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2024/02/21

譚海 卷の九 紀州那智の瀧幷熊野浦の事

○紀州、「那智の瀧」は「本朝第一」と稱す。

 瀧は、おほく、山陰(さんいん)に落(おつ)るものなるを、此たきは、山陽に落(おつ)るをもちて、名勝とす。

 晴(はれ)たる日、熊野うらへ出(いで)てみれば、南海、渺茫として、波濤、天をひたし、北をかへり見れば、那智の山、高くそびえて、雲間に、瀧のかゝりたる景色、誠に山水の絕勝と稱すべし。

 有德院公方樣[やぶちゃん注:徳川吉宗。]、むかし、上覽ありしを、思召(おぼしめし)わすれず、御坊主岡本養悅といふ畫事(ゑごと)に堪(たへ)たる人に命ぜられ、其景を、うつさしめ給ふ。養悅はるばる紀州へ趣(おもむき)て、熊野浦の獵師の家にとまり、八日ばかりありて、寫し得たり。繪師の家、みなみな、くじらとる事を第一の業(なりはひ)とするゆゑ、家の内、なまぐさき事、かぎりなし。

「獵師の家、皆、鯨の胴骨(どうぼね)をたてならべて、垣(かき)となし、その際(きは)に住居(すまい)す。くじらの骨、『たてうす』[やぶちゃん注:「縱臼」。]を見る如く、いくらも、たてならべたるさま、異(こと)なれる見ものなり。」

とぞ。

譚海 卷の九 河州交野郡王仁墳の事

[やぶちゃん注:標題は「かしうかたののこほりわにのふんのこと」と読んでおく。]

 

○山城、「鳩(はと)の峯(みね)」を、西へ𢌞れば、「洞ケ峠(ほらがたうげ)」とて、則(すなはち)、山城・河内のさかひなり。此峠のあなたは、交野郡にして、やがて、「天の川」も、ほどちかし。此「天の河」、水、なくして、唯(ただ)、白き砂の、河の如くにつづきてあるが、峠より、みれば、白き水の如くみゆると云(いふ)。

[やぶちゃん注:「鳩の峯」京都府八幡市八幡大谷の岩清水八幡宮北西北直近のある男山の頂上のピークを「鳩ヶ峰」(標高百四十二・四メートル)と称する(グーグル・マップ・データ)。

「洞ケ峠」グーグル・マップ・データ航空写真で中央下。この峠は旧河内国で、現在は大阪府枚方市高野道(こうやみち)である。現在は、男山と、この峠の旧山体が殆んどごっそりと消失して宅地化されているので、「ひなたGPS」の戦後の地図をリンクさせて昔を偲ぶよすがとしておく。

『此「天の河」、水、なくして、唯、白き砂の、河の如くにつづきてある』んなわけないだろ! これは、かなり南西になるが、天野川(グーグル・マップ・データ)の川砂が白く光って見えることから、平安の昔から、この川を天上の「天の川」に擬え、「七夕」を題材にした数多くの歌が詠まれたからである。]

 其峠のふもとに、往古、三韓より來朝せし王仁(わに)の墓、有(あり)。

 大(おほい)なる石、ひとつ、白き苔を帶(おび)て、岡のうへに有(あり)。

 誠に數(す)千年のものなり。土民は「泣石(なきいし)」として、夜陰は、此邊(このあたり)、往來を恐るゝなり。

 此石、人の如く、泣(なく)事、有し由。

 幽邃の地にして、白日も、寂寞成(なる)所なり、近來(ちかごろ)、水戸光圀卿、尋ね糺し給ひて、石碑をたてられ、「王仁博士墳(わにはかせのふん)」と云(いふ)五字をゑり付(つけ)られしよし、人、漸(やうやく)に、しる事となりぬ。

[やぶちゃん注:これは私の「耳囊 卷之九 王仁石碑の事」を参照されたい。なお、光圀が調査し、石碑を建てたというのは、嘘である。旅なんか殆んどしなかった光圀が、こんなところまで出向くはずがない。「X」の眞葛原雪さんのこの投稿で、『光圀が刻んだ「王仁博士墓」の碑とは』、『交野郡津田村他の領主』であった『水戸家家臣久貝太郎兵衛正武の実子』『久貝正順 』『と光圀の『大日本史』編纂の遺志を継いだ水戸藩の誰かという意味なのだろうか?』というのが、正解だな。]

譚海 卷の九 同國榊原溫泉幷貝石の事

[やぶちゃん注:「同國」は前話を受けるので、「伊勢國」を指す。]

 

○同國、榊原と云(いふ)ところに、溫泉、有(あり)。功驗(こうげん)おほくして、病人のつどふ湯なり。

[やぶちゃん注:「榊原」「温泉」現在の三重県津市榊原町(さかきばらちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)の榊原温泉。]

 其地に一(ふとつ)の山、有(あり)。ことごとく貝殼、岩に着(つき)て有(あり)、山中をほる事、幾重(いくへ)に及びても、皆、底より、貝の類(るゐ)、まじり出(いづ)るなり。海邊(かいへん)に遠き地なれど、此一山(いつさん)のみ、かくの如し。其所のものは、「貝石山(かひせきざん)」と稱するよしを、いへり。

[やぶちゃん注:「貝石山」同温泉町の北の榊原川左岸直近にある。「三重県観光連盟」のサイト「観光三重」のこちらに、『約』千五百~二千『万年前(新生代)の化石が出土する事からこの名がついた』。『もともと』対岸の『射山』(いやま)『神社』(ここ)『のご神体だったと見られ、貝石山の名がつくまでは射山(湯山)と呼んでいたようである』。『ここから出土する化石は海の魚介類、特に二枚貝、巻貝などが多く、鮫の歯やウミユリなど約』三十『種類が記録されている』とある。]

譚海 卷の九 勢州あけ野の神社除夜繪馬の事

○伊勢の「あけ野」といふ所に、神社一社、有(あり)。

[やぶちゃん注:「あけ野」現在の三重県伊勢市小俣町(おばたちょう)明野(あけの:グーグル・マップ・データ)。但し、現在の同地区には、神社は見当たらない。同地区の東北部は、現在、陸上自衛隊の明野駐屯地であり、「ひなたGPS」の戦前の地図で見ても、『明野ヶ原飛行場』となっているから、そこに近代以前、ここにあった神社かも知れない。]

 每年、除日(ぢよじつ)に誰(た)が懸(かく)るともなく、繪馬、一つ、社頭に現ずるなり。

[やぶちゃん注:「除日」「旧年を除く日」の意で「大晦日」のこと。「除歲」とも言う。]

 そのゑは、馬に、稻たば、おはせたる圖(づ)なり。

 その稻、左に負(おひ)たれば、左邊(ひだりあたり)の村、明年、豐作なり。右に負たるは、右の村、豐年なり。左右に負たるをゑがきたるは、皆、豐作のしるしとす。

 あらかじめ、來年の作を、うらなふに、たがふ事、なし。

 此故に、除日には數(す)百人、群集して、

「繪馬の掛(かか)る時を、みん。」

と、錐(きり)をたつる地もなく、つどふ事なり。

 さばかりの人、入立(いりたち)たるところなれば、いづくをわけて、繪馬、もちてくべき道もなけれど、其時に至りぬれば、自然(おのづ)と社頭に繪馬、現ずる。

「奇異の事。」

に、其國の人、かたりぬ。

譚海 卷の九 朝士山川下野守殿由緖の事

○武州、道灌山(だうくわんやま)の北、平塚村に、平塚明神の社(やしろ)あり。

[やぶちゃん注:「道灌山」現在の荒川区西日暮里のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「平塚明神」北区上中里にある平塚神社。道灌山の北西約二キロメートル位置。]

 是は、國初(こくしよ)の時、城寬(じやうくわん)と云(いふ)盲人の建立(こんりふ)せしなり。

 此社の西に、往昔(そのかみ)、臺德院公方樣[やぶちゃん注:第二代将軍徳川秀忠。]の御殿ありて、時々、御鷹狩の御(おん)ついでには、御一宿などありしゆゑ、今も、猶、其所(そこ)のものは「御殿山」と稱して、みだりに人をいるゝを、ゆるさず。

 ふりたる池などありて、ものすごき所なり。

 元來、此地に八幡宮の古社、有(あり)。

 城寬、宿願ありて、こもりたる折柄(をりから)、臺德院樣、御成(おなり)有(あり)て、

「いかなる者ぞ。」

と御尋有(あり)ければ、

「宿願によりて、一七日(ひとなぬか)、此社(やしろ)にこもり侍(はべる)。」

よし、申上候時、しゆくぐわんの旨(おもむき)、御尋(おたづね)あるも、いかゞなれども、

「仔細、何事にや。」

と、上意、有(あり)。

 城寬、重(かさね)て、

「卑賤の身、殊に、かたわにして、兩親さぶらへば、いかにも立身して、親を安樂に供養し侍り度(たき)由、祈禱し奉る。」

と申上(まふしあげ)ければ、

「不便(ふびん)の事なり。」

と思召(おぼしめし)、則(すなはち)、百石の知行を賜(たまは)り、其後(そののち)は、度々、御城(ごじやう)へも召(めさ)れける。

 城寬、

「ひとへに、八幡宮の御加護。」

と、よろこび、やがて賜る所の、なかばをわけて、此社(やしろ)に寄附せし、とぞ。

 此城寬が親は、豐島左衞門といふ人の譜代の家人にて、家に持傳(もちつた)へたる義家朝臣の鎧(よろひ)ありしが、

「子孫にいたり、そまつにならんも、勿體(もつたい)なし。」

とて、鎧を今の地にうづめ、塚を築(きづき)て、古社(ふるやしろ)を遷(せん)し、今の平塚明神となせし事、とぞ。

 此城寬が子孫は、御旗本にて、山河下野守殿といふは、その末なり。今は三百石の知行賜りてあり。その中(うち)より、五十石をば、此明神の社頭に奉りてある事と、いヘり。

[やぶちゃん注:よくお世話になる日高慎也氏の、主に首都圏にある寺院・神社概要紹介サイト「猫の足あと」の「平塚神社|源義家豊島太郎近義に与えた鎧一領を埋めて平塚三所大明神」の『境内掲示による平塚神社の由緒』に拠れば、『平塚神社の創立は平安後期』の『元永年中』(一一一八年~一一二〇年)『といわれている。八幡太郎源義家公が御兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中に』、『この地を訪れ』、『領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め』、『塚を築き』、『自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り』、『一族の繁栄を願った』。『徳川の時代に、平塚郷の無官の盲目であった山川城官』(☜)『貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ』、『検校という高い地位を得て、将軍徳川義光の近習となり』、『立身出生を果たした。その後、義光が病に倒れた際も』、『山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の』病気『はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れた』とある。リンク先には、それ以外の史料も豊富に載っているので、是非、読まれたい。それにしても、江戸在住の津村の記載でありながら、漢字表記・史実その他で、おかしな部分が多過ぎる。彼自身の杜撰さが露呈している。]

譚海 卷の九 岩國半紙幷岩國八幡宮の事

[やぶちゃん注:前回とは前の箇所が紙繋がり。]

 

○半紙は、周防(すはう)の岩國より、漉出(すきいだ)すをもちて、海内に用(もちひ)る事故(ゆゑ)、領主吉川家(きつかはけ)、殊に富有なり。

 半紙、上・中・下、數品(すひん)あれども、皆、岩國より出(いづ)るなり。

 此外、常州水戶より漉出すといへども、萬分の一にも、あらず。

 岩國の瀕海に、八幡宮、有(あり)。海上へ遠く築(つき)いだしたるところにて、皆、大石を持(もつ)て石垣を築立(つきたて)たる上に、社頭、有(あり)。社頭の壯麗なる事、比類なし。吉川家、建立(こんりふ)なり。船中より望(のぞみ)みるに、言語同斷なり。

「大坂より西國まで、海路の中(うち)、岩國八幡宮程、目に立(たち)たるやしろは、なし。」

と、いへり。

「社(やしろ)の下の海水、赤泥(せきでい)のやうに見えて、波、うづまき、外(そと)より見るに、甚(はなはだ)、おそろしきやうすなり。いかなるゆゑともしらず、至(いたつ)て深き所なるゆゑ、かくあるにや。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「八幡宮」吉川家の創建で、城壁のような高い石組みのある八幡宮となると、山口県岩国市岩国四丁目にある椎尾八幡宮がそれに当て嵌まるのだが、この神社は、錦川の川沿いながら、海とはかなり隔てた場所にあり(錦川自体が下流で今津川と門前川に別れて、初めて二つの川が、瀬戸内海に河口している)、岩国の古絵図を見ても、その立地に変わりはなく、本文の「社の下の海水」というような場所ではないので、「不詳」とするしかない。話者がいい加減なことを言っている可能性もあるが、識者の御教授を乞うものである。]

譚海 卷の九 御朱印紙の事

[やぶちゃん注:いらんだろうと思ったが、漢文部分は後に〔 〕で推定訓読文を示した。]

 

○御朱印の鳥子紙(とりのこがみ)、生間似合(きまにあひ)は、越前より、漉(すき)ていだすなり。

「皆、女の漉く事にて、十六、七歲より、廿四、五歳迄の女、漉たる紙は、殊に、光、ありて、うるはし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「生間似合」平凡社「改訂新版 世界大百科事典」の「間似合紙(まにあいがみ)」に(コンマを読点に代えた。下線太字は私が施した)、『雁皮紙(がんぴし)の一種で,襖紙(ふすまがみ)としてはられるとともに、書画用紙としても使われた。名称の由来は、襖の半間の幅』三尺(約九十センチメートル)に『継目なしにはるのに、間に合うの意味といわれ、鎌倉時代から現れてくる(初出は』「祇園執行(ぎおんしゆぎょう)日記」建治四(一二七八)年の条)。『中世の障壁画の用紙としても使われている。江戸時代の間似合紙の産地としては、越前紙(福井県越前市の旧今立町)と』、『名塩紙(兵庫県西宮市塩瀬町名塩)が群を抜いた存在であった。当時、越前の間似合紙が雁皮原料のみの生漉き(きずき)間似合紙を特色とするのに対し、摂津(名塩)の間似合紙は,雁皮原料に地元特産の岩石の微粉を混入した粉入り間似合紙を特色とした。今日もなお、名塩では数軒が間似合紙を漉いている』とあった。]

 暑中は、「かうぞ」、ねばりて、漉がたきゆゑ、漉事を止(やめ)て、秋凉(しうりやう)を待(まち)て、又、すきはじむるなり。

 奉書紙も越前を第一とす。わかき女の漉たるは、紙、うすくして、曇(くもり)なく、淸らかに、光あり、手の、かろき故なり。老女の漉たるは紙、厚けれども、曇て、下品なり。手の重き故、又、光も、なし。

 すべて、國主大名へ賜(たまは)る所の御朱印紙は、生間似合なり。先年より賜る所の御朱印のうつしを、兼(かね)て、大名より、同じ紙に書(かき)て奉り置(おく)事なり。

 今年、天明七年[やぶちゃん注:一七八七年。当時の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。]、御朱印賜(たまは)る時に、書出(かきいだ)す所のうつし、すべて、八枚なり。東照宮より、俊明院公方樣[やぶちゃん注:家斉。]に至(いたる)迄、連綿、賜(たまふ)所、文章院・有章院兩公方樣の御朱印斗(ばかり)なし。早く薨去ありし故、其事に及ばざればなり。

[やぶちゃん注:「文章院」これは津村が次の院号に引かれて誤記したものであろう。「文昭院」が正しく、第六代将軍徳川家宣。「有章院」第七代将軍徳川家継。]

 寺社へ賜(たまふ)所の御朱印紙は、大槪、大高檀紙(おほたかだんし)なり。

 普通には、月日の肩に、御朱印、有(あり)。

 それより、一等上(のぼ)れるは、月日の下に、御印あり。文言、皆、「任富家先判例宛行者也」〔富家(ふけ)の先(さき)の判例に任せ、宛て行く者なり。〕とありて、御印斗(ばかり)にて、名は、なし。

 至(いたつ)て重きには、征夷大將軍御姓名ありて、御印、有(あり)。

 寺社の宛名も有。それらは、文言、「所ㇾ令寄附如ㇾ件」〔寄せ附きせしめし所(ところ)、件(くだん)のごとし。〕とあり。

[やぶちゃん注:「大高檀紙」(「檀紙」は、楮(こうぞ)で漉いた厚手で白く皺のある高級紙を指す)「中高」(ちゅうたか)・「小高」(こたか)に対して、大型の檀紙をいう。縦一尺七寸位(約五十センチメートル)、横二尺二寸位(約六十七センチメートル)。徳川時代、備中(岡山県)産が有名であったが、現在は、殆んどが福井県から産出される。昔は綸旨・免状・辞令や、高級な包み紙などに用いられた。今は化学繊維を混ずるものもでき、包装・書道などに使用する。「大高」「大高紙」(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

譚海 卷の九 鰹節獵の事

[やぶちゃん注:標題の「節」は、いらない。前話とは食用海水魚の漁繋がり。]

 

○鰹(かつを)の獵は、相州江の島の沖を盛(さかん)なり、とす。

 每年、三月下旬・四月初めのころ、はじめて鰹を獵し得るなり。江戶の豪富のもの、一日も、はやく、調理に入(はい)るを、口腹(こうふく)の第一と稱美する事なり。

 然れども、江の島にては、猶、「ふかせ」と稱して稱美せず。

 數日(すじつ)の後(のち)、初(はじめ)て、鳥帽子の如きものをいたゞきて、出來(いできた)る鰹、有(あり)。これを、はじめて「初鰹」と程する事なり。

 是を釣(つり)えたる獵師、

「先(まづ)、辨才天に供(きよう)し、さて、公儀へも奉る事。」

と、いへり。

 鰹の、盛に獵あるときは、わきめ、つかふ事、あたはず。鉤(はり)を投ずれば、手に隨(したがひ)て、かゝり、暫時に、舟中に充滿する事なり。

「餘り、したゝか釣(つれ)たる時は、『わにざめ、鰹に付(つき)たり。』とて、釣たるかつをを、數(す)十本、繩に、つかね、海中へ投入(なげいれ)て、それに合(あはせ)て、いそぎ、こぎもどる事。」

と、いヘり。

[やぶちゃん注:『毛利梅園「梅園魚譜」 松魚(カツオ)+鰹魚烏帽子(カツオノエボシ)』が、この篇には最も相応しかろう(無論、梅園の絵もある)。

条鰭綱スズキ目サバ科マグロ族カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis

である。鎌倉・江の島附近での鰹漁は、古くから知られており、鎌倉時代の兼好法師の「徒然草」にも記されていることは、人口に膾炙している(上記リンク先の私の注で電子化してある)。江戸時代には、江戸の富豪が、東京湾を迂回して鎌倉沖まで来て、当地の漁師が獲った初鰹を放り投げると、一両を漁師舟に投げ入れるのが、通人の間で流行った。水戸光圀が編纂させた「新編鎌倉志卷之七」(光圀自身の生涯一度だけの長旅である来鎌は延宝二(一六七四)年、その後に本書が完成印行されたのが貞亨二(一六八五)年。リンク先は私のサイト版)の「材木座」の条にも、

   *

〇材木座 材木座(ザイモクザ)は、亂橋(ミダレバシ)の南の濵(ハマ)までの漁村を云ふ。里民魚を捕(ト)りて業(ワザ)とす。【徒然草】に、鎌倉の海に竪魚(カツヲ)と云魚(ウヲ)は、彼の境には左右なき物にて、もてなすものなりとあり。今も鎌倉の名物也。是より由比の濵(ハマ)へ出て左へ行(ユ)けば、飯島(イヒシマ)の道右へ行(ユ)けば鶴が岡の大鳥居の邊へ出るなり。

   *

と出る。後の、芭蕉の友人山口素堂(寛永一九(一六四二)年~享保元(一七一六)年)の知られた一句、

 目には靑葉山ほととぎす初鰹

は延宝六(一六七八)年の作で、まさに、この鎌倉の材木座海岸で詠んだとされるものである。また、芭蕉の知られた、

 鎌倉を生きて出でけん初鰹

は元禄五(一六九二)年の作、更に、蕉門十哲の一人其角には、

 まな板に小判一枚初がつを

の句があることからも、その粋(いき)が分かる。

「鳥帽子の如きもの」同時期に沿岸にやってくる刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ属カツオノエボシ Physalia physalis

とされるが、別に、全然異なる種で、

ヒドロ虫綱花クラゲ盤泳亜目ギンカクラゲ科カツオノカンムリ属カツオノカンムリ Velella velella

がおり、毛利梅園の絵は、思うに、後者であると私は比定している。

「わにざめ」魚類のサメ類の俗称。 地方によって、異なったサメの種を指すが、山陰地方では「大形のサメ」の呼称であり、単に「ワニ」とも呼ぶ。当地では、サメを用いた料理を「ワニ料理」と呼ぶことは、最近はよく知られるようになった。]

譚海 卷の九 さわら魚漁師の事

[やぶちゃん注:歴史的仮名遣では「さはら」が正しい。スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius 。漢字表記は「鰆」「馬鮫魚」。]

 

○さわらといふ魚は、風雨に乘じて、きそひ、あつまるものなり。

 されば、さわらとる漁師は、究竟のあぶれものならでは、成(なり)かたし。

 海上、あらし、はげしく成(なり)て、雨、きほひくれば、餘の獵船(りやうぶね)は、みな、家をのぞみて、かへる事なるに、獨(ひとり)、無賴の漁師共(ども)、さそひあひ、此しけを、心にえて、舟を出(いだ)し、風雨にまじりて、さわらをとる事、おびたゞしき事なり。

 ともすれば、波に舟をうちかへされて、海に落入(おちいる)事、度々(たびたび)に及べども、元より、無賴のものどもなれば、波をくゞり、水にうかび、舟を、かつぎなほし、水をかへ出(いだ)して、乘(のり)ありく。

「風波を、何とも、思ひたらず、終(つひ)にあやまちせし事、なし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:博物誌は、私の「大和本草卷之十三 魚之下 馬鮫魚(さはら)(サワラ)」を、物産としてのそれは、私の「日本山海名産図会 第三巻 鰆(さわら)」を見られたい。但し、サワラが荒天を好むというのは、聴いたことがない。ネットで調べてみたが、そのような特異性は発見出来なかった。]

譚海 卷の九 相州三浦冬月牛馬飼方の事

○相州三浦にて、冬月(ふゆづき)、稗(ひえ)を殼ともに挽(ひき)て、每夜、鍋にて焚(たき)、諸手にあまるほどの、にぎり飯に拵(こしら)へ、「こぬか」を箕(み)のうへに、ちらし置(おき)、それへ、にぎりたるひえを、まろばすれば、小糠、くるみて、豆の、粉をまぶしたるやうになるを、それを、翌日、さめたるまゝ、牛馬に、かふ事なり。さすれば、來春に至(いたり)て、牛馬の毛色、うるはしく、あぶらつきて、見事に成(なる)事なり。春は、にぎりたるひえ飯を、「こぬか」をまぶさで、人も、くひものにすると、いへり。

[やぶちゃん注:「稗」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科キビ連ヒエ属ヒエ Echinochloa esculenta 。]

譚海 卷の九 畿内・勢・尾の人產業の事

譚海 卷の九 畿内・勢・尾の人產業の事

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「畿内」は大和・山城・摂津・河内・和泉の五国。現在の奈良県・京都府中南部・大阪府・兵庫県南東部を合わせた地域。「勢」は伊勢国、「尾」は尾張。]

 

○五畿内・伊勢・尾張などの人は、耕作の外に、一種の業(わざ)をなして、貨殖を事とし、利に走る事、其(それ)、性(せい)なり。中國・西國に至(いたる)迄、みな、しかり。

 茶をうゑ、「こかひ」[やぶちゃん注:「蠶飼」。]をなし、瀨戶物をやき、松の油煙(ゆえん/やに)をとるなど、瑣細(ささい)[やぶちゃん注:「些細」に同じ。]の事にいたるまで、其土地に應じたる事を、かまへなさずといふ事、なし。

 あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、梅の樹を、數(す)千本、うゑて、年々梅干を數萬の桶に漬出(つけいだ)し、又は棕櫚(しゆろ)の樹を植(うゑ)て、皮をはぎ、「はゝき」に造り、「たはし」に製し、繩に、なひなど、塵芥(ちりあくた)にいたるまでも、すたる事、なし。

「しゆろ、千本あれば、十口(とくち)のくらしにあたる。」[やぶちゃん注:「十口」一般の町人の十軒分。]

と、いへり。

 「はぜ」をうゑて、實をとり、蠟となすなど、至(いたつ)て辛勞(しんらう)する事にて、關東の人は敎(をしへ)ても、なしうる事を、せず。

 鷄(にはとり)を飼(かひ)て、玉子を產し、海の藻をとりて、「ところてん」を製しなど、智力を盡(つく)し、心を用(もちひ)る事、あげて、かぞへがたし。

 關東の農夫は、本業の外に、心をもちゆる事、少(すくな)し。終年、徒然(つれづれ)として遊惰(いうだ)に暮す事、奥羽をかけて、一般の風俗なり。然る間、貧を愁(うれふ)る事も、又、甚し。

[やぶちゃん注:「しゆろ」通常の漢字表記は「棕櫚」。ヤシ科シュロ属の常緑高木。ここでは、ワジュロ(和棕櫚: Trachycarpus fortunei )とトウジュロ(唐棕櫚: Trachycarpus wagnerianus )の両方を挙げておく。両者の区別は、前者が葉が折れて垂れるのに対して、後者は優位に葉柄が短く、葉が折れず、垂れない。近年、二種は同種ともされるが、園芸では、敢然として区別される。ウィキの「シュロ」によれば、『樹皮の繊維層は厚く』、『シュロ縄として古くから利用されている』。『また、ホウキの穂先の材料として使われる、日本の伝統的な和箒』(わほうき)『の棕櫚箒』(しゅろほうき)『としての利用も一般的である。繊維は菰(こも)の材料にもなる』とある。

「はぜ」双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum当該ウィキの「果実」によれば、『果実を蒸して』、『圧搾して採取される高融点の脂肪、つまり木蝋は、和蝋燭(Japanese candle)、坐薬や軟膏の基剤、ポマード、石鹸、クレヨン、化粧品などの原料として利用される』。『日本では、江戸時代に西日本の諸藩で木蝋をとる目的で盛んに栽培された。また、江戸時代中期以前は時としてアク抜き後』、『焼いて食すほか、すり潰してこね、ハゼ餅(東北地方の』「ゆべし」『に近いものと考えられる)として加工されるなど、救荒食物としての利用もあった。現在も、食品の表面に光沢をつけるために利用される例がある』。二十『世紀に入り安価で大量生産可能な合成ワックスにより、生産が低下したが、近年』、『合成ワックスにはない粘りや自然品の見直し気運などから需要が増えてきている』とある。]

譚海 卷の九 畿内・勢・尾の人產業の事

[やぶちゃん注:「畿内」大和・山城・摂津・河内・和泉の五国。現在の奈良県・京都府中南部・大阪府・兵庫県南東部を合わせた地域。「勢」伊勢国。「尾」尾張。]

 

○五畿内・伊勢・尾張などの人は、耕作の外に、一種の業(げふ)をなして、貨殖を事とし、利に走る事、其(それ)、性(せい)なり。中國・西國に至(いたる)迄、みな、しかり。

 茶をうゑ、「こかひ」[やぶちゃん注:「蠶飼」。]をなし、瀨戶物をやき、松の油煙(ゆえん/やに)をとるなど、瑣細(ささい)[やぶちゃん注:「些細」に同じ。]の事にいたるまで、其土地に應じたる事を、かまへなさずといふ事、なし。

 あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、梅の樹を、數(す)千本、うゑて、年々梅干を數萬の桶に漬出(つけいだ)し、又は棕櫚(しゆろ)の樹を植(うゑ)て、皮をはぎ、「はゝき」に造り、「たはし」に製し、繩になひなど、塵芥(ちりあくた)にいたるまでも、すたる事、なし。

「しゆろ、千本あれば、十口(とくち)のくらしにあたる。」[やぶちゃん注:「十口」十軒分。]

と、いへり。

 「はぜ」をうゑて、實をとり、蠟となすなど、至(いたつ)て辛勞(しんらう)する事にて、關東の人は敎(をしへ)ても、なしうる事を、せず。

 鷄(にはとり)を飼(かひ)て、玉子を產し、海の藻をとりて、「ところてん」を製しなど、智力を盡(つく)し、心を用(もちひ)る事、あげて、かぞへがたし。

 關東の農夫は、本業の外に、心をもちゆる事、少(すくな)し。終年、徒然(つれづれ)として遊惰(いうだ)に暮す事、奥羽をかけて、一般の風俗なり。然る間、貧を愁(うれふ)る事も、又、甚し。

譚海 卷の九 京都婦人用意ふかき事

○京都の町人何がしの妻、緣付(えんづき)て、七、八年にもいたり、子供も、壹人、出生(しゆつしやう)せしに、此子、五、六歲の比(ころ)、母の乳(ち)をふくみながら、手すさみに、母の鬢(びん)の毛を引(ひき)たれば、あやまたず、引おとしぬ。

 元來、此妻女、びんの毛、かたがた、はげてなきを、かづらを付(つけ)て、まことに、鬢のあるごとく、つくろひたるなり。

 それを、七、八年の際、夫(をつと)にも、しられず、かくしとげたるに、おもひがけず、小兒に引とられて、大(おほい)に恥らひ、赤面に及び、夫も、はじめて、妻の鬢の、はげたる事をしりて、驚(おどろき)たり、とぞ。

 すべて、京都の女は、たしなみ深く、朝(あした)に起き出(いづ)る時、いつも、鬢のそそげたるをみたる事、なし。女の寢起(ねおき)の顏、人に、みする事、なし、とぞ。起出(おきで)んとする時、先(まづ)、閨(ねや)にて、あらかじめ、髮、なで、そゝげ、つくろひて後、扨(さて)、厠(かはや)へも行(ゆく)事、とぞ。

「大かた、京都の下女は、臺所の業(なりはひ)、終りて、人、しづまりて後、あんどうに、むかひ、燈心一すぢの光りにて、髮ゆふてのち、いぬるなり。朝に、髮ゆふ事、なし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:本篇は、人体の欠損(法的には髪は「人体」であり、本人の意向を聞かずに切った場合、立派な「傷害罪」となる)という点で、前話の「入眼入鼻の事」と確信犯の連関性が認められる。]

2024/02/20

譚海 卷の九 入眼入鼻の事

[やぶちゃん注:本篇は現在は差別用語として使用しない言葉や、差別的な話者の語りがある。その辺りは、十全に批判的視点を持って読まれたい。]

 

○今時(こんじ)は、すべて技能の事も精密になりて、入眼(いれめ)・入鼻(いれはな)などいふ事を考へ出(いだ)し、かたわなる人も、療治を得(う)れば、平常の人に異なる事なきやうにみゆるなり。

 番町の御家人何がしの息女、片目、あしかりしを、入眼せしかば、よき目よりは、よくみなさるゝやうに成(なり)たり。但(ただし)、それをしりて、心をとめてみれば、入見[やぶちゃん注:底本に編者の補正傍注が『(瞳)』とある。これで「いれめ」と読ませるつもりであろう。]のはたらかざるゆゑ、入眼の事とは、しらるれども、うちつけに、しらぬ人の指向(さしむか)ひたるには、さらに入眼成(なり)とも見わけかたきほど也。

 其のち、此息女、かたわを、かくして、媒介(なかうど)によりて婚娶(こんしゆ)[やぶちゃん注:「結婚」に同じ。]の事、さだまり、緣付(えんづき)たり、とぞ。

 又、大門通(だいもんとおり)に馬具をあきなひするもの、師走ころ、牛込の邊(あたり)へ、馬具のあたひを請取(うけとり)に行(ゆき)たる歸路(かへりみち)に、夜陰、盜賊にあひて切付(きるつけ)られ、

「にぐる。」

とて、鼻を切落(きりおと)されぬ。にげ歸(かへり)て、いそぎ、入鼻の醫師を求(もとめ)て、療治せしかば、木をきざみて、鼻の形になし、付(つけ)そへたりしに、元來(もとより)、鼻の色、少(すこし)もたがふ事なく、奇特成(きどくな)ることに、人も、あざみ[やぶちゃん注:この場合は「意外なことに驚き」の意。]、いひたり。

 但(ただし)、酒徒(しゆと)成(なる)故、沈醉(ちんすゐ)にをよぶ[やぶちゃん注:ママ。]ときは、顏色、あかく成(なる)にしたがつて、鼻の色ばかり、かはらず、たしかに、入鼻、わかれて、見えたり、とぞ。にげ歸(かへえり)て、そのままに、うちふし、療治して、後(のち)、數日(すじつ)ありて、おきあがり、衣裳をぬぎかへたれば、きられたる鼻の肉、懷中に落(おち)とまりてあるが、しなびかへりて出(いで)たる。やがて、醫師のかたへ、持行(もちゆき)てみせければ、

「其儘ならば、いかにも、これを、とりつけて療治すべきに、かく、日ごろ、へぬれば、かひなし。」

とて、やみけり。

「いと本意なき事。」

と物がたりぬ。

[やぶちゃん注:「大門通」現在の東京都中央区日本橋小伝馬町から日本橋人形町二丁目までの道路の呼び名(グーグル・マップ・データ)。同区が定める道路愛称名の一つ。江戸時代初期に吉原遊廓(元吉原。その大門)があったことによる。同遊郭は「明暦の大火」(明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)で焼失し、浅草寺裏に移った。]

譚海 卷の九 盲僧支配御觸書の事

 

 譚 海 卷の九

 

 

〇天明五年八月、町奉行所より被仰渡候書面。

「中國西國筋、是迄、無支配の盲僧共、靑蓮院宮樣支配に相成候に付(つき)、武家陪臣の世悴(せがれ)、盲人は盲僧に相成(あひなり)、右宮御支配に付くとも、又は、鍼治(しんぢ)・導引(だういん)・琴・三味せん等いたし、檢校(けんげう)の支配に相成候共(とも)、勝手次第たるべく候。百姓・町人世倅、盲人共、盲僧には不相成、鍼治・導引・琴・三味線等、致し、檢校支配に可ㇾ被ㇾ成候。若(もし)内分(ないぶん)にて寄親(よりおや)等いたし、盲僧に相成候義は、決(けつし)て不相成事に候。右の外(ほか)、百姓・町人の世悴、盲人にて、琴・三味線・鍼治・導引を以(もつて)渡世不ㇾ致、親の手前に罷在候而已(まかりさふらふのみ)の者、幷(ならびに)武家へ御抱(おかかへ)、主人の屋敷、又は、主人の在所へ引越(ひきこし)、他所稼(よそかせぎ)不ㇾ致分は、安永五申年、相觸候通(あひふれさふらふとほり)、制外可ㇾ爲(せいがいなすべき)事、右の通、可相守旨不ㇾ洩樣(もらざざるやう)可ㇾ被相觸候以上。」

[やぶちゃん注:「天明五年八月」一七八五年。但し、当時の将軍徳川家治はこの月の八月二十五日に脚気衝心で死去している。享年五十(満四十九歳没)。当時は、高貴な人物の逝去の紅海は一ヶ月ほど伏せられるのが通例であった。なお、次代の養子家斉(いえなり)の第十一代将軍就任は天明七(一七八七)年であった(数え十五歳)。ただ、「福岡市博物館」公式サイト内の「アーカイブズ 」の「企画展示」の「 No.239 筑前の盲僧」を見ると、『天明』三(一七八三)『年、北部九州の盲僧は』、『ようやく青蓮院(しょうれんいん)という庇護者を得ることに成功します。京都粟田口(あわだぐち)にある青蓮院は延暦寺三門跡(えんりゃくじさんもんぜき)のひとつであり、盲僧たちにとっては申分のない格式を備えた寺院でした』。『青蓮院配下として再出発をした盲僧の生活は様々な規則に縛られるようになります。例えば、欠かさず年頭の挨拶に京都を訪れるべきことや、芸能活動の禁止等が定められました。また、当道座ほどではありませんが、頭(かしら)から平僧(ひらそう)に至る』六『段階の階層が設けられ、それぞれ』、『昇進の度に青蓮院へ礼金を納めなければならなくなりました。袈裟や杖も許可制となり、同様に礼金を必要としました』。『しかし、盲僧にとってプラスとなった面も多くありました。例えば、礼金などは当道座の官金制度より負担が軽く、時には青蓮院に「ツケ」で上納することも行なわれました』。『年頭挨拶も数年に一回、時期もまちまちで、代表者のみが上京することが多く、当初定められた規則は』、『あまり守られなかったようです。いずれにせよ、青蓮院の支配で盲僧は当道座に対抗できる権威を得て』『、安定した生活を手にしたと言えるでしょう』とあるから、この「天明五年」は「三年」の津村の判読の誤りの可能性が大である。「三」と「五」の崩しは、記者が雑だと、よく判読を間違えるからである。

「寄親」近世、奉公人の身元引受人(保証人)を指す。

「安永五申年」一七七六年。同じく家治の治世。]

譚海 卷之八 武州靑梅領禪寺の住持盜賊にあひて才覺の事 / 卷之八~了

[やぶちゃん注:この前の二話「九州海路船をうがつ魚の事」、及び、「房總幷(ならびに)松前渡海溺死幽靈の事」は既にフライング公開している。

 なお、本篇を以って「卷之八」は終っている。]

 

○武州、靑梅(あをめ)領に、金龍寺と云(いふ)禪寺あり。

 ある宵の程、盜人(ぬすびと)、二、三人來りて、異儀なく、門番をしばり、

「聲、たてなば、殺害(せつがい)すべし。住持の居間へ、案内すべし。」

とて、門番を先に立(たて)て拔身(ぬきみ)の刀のまゝながら、庫裏(くり)へ行(ゆき)けり。

 和尙の居間へ至(いたり)てければ、和尙、たばこ呑(のみ)てゐたりしに、

「金子、借用に參(まゐり)たり。とく、出(いだ)されよ。」

と、いひければ、和尙、少しも、さわぐ氣色(けしき)なく、

「成程。先(まづ)、各(おのおの)、抜身にて、あぶなし。金子もかし申(まふす)べきまゝ、かたなを、收(をさめ)られ、靜(しづか)に致されよ。」

と、いひければ、盜人、刀を、をさめて坐(ざ)したる後(のち)、和尙、申けるは、

「爰(ここ)に、金子五兩、有(あり)。是より外(ほか)になければ、是を取(とら)するなり。持參致されよ。」

と、いひしに、此ぬす人、

「あまり少金(しやうきん)なり、是計(ばかり)にはあるまじ、かくす所なく、かし給はれ。」

と、いひしかば、和尙、

「沙門の身といふものは、さのみ、餘計(よけい)の金子、たくはふる物に、あらず。たくはへても、用なければ、我等、持合(もちあひ)たるは、是のみなり。もし、不足におもはれなば、寺の者、持合(もちあはせ)たるも、あるべし。取揃(とりそろへ)、進(しん)ずべし。」

とて、弟子の僧、又は、下人など呼出(よびいだ)して、

「かやうの無心に逢(あひ)て、せんかたなし。其方達、たくはへあらば、此五兩の上に、少し成(なり)とも餘計にして進じたし。何とぞ、今宵、かし進(しん)せよ。」

とて、彼(かれ)を、さとし、是を、すゝめて、金子、二步、三步、取(とり)あつめて、六、七兩に成(なり)たるを、ぬす人に渡し、

「見らるゝ如く、かほどまでせんさくしても、此ほかに寺中(てらうち)に持合(もちあひ)たる金子、是、なし。不肖ながら、是をもち歸られよ。」

と、いひしに、盜人も、ことわりにおぼへて、其金(かね)を懷中せしかば、和尙、又、

「各(おのおの)、空腹(すきばら)にも成(なり)たるべし。茶漬にても、參られよ。」

とて、ありあふ食事などすゝめ、時をうつして後(のち)、ぬす人、いとまごひて、立出(たちいで)しに、暫(しならく)有(あり)て、和尙、ぬす人の跡を、とめて[やぶちゃん注:「問めて」。行く方を探って。]、ひそかに、しりにたちて、付(つき)そひ往(ゆき)けり。

 やゝとほく行(ゆき)て、ある家の長屋門ある百姓の家へ入(いり)ぬれば、和尙、これを見屆けて、其邊(そのあたり)の、みぞの泥を、掌(てのひら)にぬりて、戶びらに手のかたを、おし、其上の方に、「一」の字を書(かき)て、かへりぬ。

 夜あけて、和尙、弟子を呼(よび)て、

「此(この)何村の内に手の『かた』をおして、『一』の字を、泥にて書付(かきつけ)たる戶びらある家に行(ゆき)て、何となく、『昨夜、止宿の人は何と申(まふす)や。』、姓名を聞(きき)て、かへるべし。」

と、いひければ、弟子、敎(をしへ)のごとく、聞糺(ききただ)したるに、何某(なにがし)と云(いふ)武家、四百石、知行(ちぎやう)ある人、泊(とまり)たるよし。」

を、いひければ、其姓名、聞(きき)、歸(かへり)て、和尙に云(いひ)しまま、和尙、やがて、其家に行(ゆき)て、案内し、其武家に逢(あひ)たるに、昨夜のぬす人に、まぎれなかりしかば、則(すなはち)、和尙、其人に申けるは、

「昨夜、御無心ゆゑ、御用立(ごようだて)たる金子、かへさるべし。」

と、いひしに、此武家、あらがふかたなくて、無下(むげ)に金を出(いだ)して、かへしける、とぞ。

[やぶちゃん注:「武州、靑梅領に、金龍寺と云禪寺あり」東京都青梅(おうめ)市だが、「金龍寺」という寺は現存しない。或いは、筆者か話者が、変名にしたものかも知れない。]

譚海 卷之八 因幡・石見・伯耆銀札の事

○因幡・石見・伯耆三ケ國は、國中(くにぢゆう)、皆、銀札(ぎんさつ)通用にて、金銀を、いまだ、目に見ざる者、おほし。剩(あまつさへ)、領主限(かぎり)の銀札ゆゑ、それをしらずして、此國の銀札を持(もち)て、他領へ至れば、僅(わづか)小路(こうぢ)ひとつ、家一つ鄰でも、

「他領の銀札成(なり)。」

とて、もちひざるゆゑ、案内をしらぬものは、往來に無益の損毛(そんもう)ありて、いたづらに銀札を道に捨(すて)て行(ゆく)者、おほし、とぞ。

[やぶちゃん注:「銀札」江戸時代、銀で額面を表示した紙幣。藩札・私札のうち、大部分を占めたが、匁・分を貨幣単位とする銀札は、金札に比べて小額で、額面単位の刻みも多くできたため、種類も豊富で、発行者にとっても重宝であった。原則として、銀貨との交換が発行者によって保証されたが、乱発によって減価したり、交換が困難になる事態も見られた。明治元(一八六八)年の「銀目廃止」に伴って、多くの藩で金札や銭札に改めた(山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」に拠った)。]

譚海 卷之八 長州下の關遊女の事

○長門、下の關の湊の遊女、往時、平家沒落の時、宮女(きうぢよ)、身をよするかたなくて、遊女と成(なり)しより、初(はじめ)たる、とぞ。

 下の關あみだ寺に、安德帝幷(ならびに)平家一門の御影(ごえい)あるに、七月盆中。諸人(しよにん)、參詣するにも、

「下の關の遊女、參詣をはじめざる間(あひだ)は、諸人の參詣を禁ずる。」

よしを、いへり。

譚海 卷之八 和州吉野戶津川龜井六郞子孫の事

○吉野の奥、戶津川[やぶちゃん注:底本には編者の補正傍注があり、「戶」は『(十)』とある。]は、七里に十五里の地にして、誠に兵亂などを遁(のが)るには、無双の所にして、本朝の「武陵桃源(ぶりやうたうげん)」とも、いひつべき所、とぞ。

 紀州御領にて、代官は居置(をりおき)るれ共(ども)、何れも、居民、無年貢の定(さだめ)なり。

 それは、此地の人、何れも、世代、五、六百年、子孫をつたへて、住(すみ)つゝ、みなみな、由緖あれば、それに免ぜられて、今は、年貢の沙汰には及(およ)ばれざる、よし。

「平の惟盛(これもり)の子孫、楠家(くすのきけ)の一族など、あまた、子孫、世をつたへて、今に住(すみ)わたるもの、おほし。」

とぞ。

 當所(たうしよ)に源九郞判官[やぶちゃん注:源義経。]の郞等(らうだう)にて、龜井の六郞の子孫、有(あり)。代々龜井六郞と號する、よし。

 其家へ立寄(たちより)て、

「遠國(をんごく)より承及(うけたまはりおよび)たる。」

よしを、申入(まふしいれ)ければ、主人、出會(いであひ)て、慇懃にあひしらひ、閑談の上、

「定(さだめ)て、御家にて、古代の物、つたへられたる數々(かづかず)あるべし、是迄尋まゐりたる證據に、何ぞ、古筆にても、見せ給はるべし。故鄕(ふるさと)の物語(ものがたり)かたりに致度(いたしたき)。」

よし、申ければ、主人、

「成程。御心安き御所望、家につたへ候品ども、彼是、有ㇾ之候へども、先年、紀州殿より仰渡(おほせわた)され候て、

『什物(じふもつ)傳來の品、必ず、他邦(たはう)の人に、みすまじ。隨分、祕藏して藏置(をさめおく)べき。』

よし、命ぜられぬれば、領主の命、もだしがたく候まゝ、御覽に入(いれ)がたき。」

よし答ける、とぞ。

 是等、皆、

「年始に和歌山へ出勤して、年頭、目見得(めにえ)勤(つとむ)るばかりにて、外に無役にてある事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「戶」(十)「津川」現在の奈良県吉野郡十津川村(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「武陵桃源」陶潜(淵明)の「桃花源記」に見える架空の地で、晋の太元年間(東晋の孝武帝司馬曜の治世に行われた二番目の元号。三七六年~三九六年)に、湖南武陵(漢代に現在の湖南省北西部地域に置かれた郡名。中心は現在の湖南省懐化市漵浦(じょほ)県の南)の人が、桃林の奥の洞穴の向こうに出でて見ると、秦末の戦乱を避けた人々の子孫が住む別天地があって、世の変遷も知らずに平和に暮らしていたという伝奇物。俗世間を離れた楽天地。また、比喩的に「別天地・理想郷」を言う。所謂、「桃源境」のこと。

「平の維盛」(平治元(一一五九)年 ~寿永三(一一八四)年?)平清盛の嫡子平重盛の嫡男であったが、父の早逝もあって、一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちた後に戦線から離脱し、現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の熊野灘の沖で入水したとされている。一種のノイローゼ或いは鬱病であったと私は考えている。那智の補陀洛山寺の供養塔をお参りしたことがある。但し、生存説が古くからあり、また、全国各地に彼の隠棲・落人伝説が残る。

「楠家の一族」南朝のために貢献した楠木正成誕(永仁二(一二九四)年?~延元元年/建武三(一三三六)年)以下の一族。

「龜井の六郞」亀井重清(しげきよ ?~文治五(一一八九)年)は源義経の郎党で、「義経四天王」の一人。「弓の名手」と伝わる。参照した当該ウィキによれば、『藤白鈴木氏』(ふじしろすずきし:紀州熊野系の穂積氏の子孫で、穂積老の子とされる穂積濃美麻呂(ほぢみののみまろ)の流れを汲む、熊野速玉大社一の禰宜であった穂積国興の子、鈴木基行が鈴木姓を称したことに始まる。十二世紀頃、熊野から藤白(現在の和歌山県海南市藤白)に移り住んで以来、王子社(現在の藤白神社)の神職を代々務めた家系。熊野三党の一つとして熊野地方に大きな勢力を有し、また熊野八庄司の一つとして当主は代々「鈴木庄司」を称した)『の一族で、兄に鈴木重家がいた。また』、「続風土記」の『「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると』、『重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で』、『重家と義兄弟の契りを交わしたとされる』。「吾妻鏡」の文治五(一一八五)年五月七日の『条に』、『兄頼朝の怒りを買った義経が、異心のない証』(あかし)『として鎌倉へ起請文を送った使者として』、『亀井六郎の名が見られる。この起請文は、義経がそれまで勝手な振る舞いをしてきて、今になって頼朝の怒りを聞いて初めてこのような使者を送って来たものとして許されず、かえって』、『頼朝の怒りを深める原因になった』。「源平盛衰記」では、「一ノ谷の戦い」で『義経の郎党亀井六郎重清として登場する』。「義経記」では『義経最期の』「衣川の戦い」で『「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年』二十三『」と名乗り、奮戦したのち』、『兄と共に自害した』とする。

「紀州殿」本巻は寛政二(一七九〇)年が最新年次とされるので、和歌山藩第九代藩主徳川治貞(はるさだ)か。彼の在任は安永四(一七七五)年~天明九(一七八九)年である。]

譚海 卷之八 備前國洞穴鍾乳の事

[やぶちゃん注:先行する「譚海 卷之二 信州戶隱明神奧院の事」の本文及び私の注を参照されたい。]

 

○信州、戶隱山、奥の院、九頭龍權現の洞穴も、其ふかき事を、しらず。

 天台宗にて、其僧、相詰(あひつめ)て、日々、寅の刻に御供(ごくう)を備ふ。

 洞(ほら)の中(うち)へ入(いる)事、三町ほどにして、供物を備ふる所、杭を四本うちて、其上へ供物を箱に入(いれ)たるまゝに置(おき)て、跡じさりして、洞の口まで出歸(いでかへる)、とぞ。

 若き僧ならでは、勤(つとま)りがたし。

 權現の御心(みこころ)に叶(かなひ)たる僧は、年へても、つとむる者、おほし。又、暫時、つとめて、退(しりぞ)く者も、おほし。

 供物は、箱の内にて、日々、うする事なり。又、幾日も、箱のうちにあるまゝにて、ある事も、有(あり)。

 是も、

「不思議。」

とし、且(かつ)、權現の御きげんよき、あしきを、うらなふ便(たより)とす。

 洞穴より、本社の戶隱明神までは、三十二町[やぶちゃん注:約三・四九一キロメートル。]、有(あり)。

「信州の六兵衞と云(いふ)者、信心にて、近來(ちかごろ)、石碑を道じるしに建(たて)て、三十二町を二十町にさだめたり。」

といふ。

「九頭龍權現は白蛇にてまします。」

よし。

「本地(ほんぢ)は辨才天。」

と、いへり。

 洞穴の前に拜殿あり。拜殿より、ほらの口までは、よほど高き所なるに、廊下をつくりそへて、通行するやうにせしなり。

 山中、冬は至(いたつ)て、雪、深ければ、「雪なで」とて、雪の絕頂より、くづれおつるにおされて、人家、多く、そこなはるゝゆゑ、大盤石(だいばんじやく)の本(もと)を楯(たて)にとりて、盤石より、庇(ひさし)をかけたして、その下に、冬・春までは住居(すまい)する事なり。「雪なで」、くづれ落(おち)ても、盤石にさゝへて、住居のおしうたれぬやうに、かまへたること、とぞ。

譚海 卷之八 備前國洞穴鍾乳の事

[やぶちゃん注:サイト「岡山観光WEB」のこちらによれば、岡山県の「井倉洞」と「満奇洞」がある(写真・地図有り)。さらに、西直近に平案時代には既に知られていた日本最古の鍾乳洞とされるスケールの大きい岡山県真庭(まにわ)市上水田(かみみずた)の「備中鐘乳穴」(びっちゅうかなちあな)(同前の独立ページ)があり、これも含めていいだろう。問題は、標題と冒頭の「備前」で、これは「備中」の誤りである。]

 

○備前の邑久郡(おくのこほり)[やぶちゃん注:底本に「邑久」の右に編者の補正注で『(奥の)』とある。「邑久郡」は確かに備前にあったが、瀬戸内海沿岸域で、旧邑久郡には知られた鍾乳洞はない。]に洞穴あり。

 入口、盤石(ばんじやく)をうがちて、出入(でいり)するに、さはらぬやうに、かまへたり。

 入(いり)て、十町[やぶちゃん注:一・〇九メートル。]程ゆけば、高き石上にのぼる、その道は、石をうがちて、階(きざはし)になせる十級(きふ)斗(ばか)り有(あり)、のぼりて見れば、そのうへ、たひらか成(なる)事、「むしろ」をしきたるごとく、座地、廣(ひろく)、甚(はなはだ)ゆるやかにして、約(やく)する[やぶちゃん注:「に」が欲しい。]、三、四十間[やぶちゃん注:五十四・五四~七十二・七二メートル。]もあるべし。

 それより又、くだる道あり。おなじく、階をつくりて、くだりはてたれば、洞中、みな白璧(しらかべ)のごとく、みゆ。松明(たいまつ)に、てらしてみれば、ことごとく、石鍾乳(せきしようにゆう)なり。火うち石の如く、稜(かど)ありて、石より、垂出(たれいで)たり。それを過(すぎ)て、三町ほどゆけば、流水、有(あり)、尋常の川に異ならず。

「はじめ、渡る時は、脛(すね)を沒す。中流にては、水、臍(へそ)におよぶ。」

と云(いふ)。

「わたる向ふのきしは、又、水、脛に及(およぶ)ばかりなり。是を探(さぐり)たる人、水を恐(おそれ)て、歸りたり。水のあなたは、又、洞中の道ありて、行(ゆく)時は因幡の國へ出(いづ)る。」

と云(いふ)。

「甚(はなはだ)、近道なり。」

とぞ。

「洞口より、因幡まで、一里半ばかり有(あり)。」

と、案内の者、語りし、しなり。

[やぶちゃん注:内部のスケールと最後の「因幡」に抜けるという記載から、「備中鐘乳穴」(グーグル・マップ・データ)の可能性が高い。]

譚海 卷之八 備中吉備津宮御釜の事

○備中吉備宮の「釜祈禱」といふは、銀拾二匁、奉納すれば、おこなはるゝなり。

 其願主に成(なり)たる人、ものがたりせしは、

「釜殿とて、別に社内にかまへたる所、有(あり)。禰宜、案内して釜殿の拜殿へ、いざなふ。

 釜殿は、いたじきにて、それより坐して見れば、前にひろき土間あり。土間に、竈、二つありて、釜、二つ、すゑ有(あり)。釜の口、さしわたし三尺斗(ばかり)、盃(さかずき)のかたちのごとく、ひらきて、腹に、橫すぢ、入(いり)たる鐵釜なり。普通の釜にかはる體(てい)にあらず。

 しばらくして、大嫗巫(だいうふ)[やぶちゃん注:かなり年老いた巫女。後の「巫嫗」も同義。]、二人、「ちはや」をかけ出來(いできた)る。首髮(かうべがみ)、ことごとく白くして、殊勝に覺えたり。

[やぶちゃん注:「ちはや」小忌衣(おみごろも:斎戒用の衣)の一種で、神事に奉仕する巫女が袍(ほう:綿を包み入れた衣服)の上に着る白地の単(ひとえ)。ヤマアイ(山藍)で、水草・蝶・鳥などの模様が染めてある。袖口は縫わずに、「こより」で括(くく)る。]

 この巫嫗(ふう)、願主に揖して、

『信心を凝(こら)すやうに。』

と、いましめて後(のち)、桶より、其米(こめ)を、𪭜子[やぶちゃん注:不詳。「杓子(しやくし)」か。]に、一すくひ、とりて、かまの中(うち)へ入終(いれをは)れば、件(くだん)の禰宜、松葉、一枚づつ、二つの釜に、さしくべ、火を鑽(きり)て、付木(つけぎ)に點じ、松の葉に、さしそひて、焚(たく)。

 其時、巫嫗、しばらく、默禱して、釜の側(かたはら)の圓座に居(を)る。

 やがて、釜、音をたてて、微(かすかな)音に鳴出(なりいづ)るが、後(のち)には、其昔、甚(はなはだ)、大(おほき)くひゞきて、旁(かたはら)にて、ものいふ聲も、聞えざるやうに鳴動す。

 奇成(なる)事、いふばかりなし。

 一枝の松に點(てんじ)たる火、既に消盡(きえつくし)て、灰に成(なり)たるのちも、釜のなる事、少しも、かはらず。

 やうやう、時をへて、次第々々に、其音、減じて鳴り收(をさむ)る。」

とぞ。

「すべて、釜の鳴(なる)事、半時餘(あまり)成(なる)べし。」

と、いへり。

「鳴(なり)やみて、巫嫗、

『御釜、御きげんよく鳴玉(なりたま)ひし。』

と云(いひ)て、去れる事。」

とぞ。

「拜殿よりは、釜の内、見えざるゆゑ、あまりに鳴(なり)ひびくとき、ふしぎに思ひて、素足に成(なり)て庭中(にはうち)におりて、竃の前後、一周、𢌞(まわり)ありきて見たりしに、何のあやしき機關(からくり)も見えず。水は、元より、釜中(かまうち)に入(いれ)てありし事と見えたり。かほど、ふしぎ成(なる)事、いまだ、見聞(みきき)せず。」

と、物語せり。

「旅宿に歸(かへり)ても、御釜なる事のふしぎ成(なる)事を思居(おもひをり)て、主人にいひしかば、主人、いひけるは、

『此御釜のみに限り侍らず。我等家のかまにても、あの巫嫗、來(きたつ)て、右のごとくに、おこなひ候へば、どうやうに鳴申(なりまふす)事。』

と、いひしよし。

「ますます、不思議の事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「備中吉備宮」岡山県岡山市北区吉備津にある吉備津神社(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。嘗ては、「吉備津彥神社」と称した。ここに示された特異な神事は、上田秋成の名作「雨月物語」の「吉備津の釜」で知られるそれで、ウィキの「鳴釜神事」の「吉備津神社の鳴釜神事」の項に、『同神社には御釜』(御竈)『殿』(おかまでん)『があり、古くは鋳物師の村である阿曽郷(現在の岡山県総社市阿曽』(そうじゃしあぞ)『地域』(ここ)。『住所では同市東阿曽』及び『西阿曽の地域に相当する)から阿曽女(あそめ、あぞめ。伝承では「阿曽の祝(ほふり)の娘」とされ、いわゆる阿曽地域に在する神社における神職の娘、即ち巫女とされる)を呼んで、神職と共に神事を執り行った。現在も神職と共に女性が奉祀しており、その女性を阿曽女と呼ぶ』。『まず、釜で水を沸かし、神職が祝詞を奏上、阿曽女が米を釜の蒸籠(せいろ)の上に入れ、混ぜると、大きな炊飯器やボイラーがうなる様な音がする。この音は「おどうじ」と呼ばれる。神職が祝詞を読み終える頃には』、『音はしなくなる。絶妙なバランスが不思議さをかもし出すが、この音は、米と蒸気等の温度差により生じる熱音響効果』『とよばれる現象と考えられている』。百『ヘルツぐらいの低い周波数の振動が高い音圧を伴って』一ミリメートル『ぐらいの穴を通ると』、『この現象が起きるとされ、家庭用のガスコンロでも』、『鉄鍋と蒸篭』(せいろ)『を使って生米を蒸すと再現できる』。『吉備津神社には鳴釜神事の起源として』、『以下の伝説が伝えられている。吉備国に、温羅(うら)という名の鬼が悪事を働いたため、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでも』、『うなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしても』、『うなり続け、御釜殿の下に埋葬しても』、『うなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日』、『温羅が夢に現』わ『れ、「温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛』(あぞひめ)『に神饌を炊』(かし)がし『めれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げよう」と答え、神事が始まったという』とあった。]

譚海 卷之八 備前平戶の人海わたりの事 / 同所より朝鮮國幷長白山見ゆる事

[やぶちゃん注:この二篇は、明らかに並べて書かれたものと判断し、カップリングした。]

 

○肥前平戶の沖、「九十九島」と云(いふ)。其西にあたりて、入海(いりうみ)、有(あり)。

[やぶちゃん注:広義の「九十九島」は北松浦半島西岸に連なるリアス式海岸の群島であり、国土地理院図のこちらで、「北九十九島」と「南九十九島」(ここに「九十九島湾」がある)が確認出来る。当該ウィキによれば、『島の総数は現在公式には』二百八島と]『されている。これは「九十九島の数調査研究会」の』二〇〇一『年時点』の『調査によるものであるが、島の定義等により異説もある』。「西海国立公園 九十九島全島図鑑」『(芸文社)著者の澤恵二による実地調査では、満潮時に他の陸地から独立して海面上にあり、植物が生えているという基準で』二百十六島『あるという』とあり、殆んどは、『小さな無人島や岩礁で、人が住む有人島は黒島、高島、それに本土から橋で行き来できる前島と鼕泊(とうどまり)島の』四『つである』とあった。]

 入海は大村領と、長嶋のうしろをうけて、ひろさ四十里餘(あまり)あり。島々、尤もおほし。

[やぶちゃん注:「大村領」肥前国彼杵(そのぎ)地方を領した大村藩。藩庁は玖島(くしま)城(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)で、現在の長崎県大村市内にあった。

「長島」大村湾北端に浮かぶ長崎県西海市西彼町(せいひちょう)小迎郷(むかえごう)の長島

「四十里」現行の一里では百五十六キロメートルになるが、津村は京都生まれだが、江戸に住んだから、「坂東道」(=「小道(こみち)」。一里を六町(六百五十四・五四メートル)とする)で言っているとすれば、二十六キロメートル強となる。だが、狭義の現行の「九十九島」は、公式には「西海国立公園」としての「九十九島」は四十五キロメートルとするし、本土海岸線をリアスを概ね無視し、ざっくりと計測すると、三十五キロメートルほどになる。但し、前の「中嶋のうしろ」という表現からは、ここでは、「九十九島」の南端を、佐世保湾を含めて言っていることが判るので、それを足すと、六十六キロメートルほどになる。されば、「坂東道」ではなく、現行の一里でリアス海岸をこまめに計測するなら、ドンブリで、百五十六キロメートルぐらいの数値は出そうではある。

 此入海の口は、「りうの島」と、「小浦」と云(いふ)所にて、わたり五十間[やぶちゃん注:九十・九メートル。]ばかりあり、袋の口のごとし。

[やぶちゃん注:「りうの島」当該ウィキの「主な島」の項に「龍宮の正門(音無瀬)」があり、『金重島』(かなしげじま)『と高島のほぼ中間、浮瀬の北方に暗礁がある。波穏やかな干潮時に海底を見ると、約十尋(ヒロ)の下に大岩石がならび立ち、その上に』一『枚の岩が覆われて、ちょうど鳥居のように見える。そんな事から昔からここは、竜宮の正門だといわれている』とあるのが、それであろうか。グーグル・マップ・データでは、暗礁(干潮時は水面上に出る。サイド・パネルに写真あり)らしき「肥前大平瀬灯標」とある。

「小浦」不詳。ただ、前の肥前大平瀬灯標の北直近に、やはり暗礁があり、国土地理院図では、「小平瀬」とあり(「大平瀬」より百五十メートル東北)、これがそれである可能性が高いように私には思われる。]

 其わたりのあはひを、西北、海の汐(しほ)、さし引(ひき)する故、鹽[やぶちゃん注:「汐」。後も同じ。]のさし引の度(たび)は、四十里の鹽、五十間の、せばき所を過(すぐ)る故、汐のいきほひ、甚(はなはだ)、はげしく、岩にふれ、島にあたりて、其ひゞき、雷(かみなり)のごとし。往來の舟も、鹽のさし引(ひき)のときは、決(けつし)て出入(でいり)しがたきゆゑに、其時をさけて、往來する事、とぞ。鹽のさし引のときに、行(ゆき)かゝる舟は、皆、十里、二十里、退(しりぞい)て、泊(とまり)にかゝり、それをまつ事にて、遠き所の泊りまでも、鹽の岩に競(きそひ)てさし引(ひく)おと、おびたゞ敷(しく)聞ゆる、とぞ。

 平戶より大坂まで、陸路は、十日、路(みち)も有(あり)。舟にて追手(おひて)よければ、半日のほどに、大坂まで到る事、とぞ。

 

○「平戶にて、晴(はる)る日は、朝鮮國、甚(はなはだ)、近く、みゆ。一帶(いつたい)の山、長く、つらなりて、西南にそびえたるは、長白山成(なる)。」

由(よし)、云(いへ)り。

「壹岐・對馬の兩島は、手にとるばかり、近くみゆる。」

と云(いひ)、

「因幡(いなば)邊(あたり)にても、北海(ほくかい)の所にては、朝鮮、見ゆ。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:平戸から朝鮮半島が見えるというのは、イカサマであろう。凡そ、見えるはずがない。対馬・壱岐なら判るが。ファタ・モルガナ(Fata Morgana;イタリア語。古代ケルト人のアーサー王伝説の中で、魔術師で王の義姉モルガン・ル・フェ(Morgan le Fay)に由来し、fairy Morgan の意。イタリアのメッシーナ海峡(Strait of Messina)の蜃気楼がモルガンの魔術によって作られるという言い伝えがあったことによる)。ファタ・モルガナは、完全に絶望した人間にのみ見えるとも言われる海の蜃気楼である)だわ。

「長白山」北朝鮮と中国国境にある名山白頭山の別名。見えるワケ、なかろうがッツ!

「「因幡(いなば)邊(あたり)にても、北海(ほくかい)の所にては、朝鮮、見ゆ。」見えませんて!!!

