだひら)が召し出された』。享保一一(一七二六)年に実兄が十三歳で『夭折して伊勢氏は一旦』、『断絶したが、弟である貞丈が』十『歳で再興』、三百『石を賜り』、『寄合に加えられた。この時』には十二『歳と年齢を詐称している』。延享二(一七四五)年には二十八歳で『御小姓組に番入り、儀式の周旋、将軍出行の随行などにあたった。貞丈は特に中世以来の武家を中心とした制度・礼式・調度・器具・服飾などに詳しく』、『武家故実の第一人者とされ、伊勢流中興の祖となった』。天明四(一七八四)年三月に『致仕し』、『麻布に隠居したが』、二ヶ月後に享年六十七で亡くなった。『有職故実に関する著書を数多く残し』ている。私も数冊を所持する。多胡碑の彼の考証が何に載るのかは、不明。

「東涯子」伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)京都生まれの儒学者。伊藤仁斎の長子。名は長胤。父仁斎の古義学を受継ぎ、「堀川学派」を充実させた。学問は博覧綿密であったが、仁斎のような独創性はなく、専ら、父の学の整理・補成・紹述に費やした。その著述は経学・文学から、和漢の制度・文法・名物の詳細に及ぶ。「盍簪錄」(こうしんろく/かっしんろく)は考証を中心とした随筆。

「東江子」沢田東江(享保一七(一七三二)年~寛政八(一七九六)年)は江戸生れの書道家・漢学者・儒学者・洒落本の戯作者。元は多田姓であったが、改めた。氏は源、諱は鱗。当該ウィキによれば、宝暦四(一七五四)年に、『兄弟子の高橋道斎に勧められ』、『上毛多胡碑を観に赴き』、『拓本を打ち、のちに』「多胡郡碑面考証」として『上梓した』とある。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 硝子製煉場 / 筑摩書房版「未發表詩篇」採用の「硝子製煉場」草稿の別ヴァージョン

 

  硝 子 製 煉 場

 

つめたい大理石の扉

磨きあげた眞鍮の外壁

不思議な工場は天使のやうに眠つて居る

けれども眼は地上でもえて居る

狡猾な眼はいきものの眼はいつも張りきつて居る

内部はせわしないくろんぼの幽靈

妖怪めいた五色のルツボ

それが扉のすきまから見える

へんな魂のめばえが

細長いくだのさきでふくらむところ

 

諸君のあやしい姿をかくせ

ああ、諸君

忠實なる私の職工

お早う

さてみなさん

このぎやまんの林檎を御覽下さい

おおなんと磨きあげた琥珀の林檎

奇蹟のはらんだ林檎

靈智のわすれた林檎

 

編註 「靈智のわすれた林檎」の次に一行あるも判讀しがたく、削除した。

 

[やぶちゃん注:「せわしない」はママ。筑摩版全集では「未發表詩篇」に推敲草稿が以下のように載る。二行目の字空けは原稿のまま。歴史的仮名遣の誤りや衍字もそのままである。

   *

 

 硝子製煉場

 

つめたい大理石の扉

磨きあげた眞 の外壁

この不思議な工場は天使のやう→死のやう天使のやうに眠つて居る、

まるで いつも天使の眼のやうに眠つてゐる、

けれども人間の眼は地上でもえて居る

實に狡猾な人間いきものゝ狡猾な眼はよく知つて居るいつも張りきつて居る、

けれども内部はせわしないくろんぼの幽れい

妖怪めいた虹の溶液五色のルツボ

それが扉のすきまから見える

へんな魂のめばへが

細長いくだのさきでふくらむ光景も→ありさまところ

 

ああ、諸君

忠實なる私の職工、

諸君のあやしい姿をかくせ

秘密の注文

眼に見えない

まだ休息の時にははやい

仕上げの秘密にはまだ時がある、

そのうへにもなんとみ給へよろこんでください

気をつけ給へ

 

お早う

さて諸君みなさん

私の右の掌のうへをこのぎやまんの林檎を御覽ん下さい

おおなんと奇麗な林ご

                 琥珀

おゝなんと磨いたきあげた    の林ゴ

                 瑠璃

[やぶちゃん注:「琥珀」と「瑠璃」は並置残存。]

奇蹟のはらんだ林檎

靈智のわすれた林檎

 

   *

本篇には筑摩版編者の注が以下のようにある。『二行七字目は原稿では空きのまま。「鍮」と推定されるので上欄本文にはこれを補った。また第二連四行目の「注文」は消し忘れと思われるので上欄本文では抹消した。』とある。これは穏当な判断ではある(「鍮」の欠損は朔太郎が漢字を思い出せず、後の漢字表記を期した意識的欠字である)。しかし、校訂本文は採用せず、あくまで推敲原稿を整序して以下に示す。但し、「眞鍮」は本篇から見ても間違いないので、「鍮」を挿入した。

   *

 

 硝子製煉場

 

つめたい大理石の扉

磨きあげた眞鍮の外壁

不思議な工場は天使のやうに眠つて居る、

けれども眼は地上でもえて居る

いきものゝ狡猾な眼はいつも張りきつて居る、

けれども内部はせわしないくろんぼの幽れい

妖怪めいた五色のルツボ

それが扉のすきまから見える

へんな魂のめばへが

細長いくだのさきでふくらむところ

 

ああ、諸君

忠實なる私の職工、

諸君のあやしい姿をかくせ

注文

まだ休息の時にははやい

仕上げの秘密には時がある、

そのうへにもなんとよろこんでください

 

お早う

さてみなさん

このぎやまんの林檎を御覽ん下さい

            琥珀

おゝなんときあげた     の林ゴ

            瑠璃

奇蹟のはらんだ林檎

靈智のわすれた林檎

 

   *

以上を本篇と並べてみても、細部に異同がある。私は、この筑摩版編者が採用した原稿よりも後に改稿した草稿が本篇のソースではないかと推定している。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 おれの部屋

 

  お れ の 部 屋

 

おれの部屋はせますぎる

けれどもおれはかまはない

おれの部屋の窓からのぞくと海がみえる

おれはいつでも海をみてゐる

海はぎんいろにかがやいてうつくしい

おれはきうくつでもかまはない

さうしておれは自由の身だ

おれが散步にでかけるとき

おれはおれの部屋には用がない。

 

[やぶちゃん注:「きうくつ」はママ。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 (無題)(つかれきつた魂がねむつてゐる) / 前掲詩篇「ある場所に眠る」の別稿と推定される

 

  

 

つかれきつた魂がねむつてゐる

みどりのこんもりとした木立ちのかげに

わたしの靑ざめた手足がすやすやと眠つてゐる

手の上にもちひさな蟲けらが這ひあがつて

しづかに私のたましひをみまもつてゐるのである

私の心はしづかに眠る

さうしてかなしい生活の夢をみつづける

ああけふもけふとて酒場をもとめ

酒場の椅子にたましひをくさらした

さらに多くの憂鬱なる神經が

酒場の椅子にべつたりとねばりついた。

 

*前作と重複する部分あるも、作者がいづれの作品を採らうとしたかは分らぬ。

 

[やぶちゃん注:「前作」はこの直前に掲げられてある「ある場所に眠る」。穏当な見解で、或いは、「ある場所に眠る」と一緒に或いは連続した原稿に並べられて記されてあったものかも知れない。実際、底本では、数行しか残っていないのに、そこから本篇を始めている。本シリーズの詩篇の組版のセオリーは、独立した一篇一篇は、見開き右ページ行頭から開始、或いは、同仕儀の左ページ開始であるからである。則ち、ここで小学館編者は特異的に、草稿原稿を連続して並べて組んでいるのである。最後に。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 ある場所に眠る

 

  ある場所に眠る

 

たいさうふかい綠のかげで

つかれきつた魂がすやすやと眠つてゐた

その靑ざめた手足のうへから

ちひさな蟲けらが這ひのぼつても

しづかに魂をみつめてゐた

しづかに夢をみるわたしのたましひ

しづかに夢をなく

 

ああそこの木立ちの風の行方

夏がきた愉快さに光がおどつてゐる

うれしい五月が私をおとづれた。

 

*標題は「ある場所に眠る」のほか、「ある場所で子供の唄へる」ともあり、これは消してあつた。なほこの作品は末行のあたりが少し曖味になつてゐる。

 

[やぶちゃん注:底本では、標題右下に「*」が附いて、末尾編注に対応させてあるが、除去した。「たいさう」「おどつて」はママ。ただ、この注はやや不審で、末行の附近のどこが曖昧なのか判らない。曖昧なのは、寧ろ、第一連の終りの「しづかに夢をなく」であろう。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。而して、その転載の編注を見るに、私と同じ不審を筑摩版編者が持ったようで、『なほこの作品は〔第一連の〕末行のあたりが少し曖味になつてゐる。』となっている。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 絕望の足 /筑摩版全集所収の「絕望の足」とは異なる別稿

 

  絕 望 の 足

 

魚のやうに空氣をもとめて

よつぱらつて町をあるいてゐる私の足です

東京市中の堀割から浮びあがるところの足です

さびしき足

さびしき足

よろよろと道に倒れる人足の足

それよりももつと甚だしくよごれた絕望の足。

 

その足うらより月はのぼりて

家々の家根はいちめんに黑し

あらゆるものを失ひ

あらゆる幸福のまぼろしをたづねて

東京市中に徘徊する足

よごれはてた病氣の足

さびしい人格の足、

ひとりものの異性に飢えたる足

よつぱらつて堀ばたを步く足

ああ、心中になにをもとめんとて

かくもみづからをはづかしむる日なるか

よろよろとしてもたれる電信柱

はげしき啜りなきをこらへるこころ

ながく道路にたほれむとする絕望の足である。

 

[やぶちゃん注:筑摩書房版全集には、「拾遺詩篇」に同題の詩が載るが(初出は大正六(一九一七)年六月号『秀才文壇』)、明らかに有意な異同がある。以下に示す。太字は底本では傍点「ヽ」。後ろから二行目の「こらえる」はママ。

   *

 

 絕望の足

 

魚のやうに空氣をもとめて、

よつぱらつて町をあるいてゐる私の足です、

東京市中の堀割から浮びあがるところの足です、

さびしき足、

さびしき足、

よろよろと道に倒れる人足の足、

それよりももつと甚だしくよごれた絶望の足、

あらゆるものをうしなひ、

あらゆる幸福のまぼろしをたづねて、

東京市中を徘徊するよひどれの足、

よごれはてたる病氣の足、

さびしい人格の足、

ひとりものの異性に飢ゑたる足、

よつぱらつて堀ばたをあるく足、

ああ、こころの中になにをもとめんとて、

かくもみづからをはづかしむる日なるか、

よろよろとしてもたるる電信柱、

はげしきすすりなきをこらえるこころ、

ああ、ながく道路に倒れむとする絕望の足です。

 

   *

これは最早、同一決定稿でないことは明白である。]

2021/11/27

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 猩々 乾齋

 

   ○猩々

「禮記」、「曲禮」[やぶちゃん注:「きよくらい」。]の篇に云、『猩々、能言、不ㇾ離禽獸。』。その由來、久し。こゝをもて、本朝、婦女子といへども、これを、しれり。しかのみならで、畫工に「猩々飮酒の圖」あり、散樂に「猩々の舞」あり。これ、そのますます昭著なる故也。しかれども、いまだその眞の猩々を見たるといふ者を、聞かず。唐土にも、古より、說者[やぶちゃん注:「とくもの」。]、少からねど、亦、その眞を目擊して說者に、あらず。獨、廓諶君が著せし「爾雅」に、面りその眞を見つるよしを載たり。今、その文を和解す。「爾雅」に云、猩々は『人面獸身。最機警。善人間之言。學虫鳥之聲。而莫曲不一ㇾ肖也。聲如八女子。其啼也淸越。嗜ㇾ酒好ㇾ舞。虞人以ㇾ此誘ㇾ之。則毀罵而去。予在綠塢山觀ㇾ之。群居相謂曰。客必東人也。踊躍出視焉。予偶々有ㇾ酒。寄少許召飮ㇾ之。四者齊下。未レ喫先謝。既飮輒醉矣。以ㇾ知予無機也。予徘徊恐ㇾ爲後人所害。忽然雙飛下古木。囂然相謂曰。上客過勞。兒可之以去也。「禮」曰。猩々能言。不ㇾ離禽獸。予終敢以爲ㇾ信。』と、いへり。この事、最、奇なり。これ、誠に、猩々の眞面目にあらずや。よりて、表出して、こゝに、しるしつ。

[やぶちゃん注:「猩々」「猩猩」は、現在、真猿亜目狭鼻下目ヒト上科オランウータン(ショウジョウ)科Pongidae(或いはヒト科Hominidaeとも)オランウータン属 Pongo を指す中国語として用いられており、中国語科名としても用いられている(中文のウィキの「猩猩」等に於いては「ヒト科猩猩亜科猩猩属」とする)。但し、中国の古来からの記載を見る限りでは(「山海経」が最古か)、その属性には実際のオラウータン類に比して、甚だ疑義を覚える点が少なくなく、オランウータンを一つの大きなモデルとしつつ、仮想された幻獣か架空の類人猿ととるべきものである。個人サイトの断片である「猩々――それはオランウータンではなかった――」の論説を私は強く支持するものである。そもそも、オランウータンの棲息域はスマトラ島(インドネシア)と、南部を除くボルネオ島(インドネシア・ブルネイ・マレーシア三国による領有島)の熱帯雨林の中に限定されており、「猩猩」を中国国内で見ることはあり得ない。無論、良安が想定しているのも、話として知っていた、オランウータン Pongo を措定してあるものと考えてよい。因みに、「オラン・ウータン」はマレー語で「orang」(「人」)+「hutan」(「森の」)で、「森の人」を意味する。ウィキの「オランウータン」からオランウータン現生種二種・亜種三種を掲げておく。

スマトラオランウータン Pongo abelii

ボルネオオランウータン Pongo pygmaeus

Pongo pygmaeus pygmaeus (サラワクからボルネオ島西部に分布)

Pongo pygmaeus wurmbii  (ボルネオ島西部からボルネオ島中部に分布)

Pongo pygmaeus morio (ボルネオ島東部からサバに分布)

詳しい博物誌は私の古い電子化注である寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の私の注を参照されたい。

「猩々、能言、不ㇾ離禽獸。」「禮記」の「曲禮篇上」の一節。「猩々(しやうじやう)は能(よ)く言(ものい)へども、禽獸を離れず。」で、「猩々は、よく、人語を操るものの、禽獣の仲間から離れることは出来ない。」の意であるが、但し、これは人間の礼節のない人間を警喩する一節であって、全体は、『鸚鵡能言、不離飛鳥。猩猩能言、不離禽獸。今人而無禮、雖能言、不亦禽獸之心乎。』(鸚鵡(あうむ)は能く言へども、飛鳥(ひちやう)を離れず、猩猩は能く言へども、禽獸を離れず。今、人にして、禮、無ければ、能く言ふと雖も、亦、禽獸の心ならずや。)である。

「散樂」原義は、古代中国に於ける軽業・曲芸・奇術・幻術・滑稽物真似に類する西域起源の大衆的雑戯芸。公的な「正楽」・「雅楽」に対する俗楽で、「百戯」「雑戯」とも呼ぶ。而してそれが、奈良時代に本邦に伝来して、中世まで行われた同様の演芸・大道芸を指す。初めは「雅楽」と並んで宮廷で保護・育成されたが、平安時代に入ると、一般にも伝わって甚だ盛行し、後に「田楽」・「猿楽」などに受け継がれ、民俗芸能の重要な基盤の一つとなった。

「昭著」(しやうちよ)「なる」は「際立って明らかなさま」を指す。

『廓諶君が著せし「爾雅」』「廓諶君」は不詳。一度も聴いたことがない人名である。「爾雅」(じが)は現存する中国最古の字書にして「十三経」の一つ。漢の学者たちが諸経書、特に「詩経」の伝注を集録したものとされる。「釈詁」・「釈言」・「釈訓」・「釈親」以下、「釈鳥」・「釈獣」・「釈畜」の十九編は、古語を用法と種目別に分類して解説したもので、経書の訓詁解釈に於ける貴重史料である。注釈書として晉の郭璞(かくはく)の注と、宋の刑昺(けいへい)の疏を合わせた「爾雅注疏」が甚だ価値が高いとされる。古くは周公、或いは、孔子とその弟子の手が加えられたという説があったが、現在は完全に否定されている。これはただの思い付きだが、「廓」と「郭」の類似が異様に気になる。この「廓諶君」というのは、実は――「郭」璞を始めとする「諸君」によって書かれた「爾雅」注――の誤りではあるまいか? 大体からして、「爾雅」には、「釋獸」に「猩猩、小而好啼。闕洩、多狃。」(猩猩は、小にして、好く啼く。[やぶちゃん注:別称。]「闕洩(けつせつ)」。多くは[やぶちゃん注:「人に」か?]狃(な)るる。)とあるだけだからである。

「面り」意味不明。「而」(しか)「り」の誤字かと思ったが、「爾雅」の刑昺注を見たところ、盛んに「猩猩」が「人面」であることを言っており、以下にも出ることから、ここは「人面なり」の脱字と採るのが、一番、自然な感じがする。

『今、その文を和解す。「爾雅」に云』と言っておいて、訓点附き漢文というのは如何なものか? これ自体が、後世の「爾雅」の諸注を参考に、日本漢文で纏めたという謂いのようにしか見えないのである。しかし「予」とある部分は、発言者がいないとおかしい。よく判らぬ。

「猩々は『人面獸身……』訓読しておく。一部は返り点に従っていない。

   *

 猩々は、人面獸身にして、最も機警(きけい)[やぶちゃん注:機智があって賢いこと。]たり。人間の言(ことば)を善(よ)くし、虫鳥の聲を學(まね)び、而も、曲がりて、肖(に)ざること莫(な)きなり[やぶちゃん注:「ひねくれて悪しき方へ向かうことなく、よく正しく学んで堅実である。]。聲は八つの女子(むすめご)のごとく、其の啼くや、淸くして、越(ぬきん)ず。酒を嗜み、舞を好む。

 虞人(ぐひと)[やぶちゃん注:中国古代の伝説上の聖王舜が堯から譲られて帝位にあった王朝の人民。]は、此(ここ)を以つて、之れを誘ひながら、則ち、毀(そし)り、罵(ののし)りて去る、と。

 予、綠塢山(ろくをざん)[やぶちゃん注:不詳。]に在りて、之れを觀たり。群居して、相ひ謂ひて曰はく、

「客、必ず、東の人なり。」

と。

 踊躍(ようやく)して、出づるを、視たり。

 予、偶々(たまたま)、酒、有り。少し許りを寄せ、召して、之れを飮ましむ。

 四つの者、齊(ひと)しく下(くだ)り、未だ喫(きつ)せざるに、先(ま)づ、謝せり。

 既にして飮み、輒(すなは)ち、醉へり。

 予を機(とき)無くして知れるを以つてす。[やぶちゃん注:猩猩は、この私と時をおかずに、馴れ親しんだ。]

 予は、徘徊して、後に、人に害を爲(な)さしめんことを、恐る。

 忽然として、雙(なら)び飛びて、古木を下り、囂然(がうぜん)として、相ひ謂ひて曰はく、

「上客、勞(つか)れ、過ぎたり。兒(われ)[やぶちゃん注:「私」。猩猩自身。]、之れを負ひて、以つて、去らしむべきなり。」

と。

 「禮(らい)」に曰はく、『猩々、能く言(ものい)へども、禽獸を離れず。』と。

 予、終(つひ)に、敢へて以つて、信(しん)を爲(な)せり。

   *]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 蛇怪 鈴木分左衞門 / へびこしき 山本庄右衞門

[やぶちゃん注:同じの奇体な出来事を二人が記しているので、二篇を同時に電子化する。図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正して示した。「こしき」は以下に見る通り、「甑」で、米や豆などを蒸すのに用いた器。元は鉢形の瓦製で、底に湯気を通す幾つもの小穴を開け、湯釜に載せて蒸した。後、方形又は丸形の木製とし、底に簀の子を敷いたものを「蒸籠(せいろう・せいろ)」と呼ぶ。蛇は一対一の後尾も行うが、多くの種で♂♀が群れを成して交尾することもままある。されば、こうした現象は、必ずしも特異ではないようである。因みに、交尾時間は驚くほど長いと聞いている。]

 

   ○蛇怪        鈴木分左衞門

小石川三百坂にすめるに田藩[やぶちゃん注:底本に右傍注して『マヽ』とある。]小十人高橋百助といふものゝ子、千吉とて、今年十四になれるが、近きわたり、遊びありきしが、牛袋何某の門邊に、圖の如く、くちなは、十五疋、いやがうへに、をり重り、わだかまり居たり[やぶちゃん注:図は次の「へびこしき」の図の上方にある。]。伺ひ見るに、中に、光れるものあり。おそろしながら、小腕をさし入れたるに、手にさはれるものあるをとりあげ、圖のごとき、古錢一文を得たり[やぶちゃん注:図は同前の下方。]。其後、くちなはは、おのがじゝ、にげ去るを、つどひ居たるものども、「うちころしてん。」など、のゝしるを、かの小童、「人をもあやめざるに、いかで、さる事すべき。」と制しぬれば、かの小童の勇氣に感じて、手だすものも、なかりしと也。これは千吉が祖母、つねに物語りしは、「蛇、あまた、わだかまれる中には、珠玉あるもの也。これを得たる人は、かならず、生涯、財寶に事かく事、なし。」と、いひしを聞おぼえしゆゑ、かくはなせしとぞ。此圖は、かの小童のみづから記せし也。六月廿五日【文政九年。[やぶちゃん注:一八二六年。]】の事也。

[やぶちゃん注:「小石川三百坂」「さんびやくざか」或いは「三貊坂」(さんみゃくざか:現代仮名遣)とも。ここ(グーグル・マップ・データ)であるが、サイド・パネルの冒頭画像に文京区教育委員会の說明版があるので、そちらも見られたい。

「田藩」不詳。但し、先に示した「甲子夜話」では『田安殿』とある。

「小十人」小十人組。将軍の護衛に当たった「小十人」の組織。小十人二十名を以って一組とし、元和九(一六二三)年に、初めて四組が置かれ、後、漸次、増加した。各組に一人の頭と二人の組頭がいた。西丸にも配置された。

 以下は「蛇怪」の終りまで、底本では全体が一字下げ。]

私に云、この記は鈴木氏の口づから、輪池堂に話せしを、輪池堂の書れしなりとぞ。

後の一圖もおなじ事ながら、合せ寫しとゞめつ。

(「蛇コシキ」之圖)

 

Jyaikai

 

[やぶちゃん注:キャプション(画像にも含めた)は、

此高、一尺六、七寸也。蛇のかず、十五匹也。橫はゞ一尺六分許也。

とある。下方の銭には、

景元福寳

とあり、これは北宋の仁宗の景佑元年(一〇三四年)に鋳造された中国の宋銭である。中文サイトのこちらで画像が見られる。]

 

これは彼錢を搨拓[やぶちゃん注:「たふたく(とうたく)」。「拓本」に同じ。]せしを、すきうつしにしたれば、寸分たがはず。後の「蛇甑」の圖は、傳聞によりたるものなれば、なかなかに、わろし、といふめり。見て圖したると、その「ぜに」を拓り[やぶちゃん注:「すり」。「摺り」に同じ。]たるを、まさりなり、とすべし。

 

 

   ○へびこしき     山本庄右衞門

文政九年丙戌の夏、四月なかばより、雨なくして、梅天[やぶちゃん注:「つゆ」と訓じておく。]に至りても、雨、ふらず。赤地、千里なりしかば、近在所々に於て、既に雨乞せるに至れり。五月廿一日、雨、降り、翌日、又、雨、降り、それよりして、又、雨、なく、六月の初旬・中旬頃[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では七月下旬から八月三日まで。]は、また、赤地となれり。漸々、廿日に至て、雨、降ぬ。それより、日ごとに、雨、時々に頻り也。廿五日の晝過る頃、小石川三百坂の往還にて、蛇、あまた、集り、綆縻(つるべなは)をわがねたるさまに蟠り、うづ高く、重なり合て、頭を揃へて、眞中を、うつろにして、又、三方より頭を向ひ合せ、其うつろなる中を、見込たるさま也。蛇の數、都合十五也といふ【かく集り蟠るを、「へびこしき」と云。】。往來の人々みるもの、堵[やぶちゃん注:「かき」。垣根。]の如く也けり。その邊に住居せし田藩[やぶちゃん注:同前。]の小十人高橋百助が男千吉なるもの、年、僅に十四歲なるが、夫を聞て、速に、はせ來り、たゞちに其蛇に近づきて、左の手にて、袖をかゝげ、右の腕を、其中に、さしこみて【蛇の重りたる深さ、およそ、拳より肘のあたりまで有といふ。】、一物を得たり。蛇も亦、其物を惜むけしきもなく、その圍みを解て、にげ去りしが、下に敷れたる蛇は、おしひらめられたるも有し、といふ。それよりは、一つちり、二つちり、追々に、いづくともなく、ちりうせぬ。

 

Hebikosikinozu

 

[やぶちゃん注:キャプションは、上部に、

蛇の重なりし高さ、一尺六、七寸。徑、一計。

「徑」は「わたり」で直径。「一」は一尺。下方の銭の図の上に、

此錢、篆字にてありしと云。

とある。但し、この図の銭は、

景元祐寳

とあって、北宋の哲宗の元祐年間(一〇八六年~一〇九三年)に鋳造された宋銭である。中文サイトのこちらの画像と解説を参照されたい。]

 

千吉は、幼年より、かつて、「蛇の集り卷たる中には、必、名玉あり。それを得るものは、必、運、開き、幸ひを得る事、疑なし。」と、かねて古老の物語せしを、一途に深く信用したるによれり。はじめ、卷たる内を見るに、光りあり、既に腕をさしこみたる時は、拳にこたへて、當るものあり、と。然れども、恙なくして、遂に物を得るに至る事、實に奇遇といふべし。かの孫叔敖が德に異なりといへども、また、古老の言を信じて、群蛇を怖れざるも、また、奇事也。その得たるものは玉にはあらで、篆書せる「景祐元寶錢」なりとぞ。

[やぶちゃん注:この二篇のために、同一事件を後に記した松浦静山の「甲子夜話」の「卷八十七の「蛇塚」を先に電子化注しておいたので、そちらも参照されたい。

甲子夜話卷八十七 4 蛇塚(フライング)

87ー4 蛇(ヘビ)塚

[やぶちゃん注:亭馬琴「兎園小説外集」の「蛇怪」・「へびこしき」に、必要上から、単発でフライングする。全く同一の出来事(場所と年月日及び事件当事者の名・年齢は完全に一致する)であるからである。画像は底本のものをトリミング補正した。]

 

 丙戌六年廿五日、小石川三百坂にて蛇多く集り、重累して桶の如し。往來の人步を留て皆見る。その邊なる田安殿の小十人高橋百助の子千吉、十四歲なるが云ふには、この如く蛇の重りたる中には必ず寳ありと聞く。いざ取らん迚、袖をかゝげ、右手を累蛇の中にさし入れたるに、肱を没せしが、やゝ探て果て銭一を獲たり。見るに、篆文の元祐通寳錢なり。是より蛇は散じて行方知れずと。奇異と云べし。

 

Hebiduka1

 

[やぶちゃん注:キャプションは、上部に、

傳說ノ圖

中央に右向き横転で、

コノ渡一尺六、七寸。

左下方に縦書で、

高モ、一尺六、七寸。

とある。]

予因て「泉貨鑑」に載るものを附出す。

 

Hebiduka2

 

[やぶちゃん注:この図の銭は、しかし、

元踊祠寳

と書いてある。中文サイトのこちらの画像を参照されたい。これは北宋の哲宗の元佑(一〇八六年~一〇九三年)年間の鋳造の宋銭である。「兎園小説外集」にあるのは、北宋の仁宗の景佑元年(一〇三四年)に鋳造された中国の宋銭で、異なる。

 

追記す。田舍にてはこれを蛇塚(ヘビヅカ)と云て、往々あることとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「丙戌六年」文政九(一八二六)年。

「小石川三百坂」後に出す曲亭馬琴「兎園小説外集」の当該話の私の注を参照されたい。

「小十人」同前。

「累蛇」「るいじや」と音読みしておく。

「探て」「さぐりて」。

「果て」「はたして」。

「元祐通寳錢」北宋の哲宗の元祐年間(一〇八六年~一〇九三年)に鋳造された宋銭。中文サイトのこちらを参照。

「泉貨鑑」「和漢古今泉貨鑑」(わかんここんせんかかがみ)。江戸で寛政八(一七九六)年に刊行された朽木龍橋(くつきりゅうきょう)撰になる貨幣図説。龍橋は号で本名は朽木昌綱(寛延三(一七五〇)年~享和二(一八〇二)年。列記とした丹波福知山藩藩主にして、古銭研究家・蘭学者。隠岐守。古銭を愛好、収集・研究し、他に「新撰銭譜」・「西洋銭譜」等を刊行している。また、世界地理に詳しく、「泰西輿地図説」を著わしてもいる蘭癖大名である。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 路次

 

  路次について

 

路次についてある種の人々の中では一種の不可思議な迷信が信じられる

裏町のまづしい人々の住んでゐる町々の路次は甚だしく複雜してたいていは迷路のやうに入りこんでゐるものである

ことに人氣のないさむしい裏通りなどで路次を發見したとき私はたいていの場合に一度は通りぬけて見ないと氣がすまない

私の考へでは、全く思ひがけない不思議な裏町がいつもかうしたまづしい路次の向ふ方にあるやうな氣がする

その通りは夢にも豫期しなかつた素晴しいもので

街路は花瓦斯で畫のやうに明るく

見あげるやうな建物と建物の間を磨きあげた馬車や自動車がまつ黑になつて通る

実際その立派なことと賑やかなことでは世界第一といつてもいい位ひであるのに

不思議なことには

今まで、だれにも知られずにゐた。

それは人々の

夢の中で忘れられてゐた悲しいまぼろしの路次である。

 

[やぶちゃん注:歴史的仮名遣の誤りはママ。また、「路次」は「ろし」で「ろじ」とも読むものの、これは「行く道の途中・途次・道筋」の意であって、ここで朔太郎が指す「路地(ろぢ)」の意は全くないので、完全な誤用である。萩原朔太郎の誤った私的慣用表現はかなり多く、しかも深刻で、恐らく誰からか指摘されても、頑なに直さなかった偏執的固執があったものと思う。ルーティンの偏執行動も多く指摘されており、病跡学的には萩原朔太郎はかなり興味深い対象ではある。

 本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、本底本に先行する小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 波浮

 

   波  浮(大 島)

 

ぼくは郵使脚夫の步調をまなんで

港々の家をたづね馳せめぐり

新しい手紙の山を投げこんだ

あるひは沖を通る汽船をめがけ

大束にした電報を投げこんだ

ああさうして家々の洋燈はともされ

船の船室(キヤビン)に花やかな貴婦人の夢はまどろむ

いづこまで、さうしてどこに人生の航路はすぎゆくだらう

あらゆる幸福の新聞はよみかへされ

地球はいく度びか夜を通り晝をすぎ

はてなき北海の孤島にさヘ

燈臺守のまづしい生活があるではないか

さうしてぼくは郵便脚夫

かなしくただよへる船です。

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、本底本に先行する小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。なお、ネット上には萩原朔太郎が大島を訪れたという記載が散見されるが、「靑猫」時代以前の年譜を管見しても彼が大島に行ったという記載はないように思うのだが。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 編者前書・「靜夜」

 

    遺 稿 詩 篇

 

[やぶちゃん注:パート標題。その裏に以下の編者注。]

 

 

編註 「松葉に光る」『月に吠える』當時より『靑猫』の年代に到る作品中、ノオト、紙片その他に書きつけたまま、雜誌等に發表もしなかつた詩はずゐぶん澤山にあり、これを既刊『遺稿詩集』『氷島』の中にも收錄したが、その殘餘のものをここに集め「遺稿詩篇」とした。このほかになほ「洋燈の下で」(『四季』昭和十七年九月號掲載)その他一、二の作品があつたが、都合によりこれは收錄しなかつた。

 

創作年代 「波浮」はノオトに書かれており、その詩風は『靑猫』時代に屬する。「路次について」「絕望の足」「ある場所に眠る」(つかれきつた魂)は『氷島』中に收錄の「都會と田舍」と同じノオトに書かれてゐる點から推して大正六年ころの作品と思はれる。「おれの部屋」は大正五年ころ、「夜」は大正四年、「病氣の探偵」は大正三年と推定してほぼ誤りないと思はれる。

[やぶちゃん注:「松葉に光る」これは第三詩集「蝶に夢む」の後半に配された「松葉に光る   詩集後篇」と標題された詩篇群を指す。そこで萩原朔太郎は注して、

   *

この章に集めた詩は、「月に吠える」の前半にある「天上縊死」「竹と哀傷」等の作と同時代のもので、私の詩風としては極めて初期のものに屬する。すべて「月に吠える」前派の傾向と見られたい。但し内八篇は同じ詩集から再錄した。

   *

と語っていることに由来するものである。なお、同詩篇群のパート標題となっている詩篇「松葉に光る」は『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 編者前書・「供養」 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「供養」の別稿』の注で電子化してある。

「既刊『遺稿詩集』『氷島』」本小学館コンパクト版シリーズ「萩原朔太郎詩集」のそれ。「遺稿詩集」(「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」)はこのブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で初版原拠正規表現版として全電子化注済み。「氷島」は同シリーズのそれ(「萩原朔太郎詩集 Ⅲ 氷島」)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を視認出来る。なお、詩集「氷島」もこのブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で初版原拠正規表現版として全電子化注済み。

「洋燈の下で」「ランプのしたで」と読んでいるものと思われる(筑摩版索引では「ラ行」に配置されてある)。同全集の「拾遺詩篇」に載るものを示す。歴史的仮名遣の誤りはママ。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

 

 洋燈の下で

 

僕は暗い洋燈の下で

鉛筆の心がボロボロに折れ切るまで

百度(たび)も女の名を書き散らした。

悲しい戀愛!

こんな紙屑が何になろう。

僕は人生から長靴をはき

泥濘の苦しい道を步いて來た。

酷烈の孤獨に忍び

革でさへも食ひ切つてきた。

僕の血には糊がついてる

そいつをべつたりと塗りつくやうな

烈しい情緖なんかどこにもなかつた。

僕は眞暗の壁に向つて

厭世思想のダイナマイトを密造してきた。

どこに復讐を叩きつけるか

僕は勇氣さへも無くしてしまつた。

さうして冬近い東京に漂泊し

かなしい愛欲に溺れてゐる

ああ歌!

氷のやうに冷たい瞳(め)をして

愛も憐憫もない無情の少女(おとめ)

明日は人妻に行く女を戀して

百度もその人の名を書き散らしてゐる。

悲しい戀愛!

こんな紙屑が何になろう。

僕はもう一切を無くしてしまつた。

   *

収録をしなかった理由は不明だが、「エレナ」詩篇の一つと見て間違いない。]

 

 

  靜  夜

 

ぷらちなの靑い寫眞を

往來の窓にかける

かける窓の上の

塔のてつぺんで

やせぎすの玻璃の手くび

ぷらちなの女の手くび。

星が光る

街中に星が光る。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。筑摩版全集では「未發表詩篇」に以下のように出る。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

 

 靜夜

 

ぷらちなの靑い寫眞を、

往來の窓にかける、

そうしてぢつと淚ぐみ、

かける窓の上の、

塔のてつぺんで、

やせぎすの玻璃の手くび、

ぷらちなの女の手くび。

星が光る、

街中に星が光る。

 

   *

本篇と同一原稿と考えてよかろう。なお、同筑摩版では、編者注があり、『「習作集第九卷」の「寫眞」別稿(本全集第二卷五二一頁)。』とある。以下にそれ(「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」中の一篇)を示す。

   *

 

 寫眞

 

ぷらちなの靑い寫眞を

往來の窓にかける

窓の上の

他界てつぺんで

やせぎすの奇體の手くび

ぷらちなの女の手くび

星が光る

街中に星が光る

 

   *]

2021/11/26

ウィキペディアをやめた

ある記載の大きな誤記に就いて、丁寧に指摘したが、ボットで、訳の分からぬ、勝手な誤記載の当該部の削除により、「当該部が削除されたから除去しろ」と言われたので、馬鹿々々しくて(原記者の語りもなくである)、ウィキペディアの記載・訂正を、向後、一切、やめる。引用には使うが、永久に――おさらばダ!――

誰かさんと同じで――皆――最下劣だ!

