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2022/05/21

「今昔物語集」巻第二十 讃岐國女行冥途其魂還付他身語第十八

 

[やぶちゃん注:テクストは「やたがらすナビ」のものを加工データとして使用し、正字表記は芳賀矢一編「攷証今昔物語集 中」の当該話で確認した。所持する小学館「日本古典文学全集」(三)を参考にした。読み易さを考えて、読みの一部を送り出したり、漢字をひらがなにしたりし、また、段落等も成形した。なお、本篇には原拠があり、平安初期の仏教説話集「日本靈異記(にほんりやういき)」(正しくは「日本國現報善惡靈異記』。全三巻。薬師寺の僧景戒(きょうかい)の著。弘仁一三(八二二)年頃の成立。雄略天皇から嵯峨天皇までの説話百十六条を年代順に配列する。その多くは善悪の応報を説く因果譚)の中巻の「閻羅王の使(つかひ)の鬼、召す所の饗(あへ)を受けて恩を報いる緣(えん)第二十五」である(同書は私の偏愛する一書である)。国立国会図書館デジタルコレクションの「群書類從」の第拾七輯のこちらで活字で読める(漢文訓点附き)。そちらでは、時代設定を聖武天皇の治世(神亀元(七二四)年~天平感宝元(七四九)年)とする。]

 

  讃岐國(さぬきのくに)の女(をむな)冥途に行きて其の魂(たましひ)還(かへ)りて他(ほか)の身に付く語(こと)第十八

 

 今は昔、讃岐の國山田の郡(こほり)に、一人の女(をむな)、有りけり。姓(しやう)は布敷(ぬのしき)の氏(うぢ)。

 此の女、忽ちに身に重き病ひを受けたり。然(しか)れば、直(うるは)しく□味[やぶちゃん注:「百味(ひやくみ)」が擬せられる。いろいろな御馳走の意。]を備へて、門の左右(さう)に祭りて、疫神(やくじん)を賂(まひなひ)て[やぶちゃん注:賄賂を贈って宥めることを指す。]、此れを饗(あるじ)す。

 而(しか)る間、閻魔王の使ひの鬼(おに)、其の家に來りて、此の病ひの女を召す。其の鬼、走り疲れて、此の祭の膳(そなへもの)を見るに、此れに靦(おもね)りて[やぶちゃん注:恵比寿顔になって。]、此の膳を食(く)ひつ。

 鬼、既に女を捕へて將(ゐ)て行く間、鬼、女に語らひて云はく、

「我れ、汝が膳を受けつ。此の恩を報ぜむと思ふ。若(も)し、同じ名・同じ姓なる人、有りや。」

と。女、答へて云はく、

「同じ國の鵜足(うたり)の郡に、同名同姓の女、有り。」

と。[やぶちゃん注:「讃岐の國山田の郡」「同じ國の鵜足の郡」前者は現在の香川県木田郡三木町で、後者は同県の三木町の西方に高松市の一部を挟んである綾歌郡(グーグル・マップ・データ)。]

 鬼、此れを聞きて、此の女を引きて、彼(か)の鵜足の郡の女の家に行きて、親(まのあた)り、其の女に向ひて、緋(あけ)の囊(ふくろ)より、一尺許りの鑿(のみ)を取り出だして、此の家の女の額に打ち立てて、召して將て去りぬ。

 彼の山田の郡の女をば、免(ゆる)しつれば、恐々(おづおづ)、家に返る、と思ふ程に、活(よみが)へりぬ。

 其の時に、閻魔王、此の鵜足の郡の女を召して來たるを見て、宣はく、

「此れ、召す所の女に非ず。汝ぢ、錯(あやま)りて此れを召せり。然(さ)れば、暫く此の女を留(とど)めて、彼(か)の山田の郡の女を召すべし。」

と。鬼、隱す事、能はずして、遂に山田の郡の女を召して、將て來たれり。

 閻魔王、此れを見て、宣はく、

「當(まさ)に此れ、召す女なり。彼の鵜足の郡の女をば、返すべし。」

と。

 然(しか)れば、三日を經て、鵜足の郡の女の身を、燒き失ひつ。

 然れば、女の魂、身、無くして、返り入る事、能はずして、返りて、閻魔王に申さく、

「我れ、返らされたりと云へども、體(むくろ)、失せて、寄り付く所、無し。」

と。

 其の時に、王、使ひに問ひて、宣はく、

「彼(か)の山田の郡の女の體は、未だ有りや。」

と。

 使ひ、答へて云はく、

「未だ、有り。」

王の宣はく、

「然(さ)らば、其の山田の郡の女の身を得て、汝が身と爲すべし。」

と。

 此れに依りて、鵜足の郡の女の魂、山田の郡の女の身に入りぬ。

 活(よみが)へりて云はく、

「此れ、我が家には、非ず。我が家は、鵜足の郡に有り。」

と。

 父母(ぶも)、活へれる事を喜び悲しぶ[やぶちゃん注:泣かんばかり喜んでいる。]間に、此れを聞きて云はく、

「汝は、我が子なり。何の故に、此くは云ふぞ。思ひ忘れたるか。」

と。

 女、更に此れを用ゐずして、獨り、家を出でて、鵜足の郡の家に行きぬ。

 其の家の父母、知らぬ女の來れるを見て、驚き怪しむ間に、女の云はく、

「此れ、我が家なり。」

と。

 父母の云はく、

「汝は、我が子に非ず。我が子は、早う燒き失ひてき。」

と。

 其の時に、女、具さに、冥途にして、閻魔王の宣ひし所の言(こと)を語るに、父母、此れを聞きて、泣き悲みて、生きたりし時の事共(ことども)を問ひ聞くに、答ふる所、一事として、違(たが)ふ事、無し。

 然(しか)れば、體(むくろ)には非ずと云へども、魂、現はに其れなれば、父母、喜びて、此れを哀(あは)れび養ふ事、限り無し。

 又、彼(か)の山田の郡の父母、此れを聞きて、來て見るに、正しく我が子の體(むくろ)なれば、魂、非ずと云へども、形を見て、悲しび愛する事、限り無し。

 然(しか)れば、共に此れを信(むべな)ひて、同じく、養ひ、二つの家の財(たから)を領(れう)じてぞ有りける。此の女、獨りに付囑して、現(うつつ)に四人(よたり)の父母を持ちて、遂に二つの家の財を領じてぞ有ける。

 此れを思ふに、饗(あるじ)[やぶちゃん注:御馳走。]を備へて鬼を賂(まひな)ふ、此れ、空しき功に非ず。其れに依りて、此れ、有る事なり。又、人、死にたりと云ふとも、葬(さう)する事、怱(いそ)ぐべからず。萬が一にも、自然(おのづか)ら此(かか)る事の有ればなりとなむ、語り傳へたるとや。

柴田天馬訳・蒲松齢「聊斎志異」中の「長淸僧」を(PDF縦書版・ルビ附)でここで公開

柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」の「長淸僧」をPDF版でここに公開する。

ダウンロード - tyouseisou.pdf

 

南方熊楠「通り魔の傳說」(「南方隨筆」底本正字化版・オリジナル注附・縦書PDF版) 公開

南方熊楠「通り魔の傳說」(「南方隨筆」底本正字化版・オリジナル注附・縦書PDF版)「心朽窩旧館」に公開した。

2022/05/20

「南方隨筆」底本正字化版「俗傳」パート「通り魔の俗說」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正元(一九一二)年八月発行の『人類學雜誌』二十八巻八号に初出されて、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は、本篇は「選集」版を「通り魔の俗説」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。漢文脈の箇所は後に《 》で推定訓読を挿入した。なお、平凡社の「南方熊楠選集」では、添え辞が二行分割で、『前田「通り魔の俗説」参照』『(『人類学雑誌』二七巻九号五七三頁)』となっている。なお、この前田氏は不詳。]

 

 

     通り魔の俗說(人類二七卷九號五七三頁參照)

 