2024/02/19

譚海 卷之八 藝州嚴島明神佳景の事

○藝州嚴島の明神の景色は、言語に述(のべ)がたし。

 汐(しほ)のみつるときは、拜殿まで、海に成(なり)て、板敷へ、ひたひた、汐のひたるほどにて、社頭の後(うしろ)の山ぎはまで、皆、海のごとくに見ゆるなり。

 別(べつし)て、燈籠を點じたる景、海水に映じたるほど、奇觀、いふばかりなし。

 燈籠、一夜(ひとよ)點(てん)ずる料(れう)、銀十匁づつ、初穗を、いだすよし。

 時々、燈明銀(ぎん)奉納の者、たえず、拾匁の油料にて、二百八十軒の𢌞廊へ、のこらず、燈(ともしび)を點ずる事なり。

譚海 卷之八 防州錦帶橋の事

[やぶちゃん注:「錦帶橋(きんたいけう)」は山口県岩国市岩国のここにある(グーグル・マップ・データ)。……ああっ!……柏陽の教え子諸君……修学旅行、懐かしいね……。もう、四十年余りの遠い昔だ……。そう言えば……あの時(担任の時の方)、バスの中で、モップスの「月光仮面」を歌ったっけ……あの曲を生徒の前で歌ったのは、ぽっきり、あれッきりダゼ! 「ガンジョジンジョカンジョズンズイダ」!……

 なお、この前話の「江戶本所にて人に托せし狐にまちんをくはせし事」は、「譚海 卷之六 武州千住驛北蒲生領の人に托せし狐の事 / 卷之八 江戶本所にて人に托せし狐にまちんをくはせし事(フライング公開二話)」の後の話を見られたい。]

 

○周防(すはう)の錦帶橋は、吉川左京殿領分に有(あり)。城は甚(はなはだ)麁相(そさう)にて、寺のやうなれども、橋のやうすは、誠に日本第一にて、此上もなき、けつこう[やぶちゃん注:「結構」。言うまでもないが、「全体の構造や組み立て」の意。]なり。

 江戶の兩國橋ほどなるを、三段に、わたしたるやうなり。川中に橋臺を、切石(きりいし)にて、臺、上(あげ)たる物、二ケ所、それへ、左右の岸より、橋を造りかけて、その上ヘ、又、左右の橋を臺にして、かけたる橋なり。

 此橋、兩國橋に、はゞ、すこし、狹(せば)く、長さも、少し、みぢかきやうに覺ゆる、とぞ。

 橋の高さ、數(す)十丈にて、眞中より、望みるときは、目くるめきて、おそろしき心地なり。

 橋へ[やぶちゃん注:「へ」は「邊」で「端のあたり」の意であろう。]、のぼり口は、階(きざはし)にて、その階を、一寸ほどある厚き銅にて、つゝみたり。此階、十四、五ものぼりて、橋におよぶ、とぞ。

 所のものは、「十露盤橋」と號せり。

 洪水おほき所なるゆゑ、萬金(まんきん)をはかりて、かく、工(たくみ)いだせる事、とぞ。

[やぶちゃん注:当該ウィキによれば、五『連のアーチからなるこの橋は、全長』百九十三・三『メートル』、『幅員』は五『メートルで、主要構造部は』、『継手や仕口といった組木の技術によって、釘は』一『本も使わずに造られている』。『石積の橋脚に』五『連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、世界的に見ても』、『珍しい木造アーチ橋として知られる』。『また』、『美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて初めて実現したものである。杭州の西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て』、延宝元(一六七三)『年に創建された』。当時の第三代『岩国藩主吉川広嘉』(きっかわひろよし 元和七(一六二一)年~延宝七(一六七九)年)『によって建造されたものである』。『初代岩国領主の吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と錦川を挟んだ対岸にある城下町をつなぐ橋は』、『数回』、『架けられているが、錦川の洪水により流失していた』ことから、『広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手』し、『橋脚をなくせば』、『流失を避けられるとのアイデアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋』(先日、公開した「譚海 卷の八 同國猿橋幷鮎一步金等の事」を参照)『の調査を命じた。しかし、川幅』三十『メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は』二百『メートルもあるため、同様の刎橋(はねばし)とするのは困難であった』。『広嘉がある日、かき餅を焼いていたところ、弓なりに反ったかき餅を見て』、『橋の形のヒントを得たという』。『また、明の帰化僧である独立性易から、杭州の西湖には島づたいに架けられた』六『連のアーチ橋があることを知り、これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至ったともいわれている』。『アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである』。延宝元年の六月八日に『基礎の鍬入れが始められ、児玉九郎右衛門の設計により、石で積み上げられた橋脚を川の堤防に』二『個、中間に』四『個の計』六『個』を『築き、その上から片持ちの梁をせり出した木造の』五『連橋を架けた』。『広嘉は近くに住居を構えて自ら架橋工事の監督を行い、扇子を開いてアーチ橋の湾曲の形を決定したという』。『同年』十『月、錦帯橋は完成し、地元で家内睦まじいことで評判の農家清兵衛の一家』十二『人による渡り初』(ぞ)『めが行われた』。『しかし、翌年の延宝』二(一六七四)年、『洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまったので、同年、家来に石垣の研究をさせて橋台の敷石を強化し』、『再建し』ている。『この改良が功を奏し、その後は昭和期まで』実に二百五十『年以上』、『流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保』っている。『なお、橋は藩が管理し、藩内では』、『掛け替え・補修の費用のため』、『武士・農民など身分階級を問わず』、「橋出米」(はしだしまい)『という税が徴収されていた。ただし』、『当時、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからであった』とある。このウィキには、異名に「十露盤橋」はないが、平凡社『日本歴史地名大系』に「十露盤橋」の別名が載っていた。]

譚海 卷之八 大筒のろし・田村矢等の事

[やぶちゃん注:標題はママ。「大筒(おほづつ)」と「のろし」(「狼煙」。但し、銃砲で撃ち上げる狼煙玉(のろしだま)である)は別物であるから、「・」を入れるべき。「田村矢」は本文を読むに、大筒から多量に撃ち出す火矢(ひや)の驚きの一種である。]

 

○大筒は壹貫目[やぶちゃん注:三・七五キログラム。]・貳貫目玉もあれど、藥(くすり)[やぶちゃん注:「火藥」。]の氣(き)、よわきゆゑ、遠くは打(うち)がたし。百五十目・貳百・三百目程の玉は、藥のつよきを用(もちひ)るゆゑ、五町よ[やぶちゃん注:五百四十五メートル越え。]を、打ちとほすなり。壹貫目以上の玉は、藥、つよくては、筒、わるゝ故、やはらかなる藥を、つよきに調合して、三、四種も、玉藥(たまぐすり)の法(はふ)も合(あは)し用る故、玉のいきほひ、ゆるきゆゑ、とをく[やぶちゃん注:ママ。]は、とをら[やぶちゃん注:ママ。]ず。たとひ、とほく、玉はしりても、中途にて、玉の形、犬の糞の如く、ながく成(なり)て落(おつ)る故、あたりの用(よう)、すくなし。町數(つやうすう)みぢかく、的(まと)をこしらへてうたざれば、用ひがたし。二、三百目までの玉は、藥のつよきを仕込(しこむ)ゆゑ、玉のはしりも、よく、とほるなり。又、二、三百目迄は、ためて[やぶちゃん注:両手で持って片目を閉じて狙うこと。]うたるれども、壹貫目の玉筒に至ては、臺に乘(のせ)て打(うつ)故、けんたう[やぶちゃん注:「見當」。]をさだむるばかりにて、技能の巧拙には、よらぬ事なり。

 「のろし」は、晝は、五彩の緖(を)を用ひ、夜は、火の光を相圖とす。是も空へのぼる事、五、六町[やぶちゃん注:約五百四十五~六百五十五メートル。]ほどなれば、遠くよりは、見へかぬるなり。よるは、火の相圖ゆゑ、少し遠くも見ゆべし。只、其ひゞき、殊外(ことのほか)、大(おほき)く遠近(をちこち)に徹(てつ)するゆゑ、響(ひびき)を相圖とする事なり。晝、狼煙に緖をもちゆる事は、其緖を藥丸(くすりだま)の中へ封じ入(いれ)、其丸の上を、「しぶせん」にて、隨分、よく張上(はりあげ)て、日にほして仕(し)あぐる事なり。大體、「のろし」の「玉(たま)しかけ」、十日斗(ばかり)かゝるなり。天日(てんにち)に、ほし、かたむる故、しかり。急遽の用には、火にかざしかざしして、仕あぐれども、煙硝の玉を、火にかざしてほす事ゆゑ、甚(はなはだ)、心づかひ成(なる)物なり。

[やぶちゃん注:「しぶせん」「澁煎」で、柿渋を混ぜて煮た糊。耐湿性が高まるのであろう。]

 すべて、「のろし」・大筒ともに、薬斗(ばかり)にて、はしり出るいきほひ、よわきゆゑ、拍子木(ひやうしぎ)ほどに、けづりたる木を、内へ仕込(しこん)で、藥にて、木を、はじきいだす勢(いきほひ)につれて、玉の出(いづ)るやうにせし物なり。晝の「のろし」の玉、大(おほき)さ、わたり七寸ほどなり、その内に、手本[やぶちゃん注:この場合は、掌に入る袖珍本のことを言っているものと思う。]のやうに、紙を繼(つぎ)て、五色(ごしき)の緖にて張(はり)たるものを、こめ置(おき)、薬、ともに、丸(たま)に、はりあぐるなり。火をつくれば、玉、はしり出(いで)て、空中にて、玉のわれるやうに仕かけをするなり。大體、五町ほど、空へ、のぼりて、玉、われて、中の緖、空にひるがへるを見るに、五、六尺のきぬの幅に、みゆるゆゑ、遠くよりは見分がたき事と覺ゆ。玉の筒の中にて、火に成(なり)ては、「のろし」、用、がたし。火のいきほひに、玉の飛出(とびいで)て、空にて、わるゝやうに仕かくる事、皆、藥の法にて、仕樣(しやう)ある事なり。「のろし」の、空ヘ、五、六町のぼるけんたうをしるは、先(まづ)、平地にて、的をたてて、「のろし」をしかけ、橫にうつて見るに、五、六町ならでは、はしらぬゆゑ、是をもちて、空へあがりて、

「何程。」

と云(いひ)、間數(まかず)を、さだむるなり。尤(もつとも)、「のろし」も、火矢も、同樣の事にて、陣屋などへ打入(うちい)るるには、橫に、うつやうに、用(もちひ)たる物なり。

 「田村矢」と云ふ火矢は、つゝのうちへ、矢を、數(す)百本、仕込(しこみ)て、敵の陣へ射つくれば、其矢の根に、火藥、ぬりてあるゆゑ、陣屋、ことごとく、火に成(なり)て、暫時に、數百軒、燒(やけ)うするやうにしたる物なり。「段々矢」など云(いふ)ものも、火矢の筒をうてば、藥、内より、はしる時に、はしる道へ、火の、こぼるゝやうに仕かけて、段々に諸方(しよはう)、火に成(なる)やうに仕込たるものなり。

 すべて、大筒・火矢など、臺に居(す)へ、地に建(たて)て、はなつ物は、「紙より」[やぶちゃん注:縒(よ)った紙。]に燃硝をひねり入(いれ)たるを、筒口へ、ゆひ込(こみ)[やぶちゃん注:捩じり結ったそれを入れ込み。]、それに火をさして、まはりて、則(すなはち)、とほくに、げのびて、見てゐれば、「紙より」のやくる間(あひだ)は、玉、はしらず。「紙より」の「ゑんしやう[やぶちゃん注:ママ。]」に、火、つり[やぶちゃん注:「うつり」の脱字ではないか?]、筒口に、火、うつれば、端的に、玉、はしり出(いづ)るゆゑ、そのあひだの見はからひ、甚(はなはだ)、肝要成(なる)事、とぞ。

[やぶちゃん注:この話、どう考えても、相当な砲術家でなくては、語れぬものである。津村は幕府或いは相応の藩の鉄砲方の誰かから、直接に聴いたものであろう。さればこそ、ニュース・ソースの当該者の名を記すことは憚られたものと思う。]

譚海 卷之八 備前家士詠歌幷ひちりきの事

[やぶちゃん注:「ひちりき」は「篳篥・觱篥」で、雅楽用の管楽器。大と小とがあったが、現在残っているのは、小篳篥で、長さ六寸(約十八センチメートル)の竹管(ちくかん)に、前面に七個、後面に二個の指穴を開け、指穴を除いた部分に樺の皮を巻き、上端の部分に「舌(した)」或いは「蘆舌(ろぜつ)」と称する蘆(あし)製の二枚のリードを差し込んだもの。西アジアに起こり、日本には奈良時代初期に中国から伝来した。音は鋭く、哀愁を帯びる。その大きく長いものを大篳篥というが、平安中期には廃絶した。「ひりつ」とも呼ぶ。参照した「精選版 日本国語大辞典」の当該項に図が載る。

 なお、この前話「譚海 卷之八 房州の犬伊勢參宮の事」は既にフライング公開してある。]

 

○備前の家老に某といふ人、名は「よしかせ」と云(いふ)。和歌の堪能にて、役義[やぶちゃん注:ママ。「役儀」。]の外は、詠出三昧(えいしゆつざんまい)に成(なり)てゐる人、あり。上冷泉殿門人にて、爲村卿も、殊に御深切ありし人と聞ゆ。

 ある年の、「夏ひでり」にて、雨、久しく、ふらざりしかば、百姓共、

「雨乞(あまごひ)の歌をよんで給(たまは)るべき。」

よし、願(ねがひ)けるに、數度(すど)、辭退せしかども、强(しい)て望(のぞみ)ければ、是非なく、

 世をめぐむ道したゝずば民草(たみぐさ)の

      田面(たのも)にそゝげあまの川水

と、よみやりけるに、卽時に、雨、降(ふり)て歡喜しける。

[やぶちゃん注:「したゝずば」の「し」は副助詞で、強意。]

 又、其後(そののち)、何(いづれ)の年にか、旱魃(かんばつ)せしに、百姓ども、ありし事を、おもひいでて、又、雨乞の歌を願ければ、此人、

「二度迄は、あるまじき事。」

とて、强(しひ)て辭退せしかども、承引(しよういん)せざりしかば、せんかたなくて、又、此たびも、一首、詠みける。

  久堅(ひさかた)の雲井の龍も霧を起(おこ)せ

             雨せきくだせせきくだせ雨

 此度(このたび)も、例の如く、雨、降(ふり)しかば、百姓ども、人丸(ひとまる)の如くに覺えられたる人なりとぞ。

 又、同藩に、東照宮の祭禮、每年おこなはるゝに、本社より、御旅所(おたびしよ)へ御出(おいで)の事、有(あり)。其間(そのあひだ)の道のり、一里にも、あまりたる所なれば、中途にて、いつも御休所(おたびしよ)、有(あり)て、それより又、ねりいでて行(ゆく)事なり。

[やぶちゃん注:「東照宮」現在の玉井宮東照宮(たまいぐうとうしょうぐう:グーグル・マップ・データ)が後身。]

 いつの年にか、神輿(しんよ)を、例の如く、中途の御休所にとどめてありしに、此日は、家中の諸士、みな、甲冑して供奉する事なるに、いか成(なる)事にか、そこにて、一人、聲をあげて呼(よび)ければ、それにつきて、數(す)百人一同に、聲をあはせてさけびたる。

 そのひゞき、甚(はなはだ)、らうがはしく、中々、制しあへぬ體(てい)なりしかば、奉行の人も、いかにとも仕兼(しかね)たる所に、ある家士、壹人、床几(しやうぎ)にかゝりて居(ゐ)たるが、鎧の引(ひき)あはせより、「ひちりき」を取出(とりいだ)して、平調(へいてう)[やぶちゃん注:穏やかな調べ。]の「五常樂(ごじやうらく)」の音取(ねとり)[やぶちゃん注:音楽を演奏する前に、楽器の音調を試みるための、短い一種の序奏。神楽・雅楽・能楽などで、多くは笛を主に行われる。]を吹(ふき)すましたりければ、さしもらうがはしかりし、人聲(ひとごゑ)、

「ひし」

と、しづまりかへりて、靜謐(せいひつ)に成(なり)たる、とぞ。

「機轉の所作(しよさ)、國主も、殊に感じ給ひし事なり。」

と、かたりし。

「總て、備前には和歌管絃等を嗜(たしなむ)人、多し。戲(たはむれ)にも「上(じやう)るり」[やぶちゃん注:ママ。「淨瑠璃」。]・「小うた」など、うたふ人は、なき事。』

とぞ。

[やぶちゃん注:「五常樂」雅楽の曲名。序破急の完備した唐楽で、舞人四人によって舞われる。急の部分は、管弦の形でも、しばしば単独に演奏される。唐の太宗の作とされ、曲名は仁・義・礼・智・信の五常に由来すると言われるが、異説もある(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]

譚海 卷之八 上野伊香保溫泉の事 同國草津の湯

[やぶちゃん注:本文では二話は「○」で始まる独立項だが、明らかに連続物として書かれてあるので(底本も国立国会図書館本「目錄」も縦一字空けで並置されてある)、セットで電子化した。

 「上野」は「かうづけ」。「伊香保溫泉」は榛名山東方の、現在の群馬県渋川市伊香保町(いかほまち)にある硫酸塩泉。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「草津の湯」は群馬県吾妻郡草津町(くさつまち:地元では「くさづ」と濁って読む人もいる)草津にある酸性泉・硫黄泉。ここ(右下方に榛名山と伊香保温泉を配した)。]

 

○上州、「伊香保の溫泉」は、山中に有(あり)、出湯、只、壹ケ所にして、其外(そのほか)に泉水、稀なれば、米をかしぎ、食物を調ずるまで、此湯の本に持運(もちはこ)びて洗(あらひ)調(てう)ずるなり。

 病人、種々(しゆじゆ)の腫物(はれもの)あるものなど、入(いり)ひたり、湯にて調ずる故、けがらひ[やぶちゃん注:「汚らひ・穢らひ」。]、いとはしき事、たぐひなし。

 只、壹ケ所、岩上(いはがみ)より纔(わづか)にしたゝりいづる水なり。それを大成(おほきなる)桶に、みちためて、伊香保の人家にわかち用(もちひ)て、湯にて、かしぎたる米を、たき、もちゆる事に、するなり。

 魚(うを)・鰕(えび)のたぐひ、至(いたつ)て稀にして、ながく居(をる)べき地にあらず、とぞ。

 

○又、同國、「草津の湯」は、人家、甚(はなはだ)、おびたゞ敷(しく)、繁昌の地なり。是は、春夏の間のみ、湯屋を、かりに拵へ、病人を接待する事にて、常の住居(すまい)は、湯場(ゆば)より外(そと)の麓に、町、ありて、往來するなり。

 湯の氣(き)、至(いたつ)て、はげしく、最初、一まはり入湯(にふたう)すれば、總身(さうみ)、すべて、たゞれ、そこなふなり。

 第二七日(ふたなのか)[やぶちゃん注:十四日。]より、本復(ほんぷく)を得ると云(いふ)。

 しかしながら、

「虛症(きよしやう)の人に、よろしからぬ湯なり。」

と云(いふ)。

「湯場、ぬす人、おほきゆゑ、初來(しよらい)の旅人あれば、その調度・金錢まで、殘(のこり)なく、湯屋主人、預り納(をさめ)て、旅人の、心(こころ)まゝに物つかひがたきゆゑ、不自由成(なる)所なり。」

と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「虛症」「虛証」とも言う。漢方医学で、全身の体力が衰えている状態、衰弱を指す。]

2024/02/18

譚海 卷の八 肥前長崎港幷おらんだ船の事

○肥前長崎の湊は卑地(ひち)[やぶちゃん注:低地。]にあり。山より、一坂、くだりて、平地を行(ゆく)事、しばらく有(あり)て、又、坂、有(あり)、如ㇾ此(かくのごとく)、坂をくだる事、三坂(みさか)にして、町に至る、といふ。

 湊は鷄(にはとり)の、はねを、ひろげたるごとく、丸くひらきて、其向ひ、二里、海おもてに、「ゐわうの島」あり、島の左右を船の入口とす。

[やぶちゃん注:「ゐわうの島」伊王島(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。現在の長崎県長崎市伊王島町。]

 島にむかひて、左右のきし、みな、絕壁にして、其うへに、西國大名、「かため」の番所とて、立(たて)つゞきて、あり。

[やぶちゃん注:「番所」この範囲内の赤いポイントが、それら。]

 湊のうちに、「おらんだ屋敷」をはじめ、「南京しちう」等の旅館、水門をかまへ、あゆみを、とりつけたるに、其國々の船を着置(つけおき)たる體(てい)、おびたゞしき事にて、中々、十艘・廿艘などの事に、あらず。いづれも船の高さ、旅館の軒(のき)とひとしく、大(おほい)なる舟の高さなり。

[やぶちゃん注:「南京しちう」不詳。識者の御教授を乞う。]

 その中に「おらんだ舟」ばかりは、すぐれて大(おほき)く獨立して、みゆるなり。

 舟の廣さ、三十四間[やぶちゃん注:六十一・八一メートル。]、高さ十六間[やぶちゃん注:二十九・〇八メートル。]あり。

 船の内に「かびたん」をはじめ、部屋々々、有(あり)て、一段、くだりて、臺所なり。又、一段、くだりて、料理する人の居(を)る所、有(あり)。それより又、一段、くだり、牛・羊など、飼(かひ)ておく所、有(あり)。厩(うまや)のごとし。

 船の造(つくり)は「軍配うちは」のかたちのごとく、入口、せまく、中、廣く、船底は狹(せば)し。至て狹(せばき)所、わたり九間[やぶちゃん注:十六・三六メートル。]あり、とぞ。

 「おらんだ」[やぶちゃん注:オランダ船。]、海上にみゆるより、遠目鏡(とほめがね)にて、日々、うかゞひ居(をり)て、「いわうが島」へ近づく比(ころ)、長崎役人、支度して、船を、こぎいだし、おなじく、むかへの舟、三百そう、いだすなり。

 扨(さて)、「いわうが島」へ乘入(のりいる)とき、むかひの舟、百五十艘づつ、二行(にぎやう)に櫓(ろ)をたてて、繩、二筋(ふたすぢ)にて、「おらんだ舟」を、湊へ、引入(ひきいる)る。

 左右、三百艘の舟にて引(ひけ)ども、中々、うごくやうもなく、

「そろそろ」

と、舟、ひかれて、やうやく、時を移(うつり)て、島のこなたへ、舟、入(いる)時、大通詞(だいつうじ)をはじめ、役人、段々、舟へ、のりうつりて、「かびたん」をはじめ、殘らず、「おらんだ人」の懷中までを探見(さぐりみ)て、

「ぬけ荷(に)などの用意、なきや。」

と吟味、濟(すみ)て、そののち、船のうちの荷物をはじめ、上下(うへした)、人數(にんず)幾人(いくにん)といふ事を、微細に記すること、四通(よんつう)なり。

 壹通(いつつう)は直(ただち)に江戶へ奉る。一通は控(ひかへ)となし、一通は長崎奉行所へ納置(をさめおき)、一通は長崎町のもの、御用に拘合(かかはりあひ)たるものへ、渡さる。

 役人、「おらんだ舟」へ乘(のり)うつるとき、はしごを、かけて、のぼる。はしごの長さ、凡(およそ)、九間、有(あり)といふ。直(ちよく)にして、下より見あぐるに、中々、のぼるべきやうにも、みえず。はしごの左右に、上より、太く、ながき繩を、二筋、さげて有(あり)、「梔子(くちなし)」と云(いふ)木の皮を、いとに、よりて、なひたる赤き繩なり。此繩を「まだろす」と云(いふ)もの、なふことなり。三十年もかゝりて、一筋、なひ出(いだ)すと云(いふ)。此繩に取付(とりつけ)て、のぼりくだり、するなり。手にて、繩をとらへたる心持(こころもち)、柔軟にして、たとへんかたなく、心能(こころよき)ものなり。本邦に、かやうなる繩、なきゆゑ、はじめて手にふるるものは、

『奇妙成(なる)事。』

に思ふなり。

[やぶちゃん注:「梔子」リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ Gardenia jasminoides だが、ほんまかいな?

「まだろす」マドロス(オランダ語:matroos)。「水夫・船乗り・船員」。]

 扨、のぼりはつれば、「くるす」と「まだるす」といふ物、二人(ふたり)有(あり)て、其人の手を、とらへて、舟へ引入(ひきい)る。舟の内にも、はしご、有(あり)て、くだるやうにして有(あり)。

[やぶちゃん注:「くるす」後で「黒人」のことと出る。

「まだるす」「まだらす」に同じか。]

 扨、「役人あらため」過(すぎ)て鉦(かね)をならせば、むかへの舟、ちりぢりに成(なり)て、いそぎ、陸へ、にげ歸る。

 其のち、「おらんだ人」、和語にて、

「打(うち)ます、打ます、」

といふ事を、數度(すど)、舟の内を、いひあるく。

 其時、やく人、みなみな、緖(つなぎもの)にて、腹を、いくへにも、いくへにも、力(ちから)のあるかぎりを、いだして、卷(まき)て、耳にも、紙など、入(いれ)、ふさぎて、床几(しやうぎ)にかゝりて居(をる)とき、石火矢(いしびや)に、火をかけて、からうちにするなり。

[やぶちゃん注:「石火矢」ここでは、オランダ船の装備する鉄製の大砲を指している。]

 其ひゞき、思ひしよりは、舟の内にては、すさまじからず、やゝ久しくふるひ響(ひびき)て、そのひゞきにつけて、

「ゆるゆる」

と、舟、うごき出(いで)て湊へ入(いり)、ひとうちに、舟のゆく事、十町[やぶちゃん注:一キロメートル強。]ばかり、凡(およそ)、石火矢をはなつ事、五度(ごたび)にして、はじめて、湊へ入終(いりをは)る。外(ほか)の異國舟(いこくぶね)は、その水門際(すいもんぎは)に着(つき)てあれども、「おらんだ舟」は大(おほい)なるゆゑ、旅館の水門ぎはまで、乘入(のりいる)事、かなはず、三、四間[やぶちゃん注:五・四五~七・二七メートル。]、へだゝりて、水中に有(あり)。其間(そのあひだ)のゆききは、「はし舟」にて行(ゆく)事なり。

 石火矢を、はなつに、みなとへ入(いる)ときは、筒口を、跡の島の岩根へ向けて、うつ也。

 陸にては、誠にすさまじき音にて、釜も、鍋も、ふるひ、さくるごとし。

 石火矢をうつ島の邊(あたり)の人は、兼てにげ避(さけ)て、其日は、島にゐぬやうにするなり。

 はじめ、「いわう島」ヘむかへに行(ゆき)て、「おらんだ舟」をみかけたるときは、其大成(おほいなる)事、ひとへに、山嶽のごとく、立(たち)むかひたるところ、何にたとへんものもなく、大造(たいさう)なる物なり。

 「おらんだ舟」のみよし[やぶちゃん注:舳先(へさき)。]に、大成(おほいなる)獅子の形したる頭(かしら)・面(おもて)も、わかち兼たる物、あり。そのまへを過(すぐ)る時は、蘭人、皆、再拜稽首(けいしゆ)[やぶちゃん注:うやうやしく礼をすること。]して過(すぎ)る。火急のやうありても、敢て、失禮すること、なし。是は和蘭國の始組成(なる)由、國王といへども、敬して怠惰する事なし、とぞ。

[やぶちゃん注:「大成獅子の形したる頭・面も、わかち兼たる物」ウィキの「オランダ王国」の国章の画像をリンクさせておく。そこでは、左右と中央に獅子三体が描かれてある。]

 「くるす」は、則(すなはち)、「くろん坊」と云(いふ)ものなり。輕捷成(なる)こと、鳥のごとく、數(す)十丈高き帆樓の上に、幾人も、坐して有(あり)。鳥のとまりて居(ゐ)るがごとく、下よりのぞめば、其形、わかちがたけれども、帆柱の繩を、のぼりくだりする事、猿のごとく、身のかろき事、いふばかりなし。

 帆は、大小いくらと云(いふ)數(かず)もしらずあれども、第一の大成(おほいなる)帆柱、舟のしき[やぶちゃん注:「敷」で「甲板・デッキ」の意であろう。]より、五十間[やぶちゃん注:約九十一メートル。]ほどあり。其綱のふとさ、二尺廻りよも有(あり)。その綱に、下より、上迄、木を「はしご」の如く付置(つけおき)て、「くるす」、それをふみて、おりのぼりするなり。數十丈の帆綱の上は、手をつけずして、はしり上り、何やらん、

「がやがや」

と、いへば、其詞(そのことば)につけて、「まだらす」、下にて、帆綱を、あやとり[やぶちゃん注:操って取り。]、帆柱を引(ひき)なをす。

 柱も、ふとく、綱も太ければ、皆、「くるゝ」[やぶちゃん注:「樞」。「くろろ」とも言う。ここは滑車システムを言っている。]にて取扱(とりあつかふ)なり。是を役するは「まだるす」なり。「まだるす」は、力、ありて、「くるる」の如きものを、自由にとりあつかへども、「くろす」の如く、身のかろき事は、あたはず。「くるす」は敏捷なれども、「まだるす」のごとく、ちからある事、なし。何(いづれ)も眉[やぶちゃん注:底本では、右に補正注があり、『(め)』とある。]じり、さけて、靑く、まぶち、うるしをさしたるごとく、總身(さうみ)の色は、薄墨のごとし。

 「おらんだ人」、一艘に、每年、百人餘(あまり)づつ乘來(のりきた)るなり。

 「おらんだ舟」のへりに、「たがやさん」にて、こしらへたる角物(かどもの)の木口(こぐち)、三尺四方ほどあるもの、數(す)十本、舟より四間ほどづつ、さし出(いで)て有(あり)。是は、いかりの綱を、是にかけて、あげさげする爲の木なり。外(ほか)の木にて造りては、碇(いかり)の綱に、すれあひて、火を出(いだ)し燒(やく)るなり。「たがやさん」ばかりは、火の出(いづ)る事なき故、是をもちゆる、と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「たがやさん」マメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサン Senna siamea のこと。東南アジア原産で、本邦では唐木の代表的な銘木として珍重された。材質が非常に硬く、耐久性があるが、加工は難。柾目として使用する際には独特の美しい木目が見られる。]

 「おらんだ舟」、大體、用らるゝ事、三百年ばかりなり。それを過(すぎ)ては朽(くち)て用にたゝず。舟壹艘を、こしらふる價(あたひ)を「おらんだ人」に問(とひ)しに、

「日本の金にて、八十萬兩ほどの費(つひへ)、かゝるもの。」

といへり、とぞ。

 又、舟底に風穴(かざあな)を付(つけ)て、舟中の荷物の、くされざるやうにせしなり。又、その風を拔(ぬく)穴もあり。穴の口、幾へにも、まがりまがり、風の出入(でいり)するやうに、こしらへたる物なり。

譚海 卷の八 酒井雅樂頭殿の馬の事

[やぶちゃん注:本書の執筆時から考えて、播磨姫路藩第三代藩主で雅楽頭系酒井家第一六代酒井忠道(ただひろ 安永六(一七七七)年~天保八(一八三七)年)か。本巻の書かれた最も新しい記事は、彼が家督を継いだ寛政二(一七九〇)年であるから(九月三日家督相続)、父の先代の酒井忠以(ただざね:当該ウィキをリンクさせておく)の可能性もあるか。]

 

○酒井雅樂頭(うたのかみ)殿に、尾の長き馬、有(あり)、ながさ、七間[やぶちゃん注:十二・七三メートル。]、有(あり)といふ。公儀にも、壹疋あれど、此尾のながさに、およばず。雅架頭殿、至(いたつ)て祕藏ありて、五、六日に一度づつ、尾を、あらひ、毛のかずを數(かぞ)へ置(おく)ほどの事なり。猥(みだり)に拔(ぬき)とる事を禁ぜらる。厩別當(うまやべつたう)、尾の毛、ぬくる事あれば、其度(そのたび)ごとに、申上候ほどの事なり。

 駿馬(しゆんめ)にて、上手の人、騎(のり)はしらしむるときは、飛(とぶ)がごとく、尾、地につかずして、はしる。馬場の隅に乘詰(のりつめ)、四角に馳(はせ)て、隅より、隅へ、乘𢌞(のりまわ)すとき、尾は、なほ、此かたのすみに、のこりて有(あり)、といふ。

 尋常にも、尾のながき馬はあるものなれども、五間[やぶちゃん注:九メートル九センチメートル。]までは見たる事なれども、七間といふにおよびたるは、いまだ、見ざる事、といへり。

譚海 卷の八 諸獸の論幷獵犬の事

○猪は、常にあるゝ物に、あらず、人を見れば、甚(はなはだ)、おそるるなり。

 能(よく)寢る[やぶちゃん注:底本は「寢能」であるが、国立国会図書館本を参考に訂した。]事をすといへども、只、一日、寢るなり。寢くたびれ、腹の枵(すき[やぶちゃん注:これは珍しい底本のルビ。この漢字は中国語で「空しい・空っぽである」の意がある。])たるときは、いつも、暮比(くれごろ)には起(おき)て、食をもとめ、あるくなり。米・麥の穗をはじめ、芋・大小豆(だいしやうのまめ)[やぶちゃん注:大豆(だいず)や小豆(あずき)。]、何にても、食(くは)ざる事、なし。

 鼻は、尺八の尻に、よく似て、穴、二つある計(ばかり)の違(ちがひ)なり。

 常は、柔(おだやか)なるものなれど、怒(いかる)ときは、石の如く、堅く成(なり)て、石をも掘返(ほりかへ)す勢ひなり。

[やぶちゃん注:「猪」本邦の本土(北海道を除く)産は哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ亜種ニホンイノシシ Sus scrofa leucomystax については、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 野豬(ゐのしし) (イノシシ)」を参照されたい。]

 猪の肝(きも)、下に「きせる筒(づつ)」のごときもの、有(あり)、是を「はちたち」と云(いふ)。

[やぶちゃん注:ネット上で生(なま))から、干し終わるまでの写真を見たが、「熊の胆」等と同型で、特に特殊な形はしていない。「はちたち」の名称由来も不詳。]

 此處(ここ)に、鐵炮玉、いあてらるれば、甚(はなはだ)、怒(いかり)を感じて、人をも、さけず、馳(はせ)あるくなり。

[やぶちゃん注:一撃に失敗した手負いのイノシシが非常に危険なことは、よく知られている。]

 其後(そののち)は、鐵炮玉、いくつ打(うた)れても、死ぬる事、なし。肝に打(うち)つけられねば、死(しぬ)事なく、野山を咆猛哮吼(はうまうかうく)して、あるくなり。

 猪の子は眞桑瓜(まくはうり)のごとく、黃色にて、靑き筋(すぢ)、有(あり)。むくめきて、はね、ありく。

 一度に、十二疋づつ、產すれども、多(おほく)は、ひきかへるに、なめらるれば、死(しぬ)ゆゑ、ふたつ、みつ、ならでは、生殘(いきのこる)事、なし。

 鹿の角も、ひきかへる、なむれば、消(きえ)うするなり。

 鹿は、春の末、多羅葉(たらえふ)のめ、出(いで)しを、くへば、そのまゝ、角を、おとすなり。それより、毛の色、うつくしく成(なり)て、星、あざやかに生ずるなり。

 「ふくろ角(づの)」と云(いふ)物、生(はえ)て、段々、秋の彼岸後(ご)、もとのごとくに長ずるなり。

[やぶちゃん注:「鹿」の種は本邦には複数いる。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 鹿(しか) (シカ・ニホンジカ他)」の私の注を参照されたい。

「多羅葉」ニシキギ目モチノキ科モチノキ属タラヨウ Ilex latifolia 当該ウィキによれば、『和名「タラヨウ」の由来は、先の尖ったもので葉の裏側に文字を書くと黒く跡が残る性質が、インドで仏教の経文を書くのに使われた貝葉の原料であるヤシ科のタラジュ(多羅樹』『 Corypha utan )と同様なので名付けられている』。『日本の本州静岡県以西、四国、九州と、朝鮮半島、中国に分布』し、『山地に生える』。『関東にも植樹されていることがある』。『常緑広葉樹の高木』で、『葉は肉厚で』二十『センチメートル』『ほどもある長楕円形をして』おり、『ツヤがあり、葉縁は細かい鋸歯がある』。鹿の角の脱落と若芽の摂取の関係性は信じられない。]

 毛の色も、秋の氣(き)に入(いる)時は、くもりて、星、うすく成(なる)なり。

 鹿の妻戀(つまごひ)は、秋の末なり。とつぐも、只、一度なり。ふたたびと、せず。

 鹿は、年々、子を壹疋ならでは、產せず。

 甲州の狩人(かりうど)、猪しゝを、壹疋、打(うて)ば、百姓より、褒美として、金百疋、貰(もらふ)なり。鹿は、二疋うちて、百疋、もらふなり。

 狩人、犬をかけて、猪をとるなり。犬、五疋も持(もち)たる狩人は、鐵炮に不ㇾ及(およばず)、犬、つひに、猪をくひころすなり。

 犬を、かくれば、犬、猪の子を、先(まづ)、驅出(かけだ)して、くらふ。

 母の猪、是を、うれへて、犬を追(おひ)かくる時、狩人、てつぽうにて、うつ事なり。

 甲州に、熊は、稀なり。

 柴熊(しばくま)といふものは、多(おほく)あり。是は月の輪は、なし。力も、熊よりは劣(おとり)たり。樹に、のぼりえず。出る時は、五、六疋も、つらなりて、あるくなり。

[やぶちゃん注:「柴熊」本邦の北海道を除く本州・四国(九州は絶滅)に唯一棲息するクマ、食肉目クマ科クマ属ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus には、胸部に三日月形やアルファベットのV字状の白い斑紋が入るのが和名の由来だが、実際には、そのマークが全く無い個体も、結構、いる。「五、六疋も、つらなりて、あるく」のは、間違いなく、ニホンツキノワグマの子どもだからに過ぎない。]

 常の熊は、よく、樹にのぼる事を、す。むじなも、樹にのぼる事を、す。狐も、おなじ。

[やぶちゃん注:「むじな」は「狐」と併置しており、「樹にのぼる」とあるので、百%、本州・四国・九州に棲息している固有亜種である食肉目イヌ科タヌキ属 タヌキ亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus である(後も同じ)。「むじな」は本邦固有種の肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakumaを指す場合もあるが、ニホンアナグマは木登りは出来ない。なお、ハクビシン説は私は認めない。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」の私の注を見られたい。

 猿は、樹にのぼりては、あなたこなたの枝へ、飛(とび)うつる事、五、六間[やぶちゃん注:九・〇九~十・九〇メートル。]を、へだつるを、たやすく、とぶなり。

 猿の子は、鼠の大(おほき)さのごとし。母、猿の尾の上に、

「しか」

と取付(とりつき)て、母猿、いかやうに飛(とび)かけりても、おつる事、なし。平(たひら)なる枝に、母猿、坐して、手をまはして、尾のうへの子を、とり、乳をのましめ、掌(てのひら)にすゑて愛する事、人間の體(てい)に、かはらず。

 子猿、よほど大(おほき)く成(なり)ては、樹をとびあるきて、木(こ)のみを口中に、したゝか含(ふくみ)て、あぎと[やぶちゃん注:「顎」だが、ここは「頰」のこと。]の、ふくれるほどになる時、母猿、やがて立寄(たちより)て、口の中なる木(こ)の實(み)を引(ひつ)たくりて、をのれ、くらふ。子猿、鳴(なき)さけべど、引(ひつ)ふせて、うごかさず。愛憐の情も、食物(くひもの)にわするゝは、畜生のこゝろなり。

 猿、はらみて居(を)れば、狩人をみれば、腹を、ゆびさして、はらみたる事を示す。それを「ばうたず」と云(いふ)。

[やぶちゃん注:この話、怪奇談や随筆で、非常によく、見受ける話であるが、無論、真実ではない。私のものでは、「大和怪異記 卷之七 第十六 猿をころすむくゐの事」を見られたい。]

 老(おい)たる猿は、大かた、二疋、枝上(えだうへ)に並坐(ならびざ)して、ひとつの猿、かたはらの猿の背を、うてば、うたれて、やがて、そのさるの膝を枕にして、よりふすとき、蝨(しらみ)をとりてやるを、とりては、口に入(いれ)、とりては口に入して、頭(かしら)より、手足にいたる迄、とり盡して、引(ひき)おこせば、又、かはりて、しらみを、とりてやる。たがひに、かくのごとくする事、をかしき體(てい)なり。

「しらみをとる手の、はやき事、いはんかたなく、おもしろき事。」

と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「猿」は日本固有種である哺乳綱霊長目直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル上科オナガザル科オナガザル亜科マカク属ニホンザル Macaca fuscata 。私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の冒頭の「さる ましら 獼猴」を見られたい。昨年、全面リニューアルした。

 最後に出る「グルーミング」(grooming)は、シラミ取り以外にも、毛繕いでもあり、ニホンザルの場合は、集団内での序列形成と密接な関係がある、社会的意義が含まれてもいる。]

 山には、狼の外に、「山いぬ」と云(いふ)有(あり)。狼は、瘦(やせ)て、腹、ほそく、手足、ほそく、「山いぬ」は、ふとりて、手足、細し。狩人、あやまりて、「山いぬ」を壹疋、うちとむとき、夜々(よよ)、數百(すひやく)の「山いぬ」、あれ、怒りて、往來(わうらい)成(なり)がたき事に到(いた)るなり。但(ただし)、ふじの根がたの村にのみ、つねに、山犬を、うちころす事とす。

[やぶちゃん注:「狼」我々が滅ぼしてしまった哺乳綱食肉目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax(北海道と樺太を除く日本列島に棲息していた)。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ) (ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」を参照されたい。

「やま犬」は野犬のこと。私は「ノイヌ」と和名擬きにカタカナ書きにするのを、甚だ嫌悪する人種である。]

 「むじな」は、ともすれば、「小豆(あづき)あらひ」・「絲(いと)くり」などする事、有(あり)。「小豆あらひ」は溪谷の間(かん)にて、音、するなり。「絲くり」は樹の「うつぼ」の中にて音すれど、聞(きく)人、十町[やぶちゃん注:一・〇九キロメートル。]、廿町、行(ゆき)ても、其音、耳をはなれず、おなじ事に聞ゆるなり。

[やぶちゃん注:私はここで「むじな」=ホンドタヌキの妖異に出くわそうとは思わなかった。しかし、民俗社会的には納得出来る記載ではある。「小豆あらひ」・「絲くり」は私の『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 小豆洗ひ』を参照されたい。個人的には、前者は渓間や小川の見た目には見えない流水が引き起こす物理現象と見るし、後者は昆虫綱鞘翅目多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae のシバンムシ(死番虫)類が、木や家屋の材木を蚕食する際の音と考えている。]

 狩人の犬は、つねは、繩、付(つけ)て、山へ牽行(ひきゆき)て、獸(けもの)をみれば、繩を解(とき)て、心のまゝに、放(はなし)、かくるなり。よるに入(いる)ときは、其まゝに、狩人は、かへれども、犬を、跡にとめて、かならず、かへりくるなり。又、竹を切(きり)て笛となし、ふくときは、一里、二里、遠近(をちこち)に放(はなち)たる犬も、皆、聞付(ききつけ)て、そこに歸りよらざる事、なし。

 山犬をとるには、石の室(むろ)をこしらへ、その内にかくれ居《ゐ》て、犬の長鳴(ながなき)するこゑをして、地にふして、長く、嗚(なき)まねをすれば、山に其聲、ひゞきて、山いぬ、出(いで)くるなり。室のまへに、獸の肉を蒔置(まきおい)て、山犬、それをくらふを、室のうちより、てつぽうにて、打(うち)とむるなり。

 又、狩人のうちたるけものは、鹿・猪のたぐひにても、山にすて置(おく)に、山いぬ・狼など、鐵抱のあとのあるをば、くらふ事、なし。狩人、その皮を、はぎとりたるをみて、其の後(のち)、その肉を喰(くら)ふなり。是は、狩人のものをくへば、おのれ、うたれん事、恐(おそろしく)て、くはぬなり。

 猪は、田に入(いり)て、深く、泥を、うがちほりて、それを身にまとひ出(いで)て、松の樹によりて、泥のうへに、松やにを、すりつくるゆゑ、うるしにて、かためたるやうに、毛、とぢあひて、大ていの鐵炮の玉は、とほりがたきやうに成(なる)事なり。

[やぶちゃん注:この行動は、]

 兎は、子を、うみすつるゆゑ、時々、山に有(ある)を、とらふるなり。前脚(まへあし)、みじかきゆゑ、くだり坂には、よく、とらへらるゝなり。

[やぶちゃん注:先の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 野豬(ゐのしし) (イノシシ)」の私の注で引いたイノシシの泥浴を行う「沼田場(ヌタバ)」のことである。毛を固めるための行動というよりは(それもあるが)、第一義的には夏場の暑気時に体を冷やすこと、また、ノミ等の寄生虫を除くための行動である。]

譚海 卷の八 甲州除夜に菓をもよほす法幷まゆ玉の事

[やぶちゃん注:「菓」は「このみ」。「もよほす」は本文に従うなら、実のなる有用樹木に対し、脅迫を言上げし、木の精(せい)役を演じる者がいて、それに詫び言を言ったりするという芝居のようなことをすること(芝居を「催す」)を指している。「幷」は「ならびに」。

 なお、この前話「同國定元村萬立寺住持旦那を取殺したる事」は既にフライング公開してある。]

 

○甲州にては、除夜に、栗・梨等の樹(き)の木(き)もとに行(ゆき)て、實(み)のよく成(なる)ために、樹を責(せめ)て、

「ならずば、切らん。」

と云(いふ)。その時、傍(かたはら)に詫(わびる)人、又、有(あり)て、

「いかにも能(よく)なるべきまゝ、必(かならず)、切るを、ゆるし、たべ。」

と、わぶる。

 よくよく、わびさせて、怠狀(たいじやう)、乞(こひ)て、されば、其樹、年なりせず[やぶちゃん注:ママ。国立国会図書館本では『年きりせず』で、その「年」(とし)(は)伐(き)「り」(は)「せず」で意味は通る。]、每年、能(よく)みのるなり。

 又、正月十四日には、座敷の眞中に、立舂(たてうす[やぶちゃん注:このうち、「うす」は珍しい底本にあるルビである。])ほどなる切かぶをすゑて、それに大成(だいなる)木のえだをたてて、だんご、あまた、枝につけて、「まゆ玉」とて、いはふ。

 是、「かひこ」の能(よく)出來(いできた)る「まじなひ」なり。

[やぶちゃん注:「怠狀」古代から中世にかけて、罪や過失を犯した者が、それを認めて差し出す謝罪状。「おこたりぶみ」とも言う。

「まゆ玉」「繭玉」。正月の飾り物の一つ。桑や赤芽柏(あかめがしわ)の枝に、繭のように丸めた餠や団子を数多く附け、小正月に飾るもの。本来は、ここに出る通り、その年の繭の収穫の多いことを祈って行なったものである。後には、葉のない柳や笹竹などの枝に、餠や菓子の玉を附けたり、七宝・宝船・千両箱・鯛・大福帳などを象った縁起物の飾りを釣るしたりしたもの。現在は、神社などで売っているそれを買って、神棚や部屋・鴨居等に飾る。「なりわい木」「まゆだんご」とも呼ぶ。私が小学生だった一九六〇年代前半の家の近くの藤沢の渡内の野良を正月に歩くと、小さな祠(ほこら)の扉に、挿し掛けてあったものだ。そんな光景も総て幻影となってしまった。]

譚海 卷の八 上總國おふの明神・みたらし逆手地藏・水とおしの事

[やぶちゃん注:「とおし」はママ。「逆手地藏」は「さかてぢざう」と読んでおく。]

 

○上總國大田郡くらなみ村の海邊(うみべ)より、一里半程、沖に、海中より、淸水(しみづ)の湧(わく)所、有(あり)。夥敷(おぼただしく)、わく事にて、其所(そこ)へ、井戶がはを、仕(し)かけ、ひでりの時は、村より水を汲(くみ)に行(ゆき)、又、渡海の船も水をくむ事とするなり。夫故(それゆゑ)、井戶がは、壹年に二度程づつも、造りかふる事、とぞ。

「是は、其所に『生(おふ)の明神』とて、まします御手洗(みたらひ)なり。」

と云(いへ)り。

 「おふの明神」は、其所より壹里斗(ばかり)他所(よそ)に宮居(みやゐ)有(あり)。

 又、同國、「くるり」と云(いふ)所に、「逆手地藏」と云(いふ)宮居、有(あり)。錫杖を、さかしまに持(もち)給ふゆゑに、かく、云(いふ)なり。

 其所(そこ)に、高からぬ山(やま)、有(あり)。

「金輪よりの岩山(いわやま)なり。」

とぞ。

 其邊(そのあたり)、田地に水を引(ひく)事、不自由なる故、いつの頃より、其岩山を切(きり)とほして、向ふのかたへ、行(ゆき)とをし[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]のなるやうに掘明(ほりあけ)て、底へも又、深さ八町[やぶちゃん注:八百七十三メートル。]ほど、掘入(ほりいれ)たれば、其(その)切(きり)とをしの所、川の如く成(なり)て、治水(ちすい)、ながれ出(いで)て、田地の便(たより)と成(なり)、段々、山へも、田を造りひらきて、山の田へ水をかくる時は、兩方の口をふさぎておけば、山の上へ、穴をほり明(あけ)たる所へ、水、湧出(わきい)で、ながれわたり、山の田にも、水をひく事、自由なるやうに成(なり)たり。

 不思議の工風(くふう)なり。

「其掘明たる穴を、外よりのぞき見れば、わづかに、日のあかり、むかう[やぶちゃん注:ママ。]に見えて、川とも、何とも、見えわかず。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:最後の水路の話は、言っていることが、どうもうまく想起出来ない。掘った深さも異常な深さだ。ワケ判らん。

「上總國大田郡くらなみ村」上古の昔も、近世・近現代も、房総半島内には「大田郡」という郡は、ない。これは、現在の千葉県袖ケ浦市蔵波(くらなみ:グーグル・マップ・データ)である。この「大田郡」は近代まで、この附近の広域郡名であった「望陀郡」(もうだのこおり/ぐん:現代仮名遣)の誤りである。ウィキの「望陀郡」によれば、『古代には』「馬來田國」『と呼ばれ』、『近世までは』「まくだのこほり」『とも呼ばれた』ともあった。「千葉県袖ケ浦市」公式サイト「そでなみ」内の「袖ケ浦市水紀行」によれば、この袖ケ浦市内の『北部、東部は丘陵地帯で、丘陵地の際では湧水の多いところで』あるとあり、さらにそこには、「蔵波川岸公園の自噴井戸」の項があり、その下に蔵波川岸公園の近くにある「ちば里山センター御手洗井」(「みたらしのい」と読む)があり、そこには、『京葉化学コンビナート建設の為に東京湾を埋め立てる前には、この御手洗井より東』百六十メートル『ところに、浜にこんこんと湧き出る不思議な井戸があり、塩気はなく、旅人の喉の渇きを潤したとのこと』とあった。まさしく嘗つて干潟があった頃には、「沖」に清水の湧き出る箇所が、実際あったのである。さらに、延宝二(一六七四)年に、『黄門様(天下の副将軍水戸光圀公)が、房総から鎌倉へ赴く途中に、奈良輪村を出ると、沖の中の湧き出る清水で渇を癒したと』いう『史実』もある、とあるのである。「今昔マップ」の戦前の地図の方を御覧あれ! まさに『波藏』の川の沖に向かって川水が作った「へこみ」が視認出来る。その海底の底には、恐らく淡水の伏流水が流れているのだ。因みに、光圀のこの旅行だけが、彼が水戸を有意に離れて行った唯一の旅である(後は箱根の湯治ぐらいなもので、殆んど水戸を長期には出ていない)。「水戸黄門」のドラマは完璧に創作された虚構であることは、御存知でしょうな? その折りの彼の鎌倉での日記(後に編纂させた「新編鎌倉志」(私のサイトのこちらで全巻電子化注済み)の原型)である「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」は私の同ブログ・カテゴリで全篇を電子化注してある。言っとくと、彼は大の仏教嫌いで、金沢八景では、路傍の地蔵を荒縄で縛りつけさせ、引きずって、海に投げ棄てているのだ! とんでもない厭な奴なんだ!!!

「生の明神」不詳。蔵波川岸公園の対岸にある縁起不詳の蔵波八幡神社は、或いは、関係があるかも知れない。

『「おふの明神」は、其所より壹里斗他所に宮居有』距離と神社名の漢字を見るに、まず、千葉県袖ケ浦市飯富(いいとみ)東馬場にある飯富神社がそれらしく思われてならない。この「飯富」の「富」の音と通底するからである。当該ウィキによれば、『千年以上前から存在した古社で』、『旧称を飫富神社といい、君津地方では唯一の式内社で、歴史的価値の高いものである』。『創建は、社伝によると』、第二『代綏靖』(すいぜい)『天皇元年で、天皇の兄の神八井耳命が創建したと伝えている。主祭神はウカノミタマノミコト、すなわち農業神である』とある。この旧称の「飫富」は「おぶ」と読め、「おふ」と見事に音通する! なお、今一つ、千葉県袖ケ浦市蔵波の子者清水(こはしみず)神社も、その「清水」から、候補になろう。距離もよく合う。

「くるり」千葉県君津市久留里であろう。かなりの内陸の山間部である。

「逆手地藏」不詳。見当たらない。残っていれば、錫杖が逆さなのだから、ネットでかかるはずだから、現存しないのかも知れない。

「其所に、高からぬ山、有」地蔵が判らないし、久留里自体が山だらけで、不詳。

「金輪」不詳。地名も山名も房総半島にはない。]

譚海 卷の八 江戶深川船頭兄を善心にみちびきし事

○深川に船頭を業(なりはひ)とするもの有(あり)。

 其子供の兄、放蕩ものにて、勘當して、弟に家をゆづりて居(をり)けるに、其兄、折々、親の所へ來(きた)り、無心、いひつのりて、惡口(あくこう)に及(およぶ)事、數度(すど)なりしかば、其弟、思ひ兼て、ある時、又、兄、來(きた)るを、うかがひ、戶をあくると、そのまゝ、刀にて、兄を切懸(きりかけ)たるに、手疵(てきず)負(おひ)て、驚き、にげさりたり。

 其時、此弟、

「仕合(しあはせ)と、兄を切(きり)そこないたる、冥加(めうが)に叶(かなひ)たり。我、しかしながら、弟の身として、かりそめにも兄に手向(てむか)ふ事、是非なき次第なれば、かくせしかども、生(いき)てあるべき道に、あらず。」

とて、卽時に、腹を切(きり)て死(しに)うせたり。

[やぶちゃん注:「冥加に叶たり」神仏の御加護のお蔭で、私が、人道を外れずに済んだ。]

 それを、かの兄、聞(きき)つけて、立歸(たちかへ)り、弟の死骸をみて、抱付(だきつき)、

「扨々(さてさて)、不便(ふびん)成(なる)事、是非なき次第、是、全く、我(わが)身持惡敷(みもちあしき)故(ゆゑ)、かやうに死(しし)たる事、我(わが)手をおろして、其方(そのはう)を殺(ころし)たる同然の事なり。しかしながら、云(いひ)てかへらぬ事なれば、是より、われら、急度(きつと)、心をあらため、善人に成(なり)て、其方に成(なり)かはり、親達を養育申(まふす)ベし。せめては、是を、わが志(こころざし)と聞屆(ききとどけ)て、成佛してくれよ。」

と愁歎の淚、せきあヘず。

 夫(それ)よりして、此放蕩なる兄、善心(ぜんしん)になりて、よく商買の事に身を入(いれ)、兩親につかへ、孝行にありける。

「あはれ成(なる)事。」

と、人の、かたりし。

譚海 卷の八 甲州山梨郡に鶉なかざる事

[やぶちゃん注:標題の「山梨郡」は「やまなしのこほり」と読んでおく。「鶉」は「うづら」。]

 

○甲州は四郡なり。府中は山梨郡なり。

「同所の鶉は、往昔(わうじやく)、武田信玄、壓(あつ)せられしより、鳴(なく)事、なし。」

とぞ。

「山梨郡を、さかひて[やぶちゃん注:境として。]、道一筋を、へだつれば、他郡(たのこほり)の鶉は、音(こゑ)を唱(なく)事。」

といへり。

[やぶちゃん注:「唱(なく)」は珍しい本底本のルビである。国立国会図書館本にもある。鶉(キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica )の博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を見られたい。無論、ウズラが特定棲息域で鳴かないという事実は、ない。]

譚海 卷の八 丹後にくらがり峠道をひらき幷大江山の事

[やぶちゃん注:標題の「幷」は「ならびに」と読む。]

 

○丹後「天の橋立」より、大坂へ三十里といへども、其一里、五十町、三、四十町成(なる)ありて、遠近、たしかに定(さだめ)がたし。

[やぶちゃん注:江戸時代、一里は三十六町、一応は現在の三・九二七キロメートルとされたが、地方によって、古くからあった一里をわずか六町(六百五十四・五四メートル)とする「小道(こみち)」(主に東国で使われたことから「坂東道」(ばんどうどう)・「東道」(あずまみち)・「田舎道」(いなかみち)等とも称した)が、同じ地方であっても、階級や元の出身地により、分別されることなく、先の「大道」(おおみち:こちらは「西国道」「上道」(かみみち)等とも称した)混用されたのである(その他にも一単位が短い別な「小道」型もものが複数あったらしい)。例えば、江戸の武士であっても(開府の翌年、慶長九(一六〇四)年、徳川家康が、子の秀忠に命じて全国に「一里塚」を敷設させている)、代々の先祖が、土着の武蔵及び周縁地の出身であった場合、好んで「坂東道」を使った例を、私は、資料や随筆で、よく見かける。ただ、ここの「三十里」(約百十八キロメートル弱)は現在の一里換算で何らおかしくはない。最短コースで「天の橋立」から「大坂」までを試しにトレースすると、確実に百二十キロメートルはあるからである。]

 三十里、皆、山路にて、其中に「くらがり峠」と云(いふ)所、大江山の東にあり。至(いたつ)て難所、「一騎うち」の道にして、壹年には、二、三人づつ、谷へ落(おち)て、死(しな)ざる事なき、山間の往來なり。

[やぶちゃん注:「くらがり峠」恐らく例の津村の聴き違いである。京阪で知られた「暗峠・闇峠」(くらがりとうげ)は大坂の東方、奈良県生駒市西畑町と大阪府東大阪市東豊浦町との境(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であり、話が合わない。「大江山の東にあり」とあるので、大江山の東にある普甲峠(ふこうとうげ)のことであろう。

「一騎うち」乗馬している場合は、一騎のみしか通れない狭隘険阻な山道であることを言う。]

 あるとし、京師の者某、志(こころざし)をおこして、此道を切開(きりひら)き、今は、道はゞ、三、四尺ほどに成(なり)て、往來のあやまちなく、貳百五十金ほど費(つひへ)たり、とぞ。

 大江山の頂(いただき)に「鬼が城」有(あり)。麓より五十町、有(あり)、荊辣(いばら)、道をふさぎて、甚(はなはだ)、行(ゆき)がたし。案内の者を賴(たのむ)といへども、大かたは、いなみて、行(ゆく)者、稀なり。其所には、石門(いしもん)の側(かたはら)に大成(おほきなる)穴、有(ある)のみなり。

[やぶちゃん注:「鬼が城」「石門の側に大成穴、有」これは現在の「鬼の岩屋」である。サイド・パネルの写真のここがそれ。そこにある解説版をみられたい。三つの伝説が記されてある。宮津市公式サイト内の「鬼が残した数多の痕跡!? 須津にひっそりと残る「鬼の岩屋」も画像と解説があってよい。内部には「千畳敷」などがあるが、自然洞窟と思われる。]

譚海 卷の八 薩州ゑのころ飯の事

○薩摩にては、狗(いぬ)の子を、とりえて、腹を剖(さき)、臓腑をとり出(いだ)し、其跡を、よくよく、水にて、あらひすまして後(のち)、米を、かしぎて、腹内(はらうち)へ納(いれ)、針金にて、堅(かたく)くゝり封じて、其儘、竃(かまど)の焚火(たくひ)に押入(おしいれ)、燒(やく)なり。

 始(はじめ)は燒兼(やけかぬ)るやうなれども、しばらくあれば、狗の膏(あぶら)、火に和(わ)して、よく焚(やけ)て眞黑になる。其時、引出(ひきだ)し、針金を、とき、腹を、ひらき見れば、納置(をさめおき)たる米、よく蒸(むれ)て飯(めし)と成(なる)。其色、黃赤(きあか)なり。

 それを、そば切料理にて、汁をかけて、食す。

 味、甚(はなはだ)、美なり、とぞ。

 是を、方言には「ゑのころ飯」といふ、よし。

 高貴の人、食するのみならず、さつま侯へも進む。但(ただし)、侯の食に充(あつ)るは、赤犬ばかりを用(もちひ)る事と、いへり。

[やぶちゃん注:ウィキの「犬食文化」を参照されたいが、「日本」項は、時代別に考証されて詳しく、この話と同じ内容で、『薩摩にはエノコロメシ(犬ころ飯)という犬の腹を割いて米を入れ蒸し焼きにする料理法が伝わっていた』とある。但し、そのソースは大田南畝の随筆「一話一言補遺」中の「薩摩にて狗を食する事」である。そこにも原文が示されているが(漢字が新字体)、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(『蜀山人全集』卷五(明治四一(一九〇八)年吉川弘文館刊))で、当該部を視認も出来るが、実は、その南畝の文章は、一字一句、本文と全く同じなのである。二人は同時代人だが、津村の方が十三年上であり、「譚海」が書かれたのは、寛政七(一七九五)年で、「一話一言補遺」は文化年間(一八〇四年~一八一八年)の記事まで記載されていることから、この南畝のものは、私は、この「譚海」からそのまま抽出したものと断定出来る。

 因みに、私は犬を食べたことは、ない。が、私の連れ合いは、南京大学で日本語教師をした際、女性の学生たちを招いてパーティを開いた折り、中国東北部出身の学生が、この時のために送ってきた赤犬の肉を料理してくれ、食べている。連れ合いは食には五月蠅く、どちらかと言えば、潔癖な方だが、特異的に、はっきりと「とても美味しかった!」と後に語っている。

「そば切料理」蕎麦料理膳の宛ての一品とするの意味か。或いは、鹿児島の霧島地方には「そばずい」という太い蕎麦に、野菜や鶏を油で炒めてから煮込んだ粘度の高い汁を入れた郷土料理があるので、「汁をかけて、食す」というのと、よく合う。]

譚海 卷の八 信州山中猪を狩事

[やぶちゃん注:標題は「しんしう、さんちゆう、ゐのししを、かること」と読んでおく。なお、この前話「加州の樵者鎗術をあざける事」は既にフライング公開している。]

 

○信濃山中の民は、猪(ゐのしし)を突(つく)事、妙手をえしなり。

「猪を鐵炮にて打てば、肉の味(あじは)ひ、臭(くさ)し。」

とて、竹鎗(たけやり)にて、突(つき)とむる事を、す。

 常のきせい[やぶちゃん注:底本では「せ」の右に編者の補正注で『(を)』とあるが、「きをい」では歴史的仮名遣としておかしい。「競・勢」なら「きほひ」、「気負」なら「きおひ」である。意味は孰れでも「意気込み」である。しかし、このままでも、いいのではなかろうか? 「氣勢」である。]にては、手柄成(なり)がたき故に、から鐵炮など打(うち)て、猪をおどろかし、わざと、猪を、いからする樣にして突(つき)とむるなり。

 猪、怒(いかり)て、馳來(はせきた)る道に、五、六人、鎗を構(かまへ)て待居(まちをり)て、初手より、次第に突(つき)とむる。

 もし、突(つき)そこなふ時は、いかり、猪に、かけらるゝゆゑ、突(つき)そこなふと、其儘、鎗を地に立てて杖となして、それにすがりて、そのまゝ、猪の尻へ、とびて、かへりざまに、猪の尻を、つく。

 次第に並居(なみをり)たるもの、皆々、此定(このさだめ)にして、突とむる事とす。

「さしも、猛(まう)なる猪の馳懸(はせかく)る振𢌞(ふるまひ)にあはせて、飛(とび)ちがひ、はたらく事、物馴(ものなれ)たるわざ、言語同斷成(なる)事なり。」

と、かたりぬ。

[やぶちゃん注:「言語同斷」ここでの用法は否定批判的用法ではなく、ポジティヴな「あまり強烈で、言葉ではそれが言い表わせないほどであること」の意。また、直接話法の末尾であるかた、特殊な感動詞的用法で、「並外れた物事に接して驚いた!」という気持ちを表わしているともとれる。]

2024/02/17

譚海 卷の八 琉球國禪宗のみある事

○琉球國は佛者[やぶちゃん注:「者」には底本には編者の訂正傍注があり、『(法)』]、皆、禪宗のみ、有(あり)。

 その内に妙心寺派の寺、一ケ所、有。

 此住持にあたる僧の官職を取(とる)例(れい)は、薩摩へ、其僧、わたり居(をり)て、願へば、薩摩より京都へ使者を立(たて)て、妙心寺にて、許可の狀(じやう)をもらひ歸りて、僧に渡し、琉球ヘかへりて住持する事なり。

 さつまにも、妙心寺派の寺、一ケ所、有。是も同例にて、二ケ寺ともに薩摩の僧斗(ばかり)を住持さするなり。

 一年(ひととせ)、琉球所住の僧、住持に定(さだめ)られ、官職を願(ねがひ)に、さつまへ、わたり居たりしが、彼(かの)僧、おもふやう、

「宗派を汲(くみ)ながら、京都開山の塔へ拜禮せざる事、殘念成(なる)事。」

とて、さつまを出奔して上京し、妙心寺に詣(まふで)て直(ぢき)に許可を得、歸路に、駿河、白隱和尙の會下(ゑか)にとゞまり、敎(をしへ)をうくる事、三年にして、見𢌞(みまわり)[やぶちゃん注:行脚。]の後、歸國のこゝろざしありて、暇乞(いとまごひ)せしかば、白隱和尙より、國法[やぶちゃん注:薩摩のそれ。]を背(そむき)たる詫言(わびごと)の使者を添(そへ)、此僧を送られける。

 歸國の上、事むづかしくありしか共(ども)、畢竟求法(ぐほふ)のための事故(ゆゑ)、やうやう、聞濟(ききずみ)[やぶちゃん注:承諾。]ありて、此僧、さつまに、一ケ年、蟄居せさせ、其後(そののち)、ゆるされて、琉球へわたり、住持せし、とぞ。

 是迄は、琉球には禪宗ありといへども、祖師の心傳(しんでん)を會(くわい)したるものはなかりしが、此僧、禪宗の奧旨(あうし)[やぶちゃん注:「奥義」に同じ。]をつたへ、化益(けやく)[やぶちゃん注:教化(きょうけ)して善に導き、利益(りやく)を与えること。]せしより、琉球には、悟道の僧も、あまた、出來(いでき)たる事と、いへり。

[やぶちゃん注:「妙心寺派の寺、一ケ所、有」沖縄県那覇市首里当蔵町(首里城北面)に嘗つて存在した臨済宗妙心寺派天徳山円覚寺(えんかくじ、琉球語:「うふてぃら」)。当該ウィキによれば、『本尊は釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の釈迦三尊』で、『琉球王国における臨済宗の総本山であり、第二尚氏の香華院(菩提寺)とされた』。本邦の元号の弘治五(一四九二)年、『尚真王が父尚円王の追福のため建立し、弘治』七『年』に、『京都の臨済宗僧芥隠禅師(かいんぜんじ)が開山した』。『鎌倉』の『円覚寺にならって禅宗七堂伽藍を備え、戦前には総門、三門、仏殿など』九『件が旧国宝に指定されていたが、沖縄戦ですべて失われた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「白隱和尙」臨済宗中興の祖と称される知られた名僧白隠慧鶴(えかく 貞享二(一六八六)年~明和五(一七六九)年)。当該ウィキによれば、『駿河の原宿で生』まれで(ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)、『幼名』は『岩次郎』。数え十五歳の元禄一三(一七〇〇)年に『地元の』臨済宗『松蔭寺』(ここ)『の単嶺祖伝のもとで出家』し、『沼津の大聖寺』(ここ)の『息道に師事』した。元禄一六(一七〇三)年には『清水の禅叢寺』(ここ)『の僧堂に掛錫するが、禅に失望し』、『詩文に耽る。雲棲祩宏の』「禪關策進」に『よって修行に開眼』し、『諸国を』行脚をし、『美濃』『の瑞雲寺』(ここ)『で修行』した。宝永五(一七〇八)年になって、『越後(新潟県)高田の英巌寺』(廃寺となり、現存しない)『性徹のもとで「趙州無字」の公案によって開悟。その後、信州(長野県)飯山の道鏡慧端(正受老人)のもとで大悟、嗣法となる』。宝永七(一七一〇)年、『京都の北白川で白幽子という仙人に「軟酥の法」を学び、禅病』(禅僧に発症する精神疾患。鬱病・ノイローゼ等)『が完治する』。正徳六・享保元(一七一六)年に『諸方の遊歴より、松蔭寺に帰郷』した(数え三十一歳)。宝暦一三(一七六三)年には『三島』『の龍澤寺を中興』、『開山』を務めた。示寂(享年八十四)は馴染みの松蔭寺で迎えている。従って、この琉球僧が彼の下で修行したのは、正徳六・享保元(一七一六)年から示寂する明和五年十二月十一日(一七六九年一月十八日)までの閉区間内の五十三年間の三年間ということになる。]

譚海 卷の八 同國南海の地一村日蓮宗の事

[やぶちゃん注:この前の話「上總國大久保に樹の化物出る事」は既にフライング公開している。而して標題・本文の冒頭の「同國」は「上總國」を指す。]

 

○同國、南方瀕海(ひんかい)の一村は、殘らず、日蓮宗にて、他の宗旨、なし。爰(ここ)を六十六部の修行者とほりても、その道を其まゝ掃除して、忌嫌ふほどの事なり。

[やぶちゃん注:村名を出していないが、これは、恐らく旧小湊村、現在の千葉県鴨川市内浦(グーグル・マップ・データ)、それに接する日蓮が生まれた地の近くに後に創建された誕生寺がある千葉県鴨川市小湊等の旧近村ではないかと思われる。日蓮宗は「立正安國論」で知られる通り、あらゆる他宗を排撃した。中でも日蓮宗徒以外を徹底的に拒否した「不受不施派」は江戸時代も禁教扱いであった。但し、日蓮の認識から考えれば、「不受不施派」は日蓮宗の中で最も正統にしてファンダメンタルな一派であると私は論理的には考えている(なお、私は無神論者であるが、聖書も「立正安國論」も読んだ。因みに、禅の思想と、人としての親鸞を高く評価はしている)。而して、江戸時代の「不受不施派」の正統派は、日蓮所縁の房総半島、「上總國」「安房國」等に多く潜伏していたからである。]

譚海 卷の八 同國猿橋幷鮎一步金等の事

[やぶちゃん注:「同國」は前話「甲州にてからいもの毒にあたり死たる事」を受けたもの。「幷」は「ならびに」。]

 

○江戶より甲州郡内へ廿八里、郡内より甲府へ十二里なり。郡内の町を出(いで)はなるれば、猿橋あり。橋くひをもちひず、左右の岸より持出(もちいだ)して造(つくり)て、橋より、水際までは、三十三尋(ひろ)あり。橋の長さは八十間餘(あまり)と云(いふ)。

 橋をわたりて、甲府へ行(ゆく)かたの橋ぎはに、「猿のやしろ」、有(あり)。此橋を敎(をしへ)て、かけはじめたる猿を祀(まつり)たるゆゑに、里民、甚(はなはだ)、崇敬して「おさる殿」と稱するよし。

「此川の邊(あたり)をはじめ、甲州はすべて、鮎(あゆ)、名所なり。二月より、產す。二月は、鮎の大(おほき)さ二寸有(あり)、三月は、三寸有、八月比(ごろ)は壹尺四、五寸に生長す。至(いたつ)て美味なり。鮎の骨を拔(ぬき)て、くはるゝ事なり。」

と、いへり。

 亦、武田家の時、製(せい)ありし金(かね)、今猶、殘りて、甲州の内にては、今時(こんじ)も、文金・古金に交(まじり)て通用する事、とぞ。壹朱金・二朱金・壹步金と三品(さんぴん)なり。壹朱といふは二朱の半金にあたるものなり。三品とも、金(きん)にて鑄(いり)たるものなり。世に「甲州金」と稱するもの、是なり。今時は、此金、甲州にも不足に成(なり)て、百兩の内、二步ばかり、甲州金を交(まぜ)遣ひて、八分は文金、或は、二朱銀を用(もちひ)る事に成(なり)たる、とぞ。

[やぶちゃん注:「猿橋」現在の山梨県大月市猿橋町猿橋にある桂川に架かる刎橋(はねばし:岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込んで中空に突き出させ、その上に同様の刎ね木をさらに突き出させて下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出し、これを何本も重ねて中空に向けて遠く刎ねださせ、これを足場として上部構造を組み上げて板を敷いて橋とした架橋をいう。橋脚を立てずに架橋することが可能となる。現在、木造で現存するのはこの山梨県大月市の猿橋のみ。ここはウィキの「刎橋」に拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「猿橋」も参照されたい。

「猿のやしろ」現在の桂川(現在は人造湖である相模湖に流入する)右岸猿橋のたもとに建つ「山王宮」(さんのうぐう)。]

譚海 卷の八 甲州にてからいもの毒にあたり死たる事

[やぶちゃん注:「からいも」はママ。「唐芋」はサツマイモの別名である。なお、前話の「譚海 卷の八 枇杷葉湯に昆布毒の事」は「食い合わせ」の禁忌で、連続する。]

 

○甲州にも「かゞいも」あり。御代官中井淸太夫殿、うへられたる故、「淸太夫いも」とも、いふなり。

 甲州にて、手習の師匠の所へ、人の、此いもを、おくりたる故、やがて、むして、手習子供へ振𢌞(ふるまひ)たるに、いく時をも、へず、其子供十一人、のこらず、死(しし)たり。

 親ども、聞(きき)、おどろきて、師匠のところへ來(きたつ)て、

「かほどまで、大勢、一同に死(しに)侍る事、ふしぎなり。決して、毒を飼(もら)れたる成(なる)べし。」[やぶちゃん注:「飼」には、「人や動物に毒や薬などを与える」の意があるので、かく、当て訓した。]

といふ。

 師匠、

「何(なに)しに、さやうの事をなすべき。但(ただ)、今日(けふ)、さるかたより『淸太夫いも』をもらひたるゆゑ、むして、子供にやりたるが、其跡にて、墨の付(つき)たる筆を砥(なめ)たるにて死(しし)たるや、しらず。われ、試(こころみ)に、是を、くふべし。皆、見物せられよ。」

とて、其師匠、いもをくひて、其跡にて、墨をすりて、飮(のみ)たれば、卽時に死たり、とぞ。

 「『かゞいも』には、硯墨(すずりすみ)、敵藥(てきやく)なり。」

と、いへり。

 されば、「さつまいも」に墨を禁物とするも、同(どう)やう成(なる)事と、おもはる[やぶちゃん注:ママ。]なり。

[やぶちゃん注:「かゞいも」底本の竹内利美氏の後注に、『清太夫いも。ジャガイモ(馬鈴薯)の異称。ジャガイモは近世中期以後の伝来で、信州や甲州では割合早く作られたらしい。「二物考」』(かの高野長英が天保七(一八三六)年に著した「勸農備荒 二物考」。救荒植物として蕎麦と馬鈴薯の二種の栽培を奨励したもの)『には「伝る所を詳にせず、甲信等に古く伝はって蕃殖するといふ」とある。ジャガタライモ・甲州いも・秩父いも・八升いも・清太夫いも・信濃いも等の異名があった。カガいももその一つであったろう』とある。しかし、硯(す)った墨と馬鈴薯(ジャガイモ)の食い合わせが有毒というのは、聴いたことがない。ジャガイモにはソラニン(solanine:水溶性で、ステロイドアルカロイド配糖体)という有毒成分が発芽した部分にあることはよく知られている。ブログ「医薬品情報21」の「ジャガイモの毒性」によれば、『収穫時に見かける小芋も同様の症状を起こすことがあるが、学校等で、児童自身が栽培した芋による事故が殆どで、市販の大きな芋で起こる事故は皆無に近いとされている。収穫後の芋は暗い場所に保管しておき、発芽部分の周囲を深く除去し、緑色の皮は厚くむいて調理することが必要とされている』。『solanineは水溶性であるが、加熱しても壊れない。solanineは馬鈴薯の全ての部分に含まれている。特に光に当たって緑色になった部分や芽の周辺に濃厚に含まれている。solanineacetylcholineを分解する酵素であるacetylcholinesteraseを阻害する働きがある。solanineは酵素阻害物質なので、大量を摂取すると』、『血中のacetylcholineが滞留する』。『solaninechaconineは馬鈴薯の芽に一番多く含まれている』。『馬鈴薯の可食部分100 gあたり平均7.5mgsolaninechaconineを含んでおり、そのうち』、三~八『割が皮の周辺に存在する。一方、光に当たって緑色になった部分は100 gあたり100mg以上のsolaninechaconineを含んでいるといわれている。体重が50kgの人の場合、solaninechaconine50 mg摂取すると』、『症状が出る可能性があり、150 mg300 mg摂取すると死ぬ可能性があるとされる』とあったが、凡そ、一個のジャガイモを食って、子供十一人と大人一人が急死するというのは、信じられない。考えられるのは、その送り主が猛毒の植物の根茎を「淸太夫いも」と間違えていた可能性である。例えば、単子葉植物綱ユリ目イヌサフラン科イヌサフラン属イヌサフラン Colchicum autumnale である。同種の根茎はジャガイモに似ており、猛毒のコルヒチン(colchicine)が含まれており、摂取すると、下痢・嘔吐・皮膚知覚麻痺・呼吸困難を発症し、重症の場合は死亡することもある。参照したウィキの「イヌサフラン」によれば、二〇〇六『年から』二〇一六『年の間に』六『人の死者を出しており、誤食による食中毒が発生しやすい植物とされる』とある。墨の成分がそうした中毒物質の毒性を盛んにするかどうかは、私には判らない。