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 墮陰莖 著作堂(馬琴)

 

   ○墮陰莖

        平岩右膳御代官所

         武州豐島郡練馬の内

          字早淵村久保と申所にて

           百姓孫右衞門忰

              孫 四 郞

               戌二十七、八歲

        牛込水道町彌吉店

          豆腐屋 幸   助

右孫四郞儀、一昨日廿八日【文政九年六月[やぶちゃん注:一八二六年。]。】」晝八時頃、酒に醉候體にて[やぶちゃん注:底本では「醉」の上に「給」があるが、読めないので(上が「酒を」なら「たべ・のみ」と読める)特異的にカットした。]、幸助宅前え、馬を引參、「豆腐の殼、有ㇾ之候ば、買受度。」旨申に付、「無ㇾ之。」由相斷候へば、孫四郞儀、右馬を引出候節、鼻綱にて、馬の面を强く打、彼是、立騷候故、右鼻綱、同人、足え卷付候由にて、馬の口の下え、仰向に倒れ、其節、下帶、外れ、陰莖、出候を、右馬、喰ひ付、一とふりにて、附根より、毛、二、三本付、陰莖、喰ひ取候へども、氣絕も不ㇾ致、前書幸助方にて、付藥等、致し、綿にて包、手當等いたし遣し候へば、「此分にては、步行相成可ㇾ申。」旨、申、右陰莖、紙に包、孫四郞、自分[やぶちゃん注:「おのづと」。]、手に持、馬を引歸候處、凡、十四、五軒も罷越候處、右陰莖、町内往還え、捨、其儘、罷越候に付、右跡、爲追欠候得ども、何れえ、參候哉、相知れ不ㇾ申。其上、右住所、承り不ㇾ申候に付、先、陰莖は鮑貝に入、町内自身番屋え、持參いたし、近邊にて、右、馬士、名・住所承候處、同所五軒町小普請稻生左門屋敷え、下掃除に罷越候者にて、早淵村百姓孫右衞門忰の由承候に付、翌日、月行事、孫右衞門方え、尋參候處、同人儀、宅に罷在候間、昨日の始末、相咄候處、「一向存不ㇾ申。」由申候。然處、次の間に打臥候もの、頭を上げ申聞候は、「昨日は、不慮成儀にて、彼是、御世話に相成、今日は、右の疵、甚、痛强、打臥罷在、失敬の段、相詑、且、昨日の始末、父えは、未申聞、妻えは、昨夜、相噺候へば、驚候上にて、歎罷在候。」由、申聞候に付、「氣の毒なる」よし申、右に付、「昨日、往還え、被捨置候陰莖、持參致し候。最、町方にては此樣成物、捨有ㇾ之候ては、御訴不ㇾ致候ては、難相成、左候ては、町内、物入等、相懸り、甚、迷惑に候に付、態々[やぶちゃん注:「わざわざ」。]持參致し候。」旨、申候得ば、同人妻、名前不ㇾ知、二十一、二才位相見え候者、至て、愁傷の體にて、髮は櫛卷にて、奧より立出、泪を含み、申聞候は、「昨日、私夫[やぶちゃん注:「わたくし をつと」。]、御町内にて不慮成儀にて、厚き御世話に相成、殊に、右陰莖、御持參被ㇾ下、旁[やぶちゃん注:「かたがた」「かたや」「かたはら」の孰れかか。]、以御介抱氣の毒。」の由、大に悅び、厚、禮謝申聞候間、當人、名前等、委敷、承り、則、陰莖は、妻え、引渡し候由。右は、餘り珍敷儀に付、此段、申上候。

 戌六月晦日

[やぶちゃん注:何だか、ともかく、凄いというか、呆れるというか、珍談中の珍談の実話である。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 前後身紀事 著作堂(馬琴)

 

[やぶちゃん注:物語風なので段落を成形した。一部でダッシュを用いた。]

 

   ○前後身紀事

 江戶澁谷に、聖護院宮樣御支配下、「中山寺」[やぶちゃん注:修験者の名。「ちゆうざんじ」と読んでおく。]といへる、修驗者、あり。

 此人、妻をむかへて、十ケ年に餘るといへども、子なきことを歎き、一子あらん事をのみ、ねがひける。

 頃は文政七年甲申冬十一年十四日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では既に一八二五年一月二十日。]、「芝切通し」を駕籠に乘て歸る程に、おもはずも、まどろみたりしに、

――一人の僧、五才ばかりの子をつれ來り、

「是は、其方の子になるべきぞ。」――

と、いふと、思ひて、夢さめ、駕籠の左右をかへり見るに、人、なし。

 向を見れば、小兒のひつぎを將て[やぶちゃん注:「いて」。]、葬に行あり[やぶちゃん注:「とふらひにゆくあり」。]。

 不思議なる事に思ひて、其跡を付て行ば、同町金地院へ、おくり行ぬ。

 是は南部丹波守殿家中、木村弘といへる人の三男銀次郞といへる、五才にて相果たるなり。

 かくて、直に[やぶちゃん注:「ただちに」。]金地院へ至り、此葬の終るまで、「再生の法」を修し、且、小兒の年を問へば、

「五才にて病死せる、『寒園童子』と法號せる。」

よし、聞て歸り、直に、鳥目・米少々、金地院へおくりけるに、

「中山寺より、そなへらる子細なし。いづれか、外方[やぶちゃん注:「ほかかた」。]へ參るにて、あるべし。」

と云ひけるを、使のもの、

「いさいは、紙面に有ㇾ之。」

よし答ける故、受取、ひらき見れば、

――寒園童子追善の爲 囘向を賴む――

よしなれば、辭するに不ㇾ及、其意に任せぬ。

 その翌乙酉正月より、中山寺の婦妻、懷妊し、十ケ月に至り、當文政九年丙戌春二月、常に張置し、「寒園童子」の法號、見えず。

「いかゞしつるや。」

と、あやしみ思へども、知れず。

 かくて、四、五日を經て、右の妻、安產し、男子、出生しけり。

「是、夢中に、さづかりし子なるべし。」

と、夫婦、よろこぶ事、大方ならず。

 されど、其子、生れて日を經れども、兩の拳を握りて、ひらくこと、なし。

 色々にすれども、ひらかねば、思ひ出し、

「先ごろ、金地院に葬し小兒の再生、うたがひなし。さあらんには、かの墓所の所の土をもつて、洗はゞ、ひらく事も有べし。」

とて、早速、金地院へ人を遣し、右の樣子を述ければ、

「易き御事に候へども、町方と違ひ、武家の墓所なれば、案内なくては、墓所へさはること、後日の沙汰、いかゞ也。是は、南部丹波守殿家中、木村弘といふ人の子の墓なれば、其方へ御沙汰有ㇾ之候はゞ、直に進じ可ㇾ申。」

と答ける故、早速、右、木村弘方へ申遣しけるに、

「それは不思議なる事に候。勿論、いか樣とも勝手次第に致さるべき。」

よし、答て、直に自身にも出行ける[やぶちゃん注:「いでゆきける」。]。

 使のものは、金地院より、土を取りて歸りけるに、金地院にても、不思議に思ひければ、人を附て遣しける。

 扨、右の土をもつて小兒の拳を洗ひければ、握り詰たる手、ひらきし。

 その片手の内に、

――木村弘が家の紋――丸の内に松皮菱の形――うすく、あらはれたりし。

 右の土を以て、なほ、よくよく洗ひければ、あと見えず、おちし、とぞ。

「右、夢中に見えつる僧は、金地院に安置する所の、地藏菩薩なるべし。」

と、ものがたりけるよし。

「誠に、かの小兒は、わが子の再生に疑ひなし。」

とて、木村夫婦、大によろこび、中山寺へ夫婦共に尋行て、親類のごとくいたし候よしなり。

[やぶちゃん注:以下「きゝ書きなり」までは、底本では全体が一字下げ。]

 右の趣、木村弘、直談のよし。

 藝州云、

「奥末人より承り、幷に、老女袖島、金地院へ御代香の節、同寺にて承り候趣ども、あらあら、きゝ書なり。」。

 ある人、添翰[やぶちゃん注:「てんかん」書簡・文書などにさらに添える手紙。紹介・依頼・贈答・訴訟手続の際に添付する文書。挙状。添え状。]。

[やぶちゃん注:以下、クレジット「七月十三日」まで、底本では全体が一字下げ。]

――昨日は一寸ながら拜顏大慶仕候 爾後 彌 御安泰彼ㇾ成御勤賀上俣候 然者拜借の珍書 永々留置奉恐入朕候 則返上仕候 御落手可ㇾ被ㇾ下候 木村弘と申人は 輕き役相勤候由 正說と申趣に尙承り申候 別て[やぶちゃん注:「べつして」。]難ㇾ有寫取置申候 拜顏萬々御禮可申上候 出懸り早々申上候――

 七月十三日

丹羽法葛へ相尋申候處、此通り申越候。

右一編は、今玆文政九丙戊秋九月廿六日、輪池翁の攜て、海棠庵席上にて披講せられしを借抄す。最、奇聞といふべし。

 十月初八          著作堂主人

[やぶちゃん注:それこそこの「手」の類話は枚挙に遑がない。私の「怪奇談集」にも複数あるはずなのだが、直ぐに引き出せない。判ったら、追記する。

「聖護院宮樣」聖護院(しょうごいん)は現在の京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山の寺。「聖護院門跡」とも称する。開山は増誉、本尊は不動明王。嘗ては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであったが、それ以上に、現在でも、本邦の修験道に於ける本山派の中心寺院であると同時に、全国の霞(かすみ:修験道に於ける「縄張り」とも言える支配地域のこと。修験当山派では有力修験寺院(先達)が末端山伏を、人と人との繋がりを通して組織化したため、地域単位の支配は行わず、「霞」という言葉も用いなかったが、これに対し、修験本山派では、院家(京都の若王子・住心院など。本聖護院はその上位を統括するもの)などの先達が一国一郡単位の支配地域を「霞」と呼んで統轄し、これを聖護院門跡が保障するという、地域単位の組織化を進めた。院家などの先達は、在地の有力修験者(年行事や触頭)に霞支配を委任し、得分を上納させた。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)を統括する総本山である。されば、この修験者「中山寺」がその支配の一人であったことが判る。

「柴切通し」現在の東京タワーの北北西の東京都港区芝公園に「切通坂」の名で残る。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「金地院」東京タワー直近に現存する。臨済宗。

「藝州」馬琴の知人の武家安芸守であろうが、不詳。

「奥末人」南部丹波守の奥向き方の下役であろう。

「丹羽法葛」不詳。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 夜景

 

   夜  景

 

高い家根の上で猫が寢てゐる

猫の尻尾から月が顏を出し

月が靑白い眼鏡をかけて見てゐる

だが泥棒はそれを知らないから

近所の屋根へひよつこりとび出し

なにかまつくろの衣裳をきこんで

煙突の窓から忍びこもうとするところ。

 

[やぶちゃん注:底本の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正四(一九一五)年三月発行の『卓上噴水』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年三月号とする。その初出を示す。

   *

 

 夜景

 

高い家根の上で猫が寢てゐる

猫の尻尾から月が顏を出し

月が靑白い眼鏡をかけて見てゐる

だが泥棒はそれを知らないから

近所の家根へひよつこりとび出し

なにかまつくろの衣裝をきこんで

煙突の窓から忍びこもうとするところ。

 

   *

異同は「屋根」が「家根」で、「衣裳」が「衣裝」であるだけであり、これは小学館版編者の消毒と考えてよい。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 三人目の患者

 

  三人目の患者

 

三人目の患者は

いかにもつかれきつた風をして

ぺろりと舌をたらした

お醫者が小鼻をとんがらして

『氣分はどうです』

『よろしい』

『食物は』

『おいしい』

『それから……』

『それからすべてよろしい』

そして患者は椅子からとびあがつた

みろ、歪んだ脊髓のへんから

ひものやうにぶらさがつた

なめくじの神經だの、くさつたくらげの手くびだの……

そいつは眞赤(まつか)の殺人者(ひとごろし)だ。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。底本の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正四(一九一五)年六月発行の『詩歌』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年六月号とする。その初出を示す。

   *

 

 三人目の患者

 

三人目の患者は、

いかにもつかれきつた風をして、

べろりと舌をたらした、

お醫者が小鼻をとんがらして、

『氣分はどうです』

『よろしい』

『食物は』

『おいしい』

『それから……』

『それからすべてよろしい』

そして患者は椅子からとびあがつた、

みろ、歪んだ脊髓のへんから、

ひものやうにぶらさがつた、

なめくじの神經だの、くさつたくらげの手くびだの……。

そいつは眞赤(まつか)の殺人者(ひとごろし)だ。

 

   *

異同は三行目冒頭の「ぺろり」(半濁音)が「べろり」(濁音)である他は、句読点のみであり、「ぺ」「べ」は小学館版の誤判読と考えれば、別稿とは認め難い。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 竹の根の先を掘るひと

 

  竹の根の先を掘るひと

 

病氣はげしくなり

いよいよ哀しくなり

三ケ月空にくもり

病人の患部に竹が生え

肩にも生え

手にも生え

腰からしたにもそれが生え

ゆびのさきから根がけぶり

根には纎毛がもえいで

血管の巢は身體いちめんなり

しぜんに哀しみふかくなりて憔悴れさせ

絹絲のごとく毛が光り

ますます鋭どくして耐えられず

つひにすつぱだかとなつてしまひ

竹の根にすがりつき、すがりつき

かなしみ心頭にさけび

いよいよいよいよ竹の根の先を掘り。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。「耐え」及び「ついに」はママ。「憔悴れさせ」は「やつれさせ」と訓じていよう。底本の「詩作品發表年譜」によれば(左ページ「225」の三行目だが、前の「玩具箱」の頭の植字を誤植していて、「玩の根の先を掘る人」と竹具箱」になってしまっている)、初出誌を大正四(一九一五)年三月発行の『卓上噴水』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年三月号とする。その初出を示す。

   *

 

 竹の根の先を掘るひと

 

病氣はげしくなり

いよいよ哀しくなり

三ケ月空にくもり

病人の患部に竹が生え

肩にも生え

手にも生え

腰からしたにもそれが生え

ゆびのさきから根がけぶり

根には纎毛がもえいで

血管の巢は身體いちめんなり

ああ巢がしめやかにかすみかけ

しぜんに哀しみふかくなりて憔悴れさせ

絹絲のごとく毛が光り

ますます鋭どくして耐えられず

つひにすつぱだかとなつてしまひ

竹の根にすがりつき、すがりつき

かなしみ心頭にさけび

いよいよいよいよ竹の根の先を掘り、

 

   *

御覧の通り、「ああ巢がしめやかにかすみかけ」一行の欠損がある。しかし、その他は終わりの行の句読点の違い以外は完全に一致している。

 私は中学時代に萩原朔太郎の「竹」に遭遇して以来の萩原朔太郎という「疾患」の「感染者」であり、致死的にして不滅の痙攣的な彼の霊的にして病的な「竹」詩群には拘りがあるホスピス患者である。知られた「月に吠える」のそれは、二〇一八年に作った、

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹 (同題異篇)

が決定版であるが、それより前の二〇一三年には、本ヴァージョンである、

竹の根の先を掘るひと 萩原朔太郎 (「竹」別ヴァージョン)

と、

竹 萩原朔太郎 (「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)

を電子化注している程度にはファナティクな朔太郎性竹シンドローム罹患者なのである。

 されば、本篇の画像診断であるが、「ああ巢がしめやかにかすみかけ」一行の欠損以外には終行の読点の違いしかないという本篇映像は、正直、遺稿草稿とするのには、私は、躊躇を感ずる。これだけの分量に増殖した病巣で、他に病変(異同)がないというのが、底本編者という担当執刀医には悪いが、一行欠損はオペのミスである可能性が強く疑われるからである。

 無論、草稿別稿なのかも知れぬが、「ああ巢がしめやかにかすみかけ」のない本篇は、初出に明らかに劣る。やはり、別稿ではなく、編集ミスとしたい。

2021/11/25

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (21) 近松巢林子とシェクスピア

 

      近松巢林子とシェクスピア

 

        

 前章までに私は、探偵味と怪奇味とに富んだ日本の犯罪文學を紹介したから、これから私は、犯罪心理の描寫にすぐれた犯罪文學を紹介しようと思ふのであるが、さうなるとその範圍が極めて[やぶちゃん注:底本は「柄」。国書刊行会本で訂した。]廣くなつて、殆んど手のつけ樣がないから、先づ德川時代の『大衆文藝』とも稱すべき淨瑠璃を選び、その最も秀れた作者であつた近松門左衞門翁の作品の解剖を試み、それと同時にシェクスピアの作品をも紹介して置かうと思ふのである。近松を日本のシェクスピアと呼ぶことの當否は、もとより私の關しないところであつて、私はたゞ何となしに二人を並べて見たのに過ぎないのであるが、兩者の作品を比較硏究することは、犯罪心理學上決して興味が少なくないのである。

[やぶちゃん注:「近松巢林子」(さうりんし)は近松門左衛門(承応二(一六五三)年~享保九(一七二五)年:本名は杉森信盛)の号の一つ。

「シェクスピア」ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare 一五六四年四月二十六日(洗礼日)~一六一六年 )。]

 さて、巢林子もシェクスピアも隨分澤山の作品を遺して居るので、その中の犯罪を取り扱つたものを一々紹介するのは不可能であるから、巢林子の作では『女殺油地獄』シェクスピアの作では『マクベス』を選んで、兩巨匠の描いた犯罪者を考察して見ようと思ふのである。『女殺油地獄』の中には、河内屋與兵衞という環境によつて生じた犯罪者が取り扱はれ、『マクベス』の中にはマクベスといふ先天的犯罪者が取り扱はれてあるので、彼等が殺人の前後に於ける心的經過を比較するに頗る好都合である。

[やぶちゃん注:「女殺油地獄」享保六(一七二一)年、人形浄瑠璃として初演。当該ウィキによれば、『人気の近松作品と言うことで』、『歌舞伎でも上演されたが、当時の評判は芳しくなく、上演が途絶えていた。ちなみに、実在の事件を翻案したというのが定説だが、その事件自体の全容は未詳である』とある。私は文楽で二度見たが、どうも世話物の悪漢物としては、与兵衛の天性の極悪非道情け無しの絶対の非人間的悪党性が、全く感情移入を拒否して、頗る後味が悪く、奇体なアクロバティクな演出を含めて、あまり好きな作品ではない。梗概は当該ウィキを参照されたい。なお、以下で引用される本文(台詞)へ私が振った読みは、主に国立国会図書館デジタルコレクションの明治二四(一八九一)年文学書院刊の「女殺油地獄」を参考にした。

「マクベス」(Macbeth )は一六〇六年頃に書かれた傑作戯曲。私は彼の作品の中で「ハムレット」ハムレット(Hamlet :一六〇一年頃成立)に次いで好きな作品で、舞台・映画化の鑑賞回数は数十回に及ぶ。梗概は当該ウィキを参照されたい。なお、以下の二人の参考紹介作品に就いては注さない。]

『女殺油地獄』は、巢林子の六十九歲の作であつて、晚年に於ける三名作(『心中天網島』と『心中宵庚申』とを併せて)の一つであるばかりでなく、巢林子のあらゆる作中、最も優れたものであるとさへ言はれて居る。それと同じく『マクベス』も、シェクスピアの三傑作(『ハムレット』と『オセロ』とを併せて)の一つであつて、五十二歲で死んだ作者の、四十二歲の時の作物であるから、いはゞ作者の腕の圓熟した頃のものである。だから『油地獄』と『マクベス』はそれぞれ巢林子と沙翁の代表作と見倣すも差支なく、實際、犯罪文學の立場から言つても、この二つは傑作中の傑作といひ得るのである。ことに巢林子には、『油地獄』の外に取り立てゝいふ程の犯罪文學はなく、『源氏冷泉節』の毒殺心理や『丹波與作』の窃盜心理などは『油地獄』ほど深いところまで立ち至つては居らないのであるから、巢林子の『犯罪觀』をうかゞふべき作品は、『油地獄』より外に無いといつてもよいのである。尤も『心中』卽ち複自殺の心理を廣義の犯罪心理と見倣せば、いふ迄もなく、近松翁の作品には、應接に遑のないほど取り扱はれて居る。

 『油地獄』の中には、極めて我まゝに育つた靑年が、金に困つて知人の細君を殺すといふ突發性の犯罪が描かれてあり、『マクベス』には、癲癇を持つたマクベスが、幻視によつて王位を奪い得るものと確信し、國王を弑するといふ、計畫された殺人が描かれてあつて、前者は當時の市井の出來事からヒントを得、後者はホリンシェツドの『編年史』から題材を得たのであつて、ことに『油地獄』に關しては、作者が別段の用意もなく、今日の新聞の三面種を取り扱ふほどの輕い氣持で書いたらしいといふ說をなす學者もあるが、すべて、天才は、たとひ不用意のうちに筆を執つても、人間を觀察する眼に狂ひがないから、やはり立派な作品が生れるのであつて、丁度、兩親の不用意のうちに作られた天才その人が、硏究に値すると等しく、その天才の不用意な作品もまた深重に硏究すべきものであると思ふ。

[やぶちゃん注:「ホリンシェツドの『編年史』」イングランドの年代記作家ラファエル・ホリンズヘッド(Raphael Holinshed 一五二九年~一五八〇年)。一般的に「ホリンズヘッドの年代記 」(Holinshed's Chronicles )として知られる彼の作った年代記はシェイクスピアが数多くの戯曲を書く上で重要な情報源として利用している。]

 

          

 

『女殺油地獄』は上中下の三卷からなつて居る。上卷には野崎詣り、中卷には山上詣《やまがみまひ》り、下卷には端午の節句を鹽梅して舞臺效果を多からしめて居るが、劇としての『油地獄』を論ずるのが目的でないから、こゝではたゞ大たいの筋書きを紹介するにとゞめる。

 大阪、本天滿町、豐島屋七左衞門の妻お吉(二十七歲)が、三人の娘をつれて、野崎詣りの道すがら、ある茶店に休んで居る、とお吉の家の筋向ひに住む當年二十三歲の河内屋與兵衞(主人公)が二人の色友達とやつてくる。お吉は與兵衞に向つて『お前さんには、新地の天王寺屋小菊、新町の備前屋松風といふ御馴染がある筈、こんなときに何故一しよに連立つて御出でにならぬか』[やぶちゃん注:底本では最初の二重鍵括弧がないが、国書刊行会版で加えた。]とカマをかける。すると與兵衞は『連立つて來るつもりであつたけれど、松風は先約があるといふし小菊は方角が惡いと逃げ居つたが、きけば小菊は會津の客につれられて、野崎詣りに來たといふことだから、小菊を待伏せして一出入するつもり』だと答へる[やぶちゃん注:ここも二十鍵括弧閉じるが欠落している。国書刊行会版の位置に加えた。]。それをきいてお吉は『かねがね私はあなたの御兩親から、與兵衞に意見をして下さいと賴まれて居ます。どうぞ人前で恥をさらさないやうにして御兩親を安心させてあげるやうにして下さい』

 といつて去る。

 間もなく小菊が會津の客とこちらへやつて來る。與兵衞たち三人は、その前に立ちはだかつて、小菊を貰ふからさう思へと言い渡す。すると會津の客は、案外物に驚かず、與兵衞の二人の友だちの一人を川に蹴こみ、一人を追ひ散らしてしまつたので、遂に與兵衞は組打ちを始め、二人とも小川の中へまろび落ちてしまふ。丁度そこヘ一人の武士が郞黨を連れ馬に乘つて代參に來たが、與兵衞のために泥水をかけられたので徒士頭の山本森右衞門が、與兵衞を捕へて見ると、與兵衞は自分の甥に當る故、一且はびつくりしたが、身うちのものとあれば尙更容赦はならぬと、討ち捨てようとすると、馬上の武士は、參詣の濟む迄は怪我をさせてはならないと押しとどめ、一行は與兵衞を殘して去つてしまふ。

 與兵衞は、『南無三伯父の下向に切るゝ筈、切られたら死のう[やぶちゃん注:底本は『死う』。国書刊行会本で補った。]、死んだらどうしよ』と氣も轉倒せんばかりに怖氣つき、兎にも角にも逃ようと思つたが、さて何處へ逃げたらよいだらうかと迷つて居ると折しも其處へ最前のお吉が戾つて來る。これ幸と與兵衞はお吉に向つて、『いゝところへ來て下さつた、わたしはかうして居れば切られてしまふから、大阪へつれて行つて下さい』と賴む。お吉は『いゝえ、私はまだ歸るのではありません。七八町行つたところ、あまりに人が多いので、良人を待ち合せるために引き返して來ただけです。だが一たいその泥はどうなさつたのです?』といつて、事情をきゝ、『それでは洗濯をしてあげませう』と茶店の奧へはひつて行く。そこへお吉の良人七左衞門がきて、姉娘から、お吉と與兵衞とが、茶店の奧で衣服を脫いだり、帶を解いたりして居ることを聞いて大に嫉妬の情にかられるが、やがて奧から二人が出て來て、與兵衞が申譯をすると、七左商門は碌に返事もしないで妻子を連れて去つてしまふ。と、折あしくも先前の武士の一行が歸つて來て、森右衞門が刀の柄に手をかけようとすると、武士は鷹揚にかまへて肋けてやれといふので、與兵衞はほつとする。以上が上卷の梗槪である。

 中卷では、與兵衞の家卽ち河内屋德兵衞の油屋の店が舞臺となつて居る。山上參り(吉野金峯山に登ること)の連中がどやどやとやつて來て、『與兵衞はどうした。今日俺達の歸つて來ることがわかつて居るに、出迎ひもせぬとは、どこか氣分でも惡いのか』といふ。德兵衞が走り出て『うちのどろめは山上參りの行者講のと、今年も自分の手から四貫六百、順慶町の兄太兵衞から四貫取つて、迎ひにも出ぬとはひどい奴どうぞ友だちとして意見してやつてくれ』と賴む。ところへ、奧から母親も茶をもつて出て、『與兵衞が山上さまへ噓をついた罰が、妹娘のおかちにあたつて、十日ばかり風邪氣で寢て居ますけれど醫者にかゝつても一向なほりません。どうか皆さま御祈禱を賴みます』といふ。すると講中の一人は、『罰ならば與兵衞に當る筈。娘御の病氣は別のことだらうがそれには白稻荷法印《しろいなりほふいん》といふ山伏を御賴みなさるがよい』といひ置いて去つてしまふ。

[やぶちゃん注:「どろめ」息子の与兵衛を指して言った卑称。他に「どろく者」とも呼んでおり、推定だが、これは「泥奴」で「泥に穢れた者」の謂いか。それは先の徳庵堤での「泥」を投げ合って、「泥」まみれになるという「穢れ」が伏線としてあり、究極の豊島屋での「どろ」りとした油に塗れて忌まわしい人殺しとなる場面への再伏線ともなっている。]

 するとそこへ、與兵衞の兄なる順慶町の太兵衞がたづねて來る。太兵衞も與兵衞も、德兵衞の生《な》さぬ仲の子である。卽ち德兵衞の舊主人の子で、彼は舊主人の死後舊主人の内儀と一しよになつたのである。太兵衞は德兵衞に向つて、『今も道で母に逢つて話したことだが、伯父森右衞門からの文面によると、先月與兵衞が御主人へ狼籍に及び、そのため居づらくなつて浪人したとの事、誠に以ての外の人間、一日も早く勘當してしまひなさい。一たい、常日ごろ、親仁樣が手ぬるい。自分の種でないといつたとて、母の良人である以上眞實の父だ。おかちを打たゝいても、あの馬鹿者に拳一つあてぬやうにしなさるので、却つてあいつのためにならない。たゝき出して來《こ》されゝば、どこかひどい主にかけて、ため直してやりませう。』といふ。德兵衞は無念顏、『親且那の往生の時はそなたは七ツ、與兵衞は四ツ、德兵衞どうせいこうせいといつたことを彼奴《あいつ》はちやんと覺えて居るのだ。伯父森右衞門殿の了簡で、是非にと言はれて、親方の内儀と女夫《めをと》になり、そなたは立派に育つたが、與兵衞めはそれと反對で、商賣の手を擴めさせようと思つても、壹匁《もんめ》もうければ百匁つかう根性、意見一言いへば、千言でいひ返す。誠にこの身の境界がつらい。』と嘆く。太兵衞はそれからしきりに勘當をすゝめると折しも奧の方でおかちが眼をさまして苦しがり、門口へは白稻荷法印が見舞にやつて來る。太兵衞が去ると、入れちがひに、空樽をかついだ與兵衞が歸つて來て、法印に挨拶し親仁に向つて、『親仁殿おかちの病より大事なことがある。跡の月野崎で伯父樣にあつたら、主人の金を三貫目つかひこんだから返さなければ切腹だ、是非調べてくれとの事。その當座母に話したが今ふと思ひ出した。これからわたしが持つて行つてあげるから、是非出して下さい。』といふ。たつた今太兵衞からきいたことがあるので、德兵衞は相手にせず、法印を案内しておかちのところへ連れて行く。法印が祈禱を始めるとおかちは顏をあげ、『私の病直すには、聟殿の話をやめて、與兵衞の戀人を請出し、この世帶を渡してくれ』と、夢中になつて口走る。法印はそれを物ともせず祈つて居ると與兵衞が出て來て追ひ出してしまひ、さて、親仁に向つて、『親仁どの、今のおかちの言葉は死んだ父の死靈が言はせたのだ。死靈の言葉どほり、この與兵衞に世帶を渡したらどうだ』といふ。德兵衞は怒つて『渡せぬ』といふ。『扨は妹に聟を取つて世帶を渡すな?』『さうとも』これをきいて與兵衞はカツと怒り、德兵衞を踏のめらし、肩や背中を足蹴《あしげ》にする。妹はびつくりして、『みんな兄樣の言いつけで死靈のついた眞似をしたのに、父さまを蹴るとはひどい』といつてとゞめようとすると、與兵衞は妹をも踏み伏せる。

 折しもそこへ母親が歸つて、與兵衞のたぶさを引つかみ、橫投げにのめらせて、目鼻の差別なくなぐりつける。さうして散々叱つたあげく、『半時も此内に置くことはならぬ、勘當ぢや出てうせう』と淚ながらに打たゝく。與兵衞はこれをきいて、『こゝを出たら、どこへも行く所がない』といふ。母が天秤棒で追ひ出さうとすると、與兵衞はそれを奪つて母に向つて打ちかゝる。德兵衞は、今は見るに見兼ね、更にその天秤棒を奪つて、息もつがせず六ツ八ツ打ち續ける。さうして自分のつらい心持ちを訴へると、母は、『うぢうぢひろがば町中《まちなか》よせて追ひ出す。』といつたので、町中といふ言葉に、さすがの與兵衞もびつくりして、ふらふらと出かける。德兵衞はその後を見送り、『あいつが顏付背恰好、成人するに從ひ死なれた且那に生寫《いきうつし》。あれあの辻に立《たつ》たる姿を見るに付、與兵衞めは追出さず、且那を追出す心がして、勿體ない悲しいわいの』と淚ながして悲しむ。といふのが中卷の梗槪である。

[やぶちゃん注:「ひろがば」「言うととなら」の意。]

 下卷の舞臺は、河内屋の筋向ひ、豐島屋の店。五月四日の夜である。女房お吉一人三人の娘を寢させて留守番をして居ると、掛取りに出た良人七左衞門が中休みに立寄り、掛金として集《あつま》つた五百八十目を預けて再び出かけて行く。と、其處へ勘當された與兵衞が、油二升入の樽をさげて來て、門の口から豐島屋をのぞきにかゝると、後《うしろ》の方で、『與兵衞ではないか。』と呼ぶ者がある。見ると上町の口入綿屋小兵衞、『あゝいゝところで出逢つた。順慶町へ行けば、本天滿町の方だといひ、本天滿町ヘ行けば勘當したといふ事だつた。お前さんが留守でも親仁さんの判、新銀一貫目、今宵延びれば明日は町へことわるからそのつもりで御いでなさい。』といふ。與兵衞は驚き、『手形の表は一貫目だが正味は二百目、今夜中に返せばいゝぢやないか。』『さうとも、明日の朝六ツ迄にすめば二百目、五日の日がによつと出ると一貫目。』かういつて綿屋は歸つて行く。與兵衞がはたと當感して居ると提燈をとぼして親仁の德兵衞がやつて來る樣子、はつと思つて、彼は平蜘蛛のようにつくばつてしまふ。

 德兵衞は豐島屋の店へはひつて、お吉に向い、『與兵衞は此頃生みの母が追出したので止められもしなかつたですが、きけば今順慶町の兄の方に居るといふこと、若し狼狽《うろた》へてこちらへ來ましたら、父親は合點だから、母にわびをして再び戾るやうに意見して下さい。ここに三百女房に内證で持つて來ましたから、私から出たといはずあなたの手で渡してやつてくれませぬか。』と賴む。[やぶちゃん注:底本は句点なし。国書刊行会本で補った。]するとそこヘ母親お澤が裏口からたづねて來て、『德兵衞殿、何しにござつた。與兵衞にやるとて三百持つてござつただらう。そのあまやかしがいけない。さあさあ早くいなしやれ。』と引立てようとする、德兵衞が言ひ譯すると、お澤はなほも追ひやらうとする。歸るなら一しよに歸らうと、德兵衞がお澤を引張ると、その途端に母の袷の懷から粽《ちまき》一わと錢五百が落ちる。お澤は狼狽し、『あゝ堪忍して下され德兵衞殿、いくら鬼子でも、母の身でどうして憎からう。けれど、母が可愛い顏をしてはいかぬから、無理につらくあたりました。私に隱して錢をやつて下さる心は、口ではけんけんいつても心では三度いたゞきました。私も實はあいつの可愛さに店の錢五百を盜んでお吉樣に屆けて貰はうと思ひました』と泣く。結局お吉の取計らいに任せて夫婦二人は歸つて行く。

 兩親の歸るのを見屆けた與兵衞は、『心一つに打うなづき、脇指拔て懷中に、さいたるくゞりとあけ』[やぶちゃん注:開始の二重鍵括弧が逆。訂した。]、『七左衞門殿はどちらへ、定めし掛もよつたことでせう?』と言ひながらはひる。お吉は與兵衞の姿を見て、『あゝ、いゝ所へござつた。この錢八百と粽が、あなたに遣れと天から降つて來ました。』といひ乍ら差出す。與兵衞は驚かず、『これが親たちの合力《かふりよく》か』といふ。『ちがひます。』『いやわかつて居る。先前から門口で蚊に喰はれて、親たちの愁嘆きいて淚をこぼしました。』『そんならよく合點がいつた筈、これからは心を入れ替なさい。』『いや、孝行したくても、肝腎の錢が足らぬ。賣溜め掛金がある筈だから三百目貸して下さらぬか。』お吉はびつくりして、『それでは必ず直つたといへぬではありませんか。金は奧の戶棚に上銀が五百目あまりあるが、良人の留守には一錢も貸すことなりません。いつぞやの野崎參りに着物を洗つてあげてさへ、不義したと疑はれ、言ひ譯に幾日もかゝりました。良人の歸らぬうちに早く去んで下さい。』與兵衞はそばへにじり寄り、『不義になつて貸して下さい。』といふ。『いけません。』『是非。』『女と思つてなぶらしやると聲を立てますよ。』『實は先月の二十日に親仁の謀判《ぼうはん》をして上銀二百匁今晚切りに借りたのです。明日になれば手形どほり一貫匁で返す約束、而も親と兄を始め兩町の五人組へ先方でことわる筈、とても才覺出來ぬので自害しようと、この通り脇指をさいて出ましたが、只今兩親の歎《なげき》をきゝ、死んだあとで親仁へ難儀のかゝることは不孝の上塗りと知り、詮方なさに賴むのです。たつた二百目で與兵衞の命が肋かります。どうか貸して下さい。』

 お吉はこれを與兵衞のいつもの手と察し、どうしても承知しない。そこで與兵衞は考へて、『そんなら、せめてこの樽に油二升取替へてくれませんか?』といふ。『それは易いこと。』とお吉が油をつめかゝると、與兵衞はお吉の後へしのび寄り、刀を取り出す。ピカリと光つたのでお吉はびつくりして、『何でした』といふ。『何でもない。』『いやいや、それ、急度《きつと》目がすわつて、恐ろしい顏色、手を出して御覽なさい。』與兵衞は刀を背後で持ちかへて手を出す。お吉は氣味を惡がり逃出さうとする。躍りかゝつて與兵衞はお吉の咽喉笛を剌す。苦しい中から、お吉は『助けて下さい。三人の子が可愛い。[やぶちゃん注:句点は私が附した。]金は入るだけ持つて行つて命だけは助けてくれ』と哀願する。『ヲヽ死にともない筈。尤々《もつとももつとも》。こなたの娘が可愛程、己《おのれ》も己を可愛がる親仁がいとしい。金拂うて男立てねばならぬ。諦らめて死んで下され。口で申せば人が聞く、心でお念佛、南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。』と、たうとう殺してしまふ。かくて與兵衞は死顏を見て、心を亂し、戶棚から金を盜み出して逃げ去るのである。