 山崎美成の世事百談に此事を記せり、云く、「前略、不圖狂氣するは、何となきに怪しき者目に遮る事有て、其に驚き魂を奪はれ、思はず心の亂るゝ也、俗に通り惡魔に逢ふと云ふ是也」とて、昔し川井某なる士、庭前を眺めたりしに、椽前の手水鉢下の葉蘭叢中より、熖三尺ばかり、その煙盛に上るを不審に思ひ、刀脇指を別室へ運ばしめ、打臥して氣を鎭めて見るに、熖の後方の板塀の上より、亂髮白襦袢着たる男躍降り、鎗打ふり睨む、心を臍下に鎭め、一睡して見れば熖男共に無し、尋で[やぶちゃん注:「ついで」。]隣宅の主人發狂し、刄を揮ひ譫語[やぶちゃん注:「うはごと」。]したり。又四谷邊の人の妻、類燒後留守し居りたるに、燒場の草葉の中を、白髮の老人杖にすがり、蹣跚して[やぶちゃん注:「まんさんして」。よろよろと歩いて。]笑ひながら來る樣、頗る怪し、彼女心得有る者にて、閉眼して普門品を誦し、暫くして見れば既に消失ぬ。扨三四軒隔てたる醫師の妻、暴かに[やぶちゃん注:「にはかに」。]狂氣せりと有り(撮要)。熊楠按ずるに、古事談卷三僧行部に、關東北條の孫なる少女俄に氣絕、忠快僧都に祈らしめしに、少女に天狗付て種々の事共云ければ、忠快云、是は驗者抔にて非可奉加持之儀《加持奉るべきの儀に非ず》、止ん事なきの人、一念の妄心に依て、有らぬ道に墮ち玉ふ事不便なれば、經を誦で[やぶちゃん注:「よんで」。]聞せ奉て、菩薩をも爲奉祈《祈り奉りたるなり》、去るにても誰にて御坐候哉[やぶちゃん注:「ござさふらうかな」。]と云ひければ、耻かしければ言[やぶちゃん注:「ことば」。]にては得申出じ[やぶちゃん注:「えまうしいでじ」。「得」は不可能を表わす呼応の副詞「え」の当て字。]、書き申さむと云ければ、硯紙抔取せければ、墓々しく[やぶちゃん注:「はかばかしく」。当て字。]假名抔だに書ざる少女、權少僧都良實と書たりければ、周防僧都御房御する[やぶちゃん注:「おはする」。]にこそ侍りなんとて、物語り抔しけり、全く害心も侍らず、是罷り通る事侍りつるにて候ひつるに、きと目を見入れて候ひつる也、今は罷り歸り候ひてむとて退散し、少女無爲たり云々と有り(目を合わせば魔の害を受くる事、塵塚物語より人類學會雜誌二八○號四〇六頁に引るを見よ)。通り惡魔の迷信、中古既に本邦に有りしを知るに足れり。

     (大正元年八月人類第二十八卷)

[やぶちゃん注:「山崎美成の世事百談に此事を記せり、云く、……」山崎美成(よししげ 寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)は江戸後期の随筆作家で雑学者。号は好問堂・北峰。江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子。家業を継いだが、学問に没頭し、破産した。江戸派国学の小山田与清(ともきよ)に師事した。文政三(一八二〇)年から随筆「海録」(全二十巻。天保八(一八三七)年完成)に着手したが、その間、文政・天保期は、主として曲亭馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢・中村仏庵ら考証収集家と交わって、当時流行の江戸風俗考証に関わった。史料展観合評会の「耽奇会」や「兎園会」の肝煎を勤め、江戸市井では一目置かれた雑学者であった。しかし生計のため、晩年になるに従い、営利目的の、謂わば当たり目当ての企画物の編著が増え、精巧さに欠けるようになった。なお、私は曲亭馬琴の、その「兎園小説」類の完全な電子化注をブログ・カテゴリ「兎園小説」で進行中であり、美成が馬琴から絶交を突きつけられることとなった『「けんどん」爭ひ』も既に公開済みである。未見の方は、是非、読まれたい。「世事百談」は天保一四(一八四三)年板行の四巻からなる随筆。「国文学研究資料館」のデータ・セットを視認して、以下に全文を電子化する。挿絵は所持する吉川弘文館随筆大成版のそれをトリミングして附した。読みは一部に留めた。読み易さを考えて段落を成形し、話法部分も改行した。実は、既に「柴田宵曲 妖異博物館 異形の顏」で電子化しているが、今回は底本を変えたので、零から起こし、画像も再度、新たに作成した。

   *

   通り惡魔の恠異(けい)

 世に狂氣するものを見るに、大かたは無益(むえき)のことに心を苦しめ、一日も安き思ひなくて、はてには、胸にせまり、心みだれて、狂ひさはげるなり。されば、男たるものには、先(まづ)は、なきはづのことにて、婦人には、まゝあることなり。しかれども、男女(なんによ)にかぎらず、何事もなきに、ふと狂氣して、人をも殺し、われも自害などすることあり。そはつねづね心のとりをさめ、よろしからざる人の、我(われ)と、破(やぶ)れを、とるに至るものなり。かゝれば、養生(やうじやう)は藥治によらず、平生(へいぜい)の心がけ、あるべし。こゝろを養ふこと專(もつはら)なるべし。その、ふと、狂氣するは、何となきに恠(あやし)きもの、目にさへぎることありて、それにおどろき、魂をうばはれ、おもはず、心の、みだるゝなり。俗に「通り惡魔にあふ」といふ、これなり。「游䰟(いふこん)變をなす」[やぶちゃん注:「䰟」は「魂」の異体字。]の古語、むなしからず。不正の邪氣に犯さるゝなり。こは、常に心得あるべきことなり。

 むかし、川井某(なにがし)といへる武家、ある時、當番よりかへり、わが居万(ゐま)[やぶちゃん注:「万」はママ。]にて、上下(かみしも)、衣服を着かへて、座につき、庭前をながめゐたりしに、椽(えん)さきなる手水鉢(てうづばち)のもとにある葉蘭(はらん)の生(おひ)しげりたる中(うち)より、熖(ほのほ)、炎々と、もゆる、三尺ばかり、その烟(けふ)り、さかんに立(たち)のぼるをいぶかしく思ひ、心つきて、家來をよび、刀、脇指(わきざし)を次(つぎ)へ取(とり)のけさせ、

「心地、あしき。」

とて、夜着とりよせて打臥、氣を鎭めて見るに、その熖のむかふなる板屛(いたべい)[やぶちゃん注:「屛」はママ。]の上よりひらりと飛(とび)おりるもの、あり。

 目をとめて見るに、髮ふりみだしたる男の、白き襦袢(じゆばん)着て、鋒(ほさき)のきらめく鎗、打(うち)ふり、すつくと立(たち)て、こなたを白眼(にらみ)たる面(おも)ざし、尋常(よのつね)ならざるゆゑ、猶も、心を臍下(さいか)にしづめ、一睡して後(のち)、再び見るに、今まで燃立(もえたて)る熖も、あとかたなく消(きえ)、かの男も、いづち行けん、常にかはらぬ庭のおもなりけり。

 

Tooriakumanokei

 

 かくて、茶などのみて、何心なく居(ゐ)けるに、その隣(となり)の家の騷動、大かたならず、

「何ごとにか。」

と尋ぬるに、

「その家(いへ)あるじ、物にくるひ、白刄(しらは)をふり𢌞(まは)し、あらぬことのみ訇(のゝし)り呌(さけ)びけるなり。」

と、いへるにて、

「さては、先(さ)きの怪異の、しわざにこそ。」

とて、家内のものに、かのあやしきもの語(がたり)して、

「われは、心を納(をさ)めたればこそ、妖孼(わざはひ)、隣家(りんか)へうつりて、その家のあるじ、怪しみ、驚きし心より、邪氣に犯されたると見えたれ。これ、世俗のいはゆる、『通り惡魔』といふもの。」

と、いへり。

 また、これに似たることあり。

 四ツ谷の邊、類燒ありし時、そこにすめる某が妻、あるじの留守にて、時は、はつ秋のあつさも、まだ、つよければ、只ひとり、椽先(えんさ)きにたばこのみつゝ、夕ぐれのけしきをながめゐたるに、燒後(やけご)といひ、はづかのかり住居(ずまゐ)なれば、大かた、礎(いしずゑ)のみにて、草葉(くさば)、生(おひ)しげり、秋風の、さはさはと、おとして、吹來(ふききた)りしが、その草葉の中を、白髮の老人、腰は、ふたへにかゞまりて、杖にすがり、よろぼひつゝ、笑ひながら、こなたに來るやうす、たゞならぬ顏色(がんしよく)にて、そのあやしさ、いはんかた、なし。

