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2021/04/13

芥川龍之介書簡抄34 / 大正三(一九一五)年書簡より(十二) 吉田彌生宛ラヴ・レター

 

[やぶちゃん注:以下の手紙の相手である吉田彌生については、非常に変則的な形で悪いのだが、「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の私の冒頭注の太字より後の部分でこの前後の経緯をコンパクトに記しておいたので、そちらを読まれたい。ここでは繰り返さない。これは葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)の「書簡補遺」の中にあるもので、葛巻氏の割注解説は『大正三年末、詩稿と共に』とだけある。しかし、この葛巻氏の説明には私は甚だ不審を抱いている。何故なら、これはそのまま引用書の「書簡補遺」の解説と軌を一にしたものとして理解するなら――大正二年の年末に詩稿と一緒に芥川龍之介が吉田彌生に当てて送った書簡原本――ということになるからである。例えば、先の彼女宛の芥川龍之介のそれである「芥川龍之介書簡抄27 / 大正三(一九一四)年書簡より(五) 吉田彌生宛ラヴ・レター二通(草稿断片三葉・三種目には七月二十八日のクレジット入り)」は、標題でも示した通り、葛巻氏が割注解説ではっきりと『草稿断片』と明記しているから、現存(「芥川龍之介未定稿集」刊行当時)していても何ら、問題ないし、不思議でも何でもないのであるが、この解説には「草稿」とか「下書き」という言葉がないのが極めて不審なのである。そもそもが、現在まで、芥川龍之介が吉田彌生に送った書簡というのは全集には載っていないのである。最初のリンク先の注で私が纏めたように、後の吉田彌生、結婚してからの金田一彌生は、その後、終生、芥川龍之介に関連した談話をすることはなかったとされており、夫光男に至っては、戦後、龍之介に関わるインタビューをしに来た記者を邪見に追い返してさえいるのである。さすれば、岩波の第一次以降の「芥川龍之介全集」に彼女宛の書簡が載らないのも、恐らくは当時の編集者が求めた書簡貸与依頼にも一切、終生、応じなかったし、今もそんなものが現存するという話は、この葛巻氏の「未定稿集」以外には私は知らないのである。第一次の編集者の一人であった葛巻が、その時か、或いはその後、個人的に彼女に接触し、借り受けたものという可能性も全否定は出来ないものの、知る限りの彌生の様子や金田一家の雰囲気からして、私は芥川龍之介の生前のとっくの昔に原書簡は廃棄されている気がするのである。寧ろ、これは詩稿が含まれているため、芥川龍之介が下書きしたものを筐底に詩稿用の保存として残していたものを、葛巻は実際に送られた書簡のように出したのではないか? と考えた方が、遙かに現実的で自然なのである、とだけは、どうしても言っておかねばならない。そもそもが、この解説の「詩稿」がどのようなものなのかも葛巻は言っていないし、同「未定稿集」の「詩」のパートにもそれと確かに名指し示すことが出来得るものは載っていないと私は断言してよいと考えている。或いは、私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の中の未定稿詩篇の中にはあるのかも知れないし、ないのかも知れない。それは判らぬ。だいだいからして、詩稿と一緒に送られたものならば、詩を添えて示すか、同書の「詩」のパートに載せてこの吉田宛書簡に添えてあった詩だと示しておくべきであろう。既に全集に収録されているのであれば、それを名指すべきで当然である(こうした不全性や怪しい感じ(資料を恣意的に小出しにしているのではないかという疑惑)が葛巻氏が芥川龍之介研究者から甚だ不人気な理由なのである)。或いは、単に、葛巻は、この『詩稿』という言葉で、詩稿の断片に中に彌生宛の草稿らしきもの・下書きらしきものがあった言ったつもりだったのかも知れぬが、それはそれで、甚だ致命的な手抜かりであると言わざるを得ぬのである。

 

大正三(一九一五)年十二月末・吉田彌生宛

 

こは人に御見せ下さるまじく候

YACHANとよびまつらむも

かぎりあるべく候 いつの日か

再 し・ゆ・う・べ・る・とが哀調を 共

にきくこと候ひなむや

 

[やぶちゃん注:「YACHAN」は縦書き。]

大和本草附錄巻之二 魚類 エイノ類 (エイ類)

 

エイノ類 スブタヱイ゜カイメニ似タリカイメヨリヒラタ大

ナリ目口ヒレ尾カイメニ同○ウシヱイノ色黑シ○

トビヱイ子ヅミ色龜ノ頭ノ如シ○鳥エイ味赤エイ

ニマサル味カロクヨシ○カラスヱイ是モ色黑シ○コンヒ

ラエイ形ヨコヒロシ○サエイ色赤黑右何レモ味同シ

○やぶちゃんの書き下し文

「えい」の類

すぶたゑい 「かいめ」に似たり。「かいめ」より、ひらた〔し〕。大なり。目・口・ひれ・尾、「かいめ」に同じ。

○「うしゑい」の色、黑し。

○「とびゑい」 ねづみ色。龜の頭のごとし。

○「鳥えい」 味、「赤えい」にまさる。味。かろく、よし。

○「からすゑい」 是れも、色、黑し。

○「こんぴらえい」 形、よこ、ひろし。

○「さえい」 色、赤黑。

右、何れも、味、同じ。

[やぶちゃん注:「エ」と「ヱ」の混用はママである。但し、「鱝・鱏」(エイ類)の「えい」は歴史的仮名遣では「えひ」が正しく、これらは総て誤表記であるので注意されたい。「大和本草卷之十三 魚之下 海鷂魚(ヱイ) (アカエイ・マダラトビエイ)」があるが、そこで私が注した通り、その記載は概ね、軟骨魚綱板鰓亜綱エイ上目エイ亜区トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei 及び、「鳥ゑい」とするトビエイ目トビエイ科マダラトビエイ Aetobatus narinari の記載と読んだ。さすれば、この二種以外のものにここでは同定を試みることとするが、なかなか手強い。

「すぶたゑい」「簀蓋鱝」でこの異名を、魚類異名表(PDF)に見出せるのだが、種同定されていない。意味は「簀の子板で出来た鍋の蓋のようなエイ」のように思われる。しかし、それは概ね一般的なエイを呼んでも通じる。さて、そこでいろいろ探ってみたところが、「重修本草綱目啓蒙」の巻四十の「無鱗魚」の「海鷂魚」(エイ)の一節に(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部画像。左ページの一行目)、

   *

一種「スブタエイ」は犂頭鯊(カイヅブカ)に似て扁大なり。目・口・鰭・尾、皆、犂頭鯊におなじ。

   *

と出るのを見つけた。この犂頭鯊(カイヅブカ)は、

サカタザメ(エイ区エイ上目サカタザメ目サカタザメ科サカタザメ属サカタザメ Rhinobatos schlegelii :「坂田鮫」と書くが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のサカタザメのページを見ると、この『「さかた」は「逆田」なのではないか? すなわち』、『田を耕す「鋤」に似たサメという意味』とあって、目から鱗であった)

の異名である。所謂、尖頭状を呈し、ちょっと左右に開いた後頭部分がエイっぽいが、胴体が細長く超スマートなエイとサメの合いの子みたような種である。小野蘭山の謂いなら、そいつか、その近縁種としか読めないのだが、「スブタエイ」に似たものとしては「サカタザメ」の中には「テンガイエブタ」(和歌山県湯浅)ぐらいしか見当たらない。そもそもが形態からして、彼はエイの名を附さない異名が圧倒的に多いのである(脱線だが、この仲間は、古くから、乾して加工し、腹部側(奇体な顔にシミュラクラ(simulacra)する)を見せて「怪物」「宇宙人の死体」などとして好事家に取引されていたのを思い出す。「devilfish」或いは「ジェニー・ハニヴァー」(英語:Jenny Haniver)と呼ぶ。「栗本丹洲 魚譜 カツベ (メガネカスベの腹部か?)」の私の注を参照されたい)。ところが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアカエイのページを見るに、「マエノエブタ」(三重県・和歌山県など紀州)・「ブタ・チャンガラブタ」(岡山県)・「エブタ」(和歌山県紀の川市・和歌山市雑賀崎・湯浅・和深)や「カセブタ」などスブタに親和性のある異名が見出せるのである。ところがどっこいで、益軒は続けて『「かいめ」に似たり。「かいめ」より。ひらた』く、「大」きく、ところが、『目・口・ひれ・尾、「かいめ」に同じ』とのたもうているのだ。この「かいめ」というのは、

九州・福岡志賀島・長崎でサカタザメの異名

としてあるのである。若い頃を除いて福岡藩から殆んど出なかった益軒のフィールド内である。さればこそ、これはもう、サカタザメに比定するしかないのではなかろうか? 当該ウィキによれば、『大韓民国、中華人民共和国、台湾、朝鮮民主主義人民共和国、日本』、『太平洋北西部(茨城県および新潟県以南から東シナ海・南シナ海にかけて)』に分布する温帯の南方系種である。『三角形に突出した吻を有する。前方に延びた胸びれと吻が融合し』、『体板を形成する。胸びれの後縁と腹びれの前縁は密接する』。『第一背びれの基部が腹びれよりもかなり後方にあることで、他属と識別できる』。『他のエイ同様に体は扁平であり、長い尾部を有する』。『上面から見ると、菱形の体に尾がついたような姿をしており、サカタザメ科の仲間はこの外見上の特徴からギターフィッシュ(guitarfish)の英名を持つ』。『分類上の問題があり、おそらくは太平洋北西部のみに分布し』、『他の地域からの報告は誤同定であること・日本近海でも吻の形状から二型に分かれること・仮にこの二型が独立種となった場合に東アジアの他地域での分布状況がわからないなどの問題点がある』。『近海の砂底に生息し、冬場はやや深い場所に移動する』。『卵胎生で』、六月頃に六~十尾ほどの『胎児を産む』。『サカタエイ(和歌山県)、サカタ(関西・長崎県)、スキ(関西・鳥羽市)、スキサキ(高知県・宇和島市・小野田市・島根県)、コオト(松山市)、カイメ(福岡県)、トオバ(東京都)など』。『上記のように分類上に問題があることと、生息数の推移に関するデータが不足していることから』、『本種の生息状況に関しては不明とされている』。『底引網で漁獲される。魚肉練り製品の原料のほか、ふかひれとしても利用される』。『鮮魚は関西では刺身にもされ』、『湯引きや洗いにして酢味噌でも食される』とある。因みに、「カイメ」の語源は不明である。

「うしゑい」トビエイ目アカエイ科アカエイ属ウシエイ Dasyatis ushiei 。本邦産のエイの中では巨大種で、二メートル以上になる。アカエイよりも体色が黒い。種小名がアカエイと同じくズバリ、「ウシエイ」というのも珍しいが、実際、日本近海でしか見られないようである。

「とびゑい」「ねづみ色」で「龜の頭のごとし」で、軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目トビエイ科マダラトビエイ Aetobatus narinari でよかろうか(斑であることを言っていないのは気にはなる)。私の『毛利梅園「梅園魚譜」 海鷂魚(マダラトビエイ?)』を参照されたい。

「鳥えい」益軒は別種としたいらしいが、これも私はマダトビエイとするしかない。個体観察を述べずに、味のことしか言っていないから、生体や解体前の個体を見ていない可能性があり、この同定でいいと思う。本文の「大和本草卷之十三 魚之下 海鷂魚(ヱイ) (アカエイ・マダラトビエイ)」でもそう同定したからである。

「からすゑい」名と色から、トビエイ目アカエイ科カラスエイ属カラスエイ Pteroplatytrygon violacea でよかろう。当該ウィキによれば、『カラスエイ属は単型』(たんけい:monotypic:一属一種)『体盤は横長でくさび型。鋭い歯と鞭のような尾、長い毒針を持つ。体色は紫から青緑。体盤幅59cm程度まで成長する。水温19°C以上の外洋域に生息し、季節回遊する。外洋に生息する唯一のアカエイ類で、通常は100m以浅で見られる。底生のアカエイ類と異なり、羽ばたくように泳ぐ』。『餌は遊泳性の無脊椎動物や小魚。活発な捕食者で、胸鰭で獲物を包み込む。産卵期のイカのような季節性の餌も利用する。無胎盤性胎生で妊娠期間は短く、年間2回・4-13匹の仔魚を生む。出産は赤道付近で、時期は場所によって異なる。漁業者を除いて遭遇することは少ないが、尾の棘は危険である。経済価値はあまりなく、混獲されても捨てられる。捕食者の減少により』、『個体数は増えている』。『ほぼ世界中の熱帯から暖帯、緯度52°N-50°Sの外洋域に生息している。西部大西洋ではグランドバンクからノースカロライナ・メキシコ湾・小アンティル諸島・ブラジル・ウルグアイ、東部大西洋では北海からマデイラ諸島・地中海・カーボベルデ周辺・ギニア湾・南アフリカ沖、西部太平洋では日本からオーストラリア・ニュージーランド、東部太平洋ではブリティッシュコロンビアからチリ、また、ハワイ・ガラパゴス・イースター島からも報告されている。インド洋からはあまり報告がないが、インドネシア南西部では一般的である』。『外洋で見られるほぼ唯一のアカエイ類で』、『海底より』も『外洋に生息するのが特徴で、通常100m以浅で見られる』。『海底に近づくこともあり、九州パラオ海嶺の330-381mの深度でも捕獲されている』。『水温19°C以上を好み、15°Cを下回ると死滅する』。『暖水塊を追って季節回遊を行』ない、『北西大西洋では、12-4月はメキシコ湾流の近くで、6-9月は北方の大陸棚で見られる。地中海でも同じような回遊を行うと考えられているが詳細は分かっていない。太平洋では冬季を赤道の近くで過ごし、春になるとより高緯度の沿岸部に移動する』。『太平洋には2つの個体群が存在し、1つは中米からカリフォルニア、もう1つは中央太平洋から日本・ブリティッシュコロンビアまで回遊する』。『南東ブラジルのカボ・フリオ沖では晩春から夏に冷たい湧昇流が見られるため、深度45mより上の暖水塊が存在する領域に閉じ込められる』。『横長でくさび型の体盤、突出しない眼、紫の体色が特徴』(これは水揚げされた場合、明らかに黒っぽく見える。後の「★☜部★」も参照)。『体盤は厚くくさび型で、長さは幅の約3/4。前縁は弧を描き、後縁はほぼ真っ直ぐに尾に続いている。吻は短く先端は丸い。眼は小さく、他のアカエイ類と違い突き出さず、すぐ後方に噴水孔がある。鼻孔間に短くて広い鼻褶があり、口は小さく少し曲がる。口角に深い溝があり、下顎の凹みに合わせて上顎の中央が少し突出する』。『口底を横切って、0-15に分岐した乳頭突起の列がある。上顎には25-34、下顎には25-31の歯列がある。雌雄共に鋭く尖った歯を持つが、雄の方が長く鋭い』。『腹鰭の縁はほぼ真っ直ぐで両端は少し丸くなっている』。『鞭のような尾は体盤の2倍の長さになる。根元は太いが、急激に細くなり非常に長い。前方から約1/3の場所に、鋸歯状の棘が尾に沿って生えている。先の棘が抜ける前に次の棘が生えることがあり、この場合は2本存在する。低い皮褶が棘の基部から尾の先端の手前まで伸びる。若魚の皮膚は完全に滑らかだが、年と共に背面中央に小さな棘が現れ、眼の間から棘の基部にかけてを覆う』。『背面は暗紫色から青緑色、腹側はそれより少し明るい色である。捕まえたり触ったりすると、濃い黒の粘液』(★☜★)『が滲み出し体を覆う』。『体長1.3m・体幅59cm程度』で、『1995-2000年にかけて行われた飼育実験での最大個体は、雄は体幅68cm・体重12kg、雌は体幅94cm・体重49kgであった』。『羽ばたいて泳ぐ』。『遊泳性であるため、底生の近縁種とは様々な点で異なっている。ほとんどのアカエイ類は体盤をうねらせることで推進するが、この種はトビエイと同じように胸鰭を羽ばたかせることで泳ぐ。この泳ぎ方は小回りが効かないが、揚力が発生し』、『推進効率が高い』。『後ろ向きに泳ぐこともでき、小回りの効かなさを補っている』。『獲物を視覚に頼って見つけると考えられている。他のアカエイ類と比べ』、『ロレンチーニ器官』(Ampullae of Lorenzini:微弱な電流を感知する電気受容感覚(英語版)の一種で、サメ類の頭部に広く分布し、摂餌対象を探す方法の一つとして利用している)『の密度が1/3以下であり、覆っている面積も少ない。だが、背面・腹面共に同数程度存在し、トビエイ類よりは多い。30cmまでの距離で1nV/cm以下の電場を感知でき、海水の動きによって発生する電場を捉えられる可能性もある。機械受容器である側線は、他のアカエイ類に似て背面・腹面の広範囲を覆っている』。しかし、『機械刺激より』、『視覚刺激の方に敏感である』。『雄は雌よりも深い場所に生息し、おそらく水平方向にも棲み分けていると考えられる』。『捕獲個体は空腹時にマンボウを攻撃することが観察されている』。『ヨゴレ』(汚。「ヨゴレザメ」とも呼ぶ。軟骨魚綱メジロザメ目メジロザメ科メジロザメ属ヨゴレ Carcharhinus longimanus )『・ホホジロザメ・ハクジラなどの大型捕食者の獲物となる』。『体色は特徴のない背景の中で保護色となる』。『尾の毒針は潜在的に他魚を遠ざけている』。『活発な捕食者であり、獲物を胸鰭で包み込んでから口に運ぶ。滑らかな獲物を捉えて切断するため、アカエイ類には珍しく鋭く尖った歯を持つ』。『餌の種類は多様であり、端脚類・オキアミ・カニの幼生などの甲殻類、イカ・タコ・翼足類などの軟体動物、ニシン・サバ・タツノオトシゴ・カワハギなどの魚類、クシクラゲ、クラゲ、多毛類などを食べる』。『11-4月のカリフォルニア沖では、繁殖のために集まった大量のイカを捕食する』。『1-2月のブラジル沖では、小魚に引き寄せられて沿岸に集まったタチウオの群れを捕食する』。『幼体は1日に体重の6-7%の餌を消費するが、成体では1%程度になる』。『他のアカエイ類のように、無胎盤性の胎生である。胚は卵黄栄養で育ち、その後組織栄養(タンパク質・脂質・粘液で構成された"子宮乳")に移行する。子宮乳は妊娠子宮絨毛糸(trophonemata)と呼ばれる、多数の糸状に伸長した子宮上皮から分泌され、胎児の広がった噴水孔から給餌される。卵巣・子宮は左側のみが機能し、年2回繁殖可能である』。『繁殖行動は、北西大西洋では3-6月、南西大西洋では晩春に見られる』。『雌は1年以上精子を蓄えることができ、適切な環境を選んで妊娠することができる』。『受精卵の塊は両端が先細りになった被膜に包まれているが、皮膜はすぐに破れ卵を子宮内に放出する』。『妊娠期間はエイの中で最も短い2-4か月であり、その間に胚の重量は100倍にもなる』。『人が遭遇することは少なく、攻撃的ではないが、扱う際には尾の棘に注意しなければならない。死亡例が2例あり、マグロ延縄漁従事者が捕獲個体に刺された例、別の漁業者が刺されて数日後に破傷風で死亡した例がある』。『水族館では長い間』、『飼育されてきた』。『インドネシアなどでは肉や軟骨を利用することもあるが、ほとんどの場合はその場で投棄される。延縄・刺し網・巻き網・底引き網などで大量に混獲されていると考えられている。延縄で混獲された場合、漁業者は棘を警戒し、舷側に叩きつけることで釣り針を外す。このことで口や顎に深刻なダメージを受け死ぬ個体が多い。この混獲量に関しては未だデータがない』。『だが、太平洋での調査では1950年代から個体数は増え続けている。これは商業漁業によってサメやマグロのような高次捕食者が減少したためだと考えられている』とある。

「こんぴらえい」不詳。エイ類の大型個体か。金毘羅なら、金毘羅権現で海神・水神の信仰対象であるから、魚の異名についていて不思議じゃないのだけれど、意外なことに、探してみたが、見当たらない。逆に恐れ多いのか?

「さえい」不詳。]

伽婢子卷之二 狐の妖怪

 

   ○狐の妖怪

 

Youko1

 [やぶちゃん注:右図から左図へと絵巻風に展開する。]

 江州武佐(むさ)の宿(しゆく)に、割竹(わりたけの)小彌太といふものあり。元は甲賀(こうか)に住(すみ)て、相撲(すまふ)を好み、力量ありて、心も不敵なりけるが、中比〔なかごろ〕、こゝに來り、旅人に宿(やど)かし、旅館(はたご)を以つて、營みとす。

 ある時、所用の事ありて、篠原堤(しのはらつゝみ)を行きけるに、日すでに暮かゝり、前後に人跡〔じんせき〕もなし。

 只、我獨り、道をいそぐ其間(そのあひだ)、道の傍らに、一つの狐、かけいでゝ、人の曝髑髏(しやれかうべ)を戴き、立あがりて、北に向ひ、禮拜(らいはい)するに、かの髑髏、地に落(おち)たり。

 又、とりて、戴きて、禮拜するに、又、落たり。

 落れば、又、戴く程に、七、八度に及びて、落ざりければ、狐、すなはち、立居(たちゐ)心のまゝにして、百度ばかり、北を拜む。

 小彌太、不思議に思ひて、立とまりて見れば、忽に、十七、八の女〔をんな〕になる。

 その美しさ、國中には並びもなく覺えたり。

 日は暮はてゝ、昏(くら)かりしに、小彌太が前(さき)に立(たち)て、聲、打あげ、物哀れに啼きつゝ、行く。

 元より、小彌太は不敵者なれば、少しも怖れず、女のそばに立寄り、

「如何に。これは誰人(たれ〔びと〕)なれば、何故に、日暮て、たゞひとり、物悲しく啼(なき)叫び、いづくをさして、おはするやらん。」

といふ。

 かの女、なくなく答へけるは、

「みづからは、是より、北の郡(こほり)余五(よご)といふ所の者にて侍べり。このほど、『山本山(〔やま〕もと〔やま〕)の城を責(せめ)とらん』とて、木下藤吉郞とかや聞えし大將、はせむかひ、其引足〔ひきあし〕に、余五・木下(きのもと)のあたり、皆、燒拂ひ給へば、みづからが親兄弟は、山本山にして、打死(うちじに)せられ、母は、おそれて、病出〔やみいで〕たり。かゝる所へ、軍兵〔ぐんびやう〕、打入〔うちいり〕て、家にありける財寳は、一つも殘さず、奪ひ取たり。母、聲をあげて恨みしかば、切殺(〔きり〕ころ)しぬ。みづから、怖ろしさに草むらの中に隱れて、やうやうに命をつぎけれ共、親もなく、兄弟もなし。賴む陰(かげ)なき孤子(みなしご)となり、いづくに身をおくべき便りもなければ、『今は唯、身を投げて死なばや』と思ひ侍べるに、悲しさは堪えがたくて、人目をも知らず、啼侍べるぞや。」

といふ。

 小彌太、聞て、

『まさしく、狐の化けて、我をたぶらかさんとす。我は又、此狐をたぶらかして、德、つかばや。』

と思ひ、

「げにげに、哀れなる御事かな。親兄弟も、皆になりて、立よるかげもおはしまさずは、幸(さいわひ)に、それがしの家、まことに貧しけれ共、一人を養ふほどの事は、ともかうも、し侍べらん。我(わが)家の事、心にしめて、まかなひ使はれ侍べらば、賴もしく見とゞけ侍べらん。」

といふ。

 女、大〔おほき〕によろこびて、

「あはれみ思召し、やしなうて給らば、みづからがため、父母の生れかはりと思ひ奉らん。」

とて、打連れて、武佐の宿(しゆく)に到り、小彌太が妻に對面して、さきのごとくに、かきくどき、なきければ、妻もあはれに思ひ、ことさら、形の美くしきを見て、いたはり、いつくしむ。

 小彌太、露ばかりも、妻に、狐の事を語らず。

[やぶちゃん注:「江州武佐(むさ)」現在の滋賀県近江八幡市武佐町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。中山道の六十六番目の宿で、この後、「守山宿」・「草津宿」・「大津宿」を経て京都(三条大橋)に着く。

「割竹(わりたけの)小彌太」「新日本古典文学大系」版脚注に、『竹を割るほどの強力の持ち主の意を込めた命名か。あるいは「割竹」は丸竹の先を割った、罪人をたたく刑具』に使用したもの(箒尻(ほうきじり)と称し、江戸時代に敲(たたき)や拷問に用いた棒で、割竹二本を麻糸で包み、その上を観世紙縒(かんぜこより:和紙を細長く裂いて縒(よ)ったもの、或いはその「紙縒り」を縄状に縒り合わせたもの)で巻く)であるから、『情け容赦を知らないの意か』とある。

「中比〔なかごろ〕」「語り物」にあって「執筆時制からあまり遠くない昔」の意を示す語として頻繁に用いられる語であるが、ここは小弥太の生活史を語っている中での用法であるから、『「中年」になってから』の謂いである。

「篠原堤(しのはらつゝみ)」近江八幡市の南西隣りの滋賀県野洲市の大篠原に今もある、中山道沿いの西池の西北の堤。ここがそれであること、この堤が平安末期には築かれてあったことが判る「公益財団法人滋賀県文化財保護協会」公式サイト内の「新近江名所圖会 第68回 現代に残る「過去」-大篠原の西池と堤」を読まれたい。

「一つの狐、かけいでゝ、人の曝髑髏(しやれかうべ)を戴き、立あがりて、北に向ひ、禮拜(らいはい)するに、かの髑髏、地に落(おち)たり。又、とりて、戴きて、禮拜するに、又、落たり。落れば、又、戴く程に、七、八度に及びて、落ざりければ、狐、すなはち、立居(たちゐ)心のまゝにして、百度ばかり、北を拜む。小彌太、不思議に思ひて、立とまりて見れば、忽に、十七、八の女〔をんな〕になる」これは妖狐が人間に化ける呪法の定規法である(なかなか手間がかかることが判る)。江戸前・中期の俳人岡西惟中(いちゅう 寛永一六(一六三九)年~正徳元(一七一一)年:鳥取生まれ。後に岡山から大坂に移り住んだ)の随筆「消閑雑記」に(「国文学研究資料館」公式サイト内の「電子資料館」内の影印本の当該部を視認し、漢文部は訓読(一部推定)した)、

   *

○狐はあやしきけもの也。常に人にばけて、たふらかし、また、人の皮肉(ひにく)に入てなやまし、あらぬ妙をなす事多し。「抱朴子(はうぼくし)」に曰はく、『狐(こ)、壽は八百歳也。三百歳の後(のち)、變化(へんげ)、人の形と為る。夜、尾を撃(うつ)て、火、出だし、髑髏を載(いたゝ)き北斗を拜み、落ちざるときは、則ち、人に變化(へんげ)す』と。これほと、修行(しゆぎやう)なり、功、つみたるものなれども、一旦、やき鼡(ねつみ)の香くはしきを見て、たちまち、わなにかゝり、命をうしなふ。人も、また、おなし。智惠・才覚(かく)、拔群(ばつぐん)のうまれつきにて、かくのことくの人も道にまとひ、利にまとひて、生涯(しやうがい)をうしなふ事、狐に同しきものなり。「人、以つて、狐にしかざるべし」か。

   *

ここの出る「やき鼡」(「燒鼠」)は鼠をあぶって焼いたもの或いは油で揚げたもので、狐の好物とされ、罠の餌に用いた。最近の私のものでは、「奥州ばなし おいで狐の話幷ニ岩千代權現」に妖狐が「油鼠(あぶらねづみ)に通(つう)を失ふ」とある。これは道教・神仙道の理論実践書「抱朴子」(東晋の葛洪(かっこう)撰。四世紀初頭の成立)の引用で判る通り、中国伝来で、後の晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆「酉陽雜俎」(ゆうようざっそ:八六〇年頃成立)の「巻十五 諾皋記(たくこうき)下」の一節にも、

   *

舊說野狐名紫狐、夜擊尾火出。將爲怪、必戴髑髏拜北斗、髑髏不墜、則化爲人矣。

(舊說に、『野狐は「紫狐」と名づく。夜、尾を擊ちて、火を出だす。將に怪と爲(な)るに、必ず、髑髏を戴き、北斗を拜し、髑髏、墜ざれば、則ち、爲して人と化す』と。)

   *

ちなみに、「しゃれこうべ」という語は「されかうべ」の転化で、「され」は動詞「曝(さ)れる」の連用形からで「風雨に曝(さら)されて肉が落ちた頭骨」の意。「野曝(晒)(のざら)し」である。なお、当初は「女」を「むすめ」と読もうと思うたが、「十七、八」とする年齢、後の段で男と契ってからも、読みが一斉に振られていないことから、「をんな」とした。「心のまゝにして」は変化叶ったことから、「思う存分」歓喜して例謝(恐らくは北斗七星)しているのである。

「小彌太が前(さき)に立(たち)て」小弥太の行く道の先に立って。騙さんとすること、明白。化けざまを総て見られていて気づかなかったこと、なかなか化けられなかったことからみて、未だ若い狐で、これが人に化けた始めでもあったか。

「余五(よご)」旧伊香郡(いかぐん:古くは「いかご」)の余呉地区は現在は長浜市であるが、かなりの広域である。南部は琵琶湖の最北端で、羽衣伝説で知られる余呉湖付近であるが、北部は岐阜・福井県境まで殆んどは峡谷を伴う険しい山岳地帯である。

「山本山(〔やま〕もと〔やま〕)の城」滋賀県長浜市湖北町山本にあった。サイト「城郭放浪記」の「近江 山本山城」によれば(地図有り)、『築城年代は定かではない。平安時代末期に山下兵衛尉義経が籠った山下城がこの城であったと云われる。その後』、『京極氏の被官阿閉』(あつじ)『氏の居城となったが、永正年間』(一五〇四年〜一五二一年)『頃には浅見氏の居城となっていた。 浅見氏は一時期』浅井亮政(あざいすけまさ)と『対立したが』、『後にその傘下に組み込まれ』、『再び阿閉氏が城主となった』。『織田信長による』主城『小谷城攻撃では、阿閉』淡路守貞征(さだゆき)の『籠る山本山城が天正元』(一五七三)『年』、『羽柴秀吉』の『謀略によって開城となり、小谷』(おだに)『城は孤立し』、『落城した』とある。この部分、ウィキの「阿閉貞征」を見ると、実は貞征は秘かに『信長に内応し』て『山本山に織田軍を引き入れたため、小谷城は孤立し』、『主家滅亡の遠因をつく』り、貞征は八月八日には子とともに『信長に降参し、後』、『すぐに朝倉攻めの先手を務め』ているとある(その後、天正一〇(一五八二)年の「本能寺の変」の後、彼は『明智光秀に加担して、秀吉の居城・長浜城を占領し』、「山崎の戦い」に参加して『先鋒部隊を務めるが、敗戦。秀吉方に捕縛され』、『一族全て処刑された』とある)。「新日本古典文学大系」版脚注によると、「木下藤吉郞」は『この合戦の戦功を認められ』、『浅井氏の旧領を得て、木下から羽柴に改姓』したとある。さて、本文では、山本山城へ「木下藤吉郞」が「はせむかひ、其引足〔ひきあし〕」をした(一回、兵を撤退させた)とあるのは、実は、その内応を受けての「やらせ」のポーズであり、さればこそ、貞征は直ぐに投降し、山本山城は落城ではなく、開城となり、信長の配下となったことが判る。

「余五」これは琵琶湖北岸の余呉湖周辺。

「木下(きのもと)」現在の長浜市木之本町(きのもとちょう)

「おそれて、病出〔やみいで〕たり」恐ろしさのあまり、気分が悪くなり、病み臥せってしまった。

「德、つかばや」『一つ、こちらが知らんふりをし、上手く扱って、なんでもいいから、逆にこやつを上手く使って、逆にこっちが何かせしめてやろう!』。

「皆になりて」皆、死んでしまって。

「我(わが)家の事、心にしめて、まかなひ使はれ侍べらば」「我が家の家政(旅宿経営)に就いて、性根を据えて、なにくれと学び励み、使用人となるということを厭わぬのであれば」。

「賴もしく見とゞけ侍べらん。」ま「ずは、そなたを信頼して、暫くは、これ、様子を見てやろうぞ。」。

「小彌太、露ばかりも、妻に、狐の事を語らず」この措置はなかなか思い切れるものではない。下手をすれば、小弥太の家産そのものを乗っ取られたり、潰されたり、命を失わぬとも限らぬのだから。彼の深謀遠慮は阿閉貞征も舌を巻くとも言えようか。

 

 天正のはじめ、江州、漸(やう)やく靜(しづか)になり、北の郡(こほり)は木下藤吉郞、是を領知し給ふに、石田市令助(いちのすけ)、京より下りける次に、武佐の宿、小彌太が家に留(とゞ)まり、かの女を見て、限りなく愛(めで)まどひ、

「如何にもして、此女を我に與へよ。」

と、いはれしかば、小彌太いふやう、

「歷々の諸大名、みな、望み給へども、今に、いづかたへも、參らせず。それがし、身すぎのたより、よろしく宛(あて)おこなひ給はゞ、奉らん。」

といふ。

 石田、聞て、金子百兩を出し與へ、女を買(かい[やぶちゃん注:ママ。])とり、打ちつれて、岐阜に歸られたり。

 女、いと、才覺あり、よろづにつきて、さかざかしう利根(りこん)にして、人の心にさきだち、物をまかなふ事、石田が思ふ如くなれば、本妻をも、かたはらになし、只、此女を寵愛す。

 されども、女は、少〔すこし〕も、高ぶるけしきもなく、本妻の心をとりて、

「みづからは妾(おもひもの)なり。いかでか、本妻の心をそむき奉らんや。」

とて、夜晝、まめやかに仕へ侍べりしかば、本妻も、さすがに憎からず、ねんごろに、いとほしみけり。

 出入〔いでいる〕ともがらにも、ほどほどにつきて、物なんど、取らせけり。あるひは、絹小袖・ふくさ物・針・白粉(おしろい)やうの類(たぐひ)、いつ、もとめおくとも見えねど、取出(とり〔いだ〕)して、賦(くばり)つかはす。

 しかも、其身、麻績(をうみ)つむぎ・物縫ひ・ゑかき・花結び迄、くらからず、侍べり。

「石田が家にこそ、賢女を求めけれ。」

と取沙汰あり。

 半年ばかりの後、石田、又、京都に上る。

 女、いふやう、

「必ず、忠義をもつぱらとして、私を忘れ、千金より重き御身を、小細(ささい)の事に替(かへ)給ふな。御内(みうち)の事は、みづからに任せ給へ。」

とて出〔いだ〕し立て、京にのぼらせたり。

[やぶちゃん注:「北の郡(こほり)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『近江国琵琶湖北岸』の『諸郡の総称』で、旧『浅井氏の領国にほぼ重なる』とある。

「石田市令助(いちのすけ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『市令は市正(いちのかみ)の唐名。「市令」も漢名のつもりであろうが、市司(いちのつかさ)の次官』は「助」ではなく、『市佑(いちのすけ)』であるとあった。目から鱗。

「歷々の諸大名、みな、望み給へども、今に、いづかたへも、參らせず」時間経過から見ても、これは完全な噓としか読めない。「德」「つかばや」の小弥太の意識が敏感に感応して始動したのである。

「それがし、身すぎのたより、よろしく宛(あて)おこなひ給はゞ、奉らん。」「拙者の世過ぎの糧につき、よろしく、何かあてがって差配し下さるとなら、差し上げましょう。」。「新日本古典文学大系」版脚注には、『「宛(充)て行ふ」は多く』、『役職や知行を下し与える場合に用いる語で、ここは、戯れて主従関係に擬しおもねっている』と注しておられる。

「さかざかしう利根(りこん)にして」非常に賢く、それはまた、生まれつきの利発さであり、口のきき方も上手であったがため。

「百兩」ウィキの「両」によれば、天正年間の「一両」=「米四石」=「永楽銭一貫文」=「鐚銭(びたせん)四貫文」とほぼ等価であったとある。先にある換算サイトでは、戦国時代の一貫文を現在の十五万円相当とするとあったので、これを永楽銭で換算すれば、一千五百万円相当、鐚銭では三百七十五万円相当となる。お好みで解釈されたい。

「岐阜」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『信長は、美濃稲葉城を攻略した翌年の永禄十一(一五六八)年に「井ノ口」を旧名の「岐阜」に復したという』とある。

「人の心にさきだち、物をまかなふ事、」人がどう考え、感じているかを事前に素早く察知して。この場合は、直後に「石田が思ふ如くなれば」とするものの、「本妻の心をとりて」(察して)常に彼女を立てたが故に、「本妻も、さすがに」(夫の言う好評化や想像した以上の仕え方をしたので(「夜晝、まめやかに仕へ侍べりしかば」)、改めて感心し)、この女を「憎からず」思ったというのであればこそ、不特定多数の人間に対してもそうであったと考えてよかろう。妖狐ならではの読心術による、そつのない仕舞わしと言える。

「かたはらになし」そっちのけにして。

「出入〔いでいる〕ともがら」石田市令助の屋敷に出入りする武士の配下の下男・下女及び御用伺いの商人や家作の者たち。

「ほどほどにつきて」その身分や立場に応じた相応な。

「ふくさ物」「袱紗・服紗・帛紗」は、ここは「茶の湯」で、茶道具を拭い清めたり、茶碗その他の器物を扱うのに用いたりする、縦九寸(約二十七センチメートル)・横九寸五分(約二十九センチメートル)の絹布。

「針」身分の低い女性には有難かったであろう。

「いつ、もとめおくとも見えねど」何時、何処で買い求め、何処に蓄えておいたものかもまるで判らぬのだが。

「賦(くばり)つかはす」配り、与えるのである。

「麻績(をうみ)つむぎ」「苧績紡(をうみつみ(おうみつみ))ぎ」は苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の繊維を撚り合わせて糸にすること。ウィキの「カラムシ」によれば、『茎の皮から採れる靭皮繊維は麻などと同じく』、『非常に丈夫である。績(う)んで取り出した繊維を、紡いで糸とするほかに、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また荒く組んで網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば』、『衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに』六千『年前から』、『ヒトの手により』、『栽培されてきた』古代からの長い利用の歴史がある。なお、同ウィキによれば、カラムシの花言葉は「あなたが命を断つまで」「ずっとあなたのそばに」』そして、『他にも「絶対に許さない」がある』とある。病的に執拗(しゅうね)きものである。

「ゑかき」「繪描き」。「新日本古典文学大系」版脚注に、次の『花結びとともに女性の嗜みとされた手芸』とある。この場合の「手芸」は広義の「手先の技術」としての絵描きであると思われるが、女性のそれは大和絵の一種である葦手絵(あしでえ:樹木・草花・岩などの一部を図案化したものに、さらに文字を装飾的に組み込んだ絵)のように、装飾的な料紙の下絵にしたり、それが発展して次第に装飾的模様へと変化し、工芸品としての蒔絵や服飾などに用いられるようになったのであった。

「花結び」「飾り結び」とも。紐を使って装飾的に結ぶ手法。当該ウィキによれば、『日本では、そのうち特に、中国から伝わった結びをもとに発達したものを指』し、「花結び」とも『呼ばれる。一般に』「組み紐」と『呼ばれることも多いが』、「組み紐」の方は『糸を組んで紐を作る工芸であり、紐を結んで作る』「飾り結び」とは『別である』。『日本の』「飾り結び」は、『仏教とともに伝わったいくつかの結びと、遣隋使が持ち帰った下賜品に結ばれていた紅白の麻紐が起源とされる(水引と同じ)』。『飾り結びは中国のものと共通するものも多いが、日本で独自に考案されたものも数多くある。特に茶道においては、仕服(茶碗・茶入れなどを入れる袋)を封じる紐に飾り結びを施すことで、装飾性を増すとともに、知らぬ者が開封した場合に元通りにしにくくすることで、みだりに開封できないようにする鍵の役目を持つ結びが多数』、『考案された。これらを特に』「花結び」と『呼ぶこともある』とる。

「小細(ささい)な事に替(かへ)給ふな」「小細」は「些細」の当て字。「採るに足らぬことに気をとられてはなりませぬ」。既にして後にくる事態を予知していたのである。

「みづからに」「みづから」には前に出た一人称自称である。]

 

 京にして、高雄の僧、祐覺(ゆうがく)僧都に對面す。

 祐覺、つくづくと見て、

「石田殿は、妖恠に犯されて、精氣を吸れ給ふ。はやく療治し給はずは、命を失ひ給ふべし。此相(さう)、それがし、見損ずまじ。」

といふに、石田、更に信ぜず、

「我をあざむく賣僧(まいす)の妄語、今に始めず。」

とて、打笑ひしが、程なく、心地、わづらひ付き、面(おもて)の色、黃に瘦(やせ)て、身の肉(しゝむら)、かれて、膏(あぶら)、なし。唯(たゞ)、

「うかうか」

として、物事、正しからず。

 家人等、驚き、さまざま醫療すれども、しるしなし。

 此時に、高雄の僧のいひし事を思ひ出して、祐覺を請じて、見せしむ。

 僧のいはく、

「此事、我、更に見損ずまじ。初め、わがいふ事を信ぜずして、今、この病、現れたり。佛法の道は慈悲をさきとす。祈禱を以て是を治(ぢ)せむ。早く國に歸りて待(まつ)べし。我も下りて、しるしを、あらはさん。」

と、いはれしかば、家人等、驚き、祐覺ともろ友に、夜を日につぎて、岐阜に歸り、壇を飾り、廿四行(がう)の供物、二十四の燈明、十二本の幣をたて、四種の名香(めいかう)をたきて、一紙の祭文(さいもん)をよみて、禳(はらひ)して、いはく、

 

「維年(これとし) 天正歲次(としのやどり)甲戊(きのへいぬ[やぶちゃん注:ママ。])今月今日 石田氏某 妖狐の爲に惱さる

 夫(それ) 二氣 はじめて別れ 三才 巳にきざし 物と人と おのおの 其類(たぐひ)にしたがうて 性分(せいぶん) その形をうけしよりこのかた 品位(しなくらゐ) みな ひとしからず

 こゝに狐魅の妖ありて 恣まゝに恠をなし 木の葉を綴りて衣とし 髑髏(しやれかうべ)をいたゞきて鬘(かつら)とし 貌(かたち)をあらため 媚(こび)を生ず

 渠(かれ) 常に氷(こほり)を聽〔きき〕て水を渡り 疑(うたがひ)を致す事 時として忘れず 尾を擊(うつ)て 火を出〔いだ〕し 祟(たゝり)を作(なす)こと 更に止(やま)ず

 此故に 大安(〔だい〕あん)は羅漢の地に奔(はし)り 百丈は因果の禪を詰(なじ)る 千年の恠を兩脚の譏(そしり)にあらはし 一夫の腹を双手の賜(たまもの)に破らしむ

 粤(こゝ)に石田氏某(それがし)は軍戶(ぐんこ)の將師 武門の命士也

 何ぞ妄りに汝が腥穢(せいゑ)を施して其精氣を奪ふや

 身を武佐の旅館によせて 愛を良家の寢席に興(おこ)さしむ

 汝が狀(かたち)は綏々(すいすい) 汝が名は紫々(しゝ)

 式(もつ)て 其醜(みにくき)をいひ 唱(となへ)て 其恧(はぢ)を示す者也

 首丘(しゆきう)は其本(もと)を忘れざる事をいふと雖も 虎威(こゐ)を假(かる)の奸(かたましき)ことは 隱すべからず

 汝 今 すみやかに去(され) 速かに去(され)

 汝 知らずや 九尾 誅せられて 千載にも赦(ゆるし)なき事を

 誰か 汝が妖媚(えうび)を いとひにくまざらん

 もし すみやかにしりぞき去(さら)ずば 州郡(しうぐん)大小の神社を驚かし 四殺(せつ)の劔(けん)を以て殺し 六害(りくがい)の水に沈めん」

 

Youko2

 [やぶちゃん注:上の挿絵は、左右はシークエンス上は繋がるように描かれているが、同一場面ではないので注意。]

と、讀(よみ)終りしかば、俄に、黑雲(くろくも)、棚引(たなび)き、大雨、降り、雷電、夥しく鳴渡りければ、女、はなはだ、恐れまどひ、そのまゝ倒れて、死(しゝ)けり。

 家人等〔けにんら〕、驚き、立〔たち〕よりて見れば、大なる古狐(ふるきつね)なり。

 首(かしら)に、人のしやれかうべを戴きて、落〔おち〕ずして、あり。

 此女の手より、人に遣はし與へたる物ども、取よせて見れば、「絹小袖」と見えしは、皆、芭蕉の葉、「白粉」といひしは、糠埃(ぬかほこり)也。「針」かとおもひしは、松の葉也けり。

 石田氏が心地、快然と凉(すゞ)やかになり、忽(たちまち)に平復して、此物どもを見るに、恠しき事、限りなし。

 狐の尸(かばね)をば、遠き山の奧に埋み、符(ふ)を押(をし[やぶちゃん注:ママ。])て、跡を禳(はら)ひ、丹砂(たんしや)・蟹黃(かいわう)なんど、調合の藥を服(ぶく)せしめて、その根本(こんぽん)を補ひ、さて、武佐の小彌太を尋ねさするに、女を賣(うり)て、德つき、家を移して、いづち行けるとも、知らず。

 まさに、狐魅(こみ)、よく人を惑はし、祐覺僧都の法驗(はうけん)を感歎しけるとぞ。

[やぶちゃん注:佑覚僧都の祭文は底本では全体が一字下げ(元禄本は三字下げ)であるが、引き上げて、その代わり、前後を一行空け、句読点をわざと振らずに、読み易く区切れるところで改行を施した。この方が呪文らしい感じが出ると感じたからである

「高雄」京都府京都市右京区梅ヶ畑付近を指す地名で、ここはそこにある真言宗高雄山(たかおさん)神護寺。

「祐覺(ゆうがく)僧都」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注では、源頼朝に決起を促した『神護寺の文覚に重ねるか』とされ、『文覚は法力ある験者で、優れた相人』(そうにん:人相見)『ともされ』、文覚を主人公とした『幸若』舞『の「文学」』(もんがく)『では、壇を築き、一八〇本の幣串(へいかん)』(神に供える幣帛を挟んだ串。祓(はらえ)に用いる。多くは本体に白木の棒を用いる)『を立てて平氏に対する調伏の法を行っている』とある。私もこの意見には賛同する。

「我をあざむく賣僧(まいす)の妄語、今に始めず。」「儂(わし)を欺(ざむ)く売僧(まいす)の妄言、出鱈目じゃ! んなことは、今に始まったこっちゃ、あ、る、ま、い、よ、ってえんだ!!」。「賣僧」の「まい」は「賣(売)」の慣用音、「す」は「僧(僧)」の唐宋音。特に禅宗に於いて同宗の中の僧形で物品の販売などをした堕落僧のことを指した。転じて、「一般に僧としてあるまじき行為をする僧」、また、僧侶を罵って言う卑語。「糞坊主」に等しい。

「唯(たゞ)うかうかとして、物事、正しからず」常に異様にぼんやりとした感じで、見当識がない、生気がない、正気を失ったような感じで、することなすこと、これ、尋常普通でない。

「思ひ出して、祐覺を請じて見せしむ」市令助の一の家臣が主語であろう。その場にいなかったとしても、直後に市令助が腹を立てて、そうしたことを周囲に語ったことは容易に想像される。

「此事、我、更に見損ずまじ」「この有様(病態)は、どうじゃ! 我ら、やはり、最早、見損じたのではなかったわッツ!」。

「廿四行(がう)の供物」「新日本古典文学大系」版脚注は『未詳』とするが、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)では、『阿弥陀の二十四本願(等覚経)にもとづく、二十四種の供物』とある。腑に落ちる。一般に阿弥陀は如来となるに当たって四十八誓願を立てて、それが成就されない限り、自分は如来とならないと言っていることは存知であろう(因みに、その第十六誓願では、「たとひ、われ佛を得たらんに、十方の衆生、至心信樂して、わが國に生ぜんと欲(こ)ひて、乃至十念せん。若(も)し、生ぜずは、正覺を取らじ。ただ、五逆と誹謗正法(しやうほふ)とをば除く。」という核心のそれで、ここでは阿弥陀は生きとし生ける全衆生を救うことが出来ぬとなら、私は如来とならないと言っているのであり、これは絶対の予定調和であって、阿弥陀が既に如来となっているおいうことは、我々衆生(あらゆる時空間に於ける人間)は既に極楽往生が定まっているといことを指しているという真理が示されているわけである。なお、例外の「五逆」は「殺父」・「殺母」・「殺阿羅漢」(聖者を殺すこと)・出仏身血)(仏の身を傷つけ、血を流させること)・「破和合僧」(仏弟子の集団を乱すこと)の罪を犯す者、「誹謗正法」は「唯一真実の正法(しょうぼう)である仏法を謗(そし)る者を指す)。ところが、この阿弥陀の誓願の数は初期の漢訳経では「二十四誓願」であるものが、「無量寿経」などでは倍の「四十八誓願」となって、そちらの方が今に説かれる命数として有名になってしまったのである。これは、その二十四誓願に応じた数の種類の供物ということである。それぞれが何か特定のものであった可能性が高いがそれは私には判らない。

「祭文(さいもん)」通常は祭りの際に神に捧げる祝詞(のりと)の意であるが、「新日本古典文学大系」版脚注では、特にここでは、『祝詞に対し、個人的或いは中国伝来の祭などの読まれる』とある。この注は中国由来の漢文訓読型の文体「祭文(さいぶん)」、祭時に於いて神霊に対して誦される文章で、中国では死者葬送・雨乞・除災・求福を目的とするそれが存在し、以下の冒頭の「維年(これとし)」(いねん)は必ずその発語の辞とされるものである。

「天正歲次(としのやどり)」「さいじ」。古くは「さいし」と清音。「歳」は「歳星」、則ち、木星、「次」は「宿り」の意。昔、中国では木星が十二年で天を一周すると考えられていたところから、「としまわり」「とし」「干支」の代語・指示語となったもの。

「二氣 はじめて別れ」混沌(カオス)の原初態から陰陽の気が天地開闢の時に分離し。

「三才 巳にきざし」天・地・人の三つの「働き」(「才」)を現わし、そこから転じて「宇宙の万物」を現わす。ここはその三者それぞれの全時空間の境界的上の差別化が生ずることを謂う。

「物と人と おのおの 其類(たぐひ)にしたがうて」ここではヒトとそれ以外の対象物(人以外の生物を総て含む)を二分化して、差別化することで「人」を上に挙げる。

「性分(せいぶん)」「新日本古典文学大系」版脚注は、『未詳。性質を異にし、それぞれの外形を与えられて、の意か』とされる。腑に落ちる。

「氷(こほり)を聽〔きき〕て水を渡り 疑(うたがひ)を致す事」

「渠(かれ)」彼。

「氷(こほり)を聽〔きき〕て水を渡り 疑(うたがひ)を致す事」これは直ちに諏訪湖を渡る狐の話を私は想起する。私の『堀内元鎧「信濃奇談」 諏訪湖』「甲子夜話卷之三 23 諏訪湖幷同所七不思議の事」を見られたい。但し、これは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね)(キツネ)」にも、『「三才圖會」に云はく、『狐は、古へ、淫婦の化する所なり。其の名を「紫(し)と曰ふ。善く氷を聽く。河の氷、合(あ)ふ時[やぶちゃん注:氷結する時。]、氷を聽きて、下水、聲無きときは、乃ち、行く』と。』とあって中国でも古くから観察されている習性で、本邦でも広く各地の伝承に多く残されてもおり、また、「新日本古典文学大系」版脚注でも、『疑い深いことをいう成語の「狐疑」を説明する故事』とし、二例の水音を量って後に氷った川を渡るという習性をそうした広げた属性として理解しているケースを示してある。

「尾を擊(うつ)て 火を出〔いだ〕し」妖火の狐火は一説に狐同士が尾を打ち合わせて火を起こしたものともされ、尾の先に灯るともされる。私の「想山著聞奇集 卷の壹 狐の行列、幷讎をなしたる事 附 火を燈す事」等、参照されたい。

 

「大安(〔だい〕あん)は羅漢の地に奔(はし)り」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「大安」は唐代の僧。則天武后の寵用する読心術に長けた女性と対決し、その正体を狐と見破った(太平広記四四七・大安和尚)』とある。「太平広記」(北宋の太宗の勅命により李昉(りぼう)ら十二が九七七年から翌年にかけて編纂した類書。「太平御覧」・「文苑英華」・「冊府元亀」と合わせて「四大書」と称せられる。全五百巻・目録十巻)のそれは巻四百四十七の「狐一」の「大安和尚」で出典は「広異記」(唐代伝奇の一つ。戴孚 (たいふ) 著。八世紀後半(中唐)の成立。諸書に佚文として見られるのみ)で、以下が原文。訓読は自然勝手流。

   *

唐則天在位、有女人自稱聖菩薩。人心所在、女必知之。太后召入宮,前後所言皆驗、宮中敬事之。數月、謂爲眞菩薩。其後大安和尙入宮、太后問見女菩薩未。安曰、「菩薩何在。願一見之。」。敕令與之相見。和尙風神邈然。久之、大安曰、「汝善觀心、試觀我心安在。答曰、「師心在塔頭相輪邊鈴中。」。尋復問之。曰、「在兜率天彌勒宮中聽法。」。第三問之、「在非非想天。」。皆如其言。太后忻悅。大安因且置心于四果阿羅漢地、則不能知。大安呵曰、「我心始置阿羅漢之地、汝已不知。若置于菩薩諸佛之地、何由可料。」。女詞屈、變作牝狐、下階而走、不知所適。

   *

 唐の則天、在位のとき、女人有りて自から「聖菩薩(しやうぼさつ)」を稱す。人の心在り所、女、必ず、之れを知れり。太后、宮に召し入るに、前後に言ふ所、皆、驗(しる)し。宮中、之れを敬事す。數月にして、

「眞の菩薩たり。」と謂へり。

 其の後、大安和尙、入宮し、太后、問ひて、

「女菩薩を見しや未だしや。」

と。安曰はく、

「菩薩、何くにか在る。願はくは之れを一見せん。」

と。敕令して、之れと相ひ見(まみ)ゆ。

 和尙、風神邈然(ばくぜん)として[やぶちゃん注:あたかも風神の気骨をもって悠然と立ち向かふこと。]、之れ、久し。

 大安曰はく、

「汝、善(よ)く心を觀るとなり。試みに我が心の安(いづ)くに在るや、觀よ。」

と。答へて曰はく、

「師が心、塔頭相輪の邊りの鈴の中に在り。」

と。尋ねて、復た、之れを問ふに、曰はく、

「兜率天の彌勒の宮中に法を聽きて在り。」

と。第三に、之れを問ふに、

「非非想天に在り。」[やぶちゃん注:天上界における最高の天である有頂天の異名。非想非非想天とも。]

と。

 皆、其の言のごとし。太后、忻悅(きんえつ)す[やぶちゃん注:甚だ満足して喜んだ。]。

 大安、因りて、且に置心を四果阿羅漢地[やぶちゃん注:修行者の到達出来る最高地。]に置くに、則ち、知る能はず。

 大安、呵して曰はく、

「我、心、始めより阿羅漢の地に置けるに、汝、已だ知らず。若し、菩薩・諸佛の地に置(を)るとせば、何に由(ゆゑ)料(はか)れるべし。」

と。女、詞に屈し、牝狐(ひんこ)に變じ作(な)して、階(きざはし)を下りて走り、適(ゆ)く所を知らず。

   *

「百丈は因果の禪を詰(なじ)る」中唐の禅僧百丈懐海(えかい 七四九年~八一四年)。この話は私のすこぶる好きな話である。私の「無門關 二 百丈野狐」で原文・訓読・藪野狐禪現代語訳もある。そこでこの意味は判る。この場合の「詰(なじ)る」というのは、全問答の一つの手法で、「相手を問い詰めて責める」形を以って「煩悩・迷妄を破り、断ち切らせる」の意である。何なら、その「無門關」(全)サイト版もある。訳の面白さにかけては、ちょっと自信があるぜ!

「千年の恠」千年の寿命を以って妖狐と化したもの。

「兩脚の譏(そしり)」冒頭で女に化ける際にそうした通り、二本足で立った狐のことであろう。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『腹黒い人を罵る語』とする。

「一夫の腹を双手の賜(たまもの)に破らしむ」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」は注せずにスルー、「新日本古典文学大系」版脚注は『未詳』。私も判らない。

「粤(こゝ)に」発語の辞。「ここに」「さて」の意。漢字は音(呉音「エチ」・「オチ」。漢音「エツ」)の仮借に過ぎない。

「軍戶(ぐんこ)」武家。

「命士」名立たる選ばれし精鋭の武士。

「腥穢(せいゑ)」なまぐさくてけがれていること。

「身を武佐の旅館によせて 愛を良家の寢席に興(おこ)さしむ」恐らくはこの妖狐は割竹小弥太が自分が狐であることを知っていることや、小弥太がその上で自分を利用して金儲けを目論んでいることも、実はお見通しだったのだと私は思う。しかも、それらを総て知ったうえで、知らんぷりをして、小弥太の宿屋では、心底、「身」を尽くしたのである。謂わば、自分がステージを上げて、より騙すに足る、恰好な傲慢な相手と接触を持つ機会を伺い、まさにそれに応えるように小弥太は彼女を高直で売り払い、さても彼女は遂に「愛」を口実として惑わし、悠々と精機を吸い取るに(それで妖狐のステージがいやさかに上がるわけだ)申し分のない単細胞男市令助の「愛」(=精気)をうまうまと手に入れた、というわけなのである。この構造は、妖狐譚としては、かなり特異的で非常に面白い

「綏々(すいすい)」岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注に、『独行して配偶者を求める艶な様子。古来』、『狐についてよく言われる』とある。

「汝が名は紫々(しゝ)」岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注に、『狐の別名。中国で、紫という昔の淫婦が化して狐になったという』とある。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね)(キツネ)」を参照。

「式(もつ)て」(その名は)以って。

「恧(はぢ)」「恥」に同じ。

「首丘(しゆきう)は其本(もと)を忘れざる事をいふ」岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注に、『狐が死ぬ前にその首を元住んでいた丘の方へける意。「狐死、正丘首、仁也」(『礼記』)に拠る』とある。これは本邦の狐狸譚でも、しばしば言われる。彼らの死に当たっての礼節の表現なのである。

「虎威(こゐ)を假(かる)の奸(かたましき)こと」言わずもがな、漢文でよくやった、「戦国策」の「楚策」の「虎の威を借る(狐)」のこと。

「九尾」本邦の妖狐の女王九尾狐。中国の伝説に見える尻尾が九つに分かれた狐。本来は天下が太平になると出現するとされる祥瑞の一つであった。「古本竹書紀年」には、夏(か)の伯杼子(しょし)が東征して「狐の九尾なる」を得たといい、「山海経」の「海外東経」には、「青丘国にいる狐は九尾である」とあるように、東方の霊獣と考えられていたらしい。「白虎通」では、「九尾は子孫が殖えることを象徴する」と説明し、また「呉越春秋」には、「禹(う)は九尾狐を見て塗山氏の娘を娶った」とあるように、実は、意外な祥瑞観念の背後には、婚姻と子孫の多産などの生命力に関する狐信仰があったものと考えられている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注には、妖狐化してからについて、『天竺では斑足(はんそく)太子の塚の神、唐土では』西『周の幽王の后褒姒(ほうじ』:笑わなかったことで知られ、それが国を亡ぼす契機となったことで有名)、『または殷の紂王の妲妃(だっき)、日本に渡来して鳥羽院の寵姬玉藻前(たまものまえ)となって、院を悩ました妖狐は九つの尾を持っていたという伝説。那須で射殺されて殺生石となったとする』とある。ウィキの「九尾の狐」も参照されたい。それによれば、朝鮮やベトナムにもいたという。

「千載にも」長い年月を経ても。

「四殺(せつ)」「六害(りくがい)」「新日本古典文学大系」版脚注に、孰れも『易の算木占いの盤を九つに区切った』中の『四区と六区の名称』とされ、ここでは『算を置きながら九図の名を呪文のように唱えたものか』と記されたあと、『ここでは霊力を備えたものの喩え』とする。

「此物どもを見るに、恠しき事、限りなし」前段の『此女の手より、人に遣はし與へたる物ども、取よせて見れば、「絹小袖」と見えしは、皆、芭蕉の葉、「白粉」といひしは、糠埃(ぬかほこり)也。「針」かとおもひしは、松の葉也けり』という変成実態を見てのことであろう。

「符(ふ)」強い妖物は死滅後もいろいろな災いを起すのでそれを封じるための護符であろう。

「丹砂(たんしや)」辰砂に同じ(中国の辰州で産する砂の意)。水銀の硫化鉱物。六方晶系で結晶片は鮮紅色でダイヤモンド光沢を持つ。多くは塊状又は土状で赤褐色。低温熱水鉱床中に産し、水銀の原料や朱色の顔料として古くから用いられている。有機水銀や水に易溶性の水銀化合物に比べ、水に難溶であることから毒性は低いと考えられており、現在でも鎮静薬・催眠薬として使用されている。

「蟹黃(かいわう)」カニ類の消化線・卵巣を含む、所謂、「味噌」。漢方薬であるが、中文サイトを見てもかかってこない。やっと見つけたのは、「青空文庫」の齋藤茂吉の「念珠集」の「5 漆瘡」で、そこに漆瘡に『生蟹黄調塗』とあったとある。ぴんと来ないが、まあ、卵巣なら、精気の回復には向いてるってか?

「根本」漢方で謂うところの生命力の核心部分。]

2021/04/12

私の中の図書館が消えた…………

凡そ二十年に亙って構築した約180ギガバイトの電子データ・ベースを入れた外附けディスクが、昨夜、突然、壊れた。今日、ネット上の修復ソフトなどでも試みたが、だめで、電気店にも行き、そこで示された販売会社のサイトも見たが、最悪、復元には想像を絶する費用(30万以上)がかかることが判った。2010年までのごく一部は、それ以前の古い外附けディスクに僅か五分の一の37ギガバイト生き残っていたが(本体を本棚に差し込んでとっくに忘れていたもので、コード類を探すのに往生した)、その後の十一年分、ほぼ毎日欠かさず定期巡回をして蒐集し続けたもの、及び、電子化した自身のワード原稿や画像など一切が消失した。総て分野別にフォルダを作り、その中でも細かく分類した、一種の私の築いた一人きりの空想図書館であったのだ。既に消失した優れた宮沢賢治のサイトの全データや、私的に頂戴した原本画像や絵画画像などもそこに、皆、入れてあり、なんとも悔やまれる。――カチ、カチ、カチ、カチ――という音が夕刻に、ディスクから、微かに四度、聴こえた。あの、ノックが永遠の、別れだった…………

正直言うと、「物理的喪失」という感じはそれほど強くない。
……これは、前の十年間で得たデータが生き残っていたことが先程判ったからで、今の私の日本文学の電子テクスト作成の強い味方(加工用データ)になっているのは半分ぐらいが、その頃の蒐集データ群にあるからである。この中には、当時、高校教師ということで、ダウン・ロードが許可された「国文学資料館」の幾つかの「岩波古典文学大系」の電子データが含まれている。
……ここで言っておくと――在野人となってしまうと、教育機関・研究機関所属の者だけに閲覧が許されているデータが実は非常に多いのに憤慨している。
……例えば、慶應の雑誌『三田文学』のバック・ナンバーがそうだ。原民喜の電子データでは、まず私のブログのそれは「そんじょそこらのものとは違うぞ」と、質・量ともに自負するものであるが、初出(民喜は戦後も漢字で旧字を使っていた可能性が頗る高い。原稿画像から起こしたテクスト作成の際、それを強く感じたのである)を見る権利がそんな私にはないのが、如何にも理不尽で堪らないのである。
……しかし……今までの十年の巡回蒐集が……一瞬に消え去ってしまったことで……「私の十年が無駄であった」という如何にもなメランコリックな精神的喪失感の虚脱が……夕べから……ずっと……襲っているのである…………


2021/04/11

芥川龍之介書簡抄33 / 大正三(一九一四)年書簡より(十一) 井川恭宛二通

 

大正三(一九一四)十一月三十日・京都市京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣・卅日 芥川生

 

引越して一月ばかりは何やかやで大分忙しかつた 此頃やつと壁もかはいたし植木屋も手をひいたので少し自分のうちらしいおちついた氣になつたがまだしみじみした氣になれないでこまる

學校へは少し近くなつた その上前より餘程閑靜だ 唯高い所なので風あてが少しひどい 其代り夕かたは二階ヘ

上ると靄の中に駒込臺の燈火が一つづーゝともるのがみえる

地所が三角なので家をたてた周圍に少し明き地が出來た これから其處に野菜をつくらうと云ふ計畫があるがうまく行くかどうかわからない 庭には椎の木が多い 楓や銀杏[やぶちゃん注:「いてふ」。]も少しはある

たゞ厄介なのは田端の停車揚へゆくのに可成急な坂がある事だ それが柳町の坂位長くつて路幅があの半分位しかない だから雨のふるときは足駄で下りるのは大分難澁だ そこで雨のふるときには一寸學校がやすみたくなる やすむとノートがたまる 此頃はそれで少しよはつてゐる 近所にポプラア倶樂部を中心とした画かき村があるだけに外へでると黑のソフトによく逢着する 逢着する度に藝術が紺絣を着てあるいてゐるやうな氣がする

步いても大學迄四十分位でゆかれるさうだ 之はまだあるた[やぶちゃん注:ママ。]事がないんだから確には云へない 僕は山の手線で上野へ行つてあれから觀月橋を渡つて岩崎の橫を本鄕臺へ上る 不忍池のまはりは博覽會の建物ののこりが立つてゐて甚汚い 其中に敗荷が風に鳴つてゐるのが氣の毒な氣がする 此分では今にほんとうにヨツトを浮べるやうな事になるかもしれない

セエゾンが來たので音樂會や繪の會が大分ある こなひだ近代音樂會で未來派の音樂をきいた あれなら僕にも作曲が出來る

繪の會では美術院と二科會がよかつた 文展はだめ

二科會でみた梅原良三郞氏の椿にはすつかり感心してしまつた あの人が個人展覽會をやるといゝと思ふ 美術院では安田靫彥氏のお產の褥がよかつた 今村氏の熱國の春も面白い 大觀と觀山(殊に觀山)には不感服

文展では世間の人が今更のやうに滿谷氏のポストイムプレシヨニズムになつたのを騷いでゐるがポストイムプレシヨニスチツクになつたのは滿谷氏ばかりぢやあない 文展のどの洋画にだつて(不折氏のやう人[やぶちゃん注:ママ。]のは別)影響の跡はみとめられる

それから前にかき落したが巽画會[やぶちゃん注:「たつみぐわくはい」。]も一寸面白かつた 木村莊八氏が大分うまくなつた 岸田劉生氏がボツチシエリやセガンチニのやうな色と線とをつかひ出したのも面白い が、その眞似をしてモナ・リサの複寫のやうな馬鹿な画をかいた奴もゐた

この次の日曜にはフイルハアモニイがある 戰爭なんぞあると音樂會できつと靑島陷落歌と云ふやうなものをやるからたまらない

音樂會で思ひ出したが靑島陷落の日に慶應の英語會へ行つたらユンケルが圓い座蒲團のやうな帽子をかぶつたおかみさんと一しよに來てゐた さうして「獨乙皇帝の野心は遂に破られたり」だの「獨乙の軍國主義は破產せり」だのと云ふ演說をへんな顏をしてきいてゐた 少し氣の毒だつた

此頃僕はだんだん人と遠くなるやうな氣がする 殆誰にもあはうと云ふ氣がおこらない 時々は隨分さびしいが仕方がない 其代り今までの僕の傾向とは反對なものが興味をひき出した 僕は此頃ラツフでも力のあるものが面白くなつた 何故だか自分にもよくわからない たゞさう云ふものをよんでゐるとさびしくない氣がする さうして高等學校にゐた時よりも大分ピユリタンになつた

この前の君の手紙に繪の事があつたから云ふが繪にも僕は好みがちがつて來た ほんとうと云ふとおかしいかもしれないが此頃になつてほんとうにゴーホの繪がわかりかけたやうな氣がする さうして之がすべての画に對するほんとう[やぶちゃん注:ママ。]の理解のやうな氣がする もつと大膽に云へば之がすべての藝術に對するほんとうの理解かもしれないと思ふ

之だけでは何の事だか君にはわからないのにちがひない けれども語にすると肝じんの所がにげさうな氣がするしこれでも事によると君が同感するかもしれないと思ふから之だけにしておく

兎に角僕は少し風むきがかはつた かはりたてだからまだ余容[やぶちゃん注:ママ。「余裕」の誤記。]がない 僕は僕の見解以外に立つ藝術は悉く邪道のやうな氣がする そんな物を拵へる奴は大馬鹿のやうな氣がする だから大がいの藝術家は小手さきの器用なバフーンのやうな氣がする 大分鼻いきが荒いがまじめなんだからひやかしてはいけない それから天才の眞似をしてるんでもないから心配しなくつてもいゝ 余裕がないから切迫してゐる 切迫してゐるとすぐ喧嘩腰になりさうでいけない 一体僕は人の感情を害するやうな事をするのは大嫌なのだが此頃は反意志的に害しさうで困る 山宮さんなんか大分氣をるくして[やぶちゃん注:ママ。]ゐるらしい 兎に角僕がよくないのだ

君が京都にゐる中に一ぺんゆきたい 鼻息のあらい時にゆくと君があきれてしまふかもしれない 尤もいくらあらくつても自分のものがいゝと思つてゐるわけではない 人のものがあんまり卑怯でのんきだから不愉快なのだ 同時に自分のものも其仲間入りをするかもしくは其以下になりやすいのだから猶不愉快なのだ でも少し位あらいのではあきれまいと思ふからやつぱり行きたい 要するに君が京都へいつたのはよくない あはうと思つても一寸あへないのはおそろしく不自由だ 手紙では埒があかないし(僕はいやになるほど文がまづい いくらほんとうをかいてる氣でもよみなほすとうそとしや[やぶちゃん注:ママ。]思へないやうな語ばかりならべてあるんだいやになる)ゆくには遠いし甚よくない

何だかする事が澤山あつて忙しい 体は大へんいゝ 胃病は全く癒つた

いつか寮で君が云つたやうに朝おきた時にミゼラブルな氣もちがする事だけは少しもかはらない 醫科の男に何故だらうつてきいてみたら血液の後頭部へどうとかする具合だらうつて云つた その男もあまりよくわかつてゐないのだから僕はなほさらわからない

新思潮はとうの昔癈刊した それでもあれがあつたおかげで皆かいたものがすぐ活字になる權利を得てゐる 久米が少し肺尖になつた 今逗子にゐる ロメオとジユリエツトを坪内さんの譚から重譯してゐる 同人の中で正直な所僕は豐島君にだけ多少の興味を持つてゐる

僕はこの頃今までよんだ本を皆よみかへしたいやうな氣がする 何もわからずによんでゐたやうな氣がして仕方がない

世の中にはいやな奴がうぢやゐる そいつが皆自己を主張してるんだからたまらない 一体自己の表現と云ふ事には自己の價値は問題にならないものかしら ゴーホも「己は何を持つてゐるか世間にみせてやる」とは云つたが「どんなに醜いものを持つてゐるかみせてやる」とは云はなかつた

一しよに一高を出た連中ともめつたにあはない 谷森君には時々昔の本をかりるから別

それからこんな事がある 三週間ばかり前に八木君がどこかの庇髮[やぶちゃん注:「ひさしがみ」。]とあるいてゐるのにあつた 何でもさむい風のふく晚で宵の口だつたけれど白山の通りでは大がい戶がしまつてゐたと思ふ 二人で活動寫眞か何かへゆく所らしい 所があつて「やあ」と云ふ おぢぎをして二三步ゆきすぎると僕はたまらなくおかしくなつて來た 君には想像できるかどうかしらないがとにかく可笑しくつて可笑しくつてどうにも出來なくなつた(其癖何故だかわからないのだから不思儀[やぶちゃん注:ママ。]だ)さうしてとうとう「あは…」と笑つてしまつた だが笑ひ聲がきこえるとわるいと思つたからいきなり向ふ見ずにかけ出してしまつた 半町[やぶちゃん注:約五十四メートル半。]ばかりかけてからでも笑がとまらなかつた あんなおかしな事は始めてだ

未だに何故おかしかつたのだかよくわからない

画がかけたら水彩を一枚でも二枚でもくれないか 僕の所の壁にかけるのだから おちついた靜な画がいゝ 贅澤を云つてすまないけれど

長崎君やなんかによろしく 尤も面倒だつたらよろしく云はなくつてもいゝ 京都にゐる人は君以外に思出す事は殆ない

こなひだ逗子へ行つた時の事を思出して出來るそばからかく

  驛路(はゆまぢ)はたゞ一すぢに靑雲(あをぐも)のむかぶすきはみつらなれるかも

  烏羽玉の烏かなしく金の日のしづくにぬれて潮あみにけり

  海よ海よ汝より更に無窮なる物ありこゝに汝をながむる

  ねまくほしみ睫毛のひまにきらめける海と棕櫚とをまもりけるかも

  嗄聲(からごへ[やぶちゃん注:ママ。])に老いたる海はしぶきつゝ夕かたまけて何かつぶやく

  わが聞くは海ひゞきか無量劫おちてやまざる淚の音か

  夕されば海と空とのなからひにくゞまりふせる男の子ちさしも

  この海のかなたにどよむ海の音のありやあらずや心ふるへる

もうやめ ずゐぶんまづい「鳥羽玉の」と云ふのだけ少し歌らしいやうだ

 

[やぶちゃん注:「駒込台」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。芥川家の北西或いは西直近に当たり、同一の台地上にある。

「柳町の坂」恐らくは市谷柳町の焼餅坂であろう。個人サイト「東京散歩」の「焼餅坂」を参照されたい(地図有り)。私は一度、芥川龍之介の自宅周辺を未明に歩いたことあるが、田端駅からの坂はかなりの旧坂である。この坂というと、私はその坂の上の方に芥川龍之介のシルエットを幻視するのを常としている。萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」(『改造』昭和二(一九二七)年九月号初出。リンク先は私の古い電子テクスト)の「13」である。

   *

         13

 その夜さらに、室生犀星君と連れだち、三人で田端の料理屋で鰻を食べた。その時芥川君が言つた。

「室生君と僕の關係より、萩原君と僕のとの友誼の方が、遙かにずつと性格的に親しいのだ。」

 この芥川君の言は、いくらか犀星の感情を害したらしい。歸途に別れる時、室生は例のずばずばした調子で、私に向かつて次のやうな皮肉を言つた。

「君のやうに、二人の友人に兩天かけて訪問する奴は、僕は大嫌ひぢや。」

 その時芥川君の顏には、ある悲しげなものがちらと浮んだ。それでも彼は沈默し、無言の中に傘をさしかけて、夜の雨中を田端の停車場まで送つてくれた。ふり返つて背後をみると、彼は悄然と坂の上に一人で立つてゐる。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振つて彼に謝した。――そして實に、これが最後の別れであつたのである。

[やぶちゃん注:「最後の別れ」には「○」の傍点があるが、ここでは太字とした。]

   *

「ポプラア倶樂部」既注

「觀月橋」不忍池(グーグル・マップ・データ)の中央にある弁天島(寛永寺を建立した天海が不忍池を比叡山の傍の琵琶湖に見立て、中之島として築いたもの)には、この七年前の明治四〇(一九〇七)年三月から七月まで開催された東京勧業博覧会(東京府主催。政上野公園を第一会場、不忍池畔を第二会場、帝室博物館西側を第三会場として開催された。不忍池に飾られたイルミネーションや、同所に設けられたウォーター・シュート及び観覧車などが評判になった。イルミネーションは夜の会場を楽しむ観客が、多数、集まり、夏目漱石の「虞美人草」(初出は同年六月から十月に『朝日新聞』連載)の舞台にもなっている)のために、弁天島から西に向かって「観月橋」が架けられていた。この橋は昭和四(一九二九)年に撤去されて、代わりに現在の弓形の桜並木の遊歩道が造られて、池は現在の四分割された形となった。

「岩崎の橫を本鄕臺へ上る」「岩崎」は筑摩全集類聚版脚注に、『三菱商事を起した岩崎家の邸』宅で、『不忍(しのばず)池畔にあ』ったとある。現在の旧岩崎邸庭園。ここ。その「橫」の「本鄕臺へ上る」坂は無縁坂で、登り切ったところが、東京帝国大学医科大学に入る旧「鐡門」(通用門)があった(現在のそれは二〇〇六年再建の新しいもの)。

「博覽會」東京大正博覧会。既出既注。この十日後の大正三年三月二十日から七月三十一日にかけて東京府主催で東京市の上野公園地を主会場として開催された博覧会。

「敗荷」枯れた蓮(はす)。

「今にほんとうにヨツトを浮べるやうな事になる」前注した東京勧業博覧会の際の不忍池のイルミネーションやら、ウォーター・シュートやら、観覧車やらを苦々しく思い出した龍之介が、「何でもアリ」の「とんでもない破廉恥で奇天烈で場違いなこと」の例として挙げたもの。

「セエゾン」既出既注。saison。セゾン。フランス語で「季節・時候・時期・シーズン」で、ここは「時機・時宜」の意で、日本で言うところの「芸術の秋」といった限定的な謂いであ「近代音樂會で未來派の音樂をきいた」新全集宮坂年譜に、この十一月四日(土曜)に『近代音楽鑑賞会(神田青年会館)に出かける』とある。イタリアの「未來派」(フトゥリズモ(Futurismo)の音楽(ルイージ・ルッソロ(Luigi Russolo 一八八五年~一九四七年)が知られる)だったら、龍之介でなくとも、私でも「あれなら僕にも作曲が出來る」と感じる(私は幾つかを聴いたが、二度と聴きたくない)。

「美術院」美術団体「日本美術院」。明治三一(一八九八)年に東京美術学校校長を排斥されて辞職した岡倉天心を中心に創設され、天心とともに教職を辞した橋本雅邦を始め、横山大観・下村観山・寺崎広業・菱田春草などの日本画家・彫刻家・工芸家ら十数名が集って、東京谷中初音町(一時は茨城県五浦(いづら)に研究所を設けて、美術研究と「院展」と呼ぶ展覧会を開催して力作を発表した。また『日本美術』を発刊、在野派として明治末期の美術界に著しい業績を挙げた。その後、経営困難や天心の渡米などで一時中絶していたが、この大正三(一九一四)年九月に大観・観山に木村武山・今村紫紅・小杉放庵・安田靫彦(ゆきひこ)らが加わって再興した(この時、「再興日本美術院」と称したが,その後、「日本美術院」・「院展」と呼んで現在に至っている)。後に洋画部と彫刻部が解散して、現在は日本画だけとなっている。