「敵藥」配合の具合によっては毒になる薬。]

譚海 卷の八 枇杷葉湯に昆布毒の事

○天明の比(ころ)より、「京都烏丸(からすまる)枇杷葉湯(びはえふたう)」とて、數人(すにん)、大路を賣(うり)て往來する事、たえず。

 箱の内に藥爐(やくろ)を仕(し)つけて、途中にて、往來の人に、のましめ、渡世とす。

 寬政二年七月の比、ある浪人、いとあつきに、たへず、此(この)「びはよふ湯」を呼(よび)て飮けるに、其夜、悶絕して、人心地(ひとごこち)なく、目ばかり、きらめき、臥(ふし)たりしに、召仕(めしつか)へる僕(しもべ)、松前の者にて、驚き怪(あやし)み、

「是は、晝、昆布を料理して喰れたるゆゑ、批杷、のみあはせ、あしく、かく、あたられたる成(なる)べし。」

とて、やがて、昆布の毒をけす藥を、はしり行(ゆき)て調(ととのへ)、歸りて、主人へ飮(のま)せければ、蘇生したり。

 仔細を尋(たづね)たるに、

「在所、松前には、枇杷の樹を生(しやう)ぜず。寒國(さむきくに)といへども、昆布の出(いづ)る地には、必(かならず)、生ぜざる。」

よし。

「されば、昆布と枇杷とは、合せ喰(くふ)事を禁じて、恐るゝ事、甚(はなはだ)し。萬一、枇杷、昆布、喰合(くひあは)せて、毒にあたりける時は、『あらめ』を、せんじて飮(のむ)時は、やがて解(かい)する事故(ゆゑ)、心付(こころづき)て、かく、せし。」

と、かたりぬ。

[やぶちゃん注:「枇杷葉湯」枇杷の葉の毛を除いて乾燥させたものに、肉桂や甘茶などを細かく切って混ぜた散薬。また、それを煎じた汁。食傷・暑気あたり・急性痢病などに効くという。京都烏丸に本舗があり、江戸では馬喰町三丁目で山口屋又三郎が販売した。「本家京都烏丸、枇杷葉湯山口屋又三郞」と記した長方形の箱の中に、茶釜・茶碗等を入れ、天秤で担いで、往来で煎じて飲ませた。また、夏期には、烏丸の本舗及び江戸の取次店では、店頭に調製しておいたものを通行人に無料で飲ませた。「からすまる」とも呼ぶ。ここに出る、枇杷葉湯と昆布の禁忌は本当かどうかは、よく判らないが、コンブは、甲状腺疾患(この武士の急性症状は、それを指しているようには見える)を罹患している人の場合、ヨードが非常に多く含まれるため、絶対禁忌とされている。しかし、枇杷葉湯が、さらにヨードを増やすかどうかは、判らない。ただ、甚だ不審なのは、下僕が「あらめ」等毛植物門褐藻綱コンブ目レッソニア科 Lessoniaceae アラメ(荒布)属アラメ Eisenia bicyclis を与えていることである。アラメはヨードが多いんですけど? アラメについては、私の「大和本草卷之八 草之四 海藻類 始動 / 海帶 (アラメ)」及び注のリンク先を、また「昆布」は種が多様なので、是非、「大和本草卷之八 草之四 昆布 (コンブ類)」の私の注を見られたい。因みに私は海藻・海草のフリークである。]

譚海 卷の八 同秋田城朝鮮の燕來る事

[やぶちゃん注:標題の「來る」は「きたる」と訓じておく。なお、この前の「羽州橫手しろき鳥の事」はフライング公開してある。従って、本標題の「同」は出羽国を指す。同じ久保田藩で、しかも同藩内の城繋がりで、合わせて記したものである。]

 

○羽後秋田の城の南門の二階下の板には、燕、巢をかくる、おほし。

 それが中に、二羽、至(いたり)て、大成(だいなる)燕、鳩の如(ごとく)白燕(しろつばめ)にして、巢を造るさまも、餘(よの)燕と異(こと)にして、土を用(もちひ)て、大成(だいなる)穴を、うがち、橫より、板にそひて、出入するやうに造りて有(あり)。

「是は朝鮮より、年々、來(きた)る燕なる。」

由、吏人、傳へ覺(おぼへ)て、かたりぬ。

[やぶちゃん注:「朝鮮の燕」この謂いが正しいとすれば、ツバメに似た、白い、通常のツバメより大きい(但し、ここは「太っている」の意でとる)とならば、スズメ目スズメ亜目ツバメ科ツバメ亜科 Delichon 属シベリアイワツバメ  Delichon urbica lagopoda の可能性が高い。同種は全長十五センチメートルで通常のツバメ(ツバメ亜科ツバメ属 Hirundo rustica :全長十七センチメートル)より小さいが、体形自体はツバメより遙かに太く、ムックムクだからである(学名の画像検索をリンクしておく)。尾羽根の切りこみが深く、上面は光沢のある暗青色であるが、下面が白い羽毛で覆われており、体型上、白い部分が多い。背中後部・腰・尾羽基部の上面(上尾筒)も白い羽毛で覆われている。参照したウィキの「イワツバメ」によれば、本邦には『九州以北に飛来(夏鳥)』し、通常は『海岸や山地の岩場に泥と枯れ草を使って上部に穴の空いた球状の巣を作り、日本では』四~八『月に』一『回に』三~四『個の卵を産む。岩場に営巣することが和名の由来。集団で営巣する』としつつも、『昔から』、『山間部の旅館や山小屋などに営巣する例は知られていたが、第二次世界大戦後はコンクリート製の大規模な建造物が増加するとともに、本種もそれらに営巣するようになった。近年は市街地付近の橋桁やコンクリート製の建物の軒下などに集団営巣する例が増えており、本種の分布の拡大につながっている』とあるから、彼らが、日本の海辺の城に営巣したとしても、何らおかしくはない。通常のツバメの博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 燕(つばめ) (ツバメ)」を参照されたいが、並んで、「和漢三才圖會第四十二 原禽類 土燕(つちつばめ)・石燕(いしつばめ) (多種を同定候補とし、最終的にアナツバメ類とショウドウツバメに比定した)」の方も、大いに参考になるはずなので、合わせて見られんことを、強くお勧めする。

「秋田の城」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

譚海 卷の八 吉備津宮神詠の事

[やぶちゃん注:冒頭の「同國」は前話を受けて「備中國」。]

 

○同國吉備津宮の神詠とて、人の、かたりし。

  聲なくば我を誰(たれ)とかしらなまし

        雪降(ふり)かゝる蘆原の鷺

[やぶちゃん注:つまらん。巫女が神憑(かみがか)りして詠じたものであろう。「諸國里人談卷之一 吉備津釜」でも御覧あれ。]

譚海 卷の八 備中國大島の山中貝石の事

○備中、大島と云(いふ)山中(さんちゆう)、谷の石、ことごとく、「しのぶずり」に用(もちひ)る石にて、其紋、あざやかにあり。古來、人、知る事なかりしが、近年、はじめて見出(みいだ)したる、とぞ。

 石の色は靑石(あをいし)なり。

 又、同所、白地と云(いふ)山中より、「貝石(かひいし)」とて、貝の付(つき)たる石を出す。

 冷泉殿門人、現(げん)に掘(ほり)て、京都へ、まゐらせければ、爲泰卿、御歌(ぎよか)を給はせけり。

  海遠き山にありとて貝石の

   鹽(しほ)じまぬさまを見るもめづらし

[やぶちゃん注:「大島と云山中」岡山県笠岡市大島中(おおしまなか)にある御嶽山(みたけやま:グーグル・マップ・データ。以下同じ)のことか? 但し、ここで「靑石」が採掘された(される)という事実はネット上では見当たらない。さらに不審なのは、標題と、後半の頭の「同所」である。同じ備中なら、「同國」とするだろう。しかも、「同所」は前のロケーションの近くであることを意味する。後の注を見て貰いたいが、かなり苦労したものの、後者のロケーションは、ほぼ確定出来たと考えている。私はそちらの周辺にある山で、例によって聴き書きの津村が山の名を誤った可能性が窺えるのである。

「しのぶずり」「忍摺・信夫摺」。大きな石の上に布を広げ、その上に:   シダ植物門シダ綱ウラボシ目ウラボシ科 Polypodiaceaeの歯朶(しだ)の葉をのせ、上から叩いて、その葉の汁を布に染めつけていくもの。その模様の乱れた形状から、「しのぶもじずり」とも言う。古来のそれは、かなり前に廃れており、ネットにはまことしやかに種名を挙げているものもあるが、使用した植物種を限定することは、実際には出来ないようである。要は広汎に種々の草木染めの古式の名ととっておけばよいだろう。

「白地」不詳とする予定だったが、一つ思ったのは、蛍の町として記憶がある、岡山県高梁(たかはし)市落合町福地しろち)であった。そこで調べてみたら、サイト「ソトコト」の『「福地」って“ふくち”じゃないの?! 岡山県高梁市にある蛍のまち。地名に込められた願いとは』に、『高梁市が発行している「広報たかはし」579号によると、戦国時代頃の表記は「白地」で、地名の由来はこの地域で白い土が多く出ていたこと。江戸時代の文献にも「白地」に「しろち」という振り仮名がふられているのだとか。しかし、のちに洪水が起こったことから、「福」という良い字で書くことになったという言い伝えがあるという。全国でも珍しい読み方には、先人たちの「災害が起こらないように」との願いが込められたのかもしれない』とあった。さらに、先の地図を再度見られたい。同地区の西に接する高梁市成羽町(なりはちょう)成羽に、「成羽の化石層」があるのである。サイド・パネルの説明版画像を見られたいが、そこに『成羽層群は貝化石を産出することで知られています』とあるのである。ここと断定してよいだろう。

「爲泰」冷泉為泰(れいぜいためやす 享保二〇(一七三六)年~文化一三(一八一六)年)は公卿・歌人。上冷泉家で冷泉為村の子。門人に、かの屋代弘賢らがいる。歌集に「三代十百首」等がある。]

譚海 卷の八 加州町人木屋滅亡の事

○加州に木屋といへる豪富のものあり。米、買〆(かひしめ)、莫大(ばくだ)せし事に付(つき)、加州侯、親子とも斬罪にせられ、手代五人は遠島に處せられ、家督、斷絕せり。

 天明午どしの飢饉、世上、米、払底(ふつてい)なりしかども、木屋方に買置(かひおき)たる越後米、絕(たえ)ず賣物(うりもの)に出(いで)て、翌年夏迄、越後米、世上にありしも、木屋壹人(ひとり)の所藏にてありし、とぞ。

 同年、羽州米、四千石、北𢌞(きたまわ)しにて、大阪へ登(のぼら)せたりしに、はじめ、着船せしは、壹石に付(つき)、銀九十二匁、おくれて着船せし米は、壹石に付(つき)百十二匁に成(なり)たりとぞ。

[やぶちゃん注:「天明午どしの飢饉」日本近世の最大の飢饉とされる「天明の大飢饉」(天明二(一七八二)年~天明八(一七八八)丙午年)の最末年。

「羽州米」出羽の国。現在の秋田県と山形県。

「壹石」十斗=百枡=約百八十リットル。

「銀九十二匁」銀六十匁が金一両なので、一両半強。

「百十二匁」凡そ二両弱。]

譚海 卷の八 酒桶の杉飛驒山中に大木ありし事

○酒を造る桶は、皆、杉なり。古木を用るほど、酒、よく出來るなり。名洒を造る桶は、五、六百年に及ぶ板にて造(つくり)たる桶成(なる)由。

 先年、飛驒山中に、大なる杉、有(あり)。根のうつぼに成(なり)たるうちへ、三人、入(いり)て、手をひろげつら成(なり)たるに、猶、左右に、餘地、有(あり)。

 大阪の者、此杉を二千銅に直段(ねだん)付(つけ)たれども、所のもの、

「此杉は、うぶすなの如く、伺百年ともなく、あがめ來(きた)る故、賣(うり)わたす相談に及ばず。」

と、いへば、二千五百銅迄、直段をのぼせたれども、終(つひ)に賣(うる)事を、やめたり。

 大阪のもの、申(まふし)けるは、

「此杉、およそ千年餘(よ)のものと見えたり。此杉をもて、酒桶(さかだる)を造りなば、おそらくは池田・伊丹に、此酒より勝(すぐ)たるもの、出來る事、あるまじ。桶にせば、廿七本は出來(でき)べし。其價(あたひ)、はかりなき事。」

と、いへる、とぞ。

[やぶちゃん注:両手を広げた長さは本邦の監修で「尋」(ひろ)と言う。換算では複数あるが、短い一・五一五メートルで十六・五四五メートルとなり、さらに「餘地」があるというのだから、洞(うろ)の内径は十七メートル程もあることになる。所謂、巨大な屋久島の縄文杉でも、幹本体の直径は凡そ五メートルであるから、これはあり得ない。

「二千銅」一両の半分。安杉、基! 安過ぎ。]

譚海 卷の八 江戶靑山熊野權現堂安產の符の事

○江戶、靑山、熊野權現堂下と云(いふ)所に、「すいほう和尙」と云(いふ)人、すめり。

 此人、ふしぎの法(ほふ)ありて、安產の守(まもり)を出(いだ)す。產婦あれば、行(ゆき)て願ふ時、使(つかひ)を、またせて、御符を出(いだ)す。禮物(れいもつ)として、三百錢、贈る也。

 產に臨(のぞん)で、此符を、婦人、右の手に持て居(を)るに、極(きはめ)て安產なり。

 七夜(しちや)に至(いたり)て、封をひらき見るに、熊野三所本地(くまのさんじよほんぢ)の御形(みかた)に、其(その)生れし子供の名を書入(かきいれ)て有(あり)、男なれば、男子の名、有(あり)、女子なれば、女の名、書(かき)て有(あり)、生れし子の男女を、たかへず。

 よりて、皆々、ふしぎがることなり。

 三七日(さんしちにち)も立(たち)て、又、右の符を返しまゐらする事にて、持參すれば、あたらしき符に取(とり)かへこ[やぶちゃん注:ママ。]すなり。是は出產の時用(もちひ)たるは、けがれたるゆゑ、とりかへもろふ[やぶちゃん注:ママ。国立国会図書館本は『もらふ』。]よしなり。此度(このたび)は、禮物、二百錢、贈る事なり。

 此和尙卜筮(ぼくぜい)にてもせらるゝか、狐などをつかふて然(しか)るにや、みな人(ひと)、いぶかり思(おもふ)事なり。寬政の頃、もつぱら、はやりたる事なり。

[やぶちゃん注:「熊野權現堂」現在の東京都渋谷区神宮前の熊野神社(グーグル・マップ・データ)。

「七夜」子どもが生まれて七日目の夜。命名など種々の祝いの行事をする。

「三七日」出産後二十一日目に行なう祝い。産後七日目ごとの祝いの三回目。「みなぬか」と読んでもよい。

「寬政」一七八九年から一八〇一年まで。]

譚海 卷の八 鰹節をこしらふる事

 

○鰹ぶしをこしらふるは、皮ともに、ふしに切(きり)て、蒸籠(せいろ)につめて、むすなり。薪(まき)には靑松葉を用ゆ。

 松の葉にむされて、鰹の皮と身の間に有(ある)あぶら、したゝり落(おつ)る事、数日(すじつ)、そののち、せいろう、取出(とりいだ)し、皮をさりて、常のたき火にて蒸(むす)事、一日にして、四斗樽に入(いれ)、ふたをして、四、五日、へて、取出しみれば、靑き「かび」、ひまなく生ずるを、繩にて、すり落(おと)し、又、樽につめ入て、ふたをなし、四、五日、經て、取出せば、「かび」を生ず。

 それを、すり落(おと)して、又、もとのごとく、樽に入置(いれおき)、後(のち)には、「かび」、生ぜず。

 其時、取出し、日のあたる所に、ほしたるを、最上のものとす。

 此(この)ごとくせざるは、かつをぶしになせし後(あと)も、暑中は「かび」を生ずるなり。

[やぶちゃん注:ウィキの「鰹節」をリンクさせておく。]

譚海 卷の八 相州矢倉澤通りつるぎ澤の事

[やぶちゃん注:この前の「藝州家士の妻奸智ある事」は既にフライング公開してある。]

 

○相州の大山より、小田原へこゆるには、「一の澤ごえ」といふを、するなり。

 大山麓(ふもと)より、不動堂まで五十町あり。其十六町めの坂の脇に、「一の澤ごえ」のわかれ道あり。半里ほど、くだれば、すなはち「一の澤」也。「二の澤」・「三の澤」迄有(あり)。

 石尊權現(せきそんごんげん)參詣の頃は、「やくらごえ」して、富士山に參詣する人、多ければ、ここに、茶屋、有(あり)て、水を賣(うる)なり。「一の澤」より、五、六町くだれば高野と稱する道場、有(あり)。律宗の僧、住(すみ)て、殊勝なる寺也。

 此邊(このへん)より、人家、所々に有(あり)。是は「厚木ごえ」と云(いふ)にかゝる道なり。「ゑびらのわたし」などとて、船にて、わたる所、二所(ふたところ)有(あり)。鮎、ことにおほく、舶(ふね)の中へも、おどり入(いり)、おもしろき事、とぞ。

 又、ある人のいへるは、

「大磯より、西に入(いつ)て「つるぎ澤」と云(いふ)を、へて、小田原へ、いづる道、有(あり)。大いそより、小田原へは、直(ぢき)みち五十町、是を行(ゆけ)ば、三里なり。外記(げき)の浄瑠璃にいへる廻れば三里直に五十町といふ所なり。曾我・中村をへて、「つるぎざわ」にいたる。中村に曾我兄弟の墓、有(あり)。「つるぎ澤」は、山岸のさわ[やぶちゃん注:ママ。]なり。砂地にて、砂のながれ落(おち)たる跡、岩をあらはし、岩のかたち、皆、尖(とがり)て、つるぎを立(たて)たるごとく、一、二尺づつの高さにて、澤中(さわぢゆう)、ことごとく、此岩なり。いくらといふ、かずを、しらず。頗る奇觀なり。」

とぞ。

[やぶちゃん注:以上の行程は、部分部分を歩いたことがある。しかし、一部に例の津村の聴き書きの不全で不審箇所がある。それを指摘しても、私が全く面白くないし、面白がる読者もいないだろうから、その手の注は今回は附さない。

「外記」「外記節(げきぶし)」。江戸浄瑠璃の一つ。薩摩外記藤原直政が貞享(一六八四年から一六八八年)の頃、語り出した豪放な浄瑠璃。人形浄瑠璃や歌舞伎の荒事などで行なわれたが、間もなく滅び、現在は河東節と長唄の数曲に、その影響が残るのみ。]

2024/02/16

譚海 卷の八 甲州身延山參詣行程の事

[やぶちゃん注:この前の「江戶本所の大工狐の玉を得たる事」は既にフライング公開してある。]

 

○江戶より甲州身延山へ參詣の道は、東海道沼津の宿より西へ入(いり)、身延山迄、十三里、身延山總門より本堂まで十八町、本堂より赤沼まで三里、赤沼より、山路、殊にけはしきところを經(ふ)る事、五十町にして、七面山(しちめんさん)にいたる。是、卽(すなはち)、身延山の奥の院なり。歸路は、奧の院より、本堂のうしろへ出(いづ)る道、有(あり)。此間(このかん)、三里なり。

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之三 風穴」を参照されたい。]

譚海 卷の八 藝州嚴島明神祭禮の事

 

○藝州嚴島明神の祭禮には、いつも、烏二羽、供物を啣(くはへ)て、空(そら)へ冲(のぼ[やぶちゃん注:この読みは極めて珍しい底本の編者注記。])り飛去(とびさる)事、有(あり)。

「往古より、祭祀の度(たび)ごとに極(きまつ)てある事なり。此からす、雌雄にて、明神へ、つかふまつる。ひなを產して生(おひ)たつときに、いたれば、そのひなに、祭祀の所作をゆづりて、親鳥は飛去(とびさる)。」

とぞ。是を巖島にては「四鳥のわかれ」といふ事に、傳へ、いふなり。

[やぶちゃん注:個人ブログ「山野草、植物めぐり」の「宮島 神鴉(大頭神社と四鳥の別れ)」がよい。社名の「大頭」は「おおがしら」(現代仮名遣)と読む。この神社は厳島の本州対岸にあり、ここに出る「四鳥のわかれ」の大事なロケーションであることが判る。同神社の石碑の当該部も電子化されており、写真もある。]

譚海 卷の八 同藩中駒木根三左衞門はいかい妙なる事

[やぶちゃん注:「駒木根」は「こまきね」或いは「こまぎね」。冒頭の「又同藩」は直前の話を受けているので、秋田(久保田)藩を指す。同じ藩の特異な才能の持ち主の紹介という強い親和性があり、確信犯で並べて記したものである。]

 

○又、同藩家司に駒木根三右衞門と云(いふ)人、俳諧を好(このみ)て、朝夕、口に誦(じゆ)せざる事、なし。

 いつのとしにや、八月十六日、晴光[やぶちゃん注:空がよく晴れて明るく気持ちがよいこと。]なれば、同僚を、いざなひて、

「矢橋(やばせ)といふ所の茶屋に、月、みん。」

とて、[やぶちゃん注:「とて行くに、」ぐらいは欲しいところ。]折ふし、茶屋の娘、

「難產にて、宿を、かしがたき。」

よし申せしに、三右衞門、

「我(われ)、よき安產の守(まもり)をもちたり。」

とて、ひそかに、

「いざよひやなんの苦もなくはぢき豆」

といふ句を短册に書(かき)て、枕上(まくらがみ)におかせしに、やがて平產せしかば、一家、大(おほき)によろこびて、酒肴(しゆかう)を、とゝのへ、馳走(ちさう)しければ、月見の興附(きやうづけ)にして歸りたり、とぞ。

 又、年のくれに、友達、來(きたり)て、

「今日(けふ)、無盡會(むじんくわい)なり。兼て不如意の我々なれば、此鬮(くじ)にあたらざれば、春のもふけ事(ごと)ゆかず、難義(なんぎ)[やぶちゃん注:「難儀」に同じ。]きはまりたり。」

と、かたりしかば、三右衞門、やがて、

「十(とお)に十皆とらるゝや寒玉子」

といふ發句をいひて、

「是、持(もち)ていませ。」

とて、やりけるに、はたして、其友、

「くじに、あたりぬる。」

とて、よろこび申(まふし)つかはしける、とぞ。

[やぶちゃん注:「矢橋」旧秋田城の南東方向直近の旧広域地名。「ひなたGPS」の戦前の地図を見られたい。グーグル・マップ・データで見ると、現在は小さく、北にごく狭い飛地がある。また、当該ウィキによれば、『江戸時代には久保田城から土崎港方面へ向かう羽州街道の、久保田を出て最初の集落であった。当地に一里塚(八橋一里塚)が存在し、塚は現存しないものの「八橋一里塚」交差点に標柱が立てられている。また多くの寺社も置かれており、日吉八幡神社(山王権現)は久保田町人町(外町)の鎮守、毘沙門社は保戸野足軽町の鎮守として参拝客を集め、沿道には茶屋が軒を並べていた』(☜)。『草生津川』(さそおづかわ:「ひなたGPS」の戦前の地図の『橋八(セバヤ)』の文字の上に南北に貫流する川に『草生津(サソウヅ)川』の名が確認出来る)『の対岸に草生津刑場があり、架けられている橋は』、『罪人が最期に自分の姿を水面に映す場所として「面影橋」と呼ばれるようになった』とある。

「はぢき豆」そら豆を煎って弾き出させること。また、ソラマメそのものを指す。ここは、「いざよひ」が難産を指しつつ、勢いよく、ポン! と弾ける空豆を安産の予祝とした挨拶句であると同時に、共感呪術的効果を狙っている。

「無盡會」「無盡講」「賴母子講(たのもしこう)」に同じ。相互に金銭を融通し合う目的で組織された講。世話人の募集に応じて、講の成員となった者が、一定の掛金を持ち寄って、定期的に集会を催し、抽籤(ちゅうせん:くじびき)や入札などの方法で、順番に各回の掛金の給付を受ける庶民金融の組織。貧困者の互助救済を目的としたため、初期は無利子・無担保だったが、掛金を怠る者があったりしたため、次第に利息や担保を取るようになった。江戸時代に最も盛んで、明治以後でも、近代的な金融機関を利用し得ない庶民の間で行なわれ続けた。

「十(とお)に十皆とらるゝや」こちらは先に人間が言上げすることで、それが結果して、天命を変えさせる逆効果を惹起せざるを得ない呪術として作用しているのである。]

譚海 卷の八 佐竹家司那珂宗助水利にたくみ成事

[やぶちゃん注:「成」は「なる」。「佐竹家司那珂宗助」は底本に竹内利美氏の後注があり、『秋田藩主佐竹家。その家臣那珂氏は側用人など勤めたが小身の家である。地方役人として有能なものがあったのであろう』とあった。]

 

○佐竹の家に那珂宗助(なかそうすけ)と云(いふ)者、水利に熟(じゆく)したる人にて、常に邦内(はうない)の川普請(かはぶしん)を掌(つかさどり)ける。

 其人の工風(くふう)にて、川をさらへる器(き)、數多(あまた)、製したる有(あり)。

 「やす」を、水車の如く造(つくり)て、水流にかけて、めぐるに隨(したがひ)て、土を自然にほりうがつやうにせし物、あり。

 又、「むしろ」壹枚を樹にかけて、激流にひたしおけば、莚(むしろ)のうごくに隨て、淤泥(おでい)[やぶちゃん注:泥(どろ)。]を、はらひのくるやうにせし事も、あり。

 種々(しゆじゆ)の器、今に其製を傳(つたへ)うけて、一國の水を治(をさむ)る便(たより)とせり。一とせ、阿仁(あに)と云(いふ)所の川普請をせしに、銅山のふもとにて、深山(しんざん)なれば、やがて、その谷の「ふじかづら」を、おほく伐取(きりとり)て、蛇籠(じやかご)に製せしに、其折しも、

「花色の木綿十反、急用。」

の由(よし)、國衙(こくが)へ申遣(まふしつかは)しければ、諸司、

「川普請に無用なるものなり。いかゞ。」

など申(まふし)あヘりけれど、水治(すいぢ)の事は、宗助に任(まか)たる事なれば、いひつるまゝに調(ちやうし)て遣しける。

 其後(そののち)、宗助、水邊(みづべ)の村民の子どもを集めて、河原にて、日々、「すまひ」[やぶちゃん注:「相撲」。]をとらせ、戲(たはむれ)としける。

 其中にて、力量ある子供を賞して、此木綿を一幅づつ、犢鼻褌(ふんどし)に、やりければ、いよいよよ、ろこびて、人々、我(わが)力量を自讚したるとき、其子供に課(はたし)て、日々、河原の石を、はこばせて、蛇籠に詰(つめ)させけるに、子供の事なれば、

「我、おとらじ。」

と勵(はげまし)て、おほくの日もかゝらず、さばかりの費(つひへ)もあらずして、蛇籠、數十里、成就せし、とぞ。

 後(のち)に、惣助[やぶちゃん注:ママ。名の異字を自身がしたケースは多い。]、龍文(りゆうもん)ある靑石(あをいし)を得て、守(まもり)にうけて[やぶちゃん注:守護神として扱い。]、「龍神堂」を建(たて)、件(くだん)の石を本尊になしける。

 「龍神堂」は、城下より、土崎(つちざき)と云(いふ)湊へかよふ道の、根笹山といふいたゞきに有(あり)。

[やぶちゃん注:何とも、いい話である。

「土崎」秋田県仙北郡美郷町(みさとちょう)土崎(グーグル・マップ・データ)。

「龍神堂」不詳。那珂氏ののために残しておきたかったな。

「根笹山」不詳。]

譚海 卷の八 うさぎ腹つゞみをうつ事

[やぶちゃん注:この前の「蟹鳥に化したる事」は、既にフライング公開している。]

 

○兎も鼓(つづみ)をうつ事、有(あり)。

 伊豆の國へ行(ゆき)たる人の、かたりしに、

「かしこに新左衞門村と云(いふ)所有(あり)、往古の河津(かはづ)の領したる地にて、三千石の村なり。今は其地に河津氏を神に祭(まつり)て、「三社明神(さんしやみゃうじん)」とて有(あり)。山谷(やまたに)の入(いり)まじりたる所にて、兎抔(など)、殊に多し。其地の老人、ある年、三社へ參詣して、歸路に山中を過(すぎ)けるに、何やらん、物の音、きこゆ。挾箱(はさみばこ)をになひ行(ゆき)、釻(いしゆみ)の、箱にあたりて、鳴(なる)音の如し。ふしぎにおもひて、其音する所、うかゞひたるに、兎數(す)十疋、つらなり、圓居(まどゐ)して、皆々、立あがり、兩手にて、おのが腹を、うつ音なり。一度にそろひてうつ故、此音、高く聞ゆるなり。ふしぎに思ひて詠(ながめ)ゐたるに、老人、風邪(かぜ)、煩(わづら)ふ頃にて、咳(せき)を忍(しの)びたれども、こらへがたく、せきたれば、其音におどろきて、兎、殘らず、林中へかけ入(いり)たり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「新左衞門村」「河津氏の領したる地」「三千石の村」「今は其地に河津氏を神に祭(まつり)て」「三社明神」不詳。河津周辺には三嶋(島)神社は多数ある(個人的には「社」は「嶋」の誤記のような気はする)。「山谷の入まじりたる所」とあるから、天城峠越え附近とは推理されはするが、全体、まともに読める話ではないので、考証もする気にならない。

「釻」ここは、「木などの弾力を利用して石を弾(はじ)くようにした武器」の、その弾丸に当たる「石」の意で読みを振った。にしても、この老人、かったるい比喩を用いている。「兎の腹鼓み」の音は「挟み箱を荷って歩いている者のその箱を狙って撃った石弓(弩:いしゆみ)の弾(たま)がその箱に当たって鳴ったような音」だったというのである。「老人」で「風邪」を引いており、くしゃみをしたら、兎どもが蜘蛛の子を散らすように逃げ失せた、というのは、もう、百二十%、阿呆臭い作り話だ。]

譚海 卷の八 同所筑波山來由の事

[やぶちゃん注:「同所」は前の話を受けて「常陸國」を指す。「筑波山」(つくばさん)はここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。標高八百七十七メートル。]

 

○筑波山に、每年五月晦日(みそか)、龍燈を現ず。

 其夜、東海より、遠く、火、來(きた)る。

 夫(それ)に合(あはせ)て、近き山中、又は、池中・澤中よりも、皆、龍燈、現じ來る。數(す)百に及(およぶ)事なり。

「小の月は、廿九日にある。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「龍燈」私のサイト版の南方熊楠の「龍燈に就て」PDF)を見られたい。]

「每年、此夜、人、參詣して見るに、山をこえ、林をうがちて、所々より來る火、螢の如くに集る事。」

とぞ。

 又、筑波山に屬せる加波山(かばさん)と云(いふ)山、有(あり)。此山に、櫻、多し。土人は「かんば櫻」と云(いふ)。

「是、『かには櫻』の事なり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「加波山」筑波山の北東北のここ。標高七百九メートル。

「かんば櫻」「かには櫻」バラ目バラ科サクラ属サクラ品種カンバザクラ Cerasus × media ‘Kaba-zakura’ があるが、これではなく、加波山に多いのは、一般的なサクラ属ヤマザクラ Cerasus jamasakura である。恐らく「加波櫻」(かばざくら)が訛ったものであろう。因みに、材木名にブナ目カバノキ科カバノキ属カバノキ(タイプ種)Betula pubescens を「カバザクラ」と呼ぶが、無論、全く縁はない。]

 つくばの東の麓に「大御堂(おほみだう)」と云(いふ)有(あり)。坂東覩音の札所なり。其所(そこ)にて順禮の者、うたふ歌に、

「入相の鐘はつくばの名にたちて

    かく夕暮に家ぞ戀しき

と、いへり。是は筑波山に大成(だいなる)鐘(かね)、有(あり)、龍宮より來(きた)る物にて、往古、此鐘を撞(つく)事のありしに、山壑にひゞき、東海より、つなみ、おほく押入(おしいり)、人民、多く溺死せり。かゝる事、兩度迄、有しかば、今は、此かねを地上におろして、長く、つく事を、ゆるさず。誠に大成鐘にて、形も奇異成(なる)物なり。鐘のひゞく時は、龍宮より、

「鐘をとりかへさん。」

とて、かく、津波などは入(いり)たる事のよし、「風土記」にも、しるせり、とぞ。

[やぶちゃん注:「大御堂」現在は護国寺別院筑波山知足院中禅寺大御堂が正式名。真言宗豊山派で、本尊は十一面千手観世音菩薩。坂東三十三観音第二十五番札所。但し、明治初年の忌まわしき「神仏分離」により、一度、廃寺となった。現在は東京都文京区大塚にある真言宗豊山派大本山護国寺別院で、鐘は当時のものではないのだろうが、普通に吊られてあり、普通に打っている。現在位置は筑波山の「東」ではなく、「南西」である。]

 又、筑波山は天竺の靈鷲山(りやうじゆせん)の一峯(いつぽう)、とびきたりて成(なり)たる山成(なる)由。花山法皇、御順禮のついで、御製とていひ傳へたる歌、

「わしの山飛來(き)てこゝにつくばねの

      女神を神へみつきとぞ成(なす)

といふ、此事も「風土記」に見えたり。

 靈鷲山の東西の隅を裂(さき)て、諸神、取來(とりきたつ)て、いざなぎ・いざなみの大神に貢(みつぎ)す、としるしたり、とぞ。

[やぶちゃん注:「靈鷲山」インドのビハール州のほぼ中央に位置する山(この中央附近)で、大乗経典にでは、釈迦が「観無量寿経」や「法華経」を説いたとされる山として知られる。サンスクリット語では「グリドラクータ」、パーリ語では「ギッジャクータ」。

「花山法皇」「御製」和歌集には見当たらない。]

譚海 卷の八 水戶かなさ山明神の祭禮事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

 譚 海 卷の八

 

 

○天明七年[やぶちゃん注:一七八七年。]、常陸水戶、「かなさ山」の明神、祭禮にあたれり。此祭、七十二年めに、一度、ある事なり。神輿(しんよ)、十里四方、通行故(ゆゑ)、前後七日に及(および)たる大祭禮(だいさいれい)なり。

[やぶちゃん注:『常陸水戶、「かなさ山」の明神』これは後文に出る通り、二つの神社に関わる。現在の茨城県常陸太田市上宮河内町(かみみやかわうちちょう)にある西金砂(かなさ)神社と、同市天下野町(けがのちょう)にある東金砂神社である。ここ(グーグル・マップ・データ)。両神社は孰れも、天下野町の町筋の平地を挟んだ峰の上にあり、二社は直線でも四・七キロメートル以上離れている。因みに言っておくと、「鮑形大明神」と呼ぶが、この二社は全くの内陸山間の中にある。この祭礼は驚くべき距離を経て、海を経由し、西から東の神社へと行われるものである。祭礼のスパンも驚きであるが、この祭礼の移動距離もなかなかに凄い。解説と写真をコンパクトに纏められたものは、「聖地観光研究所 レイラインプロジェクト」のこちらがある。そこに、「金砂山縁起」『によれば、常陸の水木浜に黄金の膚に九つの穴を持つ鮑躰の神様が現れ、これを金砂権現(鮑形大明神)と称して祭ったと言われ、「東金砂山は、東方の浄瑠璃王、衆病悉く除くことを司る如来なり。西金砂山は、南方の能化、大慈悲を持って衆生の満願を主る大士なり。故に両峰の風情、金胎を表して、東西に山を開く」『とある』。『金砂磯出大田楽は、この故事に因んで、内陸にある東西金砂神社を出発した行列が、途中、各地の産土に田楽を奉納しながら』、実に五十キロメートル『あまり離れた日立市の水木浜まで行幸し、ここで新たにご神体を受けて、再び東西金砂神社に戻るというもの。天孫降臨で邇邇芸命を迎えに行った猿田彦命を先頭に、巫女や稚児、金砂の守り神である猿、神楽、獅子、神輿、そして宮司など』五百『人を数える行列が静静と進む』。『古い街道の交通を遮断して、この行列が通り過ぎるのに』一『時間あまり』に及び、『沿道には、たぶん一生に一度の機会を見逃すまいと集まった人たちで賑わっている』とあり、『今までの磯出大田楽の歴史を振り返ると、この祭礼の前後に世界的な天災や飢饉、戦争などが起こっている。平安京の疫病、蒙古襲来、天明の飢饉、世界大恐慌等々、そして、今年のイラク戦争と、大変動が目につく』。『先に紹介した伝説では、水木浜に上がった鮑形大明神をお迎えして大甕の中に潮を満たして安置するのだが、ちょうど』七十二『年が経つ頃に』、『その潮が干上がりかけて異変を引き起こすと言われる』。七十二『年が経ち、新たなご神体を大甕に迎え、新しい潮で満たすと、世界が生まれ変わり、新たな命が育まれると』。『その伝でいけば、今年の祭礼によって混乱している国際情勢は終息に向かい、長い不況であえぐ日本も、そろそろ浮上して、明るい未来に向かっていくのだろうか』。『ところで』、七十二『年という数字はなかなか興味深い数字だ。十干十二支の還暦にさらに十二支をプラスすると』七十二『年』で、六十『年前のことなら』、『記憶している人も多くいるだろうが』、七十二『年となると、そう多くはない。今年の祭礼も、前回のことを記憶している人が少なく、考証し、再現するのに何年もかかったという』。『「天災は忘れた頃にやってくる」という』。されば、七十二『という数字は、人の一生の中で、ちょうど一世代が入れ代わり、前の時代の記憶が薄れるマジックナンバーといえるかもしれない』と興味深い数字の考証を行っておられる。当初、山間地の神社の御神体が鮑というのが、ちょっと奇異に感じたが、古くから鮑は潮の干満を司る「玉」の一つとして民俗社会に知られており、巨大な鮑の怪異譚も多い。されば、この潮の干満を地震等による津波や海嘯と比すなら、大地震のサイクル、及び、東北というロケーションや、それらが襲ってくることはない奥山に祀られていることも、結果、私にはしっくりきた。じっくりと、この祭礼の様子を最初から最後までの様子を見たい方には、YouTubeの「地域文化資産」の「【本編】東金砂神社 磯出大祭礼」がよい。二〇〇三年に定期祭として行われた一部始終の動画である。私などは、もう見られない祭礼の様子を伝えて、見応えがある。但し、全視聴には四十七分かかる。なお、所持する法政大学出版局刊『ものと人間の文化史 62』の矢野憲一著「鮑(あわび)」には、この祭礼の鮑についての考証が載る。しかし、書庫の藻屑となって見出せない。発見したら、追記するつもりだが、幸い、「グーグルブックス」のこちらで、「アワビの神様」の当該部が視認出来る(「37」ページから)。]

 祭禮の事は「東鑑」にも見えたる由。甚(はなはだ)、古風を存(ぞんじ)たる事なり。祭禮の式は神主方(かんぬしかた)に書記(しよき)ありて、古來のまゝに執行(とりおこな)ふなり。

[やぶちゃん注:『祭禮の事は「東鑑」にも見えたる由』とあるが、鎌倉時代には、この祭礼は建暦元(一二一一)年と弘安六(一二六三)年に行われているが、後者は「吾妻鏡」の時制範囲外で、建暦元年分一年全部を見たが、記載はない。或いは、どこかにあるのかも知れないが、私の知り得る箇所では、覚えがない。うに、これは「祭禮の事」ではなく、後部にも出る、西金砂神社直近の「金砂城の戦い」(治承四年十一月四日(一一八〇年十一月二十二日に勃発した金砂城に於ける、源頼朝率いる軍勢と、籠城した常陸佐竹氏との戦い。平安末期の内乱「治承・寿永の乱」の一つに数えられる)が起こった旧「金砂城」のことではないか? それなら、「吾妻鏡」の「第一卷」に経過が載り、「金砂城」「金砂」の語が本文に、三度、登場する。

 水戶家よりも、警固嚴重なる事にて、古來のまゝに入用(いりよう)を省(はぶ)かず、掟(おきて)あるに付(つき)て、其費(そのつひへ)、容易の事にあらず、二、三ケ年以前より、あらかじめ沙汰ある事なり。

 神號は「鮑形大明神」と稱して、應神天皇の朝(てう)に垂跡(すいじやく)す。五穀成就を守り給ふ。神體は、卽(すなはち)、蚫(あはび)にて壺に潮(うしほ)をたゝへ、其中に鎭座有(あり)。

 七十二年めに、神輿の内に納(いれ)て御出(ごしゆつ)あり。

 同國、御貢濱(みつぎはま)といふ所にて、御旅の間(あひだ)、神體を入(いれ)かふるなり。此神體、七十二年まで壺中(こちゆう)に有故(あるゆゑ)、壺中の潮、段々、減じ、祭禮近く成(なり)ては、殊に少(すくな)くなる。

[やぶちゃん注:「御貢濱」これは、先に注で引用した通り、鮑神の接点である日立市水木町(みずきちょう)の水木浜である。金砂神社の南東に当たる。]

 此うしほ、少くなるに付(つき)て、世間、凶年打續(うちつづき)、不熟なり。

 祭禮、濟(すん)で、神體、入(いれ)かはり、新(あらた)に、うしほを、くみかへて滿(みたし)たる間は、豐年成(なる)由を、いひ傳ふ。

 祭日は二月初(はつ)の酉の日を初(はじめ)とす。

 供奉に、兒(ちご)といふもの、廿一人、出づ。天冠をかぶり、花染(はなぞめ)の麻衣)あさごろも)を着て、矛(ほこ)をとり、馬上にて、列す。

 其次に、猿の面をかけて、廿一人、馬上なり。面は、みな、名工のうちたる物なり。

[やぶちゃん注:「猿」これは天孫降臨の際に道案内をしたとされる猿田彦をイメージしたものである。先の長尺版動画でも、そのように解説がなされてある。]

 次に、又、小童(せうどう)五人、赤衣(あかごろも)を着て、供奉す。

 往古は、奉幣使、下向ありし祭禮故、水戶家よりも、殊に執(しふ/しつ)し行(おこなは)る事なり。

 七日の中日にあたりたる日、御貢濱に神輿をとゞめて、一夜、祭禮の神祕ども、有(あり)。

「夜半に、龍神、參詣す。」

と、いへり。

「其夜、海上より神體の『あはび』、うかび來(きた)る。則(すなはち)、取(とり)て、壺に入(いれ)奉り、今までの神輿は、入替(いれかへ)て、海中に歸りまします。」

とぞ。

 神輿御放(しんよおんはなち)の間、田樂のあそびを行ふ。田樂の式(しき)、世上に絕(たえ)て、殘らず。只、

「金沙山(かなさやま)の神職に傳へ殘りたるゆゑ、深祕として、外(そと)へ傳ヘず。」

といふ。

 此祭禮、鎌倉北條の時にもあたりたる由、「東鑑」に見えたり。又、同書に「かなさ山合戰」の事有(あり)。是は、「東金沙山」の事にて、佐竹氏の籠(こもり)たる城なり。

 此蚫形明神のましますは、「西かなさ山」なり。

 往古より兵革を經ず、殘りたる神社なり。

 「常陸風土記」には、金銀をも出せし山の由、しるし有(ある)、とぞ。

[やぶちゃん注:『此祭禮、鎌倉北條の時にもあたりたる由、「東鑑」に見えたり』かくも再び、かく言っているからには、「吾妻鏡」にあるのだろう。発見したら、追記する。

『「常陸風土記」には、金銀をも出せし山の由、しるし有』所持する岩波文庫版や、国立国会図書館デジタルコレクションでも探してみたが、不詳。識者の御教授を乞う。]

譚海 卷の七 官醫池原氏の弟子蛇の祟にあひし事 / 卷の七~了

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。本巻は底本冒頭の竹内利美氏の解題によれば、巻中初出の最新年次を寛政三(一七九一)年とするが、ある論文で、信頼出来る幕府資料の記載に、この五年前の天明六年の記録があり、この「官醫池原氏」のことと思われる幕府奥医師「池原雲洞」の名を見出せた。

 なお、本篇を以って「卷の七」は終っている。]

 

○官醫池原氏の弟子下野(しもつけ)[やぶちゃん注:現在の栃木県。]の者成(なる)が、江戶に久しくありて、老後在所へ歸り住(すみ)けり。在所は日光山の北にあたりたる所にて、山ふかき里なり。

 ある日、せど[やぶちゃん注:「背戶」。家の裏山。]の山へ行(ゆき)たるに、長さ三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]ばかりもあるらんとおぼしき蛇、よこたはりてうごかずして有(あり)。

 母・娘など、大(おほい)に怖(おそれ)て、せんかたなければ、竹にて、蛇のあたりの草を、しづかに、はらひはらひしければ、蛇、やうやく動(うごき)て、山のかたへ行去(ゆきさり)けり。

 其後(そのご)、此蛇、日々、此醫師の家ちかくきたりて、後々(のちのち)には、甚(はなはだ)馴(なれ)たるさまなれば、いよいよ、おそれて、

「何とぞ、此蛇、來たらぬやうに。」

と、修驗者(しゆげんじや)などたのみて、祈禱させなどしたるに、其しるしも、なし。

 ある日、朝、とく、戶を明(あけ)たれば、此蛇、その庭に來りて、緣頰(えんづら)[やぶちゃん注:「緣側」に同じ。]ちかくに、とぐろ卷(まき)て、あり。

 室内、大に驚き、さはぐ時、例の修驗者、門を過(すぎ)ければ、呼入(よびいれ)て、

「何とぞ、守札(まもりふだ)給はれ。」

と、いひしに、修驗者の家にある犬、同じく來(きた)るをみて、修瞼者、犬を呼びて、かけゝれば、犬、やがて、蛇のかたはらにはしり行(ゆき)て、くひつかんさまにて、聲をたてて、しきりに吠(ほえ)ければ、此蛇、首をもたげて、犬をにらまへ、口より息を吐(はき)て、うなりいかるさま、おそろしさ、たとへんかたなし。

 犬は、ますます、うめきほえて、とびかゝらんとす。

 蛇は、犬を、くはんとて、うなりいかるに、後々(あとあと)は、たがひに、息もせず、にらみあひたるまゝにて、勝負、わかたず。

 既に、あした[やぶちゃん注:ここは「朝」の意。]より夕(ゆふべ)に成(なる)まで、かくありければ、家内の者も、修瞼者も、物くふ事もわすれて、まもり見つゝゐしが、あまりに時をうつしたれば、修驗者、庭におり立(たち)、竹を持(もつ)て、蛇の喉(のど)を突(つく)ともなく、少しばかり、竹にて、いろひたるに[やぶちゃん注:いじったところが。]、蛇、あやまたず、たふれて、息たへたるさまなり。

 犬も、同時、たふれてありけるが、死(しせ)ずと、いへり。

 蛇は、かくて、二、三日、置(おき)けるに、色もかはりて、死(しし)たると覺えければ、哀(あはれ)なる事に思ひて、うしろの山に大なる穴を掘(ほり)て、蛇を、うづめ、其上に塚を築(きづき)て、石を、たてておけり。

 其邊(そのあたり)のわかきものをはじめ、修驗者、頭(かしら)とりて、かく、築ける、とぞ。

 蛇は、ながさ二間五尺[やぶちゃん注:五・一五メートル。]あり、もつこに、三つに入れて、運び、うづめしと、なん。

 扨さて)、其程(そのほど)過(すぎ)さず[やぶちゃん注:程無く直ぐに。]、修驗者は胸をやみ、此蛇のくるしむごとく、うめきて終(つひ)に病死せしかば、いよいよ、

『あしき事。』

に、おもひて、夜は、外へ出るものなきほどに、おそれあへりしが、ある日、鄰村より、病人の療治をたのみて、此醫師のもとへきたりしに、

「遠き所なれば、夜に成(なり)ぬべし。此節、夜は通行を恐るゝ事なるうへに、殊に川わたしもありて、夜は、わたし守なければ、行(ゆき)がたき。」

よしを、いひけれど、例のわかきものら、氣の毒におもひ、

「御越(おこい)ありて療治せられば、一人助(たすか)る事に侍る。もし、夜分に及びなば、われら、川ばたまで迎(むかへ)に參りて、わたし守なくとも、舟を出(いだ)し、渡して歸(かへり)給ふやうになすべし。」

と、すゝめければ、

「さらば。」

とて、醫師、行けり。

 扨、いひしごとく、川の邊(あたり)にては、夜に成(なり)しかば、聲を立(たて)て呼(よぶ)に、むかひのきしにも、此わかきものら、待出(まちいで)て、いそぎ、舟を出(いだ)さんとするに、竿、なかりしかば、

「そこら、竹を、もとむる。」

とて、しばし、てうちんを、かたへの家の軒(のき)につりおきけるに、一陣の怪風、

「さ」

と、吹來(ふききた)りて、あやまたず、此火、軒に、もえうつりければ、人々、手まどひ[やぶちゃん注:慌てふためくこと。]をして、

「うちけさん。」

と、しけれど、火、暫時に盛(さかん)に成(なり)て、一村、のこりなく、燒亡に及(および)けり。

 醫師も、此體(てい)を見て、

「舟に乘歸りても、家もやけぬれば、住居(すまい)する所なし。」

とて、病家へ、もどりて、二、三日、とまりてありしに、村のものども、このわかきものらをからめとらへて、醫師の泊り居(を)る病家へ、つれ來り、

「此たびの出火は、全く、此ものどもが所爲にて、其張本は、こゝにある醫師なれば、とらへて、そのよし、代官所へ訴申(うつたへまふす)べし。」

とて、つひに、醫師をも、からめて、失火のしだい、うつたへければ、殘りなく入牢せられ、拷問の上、火をつけし科(とが)に定(さだま)りけるこそ、是非なき次第なり。

 此由を醫師のはゝ、歎悲(なげきかな)しみて、色々に詫(わび)をなし、人を賴み、金子・賄賂等、用(もちひ)ける爲(ため)に、所持の田地をも、殘りなく賣(うり)はらひなどして、やうやうに、

「其科(とが)に、あらざる。」

よしに、定(さだま)り、出牢せしかど、田地もなく、家もやけぬれば、在所に住居(すまい)する事、かなはで、母・娘も、人の許(もと)に奉公する身となり、醫師も又、江戶へ立歸(たちかへり)て、甚(はなはだ)貧窮成(なる)體(てい)にて、さまよひあるきけるを、知(しり)たる人の行(ゆき)あひて、

「いかゞせられし事にや。」

と問ひしに、此醫師、件(くだん)の次第を物がたりして、

「不幸の事にはありけれど、然し、是も彼(かの)蛇の祟に遇(あひ)侍りし故なるべし。」

と、かたりぬるとかや。

2024/02/15

譚海 卷の七 相州つく井の神大蛇祭禮の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

○相模國、つく井と云(いふ)所に、大(おほい)なる蛇、あり。其村の神に祭りて、每年六月十八日には、祭禮とて、一村、群集して、にぎはふ。其日、かならず、此蛇、いでて、道にも、よこたふを、人々、集りて、

「蛇殿を、ころばせ、ころばせ、」

と、いひて、かはるがはるに、此蛇を、終日、社頭に、まろばし、もてあそぶ事なり。

 其日、過(すぎ)ぬれば、又、二度(ふたたび)、蛇、出(いづ)る事、なし。

 蛇の大(おほい)さ、かしらは醬油樽の如くなる、とぞ。

 其形も、あはせて、おしはかるべし。

 その祭禮の日は、村のもの、三人、極(きめ)て、役にあたりて、曾我五郞・朝比奈三郞・けはひ坂の少將の眞似をなして、五郞にあたれる人は、木綿衣裳に鎧のごときものを着て、終日、立(たち)てあり。かたへに、朝比奈にあたる人も、くさずりをとらへて、終日、片膝(かたひざ)たてて、あり。少將にあたりたるものは、手ぬぐひを頭(かしら)にまとひ、女(をんな)めきたる裝束(しやうぞく)して、其かたはらに坐し、膝に兩手を置(おき)て終日ある事、いづれも、木偶(でく)[やぶちゃん注:人形。]のごとし、とぞ。

 片山里(かたやまざと)の風俗、おもふに、質朴なる所作(しよさ)といふべし。

[やぶちゃん注:「つく井」現在の相模原市緑区の旧津久井地区。「ひなたGPS」の戦前の地図を参照されたい。一部は人口湖の津久井湖に沈んでいる。ここで「社頭」とある神社は不詳。多様なフレーズでネット検索をかけても、見当たらない。或いは、明治の神社整理で消えたか、或いは、津久井湖に沈んでいる可能性もあろう。なお、後半の「曾我五郞・朝比奈三郞・けはひ坂の少將の眞似をな」すというのは、歌舞伎狂言「壽曾我對面」(ことぶきそがのたいめん)を模したものであろう。延宝四(一六七六)年正月、江戸中村座で初演された初春を寿ぐ祝祭劇である。詳しくは当該ウィキを見られたい。私は文楽好きの歌舞伎嫌いであるので、三人の人物も、そちらに譲る。因みに「けはひ坂の少將」(「化粧坂の少將」)は遊女の通り名である。]

譚海 卷の七 眞言宗の僧盜賊と旅行せし事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

○眞言宗の僧、江戶に有(あり)けるが、官金二百兩、齎(もたら)し、上京しけるに、品川のほとりより、男壹人道づれに成(なり)て、親しく物がたりなどして、晝は、殊更、夜も同じ宿に泊る事にして、片時(へんじ)、側(かたはら)をはなれず、付(つき)まとひければ、此僧、

『是は。盜人(ぬすつと)なるべし。我等、金子懷中せるを察して、かく、ねんごろにするなるべし。』

と、心に、甚(はなはだ)、うるさく思ひやりて、

『何とぞ、道づれを、避(さけ)ん。』

と、はかりて、ある夜、又、一宿せしに、此僧、ひそかに、忍起(しのびおき)て、しられぬやうに、宿を、にげ出(いで)、

『今は、心やすし。』

と、思ひて、ゆくゆく、夜のあくるほど、松原の末成(すゑなる)茶屋に到(いたり)ければ、此男、いつのほどにか、そこに待居(まちをり)て、詞(ことば)を、かはし、

「今朝は、よくも、すかして御立(おたち)ありけり。和尙の懷中に金子もたせ給ふ事は、いよいよ、しりて侍り。いかにすかし給ふとも、京までは、是非、御供つかふまつるべきを、さのみ、いとひ給ふな。」

と、うちわらひて、又、同じさまに、つれだち行(ゆけ)ば、此僧、

『今は。いかやうにするとも、のがれがたし。ともかくも、佛の御(おん)しるべに、まかせて、ものすべき。』

と、思ひさだめて、そののちは、あへて、いとふ心もなく、同道せしに、ある夜、一宿せしに、外(そと)より、人、來りて、此男を呼聲(よぶこゑ)す。

『扨は、今宵、此ものらにころされぬべきにや。』

と、此僧、いよいよ、おそろしく成(なり)て、ねも、やらず、あるに、此をとこ、何(な)にかあらん、來(きた)る人と、ひそかに、しばらく物がたりして、かへしぬ。

 此男、かへりて入(いり)、ふしたるが、夜中に僧を呼(よび)をこし[やぶちゃん注:ママ。]、

「急用、出來(でき)たれば我(われ)申(まふす)に隨(したがひ)て、いそぎ、こなたに來り給へ。」

とて、此僧の具も、我物をも、ひとつに取(とり)したゝめて、家のうしろより、ひそかににげ出(い)で、竹藪などを分(わけ)つゝ、やうやう、十町[やぶちゃん注:一・〇九一キロメートル。]ばかりも、きぬらんと、おもふとき、

「あれ、御らんぜよ。」

と、此男のいふまゝ、僧、ふりかへりてみれば、ありし宿のかたに、失火ある體(てい)にて、火焰、天をこがし、おびたゞしく燒(やく)るさまなり。

 いよいよ、いかなる事ともしらねど、おそろしさに、いそぎ、道をもとめ行(ゆき)て、其日も、事なくて暮(くれ)つゝ、又、同じ宿(しゆく)に泊りぬ。

 さて、一日、二日、行(ゆき)て、ある夜(よ)、暮(くれ)ふかく成(なる)まで、未(いまだ)、やどりを、とらず、此男、

「しばし、しばし、」

といふまゝに、それにまかせて、くらき松原の間(あひだ)を行(ゆく)ときに、あなたより、いそぎくる馬の鈴の聲(こゑ)、聞ゆるに、此男、僧に、いふやう、

「今宵は、大事のわざ、出來(いでき)たり。こなたへ、おはせ。」

とて、僧を、道より、廿間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]ばかりへだてたる稻ふち[やぶちゃん注:「稻緣」で「田圃の傍」の意か。或いは「稻淵」で田に水を引く川の淵の謂いか。]の内へ、いざなひ、

「必(かならず)、我等、よびまゐらする迄、こゝに、うごかずして、おはすべし。」

と、いひて、男は、もとの道ヘ、かへるとき、やがて、此馬、近づくとおぼゆるに、あやまたず、てうちんを、うちけし、その跡は、何(な)にか、物音、はしたなく、うちあふやうにて、あやめもわかず、僧、わななき、わななき、聞居(ききをり)たるに、やうやう、ものおとも、しづまりて後(のち)、此男、きたりて、

「こなたへ、おはせ。」

とて、つれだちて行(ゆき)ぬ。

 其夜、あけて、宿にて、きけば、よべ、跡(あと)の宿の松原にて、金飛脚(かねびきやく)のもの、切殺(きりころ)され、同じく、馬士(うまかた)も、ころされつつ、金・荷、とられたるなど、かたるを聞くに、僧、心におもふやうは、

『宵(よひ)、さはがしかりしに、まつたく、此男の、せし事なるべし。』

と、おもふに、肝魂(きもたま)も、うせて、いとど、せんかたなく、

『ともかくも、此男のすべきまゝに、身を、まかすべし。』

と、おもひて、今は何事もあらそはず、いふまゝにして、每日、同道するに、いとよく、此男、世話をなして、つひに京まで恙(つつが)なく着けり。

 京、着(ちゃく)せし其夜、此男、僧に申(まふし)けるは、

「われら事、まことは、海道をはたらく、盜人(ぬすびと)に侍るが、和尚の連(つれ)になし給はりしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、こゝまで、心安くまいりたり。それがために、しり給ふごとく、道にて兩度迄、よきわざして、金子も思ふさまに得たる事なれば、此禮に、是を奉(たてまつ)る、」

とて、金子二百兩、取出(とりいだし)て、あたへければ、僧、大(おほき)におどろき、種々(しゆじゆ)に、ことわりをのべて、金子をば、返しけり。

「僧のつれにてあるやうに見せしかば、人も心おかで、おもふまゝに、ぬすみなしける。」

と、いひて、かいけちて、うせぬる、とぞ。

[やぶちゃん注:「かいけちて」「搔き消して」の音変化。]

譚海 卷の七 肥前長崎の女かめ鑄物妙工の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

○肥前長崎に「かめ」といふは、鑄物(いもの)に高名(かうみやう)の婦人なり。

 西國に諸侯の家に、龍のかたち、鑄(いり)たる香爐あり。名物の什器にて、祕藏せられしが、元來、二つ有りて、一對なりしに、いつの比(ころ)よりか、一つは失(うしなはれ)て所持せられしを、此諸侯、常に殘念に、おもはれ、兼て、「かめ」が錆ものに妙手(めうしゆ)なるを聞及(ききおよば)れ、わざわざ、使者をたてて、「かめ」に命ぜられ、

「此香爐の如く、鑄立(いりたて)て、一雙(いつさう)に成(なる)べきやいなや。」問はせられしかば、「かめ」、此香爐を見て、

「いかにも工夫を凝(こら)しなば、斯(かく)ごとく、鑄立ても、まゐらすべきものなれども、得と[やぶちゃん注:国立国会図書館本で補綴した。]日數(ひかず)をへて、よくよく見さだめ侍らざるうへならでは、成(なし)がたかるべし。」

と答ければ、使者、歸りて、其由を申(まふし)ければ、

「さらば一雙に成(なす)べき事ならんには、日數を費(つひや)さん事、いとふべきにあらず。」

とて、再び、「かめ」が方に件(くだん)の香爐をつかはし、尤(もつとも)什器なれば、片時(かたとき)も手ばなすべき物なられば、香爐持參せしものも、其まゝ、「かめ」が方に逗留して、目付(めつけ)に附居(つきをり)たり。

 扨(さて)、「かめ」、此香爐を側(かたはら)にひらき置(おく)て、朝夕みる事、每日、怠らず、あながち、とりたてゝ見るとはなけれども、手にとりて見、又は、かたへに置(おき)ても見、寢ても見、ふしても、み、斜(なのめ)に、み、眞面(まとも)に見などして、行住座臥に、香爐を見つゝ、日をふる事、一月(ひとつき)あまりにも成(なり)ぬ。

 此(この)附居たる男も、目付の役なれば、側にありて、片時、香爐を、はなるる事なかりしが、あまり退屈して、

「今は、はや、見給ひし日かずも、へぬ。いかに、こゝろに入(いり)たるにや。」

と、いひければ、「かめ」、

「成(なる)ほど、大槪は、日ごろ、見はべりしまゝ、心に得たる所も出來(いでき)ぬれど、なほ、今、しばし、見侍りて、よく、こゝろにうつしとりてぞ、鑄るべきやうも、定めはべらめ。」

とて、又、見る事、日かず、へたり。

 やうやう、又、半月あまりをへて、ある日、「かめ」、此香爐を手にすゑて、緣先に出(いで)、日にむひて、立(たち)ながら見る事、ほどありて、いかゞしたりけん、此香爐を、庭の石にしたゝか擲(なげ)あてければ、あやまたず、香爐、微塵碎(くだけ)うせけり。

 目付の男、是をみて、大(おひい)に、おどろき、いかり、

「かく日頃(ひごろ)、何のやうもなく、香爐、見る事とて、いたづらに、人をあざむき、かくのごとく、くだきつる事、不屆至極(ふどときしごく)なり。我等、目付に附置(つけおか)るゝ事も、大切の香爐の事ゆゑ、是まで滯留せしに、かく、くだきすてて、主人へ申譯(まふしわけ)なし、われら、切腹せん外(ほか)なし。しからば、其方も安穩(あんのん)にいたし差置(さしおき)がたし。」

と、甚(はなはだ)、せまりて、怒(いかり)ければ、「かめ」、申けるは、

「まつたく、おろそかにせし次第ならず。件の香爐は、相違(さうゐ)なく鑄立(いりた)て差上(さしあぐ)べし、それを持參ありて、若(もし)以前の物と相違あらば、其ときは、みづからが、首を切(きり)て、主人へ申譯にし給ふべし。先(まづ)、いかりを、やめて、鑄立(いりたつ)るを待(まち)給(たまふ)べし。」

と、いひければ、此目付、此詞(ことば)に、をれて、せんかたなく、渠(かれ)がするやうを、見居たりけり。

 すなはち、「かめ」は、かへどりを、ぬぎすて、たすきをかけて、土を涅(でつ)し、香爐の「いがた」を、こしらへ、扨(さて)、「ふいご」にむかひ、かれを鎔(とか)し、火を吹(ふき)たて、精神を、はげまし、飮食をわすれて、こしらへければ、半日あまりのほどに、件の香爐、二つまで、出來(しゆつたい)したり。

[やぶちゃん注:「かへどり」は「かいどり」(「かきどり」の音変化)が正しく、「打掛小袖」のこと。着物の裾が地に引かないように、褄や裾を引き上げて着用する小袖を指す。

「土を涅(でつ)し」黒い土で黒色に染めて。]

 其後(そののち)、藥(くすり)をかけ、磨(とぎ)を加へ、香爐一雙に造り終(をはり)て、目付の使者に與(あたへ)けるに、彼、什器の形と、毫釐(がうり)、たがふ所、なし。

 まことに妙手の工に、おどろきけり。

 此男、是をみて、大に悅び、いそぎ、持參して、主人へ奉(たてまつり)けるに、主人も、殊の外、喜悅ありて、「かめ」が妙手段を厚く賞謝せられたり。其後、「かめ」、人に物がたりけるは、

「彼(かの)香爐のまゝに、今一つ、こしらへいでんとしては、いかやうに鑄立ても、一雙に揃(そろ)ふ事は成(なり)がたきものなり。されば、よく、そのかたちを見置(みおき)て、こゝろに入(いれ)て、工夫、整(ととのひ)たる時、心にある形を、鑄(いる)形にして、造りたるゆゑ、一雙には、出來(でき)たるなり。なまじひに、彼(かの)香爐、殘りては、一雙に成(なし)がたき故、碎捨(くだきすて)たる事。」

と、いヘり。

[やぶちゃん注:とても素晴らしい話である。「かめ」女に、思わず、脱帽してしまう。而して、この女性は実在した人物で、朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に「亀女」として載り(コンマを読点に代えた)、『生没年不詳』で、『江戸時代後期の鋳金家。長崎の金物細工屋徳乗の娘。一説に津村氏とも。父の業を継いで唐物風の香炉を作った。豪放な性格で、貧困を厭わず、作品を予約する者があると』、『その予約金で』、『友人を招いて痛飲し、その後』、『制作に向かったという。黄銅製の鶉の香炉が多く伝わる。作品に「鶉香炉」(東京国立博物館蔵)がある』とあった。逢ってみたい粋な姐さんじゃないか!