 この妻女(さいぢよ)、心得(こゝろえ)あるものにて、兩眼(りやうがん)を閉ぢ、

『こは、わが心の、みだれしならん。』

とて、「普門品」[やぶちゃん注:「法華経」第八巻第二十五品(ほん)の「観世音菩薩普門品」の略称。]を唱へつゝ、心をしづめ、しばしありて、目(め)をひらき見るに、風に草葉のなびくのみ。いさゝかも、目にさへぎるもの、さらになかりしに、三、四軒も、ほどへたる醫師の妻、

「俄(にはか)に狂氣しけり。」

と、いへり。

 これも、おなじ類(たぐ)ひの恠異(けい)なるべし。むかしより、「妖(えう)は人よりおこる」といふこと、亦、うべならずや。鳩巢(きうさう)云(いふ)、

「陰陽五行の氣の、四時(しじ)に流行するは、天地の正理(せいり)にて、不正なけれども、その氣、両間(りやうかん)に游散紛擾(いうさんふんぜう)して、いつとなく、風寒暑濕(ふうかんしよしつ)をなすには、自(おのづから)不正の氣もありて、人に感ずるにて、しるべし。されば、天地の間(あひだ)に、正氣をもて、感ずれば正氣、応じ、邪氣をもて、感ずれば、邪氣、応ず。」

と、いへり。

 色にまよひて、身命(しんめい)を失ふも、おなじことわりと、しるべし。

   *

「鳩巢」は江戸中期の朱子学者室鳩巣(むろきゅうそう 万治元(一六五八)年~享保一九(一七三四)年)。加賀侯に仕え、藩命により、京都の木下順庵に学んだ。程朱の学を信奉し、道義思想を鼓吹し、赤穂義士を賛美、陽明学や古学派を排斥した。後に新井白石の推挙によって幕府儒官となり、将軍吉宗に信任され、清の「六諭衍義」の和訳を命ぜられ、「六諭衍義大意」を刊行した。以上の引用は「駿台雑話」の「妖は人より興る」の一節。九州大学大学院人文科学研究院教授川平敏文氏のサイト「閑山子LAB」「川平研究所」のこちらで電子化(但し、新字)されたものが読める。

「古事談卷三僧行部に、關東北條の孫なる少女俄に氣絕、忠快僧都に祈らしめしに、……」「古事談」は源顕兼の編になる鎌倉初期の説話集。全六巻。建暦二(一二一二)年から建保三(一二一五)年の間に成立した。「王道・后宮」・「臣節」・「僧行」・「勇士」・「神社」・「仏寺」・「亭宅・諸道」の六篇に分類された上代から中古の四百六十一話を収める。文体は和製の漢文体・仮名交り文など、多様で、どの説話も短文であり、資料からの抄出が多い。「続日本紀」・「往生伝」・「扶桑略記」・「江談抄」・「中外抄」などの記録や談話録に取材している。「佛教大学図書館デジタルコレクション」のこちらの嘉永六(一八五三)年の刊本を視認(「37」コマ目から)して電子化するが、これ、少しく読み難いので、カタカナをひらがなに代え、岩波の「新日本古典文学大系」版を参考に読みなど添えて、書き換え、前と同じ仕儀を加えた。

   *

 関東北條【時政。】の孫の小女十二才、俄かに絕入(ぜつにふ)したりければ、然(しか)るべき験者などもなくて、折節忠快僧都の鎌倉を經𢌞(へまは)る時なりければ、請ひていのらせむとしけるに、小女に、天狗、付きて、種々の叓(こと)等、云ひければ、忠快、云はく[やぶちゃん注:「叓」は「事」の異体字。]、

「是れは、驗者などにて加持し奉るべき儀に非ず。止むごと無き人、一念の妄心に依りて、あらぬ道に堕ち給ふ事、不便(ふびん)なれば、經を誦してきかせ奉りて、菩薩をも祈り奉らむと為(す)るなり。さるにても、誰(たれ)にて御坐哉(おはしますや)。」

と云ひければ、

「はづかしければ、詞(ことば)にては、え申いでじ。書きて、申さむ。」

と云ひければ、硯・紙など、とらせたりけれ、はかばかしく仮名などだに未だ書かぬ小女、

「權少僧都良實」

と書きたりければ、

「周防僧都御房の御(おは)するにこそ侍るなれ。」

とて、物語など、しけり。

「全く、害心も侍らず。是れを罷り通る叓侍りつるに、縁に立ちて候ひつるに、『き』と、目を見入れて候ひつるなり。今は罷り還り候ひてむ。」

とて退散す。

 小女無為と云々。

    *

「北條【時政。】の孫の小女」時政は鎌倉幕府初代執権だが、その孫の少女というのは不詳。「忠快僧都」(平治元(一一五九)年~安貞元(一二二七)年)は鎌倉前期の天台僧。平教盛(清盛の弟)の子に生まれ、平氏の生き残りとして、「平家物語」の成立に深く関わった。覚快法親王に入室し、慈円の弟子となって律師に任ぜられたが、「平家の都落ち」に同道、壇の浦で捕らえられ、伊豆に配流となった。文治五(一一八九)年に流罪が解け、上洛すると、再び慈円に師事し、建久六(一一九五)年には、上洛した源頼朝に伴われて、関東に下り、鎌倉幕府に仕えた。これは平家一門の僧として、平氏の怨霊を鎮めるために起用されたものであった。その後は京と鎌倉を往復しながら、慈円が仏法興隆のために白河に建てた大懺法院の供僧となり、他方で源実朝の信頼を受けて、祈祷を行い、その活動は弟子の小川僧正承澄の著「阿娑縛抄」(あさばしょう)に詳しく載る。台密小川流の祖。晩年は比叡山の横川の長吏となって、権勢を振るった(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。「權少僧都良實」「新日本古典文学大系」の注によれば、『天承二年(一一三二)正月、権少僧都で崇徳護持僧。同年閏四月に没。仁和寺僧、高野御室覚法(白河皇子)の濯頂弟子(仁和寺相承記)』とある。「周防僧都御房」同前で、『父孝清、あるいは養父(祖父)良綱が周防守であった故の称』とある。「小女無為」「その後は何事もなく無事であった」という意。

「塵塚物語より人類學會雜誌二八○號四〇六頁に引る」サイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)・一九七一年刊で新字新仮名)の「邪視のこと」から引用する。一部の不明字を後に示す国立国会図書館デジタルコレクションの画像で補正した。

   *

     邪視のこと

          南方「出口君の『小児と魔除』を読む」参照

         (『東京人類学会雜誌』二四巻二七八号二九六頁)

 

『改定史籍集覧』第一〇冊所収『塵塚物語』(天文二十一年[やぶちゃん注:一五五二年。]著)四三頁に、当時本邦にこの信ありしを徴すべき文あり。いわく、「ある人のいわく、およそ山中広野を過ぐるに、昼夜を分かたず心得あるべし。人気《ひとけ》罕《まれ》なる所にて、天狗魔魅の類、あるいは蝮蛇猛獣を見つけたらば、逃げ隠るる時、必ず目を見合わすべからず。怖ろしき物を見れば、いかなる猛《たけ》き人も、頭髪立ちて、足に力なくふるい出て、暁鐘を鳴らすこと勿論なり。これ一心顚倒するによりてかかることあり。この時|眼《まなこ》を見合わすれば、ことごとくかの物に気を奪われて、即時に死すものなり。外の物は見るとも、かまえて眼ばかりは窺うべからず。これ秘蔵のことなり。たとえば暑きころ、天に向かいて日輪を見ること、しばらく間あれば、たちまち昏盲として目見えず。これ太陽の光明|熾《さかん》なるがゆえに、肉眼の明をもってこれを窺えば、終《つい》に眼根を失うがごとし。万人を降して、平等に愍れみ給う日天さえかくのごとし、いわんや魔魅障礙の物をや。毫髪なりとも便《たより》を得て、その物に化して真気を奪わんと窺う時、目を見るべからすとぞ」。