「二科會」美術団体。「文展」(次注参照)第二部(洋画)の二科制設置の建議を文部当局に拒否されて「文展」を脱退した石井柏亭・坂本繁二郎・梅原龍三郎・小杉放庵ら十一名によって、この大正三年に結成された。同年十月の第一回展以来、会員に変動はあるが、常に新傾向の作家を吸収し、毎年秋季に展覧会を開催、大正八(一九一九)年に彫刻部を設けた。昭和一九(一九四四)年に太平洋戦争のため、一時、解散したが、翌年の敗戦後に東郷青児らを中心として再建が企図され、昭和二一(一九四六)年に第三十一回展が開催された。新たに工芸部・写真部・漫画部・商業美術部を設置し、多角的な展覧会を開き、今日に至る。

「文展」「文部省美術展覧会」の略称。明治四〇(一九〇七)年に黒田清輝・正木直彦らの建議により、政府が開設した最初の官製展覧会(「官展」の別称となる)。各派総合の美術展として美術振興に貢献したが、官製としての制約が優れた新人作家の離反を齎した。大正八(一九一九)年に「帝国美術院展覧会」(帝展)に改組されたが、昭和一二(一九三七)年には「帝国美術院」の廃止に伴って復活した。昭和二一(一九四六)年に「日本美術展覧会」(日展)と改称している。

「梅原良三郞」洋画家梅原龍三郎(明治二一(一八八八)年~昭和六一(一九八六)年)の旧名。京都生まれ。この大正三(一九一四)年までは「梅原良三郎」を名乗っていた。ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と、豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開し、昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。因みに、私は彼の絵に「感心し」たことは只の一度もない。

「安田靫彥」(明治一七(一八八四)年~昭和五三(一九七八)年)は東京府出身の日本画家・能書家。本名は新三郎。東京美術学校教授。芸術院会員。前田青邨と並ぶ歴史画の大家として知られ、青邨とともに焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わった。この「お產の褥」(「しとね」か)は「御產の禱(いのり)」という画題の誤記。現在、東京国立博物館蔵。これ(Facebookの個人の「美人画集」の画像)。「紫式部日記」に着想を得たとされる名品である。

「今村氏の熱國の春」日本画家今村紫紅(明治一三(一八八〇)年~大正五(一九一六)年)。横浜市出身。本名は寿三郎。初めは歴史画を好んで描き、晩年には新南画を開拓しようとしたが、惜しくもこの二年後に三十五歳で早逝した。大胆で独創的な作品は画壇に新鮮な刺激を与え、後進の画家に大きな影響を与えた。「熱國の春」とあるが、これは「熱國の卷」の誤り。現在、東京国立博物館蔵で重文指定。参照した当該ウィキに画像がある

「觀山」日本画家下村観山(明治六(一八七三)年~昭和五(一九三〇)年)。和歌山出身。本名は晴三郎。当該ウィキによれば、代々紀州藩に仕えた小鼓方幸流の能楽師の三男として生まれた。明治一四年年八歳の時、『一家で東京へ移住。父は篆刻や輸出象牙彫刻を生業とし、兄』二『人も後に豊山、栄山と名乗る彫刻家となった。観山は祖父の友人だった藤島常興に絵の手ほどきを受け』た。『常興は狩野芳崖の父・狩野晴皐の門人だったことから、芳崖に観山を託す。観山初期の号「北心斎東秀」は芳崖が授けととされ』、明治十六年観山十歳の『頃にはもう』その号を『使用していたとされる』。明治十九年に『芳崖が制作で忙しくなると、親友である橋本雅邦に紹介して師事させ』た。明治二二(一八八九)年、『東京美術学校(現・東京藝術大学)に第一期生として入学。卒業後は同校で教えていたが』、明治三一(一八九八)年に『岡倉覚三(天心)が野に下ったときに行動を共にし』、『横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加した』。明治三六(一九〇三)年二月には『文部省留学生として渡英』し、同年十二月に帰国している。明治三十九年に『天心が日本美術院を茨城県北部の五浦海岸へ移した際』には、『大観、春草、木村武山とともに同地へ移住し』、『画業を深めた』。大正六(一九一七)年、帝室技芸員。この時の出品作は「白狐」(二曲一双)で「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。なお、筑摩全集類聚版脚注によれば、横山大観の出品作は「山路」であったとある。個人ブログ「クラシック音楽とアート」の「大観の樹木|山路 松並木 若葉|生誕150年」がよい。画像も大きい

「滿谷氏」洋画家満谷国四郎(みつたにくにしろう 明治七(一八七四)年~昭和一一(一九三六)年)。岡山賀陽郡門田村(もんでむら:現在の総社市門田)出身。当該ウィキによれば、『叔父の堀和平は県下で洋画の草分けと言われた人』物で、『幼い国四郎は堀家に行くたびに』、『和平の画技を見て』、『強い感銘を受けた。さらに、浅尾小学校では代用教員をしていた』洋画家『吉富朝次郎に愛され、岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)で松原三五郎に画才を認められた。明治二四(一八九一)年、『中学を三年で退学。徳永仁臣をたよって上京するとき、吉富朝次郎から「総社は東洋画の大家雪舟を出した地である。君も大いに頑張って西洋画の第一人者となり給え」と励まされた』という。『東京で五姓田芳柳に師事し、次いで小山正太郎の画塾「不同舎」で苦学力行して』、明治三一(一八九八)年、『油絵「林大尉の死」を発表した。明治美術館創立十周年記念展の会場に明治天皇がたまたま見に来られ、その絵の前にしばらく立ち止まられて感激され、たいへんほめたたえられたといわれている。その作品が宮内省の買上げという光栄に浴し』翌年には『「妙義山」が外務省に』、明治三三(一九〇〇)年の『「尾道港」は再び宮内省に買上げとなり、彼の名声が一挙にたかまった。同年には『水彩画「蓮池」を』、『フランスで開かれた大博覧会へ出品して三位になり』、『銅メダルを獲得し』ている。『鹿子木孟郎』(かのこぎたけしろう)『らとアメリカ経由でフランスへ渡り、ジャン=ポール・ローランスの門に学』び、明治三十五年に『帰国するや、吉田博・丸山晩霞等と語らって「太平洋画会」を創立し、その理事となった。第二回太平洋画展に「楽しきたそがれ」、明治四十年の『東京勧業博覧会には「戦の話」「かりそめのなやみ」を発表し』え一等を受賞、『翌年の文展に「車夫の家族」などを次々に発表』して、遂に彼は『三十四歳という若さで文展審査員のひとりに挙げられた。この頃は、社会風物を鋭く描いた時期である』。明治四十四年、『大原孫三郎の援助で再度渡欧し、パリで初歩からデッサンに取り組み』、『勉強した。新しい研究成果を身につけて』大正元(一九一二)年に『帰朝、後期印象派などの影響により、幾分』、『象徴主義的な画風へと転じた。そのころの作に「椅子による裸婦」「長崎の人」などがある』。『その後、画面は次第に醇化され、独自の画境が切り開かれていった』。その後の『四度にわたる中国旅行で、明治リアリズムからの蝉脱を模索していた国四郎は、大陸の自然や風物に接し、「十五老」(国四郎のもじりで、九・二・四老)と称して、油絵具を使いながら、彼の絵には東洋画の落ち着きと、気品が加わった。また筆やすみを使って、山水を描く南画風の絵も描くようになり、いっそう独特の画境を示すようになった』。大正一四(一九二五)年には『帝国美術院会員となり、太平洋画会の一員として多くの後進を指導し、岡山県人では吉田苞・柚木久太・片岡銀蔵・三宅円平・石原義武らを育てた』。『晩年の作品は、的確なフォルム、温か味のある色彩により、平明で装飾的な画面を作りあげている。「女ふたり」「緋毛氈」などの彼の代表作がこの頃の作品である』。『中村不折は国四郎を評して「幸か不幸か満谷君には文章が書けぬ。しゃべるのも下手だ。それで自分というものの吹聴や説明がうまくできぬのだ。そこで君は黙って仕事をしていくより他はない。なんらのかけひきもなく、ただ作品そのもの、言いかえれば芸術の力のみによって、ひた押しに押して行こうとするのが満谷君である。」と言っている』。また、『総社市立総社小学校校長室に掲げられている「フランス・ブルターニュ半島の風景」は、国四郎の遺志によって』、昭和一二(一九三七)年に『遺族によって贈られたものである』が、『その当時の校長重政良一は、「満谷国四郎略伝」の中で、「我等ニハ是ノ如キ大先輩アリキ 出デヨ 第二ノ満谷国四郎、第三ノ雪舟禅師 今此ノ文ヲ草シテ未来ノ画聖ヲ待望シ必ズ出ズベキコトヲ確信ス。諺ニ『二度アルコトハ三度アル』ト」と記している』とある。

「ポストイムプレシヨニズム」ポスト印象主義(Post-Impressionism/フランス語:Post-impressionnisme)。「後期印象派」と訳されるが、意味がおかしい。「印象派」の後に、フランスを中心として主に一八八〇年代から活躍したそれぞれに「印象派」のレッテルを越えようとした画家たちを指す呼称である。一般にはフィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌなどを代表者とする。

「不折氏」中村不折。「芥川龍之介書簡抄18 / 大正二(一九一三)年書簡より(5) 十一月一日附原善一郎宛書簡」で既出既注。ここに出、また注で述べた同時代の画家たちの多くも、そちらで私が注してあるので、見られたい。

「巽画會」(たつみがかい)は、明治二九(一八九六)年に深川在住の村岡応東・遠山素香・大野静方(しずかた)の三名が発起人となって発足した。当該ウィキによれば、『新傾向派の青年画家の拠点となり、後に上野竹の台五号館で展覧会を開催するまでに発展した。やり手の南米岳が経営にあたり、京都にまで範囲を及ぼし』、明治四十三年には『審査員に鏑木清方、菱田春草、山田敬中、上原古年、高橋広湖、今村紫紅、木島桜谷、菊池契月、上村松園、尾竹竹坡、尾竹国観、山内多門、町田曲江、信近春城、安田靫彦、田中頼章、小室翠雲などがあたるようになった。また、会の機関紙『多都美』』(後に『たつみ』・『巽』と改称)『を出版し』とある。

「木村莊八」(しょうはち 明治二六(一八九三)年~昭和三三(一九五八)年)は洋画家・版画家・随筆家。当該ウィキによれば、『牛鍋チェーン店のいろは牛肉店を創立経営した木村荘平の妾腹の八男として、東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)のいろは第』八『支店に生まれる』。父の死後、浅草から京橋の『いろは』『支店』を移り住み、『帳場を担当しながら』、『兄・荘太の影響により』、『文学や洋書に興味を持ち、小説の執筆などをして過ご』した。著書「東京の風俗」所収の『自伝的文章「私のこと」によると、旧制京華中学校』四『年生の頃から』、『学校へはほとんど行かず、芝居見物と放蕩に熱中したという』(明治四三(一九一〇)年同校卒)。その翌年、『長兄の許可を得て』、『白馬会葵橋洋画研究所に入学し』、『画家を目差すこととなる』。明治四十五年には、『岸田劉生と知り合い親交を深め、斎藤與里の呼びかけで岸田らとともにヒュウザン会』(既出既注)『の結成に参加した』。大正二(一九一三)年に、、『いろは牛肉店』を辞めて独立、『美術に関する著作・翻訳を行う傍ら』、『洋画を描き注目された』。大正四年、『劉生たちと共に草土社を結成』大正十一年まで『毎回出品する。二科展や院展洋画部にも出品を重ね』、大正七年の院展出品作「二本潅木」では『高山樗牛賞を受賞した』。大正一一(一九二二)年、『春陽会創設に客員として参加し』、大正十三年に『同正会員となり』、『そこで作品の発表を続けた』。この年『以降は挿絵の仕事が増し』てゆき、昭和一二(一九三七)年には『永井荷風の代表作』「濹東綺譚」(『朝日新聞』連載)に『おいても』、『挿絵を担当し』、『大衆から人気を博した』。『他に描いた挿絵は大佛次郎の時代小説』を多く手掛けた。『新派の喜多村緑郎を囲み、里見弴、大佛次郎、久保田万太郎等と集まりを持っていた』。昭和二〇(一九四五)年頃には、『新版画といわれる木版画「猫の銭湯」などを発表している』。『晩年となった戦後は、文明開化期からの東京の風俗考証に関する著作』「東京の風俗」・「現代風俗帖」など『を多数出版』し『た。多忙のため』、『病気(脳腫瘍)の発見が遅れ、短期で悪化し』、亡くなったとある。

「岸田劉生」(明治二四(一八九一)年~昭和四(一九二九)年)は洋画家。東京生まれ。ャーナリスト岸田吟香(ぎんこう)の四男。黒田清輝らの白馬会研究所に学び、雑誌『白樺』の同人と交わり、ポスト印象派を知り、大正元年、高村光太郎らと「ヒュウザン会」を起こした。大正四年には木村荘八らと「草土社」を結成、静物画や風景画に独特の細密表現を完成した。なお、木村も岸田も巽画会展洋画部の審査員として参加していた

「ボツチシエリ」初期ルネサンスで最も業績を残したフィレンツェ派の代表的画家サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli 一四四五年~一五一〇年)。フィレンツェ生まれ。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ(Alessandro di Mariano Filipepi)。「Botticelli」は彼の兄が太っていたことからついた「小さな樽」という兄弟族の綽名。代表作は言わずと知れた「ヴィーナスの誕生」(La Nascita di Venere :一四八五年頃)。

「セガンチニ」イタリアの画家ジョヴァンニ・セガンティーニ(Giovanni Segantini 一八五八年~一八九九年)多くの風景画を残し、「アルプスの画家」として知られるが、「悪しき母たち(Le cattive madri :一八九四年)などの幻想的な作品は、「世紀末芸術」の一つに数えられることがある。

「モナ・リサの複寫のやうな馬鹿な画をかいた奴もゐた」不詳。出品リストでも見れれば、或程度は特定出来そうだが。

「この次の日曜にはフイルハアモニイがある」筑摩全集類聚版脚注には、『第十四回が十二月六日から帝劇で開かれている』とある。既出既注の岩崎小弥太の作った音楽愛好家団体「東京フィルハーモニック・ソサエティー」のそれである。但し、年譜ではそれを聴き行った事実は見当たらない。

「靑島陷落」第一次世界大戦中のこの大正三(一九一四)年十月三十一日から十一月七日にドイツ帝国の東アジアの拠点青島(チンタオ)を日本・イギリス連合軍が攻略した「青島の戦い」。当該ウィキによれば、『日本の戦争で最初に航空機が投入された戦いであり、航空機同士の空中戦や都市への爆撃も実施され、飛行機に対抗する高射砲も運用された』。『しかし、大量の装備の上陸や輸送路の確保に慎重を期し、山東半島上陸から青島砲撃までに』二ヶ月もの『時間を要したものの、砲撃後』一『週間で決着がついた戦いは、国民に「弱いドイツ軍相手にだらだらと時間をかけた」という誤った印象を与え、メディアなどからは「神尾の慎重作戦」と揶揄された』『が、結果的にこの戦いを短期間で決着に持ち込めたのは、補給路や装備の十分な確保により』、『断続的な飽和攻撃を敵に与える事が出来た事によるものであ』った。『この戦争で日本は満洲』―大連―芝罘(しふう)『間通信線の所有』及び『運用権を譲り受けた』とある。

「ユンケル」一高のドイツ語のドイツ人講師。複数回既出既注。

「ラツフ」rough。粗野。

「ピユリタン」Puritan。原義はイングランド国教会の改革を唱えたキリスト教のプロテスタント(カルヴァン派)の大きなグループで市民革命の担い手となった。日本語では「清教徒」と訳されるが、ここでは彼らの属性である「禁欲的生活者」の意で用いている。

「ゴーホ」オランダのポスト印象派の画家フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh 一八五三年~一八九〇年)。芥川龍之介はこれ以降、終生、彼の作品を愛した。遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の草稿附き電子テクスト)でも、以下のように登場させている。

   *

       七 畫

 彼は突然、――それは實際突然だつた。彼は或本屋の店先に立ち、ゴオグの畫集を見てゐるうちに突然畫(ゑ)と云ふものを了解した。勿論そのゴオグの畫集は寫眞版だつたのに違ひなかつた。が、彼は寫眞版の中(うち)にも鮮かに浮かび上る自然を感じた。

 この畫に對する情熱は彼の視野を新たにした。彼はいつか木の枝のうねりや女の頰の膨らみに絕え間ない注意を配り出した。

 或雨を持つた秋の日の暮、彼は或郊外のガアドの下を通りかかつた。ガアドの向うの土手の下には荷馬車が一台止まつてゐた。彼はそこを通りながら、誰(たれ)か前にこの道を通つたもののあるのを感じ出した。誰(たれ)か?――それは彼自身に今更問ひかける必要もなかつた。二十三歲の彼の心の中には耳を切つた和蘭人(オランダじん)が一人、長いパイプを啣(くは)へたまま、この憂欝な風景畫の上へぢつと鋭い目を注いでゐた。……………

   *

「バフーン」buffoon。英語。古語で「道化師・おどけ者」の他に、転じて「馬鹿げた面白いことをする奴」・「下品な輩」「馬鹿者」の意がある。

「山宮さん」一高・東帝大の一年上級の山宮允(さんぐうまこと 明治二三(一八九〇)年~昭和四二(一九六七)年)。既出既注

「ミゼラブル」miserable。惨めな・不幸な・哀れな・悲惨な。

「醫科の男」恐らく既出既注の江東小学校及び府立三中時代の同級生上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)。一高の第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部を卒業後、医師となった。

「新思潮はとうの昔癈刊した」第三次『新思潮』はこの大正三年九月の九月号までの全八号を以って廃刊となった(恐らくは主に発行資金調達の経済的理由と推測される)。芥川龍之介が同誌に発表した作品は、

第一号(大正三年二月十二日発行)に翻訳「バルタサアル(アナトール・フランス)」(リンク先は「青空文庫」の新字正仮名版。以下、何も注していないそれは同所のもの)

第三号(同四月一日発行)に翻訳『「ケルトの薄明」より(イエーツ)』と書評「未來創刊號」(詩人三木露風が結成した未来社の同人雑誌『未來』の大正三年二月十五日東雲堂書店発行の同雑誌創刊号の作品評。ネット上に電子化物は見当たらない)

第四号(同五月一日発行)に小説「老年」(「青空文庫」版であるが、これは新字新仮名)

第五号(同六月一日発行)に翻訳「春の心臟―W. B. Yeats―」

第七号(同八月一日発行)に評論「シング紹介」(これは永く幻しとされていたもの。リンク先は新全集を参考に私が独自に電子化した草稿附き)

第八号(同九月一日発行)に「靑年と死と(戲曲習作)」(私の古い電子化)

であった。総て「柳川隆之介」名義である。

「肺尖」肺尖部肥厚。肺野の一番上の尖った部分の肺尖部胸膜肥厚のこと。結核の初期症状や予後に生ずることがあるが、活動性炎症の所見が見られない場合は、殆んどが昔の肺炎や胸膜炎の痕跡で放置して構わない。

「坪内さん」坪内逍遙(安政六(一八五九)年~昭和一〇(一九三五)年)。この久米正雄の重訳版「ロメオとジユリエツト」は大正四(一九一五)年一月に新潮社の新潮文庫で刊行されている。大正十一年の同社の「泰西戯曲選集」の第一編の再刊本が国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。

「豐島君」豊島与志雄(明治二三(一八九〇)年~昭和三〇(一九五五)年)は福岡出身。龍之介より二つ年上。一高から東京帝国大学仏文科に入学。第瑣三次『新思潮』の創刊に加わり、同誌創刊号に処女小説「湖水と彼等」を発表して認められた。知的な内省と鋭敏な神経で綴る幻想的な説話性に富む作風で、地味ながら独自の文壇的地位を占めた。大正六(一九一七)年にヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」を翻訳、これがベスト・セラーとなり、翻訳が主、創作が従の活動が続いた。昭和一〇(一九三五)年、東京大学講師となり、以後、晩年まで諸大学の教授職にあった。戦後は「日本ペン倶楽部」(当時の会名)の再建に尽力し、昭和二二(一九四七)年には再建された「日本ペンクラブ」の幹事長に就任した。昭和二七(一九五二)年には旧訳の「ジャン・クリストフ」がまたしても大当たりとなった。代表作は短編小説集「生あらば」(新潮社・大正六(一九一七)年)、中編小説「野ざらし」(新潮社・大正一二(一九二三)年)、随筆集「書かれざる作品」(白水社・昭和八(一九三三)年)、長編小説「白い朝」(河出書房・昭和一三(一九三八)年)、短編小説集「山吹の花」(筑摩書房・昭和二九(一九五四)年)等があり、また、数多くの児童文学作品も書いている。創作家としてよりも、名訳者として名を残した。また、太宰治が晩年に豊島与志雄を最も尊敬し、山崎富栄を伴って、親しく交際し、太宰の葬儀では葬儀委員長を務めた(以上は主に当該ウィキに拠った)。

「谷森君」既出既注

「八木君」既出既注の八木実道(理三)であろう。同前で、『一高時代の同級生。愛知県の生まれ』。東京帝大『哲学科卒。宇都宮高等農林学校教授を経て、第三高等学校』(現在の京都大学総合人間学部及び岡山大学医学部の前身)『生徒主事兼教授』とある。

「庇髮」女性の束髪の一つ。入れ毛を使って前髪と鬢 (びん)とを膨らませ、庇のように前方へ突き出して結う髪形。明治三十年代頃、女優川上貞奴が始めてから、大正の初めにかけて流行し、また、女学生が多く用いたことから、「女学生」の異称ともなったが、ここはそれである。

「長崎君」既出既注であるが、再掲しておくと。一高時代の同級生で井川とも親しかった長崎太郎(明治二五(一八九二)年~昭和四四(一九六九)年)。高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)生まれ。旧同級だった芥川龍之介や菊池寛らとも親交を持った。一高卒業後、井川と同じく京都帝国大学法科大学に進学(さればこそここに名が出て腑に落ちる)、大正六(一九一七)年の卒業後は日本郵船株式会社に入社、米国に駐在し、趣味として古書や版画を収集し、特にウィリアム・ブレイクに関連した書籍の収集に力を入れた。同一三(一九二四)年に欧州美術巡覧の後に帰国した。翌十四年、武蔵高等学校教授となり、昭和四 (一九二九) 年には母校京都帝国大学の学生主事に就任した。同二十年、山口高等学校の校長となり、山口大学への昇格の任に当たった。同二四(一九四九)年には京都市立美術専門学校校長となったが、ここも新制大学へ昇格、翌年、京都市立美術大学学長となって、多くの人材を育てた。

「こなひだ逗子へ行つた時」既出既注

「驛路(はゆまぢ)」宿駅の古語。

「嗄聲(からごへ)」「からごゑ」が正しい。しゃがれ声。この一首は全体が擬人法。

「無量劫」「むりやうごふ(むりょうごう)」仏語。限りなく長い時間。永劫。

「なからひ」「仲らひ」は「男女・夫婦・血族などの人と人との間柄・人間関係・一族」の意であるが、ここはどうも、「中間に」の意で用いていているとしか思えない。まあ、その「ちさし」「男の子」を海と空の自然の中に正しく育まれた存在としてという意味で原義に繋げているとも読める。私もまさにそんな情景を、遠い二十歳の昔、見たことがあり、写真に撮ったことがあるから、この一首は非常に打たれるものがある。]

 

 

大正四(一九一五)年一月一日・消印大正三(一九一四)十二月三十一日・攝津國武庫郡西の宮香櫨園深田樣方 井川恭君・(葉書)

 

  隆達にまなびて

薔薇はすがれて、さうよの

いのちの春が來るのは

いつであらうぞの

 一月一日

 

[やぶちゃん注:半今様(はんいまよう)風の芥川龍之介自作の歌謡である。

「隆達」近世初期の流行歌謡隆達節(りゅうたつぶし)或いは、それを創始したとされる高三隆達(たかさぶりゅうたつ 大永七(一五二七)年~慶長一六(一六一一)年)のこと。「隆達小歌」とも呼ぶ。隆達は泉州堺の薬種商の末子に生まれ、日蓮宗顕本寺の僧となったが、兄隆徳の没後、還俗した。生来、器用な彼は、連歌・音曲・書画などに才能を現わし、自ら、小歌を作詞してこれを歌い、名声を得た。この隆達節が最も流行したのは文禄・慶長期(一五九二年~一六一五年)で、その後、元禄・宝永期(一六八八年~一七一一年)頃まで、永く流行し続けた。曲節自体は現存しないが、恐らく先行する数種の音曲を折衷し、そこに彼独自の節回しを加えたものと思われる。伴奏には主として扇拍子(閉じた扇で掌や板の台などを敲いて拍子をとること)や一節切(ひとよぎり:尺八の前身ともされる真竹製の縦笛。節が一つだけあるのを特徴としたため、この名を得た)・小鼓などが用いられた。自筆・他筆を含めて五百首以上の歌詞が現存するが、その総てが隆達の作というわけではない。内容の七割以上は恋歌で、詞型は七五七五調の半今様型が最も多く、近世小歌調の七七七五調はきわめて少ない。その意味で、隆達節は中世歌謡から近世歌謡への過渡的小歌として、歴史上。重要視されている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

2021/04/10

私の怒り

「放射能汚染された処理水投棄が安全だ」というのであれば、全投棄水を均等に全国の海に接した都道府県に振り分け、それぞれに「適切な海域」に投棄するように政府は命ずるべきである。――「復興五輪」などと「噓」ぶいている中で、これを強行しようとする日本に――全世界の国はNOを訴えるべきである――

伽婢子卷之二 眞紅擊帶

   ○眞紅擊帶(しんくのうちをび)

 越前敦賀の津〔つ〕に、濱田の長八とて有德(うとく)人ありて、二人の娘を、もちたり。

 その隣(となり)に、若林長門守が一族、檜垣(ひがきの)平太といふもの、武門を離れ、商人(あきびと)となり、金銀ゆたかにもちて、住〔すみ〕侍べり。

 是(これ)に一人の子あり。平次と名づく。長八が娘と、おなじ年頃にて、いとけなき時は、常に出合〔いであ〕ひて、遊びけり。

 平太、すなはち、

「長八が姊娘(あねむすめ)を、我が子の妻とすべき。」

よし、媒(なかだち)を以て、いはせければ、やがて、受けごひけり。

「さらば、其しるしに。」

とて、酒・さかなとゝのへ、眞紅(しんく)の擊帶(うちおび)ひとつ、娘に、とらせたり。

 天正三年の秋、朝倉が餘黨、おこり出〔いで〕て、虎杖(いたどり)・木芽峠(きのめたうげ)・鉢伏(はちふせ)・今條(いまでう)・火燧(ひうち)・吸津(すひづ)・龍門寺(りうもんじ)、諸方の要害に楯(たて)ごもる。

 其中に、若林長門守は、河野の新城に籠りしかば、信長・信忠父子、八萬餘騎を率(そつ)して、敦賀(つるが)に着陣あり、木下藤吉郞におほせて、河野(かうの)の城をとりかこませらる。

 檜垣平太は、若林が一門なれば、敦賀にありて、とがめられむ事をおそれ、一家を開(あけ)のきて、所緣につきて、京都にのぼり、五年までとどまりつゝ、その間に、敦賀のかたへは、風のたよりも、なし。

 長八が娘は、年、すでに十九になり、容顏(ようがん)うつくしかりければ、人皆、これを求むれ共、娘、更に聞入れず、

「みづから、いとけなき時より、一たび、平次に約束して、今、たとひ、捨てられたりとも、又、こと夫(をつと)をまうくべきや。その上、平次、もし、生(いき)てかへり來らば、誠に恥ずかしき事なるべし。」

とて、朝夕は、深く引籠り居たりけるが、平次が行方〔ゆくへ〕の戀しさ、露〔つゆ〕忘るる隙〔ひま〕なく、只、かりそめの手すさみにも、其人の事のみ、あらまされて、人しれぬ物思ひに、淚を流すばかりなり。

 つひに、思ひくづをれて、病(やまひ)のゆかに臥し、半年餘(あまり)の後、つひに、むなしく成ければ、二人の親、大〔おほき〕になげき悲しみつゝ、「小鹽(こしほ)」といふ所のてらに、埋みけり。

 母、その娘の額(ひたひ)をなで、平次がつかはしける眞紅の帶を取出(とり〔いだ〕)し、

「是は、いましの夫の、とらせたる帶ぞや。跡にとどめて、何にかせむ。黃泉(よみぢ)までも、見よかし。」

とて、むなしき娘が腰に結びて、おくり、埋みけり。

[やぶちゃん注:「擊帶」「新日本古典文学大系」版脚注には、『糸組みの帯』で、『組目をへらで打ち固めるところからの名。平打ち・丸打ちの二種があり、挿絵』(最初に掲げたものの駕籠の下方に落ちているそれ)『に見る網状の帯は丸打ちで、近世初期(十六世紀末十七世紀初頭)に流行した。本書巻八ノ三』の「歌を媒(なかだち)として契る」『にも』「花田の打帶一すぢ繩のやうなる」『とある。当時の風俗画によれば、主に少女や若い女性が着用し、体に数回巻いて大きく蝶結びにしたのち、房のついた両端を長く垂らした』と非常に詳しい説明が載る(但し、この注の冒頭で『別名、名古屋帯』とされておられるのだが、現行の和服業界では、「名古屋帯」は、近代(大正期)に考案された、速やかに締めることの出来る帯の名称として現に流通しているので、そこは外したことをお断りしておく)。岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)では、ここで結納品としてこれを贈ることは『縁を結ぶしるしとして用いられた』とあることで、縁起物としてのそれが腑に落ちる。

「越前敦賀の津」現在の福井県敦賀市の「湊」の意。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「若林長門守」若林九郎左衛門。「怪奇談集」の「三州奇談」の注で非常にお世話になった昭和一七(一九三二)年金沢文化協会刊の日置謙氏の編になる「加能郷土辞彙」(「金沢市図書館」のこちらの使い勝手が非常によい)の「若林長門」によれば、『ワカバヤシナガト 若林長門 一向一揆の首領で、石川郡劔城』(白山山麓の加賀舟岡城の別名)『に居た。天正二』(一五七四)『年本願寺顯如の命により、長門は越前に入り、七里賴周』(しちりよりちか:本願寺の坊官(寺院の最高指導者(別当・三綱)などの家政を担当した僧。当該組織をも指し、行政機関に於ける「政所」に相当する)『と共に軍事を督した』(彼はこの時、朝倉景鏡(かげあきら)を倒し、越前を加賀と同じく一向宗門徒領国にする功に与(くみ)した)『が、三年八月織田信長は羽柴秀吉を派して一揆を討伐せしめるや、八月十碁五日秀吉は海を渡つて河野浦に上陸し』、『新城を攻め、長門等』が『之を防いだが』、『敗れて遁走し、戰死二』、『三百人に及んだ。總見記にこの時長門も亦歿したと記するのは誤である。長門は八年金澤御坊の陷落後も尙存命してゐたが、柴田勝家は之を討たんと欲し、十月七日自ら粟生に陣し、柴田勝政等をして柏野に進擊せしめた。長門は敵の先鋒と爭ふこと少許』(すこしばかり)『の後』、『松任に退き、若し舊領を安堵するを得ば降を容れんことを申出で、勝政は佯』(いつは)『つて之を許したので、長門は子雅樂助』(「うたのすけ」であろう)『・甚八郞と共に、勝家の恩を謝せんが爲その本營に赴いた。勝家乃』(すなは)ち部下の三人を『一室に伏せしめ、長門の一禮するを待つて之を斬り、二子も亦別室で殺され、勝家は十一月二十日附の注文で、是等の首を安土に送つたといふ。併し關屋政春古兵談には、長門が越前丸岡に至つて柴田勝政に謁した際殺されたのであるとしてゐる』とある人物である。正直、「新日本古典文学大系」版脚注よりも実事績がはっきり判る。

「受けごひけり」「諾(うけご)ひけり」。受諾した。

「さらば、其しるしに」「とて」「眞紅(しんく)の擊帶(うちおび)ひとつ、娘に、とらせたり」「新日本古典文学大系」版脚注に、『婚約成立のしるしとして』、『結納に帯を贈る風習があった』として、「女重宝記」(おんなちょうほうき)の巻之二の「嫁取言入ならびに日取の事」を引用する。所持する一九九三年社会思想社刊本を参考に、国立国会図書館デジタルコレクションの原本当該部の画像を見て示すと(右頁後ろから三行目)、

   *

中(ちう)より下(した)のたのみ[やぶちゃん注:男方から女形への結納を「賴み」と呼ぶことが同条の最初の方に記されてある。]には、帶又は金銀に樽・さかな、そゆるもあり。

   *

とあってここと一致する。「中より下」というのは身分(経済状況の差を含む)の違いを言っているようである。

「天正三年」(一五七五年)「の秋、朝倉が餘黨、おこり出〔いで〕て」「新日本古典文学大系」版脚注に、『八月越前国朝倉が余党おこりて下間和泉守』(足羽郡司であった下間(しもつま)頼俊のこと。後に出る下間頼照の長男)『虎杖の城にたてごもる。石田正光寺』(福井県鯖江市杉本町にある旧石田山西光寺、現在の石田殿西光寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。後の幕末の万延元(一八六〇)年に関白九條兼実から直筆の殿号額を下賜されて寺院では全国で唯一の殿号寺院となった)。天正三(一五七五)年西光寺第五世真敬の時、木芽峠に山寨を構え、信長勢と戦ったが、多勢に無勢、真敬は木芽峠で自刃した。以上は竹内敏夫氏のサイト「写真で訪れる蓮如の里 吉崎御坊とその周辺」の「西光寺」に拠った)『は木芽峠に要害をかまへ、阿波賀三郎兄弟』(阿波賀景賢(あばが かげたか)と弟か。朝倉孝景の家臣)『下間筑後守』(下間頼照(らいしょう 永正一三(一五一六)年~天正三(一五七五)年)は頼俊の父。通称、筑後法橋。顕如によって一向一揆の総大将として越前国に派遣されて平定し、実質的な本願寺領としたことから、実際には越前守護又は守護代として在住していたと考えられる。この年の織田の侵攻では、頼照は観音丸城に立て籠もったが、地元の一揆勢の十分な協力を得られなかったこともあり(一揆の主力であった地元勢力は大坂から派遣された頼照らによって家臣のように扱われることに激しい不満を抱いていた。実際に天正二(一五七四)年には反乱を起こして頼照ら本願寺勢力によって弾圧された経緯があった)、織田方の猛攻に拠点の城は落城、頼照は海路をのがれようとしたが、同宗内で対立していた真宗高田派の門徒に発見されて首を討たれて死んだ。ここは当該ウィキに拠った)『今条と火燧が城と二箇所をかため、大垣円幸寺』(不詳)『吸津の城にこもり、河野の新城には若林長門守たてごもり、三宅権之丞』(不詳。最初の織田侵攻の際に織田勢を破った人物ではある)『は竜門寺にこもる』とある。

「朝倉が餘黨」前注から判る通り、実は織田に討たれた朝倉義景(天文二(一五三三)年~天正元(一五七三)年)の残党ではなく、一向一揆勢を指す。ウィキの「石山合戦」によれば、『天正元年、信長は朝倉義景と浅井長政を相次いで滅ぼし、義景の領国であった越前には義景の元家臣前波吉継を守護代に任じて統治させた。しかし、吉継は粗暴な振る舞いが多くなり、翌年』一『月に富田長繁ら国人領主と結んだ一向一揆によって殺された。さらに一向一揆と結んだ国人領主も』、『次々と』、『一揆により』、『織田方の役人を排斥し、越前は加賀一向一揆と同じく』、『一向一揆の』勢力権にある『国となった(越前一向一揆)。これにより、信長はせっかく得た越前を一向宗に奪われることになった』。『これを知った顕如は、はじめ』『七里頼周』(しちりよりちか:武将にして本願寺坊官)『を派遣し、その後下間頼照を越前守護に任じた。こうして本願寺と信長の和議は決裂し』、四月二日、『石山本願寺は織田家に対し』、『再挙兵した』。『本願寺は長島・越前・石山の』三『拠点で信長と戦っていたが、それぞれが政治的に半ば独立しているという弱点があ』り、『信長はそれを最大限に活用して各個撃破に』出、七月、『信長は大動員令を発して長島を陸上・海上から包囲し、散発的に攻撃を加えるとともに補給路を封鎖して兵糧攻めにした。長島・屋長島・中江の』三『個所に篭った一揆勢はこれに耐え切れず』、九月二十九日には『降伏開城した。しかし、信長はこれを許さず』、『長島から出る者を根切に処した。この時、降伏を許されなかった長島の一揆勢から捨て身の反撃を受けたため、残る屋長島・中江の』二『個所』で『は柵で囲んで一揆勢を焼き殺した。指導者であった願証寺の顕忍(佐堯)は自害し』ているとある。

「虎杖(いたどり)」「新日本古典文学大系」版脚注では地区を示して、『福井県南条郡今庄町板取。北陸道の宿駅であるとともに軍事的な要衝としてしばしば合戦の場となり、虎杖城、西光寺城』(ここ)『などが築かれた』とある。但し、板取は現在は福井県南条郡板取であり、虎杖城自体は現在の行政地名では、その境界域の外に当たる福井県南条郡南越前町八飯(やい)に城跡がある

「木芽峠(きのめたうげ)」同じ板取地区のここにある。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『今庄』(旧板取地区を含んだ福井県南条郡南越前町今庄地区)『と敦賀との間にある木ノ目峠』(木ノ芽峠が正しい。国土地理院図)。『敦賀を経由して京都へ向かう北陸街道の枝道、西近江路の要衝。峠道を挟むように城の遺構がある』とある。個人サイト「街道の風景」の「木ノ芽峠」が非常に詳しい。必見!

「鉢伏(はちふせ)」ここ(国土地理院図)。個人サイト「城郭放浪記」の「越前 鉢伏城」がよい。

「今條(いまでう)」前の注で示した旧今庄地区のこと。「新日本古典文学大系」版脚注には、『北陸街道の宿駅で南に』木ノ芽峠、『西に山中峠、北に湯尾峠を控えた交通の要衝』とある。

「火燧(ひうち)」南今庄協会直近の今庄地区のここに城跡がある。

「吸津(すひづ)」福井県敦賀市杉津(すいづ)。地図を見ても、岡崎山砦・杉津砦・河野丸砦の山寨跡が確認出来る。

「龍門寺(りうもんじ)」福井県武生(たけふ)市本町に現存する曹洞宗の寺院附近にあった城。ここ。「城郭放浪記」の「越前 龍門寺城」によれば、天正元(一五七三)年に『富田長繁によって築かれたと云われる。もともと龍門寺があった所と云われる』。天正元年、『織田信長によって朝倉氏が滅ぼされると、朝倉氏の家臣であった富田長繁は』、『いち早く信長に降って、府中を領し』、『龍門寺城を居城とした』。翌天正二年に『一向一揆が起こると』、『それに加担して確執のあった守護代桂田長俊(前波』(まえば)『吉継)を敗り、更に魚住景固』(うおずみかげかた)『父子を謀殺して越前一国を支配した。長繁は織田信長に越前守護の朱印状を要求するなど』、『地位を固めようとしたが』『悪政を施』(し)『いたため』、天正三(一五七五)年に『一向一揆の襲撃を受け、この戦いの最中』(さなか)、『家臣の小林三郎次郎吉隆に裏切られ』て『討死にした』。同年、『越前を再び平定した織田信長は北庄城に柴田勝家を置くとともに、越前府中に前田利家・佐々成政・不破光治を柴田勝家の目付として配置し』、『府中城には前田利家、小丸城には佐々成政、龍門寺城に不破光治が入り』、『合わせて十万石を領した』。天正八年、『不破光治は没し、不破直光が家督を相続したが、賤ヶ岳合戦後は前田利家に仕えた』とあり、『現在の龍門寺一帯が龍門寺城跡である』とされ、天正一六(一五八八)年になって、『再び龍門寺が再建されて現在まで続いているが、城域はもっと広く本町一帯であったと考えられて』おり、『明瞭な遺構は残っていないが』、『寺の南側にある墓地が堀跡の名残として周囲より一段低い位置になっている』とある。この附近か(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「河野の新城」現在の福井県南条郡南越前町河野。「新日本古典文学大系」版脚注には、『府中(武生市)と西街道で結ばれ、敦賀へ船の便があった』とあるだけで「城」については述べていない(私の示した同一の場所を指している)。ただ、調べてみても、この地区に城塞があったことを確認出来ない。識者の御教授を乞う。

「開(あけ)のきて」住んでいたところを引き払って立ち退いて。

「みづから」「自ら」であるが、ここは「妾(わらは)・私」で自称の人称代名詞。中古からあって、古くは男女ともに用いたが、近世では女性語となった。

「こと夫(をつと)」「異夫」。

「かりそめの手すさみにも」気晴らしのために歌などを詠んで書いてみたり、遊戯をしたり、物見遊山をしたりしてみても。

「あらまされて」自然に胸中に思い巡らされて。

「思ひくづをれて」「思ひ崩折れて」。重い心身症のような状態になったのであろう。

『「小鹽(こしほ)」といふ所のてら』「新日本古典文学大系」版脚注には、『未詳。似た地名に越前国南仲条郡王子保(福井県武生市大塩町)があるが、菩提寺としては遠過ぎるか』とあり、調べると、ここで、ちょっと遠過ぎて、あり得ない。後で四十九日の墓参のシーンが出るが、駕籠を使うとは言え、女連れで、朝に出でて、夕暮れに戻ってこれるような距離(往復で六十キロメートルはある)では物理的にないからである。一方、岩波文庫「江戸怪談集(中)」では、『敦賀郊外の地名。「をしほの西光寺にをくりて土葬にいたし」(平仮名・因果物語』巻四の六)』とある。この寺が現在の福井県敦賀市大比田の西光寺であるとすれば、往復で二十六キロ程度で、まあ、一日で行けぬ距離ではない(但し、侍女を歩かせてのそれは、かなりきつい気はするが)。

「むなしき娘が腰に結び」これが執心の契機となっていることに注目しなくてはならない。

「おくり」野辺の送りをし。]

 

 三十日あまりの後、平次、すなはち、來りぬ。

 長八、これをよびいれて、

「如何に。」

と問へば、答へていふやう、

「若林長門守が、河野の新城に楯籠りしかば、信長公、八萬餘騎にて此敦賀に着陣あり。もし、『若林が一族なり』とて、尋ねいましめられん事を恐れて、とる物もとりへず、京都にのぼり、所緣につきて、暫く住居(すまひ)せし所に、打續きて、二人の親、むなしくなりければ、往昔(そのかみ)の契約、わすれがたくて、ここに歸り來れり。」

といふ。

 濱田夫婦、淚を流していふやう、

「姊娘は、そのころより、そこの御事を思ひあこがれ、病を受けて、去〔いん〕ぬるつきの初めつかた、つひに、むなしくなり侍り。久しく便りのなかりつる事を、さこそ恨み思ひけむ。これ、見給へ、硯の蓋に書おきたり。」

とて、なくなく、取り出して、平次に見せたり。

 その歌に、

 せめてやは香(か)をだににほへ梅(むめ)の花

   しらぬ山路のおくにさくとも

平次、是を見るに、我身のつらさ、今更に思ひ知られて、悲しき事、かぎりなし。

 佛持堂にまいり、位牌の前に花香たむけ、念佛となふれば、二人の親、うしろに來りつつ、

「これこそ、汝が戀ける平次の手向〔たむけ〕なれ。よくよく、うけよ。」

とて、ふしまろび、悲しみ歎きければ、平次を初めて、家にある人、皆、一同に聲をそろへてなきけるも、あはれなり。

 濱田夫婦、いふやう、

「今は父母もおはせねば、獨身〔ひとりみ〕となりて、心細かるらむ。今、姊娘の死したればとて、餘所(よそ)にやは見るべき。同じくは、此家におはして、ともかうも、身の業(なりはひ)をいとなみ給へ。」

とて、家の後ろに、住所〔すみどころ〕しつらひて、とゞめおきたり。

[やぶちゃん注:「すなはち」(前触れもなく)急に。

「せめてやは香(か)をだににほへ梅(むめ)の花しらぬ山路のおくにさくとも」岩波文庫「江戸怪談集(中)」によれば、「千載和歌集」の「巻第一 春歌上」一の道因法師の一首(六二番)、

   花の歌とてよめる

 花ゆゑに知らぬ山路はなけれどもまどふは春の心なりけり

に基づくとある。上手くインスパイアしてある。

「佛持堂」持仏堂。持仏や先祖の位牌を安置した室。仏間。言わずもがな、浄土真宗であろう。

「せめてやは香(か)をだににほへ梅(むめ)の花しらぬ山路のおくにさくとも」「香」は「音信」を、「しらぬ山路のおく」に「平次のいる知らぬ異郷」を、平次への変わらぬ思慕の念を梅の花の香りの漂いに掛けたもの。

「我身のつらさ」平次が彼女にかけてしまった辛い思いを知って、己(おのれ)の薄情に思い到ってつらく思うているのである。

「餘所(よそ)にやは見るべき」「どうして赤の他人のように冷たく突き放すことが出来ようか、いや、出来はせぬ」。]

 

Sinkunoutiobi

[やぶちゃん注:武家が用いる高級な駕籠に(二人乗りと思われ、妹娘の奥に長八の妻が乗るか)奥には前に被(かづき)をした侍女二人、杖を突いて両脇差を指し、釘貫(くぎぬき)紋をあしらった裃を着ているのが長八であろう。下人一人(こちらも両脇差)と挟箱を負うた下男もいる。平次は長脇差一本である。これから、我々が想像する以上に浜田長八は分限者であることが判る。但し、彼が武士であるかというと、戦国時代の本百姓の村長(むらおさ:江戸時代の名主・肝煎クラス)では名字帯刀(事実上の安全のためにである)した者が多かったから、そうと早合点することは出来ない。ただ、平次の父檜垣平太は若林九郎左衛門の一族とあり、彼の方から浜田長八に娘を嫁に呉れと「頼み」をしているからには、浜田も事実上の武士格であったと考えて構わない。なお、駕籠舁きが頭部に死者のする三角巾をしていることに気づかれるであろう。これは実は現在でも、地方によって、葬儀の折りに火葬場や墓へ向かう送迎の運転手を親族が行う場合に行われる葬送儀礼として残っている。私が思うには、原初、死者の亡骸は魂のない「骸(から)」であることから、悪霊がそこに入り込み易いと考えられたことから、複数の死者を生者が演じることによってその侵入を阻止する目的があったものと考えている。四十九日の法要にそれをやる習慣が、今、残っているかどうかは定かでないが、少なくとも江戸時代にはそうした習慣(その意味認識はなかっただろうが)が実行されていたことを証明する挿絵として重要である。

 

 かくて、四十九日の中陰、とりおこなひ、家、こぞりて、「小鹽」の墓にまうでつゝ、平次をば、留主(るす)せさす。

 下向のとき、日すでに誰(たそ)がれに及びて、平次は、門に出〔いで〕むかふ。

 みな、をのをの、入〔いり〕たりけるに、いもうと娘、今年、十六歲なるが、乘物の内より、何やらむ、おとしけり。

 平次、ひそかにひろふてみれば、眞紅の帶也。

 ふかくおさめて、内に入つゝ、わが住〔すむ〕かたに歸り、ともしびのもとに、物思ひつゞけて、ひとり、座し居たり。

[やぶちゃん注:「中陰」中有(ちゅうう)に同じ。「四有(しう)」。生有(しょうう:衆生生まれる瞬間)・本有(生まれて後、死ぬまでの身)・死有・中有の一つ。死有から次の生有までの間で、人が死んでから次の生を受けるまでの期間。七日間を一期とし、第七の四十九日までの間を指す。

「平次をば、留主(るす)せさす」彼を連れて行かないのは、彼がつらいと思うことを考えたのではなく、冥界に存在を異にする娘の執心を憚ってのものであろう。しかしそれは帯を結んだ時点で無効となっていたのである。

「誰(たそ)がれ」古くは「たそかれ」と清音。語源は「誰 () そ彼 (かれ) は」で、「暗くなって人(或いは魔物。さればこそ別に「逢魔が時」とも呼ぶ)の見分けがつきにくい時分」の意で、夕方の薄暗い頃、夕暮れを指す。

「ふかくおさめて」懐深く収めて。字背に「秘かに」(誰にも気づかれぬうちにさっと)の意が強く籠められてある。]

 

 夜ふけ、人、しづまりてのち、妻戶を音づるゝもの、あり。

 戶をひらきて見れば、妹娘(いもとむすめ)なり。

 そのまゝ内に入て、囁(さゝや)きいふやう、

「みづから、姊にをくれて、嘆きにしづめり。向(さき)に眞紅の帶を投(なげ)しを、君、ひろひ給ふや。ふかき宿世(すくせ)、わすれがたくして、これまで、しのびてまいり侍べり。契りをむすびて、偕老のかたらひをなさん。」

といふ。

 平次、きゝておどろき、いふやう、

「ゆめゆめ、あるべき事ともおぼえず。御父母(〔おん〕ちゝはゝ)のなさけありて、我をやしなひ給ふだにあるを、ゆるされもなくして、正(まさ)なきことをおこなひ、もし、もれなん後〔のち〕をば、いかゞせむ。とく、とく、歸り給へ。」

といふ。

 妹、大にうらみ、いかりて、云やう、

「わが父、すでにむこの思ひをなし、此家に、やしなへり。みづから、こゝに來れる心ざしをむなしくなし給はゞ、身をなげて死なんに、必ず、後〔のち〕の悔みをなし、生をかへても、怨みまいらせむ。」

といふ。

 平次、力なく、その心に、したがひけり。

 曉になりて、妹は、おきて、いにけり。

[やぶちゃん注:「妻戶」一般には両開きの板戸で、家屋の端(つま:角)に設けた外部に通ずる戸の意。

「姊にをくれて」姉に先立たれて。

「向(さき)に」先ほど。

「ふかき宿世(すくせ)」前世からの非常に親密な因縁。古く中古より、夫婦・親子の縁は二世(或いは前者の相愛するものは三世とも)、主従は三世の縁と言う。

「偕老のかたらひ」偕老同穴の「語らひ」(男女が契りを交わすこと)。夫婦が仲睦まじく添い遂げること。夫婦の契りが堅く仲睦まじい喩え。「夫婦がともに睦まじく年を重ねて、死後は同じ墓に葬られる」の意から。「偕」は「ともに」の、「穴」は「墓の穴」の意。出典は「偕老」の方は「詩経」の「邶風(はいふう)」にある「撃鼓」で、「同穴」は同じ「詩経」の「王風」にある「大車(たいしゃ)」の句に基づく。なお、生物としての海綿動物門六放海綿綱リッサキノサ目 Lyssacinosida カイロウドウケツ科カイロウドウケツ属カイロウドウケツ Euplectella aspergillum と、その網目構造内の胃腔の中に、雌雄で片利共生する十脚(エビ)目抱卵亜目オトヒメエビ下目ドウケツエビ科ドウケツエビ Spongicola venusta については、私の「生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(7) / ドウケツエビの注はちょいと面白いぜ!」を参照されたい。

「正(まさ)なきことをおこなひ」父上の許しを得ずに交わって、道理に外れたことを行い。

「むこの思ひをなし」私(妹娘)の婿としたつもりで。

「いにけり」「去にけり」。]

 

 それよりは、ひたすらに暮に來りて、朝(あした)にかへる。

 よひよひごとの關守をうらむるばかり、うちとけて、わりなく契りけり。

 三十日ばかりの後、ある夜、又、來りて、平次に語るやう、

「今までは、人、更にしらず。されども、ことは、もれやすければ、もし、あらはれて、うきめをやみん。君、我をつれて、垣をこえて、跡をくらまし給へ。心やすく、偕老を契らん。」

といふ。

 平次も、此うへは、わりなき情の捨難くして、うちつれて忍び出つゝ、三國(みくに)の湊に被官のものありける、それがもとに行て、

「かうかう。」

と名のり、

「賴む。」

よし、いひければ、かひがひしくうけいれて、一年ばかり、かくれ住〔すみ〕侍べり。

[やぶちゃん注:「よひよひごとの關守うらむるばかり」「毎夜毎夜の逢瀬を邪魔する者をいつもいつも恨むほどに、一夜として来ぬ日はなく、繁く」の意。「伊勢物語」第五段、

   *

 むかし、男ありけり。東(ひむがし)の五條わたりに、いと忍びて行きけり。みそかなる所なれば[やぶちゃん注:人に知られては困る秘かな通い場所であったので。]、門(かど)よりもえ入らで、童(わらは)べの踏みあけたる築地(つひぢ)のくづれより、通ひけり。人しげくもあらねど[やぶちゃん注:その家は人の出入りがたいして多くはなかったのだけれども。]、たび重なりければ、あるじ、聞きつけて、その通ひ路(ぢ)に、夜ごとに人をすゑてまもらせければ、行けども、え逢はで歸りけり。さて、よめる、

  人知れぬわが通ひ路の關守は

    宵々ごとにうちも寢ななむ

[やぶちゃん注:「うちも寢ななむ」は「眠ってしまってほしいものだ」の意。「うちも」は「うち」が強調の接頭語で、「も」も係助詞で強意。「なむ」は願望の助詞。]

と、よめりければ、いといたう、心やみけり[やぶちゃん注:主語は女。]。あるじ、許してけり。

 二條の后(きさき)にしのびて參りけるを、世の聞えありければ、兄人(せうと)たちのまもらせ給ひけるとぞ。

[やぶちゃん注:「許してけり」警護を緩くした。「二條の后」在原業平と悲恋で知られる藤原高子(たかいこ)。後の清和天皇の女御となった。]

   *

に引っ掛けたもの。

「ことは、もれやすければ、もし、あらはれて、うきめをやみん」「新日本古典文学大系」版脚注に、『秘密の漏れやすいことをいう諺の「言(こと)ノ洩レ易キハ禍(わざはひ)ヲ召』(まね)『ク之』(の)『媒(なかだち)也」に即した表現。原拠は臣軌・慎密章』とある。「臣軌」(しんき)は、中国唐代の典籍で六七五年に高宗の皇后武則天の命を受けた周思茂(しぼう)・元万頃(ばんけい)・范履冰(りひょう)・苗神客(びょうしんきゃく)・胡楚賓(そひん)により編纂された、儒家の伝統的な道徳概念を基礎として、臣下の心構えや忠君を説いたもの。二巻十編(国体・至忠・守道・公正・匡諌・誠信・慎密・廉潔・良将・利人)より構成されており、当時の官人及び科挙受験者たる挙人らの必読の典籍とされた。中国では早くに原本が失われたが、本邦では後世まで伝わり、江戸末期に林述斎により、編纂された「佚存叢書」などに収録されている(以上は当該ウィキに拠った)。

「垣をこえて」「新日本古典文学大系」版脚注には、『家の垣を踏み破って。「垣を越す」には道理や決まりを破るの意味もある』とあった。目から鱗の優れた注である。

「三國(みくに)の湊」福井県坂井市三国町。敦賀との位置関係が判るようにリンクさせた。

「被官のもの」「新日本古典文学大系」版脚注に、『本百姓に隷従する水呑百姓や商家の下男下女など』、『身分の低い者』を指すとし、『平次の家で侍の時分に召し使っていた下人か』とある。

「かひがひしく」「甲斐甲斐しく」。即座に、頼もしくも。]

 

 女、ある時、いふやう、

「父母のいましめのおそろしさに、君と、つれて、こゝには迯(にげ)來りけれ。すでに一年の月日を過〔すぐ〕したれば、二人の親、さこそ、みづからを思ひ給ふらめ。今は、いかにも、つみ、ゆるし給はん。いざや、古鄕にかへらん。」

といふ。

 平次、

「此上は。」

とて、つれて、敦賀にかへり、まづ、女をば、舟にをきて、我身ばかり、濱田が家にいたり、案内(あんない)して、對面(たいめん)をとげていふやう、

「さても、我、さしも、いたはりおぼしけるを、御ゆるされもなく、まさなきわざして、不義の名をかうふりし事、そのつみ、かろからずといへども、すでに年を重ねぬれば、今は、いかりもゆるくなり給はん。此故に、これまで、つれて、歸り侍べり。罪、ゆるし給はんや。」

といふ。

[やぶちゃん注:「いましめ」駆落ちに対する勘当などの懲戒。

「さこそみづからを思ひ給ふらめ」「みづから」は先の一人称自称。「さぞかし、私のことを思って心配なさっておられることでしょう」。

「此上は。」「そう言うのであれば、そうしよう。」。

「舟にをきて」浜田の家が敦賀湾に近いか、笙の川或いは井の口川の河口からそう遠くない位置にあったことが窺える。

「案内して」来意を告げて、取り次ぎを頼み。

「さしも、いたはりおぼしけるを」あれほどまでに、私めを労わって下さり、よきように計らって下さったにも拘わらず。

「御ゆるされもなく、まさなきわざして」お許しもないのに、およそ道理から外れた行いをなし。

「不義」不義密通。]

 

 濱田、聞て、

「それは、いかなる御事ぞ。更に、心得がたし。」

といふ。

 平次、ありのまゝにかたりて、眞紅の帶を取出して、みせたり。

 その時、濱田、大〔おほき〕におどろき、

「此帶は、そのかみ、姊に約束せし時に給はりし物也。姊、むなしくなりければ、棺におさめて、うづみ侍べり。又、妹は、やまひおもく、床にふしてあり。君とつれて、他國にゆくべき事、なし。」

とて、

「舟にとゞめをきたり。」

といふをきゝて、人をつかはしてみするに、舟には、ふなかたの外は、更に、人、なし。

[やぶちゃん注:「舟には、ふなかたの外は、更に、人、なし。」「ふなかた」は船頭。私は個人的にはこの部分は甚だ不満である。ここは平次自らが舟に赴いて彼女を連れてくるべきであった。それは私が最後の注で語る、本話の本当の原話に沿うものであり、その原々話の驚愕のシークエンスこそが、本話の幻想性を最も高らかに掲げるものとなったはずだからと考えるからである。さらに言えば、こうした結果、次の頭の『「是は。そもいかなる事ぞ。」とて、濱田夫婦は驚き、うたがふ』というシーンが、浜田夫婦が驚き、疑う理由が、『平次は気狂いになったのではないか?』という上手くない感じのシーン挿入になってしまうばかりだからでもある。

 

「是は。そもいかなる事ぞ。」

とて、濱田夫婦は驚き、うたがふ處に、妹の娘、そのまゝ、床より立あがりて、さまざま、口ばしりて、

「我、すでに平次に約束ありながら、世をはやうせしかば、をくり捨られて、塚の主〔あるじ〕となされしかども、平次に、ふかきすぐせの緣、あり。此故に、今、又、こゝに來れり。ねがはくは、我が妹をもつて、平次が妻となしてたべ。然らば、日比〔ひごろ〕の病(やまひ)も、いゆべし。これ、みづからが、心に望むところなり。もし、此事をかなへ給はずは、妹が命をも、おなじ道にひきとりて、我が黃泉(よみぢ)の友とせむ。」

といふ。

 家うちの人、みな、驚きあやしみて、其身をみれば、妹のむすめにして、その身のあつかひ・物いふ聲・こと葉は、皆、姊の娘に、少しも、たがはず。

 父の濱田、いふやう、

「汝は、巳に、死したり。如何でか、其跡までも、執心深くは思ふぞや。」

と。

 物(もの)の氣(け)、答へていふやう、

「自(みづか)ら先世(せんぜ)に深き緣ある故に、命こそ短かけれ共、閻魔大王に、いとまを給はり、此一年餘りの契りを、なし侍べり。今は、迷塗(よみぢ)に歸り侍べる。必ず、みづからがいふ事、たがへ給ふな。」

とて、平次が手をとり、淚をながし、暇乞(いとまごひ)して、又、手を合せ、父母を拜みつゝ、さて、いふやうは、

「かまへて、平次の妻となるとも、女の道、よく守り、父母に孝行せよや。今は是までぞ。」

とて、

「わなわな」

と、ふるひて、地に倒れて、死入(しに〔いり〕)たり。

 人々、驚き、容(かほ)に、水、そゝぎければ、妹、よみがへり、病は、忽ちに、いえたり。

 先の事共を問ひけるに、一つも、覺えたる事、なし。

 是によりて、つひに、妹娘を以て、平次と夫婦になしつゝ、さまざま、佛事をいとなみ、姊娘が跡をとぶらひ侍べり。

 これを聞(きく)人、

『きどくのためし。』

に思ひけり。

[やぶちゃん注:「妹」の肉体に姉の亡魂が憑依して口走っているわけだが、そうなると、妹が平次のところに夜這いをかけたのも妹ではなく、妹の化けた姉の化身であったということになる。しかも姉の亡霊は妹を一年余り病臥させていたことになり、妹の実存在のキャラクターが作品としては全く描けていないのである。或いは「この妹は、ある意味、ひどく可哀そうだとは言えないか?」という読者が必ずいた(いる)に違いないという感じを私は持つ。私自身が本話の初読時にその違和感を強く持ったからである。本話の最大の瑕疵はまさにそこにあるとさえ私は思うのである。そうして、後に示す原々話が卓抜であるのは、まさにそうしたものが完全に解消されているからでもあるのである。

「世をはやうせしかば」「世を早うせしかば」。早世(早逝)してしまったので。

「をくり捨られて」「をくり」はママ。野辺の送りも形ばかりに、捨てるように葬られて。夭折・早世した若者の葬儀は、古くは、一般には、半人前の存在、則ち、魂が正常でないものと考えられ、意想外に質素で簡略化された形で行われるのが普通であったと私は認識しており、この謂いは見かけ上は実は私には全く違和感はないのである。

「身のあつかひ」身振り。仕草。

「物(もの)の氣(け)」「物の怪」。則ち、ここまで了意は、姉の亡魂を〈執心に凝り固まった御霊(ごりょう)〉のように捉えて描出していることが判るのであり、ここまでの姉の霊が妹に憑依して喋りまくるシークエンスは、実は我々が思うよりも、もっと陰惨で、かなり気味の悪い怪奇場面として語っているのだということを認識しておく必要があるのである。それがやっと明るく透明な感じになるのは、「平次が手をとり、淚をながし、暇乞(いとまごひ)して、又、手を合せ、父母を拜みつゝ」、「かまへて」(副詞。意志・命令の表現を伴って「きっと・必ず・なんとしても」の意)「、平次の妻となるとも、女の道、よく守り、父母に孝行せよや。今は是までぞ」と言いおくシーンであるが、その後にも「わなわな」「と、ふるひて、地に倒れて、死入(しに〔いり〕)たり」(最後は気絶したという意)という怪奇シーンを添えているのからもよく判る。怪奇譚としては〈お約束〉であり、「別にいいじゃん」と言う方もあろうが、私は気に入らない。それほどに原々話が優れているからである。

「迷塗(よみぢ)」は「迷途」の誤字か当て字。「迷途」自体が「冥途」の誤字である。

「きどくのためし」「奇特の例」。「非常に珍しく不思議な出来事の一つ」の意。

 さて。本篇は確かにの明の瞿佑(くゆう)撰の志怪小説集「剪燈新話」の巻之一の「金鳳釵記」(きんぽうさいき)が種本ではあるのだが、一読、「金鳳釵記」自体が明らかに唐代伝奇の陳玄祐(げんゆう)撰の名作「離魂記」を焼き直したものに過ぎないことは明白である。しかも、了意なら「離魂記」を読んでいなかったとは思われないのである。「金鳳釵記」を私は高く評価しない。されば、「青空文庫」の田中貢太郎の邦訳版ででも読まれるが、よろしかろう。「離魂記」は少し古い私の電子化物で正字漢字に不全があるが、「無門關 三十五 倩女離魂」で原文・訓読・拙訳が載せてあるので、是非、本篇と対照して読まれたい。私の言ってきた意味が納得されるはずである。そこでは姉妹ではないし、亡霊でもない。女は二人の分身なのだ。それが、互いに寄り合って合体するのだ! 四十年も昔のことだが、初任校で半強制でやらさせられた漢文の補習で、「やるんなら、面白いやつをやってやる!」とこれを採用したのを懐かしく思い出す。考えてみると、あれっきり、不思議なことに、後に一度も授業では採り上げなかったな。私の中では遂に「奇特な例」だったわけだ。

2021/04/09

芥川龍之介書簡抄32 / 大正三(一九一四)年書簡より(十) 二通

 

大正三(一九一四)年十一月一日・田端発信・井川恭宛

 

拜啓今般左記へ轉居致候間御通知申上候 敬具

    北豐島郡瀧野川町字田端四百三十五番地

   大正三年十月

                芥川 道章

                芥川龍之介

   銀杏落葉櫻落葉や居を移す

 

[やぶちゃん注:住所と二名連記署名は下方にあるが、引き上げた。この大正三年十月末に新築中の田端(現在の北区田端)の家が竣工し、転居した。ここ(グーグル・マップ・データ。「芥川龍之介旧居跡」標識のあるストリートビュー画像)。新全集宮坂覺氏の年譜によれば、『この地は、道章の一中節仲間だった宮崎直次郎(自笑軒主人)の紹介によるもので、芥川にとっては終生の住居となった。当時の田端には、小杉放庵、香取秀真』(芥川家の隣り)、『石井柏亭らが住み、近くには美術クラブ「ポプラ倶楽部」があり、美術家村の観があった』とされ、附記されて、田端が『文士村になるのは、芥川文壇登場以後』とする。なお、同日発信のこの前(旧全集書簡番号一四三)の浅野三千三宛転居通知では、住所の上部に『田端停車場上白梅園向ふ橫町』と記している。]

 

 

大正三(一九一四)年十一月十四日・田端発信・原善一郞宛

 

原君 大へん長い間御無沙汰をしました

いろんな面倒な事や忙しい事があつたので時々頂くはがきの返事がのびのびになつてしまひました相不變御壯健の事と思ひますがのすたるじあも起りませんか此十月の末に僕は田端へ越しました小野のうちから七町[やぶちゃん注:約七百六十四メートル。]ばかり雛れた靜かな所です其内に先生も丁度小野のうちと僕のうちとの中間位な所へ越してお出になる筈です

學校へは相不變出てゐますが講義のつまらないのには閉口です此頃は文科の講義をそつちのけにして波多野さんの希臘哲學の講義を休まずきいてゐます大塚さんと波多野さんは僕の一番尊敬してゐる先生です

白樺ではブレークの展覽會をやるさうです日本ではブレークがはやつてゐるんです尤も詩の方も抒情詩人のブレークだけでミスチックとしてのブレークは本がないので誰もやらないやうです僕の友だちの一人も卒業論文をブレークにするつもりだつたのですがブレークの Complete Works を取寄せようとしたら絕版で一册85圓になつてゐるのでとうとうお流れになりました

戰爭が始まつてから獨乙の本が來ないので少しこまります現に學校で KANT の講義をするのに本がなくつてよわつてゐる位です本と云ふ點では戰爭と云ふ氣もしますが其外の點では僕などは全[やぶちゃん注:「まつたく」。]戰爭があるやうな氣がしませんそれに獨乙に可成同情がありますこの夏一の宮にゐた時分はアメリカと戰爭が始まると云ふやうな風說がありましたが今では完く太平な氣がします

戰爭の記事をよんでしみじみさう思ふのは英國の弱い事です今度の戰爭に勝つても英國はきつとバルカン問題でロシアに甘くみられるでせう少し可哀さうな氣もします尤もアメリカと英國文明の繼承者がある以上はもう亡びてもいゝんですが

戰爭があつたので日本へ來る筈のオイケンが來なくなりました年よりですから早く來ないと死にやしないかと思つて心配です何にしても戰爭はよくないものです

アメリカのセイゾンは面白ござんせう僕もどつかアメリカの大學の日本文學の敎授の助手か何かになつて行きたいと思ひます尤も之はさう思ふだけでそんな甘い口のないのはわかつてゐるんですが

アメリカの詩人で日本で今はやつてゐるのはホイットマンですホイットマンばりの散文のやうな詩が澤山出ます其癖日本の詩人は Leaves of the Grass も碌によめない位英語が出來ないんですが

もうそろそろ冬が來ます冬になると日本人はよけいきたならしくなります自分もそのきたならしい仲間だと思ふと少しがつかりしますどうも冬は西洋人にかぎるやうです毛皮の外套の襟にうづめるには黃色い顏ぢやあ幅がきゝません

いつぞや頂いた Poor の本は面白く拜讀しました(大分むづかしい本でしたけれども)けれどもあの著者のやうに立體派や未來派に贊成する事は僕には出來ませんそれは理論は認めますしかし藝術は認められません(ピカソなぞは全くわからない繪が澤山あります)畫かきでは矢張マチスがすきです僕のみた少數な繪で判斷して差支へないならほんとうに偉大な藝術家だと思ひます、僕の求めてゐるのはあゝ云ふ藝術です日をうけてどんどん空の方へのびてゆく草のやうな生活力の溢れてゐる藝術です其意味で藝術の爲の藝術には不贊成です此間まで僕のかいてゐた感傷的な文章や歌にはもう永久にさやうならです、同じ理由で大抵の作者の作には不質成至極です、鼻息が荒いなんてひやかしちやあいけませんほんとうにさう思つてゐるんです

此頃はロマン・ロオランのジヤン・クリストフと云ふ本を愛讀してゐます

咋日逗子の海岸からかへつて來ました其處ででたらめに作つた歌を御らんに入れます創作と主張とはうまく一致しないものなんですからまづくつても笑つちやいけません

   烏羽玉の烏かなしく金の日のしづくにぬれて潮あみにけり

   眠(ね)まくほしみ睫毛のひまにきらめける海と棕櫚とをまもりけるかも

   きらめくは海ぞも棕櫚の葉の下に目路のかぎりを鍍金するぞも

                   龍

 

[やぶちゃん注:「原善一郞」既出既注

「小野」小野八重三郎。既出既注

「先生」三中の恩師廣瀨雄(たけし)。既出既注。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「広瀬 雄」の項(内藤淳一郎氏執筆)によれば(そこには広瀬は大正二年『末頃から田端に住む』とあるが、これはこの書簡から大正三年の誤りと思われる)、大正一〇(一九二一)年に、『同郷』(広瀬は金沢の旧加賀藩士の次男であった)『の室生犀星が広瀬の隣に越し』て来て、三者は『家族ぐるみで交際』が始まったとし、『田端文士村の人々の関係は指定隣人ではなく、その人々の生涯を左右するものであった。その中にあって文士でも芸術家でもない一教育者広瀬雄は、三中生の芥川・堀辰雄・平木二六・山崎喜作や、金沢や金沢の四高に係わる犀星・多田不二・中野重治・窪川鶴次郎・宮木喜久雄・吉田三郎・尾山篤二郎。高柳真三など数多い田端文士村の住人がつながりを持つ鍵となる人物である』とある。

「波多野さん」哲学史家・宗教哲学者波多野精一(明治一〇(一八七七)年~昭和二五(一九五〇)年)。当時は東京帝国大学文科大学講師であった。後に玉川大学第二代学長となった。西田幾多郎と並ぶ京都学派の立役者で、東京帝大での教え子には石原謙・安倍能成が、京都帝大では田中美知太郎らがいる。また、指導学生ではなかったが、波多野の京都帝大での受講者で彼から強い影響を受けたとされる人物に、かの三木清がいる。

「大塚さん」美学者で当時は既に東京帝国大学教授であった大塚保治(やすじ 明治元(一八六九)年~昭和六(一九三一)年)。夏目漱石や正岡子規との交友で知られる。芥川龍之介が大正一三(一九二四)年四月に『アルス新聞』に連載した「正岡子規」(リンク先は「青空文庫」の新字旧仮名版)を参照されたい。

「白樺」白樺派。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、『『白樺』同人主催第七回美術展覧会は』、この翌大正四(一九一五)年に、『ブレークの複製版画六〇枚を展示した』とある。武者小路実篤の年譜を確認したところ、展示会は大正四年一月に東京で行われ、翌月には京都でも展示している。

「ブレーク」芥川龍之介が偏愛したイギリスの詩人で画家・銅版画家であったウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)。

「ミスチック」mystic。神秘的な。

「僕の友だちの一人も卒業論文をブレークにするつもりだつた」彼の友達で詩と絵画趣味があったという条件からは、成瀬正一ではないかと私は思う。

「85圓」総合的換算で大正初期の一円は現在の四千円ほどに当たるので、三十四万円相当となる。それも一冊が、である。仮にさすがの成瀬だったとしても(彼は十五銀行頭取成瀬正恭(せいきょう)の長男であった)、二の足を踏むどころではないだろう。

「バルカン問題」十九世紀後半から二十世紀初頭、トルコ支配下にあったバルカンの領土及び民族問題を巡って生じた国際的諸問題。一方にはセルビア・ギリシアに始まった非イスラム諸民族の独立運動があり、他方には南下政策と汎スラブ主義をとるロシア、東進政策を推進するオーストリア、東方植民地の経営と拡大を推進するイギリスとフランスなど、列強の帝国主義的利害が複雑に対立していた。後には三B政策(ドイツの行った近東政策。ベルリン(Berlin)・ビザンティウム(Byzantium:イスタンブールの旧名)・バグダッド(Baghdad)の頭文字をとったものであるが、反ドイツ陣営で用いられた語であるので注意)を始めたドイツも加わって、第一次世界大戦の要因となった(以上は平凡社「百科事典マイペディア」を主文とした)。

「戰爭があつたので日本へ來る筈のオイケンが來なくなりました」「芥川龍之介書簡抄29 / 大正三(一九一四)年書簡より(七) 井川恭宛」の私の注を参照。

「セイゾン」saison。セゾン。フランス語で「季節・時候・時期・シーズン」で、ここは「時機・時宜」の意で、日本で言うところの「芸術の秋」といった限定的な謂いである。

「僕もどつかアメリカの大學の日本文學の敎授の助手か何かになつて行きたい」これは、ある意味で芥川龍之介が小説家以外の人生の選択肢として本気で考えていた希望であったと思われる。後に龍之介は海軍機関学校教官を辞する当たって、慶応大学の英文科の教授職を選択肢の一つとしており、その実際運動も図られている。芥川龍之介が内外の教授になっていたとしたら?……「もしも」はやめておこう……

「ホイットマン」アメリカの詩人ウォルター・ホイットマン(Walter Whitman 一八一九年~一八九二年)。ロング・アイランドの大工の子に生まれ、多くの職業を転々とした。エマーソンの著作に刺激され、一八五五年に詩集「草の葉」(Leaves of Grass )を発表して反響を呼んだ。南北戦争が始まると、奴隷制に反対して傷病兵の看護に努め、一八六五年には予言的な戦争詩集「軍鼓の響き」(Drum-Taps )を纏めた。一八七一年に未来への確信に満ちた文学論「民主主義の将来」(Democratic Vistas )を出版した後は「自選日記」(Specimen Days :一八八二年)を書き、静かな晩年を過ごした。個人主義と民主主義、同性愛的同胞愛、肉体賛美と神秘主義といったテーマを大胆な自由詩形で謳いあげ、アメリカ詩の伝統の大きな潮流を作り上げた詩人である(以上は平凡社「百科事典マイペディア」を主文とした)。私は「草の葉」にのめり込んだ(哀しいかな、和訳本(長沼重隆氏訳)だったが)中学二年の時を思い出す。私が最初に愛した詩人は、日本人ではなく、ホイットマンだったのだ。

「Poor」未詳。筑摩全集類聚版脚注も『未詳』。石割氏は注せず。以下の龍之介の感想から現代美術評論らしい。

「藝術の爲の藝術には不贊成です」おや? まあ!

