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2024/06/22

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 桐

 

Kiri

 

きり     白桐  黃桐

       泡桐  椅桐

【音同】

       榮桐 白花桐

トン     【岐利乃木】

 

本綱桐喜生朝陽之地因子而生者一年可起三四尺由

根而出者可五七尺其葉圓大而尖長有角光滑而毳最

昜生長先花後葉三月開花如牽牛花而白色花心微紅

結實大如巨棗長寸餘内爲兩房房內有肉肉上有薄片

卽其子也輕虛如楡莢葵實之狀老則殼裂隨風飄揚其

木輕虛皮色粗白故名之白桐不生蟲蚟琴作瑟及噐物

屋柱甚良

△按桐木作筝及箱櫃輕而不蚟以爲上品性不黏堅故

 不堪爲屋柱而已最昜長有幼女家可栽之當嫁之頃

 則宜作櫃板 凡桐子種者宜剪孽早茂長

 

   *

 

きり     白桐《はくとう》  黃桐《わうたう》

       泡桐《はうたう》  椅桐《いたう》

【音「同《とう》」。】

       榮桐《えいとう》 白花桐《はくくわとう》

トン     【「岐利乃木《きりのき》」。】

 

「本綱」に曰はく、『桐、喜(この)んで朝陽《ていやう》の地に生ず。子(み)に因りて、生《はゆ》る者は、一年にして起《たつ》るべきこと、三、四尺。根に由りて、出づる者は五、七尺なるべし。其の葉、圓大にして、尖り、長く、角《さや》、有り。光、滑かにして、毳《やはらかきけ》≪あり≫。最も生長し昜《やす》く、花を先にし、葉を後にす。三月、花を開く。「牽牛花(あさがほのはな)」のごとくにして、白色。花の心《しん》、微《やや》、紅《くれなゐ》なり。實《み》を結ぶ。大いさ、巨(をほ[やぶちゃん注:ママ。])きなる棗《なつめ》のごとし。長さ、寸餘。内に兩《ふたつ》の房《ばう》を爲《なし》、房の內に、肉、有り、肉の上に薄(うす)き片(へぎ)、有り。卽ち、其れ子《たね》なり。輕虛にして、楡-莢《にれ》・葵(あをひ[やぶちゃん注:ママ。])の實の狀《かたち》のごとく、老する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、殼(から)、裂(さ)けて、風に隨ひて飄揚《へうやう》す。其の木、輕虛≪にして≫、皮の色、粗《ほぼ》、白し。故《ゆゑ》、之れを「白桐」と名づく。蟲蚟(むしくひ)を生ぜず、琴《きん》・瑟《しつ》、及び、噐物に[やぶちゃん注:この「に」は不要。]・屋柱と作りて、甚だ、良し。』≪と≫。

△按ずるに、桐の木、筝(こと)、及び、箱・櫃《ひつ》に作る。輕くして、蚟(むしは)まず。以つて、上品と爲す。性、黏(ねば)く堅からず[やぶちゃん注:ここは、「黏からず、堅からず」の意。]。故、屋柱《やばしら》と爲(す)るに堪へざるのみ。最も長《ちやう》じ昜《やす》し。「幼女有る家は、之れを栽ふ[やぶちゃん注:ママ。]べし。當《まさ》に嫁(よめいりす)の頃(ころ)には、則ち、宜《よろ》しく櫃板《ひついた/たんす》作るべし。」と云云《うんぬん》。凡そ、桐の子種(みばへ)は、宜(よろ)しく、剪孽(わかばへ)、早く茂り、長《ちやう》ずべし。

 

[やぶちゃん注:日中ともに、真正のタイプ種である「桐」は、

双子葉植物綱シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa

である。現行の中文名は「毛泡桐」で別名を「紫花泡桐」とする。当該ウィキを引く(注記号は省略した)。『漢語の別名として白桐、泡桐、榮がある。初夏に特徴的な淡紫色の花を咲かせる花木で知られる。日本における経済的価値は高く、林業の特用樹種である。アメリカの国立公園では外来種として駆除の対象。日本では軽くて狂いや割れも少ない材の特性を活かして、高級家具の桐箪笥や、琴、琵琶が作られる』。『属名はシーボルト』(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・ズィーボルト:Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年~一八六六年)が「日本植物誌」(‘Flora Japonica’:一八三五年(天保六年))に於いて『アンナ・パヴロヴナ』(Анна Павловна Романова:ラテン文字転写:Anna Paulowna Romanowa 一七九五年~一八六五年:オランダ王ウィレムⅡ世の王妃で、ウィレムⅢ世の母。ロシア大公女。ロシア皇帝パーヴェルⅠ世と皇后マリア・フョードロヴナの第六皇女、アレクサンドルⅠ世の妹でニコライⅠ世の姉)『に献名したもの』。但し、『シーボルトが与えた学名は』 Paulownia imperialisで、『後にツンベルク』(スウェーデンの植物学者・博物学者・医学者カール・ペーテル・ツンベルク(Carl Peter Thunberg 一七四三年~一八二八年:カール・フォン・リンネの弟子として分類学に於いて大きな功績を残した。また、出島商館付医師として鎖国期の江戸日本に、一年間、滞在し、日本に於ける植物学や蘭学、西洋に於ける東洋学の発展に寄与した、出島の三学者の一人)『が』一七八三年に)『ノウゼンカズラ科ツリガネカズラ属として Bignonia tomentosa と命名していたことが判明し』たため、一八四一『年に現在のものに改められた』。『和名キリの語源は、一説には木材となる木の栽培技術である「台切り」を行って育てられるから、キリの名が生まれたといわれる』。『台切りとは、材を取るための栽培技法のひとつで、キリの苗木を植えてから肥料を十分に与えて幹を太らせた』後、『一度』、『根元で切って、切り株から再び勢いのある芽を出させて、その部分を木材用の幹として無節』(むぶし:節が一つもない無地の木を言う語)『で育てることである』。『江戸時代に貝原益軒が編纂した本草書』「大和本草」には『「此の木、切れば早く長ずる故にキリという」と書かれている』。

   *

同書「草卷之十一 木之中」の「藥木」の中の「白桐」を指す。オリジナルに国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該部の画像を視認して以下に電子化しておく。カタカナをひらがなに改め、句読点・記号・濁点と、送り仮名及び読みの一部を推定で挿入した。

   *

白桐 此木、切れば、早く長ず。故に「きり」と云ふ。桐の類、多し。「梧桐」は「靑ぎり」也。「白桐」は、つねの桐なり。世に「白桐」を、多く、用(もちひ)て噐とす。良材なり。花、淡紫あり、白きあり。實は桃に似て、内に、薄片、多し。是れを、うふれば、生ず。時珍云はく、『其材輕虛、色白而有𦂶文、故俗謂之白桐。』。女子の初生に、桐の子を、うふ[やぶちゃん注:ママ。]れば、嫁する時、其裝具の櫃材となる。子(み)を、うえ[やぶちゃん注:ママ。]、枝を、さすべし。早く長じやすし。凡(およそ)、「さし木」は、「實うへ[やぶちゃん注:ママ。]」にしかず。荏桐(じむとう)は「油ギリ」也。「海桐」は、「はり」、あり、「はうだら」と云ふ。「梓(あづさ)[やぶちゃん注:原本のルビ。]」も「楸(ひさぎ)」も、皆、桐の類也。又、「犬きり」と云ふものあり、其の木、理(きめ)、朴(ほゝ)[やぶちゃん注:原本のルビ。モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata のこと。]の木の如し。これ、「白楊」なり。是れも、器に作るべし。「頳桐(ていとう)」は「ひぎり」也。花、紅(くれなゐ)なり。「けらの木」、あり、實、紅なり。是れ、皆、一類なり。

   *

ここの後半部で、益軒が、まるまる総てを「桐」と同類とするものは、全部が誤りで、以下の引用にも出る通り、総てが、キリ属ではないだけでなく、近縁でもない、全然、無縁な種である。以下に全部纏めて「晒し首」にしておく。

「荏桐(じむとう)は「油ギリ」也」キントラノオ目トウダイグサ科アブラギリ属アブラギリ Vernicia cordata

『「海桐」は、「はり」、あり、「はうだら」と云ふ』セリ目トベラ科トベラ属トベラ Pittosporum tobira

「梓(あづさ)」既に先行する「梓」で考証したが、双子葉植物綱シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata 、或いは、キササゲ属トウキササゲ Catalpa bungei 、又は、キントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ属アカメガシワ Mallotus japonicus の複数種を指す。

「楸(ひさぎ)」前注のキササゲ属トウキササゲ Catalpa bungei に限定出来る。先行する「楸」を参照。

「犬きり」前掲アブラギリの異名。

「白楊」この異名は二種に与えられている。キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属ヨーロッパヤマナラシ変種ヤマナラシ Populus tremula var. sieboldii(日本固有種)と、日本・朝鮮及び中国に分布する、ヤマナラシ属ドロノキ Populus suaveolens である。葉の形状ならホオノキと似るのは、ドロノキの方である。

『「頳桐」は「ひぎり」也』シソ目シソ科キランソウ亜科クサギ属ヒギリ Clerodendrum japonicum

「けらの木」ヤナギ科イイギリ属イイギリ Idesia polycarpa

   *

引用に戻る。

『英語の「princess tree」は、属名の Paulownia の語源であるアンナ・パヴロヴナがロシア大公女であったことに基づく』。なお、『キリの名前は、他の大きく横広の葉を持つ樹木にもつけられているが、実際にはこれらは遠縁の別種である。同じキリ科の近縁種は』九『種ほどしか知られておらず』、『日本には分布もしていない』。『古くから知られるアオギリ(アオイ科)もまったく異なる種である。中国で古くから両方に「桐」の字を用いているために混乱が生じている』。「斉民要術」では、『アオギリを「青桐」、キリを「白桐」と呼び分けている』。『現在の中国ではアオギリを「梧桐」、キリを「泡桐」と呼ぶ』。『この他イイギリ(ヤナギ科)、アブラギリ(トウダイグサ科アブラギリ属)、ナンヨウアブラギリ(同ナンヨウアブラギリ属)』(キントラノオ目トウダイグサ科ハズ亜科Jatropheae 連ナンヨウアブラギリ属ナンヨウアブラギリJatropha curcas 。中南米原産であるが、十六世紀以降、スペイン商人などの手によって世界中に伝播した)『などもまったく別種である』。『中国の揚子江流域、韓国の鬱陵島、日本では大分・宮崎県境の山岳地帯に自生地があるが、原産地は不明である。中国の中部が原産との説もある。日本にはかつて自生はなかったというが、現在各地で見られるものはすべて栽培されたもので、日本各地に野生化したものがみられる。特に東北地方、関東北部、新潟県などにおいて植栽され、中でも福島県の会津桐や青森県と岩手県のの南部桐などが有名である』(中略)。『落葉広葉樹。高木で、成長すると高さ』十~十五『メートル』、『幹の直径は』五十『センチメートル』『になる。丸く横広がりの樹形になり、樹皮は灰白色、あるいは灰褐色で波状に浅く裂ける。一年枝は太く、緑褐色や褐色で枝先は枯れることが多い。ごく若い幹は、皮目がよく目立つ。生長して太くなるにつれ、樹皮の色も変わり、皮目は縦に裂けて筋状になっていく。日当たりの良いところを好む性質で、短期間で早く生長する』。『葉は長い葉柄がついて対生し、葉身は長さ』十~二十センチメートル『ほどの広卵形である。若木の葉は特に大きくなる。葉縁は全縁または浅く』三『裂し、葉の表面は粘り気のある毛が密生する』。『花期は』五~六月。『両性花で、枝の先に大きな円錐花序が直立し、淡い紫色の花を円錐状につける。花冠は長さ』五センチメートル『ほどの筒状鐘形で、先は口唇状に裂ける。突然変異で生まれたと考えられている白い花を咲かせる品種に、シロバナノキリ( Paulownia tomentosa f. virginea )がある』。『果期は』七月から翌年一月頃まで。『果実は割れて種子が撒布され、枯れ残った果序も、冬までよく枝に残る』。『翼(よく)のついた小さい種子は風でよく撒布され、発芽率が高く』、『生長が早いため、随所に野生化した個体が見られる。アメリカ合衆国では観賞用に輸入したものが野生化し、伐採しても根株を残すと』、『旺盛に繁殖する外来種として駆除に手を焼いて農薬を用いる』。『冬芽はいぼ状でごく小さく芽鱗』四~六『枚に包まれており、枝先に頂芽、枝には側芽が対生する。花芽は丸く、茶褐色の毛が密生し、花序にたくさんついて冬はよく目立つ。葉痕は円形や心形で大きく、冬芽よりも目立ち、維管束痕が輪状に並ぶ』。『キリは古くから良質の木材として重宝されており、下駄や箪笥、箏(こと)、神楽面の材料となる。また、伝統的に神聖な木とみなされ、家紋や紋章の意匠に取り入れられてきた』。『キリは日本国内でとれる木材としては最も軽』く、『また光沢が出て、材質は広葉樹や針葉樹の繊維構造とは異なる独立気泡構造をなし、湿気を通さず、割れや狂いが少ないという特徴がある。日本の建具、家具、箪笥や楽器、下駄などの材料とされてきたが、ヨーロッパやアメリカでは用材としての特性を活かした利用は進んでいない』。『桐箪笥を高級家具の代名詞とする日本には中田喜直作曲』の「桐の花」が『描いているように、娘が生まれるとキリを植え、結婚する際にはそれを伐採して作った箪笥に着物を詰めて嫁入り道具に持たせるということがよく言われた。箪笥としては、キリ材は軽くて加工がしやすい上に、材が湿気や熱気を防ぐ性質で虫害を受けることが少ないことが注目された。湿気を遮る能力が高いと同時に熱気を遮断することは、材の断熱効果が高いことを意味し、火事に遭っても箪笥の外側だけが焦げて、中の衣類は損傷を受けなかったという事例も少なくないという。家具として仕上げたときの磨き上げ効果も高いことも特徴で、白木が美しいことは日本で評価された。日本では江戸時代から桐箪笥が全国各地で作られ、江戸時代後期の安政の大地震のあとでは、キリの燃えにくさや、洪水に遭っても浮いて流れ』、『中身を守ってくれる特性が確かめられたので、桐箪笥がよく売れたといわれている』。『また』、『桐材を使い』、『琴や琵琶などの弦楽器を作り、軽量性は釣具の浮子(うき)にも利用された。キリ材は軽い上に摩滅しにくいことも、材として有用な点として認められている。箱や和机にもキリが使われ、木目の美しさと共に火に強い性質から火鉢にも使われている。羽子板の重要な材料にもなっている。また』、『発火しづらいキリは金庫の内側にも用いられ、金沢大学が耐火性を実証実験した』。『もっぱら』、『材の性質に注目され、その品種ごとに、青桐、赤桐、白桐、紫桐などと区分された。産地としては福島県会津地方が最も著名で、良質な材が採れるといわれる。これに次ぐのは青森県・岩手県の南部地方で、日本以外の中国や台湾産のものは材が軟らかすぎて箪笥用には下級品とされる。日本では各地で材を採ることを目的に植栽されていたが、需要の高まりや産業構造の変化により』、『北米、南米、中国、東南アジアから輸入されることも多い』らしい。『しかし』、『日本以外の国では、もっぱら花を観賞するために植えられる』。『桐炭は研磨用、火薬用、化粧用の眉墨(アイブロー)に利用された。また』、『桐灰は古くは懐炉(カイロ)にも用いられ、桐灰化学の屋号の由来となっている。キリから作った炭は、軟らかい性質で均質なものができるので、デッサン用や懐炉灰用には向いていると言われ、最初からその目的用で製造される』。桐花紋」の項があるが、興味がないので、カットする。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「(ガイド・ナンバー[085-23a]以下)からだが、かなりあっさりとしている。

「朝陽《ていやう》の地」太陽光がすぐにあたる東向きの地面。

「牽牛花(あさがほのはな)」ナス目ヒルガオ科サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil 。漢字表記は、もともとは、七夕の牽牛星とは関係ない。当該ウィキによれば、『朝顔は別名「牽牛」といい、これは中華文化圏での名称でもあるが、朝顔の種が薬として非常に高価で珍重された事から、贈答された者は牛を引いて御礼をしたという謂れである。平安時代に日本にも伝わり、百薬の長として珍重された』。ところが、『その後、江戸時代には七夕の頃に咲く事と、牽牛にちなみ』、『朝顔の花を「牽牛花」と以前から呼んでいたことから、織姫を指し、転じて朝顔の花を「朝顔姫」と呼ぶようになり、花が咲いた朝顔は「彦星」と「織姫星」が年に一度出会えた事の具現化として縁起の良いものとされた。これらの事により、夏の風物詩としてそのさわやかな花色が広く好まれ、鉢植えの朝顔が牛が牽く荷車に積載されて売り歩かれるようになった』とあった。

「棗《なつめ》」バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis (南ヨーロッパ原産、或いは、中国北部の原産とも言われる。伝来は、奈良時代以前とされている。

「琴《きん》・瑟《しつ》」前項「楸」で既出既注。

「筝(こと)」小学館「日本国語大辞典」より引く。『弦楽器の一つ。長さ五尺(約一・五メートル)から六尺(約一・八メートル)の木(桐が普通)の胴に』十三『本の弦を張り、各弦を山形の柱(じ)という駒で支え、その位置によって音高を整え、右手の爪で弾くもの。現在「こと」といえば、普通これをさす。もと、十数本の弦をもつものが中国で発達し、奈良朝前に日本に伝来し、雅楽に用いられていたが、室町時代に筑紫流箏曲が起こり、近代箏曲のもととなっている。雅楽で用いるものを楽箏(がくそう)、一般に行なわれているものを俗箏(ぞくそう)と称している。平安時代には「箏(そう)のこと」といって他の弦楽器(琴(きん)など)から区別した。しょうのこと。しょう。』とある。]

2024/06/21

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 檍

 

Motinoki

 

あはき   萬年樹

      【和名「阿波木《あはき》」。】

【音益】

 

 

說文云檍梓之屬二月花白子似杏葉亦似杏而尖白色

皮正赤其理多曲少直材可爲弓弩幹

 西の海あはきか原波間よりあらはれ出し住吉の神

[やぶちゃん注:最後の和歌は「續古今和歌集」に収録されている卜部兼直の一首なのであるが、表記に複数の問題があるため、後注はするが、先に訓読では正しい表記に修正を加えておいた。]

 

   *

 

あはき   萬年樹

      【和名、「阿波木」。】

【音「益」。】

 

 

「說文」に云はく、『檍は梓《し》の屬。』≪と≫。二月、花《、開き》、白く、子《み》、杏《あんず》に似て、葉も杏に似て、尖りて、白色。皮、正赤《せいせき》。其の理(きめ)、多≪く≫、曲り、少《すくなく》、直《すぐ》に≪して≫、材、弓弩の幹(しん)に爲《す》るべし。

 西の海や

    あはきの浦の

   しほぢより

       あらはれ出でし

           住吉の神

 

[やぶちゃん注:和訓本邦の日本原産で、本邦で普通に見かけるものに、

双子葉植物綱ガリア目 Garryalesガリア科 Garryaceaeアオキ(青木)属アオキ変種アオキ Aucuba japonica var. japonica

がある。さても、私は、その「靑木」だろうと愚劣にも安易に思い込み、『良安は、中国で現存する最古の字書である後漢の許慎著になる永元一二(一〇〇)年成立の「說文」を引いているのだから、そこでは、

――アオキ属 Aucuba の中国産種の孰れかの種、或いは、種群――

ということになるだろう。』と思ったのだが、どうも「あはき」の訓に引っ掛かったから、調べてみたら――あらまっちゃんデベソの宙返り!――で、大修館書店の「廣漢和辭典」を引いたところが、そこには――「アオキ」の意味は一字も載らず、「もち」「もちのき」のみの意味があるだけで、「ビックリ仰天、怒髪天、どうなってんじゃ!」と独りごちたのである。しかも、『𣚍は古字』とあって、その直下に、使用例として、まさに「說文」が引かれてあるのだが、

   *

𣚍、梓屬。大ナルㇾ爲棺椁、小ナル者ハ可ㇾ爲弓材。從ㇾ木𠶷聲。

   *

となっているのである(「棺椁(くわんかく)」は「柩」(ひつぎ)の意)。さらに言っておくと、同辞典では、音として『オク・ヨク』と『イ』しかなく、「益」(音「エキ・ヤク」)と音通しないのである。最早、生きながら御棺の中に閉じ込められた棺、基! 感に落ちたのであった――

 さても、この「もち」「もちのき」というのは、

双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra

を指すのであった。ウィキの「モチノキ」を引く(注記号は省略した)。『モチノキ(餅の木・黐の木・細葉冬青』『)とは、モチノキ科モチノキ属の植物の一種。別名ホンモチ、単にモチともよばれる。 和名は樹皮から鳥黐(トリモチ)が採れることに由来する。中国名は、全緣冬青 (別名:全緣葉冬青)』(同種の中文ウィキを参照されたい。記載は貧しい)。『日本では東北地方中部以南(宮城県・山形県以西)の本州、四国、九州、南西諸島に分布し、日本国外では朝鮮半島南部、台湾、中国中南部に分布する。沿岸の山地や、暖地の山地に自生する。葉がクチクラ層と呼ばれるワックス層に覆われていることから』、『塩害に強く、寒気の強い内陸では育ちにくいため、暖かい地方の海辺に自生する。人の手によって、庭などに植栽もされる』。『常緑広葉樹の中高木』にして『雌雄異株で、株単位で性転換する特性がある。樹皮は灰色で、皮目以外は滑らか。一年枝は緑色で無毛である』。『葉は互生するが、枝先はやや輪生状に見える』。『葉身は長さ』四~七『センチメートル』、『幅』二~三センチメートルの『楕円形・倒卵状楕円形で、革質で濃緑色をしている。葉は水分を多く含んでいる』。『開花期は春』四月頃で、『雄花・雌花ともに直径約』八『ミリメートル』『の黄緑色の小花が、葉の付け根に雄花は数個ずつ、雌花は』一、二『個ずつつける。花弁はうすい黄色でごく短い枝に束になって咲く。雄花には』四『本の雄蕊、雌花には緑色の大きな円柱形の子房と退化した雄蕊がある』。『果実は直径』十~十五ミリメートルの『球形の核果で、内部に種子が』一『個ある。はじめは淡緑色だが、晩秋』十一月頃、『熟すと』、『赤色になり、鳥が好んで食べる。果実の先端には浅く裂けた花柱が黒く残る。実は冬まで残り、長く枝に残るものは黒くなる』。『冬芽のうち、花芽は雄株・雌株ともに葉の付け根につき、雄株のほうが花芽は多い。頂芽は円錐形で小さい。葉痕は半円形で、維管束痕は』一『個つく』(以下の「天敵」「栽培」の項は略す)。『樹皮から鳥黐(トリモチ)を作ることができ、これが名前の由来ともなった。まず春から夏にかけて樹皮を採取し、目の粗い袋に入れて秋まで流水につけておく。この間に不必要な木質は徐々に腐敗して除去され、水に不溶性の鳥黐成分だけが残る。水から取り出したら』、『繊維質がなくなるまで臼で細かく砕き、軟らかい塊になったものを』、『流水で洗って細かい残渣を取り除くと鳥黐が得られる。モチノキから得られる鳥黐は色が白いため、ヤマグルマ(ヤマグルマ科)を原料とするもの(アカモチ)と区別するために「シロモチ」または「ホンモチ」と呼ぶことがある』。『材は堅く緻密であるので、細工物に使われる』。『刈り込みに強いことから公園、庭などに植栽される。また、防火の機能を有する樹種(防火樹)としても知られる』。『日本では古くから庭に欠かせない定番の庭木として親しまれ、さまざまな形に仕立てることができるため』、『玉仕立て』(人工的に刈り込んで半円形の樹形にすることを言う)『にするほか、列植して目隠しにも利用してきた。潮風や大気汚染にも耐えるため、公園樹としてもよく用いられる』。『御神木として熊野系の神社の中にはナギ』(裸子植物植物門マツ綱ナンヨウスギ目マキ科ナギ属ナギ Nageia nagi 。私の好きな樹で、葉は縁結びのお守りとされる)『の代用木として植えている場合がある』とあった。東洋文庫訳には、一切の現在の種同定が出来る割注も後注も、全く、ない。植物に人並みに冥い私ではあるが、この記載を見る限り、出版当時(一九九〇年)の一般的日本人は、その殆んどは、この記載がモチノキを指すと判って読んでいた読者は、二割にも満たなかったのではないかとさえ考える。そうして、それは、当該部の訳者竹島淳夫氏と、総監修をした島田勇雄氏に極めて重い責任があると言わざるを得ないと感じている。百科事典の翻訳は、相応の現存在的解釈なしには、絶対に、あり得ない、と私は信ずるものだからである。

「西の海やあはきの原(はら)しほぢよりあらはれ出でし住吉の神」鎌倉時代の勅撰集「續(しよく)古今和歌集」所収。当該ウィキによれば、『藤原為家が、正元元』(一二五九)年三月に『後嵯峨院から勅撰集撰進の命を受けた』『が、弘長二』(一二六二)年九月、『後嵯峨院の勅宣により、九条内大臣基家・衣笠内大臣家良・六条行家』『・葉室光俊(真観)の』四『名が新しく撰者として加わ』り、『鎌倉将軍宗尊親王と懇意だった光俊が為家に対抗するため』、或いは『後嵯峨院が』「新古今和歌集」に『倣って複数撰者の形式にするためと考えられる』が、「井蛙抄」に『よれば、憤懣やるかたない為家は』、四『人が加わって以降、撰歌を嫡男為氏に任せたと』され、文永二年十二月二十六日(ユリウス暦一二六六年二月二日)に『奏覧』、『同三年三月十二日竟宴』したが、『撰者』五『人のうち、家良は完成を待たず、文永元』(一二六四)年に『没した』とある。本歌は「卷七 神祇」にある一首。「日文研」の「和歌データベース」のこちらで確認した。ガイド・ナンバー「00727」が、それ。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 楸

 

Hisagi

 

ひさぎ   楸

      【和名比佐木】

【音秋】

 

ツユウ

 

本綱楸卽梓之木赤者也有行列莖幹直聳可愛至上埀

條如線謂之楸線其木濕時脆燥則堅良材也宜作棋枰

其葉大而早脫故謂之楸唐時立秋日京師賣楸葉婦女

兒童剪花戴之取秋意也擣楸葉傅瘡腫煮湯洗膿血冬

取乾葉用之

農政全書云楸山谷中多有之甚髙大其木可作琴瑟葉

類梧桐葉而薄小葉稍作三角尖叉開白花味甘

 新六ひさき生ふる庭の木蔭の秋風に一聲そそく村時雨かな爲家


刺楸

本綱刺楸卽楸之屬其樹髙大皮蒼白上有黃白斑㸃

枝梗間多大刺葉似楸而薄味甘嫩時𤉬熟水淘過拌食

[やぶちゃん注:「𤉬」は「煠」(「焼く・炒める・茹でる」の意)の異体字で、原本では、「グリフウィキ」のこれ((つくり)が「棄」の字体)であるが、表字出来ないので、最も近いと判断した「𤉬」とした。]


 【檟同】

本綱榎卽楸之類葉大而早脫者謂之楸葉小早秀故

謂之榎二木共皵【皵音鵲皮粗也】

△按榎字今俗以爲惠乃木者無拠

 

   *

 

ひさぎ   楸《しう》

      【和名「比佐木」。】

【音「秋」。】

 

ツユウ

 

「本綱」に曰はく、『楸、卽ち、梓《し》の木の赤き者なり。行列、有り。莖・幹、直(す)ぐに聳(そび)へ[やぶちゃん注:ママ。]て、愛すべし。上に至りて、條(ゑだ[やぶちゃん注:ママ。])を埀《た》れ、線(いと)のごとし。之れを「楸線《しうせん》」と謂ふ。其の木、濕(うるほ)ふ時、脆(もろ)く、燥(かは)く時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、堅し。良材なり。宜しく、棋(ごばん)・枰(すごろくばん)に作るべし。其の葉、大にして、早く脫(お)つる。故《ゆゑ》、之れを「楸」と謂ふ。唐《たう》≪の≫時、立秋の日、京師、楸の葉を賣る。婦女・兒童、花を剪(き)りて、之れを戴《いた》だく。「秋」≪てふ≫意を取るなり。楸の葉を擣(つ)きて、瘡腫《さうしゆ/できもの》に傅(つ)け、湯に煮て、膿血(うみち)を洗ふ。冬、乾ける葉を取りて、之れを用ふ。』≪と≫。

「農政全書」に云はく、『楸、山谷の中に、多く、之れ、有り。甚だ、髙大なり。其の木、琴《きん》・瑟《しつ》を作るべし。葉、梧桐の葉に類す。《→して、》薄く、小《ち》さく、葉の稍(すゑ)、三角の尖-叉(とがり)を作《な》し、白花を開き、《→く。》味、甘。

 「新六」

     ひさぎ生ふる

       庭の木蔭の

      秋風に

        一聲そそぐ

       村時雨《むらしぐれ》かな

                   爲家


刺楸(はりひさぎ)

「本綱」に曰はく、『刺楸、卽ち、「楸」の屬。其の樹、髙大にして、皮、蒼白《あをじろ》く、上に、黃白の斑㸃、有り。枝-梗(えだ)の間に、大なる刺《とげ》、多く、葉、楸に似て、薄く、味、甘く、嫩(やはら)かなる時、𤉬熟(えふじゆく)し、水-淘-過-拌《すいたうくわはん》[やぶちゃん注:「水で以って十分に淘(よな)げる(水に入れて攪拌し、細かい物などを揺らして選り分ける)こと」の意。原本では「過-拌」の間には熟語を示すバーがないが、それでは、屋上屋になってしまうので、かく、した。]≪して≫食ふ。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「𤉬」は「煠」(現代仮名遣の音は「ヨウ」で、「焼く・炒める・茹でる」の意)の異体字で、原本では、「グリフウィキ」のこれ((つくり)が「棄」の字体)であるが、表字出来ないので、最も近いと判断した「𤉬」とした。]


(こひさぎ) 【「檟」、同じ。】

「本綱」に曰はく、『榎は、卽ち、「楸」の類。葉、大にして、早く脫(を[やぶちゃん注:ママ。])つる者を[やぶちゃん注:「を」は不要。]、之れを、「楸」と謂ふ。葉、小にして、早く秀(ひいで)る。故、之れを、榎《こひさぎ》と謂ふ。二木、共《とも》に、「皵(かはあら)」なり。【「皵」、音、「鵲《シヤク》」。「皮、粗《あらし》。」≪の意≫なり。】』≪と≫。

△按ずるに、「榎」の字、今、俗、以つて、「惠乃木(ゑのき)」と爲《す》るは、拠(よりどころ)、無し。

 

[やぶちゃん注:これは、事実上、前項の「梓」の続きと言えるものであるから、直にここに来られた方は、まず、そちらを読まれた上で、こちらに、再度、来られたい。そうしなければならない理由は、これらの記載中の樹種漢字は、日中で、種が全く異なるからであり、しかも、それを良安は認識していないで書いているというトンデモ記載だからである。而して、この「楸」は、そちらの注で迂遠に比定同定した通り、

双子葉植物綱シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属(唐楸)トウキササゲ Catalpa bungei 、或いは、広義に、民間で、キササゲ属 Catalpa の複数の種を総称する語

であったと、私は推定している。それらの種及び種群に就いても、「梓」の私の注の冒頭で詳細に考証したので繰り返さない。但し、時珍が「梓」の次に、この「楸」を、わざわざ独立項として据えたからには、「キササゲ属 Catalpa の複数の種の総称」とは、ここでは、相応しくないから、前者の、

トウキササゲに限定比定するのが正しい

と言える。但し、その場合、

トウキササゲの近縁種・亜種・雑種・品種が含まれる可能性は、ある

とすべきではあろう。トウキササゲに亜種があるかどうかは、判らないが、

中文の当該ウィキには、「分布」の項の最後に、『目前尚未由人工引種栽培』(「未だ人工的に導入され、栽培されては、いない」の意であろう)とある

から、少なくとも

――トウキササゲには品種はない――

と思われる。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「(ガイド・ナンバー[085-23a]以下)から。

「行列、有り」東洋文庫の後注には、『上原敬二著『樹木大図説』Ⅲ(有明書房)のノウゼンカズラ科トウキササゲの項に「多く並木状に列植するので列楸、列梓の名がある」とある。このことをいうのであろうか。』とある。

「枰(すごろくばん)」雙六盤。本邦のものは、中国から渡来したものだが、中国のそれは、日本の双六盤に比べると、遙かに大きい。「大阪電気通信大学学術リポジトリ」の木子香氏の「中国における盤双六研究の現状について」(『研究論集(人間科学研究)』第二十号・二〇一八年九月発行所収・PDFをダウンロードされたい。複数の写真図像を見ることが出来る。

「農政全書」明代の暦数学者でダ・ヴィンチばりの碩学徐光啓が編纂した農業書。当該ウィキによれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎』十二『年』(一六三九年)『に刊行された』とある。光啓は一六〇三年にポルトガルの宣教師によって洗礼を受け、キリスト教徒(洗礼名パウルス(Paulus))となっている。以下は、同書の「第五十六 荒政」(「荒政」は「救荒時の利用植物群」を指す)にある。「漢籍リポジトリ」のここの、ガイド・ナンバー[056-14b] に、

   *

楸樹 所在有之今宻縣梁家衝山谷中多有樹甚髙大其木可作琴瑟葉類梧桐葉而薄小葉稍作三角尖乂開白花味甘

  救飢 採花煠熟油鹽調食及將花晒乾或煠或炒皆可食

   *

とあった。

「琴《きん》」中国の古い琴(こと)の一種である「古琴(クーチン)」。当該ウィキによれば、『中国の古い伝統楽器』で、『七弦琴(しちげんきん)、瑶琴(ようきん)とも呼ぶ』三千『年の歴史がある撥弦楽器で、八音の「糸」に属し』七『本の弦を持つ。箏』(そう)『などと違い、琴柱(ことじ)はなく徽(き)と呼ばれる印が』十三『あり、これに従い、左指で弦を押さえて右指で弾く』とある。

「瑟《しつ》」中国の古い弦楽器「瑟(スゥーァ)」。当該ウィキによれば、『古代中国のツィター属』(ドイツ語:Zither)『の撥弦楽器。古筝に似て、木製の長方形の胴に弦を張り、弦と胴の間に置かれた駒(柱)によって音高を調節するが、弦の数が』二十五『本ほどと』、『多い。八音の糸にあたる楽器のひとつで、後世には祭祀の音楽である雅楽専用の楽器になった』。『瑟の歴史はきわめて古』く、『文献では』、『古琴とともに「琴瑟」と併称され、最も古くから見える弦楽器で』、「詩經」・「書經」を始め、『先秦の文献にしばしば見える』。「禮記」の「明堂位篇」には『大瑟と小瑟の』二『種類の瑟について記述しており、複数の種類の瑟があったことがわかる』とある。また、「伝説」の項に、『瑟の起源について、さまざまな伝説があ』り、「呂氏春秋」には、『炎帝のときに』五『弦の瑟が作られ、堯のときに』十五『弦に増し、舜のときに』二十三『弦に増したという』「史記」は、『もと』五十『弦あったが、音が悲しすぎたので』、『黄帝が半分に割いて』、二十五『弦にしたという話が見える』。また、『伏羲が瑟を作ったとも』伝える、とあった。

「梧桐」(ごとう)は、現行ではアオイ目アオイ科 Sterculioideae亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex を指すが、これは現在のシソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa であった可能性も排除出来ない。事実、サイト「跡見群芳譜」の「あおぎり(青桐)」を見ると、『日本では、『万葉集』に梧桐で作った日本琴の記事が出る』。『しかし、これはキリの漢名を梧桐と誤解したものであって、実際にはキリであったであろう』とあり、当該ウィキにも、『中国の伝説ではアオギリの枝には』十二『枚の葉がつくが、閏月のある年には』十三『枚つくといわれた』。『また』、『中国では鳳凰が住む樹とされた』。『伏羲がはじめて桐の木を削って古琴を作ったという伝説がある(ただしアオギリかキリか不明)』とある。

「白花を開き、《→く。》味、甘」と読みを変えたのは、葉やの味とは思われないからである。東洋文庫も句点で切っている。アオギリだった場合は、サイト「跡見群芳譜」の「あおぎり(青桐)」を見ると、『種子は蛋白質・脂肪に富み、梧桐子と呼んで薬用・食用にする』。『第二次世界大戦中の日本では、コーヒー豆の代用にした』とあり、『「四月花をひらき、六月に実を結び、秋熟して、生(なま)ながらも食し、炒りても食すべし。めづらしき菓子なり』。『又梧桐月を知ると云ふ事あり。閏月まで知る物なり。下よりかぞへて十二葉あり。一方に六葉づゝ也。閏月ある年は十三葉なり。小き所則ち閏としるべし。又立秋の日をも知る。其日に至りて一葉先づ落つ。花もきれいに見事なる物にて、庭にうへ置きても愛すべき木なり。無類なる霊木なり」(宮崎安貞』「農業全書」(元禄一〇(一六九七)年刊)とあるからである。

「新六」既出既注。以下の一首は、日文研の「和歌データベース」の「新撰和歌六帖」で確認したが、そこでは、

   *

ひさきおへる-にはのこかけの-あきかせに-ひとこゑそそく-むらしくれかな

   *

となっている。「第六 木」のガイド・ナンバー「02502」である。

「刺楸(はりひさぎ)」これは、

バラ亜綱セリ目ウコギ科ハリギリ(針桐)属ハリギリ Kalopanax septemlobus

であるから、目タクソンで異なるので、時珍の『「楸」の屬』は大ハズれである。当該ウィキによれば(注記号は省略した)、『別名、センノキ(栓の木)、ミヤコダラ、テングウチワ、ヤマギリなどがある。肥沃な土地に自生することから、開拓時代は農地開墾の適地の目印とした。材はケヤキに似た年輪模様が美しく、建築材や家具材としても貴重である。若芽は山菜としての利用もある』。『和名「ハリギリ」は、若い枝に大型の鋭いトゲがあることに由来し、葉がキリに似るため「針のある桐」の意味である。「キリ」については、材質がキリに似ているというところから来たものだという説もある』。『ハリギリにはいくつか別名があり、センノキ、ミヤコダラでもよばれる。ニセゲヤキという別名があり、ハリギリとケヤキは板にしたときに年輪模様が似ているため』、『名付けられたとされる』。『また』、『芽が山菜として有名なタラノキに似ていることから、ハリギリの別名には「タラ」がついたものが多く、アクダラ、オオダラ、アホダラなどの異名もある』。『山菜としての地方名にオオバラ(中部地方)などがある。大きなサイズのカエデと見まごうほどの大きな葉は天狗の羽団扇にも例えられ、地域によってはテングノハウチワやテングッパという呼び名もある。宮城県の地方名でセノキという呼び名がある』。『アイヌ語では「アユㇱニ(ayusni)」と呼ばれる。これは「アイウㇱニ(ay-us-ni)」(とげ・多くある・木)という意でついた名である』。『日本、朝鮮半島、中国の原産。日本全土(特には北海道)、千島列島、朝鮮半島・中国に分布する。平地から山地(深山、高山)まで分布し、雑木林や、肥沃な土地に自生する』。『落葉広葉樹の高木で、幹は直立し、高さ』十~二十『メートル』、『大きいものは』三十メートルに『なる。幹は直径』一『メートル』『にも達する。成木は大きな枝が比較的まばらに張り出し、枝先は棒状になる。若木は、枝や樹幹に太くて鋭いとげがあるが、老木になるに従い鋭さを失いトゲはなくなる。幹の樹皮は褐色から黒褐色で、粗くて深く縦に裂け目が入りコルク質で厚く、この樹木を特徴づける。枝は灰色を帯びる。一年枝は、太くて皮目がありトゲがまばらに生えるが、トゲがないものもある』。『葉は互生し、枝先に集まってつく。葉柄は長さ』七~三十『センチメートル』、『葉身は円形で掌状で』五~九『裂し、カエデのような姿で』、『径』十~三十センチメートルと『と大きく、天狗の団扇のような形をしている。そこから「テングウチワ」と呼ばれることもある。葉の切れ込みは浅いものからヤツデのように深いものまで変化がある。葉縁には細かい鋸歯がある。秋には黄褐色に紅葉する。薄い黄色に黄葉するが、緑色が抜けきらない場合や、すぐ褐色になることが多く地味である。条件によっては紅葉の仕方は変化し、一枚の葉の中に紫褐色や褐色が混じったり、緑色や他の色が葉脈に沿って残ったりと、様々な柄が見られる』。『花期は』七~八月で、『枝の先に花柄が傘状に伸びて散状花序をつくり、淡黄色から黄緑色の小花が多数つく。花はかなり細かい印象で、径』五『ミリメートル』『ほどで、たくさん咲いている様は目立って見える。果期は』十『月で、直径』五ミリメートル『ほどの丸い果実がたくさん集まってつき、黄葉するころに藍黒色に熟す。果実は冬でも残り、のちに果序の柄だけが散形状に枝に残る』。『冬芽は卵形から円錐形で長さ』五~十ミリメートル、『暗紫褐色、無毛でつやがあり、芽鱗』二、三『枚に包まれる。枝の頂につく冬芽(頂芽)は大きく、側芽は枝に互生してあまり大きくない。葉痕はV字形で、維管束痕が多数つく。春になると太い幹からも葉が芽吹いてくる』。『若芽は食用、根や樹皮は漢方薬になる。食用について古くは、中国・明の時代に書かれた飢饉の際に救荒食物として利用できる植物を解説した本草書』「救荒本草」(一四〇六年)に『記載がみられる。材は木目が美しく、建築材や家具材、器具、彫刻など幅広く利用される』。『春に芽吹いたばかりの新芽は、同じウコギ科のタラノキやコシアブラ、ウドなどと同様に山菜として食用にされる』。『採取時期は』普通は五~六月頃で、『暖地』では四月頃、『平地では』三月頃から、『高地では』五『月、高山では』七『月』頃までが『適期とされ、若芽をつけ根からもぎ取って採取し、食べるときは』、「はかま」を『取り去る』。『林内のものは樹高が高く、採取がむずかしい』。『見た目は「たらの芽」としてよく知られる近縁のタラノキの芽やコシアブラに良く似るが、苦味やえぐみとして感じられる』「アク」が『やや強く、灰汁抜きを必要とする』。『そのため』、『タラの芽と区別して食用にしない地方もあり、たとえば長崎方言では「イヌダラ」と呼んでタラノキと区別される。アクが強い山菜であるが、揚げると気にならなくなる。かつてはタラの芽の代用のように扱われていたが、脚光を浴びてタラの芽とは別の風合いがあるとして好まれているという。また、採取する時期によってアクの強弱はかなり異なる』。『灰汁抜きは、熱湯に塩を入れて茹であげてから水にさらす。灰汁抜き後は調理するが、強いクセのため、ごま・クルミ・酢味噌の和え物など味の濃いものに合い、汁の実などにして食べられる。生のまま、天ぷらや煮付けにしても食べられる。天ぷらにすると、タラノキほどではないが』、『タラの芽に似た』、『ほどよい香りとアクがあり、遜色がない味があるとも評されている』(以下、中略)。『木材としては「センノキ」、あるいは「栓(せん)」と呼ばれるが』、『名前の由来についてはよくわかっていない。木肌が深く裂け、黒ずんだ褐色の木から取れる「オニセン」(鬼栓)と、木肌がなめらかな木から取れる「ヌカセン」(糠栓)、白っぽい材が多い中でも特に赤みを帯びているのを「アカセン」(赤セン)とよぶ。鬼栓は加工には向かず、沈木に用いられる。一方、糠栓の材は軽く軟らかく加工がしやすいため、建築、家具、楽器(エレキギター材や和太鼓材)、仏壇、下駄、賽銭箱に広く使われる。耐朽性はやや低い。環孔材で肌目は粗いが』、『板目面の光沢と年輪が美しく海外でも人気がある。材の色は白く、ホワイトアッシュ』(White Ash:落葉広葉樹のシソ目モクセイ科トネリコ属アメリカトネリコ  Fraxinus americana の英名)『に似ていることから』、『ジャパニーズ・アッシュという名称で呼ばれることもある。材の白さを活かして、薄く削って合板の表面材としても使われる』。『材は柾』(まさめ)『が通っていて美しく、漆を塗ると』、『ケヤキに似た木目を持つことから』、『欅』(けやき)『の代用品としても使用される』。『この場合は』、『着色した上で』「新欅」「欅調」と『表記されることもある。年輪に沿って大きな道管が円形に並ぶ典型的な環孔材であり、ハリギリは道管の直径が』百七十~三百五十『マイクロメートル (μm)と』、『ケヤキやヤマザクラのそれよりも直径が一際大きく』、一『列に並んで年輪がはっきりと出るのが特徴である。材の美しさから、木彫りの伝統工芸品に利用されることも多い』。『北海道には大きな木が多く、明治末には下駄材として本州に出荷された。現在でも国内産の栓』(これは、ただの木製の「栓」ではなく、「木材の継手や仕口の箇所で部材間の貫通穴に差し込む細木」としての「栓」のことであろう)の九『割は北海道産である』。『アイヌの文化においても、カツラなどとともに丸木舟の主要な材のひとつとして北海道全域で用いられ、このほか』、『木鉢や臼、杵、箕が作られた』。以下、「アイヌの口頭伝承」の項。『北海道日高地方沙流川流域のアイヌの口頭伝承で、ハリギリの丸木舟(アユㇱニチㇷ゚)に関する禁忌を扱ったものがある。話の内容は採録された時代などにより差異があるが、以下に概要を示すものは』、一九九六年三月二十五日に『平取町のアイヌ、上田トシから聞き取り採録された「カツラの舟とハリギリの舟のけんか」と題された昔話である。概要は以下の通り』。

   *

『ある男がランコチㇷ゚(カツラの丸木舟)とアユㇱニチㇷ゚を作ったものの、いつしか軽く扱いやすいランコチㇷ゚ばかりを使っていた』。『いつしか夜に川の方で物音がするようになった。ある晩、男はランコチㇷ゚とアユㇱニチㇷ゚が人間のように立ち上がり跳ね上がる様子を目撃する。その後、夢にランコチㇷ゚の女のカムイ(神)が現れ、ランコチㇷ゚のカムイに嫉妬したアユㇱニチㇷ゚の男のカムイが、夜になるとランコチㇷ゚のカムイを虐める旨、アユㇱニチㇷ゚のカムイが悪い心を持っている旨を話し、故にアユㇱニは舟から倒木、木片に至るまで燃やさなければ村に危害を与える、と伝えた』。『男はそれを父親に伝えたところ』、『父親は「チㇷ゚を燃やせ」と言ったため、男はアユㇱニのチㇷ゚や木片を残らず燃やした。その後父親は「その煙がどこへ向かったかを見ておくように」と言った。煙は海へ向かったことから、父親は「決して海で漁をしないように」と忠告した』。『しかししばらく経ち、男は禁忌を破り別の男と漁に出た。すると、舟のようなものにたくさん棘が出た姿の化け物が現れた。男らはタコのカムイ(神)と海波のカムイに助けを求め、村まで帰ることこそできたが、髪や髭が抜け落ち、全身が腫れ上がり肉も腐り、化け物のような姿となってしまった。その後、村を通りかかった男が化け物のような姿になった男に訪ねたところ、ことの顛末とアユㇱニで舟をつくらないほうがよいことを話した』。

   *

『しかし』、『本田』優子氏は、『実際には道内各地でハリギリ製の丸木舟が出土、あるいは現存していることを踏まえ、かつては丸木舟の用材を特定の樹種に限定するようなことは行われておらず、むしろスギなどが自生しない北海道内における丸木舟制作においては主要な材としての地位を占めていたと考察している』。『加えて、本田』『は』、『物語自体の変容についても考察している。上田のほか』二つの昭和時代の『記録を確認したところ』、一九三六『年の記録では女神は「作った以上、わたしと同じ程度に、そちらも使ってやったらよかったのに」と述べたうえで「センノキほど憑き神(カシ・カムイ)の悪い木はない」としていたが、その後の記録では、悪いのはハリギリの憑き神ではなく』、『ハリギリそれ自体』『とされ』、『強調されていった。また』、一九三六『年の記録ではハリギリの舟を作ることを禁忌する内容はない』『以上より』、『本田』『は、本来』、『この物語は「人間が道具としてなにかを作った以上は、その道具が役割を全うできるようにきちんと使わねばならない」ということが主題であり、カツラと対立させる樹木は』、『ハリギリ以外でも良かったのであるが、ハリギリの鋭利な刺、それで傷を作ってしまうと時として体中がはれ上がってしまうことが強く意識されるようになった結果、ハリギリの舟を禁忌とする物語に置き換り、沙流川流域のアイヌの生活、ひいては』、『近年の情報の流れの中で他地域のアイヌの生活にも影響を与えるようになったと推察している。また、本田の私見として、本来各地で用途や河川の様相によって見合った樹種が決められていた丸木舟についての伝承が変容し、ハリギリの舟のタブー視、他の樹種の神聖視が進んでいることを指摘している』。『なお、現在では再びハリギリを用いた丸木舟の復元も行われている。例えば』二〇二〇『年』四『月に白老町にオープン』した『国立アイヌ民族博物館・国立民族共生公園(ウポポイ)での丸木舟と板綴舟(イタオマチㇷ゚)制作・展示にあたっては、東京大学附属北海道演習林から、ハリギリが提供されている』とあった。

「𤉬熟(えふじゆく)し」割注した通り、「𤉬」は「煠」(現代仮名遣の音は「ヨウ」で、「焼く・炒める・茹でる」の意)の異体字であるが、東洋文庫訳では、『蒸熟して』と訳してある。私は採れない。

「榎(こひさぎ)」『【「檟」、同じ。】』先行する𣾰で注したが、「檟」は「トウキササゲ」=「楸」の古名である(別にチャノキの意もある)。東洋文庫でも、一切、種名を示す割注などはない。漢字の熟語や「こひさぎ」「こいさぎ」(後者はあり得ないだろう。「小楸」だろうから)で調べても、ネットでは掛かってこない。日中辞書で「小榆花楸」というのがあったが、これは、バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科アズキナシ属アズキナシ Aria alnifolia のことを指す。「維基百科」の当該種を見ると、このアズキナシ属が「花楸屬」とあった。これかも(あくまで「かも」のレベル)知れん。日本語のウィキは記載が詳しい。どうぞ、ご覧になられて、貴方の御判断にお任せする。

『「榎」の字、今、俗、以つて、「惠乃木(ゑのき)」と爲《す》るは、拠(よりどころ)、無し』当然、ここで良安が指示する「榎」はバラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis であるから、この良安に附記全体が、全く無効である。因みに、ウィキの「エノキ」によれば、『和名「エノキ」の由来については諸説あり』、・『縁起の良い木を意味する「嘉樹(ヨノキ)」が転じてエノキとなった』説(良安が一蹴するが、この説は記者が頭に載せるからには、有力な説の一つなんだろう)・『秋にできる朱色の実は野鳥などが好んで食べることから、「餌の木」からエノキとなった』説、・『枝が多いことから枝の木(エノキ)と呼ばれるようになった』説『など』『がある』。他にも、『鍬などの農機具の柄に使われたからという説があるが』、これは、『奈良時代から平安時代初期には、エノキの「エ」はア行のエ』で、『柄(え)や』、『それと同源の語とされる「エ」はヤ行のエ』(イェ)『で表記されており、両者はもともと発音が異なっていたことが明らかなので、同源説は成り立たない』とある(但し、最後の否定解説には「要出典」要請が掛っている)。なお、この後に、『漢字の「榎(エノキまたはカ)」は夏に日陰を作る樹を意味する和製漢字であ』り、『音読みは「カ」。「榎」は、中国渡来の漢字ではなく、日本の国字の一つである』というのは、既に𣾰の注で述べた通り、大嘘であるので注意されたい。中国に「榎」の漢字は古くに存在しており、「檟」と同義である。

2024/06/20

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 梓

 

Adusa

 

あづさ   木王

      實名豫章

      【楠樟亦名豫

       章與此同名】

【音子】

      和名阿豆佐

ツウ

 

本綱梓宮寺人家園亭亦多植之爲百木長屋室有此木

則餘材皆不震其爲木王可知其木似桐而葉小花紫生

角其角細長如箸其長近尺冬後葉落而角猶在樹其實

名豫章其花葉飼豬能肥大

 有三種木理白者爲梓赤者爲楸梓之美文者爲𬃪小

 者爲榎

△按梓桐之屬其花深黃色古者彫此木爲書版故有繡

 梓鍥梓之名倭版多用櫻木

 

   *

 

あづさ   木王《もくわう》

      實《み》を「豫章《よしやう》」と名づく。

      【楠《くすのき》・樟《たぶ》、亦、「豫章」

       と名づく。此れと、名、同じ。】

【音「子《し》」。】

      和名「阿豆佐」。

ツウ

[やぶちゃん注:割注の「楠樟」以下の文に相当するものは、「本草綱目」にないので、良安の補塡であるから、和訓しておいた。但し、日中の種の違いから、これは、後述する通り、誤りである。

 

「本綱」に曰はく、『梓、宮寺・人家・園亭にも亦、多く、之れを植う。「百木の長」と爲《な》す。屋室に、此の木、有る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、餘材、皆、震(ふる)はず。其れ、「木の王」たること、知るべし。其の木、桐に似て、葉、小《ちさ》く、花、紫にて、角《つの:長い莢(さや)》を生ず。其の角、細長くして、箸(はし)のごとし。其の長さ、尺に近く、冬の後《のち》、葉、落ちて、角、猶を[やぶちゃん注:ママ。]、樹に在り。其の實を「豫章」と名づく。其の花・葉、豬《いのこ:豚》に飼(か)へば、能く肥《こえ》て、大≪となれり≫。』≪と≫。

『三種、有り、木の理(すぢ)、白き者をば、「梓《し》」と爲し、赤き者を、「楸《しう》」と爲す。「梓」の美文なる者を、「𬃪《い》」と爲し、小さき者、「榎《か》」と爲す。』≪と≫。

△按ずるに、梓《あづさ》・桐《きり》の屬、其の花、深黃色なり。古き者、此の木を彫(ほり)て、書版と爲す。故《ゆゑ》、「繡梓《しゆくし》・「鍥梓《けいし》」の名、有り。倭の版には、多く、櫻の木を用ふ。

 

[やぶちゃん注:この「梓」(シ)は、日中で、指す種が異なり、同じものとして書いている以上の全文は、全体としては大きな誤認がごちゃ混ぜになってしまっている。更に、現代の日中での種同定についても、それぞれの国で微妙な種の違いがあるようで、なかなか「聊難物」である。まず、現代中国語の「梓樹」は、

双子葉植物綱シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata

である。それは中文ウィキの「梓樹」で確認出来るのであるが、その右上の多言語から日本語を選ぶと、そこでは、キササゲではなく、

キササゲ属トウキササゲ Catalpa bungei

という同属異種のページになっているのである。而して、これについては、当該ウィキに、『「梓」は本来』、『アズサではなく』、『本種と同属のキササゲ Catalpa ovata であるとされるが、牧野富太郎は正確には本種トウキササゲであると』したことに拠るのである。『ただし、現代中国語では、「梓」はキササゲのことで、同じ「きささげ」の訓のある「楸」が本種』(=トウキササゲ)『のことである』。『中国ではキササゲと共に、街路樹や木材として利用される』。『実は生薬となる。日本薬局方は、本種とキササゲをともに生薬「キササゲ」として認める』。『これはまた「梓実(しじつ)」とも呼ばれる』と続くのだが、そこで、中文ウィキの「楸樹」を見ると、確かに、そこに掲げられた学名はCatalpa bungei で、トウキササゲなのである。しかし、以上の記載から推定するに、日本の記事が、殊更に「現代中国語」と限定する点から、

「梓」は中国では、古くは、キササゲ属 Catalpa 複数の種を総称する語として存在した

と考えるべきであろう。それはキササゲ属 Catalpa 相当の中文ウィキの「梓木」を見ると判る。然して、その記載の「中國梓木」の項を見ると、『中国で「梓木」とは主に「梓樹」=キササゲCatalpa ovata を指す。東北地方では「臭梧桐」とも称され、主に黄河から長江流域に広く分布し、良質な材質を持つ。過去の王朝に於いて、最も広く用材にされた一種であり、各種の道具の製造にも用られた。硬さと密度は、中程度で、木肌が美しく、光沢があり、割れず、伸びがなく、平滑な表面を持ち、強い耐食性を有する。彫刻・各種の型の材料に用い、平滑で、伐り出し・加工に非常に適している。古代中国の帝王・女王の棺在としても、常用された』とあることから、中国では、歴史的には――名に負うトウキササゲではなく――キササゲこそが、「梓」の代表種であったことが読める内容となっているのである。なお、「楸」を問題にしないのに不満がある方がおられようが、「楸」は実は、次で、本書の立項「楸」があるためである。悪しからず。

 問題は、本邦の「梓」である。これは、中国の「梓」・「楸」とは全く異なる、「梓弓(あづさゆみ)」で古代から知られる、

双子葉植物綱マンサク亜綱ブナ目カバノキ科カバノキ属ミズメ Betula grossa

である。良安は、それに気づかず――というか、寧ろ、ここまでの「本草綱目」記載の樹種が、本邦の同漢字の示す樹とは、形態や材質・薬効に於いて、一致しない部分が恐ろしく多いことに、悩み、異同甚だしきを見出しながらも、江戸時代には、本草書のバイブルであった「本草綱目」の記載に正面切って疑義を唱えることに、ちょっと遠慮というか、精神的に疲れてきたのではないか――と、強く感ずるのである。

 取り敢えず、まず、中国の「梓」の昔のタイプ種と私が考えたウィキの「キササゲ」を引く。本邦での漢字表記は「木大角豆」・「楸」・「木豇」で、『落葉高木。別名では、カミナリササゲ』・『カワギリ』・『ヒサギ』『ともよばれる。生薬名で梓実(しじつ)と呼ばれる。日本で「梓(し)」の字は一般に「あずさ」と読まれ、カバノキ科のミズメ(ヨグソミネバリ)』(双子葉植物綱マンサク亜綱ブナ目カバノキ科カバノキ属ミズメ Betula grossa :水芽・水目)『の別名とされるが、本来はキササゲのことである。和名は、果実がササゲ(大角豆)』(マメ目マメ科ササゲ属ササゲ亜属ササゲ Vigna unguiculata var. unguiculata )『に似るのでキササゲ(木大角豆)と呼ばれる。『中国原産といわれ、日本には古くに渡来し、一部は日本各地の河川敷などの湿った場所に野生化している帰化植物である』。『植栽としても利用されており』、『かつては、雷よけになるとして城や神社仏閣に植えられた。樹皮は灰褐色で縦に裂け目がある』。『落葉広葉樹の高木で』、『高さ』五~十『メートル』であるが、『多く見られるものは、高さはせいぜい』三メートル『ほどであるが、大きなものでは幹径』五十『センチメートル』、『高さ』十五メートルにも『にもなるといわれる』。『樹皮は灰褐色で、縦に浅く裂ける』。『一年枝は太く、褐色や暗褐色をしており、無毛である』。『若木の樹皮は褐色で、皮目があり、細かい縦筋がある』。『葉は大きく、直径』二十センチメートル『ほどの幅の広い広卵形で、浅く』三~五『裂する』。『葉縁は全縁で、基部はハート形』。『葉柄は長く』二十センチメートル『ほどあり、つけ根に濃紫褐色の蜜腺がつく』。『花期は』五~七『月』で、『枝の先から円錐花序を出して、漏斗状で淡い黄色の内側に紫色の斑点がある花を』十『個ほど咲かせる』。『果実は長さ』三十センチメートル『ほどある細長い蒴果で』、一『か所からまとまって』十『本ほど垂れ下がる』。『果実の中には種子が詰まっており』、『莢が割れて』、『種子が風に飛ばされる』。『種子を飛ばした後、冬でもササゲ』『に似た細長い果実が残り、よく目立つ』。『冬芽はバラの花状に芽鱗が重なるのが特徴的で、枝に三輪生や対生し、仮頂芽が小さい』。『葉痕は円く』。『中央が凹み、大きくて目立つ』。『維管束痕は小さく、多数が輪になってつく』。『庭木として植栽されるほか、花材としても使われる』。『茶花』(ちゃばな:茶道で茶会の席に飾る花のこと)『では、子孫繁栄の意味を込めて、果実を』十二『月末から』一『月初旬にかけて利用する』。『実は利尿剤になり、材は中国では版木にした』とある。時珍の記載と極めてよく一致を見ることが判る。

 一方、日本の「梓」を、小学館「日本大百科全書」(同書では見出しを「ヨグソミネバリ」とする)から引く。高さは二十『メートルに達する。樹皮は暗灰色、滑らかで横に長い皮目が点在し、サクラの樹皮に似る。枝を折ると』、『強いサリチル酸メチルの匂いがするので、ヨグソミネバリの名がある。葉は互生し、卵状楕円形で長さ』五~八『センチメートル、縁(へり)に重鋸歯(じゅうきょし)がある。雌雄同株。雄花穂は秋から長枝の先につく。雌花穂は冬芽中で越冬し、早春、短枝の先に開く。果序は直立し、堅果に翼がある。温帯の山地の広葉樹林内で他樹種に混じって生え、本州から九州に分布する。材はサクラに似て、器具材、家具材など用途は広い。昔、弓材として用いられ、梓弓として知られたアズサは本種とされる』とある。ウィキの「ミズメ」もリンクさせておく。なお、個人サイト「庭木図鑑 植木ペディア」の「ミズメ/みずめ/水芽」が、画像、多く、ヴィジュアルにもいいのだが、その解説に、『岩手県以南の本州、四国及び九州(高隅山まで)の山地に分布するカバノキ科の落葉高木。樹皮を傷付けると水のような樹液が出てくるためミズメと名付けられた。この樹液や枝葉にはサロンパス(湿布薬)のような匂いがあるが、かつては不快な匂いとされ「ヨグソミネバリ(夜糞峰榛)」という別名がある』。『ミズメの枝は弾力性が高く、古来より儀式で巫女が使う「梓弓」の材料となり、別名をアズサ、アズサノキという。かつてはキササゲやアカメガシワをアズサとする説もあったが、現在ではアズサ=ミズメであることが正倉院の宝物によって証明されている。弓に使ったのは、ミズメの材に含まれる独特の香りに魔除け効果も期待してとのこと』。『別名のアズサは、雄花が並んで垂れ下がる様を、馬具を装飾する「厚総(あつぶさ)」に見立てたことに由来するという』とあって、さらに、『幹は最大で直径』七十センチメートル『ほど。樹皮は灰色で横皴が入り、サクラ類に似る。材は良質で仕上がりがよく、フローリングや敷居などの建材、家具、器具、合板、漆器の木地、靴の木型に使われる。出版を意味する「上梓」は本種で製本用の版木を作ったことに由来する。木材業界では本種をミズメザクラと呼んでおり、サクラ材として数多く流通するが』、『サクラの仲間ではない』とあった。良安が、時珍の記載を批判しなかったのは、一途に、この版木仕様材の――偶然の大きな一致――に拠るものと、私は考えるのである。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用(「楸」がぞろぞろ出て来るので、張り接ぎにかなり苦労している)は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「(ガイド・ナンバー[085-21a]以下)から。

「豫章《よしやう》」実の漢方生薬名かと思ったが、違うようだ。本邦の諸辞書では、樟(くすのき:)の漢名とするが、中文のクスノキ当該の「樟樹」を見ても、この異名はない。というより、中文に限って検索しても、現在の中国語圏の記事には、この「豫章」の単語が出現しないのである。割注で述べたが、以下の「楠《くすのき》・樟《たぶ》、亦、「豫章」と名づく。此れと、名、同じ」とあるのは、「本草綱目」の「梓」の「集解」に現われる『角、猶在樹、其實亦、名豫章。』とあるのを参考にして、良安が作文したものである。されば、この「楠」は先行する「楠」の項で示した通り、中国のクスノキならぬ「楠」=クスノキ目クスノキ科タブノキ(椨の木)属ナンタブ(南椨)  Machilus nanmuではなく、クスノキ科ニッケイ(肉桂)属クスノキ Cinnamomum camphora であり、「樟」も、同じく、先行する「樟」で示した通り、中国のクスノキ科ニッケイ(肉桂)属クスノキ Cinnamomum camphora ではなく、クスノキ科タブノキ属タブノキ Machilus thunbergii なのである。而して、この標題下の割注は、良安が神経症的行き詰まりを誤魔化すための仕儀のように思われてならないのである。

「震(ふる)はず」この場合は、「揮」の漢字の方が判りがよい。「幅を利かして優勢に成長することが出来ない」の意である。

「桐」これは日中ともに、シソ目キリ科キリ属 Paulownia 、或いは、揚子江流域にも分布する本邦のキリ Paulownia tomentosa としてもよい。

『三種、有り、木の理(すぢ)、白き者をば、「梓《し》」と爲し、赤き者を、「楸《しう》」と爲す。「梓」の美文なる者を、「𬃪《い》」と爲し、小さき者、「榎《か》」と爲す。』またまた、新手が出てきた。「𬃪」である。この漢字は「椅」の異体字で、「廣漢和辭典」を見ると、引用例から、確実にキントラノオ目ヤナギ科イイギリ属イイギリ Idesia polycarpa であることが判明した。当該ウィキによれば、「飯桐」で、『和名の由来は、昔はこの葉で飯を包むのに使われ、また、葉がキリに似ていることから』『といわれる』。『果実がナンテンに似ており、別名ナンテンギリ(南天桐)ともいう』。『イイギリ属の唯一の種』。『日本(本州、四国、九州、沖縄)』、『朝鮮半島、中国、台湾に分布』し『山地に生え』、『湿気のある肥沃な暖地に多く自生す』。『落葉高木で、樹高』八~二十一『メートル』、『幹径』五十『センチメートル』『程度になる。枝は下の方から輪状に出て斜めに真っ直ぐに伸び、特徴的な枝振りになる』。『樹皮は灰白色から淡灰褐色で滑らかであるが、皮目が多くざらざらしている』。『枝の落ちた跡が』、『大きな目玉模様になって残る』、『一年枝は太くて無毛である』。『シュート』(Shoot:茎と、その上に生じた多数の葉からなるものを一纏りとした単位の呼称)『は灰褐色で太い髄がある』。『葉は互生、枝先に束性する。葉柄を含めた葉の長さは』三十~四十センチメートルにも『なり、長くて赤い葉柄がつくのが特徴』。『葉身はキリやアカメガシワ』(キントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ属アカメガシワ Mallotus japonicus )『にも似ている幅広い心形で』、『長さ』八~二十センチメートル、幅は七~二十センチメートル。『アカメガシワよりもハート形に近く、丸みがある』。『表は暗緑色、裏は白っぽい。縁には粗い鋸歯がある。葉柄は』四~三十センチメートルと『長くて赤く、先の方に』一『対の蜜腺がある(アカメガシワもこの点似ているが、蜜腺は葉身の付け根にある)。秋には黄葉し、明るい黄色に色づく』。『花期は春』四~五月頃で、『花は小さく』、『黄緑色で、香気があり、ブドウの房のように垂れ下がった』十三~二十センチメートルの『円錐花序をなす』。『花弁はなく、萼片の数は』五『枚前後で一定しない。雌雄異株で雄花は直径』十二~十六『ミリメートル』、『雌花は』九ミリメートルで、『子房上位。雄花には多数の雄蕊があり、雌花にも退化した雄蕊がある』。『果期は秋で、黄葉のころに熟して橙色から濃い赤紫になり、たくさんの実を房状にぶらさげる』。『果実は液果で直径』五~十ミリメートルで、『多数の』二~三ミリメートルの『褐色の種子を含む。赤く熟した果実は落葉後も長く残り、遠目にも良く目立つ』。『冬に落ちた果実は黒くなって残る』。『冬枯れの中、枝にたくさん実った果実は野鳥の食料となる』。『冬芽は鱗芽で、枝先の頂芽は半球形で三角形の芽鱗に包まれており、ややつやがあって粘る』。『側芽は頂芽よりも小さく、枝に互生する』。『葉痕は大きな円形で、維管束痕が』三『個つく』。『公園樹や街路樹として利用される』。『果実は生食可で、加工して食べられることもある』。『秋から冬に熟す多数の赤い果実が美しいので、観賞用樹木として、ヨーロッパ等を含む他の温帯域でも栽培される』。『また』、『生け花や装飾などの花材としても使われる』。『白実の品種もある』とあったので、これで間違いない。さて! この終りに至って(もうちょっと早く見つけていたら、私の以上な迂遠な注も圧縮出来たかと思ったが)、強力な寺井泰明氏の論文『「楸」「梓」「榎」と「きささげ」「あずさ」「えのき」』を発見した(桜美林大学紀要『日中言語文化』巻三・二〇〇五年三月発行/「桜美林大学学術機関リポジトリ」のここPDFで入手出来る)。是非、詳細な考証を玩味して戴きたいが、最終的に寺井氏は、『漢語の「楸」と「梓」に当てられた「ひさぎ」と「あづさ」は、キササゲとミグソミネバリであったと結論づけることができた。「楸」「梓」のー方がキササゲであるならば、トウキササゲとすべき他方を、トウキササゲが日本に存在しなかったがために別の木、即ちミグソミネバリに当てざるを得なかったものと思われる』と述べておられる。私の遠回りの一人旅も、満更、見当違いでなかったことが、甚だ嬉しい。

「倭の版には、多く、櫻の木を用ふ」特に浮世絵の版木として桜材が好まれた。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(14) / 柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注~了

 

   裁物にせばき一間や冬籠 夕 市

 

 一間にあつて裁物をする。裁板も置かねばならず、裁つた布もあたりにひろがるから、自然一間のうちは狹くなる。平凡だと云へばそれまでであるが、その裏に平凡ならざる何者かを藏している。

 この句にあつて一間を狹しと感ずるのは、必ずしも裁物をする人自身ではない。作者は裁物の人と同じ一間にあつて、傍から觀察してゐるものの如く感ぜられる。卽ち裁物の爲に一間が狹くなることは共通であつても、自ら裁物をひろげつゝある人の感じとは若干の距離がある。この場合衣を裁つ者は當然女であらうから、作者はその外に求めなければならぬのである。

 冬籠る一間は廣きを要せず、狹くとも暖きを條件とする。居間の狹くなることを喞つた[やぶちゃん注:「かこつた」。]やうなこの句も、その條件には外れてゐない。しづかにこの句を誦すると、裁たれる布の華かな色は勿論、座邊の火鉢に火のかんかんおこつてゐる樣まで、連想として浮んで來る。

 

   湯のぬるき居風呂釜を脚婆かな 還 珠

 

 この句は冬の季にはなつてゐるが、何の季題に分類すべきかといふことになると、ちよつと判斷に苦しまざるを得ぬ。第一下五字はどう讀んだらいゝのか、よくわからない。俳句の振假名はかういふ場合に最も必要なのだけれども、却つてそれがついてゐないのである。

 さういふ問題はしばらく措いて、この句の意味はどうかと云へば、格別面倒なこともない。居風呂[やぶちゃん注:「すゑぶろ」。]に入つたところが、いさゝか湯がぬるいので、脚を直接風呂釜に當てゝ見た、といふ意味らしく見える。五右衞門風呂の中に浮いてゐる板の用途がわからないで、蓋の類と心得て取つてしまつた爲、直接釜に觸れる足の熱さに堪へず、下駄穿[やぶちゃん注:「げたばき」。]のまゝ風呂に入つて、遂に釜を踏み破る話が「膝栗毛」の一趣向になつてゐるが、この句は湯がぬるくなつてゐるから、釜に足を觸れても熱くないのである。

 俳諧では湯婆と書いてタンポと讀んでゐる。この上に更に一字を添へた「湯たんぽ」といふ言葉が一般に通用してゐるのは、幸田露伴博士が考證したチギ箱の例のやうに、一つ言葉を補はなければわかりにくい爲かも知れぬ。湯婆と風呂とは目的を異にするが、湯で身體を溫める點に變りは無い。湯婆の如く釜で脚を溫めるといふ意味から、脚婆といふ語を造り出したのではあるまいか。湯の字と婆の字とが一句の中にあり、かつ脚を溫める作用をも取入れてゐるので、强ひて分類すれば湯婆の範圍にでも入るべきかと思ふ。但これは臆測である。正解があれば何時いつでもそれに從ふことにする。

[やぶちゃん注:『五右衞門風呂の中に浮いてゐる板の用途がわからないで、蓋の類と心得て取つてしまつた爲、直接釜に觸れる足の熱さに堪へず、下駄穿[やぶちゃん注:「げたばき」。]のまゝ風呂に入つて、遂に釜を踏み破る話が「膝栗毛」の一趣向になつてゐる』国立国会図書館デジタルコレクションの十返舎一九の「東海道中膝栗毛」(昭和二(一九二七)年三盟舎書店刊)のここの右ページが、同シークエンスである。

「幸田露伴博士が考證したチギ箱の例」「箱」に、やや違和感を感じるが、これは、露伴の本邦の文字音を独自に解読した考証書「音幻論」の「シとチ」の一節を指しているようである。国立国会図書館デジタルコレクションのここが当該部である。この単行本は戦後の昭和二二(一九四七)年に洗心書林から刊行されているが、この「シとチ」は「發表年月」には、昭和十九年八月とする。しかし、本「古句を觀る」は昭和十八年十二月発行で、おかしい。露伴の「序」の後半部のここを読むと、『文藝』に他者に筆記させたものを『與へた』とあることから、謂わば、この「シとチ」は、前年の、十二月よりも前に、分割されて載ったものの一つであったろうと、推理した。以下、視認して起こした。