 また背縫(『東京人類学会雑誌』二七八号三〇〇頁に出ず)は、同冊『老人雑話』五頁、秀頼五歳参内の時、太閤むりょうの闊袖の羽織に、烏を背縫にせし由見えたり。

 (明治四十二年七月『東京人類学会雑誌』二四巻二八〇号)を見よ)。通り惡魔の迷信、中古既に本邦に有りしを知るに足れり。

   *

『南方「出口君の『小児と魔除』を読む」』は、既に電子化注した、南方熊楠の「小兒と魔除」PDF一括版)の初出題名。この「塵塚物語」というのは、室町時代の説話集で、奥書には天文二十一年とあり、藤原某の作とするが、永禄一二(一五六九)年の序文があるので、実際には、その頃の成立と考えられている。上代以降、主に鎌倉・室町時代の重要人物の人格・逸話や、徳政などの歴史的な事柄に関する話六十五編を収録するが、記載内容は厳密性を欠き、近世的な感覚による叙述も見られ、その信憑性は低いが、中世の風俗や慣習を多く伝える(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。以上の引用部が、国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧」第十冊のここに載っている。非常に読み易いので、一読をお勧めする。]

南方熊楠「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信」(「南方隨筆」底本正字化版・全オリジナル注附・縦書PDF一括版)公開

「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信」(「南方隨筆」底本正字化版・全オリジナル注附・縦書PDF「一」・「二」一括版)「心朽窩旧館」に公開した。 

「南方隨筆」底本正字化版「俗傳」パート「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 二」 / ブログ版「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信」~了

 

[やぶちゃん注:本論考は「一」が明治四四(一九一一)年八月発行の『人類學雜誌』二十七巻五号に初出され、「二」が大正元(一九一二)年八月発行の同じ『人類學雜誌』二十八巻八号に初出されて、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。この「二」の初出は「j-stage」でPDF版で見られる。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像ここが「二」の冒頭)で視認して用い、以上の初出画像も参考にした。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は、本篇は「選集」版を「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。例によって、南方熊楠の文章はダラダラと長いので、「選集」を参考に段落を成形し、そこに注を挟んだ。不審な箇所は「選集」で訂したが、それはいちいち注記しなかった。漢文表記の部分は直後に《 》で推定訓読文を添えた。]

 

    睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 

 

 人類學雜誌二七卷五號三一二頁に拙文出て後ち[やぶちゃん注:本篇の「一」のパートを指す。]、石橋臥波君其著「夢」の一篇を贈らる。其五三、九一、一〇七、二〇〇等諸頁に、本題に關する例多く載たり。今少しく引て管見を添んに、先づ伊勢物語に、情婦の許より、今霄夢になん見え給ひつると云へりければ、男、

  思ひ餘り出にし魂の有ならん

    夜深く見えば魂結びせよ

と詠みしと有り。和泉式部が、男の枯れ枯れに成にける頃、貴船に詣でたるに、螢の飛ぶを見て、

  物思へば澤の螢もわが身なり

    あくがれ出づる魂かとぞ見る

と詠めりと古今著聞集に見えたる。(沙石集卷五には、澤の螢を澤邊の螢とせり。彼女の家集には全く載せず)。また拾芥抄に、「玉は見つ主は誰とも知らねども結び留めつ下かへの裙」、見人魂時、吟此歌、可結所著裙(男左女右)《人魂(ひとだま)を見し時、此の歌を吟じ、著(き)る所の衣裙(男は左、女は右)を結ぶべし。》と有る抔と攷合[やぶちゃん注:「かうがふ」。]して、中古本邦に、靈魂夢中、又心勞甚き時、又死亡前に身を離れて他行[やぶちゃん注:「たぎやう」。]するを、他の眼に火の玉と見ゆると信ずる、俗習有りしを知り得。

[やぶちゃん注:「石橋臥波」『其著「夢」』石橋臥波(いしばしがは 生没年未詳)は民俗学者。明治四五(一九一二)年の「日本民俗学会」の創設に携わり、同学会の機関誌『民俗』や、学術雑誌『人性』の編集を務めた。「夢」は明治四〇(一九〇七)年二月宝文館刊。国立国会図書館デジタルコレクションのここで原本が読める(裁定公開であるから、没年は未詳のようである)。その「五三」ページはここ。以下、「九一」はここ「一〇七」はここ「二〇〇」はここである。

「伊勢物語に、情婦の許より、今霄夢になん見え給ひつると云うへりければ、……」第百十段。

   *

 むかし、男、みそかに[やぶちゃん注:秘かに。]通ふ女ありけり。それがもとより、「今宵、夢になむ見えたまひつる。」と言へりければ、男、

  思ひあまりいでにし魂(たま)のあるならむ

   夜深(よぶか)く見えば魂結(たまむす)びせよ

   *

「魂結び」肉体から離れ出た魂をもとに戻すための咒(まじな)い。遠く、しかも、魑魅魍魎の跳梁する夜更け、暁前の完全なる深夜にあくがれ出でてしまった魂は双方にとって危険である。

「和泉式部が、男の枯れ枯れに成にける頃、貴船に詣でたるに、……」「古今著聞集」のそれは巻第五「和歌 第六」の以下(一七四)。

   *

   和泉式部貴布禰(きぶね)に詣でて詠歌の事

 和泉式部、をとこのかれがれになりける比(ころ)、貴布禰にまうでたるに、螢のとぶをみて、

  物思へば澤のほたるも我身よりあくがれ出(いで)る玉かとぞみる

とよめりければ、御社(みやしろ)のうちに忍びたる御聲(おんこゑ)にて、

  おく山にたぎりておつる瀧つ瀨の玉ちるばかりものな思ひそ

其しるしありけるとぞ。

   *

「後拾遺和歌集」巻二十では、この二つ歌の後に、

   *

     この歌は貴舟の明神の御返しなり。

     男の聲にて、和泉式部が耳に聞こえ

     けるとなん、いひ傳へたる。

   *

と記されてある。「其しるしありけるとぞ」という附文からは、明神の慰めは「必ずや、男の訪れは復活するから、そんなにひどく悩んではいけない。」というお告げであったわけである。

「沙石集卷五には、澤の螢を澤邊の螢とせり」同書同巻の「二十 行基菩薩御歌事」の中の作者の評言中の附文の一節。

   *

佛の御敎へのみにあらず、神慮もかくこそ敎へ給ひぬれ。和泉式部、夫(をとこ)とかれがれになりける比、貴船禰に籠りて、螢のとぶをみて、

 物思へばさはべの螢も我身よりあくがれ出づる玉かとぞみる

かくながめければ、御殿の中より忍たる御聲にて、

 奥山にたぎりておつる瀧津瀨の玉ちるばかりものな思ひそ

   *

「拾芥抄」(しゅうがいしょう)は南北朝に成立した類書。「拾芥略要抄」とも呼ぶ。鎌倉時代には原形が出来ていたものを、洞院公賢(きんかた)撰で、その玄孫の実熙(さねひろ)が増補したとされる。歳時・文学・風俗・諸芸・官位・典礼など九十九部に分け、漢文で簡略に記述。全三巻。国立国会図書館デジタルコレクションの慶長の版本のここが当該部。「上ノ本」の「諸頌」の右丁の六行目。

   *

見人魂時歌

 玉ハミツ主ハタレトモシラ子(ね)トモ結留メツシタガヱノツマ

 誦此歌結二所著衣妻一【男ハ左ノシタガヒノツマ 女ハ同右ノツマヲ結

   *

「衣裙」は「もすそ」。次の次の段落のフライング注になるが、『「和漢三才圖會」巻第五十八「火類」より「靈火(ひとだま)」』に、この咒文が載る。この電子化注は私の好みから昨年の三月に公開したもので、本篇のためのものではない。

 以下の一二つの段落は、底本では二つで一段落を成形しており、しかも全体が一字下げで、熊楠お得意の附記挿入である。長いけれど。]