「ロマン・ロオランのジヤン・クリストフ」フランスの作家ロマン・ロラン(Romain Rolland 一八六六年~一九四四年)の全十巻からなる長編小説「ジャン・クリストフ」(Jean Christophe )。一九〇四年から一九一二年まで、実に八年の歳月をかけて文芸評論誌『半月手帖』(Cahiers de la quinzaine )に発表された。シノプシスは当該ウィキがよい。彼はこの作品によってノーベル文学賞を授与されている。私は青少年向けに縮訳された本(文学好きの同級生の女の子の松本さんから借りた。誰の訳だったかは判らない)を小学六年の時に読んで、心打たれた(特にそのコーダに)のを遠く思い出す……ロランにホイットマン……遠い遠い少年の僕の後ろ姿…………

「咋日逗子の海岸からかへつて來ました」新全集宮坂年譜に、この月の『中旬 逗子(成瀬正一の別荘か)に滞在する』とある。

「烏羽玉の」「うばたまの・ぬばたまの・むばたまの」。枕詞ではなく、原義のままに「黒い色をした」とカラスに続く。

「眠(ね)まくほし」「眠まく欲し」。眠りたい。

「み睫毛」「みまつげ」。「み」は美称の接頭辞。

「棕櫚」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus のワジュロ(和棕櫚)Trachycarpus fortunei か、トウジュロ(唐棕櫚)Trachycarpus wagnerianusウィキの「シュロ」によれば、ワジュロは『日本では九州地方南部に自生する。日本に産するヤシ科の植物の中ではもっとも耐寒性が強いため、東北地方まで栽培されている』とあるし、トウジュロの項には『中国大陸原産の帰化植物で』あるが、『江戸時代の大名庭園には既に植栽されていたようである』とある。

「鍍金」「めつき」。鍍金。]

芥川龍之介書簡抄31 / 大正三(一九一四)年書簡より(九) 井川恭宛(詩「ミラノの画工」及び短歌十四首収録)

 

大正三(一九一四)年九月二十八日(受印)・京都市吉田京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣 親展・府下豐多摩郡内藤新宿二ノ七一 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:以下詩篇及び短歌本文は底本(岩波旧全集)では全体が三字下げであるが、総て引き上げた。]

 

井川君に

 

  ミラノの畫工

ミラノの画工アントニオは

今日もぼんやり頰杖をついて

夕方の鐘の音をきいてゐる

 

鐘の音は遠い僧院からも

近くの尼寺からも

雨のやうにふつて來る

 

するとその鐘の音のやうに

ぼんやりしてゐるアントニオの心に

おちてくるものがある

 

かなしみかもしれない

よろこびかもしれない

唯アントニオはそれを味はつてゐる

 

〝先生のレオナルドがゐなくなつてから

ミラノの畫工はみな迷つてゐる〟

かうアントニオは思ふ

 

〝葡萄酒をのむ外に

用のない人間が大ぜいゐる

それが皆 畫工だと云つてゐる

 

〝レオナルドのまねをして

解剖圖のやうな画を

得意になつてかく奴もゐる

 

〝モザイクの壁のやうな

色を行儀よくならべた画を

根氣よくかいてゐる奴もゐる

 

〝僧人のやうな生活をして

聖母と基督とを

同じやうにかいてゐる奴もゐる

 

〝けれども皆画工だ

少くも世間で画工だと云ふ

少くも自分で画工だと思つてゐる

 

〝自分にはそんな事は出來ない

自分は自分の画と信ずる物を

かくより外の事は何も出來ない

 

〝しかしそれをかく事が又中々出來ない

何度も木炭をとつてみる

何度も繪の具をといてみる

 

〝いつも出來上るのは醜い画にすぎない

けれども画は画だ

いつか美しい画がかける時がくる

 

〝かう思ふそばから

何時迄たつてもそんな時來ないと

誰かが云ふやうな氣がする

 

〝更になさけないのは

醜い画が画でない物に

外の人のかくやうな物になつてゐる事だ

 

〝己はもう画筆をすてやうか

どうせ己には何も出來ないのだ

かう思ふよりさびしい事はない

 

〝同じレオナルドの弟子だつた

ガブリエレはあの僧院の壁に

ダビデの像をかいたが

 

〝同じレオナルドの弟子の

サラリノはあの尼寺の壁に

マリアの顏をかいたが

 

〝己はいつ迄も木炭を削つてゐる

いつ迄も油繪具をとかしてゐる

しかし己はあせらない

 

〝己はダビデよりマリアより

すぐれた繪をかき得る人間だ

少くもあんな繪はかけぬ人間だ

 

〝たゞ繪の出來ぬうちに

己が死んでしまふかもしれぬ

己の心が凋んでしまふかもしれぬ

 

〝たゞ画をかく

之より外に己のする事はない

之ばかりを己はぢつと見つめてゐる

 

〝この企てが空しければ

己のすべての生活が空しいのだ

己の生きてゐる資格がなくなるのだ〟

 

アントニオはかう思ふ

かう思ふと淚がいつとなく

頰をつたはつて流れてくる

 

アントニオは今日もぼりやりと[やぶちゃん注:ママ。]

夕月の出た空をながめながら

鐘の音をきいてゐる

 

[やぶちゃん注:以下、追伸行までは書信。短歌群の前後は一行空けた。]

君にあつて話したいやうな氣がする

此頃は格別不愉快な事が多い

 

  追伸 出來るに從つてかく 唯今ひま

 

あざれたる本鄕通り白らませて秋の日そゝぐ午後三時はも

紅茶の色に露西亞の男の頰を思ふ露西亞の麻の畑を思ふ

秋風は南瞻(ぜん)部洲のかなたなる寂光土よりかふき出でにけむ

黃埃にけむる入り日はまどらかにいま南蠻寺の塔に入るなり

秋風は走り走りて鷄の風見まはすとえせ笑ひすも

ゼムの廣告秋の入日に顏しかむその顏みよとふける秋風

おちこちの家根うす白く光るあり秋や滅金をかけそめにけむ

ごみごみと湯島の町の屋根黑くつゞける上に返り咲く櫻

遠き木の梢の銀に曇りたる空は刺されてうち默すかも

あはたゞしく町をあゆむを常とする人の一人に我もあり秋

かにかくにこちたきツエラアの書(ふみ)をよむこちごちしさよ圖書舘の秋

日の光「秋」のふるひにふるはれて白くこまかくおち來十月

木乃伊つくると香料あまたおひてゆく男にふきぬ秋の夕風

秋風の快さよな佇みて卽身成佛するはよろしも

 

                   龍

 

[やぶちゃん注:詩篇の作品内の画工アントニオ(明らかに作家を志す芥川龍之介自身の分身)の語る時制は、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci 一四五二年~一五一九年)がミラノ公国で活動した(一四八二年から一四九九年まで。彼の円熟期で名作「岩窟の聖母」や、かのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁画「最後の晩餐」もこのミラノ公国滞在中に描かれた作品である。退去は第二次イタリア戦争が勃発し、イタリアにフランス軍が侵攻したためで、レオナルドが故郷フィレンツェに帰還したのは翌一五〇〇年のことであった。以上は当該ウィキに拠った)後の一四九九年以降のある日という設定である。なお、丁度、この年辺りに、芥川龍之介が英語から重訳したものと思われる、未定稿「レオナルド・ダ・ヴインチの手記 芥川龍之介譯 ――Leonardo da Vinci――(抄訳)があり(リンク先は私のサイト版)、この詩篇と内容がすこぶるリンクしている。是非、読まれたい。

「レオナルドの弟子だつた/ガブリエレはあの僧院の壁に/ダビデの像をかいたが」このような弟子は私は知らない。しかし、気になることがある。それは、古代イスラエルの第二代の王ダビデ(ラテン語表記:David 紀元前一〇四〇年:ベツレヘム~紀元前九六一年:イェルサレム/在位:紀元前一〇〇〇年~没年:この名は「愛された人」の意)は、ウィキの「ダビデ」によれば、しかも「バビロン捕囚」『以後、救世主(メシア)待望が強まると、イスラエルを救うメシアはダビデの子孫から出ると信じられるようにな』り、「新約聖書」では『イエス・キリストはしばしば「ダビデの子」と言及され』ているとあり、「新約聖書」の「マタイによる福音書」の冒頭第一章で、聖母マリアの夫ヨセフの家系の祖先をダビデとすることである。さらに言うと、「ガブリエレ」(イタリア語:Gabriele)という弟子の名は言わずもがな、「旧約聖書」の「ダニエル書」にその名が出る大天使由来であり、ウィキの「ガブリエル」によれば、西方キリスト教美術の主題の一つであるマリアの「受胎告知」などに於いて優美な青年として描かれるガブリエルは、聖書においてガブリエル(ラテン語:Gabriel)は「神のことばを伝える天使」であって、『ガブリエルという名前は「神の人」』『という意味』なのである。しかも、我々は大天使「ガブリエル」と「受胎告知」と聞けば、レオナルド・ダ・ヴィンチとアンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio 一四三五年頃~一四八八年)が一四七二年から一四七五年頃に描いた共作の「受胎告知」(イタリア語:Annunciazione)を直ちに想起するであろう。則ち、その字背を透視した時、次の以下の一連がこの連とただの字面や音声上の対句どころではなく、非常に深い意味で対句になっていることを見出すのである。

「同じレオナルドの弟子の/サラリノはあの尼寺の壁に/マリアの顏をかいたが」この「サラリノ」(イタリア語:Salaino)は別に「サライ」(Salaì:孰れもイタリア語で「小悪魔」の意)の通称名でも知られるレオナルドの弟子ジャン・ジャコモ・カプロッティ(Gian Giacomo Caprotti 一四八〇年~一五二四年)が思い浮かぶ。レオナルドの「洗礼者聖ヨハネ」(San Giovanni Battista:一五〇八年~一五一三年作)のモデルとされ、レオナルドが偏愛した少年であった。当該ウィキによれば、『レオナルドが所有していたワイン畑で働いていた人物で、十歳(一四九〇年頃)の時に『住み込みの徒弟としてレオナルドに入門した。マニエリスム期のイタリア人芸術家で美術史家としても知られるジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari  一五一一年~一五七四年)は、『その著書』「画家・彫刻家・建築家列伝」で『サライについて「優雅で美しい若者で、レオナルドは(サライの)巻き毛を非常に好んでいた」と記している』。『レオナルドがサライのことを「盗人、嘘吐き、強情、大食漢」と表現している通り、サライはレオナルドの金銭や貴重品を少なくとも五回は盗んだことがある。しかしながら』、『レオナルドはサライを』二十五年以上乃至三十年に亙って『自宅に住まわせて、絵画技法を教え込み続けた』。『特筆に値しないまでも画家としてのサライはそれなりに有能で』、レオナルドの「モナ・リザ」(La Gioconda :一五〇三年~一五一九年頃)の『ヌード・ヴァージョン(現存せず)を模写した』「モナ・ヴァナ」(Mona Vannna)を『始め、数点の絵画作品が現存している』。彼は一五一八年に『レオナルドのもとを去り』、『ミラノに戻』り、『父親が働いていたレオナルド所有のワイン畑で芸術活動を続けた』。『レオナルドが死去した』際には、その『ワイン畑の半分を』、『遺言によってサライが相続している』。『また、サライは遺産としてワイン畑だけではなく』、「モナ・リザ」など『複数の絵画作品も同時に相続したと考えられている』。『サライは』一五二三年に、四十三歳で結婚した』が、その『翌年』、『決闘で負った矢傷がもとで死去し』ている。彼はミラノ生れであり、ミラノで亡くなっている。彼が聖母マリアの顔を描いたかどうかは知らないが、あったと仮定して何の不思議もない。

「南瞻(ぜん)部洲」(通常は清音だが、サンスクリット語「ジャンブー・ドゥヴィーパ」の音写。閻連濁しても違和感はない)仏教の世界観に於いて現世の人間の住む広大な大陸の名。私が最近作成した「芥川龍之介 孤獨地獄  正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附」(リンク先はサイト版。ブログ版ならこちら)の「南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄」の後ろの方の注で詳しく述べてあるので見られたい。

「南蠻寺」これは筑摩全集類聚版脚注の言うように、東京都千代田区神田駿河台にある正教会の大聖堂「ニコライ堂」正式名称「東京復活大聖堂」)であろう(グーグル・マップ・データ)。

「ゼム」筑摩全集類聚版脚注に、『GEM 口中香料で仁丹のようなもの。その広告は菱形の中に女お顔が描いてある』とある。さまざまなフレーズで画像を検索したが、遂に見当たらなかった。なお、石割透氏は岩波文庫「芥川龍之介書簡集」で『ジャムの広告』とするが、採れない。

「家根」誤字ではない。「屋根」はこうも書く。

「滅金」「めつき」で「鍍金」の本字。本邦で古代に於いて仏像に金メッキをするのに用いた金のアマルガムを滅金(めっきん)と和製漢語で呼んだことによる。

「こちたき」「言痛(こちた)き」で「こといたし」の音変化。ここは「ことごとしい・大袈裟だ・事大主義的な」の意。

「ツエラア」ドイツの新カント派の哲学者エドゥアルト・ゴットローブ・ツェラー(Eduard Gottlob Zeller 一八一四年~ 一九〇八年)チュービンゲン神学学校のプロテスタント神学者にしてソクラテス以前の古代ギリシャ哲学を専門とした。なお、彼は哲学に「超人」(übermensch:音写:ウーバァーメンシュ)という言葉を最初に使用した一人であった。

「こちごちしさ」「骨々しさ」。見た目上がごつごつしてぎこちないこと。無骨(ぶこつ)。無風流。

「おち來十月」「おちくじふぐわつ」であろう。

「木乃伊」「ミイラ」。]

2021/04/08

只野真葛 むかしばなし (27)

 

 忠山樣、御國にてよほどの御不例のこと有りしに、ぢゞ樣、

「上(あげ)て見たき、藥法、有(あり)。」

とて、願の上、御下被ㇾ成、藥、上られしに、しるし有て御快氣被ㇾ遊しより、倍の御加增にて、四百石になりし。是は運のむきしなり。

 それより御奉藥にて、年々、御上下(おじやうげ)の御供被ㇾ成しなり。御かくれ後は、御免有て、また、觀信院樣御下りの時分、奧の御奉藥に被仰付し。十年餘り御つとめ被ㇾ成しに、永井養庵といふ山師醫、同役にいでゝより、奧中を自由にかきまわし、ぢゞ樣を、むたいにいぢめしにより、つとめ、なりかね、隱居ねがひいだされしに、ことなくすみて、築地に御普請有て、御《おん》うつり被ㇾ成し。月に兩三度、御機嫌伺にあがらせられし。

 七十餘にて御かくれ被ㇾ成し。ワ、十三の時なりし。源四郞、二(ふたつ)にて有し。御引込ぎわは、おもはしからねど、御一代、仕合(しあはせ)よく、榮花なる御人にて有し。面(おも)やはらかに、笑み、はなさず、人柄よく、少しも、にく氣(げ)なき御人なりし。隱居後は庭の世話をたのしみ、手づから、掃除被ㇾ成て有し。

 御かくれの頃は六月十一日なりし。其頃迄は早咲の朝顏はなく、六月末、七月にかゝりて花のさくものなりしを、手づから、垣を、ゆわせられしに、花のさかぬ間に御過(おすぎ)被ㇾ成しを、七月、初立日(しよたちび)のあたり、御ばゞ樣の、花に付(つけ)て母樣のもとへ、御文、有し。哀なることにて有つらんを、そのほどは、何の心もなくて見もせざりし。

[やぶちゃん注:「忠山樣」既出既注。仙台藩第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号。

「御奉藥」「御奉藥方」。御側医師の内で薬の処方使用を許されている者。

「御上下」参勤交代の行き帰り。大名家が二年毎に江戸に参覲し、一年江戸に滞在して自分の領地へ引き上げる交代制度(寛永一二(一六三五)年に第三代徳川家光によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化されたものであり、則ち、それは軍事演習の行軍なのであった)。しかも、参覲から下がった時点から二年毎であるため、結果として一年おきに江戸と国元を莫大な費用を用いて行き来せねばならなかったのである。

「觀信院」「信」は「觀」の誤字。宗村の次男で第七代藩主の伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)の正室観心院(延享二(一七四五)年~文化二(一八〇五)年)。関白近衛内前(うちさき:後陽成天皇の男系六世子孫)の養女で公卿広幡長忠の娘。御存じの通り、大名の正室と世継は江戸に常住しなくてはならなかった。

「永井養庵」不詳。

「山師醫」卑称としての「偽医者」「藪医者」の意。

「没後の最初の月命日。初月忌(しょがっき)。]

芥川龍之介書簡抄30 / 大正三(一九一四)年書簡より(八) 藤岡蔵六宛(戯曲「路(對話)」収録)

 

[やぶちゃん注:これは恐らく多くの方が読んだことがない、芥川龍之介の初期作品の一つである。この書簡以外には掲載されず、活字化されることも極めて少ないからである。にしても、友人にポンと書き送っちゃうところが凄いわ、やっぱ、我鬼先生。]

 

大正三(一九一四)年八月三十一日(月推定)・新宿発信」藤岡藏六宛

 

路(對話)

  霧ふかき日暮 中央に靑銅の SPHINX あり

  人の身長程の PEDESTAL 霧に遮られて此外には何も見えず

  學生 二十一二歲 金鈕の制服 OVER-COAT 手に洋傘をもつ

     第一節

學生 うす暗くなつた所を見ると日がくれるにも間がないと見える何と云ふひどい霧だらう何處を見ても一面に灰色をしてゐる三十分ばかり前まではあの敎會の塔の下をあるいてゐたんだがもう今ではまるで路がわからなくなつてしまつた何の事はない灰汁の中を喘ぎながら泳いでゐる魚の樣なものだ(SPHINX を見る)おゝ こゝに何か立つてゐる(近づきて前に立つ)SPH1NX らしいな。まてまて何か PEDESTAL にかいてある(かゞみてよむ)ふん伊太利亞語だな E MANGIA E BEE E DORME E VESTE PANNI どういふつもりでこんな事を書いたのだらう惡い洒落だ(PEDESTAL に腰をかく)何しろつかれた此分では中々急にはうちへかへれさうもない第一今俺が何處にゐるのだかそれさへわからないのだからな(煙草に火をつけてすふ)一體俺は何處から來たのだつたかなえゝと朝十時に起きて飯をくつてそれから學校へ行つた學校では哲學史の講義を少しきいたと講議は SPINOZA で(微笑)NOTWENDIGE FREIHEIT ときたものだ NOTWENDIGE FREIHEIT がいゝ(微笑)それから晝飯をくつて本屋へ行つて KANT を二册もらつて(ポツケツトをさぐる)あの本はこゝにあるとそれから友だちと動物園へ行つて猩々と天狗猿とを見てかへりに珈琲をのんで四つ角にわかれたあの時から霧がふかくなつて五六町あるくうちにあの敎會の塔がぼんやり頭の上できえかゝつてゐたつけさうすると結局俺は今何處をあるいてゐる事になるんだらうB町の通りかなそれともK橋の大通かないやいやあすこいらにはこんな SPHINX なんぞなかつた筈だまてよ一體この市にこんな SPHINX なんぞがあつたかしらどうも俺は初めて見たやうな氣がするさうすると俺は道を間違ヘて一度も來た事のない所へ來てゐるのかもしれないそれぢあ愈うちへかへる事が覺束なさうだ

[やぶちゃん注:ト書きはベタで二行書き二字下げであるが、かく書き代えた。

「PEDESTAL」円柱台座を指すことが多いが、ここは台座でよいだろう。

「E MANGIA E BEE E DORME E VESTE PANNI」書簡末の芥川龍之介の注にを参考にすれば、「食って、飲んで、寝て、服を作って」か。

「講議」ママ。

「SPINOZA」オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza 一六三二年~一六七七年)。ラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)でも知られる。デカルト・ライプニッツと並ぶ十七世紀の近世合理主義哲学者で、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、カント(以下に出るイマヌエル・カント(Immanuel Kant 一七二四年~一八〇四年:プロイセン王国(ドイツ)の哲学者でケーニヒスベルク大学哲学教授。「純粋理性批判」・「実践理性批判」・「判断力批判」によって批判哲学を提唱し、認識論に於ける「コペルニクス的転回」を齎した)・フィヒテ・シェリング・ヘーゲルらのドイツ観念論及びマルクスを始めとした後の現代思想へ強い影響を与えた。にしても、一読、私はこれは「SPHINX」のアナグラム(anagram)ではないかと思ったことを言い添えておく。

「NOTWENDIGE FREIHEIT」ネットの機械翻訳で「必要な自由・必須の自由」か。

「五六町」約五百四十五~六百五十四メートル。]

     第二節

  牧師 長き黑色の上衣 黑きSOFT-HAT 少しく跛なり

牧師 かう霧がふかくてはまるで方角がわからんて(PEDESTAL に近づく)はれるまでこゝにまつてゐる事にしよう(學生をみる)やあ失禮あなたもここで霧のあがるのを待つて御出かな

學生 えゝまあくたびれたから休んでゐるんです

牧師 (腰を下ろす)何にしろひどい霧ぢや一寸さきも見えぬ位ぢやて

學生 一體こゝは何處になるんですか御存知ありますまいか

牧師 此處かな此處は君B町の通りだて

學生 B町の通りにはこんな SPHINX なんぞなかつた筈ですが

牧師 いやいや わしが覺えてから何時もこの像は立つてゐるがなよくわしなぞは若いうちにこの下で說敎をしたものぢやわしは牧師ぢやからな(學生を見る)

學生 私は一度もこんな SPHINX を見た事はありません何かあなたの御覺えちがひではありませんか失禮ですが

牧師 (不機嫌に)わしの記憶は確ぢやこゝはB町の通りで之をまつすぐにゆけば電車のある通りへ出られる筈ぢやいや此處がどこであつてもこれをまつすぐに行けば其處へ出なければならぬ筈ぢや

學生 そんなら矢張私の思ひちがひかもしれません(微笑)

牧師 失禮ぢやが多分さうであらう(空をあふぐ)まだ中々はれさうもないてもう彼是午(ひる)になるぢやらうが………

學生 午(ひる)? 冗談云つちやいけませんもう彼是四時すぎますぜ(笑)

牧師 四時すぎ?(學生を見る)君はどうかしてゐるやうぢやこれ見なさい(ポツケツトより時計を出す)この通り十一時四十七分ぢやて十一時………

學生 私は生憎時計をわすれて來たのですがそれにしてももう午飯はとうにくつたのですから今十二時前だなんと云ふ事はある訣がありません

牧師 (立上る)しかし君時計の針が十一時四十七分を示してゐるのぢや時計の針が(腹立たしげに)君は頭がくるつてるやうぢや今が日暮だなぞと途方もないことを云ふ 氣狂ひでなければわしを愚弄してゐるのぢや(去る)

學生 (見送りつゝ笑ふ)自分の方が餘程どうかしてゐるんだ

[やぶちゃん注:「跛」「びつこ」。

「わしが覺えてから」「儂が物心ついてから」の意であろう。

「御覺えちがひ」「見覺え違ひ」の誤記であろう。]

     第三節

  敎授 鼻眼鏡 杖 白き髯

敎授 (ゆきすぎんとす)

學生 (よびかく)先生ぢやありませんか

敎授 やあ(立ち止る)

學生 (立ちて帽をとりつゝ)ひどい霧です

敎授 さうさね君はそこで何をしてゐるのだい(微笑)

學生 路がわかりませんしつかれたししますから休んでゐるんですが

敎授 道がわからない? これは君K橋の大通りぢやないか

學生 しかしこゝにこんな SPHINX がありますから

敎授 あるさ昔からある SPHINX だから

學生 K橋の大通りにこんなものはなかつたと思ひますが

敎授 あるとも(杖で地に線をひきつゝ)第一わしは今O町から三百步ほどまつすぐにあるいて來たそれから左へ九十度にまがつて又七百步ほどあるいたいゝかねそれから博物館の角をまがつてこゝまで來たのだから SPHINX の有無にかゝはらず此處はK橋の大通りでなくてはならぬ事になる

學生 しかし………

敎授 まあ待ち給へそれでも不慥ならもう少しこゝにゐて見給へそのうちに霧がはれたら空がみえるにちがひない空がみえたらもう彼是日がくれるから金牛星座が見えるだらう君は金牛星座の見方を知つてゐるかね

學生 しりません

敎授 ぢやあわしが敎へておかう(杖にて地を査す)よいかねこれが………

學生 まあ待つて下さい一劈その金牛星座をしるとどうかなるんですか

敎授 方角がわかるさ從つてこゝがK橋の大通りだといふ事の澄明になる訣だ

學生 しかし先生霧がはれ九ば金牛星座なんぞをさがさずとも何處できいたつて路はわかります差當り困つてるのは霧がふかいからで霧がはれるのを待つ位なら心配はありません

敎授 (眉をひそむ)君は惡い性質を持つてゐる目前の事實に拘泥するさうして眞理の追求を疎かにする甚いかん兎に角ぢやあ勝手に考へるさ(去る)

學生 (見送りつゝ)のんきなものだな(微笑)

[やぶちゃん注:「金牛星座」牡牛座。黄道(こうどう:天球上に於いて太陽が見かけ上で通るように見える大円のルート(ecliptic)。黄道の上下に九度の幅をとって空に出来る帯上の区画を、獣を象った星座を多く通ることから、獣帯(じゅうたい:Zodiac)とも呼ぶ)十二星座の一つ。獣帯の黄経三十度から六十度までの領域で、牡牛座α星は全天二十一の一等星の一つである「アルデバラン」(Aldebaran)。因みにこの星座には「プレアデス星団」(Pleiades:和名「昴(すばる)」)を始めとして有名な天体が多いことでも知られる。]

     第四節

  女 羽襟卷(ボア) 鳩羽鼠の上衣 脊高し

女 (學生をみてよびかく)失禮で御坐いますが あの S町の方へまゐりますにはどちらへまゐりましたらよろしう御座いませう

學生 (ふりむく)さあ私も自分のゆく方角がわからないんですからとてもあなたの御役にはたちますまいよ(微笑)

女 (微笑)まあ困りましたのねえ

學生 大に困つてるんです(元氣よく)この通りどちらをむいても霧の壁がたつてゐるんですからね

女 ぢやあなたはどうなさらうと仰有るの

學生 まあこゝにすわつてゐるんですね路がわかるまで

女 だつて何時までこゝにゐたつてわかりやうはないではありませんか

學生 しかしわからなければと云つて無暗にあるくわけには行きませんよ

女 あるくうちにはわかるかもしれませんわ

學生 〝かも〟でせう

女 えゝだつてそんな穿鑿は何にもなりませんわ此處がどこだか考へてるひまに一足でもあるいた方がいゝと思ひますわ

學生 あなたは中々理窟やですね

女 (微笑)第一そんな事を考へてゐる中には日がくれてしまひますもの日がくれないうちに一足でもおあるきなさいましさうなさらないと今にきつと後悔なさいますわ

學生 しかしわからずにあるくのは危險ですよ

女 臆病ですわねあなたは(間)ぢやああたしと一緖にいらつしやい二人で路をさがせばきつとわかりますわ

學生 盲目(めくら)が盲目の手をひいてあるくのは猶危險でさあ

女 そんなら御勝手になさいまし私は私でまゐります(去る)

學生 (見送りつゝ)ふん(肩をそびやかす)

     第五節

  MASK をかぶつた人 DOMINO

M 霧がふかいんで困つてゐるのだね(學生のそばへ腰を下ろす)

學生 誰だい君は(不思議さうに見る)

M 君の友達だよ僕がこんななりをしてるもんだから君にわからないのだらうこれから僕は假裝舞踏會(フアンシーボール)へゆくのだ

學生 どこにそんなものがあるのだい

M どこでもいゝよ

學生 どうも僕には思ひうかばないが君は一體誰だいPかねLかね

M 僕かね(笑)僕は君と始終一緖にゐるぢやあないか

學生 それがどうもわからないのだが

M ぢやあわからないにして置くさ人によつて僕にいろんな名前をつけるからね

學生 僕は路がわからなくつてよわつてゐるんだが君はしらないかね

M それはしりやうはないさしかし僕と一緖にこれから步いたらわかるだらう

學生 君は今の女のやうな事を云ふね

M 今の女と云ふのはしらないがわかる事は確にわかるよ其女と云ふのは何だい

學生 今通りがゝりの女が僕にさう云つたのさ考へてるひまに一足でもあるけつて

M うんあの女か あれは僕もしつてゐるよしかし奴のは僕のと全ちがつてゐるよ

學生 何故

M 奴はあるくのを目的にしてゐるんだからねあるくのが面白いあるいてるうちに路もわかるかもしれないさうなるとどつちもいゝと云ふのさ僕のはさうぢやない路がわかる爲にあるくのだよ

學生 それは贊成だね

M 君は僕に贊成しなくてはならない筈なのだからね

學生 何故

M まあそれはそれさとにかくわからせる爲に路を正しく一つ一つあるくのが必要だらう君のうちへかへると云ふ事がなくつちやあ路がわかる事が何の意味もないし路をわからせる事がなくつちやああるく事が何の意味もない事になるさうきまつたら一緖にあるかうぢやないか

學生 うんあるかう

M (PEDESTAL の銘をよむ) E MANGIA E BEE E DORME E VESTE PANNI かこの SPHINX より外に何もしらなくなつては大變だからね兎に角路をしる事が必要だよそれから早くうちへかへるがいゝこの近所にうろついてるやうぢやあ生きがひがないからねぢやあ出かけよう(二人去る)

  SPHINX 霧 夜 幕

上記の E MANGIA E BEE E DORME E VESTE PANNI かは「のみくひして眠り衣つくるのみ」の意

    卅一日夜       芥 川 生

   藏 六 兄 案下

[やぶちゃん注:「DOMINO」ここは仮面舞踏会用の着用着である「ドミノ」のこと。フード付きの衣装で、顔の上半部が隠れており、目の部分だけが開いたマスクが附いているもの、或いは、そのマスクだけを指す(ここは最後)。ラテン語由来の英語。「DOMINUS」(MASTER OF THE HOUSE:家(domus)・主人)が語源とされる。

「M」即座に想起されるのは、ドイツのファウスト伝説や、それに材を取った文学作品(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの長編悲劇「ファウスト」(Faust :第一部は一八〇八年、第二部はゲーテの死の翌年一八三三年に発表)が最も知られる)に登場する悪魔「メフィストフェレス」(Mephistopheles:略称でメフィスト(Mephisto))の頭文字である。芥川龍之介は、好んでこうした悪魔らしき者との問答形式の作品を書いている。一番知られるものは遺稿の「闇中問答」(昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋』九月号(芥川龍之介追悼号)に発表された)であろう。

「假裝舞踏會(フアンシーボール)」fancy-dress ball。 ‘fancy-dress’は「気まぐれで自由な空想的な衣装」で、‘ball’ は「盛大な舞踏会」(古フランス語の「踊る」が語源)。]

大和本草附錄巻之二 魚類 クチミ鯛 (フエフキダイ)

 

クチミ鯛 本編不載形狀大抵不異于鯛只口尖リ

テ小ナリ目高クツキ色淡褐紅色味亦頗似鯛而

○やぶちゃんの書き下し文

くちみ鯛 本編に載せず。形狀、大抵、鯛に異ならず。只、口(くち)、尖りて、小なり。目、高くつき、色、淡褐紅色。味、亦、頗る鯛に似て、而〔れども〕劣れり。

[やぶちゃん注:「クチミダイ」という異名は現在、以下の二種に与えられている。

スズキ目スズキ亜目フエフキダイ科フエフキダイ属フエフキダイ Lethrinus haematopterus

フエフキダイ属ハマフエフキ Lethrinus nebulosus

しかし、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のフエフキダイのページの画像と、同サイトのハマフエフキのページの画像とを比べ(この比較だけでも明らかにマダイ類に似ているのはフエフキダイである)、さらに両種の学名の画像検索をそれぞれ掛けてみると、ハマフエフキの方は、体色が黄緑色に偏位して金属光沢を持つ個体が圧倒的に多いのに対し、フエフキダイの方は個体差があるものの、まさに「淡褐紅色」に相応しいことが判った。されば、フエフキダイに同定する。前者「フエフキダイ」のリンク先には、『あまりまとまって取れることはない』。『西日本の暖かい海域にいるもので、定置網などでとれ、産地などでは食用白身魚として普通に利用している。希に関東などにも入荷してくるが』、『認知度が低くて安い』。『西日本では少ないながら流通。あまり高くない』とあり、益軒の根拠地福岡と親和性があることが判る。「産地」の項には『長崎県、熊本県、鹿児島県』とある。「味わい」の項に、『旬は夏だと思われる』が、『個体によっては磯臭い』とされ、『透明感のある白身で、透明感は比較的長く続く。ほどよく繊維質で身離れがいい』が、『皮や内臓、身から強くはないが』、『磯臭さを感じる』とあるのも、益軒の評価を裏付けると言える。「くちみだい」という異名は「口美鯛」か。キュートな尖った口には「チュ♡」をしたくはなりそうだ。]

大和本草附錄巻之二 魚類 ヲコゼ (オニオコゼ)

 

ヲコゼ 長八九寸アリワカキハ色黑シ老タルハ紅シ口

廣クシテ゜メバルノ形ノ如シ又背ハ杜父魚ニ似タリ目ハ

高ク出ツ背高シ背筋ニヒレアリ其ヒレニハリ十六ア

リ皆人ヲサス人ヲサセバ毒アリテクサル他所ニハハリ

ナシ尾ハ杜父魚ニ似タリ海魚ナリ所々ニ小イホアリ

腹ハ土スリノ如クニシテヒロシ

○やぶちゃんの書き下し文

をこぜ 長さ、八、九寸あり。わかきは、色、黑し。老いたるは紅(あか)し、口、廣くして、「めばる」の形のごとし。又、背は杜父魚(かじか)に似たり。目は、高く出づ。背、高し。背筋(せ〔すぢ〕)に、ひれ、あり、其のひれに、はり、十六あり、皆、人を、さす。人をさせば、毒ありて、くさる。他所〔(たしよ)〕には、はり、なし。尾は杜父魚に似たり。海魚なり。所々に小〔(ちさき)〕「いぼ」あり。腹は「土すり」のごとくにして、ひろし。

[やぶちゃん注:当初は新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目ハオコゼ科ハオコゼ属ハオコゼ Paracentropogon rubripinnis を考えたが、サイズが大き過ぎる(「八、九寸」は二十四~二十七センチメートルで、ハオコゼは大きくても十センチメートル前後にしかならない。但し、毒は強烈)ので、これは面の醜いことが書かれていないのが気になるが、最大長が三十センチメートルに達する個体もある(実際に私はそのサイズの巨大個体を唐揚げで食べたことがある。私はオニオコゼが大好物である)、

カサゴ亜目フサカサゴ科 (又はオニオコゼ科)オニオコゼ亜科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus

に同定する。益軒は既に「大和本草卷之十三 魚之下 をこぜ (オニオコゼ)」を出しており、その記載はオニオコゼ以外には考えられないのだが(そこでも益軒は顔が不細工とは言っていないのだが)、本「附錄」は以前から感じているのだが、本巻を書くために認(したた)めた原資料集からの抜粋附録(益軒がやや疑問を持った資料の抄出添付)のように思われ、されば、重複があってもおかしくないと考えている。WEB魚図鑑」の「オニオコゼ」によれば、『背鰭棘は16-18棘からなり、その鰭膜は棘の半分くらいまでの深さである。胸鰭の軟条のうち、下部の2本は長く、遊離している。体色は黒っぽいもの、灰色っぽいものから鮮やかな黄色、橙色まで様々なものがいる。体長20cmほどに達する』(と小振りに記す)。『青森県~九州までの日本各地沿岸、小笠原諸島』及び『朝鮮半島沿岸、渤海、中国沿岸、台湾』に棲息し、『沿岸の浅い砂泥底に生息する普通種』であり、『温帯性で』、普通に『浅所でみられる。海水浴が行われるようなごく浅い場所』でも見出せるとある。『主に小魚や甲殻類、イカ類などの動物を捕食している』。『見た目はよくないが、肉は白身で美味、現在は高級魚として知られるようになった。また、本種は養殖も盛んに行われている』。『本種の背鰭には大きく長い棘があり、それらには強い毒をもつので、取り扱う際には十分注意する必要がある』とある。なお、背鰭の軟条の形態や鰭膜の切れ込みの形状が異なる、近縁種に、

ヒメオニオコゼ Inimicus didactylus(オニオコゼに比して鰭膜が深く切れ込み、吻がやや長い。分布域も琉球列島以南)

及び、

セトオニオコゼ Inimicus joubini(胸鰭の下から第三と第四軟条間の鰓膜が深く切れ込み、背鰭起部付近で体が著しく盛り上がり、目の前がくぼんでおらず、丸く盛り上がっているといった記載をネット上にはあるものの、採取個体(瀬戸内海)が二体程度しか確認されておらず、オニオコゼと同一種とする見解を示す人もいるようである)

がある。因みに、オニオコゼの刺毒の成分は単離されていないようであるが、猛毒のレベルで、重症になると、刺された部分の壊死の他に嘔吐・下痢・腹痛・神経麻痺・関節痛の全身症状が発症し、呼吸困難・心臓衰弱によって死に至ることもあるとされる。

「杜父魚(かじか)」カサゴ目カサゴ亜目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux に代表されるカジカ類。種によっては似ていると言えなくもない。「大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」を参照。本属は日本固有種で、北海道南部以南の日本各地の主に淡水に棲む(カジカ Cottus pollux は一生を淡水で過ごす)が、両側回遊する種もある。但し、陸封型もあり、さればこそ益軒はこの後に「海魚なり」と言っているものと思われる。

「いぼ」「疣」。

「土すり」「腴(つちすり・つちずり)水底の土を磨(す)る意から、一般に魚の腹の太った部分、「砂摺(すなずり)」を指すが、ここはその部分が有意に広いことを言っている。]

伽婢子卷之二 十津川の仙境

 

伽婢子卷之二

 

   ○十津川(とつがは)の仙境(せんきやう)

 和泉の堺に藥種をあきなふ者あり。その名を長次〔ちやうじ〕といふ。久しく瘡毒(さうどく)をうれへて、紀州十津川に湯治しけり。病に相當せしにや、十四、五日の間に平復し侍べり。

 長次、或日、思うやう、

『年比、聞傅へし、「十津川の溫泉(いでゆ)の奧には、人參(にんじん)・黃精(わうせい)といふもの、生(おひ)出〔いで〕て、尋ねあたれば、多く有り」といふ。此〔この〕なぐさみに、近き所を搜し見ばや。』

と思ひ、僕をば、宿にとゝめ、唯一人、山深く入〔いり〕しかば、道に、ふみ迷へり。

[やぶちゃん注:「十津川」現在の奈良県の最南端に位置する吉野郡十津川村(グーグル・マップ・データ航空写真)。現在の正式な読みは「とつかわ」である。面積は奈良県で一番大きく、紀伊半島の内陸にある山村で、南東端のごく一部で三重県と、南西で和歌山県と県境を接する。本文で「紀州十津川」と出ることを「新日本古典文学大系」版脚注は殊更に採り上げて、『「和州」が適するか』とするが、確かに大和国の圏内とは言え、南東端には知られた有意に広大な和歌山県飛地(私は地理が大好きで、小学三年の頃、これを地図上に見出して驚いたのを忘れない)と接していることからも判る通り、当時の実生活の経済上の関係を考えても、十津川の水運がその生命線の重要な導線であったのであり、私はここで「紀州」と言っていることには違和感を全く覚えない。

「瘡毒」「新日本古典文学大系」版脚注は単に『かさ。腫れもの』とするが、通常、江戸期にかく言った場合は、ほぼ梅毒(実際には正確に分類されていたわけではないその他の性感染症群をも多量に含む)を指していると考えてよい。無論、湯治ごときで治るものではないが、梅毒の発症機序や進行様態は時間的に数十年に及ぶ場合も珍しくなく、初期症状の発生後に疑似的な緩解期が何度も起るから、何ら不思議ではない。そもそもが、この主人公は薬種屋であるから、相応な治療薬も自ら服用していたものとも思われる。

「十津川の溫泉」この場合は、十津川の温泉で最も古い歴史がある現在の湯泉地温泉(とうせんじおんせん)に限定されるので注意(他の「十津川温泉」と「上湯(かみゆ)温泉」は源泉の発見が本書刊行よりも後であるからである)当該ウィキによれば、単純硫黄泉で、 源泉温度六十度。湯は無色透明。『十津川の湯が文献に現れるのは』、天文二二(一五五二)年の本願寺第八世蓮如の『末子の実従の湯治』が「私心記」に載るのが最初とされ、その後も天正九(一五八一)年に佐久間信盛(?~天正一〇(一五八二)年:元織田家家老。初め、織田信秀に仕え、後に信長に従って「近江佐々木氏討伐」・「比叡山焼打」・「三方ヶ原の戦い」・「朝倉攻め」や一向一揆の鎮圧及び松永氏の討伐などに功があったが、天正八(一五八〇)年に信長に追放され、高野山に入って落飾した。湯治の記載は「多聞院日記」に拠る)が、天正一四(一五八六)年には顕如上人(「宇野主水記」)が、文禄四(一五九五)年に大和中納言秀保(大名。豊臣秀吉の姉の子で後に豊臣秀長の婿養子となり、彼を嗣いで大和国国主となった人物。湯治は「多聞院日記」に拠る)が『訪れている。信盛、秀保はどちらも療養のため』に『訪れたこの地で亡くなったため』、『十津川の湯が文献に残された』とある。『十津川には泉脈も多く』、『湧出地は変わるため』、『前述の十津川の湯が』現在の湯泉地温泉と『同じ場所とはいいきれないが』、宝徳二(一四五〇)年に『温泉が湧出した』(「東泉寺縁起)『という湯泉地付近と推定され』ており、『当地には佐久間信盛の墓も残る』(ここ)とある。『かつてこの地には薬師如来を本尊とする東泉寺という寺があった。今も残る』「東泉寺縁起」に『よると、役行者が十津川の流れを分け入ったところにある霊窟で加持祈祷を行ったところ』、『湯薬が湧出し、弘法大師が大峯修行の際に湯谷の深谷に先蹤をたずね』、『薬師如来を造顕した』とされ、宝徳二(一四五〇)年に地震が発生し、『湯脈が変わり』、『武蔵の里』(現在の十津川村武蔵はまさに佐久間信盛の墓のある場所である)『に湧出し、いつしか』、『十津川沿いの現地に移ったとされている』。『なお』、『湯泉地温泉の名は東泉寺に由来する』とある。

「人參」「朝鮮人參」。セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジン Panax ginseng

「黃精」漢方生剤「オウセイ」。単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科アマドコロ(甘野老・萎蕤)連アマドコロ属アマドコロ Polygonatum odoratum或いは同属ナルコユリ(鳴子百合)Polygonatum falcatum の根茎を用いる。降圧・強心・抗血糖作用などがあるとされるが、生で用いると、咽を刺激するため、蒸した「熟黄精」を使用する。漢方では他に補気・潤肺・強壮・胃腸虚弱・慢性肺疾患・糖尿病・病後の食欲不振・咳嗽・栄養障害などに用いられ、砂糖とともに焼酎に漬けた黄精酒は古くから愛飲されている。]

 

Totugawa

 

 一つの谷に、くだりて見れば、美くしき籠(こ)[やぶちゃん注:人の作った籠(かご)。]の流れ出〔いで〕ければ、

『此水上に、人里あり。』

と思ひ、水にしたがうて、のぼるに、日は、すでに暮かゝり、鳥の音〔こゑ〕、かすかに、ねぐらを爭ふ。

 かくて、十町ばかり[やぶちゃん注:凡そ一キロメートル。]行(ゆく)かと覺えし。

 岩をきりぬきたる門に致り、内に入〔いり〕て見れば、茅葺(かやぶき)の家、五、六十ばかり、軒を並べて立〔たち〕たり。

 家々のありさま、石(の)垣、苔、生(おひ)て、壁、みどりをなし、竹の折戶(おりど[やぶちゃん注:ママ。])、物淋しく、蔦かづら、冠木(かぶき)をかざる。

 犬、ほえて、砌(みぎり)をめぐり、鷄、鳴(なき)て、屋(いへ)にのぼる。桑の枝、茂り、麻の葉、おほひ、誠に住ならしたる村里也。樵(こり)つみける椎柴(しゐしば)、舂(うす)つきてほす粟(あは)・粳(うるしね)、さすがに、わびしからずぞ、見えたる。

 人の形勢(ありさま)、古風ありて、素袍(すはう)・袴に、鳥帽子、着〔き〕て、行還(ゆきゝ)しづかに、威儀、みだりならず。

[やぶちゃん注:「冠木」左右の門柱を横木(冠木)によって支えた門。古くは下層階級の家に用いられた造りであったが、後に諸大名の外門などにも盛んに用いられた。

「砌(みぎり)」ここは「庭」の意。以下、明らかに陶淵明の「桃花源記」の「有良田美池桑竹之屬。阡陌交通、鷄犬相聞。」(良田・美池・桑竹(さうちく)の屬(ぞく)有り。阡陌(せんぱく)交はり通じ、鶏(けい)・犬(けん)相ひ聞ゆ。)を確信犯で意識させる。

「樵つみける椎柴」木を樵(こ)りて積み上げられた椎や柴の薪(たきぎ)。

「粳(うるしね)」通常の主食とする粳米 (うるちまい) がとれる稲。

「素袍」直垂 (ひたたれ) の一種。裏をつけない布製で、菊綴 (きくとじ) や胸紐に革を用いる。略儀の装束で、室町時代には庶民も日常用として着用した。江戸時代には形式化し、ここに出る通り、長袴 (ながばかま) を穿くのが普通となり、大名の礼服である大紋(だいもん)と同じように定紋(じょうもん)を附け、侍烏帽子 (さむらいえぼし) に熨斗目 (のしめ) 小袖を併用し、平士 (ひらざむらい) や陪臣の礼服とされた。]

 

 長次が、立やすらひたる姿を見て、大〔おほき〕に怪(あやし)み、驚きて、問ひけるやう、

「如何なる人なれば、此里には、さまよひ來〔きた〕れる。世の、常にして知るべき所にあらず。」

といふ。

 長次、ありのまゝに語る。

 こゝに、ひとりの老人、衣冠正しきが、蓬(えもぎ)の沓(くつ)をはき、藜(あかざ)の杖をつきて、みづから、

「三位中尉。」

と名のり、長次に向ひて日(いはく)、

「こゝは、山深く、岩ほ、そばだち、熊・狼、むらがり走り、狐・木玉(こだま)のあそぶ所にして、日は暮たり、此まゝ打捨なば、是ぞ、水に溺れたるを見ながら、拔(すく)はざるに、おなじかるべし。こなたへおはせよ。宿、かし侍らん。」

とて、家に連れて歸りぬ。

 内〔うち〕のてい、きたなからず、召使はるゝ男女〔なんによ〕、更に、みだりならず。

 既に一間の所に呼びすゑ、ともし火をかゝげ、座、定りてのちに、長次、問けるやう、

「此〔この〕所は、ありとも知らぬ村里也。如何に住そめ給ひしやらん。」

といふ。

 あるじ、眉をひそめて、

「是は浮世の難を逃れし人の、隱れて住〔すむ〕ところなり。若〔もし〕、しひて[やぶちゃん注:ママ。「强(しい)て」。]そのかみの事を語らば、徒らに愁(うれへ)を催すなかだちならん。」

といふ。

 長次、あながちに、其(その)住初(すみそめ)し故をとふに、あるじ、語りけるは、

「我は、平家沒落して西海の浪に沈みける比より、此所に住初たり。

 我は是、小松の内府(だいふ)重盛公の嫡子三位中尉維盛と云ひし者也。祖父(おほぢ)大相國淸盛入道は、惡行重疊(ぢうてう)して、人望にそむき、父内府は、世を早うし給ひ、伯父宗盛公、世を取〔とり〕て、非道不義なる事、法に過ぎたり。

 一門のともがら、多くは皆、奢りを極め、榮花にほこり、家運、たちまちに傾き、東國には兵衞の佐(すけ)賴朝、譜代の家人〔けにん〕を催して、義兵をあげ、北國には木曾の冠者義仲、一族郞等〔らうどう〕をすゝめて、謀反(むほん)す。

 其外、諸國の源氏、蜂の如くに起り、蟻の如くに集(あつま)りけるを、玆(こゝ)に、はせむかひ、かしこに、責寄(〔せめ〕よ)するに、更に軍(いくさ)の利なく、味方の軍兵〔ぐんぴやう〕、たびたびに打れて、終に、木曾がために都を追落(をひをと)され、攝津國一の谷に籠り、暫く心も安かりしに、九郞義經が爲に、こゝをも破られ、一門の中に、通盛(みちもり)・敦盛以下、多く亡び給ひ、まの當り、魂(たましゐ[やぶちゃん注:ママ。])を消し、胸をひやし、うきめを見聞(みきく)かなしさ、生〔しやう〕をかゆるとも、忘るべき事かや。

 とかくする程に、讃岐國八嶋の州崎に城郭を構へ、一門の人々、楯籠(たてこも)りしかば、故鄕は雲井の餘所(よそ)に隔り、思ひは妻子の名殘〔なごり〕に止(とゞ)まり、身は八嶋に在りながら、心は都に通ひければ、萬(よろづ)につけて、あぢきなく、『行末とても賴みなし』と、うかれ果たる心より思ひ立〔たち〕て、譜代の侍〔さぶらひ〕與三兵衞重景(〔よさうびやうゑ〕しげかげ)、石童丸(いしどう〔まる〕)といふわらは、武里(たけさと)といふ舍人(とねり)は、舟に心得たる者なれば、此三人を召具〔めしぐ〕して、忍びて、八嶋の内裏を出〔いで〕て、阿波の由木(ゆうき)の浦につきて、

 をりをりはしらぬうらぢのもしほ草

   かきおく跡をかたみともみよ

 重景、返しとおぼしくて、

  我おもひ空ふく風にたぐふらし

   かたぶく月にうつる夕ぐれ

石童丸、淚をおさへて、

 玉ぼこの道ゆきかねてのる舟に

   心はいとゞあこがれにけり

 それより、紀伊國、和歌・吹上の浦をうち過〔すぎ〕て、由良(ゆら)の湊より、舟をおりて、戀しき都をながめやり、高野山にまうでて、瀧口時賴入道にあうて、案内せさせ、院々、谷々、をがみめぐり、

「これより、熊野に參詣すべし。」

とて、三藤(とう)のわたり、藤代(ふぢしろ)より、「和歌の浦」、「吹上の濱」、「古木〔ふるき〕の杜」、「蕪坂(かぶらざか)」・「千里(ちさと)の濱」のあたり近く、岩代(いはしろ)の王子〔わうじ〕をうちこえ、岩田川にて垢離(こり)をとりて、

 岩田川ちかひの舟にさほさして

   しづむ我身もうかびぬるかな

 それより、本宮(ほんぐう)にまうでつゝ、新宮・那智、のこりなくめぐりて、「濱の宮」より、舟に乘り、磯の松の木をけづりて、

 

  權亮(ごんのすけ)三位中尉平惟盛

  戰場を出(いで)て那智の浦に入水す

  元曆元年三月廿八日 惟盛 廿七歲

  重景 同年  石童丸 十八歲

 生れてはつひに死(しぬ)てふことのみぞ

   定なき世にさだめありける

 

と書〔かき〕て、世には「入水〔じゆすい〕」と知らせけれども、今、この山中に隱れしかば、肥後守貞能(さだよし)、跡をもとめて尋ね來れり。

「平氏の一門、沒落して、皆、ことゞく、壇の浦にて、水中に入給ふ。都に隱れし平氏の一類も、根を斷ち、葉を枯らしけり。」

と、貞能、かたり侍べるにぞ、

「よくこそ、のがれけれ。」

と、かなしき中に、心を慰め、田をうゑ、薪(たきゞ)とり、みずから、淸風朗月に心を澄まし、物靜(〔もの〕しづか)にして、たましひを、やしなふ。人里絕〔たえ〕て、音づれも、なし。

 花の咲くを春と思ひ、木の葉のちるを秋と知り、月のいづるを、かぞへ盡して、月なき時を晦(つごもり)と、あかし暮らす身と、なり侍べり。

 貞能・重景・石童丸が子孫、ひろごりて、家居を並べて住〔すみ〕ける也。

 さだめて、賴朝、世をとりぬらん、今はこれ、誰〔たれ〕の世ぞ。願くは、物語せよ。」

とあり。

[やぶちゃん注:贋の遺書は前後を一行空け、句読点を附さなかった。維盛の語りは非常に長いので、シークエンスごとに段落成形した。

「蓬の沓」「えもぎ」はヨモギ(本邦の狭義のそれは中央アジア原産と考えられているキク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii )の別称。「新日本古典文学大系」版脚注は『不詳』とするが、ウィキの「靴」によれば、『これまでに発見された世界最古の靴は』一九三八『年に米国オレゴン州のフォートロック洞窟にあったもので、紀元前』七千『年頃に』、『ヨモギの樹皮で作られたサンダルである』とある。参考元の英文記事はこちらであるが、この左の写真キャプションにある‘Sagebrush’というのは、ヨモギ属オオヨモギ(ヤマヨモギ) Artemisia montana で、本邦でも近畿地方以東の本州・北海道・南千島などに分布し、名の通り、草丈が高くなり、時として二メートルを超えるという。されば『樹皮』というのは違和感がない。私は文字通り、「蓬の繊維で編んだ沓」でよいと思う。因みに、七千年前の日本は縄文時代前期で縄文海進の最盛期に相当する。

「藜」ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属シロザ変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum である。本邦には北海道から沖縄まで全国に分布し、畑地・荒地に最も普通に見られる雑草で、長ずると一メートル以上になる。意外に思われるかも知れないが、本種は秋になって枯れた茎を乾して老人用の杖にした。軽くてしかも強く、使い易い杖になったのである。「笈日記」の芭蕉の句「宿りせん藜の杖になる日まで」の伊藤洋氏の「芭蕉DB」のこちらの解説を参照されたい。

「三位中尉」これは平清盛の嫡孫で平重盛の嫡男であった、名将にして享年二十六で壇の浦に散った平小松三位中尉維盛(これもり 平治元(一一五九)年~寿永三(一一八四)年)の別名である。平家一門の嫡流として出世したが、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵の際、追討大将軍として東国に発向したものの、「富士川の戦い」では、夜、水鳥の羽音に驚いて、戦わずに逃げ帰った情けなさで知られる。翌年三月の「尾張墨俣の戦い」では源氏を撃破し、その功により、右近衛権中将・従三位となったが、翌寿永元(一一八二)年、木曾義仲追討では「倶利伽羅合戦」で大敗、義仲が上京し、平家一門が西国に没落した折りには、一時は都落ちしたらしいが、その後、消息不明となった。物語類では「屋島の戦い」の最中に平家の陣を抜け出し、高野山で出家し、熊野灘へ舟を出して、入水して果てたとされる。なお、私は鎌倉史を趣味で調べている関係上、以下の面子はほぼ顔見知りで、注の必要を感じない者が多い。教科書的に総てを等し並みにいりもせぬ注をすることはしないことをここで断っておく。

「通盛」(仁平三(一一五三)年?~元暦元(一一八四)年)平清盛の異母弟である権中納言平教盛と藤原資憲の娘との嫡男。弟に私の好きな能登守教経がいる。「一の谷の戦い」で討死した。「平家物語」では、「平家都落ち」の直前に宇治橋を固めて応戦し、都落ち以後も西国で戦う様子が記されてある。また、愛人小宰相が後を追って入水する悲話が描かれ、二人の馴れ初めも描かれる。二人の恋は「建礼門院右京大夫集」にも載る。

「生をかゆるとも、忘るべき事かや」「仮に輪廻転生したとしても、いっかな、忘れることなどできようものか!」。

「興三兵衞〔よさうびやうゑ〕重景」彼の父平景康(景泰・景安とも)は平重盛の家人で、「保元の乱」に参戦し、「平治の乱」では主君を守り、二条堀河の辺りで鎌田兵衛と組み合いとなったところを、頼朝の兄悪源太義平に討たれてしまったため、維盛に育てられて、名も彼から与えられた。父子ともに重盛父子の乳母子(めのとご)となったのである。乳母子は当時、主君と命をともにするのが倣いであった。読みは「新潮日本古典集成」版の「平家物語」の「巻第十」の「横笛」のルビに従った。

「石童丸」維盛の臣下の少年であるが、出自不詳。

「武里」不詳。

「舍人」牛車の牛飼や、馬の口取りなどを担当した下人。

「阿波の由木(ゆうき)の浦」阿波国海部(かいふ)郡三岐(みき)村由岐(ゆき)。現在の徳島県海部郡由岐町(ゆきちょう)

「をりをりはしらぬうらぢのもしほ草かきおく跡をかたみともみよ」整序すると、

 折々は知らぬ浦路の藻鹽草かきおく跡を形見とも見よ

で、塩を作るための海藻を「搔き」集めるに、辞世の歌を「書き」置くに掛けたもの。これらの歌のシークエンスは「源平盛衰記」の巻三十九巻の「維盛屋嶋を出でて高野に參詣付けたり粉川寺(こかはじ)法然房に謁する事」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を見られたい。そこでは、

 折々はしらぬ浦路のもしほ草(くさ)書置(かきをく)跡を形見共(とも)見よ

とある。

「我おもひ空ふく風にたぐふらしかたぶく月にうつる夕ぐれ」整序する。

 我れ思ふ空吹く風に比(たぐ)ふらし傾(かたぶ)く月に移る夕暮れ

で、「……私の今のこの限りなき切なき思いは、虚空を吹き退(すさ)ってゆく風にでも比える得るものだろうか――傾く月に漆黒の闇へと移ってゆくこの夕暮れの間合いには……」と言った謂いか。「源平盛衰記」では、

 我(わが)戀(こひ)は空吹(ふく)風にさも似たり傾(かたふ)く月に移ると思へは

とある。これは「源平盛衰記」の方が遙かにいい。

「玉ぼこの道ゆきかねてのる舟に心はいとゞあこがれにけり」同前。

 玉鉾(たまぼこ)の道行き兼ねて乘る舟に心はいとど憧(あこが)れにけり

で、「玉ぼこの」は「道」の枕詞。「……道中、いかにも心から赴こうとする意志もなく、行きかねてかくも乗った舟ではあるけれど――でも――この行く先が西方浄土ならんかと思えば――いよよ、心が憧(あくが)れることです……」の謂いか。「源平盛衰記」では、

 玉鉾(たまぼこ)や旅行(たびゆく)道のゆかれぬはうしろにかみの留(とゞま)ると思へば

とある。こちらは本篇の方がずっと上出来。

「紀伊國、和歌・吹上の浦」「和歌」「の浦」は和歌山市の歌枕である「和歌の浦」。古くはこの中央の海岸一帯を指した。「吹上の浦」は現在の紀ノ川河口の和歌山城附近の当時の海浜の貫入していた部分から(砂丘状になってた。吹上の地名が残る)、南西の雑賀崎附近を指すが、ここは「和歌の浦」の後背部北側に当たる。

「由良(ゆら)の湊」和歌山県日高郡由良町。順序にちょっと違和感がある。但し、これは参考にした「平家物語」の巻十の「横笛」や「源平盛衰記」の先の箇所の叙述に従ったまでのことであり、都の方を遠望するには、まあ、少し戻るものの、違和感はない。でも、私は『僕なら、せめて今の大阪湾口が開ける加太(かだ)を北に回り込んだ和歌山市大川辺りまで出向くけどな』とは思う。

「戀しき都をながめやり」見えるわけでは無論、ない。遠く見やるのである。

「瀧口時賴入道」平重盛に仕え、宮中の「滝口の武士」をも勤めた齋藤時頼。芥川龍之介の「芋粥」で知られる藤原利仁の子孫の疋田(ひった)斉藤茂頼(もちより)の子。彼と、建礼門院の雑仕女(ぞうしめ)横笛の悲恋と、まさにここに語られる維盛の入水を描いた歴史小説高山樗牛の「瀧口入道」は私の偏愛する作品である。時頼は横笛の死後、出家して高野山に入っていた。

「三藤(とう)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『和歌山市山東中(さんどうなか)近辺。熊野街道が通り、高野山から下る道筋との合流地域』とある。ここ

「藤代(ふぢしろ)」現在の海南市藤白

「古木〔ふるき〕の杜」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注では、かなり突っ込んで同定比定可能性を探っているが、私には興味がないので引かない。

「蕪坂(かぶらざか)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『海草郡下津町。有田市との境に』ある『蕪坂峠』(現在は「かぶらさかとうげ」と清音)。『峠を越えた所に蕪坂塔下(とうげ)王子がある』とあるが、現在は海南市下津町になった。蕪坂塔下王子はここ

「千里(ちさと)の濱」「新日本古典文学大系」版脚注に、『日高郡南部町。千里王子社がある』とあるが、現在は和歌山県日高郡みなべ町と表記が変わっており、王子社社跡とする。

「岩代(いはしろ)の王子」現在の日高郡みなべ町西岩代。また、今は岩代王子跡とする。「新日本古典文学大系」版脚注には、『この拝殿の板に熊野参詣者名前や和歌を書きつけて奉納した』とある。

「岩田川」「新日本古典文学大系」版脚注に、『西牟婁郡富田川中流、岩田付近の呼称。』水『垢離場として著名』だった場所で、『歌枕』とある。ここ

「岩田川ちかひの舟にさほさしてしづむ我身もうかびぬるかな」整序すると、

 岩田川誓ひの舟に棹さして沈む我が身も浮かびぬるかな

で、やはり「源平盛衰記」の巻四十巻の「維盛入道熊野詣付けたり熊野大峯の事」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を見られたい。そこでは、

 岩田川誓(ちかひ)の舩(ふね)にさほさして沈む我(わが)身も浮(うかび)ぬる哉

の表記である。「誓ひの舟」とは、「弘誓(ぐぜい)」(菩薩が自らの悟りと、ありとある衆生の済度を願って立てた広大なる誓願)を煩悩の大海から総ての衆生を救い揚げて西方浄土へ向かう「船」に喩えたもの。

「本宮」熊野本宮大社

「新宮」熊野速玉神社

「那智」熊野那智大社。以上で熊野三山を成す。神道嫌いの私が例外的に敬虔に総て参詣した人生唯一の三社である。私は後、出雲大社だけはちゃんと参拝したいと考えている人種である。

「濱の宮」和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮。「源平盛衰記」の巻四十巻の「中將入道水に入る事」を見よ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)。ここはまさに無謀な補陀落(ふだらく)渡海信仰のメッカで(私の「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」を参照)、天台宗熊野山補陀洛山寺(ふだらくさんじ)があり、私も参り、裏にある平維盛供養塔も墓参した。

「元曆元年三月廿八日惟盛廿七歲」これが実遺書でないことは、元号でバレバレ。平家政権はは後鳥羽天皇の即位を認めず、「元曆」(げんりゃく)を用いず、「壽永」を引き続いて使用していたからである。則ち、ここは「壽永三年」でなくてはならないのである。この日附や維盛の年齢は「源平盛衰記」のままであるが(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ)、重景と石童丸の年齢は記されていない。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「公卿補任」『記載の維盛』の『年齢に従うと』、『二十五歳に当た』り、合わないことが示されてある。なお、「源平盛衰記」の同前の終わりの方(左ページの五行目から次の頁にかけて、維盛の生存説が複数、附されてある。しかし、こういうところは、私が「源平盛衰記」の致命的な瑕疵部分と考えている、厭なところである。

「生れてはつひに死(しぬ)てふことのみぞ定なき世にさだめありける」前のリンクで「源平盛衰記」のそれが見られるが、特段の異同はない。因みに、実際の維盛は、生活史の孤立感からみても、かなり早期に、かなり重い鬱病、或いは強い抑鬱症状をきたす重度に精神疾患に罹患していたのではないかと私は考えている。

「肥後守貞能」伊賀国を本拠とする平氏譜代の有力家人であった平貞能(さだよし 生没年不詳)。父は平氏の直参の郎等であった平家貞。当該ウィキによれば、『保元の乱・平治の乱に参戦し、平清盛の家令を勤め』、『清盛の「専一腹心の者」』(「吾妻鏡」元暦二(一一八五)年七月七日の条)『といわれた』。仁安二(一一六七)年五月、『清盛が太政大臣を辞任して嫡男の平重盛が平氏の家督を継ぐと、平氏の中核的な家人集団も清盛から重盛に引き継がれた。同じ有力家人の伊藤忠清が重盛の嫡男・平維盛の乳父であったのに対して、貞能は次男・平資盛の補佐役を任された。忠清は「坂東八カ国の侍の別当」として東国に平氏の勢力を扶植する役割を担ったが、貞能は筑前守・肥後守を歴任するなど』、『九州方面での活動が顕著である』。治承四(一一八〇)年十月、『平氏の追討軍は富士川の戦いで大敗し、戦乱は全国に拡大』し、十二月に『資盛が大将軍として近江攻防に発向すると、貞能も侍大将として付き従った。畿内の反乱はひとまず鎮圧されたが、翌治承五年閏二月に『清盛が死去し』、『後継者となったのは清盛の三男・平宗盛であり、重盛の小松家は一門の傍流に追いやられることになる。同じ頃、九州でも反乱が激化しており』、『肥後の豪族・菊池隆直らは大宰府を襲撃した』。四月十日、『宗盛の強い推挙で原田種直が大宰権少弐に補され』て、すぐに『菊池隆直追討宣旨が下され』、同年八月に『貞能は反乱鎮圧のため』、『一軍を率いて出発』した。『備中国で兵粮の欠乏に直面し』、『追討は困難を極めたが、翌』養和二(一一八二)年四月、『ようやく菊池隆直を降伏させることに成功した』。寿永二(一一八三)年六月、『貞能は』一千『余騎の軍勢を率いて帰還するが』翌七月には、『木曾義仲軍の大攻勢という局面に遭遇する。貞能は資盛に付き従い』、『軍勢を率いて宇治田原に向かったが、この出動は宗盛の命令ではなく』、『後白河法皇の命令によるものだった。小松家が平氏一門でありながら、院の直属軍という側面も有していたことが伺える。宗盛は都落ちの方針を決定するが、貞能は賛同せず』、『都での決戦を主張した。九州の情勢を実際に見ていた貞能は、西国での勢力回復が困難と認識していた可能性もある』。二十五『日の夕方、資盛・貞能は京に戻り、蓮華王院に入った。一門はすでに都落ちした後で、後白河法皇の保護を求めようとしたが』、『連絡が取れず、翌』二十六『日の朝には西海行きを余儀なくされる』。「平家物語」の『一門都落の章段によれば、貞能は逃げ去った一門の有様を嘆き、源氏方に蹂躙されぬように重盛の墓を掘り起こし』、『遺骨を高野山へ送り、辺りの土を加茂川へ流して京を退去したという』。『平氏は』八『月中旬に九州に上陸するが、豊後国の臼杵氏、肥後国の菊池氏は形勢を』傍観するばかりで『動かず、宇佐神宮との提携にも失敗するなど』、『現地の情勢は厳しいものだった。特に豊後国は院近臣・難波頼輔の知行国であり、後白河法皇の命を受けた緒方惟栄』(これよし)『が平氏追討の準備をして待ち構えていた。惟栄が重盛の家人だったことから』、『資盛・貞能が説得に赴くが、交渉は失敗に終わる。平氏は』十『月に九州の地を追われるが、貞能は出家して九州に留まり』、『平氏本隊から離脱した』。『また』、「玉葉」の寿永三(一一八四)年二月十九日の条には、『資盛と平貞能が豊後国の住人によって拘束された風聞が記されている』。『平氏滅亡後の』元暦二(一一八五)年六月、『貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。朝綱は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願し』(「吾妻鏡」七月七日の条)。『この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。北関東に那須塩原市の妙雲寺、芳賀郡益子町の安善寺、東茨城郡城里町の小松寺、そして南東北でも仙台市の定義如来など』、『貞能と重盛の伝承をもつ寺院が多く残されているのは、貞能の由緒によるものである』とある。

「淸風朗月」さわやかな涼しい風と、明るく清らかな月。風雅な遊びや、自然をこころゆくまで嘆賞するさま。]

 

 長次、大に驚き恐れ、

「『只、かりそめの山住(やまづみ)、世の常の事』にこそ思ひ奉りしに、かゝる止事(やごと)なき御身とは、露も思ひよらざりけり。」

とて、首を地につけ、禮義をいたす。

 三位中尉、

「いやとよ、今は然〔しか〕るべからず。それそれ。」

と、の給ふに、貞能・重景・石童丸、立出たり。

 いづれも、その歲、六十ばかりに見えたるが、貞能いふやう、

「迚(とても)うちとけ給ひたる御事也。その世の移り替りし事共、語りてきかせ給へ。」

と也。

[やぶちゃん注:この展開は読者にとって、ネガティヴな貴種流離としての維盛の諸々のイメージを破壊し、面白い予感を引き出させる。或いは、他の作家(例えば後のお喋りな曲亭馬琴)なら、ここに出たバイ・プレイヤーらにじゃかじゃか語らせるところだが、そもそもが、貞能を除く、肝心の重景・石童丸の史実的認識が読者には不足している。さればこそ、ここで本当に読者のようにエキサィテイングになれるのは、主人公である長次自身であることに了意は気づくのだ! そこが素晴らしい! もし、読者が「自分がここで長次なら、どう答えて語るだろう?」というミソを、しっかり受けて以下が開陳されるのである。しかもそれは在野の史家でもある了意の独擅場とも言えるのである。

「いやとよ、今は然るべからず。それそれ。」「いや、そんな風にされては困ったことじゃて! 今はもう、そのように畏まられてしまうは、慮外のことじゃによってのぅ。そうじゃ! お~い、皆々、出でて、参れぇ!」。]

 

 長次、居なほりて、

「さらば、あらあら、聞〔きき〕つたへし事、かたり侍べらむ。

 扨も、平氏の一門、西海の波に沈み給ひ、兵衞佐〔ひやうゑのすけ〕賴朝、天下ををさめ、いくばくもなく、病死し給ふ。

 蒲冠者(かばのくわんじや)範賴・九郞判官義經、みな、賴朝にうたれ、賴朝の子息賴家、世をとり、子なくして、病死あり。賴朝の二男賴家の舍弟、跡を治め給ふ。

 賴家の妾(おもひもの)の腹に子あるよし、聞つたへ、尋出して鶴岡〔つるがをか〕の別當になさる。禪師公曉(ぜんじくげう)と號す。

 和田・畠山・梶原等が一族、此君の時、うちほろぼさる。

 実朝卿、鶴岡社參の夜〔よ〕、かの禪師の公(きみ)、實朝を殺す。

 北條義時、その跡を奪ひて、天下の權を、とる。

 是より、九代にいたり、相撲守高時入道宗鑑(そうかん)、大に奢りて、國、亂れ、新田義貞、鐮倉をほろぼす。

 足利尊氏と新田と、いくさあり。足利、つひに、義貞をほろぼし、その子息義詮(よしのり)を京の公方と定め、二男左馬頭基氏を鐮倉の公方と定め、天下、暫く、しづかなりしかども、王道は地に落〔おち〕て、あるかなきかの有さま也。

 武家、世をとりて、權威、たかし。

 後に、京都・鎌倉の公方、不會〔ふくわい〕になりて、鐮倉の執權上杉の一族、公方を追おとす。

 此時に當りて、京都の公方も權威を失なひ、諸國の武士、たがひに、そばだち、天下、大〔おほき〕に離れて、合戰、やむ時、なし。

 三好修理(しゆりの)大夫、其家人(けにん)松永彈正は、畿内・南海に逆威(ぎやくゐ)をふるひ、今川義元は駿河・遠州をしたがへ、國司源具敎(とものり)は勢州にあり、武田睛信、甲・信兩國にはびこり、北條氏康は關八州にまたがり、佐竹義重は常陸にあり、蘆名(あしなの)盛高は會津を領じ、長尾景虎は越後より、おし出〔いづ〕る。朝倉義景、越前を守り、畠山が一族は河内にあり、陶(すゑ)尾張守は、周防長門を押領(あふりやう)し、毛利元就、安藝におこり、尼子(あまこ)義久は、出雲・隱岐・石見・伯耆にひろごり、豐後に大友、肥前に龍造寺、その外、江州に淺井〔あざゐ〕・佐々木、尾州に織田、濃州に齋藤、大和に筒井、其外、諸國群邑(ぐんゆう)の間〔かん〕に黨を立て、兵を集め、たがひに、村里をあらそうて、攻戰(せめたゝか)ひ、奪ひ、とる。

 古へ、安德天皇、西海に赴き給ひし、壽永二年癸卯(みづのとう)より、今、弘治二年丙辰(ひのへたつ)の歲まで、星霜三百七十四年、天子、すでに二十六代、鎌倉は、賴朝より三代、北條家九代、足利家十二代、京都の足利、今すでに十三代、新將軍源義輝公と申す也。」

と、語りしかば、三位中將、これを聞き給ひて、不覺の淚を流し給ふ。

 夜、すでに更〔ふけ〕ゆけば、山の中、物しづかに、梢をつたふ風の音、軒近く聞えて、長次が魂(たましゐ[やぶちゃん注:ママ。])、すみわたり、凉しく覺えたり。

 あるじ、さまざま、酒をすゝめらる。

 夜、すでにあけて、山の端(は)あかく、橫雲、たなびきて、鳥の聲、定かになれば、長次、

「今は。是までなり。」

とて、拜禮、つゝしみて立出〔たちいづ〕れば、あるじ、のたまはく、

「我ら、更に、仙人にもあらず、幽靈にもあらず。おほくの年を重ねし事、思はざる外の幸ひなり。なんぢ、歸りて、世に語る事、なかれ。」

とて、

 みやまべの月は昔の月ながら

   はるかにかはる人の世の中

と、よみて、わかれをとり、内に入給へば、長次は、切通しの門を出て、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかりに一所づゝ、竹の杖をさして、記(しるし)とし、十津川の宿に歸る事を得て、來年の春、酒・さかな、とゝのへつゝ、又、かの山路に分入〔わけいり〕て尋ぬるに、たゞ、古松・老槐(らうくわい)に橫たはり、岩ほ、そばだち、茅(ちがや)・薄(すゝき)しげり、樵(きこり)の通ふところ、鳥の聲、かすかに、草刈りの行〔ゆく〕ところ、谷の水、流れ、しるしの竹も見えねば、たずねわびつゝ立〔たち〕かへる。

 そもそも、これは、仙境の道人(だうにん)なりけん。その類(たぐひ)、しりがたし。

[やぶちゃん注:鎌倉時代の部分は先に述べた如く、注する気はまるでない。不明な委細があれば、私のカテゴリ『「北條九代記」【完】』(同じ浅井了意の作と推定される)を読まれたい。ただ、ここでの鎌倉史概説部に大きな不満が残るとすれば、維盛の子六代(ろくだい 平高清(承安三(一一七三)年?~?)のことが全く語られていないことであろう。「平家物語」の「六代斬られ」で人口に膾炙している彼のことを、了意が忘れていたことなど、到底、考えられず、そもそも維盛が個人的に後のことを知りたいと思うた中に、一番のそれは、六代をおいて他にはないはずだからである(言っておくが、この六代を最後として清盛の嫡流は完全に断絶しているのである)。しかし、それは、語れば、維盛にとって非常に重鬱な思いをさせざるを得ず、これから超時空を経ねばならぬ、縮圧したドライなドライヴの出鼻を、これ、挫くことになることは明白である。さればこそ、了意の判断は正しいと言えるのである。なお、南北朝から戦国に至る部分も一部を除いて多くの読者には不要であろうからして、注は附さない。

「賴朝の子息賴家、世をとり、子なくして、病死あり」言わずもがな、事実は初代執権北条時政による凄惨な謀殺である。「北條九代記 賴家卿薨去 付 實朝の御臺鎌倉に下向」参照。

「義詮(よしのり)」読みはママ。「よしあきら」が正しい。

「不會〔ふくわい〕」仲違(たが)い。不和。

「三好修理大夫、其家人松永彈正は、畿内・南海に逆威をふるひ」前話「黃金百兩」で詳注。

「國司源具敎」北畠具教(享禄元(一五二八)年~天正四(一五七六)年)は北畠晴具の長男。伊勢国司。織田信長に攻められ、永禄一二(一五六九)年伊勢大河内(おおこうち)城を捨てて降伏し、信長の次男信雄(のぶお)を長男具房の養嗣子とし、国司を譲った。塚原卜伝に学んだ剣客としても知られる。信長の命をうけた旧家臣に襲われて自刃した。彼を以って北畠家は滅亡している。

「押領(あふりやう)」(現代仮名遣「おうりょう」)元来、律令制下にあっては「兵卒を監督・引率すること」を意味し、令外官(りょうげのかん)の一つである「押領使」の名もこれに由来したが、平安中期頃以降は「他人が正当な権利に基づいて知行している所領・諸職などを強引に侵害して奪うこと」を意味するようになり、中世になると、専ら、この意味で用いられるに至った。

「古へ、安德天皇、西海に赴き給ひし、壽永二年癸卯(みづのとう)より、今、弘治二年丙辰(ひのへたつ)の歲まで、星霜三百七十四年」「壽永二年」は一一八三年。「弘治二年」は一五五六年。数えで起点の年を入れるので計算に誤りはない。陶淵明の「桃花源記」は作品内時制を晋の太元年中(東晋(三一七年~四二〇年)の孝武帝の時の年号(三七六年~三九六年)の出来事とし、桃花源の人々は秦代(紀元前二二一年~紀元前二〇六年)の乱を避けてここに入ったと述懐するから、彼らの方は、最大六百十九年、最小で五百八十二年の超時空を隔てていることになる。

「天子、すでに二十六代」実際には数えてみると安徳天皇を入れて当代の後奈良天皇までは三十代である。但し、安徳の四代後の仲恭天皇(在位期間は天皇の中で最短の七十八日間)。は江戸以前は九条廃帝として数えないのが普通だったこと、さらに、平家政権が認めなかった後鳥羽天皇の在位の初めは安徳天皇とダブることから、これを憚って後鳥羽を数えないとしても、二十八である。或いは、「承久の乱」でごたついた平家にとって不快な後鳥羽天皇及び、後鳥羽と同様にあろうことか配流されてしまった土御門天皇・順徳天皇と九条廃帝の四人をカットした数字を指すか。よく判らない。なお、この「弘治二年」の翌年、弘治三年十月二十七日に後奈良天皇から正親町(おおぎまち)天皇に譲位されている。

「新將軍源義輝」室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝(天文五(一五三六)年~永禄八(一五六五/在職:天文一五(一五四七)年~永禄八年)。天文二三(一五五四)年二月に従三位に昇叙するとともに名を義藤(よしふじ)から義輝に改めている。永禄八年五月十九日に松永久秀長男久通と三好三人衆(三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好氏の一族或いは重臣であった三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)・岩成友通(ともみち))が主君三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約一万の軍勢を率いて、二条御所に押し寄せ、「将軍に訴訟(要求)あり」と偽って、取次ぎを求め、御所に侵入し、義輝は殺された(「永禄の変」)。享年三十。

「三位中將、これを聞き給ひて、不覺の淚を流し給ふ」ここで実は維盛はそこに語られなかった実子六代の末路もそこに感じて、涙したのではなかったろうか。

「我ら、更に、仙人にもあらず、幽靈にもあらず。おほくの年を重ねし事、思はざる外の幸ひなり。なんぢ、歸りて、世に語る事、なかれ」陶淵明の「桃花源記」のコーダ「不足爲外人道也。」(外人の爲めに道(い)ふに足らざるなり。)とあるように、諸話に於いて仙境や桃源郷を去る当たっての戒めの御約束事である。

「みやまべの月は昔の月ながらはるかにかはる人の世の中」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原話である「剪灯新話」の巻之二の二話目「天台訪隠録」の中の『詩句「時移リ事変ジテ太ダ怱忙」を和歌にしたもの』とある。「太ダ」は「はなはだ」、「怱忙」は「そうばう(そうぼう)」で「忙しくて落ち着かぬこと」を意味する。

「わかれをとり」別れを交わし。

「古松・老槐(らうくわい)に橫たはり」「老槐」マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。中国原産で当地では神聖にして霊の宿る木として志怪小説にもよく出る。ただ、この助詞「に」は戴けない。これでは文字列上は「枯れた古い松が、年経て倒れた槐の倒れた上に横たわっていて」という意味になるが(「生きている古松が、年経た巨木の槐に倒れ掛かるように生えており」という意には流石に私はとれない)、どうも、いただけない。「の」か、助詞なしで「古松や老いた槐が半ば朽ちて横たわって行く手を塞ぎ」でいいのではないかと思う。

「道人」世俗の事を捨てて、しかも、驚異的寿命が得られる神仙の道を修得した人。]

2021/04/06

伽婢子卷之一 黃金百兩 / 伽婢子卷之一~了

 

  黃金百兩

 河内國平野と云所に、文(あやの)兵次とて、有德(うとく)人あり。しかも、心ざし、情ある者也。

 同じ里に、由利(ゆりの)源内とて、生才覺(なまさいかく)の男、兵次と親しき友だち也。松永長慶(ながよし)に召抅(めしかゝへ)られ、代官になり、老母・妻子共に、大和國に引〔ひき〕こしけり。其(その)まかなひに詰(つま)り、兵次に黃金百兩を借(かる)。元より、親き友なれば、借狀・質(しち)物にも及ばず。