   *

〇チギ

チギは 古代建築に於て屋根に交叉したる木材を置きて風の爲に吹き剝されることを防ぐ木、即ち風木である。千木比木は共に肱木(ひぢき)の上略・中略といふ說があるが、寧ろ葺きたる家の屋根をとゞむる物をチギといつたのであらう。肱の形に似たる故に肱木なりといふは、建築的に無理がある。堅魚木といふのも堅魚の尾のやうな形に交叉した木をいふのである。委しくは別に說がある。チギが垂木(タリキ)・交本(チガヒキ)の轉または略とする說は承けがたい。

   *]

 

   鐵砲の水田になりて里の冬 蘆 文

 

 稻を刈つた跡の田が刈田で、それが冬に入れば冬田になるといふのが、季題の上の常識になつてゐる。こゝにある「水田」は普通にいふスイデンの意味もあるかも知れぬが、同時に稻を刈つた跡の田が暫く水を湛へてゐることを現したものではないかと思ふ。

 さういふ水田に雁鴨その他の鳥が何か求食り[やぶちゃん注:「あさり」。]に下りる。それを目がけて頻に[やぶちゃん注:「しきりに」。]鐵砲を擊つ。蕭條たる冬の里には日々何事もなく、たゞ水田に谺する鐵砲の音が聞えるのみだといふのであらう。吾々も少年の頃、東京郊外の田圃で屢〻かういふ感を味つた。「鐵砲の水田になりて」といふだけで、直に右のやうな趣を感じ得るのは、過去の經驗が然らしむるのかも知れない。

 

 

[やぶちゃん注:以上を以って、本書本文は終っている。以下、奥附。字配・ポイントは再現せず、以下のようにした。画像を、まず、確認されたい。太字にした「停」は底本では、○で囲んである。これは当時の商工・農林省の「暴利取締令」改正(昭和一五(一九四〇)年六月二十四日附)により価格表示規程が書籍雑誌にも適用されたもので、一般商品に対しては「九・一八価格停止令」以前の製品であることを示すものらしい。]

 

昭和十八年十二月    日 印刷

昭和十八年十二月十五日 發行

        (初刷五、〇〇〇部)

[やぶちゃん注:以下は、上記下方にある。]

 

 定 價 二 圓 六 十 錢

            合計 二圓八十錢

特別行爲裞相當二十錢

 

    古 句 を 觀 る

   出版會承認イ260679

 

[やぶちゃん注:以上二行は、ページ上方に左から右へ記されてある。この見慣れない「出版會承認イ260679」というのは、以下のようなものである。本書出版の三年前の昭和一五(一九四〇)年、政府は、情報局の指導の下、『日本出版文化協會』(略称「文協」)、及び、『洋紙共販株式會社』を創立し、出版物統制を実行し、昭和十六年五月には、全国の出版物取次業者二百四十社余を強制的に統合した一元的配給会社『日本出版配給株式會社』を設立させ、商工省と情報局の指導監督で、『文協』の配給指導の下、『日本文化の建設、國防國家の確立』をモットーに、出版社(『文協』会員)が発行する全書籍雑誌の一元的配給を強制した。参照した、ウィキの「日本出版配給」によれば、『型式上は株式会社で、本社(本店)は東京市神田区淡路町二丁目九番地』『の大東館に設置、支店は内地では大阪支店、名古屋支店、九州支店(福岡市)、外地では朝鮮支店(京城府)、台湾支店(台北市)に設置され』、『この他に九段、駿河台、錦町等に営業所を設置した。取締役社長には有斐閣店主・江草重忠が就任、役員も旧取次の店主等が横すべりで就任し、一見』、『民営のように見えるが、役員の選任や重要事項の決定には監督官庁(商工省・情報局)の承認が必要とされるなど、実質的には政府の統制下に置かれていた』とあり、『当時の出版物は、情報局による指導監督の下』、『文協が文協会員である出版社に対して出版指導を行っており、出版社の発行届及び企画届を基に発行承認・不承認を通知した。発行承認されないと』、『出版社及び洋紙共販に対して用紙割当通知が届かず、出版社は洋紙共販傘下の各元受用紙店や各用紙店から印刷用紙が購入できなかった。また、情報局による検閲を受けた後』、『奥付に配給元である日配と出版社の住所を明記しなければ』、『日配は配本しないと定められ、日配は言論統制のための一翼を担った』とある。また、別な、ある論文には、昭和 十六年 六月二十一日に「出版用紙配給割當規定」が施行され、書籍は、その総てが、発行承認制とされ、一つ一つの書籍に「承認番號」を与え、その番号を本の奥附に印刷しなければ、出版は出来なかった、とあった。

 以下は、下方で、四つの角が丸い一本囲みの罫線の中にあり、縦書。]

 

 著 作 者  柴 田 宵 曲(しばたせうきよく)

[やぶちゃん注:読みは、各字のルビ。]

 

 發 行 者  渡 邊   新

      東京都神田區小川町三ノ八

 

 印 刷 者  大 熊   整

      東京都豐島區池袋二ノ九二四

 

發 行 所  七 丈 書 院

     東京都神田區小川町三ノ八

     會員番號一二七〇三六

     電話神田一二二五・二三〇五

     振替東京一七四五五〇

 

[やぶちゃん注:以下は、罫線左外で縦書。]

 

配給元  日本出版配給株式會社

       東京都神田區淡路町二ノ九

 

[やぶちゃん注:以下は、罫線の外の下方に、左から右へ記されてある。]

 

   (東京1.901 大熊整美堂第三工場)

 

[やぶちゃん注:この裏には同書院の出版物広告であるが、省略する。

 以下、裏表紙。下方に、「七 丈 書 院」「売価」(異体字の「グリフウィキ」のこれ)「¥2.40(裞共)」とある。]

 

Urabyousi

 

2024/06/19

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(13)

 

   煤の湯を流しかけたり雪の上 里 東

 

「としのくれに」といふ前書がついてゐる。煤掃をしたあとの湯を雪の上にこぼす。「流しかけたり」といふので、ざぶりとこぼさずに徐に[やぶちゃん注:「おもむろに」。]あける樣子がわかる。强ひて風流を衒ふ[やぶちゃん注:「てらふ」。]わけではないが、一面に積つた雪の上に、煤に汚れた湯をこぼすのは、多少氣が引けるやうなところがある。槪念的にかういふ趣を弄ぶのではない。作者の實感から生れてゐるところに一種の力を持つてゐる。

 昔の煤掃は今の大掃除と違ふから、天氣都合で延すなどといふことは無かつたかも知れず、又北國のやうに雪に降りこめられるところだつたら、晴天を待つわけにも行かぬであらう。さういふ雪の中でも、年中行事の一として、家の内の煤だけは拂ふ。この作者は膳所の人だから、必ずしも北國情景と見るに當らぬが、

 

   煤はきや手鑓てやりたてたる雪の上 不 玉

 

になると、作者が東北の人だけに、そう解しても差支ない理由がある。「手鑓」は短槍ともいふ。槍の細く短いものゝ稱である。何でそんな槍を雪の上に突立てたか、まさか雪の深さを測る意味でもあるまい。暫時の置場として雪の上に立てたものであらうか。手槍を立て得ることによつて、その雪の深さもわかり、現在雪の降りつゝある場合でないことも想像出來る。

 煤掃に雪などといふ趣向は、大掃除に慣れた吾々にはちよつと思ひもよらない。同じく「雪の上」を捉へた元祿の句が、全然異つた世界を見出してゐるのは面白い。

[やぶちゃん注:「煤掃」(すすはき)は、煤や誇り等を払って綺麗にすること。特に正月の準備として、普段は手の届かないようなところまで大掃除をすることを言う。江戸時代には公家・武家ともに十二月十三日に行なうのが恒例で、民間でも、多くこれに倣った。起源は少なくとも平安後期に遡る。

「里東」「不玉」ともに「新年」(全)で既注。]

 

   寒夜や棚にこたゆる臼の音 探 志

 

「寒夜」は「サムキヨ」と讀むのであらう。鄰が搗屋でその臼の響がこたへるのだとすれば、小言幸兵衞そつくりだが、さう限定する必要は無い。臼はどこの臼で、何を搗くのでも構はぬ。たゞづしりづしりといふ響が棚にこたへて、棚の上に置いてあるものがその震動を感ずる。若しこれが「壁をへだつる臼の音」とでもあつたら、臼の所在は明になるけれども、句そのものの働きは單純になつて來る。臼の音を臼の音で終らしめず、棚にこたへる點に著眼したのがこの句の特色である。

 はじめて人を訪れた夜など、近く通る汽車の響を地震かと思ひ誤ることがある。住慣れた人は平氣で談笑を續けてゐても、はじめての者には汽車か地震かの判別がつかぬのである。この臼の音ははじめての驚きではない。棚の物が微に[やぶちゃん注:「かすかに」。]こたへるのを見て、又例の臼だなと合點する、稍〻慣れた心持が現れてゐる。それが冬の夜長の闃寂たる氣分と合致してゐるやうに思ふ。

 

   炒豆に鳩をなつけん雪の上 一 秀

 

 一面に降積つた雪の上に、鳩が飛んで來て何かあさつてゐる。彼等の食物も雪の爲に蔽はれてゐるので、手許にある炒豆でも雪の上に投げてやらう、さうして鳩を自分に馴付かせよう[やぶちゃん注:「なつかせよう」。]、といふのである。

 同じ雪の降積つた場合にしても、その上に米を撒いて、寄つて來る雀を捕らうといふのとは違ふ。餌の無い鳩を憐んで豆を投げ與へ、これを馴付けて自分の友にしようといふ、閑居徒然の人らしい趣が窺はれる。菓子の乏しい昔にあつては、炒豆なども座邊に置いてぽつぽつ食べる料の一であらう。その豆を與へるところに、「なつけん」といふ親しい心持がある。鳩に豆は極めて陳腐な取合[やぶちゃん注:「とりあはせ」。]のやうであるが、この句は決してさうではない。寧ろ實感によつてその取合を新に活かしたところがある。

 

   爐びらきや鏝でつきわる灰の石 孟 遠

 

 久しぶりに爐を開いて見ると、寂然たる灰の中に小石のやうに固まつたのが交つてゐる。それを鏝の先で突割つたといふだけのことである。

「灰の石」といふ言葉は、作者の造語らしく思はれる。說明的に云へば「石のやうな灰」であるが、それでは文字が多過ぎる。「石の灰」では石灰と混同せぬまでも、石が燒けて灰になつたやうに取られ易い。或は不十分かも知れぬが、この場合「灰の石」以上に適切な言葉は見當らぬのである。

「末若葉」に「爐びらきやまた形ある雹灰 夜錦」といふ句がある。「雹」は多分「アラレ」とでも讀むのであらう。霰のやうに小粒に固まつた灰の形容らしい。爐を開くに當つて灰に目を留めるのは、格別不思議もないが、灰の固まつたのを「灰の石」と云ひ「雹灰」と云ふのには若干の工夫を要する。精緻な觀察は古人に緣が無いやうに思ふ人は、此等の句を玩味しなければなるまい。

[やぶちゃん注:「末若葉」は「うらわかば」と読む。其角編で元禄一〇(一六九七)年刊。当該句は国立国会図書館デジタルコレクションの『俳人其角全集』第二巻(勝峯晋風編・昭和一〇(一九三五)年彰考館刊)のここで確認出来るが、そこでの表記は、

   *

 爐開やまだ形ある雹灰    夜 錦

   *

となっている。そもそも、岩波文庫版も「また」のままなのだが、この一句を読んだ際、私は、「また」に、激しく躓いた。私は、直感的に、『「爐開き」なのだから、去年の固まった小さな「霰」のような「灰」の塊りが「まだ」そこにあったと、クロース・アップした以外には、考えられない。』と、独り、呟いたのを思い出したのである。一応、他の所収表記を見てみたところ、原本は見られなかったが、検索結果によって、前記全集より以前の、昭和五(一九三〇)年十二月號茶道月報社発行の『茶道月報』に『まだ』の表記で載ることが判った。誰の記事かは判らないが、目次を見るに、一つ、有力なのは、佐々木三味氏の「茶の湯句解(九)」かとも思われる。宵曲が誤記した可能性は、まず、百%、これ、ない! 初版時の誤植(濁音落ち)と考えて間違いない。……九十一年も経って、誰も気づかなかったのだ! 宵曲が、哭くぜ!! これはもう、「岩波文庫さんよ、改版せずんばあらず!」だぜ!!!

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(12)

 

   餅つきや臼も柱も松臭し    諷竹

 

 ちよつと變つた句である。臼も柱も新しいのであらう、餅を搗ついてゐると、松の木の匂がする。住み古りた所帶、持ち傳へた臼では、こんな匂がしさうもない。

 新しい木の香といふものは爽快に相違ないが、云ひ現し方によつては少しく俗になる。作者が鼻に感じた通り、「松臭し」と云つてのけたのは、却つてよく趣を發揮してゐる。「臼も柱も」の一語で、家も臼も新しいことを現したのも、巧な敍法といふべきであらう。

 

   麥まきの寒さや宿はねぶか汁 鼠 彈

 

 蕭條たる冬枯の野に出て麥蒔をする。日和が定つて暖いことも無いではないが、曇つたり、風が吹いたりすれば甚しく寒い。假令さういふ條件が加はらないにしても、日が傾けば寒さはひしひしと迫つて來る。冬郊に働くことは、この一點だけでも慥に樂ではない。

 この句はさういふ麥蒔の人の寒さと、その人たちがやがて歸る家で、葱汁を拵へて待つてゐるといふ事實を描いたのである。麥を蒔く野良の寒さを想ひやつて、歸つて來たら之を犒ふ[やぶちゃん注:「ねぎらふ」。]べく葱汁を拵へた、といふ風にも解せられる。併し宿の方を主にして、野良の寒さは想ひやつただけのものとすると、いさゝか感じの弱められる虞がある。麥蒔を了へて寒い野良から歸つて來る。宿では葱汁を拵へてくれたと見えて、暖さうな匂が鼻をうつ、といふ風に解釋したらどんなものであらう。この葱汁は膳に向つて啜るところまで描かれないでも差支無い。野良の寒さが强ければ强いほど、宿の葱汁の暖さも亦强く感ぜられるのである。

 

   初しぐれ爰もゆみその匂ひかな 素 覽

 

「爰も」といふのは稍〻漠然たる言葉であるが、かういふことだけは想像し得る。

 初時雨の降つてゐる時、町なら町を步いてゐる。今しがたどこかで柚味噌を燒く匂を嗅いだと思つたら、亦こゝでもそれらしい匂がする、といふのであらう。「爰も」といふ以上、何箇所だかわからぬけれども、とにかく複數であることは疑を容れぬ。彼處[やぶちゃん注:「かしこ」。]でも柚味噌の匂を嗅ぎ、こゝでも柚味噌の匂を嗅ぐといふ意味かと思はれる。たゞその彼處此處は、果して町を步きつゝある時に嗅いだものかどうか、句の上に現れて居らぬから、斷定することは出來ない。便宜上さう解したまでである。

 柚味噌といふものは、昔にしても一般的な食物とは思はれぬ。併し時雨の趣を解するやうな人が、初時雨を愛でて柚味噌を燒いてゐるといふほど、殊更な趣向とも解したくない。この句の眼目は時雨の降る冷い空氣と、柚味噌を燒く高い匂との調和に在るので、作者もそこに興味を感じたのであらう。「爰も」といふ言葉は、一句を複雜にすると同時に、多少漠然たるものにした。それは柚味噌が稍〻一般的ならざる食物だからで、鰯や秋刀魚を燒く匂だつたら、平俗を免れぬ代りに「爰も」といふことについて、格別の問題は起らぬかも知れない。

 

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(11)

 

   天井に取付蠅や冬籠 紫 道

 

 生殘りの蠅が天井にとまつて動かぬ。それを「取付」[やぶちゃん注:「とりつく」。]といふ言葉で現したのである。其角が憎まれてながらへる人に擬した通り、冬の蠅は已に活力を失つてゐるが、暖を求めてどこかに姿を現す。天井に見出すのは多くは夜のやうである。天井を離れまいとして、ぢつと取付いてゐる冬の蠅は、憎むといふよりは憐むべきものであらう。

 天井の蠅もぢつとしてゐる。下にいる主人も――恐らくはぢつとしてゐるに相違無い。さういふ冬籠の一角を捉へたのがこの句の眼目である。

[やぶちゃん注:紫道の句は、一読、梶井基次郎の名作「冬の蠅」を想起させる(リンク先は私の古いサイト版)。

「其角が憎まれてながらへる人に擬した」其角編「續虛栗」(貞享(一六八七)年刊)所収の一句。そこでは前書は「寒蠅」(かんばへ)であるが、以下は「五元集」のものを示した。

   *

  寒蠅爐をめぐる

憎まれてながらふる人冬の蠅

   *]

 

   胸に手を置て寢覺るしぐれかな 水 颯

 

 胸に手を置くといふのは、熟考の際にも用ゐられるが、この句のはさうではない。胸の上に手を置いて寢ると、苦しい夢を見てうなされるから、手を載せないやうにしろ、と子供の時分よく云はれた。意識して手を置く筈も無いが、寢てゐる間に自然とさういふ姿勢になるのであらう。子供がうなされた時に注意して見ると、やはり胸に手を載せてゐることが多いやうである。

 この句の中には夢のことは云つてない。併し胸に手を置いて寢た結果、苦しくなつて目が覺めたことは慥である。目を覺して氣がつくと、小夜時雨が庇に寂しい音を立てゝゐる。夜の寢覺に時雨を聞くなどは、陳腐の嫌を免れぬが、たゞさういふ姿勢を取つて寢た爲、目が覺めたといふところに、多少常套を破るものがある。胸苦しい夢を見て目が覺めた刹那の氣持と、小夜時雨といふものとの間にも、何等か調和するところがあるやうに思ふ。

 

   たゝひろき庭も拂はずむら時雨 舍 羅

 

「何がしの院にまかりて」といふ前書がついてゐる。上五字は「たゞひろき」と讀むのか、今の俗語で「だだツ廣い」といふに當るのか、いづれにしても相當廣い庭と思はれる。その庭が掃除も行屆いて居らず、落葉なども拂はずにある。といふのであらうか。「拂はず」といふ言葉は尙他の意にも解せられるが、この場合きちんと片づいてゐないことだけは明である。

 一塵もとゞめず掃き淸められた廣庭に、時雨が降るといふのも一の趣である。片づかぬ庭に時雨が降るといふのも亦一の趣である。兩者共に自然であつて、その間に時雨と撞著するところは無い。强ひて時雨趣味を限定して、統一を圖るなどは無用の沙汰である。

 

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(10)

 

   凩の殘りや松に松のかぜ 十 丈

 

 一日吹きまくつた木枯が、夕方になつて漸く衰へたやうな場合かと思はれる。大分凪いでは來たが、まだ全く吹き止んだわけではない。その名殘の風が松の梢を吹いて、所謂松風らしい音を立てゝゐる。松を吹く風なら何時でも松風であるに相違ないやうなものゝ、木枯の吹き荒む[やぶちゃん注:「すさむ」。]最中では、これを松風と稱しにくい。吹き衰ふるに及んで、はじめて松風らしいものを感じ得るのである。

 北原白秋氏の「雀の卵」に「この山はたゞさうさうと音すなり松に松の風椎に椎の風」といふ歌があつた。ひとり松と椎ばかりではない、吹かるゝものの相異によつて、風の音も自ら異つて來る。それを聞き分けるのが詩人の感覺である。同じ松を吹く風であつても、そこに差別があるなどといふことは、理窟の世界では通用しないかも知れぬが、吾人情感の世界では立派に成立する。風と云へば直に風速何十メートルで計算するものと考へるのは、科學者の天地で吾々の與る[やぶちゃん注:「あづかる」。]ところではない。

[やぶちゃん注:白秋の「雀の卵」は大正三(一九一四)年夏から同六年に至る小笠原・麻布・葛飾での生活で得た歌集(長歌を含む)と詩二篇からなる作品集で、大正十年八月アルス刊。「白木蓮花(はくもくれんくわ)」の中の一首。「夕」という前書で、三首あるものの第一首。三首を並べて示す。国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該部で表記を確認した。

   *

 この山はたゞさうさうと音すなり松に松の風椎に椎の風

 松風の下(した)吹く椎のこもり風なほし幽(かす)かなり雨もかもかかる

 雜木(ざうき)の風ややにしづもれば松風のこゑいやさらに澄みぬ眞間の弘法寺

   *

二首目の「し」は、強意の副助詞で、「かも」は係助詞の結合したもので、疑問の意。「眞間の弘法寺」の「弘法寺」は「ぐはふじ」と読み、千葉県市川市真間にある日蓮宗の由緒寺院である本山真間山弘法寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。かの寺の守護神は、かの悲恋の少女「真間の手児奈」で、同寺門前に「真間の井」があり、その東直近に「手兒奈靈神」として手児奈霊神堂がある。大学一年の時、高校時代、古典を教えて下さった蟹谷徹先生に手児奈の井戸の写真を見せたく、市川に住む友人の案内で訪れたことがある。]

 

   摺小木の細工もはてず冬籠 蘆 文

 

 冬籠の徒然に任せて摺粉木の細工を思ひ立つた。無論自家用か何かの手輕なものであらう。素人の手に合ふものだけに、わけもないつもりで著手したが、なかなか出來上らない。今日も削り、明日も削り、摺粉木一本が容易に完成せぬ狀態を詠んだものと思はれる。

 普通の内職などでは面白くない。冬籠中にふと思ひついた摺粉木細工で、それが思つたほど捗らず、冬籠の日々を消す、といふところにこの句の妙味がある。摺粉木の細工も長ければ、冬籠の月日も長いのである。

 

   蟲の音も枯て麥ほる烏かな 沙 明

 

 野に鳴く蟲の聲といふものは、夏の末から冬の初に亙る。夜は全く聲がしなくなつてからでも、日當りのいゝところでは、生殘りの蟲が幽に聲を立てることがある。この句はさういふ蟲の聲さへなくなつた冬枯の野で、百姓が折角蒔いた麥を烏が掘りに來る、といふ意味らしい。

 蟲の聲さへ枯れ果てゝ、といふやうなことは歌の方にもありさうな氣がする。たゞ冬枯の畑に烏が下りて麥を掘るといふよりも、蟲の聲も全く聞えなくなつたといふ事實のある方が、時間的な推移を窺ひ得る效果がある。すぐれた句といふわけではないけれども、蕭條たる冬野の空氣を描き得た點において、やはり棄てがたいやうに思ふ。

 

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 𣾰

 

Urusi

 

うるし     桼【本字】

        【和名宇留之】

𣾰

        𩮥物色潤美

        之畧也

ツイ     木蠟【𣾰子也】

 

本綱𣾰木髙二三丈其身如柹其葉如椿皮白花似槐其

子似牛李子木心黃也春分前移栽則易成有利六七月

以竹筒釘入木中取滴汁則成𣾰其汁可以𩮥物金州者

爲佳以物亂之試之微扇光如鏡懸𮈔急似鈎撼成琥珀

色打着有浮漚凡𣾰物難乾得陰濕雖寒月亦乾昜

一種有黃𣾰 出於廣浙中樹似小榎而大六月取汁其

 𣾰物黃澤如金凡入藥當用黑乾𣾰【半夏爲之使畏雞子忌油】

乾𣾰【辛温有毒】 殺蟲行血破日久凝結之瘀血【須炒熟不爾損人腸胃】

 治喉痺欲絕不可針藥者【乾𣾰燒烟以筒吸之】

 漆得蟹而成水蟹見𣾰而不乾葢物性相制也

 凡畏𣾰者嚼蜀椒塗口鼻則可免 生𣾰瘡者杉木

 湯紫蘓湯𣾰姑草湯蟹湯浴之皆良

  夫木紅のをのが身に似ぬ𣾰の木ぬると時雨に何かはるらん爲家

[やぶちゃん注:「をのが」はママ。訓読では、訂した。]

△按𣾰樹陸奧出羽下野𠙚𠙚關東之產稱世之女𣾰爲

 最上日向米良之產次之眞黑塗及小細工家可用之

 和州吉野𣾰者朱及䵮朱必可用中國西國北國皆有

 之而越前之産最下凡入藥可用唐乾𣾰𩮥物唐𣾰不

 佳也凡木噐磁噐破者以𣾰接繼之則不可離如欲復

 離之者蕎麥稈灰汁中投漬其噐則可離

一種波世𣾰【正字未詳】 樹葉似𣾰而瘦小莖赤生山中其木

 𣾰不堪用子亦爲蠟不佳

 大明一統志云朝鮮亦有黃𣾰樹似棕六月取汁𣾰物

 如金本朝黃𣾰未曾有伹以藤黃和𣾰塗則爲黃而已

𣾰子  本草唯謂治下血本朝人採未熟者搾爲木蠟

 作蠟燭再晒煉爲髮油【如膏藥而名伽羅油】其木蠟出於諸國備

 前爲上會津次之凡搔𣾰樹不結子故収子者不取𣾰

 

   *

 

うるし     桼《しつ》【本字。】

        【和名「宇留之」。】

𣾰

        「物を𩮥(ぬ)りて、色、

        潤-美(うるは)し。」

        の畧なり。

ツイ     木蠟(きらふ)【𣾰の子《み》なり。】

 

「本綱」に曰はく、『𣾰《うるし》≪の≫木、髙さ、二、三丈。其の身、柹《かき》のごとく、其の葉、椿《ちん》の皮のごとし。白き花、槐《えんじゆ》に似、其の子《み》、「牛李《ぎうり》」の子に似≪る≫。木≪の≫心、黃なり。春分の前に、移し栽《うう》る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、成り易き利、有り。六、七月に竹の筒を以つて、木の中に釘《くぎ》≪の如く打ち≫入れ、滴《した》たる汁を取る。則ち、𣾰と成る。其の汁、以つて、物を𩮥《ぬり》するべし。金州の者、佳《よ》しと爲《なす》≪も、僞≫物を以つて、之れを亂す。之れを試るに、微《やや》、扇《あふ》≪れば≫、光《ひかり》、鏡のごとく、𮈔《いと》を懸≪くれば≫、急≪に≫、鈎《かぎ》に似る。撼《ゆら》≪げば≫、琥珀色と成る。打≪ち≫着《つけ》て、浮≪ける≫漚《あは》、有り。凡そ、物を𣾰《ぬ》りて、乾き難≪けれども≫、陰濕を得《え》ば、寒月と雖も、亦、乾き昜《やす》し。』≪と≫。

『一種、「黃𣾰《きうるし》」、有り。』≪と≫。 『廣・浙の中《うち》より出づ。樹、小≪さき≫榎《か》[やぶちゃん注:後述するが、決して「えのき」と読んではいけない]に似て、大なり。六月に汁を取る。其れ、物に𣾰《ぬ》るに、黃≪に≫澤《うるほ》ひて、金のごとし。凡そ、藥に入《いる》るに、當(まさ)に黑く乾《ほし》たる𣾰を用ふべし。【「半夏《はんげ》」、之れの使《し》と爲《な》す。雞子《にはとりのたまご》を畏れ、油を忌む。】。』≪と≫。

『乾𣾰(かんしつ)【辛、温。毒、有り。】 蟲を殺し、血を行《めぐ》らす。日≪の≫久しき凝結の瘀血《おけつ》を破る【須らく、炒熟《いりじゆく》べし。爾《し》からざれば、人の腸胃を損ず。】』≪と≫。

『喉《のど》≪の≫痺《しびれ》、絕えんと欲して、針・藥すべからざる者≪を≫治す【乾𣾰を燒き、≪其の≫烟《けぶり》を、筒を以つて、之れを吸ふ。】。』≪と≫。

『漆、蟹《かに》を得て、水と成る。蟹は𣾰を見て、乾《かは》かず。葢し、物性、相《あひ》、制すなり。』≪と≫。

『凡そ、𣾰を畏《おそれ》る者、蜀椒《しよくしやう》を嚼(かん)で、口・鼻に塗るには、則ち、免《まぬか》る。』≪と≫。『𣾰瘡《うるしかぶれ》を生ずる者、「杉木湯《さんぼくたう》」・「紫蘓湯《しそたう》」・「𣾰姑草湯《しつこさうたう》」・「蟹湯《けいたう》」にて、之れを浴(あ)びれば、皆、良《りやう》なり。』≪と≫。

 「夫木」

   紅(くれなゐ)の

      おのが身に似ぬ

     𣾰の木

    ぬると時雨(しぐれ)に

           何かはるらん 爲家

△按ずるに、𣾰の樹、陸奧・出羽・下野、𠙚𠙚《ところどころ》、關東の產、「世之女𣾰(せしめ《うるし》)」と稱す《→して》、最上と爲す。日向の米良(めら)の產、之れに次ぐ。眞黑塗(しん《くろぬり》)、及び、小細工家(《こざいく》や)、之れを、用ふべし。和州吉野の𣾰は、朱、及び、䵮朱(うるみ《しゆ》)、必ず、用ふべし。中國・西國・北國、皆、之れ、有≪といへども≫、越前の産、最も下《げ》なり。凡そ、藥に入《いる》るには、唐(もろこし)の乾𣾰(かんしつ)を用ふべし。物を𩮥(ぬ)るには、唐𣾰《たうしつ》、佳《か》ならざるなり。凡そ、木噐・磁噐、破(わ)れたる者、𣾰を以つて、之れを接-繼(つぎつ)ぐ。則ち、離《はな》るべからず。如《も》し、復《また》、之れを離たんと欲する者≪は≫、蕎-麥-稈(そばがら)の灰-汁(あく)の中へ、其の噐《うつは》を投≪じ≫漬《つけ》れば、則ち、離るべし。

一種、「波世𣾰《はぜうるし》」【正字、未だ詳かならず。】 樹・葉、𣾰に似て、瘦≪せて≫、小《ちさ》く、莖、赤≪し≫。山中に生ず。其の木の𣾰、用《もちひ》るに堪へず。子(み)も亦、蠟に爲《なし》て《→なすと雖も》、佳《か》ならず。

「大明一統志」に云はく、『朝鮮にも、亦、「黃𣾰≪の≫樹」、有り。棕(しゆろ)に似、六月、汁を取りて、物に𣾰《ぬ》る。金のごとし。』と云《いへ》り[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]。本朝に、「黃𣾰」、未だ曾《かつ》て、有らず。伹し、「藤黃(きわう)」を以つて、𣾰に和(ま)ぜて、塗《ぬる》は、則ち、黃《き》と爲《な》すのみ。

𣾰の子(み)  「本草」[やぶちゃん注:「本草綱目」。]、唯《ただ》、『下血を治す。』と謂ふのみ。本朝の人、未だ熟せざる者を採りて、搾(しぼ)りて木蠟に爲《なし》、蠟燭に作る。再たび、晒煉《さらしね》りて、髮の油と爲す【膏藥のごときにして、「伽羅《きやら》の油」と名づく。】。其の木蠟、諸國より出づ。備前を上と爲す。會津、之れに次ぐ。凡そ、𣾰を搔《かき》たる樹、子《み》を結ばず。故《ゆゑ》、子を収《をさむ》る者は、𣾰を取らず。

 

[やぶちゃん注:𣾰」(=漆)は、日中ともに、タイプ種は、

ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum

である(学名を音写すると「トクシコデンドロン・ヴァーニシフルウム」である)。私は、四十代後半に、伊豆高原を散策中、葉に一瞬触れただけで、翌日、突如、かぶれた。結果して、類似物質を持つ、大好物であったマンゴーも、キウイも、食せなくなった関係上、恨み骨髄である。当該ウィキを引く。『和名の由来は、紅葉する葉の美しさから「うるわしの木」と言ったのがウルシになったという説がある』。中文名の樹名は「漆樹」である(中文当該ウィキをリンクさせたが、思いの外、極めて記載が少ない)。『樹高』は三~十メートル 『以上になり、太さは樹齢が高いもので直径』一メートル『以上にもなる』。『雌雄異株。樹皮は灰白色』。『葉は奇数羽状複葉で、卵形か楕円形の小葉は』三~九『対からなり、秋には紅葉する』。『花は』六月頃で、『葉腋に黄緑色の小花を『多数』、『総状につける』。『果実はゆがんだ扁平の核果で』十月頃、『成熟して黄褐色となる。近似種のヤマウルシ』(ヤマウルシ Toxicodendron trichocarpum :種小名音写「トリコカルプム」)『と比較して果実に毛が無い』。『アジアが原産。中国・朝鮮・日本で漆を採取するため』、『古くから広く栽培されていた。特に渓谷沿いなど』、『比較的湿潤な環境に植栽されることが多く、野生化した個体も見られる』。『日本には中国経由で渡来したという説がある』。『しかし、中国より古い時代の漆器が日本の縄文時代の遺跡から発掘されており、また』、『自然木と考えられるウルシも縄文時代より日本各地で出土していることから』。『中国から持ち込まれたのではなく、日本国内に元々自生していた可能性も考えられる。また、採取法の違いなどから、日本の漆器を独自のものとする説もある』。一九八四『年に福井県若狭町の鳥浜貝塚で出土した木片を』、二〇一一『年に東北大学が調査したところ、およそ』一万二千六百『年前のものであることが報告されているが、これが』、『いまのところ』、世界『最古のウルシである』。『古くから、樹皮を傷つけて生漆を採り、果実は乾かした後に絞って木蝋を採ることができる商品作物として知られており、江戸時代には広島藩などで大規模な植林が行われていた記録が残る』。『北海道の網走にあるウルシ林は、幕末の探検家、松浦武四郎がアイヌの人々に漆塗りを伝えようとの考えで植えたものが伝わったといわれる』。『塗料としての漆は、塗りが美しいばかりではなく、保ちがよく』、『劣化しにくい長所がある』。『寒い地方のものが漆としての品質が優れるとされ、津軽塗や会津塗などが有名である』。『材は、耐湿性があり、黄色で箱や挽き物細工にする』。『若い新芽の部分は食べることができ、味噌汁や天ぷらにすると美味しく食べられるとも言われるが、後述するようにウルシかぶれが発生する事が考えられるので、食べない方が無難である』。『また、「東医宝鑑」』(李氏朝鮮時代の医書。全二十三編二十五巻。許浚著。一六一三年(日本:慶長十八年/中国:明(晩期)萬曆四十一年)に刊行され、朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本を含めて広く流布した)『においては』、『ウルシを材料とした漢方薬や、薬効に関しての記述があり、本書では固形化したウルシの樹液をじっくり煎って粉末にしたものを「乾漆」として漢方薬の材料として記載している。 このことから、古くからウルシは』、『それがもたらす薬効が期待され、医学の面でも利用があったといえる』。『中国の雲南省怒江では』、『実の』三十『%を占める油を食用にする』。『アレルゲンが含まれているため』、『リスクがあるが』、二『つの方法で克服している。ひとつは加工で、もうひとつは体質である。加工とは』、『まず』、『漆の実を粉砕し、煮詰めてアレルゲンを揮発させる方法である』。『このあと』、『圧搾し』、『油を得る』。『このようにして得たウルシの油には蝋の成分も含まれるため』、四十七『度以下で凝固するが、これは保存に有利となり』、一『年はもつ』。『体質は長い歴史の中で現地の人々が環境に適応し、耐性を得たもの』を言う。『本種をはじめ、近縁種はアレルギー性接触性皮膚炎』『(いわゆる「ウルシかぶれ」)を起こしやすいことで有名である。これは、ウルシオール』(Urushiol)『という物質によるものである。人によっては、ウルシに触れなくとも、近くを通っただけでかぶれを起こすといわれている。また、山火事などでウルシなどの木が燃えた場合、その煙を吸い込むと』、『気管支や肺内部がかぶれて呼吸困難となり、非常に危険である』。以下、「ウルシ属」として十四属亜種二種のリストがある。それらの内、中国に分布して本邦に自生しない種もあろう。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用(本文はかなり長い)は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「漆」(ガイド・ナンバー[085-18a]以下)から。良安の原文が盛んに字空けを施してので判る通り、かなり、あちこちの部分を切り出して繋げてあることが判明する。

「𩮥(ぬ)りて」この漢字は、「黒い」「赤黒い」形容詞、また、「やや黒みがかった赤色の漆」という名詞、而して、「その漆を塗る」という動詞でもあり、ここは最後のそれである。

「木蠟(きらふ)」通常は「もくらう(もくろう)」と読む。ウィキの「木蝋」によれば、『木蝋(もくろう)(Japan wax)とは、生蝋(きろう)とも呼ばれ、ウルシ科のハゼノキ(Japanese wax tree)』(ウルシ属ハゼノキ  Toxicodendron succedaneum :音写「サクスィデイニアム」:漢字表記「櫨の木」「櫨」「黄櫨の木」「黄櫨」)『やウルシの果実を蒸してから、果肉や種子に含まれる融点の高い脂肪を圧搾するなどして抽出した広義の蝋。果実全体の約』二十『%を占める』。『化学的には狭義の蝋であるワックスエステル』(Wax ester)『ではなく、中性脂肪(パルミチン酸、ステアリン酸、オレイン酸)を主成分とする。また粘性の高い日本酸(Japanic acid)を含んでいる』。『搾ってから』、『そのまま冷却して固めたものを「生蝋」(きろう)と呼ぶ。収穫した果実をすぐに抽出した生蝋は褐色であるが、半年程度寝かせた果実を抽出すると黄土色に近い色の生蝋になる』。一『年程度寝かせたものからは緑がかった色の生蝋が抽出できる。櫨の種類により生蝋の緑色の程度や風合いが異なる』。『蝋燭、特に和ろうそく(Japanese candle)の仕上げなどには、生蝋をさらに天日にさらすなどして漂白した白蝋(はくろう)を用いる。かつては蝋燭だけでなく、びんつけ、艶(つや)出し剤、膏薬などの医薬品や化粧品の原料として幅広く使われていた。このため』、『商品作物として明治時代まで西日本各地で盛んに栽培されていた』。『長崎県では島原藩が藩財政の向上と藩内の経済振興のため、特産物として栽培奨励をしたため、島原半島で盛んにハゼノキの栽培と木蝋製造が行われた。特に昭和になってから選抜された品種である「昭和福櫨」』(ショウワフクハゼ:品種学名は調べてみても発見出来なかった)『は、果肉に含まれる蝋の含有量が多く、島原半島内で広く栽培された。木蝋製造は島原市の本多木蝋工業所が伝統的な玉絞りによる製造を続け、伝統を守っている』。『愛媛県では南予一体、例えば内子(現:内子町)や川之石(現:八幡浜市、旧・西宇和郡保内町)は、ハゼノキの栽培が盛んであった。中でも内子は、木蝋の生産が盛んで、江戸時代、大洲藩』六『万石の経済を支えた柱の一つであった。明治期には一時、海外にも盛んに輸出された』。『第二次世界大戦以前は、日本国外にも通用する輸出品としても重要視されており』、昭和一五(一九四〇)『年には』、「重要輸出品取締法」に『基づく重要輸出品目に木蝋が加えられて』あった、とある。

「椿《ちん》」ツバキではなく、双子葉植物綱ムクロジ目センダン科Toona属チャンチン Toona sinensisであることは、先の「椿」で立証済み。

「槐《えんじゆ》」マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。中国原産で、当地では神聖にして霊の宿る木として志怪小説にもよく出る。日本へは、早く八世紀には渡来していたとみられ、現在の和名は古名の「えにす」が転化したもの。

「牛李《ぎうり》」東洋文庫訳では、割注して、『(李(すもも)の一種)』とするのだが、中文サイトで調べてみても、「牛李」の熟語は見当たらない。ただ、「維基百科」でラテン語の科と属の学名と、関わりそうな漢語フレーズの検索を繰り返しやっているうちに、一つ、目が留まったのは、バラ目バラ科スモモ亜科スモモ属 Prunus ではないが、同じバラ目バラ科Rosaceaeのサクラ属カラミザクラ Cerasus pseudo-cerasus であった。同種の「維基百科」の中文名は「中國櫻桃」であるが、そこに、同種の古称として、『牛桃』が挙がっていたからである。御存知とは思うが、実は、国によって、サクラ属Cerasus、或いは、スモモ属 Prunus とする違いが発生しており、広義には、この異なった種が、広義には、同一グループに属するとする立場があるのである(詳しくはウィキの「サクラ属」を見られたい)。私は「牛李」をカラミザクラと同定するというのではない。一つの可能性としてここに示しておくに過ぎない。

「金州」現在の陝西省。

「之れを試るに、微《やや》、扇《あふ》≪れば≫、光《ひかり》、鏡のごとく、𮈔を懸≪くれば≫、急≪に≫、鈎《かぎ》に似る。撼《ゆら》≪げば≫、琥珀色と成る。打≪ち≫着《つけ》て、浮≪ける≫漚《あは》、有り。」この部分、何を言いたいのか、私にはよく判らない箇所がある。東洋文庫訳は、

   《引用開始》

本ものかどうかを試す要点は、本ものなら微(かす)かに扇(あお)ると光って鏡のようで、糸状に垂下させると急に鈎のようになる。ゆらぐと琥珀(こはく)色になる。打ちつけると泡が浮く。

   《引用終了》

とあるのだが、担当訳者竹島淳夫氏も、訳に困って、ここを後注して、『いちおうこのように訳しておいたが、よく分からない。原文は「微扇光如鏡。懸糸急似鈎。撼成琥珀色。打着有浮漚」である』とされておられるのである。ここの「本草綱目」の原文は、「漆」の「集解」の終り近く(「漢籍リポジトリ」のここの[085-18b]の五行目以下)に当たる。竹島氏が引用された前後の部分(終りは「集解」の最後まで)を含めて、以下に引いておく(推定で句点を入れた)。

   *

金州者為佳、故世稱金漆人多、以物亂。之試訣有云、「微扇、光如鏡、懸絲急似鈎、撼成琥珀色。打著有浮漚。」。今廣浙中出一種、漆樹似小榎而大、六月取汁、漆物黄澤、如金。即唐書所謂黄漆者也。入藥仍當用黑漆、廣南漆作飴、糖氣沾沾無力。

   *

「黃𣾰」不詳。ウルシ属の一種かと思われるが、中国での同属群のリストがないので、判らない。なお、本邦の辞書で「黄漆」を引くと、バラ亜綱セリ目ウコギ科カクレミノ属カクレミノ Dendropanax trifidus のことと出るが、このカクレミノ(当該ウィキはここ)は日本と台湾にしか分布しないので、当たらないので、注意されたい。但し、当該ウィキによれば、カクレミノの『樹脂は古代には塗料として利用されていたと推定されており、「金漆」と呼ばれていた。この塗料は「漆」の名前はつくものの、ウルシオールを主成分とする漆とは異なり、主成分はポリアセチレンである』。『光により硬化するとの寺田晁による報告がある。(漆は酵素による硬化なので反応機構も異なる。)漆の成分と混同されてかぶれるとの言説が広がっているが、かぶれるとは考えにくく、また、かぶれるにしても、ウルシオールが原因ではないことは確実である』とあった。因みに、私は、カクレミノの木を、今月の初めに行った伊東の温泉の庭樹で、初めて見た。

「廣」「廣州」。現在の中国の広西省・広東省。

「浙」現在の浙江省の大部分を指す。

「小≪さき≫榎《か》」割注で述べた通り、これは、現在の日本語の「榎」(えのき:バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis )ではない。なお、ウィキの「榎」では、安易に『漢字の「榎(エノキまたはカ)」は夏に日陰を作る樹を意味する和製漢字である』。『音読みは「カ」。「榎」は、中国渡来の漢字ではなく、日本の国字の一つである』と断定しているが、これはトンデモない誤りである。中国語に「榎」は存在する。而して、その漢語「榎」は「檟」と同義であり、小学館「日中辞典」によれば、「檟」は「トウキササゲ」=「楸」の古名、或いは、「チャの木」=「茶」の古名とあるのである。則ち、この時珍の言う「榎」が示す種は、

シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属トウキササゲ Catalpa bungei

か、

所謂、「茶」、ツツジ目ツバキ科ツバキ属チャノキ Camellia sinensis 

の孰れかとなる。この箇所、「小榎」となっており、前者のトウキササゲは実に三十メートルにも達する高木である。一方、チャノキの基準変種チャノキ(Camellia sinensis var. sinensis )で樹高は五・五メートルにしかならない。ウルシの木は三~十メートル以上だから、ここは、前者のトウキササゲを採りたい

「半夏《はんげ》」単子葉植物綱ヤシ亜綱サトイモ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク Pinellia ternata のコルク層を除いた塊茎。嘔気や嘔吐によく使われる生薬である。私の「耳囊 卷之七 咳の藥の事」も参照されたい。

「使《し》」何度も出た「補助薬」の意。

「瘀血《おけつ》」血液が流れ難くなり、体の中に滞ってしまうことで起こる病態を言う。

「漆、蟹《かに》を得て、水と成る。蟹は𣾰を見て、乾《かは》かず。葢し、物性、相《あひ》、制すなり」この話、私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「かに 蟹」の「本草綱目」の引用の中に、

    *

蟹黃能化漆爲水故塗漆瘡用之其螯焼煙可集鼠於庭也食鱓中毒者食蟹則解

   *

蟹の黃《こ》、能く、漆を化して、水と爲《せ》る。故に、漆-瘡(うるしまけ)に塗り、之れを用ふ。其の螫(はさみ)、煙りに燒きて、庭に鼠を集むるべし。鱓《せん》を食ひて毒に中《あた》る者、蟹を食へば、則ち、解す。

   *

とあったのだが、私は、仙術めいた話で、注するに当たらないと思い、『「鱓」はとりあえず「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の該当項に随うならば、タウナギ目タウナギ科タウナギ Monopterus aibus である。東洋文庫版では、これを根拠を示さずに、海産の「うみへび」と訓じている。しかし、これは爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ウミヘビ科 Hydrophiidae では絶対にあり得ず、ウナギ目アナゴ亜目ウミヘビ科 Ophichthidae の一種を指すか、又は、現在、本字が一般的に指すところのウナギ目ウツボ亜目ウツボ科 Muraenidae のウツボ類の一種を指しているのであろうと思われる。私は、中国で、食ってあたると普通に言う場合の魚種としては、タウナギ以外には考えられない気がする』という注を附しただけで、お茶を濁していた。今回、調べてみたところ、素敵な記事を発見した。ブログ・サイト「note」の漢学者川口秀樹氏の『中国科学説話雑識~古代中国のSF的記述~ 4 「漆と蟹」』である。やはり、根っこは、仙道にあることが、川口氏の非常に解りやすい訳で示されているので、是非、読まれたい(私はページ全体を保存した)が、その最後で、実は、私が、信ずるに足らないと無視した「蟹」と「漆」の関係を化学的に考証されている箇所に至って驚いた! 以下、引用させて戴く。

   《引用開始》

 さて、それでは蟹が漆を駄目にすると言うことは事実なのでしょうか、そして、化学的に説明ができるのでしょうか。

 実は、ジョセフ・ニーダムが『中国の科学と文明』の中で、甲殻類の殻に含まれる成分が、ラッカーゼの作用を阻害して漆を固まらなくする、という趣旨のことを書いています。しかも重合も妨げられるので、加熱しても「焼漆」にもならないということです。つまり、蟹の甲羅には、非常に強力なラッカーゼ阻害物質(今回の調査では具体的なところまで探れませんでした)が含まれているということです。

 しかし、そうすると、「蟹治漆」の話のように、漆を溶かすことができるかどうかは疑問あります。「蟹治漆」の記述から判断する限り、固まった漆を溶かしているように見えるからです。これだと、ラッカーゼの作用を阻害しようにも、もうその余地はありませんから、主成分であるウルシオールそのものを分解することができなければなりません。しかし、いくら蟹でもそのような成分は含んでないでしょう。先にも述べたように、漆はきわめて安定した物質なのです。

 あるいは、里長が訪れたときには、まだ漆を眼に塗られただけで固まっていなかったのかもしれませんが、飛躍した空想としておくのが無難なところでしょう。

 これで、「蟹治漆」最大の焦点には一応の説明が付きました。しかし、もう一つの蟹の作用が残っています。蟹の汁が傷を治すという部分です。

 最近はキチンとか甲殻類から抽出した成分が医薬品や健康食品などに使われています。別にキチンが傷に効くわけではないですが、そう考えると薬効がありそうな気もします。

 実は、この「蟹の汁が傷を治す」というのも、唐以前にすでに言い伝えられていたようなのです。

 唐代の『冥報記』という仏教関係の小説を集めた書物に、比丘尼の修行という女性が死後 に幽霊となって現れたという話があります。その中で修行は姉に対して、「私は子供の頃に病気になった時、一匹の蟹を殺して、その汁を瘡に塗ったら治った」と話しています(『太平広記』巻103)。この場合、「瘡」と書いてありますから、ある種の出来物なのでしょう。

 日本にも、比較的新しいですが、漆を蟹で治療する例はあって、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』には、「漆は蟹を忌もの也。されば、漆を掻く家にて、もし蟹を烹ることあれば、漆ながれてよらずとなん。よりて思ふに、今その瘡は、漆の毒に觸たるのみ。内より發きしものならぬに、蟹をもてその毒を觧ば、立地に愈もやせん。用ひて見よ」と、「蟹が漆をダメにする」「蟹が漆かぶれを治療する」と記されています。

 人間国宝の故・松田権六氏の『うるしの話』の中にも、漆によるかぶれを治すのに沢蟹をつぶして塗る、という話が見え、漆を扱う人々の間では、古くから伝えられ、実際に行われてきたことのようです。

 また、中国医学の処方を調べると、蟹を使って骨折や打撲による傷の治療を行うという記述がいくつか見られます。鬱血を散らし、経絡を通じさせて、筋骨の修復を促し、熱を下げる効果があるとされています。使い方は簡単で、蟹を焼いてから砕いて粉末にして、酒で飲むというものです。

   《引用終了》

「蜀椒《しよくしやう》」双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ Zanthoxylum piperitum の果皮が「花椒」「蜀椒」と呼ばれて健胃・鎮痛・駆虫作用を持つ。日本薬局方ではサンショウ Zanthoxylum piperitum 及び同属植物の成熟した果皮で種子を出来るだけ除去したものを生薬山椒としている。

「杉木湯《さんぼくたう》」『杉本商店(杉本うるし/うるし工芸の杉本)のホームページ運営責任者が開設するブログ』とある「うるし屋さんの独り言」の「漆かぶれについて(発症率)」の「コメント」にあるブログ主の答えの中に、「漆聖」と呼ばれた人間国宝蒔絵師松田権六の「うるしの話」(旧・岩波新書(一九六四年:多分、持っているが、書庫藻屑となり、サルベージ不能)・現・岩波文庫(二〇〇一年)の中に、『蟹汁という話は良く聞きます』。『(松田権六著 うるしの話P70にも記述あり。)』。『同著には海水、ホウ酸、杉の葉などの記述もあります』。『他には栗や桔梗なんていう話も聞きます』とあった。

「紫蘓湯《しそたう》」シソ目シソ科シソ属エゴマ変種シソ Perilla frutescens var. crispa の、葉が赤いものを、湯に入れたもの。入浴法に実際にある。

「𣾰姑草湯《しつこさうたう》」「𣾰姑草」は、ごく一般に見られるナデシコ目ナデシコ科ツメクサ属ツメクサ Sagina japonica で、中国にも分布する。それを入れた湯。

「蟹湯《けいたう》」前の仙道系の話を受けたものであろうが、蟹の汁を附ける程度ならいいが、浴槽に入れるのは、ちょっと臭過ぎて、遠慮したい。

「夫木」「紅(くれなゐ)のおのが身に似ぬ𣾰の木ぬると時雨(しぐれ)に何かはるらん」「爲家」「夫木和歌抄」の「卷廿九 雜十一」にある一首。「日文研」の「和歌データベース」のこちらで確認した。ガイド・ナンバー「14070」が、それ。

「世之女𣾰(せしめ《うるし》)」「日本国語大辞典」に、「石漆・瀬〆漆」とし、『切って水にひたしておいた漆の木の枝からかき取った漆汁。粘りが強く、接着力が強い。転じて、「せしめる」にかけて、うまく手に入れる、自分の物にするの意に用いられた』とあり、初出例は談林の俳諧撰集「點滴集」(延宝八(一六八〇)年序)の「三」とあった。「和漢三才圖會」は正徳二(一七一二)年成立であるから、この前後の半世紀には定着していた語と読める。東洋文庫後注では、『せしめ漆とは漆の枝を小刀で傷つけて掻きとった液。ねばり强くて上級品とされる』とある。

「日向の米良(めら)」現在の宮崎県児湯(こゆ)郡西米良村(にしめらそん:グーグル・マップ・データ航空写真)。当該ウィキによれば、『九州山地のただ中に位置し、面積の』九十六『%を森林が占める山村で』、『宮崎県内では最も総人口の少ない基礎自治体でもある』とある。

「眞黑塗(しん《くろぬり》)」黒漆で塗った工芸品。黒漆は、嘗つては、「透き漆」(上質の生漆(きうるし) から水分を除去して透明度を高めたもの)に油煙などを混ぜて黒くしたが、現代では鉄分や鉄の化合物を用いてつくる。

「䵮朱(うるみ《しゆ》)」東洋文庫訳の割注に、『(黒みがかった朱)』とある。

「唐(もろこし)の乾𣾰(かんしつ)」「唐𣾰《たうしつ》」調べる限り、中国の漆は基原植物に大きな違いはないように思われる。恐らくは、処理・精製工程に違いはあるとは思われる。

「蕎-麥-稈(そばがら)」蕎麦殻。ソバ(タイプ種はナデシコ目タデ科ソバ属ソバ Fagopyrum esculentum当該ウィキの「原産地」に拠れば、『ソバの原産地は中国北部からバイカル湖付近であるという説』が、一『世紀以上に』亙って)『信じられていた』が、一九八〇年代から二〇〇〇年代に『かけて植物学者の大西近江ら』が、『インド、チベット、四川省西部など各地に自生するソバを採集し』、『集団遺伝学的研究を行った結果、中国南部に野生祖先種 Fagopyrum esculentum ssp. ancestraleなど』の『ソバ属の植物が自生していることなどを見出し、「ソバの原産地は雲南省北部の三江併流と呼ばれる地域」であると唱えた。現在、これが有力視されている』とあった)を収穫して、数日間、天日乾燥させ、ソバの実を取り去った後に残った殻で、当該ウィキによれば、『蕎麦粉を精製するときに、実とともに引いて風味を出す場合もある』。『寝具の枕の中身として使われることが多い。近年は蕎麦アレルギー他の理由で、蕎麦殻枕の需要は伸びていない』。『そのため、多くが産廃として処分され、その有効利用が課題となっている。例えば、蕎麦殻燻炭として土壌改良材として利用されたり、菌床の添加剤として茸栽培に用いられる。最近は、バイオ燃料利用のために家畜用の飼料トウモロコシ他が高騰して以来、その代替自給飼料として、利用されている』とあるのみで、蕎麦殻の灰汁(あく)と漆のフレーズ検索をしても、漆で接合した器を、分離させる効果があるというのは、見出せなかった。実際にやってみたい気もするが、ソバとウルシ――アレルギー繋がりと関係するのは、民俗社会の類感呪術的ニュアンスを、ちらりと私は感じたことを附記しておく。

『「波世𣾰《はぜうるし》」【正字、未だ詳かならず。】』良安は正式な本邦での漢字表記を知らないとするが、以下に見る通り、現行では「櫨漆」或いは「黄櫨漆」である。彼は既出の「黃櫨」とダブってしまうので、それを認めない立場をとったのであろう。注で既出のムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum から採取した漆である。既に「黃櫨」の冒頭で注したが、再掲しておく。現代の中文名は「野漆」で、同中文ウィキでは、異名を「野漆樹「大木漆」「山漆樹」「癢漆樹」「漆木」「檫仔漆」「山賊子」と挙げるのみで、「黃櫨」は記されていない。同種は中国・インドシナ原産で、琉球から最初に渡来したので、「リュウキュウハゼ」の名もある。本邦の当該ウィキによれば(注記記号は省略した)、『ハゼノキ(櫨の木・櫨・黄櫨の木・黄櫨)『はウルシ科ウルシ属の落葉小高木。単にハゼとも言う。東南アジアから東アジアの温暖な地域に自生する。秋に美しく紅葉することで知られ、ウルシほどではないがかぶれることもある。日本には、果実から木蝋(Japan wax)を採取する資源作物として、江戸時代頃に琉球王国から持ち込まれ、それまで木蝋の主原料であったウルシの果実を駆逐した』。『「ハゼ」は古くはヤマウルシ』(ウルシ属ヤマウルシ Toxicodendron trichocarpum )『のことを指し、紅葉が埴輪の色に似ていることから、和名を埴輪をつくる工人の土師(はにし)とし、それが転訛したといわれている』。『別名にリュウキュウハゼ(紅包樹)、ロウノキ、トウハゼなど。果実は』「薩摩の実」(薩摩藩が不当に琉球を実行していたことによる)『とも呼ばれる。中国名は、野漆 (別名:木蠟樹)』。『日本では本州の関東地方南部以西、四国、九州・沖縄、小笠原諸島のほか、朝鮮半島南西沖の済州島、台湾、中国、東南アジアに分布する。低地で、暖地の海に近い地方に多く分布し、山野に生え、植栽もされている。日本の山野に自生しているものは、かつて果実から蝋を採るために栽培していたものが、それが野生化したものが多いともいわれる。明るい場所を好む性質があり、街中の道端に生えてくることもある』。『ときに、庭の植栽としても見られる』。『雌雄異株の落葉広葉樹の小高木から高木で、樹高は』五~十『メートル』『ほどになる。樹皮は灰褐色から暗赤色で、縦に裂けてやや網目状の模様になる。一年枝は無毛で太く、縦に裂ける皮目がある』。『葉は奇数羽状複葉で』、九~十五『枚の小葉からなる。小葉は少し厚くて細長く、長さ』五~十二『センチメートル』『の披針形で先端が尖る。小葉のふちは鋸歯はついていない。表面は濃い緑色で光沢があるが、裏面は白っぽい。葉軸は少し赤味をおびることがある。秋には常緑樹に混じって、ウルシ科特有の美しい真っ赤な色に紅葉するのが見られる。秋にならないうちに、小葉の』一~二『枚だけが真っ赤に紅葉することもある』。花期は』五~六『月』で、『花は葉の付け根から伸びた円錐花序で、枝先に黄緑色の小さな花を咲かせる。雄花、雌花ともに花弁は』五『枚。雄花には』五『本の雄しべがある。雌しべは』三『つに分かれている』。『秋に直径』五~十五『ミリメートル』『ほどの扁平な球形の果実が熟す。果実の表面は光沢があり無毛。未熟果実は緑色であり、熟すと黄白色から淡褐色になる。中果皮は粗い繊維質で、その間に高融点の脂肪を含んだ顆粒が充満している。冬になると、カラスやキツツキなどの鳥類が高カロリーの餌として好んで摂取し、種子散布に寄与する。核は飴色で強い光沢があり、俗に「きつねの小判」、若しくは「ねずみの小判」と呼ばれる』。『冬芽は互生し、頂芽は円錐状で肉厚な』三~五『枚の芽鱗に包まれており、側芽のほうは』、『小さな球形である。落葉後の葉痕は心形や半円形で、維管束痕が多数見える』。『個人差はあるものの、樹皮や葉に触れても普通はかぶれを起こさないが、葉や枝を傷つけると出てくる白い樹液が肌に触れると、ひどくかぶれをおこす。また、枝や葉を燃やしたときに出る煙でも、かぶれることがある』。『よく似ている樹種に』同属の『ヤマハゼ』( Toxicodendron sylvestre:種小名音写「シルベストオル」)『があり、ヤマハゼは葉の両面に細かい毛が生えていて、紅葉が赤色から橙色で、鮮やかさはハゼノキよりも劣る印象がある。ハゼノキは葉の表裏ともに毛がない点で、日本に古来自生するヤマハゼと区別できる』。『果実を蒸して圧搾して採取される高融点の脂肪、つまり木蝋は、和蝋燭(Japanese candle)、坐薬や軟膏の基剤、ポマード、石鹸、クレヨン、化粧品などの原料として利用される。日本では、江戸時代に西日本の諸藩で木蝋をとる目的で盛んに栽培された。また、江戸時代中期以前は時としてアク抜き後焼いて食すほか、すり潰してこね、ハゼ餅(東北地方のゆべしに近いものと考えられる)として加工されるなど、救荒食物としての利用もあった。現在も、食品の表面に光沢をつけるために利用される例がある』。二十『世紀に入り安価で大量生産可能な合成ワックスにより、生産が低下したが、近年』、『合成ワックスにはない粘りや自然品の見直し気運などから需要が増えてきている』。『木材は、ウルシと同様心材が鮮やかな黄色で、工芸品、細工物、和弓、櫨染(はじぞめ)などに使われる。櫨染は、ハゼノキの黄色い芯材の煎じた汁と灰汁で染めた深い温かみのある黄色である。なお、日本の天皇が儀式に着用する櫨染の黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)』同ウィキがあり、画像もあるので見られたい)『の色素原料は同じウルシ属のヤマハゼになる』。『美しい黄緑色の木蝋が採取でき、融点が高いため、和蝋燭の上掛け蝋(手がけ和蝋燭の一番外側にかける蝋)として利用される』。『通常、櫨に含まれる蝋分は』二十『%程度であるが、この櫨の実に占める蝋分は』三十~三十五『%と圧倒的に高いため、採取効率が最も良いとされる。以下、「主な種類」として、長崎県島原市原産の「マツヤマハゼ(松山櫨)」、松山櫨から品種改良された福岡県小郡市が原育成地で主産地を熊本県水俣市とする「イキチハゼ(伊吉櫨)」、愛媛県の優良品種「オウハゼ(王櫨)」が挙げられているが、品種と言いながら、学名は他で調べても見当たらない。『日本への渡来は安土桃山時代末の』天正一九(一五九一)年に『筑前の貿易商人 神屋宗湛や島井宗室らによって中国南部から種子が輸入され、当時需要が高まりつつあった蝋燭の蝋を採取する目的で栽培されたのが始まりとされる。他方、大隅国の』武将『禰寝重長』(天文五(一五三六)年~天正八(一五八〇)年)『が輸入して初めて栽培させたという説もある』。『江戸時代は藩政の財政を支える木蝋の資源植物として、西日本の各藩で盛んに栽培された』。『その後、江戸時代中期に入って中国から琉球王国を経由して、薩摩藩でも栽培が本格的に広まった。薩摩藩は幕末開国後の』慶応三(一八六七)年には、『パリ万国博覧会に』、『このハゼノキから採った木蝋(もくろう)を出品している』。『広島藩では』、一七〇〇『年代後半から藩有林を請山として貸出し、商人らがハゼノキをウルシノキとともに大規模に植林、製蝋を行っていた記録が残る』。『今日の本州の山地に見られるハゼノキは、この蝋の採取の目的で栽培されたものの一部が野生化したものとみられている』とあった。

「大明一統志」複数回既出既注だが、再掲すると、明の全域と朝貢国について記述した地理書。全九十巻。李賢らの奉勅撰。明代の地理書には先の一四五六年に陳循らが編纂した「寰宇(かんう)通志」があったが、天順帝は命じて重編させ、一四六一年に本書が完成した。但し、記載は、必ずしも正確でなく、誤りも多い。「維基文庫」の同書の「卷八十九」の「外夷」の「朝鮮國」を見ると、「土産」の項に(表記に手を加えた)、

   *

黃漆【樹似棕六月取汁漆物如金】

   *

とあった。

「藤黃(きわう)」「きわう」の読みは不審。東洋文庫訳でも注を附さない。「藤黄」は現代仮名遣で「とうおう」で、サイト「Premium Japan」の「日本の伝統色を知る」の「藤黄」には、『東南アジアを原産とするオトギリソウ科の常緑高木・海藤(ガンボージ)から出る植物性の顔料で染めた、暖かみのある鮮やかな黄色。その歴史は大変古く、奈良の正倉院に収蔵されている出陳宝物「漆金薄箔絵盤(うるしきんぱくえのばん)」にも藤黄色が使われて』おり、『古名として「しおう」とも呼ばれてい』るとあった。この「海藤(ガンボージ)」は英語“gamboge”で(カンボジア由来)、インドシナに分布するキントラノオ目オトギリソウ科 Hypericaceae(新体系APGではフクギ科Clusiaceae)フクギ属ガンボジ Garcinia hanburyi 、及び、その近縁種から採取される、濃い黄色の顔料を指す。日本語ウィキは存在せず、英文当該ウィキ(顔料の方)が詳しい。言わずもがなだが、本邦には自生しない。

「伽羅《きやら》の油」小学館「日本国語大辞典」に、『鬢(びん)付け油の一種。胡麻油に生蝋(きろう)、丁子(ちょうじ)を加えて練ったもの。近世初期に京都室町の髭(ひげ)の久吉が売り始めた』とある。]

2024/06/18

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(9)

 

   門々や子供呼込雪のくれ 野 童

 

 雪が降つて元氣がよくなるのは、子供に犬と相場がきまつてゐる。寒さにめげず、外へ出て遊んでゐるうちに、いつか夕暮近くなつて來た。もう御飯になるから御歸りとか、寒いから内へ御入りとか云つて子供を呼ぶ聲が、彼方[やぶちゃん注:「あつち」。]の家からも此方[やぶちゃん注:「こつち」。]の家からも聞える。「門々」の一語によつて、その家が複數であることも、うち續いた家竝であることもわかる。吾々もこの句を讀むと、遊びほうけて夕方まで戶外にいた少年の日のことが、なつかしく心に浮ぶのである。

 平凡な句のやうでもある。併かし一槪にさう云ひ去るわけにも行かぬのは、必ずしも少年の日の連想があるためばかりとも思はれぬ。

 

   鳶尾の葉はみなぬれにけり初しぐれ 鼠 彈

 

「鳶尾」はシヤガと讀むのであらう。あやめに似て小さい花をつける、菖蒲の種類としては最も見ばえのせぬものである。花は夏の季になつて居り、俳句の材料にも屢〻用ゐられてゐるが、葉を取上げたのはあまり見たことが無い。

 シヤガの葉は冬を凌いで枯れぬ。その靑い葉が時雨に濡れて、ほのかに光を帶びてゐる。見るからに寒げな趣である。これが石蕗[やぶちゃん注:「ツハブキ」。]の葉か何かであると、形も大きいし、冬の季のものでもあるから、さほどのことも無いけれども、花が咲いてゐてさへ見ばえのせぬシヤガの、遺却されたやうな葉に時雨が降る。そこに初冬らしいもののあはれが感ぜられる。秋を經て枯れ枯れになつた植物にそゝぐ時雨よりも、冬に到つて猶綠を變へぬところに、却つて目立たぬシヤガの寂しさがある。「みなぬれにけり」といふ言葉も率直にこの感じを悉して[やぶちゃん注:「つくして」。]ゐるやうに思ふ。

[やぶちゃん注:「シヤガ」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属シャガ Iris japonica 。種小名はこうだが、中国原産である。当該ウィキによれば、『かなり古くに日本に入ってきた帰化植物で』、『三倍体のため』、『種子が発生しない』。『このことから日本に存在する全てのシャガは同一の遺伝子を持ち、またその分布の広がりは人為的に行われたと考えることができる。したがって、人為的影響の少ない自然林内にはあまり自生しない。スギ植林の林下に一大自生地のような光景を見ることもしばしばだが、そうした場所は現在では人気が全くない鬱蒼とした場所であったとしても、かつては、そこに人間が住んでいたか、あるいは人の往来があって、その地にシャガを移植した場所である可能性が高い。このためシャガの自生地では』、茶の木『などの人為的な植物が同じエリアに見られたり、かつての民家の痕跡と思える物などが見てとれることも多い。中国には二倍体の個体があり花色、花径などに多様な変異がある』とある。漢字表記は「射干」「著莪」「胡蝶花」の他、「鳶尾」もあるが、この「鳶尾」は同属のアヤメ属イチハツ Iris tectorum の異名としても知られ、しかもイチハツとシャガは、本邦で古くより藁屋根に植えると大風や火災を防ぐと信じられ、所謂、「屋根菖蒲」として藁屋根に植えられた経緯もあり、親和性がある(最近のものでは、『南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (8)』の「イチハツ」の私の注を見られたい)。因みに、現代中国語では、「日本鳶尾」「開喉箭」「蘭花草」「扁竹」「劍刀草」「豆豉草」「扁擔葉」「扁竹根」「鐵豆柴」と多彩な異名がある(同種の中文ウィキを参照した)。なお、サイト「跡見群芳譜」の「しゃが(射干)」を見ると、『和名シャガは、漢語の射干(ヤカン:yègàn)の、漢土における俗読み shègān の、日本における訛り。ただし、漢名を射干という植物はヒオウギ』(アヤメ属ヒオウギ Iris domestica )『であり、シャガではない。したがって』、本種『を「しゃが」と呼び、「射干」と書くのは、音義ともに本来は不当』であるとあった。母が好きで、家の斜面に植えられている。私の大好きな花である。]

 

   買切と馬にのり出すしぐれかな 雪 芝

 

「馬市」といふ前書がついてゐる。馬の値がきまつて自分の所有に歸するが早いか、直にその背に跨つて乘出す、といふのである。折から時雨が降つて來た爲、急いで歸る意味もあるかも知れぬが、氣に入つた馬を買ひ得たといふ、意氣揚々たるところが窺はれるやうに思ふ。已にこの馬を買い得た以上、時雨の如きは深く意に介する必要はあるまい。

 かつて「馬かりてかはるがはるに霞みけり」といふ蓼太の句を講じた時、借馬であらうといふ解釋もあつたが、「旅行」といふ前書によつて、その場合が明になつたことがある。この句の「馬市」といふ前書はそれほど必要とも思はれぬが、前書無しにこの句を讀むと、買切つたものが何であるか、多少不明瞭になつて來る。何か他の物を買つて、而して馬背に跨つて去るものとしては、少しく省略が多過ぎるから、結局馬を買つたといふところに落著くであらう。併し馬市の前書を置いて見れば、買い得た馬に直ぐ跨り去る樣子が眼前に躍動するのみならず、時雨の中の馬市の喧騷を背景的に浮立たせる效果がある。この意味に於て前書あるに如くはない。面白い場合を見つけたものである。

[やぶちゃん注:「蓼太」与謝蕪村・加舎白雄などとともに「中興五傑」の一人に数えられる(後の二人は高桑闌更と加藤暁台)大島蓼太(享保三(一七一八)年~天明七(一七八七)年)のこの句、たいした句とも思えぬが、恐らく妙な一茶の残した怪しい語りで、蓼太の代表句のようになってしまったらしい。国立国会図書館デジタルコレクションの雑誌信濃教育会発行『信濃教育』一三二〇号(一九九六年十一月発行)の小林計一郎著「人間一茶」のここの左ページ上段の最終行から下段の半ばまでの記事を読まれたい。

2024/06/17

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(8)

 

   こほる夜や燒火に向ふ人の顏 岱 水

 

「燒火」は「タキビ」とよむのであらう。寒夜火を焚いて暖を取る。作者は何も委しいことを敍して居らぬが、屋外の光景らしく思はれる。燃え盛さかる赤い燄が人の顏を照して、面上に明暗を作る。人の顏の赤く描き出された背後には、闃寂たる寒夜の闇が涯しなく橫はつてゐる。平凡なやうで力强い句である。

 

   はつ雪の降出す比や晝時分 傘 下

 

 讀んで字の如しである。何も解釋する必要は無い。こんなことがどこが面白いかと云ふ人があれば、それは面白いといふことに捉はれてゐるのである。芭蕉の口眞似をするわけではないが、「たゞ眼前なるは」とでも云ふより仕方があるまい。

 音もなく夜の間に降出して、朝戶をあけると眞白になつてゐるといふこともあれば、朝から曇つてゐる空が午頃[やぶちゃん注:「ひるごろ」。]に至つてちらちら雪を降らしはじめることもある。この句は後者で、さういふ初雪の降出す場合を、そのまゝ句にしたのである。

[やぶちゃん注:「芭蕉の」「たゞ眼前なるは」というのは、宝井其角の編になる俳文集「雜談集(ざふたんしふ)」(全二巻。元禄四(一六九一)年成立で翌年刊。上巻は俳論などの文章を、下巻は連句を中心に収録したもの)の「上卷」巻頭に記されてある。国立国会図書館デジタルコレクションの『俳人其角全集』第一巻(勝峯晋風編・昭和一〇(一九三五)年彰考館刊)の当該部を視認して電子化した(多少、手を加えた。歴史的仮名遣の誤りはママである)。

   *

一 伏見にて一夜、俳諧もよほされけるに、かたはらより芭蕉翁の名句、いづれにや侍る、と尋出られけり。折ふしの機嫌にては、大津尙白亭にて、

   辛崎の松は花より朧にて

と申されけるこそ、一句の首尾、言外の意味、あふみの人もいまだ見のこしたる成べし。其けしきここにも、きらきらうつろひ侍るにやと申たれば、又かたはらより、中古の頑作(けんさく)にふけりて、是非の境に本意をおほはれし人さし出て、其句、誠に誹諧の骨髓得たれども、慥なる切字なし。すべて名人の格的には、さやうの姿をも、發句とゆるし申にやと不審(フシン)しける。答へに、哉とまりの發句に、にてどまりの第三は、嫌へるによりてしらるべきか。おぼろ哉と申句なるべきを、句に句なしとて、かくは云下し申されたる成べし。朧にてと居(スヘ)られて、哉よりも猶ツシたるひゞきの侍る。是、句中の句、他に適當なかるべしと。此論を再ビ翁に申述侍れば、一句の問答に於ては然るべし。但シ、予が方寸の上に分別なし。いはゞ、さゞ波やまのゝ入江に駒とめてひらの高根のはなをみる哉。只、眼前なるはと申されけり。