 舞臺が變つて遊廓となり、與兵衞の伯父、森右衞門が近頃與兵衞の身持が一層惡くなつたときゝ、ことに女殺して金取つたのも與兵衞らしいといふ世間の評判を心配して、備前屋の松風の許をたづねると、入れちがひに一人の男が出て來る。松風が、『つい先程見えられたが曾根崎へ用事があるといつて去られた』といふと『それではもう一つたづねるが、五月の節句前か後で、金を澤山つかつたことは御座らぬか。』といふ。『金のことは知りません』といつて松風は奧へはひる。森右衞門は仕方なく曾根崎の方へ去る。

 與兵衞は小菊に逢ふため曾根崎の花屋に來ると、後家のお龜が出迎へて上らせ、それから油屋の女房殺しの芝居の話をする。與兵衞が不安を覺えて、無茶酒をのんで居ると、友人が訪ねて來て、『お前を侍がたづねて居るぞ』と告げる。びつくりして樣子をきくと叔父らしいので、逢つては面倒と、新町に紙入を忘れて來たといつはつて逃げ出す。その跡へ森右衞門がたづねて來て、花車に逢ひ、新町へ去つたときいて殘念がり、『こんど與兵衞が來たら、酒でも呑せて留め置き、本天滿町の河内屋へ知らせて貰ひたい。[やぶちゃん注:句点は私が打った。]只今來がけに櫻井屋源兵衞方へ立寄つてきくと、五月四日の夜に、大金三兩、錢八百受取つたといふことだが、こゝへ幾ら拂つたか。』『私方へも大金三兩、錢一貫文』『その夜は何を着て參つたか』。『廣袖の木綿袷、色はたしか花色だつたと思ひます。』『よろしい。』と森右衞門は去る。

 再び舞臺は𢌞つて、お吉の家では三十五日の逮夜《たいや》がつとめられて居る。同行の人々が、七左衞門をなぐさめて居る折しも、居間の桁《けた》梁《うつばり》を通る鼠が、反古《ほご》をちらりと蹴落して行つた。七左衞門が見ると、血のついた半切紙に一ツがき、十匁一分五リン、野崎の割付五月三日とある。[やぶちゃん注:句点は国書刊行会本で補った。]どうやら見たやうな筆蹟だと同行に見せると、河内屋の與兵衞の手だときまり、さては去る四月十日、與兵衞は三人づれで野崎詣りに行つたさうだが、その割付にちがひない。これでお吉を殺した犯人も知れました。亡者が知らせたにちがひありませんと喜ぶ。とその時、『河内屋の與兵衞です』と、當の本人がはひつて來て『三十五日の逮夜になつても、犯人が知れぬで御氣の毒です』と弔詞をのべる。七左衞門は、『おのれ、お吉をよくも殺した』と躍りかゝる。やがて挌鬪《かくとう》[やぶちゃん注:「格鬪」に同じ。]が始まり與兵衞が逃げ出すと、表に捕吏《とりて》が居て難なく取り押へる。捕吏の後から森右衞門が聲をかけ、『もうかうなつたら潔く往生せい。世間の風說をきいて、あらわれぬ先に自害をすゝめようと、新町や曾根崎をたづねたが、いつも後ヘばかり行つたのは貴樣の運の盡だ。おい太兵衞その袷をこゝへ持つて來い。これは五月四日の夜に貴樣の著たもの、所々のきは付こはばり、お役所からの御不審、只今その證據調べだ。誰か酒を持つて來てくれい。』酒をかけると果して朱の血潮に變つた。與兵衞も今は覺悟を極め、大聲を出して、『一生不孝放埓の我なれども、一紙半錢盜みといふ事終にせず、茶屋傾城屋の拂は、一年半年《はんねん》遲《おそ》なはるも苦にならず、新銀一貫匁の手形借り一夜《ひとよ》過ぐれば親の難儀、不孝の科《とが》勿體なしと、思ふ計に眼付《まなこつけ》、人を殺せば人の歎き、人の難儀といふことに、ふつゝと眼付《まなこつ》かざりし、思へば二十年來の不孝無法の惡業が、魔王と成て與兵衞が一心の眼を眩まし、お吉殿殺し金を取しは河内屋與兵衞、仇も敵も一ツひぐわん。南無阿彌陀佛。』といひ、繩を受けて、この一篇の悲劇は終るのである。

[やぶちゃん注:「逮夜」「大夜」などとも書き、古くは葬儀の前夜を指したが、年忌や忌日の代用語として用いられる。ここは現在は行われることがまずない、三十五日法要のこと。故人が亡くなった命日から数えて、三十五日目に行う法要を指す。]

 

        

 

 以上の梗槪からもわかるとほり『油地獄』の最後の部分には探偵的興味まで加はつて、いはゞ一種の優れた探偵文學となつて居り、作品全體が濃厚な近代的色彩を帶《お》んで居て、鋭い人生批評が加へられてあるために、當時の興行上の效果は却つてあまり良好ではなかつたといはれて居る。

 この作に於て、作者は、如何に環境が犯罪性を釀成するかを痛烈に示さうとして居る。與兵衞の犯罪性には少しの遺傳的分子も加はつて居ない。實父、伯父、實母、實兄、すべて皆善人である。彼にはまた肉體的不具もなかつた。母親お澤が與兵衞を折檻する言葉に、『德兵衞殿は誰ぢや、おのが親。今の間に、脚が腐つて落《おち》ると知らぬか、罰あたり、おとましやおとましや、腹の中から盲《めくら》で生れ、手足かたはな者もあれど、魂は人の魂。己が五體何處を不足に生付《うまれつい》た。人間の根性何故さげぬ。父親が違ひし故、母の心がひがんで、惡性根入るといはれまいと、さす手《て》引手《ひくて》に病《やみ》の種。おのれが心の劒で、母の壽命を削るわい。』とあるのを見ても、彼が圓滿な體格を具へて居たことがわかる。さうして、これをかのシェクスピアの『リチャード三世』の中で、不具者リチャードを生んだヨーク公爵夫人がリチャードに向つて言つた言葉と比較して見ると頗る興味がある。卽ち『おのれはこの下界をわしの地獄にするために生れて來おつたのぢや。生れる當座もわしを苦しませおつたのぢやが。頑是ない頃から我儘で、剛情で、學問を始めるやうになつてからは、怖ろしい亂暴な、氣の荒い子で丁年《ていねん》[やぶちゃん注:成人。]になつては大膽不敵で、向う見ずで、それが年を取つてからは、高慢で、狡猾で、慘忍で、以前よりは外面が溫和になりおつたゞけに、口と心とは裏表の不信不義、深切《しんせつ》めかしては人を陷擠《おとしい》れるわるだくみ!』(坪内氏譯による)とあつて不具變質者の犯罪性の發達の經路が遺憾なく述べられてある。與兵衞の母親の言葉の中には、『育ち』が犯罪性を作ることが言ひ表はされ、リチャードの母親の言葉には、生れながらの犯罪性は、自然に發展して行くものであることが述べられてある。先天的犯罪者リチャードは、子供の時分から狡猾であつて世間の表裏をよく知つて居たにかゝはらず、境遇によつて作られた犯罪者與兵衞は世間といふものを少しも知らぬ『坊ちやん』であつた。氣儘に育つた彼は自分の欲望ならばどんなことでも叶ふものと思ひ込んで居たがために犯罪の何ものであるかといふことさへ知らなかつた。『まだ此上に根性の直る藥には、母が生肝《なまきも》を煎じて飮《のま》せいといふ醫者あらば、身を八ツ裂も厭はね共《とも》』といふくらゐの母親の盲目的な愛と、『此德兵衞は親ながら主筋《しうすぢ》と思ひ、手向ひせず存分に踏《ふま》れた。腹を借《かり》た生《うみ》の母に今の樣、傍《そば》から見る目も勿體なうて身が震ふ。今打《うち》たも德兵衞は打たぬ、先《まづ》德兵衞殿冥途より、手を出してお打なさるゝと知ぬかやい。おかちに入聟取といふは、跡方もないこと。エヽ無念な、妹に名跡《みやうせき》繼《つが》せては、口惜《くちをし》と恥入《はぢいり》、根性も直るかと、一思案しての方便。あの子は餘所へ嫁入さする、氣遣ひすな。他人どし親子と成《なり》は、よくよく他生の重緣と可愛さは實子一倍。疱瘡した時日進樣へ願かけ、代々の念佛捨て百日法華に成《なり》』といふくらゐの父親の義理を思ふ愛の中に育つたのであるから、彼の氣儘は極端に增長したのである。無論、同じ家に育つた兄の太兵衞が正直な人間になつたところを見れば、與兵衞には、我儘放埓に陷るべき先天的素質があつたと解釋しても差支ないけれど、少なくとも近松翁は、與兵衞を先天的犯罪者にしようとは思はなかつたやうである。

[やぶちゃん注:小酒井不木は身体に障碍があることを先天的犯罪性と結びつけようとする偏見があることを批判的に読む必要がある。

「リチャード三世」シェイクスピアの史劇。正式なタイトルは「リチャード三世の悲劇」(The Tragedy of King Richard the Third )。初演は一五九一年。そこでシェイクスピアは主人公リチャード三世を、先天的に背骨が大きく曲がって瘤があり、足を引き摺る人物として描いているが、実際の当人の遺骨の調査によって、これは創作だったことが判っている。実際の彼は、背骨が曲がる脊柱後湾の症状はあったものの、重度ではなく、衣服や甲冑を着れば、隠れる程度のものであった。]

 かくの如く、親子の眞の道を敎へられなかつた與兵衞は、成長しても子供のまゝの野蠻性を失はなかつた。その野蠻性は野崎詣りの場面に於いて喧嘩によつてはつきりあらはされてあるが、その喧嘩の當時、伯父に逢つたことを種にして、兩親を欺いて金を取らうとした奸智は、その野蠻性の發現とも見られぬでもないけれど、むしろ、惡友の感化によるといつた方が適當であるかも知れない。遊里に足を踏み入れた彼は、お定まりの金に窮し、始めて世の中が我が意の如くならぬことを知り、父母を詐《あざむ》かうと謀つたのである。さうして更にその奸智は進んで父の謀判を企て、妹に死靈のついた眞似をさせるに至つた。然しながら彼は決して盜みをしなかつた。彼が捕へられた時の述懷に『一紙半錢盜みといふ事終にせず。』とあるのを見ても、盜むことを惡いと考へて居たことは事實である。それにも拘はらず父の謀判を企てたのは、父を詐いたり、父に迷感をかけたりするぐらゐは罪惡であると思つて居なかつたのである。このことは『お坊ちやん育ち』の人が屢ば陷る危險の穴である。世間知らずの人が、他人に煽動されて、罪惡と知らず大事を取り出來《でか》すのは、法律上の罪惡を恐れて、道德上の罪惡を恐れないからである。與兵衞は卽ち、父母に對してどんな罪惡を行つても、それは當然許さるべきものであると思つて居たのである。

 ところが愈よ勘當されるとき、母が『町中よせて追出す』と言つたのをきいた彼は、始めて自分以外に世間といふものゝあることを知つてぎよつとした。天秤棒に怖れなかつた彼も、世間の『法』には恐怖を感じたのである。愈よ勘當されて見ると、彼は始めて道德の存在に氣が附いたのである。勘當された彼は、さしづめ兄の太兵衞の家に行つた。さうして『絕望』を感じて居たところへ、しみじみ意見され、兩親の尊いことを知り、ことに義理ある父は、一層尊敬せねばならぬことを悟つたのである。

 さう悟ると共に、彼は、父の謀判したことをこの上もない惡いことだと思ふに至つた。而《しか》も五月四日の晚までに返さねば五人組へも知らせるといふ貸主との契約であつたので、彼は居ても立つても居られず、金の工面が出來ねば自殺しようと決心し、豐島屋へ來たのである。來て見ると、兩親たちは、自分の罪を惡《にく》むどころか、却つて慈愛ある處置を取らうとして居たので、愈よもつて父親に難儀をかけてはならぬと思つたのである。さうして彼は、如何なる手段を講じても、三百目の金を調へねばならぬと決心したのである。彼はその時人一人殺す罪よりも、父親に難儀をかけるのが堪へられなかつた。で、お吉を殺して金を奪はうと咄嵯の間に思ひ立つたのである。お吉が血に染りながら三人の子のあることを訴へても、もはや彼の心は動かなかつた。さうして、『こなたの娘が可愛程、己も己を可愛がる親仁がいとしい』と彼は言ひ放つた。これをリチャード三世が、『亡兄の女と結婚をせにやならん。然《さ》うせんと、おれの王國は脆い硝子の上に載ツかつて居るといふ爲體《ていたらく》[やぶちゃん注:国書刊行会本では『したい』とルビを振るが、従えない。]だ。弟どもを殺しておいて、さうしてその姉娘と結婚するというのは、大ぶ際どい遣り口だ!けれども血の中ヘ踏込んだ以上、罪惡を突つき出すのも止むを得ない。淚ぽたぽたの憐憫なんかは、おれの眼中にや住んで居ない』(坪内氏譯による)といつた言葉と對比して見ると、リチャードは罪惡そのものに陶醉して居るに反し、與兵衞は、已むに已まれず罪惡を犯して居ることがわかる。

 さて、一旦お吉を殺して見ると、今まで思ひも寄らなかつた恐怖が、お吉の死顏をみた瞬間からむらむらと起つて來た。近松翁は、その時の與兵衞の恐怖を次の如き麗筆を以て述べて居る。

[やぶちゃん注:以下の引用部は底本では全体が一字下げ。]

『日比の强き死顏見て、ぞつと我から心もおくれ、膝節《ひざぶし》がたがたがたつく胸を押しさげさげ、提《さげ》たる鎰《かぎ》を追取《おつと》つて、覗けば蚊帳のうちとけて、寢たる子供の顏付さへ、我を睨むと身も震へば、つれてがらつく鎰の音、頭《かうべ》の上に鳴神の落かゝるかと肝にこたへ、戶棚にひつたり引出すうちがひ上銀《うへぎん》五百八十匁、宵に聞たる心當《こころあたり》。ねぢ込《こみ》ねぢ込ふところの、重さよ足もおもくれて、薄氷《はくひやう》を履《ふむ》火焰踏《ふむ》、此脇指《わきざし》はせんだの木の橋から川へ、沈む來世は見えぬ沙汰[やぶちゃん注:「見えぬ」は底本も国書刊行会本も「見える」であるが、二種の「女殺油地獄」版本で確認して訂した。]、此世の果報の付時《つけどき》と、内をぬけ出《いで》一さんに、足に任せて』

 これをかのフランスの大犯罪者ラスネールが、知己のシャルドンとその母を殺して寢臺を戶棚のそばに引き寄せ、戶棚の中の金をさがして居るとき、室《へや》の時計が『チン』と一つうつたのをよく覺えて居たことと比較すると、先天性犯罪者と、偶發性犯罪者の心理の差異を知ることが出來る。

[やぶちゃん注:「せんだ」栴檀(せんだん)。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach 。別名、楝(おうち)。五~六月の初夏、若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数、円錐状に咲かせる(ここから「花楝」とも呼ぶ)。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく全く無縁の異なる種である白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダンSantalum album )なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。これはビャクダンSantalum album の原産国インドでの呼称「チャンダナ」が中国音で「チャンタン」となり、それに「栴檀」の字が与えられたものを、当植物名が本邦に伝えられた際、本邦の楝の別名である現和名「センダン」と当該文字列の音がたまたま一致し、そのまま誤って楝の別名として慣用化されてしまったものである。本邦のセンダン Melia azedarach の現代の中国語表記は正しく「楝樹」である。グーグル画像検索「楝の花」をリンクさせておく。但し、ここでは無論、明らかに聖なる異界のそれであり、他との並列を考えれば、仮想された実在しない芳香栴檀様の香りを放つ聖木(せいぼく)ととるべきである。

「ラスネール」ピエール・フランソワ・ラスネール(Pierre François Lacenaire 一八〇三年~一八三六年)はフランスのリヨン出身の犯罪者(窃盗・詐欺・手形偽造・殺人等)にして詩人。逮捕されて死刑(ギロチン刑)に処せられた。処刑直前まで執筆し続けていた「回想録」(邦訳有り。私は未見)が残る。以上の小酒井の言及も、その一節にあるのであろう。詳しくは当該の日本語版のウィキを参照されたい。

「知己のシャルドンとその母を殺し」フランス語版の彼のウィキに、一八二九年に窃盗罪で一年の懲役刑を言い渡された際に親しくなった友人ジャン・フランソワ・シャルドン(Jean-François Chardon)とその母を、一八三四年に冷酷に殺害している(彼は斧で、その母はベッドで窒息死させられている)。]

 殺人罪を犯した與兵衞は、良心の呵責をのがれるために、只管、痛飮して、胸中の苦悶を消さうとした。花屋の後家が油屋の女房殺しの芝居の話をすると、彼はぎくりとして、『後家、たしなめ。ちと人にも物云《ものいは》せい。生れて、與兵衞、こんなむさい床凡《しやうぎ》の上で、酒呑んだ事なけれど、今日は許す。東隣、借足《かりたし》して、與兵衞が座敷分《ざしきぶん》に一ツこしらや。材木、諸色《しよしき》、諸入目《しよいれめ》、見事に、我等、仕る。きつい物か物か。エ、げびた此蒲鉾の、薄い切樣は。』[やぶちゃん注:以上の引用は、底本では句読点が不全で、甚だ読み難いため、先の版本を参考に一部に句読点を入れた。]と、いかにも狼狽した口調で出鱈目をしやべり、さうして叔父がたづねて居るときいて甚だしく恐怖し、逃げ出してしまつたのである。

[やぶちゃん注:「材木」調度のことかと思ったが、調べると、「歳を取った歌比丘尼(うたびくに:近世に歌念仏を歌って歩いた比丘尼。のちには売春する者も現れた。勧進比丘尼とも呼ぶ)」の意があったので参考までに述べておく。

「諸色」華麗な服を着た沢山の女たちの意か。

「諸入目」もろもろの掛かる費用総て。]

 遂に與兵衞は、良心の呵責に苦しむすべての犯罪者が行ふやうに、お吉の三十五日の逮夜の晚、犯行の現場に顏を出したのである。『つい三十五日の逮夜になりましたの。殺した奴もまだ知れず、氣の毒千萬したが追付《おつつけ》知れましよ』とその時の彼の言葉は、後來の探偵小說家にも屢ば採用される筆法である。かうして灯《あかり》のまはりを飛んで居た蛾は、灯の中にはひつてしまつたのである。

 かく觀察して來ると、近松翁は、この種の犯罪者の心的經過を殆んど遺憾なきまでに描き出したといつてよい。故意か偶然かは知らぬが、與兵衞の殺人の季節に、統計上、殺人の多い五月を選んであるのも面白い。又、犯罪性を考へるには性的の煩悶を見逃してはならぬが、與兵衞は勝手次第に遊里に出入りして居たのであるからその點を顧慮する必要が無からしめてある。お吉に出金を賴むとき、『不義に成て貸て下され』といつたのは、お吉の言葉に續いて言つたゞけで、別に深い意味は無かつたのである。

[やぶちゃん注:日本に限って言えば、殺人ではないが、広義の犯罪の増加する月というのは、事実、五月のようである。「セコム」公式サイト内のコラムの「3月は犯罪が増え始める月?」に、五年間のグラフ附きで、『毎年』三『月になると』、『件数が増加に転じています』。『おおよその傾向としては』、一『年の中で最も犯罪件数が少なくなるのが』二『月で、翌月の』三『月から増加に転じて』、五『月くらいにピークとなります。その後、やや落ち着いてから』、十『月にもう一度』、『ピークを迎えるといった動きを、ほぼ毎年繰り返しています』。こうした『山形の曲線を描く犯罪』は、『窃盗犯や粗暴犯(暴行、傷害、恐喝など暴力的な犯行)が顕著です。風俗犯(公然わいせつ、賭博など社会の善良な風俗に反する犯行)も同じような動きをしています』。『 粗暴犯の中では暴行や傷害、窃盗犯の中では忍込み(就寝中の家を狙う泥棒)や居空き(住民は起きているが隙を狙って家に侵入する泥棒)や自転車盗、風俗犯の中では強制わいせつが、このような形のグラフを描いています』とあるからである。殺人(未遂)事件も五~六月に多いとする新聞記事もあった。但し、アメリカの国内統計データでは一月一日が最も多いそうである。]

 お吉を殺すとき、彼が後に自殺するつもりであつたことは前後の事情からして察せられるが、その決心が崩れてしまつたのは、お吉の死顏を見てからの恐怖のためである。彼の恐怖は全く豫期しなかつたものであつて、その點がこれから述べようとするマクベスの犯行後の恐怖と異なるところである。卽ちマクベスは、自分の行爲が大罪であることを知り、當然、殺害後の恐怖を豫期して居たのである。從つて彼はその恐怖に打ち勝たうと用意した。ところが、彼は打勝つことが出來なかつたのである。其處に卽ち、一層深刻な恐怖が見られるのであつて、その恐怖をシェクスピアが如何なる筆をもつて描いて居るかを、次章に紹介しようと思ふのである。

 

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 玩具箱 ―人形及び動物のいろいろとその生活 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「玩具箱 ―人形及び動物のいろいろとその生活―」の別稿 附・幻しの三篇組詩「玩具箱」の不完全再現の試み

 

  玩 具 箱

     ―人形及び動物のいろいろとその生活―

 

   

 

靑い服をきた獵人が

釣竿のやうなてつぽうをかついで

わん つう、わん つう、

このへんにそつくりかへつた主人のうしろから

木製のしなびきつた犬が

尻尾のさきをひよこつかせ

わん つう、わん つう。

 

   

 

さむしい Hotel の臺所で

のすたるぢやのメリイが泣いて居る。

ほんのり光る玉菜のかげから

ぜんまい仕かけで

鼠がひよつくり顏を出した。

 

  *これは『朝、晝、夕』の三篇の組詩と

  して雜誌に掲載されたが、このうち『晝』

  は「野景」と改題して『蝶を夢む』に收錄

  した。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。底本の「詩作品發表年譜」によれば(左ページ「225」の二行目だが、次の「竹の根の先を掘る人」と頭の植字を誤植していて、「竹具箱」になってしまっている)、初出誌を大正四(一九一五)年一月発行の『白金帖』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年十一月号とするのであるが、同全集は、後注で、この初出誌を入手することが出来なかったとし、しかし、『筆寫原稿が殘っているので、右はそれによった』とある(後掲する)。この、注、何故、単に「原稿」と言わずに、『筆寫原稿』と言ったのだろう? 手書きの元原稿なら、「決定稿」或いは「脱稿原稿」「送付原稿」でよい。『筆寫原稿』とは、萩原朔太郎自身が、何故か判らないが(草稿も手元になく、脱稿した決定稿も返却されなかったためか)、仕方なく、当該雑誌から書き写した、という意味にしか採れない表現である。しかも、全集が載せる、その『筆寫原稿』は、本篇とは微妙に異なるのである。以下に示す。太字は同前。

   ◆

 

 玩具箱

    ―人形及び動物のいろいろとその生活―

 

     朝

 

靑い服をきた獵人が、

釣竿のやうなてつぽうをかついで、

わん、つう、わん、つう、

このへんにそつくりかへつた主人のうしろから、

木製のしなびきつた犬が、

尻尾のさきをひよこつかせ、

わん、つう、わん、つう。

 

     夕

 

さむしい Hotel の臺所で、

のすたるぢやのメリイが泣いて居る、

ほんのり光る玉菜のかげから、

ぜんまい仕かけで、

鼠がひよつくり顏を出した。

 

  * 掲載誌は未入手だが、筆寫原稿が殘

    っているので、右はそれによった。

  * 同時發表の「晝」は「野景」として

    『蝶に夢む』に收錄。

 

   ◆

まず、本篇と、この全集の『筆寫原稿』詩篇とでは、本篇では、

  • 副題の終りのダッシュがないこと。
  • 非常に多くの読点が一致しないこと。
  • 「朝」の四行目の「へん」の傍点がないこと。

有意に異なる。則ち、推定するに、小学館版の編者は、幸いにして、初出誌『白銀帖』の三つの詩篇から成るものの実物(原稿ではない)を管見することができ、そこから、後に再録されることがなかった、この二篇を抽出した、と考えてよいのではあるまいか? 

 なお、

――『蝶を夢む』で「野景」と解題して単独で再録(手を加えている可能性は頗る高い。決定稿は以下に示した)した「晝」との三篇構成の組詩を、恐らく、現在、我々は読むことが出来ない

のである。因みに、「蝶を夢む」に所収された「晝」を決定稿は以下である。

   *

 


 野景

弓なりにしなつた竿の先で

小魚がいつぴき ぴちぴちはねてゐる

おやぢは得意で有頂天だが

あいにく世間がしづまりかへつて

遠い牧場では

牛がよそつぽをむいてゐる。

 

   *

 そこで、筑摩書房版全集の『筆寫原稿』という謂いへの不審が再燃する。

 先に推理したような事情で朔太郎が筆写した原稿というのが、あるとなら、

――朔太郎が組詩であるはずのものから、「晝」をわざわざ除去して自ら写した可能性は百%あり得ない

からである。しかし、同全集の詩集『蝶を夢む』の「野景」には、下方にあるべき初出形参照が、全くないのである(上記引用と同じ形で三篇組詩の『筆寫原稿』から、として載せることが出来るはずである)。これは、甚だ不審と言わざるを得ない。

 ところが、同全集には、

――「草稿詩篇 蝶を夢む」に、『野景(本篇原稿六種七枚)』と仮題して、ズバリ! 「晝」と題した、その中の草稿一篇のみが活字化されている

のである。これは組詩の二番目にあった「晝」の決定稿ではないものの、

――これを、以上の筑摩書房版の『筆寫原稿』の間に挟み込めば、原「玩具箱」の雰囲気をある程度、復元出来るのではないか?

と、私は考えた。それを以下に示す。草稿であるから、まず、削除などが含まれているそれをそもまま単独で示す(歴史的仮名遣の誤りはママ。筑摩版編者注附)。

   ◇

 

  釣竿

  晝

 

弓のやうにまがつた竿の先で

目高が一疋ぴちぴちはねてる

おやぢはいつしよけんめいだが

(おやぢはとくいで有頂天だが)

あいにく牛でさえも界はけんがしいんとして居る→しづまりかへつてしいんとして

遠くの牧場では牛でさへも晝寢 をして居る→をしてる して居る、よそつぽをむいて居る、

 

  *「幼年思慕扁〔篇〕、」「幼年詩扁〔篇〕、

   玩具箱ヨリ、」と附記された別稿もある。

 

   ◇

以下、以上の削除を除去したもの、さらに、三行目と四行目にある並置残存については、決定稿を鑑み、丸括弧で後から添えられた四行目を採り、三行目を除去したものを、先の筑摩版の「朝」と「夕」の間に挟み込み、三篇組詩「玩具箱」の不完全復元版として以下に示すものである。

   §   §   §

 

 玩 具 箱

    ―人形及び動物のいろいろとその生活―

 

     

 

靑い服をきた獵人が、

釣竿のやうなてつぽうをかついで、

わん、つう、わん、つう、

このへんにそつくりかへつた主人のうしろから、

木製のしなびきつた犬が、

尻尾のさきをひよこつかせ、

わん、つう、わん、つう。

 

     

 

弓のやうにまがつた竿の先で

目高が一疋ぴちぴちはねてる

おやぢはとくいで有頂天だが

あいにく世けんがしいんとして

遠くの牧場では牛でさへもよそつぽをむいて居る、

 

     

 

さむしい Hotel の臺所で、

のすたるぢやのメリイが泣いて居る、

ほんのり光る玉菜のかげから、

ぜんまい仕かけで、

鼠がひよつくり顏を出した。

 

   §   §   §

これで――私の憂鬱は――美事に完成したのである――。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 蒼天 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「蒼天」の別稿

 

  蒼  天

 

いつしんなれば

おほむけに屍體ともなる

つめたく合掌し

いちねん

きりぎりす靑らみ、もはや、

雀みそらに殺さる。

 

[やぶちゃん注:「あほむけ」はママ。「あふむけ」が正しい。底本の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正三(一九一四)年十一月発行の『風景』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年十一月号とする。但し、その初出とは微妙に異なる箇所がある。以下に示す。

   *

 

 蒼天

 

いつしんなれば、

あほむけに屍體ともなる、

つめたく合掌し、

いんよくいちねん、

きりぎりす靑らみ、もはら、

雀みそらに殺さる。

 

   *

読点は別としても、四行目の「いんよくいちねん、」が、ただ「いちねん」となっており、また、五行目「もはら、」が「もはや」で、初出誌から採ったなら、こんなミスはし得ない。原稿から写したとなら、「ら」を「や」と誤読する可能性はあっても、「いんよく」を見落とすことはない。されば、これも筑摩版とは異なる別稿ととるべきである。]

2021/11/24

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 疾患光路 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「疾患光路」の別稿

 

  疾 患 光 路

 

我れのゆく路

菊を捧げてあゆむ路

いつしん供養

にくしんに血をしたたらすの路

肉さかな、きやべつの路

電車軌道のみちもせに

犬、畜生をして純銀たらしむる

疾患せんちめんたる夕ぐれの路

ああ 素つぱだかの聖者の路。

 

[やぶちゃん注:底本の「詩作品發表年譜」によれば、大正三(一九一四)年十月の作とし、初出誌を大正四年一月発行の『水甕』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年一月号とする。但し、その初出とは微妙に異なる箇所がある。以下に示す。

   *

 

 疾患光路

 

我れのゆく路、

菊を捧げてあゆむ路、

いつしん供養、

にくしんに血をしたたらすの路、

肉さかな、きやべつの路

邪淫の路、

電車軌道のみちもせに、

犬、畜生をして純銀たらしむる、

疾患せんちめんたる夕ぐれの路、

ああ、素つぱだかの聖者の路、

             ――十月作――

 

   *

本篇には「邪淫の路(、)」の一行がない。されば、別稿ととるべきであろう。]

譚海 卷之四 同所酒田領こやの濱不動峠等の事

 

○同國酒田に「こやの濱」といふ所のまさごは、ことごとく小き石の白きにて、沖より望めば白米をちらしたるやうに見えて、うつくしき事いはんかたなし。さればその所の船歌に、「酒田こやのはま 米ならよかろ 沖のべざいに たゞつましよ」とうたふ也。「べざい」は船の異名也。又酒田より越後へ至る山を不動峠といふ、四里半の山中にて喬木のみ生じけり。白晝もうすくらく、甚ものすごき所にして、その間人家なし。往昔(そのかみ)はぬす人(びと)窠(すみか)を結(むすび)て往來をなやませしが、今は昇平に成(なり)て其事なしとぞ。

[やぶちゃん注:標題の「同」は前の「羽州秋田領湯澤百姓聟宇治茶師子どもの事」を受けたもの。船歌には字空けを施した。

「こやの濱」「小屋之濱」或いは「興屋(こや)の濱」で、旧高野浜(こうやのはま)で遊廓があった。サイト「古今東西舎」の「酒田(村社稲荷神社)旧高野浜の表示があります。」を参照されたい。そこに『北新町に、村社稲荷神社があり』、『道路に面した掲示板のところに、旧町名を示す柱が立っていて、このあたりが高野浜であることがわかり』、『掲示板には、弘法大師がこの石の上に腰をおろし、海岸の風景を望見し』、『「高野浜」と命名したと書かれています』とある(写真有り)。その稲荷神社はここ(グーグル・マップ・データ)であるが、「今昔マップ」で見ると、北新町(旧新町)の南西に「能登興屋」の旧地名が確認でき、その西に長大な浜があったことが判る。現在は広大な酒田港に改造されてある。

「べざい」これは「弁財船」で、その同義又は発展型である「菱垣廻船」がよく知られる。私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 6 和船について」及び「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 弁財船と打瀬舟」を参照されたい(モースの自筆の船の図が孰れにも載る)。

「不動峠」この名を確認出来ないが、酒田市街からの距離と、大杉の名で「小林の不動杉」というのが、よく一致するように思われる。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

譚海 卷之四 羽州秋田領湯澤百姓聟宇治茶師子どもの事

 

[やぶちゃん注:物語風なので、特異的に段落を成形した。その関係上、特異的に読点や記号を追加してある。

 

○羽州秋田領湯澤といふ所に、百姓某(なにがし)なるもの、豪富なるもとに、上方より來(きた)る奉公人、年來(としごろ)、篤實に仕へしかば、夫婦、相談して、一人ある女(むすめ)にめあはせて、むこにしたり。いよいよ、順(したがひ)、よく相續しければ、今は、此ものに家督をゆづり、老夫婦隱居の身になりしかば、

「一とせ、西國順禮ながら、上方一見にのぼらん。」

と、せしかば、此むこ、去年春より、みづから、庭に、わづかなる茶の樹をうえ[やぶちゃん注:ママ。]、葉つみ、人手にかけず、心に入(いれ)てこしらへあげたる茶を、紙一包(ひとつつみ)ばかりに出來けるを、ことし出たつ比(ころ)、兩親にあたへ、申けるは、

「京都在留の間に、宇治へおはさば、何とぞ、此茶を、其(その)しるしある『のうれん』かけし茶師のもとにおはして、此茶を、其あるじに見せ給ひて、

『いかに、できかた、よろしく候や、あしく候や。』、評判をうけて給り候へ。」

とて、わたしぬ。

 さて、老夫婦、上京して、宇治へ行(ゆき)たるとき、彼(かの)茶の事をおもひ出して、そのしるしある「のうれん」の家へ、たづね至り、

「これは、わが子なるものの製せし茶にて侍り。よく出來候ひたるや、あしきや、見てもらひたき。」

由(よし)申ければ、下女・下男、

「をかしき事を云(いふ)人哉(かな)。いかにとも、見わかるべきやうも、あらず。」

とて、うけがはず、問答に及(および)たり。

 その家のあるじ、聞付(ききつけ)て、立(たち)いで、老夫婦に逢(あひ)、さて、その茶を受取(うけとり)て、紙をひらき、一目見るより、淚を、

「はらはら」

と、こぼして、云(いふ)やう、

「是は。まさしく、われらが子共(こども)の製(せい)したる茶に、うたがひ、なし。此茶の製(せい)しやうは、わが家(や)の、一子相傳の製し方にて、外にしるもの、侍らず。さては、そこの子共といはるゝものは、我が子にして、前年、ほうらつ[やぶちゃん注:「放埒」。]に身をうしなひ、いづちともなく、行方しらず成(なり)たりしかば、かならず、はるÅばるの國にくだりて、そこの子になり侍りぬる事。」

とて、いそぎ、夫婦を内へともなひ入(いれ)、二、三日、ねもごろに、あひしらひ、いとまこひ、わかるゝとき、金子五兩、夫婦に合力(かふりよく)せしとぞ。

 不思議なる物語也。

譚海 卷之四 安永中川川浚・新地埋立等所々出來の事

 

○江戸小網町のうら「どうかん堀」は、「あらめばし」の川より潮(しほ)通したるが、安永八年堀留の川をさらへし土をもちて半分埋たて、今は半分より先ばかり元の川の形殘りて有(あり)。三つ股洒井修理太夫殿屋敷前、濱町川の出先より「大はし」の際までも、安永年中埋たてになり新地出來たり。天明四年本所川通り「さらへ」ありし土にて、一つめの川の出先兩國橋のもとへも新地出來たり。同五年夏淺草見附川北側、洒井家の屋敷の脇より新柳橋のきはまで、新地八千兩に川岸通り御定(おさだめ)あり、家作出來たり。藏前新地も同時の事也。

[やぶちゃん注:「小網町」現在の中央区日本橋小網町(グーグル・マップ・データ)。

「どうかん堀」「道灌堀」ではない。小網町三丁目東側の日本橋川の入堀が「稲荷堀」(とうかんぼり)」或いは「十日堀」(とうかぼり)と呼ばれていたのが訛ったもの。「古地図 with MapFan」で日本郵政の「日本橋小網町局」を探して、中央分離ウィンドウの直上に配すると、直下右方に汐留橋で分岐した「稲荷濠」が現われる。これである。なお、まだ、その画面をそのままに! 次の次の注でさらに使う!

「安永八年」一七七九年。

「堀留」先の「古地図 with MapFan」で「日本橋小網町局」を更に北へと移してゆくと、暫くすると、「堀留児童公園」が見つかる。それを上のウィンドウの中央直上に持ってゆくと、直下に「堀江入濠」が出現する。これが「堀留の川」であることが判る。そこを大々的に川浚えした際の水底の土を盛って「稲荷濠」との接続部が塞がれ、「かつお河岸」となって遮断されていることがよく判るのである。これもそのままの方がいい! やはり次で利用出来るから!