[やぶちゃん注:「黃金百兩」の標題は目録の読みに従うと(言い忘れたが、目録は本文のそれとは孰れも一致せず、説明的な長いもので、例えば、本篇の場合は「文兵次黃金をかして損却する事過去物語」である。いちいち頭で出してもいいが、これで内容が判ってしまうのはちょっと私には面白くないので、敢えて添えない)、「わうごんひやくりやう」である。

「河内國平野」大阪府柏原市(かしわらし)平野(グーグル・マップ・データ。以下同じ)かと思ったが、「新日本古典文学大系」版脚注では、その北に接する『山ノ井町』とする。

「有德」ここは裕福なこと。

「生才覺」中途半端な才能。生半可な知恵。猿知恵。

「松永長慶」戦国から安土桃山時代の武将松永弾正(だんじょう)久秀(永正七(一五一〇)年~天正五(一五七七)年)を、当初に仕えた主君三好長慶(大永二(一五二二)年~永禄七(一五六四)年)と混同した誤りであろう。堺代官となり、永禄二(一五五九)年に奈良に入部して多聞城,・信貴山城などを築き、山城の国人を追い出した。三好家家老となるに及び、勢力を伸張して三好義継に足利義輝を殺害させ、畿内に実権を揮った。同十年、三好三人衆と戦い、東大寺大仏殿を焼き、翌年に織田信長が入京するや、これに従って大和信貴山を安堵された。しかし、その後の信長の天下統一の政策に対し、足利義昭を挟んで、表裏のある行動を重ねたために信長の攻撃にあって信貴山城で自害した。

「まなかひ」「賄料(まかなひれう)」の略。「ある事柄にかかる経費」。ここはその引っ越しに掛かった総額費用。

「借狀」借用証文。

「質物」(しちもつ)は担保物件のこと。]

 

 こゝに、此ころ、細川・三好の兩家、不和にして、河内・津の國わたり、騷動す。兵次は一跡(せき)殘らず、亂妨(らんばう)せられ、一日を送る力も、なし。

[やぶちゃん注:「細川」戦国大名で室町幕府第三十四代管領にして山城国・摂津国・丹波国守護であった細川晴元(永正一一(一五一四)年~永禄六(一五六三)年)。彼の武将となっていた三好長慶が将軍を巻き込んで反逆に及び、天文一六(一五四七)年以降、摂津・河内で断続的に戦さを交え、永禄四(一五六一)年に当主に代えていた次男細川晴之が三好軍に敗退して戦死し、三好長慶と和睦したものの、摂津の普門寺城に幽閉された。

「津の國」「攝津」。

「一跡」後継者に譲るべき跡目一式で全財産の意。

「亂妨」暴力を揮って物を奪い取ること。]

 

 弘治年中、暫らく、物靜(しづか)に成ければ、三好は京都にあり、其〔その〕家老松永は和州に城を構へ、大〔おほき〕に、民百姓を貪る。

 去〔さる〕ほどに、兵次は妻子をつれて、和州に行き、源内を尋ぬるに、松永が家にして、權威高く、家の内、賑々(にぎにぎ)し。兵次、おとろへて、形、かじけ、おもがはりしたり。その近きあたりに宿かりて、妻子を置き、我身ばかり、源内に逢て、

「かうかう。」

といふ。

 源内、初めは忘れたりけるが、故鄕・名字、こまごまと聞て、

「誠に。」

と驚き、酒、進めて、飮ませながら、借金の事は、一言も、いはず。

 兵次も、いふべき序(つゐで)なく、立歸る。

[やぶちゃん注:「弘治」一五五五年から一五五八年まで。室町幕府将軍は足利義輝。天文二二(一五五三)年三月に義輝と三好長慶が決別し、七月に細川晴元が義輝から赦免されると再び義輝とともに長慶と交戦した。しかし、翌月、義輝方の霊山城が三好軍に落とされると、晴元は義輝と一緒に近江国朽木へ逃亡した。播磨国では香西元成が明石氏と結んだが、弘治元(一五五五)年に明石氏が三好軍に攻撃されて降伏、丹波国でも元成や三好政勝らが波多野元秀と手を結び、長慶派の内藤国貞を討ち取ったものの、国貞の養子で長慶の武将であった松永長頼に反撃され、弘治三(一五五七)年頃には丹波は総てが三好の領国となってしまい、晴元は勢力拡大した長慶の前に手も足も出せない状態になっていたのであった(ウィキの「細川晴元」に拠った)。

「松永は和州に城を構へ」ウィキの「松永久秀」によれば、天文二四(一五五五)年に『久秀は六角義賢の家臣・永原重興に送った書状の中で、将軍・義輝を「悪巧みをして長慶との約束を何度も反故にして細川晴元と結託しているから、京都を追放されるのは『天罰』である」と弾劾して』おり、『また』、『長慶の書状も併せて送り、長慶が天下の静謐を願っていることを伝えている』。久秀は弘治二(一五五六)年には『奉行衆に任』ぜられ、同年六月には長慶とともに『堺で三好元長の二十五回忌に参加して』おり、翌月には、『久秀の居城滝山城へ』『長慶が御成し』、『歓待され』、『久秀が千句連歌で、そして観世元忠の能で長慶をもてなした』とある。

「かじけ」「悴け」痩せ細って衰え弱る。

「おもがはり」「面變り」。

「序」機会。きっかけ。]

 

 妻、いふやう、

「是まで流浪して來〔きた〕るも、『源内が惠(めぐみ)あるべきか』と思ふに、僅(わづか)の酒、飮(のみ)たるとて、百兩の金に替て、一言をもいはずして歸る事や、ある。斯くの如くならば、我らは頓(やが)て、道の傍(かたはら)に飢(うへ)て死すべし。」

といふ。

 兵次、これを聞〔きく〕に、理(ことわり)に過〔すぎ〕て覺えしかば、夜明(あく)るを待かね、又、源内がもとに行たれば、源内、出〔いで〕て、對面して、

「誠に、其かみ、金子を借(かり)たる事、今も忘れず。その恩を、おろそかに思はんや。其時の手形あらば、持來り給へ。數の限り、返し參らせむ。」

といふ。

 兵次、答(こたへ)ていふやうは、

「同じ里に親しき友と、互に住たる契り、淺からねば、手形・質物にも及ばず、借(かし)奉りし金子なり。今、我、刧盜(ごふたう)の爲に一跡を、うばひとられ、身のたゝずみなき故に、如何にも此金子を給はらば、然るべき商買(しやうばい)をもいたして、妻子を養ひ侍べらばやと思ふなり。只今、我を『とり立るよ』とおぼして、右の金子を惠み返し給へ。」

といふ。

 源内、打笑ひ、

「手形なくしては、算用、なり難し。されども、思ひ出さば、數の如く、返し侍らん。」

とて、兵次を歸らせたり。

[やぶちゃん注:「數の限り」その手形・証文に記されただけの金子をきちっと耳を揃えて。

「刧盜」元禄版もこれで、読みは「こうだう」。「强盜」の当て字であろう(「新日本古典文学大系」版脚注もそう注する)。

「身のたゝずみなき」「身の佇(たたず)み無き」衣食住の立てようが全くなく。

「商買」「買」は「賣」と通義。

「とり立るよ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『面倒をみて立ち直らせ』やろうぞ! との意とある。

「算用」借金の返済決算。

「思ひ出さば、數の如く、返し侍らん」「いや、拙者は借りたことは覚えて御座るが、それが幾らだったかを覚えておらぬのじゃ。まずまず、思い出したならば、しっかとお返し申すほどに。」とうそぶいているのである。]

 

 かくて、半年ばかりを經て、極月[やぶちゃん注:「ごくげつ」。十二月。]になりぬ。古年をば、送りけれ共、新しき春を迎ゆ[やぶちゃん注:ママ。]べき手だて、なし。

 食、ともしく、衣、うすければ、妻子は飢凍(うゑこゞえ)て、只、泣〔なく〕より外の事なし。

 兵次、これを見るに、堪がたくて、源内が許に行〔ゆき〕いたり、淚を流していふやう、

「年、すでに推(おし)つまり、新春は近きにあれ共、妻子は飢凍えて、又、一錢の貯へなく、炊(かしぎ)て食すべき米(よね)もなし。假令、借(かし)奉りし金子、皆、返し給はらずとも、年を迎ゆるほどの妻子のたすけをなし給はゞ、是に過(すぎ)たるめぐみはあらじ。」

といふ。

 源内、うち聞て、

「誠に痛はしく思ふといへども、我さへ、僅(わづか)の知行なれば、今、皆、返し參らせむ事は、叶ふべからず。明日、まづ、米二石・錢二貫文を奉らん。是(これ)にて、兎も角(かう)も、年、とり給へ。」

といふ。

[やぶちゃん注:「米二石」一石は一合の一千倍で、約三百キログラム相当。

「錢二貫文」一文銭を紐に一千枚通したものが一貫文で千文が一貫。換算サイトで戦国時代の一貫文を現在の十五万円相当とするとあったので、三十万円相当。]

Oh1

 兵次、大に悅び、我家に歸り、

「明日、かならず、惠、つかはされん。侍まうけて、此程のわびしさを慰まん。」

といふに、妻子、限りなく『嬉し』と思ひ、夜の明(あく)るを遲しと、其子を門に出して、

「錢・米をもちて來る人あらば、『こゝぞ』と敎(をしへ)よ。」

とて、待せておく。

 須臾(しばらく)ありて、内に走り入て、いふやう、

「米を負(をひ)たる人こそ來れ。」

と。

 急ぎ出〔いで〕て見れば、其家の門は、見向きもせずして、打過〔うちすぐ〕る。

『もし、家を忘れて打通るか。』

と思ひ、

「其米は文(あやの)兵次が家に給はるにてはなきか。」

と問へば、

「いや。是は城の内より、肴(さかな)の代(かはり)に遣はさるゝ米也。」

といふ。

 又、しばしありて、其子、走り入て、

「只今、錢をかたげたる人こそ來れ。」

と。

 兵次、かけ出て見るに、その門口をば、空知らずして、打通る。

 是も『家を知らざるか』とて、引き留めて、

「此錢は由利源内殿より兵次が許へ遣はさるゝにや。」

と問(とへ)ば、

「是は弓削(ゆげ)三郞殿より、矢括(やはぎ)の代物〔だいもつ〕に送らるゝ。」

とて過行けば、兵次、耻しき事、いふばかりなし。

 正月まかなひの用意とて、錢・米持運ぶ事、急がはしきを、引とめ、引きとめ、尋問〔たづねとふ〕に、いづれも、源内がもとより出る錢・米ならで、一日のうち、待暮し、漸(やうやう)人影も見えざりければ、内に入ぬ。

 油もなければ、燈火(ともしび)たつべき樣もなく、いとゞ闇き一間の内に、妻子、打向ひ、今は賴もしき事もなし。

 米・薪〔たきぎ〕」を求むべきたよりもなければ、夜もすがら、寢もせず[やぶちゃん注:「いねもせず」。]、泣(なき)あかす。

[やぶちゃん注:「代」代金の代わりとすること。

「空知らずして」全く気にかける様子もなくして。

「弓削三郞」これは皮肉にも松永久秀を裏切って自害に追い込むことになった人物である。彼は久秀の若党として仕えていたが、実は久秀の宿敵筒井順慶が放った忍びの者であったとされる。久秀が和泉の堺の人脈を介して石山本願寺に加勢を頼むのにこの男を選んだが、三郎はここぞと、順慶と図って順慶の手下を加勢の軍勢に加えて、信貴山城内に紛れ込ませ、各所に放火して回り、落城する、文字通りの、導火線となったというのである。個人ブログ「fumi1202のブログ」の「久秀の言い分」を読まれたい。

「矢括」「括」は「やはず」で「矢の上端の弦を受ける所」を言う漢字であるから誤字。「矢作・矢矧」が正しく、これで「やはぎ」と読み、「矢を矧 () ぐこと」、矢竹に矢羽根を装着する職人、矢師のことを指す。

「正月まかなひ」正月用の祝い品や料理のこと。]

 

 兵次、いよいよ、堪かね、

『口惜しき事かな。さしも、堅く契約しながら、我を欺(あざむき)けることよ。唯、源内を指殺(さしころ)して、此欝忿(うつぷん)をはらさん。』

と思ひ、夜もすがら、刀を硏ぎ、源内が門に忍び居(ゐ)たりしが、又、思ひ返すやう、

『源内こそ、我に不義を致しけれ、また、源内が老母・妻子は何の咎(とが)もなし。今、源内を殺さば、家、忽ちに滅して、科(とが)もなき老母・妻子は路頭に立〔たつ〕べし。人こそ我に不義ありとも、我は人をば倒さじものを。天道、まこと有らば、我には惠もあるべきものを。』

と、思ひ直して、家に立ち歸り、兎角して小袖・刀、賣しろなして、正月元三〔がんざん〕のいとなみは、いたしぬ。

[やぶちゃん注:「我に不義を致しけれ、また……」ここは『「こそ」~(已然形)、……』の逆接用法。本篇のコペルニクス的展開点として、非常に重要な箇所である。

「賣しろなして」売り払う品物にし成して。売って金に代えて。

「元三」一月一日元日、或いは、元日からの三日間の「三が日」。

「いとなみ」「營み」。仕度。]

 

 かくて、兵次、或(ある)朝(あした)、家を出て、泊瀨(はつせ)の觀音にまうで、行末ふかく祈り申〔まうし〕て、山の奧にわけ入しが、覺えず、ひとつの池の邊(ほとり)に到り、誤ちて、池の中に落ちたりしに、其水、兩方に別れて、道、あり。

[やぶちゃん注:「泊瀨(はつせ)の觀音」奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山(ぶさん)神楽院(かぐらいん)長谷寺。本尊は十一面観世音菩薩。創建は奈良時代の八世紀前半と推定されるが、詳しい時期や経緯は不明。寺伝では天武天皇の朱鳥元(六八六)年に僧道明(どうみょう)が初瀬山の西の丘に三重塔を建立し、神亀四(七二七)年に僧徳道が聖武天皇の勅命により東の丘(現在の本堂位置)に本尊十一面観音像を祀ったとするが、これらは正史に見えない。八百年代中頃には官寺と認められて別当が置かれたものと推定される。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、先に示された弘治の次の『永禄年間』(一五五八年~一五七〇年)『には戦乱のため衰微していた』とある。]

 

 道をつたうて、二町ばかり行ければ、城(じやう)の惣門にいたる。

 樓門の上に「淸性舘(せいせいくはん)」と云ふ額をかけたり。

 内に入て見れば、人氣もなく、物しづかにて、幾年(いくとせ)經たりとも知られぬ、古木の松、枝をかはして、生並〔おひなら〕べり。

 廊下めぐりて、奧の方にいたり、御殿の階(きざはし)にのぞめども、人も見えず、とがむる者、なし。

 只、鐘の聲、遙に、振鈴(しんれい)の響(ひゞき)に加(くは)して聞えたるばかり也。

 兵次、餘りに、飢つかれて、石礎(いしづゑ)を枕として、臥(ふし)て休み居(ゐ)たり。

[やぶちゃん注:「二町」二百十八メートル。

「惣門」外構えの大きな正門。

「振鈴」密教の修法で諸尊を勧請する際などに仏呪具の金剛鈴(こんごうれい)を振り鳴らすこと。]

Oh2

 かゝる所に、眉・髯(ひげ)、長く生(はひ)のび、頭(かしら)には、帽子、かづき、足には、靴をはき、手に白木(しらき)の杖をつきたる老翁、來りて、兵次を見て、打笑ひ、

「如何に久しく對面せざりしや。昔の事ども、覺えたるか。」

といふ。

 兵次、おきあがり、跪(ひざまづい)て、

「我、更に、此所に來れる事は、今ぞ、初なる。如何でか、昔の事とて、知べき道、侍らん。」といふ。

 老翁、聞て、

「げにも。汝は飢渴の火にやかれて、昔を忘れたるも理り也。」

とて、懷より梨と棗(なつめ)とを取出して、食はしめたるに、兵次、胸、凉しく、心さわやかに、雲霧(くもきり)のはれ行(ゆく)空に、月の出るがごとく、まよひの暗(やみ)、みな、除(のぞこ)りて、過去の事共、猶、きのふの如くに覺えたり。

 老翁の曰、

「汝、昔、過去の時、初瀨(はつせ)の近鄕を領ぜし人なり。觀音を信じて花香(けかう)・灯明(とうみやう)をそなへ、常に步みをはこびしか共、只、百姓を貪り、賦斂(ふれん)をおもく、課役を茂くして、人の愁(うれへ)を知らず。此故に、死して、惡趣に落つべかりし處に、觀音の大悲をもつて、惡を轉じて、二たび、この人間に返し給へり。しばらく富貴(ふうき)を極めしかども、昔の業感(ごうかん)に困りて、今かく貧(まずしく)なれり。然るを、汝、源内が不義を怒(いかり)て、一念の惡心を起せしかば、惡鬼、たちまちに、汝が後にしたがひ、妻子一家(け)、跡なくほろぶべかりしを、又、忽ちに、心を改めしかば、神明(しんめい)、已に、是をしろしめし、福神(ふくじん)、これに立添ひて、惡鬼は遠く逃去ぬ。すべて、惡業(あくごふ)・善事、其むくひある事は、形に影のしたがひ、聲の響きに應ずるが如し。今より後も、苟且(かりそめ)の事といふとも、惡を愼しみ、善を求むべし。然らば、かならず、安樂の地に一生を送らん。」

と敎へられたり。

[やぶちゃん注:「賦斂」税を割り当てて取り立てること。

「惡趣」「三惡趣」。生命あるものが、生前の悪い行為の結果として死後余儀なく赴かなければならない地獄・餓鬼・畜生という三悪道の世界。連声(れんじょう)して「さんなくしゅ」「さんまくしゅ」「三悪道 (さんまくどう)」とも読む。

「人間」「人間道(にんげだう)」。六道の内のこの世。]

 

 兵次、

『さては。此所〔このところ〕は人界(にんかい)にあらず、神聖の住所(ぢうしよ)なり。』

と思ひつけて、事のちなみに、當世の事をさして、問けるやう、

「今、世の中、絲の亂れのごとくにして、諸方に側起(そばだち)る者、蜂の如し。いづれか、榮え、いづれか、衰へん。願くは、その行先を示し給へ。」

といふ。

 老翁、答へられけるは、

「人の心、更に豺狼(さいらう)の如く、彼を殺して、我、立ち、餘所(よそ)を打て、おのれに合(あは)せんとす。此故に、王法、ひすろぎ、朝威、衰へ、三綱五常の道、斷えて、五畿七道、互に爭ひ、國々、亂れざる所、なし。臣としては、君を謀(はか)り、君としては、臣をそむけ、或は、父子の間と雖も、快からず、兄弟、忽ちに敵〔かたき〕となり、運つよく、利に乘る時は、いやしきが、高くあがり、小身なるが、大に、はびこり、運、衰へ、勢、つきては、大家・高位も、おし倒され、聟(むこ)を殺し、子を殺せば、一家一族のわりなきも、只、危きにのみ、心を碎きて、安き暇(いとま)、更になし。」

とて、當時諸國の名ある輩、

「それ、かれ。」

と指を折り、其身の善惡と行末の盛衰を、鏡に懸(かけ)て語られたり。

 兵次、重ねていふやう、

「由利源内、今、すでに、人の債(おひもの)を返さず、己(おのれ)、威を保ち、勢(いきほひ)に誇る。此者とても、行末、久しかるべしや。」

と。

 老翁の曰、

「源内が主君、まづ、大なる不義を行ひ、權威、よこしまに振うて、民を虐(しへたげ)、世を貪る。冥衆(みやうしゆ)、是を疎み、神靈これを惡(にく)み、福壽の籍(ふだ)を削られて、其身、杻(てかせ)・械(くびかせ)にかゝり、其首に累紲(るゐせつ)の繩をかけて、肉(しゝむら)を腐(くたし)、骨を散されん事、何ぞ遠からん。源内、又、是に隨ひ、惡逆無道(ぶたう)なる事、譬ふるに、言葉なし。人の債(おひもの)を返さゞる、かれが財物(ざいもつ)は、皆、これ他(た)の寳也。己(をのれ)、いたづらに、守護するのみ。今、見よ。三年を出ずして、家運つきて、災(わざはひ)、來るべし。汝、必ず、その災を恐るべし。源内が家近く住〔ぢゆう〕せば、惡〔あし〕かりなむ。京都も靜(しづか)なるべからず。早く歸りて、山科の奧、笠取(かさとり)の谷に移り行け。」

とて、黃金十兩を與へ、道筋を敎へて、出し返す。

[やぶちゃん注:「豺狼」「犲」はこれで「やまいぬ」と訓ずる。山犬と狼(おおかみ)であるが、ここは転じて「残酷で欲深い人。惨(むご)いことを平気でする悪者」を言う。前二者の博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豺(やまいぬ)(ドール(アカオオカミ))」と、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ)(ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」を読まれたい。

「王法」国主の政治。

「ひすろぎ」「磷(ひすろ)ぎ」。「ひすらぐ」とも読む。薄れて弱まる。

「三綱五常」儒教に於いて人として常に踏み行い、重んずべき道のこと。「三綱」は君臣・父子・夫婦の間の道徳。「五常」は仁・義・礼・智・信の五つの道義。

「五畿七道」古代日本の律令制での広域地方行政区画名。「五畿」は「畿内」と同じで、大和・山城・摂津・河内・和泉の五国。「七道」は東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道(現在の四国四県に三重県熊野地方・和歌山県・淡路島を合わせた地域)・西海道(現在の本土九州七県)。

「君を謀り」主君を騙し。

「臣をそむけ」忠誠な家臣を蔑(ないがし)ろにし。

「わりなき」「理無(わりな)き」。「その対象が理性や道理では計り知れない」ことを意味し、ここでは「冷たい理屈・分別を超えて親しい・非常に親密である」ことを言う。

「危きにのみ」個人に関わる災難にのみ限って。

「安き暇」心落ち着けていられる時空間。

「輩」連中。

「鏡に懸て語られたり」あたかも鏡に映し出すかの如くにはっきり判るように語って下さ「人の債」人に掛けた負債。

(おひもの)を返さず、己(おのれ)、威を保ち、勢に誇る。此者とても、行末、久しかる「よこしま」「邪」。

「虐(しへたげ)」現在の「虐(しいた)げる」の古語「しひたぐ」の古い原発音。惨い扱いをして苦しめる。虐待する。虐(いじ)める。

「冥衆」閻魔王・鬼神・梵天・帝釈天などの人の目には見えない鬼神や諸天。

「福壽の籍(ふだ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『冥府で衆生の行いを考課して福分と寿命を定め、それぞれを』予め『記しとどめおくという札』とある。

「杻(てかせ)・械(くびかせ)」手の自由や人体の動きを奪う首に打った木や金属で出来た監禁具。

「累紲(るゐせつ)の繩」「縲絏」とも。歴史的仮名遣は「るいせつ」でよい。「縲」は「罪人を縛る「黒い繩」。「絏・紲」はやはり「繩」又は「繋ぐ」の意で、これで「罪人として捕らわれること」をも意味する。

「笠取の谷」現在の京都府宇治市の西笠取川の流域であろう。山科の南東域。]

 

 『一里餘りをゆくか』とおぼえて、山の後(うしろ)なる岩穴より出づることを得たれば、家を出てより、三十日に及ぶ、といふ。

 妻子、待受けて、喜ぶ事、かぎりなし。

 やがて緣(たより)を求め、山科の奧、笠取の谷に引こもり、商人となり、薪を出〔いだ〕し、賣(うり)て、世を渡る業(わざ)とす。

 家、やうやう、心安く、妻子も緩(ゆる)やかなる心地す。

 その後、永祿庚午の年、松永、反逆(ほんぎやく)の事ありて、織田家のために、家門、滅却せらる。

 由利源内、此時に生捕(いけど)られて、殺され、日比(ひごろ)、非道に貪り貯へし財寳、みな、敵軍(てきぐん)の得物となれり。

 是を聞傳へて、年月を數ふれば、僅に三年に及べり。

 兵次は、今も其末、殘りて、住(すみ)けりといふ。

[やぶちゃん注:「緣」当地を知れる人のあるのに頼ること。

「商人」「あきんど」と読みたい。

「永祿庚午」(かのえうま)「の年」永禄十三年。一五七〇年。「新日本古典文学大系」版脚注に、『「弾正は永禄十三年に腹かき切て死けり」(古老軍物語六・三好修理大夫松永弾正が事)。「永禄十三年庚午年、松永弾正切腹す」(甲陽軍鑑二・信玄公御時代諸大将之事)。ただし甲陽軍鑑の写本に当該箇所を「天正七年己卯』(つちのとう)『に、筒井むほんにて松永せつぷく』とるす』と注し、更に「松永、反逆の事ありて」のところに注して、『永禄十一年に織田信長に服従して領国を安堵されたが』、『元亀三年(一五七三)に離反、この時は許されたが、天正五年(一五七七)に再度謀反を企てて自滅した』とする。松永弾正久秀は天正五年十月十日(ユリウス暦一五七七年十一月十九日)に自死している。因みに、この五年後の天正一〇(一五八二)年に、ヨーロッパで用いられる西暦は、カトリック教会が主導してユリウス暦からグレゴリオ暦へ改暦された。機械換算で上記の没日を換算すると、グレゴリオ暦では一五七七年十一月二十九日となる。久秀の焚死は既に寒い中であったと思われる。]

芥川龍之介書簡抄29 / 大正三(一九一四)年書簡より(七) 井川恭宛

 

大正三(一九一四)年八月三十日・島根縣出雲國松江市内中原町 井川恭君・消印三十一日 八月卅日 東京新宿二ノ七一 芥川龍之介

 

僕は一月ばかり一の宮へ行つてゐた 每日義務のやうに泳いだりひるねしたりしてゐた その癖ひまが少しもなかつた 運動をしつゞけにするので うちにゐるときは新聞をよむのも臆劫な程くたびれてゐたのである 一の宮ヘゆく前に藤岡君から長い手紙をかけと云ふ註文があつた 所が長いにも短いにもペンをとるのがいやさにとうとう御免を蒙つてしまつた 君になると第一土佐にゐるんだか出雲にゐるんだか判然しなかつたので餘計手紙が出しそびれた 尤もこつちから出す前に何とか君の方から云つてくるだらうと云ふ橫着な了間も大分手傳つてゐたのである

今日で東京へかへつてから一週間ばかりになる 体は大分いゝ 胃病も癒つたし可成(僕としては)肥つた 瘦せまいと思つて此頃は体操もしてゐる

一の宮の町は不景氣な退屈な町だつた 僅に三里をへだてた大原[やぶちゃん注:一の宮の南方の、現在の千葉県いすみ市大原(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。夷隅地域の実質的中心地。]でさヘ一の宮にくらべると餘程潑辣としてゐる

町の中央に玉前(サキ)神社[やぶちゃん注:上總國一之宮玉前(たまさき)神社。]と云ふ玉依姬の命をまつつた社があつて その左右に五六町[やぶちゃん注:約五百四十六~六百五十五メートル。]づゝ町が開展してゐるのだが 夕方散步をすると澤蟹が砂地の往來をもぞもぞと這つてあるく程さびれてゐる 家も大抵藁葺で瓦屋根は數へる程しかない 昔の本陣だつた家の前を通ると門の金具が綠靑にまみれて 倒れかゝつた黑塀の中には棕櫚がいつも五六本そよりともせずに立つてゐる 夜はどこの家も早く戶をしめてねてしまふらしい 僕のとまつてゐた家はその數の少い瓦葺の中で更に數の少い二階家で且一の宮の町に三軒しかない土藏づくりの家であつた 商賣は麻問屋で家族は十七になる娘を頭に弟が二人ゐるきりである 兩親は二年前に前後してなくなつたさうで 御飯をたくのでも洗濯をするのでも その娘が一人でやる 一寸見ると白兎のやうな氣のするおとなしい女だがその内に中々しつかりしてゐる所があるらしかつた 第一夜十一時にねて朝四時半におきる それから御飯をたいて 家中の拭き掃除をする 家と云つても可成廣いのだから 容易な事ではない それから洗濯をする 庭の掃除をする 店の用をする 仕事をする 風呂をくみこむ 殆間斷なく働く あんなに働いてばかりゐて何か考へるひまがあるかと思ふ程働く 其おかげで僕も大分早起きになつた

[やぶちゃん注:この記載によって、この時に芥川龍之介らが泊まった離れは、未だ旅館でではなく、麻問屋のそれであったことが判る。

「土佐」この時期に井川は土佐に旅行すると先便で言っていたようである。

「澤蟹」位置的には淡水産の日本固有種である甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani の可能性もなくはない(紀州の熊野新宮で海岸から近い位置で現認したことがある)が、海浜に近いここの「砂地の往來をもぞもぞ這」っているとなると、短尾下目イワガニ上科イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica の幼体か、イワガニ上科ベンケイガニ科アカテガニ属アカテガニ Chiromantes haematocheir である可能性がより高い。]

ある時二三日腹の具合が惡くつてねた事があつた その初めの夜に夜中に便所へゆきたくなつてふと眼をさました さうしていきなり蚊帳をとび出した所が戶まどひ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]をして 何處へ何う行つたらいゝのだかわからなつて弱つた 手さぐりをすると三方に壁があつて何方へも出られない 暫く蚊に食はれながら壁をなでまはしてゐたが やつと掛物へ手がさはつたので 自分が床の間へ上つてゐたのがわかつた そこでやつと見當がついて滿足にくらい所を便所へたどりつく事が出來た それが晚の二時と一時の間であつた だから僕の行動は僕以外に誰もしる筈はないと思つてゐた 所が次の晚に又便所へ行きたくなつて(斷つておくが妙な腹下りで晝は一度もゆきたくないが夜になると大抵三度位ゆくのだ)眼をさました 見ると枕下にランプがついてゐる 今度は戶まどひをしずにすんだ それからあくる日その娘に「あなたは一昨日の晚僕が夜中におきたのをしつてますね」つて云つたら笑つて返事をしなかつた 何にも云はずにランプをつけておいたのは今でも僕の氣に入つてゐる 戶まどひをせずにすんだのが嬉しいからぢやあない 氣がついて ついた所を見せびらかさないのが奧床しかつたのである 東京の女どもも少しかう云ふ眞似をするがいゝと思ふ

そこにゐる間中 本は殆どよまなかつた 歌も殆つくらなかつた 唯ごろごろして論語をよんでゐた 時々淚が出る程感心した所があつた(けれどもさう云ふ所の近所には又きつと道學者のすきさうな文句が澤山あつた)孔子の弟子では子路も無邪氣でかはいゝ 顏囘も殆孔子の壘を摩する位えらいらしい 子貢も頭がいゝ 原憲もしつかりしてゐる けれどもなつかしさから云ふと曾點が一番なつかしいかと思ふ 僕は孔子が弟子をあつめて爲さむとする所を訊ねると 外の奴が 大政治家になるの 功名を千載の後にのこすのと云ふ中に 曾點が獨り「暮春には春服既に成る 冠者五六人 童子六七入 沂に浴し 舞雲に風し 詠じて歸らん」と答つた[やぶちゃん注:「いつた」か。]のを何よりもゆかしく思つてゐる 孔子が喟然[やぶちゃん注:「きぜん」。溜息をつくさま。]として「我點に吳せん」と云つたのも無理はない あすこをよむと何とも云へず難有い氣がする すべての煩惱を脫離した 淸淨な心もちが何時となく心の寂からにじみ出すやうな氣がする 論語のおかげで僕も大分MORALIST[やぶちゃん注:縦書き。]になつた

[やぶちゃん注:実際には年譜を見ると、他にも、八月九日にはアイルランドの劇作家・詩人でケルト文学復興運動の中心人物の一人でアイルランドの民間伝承の収集でも知られたイザベラ・オーガスタ・グレゴリー夫人(Isabella Augusta Gregory 一八五二年~一九三二年522日)のアイリッシュ・フォークロアである‘Cuchulain of Muirthemne : the story of the men of the Red Branch of Ulster (「ムルセヴネのクーフリン:『アルスターの赤い枝の男たち』の物語」一九〇二年刊)を読了しており、さらに十一日には十二首の短歌「客中戀」(「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」参照)を脱稿(大正三(一九一三)年九月発行の『心の花』に載った)し、十五日には戯曲「靑年と死と」(リンク先は私の古い電子テクスト)をも脱稿している(大正三(一九一四)年九月一日発行『新思潮』第一巻第八号に発表)。

「原憲」子思の本名。

「曾點」曾晳(そうせき)の本名。曾子(そうし)の名で知られる。

「暮春には春服既に成る 冠者五六人 童子六七入 沂に浴し 舞雲に風し 詠じて歸らん」原文は、

莫春者、春服既成。冠者五六人、童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而歸。

訓読すると、

莫春には、春服、既に成りて、冠者、五、六人、童子、六、七人、沂(き)に浴し、舞雩(ぶう/ぶむ)に風(ふう)し、詠じて歸らん。

「莫春」は暮春・晩春。「舞雩」は「天を祭って雨乞いをする祭壇」。ブログ「温故知新 故きを温め新しきを知る」の「子路・曾晳・冉有・公西華待坐す 論語 孔子」の現代語訳によれば(前後を含めた)、『孔子は最後に「点よお前はどうじゃ」と問われた。曾晳はいままで先生と兄弟弟子三人の問答を聞きながら、静かに琴をぽつんぽつんと弾いていた。コトリと音をさせて琴を置いて立ち上がり、「私は三君の抱負とはおよそ種類を異にしていますから」と遠慮した。ところが、孔子は、「めいめい思ったことを言ったのだから、なにも遠慮することはいらないよ」とおっしゃった。そこで、曾哲は答えて、「晩春の好時節に、春服に軽く着替えをして、元服したばかりの二十歳ぐらいの青年五六人と、十五、六歳のはつらつとした童子六、七人を連れて郊外に散策し、沂の温泉に入浴し、舞雲の雨乞い台で一涼みして、歌でも詠じながら帰ってきたいと存じます」と申し上げた。これを聞いた孔子は、深いため息をつきながら、「わしも点の仲間入りがしたいものだなあ」と言われた』とある。]

海は大へん浪が荒い 少し風がある日は二三間[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]の奴が澎湃[やぶちゃん注:「はうはい」水が漲(みなぎ)って逆巻くさま。]としてよせてくる 始めての日にははいるとすぐ浪にひつくりかへされた 水の中で恐ろしく体をもまれる 之は死ぬかなとさへ思つた やつと水の外へ頭が出たら腰までしかない所まで押かへされてゐた 頭へかぶつてゐた手拭も何もその時どこかへ持つてかれてしまつた それからも同じやうな目に二三度あつたが そのうちに浪をくゞる術をおぼへて少し位な狂瀾怒濤は何でもなくなつた

一の宮には蔭山金左エ門も堀内利器と云ふ專賣特許の井戶堀り機械のやうな名の友だちもゐたが 君のしつてる上瀧嵬[やぶちゃん注:「かうたきたかし」。複数回既出既注。]も八月の始めにはやつて來た 所が之も第一の日に浪にひつくりかへされて やつと浮いてみると眼鏡がどこかへ行つてしまつたので常人ばかりか僕たちまで大分迷惑した 近眼も五度となると大分不便なものだ 第一眼鏡屋へ行つてもそんな度のつよいのはない その上眼鏡をかけずにゐると何も見えないで 頭痛計りするさうだ そこでその日の中に東京へひきかへした あとで「一の宮の海を一眼みる爲に金を三圓つかつて一日むだにくらしたと思ふとがつかりする」とかいて來たのは滑稽だつた

一の宮は加納子爵の領國だが今の子爵のおぢいさんの何とか院殿が大へん明君だつたさうだ 前にかいた堀内と云ふ男のおぢいさんの堀内村次と云ふのが家老で 加藤藤内と云ふ男と一緖に殿樣の御前へ出てゐると 歌が出來たと云つてかう云ふ歌をかいてみせたさうである(丁度黑船が日本へ來た時分である)

   黑船ヘ一番槍を九十九(つくも)潟先を爭へ村次藤内

そこで村次が聲に應じて

   我こそは一番槍を九十九潟藤内などは及び申さぬ

とやると藤内もまけぬきになつて

   及ばぬか及ぶか今度九十九潟一番槍は加藤藤内

とやつたので君臣三人相顧みて一笑したさうだ

村次氏はまだ健在で刀劍と歌と西瓜が大すきだと云つてゐる 一度歌のお相手をして「おち方の峯の霞もほのぼのと櫻にあくる志賀の山越」「立田川鹿のなく音のしげゝれば紅葉は枝にたへずやありけむ」と云ふ定家鄕のやき直しのやうな歌をつくつたら大へんほめられて恐縮した

一の宮の町から少しはなれた所に洞庭と云ふ湖があるがこの名もその何とか院殿がつけたんださうだ 岸に櫻が澤山あつてその中に壺の石文に擬した石碑が立つてゐる 刻してあるのは櫻樹百五十株を天女に獻ずる文で之も亦その何とか院殿の風流の餘戲である事は云ふ迄もない

[やぶちゃん注:「加納子爵」加納久宜(ひさよし 嘉永元(一八四八)年~大正八(一九一九)年)は最後の上総国一宮藩主。

「おぢいさんの何とか院殿」先々代の上総一宮藩第二代藩主加納久徴(ひさあきら 文化一〇(一八一三)年~元治元(一八六四)年)。但し、第三代目も四代目久宜も孰れも養子で直系血族ではない。当該ウィキによれば、『若くして山鹿流軍学を学ぶとともに、歴史・文学・芸術を愛する教養人でもあり、文武に優れた藩主であった』。天保一五(一八四四)年、『領地の一宮にあった灌漑貯水池を拡張し、中国の洞庭湖の名をとって「洞庭湖」と名づけ、記念碑を建てた』(ここ)。『内憂外患の幕末動乱においては、領地の海岸に武士溜陣屋を設けて藩兵の訓練を行ない』、天保一五(一九四四)年には『高島秋帆の指導で大砲を鋳造させ』、弘化二(一八四五)年には『他藩に先駆けて』、『九十九里浜に砲台を建設』し、『さらには家臣のみならず』、『町民や農漁民を募り、オランダ式の部隊編成や練兵訓練を施して「加納の陣立て」と評判を呼んだ』。文久三(一八六三)年十一月に「真忠組(しんちゅうぐみ)の乱」(房総半島・九十九里浜片貝地方で蜂起した攘夷派の民間集団による決起)が『起こると、下総佐倉藩や多胡藩、陸奥福島藩と協力して』文久四(一八六四)年一月に『鎮圧するという功績を挙げた』とある。

「堀内」既に出た芥川龍之介をここ一の宮に誘った堀内利器。

「堀内村次」不詳。

「加藤藤内」不詳。

「おち方の峯の霞もほのぼのと櫻にあくる志賀の山越」元歌は定家の「櫻花ちらぬこずゑに風ふれて照る日もかをる志賀の山ごえ」か。

「立田川鹿のなく音のしげゝれば紅葉は枝にたへずやありけむ」同前で「龍田川紅葉亂れて流るめり渡らば錦中や絕えなむ」か。]

東京へかへつてからも何にもしない 折角肥つたのがやせやしないかとそれのみ心配してゐる 何でも烏啄骨の胸に接してゐる端より肩胛骨に接してゐる端の方が上つてゐればいゝのださうだ 下つてゐれば肺病で平ならば用心する必要があると云ふのだからおそろしい 鏡へむかつてみると僕のは平よりも少し上つてゐる位だ 君もやつて見給へ これが何でも一番確に呼吸器の强弱をみる方法なんださうだ 下の圖をみるべし

[やぶちゃん注:「烏啄骨」「うたくこつ」と読む。「烏口骨」(うこうこつ)とも呼ぶ。脊椎動物の肩帯にある骨。両生類・爬虫類・鳥類に発達し、哺乳類では退化して、肩甲骨の上部にカラスの嘴のように体側方向に突き出た烏口突起として残存する。]

Utakukotu

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集よりトリミングした。キャプションは、右が、「これがそれ」、左が、「より上つてゐればいゝのだ」である。]

僕は卒業論文に W. Moris をかかうと思つてるんで本をとりよせたいんだが戰爭でお斷りを食つてる 前にたのんだ本も來るか來ないかわからないさうだ 何より之が悲觀だ 事によるとプリラフアエライト ムーブメント全体にするかもわからないが

[やぶちゃん注:「W. Moris」イギリスの詩人・工芸家・思想家(マルクス主義者)ウィリアム・モリス(William Morris 一八三四年~一八九六年)。初め、建築家を志したが、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの勧めで画家志望に転ずる。一八五〇年代の終わりには、広く生活環境の美化を目ざすようになり、一八六一年に知人たちとともに「モリス・マーシャル・フォークナー商会」を設立(一八七五年には「モリス商会」となった)、壁面装飾からステンドグラス・家具・金工に至る室内装飾の一切に取り組んだ。一八七七年には最初の講演「装飾芸術」を行い、また、「古代建築保存協会」を設立するなど、対社会的なアピールが始まった。詩人としても、すでに「ジェイソンの生涯と死」(The Life and Death of Jason :一八六七年)などで知られていたが、文学に於けるその唯美主義的傾向は、工芸家としてのモリスの中世礼讃と交錯しつつ、やがては十九世紀文明への批判という形をとることになる。則ち、モリスが相対する社会とは、産業革命が招来した愚かしい機械の時代、そして貧富の差が極端な時代であった。日々の労働が創造の喜びに包まれたかつての時代を復興するため、彼としては社会変革にとりかかる必要があり、社会主義を宣言して政治活動に身を投じることになった。「ユートピア便り」(News from Nowhere :一八九〇年)はこの時期の文学作品である。工芸方面の仕事も多くの領域に亙って続けられたが、彼の仕事そのものが二十世紀に向けての工芸の道を切り開いたとは言い難く、多分に懐古的な傾向さえ見られる。しかし、一八八〇年代に入ってモリスの教えに刺激された各種工芸家の組織が形成され、近代デザイン運動の発端を開いた。この動きは「アーツ・アンド・クラフツ運動」(Arts and Crafts Movement)と呼ばれる。晩年は「ケルムスコット・プレス」を設立(一八九一年)、印刷・造本の仕事に没頭し、ここでケルムスコット版チョーサーとして知られる「カンタベリー物語」(一八九六年)などが印刷・製本された。モリスの思想は大正から昭和初期にかけて日本にも紹介され、各方面に大きな影響を与えた。柳宗悦(やなぎむねよし)らによる日本の「民芸運動」もモリスの理念の展開として捉えられる(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。芥川龍之介の卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」(『文藝消息』(大正五(一九一六)年六月三日発行)では「詩人ウヰリアム、モリス」とある)であったが、龍之介の執筆活動が盛んになった中、内容は「Young Morris」に縮小化された(卒論の完成は大正五年四月月末で、五月下旬に卒論の合格が出、六月六日に口頭試験、十五日に卒業試験が終わり、七月十日卒業した。卒業成績は二十人中二番であった。以上は新全集宮坂年譜に拠った)。なお、同論文は戦災で焼失し、残念ながら、現在、我々はその完成論文を読むことは出来ない。]

この頃フランシス上人の傳記を讀ながらよんでゐるが時々妙な事がかいてあるので面白くつていゝ 何でもフランシスと弟子のマセオと二人で旅をしてゐると道が三つになつてゐる所へ出た 一つはフイレンツエヘ 一つはシエナヘ 一つはアレツオヘゆく道である そこでマセオがどつちへ行かうと云ふとフランシスが己がいゝと云ふ迄小供のやうにどうどうめぐりをしろと云ふ それからマセオは一生懸命になつてぐるぐるまはつたがいつ迄たつてもフランシスがいゝと云はない 何度も眼がまはつて地びたへ倒れたが又立つてぐるぐるまはる とうとうしまい[やぶちゃん注:ママ。]にフランシスが「よし」と云つた時に顏がシエナの方へむいてゐたので 二人共そつちへゆく事にしたさうである これが神の示した方角だつてフランシスが云つてゐるが唯マセオが弱つたらうと思ふとおかしくなる 北伊多太利亞[やぶちゃん注:ママ。]の街頭で坊主がぐるぐる獨樂のやうにまはつてるのは誰が見ても滑稽にちがひない

[やぶちゃん注:「フランシス上人の傳記」小鹿原敏夫氏の論文「菊池寛『真似』について」(PDF・『京都大学國文學論叢』二〇一二年九月発行所収)によれば、この時、芥川龍之介が読んでいた聖フランチェスコの伝記は、『英訳されたサバティエの『聖フランチェスコ伝』(1912)か、カスパート著『アッシジの聖フランチェスコ伝』(1912)であったと思われる』とあった。]

新思潮の連中は成瀨と久米と菊池と山宮氏とはたつしやなんだらうと思ふ 豐島君は肺尖がよくなつたかどうかしらない 山本や土屋は多分旅に出てゐるんだらう 石田君が九州や木曾から二三枚たよりをよこした 谷森君も京都からたよりがあつた あとは誰が何をしてゐるんだかちつともしらない

いよいよ城下良平氏が京都へゆく。お世話になる機會があるかもしれないからよろしく願ふ 僕も來年の春休みには櫻をみにゆかうかと思ふ さうしたら僕もよろしく願ふ

[やぶちゃん注:「城下良平」(?~昭和四六(一九七一)年)は三中の芥川龍之介の三年後輩。大正二(一九一三)年卒。新全集の「人名解説索引」によれば、『一時』、『芥川の淡い同性愛の対象とされた』とある。]

田端のうちは十月初めに引こせる程度に出來た 二階の設計は君と二人で考へたのと大体同じだ 圖の如し

Tabataakutagawake2kai

[やぶちゃん注:同前。上図のキャプションは中央上が「書棚」、右手上から「壁」・「障子」、中央に「八疊」、下方中央に「廊下」、左上から「戸棚」・「板の間」、その左に「窓」、下方に「戶袋」。下図は上の左部分の側面立体図であろう。]

炬燵もきつた 今年の冬やすみに東京でお正月をするといゝ 今度は今よりひろいから君がゐるのにも萬事に大分便利だ 二階が二間あるから一間づゝ一人でゐる事が出來る

シユレーデルさんの奧さんの事が朝日に出てた 日本の子供をよくそだてゝてえらいと云ふだけにすぎない ユンケルはどうしたかわからない あいつは愛國家だからこんな時に困るだらう

オイケンがこなくなつたので三並さんもがつかりしたらう

[やぶちゃん注:「シユレーデル」ドイツ人牧師エミール・シュレーデル(Emil Schroeder)。新全集の「人名解説索引」によれば、『普及福音新教伝道会教師』で、明治四一(一九〇八)年に『来日』し、『小石川上富坂町に』、三田の統一教会牧師で一高のドイツ語教師でもあった『三並良』(みなみはじめ)『の協力を得て』、『日独学館寄宿舎を開設した』人物で、『井川恭』・『長崎太郎』・『藤岡蔵六らが寄宿しており』、『芥川もたずねたことがある』とある。]

「ユンケル」既出既注。「あいつは愛國家だからこんな時に困るだらう」ドイツが一九一四年七月二十八日に勃発した第一次世界大戦で、本邦は八月二十三日、ドイツと国交を断絶していた。

「オイケン」ドイツの新理想主義の哲学者ルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken 一八四六年~一九二六年)。既出既注。筑摩全集類聚版脚注に、『来日予定だったが、世界大戦が起こり』、『中止となったことをさす』とある。

 この後は一行空けとなっている。]

 

最後に別封小包は君の妹さんに差上げて頂きたい もつとずつと早く送るのだが君が京都や土佐にゐたのでかへるのを待つてゐたのだ ずつと早くではわからないかもしれない いつか綿を頂いた時に差上げるつもりで買つて來ておいたのだ つまらないものなんだからお禮なんぞ云つて來ちやあいけない 勿論僕の家から差上るので僕からぢやあない

  ユンケル先生を憶うてうたへる

    先生の忠實なる門弟 壽陵余子

今ぞかも頭禿げたるユンケルはゆたにたゆたにものおもふらむ

ユンケルよ時こそ來ぬれ「ラインヘ」の歌高らにうたひ出よかし

國がため思ひなやせそ帶皮もカラアもゆるくなりにけらずや

眉目(まみ)靑く頭禿げたる獨乙びとその獨乙びと見ればかなしも

日本に住みもはつべき望さへあちこちとしもなりにけらしな

[やぶちゃん注:最後の部分(前書と短歌)は全体が三字下げであるが、ブラウザの不具合を考えて引き上げた。「先生の忠實なる門弟 壽陵余子」は前書の下方に九字下げで配されてある。太字「あちこち」は底本では傍点「○」である

「壽陵余子」芥川龍之介の号の一つ。既注であるが、後に龍之介が書いた「骨董羹 ―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」(大正九(一九二〇)年四・五・六月発行の雑誌『人間』に「壽陵余子」の署名で(芥川龍之介のクレジットなしに)連載されたもの。リンク先は私の電子化注)を参照されたい。]

芥川龍之介書簡抄28 / 大正三(一九一四)年書簡より(六) 井川恭宛短歌二十五首

 

大正三(一九一四)年七月(年月推定)・井川恭宛(転載)

 

麥畑の萠黃天鷲絨芥子の花五月の空にしら雲のわく

うかれ女のうすき紫よりかきつばたうす紫ににほひそめけむ

  京都旅情 三首

春漏の水のひゞきかあるはまた舞姬のうつ遠き皷か

燕の半剝げたる金泥の欄に糞する春の夕ぐれ

四條橋ロマンチツクの少年は千鳥をきゝて淚しにけり

  奈良卽興 二首

春雨の朱雀大路をゆくときはうすむらさきのおほがさもがな

しろがねの目貫の大刀をはきし子の行方しらずも春の雨ふる

  潮來 二首

あそび屋の瓦にふりし屋根の棟たんぽぽさけり春やいづこに

三味線の音こそ流るれ曇り日の廓の裏の玉葱の畑

カンフルのあはきうれひに櫻さく白しまばゆし病室の窓

かはたれの櫻はさびしうす黃なる水藥のめばしらしらとちる

草よ草よすゝびし町の屋の棟に小さく黃いろき花つけにけり

ロザリンの白きジユポンをなつかしむ五月の朝のひなげしの花

空色のうすものしたる洋妾がバルコンにかふ桃色いんこ

  歌舞伎座三月狂言所見 二首

獨吟の春になやめるけはひより舞臺の櫻ちりそめにけむ

ほの赤く岐阜提燈もとぼりけり「吉野靜」の春の夕ぐれ

なやましく春はくれゆく踊子の金紗の裾に春はくれゆく

刈麥のにほひに雲もうす黃なる野薔薇のかげの夏の日の戀

薔薇の風 DURIAN GRAY の頰をふくうらわかき日のかなしみをふく

やわらかくふかむらさきの天鵞絨をなづるこゝちか春のくれゆく

若き日の朽つるにほひかあるはまたさうびの花のしぼむにほひか

紅き薔薇胸にはさめるみやび男が靴をぬらしてはるゝ雨かな

たよりなく日ごとにふるふ春淺き黃水仙(ナツシイアス)の戀ならなくに

白芥子の花もなつかし丈長の髮つやゝかに君のゆふ時

夕つゞや露臺に白き芥子おきて君まつ宵は近づくらしも

 

[やぶちゃん注:これはまず、転載であることから、書簡本文がカットされている可能性が高いと思われる。また、これは底本に岩波旧全集では、一の宮滞在中の書簡群の間に挿入されてあるのだが、これは七月と推定されたことから、日付確定書簡の最後にこれを配置したに過ぎないと判断され、そもそもこの二十五首の中に、一首たりとも一の宮での詠と思しきものが全く見当たらないことからも、これは一の宮に出発する以前の七月上・中旬或いはそれ以前のものと考えられる。しかも、少なくともこれらの短歌群の作品内時制には激しい時制の隔たりがある。例えば、「京都旅情」「奈良卽興」とあるが、芥川龍之介はこの直近に京都・奈良には旅していない。確認し得るそれは、五年も前の府立三中五年時の明治四二(一九〇九)年七月のことであり、「潮來」とある旅も、明治四十三年三月末の三中卒業直後に三中の友人砂岡豊次郎と遊んだ時のことである(未定稿紀行「潮來行」有り)。則ち、これらは古い手帖に記した初期形はあったのかも知れないが、高い確率で回想吟として詠まれたものと私は考えている。だいたいからして、後で個々に示すが、何よりもこの二十五首の内の七首は既に述べた大正三(一九一四)年五月発行の『心の花』に「柳川隆之介」の署名で掲載された「紫天鵞絨(むらさきびろうど)」十二首の中の相同歌及び改稿された相似歌なのである。

「麥畑の萠黃天鷲絨芥子の花五月の空にしら雲のわく」「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」と対照されたいが、『心の花』の「紫天鵞絨」の、

 麥畑の萌黃天鵞絨芥子(けし)の花五月の空にそよ風のふく

の相似歌。

「うかれ女のうすき紫よりかきつばたうす紫ににほひそめけむ」同じく「紫天鵞絨」の掉尾、

 うかれ女のうすき戀よりかきつばたうす紫に匂ひそめけむ

の表記違いの相同歌。

「春漏の水のひゞきかあるはまた舞姬のうつ遠き皷か」同じく「紫天鵞絨」中の、

 春漏の水のひゞきかあるはまた舞姫のうつとほき鼓か(京都旅情)

の表記違いの相同歌。

「カンフル」kamfer(オランダ語)・Kampfer(ドイツ語)。樟脳の医薬名。中枢神経興奮薬。局所刺激作用を持ち、強心・血圧上昇・呼吸増大をきたす。嘗ては衰弱時の興奮剤としてカンフル注射液はよく用いられたが、作用が不確実なことから、現在では殆んど用いられない。なお、カンフル自体はそのままでは心拍運動への抑制作用を有するが、体内で酸化されると、逆に強い強心作用を呈するものである。なお、この一首と次の一首は、病床のそれで、特に次のものは、描写は龍之介自身のように読める。但し、これ以前、春の桜時節に彼が病臥・入院した記録は年譜上は見出せない。

「ロザリン」ウィリアム・シェイクスピア作の喜劇「お気に召すまま」(As You Like It :初演一六〇〇年頃)の主人公で前公爵の娘ロザリンド(Rosalind)。

「ジユポン」ズボン。フランス語の jupon(ジュポン)が語源。但し、jupon は女性がスカートの内側に履くペチコートのことであり、男性が身に纏うゆったりとした衣服を言うアラビア語の「djubba」が語源。但し、ここは男性用のぴっちりしたズボン(今で言う気持ちの悪い発音の「パンツ(↗)」である)のことである。同戯曲でロザリンドは男装する。当該英文ウィキのこの画像を参照。

『ほの赤く岐阜提燈もとぼりけり「吉野靜」の春の夕ぐれ』同じく「紫天鵞絨」中に、

 ほの赤く岐阜提燈もともりけり「二つ巴」の春の夕ぐれ(明治座三月狂言)

という

確信犯の改変相似歌がある。そこで注したが、「紫天鵞絨」の方に出る「二つ巴」は歌舞伎の外題で、木村円次作「増補双級巴」(ぞうほふたつどもえ)のことで、幾つかのピカレスク石川五右衛門を扱った作品の名場面を繋ぎ合わせた狂言である。岩波版新全集第一巻の清水康次氏の注解に、昭和三(一九二八)年歌舞伎出版部刊の木村錦花「明治座物語」によれば、当時、日本橋久松町にあった明治座では大正三(一九一四)年三月に「増補双級巴」他を公演しているとある。但し、こちらは「歌舞伎座三月狂言所見」とあって、劇場が異なる。「吉野靜」とは、義経と別れた後の静の物語を描いた能を元にした歌舞伎狂言かと思われるが、私は文楽好きの歌舞伎嫌いなのでよく判らない。能の「吉野靜」も桜が絡むものだから、問題はないが、こういうゲスな改変は詩歌として品位が著しく下がるもので、やるべきではない。しかも、一回、公にした短歌を、である。ちょっと失望した。

「なやましく春はくれゆく踊子の金紗の裾に春はくれゆく」同じく「紫天鵞絨」中に、

 なやましく春は暮れゆく踊り子の金紗の裾に春は暮れゆく

とあるものの相同歌。」「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」で私はこの歌に注して、

   *

底本後記によれば、掲載された『心の花』では、

なやましく春は暮れゆく踊り子の金紗の裾に春は暮れにけり

となっているとあり、『小型版全集に據り改む。』とあるのであるが、そう改めた根拠が全く示されていない。これはおかしな校訂である。短歌の苦手な私でさえ初読時――「暮れゆく……暮れゆく」とは拙いな――と感じた。字余りであっても断然、「暮れにけり」の方がいい。私はこちらを芥川の真作と採るものである。

   *

としたが、あくまでここで龍之介が『心の花』掲載形に反してこう書くということは、この原歌はやはりこの「春は暮れゆく」のリフレインだったらしい。これはしかし、短歌と言うよりは、定型詩の印象だが、しかし、まさにそこが龍之介の新短歌の確信犯だったものらしい。

「刈麥のにほひに雲もうす黃なる野薔薇のかげの夏の日の戀」同じく「紫天鵞絨」中の、

 刈麥のにほひに雲もうす黄なる野薔薇のかげの夏の日の戀

の完全相同歌。

「DURIAN GRAY」オスカー・ワイルド(Oscar Wilde 一八五四年~一九〇〇年)唯一の長編幻想小説にして私の好きな「ドリアン・グレイの肖像」(The Picture of Dorian Gray :一八九〇年刊)の主人公。

「やわらかくふかむらさきの天鵞絨をなづるこゝちか春のくれゆく」「やわらかく」はママ。同じく「紫天鵞絨」の巻頭を飾る、

 やはらかく深紫の天鵞絨をなづる心地か春の暮れゆく

表記違いの相同歌。

「若き日の朽つるにほひかあるはまたさうびの花のしぼむにほひか」私の号「心朽窩主人」は偏愛する中唐の詩人李賀の「贈陳商」の冒頭の一節「二十心已朽」(二十にして 心 已に朽ちたり)に拠るものだ。私の「心朽窩主人印 謝李賀」を見られたい。

「たよりなく日ごとにふるふ春淺き黃水仙(ナツシイアス)の戀ならなくに」「ナツシイアス」のルビはママ(判読の誤りが疑われる)。これは、こちらの大正二(一九一三)年三月二十六日附山本喜与司宛書簡に、

 たよりなく日ごとにふるふ春淺き黃水仙(ナツシイサス)の戀ならなくに

として既に出現している。]

2021/04/05

大和本草附錄巻之二 魚類 ヲキメバル (ウスメバル? 同定不能)

 

ヲキメバル 長不過數寸メバルニ似テ肥厚ナリ味メバル

ヨリ美シ傍ノヒレ色純黑ニシテ長シ不然モ亦アリ目

ハ゜メバルヨリ小シ又黑㸃多キ者アリ其形狀ハ頗同シ

テ其色異リ○ヲキメバル二種アリ一種ハ其形モ目ノ

大ナル事モ常ノ目バルノ如シ目ノ緣赤ク背ノ色紅ナ

リ黑キヲキ目バルトハ異なり細鱗ナリ是亦長事

數寸ニ不過

○やぶちゃんの書き下し文

をきめばる 長さ數寸に過ぎず。「めばる」に似て、肥厚なり。味、「めばる」より美〔(よ)〕し。傍〔(かたはら)〕のひれ、色、純黑にして、長し。然ざるも亦、あり。目は、「めばる」より小(ちいさ)し。又、黑㸃多き者あり。其の形狀は、頗る同〔じく〕して、其の色、異〔(ことな)れ〕り。

○「をきめばる」〔は〕、二種あり。一種は、其の形も、目の大なる事も、常の「目ばる」のごとし。目の緣(ふち)赤く、背の色、紅なり。黑き「をき目ばる」とは異〔(こと)〕なり、細鱗なり。是れ亦、長き事、數寸に過ぎず。

[やぶちゃん注:まずは、既に「メバル」類について私が既に概略を注した「大和本草卷之十三 魚之下 目バル (メバル・シロメバル・クロメバル・ウスメバル)」を参照されたい。名称のみから考えると、現在も俗称で「沖メバル」と呼ぶ、

条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科又はメバル科メバル属ウスメバル Sebastes thompsoni

となるのだが、幾つかの点で激しい疑問がある。益軒の記載の順に挙げると、まず、

✕サイズ

「長さ數寸」は六掛け超でも十センチメートルに足らないが、ウスメバルは外洋性で、所謂、「メバル」類の中でも成魚は最も大型(三十センチメートル)になる

✕身の厚さ

「肥厚」と言っているが、ウスメバルは側扁して平たい

✕味

個人差があるが、恐らくは標準的にはメバル一種時代の学名を引き継いだアカメバル(Sebastes inermis )の評価が一番高いと思われる。

✕胸鰭

「色、純黑にして、長し」とし「然ざるも亦、あり」とするものの、前者であれば、胸鰭は明らかに赤或いは赤黄色を帯びており、ウスメバルではない。はっきり言って「純黑」となると、外洋に面した岩礁部に多いクロメバル(Sebastes ventricosus )に限定される。但し、シロメバル(Sebastes cheni )も生時ではやや黒っぽい。

✕眼球の大きさ

「目は、「めばる」より小(ちいさ)」いとするが、同一サイズならば、特に小さいとは言えない。ただ、そもそもが、頭から個体長が短いとしているのだから、相対的に小型個体の目が小さくなるのは当然であり、これは同定属性としては無効と言える。そもそも長くメバルが一種とされてきた経緯には「眼張」という共通性があったからで、小さなものはメバルでさえないのである。

△斑紋

「黑多き者あり」というのを、かなりはっきりした波型の相応に部分的に固まった暗色斑紋の意でとるなら、ウスメバルに合う。ところが、よりそれがウスメバル以上に目立つとなると、今度は新手の、

トゴットメバル Sebastes joyneri

の方が分がよくなるのである。

 しかも、益軒は分類を混乱させるように、「をきめばる」には別に「二種あ」るとして、その新たな「一種は、其の形も、目の大なる事も」、『常の「目ばる」のごとく』だが、『目の緣(ふち)赤く、背の色、紅なり』と言いつつ、『黑き「をき目ばる」とは異〔(こと)〕なり、細』い鱗で、しかもまたしても「是れ亦、長き事、數寸に過ぎず」と小型だというのである。前者の眼の縁が赤く、背部が斑点状に紅く、背鰭の中部も赤く見えるというのは、もう「アカメバル」の特徴である。細い鱗というのは私にはよく判らない。個体が小さければ、鱗は相対的に細くなるから、これは識別根拠としてやはり無効ではないか? 万一、有意に細いとなれば、それは「メバル」類とは異なる別な種ではないか? ともかくも、限定出来ると思っていたこれが、意想外の同定不能となってしまった。悔しい。]

浅井了意「伽婢子」電子化注始動 / 序・(二種)巻之一「竜宮の上棟」

 

[やぶちゃん注:満を持してカテゴリ「伽婢子」を始動する。カテゴリ「怪奇談集」は一千記事を超えてしまい(現在、千百八十五件)、過去記事の全表示が出来なくなっていることと、本篇が有意に長いことから、独立させた。

 「伽婢子」(とぎはうこ・おとぎはうこ)は御伽婢子とも表記する、寛文六(一六六六)年に板行された仮名草子の怪奇談集で、全十三巻。作者である仮名草子作家浅井了意(?~元禄四(一六九一)年)は元武士で、後に浄土真宗の僧。号は瓢水子松雲(ひょうすいししょううん:現代仮名遣)・本性寺昭儀坊了意など。初め、浪人であったが、後に出家し、京都二条本性寺の住職となった。仮名草子期における質量ともに最大の作家であるが、その生涯は不明な点が多い。「堪忍記」・「可笑記評判」・「東海道名所記」・「浮世物語」・「狗張子(いぬはりこ)」(本篇の続編。本電子化の後に電子化注を行う予定)などの他に、古典注釈書である「伊勢物語抒海」・「源氏雲隱抄」や、地誌「江戶名所記」・「京雀」、仏教注釈書「三部經鼓吹」・「勸信義談鈔」など、その著述範囲は多岐に亙る。本書は江戸前期に数多く編まれた同種の怪奇談集の先駆けとなった著名なものである。なお、私は既に、限りなく彼の著作と考えられている壮大な鎌倉通史史話「北條九代記」の全電子化注を二〇一八年に終わっている。

 底本は所持する昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」(正字正仮名)に拠ったが、不審な箇所は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄一二(一六九九)年の版本画像と校合した。注は私の躓いた部分を中心にストイックに附すこととし、判り切った箇所には附さない(つもりだが、若い読者を考えて老婆心から添えてしまうことは今まで同様に多いであろう。元高校国語教師時代のくどさが抜け切らぬのである)。また注によっては、所持する岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)及び岩波書店「新 日本古典文学大系」の第七十五巻の松田・渡辺・花田校注「伽婢子」(「おとぎぼうこ」と訓読している。二〇〇一年刊)他を一部で参考にした(抄訳を含め、訳本は数十冊所持する。引用する場合はそれぞれ示した)が、安易な引用は厳に押さえ、私自身の探索と理解と納得によってオリジナルな言葉で記すことを心掛ける。なお、底本では目次で『とぎはふこ』と訓じているものの、序では原本を見るに『とぎぼうこ』と振ってある。なお、「上智大学木越研究室」の新字の全データ(但し、序の漢文部は訓読されてしまっている)を本文の加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる(但し、底本の質が悪いのか、誤字或いは判読・翻字の誤りと思われるものが、相当数、ある。しかし、最後の奥付を見るに、底本は私のものと全く同じ版本である。頗る不審である)。

 読み易さを考えて、シークエンスごとの改行や、句読点・記号等をオリジナルに追加した。振り仮名は一種目の「序」などでは、かなり多く附されてあるが、( )表記では五月蠅くなるので、読みが振れると私が判断したものや、難読と思われるもの、特異な読みを施してあるものに限って〔 〕で私が推定で読みを歴史的仮名遣で附した。本文でもそうすることとする(但し、底本本文はあまり振られていない)。逆に底本に振られていなくても、若い読者が読み誤りそうな単純な読みについては、本文の平仮名書きの箇所が遙かに多い早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄版で補った(その違いは表示していない)。ママ注記はこれも五月蠅くなるばかりなので、原則、しないこととした。また、序の後に配されてある「目錄」は本文電子化注を完了した後に配することとする。正字か略字か迷ったものは正字を採用した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。挿絵は最も質のよい「新日本古典文学大系」版のものをトリミングして使用させて戴く。なお、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄版は絵が綺麗だが、明らかに書き変えられているので、比較して見られんことをお薦めする。

 長年、偏愛してきた作品であるが、あまりに著名であることと、分量が多いことから、躊躇してきたが、ここで一念発起し、オリジナルな注を心掛けて始動することとした。注は短くて済むものは文中に、纏めて附したものは、ソリッドなシークエンスと判断した後に附して、その後を一行空け、本文だけを読みたい方の便宜を図ったつもりである。【二〇二一年四月四日 藪野直史】]

 

  伽婢子

 

伽婢子序

 夫、聖人は、常(つね)を說(とい)て、道ををしへ、德をほどこして、身をとゝのへ、理(り)をあきらかにして、心をおさむ。天下國家、その風(ふう)にうつり、その俗(しよく)を易(かふ)ることを宗(むね)とし、總て、「怪力亂神をかたらず」といへ共、若(もし)止(やむ)ことを得ざるときは、亦、述著(のべあらは)して、則(のり)をなせり。

 こゝをもつて、「易」には龍(れう)の野(や)に戰かふといひ、「書」には鼎(かなへ)の中に雉の鳴(なく)ことをしるし、「春秋」には亂賊の事をしめし、「詩」には「國風鄭風(こくふうていふう)」の篇を載(のせ)て、後世につたへて、明らけき鑑とし給へり。

 況や、佛經には、三世(ぜ)因果の理ををしへて、四生流轉(ししやうるてん)の業(たね)をいましめ、或は神通(じんづう)、或は變化(へんげ)の品(しな)品を說(とき)給へり。

 又、神道の幽微なる、草木土石にいたるまで、みな、その神靈ある事をしるして、不測(しき)の妙理をあらはせり。

 三敎(げう)、をのをの、靈理(れいり)・奇特(きどく)・怪異・感應(かんをう)の、むなしからざることを、をしへて、其道にいらしむる媒(なかだち)とす。

 聖經(せいけい)・賢傳、諸史百家の書、すでに牛(うし)に汗(あせ)し、棟(むなぎ)に充(みつ)といふ。

 是、本朝記述の編、古今筆作(ここんひつさく)の文(ふみ)、何ぞ、只、五車(しや)に積(つむ)のみならんや。

 中にも花山法皇の「大和物語」、宇治大納言の「拾遺物語」、其外、「竹取」、「うつほ」の「俊景(としかげ)」の卷をはじめて、怪(あやし)く奇特(きどく)の事共をしるせるところ、手を折て數(かぞふ)るに遑(いとま)あらず。

 然るに、此「伽婢子(とぎぼうこ)」は、遠く古へをとるにあらず、近く聞つたへしことを載(のせ)あつめて、しるしあらはすもの也。

 學智ある人の、目をよろこばしめ、耳をすゝぐためにせず。只、兒女の聞(きく)を、おどろかし、おのづから、心をあらため、正道におもむく、ひとつの補(をきぬい)とせむと也。

 その目をたつとびて、耳を信ぜざるは、古人のいやしむ所也。

 陰陽五行(いんやうぎやう)、天地の造化は廣大にして測(はかり)がたく、幽遠にして知がたし。

 時(とき)、面(まのあたり)見ざるをもつて、今、聞所を疑(うたがふ)ことなかれと、云尒(しかいふ)。

 干時寬文六年正月日

         瓢水子松雲處士自序

 

[やぶちゃん注:底本には原本の影印があるので、それを判読した(上部に活字に起こしてあるが、それは敢えて参考にしなかった)。

「夫」「それ」。発語の辞。

「聖人」以下の筆者の解説で判る通り、儒教のそれを限定する。

「その風(ふう)にうつり、その俗(しよく)を易(かふ)ることを宗(むね)とし」この「風」は人々に影響を与えてなびかせるところの感化力で、転じて永くその地で行われ、守られている規範的「風」習・様式を指し、「俗」(音「ショク」は漢音。我々が普通に使っている「ゾク」は呉音)その影響を受けて正しく変化するところの下位の民間習「俗」を指す。

「怪力亂神をかたらず」「論語」の「述而篇」の「子不語怪力亂神」(子、怪力亂神(かいりきらんしん)を語らず)を指す。「怪」は「尋常でない事例」を、「力」は「粗野な力の強さを専ら問題とする話」を、「亂」は「道理に背いて社会を乱すような言動」を、「神」は「神妙不可思議・超自然的な人知では解明出来ない、理性を以ってしても、説明不能の現象や事物」を指す。孔子は「仁に満ちた真の君子というものは怪奇談を口にはしない、口にすべきではない」と諭すのである。しかし、この言葉は実は逆に、古代から中国人が怪奇現象をすこぶる好む強い嗜好を持っていたことの裏返しの表現であることに気づかねばならぬ。

「則(のり)をなせり」これは反面教師としての手本とした、という謂いであろう。以下に出る四書のそれがまさにそうした例となっているのである。

『「易」には龍(れう)の野(や)に戰かふといひ』「易経」に、『龍戰于野。其血玄黃』、『龍戰于野、其道窮也』(龍、野に戰ふ。其の血は玄黃(げんわう)なり。「龍、野に戰ふ」とは、其れ、道、窮まればなり)とある。不測の悪しき事態の出現のシンボライズ

『「書」には鼎(かなへ)の中に雉の鳴(なく)ことをしるし』「書經」第十五の「高宗肜日」(こうそうゆうじつ)の冒頭の一節。殷の高宗が先祖を祀る祭りを行ったところ(「肜」は「本祭の翌日に行う祭り」の意)、「有飛雉升鼎耳而雊。」(飛べる雉、有りて、鼎(かなへ)の耳に升(のぼ)りて雊(な)けり。)という不吉が予兆される出来事が起こった。「高宗」は殷朝の第二十二代の王であった武丁(ぶてい)のこと。当該ウィキによれば、『殷墟(大邑商)の地に都を置いた』とし、『また』、『甲骨文はこの武丁の時代から見られる』とあり、『鬼方という異民族を』三『年かけて討ったと』「易経」に『あり、軍事的にも』、『殷の勢力を四方に拡大した。夫人の婦好も自ら軍を率いて敵国を征伐したという』とある。

『「春秋」には亂賊の事をしめし』「春秋」の三伝を調べたが、こ「亂賊」という文字列は見当たらない。「新日本古典文学大系」版脚注では「春秋」の教科書的な判り切ったそれだけで、出典や意味をスルーしてしまっている。これは恐らく、後代の「孟子」などが頻りに示すところの「春秋」が本来謂わんとするところの義理とする「周室を尊び、乱賊を誅伐する」という解説に基づいた謂いであろう。「亂賊」は万民の生活基盤である自然及び日常生活を乱す悪者・反逆者のことであろう。

『「詩」には「國風鄭風(こくふうていふう)」の篇を載(のせ)』「詩経」(三百余篇)(重複がある)は風・雅・頌(しょう)の三つのジャンルから成り、「風」とは「民謡」の意(因みに「雅」は「天子諸侯が賓客をもてなす際の楽歌」を、「頌」は「祭儀の折りの楽歌」を指す)。「詩経国風」は各地に発生したそれぞれの国或いはある地方の民謡を集めたもの。「鄭風」は「国風」の中の一つである。従って四字でセットとした。並列ではおかしく(「新日本古典文学大系」は中黒で『国風・鄭風』としてしまっている)、敢えて言うなら、「國風に鄭風などあり」であるべきところであろう。優れた中国詩詞サイト「詩詞世界 二千六百首詳註 碇豊長の漢詩」の鄭風の一詩「狡童」の語釈によれば、『東周のころの鄭の國の歌。男女の情愛を歌ったものが多い。鄭は、現・河南省黄河南岸の鄭州市あたりになる』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三世(ぜ)因果」過去・現在・未来の三世(但し、この場合は、前世・現世・後世(ごぜ)と同義。本来のそれはこの「因果」律による個的な衆生の「輪廻」の閉鎖的循環系ではなく、三世は全時間軸に於けるそれである)に亙って、善悪の報いを受けるということ。過去の「因」により、現在の「果」を生じ、現在の「因」によって未来の「果」が生ずることを説いたものである。

「四生(ししやう)」仏教に於ける生物の出生・発生様態によって分類した分類法。「胎卵湿化」などとも呼ぶ。「胎生」(たいしょう:現代仮名遣。以下同じ)は「母親の胎内から出生するもの」を、「卵生」(らんしょう)は「卵殻様物体から出生するもの」を、「湿生」(しっしょう)は「湿潤なじめじめした場所から出生するもの」(広義の卵のごく小さな昆虫類などをそう捉えた)を、最後の「化生」(けしょう)は「純然たる業(ごう)によって何も存在しない時空間で、如何なる親子や血族関係もない状態で、忽然と突如、出生するもの」(天人・地獄の亡者などをそれとした)を指した。最後の「化生」は無生物から有情物が生まれるケース(山芋が鰻となる例)にも用いられる。

「業(たね)」所謂「業(ごふ)」に当て訓したもの。

「神通(じんづう)」如何なることも自由自在になし得る、人智を超えた計り知れない不思議な能力。

「變化(へんげ)」ここは仏教でのそれで、人間以外の、より高位の霊的存在が、本来の形を変えて、種々の姿や人間の形をとって現われることを指す。但し、ここでは本書の内容に関わって、それらが神から零落した際の謂い方、則ち、動物などが姿を変えて異形の「物の怪(け)」や人の姿に変じて現れる「化け物」「妖怪変化」の意味も字背に嗅がせていると読んでよい。

「品(しな)品」「しなじな」。

「三敎(げう)」以上の儒教・仏教・神道。

「感應(かんをう)」(現代仮名遣:かんのう)は「人に対する仏の働きかけと、それを受け止める人の心」が原義で、そこから「信心が神仏に通じること」及びそれによって生じる「超自然的な奇蹟や怪奇な事件が発生すること」を指す。これも本書用の嗅がせ薬。

「聖經(せいけい)・賢傳」聖人の述作した書物と、それに基づいて賢人の書き伝えた書物。

「牛(うし)に汗(あせ)し、棟(むなぎ)に充(みつ)」「汗牛充棟」(かんぎうじゆうとう(かんぎゅうじゅう)。「引っ張れば、牛馬が大汗をかき、積み上げれば、家の棟木(むなぎ)にまで届くほどに多い量」の意で、蔵書が非常に多いことの喩え。柳宗元の銘文「唐故給事中陸文通墓表」の「其爲ㇾ書、處則充棟宇、出則汗牛馬。」(其れ、書を爲すこと、處(お)けば、則ち、棟宇に充ち、出ださば、則ち、牛馬、汗す。)が典拠。

「編」編著書。書物の意。

「五車」五台の荷車。

『花山法皇の「大和物語」』平安中期の和歌説話集である「大和物語」(全二巻。約百七十三段。天暦五(九五一)年か翌年頃には現存本に近い形態が成立していたと推定されている。全体は大きく二部に分かれ、主として宇多上皇を中心とする廷臣や女性たちに関する和歌説話を集めた部分と。「葦刈り説話」・「菟原処女 (うないおとめ)」 説話などの伝承的な和歌説話を集めた部分から成る)の一伝本である狩谷本系統の「静嘉堂文庫所蔵狩谷棭斎旧蔵本」の奥書に「花山の院の御つくりものがたりなりとある本にあり」とあり、予想外に近代まで、かの花山院が書いたとする説が信じられていた。

『宇治大納言の「拾遺物語」』鎌倉前期の建暦二(一二一二)年から承久三(一二二一)年頃の成立と推定される説話物語集「宇治拾遺物語」であるが、これは、同書が平安後期の公卿であった『「宇治大納言」源隆国(寛弘元(一〇〇四)年~承保四(一〇七七)年)が編纂したとされる説話集「宇治大納言物語」(現存せず)から漏れた話題を拾い集めたもの』という意味であるとする説に拠った謂いで、誤りに近い。しかも、他に全く異なる「拾遺(侍従の別官名)俊貞のもとに原本があったことからの呼び名」ともされ、編著者も未詳である。

『「うつほ」の「俊景(としかげ)」の卷』「俊景」は「俊蔭」の誤り。「うつほ物語」(「宇津保物語」とも書く)は平安中期に成立した長編物語。全二十巻。著者不詳だが、「和名類聚抄」の作者として知られる源順(したごう)とする説などがある。「竹取物語」の伝奇的性格を受け継いだ、日本文学史上、最古の長編物語で、「枕草子」に優劣論争が記され、「源氏物語」の「絵合」の帖にも「竹取物語」と「宇津保物語」の比較論が展開されている当該ウィキによれば、最初の第一パートである「俊蔭」のシノプシスは、『遣唐使清原俊蔭は渡唐の途中で難破のため』、『波斯国(ペルシア)へ漂着する。天人・仙人から秘琴の技を伝えられた俊蔭は』、二十三『年を経て』、『日本へ帰着した。俊蔭は官職を辞して、娘へ秘琴と清原家の再興を託した後に死んだ。俊蔭の娘は、太政大臣の子息(藤原兼雅)との間に子をもうけたが、貧しさをかこち、北山の森の木の空洞』(うつほ)で『子(藤原仲忠)を育てながら』、『秘琴の技を教えた。兼雅は二人と再会し、仲忠を引き取った』とあるのを指す。異国での長年の遍歴と在野の死、秘められた琴の奥義の奏法伝授、木の洞(うろ)で育てられる稚児と、奇譚的内容が色濃いことで、本書の内容と親和性を嗅がせてある。

「奇特(きどく)」ここは仏教のそれではなく、フラットな「非常に珍しく不思議なさま」の意。

「耳をすゝぐ」「耳を漱ぐ」。「耳を洗い清める」の謂いだが、これは「潁川(えいせん)に耳を洗ふ」に基づく。聖王の堯が、潁川の畔(ほとり)に隠れ住んでいた賢人許由に「天下を譲ってやろう」と言ったを聴くや、「汚ない話を聞いて耳が穢れた」と潁川で耳を洗ったとする故事によるものである(これには、後段があって、牛に水を飲ませようとしてたまたまそこに来ていて、その許由の言葉を聴いた高潔の士巣父(そうほ)は、「そんな汚れた話で穢れた川の水は牛に飲ませられぬ」といって牛を牽いて帰った)。ここには、了意が怪力乱神を聴ことしない、インキ臭い学智ある人は、恐らく本書のてんこ盛りの怪力乱神話に「目」は「よろこばしめ」ても、必ずや、「耳を洗う」だろうと言い放っているのである。しかも、それでこそ、後の対句である「兒女の聞(きく)を、おどろかし、おのづから、心をあらため、正道におもむく、ひとつの補(をきぬい)とせむと也」との謂いを、正当なる見解として胸を張って述べている矜持が逆に感じられるように書かれてもあるのである。

「その目をたつとびて、耳を信ぜざるは、古人のいやしむ所也」「新日本古典文学大系」版脚注では、『元来は、「耳を信じて目を疑ふは、俗の常のへい(弊)也」(平家物語・法印問答)と言われ、人の言うことは信ずるが、自分が実際に見た者は信じないという態度が批判された。出典「耳ヲ貴ビテ目ヲ賤ム者ナリ」[やぶちゃん注:「者」はママ。](文選。東京賦、顔氏家訓。慕賢)。ここでは、その逆を言い、自著等』、『書きものの有用性を説こうとしたもの』とある。

「云尒(しかいふ)」。「尒」は「爾」の異体字。

「干時」訓じて「ときに」。

「寬文六年」「丙午」(ひのえうま)は影印では横に一列に小文字で表記されているが、ブログでは表記不能なので、一般に普通に見られ、また、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄本でもそうなっているところの形に従って示した。一六六六年。

「瓢水子松雲處士自序」の署名位置も元禄本に従った。底本ではクレジットの真下にダラダラ続いている。

 以下は二種目の擬古漢文の真名序。同じく底本の影印のみを判読した(句読点のみ仮りに附した)。訓点附きであるが、白文で示し、後に訓点に従った訓読文を附した。]

 

 

伽婢子序

伽婢子、松雲處士之所監者也。凡若干卷、槩言神怪奇異之事。言辭之藻麗也、吟咏之繁華也、也、膾炙人口者不可勝言焉。論語說曰子不語怪神矣。玆書之作不免懷詐欺人之謗乎。云不然。厥士之志于道者搜載籍之崇阿、涵禮法之淵源、擇云擇行、積善累德而施不滅之名。若夫庸人孺子之不知讀詩書、耳無博聞之明、身無貞直之厚。虛浮之俗、日々以長。偶聞精微之言疾首蹙顙啾〻焉退。經典沉源、載籍浩瀚、譬如會聾鼓。之何益之有。伽婢子爲書、言、摝新奇、義、極淺近。怪異之驚耳、滑𥡞之說人寐得之醒焉、倦得之舒。是庸人孺子之所好讀易解也。男女淫奔、則念深誡。幽明神恠、欲則覈理。雖非君子達道之事、願欲便庸孺之監戒而已。

寬文六年龍集丙午正月下澣

      雲樵 

○やぶちゃんの書き下し文(〔 〕は冒頭注で述べた通り、私が推定で補った読み)

「伽婢子」序

 「伽婢子」は松雲處士の著はす所ろなり。凡て、若干卷、槪むね、神怪奇異の事を言ふ。言辭の藻麗なるや、吟咏の繁華なるや、人口に膾炙する者の、勝〔あげ〕て言ふべからず。

 「論語說」に曰く、『子、怪神を語らず』と。茲〔こ〕の書の作、詐〔うそ〕を懷〔いだき〕て人を欺くの謗〔そしり〕を免れざらんか。

 云く、然らず。

 厥〔そ〕れ、士の、道を志す者の、載籍〔さいせき〕の崇阿〔すうあ〕を搜り、禮法の淵源に涵〔かむ〕し、言を擇び、行を擇び、善を積み、德を累〔かさね〕て、不滅の名を施す。若〔も〕し、夫れ、庸人・孺子〔じゆし〕の詩書を讀むことを知らざる、耳、博聞の明〔めい〕無く、身、貞直の厚〔こう〕無し。虛浮〔こふ〕の俗、日々に以〔もつて〕長ず。偶〔たまたま〕、精微の言〔げん〕を聞〔きき〕て、首を疾〔しつ〕して、顙〔ひたひ〕を蹙〔しか〕め、啾々焉〔しうしうえん〕として退〔しりぞ〕く。經典の沈深なる、載籍の浩瀚なる、譬へば、聾〔ろう〕を會して鼓〔こ〕するがごとし。之〔これ〕、何の益か、之、有〔あら〕ん。

「伽婢子」の書たる、言〔げん〕、新奇を摝〔ふるひ〕、義、淺近を極む。怪異の、耳を驚〔おどろか〕し、滑稽の、人を說〔よろこば〕しむること、寐〔いね〕て、之を得れば、醒め、倦〔うみ〕て之を得れば、舒〔よろこ〕ぶ。是れ、庸人・孺子の、好みて讀み易く解する所なり。男女の淫奔を言ふがごときは、則ち、深く誡〔いまし〕めんことを念ず。幽明神恠は、則ち、理を覈〔あきら〕めんと欲す。君子達道〔くんしたつだう〕の事に非ずと雖も、願くは、庸・孺の監戒に便〔びん〕せんと欲するのみ。

  寬文六年龍集〔りゆうしふ〕丙午正月下澣〔げかん〕

                                  雲樵

 

[やぶちゃん注:「藻麗」「麗藻」に同じ。詩や文章などが麗しくて見事なこと。

「吟咏」「吟詠」に同じ。

「論語說」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注に、『「論語説」は同名の書が多く、誰の編著のものか明らかにし難いが、論語本体を引かなかったの了意』の『自序との重複を避けたもの』とある。

「茲〔こ〕の書」本「伽婢子」全体を指す。

「士の、道を志す者」日本文学が江戸以前に手本とした中国文学は基本的に〈士官の文学〉であり、人格と地位ともに一致した「仁者」としての「君子」へと一途に向かうことが理想とされた。

「載籍〔さいせき〕」多様な事柄を記載した多量の書物。

「崇阿〔すうあ〕」「隅から隅まで」の意。

「禮法の淵源に涵〔かむ〕し」儒教の基本規定であるところの礼法の根源まで遡って、十分にそれに浸って。

「庸人」一般普通の凡庸なる常人。

「孺子〔じゆし〕」小僧っこ。子ども。

「貞直」正しく真っ直ぐな人柄。

「虛浮〔こふ〕の俗」「新日本古典文学大系」版脚注に、『行動や態度がおろそかない下俗の風体』(ふうてい)とある。

「精微の言」詳しく、且つ、緻密な言説(ディスクール:フランス語:discours)。

「首を疾〔しつ〕して、顙〔ひたひ〕を蹙〔しか〕め」「新日本古典文学大系」版脚注に、『頭痛のために顔をしかめ、額に皺をよせる』とある。

「啾々焉〔しうしうえん〕」小声でしくしくと泣き続けるさま。

「聾〔ろう〕を會して鼓〔こ〕するがごとし」耳が聴こえない人々を集めて、そこで如何に大太鼓をどろどろと鳴らしても、何の意味も効果もないこと。「新日本古典文学大系」版脚注では、『「聾」はここは無知者の喩え』とある。

「摝〔ふるひ〕」音「ロク」。「振る・揺らす・ゆり動かす」(他に「水中のものを取る・掬い取る」の意がある)で、「揮ふ」に同じ。発揮する。

「龍集」「りようしふ」とも読む。「龍」は星の名で、「集」は「宿る」の意。この星は一年に一回周行するところから、「一年」の意。多くの場合、年号の下に記す語して「歳次」を示す語である。

「下澣〔げかん〕」「下浣」とも書く。月末の十日間。下旬。

「雲樵」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注も『未詳』とするのみ。仮名序を意識した内容といい、どうも怪しい。これは号(「雲」が同じで何となく似ている感じを与える)を変えて、実は了意が他人を装って書いたものではなかろうか?]