   *

「辛崎の」の句は「甲子吟行」で、貞享二(一六八五)年三月の作で、恐らく大津の千那の別邸での詠。「さゞ波やまのゝ入江に駒とめてひらの高根のはなをみる哉」は、かの源従三位頼政のものである。]

 

   をし船の沙にきしるや冬の月 素 覽

 

「をし船」といふ言葉はよくわからぬが、句の意味から考へて、淺瀨か何かで船を押すことではあるまいかと思ふ。

 えいえいと押す船の底が、沙に軋つて寒さうな音を立てる。皎々たる寒月の下、船を押す人の姿が沙上に黑々とうつゝてゐるやうな氣がする。夏の月夜ならば、かういふ出來事も一興として受取れるが、天地一色の冬の月ではさう行かない。一讀骨に沁みるやうな寒さを感ぜしめるところに、この句の特色がある。

 

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 椿

 

Tin

 

ひやんちゆん  𮓙目樹

        大眼樹

椿【杶同】

       【今云知也牟知牟

        唐音之訛也】

        樗【臭椿也

          和名沼天】

チユン     栲【山樗也】

[やぶちゃん字注:「𮓙」は「虎」の異体字。]

 

本綱椿樗栲乃一木三種也皆亦類𣾰樹其葉脫𠙚有痕

如𮓙之眼目又如樗蒲子故名之其木易長而多壽考故

有椿拷之稱莊子言大椿以八千歳爲春秋是矣

椿 皮細肌堅實而赤嫩葉香甘可茹

樗 皮粗肌虛而白其葉臭𢙣其木最爲無用莊子所謂

 吾有大木人謂之樗其木擁腫不中繩墨小枝曲拳不

 中規矩者也樗之有花者無莢有莢者無花其莢夏月

 常生樗木未見椿之有莢者【然世俗不辨之而呼樗莢爲椿莢爾】

拷 卽樗之生山中者亦虛大然爪之如腐朽故以爲不

 才之木不似椿木賢實可入棟梁

椿根皮【色赤而香入血分而性濇】 樗根皮【色白而臭入氣分而性利】 其主治

 功雖同而濇利之效則異正如伏苓芍藥赤白頗殊也

 凡血分受病不足者宜用椿根皮氣分受病有欝者宜

 用樗根皮凡女子血崩産後血不止月信來多或赤帶

 下及小兒疳痢宜用椿根皮

鳳眼草 卽椿樹上所生莢也【蓋謂椿不莢生乃樗之莢也】燒灰淋水

 洗頭經一年眼如童子加椿根皮灰尤佳

 正月【七日】二月【八日】三月【四日】四月【五日】五月【二日】

 六月【四日七日】七八月【三日】九月【二十日】十月【二十三日】十一月【二十

 九日】十二月【十四日】可洗之

△按椿葉似𣾰而初生二三年者未分枝椏至秋莖葉皆

 落盡如立一棒其莖脫處有窪痕春梢生葉𬄡隨長而

 莖葉亦隨分經四五年者生枝椏最昜長葉香採嫩葉

[やぶちゃん注:「昜」は「易」の異体字。]

 噉之相傳黃蘗禪師始將來之呼曰香椿

[やぶちゃん注:「黃蘗禪師」は「黃檗禪師」の誤字。まあ、こんな草木の記載を蜿蜒と続けていれば、このうっかりも、同情出来るね。訓読では、良安先生のために、訂しておくことにする。]

 倭名抄椿【和名豆波木】爲海石榴之訓樗【和名沼天】爲五倍子樹

 之訓者並非也凡香椿及溙葉横理透背鮮明頗似橿

[やぶちゃん注:「溙」は「漆」の異体字。]

 葉而小兩兩對生【香椿折枝有香氣放臛汁食𣾰木折枝有汁粘人生𣾰瘡】

[やぶちゃん字注:「對」は「グリフウィキ」のこれに近い((へん)の上部が「北」のようになっている)が、表示出来ないので、正字で示した。]

 

   *

 

ちやんちゆん  𮓙目樹《こもくじゆ》

        大眼樹

椿【「杶《チユン》」≪に≫同じ。】

       【今、云ふ、「知也牟知牟《ちやんちん》」。

        唐音の訛《なまり》なり。】

        樗《ちよ》【臭椿《しうちん》なり。

              和名、「沼天《ぬるで》」。】

チユン     栲《かう》【山樗《さんちよ》なり。】

[やぶちゃん字注:「𮓙」は「虎」の異体字。]

 

「本綱」に曰はく、『椿《ちん》・樗《ちよ》・栲《かう》は、乃《すなはち》、一木≪にして≫三種なり。皆、亦、𣾰《うるし》の樹に類す。其の葉、脫《ぬく》る𠙚、痕(あと)、有り、𮓙《とら》の眼目のごとく、又、「樗蒲(カルタ)の子(め)」のごとし。故《ゆゑ》、之れ、名づく。其の木、長《ちやう》じ易くして、壽考《じゆかう》[やぶちゃん注:「寿命」。]、多し。故、「椿拷《ちんかう》」の稱、有り。「莊子《さうじ》」に言《いは》く、『大椿《だいちん》、八千歳を以つて、春秋と爲《な》す。』と≪は≫、是れなり。』≪と≫。

『椿《ちん》 皮、細《こまやか》、肌、堅實にして、赤し。嫩葉《わかば》、香《かぐはし》く、甘《かん》にして、茹《く》ふべし。』≪と≫。

『樗 皮、粗《あら》く、肌、虛《きよ》にして、白し。其の葉、臭く、𢙣《あ》し。其の木、最《もつとも》用ふること、無しと爲《な》す。「莊子」に所謂《いはゆ》る、『吾《われ》に、大木、有り。人、之れを「樗」と謂ふ。其の木、擁腫《ようしゆ》にして[やぶちゃん注:瘤(こぶ)があって。]、繩墨《じようぼく》に中《あた》らず、小枝、曲-拳(まが)りて、規矩(さしがね)に中らず。』と云ふ者なり[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]。樗の、花、有る者は、莢《さや》、無く、莢、有る者は、花、無し。其の莢、夏月、常に樗木《ちよぼく》に生ず。未だ、椿《ちん》の、莢、有る者は、見ず【然《しか》れども、世俗、之れを辨《わきま》へずして、樗≪の≫莢を、呼んで、「椿≪の≫莢」と爲《な》すのみ。】。』≪と≫。

『拷は』、『卽ち、樗の山中に生≪ずる≫者なり。亦、虛大《きよだい》なり。然れども、之れを、爪(つめ)りけ≪れ≫ば、腐-朽(く)ち≪たるが≫ごとし。故《ゆゑ》、以《つて》、「不才の木」と爲す。椿木《ちんぼく》の賢實≪にして≫、棟《むね》・梁《はり》に入≪るるに≫似ず。』≪と≫。

『椿根皮《ちんこんぴ》【色、赤にして、香《かをり》、血分《けつぶん》に入りて、性、濇《しぶし》。】 樗根皮《ちよこんぴ》は[やぶちゃん注:ママ。]【色、白にして、臭く、氣分に入りて、性、利《とほ》す。】 其の主治の功、同じと雖も、濇《しよく》・利《り》の效は、則ち、異《い》なり。正に、伏苓《ぶくりやう》・芍藥《しやくやく》の、赤きと、白きと、頗《すこぶ》る殊《こと》なるがごとし。凡そ、血分に病《やまひ》を受けて、不足の者、椿根皮を用ふるに、宜《よろ》し。氣分に病を受けて、欝、有る者、樗根皮を用ふるに、宜《よろ》し。凡そ、女子の血崩、産後≪の≫血≪の≫止《や》まざる、月信《つきのおとづれ》來ること多く、或いは、「赤-帶-下(こしけ)」、及び、小兒の疳痢、椿根皮を用ふるに、宜し。』≪と≫。[やぶちゃん注:最後の部分の「宜」は、配された送り仮名から、再読文字として読むことは不可能である。]

『鳳眼草《ほうがんさう》 卽ち椿樹《ちんじゆ》の上に生ずる所の莢なり。』≪と≫【蓋し、椿《ちん》は莢を生ぜず。乃《すなはち》、≪ここで謂ふ所の「莢」は、≫樗の莢を謂ふなり。】。[やぶちゃん注:この上の割注は「本草綱目」にはない。されば、良安が挿入したものである。東洋文庫訳が問題なのは、既に何ヶ所もあった、こうした良安の挿入した部分を、全く明らかにしていない点である。私も嘗てはそうだったが、恐らく読者の半数以上は、「△」の前の「本綱」以下となっているものは、総てが時珍の記述だと思い込んで無批判に読んでいるに違いないからである。]『灰に燒きて、水を淋《そそぎ》、頭を洗へば、一年を經て、眼、童子のごとし。椿根皮の灰を加へて、尤も佳≪なり≫。』≪と≫。

『正月【七日。】・二月【八日。】・三月【四日。】・四月【五日。】・五月【二日。】・六月【四日・七日。】・七、八月【三日。】・九月【二十日。】・十月【二十三日。】・十一月【二十九日。】・十二月【十四日。】、之れを洗ふべし。』≪と≫。

△按ずるに、椿《ちん》の葉、𣾰《うるし》に似て、初生二、三年の者は、未だ枝椏《えだまた》を分たず。秋に至りて、莖・葉、皆、落盡《おちつくし》て、一棒《いちぼう》を立つるがごとし。其の莖の脫《ぬけ》たる處に、窪(くぼ)き痕(あと)、有り。春、梢に、葉を生じて、𬄡(しん)に隨ひて長《ちやう》じて、莖・葉も亦、隨ひて分《わか》つ。四、五年を經《へ》る者、枝椏を生じ、最も長じ昜《やす》く、葉≪の≫香《かんば》し。嫩葉《わかば》を採りて、之れを噉《くら》ふ。相≪ひ≫傳≪へて≫、「黃檗禪師、始めて、之れを將來す。呼んで「香椿(ヒヤンチユン)」と曰ふ」≪と≫。

「倭名抄」に、『椿【和名、「豆波木《つばき》」。】』≪と≫、「海石榴(つばき)」の訓と爲《な》し、『樗【和名、「沼天《ぬるで》」。】』≪と≫、「五倍子樹(ぬるでの《き》)」の訓を爲すは、並びに、非なり。凡そ、「香椿(ヒヤンチユン)」及び「溙《うるし》」の葉の横-理(よこすぢ)、背に透(とほ)り、鮮-明(あざやか)≪にして≫、頗《すこぶ》る橿(かし)の葉に似て、小さく、兩《ふた》つ兩《づつ》、生ず【「香椿」は、枝を折れば、香氣、有り、臛汁《にくじる》≪のごとき汁(しる)を≫放ち、食ふ。𣾰の木は、枝を折れば、汁、有≪れども≫、人に粘《つ》≪けば≫、𣾰瘡《うるしかぶれ》を生ず。】。

 

[やぶちゃん注:この困難な項(原文と訓読だけで、延べ六時間を要した)は、今までのような、日中の種の違いを、良安は、全文を通して、重要な核心部分に就いては、ほぼ正しく認識して叙述していると言ってよいだろう(現行の植物学から見れば、当然、細部の誤りあるが)。まず、彼が、医師・本草学者として、真の「椿」を『椿《ちん》・樗《ちよ》・栲《かう》』の三種に分け、本邦の椿(つばき=藪椿:ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica )を、ここでは、排除した点が素晴らしい。順に見てゆこう。

①椿(ちん)は、双子葉植物綱ムクロジ目センダン科Toona属チャンチン Toona sinensis

である。当該ウィキによれば、『センダン科』Meliaceae『の落葉高木。中国中部・北部原産』で、Cedrela sinensis は『シノニム』である。『高さは』十『メートルほど。葉は卵形の多数の小葉からなる羽状複葉で、若芽は赤褐色を帯び、茎・葉・花に独特のにおいがある。花期は』七『月頃。枝頂から房状に白い小花が密生して』、『多数』、『咲く。実は果で』、『秋に熟して』五『裂する。庭木や街路樹とされ、材は堅く、家具や器具用材などに用いる』。『若芽は中華圏で春の野菜として食べられる』。『中国では「椿」のみでチャンチンを表しており、逆に中国語で「ツバキ」は「山茶花」「日本椿花」などと表記されている』とある。同種の中文当該ウィキ「香椿」の記載は、瘦せた日本の記事の十倍以上あるので、参照されたい。時珍の引いた「荘子」の話も記されてある。

②―1樗(ちょ)は、まず、クロッソソマ目 Crossosomatalesミツバウツギ科ミツバウツギ属ゴンズイ Staphylea japonica

を考えた。(この漢字は本邦では、ムクロジ目センダン科センダン属センダン変種センダンMelia azedarach var. subtripinnata の古名でもあるが、ここでは、無関係。因みに、私はセンダンの花が大好きだ)。当該ウィキによれば、『和名「ゴンズイ」の由来には諸説あり、判然としない。植物学者の清水建美』『は以下の』四『説を挙げている』。『役に立たない魚のゴンズイ』(海産のナマズ類である硬骨魚綱ナマズ目ゴンズイ科ゴンズイ属ゴンズイ Plotosus japonicus 。よく知らない方は、私の「大和本草卷之十三 魚之下 海𫙬𮈔魚 (ゴンズイ)」を読まれたい)『になぞらえて、それと同様に材が役に立たないため』。『熊野権現の守り札を付ける牛王杖(ごおうづえ)がなまったもの。この杖を本種で作ったため』。『赤い果実から真っ黒の種子が出るのが天人の「五衰の花」を思わせることから(中村浩の説)』。『ミカン科』Rutaceae『の植物であるゴシュユ』ムクロジ目ミカン科ゴシュユ(呉茱萸)属ゴシュユ Tetradium ruticarpum )『に似ていることから(深津正の説)』。『「日本の植物学の父」ともよばれる牧野富太郎』『は魚のゴンズイ説を採り、本種にかつてニワウルシ(やはり役に立たない木)と混同されたことを根拠としてあげている』。『なお、沖縄ではミハンチャギ』・『ミィハジキー』『などの方言名が伝わる。果実が裂けることに関するものと思われる』『中国名は「野鴉椿」』(翻って、当該中文ウィキは話にならないほど、記載がない)。『日本では本州の関東地方(茨城県)から富山県より西、四国、九州、琉球列島に産する』。『日本国外では朝鮮南部、台湾北部、及び中国中部に分布する』。『山地に自生し』、『二次林や林縁部に生える』。『落葉広葉樹の小高木』。『高さは普通』三~六『メートル』『だが』、『時に』十メートルに『達する』。『樹皮は紫黒色や黒緑色を帯びた灰褐色で、細長い割れ目状の皮目が縦に走って』、『割れ目が入る』。『樹皮の白い縦の筋は次第に黒っぽくなる』。『一年枝は緑褐色や紫褐色で太く、無毛で白い線形の皮目がある』。『普通は頂芽ができず』、一『対の仮頂芽から有花枝、あるいは無花枝を伸ばして成長する』。『さらに側芽から枝を伸ばすことは少ない。有花枝は』二~三『対の葉と、先端に花序を付け、無花枝は』二~三『対の葉のみを付ける』。『葉は対生し、奇数羽状複葉で全体の長さは』十~㉚『センチメートル 』、『幅は』六~十二センチメートル。『葉柄は長さ』三~十センチメートル『あり、複葉の軸とともに無毛』。『小葉の葉柄は、側小葉では長さ』二~十二『ミリメートル 』、『頂小葉では』、『より長くて』二~三センチメートルで、『短い毛がある』。但し、『時に頂小葉がない場合がある。小葉の葉身は狭卵形で、長さ』四~九センチメートルで、幅は二~五センチメートル。『硬くて表面につやがあり、先端は尖り、基部は丸みを帯びるかやや広い楔形』。『裏面の中脈や側脈の上に短い毛がある』。『葉縁には細かい鋸歯がある』。『秋に紅葉するが、日当たりのよい木では、しばしば葉全体が濃い紫色になる』。『これは、葉緑素の色素がなかなか抜けず、アントシアニンの赤い色素と重なって紫色に見える現象で、やがて緑色が抜ければ赤色や橙色になる』。『花期は』五~六月で、『枝先から出る円錐花序は長さ』十五~二十センチメートルで、『よく分枝して多数の花をつける』。『花は淡黄緑色で、径』四~五ミリメートル。『花柄は長さ』一~二ミリメートル。『萼裂片と花弁はいずれも楕円形で長さ約』二ミリメートル。『雄蕊、雌蕊は花弁とほぼ同長、子房は』二『室』、乃至、三『室からなり、同数の柱頭と花柱が互いに接着する』。『果期は』九~十月。『果実は袋果で半月形』で、一『つの花から』一~三『個生じ、長さ』一~一・三センチメートルに『なる』。『これは子房の心皮がその数だけに裂け、反り返ったもので』、『果実の各部分は肉質で熟すると赤くなり』、『鎌形に曲がって反転し、太い条がある。それが裂けると中から』一~三『個の種子が顔を出す』。『裂けて見える子房の内側も鮮紅色で美しい』。『種子はほぼ球形で径約』五ミリメートル、『黒色で強い光沢がある』。『また、種子は当初、赤い仮種皮に包まれている』。『葉や実には臭気がある』(本文の異名「臭椿」と合致するように感じはした)。『冬芽は鱗芽で、芽鱗は暗紅紫色で』二~四『枚つく』。『枝先に仮頂芽が』二『個、または』一『個つき、側芽は枝に対生する』。『葉痕は半円形で、維管束痕が』七~九『個輪状に並ぶ』。以下、「分類」の項だが、記載が古いのでカットする。『材は黄白色で、軽く柔らかいが』、『割れにくい。材としての利用価値はない。キクラゲ栽培の原木には使える』。『沖縄で』、『枝をお祭りの際に使用したと言う』。『庭園樹などとして栽培されることがある。若芽は食用になり、茹でてお浸しなどにされる』。『中国では果実や種子を腹痛や下痢止めとして用いる』とあった。

 ところが、本文の注を進めている内に、全くの別種の有力候補が出現してきたのであった。それは、

◎②―Ⅱムクロジ目ニガキ科ニワウルシ属ニワウルシ Ailanthus altissima

である。当該ウィキによれば、本種の異名として「庭漆」・「樗」「臭椿」が挙げてあり、『落葉高木。別名、シンジュ(神樹)。和名に「ウルシ」がついているが、ウルシ(ウルシ科)とは全くの別種』であり、『ウルシのようにかぶれる心配はない。ニワウルシの和名は、ウルシに似ているが、かぶれないので庭に植えられることから。シンジュは英語名称の』“Tree of Heaven”(ツリー・オブ・ヘヴン:「天国の木」)、『ドイツ語名称の』“Götterbaum”(ゲッターバウム:「神の木」)の『和訳による。中国原産で、中国名は臭椿(別名:樗)』ときちまったので、こちらが比定同定として正しいということになった(決定打は後注「樗根皮《ちよこんぴ》」を参照)。『原産は中国北中部。日本には明治初期に渡来し』、現在では、『街路樹などにされ、野生化しており、河川敷などで群生している』。『ガ(蛾)の一種であるシンジュサン』(鱗翅(チョウ)目ヤママユガ科シンジュサン(蚕・神樹蚕)属シンジュサン Samia cynthia pryeri :朝鮮半島・中国・日本に分布)『の食樹としても知られ、シンジュサンでの養蚕目的に栽培されたことも各地に野生化する原因となった。近年では』、『道端などに広く野生化しており、日本同様に導入されたアメリカなどでは問題化している』。『農業害虫のシタベニハゴロモ』(半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目ビワハゴロモ科 Lycorma 属シタベニハゴロモ Lycorma delicatula )『が繁殖することでも知られ、アメリカや日本』『に帰化して問題となっている』。『落葉広葉樹の高木で、樹高は』十~二十『メートル』『になる』。『幹は真っ直ぐで枝は太い』。『樹皮は灰色で皮目があり、滑らかであるが、のちに縦波状の筋ができる』。『一年枝は赤褐色で太く、皮目が多く、枝先に毛が残ることがある』。『葉は大型の奇数羽状複葉を互生し、生長すると長さ』一メートル『近くなる』。『花期は』六月。『雌雄異株で、夏に緑白色の小花を多数円錐状につける。果実は秋に褐色に熟し』、『披針形で中央に種子がある。枯れて白っぽくカサカサになった翼果が、冬でも枝によく残る』。『冬芽は平たい半球状で小さい鱗芽で、芽鱗』三~四『枚に包まれる』。『枝先の仮頂芽と、枝に互生する側芽はほぼ同じ大きさである』。『葉痕は大きくて目立つ心形で、維管束痕は葉痕の縁に並ぶ』。『アレロパシー効果』『で他の植物の成長を阻害する』。『成長が早く、庭木、街路樹、器具材などに用いられる』。(これも――ダメ押し決定打――となった☞)『中国では根皮や樹皮を樗白皮(ちょはくひ)の名で解熱・止瀉・止血・駆虫などに用いる』とあった。

③栲(こう)は、ブナ目ブナ科シイ属カスタノプシス・ファルギシイ Castanopsis fargesii

である。本種は中国以外には、フィリピンの一部や、ボルネオ島の東北の諸島にしか分布しないようである。当該中文ウィキには、『本種は安徽省、福建省、広東省、広西チワン族自治区、貴州省、湖北省、湖南省、江蘇省、江西省、四川省、台湾、雲南省、浙江省に分布し、通常は標高二百~二千百メートルの常緑広葉樹林で見られる』とあった。この種は記載が少ない。本邦種の記載しかないないが、ウィキの「シイ」をリンクさせておく。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「椿樗」(ガイド・ナンバー[085-13b]以下)から。

「𮓙」(虎)「目樹」「大眼樹」後者は、上記の原文を見ても、また、中文当該ウィキ「香椿」でも判る通り、良安の引用ミスで「大眼桐」が正しい。サイト「TERRARIUM」の「チャンチン(香椿)」の左から二枚目の木肌の写真を見られたい。何やらん、この二つの異名が、私には、腑に落ちた。

「杶《チユン》」この漢字は先に出したセンダンを指す漢語であるが、良安が大項目名の直下に配する割注は、発音を示しているに過ぎないので、何らの問題は、ない。

「唐音」「黃蘗」で既出既注。

「樗蒲(カルタ)の子(め)」中国渡来の賭博 の一種である「樗蒲一(ちよぼいち)」で使う骰子(さいころ)のこと。一個の骰子で出る目を予測し、予測が当たれば、賭け金の四倍、又は、五倍を得る賭博。「樗蒲」は、中国古代の賭博で、後漢頃から唐まで流行った。但し、その頃の道具は、骰子ではなく、平たい楕円板を五枚投げて、その裏表によって双六のように駒を進めるゲームであったらしい。「一」は骰子を一個しか使用しないことに由来する。

『「莊子《さうじ》」に言《いは》く、『大椿《だいちん》、八千歳を以つて、春秋と爲《な》す。』と≪は≫、是れなり』「荘子」の「逍遙遊第一」にある以下。注を附すのが面倒になるので、前半部をカットした。

   *

 小知不及大知、小年不及大年。奚以知其然也。朝菌不知晦朔、蟪蛄不知春秋。此小年也。楚之南有冥靈者、以五百歲爲春、五百歲爲秋。上古有大椿者、以八千歲爲春。八千歲爲秋。而彭祖乃今以久特聞、衆人匹之、不亦悲乎。湯之問棘也是已。

   *

 小知は大知に及ばず、小年は大年に及ばず。奚(なに)を以つて、其の然(しか)るを知るや。朝菌(てう)は晦朔(かいさく)を知らず、蟪蛄(けいこ)は春秋を知らず。此れ小年なり。楚の南に、冥靈(めいれい)なる者あり、五百歲を以つて春と爲し、五百歲を秋と爲(な)す。上古に大椿(たいちん)なる者あり、八千歲を以つて春と爲し、八千歲を秋と爲す。而るに彭祖(はうそ)は、乃-今(いま)、久(きう)を以つて、特(ひと)り、聞こえ、衆人、之れに匹(くら)ぶ、亦、悲しからずや。湯(たう)の棘(きよく)に問(と)へるや、是れのみ。

   *

 小(ち)さき知は、大いなる知には及ばず、短い寿命は、大いなる寿命には及ばない。どうしてそのことが判るかと言うか? 朝に生まれたある虫は、夕方を知らずして死に、夏蟬はひと夏の命で、春と秋を知らぬ。これが短い生命の時間だ。さて、楚の国の南には、「冥霊(めいれい)」という木がある。五百年の間が、成長し、繁茂する「春」であり、また、さらに、五百年の間が、紅葉・落葉の「秋」に当たる。遙か古えには、「大椿(だいちん)」という木があり、これは、八千年の間が、成長し、繁茂する「春」であり、さらに、八千年の間が、紅葉・落葉の「秋」に当たる。ところが、今や、僅か八百年を生きたというだけの彭祖(ほうそ)ばかりを引き合いに出す。たかが、僅か八百年だ! 何んと、悲しいことではないか?! 殷の湯王(とうおう)が賢臣の夏棘(かきょく)に訊ねたことも、これに他ならぬ。

   *

「彭祖」中国の神話の中で長寿の仙人とされ、伝説中では「南極老人星」(カノープス:りゅうこつ座α星)の化身とされており、八百歳の寿命を保ったことで知られる。姓は彭、名は翦(せん)で、籛鏗(せんこう)とも呼ぶ。詳しくは、参考にした当該ウィキを見られたい。「湯王」は、夏の暴君桀王を討って、殷を建国した聖王。「列子」の「湯王問」に似たものが見えるが、「荘子」との関係には問題がある、岩波文庫「荘子」(一九七一年刊)の金子治の注にあった。「荘子」は、私が金子氏のそれで完全に精読した唯一の漢籍の哲学書である。

「肌、虛《きよ》にして」木肌が、ガサガサとして虚(うつ)ろな部分が多いことを言っていよう。

『「莊子」に所謂《いはゆ》る、『吾《われ》に、大木、有り。人、之れを「樗」と謂ふ。其の木、擁腫《ようしゆ》にして、繩墨《じようぼく》に中《あた》らず、小枝、曲-拳(まが)りて、規矩(さしがね)に中らず。』と云ふ者なり』同前の篇の終りの部分にある、所謂「無用の用」のパラドクスである。

   *

 惠子、謂莊子曰、「吾有大樹、人謂之樗、其大本擁腫而不中繩墨、其小枝卷曲而不中規矩、立之塗匠者不顧、今、子之言大而無用、衆所同去也。」。莊子曰、「子獨不見狸狌乎、卑身而伏、以候敖者、東西跳梁不避高下、中於機辟、死于罔罟、今夫𤛆牛、其大若埀天之雲、此能爲大矣、而不能執鼠、今、子有大樹患其無用、何不樹之于無何有之鄕・廣莫之野、彷徨乎無爲其側、逍遙乎寢臥其下、不夭斤斧、物無害者、無所可用、安所困苦哉。

   *

 惠子、莊子に謂(い)ひて曰はく、

「吾に大樹あり、人、之れを『樗(ちよ)と謂ふ。其の大本(だいほん)、擁腫(ようしゆ)にして、繩墨(じようぼく)に中(あた)らず、小枝、卷曲(けんきよく)して規矩(きく)に中らず。之れを塗(みち)に立つるも、匠者(しやうしや)、顧みず。今、子(し)の言は、大にして無用、衆の同(とも)に去(す)つる所なり。」

と。

 莊子曰はく、

「子は、獨(ひと)り、狸牲(りせい)を見ざるか。身を卑(ひく)くして伏し、以つて、敖者(がうしや)を候(うかが)ひ、東西に跳梁して、高下(かうげ)を避(さ)けざるに、機辟(きへき)に中(あた)りて、罔罟(まうこ)に死す。今、夫(か)の𤛆牛(りぎう)は、其の大なること、埀天(すいてん)の雲のごとし。此れ、能く、大(だい)たるも、而(しか)も、鼠(ねずみ)を執(と)らふること、能(あた)はず。今、子に大樹有りて、其の無用を患(うれ)ふ。何ぞ、これを『無何有(むかいう)』の鄕(きやう)、廣漠の野(や)に樹(う)ゑ、彷徨乎(ほうかうこ)として、其の側(そば)に無爲(むゐ)にし、逍遙乎(しやうやうこ)として、其の下に寢臥(しんぐわ)せざるや。斤斧(きんふ)に夭(たちき)られず、物の害する者、なし。用ふべき所なくも、安(なん)ぞ困苦する所、あらんや。」

と。

   *

 恵子が荘子に向かって話しかけて言うことには、

「私の地所に大木があって、人々は、これを『樗(ちょ)』と呼んでおりますが、その幹たるや、節くれ立った、瘤(こぶ)だらけ、直線も、引けず、その小枝に至っては、曲がりくねっていて、規(ぶんまわし:コンパス)や矩(さしがね)は使えません。されば、道端に立てて置いても、大工も、振り向きも致しません。ところで、貴方の話も、みな、これ、大袈裟過ぎて、用いようがありませんから、人々みんなに、そっぽを向かれるのですよ。」

と。

 荘子の言うことには、

「貴方は、あの鼬(いたち)を見たことがありませんかねえ? 姿勢を低くして、隠れていて、ふらふらと出てくる小さな獲物(えもの)に狙いをつけ、あちらこちらへ、跳びはね、高い所へも、低い所へもゆく奴ですよ。しかし、結局のところ、その器用さが仇(あだ)になって、罠(わな)や捕り網(あみ)に掛って殺されていますね。ところで、あの唐牛(からうし)は、その大きいこと、まるで大空一杯に広がった雲のようであり、全く以って、大きいのですが、小さな鼠を捕まえたりすることは、出来ませんね。今、貴方のところに大木があって、用いようが全くないと、ご心配されておるようですが、それを、物一つない世界、人一人おらぬ曠野のど真中に立てて、その側(かたわ)らにあって、勝手気儘にやすらい、その樹の木蔭あって、のびのびと腹這いになって眠ることを、どうして、なさなないのか? 鉞(まさかり)や斧で断ち斬られることなく、そして、何物も害を加えることが出来ない。用いようがないからと言って、何の悩むことがあると言うのです?」

と。

   *

この「惠子」は戦国時代の政治家・思想家で諸子百家の「名家」(一種の論理学派)の筆頭荘子の友にして、後者の厭味たっぷりの慇懃無礼で判る通り、「荘子」の中で荘子に屁理屈に近い理詰めで挑んでくるトリック・スター役を務める惠施(けい し 紀元前三七〇年頃~紀元前三一〇年頃)である。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「爪(つめ)りけ≪れ≫ば」「爪で以って、こぞり削ると」。

腐-朽(く)ち≪たるが≫ごとし。故《ゆゑ》、以《つて》、「不才の木」と爲す。椿木《ちんぼく》の賢實≪にして≫、棟《むね》・梁《はり》に入≪るるに≫似ず。』≪と≫。

「椿根皮《ちんこんぴ》」漢方生薬サイト「イアトリズム」の「椿根皮」を参照されたい。

「濇《しぶし》」東洋文庫訳は『濇(しぶ)る』。確かに、辞書を見ると、「渋る」「滞(とどこお)る」といった動詞の意味が頭にあるが、後に「滑らかでないさま」「渋い」という形容詞の意味もある。ここは、薬剤作用の様態を言っているので、私は「澁し」という訓読みを採用した。

「樗根皮《ちよこんぴ》」同前サイトに「樗木根皮」があるので参照されたいが、そこでは基原植物として、『ニガキ科ニワウルシ属ニワウルシの根皮』を挙げてあり、これが冒頭で②―Ⅱとして有力候補として挙げた理由である。

「伏苓」「茯苓」が普通。菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa の漢方名。中国では食用としても好まれる。詳しくは「三州奇談卷之二 切通の茯苓」の私の冒頭注を参照されたい。

「芍藥」ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora 或いは近縁種の根から製した生薬。消炎・鎮痛・抗菌・止血・抗痙攣作用を有する。

「女子の血崩」東洋文庫訳で割注して、『(至急からの急な多量出血)』とある。

「月信《つきのおとづれ》來ること多く」メンスの出血が尋常より多い状態を指す。

「小兒の疳痢」幼児の神経性或いは心身症を起因とする下痢。

「鳳眼草《ほうがんさう》」ダメ押しのダメ押し。「ニワウルシ」の中文当該ウィキ「臭椿」に『臭椿的翅果』(ニレやカエデで見られる「つばさ」のようなツクバネ型の「翼果」のこと)『也用於現代中藥』、『叫做』(「~と称されている」の意)『「鳳眼草」』とあった。

「眼、童子のごとし」東洋文庫訳に『眼は童子のように生き生きとする』とある。

『正月【七日。】・二月【八日。】……』これは日の指定に単純ではない法則性がありそうなので、古くからの旧暦法に対応した易や、五行説、民間の曆(こよみ)との関係があるのだろうが、占いに興味関心ゼロの私は調べる気にならない。悪しからず。

「𬄡(しん)」木の幹の芯。

「黃檗禪師」明からの来朝僧隠元隆琦 (一五九二年~寛文一三(一六七三)年)。福建省出身で、本邦の黄檗宗の祖とされる。承応三(一六五四)年に同じ明の渡来僧逸然性融(いつねんしょうゆう)らの招きで来日した。山城宇治に土地を与えられ、万福寺を開いた。建築・書画・詩文・料理などに明の文化を齎した。「隠元禅師語録」は有名。

『「倭名抄」に、『椿【和名、「豆波木《つばき》」。】』≪と≫、「海石榴(つばき)」の訓と爲《な》し、『樗【和名、「沼天《ぬるで》」。】』≪と≫、「五倍子樹(ぬるでの《き》)」の訓を爲す』「和名類聚鈔」の「卷二十」の「草木部第三十二」の「木類第二百四十八」に「椿」が(以下二本ともに国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年版を視認して参考とし、推定訓読した。清音部はママである)、ここで、

   *

椿(つはき) 「唐韻」に云はく、『椿【敕」「倫」反。和名「豆波木」。】。木の名なり。「楊氏漢語抄」に云はく、『海石榴【】和名、上に同し。「本朝式」等、之れを用ゆ。』。

   *

とあり、それより前に、「樗」が、ここ

   *

樗(ぬて) 陸詞か「切韻」に云はく、『樗は【「勅」「居」の反。「和名本草」に云はく、「沼天」。]】𢙣木なり。』。「辨色立成」に云はく、『白膠木は【和名、上に同じ】。』。

   *

「溙《うるし》」狭義の「漆」はムクロジ目ウルシ科ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum 。因みに、次の項が「𣾰(うるし)」(ウルシ)である。

「橿(かし)」ブナ目ブナ科 Fagaceaeの一群の総称。狭義にはコナラ属 Quercus 中の常緑性の種を呼ぶ。]

2024/06/16

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(7)

 

   煤掃や埃に日のさす食時分 千 川

 

 煤掃[やぶちゃん注:「すすはき」。]が一わたり濟んで晝飯になる。まだ片づききらぬ家の中で飯を食ふ。がらんとした室内に冬の日光がさし込んで、こまかい埃の浮動するのが見える、といふ意味であらう。「埃に日のさす」といふ言葉から見ると、一隅に掃寄せられたごみに日が當るといふ意味に解せられぬこともないが、それでは趣が少い。飯時分になつて稍〻落著いた室內に、さし入る日光をしみじみと見る。その中に浮動する埃にも或美しさを感ずる、といふことでなければならぬと思ふ。

「食時分」は「メシジブン」とよむのである。

 特に煤掃の時といふ記憶は無いが、日光に浮動する埃の美しさを感じたことは、吾々も子供の時分にある。美に對する子供の感じは存外早く發達するのである。あの中に無數の黴菌があるといふやうなことばかり敎へて、何ものの中にも美の存することを知らしめぬのは、果して子供の爲に幸福であるかどうか。――この句を讀んでそんな餘計なことを考へた。

 

   冬枯や物にまぎるゝ鳶の色 吏 明

 

 冬になつて天地が蕭條たる色彩に充される。さういふ天地の間に在る時、茶褐色の鳶の姿が物にまぎれて見えるといふのであらう。保護色などといふ面倒な次第ではない。鳶も亦冬枯色の中に存するのである。

 作者は冬枯の中に鳶を點じ去つただけで、鳶そのものの狀態に就ては何も說明してゐない。飛んでゐるか、とまつてゐるかといふことも、句の表には現してゐないが、冬枯を背景とし、その色彩に紛るゝとある以上、これはとまつてゐる鳶と見るを至當とする。「物にまぎるゝ」といふ七字が簡單にこれを悉してゐる[やぶちゃん注:「つくしてゐる」。]。

 

   麥まきや風にまけたる鳶烏 吏 明

 

 寒い畑に出て麥を蒔まきつゝある。强い風が野一面に吹きまくる。先程まで飛んでゐた鳶も烏も、風に堪へられなくなつたと見えて、そこらに影が見えなくなつた、といふ意味かと思はれる。

「風にまけたる」といふ言葉は上乘のものではないかも知れない。たゞ現在風に吹かれつゝある――吹き惱まされつゝある狀態だけでなしに、今し方まで飛んでゐたのが、いつか見えなくなつたといふ時間的經過を現し、その上に風の强い意味まで含ませるとすれば、やはりかういふ意味の言葉を使はなければをさまらぬのであらう。この種の言葉も元祿期の一特徵である。

 

   初雪や桐の丸葉の片さがり 路 健

 

 雪に對して桐の葉を持出したところに特色がある。桐一葉は秋の到るを現すのに恰好なものであるが、それだからと云つて、桐の葉は冬を待たずに全部落ち盡すわけではない。かなり遲くまで枝についてゐる葉がある。同じ作者の句に「初雪や桐の葉はまだ落果ず」といふのがあるが、これは桐の梢がまだ幾葉もとゞめてゐることを現したのである。「片さがり」の句はその葉の一に目をとめて、片さがりになつてゐる狀態を捉へた。「丸葉」は今の人だつたら「廣葉」といふところかも知れない。

 俳句は或傳統の上に立つ詩である。季題趣味といふものも、傳統の上に立たなければ解し得ぬ點がいくらもある。併しそれが爲に、桐の葉は秋に落ちるものだから、雪に配するのは常磐木か枯木に限るといふやうな既成觀念を生じて來ると、多少の危險を伴ふことを免れぬ。句の趣は直に自然に就て探るべく、歲時記や既成觀念に支配される必要は少しも無い。古人も夙にそれを實行してゐることは、雪中の桐の葉がよく之を證してゐる。

 

   栴檀の實にひよ鳥や寒の雨 蘆 文

 

 この栴檀は二葉より馨しい[やぶちゃん注:「かんばしい」。]名木ではない。アフチの實である。嘗て新年に伊勢神宮に參拜した時、黃色い實のなつてゐる木があつて、センダンだと敎へられた。「栴檀のほろほろ落つる二月かな」といふ子規居士の句を成程と合點したが、今度はこの句を讀んであの木のことを思ひ出した。

 寒の雨の降る中を、鵯[やぶちゃん注:「ひよどり」。]が栴檀の實を食ひに來る。鵯も栴檀の實も等しく雨に濡れつゝある。寒いながら何となく親しい感じのする句である。

[やぶちゃん注:「ひよ鳥」スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵯(ひえどり・ひよどり) (ヒヨドリ)」を見られたい。

「栴檀は二葉より馨しい名木」双子葉植物綱ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album の中国語の異名。

「アフチ」ムクロジ目センダン科センダン属センダン変種センダンMelia azedarach var. subtripinnata 。私は花が大好き。

「栴檀のほろほろ落つる二月かな」明治二七(一八九四)年、満二十六歳の時の作。表記は、

   *

 栴檀のほろほろ落る二月かな

   *

である。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 杜仲

 

Totyu

 

とちう  思仲  思仙

     木綿  檰

      【和名波比末由美】

杜仲

     【昔有杜仲者服此

      得道因名之思仲

トウ チヨン   思仙皆由此義】

 

本綱杜仲生深山中樹髙數丈葉似辛夷及柘葉其皮折

之銀𮈔相連如綿故名木綿初生嫩葉可食其花實苦澀

其子名逐折【與厚朴子同名】

皮【甘微辛温】 肝經氣分藥潤肝燥補肝虛葢肝主筋腎主骨

 腎𭀚則骨強肝𭀚則筋健屈伸利用皆屬于筋杜仲能

[やぶちゃん字注:「𭀚」は「充」の異体字。]

 入肝而補腎治腰膝痛み以酒行之則爲効容易矣【惡玄參】

△按杜仲本朝古有之今亦有稱杜仲者皮相似而無𮈔

 入藥來於中𬜻者佳

 

   *

 

とちう  思仲  思仙

     木綿《もくめん》  檰《めん》

      【和名、「波比末由美《はひまゆみ》」。】

杜仲

     【昔し、杜仲と云ふ者、有り、此れを服

      して、道≪を≫得。因りて、之れを名

      づく。「思仲」「思仙」、皆、此の義の由

トウ チヨン   《よし》。】

 

「本綱」に曰はく、『杜仲、深山の中に生ず。樹の髙さ、數丈。葉、辛夷(こぶし)、及び、柘《しや》の葉に似る。其の皮、之れを折るに、銀𮈔《ぎんし》、相《あひ》連りて、綿《わた》のごとし。故に「木綿《もくめん》」と名づく。初生の嫩葉《わかば》、食ふべし。其の花實《くわじつ》、苦く澀《しぶ》し。其の子《たね》を「逐折《ちくせつ》」と名づく【「厚朴《かうぼく》」の子と名を同じくす。】。』≪と≫。

『皮【甘、微辛、温。】 肝經《かんけい》の氣分の藥にて、肝の燥(かは)くを潤《うるほ》し、肝の虛を補ふ。葢し、肝は、筋を主《つかさど》り、腎は、骨を主る。腎、𭀚(み)つれば、則ち、骨、強く、肝、𭀚《みつ》れば、則ち、筋、健(すくや)かなり。屈伸の利用、皆、筋に屬す。杜仲、能く、肝に入りて、腎を補ひ、腰・膝の痛みを治す。酒を以つて、之れを行(めぐら)す。則ち、効(しるし)を爲《なす》こと、容-易(たやす)し【「玄參《げんじん》」を惡《い》む。】。』≪と≫。

△按ずるに、杜仲、本朝、古《いに》しへ、之れ、有り。今に亦、杜仲と稱する者、有り、皮、相ひ似て、𮈔≪は≫、無し。藥に入るに≪は≫、中𬜻より來たる者、佳《よ》し。

 

[やぶちゃん注:真の漢方の「杜仲」の基原植物は、一科一属一種である、

双子葉植物綱トチュウ目トチュウ科トチュウ属トチュウ Eucommia ulmoides

である(新しいAPG分類体系ではガリア目Garryalesに分類されているが、このガリア目もガリア属 Garrya とアオキ属 Aucuba との三属二十種足らずの小世帯である)。中国大陸原産で、本邦には自生しない。当該ウィキによれば、『日本にトチュウが導入されたのは』大正七( 一九一八)年、或いは、『一説には』明治三二(一八九九)年と『されている』とあるので、良安の言っている、本邦にも、古くに杜仲が自生していた、というような文々は誤りである。而して、同前ウィキに『日本では平安時代に貴族階級で「和杜仲」という強壮剤が使われていたが、これはトチュウ科のトチュウではなく』、『ニシキギ科』Celastraceae『のマサキとされている』とあったので、考証する手間が省けた。その「マサキ」(柾・正木)とは、

ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus

で、中国・朝鮮半島・日本に自生する。現在のマサキの中文名は「冬青衛矛」である。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「杜仲(ガイド・ナンバー[085-11b]以下)。

「波比末由美《はひまゆみ》」小学館「日本国語大辞典」に、『植物「とちゅう(杜仲)」または、「まさき(柾)」の古名』とし、「杜仲」の本邦の使用例の初出を「出雲風土記」とし、他に「新撰字鏡」(平安前期末に書かれた漢和字書。昌住(しょうじゅう)著で昌泰年間(八九八~九〇一年)成立)が挙げられてある。

「杜仲と云ふ者、有り、此れを服して、道≪を≫得」言わずもがな、元は太古の仙人の名とする。かの秦の始皇帝が、晩年に、不老不死の妙薬の探索を徐福に命じ、仙人の名を持つ「杜仲」を服用していたという逸話もあるという。

「辛夷(こぶし)」良安は、もう、確信犯で「コブシ」と振っているだが、これは、厳密には「シンイ」と読んでおくべきで(東洋文庫訳も『しんい』とルビする)、所謂、諸人の知る所の、私の好きな花である、モクレン目モクレン科モクレン属ハクモクレン節コブシ Magnolia kobus ではないからである。同種の中文ウィキを見られると、標題が「日本辛夷」となっている通り、日本、及び、韓国の済州島の温帯から暖帯上部にのみ分布するからである(一九二〇年に青島(チンタオ)に導入されたとある)。されば、ここはモクレン属Magnolia に留めねばならないのである

「柘《しや》」これも日中で異なるので、音で読んでおいた。中国では、

バラ目クワ科ハリグワ連ハリグワ属ハリグワ(中文名「柘」) Maclura tricuspidata

である。平凡社「世界大百科事典」他によれば、中国・朝鮮に原産し、時に栽培される棘のあるクワ科Moraceaeの落葉小高木で、若枝は、よく伸び、また、腋芽は短くまっすぐ伸びて棘となる。葉は互生し、ほぼ楕円形。全縁で、表面はつやのある緑色、裏面は淡緑色。雌雄異株で、六月頃に開花する。雄花序は葉腋に出て、短い柄に頂生し、ほぼ球形、多数の花が密生する。花は四枚の花被と、それに対生する雄蕊四本からなる。雌花序も球形で,花には花被四枚と雌蕊一本があり、長い花柱が、花被の隙間から超出する。花被片は肉質となり、赤く熟し、食べられる。樹皮や根は薬用に、材は黄色の染料に、果実は食用に、樹皮は製紙材料になる。また、葉はクワより堅いが、カイコの餌とする。なお、同属種カカツガユ Maclura cochinchinensis は、やや蔓性の常緑木本で、暖帯南部から亜熱帯に広く分布し、本邦でも、山口県・四国南部・九州・琉球に自生する、とあった。一方、本邦の「柘」は、古名で二種に当たり、

ツゲ(柘植)目ツゲ科ツゲ属ツゲ変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica

バラ目クワ科クワ属ヤマグワ Morus bombycis

である。前者は当該ウィキを、後者はウィキの「クワ」にある「ヤマグワ」を見られたい。後者は中国のハリグワの近縁種ではある。

「初生の嫩葉《わかば》、食ふべし」いろいろ読んでみたが、確実に同種の「葉」を食用にすることがちゃんと記されてあるのは、サイト「Botanic薬草LAB.」の「杜仲について」であった。そこには、漢方薬剤のガチガチの説明としてではなく、『ここでは特に、食品として楽しむことができる「杜仲葉」について主にまとめました』とあって、『漢方の分類五味五性では「甘」「温」になります。(一部で、皮を「辛」と分類している文献もありますが、甘が一般的)』とし、「杜仲葉」の項に、『葉をお茶にした杜仲茶には、血流を良くし、交感神経に働きかけ、血圧を下げる効果が最も知られています。杜仲葉配糖体(ゲニポシド酸)』(Geniposidic Acid)『が血圧に効果が有るといわれていて、医学的に実験し査読を通って発表されている論文があります。その成果を元に、特定保健用食品に認定された商品も市販されています』。『そのほか「肝腎から来る冷え」「頻尿」、さらに「ダイエット」にも効果があると言われ、体脂肪率や体重が減ったという報告も』あり、『ノンカフェインで妊婦さんや幼児でも安心して飲むことができます』とあった。

『其の子《たね》を「逐折《ちくせつ》」と名づく【「厚朴《かうぼく》」の子と名を同じくす。】。』前項「厚朴」を参照されたい。

「玄參《げんじん》」中国の真正の基原植物はシソ目ゴマノハグサ科ゴマノハグサ属玄參Scrophularia ningpoensis で、浙江省と四川省に分布する。

「藥に入るに≪は≫、中𬜻より來たる者、佳《よ》し」「日本薬学会」公式サイト内の「ゴマノハグサ」に、『江戸時代に小野蘭山が、玄参の原植物としてゴマノハグサを当てたことから、日本ではゴマノハグサ』(ゴマノハグサ属ゴマノハグサ Scrophularia buergeriana 当該ウィキによれば、『日本では、本州の関東地方南部・中部地方・中国地方、九州に分布し、やや湿り気にある草地、草原などに生育』し、『国外では、朝鮮半島、中国大陸北部・東北部に分布する』とあった)『の根が用いられてき』たとあり、また、『現在、市場で流通している玄参の多くは、中国産のものとなってい』るとあった。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(6)

 

   朝霜に摺餌摺なり步長屋 梨 月

 

「步長屋」は「カチナガヤ」と讀むのであらう。「カチ」は徒侍[やぶちゃん注:「かちざむらひ」。]、普通にオカチといふやつである。徒士とも書き、步行とも書くやうに聞いてゐる。こゝで徒侍の分限などに就て、武家生活の方から何か云ふのは、吾々の任でもなし、又この句にさう必要なわけでもない。步長屋は徒侍の住んでゐる長屋と解してよさゝうに思ふ。

 霜の白く置いた朝、さういふ步長屋で小鳥にやるべき摺餌を摺つてゐる。小鳥は朝起だから、無論早旦に相違無い。ゴロゴロ摺る摺餌の音と、朝霜との間には感じの上の調和があるが、朝早く鳥の摺餌なんぞを摺つてゐるところに、武家生活の或斷面が現れてゐるやうな氣がする。但それは眼前の小景を捉へたまでで、さう面倒な知識を要するほどのものではない。

 

   更る夜や舟の咳きく橋の霜 雩 木

 

 深更の趣である。橋の上には已に白く霜の置いてゐるのが見える。そこを通りかゝつた時、圖らずも寒夜に咳く[やぶちゃん注:「しはぶく」。]聲を耳にした、それは橋の下あたりに泊つてゐる舟人の咳であつた、といふのである。「置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」――橋の上を踏む行人の姿よりも、水上を家として舟に寐る人の生活が思ひ浮べられる。

 店月橋霜は詩歌の題材として古來云ひ古された觀があるが、この句をして力あらしむるものは、深夜の水に響く舟人の咳である。この咳一聲あるが爲に、霜夜の天地の闃寂[やぶちゃん注:「げきせき」。]たる感じが却つて强くなる。行人の咳でなしに、姿は見えぬ舟人の咳であるだけに、一層あはれを感ぜしめる。

[やぶちゃん注:「雩木」「うぼく」と読んでおく。「雩」の原義は「雨乞い。夏の日照りの時に雨が降るように祈る祭祀」の意があるが、ここは「虹」の意であろう。

「置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」言わずもがな、「百人一首」六番歌で、中納言家持の一首。「新古今和歌集」の「卷第六 冬」に何故か入っているもので(六二〇番)、

   *

 かさゝぎの渡せる橋にをく霜の

    白きを見れば夜ぞふけにける

   *

「をく」はママ。

「店月橋霜」晩唐の温庭筠(おんていいん 八一七年~八六六年)の五言律詩、

   *

  商山早行   溫庭筠

 晨起動征鐸

 客行悲故鄕

 雞聲茅店月

 人迹板橋霜

 槲葉落山路

 枳花明驛牆

 因思杜陵夢

 鳧雁滿囘塘

   商山の早行(さうかう)

  晨(あした)に起き 征鐸(せいたく)を動かす

  客行(きやくかう) 故鄕を悲しむ

  雞聲(けいせい) 茅店(ばうてん)の月

  人迹(じんせき) 板橋(ばんきやう)の霜(しも)

  槲葉(こくえふ) 山路(さんろ)に落ち

  枳花(きくわ) 驛牆(えきしやう)に明らかなり

  因(よ)りて思ふ 杜陵(とりやう)の夢

  鳧雁(ふがん) 回塘(くわいたう)に滿つるを

   *

の第三句の「茅店月」と、第四句の「板橋霜」から。サイト「note」の高松仙人氏の『幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 月・霜」』によれば、この二句を、北宋の政治家文人として知られる『欧陽脩』(一〇〇七年~一〇七二年)『が感賞して、「これは梅聖兪」(せいゆ:北宋中期の詩人で官僚の梅堯臣(一〇〇二年~一〇六〇年)の字(あざな))『の云うところの表しがたい状景で、目前に在るようだが』、『表せない意(おもい)を、言外に見えるようにしたものである。」として、自身も「鳥声梅店雨、野色版橋春」の一聯を作ることになったと云う』とあった。

「闃寂」「げきじやく」(げきじゃく)とも読む。「ひっそりと静まって寂しいさま」を言う。]

 

   火のきえておもたうなりぬ石火桶 蘭 仙

 

 理窟屋に聞かせたら、火の有無は重量に關係はない、といふかも知れぬ。そこは感じの問題である。炭のおこつてゐる時はさほどに思はぬのが、火が消えて冷たくなつたら、ひどく重く感ずる。石火桶であれば、その冷たさも、重さも、二つながら普通の火鉢以上であらう。

 

   底寒く時雨かねたる曇りかな 猿 雖

 

「底寒く」といふことは「底冷え」などといふ言葉と同じく、しんしんと底から寒いやうな場合を云ふのであらう。空が曇つて時雨でも來さうになつたが、遂に降らず、依然としてどんより曇つてゐる。さうして底寒い。何となく凝結したやうな狀態である。

 時雨は關東の地に絕無といふわけでもあるまいが、山に遠い關東平野の中にゐる吾々は、さつと來て直に去る初冬の時雨なるものに緣が無い。その代り京都の冬を談ずる者の必ず口にする「底冷え」なるものからも免れてゐる。時雨は底冷えのする土地の產物だと云つたら、或は語弊があるかも知れぬが、いづれも山近い土地の現象であるだけに、相互關係を否定出來まい。この句は時雨の降りかねた場合の寒さを、的確に現し得てゐる。

[やぶちゃん注:「猿雖」は「えんすい」と読む。窪田猿雖(寛永一七(一六四〇)年~宝永元(一七〇四)年)は伊賀蕉門の最古参の一人として、芭蕉から信頼された人物で、伊賀上野の富商であった。屋号は内神屋(うちのかみや)。元禄二(一六八九)年に出家し、俳諧に専念し、撰集「猿蓑」に二句、「續猿蓑」に七句、入集している。別号に意専がある。この句は、路健編「旅袋」に所収する。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 厚朴

 

Hounoki

 

かうぼく   烈朴 赤朴

 ほゝのき  厚皮 重皮

厚朴

        樹名榛

        子名逐折

      【和名保々加之波乃木

       今云保々乃木】

 

本綱厚朴生山谷中梓州龍州者爲上其木髙三四丈徑

一二尺膚白肉紫春生葉如槲葉四季不凋皮鱗皺而厚

紫色多潤者良五六月開細紅花結細實如冬青子生青

熟赤有核

皮【苦辛温】 其用有三平胃【一也】去腹脹【二也】孕婦忌之【三

 也】雖除腹脹若虛弱人宜斟酌用之誤服脫人元氣乃

 結者散之之神藥能瀉胃中之實平胃散用之佐以蒼

 术瀉胃中之濕平胃土之太過以致於中和而已非謂

[やぶちゃん注:」は「木」の異体字であるが、これは、諸漢方記事を見るに、「朮」の誤字である。訓読では、後の部分も「朮」に訂した。

 温補脾胃也蓋與枳實大黃同用則能泄實滿與陳皮

 蒼术同用則能除濕滿與解利藥同用則治傷寒頭痛

 與瀉痢藥同用則厚腸胃

 【不以薑製則棘人喉舌乾薑爲

  之使惡澤瀉忌豆食之動氣】

[やぶちゃん注:以上の割注は、以上のように、改行している。珍しい書式であるが、これは、続けて書くと、次の行に二字のみとなるのを嫌って、かく、したものと推定される。]

 新六 何そこの西の軒はのほゝかしは山のはまたて月そかくるゝ 知家

 六帖 みちのくの栗狛の山のほゝの木の枕はあれと君か手枕 人丸

△按厚朴葉大者近尺似槲葉而無刻齒淺綠色冬凋春

 生嫩葉夏開花狀似牡丹花而淺紫色大一尺許隨結

 實似冬靑子而熟則殻自裂裏赤中子黒老木皮有鱗

 皺剥入藥用膚白理宻微帶黃作刀劔鞘或釐等奩蓋

 其葉四季不凋者花紅細者並不當

 

   *

 

かうぼく   烈朴 赤朴

 ほゝのき  厚皮《かうひ》 重皮

厚朴

        樹を「榛《しん》」と名づく。

        子《み》を「逐折」と名づく。

      【和名、「保々加之波乃木《ほほかしはのき》」。

       今、云ふ、「保々乃木《ほほのき》」。】

 

「本綱」に曰はく、『厚朴、山谷《さんこく》の中に生ず。梓州《ししう》・龍州の者、上と爲《なす》。其の木、髙さ、三、四丈。徑《めぐ》り、一、二尺。膚《はだへ》、白く、肉、紫。春、葉を生ず、槲(かしは)の葉のごとく、四季、凋まず。皮に鱗《うろこ》の皺(しわ[やぶちゃん注:ママ。])ありて、厚し。紫色。多く、潤《うるほ》ふ者、良し。五、六月、細《こまやか》なる紅≪の≫花を開き、細《こまやか》なる實《み》を結ぶ。「冬青(まさき)」の子(み)のごとし。生《わかき》は、青く、熟《じゆくせ》ば、赤く、核《たね》、有り。』≪と≫。

『皮【苦辛、温。】 其の用、三《みつ》、有り。胃を平《たひ》らぐ【一《いつ》なり。】。腹の脹《は》りを去る【二なり。】。孕婦には、之れを忌む【三なり。】。腹の脹りを除くと雖も、虛弱の人のごときは、宜しく斟酌《しんしやく》して之れを用ふべし。誤り、服すれば、人の元氣を、脫す。乃《すなはち》、結する者、之れを散ずるに、之《これ》、神藥にて、能く、胃中の實《じつ》を瀉《しや》す。「平胃散」に、之れを用ひて、佐《さ》するに、「蒼朮《さうじゆつ》」を以つて、胃中の濕《しつ》を瀉し、胃土の太過《たいくわ》を平らげ、以つて、中和を致すのみ。脾胃を温補《おんほ》すると謂ふに非ざるなり。蓋し、「枳實《きじつ》」・「大黃《だいわう》」と、同じく用ゆれば、則ち、能く、實滿《じつまん》を泄《せつ》す。「陳皮《ちんぴ》」・「蒼朮」と同じく用ふれば、則ち、能く濕滿《しつまん》を除く。解利の藥と同じく用ふれば、則ち、傷寒・頭痛を治し、瀉痢の藥と、同≪じく≫用ふれば、則ち、腸胃を厚くす。』≪と≫。

『【「薑《きやう》」≪にて≫製《せい》≪を≫以つてせざれば、則ち、人の喉《のど》・舌を、棘(いらつ)かす。「乾薑《けんきやう》」を、之れが「使」に爲《な》す。澤瀉《たくしや/おもだか》を惡《い》み[やぶちゃん注:「忌み」に同じ。]、豆を忌む。之れを食へば、氣を動かす。】』≪と≫。

 「新六」

   何《なに》ぞこの

       西の軒ばの

    ほゝかしは

      山のはまたで

       月ぞかくるゝ 知家

 「六帖」

   みちのくの

       栗狛(くりこま)の山の

    ほゝの木の

      枕はあれと

       君が手枕(たまくら) 人丸

△按ずるに、厚朴、葉の大なる者は、尺に近く、槲(かしは)の葉に似て、刻齒《きざみば》、無く淺綠色。冬、凋≪み≫、春、嫩葉(わか《ば》)を生ず。夏、花を開く。狀《かたち》、牡丹の花に似て、淺紫色。大いさ、一尺許《ばかり》。隨ひて、實を結ぶ。「冬靑(まさき)」の子《み》に似て、熟すれば、則ちお、殻、自《おのづか》ら、裂(さ)け、裏、赤《あかし》。中の子《たね》、黒し。老木の皮、鱗皺《うろこじは》、有り。剥(は)ぎて、藥用に入《いるる》。膚《はだへ》、白く、理(きめ)、宻(こまか)にして、微《やや》、黃を帶ぶ。刀劔の鞘(さや)、或いは、釐-等(でぐ)の奩(いえ[やぶちゃん注:ママ。「家(いへ)」で「箱」のこと。「釐-等の奩」の私の注を見られたい。])に作る。蓋し、「其の葉、四季、凋まざる。」と云≪ひ≫[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、花、紅にして、細きなり。」と云ふは[やぶちゃん注:同前。]、並びに、當たらず。

 

[やぶちゃん注:これは、良安の種の類推に、非常に、問題がある。それについて、東洋文庫では後注で、「冬青(まさき)の子に似て」という部分を指摘にして、『良安は冬青をマサキと認識して話をすすめているが、中國の冬青は現在ではナナメノキとされている』とあるからである。この以下に続く痙攣的誤謬の堆積物を、まず、「腑分け」しなければならない。

「冬青」は本邦に於いては、現行、双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属ソヨゴ Ilex pedunculosa の漢字表記

である。当該ウィキによれば、ソヨゴは『常緑樹で』、『冬でも葉が青々と茂っていることから「冬青」の表記も見られる』しかし、『「冬青」は常緑樹全般にあてはまることから、これを区別するために「具柄冬青」とも表記され』、『中国』の『植物名でも』「具柄冬青(刻脈冬青)」『と表記される』とあり、当該中文ウィキでも、そうなっている(他に別名として「長梗冬青」も挙げられてある)。ところが、良安は、この「冬青」に『マサキ』とルビしてしまっている。しかし、「マサキ」は、

ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus

であって、上位の科タクソンで異なる、全くの異種なのである。翻って、本標題の「厚朴」は、現行では、「ナナメノキ」の異名を持つ、

〇モチノキ目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis

を指すのである。中文名も正しく「冬青」である。Wikispecies」の「Ilex chinensisの終わりにある「一般名」に「中文:冬青」とあるので、間違いない。従って、

「本草綱目」で時珍が記述している「厚朴」はのナナミノキと断定してよい

ということになるのである。こうした多重錯誤が行われているため、話しが全く噛み合わなくなってしまっており、結果、ドン尻で、良安は、『蓋し、「其の葉、四季、凋まざる。」と云、花、紅にして、細きなり。」と云ふは、並びに、當たらず。』と不満をブチ挙げるに至っているのである。

 良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「厚朴」(ガイド・ナンバー[085-8a]以下)はかなり長いので、各自で見られたい。

 以上で比定同定した「厚朴」=「ナナミニノキ」について、小学館「日本大百科全書」から引用しておく(当該ウィキは、失礼乍ら、記載が頗る貧困で、樹形等の写真ぐらいしか役に立たない)。『ななみのき』は『七実木』であり、『モチノキ科』Aquifoliaceae『の常緑高木。高さは』十『メートルに達する。幹は灰褐色、若枝は緑色で稜がある。葉は厚く、長卵状楕円形、長さ』七~十三『センチメートル、低い鋸歯がある。花は』六『月、葉腋から出た集散花序につき、淡紫色。雌雄異株。核果は球形、径約』六『ミリメートルで、赤く熟す。静岡県以西の本州、四国、九州』、及び、『中国に分布し、山地に生える。美しい実が多くなるので』、『この名がある。材は器具材とし、樹皮から』「トリモチ」や『染料をとる』とあった。中文ウィキは存在しない。英文の当該種のウィキを見るに、『冬青は伝統的な中医学で使われる五十種の基本的な生薬の一つで、「冬青」(中国語名「冬青」)という名前で呼ばれている。中医学では、血行を促進し、鬱血を取り除いて、熱と毒素を排除するとされている。狭心症・高血圧・ぶどう膜炎(眼の中の「虹彩」・「毛様体」・「脈絡膜」から成る非常に血管の多い組織を総称して「ぶどう膜」と呼び、そこに炎症が起こる病気を指すが、実際には、「ぶどう膜」だけではなく、脈絡膜に隣接する「網膜」や、眼の外側の壁となっている「強膜」に生じる炎症も含んで総称する)、・咳・胸部圧迫感・喘息等の症状を改善すると信じられている。また、本種の根は、皮膚感染症・火傷・外傷に局所的に塗って効果がある。中国やヨーロッパの多くの都市で街路樹として使用されている』といった内容が記されてあった。これらの対応疾患は、時珍の記述によく一致することが判る。

「榛《しん》」「本草綱目」の「厚朴」の「釋名」に出てしまっているのだが、これもコマッタちゃんで、現行では、

ブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ変種 Corylus heterophylla var. thunbergii

を指す。

「逐折」中文の「中醫世家」のここに見つけた。『杀鼠,益气明目。一名百合。浓实,生禾间,茎黄,七月实黑,如大豆。』とあるので、この「益气明目」は「当たり」である。

『和名、「保々加之波乃木《ほほかしはのき》」。今、云ふ、「保々乃木《ほほのき》」。』これもまた、ダブル・コマッタちゃんだ! これは、「ホオ」「ホオガシワ」の異名を持つ、ジェンジェン違う、

モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata

だがね!!