「三つ股洒井修理太夫殿屋敷前、濱町川の出先より「大はし」の際までも、安永年中埋たてになり新地出來たり」「洒井修理太夫殿屋敷」は判らぬが、「三つ股」でOK! 私が先月、ものした『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その4)』切絵図を見られたい。そこの隅田川の「田安殿」の東北直近の川に「三ツマタ」とあるのがそれであり、右端にある「新大橋」が、この「大はし」のことである。そうしてその川上直近に、忽然と、隅田川の中に葦原らしき記載が見えるであろう。実は、こここそが、ここで言っている埋立地「中州」(現在、再度、埋立られて中央区日本橋中州となっている。先の「古地図 with MapFan」を汐留橋まで戻って、東北に移動させると、隅田川に合流する。そこに「田安殿下屋敷」というのがあるのが、同じ「三つ股」なのであるの痕跡なのである。ここに江戸時代、実は、一時期、埋め立てられて、繁華な町が存在したのである。ウィキの「日本橋中洲」によれば、明和八年六月十六日(一七七一年七月二十七日)六代目馬込勘解由に『より浜町と地続きになるように埋め立てが行われ』、安永元年十二月十八日(一七七三年一月十日)に「中洲新地」として『竣工した』。安永四(一七七五)年には『町屋が整い、富永町と号した。間もなく飲食店が立ち並ぶ一大歓楽街となり、両国の客を奪うほどの賑わいを見せた。しかしながら、隅田川の流路を狭め』てしまったことから、『上流で洪水が頻発し、また』、『奢侈を戒める寛政の改革の影響もあって』、寛政元(一七八九)年に『取り壊され、芦の茂る浅瀬へと戻った』。なお、『この時の土砂は隅田土手の構築に利用された』とある。はいはい! またまた、まだ、その画面をそのままに! 次の注で、また、さらに使いますよ!

『天明四年』(一七八四年)『本所川通り「さらへ」ありし土にて、一つめの川の出先兩國橋のもとへも新地出來たり』先の「古地図 with MapFan」で隅田川を遡ると、間もなく、東(左岸)に「竪川」(たてかわ)が見えてくる。これが「本所」の「川通り」である。そうして、分岐したその最初の橋が下方では「一ツ目橋」であることが判る。確定は出来ないが、岸のでっぱりからは、両国橋東詰の尾上町・元町という辺りが、新地であったか。さてもさても! 次も! また、使う!!!

「同五年夏淺草見附川北側、洒井家の屋敷の脇より新柳橋のきはまで、新地八千兩に川岸通り御定(おさだめ)あり、家作出來たり」「古地図 with MapFan」で両国橋上流直近の西の分岐を見よ。そこにある「柳橋」が「新柳橋」で、その西の流れを切絵図の方で遡って行くと、「浅草橋」がある。この北詰に江戸城の「淺草見附」はあった(グーグル・マップ・データ)。「古地図 with MapFan」に戻って、そこから少し西に行ったところに、「酒井左衛門尉庄内藩下屋敷」が見えてくる。

「藏前新地」「古地図 with MapFan」で、さらに隅田川を遡ると、西岸(右岸)に蔵前地区が現われる。但し、ここで言っている新地がどこであるかは、ちょっと分からない。ここは江戸の早い時期に「浅草御蔵」が敷設されており、川幅が少し狭くなっている。この西岸のどこかではあろう。対岸は「御竹蔵」で蔵前ではなく両国であり、川沿いには大名屋敷が並んでいるから、こちら側ではあり得ない。]

譚海 卷之四 同江戶風俗の事

 

[やぶちゃん注:「同」は四つ前の「天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事」に始まる「同年信州淺間山火出て燒る事」「同時中山道安中驛領主再興の事」「同年信州上田領一揆の事」と続いた天明三(一七八三)年に発生した出来事の連投記事の掉尾。但し、当年の江戸風俗の紹介であって、この前までの飢饉・天災・騒擾等といった強い連関性は全く認めらず、話がかなり深刻なリアリズムに偏重したと津村が思って、とってつけたような感じで、しかも先に並べた飢饉・天災を、「どこ吹く風」とするような違和感が何となくある、私には厭な一篇である。]

 

○此比、江戶の風俗、女子は「髮(かん)ざし」と云(いふ)、鯨の骨にて作りたる細きものを「びん」に入(いれ)さす。鬢(びん)ひしやげる事なくて、伽羅(きやら)の油少々付るによろしとぞ。小袖或は袷などの裏は、大形(おほかた)紫の絹をつける也。齒のなき下駄(げた)黑塗にして「日和下駄」と號し、白日(はくじつ)に曳(ひき)ならし往來す。赤き絹の切(きれ)淺黃(あさぎ)紫(むらさき)などにて髮をつがね、元ゆひはあまり用ひず。甚敷(はなはだしき)は「かづら」にて鬢をこしらへ置(おき)て、髮を結(ゆは)ずに「つくりびん」をさしこみて、ゆひだての髮の如くして居る也。又京都より「女の髮ゆひ」とて婆々・老女など來り、これに婦人髪をゆふてもらふ。寢て居て「たばこ」吸ながら、髮を梳(すいて)もらふ。男子は身の細き脇指・赤き帶、羽織は殊に長く紐二すぢづつをあはせ、四筋にて隨分長き紐を喜び、それを紐のさきにてむすぶゆゑ、むすびめはへそのあたりにさがりてある也。衣裳の小紋は「うつあられ」とて、「けんぼう染(ぞめ)」はやる、「雨さげ」といふもの、「あせ手ぬぐひ」と「たばこ入」とをふたつの袋に入(いれ)て、左右のたもとに置、その袋へ紐を付てむねへとほし、左右にて袋をさげもつなり。髮は「本多風(ほんだふう)」とてゆひふしの腰高し。「紙入」を「どんぶり」と號し、絹にて袋にこしらへ、其中へ用のものをみだりに押こみて懷中せり。南鐐貳朱銀壹枚、錢八百文の兩がへ程なり、飯米は七斗・八斗に至る。

[やぶちゃん注:読点位置が悪く、かなり読み難いので、特異的に鍵括弧と「・」を使用した。

「白日」青天の昼間。

「けんぼう染」「憲法染」。歴史的仮名遣は「けんばふぞめ」が正しい。染模様の名。灰墨などを用いて、黒茶色に小紋を染めたもの。慶長(一五九六年~一六一五年)の頃、京都西洞院四条の剣術家吉岡憲法(憲房・兼房・建法とも)が初めて染めし出したという。「憲法小紋」「憲法(けんぼ)黒茶」「吉岡染」「けんぼ」「けんぼう」などとも呼称した。

「本多風」名は本多忠勝の家中の者の髪型から広まったとされることによる。江戸中期以降に流行した男子の髪型で、「中剃り」を大きくし、髷(まげ)は高く結んで、鬢には油をつけずに、櫛の目を通し、後の方に油を附けたもの。通人・遊び人が好んだ。「ほんだ」「ほんだわげ」。則ち、一般に知られる「丁髷」(ちょんまげ)のことである。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 夢中に劔を得るの物語 輪池

 

    ○夢中に劔を得るの物語

     後藤與次右衞門組

       西丸御切手同心

    小石川諏訪町

    そ ば 切 橫 町 折原岩之助

維時[やぶちゃん注:「これ とき」。]、文政九丙戌年[やぶちゃん注:一八二六年。]三月十六日の夜の夢に、江戶神田小柳町[やぶちゃん注:現在の千代田区神田須田町一丁目及び二丁目の一部(グーグル・マップ・データ)。以下同じ。]邊の道具屋某の店に、希代の靈劍あるよしを、凡、五度ほど、同じ夢を續けて見侍り。餘りの不思議さに、翌廿一日、彼處へ尋行しに、夢中、幻のごとく見し、道具やの顏に、正しく似たるゆゑ、立寄尋ければ、「その品、有。」よし申に付、「求度[やぶちゃん注:「もとめたく」。]、價は何程に候哉。」と申ければ、「金百疋にて有レ之。」と申。最、至極、古びれたる品に候まゝ、「少々、まけ吳候。」樣申けれ共、「中々に引不ㇾ申。」と申候間、其まゝに打捨歸り候處、又々、二晚程、同じ夢を見し儘、去にても、餘りの不思議なる事故、廿四日に、金子、持參いたし、彌[やぶちゃん注:「いよいよ」。]、「先の品、買請度。」よし申聞候處、亭主の申候には、「扨々、格別の御懇望に付、一朱に御まけ可申上。」と申候に付、一朱、遣し、此方へ請取申候て、歸宅し、大切に祕置[やぶちゃん注:「ひしおき」。]候處、又、其晚の夢に、甲冑の上え、白き裝束いたし、右の手に劔をもちし人、出現し、夢中に告て曰、「善哉々々、汝、劔を得たり。抑、此劍は靈驗なる事を委敷[やぶちゃん注:「くはしく」。]しらすべし。謹で、聽聞せよ。」と、高らかに示現に曰、

「寶劔の威德は、

一、劔難を除き、

一、運を開き、

一、毒氣・毒血、拂除き、

一、出世をいたさせ、

一、我、數度、戰場に赴く每に、我、光を以、悉くに、强敵を追拂返し候。其後埋り居、凡、今年迄、二百二十六年に成。」[やぶちゃん注:最後の条は底本では二行目以降が一字下げ。「二百二十六年」文政九年から遡ると、慶長四(一五九九)年で、前年に豊臣秀吉が死去しており、この年の九月二十八日に、徳川家康が大坂城西の丸に入っている。江戸幕府開府の四年前である。]

との告也。其上、「又、我姿を寫し、世上の人々に施候へば、大成・隱德に成べし。」と告ると思へば、忽、夜の明方になり、鳥と共に、夢は覺にけり。餘り不思議の事故、「子孫の後榮にも可相成。」と、於ㇾ是、書記する者也。

 文政九丙戌年三月     折原岩之助

                 終善判

      覺

一、劔一腰

 但、かわ[やぶちゃん注:ママ。]鞘入。

 銘「小倉五郞源宗廣」と有ㇾ之。

 代、一朱。

右之通、慥に請取申候、以上。

 戌三月廿四日 神田小柳町三丁日 龜屋忠兵衞

    折原岩之助樣

長短・寸法、すべて、圖の如し。

 

Muken1

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

頭、鐵。

  柄、鮫無ㇾ之、黑。緣、鐵。鐵鍔。此處、

  塗、黑革卷。    金箔筋、有ㇾ之。

である。判り難いが、鍔下の鍔から五分の一附近に、キャプションへの指示線が左に僅かに出ている。

 以下、底本では下方にある。]

 文政九年丙午三月廿四日神田小柳町

        龜屋忠兵衞方より買受。

 

Muken2

 

[やぶちゃん注:キャプションは、鍔の右下・上に、

       鞘、黑革。

とある。以下、吉川弘文館随筆大成版では『〔割注〕』とする。底本では、初行が五字下げであるが、引き上げた。]

 

小倉五郞宗廣、越前國住人、貞治比、當時迄、四百七十四年[やぶちゃん注:文政九年から遡ると、南北朝時代の正平八/文和二(一三五三)年。]、鞘、革鞘。一尺二寸二分、蛇之目紋付。柄、四寸一分、ふち・かしら共、柄、糸革、三分。鍔・鎺[やぶちゃん注:「はばき」。ここ(「ウィクショナリー」の画像)。]、はなれず、イ[やぶちゃん注:意味不明・]に一尺八寸五分、換長[やぶちゃん注:意味不明。]一尺六寸、一書に『一尺八分五厘』とあり、非なるべし。

 

Muken3

 

[やぶちゃん注:刀身自体を示したもの。キャプションは、鎺ぶ指示線をして、右に、

      鎺、黑革。

鍔を単体で示したその上方に、

鐵。黑

塗。

とあって、左手の茎(なかご)に指示線を施して、

○小倉五郞源宗廣

とある。以下は実は「○小倉五郞源宗廣」の下方にあるが、改行した。]

   江戶小石川住  折原岩之助 條善判

[やぶちゃん注:「西丸御切手同心」(にしのまるおきつてどうしん)は江戸城西ノ丸の切手門に切手番頭が勤務するが、その配下の者(番頭には二十人が付属)。同門の警備と出入りの監督が番頭の勤め。「切手」とは大奥関係者の通行証を指す。女中たちの出入りや、荷物の出入りを監視し、長物・葛籠などで十貫目以上のものは蓋を開けて中身を検査した。

「小石川諏訪町」文京区後楽二丁目

「小倉五郞宗廣」不詳。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 情慾 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「磨かれたる金屬の手」の別稿

 

  磨かれたる金屬の手

 

手はえれき

手はぷらちな

手はらうまちずむのいたみ

手は樹心に光り

魚に光り

墓石に光り

手はあきらかに光る

ゆくところ

すでに肢體をはなれ

炎に灼熱し狂氣し

指ひらき啓示さるるところの

手は宇宙にありて光る

光る金屬の我れの手くび

するどく磨かれ

われの瞳めしひ

われの肉をやぶり

われの骨をきづくにより

恐るべし恐るべし

手は白き疾患のらぢうむ

ゆびいたみ烈しくなり

われひそかに針をのむ。

 

[やぶちゃん注:太字箇所は底本では傍点「ヽ」。底本の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正三年十一月発行の『詩歌』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年十一月号とする。但し、その初出とは微妙に異なる箇所がある。以下に示す。太字は同前。「きづゝくにより」はママ。「傷つくにより」であるから、「きずつくにより」が正しい。

   *

 

 磨かれたる金屬の手

 

手はえれき

手はぷらちな

手はらうまちずむのいたみ、

手は樹心に光り、

魚に光り、

墓石に光り、

手はあきらかに光る、

ゆくところ、

すでに肢體をはなれ、

炎々灼熱し狂氣し、

指ひらき啓示さるゝところの、

手は宙宇にありて光る、

光る金屬の我れの手くび、

するどく磨かれ、

われの瞳(め)をめしひ、

われの肉をやぶり、

われの骨をきづゝくにより、

恐るべし恐るべし、

手は白き疾患のらぢうむ

ゆびいたみ烈しくなり、

われひそかに針をのむ、

 

   *

私は本篇は敢然として筑摩版の初出決定稿の草稿と断ずる。何故なら、「われの骨をきづくにより」という誤記・誤表記は萩原朔太郎によく見られる原稿の誤りと極めて親和性が強いからである。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 情慾 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「情慾」の別稿

 

  情  慾

 

手に釘うて

足に釘うて

十字にはりつけ

齒がみをなして我こたふ。

空もいんいん

地もいんいん

肢體に靑き血ながれ

するどくしたたり

電光したたり

身肉ちぎれやぶれんとす

いま裸形を恥ぢよ

十字架のうへ

齒がみをなして われいのる

 

[やぶちゃん注:底本の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正三年十一月発行の『詩歌』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年十一月号とする。但し、その初出とは明らかに異なる箇所がある。以下に示す。

   *

 

 情慾

 

手に釘うて、

足に釘うて、

十字にはりつけ、

邪淫のいましめ、

齒がみをなして我こたふ。

空もいんいん、

地もいんいん、

肢體に靑き血ながれ、

するどくしたゝり、

電光したゝり、

身肉ちぎれやぶれむとす、

いま裸形を恥ぢず、

十字架のうへ、

齒がみをなしてわれいのる。

 

   *

読点や表記は別としても、「邪淫のいましめ、」がない以上、これは別稿である。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 月蝕皆既 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「月蝕皆既」の別稿

 

  月 蝕 皆 既

 

みなそこに魚の哀傷

われに淚のいちじるく

きみはきみとて

ましろき乳房をぬらさんとする

このひごろつかふことなく

ひさしくわれら靈智にひたる

すでに長き祈禱ををへ

いまみれば月も皆既なり

魚の性はせんちめんたる

みよ、うみはみどりをたたへ

肉靑らみ

いんいんとして二人あひ抱く

齒と齒と合し

手は手をつがひ

魚の浪におよぎて

よるの海に靑き死の光れるを見る。

 

[やぶちゃん注:底本の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正三年十一月発行の『詩歌』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年十一月号とする。但し、その初出とは明らかに異なる箇所がある。以下に示す。「いちゞるく」「たゝえ」はママ。

   *

 

 月蝕皆既

 

みなそこに魚の哀傷、

われに淚のいちゞるく、

きみはきみとて、

ましろき乳房をぬらさむとする。

この日ごろつかふことなく、

ひさしくわれら靈智にひたる、

すでに長き祈禱ををへ、

いまみれば月も皆既なり、

魚の性はせんちめんたる、

みよ、うみはみどりをたゝえ、

肉靑らみ、

いんいんとして二人あひ抱く、

齒と齒と合し、

手は手をつがひ、

もつれつゝからまりにつゝ、

いんよくきはまり、

魚の浪におよぎて、

よるの海に靑き死の光れるをみる。

 

   *

句読点の有無は無視しても、コーダの高まりを演出する「もつれつゝからまりにつゝ、」「いんよくきはまり、」が本篇にないのは、明確に別稿であることを意味する。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 狗の物語くさぐさ 琴嶺舎

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。]

 

   ○狗の物語くさぐさ【念佛狗・精進狗・狗を啖ふ非人・いづみの里の小狗。】

 文化十二、三年のころ、大江戶の本町河岸に、おかしき牝狗ありけり。

[やぶちゃん注:「文化十二、三年のころ」一八一五年~一八一七年。

「本町河岸」東京都中央区日本橋本町の日本橋川沿いの、この附近か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 此いぬ、常に囉齋・弱(よろ)法師などの、或は、木魚をうち鳴らして、讀經念佛しつゝ、人の門に立ことあれば、必、そのあとべに踉て、共に念佛を唱る如く、

「ワアワア」

と吠ながら、送りゆくこと、數町に及べり。この故に、ともすれば、他町の牝いぬに、噬伏られて[やぶちゃん注:「かみふせられて」。]、やうやく逃て歸る日も、多かり。

[やぶちゃん注:「囉齋」「ろさい」。本来は、僧が四方を巡って托鉢して歩きつつ、供養を請うことであるが、ここは転じて、僧形の乞食坊主の意であろう。「羅斎」「邏斎」とも書く。

「弱(よろ)法師」同前。よろした法師で、乞食坊主。]

 はじめの程は、あたりの人も、

「奇。」

として、駭嘆せざるものなく、憐むものもありしかど、遂に、目に馴れ、耳に熟して、

「念佛いぬ。」

と呼びなすのみ。怪しむことも、なくなりぬ。

 このごろ、予、件のよしを老侯に話し申せしに、さるすぢ、おはするさがなれば、いたく嘆賞し給ひて、

「われ、そのいぬを得まくほりす。ぬしあらば、とにも、かくにも、はからひてよ。」

と仰らる。

[やぶちゃん注:「老侯」正編でもしばしば登場した先代の第八代松前藩藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)。彼は文化四(一八〇七)年五十四の時、藩主在任中の海防への取り組みの不全や、吉原の遊女を妾にするなどの素行の悪さ(遊興費が嵩み、商人からの借金が嵩み、藩の財政も窮乏していた)を咎められ、幕府から謹慎(永蟄居)を命ぜられていた(後の文政五(一八二一)年には謹慎は解かれた)。発表者である馬琴の長男琴嶺舎滝沢興継は松前藩の医員であった。]

 はじめ、件の趣を、かの町の藥店なる長崎屋平左衞門といふものに、まさしく聞たることなれば、彼長平に、よしを告て、

「しかじか。」

と、かたらふに、

「件のいぬには、ぬしも、なし。かれが小狗なりしころより、奴婢どもの、あはれみて、物くはせなど、せしかば、近隣にては、『長崎屋の狗なり』といふめれど、まことは、さに候はず。さるを、思ひがけもなく、あて人の求め給ふは、こよなき、いぬの幸ひなれ。かさねて、おん使を給はする迄もなく、みたちへ率して、まゐらせてん。あな、かたじけなき事にこそ。」

と、ほゝゑみながら、うけ引けり。

 かくて次の日、長平は、件のいぬを小ものに率して、みづから宰領して、まゐりにければ、老侯、歡び、大かたならず、長平には、かづけ物を給はりつ。

 狗は、やがて、南の、とのゝ庭に繫し給ひけり。

 是より後、件の狗は、武家の後園にかはれつゝ、只、粱[やぶちゃん注:「おほあは」。]・肉に飽るのみ。鉦鼓・讀經の聲を得聞かず、法師のしりに、つくよし、なければ、「あだしいぬ」に異ならで、亦、しいだしたることもなく、をること、既に四、五年にして、一日、病て斃れけり。

 按ずるに、むかしも、この狗に似たる、あり。

 「幸庵對話記」に云、『何頃の事か、城州鞍馬毘沙門天、百日の開帳あり。然るに、嵯峨より、鞍馬迄、行程三里の所、百日の「中日參」の犬、有、一日も怠ること、なし。參詣の人も是を見しりてあはれみ、途中にて辨當の飯・肴等を喰せけるに、少しも腥き香あれば、くらはず。「扨は。精進するか。」とて、ためし見るに、察しの如く也。よりて、精進物を與れば、尾をふりて、啖ひけり。是、嵯峨の在所の犬なり。數日の事故、普く人の見知れる也。』と、いヘり。

[やぶちゃん注:「幸庵對話記」安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将渡辺幸庵(天正一〇(一五八二)年~宝永八(一七一一)年)の語ったものを加賀藩士が記したとされるもの(後述)。ウィキの「渡辺幸庵」によれば、『諱は茂、通称は久三郎、号は幸庵。柳生新陰流を修めた剣客ともいわれる。ただし、これらは事実と異なる可能性がある(後述)』。摂津国生まれで、当初は『徳川氏に仕えて駿河国に入り』、『出仕』し、「関ヶ原の戦い」の『際は徳川秀忠の下で大番頭を務め、以後』、慶長一八(一六一三)年に『伏見城番』、元和五(一六一八)年に『駿府城番』、寛永二(一六二五)年に『二条城番に当った。江戸幕府』第二『代将軍』『徳川秀忠の代になり、その子』『徳川忠長の傅役に選ばれるも』、寛永一〇(一六三三)年に『忠長が領地没収の上、切腹させられた後は浪人となった』。『以後は幸庵と名乗り、諸国巡礼の旅に出て、中国・天竺・ベトナム・タイを』四十『年ほど』、『放浪』し、『帰国して』、さらに三十年後の宝永六(一七〇九)年には『加賀藩主』『前田綱紀の元へ身を寄せ、旅の経験を加賀藩士』『杉木義隣に』「渡辺幸庵対話」という『本にまとめさせ』たという。『その中で「島原の乱の』折りは、『板倉重昌が討たれた現場にいて』、『その遺骸を担いで逃げた」「ベトナムとタイの間には砂漠があり、風の力で進む舟で移動する」「ミイラ採りと出会った」などの証言を残している。また、本の中で上泉信綱と同世代で細川忠興の客人である竹村武蔵という剣客にふれる記述』『があり、柳生宗矩との比較として、「但馬(宗矩)にくらぶれば、碁にていえば井目(せいもく)も武蔵強し」と竹村武蔵の方が実力は上と評している』。宝永八年に百三十歳で死去したとする。しかし、この『高齢は考え難く、話の内容に荒唐無稽なものや』、『当時の世相に反したものも多く、以下に述べる』「寛政重修諸家譜」内の『「渡邊茂」の記述と矛盾する点が多々あるため、架空の人物、または渡邊茂を偽称した別人ではないかとする説もある』。「寛政重修諸家譜』に『おける「渡邊茂」の記述は』「渡辺幸庵対話」に『おける幸庵の申告と以下の点で大きく異なる』とあるが、以下はリンク先を読まれたい。詐術師或いはパラノイアの一種であろう。]

 この條りの歲月を定かに示さざりけるは、黃耈の人の遺忘なるべし。

[やぶちゃん注:「黃耈」「こうこう」で、皮膚が黄ばみ、老斑ができた老人の意。]

 さりけれども、かの翁の、親しく見もし、聞もしつることの如く聞ゆれば、もし、是、寬永前後の事歟、さらずば、延寶以來なるべし。いかにとなれば、件の渡邊幸庵翁は、寬永中、駿河亞相家御減亡の後、浮浪人となりて、海外を遍歷すること、四十二年と言、かくて歸朝して京郡にをり、最後に江戶の大塚に閉居して、寶永八年某の月日、一百三十歲にて身まかれり。此年紀を推すときは、寬永前後の事にやあらん。しれる人にたづぬべし。

 そもそも、此ふたつのいぬは、その時を、おなじうせず、その趣の異なれども、畜生にして、おのづから佛性あるものに似たり。

 これらは「榮花物語」に藏せられたる、牛佛のたぐひとは、いはまし。

[やぶちゃん注:「榮花物語」古くは「栄華物語」ではなく、かく表記した。言わずもがなの歴史物語で全四十巻(正編三十巻・続編十巻)。作者については正編が赤染衛門で、続編は出羽弁とする説が流布しているが、書誌上では作者は未詳である。正編三十巻は万寿五(一〇二八)年から長元七(一〇三四)の間の、続編十巻は寛治六(一〇九二)年から嘉承二(一一〇七)年の間の成立とされる。「牛佛」(うしぼとけ)の話は正編後半の巻第二十五に出る。一般に「関寺(せきでら)の牛仏」(関寺は近江国逢坂関の東にあったとされる寺であるが、現存せず、位置も定かでない)として知られる話である。所持する昭和四〇(一九六五)年岩波書店刊の「日本古典文學大系」第七十六巻「榮花物語下」から引く。底本はベタであるが、読み易さを狙って段落を成形し、読点や記号も私的に追加した。読みは一部に留めつつ、オリジナルの添えた箇所もある。校訂記号は略した。踊り字「〱」は正字化或いは「々」とした。

   *

 この頃、聞けば、逢坂のあなたに、關寺といふ所に、牛佛、現(あらは)れ給て、よろづの人參り見奉る。年頃この寺に、大きなる御堂建てゝ、彌勒を造り据ゑ奉りける。

 榑(くれ)[やぶちゃん注:丸太(の)。]、えもいはぬ大木どもを、たゞこの牛一つして、運びあぐる事を、しけり。

『あはれなる牛。』

とのみ、御寺の聖(ひじり)、思(おもひ)わたりける程に[やぶちゃん注:思案を巡らしていたところに。]、寺のあたりに住む人、借りて、

「明日(あす)、使はん。」

とて、置きたりける夜の夢に、

「我は迦葉(かせう)佛也。『この寺の佛を造り、堂を建てさせん。』とて、年頃するに、こそあれ、たゞ人は、いかでか、使ふべき。」

と見たりければ、起きて、

「かうかう、夢を見つる。」

と、いひて、拜み騷(さは)ぐなりけり。

 牛も、さやにて[やぶちゃん注:さっぱりとした印象で。]黑くて、さゝやかに、おかしげにぞありける。

 繫がねど、行き去る事もなく、例(れい)の牛の心ざまにも似ざりけり。

 入道殿[やぶちゃん注:道長。]をはじめ奉りて、世中におはしける人、參らぬなく、まいりこみ、よろづの物をぞ奉りける。たゞ、帝(みかど)・東宮・宮々ぞ、えおはしまさゞりける。

 この牛佛、何となく、心地、惱しげにおはしければ、

「疾(と)く、うせ給べき。」

とて、かく、人參りこみて、この聖[やぶちゃん注:この関寺の僧。]は、

「御影像(みえいざう)を書ゝむ。」

とて、急ぎけり。

 かゝる程に、西の京に、いと尊(たうと)く行ふ聖の夢に見えけり。

「迦葉佛、當入涅槃(たうにうねはん)のだむ[やぶちゃん注:「段」。丁度、その時。]なり。智者(ちさ)、當得結緣(たうとくけちゑん)せよ。」

とぞ見えたりければ、いとゞ人々、參りこむ程に、哥よむ人も、あり。和泉[やぶちゃん注:和泉式部。]、

  きゝしより牛に心をかけながらまだこそ越えね逢坂の關

 人、あまた、聞ゆれど、同じ事なれば、書ゝず。

 日頃、この御(おほん)かた、書ゝせて、六月二日ぞ、

「御眼(おほんまなこ)入れん。」

としける程に、その日になりて、この御堂を、この牛、見巡りありきて、もとの所に歸り來て、やがて、死にけり。

 これ、あはれにめでたき事也かし。

 御かたに、眼(まなこ)、入れける折ぞ、果て給にける。

 聖、いみじく泣きて、やがて、そこに埋(うづ)みて、念佛して、七日(なぬか)、七日に、經・佛供養じけり。

 後に、この書きし御かたを、内にも、宮にも、拜ませ給ける。

 かゝる事こそ、ありけれ。

 まことの迦葉佛、この同じ日ぞ、かくれ給ける。

 今は、この寺の彌勒供養ぜられ給、この聖も、いそぎけり[やぶちゃん注:その支度を早くにした。]。

 草を、誰(たれ)も誰も、とりて參りける中(なか)に、參らぬ人などぞ、ありければ、それは

「罪深きにや。」

などぞ、定めける。

   *]

 さるを又、人形[やぶちゃん注:「ひとがた」。人間のなり。]にして獸腹[やぶちゃん注:「ひとがた」に対して「けものばら」と訓じておく。]のものも、ありけり。

 文政六年の冬のころ[やぶちゃん注:一八二三年。但し、以下に出る十二月一日は既に一八二四年一月一日である。]、好みて狗を啖ふ[やぶちゃん注:「くらふ」。]非人あり【俗に「菰かぶり」といふものなり。】。

 このとしの十二月、昌平橋の外のかた[やぶちゃん注:ここの北側。]にて、ある人の見たりしは、

「小狗を、生ながら、食ひ盡せし。」

といふ。又、元飯田町の中坂[やぶちゃん注:この中央辺りか。]なる萬屋が店のほとりにても、食へり。この時は、死したる小狗一隻(ひとつ)と、猫一隻と、繩をつけて、率もて來つゝ、その小狗の毛を、ふき、皮を剥て、大腸・小腸をつかみ出し、啖ふ有さま、いふべうもあらず、これを見るもの、堵の如く、しばらくみちを去りあへざりしを見きとて、人の家嚴[やぶちゃん注:琴嶺舎興継はこれで「ちち」(=馬琴)と読ませることが殆んど。]に告げり。

 この非人の體たらく、蓬頭・裸體に、菰を着て、陽物をあらはし、婦女子を見れば、必、追ひけり。年の齡は四十前後なるべきか。その齒のしろきこと、水晶の如し。こは、每に[やぶちゃん注:「つねに」と訓じておく。]獸肉を生にて食ふ故なるべし。

 其年も、くれゆく程に、多く筋違御門[やぶちゃん注:「しづかひごもん」は「古地図 with MapFan」で秋葉原駅を中央右に示せば、下方中央に現われる。その北詰の川沿いが、広い巷路となっている。]外なる廣巷路にをり。

「ある日、『狗を捕ん』として、誤て、その膝を噬傷られ[やぶちゃん注:「かみやぶられ」と訓じておく。]しより、走ること、はじめのごとくならず。」

など、いふものありしが、こののちは、いかになりけん、次の年に至りては、絕て、噂も、聞ざりき。

 或はいふ、

「件の非人は、よしある家の二男なりしに、慢心によりて、狂亂せしもの也。後には所親に棄られて、終に無宿になりし。」[やぶちゃん注:「所親」は「しよしん」。「親しい間柄の人」の意もあるが、ここは加えて「遠い血縁関係の親戚」(さえからも)の意でとる。なお、幕府の正式な処罰としての「非人落とし」があるが、ここは狂乱したものの、処罰されるような刑事事件は起こさず、親類縁者から縁を切られ、無宿流浪人となり、そのまま被差別民であった非人の仲間となったという経緯であろう。]

といへり。

 しかれども、其體たらく、よしあるものゝ落魄したる狂人とは、見えざりき。前の說はそら言なるべし。

 これらは、近き事にして、もろ人、なべて、知ることながら、筆のついでにしるすのみ。

 是より先、文政二年の秋のころ、出羽の久保田に程ちかき、「いづみ」といふ處なる人のかひける狗、生れて半歲ばかりなるが、よく、あるじのいふことを聞とりて、その使るゝこと[やぶちゃん注:読み不明。「ゝ」は衍字で「つかへること」と読みたくなる。]、大かたは、六、七歲の小兒の如し。譬ヘば、その狗にむかひて、

「何をもて來よ。」

といふに、ほとりには、なきものなりとも、たづねもとめて、銜み來つ[やぶちゃん注:「はみきつ」。]。又、

「何がしを呼べ。」

といへば、やがて、その人のもすそを銜み、引もて來るに、來らざれば、絕て、はなさず。

 これらの所作事、每に、奇ならずといふことなければ、をちこち、人の傳へ聞えて、

「見ん。」

とて、日每に群集せしかば、あるじは、

「狗を、ぬすまれんか。」

とて、人には、みせずなりしとぞ。

 この一條は、久保田藩なる茂木巽【名は知利、號、蕉窓。】と、いひし人、當時、家嚴に消息して、「云々」と告來したれば、予も、この事を、はやく聞にき。茂木は、おとゝし、古人になりぬ。件の狗、成長したりや否を、しるよし、なけれども、猶、年たけて、その智、進まば、陸機が黃耳に劣らざるべし。

[やぶちゃん注:「陸機が黃耳」「公益財団法人 日本習字教育財団 観峰館」の公式サイト内の「黄耳寄書図」(清末民初の画家沈心海の幅画像有り。拡大画像は横向きなのでデスクトップに保存して回転させる必要がある)に、『西晋の時代、陸機』(二六一年~三〇三年)『という文学者で政治家がいました。彼は黄耳』(こうじ)『という名の犬を飼っており、とても可愛がっていました。陸機が都に仮住まいをするようになってから、しばらく故郷の家から便りが途絶えていました。あるとき』、『陸機は笑いながら』、『黄耳に「我が家から全然手紙が来ないんだ。お前に手紙をことづけたら、返事を持って帰って来てくれるかい?」と語りかけました。すると』、『犬は尻尾を振って吠えたので、陸機は手紙をしたため竹の筒の中に入れ、それを犬の首に掛けてやりました。犬は道を探すと』、『南へと走って行き、ちゃんと家にたどり着き、返事をもらって帰って来きました。その後、家との手紙のやり取りは』、『ずっと黄耳がつとめました。「黄耳寄書」は、一種の忠犬話であるとともに』「家からの手紙を届けること」『という意味でもあります』とある。]

 物の氣質の禀たること、情狀、異同ありといへども、狗にして人に等しく、人にして狗にだも及ばざるもの、かくの如し。いと怪むべきことならずや。

 この他、家嚴の「放言」中に、「人狗」・「妖狗」・「古犬の名」・「犬神」等の考ありて、その題目を出されたれども、稿本、いまだ全からねば、窺ひ見ることを得ざる也。さてもこの春の發會には、『何をがな』と思ふのみにて、出處、まさしき異聞も、あらず、支干[やぶちゃん注:底本では『支平』であるが、吉川弘文館随筆大成版で訂した。]たまたま、「丙戌」[やぶちゃん注:「ひのえいぬ」。]なる。「狗」にちなみし「ゑせ物語」は、世にいふ「門の瘦いぬ」にこそ。

 文政九年二月もちの日    琴嶺しるす

[やぶちゃん注:『家嚴の「放言」』曲亭馬琴(滝沢瑣吉(さきち)名義)の考証随筆「玄同放言(げんどうはうげん)」。息子の琴嶺と、彼の友人であった渡辺崋山画。一集は文政元年(一八一八)、二集は三年(一八二〇)刊。主として天地・人物・動植物に関し、博引傍証して著者の主張を述べたもの。「玄同」は「無差別」の意。吉川弘文館随筆大成版で所持し、目次に「卷五 動物部」の「第六十」「狗【狗妖並人狗附】」とあるものの、実は本書は「卷三」までで以下は遂に未刊であった。もともと書こうとしたが、書かれなかったと考えるべきか。或いは草稿は散逸したか。]

2021/11/23

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 受難日 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「受難日」の草稿

 

  受 難 日

 

受難の日はいたる

主は遠き水上(みなかみ)にありて

氷のうへよりあまた光る十字すべらせ

女はみな街路に裸形となり

その素肌は黃金の林立する柱と化せり

見よやわが十指は凝結し

背にくりいむは瀧とながるるごとし。

しきりに掌(て)をもつて金屬の女を硏ぎ

胴體をもつてちひさなる十字を追へば

樹木はいつせいに𢌞轉し

都會は左にはげしく傾倒す。

ああ十字疾行する街路のうへ

そのするどさに日輪もさけびくるめき

群集を越へて落しきたるを感じ

いのり齒をくひしめ

受難の日のくれがた

われつひに蛇のごとくなりて絕息す。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。「越へて」はママ。底本の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正三年七月発行の『創作』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年七月号とする。但し、その初出とは微妙に異なる箇所がある。以下に示す。太字は同前。「研」「ちいさなる」はママ。

   *

 

 受難日

 

受難の日はいたる

主は遠き水上(みなかみ)にありて

氷のうへよりあまた光る十字すべらせ

女はみな街路に裸形となり

その素肌は黃金の林立する柱と化せり。

見よやわが十指は晶結し

背にくりいむは瀧とながるゝごとし

しきりに掌(て)をもつて金屬の女を研ぎ

胴體をもつてちいさなる十字を追へば

樹木はいつさいに𢌞轉し

都は左にはげしく傾倒す。

あゝ十字疾行する街路のうへ

そのするどさに日輪もさけびくるめき

群集を越へて落(おと)しきたるを感じ

いのり齒をくひしめ

受難の日のひくれがた

われつひに蛇のごとくなりて絕息す。

 