 式部の歌の外に、苦悶極る時、火の玉外出すと信ぜるを證すべき者、義殘後覺卷三、「人每に人玉と云ふ物の有る由を、歷々の人歷然の樣にの給へども、聢と[やぶちゃん注:「しかと」。]受け難く候ひしが、北國の人申されしは、越中の大津の城とやらむを、佐々内藏介攻め申さゝ程に、城にも强く禦ぐと雖も、多勢の寄て手痛く攻申さるゝ程に、城中弱りて、既にはや明日は打死せんと、追々暇乞しければ、女童部泣悲む事類ひなし。誠に哀れに見え侍りし。斯る程に、已に早日も暮れ懸りぬれば、城中より、天日程なる光り玉、いくらと云ふ數限りもなく飛出ける程に、寄せ衆之を見て、すはや城中は死に用意しけるぞや、あの人玉の出づる事を見よとて、吾も吾もと見物したりけり。斯るに因て、降參して城を渡し、一命を宥め[やぶちゃん注:「なだめ」。]候樣にと樣々あつかひを入られければ、内藏介此義に同じて事調うたり。扨は迚上下悅ぶ事限り無し。斯て其日も暮ければ、昨日飛し人玉又悉く何處[やぶちゃん注:「いづく」。]よりかは出けん、城中さして飛び戾りけり。之を見る人幾許と云ふ數を知らず、不思議なる事共也」と有り。

[やぶちゃん注:「義残後覚」(ぎざんこうかく)は十六世紀末に成立したとされる世間話集。全七巻八十五話。編者は愚軒(事績不詳であるが、豊臣秀次の側近衆に関わりのあった御伽衆の一人であったとも思われている)。原本の成立は文禄年間(一五九二年~一五九七年)と奥書があるものの、実際の今に伝わるそれは、それよりもやや下るものと見られている。国立国会図書館デジタルコレクションの「続史籍集覧」第七冊のこちらで、原文が読める。また、ずっと昔に、「柴田宵曲 妖異博物館 人魂」で、電子化してあるので、そちらの方が読み易いかも知れぬ。]

 死する前に人玉出る事、倭漢三才圖會卷五八に見ゆ。歐州にも爾く[やぶちゃん注:「しかく」。左様に。そのように。]云ふ由、例せば Hazlitt, ‘Faiths and Folklore,’ 1905, vol.ii, p580 に見ゆ。丁抹[やぶちゃん注:「デンマーク」。]にて、小兒の人玉は小くて赤く、大人のは大なれど淡赤く、老人のは靑しと云ひ、「ウールス」では、大人のは大にして赤く、小兒のは小さくして淡靑しと云ふ(拙文 “Life-Star Folk-lore,” Notes and Queries, Luly13, 1907, p.34 を見よ)。ギリシア海島には、火の玉を、空中の鬼が、死人の魂天に上るを妨ぐる現象とする民有り(Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p.48)。支那の葬法に復の式あり。復は魂を取り戾すの義也。死人の衣を更るに先ち[やぶちゃん注:「かふるにさきだち」。]、淨衣を持て屋棟に上り、北に向て還り玉へと三呼し、斯くて魂を包める衣を持下り、絹紐もて括りて魂去るを防ぎ、飮食を奉ずる事生時の如くし、日數經て尸[やぶちゃん注:「しかばね」。]を葬る。此法今も行はるゝ所有りとぞ。日本紀卷十一、大鷦鷯尊、菟道稚郞子自殺して三日なるに、自ら髮を解き屍に跨り三呼せしに、太子蘇り、用談を果して薨じ玉へる由を載す。但し魂を結び留めし事見えず。「ホス」人、「バンクス」島人、「フジー」島人等も、死人の魂を呼び戾して葬りし由なれど、今も然るや否を知らず(予の “On Chinese Beliefs about the North,” Nature, vol.li, p.32, 1894)。Geo.Brown, ‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, p.399 に、南洋の「ヨルク」公島人、人玉を幽靈とすと有れど、魂結びなどの事を記せず。本邦に嫉妬酷き妻の生魂、火の玉と成て、夫の亡妾の墓に赴き、その火の玉と鬪ひ勝し談有りしと記憶すれど、出所を忘れたり。又晉書に、東海王越死、帝哀痛、越柩被焚、乃招魂、葬越於丹徒、中宗以爲非禮、乃下詔曰、夫冢以藏形、廟以安神、今世招魂葬者、是埋神也、其禁之《東海王、越、死す。帝、哀痛す。越の柩は焚かれ、乃(すなは)ち、魂を招きて、越を丹徒(たんと)[やぶちゃん注:現在の江蘇省鎮江市丹徒区。]に葬むる。中宗、以つて「禮に非ず。」と爲(な)し、乃ち、詔を下して曰く、「夫(そ)れ、冢(つか)は以つて形を藏(かく)す。廟は以つて神を安んず。今の世の招魂葬なる者は、是れ、神を埋(うづ)むるなり。其れ、之れを禁ぜよ。」と。》と見ゆ。

[やぶちゃん注:「死する前に人玉出る事、倭漢三才圖會卷五八に見ゆ」既注の『「和漢三才圖會」巻第五十八「火類」より「靈䰟火(ひとだま)」』を参照。

Hazlitt, Faiths and Folklore, 1905, vol.ii, p580」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著「信仰と民俗学」。「Internet archive」のここだが、ちょっと不審な部分がある。即ち、以下のデンマークのそれは、ここではなく、次の注の熊楠の記事で、別の人物からの提供であることを述べているからである。

「“Life-Star Folk-lore,” Notes and Queries, Luly13, 1907, p.34「Internet archive」のここで原本の当該部が読める。「『生きている星の如く光る物(=人魂)』の民間伝承」。

Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p.48」イギリスの探検家・考古学者・作家であったジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。原本当該部は「Internet archive」のここ

「支那の葬法に復の式あり。復は魂を取り戾すの義也」サイト「EMORIAL CEREMONY SOU・SEN」内の「中国の古代葬儀」のページの「魂呼び」に以下の「復(ふく)の式」記載がある。

   《引用開始》

 人が奥の室で亡くなると、はじめに死者に掛けふとんを掛け、着ていた服を脱がせる。そして小臣が死者の口を開き、歯にさじを噛ませる。またひじかけで両足をはさみ、足が曲がるのを防ぐ。次に干した肉と塩辛と酒を死者の右側に供える。これが終わると堂にカーテンを垂らして室のなかを隠す。

 復者(魂招きをする者)が一人呼ばれ、死者の礼服を左肩にかけて屋根に昇り、屋根の中央に北を向いて立ち、衣服を振りながら死者に呼びかける、「ハーア、某(死者の名)よ、帰り来たれ」

 3度そのようにして招いたあと、庭に向かい衣服を投げ下ろす。それをかごで受けとめ、東の階段から堂に昇って、死者にそれを着せ掛ける。招いた衣服には魂がつつまれており、それを着せれば魂がもとに戻ると考えられていた。この魂呼びの風習はどこにおいても行われたもので、旅館で死ぬと旅館、戦場で死ぬと戦場で矢をもって復を行ったという。

 この招魂の儀式を行なっても死者が生き返らぬことがわかったら、葬送の準備が始められる。

 葬送儀礼の目的は、死者の身体を大切に扱うことと、その魂に仕えることである。歯にさじをかませ足を固定するのは身体を大切に扱うことであり、肉や酒を供えるのは魂に仕えることである。

   《引用終了》

なおここに出る、衣服を死者の屋根の上で振って「魂呼び」をする習俗については、私が大学時代、唯一人、尊敬した吹野安先生の実体験談を忘れない。先生は茨城県西茨城郡大原村(現在の笠間市)の御出身だったが、御母堂の死に際して、講義を終えた後(御母堂との約束で、万一、亡くなっても、仕事を終えてから戻るようにと厳命されておられたのである。「親族からは、死に目に逢わなかったことを非難されたが、俺は、平気だったね。」とおっしゃっておられた。その時、まず、やったのが、実家の屋根の上に登って、母の普段着を、西に向かって、三度、大きく振りながら、「お~い! お~い! お~い!」と、「魂呼び」をした、とお話になられたのを、私は非常に印象深く覚えているのである。