「梓州《ししう》」南北朝時代から宋代にかけて、現在の四川省綿陽市(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)南部に設置された州名。

「龍州」南北朝時代から明代にかけて、現在の四川省の綿陽市北部と、同省の広元市西部に跨る地域に設置された州名。

「槲(かしは)」繰り返さないが、先行する「柏」の項では、良安は、そこでは、この「槲」を「くぬぎ」と読んじゃってるのだ。やり過ぎのドタバタ・コメディを見てるような呆れたありさまである。

「冬青(まさき)」このルビを以って、「マサキ」が「厚朴」とイコールと断じて「本草綱目」の記載を読んでしまった良安の認識こそが地獄の坩堝落ちの大脱線の始まりであったのである。

「平《たひ》らぐ」平静な状態に戻す。

「胃中の實《じつ》を瀉《しや》す」胃の内部にある、異常な食物の固まったものを排泄・除去する。

「平胃散」サイト「おくすり110番」の「平胃散」を見られたい。「Ⅰ作用」の「働き」に『平胃散(ヘイイサン)という方剤』は、『胃の働きをよくして、水分の停滞を改善し』、『その作用から、消化不良による胃もたれ、胃のチャポチャポ、お腹のゴロゴロ、下痢などに適応し』、『体力が中くらいの人を中心に広く用いることができ』るとあって、「組成」の項に、『平胃散の構成生薬は、胃腸によい下記の』六『種類で』あるとして、「厚朴」を『健胃作用』があるとし、蒼朮・厚朴・陳皮・生姜(ショウキョウ:薑(ショウガ))・大棗(タイソウ)・甘草をリストする。

「佐《さ》するに」「主薬の補助剤とし」の意。

「蒼朮《さうじゆつ》」はキク目キク科オケラ属ホソバオケラ Atractylodes lancea の根茎の生薬名。中枢抑制・胆汁分泌促進・抗消化性潰瘍作用などがあり、「啓脾湯」・「葛根加朮附湯」などの漢方調剤に用いられる。参照したウィキの「ホソバオケラ」によれば、『中国華中東部に自生する多年生草本。花期は』九~十『月頃で、白〜淡紅紫色の花を咲かせる。中国中部の東部地域に自然分布する多年生草本。通常は雌雄異株。但し、まれに雌花、雄花を着生する株がある。日本への伝来は江戸時代、享保の頃といわれる。特に佐渡ヶ島で多く栽培されており、サドオケラ(佐渡蒼朮)とも呼ばれる』とある。

「胃土」東洋文庫訳では、割注があって、『(胃は五行の土にあたる)』とある。

「太過《たいくわ》」「大過」とも書く。ここは、易(えき)の六十四卦の一つ。「沢風大過」とも称し、「四陽」が「中(ちゅう)」に集まり、「二陰」が外にあるために、陽が盛大に過ぎる状態を指す語であろう。

「枳實《きじつ》」ミカン・ダイダイ・ナツミカン等の未熟果実を乾燥させたもの。漢方で健胃・胸痛・腹痛・鎮咳・去痰などに薬用とする。

「大黃《だいわう》」ダイオウ。タデ目タデ科ダイオウ属 Rheum の一部の種の根茎の外皮を取り去って乾燥したもので、健胃剤・潟下剤とする。「唐大黄」と「朝鮮大黄」との種別がある。

「實滿《じつまん》を泄《せつ》す」消化器系で閉塞を起こしているものを、排泄させる。

「陳皮《ちんぴ》」中国では熟したムクロジ目ミカン科ミカン属マンダリンオレンジ Citrus reticulata の果皮を観想させたものであるが、本邦では熟したミカン属ウンシュウミカン Citrus unshiu のそれで代用する。

「濕滿《しつまん》を除く」「漢方で言う体内の病的な湿気(しっき)の膨満状態を取り除く」の意。

「解利の藥」東洋文庫の割注に、『(利き目のするどいのを緩める薬)』とある。

「傷寒」漢方で「体外の環境変化により経絡が冒された状態」を指し、具体には、「高熱を発する腸チフスの類の症状」を指すとされる。

「薑《きやう》」「乾薑」漢方生薬としては「良姜」で、ショウガ目ショウガ科ハナミョウガ属 Alpinia の根茎を乾したものを指す。

「澤瀉《たくしや/おもだか》」ここは正しくは「たくしや」(たくしゃ)で読むのが正しいが、良安が「おもだか」と読んでいた可能性を完全には排除出来ないので、かく、した。本邦で「澤瀉」は、

単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ Sagittaria trifolia

を指すのであるが、中国では、

オモダカ科サジオモダカ属ウォーター・プランテーン変種サジオモダカ Alisma plantago-aquatica var. orientale

属レベルで異なる別種の塊茎を乾燥させたものを「澤瀉」と言うからである。詳しくは、私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 澤瀉(をもだか) (オモダカ)」を参照されたい。

「新六」「何《なに》ぞこの西の軒ばのほゝかしは山のはまたで月ぞかくるゝ」「知家」「新六」は「新撰和歌六帖(しんせんわかろくぢやう)」で「新撰六帖題和歌」とも呼ぶ。寛元二(一二四三)年成立。藤原家良(衣笠家良)・藤原為家・藤原知家(寿永元(一一八二)年~正嘉二(一二五八)年:後に為家一派とは離反した)・藤原信実・藤原光俊の五人が、寛元元年から同二年頃に詠んだ和歌二千六百三十五首を収録した類題和歌集。奇矯・特異な詠風を特徴とする。日文研の「和歌データベース」の「新撰和歌六帖」で確認した。「第六 木」のガイド・ナンバー「02483」である。

「六帖」「みちのくの栗狛(くりこま)の山のゝの木の枕はあれと君が手枕(たまくら)」「人丸」「六帖」は「古今和歌六帖」のこと。全六巻。編者は紀貫之、或いは、「和名類聚鈔」で知られる源順(したごう)とも言われる。草・虫・木・鳥等の二十五項、五百十六題について和歌を掲げた類題和歌集。十世紀の終わり近く、円融・花山・一条天皇の頃の成立か。成立年代は未詳であるが、貞元元(九七六)年から永延元(九八七)年まで、又は源順の没年である永観元(九八三)年までの間が一応の目安とされる。日文研の「和歌データベース」の「古今和歌六帖」で確認した。「第五 服飾」のガイド・ナンバー「03237」である。「栗狛の山」とは山体が宮城・秋田・岩手の三県に跨る栗駒山(くりこまやま:標高千六百二十六メートル)のこと。なお、「夫木和歌抄」にも載るが、そちらでは「読人不知」である。

「釐-等(でぐ)の奩(いえ《✕→いへ》)」割注したが、まず、後半を順序立てて言うと、「奩」は音「レン」で、古くは、漢代の化粧用具の入れ物を指した。青銅製と漆器とがり、身と蓋とから成り、方形や円形のものがある。この中に、鏡や小さな容器に詰めた白粉(おしろい)・紅・刷毛・櫛などを入れる。また,身が二段重ねになっており、上段に鏡を,下段に白粉などを入れるタイプもある。長沙の馬王堆一号漢墓や楽浪の王光墓などから出土している。という訳でここは、まずは、ざっくりと「箱」のことと捉えて欲しい。さて、問題は前の部分で、始めは意味が判らなかった。まず、「釐等」を調べると、小学館「日本国語大辞典」に、「れいてんぐ」で「釐等具・厘等具」と漢字表記し、『「れい」「てん」はそれぞれ「釐」「等」の唐宋音』とし、『釐(りん)・毫(ごう)のような少量までを量るのに用いる秤(はかり)。明治初年頃まで、金銀などの貴重品の重さを量るのに用いた』とある。さすれば、金銀の重量を計る器具を入れる「奩」=「箱」? なんか、今一、ピンと来ない。ところが、後に読みが続き、「れいてん。れてぐ。れいてぐ。れていぐ。れてん。」とあった。而して、良安は「釐等」に対して「テグ」とルビしている。――決定打は東洋文庫の訳で――『釐等奩(にんぎょうばこ)』――とあったので、瞬時に氷解した。「テグ」は「デグ」で、その発音を用いただけであり、「でぐ」の意味は「木偶」(でく・でぐ)のことで、大道芸人が操る木彫りの「人形」や、仕掛けを施した「操り人形」を指し、「その芸人が木偶人形を入れて旅をし、人形操りの台にもした奩」=「人形箱」の意なのだった。]

2024/06/15

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 波牟乃木

 

Hannoki

 

はんのき  正字未詳

波牟乃木

 

 

△按波牟乃木生山中髙者二三丈葉似栗而輭花亦似

[やぶちゃん注:「輭」は「軟」の異体字。]

 栗花而褐色實似杉實其木肌心白色見日則變赤今

 染家用梅木煎汁中投此木屑經宿以染赤色

 

   *

 

はんのき  正字、未だ詳かならず。

波牟乃木

 

 

△按ずるに、波牟乃木、山中に生ず。髙き者、二、三丈。葉、栗に似て、輭《やはらか》。花も栗の花に似て、褐色。實、杉の實に似≪て≫、木肌・心、白色。日《ひ》を見れば、則ち、赤に變ず。今、染家(そめものや)、梅≪の≫木の煎汁《せんじじる》を用ひて、中≪に≫此の木屑(《き》くず[やぶちゃん注:ママ。])を投じて、宿を經て、以て、赤色を染む。

 

[やぶちゃん注:「はんのき」「波牟乃木」は、

双子葉植物綱ブナ目カバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonica

である。良安は、「正字、未だ詳かならず」と言っているが、当該ウィキによれば、『古名を榛(はり)といい、ハンノキという名称はハリノキ(榛の木)が変化したものである』。現在の『中国名は「日本榿木」。別名はヤチハンノキで』、『湿地のハンノキの意味でよばれている』。『岩手県の地方名にヤチバがある』。但し、『漢字表記に用いる「榛」は』、本来、『ハシバミ』(ブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii )『の漢名で』、『ハンノキに用いるのは日本独自の用法であ』り、『また、漢名に赤楊』(これは『を当てたが、これ』も『本来』(これは文字列から「赤い、枝が垂れずに立ち上がるヤナギ科 Salicaceaeの柳の一種」の意になってしまう)、『誤用である』とする(以下、注記記号はカットした)。『日本の北海道から九州、沖縄まで、朝鮮半島、台湾、中国東北部、ウスリー、南千島に分布する。低地の湿地や低山の川沿いに生え、日本では全国の山野の低地や湿地、沼に自生する。湿原のような過湿地において森林を形成する数少ない樹木。田の畔に植えられ、近年では水田耕作放棄地に繁殖する例が多く見られる。普通の樹木であれば、土壌中の水分が多いと酸欠状態になり生きられないが、ハンノキは耐水性を獲得したことで湿地でも生き残ることができる』。『落葉高木で、樹高は』四~二十『メートル』、『直径』六十『センチメートル』『ほど。湿地周辺部の肥沃な土地では、きわめてよく生長を示すものがあって、高さ』三十『メートル、幹回りの直径』一『メートルを超す個体もあるが、湿地中央部に生える個体は成長は減退して大きくならない。樹皮は紫褐色から暗灰褐色で、縦に浅く裂けて剥がれる。葉は有柄で互生し、長さ』五~十三センチメートルの『長楕円形から長楕円状卵形』で、『葉縁には浅い細鋸歯があり、側脈は』七~九『対。葉の寿命は短く、緑のまま次々と落葉する。春先に伸びた』一『葉や』二『葉(春葉)の寿命は、以降に延びた葉(夏葉)よりも短いため』六『月から』七『月になると』、『春葉が集中的に落葉する事が報告されている』。『花期は冬』から初春の十一~四『月頃で、葉に先だって単性花をつける。雌雄同株で、雄花穂は枝先に』一~五『個』、『付き、黒褐色の円柱形で尾状に垂れ下がる。雌花穂は楕円形で紅紫色を帯び、雄花穂の下部の葉腋に』同じように一~五『個』を『つける』。『花はあまり目立たない。また、ハンノキが密集する地域では、花粉による喘息発生の報告がある』。『果実は松かさ状で』同数『個ずつ』、『つき』、十『月頃』、『熟すと長さ』十五~二十『ミリメートルの珠果状になる。松かさに似た小さな実が翌年の春まで残る』。『冬芽は互生して、枝先につく雄花序と、その基部につく雌花序はともに裸芽で柄があり、赤みを帯びる。仮頂芽と測芽はどちらも葉芽で、有柄で』三『枚の芽鱗があり、樹脂で固まる。葉痕は半円形で維管束痕は』三『個ある』。『水田の畔に稲のはざ掛け用に植栽されている。しばしば』、『公園樹として、公園の池のそばに植えられる』。『伝統的な水ワサビの栽培においては』、『木々に囲まれた山の沢を再現するためにわさび田の中に植えられた。現在ではハンノキの代わりに日除けを設置することが多くなった』。『良質の木炭の材料となるために、以前にはさかんに伐採された。材に油分が含まれ生木でもよく燃えるため、北陸地方では火葬の薪に使用された。葉の中には、根粒菌からもらった窒素を多く含んでいて、そのまま葉が散るため、葉の肥料木としても重要である』。『材は軟質で、家具や器具に使われる』。『樹皮や果実は、褐色の染料として有効に使われている。また、抗菌作用があり、消臭効果が期待されている。ハンノキには造血作用のある成分が含まれるため』、『漢方薬としても用いられる』とある。

「宿を經て」「一晩、おいて」。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 黃櫨

 

Hajinoki

 

はじのき  和名波𨒛之

       俗云波時乃木

黃櫨

 

ハアン ロウ

[やぶちゃん字注:「𨒛」は「邇」の異体字。]

 

本綱黃櫨生山谷葉圓木黃可染黃色

木【苦寒】 治黃疸目黃水煮服之洗赤眼及湯火𣾰瘡

[やぶちゃん字注:「𣾰」は「漆」の異体字。]

△按黃櫨以染黃色天子御袍稱黃櫨染是也染帛上用

 砥水畧染則爲黑茶色其葉小淺青色莖微赤三四月

 開小白花結細子至秋紅葉

  新古今鶉なくかた埜にたてるはじ紅葉ちらぬばかりに秋風そふく親隆

[やぶちゃん注:最後の和歌の「ちらぬばかりに」は「ちりぬばかりに」の誤りであるので、訓読では訂した。]

 

  *

 

はじのき  和名、「波𨒛之《はにし》」。

       俗、云ふ、「波時乃木」。

黃櫨

 

ハアン ロウ

[やぶちゃん字注:「𨒛」は「邇」の異体字。]

 

「本綱」に曰はく、『黃櫨《くわうろ》、山谷に生《しやうず》。葉、圓《まろ》く、木、黃にして、黃色に染むべし。』≪と≫。

『木【苦、寒。】 黃疸≪がため≫、目、黃なるを治す。水≪にて≫煮て、之れを服す。赤眼《あかめ》、及び、湯火(やけど)・𣾰瘡(うるしまけ)を洗ふ。』≪と≫。

△按ずるに、黃櫨は、以つて、黃色を染む。天子の御袍(《ご》はう)、「黃櫨染(くわうろせん)」と稱す、是れなり。帛《きぬ》を染めて、上《うへ》に砥水《とみづ》を用ふ。畧《やや》染まれば、則ち、黑茶色を爲《なす》。其の葉、小さく、淺青色。莖、微《やや》、赤≪し≫。三、四月、小≪さき≫白≪き≫花を開く。細≪かなる≫子《み》を結ぶ。秋に至《いたり》、紅葉す。

  「新古今」            親隆

    鶉なくかた埜にたてるはじ紅葉

       ちりぬばかりに秋風ぞふく

 

[やぶちゃん注:「黃櫨」(くわうろ(こうろ))「はじのき」は、日中ともに、

双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum

を指す。但し、現代の中文名は「野漆」で、同中文ウィキでは、異名を「野漆樹「大木漆」「山漆樹」「癢漆樹」「漆木」「檫仔漆」「山賊子」と挙げるのみで、「黃櫨」は記されていない。同種は中国・インドシナ原産で、琉球から最初に渡来したので、「リュウキュウハゼ」の名もある。本邦の当該ウィキによれば(注記記号は省略した)、『ハゼノキ(櫨の木・櫨・黄櫨の木・黄櫨)『はウルシ科ウルシ属の落葉小高木。単にハゼとも言う。東南アジアから東アジアの温暖な地域に自生する。秋に美しく紅葉することで知られ、ウルシほどではないがかぶれることもある。日本には、果実から木蝋(Japan wax)を採取する資源作物として、江戸時代頃に琉球王国から持ち込まれ、それまで木蝋の主原料であったウルシの果実を駆逐した』。『「ハゼ」は古くはヤマウルシ』(ウルシ属ヤマウルシ Toxicodendron trichocarpum )『のことを指し、紅葉が埴輪の色に似ていることから、和名を埴輪をつくる工人の土師(はにし)とし、それが転訛したといわれている』。『別名にリュウキュウハゼ(紅包樹)、ロウノキ、トウハゼなど。果実は』「薩摩の実」(薩摩藩が不当に琉球を実行していたことによる)『とも呼ばれる。中国名は、野漆 (別名:木蠟樹)』。『日本では本州の関東地方南部以西、四国、九州・沖縄、小笠原諸島のほか、朝鮮半島南西沖の済州島、台湾、中国、東南アジアに分布する。低地で、暖地の海に近い地方に多く分布し、山野に生え、植栽もされている。日本の山野に自生しているものは、かつて果実から蝋を採るために栽培していたものが、それが野生化したものが多いともいわれる。明るい場所を好む性質があり、街中の道端に生えてくることもある』。『ときに、庭の植栽としても見られる』。『雌雄異株の落葉広葉樹の小高木から高木で、樹高は』五~十『メートル』『ほどになる。樹皮は灰褐色から暗赤色で、縦に裂けてやや網目状の模様になる。一年枝は無毛で太く、縦に裂ける皮目がある』。『葉は奇数羽状複葉で』、九~十五『枚の小葉からなる。小葉は少し厚くて細長く、長さ』五~十二『センチメートル』『の披針形で先端が尖る。小葉のふちは鋸歯はついていない。表面は濃い緑色で光沢があるが、裏面は白っぽい。葉軸は少し赤味をおびることがある。秋には常緑樹に混じって、ウルシ科特有の美しい真っ赤な色に紅葉するのが見られる。秋にならないうちに、小葉の』一~二『枚だけが真っ赤に紅葉することもある』。花期は』五~六『月』で、『花は葉の付け根から伸びた円錐花序で、枝先に黄緑色の小さな花を咲かせる。雄花、雌花ともに花弁は』五『枚。雄花には』五『本の雄しべがある。雌しべは』三『つに分かれている』。『秋に直径』五~十五『ミリメートル』『ほどの扁平な球形の果実が熟す。果実の表面は光沢があり無毛。未熟果実は緑色であり、熟すと黄白色から淡褐色になる。中果皮は粗い繊維質で、その間に高融点の脂肪を含んだ顆粒が充満している。冬になると、カラスやキツツキなどの鳥類が高カロリーの餌として好んで摂取し、種子散布に寄与する。核は飴色で強い光沢があり、俗に「きつねの小判」、若しくは「ねずみの小判」と呼ばれる』。『冬芽は互生し、頂芽は円錐状で肉厚な』三~五『枚の芽鱗に包まれており、側芽のほうは』、『小さな球形である。落葉後の葉痕は心形や半円形で、維管束痕が多数見える』。『個人差はあるものの、樹皮や葉に触れても普通はかぶれを起こさないが、葉や枝を傷つけると出てくる白い樹液が肌に触れると、ひどくかぶれをおこす。また、枝や葉を燃やしたときに出る煙でも、かぶれることがある』。『よく似ている樹種に』同属の『ヤマハゼ( Toxicodendron sylvestre )があり、ヤマハゼは葉の両面に細かい毛が生えていて、紅葉が赤色から橙色で、鮮やかさはハゼノキよりも劣る印象がある。ハゼノキは葉の表裏ともに毛がない点で、日本に古来自生するヤマハゼと区別できる』。『果実を蒸して圧搾して採取される高融点の脂肪、つまり木蝋は、和蝋燭(Japanese candle)、坐薬や軟膏の基剤、ポマード、石鹸、クレヨン、化粧品などの原料として利用される。日本では、江戸時代に西日本の諸藩で木蝋をとる目的で盛んに栽培された。また、江戸時代中期以前は時としてアク抜き後焼いて食すほか、すり潰してこね、ハゼ餅(東北地方のゆべしに近いものと考えられる)として加工されるなど、救荒食物としての利用もあった。現在も、食品の表面に光沢をつけるために利用される例がある』。二十『世紀に入り安価で大量生産可能な合成ワックスにより、生産が低下したが、近年』、『合成ワックスにはない粘りや自然品の見直し気運などから需要が増えてきている』。『木材は、ウルシと同様心材が鮮やかな黄色で、工芸品、細工物、和弓、櫨染(はじぞめ)などに使われる。櫨染は、ハゼノキの黄色い芯材の煎じた汁と灰汁で染めた深い温かみのある黄色である。なお、日本の天皇が儀式に着用する櫨染の黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)』(☜同ウィキがあり、画像もあるので見られたい)『の色素原料は同じウルシ属のヤマハゼになる』。『美しい黄緑色の木蝋が採取でき、融点が高いため、和蝋燭の上掛け蝋(手がけ和蝋燭の一番外側にかける蝋)として利用される』。『通常、櫨に含まれる蝋分は』二十『%程度であるが、この櫨の実に占める蝋分は』三十~三十五『%と圧倒的に高いため、採取効率が最も良いとされる。以下、「主な種類」として、長崎県島原市原産の「マツヤマハゼ(松山櫨)」、松山櫨から品種改良された福岡県小郡市が原育成地で主産地を熊本県水俣市とする「イキチハゼ(伊吉櫨)」、愛媛県の優良品種「オウハゼ(王櫨)」が挙げられているが、品種と言いながら、学名は他で調べても見当たらない。『日本への渡来は安土桃山時代末の』天正一九(一五九一)年に『筑前の貿易商人 神屋宗湛や島井宗室らによって中国南部から種子が輸入され、当時需要が高まりつつあった蝋燭の蝋を採取する目的で栽培されたのが始まりとされる。他方、大隅国の』武将『禰寝重長』(天文五(一五三六)年~天正八(一五八〇)年)『が輸入して初めて栽培させたという説もある』。『江戸時代は藩政の財政を支える木蝋の資源植物として、西日本の各藩で盛んに栽培された』。『その後、江戸時代中期に入って中国から琉球王国を経由して、薩摩藩でも栽培が本格的に広まった。薩摩藩は幕末開国後の』慶応三(一八六七)年には、『パリ万国博覧会に』、『このハゼノキから採った木蝋(もくろう)を出品している』。『広島藩では』、一七〇〇『年代後半から藩有林を請山として貸出し、商人らがハゼノキをウルシノキとともに大規模に植林、製蝋を行っていた記録が残る』。『今日の本州の山地に見られるハゼノキは、この蝋の採取の目的で栽培されたものの一部が野生化したものとみられている』とあった。私の家の無駄にある斜面にも、かなりの大きさのそ奴が生えている。私は、四十代後半にウルシにかぶれになった(大好きだったマンゴーも、はたまた、キウィも食べられなくなった)ので、なるべく、その木の傍には行かないことにしている。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「黄櫨で、ガイド・ナンバー[085-7b]以下である。短いので、全原文を手を加えて転写しておく。

   *

黃櫨【宋、嘉祐。】

集解【藏器曰、「黃櫨、生商洛山谷四川界。甚有之葉、圓。木、黃可染黃色。】

木 氣味、苦寒無毒。主治除煩熱解酒疸目黄水煮服之【藏器。】。洗赤眼及湯火漆瘡【時珍。】

附方【「新一」。】大風癩疾【黃櫨木、五兩、剉用新汲水一斗浸、二七日、焙硏、蘇枋木五兩、烏麻子一斗、九蒸九暴、天麻二兩、丁香乳香一兩、爲末、以赤黍米一升、淘淨用浸黃櫨木煮、米粥搗、和丸梧子、大每服、二、三十丸、食後漿水下日二夜、一聖【「濟總錄」。】】。

   *

「赤眼」疲れや病気などのために目が赤く充血した状態を指す。

「砥水《とみづ》」刃物を砥石で研ぐ時に使う水。ここは、その研いだ後の混濁した水。なお、別に、濁っている色がそれに似ているところから「味噌汁」を指す大工仲間の隠語があるが、ここは本来の用法であろう。ウィキの「天然砥石」によれば、『原料は主に堆積岩や凝灰岩などであり、荒砥は砂岩、仕上げ砥は粒子の細かい泥岩(粘板岩)から作られ、中でも放散虫の石英質骨格が堆積した堆積岩が良質であるとされる』とあり、その成分が恐らく絹に染み込んだハゼノキの色素成分を固定させる性質があるのであろう。

「新古今」「親隆」「鶉なくかた埜にたてるはじ紅葉ちりぬばかりに秋風ぞふく」は、「新古今和歌集」の「卷第五 秋歌下」の平安後期の公卿藤原親隆(康和元(一〇九九)年~永万元(一一六五)年)の一首(六三九番)、

   *

  法性寺入道前關白太政大臣家歌合に 前參議親隆

 うづらなく

     交野(かたの)に立てる

    櫨(はじ)もみぢ

         散りぬばかりに

               秋風ぞふく

   *

「うづら」キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica 。博物誌は「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を見られたい。私の歌語としては、「憂づ」を匂わせるものである。「交野」交野ヶ原(かたのがはら)。河内国の歌枕。皇室の狩場があり、花の名所であった。現在の大阪府枚方市から交野市にかけて広がる丘陵地の慣習的な古地名。この南北の広域で、当該ウィキによれば、『広大な原野で大きな川が流れていたこともあり、多くの野鳥が集っており、貴族の遊猟地として栄えたとされている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)の中央の南北の広域に相当する。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(5)

 

   爐びらきや障子の穴の日のこぼれ 東 耕

 

 爐開の疊の上に――疊でなくても構はぬが、先づ疊と解するのが妥當であらう――障子の穴から日がさしてゐる。ぽつりと落ちたやうな日影を「こぼれ」と云つたのである。いさゝか巧を弄した言葉のやうでもあるが、最も簡潔にその感じを現したものと見ることが出來る。

 疊にさす小さな日影に目をとめる。そこに爐開頃にふさはしい、落著いた氣分が窺はれる。

 

   筆や氷る文のかすりのなつかしき 機 石

 

 人から來た手紙を讀んでゐると、ところどころ筆のあとのかすれたところがある。寒い夜半などに筆を執つて、穗先が氷つた爲にかすれたのであらうか、と想ひやつた句である。「文のかすり」と云つただけで、手紙の字がかすれてゐることを現し、その手紙を書く場合の寒さを想ひやるあたり、云ふべからざる情味を含んでゐる。

 蕪村の「齒豁[やぶちゃん注:「あらは」。]に筆の氷をかむ夜かな」といふ句は、自ら筆をかむ場合であり、身に沁み通るやうな寒さを現してゐる點において、特色ある句たるを失はぬ。機石の句はその點から云へば寧ろ平凡であらう。たゞ平凡の裡に何となく棄てがたいものがある。

[やぶちゃん注:蕪村の句は「蕪村句集 槇卷之下」に載る。表記は、

   *

 齒豁(アラハ)に筆の氷を嚙む夜哉

   *

である。]

 

   もの買に折敷をかぶる霰かな 燕 流

 

 折敷[やぶちゃん注:「をしき」。]といふ言葉は地方によつては使はれてゐるかも知れぬが、現在の吾々には稍〻耳遠い。『言海』には「飯器を載する具。片木へぎ作りの角盆」とあるから、あまり上等なものではなさそうである。買物に行くのにそれを持つて行くのは、何か載せて歸るためであらう。丁度霰が降つて來たので、笠か帽子の代りに折敷を頭にかぶつた、といふのである。霰が降つている中を買物に出るのに、傘をさすほどのこともないから、折敷をかぶると解しても差支ない。

 木導の句に「鍋屋からかぶつて戾る時雨かな」といふのがある。鍋を買ひに行つたか、修繕にやつたのを取りに行つたか、いづれにしても鍋屋から鍋を持つて歸る、折からの時雨に頭から鍋をかぶつて歸るといふので、この方が働いてゐるかと思ふ。折敷をかぶつて買物に出るといふよりも、鍋屋から鍋をかぶつて駈け戾るといふ方が、輕い卽興的なところがあつて面白い。

[やぶちゃん注:「鍋屋からかぶつて戾る時雨かな」この句は、「日本人の笑 文學篇」(池田孝次郎・柴田宵曲・森銑三共著/昭和一七(一九四二)三省堂刊)でも、採用している。この本は所持するが、共著者森銑三が著作権存続であるため、電子化は出来ない。国立国会図書館デジタルコレクションのここで原本の当該部をリンクさせておく。]

2024/06/14

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(4)

 

   麥まきの藪をへだつる西日かな 吾 仲

 

 現在麥を蒔きつ窶ある畑の向うに藪があつて、その向うに夕日がかゝつている。藪があるだけ、日の傾くことも多少早いわけであるが、同時にその藪によつて平野の單調を破つてゐる感がある。單に傾きつゝある西日といふよりも、藪の秀[やぶちゃん注:「ほ」。]がこれを隔てるといふ方が、景色の上に或まとまりを作ることになるからである。

 麥蒔に夕日を配した句は、この外にも猶「麥蒔のうしろ淋しき入日かな 支庸」「麥蒔の影法師長き夕日かな 蕪村」の如きものがある。冬の日の暮れ易いことも固よりではあるが、麥蒔頃の野良の寒さが、何となく夕日の名殘を惜しませるのではないかと思ふ。

[やぶちゃん注:このパースペクティヴは、タルコフスキイの「鏡」のような遠近法の魔術的なスカルプ・イン・タイムを思わせる、優れた一句と思う。

「麥蒔のうしろ淋しき入日かな 支庸」どの派かは判らぬが、俳人麓庵支庸かと思われる。「安永六丁酉歲」という俳諧撰集を安永六(一七七七)年に板行している。以下の蕪村の句が無関係ではないとすれば、蕪村の一派であろうか。

「麥蒔の影法師長き夕日かな」蕪村の安永七(一七七八)年の句として「蕪村遺稿」に載る。但し、そこでも表記は、

   *

 麥蒔の罔兩(かげぼし)長き夕日かな

   *

である。]

 

   時雨るゝや古き軒端の唐辛 爐 柴

 

 草家の軒などに眞赤な唐辛子が吊してある。そこに時雨が降るのである。

「古き軒端の」といふ言葉は、百人一首を連想せしめさうなものであるが、この場合、そんな事を顧慮する必要は無い。古ぼけた軒端に吊した唐辛子だけが、たゞ赤々と著しく眼に入る。その色が赤ければ赤いだけ、侘びた趣が增すのである。言葉は雅馴であつて、內容に一種の新しい感じがある。然も時雨と古き軒端と、極めて陳腐な配合を竝べた末に、突如として唐辛子を點出することは、決して凡庸の手段でない。芭蕉の「春雨や蜂の巢つたふ屋根の漏」の句が、春雨と軒の雫といふ尋常な配合を用ゐながら、蜂の巢によつて全く新なものにしてゐるのと、稍〻相似た筆法である。俳諧の妙味はこの邊に存するのであらう。

[やぶちゃん注:錯雑物がない、鮮やかに見事なズーム・アップである。

『芭蕉の「春雨や蜂の巢つたふ屋根の漏」』は元禄七(一六九四)年の作で、「炭俵」に所収する。そこでは、

   *

 春雨や蜂の巢つたふ屋ねの漏

   *

の表記である。]

 

   冬旅や足あたゝむる馬の首 誐々

 

 馬上旅行といふものは、未だ曾て經驗したことが無いが、冬日風に向つて馬を驅るなんぞは、あまり難有いこととは思はれない。芭蕉が伊良胡に杜國を訪ねた時の句に「すくみ行くや馬上に氷る影法師」とあるのを見ても、その寒さは略〻想像出來る。

 この句は馬上の旅を續けてゐる人が、足のつめたさに堪へず、馬の首に觸れてあたゝめる、といふことらしい。溫め鳥[やぶちゃん注:「ぬくめどり」。]と同じやり方である。馬の體溫によつて足をあたゝめるといふのは、馬上の寒さを裏面から現したやうで、實はさうでない。吾々も作者と同じく、足を觸れる馬の首のあたゝかさを如實に感じ、併せて昔の旅人の侘しさをしみじみと感ずる。珍しい句である。

[やぶちゃん注:私のブログの「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる (分量膨大に附き、ご覚悟あれかし)」を参照されたい。サイト版で一括した「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる(「笈の小文」より 藪野唯至附注)PDF縦書版」もある。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 目録・喬木類 小蘗

 

Megi

 

いぬきはだ  子蘗

 しこのへい 山石榴

小蘗

       【金櫻子杜鷗

        花並名山石

        榴同名異物

        也】

スヤウ゜ポツ

 

本綱小蘗生山石間小樹也枝葉與石榴無別伹花異子

赤如枸杞子兩頭尖其皮外白裏黃如蘗皮而薄小也

氣味【苦大寒】 治口瘡殺諸蟲去心腹熱氣

△按小蘗葉似柹而狹長其子大如豆生青熟淡紫色中

 有三子黑色似山椒子【苦辛甘】名志古乃倍伊用洗眼良

 樹皮可以染黃僞𭀚黃栢不可不辨其材爲板旋箱

[やぶちゃん字注:「𭀚」は「充」の異体字。]

 

   *

 

いぬきはだ  子蘗《しはく》

 しこのへい 山石榴《さんせきりう》

小蘗

       【「金櫻子(ざくろ)」・「杜鷗

        花(さつき)」、並びに、「山

        石榴《やまざくろ》」、同名

        異物なり。】

スヤウ゜ポツ

 

「本綱」に曰はく、『小蘗《しやうはく》、山石の間に生ず。小樹なり。枝葉、「石榴《ざくろ》」と、別、無し。伹《ただし》、花、異なり、子《み》、赤く、「枸杞《くこ》」の子、ごとし。兩頭、尖る。其の皮、外、白く、裏、黃にして、「蘗《きはだ》」の皮のごとくにして、薄く、小さし。』≪と≫。

『氣味【苦、大寒、】 口瘡《こうさう》を治し、諸蟲を殺し、心腹の熱氣を去る。』≪と≫。

△按ずるに、小蘗、葉、柹に似て、而≪れども≫、狹《せば》く、長し。其の子《み》、大いさ、豆のごとく、生《わかき》は、青く、熟≪せ≫ば、淡(うす)紫色。中に、三《みつ》、子《み》、有り、黑色。「山椒」の子に似る【苦、辛甘。】。「志古乃倍伊《しこのへい》」と名づく。用ひて、眼を洗ひて、良し。樹の皮、以つて、黃を染む。僞りて、「黃栢《わうばく》」に𭀚《あ》つ。辨ぜざらんは、あるべからず。其の材、板と爲《なし》、箱に旋(さ)す。

 

[やぶちゃん注:「いぬきはだ」「しこのへい」「小蘗」(歴史的仮名遣「しやうはく」)は、日中ともに、

双子葉植物綱キンポウゲ目メギ(目木)科メギ属メギ Berberis thunbergii

を指す。当該ウィキによれば、『別名では、コトリトマラズ』・『ヨロイドオシ』『ともよばれる』。『和名メギの由来は、茎や根を煎じて洗眼薬に利用されていたので』、『「目木」の名がある』。『枝に鋭い棘を多く生やし、鳥がとまれそうにないことから、コトリトマラズの別名でも呼ばれる』。『落葉広葉樹の低木で』、『樹高』二『メートル』『ほどまで成長し、よく枝分かれする』。『樹形は株立ち』。『樹皮は灰褐色から褐色で、縦にやや不規則な割れ目がある』。『枝は赤褐色から褐色で、顕著な縦の溝と稜が目立つ』。『枝の節や葉の付け根には長さ』五~十二『ミリメートル』『の棘があり』、『徒長枝』(樹木の幹や太い枝から上方に向かって真っ直ぐに長く太く伸びる枝を指す園芸用語)『の葉の付け根には』三『本に分かれた棘がある』。『樹皮は黄色の染料になる』。『葉は単葉で』、『新しく伸びた長枝には互生し』、二『年枝の途中から出た短枝には束生する』。『葉身は長さ』一~五『センチメートル』、『幅』〇・五~一・五センチメートルの『卵倒形から狭卵倒形、または』箆『形で』、『先端は鈍頭または円頭、基部は次第に細くなって短い葉柄になり』、『最大幅は先寄り』。『葉縁は全縁で、表面は薄い紙質で無毛、裏面は色々を帯び無毛』。四~五『月に若葉を出す』。『開花時期は』四~五月で、『新葉が出るころに単枝から小形の総状花序または散形花序を出し、直径約』六ミリメートルの『淡黄色から緑黄色の花を『二~四個、『下向きに付ける』。『花弁の長さは約』二ミリメートルで六個。『萼片は』六『個あり、長楕円形で花弁より大きく、淡緑色にわずかに紅色を帯びる』。『雄蕊は』六『個で』、『花柱は太く』、『触ると』、『葯が急に内側に曲がる』。『雌蕊は』一『個』。『果実は液果で、長さ』七~一〇ミリメートルの『楕円形』を成し、十~十一月に『鮮やかな赤色に熟す』。『アルカロイドの』(alkaloid:古くから向精神物質知られる一種の麻薬)一『種のベルベリン』(berberine:名はまさにメギ属の属名 Berberis に由来する。当該ウィキによれば、『抗菌・抗炎症・中枢抑制・血圧降下などの作用があり、止瀉薬として下痢の症状に処方されるほか、目薬にも配合される。タンニン酸ベルベリンを除いて強い苦味がある。腸管出血性大腸菌O157などの出血性大腸炎、細菌性下痢症では、症状の悪化や治療期間の延長をきたすおそれがあるため』、『原則として禁忌である』とある)『を含む』。『秋は熟した赤い果実と紅葉が美しく』、『冬になっても果実が残る』。『冬芽は枝に互生し、棘の基部につく』。『冬芽の大きさは小さく、長さは』二ミリメートル『ほどで、赤褐色をした数枚の芽鱗に包まれている』。『ブラジルでは』、『この植物は』「日本のメギ」(ポルトガル語:Berbére-japonês)として『広く知られており、生垣や花壇で広く栽培されてい』るという。『日本では、本州の東北地方南部』『から、四国と九州にかけての温帯』『地域に分布する』。『山地から丘陵にかけての林縁』『や原野に生育し、蛇紋岩の地でもよく生育する』。『自然分布の他、人の手によって植栽されて生垣としての庭木や公園樹として利用されている』。『秋田県では分布域が限定され、個体数が希少であることからレッドリストの絶滅危惧種IB類(EN)の指定を受けていて、森林伐採や道路工事による個体数の減少が危惧されている』。『新潟県』『と鹿児島県甲子夜話卷之では、絶滅危惧II類(VU)の指定を受けている。大阪府では準絶滅危惧の指定を受けている』が、『国レベルではレッドリストの指定を受けていない』。「品種」の項。『葉が赤紫色の栽培品種(アカバメギ)』( Berberis thunbergii f. atropurpurea )『があり、黄金葉や歩斑入りの栽培品種もある』。「近縁種」には、オオバメギ Berberis tschonoskyana(「大葉目木」。『メギよりも葉が大きく、棘が少なく、枝に稜がない』)や、ヘビノボラズ Berberis sieboldii(「蛇登らず」。葉に鋸葉があり、湿地周辺のやせ地に生育する』)があるとある。因みに、同種の維基百科を見ると、中文名を「日本小檗」とし、『日本及び中国本土の殆んどの省や地域に分布し、現在では、園芸植物として広く利用されている』とあった。

「金櫻子(ざくろ)」バラ科バラ属ナニワイバラ Rosa laevigata 。中国原産の蔓性常緑低木。本邦には宝永年間(一七〇四年~一七一一年)に渡来し、観賞用に植栽されるが、四国・九州では野生化もしている。枝は、よくのびて、棘が多い。葉は三出複葉で、三個の小葉は厚く、上面に光沢がある。五月に、径六〜八センチメートルの白色の五弁花を開く。萼筒には長い棘が密生する。果実は洋梨形で長さ三・五〜四センチメートル、暗橙赤色に熟す。花が淡紅色のものを「ハトヤバラ」と称する(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。本書「和漢三才圖會」は正徳二(一七一二)年成立であることからも判る通り、この冒頭標題の割注は、「本草綱目」からの引用である(後注参照)。従って、良安が「ザクロ」というルビを当てたのは、誤りである。

「杜鷗花(さつき)」現行の中文では、ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron を指す漢語である。維基百科のこちらを見られたい。言うまでもないが、「サツキ」というルビは良安が勝手に附したものである。これもまた、言うまでもないことだが、本邦ではツツジ属の中に含まれる「ツツジ」・「サツキ」・「シャクナゲ」を別種(群)のように弁別して呼ぶ慣習があるが、これは学術的上の分類とは全く無縁である。

「山石榴《さんせきりう》」本邦では、「サツキツツジ」(皐月躑躅)とも呼ばれる、ツツジ目ツツジ科ツツジ属サツキ Rhododendron indicum の異名であるが、本種は日本固有種であるからして、時珍の言う「山石榴」というのは同種ではなく、現在のツツジ属 Rhododendron 全般、或いは、同属の中国産のどれかの種を指している。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「小蘗で、ガイド・ナンバー[085-7a]以下である。以上の問題から、全原文を手を加えて転写しておく。

   *

小蘗【唐「本草」。】

釋名【子蘗、𢎞景、『山石榴』。時珍曰、『此與、金櫻子・杜鵑花、並、名山石榴、非一物也』。】

集解【𢎞景曰、『子蘗樹小、狀如石榴、其皮黄而苦。又一種、多刺皮、亦黄。並主口瘡。』。恭曰、『小蘗生山石間。所在皆有襄陽峴。山東者為良。一名山石榴。其樹枝葉、與石榴無别。但花異子、細黒圓如牛李子及女貞子爾。其樹皮、白陶云、皮黄、恐謬矣。今太常所貯乃小樹、多刺而葉細者、名刺蘗、非小蘗也。』。藏器曰、『凡是蘗木皆皮黄。今既不黄非蘗也。小蘗如石榴、皮黄、子赤、如枸杞子、兩頭尖。人剉枝以染黄若云。子黑而圓恐是别物非小蘗也。』。時珍曰、『小蘗、山間時有之。小樹也。其皮外白裏黄、狀如蘗皮而薄小』。】

氣味 苦大寒無毒。主治口瘡疳䘌殺諸蟲去心腹中熱氣【唐「本」。】。治血崩【時珍、茄婦人良方。治血崩。阿陀丸方中用之。】

   *

「枸杞《くこ》」ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense 。

「蘗《きはだ》」前出の「黃蘗」に同じ。但し、日中で種がことなるので、そちらを見られたい。

「口瘡」既出既注であるが、再掲すると、口腔内の炎症や感染症。知られたものでは、新生児・乳児に見られる「鵞口瘡」(がこうそう)で、口の粘膜に発生する黴であるカンジダ(菌界子嚢菌門半子嚢菌綱サッカロミケス目 Saccharomycetalesサッカロミケス科カンジダ 属 Candida )感染症がある。口腔の内側の粘膜・舌・口唇に、白色のミルクの滓(かす)のように隆起する粘膜斑で、擦っても剝がすことが難しく、無理に剝そうとすると出血する。

「山椒」ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum 

「志古乃倍伊《しこのへい》」標題にも出た和名「しこのへい」だが、不詳。但し、先に示した通り、枝に鋭棘が多く生えていることからの異名「コトリトマラズ」「ヨロイドオシ」から類推するに、「醜(しこ)の兵(へい)」の文字列を私は想起した。

「黃栢《わうばく》」先行する「黃蘗」の私の冒頭注を参照されたい。但し、ここは良安の言葉であるから、キハダ属キハダ変種キハダ Phellodendron amurense var. amurense と限定してよい。

「旋(さ)す」東洋文庫訳では、『つくる』と訳すが、「旋」には「作る」の意はない。「めぐる・めぐらす・まわる」の意を、「変化させる」の意で用いたか、或いは、単に使役の助動詞代わりに、この字を当てたのかも知れない。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(3)

 

   炭竈や兩膝(モロヒザ)抱(ダキ)て髭男 散 木

 

 炭竈を守るためであらう、ぼうぼう髭を生はやした男が、兩膝を抱いてそこに居る、といふのである。「炭燒のひとりぞあらん竈の際」といふ其角の句は、炭竈の樣子を想ひやつたのであるが、これは炭竈のところにゐる男の樣子を、的確に現した點に特色がある。

「兩膝抱て」といふ中七字は、その男の樣子を描き得て妙である。「蓆敷いて長臑[やぶちゃん注:「ながすね」。]抱きぬ夜水番[やぶちゃん注:「よみづばん」。] 泊月」などといふ句も、この意味に於て軌を同じうするものであらう。

[やぶちゃん注:三句、孰れも、フランスの初期自然主義小説のワン・シーンをスカルプティングした強いリアリズムを感ずる。大正期以降のプロレタリア俳句のようなメッセージさえ伝わってくるとも言えよう。但し、調べたが、作者や収録本は判らなかった。

「炭燒のひとりぞあらん竈の際」は俳論・俳諧発句・連句集を合わせた「雜談集(ざふだんしふ)」(元禄四(一六九一)年刊)に、

   *

 炭燒のひとりぞあらん釜の際(キハ)

   *

と載るのを、国立国会図書館デジタルコレクションの『俳人其角全集』第一巻(勝峯晋風 編・昭和一〇(一九三五)年彰考館)のここで見つけた(下巻・左ページ下段二行目)。

「蓆敷いて長臑抱きぬ夜水番」これは極めて不親切。近現代のもので、作者は、野村泊月(明治一五(一八八二)年~昭和三五(一九六一)年)。当該ウィキによれば、『兵庫県出身の俳人。本名勇』。『竹田村(現丹波市)生。酒造家西山騰三の次男で兄は西山泊雲』。明治三〇(一八九七)『年、早稲田大学英文科卒。同年結婚して野村姓となる。中国の杭州で教職についたが、病により帰国し』明治四三(一九一〇)『年より』、『大阪九条で日英学館を経営した。在学中』から『高浜虚子に師事。兄泊雲とともに』「丹波二泊」と『呼ばれた』。大正一一(一九二二)『年、田村木国、皆吉爽雨と』『山茶花』を『創刊、雑詠選者』となった。昭和一一(一九三六)年、『山茶花』を『辞し』て、自ら『桐の葉』を創刊し、主宰した。『豪放磊落な性格で酒豪であった』とし、『ホトトギス』の『停滞期の作家で、三村純也は「虚子の提唱を忠実に守りぬき、平明な写生句が実を結ぶ先駆けをなした」としている』(「現代俳句大事典」)とあった。本書を読む者なら、当然、知っていると考えて、かく書いたものとは思われるが、現在では、近代定型俳句に詳しい方でないと、それほど有名な人物ではない(自由律俳句から無季語俳句に移った私は全く知らなかった)。因みに、兄泊雲は『「秋」(8)』の宵曲の解説で既出既注である。]

 

   前髮に雪降かゝる鷹野かな 吏 明

 

 鷹野の趣は、獵銃以後に生れた吾々には十分にわからない。同じ狩であつても、飛道具に鷹を用ゐるとなると、雅致と餘裕と竝び生ずるやうな感じがする。一度呑ませたあとで吐かせる鵜飼とは同日の談でない。

 御小姓などであらう、鷹野の御供をする若衆の前髮に、霏々として雪が降りしきる。勿論雪はあたり一面降り埋めつゝあるのであるが、美しい若衆の前髮に降りかゝるところを見つけたのが、この句の主眼であり、鷹野の景色に或ポイントを與へたことになつてゐる。炭竈の髭男はもともとそこに一人しかいない役者であらうが、これは鷹野における人數の中から、特に若衆役を持出した點に一種の技巧がある。畫のやうな趣である。

 

   餅搗や捨湯流るゝ薄氷 晚 柳

 

 餅搗の場合に湯をこぼす。その湯が白い湯氣を立てながら、薄氷の方へ流れて行く、といふだけのことであらう。薄氷のミシミシと音して解ける樣、一面に立つ湯氣の白さまで、眼に浮んで來るやうに思はれる。

 元祿時代のかういふ句を見る每に、吾々はいつも眞實の力を痛感する。寫生と云つても、實感と云つても畢竟同じことである。如何に句を作る技術上の練磨が發達したところが、それだけでかういふ句を得ることは不可能であらう。

 

2024/06/13

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(2)

 

   石竹の一花咲る冬野かな 桃 里

 

 蕭條たる冬野の中に、たつた一輪石竹の花が咲いてゐる。かういふ光景には未だ逢著したことが無いが、實際には屢〻あるのかも知れない。尙白にも「よろよろと撫子殘る枯野かな」といふ句がある。趣は略〻似たやうなものであるが、句としては尙白の方が遙にすぐれてゐる。「よろよろと」の一語が枯野に殘る撫子の樣子を如實に現してゐるのみならず、强ひて一花と限定しないのも、却つて風情が多いからである。

 嘗て定家の「拾遺愚草」を點檢して「霜冴ゆるあしたの原のふゆがれに一花さけるやまとなでしこ」の一首を發見した時、尙白の句と比較すると、數步を讓らなければなるまいと老へたことがあつた。今にして思へば、尙白の句は寧ろ獨立して考へらるべきで、それよりはこの桃里の句の方が、よほど定家の歌に似てゐる。桃里は定家の歌によつて、この趣向を立てたものではないかも知れぬ。たゞ定家の歌以上の働きを、この句に認め難いのを遺憾とする。

[やぶちゃん注:「石竹」双子葉植物綱ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis

「尙白」の句は、調べた限りでは、

   *

よろよろと撫子殘る枯野哉

   *

の表記である。

「霜冴ゆるあしたの原のふゆがれに一花さけるやまとなでしこ」文治二(一一八六)年の「二見浦百首」の中の一首。]

 

   大きなる雪折々の霙かな 旭 芳

 

 霙[やぶちゃん注:「みぞれ」。]が降るのを見ていると、時々大きな雪片がまじつてゐる、と云つたのである。平凡な事柄のやうで、一槪にさう云ひ去ることの出來ぬものがある。

 由來霙などといふ句は、配合物を主にしたものが多く、霙そのものを見詰めたものは少い。この句はその少い一例である。折々まじる大きな雪片は、直に讀者の眼にはつきりうつるやうな氣がする。

 

   膳棚へ手をのばしたる火燵かな 溫 故

 

 火燵を無性箱[やぶちゃん注:「ぶしやうばこ」。]と云ひ出したのは誰か知らぬが、頗る我意を得てゐる。物臭太郞にも或點で興味を持つ吾々は、勿論火燵を以て亡國の具と觀ずるわけではない。無性を直に道德的功過に結びつけるのは、少くとも俳人の事ではあるまいと思ふ。

 この句は火燵に於ける無性の一斷片を現したものである。火燵は第一に人の起居の動作を懶くする。膳棚へ手をのばしたといふのは、立つて取るのが面倒だから、無性中に事を行はうといふに外ならぬ。

 

   火燵からおもへば遠し硯紙 沙 明

 

といふ句なども、やはり同じやうな心持を現してゐる。作者は火燵に在つて何か書くべき硯や紙の必要を感じながら、取りに行くのが懶いために、その「硯紙」の距離を遠く感ずるのである。句としては特に見るに足らぬが、無性箱の消息を傳へたものとして、前句と併看の價値はあるかも知れない。

[やぶちゃん注:「膳棚」膳や椀などの食器をのせる棚。

「功過」「功罪」に同じ。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 目録・黃蘗

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、初回を参照されたい。「目録」の読みはママである。本文同様、濁点落ちが多い。]

 

和漢三才圖會卷第八十三目録

   喬木類

黃蘗(わうへき)【きはだ】

小蘗(こきはだ)【しこのへい】

黃櫨(はじのき)

波牟木(はんのき)

厚朴(かうぼく)【ほゝのき】

杜仲(とちう)

椿(ひやんちゆん)【椿根皮(チユンコンヒ) 鳳眼草】

𣾰(うるし)

(あづさ)

(ひさぎ)

刺楸(はりひさき)

(こひさき)

(あはき)

(きり)

岡桐(おかきり)

梧桐(ことうきり)

油桐(あふらきり)

海桐(しまきり)

赬桐(たうきり)

菜盛葉(さいもちは)

(あふち)【せんたん】

黃棟樹(わうれんしゆ)

(ゑんじゆ)

(まゆみ)

莢蒾(けうめい)

秦皮(とねりこのき)

合歡木(ねふのき)

皂莢(さいかし)【皂⻆子 皂⻆刺】

[やぶちゃん字注:「⻆」は「角」の異体字。]

肥皂莢(ひさうけう)

無患子(つぶ)

木欒子附リ菩提樹】

沒石子(もしくし)

訶黎勒(かりろく)

(けやき)【石欅(いしけやき) 槻(つき)】

[やぶちゃん字注:「いしけやき」の「け」は「ケ」の第三画しか見えないが、原本当該部と東洋文庫の当該項のルビから「ケ」と決した。]

波太豆(はたつ)

(ゑのき)

(やなき)

檉柳(いとやなき)【したれ柳】

水楊(かはやなき)

白楊(まるはのやなき)

扶栘(ふいのやなき)

杞柳(きりう)

贅柳(こぶやなき)

美容柳(ひようやなき)

(むきのき)

(にれ)

蕪荑仁(ふいにん)

蘓方木(すはうのき)

[やぶちゃん字注:「蘓」は「蘇」の異体字。]

鳥木(こくたん)

[やぶちゃん字注:「鳥」はママ。当該項では「烏」になっているので、誤刻である。]

黒柹(くろかき)

(かば)

華櫚(くはりん)

椶櫚(しゆろ)

烏臼木(うきうほく)

巴豆(はづ)

海紅豆(かいかうづ)

相思子(たうあづき)

豬腰子(ちやうし)

石瓜(せきくわ)

鐵樹(たがやさん)

美豆木(みつき)

扇骨(かなめ)

奈岐乃木(なぎのき)

古賀乃木(こがのき)

娑羅雙樹(しやらさうしゆ)

梖多羅(ばいたら)

多羅葉(たらえう)

(よう)

 

 

和漢三才圖會卷八十二

         攝陽 城醫法橋寺島良安尙順

   香木類

 

Kihada

 

[やぶちゃん注:右の樹の上に『本草必讀之圖』(「本草必讀」の圖)、左の樹の上に『三才圖會之圖』(「三才圖會」の圖)のキャプションが記されてある。「本草必讀」は「楓」その他で、 既出既注。「三才圖會」の原図は、国立国会図書館デジタルコレクションの萬暦三七(一六〇九)年序刊のものの、ここの「蘗木」で視認出来る。

 

わうへき  黃栢【俗稱】

 きはだ  蘗木

      【和名岐波太】

黃蘗

      今專曰黃栢

唐音

 ハアン ポツ

 

本綱黃蘗樹髙數丈葉似呉茱萸亦如紫椿經冬不凋其

皮外白裏深黃色緊厚二三分鮮黃者爲上根結塊如松

下茯苓名之檀桓【百歳者根長三四尺別在一旁以小根綴之又名檀桓芝】

氣味【苦寒】 入足少陰腎經爲足太陽膀胱引經藥

 【生用則降實火熟用則不傷胃酒制則治上鹽制則治下蜜制則治中也】惡乾𣾰伏硫黃其

[やぶちゃん字注:「蜜」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、かく、した。]

 用有六瀉膀胱龍火【一也】利小便結【二也】除下焦濕腫【三也】治痢疾先見血【四也】治臍中痛【五也】補腎不足壯骨髓【六也】乃癱疾必用之藥治口瘡如神

[やぶちゃん字注:「臍」は原本では十七画((つくり)の下方の横画の二本目)が十六画の中心から縦に下に下がる。異体字にも見えないので、正字で示した。]

黃蘗無知毋猶水母之無蝦也葢黃栢能制膀胱命門陰

[やぶちゃん字注:「毋」は「母」の異体字であるが、同一行の中で「母」が使用されいるから、明らかに差別化(恐らくは植物と動物の違いを意識して)している意図が明白なので、敢えて用いた。]

中之火知毋能清肺金滋腎水之化源故皆以爲滋陰降

火要藥然必少壯氣盛能食者宜用之若中氣不足而邪

火熾甚者久服則有寒中變

檀桓【苦寒】 治心腹百病安魂魄不饑渴久服通神

△按黃栢藥用外可以染黃色日向加賀之產最良和州

吉野奧州會津之産次之

 

  *

 

わうへき  黃栢《わうばく》【俗稱。】

 きはだ  蘗木《はくぼく》

      【和名「岐波太《きはだ》」。】

黃蘗

      今、專ら、「黃栢」と曰ふ。

唐音

 ハアン ポツ

 

「本綱」に曰はく、『黃蘗樹の髙さ、數丈。葉、「呉茱萸《ごしゆゆ》」に似たり。亦、「紫椿《しちん》」のごとし。冬を經て、凋まず。其の皮、外、白く、裏、深黃色なり。緊《しまりて》、厚さ、二、三分。鮮(あざや)かに黃なる者を、上と爲《な》す。根、結塊≪して≫松の下の茯苓《ぶくりやう》のごとく、之れを「檀桓《だんくわん》」と名づく【百歳の者、根の長さ、三、四尺。別に、一旁《いつばう》、在りて、小≪さき≫根を以つて、之れを綴り、又、「檀桓芝《だんくわんし》」と名づく。】』≪と≫。

『氣味【苦、寒。】 足≪の≫「少陰腎經」に入りて、足≪の≫「太陽膀胱引經」の藥と爲《な》る。』≪と≫。

 『【生にて用ふれば、則ち、實火(じつくわ)を降《くだ》す。≪煮≫熟《にじゆく》して、用ふれば、則ち、胃を傷めず。酒≪もて≫制すれば、則ち、≪體內の≫上《うへ》を治す。鹽≪もて≫制すれば、則ち、≪體內の≫下を治す。蜜≪もて≫制すれば、≪體內の≫中《ちゆう》を治ずるなり。】。乾𣾰《かんしつ》を惡《い》み[やぶちゃん注:「忌み」に同じ。]、硫黃《いわう》を伏《ぶく》す。其の用[やぶちゃん注:ここは「効用」の意。]、六つ、有り。膀胱の龍火を瀉《くだ》す【一《いち》なり。】。小便≪の≫結≪せる≫を利す【二なり。】。下焦《かしやう》の濕腫《しつしゆ》を除く【三なり。】。痢疾≪にて≫、先づ、血を見るものを治す【四なり。】。臍《へそ》の中《うち》≪の≫痛みを治す【五なり。】。腎の不足を補ひ、骨髓を壯《さかん》にす【六なり。】。乃《すなは》ち、癱疾《たんなん》≪の≫必用の藥≪にして≫、口瘡《こうさう》を治すること≪も、また≫、神《しん》のごとし。』≪と≫。

『黃蘗、「知毋《ちも》」、無ければ、猶ほ、水母(くらげ)の、蝦(ゑび[やぶちゃん注:ママ。])、無きがごとくなり。葢し、黃栢、能く、膀胱命門の陰中の火《くわ》を制す。「知毋」は、能く、肺金《はいきん》を清《きよらかにす》、腎水の化源を滋《やしなふ》。故《ゆゑ》、皆、以つて、「滋陰降火《じいんかうくわ》」の要藥たり。然れども、必ず、少壯≪にして≫、氣、盛んにして、能く、食する者、宜(よろ)しく之れを用ふべし。若《も》し、中氣、不足して、邪火《じやくわ》、熾(も)ゆること、甚しき者≪は≫、≪これを≫久しく服すれば、則り、寒中の變、有り。』≪と≫。

『檀桓【苦、寒。】 心腹≪の≫百病を治し、魂魄を安んじ、饑渴せず、久≪しく≫服すれな、神に通ず。』≪と≫。

△按ずるに、黃栢は、藥用の外、以つて、黃色を染むべし。日向・加賀の產、最≪も≫良し。和州・吉野・奧州會津の産、之れに次ぐ。

 

[やぶちゃん注:「黃蘗」は、

被子植物門双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科キハダ属Phellodendron

で、基本、日中でも基原種は同じで、

キハダ属キハダ変種キハダ Phellodendron amurense var. amurense

である。但し、中国では、同属の、

川黃檗 Phellodendron chinense

(現行の中文名では「蘗」は「檗」である)も広く分布しており、

同種の基原変種川黃檗  Phellodendron chinense var. chinense

及び、

禿葉黃檗 Phellodendron chinense var. glabriusculum

が自生するので、「本草綱目」の引用では、それらを総て比定種とする必要がある。小学館「日本大百科全書」によれば、『黄色の色素をもつ植物染料の一つ』で、『キハダは山地に生じる高木で、内皮は黄色。「きわだ」の名称は、きはだ(黄膚)から出たものという。漢方の薬用植物で、苦味のある内皮を黄蘗皮(おうばくひ)と称して、胃の薬とする。染色には、この黄色の部分を煎じて用いる。媒体を必要としない直接染料で、色は白みを帯びた品のいい色であるが、堅牢性に乏しく、とくに直射日光には弱い』とある。当該ウィキもリンクさせておく。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の冒頭の「蘗木」

「唐音」勘違いしている生徒が多かったので、言っておくと、一般に知られる「漢音」は、平安時代初氣頃までに、遣唐使・留学僧などによって伝えられた、唐の首都長安の北方標準音に基づくものを指す。次いで、「呉音」というのは、元来は「和音」と呼ばれていたが、平安中期以後に「呉音」とも呼ばれるようになった。北方系の漢音に対して、南方系であるとされ、特に仏教関係の語などに多く用いられている。而して、「唐音」は、狭義には、江戸時代になって、長崎を通じて伝えられた、明から清の初期の中国語の発音によるものを指す。禅僧・長崎通事・貿易商などによって伝えられた。また、広義には、江戸時代以前から広まった宋音をも含めた「唐宋音」を包含する。孰れも、中国の歴史的王朝・国名とは、関係がないので、注意が必要である。昔、生徒が「唐音」を唐王朝当時の発音と採っていたので、敢えて、ここで言っておく。

「呉茱萸《ごしゆゆ》」「ごしゅゆ」はムクロジ目ミカン科ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum 当該ウィキによれば、『中国』の『中』部から『南部に自生する落葉小高木。日本では帰化植物。雌雄異株であるが』、『日本には雄株がなく』、『果実はなっても種ができない。地下茎で繁殖する』八『月頃に黄白色の花を咲かせる』。『本種またはホンゴシュユ(学名 Tetradium ruticarpum var. officinale、シノニム Euodia officinalis )の果実は、呉茱萸(ゴシュユ)という生薬である。独特の匂いと強い苦みを有し、強心作用、子宮収縮作用などがある。呉茱萸湯、温経湯などの漢方方剤に使われる』とあった。漢方薬剤としては平安時代に伝来しているが、本邦への本格的渡来は享保年間(一七一六年から一七三六年まで)とされる。

「紫椿《しちん》」驚いたことに、東洋文庫では、そのまま訳文に使用して、何の注も附していないが、これは「ツバキ」とは縁も所縁もないもので(因みに言っておくと、現代中国語でツバキは「山茶花」「日本椿花」と漢字表記される)、ムクロジ目センダン科チャンチン属 Toona ciliata である。アフガニスタンからインド・パプアニューギニア・オーストラリアにかけての南アジア全域に植生する。当該英文ウィキをリンクさせておく。

「松の下の茯苓《ぶくりやう》」菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensaウィキの「マツホド」によれば、アカマツ(球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora)・クロマツ(マツ属クロマツ Pinus thunbergii)等のマツ属 Pinus の植物の根に寄生する。『菌核は伐採後』二~三『年経った切り株の地下』十五~三十センチメートルの『根っこに形成される。子実体は寄生した木の周辺に背着生し、細かい管孔が見られるが』(oso(おそ)氏のキノコ図鑑サイト「遅スギル」のこちらで画像で見られる)、『めったには現れず』、『球状の菌核のみが見つかることが多い』。『菌核の外層をほとんど取り除いたものを茯苓(ブクリョウ)と呼び、食用・薬用に利用される。天然ものしかなかった時代は、松の切り株の腐り具合から』、『見当をつけて』、『先の尖った鉄棒を突き刺し』、『地中に埋まっている茯苓を見つける「茯苓突き」と言う特殊な技能が必要だった。中国では昔から栽培されていたようだが』、一九八〇『年代頃より』、『おがくず培地に発生させた菌糸を種菌として榾木に植え付ける(シイタケなどの木材腐朽菌と同様の)栽培技術が確立され、市場に大量に流通するようになって価格も下がった。現在ではハウス栽培で大量生産されて』おり、『北京では茯苓を餅にしてアンコをくるんだ物が「茯苓餅」または「茯苓夾餅」の名で名物となっている。かつては宮廷でも食された高級菓子で、西太后も好物だったという。現在は北京市内のスーパーでも購入することができる』。『薬用の物では、雲南省に産する「雲苓」と呼ばれる天然品が有名であるが、天然物は希少であるため』、殆んど『見ることはできない』。『日本は』、『ほぼ全量を輸入に頼っていたが』、二〇一七年に『石狩市の農業法人が漢方薬メーカーの』「ツムラ」(「夕張ツムラ」)との『協力で、日本初となるハウス量産に成功した』とある。『菌核の外層をほとんど取り除いたものは茯苓(ブクリョウ)という生薬(日本薬局方に記載)で、利尿、鎮静作用等があ』り、『多くの漢方方剤に使われ』ているとあった。

「檀桓芝」「霊芝」でご存知の通り、実は、この「芝」と言う漢字は、まさに担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum を指す漢字として作られたものなのである。「シバ」ではなく、「神聖なキノコ」を示す漢語なのである。レイシに就いては、私の「日本山海名産図会 第二巻 芝(さいはいたけ)(=霊芝=レイシ)・胡孫眼(さるのこしかけ)」を参照されたい。

『足≪の≫「少陰腎經」』東洋文庫の後注に、『身体をめぐる十二経脈の一つ。巻八十二肉桂の注一参照のこと』とある。このプロジェクトで先行している「肉桂」の私の注を見られたい。

『足≪の≫「太陽膀胱引經」』同前で、『身体をめぐる十二経脈の一つ。卷八十二肉桂の注三參照のこと』とある。リンク同前。

「實火(じつくわ)」東洋文庫の割注に、『(激しい陽性の熱)』とある。

「龍火」東洋文庫の割注に、『(陰火。うちにこもった熱?)』と、疑問符附きである。

「小便≪の≫結≪せる≫」「結」は「結滯」の意。排尿困難。

「下焦」中医学が仮想した器官「三焦」の一つで、「五臓六腑」の名数にも入っている。生命の根幹たる気と水液を司り、五臓六腑にそれらを送りだす最重要の働きがあるとされた。上焦・中焦・下焦の三つに分けられる。上焦は「心」・「肺」で飲食物を送り込むことを、中焦は「脾胃」の消化運動を、下焦は「肝」・「腎」にあって排泄を司るとされた。しばしば、比喩として用いられる「病膏肓に入る」の「膏肓」の「膏」は心臓の下部、「肓」は隔膜の上とされ、身体の一番奥で生命維持機能を統括する場所を指す語であり、この三焦がその臓器であるという話を嘗て聴いたことがあった。

「濕腫」体内に溜まった過剰な水分や湿気によって生ずる水腫や腫物。

「癱疾《たんなん》」東洋文庫の割注に、『(激しい陽性の熱)』とある。

「口瘡《こうさう》」口腔内の炎症や感染症。知られたものでは、新生児・乳児に見られる「鵞口瘡」(がこうそう)で、口の粘膜に発生する黴であるカンジダ(菌界子嚢菌門半子嚢菌綱サッカロミケス目 Saccharomycetalesサッカロミケス科カンジダ 属 Candida )感染症がある。口腔の内側の粘膜・舌・口唇に、白色のミルクの滓(かす)のように隆起する粘膜斑で、擦っても剝がすことが難しく、無理に剝そうとすると出血する。

「知毋《ちも》」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ハナスゲ属ハナスゲ Anemarrhena asphodeloides の根茎の生薬名「知母」。当該ウィキによれば、『中国東北部・河北などに自生する多年生草本』『で』、五~六『月頃に』、『白黄色から淡青紫色の花を咲かせる』。『根茎は知母(チモ)という生薬で日本薬局方に収録されている』。『消炎・解熱作用、鎮静作用、利尿作用などがある』。「消風散」・「桂芍知母湯」(ケいしゃくちもとう)・「酸棗仁湯」(さんそうにんとう)『などの漢方方剤に配合される』とある。

「水母(くらげ)の、蝦(ゑび)、無きがごとくなり」東洋文庫の割注に、『水母と蝦は共生し、蝦は水母の涎(よだれ)を飲んで生き、その代り水母の眼の役割をして水母の移動に力を貸しているという。また黄栢は腎経血分の藥、知母は腎経気分の藥で、相俟って効力を発揮する』とあった。前半部、クラゲ・フリークである私から見ても、頑張って注してあると思う。私は、フリークの海産生物以外でも、寄生している種と、寄生されている種との、完全な「共生」(相互共生)というのは、なかなか無批判に納得出来るケースは、そう多くないと感じている人種である。旧来、安易に「共生」という言い方をする学者や一般人には、必ず、眉に唾つけて「片利共生なんじゃないの?」と突っ込むトンデモ男なのである。確かに、私が海産無脊椎動物に目覚めた小学校二年生に知った、名にし負う、

エビクラゲ刺胞動物門鉢虫綱根口クラゲ目イボクラゲ科ビクラゲ属エビクラゲ Netrostoma setouchianum の口腕に、多くの

節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目コエビ下目タラバエビ上科タラバエビ科クラゲエビ属クラゲエビ Chlorotocella gracilis が共生している

という子供向けの読物には、ひねこびていなかった私は、大いに素直に感動したものだったのは事実ではあった(しかし、そこに描かれたイラストでは、あろうことか――どっしり海底に鎮座したエビクラゲの下に、これまた、茹でた如き紅色の、大きな、如何にもな「エビ」が触手の間にデンと隠れている――というトンデモ画であったことも、いっかな、忘れないのだが)。けれども、高校時代頃には、『これらは、他の生物社会に対して、安っぽいヒューマニティを安易且つ独善的に及ぼしたものも多いのではないか?』と、頗る懐疑的になって今に至っていたのであった。しかし、今回、仕切り直して調べてみた結果、林健一・坂上治郎・豊田幸詞共作になる学術論文「日本海および東北地方の太平洋岸に出現したエチゼンクラゲに共生するクラゲモエビ」(雑誌『Cancer』二〇〇四年五月発行所収・PDF)に於いて、

『クラゲモエビとエチゼンクラゲとの共生については正確に報告されたことはなかった』『今回』、『潜水観察を行い』、『さらに水槽での短期飼育を行った』結果、『クラゲモエピの形態と共生関係を観察することができた』

とあるのを見た以上、相互共生を、この二種間には、確かに認められると確信した。この「エチゼンクラゲ」とは、大型になるクラゲの筆頭である、

口クラゲ目ビゼンクラゲ科エチゼンクラゲ属エチゼンクラゲ Nemopilema nomurai

で、本邦では主に東シナ海から日本海にかけて分布し、実に最大個体では傘の直が二メートル、湿重量は百五十キログラにも達する。古くは瀬戸内海に有意に入り込んでいたものか備前国(岡山県)を産地としたことに和名は由来する(但し、私は実はそれは、エチゼンクラゲの近縁種である、ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta を指していたのではないかと秘かに思っている)。なお、これ以外にも、香川県水産課のスタッフが執筆しているブログ「うどん県おさかな課」の「アナタはダレ?ワタクシはエビクラゲです、か?」に、試験場での現認になる、エビクラゲに『共生』していた小エビとして、クラゲエビ以外に、「タコクラゲエビ」という種も挙げてあった。但し、この和名、そこに記された『広島大学総合博物館研究報告』(第三号・二〇一一年十二月発行)の、大塚攻・近藤裕介・岩崎貞治・林健一論文『瀬戸内海産エビクラゲNetrostoma setouchiana に共生するコエビ類』によって(ここでPDFでダウンロード出来る)、この種は、正しくは、

コエビ下目テッポウエビ上科モエビ科ホソモエビ属タコクラゲモエビ Latreutes mucronatus

であることが、判明した。

「肺金《はいきん》」東洋文庫の割注に、『(肺は五行の金に属する)』とあった。

「中氣、不足して、邪火《じやくわ》、熾(も)ゆること、甚しき者≪は≫、≪これを≫久しく服すれば、則り、寒中の變、有り」この部分、あんまり、言っている意味が解らないことを正直に告白しておく。]

2024/06/12

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 瑞香 / 卷第八十二 木部 香木類~了

[やぶちゃん注:本篇を以って、「卷第八十二 木部 香木類」は終っている。『「和漢三才圖會」植物部』の始動は、本年、二〇二四年四月二十七日であるから、巻第八十二の全項目を十五日で終わったことになる。亡父の後片付けの最中の中で、この一巻五十三項を終えることが出来たのは、気の遠くなる「植物部」全千百十九項に光明が見えてきた気が、強くしている。維持は難しいものの、このペースだと、単純にドンブリすると、数年、七十歳になる遙か以前に、完遂出来る気がしてきたのである。

 

Jintyouge

 

ちんちやうけ 𪾶香【五雜組】

       【俗云沈丁花

         誤曰里牟

         知也宇介】

瑞香

 

ツイ ヒヤン 【本草芳草類有

        之今改移于此】

 

本綱瑞香南方山中有之枝幹婆娑柔條厚葉四時不凋

冬春之交開花成簇長三四分如丁香狀有黃白紫三色

其高者三四尺有數種有枇杷葉者楊梅葉者柯葉者毬

子者攣枝者惟攣枝者花紫香烈其節攣曲如斷折之狀

也枇杷葉者乃結子其始出於廬山宋時人家栽之始著

名其根綿軟而香【味甘鹹】

五雜組云相傳廬山一比丘晝寢山石下開異香覺而尋

之得此花故名𪾶香後好事者以爲祥瑞改爲瑞香

古今醫統云用浣衣灰汁澆瑞香根去蚯蚓以𣾰査壅根

[やぶちゃん字注:「𣾰」は「漆」の異体字。]

撏雞鵞水澆之皆盛長此花悪濕畏日不可露根

△按瑞香人家多栽之疑此山礬之類此云沈丁花也春

 揷之能活一二尺亦開花髙者四五尺枝幹婆娑葉似

 無齒梔子葉及楊梅葉春著花形如丁香而紫既開則

 四出外淡紫內白十余朶攅簇其香烈如沉香丁香相

 兼故俗曰沈丁花然濕濃不如蘭花之艶【未見黃色花者未審】

 

   *

 

ぢんちやうげ 𪾶香《すいかう》【「五雜組」。】

       【俗、云ふ、「沈丁花」。

        誤りて、

        「里牟知也宇介(ぢんちやうげ)」

        と曰ふ。】

瑞香

 

ツイ ヒヤン 【「本草」、「芳草類」に、之れ、有り。

        今、改≪めて≫此《ここ》に移す。】

 

「本綱」に曰はく、『瑞香、南方山中、之れ、有り。枝・幹、婆娑《ばさ》たり。柔《しなやかなる》條《えだ》、厚≪き≫葉、四時、凋まず。冬・春の交(あはひ)、花を開き、簇《むれ》を成す。長さ、三、四分、丁香《ちやうかう》の狀《かたち》のごとく、黃・白・紫の三色、有り。其の高き者、三、四尺。枇杷≪の≫葉の者、楊梅《やまもも》≪の≫葉の者、柯《しひ》の葉の者、毬-子《まり》の者、攣《かがまれる》枝の者、數種、有り。惟《ただ》、攣《かがまれる》枝の者は、花、紫にして、香、烈なり。其の節《ふし》、攣曲《れんきよく》にして、斷-折(うちを)りたる狀《かたち》のごとし。枇杷の葉の者には、乃《すなはち》、子《み》を結ぶ。其の始め、廬山より出づ。宋の時より、人家に之れを栽ゑて、始めて、名を著《あら》はす。其の根、綿≪の如く≫軟《やはらか》にして、香《かんば》し【味、甘、鹹。】。』≪と≫。

[やぶちゃん注:「本草綱目」からの引用は、ここまでである。]

「五雜組」に云はく、『相ひ傳ふ、「廬山の一比丘、山石の下に晝寢(ひるね)して、異香を開く。覺(さ)めて、之れを尋ねて、此の花を得たる故、「𪾶香」と名づく。後《のち》、好事(こんず[やぶちゃん注:ママ。])の者、以つて、祥瑞《しやうずい》と爲《な》し、改めて、「瑞香」と爲す」≪と≫。』≪と≫。

「古今醫統」に云はく、『衣《ころも》を浣《あら》ふ、灰-汁(あく)を用ひて、瑞香の根に澆(そゝ)ぎ、蚯蚓(みゝづ)を去り、𣾰《うるし》の査(かす)を以つて、根に壅(を)き[やぶちゃん注:ママ。「置き」。但し、「壅」に「置く」の意はなく、ここは「塞ぐ」の意である。]、撏(と)りて、雞《にはとり》・鵞《がてう》の水[やぶちゃん注:小水。小便。]を之れに澆げば、皆、盛《さかんに》長《ちやう》ず。此の花、濕《しつ》を悪《にく》む。日を畏《おそ》る。根を露(あらは)すべからず《→露(あらは)にすべからず》。』≪と≫。

△按ずるに、瑞香は、人家、多く、之れを栽う。疑ふらくは、此れ、「山礬」の類にして、此《ここ》に云ふ、沈丁花なり。春、之れを揷して、能く、活《かつ》≪すること、≫一、二尺。亦、花を開く。髙き者、四、五尺。枝・幹、婆娑として、葉、齒の無き梔子《くちなし》の葉、及び、楊梅《やまもも》の葉に似る。春、花を著《つ》く。形、丁香《ちやうかう》ごとくにして、紫。既に開けば、則ち、四《よつ》、出づ。外(そと)、淡紫、內、白。十余朶、攅-簇(こゞな)り、其の香、烈≪なり≫。沉香《ぢんかう》・丁香、相ひ兼ぬるごとし。故、俗に「沈丁花」と曰ふ。然《しか》≪れども≫、濕(しつ)、濃(こ)く、蘭花の艶(やさし)きにしくならず【未だ黃色の花の者、見ず。未だ審らかならず。】。

 

[やぶちゃん注:「瑞香」は、「沈丁花」であるが、「本草綱目」以下二書の引用は、中国のものであるから、

双子葉植物綱フトモモ(蒲桃)目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属 Daphne

まで、である。何故かと言えば、ジンチョウゲ科Thymelaeaceaeは、五十属五百種を数えるからである。小学館「日本大百科全書」の「ジンチョウゲ科」に拠れば、『離弁花類。低木または小高木。樹皮の靭皮繊維は強く』丈夫で、『ちぎれにくい。葉は互生または対生し、鋸歯がない。花は束生するか』、『頭状花序をつくり、萼筒は細長くて子房を包み、先は』四~五『裂する。子房は上位。一般に花弁を欠く。果実は核果または堅果で』一『個の種子がある。熱帯から温帯に分布し、日本にはガンピ属』十『種、ジンチョウゲ属』三『種が自生し、ジンチョウゲ』(本邦の最も知られたフトモモ(蒲桃)目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属ジンチョウゲ Daphne odora 。良安の言っている種もこれ、若しくは、その品種と考えてよいだろう)や、同属の『フジモドキ』( Daphne genkwa )『が観賞用に、高級紙の原料としてミツマタ』(ジンチョウゲ科ミツマタ属ミツマタ Edgeworthia chrysantha )『が栽培される。また』、『ガンピからは雁皮紙をつくる』。『APG分類』(既出既注)『でもジンチョウゲ科とされる。日本にはジンチョウゲ属、シャクナンガンピ属』( Daphnimorpha )、『ガンピ属』( Diplomorpha )、『アオガンピ属』( Wikstroemia )『が自生し、ミツマタ属が野生化する』とある。一応、ジンチョウゲ Daphne odora 当該ウィキを引いておく。『別名でチンチョウゲともいわれる』。『中国名は瑞香』。『別名』に『輪丁花。原産地は中国南部で、中国から日本に渡来して、室町時代にはすでに栽培されていたとされる』。『クチナシ』(リンドウ目アカネ科サンタンカ(山丹花)亜科クチナシ連クチナシ属クチナシGardenia jasminoides )、『キンモクセイ』(シソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ属モクセイ変種キモクセイ品種キンモクセイ Osmanthus fragrans var. aurantiacus f. aurantiacus )『とともに、日本の三大芳香木の一つに数えられる』。『「沈丁花」という漢字名は、香木の沈香(ジンコウ)のような良い匂いがあり』、チョウジノキ『丁子(クローブ)』(Clove:フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum )『の香りを合わせたような香木という意味で名付けられた』。『また、沈丁は沈香から転訛したものという説もある』。『学名の』『属名 Daphne(ダフネ)はギリシア神話の女神ダフネ』(当該ウィキを見られたい)『にちな』み、『種小名の odora(オドラ)は「芳香がある」を意味する』。『常緑広葉樹の低木』で、『樹皮は褐色で滑らか』にして、『葉は互生し』、『濃緑色をしたツヤのある革質で、長さ』六『センチメートル』、『幅』二センチメートルの『倒披針形で』、『ゲッケイジュ』(クスノキ目クスノキ科ゲッケイジュ属ゲッケイジュ Laurus nobilis )『の葉に似ているが、ゲッケイジュよりも軟弱』である。『雌雄異株であるが、日本にある木は雄株が多く、雌株は』殆んど『見られない』。『花期は』二~四月で、『枝先から濃紅色の花蕾が、集まって出てくる』。『花は花弁がない花を』二十~三十『個、枝の先に手毬状に固まってつく』。『花弁のように見えるものは』四『枚の萼片で』、『外側が淡紅色、内側が白色で、中にはすべて白色のものもある』。『雄蕊は黄色、花から強い芳香を放つ。花を囲むように葉が放射状につく』。『果期は』六『月』で、『赤く丸い果実をつけるが、実を噛むと辛く』、『有毒である。日本には雌株が少ないため、あまり結実しないが、ごく稀に実を結ぶこともある』。『冬芽は前年枝の先につき、そのほとんどが花芽で、多数の総苞に包まれている』。『側芽は枝に互生し、かなり小さく、葉が落ちると見えるようになる』。『葉痕は半円形で、維管束痕が』一『個ある』。『関東地方以南では、庭木や公園樹として親しまれており、墓に植えられることも多い』。但し、『移植は好まず』、『耐寒性には乏しい性質がある』。『日本にあるものは』殆んどが『雄株のため、挿し木で増やす』。『花の煎じ汁は、歯痛・口内炎などの民間薬として使われる』。『全体にメゼレインなどの有毒成分を含み、特に果実や樹皮の毒が強い。誤食した場合には口唇や舌の腫れ・のどの渇き・嚥下困難・悪心・嘔吐・血の混じった下痢を伴う内出血・衰弱・昏睡などの症状が出て、死に至る可能性もある。また、汁液に触れた場合には皮膚に炎症などが生じる恐れがある』とある。以下、「品種」として主な三種が挙げられてある。