譚海 卷の七 江戶柴三島町に日蓮上人畫の大黑天を所藏せし事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

○江戸芝三島町(しばみしまちやう)の要谷堂といへるものの家に、日蓮上人眞蹟の大黑天、有(あり)。

 半紙のはゞほどある紙へ、大黑天、立(たち)て、槌(つち)を振上(ふりあげ)たる下に、寶珠、二、三顆(くわ)、ゑがきて、

「文永二年八月何日日蓮」

と書(かき)て華押(くわおう)、有(あり)。

 此先祖、品川、古道具見世(みせ)にて、僅(わづか)の價(あたひ)に、かひ來り、日蓮眞蹟にて、いよいよ、信仰せしゆゑ、所帶、有福に成(なり)て數(す)千金を、まうけ、今は、雪蹈[やぶちゃん注:底本に「蹈」の右に編者の補正注が『(駄)』とある。「雪駄(せつた)」である。]見世を開(ひらき)て、あり。

 此大黑の繪、有德院公方樣[やぶちゃん注:徳川吉宗。]、御聞(おきき)に達し、

「甲子(かつし)の御年(おんとし)。」[やぶちゃん注:寛保四・延享元(一七四五)年甲子。この翌年、隠居し、大御所となった。]

とて、大黑天、御みづからも、ゑがゝせ、天下に施し給ひしほどの事なれば、召上(めしあげ)られ、しばらく御城(ごじやう)に有(あり)て、上覽相濟(あひすみ)、返し下されける。其時節の寺社奉行連名の御書(ごしよ)を賜(たまは)り、[やぶちゃん注:この時の寺社奉行は松平武元(たけちか)。当時は陸奥国棚倉藩主。]

「日蓮上人眞蹟、大切に致すべき。」

よしの文言をしるされ、奇代の物に成(なり)ける、とぞ。

 今に甲子の日ごとに、其(その)二階に厨司(ずし)[やぶちゃん注:底本に「司」の右に編者の補正注が『(子)』とある。]を出(いだ)し、祭禮す。

「行(ゆき)て拜せん事を乞(こふ)ものあれば、誰(たれ)にも拜さする事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:幕府将軍家徳川家は公的には宗派は天台宗であるが、家康は、実は元は日蓮宗信者であったし、歴代の将軍の妻や高位の側近にも、日蓮宗の信者が多かった。

「芝三島町」現在の港区芝大門(しばだいもん:グーグル・マップ・データ)。

「要谷堂」店名であろう。「ようこくだう」と読んでおく。

「文永二年」一二六五年。第七代執権北条政村の治世。日蓮は数え四十四歳。当該ウィキによれば、日蓮は前年の『文永元年』の『秋、日蓮は母の病が重篤であることを聞き、母の看病のため、故郷の安房国東条郷片海の故郷に帰った』が、『それを知った東条郷の地頭』『東条景信は日蓮を襲撃する機会を狙った』(これは日蓮が建長五(一二五三)年四月に清澄寺に於いて自己の法華経信仰を説いたが、その中で景信の信仰している念仏宗も住生極楽の教えどころか、無間地獄に陥(おちい)る教えであると批判し、「法華経」のみが成仏の法であると述べたことに怒りを発したためである)。『同年』十一月十一日『夕刻、天津に向かって移動していた日蓮と弟子の一行に対し、東条景信は』、『弓矢や太刀で武装した数百人の手勢をもって襲撃し』、『日蓮は頭』部『に傷を受け、左手を骨折するという重傷を負った』(「小松原の法難」)。この時、『鏡忍房と伝えられる弟子が討ち死にし、急を聞いて駆け付けた工藤吉隆も瀕死の重傷を負い、その傷が原因となって死去した』。十一月十四日、『日蓮は見舞いに訪れた旧師・道善房と再会した』が、『日蓮は』性懲りもなく、『道善房に対し、改めて念仏が地獄の因であると説き、法華経に帰依するよう説いた』。『その後、日蓮は』文永四(一二六七)年まで『房総地域で布教し』、『母の死を見届けて、同年末には鎌倉に戻ったと推定され』ている、とあった。]

譚海 卷の七 播州石の寶殿の事

譚海 卷の七 播州石の寶殿の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

○又、播州、「石(いし)の寶殿(はうでん)」とて、まします。

 御影石を、だす、山のふもとのかたそばにあるみやしろにて、御社(みやしろ)のさま、橫ざまに、たふれて、其下には、堀をほりめぐらして、あり。

「此水、汐(しほ)のみちひにしたがひて、たがはず。」

と、いへり。

 高さは、二丈ばかり、戶口は、上のかたに向(むかひ)て、それに年々の土、うづみて、大(だい)成(なる)樹ども、生(おい)しげりて有(あり)。

 橫のながさは、三、四丈もありぬべく、みゆ。

 神代に造られたる賓殿にて、萬葉集に、

 おほなむちすくな彥名のつくれりし

     しづの岩屋はいく代へぬらん

と、よめる所なり、とぞ。

 まことに、いかめしきみやしろなり。

 そこに、あるとし、參詣の人のともなひし、八歲に成(なり)たる子どものよめる歌とて、

 稀にきて又こん事もかたければ

    名殘をしづの石のみやしろ

と。

「をさなきもののよめるには、稀有なる事なり。」

と、人の、物がたりし。

[やぶちゃん注:これについては、私の「諸國里人談卷之二 石寶殿」の私の注を見られたい。リンクで画像が見られる。]

譚海 卷の七 信州某村かたわ車の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。]

 

○信州某村に「片輪車」と申(まふす)、神、まします。

 此紳神、御出(ごしゆつ)の日は、一村、門戶をとぢ、往來をとゞめて、堅く、見る事を禁ずれば、昔より、いかなる事とも、物がたりするもの、なし。

 ある年、御出の日、その村の一人の女、

『ゆかしき事』[やぶちゃん注:「見たいもの」。]

に、おもひて、ひそかに、戶に穴をうがち、うかゞひしに、遙(はるか)なる所より、車の、きしる音、きこへて、やうやう、その門を過(すぐ)るほどなれば、此女、穴よりうかゞひみしに、誠に、車の輪、ひとつにて、誰(たれ)挽(ひく)人もなきに、めぐりて過(すぐ)る。

 そのうへに、うつくしき女房、一人、乘(のり)たるやうにて有(あり)。

 車の過るまで見て、此女、閨(ねや)へ歸りたれば、先(さき)までありし、いとけなきむすめの、何方(いづかた)へ行(ゆき)たるにや、みえず。

 しばしは、

「はひかくれしにや。」[やぶちゃん注:「這ひ隱れしにや」。]

と、おぼつかなく、まどひしが、所々、さがしても、見へず。

「さては、うせぬるにや。此神のあるきをみぬ事に、いましめたるを、もどきて、うかゞひしゆゑ、神のとり給ひし成(なる)べし。」

と、いひ合(あひ)て、歎(なげく)事、限(かぎり)なし。

 一、二日、過(すぎ)けれど、行方(ゆくへ)しれめば、此女、おもひわびて、その社(やしろ)に、もふでて、あやまちを、くひなげきて、扨(さて)、一首の歌をよみける。

「罪科は我にこそあれ小車の

   やるかたもなき子をなかくしそ」

と、いひて、なくなくありて、歸りなんとするときに、むすめの聲、すれば、ふりかへりて見るに、社頭に、此むすめ、ありしままにて泣居(なきをり)たれば、いとうれしく、かきいだきて歸り來りける、とぞ。

「和歌には、神も、なごみ給ふ事、かしこし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:この「片輪車」は怪奇談中、枚挙に遑がない。私の最も古いものでは、残虐なカタストロフ・エンドの「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」(挿絵あり)がそれで、以下、「柴田宵曲 續妖異博物館 不思議な車」(漢籍に始まり、以上の本篇も紹介し、そこの私の注で、実は本篇を既に電子化している。他にも同様の本邦のものを注で電子化してある)、「諸國里人談卷之二 片輪車」は甲賀郡をロケーションとした本篇と酷似したハッピー・エンド版、最も新しいのは、前者の新字版の『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「片輪車」』である。]

譚海 卷の七 深草元政上人俗姓の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。「俗姓」は「ぞくしやう」「ぞくせい」孰れにも読む。

 この「深草元政」(げんせい)「上人」は日蓮宗の僧で漢詩人でもあった日政(元和九(一六二三)年~寛文八(一六六八)年)。当該ウィキによれば、『山城・深草瑞光寺(京都市)』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)『を開山した。日政は諱であり』、『俗名は石井元政(もとまさ)』。『京都一条に地下(じげ)官人・石井元好の五男として生まれる。姉は彦根藩主井伊直孝の側室・春光院である』。九『歳の時に建仁寺・大統院に入り、九厳和尚の薫陶を受ける。後に近江・彦根に移り』、十三『歳から城主の井伊直孝に仕える。松永貞徳に和歌も学んだ』。『幼少から山水を愛し、たびたび京都に赴いていたところ、泉涌寺・雲龍院の如周が法華経を講ずるのを聴いて感ずるところあり、病弱なこともあって』慶安二(一六四九)年に『に職を辞し』、『出家して日蓮宗・妙顕寺の日豊について僧となる』。『中正院の日護・本性寺の日徳と交流し、日蓮宗の秘奥を究めた』。明暦元(一六五五)年、三十三『歳で伏見深草に称心庵(後の瑞光寺)を営み、竹葉庵と号し』、『仏道の修行に励んだ。翌年』、七十九『歳になる母の妙種を伴い』、『身延山に参詣し、帰り道に江戸の井伊邸に母を託し、自身は日本橋に宿を取った。甥にあたる井伊直澄は』、『たびたび自分の屋敷に招待したが、日政はそれを固辞し、母を連れて京に帰った。その年に庵のそばに仏殿などを開き、深草山瑞光寺を開山し、法華経修行の道場とし、門下の宜翁を上座としてともに修行した。修行の合間に詩歌を楽しみ、熊沢蕃山・北村季吟など多数の著名人と交友関係があった』。寛文七(一六六七)年に『母の妙種の喪を営み、摂津の高槻にいたり』、『一月あまり留まるが』、『その翌年正月に病を得て、自ら死期を悟って深草に帰』り、『日燈に後事を託して寂』した。『享年』四十六であった。『遺体は称心庵のそばに葬られ、竹三竿を植えて墓標に代えたという。辞世として』、

  鷲の山常にすむてふ峰の月

     かりにあらはれかりにかくれて

『という歌がある』とあった。

 また、彼との悲恋の相手「遊女高尾」については、底本の竹内利美氏の後注に、『吉原最高の遊女「太夫」の代表が「高尾」で、三浦屋の高尾太夫には初代から七代まであったという。しかし、通例いわれている妙心高尾以下、仙台・西条・水谷・浅野・紺屋・榊原の各代いずれも、ここの話には該当しそうもない。自害した高尾などは仙台高尾の斬殺(伝説)を別としてはない。もっとも高尾の考証にも異説が多い。こうした説話も伝えられていたのである』とあった。

 さらに、本話の主人公の主君「掃部頭殿」については、『彦根藩主井伊家で、長寿院の法号をおくられたのは、井伊直該』(いいなおもり:元は直興(なおおき)と称したが、大老に就任した際、改名した。但し、後に前名に戻している)『で、明暦二』(一六五六)『年生、享保二』(一七一七)『年歿。大老職をつとめた』とある実在の人物である。しかし、元政上人の没した年で、彼は未だ数え十三歳であり、元政上人の事績とは一致しない。一致させるなら、同じ掃部頭を名乗った幕府大老相当職(大政参与)も務めた彦根藩第四代藩主井伊直澄(なおすみ 寛永二(一六二五)年~延宝四(一六七六)年:後に甥の直興を養子とした)を比定すべきであろう。但し、最後に注した通り、そこの出る戒名は、直興のものではある。

 なお、この前の二話は、まず、「譚海 卷之五 相州の僧入曉遁世入定せし事 / 卷七 武州河越庵室の僧藏金に執心せし事(カップリング・フライング公開)」で、既に公開しており、後の話は、同じくフライングして、「譚海 卷之七 江戶中橋五りん町にて石中に玉を得し事」で公開してある。]

 

○新吉原土手の道哲(だうてつ)が寺に有(ある)「遊女高尾が墓」は、深草の元政法師(げんせいほふし)が建(たて)ける、とぞ。

[やぶちゃん注:「道哲が寺」「道哲」は浅草新鳥越一丁目(現在の台東区浅草七丁目)の吉原遊廓へ続く「日本堤」の上り口にあった浄土宗弘願山専称院西方寺の俗称。明暦(一六五五年~一六五八年)の頃、「道哲」という道心者が庵を結んだところから、この名がある伝える。吉原の遊女の投込寺として著名である。関東大震災後、豊島区巣鴨に移った。「土手の道哲」とも称した。]

 元政、俗姓は、井伊掃部頭(ゐいかもんのすけ)殿家中、石井半平と云(いふ)者の子にて、吉兵衞といひて、江州彥根に住(すみ)けるが、若(わかki)時は、はいかいの句抔(など)を嗜しみ[やぶちゃん注:ママ。原本の「嗜」(たしな)「み」の誤記であろう。]、主人も、すかるゝ道ゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、氣に入(いり)て、段々、江戶の供に具(ぐ)せられ、在番の内、高尾に馴染(なじみ)、したしき中(なか)と成(なり)、

「妻にも、むかへくれよ。」

と、いひけるに、

「我等、部屋住(へやずみ)の事なれば、心にまかせず、家督をも取(とり)なば、又、いかにも謀(はか)るべきかたも、あるべし。」

など、契りし程に、此高尾、外(ほか)の客に受出(うえだ)さるゝ事、定(さだま)りぬれば、人しれず、歎(なげき)て吉兵衞に、

「かゝるよし。」

を物がたりしかば、吉兵衞も、おどろきながら、

「はじめにも、いひし如く、部屋住の身なれば、百兩の才覺も出來ず、せんかたなく、もろともに打(うち)なげき、わかれける時、高尾、又、申(まふし)けるは、

「此月、いついつは、治定(ぢぢやう)[やぶちゃん注:副詞で「必ず・きっと」の意。]、身受(みうけ)の金子、うけ取り、わたし、ある。」

よしなれば、

「必(かならず)、其日に來給ふべし。今生(こんじやう)の別(わかれ)に、今、一度(ひとたび)、逢(あひ)まゐらせたし。わが身(み)事(こと)、外(ほか)へ片付く所存侍らねば、それを思ひ出にて、自害し申し侍るべし。晝のほど、すごさず、かならず、來り給へ。時刻、おそくなりなば、逢(あひ)まゐらする事も、はかりがたし。」

と、くり返しちぎりて、なくなく、わかれぬ。

 吉兵衞、心ならず、あかしくらすほどに、其日に、いたりて、あやにくに、掃部頭殿、客來(きやくらい)あり。元より俳諧の會(くわい)なれば、朝より、吉兵衞を、めされて、御相手にて、主人と、三、四輩、百韻、興行あり。

 されど、吉兵衞、高尾がやく[やぶちゃん注:「約」。]に、そむく事を、心中に、おもひ、わすれぬまゝ、ぜひなく、付句(つけく)はいへども、何をいひけるや、われも、わきまへず、やうやう、滿尾(まんび)にいたり、饗膳なども終(をはり)て、客人、御歸(おかへり)ありければ、夕暮に成(なり)ぬ。吉兵衞、宿所(しゆくしよ)にかへるより、高尾が事、心にかゝりて、

『いそぎ、訪(たづね)ゆかん。』

と、おもへど、便宜、あしければ、ためらふ間、主人、側(そば)のものに申されけるは、

「今日(けふ)の百韻、吉兵衞が句つくり、いつもに引(ひき)かへ、一向、首尾とゝのはず、正體(しやうたい)なき事のみ、いひつゞけたり。渠(かれ)が才發に似合(にあは)ざる仕方(しかた)、何共(なんとも)心得ず、もし、不快にも、ありて、然るにや。なんじ、行(ゆき)て承(うけたまはり)て參るべし。」

と、ありけるまゝ、側のもの、吉兵衞かたに來り、對面して、主人の詞(ことば)を述(のべ)、尋(たづね)けるに、吉兵衞、

「全く、氣分も相(あひ)かはる事、なし。よろしく御前へ申上られ給はるべし。」

と、いひしかば、立歸(たちかへ)り、右の次第を述(のべ)けるに、掃部頭殿、

「いやいや。今日の吉兵衞がやうす、平生(へいぜい)とは、殊の外、相違(さうゐ)なり。何か、心中に苦勞する事などもあり、と見えたり、こゝろ、みだれたるさま、一かたならず。今一度(いちど)、行(ゆき)て、よくよく尋ね參(まゐる)べし。」

と、いはれて、又、側の衆、來り、吉兵衞に主人の口上を、いひ聞せ、深切に尋しかば、吉兵衞、其者にむかひて、

「何をかくし申べき。貴殿も兼てぞんじあり。われら馴染の高尾、心ならず、身請、相すみ、今日(けふ)、相果(あひはて)候に付、われらに、今、一度(ひとたび)逢(あひ)たきよし、約せしかば、是のみ、心にかゝりて、今日は是非、尋(たづね)侍るべしとおもひしに、さしあひて、客來にて、心にもあらず、御相手に召(めさ)れし故、心も落つかず、おのづから、主君の御目にとまるほどの、不埒成(なる)句どもも仕(つか)ふ[やぶちゃん注:ママ。]まつりしならん。」

と、いへば、側のもの、聞(きき)て、大(おほき)におどろき、且(かつ)は、哀(あはれ)を、もよほしける。

 吉兵衞、

「此次第は、御懇意の貴殿故に、物語申なり。御前をば、よきように申させ給へ。」

と、いひて賴(たのみ)、止方(しかた)[やぶちゃん注:ママ。]なき愁傷を、側のものも察し、暇(いとま)乞(こひ)て、立出(たちいで)、又、主人の前へ罷出(まかりで)しが、あまりに氣のどく成(なる)次第ゆゑ、ひそかに右のものがたりを申上ければ、掃部頭殿、聞(きこ)しめされ、

「吉兵衞かたへ急に用事有ㇾ之間、早々、只今、罷出(まかりいづ)べし。」

と仰出(おほせいだ)され、吉兵衞、心得ずながら、出(いで)けるに、早速、御逢(おあひ)ありて、掃部頭殿、仰られけるは、

「今日は、終日、客來にて、其方も、はいかいの相手をいたし、殊外(ことのほか)、氣鬱せしと見得(みえ)たり。今晚、暇を遣すまゝ、何(いづ)かたへも罷越し氣ばらし仕(つかまつ)り罷歸(つままつりかへ)るべし。夜に入(いり)、遲刻(ちこく)に及(および)ても、くるしからず。其段は、役人中(ちゆう)へ申渡し置(おく)べし。是をつかはす間(あひだ)、休息して、參るべし。」

とて、大(だい)成(なる)木枕(きまくら)を賜(たまは)りける。

 吉兵衞、拜受して、心も空(そら)にて、宿所へかへり、枕をみれば、さしふたの箱にて、内に、金子七百兩、あり。

 いとおもひがけぬ事ながら、うれしく、いそぎ提(さげ)て、新吉原三浦屋方(かた)へはしり行(ゆき)けるに、はや、時刻ほど過(すぎ)て、高尾は、あへなく、自害せし由。

 吉兵衞、大(おほき)に歎き、悲泣(ひきふ)すれども、かヘらぬ事なれば、むなしく宿所へ立(たち)かへりぬ。

 此故(このゆゑ)に、吉兵衞、心に入(いり)て、高尾が墓を造立せし、とぞ。

 石塔の上に、地藏菩薩の像一體を、ほり付(つけ)有(あり)。

 今も猶、此墓じるし、そのまゝにて殘りたれど、年曆をへしかば、地藏ぼさつも、みぐしの所は、半缺(はんかけ)落(おち)たるを、又、好事(かうず)のもの、石を継足(つぎた)し、取(とり)つくろひて、つくろへる石には、左右に、「もみぢ」のかたを、一葉(ひとは)づつ、彫付(ほりつけ)たり。

 墓には、

   秋風にもろくもちりし紅葉(もみぢ)哉

といふ、その折の高尾が辭世の句を、吉兵衞、手跡にて、書付(かきつけ)、彫(ほり)たりしが、是も、苔(こけ)むし、風雨にされて[やぶちゃん注:「曝れて」。「長い間、風雨や太陽に晒(さら)されて、色褪せ、朽ちて」の意。]、わづかに、一、二字も見わかつほどなり。

 墓石のうしろに、江州彥根家中、石井氏、建(たつ)るよしを、しるしたりしを、是をば、吉兵衞三代後(のち)の子孫、名を惡(にくみ)て削(けず)り去(さり)し、とぞ。

 扨、翌年、掃部頭殿、國許(くにもと)へ登らるゝとき、吉兵衞も、供にて、江州の番場(ばんば)まで參(まゐり)しに、同所にて晝食のせつ、吉兵衞、直(ぢき)に、主人へ、永(なが)の暇(いとま)を願(ねがひ)ければ、主人も、めを懸(かけ)らるゝものの事、殊に、高尾の事も聞(きき)及ばれぬれば、あはれに存ぜられ、やがて願のままに、暇、賜(たまひ)ぬ。

[やぶちゃん注:「江州の番場」滋賀県米原市番場。]

 やがて、そこにて、吉兵衞、もとゞりを、きりて、出家と成(なり)、「元政」と號し、山城の深草(ふかくさ)に住(ぢゆう)し、法華持經(ほつけぢきやう)の大德(だいとこ)とは成(なり)ける。

 是、則(すなはち)、世にしる所の深草元政(ふかくさげんせい)にて、同所瑞光寺の中興なり。石井氏の子孫は、今もなほ、彥根家中にて、祿千石、賜りて有(あり)。

 其時の掃部頭殿は、長壽院殿と號し、諱(いみな)は□□と申(まふす)御方(おかた)なり、とぞ。

[やぶちゃん注:「其時の掃部頭殿は、長壽院殿と號し」この戒名は直興の戒名「長壽院覺翁知性」ではある。

2024/02/14

譚海 卷の七 因州十六濱の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。底本の竹内利美氏の後注には、『鳥取県東北の日本海岸。山陰海岸国立公園の一部』とあるのだが、この国立公園はここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)であるが、この「十六濱」に相当する地区は見出せない。「環境省」公式サイト内の「山陰海岸国立公園の見どころ」を見るに、竹内氏の言っているのは、「五色浜」らしいが、ネット検索で「五色浜 十六浜」で調べても、ここを昔、「十六濱」と別称したとする記事は見当たらない。地名の名数は時に時代によって異なることはあるが、「五」と「十六」では、余りに関連性が感じられない。私は嘗つて底本を読んだ際、これは、竹内氏には悪いが、「場所が、全然、違うのではないか?」と疑問を持ったのであった。それは、私が無類の「海藻」フリークであり、「十六島」という全く違う場所の地名を、よく知っていたからである。以下、私の見解を述べる。

 標題の「十六濱」は正しくは「十六島濱」と書き、「うつぷるいはま」(うっぷるいはま)と読むべきものであると考える。さすれば、この「因州」は不審である。そこは「因幡國」ではなく、「出雲國」だからである。津村の本書での記載は、それが遠い地方の場合、その殆んどが、伝聞記載で、自身が行って現認したものではないため、誤りが非常に多いのである。私は、これも、その悪しき一つであると断ずるものである。因みに、この場所は現在の島根県出雲市十六島町(うっぷるいちょう)にある海岸に突出した岬で、大岩石や奇岩が林立し、山陰でも屈指の海岸美を誇る。また、この周辺の独特の食用海藻である「ウルップイノリ」(紅色植物門紅藻亜門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属ウップルイノリ Porphyra pseudolinearis )の産地としても知られる。私のサイト版の寺島良安「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「うつぷるいのり 十六島苔」を見られたい。

 なお、この前の長い話「譚海 卷之七 俳諧師某備中穢多の所に止宿せし事」は、既にフライング公開している。]

 

〇「因幡國の北の海濱を十六濱と云(いふ)。

濱、十六、山、十六、有(ある)間(あひだ)、人家なき所なり。

 常の陸(りく)街道にあらず、濱道にて、岩をつたひ、浪(なみ)あひを見合(みあはせ)て通ふ道なり。

 北風、强き時は、濱邊の砂を吹立(ふきたて)、暫時に砂山を、なす。甚だ、奇觀なり。

 此濱邊より、隱岐國、近く、みゆ。朝鮮國も、みゆ。朝鮮は、五十里海上、有(あり)。」

といふ。

[やぶちゃん注:「朝鮮國も、みゆ」噓。鳥取でも、島根でも、朝鮮半島は見えません!!!

「五十里海上」百九十六キロメートル强だが、これも噓だ。十六島町からでさえ、三百キロメートルを有意に超える。五色浜からでは、実に五百キロ超である!

譚海 卷の七 駿州富士雲氣にて晴陰をうらなふ事

譚海 卷の七 駿州富士雲氣にて晴陰をうらなふ事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。標題は「駿州」としながら、本文では「伊豆國」と言っているのはママ。駿河国の島北端は伊豆半島の北端と接するが、やはり強い違和感がある。「晴陰」は「せいいん」で、「晴れと曇り」の意。]

 

○伊豆國にて、富士山をみれば、時(とき)有(あり)、て雲の起るにしたがつて、陰晴(いんせい)をうらなふに、よく應ずる事、たがはず。

 まづ、一片の雲、細く、橫に、長く引(ひき)たるが、二筋(ふたすぢ)、空中に現(げん)ずるが、段々、空より降(くだり)て、ふじ山の麓に、一すぢ、かゝり、一すぢは嶺に、かゝる。

 麓にかゝれるは、嶺にある雲よりは、橫、みじかく、此ふたつの雲、上下(うへした)より、のぼりて、山の中腹にして合(がつ)して、ひとつと成(なり)、其とき、雲のうら、黑ければ、

「風の兆(きざし)。」

とし、白ければ、

「雨なり。」

と、さだむ。

 土人の見なれし事にて、

「每度、たがふ事、なし。泰山(たいざん)の雲のいはれも、かゝる事にや。」

と、かたりぬ。

[やぶちゃん注:「泰山の雲」「泰山」は山東省泰安市にあり、高さは最高峰の「玉皇頂」で千五百四十五メートル。封禅の儀式が行われた山として名高く、道教の聖地である五岳の一つだが、「泰山の雲」というのは、雲海のことか。公式の「TBS番組表」の「世界遺産」の「特集 泰山 天空へつづく石の道」の解説に、『泰山は海に近く、峰々が連なっている独特の地形で、湿った空気が峰と峰の間に流れ込むために、低山帯であるにもかかわらず、雲海が発生する』。『雲海の発生にはサイクルがあり、泰山のふもとで気温が』摂氏三十度『以上の炎天下の日が一週間ほど続くと、雲が発達し、やがて』、『一気に大雨が降』り、『その雨の勢いが強いほど、その後』、『雲海が発生しやすくなる』とあった。]

譚海 卷の七 江州に石を嗜人の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。標題の「嗜人」は敢えて「すくひと」と訓じておく。]

 

○「江州に棊石(ごいし)[やぶちゃん注:この場合は広義の「石」のことである。]を好(この)で名高き心あり。六十餘州の石、ことごとく集(あつめ)貯(たくはへ)ずといふ事、なし。甚(はなはだ)、奇怪成(なる)石、有(あり)。又、石を藏置(をさめおく)簞笥(たんす)、ことに奇成(きなる)製なり。」

と、見し人の、かたりぬ。

[やぶちゃん注:ここでは名を出していないが、これは、私の偏愛する愛石書「雲根志」の作者で、強烈な奇石収集家にして、本草学者であった木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)である(底本の竹内氏の後注でも彼としている)。近江国志賀郡下坂本村(現在の滋賀県大津市坂本。グーグル・マップ・データ)生まれ。詳しくは当該ウィキを参照されたい。]

譚海 卷の七 京都六月十九日座頭納涼の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。

 なお、この前に配された長い話である「譚海 卷之七 武州熊谷農夫妻の事」は、既にフライング公開してある。]

 

○京都座頭の涼みは、四條淸凉院(せいりやうゐん)にて、あり。

 每年六月十九日、檢校(けんげう)・勾當(こうたう)、在京の限(かぎり)、三、四十輩、會集(かいしゆ)するなり。

 床の間に、琵琶、三面を飾る。一(ひとつ)は「靑山(せいざん)」、その餘(よ)は名を忘(わすれ)たり。いづれも、重代の名器なり。

 その前に、壺に酒を入(いれ)て供(きやう)す。「太平の壺」と號す。東照宮より賜りたる壺なり。職(しよく)の檢校、侍者を呼(よん)で、

「『太平の壺』を、ひらきまうせ。」

と云(いふ)。

 侍者、卽(すなはち)、床(ゆか)に就(つい)て、壺をおろし、銚子に、うつし、宴(うたげ)を、もよほす。

 同じく、答ふるに、

「『太平のつぼ』を、ひらきまゐらす。」

といふを以(もつて)す。

 故事なり。

 扨(さて)、職の檢校、「開口(かいこう)」といふ物を、唱ふ。みじかき章(しやう)なり。

 章、終れば、一座の座頭、

「よいちや、よいちや。」

と、ほむる事なり。

 其後(そののち)、勾當をして、「平家」をうたはしむること、琵琶にあはせて、三曲、有(あり)て、事、終(をはる)。

 此宴席、數(す)十金の費用に及(およぶ)事なり。

 每年、恆例にして、絕(たゆ)る事、なし、とぞ。

[やぶちゃん注:「京都座頭の涼み」底本には竹内利美氏の後注があり、『盲人の当道座の行事として、職祖[やぶちゃん注:「しょくそ」。]天夜王子(尊)[やぶちゃん注:「尊」で「あまよのみこと」と読む。]を追福するため、毎年二月十六日在京の検校・勾当・座頭が集って四条河原に積石供養し、また高倉清聚庵[やぶちゃん注:「たかくらせいじゅあん」。京都高倉綾小路にあった、歴代の惣検校の霊を祀った寺。]で平家を語って法会をおこなった(積塔会[やぶちゃん注:「しやくたふゑ(しゃくとうえ)」と読む。])。さらに、毎年六月にも、「座頭の涼み」として同様の法会がおこなわれてきた。その模様をここには伝えている』とあった。

「檢校・勾當」視覚障碍者の上位官位である「盲官」のトップとナンバー・ツー。その下には勾当・座頭などの位階がくる。これを当道制(度)と言う。

「靑山」琵琶の名称。唐(とう)から伝来した名器で、平経正が琵琶の名手であったので、仁和寺の守覚法親王から、一時、下賜されたとされ、「平家物語」の「卷第七」の「經正都落」でその「靑山」を返すシークエンスがある。

「太平の壺」不詳。現存しないようである。

「開口」近世、幕府の大礼能や、本願寺の礼能などの儀式的な演能に於いて、脇能の初めに、ワキの役が新作の祝賀の文句を謡うこと。また、その謡(うたい)を指す

「よいちや」「太平の壺」は、本来は茶壺なのであろう。]

譚海 卷の七 江戶小川町某士山下賣女の家にある事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。「賣女」は「ばいた」。「小川町」は現在の千代田区神田小川町一丁目から三丁目(二丁目はここ)相当で、サイト「江戸町巡り」のこちらによれば、『江戸期は駿河台南側の大名・旗本等の武家地の汎称として用いられ、切絵図にも』「飯田町 駿河台 小川町絵図」『と題して、一帯の武家屋敷を記している』とある。]

 

○小川町に大身の御旗元衆あり。

 その家、早世して、親族の内、家督に願ひ立(たつ)べき人、なし。

 家中、打寄(うちより)、評議しけるに、本所に某といふ御旗元(おはたもと)、小身(しやうしん)なれども、是より外に、家督、願ふべき人なければ、夫(それ)をもとめけるに、此人、小普請入(こぶしんいり)、放蕩にて、居(をる)屋しきも、人に讓(ゆづり)あたへ、本人、住居(すまい)、一向、しれざりければ、家老、内々、手を盡しさがしければ、ひそかに山下(やました)の、其(その)町家に拘(かかは)り人(びと)にてあるよし聞出(ききいだ)し、家老、行(ゆき)て見しかば、山下の君(きみ)を貯(たくはへ)て衒(てら)ふ[やぶちゃん注:ここは「売る」の意。]家にてありければ、此家老、計策を𢌞(まは)し、先(まづ)何心(なにごころ)なく、その家へ、君を買(かひ)に行(ゆき)て數度(すど)にをよび[やぶちゃん注:ママ。]、家内に心をつけて見れば、竃(かまど)に、火焚(たき)て居《を》る、はつぴ着たる男のおもざし、幼少の時、見おぼえある顏なりければ、いよいよ、

『渠(かれ)成(なり)。』

と、こゝろづきて、なを[やぶちゃん注:ママ。]、しげく、君を買に行て、君にも、不慮の金子等あたへ、家内の者へも、おなじく金子などあたへしまゝ、君は、わづかに錢二百文にうる事成(なる)に、かく過分の金子、折々、もらひぬるまゝ、其家にも、

「ことの外、よき客。」

と奔走し、此男も馴近(なれちか)つきて、度々、そばきり・酒肴などの使(つかひ)にも賴み、別懇(べつこん)に成(なり)たり。

[やぶちゃん注:「山下」寛永寺のある上野山の山下であろう。サイト「WANI BOOKS NewsCrunch」の永井義男氏の「上野の猥雑さは昔から? 百以上もの女郎屋が林立していた」の「江戸の男の歓楽街 第3回―山下(前編)―」に、前振りで、『上野公園の下、山のふもとにあった岡場所「山下」。江戸時代、ここには「けころ」と呼ばれる遊女が置かれ、たいそう繁盛したという。女郎屋が百以上軒を連ねたことも』とあり(以下改行を略した)、『江戸時代、山下は江戸でも有数の歓楽街だった。本来、山下一帯は、徳川家の菩提寺である寛永寺への延焼を防ぐための火除地として、空き地になっていた。この空き地に、いざというときはすみやかに取り払うという条件のもと、幕府は簡易な建物、いわば仮設店舗を建てるのを許可した。これにともない、歓楽街・山下が生まれた』。『茶屋や芝居小屋、見世物小屋、楊弓場(ようきゅうば)などが立ち並び、多くの人が集まった。やがて、山下は岡場所としても有名になる。いつしか、「けころ」と呼ばれる遊女を置いた女郎屋が林立したのだ』。「頃日全書」(宝暦八(一七五八)年刊)に、『次のような事件が記されている。宝暦八年』『六月二十日は八代将軍吉宗の命日にあたり、九代将軍家重や諸大名が寛永寺に参詣した。町奉行の依田政次も多数を率いて御成道の警備にあたっていたが、たまたま駕籠が山下に入り込んでしまった。依田が駕籠の中から見ると、多くのけころが道行く男に声をかけている。奉行所に戻った依田は、部下に厳命した。「今日は上様の御成日なので、遠慮すべきであるのに、山下の遊女どもの振る舞いは言語道断である。女郎屋は打ちこわし、女はすべて召し取れ」』となし、『翌二十一日、奉行所の役人が出動して、数十人のけころを召し取るという騒ぎになった。女郎屋の主人はみな、手鎖に処された。しかし、岡場所そのものは廃止にはならなかったので、けころはすぐに復活した』とある。(以下は「2」)『けころの最盛期は安永~天明期』(一七七二年~一七九九年)『で、女郎屋は合わせて百七軒あった。享保から文化までの江戸の風俗を記した』「続飛鳥川」に『――けころ、寛政の頃まで、上野山下など、大通りをはじめ、横町横町門並に有り、一軒に両人位づつ見世を張り、前だれ姿にて、大かたは眉毛有、年増もあり、いづれも美婦計りなり。白昼に見世を張、入口より三尺計奥に居る故、拵へものはなし、此外所々に夥しく有り、代弐百銅、夜四ツ時よりとまり客を取、食物なしに金弐朱』、『とあり、多数のけころがいたのがわかる。一軒の女郎屋に二、三人のけころがいて、入口付近で顔見せをしていたが、美人ぞろいだった。揚代は二百文。夜四ツ(午後十時頃)から、泊まり客を受け入れたが、揚代は食事なしで金二朱だった。また』、「塵塚談」(小川顕道著・文化一一(一八一四)年『にも、けころについて――是も一間の家に弐三人ヅツ限りに、出居る事也、花費は弐百文ヅツにて、いづれも美容貌を選び出したり』、『とあり、一軒の女郎屋に二、三人のけころを置いていた。花費は揚代のことで、二百文だった。また、いずれも美貌ぞろいだった』と『いう』とあった。]

 あるたそかれ過(すぎ)、又、此家老、きたり、

「其男や、ある。」

と呼出(よびいだ)しければ、此男、何心なく出(いで)あい[やぶちゃん注:ママ。]けるを、門に呼出し、そのまゝかつがせ來(きた)乘物へ押入(おしいれ)、外より繩にて八重(やへ)十文字にからげたるやうにして、小川町の屋敷へ連れ歸り、扨(さて)、其後(そののち)、公儀へ、ねがひて、家督に定(さだめ)ける、とぞ。

 君の家には、其後(そののち)、家老も來らざれば、

「いかなる事にや。」

と、ふしんを、たて、又抱り人(びと)[やぶちゃん注:底本には「抱」の右に補正注で『(掛)』とある。全体で「居候」の意。]の男も、其まゝに見えざれば、あやしみおもふ事かぎりなけれど、元來、人別(にんべつ)にも、しるさぬ男なれば、殊更、訴出(うつたふ)べき樣(やう)もなく、年月を過(すぎ)ける。

 扨、四、五年過(すぎ)て、此君を、たくはひし家の亭主、小川町の其屋敷より、

「賴度(たのみたき)用事、有(あり)。」

とて、招來(まねきき)ければ、亭主、心得ずながら、行(ゆき)見るに、役人、出逢(いであひ)て、

「此度(このたび)、手前、長屋はじめ、新築、有(あり)。『此ふしん、其方(そのはう)へ、ひとへに賴申度(たのみまふしたき)。』よし、主人、申付(まふしつけ)られぬるまゝ、招(まねき)たる。」

と、いひければ、亭主、

『ふしぎなる事。』

に、おもひ、

「拙者、ふしん等の事は、一向、不案内。」

の、よし、辭しけれども、役人、

「とかく其所(そのこところ)は、此方(このはう)にていか樣(やう)とも相(あひ)はからひ申(まふす)ベき間(あひだい)、承知の請(うけ)、致しくれ。」

とて、卽刻、出入の大工を呼(よび)につかはし、亭主に見參(けんざん)させける。

 大工、申(まふし)けるは、

「拙者事、久敷(ひさしく)此御屋しき出入(でいり)のものに候ヘども、此度(このたび)御ふしんの事は、其許樣(そこもとさま)へ御賴(おたのみ)なされる譯(わけ)、有ㇾ之(これある)由(よし)、よんどころなき事に承及候(うけたまはりおよびさふらふ)。」

と、いひければ、亭主、いづれにも、かやうの事、不案内に候へ共(ども)、達(たつ)て御賴(おたのみ)の事に候得(さふらえ)ば御請(おうけ)申しぬ。此うへは、よろしく、御賴申す。」

と、いひければ、大工、かねて、つもり置(おき)たる注文書、亭主へ見せ、

「此上百兩も御增(おんまし)直段(ねだん)書被ㇾ成(かきなされ)、可被差出[やぶちゃん注:返り点はママ。ここは「可ㇾ被差出」でなくてはおかしい。「刺し出ださるべし」である。]。其上は、拙者、うけ合い[やぶちゃん注:ママ。]、かやうとも、出來(しゆつたい)いたすやうに御世話可ㇾ仕(つまつるべし)。」

旨(むね)、申ければ、大工、相談の上、直段書付、差出(さしいだ)しけるに、屋敷にて披見の上、又、亭主を呼(よび)に來り、

「先日被差出候普請注文書付、餘り、下直(げぢき)成(なる)。」

由(よし)、主人申され候間(さふらふあひだ)、

「此直段のうへ相(あひ)增可ㇾ被差出旨申候間、增直段(ましねだん)いたし、指出(さしいだ)しけるに、度々(たびたび)、

「それにても下直成(なる)。」

よしにて、終(をは)りには二千金も相增たる直段にて、普請の事、いひ付られ、首尾好(よく)、造作出來して、此亭主、存(ぞんじ)もよらぬ金子、德付(とくづき)たれば、返す返す、

『ふしん。』

に思ひたるに、屋敷より、

「普請、よろしく出來いたし、主人も滿足におもはれ候。夫(それ)に付(つき)、此末(このすゑ)出入(でいり)いたすやう。」

に云付(いひつけ)られ、彼是、用事等、聞(きき)て、二、三年、經て後(のち)、主人、逢(あひ)けるに、亭主、よく見れば、先年、わが方(はう)に抱り人[やぶちゃん注:同前で「掛り人」。]に居(をり)たる男の、かく、殿になりてありつれば、大(おほい)におどろき、思惟するに、

『普請、莫大の直段にて、いひ付(つけ)られたるも、此報恩の爲(ため)にこそ。』

と、はじめて、おもひ、はかられたり、とぞ。

[やぶちゃん注:根本的に、冒頭で激しい疑問がある話である。「その家、早世して、親族の内、家督に願ひ立(たつ)べき人、なし」と言っている点である。後継者がなく、当該人が「早世」している場合、最後の切り札は死に際して、当時の法的には、末期養子にする方法しかない。死んでしまったのを、未だ生きていることにして、早急にそれを行うことはあったが、「早世」という謂いは、明らかに時間の経緯が有意にある印象を与えるからである。ちょっと、おかしい。末期養子が間に合わず、改易されたケースはごまんとある。後半、継いだ家がかなりの大金を持っていたことが判ることから、どうも、裏で金で誤魔化したもののように見受けられる。]

譚海 卷の七 同國熱海大瀨明神の事 附天木山絕景世家の漁師ある事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。「同國」は前の前の記事と、前の記事を受けたもので、「豆州」であり、「天木山」は「天城山」が正しい。「世家」は「せいか」で、一定の地位や俸禄を世襲していた家柄及び、その名家の家系を記録したものを意味する。]

 

○同國熱海の南に大瀨(おほせ)と云(いふ)所有(あり)。海上へ、三十町、さし出(いで)て、幅三、四町[やぶちゃん注:三百二十七~四百三十六メートル。]ほどある崎なり。

[やぶちゃん注:「同國熱海の南に大瀨と云所有」これは正確には「西」或いは「西南西」で、西伊豆の静岡県沼津市西浦江梨(えなし)の大瀬崎(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のことである。]

 そのとまりに、「大瀨大明神」といふ社(やしろ)、有(あり)。

「威靈(ゐれい)なる事にて、其出島の、石にても、草木にても、持歸(もちかへ)れば、祟らせ給ふ。」

とて、甚(はなはだ)、愼(つつしみ)て、侵(おか)すもの、なし。

[やぶちゃん注:「大瀨大明神」現在の大瀬神社。大瀬崎の先端部にある。]

 其邊(そのあたり)、「柏(びやく)しん」の樹、多くて、二(ふた)かゝへ、三かゝへなる物、有(あり)。

[やぶちゃん注:「柏しん」「柏槇」(びゃくしん)で、裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属 Juniperus「大瀬崎のビャクシン樹林」や、「大瀬神社 御神木」(同種)が確認出来るが、ここのビャクシンはビャクシン属Juniperus 節イブキ栽培品種カイヅカイブキJuniperus chinensis 'Kaizuka'と思われる。同属は低木に分類されるものの、大樹となり(最大高二十メートル)、しかも幹が捩じれ、樹皮が縦長に裂けて薄く剝がれる。これが自らの内実を裂いて成長するように見えることから、禅宗の寺院に好んで植えられてあるのを、よく見かける。]

 社前に、又、淸水(しみづ)わき出(いづ)る所、有(あり)、至而(いたつて)、淸冷(せいれい)なり。潮(しほ)の氣(け)、絕(たえ)てなき事を奇異なる事に、いへり。丹後「天の橋立」にも、松原の中に、淸水、出(いづ)る所有(あり)。地脈のゆゑによる事、はかりがたき事なり。

[やぶちゃん注:これは、「大瀬明神の神池」である。当該ウィキによれば、『大瀬崎の先端にある、最長部の直径がおよそ』百『メートルほどの池で』、『伊豆七不思議の一つ』に数えられている。『国の天然記念物である「ビャクシンの樹林」に囲まれてはいるものの、海から最も近いところでは距離が』二十『メートルほど、標高も』一『メートルほどしかなく、海が荒れた日には』、『海水が吹き込むにもかかわらず』、『淡水池であり、コイやフナ、ナマズなどの淡水魚が多数』、『生息している』。『駿河湾を挟んで北方およそ』五十『キロメートルの富士山から伏流水が湧き出ている、などとする説もある一方、海水面の上下に従って水面の高さが変わるとも言われており、何故淡水池であるかは明らかにされていない。神域であり、古くから池を調べたり』、『魚や動植物を獲ったりする者には祟りがあるとされてきた。また実際に』、『池の水が層状に分かれていた場合などに』、『機材や人などが池に入ると』、『取り返しのつかない環境破壊となる恐れが強いこと、透明度が低く』、『池の底の観察が難しいと考えられること、などから』、『今もって詳しい調査はなされておらず、水深すら不明である』とある。私は静かな西伊豆が好きで、かなりの回数、旅しているが、未だここは訪れていない。]

 此邊(このあたり)、絕景にして、漁獵(ぎよれふ)の舟、常に、つどふ所なれば、伊豆の人、往々、遊山して、海味(かいみ)を、卽(そく)、そこにて、調理して、くらふ。賞翫、いはんかたなし、とぞ。

 又、同國天木山(あまぎさん)も秀麗なる山なり。東海道の駅路、絕頂より眞下に、みゆ。行先は濱松の邊(あたり)までも、見とほさるれども、遠所(ゑんしよ)は目力(めぢから)およばず、蒼茫として、わかちがたし。駿州さつた・田子の浦邊は、手にとるやうに見ゆるなり。

[やぶちゃん注:天城山は静岡県賀茂郡東伊豆町のここ。私は、恐らく、六度以上、峠越えをしている。

「駿州さつた」現在の静岡県静岡市清水区由比西倉澤にある薩埵峠

「田子の浦」歌枕として知られるそれは、現在の静岡県富士市のここ附近。]

 又、同國「かく山」といふところよりは、いにしへ、うしほを、くみて、内裏の藥院に奉れるよし。その折の御製とて、かしこに、いひつたふる歌とは、

「かく山のふもとのうしほ藥にも

    いたとはいふぞ内裏ことばに」

[やぶちゃん注:国立国会図書館本では、「た」の右に『しイ』(「イ」は異文の意)とあるが、これは前の「い」のそれであろう。]

と、よみて玉(たま)はせしよし、いへり。

[やぶちゃん注:「かく山」静岡県富士市今井にある「天(あま)の香久山(かぐやま)砦跡地」ぐらいしか、浮ばない。この「御製」とするもの、文献にはないようである。私は短歌嫌いなので、いい加減、調べるのに疲れた。悪しからず。]

 同所諸郡に、世家の農夫、おほし。東照宮御滯留ありしものの家、二軒あり、いづれも漁獵、無年貢にて、其船には「御免」といふ文字を書(かき)たる「のぼり」さして、往來すと云(いふ)。

 世家の農(のう)、持高(もちだか)によりて、高下(かうげ)もさまざま有(あり)。

 世家は、今時(こんじ)衰(おとろ)ふといへ共(ども)、敢て、賤民、抗(こう)せず、尊敬する事、主君の如し。もし、その同列に備(くはは)らんとすれば、世家の内にて、家、絕(たえ)たるを、「つぶれ株」といふ物有(あり)、其「潰れ株」を買(かひ)て、住居(すまい)すれば、世家の農と、まじはりを、ひとしくせらるるなり、とぞ。

譚海 卷の七 同國天木江川太郞左衞門宅の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。国立国会図書館本のそれが正しい。「同國」は前の記事を受けたもので、「豆州」であり、「天木」は「天城」が正しい。]

 

○伊豆天木に江川太郞左衞門と云(いふ)は古き家にて、代々、そこの御代官にして、血脈(けちみやく)、今に、たえず相續有(あひつづきあり)。

 その住居(すまい)の棟札(むねふだ)[やぶちゃん注:]は日蓮上人の筆にて、今、六百年まで燒亡せざる家なり、とぞ。

[やぶちゃん注:「江川太郞左衞門」詳しい当該ウィキがあるので、参照されたいが、そこに、『伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山町)』(ここ。江川邸(韮山役所跡)として残る。グーグル・マップ・データ)『を本拠とした江戸幕府の世襲代官である。太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称である。中でも』第三十六『代の江川英龍』(えがわひでたつ:当該ウィキあり)『が著名である』とあるが、「譚海」の執筆時は、その前代の第三十五代で武士の江川英毅(ひでたけ 明和七(一七七〇)年~天保五(一八三四)年)で、講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」によれば、江川英征(ひでゆき)の子で、江川英龍の父。寛政三(一七九一)年、伊豆韮山代官職と第三十五代太郎左衛門を継いだ。新田開発・植林などに勤め、儒者として知られた朝川善庵や、朱子学者柴野栗山(りつざん)らと交遊があった文化人でもあった。

「棟札」(「むなふだ」とも呼ぶ)は寺社・民家など建物の建築・修築の記録・記念・所縁明記として、棟木・梁等の建物内部の高所に取り付けた札。]

譚海 卷の七 豆州南海八丈島風俗の事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。]

 

○八丈島は伊豆海邊(かいへん)より、船路七十里なり。

 島の周圍十六里にて、其中央に、山、有(あり)。山の廣さ、島を三分にして一ほどなり。

 その餘(よ)、人家等にて、千軒ほど、あり。田は漸(やうやう)二萬石程有(あり)。其餘は、畑のみなり。

 人の食、米穀、少き故、麥五合を、一日、十人の食に充(あて)、其麥ヘ「八丈草(はちじやうさう)」と云(いふ)物の菜、「あざみ」の葉などを、まぜて、蒸(むし)て、くふなり。

 女は、織物にのみ、かゝりて、是をもちて、年貢とするゆゑ、男は、耕作にのみ、かゝりて居(を)る。女は白晢(はくせき)[やぶちゃん注:膚が白いこと。]にて、髮、至(いたつ)て長く、立(たち)てありくに、地に、ひくなり。それを、四つに折疊(をりたたみ)て、背中へ、かづきて、所作をする事なり。

 船着(ふなつき)、至(いたつ)て、あしければ、船着(ふねつく)時(とき)は、陸へ引上(ひきあげ)ておく故、大船は、かよふ事、叶はず。

 島ぶね、長さ九間[やぶちゃん注:十六・三六二メートル。]、幅三間[やぶちゃん注:五・四五四メートル。]を最(もつとも)第一の大舟(おほぶね)とす。

 江戶より極星(きよくせい)[やぶちゃん注:北極星。]二度(にど)を、たがふ故、春・夏・秋のみ、三季の國にて、冬、なし。雪、ふらず。

 山歸來(さんきらい)、至て、よし。肉桂もあれど、是は下品なり。

 陣屋、有(あり)、吏(り)、官[やぶちゃん注:底本では「官」に右補正傍注をして『客』とある。]に居(をり)て[やぶちゃん注:「客扱いとして在勤し」か。]、萬事を奉行す。

 古へ、久敷(ひさしく)往來をせぬ國にて、年貢等を出(いだ)し、附庸(ふよう)[やぶちゃん注:本邦に従属し、その保護及び支配を受けている存在。]と成(なり)たるは、小田原北條氏より此かたの事なり。

 八丈島、くろき糸は、田澁(たしぶ)[やぶちゃん注:田の水あか。田の水錆(みずさび)。]にひたし置(おき)て、數日(すじつ)有(あり)て取出(とりいだ)せば、染(そま)るなり。黃色は「八丈草」を、くだき、其汁にて、そむる、とぞ。

 女は、淫(みだら)にして、夫を持(もた)ざる以前に產するもの、儘(まま)、有(あり)。是(これ)を、「偏五郞」と唱(となへ)て、家ごとに育(いく)す。

「『野合郞(やがふらう)』といふ心なるべし。」

と、いへり。

 寬政三年[やぶちゃん注:一七九一年。]夏、官醫田村元長(げんちやう)、採藥御用にて渡海し、六十日、彼(かの)島に在留せし事、有(あり)。

[やぶちゃん注:「八丈草」セリ目セリ科シシウド属アシタバ Angelica keiskei の異名。当該ウィキによれば、『和名アシタバ(明日葉)の名は、強靱で発育が早く、「今日、葉を摘んでも明日には芽が出る」と形容されるほど』、『生命力が旺盛であることに由来する』とあり、『日本原産で、関東地方以西の南部、房総半島から紀伊半島南部(太平洋側)と伊豆諸島・小笠原諸島の太平洋岸に自生する』。『伊豆諸島・伊豆半島・三浦半島および房総半島の個体は、古くから自生している個体であるが、紀伊半島の個体は近年紀伊大島に移植された株である』とあり、『野菜としてアシタバが常食される八丈島は、産地として有名なことからハチジョウソウ(八丈草)の名でも呼ばれている』。『特産地の八丈島や伊豆諸島では昔から若い茎葉が食べられていたが、高い栄養価と滋養強壮効果が健康野菜として注目されて、市場にも流通するようになった』。『セリ科』Apiaceae『植物特有の香りと』、『ほのかな苦味があり、お浸しや汁の実、天ぷらなどに使われる』。『古くから薬効がある山野草として利用されてきた』歴史があり、『アシタバが利用されていた古い記録は江戸時代までさかのぼり』、貝原益軒の「大和本草」(宝永六(一七〇九)年)には、『「八丈島の民は多く植えて朝夕の糧にする」との記載が見られ』、「八丈物産誌」(寛延四・宝暦元(一七五一)年)には『栽培・収穫方法についての記述が残されている』とある。「大和本草」の記載は、二箇所あり、一つ目はウィキの言っているのは、本文立項のもので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの板本で当該部が視認出来る。「鹹草(アシタ)」である。二つ目は右丁二行目の「鹹草(カンサウ)」がそれ。同前でこちら。それらを読むと。「本草綱目」や「文獻通考」で八丈島を「女國」と称しているのが、興味深い。

「あざみ」キク目キク科アザミ亜科アザミ連アザミ属 Cirsium の総称。アザミの若葉は食用とされ、下茹でしたりして、種々の料理に使う。そのまま天ぷらにしてもとても美味い。なお、あまり知られているとは思われないので次いでに言っておくと、「山牛蒡の漬物」として販売され、寿司屋等で呼ぶそれは、真正のヤマゴボウ(双子葉植物綱ナデシコ目ヤマゴボウ科ヤマゴボウ属ヤマゴボウ Phytolacca acinosa 。葉は食用になるが、有毒植物である)ではなく、キク目キク科アザミ属モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis・オニアザミ(鬼薊)Cirsium borealinipponense・キク科ヤマボクチ属オヤマボクチ(雄山火口)Synurus pungens の根である。

「山歸來」本来は生薬(地下の根茎を利尿・解熱・解毒薬として用いる)知られる単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属ドブクリョウ Smilax glabra のことを指すが、これは本邦に自生せず(中国・インドシナ・インドに分布)、ここでは同じように生薬として用いられる本邦にも産するシオデ属サルトリイバラ Smilax china の別名である。ウィキの「サルトリイバラ」を参照されたい。グーグル画像検索「Smilax chinaも併せてリンクしておく。前者リンクによれば、『薬用』として『秋に掘り上げて日干し乾燥させた根茎は薬用に使われ、利尿、解毒、皮膚病に効果があり、リウマチの体質改善に役立つと考えられてきた』。『漢方では菝葜(ばつかつ)とよんで、膀胱炎や腫れ物に治療薬として使われる』。『民間療法として、おでき、にきび、腫れ物などに、乾燥根茎』を『服用する用法が知られている』とあり、『食用』の項には、『若葉は』五~六『月、果実は』十~十一『月ころに採取し、食用にできる』。『若葉は』、『くせがなく、軽く茹でて』、『水にさらし、おひたしや和え物、炒め物などに調理される』。『赤い果実は、そのまま生食したり、焼酎に果糖を加えて漬け込んで果実酒にもできる』。『四国地方などの西日本の地域では、葉で菓子や柏餅を包む風習もある』。『紀州や中勢地域などでは、サルトリイバラの葉で包むので柏餅とはよばず、五郎四郎餅』や、「いばらまんじゅう」と『よばれる。かつては、葉を乾燥させてお茶代わりに飲んだり、タバコに混ぜたりしたといわれる』ともあった。

「肉桂」先の「譚海 卷の七 江戶源兵衞店水戶家藏屋敷肉桂の事」を参照されたい。

『夫を持ざる以前に產するもの、儘、有。是を、「偏五郞」と唱て、家ごとに育す』これは、ここに限ったことではなく、当時の日本の民俗社会では普通に行われた風習である。運命共同体たる村落集団では当たり前のことであった。嬰児放棄や子殺しの蔓延している現代の方が、遙かに野蛮である。

「田村元長」(元文四(一七三九)年~寛政五(一七九三)年)は幕医で本草家。名は善之、号は西湖。同職であった日本最初の「物産会」を平賀源内らと開いたことで知られる田村藍水の長男。優れた博物学者であった栗本丹州の兄。江戸生まれ。ここに記された伊豆諸島での薬草採集は、後に博物誌「豆州諸島物產圖說」に結実した。]

2024/02/13

譚海 卷の七 上總國某寺に樹下に木の子生たる事 附鮹魚梅酢毒する事

[やぶちゃん注:底本では「目錄」の順列に問題がある。「木の子」は茸(きのこ)のことで、「生たる」は「はえたる」と訓じておく。「附」は「つけたり」、「鮹魚」は二字で「たこ」。]

 

○上總の國、ある寺の山に、あやしき「きの子」、生たり。

 寺の僕(しもべ)、採りて、物(もの)に入置(いれおき)たりしに、夜中、殊外(ことのほか)、光、ありて見えしかば、皆々、あやしみをなせしに、住持、聞(きき)て、

「夜(よる)ひかる「きの子」には、必(かならず)、毒あり。かまへて、食(しよく)すべからず。」

と制して、棄(すて)させける。

 翌日、又、同じ所に、かたの如くの「きの子」、生(しやう)じありしかば、いよいよ、怪(あやし)みて、心を付(つけ)て、せんさくせしに、其側(そのそば)の樹の枝に、大(おほい)なる「くちなは」[やぶちゃん注:蛇。]、死して、枝に、かゝり有(あり)。

「さては。此死(しし)たる蛇[やぶちゃん注:底本ではここに補正注で『(の)』とある。血だけではなく、腐れた肉の体液などを含めたものであろう。]したゝりより、生じけるこそ、かしこく、食さゞりける。食しなば、いかなる禍(わざはひ)にかゝるべきも、しらず。」

と、皆々、恐れあひし、とぞ。

 又、江戶にて、ある垣(かき)にて、人々、日々、蹴鞠(けまり)せしに、ある日ことに、あつかりしかば、

「一盃、くむべし。」

とて、休(やすみ)たるに、料理人、「たこ」の足の煮たるに、折節、有合(ありあは)せつる梅漬(うめづけ)の酢を、かけて、出(いだ)したり。

 殊に、うつくしく、紅に、はへ[やぶちゃん注:ママ。「映ゆ」で「はえ」でよい。]ければ、人々、興じて、

「是は、よき趣向をせしなり。先一(さきいち)より[やぶちゃん注:まずは最初に。]、まりをけてのち、酒、吞(のむ)べし。」

と云(いひ)て、又、垣に入(いり)、鞠、終(をはり)て、

「已前の肴(さかな)は。」

とて、蓋(ふた)を明(あけ)たれば、此「たこ」の足、殊外、大きく成(なり)て、さながら、すさまじく見得(みう)ければ、あやしみて、指にて、いろひ[やぶちゃん注:「弄(いろ)ふ・綺ふ」で「いじる」の意。]みるに、此「たこ」、石・くろがねを、いろふ如く、甚(はなはだ)かたく成(なり)て、中々は、のたつ[やぶちゃん注:「のたくる」で「体をうねくねらせて動く」ことで膨れるの意か。いやいや、タコは普通にそうしましがねぇ?]べき物とも覺えざりしかば、大(おほい)に驚き、

「此(こ)は、たこに酢(す)の氣(き)、きん物(もつ)なる故、如ㇾ此(かくのごとく)、大きくふくれたるべし。先程、そのまゝくひたらましかば、いかなるどくにも、あたりつべき事、しれがたし。くはずして、又、一(いち)より、まりけし[やぶちゃん注:「し」は過去の助動詞。]によりて、ふしぎに、いのち、ひろひたる事。」

と、をのゝきて、やかて、そのたこを、鼠壤(そじやう)[やぶちゃん注:細かな土。]へ、すてさせしに、日をふるほど、放前(はなつまへ)の形の、一倍に、ふえて、すさまじき事、いふばかりなし。

「かく、數日(すじつ)、ふれど、犬・猫のたぐひも、あへて、くらふ事、なければ、どく、有(ある)事、しられぬ。」

と、かたりつ。

「『「うなぎ」に酢を「どく」。』と、いひしが、鮹(たこ)などにも、『す』は、『どく』成(なる)事、はたして、しられたり。但(ただし)、穀汁(こくじる)にて製したる「す」は、猶、さまでに、あらねども、梅、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、『しどみ』などの木(こ)の實(み)より、自然にとりたる『す』は、魚肉に和(わ)して、『毒』となる事、殊に甚し。」

とぞ。

「取肴(とりざかな)などに、『うなぎのかばやき』に、梅漬の物など、盛合(もりあはせ)て出(いだ)す事、まゝ有(ある)事なれど、用心すべき事なる。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「上總の國、ある寺の山に、あやしき「きの子」、生たり」「夜中、殊外、光、ありて見えし」ロケーションから、菌界担子菌門ハラタケ綱ハラタケ目クヌギタケ科クヌギタケ属ヤコウタケ Mycena chlorophos であろう。私は知人の撮った写真で見たことがある。当該ウィキによれば、『日本では小笠原諸島や八丈島を主な自生地とし、仙台以南の太平洋側地域に分布が見られる』とある。

「しどみ」バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ属クサボケ(草木瓜)Chaenomeles japonicaウィキの「ボケ(植物)」によれば、クサボケは『果実にボケ』(ボケ Chaenomeles speciosa )『同様の薬効があり、日本産の意で和木瓜(わもっか)と称される生薬となり、木瓜(もっか)と同様に利用され』、『果実酒』にもあるあった。

「たこに酢の氣、きん物なる」んな、ことは、ないね。私は蛸の酢和えは好物だ。

『「うなぎ」に酢を「どく」』同前。私は複数の料亭で、何度も、食べたことがある。「うなぎ」の危険なのは、生血である。目に入ると、失明する危険さえある。

譚海 卷の七 江戶下谷金杉村安樂院住持流刑の事

[やぶちゃん注:標題の「下谷金杉村」は「したやかなすぎむら」。底本では「目錄」の順列に問題がある。]

 

○同年八月廿七日、金杉安樂寺住持、遠島せられぬ。

 これは、同所根岸むらにある御家人の妹、從來、安樂寺弟子尼(でしあま)にて有(あり)けるが、當春の頃、此尼、かねて死期をしりて、遺言に、

「我、往生せば、結緣(けちえん)のため、しばらく、其まゝにて、ほふむらず、七日の間、諸人にをがませよ。」

と云(いひ)けるが、其日を、あやまたず、臨終絡せしかば、家内の者を始め、皆々、たふとき事に思ひ、住持も、とぶらひ來(きたり)て、世話をいたし、則(すなはち)、住持の差圖にて、棺を溫飩箱(うどんばこ)[やぶちゃん注:底本に「溫」の右に『(饂)』とする補訂注がある。]の如く、さしふたに拵(こしら)へ、其中に此尼を坐せしめ、七日の間、人に、をがませける。

 殊に、彼岸の頃にて有(あり)ければ、誠に生佛(いきぼとけ)の如く、諸人(しよにん)、聞(きき)つたへて、參詣、夥敷(おびただしく)、皆、極樂往生のいちじるしき事を嘆美せしなり。

 第七日にあたり、はふぶり[やぶちゃん注:ママ。「葬(はうぶ)り」。「はふり「はぶり」とも表記した。]にあたるとき、安樂寺住持、又、來て、世話せしに、此亡者の尼、眼をひらき、住持に詞(ことば)をかはし、其後、瞑目して終りければ、いよいよ、

「奇異の事。」

に、人、いひあへりしを、公(おほやけ)にも、おのづから聞えて、

「事のあやしきわざ。」

に御沙汰あり。

 又、かたへには、口さがしきものなど、

「此尼は、實は死果(しにはて)ざれども、年來(としごろ)、住持に密通して有(あり)ければ、住持と、はかりて、此度(このたび)、往生する事に世間へ披露して、はふむりて後(のち)、ひそかに掘出(ほりいだ)し、尼を、他所(よそ)にかくし置(おき)たる。」

など、風說まちまちなるに付(つき)、寺社奉行所より、御糺(おただし)にて、住持、めしとられ、久々(ひさびさ)、入牢せられ、拷問にも及(および)、その尼の墓をも、あばき御覽ありしかども、實證(じつしよう)なき事故(ゆゑ)、かく、遠島に處せられぬる、とぞ。

 其兄の御家人も、是がために、御改易せられたり。

 其後、又、住持の弟子尼、醫師の娘にてありけるもの有(あり)しが、此尼へ右の臨終往生せし尼の靈託(れいたく)して、時々、不思儀成(なる)事を口ばしり、又、是(これ)に、人々、心をかたぶけて、

『奇妙成(なる)事。』

に思ひしかど、

「全く極樂往生せし人、又、此世に、まよひきたりて、人に託(たく)す[やぶちゃん注:依代(よりしろ)する。]べきいはれも、なき。」

など、あやしみ、いふ事も、絕(たえ)ず。

 能々(よくよく)事のわけをしりたる人のいへるは、

「此安樂寺に、惡敷(あしき)狐(きつね)、年久敷(としひさしく)住(すみ)わたる有(あり)て、はじめ死せし尼にも、此狐、託して[やぶちゃん注:ここは「憑依」、「狐憑き」を指す。]、あやしきわざどもを、あらはし、此たびの尼に、以前の臨終せし尼の宣託(せんたく)を承(うけたまは)るといふも、みなみな、此狐の所爲にて、住持も、ともに、夫(それ)をしらず、たぶらかされ、此わざはひにあへるなり。」

と、いへり。

 左(さ)もある事にや、心得ぬ事ども、おほかるに、なん。

「住持は、またく、放逸の僧には、あらず。住所も至(いたつ)て質素の住居(すまい)にて、如法(によほふ)念佛の行者(ぎやうじや)なりしかども、愚(おろか)なるによりて、かく、狐にたぶらかされし事。」

と、かたりぬ。

[やぶちゃん注:まさに、村中ひっくるめて、泡立つ妄想共同体の集団的疑心暗鬼のヒステリー状態に陥ったものと推察される。

「江戶下谷金杉村」サイト「江戸町巡り」の「下谷金杉町」によれば、現在の(リンクはグーグル・マップ・データを私が附した)『東区下谷三丁目入谷一』丁目同『二丁目竜泉二丁目三ノ輪一丁目125番竜泉二丁目20番根岸三五丁目』とあり、『奥州街道裏道沿いの東西に細長い地域』で、『「金杉」とは江戸時代以前からあった古い地名だが、地名の由来は不明。鎌倉時代末の記録によると「金曽木」』(かなそぎ)『といい、それが金杉に変わったと推察される。「金曽木」は現在でも小学校名として残っている』とあった。台東区立金曽木小学校は根岸四丁目にある。

「安樂院」根岸四丁目にある浄土宗佛迎山往生院安楽寺

「饂飩箱」「慳貪箱・倹飩箱」(けんどんばこ)に同じ。「けんどんうどん」・「けんどんそば」などを入れて、注文先へ持ち運ぶ縦長の箱。 上下または左右に溝があり、蓋の取り外しが出来るようにしたもので、後、一般に、その様式の箱や袋戸棚を指した。参照した「精選版 日本国語大辞典」に図がある。この場合は、この中に見える仕切り板のない型のもので、そこに遺体を座らせれたものである。当時は座棺の棺桶が普通であった。民間では、明治になっても田舎では座棺であった。私の連れ合いの父は、岐阜七宗の出身であったが、彼女は小さな時に墓を改修する際、祖母の遺体を現認しているが、土葬で座棺であったそうである。]

譚海 卷の七 房州西山の山崩れて寺一宇土中に落入し事

[やぶちゃん注:標題の「落入し」は「おちいりし」。]

 

○寬政二年四月十七日、安房國西山と云(いふ)所の山、くづれたり。

 二、三日以前より、夥敷(びただしく)、山、嗚動せしかば、かねて、人々、

「變、有(ある)べし。」

と、飼置(かひおき)たる牛馬など、切(きり)はなし、資財を運びうつしなど、せしかば、一人も怪我はなかりしかど、終(つひ)に、十七日の晝、山、われ、へこみて、山上に有(あり)ける淨土宗の寺一宇、土中へおち入(いり)て、山上の其所(そのところ)、沼と成(なり)、寺の屋根、むねばかり、水中に、わづかにみゆるほどに沒したり、とぞ。

 その後(のち)、

「山に數(す)百年へし杉、多く有(あり)けるも、皆、さかしまに、沼へ落入(おちいり)て、木の根計(ばかり)見へける。」

と、いへり。

 いとあやしき事どもになん。

[やぶちゃん注:「房州西山」千葉県鴨川市西山(グーグル・マップ・データ航空写真)であろう。

「寬政二年四月十七日」グレゴリオ暦一七九〇年五月三十日。ネット上では、地震或いは山体崩壊その他の災害がここで起こった記録は見出せなかった。雨と地下水脈による単純な地盤の陥没かと思われる。

「淨土宗の寺」現在の西山の周辺には、浄土宗の寺は見当たらない。

「沼」とあるが、「ひなたGPS」の戦前の地図を見たが、それらしいものは見当たらない。南東直近に「山居堰(さんきょせき)」という千葉県鴨川市天面(あまつら)にある灌漑目的のアースダム(主に土を用いて台形状に形成して建設したダム)があるが、ここは西山耕地整理組合の事業で昭和一四(一九三九)年に竣工したものであり、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、普通の谷戸の奥であって、沼らしき地形は見当たらないし、西山の山上でもないから、違う。]

譚海 卷の七 江戶源兵衞店水戶家藏屋敷肉桂の事

[やぶちゃん注:なお、底本「目錄」では本篇の標題が脱落しているので、国立国会図書館蔵本の「目錄」に従い、標題を示した。]

 

〇水戶家の藏屋敷、すみた川小梅堀(こうめぼり)に有(あり)て、そこに和肉桂(わにくけい)の大樹ありしに、枯朽(かれくち)てたふれたるを、肉桂ともしらずして、屋敷守の翁、淺草御厩河岸の風呂屋へ、薪(まき)に、うり渡しけり。

 風呂屋にて、此樹を薪に割居(わりをり)たるを、近鄕の醫師、見付(みつけ)て、

「是は、めづらしき木なり。我に賣(うり)あたへくれよ。」

とて、金子三百疋に買得たるに、もはや眞木(まき)は、つかひ、うせたるあとにて、木の皮ばかり買(かひ)たるを、かなたこなたへ、賣鬻(うりひさぎ)て、金子、四、五兩に成(なり)しかば、此醫師、不慮の德、つきたり。

 其刻(そのみぎり)、屑(くづ)とて、酒に浸したるを飮(のみ)たるに、味、よく、肉桂の香(かをり)に、くんじてありし。

 是は、心越禪師、來朝せしはじめ、攜來(たづさへきた)りて、水戶の小石川邸の山地にうゑられたりし時、同じ樹の種(たね)を小梅にもうゑられしが、かく朽殘(くちのこ)りてありし事、とぞ。寬政三年秋の事なりし。

 又、武藏野菅生(すがお)といふ所の村にも、龍眼肉の樹、有(あり)。

 是は、その村の醫師、「龍がんにく」を藥劑に用ゐし事ありしとき、其殼を、塵壺(ちりつぼ)へ棄(すて)けるに、そこより、生(おひ)たるよしなり。

「今は、大木になり、枝・幹のさまも唐木(からき/たうぼく)の葉づきにて、常磐木(ときはぎ)にて、此國には、なき木振(きぶり)なり。」

とぞ。

「其のち、そこの里正(りせい)[やぶちゃん注:「庄屋」「村長(むらをさ)」に同じ。]田澤某、是を聞きて、ことさらに新渡(しんわたり)の「りうがん」を、壹斤(いつきん)[やぶちゃん注:六百グラム。]、求(もとめ)て蒔(まき)たるに、是も、二本、實生(みしやう)せしよし。」

を、かたりぬ。

 むさしのには、「りうがん」のるゐ、土に、あひたる所にや。

[やぶちゃん注:「水戶家の藏屋敷、すみた川小梅堀に有」本所の北にあった小梅村の小梅堤のことであろう。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸切絵図」の「本所」の「位置合わせ地図」の絵図の上方の端に「水戶殿」(水戸藩下屋敷)とある附近であろう。

「和肉桂」日本原産の唯一のニッケイの種であるクスノキ目クスノキ科クスノキ属ヤブニッケイ Cinnamomum yabunikkei が、まずは想起される。当該ウィキによれば、『日本の本州(福島県以南)、四国、九州、沖縄、朝鮮の済州島、中国に分布するとされるが』、『日本における自然分布は、近畿以南から沖縄の範囲までと言われている』とある。『葉や樹皮は薬用に使われ、種子からは香油や蝋を取ることができる』。『また』、『葉、根皮などに香気があるが』、『ニッケイ』 Cinnamomum sieboldii 『よりは劣る』とある。しかし、ウィキの「ニッケイ」を見ると、『江戸時代中期に、中国から渡来した桂皮の有用性が国内で認識され、各地でニッケイの栽培が始まった。この栽培種は、東南アジア原産種Cinnamomum loureiroi Nees (1836)と同一とみなされていたが、沖縄本島北部・徳之島などに自生する野生種と同一であると判明したため、近年では日本固有種として扱われるようになって』おり、『これに伴い、学名をCinnamomum sieboldii Meisn. 又は Cinnamomum okinawaense Hatusima と表記する図鑑、書籍が増えている』ともあったので、以下の心越禅師が携えて来朝したものとなら、これは真正のニッケイである可能性が高いか。さらに、『和歌山県では、栽培最盛期の大正』一〇(一九二一)『年頃まで根皮』一万『貫、樹皮(桂辛)』五千『貫の生産があり、ドイツやアメリカにも生薬として輸出された。 一方、この頃、国産ニッケイの精油含量が中国産の桂皮に劣ると報告され』、『医薬品原料としての関心が薄まり始めた』。『昭和以降』には、『医薬品原料としての需要は徐々になくなり、和歌山県の生産量は、昭和』二二(一九四七)『年には』百『貫まで減』った。「日本薬局方」に『おいては、第六改正(昭和』二六(一九五一)『年発行)までは「日本ケイ皮」として収載されていたが、流通実績がないために次の改正から外され、現代においては、医薬品として使用されることはない。また、食品原料としての流通も現在では』、『ほとんどなくなり、上述した和菓子の製造においては、代替としてシナモンを用いているものが多い』とあった。

「三百疋」三千文で一・七五両相当。

「心越禪師」東皐心越(とうこうしんえつ 崇禎十二(一六三九)年~元禄九(一六九六)年)は、江戸初期に明(一六四四年に清となる)から渡来した禅僧で、日本篆刻の祖と呼ばれ、又、中国の古琴を日本に伝えたことから日本琴楽の中興の祖ともされる。彼は、一六七六年、清の圧政から逃れるために杭州西湖の永福寺を出て日本に亡命、一時、清の密偵と疑われて長崎に幽閉されたが、天和三(一六八三)年に、かの徳川光圀の尽力によって釈放され、水戸天徳寺に住して、専ら、篆刻や古琴を教授した。後に病を得、元禄八(一六九五)年に相州塔ノ沢温泉などで湯治をしたが、その帰途、現在の横浜の金沢八景を訪れ、自身が暮らした西湖の美景瀟湘八景に倣って八景を選び、八首の漢詩を残した。これが金沢八景の由来となった(なお、彼は薬石効なく、天徳寺に戻って同年九月に示寂した)。心越の漢詩及び歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の全カラー画像は、私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「八景詩歌」の注で掲載している。是非、御覧あれ。

「武藏野菅生」東京都あきる野市菅生(グーグル・マップ・データ)。

「龍眼肉の樹」ムクロジ目ムクロジ科リュウガン属リュウガン Dimocarpus longan

「唐木」シタン・コクタン・ビャクダン・カリン・タガヤサンなど、熱帯地方から本邦への輸入された銘木全般の総称。もと、中国を経て輸入したことから「唐木」と称する。]

譚海 卷の七 豆州新島より歸りたる流人の事

[やぶちゃん注:なお、底本「目錄」では本篇の標題が脱落しているので、国立国会図書館蔵本の「目錄」に従い、標題を示した。]

 

○御家人、口論せし御咎(おんとが)によりて、遠島に處せられ、十九歲より、三十年の間、伊豆の「にひ鳥」に有(あり)て、其名主の田地を、たがやし居(をり)たるが、赦免に逢(あひ)て召返(めしかへ)されしに、親類、殘らず、死絕(しにたえ)、やうやう、伯父壹人(ひとり)、有(あり)けるに、御引渡(おんひきわたし)ありけるに、伯父、ほどなく病死せしかば、身をよする所なく、耕作の外は無筆(むひつ)故、渡世も成(なり)がたく、殊に江戶の振合(ふるまひ)は、弱年より、島にありて、しらぬ事故(ゆゑ)、何事もなしがたく、大(おほい)に困厄(こんやく)[やぶちゃん注:「難儀」に同じ。]してありける折ふし、