 

伽婢子卷之一

 

    ○龍宮の上棟(むねあげ)

 江州勢多の橋は、東國第一の大橋(けう)にして、西東にかゝれり。橋より西の方、北には滋賀辛崎もまのあたりにて、山田・矢橋(やはせ)の渡し舟、鹽津・海津(かいづ)の、上り舟に帆かけて走るも、得ならず、見ゆ。南の方は石山寺、夕暮つぐる鐘の音に、山づたひ行く岩間寺(いはまでら)も程近く續きたり。橋より東のかた、北には「任那(しな)の里」、ここは名におふ蓮の名所にて、六月(みなつき)の中比より、咲きみだるゝ、蓮花(はちす)匂ひは四方に薰じて、見に來る人の心さへ、自ら濁りにしまぬ、たのしみあり。橋の南には田上(たなかみ)山の夕日影、鳴送る蟬の聲に、夏は凉しさ、勝りけり。うしろは伊勢路に續き、前には湖水の流れながく、「鹿飛(しゝとび)の瀧」より宇治の川瀨に出るといふ。その北には「螢谷(ほたるだに)」とて洞(ほら)あり。四月(うづき)の初かたより、五月(さつき)の半ばに至るまで、數(す)百萬斛(ごく)の、螢、湧出て、湖水の面に集り、或は鞠の大さ、或は車の輪のごとく、かたまり、圓(まる)がりて、雲路遙かにまひあがり、俄に水の上に、「はた」と、おち、「はらはら」と碎けて水に流るゝ有さま、點々たる柘榴花(せきりうくは)の五月雨(さみだれ)にさくが如くにて、光りさやかにみだれたるは、又、すてがたき眺めなり。されば、世の好事(かうじ)の輩(ともがら)、僧俗ともに遊び來(き)て、歌、よみ、詩、つくる、其言葉、多く、口につたへ、書に記(しる)せり。

[やぶちゃん注:長いので注を挟み、その後は一行空けた。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本篇は『俵藤太の龍宮伝説を背景として、若干を剪灯新話』(明の瞿佑(くゆう)撰の志怪小説集。一三七八年頃の成立。三遊亭円朝「牡丹灯籠」の原話としてよく知られる。本「御伽婢子」は同書を原拠としたものが多い)『一ノ一「水宮慶会録」に負いながら、その殆んどの構想を』、別に同書に依って書かれたかと思われる『金鰲新話』(きんごうしんわ:朝鮮李朝前期の漢文伝奇小説集。金時習撰。執筆年代は一四六六年から一四七一年頃と推定される。完本は失われ、「万福寺樗蒲記」・「李生窺牆伝」・「酔遊浮碧亭記」・「南炎浮洲志」と、この「竜宮赴宴録〉の五編のみが伝わる)『「竜宮赴宴録」に基づき、上棟の慶事を明るくにぎやかに述べて』本「御伽婢子」の『冒頭を飾る一話』とある。私は原拠考証には踏み込むつもりはまるでないので、比較考証に興味のある方は、同書を購入し、その注及び附録の影印「剪燈新話句解」を参照されたい

「江州勢多の橋」瀬田唐橋(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「東國」ちょっと戸惑うが、「新日本古典文学大系」版脚注に、『近江国逢坂の関』(ここ)『以東』を言ったとある。

「滋賀辛崎」現在の大津市唐崎の唐崎神社のある琵琶湖西岸。

「山田」現在の滋賀県草津市北山田町。以下、多くは琵琶湖水上交通の要所や景勝地の命数で疑似的な道行文となっている。

「矢橋(やはせ)」「近江八景」の一つとして知られる琵琶湖の名勝「矢橋帰帆」の地。旧栗太郡老上(おいかみ)村で現在の草津市八橋町(やばせちょう)

「鹽津」滋賀県長浜市西浅井町塩津浜。琵琶湖の北端奥。

「海津(かいづ)」滋賀県高島市マキノ町海津。琵琶湖の北端の西部にある。

「得ならず」連語で「何とも言えないほど、すばらしい」の意。中世以降の用法。

「石山寺」滋賀県大津市の唐橋の下流一キロメートル半ほどの瀬田川右岸にある真言宗石光山(せっこうざん)石山寺(いしやまでら)。標高二百三十六メートルの伽藍山南東山麓の瀬田川直近にある。聖武天皇の発願(ほつがん)により天平一九(七四七)年に東大寺開山で別当であった良弁が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりとされる。

「岩間寺(いはまでら)」滋賀県大津市石山内畑町にある真言宗岩間山(いわまさん)正法寺(しょうほうじ)の別称。開山は加賀国白山を開いた泰澄。岩間寺(いわまでら)。西国三十三所第十二番札所。十三番の石山寺の南西約四キロメートルの、滋賀県と京都府との府県境の一部をなす岩間山(標高四百四十三メートル)南腹の標高三百九十メートル付近にある。

「任那(しな)の里」滋賀県草津市志那町(しなちょう)。ここ志那浜のハスは既に室町時代には景勝地として知られていた。

「田上(たなかみ)山」滋賀県大津市南部の田上(たなかみ)地区から大石地区に連なる標高四百から六百メートルの山塊の総称。主峰は不動寺のある太神山(たなかみやま)

「鹿飛(しゝとび)の瀧」琵琶湖から南流した瀬田川が西へ折れ曲がる、現在の滋賀県大津市石山南郷町に瀬田川の奇岩の景勝地の一つである鹿跳渓谷(グーグル・マップ・データ航空写真)のこと。「瀧」は滝があるのではなく、両岸が迫って、川幅が狭まり、水の流れも急に激しくなることから、その水勢が激しいことによる呼称である。より詳しくは、「譚海 卷之三 鹿飛口干揚り(雨乞の事)」の本文及び私の注を参照されたい。

「螢谷(ほたるだに)」石山寺の北北西五百メートルほどの位置(瀬田川右岸)に現在、滋賀県大津市螢谷という地名及び同名の公園がある。私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螢」にも記載があるので、参照されたい。

「數百萬斛(ごく)」一石(斛は平安末頃までの古い表記)は十斗で百升。誇張表現。

「柘榴花(せきりうくは)」ザクロの花。]

 

 橋の東南のかた、湖水の渚(みぎは)にそふて、子社(こやしろ)あり。

 むかし、俵藤太秀鄕(たはらとうだひでさと)、此あたりより龍宮に行て、三上の嶽の「むかで」を退治し、絹と俵と鍋と鐘(つりかね)とを得て歸る。中にも、鐘は三井寺に寄付して、今も其名、高く、世にのこれり。

[やぶちゃん注:「子社」現在の瀬田唐橋の東詰を少し下ったところに勢多橋龍宮秀郷社と、その東北直近に秀郷を祀る雲住寺がある。

「俵藤太秀鄕」藤原秀郷(生没年未詳)は平安中期の貴族で武将。下野大掾藤原村雄の子とされる。平将門追討で知られるが、室町時代になって「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山(みかみやま:現在の滋賀県野洲市三上にある標高四百三十二メートルの山。「近江富士」と称される)での百足退治の伝説の方でも知られるようになった。「柴田宵曲 妖異博物館 百足と蛇」の最初の私の注辺りを参照されたい。個人的には、そのパロディであるが、私の『小泉八雲 鮫人(さめびと)の感謝 (田部隆次訳) 附・原拠 曲亭馬琴「鮫人(かうじん)」』がすこぶる面白いと思う。

「鐘(つりかね)」は何故か人気の部分で、怪奇談にこれだけが独立して後日談形式で語られることが甚だ多い。例えば私の「諸國里人談卷之五 三井鐘」を参照されたい。]

 

 後柏原院の朝(てう)、永正年中に、滋賀郡(しがのこほり)松本といふ所に、眞上阿祇奈君(まがみ あきな きみ)といふ人、あり。

 もとは禁中に伺公して、文章生(もんしやうがく)の官職にあづかりし人なれども、世の怱劇をいとひて、冠(かふり)をかけて、引きこもり、此所に跡をとゞめ、心しづかに月日をぞ過されける。

[やぶちゃん注:「後柏原院の朝」後柏原天皇の在位は戦国時代の明応九(一五〇〇)年から大永六(一五二六)年。

「永正」一五〇四年から一五二一年まで。

「滋賀郡松本」滋賀県大津市松本。琵琶湖南西岸で瀬田唐橋の北西四キロメートル強。

「眞上阿祇奈君」「新日本古典文学大系」版脚注に、「阿祇奈」について、『古事記・孝元天皇の条に見える阿芸奈(あぎな)臣』(のおみ)『に発する姓(かばね)』。但し、『拾芥抄・中にこれに属する氏として二百氏弱を記すが、真上氏は見えない』とする。「君」尊称の接尾辞。

「伺公」「伺候」に同じ。

「文章生」古代から中世にかけて、律令制の大学寮で紀伝道(大学寮内の学科四道(他に「論語」・「孝経」などの経書(けいしょ)を講究した明経(みょうぎょう)道・古代の律・令・格(きゃく)・式など法律を講究した明法(みょうぼう)道・算道)の一つ)の学生。中国の史書・詩文を講究した。当初は「文章道 (もんじょうどう)」と呼ばれたが、平安時代に入って、「紀伝道」が公称となり、四科の中で最も重んぜられるようになった。天平二(七三〇)年に設置された。明経生が貴族の子弟に限られていたのに対し、庶人にまで門戸を開いたものであったが、紀伝道の地位上昇に伴って結局は貴族化してしまい、また、当該道(課程)の下位に学生(がくしょう)・擬文章生などの予科課程を持つに至り、寮試・省試などの科挙試のまがいものの試験を通過して、初めて与えられるという閉鎖的な地位となってしまった。文章得業生となって対策に及第して晴れて任官するのが本来であるが、文章生から直ちに対策となったり、或いは文章生を経ただけで任官するケースもあった。読みは「もんぞうしょう」「もんじょうのしょう」もある。ここでは底本にある音をとった。

「怱劇」「そうげき・そうけき」は「忩劇」とも書く。孰れの字も「慌ただしく急ぎ、忙しいこと」を指す字)で「忙しく落ち着かぬこと」・「混乱すること」・「いざこざなどによって発生する世の中の種々の厭な騒ぎ」の意。

「冠(かふり)をかけて」漢語「掛(挂)冠」を訓読した慣用句である「冠を掛く」(かうぶりをかく)は中古からあった連語で、官人の正装の象徴である冠を脱いで掛けてしまう、「官職を辞する」の意。

「過されける」私は「すぐされける」と読みたい人種である。]

 

 或日の夕暮に、布衣(ほい)に烏帽子着たる者、二人、來り、庭の前に跪きて、

「これは、水海底(すいかいてい)の龍宮城より、迎え奉るべき事ありてまゐり侍べり。」

といふ。

 眞上、おどろき、色を替(かへ)て、

「龍宮と、人間と、道へだたり、異なり、如何でか行〔ゆき〕いたるべき。『いにしへは、其道ありし』と聞つたへしかども、今は絕へて、其跡を知らず。」

といふ。

 使者のいふよう、

「よき馬に、鞍おきて、門外に繫ぎおきたり。これにめして赴き給はんには、水漫々として波高くとも、少しも苦しき事あらじ。」

といふ。

 眞上、怪しみながら、座を立〔たち〕て、門に出たれば、その長(たけ)七寸(なゝき)ばかり、太逞(ふとくたくま)しき驪(くろ)の馬に、金幅輪の鞍おき、螺鈿(らでん)の鐙(あぶみ)をかけ、白銀〔しろがね〕の轡(くつわ)をつかませて、引〔ひつ〕たて、白丁(はくてう)、十餘人、

「はらはら」

と立て、眞上を馬にかきのせ、二人の使者は、前にはしり、馬は、虛空にあがりとぶがごとし。

[やぶちゃん注:「布衣(ほい)」六位以下の者が着す無紋(無地)の狩衣。

「長(たけ)七寸(なゝき)」「寸(き)」馬の大きさを示す数詞。跨ぐ背までの高さが四尺七寸(一・四二メートル)の馬。四尺を標準としてそれよりも高いものを寸単位で示し、読む場合には「寸(き)」と読んで弁別したもの。これは作品内時制では、かなり大きい馬である。

「驪(くろ)の馬」黒毛の馬。

「白丁(はくてう)」底本にはルビがなく、元禄版で添えた。しかし、「新日本古典文学大系」は『はくちやう』と振り、歴史的仮名遣はこれが正しい。小学館「日本国語大辞典」の「はくちょう」「白張・白丁」の二番目の意で、『白布の狩衣を着た下男。かさ・くつなどを持ったり、馬の口取などをするもの』とある。]

 

Rm1

[やぶちゃん注:画像元の「新日本古典文学大系」版脚注の挿絵解説には、『宮殿は極彩色の壁画』で、『中に象の画も見えるか』とある。]

 

 眞上、

「眞下。」

と見おろせば、足の下は、たゞ雲の波、煙(けふり)の苒々(ぜんぜん)として、其外には何も見えず、しばしの間に宮門に至り、馬より下りて立てり。

 門まもる者共は、蝦魚(えび)のかしら、螃蟹(かに)の甲(から)、辛螺(さゞい)、貝蛤(はまぐり)の殼に似たる、甲(かぶと)の緖をしめ、鎗・長刀(なぎなた)を立ならべ、きびしく、番をつとむる。眞上を見て、皆、ひざまづき、頭(かうべ)を地につけて、敬ひつゝしめり。

 二人の使者内に入て後、しばらくありて、綠衣の官人とおぼしきもの、二人、出(いで)て、門より内に、引て、あゆむ。

 門の上には、「含仁(がんじん)門」といふ額をかけたり。門に入りて、半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]ばかり行ければ、水精(すゐしやう)の宮殿あり。

 階(みはし)を登りて入りければ、龍王、すなはち、彩雲(さいうん)の冠(かぶり)をいたゞき、飛雪(ひせつ)の劍(けん)を帶(をび)、笏を正しくして、立出つゝ、眞上を延(ひき)て白玉(はくぎよく)の床〔ゆか〕に座をしめたり。

 眞上、大に敬ひ、禮拜して、

「我は、これ、大日本國の小臣なり。草木と共に腐(くち)はつべき身なり。いかでか、神王の威を冐(をか)して、上客(しやうかく)の禮をうけ奉らんや。」

といふ。

 龍王のいはく、

「久しく名を聞〔きき〕て、今、尊顏をむかへ侍り、辭退し給ふにおよばず。」

とて、强て、床の上にのぼせ、自ら、又、七賓の床にのぼり、南に差し向うて、座したり。

 かゝる所に、

「賓客、入來り給ふ。」

といふ。

 龍王、又、座をくだり、階に出てむかえ入れたりければ、三人の客、あり。

 いづれも、氣高(けたか)きよそほひ、此世の人とも、覺えず。

 玉の冠をいたゞき、錦の袂をかひつくろうて、威儀正しく、七寶の手ぐるまより下りて、靜(しづか)に殿上(てんしやう)にのぼり、床に坐したり。

 眞上は床を退〔しりぞ〕きて、金障(きんしやう)のもとに隱れうづくまる。

 巳に、座、定まりて、龍王語りけるは、

「人間世界の文章生をむかへ奉れり。君たち、これを疑ひ給ふな。」

とて、眞上をよびて、すゝめしかば、眞上、出て、禮拜するに、三人の客、また、禮をいたす。

「前の玉座に上り給へ。」

と云(いふ)に、眞上、辭して曰く、

「我は、これ、一个〔いつこ〕の小臣也。いやしきが、貴族に對して、床にのぼらん事、おそれあり。」

と。

 三人の客(かく)、おなじく曰く、

「誠に人界(にんがい)と龍城と、其境、隔ちて、通路、絕えたれども、神王、已に人間をかんが見る事、明らけし。君、これ、たゞ人ならんや。こゝに請じ奉れり。何ぞ辭するに及ばん。早く床に坐し給へ。」

と。

 眞上、すなはち、床に座す。

 龍王かたりけるは、

「朕(われ)、此程、新たに一つの宮殿をかまへ造る。木工頭(もくのかみ)・番匠(たくみ)の司(つかさ)あつまり、玉のいしずゑをすゑ、虹(にじ)のうつばり・雲のむなぎ・文(あや)の柱、皆、具(そな)はり、もとめしかども、只、ともしきものは、上梁(むねあげ)の文(ぶん)・祝拜(しゆくはい)のことば也。ほのかに聞つたふ、眞上の阿紙奈(あきな)君は、學智道德の名、かくれなし。此故に、遠く招きて、請じ奉る。幸(さいわい[やぶちゃん注:元禄版のママ。])に、朕、爲に、一篇をかきて給(たべ)。」

といふに、二人の童子、十二、三ばかりなるが、髮、からわにあげて、一人は碧玉の硯に、湘竹(しやうちく)の管(ぢく)に文犀(ぶんさい)の毛さしたる筆、とりそへ、神苓(しんれい)の灰に、紅藍(こうらん)・麝臍(じやさい)を和(くは)したる墨、すり湛えてさゝげ、一人は鮫人(かうじん)の絹一丈をもちて、眞上にすゝむ。

 阿祇奈君、辭するに言葉なく、筆をそめて、書きたり。

[やぶちゃん注:「苒々(ぜんぜん)」巡り進み、次第にのびやかになるさま。

「螃蟹(かに)」「螃」もカニの意。

「辛螺(さゞい)」現行では、狭義には腹足綱吸腔目アッキガイ科 Rapana 属アカニシ Rapana venosa 等を指し、広義には外套腔から浸出する粘液が辛味(苦味)を持っている腹足類のニシ類を指す語であるが、辛味を持たない種にも宛てられている科を越えた広汎通称である。詳しくは「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蓼蠃」の私の注を見られたいが、さらにここは「大型の巻貝」の意で用い、それに「さざい」、則ち、腹足綱古腹足目リュウテン(龍天)科リュウテン属サザエ亜属サザエ Turbo sazae (タイプ種)を当て訓したもの。

「貝蛤(はまぐり)」ここは取り敢えず、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ Meretrix lusoria としておく。

「含仁(がんじん)門」「新日本古典文学大系」版脚注に、『竜王の仁徳に満ちている』という意を持つ『命名か』とある。

「水精(すゐしやう)」水晶に同じ。

「飛雪(ひせつ)の劍(けん)」剣の刃紋からの呼称であろう。

「延(ひき)て」連れ導いて。

「手ぐるま」貴人用の乗り物。屋形に車輪を附けた車で、前後に突き出ている轅 (ながえ) を人の手で引く輦(てぐるま)。輦車 (れんしゃ) 。

「金障(きんしやう)」金箔を張った衝立。

「木工頭(もくのかみ)」律令制で宮内省に属し、宮中の殿舎の造営や木材の伐採などを司った木工寮(もくりょう)の長官。龍宮が現実の禁中と相同に構成されているのである。

「番匠(たくみ)」ここは木工寮に所属する龍宮禁中の大工・工匠。

「虹(にじ)のうつばり」「虹の梁(うつばり)」。虹の如く、天井を上方に向かって、なだらかに湾曲した反りを与えてある梁(はり)のこと。或いは実際に虹色に七色に輝いていたものとイメージすると、龍宮が総天然色となって、よりよい。

「雲のむなぎ」雲形の棟木。ここも同前で、実際、雲で出来ていると思うのも一興。

「文(あや)の柱」精緻で美しい模様を彫り出した柱。

「ともしきもの」足りない物。

「髮、からわにあげて」「からわ」は「唐輪」。髪の結い方の一つ。髻(もとどり)から上を二つに分けて、頂きで二つの輪に作ったもの。鎌倉時代の武家の若党や、元服前の近侍の童児の髪形である。唐輪髷(からわまげ・からわわげ)。

「湘竹(しやうちく)」伝説の聖王舜の妃であった湘夫人が舜の死を悲しんで泣いた涙が竹に滴ったところ、その竹が斑(まだら)になったという「博物志」の「史補」に見える伝説からの命名。特に中国産の斑竹(はんちく)。斑紋のある竹。

「管(ぢく)」筆の筆先を除く本体部。

「文犀(ぶんさい)」「新日本古典文学大系」版脚注に引かれた「天中記」の引用を見るに、サイの体毛らしいが、実際にサイであったかどうかは怪しい。

「神苓(しんれい)の灰」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『藜(あかざ)』(ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属シロザ変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum )『の灰は古く染料に用いた(本草綱目七・冬灰)。「神藜」は神聖な藜の意か』とある。

「紅藍(こうらん)」紅花(キク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctorius )の異名。「新日本古典文学大系」版脚注には、『墨にいれると強い光を出すという(万金産業袋一)』とある。

「麝臍(じやさい)」麝香。ヒマラヤ山脈・中国北部の高原地帯に生息するジャコウジカ (或いはジャコウネコ) の雄の生殖腺分泌体。包皮小嚢状の腺嚢を乾燥した暗褐色粒状物に約一、二%程度ばかり含有される高価な動物性香料。アルコール抽出により「ムスクチンキ」として高価な香水だけに利用される。近年、希少動物保護の立場から、香科用目的の捕獲は制限されており、殆んど同一の香気を有する合成香料で代用されている。芳香成分はムスコンと呼ぶ。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」及び「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 靈貓(じやかうねこ) (ジャコウネコ)」を参照。「新日本古典文学大系」版脚注に、『韋仲将』(三国時代の魏(二二〇年~二六五年)の書家)『合墨法の中に、真朱一両麝香一両を鉄臼の中で合わせる法が見えている』とある。魏の一両は十三・九二グラム。

「鮫人(かうじん)」中国で南海に棲むとされた人魚に似た想像上の生き物。常に機 (はた)を織り、しばしば泣き、その涙が落ちて玉となるとされた。]

 

「天地(あめつち)の間(あひだ)には蒼海(あをうなはら)を最(いと)大(おほい)なりとし、生物(いけるたぐひ)のなかには、龍神(わたつみ)を殊に靈(くしみ)とす。已に世を潤すの功(いさをし)あり。いかでか、福(さいはひ)をのぶるの惠(めぐみ)なからんや。この故に、香をたき、燈をかゝげて、依(より)、いのる。飛(とぶ)龍(たつ)は、大〔おほい〕なる人をみるに利(とき)こと、あり。又、もちひて不測(はからざる)の迹(あと)に象(かたど)れり。維(これ)、歲次(としのやどり)今月今日(このつきこのひ)、新(あらた)に玉の殿(みあや)をかまへ、昭(あきら)けく精(くはし)き華(かざり)を營めり。水晶・珊瑚のはしらをたて、琥珀・琅玕(らうかん)の染(うつはり)を掛(かく)。珠(たま)の簾(すだれ)をまきぬれば、山の雲、靑くうつり、玉の戶を開けば、洞(ほら)の霞、白く、めぐる。天(あめ)、高く、地(つち)、厚(あつう)して、南溟(みなみのうみ)八千里(やちさと)をしづめ、雨順風調(あめ したがひ かぜ とゝのふり[やぶちゃん注:ママ。])て、北の渚、五百淵(いほふち)を、をさむ。空にあがり、泉に下りては、蒼生(かんたがら)の望みをかなへ、形を現はし、身を隱しては、上帝(かんすべらぎ)の仁(あはれみ)を祐(たす)く。その威(いきほ)ひ、古(いにしへ)・今(いま)にわたり、その德(さいはひ)、磧礫(せゝなぎ)に曁(およ)ぼす。玄龜(くろきかめ)・赤鯉(あかきこひ)をどりて祝ひ、木魅(こだま)・山魅(びこ)、あつまりて、賀(よろこ)ぶ。こゝに歌一曲(ふし)を作りて、雕(ちり)ばめたる梁(うつばり)のうへに揭(あらは)す。

 

 扶桑海淵落瑤宮

 水族駢蹎承德化

 萬籟唱和慶賛歌

 若神河伯朝宗駕

 

をさまれるみちぞしるけき龍の宮の

  世はひさかたのつきじとをしる

 

伏てねがはくは、上棟(むねあげ)の後、百(もゝ)の福(さひはひ)、共に臻(いた)り、千(ちゞ)の喜(よころび)、偏(あまね)く來り、瑤(たま)の宮、安くおだやかにして、溟海(わだつうみ)平(たいら)けく治〔をさま〕り、天つ空の月日に齋(ひと)しく、その限(かぎり)、有べからず。

 

と書て奉る。

[やぶちゃん注:阿祇奈のものした「上梁文」は前後を一行空け、さらに漢詩と和歌も同様の処置を施した。なお、これらは底本では全体が一字下げである。漢詩は訓点附きであるが、きなたくなるだけなので、本文では白文で示し、以下の注で訓読することとした。

「龍神(わたつみ)」「海神」と同義。

「靈(くしみ)」「奇し御魂(くしみたま)」の略。万葉時代に既にある語。「神秘な力をもつ霊魂」或いは「そのような霊魂の宿るもの」を指す。江戸後期の即席の神道概説などに引っ張られる定義的なそれではない。但し、この文章は原話の漢文に基づきながらも、徹底した和文和訓文脈で読まれてあり、神道の祝詞や祭文のそれに似せた形に成形されてはある。

「依(より)、いのる」この「依り」はただ一つ信じ得る依り所としての謂いであり、祀り祈るに際して、神霊が確かに依り憑いて下さることを念じた祈りの含みもあろう。

「不測(はからざる)の迹(あと)に象(かたど)れり」飛龍のそうした類まれな鑑識眼の超能力を、「飛ぶ龍」の造形を想起することによって、それを霊験あらたかな奇瑞の、そして永遠に龍宮宮殿の不滅のシンボルとするといった意味か。

「歲次(としのやどり)」ここには人間世界では本来は元号や干支が前に付随するものであるが、ここは異界の龍宮であるから、「この年」の意で添えたものである。

「殿(みあや)」この訓は不詳。意味不明。識者の御教授を乞う。「御阿屋」(「阿」には「軒・廂」の意がある)か。

「昭(あきら)けく」見た目もはっきりくっきりと。

「琅玕(らうかん)」現行の博物学的見解では、本邦では「翡翠石」(ヒスイ)の最上質のもの、或いは「トルコ石」又は「鍾乳状孔雀石」、或いは青色の樹枝状を呈した「玉滴石」と比定するのが妥当と考えられている。しかし、この場合は龍宮の宮殿の装飾物であるから、嬉しくないが、青系の珊瑚の可能性を排除は出来ない。私の微妙な不満は『「和漢三才圖會」巻第六十「玉石類」「珊瑚」』を参照されれば、判って戴ける。だが、正直言えば、前で並列されている「琥珀」は陸産の宝石であるからして、珊瑚の可能性に拘る必要は実は、ないのである。

「南溟(みなみのうみ)」この場合の「溟」は大海原の意。

「八千里(やちさと)」後の「五百淵(いほふち)」ともに大数表示に過ぎない。

「雨順風調(あめ したがひ かぜ とゝのふり)」元禄版と「新日本古典文学大系」版では「調」の読みは「とゝのをり」である。

「蒼生(かんたがら)」人民。蒼氓。訓は「神寶」(かんだから)としての神・天子(=「上帝(かんすべらぎ)」)の赤子のこと。

「磧礫(せゝなぎ)に」河原の小石にまでも。

「曁(およ)ぼす」「及ぼす」に同じ。

「玄龜(くろきかめ)」はここでは明らかに四神の一つである玄武の属性を示唆していよう。

「山魅(びこ)」言わずもがなであるが、「やまびこ」(「木霊」)である。龍宮は海底でも異界という点で人間界とは違って通底連絡性が極めて近いのである。本邦の龍宮説話は山中の渓流や池沼にも通じているのである。

 

●漢詩訓読と語釈:先に述べてしまうと、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、この『漢詩は、「剪灯新話の上梁の文より語句を抜き出して、新御殿の落成と竜宮の繁栄を祝う』ものに作り成したものである。

扶桑海淵落瑤宮

水族駢蹎承德化

萬籟唱和慶賛歌

若神河伯朝宗駕

 扶桑(ふさう)の海淵 瑤宮(ようきう)を落(はじ)む

 水族(すいじよく) 駢蹎(べんてん)として 德化(とくくわ)に承(したが)ふ

 萬籟(ばんらい) 唱和す 慶賛(けいさん)の歌

 若神(じやくしん) 河伯(かはく) 朝宗(てうそう)の駕(が)

・「扶桑」中国神話に現われる「太陽の昇る木」。幻想地誌「山海経」の「海外東経」には、「東方の海中に黒歯国があり、その北に扶桑という木が立っており、そこから、太陽が昇る」とする。当該ウィキによれば、『古代、東洋の人々は、不老不死の仙人が棲むというユートピア「仙境=蓬莱山・崑崙山」にあこがれ、同時に、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹「扶桑樹」にあやかろうとした。「蓬莱山」と「扶桑樹」は、古代の神仙思想が育んできた幻想である。海東のかなたには、亀の背に乗った「壺型の蓬莱山」が浮ぶ。海東の谷間には、太陽が昇る「巨大な扶桑樹」がそびえる。古代の人々は「蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい」と強く願い、蓬莱山と扶桑樹への憧憬をつのらせてきたという』。後に「梁書」が書かれて『以降は、東海上に実在する島国と考えられるようになった。実在の島国とされる場合、扶桑の木は特に巨木というわけではなく「その国では扶桑の木が多い」という話に代替されており、この場合の「扶桑」とは実在のどの植物のことかを』巡る論争が、これまた、比定地の一つの論点ともなっている(引用元に詳しい)。ともかくも、『扶桑は東海の海上にあるとされ』たことから、後に『日本の異名となった』。

・「瑤宮」「瑤」は「美しい珠玉」で、美麗な宮殿のこと。

・「落む」落成する。

・「水族(すいじよく)」この読みは不審。「族」に「ジヨク(ジョク)」の音はない。「屬」と勘違いしたものか?

・「駢蹎」「新日本古典文学大系」版脚注には『連なり、並ぶこと』とあるのだが、不審。「駢」の意はそれでいいが、「蹎」は「躓(つまず)く」の意しかないからである。

・「萬籟」風が物にあたって発するあらゆる音。ここは海中なれば、「風波」の意か。

・「若神」海神の異名。「楚辞」の「遠遊」に「東海若」は「東海の神」とし、「海若」とも記すとある。

・「河伯」中国神話に現われる黄河の神。しばしば、日本の在来妖怪である「河童」を同一とする説を見るが、私は断固、反対する。その主張は、最近、「怪談老の杖卷之一 水虎かしらぬ」で注したので繰り返さない。

・「朝宗」「朝」は「春に天子に謁見する」、「宗」は夏のそれの意で、古代中国に於いて「諸侯が天子に拝謁すること」を指す。

 切り張り細工の漢詩というのが気になった。そこで一応、平仄と韻を調べてみた。

○○●○●○○
●●○○○●◎
●●●●●●○
●○○●○○◎

であった。これが七律であるとするなら、起句末の「宮」と承句末の「化」及び結句末の「駕」が押韻していなくてはならないが、「化」と「駕」は同韻であるが、「宮」は韻を踏んでいない。それだけでも致命的だが、さらに、これは起句の二字目が平声の正格である平起式となるが、起・承句はいいものの、転句は二・五・六字目が、結句は二・四・六字目がアウトで、拗体もいいところで、話にならない。「韻ぐらい合わせろよ!」と了意に突っ込みたくなった。

「をさまれるみちぞしるけき龍の宮の世はひさかたのつきじとをしる」整序すると、

 治まれる道ぞ著(しる)けき龍の宮の世は久方のつきじとを知る

で、「久方の月路」と「盡じ」が掛詞となっている。こちらも、いやさかに龍宮の繁栄を永久(とわ)に言祝ぐ歌である。]

 

Rm2

 

 龍王、大〔おほきに〕に悅び、三人の客に見せしむるに、皆、感じて、ほめたり。

 則ち上梁(むねあげ)の宴を開きて曰(いはく)、

「阿祇奈君は人間にありて、末だ終に知り給はじ。一人(ひとり)は『江(え)の神』、一人は『河の神』、一人は『淵の神』なり。君と友となり、今日のあそびには、更に心を、とけ給へ。何か憚ることあらん。」

とて、盃をめぐらし、酒(しゆ)を勸む。

 廿〔はたち〕ばかりの女房、十餘人を出〔いだ〕し、雪の袖を飜(かへ)し、歌ひ、舞(まふ)。

 その面(かほ)かたち、世に未だ見ず、うるはしく、たをやかにして、玉の釵(かんざし)に花を飾り、白き羅(うすもの)に、袖つけて、歌ふ聲、雲に響きつゝ、少時(しばし)、舞て、退きければ、又、びんづら、結(ゆう)たる童子、十餘人、其うつくしさ、雛(ひいな)の如くなるが、繡(からぬひ)のひたゝれに、錦の袂を翻(ひるがへ)す。哥(うた)の聲、すみのぼり、梁(うつばり)の塵や、飛ぬらん。糸竹(いとたけ)の音に和(くわ)して、面白さ、限りなし。

 舞、巳にをはりければ、主(あるじ)の龍王、よろこびに餘り、盃(さかづき)を洗ひ、銚子を更(あらた)め、阿祇奈君が前に置(をき)、みづから、玉の笛を吹鳴らし、「嶰谷吟(かいこくぎん)」を歌ひいて後、

「其座に有ける者共、まかり出て、客(かく)の爲に戯(たはふれ)の藝を盡せ。」

とあり。

 畏(かしこま)りて出たる人、みづから、

「郭介子(くわくかいし)。」

と名のる。

 これ、蟹の精也。

 其うたひける詞に、

「我は谷かげ・岩まに隱れ、桂(かつら)の實のる秋になれば、月淸く、風凉しきに催され、河にまろび、海に泳ぐ。腹には、黃(き)を含み、外は、まどかに、いと堅く、二(ふたつ)の眼(まなこ)、空に望み、八(やつ)の足、またがり、其形は、乙女の笑(わらひ)を求め、其味(あじはひ)は、兵(つはもの)のかほばせを喜ばし、甲(よろひ)をまとひ、戈(ほこ)を取り、沫(あは)を噴(ふき)、瞳(ひとみ)を廻らし、『無腸公子(ぶちやうこうし)』の名を施し、つな手の舞けらし。」

とて、前に進み、後に退(しりぞ)き、右に駈(かけ)り、左に走りければ、其類(るい[やぶちゃん注:ママ。])の者、拍子をとる。

 座中、笑壺(ゑつぼ)に入〔いり〕て、笑ひ、にぎはふ。

[やぶちゃん注:底本では「郭介子」の歌は全体が一字下げである。

「びんづら」「みづら(みずら)」の音変化。「角髪」「角子」「鬟」「髻」などと書く。上代の成人男子の髪の結い方で、髪を頭の中央から左右に分け、両耳の辺りで先を輪にして緒で結んだもの。平安以後は主として少年の髪形となった。

「雛(ひいな)」雛人形。

「繡(からぬひ)」縒(よ)り糸で紋様を刺繡したもの。

「ひたゝれ」「直垂」。男性用和服の一種。平安末期に庶民の労働着として発達し、筒袖の垂領(たりくび)の上衣に、丈の短い四幅袴(よのばかま)姿であった。これを武士が鎧の下に着用するようになり、鎌倉時代には武士の日常着となり,袖も広袖となった。袴と合せて用いる二幅の身に一幅半の袖を附け、衽(おくみ)がなく、闕腋(わきあけ)を特色とした。武士の台頭につれ、公家にも私服として着用されるようになり、武士の場合は袷(あわせ)であったが、公家の場合は単(ひとえ)で、袖に袖くくりの紐を通し、先が露として垂れていた。従来の直垂は「鎧直垂」と称されて、専ら軍陣用のものとなった。室町時代には上級武士の礼服となり、袴も長袴となって、地質も綾などの絹が使用された。江戸時代になると、直垂は将軍以下諸大名、三位以下侍従以上の大礼服となり、白小袖に直垂・風折烏帽子(かざおりえぼし)というのが武家の最上の礼装となった(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。各語の意味が判らない方は、幾つかはリンク先にリンクがある)。

「梁の塵や、飛ぬらん」中歌が上手いことの喩え。漢の虞公という歌の名手が歌うと、その声が響き渡って、梁の上の塵まで動いた、という故事(「劉向(りゅうきょう)別録」)に由来する。

「糸竹」管弦楽器。

「嶰谷吟(かいこくぎん)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「嶰谷」は崑崙の北谷の名。黄帝の時、伶倫』(「伶」自体が「楽人」を指す漢字)『がここの竹を取って吹き』、中国音楽の最初の十二律の『音律を定めたという』とある。ここはそれに擬えて了意が勝手に創作した管楽曲名であろう。

「郭介子」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原話「金鰲新話」に『郭介士』の名で出るとし、『蟹が』ガサゴソと『動くことを』漢語で『「郭索」と言い、蟹の異名でもあることによる命名か。「介子」は介士、甲冑を着た武人』とある。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「かに 蟹」にも、異名として「郭索」「橫行介士」「無腸公子」が載り、「本綱綱目」から引いて、『蟹は池澤諸水の中に生ず。此の物、亦、蟬のごとく、秋の初め、殻(から)を脫(ぬ)ぐ。蟹と名づくの意、此の義を取る。其の橫に行くを以て螃䲒と曰ふ。其の行く聲を以て郭索と曰ふ。其の外骨を以て介士と曰ふ。其の内の空なるを以て無腸公子と曰ふ』とあるので、是非、参照されたい。

「桂(かつら)の實のる秋」これは実際のユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum ではなく(同種の花期は三月から五月で、秋に合わない。因みに同種は雌雄異株である)、月世界に植わっているとされた理想を体現した「月の桂」のこと。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『「他の事はともあれ、月の桂ばかりは、花をば貫之の歌を証歌にし春とし、桂は実る三五の秋と詩にも侍れば、実をば秋に定度(さだめたき)もの也」(俳諧御傘四・月の桂の花)』とある。ただ、この「月の桂」の伝承元は中国で、中国の「桂」はカツラではなく、秋に結実して冬を越し、春に熟すシソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ属モクセイ Osmanthus fragrans である辺りに、この「ややこしや」はあるんではなかろうか?

「腹には、黃(き)を含み」卵巣の肥大を指す。

「無腸公子(ぶちやうこうし)」底本は「ぶ」は清音。元禄版も同じ。ここは躓くので、「新日本古典文学大系」版で訂した。摂餌不足や産卵直後のカニ類の内臓は空っぽに見えることに由る。

「つな手の舞」何時もは天敵である漁師が舟を引く「綱手」の姿を「舞」いとして、カリカチャライズしたものか。

「笑壺(ゑつぼ)に入て」上機嫌になって笑い転げ。鎌倉時代以降の連語。]

 

 其次に、

「玄先生(げんせんじやう)。」

と名のりて駈(かけ)出つゝ、袖を飜(かへ)し、拍子をとり、尾をのべ、頚(くび)を動かす。

 是、龜の精也。

 其歌ひける詞に、

「我は、これ、蓍(めどき)の草むらに隱れ、蓮(はちす)の葉に遊び、書(ふみ)を負(おう)て、水に浮び、網をかぶりて、夢をしめす。殼(から)は人の兆(うらかた)を現はし、胸に士(つはもの)の氣を含む。世の寳(たから)となり、道の敎(をしへ)をなす。六の藏(かく)して伏し、千年(ちとせ)の壽(ことぶき)を保つ。氣を吐けば、糸筋のごとく、尾を曳(ひき)て、樂(たのしみ)を極む。靑海(あおうみ)の舞を舞(まふ)べし。」

と、頭(かしら)を動かし頚(くび)をしゞめ、目をまじろき、足をあげ、しばし、かなでゝ引入〔ひきいり〕ければ、滿座の輩〔ともがら〕、聲をあげ、腹をさゝげ、おきふして、笑ひどよどみ、興を催す。

[やぶちゃん注:「玄先生」の歌は底本では全体が一字下げである。

「蓍」これは本邦では、バラ亜綱マメ目マメ科ハギ属メドハギ亜種メドハギ Lespedeza juncea var. subsessilis である。ここで、この植物を出したのには大きな意味がある。何故なら、このメドハギという和名は「目処萩」であり、これは元は「筮萩(めどぎはぎ)」と言ったのが訛ったものとされるからである。則ち、本家中国以来、このメドハギの茎を乾燥させたものを、占いをするための筮竹(ぜいちく)の替わりに用いたことによるからである。但し、これは了意のオリジナルではなく、「爾雅」の「六曰筮龜」の注で「常在蓍叢下潛伏。見龜策傳。」(常に蓍(し)の叢下に在りて潛伏す。「龜策傳」を見よ。)とある。この「龜策傳」とは、「史記」の列伝中にある、前の「日者列傳」とともに占卜者群の包括的解説が成されてある「龜策列傳」である。但し、「常在蓍叢下潛伏」の文字列は「史記」の「龜策列傳」にはなく、「爾雅」の注に拠るものの、それと同内容の「能得百莖蓍、幷得其下龜以卜者。百言百當、足以決吉凶。」(能く百莖の蓍を得ば、幷びに其の下に以つて卜者とする龜を得。百言百當して、以つて吉凶を決するに足る。)がある(以上の訓読は私の自然流で、原文は「中國哲學書電子化計劃」の同列伝を参考にした)。意外に思われるのは、ここには「龜卜」の語は出現せず、その代わりとなっているのが「蓍龜」(しき)、蓍(し)の茎と亀甲なのであった。ただ、ここでどうしても追加を必要とする記載を見出した。それはウィキの「蓍亀」で、そこには『ノコギリソウと亀甲を指し、昔は占いに用いていた』とあるからである。則ち、中国で「蓍」が指すのはメドハギではなく、キク亜綱キク目キク科ノコギリソウ属ノコギリソウ Achillea alpina であるということである。則ち、中国ではメドハギとは全くの別種であるノコギリソウの茎を、同様に乾燥させて筮竹の代わりにしていたという事実を確認しておく必要があるのである。この決定的違いは「新日本古典文学大系」版脚注にも記されていないので、注意を要する。

「蓮の葉に遊び」同じく、「龜策列傳」に「余至江南、觀其行事、問其長老、云龜千歲乃遊蓮葉之上、蓍百莖共一根。又其所生、獸無虎狼、草無毒螫」(余、江南に至り、其の行事(亀の甲羅を用いた卜占)を觀て、其の長老に問ふに、云はく、「龜の千歲にして、乃(すなは)ち蓮の葉の上に遊び、蓍(し)百莖と共に一根たり。又、其の生ずる所、獸、虎・狼無く、草、毒・螫(どくむし)無し」と。)とある。蓮の葉の上にいるカメは既にして、霊亀なのである。「本草綱目」の「介之一」冒頭の「水龜」にも「在山、曰靈龜」、「『抱朴子』云。『千歲靈龜、五色具焉。』。」とある。

「書を負て」「尙書中候」(「後漢書」の注)に、「堯率羣臣東沈璧于洛。退候至于下稷。赤光起。元龜負書出。背甲赤文成字止壇。」(堯、羣臣を率いて東し、璧を洛に沈む。退きて下稷に至りて候すに、赤光、起り、元龜、書を負ひて出で、背甲に赤文あり、字して「止壇」と成す。)。因みに、仏教では有難い書物どころか、須弥山や我々の住む世界全体を背中に支えているではないか。

「網をかぶりて、夢をしめす」「新日本古典文学大系」版脚注に、『漁師の網にかかった神亀が夢枕に立ったので都に召し寄せ、国の繁栄を計ったという宗の元王の故事』が「史記」の同じく「龜策列傳」に載るとあるが、この「宗」は「宋」の誤りである。この「元王」とは春秋時代の宋(紀元前一一〇〇年頃~紀元前二八六年)の第二十七代君主。当該部は「中國哲學書電子化計劃」の「龜策列傳」(全文)のタイトル「11」から「27」と長い。

「殼は人の兆を現はし」言わずもがな、亀卜のそれを指す。

「胸に士の氣を含む」亀甲を甲冑に擬えてその属性を述べたもの。

「六の藏(かく)して伏し」カメは一般に頭・尾及び前足・後足二対の六つの体躯の肢を総て亀甲に内蔵させる(それが出来ない種もいる)ことから、別名を「六藏」と称した。ただ、この部分、歌詞として表現が不全である。「六藏(ろくざう)して伏し」の方がいい。

「尾を曳て、樂を極む」知られた私の好きな「壯子」の「秋水」の一節。

   *

莊子釣於濮水。楚王使大夫二人往先焉。曰「願以境内累矣。」。莊子持竿不顧曰、「吾聞楚有神龜、死已三千歲矣。王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者、寧其死爲留骨而貴乎、寧其生而曳尾於塗中乎。」。二大夫曰、「寧生而曳尾塗中。」。莊子曰。「往矣。吾將曳尾於塗中。」。』

   *

 莊子、濮水(ぼくすい)に釣す。楚王、大夫二人をして往かせ先(みちび)かしむ。曰はく、

「願はくは境内(けいだい)[やぶちゃん注:楚の国内。]を以つて累(わづら)はさん。」

と。莊子、竿を持ちて顧みずして曰はく、

「吾れ、聞く、『楚に神龜有り、死して已に三千歲。王、巾笥(きんし)して[やぶちゃん注:絹の袱紗にうやうやしく包んで。]之れを廟堂の上に藏す』と。此の龜は、寧ろ、其れ、死して、骨を留(とど)めて貴(たふと)ばるるを爲さんか。寧ろ、其れ、生きて、尾を塗中(とちゆう)[やぶちゃん注:泥の中。]に曳(ひ)かんか。」

と。二大夫曰はく、

「寧ろ、生きて尾を塗中に曳かん。」と。

莊子曰はく、

「往け。吾れ、將に尾を塗中に曳かんとす。」

と。)

「靑海の舞」「源氏物語」の「紅葉賀」のシークエンスで知られる雅楽の「青海波」の舞い。本来は二人舞いで、最も優美なものとされる。特別な装束を用い、青海波と霞の模様が刺繍された下襲に、牡丹などが織られた半臂を纏い、千鳥が刺繍された袍の右肩を袒(はだぬ)ぎ、太刀を佩き、別甲を被る。龍宮での披露は如何にもしっくりくる選曲ではあるが、ずんぐりむっくりのカメが六肢を出したり、引っ込ませたりするそれは、確かに一座の大爆笑を受けたに相違ない。

「腹をさゝげ、おきふして」腹を抱えて、文字通り、腹の底から波状的に笑わさせられるために、尺取り虫のように起き伏しを繰り返すことになるのである。何気ない描写だが、シークエンスが髣髴とされる優れた描写である。] 

 

Rm3

[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版脚注の絵の解説によれば、『竜宮城内を巡覧の場面。室内にあるのが、右より雷公の鼓、電母の鏡、哨風の革袋、洪雨の箒』(上に載っているもの。取っ手ではない)、『先導するのが吹雲の官人。蜃の精として頭部の甲は水管など貝の内臓の一部を模したものか。真上は狩衣、指貫』とある。]

 

 其外、蝦・蜊(はまぐり)・木玉(こだま)・山びこ、よろづの魚(うを)、おのれおのれが能(のう)をあらはし、藝をつくす。

 巳に酒酣(たけなは)にして醉(ゑひ)に和(くわ)しつゝ、三神の客座をたち、拜謝(をがみまうし)てかへりしかば、主の龍王、階(みはし)のもと迄、送られたり。

 眞上(まがみ)、袖、かきをさめて、たのしみは、こゝに極めぬ。

「願はくは、龍宮城の有樣、あまねく見せたまへ。」

と望みしに、

「いと易き事。」

とて、階を下り、庭に出て步(あゆま)せらるゝに、雲とぢて、何も見えず。

 龍王、則ち、吹雲(すいうん)の官人(くはんにん)を召されたり。

 其姿、首(かしら)に七曲(なゝわた)の甲(かぶと)を着し、鼻高く、口大なるもの、これ蜃(おほはまぐり)の精なるべし。

 口をしゞめて、天に向ひ、吹〔ふき〕ければ、世界、ひろく、平かに、山もなく、岩(いはほ)もなし。

 霧雲(きりくも)、數(す)十里、はれひらけ、玉の樹(うゑき)、庭に、列(つらね)うえ、金のいさごを敷渡し、梢に五色の花開け、池には四色の蓮(はちす)さきて、匂ひ、又、こまやかなり。

 廻(めぐ)れば、金(こがね)の廊(わたどの)あり。庭には、瑠璃の塼(かはら)をしきたり。

 官人を差副(さしそ)へ見せしめらる。

 一つの樓閣あり。坡梨(はり)・水晶にて造りたて、珠(たま)をちりばめて飾りたり。是に登れば、虛空を凌ぐ心地して、一の重(ぢう)には、あがり得ず。

「こゝは、下輩凡人(げはいぼんにん)の登る事、協(かな)はず。神通(じんつう)のものこそ、行至〔ゆきいた〕れ。」

と。

 それより又、ひとつの樓臺(たかどの)に登れば、側(かたはら)に圓〔まろ〕き鏡の如くなるものあり。

「きらきら」

と、光かゝやき、睛(ひとみ)を、くるめかして、立向ひ難し。

 官人いふやう、

「これは『電母(でんぼ)の鏡』とて、少し動せば大なる電(いなびかり)出て、世の人の目を奪ふ。」

といふ。

 又、かたはらに太鼓あり。大小、その數、多し。

 眞上、『これをうちてみん』とす。

 官人、とゞめていふやう、

「若〔もし〕、强く打ならせば、人間界の山川・谷・平地(ひらち)、震鳴(ふるひなり)はためき、人みな、膽(きも)を失ひ、命を亡(ほろぼ)し、死なずとも、耳を失はん。これは『雷公のつづみ』也。」

といふ。

 又、かたはらに橐籥(ふいご)の如くなるものあり。

 眞上、『これを動かさん』とす。

 官人、又、とゞめていふやう、

「是は『哨風(さうふう)の革嚢(かはぶくろ)』なり。これを强くうごかさば、山、くづれ、岩石、飛(とび)て空にあがり、人の家は皆、吹破〔ふきやぶ〕れて、四方に散亂(ちりみだ)れん。」

といふ。

 その傍(そば)に水瓶(みづがめ)あり。箒(はゝき)のごとくなる物を上にのせたり。

 眞上、『是をとり、水に差し入れて打ふらん』とす。

 官人、おし留(とゞ)めて、

「是は、『洪雨の瓶(みずがめ)』なり。此箒に浸(ひた)して、强く打(うち)ふらば、人間世界は、大雨洪水、押流(をしなが[やぶちゃん注:ママ。])され、山もひたり、陸(くが)は海にぞ、なりなん。」

といふ。

 阿祇奈君、とひけるやう、

「扨、これらを司る官人は、いづくにありや。」

と。

 答(こたへ)て云(いふ)やう、

「雷公・電母・風伯・雨師は、極めて物あらき輩〔ともがら〕なれば、常には獄(ひとや)に押籠(をしこ[やぶちゃん注:ママ。])められ、心の儘に振舞ふ事、かなはず。若し、出〔いだ〕して、其役を勤むる時は、比所に集(あつま)り、雨風[やぶちゃん注:「あめかぜ」。]・いかずち・電(いなびかり)、みな、分量ある事にて、それより過(すぎ)ぬれば、科(とが)に行はれ、侍べる。」

 凡そ、あらゆる宮殿樓閣は、見盡す事、かなはず。

 それより立歸れば、龍王、さまざま、もてなし、瑠璃の盆に眞珠二顆(くは)、氷の絹二疋を、歸るさの餞(はなむけ)とし、禮儀あつく、龍王、階(みはし)に送り出て、官人に仰せて、送り返さる。

 阿祇奈君、目をふさげば、空をかける心地して、勢多の橋の東なる龍王の社の前に出(いで)たり。

 珠と絹をもちて歸り、寳とす。

 其後〔そののち〕、名を隱し、道を行ひ、其終る所を、知らず。

[やぶちゃん注:「蜊(はまぐり)」当て訓はママ。龍宮到来の折りに「貝蛤」で「はまぐり」と振っている(そこでは私は「取り敢えず」と添えて斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ Meretrix lusoria とした)から、ここは或いは、漢字の方の「蜊」を意識するなら、マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum 及びアサリ属ヒメアサリ Ruditapes variegatus(アサリよりも殻幅や套湾入が、若干、小さい)、さらには全くの別種であるが、アサリに似るも、それより少し大きくて厚いマルスダレガイ科フキアゲアサリ属オキアサリ Gomphina semicancellata 或いは遺伝的に近似しているために自然環境化では雑種化することがあるとされる同フキアゲアサリ属コタマガイGomphira melanegis 及びその雑種を同定候補と出来る。それに真正のハマグリの小型個体も含めねばならない。そもそもが、こんなおかしな表記をするということは、当時の庶民レベルではハマグリの小型個体やアサリの大型個体は区分認識などされていなかったと考えた方がいいからである。

「木玉(こだま)」「木靈」。

「山びこ」「山彥」。木霊に同じ。前に述べた通り、龍宮でも異界性で地下で山の異界とは通底している。いや、寧ろこの木霊類は海底の岩の洞の中や、嵐の海潚(かいしょう)の齎す反響や轟音を齎す妖怪を想起して構わぬように私には思われる。

よろづの魚(うを)、おのれおのれが能(のう)をあらはし、藝をつくす。

 巳に酒酣(たけなは)にして醉(ゑひ)に和(くわ)しつゝ、三神の客座をたち、拜謝(をがみまうし)てかへりしかば、主の龍王、階(みはし)のもと迄、送られたり。

「七曲(なゝわた)の甲(かぶと)」幾重にも曲がりくねった奇妙な兜。これは正体から蜃気楼の幻の天をつんざく妖しい幻しの楼閣のシンボライズである(次注のリンク先及び次々注を参照)。

「蜃(おほはまぐり)」私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蜃」の私の考察をお読み戴きたい。中日孰れも貝類の二枚貝の分類と、妖怪としての蜃気楼の発生源生物に関しては、博物学的知識のレベルが頗る低いのである。私の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「わたりかひ 車螯」=「蜃」も併せて見られたい。

「口をしゞめて、天に向ひ、吹ければ」蜃気楼とは蜃(おおはまぐり:正式和名にこの種はない。一部でウチムラサキ(斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科マツヤマワスレ亜科ウチムラサキ属ウチムラサキ Saxidomus purpurata :本種はオオアサリの異名も持つ)・コタマガイ(マルスダレガイ科リュウキュウアサリ亜科Macridiscus属コタマガイ Macridiscus melanaegis )や外来移入種であるホンビノスガイ(マルスダレガイ科ビノスガイ属ホンビノスガイ Mercenaria mercenaria )の異名で今も使われることがある。但し、貝殻を見た瞬間に素人でもハマグリとは全く異なることが判る)が吐き出す気によって海上に現われる幻しの楼閣である。

「いさご」「砂・沙」。

「匂ひ」古語では視覚的な、美しい色合い・色艶や、輝くような艶やかな美しさ、及びそうした視覚的綜合的に完成された魅力・気品が嗅覚よりも優先する。ここもそれ。

「塼(かはら)」瓦。塼(音「セン」)は本来は焼成した煉瓦のことを広く指す語。中国では塼の出現以前に日乾煉瓦が用いられていたことは殷・周の建築址で確認されている。恐らくは屋根瓦の出現が契機となって塼が焼かれ始めたと推定されるが、確実な実例が確認出来るのは春秋時代からとされる。

「坡梨(はり)」玻璃。現行はガラスを指すが、ここは後の水晶と同義。質や色や採取地或いは加工した厚さや大きさで水晶と区別したものであろう。

「一の重(ぢう)には、あがり得ず」もう一階上の階があったが、どうしても、体が動かず、そこに上がることは出来なかった。

「光かゝやき」底本は「かゞやき」であるが、私はこの「かがやく」という濁音が生理的に嫌いなので、元禄版を採った。「新日本古典文学大系」版も清音である。

「睛(ひとみ)を、くるめかして」前に立った阿祇奈の瞳を勝手にぐるぐると回して。

「電母(でんぼ)」道教の雷神の名にある。「閃光娘娘(にゃんにゃん)」とも称す若い女性神。雷帝の命を受けて雷公とともに雲を起こし、雨を降らせるとする。

「橐籥(ふいご)」「鞴(ふいご)」に同じ。

「哨風(さうふう)」「哨」(ショウ)は「見張る」の意。

「箒(はゝき)」挿絵では板切れのようにしか見えないが、瓶の中の水に浸けて振るわけだから、実際には先は非常に細かなブラシ上になっているものであろう。それが細かいから遠目にはただの板にしか見えぬということで私は納得した。

「雷公・電母・風伯・雨師は、極めて物あらき輩なれば、常には獄(ひとや)に押籠(をしこ)められ、心の儘に振舞ふ事、かなはず」激烈な気象現象を支配する彼らが龍王の支配下にあるというのは少しも違和感がない。何故なら風水を支配するのは龍だからである。

「分量ある事にて」人間を含む生物界全体にとっての適切な分量・程度・限度があるのであって。

「眞珠二顆(くは)」非常に巨大なものであろう。

「氷の絹」「氷綃」(ひようせう(ひょうしょう)で「薄い白絹」。「氷綃」という漢語が見慣れないものであるから、かく書き変えたもの。

「二疋」布地でも特に絹織物を「二反(たん)」を「一疋」として数える数詞が「疋」。一疋は古くは四丈(約十二メートル)、後に鯨尺で五丈六尺(約二十一メートル)である。ここは読者の日常から後者。

「其後、名を隱し、道を行ひ、其終る所を、知らず」中国でも古来より、桃源郷や仙界・異界を知ったものは現世の穢れを嫌って行方不明となるのはお約束である。]

2021/04/02

芥川龍之介書簡抄27 / 大正三(一九一四)年書簡より(五) 吉田彌生宛ラヴ・レター二通(草稿断片三葉・三種目には七月二十八日のクレジット入り)

 

[やぶちゃん注:以下は葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)の「書簡補遺」に載るものを底本とした。本書簡の最初のものは、実際に送られたものではなく、葛巻氏によって『大正三年夏上総一宮にて』とし、書簡の『草稿断片』記されたもので、クレジットはない。既に述べたが、この年の七月二〇日頃から八月二十三日(帰宅)まで、友人の堀内利器(りき 明治二四(一八九一)年~昭和一七(一九四二)年:府立三中の龍之介の一年先輩の友人。一高を経て、京都帝国大学理科を卒業後、「高砂香料」・「台湾有機合成会社」等を創立した。国立国会図書館デジタルコレクションに没年に刊行された「アセチレン工業に就て」(講演速記版)がある)の紹介で彼の故郷千葉県一宮海岸(現在の千葉県長生(ちょうせい)郡一宮町(いちのみやまち)一宮の現在の「一宮海水浴場」(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。に行き、約一ヶ月滞在している。新全集宮坂年譜によれば、『滞在中は、読書はあまりせず、海水浴や午睡が日課だった』とあり、この前の七月十六日附の、三中の三中の後輩で親しかった浅野三千三宛書簡の末尾にも、『廿日から僕は一の宮へゆく 神經衰弱をすつかり療』(いや)『さうと思ふ』『試驗成績は僕も餘りよくなささうだ』と記している。ここは現在、長生郡一宮町一宮字林下の旅館「一宮館」の離れとして、泊まった時のままに残されて「芥川荘」(「千葉県教育委員会」公式サイト内)と呼ばれてある。因みに、「芥川龍之介 愛の碑」(グーグル・マップ・データのサイド・パネルの碑の裏面)なる吉田弥生の名を記したものが、この海岸線のここに建っている。無論、この「愛」というのは、後の大正五(一九一六)年八月二十五日の、ここへの二度目の止宿の際の、後に妻となる塚本文へのよく知られた求婚書簡が書かれたというハイブリッドの意味があり、それが碑文にもあるのだが、これ、吉田(金田一)弥生が生きていたら、驚愕卒倒するに違いない。だいたいからして妻文と並んで刻まれてあるというのは、如何なものか? しかし、この碑の建立は昭和四九(一九七四)年十月。弥生は前年の昭和四八(一九七三)年二月に亡っている。満を持して建てたということか。少し、複雑な座りの悪い感じがする文学碑である。芥川龍之介も微苦笑すること、間違いない。

 この「神經衰弱」というのは、広義の心身疲労・持続的不安・抑鬱及び心身症としての頭痛・神経痛・勃起不全などを総称したもので、一八六九年(明治二年)にアメリカの神経内科医ジョージ・ミラー・ビアード(George Miller Beard 一八三九年~一八八三年)が、過労を主とする日常生活のストレスによる中枢神経系の減衰症状として「ニュラスティニア」(Neurasthenia:神経衰弱症)を造語したものである。二十世紀初頭に、この概念は世界的に広く受け入れられたが、西洋では比較的早くに(一九三〇年代以降)徐々に使用されなくなった。しかし、本邦では、好んで使われ(漱石は盛んに用い、この年に発表された「こゝろ」でも「先生」は遺書の中で(リンク先は私の初出復元版)、Kのことを『彼は寧ろ神經衰弱に罹つてゐる位(くらゐ)なのです』と言わしめている。私がKなら、強迫神経症の猛者である漱石なんぞには、そう言われたくはない気が大いにする)、精神科医が殆んど使用しなくなったのは戦後であるが、今でも一般の日本人の中には、手軽で安易な精神的疲労を示す語として生き残ってしまっている。DSM-IV(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:「精神障害の診断と統計的便覧」。現在は第五版まで出ている)では、「鑑別不能型身体表現性障害」(Undifferentiated Somatoform Disorder)とされる。英語圏では俗称で「ナーバス・ブレイクダウン」(nervous breakdown)と呼ばれる。また、「慢性疲労症候群」の旧称と言い換えることは一面的には妥当とも言えるが、重篤な統合失調症などの精神疾患の初期症状をそれで見過ごすことが多く、また、一部では不定愁訴型の「慢性疲労症候群」の病原として何らかの病原体感染が疑われている昨今では、私は最早、隠れた差別語として死語とすべきものと考えている。

 ここでの龍之介のそれも、そうした抑鬱的な精神状態の不定愁訴的なニュアンスを指していると考えてよいが、敢えて原因を考えるならば、帝国大学入学後、山本喜与司や井川恭のような親友が身近になかなか出来ず、講義にも有益性を殆んど認めぬために出ても面白くなく、サボることも多くなって、『新思潮』の同人活動以外には(それ自体も初期には同人間では相対的に見て必ずしも積極的ではなかった)、まるで先験的な希望が見出せない大学生活そのものがこの頃の彼にとっては完全に乖離した世界として意識されていたこと、そして、そこにここに見られる本格的な結婚を想定した吉田弥生(彼女についてはこちらの私の注を参照)への強い恋慕の情が強く絡んできたことによる焦燥に起因するものであろう。但し、それが、心身症のレベルでないことは、この一の宮での健壮な河童生活でも明らかである。というよりも、寧ろ、最後の弥生へのもやもやこそが「神經衰弱」というメランコリーの核心にあり、それが、以下のラヴ・レターの発信により、解消されたとも言える程度にごく軽い精神不安に過ぎなかったもののようにも私に窺われるのである。

 最初に掲げた草稿断片の前の二葉の頭その他には「・・・」とあるが(全三ヶ所)、これは葛巻氏が省略に用いるものであるので、除去した。また、ここでは途中に注を挟んだ。]

 

大正三(一九一四)年七月:吉田彌生宛(日付不詳であるが、葛巻氏の提示が順列であるととすれば、二十日以降から二十八日までとなる)。上総一宮にて執筆された書簡草稿断片三葉。間に「*」を施した)

 

氣になつて 同じ豆らんぷの下で ペンをとりました これで彌ちやんへ手紙をあげるのが 二度になるのですが 二度とも ある窮屈さを惑じてゐるのは事實です それはやゝもすると 餘り自由に書きすぎはしないかと云ふ掛念[やぶちゃん注:「懸念」に同じい。]があるのです むづかしく云ふと 社會の不文律がきめてゐる制限を 知らず知らず乘越えてゐはしないかと云ふ疑懼[やぶちゃん注:「ぎく」。]の心が一行書くうちにも つきまとつてゐるのです(少し大袈裟ですが) それも社交上の修辭に富んだ人だと こんな心配はないのですが僕は其點で 單語もSYNTAX[やぶちゃん注:縦書。「構文」の意。]も非常に貧少な惡文家ですから どうも此塀を飛び越えさうな氣がして仕方がありません 其爲に僕の手紙は甚 手數のかゝつた よみ惡いもの

   *

と茄子の畠との間へ 四分板[やぶちゃん注:「しぶいた」。厚さ約一・二センチメートルの板。]を一枚 敷いて流しにした 無造作なものですが 風呂はそれでも 鐡砲のついた 小判なり[やぶちゃん注:「形(なり)」。]の風呂桶がありますから 行水ですます必要もありません うすい月が出で 豆、黍、茄子 さゝげ 甘藷などの葉が 靄の中にうなだれてゐるのを見ますと 久しぶりで 漢詩でも作つて見たくなります 「種豆南山下 辨盛豆苗稀」と云ふ 名髙い陶淵明の雜詩を思ひだすのも此時です 時々僕は 厄石湖の田園詩集を 忘れて來たのを 殘念だと思ふ事があります

[やぶちゃん注:「彌ちやん」芥川龍之介との幼馴染みという関係がよく見てとれる呼びかけである。

「鐡砲」「鐡砲風呂」。木の風呂桶の中に「鉄砲」と呼ばれる鋳鉄製の筒を入れ、その筒の中に、上から、薪などの燃料をくべて湯を沸かしたもの。鉄器の及源鋳造(おいげんちゅうぞう)株式会社公式サイト「OIGEN」内の「五右衛門風呂と鉄砲風呂-昔なつかしいお風呂の鋳物-によれば、『西日本で長州風呂』(風呂釜全体が鋳鉄製の風呂。恐らくは殆んどの人が「五右衛門風呂」と考えているものが長州風呂である。底が直接釜になっているため、底板が用いられる点では同じだが、五右衛門風呂は全側面の中・上方は総て板で出来ており、側面の下方に少し鉄釜の縁が内側に迫り出しているものを言うのが本当である)『が一般的だったのに対し、東日本ではこの鉄砲風呂が昭和の時代まで普及していました』。『そしてここ水沢』(岩手県奥州市水沢羽田町)『の鋳物産地が江戸時代の頃から長らく「鉄砲」の一大生産地として名を馳せていました。及源でも昭和』三十『年代まで盛んに「鉄砲」を生産していました。水沢の近辺では江戸の頃までは風呂はそれぞれの村のお風呂屋さんにしかありませんでしたが、戦後になると鉄砲風呂が一般家庭にも広がっていきました』。『しかし鉄砲風呂は五右衛門風呂と比べるとなかなか馴染みがなく、その姿を見かけることすらありません。鉄砲風呂の沸かし方や』、『入り心地が実際どうだったのか、というのが気になるところ。まだ鉄砲風呂が現役だった昭和』三十『年代に水沢近郊の街で家業の桶屋で鉄砲風呂を作っていた石田繁さんが、鉄砲風呂の思い出を語ってくれました』。『お風呂は離れにあったので、冬場は風呂に行くまでも寒い思いをしていました。風呂桶は鉄砲が入るスペースが必要になるというのもあり、人が入る空間は狭く、膝を抱えて湯に入ります。また、同じ風呂桶のなかで薪を焚いているので、灰が湯に飛んできてしまうこともしばしばありました』。『水を汲むのと、湯を沸かすのが子どもたちの仕事でした。水汲みは何度も何度も往復して風呂桶に入れるので大仕事。湯が沸くのに鉄砲風呂はわりに早く、』一『時間弱もすれば』、『あったかいお湯になりました』。『このあたりでは、終戦後から』二十『年くらいかな、亜炭っていう炭の一種がよく採掘されて、それも燃料になりました。焚きつけは薪をつかっていたけど、お湯を保温するには亜炭がよかったんです』。『いまみたいに毎日お湯を替えるなんてことはなく、一回の湯を一週間は使います。なので次第に湯が濁ってきて、風呂から出るときは垢がつかないように気をつけました。それでも、鉄砲で火を焚いて、ヒバの香りがする風呂桶につかるのはなかなかよいものでした』。『鉄砲風呂は昭和30年代を境に家庭から消えていきました。浴槽は木桶から、ホーロー浴槽、強化プラスチック、ステンレスなどに置きかわり、燃料も薪や炭からガスの時代に変わっていきました。水沢の鋳物産地でも「鉄砲」はそれ以降、特別なことを除けば作られることはありませんでした』とある。私はこの正真正銘の鉄砲風呂に小学校三年生の頃に入ったことがある。祖母が住んでいた鵠沼の貸家で、大家と祖母の部屋の間の室内にあった。鉄に触れると、火傷するのではないかと思って、とても怖かったことを覚えている。大家さんのおじさんが親切に入り方を教えて呉れた。]