「五雜組」既出既注

『「本草」、「芳草類」に、之れ、有り。今、改≪めて≫此《ここ》に移す』この良安のオリジナルな変更の意図は、前の「山礬」の私の傍注を参照されたい。「本草綱目」の「卷十四」の「草之三芳草類」(「漢籍リポジトリ」)の独立項「山礬」。ガイド・ナンバー[041-70b]以下である。短いので、手を加えて転写しておく。

   *

瑞香【「綱目」。】

集解【時珍曰、南土處處山中有之。枝幹婆娑柔條、厚葉四時不凋。冬春之交開花成簇。長三四分、如丁香狀。有黄白紫三色。「格古論」云、瑞香髙者三四尺。有數種、有枇杷葉者、楊梅葉者、柯葉者、毬子者、攣枝者。惟攣枝者、花紫香烈。枇杷葉者、結子。其始出于廬山、宋時人家栽之始著名。攣枝者、其節、攣曲、如斷折之狀也。其根綿軟而香。】

 根。氣味、甘鹹、無毒。主治急喉風、用白花者、研水灌之。時珍曰、出「醫學集成」。

   *

「婆娑《ばさ》たり」原義は「舞う人の衣服の袖が、しどけなく、美しく翻るさま。」で、他に「影などが乱れ動くさま」「樹竹の葉などに雨や風があたってガサガサと音がするさま」を言う。ハイブリッドにとってよかろう。

「丁香《ちやうかう》」バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum 。先行する「丁子」を参照。

「楊梅《やまもも》」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra 。複数回、既出既注。

「柯《しひ》」中国では、ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis の樹木、本邦ならば、ツブラジイ( C. cuspidata )・スダジイ( C. sieboldii )、及び、近縁のブナ科マテバシイ属マテバシイ Lithocarpus edulis 等も、「しい」と呼ぶ。私の好物。

『「五雜組」に云はく、『相ひ傳ふ、「廬山の一比丘、山石の下に晝寢(ひるね)して、異香を開く。覺(さ)めて、之れを尋ねて、此の花を得たる故、「𪾶香」と名づく。後《のち》、好事(こんず[やぶちゃん注:ママ。])の者、以つて、祥瑞《しやうずい》と爲《な》し、改めて、「瑞香」と爲す」≪と≫。』』「中國哲學書電子化計劃」ここから、電子化されたものをそのままで転写する(最近、このサイトの影印本画像が見られなくなってしまった)。

   *

瑞香原名睡香相傅廬山一比丘信畫寢山石下夢寐之中但聞異香酷烈覺而尋之因得此花故名睡香後好事者苛其事以篇祥瑞迺改為瑞余謂山谷之中苛卉異花城市所不及知者何限而山中人亦不知賞之二吳最重玉蘭金陵天界寺及虎丘有之每開時以篇青睹而支提太妹道中彌口滯谷一望林際酷烈之氣衡入頭眩又延平山中古桂夾道上參雲漢花墮狼藉地上入土數尺固知荊山之人以玉抵鵲良木誣也

   *

「古今醫統」既出既注だが、再掲すると、明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六)によって編纂された一種の以下百科事典。全百巻。「東邦大学」の「額田記念東邦大学資料室」公式サイト内のこちらによれば、『歴代の医聖の事跡の紹介からはじまり、漢方、鍼灸、易学、気学、薬物療法などを解説。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べている。分類された病名のもとに、病理、治療法、薬物処方という構成になっている』。『対象は、内科、外科、小児科、産婦人科、精神医学、眼科、耳鼻咽喉科、口腔・歯科など広範囲にわたる』とある。

「山礬」前項の「山礬」を参照されたい。

「攅-簇(こゞな)り」孰れの漢字も「群がり集まる」の意。

「沉香《ぢんかう》」先行する「沈香を参照されたい。

「濕(しつ)、濃(こ)く」「香りが濃厚に過ぎて、しつこく」の意。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 山礬

 

Sanban

      芸香 七里香

      柘花  掟花

      春桂  瑒花

山礬

     【本草灌木類有之

サンハン  今改移于此】

 

本綱山礬山野叢生甚多而花繁香馥故名芸【音云盛多也】大

者株髙丈許其葉似巵子葉生不對節光澤堅強畧有齒

凌冬不凋三月開花白如雪六出黃蕋甚芬香結子大如

椒青黒色熟則黃色可食其葉取以染黃及收豆腐或雜

入茗中又采葉燒灰以染紫爲黝不借礬而成故名山礬

[やぶちゃん字注:「茗」は「茶」の異体字。]

葉【酸濇微甘】 治久痢止渴殺蚤蠧

 畫譜云其花細小而繁香馥甚遠故名七里香

△按山礬【未詳】蓋沈丁花之類也而曰似梔子葉凡梔子

 葉有齒與無齒有二種山礬葉有齒沈丁花葉似無齒

 梔子葉有花四出與六出色白與淡紫子有與無之違

 

   *

 

      芸香《うんかう》 七里香《ひちりかう》

      柘花《しやくわ》  掟花《ていくわ》

      春桂《しゆんけい》 瑒花《やうくわ》

山礬

     【「本草」、「灌木類」に、之れ、有り。

サンハン  今、改めて、此《ここ》に移す。】

 

「本綱」に曰はく、『山礬は、山野に叢生し、甚だ多くして、花、繁く、香、馥《かぐは》しき故、「芸《うん》」と名づく【音、云《ふこころは》、「盛≪んにして≫多き」なり。】。大なる者、株の髙さ、丈許《ばか》り。其の葉、「巵子(くちなし)」の葉に似て、生《は》≪ゆるに≫、節《ふし》を對《たい》せず。光澤、堅強《かたくつよく》、畧(ちと)、齒、有り。冬を凌ぎて、凋まず。三月、花を開き、白くして、雪のごとく、六《むつつ》、出づ。黃≪の≫蕋《しべ》、甚だ、芬香《ふんかう》≪す≫。子《たね》を結ぶ。大いさ、椒《しやう》のごとく、青黒色。熟する時は[やぶちゃん注:「時」はルビにある。]、則ち、黃色。食ふべし。其の葉、取りて、以つて、黃を染め、及び、豆腐を收め、或いは、茗(ちや)の中に雜-入《まぜいれ》、又、葉を采り、灰に燒きて、以つて、紫を染むれば、黝(あをぐろ)に爲《な》る。礬(みやうばん)を借《か》らずして、成る故《ゆゑ》、「山礬」と名づく。』≪と≫

『葉【酸濇《さんしよく》、微甘。】 久痢を治し、渴《かはき》を止め、蚤《のみ》・蠧《きくひむし》を殺す。』≪と≫。

『「畫譜」に云はく、『其の花、細く、小にして、繁く、香、馥《かぐはし》。甚だ、遠≪くへ薫る≫。故、「七里香」と名づく。』≪と≫。』≪と≫。

△按ずるに、山礬【未だ詳かならず。】、蓋し、沈丁花の類なり。而して、梔子の葉に似ると曰ふ。凡そ、梔子の葉、齒、有ると、齒、無きと、二種、有り。山礬の葉には、齒、有り、沈丁花の葉は、齒、無き、梔子の葉に似たり。花、四《よつ》、出《いづる》と、六《むつ》、出づると、色、白きと、淡紫と、子、有ると、無きとの違ひ、有り。

 

[やぶちゃん注:ここで恐らく、良安は、「本草綱目」の「香木類」が、どうも、日中では樹種名が違うということに、何となく気づいてきたのであろう、と私は踏んだ。さればこそ、時珍の分類を仕切り直して、この「山礬」を、敢えて、ここへ繰り入れて、自身の分類法をよしとしたのであろう、と推理した。実は、次の「瑞香」も「芳草類」から、配置換えをしているからである。而して、それは、すこぶる正しいのである。さて、「山礬」とは、常緑、又は、落葉の低木、または、高木の、

双子葉植物綱カキノキ目ハイノキ科ハイノキ属 Symplocos

である。同属は約四百種が熱帯・亜熱帯を中心に、アジア・オーストラリア・南北アメリカの広い範囲に分布するが、アフリカには植生しない。日本にも二十数種が植生する。ウィキの「ハイノキ科」によれば、『ハイノキ科にはアルミニウムを含む種が多くあり、各地で染色に用いられてきた。日本語科名の「灰の木」も、日本に分布するハイノキの灰汁を媒染剤に使ったことによる』。因みに、『ラテン語の科名は「一緒になる」の意味で、多数あるおしべが、それぞれまとまって』五『組の束になっていることによる』とあった。されば、「本草綱目」の記すものは、同属ではあるが、種は違う。ただ、維基文庫の「山礬」があったのだが、この山礬 Symplocos sumuntia というのは、ハイノキ属クロバイ Symplocos prunifolia のシノニムであり、中国には自生せず、本州関東以西の四国・九州・沖縄、及び、済洲島に分布するので、違う。現行の中国語の「山礬」は、近代以降に当てられたものということになる。ただ、中国に分布するハイノキ属はリストがないので、種同定は残念ながら、出来ない。而して、本邦産の代表種は、

ハイノキ Symplocos myrtacea

となる。当該ウィキによれば、『和名「ハイノキ」の由来は、この樹木の木灰が、近縁のクロバイ同様、染色の媒染剤として利用されたことから「灰の木」の名がある』。『九州ではイノコシバ(猪の子柴)と呼ばれた。狩りで獲た猪を縛るのに、この木の丈夫な枝を用いたためという』。『日本の本州(近畿地方以西)、四国、九州に分布』し、『南限は屋久島。暖地の山地に生える』。『常緑広葉樹の低木から高木で、高さは』十二『メートル』『ほどになる』。『樹皮は暗視褐色』、『葉は互生し、長さ』四~七『センチメートル』『の狭卵形から長楕円形』、『葉身には光沢があり、短い葉柄がついて、葉縁には浅い鋸歯がある』。『花期は』四~五『月』で、『前年』の『枝の葉腋から総状花序を出して、小さな白い花をたくさん咲かせる』。一『つの花序には花が』三~六『個つく』。『花冠は』五つに『深裂し、直径は』十二『ミリメートル』『ほどある』。『雄蕊は多数で花冠の外に突き出して』おり、『雌蕊は』一『個』。『果期は』十~十一『月』で、『果実は長さ』六~八ミリメートルの『狭卵形で、秋に黒紫色に熟す』とあった。

「芸香《うんかう》」この「芸」は「藝」の字の新字「芸」とは、相同字形にして、全く異なる古くからある漢字であるので、注意されたい。正確には「芸」ではなく、(くさかんむり)が、中央で切れる字体である。私は大学で図書館司書の目録法の授業で絞られた前島重方先生(特に英文目録法での半角空けをテツテ的にチェックされたのは強烈だった。それでも全部、「優」を下さった)に、奈良末期の石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が作った日本最初の図書館の名、「芸亭」(ウンテイ)を教わったのを、今も、よく覚えている。この字は、

一 ①香草の名。ヘンルーダ(バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ヘンルーダ属ヘンルーダ Ruta graveolens )。そこから「書物」の意ともなった。これはヘンルーダを書物の除虫草として使ったことに拠る。

  ②芳香を持った野菜の名。

  ③「盛んな」或いは「多い」様子の形容。(時珍は、「釋名」で、これで説明している)

  ④くさぎる。草を刈る。

二 「黄ばむさま」。木の葉が枯れかけて黄変するさま。

の意である。

「七里香」以下の異名から、中国産の樹種を比定同定出来るかと思ったのだが、ネットでは、それらしいものは見当たらなかった。残念至極!

『「本草」、「灌木類」に、之れ、有り』「本草綱目」の「卷三十六」の「木之三灌木類」(「漢籍リポジトリ」)の独立項「山礬」。ガイド・ナンバー[088-44a]以下である。

「巵子(くちなし)」リンドウ目アカネ科サンタンカ(山丹花)亜科クチナシ連クチナシ属クチナシGardenia jasminoides

「生《は》≪ゆるに≫、節《ふし》を對《たい》せず」東洋文庫訳では、『節のところで対生しない』とある。これは、グーグル画像検索で、「クチナシの葉」と、「ハイノキ属の葉」を比べて見ると、一瞬で意味が明確になる。則ち、葉の中肋(中央脈)の左右に出現する側脈がクチナシでは、明瞭に左右対称にはっきり見えるのに対し、ハイノキ属では、明瞭に見えない、殆んど視認出来ないことを言っているのである。

「椒《しやう》」ムクロジ目ミカン科サンショウ属 Zanthoxylum 、及び、そのうちで、香辛料として使われるものを指すか、又は、ナス目ナス科トウガラシ属 Capsicum(タイプ種はトウガラシ Capsicum annuum )、或いは、コショウ目コショウ科コショウ属 Piper(タイプ種はコショウ Piper nigrum )を指す。

「豆腐を收め」前述の通り、ハイノキ属にはアルミニウムを多く含む種があり、豆腐の「にがり」には、塩化アルミニウムが、豆腐の固形化に効果があると、論文にあった。

「礬(みやうばん)」硫酸カリウムアルミニウム十二水和物。

「酸濇《さんしよく》」今まで、「和漢三才圖會」の私のプロジェクトでは、この「五味」に関わる熟語は見かけたことは、記憶では、ないが、「濇」は本邦の略字「渋」、中国語の略字「涩」の異体字で、意味は同じであるから、「酸っぱさと渋みの合わさった味」を指すものと思われる。

「畫譜」既出既注だが、再掲すると、東洋文庫の巻末の「書名注」によれば、『七巻。撰者不詳。内容は『唐六如画譜』『五言唐詩画譜』『六言唐詩画譜』『七言唐詩画譜』『木本花譜』『草木花譜』『扇譜』それぞれ各一巻より成っている』とあった。

「沈丁花」フトモモ(蒲桃)目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属ジンチョウゲ Daphne odora 。]

2024/06/11

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 扉木

 

Tobera

 

とべら    正字未詳

とひらのき  【倭名抄用石

        楠草三字】

扉木

       俗云止比良乃木

       今云止閉良

 

△按此樹山中多今人家庭園植之樹葉狀似楊梅而有

 臭香相傳云除夜揷之門扉能辟疫鬼故名扉木矣四

 月開小白花結實四五顆櫕生青色稍熟自裂中有子

 赤色似水木犀子而大

治牛病 用葉擂揉鹽少許和與之良

 

   *

 

とべら    正字、未だ詳かならず。

とびらのき  【「倭名抄」、「石楠草」の

        三字を用ふ。】

扉木

       俗、云ふ、「止比良乃木《と

       びらのき》」と。今、云ふ、

       「止閉良《とびら》」。

 

△按ずるに、此の樹、山中に多し。今、人家≪の≫庭園、之れを植ふ。樹葉の狀《かたち》、楊梅(やまもも)に似て、臭(くさ)き香(か)、有り。相≪ひ≫傳へて云ふ、「除夜、之れを門扉に揷せば、能く、疫鬼を辟《さ》く。故《ゆゑ》≪に≫、「扉木」と名づく。」≪と≫。四月、小≪さき≫白≪き≫花を開き、實を結ぶこと、四、五顆、櫕(こゞな)り生(な)る。青色、稍《やや》熟して、自《おのづか》ら裂(さ)け、中に、子《たね》、有り。赤色。「水木犀(もつこく)」の子に似て、大なり。

牛の病《やまひ》を治す。 葉を用ひて擂揉《するもみ》て、鹽《しほ》、少し許り、和して、之れを與《あた》へて、良し。

 

[やぶちゃん注:これは、良安のオリジナル項目であり、「扉木」は、

セリ目トベラ科トベラ属トベラ Pittosporum tobira

である。小学館「日本大百科全書」によれば、『常緑の大形低木。高さ約』三『メートルに達する。葉は枝先近くに密に互生し、楕円状倒卵形で長さ十センチメートル、幅約三センチメートル、革質で光沢があり、先は丸い。六月頃、枝先に集散花序を作り、白色花を開く。花は単性花で芳香があり、雌雄異株。萼片は五枚、卵形で縁(へり)に毛がある。花弁は箆(へら)形で平開し、先端は、しばしば反り返る。雄しべは、雄花では、長く稔性であるが、雌花では、小さく、不稔性。雌花には、三枚の心皮からなる雌しべが一本ある。果実は球形で、径一・二~一・六センチメートル、熟すと、三裂開し、赤色の種子を裸出する。和名は、節分の日に、この果実を扉に挟み、魔除けとすることに由来し、別名を「トビラノキ」とも称する。海岸に生え、関東地方以西の本州から沖縄、及び、朝鮮半島南部・中国大陸南部・台湾に分布するが、中国のものは自生ではない可能性がある。近縁のコヤスノキ(子安木)Pittosporum illicioides は常緑低木で、葉質はトベラほど厚くなく、先は鋭く尖る。花柄は毛がなく、細長い。兵庫県・岡山県の山地の林内に生え、台湾と中国大陸中部にも分布する。神社の林に多く見られ、安産祈願をすることから、「コヤスノキ」の名がある。トベラ属は約百五十種あり、一部はアジアにあるが、分布の中心はポリネシア及びオーストラリアである。小笠原にはトベラの近縁種が四種あり、狭い地域で著しく種分化が起こっていることで知られる。トベラ科PittosporaceaeはAPG分類(一九九八年に公表された被子植物の新しい分類体系。「被子植物系統グループ」(Angiosperm Phylogeny Group)とは、この分類を実行する植物学者の団体名で、この分類は、現在は特に命名されておらず、「APG体系」・「APG分類体系」などと呼称されている)でもトベラ科とされる。この分類によると、アジア・アフリカ・オーストラリアの暖帯から熱帯に九属約二百五十種あり、日本には一属六種が分布する、とある。画像のある当該ウィキもリンクさせておく。

『「倭名抄」、「石楠草」の三字を用ふ。』「和名類聚鈔」では、「卷二十」の「草木部第三十二」の「木類第二百四十八」に、

   *

石楠草(トヒラノキ/クサナムサ) 「本草」に云はく、『石楠草【「楠」、音「南」。和名「止比良乃木」。俗に云ふ、「佐久奈無佐」。】。』。

   *

「楊梅(やまもも)」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra 。同じく「日本大百科全書」から引くと、『ヤマモモ科』Myricaceae『の高木。高さ』十五~二十『メートル。枝はもろく、多くの細枝がある。葉は長さ』五~十『センチメートルで広倒披針形または倒披針形、革質で先が』尖る。『成木は全縁または浅い鋸歯があり、実生の幼苗期は葉縁の切れ込みが深い。雌雄異株』三月頃、『葉腋に発育した花穂は、雌花序は長さ』一~二『センチメートルの棒状になり、柱頭は紅色で』二『裂した雌しべを』四~五『個つけ、雄花序は長さ』三『センチメートルの長い筆の穂先状になり、多量の花粉を飛ばす。果実は径』一・五~二『センチメートルの球形で』、六~七『月に成熟する。果色は濃紅赤色、赤色、帯淡紅白色などがある。甘・酸味が強く多汁で、生食のほか、砂糖漬け、焼酎漬けにする。ジュースは淡紅色になる。樹皮は乾燥し』て、『楊梅皮とし、下痢や打撲症に効く。また諸媒染剤により、茶、黄、黄金、褐、緑黒色などの染料にする。関東地方以西から九州』及び『台湾を含む中国暖地に分布し、山地に生える』とある。画像のある当該ウィキもリンクさせておく。

「臭(くさ)き香(か)、有り」当該ウィキによれば、『枝葉は切ると悪臭を発するため、節分にイワシの頭などとともに鬼を払う魔よけとして戸口に掲げられた風習があった』とし、『根の皮や枝には悪臭がある』とある。

「櫕(こゞな)り生(な)る」群がって実を結ぶ。

「水木犀(もつこく)」江戸五木の一つで、「庭木の王」と称されるツツジ目モッコク科モッコク属モッコク Ternstroemia gymnanthera 。詳しくは、当該ウィキを見られたい。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 返魂香

 

Hangonkaou

 

はんごんかう 附

        兠木香

返魂香

 

ハン フヲン ヒヤン

[やぶちゃん字注:「兠」は「兜」の異体字。]

 

本綱漢書及博物志所謂靈香是也返魂樹西域有之狀

如楓栢花葉香聞百里采其根水煑取汁錬之如𣾰乃香

[やぶちゃん字注:「𣾰」は「漆」の異体字。]

成也凡有疫死者燒豆許熏之再活

漢武帝時月氏國貢此香三枚大如燕卵黑如桑椹値長

 安大疫西使請燒一枚辟之宮中病者聞之卽起香聞

 百里數日不歇疫死未三日者𤋱之皆活乃返生神藥

 也此說雖渉詭怪然理外之事容或有之


兠木香

 漢武故事云西王母降燒兠木香未《✕→末》【兠渠國所進者也】如大豆

 塗宮門香聞百里關中大疫死者相枕聞此香疫皆止

 死者皆起此乃靈香非常物也

 

   *

 

はんごんかう 附《つけた》り

        兠木香《ともつかう》

返魂香

 

ハン フヲン ヒヤン

[やぶちゃん字注:「兠」は「兜」の異体字。]

 

「本綱」に曰はく、『「漢書」及び「博物志」≪の≫、所謂る、「靈香」、是れなり。返魂樹《はんごんじゆ》、西域に、之れ、有り。狀《かたち》、楓《ふう》・栢《はく》のごとく、花・葉、香《かぐはし》く、百里に聞《にほ》ふ。其の根を采り、水もて、煑て、汁を取り、之れを錬《ね》る。𣾰《うるし》のごとく、乃《すなはち》、香《かう》、成るなり。凡そ、疫死《せる》者、有≪らば≫、豆(まめつぶ)許《ばかり》を燒きて、之れを熏《くん》じて、再たび、活《いけ》り。』≪と≫。

『漢の武帝の時、月氏國より、此の香、三枚を貢《みつぎ》す。大いさ、燕≪の≫卵のごとく、黑くして、桑椹(くわのみ[やぶちゃん注:ママ。])のごとし。≪時に≫長安の大疫に値《あたる》。西使、請《こひ》て、一枚を燒きて、之れを辟《さ》く。宮中の病者、之れを聞きて、卽ち、起(た)つ。香、百里に聞《にほひ》、數日《すじつ》、歇(や)まず。疫死≪して≫、未だ三日ならざる者、之れを𤋱《かげば》、皆、活《かつ》す、乃《すなはち》、生《しやうを》返す。神藥なり。此の說、詭怪《きくわい》に渉(わた)ると雖も、然《しか》も、理外の事、容(まさ)に、或いは、之れ、有るべし。』≪と≫。[やぶちゃん注:この場合の「容」は再読文字である。]


『兠木香(とりつかう)

 「漢武故事」に云はく、『西王母《せいわうぼ》、降《くだ》りて、兠木香の末《まつ》を燒きて【兠渠《ときよ》國より進ぜらる者なり。】、大豆のごとく≪して≫、宮門に塗りて、香、百里に聞《にほ》ふ。關中、大いに疫死する者、相《あひ》枕《まくら》す。此の香を聞《きく》て、疫、皆、止む。死する者、皆、起つ。此れ、乃《すなはち》、靈香にして常物《つねのもの》に非ざるなり。』≪と≫。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「返魂香」は良安が附言しないように、実在の香ではない。本記事としっかり対応しているので、ウィキの「反魂香」を全文引く。『反魂香、返魂香(はんこんこう、はんごんこう)は、焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上の香』。『もとは中国の故事にあるもので、中唐の詩人・白居易の』「李夫人詩」『によれば、前漢の武帝が李夫人を亡くした後に道士に霊薬を整えさせ、玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという』。『日本では江戸時代の』「好色敗毒散」・「雨月物語」『などの読本や、妖怪画集の』「今昔百鬼拾遺」、『人形浄瑠璃・歌舞伎の』「傾城反魂香」『などの題材となっている』「好色敗毒散」には、『ある男が愛する遊女に死なれ、幇間の男に勧められて反魂香で遊女の姿を見るという逸話があり、この香は平安時代の陰陽師・安倍晴明から伝わるものという設定になっている』。『また、落語の「反魂香」「たちぎれ線香」などに転じた』(私は「たちぎれ線香」が好き)。『なお』、『明朝の万暦年間』(一五七三年~一六二〇年)『に書かれた体系的本草書の決定版』「本草綱目」の「木之一」の「返魂香」では、『次のとおり記載されている』。『按の『内傳』では』(このウィキの記者、漢文が苦手らしく、いきなり、冒頭から、おかしい。「返魂香」の項の「集解」の冒頭部だが、これ「珣曰按漢書云」とあるので、「珣(しゆん)が曰はく、『按ずるに「漢書」に云はく、『武帝の時……』と読まねばならんがね! 「珣」は盛唐の文学者にして本草学者であった李珣で、「安禄山の乱」(七五五年)の際、蜀に亡命し、その後は梓州(四川省三台)に移住した。唐末期から著名な人物として知られた。しょっぱなからガックりきたので、以下にある原本文は「漢籍リポジトリ」のここのガイド・ナンバー[083-70b]から、項ごと、全文を引くことにする。一部の表記に手を加えた)

   *

返魂香【「海藥」】

集解【珣曰按漢書云武帝時西國進返魂香内傳云西域國屬州有返魂樹狀如楓柏花葉香聞百里采其實於釡中水煑取汁鍊之如漆乃香成也其名有六曰返魂驚精回生振靈馬精却死凡有疫死 者燒豆許薫之再活故曰返魂時珍曰張華博物志云武帝時西域月氏國度弱水貢此香三枚大如燕卵黑如桑椹值長安大疫西使請燒一枚辟之官中病者聞之卽起香聞百里數日不歇疫死未三日者薫之皆活乃返生神藥也此說雖渉詭怪然理外之事容或有之未可便指爲謬也】

附録 兠木香【藏器曰漢武故事云西王母降燒兠木香末乃兠渠國所進如大豆塗宫門香聞百里關中大疫死者相枕聞此香疫皆止死者皆起此乃靈香非常物也】

   *

『西海聚窟州にある返魂樹という木の香で楓または柏に似た花と葉を持ち、香を百里先に聞き、その根を煮てその汁を練って作ったものを返魂といい、それを豆粒ほどを焚いただけで、病に果てた死者生返らすことができると記述している』。『張華の』「博物志」『では』、『武帝の時』、『長安で疫病が大流行していたおり、西域月氏国から献上された香には病人に嗅がせるだけで』、『たちどころにその生気を甦えらせるという効能で知られていたが、上質なものになると死に果てた者でも』三『日の内であれば』、『必ず』、『この香で蘇らせることができた』『と記述されている』。但し、『これについて』「本草綱目」の著者である』『李時珍は』「此の說、詭怪(きくわい)に渉(わた)ると雖も、然(しか)も、理外の事、容(まさ)に、或るいは、之れ、有るべし。」(ここは本書の終りの訓読に代えた)『と批判している』とある。最後も時珍の『批判』という表現は、おかしいぞ? ここは、訳すなら、「この説は偽り・騙しを含んでいる語りのようにしか、一見、見えないものだが、しかし、尋常の理屈の範疇の外で、或いは、実際に起こったものであったのかも知れない。」という、疑義を含みながらも、微妙に留保している謂いである。

「返魂樹《はんごんじゆ》」ダメ押しで、小学館「日本国語大辞典」を引いておく。『反魂香の原料になるといわれる想像上の香木』。

「楓」本邦の「楓」とはちゃいまっせ! 「かえで」ではなく、「フウ」と読んでおくれやっしゃ! 先行する「楓」を見ておくれやす!

「栢」同前で「かしわ」なんて読んだら。もう、あきまへん! 何度か言うてますが、まんず、始動冒頭の「柏」を、どんぞ!

「百里」明代の一里は短いかい、おます。五百五十九・八メートルどす。五十五・九八キロメートルで、ごんす。

「漢の武帝の時」在位は紀元前一四一年から紀元前八七年。

「月氏國」月氏は紀元前三世紀から一世紀頃にかけて、東アジア・中央アジアに存在した遊牧民族と、その国家名。紀元前二世紀に、匈奴に敗れてからは、中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになった。大月氏時代は東西交易で栄えた。「漢書」の「西域伝」によれば、羌(きょう)に近い文化や言語を持つとあるが、民族系統については諸説ある。以下は、参照にした当該ウィキを見られたい。

「西使」「西」の「月氏國」から来た使節の公式の使者。

「聞きて」本邦でも「香」は「きく」と申しますやろ?

「漢武故事」底本の巻末の「書名注」に、『一巻。後漢の班固撰と伝えるが、後人の偽作といわれる。もと二巻。『史記』『漢書』の武帝記の記述と合致するところもあるが、妖妄(ようもう)』(奇怪で出鱈目なこと)『の話が多い』とある。

「西王母」中国古代の仙女。崑崙 (こんろん) 山に住み、不老不死の薬を持つ神仙とされ、仙女世界の女王的存在として長く民間で信仰された。

「兠渠《ときよ》國」不詳。

「關中」現在の陝西省の西安を中心とした一帯。思い出すね、漢文の「鴻門之会」。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(1)

 

 

        

 

 

   水鳥のかたまりかぬる時雨かな 良 長

 

 時雨の降る中に浮んだ水鳥が、一團となりさうに見えながら、かたまりきらずにゐる。かたまるべくしてかたまらぬ樣子を「かたまりかぬる」と云つたのであらう。時間は必ずしも限定するには當らぬが、何となく寂しい夕方の景色を想像せしめる。

 水鳥は時として岸の上などに群れてゐることもある。この句は岸の上としても解釋出來ぬことはないけれども、「かたまりかぬる」といふ語勢から考へると、やはり水上に浮びながら、かたまりあえぬもののやうな氣がする。

 

   霜しろく荷になひつれけり肴ふご 鶴 聲

 

 肴賣が荷ふ魚畚[やぶちゃん注:「さかなふご」。]の上に霜が白く置いてゐるといふだけの句であるが、「荷ひつれけり」の一語によつて、この肴賣が一人でないことがわかる。肴の荷を曳ひいて走る魚河岸の若い者では、「霜しろく荷ひつれけり」はうつるまい。但一人でないから、幾分賑な樣子はこの句からも窺ふことが出來る。

 鳴雪翁の句に「初霜をいたゞきつれて黑木賣[やぶちゃん注:「くろきうり」。]」といふのがあつた。同巧異曲であるが、霜を帶びたものを荷ふといふ點から云へば、或は黑木の方がふさはしいかも知れない。

 鶴聲の句は「霜しろく」で意味を切つて、霜白き朝を肴賣が畚を荷ひつれて行く、といふ風に解することも或は可能であらう。卽ち「霜しろし荷ひつれたる肴畚」の意に取るのであるが、これには多少の無理がある。「霜しろく荷ひつれけり」と續く以上、霜白き畚を荷ひつれた意に解する方が、先づ妥當であらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「初霜をいたゞきつれて黑木賣」古いものでは、国立国会図書館デジタルコレクションの「明治四大家俳句集 秋冬」(寒川鼠骨編・明三九(一九〇六)年大学館刊)のここで視認出来る。「黑木賣」の「黑木」は薪(たきぎ)を指す。皮のつたままの材木、皮つきの丸木(「榑(くれ)の木」と称した)洛北八瀬大原の婦女が、これを京都の市上に売った。婦女を「黑木賣」と呼んだ。所謂、知られた「大原女」「小原女」である。]

 

   水風呂に戶尻の風や冬の月 十 丈

 

 水風呂[やぶちゃん注:「すいふろ」。]といふのはもと蒸風呂[やぶちゃん注:「むしぶろ」。]に對した言葉だ、といふ說を聞いたことがある。橋本經亮などは、鹽浴場に對する水浴湯といふことから起つたので、居風呂[やぶちゃん注:「すゑふろ」。]といふ名は誤だろうと云つてゐる。いづれにしても現在吾々の入るのは水風呂のわけである。この句もスイフロで、ミヅブロではない。

 風呂に入つてゐる場合、戶尻[やぶちゃん注:「とじり」。]が透いてゐて、寒い風が吹込んで來る。そこから冬の月の皎々と照つてゐるのが見える。一讀身に沁むやうな冬夜の光景である。「戶尻の風」の一語が極めて適切に働いてゐる。

[やぶちゃん注:「橋本經亮」(つねあきら/つねすけ 宝暦五(一七五五)年~文化二(一八〇五)年:生没年には異説がある)は江戸後期の国学者で有職故実家。本姓は橘。通称は肥後守。号は橘窓・香果堂。父は梅宮(現在の京都市右京区の梅宮大社)の神官橘昆経。家職を継ぎ、正禰宜となり、宮中に出仕して非蔵人を兼務した。有職の学は高橋図南(となん)に学び、図南の著書の多くを校正した。また、和歌を小沢蘆庵に学び。上田秋成・伴蒿蹊らとも親しかった。豪放不羈、奇行を以って知られ、自宅から宮中に至る途上も、読書しながら往来し、田畑に落ちて衣服を汚しても気にかけなかったという。考証を得意としたが、特に古絵図を拠り所とするところにその特色があった。著書に「橘窓自語」・「梅窓筆記」などがある(以上は朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。この記事は「梅窓筆記」(文化二(一八〇五)年十月平安丘思純の序がある)の「卷之一」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第三巻(日本随筆大成編輯部編・昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここで視認出来る(右ページ二行目から)。短いので、電子化しておく(底本では二行目以降は一字下げ)。

   *

〇今人ノ入湯ノ湯ハ、水湯(ミヅユ)ト云モノナリ。水風呂ト云名アルモ遺風ナリ。台記、久安三年[やぶちゃん注:一一四七年。]二月二十六日。(取要)自今日始潮湯正法須水湯。七日後始ㇾ之。同月廿七日。(辛酉)復浴水湯。トアリ。潮湯(シホユ)ニ對シテ水湯ト云ナリ。

   *]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(22) / 「秋」の部~了

 

   蕣や桃の下葉のちり初る 之 道

 

 つくろはぬ庭などの樣であらう。朝顏の花が咲いてゐるほとりに桃の木があつて、已に色づいた下葉をはらはらと落す、といふ光景である。朝顏と桃とは近くにあるといふだけで、格別深い交涉があるわけではない。季題は勿論朝顏に在るけれども、朝顏の咲く時に當つて桃の下葉が散りはじめるといふ、交錯した事實を描いた爲に、子規居士の所謂二箇中心の句のやうな趣になつてゐる。

「あさましき桃の落葉よ菊畠」といふ蕪村の句は、菊畠に溜る桃の落葉を詠んだので、どこまでも菊畠が中心になつて居り、落葉はその景物に過ぎない。之道の句は寧ろ「桃の下葉のちり初る」といふ推移に興味を置いたものの如く、それだけ句としては蕪村のほど纏つてゐないけれども、又その纏らぬところが自然だとも云へる。元祿と天明との相異は、この邊にも存するのであらう。

[やぶちゃん注:『「あさましき桃の落葉よ菊畠」といふ蕪村の句』「蕪村句集」の「卷之下」の「秋之部」に載る。安永七(一七七八)年から天明三(一七八三)年の間の作。因みに、「自筆句帳」では「落葉よ」は「落葉や」となっている。]

 

   雲高き野分の跡の入日かな 空 能

 

 野分[やぶちゃん注:「のわき」。]がやみ方になつて、一しきり赤い夕日が西の空を染める。その赤い入日の空を、野分の名殘の風に乘つて、斷雲[やぶちゃん注:「ちぎれぐも」。]が高く飛んで行く、といふ光景を句にしたものかと思ふ。

 但「雲高き」といふ言葉は、必ずしも高く飛ぶ場合には限らぬかも知れない。野分のあとが何時の間にか晴渡つて、澄んだ空高く雲が浮んでゐるものとも解される。飛ぶにしても、浮ぶにしても、その雲が入日の朱を帶びてゐることは慥である。

「野分の跡の入日」だけでは格別のことも無いが、「雲高き」の一語を點じたため、濶然たる秋の夕空が直に眼に浮んで來るやうな氣がする。

 

   化兼る狐とびゆく野分かな 一 空

 

 一疋の狐が何者かに化けるつもりで、先刻からいろいろ工夫してゐるが、未熟なせゐか、あまり風が强過ぎるせゐか、たうとううまく化けられないで、野分の中を向うへ飛んで行つた、といふやうなところであらうか。句には現れてゐないが、夕方らしい情景である。

 日本の文學には屢〻未熟の狐とか、化損ひの狐とかいふものが出て來る。妖氣を伴うべき狐魅談に愛敬を生じ、滑稽が生れるのは全くかういふ未熟な、化損ひの徒が介在する爲である。この野分の中で化けかねた先生なども、狐の爲に氣を吐くに足らぬにせよ、文學的材料としては一顧の價値がある。

 狐は蕪村に至つて大に獨得の趣味が發揮された觀があるが、この句はその先蹤と見るべきものである。若干の滑稽味を伴ふ點に於て、特にその感を强うする。

[やぶちゃん注:「化兼る狐とびゆく野分かな」この句、岩波文庫版では、上五のを「化兼(ばけかね)る」とルビを振っている。しかし、私は「ばけかぬる」と読む。

「狐は蕪村に至つて大に獨得の趣味が發揮された觀がある」蕪村の「新花摘」には、五篇の狐狸談を収録しており、蕪村が狐狸の怪を信じ、好んでいたことは、よく知られている(私の「柴田宵曲 俳諧博物誌(13) 狸 二」は参考になろう)。蕪村の狐の句を拾うのは、ちょっと厄介だなと思って、検索を掛けたところ、幸い、個人ブログ「猫まち 俳句的つれづれ日記」の「蕪村の狐の句」に拾われてあった。所持する同引用句集(岩波文庫)で表記を確認し、一部に読みを追加し、漢字を恣意的に正字にして以下に示す。

     *

   公達に狐化たり宵の春

   小狐の何にむせけむ小萩はら

   石を打(うつ)狐守(もる)夜のきぬた哉

   草枯(かれ)て狐の飛脚通りけり

   春の夜や狐の誘ふ上童(うへわらは)

   短夜や金(かね)も落さぬ狐つき

   飯盜む狐追(おひ)うつ麥の秋

   巫女(かんなぎ)に狐戀する夜寒(よさむ)かな

   水仙に狐あそぶや宵月夜

     *]

 

   はれきるや光に曇る月の影 旦 藁

 

 晴れ渡つた、明皎々たる月である。併し中天にかゝつた圓い影を見ると、その明な光の中にほのかな曇がある。霧が立つとか、薄雲がかゝるとかいふわけではない。晴れた光の中の曇である。その感じを現すのに「光に曇る」の語を以てしたのであらう。

 秋の夜の月の隈なきをのみ愛ずるめでたき人々には、到底かういふ觀察は出來ない。さうかと云つて皎々たる月では平凡だから、殊更に光の中の曇を發見しようといふわけでもない。ぢつと月の光に眺め入る時、そこに一點の曇を感じた、といふのが自然の姿なのである。深夜の月の光の中に、潤んだやうな曇を感ずるのは、何人にも味ひ得べき趣であつて、而も容易に句にし得ぬところのやうに思ふ。「光に曇る」の語も云ひ得て妙である。

 

   めいげつや客をむかひに里離れ 探 志

 

 あまり月がいゝので、急に人を呼んで酒でも飮まうと思ひ立つて、ぶらぶら月下の道を里離れた[やぶちゃん注:「さとはなれた」。]あたりまで步いて行つた、といふ風にも解せられる。

 名月のことだから、かねて人を會する約があつたが、漫然家にあつて待つに堪へず、來る道はわかつてゐるので、迎え旁〻出かけて行く。月竝な歌よみなら「月を見がてら」とか何とかいふところとも解せられる。

 客の性質や客との關係は、さう僉議を加へるほどのことも無い。この句の興味は、名月の夜に當つて客を迎へに行くといふこと、その迎へる道がいつか里離れたところまで來てゐた、といふことに在る。月に浮れたといふほどでないにしても、輕い氣分の下に步いてゐることは想像出來る。

 

   午の貝おくる木玉や三井の秋 探 志

 

 何かの合圖に貝を吹くといふことは、現代の吾々には殆ど沒交涉である。法螺貝を手に取つたことはあつても、未だかつて吹いたことは無い。山伏にも因緣が無いから、貝の音に耳を驚かされた記憶も持合せて居らぬのである。

 この句の貝は時刻を報ずるものらしく思はれる。食事の合圖かどうかわからぬが、午[やぶちゃん注:「ひる」。]になつて貝を吹き鳴らす。その音が遠く谺して聞えて來る。場所が三井寺だけに、秋天の下にひろがる大湖を背景にして、谺も遠きに及ぶのであらう。

 三井の秋は日本畫の題材になりさうな舞臺である。併し湖を畫き、雲を畫き、寺を畫き得ても、そこに「午の貝おくる木玉」を添へることは、丹靑の技のよくするところであるまい。詩の獨自の境地はこの邊にも存する。

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、句は、「ひるのかひおくるこだまやみゐのあき」である。

「丹靑」「たんせい」・「たんぜい」両用に読む。「絵画」また、「絵の具で描くこと」。]

 

   御明の消て夜寒や轡むし 里 東

 

 轡蟲は秋鳴く蟲の中でも最も景氣のいゝ、哀感に乏しいもののやうな氣がするが、この句は妙にうら寂しい情景を持出した。

 神前か、佛前か、今まで上げてあつた御明(みあかし)がふつと消えて、あたりは暗くなつた。と同時に俄に夜寒を感ずる、轡蟲が鳴いてゐる、といふのである。

 御明が消えて、俄に夜寒を感ずる、といふ風に限定して解釋しないでも、寂然たる夜寒の屋內に、今までついてゐた一點の燈が消えた、と見てもいゝのであるが、この句の表現には或動きがあるので、その動きに基いて前のやうに說いたのである。いづれにしても句の世界に大した變りがあるわけではない。

 轡蟲の聲も最初のうちは四鄰を惱ますだけの威力を具へてゐるが、秋が深くなるにつれて、かすれたやうな聲に變つて來る。この轡蟲もいさゝか聲の衰へた場合、從つて夜寒も身に入む[やぶちゃん注:「しむ」。]頃と解していゝかも知れない。

 

   捻上て友待顏や雁の首 諷 竹

 

「友待顏」といふ言葉から考へると、この雁は一羽のやうに見える。首を捻上げるやうにして友を待つといふ以上、これは飛んでゐる雁ではない。水の上か、田圃か、何かの上に下りてゐるらしい。作者はさういふ雁の恰好を見て「友待顏」と解したので、さういふ感じを起させたのは、雁が一羽きりで寂しげに見えたからだらうといふことになる。

 詩歌に取入れられた雁の多くは空を飛んでゐるか、或は雁聲を耳にするかで、雁そのものの姿に及んだものはあまり見當らない。俳諧には往々雁の姿を捉へたものがあるが、それにしても捻上げた雁の首などは、異色あるものたるを失はぬ。「月の出や皆首立てゝ小田の雁」といふ子規居士の句は、この句に比べると繪畫的であり、趣向も複雜になつてゐる。諷竹の句の興味は雁の形だけを描いた、單純な點に在るかと思ふ。

 

   秋ふかし人切り土堤の草の花 風 國

 

「人切り土堤」は地名といふよりも、寧ろ俗稱の部類であらう。「人切り土堤」と稱する以上、嘗てそこで人が斬られたとか、よく人の斬られることがあるとか、何かさういふ由來があるに相違無い。現在は何事も無いにしても、そんな名があるだけに、何となく寂しい感を與へる。もう秋も深くなつた「人切り土堤」に草の花が咲いてゐる、といふのがこの句の見つけどころである。

 鳴雪翁の自敍傳に、今の芝公園と愛宕山の界のところを「切通し」といふ、晝間から宵の口までは相當賑であつたが、夜が更けると寂しくなり、辻斬なども屢〻行はれた、翁は子供心に、始終人を斬るから「切通し」だと思つてゐた、といふことが見えてゐる。「人切り土堤」に至つては、その上に更に人の字がついてゐるのだから、連想のそこに及ぶのは當然である。生々しい人斬の噂なども傳はつてゐるとすれば、寂しい以上に凄愴な感じさへ伴つたであらう。けれども「人切り土堤」に附會して、この草の花は赤い方がいゝとまでは考へない。「秋ふかし」といふ季節に照應する、寂しい感じのものであればよからうと思ふ。

[やぶちゃん注:以上の内藤鳴雪の「鳴雪自叙傳」は国立国会図書館デジタルコレクションの原本(大正一一(一九二二)年刊岡村書店刊)のここで視認出来る(右ページ最終行から)。]

 

   二階からたばこの煙秋のくれ 除 風

 

 たゞ眼前の景である。煙草を吹かしてゐる以上、そこに人間のゐることはいふまでもないが、どんな人間かわからず、又どんな人間であつてもいゝわけである。作者は秋の暮の中に一軒の二階家を認め、その二階に吹かす煙草の煙を描いただけで、他の消息を傳へてゐない。「煙草ふかす二階の人や秋のくれ」とでもいえば、人間の姿が句の上に現れるが、さういふ點に一向重きを置かず、煙だけで用を濟してしまつた。

 煙につきものの「立昇る」といふ言葉も、「なびく」といふ言葉も、この場合に用ゐるものとしては强きに失する。ふはりと宙に浮ぶやうな煙の狀態は、「二階からたばこの煙」といふ無造作な表現によつて、却つてよく現し得るのかも知れない。

 

   夜寒哉煮賣の鍋の火のきほひ 含 粘

 

 煮賣屋の鍋の下を焚き立てる火が、旺に赤々と燃えてゐる。鍋の內のものは食欲を刺激するやうな匂をさせることであらうが、作者はその句にも、ぐつぐつ煮える鍋の音にも、格別感覺を働かしてゐない。赤々と燃え盛さかる火そのものに興味を集中して居り、それが夜寒の感を强からしむる結果になつてゐる。

「夜寒哉」といふ風な言葉を上五字に置く句法は、俳句に於て非常に珍しいといふほどでもないが、下五字に置いたのよりは遙に例が少い。それだけ用ゐにくいといふことにもなるが、詠歎的な氣持は下五字を「かな」で結ぶよりも强く現れるやうな氣がする。この句は「火のきほひ」の一語によつて、上の「夜寒哉」を引緊めてゐるやうである。

 

   朝顏や皆實みになして引たぐる 玄 梅

 

 大輪朝顏か何かの貴重な種類であれば、自ら咲かせる花を制限して、多く實などを結ばせぬやうにするのであらうが、これはそんな面倒なものではない。莟の出來ただけを悉く花にし、その花も千切つたりせずに、皆實になるに任せて置いて、蔓ごと引たぐるといふ意味であらう。平凡なる駄朝顏である。

 これと同樣なことは、人生の各方面において認められる。敎育方針などといふことも、畢竟この朝顏に臨む態度と似たものかも知れぬ。秀才を產み、貴重な花を作るのも固より結構であるが、花の咲くに任せ、實のなるに任す態度には、自らなる氣安さがある。そこに安心の地を見出すのは、或は吾々に與へられた使命であらう。

[やぶちゃん注:これを以って、「秋」の部は終っている。]

2024/06/10

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(21)

 

   殘る蚊に袷著てよる夜さむかな 雪 芝

 

 殘る蚊と、秋の袷と、夜寒と三つの材料から成立つてゐる。しかしそのために五目飯や三題噺のやうなことにはならず、渾然として一體になつてゐるのが、この句の手際であらう。

 漸く夜寒を感ずる頃である。何かの集りがあつて、來た人が皆袷を著てゐる。が、その座には秋の蚊が殘喘を保つてゐて、時々人の肌を襲ひに來る、といふ意味の句らしい。夜寒と殘る蚊とが一句の上に交錯するなどは、ちよつと思ひつかぬ趣であるが、自然の上にはいくらもある事實である。一面夜寒を感じ、一面殘る蚊を見る。秋の或季節の趣は、殆どこの一句に悉されてゐるやうに思ふ。

「袷著てよる」の「よる」といふ言葉は、見方によつていろいろに解されるが、しばらく右のやうに解して置いた。人の集りと云つたところで、さう大勢の會合ではあるまい。たゞ袷を著てゐるといふだけでなしに、「よる」の一語があるため、一句をちよつと複雜なものにしてゐる。平淡なやうで手の込んだ句である。

 

   うら道の露の深さや猫の腹 夕 兆

 

 この裏道は草などの生はえた、狹い道らしく思はれる。さういふ道に現在猫がゐるわけではない。猫の腹がしとどに濡れてゐるのを見て、裏道を步いて來たものと推定し、草に置く露の如何ばかり[やぶちゃん注:「いかばかり」。]深いかを想ひやつたのであらう。

 眼前の光景を現したやうな「うら道の露の深さや」といふ言葉が、想像の上に立つてゐるところに、この句の特色がある。猫の毛は一體に他の獸に比して水をはじく力が乏しいから、露の草むらなどを步けばぐつしより濡れてしまふ。裏道の露の深さは、この猫の腹の濡れ工合によつて想像されるのである。「露の深さ」と猫の腹との間に、想像的意味が含まれてゐるものと見れば、必ずしも無理な表現とも思はれぬ。

 

   瓢簞の軒端にさがる日あしかな 爲 有

 

 軒端に瓢簞[やぶちゃん注:「へうたん」。]がぶらりと下つてゐる、稍〻傾いた秋の日脚がその邊に明るくさしてゐる、といふ光景らしい。作者はかう描き去つたのみで、瓢簞の影も點じなければ、他の配合物も持つて來ない。手の込んだ後世の句から見ると、その點は羨うらやましい位大まかである。

「日あし」といふ言葉に限定された時間は無いわけだから、かう云つただけでは傾いた日脚かどうかわからぬやうなものの、軒に下つた瓢簞にさす日脚とすれば、外の時間では工合が惡い。西へ廻つた秋の日脚で、明るい中に漸く日の詰つたことを思はせる光線が眼に浮んで來る。當然あう解して差支無いやうに思はれる。

 

   外屋敷や野分に殘る柿の蔕 野 童

 

「外屋敷」はトヤシキと讀むのかと思ふが、よくわからない。「野分[やぶちゃん注:「のわき」。]に殘る」といふ言葉から考へると、野分の直後のやうだけれども、實際はもう少し時間の距離があるので、野分に吹落された柹の蔕が梢に殘つてゐる、秋もかなり闌けた[やぶちゃん注:「たけた」。]場合ぢやないかといふ氣もする。批評の發達した近頃の句は、電車の交叉點を突切る時のやうに、前後左右を見廻して作るから、言葉の現す意味も自ら考慮されてゐるが、昔の人はさういふ點にあまり頓著せず、眼中の印象を悠々として一句に收めてゐる。この「柹の蔕」なども慥にその一例と見るべきもので、どこにどう殘つてゐるのか、深く問はぬやうな趣がある。

 

   篠深く梢は柹の蔕さびし 野 水

 

    三線からむ不破の關人 重 五

 

といふ附合の句は、ずつと以前七部集を耽讀した頃から、頭に沁み込んで離れぬものの一であるが、これが先入主になつているせゐか、野童の柹の蔕も直に梢にあるものと解釋した。外屋敷の背景の下に、この蔕のあるところを考へれば、柿の木の梢より外にはあるまいと思ふ。

 子供の時分、父が柹の木を二本買つて植ゑたことがあつた。一本の百目柹には大きな實が一つ二つ殘つてゐたが、一本の方は葉も何も悉く落盡して、枯木のやうになつてゐた。その梢に點々と黑いものの殘つてゐるのを、何かと思つて竹竿で落して見たら、固く干からびた蔕であることがわかつた。この柹は庭に植ゑてから、一度もならずに枯れてしまつたと記憶してゐる。嘗て「篠深く」の句に興味を感じ、今又この柹の蔕を取上げたのも、畢竟この少年の時の事が土臺になつてゐるのかも知れない。人間といふものは他の句を解釋するに當つても、自己の世界を脫却出來ぬものと見える。

[やぶちゃん注:宵曲の自己分析は見事!

「野水」と「重五」のそれは、「冬の日」の(前後を少し附した)、

    *

 櫛ばこに餅すゆるねやほのかなる かけい

  うぐひす起(おき)よ帋燭(しそく)とぼして 芭蕉

 篠(ささ)ふかく梢は柹の蔕さびし 野水

  三線からん不破のせき人 重五

 道すがら美濃で打ける碁を忘る 芭蕉

  ねざめねざめのさても七十 杜國

   *

の表記である。]

 

   炭竈をぬりて冬待つ嵐かな 吏 明

 

 山家[やぶちゃん注:「やまが」。]の句であらう。冬が近くなつたので、炭を燒くべく炭竈を塗り、もう何時[やぶちゃん注:「いつ」。]冬が來ても差支無い用意がとゝのつた。若し「炭竈をぬりて冬待つ山家かな」だつたら、それこそ平凡極るものだけれども、作者は句に一轉化を與へるため、嵐といふものを持出して來た。冬が近づくに從つて、山は屢〻嵐が吹く。「いかばかり吹く峯の嵐ぞ」といふやうな、詠歎的なものではない。現實に山家の人の心を搖る[やぶちゃん注:「ゆする」。]寒い嵐である。この嵐あるによつて、この句ははじめて魂が入つたことになる。

 俳諧の要諦はこの「嵐」の呼吸に在る、と云つただけでは、未だ意を悉さぬ[やぶちゃん注:「つくさぬ」。]嫌があるかも知れぬが、この嵐の如きものがあつて、畫龍點晴の妙を發揮する場合が多いといふことは、斷言してよからうと思ふ。

[やぶちゃん注:「いかばかり吹く峯の嵐ぞ」は「新古今和歌集」の「卷第六 冬歌」の藤原資宗朝臣の一首、

   *

   後冷泉院御時、上(うへ)のをのこども

   大井河にまかりて、「紅葉浮ㇾ水」と

   いへる心をよみ侍(はべり)ける

 いかだ士よ待てこととはん水上(みなかみ)は

          いかばかり吹く山のあらしぞ

   *

である。]

 

   はつ秋や小袖だんすの銀の鎰 巴 水

 

「鎰」といふのはカギのことである。普通の鍵とどう違ふかわからぬが、その邊は專門家に一任してよからうと思ふ。第一この句では鍵がどうなつてゐるのか、それからして明瞭でない。「小袖だんす」といふものを句の中に持出した以上、腰にぶら下げたりしてゐるのでないことは慥だけれども、今少し立入つて、この場合鍵がどうなつてゐるかといふ段になると、さつぱり見當がつかぬのである。

 この句の生命は「銀」の一字にある。もしこの句から銀の字を除いたならば、卒然として價値の半を失ふに相違ない。鍵は銀光を放つことによつて初秋と調和し、それが一句の中心をなしてゐるやうに思ふ。假にこの句から鍵の音を連想する人があるにしても、その音は銀光の範圍に屬するものでなければならぬ。

 

   蚊屋しまふ夜や銀屛のさびのよき 醉 竹

 

 蚊帳を釣らぬやうになつて、何となくぱつとした燈影が座邊を照す。そこに立てた屛風の銀が稍〻さびて、極めて落著いた色を見せてゐる。作者は句中に灯を點じてはゐないけれども、「さびのよき」銀屛がしづかに灯を受けてゐることは十分想像出來る。

 支考は芭蕉の「金屛の松のふるびや冬籠」の句について、「金屛は暖かに銀屛は涼し」と云ひ、「六月の炎天に金屛をたてんに、人の顏かゞやきてよからず、さる坐敷は道具知らぬ人に落ちぬべし、されば金銀屛の涼暖を今の人の見付けたるにはあらず、そも天地より成せる本情なり」と論じた。それほど面倒なことを云はなくてもいゝが、前の句と云ひ、この句と云ひ、初秋の季節に銀色を配したのは頗る感覺的である。銀の鍵は燦然たるところに、屛風は銀の色のやゝさびたところに、各〻秋の心を捉へてゐる。「銀の鎰」の方は時間を明にせぬが、やはり夜の燈下がふさはしいやうな氣がする。

[やぶちゃん注:『支考は芭蕉の「金屛の松のふるびや冬籠」の句について、……』芭蕉の元禄六年の十月九日附許六宛書簡初出だが、異形句が多い。

   *

 金屛の松の古さよ冬籠(「炭俵」)

   *

 金屛に松のふるびや冬籠り(「笈日記」)

   *

 金屛の松もふるさよ冬籠(「芭蕉庵小文庫」)

   *

 金屛の松のふるびや冬籠(「陸奥鵆(むつちどり)」)

   *

因みに、この句は富家の座敷を想起した想像句で、そこに侘びた芭蕉の冬籠りを通わせたのである。さて、さる方の論文によって、この支考の評は、俳論「續五論」の一節であることが判った。その引用を参考に正字で示すと、

   *

金屛はあたゝかに銀屛は涼し。 是をのづから金屛・銀屛の本情也。(略)[やぶちゃん注:論文者による。]金屛・銀屛のうち出たる本情は、貴品高家の千畳敷とおもひよるべし。それを松の古さよといはれたれば、牒つがひもはなればなれに兀(はげ)

かゝりて、ばせを庵六畳敷のふゆごもりと見え侍るか。是風雅の淋しき實なるべし。金屛のあたゝかなるは物の本情にして、松の古さよといふ所は二十年骨折たる風雅のさびといふべし。

   *

である。衒学的な支考らしい大上段で、微苦笑したくなるね。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 胡桐淚

 

Totourui

 

ことうるい 胡桐鹼

      胡桐律

胡桐淚

 

 

ウヽ トン レイ

 

本綱胡桐淚生西域肅州及凉州其木初生似柳大則似

桐蟲食其樹而汁出下流似眼淚又有入土石成塊如鹵

[やぶちゃん注:「鹵」は、底本では、「グリフウィキ」のこれに近い字体。]

鹸者形如小石片子黃土色爲上有夾爛木者

氣味【鍼苦大寒】 今治口齒家多用爲最要之藥能軟一切物

 瘰癧非此不能除又可爲金銀銲藥

 

   *

 

ことうるい 胡桐鹼《ことうけん》

      胡桐律

胡桐淚

 

 

ウヽ トン レイ

 

「本綱」に曰はく、『胡桐淚は、西域の肅州、及び、凉州に生ず。其の木、初生、柳に似たり。大なる時は、則ち、桐に似る。蟲、其の樹を食して、汁、出でて、下流す。眼≪の≫淚《なみだ》に似たり。又、土石を入れ、塊《かたまり》を成し、鹵鹸(しけん)のごとくなる者、有り。形ち、小さき石の片子(へげ)のごとく、黃土色≪のもの≫、上と爲《な》す。爛《ただ》≪れたる≫木を夾(はさ)む者、有り。』≪と≫。

『氣味【鍼、苦。大寒。】 今、口齒《こうし》を治≪する≫家《か》、多く用ひて、最要の藥と爲《な》す、能く、一切の物を軟《やはら》げ、瘰癧《るいれき》、此れに非ざれば、除くこと、能はず。又、金銀≪の≫銲藥《はんだやく》と爲す。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注: 「胡桐淚」は、中文サイトの複数の記載を合わせて比較したところ、

キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属コトカケヤナギPopulus euphratica (中文名は「胡楊」)の樹脂

を指すと確定出来た。ウィキの「コトカケヤナギ」(琴掛け柳)によれば、『「ポプラ」の一種で、中央アジアから中東や北アフリカまでの乾燥地帯でよく見られる。沙漠などの乾燥に強く、タマリスク』(ナデシコ目ギョリュウ(御柳)科ギョリュウ属ギョリュウ Tamarix chinensis )『と』ヤナバグミ(バラ目グミ科グミ属ヤナギバグミ Elaeagnus angustifolia 。異名「スナナツメ」)『と共に「沙漠の』三『英雄(植物)」とも呼ばれ、特に長寿で、秋にはきれいに紅葉する』。『学名と英文名称が「ユーフラテスのポプラ」で、旧約聖書の詩編』一三七の『「バビロンの川のそばで、』……『そこの柳に竪琴を掛けて、シオンを思い出した。」(英文欽定訳聖書からの直訳)と関係あるため、和名も「琴掛け柳(楊)」と名付けられた』。『中国語名称は「胡楊」で、隣国・中国新疆ウイグル自治区のタリム川に沿って多く生育しているので、そこへの旅行者も含めて日本でも胡楊と呼ぶ人が多い』。『中央アジアのトルクメニスタンではトゥランガと呼ばれている』。『また、中国のことわざにも「胡楊」が登場し、「胡楊生而千年不死、死而千年不倒、倒而千年不爛」(胡楊は生きて千年枯れず、枯れて千年倒れず、倒れて千年腐らず)と記されている』。『中規模の落葉樹で』、『樹高は最大』十五センチメートルほど、『幹まわりは約』二・五メートル『ほどになる。陽光を好む。 幹は曲線的に分枝し、外皮は成熟すると』、『オリーブ色で荒い木肌の樹皮となる。木材の断面では外側の色の薄い辺材は白に近く、内側の色の濃い心材は赤色を帯び、中心部の髄にかけて黒くなる』。(☞)『幹に多量の水分が蓄えられており、穴を開けると』、『水が吹き出す現象は「胡楊の泪」と呼ばれる』(☜)。『根はそれほど深く張らず』、『横に広がるように根付く。根萌芽によっても繁殖する』。『 葉の形状は多様で、披針形、卵円形、鋸歯をもつ菱卵形など、同じ個体でもさまざまな形になる。花は尾状花序を形成し、雄花のものは』二・五~五センチメートル、雌花のものは五~七センチメートル『ほどの大きさになる。果実は、卵型披針形のカプセル状の実の内側になめらかな毛で』、『小さな複数の種子が包まれている。他のヤナギやポプラ同様、白い綿毛を持った種子が風に舞う柳絮(りゅうじょ)と呼ばれる現象もみられる』。『アフリカ北部から、中東、中央アジア、中国西部にかけての広い地域に分布する。 国名ではスペイン、モロッコ、アフガニスタン、インド、カザフスタン、パキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンなどの国に見られる。 中国では本種の』九十『%が新疆ウイグル自治区に集中し、さらにその』九十『%はタリム盆地に集中しており、絶滅危惧種に指定され保護区となっている』。『乾燥した気候に強く、海抜』四千メートル『程度までの高度で、熱帯・亜熱帯乾燥気候の広葉樹混交林などのなかにも本種が見られる。砂漠気候やステップ気候下の氾濫原においてはヤナギ、ギョリュウ、クワの木などと本種の混合林が代表的な例である。塩分濃度の高い土壌でもよく育つため、季節的に氾濫する川辺、特に淡水と海水が混在する汽水域周辺の土地に本種の森林が自然に形成される。だが、これらの地域では貴重な薪の資源として伐採され続けた結果、今日ではその』殆んどが『失われている』。『森林農業で植樹され、葉は家畜の飼料となる。幹は建築用の木材や、また製紙の原材料にも成り得る。樹皮には駆虫薬(虫下し)の作用があると伝えられ、小枝を噛んで歯磨きにも用いられる』。『特に塩害を伴う砂漠地域の植林計画に本種が選ばれ、防風林と土壌浸食の対策に用いられている。一方、今日の中国では禁伐のため』、『枯死した枝を薪にする程度である』とあった。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「胡桐淚」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-69a]から始まる。上手くチョイスしてある。

「西域の肅州」現在の甘粛省酒泉市粛州区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「凉州」「肅州」の南東の、現在の甘粛省武威市凉州区

「柳」中国語では、ヤナギの中でも枝が垂れる種群を「柳」、枝が垂れない種群を「楊」と称している。名にし負うお馴染みのヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica は中国原産である。

「桐」シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa

「鹵鹸(しけん)」東洋文庫訳では割注で、『(塩辛い土の塊り)』とある。

「片子(へげ)」欠片(かけら)。

「口齒《こうし》を治≪する≫家《か》」口腔科医・歯科医。東洋文庫には、ここ以下の一文に後注して、『土石の入った石涙は性が寒で熱を除く。またその味は鹹でよく骨に入り堅いものを軟らげる。それで齒牙痛・温熱による歯疼』(しとう:歯の疼(うず)き)『・齒牙痛の薬となる。(『本草綱目』胡桐涙)』とある。同項目の「發明」にある。「漢籍リポジトリ」のこちらの、ガイド・ナンバー[083-70a]以下を参照。

「瘰癧《るいれき》」東洋文庫訳では割注して、『(結核性の頸部リンパ腺のはれもの)』とある。

「銲藥《はんだやく》」「はんだ」は東洋文庫訳のルビを採った。「はんだ」は江戸時代初期からあった語である。当該ウィキを見られたい。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 盧會

 

Rokai

 

ろくはい   奴會 訥會

       象膽

盧會

       黒而苦故名

       象膽者隱語

ロウ ホイ  也

 

本綱盧會原在草部爪哇三佛齋諸國所出者乃草屬狀

如鱟尾采之以玉噐搗成膏生波斯國者乃樹脂也狀似

黒餳蓋二說不同豈亦木質草形乎

氣味【苦寒】 厥陰經藥其功專於殺蟲清熱故能治小兒

 癲癇驚風五疳殺三蟲𧏾齒甚妙

△按盧會難辨眞僞亞于阿魏其味苦而後微甘者爲眞

 然本草謂只甘

 

   *

 

ろくはい   奴會 訥會《とつくはい》

       象膽《ざうたん》

盧會

       黒くして苦す。故、「象膽」と

       名づく。隱語なり。

ロウ ホイ

 

「本綱」に曰はく、『盧會、原(もと)、「草の部」に在り。爪哇(ジヤワ)・三佛齋《さんぶさい》の諸國、出だす所≪の≫者、乃《すなはち》、草の屬にして、狀《かたち》、鱟(かぶとがに)の尾のごとし。之れを采るに、玉《ぎよく》の噐を以つて、搗きて、膏と成す。波斯(ハルシヤ)國に生ずる者、乃ち、樹の脂《やに》なり。狀、黒餳(《く》ろあめ)に似《にる》≪と≫。蓋し、二說、同じからず。豈に亦、木の質にて、草の形ちなるか。』≪と≫。

『氣味【苦、寒。】 厥陰經《けついんけい》の藥。其の功、蟲を殺し、熱を清《せい》するに專らなる故、能く、小兒癲癇・驚風・五疳を治し、三蟲を殺す。𧏾-齒(むしくいば[やぶちゃん注:ママ。])に、甚だ、妙なり。』≪と≫。

△按ずるに、盧會、眞僞を辨し難きこと、「阿魏」に亞(つ)ぐ。其の味、苦くして、後《のち》、微《やや》甘き者、眞と爲す。然≪れども≫、「本草」には、只、『甘し。』と謂ふ。

 

[やぶちゃん注:「盧會」は、中文の「維基文庫」の「蘆薈」により、

単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科アロエ属シンロベラ(アロエベラ) Aloe vera

に比定される。当該の日本のウィキによれば、『アラビア半島南部、北アフリカ、カナリア諸島、カーボベルデが原産地だと考えられている。乾燥地帯でも育ち、アフリカ、インドやその他の地域に広く分布している。生薬としてもしばしば用いられる。アロエベラの薬効については多くの研究が行われている。その中には相反するものもあるが』、『抽出物は怪我・火傷・皮膚感染・皮脂嚢胞・糖尿病・高脂血症等に効くという証拠も多い』。『特にインスリン抵抗性の減少・レベル低下は、加齢関連の病態の予防に効果を発揮する可能性があると推測されている』。『これらの薬効は多糖・マンナン・アントラキノン・レクチン等の存在に依ると考えられている』。『治療用途に必要な成分抽出については品質管理が課題とされ、現在、流水で着色物質を洗い流し、特許取得済みの超乾燥システムを使用する方法が有効とされている』。『また、アロエ酪酸塩の免疫調節や慢性炎症に対する有用性も認められているものの、一方で新たな洞察が提出されることを期待する見方もある』。『増やし方は、挿し木、株分け。もっぱら葉挿しでも可能とされているが』、『真偽は不明である』。『茎がないか、非常に短い茎しかない多肉植物で』六十センチメートルから一メートルの『高さに育つ。葉は厚く、緑色から灰緑色で、表や裏に白い斑点が入っているもの等、様々な種類がある』。『葉の縁は鋸葉状で、白い小さなとげが付いている。葉の皮内細菌から抽出される酪酸発酵成分にはヒトの健康に対する予防的および治療的役割を発揮する可能性があるとされている』。『花は夏期に、高さ』九十センチメートルの『穂の上に咲く。それぞれの花には、黄色い』二、三センチメートルの『管状の花冠がぶら下がっている』。『他のアロエ属の種と同様にアーバスキュラー菌根』(arbuscular mycorrhiza:AM:は、根に菌類が共生した構造である菌根の一型)『を形成し、共生することによって土中の栄養分を効率的に得ている』。『多糖体のため保水力に優れており、腸内環境改善や摂取した栄養分の働きをサポートするなど、近年の研究により様々な特徴が明らかになりつつある』。『世界中で栽培されており、自生範囲は明確ではない。アラビア半島南部から北アフリカ(モロッコ、モーリタニア、エジプト)、スーダン、カナリア諸島、カーボベルデ、マデイラ諸島辺りが原産地だと考えられている』。『かつて硬葉植物の森林が広い範囲を覆っていたが、砂漠化によって急速に減少し、少数の種類の植物が残ったことが推測される』。十七『世紀に中国や南ヨーロッパに持ち込まれ』、『オーストラリア、バルバドス、ベリーズ、ナイジェリア、パラグアイ、アメリカ合衆国等の温帯地域から亜熱帯地域でも生育するようになった』。「医薬品」の項。『アロエベラの化粧品や医薬品としての効果に関しては限定されたものであり、しばしば議論になっている』。『現在熱傷や肝炎の治療に広く使用されてはいるものの、治療上の証拠が不足しており、その原因は、アロエベラゲル中の着色物質、成分が汚染によって変化する可能性にあるとされている』。『一方で、後述するようにアロエベラの鎮静効果、保湿効果、治癒効果について一定の有用性を認める研究結果もあり、化粧品や代替医療の業界は、これらの効果を用いた商品を取り扱うことがある』。『例えば、アロエベラのゲルは、流通しているローション、ヨーグルト、飲料、デザート等にも用いられている』。『アロエベラ』・『ジュースは胸焼けや過敏性腸症候群等の消化器疾患の解消のために飲用されている。実際に、治療が難しい過敏性腸症候群に対し、アロエベラが症状の改善に有効であることが米国消化器学会で発表されている』。『化粧品会社は、メーク、化粧水、増毛剤、ティッシュ、保湿剤』、『石けん、日焼け止め、香料、シャンプー等の製品にアロエベラの液汁等を添加している』。『その他には、ヒツジの人工受精で精液を薄めるために用いたり』、『生鮮食品の保存料』、『小さい畑の節水のためにも用いられている』。『長い間民間療法で用いられてきたが、医薬用としての利用がいつ頃から始まったのかは定かではない。紀元前』十六『世紀のエーベルス・パピルスには既に記述が見られる』。『また』、一『世紀中盤に書かれたペダニウス・ディオスコリデスの』「薬物誌」や『ガイウス・プリニウス・セクンドゥスの』「博物誌」にも『記述が見られる』。『アロイン』『という成分を除去したアロエベラは無毒で副作用も知られていないが、アロインを含むアロエベラを過剰に摂取すると様々な副作用が起こる』。『しかし、この種は中国、日本、ロシア、南アフリカ、アメリカ合衆国、ジャマイカ、インド等で伝統的な民間療法薬として広く用いられてきた』。『便秘、疝痛、皮膚疾患、寄生虫侵入、及び感染症に対する伝統的なインド医学に使用されている。また、トリニダード・トバゴでは高血圧に、メキシコ系アメリカ人の間では』、二『型糖尿病の治療に使用されている。中国医学では真菌性疾患の治療に推奨されることが多い』。『アロエベラは適切な用法を守ることで怪我の治療に一定程度有効だと言われている』。『例えば、ある研究では傷が治癒する速度を上げるという結果が得られているが』、『別の研究でアロエベラゲル(英:Aloe vera gel)を処置した傷は、他の伝統薬で処置した傷よりも効果的であるとは限らないことが指摘されているが』、『子供や幼児の間で一般的な炎症性疾患であるおむつ皮膚炎などの治療に研究結果も存在する』。『また、抗炎症作用として、紫外線による皮膚の炎症状態の局所治療に有用である可能性についても指摘されている』とし、近年の研究が続く。私は、ムカデ咬傷に効果があるという研究者の指摘を若き日に知り、たまたま、ムカデに咬まれた同僚の女性教諭が、痛みを訴え、保健師が困っているところに行き合わせ、窓辺にあったアロエの葉の肉を採取し、彼女の患部に塗布して、包帯を巻いていたところ、即時に痛みが消え、以来、私を怖がっていた彼女は、私を見直したのが、妙に忘れられない。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「盧㑹」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-65b]から始まる。時珍にして、疑問を提示している部分は、特異点である。

