[やぶちゃん注:二〇二四年二月を最後に、長く電子化注をサボっていたが、以前から、電子化したく思っていたのを、すっかり忘れていたので、急遽、公開することとした。底本は今まで通り、所持する一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、この俳話は特殊なもので、昭和九(一九三四)年八月十一日に小倉放送(ラジオ)で放送されたものである。恐らく、原稿が存在し、全集編者である久女の長女昌子(俳人石昌子(いしまさこ))さんが、全集の「俳論・俳話」に組み入れたものと推定される。表記は新字正仮名であるが、放送された時代を考え、敢えて殆んどの漢字を正字に換えた。なお、冒頭に『(前略)』とあるのは、その内容は不詳であるが、カットした。また、詳細注を附すのには、時間が掛かり、他にも同時進行で別なプロジェクトもあるので、取り敢えず、本文を、本日、電子化し、後日、注を追加することとする。但し、私が全く知らない俳人名、及び、知られた俳号の別号があるので、それは、適当と判断した段落の後に注を附した。なお、ネィティヴでない読者などに難読と判断したところには、《 》で読みを独自に歴史的仮名遣で附した。踊り字「〱」は、私が、個人的に嫌いなので、正字に直した。傍点「﹅」は下線にした。
なお、以下の久女に現説に対してではなく、現在も、しばしば使われる――この「境涯の俳人」或いは「境涯俳句」という謂い方――には、個人的にある種の強い違和感を持っている。それに就いては、サイトの『拙攷 「イコンとしての杖――富田木歩偶感――」藪野唯至』(『俳句界』第百七十八号二〇一一年五月号「魅惑の俳人㉜ 冨田木歩」所収/藪野唯至名義で執筆し、掲載されたものの原型)で論じているので、未読の方は、是非、読まれたい。
最後に。この録音が残っていたならなあ、と残念しきりの私であった。]
境涯から生れる俳句
技巧の勝つた面白い句とか、淸新な近代味のすぐれた句とかさういふ俳句にも價値のある事は勿論でありますが、宮部寸七《すなお》翁さんの、
己れにて絕ゆる命や墓參り
ひそやかに晝行水ややみほうけ
といふ樣な、自分の血と肉と全人格をつぎこんだ句になりますと、時代の波にも流行にも洗ひ消されぬ、ほんとの人間魂の聲が、嚴肅な人生の一斷面として、私達の魂に强くひゞいて、くるのであります。
自分の死後墓參りしてくれる一人の子供もない、家內もない、自分一代で血統は絕えてしまふのだといふ事を痛感し乍ら祖先のお墓參りをしたり、ひそひそと行水してゐる病みほうけた姿なりがうかんで來ます。自分の病弱な姿をじっと[やぶちゃん注:促音表記はママ。]みつめて。
俳句もこゝ迄しつかりと自分をつかみ、墓石に彫りこむ樣、十七字に全部をきざみこんでおけば、よし寸七翁さんの血統は一代で絕えてしまつても、其句集一卷丈《だけ》で寸七翁さんは永久に生きてゐると言つてもよいと存じます。
[やぶちゃん注:「宮部寸七翁」(明治二〇(一八八七)年~大正一五(一九二六)年)は明治・大正期のジャーナリストにして俳人。熊本県下益城(しもましき)郡杉上村(すぎがみむら:現在の熊本市南区城南町。「ひなたGIS」の戦前の地図で「杉上村」が確認出来る)出身。本名は宮部俊夫。別号に峻峰がある。農家の一人息子として生まれる。早稲田大学政経学部卒業後、九州新聞(現在の熊本日日新聞)記者となり、峻峰の号で活躍するが、同社のストライキ事件に巻き込まれ、退社。大正元年、『肥後靑年俱樂部』を組織した。九州立憲新聞経営を経て、叔父の三隅雲濤が経営する博多毎日新聞編集長となる。大正五年、結核を発病した。同時期に句作を始め、『ホトトギス』などに投句した。熊本俳壇に現れた女流俳人斎藤破魔子(後の中村汀女)と親交を持ち、指導した。死後四年経った昭和四(一九二九)年に吉岡禅寺洞によって「寸七翁句集」が編まれている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」の記載を主文とした)。]
こゝまでくればもう俳句も言葉の遊びや、ひまつぶしではなく、議論や理屈をとびこえて、宗敎的な安心立命があると存じます。
親に師にせめて仕へん盆三日 星布女《せいふめ》