海へは 半里ばかりありますが 舟で行きますから 餘り苦になりません川の兩岸は蘆と松です 海岸は 九十九里だけに 見渡す限り 砂がついてゐますが 海は 見た所より はいつた方が遙に野蠻で のべつに一間[やぶちゃん注:一・八一メートル。]位な波がよせて來ます 泳ぐと云ふより波になぐられにはいると云つた方が適當かもしれません 海水浴場の揭示にも 泳げとは書いてないで 波に背部を打たすべしと書いてあります 始めての日には 油斷をしてゐた所を 波にひつくり返されて 頭にかぶつてゐた手拭を流されてしまひました 二日目の日には 波を越しそくなつて[やぶちゃん注:「そこなつて」に同じい。] 鹹い[やぶちゃん注:「しほからい」。]水を大分のまされました 今でもまだ 波に對する僕の抵抗力は甚 貧弱です 僕たちの連中での餓鬼大將は 工學士ですが 生憎泳ぎは拔手も碌に切れない方なので 波が來ると 僕以上に狼狽します 二人ゐる一髙生の一人は蔭山金左衞門と云ふ 封建時代の名前を今日でも恥しげなく名乘つてゐる男で 一人は堀内利器と云ふ 專賣特許の井戶堀機械のやうな名の男ですが 一人は五里何町の遠泳をした事のある男ですし一人は一の宮の生れで波に慣れてゐる男ですから 二人共後鉢卷[やぶちゃん注:「うしろはちまき」。]をして泳ぐ所は 漢語で形容すると 壯士慘として驕らずと云つた調子です 其代[やぶちゃん注:「そのかはり」。] 一日に十里步いたり高い崖の上から飛び下りたりするのを得意にしてゐる人間ですから 國家圭義を標榜して僕を攻擊するのを 義務の如く心得てゐます 其おかげで 此間も學生となつては不成績なるべし 功名を望む可らずと云ふやうな議論を一時間ばかり 謹聽させられました 其癖二人とも 僕のゐた中學を首席で卒業してゐるから滑稽です 近々 此二人の志士の案内で 髙藤山と云ふ山へ上る筈ですが 嘸[やぶちゃん注:「さぞ」。]豆が出來るだらうと思つて 今から大に弱つてゐます

[やぶちゃん注:「蔭山金左衞門」府立三中の二年後輩の友人。浜崎隆氏の論文「芥川龍之介研究」に拠った。

「壯士慘として驕らず」杜甫の五言古詩「後出塞五首其五」の一節。「壯士慘不驕」「壯士(さうし) 慘(さん)として驕(おごら)ず」。「血気盛んな青年兵士ももの哀(がな)しくなり、意気消沈してくる。」の意。全詩は紀頌之氏のサイト「杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」のこちら(訓読表記に一部誤りがあるので注意されたい)を参照されたい。]

ダンヌンツヨのこはいろを使ふと五人共「OLIVE[やぶちゃん注:縦書。]のやうに」黑くなりました 消化もいゝと見えて 食慾が旺盛です 勉强はあまり出來ませんが 朝のうちだけは 感心に本を少しよみます 夜もよくねます 眠る前に時々東京の事や 彌ちやんの事を思ひ出します

[やぶちゃん注:「ダンヌンツヨ」はファシスト運動の先駆とも言える政治的活動を行ったことで知られるイタリアの詩人で作家のガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 一八六三年~一九三八年)。本名はガエターノ・ラパニェッタ(Gaetano Rapagnetta)。本邦では「ダヌンツィオ」「ダヌンチオ」とも表記する(以上はウィキの「ガブリエーレ・ダンヌンツィオ」に拠る)。何の作品の登場人物の「こはいろ」(聲色)かは不明だが、私の『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「五」』で全文を示した(この「芥川龍之介書簡抄」では採用していない)大正二(一九一三)年八月十六日附のもので「島根縣松江市内中原町 井川恭樣」宛てで「八月十六日朝」と添書のある「靜岡縣安倍郡不二見村新定院内 芥川龍之介」という差出人住所署名を持った芥川龍之介の書簡に、、ダヌンツィオの代表作で一八九四年発表の小説「Triumph of Death」(Il Trionfo della Morte :「死の勝利」)の話が出、また、この書簡の直近では、新全集宮坂年譜を見ると、ここ一の宮に来る直二週間ほど前の七月五日に、新宿の自宅で、ダヌンツィオの悲劇「ラ・ジョコンダ」(La Gioconda :一八九九年)のドイツ語訳を読み終えているから、或いは後者か。

「五人共」ママ。後の二人は誰なのか不明。但し、これは「三人」の誤記や誤判読ではなく、実際に一の宮で外に二人の人物と交流があったことは、後の八月六日附小野八重三郎宛書簡で判る。それによれば、『三中の人に二人あつた 蔭山が紹介してくれたので大分いろんな事を話した あとで「あれは何と云ふ人だね」と蔭山にきいたら「僕も知らない」と答へた 自分も知らない人間を人に紹介するのは亂暴である』とあるのがそれである。

『「OLIVEのやうに」黑くなりました』言わずもがな、オリーブ(シソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea 。誤訳で「橄欖」。真正の橄欖はムクロジ目カンラン科カンラン Canarium album でインドシナ原産。種を食用にしたり、油を搾ったりするので利用法がオリーブに似ているため、に誤って漢字訳された)の実は秋になって熟すと濃い紫色を経て、黒くなる。]

   *

  彌生樣    七月廿八日、一の宮にて

御手紙拜見致し候 二度も三度も御返事認め候へども皆意に滿たねばやめに致し候

〝赤百合〟の中によひどれの詩人出で來り候ふべし 杖に女の首を刻みて〝人道〟とかなづくる男に候 これぞヴルレーヌを描けるものに候なる わかき彫刻家も その戀人も 皆まことありし人々の由に候

この地の自然の手ざはりのあらきにはおどろかれ候 松脂のにほひと砂と海とのみ 砂丘には月見艸の花さへつけず 弘法麥と濱防風と 僅に靑を點ずるのみに候

海には每日 ひたり候へば橄攬の如く黑み候 一高生二人 常に共に泳ぎ候

都の夜など思出でられ 時にはかへりたくなり侯 何となく心おちゐぬ事多く候

書くべき事多けれど 書き得ざるを如何にせむや これにて御免蒙る可く候

                龍之介

 

[やぶちゃん注:これは短い乍ら、書信の体を完全に成しており、また、龍之介宛で吉田弥生の方から前の二種の草稿以前に、書信が既にあったことが判る。にしても、草稿とは打って変わって、何か妙に硬い。

「〝赤百合〟」芥川龍之介の好きなフランスの詩人・小説家・批評家のアナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)が一八九四年に発表した恋愛長編小説「紅い百合」(Le Lys Rouge )。十九世紀末のパリとフィレンツェを舞台として軽薄奢侈な社交界に飽きて真実の愛と自由を求めた貴婦人テレーズの官能的で儚い恋愛模様を描いたもの。パリ社交界の芸術サロン主催者でアナトールの愛人でもあったアルマン・ド・カイヤベ夫人(本名レオンティーン・リップマン Léontine Lippmannmadame Arman de Caillavet 一八四四年~一九一〇年)との交際体験に基づいて書かれた作品であった。「芥川龍之介書簡抄15 / 大正二(一九一三)年書簡より(2) 三通」の一通目の大正二(一九一三)年八月四日附山本喜与司宛の中で、『杖をこしらへた 紫檀で、もつ所は黑檀のだ あんまりよくないけど學生だからこれでがまんする 紫檀の所へ何か羅甸語の銘を刻つて貰はうかとも思つてる 赤百合か何かの中に杖の頭へ女の泣顔を刻んで MISERY OF HUMANITY て云つてる詩人の事を思ひ出す』と言及している。今回、今一度、「Internet archive」にある英訳本(発行は原作と同年)を調べたところ、この話は、恐らく、「90」ページの頭がそれで、‘human misery’と出現するものであることが判った。

「ヴルレーヌ」言わずもがな、フランスのかの詩人ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine  一八四四年~一八九六年)。

「月見艸」バラ亜綱フトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属ツキミソウ Oenothera tetraptera 或いはマツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta 。私は可憐で清楚な前者をはなはだ偏愛するが、恐らくは太宰治「富嶽百景」の錯誤と同じく、後者であるのかも知れない。

「弘法麥」単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi 。かなりよく発達した砂浜海岸に植生する代表的海浜植物である。

「濱防風」セリ目セリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis である。食用として新芽を軽く茹でて酢味噌和えにしたり、天麩羅や刺身のツマ等に利用される。なお、狭義の漢方の生薬に使われる「防風」はセリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricate で、中国原産で別属で植物学的にも薬用としても無関係である。]

2021/04/01

芥川龍之介書簡抄26 / 大正三(一九一四)年書簡より(四) 六月二日井川恭宛 長編詩篇「ふるさとの歌」

 

大正三(一九一四)年六月二日・井川恭宛・封筒欠

 

  ふるさとの歌

      TO MR.IKAWA

人がゐないと女はしくしくないてゐる

葉の黃いろくなつた橡の木の下で

白い馬のつないである橡の木の下で

 

何故なくのだか誰もしらない――

葉の黃色くなつた橡の木の下で

日の沈んだあとのうす赤い空をみて

女はいつ迄もしくしくないてゐる

 

お前が大事にしてゐる靑瑪瑙の曲玉を

耳無山の白兎にとられたのか

お前の夫の狹丹塗の矢を

小田の鳥が啣へ行つたのか

 

何故なくのだか誰もしらない――

雨手を顏にあてゝしくしくと

すゝなきながら女は

とほい夕日の空をながめてゐる

 

そんなにお泣きでない

腕にはめた金の釧が

ゆるくなるほどやせたぢやあないか

そんなにお泣きでない

 

女はなきやめるけしきはない

それもそのはづだ

とほい夕日の空のあなたには

六人の姊妹(きやうだい)がすんでゐる

 

六人の姊妹は女の來るのを待つてゐる

一番末の妹の女の來るのを待つてゐる

空のはてにある大きな湖で

 

湖の上にういてゐる六羽の白鳥が

女の來るのを待つてゐる

 

靑琅玕の水にうかびながら

妹の來るのを待つてゐる

 

七年前に七人で

この國の海へ遊びに來たときにー

海の水をあびて

白鳥のうたをうたひに來たときに――

 

海の水はあたゝかく

砂の上には薔薇がさいて

五月の日の光が

眞珠の雨のやうにふつてゐた――

 

七人とも白鳥の羽衣をぬいで

白鳥のうたをうたひながら

海の水をあびてゐた時に――

七人の少女(をとめ)が水をあびてゐた時に

 

卑しいこの國の男が砂山のかげヘ

そつとしのびよつて羽衣の一つを

知らぬ間にぬすんだので

――何と云ふきたないふるまひだらう――

 

卑しい男のけはひに七人ともあはてゝ

羽衣をきるのもいそがはしく

白鳥に姿をかへてとび立つと

――丁度櫨弓の音をきいたやうに――

 

空にとび立つたのは六羽

羽衣を着たのは六人――

一番末の妹は羽衣をとられて

裸身のまゝ砂の上に泣きながら立つてゐた

 

その時その卑しい男にかどわかされた

一番末の妹を思ひながら

六羽の白鳥は湖の空に

七つの星をかぞへながら待つてゐる

 

一番末の妹は夫になつた卑しい男が

ゐなくなると何時でもしくしくと

泣きながら夕日の赤い空をながめてゐる

葉の黃いろくなつた橡の木の下で

 

卑しい男の妻になつた女は

何時空のはてにあるあの大きな湖ヘ

六人の姊がまつてゐる湖ヘ

歸ることが出來るだらう

 

女の夢には湖の水の音が

白鳥の歌と共にきこえてくる

なつかしい湖の水の音が

月の中に睡蓮の咲く湖の水の音が

 

卑しい男の妻になつた少女は

湖の水を戀ひて

每日ひとりでないてゐるが

何時あの湖へかへれるだらう

 

耳をすましてきけ

おまへのたましひのたそがれにも

しくしく泣く聲がするのをきかないか

 

耳をすましてきけ

お前の心のすみにも

白鳥の歌がひゞくのをきかないか

 

人がゐないと女はしくしくないてゐる

葉の黃いろくなつた橡の木の下で

白い馬のつないである橡の木の下で

           (一九一四・六・二)

             R.AKUTAGAWA

 

[やぶちゃん注:御覧の通り、書信はなく、この詩篇のみである。筑摩全集類聚版脚注では、『(写)』とあり、これは原書簡によるものではない他の資料からの「転載」の意である。所持する筑摩全集類聚版「芥川龍之介全集」の第七巻は昭和四六(一九七一)年刊であるが、これは概ね岩波書店の第三次「芥川龍之介全集」新書版全集(昭和三〇(一九五五)年刊。岩波の編集者は『小型版全集』と呼びならわしている)を親本としているのだが、私の所持する一九七八年版はその後の第四次である。そこには「轉載」の文字はないので、原書簡を確認していることが判る。しかし、『封筒缺』というところが怪しく、実際には井川に当てた書信があった可能性も捨てきれない。或いは、井川が誰れかに提供する際、そこに書かれた内容が芥川龍之介自身にとって不名誉な内容であるか、或いは、提供当時には未だ生存している誰彼(井川自身を含めて)に対して問題がある内容が書かれてあったために、書信部分をそっくり除外して示したものとも、とれる、ということである。詩篇の持つ意図しない男と結ばれるという辺りで憶測では複数の念頭に置いている実在のの女性の可能性は考え得るが、この時期の年譜的事実自体が乏しい状態なので、控えておく。

「橡」ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata 。東京帝大の庭にあったこと以外に、どうも芥川龍之介自身が好きな木だったように思われる。特徴のある花をまさにこの五月から六月頃にかけて咲かせる。葉の間から穂のようになった有意に長く高く立ち上がる花で、穂は一つ一つの花と花弁(白或いは薄い紅色)はさほど大きくないが、雄蘂が伸び、全体として賑やかで目立つものである。或いはこの漢字「橡」或いはその「とち」という響きを彼は愛していたのかも知れない。手っ取り早い解釈としては、トチノキの近縁種でヨーロッパ産のセイヨウトチノキAesculus hippocastanum のフランス名が「マロニエ」(marronnier)であり、フランスの象徴派詩人たちが、よく詩篇中に点描したことも挙げられるかも知れない。

「靑瑪瑙の曲玉」「あをめなうのまがたま」。

「耳無山の白兎にとられたのか」この「耳無山」(みみなしやま)は特定の固有山名ではなく、耳の長い御伽噺しの中の「白兎」の「兎」に掛けた洒落であろう。

「夫」「をつと」。

「狹丹塗の矢」「さいにぬりのや」。赤い土や顔料で塗った特別な神聖を持つ矢。「古事記」の神武天皇の皇后の出生譚が〈丹塗矢(にぬりや)〉型の本邦の神婚説話の初期形で、三輪山の大物主神が美女勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)に思いをかけ、彼女が廁で「糞まるする時」、「丹塗矢」と化して「そのほと(火登:女性生殖器)を突」いた結果、妊娠するという判り易いファルスのシンボルである。

「小田の鳥」「小」は「小さな」とする必要はなく、詩語として美称ととるべきである。

「啣へ」「くはへ」。

「何故」「なぜ」。

「誰」「たれ」。

「すゝなきながら」ママ。啜り泣きながら。筑摩全集類聚版では、勝手に『すゝりなきながら女は』と書き変えてある。個人的には私は龍之介の脱字だとは考えていない。無論、「すす泣く」という語はないけれども、龍之介は万葉語として存在した、「すす」(爲爲)という連語を想起したのではなかったかと考えるからである。動詞「す(爲)」の終止形を重ねたもので、「~しつつ・~しながら」で、畳語となるものの、「すすりなきながら」という弛んだ音形より遙かに美しいと私は思うからである。

「金」「きん」。

「釧」「うでわ」であろう。腕輪。筑摩全集類聚版は龍之介の本文に勝手にルビを振っているものだが、そこでも『うでわ』である。

「はづだ」ママ。「筈」は「はず」でよい。

「靑琅玕」「あをらうかん」。暗緑色又は青碧色の半透明の硬玉。碧玉に似た美しい宝石。江戸時代以来の本邦では、多く濃緑色の硬玉の勾玉(まがたま)を指すが、一般には同色の硬玉・軟玉を広く指し、本邦では、専門家によって、これは現在の「翡翠石」(ヒスイ)の最上質のもの、或いは「トルコ石」又は「鍾乳状孔雀石」、或いは青色の樹枝状を呈した「玉滴石」と比定するのが妥当と考えられている。私の『「和漢三才圖會」巻第六十「玉石類」「珊瑚」』の私の注を参照されたい。

「羽衣」所謂、「羽衣」伝説である。これは、本邦だけでなく、世界各地に存在する伝説の一類型で、本邦の「天の羽衣」の現在に残る最古のそれは「風土記」の逸文として残っており、現在の滋賀県長浜市の余呉湖を舞台としたものが、「近江國風土記」に、京都府京丹後市峰山町を舞台としたものが「丹後國風土記」にそれぞれ見られ、日本の他の地方に広く見られる「羽衣」伝説は、これら最古の伝説が、各地に周圏的に広まり、その地に根づいて変形されたものと考えられる。天女はしばしば「白鳥」と同一視されており、神話学では「白鳥」処女説話(Swan maiden)系の類型と考えられている。則ち、これは異類婚姻譚の類型の代表的な一つであり、日本のみならず、広くアジアや世界全体に見られ、天女を、その部族の祖先神と見做す小規模な創世神話の一型としての大切な属性を持ったものであ、一説にその起原はインドのプルーラブアス王の説話であるとされる。詳しくは参照したウィキの「羽衣伝説」を見られたい。

「櫨弓」筑摩全集類聚版では『はじゆみ』とルビするが、私は音数律から、「はじ」と読みたい。「波自由美」「黄櫨弓」「波士弓」とも書き、辞書等では、一律にハゼノキで作った弓とするのだが、廣野郁夫氏の素晴らしいサイト「木のメモ帳」の『木の雑記帳 「はじ弓」には何の木を使ったのか』を見ると、この辞書記載は甚だ怪しいものであることが判る。そこで廣野氏は、これを「広辞苑」第六版の記述例を引かれ、『この中で』『櫨(山漆)で造った弓』『波自由美、波士弓の表記を見る』が、『はじゆみ(櫨弓)の説明として、「櫨(山漆)」の説明はどう理解すればよいのであろうか』とされ、『「櫨」は普通はハゼノキ』(ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum )『を指し、括弧書きの「山漆」(ヤマウルシ)』(ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ヤマウルシ Toxicodendron trichocarpum )『とは明らかに種類が違う。しかも、ハゼノキはわが国に本来の自生はなく、古代から中古にハゼ(櫨)、ハジ(櫨)、ハニシといったものは、わが国に自生する別種のヤマウルシ又はヤマハゼ』(ウルシ属ヤマハゼ  Toxicodendron sylvestre )『である【木の大百科】というから』、『ややこしい』と述べられた上で、『また、例えば古い時代の染色の黄櫨染(こうろぜん)についても、ハゼノキを使用したものとする説明が多いが、先に紹介した説明のとおり、本当はヤマハゼを使用したもののようである』。『歴史的な経過としては、ハゼノキの名は元々』、『現在』の『ヤマハゼと呼んでいる種に対する呼称であったとされ、蝋の採取を目的に栽培がより拡大した自生種ではない種が』、『いつのまにか名前を奪ってしまって、自生種はこれと区別するために新たにヤマハゼと呼ばれるようになったといわれている』。『こうした事情を念頭に置くと、「はじゆみ」とは』、『やはり「ヤマハゼ」を素材としたものなのであろう。ただ』、『気になるのは、ハゼノキは大径木になるのに対して、ヤマハゼやヤマウルシは大きくなる木ではないから、素性のよい素材を手に入れるのは』、『なかなか』、『難儀であろうと思われる点である。あるいは、仮に弓の呼称が各素材に対して共通的な認識の下に使用されていなかったとすれば、遺跡出土品のみからその歴史を知るしかないということになる』。『現在でも見られる弓道のための和弓は、宮崎県の都城市において』、『木刀と併せて生産が盛んで、古くからの技術が継承されていると思われるが、弓本体の積層構造の部材を構成する広葉樹として一般的に使用されているのは、皮肉なことに』、『側木としてのハゼノキがほとんどで、かつて丸木弓として利用されたと思われるヤマハゼの出番はないようである。側木を使用する弓の構造は江戸時代以降とされるから、導入栽培されたハゼノキの利用に関しては当時から利用されていたとしても不自然なことはない。ただし、ハゼノキを弓の芯材の一部(側木)として使用することに特別こだわる理由があるのかについては謎である。ハゼノキの利用に関しては、多くの樹種を試用した結果というよりも、はじ弓(もちろんこれはヤマハゼであるとして)の歴史がある中で、ハゼノキの材色の魅力がデザインとして有用であることから利用が定着したものなのではないだろうか』と考察しておられる。]

2021/03/31

芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛

 

大正三(一九一四)年五月十九日・京都市吉田京都大學寄宿舍内 井川恭樣・芥川龍之介

 

僕の心には時々戀が生れる あてのない夢のやうな戀だ どこかに僕の思ふ通りな人がゐるやうな氣のする戀だ けれども實際的には至つて安全である 何となれば現實に之を求むべく一に女性はあまりに自惚[やぶちゃん注:「うぬぼれ」。]がつよいからである二に世間はあまりに類推を好むからである

 

要するにひとりでゐるより外に仕方がないのだが時々はまつたくさびしくつてやり切れなくなる

 

それでもどうかすると大へん愉快になる事がある それは自分の心臟の音と一緖に風がふいたり雲がうごいたりしてゐるやうな氣がする時だ(笑ふかもしれないが) 勿論妄想だらうけれどほんとにそんな氣がして少しこはくなる事がある

 

序にもう一つ妄想をかくと何かが僕をまつてゐるやうな氣がする 何かが僕を導いてくれるやうな氣がする 小供の時はその何かにもつと可愛がられてゐたがこの頃は少し小言を云はれるやうな氣がする 平たく云ふと幸福になるポツシビリチーがかなりつよく自分に根ざしてゐるやうな氣がする それも仕事によつて幸福になるやうな氣がするのだから可笑しい

幸福夢想家だと君は笑ふだらう

 

無智をゆるす勿れ 己の無智をゆるす爲に他人の無智をゆるすのは最卑怯な自己防禦だ 無智なるものを輕蔑せよ(ある日大へん景氣がよかつた時)

 

オックスフォードの何とか云ふ學者が「ラムをよんで感心しないものには英文の妙がわからない ESSAY・ON・ELIA[やぶちゃん注:縦書。]は文學的本能の試金石だ」と云つた有名な話があるさうだ 上田さんのラム推奬の理由の一として御しらせする

 

試驗が近いんだと思ふとがつかりする 試驗官は防疫官に似てゐる 何となれば常に吐瀉物を檢査するからだ 眞に營養物となつたものを測るべき醫學者が來ない以上試驗は永久に愚劣に止るにちがひない ノートをつみ上げてみるとほんとうにがつかりする

 

   キヤラバンは何處に行ける

   みやれば唯平沙のみ見ゆ

   何處に行ける

 

   行きてかへらざるキヤラバンあり

   スフインクスも見ずに

   砂にうづもれにけむ

 

   われは光の淚を流さゞる星ぞ

   地獄の箴言をかゝざるブレークぞ

 

   わが前を多くの騎士はすぎゆくなり

   われも行かむと時に思へる

 

   メムノンはもだして立てり

   黎明は未來らず

   暗し――暗し

 

   何時の日か日の薔薇さく

   ほのぼのと

   何時の日かさくとさゝやく聲あり

 

   象牙の塔をめぐりて

   たそがるゝはうすあかり

   せんすべなさにまどろまんとする

 

[やぶちゃん注:現行では、この冒頭に記される「戀」については、この頃の芥川龍之介が、結婚を熱望しながら、親族の反対によって、結果、夢破れた吉田弥生(以前は彼女を初恋の相手とすることが多かったが、今は前回に恋文の草稿(推定)を示した吉村千代が初恋と考えられいる)のことと採るのが一般的であるようだ。しかし、少なくともこの書き方を彼女一人に限定して読み解くことは、危険というより、表現上から、全く無理である。これはまさに男女を問わぬ多様な恋情(但し、龍之介が山本や井川かく書く時には女を作為的に匂わせている可能性は俄然高くなる)に駆られる青年龍之介の夢のような告解のポーズととる方が無難であると考えている。私は、「誰が初恋か」と議論は、母存在のトラウマとしての欠損感が異様に強く、女に惚れ易かった恋多き芥川龍之介にして、あまり意味を成さないように感ずる(但し、個人的には彼の女性への初恋は吉村千代と考えている)。寧ろ、彼の同性愛嗜好に着目すると、既に見てきた通り、幼馴染みの山本喜与司や井川(後に恒藤姓)恭を筆頭とし、晩年の小穴隆一まで、非常に興味深い関係性が見えてくる。なお、芥川龍之介は未定稿で、「VITA SEXUALIS」及び「VITA SODMITICUS(やぶちゃん仮題)」を書いており、私は既に電子化し、別に詳細語注も附している(因みに言わずもがなであるが、本邦では男性の同性愛は古くからごく近代まで、普通の男性間に普通にあった。プラトンの「パイドロス」を読めば、ソクラテスの時代から、男女の愛は不全であり、男性同士の愛こそが至高であったのであり、「プラトニック・ラヴ」(Platonic love)とは「精神的な純潔なる愛」などではなく、「男対男の精神及び肉体双方の完成された愛」の謂いである)。

 話が脱線した。もとに戻ると、吉田弥生については、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」がよい。例えば、この二ヶ月後の、『七月二〇日~八月二三日、友人の堀内利器の紹介で彼の故郷千葉県一宮海岸に行き、約一カ月滞在する。午前中は読書と創作とにあてていたが、あまり熱心ではなく、もっぱら海水浴と昼寝を楽しんだ。幼なじみで初恋の人吉田弥生に二度目の手紙を書き、やがて結婚を申出るが、芥川家の反対で翌年二月頃破局を迎え、弥生はまもなく陸軍中尉金田一光男と結婚して去る。この事件は芥川の精神に大きな傷痕を残すことになる』とあり、その下方のコラム「破れた初恋」に以下のようにある。

   《引用開始》

 恋人吉田弥生は東京深川で明治二五年三月に生まれ、芥川とは同い年であった[やぶちゃん注:弥生は一八九二年三月十四日生まれで、芥川龍之介は同年同月三月一日生まれ。弥生は昭和四八(一九七三)年二月に亡くなっている。]。母よし(旧姓中村)は東京人、父長吉郎は岩手県盛岡出身で上京後、よしの家に寄寓して銀行に勤め、弥生の出生後、芝愛宕下の東京病院会計課長となり、一家は同地の病院構内に移った。

 芥川の実家新原家は東京病院のすぐ近くであり、病院に[やぶちゃん注:敏三の経営する「耕牧舎」が。]牛乳を納めていたので敏三と長吉郎は知り合いとなり、一家で親しく交際し、龍之介と弥生は幼なじみであった。

 弥生は東京高等女学校から青山女学院英文科に進み、同校を大正二年に卒業。英文学だけでなく、東西の美術や文学にも親しみ、短歌も作る才媛で、その容色とおちついた物腰で学友の間では評判であったという。

 龍之介は新原の実家を通してなじんではいたが、中学以後は交渉がなく、ふたたび弥生の家を訪ねるようになるのは大学一年の五月頃からとみられる。

 気の弱い龍之介は一人では行けず、友人の久米や山宮などを連れて行ったが、文学や美術や音楽など共通の話題があるので話ははずみ、訪問は楽しかった。

 大正三年の秋頃弥生に縁談がもちあがり、その時龍之介は弥生を愛していることを知り、求婚の意志を芥川の家族に話すと猛烈に反対され、あきらめることになる。家族が反対したのは母よしが中村家の戸主であり、吉田に入籍前に弥生が出生したため戸籍の異動が複雑でその結果、弥生が非嫡出子として届出られたこと、吉田家が士族でなかったこと、龍之介と同年であったこと等があげられている。この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられる。

   《引用終了》

特に龍之介を乳飲み子の時から育ててきた同居する伯母で、龍之介が特に愛した(同時に憎悪もした)芥川フキ(道章のすぐ下の妹。生涯、未婚)は夜通し泣いて強く反対している。そこで、龍之介はその告白の翌朝、『むづかしい顏をしながら僕が思切』(おもひき)『ると云つた』(大正四(一九一五)年二月二十八日附井川恭宛書簡。これは後に電子化する)とある。結局、吉田弥生は大正四年四月下旬に同郷の岡山出身の陸軍将校金田一光男と結婚した。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の彼女の項を読むに、彼女はその後、特に芥川龍之介の影を引きずることはなかったようで、後(戦後)、芥川龍之介のことを語ることは殆んどなく、夫も龍之介のことを口にすることを激しく嫌い、訪ねてきた新聞記者を『激しい口調で門前払い』にしたとある。或いは、龍之介の呪縛に陥らなかった数少ない女性の一人だったと言えるのかも知れぬ。さればこそ、私の彼女への関心は以前から薄い。今後もディグする気は、ない。

「ポツシビリチー」possibility。可能性。実現性。発展可能性。将来性。

「仕事」芥川龍之介が作家としての意欲を示していることを暗示させていると私は読む。

「オックスフォードの何とか云ふ學者」不詳。

「ラム」イギリスの作家・エッセイストであったチャールズ・ラム(Charles Lamb 一七七五年~一八三四年)。特に「エリア随筆」(Eliana :一八六七年刊。「ESSAY・ON・ELIA」はそれ)はエッセイの傑作とされる。

「試金石」金などの貴金属の鑑定に用いられる黒色の硬い石英質の鉱石の別称。一般的には緻密な粘板岩。表面に金を擦(こす)り付け、その条痕 色を標準品のものと比較して純度を判定する。転じて、「物の価値や人の力量などを計る基準となる物事」を謂う。

「上田さん」明治三八(一九〇五)年刊の訳詩集「海潮音」で知られる、本邦にベルギー文学・プロヴァンス文学・象徴派・高踏派の詩を紹介した詩人・翻訳家・評論家の文学博士上田敏(明治七(一八七四)年~大正五(一九一六)年)のことであろう。

「營養物」「榮養」は嘗てはこうも表記した。

となつたものを測るべき醫學者が來ない以上試驗は永久に愚劣に止るにちがひない ノートをつみ上げてみるとほんとうにがつかりする

「キヤラバンは何處に行ける/みやれば唯平沙のみ見ゆ/何處に行ける」私は、複製色紙を所持する芥川龍之介の大正四年五月の芥川龍之介の漢詩風の章句、

   *

不見萬里道

唯見萬里天

   *

を直ちに想起する。芥川龍之介筆(芥川比呂志氏蔵。東京帝国大学在学中の写真裏面に記されたもの)。芥川龍之介二十三歳。大正四(一九一五)年五月十五日には悲恋に終わった初恋の人吉田弥生が結婚している。しかし、同月の十三日附の山本喜誉司宛書簡(後に掲げる)では早くも山本姪塚本文への愛情を表明してもおり、同年八月の恒藤との松江滞在によって復活を果たした龍之介は、十一月一日の『帝国文学』へ「羅生門」を発表し、その三日後の四日には「鼻」を起筆しており、この頃には文への思いも確固たるものになりつつあった。

「地獄の箴言」芥川龍之介が偏愛したイギリスの詩人で画家・銅版画家であったウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の「天国と地獄の結婚」The Marriage of Heaven and Hell :一七九〇年から一七九三年頃)。聖書の予言を模倣して書かれた一連の散文・詩とイラストを含むエッチング詩画集。後に彼と彼の妻キャサリン(Catherine Blake  一七六二年~一八三一年)によって着色されたものが有名。

「メムノン」エジプトのルクソールのナイル川西岸にある二体のアメンホテプⅢ世の像。「メムノンの巨像」とも呼ばれる。呼び名はギリシア伝説の「トロイア戦争」に登場するエチオピア王メムノーンに由来する。高さは孰れも約十八メートル。ウィキの「メムノンの巨像」によれば、『元々は、背後に同王アメンホテプ』Ⅲ『世の葬祭殿が控えており、その入口の部分であった。葬祭殿は第』十九『王朝ファラオ・メルエンプタハが自身の葬祭殿の石材調達のため』に『破壊した』。『向かって右側の像は紀元前』二七『年の地震により』、罅が『入り、夜明けになると、おそらく』は『温度差や朝露の蒸発のせいで、うめき声や口笛のような音を発していた。この現象を最初に報告したのは地理学者のストラボン』(ラテン文字転写:Strabo  紀元前六四年或いは六三年~紀元後二四年頃:古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者。全十七巻から成るギリシャ語で書かれた「地理誌」(ラテン文字転写:Geōgraphiká:ゲオグラフィカ)で知られる)『だった。彼は巨像が声を出しはじめてからまもなくして、エジプト総督アウレリウス・ガルスとそれを見物している。ストラボンは著書』の中では、『巨像が発している声なのか、近くにいる人間が声を出しているのか解らないと疑問を呈している』。『メムノンの巨像が声を出す現象は当時のガイドによって脚色され、メムノンの死別した母への呼び声だとされた。メムノンの巨像は声を聴こうと詰めかける人々で観光地化し』、『その中にはハドリアヌス帝』(第十四代ローマ皇帝プーブリウス・アエリウス・トライヤーヌス・ハドリアーヌス(Publius Aelius Trajanus Hadrianus  七六年~一三八年/在位:一一七年~一三八年)。ネルウァ=アントニヌス朝第三代皇帝)『と妻のサビナ』(Sabina)『もいた。サビナは』一三〇『年にメムノンの巨像を訪れ、「日の出後の最初の一時間のうちに、メムノンの声を二度聴いた」という証言を残している。現在もメムノンの巨像の台座には彼らが書き記した署名や詩が残されていて、エジプト総督や地方行政長官の肩書きを持つ人間が大勢訪れていたことが確認できる。その後、巨像はセプティミウス・セウェルス帝』(ローマ皇帝ルキウス・セプティミウス・セウェルス(Lucius Septimius Severus 一四六年~二一一年/在位:一九三年~二一一年)。セウェルス朝の創始者)『によって下に落ちていた像の上半身を取り付けられると、声を出すこともなくなったという』とある。筑摩全集類聚版脚注には、『朝の最初の』太陽の『光線にふれると音楽の愛が生じる』と記してある。

「未來らず」「いまだきたらず」。

「象牙の塔」ここは最原義(フランス語‘tour d'ivoire’)で「芸術至上主義の人々が俗世間を離れて楽しむ静寂・孤高の境地」の意である。]

2021/03/30

芥川龍之介書簡抄24 / 特異点挿入★大正二(一九一三)年或いは翌大正三年の書簡「下書き」(推定)★――初恋の相手吉村千代(新原家女中)宛の〈幻しのラヴ・レター〉――

 

[やぶちゃん注:以下は葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)の「書簡補遺」に載るものを底本とした。本書簡と思われるものは、実際に当該人物に送られたものであるかどうかは不明で、これは取り敢えず「下書き」と推定しておく。底本では最後に葛巻氏の注があり、吉村千代について、『編者の幼時、幼稚園の送り迎えをしてくれた、芝の実家の女中さん』とある。吉村ちよ(明治二九(一八九六)年十月二日~昭和四(一九二六)年十一月二十二日)は龍之介の実家にいた女中であった。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の彼女の項(「ちよ」の平仮名はそれに拠った表記)によれば、龍之介より四つ年下で、新原家(芝区新銭座町。現在の港区浜松町)へ入ったのは十五歳頃と推定されている。とすれば、明治四四(一九一一)年か、その前年(龍之介は十八、九歳の時で、芥川家が新宿の家(この家は本来は葛巻義定(義敏の実父)と龍之介の実姉ヒサの新居として新原敏三が建てたものであったが、二人が離婚したため、ここが芥川家に提供されたのであった)移った時期(明治四十三年十月)と合致する。しかも「ちよ」は葛巻氏の注にある通り、実はヒサ附き(専属)の女中であった(だから義敏の幼稚園の送迎をしている。義敏は明治四二(一九〇九)年生まれ)ことも判っている。されば、龍之介との接点が濃厚に見えてくるのである。御存じの通り、龍之介は芥川家の養子にやられたのだが、実父敏三は露骨に実家へ戻るように慫慂した(「點鬼簿」の「三」を参照されたい)。そうしたややこしい関係とは別に、龍之介は、無論、しばしば新原の家にも頻繁に出入りしていたのである。私は一枚の写真しか持たないが(「新潮日本文学アルバム」)、鼻筋の通った南方系の美人である(大正一〇(一九二一)年頃のもの)が、私の個人的感想に過ぎないが、どこか幸薄い感じを与える写真である。事実、誠実だったという彼女の後の半生は、「芥川龍之介新辞典」に少し詳しく書かれているのであるが、三十で亡くなった彼女は、少なくとも私には決して幸せだったという感じを受けない。私は、芥川龍之介が愛した女性は、多かれ少なかれ、龍之介の面影を引き擦って後半生を生きざるを得なかったと考えている(特に私が追跡した佐野花子片山廣子は間違いなくそうであるし、龍之介の妻文の友人で、文自身の懇請によって、晩年の龍之介の話し相手となり、帝国ホテルでの心中未遂の相手となった平松麻素子もそうであると思う)。私はその一人に、この吉村千代も加えるべきであると考える。ところが、「芥川龍之介新辞典」の「吉村ちよ」の記載(篠崎美生子氏執筆)の最後には、志賀直哉の「大津順吉」(大正元(一九一二)年九月発表)に登場する主人公順吉が惹かれる大津家の若い女中「千代」(「C」とも記す)との相同性を指摘し、『この手紙はむしろ、「大津順吉」的悲恋へのあこがれが、いかに当時の青年層に共有されていたかを示す資料として見た方がよいかもしれない』と記しているおられるのには、正直、大いに呆れかえった。作家論+テクスト論+文学史的検証を安易に綯い交ぜにし、カタをつけた上、鬼の首を捕ったようにぶち上げたこれは、私は「なんじゃ!?! こりゃアア!!」とジーパン刑事のように叫ぶしかなかった。『資料』かい? 芥川龍之介も、さぞ、微苦笑するだろうゼ!]

 

大正二(一九一三)年或いは同三年頃(推定)・吉村千代宛・(草稿)

 

今 芝からかへつた所。ひとりで之を書く。

ちよの事を思ふとさびしくなる、ひとりで本をよんでゐて ふと 今頃は何をしてゐるだらうと思ふとさびしくなる、もうみんな忘れてしまつたかしらと思ふとなほさびしくなる

このあひだ 得ちやんのうつした寫眞をみて「おばさんもお冬さんも ちよも皆 妙にうつつてゐる」と云つたら 太田さんが「おちよさんはからだがわるいから」と云つた。どこが惡いのだらうと思ふと 心配にさへなつてくる からだは大事にしないといけない

いつでも芝へ行つたかへりには 宇田川町の停留所まで わざとぶらぶらあるく さうして今にうしろで やさしい足おとがしはしないかと思ひながら 用もない道具屋の店をのぞいたり 停留場でいくつも電車をのらずにゐたりする、あつて一しよにあるいても 何一つはなせるのではなし その上 二入とも氣まりが惡くつて いやなのだけれど それでも 二人でゐると云ふ事はうれしい

まして二人だけで 二時間でも三時間でもゐられたら どんなにうれしい事だらうと思ふ たゞ さう云ふ時の來ることを いのるより外に仕方はない

前のやうにたびたび芝にゆかれないのでさびしいけれど がまんをしてゐる。あはないでゐるうちに ちよがみんなわすれてしまひそうな氣がする、だんだんゆびにもさはらせないやうになりさうな氣がする さう思うとさびしい。

ちよ ちよとよびずてにしたのはなぜだか自分にもわからない わるければもつとていねいに「さん」の字をつけます。

 

ぼくはこの頃になつて いよいよお前がわすれられなくなつた 今までもお前を愛してゐた事は愛してゐた、しかしこの頃は心のそこからお前の事を思ひ又お前のしあはせをいのつてゐる。

ぼくは今まで お前をじゆうにしない事をざんねんに思つてゐた。お前のからだをぼくのものにしない事をものたりなく思つてゐた、ぼくは今になつて かう云ふ事ばかり考へる愛はほんとうの愛ではないと云ふ事を知つた。これからのぼくには そんな事はどうでもいゝ、たゞお前とお前の心心ちとを かはゆく思つてゆかう 心のそこからお前をかはゆく思つてゆかう。

ぼくははじめ お前と一しよになれないなどと云ふ事は大した事だとは思はなかつた 一しよになれなくつても二人の心の中で思ひあつてゐればいゝと思つてゐたからだ。それが この頃では そうでなくたつた、お前がどこかへかたづくとしたら ぼくはどんなにつらいだろう。どんなにひとりでくるしい思ひをするのだろう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、またぼくがよめをもらふにしても どんなに お前の事を思ひ出すだろう。どんなにお前をわすれずにゐるだろう。今のぼくから云へば どんな女でも お前よりぼくがかはゆく思ふ女はないと思ふ。ぼくのよめになる人にはきのどくだが ぽくはとてもその人をお前よりかはいゝとは思へないのにちがいない。ぼくがお前を思ふやうに お前もぼくを思つてくれるかどうかそれはぼくにはわからない。けれど ぼくだけについて云へば 一しよになれないお前をこんなにふかく こんなに心から愛すると云ふことは なんと云ふなさけない事だろうと思ふ

それをかんがへるとぼくはほんとう[やぶちゃん注:ママ。]にかなしくなる。ぽくはたつたつた一人、すきな人を見つけて そのすきな人と一しよにゐられない人げんなのだ、やかましく云へばそのすきな人の手にさへさわれない[やぶちゃん注:ママ。]人げんなのだ、さうしてそのすきな人がよその人のところにかたづくのを見てゐなければならない人げんなのだ。ぼくの心ぼそくなるのもむりはないだらう。

しかしお前もぼくも、一どはつよくなつて おたがひをわすれなければならない、ぼくはまへにぼくをわすれてはいやだとお前に云つたことがある。今では出來るならぼくの事なんぞすつかりわすれてしまつてくれと云ひたい、ぼくはとてもお前をわすれることは出來ないし、また わすれようとも思はないから、せめてお前がぼくをわすれてしまへば、ぼくの方でもお前をうらむし 一つには今までばかにされてゐたやうな氣がして はらがたつから そのいきほひでいくぶんかはお前の事もわすれられるかもしれないと思ふ、しかし それまでに ぽくはなんどなく[やぶちゃん注:ママ。]かわからないだろう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。] いくぢのないはなしだけれど。

ぼくはほんとうに 今では心のそこからお前を愛してゐる。お前はだまつてゐるときも わらつてゐるときも ぼくにとつてはだれよりもかはゆいのだ 一生、だれよりもかはゆいのだ。たとヘぼくのじゆうにならなくとも かはゆいのだ さうして、ぼくがお前をかわゆがる[やぶちゃん注:ママ。]と云ふ事が お前のしあはせのじやまになりはしないかと思つて心ぱいしてゐるのだ、ぼくは心のそこから おまへのからだのじようぶ[やぶちゃん注:ママ。]な事とお前がしあはせにくらす事とをいのつてゐる

 

ぼくはこのごろ ほんとうにお前がわすれられなくなつた、今まではお前のからだをぼくのものにしないのをざんねんに思つてゐたが 今はそんな事はどうでもいゝ たゞぼくが心のそこからお前をかはゆく思ふやうに お前もぼくの事を思つてくれたらそれでたくさんだ。

このごろ ぼくはまた、お前がかたづく時の事をかんがへた。そうしたらどうしていゝのだかじぶんでもわからなくなつた お前がかたづくとしたらどんなにぼくはさびしひ[やぶちゃん注:ママ。]だろう どんなにぼくはつまらないだろう。とても一しよになれる事の出來ないお前をこんなにふかく こんなに心から愛すると云ふ事は ずひぶん[やぶちゃん注:ママ。]なさけない事だと思ふ。もしまたぼくがよめでももらふとしたら どうだらう、ぼくは どの女でもとてもお前ほどかはゆくは思はれないのにちがひない お前ほどしんようする氣にはなれないのにちがひない、さうだとしたら ぼくの不しあはせばかりではなくぼくのよめになる人の不しあはせにもなるだらう お前がかたづくにしても ぼくがよめをもらふにしてもどつちにしても ぼくはいやな思ひをするより外はない、もしお前がほんとう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に思つてくれるなら やつぱりお前がかたづく時でも ぼくがよめをもらふ時でも いやな氣がするだらう。して見ると わるいのは ぼくなのだ。はじめに お前がすきだと云ひ出した ぼくがわるいのだ。ぼくがさう云ひさへしなかつたら なんにもなかつたのにちがひないのだから。

しかし、これはお前もかんにんしてくれるだらうと思ふ

ぼくは、お前をいつまでも今のやうに思つてゐたい、いつまでも心のそこから 誰よりもかはゆく思つてゐたい、さうして出來るだけ よめなどをもらはずに お前一人をなつかしく思つてゐたい もつとも出來るだけお前もかたずかずにゐた方がいゝなどとは ぼくの口から云へたぎりではないけれども さうだつたらなほいゝやうな氣がする しかしこれは氣だけだ、ほんとうは ぼくの事なんかかまはずに いゝ所があつたらかたづいた方がいゝ、ぼくはどんなにつらくつてもがまんをする。さうして お前がかたづいた先の人としあはせにくらせるやうにいのつてやる、もしそのさきの人がお前をいぢめたりなんぞしたらしようち[やぶちゃん注:ママ。]しない、きつとぼくがかたきうちをしてやる。ほんとうのことを云へば、どこへもお前をやりたくない。やるにしても このままでやりたくない 十日でも一週間でも 一しよになかよくしてみたい お前のからだをぼくのものにしなくつても たゞ一しよにごはんをたべたり 外をあるいたりして見たい 誰も知つた人のない どこかとほいくにのちいさな村へ うちを一けんかりて そこにすむのだ。お前に ごはんをたいてもらつて ぼくが本をよんだり なにかかいたりする。

はたけへ くだもののなる木をたくさんうゑて その中へ小さなにはとり小屋もこしらへてやる。さうして二人で くだものをとつたり とりにえ[やぶちゃん注:ママ。]をやつたりするのだ 何をやるのも二人でするのでなくては つまらない それから そのくだものの木のかげで さう云ふふうにしづかに しあはせに ほんの一週間でもくらしてみたい(一生なら なほうれしいけれど)

ぼくは ほんとうに お前を愛してゐるよ お前もぼくのことさへわすれずにゐてくれゝばいゝ それでたくさんだ それより外のことをのぞむのは ぼくのわがまゝだと氣がついた たゞわすれずにゐておくれ

 

[やぶちゃん注:前掲の「芥川龍之介新辞典」の「吉村ちよ」のコラムの中の「片恋の歌」では、前の「芥川龍之介書簡抄13 / 大正二(一九一三)年書簡より(1) 二通」の山本喜与司宛書簡大正二(一九一三)年三月二十六日附に記された短歌の四首を掲げ、『この片恋の対象は、以前は』知られた芥川龍之介の敗れた初恋の相手として著名な『吉田弥生と目されていたが、時期が早いことから、ちよを想う歌と考えられるようになった』とある。私には物理的傍証がなく、吉田でないとも言えぬし、「ちよ」だとも断定は出来ないと思う。「片戀」が想像上の仮想でないと断言も出来ぬからである。

「得ちやん」芥川の七つ下の異母弟新原得二(にいはらとくじ 明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)。龍之介の実父新原敏三と実母フクの妹で、フクの死後に敏三の後妻となったフユとの間の子。

「おばさん」不詳。

「お冬さん」フユであろう。

「太田さん」不詳。新原家の使用人か。]

只野真葛 むかしばなし (27)

 

昔ばなし 二

 

 桑原のぢゞ樣は、何人の種(たね)なるや、しれず。

 むかし、壱人の男、木曾路を江戶のかたへおもむけて下りしに、六ツばかりのおのこ壱人つれて有しが、ふと、

「風のこゝち。」

とて、ふしたりしが、次第におもりて、五、六日のうちに、死す。

「懷中などに、もし、所書(ところがき)やある。」

と、求めしかど、いづちの人といふことも、しれず。

 小兒は、何のわきまへもなく、せんかたなくて、骸(から)をば、近きほとりにおさめ、童子をば、寺にあげて有しとぞ。

 さて、二年ばかりへて、橘隆庵(たちばなりゆうあん)樣、何用(なによう)有(あり)てか、木曾路通行(つうかう)有しに、寺にやどられしとぞ。

 八(やつ)ばかりの子、茶の給仕に出(いで)たるが、目にとまりて、愛らしくおもわれ候故、

「何人(なんぴと)の子なるや。」

と、たづねられしに、

「是は、ふしぎなることなり。かやうかやうの次第なり。」

と、和尙のかたられしを聞て、

「さあらば、我に、此兒、給り候へ。さるべき緣にや、いとふびんにて、ほしく候。」

と、いわれしを、

「ともかくも。」

と、まかせし故、つれて、くだられしとぞ。

 御子息の相手にしておかれしに、其兒、少々、人と、ことなる生(しやう)にて、さらに、かけはしり、くるひ、ほこること、なく、「大學」、少々をしへられしを、夜晝、書にのみむかひて有しとぞ。

 無理によび出して、相手にせらるゝを、きらいて、物に、かくれかくれしたりしを、いつも尋(たづぬ)ることなりしに、ある日、いかにたづねても、見つけぬこと、有。

「家中におらぬことは、あらじ。」

とて、くまぐま、のこりなく尋(たづね)しかば、風呂桶に入(いり)て、よく蓋《ふた》をして、書を見て有しとぞ。

 其よしを、隆庵樣へ申上(まうしあげ)しかば、

「さほど書物好(しよもつずき)なら、今より、相手をやめて、書を、よませよ。」

と、ゆるされし時のうれしさ、いふばかりなかりしとぞ。

 それより、ひしと、手習・書物にかゝりて有(あり)しほどに、物を引(ひき)のぶる樣に、上達をせしとぞ。

 これ、桑原のぢゞ樣なり。

 さて、後(のち)、忠山樣御世(みよ)に橘家(たちばなけ)へ被ㇾ仰しは、

「其(その)門弟の内、しかるべき人あらば、めしかゝへたし。」

と、有し時、殊に祕藏弟子なりし故、

「此もの、しかるべき人。」

とて、相出(あひいだ)されしとぞ。

 さる故に、橘家よりは、ながく、御親類同前に被ㇾ成しことなり。

[やぶちゃん注:「桑原のぢゞ樣」只野真葛の母方の祖父で仙台藩医であった桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号。読みは推定)。彼は元文五(一七四〇)年、数え四十一の時、二百石で仙台藩に召し抱えられており、当時の仙台藩藩主は第五代藩主伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)である(元禄一六(一七〇三)年に養父綱村が隠居に追い込まれて藩主就任。寛保三(一七四三)年七月に四男久村(宗村)に家督を譲って隠居)。

「橘隆庵」江戸幕府奥医であった二代目橘隆庵元孝(げんこう)。中村忠行氏の論文「桑原やよ子の『宇津保物語』研究」PDF)の「🉂」で本条にも触れながら、以下のようにある(一部に新字が混じる漢字表記はママで、太字は底本では傍点「ヽ」である)。

   《引用開始》

 やよ子は、長じて隆朝を夫に迎へた。隆朝については、『伊達世臣家譜』巻十七「署師之部」に、次の様な傳を掲げてゐる。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。]

親斯子隆朝如璋、學醫術於橘宗仙院某、自此世爲師家。宗仙院請令如璋仕于當家。因元文五年四月、獅山公之末、給廩米二百石始以醫擧、是月爲番醫。寛保元年六月進近習、三年六月屬世子【忠山公】。延享三年七月、忠山公之初、進奉藥。是年八月、稱述先是公在病床時、奉悃誠[やぶちゃん注:「こんせい」。真心を込めること。]藥應疾、加賜廩米二百石。於是爲今之禄。隠公亦賞賜銀二十枚、及越後縮二端。寶曆六年、忠山公捐館[やぶちゃん注:「えんくわん」薨去。]後、免奉藥爲番醫、相繼住于江戸。九年九月、今公之初、進于近習醫、屬于今夫人。如璋之子養純・綺明、遊倅命役夫之洽療。

 これは、謂はば、公的な履歴書とでも言ふべきものであるが、『むかしばなし』には、その生ひ立ちについて、又次の様な秘話を傳へてゐる。――すなはち、如璋は、もともと、木曽路で斃死した氏姓不明の旅人の連れてゐた子供で、さる寺に預けられてゐたのを、橘隆庵に拾はれた薄幸兒であつた。しかるに、幼時から讀書好きで、風呂桶に隠れてまでも讀書に耽る有様であつたのを見込まれ、その弟子に加へられ、後遂に伊達家に推擧されるに至つたものであると。眞葛が、『むかしばなし』を草したのは、その實家たる工藤家と桑原家(二代目及び三代目隆朝)との關係が、極めて險悪となつてから後のことである。從つて、其處には、多分に毒を含んだ要素が窺はれるけれども、恐らくは、事實を傳へるものであらう。「ぎやうぎあくまでよく、めぐみふかく、召使はるる人ども、よく御せわ被成しなり」と、眞葛からも評された隆朝如璋の爲人[やぶちゃん注:「ひととなり」。]は、さうした數奇な運兪が、却つて幸ひしたものと想像される。

 この隆朝の資質を、いちはやく見出した橘隆庵とは、二代目の隆庵元孝を指す。元來、この橘家は、藥師寺次郞左衛門公義の末葉であつて、もと本多能登守の家臣であつたが、元常の代に至つて幕醫となり、代々隆庵・宗仙院を號し、法眼・法印等に叙せられる者を輩出した。『寛政重脩諸家譜』によれば、元孝は、元禄五年十月、初めて常憲院(徳川綱吉[やぶちゃん注:二行割注。])に謁し、寶永三年二月出仕してから、漸次累進して奥醫となり、 法眼・法印に叙せられ、寛保元年七月には、城内での乗輿を許され、致仕後も、時々西城に登つて、將軍の起居を伺ふへき沙汰を蒙つた程、信望の厚かつ允た名醫であつた。

 隆朝が、この名醫の「殊更に秘蔵弟子」であつたことは、眞葛の記すところであるが、隆庵も亦この弟子を厚遇した様である。すなはち、隆朝が桑原家の婿養子に迎へられた際か、仕官する際であつたかは詳らかでないが、隆庵は隆朝を養子分とし、その後見をしてやつたらしい形跡がある。眞葛は、ただ「さる故に(筆者註―橘家に養はれた故に[やぶちゃん注:二行割注。])たちばな家よりは、ながく御親類同前に被成しことなり」(『むかしばなし』。巻二[やぶちゃん注:二行割注。])と記してゐるだけであるが、安政二年、眞山杢左衛門が、佐々城朴安に興へた前掲「桑原氏系譜賂略」には、「橘家の爲入夫被召出」とある。「爲入夫」を、文字の儘に解釋すれば、女婿となつたことになるが、それでは眞葛の記述と符合しないから、恐らくは形式的なものであつたらう。蓋し、杢左衛門は、只野伊賀守行義の二男で、眞山家の養子となつた人。眞葛は、行義の後室であるから、杢左衛門にとつては繼母となる訣であり、從つて、系圖に記すところも、亦信憑するに足るものと、考へられるからである。隆朝の名は、恐らくこの時に與へられたものに相違なく、隆庵のそれにあやかるものであらうことは贅するまでもない。

   《引用終了》

「何用(なによう)有(あり)てか、木曾路通行(つうかう)有し」幕府奥医であるのに、木曾路となると、私には漢方本草の採取ぐらいしか思い浮かばぬ。

「忠山樣」仙台藩第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号(戒名「政德院殿忠山淨信大居士」)。]

只野真葛 むかしばなし (26) /「むかしばなし 一」~了

 

○桑原のをぢ樣・をば樣は、世上の人には、よく、したしみ、下人などにも、めぐみふかき人なりしが、工藤家へ對しては、〆(しめ)が怨念のなすわざにや、あくまで、卑しめ、をとしめて、恥をあたへ、『こゝろよし』とおもはれしなり。【桑原家は、はやりで、さかりなり。工藤家は貧にて有し故、病家より、進物も少しなり。】[やぶちゃん注:原頭註。]

 そのかたはしを、一ツ、いはゞ、夏むき物の、味のかはる時、諸方より、魚類をもらひかさね、義理首尾のなるだけは、人にくれつくし、上下(うへした)、食(くひ)あきて後(のち)、

「おけば、くさるゝ、犬にやらうか、工藤家へやらうか。」

といふ時ばかり、物を送らるゝ故、何をもらひても、

「又、あまし物ならん。」

と、うき心の先立(さきだち)て、うれしとはおもはず、うらみをかくして、こなたよりは、わざわざ、とゝのへたる物にて、禮をせしなり。

 今の隆朝(りゆうてう)代(だい)となりては、いや、ますますに、何のわけもなく、工藤家ヘ衰《をとろふる[やぶちゃん注:ママ。]》が、よろこばしき下心にて有し。

 先年の大火に類燒以後は、源四郞、かんなん申(まうす)ばかりなく、やうやう、もとめし藪小路の家へいるやいなや、枕もあがらぬ大病、終(つひ)に、はかなく成し後、日頃いやしめ、をとしめられし桑原へ、跡式《あとしき》のすみしぞ、口をしき。

 隆朝は、若氣のいちずに、人のおもはんこともはからず、煙の中より、やうやうと、からく、たすけし諸道具・家財、家内の人の見る前にて、「見たをしや[やぶちゃん注:ママ。]」をよびて、うり拂(はらひ)、金五十兩となしたるは、むざんなることなりし。

「かゝることゝしりたらば、何しにか、助けいだしけん、いつそ、燒いてしまへばよかつた。」

と、家内の人は心中になげき、うらみて有しなり。

「書物は、養子方へ、ゆづりに。」

とて、わたしたちしをも、引(ひき)いだして、うり代(しろ)なせしとは聞しが、『誠か、うそか』と思ひて有しを、さる人の、

「此地の本屋にて、父の判のすわりし本を見あたりし。」

とて、

「哀(あはれ)、はかなき代(しろ)や。あれ程、名だかき人のもたれし書の、いくほどもなく散行(ちりゆく)は、いかなる人か、あとに立(たち)し。」

と、なげき語しことありし。

 他人の目にだにも、なげかはしく見ゆるを、まさしき子の身として、いかで、うらみをふくまざらめや。

[やぶちゃん注:「隆朝」真葛の母方の祖父で仙台藩医桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)の後を継いだ、真葛の母「お遊」の弟桑原隆朝純(じゅん)。既に注した通り、真葛の弟源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで過労からくる発病(推定)により、急死した。これによって、工藤家は跡継ぎが絶えたため、母方の従弟である桑原隆朝如則(じょそく:読みは推定)の次男で、まだ幼かった菅治が養子に入り、後に工藤周庵静卿(じょうけい:読みは推定)を名乗ることとなった(「跡式《あとしき》のすみし」はそれを指す)。男兄弟がいなくなったとはいえ、未婚の女子もある以上、婿養子という形の相続もあり得たが、桑原如則の思惑に押し切られる形で話が進んだという。如則は、また、ここに書かれている通り、工藤家の大切な家財道具や亡父平助の貴重な蔵書を、家人がいる前で、悉く、売り払ってしまったのである(以上はウィキの「只野真葛」に拠った)。

「先年の大火」江戸三大大火の一つである「文化の大火」。文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)に発生。出火元は芝の車町(現在の港区高輪二丁目)の材木座付近で、午前十時頃に出火し、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼し、折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、さらに京橋・日本橋の殆んどを焼失、更に火勢止むことなく、神田・浅草方面まで燃え広がった。翌日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に五百三十町に及び、焼失家屋は十二万六千戸、死者は千二百人を超えたとされる。このため、町奉行所は被災者のために江戸八ヶ所に「御救小屋(おすくいごや)」を建て、炊き出しを始め、十一万人以上の被災者に御救米銭(支援金)が与えられた。

「かんなん」「艱難」。

「藪小路」愛宕下藪小路。現在の虎ノ門一丁目(グーグル・マップ・データ)の内。

「見たをしや」「見倒し屋」歴史的仮名遣は「みたふしや」が正しい。品物・古物を極めて安く評価して買い取るのを職業とした屑屋・古道具屋・古着屋などの類い。]

 

○源四郞、進代(しんだい)、御國わたりにて有しを、とかく、燒印(やきいん)のまちがい、でくるにより、願(ねがひ)の上、やうやう、江戶わたりに被仰付しに、存生中(ぞんしやうちゆう)、一度も、うけとらず、桑原家の手に、いる。はじめより、骨をらずにうけとることゝ成しを、家内の人、見聞ては、

「『犬、骨折(ほねをり)て、鷹に、とらする』とかいふ、たとへのごとし。」

と、口惜しがりて有しも、ことわりなり。

 今は、やつかい、壱人もなく、ますます、桑原家のとめる世と成(なり)はてしを、親に孝ある人の、おめおめと、見しのぐべきことかは。

 源四郞があとは、すてたるものとして、

『哀(あはれ)、我身、御みやづかへの御緣もあらば、身を八ツにさくとても、工藤平助といふ一家の名ばかりは、殘さんものを。』

と、天にいのり、地にふして、おもひ、やむとき、なし。

[やぶちゃん注:「進代」身代。

「御國わたりにて有し」禄が仙台の本城から給付されたということか。

「燒印(やきいん)のまちがい、でくる」意味不明。給付状の禄高の証明印に誤りがあったということか。

「江戶わたり」江戸藩邸で処理した直接の禄給付ということか。

「犬、骨折て、鷹に、とらする」「犬、骨折つて、鷹の餌食(えじき)となる」。鷹狩りでは犬が、折角、骨折って追い出した獲物も、鷹に取られてしまう。苦労して得たものを他人に横取りされることの喩え。

 これを以って「むかしばなし 一」は終わっている。]

只野真葛 むかしばなし (26) /「むかしばなし 一」~了

 

○桑原のをぢ樣・をば樣は、世上の人には、よく、したしみ、下人などにも、めぐみふかき人なりしが、工藤家へ對しては、〆(しめ)が怨念のなすわざにや、あくまで、卑しめ、をとしめて、恥をあたへ、『こゝろよし』とおもはれしなり。【桑原家は、はやりで、さかりなり。工藤家は貧にて有し故、病家より、進物も少しなり。】[やぶちゃん注:原頭註。]

 そのかたはしを、一ツ、いはゞ、夏むき物の、味のかはる時、諸方より、魚類をもらひかさね、義理首尾のなるだけは、人にくれつくし、上下(うへした)、食(くひ)あきて後(のち)、

「おけば、くさるゝ、犬にやらうか、工藤家へやらうか。」

といふ時ばかり、物を送らるゝ故、何をもらひても、

「又、あまし物ならん。」

と、うき心の先立(さきだち)て、うれしとはおもはず、うらみをかくして、こなたよりは、わざわざ、とゝのへたる物にて、禮をせしなり。

 今の隆朝(りゆうてう)代(だい)となりては、いや、ますますに、何のわけもなく、工藤家ヘ衰《をとろふる[やぶちゃん注:ママ。]》が、よろこばしき下心にて有し。

 先年の大火に類燒以後は、源四郞、かんなん申(まうす)ばかりなく、やうやう、もとめし藪小路の家へいるやいなや、枕もあがらぬ大病、終(つひ)に、はかなく成し後、日頃いやしめ、をとしめられし桑原へ、跡式《あとしき》のすみしぞ、口をしき。

 隆朝は、若氣のいちずに、人のおもはんこともはからず、煙の中より、やうやうと、からく、たすけし諸道具・家財、家内の人の見る前にて、「見たをしや[やぶちゃん注:ママ。]」をよびて、うり拂(はらひ)、金五十兩となしたるは、むざんなることなりし。

「かゝることゝしりたらば、何しにか、助けいだしけん、いつそ、燒いてしまへばよかつた。」

と、家内の人は心中になげき、うらみて有しなり。

「書物は、養子方へ、ゆづりに。」

とて、わたしたちしをも、引(ひき)いだして、うり代(しろ)なせしとは聞しが、『誠か、うそか』と思ひて有しを、さる人の、

「此地の本屋にて、父の判のすわりし本を見あたりし。」

とて、

「哀(あはれ)、はかなき代(しろ)や。あれ程、名だかき人のもたれし書の、いくほどもなく散行(ちりゆく)は、いかなる人か、あとに立(たち)し。」

と、なげき語しことありし。

 他人の目にだにも、なげかはしく見ゆるを、まさしき子の身として、いかで、うらみをふくまざらめや。

[やぶちゃん注:「隆朝」真葛の母方の祖父で仙台藩医桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)の後を継いだ、真葛の母「お遊」の弟桑原隆朝純(じゅん)。既に注した通り、真葛の弟源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで過労からくる発病(推定)により、急死した。これによって、工藤家は跡継ぎが絶えたため、母方の従弟である桑原隆朝如則(じょそく:読みは推定)の次男で、まだ幼かった菅治が養子に入り、後に工藤周庵静卿(じょうけい:読みは推定)を名乗ることとなった(「跡式《あとしき》のすみし」はそれを指す)。男兄弟がいなくなったとはいえ、未婚の女子もある以上、婿養子という形の相続もあり得たが、桑原如則の思惑に押し切られる形で話が進んだという。如則は、また、ここに書かれている通り、工藤家の大切な家財道具や亡父平助の貴重な蔵書を、家人がいる前で、悉く、売り払ってしまったのである(以上はウィキの「只野真葛」に拠った)。

「先年の大火」江戸三大大火の一つである「文化の大火」。文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)に発生。出火元は芝の車町(現在の港区高輪二丁目)の材木座付近で、午前十時頃に出火し、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼し、折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、さらに京橋・日本橋の殆んどを焼失、更に火勢止むことなく、神田・浅草方面まで燃え広がった。翌日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に五百三十町に及び、焼失家屋は十二万六千戸、死者は千二百人を超えたとされる。このため、町奉行所は被災者のために江戸八ヶ所に「御救小屋(おすくいごや)」を建て、炊き出しを始め、十一万人以上の被災者に御救米銭(支援金)が与えられた。

「かんなん」「艱難」。

「藪小路」愛宕下藪小路。現在の虎ノ門一丁目(グーグル・マップ・データ)の内。

「見たをしや」「見倒し屋」歴史的仮名遣は「みたふしや」が正しい。品物・古物を極めて安く評価して買い取るのを職業とした屑屋・古道具屋・古着屋などの類い。]

 

○源四郞、進代(しんだい)、御國わたりにて有しを、とかく、燒印(やきいん)のまちがい、でくるにより、願(ねがひ)の上、やうやう、江戶わたりに被仰付しに、存生中(ぞんしやうちゆう)、一度も、うけとらず、桑原家の手に、いる。はじめより、骨をらずにうけとることゝ成しを、家内の人、見聞ては、

「『犬、骨折(ほねをり)て、鷹に、とらする』とかいふ、たとへのごとし。」

と、口惜しがりて有しも、ことわりなり。

 今は、やつかい、壱人もなく、ますます、桑原家のとめる世と成(なり)はてしを、親に孝ある人の、おめおめと、見しのぐべきことかは。

 源四郞があとは、すてたるものとして、

『哀(あはれ)、我身、御みやづかへの御緣もあらば、身を八ツにさくとても、工藤平助といふ一家の名ばかりは、殘さんものを。』

と、天にいのり、地にふして、おもひ、やむとき、なし。

[やぶちゃん注:「進代」身代。

「御國わたりにて有し」禄が仙台の本城から給付されたということか。

「燒印(やきいん)のまちがい、でくる」意味不明。給付状の禄高の証明印に誤りがあったということか。

「江戶わたり」江戸藩邸で処理した直接の禄給付ということか。

「犬、骨折て、鷹に、とらする」「犬、骨折つて、鷹の餌食(えじき)となる」。鷹狩りでは犬が、折角、骨折って追い出した獲物も、鷹に取られてしまう。苦労して得たものを他人に横取りされることの喩え。

 これを以って「むかしばなし 一」は終わっている。]

只野真葛 むかしばなし (25)

 

○父樣には權門方(けんもんがた)の御用は數年御勤被ㇾ成しが、「病用は御家中ばかりにて、上の御用にたゝぬ」ことゝて、折々、なげかせられしを、德三郞樣御二歲の秋、御大病の節、御奉藥被ㇾ仰付しを、殊の外、御悅(およろこび)にて有し。誠に御大病にて、人もなきものとし奉るほどのことなりしを、おもひの外に御本復被ㇾ遊しかば、其御ほうびとして、嶋ちゞみ二反・銀子五枚被ㇾ下し。有がたきことながら、御家にてこそ、御次男樣とて、をとしめ奉れども、世上にては、父君ましまさぬ御代の御次男樣故、御世つぎ同前とぞんじ上(あげ)し故、

「逢(あふ)人ごとに、『此ほどは大御手(おほおて)がらなり。さて、御ほうびはいか樣のしな被ㇾ下しや。』と、たづねらるゝ挨拶にこまりし。」

と被ㇾ仰し。

「其節《ふし》は、あかぬことのやうにおもはれしが、今となりて考れば、いさゝかにても御加恩がましきこと有(あり)て、人のたからと成(なり)はてなば、いかばかり心にかゝらん、何事なきぞ心やすき。」

と、かへすがへす、おもはれたり。

[やぶちゃん注:「德三郞樣」これは、実際に後の仙台藩第十代藩主となった伊達斉宗(なりむね 寛政八(一七九六)年~文政二(一八一九)年)の幼名である。寛政八年九月十五日(一七九六年十月十五日)に第八代藩主伊達斉村の次男として江戸袖ヶ崎の下屋敷にて誕生(母は喜多山美昭(藤蔵)の娘)したが、父斉村は既に同年七月二十七日に死去しており(仙台城で病没。享年二十三)、父の死去後の出生である。工藤丈庵平助は宝暦四(一七五四)年に二十一歳で工藤家三百石の家督を継ぎ、仙台藩江戸詰藩医を継いでいるから問題ない。寛政九(一七九七)年当時の平助は六十四歳(平助は寛政十二年十二月十日(一八〇一年一月二十四日)没)であった。斉宗は文化元(一八〇四)年に上屋敷に引越しており、同年に水痘を患ったが、後に全快している。逆に、文化六(一八〇九)年に兄で第九代藩主を形式上(後注参照)継いでいた周宗(生後一年足らずで仙台藩主を相続した。本来なら将軍の御目見を得た後継者でないため、相続出来ないはずであるが、斉村の死去を幕府や家臣に隠した上、親族の若年寄堀田正敦(近江国堅田藩主。後に下野国佐野藩主)や土井利謙(三河国刈谷藩主)、重村の正室で養祖母であった観心院とが協議し、幕府に対して末期養子での相続願いを出した上で襲封、同時に当代の第十一代将軍徳川家斉の三女綾姫と婚約した)が、文化六(一八〇九)年一月四日に十四歳で疱瘡に罹り、その後遺症のため、三年間、表に出られず、代わりに徳三郎(後の斉宗)が儀式や接客を担当した――というのは表向きで実際には疱瘡のために周宗は十四歳で没していた可能性が高い。文化八(一八一一)年に周宗の偏諱を受け、文化九(一八一二)年に兄周宗が〈初御目見なしの隠居〉という特例下の藩主就任に続く隠居を受けて家督相続した(以上は両兄弟の当該ウィキに拠った)。この事実はウィキの「工藤平助」にも載せられており、寛政九年七月には『第八代藩主伊達斉村の次男で生後』十『ヶ月の徳三郎(のちの』第十代藩主『伊達斉宗)が』、『熱病のため』、『重体に陥ったものの』、『平助の治療により』、『一命を取りとめた。平助はその褒賞として白銀』五『枚、縮』二『反を下賜された』とある。

「嶋ちゞみ」山繭糸を入れて織り出した縮緬。山繭糸は染色によって染まらないので自然と縞が出る。ちまちり。]

2021/03/29

越後國里數幷日蓮上人まんだら義經謙信等故事

 

○越後國と信濃國とはうしろあはせの國にして、越後のながさ九十二里なれば、信濃の長さも九十二里なり。越後は長き國にて、北海より信濃のさかひまでは甚だせまく、六七里十里に及べる所のみ也。此九十二里さながら北國海道にて荒磯を行(ゆき)、「親しらず」などいふ所は殊に恐ろし。懸崖絕壁のもとを通ふ道にて、荒波うちよせて道をひたし、前後によくベき所なし、五六間のあはひ殊に難所也。北國海道越後までは田舍の風俗なり、能登國に入(いり)てやうやく人物かはれり。越後てらとまりに石川七左衞門といふもの有、日蓮上人佐渡へ流罪の時止宿ありし家なり。此もののかたに上人附屬のまんだらを所持せしが、前年身延山へ納めて、其請取證狀今に所持せりとぞ。又其家のむかひに酒屋あり、源九郞義經奧州くだりの時止宿ありし家にて、よしつね辨慶等の謝狀今に所持せしといへり。新潟といふ所は殊に繁華の都會なり。又其國の春日山は上杉謙信の古城跡也、高山にして山上に古井有、廣さ四五間ひでりにも水たゆる事なし。里民雨乞をするとき、石を此井に投ずればかならず雨降(あめふる)といふ。越後海道に出て望めば、目にかゝるものは佐渡の國と能登の國ばかり也。能登の出崎と佐渡のあはひは、わずかに四五間ばかりはなれたる樣に見ゆれども、廿里よをへだてたる所なり。晴天にはありありと山の姿手にとるほどにみゆるといふ。越後出雲崎の船問屋は關東屋彌平といふもの殊に大家也、四方入津(にふしん)の舟こゝにやどらずといふ事なく切れもの也。

[やぶちゃん注:「越後のながさ九十二里」三百六十一キロメートル。これはかなり大雑把な内陸直線の距離で、珍しく過小と言える。現行では、「新潟県統計年鑑」(二〇一八年)によれば、現在の新潟県の海岸線の総延長は六百三十四キロメートルにも及ぶからである。

「信濃の長さも九十二里」こちらは過大。信濃国は現在の長野県と岐阜県中津川市の一部が含まれるが、長野県で東西約百二十八キロメートル、南北約二百二十キロメートルで、南北距離で中津川をそのままドンブリで算入しても約二百五十キロメートルほどにしかならないと思われる。こちらは、どこをどう計算したものか、よく判らない。

「北海より信濃のさかひまでは甚だせまく、六七里十里に及べる所のみ也」二十三半から二十四キロメートル半であるが、現行、最も短いのはフォッサ・マグナの糸魚川線で、約十四キロメートルであるから、過大である。

「てらとまり」現在の新潟県長岡市寺泊上片町に寺泊港(グーグル・マップ・データ)はある。

「石川七左衞門」不詳。

「日蓮上人佐渡へ流罪の時止宿」確かに日蓮は流罪の際には寺泊から佐渡に渡らせている。

「附屬」謝礼として添えて与えたものの謂いであろう。

「まんだらを所持せしが、前年身延山へ納めて、其請取證狀今に所持せりとぞ」確認出来ない。この「まんだら」とは無論、「曼荼羅」で、「南妙法蓮華經」の文字に拠る独自の文字曼荼羅であろう。鎌倉の妙本寺にある日蓮「臨滅度時の御本尊」と呼称される「十界曼荼羅」のようなものと思われる。私の「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」の項に画像を置いてある。参照されたい。

「其家のむかひに酒屋あり、源九郞義經奧州くだりの時止宿ありし家にて、よしつね辨慶等の謝狀今に所持せしといへり」源義経が奥州平泉の藤原秀衡を頼って逃げのびた際、一行が海上で遭難して寺泊へ漂着し、土地の豪族五十嵐邸へ身を寄せて、幾日間、逗留したという伝承がある。サイト「新潟伝承物語」の「弁慶の手掘井戸」に、『五十嵐氏は人々の目を避けるために、後庭にあった浴室に』一行を匿い、『従者の弁慶が義経の手洗いや』、『洗顔の用にと』、『わざわざ』、『その裏に井戸を掘ったと伝えられてい』るとある(地図有り)。

「春日山は上杉謙信の古城跡也」新潟県上越市中部にある春日山(かすがやま)。標高百八十九メートル。北に越後府中であった直江津と日本海を望み、南に高田城下を望み、高田平野を一望出来、戦国時代には、この山頂に後に上杉謙信の本拠地となる春日山城が築かれ、北陸地方屈指の城砦として名を馳せた。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「能登の出崎」狭義には七尾港の出崎(現在の矢田新町と万行町の境の海岸)を言うが、ここはその東北の能登観音埼のことであろう。但し、これを能登半島の狼煙(のろし)などのある出崎という一般名詞でとることも可能。

「四五間」七・五~九・一メートル。蜃気楼かい!