「伊豆の船、來(きた)るに、其名主、乘來(のりきた)る。」

と聞(きき)て、御家人、行(ゆき)て、逢(あひ)つゝ、

「またまた、伊豆へ歸りたき。」

由、賴(たのみ)けるに、名主も、從來、律義に勤(つとめ)たる者ゆゑ、ほしがりて、内々、島へ歸り度(たき)願(ねがひ)、問合(とひあはせ)けるに、

「一旦、島より召(めし)かへされたる者、願によりて、島へ遣はさるゝ時は、先(まづ)、入牢仰付(おほせつけ)られ、遠島の罪人、有ㇾ之時(これあるとき)、一所につかさるゝ御法(ごはふ)なる。」

由。

「いつ、遠島の罪人、有(ある)べき事も、さだめがたく、夫(それ)までは、入牢し罷在(まかりある)事も何とも迷惑なる事故(ゆゑ)、しひて[やぶちゃん注:ママ。]島行(しまゆき)の事、御願も成(なし)がたく、進退、谷(きはまり)たる事にて、難儀いたしある。」

と、或(ある)人の物がたりなり。

[やぶちゃん注:「にひ島」現在の東京都新島村の新島(にいじま:当時は伊豆新島。グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『新島は江戸時代から明治三~四(一八七一)年まで『代表的な流刑地の一つとして利用されていた。上平主税(十津川郷士)や相馬主計(元新撰組隊士)など、政治犯を中心とした流人が多く流されてきており、島で再度重い罪を犯した者は、絞首刑とされた。総勢で』、千三百三十三『人が流されたが、島人は彼らに暖かく接したという伝記が残されている。今でも島内の墓地の中には』、『一段低い場所に流人墓地が存在するが、新島特有の白砂が敷き詰められていて、サイコロ型や酒樽型の墓石などもあり、村人が日々花をたむけるため』、『温かい雰囲気がある』(これは若き日に旅した神津島の墓地で激しく感動したのを忘れられない。私は、二晩とも、夜の墓地を訪れたものであった。毎日、島人の墓総てに満艦飾の花が供えられていたからである)。『また、流人の刑場であった向畑刑場跡へと続く道には柳が生えており、刑が執行される直前、罪人が現世を懐かしんで振り返った場所であったことから「見返り柳」と呼び、今でも供養の花や酒が供えられている』。『長い歴史を裏付けるように、島には今でも数多くの物語・民話が残っている。「山ん婆」や「よべーむん(呼ぶ者、の意)」、海坊主、魔物(まむん)、人魚など妖怪の類の話なども多くあるが、中でも海難法師の話は』(当該ウィキを参照されたい)『非常に有名である。海難法師は伊豆諸島の島ごとに少しストーリーが異なっており、リンク先の話とは異なるが、ここでは新島の例の概要を紹介する』として、『かつて伊豆諸島を視察して回っていた悪代官がいた。こんな人間が各島を回っては迷惑がかかり』、『気の毒だ、と考えた伊豆大島は泉津の若者たちが、船の栓を抜いて沈没させ、悪代官ともども溺死した。この亡霊が村を徘徊し、見た者には不幸が訪れると言う。溺死した代官の亡霊を見た物は発狂するととも失明するとも言われており、実際にそうなった人がいると言ういくつもの逸話が村にある』。『今でもその話を信じる習慣は残っていて』、一月二十四『日は「かんなんぼーし」と呼び、漁業を控え、夜は外出せず静かに過ごし、扉にはトベラ』(セリ目トベラ(扉)科トベラ属トベラ Pittosporum tobira当該ウィキによれば、『枝葉は切ると悪臭を発するため、節分にイワシの頭などとともに』、『鬼を払う魔よけとして』、『戸口に掲げられた風習があったことから「扉の木」とよばれ、これが転訛してトベラとなった(学名の種小名 tobira(トビラ)もこれによる)』とあった)『の小枝を挿して早寝する。代官の宿であった者の自宅では祠を設けて霊を祀り、現在でも当日の深夜に海岸へ向かう等の無言の行を行う。その翌日は子だまり、と言われており、子供を中心に同じことが行われるが、そうして親子』二『回に分けて催行される経緯は不明』であるとあった。こういう民俗は、私がすこぶる偏愛するものであるので、特に掲げた。

「無筆」数え十九で、読み書きが出来ないというのは、金回りの悪い御家人の次男以下で、ろくな教育も受けていなかったため、読み書きも出来なかったのであろう。

「江戶の振合」三十年間も新島にあって、今は四十九歳。その彼が、「十年ひと昔」の江戸のカルチャー・ショックに加えて、文盲とくれば、心情は判る。]

譚海 卷の七 江戶谷中根津權現畑中井の事

[やぶちゃん注:なお、底本は順序が入れ替わっているので、国立国会図書館蔵本の「目錄」に従い、標題を示した。その「畑中井」は「はたなかのゐ」と訓じておく。]

 

○谷中(やなか)根津橫現(ねづごんげん)の、瑞籬(みづがき)の東の外(そと)、畑中に、古井(ふるゐ)、有(あり)。

「此井の水を、くみ、水を、うごかすときは、必(かならず)、震雷(しんらい)する事あり。」

と、其地の人、物がたりせり。

[やぶちゃん注:「谷中根津橫現」現在の東京都文京区根津にある根津神社(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『江戸時代には山王神道の権現社であり、当時は「根津権現」とも称された。この呼称は明治初期の神仏分離の際』、『「権現」の称が』、『一時期』、『禁止されたために衰退したが、地元では現在も使われる場合がある。単に「権現様」とも称され』、『根津神社の近くには、森鷗外が文京区に移住してから最初に住み、後に夏目漱石が住んだこともある千朶山房(せんださんぼう)や、鷗外が後半生に暮らした観潮楼(かんちょうろう)が近かったこともあり、これらの文豪に因んだ旧跡も残されている』(先のリンク先を拡大されたい)。『特に鷗外は根津神社の氏子で、小説』「青年」に『「根津権現」として登場するなど縁があり』、二〇一二年に『閉館した旅館「水月ホテル鷗外荘」(台東区池之端)で使用されていた鷗外の旧邸も根津神社に移築されることになった』とあり、近代の『文学作品で』も『「根津権現」として出てくることが多い』。この創始は、『日本武尊が』千九百『年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社に数えられている』。『現在の社殿は宝永』三(一七〇六)年に『甲府藩主の徳川綱豊(後の江戸幕府第』六『代将軍徳川家宣)が献納した屋敷地に造営されたものである。権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされて』おり、『社殿七棟が国の重要文化財に指定されている』とあった。

「瑞籬」「瑞垣・水垣」とも書く。古くは「みづかき」。神社などの周囲に設けた垣根(神霊の宿ると考えられた山・森・木などの周囲に巡らした垣も指す)。「玉垣・神垣・斎垣(いがき)」とも称する

「井」現行では確認出来ない。]

譚海 卷の七 上總國加納山うはゞみの事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、この冒頭注は以降では略す。]

 譚 海 卷の七

 

〇上總の加納山には、「人とり」、有(あり)て、每年、人、うする事、有(あり)。

「『ひゝ』といふ、けだ物の所爲なり。」

など、いひ傳へて、人々、恐るれども、往來に、よけぬ道、なれば、人のとほる所なり。

 寬政三年[やぶちゃん注:一七九一年。]の夏、ある村の商人(あきんど)、たばこを壹駄(いちだ)買得て、背に負(おひ)て麓(ふもと)を過(すぎ)けるに、夥しく、山、鳴りければ、

「何事ぞ。」

と見あげたるに、すさまじき「うはばみ」、山のかたより出(いで)て、此人をめがけて、追來(おひきた)りければ、おそろしきに、いちあしを出して、にげけれども、「うはばみ」、やがて追(おひ)かゝりて、せまりければ、

『今は、かなはじ。』

と、おもひて、かたへの木の大成(だいなる)うつろの有(あり)けるに、

『にげ入らん。』

と、するに、うはばみ、迫付(おひつき)て、のまんとす。

 其人は、はふはふ[やぶちゃん注:「這ふ這ふ」。]、うろたへ、かしら、さし入(いれ)たれど、足は、まだ、外に有(あり)けるに、此うはばみ、大口を、あきて、負(おひ)たる、たばこ荷を、一口に、のみて、さりにけり。

 商人、久しくうつろのうちにありて、聞(きく)に、やうやう、物の音、しづまりければ、をづをづ、はひ出(いで)て、跡も見ず、はしり歸りつゝ、

「しかじかの事、あやうき命、ひろひつ。」

など、かたるに、

「されば。とし頃、人とりのあるは、此うはばみ成(なり)けり。」

など、人々も、おのゝき物がたりあひしに、日ごろ經て、ある人、此山を過たるに、大成(だいなる)うはばみ、谷あひに、死してあるを見て、驚き、はしりかへりて、人に告(つげ)ければ、みな、うちぐして行(ゆき)て見るに、はやう、死(しし)たる事としられて、體も、やうやう、くちそこなひ、くさき香(か)、鼻をうちて、よりつくべうも、なし。

「かしらは、四斗樽ほど有(あり)ける。」

とぞ。

 其丈(たけ)も、おもひやるべし。

「されば、たばこ、蛇のたぐひに、きわめて毒なるものなれば、此うはばみ、たばこの荷をのみたるに、あたりて、死(しし)たる成(なる)べし。」

と、いへり。

「めづらしき事。」

に、人、いひあへり。

[やぶちゃん注:「上總の加納山」千葉県君津市にある鹿野山(かのうざん)。標高三百七十九メートル。旧上総国(千葉県中南部)の最高峰。

「ひゝ」「狒々」。本邦に伝わる妖怪で、猿を大型化したような姿をしており、事実、老いた日本猿がこの妖怪になるとも言われる。参照した当該ウィキを読まれたい。但し、そちらにも書かれてあるが、人を攫(さら)うという属性などから、元は中国由来であることが判る(但し、その源流は中国ではなく、シルク・ロード経由で齎された幻獣である)。私は『「和漢三才圖會」卷第四十  寓類 恠類』の「狒狒」で、その想定実在モデルの考証もしているので、是非、読まれたい。

「四斗樽」現行の酒樽のそれは、菰を入れずに実長で、縦・横・高さ各六十五センチメートル程度のものが一般的である。容積は、酒で満タンにすると、七十二リットル入る。枡一杯百二十ミリリットルとして凡そ六百杯分に当たる。無論、こんな巨大な頭部を持つ蛇は、本邦には棲息しない。現行、最大種は爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora の♂だが、それでも全長で三メートル超は稀れである。]

2024/02/12

譚海 卷之六 大坂にて干肴商人猫の仇を報ぜし事 / 卷之六~了

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。標題は「おほさかにてほしざかなあきんどねこのあだ(或いは「かたき」)をほうぜしこと」と読んでおく。

 なお、この前にある「譚海 卷之六 武州千住驛北蒲生領の人に托せし狐の事」は、既に「譚海 卷之六 武州千住驛北蒲生領の人に托せし狐の事 / 卷之八 江戶本所にて人に托せし狐にまちんをくはせし事(フライング公開二話)」で電子化注済みである。

 而して、本篇を以って「譚海 卷之六」は終っている。]

 

○大坂にて肴(さかな)あきなふ男、或日、干肴(ほしざかな)を、になひ來り、ある裏借屋(うらかしや)に入(いり)て、あきなひけるに、かなたこなたにて、肴を調(ととの)へけるまゝ、肴を持(もち)あるき、あきなふひまに、荷をおろし置(おき)たる家の猫、干肴を、一枚、とりて、くらひて、半:(なか)ば盡(つく)したる所へ、看賣(さかなうり)歸り、見付(みつけ)て、其家の女房に、いひけるは、

「此猫は、こなたにて飼(か)はるゝにや。さらば、あきなふ肴を、かく、半(なかば)、くらひぬる事なれば、此殘りを、價(あたひ)をまけてうり可ㇾ申(まふすべし)。とゝのへて、猫に給(あた)へかし。」

と、いふに、女房、腹(はら)あしきものにて、

「猫こそ、肴くひて侍るめれ、われら、いかでか、しり侍らん。猫をば、そこの心のまゝに、し給へ。」[やぶちゃん注:第一文は「こそ~(已然形)、……」の逆接用法。]

と、いひて、あかり障子、引(ひつ)たてて、内(うち)に入(いり)ぬ。

 肴うり、腹たてて、

「よし。さらば、猫を、我(わが)まゝにして、見すべし。」

とて、やがて、その猫をとらへて厠(かはや)の中に打入(うちいれ)ける。

 猫、おほつぼの中より、躍り出(いで)て、其家に歸りあがり、障子の紙の、やれたる際(きは)より飛入(とびいり)ければ、家の内、おびたゞしく、けがれに成(なり)て、せんかたなく、あわてける。

 「ようなきすさみ」とは、これらをや、いへるならん。

[やぶちゃん注:最後の「すさみ」は「荒・進・遊」。ここは、女房が、売り言葉に買い言葉で、言わんでもいいことを一方的に荒れて応じたことを指す。]

譚海 卷之六 京都の貧窮の妻狐に托せし事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。「托せし」は「たくせし」徒しか読めないが、憑依したことを言う。なお、底本の「目錄」では、標題の順序がおかしい。国立国会図書館蔵本で訂した。]

 

○京都の貧窮の者の妻に、狐、托しけるに、其夫、是を、

『幸(さいはひ)なる事。』

と、おもひて、日々饗膳を求め、典物を盡(つく)して、美味を調(ととの)へ、奔走しけり。

 日數(ひかず)ありて、此狐、その夫に、いひけるは、

「いかなる譯(わけ)にて、日々、かやうには、馳走ある事にや。日比(ひごろ)、家内のやうすを見るに、殊外(ことのほか)、貧乏にて、質物(しちもの)なども、なきほどのくらしなるに、甚(はなはだ)、ふしんなり。」

と云(いふ)。

 其時、此夫、

「されば、我等、御覽のごとく、如何成(なる)不仕合(ふしあはせ)にや、從來、赤貧にして、心にまかす事、なし。然るに、足下の、我等妻に托せられし事、甚(はなはだ)、幸成(なる)事と存ずれば、かく、質物を盡して、日々、馳走し參(まゐら)する也。其故(ゆゑ)は、『狐は福をあたへらるゝ』と申(まふし)たる事なれば、定(さだめ)て、かく、御出(おいで)あるうへからは、福[やぶちゃん注:底本では編者訂正注が『(富)』とある。]を授(さづく)るべし。此末、御影(おかげ)にて、福、有(ある)に罷成(まかりなり)、是迄の難儀をも忘(わすれ)たく存ずる故也。」

と、いへば、狐、甚(はなはだ)、迷惑のやうすにて、

「左樣の次第を承るにつけては、我等、一日(いちにち)も此處(ここ)にありがたし。只今、爰(ここ)を立去(たちさり)、何方(いづかた)へも參るべし。」

と、いへば、夫、甚、驚入(おどろきいり)て、

「折角、是迄、御馳走申せし志(こころざし)をも顧(かへりみる)なく、我等を捨て、立退(たちのき)給ふべしとは、情(なさけ)なき事、とかく、いつまでも、我等かたに逗留ありて、心おきなくおはすべし。我等も足下に捨られては、是迄、賴(たのみ)たてまつる福も得まじければ、難儀、此一時に侍(はべり)。」

とて、達(たつ)て、とゞめければ、狐、又、申けるは、

「それは、人間の了簡にて、我等中間(われらうちのあひだ)の事は存ぜられぬ故也。我等が同志の内にも、福を人にあたふる狐もあり、又、さる事なし得がたきものも有(あり)。我等は、『のら狐』にて、人に福をあたふる事、成(なし)がたし。然しながら、數日(すじつ)かやうに馳走にも預りし事なれば、此一禮には、福を授る狐と入(いれ)かはり、其元(そこもと)、願(ねがひ)のごとくに致べし。」

と、いひければ、此夫、いよいよ疑(うたがひ)を起(おこ)し、

「仰(おほせ)らるゝ事、尤(もつとも)には聞え候得共(さふらえども)、足下、爰(ここ)を立退(たちのか)れ、萬一、替りの狐、來らざる時は、我等、是迄の物入(ものいり)も、つぐなふべきやう、なく、身上(しんしやう)も立所(たちどころ)につぶれ申せば、願くば、其福を授くる狐を爰へ呼寄(よびよせ)られ、卽刻に、入代(いれかは)り給(たまは)れ。」

と、いへば、狐も、理に折れて、

「先(まづ)、よく、思案致すべし。」

とて、一日ありて、又、狐、夫にいひけるは、

「餘(あまり)に申さるゝ所、深切に候まゝ、昨夜、他所(よそ)の仲間の狐へ相賴(あひたのみ)、入替りくれらるゝやうに相談せしかば、得心なれば、我等、只今、罷歸(まかりかへ)るべし。さらば、右の仲間の者、入代りて、いかやうにも、其元へ、福をあたふるやうに致(いたす)べし。」

と、いへば、夫は、

「昨日も申せし如く、もし僞(いつはり)に相成(あひなり)ては、我等、此上の迷惑なれば、是非に入代るべき狐を同道ありて、願(ねがひ)の如く致さるべし。」

と、いふ。

 狐、

「いやいや、人の骸(むくろ)は一つなれば、二つ、狐、卽時に入替る事は成(なり)がたし。殊に、人に托するには、先(まづ)、我等が骸を、よきやうに隱し置(おき)て後(のち)、さる事にあるわざなれば、卽時には成(なし)がたし。是迄、馳走に罷成たる一禮も有(あり)、此上、何ぞ僞を構へて、其許(そこもと)を欺(あざむ)き申べきや。必ず、疑を、やめらるべし。」

と、いへば、此夫、

「左樣ならば、早々、福をあたふる狐と入替り給るべし。遲々(ちち)に相及(あひおよば)ざるやうに賴み奉る。」

と、許諾して、此妻、外へ出る眞似して、其儘、氣絕して、たふれけり。

 其夜に入(いり)、約束の如く、他の狐、入代りて、又、今までの如く物語し、此夫に、いひけるは、

「其元(そこもと)妻に托せし仲間の者に據(よんどころ)なく賴(たのま)れ、昨夜より入代り、種々(しゆじゆ)の福をあたふべき手段を考見(かんがへみ)れども、其許(そこもと)、生得(しやうとく)貧乏の因緣にて、一向に福を得(う)べき便(たより)見えず。乍ㇾ去(さりながら)、餘り深切の志(こころざし)ゆゑ、少しばかりの福をば、あたふべし。只(ただ)、夫婦、一日(ひとひ)ひだるきめをせず、喉をうるほす程の幸(さいはひ)のみ也。」

と、いひければ、此夫、大(おほい)によろこび、

「それは。千萬、忝(かたじ)けなき仕合(しあはせ)。何とぞ、いかやうにも、是迄のなんぎ、少々は樂々(らくらく)とならば、此上のねがひ、何か有(ある)ベき。」

と、云(いふ)とき、此狐、申けるは、

「其元は、以前、娘壹人(ひとり)もたれたるべし。」

と、いふ。

「成ほど、前年、妻、懷胎致し、女子一人、出生(しゆつしやう)致したれども、剩(あまつさ)へ、乳も、すくなく、養育致(いたす)べき手段なくして、夫婦、いだき出(いで)て、棄(すて)侍りし也。」

と、いふ。

 此狐、

「されば、其娘、今は相應の仕合にて有(あり)。是(これ)、右にいふ所の、喉をうるほす程の福を得べきたより也。やがて此娘に逢(あへ)る事、出來(いでく)べし、然し、只、一度、逢る事也。二度(ふたたび)、『逢(あひ)たき。』などと思ふ心ありては、折角、我等、考付(かんがへつき)たる福を授(さづけ)ても、始終、全(まつた)ふしがたきまゝ、此事を急度(きつと)承知ならば、願(ねがひ)の通(とほり)、かなへやるべし。」

と云(いふ)。

 夫、いよいよ悅び、

「偏(ひとへ)に御庇(ごひ)[やぶちゃん注:「御庇惠(ぎひけい)」の略であろう。「御恩惠」に同じ。]にて福を得侍(えはべ)るべき事、御禮申盡(おんれいまふしつく)しがた

し。忝(かたじけなし)。」

とて、又、種々、馳走を致しければ、狐、甚(はなはだ)、迷惑して、

「其元(そこもと)、如ㇾ此、貧乏のやうす、かやうに物入をかけ馳走せらるゝほど、 甚(はなはだ)、安心致さず。必ず、左樣にては迷惑の至(いたり)也。もはや、われらも、外(ほか)に用なければ、此家を去(さる)べし。」

と暇乞(いとまごひ)をせしかば、夫、殊外(ことのほか)、名殘(なごり)を、をしみ、

「せめて、今しばらく。」

と、とゞめけれど、

「いやいや、かやうの難儀の體(てい)を見うけて、いかで片時(かたとき)も逗留成(なす)べき。」

とて、やがて、

『狐、歸るよ。』

と、おぼえて、又、妻、夢中の如く、暫時、氣絕し、其後(そののち)、やうやう、本復(ほんぷく)、平生に成(なり)し故、是迄の事を物語するに、妻は一向、何事もしらず。

「ともあれ、托せし狐の、少し斗(ばかり)の福をば、あたふべき由なれば。」

とて、たのもしくおもひ、日々、福の來らん事を待(まつ)ほどに、二(ふた)・三月(みつき)迄、何の消息も、なし。

 かくて、ある日、

「下京通(しもぎやうとほ)より。」

とて、男一人、此家(このいへ)を尋(たづね)きたりて、

「娘の口上(こうじやう)にて、不思議成(なる)事にて、爰許(ここもと)に、實(まこと)の兩親(ふたおや)、御座有事(ござあること)承及候(うけたまはりさふらふ)まゝ、明日、御目にかゝりに參るべし。必(かならず)、外出なく御待下さるべし。」

と、いひければ、夫婦も兼(かね)て待(まち)まうけし事なれば、大(おほい)に悅び、約束して、男を返し、そのまうけして居《を》るに、果して、翌日、此娘、尋來(たづねきたつ)て、始(はじめ)て、兩親に、あひ、泣々(なくなく)、かたらひ、暫時、物語して、

「歸る。」

とて、金子三百疋、目錄を殘して行(ゆき)けり。

 其後(そののち)、每月、金三百疋づつ、此娘のかたより送りけるにつけて、やうやう、赤貧の心をも、忘れ、夫婦、以前よりは、ゆるやかに、くらしける。

 されど、娘には、一度(ひとたび)逢(あひ)たるまゝにて、二度(ふたたび)逢(あふ)事ならず。

 娘の方(かた)よりも、

「必(かならず)、尋(たづね)給ふべからず。尋給ひなば、たがひの身のためにも、よろしからず。」

と、度々(たびたび)、聞えければ、さて、そのまゝにて、ありける。

 これは、此(この)捨(すて)たる女子(ぢよし)を拾(ひろひ)たる親、此娘を島原へ賣(うり)たるが、今は、大夫(たいふ)の女郞(ぢよらう)に成(なり)てありしゆゑ、かくは、對面、憚(はばかり)たる事、とぞ。

 さて其實(まこと)の親なる事をしりて、かく、わざわざ、一度、逢(あひ)に來りしは、いかなる事にて尋知(たづねし)りたるにや、その譯(わけ)は、たしかならず。

「もし、彼(かの)、『福をあたふべし。』と、いひける狐、夢などにや、告(つげ)たりけん。」

と、いひし。

[やぶちゃん注:底本の竹内利美氏の後注に、本書には『狐などの動物霊が人に憑依して怪異の所業をさせる話いくつか収録されているが、このキツネツキは一風変わっていて、親しみぶかく、接待して福を与えたことになっている』とある通り、まず、本邦の狐憑き譚の中では、かなり珍しい仕上がりとなっていて面白い。本邦では珍しいが、この話の発想は、恐らく中国の志怪小説が元ネタであろうと推定する。私の偏愛する「聊齋志異」等には、人に福を齎す女の狐妖がさわに出るからである。但し、この話が嘘臭く、作り話であることは、捨てた娘は、この「前年」に生まれたと言っていることである。仮に前年の正月に生まれたとしても、話柄内時制の最後は、せいぜい満二歳が上限となり、凡そ、最後の方のシークエンスで「始て、兩親に、あひ、泣々、かたらひ、暫時、物語」するというのは、どう考えても、無理がある。『せめて、「先年」とぼかしておけばよかったのに。』と、私が昔、これを読んだ後に残念に感じたのを思い出したのである。

「島原」現在の京都市下京区に位置する、日本及び京都五花街で最古の花街の名。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

譚海 卷之六 某藩中浮島賴母の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○某藩中に浮島賴母(うきしまたのも)と云もの有(あり)。同僚に、年來(としごろ)刎頸(ふんけい)の交(まじはり)なるもの有て、往來、密なりしに、ある夏日(かじつ)、賴母、とぶらひ行(ゆき)たるに、同僚、他行(たぎやう)せしかども、懇切の交ゆゑ、その宿の妻、賴母をとゞめて、酒など出(いだ)し、もてなし、久敷(ひさしく)あれば、常の事にて、妻も、賴母に、かまはず、廚下(ちゆうか)[やぶちゃん注:台所仕事。]の事など、いとなみ居(をり)たる折節、夕雨(ゆふだち)、俄(にはか)に降出(ふりいだし)、雷鳴、夥しくありしに、元來、賴母、雷を恐(おそる)る事、人に勝れたるものにて、其家の押入(おしいれ)の内へ、逃入居(にげいりゐ)たるに、同僚の妻も、同じく、雷を恐る事、本質(ほんじち)にて、賴母が押入に籠居(こもりゐ)せるをも、しらず、妻も押入へ逃入て居たる所へ、同僚の士、歸り來(きた)り、雷も止(やみ)て、賴母と妻、押入よりはひ出(いで)ければ、折からといひ、甚(はなはだ)、手(て)もち、あしく[やぶちゃん注:見た目の行動・振舞が甚だまずく。]、同僚も、兼(かね)て賴母が心體(しんてい)よくしつて、不義など振舞(ふるまふ)ものとは、おもはざりし事なれども、眼前如ㇾ此(かくのごとき)次第故、不審なきにもあらず、賴母、別(べつし)て會釋(ゑしやく)もなく、面目(めんぼく)を失ひぬれど、兼て懇切の知己故、雷を恐れて隱居(かくれゐ)たる事、妻も、それを、しらず、一所に逃入たる次第を、段々、申述(まうしのべ)、詫(わび)ければ、元來、隔心(へだてごころ)なき中(なか)故、同僚も、心(こころ)とけて、疑(うたがひ)をはらし、もとの如くの交にて暮(くれ)たるに、又、一日(いちじつ)、賴母、同僚のかたへ行たるに、又、他行の所へ行ぬれど、いつもの事にて、我家の如く、ゆるゆる遊び、晚景行水(ぎやうずい)をして其まゝ椽先(えんさき)に轉寢(うたたね)して居(ゐ)たるを、例の妻、

『我(わが)夫の、湯かたを着て、寢て居(ゐ)たる。』

と、おもひあやまり、其かたわらに、妻も、ひとつに、そひ臥(ふ)して寢入(ねいり)たる所へ、彼(かの)同僚、歸りかゝりて、此體(このてい)、見とがめしに、兩人、驚き、目さめて、

『今は、あやまちとは、いひながら、あまりなる數度(すど)の楚[やぶちゃん注:底本に編者の修正注で『(麁)』とある。]忽(そこつ)、亭主へ、いひわくべき詞(ことば)も、なし。』

と、おもひて、其妻もろともに、その席より、打連(うちつれ)、逐電したりしかば、同僚の男も

「扨は。是まで、妻と密通せし事、實事(じつじ)成(なり)しかども、我(われ)、うたがひを置(おか)ざりしまゝ、月日をへしに、かく、兩度まで、見あらはされ、詮方なく缺落(かけおち)せし事。」

と、治定(ぢぢやう)[やぶちゃん注:確かなこととして認識すること。]の不義に落入(おちいり)、同僚も、おもしろからぬ世を、しばらく、ひとりくらしけるに、漸(やうやう)世話する人ありて、

「後妻を、むかへよ。」

なと[やぶちゃん注:ママ。]、度々(たびたび)勸(すすめ)ければ、家事も不自由なるまゝ、その異見に付(つい)て、後妻をむかへ、夫婦、かたの如く、むつまじくてありけり。

 然るに、賴母は、同僚の妻をつれて立(たち)のきたれども、元來、士の事(こと)故、商賣の業(なりあひ)にも、うとければ、所帶を立(たつ)べき術(すべ)もなきまゝ、所々、流浪して後(のち)に、有馬の溫泉にいたり、家を借り、賴母は酒肴(しゆかう)をうる業を以て、渡世とし、入湯(にうたう)の客酒肴を求(もとむ)る人あれば、其旅舍(りよしや)に行(ゆき)て、「たいこもち」と成(なり)、滑稽の物がたりなどして、客を慰[やぶちゃん注:ここに編者の補正割注『(め)』がある。]笑(わらひ)を賣(うる)事を、常の事とくらし、其女は、客の衣服・ゆかたなど、すゝぎ、あらふ事を業にて、諸共(もろとも)に居(をり)たりけり。

 賴母、女にいひけるは、

「今は、如ㇾ此(かくのごとき)身分に成(なり)ぬれば、是非なき次第。たがひに、徒然(つれづれ)にてあらんも、詮方なければ、實(まこと)の夫婦のかたらひを、なすべき。」

など、折々、すゝめけれど、此女、さらに承引せず。

「元來、そなた樣と實の不義ありて逐電せしにはあらざれども、時宜(じぎ)[やぶちゃん注:あの時に相応の丁度いい。]のいひわけ、立(たち)がたきによりて、かく流浪の身とは成(なり)たり。されども、彼(かの)夫、我に背(そむい)たる事なく、我も又、他心ありて夫に背たるにもあらねば、いつまでも、そなた樣とは、夫婦のかたらひは、成(なし)がたし。今にても、昔の夫、我(わが)實心(まごころ)を知りて呼(よび)かへさるゝ事もあらば、猶、立歸(たちかへ)り、逢(あひ)、そひ度(たく)思ふ故、此一事は、仰(おほせ)に、まかせず、表向計(おもてむきばかり)の夫婦の體(てい)は、いかにも、したしきさまになし給はれ。」

と、いひければ、賴母も、その詞(ことば)侵(おか)すベきかたなく、内内(ないない)は、朋友の妻のあひしらひにて、くらしける。

 かゝるほどに、入湯の客、賴母と心安き人ありて、其宿へも往來し、せんたくの事なども、其妻に賴(たのみ)などしてありけるが、一日(いちじつ)、賴母、客の旅舍へ來たる時、此客、賴母に戲(たはむ)れて、

「そちの妻は、さてさて、うつくしきもの也。羨敷(うらやましき)。」

など、いひけるに、賴母、ふと、身の上を語り出(いで)て、ありつる間違(まちがひ)より、無ㇾ據(よんどころなく)、彼(かの)女を連(つれ)て立退(たちのき)侍りしかど、かうかうのわけにて、實は、夫婦に侍らず。」

抔、女の貞節を守る物語せしに、折節、彼賴母が同僚の後妻の親類、座敷に入湯して居(をり)たるが、此物語を聞(きき)、甚(はなはだ)感心して、歸鄕の上、娘にかたりければ、娘、聞(きき)て、

「扨々(さてさて)、世間には珍敷(めづらしき)貞女も候。さほどの女を指置(さしおき)、自分(おのづと)かくてさぶらふも、本意ならず。何とぞ、もとの如く、よび歸し、そはるゝやうに致し度(たし)。乍ㇾ去(さりながら)彌(いよいよ)誠(まこと)ならんか、能々(よくよく)糺し侍りて見候半(みさふらはん)うへは。」

とて、此後妻、又、有馬へ入湯に來り、段々、手寄(たより)をもとめて、賴母が方(かた)の女に近づき、段々、懇意に成(なり)たる上、互(たがひ)に身の上の物語に及びたる風情(ふぜい)にて、女の心中を聞屆(ききとどけ)たるに、我(わが)親の物語にたがはず、今にも、もとの夫、呼(よび)かへされば、他心(ふたごころ)なきすぢを、なげきて、そひとげたきむねなれば、後妻も其心を感心して、いそぎ歸り、夫にすゝめ、呼返(よびかへ)すべき由を述(のべ)けるに、

「扨は。同僚も、左(さ)もありけること。」

と、前妻の心を感じ、やがて、呼返(よびかへ)して、元の如く、夫婦に成(なり)ぬれば、後妻は、尼に成(なり)て後園(こうゑん)[やぶちゃん注:家の後ろにある庭・畑・空き地。]に別居してありける。

 賴母も、無實の不義のそしりを雪(すゝぎ)て、その事、主人の聞(ぶん)に達し、主人、賴母をも、召歸(めしかへ)し、もとの如く、俸綠を賜(たまひ)て、仕(つか)へありけり、と人の、かたりぬ。

[やぶちゃん注:本書では特異的な長い人情話である。なかなか、いい。但し、二度の見かけ上の不始末は、少々、作り話っぽい。考えて見ると、主人公の名の「浮島」もハマり過ぎている姓ではある。]

譚海 卷之六 大坂にて猫を盜て三味線の皮にせしものの事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。標題の「盜て」は「ぬすみて」と訓じておく。]

 

○大坂にて、人家の猫を盜て殺すもの、有(あり)。

 其事、露顯(ろけん)して捕へられ、

「千日に於[やぶちゃん注:「おいて」。「て」は原本の脱字であろう。]、樹上へ、くゝり釣(つり)さげられ、終日、ありて、責(せめ)られぬ。」

といふ。

 是は、此もの、猫の皮を剝(はぎ)て、三味線の皮とせんため、町々を、うかゞひありき、人なきひまを、うかゞひ、その家にある猫を、とらへ、やがて袂(たもと)の内へ入(いれ)て、其まゝ、ねぢ殺す。

 猫、聲をも、たてず、そのまゝ死する也。

「猫の首を、とらへ、橫に、まげて、首骨を押折(おしを)れば、心易(こころやす)く死ぬる事。」

といふ。

「それを持(もち)て、雪隱(せつちん)抔(など)に入(いり)て、小刀(こがたな)にて、卽時に皮をはぎ取(とり)、肉をば、そこにすてて置(おき)、皮をはぎたる所、甚(はなはだ)奇麗にして、血にも、まみれざる物故(ゆゑ)、紙をたゝみたるやうに何疋も重ね、風呂敷に包(つつみ)てさりげな體(てい)にして、ありきたる事。」

と、いへり。

「人を殺す咎(とが)には、比(ひ)しがたけれども、如ㇾ此(かくのごとく)、數日(すじつ)しばしば、惡行(あくぎやう)をなせし故、こらさん爲(ため)、捕へられぬ。」

といふ。

[やぶちゃん注:あまり理解されていないので言っておくと、現在の高級な三味線でもやはり猫の皮が使用されている。安い物は豚皮であるが、音が各段に異なる。私の妻は琴の名手だが、三味線もやりたいと言い出し、買ったが、やはり猫皮で、ちゃんと乳が見える。買った店主に質問したところ、言葉を濁して、某半島(実際には半島名を言ったが、敢えて隠した)の某所で、専用に飼育しているという答えだった。

「千日」地名。現在の大阪府大阪市中央区千日前(せんにちまえ)附近から東の広域(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「千日前」によれば、『江戸初期には近郊農村であった西成郡難波村と西高津村の一部であった』。「大坂の陣」後の慶長二〇・元和元(一六一五)年、『市内の墓地の整理により』、『竹林寺』(ここ)『の南東一帯に「千日墓地」と呼ばれる大規模な墓地がつくられ、刑場・焼き場も併設された。これが後にさまざまな噂話や因縁話の原因にされることとなる。なお、大坂西町奉行所近辺にあった牢獄から本町橋を渡り西へ向かい、西横堀川で南下、道頓堀川を東へ向かい』、『千日墓地手前の刑場に向かうのが市中引き回しルート』であった、とある。まあ、流石に、市中引き回しには、ならなかっただろうがね。]

譚海 卷之六 淡路國住人森五郞兵衞海上無難に渡る事 附長州家士村上掃部淨沓家藏の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。標題の「附」は「つけたり」と読み、「掃部」は「かもん」、「浮沓」は「うきぐつ」と読んでおく。]

 

○淡路國に森五郞兵衞といふ人、松平阿波守殿、家來分にて、公儀の人、住(ぢゆう)す。

 海上の步行、平地のごとし。

 代々、家に奇驗(きげん)ありて、おなじ事也。

「いかなる大風雨(だいふうう)にも渡海するに、覆沒(ふくぼつ)の憂(うれひ)、なし。」と、いへり。

 又、長門毛利家の家中に村上掃部と云(いふ)もの、家に「浮沓」と云ものを傳ふ。

「每歲(まいとし)、元日には、右の沓をはき、隱岐國まで往來し歸りて、元日の朝飯を祝(いは)ふ。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:二つともに、都市伝説のようで、真面目に考証する気にならない。忍者の「水蜘蛛の術」があるが、あれで瀬戸内海上や隠岐へ行けるとは、到底、考えられない。]

南方熊楠「守宮もて女の貞を試む」(正規表現版・オリジナル詳細注附き)

[やぶちゃん注:本稿は南方熊楠が出版を企図していた『續々南方隨筆』の原稿として書かれたものであるが、結局、未発表に終わった。ちなみに『續南方隨筆』の刊行は大正一五・昭和元(一九二六)年十一月で、南方熊楠の逝去は昭和一六(一九四一)年十二月二十九日である。但し、『南方閑話』(一九二六年二月)・『南方隨筆』(同年五月)、『續南方隨筆』と、この時期の出版は矢継ぎ早であることから、かなり早い時期から書き溜めていたと考えてよいと思われる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』の「第七卷文集第Ⅲ」(澁沢敬三編・一九五二年乾元社刊)のここ以下にある当該論考を用いた。戦後の出版であるが、正字正仮名である。書名・引用等は傍点「丶」は下線に代えた。なお、これは底本では「動物隨筆」という大パートの中の一篇である。また、本作をお読みになった方は、私の電子テクストである寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蠑螈」(イモリ)・「守宮」(ヤモリ)・「避役」(インドシナウォータードラゴン)の部分等も、併せてお読みになることを、是非、お薦めする。

 底本には、ごく僅かしかルビがないが、若い読者のために、ストイックに《 》で推定の読みを歴史的仮名遣で添えた。一部は所持する平凡社『南方熊楠選集』第五巻に添えられたルビを参考にした。また、書名・雑誌名・引用・直接話法部分等には鍵括弧・二重鍵括弧を附した。その関係上もあって、一部に句点を補塡してある。傍点「◦」は下線に代えた。漢文部分は直後に私がよしとする訓読文(熊楠の訓点にはやや不審があるので、必ずしも従ってはいない)を〔 〕で補った。そこでは私の判断で一部に歴史的仮名遣で読みを添えてある。

 実は、私は、二〇〇八年五月四日に、一九八五年平凡社刊「南方熊楠選集 第五巻 続々南方随筆」を底本としたサイト版「守宮もて女の貞を試む 南方熊楠」を公開しているが、今回は零からやり直した。されば、これが決定版になる。]

 

        守宮もて女の貞を試む

 

 「古今圖書集成」、「禽蟲典」一八四に、「淮南萬畢術」を引いて云《いは》く、『七月七日、採守宮、陰カシ、合ハスニ以シ井華水、和女身、有文章、即ㇾ丹ㇾ之、不ㇾ去、去有ㇾ奸。』〔『七月七日、守宮(しゆきゆう)を採り、陰に之れを乾(かは)かし、合(あ)はすに井華水(せいくわすい)を以つてし、和(あ)へて、女身に塗り、文章(もやう)有り、即ち、丹(に)を以つて之れに塗り、去(さ)らざる者は淫ざる。去る者は、奸(かん)有り。』と。〕。晉の張華の「博物志」四には、『蜥蜴、或蝘蜓。以ㇾ器フニテスレハ朱砂、體盡、所ㇾ食滿七斤、治擣スルコト萬許。點スレハ女人支體、終年不ㇾ滅、唯房室ニハ則滅、故「守宮」。傳、『東方朔語武帝、「試ミルニㇾ之有リㇾ驗。」。』〔蜥蜴(せきえき)、或るいは、蝘蜓(えんてい)と曰ふ。器(うつは)を以つて養ふに、朱砂(しゆさ)以つてすれば、體(からだ)、盡(ことご)く赤し。食ふ所(ところ)七斤に滿ち、治(をさ)め擣(つく)すること萬(まん)許(ばかり)。女人(によにん)の支體(したい)に點(てん)ずれば、終年、滅(めつ)せず。唯(た)だ、房室の事には、則ち、滅す。故に「守宮」と號す。傳(でん)に曰(いは)く、『東方朔、漢の武帝に語るに、「之れを試みるに、驗(しるし)、有り。」と。』と。〕。「本草綱目」四三と本邦本草諸家の說を合せ考ふるに、大抵「蜥蜴」はトカゲ、「蝘蜓」はヤモリらしいが、古人は之を混同して、何れも又「守宮」と名づけたらしく、件(くだん)の試驗法に、何れか一つ用ひたか、兩《ふた》つともに用ひたか分らぬ。李時珍が『點スルㇾ臂之說、「淮南萬畢術」、張華「博物志」、彭乘「墨客揮犀」に、皆有其法、大抵不ㇾ眞ナラ、恐クハランㇾ術、今不ㇾ傳ハラ。』〔『臂(ひぢ)に點(てん)ずるの說、「淮南萬畢術」、張華「博物志」、彭乘「墨客揮犀《ぼくかくきさい》」に、皆、其の法(はう)、有り。大抵、眞(しん)ならず。恐くは、別に術(じゆつ)、有らん。今、傳はらず。』〕と云《いへ》る如し。「墨客揮犀」には、北宋の煕寧中《きねいちゆう》、京師久しく旱《ひで》りしに、舊法により雨を禱《いの》るとて、蜥蜴を水に泛《うか》べる積りで、蠍虎《けつこ》(乃《すなわ》ち蝘蜓)を用ひ、水に入《いる》ると死んで了つたので、何の効も無《なか》つたと記す。事の次第を按ずるに、北宋朝に京師で蜥蜴と名《なづ》けたは、トカゲに非ず、水陸兩棲のヰモリだつたのだ。かくトカゲ、ヤモリ、ヰモリを混じて同名で呼《よん》だから、昔し女の貞不貞を試みた守宮は何であつたか全く判らぬ。

[やぶちゃん注:「古今圖書集成」清代(十八世紀)の類書(百科事典)。現存する類書としては中国史上最大で、巻数一万巻。正式名称は「欽定古今圖書集成」。「維基文庫」のここ(「博物彙編 第一百八十四卷」)で、当該原文の電子化されたものを視認出来る。標題は『淮南畢萬術』の『守二則』。上記引用部の後に、

   *

守宮塗臍婦人無子,取守宮一枚,置甕中,及蛇衣,以 新布密裹之,懸於陰處百日。治守宮蛇衣等分,以唾 和之,塗婦人臍,磨令溫,即無子矣。

   *

とあった。

「淮南萬畢術」(わいなんばんひつじゅつ)は前漢の第五代文帝期(在位の始めは紀元前一八〇年)から武帝期(在位の終りは紀元前八七年)にかけて生きた淮南王劉安(紀元前一七九年~紀元前一二二年)が、全国の学者や方士(=道士)を招致して編纂した神仙方術書。彼は思想書「淮南子」(本邦では何故か、古くから、この書名をのみ「えなんじ」と読む)の作者として、とみに知られる。

「井華水」丑の刻に井戸から汲み上げた水。現在の茶の湯でも、この水を一陽来福の水と称して用いる。

『張華「博物志」』三国時代の魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)が書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集。全十巻。「維基文庫」の電子化物で探したが、見当たらない。但し、同書の原本はもっと内容が多かった(一説に四百巻あったものを武帝が削除を命じたとも言う)ともされる。フレーズ検索を続けたところ、「国立公文書館デジタルアーカイブ」の「庶物類纂」の「蛇類屬 自十三至十四」PDF)の9コマ目に発見出来た。

『彭乘「墨客揮犀」』北宋の彭乗の撰。宋代の遺聞逸事及び詩話文評などを記したもの。中国の方のブログ「風中的貓咪」の「墨客揮犀 - 蜥蜴祈雨」の冒頭に原文が載る。

「北宋の煕寧」神宗の治世で用いられた元号で、一〇六八年から一〇七七年まで。]

「塵添壒囊抄《ぢんてんあいなうしやう》」八に、『「ゐもりのしるし」と云《いふ》は何事ぞ。是れ和漢共に沙汰ある事也、「いもり[やぶちゃん注:ママ。後掲する板本も同じ。]」とは「守宮《しゆぐう》」共《とも》書けり。「法華經」にも侍り(熊楠按ずるに、「法華經」「譬喩品《ひゆぼん》三」に、長者の大宅頓弊《とんぺい》[やぶちゃん注:衰え廃(すた)れること。]せるを記して、「鴟梟、鵰鷲、守宮、百足等、交橫馳走す」とあるを指す。)其本《そのもと》の名は蜥蜴《せきえき》也。是《この》血を取《とり》て、宮人の臂等にぬる事あり。其法取蜥蜴、飼フニテシ丹砂、體悉時、搗ㇾ之、〔其の法、蜥蜴を取り、飼ふに丹砂を以てし、體(からだ)、悉(ことごと)く赤き時、之れを搗(つ)き、〕其血を官女の臂に塗るに、いかに洗ひ拭へ共《ども》、更に落《おつ》る事なし、然共有レハ浮犯、〔然(しか)れども、浮犯(ふはん)有れば、〕其血則ち消失する也、此を以て敢《あへ》て不調の儀なし、仍《よつ》て守宮とはいふ也。去は[やぶちゃん注:「されば」。]古詩にも、「臂上守宮何ニカエン、鹿葱花落、淚如ㇾ雨」と云《いへ》り。鹿葱《ろくそう》は宜男草《ぎなんさう》なり。去は[やぶちゃん注:同前。]又和語(歌?)にも、「脫ぐ履《くつ》のかさなることの重《かさ》なれば、守宮《ゐもり》のしるし、今はあらじな。」。「ぬぐ履の重なることの重なれば」とは、人の妻のみそかごとする節《をり》に、著けたる履の自《おのづか》ら重なりて脫置《ぬぎおか》るゝ事有《あり》と云《いふ》也。「忘るなよたぶさに付《つき》し蟲の色の、あせては人に如何《いかが》答へん。」。是は其驗《しる》しあせぬべければ難ㇾ合ヒ〔合(あ)ひ難(がた)し〕と云《いへ》る也。此返歌に曰く、「あせずとも、われぬりかへんもろこしの、守宮の守る限りこそあれ。」。』、と出づ。古歌にもろこしのいもり[やぶちゃん注:ママ。]とあるので、守宮もて女人の貞操を試《ため》したことは古く日本に無《なかつ》たと知る。然るにどう間違つたものか、いつの頃よりか、水中のヰモリが雌雄中《なか》よく、交《まじは》れば離れぬとかで、其黑燒きを振懸《ふりかけ》れば、懸られた男又女が、忽ち振かけた女又男に熱く成《なつ》てくるといふ事が、淨瑠璃など(例せば「朝顏日記」)に著はれ出た。然しこれは守宮で女の貞不貞を試すと全く關係なく、古來日本に限った俗信とみえる。序(つい)でにいふ、蜥蜴類で埃及《エジプト》とサハラの沙中にすむスキンクスは、古く催淫劑として著名なと同時に、其羹(あつもの)を蜜と共に啜《すす》れば、折角起《おこつ》た物も忽ち痿了《いえをは》る由。「淮南萬畢術」に、守宮を婦人の臍《へそ》に塗れば子《こ》無《なか》らしむ、とあるも似た事だ。支那の廣西橫州に蛤蚧《かふかい》多し。牝牡上下し相呼ぶこと累日《るゐじつ》、情《じやう》洽《あまね》くして乃《すなは》ち交はる、兩《ふたつ》ながら相抱負して自《みづか》ら地に墮つ。人往《ゆき》て之を捕うるも亦知覺せず。手を以て分劈《ぶんへき》[やぶちゃん注:交合した二個体を縦に立ち割るの意であろう。]するに死すと雖も開かず、乃《すなは》ち(中略)[やぶちゃん注:丸括弧は底本にはないが、躓くので特異的に挿入した。]、曝乾《さらしほし》して之を售《う》り、煉《ねつ》て房中の藥となし、甚だ効ありといふ。是は學名を何という蜥蜴か知《しら》ぬが、昔しは雌雄相抱《いだ》いた儘《まま》紅絲《べにいと》で縛り、源左衞門が非道のやいば、重ね切りの代りに重ねぼしと、乾かして本邦へも舶來したといふ。(一九二〇年三板、「劍橋《ケンブリッジ》動物學」八卷五六一頁。プリニウス「博物志」二八卷三〇章。「本草綱目」四三。「重訂本草啓蒙」三九。)。

[やぶちゃん注:「塵添壒囊抄」先行する原「壒囊抄」は室町時代の僧行誉の作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に、巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明したもので、「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて、七百三十七条としたのが、「塵添壒囊抄」(じんてんあいのうしょう)全二十巻である。編者は不詳で、享禄五・天文元(一五三二)年成立で、近世に於いて、ただ「壒囊鈔」と言った場合は、後者(本書)を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。南方熊楠御用達の書である。「日本古典籍ビューア」のここ(第八巻の「二十一」「守宮驗事(ヰモリノノシルシノコト)【付本名事 詩歌作倒事】」で当該部が視認出来る。熊楠の引用部は、版本が異なるのか、或いは、熊楠が読み易く改変しているものか、やや表現に異同があるが、叙述全般には問題はない。

「法華經」「譬喩品三」「法華経」の第三。「三車火宅(さんしやくわたく)」「火宅」は三界(衆生が生死を繰り返しながら輪廻する世界を欲界・色界・無色界の三つに分けた世界。「三有」(さんう)とも言う)の喩え。ある長者が、火の燃えさかる家から三人の子どもを助け出すために、それぞれが好む羊車・鹿車・牛車を与えようと約束し、逃げ出して来た後、それぞれに大白牛車を与えた、という話。羊・鹿・牛の三車、すなわち声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩の「三乗」の教えによって、火に包まれる家にも等しい三界から、仏が衆生を導き出そうとしたことを指す)の譬(たと)えで知られる。サイト「近松門左衛門と広済寺」の「妙法蓮華経譬諭品第三」他で確認したが、「鴟梟、鵰鷲、守宮、百足等、交橫馳走す:(しきゅう、ちょうしゅう、しゅきゅう、ひゃくそくら、こうおうちそうす:現代仮名遣)と読むものと思われるが、「法華経」の「譬喩品」の本文とはちょっと異なっている。正しくは「鵄梟鵰鷲 烏鵲鳩鴿 蚖蛇蝮蠍 蜈蚣蚰蜒 守宮百足 鼬貍鼷鼠 諸惡蟲輩 交橫馳走」で、」『その古び朽ちた長者の家には、鳶(とび)・梟・熊鷹・鷲・鴉・鵲(かささぎ)・山鳩・家鳩・蜥蜴・蝮・蠍・百足・蚰蜒(げじ)・守宮・馬陸(やすで)・鼬(いたち)・狸・鼷鼠(はつかねずみ)といった、あらゆる害毒を持った生き物どもが住み着き、傍若無人・縦横無尽に走り回っている。』という意味である。

「宜男草」甘草(カンゾウ)のこと。単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目ユリ科ワスレグサ属 Hemerocallis のヤブカンゾウ Hemerocallis fulva var. kwanso 、又は、ノカンゾウ Hemerocallis fulva var. longituba を指していよう。

「脫ぐ履のかさなることの重なれば、守宮のしるし、今はあらじな。」「忘るなよたぶさに付し蟲の色の、あせては人に如何答へん。」最初の和歌は延慶三(一三一〇)年頃に成立した藤原長清撰になる私撰和歌集「夫木和歌抄」の「卷三十二」「雑十四」に「読人不知」で所収するが、この二つの和歌は、それよりも前の平安末期、文治年間(一一八五年~一一九〇年)に歌僧顕昭が撰した歌学書「袖中抄」(しゅうちゅうしょう)の「六」に所収する。但し、やや表記に異同があるので、以下に示す(「GLN(GREEN & LUCKY NET)からこんにちは」以下のページから孫引きさせてもらった)。

   *

ぬぐくつのかさなることのかさなれば ゐもりのしるし今はあらじな

   *

忘るなよたぶさにつけし虫の色の あせなば人にいかにこたへむ

返し

あせぬとも我ぬりかへむもろこしの ゐもりもまもるかぎりこそあれ

   *

「朝顔日記」 正しくは「生寫朝顏話」(現代仮名遣「しょううつしあさがおばなし」)。司馬芝叟(しばしそう)の長咄(ながばなし:小説)の「蕣」(あさがお)を元に、奈河春助(ながははるすけ)が「けいせい筑紫のつまごと」という歌舞伎台本に改作、それを近松徳三が浄瑠璃化したものであるが、未完成で、それを翠松園主人なる人物が完成させたとする。初演は天保三(一八三二)年(以上は河原久雄氏の「人形浄瑠璃 文楽」の「生写朝顔話」の記載を参照して簡約した。当該サイトはリンクの通知を要求しているのでリンクは貼らない)。

「スキンクス」トカゲ亜目スキンク下目ScincidaeScincus 属クスリサンドスキンク Scincus scincus か。和名が如何にもではある。英文の同種のページがある。但し、『アルジェリア発祥の 十三世紀のイスラム神話の中で、小さいながらも、重要な役割を果たしている。今日に至るまで、この地域の遊牧部族は、このトカゲが、砂に潜って天敵を避ける能力を持っており、砂漠の危険から身を守ってくれる恩恵の賜物と信じており、この動物をペットとして飼うことが多い』とあるばかりで、催淫剤の話は載らない。他の言語の記載も見たが、ない。この種ではないのかも知れない。

「源左衞門」「與話情浮名橫櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)は歌舞伎の演目。嘉永六(一八五三)年五月、江戸中村座初演。九幕十八場。三代目瀬川如皐(じょこう)作。通称の「切られ与三」・「お富与三郎」・「源氏店(げんやだな)」の通称の方が通りがいい。その登場人物地元の親分で、お富を妾にしていた親分が赤間源左衛門。冒頭、彼に与三郎は彼と子分どもに滅多斬りされる。

『一九二〇年三板、「劍橋動物學」八卷五六一頁』原書に当たれなかった。

『プリニウス「博物志」二八卷三〇章』プリニウス『博物志』二八巻三〇章:以下に所持する一九八九年雄山閣刊の「プリニウスの博物誌Ⅲ」(中野定雄他訳)より、当該箇所を引用する。

   《引用開始》

スキンクから四種[やぶちゃん字注:次の「三〇」の上には節の通し番号の[119]がある。また(注1)は訳者によるもの。]

 三〇 それに[やぶちゃん注:この部分の前掲二九章の薬物の得られるカメレオン十五種を指す。]似た動物はスキンクスそれに似た動物はスキンクス(注1)である――そして実際それは陸のワニと呼ばれた――しかしそれはもっと色が薄く、皮も薄い。だがワニとのおもな違いは鱗の並び方であって、これは鱗が尾から頭の方へと向っている。インドのスキンクスがいちばん大きく、アラビアのそれが次に大きい。これを塩づけにして輸入する。その鼻面と足を白ブドウ酒に入れて飲むと催淫剤になる。とくにサテユリオン<ランの一種>およびカキネガラシの種子を加えたものがよいが、この三つを合せて一ドラクマとコショウ二ドラクマを調合する。この調合物の一ドラクマの丸薬を内服[やぶちゃん字注:ここの頭に節の通し番号[120]が入る。]する。脇腹の肉だけの二オボルスに、没薬およびコショウを同じ割合だけ加え内服すると、同じ目的に対してさらに有効だと信じられている。アベレスの報告によれば、それを負傷の前または後に用いると矢の毒に効くという。それはまた、もっと有名な解毒剤の成分として加えられる。セクスティウスは、重さ一ドラクマ以上を一へミナのブドウ酒に入れて飲めば、それは致死量だと、そしてさらにスキンクスのスープをハチ蜜といっしょに摂ると制淫剤なると言っている。

  注1 トカゲの一種。現存のスキンク(トカゲ)でなく、もっと大きい。

   《引用終了》

『「本草綱目」四三』「漢籍リポジトリ」の同書同巻の「蛤蚧」が当該部。ガイド・ナンバー[102-18a] にある「蛤蚧」を見られたい。影印本画像も見られる。

『「重訂本草啓蒙」三九』国立国会図書館デジタルコレクションの「重訂本草綱目啓蒙」(弘化四(一八四七)板本)ここの「守宮」の次の「蛤蚧」の方を参照されたい。]

 誠や老《おい》たるも若きも、後家も比丘尼も、此迷ひの一《いつ》ぞ忘れ難きで、小生などは、早七十近い頽齡を以てしてなほ、この文を草する内すら、名刀躍脫、さやつかのまも油斷成《なら》ず。ヰモリの黑燒など何のあてに成ぬ物が、年々此迷ひの殊に盛んな歐米へ數萬圓の輸出あり、大分國益となると聞《きけ》ば、件(くだん)の蛤蚧も早く臺灣邊へ移し入《いれ》て養成したらよかろう。榕樹《ようじゆ》間に住む物の由。

[やぶちゃん注:「榕樹」イラクサ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa のこと。]

 守宮で女の貞否を驗するに似た事、支那以外にも多い。其一例は、一九〇六年板、デンネットの「黑人の心裏」八九頁に、レムべてふ腕環を佩《おび》て嫁した人妻をンカシ、レムべと呼び、其夫の凡ての守護尊の番人たり、斯《かか》る婦人が「伊勢の留守、天の岩戶をあけ放し」、鬼の不在に洗濯をさせると、夫が歸り來て、婚儀の守りとした品々を入れ置いた籃《かご》を開けば、悉くぬれている[やぶちゃん注:ママ。]ので、扨《さて》は嚴閉《がんぺい》し置《おか》れ乍ら、鬱情勃發して誰かを引き入れ、ぬれ事をしたと判ずとある。

[やぶちゃん注:『一九〇六年板、デンネットの「黑人の心裏」八九頁』ちょっと疲れたので、調べる気にならない。悪しからず。]

 昭和七年[やぶちゃん注:一九三二年。]一月二十八日追記。バープ・サラト・カンドラ・ミトラ氏說に、アフガニスタンとベルチスタンではトカゲを壯陽劑とし、此印度[やぶちゃん注:ママ。筑摩版『選集』では『北インド』である。誤植であろう。]の沙地にすむトカゲの一種ウロマチスク・ハルドウヰキイは陰萎の妙藥と信ぜらる。又印度の或土人はトカゲの油を催淫劑とすと(一八九八年發行『ベンゴル亞細亞協會雜誌』六七卷三部一號、四四―四五頁)。

[やぶちゃん注:「ベルチスタン」バルチスタンとも呼ぶ。パキスタン南西部の地方(グーグル・マップ・データ)。広くはイラン南東部からアフガニスタン南部を含む。イラン高原の南東部を占め、一般に大陸性の乾燥気候を呈する。イラン系バルチ族などが遊牧生活を営む。]

2024/02/11

不審な事件(あなたも巻き込まれる可能性大)

 昨日、夜、数少ない私が使用しているクレジット・カード会社より、普段、対面以外に全く使用していないクレジット・カードで、二万八千円程の、ネット決済をする仕儀が行われている由の電話が同社(確認済み)からあり、私が普段、ネット上で、一度も行っていないネット決済が行われていることに附き、電話があり(されば、同社のコンピュータが「異常」を発し、決済は停止済みの由であった。カードは停止され、十日ほど使えなくなってしまった)、私は「身に覚えがない」ことを答えた。
 ところが、その時刻を聴いたのだが、よくよく考えると、私が先日、文楽を見に行く途中、東日本のスイカ・カードで、一万円をチャージした時間と完全一致するので、それを、先ほど、JR東日本に連絡した。
 私はネットでは、カード決済はネット・セキュリティ会社以外には使用していない(そちらにも本件を連絡済みである)。
 不思議なことだ。
 あなたも、お気を附けあれかし。


 正直、甚だ――殺したいほど――腹が立ったワッツ!!!

南方熊楠発信「今井三子」宛昭和十年十八日朝五時起筆書簡(サイト版『(Phalloideae の一品)』の正規表現版)

[やぶちゃん注:底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』の「第十二卷書簡第Ⅴ」(澁沢敬三編・一九五二年乾元社刊)の当該書簡を用いた。戦後の出版であるが、正字正仮名である。

 宛名人の今井三子(いまいさんし 明治三三(一九〇〇)年~昭和五一(一九七六)年)は、当時は自身が修了した北海道帝国大学農業生物学科助手であった菌類学者。後の昭和一三(一九三八)年には北海道産ハラタケ科菌類に関する研究成果を発表し、農学博士を授与され、昭和一八(一九四三)年、北海道第一師範学校教授、翌年からは北大農学部助教授を兼任した。昭和二四(一九四九)年から北海道学芸大学教授に就任、昭和二八(一九五三)年より横浜国立大学学芸学部教授として農学教室主任を務めた。昭和四〇(一九六五)年に横浜国立大学を定年退官した後、フェリス女学院大学教授に就任、昭和四三(一九六八)年からは同校で非常勤講師の職にあった。菌類分類学・植物病理学の分野で貢献し、アミガサタケ科Morchellaceaeイモタケ属 Imaia や、チチタケ属の種 Lactarius imaianus の学名に献名されている。サイト「南方熊楠資料研究会」「キノコ図譜描画中の南方熊楠」では、本書簡送付の翌月、今井来紀の折り、彼が熊楠を撮った写真を見ることが出来る。

 ちなみに、この「ハドリアヌス茸」は、南紀白浜にある「南方熊楠記念館」にて実物標本を閲することができ、私は二〇〇六年九月の南紀旅行で見ることが叶った。

 なお、正式には、これは菌界担子菌門菌蕈亜門真正担子菌綱スッポンタケ目スッポンタケ科スッポンタケ属 PhallusFlavophallus節アカダマスッポンタケ Phallus hadriani の仲間と推定される稀種中の稀種であろう(種同定に至ってはいない)ことは、以下のページを参考にされれば、納得されるであろう。ここではアカダマスッポンダケの生態写真も見られる。〔⇒gecko(ゲッコー)氏のサイト「生き物研究室」の「北海道生物図鑑(写真集)」の「植物・菌類」の「アカダマスッポンタケ」である。また、海外の版の“ Phallus impudicus: The Common Stinkhorn”や、“ Phallus hadriani in Santa Fè ”では、Phallus hadriani の生態のみならず、剖検された部分をも視認出来る。因みに、この属名 Phallusは言わずもがなだが、「ファルス」で、古代ギリシャ語の「勃起した陰茎・陰茎のような形をした物」を意味する語をラテン語にしたものである。

 御覧の通り、図は底本にもあるが、これは国立国会図書館の許可を得ないと使用出来ないので、所持する次に記す『河出文庫』にあるものを、OCRで読み込み、トリミング補正して添えた。但し、この『河出文庫』の図版は、本底本の図と比較するに、明らかに手が加えられてあるので、必ず、比較されんことを望む。

 なお、二行目の「南方熊楠再拜」は下三字上げインデントであるが、ブラウザの不具合を考え、引き上げた。結語の「早々敬具」は、本文最終行の下インデント四字上げであるが、引き上げた。読みは、恐らく編者が附したものと推定されるが、採用した。踊り字「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。

 なお、本篇はサイト版で、「(Phalloideae の一品)」として、一九九二年河出書房新社刊の中沢新一編「南方熊楠コレクション Ⅴ 森の思想」(河出文庫)所収の「ハドリアヌスタケ」(新字新仮名)を底本(末尾に、「(平凡社版『南方熊楠全集』第九巻584586頁)」の親本提示がある)で、一度、電子化注しているが、零からやり直したので、こちらを決定版とする。熊楠は送り仮名が不全である。万一、読みに躓いた場合は、整序されたそちらを見られたい。]

 

 昭和六年十月十八日朝五時

  今 井 三 子 樣   南 方 熊 楠 再 拜

 

 拜啓、昨日大阪より舊友來り候付、承り合せし處、大抵大阪より和歌山市まで四十分、又は一時間、和歌山より當地まで四時間にて、優に到着を得ることに御座候。何れも汽車と電車とにて大阪より南部(みなべ)町に到り、南部町より、此田邊町までは自働車(乘合)を用ることに御座候。然し御都合にて大阪天保山(てんぽうざん)より夜の九時に汽船に乘らば、明朝四時に、當田邊町近處文里(もり)といふ小港に着、上陸して乘合自動車に乘らば、小生宅と同町内の終局點(右乘合自動車會社本店)に達することにて、それより小生宅まで小半町ばかりに御座候。これらのことは大阪の旅宿より電話にて、船會社又はその大阪市内切符賣捌(うりさばき)所へ聞き合(ききあは)さば、直ちに知れることの由に御座候。[やぶちゃん注:『河出文庫』版に従うなら、以下の頭に『御都合にて、』とある。]夜分御存知なき初めての所に着し、汽車、自働車[やぶちゃん注:ママ。]にのり後(おく)るゝ等のことありて、如何はしき旅宿に夜を過し、近所喧噪(けんさう)のため眠ることもならぬよりは、夜分御出發を餘儀なくさるゝ節は、船便の方が樂(らく)なることと存じ侯。大阪より當地までの航海は、以前は隨分難路なりしも、只今は船が大きくなりし故、大風などのことなき限りは安樂なものに御座候。

 小生は足惡きをもって、自ら諸方へ御案内申すことは、或は不可望と存じ候故に、諸地の心安き友人を招集し、貴殿御着の上、それぞれ部署して諸方へ御案内申し上ぐるやう賴みおき候。その人々も每度拙宅へ來り、どこに菌が多く產する位い[やぶちゃん注:ママ。]のことは熟知しおる[やぶちゃん注:ママ。]なり。

 

Hadorianusu1

[やぶちゃん注:図一。キャプションは右の茸に「成熟品」、左の茸に「未熟品」とある。]

 

 拙方の標本圖記は、きわめて多數、且つ混雜しおる[やぶちゃん注:ママ。]を以て、悉皆御覽には數日を全くその方に費やさゞる可らず。小生、時として色々用事もあり、是亦不可望のことに付き、先づ重(おも)立たものを御覽に入るべく、用意致し置べし。而して先日も一寸、書面で申上おきし如く、小生方に近來の雜誌報告等、屆かず、又、家累と老齡衰弱の爲め、精査を遂るに由なく、久しく打ちやり置たるもの多し。其内に必然、無類の新屬と思ふPhalloideaeの一品あり。記憶のまゝに申上ると、上圖[やぶちゃん注:図一。]の如きものなり。生た時は牛蒡(ごばう)の臭氣あり、全體紫褐色、陰莖の前皮がむけたる形そつくりなり。印度より輸入して久しく庫中に貯へられたる綿花(わた)の塊に生したる也。

 

Hadorianusu2

[やぶちゃん注:図二。]

 

 昔し和蘭人が爪哇(ジヤワ)邊で(多分アンボイナ島)寫生せしLejophallusとか申す菌屬の圖が尤も之に似おり候。( Nees  ab  Esenbeck  の圖を小生持ち居る)然るに此屬の記載、甚だ怪しく簡に過るを以て、サッカルドの菌譜には、たゞその名を載せるのみ、記載すら移し入れおらず[やぶちゃん注:ママ。]。その圖は只今、うろ覺えのまゝ寫生すれば、こんな怪しきもので[やぶちゃん注:図二。]、紫といふよりは紺靑色に彩色しありしと記臆[やぶちゃん注:ママ。]す。

 小生知る所ろ、拙藏の標品の外に例類なきものなり。貴下は拙方に御滯在中に、この菌(酒精に藏しあり、故に變色はせるものゝ)全體の寫生と記載は(外部に關する限り、十分に致して今ももちおれり[やぶちゃん注:ママ。])[やぶちゃん注:以上の丸括弧注は:『河出文庫』版に従うなら、「((外部に關する限り、十分に致して今ももちおれり[やぶちゃん注:ママ。])」である。これは本底本編者が、丸括弧の不全ととり、修正を加えた可能性が高い。]を小生立會ひの上、解剖鏡檢して大抵要點を控え[やぶちゃん注:ママ。]去り、御歸札の上、精査して命名發表下ずや[やぶちゃん注:「くださらずや」。]。顯微鏡は、當方に三四臺あり、故に鏡檢に差支へなきも、なにか貴下得意の手輕な要品あらば(解剖刀等)御攜帶を乞ふなり。藥品等は當地で調ふべし。而して大抵、御心當りの右の圖に近き菌品の文献を、御しらべおき被下度候。外にも一二品、貴下の精査命名を乞度[やぶちゃん注:「こひたき」。]品あり、昨日、人を派して生品を採らせあり、今日、自ら寫生しおく。又、御來臨の上、その菌生ぜる現場へ御案内申し上ぐべし。   早々敬具

 

[やぶちゃん注:当時、南方熊楠は満六十四歳。先立つ昭和三年に長男熊弥の精神病(統合失調症と思われる)が悪化し、京都の岩倉病院に入院させている(大正一四(一九二五)年三月に高知高等学校受験のために高知に赴いたが、その旅先で発病し、それまでは自宅療養をしていたが、発作を起こした彼が熊楠の粘菌図譜を破り捨ててしまうなどの異常行動等があったことが知られている彼は明治四〇(一九〇七)年生まれで、後に海南市藤白(ふじしろ)で療養した。熊楠の死後(昭和一六(一九四一)年十二月二十九日(享年満七十四歳。死因は萎縮腎であった)、五十代半ばで昭和三五(一九六〇)年)に亡くなっている)。

「アンボイナ島」アンボン島(グーグル・マップ・データ)。

Lejophallus」(斜体でないはママ。熊楠は邦文論考でも斜体にしていないことが多い)これは、同じスッポンタケ属アカダマノオオタイマツ Phallus rubicundus のシノニムである。サイト「Picture Mushroom」の「アカダマノオオタイマツ」を参照されたい。

Nees  ab  Esenbeck」ドイツの博物学者にして医師のクリスティアン・ゴットフリート・ダニエル・ネース・フォン・エーゼンベック(Christian Gottfried Daniel Nees von Esenbeck 一七七六年~一八五八年)はゲーテと同時代人で、リンネの存命中に生まれ、博物学者として多くの動植物の記載を行うとともに、一八一八年から一八五八年まで『ドイツ自然科学アカデミー・レオポルディーナ』(Leopoldina)の会長を務めた人物。詳しくは当該ウィキを見られたいが、思うに、熊楠の所持する図譜は、彼の‘ Das System der Pilze und Schwämme. Ein Versuch. 2 Bände ’(一八一六年~一八一七年刊行:全二巻:「茸類と海綿類の体系の試論」であろう。

「サッカルド」イタリアの植物学者・菌学者ピエール・アンドレア・サッカルド(Pier Andrea Saccardo 一八四五年~一九二〇年)。当該ウィキによれば、主に『菌類の研究に従事し、有性生殖を営むステージが未発見の「不完全菌」やフンタマカビ綱 (Sordariomycetes)に関する』百四十『編以上の論文を発表した。ほぼ完全なキノコの目録』‘ Sylloge ’(シロージュ:「コレクション」の意)『が有名である。胞子色や形によって、不完全菌類を分類する体系を開発し、DNA分析をもとにする分類法の前に主流な分類体系であった』とある。]

2024/02/10

ブログ2,100,000アクセス突破記念 南方熊楠「大きな蟹の話」(正規表現版・オリジナル詳細注附き)