「日本紀卷十一、大鷦鷯尊、菟道稚郞子自殺して三日なるに、自ら髮を解き屍に跨り三呼せしに、太子蘇り、用談を果して薨じ玉へる由を載す」「大鷦鷯尊」は「おほささぎのすめらみこと」で後の仁徳天皇、「菟道稚郞子」は「うぢのわきいらつこ」で第十五代応神天皇皇子(本「日本書紀」では皇太子)にして第十六代仁徳天皇の異母弟で、彼のウィキによれば、『父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊』『に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる』但し、これは「日本書紀」に『のみ記載された説話で』、「古事記」では『単に夭折と記されて』おり、これら記紀の『郎子に関する記載には』、『多くの特異性が指摘されるほか』、「播磨国風土記」には『郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である』とある。原文は以下。訓読は、概ね、昭和六(一九三一)年岩波書店刊の黒板勝美編「日本書紀」に拠った)、

   *

太子曰「我知、不可奪兄王之志。豈久生之、煩天下乎。」乃自死焉。時大鷦鷯尊、聞太子薨以驚之、從難波馳之、到菟道宮、爰太子薨之經三日。時大鷦鷯尊、摽擗叨哭、不知所如、乃解髮跨屍、以三乎曰「我弟皇子。」乃應時而活、自起以居。爰大鷦鷯尊、語太子曰「悲兮、惜兮、何所以歟自逝之。若死者有知、先帝何謂我乎。」乃太子啓兄王曰「天命也、誰能留焉。若有向天皇之御所、具奏兄王聖之、且有讓矣。然聖王聞我死、以急馳遠路、豈得無勞乎。」乃進同母妹八田皇女曰「雖不足納采、僅充掖庭之數。」乃且伏棺而薨。於是大鷦鷯尊、素服爲之發哀哭之甚慟。仍葬於菟道山上。

(太子曰はく、

「我れ、兄王(いろねのきみ)の志しを奪ふべからざることを知れり。豈に久しく生きて、天下を煩はしむや。」

と、のたまひて、乃(すなは)ち自ら死(をは)りたまひぬ。時に大鷦鷯尊、『太子、薨(みまか)れましぬ。』ときこしめして、以つて驚きて、難波(なには)より馳せて、菟道宮(うぢのみや)に到ります。爰(ここ)に太子薨れまして三日に經(な)りぬ。時に大鷦鷯尊、摽(みむね)[やぶちゃん注:「御胸」か。]、擗(う)ち、叨(おら)ひ哭(な)きて、所(せ)む如(すべ)を知らず。乃ち、髮(みくし)を解き、屍(かばね)に跨(またが)り、以つて三たび呼びて曰はく、

「我は弟皇子(いろとのみこ)。」

とのたまふ。乃ち、時に、應(こた)へて活(いきい)でたまひ、自ら起きて以つて居(ゐ)ます。爰に大鷦鷯尊、太子に語りて曰はく、

「悲しきかも、惜しきかも、何の所以(ゆゑ)にか、自ら逝(す)ぎましし。若(も)し、死者、知(さとり)有らば、先帝、我(やつが)れを何(いか)が謂(おは)せむや。」

と。

 乃ち、太子、兄王に啓して曰はく、

「天命(いのちのかどり)なり。誰(たれ)か能く留めむ。若し、天皇(すめらみこと)の御所(おもと)に向(まうでいた)ること有らば、具さに兄王の聖(せい)にして、且つ、讓り有(まし)ますことを奏さむ。然(しか)るに、聖王、我は死を聞こしめし、以つて遠き路より急ぎ馳(い)でませり。豈に勞(いた)はれる無きことを得んや。」

と。

 乃ち、同じ母(はた)の妹(いろと)八田皇女(やたのひめみこ)を進めて曰はく、

「納(め)し采(い)るに足らずと雖も、僅かに掖庭(うちつみや)[やぶちゃん注:後宮。]の數(ひとかず)に充てたまへ。」

と。

 乃ち、且(ま)た棺に伏して薨れましぬ。是に、大鷦鷯尊、素服(あさのみそ)[やぶちゃん注:麻などの加工しない生地のままか白地の布で作った喪服。]たてまつりて、爲めに發哀(かなし)み、哭(みねな)きて甚だ慟(いた)みたまふ。仍(よ)りて、菟道の山の上に葬しまつる。)

   *

『「ホス」人』不詳。

『「バンクス」島人』現行の人口は少ないが(二〇一一年現在百十二人)、カナダ北部の北極諸島にあるバンクス島(Banks Island)か。ノースウエスト準州のイヌヴィック地域(Inuvik Region)に属する。位置などは当該ウィキを参照。

『「フジー」島』ここ(グーグル・マップ・データ)。

「予の “On Chinese Beliefs about the North,” Nature, vol.li, p.32, 1894)」英文サイト『nature』の驚くべきアーカイブズのこちらで(悲しいことに日本はこの手のサイトでは、致命的に後進国である)、当該記事をPDFでダウン・ロード出来る。「『北』に就いての中国の信仰に就いて」。

Geo.Brown, ‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, p.399」ジョージ・ブラウン(一八三五年~一九一七年)はイギリスのメソジストの宣教師にして民族学者。若い頃は医師の助手などをしていたが、一八五五年三月にニュージーランドに移住し、説教者となり、一八五九年にフィジーへ宣教師として渡って、翌年、シドニーからサモアに向かった。一八六〇年十月三十日に到着してより一八七四年までサモアに住んだ(主にサバイイ島に居住)。布教の傍ら、サモアの言語・文化を学び、シドニーに戻り、その集大成として、後にメラネシア人とポリネシア人の生活史の概説と比較を試みたものが本書であった(英文の当該ウィキに拠った)。「Internet archive」で同原本が読め、当該ページはここ

『「ヨルク」公島人』不詳。マダガスカル諸島の一島の旧名か?

「本邦に嫉妬酷き妻の生魂、火の玉と成て、夫の亡妾の墓に赴き、その火の玉と鬪ひ勝し談有りしと記憶すれど、出所を忘れたり」この話、確かに私の「怪奇談集」の中に確かにある記憶が確かにあるのだが、熊楠よろしく、探し得ない。似たような話なら、私の「耳囊 巻之十 赤坂與力の妻亡靈の事」がそれにかなり近い。別に発見次第、追記する。

「晉書」とする以下の引用は、原本には類似した文字列はあるが、一致するものがない。思うに、「太平御覽」の「禮儀部三十四」の「葬送三」の以下の「晉中興書」(南宋の何法盛撰の史書で、諸史中では評価は高い)のそれが引用元ではないか(文字列がほぼ一致する)と推定する。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本で起こす。

   *

「晉中興書」曰、『東海王越妃裴氏、痛越棺柩被焚、乃招魂、葬越於丹徒。中宗以爲非禮、下詔曰、「夫冢以藏形、廟以安神。今世招魂葬者、是埋神也。其禁之。」』。

   *

【二〇二二年五月五十七日:追記】何時も御指摘を下さるT氏より、『この時期の熊楠の引く漢籍の殆どは、「淵鑑類函」を元にしています。今回の「晋書」以下の文章は、同書の三百二十一巻霊異部二魂魄の魂魄二です』とお知らせがあり、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を添付して下さった(右丁六行目「増」の後の部分が当該部)。「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、一七一〇年成立。確かに、熊楠はよく本書の名を挙げて引用していることは、古くの電子化で気づいていたのだが、これもそうだったことが判明した。以下、当該部を電子化する。

   *

「晉書」云、『東海王越、死。帝、哀痛。越柩被焚、乃招魂、葬越於丹徒。中宗、以爲「非禮。」、乃下詔曰、「夫冢以藏形、廟以安神、今世招魂葬者、是埋神也。其禁之。」

   *

T氏に感謝申し上げるものである。

 以下は、底本では、本文の行頭に戻る。]