「廿里よ」七十八・五四キロメートル。先の能登観音崎からは百二十八キロメートル、狼煙の禄剛崎からなら、八十四キロメートル。禄剛崎は、中二の時、友人と能登半島を一周した時の、思い出の場所。その後も、二度行った、私の能登の特異点である。

「越後出雲崎」新潟県三島郡出雲崎町

「船問屋」「關東屋彌平」現在の新潟県三島郡出雲崎町尼瀬(あまぜ)の、旧年寄に関東屋弥兵衛の名を古文書の中に確認出来る。

「切れもの」敏腕家。やり手。]

只野真葛 むかしばなし (24)

 

○工藤のばゞ樣は、愛宕下(あたごのした)か、西のくぼか、たしかにはおぼへねど、五六萬石くらいの大名の家中に、筋、ことに、おりおり、御取あつかひ有し、一家老の初子(うひまご)にて、御兩親の祕藏なりしが、十六に成(なり)ても、幼な子のごとく、なでいつくしみてのみ、そだてられて、筆とることをさへ、ならはせられざりしとなり。

「人中(じんちゆう)見ならいのため。」

とて、十六の春、おなじ奧へ上られしに、かたへの人々、目引袖引(めひきそでひき)、

「十六になるものに、『いろは』をだに、をしへず、育てしことよ。」

と、わらひしを、御殘念におぼしめされ、

「いで、其事なら、人にわらはれじ。」

と、おぽし立(たち)て、文(ふみ)がらをひろひて、人の寢しづまりたるあとにて、手ならいを被ㇾ成しに、夏は蚊のくるしさに手ぬぐひを頰かぶりにしてならわせ[やぶちゃん注:ママ。]られしとなり。

 利發のうへ、氣根もよかりしかば、半年にて、文を書(かき)ならい[やぶちゃん注:ママ。]、一年といへば、始(はじめ)わらひし人には、まして、とりまわし、文を書(かか)れし故、二年めには御代書(おだいしよ)まで仰付られしとなり【是は小家(せうか)のこと故、御引立の故に被仰付しことなり。大家とは、ことなり。】[やぶちゃん注:原割注。]。此事は、ワ、をさなきより、

「人といふものは、ならぬとて、すてぬものぞ。我などは、かやうにて有し。」

と、度々御敎訓に御はなし被ㇾ遊しことなり。

 ばゞ樣、里の名、しかとおぽえねど、名なくてはまぎらはしき故、おしあてに、つけたり。石井氏、大右衞門とか、其ぢゞ樣の名は、いひし。

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[やぶちゃん注:以下の紋所の真葛の自筆画。底本よりトリミングした。]

 細輪に石疊の紋なりし。

 ばゞ樣、弟宇右衞門といひし人、常に、きたりて、酒のみしも、おぼえたり。男と女の子有(あり)て、妻、不幸し、其後(そののち)、妻に「お秀」は來りしなり。

 お秀は、旗本衆の家中の娘、おなじ奧につとめて、ばゞ樣と朋輩なりしが、髮結(かみゆひ)、もの縫(ぬひ)、細工に達し、作花(つくりばな)上手、人ざはりよく、殊の外、首尾よく、奧樣御ひいきの餘り、家中一番の家柄へ御世話にて被ㇾ成し人なり。

 あしかれとは、かられしことには、あらざりしを、不仕合(ふしあはせ)は、其身に付(つき)たるものなれば、のがれがたし。

 先(まづ)、まゝ子の惣領順治といひしが、十一くらい[やぶちゃん注:ママ。]にも有しが、大惡黨、其くせ、見目すがたのよきことは天晴(あつぱれ)美男にて、ぢゞばゞの大祕藏、まゝ母をいぢめて、

「髮をそろへてやらん。」

と、すれば、

「いたひ。いたひ。」[やぶちゃん注:ママ。]

と、顏、しかめて、ぢゞばゞに、母の手あたり、あらきていに見せ、萬事、そのふりに、こまらせる、くめんばかり。妹(いもと)は、七、八に成し、是、今の「はつえ」なり。とがもなきものを、むたいにいぢめまわす故、とりさゆれば、

「まゝ母は、妹のひいきばかりして、兄をあしくあたる。」

と、兩親の手まへ、あしく成(なり)、などゝいふ樣なことにて、日夜あけしき間(ま)もなく、其内懷姙の男子、「半くろ」なり。二、三の時、兩親、死去。やうやう、其身の世となり、「うれしや」と、おもひもあへず、宇右衞門といふ人は、一向、とりつまらぬ生(しやう)、

「若且那、若且那。」

と、いはれし内は人並らしかりしが、兩親無(なく)なりては、大べらぼうにて、御用もわからず、やたら、無性(むしやう)に借金ふへ[やぶちゃん注:ママ。]、公訴(こうそ)うつたへに成(なり)しが、身分不相應のことなりしを、かくべつの家がら故、一度は、すくひ被ㇾ下(くださる)といふことにて、

「尤(もつとも)おもだちたる親類よりも、おぎなへ。」

とて、父樣よりも三十兩御みつぎ被ㇾ成しとなり。柳原の熊谷與左衞門も、ばゞ樣御妹の子なれば、おなじつゞきにて、つぐのひ金、被ㇾ成しなり。それですんだことかとおもへば、

『餘り、借金おほくて、氣の毒。』

とて、座頭金(ざとう《かね》)三口有しを、かくして置しとなり。

「身代をつぶす人の了簡は別なものなり。」

と被ㇾ仰し。

「ねだれば、でる。」

と見て、一年過(すぎ)て、又、公訴に成し故、

「この度(たび)は、かんにん成がたき。」

とて、御いとま出(いだ)し、となり。

 浪人被ㇾ成てより、工藤家より世話被ㇾ成しことは、おびだゝしきことなりし。尾張町ゑびす屋の隣に、間口三間の明棚(あきだな)有しを借りて、普請被ㇾ成、皆、此かたより、持出(もちだ)しにて、藥みせをひらき被ㇾ遣(つかはせられ)しなり。

 みせびらきには、「三ますや三十郞」といふ獨樂(こま)まわしを賴(たのみ)、三日のうちは、獨樂、まはして、人に見せしなり。

 諸(もろもろ)入用(いりよう)二百兩ばかりもつゐへしなり。

 かへ名は安田與市として、のふれんは、紺に菊壽。其頃、きくじゆ、大はやりなりし。「藥、きゝて、壽、ながゝれ」とや、おぼしよりけん、花《くわ》らしきことにて有し。

 されど、ほどもなく、與市、亂心して、仕方なく築地の弟子部屋の角(すみ)に、二疊敷の所(ところ)有しを、かりの牢にしつらひて、入(いれ)おきしが、夜の間に、ぬけいで、行(ゆき)がたしれず、色々たづねしかども、終(つひ)にみかけざりし。

 其頃、半右衞門が弟の「とら次郞」、二(ふたつ)ばかりにて、乳のみ子なりし。

 石井家へ來りて、お秀の心勞、誠に、あけしき間(ま)は、なかりしなり。

 

[やぶちゃん注:「工藤のばゞ樣」真葛の父方の(養)祖父に当たる工藤安世(やすよ 元禄八(一六九五)年~宝暦五(一七五五)年)の二十三歳年下の上津浦ゑん。

「愛宕下」愛宕ノ下は現在の港区新橋・西新橋附近。

「西のくぼ」西窪で東京都港区虎ノ門にあった旧地名か。

「筋、ことに」家柄、これ、特別で。

「いで、其事なら、人にわらはれじ。」「何の! そのようなことならば、人には笑われまいぞ!」。

「文(ふみ)がら」「文殻」。同役の女中らに送られてきて、読み終って不要になって捨てられた手紙。文反故 (ふみほうご) 。

「とりまわし」仕事の処理上の書類を順に取って回すために。

「御代書」奥方さまの右筆役。

「細輪に石疊の紋」正確には画像のそれに細輪はその外周に白い細輪があるものを指す。

 ばゞ樣、弟宇右衞門といひし人、常に、きたりて、酒のみしも、おぼえたり。男と女の子有(あり)て、妻、不幸し、其後(そののち)、妻に「お秀」は來りしなり。

「作花」造花。

「あしかれとは、かられし」よく意味が分からぬが、「あしかれ」は「良かれ悪しかれ」で、「かられしことには、あらざりしを」は「専ら、自身の強い意志や感情が原因となって生ずるものではないのだけれども」の謂いであろう。女として不平等な宿命的なものを感じやすい真葛の謂いとして、私には判る気がする。

「あらきてい」「荒き體」。

「そのふりに」「其の振りに」。そうした似非(えせ)の芝居をして。

「くめん」「工面」。せこく狡猾な工夫。

「とりさゆれば」「とり」は動詞の強調の接頭語で、「さゆ」は「障(さ)ふ」の訛りであろう。無体に妹をいじめるのを、やめるように仲に入ると、の意であろう。

「兩親の手まへ、あしく成(なり)」順治のことがお気に入りである、夫の父母の手前、彼の噓によって、気まずいこととなり。

「日夜あけしき間(ま)もなく」そんなこんなで、一時として気がさわやかに晴れる間もなく。

「半くろ」半九郎という名か。

「其身の世となり」父の両親へ気遣いをせずにすむ身となり。

「大べらぼう」話にならないほどの大馬鹿者・社会的失格者であること。

「公訴(こうそ)うつたへ」借金不返済で公事方に訴えられてしまうこと。

「身分不相應のことなりしを」現在の実質的な実態からは凡そ情状酌量などありえないはずのところだったのだけれども。

「かくべつの家がら故」父祖が格別の家柄であったことから。

「尤(もつとも)おもだちたる親類よりも、おぎなへ。」「最も近親である親類や親しい者たちも、この者のために、借金を肩代わりして補填してやれ。」という温情のとりなしが、お上からあったということを指す。

「父樣」真葛の父。実際には血も縁も繋がっておらず、親しくもなかったであろうに。

「柳原」現在の足立区南部の千住地域東部に位置する柳原か。

「熊谷與左衞門」不詳。

「座頭金」(ざとうがね)は「盲金 (めくらがね)」 とも呼んだ。江戸時代、盲人の行なった高利貸しの貸し金を指す。盲人は当道座(とうどうざ)という視覚障碍者仲間の組織を作っており、幕府は盲人保護という立場から当道座が所有する金を官金扱いにし、貸付け・利子を収める特典を許していた。「官金貸付け」とは「幕府の貸付金」を意味することから、貸倒れの危険も少なく、安全有利であったことから、町人たちは利殖のために資金を提供したし、盲人たちも幕府の庇護のもとに高利を得ることが出来たのである。

「御いとま出(いだ)し、となり」かくなっては、当時の彼を雇っていた主家の武家が暇を出したということである。

「尾張町」中央区銀座五・六丁目。

「ゑびす屋」「江戸名所図会」にも絵が載る有名な呉服店。現在の松坂屋の前身の一つ。松坂屋大阪店の前身であった「ゑびす屋呉服店」の創業者は、第八代将軍吉宗とは紀州での幼馴染みで、その屋号も吉宗から贈られた蛭子(ゑびす)の神像に由来すると伝えられている。吉宗が将軍になると、このゑびす屋も江戸に進出し、尾張町に店を構えたのであった。

「三間」五・四五メートル。

「此かた」工藤安世の家。だから、「藥みせ」なのである。

をひらき、被ㇾ遣しなり。

「三ますや三十郞といふ獨樂(こま)まわし」不詳。

「のふれん」「暖簾」元の発音の「のんれん」「のうれん」(「のん」「のう」は暖」の唐音)の音変化の訛り。元は禅家で簾(す)の隙間を覆って風除けとした布の帳(とば)りを指して言ったもの。ここは、今の「のれん」で、商家で屋号・店名などを記して軒先や店の出入り口に懸けておく布のこと。

「菊壽」「きくじゆ」歌舞伎俳優二代目瀬川菊之丞が使用し、安永・天明(一七七二年~一七八九年)頃に流行した染模様で、菊の花と寿の字を交互に染め出したもの。

「花《くわ》らしきことにて有し」意味不明。「日本庶民生活史料集成」では『花々しきことににて有し』で、躓かずに読める。

「弟子」工藤安世の弟子。

『半右衞門が弟の「とら次郞」』石井宇右衛門と「お秀」の間にできた子が先の「半ろく」でこの半右衛門であり、その下が「とら次郞」なのであろう。]

芥川龍之介書簡抄23 / 大正三(一九一四)年書簡より(二) 四通

 

大正三(一九一四)年二月四日・牛込區赤城元町竹内樣方 山本喜譽司樣(葉書)

 

土曜から風邪で寐てゐます 一時は9度6分程も熱が出てくるしみましたが今はもう大分よくなりました 君の手紙は床の上でよみました 返事が遲れてすみませんが 熱があつて何をするのも臆劫だつたのです 木曜には學校へ半日ばかり出てみやうかと思ひます 熱がさめた時に靑空をみたらうれしうござんした

   草と木との中にわれは生きてあり日を仰ぎてわれは生きてあり草と木との如くに

 

[やぶちゃん注:短歌のために採用した。この八日後の二月十二日、第三次『新思潮』を創刊している。既注であるが、再掲しておくと、龍之介が傾倒していたフランスの作家アナトール・フランス(Anatole France  一八四四年~一九二四年)が一八八九年に書いた「バルタザール」(Balthazar)の翻訳で、「バルタサアル(アナトオル・フランス)」の標題で「柳川龍之介」名義であった。後の大正八(一九一九)年七月発行の雑誌『新小説』に「バルタザアル」の標題で「芥川龍之介譯」の署名で再録され、後の作品集「影燈籠」・「梅・馬・鶯」に収録された。編年体の旧「芥川龍之介」全集の第一巻巻頭に配されたそれである。ジョン・レイン夫人(Mrs. John Lane)の英訳(一九〇九年)からの重訳で、同人間では高評を博した。「青空文庫」のこちらで新字旧仮名で読める。]

 

 

大正三(一九一四)年三月十日井川恭宛(封筒欠)

        一九一四、三、十 新宿にて

井川君

先達は早速イエーツを送つて下すつて難有う 又其節の八つ橋も皆で難有頂戴してゐる

手紙を出さうと思つてかいたのもうちの番頭が急病で死んだものだからいろんな事に紛れて遲れてしまつた 君は知つてゐるだらうと思ふがなくなつたのはうち(新宿の)の店にゐたおぢいさんだ 成瀨が電話をかけると牛のなくやうな返事をすると云つたおぢいさんだ

病氣は心臟の大動脈弁の閉鎖で發作後十五分ばかりでもう冷くなつてしまつた それ迄は下女と大正博覽會の話をしてゐたと云ふのだからかはいさうだ 見てゐるうちに耳から額へ額から眼へひろがつてゆく皮膚の變色を(丁度雲のかげが日向の野や山へ落ちるやうに)見てゐるのは如何にも不氣味だつた 水をあびたやうな汗がたれる かすれた聲で何か云ふ 血も少しはいた

今朝六時の汽車で屍體は故鄕(くに)へ送つたが二日も三日も徹夜をしたのでうちのものは皆眼ははらしてゐる 帳面をぶら下げた壁や痕だらけの机のある狹い店ががらんと急に廣くなつたやうな氣がする

こんな急な死に方をみると すべての道德すべての律法が死を中心に編まれてゐるやうな氣がしないでもない くにから死骸を引取りに來た親類の話によると、なくなつた晚にかけてない目ざまし時計が突然なり出したさうだ それから夜があけるとうちの前へ鳥が一羽死んで落ちてゐたと云ふ 母や叔母や女中は皆氣味のわるさうな顏をしてこんな話をきいてゐた

 

一週間程前に巢鴨の癩狂院へ行つたら三十位の女の氣狂ひが「私の子供だ私の子供だ」と云つて僕のあとへついて來た 子でもなくして氣がちがつたのだらう 隨分氣味が惡かつた 中に神道に凝つてゐる氣狂ひがゐた 案内してくれた醫學士が「あなたの名は何と云ふんです」ときくと「天の神地の神奈落の神天てらす天照皇神むすび國常立何とか千早ぶる大神」と一息に答へた「それが皆あなたの名ですか」と云ふと「左樣で」とすましてゐる おかしくもありかはいさうでもあつた

 

そのあとで醫科の解剖を見に行つた 二十の屍體から發散する惡臭には辟易せずにはゐられなかつた 其代り始めて人間の皮膚が背中では殆五分近く厚いものだと云ふ事を知つた

屍体[やぶちゃん注:ママ。]室へ行つたら 今朝死んだと云ふ屍體が三つあつた 其中の一人は女でまだアルミのかんざしをさしてゐた

死ぬと直ぐ胸の上部を切つてそこから朱を注射するので土氣色の皮膚にしたゝつてゐる朱が血のやうで氣味が惡い

一緖に行つた成瀨はうちへ歸つても屍體のにほひが鼻についてゐてとうとう吐いてしまつたさうだ

 

[やぶちゃん注:この精神病院訪問や解剖実習見学は、大学の授業に有益性を全く持てずにサボってばかりいた一方で、既に作家を目指し始めていた学友久米正雄や松岡譲の意気込みの惹かれる形で、自身も創作への模索を始めており、それへの素材探索や意欲刺激を求めてのことであった。

「先達は早速イエーツを送つて下すつて難有う」これは先行する推定三月二日の葉書で、『新思潮で愛蘭土文學號を出すさうだ イエーツの SECRET ROSE があいてゐたら送つてくれ給へ』と送ったのに井川がすぐに答えて送ってきたことへの返礼と考えられる。これについては。、「芥川龍之介書簡抄16 / 大正二(一九一三)年書簡より(3) 四通」の「大正二(一九一三)年九月十七日(年月推定)・山本喜譽司宛(封筒欠)」の私の注「YEATS の SECRET ROSE」を見て貰いたいが、恐らくは芥川龍之介の蔵書で井川に貸していたものと推定される。而して、その注で詳しく書いたが、この三ヶ月後の大正三(一九一四)年六月発行の『新思潮』(第五号。署名は目次が「柳川隆之介」、本文は「押川隆之介」)に、当該作品集中の一編である「The Heart Of The Spring」を『春の心臟』として翻訳して公開している(旧全集第一巻の三番目に所収)。新字正仮名であるが、「青空文庫」のこちらで読める。

「大正博覽會」東京大正博覧会。この十日後の大正三年三月二十日から七月三十一日にかけて東京府主催で東京市の上野公園地を主会場として開催された博覧会。詳しくは当該ウィキを読まれたいが、そこに『この博覧会では伝染病研究所、日本赤十字社などが出展した衛生経済館もあったが、これとは別に、不忍池上の』二『階建の仮設建築で二六新報社による』「通俗衛生博覧会」が『設けられ、人体の臓器などの実物標本』・模型類・『写真等が展示された』。『中には、東京帝国大学医学部から貸し出されたという「高橋お伝の全身の皮膚」なども展示されていた』とある。この書簡の死体の臭いという表現にちょっと違和感を感じているので(後述する)、敢えて引いておく。

「くにから死骸を引取りに來た親類の話によると、なくなつた晚にかけてない目ざまし時計が突然なり出したさうだ それから夜があけるとうちの前へ鳥が一羽死んで落ちてゐたと云ふ 母や叔母や女中は皆氣味のわるさうな顏をしてこんな話をきいてゐた」既に述べた、「椒圖志異」に見られる芥川龍之介の怪異蒐集趣味の現われである。

「一週間程前に巢鴨の癩狂院へ行つた」新全集の宮坂年譜に、この三月三日(月)頃に、成瀬正一と『東京府立巣鴨病院へ見学に行く。その後、さらに』東京帝大『医科大学で解剖を見学した』とある(この書簡が原資料)。

『三十位の女の氣狂ひが「私の子供だ私の子供だ」と云つて僕のあとへついて來た 子でもなくして氣がちがつたのだらう 隨分氣味が惡かつた』私はこの時、心底の恐怖と同時に、実母フクの面影が彼の心を掠めたに違いないと思うている。芥川龍之介の実母フクが亡くなったのは、龍之介満十歳の、高等小学校高等科一年の十一月二十八日のことであった(フク満四十二歳)。大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表した名品「點鬼簿」(リンク先は私の古い電子テクスト)の巻頭の「一」は母である。以下に全文を引く。

   *

   一

 僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた橫顏を思ひ出した。

 かう云ふ僕は僕の母に全然面倒を見て貰つたことはない。何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行つたら、いきなり頭を長煙管で打たれたことを覺えてゐる。しかし大體僕の母は如何にももの靜かな狂人だつた。僕や僕の姉などに畫を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に畫を描いてくれる。畫は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水繪の具を行樂の子女の衣服だの草木の花だのになすつてくれる。唯それ等の畫中の人物はいづれも狐の顏をしてゐた。

 僕の母の死んだのは僕の十一の秋である。それは病の爲よりも衰弱の爲に死んだのであらう。その死の前後の記憶だけは割り合にはつきりと殘つてゐる。

 危篤の電報でも來た爲であらう。僕は或風のない深夜、僕の養母と人力車に乘り、本所から芝まで駈けつけて行つた。僕はまだ今日(こんにち)でも襟卷と云ふものを用ひたことはない。が、特にこの夜だけは南畫の山水か何かを描いた、薄い絹の手巾をまきつけてゐたことを覺えてゐる。それからその手巾には「アヤメ香水」と云ふ香水の匂のしてゐたことも覺えてゐる。

 僕の母は二階の眞下の八疊の座敷に橫たはつてゐた。僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人とも絕えず聲を立てて泣いた。殊に誰か僕の後ろで「御臨終々々々」と言つた時には一層切なさのこみ上げるのを感じた。しかし今まで瞑目してゐた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言つた。僕等は皆悲しい中にも小聲でくすくす笑ひ出した。

 僕はその次の晩も僕の母の枕もとに夜明近くまで坐つてゐた。が、なぜかゆうべのやうに少しも淚は流れなかつた。僕は殆ど泣き聲を絕たない僕の姉の手前を恥ぢ、一生懸命に泣く眞似をしてゐた。同時に又僕の泣かれない以上、僕の母の死ぬことは必ずないと信じてゐた。

 僕の母は三日目の晩に殆ど苦しまずに死んで行つた。死ぬ前には正氣に返つたと見え、僕等の顏を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ淚を落した。が、やはりふだんのやうに何とも口は利かなかつた。

 僕は納棺を終つた後にも時々泣かずにはゐられなかつた。すると「王子の叔母さん」と云ふ或遠緣のお婆さんが一人「ほんたうに御感心でございますね」と言つた。しかし僕は妙なことに感心する人だと思つただけだつた。

 僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌を持ち、僕はその後ろに香爐を持ち二人とも人力車に乘つて行つた。僕は時々居睡りをし、はつと思つて目を醒ます拍子に危く香爐を落しさうにする。けれども谷中へは中々來ない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしづしづと練つてゐるのである。

 僕の母の命日は十一月二十八日である。又戒名は歸命院妙乘日進大姉である。僕はその癖僕の實父の命日や戒名を覺えてゐない。それは多分十一の僕には命日や戒名を覺えることも誇りの一つだつた爲であらう。

   *

芥川龍之介は母の狂気が遺伝して自分も発狂するのではないかという恐れを生涯、真剣に持ち続けてはいた(私はフクのそれは強度の心因性強迫神経症或いは統合失調症であったと考えており、龍之介の遺伝の恐れは杞憂であったと思っている)。しかし、以上の一篇は作家芥川龍之介独特のある突き放したような冷徹なポーズの中に、彼自身の、永遠に帰らない幼児期に背負ってしまった母の不在と喪失の絶対の悲しみを伝えて余りあるもの、と信じて疑わぬ者である。

「天てらす天照皇神」前が「あまてらす」であるから、ダブりを嫌って「てんしょうこうたいしん」(現代仮名遣)と読むのであろう。

「むすび」「かみむすびのかみ」の略。「古事記」では「神産巣日神」、「日本書紀」では「神皇産霊尊」、「出雲国風土記」では「神魂命」と書かれる。「産霊」は生産・生成を意味する言葉で、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とともに創造の神格化したもの。女神の可能性が高い。「古事記」では少名毘古那神(すくなびこなのかみ)は彼女の子とされる。

「國常立何とか」国常立尊(くにのとこたちのみこと)であろう。「古事記」では神世七代の最初の神とされ、開闢神別天津神(ことあまつかみ)の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現われた神で、独神(ひとりがみ)とであり、姿を現わさなかったと記される。「日本書紀」本文では天地開闢の際に出現した最初の神とし、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で全く陰気を受けない純粋な男性)」の神と記す。原初的な土地神であることは間違いあるまい。伊勢神道や吉田神道及びその流れを汲む教派神道諸派でもこの神が重要な神されているが、日本近代宗教至上では大本(おおもと)教(正式には「教」はつけない)のそれが著名である。

「二十の屍體から發散する惡臭」これは解剖実習室の実習用遺体であり、それは腐敗死臭ではなく、その主たるものはホルマリンなどの腐敗防止薬の強烈な臭いである。母は既に終わり、私も妻もまた、同じく慶応大学医学部に献体している。まさに、その実習教材となるのである。

「人間の皮膚が背中では殆五分近く厚い」事実。ヒトは背中の皮膚が表皮の最も厚く、表皮が平均〇・一から〇・二ミリメートルで、真皮は四ミリメートルである。「五分」は十五ミリメートルであるが、これは、龍之介が、切開した皮膚の真皮(ここで静脈・動脈・神経が複雑に絡みあって走っている)の下にある以上を支える皮下脂肪層(これは個人差があるが、九ミリメートルにも及ぶ)を含めて言っているものと思われる。

「朱」水銀化合物。これを遺体に十全に注入すると、腐敗が抑制され、「永久死体」(法医学用語)となる。

   ◇

 この二十二歳の時の経験が、如何に鮮烈であり、芥川龍之介の心影に深く鐫りつけられたかは、晩年の自死の決意前後にこれらがフラッシュ・バックして甦ることからも判る。遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の古い電子化であるが、今朝、全面校訂を行った)である。それも二箇所で示される。一つは、「二 母」であり、今一つは、「九 遺體」である。以下に示す。

   *

        母

 狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。廣い部屋はその爲に一層憂欝に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讃美歌を彈きつづけてゐた。同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりも跳ねまはつてゐた。

 彼は血色の善(よ)い醫者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。彼の母も十年前には少しも彼等と變らなかつた。少しも、――彼は實際彼等の臭氣に彼の母の臭氣を感じた。

 「ぢや行(ゆ)かうか?」

 醫者は彼の先に立ちながら、廊下傳ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを滿した、大きい硝子(がらす)の壺の中に腦髓が幾つも漬つてゐた。彼は或腦髓の上にかすかに白いものを發見した。それは丁度卵の白味をちよつと滴らしたのに近いものだつた。彼は醫者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。

 「この腦髓を持つてゐた男は××電燈會社の技師だつたがね。いつも自分を黑光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」

 彼は醫者の目を避ける爲に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには空き罎の破片を植ゑた煉瓦塀の外に何もなかつた。しかしそれは薄い苔をまだらにぼんやりと白らませてゐた。

   *

        死  體

 死體は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齡だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死體の顏の皮を剝ぎはじめた。皮の下に廣がつてゐるのは美しい黃色の脂肪だつた。

 彼はその死體を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる爲に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した杏(あんず)の匂に近い死體の臭氣は不快だつた。彼の友だちは眉間(みけん)をひそめ、靜かにメスを動かして行つた。

 「この頃は死體も不足してね。」

 彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「己(おれ)は死體に不足すれば、何の惡意もなしに人殺しをするがね。」しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。

   ◇

なお、ここで出る「友だち」(則ち、彼の伝手で人体解剖を見学させて貰えたのである)とは既出既注の、龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生で、一高の第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学大学に進んだ上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)である。卒業後は医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いた。詳しくは「芥川龍之介手帳 1-4」の私の注を参照されたい。]

 

 

大正三(一九一四)年四月四日・本鄕區西片町十番地 佐々木信綱樣 侍史・四月四日朝 新宿ニノ七一 芥川龍之介

 

肅啓

過日は御繁忙中參堂長座仕り御迷惑さこそと恐縮に存じ候

歌十一首 拙く候へども心の花に御揭載被下候はゞ 難有く存ず可く候 歌も人につきて學びたる事無之 語格は元より假名づかひさへも誤れる事多かる可く玉斧を乞ふを得ば幸甚に候

今朝の雪 寒威春杉を壓して火閤を擁さずば書もよみ難き程に候 匆々頓首

    四月四日        芥川龍之介

   佐々木先生梧下

 

[やぶちゃん注:「佐々木信綱」かの歌人佐佐木信綱(明治五(一八七二)年~昭和三八(一九六三)年)。歌誌『心の花』を発行する短歌結社「竹柏会」を主宰していた。この会には最後に芥川龍之介が愛することとなる片山廣子が既にいた。さて、ここで芥川龍之介は「十一首」と言っているが、十二首の誤りである。どうなったって? 勿論、全十二首完全に掲載されている。私の「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」の「紫天鵞絨」がそれである。

「火閤」「くわかふ(かこう)」で火燵のこと。]

 

 

大正三(一九一四)年四月七日・東京府下北豐島郡瀧野川村中里三五二 小野八重三郞樣・消印神奈川縣下浦局(転載)

 夕月よ片目しひたる長谷寺の燈籠守はさびしかるらむ

 夕されば韮水仙の黃なる花ほのかにさきてもの思はする

         三浦半島の南にて   龍

 

[やぶちゃん注:三浦半島を旅した(期間は不明。因みに七日は月曜であるから、大学はサボっている可能性がある)折りの旅信。龍之介はこの前月の三月五日(水)頃にも三崎・城ヶ島逗子方面に遊んでいる。

「下浦」(したうら)は三浦半島の先の東京湾側の野比から剣崎方向の地名(グーグル・マップ・データ)。

「小野八重三郞」既出既注。東京生まれで、府立三中時代の一つ下の後輩。

「長谷寺」これは鎌倉の観音(本尊で木造十一面観音立像。像高九・一八メートルの巨像)で知られる長谷寺と推定される。この「燈籠守」とは、ただの像前の灯明の管理人であろうが、私は反射的に『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一二)~(一五)』(リンク先は私の電子化注)の夢幻的な素敵なシークエンスを想起してしまうのである。是非、読まれたい。

「韮水仙」私の好きな単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ亜科ハナニラ属ハナニラ Ipheion uniflorum があるが、同種の花弁は青・白・淡紫・ピンクで、黄色はない。雄蕊は黄色いから、それを「黃なる花ほのかにさきて」と言っているものかとも思ったが、流石にそれはちょっとねと思う(アルゼンチン原産。有毒であるが、園芸品種では無毒で食用になるものもかなりある)。花弁が黄色のものとなると、ネギ亜科ハタケニラ(ステゴビル)属キバナハナニラ Nothoscordum sellowianum が現在はあるのだが(ブラジル南部・アルゼンチン・ウルグアイ原産)、この当時、このキバナハナニラが本邦に移入されていたかどうかは、ちょっとクエスチョンである(私は植物は苦手である)。]

旧電子テクスト(初版は十六年前公開)の芥川龍之介「或阿呆の一生」(未定稿附き)の全面校訂終了

芥川龍之介の「或阿呆の一生」(未定稿附き)は十六年前に電子化し、今まで四度修正や改訂を行ったが、それでも長くポイント表示・正字不全・未ルビ化など、かなりの不満な部分が残っていたので、今朝、全面校訂を行った。これで、まずは、よかろうと思う。不審な点があれば、御指摘下されば、恩幸これに過ぎたるはない。なお、何時かは芥川龍之介には悪いが、彼の冒頭の遺言の懇請を退け、オリジナルな全注釈をしたいと考えてはいる。

2021/03/28

芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附 (サイト縦書版・PDF) 公開


芥川龍之介「孤獨地獄」(正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附)の「サイト縦書版・PDF」を公開した。

芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附 (サイト横書版) 公開

芥川龍之介「孤獨地獄」(正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附)の「サイト横書版」を公開した。字のポイントを三倍にしてあるので、大型のディスプレイを使用されている方にはブログよりも読み易いと思う。

2021/03/27

芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:「鼻」の発表の二ヶ月後の大正五(一九一六)年四月発行の『新思潮』初出で、大見出し「紺珠十篇」(この総標題については「紺珠」という総表題で随想的小品を十篇並べるつもりだったということと、そうした一篇として別に「父」(リンク先は私の古い電子テクスト)があることが、初出後記で判明する。私の本文注の最後に示しておいた)のもとに「孤獨地獄」の標題で掲載され(目次は「孤獨地獄(小品)」)、後の第一作品集「羅生門」(大正六年五月二十三日阿蘭陀書房刊)及びその後の春陽堂の「新興文芸叢書第八篇」として刊行された短篇集「鼻」(十三篇所収だが、「西郷隆盛」を除いて総て「羅生門」既収で芥川龍之介の作品集には数えられていない)に収録された。

 因みに、これを私が始めて読んだのは、大学四年の一九七八年十月に入手した(父の知人の伝手で岩波書店本社で社員の方から一割引きで買った。裸でスズラン・テープで六巻ずつ縛られていて、神保町から中目黒まで素手でぶら下げて帰った。三日間、両手の指が血行不良で腫れ上がったのを思い出す)「芥川龍之介全集」を、その日から一月ほどかけて通読したその時だった。当時の私の日記にも本篇を読んで異様に感動した記載がある。

 本文の底本は、その旧全集一九七七年岩波書店刊「芥川龍之介全集」第一巻を使用した。但し、「青空文庫」版の新字正仮名版を加工データとして使用した(但し、この電子テクストには看過できない複数の問題点がある)。当該親本は作品集「鼻」のそれである。一読、非常な不審を感ずるのは、ルビで、如何にも不要な箇所に多く附されてあり、逆にあった方がよいと思われる人名や書名及び語などに振られていない点である。また、先行する同語に振られずに、後になってひょくり振られてあったりする。これは如何にも芥川龍之介らしからぬものである。私は初出の『新思潮』を見たことがないのだが、或いはこのルビは印刷を頼んだ印刷所の校正者によって勝手に附されたものではないかとも疑っている。そうしたことは、近年まで、かなり長い間、行われてきたことを多くの方は知るまい。丁寧に原稿に自分でルビを振っていた大作家は泉鏡花辺りで終わってしまい、「えッツ!?!」と思うような近現代の著名な作家も特定のケースを除いてルビを振ることはそんなに多くはなかったのである(詩歌の場合は別)。だいたいからして、あなた方は、ごく最近まで、ルビには拗音や促音を小さく表記印刷することはなかったことさえもご存知ないであろう。嘘だと思うなら、御自身の持っている、写植印刷が主になる三十年以上前の活版の出版物を見られるがいい。「本当だ!」と吃驚されるであろう。草稿のそれは岩波書店の新全集版(一九九七年刊)第二十一巻を参考底本として、恣意的に漢字を正字化して示した。踊り字「〱」は正字化した。

 本文・草稿ともに注をオリジナルに附した。【二〇二一年三月二十八日 藪野直史】]

 

 孤 獨 地 獄

 

 この話を自分は母(はゝ)から聞いた。母はそれを自分の大叔父(おほをぢ)から聞いたと云つてゐる。話の眞僞(しんぎ)は知らない。唯大叔父自身の性行(せいかう)から推して、かう云ふ事も隨分ありさうだと思ふだけである。

 大叔父は所謂大通の一人で、幕末(ばくまつ)の藝人や文人の間に知己(ちき)の數が多かつた。河竹默阿彌、柳下亭種員、善哉庵永機、同冬映、九代目團十郞、宇治紫文、都千中、乾坤坊良齋などの人々(ひとびと)である。中でも默阿彌は、「江戶櫻淸水淸玄」で紀國屋文左衞門を書(か)くのに、この大叔父を粉本(ふんぽん)にした。物故(ぶつこ)してから、もう彼是五十年になるが、生前一時は今紀文と綽號(あだな)された事があるから、今(いま)でも名だけは聞いてゐる人(ひと)があるかも知れない。――姓は細木(さいき)、名は藤次郞、俳名は香以、俗稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤(つとう)が或時吉原の玉屋で、一人の僧侶(そうりよ)と近づきになつた。本鄕界隈の或禪寺の住職で、名は禪超(ぜんてう)と云つたさうである。それがやはり嫖客(へうかく)となつて、玉屋の錦木と云ふ華魁に馴染(なじ)んでゐた。勿論、肉食妻帶が僧侶に禁(きん)ぜられてゐた時分の事であるから、表向(おもてむ)きはどこまでも出家ではない。黃八丈の着物に黑羽二重の紋付(もんつき)と云ふ拵へで人には醫者(いしや)だと號してゐる。――それと偶然近づきになつた。

 偶然と云ふのは燈籠時分の或夜(あるよ)、玉屋の二階で、津藤が厠(かはや)へ行つた歸りしなに何氣なく廊下(らうか)を通ると、欄干にもたれながら、月(つき)を見てゐる男があつた。坊主頭の、どちらかと云へば背(せい)の低(ひく)い、瘦ぎすな男である。津藤は、月(つき)あかりで、これを出入の太鼓醫者竹内(ちくない)だと思つた。そこで、通(とほ)りすぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張(ひつぱ)つた。驚いてふり向く所を、笑(わら)つてやらうと思つたからである。

 所がふり向いた顏を見ると、反つて此方(こつち)が驚いた。坊主頭と云ふ事を除(のぞ)いたら、竹内(ちくない)と似てゐる所などは一つもない。――相手(あひて)は額(ひたひ)の廣い割に、眉と眉との間が險しく狹つてゐる。眼(め)の大きく見えるのは、肉(にく)の落ちてゐるからであらう。左の頰にある大きな黑子(ほくろ)は、その時でもはつきり見(み)えた。その上顴骨が高い。――これだけの顏(かほ)かたちが、とぎれとぎれに、慌(あはたゞ)しく津藤の眼にはいつた。

「何か御用かな。」その坊主(ばうず)は腹を立てたやうな聲(こゑ)でかう云つた。いくらか酒氣も帶びてゐるらしい。

 前に書くのを忘れたが、その時津藤には藝者(げいしや)が一人に幇間(ほうかん)が一人ついてゐた。この手合は津藤(つとう)にあやまらせて、それを默(だま)つて見てゐるわけには行かない。そこで幇間が、津藤に代(かは)つて、その客に疎忽の詑(わび)をした。さうしてその間に、津藤は藝者をつれて、匇々(さうさう)自分の座敷へ歸つて來た。いくら大通(だいつう)でも間が惡(わる)かつたものと見える。坊主の方では、幇間(ほうかん)から間違の仔細をきくと、すぐに機嫌を直して大笑(おほわら)ひをしたさうである。その坊主が禪超(ぜんてう)だつた事は云ふまでもない。

 その後で、津藤が菓子の臺(だい)を持たせて、向ふへ詑びにやる。向うでも氣(き)の毒(どく)がつて、わざわざ禮に來る。それから二人の交情が結(むす)ばれた。尤も結ばれたと云つても、玉屋の二階で遇(あ)ふだけで、互に往來(わうらい)はしなかつたらしい。津藤は酒(さけ)を一滴も飮まないが、禪超は寧、大酒家(たいしゆか)である。それからどちらかと云ふと、禪超の方が持物(もちもの)に贅をつくしてゐる。最後に女色(ぢよしよく)に沈湎するのも、やはり禪超(ぜんてう)の方が甚しい。津藤自身が、これをどちらが出家(しゆつけ)だか解らないと批評した。――大兵肥滿で、容貌(ようばう)の醜かつた津藤は、五分月代に銀鎖(ぎんぐさり)の懸守(かけまも)りと云ふ姿で、平素は好(この)んでめくら縞の着物に白木(しろき)の三尺をしめてゐたと云ふ男である。

 或日津藤が禪超に遇ふと、禪超は錦木(にしきゞ)のしかけを羽織(はお)つて、三味線をひいてゐた。日頃から血色(けつしよく)の惡い男であるが、今日は殊(こと)によくない。眼も充血してゐる。彈力のない皮膚が時々口許で痙攣(けいれん)する。津藤はすぐに何か心配(しんぱい)があるのではないかと思つた。自分(じぶん)のやうなものでも相談相手(さうだんあひて)になれるなら是非させて頂(いたゞ)きたい――さう云ふ口吻を洩(も)らして見たが、別にこれと云つて打明ける事もないらしい。唯、何時(いつ)もよりも口數が少くなつて、ややもすると談柄(だんぺい)を失(しつ)しがちである。そこで津藤は、これを嫖客(へうかく)のかかりやすい倦怠(アンニユイ)だと解釋した。酒色を恣にしてゐる人間(にんげん)がかかつた倦怠は、酒色で癒(なほ)る筈がない。かう云ふはめから、二人は何時(いつ)になくしんみりした話をした。すると禪超(ぜんてう)は急に何か思(おも)ひ出したやうな容子で、こんな事(こと)を云つたさうである。

 佛說によると、地獄(ぢごく)にもさまざまあるが、凡(およそ)先(ま)づ、根本地獄、近邊地獄、孤獨地獄の三つに分つ事が出來(でき)るらしい。それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄と云(い)ふ句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯(たゞ)、その中で孤獨地獄だけは、山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうかい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄(ぢごく)へ墮ちた。一切の事が少しも永續(えいぞく)した興味を與へない。だから何時(いつ)でも一つの境界から一つの境界を追(お)つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃(のが)れられない。さうかと云つて境界を變(か)へずにゐれば猶、苦しい思をする。そこでやはり轉々(てんてん)としてその日その日の苦(くる)しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌(いや)だつた。今では……

 最後の句は、津藤(つとう)の耳にはいらなかつた。禪超が又三味線の調子(てうし)を合せながら、低い聲で云(い)つたからである。――それ以來(いらい)、禪超は玉屋へ來なくなつた。誰も、この放蕩(はうたう)三昧(まい)の禪僧がそれからどうなつたか、知(し)つてゐる者はない。唯その日禪超は、錦木(にしきゞ)の許へ金剛經の疏抄を一册忘れて行(い)つた。津藤が後年零落して、下總の寒川(さむかは)へ閑居(かんきよ)した時に常に机上にあつた書籍(しよせき)の一つはこの疏抄である。津藤はその表紙(へうし)の裏へ「堇野や露に氣のつく年四十」と、自作(じさく)の句を書き加(くは)へた。その本は今では殘(のこ)つてゐない。句ももう覺えてゐる人は一人もなからう。

 安政四年頃の話である。母(はゝ)は地獄と云ふ語の興味(きようみ)で、この話を覺えてゐたものらしい。

 一日の大部分を書齋で暮(くら)してゐる自分は、生活の上から云つて、自分(じぶん)の大叔父やこの禪僧とは、全然沒交涉な世界(せかい)に住んでゐる人間(にんげん)である。又興味の上から云つても、自分は德川時代(とくがはじだい)の戲作や浮世繪に、特殊な興味を持(も)つてゐる者ではない。しかも自分(じぶん)の中にある或心もちは、動(やゝもす)れば孤獨地獄と云(い)ふ語(ことば)を介して、自分の同情を彼等(かれら)の生活に注がうとする。が、自分はそれを否(いな)まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦(また)、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからである。

                  ――五年二月――

 

[やぶちゃん注:「母」芥川龍之介の養母である芥川儔(トモ)(安政四(一八五七)年~昭和一二(一九三七)年)。

「自分の大叔父」儔の母は旧姓細木(さいき)で名を須賀と言ったが、彼女はかの森鷗外の史伝「細木香以」(大正六(一九一七)年九月十九日から同年十月十三日まで『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』に連載)に書かれた、幕末の俳人・商人で通人として知られた細木香以(さいきこうい 文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)の実の姉であった。ウィキの「細木香以」によれば、細木の『家は新橋山城町にある酒屋で姓は源、氏は細木、店の名は摂津国屋(つのくにや)』(香以は家を継いでから藤次郎を名乗ったことから「津國屋藤次郞」を約めて「津藤(つとう)」となったのである)『である。香以の祖父・伊兵衛の代から蔵造りの店に直し、山城河岸を代表する豪商となった。父の竜池が家を継ぐと』、『酒店を閉じて』、『大名(加賀藩・米沢藩・広島藩など)の用達を専業とする。竜池は秦星池』(はたせいち)『に書を』、『初代彌生庵雛丸(やよいあんひなまる)に『狂歌を習い、雛亀と称し、晩年には桃の本鶴廬』、『また』、『源仙と号』した。『俳諧をたしなみ、仙塢』(せんう)『と号した。竜池は劇場・妓楼に出入りし』、『戯作者の為永春水と交遊したので』、「梅暦」のなかで「津藤」』(つとう)『の名で登場し、俳優や文人のパトロンとして記憶された。この父の気性や趣味が香以に受け継がれたと考えられる』。『経を北静盧』(きたせいろ 江戸中期の民間学者)に、『書を松本董斎に学』んだ。天保九(一八三八)年』、十七『歳になった頃から料理屋や船宿に出入りし』、『芸者に』馴染みが『でき、新宿や品川の妓楼に遊ぶようになる』。天保一三(一八四二)年『頃から』、『継母の郷に預けられ』、『放蕩が激しくなったことにより、父から勘当されかけたこともある』という。安政三(一八五六)年九月、父『竜池が病死し、手代たちの反対を押し切る形で』、『本家を香以が継ぐことにな』った。『文人、俳優、俳諧師、狂言作者と交わり』、『豪遊の限りを尽くし、元禄時代の紀伊國屋文左衛門と比較されるほどであったが』、安政六(一八五九)年頃から『身代が傾き』始め、文久二(一八六二)年には『店を継母に譲り、自分は隠居して浅草馬道』(うまみち)『の猿寺』(教善院さる寺。現存しない。現在の浅草寺の東北直近の角にあった。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「今戸箕輪浅草絵図」で確認出来る)『の境内に居を移した』。『その後は仕送りと狂歌の判者、市村座の作者を職業として暮らす』。文久三(一八六三)年から、『下総国千葉郡寒川に移り』、慶応二(一八六六)年まで住んだが、明治元(一八六八)年に山城河岸の店は閉じられ、その二年後に香以は病死した。『行年四十九。法名は梅誉香以居士。先祖代々の墓がある駒込の願行寺に葬られ』た。ここで龍之介が記している通り、『香以によって後援されていた人としては仮名垣魯文』、九『世市川團十郎、河竹黙阿弥、瀬川如皐、条野採菊らがいる。魯文の弟子であった野崎左文は、「幕末動乱の頃、ともかくも戯作者として職を失わず、かろうじて命脈を伝え得たのはまったく香以のような後援者のおかげである」と評している』。『芥川龍之介の母は、香以の姪にあたる』とある。なお、森鷗外は「細木香以」の「十四」の末尾で龍之介の親戚であることを述べているが、翌大正七年の一月一日の『帝国文学』に同作への追記補記を記し、来訪した芥川龍之介と交わした談話から得たことを前半で記しているが、『香以の氏細木は、正しくは「さいき」と訓むのださうである。倂し「ほそき」と呼ぶ人も多いので、細木氏自らも「ほそき」と稱したことがあるさうである』とあり、龍之介の言として、『香以には姊があつた。其婿が山王町の書肆伊三郞である。そして香以は晩年を此夫婦の家に送るつた』。『伊三郞の女』(むすめ)『を儔(とも)と云つた。儔は芥川氏に適』(ゆ/おもむ)『いた。龍之介さんは儔の生んだ子である。龍之介さんの著した小説集「羅生門」中に「孤獨地獄」の一篇がある。其材料は龍之介さんが母に聞いたものださうである。此事は龍之介さんがわたくしを訪ふに先だつて小島政二郞』(まさじろう:龍之介より二歳年下。)『さんがわたくしに報じてくれた』とある。小島は芥川龍之介が信頼していた同世代作家の友人であるが(当時は慶応義塾大学在学中であったが、『三田文学』に文芸評論を書いて有力な新人として認められていた。鷗外が大正五年十一月に同誌に発表した当代の作家たちの作品を評論した「オオソグラフイ」(「オーソグラフィー」(orthography)は「社会的に認められている字の綴り方・正書法」の意)を高く評価したが、この鷗外の謂いからはそれ以前に鷗外に近侍していたということになる)、しかし、彼が始めて龍之介を訪ねたのは、慶応卒業間近の大正七年二月三日(塚本文と結婚式を挙げた翌日)であったから、これは文壇作家の誰彼からの聞き伝えであって、龍之介から小島が直接聴いたものではない。既に文壇情報屋としての小島の厭な側面が私には感じられる。ともかくも、この小島経由の鷗外の語りから、少なくともこの頃、芥川龍之介は芥川儔(トモ)を養母ではなく、実母であると周囲に語っていたと思われることが判る。二〇〇三年翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の「芥川家」のコラム「森鷗外に答える」によれば、『狂人だったとされる実母』(養父芥川道章の妹(新原(にいはら))フク)『のことがここでは隠されていたことになろう。文壇では実母のことは余り知られていなかったととってもよいであろう。後に』「點鬼簿」(大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表。リンク先は私の古い電子化。芥川龍之介の作品でも私は三本指の一つ挙げる名品と思う)『で実母のことを明らかにした時、かなり強い告白性あったことになる』とある。また、その前に鷗外の後の「觀潮樓閑話(その二)」(『帝国文学』大正七(一九一八)年一月発行)から先のウィキのような抜粋でないものを引用して、『「芥川氏いはく。香以には姉があつた。其婿が山王町の書肆伊三郎である。そして香以は晩年を此夫婦の家に送つた。伊三郎の女』(むすめ)『を儔と云つた。儔は芥川氏に適いた。龍之介さんは儔の生んだ子である」』とある。以下、人物については、複数の辞書やウィキペディアを総合的に参考にした。人名については煩瑣になるだけなので、歴史的仮名遣は省略した。

「大通」(だいつう)は、江戸時代に遊里・遊芸などの方面の事情によく通じている人物を指した。

「河竹默阿彌」(文化一三(一八一六)年~明治二六(一八九三)年)は歌舞伎作者。江戸生まれ。本名は吉村新七。五代目鶴屋南北に入門し、天保一四(一八四三)年に二代目河竹新七を襲名後、四代目市川小団次のために生世話(きぜわ)物(歌舞伎の世話物の中でも写実的傾向の著しい内容・演出を持った作品群。文化・文政期(一八〇四年~一八三〇年)以降の江戸歌舞伎で発達した)を書いた。維新後は九代目市川団十郎のために活歴(かつれき)物(歌舞伎で従来の時代立役物の荒唐無稽を排して史実を重んじ、歴史上の風俗を再現しようとする演出様式。明治初期から中期にかけて、この団十郎らが主唱した)を、五代目尾上菊五郎のために散切(ざんぎり)物(歌舞伎世話狂言の一種で、明治初期の散切り頭・洋服姿などの新風俗を取り入れたもの。明治五(一八七二)年から同三十年代まで作られ、まさに黙阿弥の「島鵆月白波 (しまちどりつきのしらなみ) 」などが代表作)などの作品を提供した。明治一四(一八八一)年に引退して後に「黙阿弥」を名乗った。時代物・世話物・所作事と幅広かったが、本領は生世話物にあった。代表作は「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみぢうつのやたうげ)」「靑砥稿花紅彩畫(あをとざうしはなのにしきゑ)」など。

「柳下亭種員」(りゅうかていたねかず 文化四(一八〇七)年~安政五(一八五八)年)は戯作者。特に合巻(ごうかん:江戸後期の文化年間(一八〇四年~一八一八年)以後に流行した草双紙の一種。それ以前の黄表紙などが五丁一冊であったものを、数冊合わせて一冊とし、長いものは数十冊にも及んだ。内容は教訓・怪談・敵討・情話・古典の翻案など多方面に亙り、子女のみならず、大人の読み物としても歓迎された。流行作者には柳亭種彦・曲亭馬琴・山東京伝らがいる)作者として活躍した。その実伝は諸説があって定説をみないが、元板倉藩士の出とも、江戸京橋の葉茶屋坂本屋に生まれたとも、また、小間物屋或いは古書商であったともされる。戯作界に入り、弘化元(一八四四)年から合巻に手を染める一方書肆を営んで坂本屋新七という。「白縫譚」(初編から三十八編)、「兒雷也豪傑譚」(十二編から三十九編)など、長編合巻を得意とし、いろいろと趣向を凝らすのには巧みであったが、独創性に乏しく、他人の作の嗣ぎ編を作るのに長じたと評される。

「善哉庵永機」(ぜんざいあん えいき 文政五(一八二二)年~明治二六 (一八九三)年)は俳人。「芭蕉全集」を編集したことで知られる。其角堂とも号し、細木香以との交遊も深かった。

「同冬映」筑摩全集類聚版脚注では、『同じく幕末の俳人』とする。論文等を確認してみたが、この龍之介の「同」というのは「善哉庵永機」と同じ「善哉庵」ではないように思われる。同一の深川湖十系の俳人ではあるが、「同」はそれこそ類聚版の注にある「同じく俳人の」の意でとっておく。

「九代目團十郞」歌舞伎役者九代目市川團十郞(天保九(一八三八)年~明治三六(一九〇三)年)。本名は堀越秀(ほりこし ひでし)。屋号は成田屋。俳句も好み、俳号に紫扇・團州などがある。五代目尾上菊五郎・初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定し、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。また、歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常は彼のことのみを指す。

「宇治紫文」(うじ しぶん)は一中節(いっちゅうぶし:浄瑠璃の一種。初代都太夫一中(慶安三(一六五〇)年~享保九(一七二四)年)が元禄から宝永頃(一六八八年~一七一一年)かにかけて京都において創始した。先行する浄瑠璃の長所を取入れ、当時、勃興してきた義太夫節とは逆に、温雅で叙情的な表現を目指した。三味線は中棹を用い、全体的に上品、かつ、温雅・重厚を以てその特徴とする。当初は上方の御座敷浄瑠璃として出発し、世人に秘録愛好されたが、後に江戸に下って歌舞伎の伴奏音楽としても用いられた。その後、再び主として素浄瑠璃専門となって現代に至っている。上方では早く衰退し、現在では東京を中心に伝承されている)の三味線方の名跡。初代宇治紫文(寛政三(一七九一)年~安政五(一八五八)年)は、本名、勝田権左衛門。通称は雄輔。江戸浅草材木町の名主。一中節菅野派の家元二代目菅野序遊の門下であったが、後に都派に転じ、都一閑斎と名乗る。嘉永二(一八四九)年に「宇治紫文斎」と名乗って宇治派を樹立した。数十曲の新曲を残している。一方、二代目宇治紫文(文政四(一八二一)年~明治一二(一八七九)年)は初代の実子で名を福太郎と言った。最初は初代宇治紫鳳を名乗ったが、安政六(一八五九)年に二代目紫文を襲名。明治八(一八七五)年五月に隠居し、宇治閑斎翁を名乗った。細木香以は安政六年頃から左前になっているから、まず、ここは初代のことと考えてよい。

「都千中」(みやこ せんちゅう ?~明和二(一七六五)年頃)は一中節都派の太夫。都秀太夫千中とも。都三中の弟子か。享保(一七一六年~一七三六年)末頃から宝暦七(一七五七)年頃まで活躍した。享保一九(一七三一)年の春、江戸中村座で語った「夕霞淺間岳(ゆふがすみあさまがたけ)」が大当たりし、当時、江戸の市中で「鼠の糞と夕霞の歌本のない家はない」とまで言われた。この他、元文元(一七三六)年に「家櫻」、宝暦元(一七五一)年に「賤機(しづはた)」など多くの曲を語った。宝暦七年頃から舞台出演をやめ、男芸者になった。江戸においての一中節は、千中没後、殆んど劇場出演はなくなり、座敷浄瑠璃として吉原に残るのみとなった。

「乾坤坊良齋」(けんこんぼうりょうさい 明和六(一七六九)年~万延元(一八六〇)年)は講釈師。江戸生まれ。通称、梅沢屋良助。家業の貸本屋から初代三笑亭可楽の門に入って落語家菅良助(かんりょうすけ)となり、後、講釈師に転じた。創作も得意で、「笠森お仙」「切られ与三郎」などの講談を残し、合巻も手掛けている。

「江戶櫻淸水淸玄」(えどざくらしみづせいげん)はその名で安政五(一八五八)年に板行した黙阿弥の草双紙であるが、これは師の鶴屋南北の原作になるもので、一般にはそれを歌舞伎の世話物とした、通称「黑手組の助六」、本外題「黑手組曲輪達引(くろてぐみくるわのたてひき)」として知られるものである。初演は安政五年三月江戸市村座であった。

「粉本」ここは素材・材料の意。

「物故してから、もう彼是五十年になる」正確には四十六年。

「山城河岸」(やましろがし)現在の東京都中央区銀座六・七丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)相当。

「吉原の玉屋」筑摩全集類聚版脚注に、『吉原江戸町一丁目にあった妓楼。楼主は玉屋山三郎』とある。現在の東京都台東区千束四丁目

「本鄕」現在の文京区本郷。寺が多く、特定出来ない。

「禪超」不詳。

「嫖客(へうかく)」現代仮名遣「ひょうかく」。花柳界で芸者買いなどをして遊ぶ客のこと。

「錦木」源氏名。「ADAEC」の「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の夢中舎松泰(しょうたい)の「遊女銘々傳」(書中の最新の年記は第六冊にあり、慶応二(一八六六)年十一月)に、玉屋の筆頭に「錦木」の名が見え、錦木太夫が寛文(一六六一年~一六七三年)年中、江戸町二丁目の玉屋長左衛門抱えの錦木が、船頭と男伊達(おとこだて)との斬り合いの喧嘩を鎮めたことが載るが、これは彼女のずっと先代である。

「黃八丈」黄色地に茶・鳶色などで縞や格子柄を織り出した絹織物。初め、八丈島で織られたことから、この名がある。

「燈籠時分」筑摩全集類聚版脚注に、『吉原仲之町で旧暦七月一日より晦日まで茶屋に』は『燈籠を掲げ』たとある。

「太鼓醫者」筑摩全集類聚版脚注に、『医者の風体』(ふうてい)『をしている太皷もち』とある。

「顴骨」(正しくは「けんこつ」であるが、現行でも慣用読みで「くわんこつ(かんこつ)」と読んでおり、芥川も後者で読んでいよう。頰骨 (きょうこつ/ほおぼね)。頰(ほお)の隆起を成す骨。眼窩の底部外方の一対の骨。

「幇間(ほうかん)」読みはママ。歴史的仮名遣は「はうかん」が正しい。「幇」は「助ける」の意で、宴席などで客の機嫌をとり、酒宴の興を助けるのを職業とする男。太鼓持ち。男芸者。

「手合」(てあひ(てあい))は、ここではやや軽蔑していう「この類(たぐ)いの連中」の意。

「寧」「むしろ」。

「沈湎」沈み溺れること。特に、酒色に耽って荒(すさ)んだ生活を送ることを言う。

「大兵肥滿」(たいひやうひまん(たいひょうひまん))は、体格が太く、逞しく、肥え太っていること。

「五分月代」(ごぶさかやき)は、剃り上げておくべき月代の部分が五分(一・五センチメートル)ほども伸びてしまっていること。

「懸守(かけまも)り」神仏の護符を入れて身につける守袋。通常は筒形の容器の外側を錦の裂(きれ)で包み、その両端に紐や鎖をつけ、胸の前に下がるように作る。魔除けや災厄除けのため、神聖なものや神秘的な威力のあるものを身につける習慣は世界的に広く行われているが、特にこれを首にかけるという形式は、他の場所につけるよりも、一層そのものを尊び、これに対する強い信頼の心を表わしていると考えられる。護符以外のものでも、特に貴重なものや丁重に取り扱う必要のあるものを持ち運ぶ時、例えば、貴重な書類や大事な人の遺骨などは日本では古くから首にかけて歩く習慣が平安の時代からあった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「めくら縞」縦横とも紺染めの綿糸で織った無地の綿織物。紺無地。織り紺。青縞。盲地。

「白木(しろき)」通一丁目、藝材の東京都中央区日本橋一丁目に存在した江戸三大呉服店(後の二つは駿河町の「越後屋」と、大伝馬町の「大丸屋」)の一つである白木屋。後の「東急百貨店日本橋店」の前身に当たる。

「三尺」筑摩全集類聚版脚注に、『白木屋で売り出した柔小紋』(やわらかこもん:細かい模様を白抜きして単色で染めた日本の型染めの一つで、特に江戸小紋と呼ばれたそれであろう)『の三尺帯』。三尺帯は長さが反物用の鯨尺で約三尺(鯨尺のそれは曲尺(かねじゃく)の一尺二寸五分(約三十八センチメートル)を一尺とするので、一・一四メートル)ある一重(ひとえ)廻しの帯。

をしめてゐたと云ふ男である。

「しかけ」「仕掛け」。打掛(うちか)けの別称。江戸の遊里で用いられた用語であるが、遊女の着る小袖類を指していうこともあった。

「談柄(だんぺい)」元は僧侶が正式な談話の際に手に持つ払子(ほっす)の意であったが、転じて「話の種・話題」の意となった。

「倦怠(アンニユイ)」ennui。フランス語。

「恣に」「ほしいままに」。

「根本地獄、近邊地獄、孤獨地獄の三つに分つ」先般、電子化注した『「和漢三才圖會」巻第五十六「山類」より「地獄」』の私の詳注を参照されたい。その電子化がこの電子テクスト注の呼び水となったものである。

「孤獨地獄」孤地獄とも言う特異な地獄。この地獄は通常の地獄のように地下にあるのではなく、現世の山間・広野・樹下・空中などに忽然と孤立して散在して出現する地獄とされる。文字通りの現在地獄ということである。

「南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄」「其」はママである。現行の電子化物では恐らく総てが「地獄」となっている。しかしこれは「其獄」でも正しい(後掲する引用を参照)。ただ「其」でも誤読することはない。仏典を検索しても、この文字列にぴったり当てはまるものはない。困っていろいろと検索を重ねたところ、サイト「蓮花寺佛教研究所」公式サイト内のこちらにある、『蓮花寺佛教研究所紀要第八号』(二〇〇〇年発行か。PDF)に乾英次郎氏の論文「芥川龍之介における仏教的〈地獄〉表象──原家旧蔵品との関りから――」の中に答えがあった。その「一 芥川・仏教・〈地獄〉」の中で本「孤獨地獄」を採り上げて考察される中で、この「佛說によると」以下の段落を総て引かれた上で、

   《引用開始》

 この中に「仏説」が引かれているが、芥川が「孤独地獄」を執筆するに際して、仏典に直接あたったとは考えにくい。清水康次が既に指摘しているが、上記の記述は、校註国文叢書『今昔物語』上巻(池辺義象編、博文館、大正四・七)所収「本朝付仏法」巻一(日本への仏教渡来・流布史)の「行基菩薩仏法を学び人を導く語」の注釈を参照したものと思しい。芥川の仏教的〈地獄〉観を規定する文章だと思われるので、全文を引用する。

[やぶちゃん注:以下、原本では全体が二字下げ。]

地獄 地獄界をいふ、獄は囚にして罪人を守りて罪室を出でしめざる也、この獄地下にある故にかくいふ

「婆沙論」に瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄といへり、地獄に三種あり、一に根本地獄二に近辺地獄三に孤独地獄これなり、根本地獄とは等活、黒縄、衆合、号叫、大号叫、炎熱、極熱、無間の八大地獄也、近辺地獄に四あり煻煨増屍糞増鋒刃増、烈河増、これなりこの四一大地獄の四方何れにもあり故に一大地獄に十六増の近辺地獄八大地獄百二十八増の近辺地獄あり、これに根本の八を合して総計百三十六地獄をなす、孤独地獄とは山問曠野樹下空中に忽然として現はるゝ地獄也。

 孤独地獄あるいは孤地獄・独地獄については、玄奘訳『阿毘達磨大毘婆沙論』巻一七二の中に「瞻部洲下有人地獄。瞻部洲上亦有邊地獄。及獨地獄或在谷中。或在山上。或在曠野。或在空中。於餘三洲唯有邊地獄獨地獄無大地獄」とある。ここには「樹間」という言葉が見えないが、『妙法蓮華経玄賛』巻一七二三では「即是山問曠野樹下空中」という句が揃って出て来る。地獄のある場所について、校註国文叢書『今昔物語』では「瞻部洲下過五百踰繕那乃有「其」獄」となっているが「孤獨地獄」では「「南」欧部洲下過五百瞳繕那乃有「地」獄」となっている。単なる誤写と考えるのが妥当であろうが、たとえば『往生要集』では八大地獄が「南瞻部洲下」にあるとしているので、芥川は前掲の注釈文以外にも〈地獄〉に関する情報源を持っていた可能性はある。

 芥川が「孤独地獄」を発表したのは、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』にある鼻の長い僧侶の逸話に取材した「鼻」(『新思潮』大正五・三)を夏目漱石に賞賛され、一気に文壇の脚光を浴びたのと同時期である。芥川が新進作家として歩み出すスタート地点に、〈地獄〉というモチーフは既に存在していたのである。

   《引用終了》

とある。恐らく、乾氏は「其獄」が「地獄」に書き変えられてしまったテクストを見られたのであろう。だいたいからして、昭和四三(一九六八)年筑摩書房発行の「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」を底本とする 「青空文庫」版も「地獄」となってしまっており、岩波の旧全集をもとにしているはずの昭和四六(一九七一)年発行の「筑摩全集類聚」版も、あろうことか、「地獄」となってしまっているのである。しかも、筑摩全集類聚版脚注では出典を「倶舎論」(くしゃろん:インド仏教で最も著名な大徳世親菩薩の代表作。「阿毘達磨倶舎論」)とする)。さてもそこで、「具舎論」を調べたが、完全文字列一致はなかった。そこでダメ押しで「大正蔵検索」で「五百踰繕那」のワード検索したところが、「翻譯名義集」(宋代の梵漢辞典。南宋の法雲編。一一四三年成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類して字義と出典を記したもの)の一節として、

   *

獄故婆沙云贍部洲下過五百踰繕那乃有其獄

   *

と「南」を除き、しかも「其獄」のそれが、確かにあることが確認出来たのである。されば、勝手に誰もが書き変えてしまった「其獄」は、それでいいのだと私は確信したのである。因みに、乾氏の論文は非常に興味深い内容であるから、是非、全部を読まれんことを強くお薦めする。さて、一応、訓読しておくと、

   *

南瞻部洲(なんせんぶしう)下(か)、五百踰繕那(ゆぜんな)を過ぎて、乃(すなは)ち、其の獄、有り。

   *

で、「南瞻部洲」はサンスクリット語「ジャンブー・ドゥヴィーパ」の音写。閻浮提(えんぶだい)・閻浮洲・南閻浮提・穢洲・勝金洲などの漢訳語がある。本来は古代インドの宇宙説において世界の中心とされている須弥山 (しゅみせん) の南方に位置する大陸で、四大洲(他に東勝身洲=弗婆提(ほつばだい)・西牛貨洲(さいごけしゅう)=瞿陀尼(くだに)・北倶盧洲(ほくくるしゅう)=鬱単越(うったんおつ)がある)の一つ。北に広く南に狭い地形で縦横七千由旬 (ゆじゅん:古代インドにおける長さの単位サンスクリット語「ヨージャナ」の漢音写。ここに出る「踰繕那」は別表記。本来は「軛(くびき)に(牛を)つける」の意で、牛に車をつけて一日引かせる行程を指した。一由旬は約十二・十六・二十四キロメートルに相当するという各説がある) あるとされる。インドの地形に基づいて考えられたものだったが、後に仏教でこの人間界(現実世界)全体を指すようになった。閻浮提には大国が十六、中国が五百、小国が十万あるとされ、仏縁に恵まれていることに於いてはこの洲が第一であるとされる。「五百踰繕那」先の換算で六千から一万二千キロメートルに相当する。

「境界(きやうかい)」「青空文庫」版も筑摩全集類聚版も「きやうがい」。私は清音がいい。響きから「境涯」という私の嫌いな熟語がちらつき、不必要なニュアンスを与えていやな感じがするからである。物理的な時空間の位置存在世界が、ひいては自身の現存在意識総てが、瞬時にしてそのまま地獄に変容(メタモルフォーゼ(ドイツ語:Metamorphose)するのである。

「山間曠野樹下空中」筑摩全集類聚版脚注は『「倶舎論頌疏一〇」に見られる句』とするが(「倶舎論頌疏」は平安時代の円暉の撰になる「倶舎論」の要旨を解釈したもの)、私の調べた限りでは、同書第十にはその文字列はない。そこで、この文字列をやはり「大正蔵検索」で調べると、「阿毘達磨順正理論」(これは衆賢(サンガバドラ:紀元後五世紀頃のインドで活躍した学僧)の著した「倶舎雹論」(くしゃばくろん)と呼ばれる「倶舎論」へ反駁した仏教教理書である)

   *

孤地獄。或二一。各別業招。或近江河。山間曠野。或在地下空中餘處。

   *

とあるのが、最も近く、次に「佛頂尊勝陀羅尼經敎跡義記」の、

   *

諸餘孤露地獄別業招者。或近江河山間曠野。

   *

や、「一切經音義」の、

   *

地獄 梵云、捺落迦、此云、苦器、亦云、不可樂、亦云、非行非法行處也。或在山間曠野空中。今言地獄者在大地之下也。

   *

や、「祕密漫荼羅十住心論」の、

   *

餘孤地獄。或多二一各別業招。或近江河山間曠野。或在地下空中餘處。

   *

「唯(たゞ)、その中で孤獨地獄だけは、山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうかい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄(ぢごく)へ墮ちた。一切の事が少しも永續(えいぞく)した興味を與へない。だから何時(いつ)でも一つの境界から一つの境界を追(お)つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃(のが)れられない。さうかと云つて境界を變(か)へずにゐれば猶、苦しい思をする。そこでやはり轉々(てんてん)としてその日その日の苦(くる)しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌(いや)だつた。今では……」これは精神医学書の強い抑鬱状態の教科書的表現の言い換えだとしても納得出来る内容である。「境界」と言う禪超の表現を重視するならば、自分と、自分のいる時空間や対象との乖離が起こっている病的なものとしてあるとするならば、統合失調症や重い強迫神経症なども想起される。なお、底本の後記によれば、「しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、」の後には初出と「羅生門」には、続けて、

   *

(かう云つて禪超は口元の筋肉(きんにく)を引きつらせながら、泣くやうな顏をして笑(わら)つた。)

   *

とあると記す。

「金剛經」「金剛般若經」。正式には「金剛般若波羅蜜經」。大乗仏教の最初期の経典群の総称。これを名のる経典は数多く漢訳されて、「大正新脩(しんしゅう)大蔵経」に収められているものだけでも四十二経もあり、サンスクリット本やチベット語訳もかなり揃っている。大乗仏教の第一声を告げる経として、もっとも重要な経であるが、以後、次々と作られ、次第に増幅されて、最大のものは玄奘が訳した「大般若波羅蜜多経」は全六百巻に及ぶ。これはあらゆる経典中、最大のものである。一切の実体と実体的思想との否定を謳う「空(くう)」の思想を拠り所とする般若の知慧を説き、六波羅蜜の実践を推し進める内容を持つ。なお、密教が拠ったところの「理趣(般若)經」は、かなり後代になって書かれたものであり、また「金剛(般若)經」は禅の関係で流布し、「般若心經」は浄土教と日蓮宗を除く仏教全般に於いて広く愛誦され、書写も盛んであり、現在、最もよく知られるものとしてある。

「疏抄」(そせう(そしょう))は注釈したものの抄本。

「下總の寒川(さむかは)」現在の千葉県千葉市中央区寒川町

「堇野や露に氣のつく年四十」「堇野」は「すみれの」。森鷗外の「細木香以」の「十」には文久元(一八六一)年(先に示した通り、文久二年には店を継母に譲って、隠居した山城河岸没落の年)の香以四十の年の一句として、相似句、

 年四十露に氣の附く花野哉

が載る。私は「堇野や」の方が上手いと思う。

「安政四年」一八五七年。

「しかも自分(じぶん)の中にある或心もちは、動(やゝもす)れば孤獨地獄と云(い)ふ語(ことば)を介して、自分の同情を彼等(かれら)の生活に注がうとする。が、自分はそれを否(いな)まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦(また)、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからである」この最後のクレジット(大正五(一九一六)年二月)が正しいとすれば、芥川龍之介は執筆時、未だ満二十三歳である。しかし、この最後の如何にもにも見える憂鬱な告解は、二年前の大正三年秋の龍之介の初恋であった吉田彌生との外的な要因による破局が根には、ある。さて、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の稲田智恵子氏の解説では、『この末尾に注目して芥川自身の孤独感を解題しようとするものが目立つ。しかし今後の研究ではあくまでテキストの中の「自分」として、作者と切り離して読みをしめすべきであろう』などと述べておられるが、勝手なテキスト論が「こゝろ」の学生と靜を結婚させるような場外乱闘に及ぶを見るに、私はそうした作者のディスクール(言説)であることを恣意的に乖離させて読むなどということは、到底、許されるものではないと考える人種である。大流行りのテクスト論は、究極において、遂に「小説にテーマなどない」、「文言を記号として捉えて自由に読み換え、読み終えた後に感想と展開を仮想構築して各自が勝手に楽しめばよい」という無謀にして不毛な文学論に堕すものとしか考えていない。さればこそ、私は、というより、後の芥川龍之介の自死に至る過程を知っている我々は、この「檣(ほばしら)の二つに折れた船」(「或阿呆の一生」。リンク先は私の草稿附き電子テクスト)のように彷徨う若き魂の告解に、いわく言い難い不吉な予言の響きを聴かざるを得ないのではないか? 芥川龍之介の残り後半生の十二年は、まさにしく、境界の迷宮を裏道を走りめぐるような「孤獨地獄」の中にあったと言えるように私には感ぜられるのである。

「――五年二月――「底本の後記によれば、『文末に日付、初出になし。初出は文末に行を改めて小字で一文がある』あって、以下の芥川龍之介の附記が示されてある。

   *

とうから、小說を書く外に、暇を見てかう云う小品を少しづゝ書いて行かうと思つてゐた。さうしてその數が幾つかになつたら發表するつもりでゐた。今、それを一つ切話して出すのは、全く紙數の都合からである。

   *

とある。]

 

 

草稿

 

[やぶちゃん注:以下、「孤獨地獄」の草稿を示す。底本は一九九七年刊の岩波の新全集「芥川龍之介全集」の第二十一巻に所収されているそれを(六種の断片で続いておらず、書き換え部分もある)、上記公開定稿を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。標題はない。纏まった部分の変わるところで「*」を挟んで前後を空けた。] 

 

 これは大叔父が母に話し 母が更に又自分に話した 或平凡な事實を書いて見たものである。

 大叔父は所謂大通の一人で 九代目團十郞 宇治紫文 都千中 乾坤坊良齋などの藝人から 默阿彌 春水 種員 永機 是眞 芳年などの文人や畫工とも 知己の間柄だつた男である。梅曆の中に出て來る千葉の藤兵エと云ふ人物は、春水がこの犬叔父を模型(モデル)にした。默阿彌の「江戶櫻淸水淸玄」の中の紀國屋文左エ門も やはりこの大叔父を書いたものだとか聞いてゐる。物故してから彼是もう五十年にはなるであらう。生前 今紀文と綽號(あだな)された事があるから 今でも少しは知つてゐる人があるかも知れない。――姓は細木名は藤次郞 俳名は香以 通稱は山岸河岸の津藤である

 

 *

 

で通つた事があるから、今でも少しは覺えてゐる人があるかも知れない。――姓は細木(さいき)、名は藤次郞、俳名は香以、俗稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤が或夜、玉屋の二階で、厠へ行つた歸りしなに、何氣なく廊下を通ると、欄干によりかかりながら、月を見てゐる男が眼に止つた。坊主頭に黃八丈の着物を着た 醫者と云ふ拵への男である。津藤はその橫顏を見て、これを出入の太鼓醫者竹内だと思つた。そこで通りしなに 手をのばして ちよいとその男の耳を引張つた。驚いてふりむく所を笑つてやらうと思つたからである。津藤にはその時封間が一人に 藝者が一人ついてゐた。さうして二人にはその男の竹内でないと云ふ事がよくわかつてゐた。そればかりではない。封間にはその男の誰だと云ふ事さへよくわかってゐた。そこで津藤がその男の耳を引張らうとした時に、慌てて袖を引かうとしたが、もう間に合はない。

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を笑つてやらうと思つたからである。

 所がふり向いた顏を見ると反て此方が驚いた。竹内とは似もつかない男である。左の頰にある大きな黑子は、その時でもはつきり見えた。額の廣い割に、眉と眉との間が險しく狹つてゐる。色は女のやうに白い。――これだけの顏かたちが 月にそむいてゐながらも 慌しく津藤の眼にはいつた。云ふまでもなく この時耳を引張られた坊主が

 

 *

 

で通つた事があるから、今でも少しは覺えてゐる人があるかも知れない。――姓は細木(さいき) 名は藤次郞 俳名は香以、通稱は山城河岸の津藤と云つた男である。

 その津藤が或夜 吉原の玉屋の二階で 厠へ行つた歸りに 藝者を一人封間をつれて廊下を通ると欄干によりかかり

 

こで通りしなに 手をのばして ちよいその男の耳を引張つた。驚いてふりむく所を 笑つてやらうと思つたからである。

 その時、津藤には、藝者が一人に、封間が一人ついてゐた。始めからこの二人には その男の竹内でないと云ふ事がよくわかつてゐる。それ所ではない。封間はその男が何處の誰だと云ふ事までちやんと心得てゐる。そこで 津藤がその男の耳を引張らうとするのを見て、二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を笑つてやらうと思つたからである。

 津藤には その時 藝者が一人に封間が一人ついてゐた。さうしてこの二人は 始から その男が竹内でないと云ふ事を知つてゐた。だから 津藤が耳を引張りさうにするのを見て二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合はない。……向ふが驚けば 津藤も驚いた。ふり向いた坊主の顏を見ると、竹内とは似もつかない男である。津藤が驚けば坊主も驚いた。

 

 *

 

すぎながら、手をのばして、ち□[やぶちゃん注:底本の判読不能字。]いとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を 笑つてやらうと思つたからである。

 その時 津藤には 藝者が一人に封間が一人ついてゐた。さうしてこの二人は始めからその男が竹内でない事を知つてゐた。だから津藤が耳を引張りさうにするのを見て 二人とも慌てて袖を引いて止めやうとした。が、もう間に合はない。向ふが驚けば津藤も驚いた。耳を引張られてふり向いた坊主が 竹内とは似もつかない男だつたからである。

 

[やぶちゃん注:「是眞」漆工芸家・絵師・日本画家柴田是真(ぜしん 文化四(一八〇七)年~明治二四(一八九一)年))であろう。名は順蔵、是真は号。日本の漆工分野において、近世から近代への橋渡しの役割を果たした名工である。

「梅曆」戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~天保一四(一八四四)年:本名は佐々木貞高)の代表作の人情本「春色梅兒譽美」(しゅんしょくうめごよみ)の略称。天保三(一八三二)年から翌年にかけて刊行された。柳川重信・柳川重山画。美男子の丹次郎と女たちとの三角関係を描いた人情本の代表的作品とされる。参照した当該ウィキに梗概がある。登場人物のところに、『千葉の藤兵衛』として、『通い客(春水の遊び仲間であり』、『通人として知られた津藤こと豪商の摂津国屋藤兵衛がモデル)』とある。摂津国屋藤兵衛は細木香以の別通称の一つ。]

2021/03/26

「和漢三才圖會」巻第五十六「山類」より「地獄」

 

Jigoku

 

ぢごく  捺落迦苦噐

     泥梨

地獄    有三類

     根本  近𨕙

テイヨツ 孤獨

 

根本乃八大地獄也其一一皆有十六謂之近邊共百三

十六地獄或爲二百七十二

 一頞部𨹔 二尼刺部𨹔 三頞唽吒 四臛臛婆

 五虎虎婆 六嗢鉢羅【一名青蓮華】 七鉢特摩【一名紅蓮華】

 八摩訶鉢特摩【一名大紅蓮華】

  以上被寒逼故謂之八寒

 一等活 二黑繩 三衆合 四嘷喚 五大嘷喚

 六焦熱 七大焦熱 八無間【一名阿鼻】

  以上被熱責故謂之八熱

右寒熱八大地獄謂之根本【共十六】各其四靣門外所在者

謂之近邊【其十六之外又有各十六則謂二百七十二者合數】

在山閒曠野空中及樹下等者謂之孤獨

△按地獄之所在不知何處而就字義入地部出名目耳

 日本有地獄皆高山頂常燒温泉不絕若肥前【溫泉】

 豊後【鸖見】肥後【阿蘓】駿河【富士】信濃【淺閒】出羽【羽黒】

 越中【立山】越乃【白山】伊豆【箱根】陸奥【燒山】等之頂㶡㶡

 燃起熱湯汪汪湧出宛然有焦熱修羅之形勢

 豊後【速見郡野田村】有名赤江地獄者十余丈正赤湯如血

 流至谷川未冷定處有魚常躍游亦一異也天竺中華

 高山皆有地獄不枚擧凡嵌地獄者不能浮出

 

○やぶちゃんの書き下し文

ぢごく  捺落迦〔(ならくか)〕・苦噐〔(くき)〕

     泥梨〔(ないり)〕

地獄    三類有り。

     根本  近𨕙〔(きんぺん)〕

テイヨツ 孤獨

 

「根本」、乃〔(すなは)〕ち、「八大地獄」なり。其の一つ一つに、皆、十六、有り。之を「近邊」と謂ふ。共に「百三十六地獄」、或いは「二百七十二」と爲す。

 一 頞部𨹔(あぶだ)

 二 尼刺部𨹔(にらぶだ)

 三 頞唽吒(あしやくだ)

 四 臛臛婆(かうかうば)

 五 虎虎婆(ここば)

 六 嗢鉢羅(をんはつら)【一名、「青蓮華〔(しやうれんげ)〕」。】

 七 鉢特摩(はつとくま)【一名、「紅蓮華」〔(ぐれんげ)〕】

 八 摩訶鉢特摩(まかはつとくま)【一名、「大紅蓮華」。】

  以上、寒に逼(せ)めらるる故に、之れを「八寒」と謂ふ。

 一 等活(とうくはつ)

 二 黑繩(こくじやう)

 三 衆合〔(しゆごう)〕

 四 嘷喚(けうくはん)

 五 大嘷喚(だいけうくわん)

 六 焦熱(せうねつ)

 七 大焦熱

 八 無間(むげん)【一名、「阿鼻〔(あび)〕」。】

  以上、熱に責めらるる故、之れを「八熱」と謂ふ。

右「寒・熱八大地獄」、之れを「根本」と謂ふ。【共に十六。】各々、其の四靣の門外に在る所の者、之れを「近邊」と謂ふ【其の十六の外に、又、各々、十六、有り。則ち、「二百七十二」と謂ふは、數に合ふ。】。

山閒・曠野の空中及び樹の下等に在る者、之れを「孤獨」と謂ふ。

△按ずるに、地獄の所在は何處〔(いづこ)〕おいふことを知らず。而〔して〕字義に就きて「地部」に入るれども、名目を出だすのみ。

 日本に「地獄」有り。皆、高山の頂(いたゞき)、常に燒け、温泉、絕へず[やぶちゃん注:ママ。]。肥前の【溫泉(うんぜん)[やぶちゃん注:漢字はママ。]】・豊後の【鸖見〔(つるみ)〕】・肥後【阿蘓。】・駿河【富士。】・信濃【淺閒。】・出羽【羽黒。】・越中【立山(たて〔やま〕)。】越乃(こしの)【白山(しら〔やま〕)。】伊豆【箱根。】陸奥【燒山〔(やけやま)〕。】等のごとき、頂、㶡㶡(くはくは)と燃(も)へ起り、熱湯、汪汪(わんわん)と湧(わ)き出で、宛然(さなが)ら、焦熱・修羅の形勢(ありさま)有り。

 豊後【速見郡野田村。】、「赤江地獄」と名づくる者、有り。十余丈、正赤(まかい[やぶちゃん注:ママ。])なる湯、血のごとく、流れて、谷川に至る。未だ冷定〔ひえさだまりも〕せざる處〔にも〕、魚、有りて、常に躍り游ぶ。亦た、一異なり。天竺・中華〔の〕高山に、皆、地獄、有り。枚擧せず。凡そ、地獄に嵌(はま)る者、浮(うか)び出ずること、能はず。

 

[やぶちゃん注:かなりの異体字が使用されており、表記不能なもの(「喚」は恐らくこれ(リンク先は「グリフウィキ」)。「頂」は〔(上)「山」+(下)「項」〕であるが、良安は経験上から「頂」を「項」と書く)は諸本と校合して確定した。挿絵がなかなか凝っていて、特異点でいい感じだ(私はあまり本書の挿絵には期待したことはない。魚介類などでは、ひどい描画もままあったからである)。閻魔庁で、獄卒の鬼に引き立てられて、鏡に生前の悪業が総て映写される「浄玻璃(じょはり)」の前に跪いている亡者だ。鏡の中の左側の男が生前の亡者に違いない。右手の男を襲って剣で刺し殺そうとしているかのように見える。右の男は旅姿であり、下に落ちているのは彼の三度笠。この亡者は山賊ででもあったのかも知れない。

「捺落迦〔(ならくか)〕」地獄のサンスクリット語は「ナラカ」で(「地下にある牢獄」を指す語)、漢音写には他に「奈落迦」「那落迦」「那羅柯」などがある。

「苦噐〔(くき)〕」「苦しみの容器」で意味からの「地獄」の漢訳語。

「泥梨〔(ないり)〕」「地獄」のサンスクリット語には別に同じ意義の「ニラヤ」があり、これはそちらの漢音写。

「根本」「婆沙論」などに見られる地獄の三分類の中の一つである「根本地獄」のこと。「根本地獄」は以下の等活・黒縄・衆合・叫喚(号叫とも。次も同じ)・大叫喚・焦熱(炎熱とも)・大焦熱(極熱)・無間の八大地獄を総称する呼称。

「近𨕙〔(きんぺん)〕」「𨕙」は「邊」(辺)の異体字。「近邊地獄」。前注の三分類の一つ。煻煨増・屍糞増地獄・鋒刃増地獄・烈河増地獄の四つに分けられ、この四地獄が、先の八大地獄のそれぞれの四方に孰れにも附属して存在する。故に一大地獄に十六増の近辺地獄、八大地獄に百二十八増の近辺地獄があることになり、これに根本の八地獄を合せると、総計百三十六地獄となる。

「孤獨」「孤獨地獄」。現世の山間・曠野・樹下・空中(良安の書き方は不全で、それらの空中と樹下にあるように読めてしまう)に忽然と現われる現在地獄を指す。私がこの「孤独地獄」を知ったのは、大学四年の一九七八年十月に入手した(父の知人の伝手で岩波書店本社で社員の方から一割引きで買った。裸でスズラン・テープで六巻ずつ縛られていて、神保町から中目黒まで素手でぶら下げて帰った。三日間、両手の指が血行不良で腫れ上がったのを思い出す)「芥川龍之介全集」をその日から一月ほどかけて通読したその時だった。芥川龍之介のズバり、「孤獨地獄」だ。若書きのもので、「鼻」の発表の二ヶ月後の大正五(一九一六)年四月発行の『新思潮』初出で、大見出し「紺珠十篇」のもとに「孤獨地獄」の標題で掲載され(目次は「孤獨地獄(小品)」)、後の作品集「羅生門」及び「鼻」に収録された。当時の私の日記に異様に感動した記載がある。「青空文庫」のこちらで読めるが、新字旧仮名である。これは正字で読まなくてはだめだ。そのうち、正字正仮名でサイトで草稿も添えて電子化注したい。その一節で龍之介はこう語る(青空文庫版を加工データとして使用し、旧全集で校訂した)。「自分」というのは登場人物の一人である禅僧「禪超」である。

   *

 佛說によると、地獄(ぢごく)にもさまざまあるが、凡(およそ)先(ま)づ、根本地獄、近邊地獄、孤獨地獄の三つに分つ事が出來(でき)るらしい。それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有其獄と云(い)ふ句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯(たゞ)、その中で孤獨地獄だけは、山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうかい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄(じごく)へ墮ちた。一切の事が少しも永續(えいぞく)した興味を與へない。だから何時(いつ)でも一つの境界から一つの境界を追(お)つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃(のが)れられない。さうかと云つて境界を變(か)へずにゐれば猶、苦しい思をする。そこでやはり轉々(てんてん)としてその日その日の苦(くる)しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌(いや)だつた。今では……

   *

そして、最後に龍之介自身が以下のように語るのである。

   *

 安政四年頃の話である。母(はゝ)は地獄と云ふ語の興味(きようみ)で、この話を覺えてゐたものらしい。

 一日の大部分を書齋で暮(くら)してゐる自分は、生活の上から云つて、自分(じぶん)の大叔父やこの禪僧とは、全然沒交涉な世界(せかい)に住んでゐる人間(にんげん)である。又興味の上から云つても、自分は德川時代(とくがはじだい)の戲作や浮世繪に、特殊な興味を持(も)つてゐる者ではない。しかも自分(じぶん)の中にある或心もちは、動(やゝもす)れば孤獨地獄と云(い)ふ語(ことば)を介して、自分の同情を彼等(かれら)の生活に注がうとする。が、自分はそれを否(いな)まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦(また)、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからである。

           ――五年二月――

   *

この最後のクレジットが正しいとすれば、芥川龍之介は未だ満二十三歳である。この最後のメランコリックな告解は、二年前の大正三年秋の龍之介の初恋であった吉田彌生との外的な要因による破局が根にはある。しかし、後の芥川龍之介の自死に至る過程を知っている我々には、いわく言い難い凄絶な不吉な予言として響いてくるではないか?