[やぶちゃん注:本稿は南方熊楠が出版を企図していた『續々南方隨筆』の原稿として書かれたものであるが、結局、未発表に終わった(実際、後掲する平凡社『南方熊楠選集』第五巻の本篇の本文末下部には、編者による『(未発表手稿)』という文字がある)。因みに『續南方隨筆』の刊行は大正一五・昭和元(一九二六)年十一月で、南方熊楠の逝去は昭和一六(一九四一)年十二月二十九日である。但し、『南方閑話』(一九二六年二月)、『南方隨筆』(同年五月)、『續南方隨筆』と、この時期の出版は矢継ぎ早であることから、かなり早い時期から書き溜めていたと考えてよいと思われる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』第七卷文集Ⅲ(渋沢敬三編・一九五二年乾元社刊)のここから用いた。戦後の出版であるが、正字正仮名である。なお、これは底本では「動物随筆」という大パートの掉尾である。

 底本には、ごく僅かしかルビがないが、若い読者のために、ストイックに《 》で推定の読みを歴史的仮名遣で添えた。一部は所持する平凡社『南方熊楠選集』第五巻に添えられたルビを参考にした。また、書名・雑誌名・引用・直接話法部分等には鍵括弧・二重鍵括弧を附した。その関係上もあって、一部に句点を補塡してある。

 なお、実は私は、私のサイト「鬼火」の「心朽窩旧館」で、一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集 第五巻 続々南方随筆」を底本とした新字新仮名・後注附きの「大きな蟹の話 南方熊楠」として二〇〇七年四月七日に公開しているが、本篇を正規表現決定版とすることとし、注も零から作り直している。

 また、本電子化は、昨日の深夜、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが2,100,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二四年二月十日 藪野直史】]

 

       大 き な 蟹 の 話

 

 一八九三年板、ステッビング師の「介甲動物史」二六頁に、一八五五年へッフェル纂「廣傳記新編」一四卷を引いて云《いは》く、キャピテーン・フランシス・ドレイクがアメリカの蟹嶋に上陸して、忽ち蟹群《かにのむれ》に圍まれ、兵器もて健《したた》か抵抗したれど蟹に負けた、是等の怪しい蟹は世界で最大の物で、其螯《はさみ》でドレイクの手脚や頭を散々片々に切りさいなみ、其尸骸を骨ばかりに嚙み盡したと。ス師は此話に多少據所《よりどころ》ある由を述べて云く、ドレイク、實は失望のあまり病《やん》で船中に死んだ。世界周航を爰迄無難に遂來《きたつた》つたのだ。蟹がドレイクを食《くふ》たでなく、ドレイクと其徒《ともがら》が蟹を食ふたので、其蟹一疋で四人の食料に十分だつたと、其徒が後日言つた。そんな事が有《あつ》たかも知れない。と云ふは、濠州の大蟹で、ラマークがプセウドカルキヌス・ギガスと學名を名附けたのは、時に殼の幅二呎《フィート》[やぶちゃん注:ほぼ六十一センチメートル。]に及び、一《ひとつ》の螯が餘程大きいといふ。蘭人リンスショテンスの「ゴア航記」に、ゴアの南サンペテロ州なる地に、人が其一の螯で挾まれたら死ぬ故、注意して禦《ふせ》がにや成《なら》ぬ程大きな蟹がおびただしくすむと書いたも、右樣の大蟹が實在するより推して尤もらしく思はると。(「宋高僧傳」一九、唐の成都法定寺惟忠の傳に、此寺塔より一巨蟹の身足二尺餘なるを獲《え》た、と記す。海より遠い地だから、そんな物がいき居《をつ》た筈なし。どこかの海邊より取寄せた山事《やまごと》だつたらう)。

[やぶちゃん注:『一八九三年板、ステッビング師の「介甲動物史」二六頁』不詳。識者の御教授を乞う。

『一八五五年へッフェル纂「廣傳記新編」一四卷』同前。

「キャピテーン・フランシス・ドレイク」エリザベス朝イングランドのゲール系ウェールズ人航海者で海軍提督にして海賊(私掠船船長)であったフランシス・ドレーク(Francis Drake 一五四三年頃~一五九六年)。イングランド人として初めて世界一周を達成した。当該ウィキによれば、一五九六『年、コロンビアのリオアチャを襲撃し』、『金や真珠を強奪』したが、『スペイン王国のインディアス艦隊が避難所を探していたパナマのポルトベロの海岸から離れて停泊中に、赤痢により』五十五『歳で亡くなった。死ぬ間際には、病床で鎧を着ようとするなど錯乱状態であった(恰好よく死にたかったのだともいわれているが)』とあった。

「アメリカの蟹嶋」不詳。

「濠州の大蟹で、ラマークがプセウドカルキヌス・ギガスと學名を名附けた」「セウ」は右に小文字で附されてあるが、下附きで示した。プセウドカルキヌス・ギガスである。当該ウィキによれば、イソオウギガニ科タスマニアオオガニ属タスマニアオオガニ Pseudocarcinus gigas 。シノニムにCancer gigas Lamarck, 1818 とある。「東京海洋大学海洋科学部附属水産資料館」内の展示の同種のページを参照されたい。解説もある。但し、そこでは和名を「オーストラリアオオガニ」とする。「ラマーク」は上記のシノニムのLamarckで、ブルボン朝から復古王政にかけての十九世紀の著名な博物学者で進化論学者としてが「用不用説」を提唱したジャン=バティスト・ピエール・アントワーヌ・ド・モネ、シュヴァリエ・ド・ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck 一七四四年~一八二九年)。彼は「biology」(生物学)という語を、現代の意味で初めて使った人物の一人であり、「脊椎動物」と「無脊椎動物」を初めて区別したのも彼である(当該ウィキに拠った)。

『蘭人リンスショテンスの「ゴア航記」』オランダの航海者ファン・リンスホーテン(Jan Huyghen van Linschoten 一五六三年頃~一六一一年:オランダ人として最初の東洋事情紹介者となる。若い時、スペインに渡り、一五八三年にインドのゴアに着き,大司教に仕えて約五年、同地に滞在した。一五九二年に帰国し、各地での豊富な見聞を「東方すなわちポルトガル領インド水路誌」(邦訳「東方案内記」)などに記して一五九五年から翌年にかけて出版した。一五九五年にオランダを出帆し、東インドに向かったハウトマンの船隊は、少なくとも、この書物の一部を知っていたと思われる。それ以後の航海者は、この書物を重要な指針とし、航海記を書く際の手本とした。彼は、当時、有力だった北極海経由の東洋到達計画にも興味を示し、一五九四年から翌年にかけて、その第二回航海に参加し、旅行記を著した。晩年は港町エンクハイゼンに住み、町の運営に参加し、著述や翻訳に専念する傍ら、『西インド会社設立計画』にも加わった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「ゴアの南サンペテロ州」ゴアは南インドの西岸のここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

『「宋高僧傳」一九、唐の成都法定寺惟忠の傳に、此寺塔より一巨蟹の身足二尺餘なるを獲た、と記す』「大蔵経データベース」で確認した。『而獲一巨蟹。身足二尺餘。是塔頗多靈異』とあった。]

 ス氏の書二七頁に云く、現存のカブトガニ(これは蟹よりも蜘蛛に近い)に緣あるプテリゴッスは、全屬過去世に絕滅した、その遺體より推すに、身の長さ六呎[やぶちゃん注:約一・八三メートル。]、最も廣い幅が二呎[やぶちゃん注:約六十一センチメートル。]に及ぶのが有《あつ》たらしい。見樣に由《よつ》て確かに最大のプテリゴッスとその大《おほきさ》を爭ふべく、古來、巨蟹に關する種々の怪談の根本たりと想はるゝ者が日本にある。シマガニ乃《すなは》ち是で、大英博物館に展覽せる者は、其雄の二腕を張《はら》せ兩端の間だ八呎[やぶちゃん注:約二・四四メートル。]あり、十一呎[やぶちゃん注:約三・三五メートル。]に及ぶもありときく。誠に恐れ入《いつ》た大きさだが、此蟹、實はクモガニの一種に過ぎず。足弱く細い方で、其殼、長幅共に十二吋《インチ》[やぶちゃん注:約三十センチメートル半弱。]を踰《こ》えずと。予、英國に在《あつ》た時、介甲類の專門家共に聞いたは、蟹類の頭と胴と分《わか》ち難く密着した物は凡て穎敏活潑《えいびんかつぱつ》で、頭と胴と區別されて腦髓が著るしく發達したらしい者程癡鈍因循だ、と。此シマガニも頭が挺出して賢こそう[やぶちゃん注:ママ。]にみえるが、實は極めてボンヤリで行動頗る遲緩、其につけ込んで棒で敲き殺して罐詰にするは酸鼻の至りと、故福本日南が北海道での目擊談だつた。とにかく世界一の大蟹故、何とか保續させてやりたい。

[やぶちゃん注:「カブトガニ(これは蟹よりも蜘蛛に近い)」節足動物門鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus で、かなり知られているので言わずもがなであるが、通常の我々が知っている「蟹」(カニ)類は、節足動物門甲殻亜門 Crustacea であるが、本カブトガニ類は、熊楠の言う通りで、鋏角亜門 Chelicerata であって、「カニ」と名附くものの、カニ類とは極めて縁遠く、同じ鋏角亜門 Chelicerata である鋏角亜門クモ上綱蛛形(しゅけい/くもがた/クモ)綱クモ亜綱クモ目 Araneae のクモ類や、その近縁の蛛形綱サソリ目 Scorpiones のサソリ類に遙かに近い種である(鋏角亜門には皆脚(ウミグモ)綱 Pycnogonida も含まれる。なお、現生カブトガニは全四種である)。また、古生代の仲間の形態を色濃く残している「生きている化石」である。私の『毛利梅園「梅園介譜」 鱟 (カブトガニ・「甲之圖」(被覆甲面)及び「腹之圖」(甲下腹面の二図))』を見られたい。

「プテリゴッス」古生代のシルル紀からデヴォン紀にかけて繁栄したウミサソリ、則ち、節足動物門鋏角亜門節口綱†ウミサソリ目†ウミサソリ亜目†プテリゴトゥス上科†ダイオウウミサソリ科†アクチラムス属(旧称ユーリプテルス属 Pterygotus )の一種† Acutiramus macrophthalmus  を指す。ウィキの「アクチラムス」を参照されたい。

「シマガニ」これは世界最大の蟹とされるタカアシガニ(高脚蟹) Macrocheira kaempferi の別名である。「縞蟹」で、恐らくは、脚の縞模様を指す異名であろう。私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蟹(カニ類総論)」を参照されたい。また、同じく「東京海洋大学海洋科学部附属水産資料館」内の同種の展示ページも見られたい。

「福本日南」(安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)は新聞記者で史論家。先進的ジャーナリスト。本名は誠。筑前福岡藩出身。初め、『日本新聞』に入社し、明治三八(一九〇五)年には『九州日報』社長となる。同四一年、衆議院議員に当選した。史伝を得意とし、『九州日報』に連載された「元祿快挙録」は有名。南方熊楠とは在英中に邂逅し、親しくなった。石瀧豊美所長の「イシタキ人権学研究所」内の「福本日南の部屋」を参照されたい。]

 怪異的の巨蟹の咄しが日本の記錄に少なからぬ。例せば寬永二年板、菊岡沾凉の「諸國里人談」五に、『參河國幡頭郡吉良庄冨吉新田の海邊は大塘にして、根通りは石を以てつきたて、髙さ一丈二三尺餘、小山の如くなるが、享保七年八月十四日の大嵐にて此堤きれたり、里人多く出て之を防ぐに、甲の徑七尺許(ばかり)の蟹出たり。水門の傍を穿ちて栖家としける。其穴より潮押込て切たる也。人夫大勢、棒熊手を以て追廻しける、右の鋏を打折りたり、其乍らにして海に沈む。件(くだん)の鋏は人の兩手を束ねたるが如く、今以て時として出ける也。一方の鋏亦出生す。然れども左よりは拔群小さしと云ふ。』とみゆ。古い大津繪節の文句に「蟹の穴から堤が崩れる、氣を附けな」といふた誡めの適切な實證だ。

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之五 大蟹」を見られたい。それがあるので、私の読みは附さなかった。]

 播磨の蟹阪《かにさか》は、昔し大蟹屢《しばし》ば出《いで》て往來を妨げ、弘法大師之を池に封じ込《こめ》たといふ(藤澤氏『日本傳說叢書』明石の卷)。萬治元年、了意筆「東海道名所記」五に、伊勢の『蟹坂、蟹が石塔は左の方にあり、松二本植えたり、昔し此所《ここ》に妖怪有りて往來の人を惱まし侍べり、或時、會解僧《ゑときそう》一人爰を通りけるに彼《か》の妖怪出《いで》たり。僧卽ち問ふて曰く、「汝は何物ぞ、名のれ、聞かん。」といふ。怪物答へて曰く、「兩手空をさし双眼天につけり、八足橫行《わうぎやう》して樂しむ者也。」といふ。僧仍《すなは》ち悟りて曰く、「橫行は橫に行くと讀めり、双眼天につける者、兩手空をさし、八足にして橫に行く、汝は定めて蟹にあらずや。」と言はれて、姿を現はしつゝ戒を授かり永く禍《わざはひ》を致さゞりけり。其標《しる》し迚(とて)今に塔石あり云々」と。安永六年成つた太田賴資の「能登國名跡志」坤卷に、右の話の異傳あり。珠洲郡寺社村の蟹寺は、『法成山永禪寺といふ、この寺昔は敎院なりしが、妖怪の爲に住持を取殺《とりころ》す事久し。依りて住職する人もなきあき寺也しに、貞和年中の頃か、同國酒井の永光寺瑩山和尙の御弟子月菴禪師行脚の時此寺に來りて、客殿に終夜坐禪しておはせしに、丑滿の頃震動して、眼《まなこ》日月《じつげつ》のごとくなる恐ろしき物顯はれいで、禪師、「暫く待《まつ》た、問ふことありや。」、彼者曰く、「四足八足兩足大足、右行左行眼天にあり。」といふ、禪師「汝は蟹にて有るや。」迚(とて)、拂子《ほつす》を持つて打給ふ、忽ち消えて失せにけり、夜明けて里人きてみれば、禪師の恙なき事ふしぎに思ひ、其樣子を尋ねみるに、後《うしろ》の山に千尋深き池あり、其水の面《おもて》に幾年ふるとも知《しれ》ぬ一丈餘の蟹の甲八つに破《わ》れて死して浮《うか》みゐたり。其後《そののち》妖怪なし、卽ち月庵禪師を開山として二世天桂和尙、三世北海和尙の木像、開山堂に安置あり、又蟹の住《すみ》し池の跡、後の山にあり、又此月菴和尙、俗姓は曾我家にて至つて美僧なりしと云へり云々」とのせ、「蟹寺の謂《いは》れをきくに今更に猶仰がるゝ法の力は」としやれておる[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「播磨の蟹阪」現在の兵庫県明石市和坂(わかさ)。個人ブログ「hasyan の 旅の散歩道」の「坂上寺と蟹塚」に『ここには弘法伝説があります』「播磨鑑」『によりますと、昔この和坂に蟹が棲み、旅人を襲った。諸国を回っていた弘法大師がこのことを聞かれ、蟹を封じ込めたので、蟹和坂村と称したが、その後「蟹」を省略して「和坂」となり、「かにがさか」と読ませたとあります』。「播磨名所巡覧図絵」『にも紹介があり、江戸時代の観光スポットの一つであったのだろうと思います。お大師さんを良く見ると』、『カニさんが、まだ改心できないのか』、『お大師さんに錫杖でがっちり押さえ込まれていますよ』とあった。坂上寺はここ

「藤澤氏『日本傳說叢書』明石の卷」藤沢衛彦編・日本伝説叢書刊行会大正七(一九一八)年刊を、幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、「蟹和坂(明石郡林崎村大字和阪)」視認出来る。

『萬治元年』(一六五八年)淺井『了意筆「東海道名所記」五』国立国会図書館デジタルコレクションの「東海道名所記 東海道分間繪圖」(『日本古典全集』昭和六(一九三一)年刊)のこちらで『〇蟹坂』の条が視認出来る。

「安永六年」(一七七七年)「成つた太田賴資の「能登國名跡志」坤卷に、右の話の異傳あり。珠洲郡寺社村の蟹寺」「法成山永禪寺」「能登國名跡志」は加賀金沢の太田道兼頼資(?~一八〇七年)の著になる能登地誌。これも国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本地誌大系』第十三冊(大日本地誌大系刊行会編・日本歴史地理学会校訂・大正六(一九一七)年刊)のこちら(左ページ上段三行目以降)で視認出来る。この「蟹寺」は現在の石川県珠洲市上戸町(うえどまち)寺社(じしゃ)に現存し、正しくは「法城山永禪寺」である。「曹洞宗石川県宗務所」公式サイト内の「法城山永禅寺」も見られたい。

「曾我家」法城山永禪寺のサイド・パネルを見ていただくと、ここに『市指定文化財 無縫塔(伝]曽我兄弟の墓)』が現存する。個人ブログ「お寺の風景と陶芸」の「永禅寺 (石川県珠洲市) 伝曽我兄弟の供養塔」に、『日本三大仇討ち(赤穂浪士の討入り、伊賀越えの仇討ち、曽我兄弟の仇討ち)の一つ曽我兄弟(曽我十郎、五郎)の仇討ちの兄・十郎の妾虎御前が、兄弟の菩提を弔う行脚の途次、この珠洲の地に庵を結んだと伝え』、: 延元三/ 建武五・暦応元(一三三八)年、『能登半島の名刹・永光寺の僧月庵が曽我兄弟を勧請開基として、庵を永禅寺として開創したと伝えている』。『境内には、曽我兄弟の供養塔といわれる塔が』二『基ある』とされ、しっかり、『このお寺には、月庵が妖怪となった蟹を退治したと伝える<蟹伝説>が残っている』と紹介しておられる。]

 大正九年『民族と歷史』三卷七號七一三頁に述《のべ》た通り、明治十一年頃[やぶちゃん注:読点なしはママ。]予、和歌山のある河岸《かはぎし》で、當時餘り他に重んぜられなかった或部民が流木を拾ふをみおる[やぶちゃん注:ママ。]と、其一人が、「昨夜何某方に產《うま》れた子は男か女か」と問ふに、今一人「ガニぢや」(蟹だ)と答へた。予方《よのかた》へ同部から來る雪踏直《せつたなほ》しが有合《ありあは》せたのに尋ねると、「蟹は物を挾む故、女兒を『蟹』といふ。工人の地搗唄《ぢつきうた》にも、『おすま[やぶちゃん注:所持する平凡社選集では、『おすき』とある。]おめこは釘貫おめこ、またではさんで金(かね)をとる』と云ふて、總別《さうべつ》女はよく挾むもの」と博識振つて答へた。全體佛僧はよく啌《うそ》をつく。既に月菴和尙は至つて美男と有れば、名門曾我氏の出《で》でもあり、邊土の女共に厚く思ひ付かれたで有《あら》う。そこで男に渴《かつ》えた近村の若後家などが和尙を挾まんと、右行左行で這ひ來り、据膳をしひた[やぶちゃん注:ママ。]ので眼天にありとは其女がヒガラメだつたとみえる。由《よ》つて和尙も鼻もちならず、願意却下としたのを憤つて女が水死でもしたでせう。其を挾みにきたちふ緣起で蟹の妖怪とふれ散らし、衆愚の驚駭《きやうがい》に附込《つけこ》んで、蟹の弔ひに寺を建立させたと熊楠がみる目は違《たが》はじ。又、同書乾卷に、鳳至《ふげし》郡五十里《いかり》村に町野川の淵跡迚(とて)今蟹池とてあり、昔此淵に大《おほい》なる蟹住んで人をとる、弘法大師威力を以て退散あり、其後も此池に在《あり》て大石と成《なり》、色々怪異をなす故、此池を埋めし也。今も此池を穿ち石を顯はすと霖雨《りんう》して數百日已まずとある。

[やぶちゃん注:「大正九年」(一九二〇年)「『民族と歷史』三卷七號七一三頁に述《のべ》た」平凡社「選集」に「スッツパとカニサガシ」を指すとある。これは、国立国会図書館デジタルコレクションでは、当該論考が見当たらない。そこでサイト「私設万葉文庫」で探したところ、『南方熊楠全集』第三巻「雑誌論考Ⅰ」(一九七一年平凡社)の新字新仮名版にあった。以下に引用させて頂く。これは『民族と歷史』同年六・十・十二月発行に載ったもので、引用先では「民族短信民俗談片」という総題の中の一篇である。ノンブルは省略した。「|」はルビの先頭漢字前を示すサイト主の記号である。

   《引用開始》

 

       スッパとカニサガシ

 

 スッパという詞が本誌四月号「佐賀地方雑記」に見える。この名は足利時代すでにあった詞と見え、『続狂言記』二、「宝の笠」、同四、「六地蔵」(ここにはシテが、「罷り出でたる者は都に住居する大スッパでござる。見れば田舎者と見えて何やら呼ばる。ちと彼に当たって見ようと存ずる」とみずから述べる)等に見るところ、いずれも田舎者が物を買い求むるにつけこみ、あらぬ物を売りつける杜騙《とへん》をスッパと呼んだらしい。いわゆる神崎スッパはこれと関係なきか。

 カニサガシ。これも「佐賀地方雑記」にあった。明治十一年ごろ、予和歌山市のある河岸で、当時いわゆる新平民が流木を拾うを見ておると、その一人が、「何某の方に生まれたは男か女か」と問う。いま一人が、「ガニジャ」(蟹なり)と答えた。なお一人、予の家へ雪駄直しに来る者がかたわらにあり合わせたので、何のことかと問うと、「蟹は女根と同じくよく物を挟むから、女の児を蟹と称う。工人のドウツキに唄うにも、『お杉おめこは釘抜きおめこ、股で挟んで金をとる』という。すべて女はよく挟むものじゃ」と博識ぶって答えた。そこでカニサガシとは女児を間引く意味ではなかろうか。(四月十四日)  (大正九年六月『民族と歴史』三巻七号)

【追記】

 スッパについて。足利時代に、田舎者に、あらぬ物を売りつける杜騙をスッパと言ったらしいと、本誌三巻七号(七一二頁)に述べおいたところ、『甲陽軍鑑』三九品に、「家康は、味方が原合戦に負けて、その夜また夜合戦に出ずべき支度をもはら仕りたるに、家老の酒井左衛門尉、石川伯耆両人、スッパを出だし見せつれば、当方|脇備《わきぞなえ》を先へくり、跡備を脇へ繰り廻し、云々、二度めの軍もちたるを見て、夜軍に出ださず候」。また同書五七品、織田勢甲州へ討ち入った時、阿部加賀守「われら同心のスッパをもって敵の人数を見切り候に、ここかしこに陣を取り、猥《みだ》りに候えば」とて、川尻や滝川の陣へ夜討を勧めたが、勝頼その策を用いなんだ、とある。これらは探偵をスッパと呼んだらしい。

 また安永元年板の亀友の『赤烏帽子都気質』二の二に、「さてこの勇介というは、弁舌よく、人に取り入ることの上手な、愛のある男と見ゆれど、心の内は世事にすばしかきスッパ、近所の息子や手代の遊びに行く中店にて文の取次ぎ、色茶屋の払銀《はらいがね》を請け取り渡してやるなど、親切にのら達《たち》の世話焼きしゆえ、云々」。これは惡才のきく者をスッパと言ったらしい。今も紀州などで人を紿《あざむ》くことを何とも思わぬ者をスバクラ者というは、これから出たのかと思う。  (大正九年十月『民族と歴史』四巻四号)

【再追記】

 ガニサガシ。『重訂本草綱目啓蒙』四八に、小児胎屎を、かにくそ、かにここ、うぶはこ(対州)、と出ず。紀州田辺では今もかにここという。うぶはこは初屎の意、ここは田辺等で屎《くそ》を指す。初屎と対照して考えると、どうもかにくそ、かにここのかには、わずかに生まれた赤子を指す名らしい。穴から這い出す蟹に比べて言ったものか。琉球で出産の式に蟹の子を這わすことあって、その子蟹のごとく健やかなれと祝うのだと聞いたが、実は彼方でも初生の赤子を蟹と同名で呼ぶのであるまいか。この推察が当たったら、がにさがし、がにさしのがには、女児でなくて今生まれた赤子の義に相違なかるべし。語原の異同は只今ちょっと分からねど、ドイツ語で幼児をも蟹をも斉《ひと》しくクラッべと呼ぶを攷え合わすべし。  (大正九年十二月『民族と歴史』四巻六号)

   《引用終了》

以上に就いては、正規表現でもないことから、語注はしない。

「當時餘り他に重んぜられなかった或部民」前の引用の『新平民』でお判りの通り、近現代まで根強くあった被差別部落民を指す。「雪踏直し」は動物の皮革を用いたため、差別されていた。批判的視点を以って読まれたい。

「工人」ここは広い意味の「職人」。

「地搗唄」建築に先立って、「地固め」のときに歌う作業唄(ワーク・ソング)。歌詞は不定。音頭と合唱が交互に歌う。

「ヒガラメ」斜視。やぶにらみ。すがめ。ひがら。

「同書」(これは前に出た「能登國名跡志」を指す)「乾卷に、鳳至郡五十里村に町野川の淵跡迚(とて)今蟹池とてあり、昔此淵に大なる蟹住んで人をとる、弘法大師威力を以て退散あり、其後も此池に在て大石と成、色々怪異をなす故、此池を埋めし也。今も此池を穿ち石を顯はすと霖雨」(長雨)「して數百日已まずとある」同じく国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本地誌大系』第十三冊(大日本地誌大系刊行会編・日本歴史地理学会校訂・大正六(一九一七)年刊)のこちら(右ページ上段二行目以降)で視認出来る。「鳳至郡五十里村」現在の石川県鳳珠(ほうす)郡能登町(のとちょう)五十里(いかり)だが、「蟹池」の跡らしいものは確認出来ない。伝承としても伝わっていないようで、ネットにもかかってこない。]

 頃日《けいじつ》、中道等君が自ら寫して贈られた弘前の平尾魯仙の著、「谷の響」は、多分嘉永頃の者、其卷五に、『弘前附近の地形村石淵の主は大きな蟹で、魚とりに入る人を魅《み》して動く能はざらしめ、甚しきは死せしむ。又此淵に入る者、手足に傷つくことあり、剃刀傷の樣で深さ一寸程に至るも開かず、痛みも出血も少なく、世に云ふ鎌鼬に逢《あふ》た如し、土人之を主《ぬし》の刄《やいば》に觸れたと云《いふ》。』と。之にやゝ似た話が、一八八三年板、イム・ターンの「ギャナ印旬人《インジアン》内生活記」三八五頁にある。オマールは其體を種々に記載された生物で、巨蟹又大魚に似るといふ。急湍[やぶちゃん注:「きふたん」。河川に於いて、流れが速く、且つ、深く淵となっている箇所を指す。]の水底にすみ、其邊を射て廻る印旬人の船を屢ば引き込むと傳ふ。ウロポカリの瀧に住《すん》だのは常に腐木《くちき》を食ひ、多くの船を浮木《うきぎ》と誤認して引《ひき》いれ、爲に印旬人多く溺死した。因《よつ》てアッカウヲイの覡《げき》が、摩擦せば火をだす二木片を包んで濕氣を禦ぎ、携へて瀧の眞中に潛り入《いつ》てオマールの腹内《はらうち》に入り、みれば夥しく腐木《くちき》を積《つみ》あり。由《よつ》て件(くだん)の木片を擦《すつ》て火を付《つけ》ると、オマール大《おほい》に苦しみて浮き上がり覡を吐出《はきだ》して死《しん》だと。

[やぶちゃん注:「中道等」(なかみちひとし 明治二五(一八九二)年~昭和四三(一九六八)年)は郷土史家・民俗学者。宮城県登米(とめ)郡登米町(とよままち)生まれ。旧姓は「砂金(いさご)」。後に青森県八戸市に移り、青森県立八戸中学校に進学したが、一年で中退し、二松學舍を経て、大正七(一九一八)年に京都帝大教授内藤湖南の下で、東洋文献の考証学を学んだ。同年、八戸の中道トシの養子となり、姓を改め、その後、八戸に戻って、『実業時論』という雑誌を手がけ、さらに推薦を受けて、青森県史編纂委員や青森県史跡名勝天然記念物調査委員を務め、また、かの「南部叢書」の編纂にも従事している。以降の事績は参照した当該ウィキを見られたい。柳田國男とも親しかった。

「谷の響」の話は私の「谷の響 五の卷 十二 石淵の怪 大蟹」を見られたい。作者は画家で国学者であった平尾魯僊(ひらおろせん 文化五(一八〇八)年~明治一三(一八八〇)年:「魯仙」とも表記)が弘前(ひろさき)藩(陸奥国津軽郡(現在の青森県西半部)にあった藩で通称で津軽藩とも呼んだ)領内の神霊・妖魔を採集記録した怪奇談集。

「嘉永」一八四八年から一八五四年まで。上記書の成立は幕末の万延元(一八六〇)年である。

『一八八三年板、イム・ターンの「ギャナ印旬人《インジアン》内生活記」三八五頁』作家・探検家・植物学者で英国植民地管理者でもあったエヴェラード・フェルディナンド・イム・トゥルン(Everard Ferdinand im Thurn 一八五二年~一九三二年:ロンドンでオーストリア移民の銀行家の息子として生まれた。英領ギアナ(イギリスからの独立以来「ガイアナ」と呼ばれていた)に渡り、二十五歳の一八七七年から一八八二年まで英領ギアナ博物館の学芸員となっており、後、フィジー知事を務めた)のギアナ地誌。「Internet archive」のこちらで、同原書‘ Among the Indians of Guiana ’(「ギアナのインディアンの狭間で」)の当該部が視認出来る(右ページ中央附近から、“the omars”と出る)。

「オマール」はここでの謂いから見るなら、十脚(エビ)目ザリガニ下目アカザエビ科(ネフロプス科Nephropidae)ロブスター属 Homarus の一種と読めるが、現在のフランス領ギアナでは、同種の南端限界を超えている。アメリカン・ロブスター Homarus americanus は、カナダからカリブ海までの大西洋西岸に分布するのだが、このギアナをガイアナと読み替えるなら、カリブ海南端圏に辛うじて入るから、まず、同種と見て差支えはないか。

「アッカウヲイ」同前原書に“Ackawoi”とある。

「覡」は「みこ」と訓で訓ませている可能性(則ち、女性)も排除は出来ないが(但し、本邦の場合では「覡」(げき)は男、「巫」(ふ/みこ)が女の呪術師を指すことが多い)、以下の術式から察するに、私は男性の呪術師(シャーマン)であるように思われる。民俗社会での汎世界的に女性シャーマンは、呪術執行型よりも、憑依型が比較的多いからである。]

 支那には、西曆紀元前二千年頃、夏の禹王作てふ「山海經《せんがいきやう》」一二に、『姑射國海中、屬列姑射西南、山環ㇾ之、大蟹在海中。』。郭璞《くわくはく》注に、『蓋《けだ》し千里の蟹也。』と。予《よ》數字に疎く、この千里の大蟹とマレー俚傳の巨蟹と孰れが大きいかを知《しら》ぬ。一九〇〇年板、スキートの「巫來(マレー)方術」六頁に、「海の臍(プサット・クセク)」は大洋底の大穴で、中に巨蟹すみ、日に二度出《いで》て食を求む、蟹が居《を》る内は此穴全く塞がれて、大洋の水、地下に入得《いりえ》ず、其間に百川より海に注ぐ水の行き處無《なくなり》て潮《うしほ》滿つ、蟹出て食を求むる内は、水が其穴より下に落《おつ》るから潮がひくと云《いふ》、と出づ。

[やぶちゃん注:「山海經」中国古代の幻想的地誌書。全十八巻。作者・成立年未詳(聖王禹(う)が治水の際に部下の伯益の協力を得て編んだとされるが、仮託に過ぎない)。戦国時代の資料も含まれるが、前漢以降の成立と推定されている。洛陽を中心に地理・山脈・河川や物産・風俗の他、神話・伝説・異獣幻獣の記載がてんこ盛りの遠大なる幻想地誌。以下、漢文を訓読しておく。南方の句読には必ずしも従わない。

   *

「姑射國(こしやこく)」は海中に在り。「列姑射(れつこしや)」の西南に屬す。山、之れを環(めぐ)ル。大蟹、海中に在り。

   *

「郭璞」(かくはく 二七六年~三二四年)は西晉末から東晉にかけての学者(道家研究家)・詩人。卜筮術に長じた。元帝に仕え、のち、王敦(おうとん)の部下となったが、その謀反を占って、「凶」と断じたため、殺された。「山海経」のほか、「爾雅」・「楚辞」などの注でよく知られる。

「千里」東晉代の度量衡では「一里」は四百三十・四メートル。約四百三十キロメートル。「荘子」並みのスケールだわ。

『一九〇〇年板、スキートの「巫來(マレー)方術」六頁』イングランドの人類学者ウォルター・ウィリアム・スキート(Walter William Skeat 一八六六年~一九五三年:は主にマレー半島に於ける民族誌の先駆的調査に取り組んだことで知られる)の‘ Malay magic ’。「Internet archive」のここからが当該部であるが、次のコマの7」ページの九行目に“The Pusat tasek, or Navel of the Seas, supposed to be a huge hole in the ocean bottom. In this hole there sits a gigantic crab which twice a day gets out in order to search for food. While he is sitting in the hole the waters of the ocean are unable to pour down into the under world, the whole of the aperture being filled and blocked by the crab's bulk. The inflowing of the rivers into the sea during these periods are supposed to cause the rising of the tide, while the downpouring of the waters through the great hole when the crab is absent searching for food is supposed to cause the ebb."”(「『プサット・タセク』、又は『海の臍』は、海底にある巨大な穴であると考えられている。この穴には超巨大な蟹が住んでおり、一日に二回、餌を求めるために出てくる。彼が穴の中に座っている間は、穴全体が、蟹の図体(ずうたい)に因って満たされているため、海水は地の底の世界に注ぐことが、遮断される。この時期、海への川の流入は、潮の干満を引き起こすと考えられており、一方で、蟹が餌を探すために居ない時には、その大きな穴を通って、海水が下(くだ)り注ぎ入ることで、干潮は引き起こされると考えられている。」)とあった。]

2024/02/09

「蘆江怪談集」 「怪談雜記」+「目次」・奥附 / 「蘆江怪談集」~了

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本篇は、蘆江の本書の後書に代えた随想「怪談雜記」である。]

 

 

    怪 異 雜 記

 

 

 怖(こは)がりのくせに、怖いものに出會(でつくわ)して見たいといふ氣持が、いつも動いてゐる。本鄕の素人下宿(しろうとげしゆく)にゐる時分だつた。長六疊のあんまり日當りのよくない上に、緣先(えんさき)に靑桐(あをぎり)がすくすくと伸(の)びてゐるので尙(な)ほ暗(くら)かつたが、夜、寄席などに行つて、遲(おそ)がけにかへつて來る時、あたりがしんとした中へ入るのだから、いろいろな奇異(きい)を想像(さうざう)する事が多かつた。

 からかみをあけて、机(つくえ)の前へすわった途端(とたん)に、机の下から瘠(や)せ細(ほそ)つた手がひよろひよろと伸びて來たらとか、外の寒(さむ)さに冷え切つた手で、埋み火[やぶちゃん注:「うづみび」。]を搔(か)き起(おこ)す途端に、火鉢の鐵瓶(てつびん)がブルブルと蓋(ふた)をゆり動(うご)かして、

「寒いね」と、人語(じんご)を發したらとか、寢支度(ねじたく)をする爲めに押入れをあけると、寢道具がひとり手に、ぼたぼたぼた[やぶちゃん注:この箇所。底本では真ん中の「ぼた」のみが踊り字「〱」となっている。]とひろがつて、疊の上へ展(ひろが)つたらとか、さまざまな空想(くうさう)を描(ゑが)くのが常だつた。

 空想(くうさう)から空想が生(うま)れて、しまひには途方もない事を考へるのに慣(な)れたものだが、其中で、我れながらゾツとした空想(くうさう)は。――

 まづ外から戾つて、部屋のからかみを開(あ)ける、入らうとして不圖(ふと)氣(き)がつくと、正面に据(す)えた机の前に人がすわつてゐる。誰(だ)れだと聲(こゑ)をかけると、坐(すは)つたまま顏だけむけた、その顏は自分と同じ顏だつた。――今でも時々(ときどき)それを空想する。

 芥川龍之介が話した怪談(くわいだん)といふのは、西洋(せいやう)の本で讀んだのださうだが、あめりかのヲール街(がい)か、いぎりすのストランド街のやうなところで、不斷(ふだん)は幾千となく忙(いそ)がしさうな人間が、ざわついてゐる町の晝頃(ひるころ)、卽ち、皆が食事(しよくじ)に行つた爲めに、街頭に一人の人もない、打つてかはつた淋(さび)しさの時、カンカン日の照(て)つてる步道を、ある紳士(しんし)が通つた、とある角(かど)を曲(まが)らうとしたら、曲り角からひよいと現(あら)はれた紳士がある。出あひがしらにばつたり衝突(しようとつ)しさうになつて、兩方から同時に

「ヤ失敬(しつけ)い」

 と云つてすれちがつたが、其時、妙(めう)な感(かん)じがした。[やぶちゃん注:行頭の字空けはママ。]

「おや今のは」と首(くび)をひねる「おれと同じ人だつたが」さう云つてふりむいて見ると、隱(かく)れ場所(ばしよ)などはないのに、そこには何ものも見えなかつたといふ。卽(すなは)ち、同じ人間が同じ人間にぶつかつて、ふりかへつて見たら、もう消(き)えてなくなつてゐたといふのだ。この怪談(くわいだん)を讀(よ)んだ時は、總身が氷(こほり)になつたかと思つたと云(い)つてゐた。

[やぶちゃん注:「芥川龍之介が話した怪談(くわいだん)といふのは、西洋(せいやう)の本で讀んだのださうだが」事前に当該作品を「芥川龍之介 二つの手紙 (オリジナル強力詳注附き)」としてブログで公開しておいたので、是非、読まれたい。現行のネット上の同作の注としては、誰にも負けない自信はあるものに仕上げてある。無論、正字旧仮名である。なお、芥川龍之介は大の怪談好きで、若い頃から、怪奇談を私的に蒐集していた。私のサイト版の「芥川龍之介 椒圖志異(全) 附 斷簡ノート」を未見の方は、強くお勧めする(手書き本文や落書の画像もある)。それに倣って私が書いたオリジナル怪談実話集「淵藪志異」も御笑覧頂ければ、恩倖、之れに過ぎたるは莫(な)い。因みに、この内の「二」の私の祖父の怪奇談は、一九九九年十一月の『ダ・ヴィンチ』に載り、京極夏彦氏他の過褒の言葉を頂戴し、後にメディアファクトリーから刊行された京極夏彦他編「怪談の学校」にも載っているものである。

「ヲール街」Wall Street。アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークにある、世界の金融センター「ウォール街」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。ニューヨーク証券取引所を始めとして、アメリカの金融史と所縁のある地区。

「ストランド街」Strand。イギリスのロンドンの、「トラファルガー広場(Trafalgar Square)」から「王立裁判所(Royal Courts of Justice)」までを結ぶ主要道路で、劇場・ホテルが立ち並ぶ繁華街。ここ。]

 自分と同じ人間が、突然(とつぜん)目の前に現はれたら、たしかに怖(こは)い事だらう。先代(せんだい)坂東秀調[やぶちゃん注:「ばんどうしうちやう」。]自身に經驗したといふ怪談(くわいだん)がやはりそれで、ある時、芝居の雪隱(せつちん)へ行つた。花かつみの中形の浴衣(ゆかた)を着て三つ並んだ便所(べんじよ)の左りのはしをあけようとしたら開かない。右のはしも開かない。いやだつたが眞中のをあけると、開(あ)いたから、入らうとしてヒヨイと覗(のぞ)くと、中には自分と同(おな)じ花かつみの浴衣を着た男(をとこ)がしやがんでゐたので、これは失禮(しつれい)といつたら、その男が、ぢろりとふりむいて自分を見上げた。と、その顏(かほ)がやつぱり自分と同じ顏だつたといふのだ。

[やぶちゃん注:「坂東秀調」歌舞伎役者三代目坂東秀調(明治一三(一八八〇)年~昭和一〇(一九三五)年)であろう。]

 多分(たぶん)つくり事であらうと思ふけれど、たしかに凄(すご)い。

 つくり事といへば、年中(ねんぢう)怪談(くわいだん)を空想(くうさう)して、それを人に話すのを仕事のやうにしてゐる人が私の友人(いうじん)にあつた。

 川尻淸潭[やぶちゃん注:「かはじりせいたん」。]氏の兄さんで、鹿鹽秋菊(かしほしうきく)といふ人、怪談製造家(くわいだんせいざうか)などと云つたら、鹿鹽氏怒るかも知れない。併(しか)し、全く、製造家と云つても好(い)いくらゐの怪談ずきで、たまに出會(であ)ふと、先づ挨拶(あいさつ)が、

「如何です、近頃(ちかごろ)は好(い)いお化(ば)けにあひませんか」といふのだ。

 どうかすると、だしぬけに、

「こないだ四谷通(よつやどほ)りで、お岩さまにお目にかかりましたよ」なんて云ひ出す、まさか、あんたによろしくと云ひましたとは云はないが、眞劍(しんけん)なんだから不思議だ。

「お岩さま、あの時は大分(だいぶ)御(ご)きげんがよござんしたよ。ちよつとお瘠(や)せになつたかとは思ひましたがね」

[やぶちゃん注:「川尻淸潭」(明治九(一八七六)年~昭和二九(一九五四)年)は演劇評論家。三木竹二主宰の雑誌『歌舞伎』に「型」の記録や芸談を寄稿、後、『演芸画報』などに執筆した。大正十四(一九二五)年には東京歌舞伎座監事室室長となっている。東京出身。商業素修学校卒。名は義豊。著作に「楽屋風呂」等がある。

「鹿鹽秋菊」前者の実弟で彼と同じく演劇評論家で、俳人でもあったらしい。本名は蕉吉。雑誌『歌舞伎新報』を復刊して盛り立てた。]

 幽靈の肥(ふと)つたなんざおかしな話なんだが、鹿鹽秋菊氏を除(のぞ)いて、私の知人中の怪談好きは、喜多村綠郞[やぶちゃん注:「きたむらろくらう」。]氏だらう。一頃(ころ)、怪談會などいふものを二三度、喜多村氏と一緖(しよ)になつてやつた事がある。喜多村氏自身の經驗談もしばしば聞いた。京都のインクラインで、卷込(まきこ)まれた水死人が、水を逆上(さかのぼ)つて、妙なところに現はれた話などは、喜多村氏の話上手(はなしじやうず)につり込まれて、何度聞いてもゾツとする。

[やぶちゃん注:「喜多村綠郞」新派の女形俳優初代喜多村緑郎(明治四(一八七一)年~昭和三六(一九六一)年)。水谷八重子に女形の芸を伝授して没した。泉鏡花や久保田万太郎と親交があり、ハイカラな文化人でもあった。著書に「芸道礼讃」・「わが芸談」等がある。]

 怪談に出會(でつくわ)した經驗(けいけん)の多い人に坂東のしほ君がゐる。少しひまでもつくつて聞いえゐようものなら、三時間ぐらゐ立てつづけに話して、まだ盡(つ)きないといふくらゐ、而(しか)もそれが皆、自分に關した實說(じつせつ)なんだから愉快だ。

[やぶちゃん注:「坂東のしほ」四代目坂東秀調(明治三四(一九〇一)年~昭和六〇・平成元(一九八五)年)。三代目の養子で、「坂東のしほ」は舞踊家としての名取。]

 その中で、一番秀逸は、のしほ君が鶴見(つるみ)の花月園で、椿茶屋(つばきぢやや)といふ貸席(かしせき)をしてゐる頃のこと、この椿茶屋に大入道(おほにふだう)が現はれるといふ話。

[やぶちゃん注:「鶴見の花月園」現在の鶴見花月園公園附近。]

 はじめ障子に朦朧(もうろう)たるかげがうつる。それが、見る見る中にはつきりして、後には鴨居にとどくほどの大入道になつて、それから影法師(かげばふし)の儘(まゝ)、座敷の中に入つて來るのださうだ。

 はじめに出會(でつくわ)した時は、すぐにも逃(に)げ出(だ)さうと思つたが、でも、あんまり度々出られると、ちつとも怖(こは)いと思はなかつた。

 しまひには、出る日と出ない日の豫想(よさう)がつくくらゐになつたといふ。

 椿茶屋(つばきぢやや)がやりきれなくなつて、のしほ一家は見じめな退却(たいきやく)をする日が來た。荷物はすつかり運(はこ)んで、最後に家人が引上げようとしたらひどい土砂(どしや)ぶり、止(や)むを得(え)ず、今一夜そこに泊(とま)らうとしたが蒲團(ふとん)がない。花月園の事務所へ借(か)りに行つたら、ありませんからと古ぼけた緋毛氈(ひもうせん)を貸してくれた。それにくるまつて、いよいよ更(ふ)けまさる秋の夜の雨を聽(き)きながら、

「ああ、坂東(ばんとう[やぶちゃん注:ママ。])のしほもここまで落ちぶれたら澤山(たくさん)だ、世の中に味方はひとりもない。せめてお馴染甲斐(なじみがひ)に大入道でも出れば好(い)いのに」

 と、愚痴(ぐち)を云つた。[やぶちゃん注:行頭一字空けはママ。]

 その言葉が切(き)れるか切れないかの刹那(せつな)、いつもよりもつとはつきり、もつと大きな大入道がニユツと現(あら)はれて、ひよこひよこひよこと目の前へ近(ちか)づいて來たといふ。居合(ゐあは)せた人全部(と云つても女ばかり三人)が、一塊(かたまり)なりになつて、キヤーツと叫(さけ)んださうだ。

  一體、役者(やくしや)には怪談が多い。

 樂屋(がくや)のつれつれ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に、又は、旅興行(たびこうぎやう)のつれつれに、お互ひに出たら目を云つてゐるのが、自然とおもしろい話(はなし)にでつち上げられて了ふのかも知れない。

 が、劇場(げきじやう)といふものに何となく凄味(すごみ)のある場所が多くて、自然話はそこへゆくのだらう。殊(こと)に地方の芝居小屋などと來たら、必らず、一ケ所や二ケ所、幽靈(いうれい)の出さうな場所を備(そな)へてゐないところはない。

 便所、風呂場(ふろば)、チヨボ床の下、棧敷(さじき)のすみ等々、きつと薄暗くて、じめついてゐて、氣の弱い人は、なかなか一人ではよりつかれないやうなところがあるものだ。

[やぶちゃん注:「チヨボ床」(ちょぼゆか)は歌舞伎の義太夫狂言で、伴奏の竹本が舞台上手の上にある御簾の内で語るのが決まりで、そこを「チョボ床」と呼んだ。]

 伊井蓉峯(いゐようほう)實見(じつけん)の幽靈といふのも凄(すご)かつた。

 磐城の平の芝居ださうで、今はもう新築(しんちく)になつて元の姿(すがた)はないが、以前のは隨分(ずゐぶん)古(ふる)ぼけた芝居だつたさうな。

 そこの湯殿(ゆどの)に、目も鼻もないのつぺらぼうの坊主あたまの老人(らうじん)が、逢魔(あふま)が時といふ時分に、必らず湯につかつてゐて、人が行くと、兩手(りやうて)にひろげた手拭(てぬぐひ)で、顏をぺろりと洗(あら)つて見せるといふのだ。

 伊井は乘込んだ初日(しよにち)にそれを見た、まさか幽靈(いふれい)とは思はないし、湯(ゆ)けむりの中でのつぺらぼうの事も氣がつかず、只(たゞ)一圖(づ)に樂屋風呂の口あけを、薄汚(うすぎた)ないぢぢいに汚されたと思つて、座主(ざしゆ)をかんかんに叱りつけたといふ。

 座主(ざしゆ)は平あやまりにあやまつて、其場は濟(す)んだが、二十年目に、再(ふたゝ)び、この芝居へ伊井が來た時、始めてのつぺらぼうの話を聞いて慄(ふる)へ上(あが)つたさうだ。これはあの眞面目(まじめ)な伊井の口から直接に聞いた話(はなし)だ。

[やぶちゃん注:「伊井蓉峯」(明治四(一八七一)年~昭和七(一九三二)年)は、発足間もない新派劇で活躍した俳優。本名は伊井申三郎。東京生まれ。詳しくは、当該ウィキを見られたい。]

 水戶の狸(たぬき)といふ怪談も役者(やくしや)たちの間には有名な話で、水戶のある芝居(しばゐ)では夜半になると狸ばやしが始まる、テケテンテケテンとばかり、實におもしろくかすめたり、近(ちか)づけたりしてはやしたてるさうで、尤(もつと)も、これは只それだけの事、但し、いつでもやるんではない。こいつが聞(き)こえはじまると、必らず芝居は大入(おほいり)なのださうな。

 市川紅若といふ老優(らういう)の出會(でくわ)した話は可(か)なり凄い。福島あたりだつたと思ふ、偶然(ぐうぜん)に昔馴染(むかしなじみ)の女とめぐりあつて、とある隱(かく)れ場所(ばしよ)で出あひをしてゐた。

[やぶちゃん注:「市川紅若」(いちかわこうじゃく 明治三(一八七〇)年~昭和一三(一九三八)年)は兵庫県生まれ。明治十七年、十五歳で、中村宗十郎の門人となり、千代松の名で中座で初舞台を踏む。明治二十五年に上京し、七代目市川団蔵の門人となり。翌年、中村源之助を市川紅若と改めた。明治二八(一八九五)年、春木座にて名題(なだい:名題役者のこと。名題看板に名前が載るような幹部級の役者を指す。明治までは「大名題」・「名題」・「名題下」・「間中上分」(あいちゅうかみぶん)・「間中」・「下立役」の五階級に分かれていた)に昇進、団蔵一座の花形として巡業した。明治四十四年九月に師の七代目団蔵が没した後は、主に初代中村吉右衛門一座に勤めた(主に日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」に拠った)。]

 尤も芝居(しばゐ)がはねてからだから、相當(さうたう)遲(おそ)い時間、場所は地方によくある旅館料理屋(りよくわんれうりや)で、その晚は客が立てこんでゐたので、紅若たちはお藏(くら)の二階へ廻(まは)された。

 夏のことで蚊帳(かや)が吊(つ)つてある。女は眠(ねむ)つてゐたが紅若は眠(ねむ)れなかつた。すると、蚊帳のすそに人の姿(すがた)があらはれて、おやと思つて見つめてゐると、それがずんずん伸(の)びて、蚊帳より高くなり、蚊帳の天井(てんじやう)へ折(を)り曲(まが)つて、丁度紅若の顏の上まで伸(の)びて來(き)た。ぐうもすうもいへず射(い)すくめられたやうになつてゐると、天井(てんじやう)の顏が紅若を充分(じうぶん)眺(なが)めてからニヤリと笑つて消えたといふのだ。

 無論、紅若の若(わか)い時(とき)の話らしいが、今だにあの老人はこの話を滅多(めつた)に云はないさうだ。

 天井の顏(かほ)といへば、宇治(うぢ)の菊屋には天井一盃おかめの面(めん)が現はれるといふ部屋があるさうだ。夫婦ものや、男同士又は女同士(をんなどうし)の泊(とま)り客の前(まへ)には決してあらはれない。人目を忍(しの)ぶ仲(なか)の男女が泊ると、必(かな)らずあらはれて、ニコニコと笑つて見せる。

 まるでうそのやうな話だが、ある時、役者たちが多勢(おほぜい)ゐるところで、この噂(うはさ)をしたら、全くその通りです。現(げん)に私は見ましたと裏書(うらがき)をしたために、かくし事がばれたといふ。ユーモアがある。

 今の吉右衞門の父親(ちゝおや)歌(か)六老人(らうじん)は、怪談のタネを譯山(たくさん)持(も)つてゐた。尤も、この老人も、いくらか怪談製造家の氣味(きみ)はあつたが。

[やぶちゃん注:「今の吉右衞門の父親歌六」初代中村吉右衛門の実父である三代目中村歌六(嘉永二(一八四九)年~大正八(一九一九)年)。]

 大阪の北の新地(しんち)のあるお茶屋で、手水場(てうづば)へ行つて、手をあらひながら、もう何時(なんじ)だらうと云つたら、どこからともなく、モウ二時だよといふ聲が聞こえたといふ話(はなし)などは、多分歌六老人自作の怪談だらうと思(おも)はれる。

[やぶちゃん注:「大阪の北の新地」現在の大阪府大阪市北区梅田附近の江戸時代からの高級歓楽街。]

 月の美くしい晚に、子守唄(こもりうた)をうたふ聲が聞こえる。今時分(いまじぶん)、だれがどこで唄(うた)つてゐるのだらうと思ひながら、座敷を廊下(らうか)へ出て見ると、廊下は雨戶(あまど)がしまつてゐた、併(しか)し、子守唄は雨戶の外卽ち中庭(なかには)のやうなところで唄(うた)つてゐるものと思はれた。

 丁度雨戶に節穴(ふしあな)があつたので、外をのぞいて見ると、中庭の正面は笹藪(さゝやぶ)、それに靑い月の光がさしてゐて、廣々とした海(うみ)の底(そこ)を見るやうな景色(けしき)、その中庭の眞中に、黑髮をさばいた女が乳呑兒(ちのみご)を抱(だ)いて、うしろ向で唄つてゐるのだつた。

 着物は浴衣(ゆかた)で白地に黑のはつきりした瓢簞(へうたん)か何かを散して[やぶちゃん注:「ちらして」。]あつて、黑髮(くろかみ)があまり美くしく月光にゆれてゐるし、姿(すがた)が惚(ほ)れ惚(ぼ)れするほど好(い)いので、どんなに美人だらう、顏が見たいなアと思つた途端(とたん)、女は節穴の方へくるりとふりむいて、只(たゞ)一言(こと)、覗(のぞ)いちやいけないと云(い)つたさうだ。

 この話も、可(か)なり古く云ひ傳へられてゐるのだらうが、歌六老人からの又(ま)た聞(き)きでおぼえてゐる。

 芝居に關(くわん)した怪談で、一番(ばん)有名(いうめい)なのは、先代萩の床下(ゆかした)の場(ば)で、仁木[やぶちゃん注:「にき」。]が天上したといふ話だ。

 男之助[やぶちゃん注:「をとこのすけ」。]が鼠(ねづみ)を打つ、鼠がどろどろで花道のすつぽんへ入る、入(い)りかはつて、すつぽんの穴にムラムラと立ちのぼる掛煙硝(かけえんせう)のけむりと共に、印(いん)を結んだ仁木彈正がスースースーと上つて來る。

 見物は一心(しん)に仁木を見つめてゐるのだが、仁木はいつまでもいつまでも上へ上へと伸(の)びてゆく、おやおやと思ふ中、仁木の身體(からだ)は芝居の天井(てんじやう)までとどいた。よう仁木の宙乘(ちうの)りだ、妙(めう)な芝居だ、一體誰(だ)れの型(かた)だらうと云つてゐる中、仁木は天井をつきぬけて、消(き)えてなくなつたといふ。これは話し方によつては凄(すご)い。ある田舍(いなか)まはりの役者(やうしや)に、この話を始めて聞いた時には總身(そうみ)の毛が逆立(さかだ)ちしたやうに思(おも)はれた。

[やぶちゃん注:「先代萩の床下の場」当該ウィキの「床下の場」を読まれたい。

「掛煙硝」「掛焰硝」とも書く。芝居で、化け物や忍者が現れたり、消えたりする場面に、ぱっと立ち上る煙。また、その仕掛け。樟脳の粉を入れた煙硝を、火の上にかけて、出す。]

 いつぞや、實川延若君に逢(あ)つて此話をしたら、この怪談はこれだけが全部(ぜんぶ)ではなくて、前半に相當曲折(きよくせつ)があつておもしろいといふので、委(くは)しく聞く事が出來た、なるほど一篇の小說に出來てゐる。

[やぶちゃん注:「實川延若二代目」實川延若(じつかわえんじゃく 明治一〇(一八七七)年~昭和二六(一九五一)年)。大阪出身の歌舞伎役者。初代實川延若の長男として大阪難波新地に生まれた。なお、蘆江は彼を君付けしているが、蘆江より五つ年上である。]

 甲州(かふしう)の小松屋怪談とか、井戶(ゐど)の中に、女が二人つながつて落ちた話、仁木の天上、等々はいづれ、小幡小平次などの怪談(くわいだん)と同樣、芝居道の人々の間に流布(るふ)した一種の怪談物語とでもいふのだらう。物語の筋(すぢ)に人情味(にんじやうみ)があつて、話のヤマが巧(たく)みに出來てゐて、聞く人をして手に汗(あせ)を握(にぎ)らせるやうなところがある。

[やぶちゃん注:「甲州の小松屋怪談」不詳。識者の御教授を乞う。

「井戶の中に、女が二人つながつて落ちた話」不詳。同前。

「小幡小平次」私の「耳囊 卷之九 小はた小平次事實の事」、及び、「耳囊 卷之四 戲場者爲怪死の事」、また、最も新しい私の記事『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「小幡小平次」』を参照されたい。]

 かうした話を皆まとめて、物語風怪談(ものがたりふうくわいだん)といふ一册(さつ)をつくつて置きたいなど思つた事もある。

 人魂(ひとだま)といふものは實際(じつさい)にあるらしい、それを見たといふ人にも隨分(ずゐぶん)出逢(であ)つてゐるが、幽靈や、おばけけなんてものは、さう無造作(むざうさ)には出ないものだ。

 大抵(たいてい)は話の中に花が咲(さ)いて、それをくりかへす中に、相當(さうたう)實(み)のある話になつて了(しま)ふんではないかと思ふ。

 曾てこんな事(こと)があつた。

 都新聞に入社(にふ)して四五年目の頃、同僚(どうれう)の伊藤みはるといふ男が死んだ。生粹(きつすゐ)の江戶つ子で、すべてに齒切(はぎ)れの好(い)い男だつたが、中途でへんに固(かた)くるしくなり、酒も女もやめて了(しま)つた。それがある日、突然、品川へあそびに行かうぢやないかと云(い)ひ出(だ)したので、こいつは稀有(けう)な事だ、よし行かうと賛成(さんせい)したのが長谷川伸と私。

 萬事(ばんじ)、伊藤任せで、日どりもゆく先もきめたが、いよいよ明後日(あさつて)といふ日に伊藤は腦溢血(なういつけつ)で死んだ。

 全(まつた)くだしぬけなので、品川(しながは)ゆきも何もない、長谷川と私が葬儀委員(さうぎゐいん)になつてあと始末(しまつ)や、供養(くやう)にとりかかつた。

 あいつ、生(い)きて居つたら、今頃は、この家へ上り込んで、引(ひき)つけに坐(すは)つた時分だつけなアと云ひながら、偶然(ぐうぜん)にも定めの目の定めの時刻(じこく)に、かねて名ざした娼樓(うち)の前を、長谷川と私は通(とほ)つたのだつた。

 伊藤の住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。])は品川淺間臺にあつたのだから葬儀(さうぎ)や、通夜(つや)の打合せをして、一先づ我家へ引取らうとした私たちが、丁度(ちやうど)その時刻に品川の遊廓町(いうくわくまち)を通つたのは當(あた)り前(まへ)だが、何となくへんな氣がした。

 つれは二人の外(ほあ)にTといふ人がゐた。

 伊藤は思(おも)ひを殘(のこ)して死んでゐるんだから供養(くやう)の爲めに、三人で上らう、おれが伊藤の代(かは)りになつてやるよとTは云(い)つた。

 で、三人である家へ上ると、不思議(ふしぎ)といへば云はれる事が次から次に起(おこ)つて來る。先づ座蒲團(ざぶとん)が四枚出る、盃(さかづき)が四人分ならべられる、花魁(おいらん)が四人やつて來て、その中の一人は、徹頭徹尾(てつとうてつび)ものをいはずに、フイと立(た)つて消(き)えて了(しま)ふ、といふ風だつた。

 伊藤の幽靈(いうれい)がついて來てゐたんだらうと三人は笑(わら)つたが、笑ひ切れない後日話(ごじつばなし)がある。

 たしか初七日の晚(ばん)だつた、又、同じところを通りかかつたので、伊藤追善會(いとうついぜんくわい)をもう一度しようかなんて冗談(じようだん)まじりどやどやと同じ樓(うち)へ入らうとしたら、門前に半みすがかかつて、忌中(きちう)の紙が貼つてあり、家内からは盛(さか)んな香(かう)のけむりが漾(たゞよ)つてゐた。時が時なので、ぞつとするほどの驚ろき、もしや前日の無言(むごん)のおいらんが頓死(とんし)したのではないかと思つたら、それはさうでなく、その樓の家人(かじん)であつたといふ。

 こんな事(こと)が人の口から口へ云ひ傳へられて、あるひは純然(じゆんぜん)たる怪談(くわいだん)になり、三人のそばに朦朧(もうらう[やぶちゃん注:ママ。])と伊藤の姿(すがた)が見えてゐたなどいふ事になるのではないかなど、あとで噂(うはさ)をした事であつた。

[やぶちゃん注:「都新聞に入社(にふ)して四五年目の頃」「都新聞」明治から昭和にかけて発行された新聞。明治一七(一八八四)年に夕刊紙『今日新聞』として創刊されたが、同二十一年に『みやこ新聞』に、翌年には『都新聞』と改題し、朝刊紙となった。芸能、特に文芸や演劇関係の記事に特徴があったが、昭和一七(一九四二)年、『国民新聞』と合併して『東京新聞』となった。蘆江は満洲放浪に後、帰国して、明治末、『都新聞』の記者となり、花柳演芸欄を担当していた。

「長谷川伸」(明治一七(一八八四)年~昭和三八(一九六三)年)は小説家・劇作家。横浜市生まれ。本名は伸二郎。四歳の時、実母と別れ、その思慕の情が、戯曲「瞼(まぶた)の母」(昭和五(一九三〇)年)に結晶している。小学校を中退し、煙草屋の丁稚、土建屋の使い走り、撒水夫などを転々し、その後、『毎朝新聞』を経て、『都新聞』に勤め、大正六(一九一七)年頃から、「長谷川芋生(いもお)」「山野芋作(やまのいもお)」などの筆名で雑報や小説を発表した。大正一二(一九二三)年の「天正殺人鬼」で認められ、さらに翌年、「夜もすがら検校」を書いて、短編作家としてスタートした。大衆演芸にも早くから関心を示し、「瞼の母」・「沓掛時次郎」(昭和三(一九二八)年)・「一本刀土俵入」(昭和六(一九三一)年)等を上演、上映された劇作品は実に百六十七編に上ぼる。作風は庶民性によって裏打ちされた堅実なものが大部分で、股旅物の第一人者となった。後、次第に史伝物に傾斜し、「荒木又右衛門」・「上杉太平記」・「江戸幕末志」(出版に際して『「相楽総三(さがらそうぞう)とその同志』に改題)・「日本捕虜志」・「日本敵(かたき)討ち異相」等を纏めた。捕虜志や敵討ち研究は彼のライフ・ワークであり、その姿勢に一つの世界観が示されている。昭和三七(一九六二)年、「朝日文化賞」を受賞した。『新鷹会』(しんようかい)の中心として大衆文学の新人育成に当たり、村上元三・山手樹一郎(きいちろう)・山岡荘八らを輩出した。没後、遺言により、蔵書と著作権を基に『財団法人新鷹会』が設置され、『長谷川伸賞』も制定されている(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「品川淺間臺」現在の品川区南品川のこの附近

「品川の遊廓町」現在の北品川のこの附近。]

 女郞屋には一體(たい)怪談(くわいだん)が多い。

 左團次の弟子某から聞いた話に、ある時、吉原の小見世(こみせ)へあそんだ、部屋へ入つて、女(をんな)のまはつて來るのを待(ま)つてゐると、やがて廊下(らうか)に草履(ざうり)の音がする、來たなと思つたので狸寢入(たぬきねい)りをしてしてゐたら、女は障子(しやうじ)をあけ、二三度聲をかけたあとで、屛風(びやうぶ)ごしにのぞき込んで、お前さん、寢(ね)てゐるのなら、あとでゆつくり來ますよと云(い)ひ捨(す)てて立ち去つた。

 某(ばう)は、しまつたと思つたが、あとのまつり、たつた今女が覗(のぞ)き込(こ)んで去(さ)つた屛風を空しく見つめて、チッ、薄情(はくじやう)ものと云つたが、よくよく考へれば合點(がてん)のゆかぬ話だ、屛風といふのは六曲屛風で、屛風の高さは鴨居(かもゐ)まで屆(とゞ)くほどだのに、覗き込んだ女は、胸(むね)から上をありありと屛風の上にとび出してゐたのだ、それを男は薄目(うすめ)をあきながら、見てゐたのだから、不思議(ふしぎ)とも何とも云ひやうがない。鴨居(かもゐ)から上ヘ胸(むね)までのぞかせられるやうな、そんなべら棒(ぼう)もなく背(せ)の高(たか)い女がある筈(はづ)がないと思ひはじめると、俄(にはか)にゾツと怖氣立(おぢけだ)つて飛び起きさま逃(に)げ出(だ)してかへつたといふ。

 これなどは怪談の中(うち)でも、一寸(ちよつと)類(るゐ)のかはつた怪談で、それに出逢(であ)つた時は何とも思はず、あとで考へてゾツとするといふ落語(らくご)ならば考へ落ちといふ奴だ。

[やぶちゃん注:「左團次」二代目市川左團次(明治一三(一八八〇)年~昭和一五(一九四〇)年)。]

 私たちは、怪談會といふものをしばしば催(もよほ)した事を前に云つた。

 ところが、怪談會をやる度(たび)に人が死ぬといふ慣例(くわんれい)がくりかへされた事がある。其中一番(ばん)凄(すご)い死に方は、京橋の畫博堂といふ書畫屋(しよぐわや)が、營業宣傳(えいげふせんでん)の爲めにやつた怪談會の時で、當日(たうじつ)飛(と)び入(い)りでやつて來た會員の一人が、怪談をはなしてゐる中に、顏色蒼白(がんしょくさうはく)となり、ふらふらと立ち上つたがその儘(まゝ)あの世の人となつた事がある。そこに立ち會つた人は喜多村綠郞氏(きたむらろくらうし)や、鈴木鼓村氏、それに泉鏡花氏(いづみきやうくわし)などもゐられたので、死んだ人といふのは、萬朝報[やぶちゃん注:「よろづてうほう」。]社の事務員だつた。

 話しをはじめる時、この話をすると、覿面(てきめん)に祟(たゝ)りがあるといふのですが、皆樣のはなしを聞いてゐる中(うち)に、私も何か云つて見たくなりましたから、思(おも)ひ切つてお話(はな)しいたしますと、前置(まへおき[やぶちゃん注:底本では、ルビは「まへお」のみ。脱字と断じて、特異的に訂した。])をしただけに凄みが一層はげしかつたのだ。

 其時以來、泉鏡花氏などは、怪談會は好(す)きだが、なるだけ凄味(すごみ)をつけないやうに、そして怖(こは)がらせをしないやうにして會をやつてもらひたいなどと、むづかしい注文(ちうもん)を出したくらゐだ。

[やぶちゃん注:「鈴木鼓村」(こそん 明治八(一八七五)年~昭和六(一九三一)年)は箏曲家で日本画家。宮城県生まれ。本名は映雄(てるお)。陸軍時代に箏曲・洋楽を学んだ。高安月郊・与謝野鉄幹夫妻らと交流し、新体詩に作曲して『新箏曲』を提唱し、京極流を名のった。日本音楽史に詳しく、晩年は大和絵『古土佐』に専念した。別号に那智俊宣(なちとしのぶ)。著作に「日本音楽の話」、作曲に「紅梅」等がある(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「萬朝報」新聞。明治二五(一八九二)年十一月一日、黒岩涙香が創刊した日刊新聞。第三面に社会記事を派手に取り扱い、「三面記事」の語を生んだ。内村鑑三・幸徳秋水らも在社し、労働・社会運動に関心を示し、日露開戦に反対したことで知られる。涙香の論説や翻訳小説で人気を集めた。昭和一五(一九四〇)年『東京毎夕新聞』に合併して廃刊となった。]

 私が世話人(せわにん)になつて井の頭翠紅亭(すゐこうてい)でやつた時も、不思議な事があつた。吉原(よしはら)の丸子といふ藝者が、幇間や藝者を誘(さそ)つて吉原を出たのが夕刻(ゆふこく)の六時、夏の六時だからまだ明(あか)るかった。その頃はまだ澤山(たくさん)はなかつた自動車に乘つて井の頭まで一直線(ちよくせん)にやつて來たので、吉祥寺の踏切(ふみきり)へ來てもまだ明(あか)るかつたさうだ。

 で、踏切で汽車の通過(つうくわ)するのを待ちながら、丁度そばに赤ン坊の守(もり)をしてゐた老人(らうじん)に、翠紅亭への道を聞いた。

 老人といふのが問題(もんだい)で、赤いほうづき提灯(ちやうちん)をぶらさげて、子供をあやしてゐたさうだが、丁寧(ていねい)に敎(をし)へてくれたので、その通りに自動車を運轉(うんてん)すると、翠紅亭へは出ずに、元(もと)の踏切へ出る、と又例の老人(らうじん)が立つてゐる、又聞く、又敎へられる、と、又(また)元(もと)のところへといふ風に、三遍(べん)くりかへして漸(やうや)く翠紅亭へ辿(たど)りついたのが、午前三時だつた。

 踏切から翠紅亭(すゐこうてい)までたつた四五丁ぐらゐの道のりなんだが、それを自動車で七時間餘もかかつたといふのだから妙(めう)な話だつた。

 鼠色浴衣(ねずみいろゆかた)で子供を負つて、赤(あか)い頬(ほう)づき提灯(ちやうちん)をぶらさげた老人、それが何遍(なんべん)でも、同じ態度(たいど)で道を敎(をし)へてくれる、その通りに行くと、ぐるりとまはつて元(もと)の道(みち)へ出(で)るといふのだから、而(しか)も五分とかからない道に七時間(じかん)もかかつたのだから、翠紅亭へついてから、丸子(まるこ)の一行は身慄(みぶる)ひをして顏色(かほいろ)をかへてゐた。

 その丸子は、その後十日目に大震災(だいしんさい)で死んだのだが。

 三萬圓とか記入した貯金帳(ちよきんちやう)を帶にはさんで、花園池(はなぞのいけ)で死んでゐたといふのだ。一時は名妓(めいぎ)と立てられた名物女(めいぶつをんな)だつたが。

[やぶちゃん注:「井の頭翠紅亭」現在の都立井の頭恩賜公園内にあった料亭。

「その後十日目に大震災で死んだ」とあるので、この怪談会は、大正一二(一九二三)年八月二十二日から二十三日未明に行われたことになろうか。この、丸子奴の話、如何にも哀れである。]

 通りがかりに道を尋(たづ)ねるといふ怪談(くわいだん)は類(るゐ)が多い。大村嘉代子女史の體驗(たいけん)といふのを、何かで讀んだ時に、隨分(ずゐぶん)凄(すご)いと思つたが、昔の怪談にもこんな類(るゐ)がある、私の記憶(きおく)に殘つてゐる中の一番凄いのは、芝(しば)の札(ふだ)の辻(つぢ)で、すれちがつた女が侍に道を聞いた。聞かれる儘(まま)に敎(をし)へた侍が、何の氣なしにすれちがつてうしろを見たら、向(むか)ふもふりむいたさうだが、その時、女は目も鼻(はな)も口(くち)もない、卵に髮を結(ゆ)はしたやうな姿(すがた)の好(い)い女だつたといふので、侍は腰(こし)をぬかしたといふ話。その女もやはり赤ン坊を負(おぶ)つてゐたさうだ。