   *

「晶結」「いつさいに」「都」「ひくれがた」は誤判読のしようがないもので、決定稿の前の草稿である可能性が高い。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 初夏の祈禱 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「初夏の祈禱」の別稿

 

  初 夏 の 祈 禱

 

主よ、

聖なる神よ。

 

われはつちを掘り

つちをもりて

日毎におん身の家畜を建設す

いま初夏きたり

主のみ足は金屬のごとく

薰風のいただきにありて輝やき

われの家畜は新綠の蔭に眠りて

ふしぎなる白日の夢を畫けり

ああしばし

ねがはくはこの湖しろきほとりに

わがにくしんをしてみだらなる遊戲をなさしめよ。

 

いま初夏きたる

野に山に

榮光榮光

榮光の主とその下僕(しもべ)にあれ。

あめん。

 

[やぶちゃん注:底本末の「詩作品發表年譜」 によれば、制作年月日を大正三(一九一四)年五月八日とし、初出誌を大正三年六月発行の『詩歌』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年六月号とする。但し、その初出とは微妙に異なる箇所がある。以下に示す。「堀」「戯」はママ。

   *

 

 初夏の祈禱

 

主よ、

いんよくの聖なる神よ。

 

われはつちを堀り、

つちをもりて、

日每におんみの家畜を建設す、

いま初夏きたり、

主のみ足は金屬のごとく、

薰風のいたゞきにありて輝やき、

われの家畜は新綠の蔭に眠りて、

ふしぎなる白日の夢を畫けり、

ああしばし、

ねがはくはこの湖しろきほとりに、

わがにくしんをしてみだらなる遊戯をなさしめよ。

 

いま初夏きたる、

野に山に、

榮光榮光、

榮光いんよくの主とその僕(しもべ)にあれ。

あめん。

          ―一九一四、五、八―

 

   *

読点や誤字・異体字は別として、「いんよく」が二箇所で排除されているところからは、別稿の草稿或いは改稿ととるべきものか。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 編者前書・「供養」 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「供養」の別稿

 

   拾 遺 詩 篇

 

[やぶちゃん注:パート標題。この裏に以下の編註がある。]

 

編註 「愛憐詩篇」から『靑猫』に到る年代の作品中、雜誌に發表されただけで、既刊の何れの詩集にも收錄されなかつた詩は、既刊『遺稿詩集』に三十二篇、『氷島』に四篇を收めたが、なほ他に、十七篇の雜誌發表作品が蒐集された。このうちの「街道」は本卷「愛憐詩篇拾遺」に、「竹」は「蝶を夢む拾遺」[やぶちゃん注:二十鍵括弧なしはママ。]に編入し、他の一篇を除外した殘りの都合十三篇を、ここに「拾遺詩篇」として年代順配列した。これら作品の多くは、『月に吠える』收錄の「松葉に光る」とその作風が共通しており、その意味で萩原朔太郞のいふ「月に吠える前派」に該當する、ものである。

 

[やぶちゃん注:「既刊『遺稿詩集』」既に私のブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で全電子化注を終えたそれ。

「『氷島』に四篇」本コンパクト版の先行する「萩原朔太郎詩集Ⅲ 氷島」に収録された「遺稿詩篇」パートの「都會と田舍」「よき祖母上に」「紫色の感情にて」「我れ何處へ行かん」「旅や味噌こしの」の四篇。リンク先は総て国立国会図書館デジタルコレクションの同書の当該詩篇。なお、詩集「氷島」は既に私のブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で全電子化注を終えている。

「一篇を除外した」除外した理由も不明なら、如何なる詩篇だったかも分からない。戦後の出版であるから、時局や公序風俗に抵触する作品とも思われない。不審。単に極めて短い断片であったものか、或いは、既に公開された詩篇と全く同じ内容の遺稿だったからかも知れない。

「『月に吠える』收錄の「松葉に光る」」この『月に吠える』は第三詩集『蝶を夢む』(大正一二(一九二三)年新潮社刊『現代詩人叢書』第十四編)の誤り。同詩篇は以下。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本当該詩篇の表記に拠った。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

   松葉に光る


燃えあがる
燃えあがる
あるみにうむのもえあがる
雪ふるなべにもえあがる
松葉に光る
縊死の屍體のもえあがる
いみじき炎もえあがる。

   *

なお、本詩篇の初出は、筑摩版全集によれば、大正四(一九一五)年二月発行の『遍路』の題違いの「炎上」であるが、標題以外は異同がないので示さない。]

 

 

  供  養

 

女は光る魚介のたぐひ

みなそこ深くひそめる聖像

わが手を伸ぶれど浮ばせ給はず

額(ひたひ)にみどりの血をながし

われはおんまへに禮拜す

遠くよりしも步ませたまへば

たちまち路上に震動し

息絕ゆるまでも合掌す

にちにち都に巡禮し

もの喰まざればみじめに靑ざめ

おん前にかたく瞳(め)をとづる。

 

[やぶちゃん注:これ、詩の題名の後にあるべき行空けがなく詰っている。一ページに全詩篇を詰めて載せるための仕儀と思われるが、特異的に今まで通り、一行空けた。底本末の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正三(一九一四)年十一月発行の『詩歌』とする。しかし、筑摩書房版全集では、「拾遺詩篇」に載るものの、そこでは、同雑誌の同年七月号とし、しかもその初出とは微妙に異なる箇所がある。以下に示す。

   *

 

  供養

 

女は光る魚介のたぐひ

みなそこ深くひそめる聖像

われ手を伸ぶれど浮ばせ給はず

しきりにみどりの血をながし

われはおんまへに禮拜す

遠くよりしも步ませたまへば

たちまち路上に震動し

息絕ゆるまでも合掌す

にちにち都に巡禮し

もの喰(は)まざればみじめに靑ざめ

おん前にかたく瞳(め)をとづる。

 

   *

有意な異同から、これは初出のそれではなく、発見された同詩篇の草稿と推定される。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」始動 / 目録・馬琴注・第一 年の和名幷に月の異名考餘 著作堂

 

[やぶちゃん注:「兎園小説外集」は曲亭馬琴編の「兎園小説」に続き、「兎園会」が断絶した後の、文政九(一八二六)年から翌同十年に至るまでの記録。所持する吉川弘文館随筆大成版の「日本随筆大成」第二期第三巻所収の解説によれば、『馬琴を初として、琴嶺、屋代輪池、鈴木分左衛門、山本庄右衛門、中井乾斎、文宝堂、海棠庵、南無仏庵等九人の執筆による』ものとある。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。但し、挿絵は画像が今一つぼんやりしているが、キャプションもそのまま使えるので、底本の画像をトリミング補正して使用することとした(底本は『インターネット公開(裁定)』『著作権法第67条第1項により文化庁長官裁定を受けて公開』『裁定年月日: 2020/03/25』であるから、引用使用は許される)。また、本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第三巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。諸凡例は先行する「兎園小説」(正編)に準じて、字下げその他は必ずしも底本に従わない(ブログのブラウザ上の不具合を防ぐため)。【 】は二行割注。今まで通り、句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。また、今回からは標題の下に筆者名を記して、判り易くした。【二〇二一年十一月二十三日始動 藪野直史】]

 

 

兎園小說外集目錄

   第 一

年の和名幷に月の異名考餘 著作堂

狗の物語くさぐさ 琴嶺舍

靈劔感得の物語 輪池

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では『夢中に剣を得るの物語』とする。]

前後身紀事 著作堂

[やぶちゃん注:底本では著者を『同』とするが、本文を見るに著作堂馬琴のものであるので、誤りとが断じて特異的に訂した。]

墮陰莖 同

蛇甑 鈴木氏

[やぶちゃん注:同前では『蛇怪』。]

同 山本氏

[やぶちゃん注:底本では著者を『輪池』とするが、本文を見るに山本庄右衛門のものであるので、誤りとが断じて特異的に訂した。]

猩々 乾齋

多胡郡碑註釋抄錄 同

紀の山の大榎 著作堂

   第 二

唐船漂着の記 輪池

秦鼎手筒 同

大河内藤藏紀事 文寶

池笠問答 著作堂

筑後柳川風流祭再考圖說 海棠庵

小松内大臣重盛公寶塔の圖搨本 同

冷泉左衞門朝臣詠歌 輪池

カピタン獻上目次 同

丙戌百目紀事 輪 池

異形小兒の圖二本 同

一本  文寶堂

近藤氏紀事 海棠庵

著作堂小集展覽目錄

御坊主伊東久勝忰宗勝橫死之話

江戸地名考小識 著作堂

ふるきはんじ物の盃考 著作堂

六足狗 輪池堂

峨眉山下橋 南無佛庵

[やぶちゃん注:発表者は下方に揃えて並んでいるが、本ブログでは字空けがその通りに反映せず、綺麗に並ばずに気持ちが悪いだけなので、総て標題から一字あけで示した。

 以下、著作堂馬琴の注。底本では全体が一字下げ。]

「兎園」集會、自ㇾ是而斷絕。社友内中入鬼籍者、文寶【後號「後蜀山人」。文政十二年三月二十三日歿。享年六十二。】、海棠庵【文政十三年九月二十七日歿。三十四歲。】・移住筑後者、松蘿館【文政八年春、分袂以來如胡越。】。有レ故而絕交者、好問堂【文政八年季冬以來、不與ㇾ此交。其志不ㇾ愜也。】。交遊不ㇾ全如ㇾ此。浩嘆何堪。余以閑居爲ㇾ常。無ㇾ友亦一樂也。

[やぶちゃん注:訓読する。吉川弘文館随筆大成版の解説に書き下してあり、それを一部で参考にはした。読みは私が推定で歴史的仮名遣で附した。

   *

「兎園」の集會、是れよりして斷絕す。社友内の中(うち)、鬼籍に入る者、文寶【後に「後蜀山人」と號す文政十二年三月二十三日歿す。享年六十二。】、海棠庵【文政十三年九月二十七日歿す。三十四歲。】。筑後に移住せしは、松蘿館【文政八年春、分袂(ぶんべい)以來、胡越のごとし。】。故有りて絕交せし者、好問堂【文政八年季冬以來、此れと交はらず。其の志し、愜(こころよ)からざるなり。】。交遊、全(まつた)からざること、此くのごとし。浩嘆、何ぞ堪へん。余、閑居以つて、常と爲(な)す。友無きも亦、一樂なり。

   *

「後」(「こう」?)「蜀山人」この「後」は前の「後」の衍字の可能性が高いが、ママとした。文宝亭文宝は明和五(一七六八)年生まれの狂歌師にして江戸飯田町の茶商であった。姓は今井で、通称は亀屋久右衛門。初代蜀山人大田南畝に書と狂歌を学び、別号に「食山人」「散木」があり、晩年には二代目「蜀山人」を名乗った。

「文政十二年」は一八二九年。

「松蘿館」既注であるが、再掲しておくと、西原好和(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一五(一八四四)年)の号。筑後国柳河藩士であったが、幼少より江戸で生活し、定府藩士として留守居役・小姓頭格用人などを勤めた。文政七(一八二四)年五月から「耽奇会」に、後の「兎園会」にも参加したものの、文政八(一八二五)年四月、「驕奢遊蕩」を理由としてか、「風聞、宜しからず」によって、幕府から国元筑紫(柳河藩)への蟄居の譴責を受け、江戸を強制退去させられた。天保年間は柳河藩領南野(現在の柳川市大和町)に隠棲して終わった。

「胡越のごとし」ここは「志(こころざし)合えば胡越(こえつ)も昆弟(こんてい)たり」(「漢書」の「鄒陽伝」から)を掛けたもの。「志しが合えば、北方の胡の者と南方の越の者とでも兄弟同様になれる。」の意で、「志が一致すれば、他人同士であっても兄弟のように親しくなれる。」ことを言い、彼との不本意な理由による永の別れを愛惜している馬琴の心情が滲んでいる。

「故有りて絕交せし者、好問堂【文政八年季冬以來、此れと交はらず。其の志し、愜(こころよ)からざるなり。】」随筆家で雑学者の山崎美成(よししげ 寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)。「耽奇会」の方で亀屋文宝堂が発表した「大名慳貪(だいみょうけんどん)」(「倹飩箱(けんどんばこ)」(盛り切りで売るうどん・そば・飯・酒などを江戸時代に「けんどん」と称したが、その倹飩饂飩や蕎麦など、一杯盛りの食品を入れて運ぶ箱を言い、上下又は左右に溝を切って、蓋の嵌め外しが出来る)に汁次(しるつぎ)や薬味箱なども一緒に収めたものを「けんどん提重(さげじゅう)」「忍(しのび)けんどん」と称したが、これに種々の蒔絵を施した豪華なものを「大名けんどん」と呼んだ。その考証。「耽奇漫録」第十二集所収。文政八年三月十三日発会。国立国会図書館デジタルコレクションのオール・カラーの美しい画像のここと、ここを参照されたい)について、「慳貪」の使用法を巡って、中心メンバーであった馬琴と山崎美成との間で論争となり、この「慳貪争い」が致命的に拗(こじ)れてしまい、孰れも譲らず(二人とも心が慳貪だねぇ!)、絶交に至ったのであった。]

 

 

兎園小說外集第一

 

   〇年の和名幷に月の異名考餘

[やぶちゃん注:長いので、段落を成形した。]

 

 近來、國學のいよいよ、さかりに開けしより、先哲・後學おのおの、發明の辨あり。これにより、物の名の起原なども、定かにしらるゝことぞ、多かる。

 そが中に本居氏の「古事記傳」に、

「年の和名を『とし』といふよしは、『畊作』の義也。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「畊作」「こうさく」と読み、「耕作」に同じ。]

 この言、尤、よし。もて定說とすべし。只、その註釋のいまだ具はらざれば、尙、あかぬこゝちぞする。

 愚、按ずるに、「とし」の言は、「とねしづく(百穀播收[やぶちゃん注:漢字ルビ。])」の義なるを下略せしなり。唐山にて、始て字を造れるもの、亦、この義を取れり。その「季」と「稔」の兩字のごとき、幷に「禾」に從ふをもて、知るべし。

 字書に、『「禾」は「戶羅切」[やぶちゃん注:中国語音の反切表示。]、音「嘉」。「穀」總名。黍稷稻粱自ㇾ苗至レ實、曰レ禾。』と、いふと、いへり。

[やぶちゃん注:「とねしづく」不詳。

 引用の漢文を訓読してみる。

   *

「禾(くわ)」は「戶」・「羅」の切、音「嘉(か)」。「穀」は總名。黍(もちきび)・稷(うるちきび)・稻・粱(おほあは)、苗より實に至り、「禾」と曰ふ。

   *

「戶」は「」で、「羅」は「luó」であるから、「」となる。但し、現代中国語では「禾」は「」。これは思うに「ó」(オー)と「é」(ウーァ)が近似するからいいのであろうか。だいたい、「クワ」が「カ」と同じというのと通じていると感じたからである。

 又、「季」は「年」の本字なり。「說文」に、『季、穀熟也。』、「正字通」に云、『古人謂一年一稔。取穀一熟也。』。これ、和漢、その義、相同じ。かゝれば、「とし」の、「とねしつくる」の略辭たること、疑ふべからず。

 唐山は文華の國也。この故に、物每に、その字、三も、四つも、ありて、なかなかに煩雜をなせり。譬ば、「季」の字あるうへに、或は「稔」に作り、又、「歲」に作り、又、「紀」にも作るが如し。

 按ずるに、「歲」は冬至より冬至までをいふ也。人の年歲に、「歲」を書くことも、この義におなじ。その年の冬至後に生るゝものは、明年の支干によるべし。今の俗は、この義を知らず、冬至後に擧たる兒にも、なほ、その年の支干をもて數ふ。さては、「歲」の義に稱はず[やぶちゃん注:「かなはず」。]。いかにとなれば、「歲」は「日の步み」也。日の天を行くこと、三百有六旬六日有て、日の行こと、一周なり。これを「一歲」といふ。かゝるゆゑに、中冬を「二之日」とす。日、行周り盡して、復、始る。これ、歲の日步たるゆゑん、「一之日」は冬至なり。周は十一月をもて、正月とす。これを「正歲」とい

ふ。職[やぶちゃん注:「しよく」であろうが、「営み」の意であろう。]として、これに由るなり。「歲」、又、「載」に作るよしは、「爾雅」に、『「載」は「歲」也』。『唐虞[やぶちゃん注:「たうぐ」。伝説上の聖天子陶唐氏堯と有虞氏舜を併せて呼ぶ名。また、その二人の治めた時代を指す。]に「載」といふ。』。「物の終て、更に始る」の義を取るといふ。又、「紀」に作るよしは、「書」の「供範」に、『「五紀」あり。その一を「歲」といひ、その「二」を「月」といひ、其三を「日」といひ、その四を「星辰」といひ、その五を「曆數」といふ。又、十二を「一紀」とす。歲星の天を一周するの義を取る。』といふ。唐山は、一事に、その字、多くして、その義も、隨て、亦、煩雜なること、かくのごとし。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行している。]

 天朝は、いにしへより今に至るまで、「とし」といふのみ、異名を呼ぶもの、なし。文の辭に及ばざるもの、これを推して、その餘を知るべし。

[やぶちゃん注:以下の一段落は、底本では全体が一字下げ。]

 先輩の考に、月の異名も、すべて農事のうへにかけて、倡へ[やぶちゃん注:「となへ」。]來たる、といふ。こは動きなき[やぶちゃん注:「ゆるぎなき」。]妙案なり。しかれども、註釋の、なほ、詳ならぬものあり、よりて、考餘の一篇を綴りそへて、もて、遣忘に備ふ。博士の爲には笑るべし。

 正月を「むつみ月」といひ、略して「むつき」ともいふよしは、舊說に、『この月は良賤、迭に[やぶちゃん注:「たがひに」。]往來・慶賀して、むつまじき義也。』と、いへり。是、究めて、いはれ、なし。しかれども、新說も、いまだ詳ならず。

 按ずるに、「むつき」は「むす月」也。「むつみ月」といふも、「むすび月」の義なれば、相同じ。この月の陽氣、下に蒸して、草木、將に萠出んとするの勢ひあり。譬ば、胎生のもの、其胎内に蒸れ、卵生のもの、その殼中に蒸るゝが如し。故に「むつみ月」といひ、略しては、「む月」といふ。「書紀」、「神代の卷」なる、「かんむすび」の尊を、「神產靈」と書れたり。「產靈」は、則、「母德」にして、「子を胎内に蒸す」の義、あり。故に「神產靈」と唱ふ。今の世も、人の子を「むす子」・「むすめ」といふ。是も「むすび子」「むすび女」の略にて、元來、その母の胎内に、蒸されて生出(なりいで)しものなれば也。されば、正月を「むつみ月」といふも、これにおなじ。もし、漢字を借用せば、「產靈月」と書こそ、よけれ。「月令」に、『孟春之月云々』。『天氣下降。地氣上騰。天地和同。草木萠勁。』と、いふ。凡、この十六言、「むつき」の中に、こもりたり。抑[やぶちゃん注:「そも」と訓じておく。]、亦、妙ならずや。

 二月を「きさらぎ」といふよしは、舊說に、「この月は、或は寒く、或は暖にして、更に又、寒中より、さむきこと、あり、故に『衣更着』と名づく。」と、いふ。これも亦、いはれ、なし。又、新說に、「『きさらぎ』は『息、更に來つる』の義にて、東風、氷を解きて、蟄虫、動く。『いき』とは天地の陽氣也。」と、いふ。こは、理りあるに似たれど、いまだ、甘心しがたし。

 按ずるに、「きさらぎ」は「鋤[やぶちゃん注:「すき」。]さらぎ」なるべし。この月は、をさをさ、田を鋤き、畑を打也。この故に「すき浚ぎ」を略して、「きさらぎ」といふなり。

 三月を「やよひ」といふよしは、「彌生」の義にて、この月は、草木、いやがうへに、生出れば、しかいふ。」と、眞淵の說に從ふべし。

 四月を「うづき」といふよしは、「莫傳抄」に、『夏かりの かへる越路の となみ山 卯のはな月と 何はいはまし』とあるによりて、「卯月」と書きて、この月は、卯の花、さかりなれば、しか名づけたりと思ふもの、多かるは、みな、あやまりを傳へたる也。新說に、『「うづき」は「植月」也。この月は、根をわけ、種をくだすことの、最、さかりなる頃なれば、「うゑ月」といふ。それを略して「うづき」といふ。』と、いへり。この說は、いと、よし。さばれ、「うゑ月」の義にはあらで、「うみ月」の「み」を略せしならん。既に播したる百[やぶちゃん注:「もも」。]のたなつ物[やぶちゃん注:「穀(たなつもの)」で田畑から穫れる稲を筆頭とした穀物のこと。]、みな發生(なりいで)たるを、或は、移しうゑ、或は、つちかひ、養ふこと、譬ば、胎内の兒のうまれ出たるを、育るが如し。よりて、正月を「むつき」といふにむかヘて、「うみ月」と名づけたるなるべし。唐山にて、四月の節の中を「小滿」といふも、この義に、かなへり。「小滿」は「臨月出產」のこゝろをもて、見るべし。

[やぶちゃん注:短歌は句で空隙を入れた(以下同じ)。

「莫傳抄」後鳥羽院口伝とする「和歌肝要 莫傳抄」(わかかんよう ばくでんしょう:現代仮名遣)。]

 五月を「さつき」といふよしは、舊說に「早苗月」とし、「祕藏集」には、「さくも月」と、よめり。新說に、「さは耕作」の事にて古言也。この月は、稻の苗をうつし植る時にして、農事に大切のよしなれば、「さつき」といふ、と、いへり。理りあるに似たれど、いまだ、詳ならず。猶、考ふべし。

 六月を「みな月」といふよしは、舊說に、この月は、暑熱、酷して、水に乏しきころなれば、「水無月」といふといヘり。東滿は、これを否み、『「みな月」は、かみなる月の上下を省る[やぶちゃん注:「はぶける」。]也。この月は雷の、しばしば、なるものなれば、しかなづけたり。』と、いへれど、甘心しがたし。又、一說に、「みな月」は「水なす月」也。この月は、田に水の乏しきをもて、をさをさ、水をまかする也。よりて「みづなす月」といふべきを、略して「みな月」といふ、と、いへり。姑く[やぶちゃん注:「しばらく」。]、この說に從ふべし。

[やぶちゃん注:「東滿」不詳。思うに、後にも出る、江戸前期の国学者荷田春満(かだあずままろ 寛文九(一六六九)年~元文元(一七三六)年:本姓は羽倉氏。初名は信盛、後に「丸」、また「春」と名乗ったからである。]

 七月を「ふみ月」といふよしは、舊說に、『「ふみひらき月」の略辭也。この月は二星に書をたむけ、且、書籍を曝すことあれば、「ふみ月」といふ。』と、いへり。「藏玉集」に、「たなばたの かふ夜の空の かげ見えて かきならべたる ふみ披き月」とあるは、これ也。又、新說に、『ふみ月は「ふえ月」也。この月は稻の葉の特に殖る[やぶちゃん注:「ふえる」。]ころなれば。』と、いヘり。前の「ふみひらき月」には、立まさりて、閒ゆれども、いまだ、可ならず。

[やぶちゃん注:「藏玉集」(ざふぎよくしふ)は「蔵玉和歌集」のこと。室町時代の歌学書。一巻。撰者は二条良基に仮託されているが、未詳。草木・鳥獣・月の異名などを詠んだ歌を収集分類し、考証を加えたもの。先に出た「莫伝抄」を増補した形となっている。「草木異名抄」の異名もある。

「かふ夜」「交ふ夜」であろう。牽牛淑女が年に一度だけ行き交わる夜であろう。]

 按ずるに、「ふみ月」は「ふくみ月」の中略也。この月は稻の花、其皮中に、なり出て、物をふくむが如し。譬ば、頰の和名を「ホホ」といふも、「ふくむ」の義也。物の胎を「はらむ」といふも、「ハ」と「ホ」、音通にて、亦、「ふくむ」の義に近く、花のつぼみに「含」の字を當たるも、「含」に「ふくむ」の義、あれば也。これらによりても、「ふみ月」の「ふくみ月」なるを、しるべし。

 八月を「はづき」といふよしは、舊說に、『葉月也。この月、梧桐の葉落れば也。』といひ、一說には、『「はち月」の「ち」を略して、「はづき」といふ。』といへるは、笑ふべし。又、新說に、『この月は、稻の葉、さかりにして、いまだ、穗を見ず。よりて「葉月」といふ。』と、いへるも、うけがたし。

 按ずるに、「はづき」は「はな月」の「な」を省る也。この月、上旬には、早稻の花、ひらき、中旬には、晚稻の花、さかり也。依て、「はな月」といふべきを、略して「はづき」と、いへるなり。

 九月を「ながつき」といふよしは、舊說に、『「夜長月」也』。又、新說は、これを否して、『この月は、稻の穗、既に長し、よりて「長月」と名づく。』といへり。

 按ずるに、「なが月」は「稻刈り月」の略辭なるべし。稻は、「イナ」、音通にて、體に「いね」といひ、用に「いな」といふ【稻城・稻村・稻光の類の如し。】。「いな」の「な」と、「かる」の「る」を省きて、「なが月」といふか【「か」を濁音に倡るは、音便にて、この例、多し。】。この月は、をさをさ、早稻を刈る頃なれば、しか名づたるべし。

[やぶちゃん注:「體」「たい」であろう。本体の正式な「晴れ」の呼び名。

「用」「よう」で慣用として使う日常語の意であろう。]

 十月を「かみな月」といふよしは、舊說に、『「神無月」也。この月は、諸神、出雲の大社に集合(つどひ)給ふ。よりて、この名あり。』と、いふ。荷田氏は、これを斥けて、『「かみな月」は「雷無月」也。この月は、雷、その聲を收るの、かぎり也。六月を「雷鳴(かみなる)月」といふにむかへて、「雷無月」と名づく。』と、いへれど、これも亦、甘心しがたし。

 按ずるに、「かみな月」は、「かりね月」なるべし。「かりね」は、卽、「刈稻」也。「リ」と「ミ」と橫音にて、「ナ」と「ネ」は音通也。よりて、「かり稻」を「かみ」と倡ふ。十月には、なべて、稻を刈盡すものなれば、しか、名づけたり。九月を「なが月」といふも、「稻かり」の義なれど、稻に早晚の遲速あり。おほよそ、九月に刈はじめて、十月下旬に刈果るものなれば、この兩月、同義にして、異名也。譬ば、「たね」と「さね」との如し。「タ」と「サ」と橫音なれば、「たね」も亦、「さね」也。しかるに、稻を「たね」と訓み、實を「さね」と訓じたる、これも亦、同義にして異名也。この理りをもて推すときは、「なが月」「かみな月」の同義にして、名の異なるをあかすに足らんか。

[やぶちゃん注:「橫音」(よこおん)は母音行の「ア・イ・ウ・エ・オ」の横の「段」のこと。

 以下は一段落全体が底本では一字下げ。]

 再、按ずるに、十月を「雷無月」の義とするよしは、「祕藏集」に、「四方山は からくれなゐに なりにけり しぐれひまなき 神なかり月」とあるによるか。「神なかり月」の「神」は、「雷鳴なき月」といふに似たり。

[やぶちゃん注:「祕藏集」は「古今打聞」(こきんうちぎき)「祕藏抄」「和歌祕藏鈔」の異名を持つ、伝凡河内躬恒の作とされる歌学書のことであろう。]

 十一月を「しも月」といふよしは、舊說に、『霜降り月也。「藏玉集」に、「風さむみ 霜ふり月の けふよりや 雪げと見えて くもりそむらん」。』と、あり。新說も、これに從ふのみ。

 愚、按ずるに、「しも月」は、「しておさめ月」の略辭なるべし【「も」と「お」と、橫音也。】。この月は、貢の新穀を「收斂(をさめい)るゝとき」なれば、この名、あるか。いまだ、必、と、しがたけれども、姑く、こゝろみに、いふ、のみ。

 十二月を「しはす」といふよしは、俗書に、『「師走」と書て、この月は、諸生、師に走り、故舊を訪へば也。』などいふ說あれども、あげつらふに足らず。貝原益軒は、筑紫の四極(しはつ)山を證として、『「とし極(はつ)る」の義なるべし。』と、いへり。契冲、眞淵も、「年極る」の義とするのみ。

 按ずるに、「しはす」は「としはつる」の義にあらで、「しねはつる」の略辭なるべし。この月は、農事、既に果て、耒耜[やぶちゃん注:「らいし」。「耒」は「鋤の柄」、「耜」は「鋤の刃」で、農具の鋤を指し、ここは農事一般の意。]に暇あり。調貢(みつぎもの)の新穀を斂め果ぬる[やぶちゃん注:「をさめはてぬる」。]ころなれば、「しはす月」[やぶちゃん注:「仕果つる」。]といふにやあらん。「月令」に、『季冬之月云々』。『命ㇾ晨計耦耕事、修耒耜田器、乃命四監。收秩薪柴。以共郊廣及百祀之薪燎』といへるにも、かなへり。

[やぶちゃん注:「礼記」の「月令」(私は「がつりょう」と読むのを常としている。「礼記」の中でも一年の農事の指標を示したものとしてよく知られる)の訓読を試みる。

   *

『季冬の月』、『晨(あした)に命じて耦耕の事を計り、耒耜(らいし)を修(をさ)め、田器を具(そな)ふ。乃(すなは)ち、四監に命じて、秩(ちつ)[やぶちゃん注:稲をしっかりと積み上げたもの。]・薪(たきぎ)・柴を收めしむ。以つて郊廣(こうかう)及び百祀の薪燎(しんりやう)を共にす』。

   *

「郊廣」不詳。「都城郊外の広野」の意か。「薪燎」は篝火。]

 右十二ケ月の異名、愚按の當否は、とまれ、かくまれ、すべて、農事のうへにかけて、倡ざるもの、あることなし。されば、いにしへの聖皇、農事をもて、年に命じ、月に名づけて、民に耕作を勸め給ひし善政、今に歷然たり。農は、司命の奴[やぶちゃん注:「ど」。]にして、その身、貴きにあらねども、そのわざの重きこと、何ものか、亦、これに加ん[やぶちゃん注:「くはへん」。言わずもがな、ここは反語。]。後世、「こよみ」といふものゝいで來しよしも、「民に、時をうしなはせじ。」との爲なれば、「正月」・「二月」と數んより、この異名をもて、農を勸めば、「こよみ」にも、ます、捷徑なるべし。さるを、後々に至りては、「藏玉」・「莫傳」・「祕藏」の諸集に、月の異名を、こちたく、出して、歌よますべき爲にのみ、せられしは、いかにぞや。

[やぶちゃん注:「司命」中国に於いて、本来、北斗七星の魁(かい)(桝(ます)の部分)の上方にある星座「文昌宮六星」の第四星を「司命」という。古来、「人間の寿命を司る天神」と考えられ、「楚辞」の「九歌」には「大司命」・「少司命」の二神が見え、文昌宮第五星の「司中」、第六星の「司禄」とともに、祭祀の対象とされた。特に道教では、人間の寿命台帳を管理し、人間の行為の善悪を監視する「三尸虫」(さんしちゅう:本邦の庚申信仰の核である信仰と関わる)や、竈神(かまどがみ)の報告に基づいて、寿命の増減を行う神と考えられた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「捷徑」(せふけい(しょうけい)は「捷逕」とも書き、元は「目的地に早く行ける道・近道」で、転じて、「目的を達するに手っ取り早い方法」の意。]

 物の名義の多なるは、から國ぶりにて、紛れ易く、「物そこね」なる、わざにこそ、あれ。

 こは、「ひがごと」にやしらねども、

「この春はじめのまどひには、ふさはしかるべき事を。」

とて、ことふりにたる、とし月の、異名の考餘を綴るになん、多かる中に、ひとつ、ふたつ、取らるゝことの、ありもせば、新奇に走る怪誕に、いさゝか、ますよしも、あらんかし。

 文政九年丙戌春二月時正  瀧 澤 解 稿

[やぶちゃん注:私は、この馬琴の農事に従った月の異名説に諸手を挙げて賛同するものである。嘗て、私は古典の授業用にそうしたコンセプトで統一した農事秘訣に従った月の異名説を作り、生徒に配布したことがあった。古い紙ベースの資料(生徒の自作作品は別に保存してある)は総て九年前に廃棄した。古いデータを捜してみたが、なかった。少し残念な気がしている。もし、持っている元教え子がいたら、どうか、画像で送って呉れると嬉しい。多分、B5だと思うのだが。

「怪誕」(くわいたん(かいたん))の「誕」は「偽り」の意で、奇怪にして、出鱈目なこと・さまを指す。「兎園会」のメンツはそうした物がお好き。]

2021/11/22

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 蒲の花かたみ / 「兎園小説」(正編・全十二集)~完遂

 

[やぶちゃん注:本篇の本文は「曲亭雜記」第一上に載るので、国立国会図書館デジタルコレクションのここからを底本とした。表記はそれに従い(歴史的仮名遣の誤りもママ)、読みは一部に限り、一部の読みは送り仮名で出した。林子平・高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」の一人に数えられた儒者蒲生君平(がもうくんぺい 明和五(一七六八)年~文化一〇(一八一三)年:下野国宇都宮新石町(現在の栃木県宇都宮市小幡一丁目)生まれ)の友人であった馬琴による渾身の評伝。彼は天皇陵を踏査して「山陵志」を著した尊王論者にして海防論者として知られる。詳しくは当該ウィキを読まれたい。但し、「兎園小説」には、「曲亭雜記」に載らないその後に非常に長大な漢文の「蒲生君臧墓表」があり、そこは吉川弘文館随筆大成版に拠った。長いので、段落を成形した。なお、吉川弘文館随筆大成版「兎園小説」では、標題は目次では「蒲の花かたみの上」であるが、本文では「蒲の花かたみ」である。ブログでは底本と同じく後者を採った。]

 

   ○蒲の花かたみ

 久かたの日影に、うとき谷を出でゝ、木(こ)、傳ひ、あさり、鳴く鳥(とり)も、友を求むといふなるに、物の量なす人として、いづれか友を思はざる。

 そを懷(おも)ふにも、科(しな)、あるべし。利慾にかたらひ、婬樂(いんらく)に集(つど)ひ、酒食によりて親しかりしは、思ふに似たるも忘るに、はやかり。

 學問(まなび)の道のひとしくて、志(こゝろざし)の異(こと)ならぬのみ、忘れんとすれど、忘れがたく、懷ふにも、猶ほ、あまりあり。

「そを誰(たれ)ぞ。」

と人に問はれんに、修静庵(しうせいあん)[やぶちゃん注:蒲生君平の号。]にますもの、なかりき。

 この人や、學びの道に、吾にひとしく、心ざまさへ、似たりけり。生まれし鄕(さと)は異(こと)なれども、同じ甲(とし)[やぶちゃん注:馬琴は明和四年で一年早い。]にと聞えしも、大かたならぬ、過世(すぐせ)なりけん。世に、ふた鞘(さや)の隔てなく、睦みかたらひぬる折に、いはれしことの、耳に止(とゞ)まり、なつかしくも、かなしくも、寢覺(ねざめ)ぬ老(おい)が曉(あかつき)には、過ぎ越しかたの胸にみちて、俤(おもかげ)にたつこともありけり。

 大凡(おほよそ)、この人の行狀(ぎやうじやう)は、藤田ぬしの書きつめたる墓表によりてしらるべけれど、猶ほ、漏しつと思ふこと、なきにしもあらざりけり。いとめづらしくも、竒(くす)しくも、多(さは)に得がたき博士(はかせ)なりし。その事の趣きを、物の端(はし)にしるしつけて、君子たちに示さずは、誰(たれ)か、また、節(ふし)を擊ちて、こと葉の調(しらべ)をたすくべきと思ふも、「をこ」の業(わざ)ながら、深谷(みたに)がくれに、友、呼ぶ鳥の聲にしも似て、已(や)みがたさに、水莖(みづぐき)の迹(あと)、淺きは、さらなり、山の井の影、うつしうつしも、人の笑はんことさへに、厭(いと)はぬは、實(げ)に、をろかなるべし。

[やぶちゃん注:最後の「をろかなる」はママ。

 吉川弘文館随筆大成版「兎園小説」では、ここに、二字下げで、

   *

文政八年乙酉冬十二月朔[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一八二六年一月十八日。]、このふみを綴りて、みづから、はしがきするもの。

        神田の隱士   瀧澤 解

   *

とある。

 以下は底本でも改行している。]

 人の心は、かくれ沼の、さだかには目に見えぬものから、そのよきも、終(つひ)に顯(あらは)れ、そのわろきも、終に見(あらは)る。よきも、わろきも、おしなべて、なき後にこそ、定かなれ。さばれ、そのよき人といふとも、祿もなく、位もあらで、名を後の世に遺せるものは、只、その人の德にあり。學びの力に、よらぬは、なし。