 石橋君、古今集の歌に「思ひやる境遙かに成りやする惑ふ夢路に逢ふ人の無き」と有るを、「是遠ければ夢に入らずとする者にて、近ければ靈魂肉體を離れて、夢に入るとする者也」と評せり。一兩年前歿せし英國稀有の博言家「ゼームス、ブラツト」曰く、支那人は、其幽靈が支那領土と他邦に於ける居留地の外に現ぜずと信ずと、五雜俎卷十五にも云く、江北多狐魅、江南多山魈(人の宅に據り婦女に婬する鬼)、鬼魅之事、不可謂無也、余同年之父、安丘馬大中丞巡按浙、直時、爲狐所惑、萬方禁之、不可得、日就尩瘵、竟謝病歸、魅亦相隨、渡淮而北、則不復至矣《江北には、狐魅(こび)、多く、江南には山魈(さんしやう)多し。鬼魅の事は、無しと謂ふべからざるなり。余の同年の父(ほ)、安丘の馬大(まだい)中丞、浙・直(ちよく)が巡按たりし時、狐の爲めに惑はさる。萬方(ばんぱう)、之れを禁(はらへ)すれども、得べからず。日に尩瘵(わうさい)に就く。竟(つひ)に「病ひ」と謝して歸る。魅も亦、相ひ隨ふ。淮(わい)を渡つて北すれば、則ち、復(ま)た至らざりき。》、是妖怪も自ら繩張り有て、其外に往き得ざる也。日本にも江談抄に、唐人吉備公を密室に幽殺せんとせし時、阿部仲麿の亡魂現はれ、一族子孫が故鄕に於ける近況を聞かん迚、現はるゝ每に、會ふ人驚死すと語り、公より阿部氏七八人、當時の官位形勢を聞知て大悅し、公に祕事を傳へて、其厄を脫せしめし由を筆せるは、幽靈も餘り遠方に到り得ずとせる證にて、石橋君の評說に照らして興味あり。

[やぶちゃん注:『石橋君、古今集の歌に「思ひやる境遙かに成りやする惑ふ夢路に逢ふ人の無き」と有るを、「是遠ければ夢に入らずとする者にて、近ければ靈魂肉體を離れて、夢に入るとする者也」と評せり』前掲書のここ(一〇七ページ)。この歌は「古今和歌集」巻第十一「戀歌一」にある詠み人知らずの〈夢に逢う恋〉四首の第一首(五二四番)。

「ゼームス、ブラツト」不詳。

「五雜俎卷十五にも云く、江北多狐魅、……」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以上の熊楠の引用については、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛政七(一七九五)年京都板行版の訓点附きのこちらで、当該部と校合し、それを参考にしながら、オリジナルに訓読した。

「山魈」については、「柴田宵曲 俳諧博物誌(11) 河童」の私の「山魈」の注を参照されたい。

「父」男性への敬称。

「馬大」姓名で「大」は字(あざな)であろう。

「巡按」監察御史。

「尩瘵」身体が弱って病みつくこと。

「江談抄に、唐人吉備公を密室に幽殺せんとせし時、……」「江談抄」(がうだんせう(ごうだんしょう))は平安後期の説話文学。全六巻。大江匡房(まさふさ)の談話を藤原実兼などが筆録したもの。書名は「江」家の言「談」の「抄」出の意。天永二(一一一一)年頃の成立。公事・摂関事・仏神事・雑事・漢詩文に関わる故事や文学論。説話などを分類して載せる。以下は、「江談抄」第三の冒頭ある「吉備入唐(きびにつたう)の間の事」の一節。所持するが、長いので、調べたところ、サイト「龍神楊貴妃伝」のこちらに、原文と現代語訳が載るので参照されたい。

「阿部仲麿」阿倍仲麻呂(大宝元(七〇一)年~大暦五(七七〇)年)。奈良時代の遣唐留学生。養老元(七一七)年に吉備真備・玄昉(げんぼう)らとともに入唐、玄宗に仕え、李白・王維らの文人と交った。朝衡(ちょうこう)と唐名を称した。天平勝宝五(七五三)年に帰国しようとしたが、海難のため、果たせず、在唐五十余年、七十二歳で客死した。私は敦煌に旅した際、西安で「紀念碑」を詣でた。なお、「江談抄」の上記の記事では、彼が大臣として入唐したとか、吉備が閉じ込められた楼でずっと前に餓死したとか、ないことないことが、いろいろ書かれてあるので、注意されたい。

 歐州にも古へ夢中に魂拔出づるとせる例、蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]にて二人暑を避けて小流邊に憩ひ、其一人眠りけるに、口より黑蜂程の物出て、苔を踏で、流れが急下する上に橫はれる枯草莖を步み對岸の廢舍に入るを、今一人覩て驚き搖起せしに、其人寤て[やぶちゃん注:「さめて」。底本は「寢」。「選集」で訂した。]面白き夢を破られつる、我れ眠中沃野を橫ぎ、宏河の邊に出で、瀧の上なる銀の橋を渡り、大宮殿裏金寶堆積せるを取んとせる所を起されきと怨めりてふ譚有り。又六世紀に「バーガンヂー」王たりし「ゴンドラン」、狩に憊れて[やぶちゃん注:「つかれて」。]小流側に睡りしを、一侍臣守りける内、王の口より一小獸出で、河を渡らんとして能はず。侍臣刀を拔いて流に架すれば、小獸輙ち渡て、彼岸の小丘麓の穴に入り、暫くして又出で、刀を踏で還て王の口に入る。是に於て王寤て語るらく、吾れ稀代の夢を見つ。譬へば磨ける鋼の橋を踏で、飛沫四散する急流を渡り、金寶盈足せる地下宮に入りしと覺ゆと。因て衆を集め、其所を掘て夥く[やぶちゃん注:「おびただしく」。]財物を獲、信神慈善の業に施せりと云ふ。(Chambers, The Book of Days,1872, vol.i, p.276)。

[やぶちゃん注:『「バーガンヂー」王たりし「ゴンドラン」』次注の原本には「king of Burgundy」、その前に「Gontran」とある。メロヴィング朝のブルゴーニュ王で、五三二年生まれで、五九二年或いは翌年に没している。英文のサイト「Encyclopædia Britannica」の彼の記載を参照した。

Chambers, ‘The Book of Days,’ 1872, vol.i, p.276」、スコットランドの出版業者にして地質学者・法学博士・進化論者・作家でもあったロバート・チェンバース(Robert Chambers 一八〇二年~一八七一年)の畢生の一作で、本邦では副題(a miscellany of popular antiquities in connection with the calendar, including anecdote, biography & history, curiosities of literature, and oddities of human life and character:逸話、伝記と歴史、文学への好奇心、人間の生活と性格の奇妙さなど、曆に関連する一般的古代遺物の雑記に就いて)の方を縮約して「創造の自然史の痕跡」などと訳されているようである。「Internet archive」の原本の当該部はここ

 以下の段落は、底本では全体が一字下げ。]

 人の魂死して動物と現ずる例、日本紀卷十一、蝦夷、田道を殺して後、其墓を掘りしに、田道大蛇となつて彼等を咋殺す[やぶちゃん注:「くひころす」。]、と載せ、今昔物語等に、女の怨念蛇に現ぜし話多し。新著聞集十一篇に、下女死して貯金に執着し、蠅となつて主人の側を離れざりし談有り。英國に蛾を死人の魂、又魅(フエヤリー)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]とする地有り。希臘語に蛾も魂も同名なるに似通へり(Keightley, ‘The Fairy Mythology,’ ed.Bohn, 1884, p.298, n.)。

[やぶちゃん注:「日本紀卷十一、蝦夷、田道を殺して後、……」「仁德天皇紀」の以下の一節。処理は前に同じ。

   *

五十五年、蝦夷叛之。遣田道令擊、則爲蝦夷所敗、以死于伊峙水門。時有從者、取得田道之手纏、與其妻。乃抱手纏而縊死、時人聞之流涕矣。是後、蝦夷亦襲之略人民、因以、掘田道墓、則有大虵、發瞋目自墓出以咋、蝦夷悉被虵毒而多死亡、唯一二人得免耳。故時人云、「田道雖既亡、遂報讎。何死人之無知耶。」。

(五十五年、蝦夷(えみし)、叛(そむ)きぬ。田道(たぢ)を遣はして、擊たしめたまふ。則ち、蝦夷の爲めに敗られて、以つて、伊峙(いし)の水門(みなと)に死(まか)りぬ。時に從者(つかひびと)有りて、田道の手纏(てまき)[やぶちゃん注:上代の装身具。玉や鈴にひもを通して手に巻いたもの。「くしろ」とも称する。]を取り得て、其の妻に與(あた)ふ。乃(すなは)ち、手纏を抱(いだ)きて縊死(くびりし)にたり。時の人、之れを聞きて流-涕(かな)しむ。是の後(のち)に、蝦夷、亦、襲ひて人民を略(かす)む。因りて以つて、田道の墓を掘るに、則ち、大なる虵(をろち)有りて、目を發-瞋(いから)して墓より出で、以つて咋(くら)ふ。蝦夷、悉くに虵の毒を被りて、多く死に亡(う)せぬ。唯(ただ)、一、二人、免かるることを得たるのみ。故に、時の人、云はく、