[やぶちゃん注:「大村嘉代子女史」(明治一七(一八八四)年~昭和二八(一九五三)年) は劇作家。群馬県生まれ。日本女子大卒。岡本綺堂に師事し、大正九(一九二〇)年、「みだれ金春」で評価を得る。『新演芸』などで劇評も手がけた。作品は「たそがれ集」。「水調集」等に収められてある。]

 大震災(だいしんさい)といへば、あの時も隨分いろいろな怪談(くわいだん)がいひふらされた。被服廠(ひふくしやう)のあとに人魂(ひとだま)が出るとか、子供の泣聲(なきごゑ)がするとか、自分の死んでゐる場所を近親(きんしん)に知らせる爲めに幽靈(いうれい)がやつて來たとか。

[やぶちゃん注:「被服廠」旧陸軍被服廠。現在の東京都墨田区横網にあったが、この年、王子区(現在の北区)赤羽台に移転した後、公園化工事が行われていた。震災時、ここに避難した人だけで、実に三万八千名が巨大な火災旋風で亡くなった。詳しくは、ウィキの「横網町公園」を見られたい。]

 聞いてゐる間は、矢先(やさき)が矢先なので、大抵(たいて)の人はぞつとしたものだが、程經(ほどへ)て、よくよく考へ見ると、大抵(たいてい)はつくり話である。

 其證據には、其後、三陸の海嘯(つなみ)の時も凾館(はこだて)の大火の時も、同巧異曲(どうこういきょく)の怪談が、その土地土地の人によつて語(かた)り傳(つた)へられるので知れる。

[やぶちゃん注:「三陸の海嘯(つなみ)」「明治三陸地震」。明治二九(一八九六)年六月十五日午後七時三十二分、岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖二百キロメートルの三陸沖を震源として起こった地震。マグニチュード8.28.5の巨大地震で、さらに、当時の本州での観測史上最高の遡上高だった海抜三十八・二メートルを記録する大津波が発生し、甚大な被害を与えた(当該ウィキに拠った)。

「凾館(はこだて)の大火」「函館大火」。北海道函館市で昭和九(一九三四)年三月二十一日に発生した大規模火災。死者二千百六十六名、焼損棟数一万千百五棟を数える大惨事となった。参照した当該ウィキを見られたい。]

 こんな話は、一體(たい)だれがつくつて、だれがいひはじめるのか、昔(むかし)のはやり歌と同じで、驚ろくべき創作(さうさく)といはねばならぬ。

 さうしたつくり話の中の一二をあげて見(み)よう。

 被服廠(ひふくしやう)に近いところに救護所(きうごしよ)が出來た。そこに三三人の救護員がつめてゐると、夜の三時頃、天幕(てんと)の外で、すみませんが水を一杯飮まして下さいませんかといふ聲(こゑ)がする。アイよと答(こた)へて外へ出ようとすると、外(そと)の聲は更(さら)に、實は多勢居るんですから、手桶(てをけ)に一杯下さいましといふ。

 で、どんな人が、どんな風(ふう)にして來かかつてゐるものとも知(し)らず、兎(と)に角(かく)手桶(てをけ)一杯の水を汲(く)んで天幕(てんと)の外へ出ると、だれもゐない。只(たゞ)、眞暗な中に夜風(よかぜ)がひえひえと吹いてゐるばかり。而(しか)もどういふわけとも知れぬ陰慘(いんざん)な氣分がひしくひしと四面を壓迫(あつぱく)して來るので、思はずゾツとして、手桶をおつぽり出したまま救護員(きうごゐん)は中へ入る。と、間もなく外では、ぢやぶぢやぶと水(みづ)を汲(く)んだりこぼしたりする音が聞こえる。ざわざわと人の犇(ひし)めく聲(こゑ)もする。

 やがて、ありがたうございましたといふ聲と共(とも)にあとはしんとなるので、そつと出(で)て見(み)ると、誰(だ)れもゐない、空(から)の手桶(てをけ)のみが殘つて、そのまはりには水がびちやびちやこぼれてゐた。

 こんな事が、每晚(まいばん)つづくので、しまひには人聲がしなくても、その時刻(じこく)になると、天幕の外(そと)に水を出しておいてやる事にしたが、いつも、手桶(てをけ)はからになつてゐたといふのだ。

 大震災のあとで、この事をはじめて聞いた私は、凄(すご)い話だと思つてゐたら、其後(そのご)凾館(はこだて)の大火で燒(や)け出(だ)されて來た人も、同じ話をしてゐた。只(たゞ)ちがつてゐるのは、救護所が交番(かうばん)に、手桶がバケツに、救護員が巡査(じゆんさ)にかはつてゐるだけである。

 もう一つは、屍骸(しがい)の澤山ゐるところに人魂(ひとだま)がふはりふはりととんで、時折(ときをり)助(たす)けてくれ助けてくれと叫(さけ)ぶ聲がするといふのだ。あまりにもその噂(うはさ)が高くなつたので、警察(けいさつ)でも打棄(うつちや)つておけず、巡査が六人づれで人魂探檢(ひとだまたんけん)をすると、なるほど鈍(にぶ)い光(ひか)りがぽかりぽかりと屍骸(しがい)の上にゆれはじめた。六人の巡査は手をつなぎ合はして、人魂を追(おつ)かけると、どうしたものか人魂がパツと消(き)えた。尤もその前(まへ)から消えたりついたりはしてゐたさうだ。

 ところがこの時(とき)は、消えたばかりでなく若い女の姿(すがた)が、人魂(ひとだま)のそばをふわふわ[やぶちゃん注:ママ。底本では後半は踊り字「〱」。]と浮いて見えたさうだ。それも人魂と共(とも)に消(き)えたのだといふ。

 ソレツといふので、見當(けんたう)をつけてそばへゆくと、むしろをかぶせた屍骸(しがい)ばかりで、何の異狀(いじやう)もない。ぢつ見つめてゐるとたん、屍骸(しがい)にかぶせたむしろがムクムクと動(うご)いた。

 巡査たちは勇を鼓(こ)してむしろをひきめくつたら、そこには若い女が屍骸の中にまぎれて寢(ね)ころがつてゐた。

 なぜそんなところにゐるんだと引起(ひきおこ)すと、女は御ゆるし下さい御ゆるし下さいと泣(な)いて訴(うつた)ヘる、よくよくしらべて見たら、この女は、屍骸の口に殘つた入齒(いれば)の金や、指環(ゆびわ)の類時計の類を盜(ぬす)む女盜[やぶちゃん注:「ぢよたう」。]だつたといふ話。

 これが凾館(はこだて)の大火の時にも、そつくりその儘(まま)、實話として傳(つた)へられた。をかしい事には、この話のあとに必らず云(い)ひ添(そ)へる言葉がある。

 若い女のくせに、むごい事をするぢやありませんか、指環(ゆびわ)なんぞぬけにくいものですから、指ごと切つて取つて、風呂敷(ふろしき)にくるんでゐたさうです。警察ではその儘留置場へはふり込(こ)んだといひますが、まだしらべは濟まないさうです、ですけど、あまりにも無慘(むざん)な仕方(しかた)なので、新聞記事も差止(さしと)めてあるんださうですよ。と、かういふ風(ふう)にいふんだ。

 あまりにも殘酷(ざんこく)だから新聞には出させないといふ文句(もんく)の絡まつてゐる事は、當然(たうぜん)、この話がつくり話だといふ事を裏書(うらがき)してゐるのだから愉快だ。

 こんな風(ふう)にして書いてゐると、際限(さいげん)はないが、兎もあれ、人の口から口へ傳(つた)へられる怪談といふものは、一人が一人へ話(はな)す度(たび)に、いろいろな訂正(ていせい)が加へられ、尾ひれがついて、おもひがけなく面白(おもしろ)い話になるものだと思ふ。

[やぶちゃん注:以上を以って「蘆江怪談集」は終っている。

 以下、ペンディングしていた「目次」を示す。底本のここから。但し、リーダとページ・ナンバーは省略した。字間はそれとなく似せただけで、正確な再現ではない。「表紙繪・題字 … … … …平 山 蘆 江」は「怪異雜記」の「記」の字の左中央位置から始まっているが、ブラウザの不具合を考えて、引き上げた。]

 

  蘆 江 怪 談 集  目  次

 

序 … … 妖 怪 七 首

お 岩  伊  右  衞  門

空 家 さ が し

靑   眉   毛

[やぶちゃん注:頭に「怪談」がないのはママ。]

二 十 六 夜 待

火 焰 つ つ じ

鈴 鹿 峠 の 雨

天   井  の   怪

惡  業  地  藏

縛  ら れ   塚

う  ら 二   階

投   丁    半

[やぶちゃん注:「投げ」でないのはママ。]

大   島   怪  談

        ✕   ✕   ✕

怪   異  雜   記

 

  表紙繪・題字 … … … …平 山 蘆 江

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。全体を上下を有意に空けて、中央に二重罫線で囲み、そのまた中央に罫線を上下に挟んで「蘆江怪談集」が右から左に太字で示されてある。この裏に同書店から刊行された「平山蘆江先生名著五種」と題した広告があるが、省略する。上段・中段・下段の順に電子化した。ポイント・字間・行空けはそれとなく合わせただけで、再現していない。]

 

《上段》

本 書 定價一圓貳拾錢[やぶちゃん注:右端。]

 

岡   倉   書   房[やぶちゃん注:右端。]

 

《中段》

 集 談 怪 江 蘆

 

《下段》

著  者 平 山 蘆 江

裝  幀 平 山 蘆 江

用紙提供 小  山  洋  紙  店

美術印刷 渥  美  堂

製  本 柏  谷  秀  二  郞

印  刷  所  東 京 市 牛 込 區

     鷹 匠 町 八 番 地

     高  木  活  版  所

印刷責任 高  木  文  之  助

發  行  者 岡 村 祐 之

發  行  所 東 京 市 神 田 區

     淡路町貳丁目七番地

發  賣 岡 倉 書 房

振  替 東  京  貳五九參碁盤

印  刷  日 昭和九年七月二十六日

發  行  日 昭和九年七月三十一日

定  價 壹圓貳拾錢 送料十錢

2024/02/08

芥川龍之介 二つの手紙 (オリジナル強力詳注附き)

[やぶちゃん注:現在進行中の「蘆江怪談集」の注に必要となったため、電子化注した。

 本篇の初出は、大正六(一九一七)年九月一日発行の雑誌『黑潮』に掲載され、後の第二作品集「煙草と惡魔」(新潮社『新進作家叢書』第八編・大正六年十一月十日発行)に所収された。なお、当時の芥川龍之介は満二十五歳で、海軍機関学校の英語教官時代であり、横須賀に下宿していた。

 底本は旧岩波版『芥川龍之介全集』の「第一卷」(一九七七年刊)を使用した。なお、加工データとして「青空文庫」の新字新仮名の同作のテキスト・ファイル(入力:j.utiyama氏/校正:かとうかおり氏)を、ここからダウン・ロードして使用させて頂いた。ここに御礼申し上げる。本篇はごく一部を除き、ルビがない。若い読者が躓くかも知れないと思う箇所には、《 》で私の推定の読みを歴史的仮名遣で挿入した。踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字とした。傍点「﹅」は太字に代えた。注は、一部を所持する筑摩書房『筑摩全集類聚』版「芥川龍之介全集」第一巻(昭和四六(一九七一)年三月刊)を参考にしようとしたが、既に注が古びており、『不詳』が多くて、殆んど使い物にならない。概ね、ネットを駆使して施した。]

 

 

 二つの手紙

 

 

 或機會で、予は下に揭げる二つの手紙を手に入れた。一つは本年二月中旬、もう一つは三月上旬、――警察署長の許へ、郵稅先拂ひで送られたものである。それをここへ揭げる理由は、手紙自身が說明するであらう。[やぶちゃん注:「郵稅先拂ひ」郵便料金を受取人が支払う方法。この仕儀自体が、相手の精神状態を疑わせる伏線である。]

 

      第一の手紙

 

 ――警察署長閣下、

 先ず何よりも先に、閣下は私の正氣だと云ふ事を御信じ下さい。これ私があらゆる神聖なものに誓つて、保證致します。ですから、どうか私の精神に異常がないと云ふ事を、御信じ下さい。さもないと、私がこの手紙を閣下に差上げる事が、全く無意味になる惧があるのでございます。その位なら、私は何を苦しんで、こんな長い手紙を書きませう。

 閣下、私はこれを書く前に、ずゐぶん躊躇致しました。何故かと申しますと、これを書く以上、私は私一家の祕密をも、閣下の前に暴露しなければならないからでございます。勿論それは、私の名譽にとつて、可成大きな損害に相違ございません。しかし事情はこれを書かなければ、もう一刻の存在も苦痛な程、切迫して參りました。こゝで私は、遂に斷乎たる處置を執る事に、致したのでございます。

 さう云ふ必要に迫られて、これを書いた私が、どうして、狂人扱ひをされて、默つて居られませう。私はもう一度、こゝに改めてお願ひ致します。閣下、どうか私の正氣だと云ふ事を御信用下さい。さうして、この手紙を御面倒ながら、御一讀下さい。これは私が、私と私の妻との名譽を賭して、書いたものでございますから。

 かやうな事を、くどく書きつづけるのは、繁忙な職務を御鞅掌になる閣下にとつて、餘りに御迷惑を顧みない仕方かも知れません。しかし、私の下に申上げようとする事實の性質上、閣下が私の正氣だと云ふ事を御信用になるのは、どうしても必要でございます。さもなければ、どうしてこの超自然な事實を、御承認になる事が出來ませう。どうして、この創造的精力の奇怪な作用を、可能視なさる事が出來ませう。それほど、私が閣下の御留意を請ひたいと思ふ事實には不可思議な性質が加はつてゐるのでございます。ですから、私は以上のお願ひを敢て致しました。猶これから書く事も、或は冗漫の譏《そしり》を免れないものかも知れません。しかし、これは一方では私の精神に異狀がないと云ふ事を證明すると同時に、又一方ではかう云ふ事實も古來決して絕無ではなかつたと云ふ事をお耳に入れるために、幾分の必要がありはしないかと、思はれるのでございます。

[やぶちゃん注:「御鞅掌」「ごあうしやう(ごおうしょう)」。「鞅掌」は「忙しく立ち働いて暇(いとま)がないこと」を言う。]

 歷史上、最も著名な實例の一つは、恐らくカテリナ女帝に現われたものでございませう。それから又、ゲエテに現れた現象も、やはりそれに劣らず著名なものでございます。が、これらは、餘り人口に膾炙しすぎて居りますから、こゝにはわざと申上げません。私は、それより二三の權威ある實例によつて、出來る丈手短に、この神祕の事實の性質を御說明申したいと思ひます。まづ Dr. Werner の與へてゐる實例から、始めませう。彼によりますと、ルウドウイツヒスブルクの Ratzel と云ふ寶石商は、或夜街の角をまがる拍子に、自分と寸分もちがはない男と、ばつたり顏を合せたさうでございます。その男は、後《のち》間もなく、木樵りが檞《かし》の木を伐り倒すのに手を借して、その木の下に壓《あつ/お》されて歿《な》くなりました。これによく似てゐるのは、ロストツクで數學の敎授をしてゐた Becker に起つた實例でございませう。ベツカアは或夜五六人の友人と、神學上の議論をして、引用書が必要になつたものでございますから、それをとりに獨りで自分の書齋へ參りました。すると、彼以外の彼自身が、いつも彼のかける椅子に腰をかけて、何か本を讀んでゐるではございませんか。ベツカアは驚きながら、その人物の肩ごしに、讀んでゐる本を一瞥致しました。本はバイブルで、その人物の右手の指は「爾《なんぢ》の墓を用意せよ。爾は死すべければなり」と云ふ章を指さして居ります。ベツカアは友人のゐる部屋へ歸つて來て、一同に自分の死の近づいた事を話しました。そさして、その語《ことば》通り、翌日の午後六時に、靜《しづか》に息をひきとりました。

[やぶちゃん注:「カテリナ女帝」十八世紀に最も権力を握ったロシア皇帝エカチェリーナⅡ世(アレクセーエヴナ Екатерина II Алексеевна(ラテン文字転写:Yekaterina II Alekseyevna)  一七二九年~一七九六年/在位:一七六二年~一七九六年)。彼女の事績は当該ウィキを参照されたいが、ネットの初期以来、よく見る「カラパイア」の「自らのドッペルゲンガーを見たという10人の偉人の逸話」によれば、彼女は、『ある夜、エカテリーナが寝室で休んでいると、召使がエカテリーナが王座の間に入って行くのを見たと言ってきた。本人が自分で調べにいくと、幽霊のような自分の分身が静かに王座に座っていたという。エカテリーナは』、『急いで』、『衛兵に』、『その分身に銃を放つよう』、『命令した。果たして弾が当ったのかどうかは語られていないが、その後』、『まもなくエカテリーナ本人は亡くなってしまった』とある。

「ゲエテ」ドイツの文豪にして博物学者・政治家でもあったヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)。同じく「カラパイア」の「自らのドッペルゲンガーを見たという10人の偉人の逸話」によれば、彼は、『ある日、フリーデリケという女性と別れたショックで』、『意気消沈して馬で帰る途中』、『馬でこちらに向かってくる男に出会った。ゲーテ曰く』、「『実際の目ではなく、心の目で見た』」『というのだが、その男は』、『着ている服は違えど、まさにゲーテ本人だったという。その人物はすぐに姿を消したが、ゲーテはその姿に』、『なぜか』、『心が穏やかになって、このことは』、『まもなく忘れてしまった』。八『年後、ゲーテが』、『その同じ道を』、『今度は』、『反対方向から馬を進めていたとき、数年前に会った自分の分身と同じ服装をしていることに気づいたという。また』、『別のとき、ゲーテは友人のフリードリッヒが通りを歩いているのを見た。なぜか、友人はゲーテの服を着ていたという。不思議に思ったまま』、『ゲーテが自宅に帰ると、フリードリッヒが』、『ゲーテが通りで見たのと同じ服を着て』、『そこにいた。友人は』。「『急に雨が降ってきたので、ゲーテの服をかりて、自分の服を乾かしていたのだ』」と言ったという逸話がある。

Dr. Werner」『筑摩全集類聚』版には、『ヴェルナー博士について未詳。したがって以下に挙げられている実例とか書簡についても未詳。芥川の仮構とも考えられる。』とあるのだが、ネット検索で、「飯田橋文学会」公式サイト内の「芥川龍之介全集を読む」で、アラビア語通訳・翻訳家でエジプトのカイロ生まれのマイサラ・アフィーフィー氏の記事に、以上の引用を示され、かく『説明であったが、調べているうちに、同じ作品に芥川が出した「自然の暗黒面」という書籍を見つけた。それは、Catherine Croweという著者が書いた「The Night Side of Nature」』(「自然界の暗黒面」。後で本文でも全く同じに訳している)『というタイトルで』、一八五二年(嘉永四年~嘉永五年相当)に、『ロンドン』で『刊行された本であった。著作権が切れているのでグーグルブックスでダウンロードできる。僕は実際』、『ダウンロードし、全部ではないが、ところどころに目を通しみたら、芥川は』、『ヴェルナー博士や以下に挙げられていた実例とか書簡とか書籍とか』の『全てを、その本から引用していたようだ』と記しておられる。この同書は“The Project Gutenberg eBook”で“The Night-Side of Nature, by Catherine Croweとして電子化されている。自動翻訳でも、以下に記される事例が、総て、十分に読める。作者はイギリスの女流作家キャサリン・アン・クロウ(旧姓はスティーブンス)(Catherine Ann Crowe 一八〇三年~一八七六年)が一八四八年にロンドンで刊行した超自然的現象を蒐集した作品である。「Dr. Werner」はそこに七回言及されているが、事績は不詳。

「ルウドウイツヒスブルク」ルートヴィヒスブルク(Ludwigsburg)はドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト行政管区のルートヴィヒスブルク郡に属する市。シュトゥットガルト内市街の北約 十三キロメートルに位置し、「シュトゥットガルト地域」(一九九二年までは「ミットレラー・ネッカー地域」)及び「シュトゥットガルト大都市圏」に含まれ、本市はルートヴィヒスブルク郡の郡庁所在地であり、同郡最大の都市である、と当該ウィキにあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

Ratzel」ラッツェル。

「ロストツク」ロストック(Rostock)は、当該ウィキによれば、『ドイツ連邦共和国北部』の『メクレンブルク=フォアポンメルン州の』『バルト海に面する港湾都市で、中世のハンザ同盟の中心都市』であり、『旧東ドイツ最大の港湾都市であった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

Becker」ベッカー。]

 これで見ると、Doppelgaenger の出現は、死を豫告するやうに思はれます。が、必ずしもさうばかりとは限りません。Dr. Werner は、デイレニウス夫人と云ふ女が、六歲になる自分の息子と夫の妹と三人で、黑い着物を着た第二の彼女自身を見た時に、何も變事の起らなかつた事を記錄してゐます。これは又、さう云ふ現象が、第三者の眼にも映じると云ふ、實例になりませう。Stilling 敎授が擧げてゐるトリツプリンと云ふワイマアルの役人の實例や、彼の知つてゐる某M夫人の實例も、やはり、この部類に屬すべきものではございませんか。

[やぶちゃん注:「Doppelgaenger」ドッペルゲンガー(ドイツ語。正しくは現行では“Doppelgänger”と綴る)。当該ウィキによれば、『自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象で』、『自分とそっくりの姿をした分身』、『第』二『の自我、生霊』(いきりょう)の類(たぐい)を指す。『同じ人物が同時に別の場所(複数の場合もある)に姿を現』わ『す現象を指すこともあ』り、『第三者が目撃する』ケースも『含む』。心霊学やオカルトの中では『超常現象のひとつとして扱われる』とある。詳しくは、そちらを見られたいが、私のブログ記事で、この三年間、常に私の記事の内、アクセス・ランキングが常に上位にある、『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を、是非、読まれたい。巷には、芥川龍之介の自死を、これに求めるとする憶説が蔓延している。

「デイレニウス夫人と云ふ女」前掲英文先に“a lady named Dillenius”とあるケース。

Stilling 敎授」作家でゲーテの弟子にして、さまざまな教授職を経たヨハン・ハインリヒ・ユング(Johann Heinrich Jung 一七四〇年~一八一七年)。彼は両親の姓を重ねてJung-Stillingとも名乗った。

Stilling 敎授が擧げてゐるトリツプリンと云ふワイマアル」(Weimar:音写は「ヴァイマー」が近い。ドイツ・テューリンゲン州の都市で、ここ。主要な歴史的文化都市の一つ)「の役人の實例」前掲英文書に“Stilling relates that a government-officer, of the name of Triplin, in Weimar, on going to his office to fetch a paper of importance, saw his own likeness sitting there, with the deed before him. Alarmed, he returned home, and desired his maid to go there and fetch the paper she would find on the table. The maid saw the same form, and imagined that her master had gone by another road, and got there before her. His mind seems to have preceded his body.”とあるのを指す。

「彼の知つてゐる某M夫人」同前で“There are numerous examples of similar phenomena to be met with. Professor Stilling relates that he heard from the son of a Madame M⁠——, that his mother, having sent her maid up stairs on an errand, the woman came running down in a great fright, saying that her mistress was sitting above, in her arm-chair, looking precisely as she had left her below. The lady went up stairs, and saw herself as described by the woman, very shortly after which she died.”とあるのを指す。]

 更に進んで、第三者のみに現れたドツペルゲンゲルの例を尋ねますと、これもまた決して稀ではございません。現に Dr. Werner 自身もその下女が二重人格を見たさうでございます。次いで、ウルムの高等裁判所長の Pflzer と申す男は、その友人の官吏が、ゲツテインゲンにゐる息子の姿を、自分の書齋で見たと云ふ事實に、確かな證明を與へて居ります。その外、「幽靈の性質に關する探究」の著者が擧げて居りますカムパアランドのカアクリントン敎會區で、七歲の少女がその父の二重人格を見たと云ふ實例や「自然の暗黑面」の著者が擧げて居りますH某と云ふ科學者で藝術家だつた男が、千七百九十二年三月十二日の夜、その叔父の二重人格を見たと云ふ實例などを數へましたら、恐らくそれは、夥しい數に上る事でございませう。

[やぶちゃん注:「Dr. Werner 自身もその下女が二重人格を見たさうでございます」先に掲げた英文書に載るが、“Dr. Werner relates that Professor Happach had an elderly maid-servant, who was in the habit of coming every morning to call him, and on entering the room, which he generally heard her do, she usually looked at a clock which stood under the mirror. One morning, she entered so softly, that, though he saw her, he did not hear her foot. She went, as was her custom, to the clock, and came to his bedside, but suddenly turned round and left the room. He called after her, but she not answering, he jumped out of bed and pursued her. He could not see her, however, till he reached her room, where he found her fast asleep in bed. Subsequently, the same thing occurred frequently with this woman.”であって、ウェルナー教授「自身」ではなく、彼がHappach教授の使用人の話を又聞きしたものである。

「ウルムの高等裁判所長の Pflzer と申す男は、その友人の官吏が、ゲツテインゲンにゐる息子の姿を、自分の書齋で見たと云ふ事實に、確かな證明を與へて居ります」同前で、“A president of the supreme court, in Ulm, named Pfizer, attests the truth of the following case: A gentleman, holding an official situation, had a son at Göttingen, who wrote home to his father, requesting him to send him, without delay, a certain book, which he required to aid him in preparing a dissertation he was engaged in. The father answered that he had sought but could not find the work in question. Shortly afterward, the latter had been taking a book from his shelves, when, on turning round, he beheld, to his amazement, his son just in the act of stretching up his hand toward one on a high shelf in another part of the room. “Hallo!” he exclaimed, supposing it to be the young man himself, but the figure disappeared; and, on examining the shelf, the father found there the book that was required, which he immediately forwarded to Göttingen; but before it could arrive there, he received a letter from his son, describing the exact spot where it was to be found.”が、その話である。

「幽靈の性質に關する探究」前掲書の中に“The author of a work entitled “An Inquiry into the Nature of Ghosts,” who adopts the illusion theory, relates the following story, as one he can vouch for, though not permitted to give the names of the parties:—”とあって、““Miss ——, at the age of seven years, being in a field not far from her father’s house, in the parish of Kirklinton, in Cumberland, saw what she thought was her father in the field, at a time that he was in bed, from which he had not been removed for a considerable period. There were in the field also, at the same moment, George Little, and John, his fellow-servant. One of these cried out, ‘Go to your father, miss!’ She turned round, and the figure had disappeared. On returning home, she said, ‘Where is my father?’ The mother answered, ‘In bed, to be sure, child!’—out of which he had not been.””がそれ。「カムパアランドのカアクリントン敎會區」現在のイギリスのカンブリア州カーライル地区カークリントン(グーグル・マップ・データ)であろう。

『「自然の暗黑面」の著者が擧げて居りますH某と云ふ科學者で藝術家だつた男が、千七百九十二年三月十二日の夜、その叔父の二重人格を見たと云ふ實例』先のそれで、““On the evening of the 12th of March, 1792,” says Mr. H⁠——, an artist, and a man of science, “I had been reading in the ‘Philosophical Transactions,’ and retired to my room somewhat fatigued, but not inclined to sleep. It was a bright moonlight night and I had extinguished my candle and was sitting on the side of the bed, deliberately taking off my clothes, when I was amazed to behold the visible appearance of my half-uncle, Mr. R. Robertson, standing before me; and, at the same instant, I heard the words, Twice will be sufficient!’ The face was so distinct that I actually saw the pock-pits. His dress seemed to be made of a strong twilled sort of sackcloth, and of the same dingy color. It was more like a woman’s dress than a man’s—resembling a petticoat, the neck-band close to the chin, and the garment covering the whole person, so that I saw neither hands nor feet. While the figure stood there, I twisted my fingers till they cracked, that I might be sure I was awake.”が、それ。]

 私はさし當り、これ以上實例を列擧して、貴重なる閣下の時間を浪費おさせ申さうとは致しますまい。唯《ただ》、閣下は、これらが皆疑ふ可らざる事實だと云ふ事を、御承知下さればよろしうございます。さもないと、或は私の申上げようとする事が、全然とりとめのない、馬鹿げた事のやうに思召すかも知れません。何故かと申しますと、私も、私自身のドツペルゲンゲルに苦しまされてゐるものだからでございます。さうして、その事に關して、聊《いささか》閣下にお願ひの筋があるからでございます。

 私は私自身のドツペルゲンゲルと書きました。が、詳しく云へば、私及《および》私の妻のドツペルゲンゲルと申さなくてはなりません。私は當區――町――丁目――番地居住、佐々木信一郞と申すものでございます。年齡は三十五歲、職業は東京帝國文科大學哲學科卒業後、引續き今日まで、私立――大學の倫理及英語の敎師を致して居ります。妻ふさ子は、丁度四年以前に、私と結婚致しました。當年二十七歲になりますが、子供はまだ一人もございません。こゝで私が特に閣下の御注意を促したいのは、妻にヒステリカルな素質があると云ふ事でございます。これは結婚前後が最も甚しく、一時は私とさへ殆ど語《ことば》を交へない程、憂欝になつた事もございましたが、近年は發作も極めて稀になり、氣象も以前に比べれば、餘程快活になつて參りました。所が、昨年の秋から又精神に何か動搖が起つたらしく、この頃では何かと異常な言動を發して、私を窘《くるし》める事も少くはございません。唯、私が何故《なにゆゑ》妻のヒステリイを力說するか、それはこの奇怪な現象に對する私自身の說明と、或關係があるからで、その說明については、いづれ後で詳しく申上る事に致しませう。

 さて、私及私の妻に現れたドツペルゲンゲルの事實は、どんなものかと申しますと、大體に於てこれまでに三度ございました。今それを一つづゝ私の日記を參考として、出來るだけ正確に、こゝへ記載して御覽に入れませう。

 第一は、昨年十一月七日、時刻は略《ほぼ》午後九時と九時三十分との間でございます。當日私は妻と二人で、有樂座の慈善演藝會へ參りました。打明けた御話をすれば、その會の切符は、それを賣りつけられた私の友人夫婦が何かの都合で行かれなくなつたために、私たちの方へ親切にもまはしてくれたのです。演藝會そのものの事は、別にくだくだしく申上げる必要はございません。また實際音曲《おんぎよく》にも踊《をどり》にも興味のない私は、云はゞ妻のために行つたやうなものでございますから、プログラムの大半は徒《いたづら》に私の退屈を增させるばかりでございました。從つて、申上げようと思つたと致しましても、全然その材料を缺《か》いてゐるやうな始末でございます。ただ、私の記憶によりますと、仲入りの前は、寬永御前仕合と申す講談でございました。當時の私の思量に、異常な何ものかを期待する、準備的な心もちがありはしないかと云ふ懸念は、寬永御前仕合の講談を聞いたと云ふこの一事でも一掃されは致しますまいか。

[やぶちゃん注:「昨年」本作の最後には、脱稿を大正六(一九一七)年八月十日とする。機械的にそれに即すなら、大正五年となる。

「有樂座」明治四一(一九〇八)年に、現在の東京数寄屋橋附近の、ここ(グーグル・マップ・データ)に出来た西洋風(初の全席椅子席)の高等演芸場有楽座のことで、当時の日本の新劇運動のメッカであった。因みに、ここは旧南町奉行所跡で、明治になって裁判所、次に陸軍練兵場となった、その跡地でもある。大正九(一九二〇)年に帝劇に合併されたが、大正十二年の関東大震災で焼失するまで、この地にあった。

「寬永御前仕合と申す講談」江戸時代の寛永年間に将軍徳川家光の御前で行われたという設定で語られている架空の御前試合の講談で、史実ではない。『筑摩全集類聚』版注には、『有楽座はこの頃』確かに『慈善演芸会が催されていたが、このような講談は演じられていない』とあった。]

 私は、仲入りに廊下へ出ると、すぐに妻を一人殘して、小用を足しに參りました。申上げるまでもなく、その時分には、もう𢌞りの狹い廊下が、人で一ぱいになつて居ります。私はその人の間を縫ひながら、便所から歸つて參りましたが、あの弧狀になつてゐる廊下が、玄關の前へ出る所で、豫期した通り私の視線は、向うの廊下の壁によりかゝるやうにして立つてゐる、妻の姿に落ちました。妻は、明《あかる》い電燈の光がまぶしいやうに、つゝましく伏眼《ふしめ》になりながら、私の方へ橫顏を向けて、靜《しづか》に立つてゐるのでございます。が、それに別に不思議はございません。私が私の視覺の、同時にまた私の理性の主權を、殆ど刹那に粉碎しようとする恐ろしい瞬間にぶつかつたのは、私の視線が、偶然――と申すよりは、人間の知力を超越した、ある隱微な原因によつて、その妻の傍《かたはら》に、こちらを後《うしろ》にして立つてゐる、一人の男の姿に注がれた時でございました。

 閣下、私は、その時その男に始めて私自身を認めたのでございます。

 第二の私は、第一の私と同じ羽織を着て居りました。第一の私と同じ袴を穿いて居りました。さうしてまた、第一の私と、同じ姿勢を裝つて居りました。もしそれがこちらを向いたとしたならば、恐らくその顏も亦、私と同じだつた事でございませう。私はその時の私の心もちを、何と形容していゝかわかりません。私の周圍には大ぜいの人間が、しつきりなしに動いて居ります。私の頭の上には多くの電燈が、晝のやうな光を放つて居ります。云はゞ私の前後左右には、神祕と兩立し難《がた》い一切の條件が、備《そなは》つてゐたとでも申しませうか。さうして私は實に、そう云ふ外界の中に、突然この存在以外の存在を、目前に見たのでございます。私の錯愕《さくがく》は、そのために、一層驚くべきものになりました。私の恐怖は、そのために、一層恐るべきものになりました。もし妻がその時眼をあげて、私の方を一瞥しなかつたなら、私は恐らく大聲をあげて、周圍の注意をこの奇怪な幻影に惹《ひ》かうとした事でございませう。

 しかし、妻の視線は、幸《さいはひ》にも私の視線と合《がつ》しました。さうして、それと殆ど同時に、第二の私は丁度硝子《ガラス》に龜裂の入るやうな早さで、見る間《ま》に私の眼界から消え去つてしまひました。私は、夢遊病患者のやうに、茫然として妻に近づきました。が、妻には、第二の私が眼に映じなかつたのでございませう。私が側へ參りますと、妻はいつもの調子で、「長かつたわね」と申しました。それから、私の顏を見て、今度はおづおづ「どうかして」と尋ねました。私の顏色は確《たしか》に、灰のやうになつてゐたのに相違ございません。私は冷汗を拭ひながら、私の見た超自然な現象を、妻に打明けようかどうかと迷ひました。が、心配さうな妻の顏を見ては、どうして、これが打明けられませう。私はその時、この上《うへ》妻に心配させないために、一切第二の私に關しては、口を噤《つぐ》まうと決心したのでございます。

[やぶちゃん注:「夢遊病患者」『筑摩全集類聚』版本文には、この『夢遊病患者』(同書は新字)には『ソムナンビユウル』とある。底本の「後記」には、ここに、そんなルビのある、或いは、あったとする書誌が記されいない。おまけに『筑摩全集類聚』版では、これに注があって、『Somnambule(英)』として、夢遊病疾患の説明が載るが、この綴りの単語は英語ではなく、ドイツ語である。正しい音写は「ソォムナンブーレ」か。『筑摩全集類聚』版は岩波旧全集版を底本としいるはずだが、おかしい。実は『筑摩全集類聚』版編者が以下の後に出る本文に唐突に出る『ソムナンビユウル』という語を、前のここのルビに前倒しで移したと考えられる。まあ、欧語の、この単語を知らぬ圧倒的多数の読者のことを考えれば、そうした方が、遙かに親切ではあるとは言えるけれども。]

 閣下、もし妻が私を愛してゐなかつたなら、さうしてまた私が妻を愛してゐなかつたなら、どうして私にかう云ふ決心が出來ませう。私は斷言致します。私たちは、今日まで眞底から、互に愛し合つて居りました。しかし世間はそれを認めてくれません。閣下、世間は妻が私を愛してゐる事を認めてくれません。それは恐しい事でございます。恥づべき事でございます。私としては、私が妻を愛してゐる事を否定されるより、どのくらい屈辱に價《あたひ》するかわかりません。しかも世間は、一步を進めて、私の妻の貞操をさへ疑ひつゝあるのでございます。――

 私は感情の激昂に驅《か》られて、思はず筆を岐路《きろ》に入れたやうでございます。

[やぶちゃん注:「岐路」「脇道(わきみち)」の意。]

 さて、私はその夜以來、一種の不安に襲はれはじめました。それは前に揭げました實例通り、ドツペルゲンゲルの出現は、屢々《しばしば》當事者の死を豫告するからでございます。しかし、その不安の中にも、一月ばかりの日數《につすう》は、何事もなく過ぎてしまひました。さうして、その中に年が改まりました。私は勿論、あの第二の私を忘れた譯ではございません。が、月日の經つのに從つて、私の恐怖なり不安なりは、次第に柔らげられて參りました。いや、時には、實際、すべてを幻覺(ハルシネエシヨン)と云ふ名で片づけてしまはふとした事さへございます。

[やぶちゃん注:「幻覺(ハルシネエシヨン)」hallucination(英語)。]

 すると、恰《あたか》も私のその油斷を戒めでもするやうに、第二の私は、再び私の前に現れました。

 これは一月の十七日、丁度木曜日の正午近くの事でございます。その日私は學校に居りますと、突然舊友の一人が訪ねて參りましたので、幸《さいはひ》午後からは授業の時間もございませんから、一しよに學校を出て、駿河臺下のあるカツフエへ飯を食ひに參りました。駿河臺下には、御承知の通りあの四つ辻の近くに、大時計が一つございます。私は電車を下りる時に、ふとその時計の針が、十二時十五分を指してゐたのに氣がつきました。その時の私には、大時計の白い盤が、雪をもつた、鉛のやうな空を後にして、ぢつと動かずにいるのが、何となく恐しいやうな氣がしたのでございます。或は事によるとこれも、あの前兆だつたかも知れません。私は突然この恐しさに襲はれたので、大時計を見た眼を何氣なく、電車の線路一つへだてた中西屋の前の停留場へ落しました。すると、その赤い柱の前には、私と私の妻とが肩を並べながら、睦《むつま》しさうに立つてゐたではございませんか。

[やぶちゃん注:「駿河臺下」「四つ辻」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中西屋」『筑摩全集類聚』版注に『駿河台にあった洋書洋品店』とある。]

 妻は黑いコオトに、焦茶の絹の襟卷をして居りました。さうして鼠色のオオヴア・コオトに黑のソフトをかぶつてゐる私に、第二の私に、何か話しかけてゐるやうに見えました。閣下、その日は私も、この第一の私も、鼠色のオオヴア・コオトに、黑のソフトをかぶつてゐたのでございます。私はこの二つの幻影を、如何に恐怖に充ちた眼で、眺めましたらう。如何に憎惡に燃えた心で、眺めましたらう。殊に、妻の眼が第二の私の顏を、甘えるやうに見てゐるのを知つた時には――ああ、一切が恐しい夢でございます。私には到底當時の私の位置を、再現するだけの勇氣がございません。私は思はず、友人の肘をとらえたなり、放心したやうに往來へ立ちすくんでしまひました。その時、外濠線《そとぼりせん》の電車が、駿河臺の方から、坂を下りて來て、けたたましい音を立てながら、私の目の前をふさいだのは、全く神明の冥助とでも云ふものでございませう。私たちは丁度、外濠線の線路を、向うへ突切らうとしてゐた所なのでございます。

[やぶちゃん注:「外濠線」「外堀線」とも言った。東京の皇居の外濠に沿って走っていた路面電車線の名称。明治三七(一九〇四)年、東京電気鉄道が敷設した御茶ノ水から土橋までの線路が最初。]

 電車は勿論、すぐに私たちの前を通りぬけました。しかしその後で、私の視線を遮《さへぎ》つたのは、唯《ただ》中西屋の前にある赤い柱ばかりでございました。二つの幻影は、電車のかげになつた刹那に、どこかへ見えなくなつてしまつたのでございます。私は、妙な顏をしてゐる友人を促して、可笑《をか》しくもない事を可笑しさうに笑ひながら、わざと大股に步き出しました。その友人が、後に私が發狂したと云ふ噂を立てたのも、當時の私の異常な行動を考へれば、滿更無理な事ではございません。しかし、私の發狂の原因を、私の妻の不品行にあるとするに至つては、好んで私を侮辱したものと思はれます。私は、最近にその友人への絕交狀を送りました。

 私は、事實を記すのに忙しい餘り、その時の妻が、妻の二重人格にすぎない事を證明致さなかつたやうに思ひます。當時の正午前後、妻は確《たしか》に外出致しませんでした。これは、妻自身はもとより、私の宅で召使つてゐる下女も、さう申して居る事でございます。又、その前日から、頭痛がすると申して、とかくふさぎ勝ちでゐた妻が、俄《にはか》に外出する筈もございません。して見ますと、この場合、私の眼に映じた妻の姿は、ドツペルゲンゲルでなくて、何でございませう。私は、妻が私に外出の有無を問はれて、眼を大きくしながら、「いゝえ」と云つた顏を、今でもありありと覺えて居ります。もし世間の云ふように、妻が私を欺いているのなら、あゝ云ふ、子供のやうな無邪氣な顏は、決して出來るものではございません。

 私が第二の私の客觀的存在を信ずる前に、私の精神狀態を疑つたのは、勿論の事でございます。しかし、私の頭腦は少しも混亂して居りません。安眠も出來ます。勉强も出來ます。成程、二度目に第二の私を見て以來、稍《やや》ともすると、ものに驚き易くなつて居りますが、これはあの奇怪な現象に接した結果であつて、斷じて原因ではございません。私はどうしても、この存在以外の存在を信じなければならないやうになつたのでございます。

 しかし、私は、その時も妻には、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]、あの幻影の事を話さずにしまひました。もし運命が許したら、私は今日《こんにち》までもやはり口を噤んで居りましたろう。が、執拗な第二の私は、三度私の前にその姿を現しました。これは前週の火曜日、卽《すなはち》二月十三日の午後七時前後の事でございます。私はその時、妻に一切を打明けなければならないやうな羽目《はめ》になつてしまひました。これもさうする外に、私たちの不幸を輕くする手段が、なかつたのですから、仕方がございません。が、この事は後で又、申上げる事に致しませう。

 その日、丁度宿直に當つてゐた私は、放課後間もなく、はげしい胃痙攣に惱まされたので、早速校醫の忠告通り、車で宅へ歸る事に致しました。所が午頃《ひるごろ》からふり出した雨に風が加はつて、宅の近くへ參りました時には、たゝきつけるやうな吹き降りでございます。私は門の前で匇々《そうそう》車賃《くるまちん》を拂つて、雨の中を大急ぎで玄關まで駈けて參りました。玄關の格子には、いつもの通り、内から釘がさしてございます。が、私には外からでも釘が拔けますから、すぐに格子をあけて、中へはいりました。大方《おほかた》雨の音にまぎれて、格子のあく音が聞えなかつたのでございましょう。奧からは誰も出て參りません。私は靴をぬいで、帽子とオオヴア・コオトとを折釘《をれくぎ》にかけて、玄關から一間置いた向うにある、書齋の唐紙をあけました。これは茶の間へ行く間に、敎科書其他のはいつている手提鞄を、そこへ置いて行くのが習慣になつてゐるからでございます。

 すると、私の眼の前には、たちまち意外な光景が現れました。北向きの窓の前にある机と、その前にある輪轉椅子《りんてんいす》と、さうしてそれらを圍んでゐる書棚とには、勿論何の變化もございません。しかし、こちらに橫をむけて、その机の側に立つてゐた女と、輪轉椅子に腰をかけてゐた男とは、一體誰だつたでございませう。閣下、私はこの時、第二の私と第二の私の妻とを、咫尺《しせき》の間に見たのでございます。私は當時の恐しい印象を忘れようとしても、忘れる事は出來ません。私の立つてゐる閾《しきゐ》の上からは、机に向つて竝《なら》んでいる二人の橫顏が見えました。窓から來るつめたい光をうけて、その顏は二つとも銳い明暗を作つて居ります。さうして、その顏の前にある、黃いろい絹の笠をかけた電燈が、私の眼には殆どまつ黑に映りました。しかも、何と云ふ皮肉でございませう。彼等は、私がこの奇怪な現象を記錄して置いた、私の日記を讀んでゐるのでございます。これは机の上に開いてある本の形で、すぐにそれがわかりました。

 私はこの光景を一瞥すると同時に、私自身にもわからない叫び聲が、自(おのづか)ら私の唇を衝《つ》いて出たやうな記憶がございます。また、その叫び聲につれて、二人の幻影が同時に私の方を見たやうな記憶もございます。もし彼等が幻影でなかつたなら、私はその一人たる妻からでも、當時の私の容子《ようす》を話して貰ふ事が出來たでございませう。しかし勿論それは不可能な事でございます。唯《ただ》、確かに覺えてゐるのは、その時私がはげしい眩暈《めまひ》を感じたと云ふ事よりほかに、全く何もございません。私はその儘、そこに倒れて、失神してしまつたのでございます。その物音に驚いて、妻が茶の間から駈けつけて來た時には、あの呪ふべき幻影ももう消えてゐたのでございませう。妻は私をその書齋へ寢かして、早速氷囊《ひようなう》を額へのせてくれました。

 私が正氣にかへつたのは、それから三十分ばかり後の事でございます。妻は、私が失神から醒めたのを見ると、突然聲を立てゝ泣き出しました。この頃の私の言動が、どうも妻の腑に落ちないと申すのでございます。「何かあなたは疑つていらつしやるのでせう。さうでせう。それなら、何故《なぜ》さうと打明けてくださらないのです。」妻はかう申して、私を責めました。世間が、妻の貞操を疑つてゐると云ふ事は、閣下も御承知の筈でございます。それはその時既に、私の耳へはいつて居りました。恐らくは妻も亦、誰からと云ふ事なく、この恐しい噂を聞いてゐたのでございませう。私は妻の語が、私もさう云ふ疑《うたがひ》を持つてはゐはしないかと云ふ掛念《けねん》で、ふるえてゐるのを感じました。妻は、私のあらゆる異常な言動が、皆その疑から來たものと思つてゐるらしいのでございます。この上私が沈默を守るとすればそれは徒《いたづら》に妻を窘《くるし》める事になるよりほかはございません。そこで、私は、額にのせた氷囊が落ちないやうに、靜《しづか》に顏を妻の方へ向けながら、低い聲で「許してくれ。己《おれ》はお前に隱して置いた事がある。」と申しました。さうしてそれから、第二の私が三度まで私の眼を遮《さへぎ》つた話を、出來るだけ詳しく話しました。「世間の噂も、己の考へでは、誰か第二の己が第二のお前と一しよにいるのを見て、それから捏造したものらしい。己は固くお前を信じている。その代りお前も己を信じてくれ。」私はその後で、かう力を入れてつけ加へました。しかし、妻は、弱い女の身として、世間の疑《うたがひ》の的になると云ふ事が、如何にも切ないのでございませう。或は又、ドツペルゲンゲルと云ふ現象が、その疑を解くためには餘りに異常すぎたせいもあるのに相違ございません。妻は私の枕もとで、何時《いつ》までも啜《すす》り上げて泣いて居ります。

 そこで私は、前に揭げた種々の實例を擧げて、如何にドつペルゲンゲルの存在が可能かと云ふ事を、諄々《じゆんじゆん》として妻に說いて聞かせました。閣下、妻のやうにヒステリカルな素質のある女には、殊にかう云ふ奇怪な現象が起り易いのでございます。その例もやはり、記錄に乏しくはございません。例へば著名なソムナンビユウルの Auguste Muller などは、屢々その二重人格を示したと云ふ事です。但《ただし》さう云ふ場合には、その夢遊病患者(ソムナンビユウル)の意志によつて、ドツペルゲンゲルが現れるのでございますから、その意志が少しもない妻の場合には、當てはまらないと云ふ非難もございませう。又一步を讓つて、それで妻の二重人格が說明出來るにしても、私のそれは出來ないと云ふ疑問が起るかも知れません。しかしこれ等は、決して解釋に苦むほど困難な問題ではございません。何故かと申しますと、自分以外の人間の二重人格を現す能力も、時には持つてゐるものがある事は、やはり疑ひ難《がた》い事實でございます。フランツ・フオン・バアデルが Dr. Werner に與えました手紙によりますと、エツカルツハウズンは、死ぬ少し前に、自分は他の人間の二重人格を現す能力を持つてゐると、公言したさうでございます。して見ますれば、第二の疑問は、第一の疑問と同じく、妻がそれを意志したかどうかと云ふ事になつてしまふ譯でございませう。所で、意志の有無と申す事は、存外不確《ふたしか》なものでございますまいか。成程、妻はドツペルゲンゲルを現さうとは、意志しなかつたのに相違ございません。しかし、私の事は始終念頭にあつたでございませう。或は私とどこかへ一しよに行く事を、望んで居つたかも知れません。これが妻のやうな素質を持つてゐるものに、ドツペルゲンゲルの出現を意志したと、同じやうな結果を齎《もたら》すと云ふ事は、考へられない事でございませか。少くとも私はさうありさうな事だと存じます。まして、私の妻のやうな實例も、二三外に散見してゐるではございませんか。

 私はかう云ふやうな事を申して、妻を慰めました。妻もやつと得心が行つたのでございませう。それからは、「唯あなたがお氣の毒ね」と申して、ぢつと私の顏を見つめたきり、淚を乾かしてしまひました。

[やぶちゃん注:「フランツ・フオン・バアデルが Dr. Werner に與えました手紙によりますと、エツカルツハウズンは、死ぬ少し前に、自分は他の人間の二重人格を現す能力を持つてゐると、公言したさうでございます。」これも先に掲げた英文書に載るが、“Franz von Baader says, in a letter to Dr. Kerner, that Eckartshausen, shortly before his death, assured him that he possessed the power of making a person’s double or wraith appear, while his body lay elsewhere in a state of trance or catalepsy. He added that the experiment might be dangerous, if care were not taken to prevent intercepting the rapport of the ethereal form with the material one.”とあって、Dr. Werner」ではなく、「Dr. Kerner」の誤りである。]

 閣下、私の二重人格が私に現れた、今日までの經過は、大體右のやうなものでございます。私は、それを、妻と私との間の祕密として、今日まで誰にも洩らしませんでした。しかし今はもう、その時ではございません。世間は公然、私を嘲《あざけ》り始めました。そうしてまた、私の妻を憎み始めました。現にこの頃では、妻の不品行を諷《ふう》した俚謠《りえう》をうたつて、私の宅の前を通るものさへございます。私として、どうして、それを默視する事が出來ませう。

 しかし、私が閣下にかう云ふ事を御訴へ致すのは、單に私たち夫妻に無理由な侮辱が加へられるからばかりではございません。さう云ふ侮辱を耐へ忍ぶ結果、妻のヒステリイが、益《ますます》昂進する傾《かたむき》があるからでございます。ヒステリイが益昂進すれば、ドツペルゲンゲルの出現も或はより頻繁になるかも知れません。さうすれば、妻の貞操に對する世間の疑《うたがひ》は、更に甚しくなる事でございませう。私はこのデイレムマをどうして脫したらいゝか、わかりません。

 閣下、かう云ふ事情の下《もと》にある私にとつては、閣下の御保護《ごほご》に依賴するのが、最後の、さうして又唯一の活路でございます。どうか私の申上げた事を御《お》信じ下さい。さうして、殘酷な世間の迫害に苦しんでゐる、私たち夫妻に御同情下さい。私の同僚の一人は故《ことさら》に大きな聲を出して、新聞に出てゐる姦通事件を、私の前で喋々《てふてふ》して聞かせました。私の先輩の一人は、私に手紙をよこして、妻の不品行を諷《ふう》すると同時に、それとなく離婚を勸めてくれました。それから又、私の敎えてゐる學生は、私の講義を眞面目に聽かなくなつたばかりでなく、私の敎室の黑板に、私と妻とのカリカテユアを描《ゑが》いて、その下に「めでたしめでたし」と書いて置きました。しかし、それらは皆、多少なりとも私と交涉のある人々でございますが、この頃では、赤の他人の癖に、思ひもよらない侮辱を加へるものも、決して少くはございません。或者は、無名のはがきをよこして、妻を禽獸に比しました。或者は、宅の黑塀へ學生以上の手腕を揮《ふる》つて、如何《いかが》はしい畫《ゑ》と文句とを書きました。さうして更に大膽なる或者は、私の庭内へ忍びこんで、妻と私とが夕飯を認《したた》めてゐる所を、窺《うかが》ひに參りました。閣下、これが人間らしい行《おこなひ》でございませうか。

 私は閣下に、これだけの事を申上げたい爲に、この手紙を書きました。私たち夫妻を凌辱し、脅迫する世間に對して、官憲は如何なる處置をとる可きものか、それは勿論閣下の問題で、私の問題ではございません。が、私は、賢明なる閣下が、必ず私たち夫妻の爲に、閣下の權能を最《もつとも》適當に行使せられる事を確信して居ります。どうか昭代《せうだい》をして、不祥の名を負わせないように、閣下の御職務を御完《おまつた》うし下さい。

[やぶちゃん注:「昭代をして、不祥の名を負わせない」「昭代」は「よく治まっていて、栄えている世の中・太平の世」の意で、『筑摩全集類聚』版注には、『あきらかに治』ってい『る太平な時代に悪い評判を与えないこと』とあった。]

 猶、御質問の筋があれば、私は何時《いつ》でも御署《おんしよ》まで出頭致します。ではこれで、筆を擱《お》く事に致しませう。

 

       第二の手紙

 

 ――警察署長閣下、

 閣下の怠慢は、私たち夫妻の上に、最後の不幸を齎《もたら》しました。私の妻は、昨日突然失踪したぎり、未《いまだ》にどうなつたかわかりません。私は危《あやぶ》みます。妻は世間の壓迫に耐へ兼ねて、自殺したのではございますまいか。

 世間は遂に、無辜《むこ》の人を殺しました。さうして閣下自身も、その惡《にく》む可き幇助者《ほうじよしや》の一人になられたのでございます。

 私は今日限り、當區に居住する事を止めるつもりでございます。無爲無能なる閣下の警察の下《もと》に、この上どうして安んじてゐる事が出來ませう。

 閣下、私は一昨日《いつさくじつ》、學校も辭職しました。今後の私は、全力を擧げて、超自然的現象の硏究に從事するつもりでございます。閣下は恐らく、一般世人と同樣、私のこの計畫を冷笑なさる事でせう。しかし一警察署長の身を以て、超自然的なる一切を否定するのは、恥づべき事ではございますまいか。

 閣下は先《まづ》、人間が如何に知る所の少ないかを御考へになるべきでせう。たとへば、閣下の使用せられる刑事の中にさへ、閣下の夢にも御存知にならない傳染病を持つてゐるものが、大勢居ります。殊にそれが、接吻によつて、迅速に傳染すると云ふ事實は、私以外に殆《ほとんど》一人も知つてゐるものはございません。この例は、優に閣下の傲慢なる世界觀を破壞するに足りませう。……

 

         *    *    *    *

 

 それから、先は、殆《ほとんど》意味をなさない、哲學じみた事が、長々と書いてある。これは不必要だから、こゝには省く事にした。 (大正六年八月十日)

[やぶちゃん注:この手紙主は、明らかに閉鎖系の強力な妄想体系(内部では完全に自己完結して矛盾がない)を構成している精神疾患で、不安や恐怖の影響を強く受けており、「他人が常に自分を批判している」という根強い固着型の被害妄想を抱くところの「妄想性パーソナリティ障害」の一種である「パラノイア(paranoia)」である。フロイトが「ラポートが起こらない」として治療不能と匙を投げた、あれ、である。]

2024/02/07

「蘆江怪談集」 「大島怪談」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本篇は冒頭に蘆江の添書がある通り、「市川八百藏」氏の実話である。彼は歌舞伎役者で俳優の八代目市川中車(明治二九(一八九六)年~昭和四六(一九七一)年)本名は喜熨斗倭貞(きのししずさだ)。初代市川猿之助の次男である。詳しくは当該ウィキを見られたい。写真もある。添書は一行であるが、ブラウザの不具合を考えて、二行に分けた。

 なお、本篇で怪談小説篇は終わっており、後に蘆江の本書の後書に代えた随想「怪談雜記」が載る。]

 

 

    大 島 怪 談

 

 

    これは、市川八百藏君の實驗談である、
    文中私とあるは八百藏君自身である。

 

       

 

 私は曾(かつ)て自殺の覺悟(かくご)をした事がありました。まだ二十歲(はたち)になる前で、只(たゞ)無やみに死にたくなつたのです。今(いま)から考へて見れば、一つも死ななければならぬ理由(わけ)などはありません。けれども、其時の私(わたし)は、どうでもかうでも死んで了(しま)ひたいと思ひ込んで居(を)りました。

 いよいよ死なうと覺悟(かくご)した時、私は二つの條件(でうけん)を自分自身に定(き)めました。

 第一は人に邪魔(じやま)をされず、悠々と死ねる場所を探(さが)す事、

 第二は死んだあとで死骸(しがい)を人に見(み)つからないやうにする事、

 どちらも六ケ敷い條件(でうけん)です。いろいろ考へた末火山(くわざん)の噴火口に飛び込む事に思ひ當(あた)りました。

 火山といへば淺間(あさま)か伊豆大島の三原山が手近(てぢか)にあります。

 その二つの中で淺間山(あさまやま)の方では、山へ登(のぼ)つてゐる間に追ひかけられる恐(おそ)れがある、三原山なら海を渡(わた)つてゆくだけにその心配(しんぱい)がありません。

「三原山にしよう」と私(わたし)はきめました。

 まだ袷衣(あはせ)を着てたやうに思ひますから初夏(しよか)の頃ででもあつたでせう。私の目的(もくてき)は着々と進んで間もなく私は三原山(みはらやま)の頂上へ只一人誰にも妨(さまた)げられずに立つ事が出來(でき)ました。

「これなら思(おも)ふ通りに死ねる」と思つて、私は落付(おちつ)いた心持になりました。全くあ時(とき)のやうな落付(おちつ)いた心持になつた事はあとにも先(さき)にも只の一度(ど)もありません。

 足許(あしもと)をすくはれさうな强い風を全身(ぜんしん)に受けながら私は一步々々上がります。[やぶちゃん注:底本では、句点はないが、『ウェッジ文庫』に従い、特異的に打った。]眼前(がんぜん)は次第に次第にひろびろと開(ひら)けてゆきます。而も目の下は縹渺(べうしや[やぶちゃん注:ママ。「へうべう」が正しい。])たる大海です。私の心持(こゝろもち)はいやが上のびのびとして來ました。愈々(いよいよ)頂上に達した私は死(し)といふものに、直面(ちよくめん)した喜びに胸を轟(とゞろ)かしながら、頂上の火口を覗(のぞ)き込みました。

 朦々(まうまう)と吹上げる硫黃(ゆわう[やぶちゃん注:「いわう」は古くはこうも読んだ。])の烟は濃霧のやうに私の顏を蔽(おほ)つて、一寸先も見(み)えません、むせかへるばかりの硫黃(ゆわう)の香に呼吸を壓(あつ)せられながら私は暫(しば)らく立ちつくしてゐますと、火口(くわこう)を吹きまくる風は始終(しじう)四方へ舞つて居ります。その風の爲めに硫黃(ゆわう)の烟は、パツと亂れて向ふへ吹(ふ)き拂(はら)はれました。

 此のひまにと思(おも)つて、私は岩角(いはかど)へすがりながら、火口を見下(おろ)しました。見下すと共にアツと叫びました。

 こゝこそ屈竟(くつきやう)の死に場所と思つた私の考へはがらりと外(はづ)れて了つてゐます。

 今が今まで火口(くわこう)だとばかり私が思つてゐたのは、舊火口(きうくわこう)の方で、目の下は七八丈[やぶちゃん注:二十一・二一~二十四・二四メートル。]もあらうと思はれる深さの斷崖(だんがい)でした。この斷崖(だんがい)の谷を越して向ふは丘その丘(をか)の彼方こそ本當(ほんたう)の噴火口です、卽ちこの山の火口(くわこう)は二重丸のやうになつてゐるのです。ですから頂上(ちやうじやう)まで上つたところで噴火口の側(そば)へは寄りつく事が出來(でき)ないといふわけになります。

 三原山が新舊(しんきう)二つの噴火口(ふんくわこう)を持つてゐる複式火山であらうとは今が今まで心付(こゝろづ)かなかつた。私は只呆然(ぼうぜん[やぶちゃん注:ママ。])として舊火口の緣(ふち)に坐つた儘、谷底を睨(にら)みつけてゐました。

「折角(せつかく)來たのだからこの谷へ飛(と)び込まうか、併し、これでは死骸(しがい)が見える。新火口まで行く方法を考へようか。迚(とて)も考へたところで人間業(にんげんわざ)では出來ない事(こと)だ、あゝどうしようどうしよう」

 と私は只々(ただただ)考(かんが)へました。[やぶちゃん注:一字下げはママ。]

 轢死を企(くはだ)てる人が線路をまくらにしてゐても、汽車の轟(とゞろ)きを聞くと、慌(あは)てゝ飛び起きるものだといひます。切腹(せつぷく)をしかけてゐる人の前へ石を投(な)げつけると思はず知らず危(あぶ)ないといふさうです。

 如何に死を決心(けつしん)しても、愈々といふ土坦場(どたんば)[やぶちゃん注:「坦」はママ。「土檀場」が正しい。]に坐ると、死にたくないといふ心(こゝろ)がひしひしと身に迫つて來るといふ事は平生(へいぜい)人(ひと)の話に聞いてゐました。話にばかり聞(き)いてゐる時は、それは決心(けつしん)が足(た)りないからだと思(おも)ひつめて居りました。

 併し、今時分が其場(そのば)に當つて見ると、全くその通(とほ)りだといふ事がしみじみ感(かん)じられます。

「死(し)なうか、止さうか」と思ひ迷(まよ)ひながら、丁度三時間(じかん)、私はこの舊火口の斷崖(だんがい)の上に坐つて考へましたが、兎に角死場所(しにばしよ)をかへようといふ心の方が勝(か)つて山を下(くだ)りはじめました。

 さあさうなると、晴れ晴れとして上つた山道が、急に怖(おそ)ろしくなつて、始終(しじう)何者かに追ひ迫(せま)られるやうで足は滿足(まんぞく)に地につきません。私は只々(ただただ)、あとを見ずに一目散に驅(か)け下りました。麓の船着場の旅館(りよくわん)に私は宿を取つて居(を)りました。

 追手(おつて)に追はれた落人のやうな心持(こゝろもち)で、私は息を切らして宿(やど)の戶口へ駈(か)け込みました。

 

       

 

 宿には私が山へ登る前(まへ)に同じやうに、美術學校(びじゆつがくかう)の生徒が三人と、品(ひん)のよい若女房が一人泊(とま)つて居りました。

 若女房(わかにようぼ)と云つても、もう二十五六にはなつてゐたでせう。この人(ひと)は少し、離れた座敷(ざしき)を借りてゐるので、私は美術學生(びじゆつがくせい)三人だけと懇意(こんい)になつて居りました。

「頂上まで行(ゆ)きましたか」

「實に天下の壯觀(さうくわん)と云ひ得られる景色(けしき)でせう、さうは思ひませんか」

 などと三人は口々(くちぐち)に話しかけました。私はそれに對(たい)して本當の私の心持をいふ事が出來(でき)ません。好い加減に相槌(あひづち)を打つた儘、疲(つか)れたからといふので其夜は早く床(とこ)につきました。

 丁度(ちやうど)私が山を下り切つた時から島は激(はげ)しい風に襲(おそ)はれました。島が根こぎに持(も)つて行かれるかと思ふくらゐの物凄(ものすご)さです。

 枕(まくら)につくが早いか私は一日の疲(つか)れでぐつすり寢ましたが、間(ま)もなく雨戶を打破(うちやぶ)るほど吹きつける風の爲(た)めに目をさまされました。それからといふものどうしても眠(ねむ)れません。只何となく冴(さ)え冴(さ)えとして來る目を見張(みは)つて、床の上で寢(ね)がへりばかりしてゐますと隣(とな)りの部屋で俄(には)かに人聲が仕始(しはじ)めました。

「今時分(じぶん)まで行くところもないのに、一體(たい)どうしたのだらう」

「風に吹き飛(と)ばされやしないかね」

「一體(たい)何時(いつ)頃から出かけたんです」といふのは美術學生(びじゆつがくせい)たちの聲。

「夕方前(ゆふがたまへ)でございました。一寸(ちよつと)散步(さんぽ)して來ると仰しやつて」といふのは宿の主人の聲。

 だんだん聞いてゐると離室(はなれ)の若女房が出たつきりかへつて來ないといふ騷(さは)ぎらしい。矢先(やさき)が矢先ですから、私(わたし)はすぐに、――自殺――といふ心持が浮(うか)び出ました。そして頭から水を浴(あ)びせられたやうにぞつとしました。もう寢(ね)てなんぞ居られません。

 直ぐに私もその評定(へうじやう[やぶちゃん注:ママ。])の仲間に入りました。

「何(いづ)れにしましても、一寸(ちよつと)お部屋を調べて見たいと思ふのでございますが」と主人(しゆじん)が云ひますと美術生(びじゆつせい)たちは一齊に

「それが好(い)いそれが好い」と同意しました。

「では、甚だ恐(おそ)れ入りますが、皆樣でお立會(たちあ)ひを願ひたうごさいます」と主人は先に立つて離室(はなれ)の客間(きやくま)へ入りました。四人(にん)はぞろぞろとそのあとへついてゆきました。

 離室(はなれ)に何一つ取り散(ち)らしたものもありません。

 部屋の主が一寸(ちよつと)散步(さんぽ)にと出かけたあとのやうな事は少(すこ)しもありません。

「馬鹿に片付(かたづ)いてるね」

「少し怪(あや)しいぞ」と美術生(びじゆつせい)は口々に云ひました。

 押入(おしい)れを開けて見てもきちんとして居ります。押入(おしい)れの中のものに手をつける前(まへ)に、床の間に据(す)ゑた鏡臺をしらべましたが、鏡臺(きやうだ)の抽斗(ひきだし)のどれにも異狀はありません。

「君その筥(はこ)の中を見たまへ」と一人がいふので、學生(がくせい)の一人が鏡臺の側に置いてあつた櫛疊紙(くしたゝみがみ)のやうなものを開けて見ますと、櫛(くし)やすき油がきちんと入れてある下(した)に何やら半紙(はんし)が一枚入つて居ります。

 何氣(なにげ)なしに主人が半紙を引き出して、折(をり)かへして見ました。一同の視線(しせん)は一度に此の半紙に集まりました。

 ところが果して果して

 此の半紙(はんし)一枚が卽ち「書置(かきおき)の事」であります。

「探(さが)して見よう、今から探したら、喰(く)ひとめる事が出來るかも知れない」と、私は眞先(まつさき)に云ひました。

 

       

 

 思へば妙(めう)な話です、數時間と隔(へだ)つる其日の午前中までは堅(かた)い堅い決心で死(し)なうとしてた私が、仕遂(しと)げなかつた自殺の歸り途(みち)に、今度は同宿の人の自殺(じさつ)を止めようとする身の上(うへ)になつてゐるのです。私としてはとりわけ身(み)にしみてこの若女房の身の上に同情(どうじやう)するのに當然(たうぜん)でせう。宵に一寢人りした私は、もう夜明(よあ)け近くだと思つて

ゐたのですが、まだ十二時前(じまへ)といふ刻限(こくげん)でした、私たちは主人と番頭(ばんとう)を加へて都合六人手に手に提灯(ちやうちん)を降りかざしながら、外へ出ました。風(かぜ)はまだ少しも止(や)みません。

 主人と番頭(ばんとう)が道案内で、私たちは島の海外(かいがん)[やぶちゃん注:ママ。『ウェッジ文庫』版もそのままだが、この「外」は「岸」の誤記か誤植。]へ木の茂みを、それからそれと足(あし)に任(まか)せて步きました。

 益々吹き募(つの)る風(かぜ)に、幾度か提灯の火をとられながら、六人は高聲(たかごゑ)に叫(さけ)び合つてはどんよりと暗い海岸を隨分(ずゐぶん)長い間逍遙(さまよ)ひました。

 が、何しろ只さへ早寢(はやね)ぐせの大島です、然も眞夜半(まよなか)ですから、人一人通る事(こと)ではない。私たちはだんだん宿(やど)から遠く離(はな)れてうろつきました。

「少し風が止(や)んでくれないかな」

「さうだ、これで風(かぜ)が止んでさへくれれば、一寸(ちよつと)愉快な探(さが)しものだぜ」

「どうだい、三原山(みはらやま)の烟が眞赤になつて燃(も)え上る眞夜半(まよなか)を、かうして山をめぐツて、步いてゐる心持は、爽快(さうくわい)をきはめたものだぜ」

「うん、一寸この經驗(けいけん)は我々一生の中に、又味はふ事の出來ないほど、深い印象(いんしやう)を殘す事だと思ふね」

「それあ全(まつた)くさうだ」と云つた風に美術學生(がくせい)たちはもう少し好い心持になりかけて居(を)ります。そして中には好(い)い心持さうに軍歌(ぐんか)などを歌ひはじめるものもありました。

 が、私(わたし)一人はどうしても、其樣(そんな)な氣になれません。

 私の身體は、けふの晝頃(ひるごろ)あの山の頂上にあつたのだ、いや本來(ほんらい)ならば、今頃(いまごろ)はあの山の頂上の底知(そこし)れぬ穴の中に燒けただれて了)しま)つてゐなければならなかつたのだ。そして、人の自殺(じさつ)を探すどころか自分自身が行方(ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。])を氣づかはれて探(さが)されなければならなかつたのだ。それが今は、主客轉倒(てんたふ[やぶちゃん注:ママ。])して、かういふ一行(かう)の中に交(まじ)つて、あの怖ろしい山の裾(すそ)をめぐる事になつてゐる。

 あまりといへば手(て)のうらをかへすやうな運命(うんめい)の不思議さを私は胸一杯に考へさせられ、眞赤(まつか)な三原山の火の下に彷徨(はうくわう)させられてゐるのですから、ものをいふ元氣(げんき)さへありません。萬(まん)一、あの若女房の自殺(じさつ)を喰ひとめる事が出來なかつたら、それは私が殺したも同然(どうぜん)な因緣(いんねん)になるのではあるまいか、あの若女房(わかにようぼ)は私の身代りに死ぬやうな運命(うんめい)を强ひられたのではあるまいかと、いろいろな考へが頭の中に渦(うづ)を卷くにつけ、どのやうな困難(こんなん)を冒してでも、助(たす)けなければならないと思ひつめました。

 丁度私の時計(とけい)が三時を過した頃です。私たちの一行は長根岬(ながねさき)といふところへ出ました。[やぶちゃん注:「長根岬」大島西端長根岬(グーグル・マップ・データ)。実は東端にも同名の岬があるが、女性であることからの位置と捜索の経過時間、及び、「海岸を隨分長い間逍遙ひました」という表現と、以下の「突堤のやうにつき出た岬」という表現から、そちらと同定した。]

 突堤(とつてい)のやうにつき出た岬(みさき)でしたが、そこの鼻まで行つて見ようと道芝(みちしば)の草を踏みわけて進む中に先頭の番頭(ばんとう)が、ぴたりと止(とゞ)まりました。次に立つた主人も止まりました。