此句も何でもない句の樣でありますが、常に忙しくて佛づとめも疎かになり勝ちの身も、せめてお盆の三日間丈は亡き親や師の恩をなつかしく偲び乍ら、生きた人にお仕へ申す樣に魂祭りしませうといふ意味で、故人を偲び、昔の恩をしのぶといふ氣持は、古風ながら奧床しい女らしい感じがにじみ出して居ります。
之も星布尼の夫も子もない境涯から一層痛切に故人を慕ひしのぶ心持が、ふかく此一句に流れてゐるのだと思ひます。
面影もこもりて蓮の莟かな りん女
これは日田《ひた》の長野野紅《ながのやこう》の妻りん女《じよ》の句で、幼い子を亡くした時の句でありますが、蓮の莟にこめて亡き子の面影を描いてゐます。これによく似た句に、
とんぼ釣りけふはどこ迄いつたやら 千代女
といふ名高い句がありますが、蜻蛉釣《とんぼつり》をしながら、死出《しで》の山路《やまぢ》を越えてたつたひとり、けふはどこ迄步いて行つたやらと、亡き子の面影を描き追ひ求めてゐる千代女の深い悲しみが蜻蛉つりのまぼろしの一句に象徵されてゐます。
一人子を亡くした母のなげきは、時代の隔りをとび飛んで私達のむねにひゞいてまゐりますし、夫を亡くし子を亡くした不幸の中にも、ひたすら俳句を慰めんとして力强く生きて行つた千代女の一生を私は昔の女ながらえらい、と存じます。
これらは皆くらい方の人生の姿をうたつた俳句でありますが、明るい方の例でいひますと、
蓮の香に俥《くるま》ゆるめし薄月夜 ゐの吉
久保博士は朝夕大學通ひの手俥の上で好きな俳句を作るのが何より樂《たのし》みで、自分は自動車を使はない、といふ意味を前に、話された事がありますが、此句も其博士の實生活から生れ出た句で、俥をゆるめて蓮の匂つて來る濠《ほり》ばたの淡月夜《あはづきよ》に浸つてゐる所に、作者の姿なり、感興なりがはつきり浮んで來ます。此俥ゆるめし所に面白味があるのでありまして、
蓮さくや曉かけて月の蚊帳《かや》 より江
此句と讀み合せて味つて見ますと、いかにも博士御夫婦の高雅な趣味生活が繪卷のやうにうかび上つてゐります。之も机上で作りあげた句ではなく實際に、月の蚊帳に目がさめて、蓮の花の美しさにふれ、一方は蓮の香りに打興じて月をめでるといふ環境から生れた句である所に氣品の高い力强さがあふれてゐます。
[やぶちゃん注:「ゐの吉」「久保博士」「より江」「博士御夫婦」「ゐの吉」「久保博士」は日本の医学者で、歌人・俳人でもあった医学博士久保猪之吉(明治七(一八七四)年~昭和一四(一九三九)年)。日本国最初の耳鼻咽喉科学講座を開設した耳鼻咽喉科学の先駆者にして京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学/現在の九州大学)教授。当該ウィキがあり、そこに『歌人としては、落合直文に師事し』、明治三一(一八九八)年に『尾上柴舟らと「いかづち会」を結成した。その後は俳句を始め、高浜虚子に師事する』とある。一方、「より江」「博士御夫婦」は、久保氏の細君であられた久保より江(明治一七(一八八四)年~昭和一六(一九四一)年)で俳人。彼女も独立したウィキがあり、『鉱山技師の父・宮本正良と母ヤスの長女として、愛媛県松山市に生まれ』た。明治二八(一八九五)年、『松山時代の夏目漱石が下宿し、正岡子規が寄宿していた「愚陀仏庵」の持ち主が』、『より江の母方の祖父・上野義方であったことから、当時』十二『歳の少女であったより江は、若くして漱石や子規と面識を持ち、可愛がられたという』。『漱石の』「吾輩は猫である」『に登場する女学生・雪江は、より江をモデルにしたとされる』とあった。]
同じ蓮の句でも、りん女の子供を亡くした時の暗い句とは違ひまして、此二句にはいかにもゆつたりとした美しい曉方《あかつきがた》の月の光りと、蓮の花の感じがおだやかに浮んでゐます。ここらも作者の境涯の差から自然違つた明暗の俳句を生み出してゐるのでありまして、一方には、實生活から遊離した美しい藝術的な香氣があり、寸七翁さんの句などには生活卽藝術と中しませうか、眞劍な赤裸々な人間の叫び、が切々とうかがはれます。
手花火の子等に浦波ふけにけり 多佳女《たかぢよ》