 玆(こゝ)に、亦、その人、あり。吾友脩静庵の主人(あるじ)、卽ち、これなり。

 抑(そもそ)も脩静庵は、もと、福田氏、後に、

「その先祖の氏鄕(うぢさと)朝臣(あそん)の族(やから)より出でたり。」

と聞くに及びて、氏(うぢ)を蒲生(がまふ)に改めけり【これらのよしは、墓表に具[やぶちゃん注:「つぶさ」。]なれば、こゝに贅せず。】。名は秀實(ひでざね)、一名(いつのな)は夷吾(いご)、字(あざな)は君平(くんぺい)、脩静は、その號(よびな)。下野州(しもつけのくに)河内郡(かはちこほり)宇都宮の人なりけり。明和四年[やぶちゃん注:ママ。]丁亥、某月日に生れぬる故をもて、其父、これに名を命じて、伊三郞といふといふ。「亥」の和訓は、卽ち、「爲(ゐ)」なり。「爲」・「伊」の假名、たがふといへども、「伊」は、猶ほ、「亥(ゐ)」の「ゐ」のこゝろなるべし。

[やぶちゃん注:「氏鄕朝臣」戦国から安土桃山時代にかけての武将蒲生氏郷(弘治二(一五五六)年~文禄四(一五九五)年)。]

 その家、半農半商にて、㸃燈油(ともしあぶら)を鬻(ひさ)ぎたり。父、沒して、兄、家を嗣ぎぬ。只、脩静のみ、をさをさ、讀書を嗜みしかば、耕(たがへ)し耘(くさき)ることを欲(ほり)せず。又、商人(あきうど)の業(わざ)を樂(ねが)はず。同じ鄕(さと)に石橋(せききやう)といふ先生ありて、經學(けいがく)を修めて、且つ、施しを好み、其家(いへ)、豊かなりければ、天明三年[やぶちゃん注:一七八三年。]、淺間山、燒けて、關東、いたく餓ゑたるとき、倉廩(さういん)[やぶちゃん注:米などの穀物を貯蔵しておく倉。]をうちひらき、四百苞(たはら)の米を散(ちら)して、鄕黨・鄰里(りんり)を賑しけり。只、この施行(せぎやう)のみならず、或は、路を造り、橋をしつらひ、隱德慈善を宗(むね)としたれば、人皆、德とせぬものなく、名を遠近(をちこち)に知られてけり。

 脩静は、いとはやくより、石橋翁の門に入りて、勤學硏究、玆(こゝ)に年あり。

 かゝりし程に、大母(おほば)の物語りによりて、祖先の賤しからぬを知曉(ちぎやう)し、みづから、氏(うぢ)を改めて、志(こゝろざし)、いよいよ、堅く、凡(およそ)、下野人(しもつけびと)の風俗は、朴訥にして、强く、悍(たけ)し。脩静は、之れに加ふるに、志氣、逞(たくま)しく、貧しきを、辭(いら)はず、

「よしや、忠義の狗(いぬ)となるとも、亂離(らんり)[やぶちゃん注:世の中が動乱状態に陥って、人々が離れ離れになってしまうこと。]の人と、ならじ。」

とて、しきりに奬(はげ)み、學びけり。

 しかれども、章句を修(をさ)めず[やぶちゃん注:後にも出るが、儒家の章句を覚えることだけでは満足せずの意と採る。]、國史舊記を涉獵して、

『いかで古學を起さん。』

と、ほりする心、いと、せちなり。剛腸(がうちやう)かくの如しといへども、母につかへて孝なりければ、母もまた、愛(め)でぬることの、他(あだ)し子よりも深かるべし。

 脩静が壯(さか)りになりし比(ころ)、その兄は身まかりけり。これにより、母、田園を、なかば、わかちて、脩静にとらせんとしてけるに、脩静、いたく、これを推辭(いなみ)て、且、母を諫めて曰、

「わが兄、不幸にして、なかそらに身まかりたまひ、且つ、その子は尙(な)ほ、幼(おちけ)なし。さるを、今、多くもあらぬ田園を、吾儕(わなみ)の爲(ため)に分かたせたまはゞ、幼(いとけ)なき者は、何によりて、荒年(くわうねん)の飢寒を凌がん。およそ、兄弟叔侄[やぶちゃん注:「しゆくてつ」。おじ(伯父・叔父)と甥。]の故なく、田園を分かつものは、親族、怨みを結ぶの基本(もと)なり。吾儕(わなみ)は、一步の田を得ずとても、兎も角もして、一期(いちご)を送らん。侄(をひ)は、わが母の嫡孫なり。渠(かれ)が身、優(ゆた)かなるときは、わが母も、また、ゆたかにおはさめ。おほん慈惠(いつくしみ)を辭(いら)ひまつるは、ひとり儕の爲(ため)のみならず、すなはち、母の爲なれば。」

と、なくなく、ことわりを盡しゝかば、母はこれを、

「賢。」

として、遂にその意に任(まか)せしとぞ。

[やぶちゃん注:理由附けは立派で正当に見えるものの、蒲生は自身、物理的に野良仕事を嫌っただけ、というのが、本音のように私には思われるが。]

 是より後も、とにかくに、家の難(なや)みに、かゝつらひて、志(こゝろざし)は立てながら、身をわがまゝにも、せざりけり。

 是よりさき、寬政二年の冬[やぶちゃん注:一七九〇年から翌年年初相当。]、

「琉球の使人(つかひ)、入朝(にふてう)しつ。」

と聞えしに、故ありて、彼(か)の輩(ともがら)と、應接をしつるもの、宇都宮に歸り來(きた)るありけり。脩静、一日(あるひ)、これを訪ひて、

「足下(そこ)は、こたび、球人(りうじん)と應對したりと傳へ聞きぬ。何等の說話ありし。」

と問ふに、その人、答ヘて、

「否(いな)、させる說話も、なし。只、四表八表(よもやも)の話の次(なへ)に、球人、われに問ひていはく、

『皇國(みくに)は、誠に、文あり、武あり、大かたならぬ、よき國なれども、竊(ひそか)に意得(こゝろえ)がたきは、「樣(さま)」といふ字に三體(さんたい)ありて、尊卑(そんひ)の科(しな)をわけらるゝに、或ひは、「永(えい)」ざま、或は。「美(び)さま」、「つくばひざま」といふよしは、如何なる義理のあるやらん。』

と、いはれしには、困りたり。」[やぶちゃん注:「次(なへ)」連語。「な」は「の」の意の格助詞で、「へ」は「うへ(上)」の音変化とも。それに格助詞「に」がついたもので、本来は上代語。接続助詞的に用いられ、上の事態と同時に他の事態も存在することを表わす。「~と同時に・~とともに」。]

と、うちほゝゑみつゝ、告げにけり。

 脩静、これを聞きしより、憤(いきどほ)り、胸にみちて、嘆息の外(ほか)、言葉もなく、そがまゝ、宿所に走りかへりて、獨り、つらつら思ふやう、

『昔、「南北朝の内亂」より、「應仁の兵火」に至りて、天朝の舊典、皆、悉(ことごと)く亡失し、文華は、ながく、地を拂ひて、世は「戰國」となりし事、槪して、二百餘年、その惡俗の餘毒、流れて、昇平(しようへい)の今の世まで、洗ひ淸むるものゝ足(た)らねばこそ、附庸偏小(ふようへんせう)の球人にすら、侮(あなど)らるゝことの、安からね。いかで、われ、古學を興して國體(こくたい)を張り、天下の爲に、死力を尽(つく)して、國恩に報ずべし。』[やぶちゃん注:「附庸」宗主国に従属してその保護と支配を受けている国。しかし、当時の琉球は公的には独立国であり(事実上、薩摩藩の不当支配下にあったが)、この謂いは私には不快千万である。]

と、愈々、思ひ定めつゝ、指を噬(か)み、血を染めて、

「孝子之情有終身喪 忠臣之心無革命時」[やぶちゃん注:訓点があるが除去した。以下に訓読する。「孝子の情 終身(しゆうしん)の喪(も) 有り  忠臣の心 革命(あくめい)の時 無し」。]

と大書しつ。志願の臍(ほぞ)をぞ、堅めける。

 かゝりし程に、歲月を歷て、脩静、江戶に往來しつゝ、林家の門人になりしかば、帶刀(たいとう)して儒學を倡(とな)へ、當時、高名(かうめい)の儒者、國學者・文人墨客とまじはりて、遊學すること、亦、年(とし)あり。

 しかれども、その持論、事情に愜(かなは)ず、或は、之を迂濶(うくわつ)とし、或は之を狂妄として、嘲り噱(わら)はぬは稀なりしを、脩静、ものゝ屑(かず)ともせで、愈よ、守りて、みづから、貶(おと)さず。その友に語りて云く、

「昔時(むかし)は、儒官、あきらかに、天朝の故實に通じて、「六經」を以て、これが資(たすけ)にしたり。こゝをもて、名(な)、正しく、事(こと)行はれざること、なし。今の俗儒は、天朝の故實をしらず、夏夷(かい)順逆[やぶちゃん注:「夷夏論」のこと。南朝の道士の顧歓(こかん)が発表した排仏のための論文。「夷」は「夷狄」、「夏」は「中国」の意で、「道」と「俗」と「跡」をキー・ワードとして構成されている。仏教と道教の根本の「道」は究極に於いては一致するが、習俗・風俗、則ち、「俗」は「夷」と「夏」では決定的に異なっており、本来、「夷」を教化するための教法、則ち、「跡」として生まれた仏教を中国に行うことは出来ないと論ずる夷狄廃仏論・廃仏毀釈論である。]の理(り)に暗くして、名を亂り、言(こと)を紊(みだ)るゝもの[やぶちゃん注:「ゝ」は吉川弘文館随筆大成版で補った。]、百五、六十年來、比々(ひゝ)として[やぶちゃん注:どれもこれも。]、皆、これなり。その位(くらゐ)に在るものは、その道を行ひ、その位に在らざるものは、その言(こと)を行ふこと、古今一致、難易、迭(たが)ひにありといへども、吾(われ)、憤りをもて、志(こゝろざし)を立て、古學を興して逸史(いつし)を修め、力を經世(けいせい)に尽して、もて、國恩に報じ奉らんと欲(ほり)すること、他(た)、なし。彼(か)の世に阿(おもね)りて、利を謀り、皋皮(かうひ)[やぶちゃん注:「虎の皮」の意で、そこの座する教導的地位にいる者の意と思われる。]に坐する草鞋(さうあい)大王、自(みづ)から名敎(めいきやう)の罪人たるを知らざるものと、隣りをなさじ、と思ふのみ。このこと、同士の爲に語るべし。悠々の徒(と)と語るべからず。」

とぞ、いきまきける。

 この比(ころ)よりして、脩静、「九志(きうし)」[やぶちゃん注:後注の太字下線部を参照されたい。]を編述の志(こゝろざし)あり。

「いにしへの山陵、多く荒廢して、その迹、定かならざるものありと聞く事、久しきをもて、まづ、「山陵志(さんりやうし)」より刱(はじ)めん。」

とて、獨行(どくかう)して、京に赴き、南海を越え、淡路に渡るに、素(もと)より、路費(ろひ)の乏(とぼ)しきを憂ひとせず、嶮(けん)を履(ふ)み、風雪を犯して、六十六國、その半ばを經歷(けいれき)し、あるは里老に問ひ、或は舊圖を考へ、諸陵存亡の趣きを目擊したりける。苦辛を、その著述の爲に辭せず、月日は、旅寐(たびね)に移れども、其の志、移らずして、愈よ、精力を盡しけり。

 かゝりし程に、丁卯[やぶちゃん注:文化四(一八〇七)年。]の年、北虜(ほくりよ/キタ[やぶちゃん注:右/左のルビ。文化の初期からの蝦夷へのロシア船の来航や通商要請を指すととる。])の邊塞を擾(みだ)るゝの風聞あり。脩静、江戶に在り。かのことを傳へ聞きて、憂ひ、且つ、憤りに堪へず、卽ち、「不恤緯(ふじゆつゐ)」五編を著はし、上書して、之を國老の執事に奉りしに、おほんとりあげは、なかりけり。とかくする程に、「山陵志」一卷、やうやくに稿を脫ぎて、刻本(こくほん)にせまく欲(ほ)りするに、脩静、素より、擔石(たんせき)の儲(たくはへ)なければ、同志に告げて、未刻(みこく)已前に入銀(にうぎん)を促し、且、その友、鍵屋静齋(かぎやせいさい)等が資(たす)けを借りて、製本、全く成りしかば、之を京師(きやうし)に獻(たてまつ)り、及び、關東の搢紳(しんしん)、並びに、有職(ゆうしよく)の人々に、まゐらせけり。しかるに、

「其の論、處士(しよし)・浮浪人の、あげつらふべきことにしも、あらず。贅言(ぜいげん)、分(ぶん)に過ぎて、忌み憚らざるに似たり。」

とて、脩静を、市(いち)の尹(かみ)の廳(ちやう)[やぶちゃん注:江戸の町奉行。]に召して、その條々を詰(なじ)られしに、脩静、すなはち、「律令」を引き、古實を證して、答へまうすことの理りに稱(かな)ひしかば、重ねて咎めは、なかりけり。

[やぶちゃん注:「不恤緯」は文化四(一八〇七)年の執筆になる、北辺防備を唱えた海防論書。幕閣の若年寄水野忠成に献上したが、逆に、幕府の警戒するところとなり、喚問を受けて、実際には閑居させられている

「山陵志」享和元(一八〇一)年に完成させた、天皇陵(山陵)に関する研究調査結果を記した史料。当該ウィキによれば、寛政八(一七九六)年から寛政一二(一八〇〇)年にかけて、『自ら行った近畿地方や四国地方の陵墓調査結果を編纂したもので、草稿は寛政』九年に、『最終稿は享和元』(一八〇一)年に『完成したと言われる。書物として発刊されたのは文化』五(一八〇八)年とも、文政五(一八二二)年とも言われ、文政五年説の『場合、君平の死後にはじめて出版されたことになる。「前方後円墳」という言葉は『山陵志』の中で初めて君平が用いた言葉である。本書が幕末の尊王論の根拠となったと評される一方で、調査結果を記録した考古学資料としての評価も高く、明治維新の後、明治天皇は君平の業績を讃え、勅命により郷里である宇都宮に石碑(蒲生君平勅旌碑)が建立された。本書は徳川光圀が編纂に取り組んだ』二百四十八年もの長大な時間をかけた「大日本史」の『補完資料の位置付けとしても評価されている』。ウィキの「蒲生君平」によれば、『本書は光格天皇が天覧するに至るが、町奉行の取り調べに遭った』ともある。

「擔石」「石」は古代中国で容量を量る単位。「儋」は二石、「担」は一石で、これで「わずかな量の米穀」の意。転じて、「わずかなこと」の意。ここは後者。]

 これにより脩静、慷慨嗟嘆して、身の禍ひを見かへらず、日比(ひごろ)の剛膓(がうちやう)十倍して、記文一篇を綴りてけり。そのこと、禁忌に觸るゝをもて、市の尹にや聞えにけん、召し問はんとせられしに、「林家(りんけ)の門人たる」よしを聞かれて、まづ、祭酒に告げられしかば、祭酒、卽ち、脩静を招きよせて、

「件の記文を、まゐらせよ。」

と、ありけるに、脩静、答へまうすやう、

「件の拙文は、一時(いちじ)漫戯(まんげ)の稿本なりしを、何某(なにがし)に貸したりしが、いく程もなく、失ひて、今は、一ひらも候はず。仰せの趣き、畏(かしこま)り候へども、なきものなれば、せんすべも、なし。この義、ひたすらに賢察を願ひ奉る。」

と陳じゝかば、祭酒、すなはち、脩静を退(しりぞ)かして、又、家臣をもて、問はしめ給ふに、脩静、陳(ちん)ずること、初めの如し。家臣はこれをまことゝせず。なほ、さまざまに詰(なじ)りしかぱ、祭酒、これを推し禁(とゞ)めて、

「威をもて、逼(せま)るは、要(えう)なき業(わざ)なり。利害を說きて諭(さと)さば、足りなん。問ふこと、再三、再四にして、白(まう)すことの違はぬは、實(じつ)に失ひたるならん。おきね、おきね。」

と、とゞめさせて、宿所にかへし給ひしとぞ、程經て後に、聞えける。

 此の事、世間に聞えしかば、知るもしらぬも、おしなべて、駭嘆せずといふものなく、踈(うと)きは、

「愚。」

として、これを嘲り、親しきは、憫(あはれ)めども、救ふよしもなきまゝに、

「あなや、脩静は、不測の罪に身を喪ふ歟。」

と阽(あやぶ)みしに、祭酒、愛顧のとりなしにやよりけん、又、その母に孝なるよしさへ、尹にしられたるにやあらん、やうやくに免かれて、させるおほん咎もなかりけり。

[やぶちゃん注:「記文一篇」書名を明らかにしていないが(「散逸した」と証言していることからの、馬琴のポーズであろう)、ウィキの「蒲生君平」によれば、先の「山陵志」が町奉行の取り調べに遭ったことを『不服として』「憤記」『を執筆したところ、再度取り調べを受け、林述斎の弁明で事なきを得た』とあるのが、それである。]

 脩静、江戶に僑居してより、文化の始めまで、駒込吉祥寺門前にをり、七年庚午[やぶちゃん注:文化七(一八〇七)年。]の春二月、更に卜居して石町なる鐘撞堂新道へ移りにけり。

[やぶちゃん注:ウィキの「蒲生君平」によれば、陵墓実地『調査の旅から帰郷した後は、享和元年』(一八一〇年)『に江戸駒込の吉祥寺付近に修静庵』『という塾を構えて何人かの弟子を講義し、貧困と戦いながら』、同年に「山陵志」を『完成させた』とし、更に文化七(一八一〇)年には、『居を神田石町の鐘撞新道に移し』、『同年、師・鈴木石橋の資金援助を受け』て、「職官志」を一部、刊行している。『江戸では、大学頭・林述斎に文教振興を建議している。構想していた』「九志」=(「神祇志」・「山稜志」・「姓族志」・「職官志」・「服章志」・「礼儀志」・「民志」・「刑志」・「兵志」)のうち、『出版できたのは』、「山陵志」と「職官志」だけで『あり、それも借財を背負ってのことであ』った。「職官志」を通しては、『平田篤胤との親交が始まっ』ている、とある。]

 駒籠(こまごみ)[やぶちゃん注:「駒込」に同じ。]にありし日より、敎授に口を餬(もら)ふものから、「山陵志」に相つゞきて、又、「職官志」を彫らんとすなれば、財用、足らで、窮すれども、志氣、卓(たか)く傑出して、持論聽くべく、文章、觀るべし。

 又、ある時は、交遊・宴會の席につらなりて、脩静、特に强飮(がういん)酩酊、劇談放言して、讓らず。その體(てい)たらく、傍若無人に似たりといへども、方正鯁直(ほうせいきやうちよく)の性(せい)、言外にあらはれて、國を憂ふるの心、一日半時(いちにちはんじ)も撓(たゆ)むこと、なし。

[やぶちゃん注:「鯁直」「かうちよく(こうちょく)」とも読む。「鯁」は「魚の骨が咽喉に刺さる」の意で、「直言が受け入れられがたいこと」を喩えて言ったもの) 人に諂(へつら)わず、権勢を恐れないこと。強く正しいこと。]

 はじめ脩静が、山陵訪求の爲に京に赴きしとき、彼地に、絕えて、しる人なし。當時、小澤蘆庵は、古學を好みて、萬葉風の詠歌に名たかく、

「世にすねたる陰逸なり。」

と、かねて傳へ聞きしかば、

「渠(かれ)が助けを借らばや。」

とて、その京に入りし日に、やがて蘆庵が宿所(しゆくしよ)を尋ねて、

「云々(しかじか)。」

と、おとなふ程に、小澤が家僕(かぼく)、出で迦(むか)へて、

「いづこより。」

と問ふ。

 いひよるよしもなきまゝに、脩静、まづ、佯(いつは)りて、

「某(それがし)は、下野なる宇都宮のほとりにて、蒲生伊三郞と呼ばるゝ者なり。琴(きん)を好み候へども、田舍には、よき師、なし。主人(あるし)の翁(おきな)は、琴(きん)の妙手にておはするよし、東野(とうや)の果(はて)まで、かくれなし。是れにより、おほん弟子にならまく欲(ほ)りして、遙々と來つるにて候。」

といふ。

 その僕、こゝろを得て、奧に赴き、云々(しかじか)と告げにけん、蘆庵は、聲を高くして、

「あな、無益(むやく)にも、問はれごとかな。汝、出でて、しか、答へよ。『主人(あるじ)は、久しう、客を辭し、交りを絕ちたれば、都のうちだにも、親しう物(もの)せるは、稀なり。琴は、若かりし時、搔き鳴らしたりけるを、あちこちの人に知られて、「彼(かれ)にきかせよ、此(これ)に敎へよ。」と、いはるゝが、うるさければ、近ごろ、うち摧(くだ)きて薪(たきゞ)に代へたり。かゝれば、所望にしたがふべくもあらず。他(た)に行きて、求め給へ。』。」

といふ聲の、蒸襖(むしふすま)[やぶちゃん注:「からかみ」と同じで普通の襖のこと。]一重(ひとへ)を隔てて、定かにぞ、聞えける。

 脩静は、僕が報(つ)ぐるに及びて、そが、「しかじか」といふを、しも、またず、さらに又、推しかへして云ふ、

「翁(おきな)のおほん答へは、こゝにも、つばらに、もれきゝたり。某、猶ほ、一言(ひとこと)あり。願ふは、枉(ま)げて聞きたまへ。吾は、下野なる儒者なり。しかじかの志願あれば、屢(しばしば)、江戶に遊學し、こたみ、都に上りしかども、相ひ識れるもの、絕えてなし。翁の古學を好み給ふと、その氣質の俗ならぬは、かねて傳へ聞くものから、いひよる由のなきまゝに、『琴(きん)を學ばん爲にとて來りつる』といひしなり。こは長者(ちやうじや)を欺(あざむ)くに似たれども、その虛言(そらごと)は已むことを得ざりし實情(まこと)より出でたれば、許され對面せられば、肝膽(かんたん)を吐き、志願を告げて、翁の資(たす)けを借(か)らんと欲(ほ)りす。かくても、意(こゝろ)に稱(かな)はずば、退(しりぞ)けられんこと、勿論たるべし。今一たび、和殿(わどの)を勞(らう)せん。此由(よし)、執り次ぎ給へ。」

といふ。

 蘆庵も、これを洩れ聞きて、

「さりとは思ひかけざりき。竒(く)しき客人(まれびと)なり。對面せずば、悔しきことあらん。」

とて、

「『こなたへ』と申せ。」

とて、やがて、面(おもて)をあはしけり。

 脩静、ふかく歡びて、夙(はや)くより、思ひ起しゝ志願の由を說き示し、「山陵志」著述の爲に、古き御陵(みさゝぎ)を尋ねんとて、旅寐をしつることの趣き、

「云々(しかじか)。」

と、かたりいづるに、蘆庵も、只管(ひたすら)、感歎して、

「足下(そくか)は、得がたき學士なり。さる志しあらんには、吾が庵(いほり)に杖をとゞめて、こゝらわたりの御陵(みさゝき)を、しづかに訪求(はうきう)し給へ。」

とて、又、他事(たじ)もなく、もてなしけり。

[やぶちゃん注:「小澤蘆庵」(享保八(一七二三)年~享和元(一八〇一)年)は歌人・国学者。父は小沢喜八郎実郡(実邦ともいわれる)。一時、本庄家に養子に入り、本庄八郎と称した。名は玄仲(はるなか)・玄沖。通称は帯刀。別号は観荷堂・図南亭・孤鷗・七十童・八九童。法号は寂照院月江蘆庵居士。難波で生れ、京都に住んだ。「平安和歌四天王」の一人。三十歳頃、冷泉為村に入門し、武者小路実岳にも学ぶが、独自の歌学に目覚め、「ただごと歌」を主張したことから、為村から破門された。蒲生君平以外にも、伴蒿蹊・本居宣長・上田秋成などという錚々たる人物と交遊している。武士としては、尾張藩家老の家臣であり、国学者としては尊王論を展開した(当該ウィキに拠った)。]

 これにより、脩静は、日每に古陵(こりよう)を尋ね巡(めぐ)るに、ともすれば、日暮れて歸るを、主人(あるじ)は、自から、風呂を焚きて、浴(ゆあみ)させぬる。老人の心づかひを、

「胸苦(むねくる)し。」

とて、いなめども、從はず、

「これ等の事は、只管(ひたすら)に客を愛する故のみならず、吾も亦、かゝる竒人に宿(やど)することの歡ばしさに、足下の疲勞(つかれ)を慰めて、『恙なかれ』と思ふよしは、『國の爲に、力を竭(つく)す人の、助けにならん。』とてなり。必ず、辭退(いな)みたまふな。」

とて、後々までも、然(し)かしてけり。

 かゝりし程に、脩静は、ある夜(よ)、更闌(こうた)けて、子ふたつ[やぶちゃん注:午後十一時頃。]のころ、歸りしかども、蘆庵は、いねず、待ちてをり、例の如く、浴(ゆあみ)させ、飯(めし)をすゝめて、さて、いふやう、

「われ、足下に宿(やど)せる日より、疏菜(そさい)の外(ほか)に、物もなく、させるもてなしを爲(せ)ざれども、夜は老僕を休(やす)らはせんとて、手づからに風爐(ふろ)さへ焚くを、思ひ汲みたまはずや。古陵を尋ね巡ればとて、今までは、要なからんに、道草、くうてか。老人に、物をおもはせ給ふこと、こゝろ得がたし。」

と呟きけり。

 脩静、聞きて、貌(かたち)を改め、

「翁の恨み、ことわり也。わが非を飾るにあらねども、更闌(かうたけ)けたるは、聊(いさゝか)、ゆゑあり。懺悔(ざんけ[やぶちゃん注:ママ。当時は「さんげ」が一般的な読みである。])の爲に笑ひに備へん。今日(けふ)は某(それ)の天皇の陵(みさゝぎ)をたづねたりしに、日の暮るゝまで、尋ねも、あはで、思はずも、等持院なる尊氏の墓を見たり【等持院は金閣寺の北郊、石不動の北に在り。尊氏の法號を、「等持院」と云。この寺に足利氏十三世の木像あり。】[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版「兎園小説」では『頭書』とある。]。こゝに至りて、年來(としごろ)の恨み、心頭に起こりて堪へられず、墓に向つて罵るやう、

『梟臣(けうしん)尊氏、なほ、靈あらば、今、いふことを、慥(たしか)に聞け。汝は、一旦、治まりたる「建武重祚」の世を亂して、逆(ぎやく)に取り、逆に守りし毒を、後世(こうだい)に流せしより、二百十數年、干戈(かんくわ)をさまらず、國の舊典(きうてん)も、これが爲(ため)に燒け亡び、王室も亦、これによりて、卑(いや)しく、古帝(こてい)世々(よよ)の山陵(さんりやう)すら、迹、なくなりて、吾等にさへ、飽くまで物を思はするは、皆、悉く、汝が罪なり。天罸(てんばつ)、當(まさ)に知るべし。』

とて、杖をもて、石塔を思ふまゝに打ちたゝき、かくて、寺門を出づる程に、物ほしう、なりしかば、道のほとりの酒屋に立ちより、怒りにまかして飮む程に、六、七合を盡くしたり。さて、酒屋を出でしかど、醉ふてて、足も定まらず、

『此まゝにて、かへりゆかば、必ず、翁に叱られん。なかば醒(さま)してゆかめ。』

と思ふて、株(くひぜ)に尻を掛けしより、熟睡(うまい)やしけん、時も移りて、駭(おどろ)き覺(さ)むれば、更闌けたり。」

と語るに、蘆庵は噴き出だして、思はず、

「呵々。」

と、うち笑ひ、

「さても。世の中には、似たる馬鹿ものも、あれば、あるものかな。吾も亦、往(い)ぬる年(とし)、ある日、靈山(りやうぜん)のほとりに逍遙して、長嘯子(ちやうせうし)の墓所を過(よぎ)りし時【長嘯子は木下。氏名は勝俊。豊太閤の外族たるをもて、若狹の國を領せり。「關ケ原役」の後、所領、失ふて、東山に幽栖し、「天哉翁」と云ふ。】、さすがに、宿恨(しゆくこん)なきにあらねば、行きも得(え)やらずにらまへて、

『長嘯子、不滅の罪あり。わぬし、みづからこれをしるや。わぬしは豊太閤の外族(ぐわいぞく)として、位、高く、且つ、采地(さいち)も廣かるに、心ざま、武士に似ず、「伏見の駕籠城」に敵の旗色を見て、鬼胎(きたい)[やぶちゃん注:心中の秘かな恐れ。]を抱き、鳥居元忠(もとただ)等(ら)を、棄て殺(ころ)しにせしは、不義なり。事(こと)成(たひら)ぎて、罪を蒙り、はつかに、命を助けられしを幸ひにして、耻を知らず、心にもあらぬ、世捨人貌(よすてびとがほ)して、似非歌(えせうた)、多く詠じたる。「一盲、衆盲を引きし」より、歌の調べのわろくなりて、今に至るまで、なほらぬは、是れ、不滅の罪にあらずや。冥罸(みやうばつ)、かくの如くならん。』

と罵りながら、杖をあげて、墓を毆(たゝき)たる事、ありけり。こは、よく似たるにあらずや。」

と、語りもあへず、聞きも、をはらず、齊(ひと)しく、腹を抱へし、とぞ。

 昔、吳國に、さるものあり。さばれ、楚の平王は讐(あだ)といふとも、その親の爲(ため)に君(きみ)なり。さるを、その墓を發(あば)き、その屍(しかばね)を鞭うちしは、過ぎたるに似て、餘情(よせい)なし。もし、伍子胥(ごししよ)をして、投化(とうくわ)せしめ、この時にしもあらしめば、かならず、階(かい)を降(くだ)るべし。

[やぶちゃん注:「投化」徳を慕って訪ね来たって、その人物に帰服すること。「投帰」とも言う。

 以上で底本の本文は終わっている。以下は、曲亭馬琴「兎園小説」の方でここに載る蒲生君平の墓誌「君臧」というのは蒲生君平の字(あざな)。彼の墓は台東区谷中一丁目の臨江寺(グーグル・マップ・データ)にあり、東京都庁公式サイト内の「東京都文化財情報データベース」の「蒲生君平(がもうくんぺい)墓」を見ると(墓石写真有り)、『正面上位に『蒲生君藏墓表』、四面に蒲生君平の業績が刻まれてい』るとあるので、この場合の「臧」は「藏」(くら)と同義字である。「臧」は現行では殆んど使用されることがなくなったが、旧刑法用語の「臧物」(ざうぶつ(ぞうもぶつ))が辛うじて汎用されていた。所謂、「犯罪に依って他人の財産を侵害し、手に入れた物。盗品の類い。贓品(ぞうひん)」で、その影響から、私などは悪い意味しか想起出来なかったが、実際、「臧」には「腸(はらわた)・内臓」・「蔵・倉庫」・「賄賂」・「下部・下僕・しもべ」・「隠す」とネガティヴな義が多いものの、「納める」・「良い」の意がある。今までの経験上、吉川弘文館随筆大成版は誤字や誤判読があって、当てにならない上に、最後に馬琴が、これは「蒲生の墓碑より拓本を採ったのだが、摩耗がかなりあって、誤字があることを危惧するので、まさに後日の校訂を俟つ」と述べているから、「国文研データセット」にある蒲生君平の「皇和表忠録」に附帯する「蒲生君臧墓表」と校合した。上から三段目の画像の左から二つ目から右へ向かい、四段目最後までで、アドレスの末尾「00014.jpg」から「00019.jpg」に至る六画像である(異体字は私が一般的と考える方で採り、必ずしもリンク先のそれとは異なる)。但し、そちらは総て読点である。吉川弘文館随筆大成版に従い、句点で統一した。欠文が、いきなり、冒頭にあった。馬琴の翻刻は、相当な量のミス(誤字もあるが、脱字・脱文が有意に多い)があるので、いちいち注すると、五月蠅くなるだけなので、どこを挿入し、どこを訂したかは記さない。吉川弘文館随筆大成版と御自身で対照させて比較されたい。まあ、これだけでも、後記の馬琴先生の要請に百九十五年後の、今、私が応えたものとして、電子化した価値は十二分にあろうと存ずる。冒頭の五番目の一文の尊称改行は気持ちが悪い(上記リンク先のここの右丁の四行目。但し、そこでは一字空け。校合本では、後にも同様の、或いは不審な字空けが頻繁に出現するが、総て無視した)ので、完全に詰めた。作者「藤田一正」(かずまさ)は儒学者で民政家の藤田幽谷(安永三(一七七四)年~文政九(一八二六)年)で後期水戸学の中心人物の一人。かの藤田東湖の父である。一正は本名。著書に「正名論」・「勧農或問」・「修史始末」などがある。篆刻者は不詳。]

 

蒲生君臧墓表

   常陸 藤田一正撰  源千之 幷篆額

[やぶちゃん注:校合本には下方の「源千之」以下はない。]