「厥陰經《けついんけい》」東洋文庫の後注に、『体内をめぐる十二経脈の一つ。手の厥陰心包経と足の厥陰肝経とがある。足の厥陰経は足の親指から出て内股をあがり陰部へ、陰部から上行して肝、さらに側胸部から咽喉を通って眼、額から頭頂部へ。支脈は肝から肺へ。手の厥陰経は胸中から心包へ、次いで横隔膜を下って三焦につなぐ。また一支脈は、胸から側胸へ出て肢下から手を通って中指に至る。その病症は上熱下寒、胸苦しく煩悶を起こしたり、陰部が腫れたりする』とある。

「五疳」同前で、『小児の神経過敏症。それによって臓腑に病変がおこる。風疳(肝疳)・驚疳(心疳)・滾(こん)疳(肺疳)・気疳(肺疳)・急疳(腎疳)』とある。

「三蟲」東洋文庫訳では、割注して、『蛔(かい)虫・蟯(ぎょう)虫・条虫』とある。これらのヒト寄生虫が、果してちゃんと古くに認識されていたかどうかに、ちょっとクエスチョンを感じたのだが、薬学論文を見るに、後漢に成立した「神農本草本經」に既に「厚朴は三虫を殺す」という記載があり、その「三虫」について、以上の三種の寄生虫がちゃんと挙げられてあった(「厚朴」はモクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata 、或いは、シナホオノキ Magnolia officinalisの樹皮を乾燥させたもの)。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 阿魏

 

Agi

 

[やぶちゃん注:左下に「木の阿魏」の樹脂の採取に用いると、「本草綱目」の本文に出る竹製の道具(筒)が添えられてある。]

 

あぎ   阿虞 薫渠

     哈昔泥

阿魏

 

アタイ

 

本綱阿魏有草木二種草者出西域苗葉根莖酷似白芷

擣根汁日煎作餅者爲上截根穿暴乾者爲次體性極臭

而能止臭亦爲奇也 木者出南畨木長八九尺皮色青

黃三月生葉似䑕耳無花實其枝汁出如飴久乃堅凝也

大明一統志云出火州及海牙國者草髙尺許根株獨立

枝葉如葢臭氣逼人生取其汁熬名阿魏所謂出於西域

草之阿魏也 出三佛齋及暹羅國者樹不甚髙土人納

竹筒于樹內滿其中冬月破筒取之所謂出於南蠻木之

阿魏也西南風土不同故或如草如木也

 人多煎蒜白僞之諺云黃苓無假阿魏無眞以其多僞

 也騐法阿魏安銅噐中一宿至明沾阿魏𠙚白如銀汞

 無赤色者眞也

氣味【辛】 殺下細蟲極效治㾷【以無根水下之】治痢【以黃連木香湯下之】

[やぶちゃん字注:「㾷」は「瘧」の異体字。]

△按阿魏多僞𬜻人尙難辨况於日本乎今所來者燒之

 試多有蒜氣蓋此以蒜僞者乎

 

   *

 

あぎ   阿虞《あぐ》 薫渠《くんきよ》

     哈昔泥《かせきでい》

阿魏

 

アタイ

 

「本綱」に曰はく、『阿魏に、草・木、二種、有り。草なる者は、西域に出づ。苗・葉・根・莖、酷《はなは》だ、「白芷《びやくし》」に似る。根を擣《つ》≪きける≫汁、日(ひにひ)に、煎じて、餅と作《な》す者を上と爲《な》す。根を截りて、穿ちて、暴し乾す者を、次と爲す。體性、極めて臭くして、而《しか》も、能く、臭きを止《とむ》る。亦、奇なりと爲すなり。』≪と≫。 『木なる者は、南畨より出づ。木の長さ、八、九尺。皮≪の≫色、青黃。三月に葉を生ず。䑕《ねづみ》≪の≫耳に似る。花實、無く、其の枝≪の≫汁、出づること、飴(あめ)のごとし。久くして、乃《すなは》ち、堅く凝るなり。』≪と≫。

『「大明一統志」に云はく、『火州、及び、海牙國に出づる者、草の髙さ、尺許り。根・株、獨立≪し≫、枝葉、葢《ふた》のごとし。臭氣、人に逼(せま)る。生《なま》で、其の汁を取り、熬《いり》て、「阿魏」と名づく。所謂、西域より出づる、草の阿魏なり。』≪と≫』≪と≫。 『「三佛齋(さんぶさい)」及び「暹羅《シヤム》國」に出づる者、樹、甚だ≪は≫髙からず。土人、竹の筒≪を≫樹の內に納め、其の中に滿《みたす》。冬の月、筒を破り、之れを取る。所謂る、南蠻より出づる、「木の阿魏」なり。西≪と≫南≪と≫、風土、同じからず。故《ゆゑ》、或いは、草のごとく、木のごとくなり。』≪と≫。

『人、多く、蒜白《にんにくのくき》を煎じて、之れを僞る。諺に云はく、「黃苓《わうきん》、假《にせ》、無く、阿魏、眞(まこと)、無し。」≪と≫。其れ、僞≪り≫多きを以つてなり。騐《こころみ》る法。阿魏を、銅噐の中に安《あん》じて、一宿し、明くるに至りて、阿魏を《✕→の》沾《うるほ》す𠙚、白くして、銀汞(みづがね)のごとく、赤≪き≫色、無き者、眞なり。』≪と≫。

『氣味【辛。】 細蟲を、殺し、下《くだ》す。極めて效あり。㾷《おこり》を治す【「無根水」を以つて、之れを下す。】。痢を治す【「黃連木香湯《わうれんもくかうたう》」を以つて、之れを下す。】

△按ずるに、阿魏に、僞《にせ》、多し。𬜻人《もろこしびと》≪さへ≫、尙を[やぶちゃん注:ママ。]、辨じ難し、とす。况んや、日本に於いて≪を≫や。今、來《きた》る所の者、之れを燒きて、試みるに、多くは、蒜《にんにく》の氣《かざ》、有り。蓋し、此れ、蒜を以つて、僞はる者なるか。

 

[やぶちゃん注:ここで時珍が「草の阿魏」とするものは、

セリ目セリ科オオウイキョウ属アギ Ferula assa-foetida 、或いは同属の近縁種

である。当該種のウィキの「アサフェティダ」(asafoetida)によれば、『セリ科』Apiaceae『の二年草』で、『サンスクリット名』を『ヒング』と言う。『北アフリカ原産で、現在は中近東やインドにおいて栽培されている』。『茎から採れる樹脂状の物質を香辛料や生薬として用いる』。『香辛料としてのアサフェティダは、複数の揮発性硫黄化合物を含み』、『ニンニクやドリアンに似た強烈な臭いがあるが』、『油で加熱すると』、『強烈な臭いは消えて、タマネギのような風味となる。インドにおいて香辛料として幅広く用いられる他、ウスターソースの原料としても使われている。強烈な臭気を喩えて、悪魔の糞』『(Devil's dung)という呼び名もある』。『仏教ではネギ属の多くの植物とともに、五葷』(ごくん:本邦の一般では、「ニラ・ニンニク・ラッキョウ・アサツキ(タマネギ)・ネギ」を名数とする)『のひとつとして食用を禁止している』とあるものである。

 一方、

「木の阿魏」の方は、実在しないもの

である。「株式会社ウチダ和漢薬」の「阿魏」に、『阿魏は『新修本草』に初収載され、「味辛、平。無毒。諸小虫を殺し、臭気を去り、癥積を破り、悪気を下し、邪気、蠱毒を除く。西蕃及び崑崙に生じる」とあります。唐本注に「苗、葉、根、茎は白芷に酷似する。根を擣いた汁を一日かけて煎じて餅にしたものを上とし、根を截って穿』(せん)『して暴乾したものを次品とする。体性は極めて臭いが、能く臭を止める。奇物である」といっています。その名称について、李時珍は「夷人は自らを称して阿という。この物は極めて臭く、阿の畏るものだという意味である。波斯国(ペルシア)では阿虞と呼び、天竺国では形虞と呼ぶ。涅槃經にはこれを央匱といってある。蒙古人はこれを哈昔泥という。元の時には食用に調味料とし、その根を穏展と名づけ、羊肉を淹けると甚だ香美で、その功は(樹脂由来の)阿魏と同じだといっている」と述べています。段成式の』「酉陽雑俎」には『「樹は長さ八、九尺で、皮の色は青黄、三月に鼠耳に似た形の葉を生じ、花、実はない。その枝を断ると飴のような汁が』出て、『久しくすると堅く凝まり、これを阿魏と名づける。拂林国(東ローマ説が有力)の僧彎が説くところと同じである。摩伽詑国(古代インドの十六大国の一つ)の僧提婆は、その汁を取って米、豆の屑と和して阿魏を合成するのだ」と云っています。一方、蘇頌は蘇敬の説を引き、ほかに「今広州に出るものは、木の膏液が滴醸して結成したものだと云っており、二説あって蘇敬の説と同じでない。段成式の酉陽雑俎にあるものは今広州から報告されたものと近い」と書いていることから、阿魏の製造法に二説あることがわかります。また李時珍も「阿魏には、草、木の二種があって、草のものは西域に産し、晒すもよく煎じるもよい。蘇敬に所説のものがそれである。木のものは南番に産し、その脂汁を取る。李珣、蘇頌、陳承の所説のものがそれである」と云っています。阿魏はインド北部〜ペルシャに産する外国産生薬であったことから、その原植物を実際に見てなかったため諸説が出てきたのであろうと考えられます』(太字は私が附した)とあるので、幻しの存在であることで、キマりである。「酉陽雜俎」のそれは、「卷十八 廣動植之三」で、「中國哲學書電子化計劃」のここのガイド・ナンバー「48」を見られたい。因みに、所持する東洋文庫の今村与志雄氏訳注でも確認した。今井氏は後注で一ヶ所、『樹液』という言い方をされているものの、正しくオオウイキョウ属 Ferula を指示しておられる。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「阿魏」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-65b]から始まる。記載は、かなりゴチャついているため、良安は、判り易く、パッチワークにしていて、整理としては好ましい処理である。

「白芷《びやくし》」セリ亜科シシウド属ヨロイグサ Angelica dahurica 。その根は漢方生薬として知られ、消炎・鎮痛・排膿・肉芽形成作用があり、皮膚の痒みをとる。日本薬局方にも記載されている。

「大明一統志」既出既注

「火州」東洋文庫では割注して、『(カラ・ホージョ。トルファン)』とある。このカラ・ホージョは小学館「日本大百科全書」に漢字表記「哈剌和卓」(Karakhōjo)とし、『中国、新疆』『ウイグル自治区トゥルファン盆地に残る都城址』。『「荒廃した高昌(こうしょう)」の意。イディクト・シャリIdikut Shariの呼称もある。現在、高昌故城として全国重要文物保護単位に指定されている。この都城の沿革は紀元前』一『世紀の高昌壁』『にさかのぼるが、現存する遺構は、トゥルファン盆地の歴史でいう高昌国、唐の西州、西ウイグル国、モンゴル帝国時代に、その首都および主要都城となっていたころのものと推定される。都城は一辺』千五百~千六百『メートルの方形で、城壁をもち、外城、内城、宮殿址からなり、高昌国時代は条坊制も施行されていて、中国の都城プランの直接的影響が認められる。しかし遺構の大半を占める寺院址はペルシア風で日干しれんが造りである』。二十『世紀初頭のルコックらの調査によって、仏教のほかマニ教、景教(ネストリウス派キリスト教)の寺院址も確認され、壁画などの多様な遺物によって、東西交易路の要衝を占めたオアシス都市の繁栄のさまと高度な文化の一端が明らかとなった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は敦煌に行った際、訪ねた。

「海牙國」不詳。東洋文庫訳にも注はない。以下の「西≪と≫南≪と≫、風土、同じからず」とあるからには、東南アジアの「シャム」、現在のカンボジアの近くではあろう。

「三佛齋(さんぶさい)」既出既注

「蒜白《にんにくのくき》」東洋文庫訳のルビを採用した。

「黃苓《わうきん》」「黃芩」に同じ。双子葉植物綱キク亜綱シソ目シソ科コガネバナ Scutellaria baicalensis の根から採れる生薬。漢方にあっては婦人病の要薬として知られる。血管拡張・血行循環促進・産後の出血・出血性の痔・貧血・月経不順といった補血作用(但し、多くは他の生薬との調合による作用)を持ち、冠状動脈硬化性心臓病に起因する狭心症にも効果があるとする。

「銀汞(みづがね)」水銀。

「無根水」天から降って来て、地に一度も触れていない清浄な水。「西遊記」に出るらしい。

「黃連木香湯」不詳。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(20)

 

   畑々や豆葉のちゞむ秋日和 卓 袋

 

 柳田國男氏の「豆の葉と太陽」といふ本を近刊豫告で見た時、どういふ意味の標題か、見當がつかなかつたが、その內容を一讀するに及んで、奧州の大豆畠に於ける日光の美しさを說いた文章が、卷頭に置かれてある爲の名であることがわかつた。今日の風景鑑賞家なるものが、妙に農作物の色調に無關心であることは、柳田氏の說の通りであらう。若し這間の消息を解する者があるとすれば、それは俳人の畠でなければならぬと思つたら、果してかういふ句のあるのに氣がついた。

 この句は柳田氏が說かれたやうに、豆の葉の美しさを明瞭に描いてはゐない。たゞこれを讀むと、一面の豆畠に强い秋の日が照つてゐる、明るい光景が展開する。豆の葉はもう黃ばんでちゞんでゐる。その色調を現さぬのは、俳人がさういふ感覺に無頓著なのではなくて、「ちゞむ」の語に豆の葉の已に黃ばんでゐることを含ませたものと見るべきであらう。

 豆の葉などといふものは、平安朝以來の傳統に立つ歌よみの顧るべき材料ではない。殊にそれが少し黃ばんで、ちゞれ氣味になりながら、秋天の下に展けてゐる光景の如きは、恐らくは油畫が渡來するまで、畫家と雖も看過してゐた美しさではあるまいか。元祿時代には、まだこの外に「大豆の葉も裏吹ほどや秋の風」といふ路通の句があり、附合の中に「豆の葉も色づく鳥羽の畝傳ひ 林紅」といふ句を發見したこともあるが、柳田氏の說かれるところに最も近いものとしては、卓袋の一句を推すべきであらうと思ふ。吾々は柳田氏が一般に閑却され勝な「豆の葉と太陽」を以て、旅と自然とに關する一書に名づけられたことに敬意を表すると共に、早くこの光景に留意して自家藥籠中のものとした俳人の觀察眼を、この際改めて稱揚して置きたいのである。

[やぶちゃん注:『柳田國男氏の「豆の葉と太陽」といふ本』国立国会図書館デジタルコレクションの原本で(昭和一八(一九四一)年創元社刊)ここから、視認出来る。但し、初出は『東北の旅』(昭和五(一九三〇)年十一月発行)である。

「大豆の葉も裏吹ほどや秋の風」「西の雲」の歌仙に所収する。

「豆の葉も色づく鳥羽の畝傳ひ 林紅」は俳諧撰集「そこの花」に載る。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本俳書大系』第十七巻(昭和二(一九二七)年刊)のここ(左ページ上段五行目)で視認出来る。それを見ると、「畝」には『アゼ』のルビがある。]

 

   蕣のうねりぬけたり笹の上 萬 乎

 

 朝顏の蔓が笹にからまつて、笹の上まで拔け出てゐるといふのである。單に朝顏の蔓が上まで拔け出ただけでは面白くない。そこには必ず花が咲いてゐなければならぬ。俳人が朝顏といふ以上、花あることを常とするばかりでなく、花が無ければ「うねりぬけたり」といふ感じも亦はつきりせぬからである。

 芥川龍之介氏の「閑庭」と題した歌に「秋ふくる晝ほのぼのと朝顏は花ひらきたりなよ竹のうらに」といふのがあつた。これは末方になつた朝顏が晝まで咲いてゐる景色で、趣はいさゝか異るけれども、朝顏が細い竹にからんで行つて、高いところに花をつけてゐる樣子はよく現れてゐる。手入などをあまりせぬ、蔓の匍ふに任せた朝顏を描いた點は、この萬乎の句と同じである。

[やぶちゃん注:大正十五(一九二六)年十二月新潮社刊の芥川龍之介の単行作品集『梅・馬・鶯』に「短歌」の題で収められたものの一首。「閑庭」の前書の第一首。サイト版「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を見られたい。]

 

   稻妻や壁に書きたる大坊主 羽 笠

 

 稻妻がぱつと壁を照すと、その壁に畫いた大坊主の顏が浮んで見える、と思ふ間に又もとの闇に還つてしまふ。稍〻際どい、瞬間的な場合を現した句である。この大坊主は物凄いといふほどでもないが、作者はいづれかと云へば無氣味な風に扱つてゐるやうな氣がする。

 この句を讀むと、一茶の「秋風や壁のヘマムシヨ入道」を思ひ出す。ヘマムシヨ入道はヘヘノノモヘジのことである。似たやうで違ひ、違つたやうで似てゐるところに、この兩句の獨立性はあるのであらう。

[やぶちゃん注:「秋風や壁のヘマムシヨ入道」私の好きな一句。「七番日記」所収で、文化八(一八一一)年の作。

「ヘヘノノモヘジ」「へのへのもへじ」の別称。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(19)

 

   衣うつ所へ旅のもどりかな 旦 藁

 

 この旅から戾る人物は、どういふ種類の者かわからぬ。突然戾つて來たのか、或は歸るべき日に歸つて來たのか、それもわからぬ。わかるのは女房が砧盤[やぶちゃん注:「きぬたばん」。]を出して衣を擣つてゐるところへ、旅行から夫が歸つて來たといふことだけである。理窟を云へば衣を擣つ者が妻であり、歸つて來る者が夫であることも、句には現れておらぬやうであるが、そこはさう解するのが砧の句の定石であらう。下女砧を打ち、主人行商より歸るでは、この句の情味は全く減殺されてしまふ。

 子規居士の「百中十首」の中に「七年の旅より歸るわが宿に妹が聲して衣打つなり」といふ歌がある。この句から脫化したものかどうかわからぬが、境地は全く同じである。たゞ旦藁は衣を持つ者の側より見、子規居士は旅より歸る者の側より見てゐるだけの相違に過ぎぬ。「七年の」の歌は固より想像の產物であるが、旦藁の句は一槪にそう斷ずることも出來ない。極めて手輕く敍し去つてゐるところに、却つて實感らしいものが含まれてゐる。

[やぶちゃん注:子規居士の「百中十首」のそれは、明治三一(一八九八)年のもので、標題の後に子規の『およそ百ばかり歌の中より十を選べと乞ひて同人の選びたる者この百中十首なり。歌の惡きは選者の罪にあらず、作者の着き歌無ければなり。見ん人必ず選者をな咎めたまひそ。』という前書があるもの。国立国会図書館デジタルコレクションの改造社版『子規全集』第七巻(昭和五(一九三〇)年刊)のここから始まるが、その内、「其十」で露月の選になる中にあった(左ページ後ろから三~二行目)。言わずもがな、であるが、この「妹」(いも)は実際の子規の実妹で彼の看病に献身した律(りつ)である。]

 

   たばこ切鄰合せやくつはむし 素 覽

 

 煙草を刻む音などといふものは、專賣局が出來た以後の人間には緣が遠くなつた。夜なべか何かに煙草を刻んでゐる家がある。その鄰の方では轡蟲が鳴き立ててゐる。いづれもあまり風流でない、やかましい方の取合[やぶちゃん注:「とりあはせ」。]である。轡蟲の聲から思ひついて、かういふ取合を求めたとなると、いさゝか窮屈になつて面白くないが、實際かういふ光景があつたのであらう。卽き[やぶちゃん注:「つき」。]さうで卽き過ぎぬところに、自然の妙は存するのである。

[やぶちゃん注:「くつはむし」「轡蟲」博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 鑣蟲(くつわむし)」を見られたい。

「專賣局が出來た」『「秋」(6)』の「妹がすむたばこの花の垣根かな 春 鷗」の私の注を参照されたい。]

 

   茶ちりめん借て著て見る夜寒かな 秋之坊

 

 泊客などであらうか、稍〻夜寒を感ずるといふまゝに、主人の著物でも出して著せる。その著物が茶縮緬なのである。一句の表だけ見ると、茶縮緬の著物を所望して借りたやうであるが、さうではあるまい。夜寒を凌ぐために借著をした、それが茶縮緬だつたといふのであらう。借著はして見たが、何となく身にそぐはぬやうな感じが現れてゐる。

「借具足我になじまぬ寒さかな」といふ蕪村の句は、趣向としても奇拔であり、調子もこの句より引緊つてゐる。秋之坊の句はさのみすぐれたものではなく、元祿の句としては多少の弛緩を免れぬが、再誦三誦すると、やはりこの句の方が吾々には親しみがある。と云つて逗留の夜寒に縮緬の著物を借りて見た經驗があるわけではない。

[やぶちゃん注:蕪村の句(この場合の「具足」は単なる「道具・物品」の意)は、調べてみると、表記は、

 借具足我になじまぬ寒かな

である。]

 

   笹葉たくあとやいろりの蛩 夕 兆

 

 この「蛩」[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]は勿論今のコオロギである。例の「きりぎりすなくや霜夜のさむしろに」の歌が人口に膾炙してゐる通り、秋の蟲の中ではコオロギが冬まで生延びることになつてゐる。蛩によつて分てば秋になり、圍爐裏によつて分てば冬に入る。その邊は分類學者に任せて置いて差支無い。

 秋とすれば大分末の方、冬とすればまだ淺い頃である。圍爐裏に笹の葉を焚いて、あたりが暖くなつた爲か、爐邊でコホロギが鳴き出した。笹の葉を焚くのだから、眞冬の榾のやうな旺な[やぶちゃん注:「さかんな」。]火になる氣遣は無い。そのほのかな溫みがコホロギに蘇生の想あらしめたのであらう。斷續して幽な[やぶちゃん注:「かすかな」。]聲が聞える、といふのである。

 笹の葉を焚くといふやうな趣向は、實際でなければ思ひつくものではない。「もの焚きしあとや」とでも置替へて見れば、容易に自然の妙を感ずることが出來る。

 

   すかすかと西瓜切也龝のかぜ 陽 和

 

 西瓜といふものは季題の上では秋になつてゐる。瓜が夏で西瓜が秋といふのは、藤が春で牡丹が夏なのと同じく、季節の境目に於ける已むを得ぬ現象であらう。今は一切の事が便利過ぎる世の中になつてしまつたから、昔の季題の標準で律するわけには行かないが、西瓜を食ふのは赫々たる[やぶちゃん注:「かくかくたる」。]炎暑の中にも多少の涼味が動き初めてから――秋意のほのめくやうになつてからが多いかと思ふ。

 西瓜の靑い肌に庖刀[やぶちゃん注:「はうちやう」。]を當ててすかりと切る。この庖刀はよく切れるのでなければならぬ。「すかすか」といふ言葉は、その切味を示してゐると共に、先づ二つに割り、次いで半月形に切るといふやうな、連續的な動作をも現してゐる。

 この句は明に「龝の風」と斷つてゐるから、新涼の度が漸くこまやかになつてからのものに相違無い。西瓜の中味もよく熟し、すかと切る庖刀を露の滴る樣なども連想に浮んで來る。

 

2024/06/09

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(18)

 

   鬼灯や艸の間にふと赤し 非 群

 

 散文に書き直せば、鬼燈が草の間にふと赤く見えた、といふ意味である。草むらの中に赤く色づいてゐた鬼灯がふと目に入つた。今までは靑い爲に目につかなかつたのだ、と解釋しなくてもいゝ。何かに隱れてゐた鬼灯が、ひよつと目に入つたのだ、といふ風に說明する必要も無いかも知れぬ。草の間にたまたま赤い鬼灯を見た、といふ瞬間の印象を「ふと赤し」の一語に纏めたのである。「ふと」の一語がこの句の山であることは云ふまでもない。

 

   あはれさや日の照山にしかのこゑ 万 乎

 

 鹿の聲といふものは、とかく夜の連想を伴ひ易い。それは山野に棲息する彼等の行動が、どうしても夜間を便宜とするからであらう。奧山に紅葉蹈み分け鳴く鹿の聲なるものは、現在の吾々には緣の遠いものであるが、たゞ鹿の聲を詠じた句を見ると、自然夜の趣が心に浮んで來る。

 この句は白日の下の鹿の聲を捉へた。前山に秋の日がかんかん當つてゐて、そこから鹿の聲が聞えて來るとすれば、最もわかりいゝわけだけれども、必ずしもさう限定する必要は無い。作者自身も山中に在つて、明るい秋の日の下を步きつゝある。さういふ場合にどこかで鹿の鳴く聲を聞いた、と解してもよさゝうである。

 夜鳴く鹿のあはれさは古來幾多の人がこれを捉へてゐる。万乎は日の照る山に鳴く鹿を聞き、そこに別箇のあはれさを認めたのである。

 

   だき起す雨の薄のみだれかな 苔 蘇

 

 庭中の薄であらうかと思ふ。降り續く雨に穗先が亂れて俯伏すやうになつてゐる。重いその一叢[やぶちゃん注:「ひとむら」。]を抱き起すといふだけのことである。

「だき起す」といふ言葉は人に對するもののやうであるが、この場合少しも厭味を伴はず、却つて薄に對する或親しみが現れてゐる。のみならず「だき起す」といふ動作によつて、その一叢の薄の樣子から、雨を帶びた重みまでが身に感ぜられる。薄の句としては特色あるものたるを失はぬ。

 

   露ぬれて鳴子なるこの繩や一たぐり 陽 和

 

 朝早く鳴子の繩を引くと、夜の間に置いた露のためにしとゞに濡れてゐる。さういふ鳴子を一手繰り引いた、といふだけのことである。

 鳴子といふ題を頭に置いて考へると、秋天の下に展ける田圃、パツと飛立つ雀、遠くの道を行く人、森の向うに立つ煙、その他いろいろな光景が連想される。併しかういふ趣は決して思ひつかない。それは吾々がさういふ生活の中にゐないからでもあるが、古來の作家もこんな世界はあまり窺つて居らぬやうな氣がする。

 この句の眼目は「露ぬれて」の一語にある。これあ在るによつて現在鳴子の繩を手にする場合の實感が、直に吾々にも傳はつて來るのである。

 

   朝顏や箒立たる枳殼垣 釣 壺

 

 この「立たる」といふ言葉は、立てかけるといふ意味であらう。朝の庭を掃いた箒を、そのまま無造作に立てかけて置くといふのである。朝顏はその庭に咲いてゐるので、枳殼垣[やぶちゃん注:「きこくがき」。「枳殼」は「からたち」とも読めるが、少なくとも、句は音数から、これである。]にからんでゐるとまで限定する必要は無さゝうに思ふ。

 花が朝顏である爲に、時間は自ら明瞭になるが、今その邊を掃いた箒でなしに、昨日あたり使つた箒がそのまゝ枳殼垣に立てかけてあるものとしても差支無い。俳句のやうな短詩形に在つては、さういふ時間の關係は現すことも困難であるし、又それほど拘泥すべき問題とも思はれぬ。

 

   名月や肌は落著くひとへ衣 助 然

 

 中秋名月は年によつて遲速がある。從つて晝のほてりのまださめやらぬやうな陽氣の年もあれば、更けて夜寒よさむの氣が身に沁みるやうな年もある。この句の場合は依然として夏のまゝの單衣[やぶちゃん注:「ひとへぎぬ」。]を著てゐるのだから、あまり遲い年ではないのである。併し夏のうち、乃至殘暑の頃と違つて、さすがに肌が汗ばんだりするやうなことは無い。單衣の肌ざはりもさつぱりと落著くやうになつてゐる。作者はそこを捉へたのである。

 名月の光、その夜の風物といふやうなものよりも、季節の感じが主になつてゐる。月をのみ追駈ける者は、往々にしてその影を失する。月を離れたところにかういふ世界を見出すのは、俳人得意のところであらう。

 

   西瓜喰ふ空や今宵の天の川 沙 明

 

 新曆が歲時記を支配するやうになつてから、人事としての七夕は夏の部に移り、天文の天の川は秋に取殘される形になつた。「久方の天の川原をうちながめいつかと待ちし秋は來にけり」といふやうな感じは、古今を通じて變らぬに拘らず、古人は銀漢を仰ぐに當つて、特に牽牛織女の二星を連想し、今人は無數の星群として之を觀ずる。句に現れるところが異るのは、固より怪しむに足らぬ。

 この句は勿論七夕の夜の天の川である。「今宵の」の一語は「月今宵」などの「今宵」と同じく、明に年に一夜の今宵であることを示してゐる。七夕の夜の緣側か何かに端居[やぶちゃん注:「はしゐ」。]して西瓜を食ふ。空には天の川が白々とかゝつてゐる。滴る如き夜空の下に食ふ西瓜の雫は、晝間食ふより遙に爽であるに相違無い。

 年に一度の七夕の夜を描きながら、寧ろ離れた趣を持出してゐる。「今宵の」といふことが、この場合離れたものを繫ぐ役に立つてゐるやうな氣もする。

[やぶちゃん注:「久方の天の川原をうちながめいつかと待ちし秋は來にけり」源実朝の「金槐和歌集」の「卷之上 秋部」の一首(一九三番)。所持する斎藤茂吉校訂の岩波文庫一九六三年刊改版では、

   *

久かたの天の河原をうちながめいつかと待(まち)し秋も來にけり

   *

である。]

 

   露深し今一重つゝむ握り飯 蘆 文

 

「旅行」といふ前書がある。朝立に臨んで握飯を腰に著けるのであらう。しとゞに置いた露の中を分けて行くのに、濡れ透ることを恐れて、常よりも今一重餘計に裹むといふ意味らしい。

 露の深さ、草の深さに行きなづむといふやうなことは、句中に屢〻見る趣であるが、たゞ裾をかゝげたり、衣袂[やぶちゃん注:「たもと」。]を濡したりする普通の敍寫と違つて、握飯を今一重裹むといふのは、如何にも實感に富んでゐる。昔の旅行の一斷面は、この握飯によつて十分に想像することが出來る。

 

   又さけるいばら薔薇も後の月 荊 口

 

 返り花といふ季題は冬の部になつてゐる。小春の溫暖な氣候に時ならぬ花を咲かせることを指すのであるが、實際の返り花は小春を俟つてはじめて咲くとは限らない。植物によると夏の末から秋へかけて、二度の花をつけるのがある。薔薇の中には三度咲などといふのがあるから、荊口の句は返り花としないでも解釋することは出來るが、やはり返り花と見た方がいゝかと思ふ。

 秋もやゝ深くなつた十三夜の頃に、茨、薔薇の枝頭に又花の咲いてゐるのを發見した、その驚きに似たものを描いたのであらう。地上の花の漸く少からむとする時分になつて思ひがけず月下に匂ふ花を見たといふのは、ちよつと變つた趣である。茨、薔薇の返り花が珍しいだけではない、後の月の句としても慥に異彩を放つてゐる。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、中七の「薔薇」は「しやうび」である。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本俳書大系』第五(昭和三(一九二八)年春秋社刊)の「笛苅草」(元禄一六(一七〇三)年板(牧童名義だが、実際には支考の編))のここ(左ページ上段初行)でルビが確認出来る。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 龍腦香

 

Ryuunoukou

 

りうなう   羯婆羅香

       片腦 氷片

       梅花腦

龍腦香

       【膏名】婆律香

[やぶちゃん注:「りうなう」はママ。]

 

本綱龍腦舊出西海婆律國今南畨諸國皆有之其木髙

七八丈大可六七圍如積年杉木狀旁生枝其葉正圓而

背白結實如豆蔲皮有甲錯香卽木中脂也以白瑩如氷

及作梅花片者爲良【又有米腦◦速腦◦金脚腦◦蒼龍腦皆因形色名之不及氷片・梅花者也】或

云千年老杉樹其枝幹不曽損動者則有香若損動則氣

洩無腦矣

龍腦【辛苦温】 婦人難產以新汲水【研末少許】服立下治內外障

 眼病小兒驚風先入肺傳於心脾能走能散然非常服

 之藥甚清香爲百藥之先萬物中香無出其右者

 合糯米炭相思子或用杉木炭貯之則不耗【今人多以樟腦僞之】

△按龍腦色白似雲母片而透明者名梅花腦爲上品細

 小色不鮮明且黑者襍名美止利爲下品不入藥用合

 香家用之如水濡者不透明或無稜者乃以樟腦襍亂

 者也宜辨之

 樟腦再燒者名反腦與片腦字同聲故誤以爲一物甚

 非也凡抹龍腦安于檜上以檜箆按之則能細末成

 

   *

 

りうなう   羯婆羅香《かつばらかう》

       片腦《へんなう》 氷片

       梅花腦

龍腦香

       【膏名】婆律香《ばりつかう》

 

「本綱」に曰はく、『龍腦は、舊《も》と、西海≪の≫婆律《ばりつ》國に出づ。今、南畨[やぶちゃん注:「蠻」の異体字。]の諸國、皆、之れ、有り。其の木、髙さ、七、八丈。大いさ、六、七圍《かこみ》。積年の杉木《すぎき》の狀《かたち》のごとく、旁らに、枝を生ず。其の葉、正圓にして、背《うら》、白し。實を結ぶこと、豆蔲《づく》のごとく、皮に甲錯《かうさく》有り。香《かう》は、卽ち、木の中の脂《やに》なり。白≪く≫瑩《かがや》≪きて≫、氷のごとき、及び、梅花片《ばいくわへん》を作《なす》者≪を≫以つて、良と爲《な》す【又、「米腦」◦「速腦」◦「金脚腦」◦「蒼龍腦」、有り。皆、形・色に因りて、之れを名づく。氷片・梅花の者≪には≫及ばざるなり。】。或いは、云ふ、「千年の老杉の樹も、其の枝・幹、曽《か》つて損動《そんどう》せざる者には、則ち、香《かう》、有り。若《も》し、損動すれば、則ち、氣、洩れて、腦、無し。」≪と≫。』≪と≫。

『龍腦【辛苦、温。】 婦人、難產に、新≪たに≫汲≪くめる≫水を以つて【研末して、少し許り。】服す。立処ろに[やぶちゃん注:「処」は送り仮名にある。]下《くだ》る。內・外障(うちひ・そとひ)の眼病、小兒の驚風を治す。先づ、肺に入り、心・脾に傳はり、能く走り、能く散ず。然れども、常服の藥に非《あら》ず。甚だ清香≪にして≫、百藥の先《せん》と爲《な》す。萬物中の香、其の右に出づる者、無し。』≪と≫。

『糯米《もちごめ》の炭《すみ》に、相-思-子(たうあづき)を合はせ、或いは、杉の木の炭を用ひて、之れを貯≪へれば≫、則ち、耗《へら》ず【今人《きんじん》、多く、樟腦を以つて、之れを僞はる。】。』≪と≫。

△按ずるに、龍腦≪の≫、色、白く、雲母(きらゝ)の片《かけら》に似て、透明(すきとを[やぶちゃん注:ママ。])る者、「梅花腦」と名づく。上品と爲す。細小≪にして≫、色、鮮明(あざやかな)らず、且つ、黑き者≪の≫襍《まぢれ》る、「美止利《みどり》」と名づく。下品たり。藥用に入れず、合香家《がうかうか》、之れを用ふ。水に濡(ぬ)れたる者のごとく、透明《すきとほ》らざる、或いは、稜(かど)無き者、乃《すなはち》、樟腦を以つて、襍《まぢ》へ亂《みだせる》者なり。宜しく、之れを辨ずべし。

 樟腦、再たび、燒《やきたる》者を、「反腦《へんなう》」と名づく。「片腦《へんなう》」と、字、同聲なる故《ゆゑ》、誤りて、以つて一物と爲《なす》≪こと≫、甚だ、非なり。凡そ、龍腦を抹するに、檜《ひのき》の上に安んじて、檜の箆(へら)を以つて、之れを按《やすんじ》せば、則ち、能く、細末と成る。

 

[やぶちゃん注:「龍腦」は、先の「樟腦」の「霹靂木」で画像とともに参考として示した、

双子葉植物綱アオイ目フタバガキ科リュウノウジュ属リュウノウジュ Dryobalanops aromatica の樹幹の空隙に析出される、ボルネオール(borneol:ボルネオショウノウとも呼ばれる二環式モノテルペンで、化学式は C10H18O

を指す。幻想的な同種の樹林の俯瞰写真を、今一度、

 

Dryobalanops_aromatica_canopy_20240609083101

 

以上の通り、掲げておく。ウィキの「リュウノウジュ」によれば、『常緑高木。種小名 aromatica は、ダンマル樹脂(英語版)が匂うことを表すラテン語(aromaticus = 芳香のある)に由来する』。『最大』六十五『メートル』、『さらには』七十五『メートルまで成長する超高木で』、『リュウノウジュは、樹木の葉が互いに接触しないよう成長するクラウン・シャイネス(英:crown shyness)と呼ばれる行動がみられる樹種の』一『つとして知られる』(上記画像がそれ)。『インドネシア(スマトラ島、ボルネオ島)、ブルネイ、マレーシア』に分布する。『この種は樟脳の主な原料の』一『つであり、香や香水に使用され、金以上の価値があった時にはボルネオへ』、『アラブの交易商が引き寄せられた』。『木材としての名前は、カポール(Kapur)と呼ばれる』。『リュウノウジュの樹幹の空隙に析出される竜脳は、生薬として中枢神経系への刺激による気付けの効果を期待して利用される』。『森林伐採やアブラヤシなどのプランテーションへの転換などによる自生地の破壊、木材採取や抽出物のための伐採などにより、個体数は減少している』。以下、「リュウノウジュ属」項では、現生、七『種全てがボルネオに自生しており、ボルネオ以外では確認されていない種も含まれる』とあって、後の六種の記載がある。

 一方、ウィキの「ボルネオールによれば、『香りは樟脳に類似しているが揮発性がそれに比べると乏しい。樟脳と同じくボルナン骨格を有し、樟脳を還元することによって得ることができる』。『歴史的には紀元前後にインド人が』、六~七『世紀には』、『中国人が』、『マレー、スマトラとの交易で、天然カンフォルの取引を行っていたという。竜脳樹はスマトラ島北西部のバルス(ファンスル)とマレー半島南東のチューマ島に産した。香気は樟脳に勝り価格も高く、樟脳は竜脳の代用品的な地位だったという。その後』、『イスラム商人も加わって、大航海時代前から香料貿易の重要な商品であった。アラビア人は香りのほか冷気を楽しみ、葡萄・桑の実・ザクロなどの果物に混ぜ、水で冷やして食したようである』とある。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「龍腦香」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-60b]から始まる。記載は、かなり長い。良安は、その「集解」を中心に、コンパクトによく纏めている。

「羯婆羅香《かつばらかう》」中文の「維基百科」の「リュウノウジュ属」相当するページを台湾繁体字に代えて見たところ、ボルネオ島を「婆羅洲」と漢字表記している。「羯」は中国が好きな異民族を示す卑称の一つである(狭義の「羯」は「ケツ」で四世紀の中国北部の山西に存在した小部族を指した)。

「片腦《へんなう》」これ、幼少期より、「小林脳行」ウィキの「小林脳行」によれば、『現在は経営破綻して会社は存在しないが、営業権は小林製薬が承継している』とある)の「煙出しネオ片脳油」で、ツンとした臭いと、おどおどろしい赤い罐と文字を反射的に思い出してしまうトラウマである。グーグル画像検索「煙出しネオ片脳油」をやっちゃった! うわ~!!! これだッツ!

「婆律香」検索したら、サイト「中国古詩网」のここ(但し、ここのものは簡体字)で、宋代の詩人葛勝仲の詩「鷓鴣」の第一句に、『婆律香濃氣味佳』とあるのを見つけた。

「西海≪の≫婆律《ばりつ》國」東洋文庫訳では、割注して、現在のインドネシアの『(バリ島)』とある。

「豆蔲《づく》」読みは東洋文庫のルビを参考にした。これは、先の「篤耨香」の注で示した、カタバミ目ホルトノキ科ホルトノキ属Elaeocarpus の種群の異名である。

「甲錯《かうさく》」東洋文庫訳は割注して『(爪あとのようなすじ目?)』と疑問推定で添えてある。

『「米腦」◦「速腦」◦「金脚腦」◦「蒼龍腦」』前後から推して、色・固まった際の形状による呼称と推定される。一応、画像検索に掛けたが、現行では、対象品を探し得なかった。

「損動《そんどう》」東洋文庫訳は割注して『(損傷・衝動)』とある。

「內・外障(うちひ・そとひ)の眼病」眼球内に障害があって物の見えなくなる病気。瞳の色の違いよって、「白そこひ」(白内障)・「青そこひ」(緑内障)・「黒そこひ」(黒内障)と呼ばれる。ここはその見た目の症状の違いを「内」「外」に分けている過ぎず、以上の三種の疾患の孰れかである。現行、「そこひ」は聴くが、「うちひ」は聴かない。

「驚風」東洋文庫訳はルビで『(ひきつけ)』とする。

「相-思-子(たうあづき)」マメ目マメ科マメ亜科トウアズキ属トウアズキ Abrus precatorius のこと。小学館「日本国語大辞典」の「唐小豆」(歴史的仮名遣「たうあづき」)によれば、『マメ科のつる性常緑木本植物。アフリカ原産で、アジアやアメリカの熱帯地方に早くから伝播し』、『帰化している。葉は偶数羽状複葉で互生、長さ六~八センチメートル、八~』十五『対の長楕円形の小葉からなる。秋、葉腋に総状花序を出し、淡紫色または淡黄白色の蝶形花を多数つける。莢は長楕円形で扁平、長さ三~四センチメートル。種子はアズキ大、上半部は深紅色で下半部は黒色、光沢があって美しくビーズとして装飾用とされる。また、種子は猛毒を含んでもいて、毒矢の原料ともされ、薬用ともされる。根や茎・葉は煎じて飲用とする。漢名、相思子。なんばんあずき』とあった。一方、「相思子」を引くと、『植物「とうあずき(唐小豆)」の漢名。また、その種子の名。生薬として眼薬、殺虫剤などに用いた』と、目の薬としての用法が確認出来た。

「美止利《みどり》」不詳だが、調べるうちに、「跡見群芳譜」のここに出る、シソ目シソ科カワミドリ属カワミドリ Agastache rugosa の記載に目が留まった。「漢語別名」に『藿香、野藿香、大葉薄荷・山薄荷・野薄荷、排香草』とあったからである。「スースーする」点で似てないか? 「みどり」だし。以下、『全草に、ハッカに似た独特の芳香を持つ』とあり、『中国では、カワミドリ及びパチョリの全草を、藿香(カクコウ,huòxiāng)と呼び、薬用にする』とされ、さらに、『日本では、カワミドリの全草を土藿香(どかっこう)・野藿香と呼び、あるいは』、『葉を乾したものを排草香(はいそうこう)と呼び、薬用にする。但し、中国の排草香は』 Lysimachia capillipes 。『日本の生薬カッコウはパチョリ』とある。このパチョリは、シソ目シソ科ミズトラノオ属パチョリ Pogostemon cablin で、同種は、当該ウィキによれば、『主に東インドや西インドなど、熱帯地方に生育している』とある。リュウジュとは、縁も所縁もないのだが、どーにも、「スースー」で通底してしまうんだがなぁ……。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(17)

 

   初秋や居所かゆるかたつぶり 史 興

 

 蝸牛の存在は梅雨頃を全盛期として、赫々たる炎天下には閑却され勝になる。盛夏と雖も雨が降續けば、自ら時を得るわけであるが、百蟲活動の夏は蝸牛に取つては寧ろ影の薄い季節でなければならぬ。

「居所かゆる」といふのは、今まで此處にいたものが何處へ行つたといふほど、はつきりした動作ではあるまい。天地に充つる新秋の氣が、蝸牛のやうな微物の上にも或衝動を與へて、居所を替へしむるに至つたといふのであらう。卽ち「日盛や所替へたる晝寐犬」といふやうな、現金なふるまひではない。もう少し天地自然の大きな步みに觸れた動きである。

「秋來ぬと目にはさやかに見えねども」といふ。見えざる秋の現れは、ひとり風の音のみには限らない。殼を負うた漂泊者蝸牛先生も、何者かをその身に感じて居を移す。そこに目をとめたのがこの句の眼目であり、俳諧らしい興味でもある。

[やぶちゃん注:「秋來ぬと目にはさやかに見えねども」「古今和歌集」の「卷四 秋歌上」の巻頭に配された、藤原敏行朝臣によって立秋の日(旧暦七月上旬。現代の八月六、七日頃)に詠まれた一首(一六九番)。

   *

   秋立つ日詠める

 秋來ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる

   *]

 

   きりぎりす扇をあけてたゝむ音 和 丈

 

 このきりぎりすは蟋蟀[やぶちゃん注:「こほろぎ」。]ではない。螽斯[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]の方である。きりぎりすの鳴いてゐる場合に、扇をあけてたゝむ音がする、といふ風に解せられぬこともないが、句の意味から云ふと、扇をひろげてたゝむ、あのギイといふやうな音を、きりぎりすの聲に擬したものと思はれる。「山がらの我棚つるか釘の音」の格であるが、あれほど技巧を弄したところは無い。今の人が見たら、ルナアル的興味だと云ふかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「このきりぎりすは蟋蟀ではない。螽斯の方である」『「秋」(4)』の「きりぎりす秋の夜腹をさすりけり 靑 亞」の私の注を読まれたい。]

 

   草刈のまだ夜はふかき月夜かな 長 之

 

 草刈といふ季題は、近頃は夏に定められたかと思ふが、必ずしもさう限定する必要は無い。この句は秋の草刈である。

 まだ夜の明けぬうちに草刈に出る。天地は闃寂[やぶちゃん注:「げきせき」。「げきじやく」とも読む。「せき」は漢音(一般に使用する「ジャク」は呉音)。「ひっそりとしてさびしいさま」。]としていて、東の空も白むに至らぬ。たゞ明るい月が照つてゐる。全く夜のまゝである。普通に夜深きといふ場合は、もう少し前の時間を指すやうであるが、この句は明方に近づきながら、全く夜深き有樣だといふことを現したのが面白い。白み易い夏の夜では、この趣は窺はれぬ。秋になつて天明が遲くなりつゝあることも、自らこの裡[やぶちゃん注:「うち」。]に含まれてゐる。

「まだ夜は明けぬ」といふのと「まだ夜はふかき」といふのと、實際の時間から云へば大差無いかも知れぬが、受取る感じには非常な相違がある。「まだ夜はふかき」の一語によつて、はじめて闃寂たる空氣に觸れ得るやうな氣がする。

 

   名月や壁に酒のむ影法師 半 綾

 

 讀んで字の如し。月を愛めでて酒を飮む。その影が壁にうつるのは、卽ち月の光によつてである。「明月や圓きは僧の影法師」といふ漱石氏の句は、奇に於て勝つてゐるが、この句は自然の裡に變化を藏してゐる。そこに元祿らしい好所がある。

[やぶちゃん注:漱石の句は、岩波旧全集では、明治二九(一八九六)年の「正岡子規へ送りたる句稿 その十七 九月二十五日」として収め、句稿末には「愚陀拜」とある。因みに、私は、漱石の俳句で、心惹かれたものは、一句も、ない。]

2024/06/08

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(16)

 

   聖靈もござるか今の風の音 桃 妖

 

 迎火でも焚いてゐる場合かと思はれる。ざわざわと吹き渡る風の音も、その場合たゞならぬやうにおぼえて、亡き魂がこの風に乘つて來るのではないかといふ氣がする。「吹く風の目にこそ見えね」といふことも、一方が聖靈[やぶちゃん注:「しやうりやう」。]であるだけに、特にもの恐しいやうな感じを伴つてゐる。

 かういふ心持は古今を通じて變りはあるまい。

 

   迎火の消えて人來るけはひかな 子 規

   風が吹く佛來給ふけはひあり 虛 子

 

 子規居士のは必ずしも佛でなしに、迎火の消えた闇の門を、向うから人の來るけはひがする、といふ意味かも知れぬ。併しさういふ普通の人の來るけはひさへ、この場合は或幽遠な世界に觸れるのである。「鳴雪俳句集」などには出ていないが、鳴雪翁にも「迎火に魂や來る道の鴫飛んで」といふ句があるよしを、何かで見たおぼえがある。桃妖の句は技巧的に云へば、この中で一番劣るであらう。たゞどこか素樸なところがあつて、この內容に適してゐるのみならず、時代において先んじてゐることも認むべきである。

[やぶちゃん注:子規の句は、ネットの複数の掲示句を見るに、

   *

   迎火の消えて人來るけはひ哉

   *

であるようだ。私は「久女好きの虛子嫌ひ」だが、虚子のこの句は、所持する大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和五五(一九八〇)年増補校訂八版)で、句集「五百句」所収で、明治二八(一八九五)年秋の作であることが判った。林火は虚子パートの冒頭にこの句を掲げている。それは、この句が、子規の従弟にして虚子の旧友で、ピストル自殺した藤井古白(明治四(一八七一)年~明治二八(一八九五)年四月十二日)を『追慕する霊迎えの句である』(林火解説文より)からである(古白の自死の原因は、文学・哲学を志しながら、それが世間に認められないジレンマによる神経疾患発症の他に、禁断と認識された叔母「すみ」への恋慕が絡んでいた。因みに、虚子もこの「すみ」を愛していた競争相手でもあったのである)。この句自体に、実は、以下の脇書がある(国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここで確認したが、林火の記載にそこにないものがあるため、勘案して入れ込んでおいた)。

   *

  明治二十八年

  八月。府下豐島群下戶塚村四三四、古白
  舊廬に移る。一日、鳴雪、五城、碧梧桐、
  森々召集、運座を開く。

   *

林火、末尾に、『夕闇迫る門辺で芋殼を焚くのが迎え火であるが、その煙りがたなびけばそれはそれに乗って仏が来たような気配を与える。「風吹けば」がこの句に妖気を添えて効果があることを見逃せぬ。』『子規はこの句を天位となし「句法の巧妙、老成家ノ手ニ成リタラン」と小評している。なお子規に「亡き古白を思ひ出でて」の前書ある「春の夜のそこ行くは誰そ行くは誰そ」がある。』と擱筆している。子規の慟哭の一句は、やはり、明治二十八年の作である。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 篤耨香

 

Tokujyokukou

 

とくちよくかう

 

篤耨香

 

 

[やぶちゃん字注:読みの「とくちよくかう」はママ。]

 

本綱篤耨香出眞臘國樹之脂也樹如松形其香老則溢

出色白而透明【名白篤耕】盛夏不融香氣清遠土人取

後夏月以火炙樹令脂液再溢至冬乃凝復收之其香夏

融冬結以瓠瓢盛置陰凉𠙚乃得不融雜以樹皮者則色

黑【名黑篤耨】爲下品 主治靣黧䵟𪒟

 

   *

 

とくぢよくかう

 

篤耨香

 

 

[やぶちゃん字注:読みの「とくぢよくかう」は濁点を入れたが、ママ。何故、こんな注を附すか判らない方が、半数以上、おられるであろう。しかし、この「耨」の音は「ちよく(ちょく)」でも、「ぢよく(じょく)」でも、ない、のである。「耨」の音は「ドウ」と「ヌ」の音しかないのである。現代中国語では、“nòuノォゥ)で、今も昔も「鍬(くわ)で雑草を刈り取る」及び「除草用農具の鍬」を指す。されば、ここは本来なら「とくどうかう」でなければ、おかしいのである。

 

「本綱」曰はく、『篤耨香、眞臘《しんらう》國に出づる。樹の脂なり。樹、松の形のごとし。其の香《かをり》、老《らう》する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則と、溢(あふ)れ出づ。色、白≪くして≫透(す)き明(とを)る[やぶちゃん注:ママ。]。【「白篤耕」と名づく。】盛夏、融(どろ)けず、香氣、清≪らにして≫遠《とほ》し。土人、取りて後、夏月、火を以つて、樹を炙り、脂液《やにのえき》をして、再たび、溢《あふ》れしめて、冬に至りて、乃《すなは》ち、凝《こ》る。復や、之れを收む。其の香《かう》≪は≫、夏、融けて、冬、結す。瓠-瓢《ひさご》を以つて、盛り、陰凉の𠙚に置けば、乃《のち》、得て、融けず。雜(まぜ)るに、樹の皮を以つて≪せし≫者≪は≫、則ち、色、黑し【「黑篤耨」と名づく。】下品たり。』≪と≫。 『靣黧《めんれい》・䵟𪒟《かんざう》を治ずることを、主《つかさど》る。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:良安は、明らかに前項「蘇合油」と同様、実在性に疑問を抱いている感じで、「本草綱目」の引用だけで、自身の見解を、一切、附記していない。しかし、「本草綱目」が、具体な樹液の採取法・保存法を記載していることから、挿絵には、「松の形のごとし」を受けて松のような想像図の樹木を左に添えている。前の「蘇合油」では「薬壺」の絵だけで、木そのものが全く描かれていない(先には、「樟腦」に原木クスノキが描かれていないが、これは、逆に、ありふれた日本人の誰もが知っている「楠木」であるという真逆の理由である)。しかし、またしても良安先生には悪いが、これは、実在する。

「テレビンティナ」(ポルトガル語「terebinthina」)で、マツ科の植物から採取した樹脂を水蒸気蒸留して得られた精油「テレビン油」(ターペンタイン:英語:turpentine oil)のこと

である。無色、乃至、淡黄色の粘稠(ねんちゅう)な液体。特異な香気を持ち、味は辛い。揮発し易く、点火も易い。日光に当たると、酸化して樹脂様に変化する。合成樟脳・ボルネオール・テレピネオールなどの製造原料の他に、塗料・靴墨・油絵の材料・医薬品等に用いられ、「篤耨香(とくどうこう)」「松脂油」「テレメン油」「テレビン」等とも呼ぶ。本邦では、原樹脂は、

裸子(球果)植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora

マツ属 Pinus亜属 Sylvestri 節クロマツ Pinus thunbergii

などから採取している。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「篤耨香」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-60a]から始まる短いもので、「集解」「氣味」を一部カットして載せている。「集解」の最後にある「附録」の「膽八香」は全部外している。因みに、この時珍の載せた「膽八香」というのは、台湾原産で、カタバミ目ホルトノキ科ホルトノキ属Elaeocarpus の中文名「杜英」 Elaeocarpus sylvestris の果実から絞った油で、御香の原料にされるとされる。これは、中文ウィキの「杜英」に拠ったのだが、ここで、注意が必要なのは、このウィキで「日本語」を選ぶと、「ホルトノキ」に行くが、そこで掲げているのは、『日本在来種である』とする、ホルトノキの変種であるホルトノキ Elaeocarpus zollingeri var. zollingeri リンクしてしまうことである(無論、逆も同じ)。この日本在来種の方のホルトノキは、日本以外では、『台湾、インドシナなど』とあって、中国本土を分布域に入れていないのである。どうも、しかし、ここには、錯誤或いは学説の異説でもあるかのようで、中文ウィキの「杜英」には、日本語の「ホルトノキ」にある六枚の写真が、全部キャプションごと転用されているのである。則ち、中国では、Elaeocarpus zollingeri var. zollingeri を認めていないという風にしか見えないのである。そこで、台湾のサイト「農業知識入口網」の『臺灣原生種之杜英科』『杜英屬林木』『和同扇被梢作「錫蘭椴攬」的外來樹種』という資料を見るに、この変種を認めていない(変種名学名は出ない)と思われる内容が確認出来た。ところが、私が植物では最も信頼しているサイト「跡見群芳譜」の「ほるとのき(ホルトの木)」には、この変種名の学名で掲げられてあり、一方で、説明の項で、分布域を、『本州(千葉県南部以西)・四国・九州・琉球・臺灣・福建・浙江・江西・湖南・兩廣・西南・インドシナに分布』とあったのである。本項とは、直接に関係しないのであるが、どうにも気になったので、取り敢えず記しておうことにした。

「眞臘《しんらう》國」六~十五世紀、インドシナ半島のメコン川流域に存在したクメール人(カンボジア人)の国家の中国名。扶南から独立して建国、七世紀前半に扶南を滅ぼした。八世紀に水真臘と陸真臘に分裂したが、九世紀初めに再統一し、アンコール‐ワットに代表されるクメール文化を現出した。十四世紀頃からタイの圧迫を受け、次第に衰退した。良安の時代は、その結果として暗黒時代であった。現在のカンボジアに相当する。

「白篤耕」ウェヘェ!!! 中文サイト「雪華新」の「春宵百媚香」に一ヶ所(配剤名のみ)だけ出るだけで、他に検索に掛らない!

「遠《とほ》し」遠方までその香りが届く。

「黑篤耨」殆んどが中文サイトで「篤耨香」関連で出るだけなので、私には万事休す。

「靣黧《めんれい》・䵟𪒟《かんざう》」東洋文庫訳の割注で『(どちらも顔色の黒ずんでいること)』とある。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 蘇合油

 

Sogouyu

 

そかふゆ 咄魯瑟劍【梵書】

 

蘇合油

 

[やぶちゃん注:東洋文庫では、「咄魯瑟劍」の「魯」の右にママ注記を附し、下に割注で『(竭)』と修正している。しかし、「本草綱目」の「蘇合香」の「釋名」には、『時珍曰按郭義恭廣志云此香出蘇合國因以名之梵書謂之咄魯瑟劒』とあり、また、「大蔵経データベース」で調べると、「大威怒烏芻澁麼儀軌經」に『咄嚕瑟劍蘇合香也』とあるので、ママとする。]

 

本綱蘇合油如黐膠黃白色中天竺國出蘇合香是諸香

汁煎成非自然一物也或云今出安南三佛齋諸畨《✕→蕃》國樹

生膏可爲油胡人將來欲貴重之飾曰是獅子屎也

氣味【甘温】 氣𮄒能通諸竅臟腑故其功能辟一切不正

[やぶちゃん字注:「𮄒」は「竄」の異体字。ここは「放つ・駆逐する」の意。]

 氣殺鬼精物和劑局方有蘇合香丸能治卒心痛時氣

 鬼魅暴痢月閉小兒驚癇客忤大人中風中氣狐狸病

△按蘇合香油雖木膏不言其樹形狀雖諸香煎汁不載

 其練方故未詳也本草必讀云來從西域賣自廣東

 

   *

 

そがふゆ 咄魯《とつろ/トロ》・瑟劍《しつけん/ビケン》【梵書。】

 

蘇合油

 

「本綱」曰はく、『蘇合油は、黐膠(とりもち)のごとく、黃白色。中天竺《ちゆうてんじく》國に蘇合香を出だす。是れ、諸香の汁《を》煎じて、成り、自然≪の≫一物に非ざるなり。或いは、云ふ、「今、安南・三佛齋《さんぶつさい》≪の≫諸蕃國に出づ。樹、膏を生じ、油と爲すべし。」≪と≫。胡人、將來して、之れ、貴重せんと欲し、飾りて、曰《い》ふ、「是れ、獅子の屎《くそ》なり。」と。』≪と≫。

『氣味【甘、温。】 氣、𮄒《お》ひ、能く、諸竅《しよけつ》・臟腑を通ず。故《ゆゑ》、其の功能、一切の不正辟の氣を辟《さ》く。鬼精≪の≫物を殺す。「和劑局方」、「蘇合香丸」有り、能く卒心痛・時氣《はやりやまひ》・鬼魅・暴痢・月閉・小兒驚癇・客忤《きやくご》・大人《おとな》の中風《ちゆうぶ》・中氣、「狐狸の病《やまひ》」を治す。』≪と≫。

△按ずるに、蘇合香油は、「木の膏《あぶら》」と雖も、其の樹の形狀を言はず、「諸香の煎汁《せんじじる》」と雖も、載せず。其の練方《ねりかた》を載せず。故に、未だ詳らかならざるなり。「本草必讀」に云はく、『西域より來たり、廣東より賣る。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:この「蘇合油」「蘇合香」に対して、良安は実在を激しく否定している口ぶりであるが、実際には実在する。その基原植物は、ウィキの「蘇合香」、及び、同英文ウィキによれば、十六世紀までは、現在の『トルコ近辺に産する』、

双子葉植物綱ツツジ目エゴノキ科エゴノキ属セイヨウエゴノキ Styrax officinalis

から得られた樹脂を指していた(因みに、この植物は、前出の「安息香」が得られるそれと近縁の植物である)。ところが、同種と同じく『トルコ近辺に産し、品質的に類似したより安価な』、

双子葉植物綱ユキノシタ目フウ科フウ属ソゴウコウ Liquidambar orientalis(「ストラックス・レヴァント(styrax Levant)」・「Asiatic storax(アジアン・ストラックス)」等と呼ばれる)

から『得られる樹脂が現れてからは、それにとって代わられる形で市場から消えた』とある。『現在では』、さらに『この植物の近縁種であり』、『アメリカ南部から中央アメリカに産する』、

フウ属モミジバフウ Liquidamber styraciflua(「アメリカフウ」・「アメリカソゴウコウノキ」「アメリカン・ストラックス( American storax 英文の同種のウィキを参照した。ここでは、邦文のものは信用出来ない)等と呼ばれる)

から『得られる樹脂も市場に出』まわっている、とある。……良安先生、あるんですよ、確かに――

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「蘇合香」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-58a]直前から始まる、「集解」「釋名」「正誤」「氣味」のパッチワークであるが、現物の存在不信を持った良安のそれが、如何にも怪しい記載部分ばかり(「獅子の屎」等)を選んで繋げた、という感じが如何にもする引用となっているのが、失礼乍ら、面白い。

「中天竺」「五天竺」(残りは東西南北)の一つ。古代インドを五区分した際の、中央の部分。単に「中天」とも言う。

「安南」インドシナ半島東岸の狭長な地方。現在のヴェトナムである。その名は唐の「安南都護府」(唐の南辺統治機関)に由来する。唐末、「五代の争乱」(九〇七年〜九六〇年)に乗じて、秦以来の中国支配から脱却した。一時は明に征服されたが、一四二八年(本邦では室町時代の応永三十五年・正長元年相当)独立。十七世紀には朱印船が盛んに出入し、ツーラン・フェフォには日本町が出来た。

「三佛齋」現在のインドネシア共和国のスマトラ島のこと。本来は、宋代の史書に、その名が見える南海の古国。七~十一世紀に、スマトラ島の南東部にあった大乗仏教の国で、唐代には「室利佛逝」と書かれた。

「和劑局方」宋代に出版された漢方処方箋集。正式書名は「太平惠民和劑局方」。徽宗の代に、当時、各地の薬局で使用されていた局方(処方集)の誤りを訂正するため、陳師文らに校訂を命じ、五巻本として出版された勅撰本。様々な病状別に用いられる処方を記し、さらに、各処方についての細かい使用目標を詳述した実用書で、収載された処方箋は十分に吟味されたものばかりで、宋代以後も大いに利用された。本邦でも、鎌倉から室町時代にかけて広く用いられ、多くの医家が利用した。現在、流通している家庭薬のなかにも、本書に記された処方箋を基本とするものが多い。なお、現在の「薬局方」という名称は本書の題名に由来している(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「蘇合香丸」サイト「東苑漢方」の当該薬の解説に、『伝統的な名漢方で』、『主成分の蘇合香、安息香、麝香には血行をよくする働きがあり、脳卒中による意識障害に対して数多くの改善例が報告されて』おり、『言語不明瞭、舌の硬化、話ができないなどの症状にも』効果があるとし、その「成分」は『蘇合香、安息香、麝香、氷片、水牛角濃縮粉、沈香、乳香、訶子肉、檀香、丁香、香附子、木香、白朮、朱砂』で、「効能」は、『脳卒中後遺症による意識障害、半身不随、顔面神経麻痺などの治療に』用いる、とあった。

「卒心痛」東洋文庫訳では、割注して、『(心筋梗塞)』とある。先だって亡くなった父の疾患だ。

「時氣《はやりやまひ》」読みは、東洋文庫訳のルビを参考にした。

「月閉」メンスの閉塞や、重い不順。

「客忤《きやくご》」東洋文庫訳では、割注して、『(不意におびえにおそわれて小児が驚癇のような症状を呈するもの)』とある。「忤」は「逆らう・逆の方向に進行する」の意。「客」は、思うに、「本来あるべき心の状態から離れてゆくこと」を意味するか。

「中風・中氣」「烏藥」で既出既注。

「狐狸の病《やまひ》」東洋文庫訳では、割注して、『(狐つきのような精神病)』とある。解離性障害(ヒステリー)を主因とする複数の重い妄想傾向を強く持った精神疾患の症状である。

「本草必讀」「楓」その他で、既出既注。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(15)

 

   ひよろひよろと蜂や水のむ秋の暮 歲 人

 

 秋の暮は普通秋の夕のことになつてゐるが、これは夕方の景色とすると、少しそぐはぬやうな氣がする。暮秋の日向か何かで、もう元氣のなく無つた蜂が、ひよろひよろしながら水をのむところと見るべきであらう。「喪の名殘」といふ俳書が暮秋の句の中に一括して入れてゐるのを見ると、餘計さういふ風に考へられる。

 蜂の水をのむところを見つけた句は、太祇に「腹立てゝ水のむ蜂や手水鉢」といふのがある。太祇一流の働いた句ではあるが、稍〻句格の低い點は如何とも仕方がない。ひよろひよろと水のむ蜂の方が、自然で且あはれが深いのである。

[やぶちゃん注:「喪の名殘」立花北枝が、元禄九(一六九六)年、芭蕉の三回忌に義仲寺で、

 笠提て塚をめくるや村しぐれ

(かささげてつかをめぐるやむらしぐれ)の一句を手向け、去来らと追善俳諧を催し、翌元禄十年に編んだ追善集(上・下で、四季・追加に分ける)。丈艸・其角・支考・去来・正秀・惟然・杉風・許六・風国・木節・浪化・尚白・句空ら、錚錚たるの蕉門俳人群の句を収めている。但し、管見するに、追悼句としてのしみじみとした良い句は殆んど見当たらない。敢えて言えば、丈艸の「香語」とする追悼文がリアルな情景に思いを託して好ましいと私は感じた。国立国会図書館デジタルコレクションの、『加越能古俳書大觀』上編(日置謙校・昭一一(一九三六)年石川県図書館協会刊)の、ここで、当該句が確認出来る(左ページ上段後方。名「歲人」の右上に小さく「南都」と打つ)。

『太祇に「腹立てゝ水のむ蜂や手水鉢」といふのがある』高桑闌更の弟子が編した「新五子稿」に収載する。因みに、この「新五子」とは、「蕪村・太祇・暁臺・闌更・青羅」を指す。]

 

   起もせず手の筋みるや秋の暮 長 久

 

 この句は秋の夕暮で差支無い。ごろりと寐轉んだまゝ自分の手の筋を見る。考へ事があるやうでもある。悲觀してゐるやうでもある。懶さう[やぶちゃん注:「ものうさう」。]でもある。けれども作者はそんなことは何も云はない。たゞ起きもせず掌[やぶちゃん注:「たなごころ」。]を見る男を描き出して、頗る冷然としている。俳諧の非人情的態度の一として見るべきであらう。

 春の暮でもいゝやうな氣もするが、何度も讀返してゐると、やはり秋の暮にふさわしい。ひとり寐轉んで掌を見る男の寂しさが、ひしひしと身に迫るやうに思はれる。

 

     述 懷

   手のしはを撫居る秋の日なたかな 萬 子

 

といふ句も目についた。かういふ自己の身體を見守るやうな心持、いとほしむやうな心持は、秋に起ることが多いやうである。少し理窟を附加へれば、人生の秋に遭遇した者の經驗し易い心持なのかも知れぬ。必ずしもいゝ句といふわけでもないが、心持の上に共通する點があるかと思ふので、ついでに擧げて置くことにする。

 

   秋たつやきのふの雨を今朝の露 從 吾

 

 句としては寧ろ陳腐であらう。古い歌の中にもこんな意味のものがあつたかも知れない。ただ何となく棄てがたいやうな感じがするのは、この句のもとになつてゐる爽涼の氣の爲であらう。

 昨夜雨が降つた。或は夜と限らずに、昨日一日降つた雨でも差支無い。その雨の名殘が草葉の露となつてゐる。かういふありふれた光景も、「秋立つ」といふ自然の推移の上に立つて見ると、今までと違つた感じを與へる。雨の名殘の露といふものにさへ、秋立つ前と後とでは感じの相違があるのである。この句を誦して第一にそれを感ぜぬ人は、俳句を味ふ感覺に於て、何者かを缺いてゐると云はなければならぬ。

 それが

 

     八日の朝

   星達の契のすゑや木々の露 白 良

 

といふ句になると、句の內容に大差は無くても、作者の心持は大分違つて來る。木々の葉にしとゞに置く露を、星合[やぶちゃん注:「ほしあひ」。]の名殘の露と見ることは、一見氣が利いてゐるやうで、實は技巧の範圍に墮ちる。「秋たつや」の句が直に大きな自然の動きに觸れてゐるのに反し、この句は或趣向が主になつてゐる。同日に談ずべからざる所以である。

 

   星合や蚊屋一張に五人寢ル 里 倫

 

 卽事を句にしたものであらう。年に一度星の契るといふ七夕の夜を、一張の蚊帳の中に五人一緖に寢た、といふのである。芭蕉も「嵯峨日記」の中に、一張の蚊帳に五人で寢たら、どうしても眠れないので、夜半過から皆起出して話したことを記し、「去年の夏凡兆が宅に臥たるに、二疊の蚊屋に四國の人ふしたり。おもふこと四[やぶちゃん注:「よつ」。]にして夢も又四くさと書捨たる事どもなど云出して[やぶちゃん注:「いひいだして」。]笑ひぬ」などと云つてゐる。同じ蚊帳に四國の人が寢て、四通りの夢を見るなどは、俳諧らしいおかしみであるが、この句はさういふ趣向があるわけではない。文字に現れた通りの事實を、そのまゝ捉へたに過ぎぬ。

 七夕の夜の卽事といふ以外、格別七夕に關連したところは無いが、かうして一句になつたのを見ると、七夕なるが故に又一種の味を生ずる。單に五人一張の蚊帳に寢るといふ事實も、七夕に配されることによつて、別樣の趣が發揮されるかと思ふ。表面離れたやうで、內面に通ふものがある。俳諧得意のところであらう。

[やぶちゃん注:「嵯峨日記」芭蕉の俳諧日記。一編。宝暦三(一七五三)年刊。元禄四(一六九一)年四月一八日から五月四日の間、京都嵯峨にある向井去来の別荘「落柿舎」に滞在した際に綴ったもので、芭蕉の日記としては唯一のものである。文学作品としての構想のもとに、落柿舎での生活・感想・門人たちとの交渉などを発句・連句・漢詩などを交えながら記す。当該部は「四月廿日」の条。以下に示す。底本は岩波文庫「芭蕉紀行文集 付 嵯峨日記」(中村俊定校注・一九七一年刊)を用いた。

   *

廿日 北嵯峨の祭見むと、羽紅尼(うこうに)來ル。

 去來京より來ル。途中の吟とて語る。

つかみあふ子共(ども)の長(たけ)や麦畠

 落柿舍は昔のあるじの作れるまゝにして、處々頽破ス。中々に作(つくり)みがゝれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とゞまれ。彫(ほりもの)せし梁(うつばり)、 畫(ゑがけ)ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎(むぐら)の下にかくれたる、竹緣の前に柚(ゆず)の木一(ひと)もと、花芳(かんば)しければ、

  柚の花や昔しのばん料理の間(ま)

  ほとゝぎす大竹籔をもる月夜

    尼羽紅

  又や來ん覆盆子(いちご)あからめさがの山

 去來兄の室(しつ)より、菓子・調菜の物など送らる。

 今宵(こよひ)は羽紅夫婦をとゞめて、蚊屋(かや)一はりに上下(かみしも)五人擧(こぞ)伏(ふし)たれば、夜もいねがたうて、夜半過ゟ(すぎより)をのをの[やぶちゃん注:ママ。]起出(おきいで)て、昼の菓子・盃など取出(とりいで)て、暁ちかきまではなし明(あか)ス。去年(こぞ)の夏、凡兆が宅に伏したるに、二疊の蚊帳に四國の人伏たり。「おもふ事よつにして夢もまた四種(くさ)」と、書捨たる事共(ども)など、云出(いひいだ)してわらひぬ。明(あく)れば羽紅・凡兆京に歸る。去來猶とゞまる。

   *

この年の四月二十日は、愛宕山(あたぎやま)大権現の嵯峨祭の日に当たっていた。「羽紅尼」は野沢凡兆の妻「とめ」。この年、剃髪していた。「つかみあふ子共の長や麦畠」中村氏の脚注によれば、「猿蓑」・「去来抄」にも載るが、そこでは、孰れも「游刀」の作としている。俳諧撰集では、芭蕉に限らず、こうした作者の改変操作がしばしば行われている。女流の作家のものには、しばしば、別な男性俳人のものに改竄されるジェンダー・ヘイトがあったように私には思われる。「去來兄の室」去来の長兄で、父を継いで京で医師をしていた向井元端(震軒)の妻「多賀」のこと。「凡兆が宅」中村氏脚注に『当時凡兆は京の「小川さはら(椹)木町上」(京羽二重)に居住』していたとある。「去年(こぞ)の夏、凡兆が宅に伏したるに、二疊の蚊帳に四國の人伏たり」同前で、『去来の「丈草誄」』(じょうそうがるい)『によれば、芭蕉(伊賀上野)・去来(肥前長崎)・丈草(尾張犬山)・凡兆(加賀金沢)をさす』とある。]