「テイヨツ」現代中国語では「地獄は「dì yù」(ネイティヴの発音の音写は「ディー・ユゥー」といった感じである)。

『「二百七十二」と爲す』これは、後で良安が言っているように、八大地獄を「八寒地獄」と「八熱地獄」に分けて、先の「百三十六地獄」の倍するとなるから、『則ち、「二百七十二」と謂ふは、數に合ふ』というわけである。

「頞部𨹔(あぶだ)」八寒地獄の第一。寒さのあまり、鳥肌が立ち、身体に痘痕(あばた)を生じる。「痘痕」という語の語源自体が、この「あぶだ」に由来する。ウィキの「八大地獄」に拠った(以下同じ)。

「尼刺部𨹔(にらぶだ)」八寒地獄の第二。鳥肌が潰れ、全身に皸(あかぎれ)が生じる。

「頞唽吒(あしやくだ)」上記リンク先では、「頞哳吒(あたた)地獄」とある。八寒地獄の第三。名は、寒さによって「あたた!」という悲鳴を挙げること由来する。これは以下の「虎虎婆」まで共通である。「頞」は現代中国語では「è」(ウーァ)、「唽」は「」(シィー)、「吒」は「zhā」(ヂァ)である。

「臛臛婆(かうかうば)」上記リンク先では、「臛臛婆(かかば)地獄」とある。八寒地獄の第四。寒さのあまり、舌がもつれて動かず、「ははば!」(引用元のママ)という声しか出ない。しかし、「臛」は現代中国語では「huò」(フゥオ)で、「婆」は「」(ポォー)である。

「虎虎婆(ここば)」八寒地獄の第五。寒さのあまり、口が開かず、「ふふば」という声しか出ない。「虎」は現代中国語で「」(フゥー)で一致する。

「嗢鉢羅(をんはつら)【一名、「青蓮華〔(しやうれんげ)〕」。】上記リンク先では、「嗢鉢羅(うばら)地獄」とある。八寒地獄の第六。嗢鉢羅は「青い睡蓮」を意味するサンスクリット「utpala-」の音写。全身が凍傷のためにひび割れ、青い蓮のように、めくれ上がることから「青蓮地獄」(引用のママ)とも呼ばれる。

「鉢特摩(はつとくま)【一名、「紅蓮華」〔(ぐれんげ)〕】」同前で「鉢特摩(はどま)地獄」とする。意訳で「紅蓮地獄」(引用のママ)とも呼ばれる八寒地獄の第七。鉢特摩(はどま)は「蓮華」を意味するサンスクリット「padma-」の音写。ここに落ちた者はひどい寒さにより、皮膚が裂けて流血し、紅色の蓮の花に似るという。

「摩訶鉢特摩(まかはつとくま)【一名、「大紅蓮華」。】」同前で「摩訶鉢特摩(まかはどま)地獄」とする。意訳で「大紅蓮地獄」(引用のママ)とも呼ばれる八寒地獄の第八。八寒地獄で最も広大で、「摩訶」は「大」を意味するサンスクリット「mahā-」の音写。ここに落ちた者は、紅蓮地獄を超える寒さにより、体が折れ裂けて流血し、紅色の蓮の花に似るという。

「等活(とうくはつ)」堕獄理由は殺生(せっしょう)。「想地獄」の別名がある。徒らに生き物の命を断った者が堕ち、螻(けら)・蟻・蚊(か)・虻(あぶ)の小さな虫を殺した者も、懺悔しなければ、必ず、この地獄に堕ちると説かれている。また、生前争いが好きだった者や、反乱で死んだ者もここに堕ちるとされる。閻浮提(地上の人間界)の地下一千由旬にあって、縦横の広さは斉等で一万由旬ある。『この中の衆人たちは互いに害心を抱き、自らの身に備わった鉄の爪や刀剣などで殺し合うという。そうでない者も獄卒に身体を切り裂かれ、粉砕され、死ぬが、涼風が吹いて、また獄卒の「活きよ、活きよ」の声で等しく元の身体に生き返る、という責め苦が繰り返されるゆえに、等活という』。但し、『この「死んでもすぐに肉体が再生して何度でも責め苦が繰り返される」現象は、他の八大地獄や小地獄にも共通することである』。『この地獄における衆人の寿命は』五百『歳である』が、地獄のそれは『通常の』五百『歳ではなく、人間界の』五十『年を第一四天王(四大王衆天)の一日一夜とした場合の』五百『年が等活地獄の一日一夜であり、それが』五百『年にわたって続くので、人間界の時間に換算すると』、一兆六千六百五十三億千二百五十万年に亙って『苦しみを受けることになる』(一年を三百六十五日とした換算。以下も同様)。『しかし、それを待たず』、『中間で死ぬ者もいる。そこにいる衆生の悪業にも上中下の差別があるので、その命にもまた上中下の差別がある。業の多少・軽重に応じて、等活地獄の一処だけで』受けるか、『もしくは二処、三処、四処、五処、六処と、最後は十六処まで』、『悪業が尽きるまで苦痛を受ける。この一処、二処というのが、十六小地獄を順番に回っていくことなのか、それとも時間の区切りなのかは判然としない』とある。ウィキの「八大地獄」に拠った(以下同じ)。

「黑繩(こくじやう)」罪状は殺生・偸盗(ちゅうとう)盗『殺生のうえに』『盗みを重ねた者がこの地獄に堕ちると説かれている』。『等活地獄の下に位置し、縦横の広さは等活地獄と同じである(以下、大焦熱地獄まで広さは共通)。獄卒は罪人を捕らえて、熱く焼けた鉄の地面に伏し倒し、同じく熱く焼けた縄で身体に墨縄をうち、これまた熱く焼けた鉄の斧もしくは鋸(のこぎり)でその跡にそって切り、裂き、削る。また』、『左右に大きく鉄の山がある。山の上に鉄の幢(はたほこ)を立て、鉄の縄をはり、罪人に鉄の山を背負わせて縄の上を渡らせる。すると罪人は縄から落ちて砕け、あるいは鉄の鼎(かなえ)に突き落とされて煮られる。この苦しみは、先の等活地獄の苦しみよりも』十『倍である。人間界の』百『年は、六欲天の第二の忉利天(とうりてん)の一日一夜である。その忉利天の寿命は』一千『歳である。この天の寿命』一千『歳を一日一夜とし』たそれで、『人間界の時間では』十三兆三千二百二十五億年に相当する。『ここにも十六小地獄があるはずだが、「正法念処経」には三種類の名前しか伝わっていない』とある。

「衆合〔(しゆごう)〕」罪状は殺生・偸盗・邪淫。「堆圧地獄」の別名がある。『先の二つに加えて淫らな行いを繰り返した者が落ちる』。『黒縄地獄の下に位置し、その』十『倍の苦を受ける。多くの罪人が、相対する鉄の山が両方から崩れ落ち、圧殺されるなどの苦を受ける。剣の葉を持つ林の木の上に美人が誘惑して招き、罪人が登ると今度は木の下に美人が現れ、その昇り降りのたびに罪人の体から血が吹き出す』(これは私の好きな地獄でこの林は「刀葉林」と呼ばれる)。『鉄の巨象に踏まれて押し潰される』。人間の』二百『歳を第三の夜摩天の一日一夜として、さらにその』二千『年をこの地獄の一日一夜として、この地獄での寿命は』二千歳『という。これは人間界の時間に換算すると』、百六兆五千八百億年に相当する。因みに「東洋文庫」の訳ではこれに「しゅうごう」とルビが振られている。「あり得ません。誤りですよ!」。

「嘷喚(けうくはん)」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒。「飲酒」というのは、ただ酒を飲んだり、売買した者ではなく、『酒に毒を入れて人殺しをしたり、他人に酒を飲ませて悪事を働くように仕向けたりすることなどが叫喚地獄に堕ちる条件』とされる。『衆合地獄の下に位置し、その』十『倍の苦を受ける。熱湯の大釜や猛火の鉄室に入れられ、号泣、叫喚する。その泣き喚き、許しを請い哀願する声を聞いた獄卒はさらに怒り狂い、罪人をますます責めさいなむ。頭が金色、目から火を噴き、赤い服を着た巨大な獄卒が罪人を追い回して弓矢で射る。焼けた鉄の地面を走らされ、鉄の棒で打ち砕かれる』。『人間の』四百『歳を第四の兜率天の一日一夜とする。その兜率天の』四千『年を一日一夜として、この地獄における寿命は』四千『歳という。これは人間界の時間で』八百五十二兆六千四百億年に相当する。

「大嘷喚(だいけうくわん)」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語(噓をつくこと)。『叫喚地獄の下に位置し、その』十『倍の苦を受ける。叫喚地獄で使われる鍋や釜より大きな物が使われ、更に大きな苦を受け叫び喚(な)く』。『人間の』八百『歳は、第五の化楽』(けらく)『天の一日一夜として、寿』八千『歳という。その』八千『歳を一日一夜として、この地獄での寿命は』八千『歳である。これは人間界の時間で』六千八百二十一兆千二百億年に相当する。各地獄に十六の小地獄が附属すると言ったが、『理由は不明』だが、この「大叫喚地獄」のみは十八『種類の名が伝わっている』とある。しかし、そうすると、総数に異同が生じることとなるが?

「焦熱(せうねつ)」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見(仏教の教えとは相容れない考えを説き、或いはそれを実践すること)。『大叫喚地獄の下に位置し、その』十『倍の苦を受ける。常に極熱で焼かれ焦げる。赤く熱した鉄板の上で、また鉄串に刺されて、またある者は目・鼻・口・手足などに分解されて』、『それぞれが炎で焼かれる。この焦熱地獄の炎に比べると、それまでの地獄の炎も雪のように冷たく感じられるほどであり、豆粒ほどの焦熱地獄の火を地上に持って来ただけでも地上の全てが一瞬で焼き尽くされるという』。『人間界の』千六百『歳は、他化自在天の一日一夜として、その寿』一万六千『歳である。その』一万六千『歳を一日一夜として、この地獄での寿命は』一万六千『歳という。これは人間界の時間で』五京四千五百六十八兆九千六百億年に相当する。

「大焦熱」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見・犯持戒人(尼僧・童女などへの強姦)。『焦熱地獄の下に位置し、前の』六『つの地獄の一切の諸苦に』十『倍して重く受ける。また』、『更なる極熱で焼かれて焦げる。その炎は最大で高さ』五千『由旬、横幅』二百『由旬あるという。罪人の苦しみの声は地獄から』三千『由旬離れた場所でも聞こえる。この地獄に落ちる罪人は、死の三日前から中有(転生待ち)の段階にも地獄』(この地獄はどこの地獄なのかなあ?)『と同じ苦しみを受ける』。『この地獄における寿命は、人間界の』三千二百『歳を一日一夜とした場合の』三万二千『歳を一日一夜として』三万二千『歳であり、人間界の時間では』四十三京六千五百五十一兆六千八百『億年に当たる。また、この期間を半中劫とも呼ぶ』とある。

「無間(むげん)【一名、「阿鼻〔(あび)〕」。】」罪状は殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見・犯持戒人に加えて、父母や阿羅漢(聖者)を殺害した罪。『地獄の最下層に位置する。大きさは前の』七『つの地獄よりも大きく、縦横高さそれぞれ』二『万由旬』(八万由旬とも)。『最下層』であるため、『この地獄に到達するには、真っ逆さまに(自由落下速度で)落ち続けて』二千年『かかるという。前の七大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として、大阿鼻地獄の苦』の一千『倍もあるという。剣樹、刀山、湯などの苦しみを絶え間』『なく受ける。背丈が』四『由旬』もあり、六十四個の『目を持ち』、『火を吐く奇怪な鬼がいる。舌を抜き出されて』百『本の釘を打たれ、毒や火を吐く虫や大蛇に責めさいなまれ、熱鉄の山を上り下りさせられる。これまでの』七『つの地獄でさえ、この無間地獄に比べれば夢のような幸福であるという』。『この地獄における寿命は、人間界の』六千四百『歳を一日一夜とした場合の』六万四千『歳を一日一夜として』六万四千『歳であり、人間界の時間では』三百四十九京二千四百十三兆四千四百億年に相当する。『また、この期間を一中劫とも呼ぶ』。『この一中劫の長さに関する説明としては、「この人寿無量歳なりしが』、百『年に一寿を減じ、また』、百『年に一寿を減ずるほどに、人寿』十『歳の時に減ずるを一減という。また』十『歳より』、百『年に一寿を増し、また』、百『年に一寿を増する程に』、八『万歳に増するを一増という。この一増一減の程を小劫として』、二十『の増減を一中劫という」とする表現』があることから、『これは人間界の年月に換算すると』三億千九百九十六万年となる』とある。『また、一説によると、この地獄における寿命は、人間界の』八千『歳を一日一夜とした場合の』八『万歳を一日一夜として』八『万歳とも言われ』、『この場合は人間界の時間で』六百八十二京千百二十『兆年に相当する計算になる。いずれにせよ、この地獄に落ちた者は気が遠くなるほどの長い年月にわたって、およそ人間の想像を絶する最大の苦しみを休みなく受け続けなければならない』。『この他、一中劫の長さを表す喩えとしては、「縦横高さがそれぞれ一由旬の巨大な正方形の石を』、百『年に一度ずつ柔らかな木綿の布で軽く払い、その繰り返しで石がすり減って完全になくなるまでの時間である」とか、「縦横高さがそれぞれ一由旬の巨大な城にケシ粒がぎっしり詰まっており、その中から』百『年に一粒ずつ』、罌粟(けし)『粒を取り出していって、城の中の』罌粟『粒が完全になくなるまでの時間である」などとも言われる。この地獄に堕ちたる者は、これほど久しく無間地獄に住して大苦を受くという』とある。最後に言っておくと、以上の通り、仏教は極めて細かく数理的に規定されているものの、その現在の度量衡換算は一定しない。

「肥前の【溫泉(うんぜん)】」現在の長崎県雲仙市小浜町雲仙にある雲仙岳(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。標高九百十一メートル。この「うんぜん」を「溫泉」と表記するのは誤りではなく、しばしば行われたもののようで、先般電子化した譚海 卷之四 肥前國溫泉ケ嶽の事」でもそうなっている。

「豊後の【鸖見〔(つるみ)〕】」これは大分県別府市にある活火山鶴見岳のことで、東側山麓の扇状地に「別府地獄」で知られる別府温泉(別府八湯)が広がる。標高千三百七十五メートル。

「阿蘓」阿蘇山。

「越乃(こしの)【白山(しら〔やま〕)。】」この場合の「越乃」は講義の北陸地方で、ここでは加賀を指す。現在の石川県白山市と岐阜県大野郡白川村に跨る標高二千七百二メートルの活火山白山(はくさん)。西山麓の石川県白山市白峰にある「白峰温泉」が知られる。

「陸奥【燒山〔(やけやま)〕。】」秋田県の北東部に位置し、鹿角市と仙北市との境界にある活火山秋田焼山(あきたやけやま)であろう。標高は千三百六十六メートル。西麓に強烈な酸性温泉である玉川温泉がある。私は一泊したが、柔らかな皮膚部分に激しい痛みを感じ、まともに入浴することが出来なかった。

「㶡㶡(くはくは)」不詳。光を放って燃え上がるさまか。

「汪汪(わんわん)」ここは熱湯が豊かにいつまでも湧き出し、常時、湛えられているさまを指す。

『豊後【速見郡野田村。】、「赤江地獄」と名づくる者、有り』大分県別府市大字野田にある温泉が湧出する池で、現在は「血の池地獄」という名で知られ、国の名勝に指定されている。サイド・パネルの画像を見られたい。現存する最も古い記録は八世紀前半に編纂された「豊後国風土記」の「速見郡」の項にある。岩波文庫(一九三七年刊)武田祐吉編「風土記」より引く。

   *

赤湯泉(あかゆ)【郡の西北にあり。】

この溫泉の穴、郡の西北の竈門山(かまどやま)に在り。その周(めぐ)り十五丈許なり。湯の色赤くして埿(ひぢ)り。用(も)ちて屋の柱を塗るに足れり。埿(ひぢ)、外に流れ出づれば、變りて淸水(しみづ)と爲り、東を指して下り流る。因りて赤湯泉(あかゆ)といふ。

   *

「十五丈」は四十五・四九メートル。これだと、現在の大きさ(一辺が約四十五メートルの三角形の「おむすび」型を成す)より小さいが、一辺十五丈ならば、ほぼ同じである。この最後の部分は「別府温泉地球博物館」公式サイトの「血の池地獄」を参考にした。

「正赤(まかい)なる湯」こういう読みは始めてみたが、意味は「真っ赤」で判る。

「一異」一つの不思議。

「枚擧せず」ここではそれらをいちいち挙げない。

「地獄に嵌(はま)る者、浮(うか)び出ずること、能はず」これは良安の確信犯のシンボライズされた教訓であろう。彼が如何なる信仰を持っていたかは判らぬが。しかし――さればこそ――最後に引用しよう。芥川龍之介の「侏儒の言葉」からだ――

   *

 

       地獄

 

 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の與へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の與へる苦しみは不幸にもそれほど單純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外樂樂と食ひ得ることもあるのである。のみならず樂樂と食ひ得た後さへ、腸加太兒の起ることもあると同時に、又存外樂樂と消化し得ることもあるのである。かう云ふ無法則の世界に順應するのは何びとにも容易に出來るものではない。もし地獄に墮ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであらう。況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまふ筈である。

 

   *

引用は『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 地獄』より。]

2021/03/25

「和漢三才圖會」巻第五十八「火類」より「靈䰟火(ひとだま)」

 

Hitodama

 

ひとたま 人䰟火

靈䰟火

 

△按靈魂火頭團匾其尾如杓子樣而長色青白帶微赤

 徐飛行去地髙三四丈遠近不定堕而破失光如煑爛

 麩餅其堕處小黒蟲多有之形似小金龜子及鼓蟲未

 知何物也偶有自身知魂出去者曰物出於耳中而不

 日其人死或過旬余亦有矣凡死者皆非魂出也畿内

 繁花地一歲中病死人不知幾万人也然人魂火飛者

 十箇年中唯見一兩度耳【近年聞大坂三四箇墓所葬年中髙大槪二万人許他處

 亦可以推量也】

  玉は見つ主は誰ともしらねとも

        結ひとゝめん下かへのつま

[やぶちゃん注:和歌は前行末に約四字空けて一行で示されているが、ブラウザでの不具合を考えて、改行して引き上げ、さらに上句と下句を分かち書きにした。]

 拾芥抄云見人䰟時吟此歌可結所著衣裙【男左女右】

 

○やぶちゃんの書き下し文

ひとだま 「人䰟火」。

靈䰟火

 

△按ずるに、靈魂火〔(ひとだま)〕は頭、團(まる)く匾(ひらた)く、其の尾、杓子〔(しやくし)〕樣〔(やう)〕のごとくにして、長く、色、青白、微赤を帶ぶ。徐(しづ)かに飛行〔(ひぎやう)〕し、地を去ること、髙さ、三、四丈、遠近、定まらず。堕ちて、破(わ)れ、光を失ふ。煑爛(〔に〕ただ)れたる麩餅〔(ふもち)〕のごとく、其の堕つる處に、小さき黒き蟲、多く、之れ、有り。形、小さき金龜子(こがねむし)及び鼓蟲(まひまひむし)に似〔るも〕、未だ、何物といふことを知らざるなり。偶(たまた)ま、自身、魂(たま)、出で去るを知る者、有りて、曰はく、

「物、耳の中より、出づる。」

と。日ならずして、其の人、死す。或いは、旬余(とうかあま)り過ぐるも、亦、有り。凡(すべ)て、死する者、皆、魂〔(たましひ)〕、出づるに非ざるなり。畿内繁花の地、一歲の中〔(うち)〕、病死する人、幾万人といふことを知らず。然るに、人魂の火、飛ぶは、十箇年の中、唯だ、一兩度を見るのみ。【近年、大坂、三、四箇の墓、葬ふる所の年中の髙〔(たか)〕を聞くに、大槪、二万人許りなり。他處〔(よそ)〕も亦、以つて推量すべきなり。】

  玉は見つ主〔(しゆ)〕は誰〔(たれ)〕ともしらねども

        結びとゞめん下かへのつま

 「拾芥抄〔(しふがいせう)〕」に云はく、『人䰟〔(ひとだま)〕を見る時、此の歌を吟じて、著る所の衣の裙(つま)を結ぶべし。』と。【男は左、女は右。】。

 

[やぶちゃん注:冒頭から一気に良安のオリジナルな解説に入り、恐らくは、概ね、自身の体験や資料によって語って、最後に人魂による災厄封じの和歌を引用して終わるというのは、少なくとも今まで私が電子化注した「和漢三才図会」の諸記事の中では、特異点中の特異点である。しかも、そこでは冷静な人魂観察の実体験が記されてあり、そこでは落下して破裂して消え、その消失した地面には、コガネムシ或いはカタツムリに似ているが、知っているそれらでは決してない奇妙な黒い虫が数多く蠢いていた、という未確認生物の目撃証言附きなのだ! これは人魂の目撃記載でも出色のリアリズムと言える! さらには、人魂が身体から抜けていった(幽体離脱)と述べた直話の人物が、ほどなく亡くなったという発言、逆に、魂が抜けたという証言が本人や周囲からあっても、十日余りも生きていたという事例を挙げた上で、「人が死ぬ場合、誰もが霊魂が抜けて(少なくとも可視的な)人魂となるわけではない」として、その証拠に、「私は今までの人生の中で実際に人魂を見たのは、ただの二度しかない」と述べ、畿内の都市部だけでも一年の間に病死する者の数は幾万人とも知れない。近年の当時の大坂(寺島良安は大坂城入医師で法橋であった)の幾つかの墓地の年平均の、正式に葬送された死者の数の総数を照会したところが、たった一年でも約二万人であった(こんな調査を真面目にした人物は後にも先にもそういるもんじゃあるまい)。他の地方も推して知るべしで、人魂が必ず死者から一つ出るとしたた、それこそ我々は毎日、数え切れぬほどの人魂を目撃しているはずだと、ミョーに現実主義的なキビしー批判を加えているのもまことに興味深いのである。片や、動植物の解説では平気で、「無」からそれらが生成したり、山芋が鰻に変ずるような化生説を平気で大真面目に述べている良安先生が、である。面白い! 実に、面白い! なお、「ひとだま」「人魂」は語としては非常に古くからある。「万葉集」の第第十六の巻末に「怕(おそろ)しき物の歌三首」の掉尾の一首(三八八九番)が、

   *

 人魂の

   さ靑なる君が

  ただ獨り

    逢へりし雨夜(あまよ)の

   葉非左し思ほゆ

   *

「葉非左」は難訓でよく判らないが「はひさ」という人の名ととっておく。

「團(まる)く匾(ひらた)く」玉の部分は丸いが、球体ではなく、平たい円盤なのである。

「髙さ、三、四丈」約九メートルから十二メートル。かなり高い。

「煑爛(〔に〕ただ)れたる麩餅〔(ふもち)〕のごとく」落ちた状態の物理的な様子ではなく、弾けて落下して光を失うまでの、その様子は、麩で作った非常に柔らかい餅菓子が解けてぐにゃぐにゃになったような感じであったということであろう。

「其の堕つる處に、小さき黒き蟲、多く、之れ、有り。形、小さき金龜子(こがねむし)及び鼓蟲(まひまひむし)に似〔るも〕、未だ、何物といふことを知らざるなり」これは非常に重要な証言である。場所がどこであったのか、その虫の正確な形状を良安が記していないのは非常に不審である。せめても、死骸を採取しておくべきだった。本書で動物類の細かな記載をしている彼にして、大いに不満である。まあ、きっと、本書を企画する前の、若き日のやんちゃな時代の経験だったのだろう、と好意的にとっておく。

『「物、耳の中より、出づる。」と。日ならずして、其の人、死す』って、何らかの重篤な脳の疾患だったんではなかろうか?

「拾芥抄」正しくは「拾芥略要抄」。南北朝時代の類書で、実用生活便覧とも言える百科事典のようなもの。当初は全三巻であったらしいが、後に増補されて六巻本となった。編者は洞院公賢 (とういんきんかた) とする説と、洞院実煕 (さねひろ) とする説があるが、公賢原編・実煕増補とみる説が有力。但し、実煕以後の記事も含まれていることから、順次、増補されてきたものと思われる。内容は九十九部門に分かれ、生活百般・文芸・政治関係その他と、凡そ貴族として生活していくために必要な最低限の知識・教養を簡単に解説したものである。室町時代に最も重宝がられたが、江戸時代にも広く使われた。国立国会図書館デジタルコレクションのここに当該部を見つけた。

   *

見人魂時歌

 玉ハミツ主ハタレトモシラ子トモ結留メツシタカヱノツマ

 誦此歌結所著衣妻【云男ハ左ノシタカヒノツマ云女ハ同右ノツマヲ

   *

但し、この歌は、もっとずっと昔の平安後期の保元年間(一一五六年~一一五九年)頃に公家で六条家流の歌人の藤原清輔が著した歌論書「袋草紙」に、既に、霊魂が憬(あくが)れ出でてゆくのを鎮め留(とど)める咒(まじな)いの古い呪歌として記載されてある。鎮魂歌であり、古来より、人魂や霊的な対象に遭遇した際、この歌を三誦し、男は左、女は右の褄を結んでおき、三日経った後、これを解くという風習があったことに由るといわれている。]

畔田翠山「水族志」 チヌ (クロダイ)

(一五)

チヌ 一名「クロダヒ」【備後因島】マナジ(紀州熊野九木浦勢州松坂此魚智アリテ釣緡ヲ知ル故名紀州日高郡漁人云チヌハ海ノ巫也】

形狀棘鬣ニ似テ淡黑色靑ヲ帶背ヨリ腹上ニ至リ淡黑色ノ橫斑アリ

腹白色長乄二尺ニ及ベハ橫斑去ル大和本草曰「チヌ」「タヒ」ニ似テ靑黑

色好ンテ人糞ヲ食フ故ニ人賤之㋑カイズ物類稱呼曰小ナルモノヲ

「カイズ」ト稱ス按今秋月ニ及テチヌノ子長シテ二三寸ナルヲ通テ「カ

イズ」ト云㋺黑チヌ 一名「マナジ」【勢州慥抦浦】形狀「チヌ」ニ同乄黑色ヲ帶背

ヨリ腹上ニ至リ黑條アリ腹白色餘ハ「チヌ」ニ同シ

 

○やぶちゃんの書き下し文

ちぬ 一名「くろだひ」【備後因島〔いんのしま〕。】。「まなじ」【紀州熊野九木浦・勢州松坂。此の魚、智ありて釣緡〔つりいと〕を知る。故に名づく。紀州日高郡、漁人云ふ、「『ちぬ』は海の巫〔みこ〕なり」と。】。

形狀、棘鬣〔まだひ〕に似て、淡黑色、靑を帶ぶ。背より腹の上に至り、淡黑色の橫斑あり。腹。白色。長くして二尺に及べば、橫斑、去る。「大和本草」に曰はく、『「ちぬ」、「たひ」に似て、靑黑色。好んで人糞を食ふ。故に、人、之れを賤〔いや〕しむ』と。

「かいず」 「物類稱呼」に曰はく、『小なるものを「かいず」と稱す』と。按ずるに、今、秋月に及んで、「ちぬ」の子〔こ〕、長じて、二、三寸なるを、通じて「かいず」と云ふ。

「黑ちぬ」 一名「まなじ」【勢州慥抦浦〔たしからうら〕。】。形狀、「ちぬ」に同じくして、黑色を帶び、背より腹の上に至り、黑條あり。腹、白色。餘は「ちぬ」に同じ。

 

[やぶちゃん注:本文はここ。これはまず、

スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii

としてよい(属名アカントパグルスの‘Acantho-’ はギリシャ語由来のラテン語で「棘のある」の意)が、宇井縫藏著「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)もこちらでクロダイに同定しているが、少し気になるのは次の「キチヌ」

クロダイ属キチヌ Acanthopagrus latus

で、『多く前種と混同してゐる』と注している。但し、その直後に宇井は『水族志にはハカタヂヌ一名アサギダヒとある』(太字は原本では傍点「●」、下線は傍点「ヽ」)と記しているので、問題とする必要はない(畔田がちゃんと「キチヌ」相当を別種としていると考えられる点で、という意味でである。ただ、畔田は決して厳密な分類学的視点で項を立てているわけではなく、採取した資料を網羅的に並べている傾向もあるので、絶対とは言えない)と判断した。しかし、異名に「まなじ」を挙げているのは、やはり問題がある。「マナジ」は現行、属の異なる、

ヘダイ亜科ヘダイ属ヘダイ Rhabdosargus sarba

の異名としてよく知られているからである。ただ、「マナジ」は今も一部地域で「クロダイ」の異名でもあるし、標題とする「チヌ」は今も確かなクロダイの異名であり、形状・色彩の記載からみてもクロダイとして比定同定してよいと思われる。因みに、サイト「渓流茶房エノハ亭」の「海釣りの定番魚 クロダイ・チヌの方言(地方)名」は異名を驚くほど分類的に調べ上げてあって必見なのだが、そこでやはり、「クロダイ」の異名として「マナジ」を挙げ、このクロダイとしての異名は『静岡、三重、和歌山、岡山の一部で見られる』とした上で、「マナジ」の『「マ」は岩礁周辺、「ナ」は「ノ」、「ジ」は魚を表すので』、『磯の魚を意味するとも聞いている』とあった。なるほど!

「備後因島〔いんのしま〕」現在の広島県尾道市にある因島(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。島の北側は「安芸地乗り」と呼ばれた、古くからの瀬戸内海の主要航路であった。これは四国と大島の海峡である来島海峡が瀬戸内海有数の海の難所であったため、そこを避けるように、この島近辺に航路ができたことによるもので、中世においては、かの村上水軍の拠点として、また、近世は廻船操業、近代以降は造船業と、船で栄えた島として知られる。

「紀州熊野九木浦」三重県尾鷲市九鬼町(くきちょう)の九木浦。九鬼水軍は戦国時代に志摩国を本拠としたことで知らているが、九鬼氏の祖は、熊野別当を務め、熊野水軍を率いた湛増に遡るという説があり、彼らは紀伊国牟婁郡九木浦(現在の三重県尾鷲市九鬼町)を根拠地とし、鎌倉時代には既に志摩国まで勢力を拡大しており、南北朝時代に志摩国の波切へ進出して、付近の豪族と戦い、滅亡させて本拠をそちらに移したとされるのである。

『智ありて釣緡〔つりいと〕を知る。故に名づく。紀州日高郡、漁人云ふ、「『ちぬ』は海の巫〔みこ〕なり」と』「釣緡」は音は「テウビン(チョウビン)」。「緡」には「釣り糸」の意がある。さても。この言説はすこぶる面白い! 通常、クロダイの異名のチヌは、現在の大阪湾の古名(厳密には和泉国の沿岸海域の古称で、現在の大阪湾の東部の堺市から岸和田市を経て泉南郡に至る大阪湾の東沿岸一帯)であるが、ここでクロダイが豊富に採れたことによる。である「茅渟(ちぬ)の海」(その名の元由来は、一つは人皇神武天皇の兄「彦五瀬命」(ひこいつせのみこと)が戦さで傷を受け、その血がこの海に流れ込んで、「血(ち)沼(ぬ)」となったからとも、瀬戸内海から大阪湾一帯を支配していた「神知津彦命」(かみしりつひこのみこと)の別名「珍彦」(ちぬひこ)に由来するとも、また、「椎根津彦命」(しいねづひこのみこと)に基づくともされる)で、そこで獲れる代表的な魚がクロダイであったというのが定説である。しかし、この畔田のそれは「チヌ」の「チ」は「智(ち)」であって、猟師が釣糸を垂れて狙っていることを賢しくも察知してそれを避けて捕まらぬように「知(し)んぬ」、「智()を以って知ん」とでも謂いたいような雰囲気を醸し出しているからである。しかも、それを傍証するかのように、畔田は「紀州日高郡、漁人」の直話として、「『ちぬ』は海の巫〔みこ〕なり」と添えているのだ! 語源説としてはちょっと異端っぽいかも知れぬが、ちょっとワクワクしてきたぞ!

「背より腹の上に至り、淡黑色の橫斑あり。腹。白色。長くして二尺に及べば、橫斑、去る」クロダイは、幼魚期には銀黒色の明瞭な横縞を六、七本有するが、成長とともにそれらは薄くなっていく。あまり知られていないが、クロダイは出世魚で、関東では、

チンチン→カイズ→クロダイ

関西では

ババタレ→チヌ→オオスケ

という風に大きさで呼称が変わる(釣り人の間では五十センチメートル以上のクロダイの巨大成魚を「トシナシ(歳なし)」と呼んで釣果の目標とすると、釣りサイトにはあった。私が言いたいのは、ここでの改名ポイントが専ら魚長にあることにある。魚体の色や文様の有意な変容がないことを意味しているからである。それがクロダイに比定出来る一要素でもあると言えるからである。

『「大和本草」に曰はく、『「ちぬ」、「たひ」に似て、靑黑色。好んで人糞を食ふ。故に、人、之れを賤〔いや〕しむ』と』「大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)」の一節。

   *

○海鯽(ちぬ) 「閩書」に出たり。順が「和名」に、『海鯽魚 知沼』〔と〕。鯛に似て靑黒色、好んで人糞を食ふ。故に、人、之れを賎〔しむ〕。「黑鯛」・「ひゑ鯛」も其の形は「海鯽」に似て、別なり。此の類、性・味共に、鯛にをとれり。佳品に非ず。

   *

そちらの私の注も是非、参照されたい。

「かいず」個人サイト「釣魚辞典」の「クロダイ」のページに『若魚をカイズと呼ぶ』とある。

「物類稱呼」江戸後期の全国的規模で採集された方言辞書。越谷吾山(こしがやござん) 著。五巻。安永四(一七七五)年刊。天地・人倫・動物・生植・器用・衣食・言語の七類に分類して約五百五十語を選んで、それに対する全国各地の方言約四千語を示し、さらに古書の用例を引くなどして詳しい解説を付す。「かいず」は巻二の「動物」の「棘鬣魚(たひ)」の小見出し「烏頰魚」に出る。一度、「烏頰魚」(スミヤキ)で電子化していたのだが、忘れていたので、再度、零からやり直してしまった。以下の引用はPDFで所持する(岡島昭浩先生の電子化画像)昭和八(一九三三)年立命館出版部刊の吉澤義則撰「校本物類稱呼 諸國方言索引」に拠った。23コマ目。

   *

「烏頰魚  くろだひ○東武にて◦くろだひと云ひ、畿内及中國九州四國tもに◦ちぬだひと呼。  此魚、泉州茅渟浦(ちぬのうら)より多く出るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]「ちぬ」と號す。但し、「ちぬ」と「彪魚(くろだい[やぶちゃん注:ママ。])」と大に同して小く別也。然とも今混(こん)して名を呼。又小成物を◦かいずと稱す。泉貝津邊にて是をとる。因て名とす。江戶にては芝浦に多くあり[やぶちゃん注:句点なし。]

   *

「黑ちぬ」クロダイの異名。

「勢州慥抦浦〔たしからうら〕」三重県度会郡南伊勢町慥柄浦。]

「和漢三才圖會」巻第五十八「火類」より「㷠」(燐・鬼火)

 

Onibi

 

おにひ   燐【俗字】 鬼火

㷠【音鄰】

 

本綱云 田野燐火人及牛馬兵死者血入土年久所化皆

精靈之極也其色青狀如炬或聚或散來迫奪人精氣

但以馬鐙相戛作聲卽滅故張華云 金葉一振遊光斂色

△按螢火常也狐火亦不希鼬鵁鶄蜘蛛皆有出火凡霡

 霖闇夜無人聲則燐出矣皆青色而無焰芒也

 比叡山西麓毎夏月闇夜㷠多飛於南北人以爲愛

 執之火疑此鵁鶄之火矣七条朱雀道元火河州平岡

 媼火等古今有人口相傳是亦鳥也然未知何鳥也

 

○やぶちゃんの書き下し文

おにび   燐【俗字。】。鬼火。

㷠【音、「鄰」。】

 

「本綱」に云はく、『田野の燐火、人、及び、牛馬の兵、死する者の血、土に入りて、年久〔しくして〕化す所。皆、精靈〔(しやう)りやう〕の極みなり。其の色、青く、狀〔(かたち)〕、炬(たいまつ)のごとし。或いは聚(あつ)まり、或いは散じ、來〔たり〕迫(せま)りて人の精氣を奪ふ。但〔ただ〕、馬の鐙(あぶみ)を以つて、相ひ戛(う)つて聲を作〔(な)〕すときは、卽ち、滅(き)ゆる。故に張華が云ふ、「金葉、一たび、振るつて、遊光、色を斂(をさ)む」と』と。

△按ずるに、螢火は常なり。狐火も亦、希(まれ)ならず。鼬(いたち)・鵁鶄(ごいさぎ)・蜘蛛、皆、火を出〔(いだ)〕すこと、有り。凡そ、霡霖(こさめふ)り、闇夜〔にして〕、人聲、無きときは、則ち、燐〔(おにび)〕、出づ。皆、青色にして、焰-芒(ほのほ)無し。

比叡山、西の麓、毎夏月、闇夜、㷠〔(おにび)〕、多く、南北に飛ぶ。人、以つて「愛執の火」と爲す。疑ふらくは、此れ、鵁鶄の火ならん。七条・朱雀の「道元の火」、河州平岡の「媼(うば)が火」等、古今、人口に有り。相ひ傳ふ、「是れも亦、鳥なり」と。然れども、未だ何鳥というふことを知らざるなり。

[やぶちゃん注:ウィキの「鬼火」の「考察」によれば、『目撃証言の細部が一致していないことから考えて』、『鬼火とは』、『いくつかの種類の怪光現象の総称(球電』(雷の電気によって生じる放電(電光)現象の一種で、雷雨の後などに赤く輝くボール状の発光体が固定物に沿ってか、或いは中空を飛ぶようにゆっくり移動するもの。極めて稀れで、発生機序もよく解明されていない)・『セントエルモの火』(St. Elmo's fire:雷雨や嵐の夜、避雷針・風向計・船のマストなどのように地表からの突起物に観察される持続的な弱い放電現象(コロナ放電)。この名は、嘗て地中海の船人が、船乗りの守護聖人「セント・エルモ」(St.Elmo:エラスムスErasmusの訛り)の加護のしるしであると考えたことに由る。通常は青若しくは緑色を呈し、時に白や紫色のこともある。頭上に積乱雲が来て、放電が強くなると、「シュー、シュー」という音がすることもある)『など)と考えられる。雨の日によく現れることから、「火」という名前であっても単なる燃焼による炎とは異なる、別種の発光体であると推察されている』。『注目すべきは』、『昔はそんなに珍しいものでもなかったという点である』(私の父は敗戦後すぐの縄文遺跡調査の折り、神流川上流の山村で、向かいの山に狐火を見ており、私の母も戦前の幼少の頃、墓地で光るそれを見、歯科医であった父から「あれは燐が燃えているだけだ」と教えられていた。私は残念なことに鬼火を見たことはない)。『紀元前の中国では、「人間や動物の血から燐や鬼火が出る」と語られていた。当時の中国でいう「燐」は、ホタルの発光現象や、現在でいうところの摩擦電気も含まれており、後述する元素のリンを指す言葉ではない』。『一方の日本では、前述の』「和漢三才図会」の『解説によれば、戦死した人間や馬、牛の血が地面に染み込み、長い年月の末に精霊へと変化したものとされていた』。「和漢三才図会」刊行から一世紀後の十九世紀以降の『日本では、新井周吉の著書』「不思議弁妄」を『始めとして「埋葬された人の遺体の燐が鬼火となる」と語られるようになった。この解釈は』一九二〇年代(大正九年から昭和四年)『頃まで支持されており、昭和以降の辞書でもそう記述されているものもある』。『発光生物学者の神田左京はこれを』、一六九六『年にリンが発見され、そのリンが人体に含まれているとわかったことと、日本ではリンに「燐」の字があてられたこと、そして前述の中国での鬼火と燐の関係の示唆が混同された結果と推測している』。『つまり死体が分解される過程でリン酸中のリンが発光する現象だったと推測される。これで多くの鬼火について一応の説明がつくが、どう考えてもリンの発光説だけでは一致しない証言もかなり残る』。『その後も、リン自体ではなくリン化水素のガス体が自然発火により燃えているという説、死体の分解に伴って発生するメタンが燃えているという説、同様に死体の分解で硫化水素が生じて鬼火の元になるとする説などが唱えられており、現代科学においては放電による一種のプラズマ現象によるものと定義づけられることが多い』。『雨の日に多いということでセントエルモの火(プラズマ現象』(plasma。「電離気体」。固体・液体・気体に次ぐ物質の第四の状態で、狭義のそれは、気体を構成する分子が電離し、陽イオンと電子に分かれて運動している状態であり、電離した気体に相当する)『)と説明する学者もいる。物理学者・大槻義彦もまた、こうした怪火の原因がプラズマによるものとする説を唱えている』。『さらに真闇中の遠くの光源は止まっていても暗示によって動いていると容易に錯覚する現象が絡んでいる可能性も』あろう。『いずれの説も一長一短がある上、鬼火の伝承自体も前述のように様々であることから、鬼火のすべてをひとつの説で結論付けることは無理がある』。『また、人魂や狐火と混同されることも多いが、それぞれ異なるとする説が多い一方、鬼火自体の正体も不明であるため、実のところ区別は明確ではない』とある。また、本篇を紹介し、『松明の火のような青い光であり、いくつにも散らばったり、いくつかの鬼火が集まったりし、生きている人間に近づいて精気を吸いとるとされる』。『また』、『同図会の挿絵からは、大きさは直径』二=三センチメートルから、二十~三十『センチメートルほど』で、『地面から』一~二『メートル離れた空中に浮遊すると推察されている』。『根岸鎮衛による江戸時代の随筆耳嚢巻之十「鬼火の事」にも、箱根の山の上に現れた鬼火が、二つにわかれて飛び回り、再び集まり、さらにいくつにも分かれたといった逸話が述べられている』とする。これは私の「耳嚢 巻之九 鬼火の事」を見られたい。以下、『現在では、外見や特徴にはさまざまな説が唱えられている』として、その外観は、『前述の青が一般的とされるが』、『青白、赤、黄色のものもある』。『大きさも、ろうそくの炎程度の小さいものから、人間と同じ程度の大きさのもの、さらには数メートルもの大きさのものまであ』り、その出現する数は、一個か二個しか『現れないこともあれば、一度に』二十個から三十『個も現れ、時には数え切れないほどの鬼火が一晩中、燃えたり消えたりを繰り返すこともある』。出没時期は、『春から夏にかけて』で、『雨の日に現れることが多』く、出没場所は、『水辺などの湿地帯、森や草原や墓場など、自然に囲まれている場所によく現れるが、まれに街中に現れることもある』とし、『触れても火のような熱さを感じないものもあれば、本物の火のように熱で物を焼いてしまうものもある』と属性を記す。以下、「鬼火の種類」を引く。『鬼火の一種と考えられている怪火に、以下のようなものがある。これらのほかにも、不知火、小右衛門火、じゃんじゃん火、天火といった鬼火がある』『(詳細は内部リンク先を参照)。狐火もまた、鬼火の一種とみなす説があるが、厳密には鬼火とは異なるとする意見もある』として、各地の個別例を挙げる。「遊火(あそびび)」は『高知県高知市や三谷山で、城下や海上に現れるという鬼火。すぐ近くに現れたかと思えば、遠くへ飛び去ったり、また一つの炎がいくつにも分裂したかと思えば、再び一つにまとまったりする。特に人間に危害を及ぼすようなことはないという』。「いげぼ」は『三重県度会郡での鬼火の呼称』。「陰火(いんか)」は『亡霊や妖怪が出現するときに共に現れる鬼火』。「風玉(かぜだま)」は『岐阜県揖斐郡揖斐川町の鬼火。暴風雨が生じた際、球状の火となって現れる。大きさは器物の盆程度で、明るい光を放つ』。明治三〇(一八九七)『年の大風』の際には、『山から』、『この風玉が出没し』、『何度も宙を漂っていたという』。「皿数え(さらかぞえ)」は妖怪画集で知られる鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」にある怪火で、『怪談で知られる』「番町皿屋敷」の『お菊の霊が井戸の中から陰火となって現れ、皿を数える声が聞こえてくる様子を描いたもの』、「叢原火・宗源火(そうげんび)」は同じ石燕の「画図百鬼夜行」にある『京都の鬼火』で、『かつて壬生寺地蔵堂で盗みを働いた僧侶が仏罰で鬼火になったものとされ、火の中には僧の苦悶の顔が浮かび上がっている』。『江戸時代の怪談集』「新御伽婢子」にも『この名が』出る。「火魂(ひだま)」は『沖縄県の鬼火。普段は台所の裏の火消壷に住んでいるが、鳥のような姿となって空を飛び回り、物に火をつけるとされる』。「渡柄杓(わたりびしゃく)」は『京都府北桑田郡知井村(のちの美山町、現・南丹市)の鬼火。山村に出没し、ふわふわと宙を漂う青白い火の玉。柄杓のような形と伝えられているが、実際に道具の柄杓に似ているわけではなく、火の玉が細長い尾を引く様子が柄杓に例えられているとされる』。知られた「狐火(きつねび)」は、『様々な伝説を産んできた正体不明の怪光で、狐が咥えた骨が発光しているという説がある。水戸の』茨城町を中心に県内外で活躍した民俗研究家更科公護(きみもり)氏は、『川原付近で起きる光の屈折現象と説明している』。『狐火は、鬼火の一種とされる場合もある』とする。

「㷠」は「燐」の小篆に基づく字体のようである。

『「本綱」に云はく……』良安の評言の前までを総て引用としたが、実際には「本草綱目」の記載はもっと乏しい。巻六の「火部」の内の「陽火隂火」の中の一節「野外之鬼燐」で(「本草綱目」ではこの「火部」は特異的に全体の記載も少ない)、

   *

野外之鬼燐【其火色靑其狀如炬或聚或散俗呼鬼火或云諸血之燐光也】

(野外の鬼燐【其の火の色、靑く、其の狀ち、炬のごとし。或いは聚まり、或いは散ず。俗に「鬼火」と呼ぶ。或いは云ふ、「諸血の燐光なり」と。】)

   *

流石に、良安もあまりにもしょぼくらしいと感じたものか、文字列で中文サイトで調べると、

同じ「本草綱目」の巻八の「金石部」の「馬鐙」の「主治」に、

   *

田野燐火、人血所化、或出或沒、來逼奪人精氣、但以馬鐙相戛作聲卽滅。故張華云「金葉一振、遊光斂色【時珍。】。

(田野の燐火、人血の化する所、或いは出でて、或いは沒し、來たり逼まりて、人の精氣を奪ふに、但だ、馬の鐙を以つて相ひ戛(かつ)して聲を作(な)さば、卽ち、滅す。故に「張華」云はく、「金葉、一たび、振るひて、遊光、色を斂(をさ)む」と【時珍。】。

   *

と相同部分があるのを見つけた。これをカップリングしたのである。

「張華」晋(二六五年~四二〇年)の名臣(呉を伐つに功あって最高職である三公の一つである司空に任ぜられた)で、学者でもあった張華(二三二年~三〇〇年)。彼が撰した博物誌「博物志」は散逸しているものの、「本草綱目」に見るように、多くの本草書に引用されて残っており、これがまた、非常に面白い内容を持つ。

「金葉」古代中国に於ける鐙は専ら馬に乗るためのもので、そこは木の葉のような楕円を成し、当初より金属製であった。

「鼬(いたち)」日本固有種食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属ニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi は、本邦の民俗社会では、古くから、狐狸同様に人を化かすとされていたので妖火とは親和性が強くイタチの群れは火災を引き起こすとされ、イタチの鳴き声は不吉の前兆ともされてきた。「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」の本文と私の注を参照されたい。

「鵁鶄(ごいさぎ)」本来は「五位鷺」であるから、歴史的仮名遣は「ごゐさぎ」が正しい。ペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax であるが、彼らが発光するというのは、怪奇談の中では極めてメジャーなもので、疑似怪談も私の蒐集した怪奇談では枚挙に暇がない。私が最初に扱ったものでは、「耳囊 卷之七 幽靈を煮て食し事」である(ここでは眼が光ったのであって、発光の説明はつく)。サギ類は目が光り、また、白色・青白色の翼は他の外光がなくても、闇夜でもぼんやりと見え、それはあやしいもやもやの光りのように感ぜられることはある。それにしても、サギが妖光を放つことは、かなり古くから言い伝えられているから、或いは彼らの摂餌生物に発光性物質を含むものがいるか、胴体への何らかの発光物質(プランクトンやバクテリア)が附着する可能性も範疇に入れておく必要があると私は考えている。但し、私は有意に光る鷺を現認したことはない。「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」にも光るとする記載があるので参照されたい。

「蜘蛛」私自身、経験があるが、大型種の場合、真っ暗に見える部屋でも、複数の眼が光ることは確かである。また、クモ類の出す糸には紫外線を反射する性質があり、僅かな可視光線でも夜中でも容易に光る(花弁は紫外線を反射する性質を有し、それを頼りとして多種の昆虫はそこに群がるように仕組んである。ある種のクモ類はこれを逆手にとって、紫外線を反射する糸で、幾何学的で綺麗な模様の巣を作り、それを花と錯覚させて、虫を誘き寄せて捕食している(因みにクモ類の眼もチョウやガなどと同じく紫外線を見ることが出来る)。

「霡霖(こさめふ)り」「霡」は「小雨」、「霖」は本来は「三日以上降り続く長雨」。本来はこの熟語(漢語)も「長雨」を指すが、次義で「小雨」の意もある。

『比叡山、西の麓、毎夏月、闇夜、㷠〔(おにび)〕、多く、南北に飛ぶ。人、以つて「愛執の火」と爲す』この伝承は他に確認出来ない。場所が場所だけに、破戒僧のそれかとも考えてしまう私がいる。

『七条・朱雀の「道元の火」』私の「柴田宵曲 妖異博物館 怪火」を参照。

『河州平岡の「媼(うば)が火」』「河内平岡」は現在の大阪府東大阪市枚岡(ひらおか)地区かと思われる。非常に古くは「平岡」と書いた。私の「諸國里人談卷之三 姥火」を参照。類似の怪火で火の中に老婆の顔があるというキョワい妖火が、同じく「柴田宵曲 妖異博物館 怪火」に出る。

「人口に有り」世間の人が、多く語っており、メジャーであるというのある。

 

 因みに、私のサイトや、このブログの「鬼火」は、私の偏愛するフランスの作家ピエール・ウジェーヌ・ドリュ・ラ・ロシェル(Pierre Eugène Drieu La Rochelle 一八九三年~一九四五年)の‘Le Feu Follet ’(「消えゆく炎」:一九三一年発表)及びそれを原作とした大好きなルイ・マル監督の‘LE FEU FOLLET ’(映画邦訳題「鬼火」)に基づくものであって、何ら、関係は、ない。――私の魂は鬼火にさえならぬ――]

2021/03/24

只野真葛 むかしばなし (23)

 

 父樣は申すにおよばず、ぢゞ樣・ばゞ樣・をぢ樣がたにいたる迄、壱人、をろかなる人、なし。その御末とおもはんに、などや、心をはげまざらめや。

 三人兄弟の中、四郞左衞門[やぶちゃん注:先に出た柔術に秀でた長男。]樣ばかり、酒、御好なりし。

 此人は、しごく、仁心、ふかく、誠に兄の兄たる心ばせなりし。

 唐(もろこし)の聖(ひじり)の道によりて、よきかたへに、よからん、と、まねくは、萬(よろづ)、ゑんりよがちに、奧まりたるかたにつきて、

「物は知りても、なるだけ、しらぬ顏するが、よし。『いで』といふ時、をくれ[やぶちゃん注:ママ。]をとらぬが、たしなみ。」

と、おぼしめし、一度(ひとたび)けいやく被ㇾ成しことは、いく年へても、其心にて、いらせられし人なり。

 さる故に、御名(おんな)の發したること、なかりし。

 いはゞ、守(まもる)こと、かたくて、境(さかひ)をいでぬ御心(みこころ)なり。

 父樣も、兄とは、いへど、親のごとく、御ちからに被ㇾ成しが、御(お)かくれの時分は、殊に、なげかせられて有し。

 

譚海 卷之四 奥州仙臺風俗の事

 

○奥州仙臺にあそぶ人は、大木戶を入(いれ)ば越河といふ所にて入判といふものをもらふ。錢三文を出してもらふ事なり。せんだいを出るときは、いづくの出口にても又出判をとりて出(いづ)る、五錢をいだしてとる事也。又仙臺城下に釋迦堂といふ有、繁昌なる所にて、寺内に定芝居あり。常に江戶の戲者(やくしや)も往來して藝をのぶる所也。其土着に市川今五郞といふもの芝居の魁首(かいしゆ)にしてせんだいにては御(お)くに團十郞と號す。此寺境内ひろく、花樹數多(あたま)ありて、常に國人の遊觀たえずといふ。

[やぶちゃん注:「大木戶」現在の福島県伊達郡国見町(くにみまち)大木戸(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のことであろう。この伊達郡は江戸時代は天和二(一六八二)年以降は一貫して天領であった。

「越河」宮城県白石市(しろいしし)越河(こすごう。歴史的仮名遣も判らないので、本文には振らない。

「入判」「出判」この藩の出入りにかかるシステムは不詳。ネットで検索しても、全く掛かってこないので、お手上げである。識者の御教授を乞う。読みも判らないので、取り敢えず「いりはん」・「ではん」と読んでおく。

「一文」江戸中・後期のそれは凡そ現在の十二円相当。

「釋迦堂」現在、宮城県仙台市宮城野区榴岡(つつじがおか)にある日蓮宗光明山孝勝寺境内にある釈迦堂(仙台市登録有形文化財)であろう。仙台市公式サイト内のこちらによれば、仙台藩四代藩主伊達綱村が生母三沢初子の冥福を祈るために榴ヶ岡に建てた持仏堂で、元禄八(一六九五)年の建立であったが、昭和四八(一九七三)年の宮城県立図書館建設に伴い(現在の同図書館は後に再度移転したもので、この当時に新築された同図書館は現在の「宮城県婦人会館」が建っている場所に建ったものであったから、そこが釈迦堂の旧地で、本篇の立地もそこと考えてよいだろう)、現在の孝勝寺本堂脇に移された。孝勝寺は初子が帰依し、葬られた寺院であった。釈迦堂は三間四方で、一間の向拝(こうはい)が付き、以前は四周に縁が廻らされていた。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)、本瓦葺形銅板葺で、正面中央間に折桟唐戸(おりさんからど)、その両脇に花頭窓(かとうまど)が付く。内陣には厨子を備え、釈迦像が安置されているとあった。孝勝寺は第二代藩主伊達忠宗の正妻振姫に続き、初子も帰依し、以後、仙台藩の厚い保護を受けた寺であった。この初子は、伊達騒動を素材とした人形浄瑠璃「伽蘿先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)の重要な登場人物である政岡のモデルとさられ、寺から東に少し離れた飛び地にある。なお、本文ではその釈迦堂も寺の境内あったと書かれているが、実は孝勝寺は往時は相応の寺域であったのだが、今は周囲が住宅地に呑み込まれてしまっているのである。

「のぶる」「延ぶる」か。棧敷や観劇席を敷いて興行を行うの謂いであろうか。

「土着」地元の田舎歌舞伎の一座。

「市川今五郞」東北歴史博物館の笠原信男氏の論考「仙台の田植踊と歌舞伎」PDF・二〇二〇年の同館館長講座資料)によれば(注記号は省略した)、『仙台藩は公式には歌舞伎の上演を禁じていた。先に見た享保9年(172412月の史料に歌舞伎に触れたところがある。10人巳上は控えることの但し書きで、「かぶき等に紛(まぎ)れ候様(そうらうさま)成る義(ぎ)は仕らせ間敷事」としている。歌舞伎に紛れて10人以上で田植踊をしてはいけないということであろう。歌舞伎は享保9年(172412月以降に禁じられ、さらに、宝暦2年(1752)までには、腰に面をつける「はさミ人形」の人形浄瑠璃として上演されるようになった。以後、何度かの禁制を経て幕末まで、「歌舞伎は相成らず、人形操の申し立てにて候間、江戸より(歌舞伎)役者が参り候ても、こし(腰)へ人形の面を附ケ」て上演された』という興味深い面白い事実が記されてあった。さらに、『江戸時代後期の古今の書物に書かれた記事を抜き書きした冊子に初代市川団十郎(蝦蔵)の多賀城出身説が見え』、『「陸奥坪の碑の近きにわたり市川村といふ所あり、そこの浦にて捕海老を役者蝦とよべり、こは芝居役者市川蝦蔵が生まれし里なり」』という驚くべきことが記されてあり、さらに、まさに本篇(底本も同じ)を引いて、『また、仙台城下に御くに団+郎こと市川今五郎という役者がいた。「仙臺城下に釈迦堂といふ有り。繁昌なる所にて、寺内に定芝居あり。常に江戸の戯者(やくしゃ)も往来して芸をのぶる所也。その土着に市川今五郎といふもの芝居の魁首(かいしゅ)にして、せんだいにては御(お)くに団十郎と号す」。』(ここで笠原氏に振られたルビを本文の当該部に適用した)とし、『釈迦堂は、祭日前後に芝居上演が公認された、仙台城下の「六ケ所神事場」であるが、この史料が記された天明5年(1785)頃は常設であったらしい』とあうことから、実際には歌舞伎は役者が腰に人形の面をぶら下げで行われていたことが判るのである。

「魁首」座長。]

「和漢三才圖會」巻第十四「外夷人物」より「飛頭蠻」

 

Hitouban

 

ろくろくび

      俗云轆轤首

飛頭蠻

三才圖會云大闍婆國中有飛頭者其人目無瞳子其頭

能飛其俗所祠名曰蟲落因號落民漢武帝時因※國使

[やぶちゃん注:「※」=「忄」+(「遅」-「辶」)。「三才圖會」原本でも同じ。「東洋文庫」版では「稺」とする。]

南方有解形之民能先使頭飛南海左手飛東海右手飛

西澤至暮頭還肩上兩手遇疾風飄於海水外

南方異物志云嶺南溪峒中有飛頭蠻項有赤痕至夜以

耳爲翼飛去食蟲物將曉復還如故也

搜神記載呉將軍朱桓一婢頭能夜飛

太平廣記云飛頭獠善鄯之東龍城之西南地廣千里皆

爲鹽田行人所經牛馬皆布氊臥焉其嶺南溪洞中徃徃

有飛頭者而頭飛一日前頸有痕匝項如紅縷妻子看守

之其人及夜狀如病頭忽離身而去乃于岸泥尋蠏蚓之

類食之將曉飛還如夢覺其實矣

△按以上數說有異同闍婆國中所有之種類乎而其國

 中人不悉然也於中華日本亦間謂有飛頭人者虛也

 自一種異人而已

 

○やぶちゃんの書き下し文

ろくろくび

      俗に云ふ、「轆轤首(ろくろくび)」。

飛頭蠻

「三才圖會」に云はく、『大闍婆國(だいじやばこく)の中、頭を飛ばす者、有り。其の人、目に瞳子(ひとみ)無く、其の頭、能く飛ぶ。其の俗、祠(まつ)る所、名づけて「蟲落」と曰ふ。因りて、「落民」と號す。漢の武帝の時、因※國〔(いんちこく)〕[やぶちゃん注:「※」=「忄」+(「遅」-「辶」)。「三才圖會」原本でも同じ。「東洋文庫」版では「稺」とする。]、南方に使ひす。解形の民、有り、能く、先づ、頭をして南海に飛ばしむ。左の手は東海に飛び、右の手は西澤に飛ぶ。暮れに至りて、頭、肩の上に還る。兩の手、疾風に遇へば、海水の外に飄(ひるがへ)る。』と。

「南方異物志」に云はく、『嶺南の溪峒の中に「飛頭蠻」有り。項(うなじ)に赤き痕(あと)有り。夜に至りて、耳を以つて、翼(つばさ)と爲し、飛び去り、蟲物を食ふ。將に曉(あけ)なんと〔せば〕、復た還りて故(もと)のごとし。』と。

「搜神記」に載(の)す。『呉將軍朱桓〔(しゆこう)〕が一婢(つかひもの)の頭、能く、夜、飛ぶ。』と。

「太平廣記」に云はく、『飛頭獠〔ひとうりやう〕は善鄯〔(ぜんぜん)〕の東、龍城の西南の地、廣さ千里、皆、鹽田たり。行人〔(かうじん)〕、經〔(へ)〕る所、牛馬、皆、氊〔(まうせん)〕を布(し)いて臥す。其の嶺南の溪洞の中に、徃徃〔わうわう〕、飛頭の者、有りて、頭の飛ぶ一日前に、頸(くびすぢ)、痕(きず)有りて、項(うなじ)を匝(めぐ)る〔こと〕紅き縷(すぢ)のごとし。妻子、看て、之れを守る。其の人、夜に及びて、狀、病(や)めるがごとくして、頭、忽ち、身を離れて、去る。乃〔(すなは)〕ち、岸泥に于(おい)て、蠏〔(かに)〕・蚓〔(みみず)〕の類を尋〔(もと)〕めて、之れを食ふ。將に曉けんと〔せば〕、飛び還りて夢の覺(さ)めたるがごとくにして、其れ、腹、實〔(み)〕つ。』と。

△按ずるに、以上の數說、異同有り。闍婆國の中に有る所の種類か。而〔れども〕、其の國中の人、悉く然るにはあらざるなり。中華・日本に於いて、亦、間(まゝ)、「飛頭人、有り」と謂ふ者は、虛(うそ)なり。自(みづか)ら一種の異人〔たる〕のみ。

[やぶちゃん注:所謂、「ろくろ首」でその起原はご覧の通り、中国「原産」である。本邦のそれは首がにょきにょきと伸びるのであるが、中華のそれは、切れて飛ぶのがオーソドックス。但し、切れた双方の断面は丸太のようなつるんとしたものらしく、その中央(推定)に糸のようなものが連絡して胴と首の間を繋げているとも言われる。それを見つけて、胴体を少しでも元の場所から移動させると、頭は永久に戻って接合合体することが不可能になるというのも、かなり一般的なお約束である。私の怪奇談には枚挙に暇がないのだが、私の注も含めて博物学的書誌学的によく纏まっているのは、まず、「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」で、また、私がかなり注を拘った怪談物では、「古今百物語評判卷之一 第二 絕岸和尚肥後にて轆轤首見給ひし事」が参考になろう。そうして忘れてはならぬのが、「小泉八雲 ろくろ首  (田部隆次訳) 附・ちょいと負けない強力(!)注」である。恐らく、この怪異を世界的に日本の話として知らしめた功績は、これに尽きると言ってよい。是非、孰れも目を通されたい。失望させない自身はしっかりある。

「三才圖會」は絵を主体とした明代の類書。一六〇七年に完成し、一六〇九年に出版された。王圻(おうき)とその次男王思義によって編纂された。全百六巻。本寺島良安の「和漢三才図会」はそれに倣ったもので、それを標題とするが、本草関係の記載は、概ね、明の李時珍の「本草綱目」に拠るものが殆んどである。引用は「人物第十二卷」の「大闍婆國」で、こちらこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像)だが、飛頭蛮は後者での記載のみであり、前の図版は同国の民を描いてあるだけで、頭が飛ぶ姿は描かれていない。期待されて失望されるのは困るので、一言言い添えておく。

「大闍婆國(だいじやばこく)」インドネシアを構成する一島であるジャワ島(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のこと。イスラム国家があった。

「祠(まつ)る所」祀っている対象の神。

「蟲落」この場合は、具体な昆虫ではなく、人に災いや病気を齎す禍々しい対象(本邦の「疳の虫」のような具合に)を「蟲」と名指しているものであろう。それに、飛頭蛮が虫類を捕食してくれるという伝承が類感したに過ぎまい。東南アジアには、飛翔する女性の首の邪悪な妖怪がいると信じられていると読んだことがあり、そうしたものとの親和性(本邦の御霊信仰と同等)もあるかも知れない。

「落民」「首が落ち離れる人」の謂いであろう。

「漢の武帝の時」在位は紀元前一四一年から同八七年。

「因※國〔(いんちこく)〕」(「※」=「忄」+(「遅」-「辶」)。「三才圖會」原本でも同じ。「東洋文庫」版では「稺」とする)不詳。「東洋文庫」訳の割注には、『西域にあったらしい国』とする。

「解形の民」自分の人体を自由に分離させることが出来る人間の意。

「海水の外に飄(ひるがへ)る」戻ることが出来なくなって、海の上に浮かんで漂流してしまう、の意。

「南方異物志」唐の房千里銭撰。一巻。

「嶺南」現在の広東省及び広西チワン族自治区の全域と湖南省・江西省の一部に相当する広域を指す。この附近

「溪峒」渓谷の洞窟。

「項(うなじ)に赤き痕(あと)有り」実はこれが江戸時代の多くのいわれなき「轆轤首」イジメの一因であった。普通の人より撫で肩で、首が少し長く見える女性や、首の咽頭部辺りに少し濃い目の筋があったり、体質的にその筋が赤みを帯びて目立つ場合、「あの娘はろくろっ首だ!」という噂を立てたがったのである。実際にそうした疑似怪談が結構ある。そうした一本に私の「耳囊 卷之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」というハッピー・エンドの話がある。見られたい。

「搜神記」六朝時代、四世紀の晋の干宝の著になる志怪小説集。神仙・道術・妖怪などから、動植物の怪異・吉兆・凶兆の話等、奇怪な話を記す。著者の干宝は有名な歴史家であるが、身辺に死者が蘇生する事件が再度起ったことに刺激され、古今の奇談を集めて本書を著したという。もとは 三十巻あったと記されているが、現在伝わるものは系統の異なる二十巻本と八巻本である。当時、類似の志怪小説集は多く著わされているが、本書はその中でも、比較的、時期も早く、歴史家らしい簡潔な名文で、中国説話の原型が多く記されており、後の唐代伝奇など、後世の小説に素材を提供し、中国小説の萌芽ということが出来る。先のリンクの後の二つで当該話の電子化と訓読をしてあるので参照されたい。話はもっとちゃんとしていて、首が離れた胴体の観察も記されてあるのである。

「呉將軍朱桓」[やぶちゃん注:孫権の下で将軍を務めた。「三国志」に伝が載る。

「一婢」一人の下女。

「太平廣記」宋の李昉(りぼう)ら十三名が編した類書(百科事典)。全五百巻。九七八年成立。太宗の勅命によって正統な歴史にとられない古来の野史・小説その他の説話を集め、内容によって神仙・女仙・道術・方士等、実に九十二項目に分類配列されてある。同前で先のリンクの後の二つ参照。

「飛頭獠」この「獠」は「獰猛な・凶悪な」の意味や「狩をする(犬)」などの意がある。しっくりくる意味である。

「善鄯」これは恐らく「鄯善」の転倒である。所謂、かの、中央アジアのタリム盆地のタクラマカン砂漠北東部(現在の新疆ウイグル自治区チャルクリク)あった都市国家楼蘭である。紀元前七七年に漢の影響下で国名を「鄯善」と改称している。

「龍城」「東洋文庫」割注に、『現在の熱河』(ねっか)『省朝陽県』とある。これは旧省名で、現在では、現在の河北省・遼寧省及び内モンゴル自治区の交差地域に相当する。「ジェホール」の呼び名がよく知られる。現在の遼寧省朝陽県はここだが、ここで言っているのはもっと西方でないとおかしいが、以下の数値でOKだ。

「千里」宋代の一里は五百五十二・九六メートル。五百五十三キロメートル。

「行人」旅人。

「經〔(へ)〕る所」通過した時の風景の描写。

「嶺南」ここは一般名詞の「山脈の南」と採る。

「岸泥」河川・池沼の岸辺の潟。

「腹、實〔(み)〕つ」腹はいっぱいになっている。怪奇談のリアリズムのキモの部分。というか、首が食ったカニやミミズは恐らく何らかの超自然のシステムによって、空間移動をして腹に入るとするのが面白かろう。

「闍婆國の中に有る所の種類か」この良安の考証はそれぞれの引用の場所が南北に複数ばらついているのであるから、不全である。「それぞれの国や地域の中に、そうした頭を分離して飛ばすことが出来る特別な人間がいるのか?」でなくてはおかしい。

『中華・日本に於いて、亦、間(まゝ)、「飛頭人、有り」と謂ふ者は、虛(うそ)なり。自(みづか)ら一種の異人〔たる〕のみ』という言説は良安にして「よくぞ、言って呉れました!」と快哉を叫びたくなる。動植物類で彼は安易に化生説を唱えているのを考えると、ここでは非常に賛同出来る科学的な見解を述べているからである。]

2021/03/23

芥川龍之介書簡抄22 / 大正三(一九一四)年書簡より(一) 二通

 

大正三(一九一四)年一月一日・新宿発信・淺野三千三宛(葉書・年賀状)

 

   つゝしみて新年を賀したてまつる

「危險なる洋書」をとぢて勅題の歌つかまつる御代のめでたさ

    大正三年一月一日  芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「淺野三千三」既出既注。三中の芥川龍之介の後輩。

「危險なる洋書」具体な対象作品は不詳。しかし、後述のアナトール・フランス原作の重訳「バルタザアル」の脱稿はこの直後の一月十七日であるから、直近のそれでは、一番、関係のある洋書ではある。また、結果して芥川龍之介の最初の作家デビュー作であり、しかもその内容は、ある意味で芥川龍之介の全人生――特に晩年の女性関係やキリスト教との関りの事実結果に於いて、逆説的に「危險なる洋書」とも言えるように私には思われはするのである。なお、この一首は底本で次に並ぶ山本喜与司宛年賀状にも記されてある。但し、そこでは、以下の通り(全文)。

   *

   つゝしみて新年を祝したてまつる

〝危險なる洋書〟をとぢて勅題の歌つかまつる御代のめでたさ

    一月元旦        芥川生

   *]

 

 

大正三