昔者中郞氏。學周孔之道於南淵先生。養素丘園。高尙其事。一出而翊中宗中興之運。再造邦家。經綸鴻業。大織冠之勳。塞天地。是以藤姓之胤。世秉國鈞。實與社稷休戚。而枝葉蔓延。殆徧ㇾ于海内。其薨也。學士紹明。欲ㇾ傳令名於不朽。製碑文以示後世云。距ㇾ今千有餘歲。其文雖ㇾ不ㇾ可得而見。然大人君子墓碑有ㇾ文。葢此爲ㇾ始。淡海文忠公。在大寶養老之際。奉ㇾ詔刊修律令。其喪葬令曰。凡三位以上。及別祖氏宗。竝得ㇾ營ㇾ墓。凡墓皆建ㇾ碑。記某官姓名之墓。當此之時。朝野尙ㇾ文。兦[やぶちゃん注:「亡」の正字。]ㇾ論其名公鉅卿。廼至遐陬僻壤國造郡領之墓。亦有立ㇾ石銘ㇾ文者矣。其後浮屠盛行。而葬祭之禮先廢。文章與時運汚隆。而紀述德業。莫ㇾ或之聞。慶元已來。偃ㇾ武修ㇾ文。摻觚之士稍衆。碑碣之撰不ㇾ尠。兦ㇾ論其閥閱之家。廼至文人儒士山林隱逸之流。苟有稍足稱述。亦皆有以立ㇾ石銘ㇾ文者矣。嗚呼。君臧。關東布衣。發ㇾ憤著ㇾ書。欲我神聖之道於中國。徵ㇾ之以西土周孔之敎。終身轗軻。齋ㇾ志以歿。曾無一資半給之潤其身。而尺寸之功。不ㇾ克ㇾ施諸當世。然其浩然之氣。託諸文章。卓卓其不ㇾ朽者。可以與古人上レ徒矣。其墓之有ㇾ表。豈得ㇾ已哉。君臧諱秀實。一名夷吾。字君平。下野人也。本福田氏之子。自改氏蒲生。蒲生。淡海望族。系出藤原朝臣秀鄕。至會津參議氏鄕。而大顯。先世屢遷徙野奧之間。其宗爲有土之君者。兦ㇾ嗣絕ㇾ祀。既百數十年矣。君臧廼其庶孽苗裔云。東野之俗素强悍。君臧少以ㇾ氣自豪。讀ㇾ書不ㇾ治章句。慨然有經濟之志。及ㇾ壯好ㇾ遊。足跡殆徧天下之半。然未曾登仕路。故雖身在都會乎。常有山林樸茂之氣。其平生所持論。未甞少自貶以求一ㇾ售。故圓枘方鑿。俗儒笑以爲極迂濶。而君臧自信愈篤。恒謂其友曰。吾以編戶餘夫。不ㇾ能ㇾ治生商賈。又不肯仕官爲ㇾ吏以干升斗之祿。讀ㇾ書作爲文章。亦不ㇾ能曲學阿世之徒ㇾ伍。朝韲暮鹽。坐取困窮。子亦知其所以然乎。吾少時甞在ㇾ家讀ㇾ書。先祖母自ㇾ旁語ㇾ我曰。昔蒲生氏之自會津。徙封宇都宮也。其庶孽有帶刀某者。食祿三千石。納邑豪福田氏女爲ㇾ妾。有ㇾ身。適會蒲生氏再封會津。帶刀亦隨而徙焉。時留其妾父家。既而生ㇾ男。妾父母愛ㇾ之。不ㇾ忍其遠別。佯告以女子。因鞠于其家。後冐母姓。遂爲編戶之民氓。是於ㇾ汝高祖之父也。汝讀ㇾ書者。善記ㇾ之。吾於ㇾ是發ㇾ憤立ㇾ志。講究古學。欲曠世之墜典。以報國恩之萬一。庶幾乎其不ㇾ辱先祖矣。吾生也晚。不ㇾ逢大化大寶之世。大織淡海二公之相業。非ㇾ所企及。雖ㇾ然在其位者行其道。不ㇾ在其位者行其言。稽ㇾ古徵ㇾ今。通達國體。王政之要。在ㇾ納民於軌物。俾在ㇾ上之人明祀典。以敎孝敬。四海之内。各以其職上ㇾ祭。則天祖之所以照臨六合者。萬世無ㇾ墜矣。冨諸矦以奮武衞。安百姓以固邦本。是吾願也。昇平二百年。不ㇾ値天慶天正之亂。秀鄕氏鄕兩朝臣之將略。無復所一ㇾ施。雖ㇾ然安思ㇾ危。古之善敎。天下雖ㇾ安所ㇾ可ㇾ虞者。夷狄盜賊。正名分以定民志。禁左道以塞亂源。使吾說獲一ㇾ行。則遠宴安之酖毒。驅戎狄之豺狼。不啻致一時摧陷廓淸之功。將ㇾ俾斯民永無被髮左袵之患矣。斯吾志也、志願如ㇾ是。悠悠之徒。曷足與談哉、君臧又曰。仲尼稱。吾志在春秋。春秋經世之志。以道名分。周公遺法存焉。故爲ㇾ政正ㇾ名。夫子所ㇾ先。戎狄是膺[やぶちゃん注:校合本(右丁六行目)では「膺」の「广」の内部の上部が「亻」ではなく「壅」の「亠」と「土」を除去した字で、下方が「月」ではなく、「冂」の中に左画中央に接して「コ」とあるのだが、表記不能。訓読では「膺」としておく。]。周公之遺訓、今世俗儒。以ㇾ文亂ㇾ名。俗吏以ㇾ權亂ㇾ法。亂ㇾ法者。罪止其身。亂ㇾ名者。其言載筒册。而流毒於後世。夫神州。天地之正氣也。寒溫均適。寔爲中國。和平見ㇾ乎ㇾ穀。而甘美豐饒。文敎所ㇾ及。其養以給。精英發ㇾ乎ㇾ鐵。而堅剛鋭利。武威所ㇾ加。其功以成。限以天地。莫ㇾ有外異賊内侵之患。開闢以來。天祖之胤。世世傳ㇾ統。君臣上下之分。嚴威乎無ㇾ紊。宇宙之間。孰能及我神州者。故日出處天子。日沒處天子。雖ㇾ交大國。不肯苟讓。惜夫名也。今俗儒不ㇾ知名分。動虧國體。苟忘内外之分。而不ㇾ顧其名。則愛新覺羅氏之正朔。亦可禀而奉一ㇾ之。鄂羅斯國之察罕汗。亦可稱爲女帝也。可乎哉。丁卯歲。北虜擾ㇾ邊。君臧時在江戶。聞ㇾ之憂憤。廼著不恤緯五篇。詣國老門下。上書獻ㇾ之。不ㇾ報。先ㇾ是。君臧嘗聞古先帝王之山陵。或有荒廢者。欲之當路。以圖其修覆。躬自歷視其地。參考古圖舊記。作山陵志。平生精力。半在此書。書成獻之京師及關東諸公用ㇾ事者。有司嫌其論建非處士所一ㇾ宜。召詰ㇾ之。君臧乃引律文。誦故事以對。當ㇾ是君臧慷慨自奮。欲天下世人之所ㇾ難ㇾ言者。雖由ㇾ是獲一ㇾ禍。而不ㇾ顧也。有司惡其不遜。將ㇾ寘之重法。時有一學士。操文柄世所貴重。憫君臧而救ㇾ之曰。儒生喜論ㇾ事、固不ㇾ足ㇾ怪。草野之人不ㇾ知忌諱。亦何足深罪。置而不ㇾ問。可也。[やぶちゃん注:ここ(右丁五行目下方)は「兎園小説」版では「而不ㇾ顧也」(「兎園小説」版は「也」がない)の後が、異様にごっそりと文章が異なる。「兎園小説」では、『故時人目君臧狂妄。殆將ㇾ罹不測之罪。盖或有君臧之爲一ㇾ人者。憫而救ㇾ之。』で以下に続く。]因獲ㇾ免。君臧素剛膓。不ㇾ能仰當世。以取上ㇾ容。廼澆以ㇾ酒。時或劇飮大醉。頽然自放。而憂國之念。未甞頃刻忘也。間居講ㇾ學。以懲ㇾ忿ㇾ慾。不敢與ㇾ世抗爲ㇾ務。廼號其所ㇾ居之菴。曰修靜。以自警。謂修ㇾ身在ㇾ此。而成ㇾ名亦在ㇾ此。敎授之暇。專力著述。始君臧著革弊賦役等諸論。號曰今書。以規當世得失。至ㇾ是更撰職官志。欲以ㇾ次編神祇姓族等志。與山陵併爲九志。未ㇾ及悉成。文化十年癸酉七月五日。以ㇾ疾歿ㇾ于江戶僑居。享年四十有六。君臧壯而丁家艱。服除遊歷四方。故晚而娶。其配多氏。紅葉山伶官某之女。無ㇾ子。君臧之歿也。其交遊尤親且舊者。相聚而哭ㇾ之曰。斯人也。作山陵志者。其於葬祭之禮。最致ㇾ意焉。不幸無ㇾ嗣。襄事之責在朋友。其可ㇾ不ㇾ盡ㇾ心乎。廼葬之江戸北郊谷中龍興山臨江寺域内。以余與君臧相識最久也。託以表墓之文。廼書以遣ㇾ之。使之鑱諸石曰。

嗚呼君臧。常以關東布衣自稱。雖ㇾ不ㇾ免阨窮。猶爲天下奇男子。豈可閭里儒梟。號稱先生同ㇾ年而語哉。吾聞其臨ㇾ終。尙稱天地之正氣。且有三寶之說云。留精靈於天地之間。將其人而授上ㇾ之。古之所ㇾ謂死而不ㇾ兦者。其君臧之謂邪。噫。微斯人吾誰與歸。

文政元年歲在戊寅[やぶちゃん注:一八一八年。]秋八月

[やぶちゃん注:以下は「兎園小説」の記載。総て馬琴の追記である。]

  墓石 縱曲尺三尺四寸餘 橫曲尺壱尺二寸五分

  碑文 一千八百六十一言 篆額題目撰者姓名共十有三字

  統計一千八百八十六字

解云。墓表則稱其私諡。予記文則稱其號。此以ㇾ有ㇾ所ㇾ忌故也。乙酉冬十一月廿三日[やぶちゃん注:文政八年。グレゴリオ暦では一八二六年一月一日である。]。予攜興繼臨江寺。謁亡友蒲生子之墓。卽便薦行澄祭ㇾ之。祭訖以蠟墨拓碑文。未兩三頁。短景旦暮。倉卒之際。磨減之多。還ㇾ家視ㇾ之。不ㇾ易ㇾ讀者過半矣。因推ㇾ文以ㇾ意謄寫焉。恐有誤字。俟異日再搨校訂者也。

[やぶちゃん注:私は尊王思想自体は大嫌いである。さらに蒲生氏は、「あらやしき」(神道の冥界)にあっても、そうした二鞘にして不倶戴天の私の、この碑石の墓誌の訓読を、断然、拒否されるであろうから、当初、訓読は示さない予定であった。一部に意味がよく分からない箇所もあったが、校訂しつつ、電子化しながら、管見した限り、言っていることは、上記で馬琴が記した内容に概ね沿っており、上記の校訂漢文本文でも十全に理解は出来る内容であると思ったが、校訂を終る頃には、何とも言えず、蒲生君平に感情移入が強く生じてきて、しんみりしてくるまでに私の内心に変化が生じた。されば、折角の「兎園小説」正編全篇の終りである。暴虎馮河で、以下に馬琴の追記も含め、訓読を試みることとした。読み易くするために段落を成形した。読みは総て私の推定(歴史的仮名遣)。

   *

蒲生君臧(がまふくんざう)墓表

   常陸 藤田一正撰  源千之 幷(ならびに) 篆額

 昔者(むかし)、中郞氏、周・孔の道を南淵先生に於いて學び、素丘園に養ひたり。其の事、高尙たり。一たび出でて、中宗の中興の運を翊(たす)へ、再び、邦(くに)の家(や)を造り、鴻業(こうげふ)、經綸(けいりん)せり。

[やぶちゃん注:「中郞氏」不詳。

「中宗」一度亡んだ漢を再度、後漢として「中興」した初代皇帝光武帝劉秀(紀元前六年~紀元後五七年)のことか。

「鴻業」大事業。

「經綸」国家を治め整えること。天下を統治すること。また、その施策。]

 大織冠の勳は、天地を塞(ふさ)げり。是れ、以つて、「藤」の姓の胤(いん)たり。世に國鈞(こくきん)[やぶちゃん注:国政。]を秉(と)れり。實(げ)に社稷と休戚を同じくせり。而も、枝葉、蔓延して、殆んど、海内に徧(あまね)し。

 其れ、薨せるや、學士紹明、名を不朽のものとして傳令せんと欲し、碑文を製して、以つて、後世に示して云はく、

「今を距つること、千有餘歲、得て見るべからざると雖も、然れども、大人・君子の墓碑、文、有り。葢(けだ)し、此れ、始めと爲(な)す。淡海文忠公、大寶・養老の際に在りて、詔を奉じて「律令」を刊修す。其の「喪葬令(もさうれい)」に曰はく、『凡そ三位以上、及び、別祖・氏宗(ししゆう)は、竝びに、墓を營むことを得。』。『凡そ、墓、皆、碑を建てり。「某官・姓名の墓」と記せ。』と。」

[やぶちゃん注:「別祖」嫡流から分派した氏の始祖。

「氏宗」正規の嫡流の氏姓の家祖。]

と。

 當に此の時なるべし、朝野、文を尙(たつと)ぶ。其の名・公・鉅卿(きよけい)を論(あげつら)ひて兦(ばう)せるをいふ。廼(すなは)ち、遐陬(かそう)・僻壤・國造郡(くにつくりのみやつこ)の領(みやつこ)の墓に至るに、亦、石を立てて文を銘(しる)す者、有り。

[やぶちゃん注:「鉅卿」「公卿」に同じ。

「遐陬」「かすう」とも読むが、「すう」は「陬」の慣用音で正しくない。人里離れた所。辺鄙な土地。]

 其の後、浮屠、盛行し、而して、葬祭の禮、先づ、廢(はい)さる。文章、時運と與(とも)に、汚隆(をりゆう)あり。而して德業を紀述せるも、之れを聞くこと、或る莫し。

[やぶちゃん注:「浮屠」仏教。

「汚隆」「汚」は「地面の窪み」で、二字で「土地の低いことと、高いこと」。転じて、「衰えることと盛んになること」で「盛衰がある」の意。]

 慶元已來、武を偃(おご)りて、文を修し、摻觚(さんこ)の士、稍(やや)、衆(おほ)く、碑碣(ひけつ)を指す。石碑或いはそれに刻した碑文のこと。]の撰、尠(すく)なからず。其の閥閱(ばつえつ)の家を論ひて兦せるをいふ。廼ち、文人・儒士・山林隱逸の流(りう)に至れり。

[やぶちゃん注:「慶元」南宋の寧宗の治世に使用された元号。一一九五年 から一二〇〇年まで。

「摻觚の士」一般には「操觚之士」(そうこのし:現代仮名遣)である。文章を書くことを生活するための手段にしている人。「觚」は中国で「文字を書いた木札」のことを指し、それを操る(「摻」は「執(と)る」)人という意。

「碑碣」「碑」は「石碑の方形のもの」で、「碣」は「その円柱形のもの」を指す。石碑、或いは、それに刻した碑文のこと。

「閥閱」権勢のある一門・家柄と功績。]

 苟(いや)しくも、稍、稱述するに足る者有れば、亦、皆、以つて、石を立て、文を銘す者、有り。

 嗚呼(ああ)、君臧、關東の布衣(ほい)、憤りを發して書を著(しる)す。

 我が神聖の道を、中國に明(てら)して、之れに徵して、西土の周・孔の敎へを以つてせんと欲するも、終身、轗軻(かんか)にして、志を齋(いつ)きて、以つて歿す。

[やぶちゃん注:「轗軻」元は「道が凸凹で車が上手く進めないさま」から転じて、「志を得ないこと」の喩え。]

 曾つて一資半給にて、之れ、其の身を潤ほすこと、無し。而して、尺寸の功、諸(もろもろ)の當世の施しを克(よ)くせず。

[やぶちゃん注:「一資半給」同年齢の町人男子の一人前の半分の給与ということか。但し、蒲生が若き日に何らかの職に就いたという事実は見当たらない。晩年の享和元(一八〇一)年)に江戸駒込の吉祥寺付近に修静庵という塾を構え、何人かの弟子に講義したことはあるが、それも殆んど稼ぎにはならなかったと思われる。]

 然れども、其の浩然(かうぜん)の氣、諸文章に託せり。卓卓として、其れ、朽ちざれば、以つて古人と與(とも)に徒(ともがら)と爲すべし。

[やぶちゃん注:「浩然」「浩」は元は「水が豊かなさま」で、心などが広くゆったりとしているさま。

「卓卓として」際立って優れている様子。]

 其の墓、之れ、表、有り。豈に已むを得えんや。

 君臧、諱(いみな)、秀實(ひでざね)。一名、夷吾(いご)。字(あざな)は君平。下野(しもつけ)の人なり。本(もと)、福田氏の子。自(みづか)ら、氏を蒲生と改む。蒲生は、淡海(あふみ)の望族(ばうぞく)なり。系は藤原朝臣秀鄕に出で、會津の參議氏鄕に至る。而して、大いに顯らかなり。先世は、屢(しばしば)、野奧の間に遷徙(せんし)するも、其の宗(そう)、有土の君たる者なり。

[やぶちゃん注:「淡海」「近江」に同じ。藤原秀郷の一説の出生地であり、後裔蒲生氏郷の出生地でもある。

「望族」人望があり、名声の高い家柄。

「有土の君」意味不明。「ゆうどのきみ」「うどのきみ」?。領地を持った権勢家の意か。]

 嗣(し)、兦(な)く、祀(まつり)絕え、既に百數十年。君臧、廼ち、其れ、

「庶孽(しよげつ)の苗裔。」

と云へり。

[やぶちゃん注:「庶孽」正妻でない女性が産んだ庶子。]

 東野の俗、素(もと)より、强悍たり。君臧、少しく氣を以つて、自(おのづ)から豪たり。書を讀み、章句を治めず、慨然として經濟の志し、有り。

[やぶちゃん注:「書を讀み、章句を治めず」ただ先賢の言葉を読んだだけでは「満足しない」の意か。]

 壯に及びて、遊(ゆう)を好み、足跡は、殆んど天下の半ばを徧(あまね)くせり。然れども、未だ曾つて仕路(しろ)に登らず。故に、雖身は都會に在ると雖も、常に山林樸茂(ぼくも)の氣に有るがごとし。其の平生(へいぜい)の持論とする所は、未だ甞つて、少しも、自らを貶して、以つて、售(う)るを求めず。故に圓枘方鑿(ゑんぜいはうさく)たり。俗儒、笑ひて、以つて、

「極めて迂濶たり。」

と爲せり。

[やぶちゃん注:「遊」「あそび」ではなく、学術的踏査のための「遊歷」の意。

「仕路」藩の雇人や官吏となる道。

「樸茂」草木が繁茂すること。

「圓枘方鑿」普通は「円鑿方枘」(えんさくほうぜい:現代仮名遣)で、「丸い穴に四角い枘(ほぞ)を入れようとすること」の意から、「物事がうまくかみ合わないこと」の喩え。出典は「史記」の孟子伝から。この場合は、丸い枘を四角い穴に差し込もうとすることになるが、同義でよい。]

 而れども、君臧、自信、愈よ、篤く、恒に其の友に謂ひて曰はく、

「吾、編戶(へんこ)の餘夫(よふ)なるを以つて[やぶちゃん注:戸主の次男以下を指す。]、生商賈(なましやうばい)を治(おさ)むること能はず。又、仕官吏と以つて爲(な)り升斗の祿を干(ほ)すも肯(がへん)ぜず。書を讀みて、文章を作り爲(な)せり。亦、曲學阿世の徒(やから)と與(とも)に伍(ご)爲(す)ることも能はず。朝(あした)に韲(なますをくら)ひ、暮れに鹽(しほをな)め、坐して困窮せるを取る。子も亦、其の然(しか)る所以(ゆゑん)を知らざるか。吾、少時、甞つて、家に在りて、書を讀めり。先きの祖母、旁(かたは)らより我にりて曰はく、

『昔、蒲生氏の會津より、宇都宮へ徙封(しふう)するや、其の庶孽(しよげつ)に帶刀(たてはき)の某(なにがし)なる者、有り。食祿は三千石、邑豪(いうがう)の福田氏の女(むすめ)を納(い)れて、妾(めかけ)と爲(な)す。身、有り[やぶちゃん注:妊娠すること。]。適(たまた)ま、蒲生氏、再び會津に封ぜらるに會ふ。帶刀も亦、隨ひて徙(うつ)る。時に其の妾を父家に留む。既にして、男(をのこ)生まれり。妾の父母、之れを愛す。其の遠く別るるを忍びず、佯(いつは)りて告げて『女子なり』となす。因りて其の家に鞠(やしな)へり。後、母の姓を冐(かぶ)せ、遂に編戶の民氓(みんぼう)[やぶちゃん注:庶民。]と爲す。是れ、汝に於いては高祖の父なり。汝、書を讀まば、善く、之れを記(しる)せよ。』

と。吾、是(ここ)に於いて、憤りを發し、志しを立て、古學を講究して、曠世の墜典(ついてん)を脩(しゆ)せんと欲す。以つて、國恩の萬が一に報ぜん。庶幾(ねがは)くは、其の先祖を辱(はづかし)めざらんことを。吾、生まるるや、晚(くる)るも、大化・大寶の世に逢はず、大織・淡海の二公の相業(さうげふ)は、企て及ぶ所に非ず。然りと雖も、其の位(くらゐ)に在る者は、其の道を行き、其の位に在らざる者は、其の言を行ふものなり。古へを稽(かんが)へ、今に徵し、國體に通達して、王政の要(かなめ)を、民として軌物(きぶつ)に於いて、納めんとする在るものなり。上に在るの人、祀典を明(あきら)かにし、以つて孝敬を敎へ、四海の内、各(おのおの)其の職を以つて祭(まつりごと)を助けしむものなり。則ち、天祖の、以つて六合(りくがふ)を照臨する者の所(ところとす)るは、萬世、墜つる無し。諸矦を冨ませ、以つて武衞を奮ひ、百姓を安んじて、以つて邦(くに)の本(もと)を固むる、是れ、吾が願なり。昇平なること、二百年、「天慶」・「天正の亂」にも値(あ)はず、秀鄕・氏鄕兩朝臣の將略は、復た、施す所、無し。然りと雖ども、安(いづくん)ぞ危きを思はざる。古への善の敎へ、天下、安んずると雖も、虞るべからざる所(ところとす)る者なり。夷狄・盜賊、名分を正し、以つて、民の志しを定め、左道を禁(いまし)めて、以つて亂の源(みなもと)を塞(ふさ)ぎ、吾が說を行ひ獲(と)らしめん。則ち、宴の安きの酖毒(ちんどく)を遠ざけ、戎狄(じゆうてき)の豺狼(さいらう)を驅(お)ふ。啻(ただ)に一時に摧(くじ)き陷(おと)す廓淸(くわくせい)の功を致さず、將(まさ)に、斯くて、民の、永く、被髮左袵(ひはつさじん)の患(うれひ)を無くして俾(たす)けんとす。斯く吾が志なり。志しの願ひは是(こ)のごとし。悠悠たる徒(やから)は、曷(なん)ぞ與(とも)に談ずるに足らんや。」

と。

[やぶちゃん注:「編戶の餘夫」戸主の次男以下の男子を指す。

「身、有り」妊娠していること。

「民氓」庶民や流浪の民。

「墜典」亡佚した古典籍。

「大織」大職冠(たいしよくくわん(たいしょくかん))の略。孝徳天皇の大化三(六四七)年に定められた「十三階」の冠位の最高位。その後、天智天皇の時までに十九階、二十六階と増階されたが、孰れも、その冠位の最高位であった。後世の正一位に相当する。但し、中古以前にあっては、実際には天智天皇八(六六九)年に藤原姓の初祖藤原鎌足だけに授与された官位であったため、「大職冠」=鎌足を指す。

「淡海」既注の藤原秀郷のこと。

「軌物」道義や政(まつりごと)に於いて、必ず守らなければならない決まり。掟。

「六合」天地と四方とを合わせて指す語。上下四方。全宇宙。

『「天慶」・「天正の亂」』「天慶」「の亂」は「承平・天慶の乱」。平安中期に時を同じくして起った平将門・藤原純友の反乱。天慶四(九四一)年に小野好古(よしふる)らによって鎮圧された。将門を討ったのは藤原秀郷。「天正の亂」は「天正壬午の乱」のこと。天正壬午天正一〇(一五八二)年)に武田氏の旧領に当たる上・甲・信・駿地方で起きた戦乱の総称、同年三月の織田信長の武田攻め(「甲州崩れ」)から同年六月の「本能寺の変」後の若御子対陣に至る一連の動乱を指す。蒲生氏郷が活躍した時期。

「酖毒」「兎園小説」は『鴆毒』(同じく「ちんどく」)とするが、同義。中国で鴆という架空の鳥の羽にある猛毒。転じて「猛毒・毒物」でここは世のさまざな有意な害毒を持った諸現象を指す。

「戎狄の豺狼」「戎狄」はここでは日本以外の異国。「豺狼」は凶悪なヤマイヌとオオカミ(或いはいずれもオオカミ。「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗(ゑぬ いぬ) (イヌ)」を参照)。獰猛な悪者の比喩。

「廓淸」悪い相手・対象を完全に駆除すること。

「被髮左袵の患」文明が異なる地域にある当事者から見れば、侵入してきた外国人や異民族の野蛮な風習に従わさせられる憂いの意。「被髮」は、結い束ねずに「散切(ざんぎ)り」にした、見た目、乱れた髪型のこと。「左袵」は衣服の前を打ち合わせる際、左の襟を内側にして着ること。所謂、「左前」。中国では「右衽」を中華の風とし、「左衽」を夷狄(いてき)の習俗とした。ここは異国人が侵入してきて、本来の日本のそれとは、全く異なった奇体な習慣を強いられることを指す。

「悠悠たる徒」平然と落ち着き払った奴等。]

 君臧、又、曰はく、

「仲尼の稱して、『吾が志しは、「春秋」に在り。』と。「春秋」は經世の志したり。以つて、名分を道(い)ふ。周公の遺法は存(そん)せり。故に政(まつりごと)を爲(な)し、名を正す。夫子は先(さき)にせしむ。戎狄は、是れ、膺(せめう)つ。周公の遺訓に、『今世の俗儒は、文を以つて、名を亂す。俗吏は、權(けん)を以つて、法を亂す。法を亂す者は、罪、其の身に止まる。名を亂す者は、其の言、筒册に載す。而して流毒は後世に於けるまで、流る。』と。夫れ、神州、天地の正氣なり。寒・溫、均しく適(かな)へり。寔(まこと)に中國と爲(な)せり。和平なること、穀に見よや。而して、甘美にして豐饒たり。文敎、及ぶ所、其れ、養ひ、以つて、給ふ。精英は、鐵に發す。而して、堅剛にして鋭利たり。武威は加ふる所、其の功、以つて、成す。限るに、天地を以つてす。外異が賊の、内侵の患ひ、有る莫し。開闢以來、天祖の胤(たね)。世世、統(す)べきて傳へり。君臣上下の分、嚴威なるかな、紊(みだれ)、無し。宇宙の間、孰くんぞ能く我が神州に及べる者か。故に、日、出づる處の天子と、日、沒する處の天子は、大國として交はると雖も、苟しくも讓ることを肯(がへん)ぜず。夫れ、名を惜めばなり。今、俗儒、名分を知らず。動(ややもす)れば、國體を虧(そこな)ひ、苟くも内外の分(ぶん)を忘れり。而も、其の名を顧みず。則ち、愛新覺羅氏の正朔、亦、禀(こめぐら)をして之れを奉るべく、鄂羅斯國(ろしあこく)の察罕汗(ちやがんはん)は、亦、稱して女帝を爲(な)すべきなり。可なるかなや。」

と。

[やぶちゃん注:「愛新覺羅氏の正朔」これは後金(ごきん)の創始者にして清の初代皇帝とされるヌルハチ(努爾哈赤 一五五九年~一六二六年)のことであろう。君主としての称号は満洲語で「ゲンギェン・ハン」。女真族の愛新覚羅氏出身である。私が彼だと思うのは、彼の皇帝に就いたのが天命元年一月一日(一六一六年二月十七日)だからである。則ち、以後、清の建国記念日はこれ以降、「正朔」であるからである。

「察罕汗(ちやがんはん)」よく判らないが、中国語で「白人の皇帝」の意があるようである。]

 丁卯の歲、北虜邊(ほくりよへん)に擾(さは)ぐ。

[やぶちゃん注:「丁卯の歲」文化四年丁卯。一八〇七年。

「北虜」この場合は蝦夷地辺りを指すものであろう。文化年間の初期にはロシアが本邦に対して盛んに通商を求めてきていた。]

 君臧、時に江戶に在りて、之れを聞き、憂憤し、廼ち、「不恤緯(ふじゆつゐ)」五篇を著す。國老の門下に詣(まゐ)り、上書して、之れを獻ずるも、報いられず。

 是れに先(さきだ)ちて、君臧、嘗つて、古への先帝王の山陵、或いは荒廢せる者有るを聞き、

「之れを、當路(たうろ)[やぶちゃん注:(朝廷・幕府の)重職。]に告げ、以つて、其の修覆を圖せしめん。」[やぶちゃん注:「當路」その担当である重職。ここは朝廷・幕府のそれ。]

と欲し、躬(み)自(みづか)ら、其の地を歷視し、古圖・舊記を參考して、「山陵志」を作(な)せり。平生の精力、半ばは、此の書に在り。書き成して、之れを京師及び關東諸公の事を用ふる者に獻ぜり。

 有司、

「其の論建、處士の宜(よろ)しき所(ところとす)るに、非ず。」

と嫌ひ、召して、之れを詰(なじ)れり。

 君臧、乃(すなは)ち、律文を引きて、故事を誦(とな)へて、以つて、對す。是(ここ)に當りて、君臧、慷慨自奮し、

「天下の爲に、世人の、之れ、言ひ難き所をば、言はんと欲す。是れには、由ありて、禍ひを獲(う)ると雖も、而も顧(かへりみ)ざるなり。」

と。

 有司、其の不遜なるを惡(にく)み、將に、之れを重き法に寘(お)かんとす。

 時に、一學士にして、文柄を操(あやつ)るに、世の貴重なる所と爲せる者、有り。君臧を憫(あはれ)みて、之れを救ひて曰はく、

「儒生、喜びて事を論ずる、固(もと)より、怪しむに足らず。草野の人、忌諱を知らず。亦、何ぞ深き罪に足らんや。置きて、問はざれば、可なり。」

と。[やぶちゃん注:既に述べた通り、ここ(右丁五行目下方)は「兎園小説」版では「而不ㇾ顧也」(「兎園小説」版は「也」がない)の後が異なる。「兎園小説」のそれを推定訓読しておく。

   *

故に、時に、人、君臧を目(もく)して、「狂妄(きやうまう)」と以つてす。殆んど、將に不測の罪に罹(か)けられんとす。盖(けだ)し、或る君臧の人として爲(な)sんとすることを知れる者、有りて、憫れんで、之れを救ふ。

   *]

 因りて、免(まぬか)るるを獲(え)たり。

 君臧、素(もと)より剛膓(がうちやう)にして、當世を俯仰(ふげう)して、以つて、容(い)らることを取ること、能はず。

 廼ち、澆(そそ)ぐに、酒を以つてし、時に或いは劇飮大醉す。頽然として自(おのづか)ら放つ。而れども、憂國の念、未甞つて頃刻(きやうこく)[やぶちゃん注:僅かな時間。]も忘れざるなり。

 間居して、學を講じ、慾に忿(いきどほ)りて懲(こら)すに、敢へて、世と抗(あらが)ふを務めと爲(な)さざるを以つてす。廼ち、其の居する所の菴を號して、「修靜」と曰ひ、以つて自(おのづか)ら警せり。謂はば、身を修して此(ここ)に在り。而して名を成すも亦、此に在り。

 敎授の暇(いとま)、著述に專力し、始めて、君臧、革の弊や、賦役等の諸論を著す。號して「今書」と曰ふ。以つて、當世の得失の規(てほん)たり。

 是に至りて、更に、「職官志」を撰す。次を以つて「神祇」・「姓族」等の志を編せんと欲す。「山陵」と併びに「九志」と爲す。

 未だㇾ悉く成るに及ばざるに、文化十年癸酉七月五日、疾ひを以つて、江戶の僑居(きやうきよ)に歿す。享年四十有六。

 君臧、壯にして、家(いへ)の艱(なや)み[やぶちゃん注:父母の死。]に丁(あた)れり。服除(ふくぢよ)して[やぶちゃん注:喪が明けて。]四方に遊歷す。故に、晚にして娶(めと)れり。其の配、多氏(おほいうぢ)、紅葉山伶官某(なにがし)の女(むすめ)なり。子は無し。

 君臧の歿するや、其の交遊の尤も親しく、且つ、舊(ふる)き者、相ひ聚まりて、之れを哭して曰はく、

「斯(か)の人や、「山陵志」を作りし者なり。其の葬祭の禮に於いてや、最も意(こころ)致りたり。不幸にして、嗣、無く、襄(ゆず)らるる事の責は、朋友に在り。其れ、心を盡さざるべきか。廼ち、之れを、江戸の北郊、谷中の龍興山臨江寺域内に葬す。余、君臧と與(とも)に、相ひ識しること、最も久しきを以つてするものなり。託すに、表墓の文を以つてす。廼ち、書を以つて、之れを遣はす。之れを諸石に鑱(き)りしめて、曰はく、

「嗚呼(ああ)、君臧、常に『關東の布衣』を以つて自稱せり。阨窮(やくきゆう)を免れざると雖も、猶ほ、天下の奇男子たり。豈に閭里の儒梟(じゆけう)の、號するに「先生」を稱せる、年の同じくして語りたる者と、與(くみ)すべきや。吾れ、聞く、其の終りに臨み、尙ほ、「天地の正氣。」を稱し、且つ、「三寶の說有り。」と云へり。精靈として天地の間(かん)に於いて留(とど)め、將に、其の人を俟(ま)ちて而して、之れを授けんとす。古への謂ふ所の『死して兦(ほろ)びざる者』は、其れ、君臧の謂ひか。噫(ああ)、斯(こ)の人、微(な)かりせば、吾れ、誰(たれ)と與(とも)にか歸(き)せん。

文政元年歲在戊寅[やぶちゃん注:一八一八年。]秋八月

[やぶちゃん注:「阨窮」「厄窮」に同じ。物事に行き詰り、動きがとれず苦しむこと。

「噫、斯の人、微かりせば、吾れ、誰と與にか歸せん。」「文章軌範」に載る范文成公の「岳陽樓記」の一節。

 以下は「兎園小説」の記載。総て馬琴の追記である。]

  墓石 縱曲尺三尺四寸餘 橫曲尺壱尺二寸五分

  碑文 一千八百六十一言 篆額題目撰者姓名共十有三字

  統計一千八百八十六字

解云。墓表則稱其私諡。予記文則稱其號。此以ㇾ有ㇾ所ㇾ忌故也。乙酉冬十一月廿三日[やぶちゃん注:文政八年。グレゴリオ暦では一八二六年一月一日である。]。予携興繼臨江寺。謁亡友蒲生子之墓。卽便薦行潦祭ㇾ之。祭訖以蠟墨拓碑文。未兩三頁。短景旦暮。倉卒之際。磨減之多。還ㇾ家視ㇾ之。不ㇾ易ㇾ讀者過半矣。因推ㇾ文以ㇾ意謄寫焉。恐有誤字。俟異日再搨校訂者也。

[やぶちゃん注:「縱曲尺」(かねじやく)「三尺四寸」一・〇二メートル。

「壱尺二寸五分」三十七・八センチメートル。

 「解云……」を訓読する。

   *

解(とく)云はく、「墓表、則ち、其の私(わたくし)の諡(おくりな)を稱せり。予が記文は、則ち、其の號を稱したり。此れ、忌む所の有るを以つての故なり。乙酉冬十一月廿三日、予、興繼と携(つらな)りて、臨江寺に到りて、亡友蒲生子(がまふし)の墓を謁せり。卽便(よしん)ば、行潦(にはたづみ)に薦(こもかぶ)りしても、之れを祭らんとせり。祭り訖(をは)りて、蠟墨(らうぼく)を以つて拓碑文を搨(す)れり。未だ兩(りやう)三頁(よう)ならざるに、短景にして旦暮(たんぼ)たり。倉卒の際(きは)より、磨り減り、之れ、多く、家に還りて、之れを視るに、讀むに易からざる者、過半たり。因りて、文より推(お)して、意を以つて謄寫せり。恐るるは誤字の有ることなり。異日(いじつ)を俟ちて、再び搨り、當(まさ)に校訂すべき者なり。」と。

   *

「忌む所の有るを以つての故なり」蒲生の著作物が何度も幕閣の咎めや物議を醸しているからである。

「短景」陽が短いこと。

「旦暮」「朝から晩まで」が原義であるが、転じて「ちょっとの間」。

――馬琴先生、ちょっと遅くなりましたが、私が校訂しておきまして御座います――] 

   *

 以下は本文が一字下げ、短歌が四字下げであるが、引き上げた。「兎園小説」正編全十二集掉尾の言祝ぎ歌である。]

乙酉の、しはす、ついたち、「兎園小說集」の滿筵にあるじして、竟宴のこゝろをよめる、

 書きつめしふみをばなにゝおはすべきゝはあそはぬ菟道の友垣   解

おなじ折、興繼に代りて、おなじこゝろを、

 宇治のきみのすさみに似たることの葉もながめにうとき冬の花園

 

兎園小說

2021/11/20

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺 手

 

[やぶちゃん注:太字は、底本では傍点「◎」である。]

 

   

 

白晝あるひは夜間において幻燈するところの手は一個である。

必ずである。

 

手は突如として空間に現出する。

時としては壁または樹木の幹に、ためいきの如き姿を幻影する。

手は歷々として發光する。

 

われの手より來るところの恐怖は、しばしばその背後において先祖の幽靈を感知する。

 

幽靈は樹上に微笑してゐる。

 

*「先祖」「手」の二篇は『蝶を夢む』卷末の「散文詩」に組み入れようとしたものと思はれる。なほ「手」は雜誌『詩歌』大正四年二月號に掲載された「密房秘記」中の一篇たる「手の幻影」を改作したものである。(本卷「散文詩」參照)。

 

[やぶちゃん注:第二連二行目は一行が組版目一杯に記されているため、三行目「手は歷々として發光する。」は二行目に続いている可能性があるが、以下の示す「手の幻影」から、独立改行と判断した。筑摩書房版全集には「手」という詩篇は存在しない。補巻でも索引にない。但し、編者が注で述べた通り、同全集第三巻の「拾遺詩篇」に載る「手の幻影」の一部との親和性がすこぶる高い。確かにくだくだしいそれよりも本篇の方が整序されて鋭くなっており、改作説を私は支持するものである。以下に上記初出の「手の幻影」を示す。太字傍線「」は、そこでは、傍点「◦」であり、以下の「あるもの」「ためいき」「けちゑん」(「ゑ」はママ)は総て傍点「ヽ」である。

   *

 

 手の幻影

 

白晝或は夜間に於て幻現するところの手は必ず一個である。である。

而してそは何ぴとにも語ることを禁ぜられるところのあるものの手である。

手は突如として空間に現出する。時として壁或は樹木の幹にためいきの如き姿を幻影する。

手は歷々として發光する。

手はしんしんとして疾患する。

手は酸蝕されたる石英の如くにして傷みもつとも烈しくなる。

手は白き金屬のごときものを以て製造され透明性を有す。

われの手より來るところの恐怖は、しばしばその手の背後に於て幽靈をさへ感知する。

微笑したるところの幻影であり、沈默せる遠きけちゑんの顏面であることを明らかに知覺するとき我は卒倒せんとする。

我はつねに『先祖』を怖る。

 

   *]

連れ合い無事退院

本日午前中、11月2日に両股関節人工関節術(術式は七時間十五分)を受けた連れ合いが、無事、退院致しました。介護用ベッドのレンタルなどで、自発的に声掛けして呉れた教え子を始めとして、さまざまな応援を頂戴し、まことにありがとう御座いました。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺 先祖