2024/06/07

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(14)

 

   蓮の葉のいよいよ靑し花の跡 柳 燕

 

 かういふ句は季題に拘泥して分類すると妙なことになる。蓮といふものは夏になつて居り、花といふ文字も使つてあるから、さし當り夏の部に入れて置くのが便宜のやうでもある。しかし「八重葎」といふ俳書がこれを秋の部に入れたところを見れば、花の咲かなくなつた蓮で、秋の句になるのであらう。蓮の實は秋の季題にあるが、花の跡だから實といふことにすると、いさゝか理窟つぽくなる。季はわかつてゐるに拘らず、分類に面倒な句である。

 花は咲かなくなつたが、蓮の葉は依然靑い色をしてゐる。秋だからと云つて直に葉の衰[やぶちゃん注:「おとろへ」。]といふところに考へ及ぼすのは、自然に參せぬ、槪念の產物である。實際蓮の葉は秋になつて直ぐ破れるものではない。秋ながら靑い蓮葉を描いたのがこの句の眼目であり、「いよいよ靑し」の一語によつて、その靑さが强く浮ぶやうな氣がする。實もそこらにあるかも知れぬが、作者はたゞの靑さに眼を注いでゐるのみである。

 蓮の實とか、敗荷はいかとかいふ季寄本位の觀念を離れて、秋天の下にいよいよ靑い蓮葉を見る。そこに元祿の句の自然なところがある。吾々は句そのものの價値よりも、この點に心を惹かれざるを得ない。

[やぶちゃん注:『「八重葎」』(やへむぐら)『といふ俳書がこれを秋の部に入れた』「八重葎」は正確には「八重葎 花」で、江戸前期の俳人神戸友琴(かんべゆうきん 寛永一〇(一六三三)年~宝永三(一七〇六)年:北村季吟に学び、生地の京都から加賀金沢に移り、和菓子商を営む傍ら、俳諧を教え、加賀俳壇に重きをなした人物。通称は武兵衛。別号に幽琴・山茶花など。編著には他に「白根草」「金沢五吟」「色杉原」などがある)の俳諧撰集。国立国会図書館デジタルコレクションの、『加越能古俳書大觀』上編(日置謙校・昭一一(一九三六)年石川県図書館協会刊)の、ここで、当該句が確認出来る(右ページ下段八行目)。リンク先では、刊行年を不詳とするが、元禄八(一六九五)年刊である。]

 

   緣に出て手をうつ柿の烏かな 宜 律

 

 句意は別に解するまでもない。緣に出て手を打つて、柿に來る烏を追つたといふのである。これを上から眞直に讀下して、柹の烏が緣側で手を打つやうに考へる人は、少くとも俳諧國の民にはあるまいと思ふ。

 柹に烏は相當あり觸れた題材である。柹の烏を追ふといふ趣向も少くない。「柹を守る吝き[やぶちゃん注:「しわき」。]法師が庭に出でてほうほうといひて烏追ひけり」といふ子規居士の歌もあり、漱石氏は又「野分」の一節にこれを用ゐて、道也先生をして「蛸寺の和尙が烏を追つてゐるんです。每日がらんがらん云はして、烏計り追つてゐる。あゝいふ生涯も閑靜でいゝな」と評せしめてゐる。柹の烏を追ふ方法もいろいろあるらしい。この三種の中では、緣へ出て手を打つのが最も消極的のやうである。

[やぶちゃん注:「柹を守る吝き法師が庭に出でてほうほうといひて烏追ひけり」子規の明治三二(一八九九)年十月一日の『短歌第四會』の一首。

   *

    柹

 柹を守る吝き法師が庭に出でてゝほうほうといひて烏追ひけり

   *

である。国立国会図書館デジタルコレクションの『子規全集』第六巻(和歌・大正一五(一九二六)年アルス刊)のここで視認出来る。

『漱石氏は又「野分」の一節にこれを用ゐて、……』「野分」(のわき:明治四〇(一九〇七)年一月『ホトトギス』に発表。漱石が教職を廃し、専従作家となる前の最後の小説である)の「六」章の掉尾。国立国会図書館デジタルコレクションの漱石全集刊行会の昭和一一(一九三六)年刊の『漱石全集』第三巻のここ(当該部)で、正字正仮名で視認出来る。]

 

   干稻の間もなく暮る日影かな 盛 弘

 

 干稻に日が當つてゐる。もう間もなく暮れる心細い日影である。干稻の日影も寧ろ平凡な趣向であるが、「間もなく暮る」の一語によつて、その光景を明瞭ならしめてゐる。

 稻架[やぶちゃん注:二字で「はさ」と読む。]にかけた稻か、田にひろげ干す稻か、それはわからぬ。この句の主眼はさういふ道具立の上でなく、今にも暮れようとする秋の日ざしが、僅に干稻の上に殘つてゐる、その感じに存するのであらう。

 

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 安息香

 

Ansokukou

 

あんそくかう

 

安息香

 

アン スエ ヒヤン

 

本綱安息香生南海波斯國樹中脂也樹長二三丈皮黃

黑色葉有四角經冬不凋二月開花黃色花心微碧不結

實刻其樹皮其脂如餳六七月堅凝乃取之燒之通神辟

衆惡燒之能集䑕者爲眞【大明一統志云樹如若楝大而直葉似半桃而長木心有脂】

[やぶちゃん字注:この「若」は実は「苦」の同型異字の異体字である。本文では紛らわしいだけなので、訓読では「苦」に代えた。また「半桃」は「羊桃」の誤字であるので、訓読では訂正した。

五雜組云安息香能聚䑕其烟白色如縷直上不散又狼

烟亦直上也

氣味【辛苦】 治邪鬼魍魎鬼胎産後血運

△按安息香今出於莫臥爾咬𠺕吧蓋試燒之而不能䑕

 集未知謬說乎不𫉬眞者而然乎

 

   *

 

あんそくかう

 

安息香

 

アン スエ ヒヤン

 

「本綱」に曰はく、『安息香は、南海の波斯《パルシヤ》國に生ず。樹の中の脂《やに》なり。樹の長さ、二、三丈。皮、黃黑色。葉、四角《よつかど》有り。冬を經て≪も≫、凋まず。二月に、花を開き、黃色≪なり≫。花の心、微《わづかに》碧《みどり》にして、實を結ばず。其の樹の皮を刻《きざ》≪めば≫、其の脂《やに》、「餳(ぢわうせん)」のごとし。六、七月、堅く凝りて、乃《のち》、之れを取り、之れを燒≪けば≫、神《しん》に通ず。≪→じて、≫衆惡を辟《さ》く。之れを燒きて、能《よく》、䑕《ねずみ》を集むる者、眞と爲《な》す【「大明一統志」に云はく、『樹、苦き楝(あふち)のごとくして、大にして直なり。葉、「羊桃《やうたう》」に似て、長し。木の心《しん》、脂、有り。』≪と≫】。』≪と≫。

「五雜組」に云はく、『安息香、能く、䑕を聚む。其の烟《けぶ》り、白色≪にて≫、縷《ながきいと》のごとく、直つに上《のぼり》て、散らず。又、狼烟《のろし》も亦、直ちに上るなり。』≪と≫。

氣味【辛、苦。】 邪鬼・魍魎《まうりやう》・鬼胎・産後の血運《ちのめぐり》を治す。

△按ずるに、安息香、今、莫臥爾《モウル》・咬𠺕吧《ヂヤガタラ》より出づ。蓋し、試みるに、之れを燒きて≪も≫、能く、䑕、集まらざること、未だ知らず、謬說《びやうせつ》か、眞なる者を𫉬《え》ずして、然(しか)るか≪を≫。

 

[やぶちゃん注:「安息香」は、

双子葉植物綱ツツジ目エゴノキ科エゴノキ属アンソクコウノキ Styrax benzoin 、又は、その他の同属の植物が産出する樹脂

を指す。ウィキの「安息香」によれば、『名の由来にはいくつかの説がある。一説にはパルティア(漢名が安息)』(紀元前二四七年から紀元後二二四年まで存在した古代イランの王朝)『で用いられていた香りと』、『安息香の香りが似ていたのでこの名がついたという。また』、「本草綱目」では、後述する「安息香」の冒頭の「釋名」で時珍が、『諸邪を安息する効能があることから名づけられたとの記載がある。また、チンキの蒸気に呼吸器の粘膜を刺激して痰の排出を促進する作用があることから安息香と名づけられたという説もある』。『ベンゾインの名はガム・ベンジャミンと呼ばれていたものが訛ったものと考えられている。また』、『このベンジャミンは人名由来ではなく』、『ジャワから来た』「香」を『意味するアラビア語のルバーン・ジャーウィー』(「ジャワの乳香」の意)『が訛ったものという説がある』。『安息香の主な産地はタイ、ラオス、ベトナムの高原地方を中心とするインドシナ半島とインドネシア』の『スマトラ島である』。『インドシナ半島とインドネシアでは産出する樹木の種に違いがあり、前者はシャム安息香( S. tonkinensis )、後者はスマトラ安息香(アンソクコウノキ)と区別されている』。『産出量はスマトラ安息香の方がずっと多いが、香料としての品質はシャム安息香の方がすぐれている。これは安息香の香気に主要な寄与をしているバニリン』(vanillin。中国語「香草醛」。バニラの香りの主要な成分となっている物質)『の含有量がシャム安息香の方がずっと高いためである』。『安息香の主要な成分は芳香族カルボン酸とそのエステルである。シャム安息香では安息香酸とそのエステルが主成分である。バニリンは』三『%程度含まれる。スマトラ安息香ではケイ皮酸とそのエステルが主成分で、バニリンは』一『%程度と少ない』。『安息香は香料として使用される』『ほか、含まれる安息香酸の静菌作用により』、『食品添加物の保存料として使用されていたとの書籍上の記載もある』。但し、『食品添加物としての使用については、香料としての使用実績はあっても保存料としての使用実績は無いのではないかと疑問視する研究者もいる』とある。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「安息香」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-56b]から始まる「集解」以下の部分引用である。

「安息香は、南海の波斯《パルシヤ》」(現在のイラン)「國に生ず」については、東洋文庫では、詳しい後注があって、『『酉陽雑俎』3(平凡社東洋文庫、今村与志雄訳)「広動植之三 安息香樹」の注で、今村氏は「中国では、唐、宋の時代、古代イラン方面で産出した一種の香料と、マライ半島を原産地とする小灌木 Styrax benzoir(ママ。斜体でないのもママ。種小名を転写し損なっている。正しくは「benzoin」である。)『からとれる香料(benenjoins Fr., benzoin, in Eng.)とを、同じ安息香の呼称で包括していたらしい」と述べておられる。また、同書「竜脳香樹」』(「安息香樹」の直前にある)『の注で今村氏は、『酉陽雑俎』に竜脳香樹の産地としてあげられている波斯国は、一般にいうイランのペルシアではなく、マライの波斯(ボースー)』(ルビ。但し、同書(一九八一年刊)は私も所持しているが、そこのルビは当て字「波」から容易に推定される通り、半濁音の「ポ」ではなく、濁音の「ボ」であり、ちゃんと『ボースー』となっているのである。これも転写ミスである。二箇所も誤るのは、礼儀としても、学術的にも、最早、最低である。当該部の担当者は竹島淳夫氏である。)『と解釈すべきである、とされている。すれば、ここにいう南海の波斯もマライの波斯と考えてよいということになろうか。』と記してある。上記の通り、杜撰の極みなので、より正確に今村先生の注を原本から確認しよう。

   《引用開始》

波斯国 「波斯」は、ふつう、イランをさすPersiaの転写とされているが、『酉陽雑俎』のこの例は、マライの波斯(ポースー)と解釈すべきである。一「忠志」一七話[やぶちゃん注:「一七」は原本では半角。『一「忠志」一七話』の「忠志」は同「酉陽雑俎」第一巻の篇名。]、交趾から龍脳を献上した話をしるすが、そこでも波斯では、老龍脳樹と呼ぶとしるし、交趾から距離的に近いことが示されている。B・ラウファーが、『シノ・イラニカ』で指摘しているとおり、唐の樊綽(はんしゃく)の『蛮書』に、そのマライの波斯は、驃(ビルマ)と境界を接しているある地域として記載されている。なお、F・ヒルト、W・W・ロックフィル『趙汝适』で、波斯国でも産するというのを、イラン――ペルシアの船舶で輸入される意味と解釈しているが、B・ラウファーは、その説を悪しき概括として批判した。

 なお、『蛮書』一〇には、「驃国は……波斯および婆羅門と隣接する」とある。また、同書六には「永昌城は、古の哀牢の地である。……さらに、南に、婆羅門、波斯、闍婆、勃泥、崑崙数種外道がある」という。闍婆は、いまのジャヴァ、勃泥はボルネオ、いまのインドネシアのカリマンタンである。向達の『蛮書校注』では、同書一〇に「大秦波羅門国」(向達は、大波羅門国とすべきで、秦はあるいは誤衍(えん)であろうという)、「小婆羅門国」とあるのをとりあげ、小婆羅門国は、いまのインド東部、アッサム南部一帯をさし、アッサム北部以西からガンジス河流域までが大婆羅門国に属するだろうと推定している。だとすれば、波斯は、マライ半島のある地域か、あるいは、ひろくいって南海のどこかの地域をさす[やぶちゃん注:下線太字は私が附した。]ことになる。向達は、フランスの東洋学者G・フェランの「南海の波斯」を引き、いわゆる「南海の波斯」はビルマのバセインBassein(イワラジ川下流流域の西)であるか、スマトラ東北岸のパセPasè,あるいはボルネオ、ジャヴァ、バンカなどの諸島のパシルPasirでもあり得るというその説を紹介している。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

この下線太字部が「波斯」の正しい比定地となると考えてよい。

「餳(ぢわうせん)」この漢字は音「トウ・ドウ・セイ」、中国語では、「飴・水あめ」を意味する。則ち、この「ぢわうせん」は和訓であり、ウィキの「地黄煎」によれば、『地黄(アカヤジオウ)』(キク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科アカヤジオウ属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa )『の根を煎じた生薬、およびそれを添加して練った日本の飴である』とし、『江戸』『では』、「下り飴」・「くだり飴(くだりあめ)」とも称した』。『日本では膠飴(こうい)と表記し』、『「じおうせん」「じょうせん」と読む場合もある』とあった。但し、『地黄(アカヤジオウ)の地下茎に補血・強壮・止血の作用があることは、古く』「神農本草經」に『記載されて知られていた。地黄を日本では別名で「佐保姫」と、春の女神の名で呼ぶ』。『平安時代』、『宮内省典薬寮は、「供御薬」という宮中行事により、毎年旧暦』十一月一日に、『地黄煎を調達していた』。『このことにより』、『地黄煎の栽培・販売について、その後の供御人』(くごにん/くごんちゅ:中世に於いて、朝廷に属し、天皇・皇族等に山海の特産物などの食料や、各種手工芸品などを貢納した集団。後に貢納する物品の独占販売権を取得し、座に属する商人と同様の活動を行った。「禁裏供御人」とも言う)『の身分が形成された』。『典薬寮を本所とした、地黄煎の販売特権をもつ供御人による「地黄煎商売座」という座を形成、この座による販売人を「地黄煎売」(じおうせんうり)という』。『産地は摂津国、和泉国、山城国葛野郡であった』。『中世』『期の「地黄煎売」の姿は、番匠(大工)がかぶる竹皮製の粗末な笠である「番匠笠」、小型の桶を棒に吊るし振売のスタイルであった』。『室町時代』の明応三(一四九四)年に『編纂された』「三十二番職人歌合」には、『糖粽(とうそう)』(糖粽(あめちまき)。「飴粽」「餳粽」「粭粽」(あめちまき/あめぢまき)とも書く。ウィキの「糖粽売によれば、「糖粽」の定義は三説あり、①『飴色をした粽餅(茅巻餅)』、②『粽餅(茅巻餅)の表面に飴を塗布したもの』、③『固飴を茅萱(チガヤ)で巻いたもの』とあった)『を売る「糖粽売」とともに「地黄煎売」として紹介されている』。『このころ振売を行っていた「地黄煎売」は、「飴売」とみなされていた』。『江戸時代』『にも、飴としての「地黄煎」は製造・販売されており』元禄五(一六九二)年に『に井原西鶴が発表した』「世間胸算用」にも、『夜泣きに効くという趣旨で「摺粉に地黄煎入れて焼かへし」というフレーズで登場する』寛文元(一六六一)年の『加賀藩の資料によれば、石川県金沢市泉野町のあたりの旧町名は「地黄煎町」であった』。元禄八年に『に発行された』「本朝食鑑」には、『膠煎(じょうせん)として紹介され、これを俗に「地黄煎」という、としている』。正徳(しょうとく)二(一七一二)年に発行された「和漢三才圖會」に『よれば、膠飴(じょうせん)と餳(あめ)は湿飴(水飴)とは異なり、前者は琥珀色、後者は白色であり、煮詰めて練り固めて製造する膠飴のなかでも、切ったもの(切り飴)を「地黄煎」という、と説明している』(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の私と同じ原本のこちらで視認出来る。「第百五」の「造釀類」の「飴」の項で、標題下方の最後に『膠飴』『【俗云地黃煎】』と出る)とある。

「大明一統志」明の全域と朝貢国について記述した地理書。全九十巻。李賢らの奉勅撰。明代の地理書には先の一四五六年に陳循らが編纂した「寰宇(かんう)通志」があったが、天順帝は命じて重編させ、一四六一年に本書が完成した。但し、記載は、必ずしも正確でなく、誤りも多い。東洋文庫訳では、ここに割注して、『(巻九十本文安南土産、安息香)とある。』とある。「維基文庫」の同巻を見ると、「安南」の項の、「土产」(=「土產」)の条に『安息香【樹脂其形色类核桃□』(表示不能字或いは判読不能字)『不宜于烧然能髮衆香故人取以和香】」、及び、『安息香【樹如苦練大而直叶類羊桃而長中心有脂作香】』(簡体字を繁体字に代えた)とあった。

「楝(あふち)」ムクロジ(無患子)目センダン(栴檀)科センダン属センダン Melia azedarach の別名「オウチ」。

「羊桃《やうたう》」東洋文庫訳では、割注して、『(ごれんし)』とする。カタバミ目カタバミ科ゴレンシ属ゴレンシ Averrhoa carambola 。「五斂子」。ウィキの当該同種を指す「スターフルーツ」を見られたい。

「五雜組」冒頭の「柏」で既出既注。以上は「卷十」の「物部二」の一節。「維基文庫」の電子化されたここで視認出来る。

「血運《ちのめぐり》」東洋文庫訳のルビを、そのまま用いた。

「莫臥爾《モウル》」「モール(ポルトガル語:mogol)インドにあったモグール(ムガル)帝国。

「咬𠺕吧《ヂヤガタラ》」何度も出ているが、再掲すると、インドネシアの首都ジャカルタの古称。また、近世、ジャワ島から日本に渡来した品物に冠したところから、ジャワ島のことをも指す。

「蓋し、試みるに、之れを燒きて≪も≫、能く、䑕、集まらざること、未だ知らず、謬說《びやうせつ》か、眞なる者を𫉬《え》ずして、然(しか)るか≪を≫」良安先生の、こういう事実確認、いいね!]

2024/06/06

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(13)

 

   月うすし河獺や取ル鮭の魚 蘆 錆

 

 薄月夜である。はつきりとも見えぬ水の隈くまに、何やらざぶんといふ物音がする。獺が鮭でも取るのであらう、といふ句意らしい。

 獺が魚を取るのに不思議は無いと云へばそれまでのやうであるが、この句は慥に妖氣を含んでゐる。水面がはつきり見え渡らぬのも、獺のふるまひにふさはしい。はつきり獺の姿を現さず、ざぶんといふ水音だけ聞かせて――それも句の裏になつてゐる――想像に委したのも妖氣を助けてゐる。但さういふ細工を意識して捏上げた句でなしに、作者の實感から得來つたものであることは云ふまでもない。

[やぶちゃん注:「蘆錆」「ろしやう」か「ろせい」か、確認出来ない。

「妖氣」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を見られたいが、本邦の民俗社会では、古くから狐狸に次いで、人を騙す妖獣として食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon は認識されていた事実がある。しかし……その種を近代、日本人は絶滅させてしまった。その方が、遙かに怪奇にして怨みの妖気が漂うと言うべきだ。]

 

   月代や煮仕舞たる馬の菽(まめ) 廣 房

 

 月代は「月白」と書いたものもある。月の將に出でむとするに當つて、東の空が先づ薄明るくなる、それを云ふのである。中七字は「煮えしまひたる」と讀むのであらう。

 秋の夜長に馬にやるべき豆を煮る。ぐつぐついゝ工合に煮えた頃、ほのかに東に月代が上つて來た。やゝ遲い月の出汐になつたのである。一讀しづかな農家の庭に立つ想がある。

 

   そよ風に早稻の香うれしかゝり船 松 雨

 

 平野の中を流るゝ江河のほとりであらうか、岸近く繫いだ船に、爽な早稻田の香が流れて來る。あるかなきかのそよ風が稻の香を漂はせるのである。

 昧爽[やぶちゃん注:「まいさう」。]か、夕方か、乃至は晝間か、さういふ時間はこの句に現れてゐない。船中に在る作者は、岸近く繫いだことによつて、野を渡る微風を感じ、そこに流るゝ稻の香をなつかしんだものであらう。「うれし」の一語に野をなつかしむ心持が窺はれる。

[やぶちゃん注:「昧爽」明け方のほの暗い時を指す語。]

 

   芭蕉葉を尺取むしの步みかな 末 路

 

 廣い芭蕉の葉の上を、小さな尺蠖むしが步きつゝある。作者はこの事實に興味を覺えたので、外に何も隱れた意味はない。芭蕉葉の寸法を測るのだなどと解するのは、この句に在つては曲解である。

 再版の「獺祭書屋俳話」の表紙には、芭蕉の葉と小さい蝸牛の畫がかいてあつた。芭蕉の葉の蝸牛は直に畫になるが、尺蠖ではさうは行かない。が、句としては一の興味ある光景になつている。所謂配合論者が考へて而して成るやうなものではない。

[やぶちゃん注:「末路」幾ら何でも「まつろ」ではあるまい。「ばつろ」と読んでおく。

「尺取むし」「尺蠖むし」昆虫綱鱗翅(チョウ)目シャクガ(尺蛾)上科シャクガ科 Geometridae に属する蛾類の幼虫を総称する語。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚇蠖(シャクトリムシ)」を見られたい。

『再版の「獺祭書屋俳話」の表紙には、芭蕉の葉と小さい蝸牛の畫がかいてあつた』辛うじて、「古書 古群洞」公式サイトのこちらの画像で確認出来る。左下に小さく蝸牛が視認出来る。]

 

   名月や背戶から客の二三人 枝 動

 

 名月の晚に背戶から客が二、三人來た、といふだけである。特に「背戶から」といふ以上、背戶以外から來た客もあることになるかも知れぬが、この句はそれには拘泥しない。たゞ「背戶から客の二三人」とのみ云ひ放つてゐる。

 子規居士が「俳句問答」で、俳句と理窟とに就て辨じた時、「名月や裏門からも人の來る」といふ句を例に引いて、「も」の字を難じたことがある。「裏門からも」といふ裏には「表門からも」といふことが含まれてゐる、そこに知識乃至理窟の働きがある、單に「名月の夜人の裏門より來る」といふ一場の光景を詠むべきである、といふのである。「背戶から」の句は偶然その一方のみを敍した實例になつてゐる。

[やぶちゃん注:「俳句問答」の当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの「俳諧大要・俳人蕪村・俳句問答・俳句の四年間」(正岡子規著・高濱淸(虚子)編・大正2(一九一三)年籾山書店刊)のここで当該部が視認出来る。この「も」に対する批判は非常に共感出来る。この「も」でこの句は死んでいる。所謂――「てにをは」の命――である。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 麒麟竭

 

Kirinketu

 

きりんけつ   血竭

麒麟竭   【此物如乾血

         曰麒麟者隱

         語也】

 

キイリンキツ

 

本綱麒麟血今南番《✕→蕃》諸國及廣州皆出之木髙數尺婆娑

可愛葉似櫻桃而有三角其脂液從木中流出滴下如膠

飴狀久而堅凝乃成竭赤作血色或於樹下堀《✕→掘》坎斧伐其

樹脂流於坎旬日取之

 試之以透指甲者爲眞又以火燒之有赤汁涌出久而

 灰不變本色者爲眞也凡使先研作粉篩過入丸散用

 若同衆藥擣則化作塵飛也

氣味【甘鹹】 治心腹卒痛金瘡血出破積血止痛生肉

 和血之聖藥也乳香没藥雖主血病而兼入氣分此則

 專於血分者也

△按麒麟血柬埔寨咬𠺕吧暹羅皆渡之有數品以籜包

 之如唐粽故名粽手爲上爲粉正赤者良今試之所謂

 透指甲者亦燒之灰赤不變本色者未見之

 

   *

 

きりんけつ   血竭《けつけつ》

麒麟竭   【此の物、乾ける血のごとし。

         「麒麟」と曰ふは、隱語なり。】

 

キイリンキツ

 

「本綱」に曰はく、『麒麟血、今、南蕃の諸國、及び、廣州、皆、之れを出づ。木の髙さ、數尺、婆娑《ばさ》≪として≫、愛すべし。葉、櫻桃(ゆすら)に似て、三角《みつかど》、有り。其の脂-液(しる)、木≪の≫中《うち》より流れ出で、滴り下《くだり》、膠飴(ぢわうせん)の狀《かたち》のごとし。久しくして、堅く凝《こ》り、乃《のち》、「竭《けつ》」と成る。赤くして、血の色を作《な》す。或いは、樹の下に於いて坎《あな》を掘りて、斧にて、其の樹を伐り、脂、坎より、流し、旬日にして、之れを取る。』≪と≫。

『之れ、試みるに、指甲(ゆびのつめ)に透る者を以つて、眞と爲《な》す。又、火を以つて、之れを燒くに、赤≪き≫汁、涌(わ)き出づること有り、久しくして、灰、本《もと》≪の≫色に變ぜざる者、眞と爲すなり。凡そ、使ふに、先づ、研《けん》して、粉に作《な》し、篩《ふる》ひ過《とほ》し、丸《ぐわん》・散《さん》に入れ、用ふ。若《も》し、衆藥と同≪じく≫擣《つく》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、化して、塵《ちり》と作《なり》て、飛ぶなり。』≪と≫。

『氣味【甘、鹹。】 心腹≪の≫卒痛《そつつう》・金瘡、血≪の≫出づるを、治す。積血《しやくけつ》を破り、痛を止め、肉を生《しやうじ》≪させしむ≫。血を和《わ》するの聖藥なり。乳香・没藥、血病《けつびやう》を主《つかさど》ると雖も、兼ねて、氣≪の≫分に入る≪とも≫、此れ、則ち、血≪の≫分に專《もつぱら》なる者なり。

△按ずるに、「麒麟血」は、柬埔寨(カボヂヤ)・咬𠺕吧(ヂヤガタラ)・暹羅(シヤム)、皆、之れを渡す。數品《すひん》有り。籜(たけのかは)を以つて、之れを包み、唐《もろこし》の粽(ちまき)のごとくなる故《ゆゑ》、「粽手《ちまきで》」と名づくるを、上と爲す。粉と爲して正赤なる者、良し。今、之れを試みるに、所謂《いはゆ》る、「指-甲(≪ゆびの≫つめ)に透《すきとほ》る者」≪も≫、亦た、「之れを燒≪きたる≫灰≪の≫、赤く、本《もと》≪の≫色≪と≫變ぜざる者、未だ之れを見ず。

 

[やぶちゃん注:「麒麟竭」「麒麟血」とは、熱帯地方に産する、「龍血樹」と呼ぶ、

単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科トウ連トウ亜連トウ属キリンケツヤシ(中文学名:麒麟竭)Calamus draco 及び、その近縁種の幹などから採取される紅色の樹脂

を狭義には指す。止血剤・着色剤・防食剤に用いられる。「維基百科」の「血竭」の画像がその鮮烈な色をよく伝える。英文ウィキの「Calamus dracoには、Calamus draco Willd. のシノニムとして、

Calamus draconis Oken

Daemonorops draco (Willd.) Blume

Daemonorops rubra (Reinw. ex Blume) Mart.

Palmijuncus draco (Willd.) Kuntze

を掲げ、以下、簡潔に、『 Calamus draco はヤシ科Arecaceaeのアジア産の蔓性の籐(とう)植物ラタン(Rattan)の一種で、原産地はタイ半島からマレーシア西部。「龍の血」として知られる赤色の樹脂の原料で、薬用色素として使用される』。『Calamus draco は、茎が房状に集まって、十五メートルまで伸びる茎(一般の「籐」に相当する)を形成し、鞘の直径は三センチメートルに達する。葉身はスィアレイト(cirrate:巻髭(まきひげ)。但し、籐の葉では先端が硬い鉤爪状に装備している)で、葉鞘から生じる。葉鞘は明るい緑色で、若い個体はチョコレート色の被毛を持つ。葉柄(最大三十センチメートル、長さ六ミリメートルの短い側刺群を装備する)を含めると、長さは二・五メートルに達する。スィアレイトの総体であるスィーラス(cirrus)は約一メートルに達する。約 二十枚の小葉が、複葉の主茎の両側に規則的に並んでいる。成熟した果実は、多かれ少なかれ、卵形で、二・八~二センチメートルで、十六列の垂直な鱗片葉で覆われるが、時に「龍の血」で、ひどく覆われている場合がある』といった解説がある。学名のグーグル画像をリンクさせておく。

 さて、日本語版のウィキでは「竜血」が該当するが、そこでは、細述されているものの、あらゆる情報をテンコ盛りし過ぎて、私のダラダラ注同様に迂遠な解説になってしまっている。まあ、しかし、外来の奇品にして稀品であり、「龍血」と呼ばれて珍重された、上記の基原とされるCalamus draco とは全く異なるものが、本邦に知られ、渡来もしたであろうからして、これも、全文を引かざるを得ない。『竜血(りゅうけつ)とは、古来洋の東西を問わず、貴重品として取り引きされ、薬用やさまざまな用途に用いられてきた、赤みを帯びた固形物質のこと』を指すが、『とはいえ、実際にはさまざまな名称あり、それらが複数の物質を指すために使われてきている。この事情がやや錯綜しており、項目をいくつかに分割するのも難しい。 複数の物質とは、おもに以下の通り』として、四つの全くことなる基原植物、及び、植物ではない物質が掲げられてある(そこは引用二重括弧を外した)。

1.リュウゼツラン科ドラセナ属に属するいわゆる“竜血樹”、すなわち Dracaena cinnabari Dracaena draco などから採れる樹脂のこと。

2.東南アジア系の“竜血樹”、Dracaena cochinchinensisDracaena cambodiana などからとれる樹脂のこと。

3.ボルネオ島、スマトラ島などで採れる籐の一種、ヤシ科ヒメトウ属(キリンケツ属)・キリンケツヤシ( Daemonorops draco ) の果実を加工したもの。現地名は jernang(ジュルナン)。

4.鉱物の一種・辰砂、英名 cinnabar。

以下、『呼称については下の解説の中でふれることとするが、呼称に言及するときにも呼称がないと不便なので、ある種のメタ呼称として“竜血”の語を用いることとする』と前置きして、「西洋における“竜血”」の大項目で、『紅海の入り口の東、インド洋の西端に浮かぶソコトラ島は、遅くともプトレマイオスの時代には、古代世界の重要な貿易中継地であった。島は乾燥した岩山ばかりで農業はほとんど成り立たなかったが、唯一とも言える特産品であったのが、世界中でも同島にしか育たないベニイロリュウケツジュ( Dracaena cinnabari )から採れる竜血であった』。紀元一『世紀のペリプルス』の「エリュトゥラー海案内記」にも、『同島の特産品として記載が見える』。十五『世紀には、大西洋・カナリア諸島に赴きリュウケツジュ( Dracaena draco )の竜血を入手した者たちがいたという』。『これら』二『種の“竜血樹”はアフリカをはさんで東と西に遠く離れて分布しているが、同じドラセナ属に属する近縁種である。ほかにも類似の種が各地に分布している』。『こうした“竜血樹”の樹皮を傷つけると』、『滲みだしてくる』が、その『血のような色をした樹脂を集め、乾燥させてドロップ状にしたものがいわゆる“竜血”であり、アラビア、インド、ギリシアなどの商人の手によって各地に流通してきた』。『“竜血”の呼称としては、「竜の血」系の名(ラテン語: sanguis draconis、英語: dragon's blood)と「シナバル」系の名(古代ギリシア語』。『ラテン語: cinnabaris、英語: cinnabar)とがあったが、どちらの系統の名も、“竜血樹の竜血”以外に辰砂をも意味したという点には注意が必要である。古くは両者は同じ物質として扱われ、たびたび混同されたという』。『なお、現在の英語では“竜血樹の竜血”は dragon's blood、“辰砂”は cinnabar と呼ぶのが一般的である』。『古代ローマ時代から鎮痛効果や止血のための薬品としても使用されたほか、中世期には染料やラッカーとして用いられ、『赤い金』ともてはやされた時代もあったという』。『傷の手当てなどに外用することもあり、また内服でも用いた』。『ペダニウス・ディオスコリデスの著作にも薬用品としての記述が見られ』、『ソコトラ島』(イエメンのソコトラ県に属するインド洋上の島。ここ。グーグル・マップ・データ)『の地元民は一種の万能薬として竜血を使用するという』。『家具、バイオリンなどの製作において、仕上げ用のワニスに赤みを加える目的で用いられることがあ』り、『化学染料以前の時代には赤インクの原料として使用された』。『その他』、『薫香に練り込んだり』、『ボディオイルなどに配合されることがあ』り、『中世には錬金術や魔術の用材としても用いられたという』。以下、「東洋における“竜血”」の大項目。『中国においては「血竭(xuějié; けっけつ)」「麒麟竭(qílínjié; きりんけつ)」などと呼ばれる“竜血”が古くから知られ、漢方にも用いられてきた』。『これらの中にソコトラ島産の“竜血”が含まれていたかどうかは不明だが、「』一九七二『年に中国国内で“竜血樹”が発見されるまでは、血竭の需要は東南アジアとアフリカからの輸入に頼っていた。アフリカではリュウゼツラン科植物の幹から血竭をとり』、二千『年以上の歴史がある」とする資料がネット上には見られる』。『現在は、Dracaena cochinchinensis(剣葉竜血樹; Cochinchina はベトナム南部を指す旧称)とDracaena cambodiana(海南竜血樹)の』二『種がおもに利用され、東南アジアや中国南部で血竭が生産されている』。『なお』、『上の資料とやや矛盾するようだが』(★☞)、「本草綱目」には『「騏驎竭」として記載があり、さまざまな資料を引いておおむね「松脂のような樹脂の流れてかたまったもの」としていて、これは“竜血樹の竜血”について解説していると見て間違いがないが、蘇頌』の「本草圖經」(十一世紀成立)『からの引用として』、『今南蕃諸國及廣州皆出之』と『する。しかし』、『同書にはまた』、『別資料からの引用として「此物出於西胡」ともある』(★☜)(★☞)『いずれにしても』、『現在の中国で漢方薬、民間薬、その他に利用される“麒麟竭”は、ドラセナ属とは全く別種の植物・キリンケツヤシ Daemonorops draco の実から精製したものが最も多い。 ちなみに、ドラセナ属由来のものとキリンケツヤシ由来のものとを混同しているような様子は全く見られないのだが、とはいえ』、『両者を区別して用いることはあまり行われていないようである』(★☜)とある。この部分は、本「和漢三才圖會」の「麒麟竭」を理解する上で重要な示唆と言え、また、以下の『「到福」の紅紙』と題する一節も重要である。特異的に太字にした)。「本草綱目」に『よれば』、『“騏驎竭”の主治は「心腹卒痛,金瘡血出,破積血,止痛生肉,去五臟邪気」。“活血の聖薬”であるという。 おもな方剤には七厘散(しちりんさん)などがある』。『また』、『民間薬としては創傷、打撲、皮膚癬などに外用することもある』。『その他、西洋の竜血と同様に塗料や着色の用途にも用いられる。春節や慶時に使う紅紙(hóngzhǐ; ホンチー)の着色にも用いるという』とあった。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「騏驎竭」の独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-54a]から始まる「集解」以下の部分引用だが、同サイトでは珍しく、表示不能の漢字がごっそりある。但し、これは、そこの影印本画像を見れば、イッパツで判る通り、殆んどが「紫『緋』樹」の「緋」の異体字(崩し字の一種)に過ぎない。(つくり)の部分が「非」の「グリフウィキ」のこれに酷似しているから、間違いない。

「廣州」現在の広西省・広東省。

「婆娑」原義は「舞う人の衣服の袖が、しどけなく、美しく翻るさま。」で、他に「影などが乱れ動くさま」「樹竹の葉などに雨や風があたってガサガサと音がするさま」を言う。ハイブリッドにとってよかろう。英文サイト“Heaven & Nature Store”の“Dragon’s Blood   Calamus draco の同種の全景の樹形を見ると、実にしっくりくる姿であると、私は思う。

「櫻桃(ゆすら)」これは、時珍の記載であるから、

双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属カラミザクラ(唐実桜) Cerasus pseudo-cerasus の中文名

である。当該ウィキによれば、『名の通り、中国原産であり、実は食用になる。別名としてシナミザクラ』『(支那実桜)』、『シナノミザクラ』、『中国桜桃などの名前を持つ。おしべが長い。中国では櫻桃』(☜)『と呼ばれる』。『日本へは明治時代に中国から渡来した』。『実は食用になることが知られている。大きさは』一。五センチメートル『程度であり、始めは緑色で徐々に黄色を経て』、『赤く熟する。セイヨウミザクラ』(サクラ属サクラ亜属セイヨウミザクラ Prunus avium )『よりも小粒のサクランボで美味である』が、『現在、食用種としてはセイヨウミザクラが使われることが多い。佐藤錦などの種もセイヨウミザクラを改良したものである。これはカラミザクラは』、『若干』、『酸味が強いためである』とあった。しかし、実は、食用果実として「さくらんぼ」(同系統の原産地はトルコとされる)を日本人が食すようになったのは、

明治元年、プロイセンの貿易商ライノルト・ガルトネル(Gaertner, R.)が渡島国七重村(現在の北海道七飯町)に農場を開き、果樹栽培をはじめ、本格的西洋農業を試みた折、日本に初めて「さくらんぼ」を導入してから

であって、

江戸時代の日本人は、所謂、現行の「さくらんぼ」を食べたことはない

のである。されば、良安は、この「本草綱目」中の『櫻桃』を、別名でこの名で示される、中国北西部・朝鮮半島・モンゴル高原原産で、本邦には江戸初期に渡来し、主に庭木として栽培されていた、果実が薄甘く、酸味が少ない、今の「さくらんぼ」に似た味がするところの、

サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa

と認識していたことに注意しなければならないのである。

「膠飴(ぢわうせん)」東洋文庫後注に、『地黄(薬草)を煎じた汁を加えて作った飴。地黄煎飴。水飴状で杉箸につけて売った』とある。この「地黄」は、キク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科 アカヤジオウ属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa の根を陰干ししたもの。同種は、日本には奈良時代に薬用目的で持ち込まれた。古名を「サオヒメ」といい、中国原産で淡紅紫色の美しい花をつける。内服薬としては補血・強壮・止血の作用が期待され、外用では腫れものの熱をとり、肉芽形成作用を持つとする。

「竭《けつ》」この字には「枯れる」の意がある。水分が失われて、枯れひねこびたような個体の塊となることを言っている。

「指甲(ゆびのつめ)に透る者を以つて、眞と爲す」この真贋の識別法は面白い。指の爪は言うまでもないが、皮膚が変化して硬くなったものである。されば、麒麟竭の真正品は人間の皮膚に容易に浸透するのだ。肌に附けてためしたのでは、肌に、このドギつい紅色が附いて落ちなくなるから、爪に僅かに附け、直ぐに拭き取っても、浸潤して消えない。されば、直ぐに爪の表面を削ればいいのである。

「心腹≪の≫卒痛《そつつう》」東洋文庫訳では、「卒痛」にルビして、『とつぜんのいたみ』とする。

『今、之れを試みるに、所謂《いはゆ》る、「指-甲(≪ゆびの≫つめ)に透《すきとほ》る者」≪も≫、亦た、「之れを燒≪きたる≫灰≪の≫、赤く、本《もと》≪の≫色≪と≫變ぜざる者、未だ之れを見ず』う~ん、ちゅうことはですよ、……良安先生……お持ちの「麒麟血」は……本物じゃあ、ない、つーことではありんせんか?……

2024/06/05

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(12)

 

   朝顏よ一番馬の鈴の音 北 空

 

 今の電車にしろ、バスにしろ、始發と終發の時間は大體きまつてゐるから、昔の馬にもさういふ定めがあつたものと思はれる。其角の「それよりして夜明烏や時鳥」といふ句が「己が光」には「夜明の馬や」となつており、馬としても解釋出來ぬことは無い、といふことは已に述べた。若しきまつて夜明に出る馬があれば、恐らく一番馬の名に値するのであらう。

 朝顏の花が咲いてゐる。しづかにその花に對してゐると、一番馬の通る鈴が聞えて來る。「驛路の朝顏」とでもいふべき題材である。明方の爽涼の氣と、朝顏の花と、高い鈴の音と相俟つて三重奏の觀を呈してゐる。

[やぶちゃん注:其角の句のそれは、『「夏」(9)』の、里東の「ほとゝぎす月夜烏の跡や先」の解説を指す。]

 

   稻づまや扇ひろげてたゝむ間 千 甫

 

 倏忽[やぶちゃん注:「しゆくこつ」。]時間がきわめて短いさま。現代仮名遣は「しゅっこつ」。]の感じである。

 扇をひろげてたゝむ、その短い間にさつと稻妻がさす。ひろげた扇をパチリとたゝむ。その感じと稻妻の走る光とが句の上で一になつてゐる。

 配合の句と云へばそれまでであるが、所謂配合以上に或感じを捉へ得てゐるやうに思ふ。

[やぶちゃん注:句の「間」の読みは「あひ」であろう。]

 

   乘かけの荷をしめ直す野分かな 冬 稚

 

「乘かけ」といふのは乘掛馬のこと、本馬ならば三十六貫の荷を負わせるところを、荷を二十貫に減じ、一人これに乘るの謂である。

 さういふ支度で出かけたが、あまり野分[やぶちゃん注:「のわき」。]が吹きまくるので、途中で馬の荷を締め直す。必ずしも野分によつて吹飛されるわけではないにしても、著けた荷を途中で締め直すところに、野分らしい或不安が現れてゐる。

 昔の旅の心細さといふものは、今日からは十分に想像出來ない。馬背に跨つて野分に吹かれ行く旅人の樣子も、吾々の腦裏には動も[やぶちゃん注:「ややも」。]すれば畫裡の眺の如く映ずる。「荷をしめ直す」の一語は、旅の實感から生れたところに、云ふべからざる强味があるのである。

[やぶちゃん注:「本馬」(ほんま)は、江戸時代の宿場に置いた駄馬の一つの呼称。「一駄(だ)」として定められていた積荷量が四十貫(百五十キログラム)又は三十六貫(百三十五キログラム)の伝馬を指す。別に「からじり(うま)・からしり(うま)」(「輕尻・空尻」)がおり、こちらは、人を乗せる場合、手荷物を五貫目(十八・七五キロ)まで、人を乗せない場合は本馬の半分にあたる二十貫目(七十五キログラム)まで荷物を積むことが出来た。]

 

   溜り江や野分のあとの赤とんぼう 從 吾

 

「溜り江」といふ言葉はいさゝか耳慣れぬようであるが、水のあまり動かぬ、ぢつと湛へてゐる場所らしく想像される。荒れに荒れた野分がやんで、しづかな水の上に赤蜻蛉が飛んでゐるといふのである。

 この「溜り江」なる水はさう深くもないし、且淸澄なものとも思はれぬ。蘆葦[やぶちゃん注:「ろゐ」。]のたぐひでも生えてゐるやうなところであらうか、そこに弱々しい赤蜻蛉の飛んでゐる趣は、野分のあとの空氣に極めてよく調和してゐる。平凡に似て平凡ではない。下五字は「赤とんぼう」と延さずに「赤とんぼ」と詰つた方がいゝやうであるが、或は字でかう書いても、發音する場合には詰るのかもわからない。

 

   谷中は私(わたくし)風に鳴子かな ウ 白

 

「私雨」といふ言葉がある。或場所に限つて降る雨の意らしい。芭蕉に「梅雨ばれの私雨や雲ちぎれ」といふ句があり、西鶴も「偖も此所の私雨、戀をふらすかと袖ぬれて行ば」(三代男)「軒端はもろもろのかづらはひかゝりてをのづからの滴こゝのわたくし雨とや申すべき」(五人女)などと使つてゐる。更に後世になつても「あやしさの私雨や初紅葉」といふ嘯山の句、「箱根山關もる人も朝ぎりのわたくし雨にあざむかれつゝ」といふ景樹の歌など、之を踏襲したものがある。そこばかり降るのを「私雨」と稱するのは、誰の創意に成る言葉か知らぬが、含蓄があつて面白い。

 已に私雨といふ言葉が通用する以上、私風もあつて差支無さゝうである。外は風が吹くとも見えぬのに、こゝの谷間だけ風が吹いて、谷田の鳴子がガラガラ鳴る。「私風」といふ言葉には、妖氣といふほどではないけれども、多少怪しい感じが伴つてゐるやうな氣がする。

 私雨といふ言葉から出發して、新に私風といふ言葉を造つたのか、地方的にかういふ言葉があつたものか、その邊の穿鑿は不案內である。いづれにしてもこの語を用ゐずに、これだけの感じを現すことは困難であらう。

[やぶちゃん注:「私雨」小学館「日本国語大辞典」に、『限られらた区域にだけ降るにわか雨。特に、有馬、鈴鹿、箱根などの山地の者が知られている』とあり、俳諧撰集「唐人躍」(野々口立圃(りゅうほ)の門弟井上友貞延宝五(一六七七)年に刊したもの)の國信の句、

 もみじぬはわたくし雨よ松の聲

が例示されている。「わたくしかぜ」は同辞典には載らなかったが、登録しているG&Aサイト「Qura」のここで見つけた。『愛媛県では、いくつかの特徴的な強風(局地風)が見られます。このうち、宇和島市付近でみられる局地風に「わたくし風」というものがありますが、質問者の意図とは合致していないでしょうね』と謙遜しておられるが、『風は地形の影響を強く受けるため、地形の複雑な愛媛県では地域による差が大きく、東予東部の「やまじ風」、肱川河口付近の「肱川[やぶちゃん注:「ひじかわ」。]あらし」などと言われる局地風があります』とあり、さらに、「松山地方気象台」の二〇二四年五月の「気象と気象用語」というリーフレットPDF)にも、『【気象用語】「愛媛県の局地風」について』の中に、

   *

   わたくし風

 宇和島市では、低気圧等が四国の南岸を進むときに東よりの強風が吹くことがあります。この強風を地元では「わたくし風」「深山おろし」「大風」「宇和島風」と呼んでいるようですが、ここでは「わたくし風」とします。

 「わたくし風」は低気圧等が四国の南岸を進むとき、高知県側から東よりの風が鬼が城山系を吹きおろす強風で、農作物等に被害が発生することがあります(第2 図)。「わたくし風」もおろし風で強風とともに気温の上昇が見られます。

   *

とあった。「わたくし風」もあったと私は考える。

『芭蕉に「梅雨ばれの私雨や雲ちぎれ」といふ句があり』残念ながら、現在は芭蕉の句として正しくは認定されていない。所持する中村俊定校注「芭蕉俳句集」(一九七〇年岩波文庫刊)に「存疑の部」で見出した。「もとの水」に、

   *

  しなのの洗馬(せば)

 つゆばれのわたくし雨や雲ちぢれ

   *

とあり、他に「袖日記」・「芭蕉翁句解參考」(前書を『木曾路にて』とする。)・「俳諧一葉集」(作を貞享・元禄年中とする)に載る。

『西鶴も「偖も此所の私雨、戀をふらすかと袖ぬれて行ば」(三代男)「軒端はもろもろのかづらはひかゝりてをのづからの滴こゝのわたくし雨とや申すべき」(五人女)などと使つてゐる』国立国会図書館デジタルコレクションの『西鶴全集』「下卷」 (明治二七(一八九四)年帝国文庫刊)のここで前者が(右ページの「●戀は癒(なほ)らでいなの酒呑」の二行目下方から)、後者が、同「上卷」のここ(左ページ八行目中央。「●衆道(しゆだう)兩の手に散花(ちるはな)」の一節)で視認出来る。

『「あやしさの私雨や初紅葉」といふ嘯山の句』この句は確認は出来た。作者は儒者で俳人であった三宅嘯山(みやけしょうざん 享保三(一七一八)年~享和元(一八〇一)年)。本名は芳隆。三宅観瀾の一族で、京の質商。望月宋屋(そうおく)に俳諧を学び。炭太祇・与謝蕪村らと交わり、「俳諧古選」などの評論で、元禄期への復帰を唱えた京俳壇の重鎮であった。漢詩にも優れ、「嘯山詩集」を残し、中国近世の白話小説にも通じた。

『「箱根山關もる人も朝ぎりのわたくし雨にあざむかれつゝ」といふ景樹の歌』江戸後期の歌人桂園派の開祖香川景樹(かがわかげき 明和五(一七六八)年~天保一四(一八四三)年)の一首。国立国会図書館デジタルコレクションで確認は出来た。]

甲子夜話卷之八 25 町奉行依田豐前守、水戶邸の出火に馳入る事

8-25

 先に依田豐前守が事を記したるに、此頃(このごろ)又、一事を聞(きけ)り。

 豐州、町奉行勤役のとき、水戶邸、自火ありしかば、出馬して、町人足の集りたるを指麾(しき)して、門に入(いら)んとしけるに、水府の人、出(いで)て、

「火は、手勢にて、消し候へば、暫く、猶予し玉はるべし。」

と申(まうし)ける。

 そのとき、豐州、色を正しくし、詞(ことば)を改めて、

「彌(いよいよ)、御手勢にて消留(けしとめ)られ候はゞ、是に扣(ひか)へ候半(さふらはん)。もし、左無(さな)きときは、御定法(ごぢやうはふ)の通り、人數(にんず)をかけ候。」

とぞ申ける。

 其中(そのうち)に、火勢、次第に盛(さかん)に成行(なりゆき)しかば、豐州、馬上に立揚(たちあが)りて、

「水戶殿にもせよ、火を出(いだ)したが、わるひ[やぶちゃん注:ママ。]ぞ。かゝれ、かゝれ。」

と云(いひ)ながら、馬に、鞭打(むちうつ)て、門內に馳入(はせいり)ければ、續ひ[やぶちゃん注:ママ。]て、

「ゑい、ゑい。」

聲を出(いだ)して、百千の町人足、一度に、

「どつ」

と走り込(こみ)、遂に其手(そのて)にて、火を消留し、となり。

■やぶちゃんの呟き

「町奉行依田豐前守」「先に依田豐前守が事を記したる」とあるのは、「甲子夜話卷之六 11 御留守居役依田豐前守の事蹟 / 12 同」のこと。そちらで、江戸中期の旗本依田政次(元禄一六(一七〇三)年~天明三(一七八三)年)の事績を詳細に注してあるので見られたい。因みに、彼は宝暦三(一七五三)年に北町奉行に就任、明和六(一七六九)年まで務めている。この火事の日時は、調べてみたが、判らなかった。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 没藥

 

Motuyaku

 

もつやく  末藥

       女伊羅【蠻語】

没藥

 

 

本綱没藥生波斯國今海南諸國及廣州或有之樹髙大

如松葉青而宻歳久者則有脂液流滴在地下凝結成塊

大小不定黑色似安息香又云皮厚一二寸采時掘樹下

爲坎用斧伐其皮脂流於坎旬餘方取之

沒藥【苦】 治金瘡諸惡瘡痔漏凡乳香活血没藥散血皆

 能止痛消腫生肌故二藥毎毎相兼而用

△按乳香沒藥外科要藥也阿蘭陀流膏藥婆之利古牟

 用止痛消腫以乳香沒藥松脂蠟麻油煉成【各分量有口傳】

 本草必讀云戲術酒滿過盞空盞先以沒藥抹杯弦斟

 酒髙一二分流不出

 

   *

 

もつやく  末藥《まつやく》

       女伊羅(メイラ)【蠻語。】

没藥

 

 

「本綱」に曰はく、『没藥は、波斯(ペルシヤ)國に生ず。今、海南の諸國、及び、廣州にも或いは、之れ、有り。樹、髙大にして、松のごとし。葉、青くして、宻《みつ》なり。歳久《としひさし》き者には、則ち、脂(やに)≪の≫液、有り、流れ滴(したゝ)り、地下に在り、凝結して塊《かたまり》を成す。大小、定まらず、黑色、「安息香」に似《にた》り。又、云ふ、『皮の厚さ、一、二寸。采る時、樹下を掘り、坎《あな》を爲《な》し、斧を用ひて、其の皮を伐り≪→ると≫、脂、坎に流る。』≪と≫。『旬餘にして、方《まさ》に之れを取る。』≪と≫。』≪と≫。

『沒藥【苦。】 金瘡・諸惡瘡・痔漏を治す。凡そ、「乳香」は、血を活《いか》し、「没藥」は、血を散《さん》ず。皆、能く、痛みを止め、腫≪れ≫を消し、肌を生す。故に、二藥、毎毎《つねづね》、相ひ兼ねて、用ゆ。』≪と≫。

△按ずるに、「乳香」・「沒藥」は、外科の要藥なり。阿蘭陀流《オランダりう》膏藥「婆之利古牟(バジリコン)」に用ひて、痛みを止め、腫れを消す。以つて、「乳香」・「沒藥」・「松脂」・「蠟」・「麻油《あさあぶら》」を煉り、成《せいす》【各分量、口傳《くでん》有り。】。「本草必讀」に云はく、『戲(たはふ)れの術に、酒、盞《さかづき》に滿過《みちすぐ》す《✕→(みちすぐ)ざるには》、空《から》盞に、先づ、沒藥の抹を以つて、杯《さかづき》≪の≫弦《つる》[やぶちゃん注:盃の縁(ふち)の(半)円形部分。]≪に塗り≫、酒を斟《くめば》、髙さ、一、二分、流して《✕→流し入れども》、出でず。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「没藥」(もつやく)とは、

ムクロジ目カンラン科ミルラノキ(コンミフォラ)属 Commiphora abyssinica (の系統(変種・雑種・品種?)という記載もあり、Commiphora kua のシノニム( Commiphora habessinica とも)ともあって、学名は混乱がある)、或いは、同属の各種樹木から分泌される赤褐を呈した植物性ゴム樹脂

を指す。当該ウィキによれば、『古くから香として焚いて使用されていた記録が残されている。また、殺菌作用を持つことが知られており、鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていた』。『古代エジプトにおいて、日没の際に焚かれていた香であるキフィの調合には』、『没薬が使用されていたと考えられている。また、ミイラ作りに遺体の防腐処理のために使用されていた。ミイラの語源はミルラから来ているという説がある』。以下は既に「乳香」の注でも述べたが、『聖書にも没薬の記載が多く見られ』、「出エジプト記」には『聖所を清めるための香の調合に没薬が見られる。東方の三博士がイエス・キリストに捧げた』三『つの贈り物の中にも没薬がある。没薬は医師が薬として使用していたことから、これは救世主を象徴しているとされる。また、イエス・キリストの埋葬の場面でも』、『遺体とともに没薬を含む香料が埋葬されたことが記されている』。『東洋においては』、『線香や抹香の調合に粉砕したものが使用されていた』と記す。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「沒藥独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-52b]から始まる「集解」の部分引用だが、一つ、不審がある。最後の『旬餘方取之』の部分で、これは「沒藥」の記載には認められない。そこで調べてみたところ、これは、独立項の、本底本では次の項である「卷三十四」の「木之一」「香木類」の独立項「騏驎竭」(同ガイド・ナンバー[083-54a]から始まる)の「集解」中に(読み易くするために、推定で句読点その他を入れた)

   *

「一統志」云、『血竭樹、畧如沒藥樹、其肌赤色、采法亦、於樹下掘坎、斧伐其樹、脂流於坎、旬日取之。』(以下略)

   *

にある記載と、ほぼ一致するのである。但し、これは、良安が誤って混入させてしまったものではなく、「采法亦」とあるから、フライングして、挿入したものと推定された。

「海南の諸國」これは、現在の中国の海南省ではなく、中国より以南の、非常な広域の南アジアの諸国を指している。

「廣州」現在の中国の広西省・広東省。

「安息香」ツツジ目エゴノキ科エゴノキ属のアンソクコウノキStyrax benzoin、またはその他同属植物が産出する樹脂で、それらの樹木の幹に傷をつけ、そこから滲み出た樹液の固化した樹脂として採集する。主要な成分は芳香族カルボン酸とそのエステルで、古くから香料として利用されてきた。本書では、次の次の項である。

「旬餘」十日余り。

「痔漏」「痔瘻」が正しい。所謂「穴痔」(あなじ)で、急性或いは慢性肛門周囲炎が自壊し、肛門部・肛門周囲皮膚、或いは、直腸粘膜に瘻孔を形成し、膿汁などを出す疾患を指す。安静にしにくく、糞便で汚れる部位であることなどのため、治りにくく、外科的処置を要する。結核性のものは現在では、殆んど見られない。

『阿蘭陀流膏藥「婆之利古牟(バジリコン)」』(ポルトガル語:basilicão)は 蘭方薬の一種。オリーブ油・黄蝋・松脂・チャン(瀝青:この場合は植物から分泌される透明な「樹脂」=レジン(resin)を指す)などから製した、吸出し膏薬。「バジリ」「バジリ膏」とも言った。

「本草必讀」東洋文庫の巻末の「書名注」に、『「本草綱目必読」か。清の林起竜撰』とある。なお、別に「本草綱目類纂必讀」という同じく清の何鎮撰のものもある。この二種の本は中文でもネット上には見当たらないので、確認出来ない。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 薰陸香

 

Kunrokukou

 

くんろく

 

薰陸香

 

 

本綱薫陸香乳香爲一物以如乳頭者爲乳香主治亦似

而異

薰陸【微温】 治風水毒腫去惡氣伏尸癮𤺋毒

△按今多乳香用唐藥薫陸用倭藥而倭薫陸出於奧州

 南部山中堀地取之松津液乎盛夏則鎔融蚊蟻粘着

[やぶちゃん注:「堀」はママ。近世・近代の小説等でも、この「掘」の誤用はしばしば見られる。訓読では、躓くだけなので、正字にした。]

 者多只合香家多用之入藥用者希也

 

   *

 

くんろく

 

薰陸香

 

 

「本綱」に曰はく、『薫陸香、乳香と一物と爲《な》す、乳頭(ちくび)のごときなる者を、以つて「乳香」と爲す。主治も亦、似れども、異《い》なり。』≪と≫。

『薰陸【微、温。】 風水毒腫を治し、惡氣伏尸《あくきぶくし》・癮𤺋《いんしん》・癢毒《やうどく》を去る。』≪と≫。

△按ずるに、今、多く、「乳香」は唐藥《たうやく》を用ひ、「薫陸」は倭藥《わやく》を用ふ。而して、倭の「薫陸」は、奧州南部の山中より出づ。地を掘り、之れを取る。松の津-液(しる)か。盛夏には、則ち、鎔(わ)き融(どろけ)て、蚊・蟻、粘(ねば)り着く者、多し。只《ただ》、「合香家(かうぐや)」に、多く、之れを用ふ。藥用に入るる者は、希《まれ》なり。

 

[やぶちゃん注:「薫陸」(「ろく」は呉音。「くんりく」と読んでも構わない)は、インドの大部分と、パキスタンに広がるパンジャブ地方の乾燥高地に自生している、

ムクロジ目カンラン科ボスウェリア属ボスウェリア・セラータ Boswellia Serrata の樹脂が固まって石のようになったもの

で、英文の基原植物のウィキによれば、本種は『現在、絶滅の危機に瀕している』とし、『同種はβ-ボスウェリア酸・アセチル-β-ボスウェリア酸・11-ケト-β-ボスウェリア酸・アセチル-11-ケト-β-ボスウェリア酸等の、ボスウェリア酸(Boswellic acid)のさまざまな誘導体を含』んでおり、この成分は『変形性関節症と、関節機能について臨床的に研究されており、研究によれば、関節痛と関節機能に対して有益な傾向(ちょっとした改善性)がある』といった内容が記されてある。その「薫陸香」はインド産の広義の「乳香」(前項参照)であり、「香老舗林 龍昇堂」のこちらで、画像が見られ、そこに『黄褐色または暗褐色をしており、琥珀に大変似ているが』、『成分は異なる』とあり、『主に香料や薬剤として使用されている』とある。「ろく」は「陸」の呉音で、小学館「日本国語大辞典」には、第一義に『インド、イランなどに産する樹のやにの一種。盛夏に、砂上に流れ出て、固まって石のようになったもの。香料、薬用となる。乳頭状のものは、乳香という。くろく。なんばんまつやに。薫陸香(くんろっこう)』とし、第二義に、所謂、「和の薫陸」として、『松、杉の樹脂が、地中に埋もれ固まってできた化石。琥珀(こはく)に似るが、琥珀酸を含まない。粉末にして薫香とする。岩手県久慈市に産する』とある。本底本では、次項が「薰陸香」である。①の本邦の初出例は九二七年の「延喜式」とする。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「薫陸香」の合体した独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-48b]から始まる、長い記載のごく一部を拾ったパッチワークである。直にこの記事に来られた方は、まず、前項の「乳香」を先に読まれたい。その最後で、良安が、「本草綱目」の纏めて書かれた香類(こうるい)を、独自に各条に独立させ、解説をする旨の断り書きがあるからである。

「風水毒腫」この「風水」は広義の思想としてのそれ(中国の伝統的な自然観の一つ。都市や住宅・墳墓などを造る際、地勢・方位・地脈・陰陽の気などを考え、そこに生きる者と、そこで死んだ者総てに、よりよい自然環境を求めようとするもの)ではなく、疾患としての「関節水腫」を指す語である。「毒腫」は分離させずに読み、それに屋上屋で添えたものであろう。

「惡氣伏尸」東洋文庫訳では割注して、『(死骸から発する悪気)』とする。

「癮𤺋《いんしん》」同前で『(じんましん)』(蕁麻疹)とする。

「癢毒《やうどく》」同前で『(皮膚がかゆくなる症)』とする。広義の皮膚の搔痒症状を指すということであろう。

「奧州南部」南部藩=盛岡藩。陸奥国北部(明治以降の陸中国及び陸奥国東部)、現在の岩手県中部を地盤として青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた南部氏の藩。藩域は、複雑で、正確に示すのが困難なので、岩手県文化スポーツ部文化振興課文化芸術担当の作製になるサイト「いわての文化情報大事典」の「盛岡藩と八戸藩」にある、冒頭の図がよい。

「津-液(しる)」漢方のヒトに用いる語を漢方基原植物に対して擬人表現したもの。ウィキの「津液」によれば、『津液(しんえき)は、津(陽性の水分、清んで粘り気がなく、主として体表を潤し、体温調節に関与し、汗や尿となって体外へ排泄される)と液(陰性の水分、粘り気があり体内をゆっくりと流れるもので、骨や髄を潤す。体表部では目、鼻、口などの粘膜や皮膚に潤いを与える)で構成される体内の水分の総称である。源は飲食物で、胃や腸に入って水様のものが分離されて作られる。別名、陰津、水液、水津、水湿とも呼ばれる』。『脾胃(中焦)、肺(上焦)、腎・膀胱(下焦)と関係が深く、脾胃は水穀から津液を分離して脾の働きでこれを上部の肺へ送り、肺は胃から送られた津液を全身へ布散し、腎は全身に輸布された津液を管理して、不用のものを膀胱に貯めて尿として排泄する』とある、それである。

「融(どろけ)て」「とろけ」ではなく、この「ど」は珍しく、原本に、ちゃんと『ド』と濁点を打ってある。]

2024/06/04

甲子夜話卷之八 24 淇園先生勇氣ある事

8-24

 淇園(きえん)先生は沈勇なる人なり。

 一日、門生と與(とも)に祇園の二軒茶屋に遊ぶ。こゝは西都群會の地ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、諸人、皆、來て、宴飮す。

 時に一人、醉(ゑひ)に乘じて、刄(やいば)を拔(ぬき)て、狂するもの、あり。

 在る所の男女(なんによ)、駭怖(おどろきおそれ)て、亂走す。

 狂人、その茶屋に近づく。

 門生、言(いひ)て曰(いはく)、

「早く、避(さく)べし。」

 先生、盃(さかづき)を把(とり)て、動(うご)かず。

 門生、頻(しきり)に促(うなが)せども、自若たり。

 狂、已(すで)に前(まへ)に來(きた)り、刄を振(ふるひ)て、簷下(のきした)の挑燈(てうちん)を斫(き)る。

 燈(ともし)、三、四、中斷して、落つ。

 門生、堪(たへ)ず、先生の肩を執(とり)て引く。

 先生、嗤(わらひて)、曰(いはく)、

「すばらしきもの哉(かな)。」

とて、遂に起(た)たず。

 狂、遂に、人の爲に縛(ばく)せられて止(やみ)ぬ。

 後、門生、先生に言ふ。

「師、如ㇾ此(かくのごとき)とき、去(さら)ずして、若(もし)、かれが爲に害を受けば、都下の笑(わらひ)を惹(ひか)ん。

 先生、曰、

「否、天、あらずや。狂、それ、如予何(よをいかんせん)。」

と答たり、となり。

■やぶちゃんの呟き

「淇園先生」儒学者皆川淇園(みながわきえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)。「甲子夜話卷之一 12 大阪天川屋儀兵衞の事」で既出既注。

「天、あらずや。狂、それ、如予何。」「論語」の「述而第七」の二十二章に引っ掛けて応じたもの。

   *

 子曰、「天生德於予。桓魋其如予何。」。

(子、曰はく、「天、德を、予(われ)に生(しやう)ぜり。桓魋(くわんたい)、其れ、予(われ)を如何(いかん)せん。」と。)

   *

「桓魋」宋の大夫であった司馬(軍事長官)向魋(しょうたい)。紀元前四九二年、宋を訪ねた孔子を殺そうとした。当該ウィキを参照されたい。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(11)

 

   暮がたや次第次第にしろき菊 薄 芝

 

 幸田露伴博士の「心のあと」といふ長詩の中に「夜に入つてたゞ鶴白く、桃李隱れて梅殘る」といふ句があつた。これは「人やゝ老いて神を知り、世念失せて詩を思ふ」といふ句の前提として置かれたものだから、單なる敍景の句ではない。白い色のはつきり見える點から云へば、やはり日光の下が一番なのであるが、周圍がだんだん薄暗くなつて、外の色彩が次第に力を失ふに及び、白い色が最後まで殘つてゐる。「次第次第にしろき菊」はその感じを捉へたので、菊が白くなるのではない、夕闇が次第に濃くなつたのである。

 鳴雪翁に「灯ともせばたゞ白菊の白かりし」といふ句がある。闇中に燈を點じて、たゞ白菊の白きを見る方が印象も明であり、句としては巧であるが、次第に夕闇に沒する白菊の趣も棄て難い。元祿らしい自然なところがあるからであらう。

[やぶちゃん注:中七は「次第」の後に踊り字「〱」である。「々々」ではちょっと厭だから、かく、した。

「露伴」のそれは、国立国会図書館デジタルコレクションで原本である「心のあと」(幸田露伴(成行)著明三八(一九〇五)年一月春陽堂刊)のここで視認出来る。そこ(「第十七章」冒頭)では、

   *

 夜に入つて たゞ 鶴白く、

 桃李隱れて 梅殘る!。

 人や〻老いて 神を知り、

 世念(セイネン)失せて 詩を思ふ!