このなだらかな調べの中には、生活の苦とか、寸七翁さんあたりの句にある樣な悲痛な魂の叫びとかいふ樣なものはなく、櫓山莊のバルコニーか芝生で手花火に打興じてゐる子供らに崖下の波の音も次第にふけわたり、手花火の靑や赤に照し出される子供達の頭や、それを見守る母の姿までも繪の如くうき上つて來ますし、更けゆく波の音とたのしいだんらん、なごやかな山莊の空氣を此句は詩の樣に私達に傳へてくれます。
[やぶちゃん注:「多佳女」橋本多佳子の別号。
「櫓山莊」私の『橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 櫓山日記』の私の注を見られたい。]
松落葉しきりに降るよキャンプ村 立子
愉快なキャンプ村といふものから、ただ松落葉がしきりにふつてくるといふ事柄だけをよんでゐるのでありますが、その何となく打興じ心をどる有樣が輕快によまれてゐるので、登山なり、キャンプなり、さうした愉快な一時的な環境といふものに、よむものゝ氣もちも明るくひきつけられてゆくのであります。それにキャンプ生活[やぶちゃん注:拗音表記はママ。]といふ材料が新らしいので、ここにもうら盆とか七夕とかいふ古典趣味と違つた近代生活の明朗さがにじみでてゐます。
汗ばみて香水の香のよくにほふ 汀女
これも句意は明瞭でありますが、汗ばんできて香水がにほふといふところに、近代的な嗅覺、汗ばんだ肌の感覺がよまれてあります。ラグビーや映畫、ガソリンガール等いろいろな素材の淸新さと、表現の自由さは、明日をめざす新人達の喜び步む道でありまして、ここにも歐米風が、私達の呼吸する環境の空氣にも思想にも、浸潤してゐる事がうら書され、そこに星布尼や千代女の句の姿と、時代なり生活、環境、頭惱のへだたりなりが、はっきり區別されてゐます。
月見草に食卓なりて母未し 靜の女《しづのぢよ》
此句は留守してゐる子達が食卓をととのへて母の歸りをしきりに待つてゐるが、母の歸りは遲い。月見草は淡い黃色をぽつかり夕闇に咲きそめてゐる。一方終日の務めにうみ疲れた母は、子供達の許へ歸りをいそぎつゝある、其徑《みち》すがらにも月見草が咲いてゐるかもしれない。
之も漫然と月見草を描いた句ではなく、每日每日起る事柄なり感じなりを月見草と結びつけてよんだ句で、やはりしづのさんの目下の僞らぬ環境から流れ出した俳句であります。
[やぶちゃん注:「靜の女」竹下しづの女のこと。]
か樣《やう》に同じ母の句でも千代女の蜻蛉釣の句と、月見草を中心とした母子の句、手花火の山莊の團欒の句と皆違つた環境を取扱つてゐますが、どの句も皆體驗なり實際の境涯から生れた句ばかりであります。
最後に私の句作の例をひいて申上げて見ませう。私は女中が居りませんので、每朝早く起きて御飯を焚きます。其時手帳を懷に入れて薪をくべ乍ら俳句を作つたり句の調《しらべ》を舌頭にのせて推敲いたします。又時には御飯がふく迄箒《はうき》を持つて門先へ出て見ますと、まだ人通りもない道端には夜明に降つた雨がいつぱい草むらにたまつて、そこら中に螢草《ほたるぐさ》の瑠璃色が咲きむれたりしてゐます。私は箒の手を休めて露草《つゆくさ》の前にじつと跼(かが)んでみとれます。
もう御飯がぷうぷう噴《ふ》き上つてゐるだらうといふ事も忘れて尙ぶらく門邊《かどべ》を步き𢌞りつゝ草をぬいたり、露草を折つたり、朝顏を眺めたり、かういふ時にすらすらと俳句が頭から流れ出しますので早速懷から手帳を出して一句を認めます。
露草や飯ふくまでの門步き 久女
幸ひに御飯もこげず一句を得た時の喜びは大きうございます。私はまた水を汲む時だの、晚方風呂を焚く時、御茶碗を洗ひ乍らも俳句を作ります。又時には忙しい一日をさいて遠賀《をんが》や田舍にひとりでぶらぶら出かけます。
こんな風に自分の生活の中から、境涯から、詩を見つけ出して俳句を作るといふ事は忙しい御婦人にもそんなにむつかしい事ではなからうと思ひます。
俳句がたゞ言葉の遊びや閑《ひま》つぶしの遊び丈《だけ》のものではなく每日移り替る人生の姿、樂しい事や悲しい心地を僞らぬ人間生活の記錄として描き出す民衆詩である事を申上げて終りと致します。
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