 

  先  祖

 

先祖の幽靈は、ながい尻尾を曳きずつて通る。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集では「未發表詩篇」に以下のように載る。

   *

 

 先祖

 

先祖の幽靈は、ながい尻尾を曳きずつて通る。

 

   *

これに筑摩版編集者が、『本篇は未發表詩篇』の無題の『「(このなんて納まり返つた人たちだ)」と關係がある。』とあるので、そちらも掲げる。全集では本篇の二つ前に載る。かなり長いものである。表記は総てママである。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

 

 ○

 

このなんで納まり返つた人たちだ

みろ御先祖たち の行列だ

このなんて靑い顏の人たちだ

このなんて意地の惡い眼付の人たちだ、

ながいながい單調の行列から

(みんな)舌をたらして行く

あるひとの如きは實に尻尾の尖をひきづつて居る、

しんにたいていいやらしいたましいらうまちずむの、薄い 紙製の肉體けいれんから

紙製の薄い肉體をびくびくさせて

手の光る

光る

光る

光る

白臘模型の御先祖たち

君たち一代のいやらしい秘密から

遠い「過去」の螢光墓穴から

その通る、長たらしいぶらつとほうむから

出てくる、出てくる、出てくる、影と夜の幽靈//夜の陰忍なる食慾また逃げる餌物らのいんきくさい足音から

[やぶちゃん注:私が打った「*」及び「//」で挟んだ部分は並存を示す。次も同じ。]

懺悔の そのまたいんきくさい餌物の逃げる足音/逃げまわる飢物らのいんきくさい足音から

あなた方の腐蝕した靈魂の槪念から銀の階段から

なにかもおれは知つて居る、

それ 君等いつさいの秘密を永遠の子孫 遠い 孫兒につたへるために知つて居る

┃お氣の毒だがおれは生きて居た、

やい、ひつこめ、 連中、 ひつこめろ、白い御先祖たち

 

┃御氣毒だが……

ひつこめろ、白い御先祖たち

[やぶちゃん注:行空けは都合で施した。行頭の縦線(底本では横線)は行空けの前と後ろの二行では別々に繋がっている。則ち、この二行自体が並置されてある。但し、並置したものの、双方にその後に削除を加えてしまった結果、「お氣の毒だが」と「御氣毒だが……」の並置並存となっているに過ぎない。]

あまりに御先祖、もうその馬鹿々々しい行列をやめてくれ

ひつこめろ

犬蓄生のごとくにも見えるから

御先祖、見つともない尻尾だけはかくしておくれ

白い霧の遠方

白いさ霧の 遠方 世界でも

齒が光る、その 手がいたむ のか いたむ、白い

ああしんしづ  哀しげなる 哀しくに淚がながれる

なんたる陰氣な

しんじつ哀しげに見える御先祖たち

手が疾む

疾患らうまちずむの御先祖たち、

 

   *

 なお、本底本の次の詩篇「手」の後に附された小学館編集者の注を参照のこと。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺 竹

 

  

 

竹は直角

人のくびより根が生え

根がうすくひろがり

ほのかにけむる。

 

[やぶちゃん注:これは筑摩版全集の「拾遺詩篇」に載り、『詩歌』大正四年二月号に掲載された一篇である。初出を示す。

   *

 

  竹

 

竹は直角、

人のくびより根が生え、

根がうすくひろごり、

ほのかにけぶる。

           ――大正四年元旦――

 

   *

これは思うに、別稿ともとれなくはないが、小学館の編者による過剰な消毒の結果である可能性も高いように思われる。因みに、この初出当該号には、後の詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の巻頭にある「竹とその哀傷」に載る、知られた二篇の「竹」(私のブログの正規表現版のこれと、これ)の初出形が一緒に掲載されており、私は二〇一三年にブログの『竹 萩原朔太郎 (「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)』で「月に吠える」版と異同の詳細を記してあるので、見られたい。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺 道心

 

  道  心

 

肌身はなさぬ

純金のみ佛なれども

みやま夏ゆきふり

雪ふり

まひる魚鳥のうれひを薰ず。

やんごとなきわれの道心

山路ふかみ

しだいに雪ふり

純金なれども

み佛はなみだにくもる。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集には「未發表詩篇」に載る。表記の異同(誤字を含む)があるので以下に示す。

   *

 

 道心

 

肌身はならぬ

純金のみ佛なれども

みやま夏ゆきふり

雪ふり

まひる魚鳥のうれひを薰んず。

やんごとなきわれの道心

山路ふかみ

しだいに雪ふり

純金なれども

み佛はなみだにくもる。

 

   *

同じ原稿であろう。]

2021/11/19

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 古代の呼名

 

[やぶちゃん注:発表者は同じく客員の青李庵。最初の記名(業種の特別通称)は下インデント三字上げであるが、引き上げ、字空けも詰めた。]

 

   ○古代の呼名

   江州伊香郡金居原村百姓

          梨之木    藤之棚

          萬 代    上之山

          堂之坂    川 端

右之村方は、山中にて炭燒を業に致し居候。往古は一村不殘、右樣の名を付居候由に候へ得共、追々、「何次郞」・「何右衞門」などゝ改名致し、當時宗門帳に、右六人之者、右樣之名を附居申候。

    同郡奧河並村百姓     太 夫

右村方にては、婦、相果候夫は、何れも「太夫」と、年々、宗門帳ニ相附居申候。如何成故と相尋候へば、「夫、相果候婦を、後家と申すも、同じ事。」と申し居候。

 右彥根家富田甚右衞門殿の話なり。

[やぶちゃん注:「江州伊香郡金居原村」旧滋賀県伊香(いか)郡杉野村。現在の長浜市の北東部、木之本町地区の山間部、杉野川の流域、国道三百三号の沿線に相当する。木之本町木之本周辺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「同郡奧河並村」旧伊香郡奥川並村。滋賀県の最北部の旧丹生村(にうむら)。現在の長浜市北部(旧余呉町北東部)。この附近(集落跡が残る)。]

妻は 明日 退院予定

本日、これより妻の介護用ベッド・レンタル搬入。五ヶ月くらいはベッドでないと寝られないため。明日、妻は退院予定。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺 鴉

 

  

 

枯れ柳のある井戶のほとりに

わたしは憂鬱の日かげをながめた

そこを過ぎてどこへ行くのか 夕風の中に泣いてる戀びとよ。

あなたは黑い情慾の鴉

それの病熱で心臟をいためたまふな。

 

[やぶちゃん注:筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。しかし、本篇の表記と微妙に違いがある。以下に示す。

   *

 

  鴉

 

枯れ柳のある井戶のほとりに

わたしは憂鬱の日かげをながめた。

そこを過ぎてどこへ行くのか、夕風の中に泣いてる戀びとよ。

あなたは黑い情慾の鴉

それの病熱で心臟をいためたまふな。

 

   *

二行目末の句点、三行目中ほどの読点である。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺  (無題)(漕手よ) 筑摩版全集不載の草稿断片

 

  

 

漕手よ

はや君の家の窓に燈火(あかり)はつけられ

妹はひとり庭にたたづむ

漕手よ 祈禱せよ

 

*本篇は『蝶を夢む』の草稿に於て「絕望の逃走」と「僕等の親分」の間に置かれてゐたが、改編の際に、前半の部分が失はれたものである。

 

[やぶちゃん注:「断片」としたのは、最後に附された本底本の小学館版編者の注の謂いから推測した。筑摩版全集には第一巻に「草稿詩篇 蝶を夢む」があるが、数度、見渡したが、この断片は見当たらない。既に失われた草稿原稿と推定される。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺  編註・「別れ」 / 「別れ」(添辞)「旅の記念として、室生犀星に」の筑摩版全集不載の別稿

 

   『蝶 を 夢 む』 拾 遺

 

[やぶちゃん注:パート標題。この裏に以下の編註がある。]

 

 

編註 大正十二年七月出版された詩集『蝶を夢む』の編纂は、遺されてある當時の原稿から推測して、少くとも三度ほど編み直したものと思はれる。ここに收錄した作品は、その遺された原稿から採錄したもので、これらの作品は一度び編みこみながら、なんらかの都合で削除したものであつた。なほ既刊『遺稿詩集』に收めた「螢狩」「合唱」の二篇も、ひとたび『蝶を夢む』に編みこんだうへで、やはり都合により削除したものであつた。

 

[やぶちゃん注:『既刊『遺稿詩集』に收めた「螢狩」「合唱」の二篇』既に電子化注した同じ小学館版「萩原朔太郞詩集」コンパクト・シリーズの前巻(第五巻)である「遺稿詩集」の「螢狩」「合唱」を指す。]

 

 

  別  れ

 

    旅の記念として室生犀星に

 

友よ、安らかに眠れ。

夜はほのじろく明けんとす

僕はここに去り

また新しい汽車に乘つて行かうよ

僕の孤獨なふるい故鄕へ。

東雲(しののめ)ちかい汽車の窓で

友よ、やすらかに眠れ。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集では、第三巻の「拾遺詩篇」に載り、初出誌は大正一一(一九二二)年二月号『日本詩人』である。初出形を示す。

   *

 

 別れ

 

       旅の記念として、室生犀星に

 

友よ 安らかに眠れ。

夜はほのじろく明けんとす

僕はここに去り

また新しい汽車に乘つて行かうよ

僕の孤獨なふるい故郷へ。

東雲(しののめ)ちかい汽車の寢臺で

友よ 安らかに眠れ。

 

   *

決定的に本底本版の六行目の「窓」が「寢臺」であることから、本詩篇は草稿の一つと考えてよく、本篇と相同のものは同全集には載らない。

 「旅の記念」「僕はここに去り/また新しい汽車に乘つて行かうよ/僕の孤獨なふるい故郷へ。」というフレーズから、一つ、推察出来るのは、この「旅」という謂いから、筑摩版全集の年譜にある、大正十年七月中旬に『室生犀星に電報で輕井澤に招かれて、共に妙高山麓の赤倉溫泉に遊ぶ』とある旅の終りの「別れ」のシチュエーションの可能性である。それ以降に室生犀星と逢った可能性は排除出来ないものの、この時が、私は最もしっくりくるのである。]

2021/11/18

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 希有の物好み

 

   ○希有の物好み

元祿[やぶちゃん注:一六八八年から一七〇四年まで。]の頃、京室町通三條[やぶちゃん注:この中央附近(グーグル・マップ・データ)。]の南に、櫻木勘十郞といふ人ありけり。古器物・書畫の鑑定をも、よくせり。希有の物好にて、衣服より、足袋帶に至るまで、色々の縞を着用し、扇子・脇指柄糸[やぶちゃん注:「わきざしのえのいと」と訓じておく。]・鍔・印籠・草履まで、縞ならずといふ事、なし。朝夕の食物、鱠は、もとより「刻みもの」なり。煮物などにも大根・牛房の類の「すぢ」ある品をもちひ、椀・折敷までも、縞のもやふをぞ、ものしける。されども、「まげて、異を好むに、あらず。只、天性、かくありし。」とぞ。家居も、世にめづらしく、表二楷の格子も、さまざまの唐木にて、縞にくみたて、店先も「堺格子」といふものを立て、此所に大きなる竪貫木[やぶちゃん注:「たてぬきのき」と訓じておく。]ありて、靑貝にて、唐草の模樣あり。「ひさし」の大垂木などは、細き柴竹の寒竹にて、さまざまの縞に、くませ、扨、中庭に泉水ありて、金魚、あまた、はなち置く。そこより、居間の二楷[やぶちゃん注:ママ。]へ階梯を渡したり。其階梯も、唐物作りの擬寶珠、高欄、付けてけり。又、中庭の北面より、隣りの壁まで、縞にぬらせけり。かゝれば、世に「縞の勘十郞」と云ひけるとぞ。

[やぶちゃん注:発表者は同じく客員青李庵。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 賀茂村の坂迎ひ

 

   ○賀茂村の坂迎ひ  京 角鹿比豆流

『「伊勢太神宮の廣前に、太々神樂、捧げ奉る。」とて、かの御社に、春每、參詣する事、六十六國に殘る處も、なし。都の町々、近き村里、老たるも、若きも、かたらひつゝ、二十、三十、あるは百にも滿てる人の、願、はて、家に歸る日、家族・うから・したしきかぎり、逢坂山の「水うまや」に集ひ、待酒、汲かはし、宴をなす。是を「坂迎」といふ。こゝより、家までのかへるさ、迎の人と共に、謠ひつれて、都の町、くだりさわぎ行く事、引きもきらず。こをみる人、大路に立ちつゞけり。三月廿一日、上賀茂の一群、松林の加茂塘[やぶちゃん注:「かもづつみ」。]をすぐるに、鞍馬口の、乞食の兒等、いでゝ、錢を乞ふ事、頻りなり。加茂村の百姓、「さか迎」の日、「唐坂」といふ菓子二ツづゝ、あたへ、また、人數、こゝらなれば、菓子の代に、「あし」一筋あたふるが、古き例なりとかや。酒に醉ひしれたる若人、戲れて、何れのわいためもなく、叱り、さいなみ、子等があたまを、叩けり。かれらが事なれば、やがて「わ」と泣きて、「賀茂もの、しか、たゝきたり。」と告げしかば、折から「御影供」とて、乞兒も酒のみゐたるが、やがて、はやりかに走りいでゝ、六、七人、追ひ來りて、のゝしる。双方、酒力を借りて、いとゞかしましな。かたゐ、追々、はせ集り、八十人にも、およべり。「賀茂のやつら、一人もかへさじ。」とて、礫石[やぶちゃん注:「つぶていし」。]、雨の如く投げ出だして、おめき、さけぶほど、五、六十人の賀茂人、すべき樣なく、旅脇差、ぬきいだして、こゝはしひ[やぶちゃん注:底本に右に『(マヽ)』傍注がある。]などするほどに、刀底に損れしもの、礫にて、いためられたる人も、おほく、相引に引きたり。後の日、鞍馬口の小屋の頭ども、「不潔なるもの共、所を追放つべき[やぶちゃん注:「おひはなつべき」。]。」よしにて、詑たれど、「賀茂がたも、狂水におかされて、まさなき事や、ありけん、めで度、神詣の歸るさなれば、たゞおだやかなれ。」とて、事は、すみたり。』と、三谷吾雲が物語りけると、荷田の信美大人の「口づから」を、しるし侍るなりけり。

[やぶちゃん注:発表は客員の青李庵。

「坂迎」(さかむかへ)は「境迎へ」とも書き、一般的な広義では、旅から郷里に帰る人を国境・村境などに出迎えて供応する儀礼を指す。京の人は特に伊勢参宮などから帰京する知人・親族を逢坂の関まで出迎えるのが習いであった。別に「酒迎へ」「さかむかひ」とも称した。伊勢詣での「晴れ」の時空間を最後に共有することで、迎えた相手にも幸いが到ると考える共感呪術的イニシエーションと思われる。ここではそれを賀茂村でロケーションし、賀茂村と鞍馬口の被差別民の別個な集団であったそれぞれの「ほかひびと」(乞食)の「ちゃちゃ」と闘諍と後始末の「晴れ」を以って和解するという事情を絡ませて興味深い話柄である。

「逢坂山」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「水うまや」「水驛(みづうまや(「むまや」とも))」。第一義的には「水路の宿場・船の停泊する所」であるが、ここは「街道の宿や茶店」の意で、人が飲食したり、馬に水を飲ませたりするところからかく称した。

「三谷吾雲」不詳。

「荷田の信美」(かだのぶよし 寛延三(一七五〇)年~文政一〇(一八二八)年)は歌人。京出身で京の伏見稲荷大社の神職。小沢蘆庵門下で、上田秋成とも親交があった。本姓以外に羽倉(はくら)を名乗った。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 瑞龍が女兒

 

[やぶちゃん注:これも国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」の巻第三下に載るので、それを底本とした。読みの一部は送り仮名に出した。同前で歴史的仮名遣の誤りはママ。発表は同じく琴嶺舎滝沢興継。]

 

   ○瑞龍(ずいりよう)が女兒(むすめ)

寬政・文化の間[やぶちゃん注:一七八九年から一八一八年。間に享和が挟まる。]、軍書を講談して生活にしたる瑞龍軒(ずいりやうけん)は、前の瑞龍が子にて、馬谷(ばこく)・百輅(ひやくろ)等が姪(をい)なり【第一前の瑞龍・第二馬谷・第三百輅、この三人は兄弟なり。百輅は吾山が社中にて、俳諧の判者なり。この中、馬谷、尤も世に知られたり。】。當時、「中山(なかやま)物語」といふ俗書の、世に行はるゝありけり。こは、京師の人の手になりたるにや。あらぬ事をのみ書つめて、禁忌に觸るゝことの、多(さは)なるを、竒(き)を好むもの、虛實をも得考ぬ、俗客の玩(もてあそ)ぶこと、少からず。こゝをもて、貸本屋などいふ者は、二本も、三本も、寫し取て、此處彼處(こゝかしこ)へ、貸したりければ、官[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、ひらがなで『おほやけ』とある。]にも聞し召れて、嚴禁を加へられ、寫し取たる本屋どもは、御咎(おとがめ)を蒙りて、寫本は、すべて、燒き捨てられ、そを取り扱ひたる[やぶちゃん注:底本は「取扱(とりあつか)たる」。吉川弘文館随筆大成版で訂した。]者どもには、各[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版はひらがな踊り字で『おのもおのも』。]、過料をたてまつらしめ給へり。こは享和[やぶちゃん注:一八〇一年から一八〇四年まで。]中の事にぞ有ける。かくて、文化中に至りて、件(くだん)の瑞龍軒、難波町わたりなる居宅にて、かの「中山物語」を講談してけり。その書は曩(さき)に禁斷せられて、見まくほしとおもふ者も多かりけるにや、夜每に人のつどひ來て、聽くもの、おびたゞしかりけるを、市(いち)の尹(かみ)[やぶちゃん注:町奉行。]より、隱密(いんみつ)に人を遣はして、聽衆(ちやうしゆ)にうちまじらしつゝ、夜每に聞かしめられしを、知るもの、絕へてなかりし、とぞ。かくて、はや、その講談も、この席を限りにて、講じ訖(おは)ると聞えし霄(よい)の程、瑞龍は、その席にて、忽ちに、搦(から)め捕られて、やがて獄舍(ひとや)に繫がれけり。扨、事の顚末をおごそかに問はれしに、「件の書はちかき比、反故(はんこ)中より獲(え)たりしかば、世わたりの爲にせんと思ひし外(ほか)は候はず。禁斷せられし者ならんとは、かけても知らず候ひき。」と、恐る恐る、陳(ちん)じかども、「その書を禁止せられしが、數十年前のことならばこそ、遠くもあらぬ事なるを、『知らず』と申すことやは、ある。知りつゝ講談したりしは、不屆(ふとゞき)なり。」と讞斷(けんだん)[やぶちゃん注:吟味の上で処断されること。]せられて、「遠島にや流さるべき。」、「市(いち)にや棄てられん。」などとて、世評もまた、まちまち也。しかるに、瑞龍に、ひとりの女兒(むすめ)あり。この年、甫(はじ)めて[やぶちゃん注:「未だ」の意か。]、十二、三歲なるべし。その性(さが)、孝順なりければ、父の禁獄せられしより、號哭(がうきう)して、寢食をおもはず。町役人等、もろともに、「おほん慈悲願ひ」とかいふよしをもて、願文(ねぎぶみ)を捧げつゝ、市の尹の廳(ちやう)にまゐる每に、「みづから、親の罪にかはらん。」と、乞ひまうして、哀傷悲泣、人の視聽を驚し[やぶちゃん注:「おどろかし」。]、追(お)つ立てらるれども、得退(えしりぞ)かず、死をだも、辭せぬ有さまなれば、人みな、不便(ふびん)におもはぬは、なし。この事、度(たび)かさなりけるまゝに、おほやけにも、その孝信をあはれませたまひけん、瑞龍は、思ひしより、その罪、かろく定められて、遂に追放せられけり。「こは、またく、むすめの孝行ゆゑなり。」とて、親も歡び、人も嘆賞する程に、件のむすめは、ある豪家(ごうか)の子の婦(よめ)に懇求(こんきう)せられて、ゆくりなく、よすが、いで來しかば、瑞龍も、その家より、扶助(ふじよ)せられて、「おんかまひ」の場所ならぬ近鄕に、半生を送ることを得たり、とぞ聞えし。夫、孝は百行の本(もと)なり。至尊は、これをもて、民に敎へ、士庶も亦、これによりて、身を脩む。その國を治め、家を齋(とゝの)ふるの要道、なのことか、亦、これに加へん。感ずるに、猶、あまりあるものは、かの孝男女のうへにあらずや。

[やぶちゃん注:「瑞龍軒」滋野瑞龍軒。有名な講釈師らしい。

「馬谷」初世は森川伝吉(正徳四(一七一四)年~寛政三(一七九一)年)。瑞龍軒の弟で以下の百輅の兄。講釈師。講釈師の興行形態を確立した人物らしい。

「百輅」上記以上のことは不明。

「吾山」(ござん 享保二(一七一七)年~寛政元(一七八九)年)は俳人。会田氏、後に越谷(こしがや)氏を名乗った。武州越谷の生まれ。当初は柳居に、後に鳥酔に兄事した江戸座(沾徳(せんとく)座)の点者。編著に「翌桧」「朱紫」などがあるが、何より、方言研究書として知られた「物類称呼」(安永四(一七七五)年)刊)の作者としてとみに知られる。

「中山(なかやま)物語」不詳。

 底本ではここで終わっているが、吉川弘文館随筆大成版では、以下の後書がある。]

そもそも、この「兎園小說」は、去歲のしはす下つかたに、家嚴の、かりそめに思ひ起しゝを、まづ、北峯ぬし[やぶちゃん注:好問堂山崎美成の号。]にかたらひつゝ、この春、諸君の同意を得てしより、月每の集會、間斷なく、今は、はや、十有二集に滿つるになん。『この滿會には、何をか書かん。』と思ふも、をこの、すさみながら、こゝに孝義の三編を綴れるよしは、是をもて、自、警め[やぶちゃん注:「いましめ」。]、且、人の子の「いましめ」にもなれかし、とての、わざなりける。

  時文化八年乙酉冬十二月朔 呵硏擢墨沐書於神田鳳簫菴 琴嶺興繼

[やぶちゃん注:「文化」は以下の干支から「文政」の誤り。

 以下は吉川弘文館随筆大成版にある全く以上とは関係のない追記。]

甲申[やぶちゃん注:文政七(一八二四)年。]十二月八日「耽奇漫錄」追加

予が家に藏弃せる達磨の木像は、「雲慶作」とあり。曩に、家嚴、此木像を「耽奇會」に出だしゝ折、「雲慶・運慶別人なる事、且、雲慶は何れの世の佛工なるや、未詳。」のよしを書れたり。しかるに、きのふ、たまたま「鎌倉志」を繙閱[やぶちゃん注:「はんえつ」。]せしに、「卷の二」、「光觸寺」の本尊「頰燒阿彌陀」の緣起の條に、『建保三年、京都に大佛師あり。雲慶法師と號す云々』とあり【この下にも、『雲慶云々』と書けること、三ケ所、見えたり。】。本文によりて考ふるに、運慶・雲慶、同人なるべし。もし、運慶、はじめは「雲」を書き、後に「運」の字に改めたるか。さらずは、緣起の誤りか。「志」に、その辯、なければ、いかにと、定めがたけれども、こも亦、一勘に備ふべし【この一條は、「耽奇錄」中に、しるしおかれんことを、希ふのみ。】

               琴嶺 再識

乙酉抄月兎園納會

[やぶちゃん注:「耽奇漫錄」同書は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで見られるが、どの記事の追加であるのかは分からなかった。

「鎌倉志」『「卷の二」、「光觸寺」の本尊「頰燒阿彌陀」の緣起の條に、『建保三年、京都に大佛師あり。雲慶法師と號す云々』』「光觸寺」(こうそくじ)は私が鎌倉の寺の中で最も偏愛する寺である。ここ(グーグル・マップ・データ)。私の「新編鎌倉志卷之二」の「光觸寺」の冒頭部を引く。

   *

○光觸寺【熊野權現小祠。】光觸寺(クワウソクジ)は、藤觸山(トウソクザン)と號す。道より南也、開山は一遍上人、藤澤の淸淨光寺の末寺也。堂に光觸寺と額あり。後醍醐天皇の宸筆也。《頰燒阿彌陀》本尊阿彌陀〔運慶[やぶちゃん注:☜。]作。〕。觀音〔安阿彌作。〕・勢至〔湛慶作。〕此本尊を頰燒(ホウヤケ)阿彌陀と云也。縁起の略に云、順德帝、建保三年、京都に大佛師有り。雲慶[やぶちゃん注:☜。]法印と號す。將軍右大臣家の招請に因て下向の刻鎌倉佳人すくりの氏女町の局(ツボネ)、時に年(トシ)卅五。雲慶[やぶちゃん注:☜。]に對面して、此佛を作(ツク)らしむ。四十八日を限り、成就せん事を願(ネガ)ふ。雲慶[やぶちゃん注:☜。]其の言に隨て成就す。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

以下、「頰燒阿彌陀緣起」が大事! 必ず、リンク先の続きを読まれたい。

「抄月」この時の「兎園会」は文政八年十二月一日に馬琴邸で開かれているが、旧暦十二月の異名にこれは見当たらない。似たものに「杪冬」(びょうとう:現代仮名遣)があるが。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 破風山の龜松が孝勇

 

[やぶちゃん注:これは国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」の巻第三下に載るので、それを底本とした。読みの一部は送り仮名に出した。歴史的仮名遣の誤りはママ(読みで現代仮名遣になっているものが有意にある)。]

 

   ○破風山の龜松が孝勇 琴 嶺 興 繼 稿

天明八年戊申冬十二月[やぶちゃん注:同年の十二月一日はグレゴリオ暦一七八八年十二月二十七日であるから、一七八九年である可能性が高い。]、湯島一丁目板木師平五郞が板せし、「御免龜松手抦孝行記」[やぶちゃん注:「抦」「柄」の異体字。]に云、『此度、信州佐久郡内山村百姓總右衞門事、狼(おゝかみ)に啖れ[やぶちゃん注:「くはれ」。]候處、若年悴龜松、卽坐に狼を抱留[やぶちゃん注:「だきとめ」。]、鎌にて殺候次第。

[やぶちゃん注:以下の記名は後者は凡そ九字下げであるが、引き上げ、宛名も含め、字空けもオリジナルに施した。]

 遠藤兵右衞門樣御支配所 當時 佐藤友五郞樣

   信州佐久郡内山村 百姓 總右衞門悴 龜松申十一歲

右村は信州・上州國境(くにさかい)、破風山(はふやま)の麓(ふもと)にて、總右衞門儀、高一斗餘所持、家内五人くらしにて、居宅より三町[やぶちゃん注:約三百二十七メートル。]程(ほど)隔(へだゝ)り、字(あざな)を「逢月(あいつき)」と申所に、「猪鹿防(しゝじかふせぎ)」の番小屋(ばんこや)へ、當【天明八年。】九月廿五日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦十月二十七日。]夕方、悴龜松をつれまゐり、龜松は草を刈り、總右衞門は、小屋にて火を焚き居(ゐ)候處、後ろの方[やぶちゃん注:「かた」。吉川弘文館随筆大成版のひらがな本文に拠る。]より、狼、來り、足へ、喰(くら)ひ付き候を、ふりかへり候へば、唇(くちびる)より腮(あご)へ掛け、喰ひ付き候間、狼の耳を、つかみ、聲を立候に付、龜松、聞きつけ、驅(か)けまゐり、所持の鎌を、狼の口へ入れ候へども、かつら際(ぎは)より、噬(か)み折られ、用、立がたく、總右衞門所持の鎌を、龜松、取あげ、尙又、狼の口へ、抦[やぶちゃん注:「え」。]の方を捻じこみ、うしろへ、引倒し、兩人にて、押(おさ)へ候へども、總右衞門は、數ケ所、喰はれ候ことゆゑ、働き、なりがたく、打ち倒(たふ)れ候に付、狼、起き上(あが)り候を、龜松、石を以て、狼の口へ指し込み、鎌の抦を打ち込み、牙(きば)をかき候へども、狼、搔き付き、相働(あいはたら)き候に付、龜松、大指(おほゆび)にて、狼の兩眼(りようがん)を繰(く)り拔き[やぶちゃん注:抉(えぐ)り抜き。]、打敲(たゝ)き、漸(やうやく)、仕留申候。總右衞門事は、所々、喰れ候へども、灸所(きうしよ)[やぶちゃん注:急所。]に無ㇾ之ゆゑ、龜松、介抱いたし、宿へ連れ歸り、翌日より、療治・藥用等、仕候處、追日、快方のよしに候。龜松儀、年齡より小抦(こがら)にて、虛弱に相見え、中々、右體の働き可致ものには、相見え不申候。驚き迯げ退(の)きも可ㇾ致ところ、『親の大事。』と存じ、弱年に不似合(にあはぬ)働致候段、誠に古今の大手抦(おほてがら)に候。斯て、幼年の身にてさへ、かようの働いたし候。况や、大人に於て、をや。誰も心掛は、かく有たき事なり。羨むべし、羨むべし。

右龜松儀、父總右衞門、狼に出合候節、相働き、狼を仕留、父を助け候段、幼年にて奇特(きどく)なる仕方に付、御褒美(ごほうび)として銀弐拾枚、被ㇾ下ㇾ之。

右は、先頃、御代官大貫治右衞門樣、撿見(けんみ)[やぶちゃん注:幕府や領主が役人を派遣して、稲作の生長状態を検証して、年貢の率を決めること。或いはその役人。]として御出之節、野立(のだて)にて御聞被ㇾ遊、則、當人、御呼出し、始末、御尋の上、御書上げ[やぶちゃん注:底本は「け」であるが、吉川弘文館随筆大成版で訂した。]になり、右之通、此度御褒美被ㇾ下候事、誠に前代未聞、世上、親孝行の敎(おしへ)にも可相成と、板木に仕り蒙御免賣弘め申候。天明八申年十二月 明神前通湯島一丁目板元板木師平五郞

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

興繼云、本文の、いと拙く[やぶちゃん注:「つたなく」。]見ゆるを、そがまゝに寫せしは、實を傳へん爲なり。この印本を、今も、藏弃(ぞうきよ)せし人も、ありてん。しかれども、紙の數、はつかに三丁ばかりのものなれば、永く世に傳ん[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『伝はらん』。]ことの、難かるべきを、いと惜しむのあまり、うつしとゞめぬ。原本の體たらく、世に「サゲ」[やぶちゃん注:落とし咄(ばなし)。]など唱ふるものゝ、街巷(ちまた)を賣り步くとは異(こと)にして、地名・人名も、いと正しく、且、「御免」の二字を冠(かぶ)らせしも、珍らかなり。「孝子の事を板して賣り步く事、これらや、始なるべきか。」と、家嚴(ちゝ)は、いへり。再び思ふに、この龜松が事、「孝義錄」に載せられたる歟。家嚴も、「覺えず。」と、いへり。猶、考ふべし。

[やぶちゃん注:「信州佐久郡内山村」現在の長野県佐久市内山(グーグル・マップ・データ)。

「逢月(アイツキ)」不詳。こんなに綺麗な字名なら残すべきと思うのだが、現在は人家もないか。

「信州・上州國境、破風山」現在の内山からは北に五・六キロメートルで、やや遠いが、「八風山」(はっぷうさん)があるから、それであろう(国土地理院図)。破風岳(はふだけ)はあることはあるが、遙かに北で違う。

「御免」公的に許しを得た事実報知であることを示す。

「孝義錄」江戸時代の孝子・節婦・忠僕及び奇特者の記録。全五十巻。寛政元(一七八九)年に「寛政の改革」の民衆教化策の一環として、幕府が、江戸初期以来の全国の農民・町人の善行表彰者の報告を命じ、さらに寛政一〇(一七九八)年には追加報告させ、それらを昌平坂学問所に集めて編集、享和元(一八〇一)年に官版として出版した。所載の表彰者総数八千六百十四名、表彰の時期は慶長七(一六〇二)年から寛十年までの約二世紀に及ぶが、全体の八十一%の六千九百八十五名は、宝暦から寛政までの十八世紀後半に表彰されたものである(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 街道

 

  街  道

 

俥にゆられつつ

夕ぐれ時の街道を

新町街道を急ぐ女よ

眞赤な夕日は山の上

白粉のゑりがさむしかろ

今宵

おん身の上に幸あれかし。

 

[やぶちゃん注:「ゑり」はママ。「新町街道」不詳。先に出した萩原朔太郎が勝手に名づけた「小出新道」のことか?

 本篇は筑摩版全集では「拾遺詩篇」に載り、初出誌があって、大正三(一九一四)年三月二十四日附『上毛新聞』である。以下に初出形を示す。

   *

 

 街道

 

俥にゆられつゝ

夕ぐれ時の街道を

新町街道を急ぐ女よ

眞赤な夕日は山の上

白粉のゑりがさむしかろ

今宵

おん身の上に幸あれかし

         (一九一三、一〇、二〇)

   *

編者注があり、『作者がこの作品全體に斜線を引いた雜誌が殘されている』とある。ということは、この詩篇は再度、別な雑誌に転載されたことを示すとしか読めない。まあ、ともかくも気持ちでは、朔太郎としては発表後に結果してボツにしたい作品だったということであろう。また、表記違いの同詩篇草稿(但し、標題は「偶成」)が「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」に以下のように出る。ルビの読み「かいどう」や「おしろひ」はママ。

   *

 

 偶成

 

俥にゆられつゝ

夕ぐれ時の街道(かいどう)を

高崎新町街道を急ぐ女よ

眞赤な夕日は山のうへ

おしろひの襟がさむしかろ

今宵

おん身の上に幸(さち)あれかし

               (一九一三、一〇、二〇)

 

   *]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 あきらめ

 

  あ き ら め

 

あきらめよ

あきらめよ

わがあきらむることにより

けしき妙なるよもの黎明

さしもに洋紅を流したり

 

あきらめよ あきらめよ

わがあきらむることにより

水盤の瀑流れ出でて

開きしページは靑くうるみたり

 

われはやさしくよきひとなるに

わが側へに立つもの

死魚の裏返る腹を指さし

なにとてかの空しき妖光を敎うるならむ

これを見ること久しきより

わが眼はいしくもただれたり

 

ああ 戶口に樹木あり

よしや花には靈智のゆきかひを求めずとも

わが性のあまりにやさしれば

とく起きいでて窓開らかでやは。

 

[やぶちゃん注:「敎うる」はママ。

「洋紅」は「やうこう(ようこう)」で深紅色及びその系統色である「カーマイン・カーミン(carmine)」・「カルミン(karmijn:オランダ語)」・「コチニール(cochineal)」・「マゼンタ(magenta)」(現代中国語では「マゼンタ」を「洋紅色」と訳す)などの顔料を指す。無論、「やうべに」とも読める。万一(後掲する別稿では「ページ」と読み換えているが)、「洋紙」を「やうし」と読んでいるなら、ここは「やうべに」でなくてはバランスが悪い。

 さて、筑摩版全集では、まず、第二巻の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の中に、一見似て見えるものの、その実、かなり異形の一篇が載る。

   *

 

 あきらめ

 

あきらめよ

あきらめよ

わがあきらむることにより

銀盤に瀑流れ出でゝ

開きし洋紙は靑くうるみたり

 

われはやさしくよきひとなるに

わが側へに立つもの

死魚の裏返る腹を指さし

なにとてかの空しき妖光を敎ゆるならむ

 

あゝ戶口に樹木あり

よしや花には靈智のいきかひを求めずとも

わが心あはれみにすぎたれば

とく起き出でゝ窓開らかでやは

 

あきらめよ

あきらめよ

わがあきらむることにより

景色たへなるよもの黎明(れいめい)

さしもに洋紅を流したり

 

   *

全体の対構造の整った様子からは、上記が洗練されているが、その分、陳腐で面白くない。私は俄然、本篇を支持する。なお、筑摩版全集では、第三巻の『草稿詩篇「第八卷・第九卷」』に本篇が載るが、小学館版元版からの転載に過ぎない。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 (無題)(麥はますますのびゆけり)

 

  

 

麥はますますのび行けり

遠き畑の田つくりの

白きぢゆばんにえんえんと

眞晝の光ふりそそぐ

九月はじめの旅立ちに

汽車の窓より望むれば

麥の靑さにおどろきて

つかれし心が泣きだせり。

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。しかし、この詩篇、ちょっと時節と対象がおかしい。「九月はじめの旅立ち」であるのに、「麥はますますのび行」く景観で、しかも「汽車の窓より望むれば/麥の靑さにおどろきて」というのは、矛盾(麦が成長して青いのは晩春)である。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 (無題)(いのらずとても)

 

  

 

いのらずとても

今日としなれば來るものを

やさしく春のくるものを

かくも野末に泣きぬれし。

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

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