「何かありますか」と三番目に進(すゝ)んでゐた私が覗き込みますと、番頭がさしかざした提灯(ちやうちん)の光りの下に女の下駄(げた)が一足揃(そろ)へてあります。

「うむ、こゝだこゝだ」と學生(がくせい)たちは口々に云ひました、主人は下駄(げた)を仔細(しさい)に見て、

「どうもさうらしい」と云(い)ひました。

 番頭(ばんとう)にとつても見おぼえのある彼の[やぶちゃん注:「かの」。]若女房(わかにようぼ)の下駄です。

「こゝに下駄(げた)を脫ぎすてたとすると、この邊(へん)から身を投げたものに相違(さうゐ)ないが、海の中(なか)をどうして探(さが)したものだらう」と學生(がくせい)の一人が云ひます。

「まだ其處(そこ)の草の茂みに居るんぢやないか」といふ人(ひと)もあります。

「若し海(うみ)の中とすると舟を出さなければなるまいが、此(この)夜更(よふけ)で、而もこのあらしでは迚(とて)も舟を出す事も出來まい」と二の足を踏(ふ)む人(ひと)もあります。

「兎に角、この岬(みさき)をすつかり調(しら)べて見ようぢやありませんか」と私は岬の鼻(はな)の方ヘ一足(あし)進(すゝ)みました。

 其時海(うみ)の方から眞面(まとも)に吹きしきつてゐた風はぴたりと止んで、前方から壓(お)し戾されるやうになつてゐた私の身體(からだ)は、不意に前のめりにのめらせられるやうな心持がしました。途端(とたん)に私は何ともつかず、ぞつとおぞ毛立(けだ)つて、身慄(みぶる)ひを感じました。皆の連中が

「さうださうだ、岬(みさき)を調べよう調べよう」と云つて私に從(した)がはなかつたら、私の足はこの儘(まゝ)すくんで了つたかも知(し)れません。

 私たちは岬の、兩側(りやうがは)の葭[やぶちゃん注:「よし」又は「あし」。この時の縁起担ぎの心持ちからは「よし」を採りたい。]の茂みに提灯さしつけさしつけして、到頭(たうとう)岬のとつ先まで進(すゝ)みました。

 私が不圖(ふと)うしろを振かへると[やぶちゃん注:「ふりかへると」。]、三原山の烟(けむり)は一際一團の大きな人塊(ひとだま)[やぶちゃん注:「塊」はママ。『ウェッジ文庫』も修正はしていない。]のやうになつて、パツと立つてゐました。

 うつかりとその火焰(くわえん)に見入らうとする時

「それ、そこだそこだ」といふ聲(こゑ)が二三人の口から湧き出ました。振(ふ)りかへつて見ると、岬(みさき)の鼻の岩の上に無殘(むざん)な姿で打上げられてゐる女の屍骸(しがい)が見えます。

 

       

 

 下駄を說ぎすてゝあつたのは岬の中程で、屍骸(しがい)は鼻のところです、思ふに若女房(わかにようぼ)は岬の中程から身を投げたのですが、折からの風浪(ふうらう)に打ちかへされてすぐに岬の鼻へ打上(うちあ)げられたのでせう、左程水(みづ)も呑まなかつたと見えて、姿(すがた)は亂(みだ)れてゐましたが、佛は殆(ほと)んど其儘でした。

 とは云へ、もうどうする事もなりません。屍骸(しがい)をずつと引上(ひきあ)げて置いて、學生の一人と番頭(ばんとう)とは宿へ駈(か)け戾つて屍骸(しがい)を運ぶ戶板をとりに行きました。私たち四人は殘(のこ)つて屍骸(しがい)の張り番をしてゐます。

 顏かたちの整(とゝの)つた美人で、只何となく淋しい姿(すがた)で、始終沈んでゐるやうな樣子(やうす)をしてゐる女でした。まだ漸々(やうやう)二十四五の盛りの花を、むざむざと殺(こ)ろしたものだと、皆は噂(うはさ)を仕合つて居ります。

 やがて戶板(といた)が來て皆が交(かは)る交(がは)る荷(かつ)ぎながら宿へつれ戾(もど)つたのはもうほのぼのと夜は明ける頃(ころ)でした。

 宿ではとりあへず、宿帳(やどちやう)によつて電報を打つやら檢視(けんし)を願ひ出るやら、それぞれ手筈(てはず)を運びます。

 宿帳(やどちやう)には東京日本橋區何々とあつたさうで何でも相當(さうたう)に大きな商家の若女房(わかにようぼ)であつたらしい。

 死なねばならぬほどの理由(りゆう[やぶちゃん注:ママ。])は何であつたか、此の女がどれほどの苦しい心を抱(いだ)いて身を投(な)げたかは私たちの知(し)る事(こと)ではない、けれども、私は只此の人が私の身代(みがは)りといふ心持ばかしが心にひしひしと當(あた)つて他の人たちよりも、一層惱(なや)ましい心持になつてゐました事はいふまでもありません。

 美術學生たちと私とは一通り手傳(てつだ)ひをすると、好い加減(かげん)にして、廣間へ集(あつ)まりました。

 それやこれやで殆(ほと)んど一日を費して夕飯(ゆふはん)を食べる時も皆が始終一緖(しよ)に集まつてゐました。冷々別の部屋(へや)に居る事が何となく薄氣味(うすきみ)惡さを覺(おぼ)えられてたまらないのです。

「今夜は迚(とて)も別々に寢(ね)られないね」

「何だか淋(さび)しくつてたまらない」

「いつそ一緖(しよ)に寢る事にしようぢやないか」と皆(みな)で申し合つて私も美術生の仲間入(なかまい)りをさしてもらひ五人には少し狹(せま)い部屋へ固(かた)まりました。

 其日の話(はなし)をすると、あまり好い心持はしませんから、なるだけ他(ほか)の話をしたいと思(おも)ひましたが、兎角(とかく)話は其れになつて了(しま)ひます。

「どうも厭(いや)な事が出來上つたものだね」

「實に氣持(きもち)がわるいね」と云ひかはしてゐるところへ、番頭(なんとう)が來て

「どうも皆さん、大層(たいそう)御迷惑(ごめいわく)をかけまして濟みません。只今お湯(ゆ)を湧(わ)かさせましたから、一風呂身體をお淸(きよ)めなすつてお伏せりを願(ねが)ひます」と云ひましたのが、渡りに舟、五人(にん)揃(そろ)つて湯殿へ入りました。

 かれこれ九時を過(す)ぎてゐました。いや十時にもなつてたか知(し)れません。この時もまだ風は相變(あひかは)らず吹(ふ)きすさんで居ります。

 湯殿(ゆどの)へ入ると、五人とも一寸氣持が變(かは)つたので、少しは冗談(じやうだん)もいふやうになつてゐました。

 が、話はこれからが怪談(くわいだん)になるのです。ところがこゝにこの湯殿(ゆどの)の位置を說明(せつめい)して書かなければならない。

 この宿屋は旅館(りよくわん)とは云ひ條[やぶちゃん注:「でう」。]、伊豆大島といふ離れ小島の淋しい旅籠屋(はたごや)の事ですから、海岸(かいがん)の廣場に面した頑丈(ぐわんじやう)な母屋が立つて居り、其の母屋のうしろ手に湯殿は廊下續(らうかつゞ)きの別の棟(むね)になつて居ります。湯殿(ゆどの)の前は濱つづきの空地で、その空地(あきち)に丸太を二本立てゝそれを物干場(ものほしば)にしてある湯殿の中の光(ひかり)はこの物干から取(と)り入(い)れるやうになつてゐます。

 さて私たち五人は思ひ思ひに湯(ゆ)につかつて好い心持で雜談(ざつだん)を始めました。湯(ゆ)けむりはムラムラと立つて脫衣場(だういば)に釣つた釣(つり)ランプの光を曇(くも)らして了つてゐました。

 充分に溫(あつた)まつた美術生の一人(ひとり)は、

「誰れか上(あが)らないか」と、實は廊下傳(らうかづた)ひに母屋へ行くまでが、一寸薄氣味惡(うすきみわる)いと見えて、さそひかけながら流(なが)し場へ上り、何心なく物干場(ものほしば)に向つた高窓の側へよつて、外の樣子を一寸(ちよつと)見ようとしました。

 多分(たぶん)風がいつまでも止まないので明日の天氣(てんき)はどうだらうとでも思つたのでせう、不用意(ふようい)に高窓の格子(かうし)ごしに外の物干場(のもほしば)を見たかと思ふと、

「アツ」といふ聲(こゑ)を出してドシンと尻餅をつきました。

「どうしたんだどうしたんだ」と二三人がばらばらと飛び出して來ると、倒(たふ)れた學生は、齒の根(ね)をガタガタ云はせながら窓(まど)の外を指さしてゐるばかり、一言も聲(こゑ)を出しません。

「何をワクワクしてるんだい、君(き)」と云ひながら次の一人が又(また)窓(まど)の外を見ますと、これも續(つゞ)いてワツと聲(こゑ)を立てゝ打倒(うちたふ)れました。

 餘り變(へん)ですから、今度は殘りの三人が一緖(しよ)に窓から外を見ました。私も其の三人の中(うち)の一人です。

 窓の外は薄月夜(うすづきよ)です。その薄月の明[やぶちゃん注:「あかり」。]の下に物干竿(ものほしざを)が長々と橫たはつてゐる。この物干竿に女(をんな)物の袷衣が(あはせ)ぶら下げてある。これは水死した若女房の着物を脫(ぬ)がして、經帷子(きやうかたびら)に着せかへたといひましたから、脫(ぬ)がした着物を夜干しにしてあるのでせう、死人の着物(きもの)を干してあつたからつて膽をつぶして尻餅(しりもち)をつくには當るまいと思ひながら、よく見るとうしろ向(む)きにひろげて干(ほ)してある着物の襟(えり)のところには眞黑(まつくろ)なものがもやもやとなつて垂(た)れ下つて居ります、よく注意(ちうい)すると女の髮(かみ)の毛です。而も向ふむきにうなだれてゐる女の頭(あたま)です。もう一つ云ひかへれば、物干竿(ものほしざを)にかけた着物の襟(えり)から女の頭が出て、それが向ふ向(む)きにうなだれてゐるのです。不思議(ふしぎ)はこればかりでなく、兩側(りやうがは)へひろげた袖の袖口のところには手首(てくび)がだらりと下つてゐるのです。

 と見ると、三人(にん)とも、キヤツと聲(こゑ)をあげてぞうと[やぶちゃん注:ママ。「ぞつと」の誤植であろうが、『ウェッジ文庫』版もそのままである。]なりました。

 何しろ五人(にん)もゐる人數ですから、遉(さす)がに氣絕をするやうな事もありませんが、五人とも屹度(きつと)顏の色が眞靑(まつさを)になつてゐた事でせう。齒の根はがちがち鳴(な)つてゐた事でせう。

 折角(せつかく)溫まつた身體が冷え切(き)つて了ふまで五人とも坐(すわ)つて顏を見合してゐましたが、それにしてもあるまじき事、屹度(きつと)心の迷(まよ)ひだらうと思ひはじめましたので、勇氣(ゆうき)を起して

「も一度(ど)見直(みなほ)して見よう」と誰いふとなくとぼとぼと立上りました。

 そして今度(こんど)は五つの顏を窓際(まどぎは)へ並べて、改めて外を見ますと、物干竿(ものほしざを)に干した着物の襟と兩袖から垂(た)れ下(さが)つてゐる手と頭は以前の通りです。而(しか)も前にはハツと思(おも)つたので氣(き)が付きませんでしたが、脊(せ)に垂(た)れた長い髮の毛からはダラダラと水が垂(た)れて居ります。どう見直(みなほ)しても、五人が五人とも幻影(げんえい)ではありません。只もう總毛立つて了つて、我(わ)れ先に濡(ぬ)れた身體に着物を引(ひつ)かけると一散に廊下(らうか)を走つて座敷へ戾(もど)つてもう肩の息(いき)になつて居りました。

 翌朝(よくてう)になつて五人は申し合(あは)せて、手をつなぎながら、この物干(ものほし)を三度見直したのですがこの時はもう水死人(すいしにん)の着物が干してある許りで何の不思議(ふしぎ)もありませんでした。

 とこれだけの話(はなし)をして、市川八百藏君は、ぶるぶると身ぶるひをして居た。「晝間(ひるま)だからこれだけの話が出來(でき)るけれど、夜では十年過ぎた今でさへも、此の事を思ひ出すさへ恐(おそ)ろしいと思ひます」と云つた。

[やぶちゃん注:本篇は、実話であり、その元の語り手が、当時の有名な歌舞伎役者であったこと、しかも、その八代目市川中車自身が自殺をせんとして赴き、躊躇したその直後に起きた怪奇現象であることが、強烈なリアリズム怪奇談に仕上がっており、何らの疑問(集団錯覚)を差し入れる余地も、全く、ない。なお、彼は大正七(一九一八)年十月に「市川八百蔵」の名跡を譲られて襲名している(満二十一歳)から、蘆江が彼からこの話を聴いたのは、本「蘆江怪談集」刊行の昭和九(一九三四)年七月を閉区間とする十六年余りの間ということになる。極上の怪奇実話の一つと言える。

2024/02/06

「蘆江怪談集」 「投げ丁半」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本篇は御覧の通り、パート章題があり、全四パートからなる。但し、オムニバスではない。]

 

 

    投 げ 丁 半

 

 

        音 な し の 宮

 

「けさ出がけに天井(てんじやう)から蜘蛛(くも)が下つたの」

「いやだな」

「いやな事ないわ、えんぎが好(い)いんでせう。朝の蜘蛛(くも)だから」

「どうだか」

「茶(ちや)ばしらが立つて、自動車の番號(ばんごう)も汽車の番號も、皆んな丁目(ちゃうめ)だし」[やぶちゃん注:原本では、「丁目」のルビは「ちやうわ」となっている。誤植と断じて、特異的に訂した。言わずもがな、「偶数」の意。]

「いやにかつぐね」

「かつぐわ、洗(あら)ひ髮(がみ)でもないのに、前髮は割(わ)れるし」

「割(わ)れるとどうなんだ」

「思(おも)はれるつていふの」

「フウン」

「あんた、氣(き)がないのね、思はれるつてわけ知(し)つてる」

「知らない」

「前髮は顏(かほ)のおもてにあるでせう。それが割(わ)れるから、誰れかに思(おも)はれるつて……」

「宿(やど)へかへらう」

 男はへんに無愛想(ぶあいさう)だつた。女だつて相當(さうたう)に話しかけたが、男のそばに寄(よ)り添(そ)ふなんて事はしなかつた。こんなに暗い、人影(ひとかげ)のない社(やしろ)の裏の川つぷちだのに。

「音(おと)なしの宮(みや)つて云つたわね」

「うん」

「なぜ音なしの宮なんだらう」

「賴朝と政子姬(まさこひめ)と逢曳(あいびき)をしたところだから」

「逢曳はおとなしくしろつていふことなの、ほほほ」

「まさか」

「この川(かは)が音なし川で……」

 云ひかけて、女はアツと叫(さけ)んだ。

 雜木(ざうぎ)の生(お)ひ茂(しげ)つた社殿のうら手は、しけ臭(くさ)くて、靑臭くて、晝間にしてあんまり好(い)い氣持(きもち)ではない。で表の方へと拜殿(はいでん)の橫をぬける時、古木の梅(うめ)の枝(えだ)が、女の鬢(びん)に引かゝつたのかと、男は思つた。それほど道(みち)が狹(せま)かつた。

「どうした」

「えりりに何(なに)か入つたの」

「毛虫か」

「おゝいやだ」

 女はむづむづして、拜殿(はいでん)の前へ出た。そこに燈籠(とうらう)がともつてゐる。

「取つて頂戴(ちやうだい)」

 えりをぐつとはだけて、女は美(うつ)くしいえりあしを脊筋(せすぢ)へかけて男の面前(めんぜん)にさらした。

 男は遠(とほ)くの方から覗(のぞ)き込んで、

「何もゐないよ」

「もつとよく見てよ。身(み)を入(い)れてさ」

「見てるよ」

 もう賴(たの)まないといふ氣持を、足どりに見せて、女は、どんどん鳥居(とりゐ)の方へあるいた。そこには緣日(えんにち)がちらりほらりと見世を片付(かたづけ)けはじめてゐる。もうそんな時間だ。

 男は遣(や)る瀨(せ)なげに、無言(むごん)で女のあとについた。

 とある露店(ろてん)に立つて、女は買(か)ひものをしはじめた。

 柳の枝に大福帳と、福助(ふくすけ)と、小判と、一升枡(しやうます)ほどの張子(はりこ)の賽(さい)コロなどがぶらさげてあるのを、女はかついでゐた。こんな繭玉(まゆだま)を、こんなところで賣つてゐるのも不思議(ふしぎ)だが、一夜泊(やとま)りの溫泉で、そんなものを女が買ふのは、尙(な)ほ更(さら)、妙な氣まぐれだつた。[やぶちゃん注:「繭玉」本来は旧正月の飾り物の一種で、桑や赤芽柏(かめがしわ)の枝に、繭のようにまるめた餠や団子を数多くつけ、小正月に飾るもの。その年の繭の収穫の多いことを祈って行なった。後には、葉のない柳や笹竹などの枝に、餠や菓子の玉をつけたり、七宝・宝船・千両箱・鯛・大福帳などをかたどった縁起物の飾りを吊るしたりしたものになった。神社などで売っているのを買って神だなや部屋に飾る。「なりわい木」「まゆだんご」等とも呼ぶ(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

「どうするんだえ、そんなもの」

 男はよびかけたが、女は返事(へんじ)をしなかつた。

 「里(さつ)ちやん、持つてやらうよ」

 男がいくらかお世辭(せじ)の氣味(きみ)で、追ひすがつて柳(やなぎ)の枝に手をかける。女がいぢわるく前へ引く、はづみに、大(おほ)さいころが、ポトリと落(お)ちた。

 カラカラと石疊(いしだゝみ)から土の上へころがつて、暗い地上(ちじやう)で、白々とうづくまつた。

「丁(ちよう)」

 女は走りよつて、さいころの表に鼠鳴(ねずな)きをした。[やぶちゃん注:「人が鼠の鳴き声を真似て口を尖らして「チュッ!」と出す声。人の注意を促したり、合図をしたりする際にする。]

「二が出た」

 男も云つて、さいころを拾(ひろ)つた。

 それを女が引(ひつ)たつくつて、

「丁か半(はん)か」

 改(あらた)めて投げるつもりだ。

「半」

「いやよいやよ、丁でなけあ」

 丁出ろと大きく念(ねん)じて、ポンと投(な)げる。又前の通りに二が出た。女はとびかゝつて、抱(だ)きとるやうにして嬉(うれ)しがつた。

「うしろ側(がは)の五のところが、重いんだよ、張(は)り子(こ)だから」

「雀部(さゝべ)さん、あんたケチをつけるつもり」

 女があんまりムキになつたので、男(をとこ)はまごついた。

「猿島(さしま)、そろそろ着(つ)く時分だぜ。早くかへらう」

 女は耳にも入れずに、あるきながら、三度目(どめ)のさいころを投(な)げた。

「それ御覽(ごらん)、今度は二ぢやありません。でもちやんと丁が出ましたよ」

 石の上に落(お)ちた大さいころは六になつてゐた。

「もう止(よ)せよ、早くかへらう」

「止せといふなら、いつまででもやつてゐるわ」

 四度、五度のさいころを振(ふ)つてはあるき、振つてはあるき、梢々(やゝ)人通(ひとどほ)りの絕(た)えかけた溫泉町の暗(くら)い小溝(こみぞ)に沿(そ)つて、女は餘念(よねん)なくさいころを振つた。併(しか)し、振つても、振つても、丁は出ないで一が出たり、五が出たり。

 女はぢりぢりして道(みち)の眞中(まんなか)に立ちどまつた。

「おい、里(さつ)ちやん、どうしたといふんだ。猿島(さしま)が着く時分だといふのに。ねえ里奴(さとやつこ)」

 雀部(さゝべ)は行きすぎて戾(もど)りかけた。

 按摩(あんま)の笛(ふえ)が、遠いのと近いのと、互(たが)ひちがひに響いて、何かの合圖(あひづ)でもしてゐるやうだつた。波の音が、凉しい夜風(よかぜ)を送つて、伊豆(いづ)の伊東(いとう)の夜をゆり動かした。

[やぶちゃん注:「音(おと)なしの宮(みや)」現在の静岡県伊東市音無町(おとなしちょう)にある音無神社(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『源頼朝と八重姫』(北条政子との関係以前の女性)『の逢瀬の場としても知られ、頼朝が対岸の』「日暮八幡(ひぐらしはちまん)神社」(伊東市桜木町。前掲地図に西に配してある)で『日が暮れるまで待ってから』、『音無神社で』その監視役であった在地豪族伊東祐親の三女八重姫と逢瀬を重ねたと『され、境内の玉楠神社には、彼ら』及び、の間に生まれた男児『千鶴丸』(祐親の命により川に沈められて殺害された)『が祀られている』とある。個人的には参拝して、祈願するなら、政子と頼朝所縁の密会の地、熱海の伊豆山神社の方を、断然、お薦めするものである。

「音なし川」両神社の間を貫流している「伊藤大川」は別に「音無川」「松川」の異名を持つ。]

 

        蜘 蛛 の 振 舞

 

 暖香園(だんかうえん[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])のはなれ座敷、例の柳の枝を脇床(わきどこ)に立てかけて、男は女にかまはず、手拭(てぬぐひ)をぶらさげ、浴槽(よくさう)へ行かうとしてゐた。[やぶちゃん注:「暖香園」明治二〇(一八八七)年開業の老舗温泉旅館である伊東温泉暖香園(グーグル・マップ・データ)。今はすっかり巨大ホテル化している。]

 出あひがしらの閾際(しきゐぎは)で、遲(おく)れてかへつた里奴(さとやつこ)は、

「フン」と鼻をならして、肩(かた)をいからしたまゝ座敷(ざしき)へ入る。例の大さいころはしつかり抱(だ)いたまゝで。

 雀部(さゝべ)は知らん顏をして廊下(らうか)へ出たが、立戾つて一言(ごん)、

「猿島(さしま)來(こ)ないよ。コンヤイカレヌ、アスアサイクだとさ」

 女は返事もせずに卓臺(ちやぶだい)の上の電報をひろげた。男は廊下傳(らうかづた)ひに浴槽(よくそう[やぶちゃん注:ママ。])に行つて了つた。

 一風呂浴びて男が戾(もど)つて來た時、里奴(さとやつこ)はさいころを疊の上でやけに振(ふ)つてゐた。

「湯に入らないの。誰(だ)れもゐないで、好(い)い湯(ゆ)だぜ」

「どうしても、丁(ちやう)が出なくなつた」

 最後の賽(さい)を叩(たゝ)きつけて、平手で押しつぶした。

「おつれさん、お見(み)えにならないんですつてね」

 丁度(ちやうど)閾際(しきゐぎは)へ來てさう云つた女中へ、

「さうだつてさ、猿島の珍(ちん)ケイトウ奴(め)、いつでもこの手ですつぽかすんだよ」[やぶちゃん注:「珍(ちん)ケイトウ」不詳。綽名で、頭髪が逆立っているか、赤ら顔なのか。後の里奴の彼を評する台詞からは、優柔不断で摑みどころのない奇天烈な人柄を鶏頭のふにゃふしゃした奇体な花に喩えたもののようには、見える。]

 手拭をぎくりと摑(つか)んで、無愛想(ぶあいさう)に廊下へ出て行つた。

「お孃(ぢやう)さま御かんむりだ。――ところで、猿島(さしま)が來ないときまつたら、御飯にするかな」

「畏(かし)こまりました」

 女中は返事(へんじ)のしようがなくて引下つた。

 猿島は里奴の旦那で、雀部(さゝべ)は猿島の親友である。

 猿島は下田(しもだ)へ用足(ようた)しに行つてゐる。

「土曜日の晚、伊東(いとう)へ行く。君も出て來い、その時、迷惑(めいわく)でも里奴(さとやつこ)をつれて來てくれ」

 かういふ打合(うちあは)せが猿島(さしま)と雀部(さゝべ)の間に出來てゐた。で、二人はけふ、東京から暖香園(だんかうえん)へ來たのだが。

「仕方がない、飯(めし)にしやう[やぶちゃん注:ママ。]」

 里奴が湯(ゆ)から戾つて來た時、雀部は膳(ぜん)の前に坐(すは)つてゐた。かれこれ十一時である。

「姐(ねえ)さん、お銚子(てうし)を一本」

 里奴は鏡臺(きやうだい)の前へ來て、團扇(うちわ[やぶちゃん注:ママ。])をつかつてゐる。烏羽玉(うばたま)の黑髮が、しとっしとと浴衣(ゆかた)の脊中へ流れてゐた。

「まア、美(うつ)くしいおぐし」

 惚れ惚れと[やぶちゃん注:「ほれぼれと」。底本では後の「惚れ」が踊り字「〲」で前にはルビは、ない。]里奴のうしろ姿に見惚(みと)れた女中は、板場(いたば)へ立つて行つた。

「飮むのか困(こま)るなア」

「あんた見てゐらつしやい」

「よせやい」

「ねえ、雀(さあ)さん」

「何だ」

「醉(よ)つても好(い)いでせう」

「いけない」

「くどくかも知れない」

「どうぞ御白由(ごじいう)に」

 手を肩(かた)ごしにうしろへ𢌞して、ぬれ髮(がみ)をバラバラと乾(かは)かしながら女はちやぶ臺ヘやつて來た。

 雀部(さゝべ)と向ふ前にならべた食器(しよくき)を、橫へ置きかへて、男の膝(ひざ)と自分の膝とを、すれすれぐらゐの角合せに坐(すは)ると、團扇の風を柔(やは)らかに男へ送つた。

 お銚子(てうし)が來ると、女中を追ひやつて、

「ねえ貴郞(あなた)、思ひざし」など、しなだれて見せる。[やぶちゃん注:「思ひざし」「思ひ差し」で、「この人と思う人に杯を差すこと・相手を指定して酒をつぐこと・その杯」を言う。]

「どうかしてるね」

「どうもしないわ。これが私の本性(ほんしやう)なの。はつきり云ふとあんたつて人を好(す)きなのよ」

「どうもありがたう」

「冗談(じようだん)ごかしにしないで、身を入れて聞いてよ」

「聞いてるよ」

「あんたのお友(とも)だちだけど、あの猿島(さしま)つて人、一體血が通(かよ)つてると思ふ」[やぶちゃん注:最後は疑問文。]

「あいつは口下手(くちへた)だからなア」

 女はやけに手を振つて、否定(ひてい)して、

「口下手でも、情合(じやうあひ)つてものが、どこかに見えるものよ。一週間(しうかん)に一遍(ぺん)か十日に一遍、それも、こつちから電話(でんわ)をかけなけあ出て來ないし、忙(いそ)がしいんですかつても、いや。閑(ひま)ですかと云つても、いや。額(ひたひ)に玉の汗(あせ)を搔(か)いてるから、扇(あふ)いでやれば、うるさいといふし、上衣をおとんなすつたらといへば、さうしちやゐられないといふし、さうかと思(おも)ふと、新聞(しんぶん)か何か一つところを何時間も見つめたあとで、フワフワ[やぶちゃん注:ママ。]と立上(たちあが)つて、さよならでも何でもなく、もう靴(くつ)を穿(は)いてるんだから。およそあんな珍(ちん)ケイトウの、碌(ろく)でなしの、張合(はりあひ)なしと云つたら、類(るゐ)がないわねえ」

「そこが好(い)いといふ人もあるんだとさ」

「何(なに)が好(い)いもんですか。あんた、友だち甲斐(がひ)に、もう少しは叩(たゝ)いて音(おと)のするやうに、仕込んでやつてよ」

「あれはあれで好いんだよ」

「よかないつたら」

「好いつて證據(しようこ)には、君ほどの女が、ぞつこん惚(ほ)れてるぢやないか」

「へん、誰れが惚(ほ)れてなんぞゐるものですか。緣(えん)あつてお世話(せわ)になつてるから、旦那にしてあげてるばかしよ」

「うそをつけ、惚(ほ)れてるからこそ、慾(よく)が出て、いらいらするんだ。惚(ほ)れてゐないものなら、とうの昔(むかし)切(き)れて了(しま)ふか、浮氣をするか――尤(もつと)も、浮氣つて奴あ、別(べつ)なものだが」

「別なものといふと」

「氣(き)が堅(かた)いから、浮氣なんて君にや出來ない。もう少し世間(せけん)の女なみに、柔(やは)らかいところがあつたら、氣まぐれの浮氣でもして、紛(まぎ)れるところなんだが、何しろ、固いからなア」

「アラ、蜘蛛(くも)、蜘株」

 二三尺(じやく)飛(と)びのいて、里奴は騷(さは)ぎ立(た)てた。

 丁度、二人の眞中(まんなか)あたり、疊(たゝみ)の上に、足長蜘蛛(あしながぐも)が、逃げもせず走りもせずに、八本の脚(あし)をつゝぱつて、二人を睨(にら)んでゐる。[やぶちゃん注:「足長蜘蛛」狭義の標準和名の種は、節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科アシナガグモ科アシナガグモ属アシナガグモ Tetragnatha praedonia である。同種は田圃や池などの水辺に棲息するが、都市部の家内に出現することも稀にある。しかし、巣を作る種であり、私はここで言うのは、足が長い蜘蛛の意で、そうなると、現代住宅にもかなりの頻度で出現する、網を張らずにゴキブリなどの獲物を待ち伏せ、目の前に来た獲物を捕食する益虫である、本邦に棲息する徘徊性クモ類では最大種であるところの、クモ目アシダカグモ科アシダカグモ属アシダカグモ Heteropoda venatoria の中型個体と考える。私の建て替える前の家内にも掌大の個体がおり、夜中に、顔が誰かに摑まれたような気がして、飛び起きて見ると、実にグローブ大のそ奴がおり、叩き潰したことがある。未だに、あの顔面のひきつけた感触は忘れるものではない。但し、彼らは、大型になると、敏捷であるから、以下のシークエンスが相応しくないと考えて、中型とした。]

「困つたな。おれも嫌(きら)ひなんだ」

「意氣地(いくじ)なしね、夜の蜘蛛(くも)は親に似(に)ても殺せつていふから」

「だけど……」

 雀部(さゝべ)は尠(すくな)からずまごついたが、女中がおはちの上へ置きつぱなしにしておいた黑(くろ)ぬりのお給仕盆(きふじぼん)をとつて、蜘蛛(くも)の上へ、べつたり冠(かぶ)せた。

「これで好(い)い。其中、女中が來たら始末(しまつ)をしてもらはう」

「何だか氣味(きみ)がわるいわ」

 女は反對側へすわりなほして、盃(さかづき)を重(かさ)ねた。

「早く、御飯(ごはん)にしたまへ」

「待つてよ、せめて一本だけ飮(の)んで了(しま)はなけあ、くどけないわ」

「まだ、くどくつもりか、散々(さんざん)、猿島(さしま)ののろけを云つておきながら」

「のろけぢやない、愚痴(ぐち)を云つたのよ」

「愚癡はのろけの化身(けしん)にして、惡態は未練の權化(ごんげ)なり」

「うるさいね」

 女は盃をつき出した。男が受取(うけと)らうとすると、やけに首を振つて、

「お酌(しやく)」と云つた。

「ヘイヘイ」

「今夜(こんや)は、おとなしく私のお守(もり)をするのよ」

「ありがたき仕合(しあは)せで」

「雀(さあ)さん」

「何だ」

「なぜ私が賽(さい)ころを振(ふ)つたか知つてる」

「知らない」

「あんた、盆(ぼん)くらね、今夜(こんや)猿島(さしま)が來るか來ないかを占なつてたの」

「當(あた)つたかい」

「だからさ、あんなに喜(よろこ)んだぢやないの。丁(ちやう)が出るやうに出るやうにつて、東京を立つ時から念(ねん)じてゐたわ」

「丁が出ればどうなるんだ」

「二人なら丁で、三人は半(はん)でせう。判(わか)らないのかなア」

 男は聞き流して鈴(りん)を押(お)しに立つた。

「お膳(ぜん)を片付けてくれたまへ、この人にあんまり飮(の)ましちやいけない」

 女は最後(さいご)の一たらしを盃(さかづき)にうけてゐるところだつたので、女中の方がまごついた。

「姐(ねえ)さん、お給仕盆の下に、蜘蛛(くも)が伏せてありますから、始末(しまつ)して頂戴(ちやうだ)、この人、男のくせに、いくぢなしなの」

「ほほほ、でも蜘蛛と長虫(ながむし)は隨分(ずゐぶん)おきらひな方がおありでございますわ」

 女中は片手に紙片(かみきれ)、片手で給仕盆(きふじぼん)を、そつと、そつと開けて、のろのろと這(は)ひ出(で)る怪物(くわいぶつ)を、パツと押(おさ)える。……つもりだつたが、お盆(ぼん)の下には何もゐなかつた。

「おやつ」

「あら」

 二人は息(いき)づまるほど驚ろいた。

「へんだなあ、たしかに押(おさ)へておいたんだが」

「こんな事、よくあるんでございますよ。蜘蛛(くも)になめくじ、なめくじなんぞ、一間(けん)[やぶちゃん注:一・八一メートル。]でも二間でも飛ぶんださうです」

「魔(ま)ものだつてね」

 三人とも默(だま)つて了(しま)つた。

 ガサリ。

 變な音が突然器(うつは)に起つた。

「あれつ」

 女中が飛びのいたうしろには、柱(はしら)かけの一輪(りん)ざしから、大きな白百合(しらゆり)の花が落ち

てゐた。

 脇床(わきどこ)に立てた繭玉(まゆだま)の柳が、ぼそぼそと搖(ゆ)れてゐる。

 女中は慌(あわた)だしく食卓(ちやぶだい)を片付けた。

 

        洗  ひ  髮

 

 雀部(さゝべ)は廊下(らうか)に出て風を入れた。

「いやに蒸(む)して來た」

 誰(だ)れにいふともなく、眞暗(まつくら)な中庭を眺(なが)めてゐる。

「風がぴつたり凪(な)ぎましたから」

 輕く合槌(あひづち)を打つて、女中は食器(しよくき)を運び去つた。

 眞暗な中庭(なかには)を見つめてゐると、丁字(つやうじ)の香りが匂(にほ)つて、どうだんつゝじの小枝(こえだ)が、おぼろげながら見えはじめて、しんとした土(つち)の上を、によつきり立つた石燈籠(いしどうらう)が、ずるずると近よつて來さうな夢(ゆめ)の國(くに)のやうな風景(ふうけい)だつた。

 空には星(ほし)一つ見えない。露(つゆ)の落ちる音(おと)まで聞こえさうなしづかさ。

 くどくどと云(い)つたくせに、女はうしろ向(む)きになつて、おとなしく寢(ね)てゐる。

 雀部(さゝべ)は、ぬき足して自分の蒲團(ふとん)を壁際(かべぎは)の方へ、女のから引はなした。

 ごろりと足腰(あしこし)をのばして、改(あらた)めて座敷を見まはすと、目の上には墨繪(すみゑ)の牡丹(ぼたん)がかいてあり、床には投網(とあみ)を干(ほ)した海岸の繪が下つて居り、二疋(ひき)蟹(かに)の黑つぽい置きものがあり、床柱の一輪(りん)ざしには、首のもげた百合(ゆり)のむくろがのぞいて、脇床からは例(れい)の繭玉(まゆだま)の柳(やなぎ)が手をさしのべてゐる。

 それやこれやを見まはしてゐる中に、心(こゝろ)が落(お)ちついて來た。途端(とたん)に、女が、うしろ向の儘(まゝ)で、

「雀(さあ)さん、眠(ねむ)れる」と聞いた。

「うむ」

「眠れないでせう」

「うむ」

「どつちさ」

「君(きみ)は」

「なぜ布團(ふとん)をそつちへ引張つたの」

「知(し)つてたかい」

「知らなくてさ。――ねえ雀(さあ)さん。やけないのか知ら」

「やけないかとは」

「猿島(さしま)がさ」

「二人きりで、こゝに泊(とま)つてるからか」

「今夜(こんや)ばかりぢやないわ。いつかもこんな事があつたぢやないの」

「うむ、あれは箱根(はこね)だつたね。あいつは商賣熱心だからなア」

「いくら商賣熱心だからつて、一度(ど)ならずこんなすつぽかしを食ふと、何だか馬鹿(ばか)にされたやうな氣(き)がするわ」

「ひがみだよ」

「この頃(ごろ)ぢや、もう馴(な)れたから、何とも思つてやしないけど、でも、たまには腹(はら)の立(た)つ事もあるわ。お荷物にされてるつて感(かん)じね」

「何しろ性分(しやうぶん)つてやつは――」

「雀(さあ)さん、今夜寢かさないよ」

「困(こま)るなア」

「寢かしませんとも、せめて、夜(よ)つぴて、話(はな)してませう」

「困るよ」

「明日(あす)になつても、あの人きつと來ないと思ふわ」

「そんな事はない」

「いゝえ、箱根の二の舞(まひ)をさせられるやうな氣がします」

「何しろ、猿島(さしま)はあやかりものだよ。君ほどの人間(にんげん)をこんなにいらいらさせるんだから」

「雀(さあ)さん、怒(おこ)るわよ」

「怒つても好い。僕(ぼく)のいふ事に間違(まちが)ひはないんだから」

「いゝえちがひます」

「ちがひません。ちがはないわけを云(い)つて見(み)やうか[やぶちゃん注:ママ。]」

「云つて御覽(ごらん)なさい」

「君が宵(よひ)の口(くち)から、むやみにモーシヨンをかけてゐるのは、僕を猿島(さしま)に見立てゝゐるんだよ。もし、僕がつり込(こ)まれたら、君はポンと蹴(け)つて飛(と)びのくだらう」

「そんなこと……」

「猿島がそつけないから、君の方で、追(おつ)かける氣になるんだ。若(も)し、あいつが積極的(せつきよくてき)に出て來たら、きつと君は逃(に)げ腰(ごし)になるよ」

「うそ、そんな事、斷(だん)じてありません」

「あります。追(おつ)かければ逃(に)げる、逃げれば追かける、男と女は皆(み)んなさうだ。何しろ皮肉(ひにく)に出來てるよ」

「さう見える」

「さういふものなんだ」

「ですけど雀(さあ)さん。あんたがそんなにいふなら、本當(ほんたう)の事をいひませうか」

「うむ」

「止(よ)さう――私、寢るわ」

 里奴(さとやつこ)はくるりとうしろ向きになつた。枕(まくら)の向ふへ捌(さば)いた黑髮(くろかみ)がねぢれて散らばつた。

「ははは圖星(づぼし)をさゝれたものだから」

「待合(まちあひ)の女中さんに、さあさんがと云はれた時、私は一圖(づ)に、ほかのさあさんだと思つたの」

「ほかのさあさんて」

「猿島(さしま)のさあさんでないさあさんよ」

「卜だつてて雀部(さゝべだからアさんだが、……」

「默(だま)つてらつしやい。さあさんと聞いて早合點(はやがてん)で喜んだ私が惡(わる)かつたんだわ」

「だけど、猿島(さしま)はあの時分、まる一ケ月(げつ)通(かよ)つて、君を呼(よ)んでたといふぢやないか、あんな無口な男だから、いやに手數(てすう)ばかりかけやがつて……それほどのさあさんを前において、さあさんを間違へるなんて、そんな見當(けんたう)ちがひの早合點(はやがてん)があるものか」

 女は身を揉(も)んだ、立上つた、いきなり自分の寢道具(ねだうぐ)を男の方へ引よせる。

 男もごそりと起(お)きて、夜具を壁際(かべぎは)へぴつたり、以前(いぜん)の通りの間隔(かんかく)を保(たも)つ。女は蒲團をすつぽりかぶつた。枕(まくら)の上はばらばらになつた黑髮(くろかみ)ばかりが、海松(みる)のやうに流れ出て、五燭(しよく)の光りで伸びつちゞみつするやうに見(み)えた。[やぶちゃん注:「五燭」五カンデラ(ラテン語:: candela)の電灯。ほぼ八ワット。寝室や便所の常夜灯。]

 云ひ落したが、二人の寢床(ねどこ)は大きな蚊帳(かや)で包まれてゐた。

 雀部は、女の髮(かみ)をぢつと見つめて、勝氣(かちき)な女は可愛(かあい)さうだなアと思つてゐた。

「雀(さあ)さん」

 蒲團(ふとん)にもぐつたまゝで女が云つた。

「うん」

「私、猿島(さしま)と別れようと思ふ」

「それも好(い)いだらう」

「馬鹿にされてるとは思はない。だけど、およそあんなつまらない、面白(おもしろ)くない人つてないわ」

「だけど……」

「こつちもつまんないが、向(むか)ふだつてつまんないでせう。顏(かほ)を見合はせたつて、二三時間(じかん)も默(だま)りこくつてゐる事、のべつなんだもの。人情(にんじやう)つて、そんなもんぢやないわ」

「だけど……」

「ねえ雀(さあ)さん」

「何だ」

「猿島と切(き)れたら、あんた私のいふ事を聞(き)いてくれる」

「馬鹿、猿島はおれの親友(しんいう)だよ」

「知つてるわ、猿島(さしま)とあんたの間柄(あひだがら)だからこそいふのよ。それに、猿島は腹(はら)の中で、あんたと私を結(むす)びつけようとしてるにちがひない」

 どこかで、ボンボン時計(とけい)が鳴つた。たつた一つ、あとを聞かうとした雀部(さゝべ)の耳ヘは風の音だけがさやさやと入(はい)つたばかりだつた。

 十二時半かしら、一時(じ)かしら、一時半(じはん)かしら、そんな事を雀部(さゝべ)は、しきりに考ヘやう[やぶちゃん注:ママ。]としてゐた。

「もう寢(ね)たまへ、遲(おそ)いから」

 女は返事(へんじ)をしないで泣(な)いてゐるらしい。

 「もつと氣を安らかに持つ修業(しゆげふ)をしたまへ、猿島(さしま)つて男は、君が思つてるほど情(じやう)なしぢやない。口にこそ出さないが、腹(はら)の中は君の事で一杯(ぱい)なんだ。僕は君をこれほど思(おも)つてると、はつきり言葉で云はなけれあ、女には得心(とくしん)が行かないものかもしれないが、男の立場(たちば)からいや、さうぢやない。思(おも)へば思(おも)ふほど、ものを云はないもんだぜ」

「もう止(よ)してよ」

 蚊帳(かや)ごしに照(てら)す電燈で、ちらちらと底光りのする黑髮(くろかみ)から、雀部(さゝべ)はどうしても目が離(はな)せなかつた。

 見つめてゐると、黑髮(くろかみ)の一筋一筋(すぢ)が、もやもやと伸(の)びて、こちらの枕へ忍び寄つて來るやうに思(おも)はれる。

「雀(さあ)さん、もつと低(ひく)い聲で、私の耳(みゝ)のそばで、今の話をして下さらない」

「耳のそばだつて――」

「だから蒲團(ふとん)をもつと寄(よ)せてさ」

「おれを困(こま)らせるなよ」

 雀部はぐるりと仰向(あふむ)けになつた。

「思つても思つても思ひがとゞかない辛(つら)さ、叩(たゝ)いても音の聞(き)こえないさびしさ。それは誰(だ)れに持つてゆきやうもない苦(くる)しみなんだが、君のは、もう一つ瘠(や)せ我慢(がまん)と負けずぎらひの輪(わ)がかゝつてるんだから、自分の本當(ほたう)の氣持が、自分に判(わか)らないんだよ」

 獨(ひと)り言(ごと)のやうに云つて、雀部はほうつと溜息(ためいき)をついた。

 

        蜘 蛛 を 抱 く

 

 うとうととしたやうにもあり、眠(ねむ)れなかつたやうにもあり、何時間(なんじかん)すぎたかも判(わか)らなかつた。

 仰向(あふむ)けになつてゐた雀部の額(ひたひ)へ、つめたいものがばさりと落ちた。

 かきのけようとする手に女の黑髮(くろかみ)がからんだ、蚊帳(かや)ごしの電燈はへんに靑(あを)ずんだ光に見えた。

「寄(よ)つちやいけない」

 雀部(さゝべ)は、黑髮のぬしをおしやるやうにした。が、黑髮のぬしは鈴(すゞ)を張つたやうな瞳(ひとみ)で、雀部を見つめて、口許(くちもと)にわらひを含んで、ぴつたり男により添(そ)つたまよ動かうともしない。

「寄つちやいけない」

 雀部の聲はだんだん弱(よわ)くなる。

「雀(さあ)さん、なぜ私が賽(さい)ころを振つたか知つてる、丁(ちやう)が出れば好(い)い、丁が出れば好いつて念じつめて振(ふ)つたさいころ。振つても振つても二が出た時、私はどんなに嬉(うれ)しかつたか、だのに、あんたつて人は、人の氣(き)も知(し)らないで――」

 女はひしひしと迫(せま)る。美くしい手が、雀部(さゝべ)の首に卷きついてゐた。强(つよ)い强い力だ。こんな力が女の腕(うで)にあるのかと思ふほど强(つよ)い力(ちから)。

 女の手が首(くび)から胸(むね)へかゝつてゐるので、雀部は返事(へんじ)が出來なかつた。女の身體(からだ)が、雀部の片手を下敷(したじき)にしてゐるので、押(お)しのける事も出來なかつた。

「人にばかりものを云はせて、なぜ返事(へんじ)をして下さらないの、あんたは意氣地」いくぢ)なしよ。あんたの本心を當(あ)てゝ見(み)ませうか、あんたつて人は、私が好(す)きで好きでたまらないんだわ。

 さいころの丁(ちやう)が出て喜(よろこ)ぶのは、私ばかりでなくて、あんたもさうなの。だけど、あんたは、猿島(さしま)といふものに氣がねをして自分の本心(ほんしん)をいふ事も出來ず、意氣地(いくぢ)もなく、いぢけてちゞみ上つてゐるんだわ。女の私(わたし)に、これほどものを云(い)はせて、これほどの思ひをさせて、それでも、逃げ腰(ごし)になつてゐる、あんた見たいな踏(ふ)んばりのつかない、意氣地なしは、このくらゐにしないと、本心を明(あ)かさないでせう。あんたは卑怯(ひけふ)だわ。さもさも私を敎(をし)へるやうにして、さつきから默(だま)つて聞いてれあ、猿島の心持(こゝろもち)を云ふやうな振(ふり)をして、皆んな御自分の事(こと)を云つてるんだわ。卑怯なさあさん、意氣地(いくぢ)なしのさあさん、踏(ふみ)ぎりのわるいさあさん、さあ、本心を、はつきり聞(き)かして下さい。ねえ、雀(さあ)さんたら」

 男の胸(むね)をむちやくちやにゆすぶつて、女は身(み)をもだえた。女の頰(ほゝ)が、黑髮が、唇(くちびる)が、男の顏の上で、段々に亂(みだ)れた。

 雀部(さゝべ)はもうたまらなくなつた。

「里(さつ)ちやん、どうなつても好(い)い。何もかも君は知つてゐるんだ。かうなつたら、友だちの義理(ぎり)も糸瓜(へちま)もない。――なアに、猿島(さしま)だつて、おれが、君の事を一生懸命(しやうけんめい)に思つてゐるのも、ちやんと察(さつ)してゐるんだ、だからあいつ、かうして二人に逢(あ)はせる機會をつくつてくれたんだ。箱根の時だつてさうだ、里(さつ)ちやん、僕の里ちやんになつてくれるか」

 男の手の力が女の手に負(ま)けないほど働(はた)らきかけた。

 靑(あを)ずんだ光の中で、ゆめうつゝのやうな蚊帳(かや)の波に包(つゝ)まれて、二人の身體は一つになつて了(しま)ふかと思はれた。

 苦しい、切(せつ)ない抱擁(はうよう)の中から、男はかすかに目をあいて、女の顏を見た。

 紅を含(ふく)んだやうな唇に、きらきらと光(ひか)る瞳(ひとみ)、しつかり見つめてゐる間に、唇は血(ち)がにじみ出るかと思はれ、瞳(ひとみ)は火を吐(は)くかと見えた。

 男はあまりに銳(するど)い女の瞳(ひとみ)と唇を少しよける爲めに、蚊帳(かや)の外へ目をそらした。

 と、額に描(か)いた墨繪(すみゑ)の牡丹(ぼたん)が、一かゝへもあるほど大きくひろがつた。首のない柱(はしら)かけの百合が、毛(け)むくじやらの細く長い手になつて、蚊帳(かや)の中に伸(の)びて來さうだつた。

 脇床の柳(やなぎ)の枝(えだ)も、一本一本のび切つて、蚊帳ごしにつきさゝつて來る。柳の枝に吊つた大福帳(だいふくちやう)と福助と、繭玉が空(そら)に舞(ま)ひ上つた。掛地の繪の投網(とあみ)はいやが上にひろがつて、蚊帳へかぶさりかかると共に、部屋一杯(おあい)の蜘蛛(くも)の巢(す)になつた。

 男はあはて[やぶちゃん注:ママ。]ながら、眼(め)を女の顏へもどしたが、その時、女(をんな)の顏(かほ)はもう美くしい里奴(さとやつこ)ではなかつた。大きな大きな蜘蛛(くも)の精(せい)が、爛々(らんらん)たる眼を見張り、熱火(ねつか[やぶちゃん注:ママ。])のやうな唇を洞穴(どうけつ)のやうにあいて、ニヤリニヤリと笑(わら)つてゐる。

 男は右に左に顏をそむけて、逃(に)げようとしたが、怖(おそ)ろしい笑ひ顏は、男の顏のよける方へ、よける方へと向つて來る。雲(くも)のやうな黑髮をふり亂した蜘蛛(くも)の精(せい)が雀部を抱(だ)きしめてゐるのだ。蚊帳と一緖(しよ)に見え、投網(とあみ)と見えたのは蜘蛛の巢(す)であつた。墨繪の牡丹でさへも、小蜘蛛になつて、雀部の身のまはりを踊をど)り狂(くる)つた。中に眞白(まつしろ)な蜘蛛が、疊の上をひらめくやうに亂舞(らんぶ)してゐる。黑い二つの目をつけた眞白な蜘蛛、それは時折(ときをり)押(お)しつぶされた賽ころの姿に變(かは)つたりしながら。

 賽(さい)ころ蜘蛛(くも)の差圖(さしづ)につれて、幾つもの白蜘蛛が踊(をど)つた。それは各々、柳の枝につるした繭玉(まゆだま)であり、大福帳(だいふくちやう)であり福助であつたりした。

「苦しい、助(たす)けて、うゝむ」

 雀部はある限りの聲と、ある限りの力で蜘蛛(くも)の圍(かこ)みを逃(に)げようとしたが聲も力も出なかつた。

 只(たゞ)いたづらに、

 「苦しい」と叫(さけ)びつゞけるばかりである。

 「雀(さあ)さん、雀さん」

 どこかでかすかに、やさしい聲(こゑ)がよびかける、それを力(ちから)に、やうやく立上らうとして、見ひらいた目には、何もなかつた。何もかもが、寢(ね)る前と同じ姿(すがた)であつた。もう朝だ。

 いつの間にか蚊帳は綺麗(きれい)に片付けてあつた、里奴(さとやつこ)はあけ放(はな)つた緣側(えんがは)に、あらひ髮のうしろ姿を見せて、靑葉(あをば)を見ながら、すがすがしく立つてゐた。

「僕、苦(くる)しんでたかい」

 雀部は起上る力(ちから)もなかつた。

「いゝえ。ちつとも――どうかしたの、眞靑(まつさを)になつてるわ。それとも靑葉(あをば)のかげがうつゝてるせゐかしら」

 女の手には電報(でんぽう)がひろげられてあつた。

「どうもしやしないが、いやな夢(ゆめ)を見(み)た」

「ねえ、あいつ、又(また)電報(でんぽう)をよこしたわ。ドウシテモイカレヌ、ユツクリアソンデ、マツテテクレだとさ。相變(あいひかは)らずの珍(ちん)けいとうね」

 電報を見せに、里奴(さとやつこ)が枕もとへ來た。男(をとこ)ははね上るやうに起きて、浴衣(ゆかた)の着くづ

れをきちんと直(なほ)した。

「二三日この儘(まゝ)であそびませうよ。十國峠(こくたうげ)でもドライブして」

 女はわだかまりもなく云(い)つた。

「いやかへらう」

「いやよ、かへるなんて、それにもう自動車も賴(たの)んだし」

「いや、兎(と)に角(かく)かへらう」

「どうして、もうくどきやしないわよ。ゆうべのあなたの話で私、すつかり猿島の氣持(きもち)が判(わか)つたから、私おとなしく、猿島(さしま)を思つてゐるといふ事にきめたのよ。安心(あんしん)して下さい」

 女はニコニコしてゐた。

 男(をとこ)はちつともうれしくなかつた。

「やつぱりかへる方が好(い)いんだ」の一點張(てんば)りで、女のやさしい眼(め)を逃げて、浴場ヘ行つた。

[やぶちゃん注:個人的には、どうも好きになれない一篇である。三人の登場人物のそれぞれ、ある種の極め利己的な変態的嗜好を隠し持っており、その誰にも私は共感や憐憫をさえも全く感じないからである。]

2024/02/05

「蘆江怪談集」 「うら二階」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。また、本篇もまた、最後に蘆江が添えているように、実話談を元にして創作されたものである。

 なお、「うら二階」「裏二階」とは、正式な二階ではなく、屋根裏などが二階になっているところを言う語である。]

 

 

    う ら 二 階

 

 

      

 

 ある都會(とくわい)の下町、と云つても仕舞屋(しもたや)ばかりの物靜かな河岸通(かしどほ)りに賃家が一軒(けん)出來(でき)た、これが貸家札を貼(は)つてから三日目にふさがつた。

 引越して來たのはこれまで山(やま)の手(て)に住んでゐた萩原精(はぎはらせい)一といふ人の一家(か)。

 夫婦(ふうふ)の間に七つの子が一人。

「三人家内に少し廣(ひろ)いけれど、家賃(やちん)が割(わり)に安いからね」と家の中の一通(とほ)り片付(かたづ)いたところで精(せい)一は下座敷の障子(しやうじ)をポンと開(あ)け放(はな)して初秋の風を家の中一杯(ぱい)に入れた。

「本當(ほんたう)ですね、好(い)い家(うち)が目付かりましたわ、家の中が廣(ひろ)いと少しお掃除が厄介(やくかい)ですけれど、どうせ私の身體(からだ)は大して用がないんですから」と妻君(さいくん)のおきみは良人の側(そば)に煙草盆(たばこぼん)を持出す。

「なあに掃除が面倒(めんだう)なら、女中を一人雇(やと)ふさ、何しろ五間(ま)もあるんだからなあ」

「それには及びませんわ、精太郞(せいたらう)だつてもう七つですもの、手(て)のかゝる子ぢやなし、學校にでも行くやうになつたら、朝寢坊の我儘(わがまゝ)が出來ないから、そしたら女中を置(お)いても好(い)いけれど、それまではまア、當分(たうぶん)此儘(このまゝ)でやつて見ませうよ」

「でも何だぜ、これまでの家(うち)のやうに木戶の中と違(ちが)つて、これでも通り筋(すぢ)だから、まるつきり留守(るす)にして外へ出るわけにも行かないしね、留守居のつもりにでも女中を置いた方が可(よ)かないか」

「なるだけ留守にしなければ好(い)いでせう、それに女中とは云へ、水入(みづい)らずの内輪(うちわ)ばかりで暮(くら)して來た中へ、一人でも他人(たにん)が交(まじ)ると、萬事(ばんじ)が違つて來ますから」と女は何かにつけて大マカな事をいふ。[やぶちゃん注:「大マカな」は底本では『ヤマカな』となっている。『ウェッジ文庫』版で訂した。]

「ぢやまア、お前の好(す)きなやうにやつて見るさ」と精一も賛成(さんせい)した。

 入つて取付(とつつき)が三疊(でふ)、つゞいて八疊が客間(きやくま)、それにつゞいた四疊半が茶(ちや)の間(ま)、茶の間の橫に六疊の書齋(しよさい)がある、その書齋と茶の間との間の廊下(らうか)のつき當りに杉戶(すぎと)が一枚立つてゐる、これが開き[やぶちゃん注:「ひらき」。]になつてゐて、開(あ)けると中をヲドリ場をつけて曲(まが)り角(かど)のある暗い梯子だん、この梯子だん[やぶちゃん注:「はしごだん」。]を上ると二階が六疊一間といふ妙(めう)な間(ま)どり、

「どつちかといふと、此家は二階(かい)の六疊だけが不用(ふよう)なようだね、一寸(ちよつと)使(つか)ひ道(みち)がないぢやないか」

「さうですね、間貸(まが)しでもするには好(い)いかも知れませんが」

「あれだけは全(まつた)く離(はな)れ島だ、尤(もつと)もあの二階だけはお神樂屋臺(かぐらやたい)になつてゐるやうだね、あとから何かの必要(ひつえう)があつてくつゝけたものだらう」

「さうらしうございますわ、何しろ遊(あそ)ばして置くのは勿體(もつたい)ないから、貸間(かしま)にでもしませうか」

「いや、いけないいけない、女中を置(お)いてさへ氣兼(きが)ねがあるやうな事(こと)を云つてゐるお前ぢやないか、況(ま)して他人を同居(どうきよ)させるなんて以(もつ)ての外だ」

「それもさうですね」

 ゆつたりとした心持で二人が家(うち)の中を見まはしてゐる中に、お君(きみ)は不圖(ふと)氣(き)が付(つ)いた、

「精太郞(せいたらう)はどこへ行つたのでせう」

「さうだね、先刻(さつき)まで茶の間に遊(あそ)んでゐたやうだつたが」と覗(のぞ)いて見たが居ない、玄關(げんくわん)の三疊にも居(ゐ)ない。

「精ちやん精ちやん」とお君(きみ)が呼(よ)ぶと、ずつと遠(とほ)いところで、

「ハーイ」と答(こた)へる。

「何處にゐるの、何(なに)かおいたをしてゐるんぢやありませんか」

「何もしないよ、僕(ぼく)ね、只(たゞ)遊(あそ)んでるの」と云ひながら廊下(らうか)の方からぬつと出て來た。

「何處へ行(い)つてたんです」

「あのお二階(かい)で遊んでたよ」

「お二階で、まアお前さん、よく淋(さび)しくないね、今お蕎麥(そば)が來ますから、こゝにいらつしやい」

 お蕎麥(そば)が來ると、それを親子三人が車座(くるまざ)になつてたぐり込(こ)んだあとで、お茶づけを輕(かる)く濟(す)ましてこれが夕(ゆふ)めし。

 往來の河岸通りで、蜻蛉(とんぼ)を釣(つ)る子供たちががやがやと一しきり、何となくお盆(ぼん)すぎらしい蟲賣(むしうり)の蟲(むし)の聲(こゑ)がしんみりとざわついたあとは、とつぶりと日が暮れた、萩原(はぎはら)一家(か)の新居の第一夜が來る。

[やぶちゃん注:主人公一家は引っ越したその日の最初の食事を「蕎麥」にしているのは、所謂「引っ越し蕎麦」の風習の名残りである。「出雲そば 本田屋」公式サイトの「引っ越しそばの由来と起源は? 引っ越しのご挨拶マナーも紹介」を見られたい。]

 

         

 

 翌日(よくじつ)から精一が會社へ出勤(しゆつきん)するのは朝の八時、そのあとはおきみと精太郞(せいたらう)と二人きり、落付(おちつ)いたとは云へ、まだ引越(ひつこし)したばかりの新宅(しんたく)、家の中がそここゝと片付(かたづ)かないので、お君は殆んど終日(しうじつ)こそこそ動いてゐた。

 精太郞はその母親の側(そば)へ時々顏を見せては又(また)どこかへ行つて一人でよく遊(あそ)んで來る。

「往來(わうらい)に出るんぢやありませんよ、大川へ落(おつ)こつたら大變(たいへん)ですから」と母親がいヘば「表へなんぞ出やしないよ」と云つては、ちよこちよこと廊下(らうか)を走(はし)つてゐる。

 其晚、精(せい)一が歸つて來て、親子三人夕餉(ゆふげ)の膳を圍(かこ)んだ時、おきみは眉(まゆ)をひそめながらかう云つた。

「ねえ、貴郞、此邊(こへん)の人、隨分(ずゐぶん)變(へん)なんですよ、それほど品(ひん)の惡い人が住んでる樣子(やうす)もないんですがね、どうしたわけだか、人の家を覗(のぞ)きにばかり來るんですよ」

「なあに氣(き)にする事はないよ、新しい人が越して來たから、どんな人かと思つて覗(のぞ)き込(こ)むんだらう、當座(たうざ)の間の事さ、その中二三日も經(た)つたら、自然(しぜん)顏馴染(かほなじみ)にもなつて氣心(きごころ)も知れるだらうよ」

「ですけれどね、こんなに仕舞屋(しもたや)つゞきではお馴染(なじみ)なんざ中々出來さうもありませんわ」

「出來なけれあ、いつそ出來ないが好いさ、其(そ)の方(はう)がいくら氣樂(きらく)だか知れない」

「でもあんなに迂散(うさん)さうに覗き込まれると、私(わたし)、いやになつて了(しま)ふわ」

「まあなるだけ氣にしないでゐるさ、――精坊(せいばう)や、お前はどうだ、先(せん)のお家と今度のお家とどつちが好(い)い」

「僕、今度(こんど)のお家の方がよつぽど好(い)いや、だつてお二階(かい)があるんだもの」

「ははは、お二階(かい)があるか、だけど精坊、お二階(かい)へ上つたり下りたりしてゐると今に落(お)ちるよ、お母さんに捕(つか)まへてもらふやうにしなければいけないよ」

「お母(かあ)ちやんなんかつかまへてくれなくても好(い)いよ、叔母(おば)ちやんがちやんと坊や坊やつて抱(だ)つこしてくれるよ」

「叔母さんて誰(だれ)だえ」と精(せい)一は妙(めう)な顏をした。

「叔母さんさ、二階の叔母さんぢやないか、父(とう)ちやん知らないのかな」

 精(せい)一は目をぱちくりさした。

「二階の叔母さんて誰(だ)れの事だらう」

「誰れも居やしないぢやないの、精坊(せいぼう[やぶちゃん注:ママ。以下同じく混雑する。])」

「居るよ、知(し)らないのかな、お父さんもお母さんも知(し)らないんだ。好(い)い叔母さんだぜ」と「誰れだらう」「誰れだらう」と夫婦(ふうふ)は顏を見合せたが、親子(おやこ)三人家内、外に人が居さうな事(こと)はない、精太郞は其樣事(そんなこと)に頓着(とんちやく)しないで繪本などをひねくつて獨(ひと)り言(ごと)をしてゐたが、

「お母さん、僕(ぼく)眠(ねむ)くなつちやつた」とお君の膝(ひざ)に這(は)ひ上(あが)つてぐつたりしたと思つたが、小さな欠伸(あくび)を一つして、もうすやすやと眠(ねむ)つた。

「何を云つてるんだか判(わか)つたもんぢやない、寢(ね)かしておやり」

「ほんとに何か思(おも)ひ違(ちが)ひでもしてゐるんでせうよ」

 精太郞を寢(ね)かしてから良人(をつと)は新聞など膝(ひざ)の上にひろげてゐたが、針仕事(はりしごと)を始めたお君が頻(しき)りに手足を動(うご)かしてゐるのを見て、

「下町はまだ中々(なかなか)蚊が多いね、少し早いけれど寢るとしようか」

「え、さうしませう」とお君(きみ)は床を展(の)べる、精一はまだ新宅(しんたく)の何となく落付(おちつ)かないので、戶締りを見まはつて來ませうと下の部屋々々(へやへや)をまはりながら二階(かい)へ上つた。

 やがて二階(かい)から下りて來た精一が

「おきみ、精坊(せいぼう)のいふ二階の叔母さんが判つたよ」といふ。

 お君は一寸(ちよつと)驚(おどろ)いて振向くと、

「ほら、お母さんの寫眞(しやしん)を引伸(ひきの)ばして額にしたらう、あれが裏(うら)二階(かい)の額になつてるものだから、その事を云(い)つてるんぢやないか」

「あ、さうですか、裏(うら)二階(かい)は丁度隱居所に好いからつて貴郞(あなた)があの額をおかけになりましたね、さういへばお母さんはよく精坊を可愛(かあい)がつて下さいましたわね」

「うん、こんな子供でも、自分(じぶん)を可愛がつてくれた人の事は中々(なかなか)忘れないものと見える」

 これで精太郞(せいたらう)のいふ「二階の叔母さん」は一應(おう)解決(かいけつ)がついて、夫婦は寢支度(ねじたく)にかゝつた。

[やぶちゃん注:「大川」「一」の冒頭で、「ある都會(とくわい)の下町」とあったが、萩原一家の言葉遣いに訛りがなく、「大川」(おほかは)とくれば、これは隅田川で、その「下町」「河岸通(かしどほ)り」とくれば、東京都墨田区の凡そ南半分を範囲とする本所附近がモデル・ロケーションであると言える。

「裏(うら)二階(かい)は丁度隱居所に好いからつて貴郞(あなた)があの額をおかけになりましたね、さういへばお母さんはよく精坊を可愛(かあい)がつて下さいましたわね」ちょっと躓くような表現だが、これは、精一の母は、ここへ引っ越す有意な前に亡くなっているようで、而して、その母の写真を額にして、新居の、この二階を、母の霊の隠居所にちょうどいいと言って、精一が掲げた、というのである。]

 

         

 

 三日(か)經(た)ち、四日經ちしてゐる間に、夫婦(ふうふ)は此の家に追々(おひおひ)馴染(なじ)みがついて來た、住(す)めば住むほど居心のよい家(うち)といふ事になつた。

「只近所の人がいやだわ、相變(あひかは)らず覗(のぞ)きに來るんですもの」とお君はそれを氣にしたが、

「仕方がないよ、一つぐらゐは惡(わる)い事がなけれあ、それに覗(のぞ)かれたつて不都合(ふつがふ)な事のあるやうな家の中ぢやないんだから、覗(のぞ)く奴(やつ)には覗かして置けば好(い)いぢやないか」と良人(をつと)は笑ひ消して了つた。

 五日六日經(た)つと、

「この頃(ごろ)精坊(せいばう)が大變大人(おとな)しくなつたぢやないか、お前、さうは思(も)はないか」と良人(をつと)が云つた。

「え、私もさう思つてるんですの、此家(このうち)に來てからといふもの打(う)つて變(かは)つて大人(おとな)しい子になりましたわ」

「病氣(びやうき)でもあるんぢやないか」

「いゝえ、身體(からだ)は何ともないらしいやうですよ、あの淋(さび)しい裏(うら)二階(かい)が馬鹿に氣に入つたと見えて、此頃は終日(いちんち)裏(うら)二階(かい)を上つたり下りたりして遊(あそ)んでますわ」

「よくあんな淋しい部屋へ獨(どく)りで行けるね、子供(こども)といふものは、家の中でも人の居(ゐ)るところにばかり居たがるものだが、裏二階で何(なに)をして遊(あそ)んでゐるんだ」

「それがね、可笑(をか)しいんですよ、今日なんざ半日(はんにち)の餘(よ)も裏二階に上つたきりですから、何(なに)をして遊んでるのかと思つて、そつと階子段(はしごだん)から覗いて見ましたら、床の間を枕(まくら)にして、寢そべつたままで獨りでお話しをしてるんですの、精坊(せいばう)や、お前何を云(い)つてるんだえと私が聲(こゑ)をかけましたらね、私の方は振向(ふりむ)きもしないで、お母さん、今(いま)叔母(をば)さんとお話してるんだよ、お母さんも上つていらつしやい、なんて濟(す)ましてるんです」

「ははは、床の間に枕(まくら)をすると、丁度目の上へお母さんの額(がく)があるといふわけだね、他愛(たあい)もない奴だな」

「でもよく飽(あ)きないと思つて感心(かんしん)しましたわ」とそれで其日は濟(す)んだ。

 が更に二三日(にち)經(た)つたある日、おきみは良人(をつと)のかへりを待ち受けて、一寸(ちよつと)聲(こゑ)をひそめながら、

「貴郞(あなた)、精太郞に何か憑(つ)きものでもしてるんぢやないでせうか]といふ。

「何故(なぜ)、どうかしたかい」

「いゝえ、どうもしませんが、その二階(かい)の叔母(をば)さんといふのが、私は變(へん)だと思ふんです」

「二階の叔母(をば)さんならお母さんの事ぢやないか、氣にする事はない」

「いゝえ、それがね、今日(けふ)汚穢屋(をわいや)さんが來て臭くつて仕樣(しやう)がありませんから、二階の地袋(ぢぶくろ)まで香盒(かうごふ)をとりに上りましたらね、いつもの通(とほ)りに床の間を枕にして獨話(ひとりばな)しをしてた精太郞が、だしぬけに泣(な)き出(だ)したんですの」

「びつくりしてかえ」

「いゝえ、だしぬけにお母(かあ)さんが上つて來るものだから、叔母(をば)さんが何處かへ行つて了(しま)つたと云つておいおい泣(な)くんです、お前の祖母(おばあ)さんならちやんとこゝに居(を)らつしやるぢやないかとあのお寫眞(しやしん)を指さして見せましたら、この祖母(おばあ)さんぢやないんだ、いつでも坊を抱(だつ)こしてくれる叔母さんだ、何處(どこ)かに行つちやつた。叔母(をば)さん叔母さんと云つて、只(たゞ)泣(な)いてばかり居るんです」

「ふうむ、それは變(へん)だね、さうすると、精太郞(せいたらう)のいふ叔母(をば)さんはお母さんの寫眞(しやしん)の事ぢやなかつたのかね」

「え、どうもさうらしいんですのよ」

「それで、其後(そのご)はどうした」

「それから下へ連れて來て、お菓子(くわし)をやつたりして、やつと機嫌(きげん)を直させると、又(また)こそこそお二階(かい)へ上つて行きましたが、今度は又先の通り大人(おのな)しく遊(あそ)んでましたわ、相變(あひかは)らず獨(ひと)りでお話をして」

「變(へん)な子だね」

「それに裏(うら)二階(かい)へばかり行きたがるのが、私にはどうしても不思議(ふしぎ)でなりませんわ」

「うん、それは只(たゞ)蟲(むし)が好(す)くんだとばかり俺(おれ)も思つてゐたが、さうなつて見ると、ちつと可怪(をか)しいね、今も行つてるかえ」

「え、多分(たぶん)さうでせう、精坊や精坊や」と呼べば、案(あん)の定(ぢやう)、裏二階の方で「ハーイ」と返事(へんじ)をしてちよこちよこと下りて來(き)た。

「お二階の叔母(をば)さん、どうしたい」と精(せい)一が聞くと、

「お二階の叔母さんね、今僕に猿坊(えて)のお話をしてくれたよ、お月樣(つきさま)がね、ずつと遠(とほ)くのお山の中のお池(いけ)へ下りていらつしやるんだつて、さうするとね、猿坊(えて)がね、木の枝にとまりながら、お池の中で行水(ぎやうずゐ[やぶちゃん注:ママ。既に先行す作品で注したが、「水」の音の正しい歴史的仮名遣は、現在では「すい」が正しい。])してるお月樣を捕(つか)まへてやらうと思つて手を伸(のば)して、ヒヨイと飛び込むと、お月樣の方が早(はや)いもんだから、ピンと天へ上つて了(しま)ふんだつて、そしてどうしても捕(つか)まらないんだつて」

「猿喉水月(えんこうすゐげつ)か、ほう洒落(しやれ)た話を知つてるね、そんな事を二階の叔母(をば)さんが坊やに話して下すつたのかい」

「あゝ。もつと澤山(たくさん)話してくれるよ、雨の神さまとお天道樣(てんたうさま)と喧嘩(けんくわ)した話も、それから鼠が描の仇討(あだうち)をするお話も、それから――」

「二階(かい)の叔母(をば)さんてどんな人だい」

「お父さん知らないの、變(へん)だな二階(かい)の叔母さんはお父さん