[やぶちゃん注:以下略。]

   *

となっている。因みに。「世念」は「せねん」と読むのが正しく、「俗世に執着する心」を意味する漢語である。

『鳴雪翁に「灯ともせばたゞ白菊の白かりし」といふ句がある』国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右ページ一行目)で確認出来た。]

 

   垣ごしや菊より出て長咄し 旦 藁

 

 俳畫的小景である。垣根の向うに菊が作つてあつて、そこに菊作りの主が居る。菊の中から現れたその人と、思はずそこで長咄をした、といふ意味らしい。

「菊より出て」といふ言葉は、見方によつて二樣に解せられる。「畠より出で來る菊の主かな」の句のやうに、菊の咲いてゐる中から出て來て話をした、といふ風にも見えるが、「春寒や砂より出でし松の幹」のやうに見ると、滿開の菊の中からぬつと姿を現した、といふやうにもなる。垣越の人とはいづれ前から識つてゐるのであらう。何でもない話がつい長くなつてしまつたので、必ずしも菊の奴[やぶちゃん注:「やつこ」。]たる主が得々として菊作りの苦心を語るといふが如く、菊に卽して考へる必要は無さそうに思ふ。最初に俳畫的小景と云つたのは、菊の中から姿を現した方の解釋である。嘗てどこかでさういふ畫を見たやうな氣がするほど、この趣は一幅の畫として感ぜられる。

「畠より出で來る」式な解釋にすると、それから垣根のところへ步み寄つて、長咄に移る段取になるのであるが、作者は「菊より出て」と云つたのみで、長咄をする人間の何者であるかを明にしないのだから、これ以上は各自の想像に任すより外はあるまい。吾々はやはり菊の中からぬつと現れて話す俳畫的小景に心を惹かれるのである。

[やぶちゃん注:「畠より出で來る菊の主かな」句の存在は国立国会図書館デジタルコレクションの検索で『国文学 解釈と鑑賞』の中で確認出来たが、遠隔複写サービスで申し込まないと見ることが出来ない。但し、その記事は「蕉門俳風の変遷」という記事の中にあるので、蕉門の誰かの句ではある。

「春寒や砂より出でし松の幹」高濱虛子の大正二(一九一三)年の句。]

 

   稻づまや晝寐のまゝの蚊帳の外 二 方

 

 晝寐の時に釣らせた蚊帳がそのまゝになつてゐる。晝寐の人は一度起きて外へ出たのか、そのまゝぐつすり寢込んで夜に入つたのか、そこはわからぬ。若し一度起きたにしても、この場合は又その蚊帳に入つてゐるのである。さういふ蚊帳の外に稻妻が閃々と射す。蚊帳の中の人は暢氣にそれを見てゐる、と云つたやうな情景が想像される。

 稻妻は秋の季になつてゐるが、夏にも無いことはない。蚊帳も晝寐も夏のものである。秋と夏との風物が交錯する初秋の空氣がよく現れてゐる。勿論雷を恐れて蚊帳に入つてゐるわけではない。

 

   大かたは踊おぼえぬふた廻り 一 莊

 

 はじめて踊に加つた場合らしい。唄につれ、人の拍子につれて、見やう見眞似で踊つて行く。踊の輪の二廻りも廻つた時分には、大方踊の手振もおぼえたといふのである。

 踊の句には局外から見たものが多い。「一廻り待つ人おそき踊かな 尙白」などといふ句は第三者として踊の輪の廻るのを見る一例であるが、一莊の句は自ら踊の輪の中にあつて、二廻りも廻つてゐるところに特色がある。二廻り廻つてやつと踊をおぼえるあたりは、さすがに元祿人らしく、悠々たる趣があつていゝ。

 

   秋風や葛屋はなれてひさご蔓 英 之

 

 葛屋のことは前に書いた。草葺屋根の家に絡んでいる瓢の蔓の末が、離れて虛空にある場合を捉へたものであらう。

 必ずしも秋風の爲に吹き離れたものと解釋しなくても差支無い。葛屋も、それに絡んだ瓢も、その蔓の末も、悉く秋風の中に在ると見ればいゝのである。

 

   日ぐらしの聲に沓はく鞠場かな 一 琴

 

 蹴鞠といふものはどういふ時間にやるものか、又どの位の時間やつてゐるものか、その邊の知識が無いからよくわからぬが、無識のまゝにこの句を解すると、蜩の聞える夕方になつて、そろそろ鞠でも蹴ようかといふ場合かと想像する。蜩も秋の季にはなつてゐるが、これは夏のうちから鳴いて居り、東京あたりでは普通の蟬より早く鳴きはじめる。從つてこの句は秋ではあつても、まだ暑い場合と解釋してよさゝうである。

 暑い日脚が斜になつて、そこらで蜩が鳴き出す。もう鞠場の日もかげつて涼しくなつたから、少し鞠でも蹴ようとして沓を穿く、といふ風に解せられる。若しこの蜩の聲がさういふ明るいふちのものでなくて、薄暮を現すものとすると、反對に鞠場を引上げることにしなければならぬが、「沓はく鞠場」といふ續き樣は、鞠を蹴るために沓を穿くものと見た方が自然のやうに思ふ。要はこの句に於ける蜩の鳴く時間と、沓を穿くことに對する解釋によつて、自ら句意が異るわけである。蹴鞠に就てもう少しはつきりした觀念を得たら、この解釋は或はもう一度出直さなければならぬかも知れない。

 

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 乳香

 

Nyuukou

 

にうかう   馬尾香 摩勒香

       多伽羅香【佛書】

乳香    天澤香

       蠻語【末須良以加

          又云末須天

          木須】

 

本綱乳香乃薰陸中似乳頭者總名爲薰陸香出於天竺

及大食國波斯國其樹類松以斤斫樹脂溢於外結而成

香聚而成塊圓大如乳頭透明者【名滴乳】爲上品以瓶收者

【爲乳塌】次之雜沙石者【爲黑塌】次之【今以楓脂雜之惟燒之可辨也】

乳香【苦辛微温】 香𮄒能入心經活血定痛故癰疽瘡瘍心腹

[やぶちゃん注:「𮄒」は「竄」の異体字。]

 痛要藥素問云諸痛癢瘡瘍皆屬心火是矣産科諸方

 多用之亦取其活血之効爾

 乳香至粘難碾用時以繒袋掛於窓𨻶間良久取研乃

 不粘入丸散微炒殺毒則不粘【古今醫統云研時口念玄胡索卽成末】

△按乳香樹雖似古松而花實有無未詳或謂波斯國松

 樹亦非也然乳香形色氣味與松脂不遠也且薫陸香

 乳香本是爲一物而氣色各別効用則稍異故立各條

 

   *

 

にうかう   馬尾香《ばびかう》 摩勒香《まろくかう》

       多伽羅香《たきやらかう》【佛書。】

乳香     天澤香《てんたくかう》

       蠻語【「末須良以加(マスライカ)」、

          又、云ふ、「末須天木須《マス

          テムス》」。】

 

「本綱」に曰はく、『乳香は、乃《すなはち》、「薰陸《くんろく》」の中《うち》、乳頭《ちくび》に似る者なり。總名を「薰陸香」と爲《な》す。天竺、及び、大食(たいし)國・波斯(パルシヤ)國に出づ。其の樹、松に類す。斤(てをの)を以つて、樹を斫(はつ)り、脂(やに)外に溢(あふ)れ、結して、香に成る。聚《あつま》りて塊(かたまり)と成る。圓大にして、乳頭のごとく、透-明(すきとを[やぶちゃん注:ママ。])る者【「滴乳」と名づく。】、上品と爲す。瓶を以つて、收《をさむ》る者【「乳塌《にうたう》」と爲す。】、之れに次ぐ。沙石の雜(ま)じる者【「黑塌」と爲す。】之れに次ぐ【今、楓《ふう》の脂(やに)を以つて、之れを雜《まぢ》ふ。惟《ただ》、之れを燒≪けば≫、辨ずべきなり。】。』≪と≫。

『乳香【苦辛、微温。】 香《かう》、𮄒(かく)れて、能く、心經《しんけい》に入り、血を活《かつ》し、痛みを定《をさ》むる。故、癰疽・瘡瘍《さうやう》・心腹痛の要藥なり。「素問」に云はく、「諸痛・癢《やう/かゆみ》・瘡瘍、皆、心火に屬す。」と云《いふ》[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、是れなり。産科の諸方、多く、之れを用《もちふ》るも、之れ亦、其の活血の効を取るのみ』≪と≫。

 『乳香、至つて粘(ねば)り、碾(をろ)し難し。用ふる時、繒袋(きぬ《ぶくろ》)を以つて、窓≪の≫𨻶《すき》の間《あひだ》に掛け、良《やや》久しくして、取り、研《おろす》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、乃《すなはち》、粘らず。丸《ぐわん》・散《さん》に入るるには、微《わづかに》炒りて、毒を殺す。則ち、粘らず。【「古今醫統」に云はく、「研す時、口に『玄胡索《げんごさく》。』を念≪ずれば≫、卽ち、末《まつ》と成る。」≪と≫。】≪と≫。

△按ずるに、乳香の樹、古≪き≫松に似たりと雖も、花・實の有無《うむ》、未だ詳らかならず。或いは、「波斯(パルシヤ)國の松の樹。」と謂≪ふも≫、亦、非なり。然るに、乳香、形・色・氣味、「松脂」と遠からざるなり。且つ、『「薫陸香」≪と≫「乳香」≪と≫は、本《も》と、是れ、一物たり。』と。而れども、氣《き》・色《いろ》、各《おのおの》、別≪にして≫、効用も、則ち、稍(やゝ)異《こと》なり、《→なる》故≪に≫、各條を立つ。

 

[やぶちゃん注:「乳香」は、

双子葉植物綱ムクロジ目カンラン科ボスウェリア属 Boswellia の樹木から分泌される樹脂

を指す。当該ウィキによれば、『乳香の名は、その乳白色の色に由来』し、『古くからこの樹脂の塊を焚いて香とし』、『または香水などに使用する香料の原料として利用されている』。『香以外にも中医薬・漢方薬としても用いられ』、『鎮痛、止血、筋肉の攣縮攣急の緩和といった効能があるとされる』。『また、多く流通している南アラビア地域では、唾液分泌の促進やリラクゼーションのために乳香樹脂をガムのように噛むことがある』。『水蒸気蒸留で得られる精油は、食品や飲料に香料として添加される。また、香水にも利用され、シトラス系、インセンス様、オリエンタル系、フローラル系など、様々な香水に使われている。ベンゼンなどの溶剤を使って抽出したアブソリュートは、香りの定着剤として多くの香水に用いられる。乳香が数千年にわたり宗教に利用されてきたことを』鑑みると、『香として利用した際の芳香成分には、リラクゼーションや瞑想に効果的であると考えられる』。『アロマテラピーに精油が用いられるが、樹脂を燃焼させた際の成分とは異なるため、香としての効能を流用することはできない』。『精油には強い刺激作用があり、産地や抽出法で成分が異なるため』、『効能を一般化することは困難だが、香りを楽しむ目的で精油をマッサージなどと併用するのなら、アロマテラピーでの利用も有益であるかもしれない』。『精油の香りには興奮作用が、樹脂を燃やした香りにはリラックス効果が見られるようである』。『精油は強力な抗菌活性を持つが、抗真菌作用は非常に弱い』。『ボスウェリア属の樹木は、オマーン、イエメンなどのアラビア半島南部、ソマリア、エチオピア、ケニア、エジプトなどの東アフリカ』、『インド』『に自生している。 これらの樹皮に傷をつけると』、『樹脂が分泌され、空気に触れて固化する』。一~二『週間かけて乳白色 - 橙色の涙滴状の塊となったものを採集する』。『樹脂の性質は樹木の種類や産地によって大きく異なる。樹木は栽培して増やすことが困難で、これらの自生地の特産品となり、かつては同じ重さの金と取引されたこともある』。『古い時代には、現在はオマーンに属するアラビア南部のシスルから積み出される乳香が特に知られていた』。『現在も良質とされるものの商業的な生産は主にオマーンで行なわれている』(この最後の部分には「要出典」が附されてある)。『近年は火災、カミキリムシによる害、乱獲、乱開発、農地への転換などで急速に減少している。最近の研究では、今後』五十『年で約』九十『%減少すると予想されており、持続は不可能と考えられている』。『乳香は紀元前』四十『世紀にはエジプトの墳墓から埋葬品として発掘されているため、このころには』、『すでに焚いて香として利用されていたと推定されている。古代エジプトでは神に捧げるための神聖な香として用いられていた』。『神に捧げるための香という点は古代のユダヤ人たちにも受け継がれており、聖書にも神に捧げる香の調合に乳香の記述が見られる』。『また、ベツレヘムでイエス・キリストが生まれた時に東方の三博士がイエス・キリストに捧げた贈り物の中に乳香、没薬、黄金がある』。『日本にも』十『世紀には薫香の処方内への記述が現れるため、このころにシルクロードを通じて伝来したものと考えられている』(この最後の部分にも「要出典」が附されてある)。『日本正教会を含む正教会では、古代から現代に至るまで、奉神礼で香炉で乳香を頻繁に焚いて用いる。振り香炉にも乳香が用いられる』。『香水などへの使用が行なわれるようになったのは』十六『世紀に入ってからであり、乳香を水蒸気蒸留した精油や溶剤抽出物であるアブソリュートがこの用途に用いられるようになった』(この一文には全体に「要出典」が附されてある)。『西アジア及び地中海周辺地域の古代において乳香は、虫除け、宗教儀式、炎症薬として用いられていたこともあり』、『乳香の需要は高く、その需要に対しての供給量(収穫量)が少い場合は価格が高騰し、金と同じ重量で取引された記録がある。また西アジア及び地中海周辺地域において乳香の価格が高騰した際にはインド産“ボスウェリア・コナラ”から抽出された乳香のインディアン・フランキンセンスが交易商人によって輸入された。少なくともマウリヤ朝時代』(紀元前三二二年~紀元前一八五年)『には交易によってインドから西アジアに輸出されたと思われる記録及び民間伝承写本が幾つかある』。『インドにおいての乳香の歴史も古くインド聖典“アーユルヴェーダ”医学に用いられた』とある。

 このボスウェリア属のうち、

ボスウェリア・サクラ Boswellia sacra

英文ウィキがあったので、リンクさせておく。その末尾の方に、『ギリシャ神話によると、乳香を採取する植物は、嘗つては「レウコトエ」(Leucothoe)という名の人間の女性であった。太陽神ヘリオスは彼女に恋をし、以前の恋人クリュティエと別れた。苦々しい思いから、クリュティエはレウコトエの父オルカムスに盛んに陰口をしたところが、オルカムスは娘を生き埋めにしてしまった。ヘリオスは彼女を救うには遅過ぎたが、「土の中で腐らせておくわけにはいかない。」と、彼女を新しい木に変ぜさせて、空気を吸えるようにした』とあった。英文の「Leucothoe (daughter of Orchamus)」のウィキもリンクさせておく。

 「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「薫陸香」と「乳香」の合体した独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-48b]から始まる、その「釋名」「集解」「修治」のパッチワークである。

「末須良以加(マスライカ)」言語不詳。オランダ語か。

「末須天木須《マステムス》」このカタカナは東洋文庫訳のルビに従った。同前。

「薰陸《くんろく》」「薰陸香」「ろく」は「陸」の呉音。小学館「日本国語大辞典」によれば、第一義に『インド、イランなどに産する樹のやにの一種。盛夏に、砂上に流れ出て、固まって石のようになったもの。香料、薬用となる。乳頭状のものは、乳香という。くろく。なんばんまつやに。薫陸香(くんろっこう)』とし、第二義に、所謂、「和の薰陸」として、『松、杉の樹脂が、地中に埋もれ固まってできた化石。琥珀(こはく)に似るが、琥珀酸を含まない。粉末にして薫香とする。岩手県久慈市に産する』とある。本底本では、次項が「薰陸香」である。①の本邦の初出例は九二七年の「延喜式」とする。なお、本底本では、この次の項が「薰陸香」である。

「大食(たいし)國」唐・宋代に、中国人が、アラブ国家やアラブ人、さらには、イスラム教徒一般を指した呼称。ペルシア人が「アラブ人」の総称として用いた呼称「タージー」(Tazi)に由来する(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。東洋文庫訳では、『大食国』にルビして、『サラセン・アラビア』とある。「サラセン」(英語:Saracen)は中世ヨーロッパ世界で「イスラム教徒」を指した語である。

「波斯(パルシヤ)國」ペルシャ。現在のイランを表わすヨーロッパ側の古名。

『瓶を以つて、收《をさむ》る者【「乳塌《にうたう》」と爲す。】、之れに次ぐ』東洋文庫では、ここに相当する部分に後注して、『『本草綱目』では瓶に収め取るものは瓶香で、次の雑沙石のものが乳塌で』、『一つずつ』、『ずれている』として、「本草綱目」原文と「和漢三才圖會」の原文を引いて比較してある。当該部に相当するものを、「漢籍リポジトリ」からコピー・ペーストし(私は「コピペ」という短縮形は生理的に気持ちが悪くて使ったことがない)、合わせて、上記原文部を併記しておく。

   *

為瓶香以瓶收者次為乳塌雜沙石者次為黒塌色黒(「本草綱目」)

   *

以瓶收者【爲乳塌】次之雜沙石者【爲黑塌】次之(「和漢三才圖會」)

   *

因みに、「塌」という語は、現代中国語で、「(支えられているものが)崩れ落ちる・倒れる・抜け落ちる」、「落ち凹む・へこむ」、「(気持ちを)落ち着ける」の意であったが、大修館書店「廣漢和辭典」を引いてみたら、『地が低い』、『床の低くて安らかなこと』、『おちる【おつ】。おとす』、『初めて耕す』とあったことから、樹木から樹脂を「落して」、諸状態で、それぞれに製品として「安んじる方法」を意味すると採っておく。

「楓《ふう》」決して「かえで」と読んではいけない。ユキノシタ目フウ科フウ属フウ Liquidambar formosana である。先行する「楓」を参照。

「𮄒(かく)れて」人が全く意識しないうちに体内に作用することを言う。

「心經」東洋文庫では、後注して、『身体をめぐる十二経脈の一つで、手の少陰心経のこと。一つは心臓から下って小腸に入る。支脈は心臓から咽喉にのぼ眼球の後ろから脳に入る。もう一つは心臓から肺に入り前腕を通って小指の先端に行く』とある。

「瘡瘍《さうやう》」東洋文庫訳では、割注して、『(主要・潰瘍をふくめたできもの一般の総称)』とある。

「素問」中国最古の医書とされている「黃帝內經」(こうていだいけい)の「素問編」。本来、この書は「素問編」と「靈樞編」の二部から成っており、黄帝と、その臣岐伯との問答に託し、「陰陽五行説」を利用して、生理・病理・衛生の基礎的理論を述べたもので、多少、後世の改修があるが、秦・漢頃の作と考えられている。「靈樞編」は鍼灸の術について述べたものとされるが、現存の「靈樞」の由来については、実は不明の点が多い。「素問」には王冰(おうひょう)の注 二十四巻があり、「靈樞」には、宋の史崧(ししょう)の注が二十四巻がある。これらとは別に、唐の楊上善の注になる「黃帝內經太素」全三十巻が日本にだけ伝わり、「黃帝內經」の旧形を保存している(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「心火」五行思想で「心」は「火」に属す。

「古今醫統」明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六)によって編纂された一種の以下百科事典。全百巻。「東邦大学」の「額田記念東邦大学資料室」公式サイト内のこちらによれば、『歴代の医聖の事跡の紹介からはじまり、漢方、鍼灸、易学、気学、薬物療法などを解説。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べている。分類された病名のもとに、病理、治療法、薬物処方という構成になっている』。『対象は、内科、外科、小児科、産婦人科、精神医学、眼科、耳鼻咽喉科、口腔・歯科など広範囲にわたる』とある。

「研す時、口に『玄胡索《げんごさく》。』を念≪ずれば≫、卽ち、末《まつ》と成る。」東洋文庫では、後注して、『玄胡索は山草類で根を薬用とし、血を活かす良薬とされる。恐らくこの根は粉末にしやすく、それでこういうのであろう。』とある。この「玄胡索」は、キンポウゲ目ケシ科ケマンソウ亜科キケマン属延胡索(エンゴサク) Corydalis yanhusuo 、及び、東北延胡索 Corydalis ambigua の塊茎を基原とする漢方生薬。日本語のウィキもあるが、対象種の学名(しかも品種である)が不審なので、中文の「維基百科」の「延胡索」に基づいた。そこに異名として「玄胡索」もあるのである。そこに『中国本土の安徽省・山東省・浙江省・江蘇省・湖北省・河北省・河南省桔河市及び信陽市に分布し、主に丘陵地帯の草原で見られ、模式種の原産地は浙江省杭州』とあり、『辛味、苦味、温感を持つ様々なアルカロイドが含まれており、主に血液循環の促進・気の促進・鎮痛・鎮静・催眠効果がある』といったことが書かれてある。さて、私は、東洋文庫の注に、一つ、文句がある。それは、「念」の意味を解説していない点である。迂闊な読者は、この「念」という動詞を物理的に「混ぜ込む」の意で採ってしまうだろうと思ったからである。残念乍ら、「念」の漢語・日本語の孰れも、「混ぜ込む」などという動詞の意味は、ない、のである。則ち、これはフレーザーの言う「類感呪術」で、玄胡索の根が粉末にし易いということから、乳香を削る際、心の中で「念」(ねん)ずることで、呪的に乳香の性質を変ずることが出来ると言っているのである! そこを言わずして、何の現代語訳かッツ!!!

「而れども、氣《き》・色《いろ》、各《おのおの》、別≪にして≫、効用も、則ち、稍(やゝ)異《こと》」「《→なる》故≪に≫、各條を立つ」この最後の附言は、ここ以降では、その理由から、後、独立項で「香」(こう)類を扱う、と言っているのである。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(10)

 

   猫の子もそだちかねてや朝寒し 元 灌

 

 春から夏へかけて生れた猫の子は、造作なく育つやうだけれども、秋口になつてからのは、次第に冷氣が加はる爲であらう、どうも育ちにくいやうである。吾々も秋口の猫の子を貰つて、何度かやり損つた經驗を持つてゐる。

 この句の眼目は「そだちかねてや」の一語にあ在る。子猫は死んでゐるわけではない、何だか育ちさうもない狀態なので、「そだちかねてや」と斷定しきらぬところに、餘情もあれば哀もあるやうに思ふ。そこがまた朝寒といふ時候に調和を得てゐるのである。

 

   鵙啼や竿にかけたるあらひ物 浦 舟

 

 鵙の聲は直に秋晴の天を連想させる。しきりに啼き立てる鵙の銳聲と、竿にかけて干す洗濯物と相俟つて、明るい秋の日和を十分に現してゐる。それだけに句としては寧ろ平凡だといふ人があるかも知れぬ。けれどもそれはその後に於て、この種の趣向が屢〻繰返された爲で、浦舟の句が出來た時分には、まだそれほどでなかつたのではないかといふ氣もする。

 

   ひとつふたつ星のひかりや秋の暮 稚 志

 

 しづかな、風も無い秋の夕暮であらうと思ふ。暮れむとして未だ暮れきらぬ空の中に、一つ二つ星の光が見えて來る。かくして徐に天地は暮れて行くのである。

 この句を讀むと、どうしても「夕暮に獨り風吹く野に立てば、天外の富士近く、國境をめぐる連山地平線上に黑し。星光一點、暮色漸く到り、林影漸く遠し」といふ「武藏野」の一節を想ひ出さゞるを得ない。「星光一點、暮色漸く到り、林影漸く遠し」といふほど、徐に暮れ行く秋野の天を、簡潔に而も生々と描き得た文章は稀であらう。この稚志の句は武藏野の如き平野の光景であるかどうか、それはわからないが、自らその間に趣の相通ずるものがある。

 秋の暮には由來傳統的な觀念が附纏つてゐる。「心なき身にもあはれはしられけり」とか、「その色としもなかりけり」とか、「花も紅葉もなかりけり」とかいふ三夕の糟粕を嘗めぬまでも、多くは寂しいといふことに捉はれ過ぎる傾がある。「うき人を又口說き見む秋の暮」「君と我うそに惚ればや秋の暮」といふやうな句は、一見この單調を破り去つたようで、實は心底の寂しさを紛らさうとする聲に外ならぬ。稚志のこの句が殆どすべてのものを離れて、一二點の星のみによつて秋の暮を描いたのは、この意味に於て異色ありといふべきであらう。作者は何ら自己の主觀を述べず、これ以外に何者の姿をも點じて居らぬが、天地に亙る秋暮の氣はひしひしと身に迫るやうに感ぜられる。

[やぶちゃん注:國木田獨步の「武藏野」(リンク先は私のサイトの最も古層に当たる電子化注。本未明、実に二十六年振りに大々的に正字不全及び誤りを訂した)の引用は「((二))」の以下。下線は原本では「○」、太字は「●」である。

   *

十一月四日――『天高く氣澄む、夕暮に獨り風吹く野に立てば、天外の富士近く、國境をめぐる連山地平線上に黑し。星光一點、暮色ようやく到り、林影漸く遠し。』

   *

「三夕」「新古今和歌集」の、

 寂しさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮

 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ澤の秋の夕暮れ 西行

 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ  定家

を指す。

「うき人を又口說き見む秋の暮」向井去来の句。私には、ちょっと生理的に厭な感じのする句である。

「君と我うそに惚ればや秋の暮」高濱虚子の明治三九(一九〇六)年九月十七日の詠。]

 

   しら菊をのぞけば露のひかりかな 春 曙

 

 白菊の大きな花――であらう――を覗いて見たら、花に置くこまかい露の光が眼に入つた、といふだけのことである。この句の特色は、菊に對して何者も配せず、ぢつと菊の花だけを見つめた――覗き込んだところに在る。この場合、赤菊でも黃菊でも面白くない、白菊ではじめて「露のひかり」が生きるのであるが、作者はさういふ商量を經たのでなしに、自分の覗いたのが白菊であつたから、そのまゝを詠じたのであらう。

 花の露といふやうな句は、いづれかと云へば美しい空想の下に詠まれたものが多い。この句はさういふ類ではなささうである。作者は白い菊の花と、それに置いた露の光の外、何も描いてゐない。讀者もそれだけを眼前に髣髴すれば足るのである。

 

2024/06/03

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 雞冠木

 

Momiji

[やぶちゃん注:図の右下方に「花」とキャプションした二つの花の図が配されてある。]

 

かへで   鷄頭樹

   【万葉】蝦蟇手木

雞冠木 【和名賀倍天乃木

       一云加比留提乃

       木】

もみち   俗通稱毛美知

 

△按本草綱目楓葉有岐作三角至霜後葉丹可愛則雞

 冠木亦楓之屬乎然楓花白色實大如鴨卵則與雞冠

 木花實迥異也猶朝鮮松子大而異常

 鷄冠木有數種髙者二三丈葉有尖岐如蝦蟇手大抵

 七八岐或九岐又有十三葉者謂之十二一重三四月

 嫩葉紅色映滿山五六月復靑葉深秋其葉黃落經歲

 者則五月開小黃花狀如飛蛾梢頭結實中子如牛蒡

 子和州龍田雍州髙雄山最多至秋葉丹赫耀天下賞

 美之凡草木秋乃紅葉者多有之而蝦手樹葉爲勝故

 只稱紅葉卽蝦手葉也猶只稱花則櫻花也花與紅葉

 左右之以悅人目者也然於中𬜻此二物似闕也

  万葉我か宿に黃變蝦手見る每にいもをかけつつ戀ぬ日はなし


八入    春嫩葉正赤色而四月復青葉

青海    葉大岐深而色甚鮮明五月復青葉

毛氊    同青海而葉稍小

野村    葉大而深紫色

透明    葉岐深而纖色常青

唐蝦蟇手  葉最大有十二三岐而青

𮈔垂蝦蟇手 枝葉靭垂似𮈔垂柳狀

 凡透明十二一重唐蝦蟇手之三種色青但在山中者

 至秋紅葉

                           貫之

 至秋紅葉 古今年毎に紅葉はなかす龍田川湊や秋のとまりらん

[やぶちゃん注:最終句は「とまりなるらん」であるが、どう見ても、「なる」はない。訓読では補った。]

 

   *

 

かへで   鷄頭樹《けいとうじゆ》

   【「万葉」。】蝦蟇手木(かえでの《き》)

雞冠木 【和名、「賀倍天乃木《かへでのき》」。

       一《いつ》≪に≫云《いふ》、

       「加比留提乃木《かひるでのき》」。】

もみぢ   俗、通《つう》して「毛美知《もみぢ》」と稱す。

 

△按ずるに、「本草綱目」、『楓《ふう》は、葉、岐《また》、有りて、三角《さんかく》を作《な》す、至霜≪の≫後《のち》、葉、丹《あか》く、愛すべし。』と云《いふ》時は、[やぶちゃん注:「云」「時」は送り仮名にある。後も同じ。]。則ち、雞冠木《かへで》も亦、楓《ふう》の屬か。然≪れども≫、『楓の花は、白色、實、大にして、鴨の卵のごとし。』と云《いふ》時は、則と、雞冠木の花・實と、迥(はる)かに異《こと》なり、猶を[やぶちゃん注:ママ。]、「朝鮮松」の子《み》、大にして、常に異なるか。

 鷄冠木、數種、有り。髙き者、二、三丈、葉、尖り、岐、有り、蝦蟇(かへる)の手のごとし。大抵、七、八岐、或いは、九岐≪なり≫。又、十三葉の者、有り≪て≫、之れを「十二一重(《じふに》ひとへ)」と謂ふ。三、四月、嫩葉《わかば》、紅色≪べにいろ≫≪して≫、滿山≪に≫映ず。五、六月、靑葉に復《かへ》る。深秋、其の葉、黃《きば》み、落つ。歲《とし》を經《ふ》る者は、則ち、五月、小≪さき≫黃花を開く。狀《かたち》、飛≪ぶ≫蛾《が》のごとし。梢≪の≫頭《かしら》に、實《み》を結ぶ。中の子《たね》、牛蒡(ごばう)の子のごとし。和州の龍田・雍州の髙雄山、最も多く、秋に至りて、葉、丹《あか》く、赫-耀《かがやき》、天下、之れを、賞美す。凡そ、草木、秋は、乃《すなはち》、紅葉する者、多く、之れ、有《り》。而《しかれども》、蝦手《かへるで》≪の≫樹、葉、勝れりと爲《な》す。故《ゆゑ》≪に≫、只《ただ》、「紅葉(もみぢ)」と稱するは、卽ち、蝦手の葉なり。猶を[やぶちゃん注:ママ。]、只、「花」と稱する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、「櫻花」のごとし。花と、紅葉《もみぢ》と、之れを、左右《さう》にして、以つて人≪の≫目を悅ばしむ者なり。然るに、中𬜻《ちゆうくわ》に於いては、此の二物《にぶつ》、闕(か)けたるに似るなり。

 「万葉」

   我が宿に

    黃變(もみづる)蝦手(かへるて)

      見る每(ごと)に

     いもをかけつつ

         戀(こひ)ぬ日はなし


「八入(やしほ)」  春の嫩葉(わかば)、正赤色にして、四月、青葉に復(かへ)る。

「青海(せいかい)」 葉、大きく、岐《また》、深くして、色、甚だ、鮮-明(あざや)かなり。五月、青葉に復る。

「毛氊(もうせん)」 「青海」に同じくして、葉、稍(やゝ)小さし。

「野村」       葉、大にして、深≪き≫紫色。

「透明(すかし)」  葉、岐、深くして、纖(ほそ)く、色、常に青し。

「唐蝦蟇手(からかへで)」 葉、最≪も≫大きく、十、二三≪の≫岐、有りて、青し。

「𮈔垂蝦蟇手(しだれかへで)」 枝葉、靭-垂(しなへた)れ、「𮈔垂柳(しだれ《やなぎ》)」の狀《かたち》に似たり。

 凡そ、「透明(すかし)」。・「十二一重」・「唐蝦蟇手」の三種は、色、青し。但《ただし》、山中に在る者≪は≫、秋に至りて、紅葉《もみぢ》す。

                      貫之

「古今」

    年毎(としごと)に

      紅葉(もみぢ)ばながす

     龍田川(たつたがは)

       湊(みなと)や秋の

          とまりなるらん

 

[やぶちゃん注:この「雞冠木」は、完全に良安主導で記しており、

ムクロジ目ムクロジ科カエデ属 Acer の多数の種

を指す(主な種はウィキの「カエデ」を参照されたい)。一応、「本草綱目」の「楓(ふう)」の記載を二箇所で引用しているものの、良安は、ここでは、かなりはっきりと、その「楓(ふう)」と「雞冠木(ももぢ/かへで)」は、花と実の違いから、全くの別種であることを、ほぼ認知していることが判る。前項「楓」で、それは、殆んど、明らかに認知していた。だからこそ、「楓」の標題下で、良安がバシッと、『俗、以つて「蝦手《かへで》の樹」と爲《な》すは、非なり』と断言していることからも、既にして明白であったのである。

 ここに出る「蝦蟇手の木」の表記には、ギョッとされた方も多いだろうが、当該ウィキにも本邦の漢字表記に「蛙手」を挙げており、冒頭でも、『名前の由来は、葉の形がカエルの手「蝦手(かへるで)」に似ていることから、呼び方を略してカエデとなった』とある。

「朝鮮松」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属 Strobus 亜属 Cembra 節チョウセンゴヨウ Pinus koraiensis の異名。所謂、「松の実」を採る種である。

「十二一重(《じふに》ひとへ)」

「和州の龍田」現在の奈良県生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)龍田(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「雍州の髙雄山」京都府京都市右京区梅ケ畑谷山川西(うめがはたたにやまかわにし)に頂上(四百二十八メートル)があり、その中腹に高野山真言宗の神護寺がある。

「中𬜻に於いては、此の二物、闕(か)けたるに似るなり」とあるが、無論、中国には桜も楓(かえで)もある。ただ、双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属 Cerasus(若しくはスモモ属 Prunus で、その場合は、その下にサクラ亜属 Cerasus を置く)は平安時代以後、特別な地位に立つようになり、盛んに栽培・品種改良が行われてきた歴史があり、その内、現代では、世界的に観賞用として広く植栽されているのが、圧倒的に江戸時代に生まれたソメイヨシノ Cerasus × yedoensis ‘Somei-yoshino’であるために、中国産のサクラは特に目立たないだけである。サクラはヒマラヤ原産と考えられているから、中国を経由して本邦に入ったものであろう。但し、中文ウィキの「花」は、明らかにベースを我が国の「サクラ」のウィキを基本ベースとしたものであり、菊とともに日本の国花の桜花が日本の侵略のイメージと通底しているためであろうから、文化的にはあっさりとしか書かれていない。カエデ属の中文の「枫属」も中国文化の記載は、ごく簡潔で、「賞楓」(本邦の「紅葉狩」)の項も、「中國」のパートには「八達嶺國家森林公園」・「香山公園」・「栖霞山」・「圭峰山國家森林公園」・「石门国家森林公园」・「西湖」の地域名を載せるにとどまっている。歴史の不幸な傷痕と言うべきか。

「万葉」掲げられた「万葉集」のそれは、「卷第八」の「大伴田村大孃(おほとものたむらのおほをとめ)の妹(いも)の坂上大孃(さかのうへのおほいらつめ)に與へたる二首」の二番目で(一六二三番)、

   *

 わが屋戶に

    黃變(もみ)つ鶏冠木(かへるで)

   見るごとに

       妹を懸けつつ

           戀ひぬ日は無し

   *

である。

「八入(やしほ)」「八汐」とも。カエデの園芸品種の一つ。イロハモミジ( Acer palmatum )系の小葉のカエデ。若芽は紅色で、若葉は淡紅色を帯びる。

「青海(せいかい)」非常に古くからある園芸品種。芽吹きが美しく、新葉から赤く色づき、後に赤茶色から黄緑・緑に変化し、夏は濃緑となる。秋、赤から橙色に紅葉する

「毛氊(もうせん)」「毛氈」は「千染」・「血汐」・「紅八房」・「血潮」等、さまざまな異名がある。早春は赤芽、徐々に葉の中心が緑色になり、縁が赤く残る。さらに夏には、緑一色になり、秋の紅葉は橙から黄色を呈する。

「野村」「野村紅葉」。イロハモミジの園芸品種(オオモミジ Acer amoenum var. amoenum の変種という説もある)で、江戸時代から庭木として使われ、春先から秋まで、やや紫がかった紅色の葉をつけるため、庭のアクセントとして使われることが多い。地域や環境によっては季節に応じて色が変化していく。)「野村」は人名ではなく、濃い紫の葉の色に由来する。嘗つては「武蔵野」と呼ばれていた。

「透明(すかし)」不詳。

「唐蝦蟇手(からかへで)」不詳。

「𮈔垂蝦蟇手(しだれかへで)」枝垂れモミジ。ヤマモミジ(イロハモミジ変種ヤマモミジ(ホンドウジカエデ) Acer palmatum var. matsumurae )の園芸品種で、枝が垂れるもの。

「𮈔垂柳(しだれ《やなぎ》)」キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ変種シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica

「古今和歌集」の紀貫之の歌は、「卷第五」の「秋歌下」の以下(三一一番)、

    *

  秋のはつる心を龍田川に思ひやりてよめる

 年ごとに

   もみぢばながす

    龍田川

      みなとや秋の

       とまりなるらむ

   *

「みなと」は龍田川が大和川に入って、やがて下って大阪湾に注ぐ場所を指す。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(9)

 

   名月や葛屋の軒のたりさがり 東 夷

 

「葛屋」は「言海」を見ると、「くさや、かややニ同ジ」とあつて、茅屋の字が宛ててある。葛といふ字に格別の意味は無いのであらう。草家の軒の傾いた樣を「たりさがり」と云つたものと思はれる。月下に茅屋を見る場合ではない、茅屋の內に坐して名月を望む場合である。さうでなければ「たりさがり」といふ言葉が、あまり利かぬことになつて來る。

「明月の御覽の通り屑家かな」といふ一茶の句は、茅屋より更に進んで「けちな家」といふ貶意を含んだものと思はれるが、これを讀むと、名月に對する「屑家」といふ對照的な考が先に立つて、肝腎なその家の樣子は一向眼に浮んで來ない。一茶一流の自嘲の氣が强過ぎる爲である。從つてこの句の裏には、御覽の通りの屑家ではあるが、名月を見るには何の妨も無い、といふ底意が窺はれる。芥川龍之介氏はかつて芭蕉と一茶とを比較して、

 「明月や池をめぐりて夜もすがら」とは芭蕉が

  明月の吟なれども、一茶は同じ明月にも、

  「明月や江戶のやつらが何知つて」と、氣を

  吐かざるを得ざりしにあらずや。

と云つたことがあるが、必ずしも芭蕉との比較において然るのみではない。茅屋に坐して名月を望むといふ狹い天地に於て、有名ならざる東夷の作と比較しても、その差は斯の[やぶちゃん注:「かくの」。]如く甚しいのである。芥川氏は元祿人と一茶との差異を以て人生觀の差異に歸し『元祿びとの人生は、自然に對する人生なり。一茶の人生は現世なり。今人の所謂「生活」なり。一茶を元祿びとと異らしむるは、この一點にありと云ふも誇張ならず』と斷じたが、この解釋はこゝにも當嵌るべきものと信ずる。

[やぶちゃん注:芥川龍之介の「一茶句集の後に」は、ネット上には前文の電子化物が存在しないことが判ったため、正字正仮名で、急遽、電子化注をブログで揚げておいた。]

 

   名月や何に驚く雉の聲 示 右

 

 句意は改めて說くまでもない、極めて明瞭である。名月の光の下に、突如として鋭い雉子の聲がする。あれは何に驚いたのであらうか、と云つたのである。

 月の光にうかれて鳴く阿房鴉[やぶちゃん注:「あはうがらす」。]の聲は、平凡であるだけに無事である。寢ぼけた雞の聲にしても格別のことはない。雉子の聲は銳いと同時に、どことなく尋常ならざるものがある。雉子を啼かしむる何者かのあることを想像させる。「何に驚く」の語の生れる所以であらう。

 

   つむ本の木口ぞ古き秋の暮 旦 藁

 

「木口」と書いてあるけれども、これは「小口」の意であらうと思ふ。座右に積んだ本の小口が悉く古びてゐる。作者は秋の暮に當つて、その古い小口にしみじみと目をとめたのである。

 書册を詠じた句の少からぬ中に在つて、書物の小口に注目したものは、この句の外に「待春や机にそろふ書の小口 浪化」しか今記憶に無い。きちんと揃へた書の小口に春を待つよろこびを感じ、積み重ねた書の小口の古びに秋の暮の寂しみを感ずる。いづれも俳諧の微妙な觀察であるが、平日書物に親しむ者でなければ、容易にこの種の趣は捉へ得ぬであらう。但この兩句を比較すると、趣に於ては浪化の方がまさつてゐるかと思はれる。

[やぶちゃん注:書狂の私は反対。旦藁(たんかう(たんこう))の方が、遙かにしみじみしていて好ましい。]

父遺品整理から

Titianndepanndan1982
記事は、父のメモがあり、朝日新聞社富山支局の五十嵐記者が昭和五七(一九八二)年二月十日に取材した、とある。

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 一茶句集の後に

[やぶちゃん注:初出単行本未詳(「一茶句集」不詳。国立国会図書館デジタルコレクションで調べたが、この執筆以前(後述)の同題の単行本は見当たらない。直近のものでは、前年の博文館明治三一(一八九八)年刊の『俳諧文庫』第十一編の中に「一茶全集」として「一茶發句集」・「一茶聯句集」・「俳文をらが春」があるから、これかとも思われる)。随筆集「點心」(龍之介最初の随筆集。大正一一(一九二二)年五月十五日金星堂刊。龍之介満三十歳)に収められている。大正一四(一九二五)年五月五日及び翌六日附の『東京日日新聞』に掲載されたもの。現在進行中の柴田宵曲「古句を觀る」の電子化注に必要となったので、急遽、作成した。

 底本は岩波旧全集第七巻(一九七七年十二月刊)に拠った。その本文底本は「點心」。なお、底本の「後記」に、底本に先行する岩波普及版では、文末に『(大正十一年一月)』(西暦一九二三年)のクレジットがあるとする。これが脱稿のそれだとすると、満二十九(龍之介は三月一日生まれ)で、この年の元日の発表作は「藪の中」「俊寬」「將軍」「神神の微笑」(リンクのあるものは私の古いサイト版)と傑作が目白押しである。また、前年の中国特派旅行の紀行「江南游記」(サイト一括版はこちらで、ブログ分割版はこちら)の『大阪毎日新聞』への連載も、この日に開始されている。

 注は、改行の後に挟んだ。]

 

 

  一茶句集の後に

 

 

 一茶句集今日一讀過。一讀過、畢に慊焉たり。

[やぶちゃん注:「今日」「こんにち」であろう。「畢に慊焉たり」「つゐにけんえんたり」で、「慊焉」は、満足と不満足との二様の意があるが、この場合は、書き振りから、「あきたらず思うさま・不満足なさま」の意である。]

 一茶の句は主觀句なり。元綠びとの句も主觀句なり。元綠びとと一茶と異るは、人生觀上の差違なるべし。元綠びとの人生は、自然に對する人生なり。一茶の人生は現世なり。今人の所謂「生活」なり。一茶を元綠びとと異らしむるは、この一點にありと云ふも誇張ならず。「明月や池をめぐりて夜もすがら」とは芭蕉が明月の吟なれども、一茶は同じ明月にも、「明月や江戶のやつらが何知つて」と、氣を吐かざるを得ざりしにあらずや。

 現世に執するの俳人、一茶の外にも少しとせず。談林江戶座の俳人中には、或は數指を屈するものあるべし。但彼等は一茶の如く、娑婆苦を吟ずるの道に出でず。出づるも彼の如く深刻なる能はず。一茶をして獨步せしむる所以なり。一茶も亦好漢たらずとせず。

[やぶちゃん注:「江戶座」前の「談林」とは切れているので注意。こちらは、芭蕉の死後、江戸で、都会趣味的な洒落と機知とを主とする句を作った俳諧の一派を指す。芭蕉の門人宝井其角に始まる。]

 されど人生に對する態度より云へば、一は生活を謳歌し、一は生活に惱めるにも關らず、一茶には談林江戶座の或者と、一味相通ずる特色あり。これ流俗も亦一茶を愛する所以、必しも一茶の爲に賀すべからず。

 既に元綠びとの句境あり。又一茶等の句境あり。その間の折衷を試みしもの、卽ち所謂月並みなり。月並みは膚淺を意味するのみにあらず。又隣の隱居の如き人生觀を交ふるを云ふなり。

[やぶちゃん注:「膚淺」(ふせん)は浅墓なこと。浅薄・膚薄。]

 更に人生に對する態度より云へば、元祿びとの法燈は、天明びとこれを繼ぎたりと云ふとも、一茶これを繼ぎたりと云ふべからず。天明びとは一茶よりも、直ちに自然に參したればなり。但予は夜半亭の屋高き事、俳諧寺の塔に勝れりとなさず。

[やぶちゃん注:「法燈」「ほふとう」と読む(「法」は一般語では歴史的仮名遣は「はう」であるが、仏教用語の場合は、「ほふ」と読む)。元語は「仏の正法が世の闇を照らすことを灯火に喩えて、一切衆生の迷いを救う仏法。」の意であるが、ここは、単に「作風」を言う。「夜半亭」は江戸時代の俳諧の一派の宗匠名。三代、続いた。一世は早野巴人(はやのはじん 延宝四(一六七六)年~寛保二(一七四二)年)で、名乗りは、晩年の元文二(一七三七)年に江戸日本橋本石町(ほんごくちょう)に「夜半亭」を構え、「夜半亭宋阿」と名乗ったことに始まり、二世は、かの与謝蕪村(享保元(一七一六)年~天明三(一七八四)年)で、明和七(一七七〇)年に宋阿の弟子であった蕪村が、宋阿の死後二十八年目に継承し名乗った。三世は蕪村の弟子であった高井几董(寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)が、蕪村没後三年目の天明六年に継承した(ここは当該ウィキに拠った)。]

 一茶には如上の特色あり。常世の人の一茶を愛する、亦故なきにあらずと云ふべし。石川啄木その歌集に題して「悲しき玩具」と云ふ。俳諧は恐らく一茶にも、「悲しき玩具」に過ぎざりしならん。一茶啄木の態度を以てせば、句を作り歌を作るは、委曲を盡して憾みなき事、終に小說を作るに若かず。予が句を讀み歌を讀むは、悲にあらず喜にあらず、人天相合する處、油然として湧く事雲の如き、無上の法味を甞めんが爲なり。試みに芭蕉を見よ。「秋深き隣は何をする人ぞ」這裡何處にか「生活」ある。ヴエルレエンの語を用ふれば「詩とはこれのみ、他は悉文學」にあらずや。一茶の句境未この醍醐を知らず。予の慊焉たる所以なり。

[やぶちゃん注:「如上」は「前に述べたこと・上述」の意。筑摩書房全集類聚版では、『じよじやう』とルビするが、確かにその読みもあるが、私は従えない。「によじやう」と読みたい。「甞めん」「なめん」。「這裡」(しやり(しゃり)で「這裏」とも書く。「這」は「此の」の意で、「このうち・この間(かん)」。]

[やぶちゃん後注:私はこの龍之介の見解には、非常に同感する。一茶は嫌いではないが、芭蕉と比しては、俗に執し過ぎて、話しにならない。なお、底本の「後記」によれば、

・「生活に惱めるにも」の部分は、普及版全集では『生活に苦惱せるにも』。

・「但予は夜半亭の屋高き事、俳諧寺の塔に勝れりとなさず。」の部分は普及版全集では『但夜半亭の屋高きか、俳諧寺の塔高きか、未疑なきにあらず。』。

であるとある。]

2024/06/02

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 楓

 

Okatura

[やぶちゃん注:図の下方に実の図が配されてあり、右下方に「大楓子」(だいふうし)の実のキャプションが附されてある。]

 

おかつら   攝攝【爾雅】

       【和名乎加豆良】

【音風】

      【俗以爲蝦手

       樹者非也】

フヲン

 

本綱楓南方髙山中甚多其木枝幹修聳大者連數圍木

性甚堅有赤有白白者細膩葉圓而作岐有三角而香二

月有花白色乃連着實大如鴨卵其實成毬有柔刺至霜

後葉丹可愛其枝弱善𢳸故字從風五月斫其木爲坎十

[やぶちゃん注:「𢳸」は底本では(つくり)の下半分が「正」の字になっている。このような異体字は見当たらないので、これに代えた。]

一月采脂其脂爲白膠香【梵書謂之薩闍羅婆香】

爾雅注云楓脂入地千年爲琥珀【楓菌有毒食之令人笑不止地漿解之】

黃帝殺蚩尤於黎山之丘擲其械于太荒之中化爲楓木

 之林【楓木歳久生瘤如人形遇暴雷驟雨則暗長三五尺謂之楓人或云化爲羽人】

白膠香【辛苦平】 治一切癰疽瘡疥金瘡生肌止痛吐血咯

[やぶちゃん注:「咯」は「喀」の異体字。]

 血燒過揩牙永無牙齒疾爲外科要藥

[やぶちゃん注:ここは、「本草綱目」自体が杜撰で、良安は「治」を補っているが、それでも、後の方の「痛吐血咯血」の頭に「治」がないと読めない。訓読では補った。

大楓子【甘熱】 主癘風癰疥殺蟲

△按倭名抄云楓【和名乎加豆良】有脂而香【一名攝】桂【和名女加豆良】〕以爲

 楓與桂如雌雄矣然未知其𢴃也又本草綱目喬木下有大風子恐此大楓子重出者乎

大風子【辛熱有毒】 能治大風疾故名之南方有之大樹之子

 狀如椰子而圓其中有核數十枚大如雷丸子中有仁

 白色久則黃人取其油名大風油可以和藥

 本草必讀醫學入門皆以大風子附乎大楓樹下【丸藥去壳紙槌去油如瘡藥帶油】

[やぶちゃん字注:「壳」は「殼」の異体字。]

 近世倭方治癩病爲君藥以他藥佐之多有奇効其油

 和藥傅疥癬諸瘡及虱瘡亦有効藥肆僞稱雷丸油今

 禁虛名直稱大風子油暹羅交趾柬埔寨多來

 

   *

 

おかつら   攝攝《しようしよう》【「爾雅」。】

       【和名、「乎加豆良《をかつら》」。】

【音「風」。】

      【俗、以つて「蝦手《かへで》の

       樹」と爲《な》すは、非なり。】

フヲン

 

「本綱」に曰はく、『楓《ふう》は、南方、髙山の中、甚だ、多し。其の木、枝・幹、修聳《しゆうしよう》≪し≫、大なる者、數圍《すうゐ》を連《つら》≪ぬ≫。木の性、甚だ、堅く、赤き有り、白き有り、白きは、細≪やかなる≫膩《あぶら》なり。葉、圓《まどか》にして、岐(また)を作《なし》、三角、有りて、香《かんば》し。二月、花、有り、白色。乃(すなは)ち、實《み》を連着《れんちやく》す。大いさ、鴨(かも)の卵(たまご)のごとし。其の實、毬(まり)を成す。柔《やはらか》なる刺(はり)、有り。霜≪の≫後《のち》に至りて、葉、丹(もみぢ)して、愛しつべし。其の枝、弱くして、善《よ》く𢳸《ゆら》ぐ。故に、字、「風」に從ふ。五月、其の木を斫(はつ)り、坎《あな》を爲《つく》る。十一月、脂(やに)を采《と》るや、其の脂を「白膠香」と爲《な》す【梵書、之れを、「薩闍羅婆香《さつじやらば》」と謂ふ。】』≪と≫。

『「爾雅注」に云はく、『楓脂、地に入りて、千年して、「琥珀」と爲《な》る』≪と≫【楓菌、毒、有り。之れを食へば、人をして、笑《わら》ひて止まずせしむ。「地漿《ちしやう》」、之れを解す。】。

[やぶちゃん注:この割注は、恐らく良安の附記である。以下の一段は「本草綱目」からの引用ではない。出典は判らないが、割注を除く本文は、調べた限りでは、王瓘述 韓若雲撰になる「軒轅黃帝傳」に酷似した文字列があった。「維基文庫」の「軒轅黃帝傳」に『既擒殺蚩尤,乃遷其庶類善者於鄒屠之,其惡者以木械之。帝令畫蚩尤之形於旗上,以厭邪魁,名蚩尤旗。殺蚩尤於黎山之丘』。『擲械於大荒中宋山之上,其後化為楓木之林。』である。

『黃帝、蚩尤《しゆう》を黎山《れいざん》の丘に殺す。其の械(あしかせ)を太荒の中に擲(なげう)つ。化して楓木の林と爲《な》れり。』≪と≫【楓木の、歳《とし》久≪しくして≫、瘤《こぶ》を生ず。人≪の≫形《かたち》のごとし。暴雷・驟雨に遇へば、則ち、暗《ひとしれず》≪して≫、長《たけ》、三、五尺≪となれり≫。之れを「楓人」と謂ふ。或いは、云ふ、『化して、羽人《うじん》』と爲《な》る。」≪と≫。】。

[やぶちゃん注:以下は「本草綱目」に戻る。]

『白膠香【辛苦、平。】 一切の癰疽《ようそ》・瘡疥・金瘡《かなさう》を治す。肌を生《いきかへ》らせ、痛みを止め、吐血・咯血を治す。燒過《やきすご》して、牙《は》に揩《ぬ》れば、永く、牙齒《がし》の疾ひ、無し。外科の要藥と爲《な》す。』≪と≫。

[やぶちゃん注:以下は「本草綱目」に認められない。]

『大楓子【甘、熱。】 癘風《れいふう》・癰疥《ようかい》を主《つかさど》り、蟲を殺す。』≪と≫。

△按ずるに、「倭名抄」に云はく、『楓《ふう》【和名「乎加豆良《をかつら》」。】、脂《あぶら》有りて香し【一名「攝《しよう》」。】。桂《けい》【和名「女加豆良《めかつら》」。】〕』と以≪つて≫爲《し》、「楓」と「桂」とは雌雄のごとし。然れども、未だ其の𢴃《よりどころ》を知らざるなり。又、「本草綱目」、「喬木」の下に「大風子《だいふうし》」、有り。恐らくは、此れ、「大楓子」を重出する者か。

大風子【辛、熱。毒、有り。】 能く、大風疾を治する故、之を名づく。南方に、之れ、有り。大いなる樹の子(み)≪にして≫、狀《かたち》、椰子(やしぼ)のごとくにして、圓《まろ》く、其の中に、核《たね》、數《す》十枚、有り、大いさ、「雷丸《らいぐわん》」の子《み》のごとし。中に仁《さね》有り、白色。久《しくすれば》、則ち、黃なり。人、其の油を取りて、「大風油《だいふうゆ》」と名づく、以つて、藥に和すべし。

 「本草必讀」・「醫學入門」、皆、「大風子」を以つて「大楓樹」の下《もと》に附す【丸藥には、壳《から》を去り、紙槌《しつい》≪には≫、油を去り、瘡藥のごときは、油を帶《お》ぶ≪やうにさす≫。】

 近世、倭方≪にては≫、癩病を治する「君藥《くんやく》」と爲《な》し、他藥を以つて、之れを佐《たすけ》として、多く、奇効、有り。其の油、藥に和して、疥癬・諸瘡、及び、虱瘡《しつさう》に傅《つ》く。亦、効、有り。藥肆《くすりみせ》、僞りて、「雷丸《らいいぐわん》の油」と稱す。《→せしも、》今、虛名を禁じて、直《ぢき》に「大風子の油」と稱す。暹羅《シヤム》・交趾(カウチ)・柬埔寨(カボジヤ)≪より≫、多く來たる。

 

[やぶちゃん注:「楓」(フウ)は、良安が『俗、以つて「蝦手《かへで》の樹」と爲《な》すは、非なり』は、その点では、極めて正しい。これは我々に親しいムクロジ目ムクロジ科カエデ属 Acer のそれとは、全くの別種の、

ユキノシタ目フウ科フウ属フウ Liquidambar formosana

を指すからである。

 なお、東洋文庫では、訳の中で、『楓(マンサク科)』とするが、これは、嘗つての旧分類である「クロンキスト分類体系」(Cronquist system:一九八〇年代にアーサー・クロンキスト(Arthur Cronquist)が提唱した被子植物の分類体系)によるもので、一九九〇年代以降、DNA解析による分子系統学が大きく発展し、一九九八年に公表された被子植物の新しい分類体系「APG植物分類体系」(Angiosperm Phylogeny Group:「被子植物系統グループ」)ではユキノシタ目に統合され、フウ属と、その近縁の属は、「フウ科」に分離されたからである(東洋文庫版『和漢三才図会』全十八巻は、一九八五年から一九九一年にかけて全巻が刊行されたが、本項を含む第十五巻(私の所持するものは初版)は一九九〇年の発行)。

 ウィキの「フウ」によれば、『公園樹や街路樹にされる。別名、サンカクバフウ(三角葉楓)、タイワンフウ(台湾楓)』、『イガカエデ(伊賀楓)、カモカエデ(賀茂楓)。古名、オカツラ(男桂)』。『種小名 formosana は「台湾の」の意味』(「台湾語」は英語で“Taiwanese”又は“Formosan”である)で、『属名の Liquidambar はリキッド・アンバー(「液体の琥珀」の意)で、その樹皮から香りのよい樹脂が採れることにちなむ』。『そのため、中国名では楓香樹の名がある』(中文ウィキ「枫香树」を見られたい)。『また』、『中国名の別名では漢字で「楓」(楓樹』『)と書き、和名はその音読みを由来とする』。『日本では古来、「楓」の字を「カエデ」と訓むが、本来の楓は本項目のフウのことを指し』、『カエデを表す漢字は槭である』。『原産地は台湾、中国南東部』で、『日本には江戸時代中期、享保年間』(一七一六年~一七三六年)『に渡来し、珍しい樹として江戸城と日光に植えられたのが始まりである』。『植栽は日本全土に分布し』、『関東地方以南で使われている例が多い』とある。

 しかし、以上の渡来期が大いに問題であり、また、冒頭の和訓「をかつら」が、甚だ、気になるのである。何故なら、「フウ」が渡来する「和漢三才図会」成立は正徳二(一七一二)年だからであり、「をかつら」は「楓」「男桂」「雄桂」「牡桂」であり、更に、良安は和名を「乎加豆良《をかつら》」としているからである。これらの日本語は、実は、

ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum

を指すからである。本草学者とはいえ、本書が完成したフウの渡来の四年前に良安がフウとカツラが異なる種であることを認識していた可能性は、絶望的に――ない――と思われるからである。それは、今までの本巻の多くが、日中である漢字が種を異なることを見てきた。ここも、それを良安が認識していない(「本草綱目」の記載の解説に変だなと思う部分はあったことは大いに感じられるが)ことは、明白々である。我々は、またしても、そうした部分を批判的に読まないと、墓穴を掘ることとなることを認識して、各自で、読まれたい。私は植物に冥く、漢方にも通じていない。されば、錯誤の総てを指摘することは、不可能であるからである。

「爾雅」既出既注だが、再掲しておくと、中国最古の類語辞典・語釈辞典・訓詁学書として知られるもの。漢字は形・意味・音の三要素から成るが、その意味に重点をおいて書かれたもので、著者は諸説あり、未詳。全三巻。紀元前二〇〇年頃の成立。以後の中国で最重視され、訓詁学・考証学の元となった。後世の辞典類に与えた影響も大きい書物である。

 「本草綱目」の引用は、未だ「漢籍リポジトリ」が一向に作動しないので、「維基文庫」の電子化物で調べたところ、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「楓香脂」の独立項であるが、既に原文で注した通り、良安は、「本草綱目」以外のものから投げ込んだり、彼自身の割注を入れ込んだりしている。

「修聳《しゆうしよう》」長く・高く(「修」)、聳(そび)えること。

「白膠香」本邦では「白膠木」というと、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis を指すが、同種との関係ない。

「薩闍羅婆香」「大蔵経データベース」で検索したところ、「行林抄」と「傳受集」でヒットした。

「爾雅注」「爾雅注疏」。全十一巻。晋の郭璞注と、北宋の邢昺(けいへい)疏になる「爾雅」の注釈書。東洋文庫の書名注には、『大変すぐれたもので、後世の人々から注疏の手本とされている』とあった。

『楓脂、地に入りて、千年して、「琥珀」と爲《な》る』琥珀は地質時代の樹脂の化石であるから、「正しいですが、気の遠くなるドライヴが必要でっせ?」。

「楓菌」菌界担子菌門ハラタケ綱ハラタケ目オキナタケ科ヒカゲタケ属ワライタケ Panaeolus papilionaceus のことであろう。私の「耳囊 卷之三 楓茸喰ふべからざる事」の私の注を見られたい。ただ、ワライタケのことを、当時、「楓菌」(かえできのこ?)と俗で呼んでいたから、ただ「楓」繋がりだけで良安が要らぬ脱線割注をしたことが、これで知れる。

「地漿《ちしやう》」東洋文庫の割注では、『(地から湧き出る水)』とするが、どうも不審であったので、調べたところ、中文の「維基文庫」の「地浆水」(=地漿水)に、『伝統的な漢方薬の原料』とし、『製造方法は、地中を』九十一センチメートル『ほど掘り、黄土層に真水を注入して混合し、清澄後、取り出した水が地漿水となる』とする。そこで、「本草綱目」を引いて、『地漿水は中毒とそれによる煩悶を和らげ、総ての魚・肉・果物・野菜・薬物・諸種の細菌の毒素を和らげ』、また、『打ち身や食中毒の治療にも使われるとも言われている』とあった。「中國哲學書電子化計劃」の「本草綱目」の「水部」第五巻の「地水類」の「地漿」であった。国立国会図書館デジタルコレクションの読み易い現代語訳の『国訳本草綱目』第三冊(鈴木真海訳,・白井光太郎校注/一九七四年春陽堂書店刊)の当該部を示しておく。要らぬ割注に、要らぬお世話をしてしまったわい。

「黃帝」中国古代の伝説上の帝王。三皇五帝のひとり。姓は公孫。軒轅氏とも、有熊氏ともいう。蚩尤の乱を平定し、推されて天子となる。舟・車・家屋・衣服・弓矢・文字をはじめて作り、音律を定め、医術を教えたという。

「蚩尤」中国神話の戦闘神。斉国(現在の山東省)の神とされ、銅頭鉄額・人身牛蹄。黄帝と涿鹿(たくろく)の野で戦い、大風雨を起こしたが、黄帝は旱(ひでり)の神である魃(ばつ)の助けで、蚩尤を誅殺したとされる。

「黎山」一つのモデル候補は、陝西省西安市の郊外、秦嶺山脈の驪山(りざん)である(グーグル・マップ・データ航空写真)。なお、東洋文庫では、後注で、『『史記』五帝本紀の「索隠」には、黄帝が応龍に命じて蚩尤を殺させたのは凶黎の谷とある。『山海経』の「大荒東経」では凶犂土丘となっている』とある。

「楓人」小学館「日本国語大辞典」に、本邦では、『楓(かえで)の老木に生ずるこぶの大きなもの。その形が人に似ているところからいう』ある。なお、白居易の「送客春遊嶺南二十韻」に『雨黑長楓人』と使われている。中文の「古诗句网」のこちらを見られたい。

「羽人」仙人の別称。

「燒過《やきすご》して」充分に焼いて。

「癰疽」悪性の腫れ物。「癰」は浅く大きく、「疽」は深く狭いそれを指す。

「瘡疥」この場合は、前が前だから、現代の小児や若者の顔に生じる「はたけ」(疥・乾瘡:顔面単純性粃糠疹 (ひこうしん))ではなく、厚い痂皮(かひ)を生じて木の皮のようにポロポロと剥がれ落ちる乾燥性の強い重度の皮膚炎を指しているように思われる。

「大楓子【甘、熱。】 癘風《れいふう》」(癩病)「・癰疥《ようかい》」(瘡を生ずる重い腫れ物。東洋文庫訳は『疥癬(疥癬虫によって起こる皮膚病・ひぜん)』とするが、採らない)「を主《つかさど》り、蟲を殺す』ここは、既に「本草綱目」に認められないと注したが、良安は後の評で、わざわざ、『「本草綱目」、「喬木」の下に「大風子《だいふうし》」、有り。恐らくは、此れ、「大楓子」を重出する者か』と言っているところが、確信犯であるから、奇妙である。実は、「本草綱目」の「楓香脂」(結構、記載が長い)には、「附方」に、

   *

【新一】大風瘡【楓子木燒存ㇾ性研硏粉等分麻油調搽極妙章貢有二鼓角匠一病此一道人傳方遂愈 「經驗良方」】

   *

があり(以上は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本の「本草綱目 補註 下卷一」(多紀永寿院安元著・多紀鶴郎・永島忠編/大正五(一九一六)年半田屋出版部刊)の当該部を視認した)があるので、これを良安が見間違えたか、或いは、本邦の版元が、誤って「瘡」を「子」と彫ったものかも知れないと、ちょっと、思った。

『「倭名抄」に云はく、『楓《ふう》【和名「乎加豆良《をかつら》」。】、脂《あぶら》有りて香し【一名「攝《しよう》」。】。桂《けい》【和名「女加豆良《めかつら》」。】〕』源順の「和名類聚鈔」のそれは、「卷二十」の「草木部第三十二」の「木類」の「第二百四十八」に二つを並べて、

   *

楓 「兼名苑」云、『楓、一名欇【「風」「摂」二音。和名「乎加豆良」。】「爾雅」云、有脂而香謂之楓。

桂 「兼名苑」云、『桂、一名梫【「計」「寑」二音。和名「女加豆良」。】。

   *

とあるのを、指す。この良安の不審は、如何にも御尤も、である。

「大風子」大風子油(だいふうしゆ)のこと。当該ウィキによれば、キントラノオ目『アカリア科(旧イイギリ科)ダイフウシノキ属』 Hydnocarpus 『の植物の種子から作った油脂』で、『古くからハンセン病の治療に使われたが、グルコスルホンナトリウムなどスルフォン剤系のハンセン病に対する有効性が発見されてから、使われなくなった』とあり、『日本においては江戸時代以降』、「本草綱目」『などに書かれていたので、使用されていた。エルヴィン・フォン・ベルツ、土肥慶蔵、遠山郁三、中條資俊などは』、『ある程度の』ハンセン病への『効果を認めていた』とある。

「大風疾」この「大風」は、中国で歴史的に梅毒の異名として用いた語である。中文の「ハンセン病」の「維基百科」の「麻风病」の「中国歷史的情况」を見られたい。

「椰子(やしぼ)」底本のルビは「ヤシホ」であるが、私は、これ、「椰子(ヤシ)ノ坊主(バウズ)」の当時の口語の短縮形であろう「ヤシノボウ」の「ノ」と「ウ」が省略したものと判断した。

「雷丸《らいぐわん》」竹に寄生するサルノコシカケ科カンバタケ属ライガンキンPolyporus mylittae の茸(きのこ)の菌体。直径一~二センチメートルの塊状を成す。回虫・条虫等の駆虫薬にされる。

「本草必讀」東洋文庫の巻末の「書名注」に、『「本草綱目必読」か。清の林起竜撰』とある。なお、別に「本草綱目類纂必讀」という同じく清の何鎮撰のものもある。この二種の本は中文でもネット上には見当たらないので、確認出来ない。

「醫學入門」明の李梃(りてい)撰の医学書。全七巻・首一巻。参照した東洋文庫版の書名注に、『古今の医学を統合し、医学知識全般について述べた書』とある。ネット検索では一五七五年刊とする。

「紙槌《しつい》」「鉄槌」から連想するに、紙で作った槌(つち)で、それに薬物を湿らせて患部を叩くものか。

「君藥」主薬。

「佐《たすけ》」補助薬。それにしても、良安先生、結局、「楓」とちゃう「大風子」の話で終わってるのは、ちょっとヘン!]

2024/06/01

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 必栗香

 

Hituritukou

 

ひつりつかう 花木香

       詹香

必栗香

 

 

本綱必栗香生髙山中葉如老椿擣置上流魚悉暴腮而

死木爲書軸白魚不損書也

 

   *

 

ひつりつかう 花木香《くわぼくかう》

       詹香《せんかう》

必栗香

 

 

「本綱」に曰はく、『必栗香は、髙山の中に生ず。葉、老椿《おひつばき》のごとし。擣《つ》きて、≪川の≫上流に置けば、魚、悉く、腮(えら)を暴《さら》して死す。木を書軸と爲《す》れば、白-魚(しみ)、書を損ぜざるなり。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:前の実在しない「櫰香」と同じく、良安の評がない。前項で語れなかったことから、これもろくにディグぜず、放置プレイしたものか? しかし、これは、本邦にもちゃんと植生する、

ブナ目クルミ科ノグルミ(野胡桃)属ノグルミ Platycarya strobilacea

のことである。日中でも同種であることは、台湾のサイト「百草谷藥用植物園」の「化香樹」に上記学名を掲げ、「別名」として、筆頭に『必栗香』を挙げ、以下『化香木、詹糖香、詹香、台灣化香樹、花果兒樹、放香樹、還香樹』とあり、更に、『根部可供藥用』とし、『葉、果有毒』とあり、『浸液可殺虫、毒魚、葉可為驅蟲劑』、『根部碾末可供藥用』とあったから、確実である。ウィキの「ノグルミ」によれば、『中国中南部、台湾、朝鮮半島、日本(東海以西の本州、四国、九州)に分布する』。『日当たりの良いところを好む』。『落葉広葉樹の高木で、幹は直立して樹高は』十~二十『メートル』『くらい、直径は』六十『センチメートル』『くらいになる』。『樹皮は黒褐色で縦に細かく裂ける』。『一年』の『枝はやや太く、多数の皮目があり、無毛か』、『まばらに毛が残る』。『葉は互生で、奇数羽状複葉』。『花期は』六『月ごろ』で、『風媒花であり、風に乗せて花粉を運ぶ。雌雄同株』。『果実は革質の硬い鱗片で覆われ、形状は長楕円形でハリネズミに似ている』。『これは、トゲトゲしていて触ると痛いし、食用にもならない。冬でも枝の先に果穂が残る』。『冬芽は卵形で短毛があり、上部の芽鱗はときに黄褐色を帯びる』。『枝先の頂芽は側芽よりも大きく、側芽は枝に互生する』。『葉痕は心形や腎形で、維管束痕が』三『個つく』とあって、『建築材、器具材にする』。『樹皮から抽出するタンニンは皮をなめすのに利用された』。『ノグルミを燃やすと』、『特有の芳香があり』、本邦の『中国地方や九州地方では福の神を呼ぶため大晦日や節分にこれを焚く風習があった』、『昔は、樹皮や枝葉を砕いて魚毒にした』とある。調べたところ、ノグルミの持つ魚毒成分はナフトキノン(naphthoquinone)というナフタレン環骨格をもつキノンであることが判った。

 「本草綱目」の当該部は、未だ「漢籍リポジトリ」が一向に作動しないので、「維基文庫」の電子化物で調べたところ、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「必栗香」の独立項で見た。短いので、やや表記に手を加えて掲げておく。

   *

必栗香(「拾遺」)

【釋名】花木香、詹香。

【集解】藏器曰「必栗香生高山中。葉如老椿、搗置上流、魚悉暴腮而死。木白魚不損書也。」。

【氣味】辛、溫、無毒。

【主治】鬼疰心氣、斷一切惡氣、煮汁服之。燒爲香、殺蟲、魚(藏器)。

   *

「椿」ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ(ツバキ) Camellia japonica 中文ウィキでも同種であるが、中国語では「山茶花」である中文の当該種のウィキを参照されたい)。ウィキの「ツバキ」には、『日本における海岸近くの山中や、雑木林に生える代表的な野生種を』特に『ヤブツバキとよんでいる』。『植物学上の種(標準和名)であるヤブツバキ』『の別名として、一般的にツバキと呼んでおり』、『またヤマツバキ(山椿)の別名でも呼ばれる』『日本内外で近縁のユキツバキから作り出された数々の園芸品種、ワビスケ、中国・ベトナム産の原種や園芸品種などを総称的に「椿」と呼ぶが、同じツバキ属であってもサザンカを椿と呼ぶことはあまりない。なお、漢字の「椿」は、中国では霊木の名で、ツバキという意味は日本での国訓である』。『ヤブツバキの中国植物名(漢名)は、紅山茶(こうさんちゃ)という』とあった。なお、「椿油」の項には、『椿油は、種子(実)熱を加えずに押しつぶして搾った油で』、『「東の大島、西の五島」の名産品としてもよく知られている』。『高級食用油、機械油、整髪料、養毛剤として使われるほか』、『古くは灯りなどの燃料油としてもよく使われた。ヤブツバキの種子』『から取る油は高価なため、同じくツバキ属の油茶などから搾った油もカメリア油の名で輸入されている。また、搾油で出る油粕は川上から流して、川魚、タニシ、川えび等を麻痺させて捕獲する毒もみ漁に使われた』とあり、最後にノグルミとの意外な通性が確認出来るが、ツバキの方の魚毒成分は、ナマコ類が持つそれと同じサポニン(saponinである。

「鰓(えら)を暴《さら》して死す」東洋文庫訳では、『鰓(えら)を痛めて死ぬ』とあるが、採らない。私の訓の方が、毒揉みの凄惨な様子がよく伝わると考えるからである。

「白-魚(しみ)」節足動物門昆虫綱シミ目 Thysanura のシミ類で、シミ科 Lepismatidae・ムカシシミ科 Lepidotrichidae・メナシシミ科 Nicoletiidae・Maindroniidae 科に分かれる。ここは時珍の記載だから、そこまでである。中国に分布するシミ類のリストはネット上では見出せなかった。因みに、本邦で現在よく見かける在来種は、シミ科ヤマトシミ属ヤマトシミ Ctenolepisma villosa(やや褐色を呈し、日本在来の室内種)と、同属のセスジシミ Ctenolepisma lineata(茶褐色で光沢に乏しく、背に縦線模様を持つ)であるが、近年は移入種であるセイヨウシミ属セイヨウシミ Lepisma saccharina(銀白色を呈する)の方が在来種よりも優勢である。但し、「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 衣魚(シミ)」の私の注で述べた通り、シミ類は、古くから、書物を有意に食害するとされたが、実際には顕在的な食害は殆んど認められないのが事実で、それは冤罪の部類と言ってよく、シミの食い痕とされるものの多くは、木質部や紙にトンネルを掘り、或いは標本類をバラバラになるまで著しく食害するところの、多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae に属する「死番虫」類が真犯人である。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(8)

 

いなづまにはつと消たる行燈かな 窓 竹

 

 理窟を云へば稻妻と行燈の燈が消えるのと、別に關係があるわけではない。たゞ稻妻がぴかりとさす、行燈の灯がぱつと消える、といふ倏忽[やぶちゃん注:「しゆくこつ」。時間が極めて短いさま。]の感じを捉へたところに、この句の面白味があるのである。

 行燈の消えたのは油が盡きた爲か、風でも吹いて來た爲か、それはいづれでも差支無い。窓を射る稻妻と、ぱつと消える行燈とが同時でありさへすればいゝのである。寸隙を容れぬ瞬間の印象がよく現れてゐる。

[やぶちゃん注:句の「行燈」は「あんど」(「あんどん」の音変化で、よく使われる)と読んでおき、本文は「あんどん」で読んでおく。]

 

   接待や欠がちなる晝さがり 畏 計

 

 攝待といふのは「佛寺或は街衢がいくにて往來の人に茶湯を施すこと」と歲時記にある。日は別に定つて居らぬらしい。

 この句は攝待する側の人を描いたものである。佛寺であるか、街衢であるか、それはわからぬ。通行の人は次から次へと來て、茶に咽喉を潤して去る。いづれ酌むに任せ、飮むに任せてあるに相違無いから、攝待する側の人はたゞそこに詰めてゐるものと思はれる。晝下りは由來最も眠くなり易い時刻である。秋の日と雖もその點に變りは無い。若し殘暑の去りやらぬ時分でもあれば尙更であらう。攝待する側の人が閑殺されたやうな形で欠(あくび)ばかりしてゐるといふのも、慥に同情に値する事實である。攝待の句としては變つた種類のものと云はねばならぬ。

 

   いわし寄る波の赤さや海の月 桃 首

 

 魚の大羣の寄せて來る時は海の色が變るといふ。それは晝間のことであらうが、月下にも同樣であるかどうか、不幸にしてまだ見たことが無いから、何とも斷言は出來ない。月明の夜であつたら、潮の色が變つて見えるのかも知れぬ。この句はどうしても空想に成つたものではなささうである。

「鰊羣來」といふ言葉が頻に俳句に用ゐられたことがあつた。幸田露伴博士の說によると「クキル」といふのは古い言葉らしい。「北海道では今、羣來の二字を充てるが、古は漏の字を充ててゐる。鯡のくきる時は漕いでゐる舟の櫂でも艫でも皆かずの子を以てかずの子鍍金[やぶちゃん注:「めつき」。]をされてしまふ位である」と書いてある。この句は羣來の語を用ゐずに羣來を描いたので、それだけ景色が大きくもなり、ゆとりがあるやうにも感ぜられる。或は夜景の爲かも知れない。

[やぶちゃん注:「鰊群來」は「にしんくき」と読み、鰊(硬骨魚綱骨鰾(ニシン)下区ニシン上目ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii )が産卵のため、三~四月頃、主に北海道西岸に回游して来て、その放つ精液で海面が乳白色に見える現象を指す。「春」の季語であったが、参照した小学館「日本国語大辞典」によれば、初出の実例句は、山口誓子の句集「凍港」(昭和八(一九三二)年刊)の、

   *

 どんよりと利尻の富士や鰊群來(にしんくき)

   *

で、近代の新しい季語であるが、ニシン漁衰退で季語として死語となってしまった。しかし、去年、それが北海道で珍しく見られたのを、私はNHKの自然番組で見、感激した。

「幸田露伴博士の說によると……」この露伴の引用は、随筆「華嚴瀧」の「七」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの幸田露伴「鷲待庵物語」(昭和二四(一九四九)年刊・朝日新聞社『朝日文庫5』)のこちらで正字正仮名で視認出来る。引用は右ページ後ろから三行目からであるが、その直前に『車は夕暮に迫つて菖蒲が濱から歌が濱へと走つたが、この間のドライブは實に愉快である。右は中禪寺湖なり、左は男體山なり、道は好し、樹木の茂れる中を走るのであるから、そのさわやかさは幾度も繰返して味はひたいと思ふくらゐである。車中から偶然(ふと)見る湖岩に漣波(さざなみ)が立つて赤腹(あかはら)といふ小魚が群騷いでゐる。產卵のために雌魚が夢中になつてゐるのである。古い語で「タキル」とこれをいふ』とあって、引用部が続く。「タキル」は「たぎる」で「滾る」「沸る」であろう。なお、「博士」とあるが、当該ウィキによれば、露伴は学歴は逓信省電信修技学校卒で、文学は独学。明治四一(一九〇八)年(年)、京都帝國大学文科大学初代学長の旧友狩野亨吉に請