「田道、既に既に亡(みまか)ると雖も、遂に讎(あだ)を報ゆ。何ぞ死にたる人の知(さと)り無からむや。」

と。)

   *

「新著聞集十一篇に、下女死して貯金に執着し、……」『小泉八雲 蠅のはなし  (大谷正信訳) 附・原拠』の私の注で電子化してある。

Keightley, ‘The Fairy Mythology,’ ed.Bohn, 1884, p.298, n.」アイルランド生まれの作家・歴史学者トマス・カイトリー(Thomas Keightley 一七八九年~一八七二年)が一八二八年に最初に著した「妖精神話学」。]

 綠洲[やぶちゃん注:「グリーンランド」。]人、靈魂、睡中體を脫し、狩獵舞踏訪交すと云ふは、正しく斯る夢を見るに出づ。北米印度甸[やぶちゃん注:「インジアン」。]、夢に魂拔出て、物を求むる事有んに、覺めて後力めて[やぶちゃん注:「つとめて」。]其物を手に入れずば、魂遂に求め煩うて全く身を去り終ると云ふ。新西蘭[やぶちゃん注:「ニユージーランド」。]人は、魂夢に死人鄕に入り、諸亡友と話すと信じ、「カレンス」は、夢に見ること悉く魂が親く[やぶちゃん注:「したしく」。]見聞する所と信ず。濠州土人、「コンド」人等、其巫祝、夢に神境に遊ぶとす。「アウグスチン」尊者の書に、人有り、一儒士に難讀の書の解釋を求めしも、平素應ぜざりしが、或夜其人就牀に先ち[やぶちゃん注:「さきだち」。]、儒士來て之を解き吳れたり。後日に及び、其故を問ひ、甫て[やぶちゃん注:「もとめて」。]儒士の魂が、夢に體を出で問ふ人の室に現じ、其未だ眠らざる間に之を敎へたるを知れりと載たり(Tylor, ‘Primitive Cultur,’ New York, 1888, vol.i, pp.437, 441)。「ニウーブリツン」島人は、靈魂、人形[やぶちゃん注:「ひとがた」。]を具し、常に其體内に棲み、眠中又氣絕中のみ、拔出ると信じ、眠たき時、予の魂他行せんと欲すと云ふ(和歌山市の俗、坐睡[やぶちゃん注:「ゐねむり」。]を根來詣り[やぶちゃん注:「ねごろまゐり」。]と稱す。寐と根、國音近きに出ずる洒落乍ら、本と[やぶちゃん注:「もと」。]睡中魂拔出ると想ひしに出るや疑を容れず)。サモア島民の信、粗[やぶちゃん注:「ほぼ」。]之に同じく、夢中見る所、靈魂實に其地に往き其事を行へりとす(Brown,op.cit., pp.192, 219)。

[やぶちゃん注:「Tylor, ‘Primitive Cultur,’ New York, 1888, vol.i, pp.437, 441」「原始文化」は、イギリスの人類学者で、宗教の起源に関してアニミズムを提唱した「文化人類学の父」と呼ばれるエドワード・バーネット・タイラー(Edward Burnett Tylor 一八三二年~一九一七年)の代表作で、一八七一年に刊行された彼の代表作。「Internet archive」(但し、一九二〇年版だが、一致する)のここと、ここ

『「ニウーブリツン」島』パプア・ニューギニアのニュー・ブリテン島。ビスマルク諸島最大の島。火山・荒野と、長い植民地の歴史で知られる。

Brown,op.cit., pp.192, 219ここと、ここ

 以下の段落は底本では全体が一字下げ。]

 熊楠按ずるに、靈魂不斷人身内に棲むとは、何人にも知れ切つた事の樣なれど、又例外無きに非ず。極地の「エスキモー」は、魂と、身と、名と三つ集りて個人を成す。魂常に身外に在りて、身に伴ふ事影の身を離れざる如く、離るれば身死す、と信ず(Rasmussen, ‘The People of the Polar North,1908, p.106)。神道に幸魂、奇魂、和魂、荒魂等を列し、支那に魂魄を分ち、佛典に魂識、魄識、神識、倶生神等の名有り。古埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]人は、「バイ」(魂)の外に「カ」(副魂)を認めたり(第十一板大英類典九卷五五頁)。是等は、魂の想像進みて、人身に役目と性質異なる數種の魂有りと見たるにて、其内に眠中死後體に留る魂と、拔出る魂と有りとせるやらん。近代迄、多島洋民中には、死後貴人の魂のみ殘り、下民の魂は全く消失すと信ぜる者ありたり(Waitz und Gerland, ‘Anthropologie der Naturvölker,’ 1872, Band VI, S. 302)。

[やぶちゃん注:「Rasmussen, ‘The People of the Polar North,’ 1908, p.106」グリーン・ランドの極地探検家にして人類学者で、「エスキモー学の父」と呼ばれるクヌート・ラスムッセン(Knud Johan Victor Rasmussen 一八七九年~一九三三年)。デンマーク人。グリーン・ランドの北西航路を始めて犬橇で横断した。デンマーク及びグリーン・ランド、カナダのイヌイットの間では、よく知られた人物である。本書「極北の人々」はイヌイットの風俗を纏めた旅行記で同年に刊行された。「Internet archive」で原本が読める。当該ページはここ

Waitz und Gerland, ‘Anthropologie der Naturvölker,’ 1872, Band VI, S. 302」ドイツの心理学者・人類学者テオドール・ウェイツ(Theodor Waitz 一八二一年~一八六四年)が書いたものに、人類学者・地球物理学者であったゲオルグ・カール・コルネリウス・ゲランド(Georg Karl Cornelius Gerland 一八三三年~一九一九年)が書き足して完成した「原始人類学」。「Internet archive」で原本が視認出来る(私はドイツ語は読めないので後者のリストのリンクに留めた)。]

 阿非利加の「イボ」族の人言く、祖先來の口碑の外に、靈魂が睡眠中拔出るを證するは、夢尤も力ありと(A. G. Leonard, ‘The Lower Niger and its Tribes,’ 1906, p.145)。「トマス」氏が大英類典十一板八卷に筆せる夢の條に云く、下等人種夢の源由を說くに二樣有り。一は魂が外出して、身外の地處生人死人を訪ふとし、一は死者等の魂が來て其人に會ふとする也と。孰れにしても、莊周が其夢也魂交、其覺也形開《其の寐(い)ぬるや、魂の交はり、其の覺(さ)むるや、形の開く。》と言へるに合り[やぶちゃん注:「あへり」。]、又云く、「デカルツ」[やぶちゃん注:デカルト。]の徒は、生存は考思に憑るとす。隨て心は常に考思すれば、睡中夢實に絕えずと說く。之に反して「ロツク」は人夢中の事を常に知る無し。覺醒中の魂、一考過れば忽ち之を記せず。無數の考思跡を留めず消失する程なるに、睡中自ら知らざる際、猶考思すとは受取れずと難ぜり。「ハミルトン」等又之を駁して、睡遊者、睡遊中確かに其識有り乍ら、常態に復れば直ちに之を忘る。故に睡中不斷夢有るも、寤れば多く忘失する也と論ぜりと。下等人種も「ハミルトン」同樣の見解より、睡中常に夢斷えず。隨て睡る每に必ず魂拔け出づと信ぜるも有り。又睡中必しも不斷夢見ざれども、睡人が或は夢み或は夢みずに居るを傍人正しく識別し能はず。但し夢見る時は必ず魂が拔出る者と心得たるもありて、兩說孰れより考へても、急に睡人を攪亂搖起するは、靈魂安全に身に還るを妨ぐる譯と、戒愼するに及びしならん。斯てこそ二七卷五號[やぶちゃん注:本考の「一」。]に、唐譯の佛敎律より引たる、古印度人、睡れる王を急に呼び寤さず、音樂を奏して漸く覺悟せしめたる風習

[やぶちゃん注:『「イボ」族』西アフリカのナイジェリア南東部のニジェール川とクロス川に挟まれた熱帯森林地帯に居住する部族。人口は三百万人に達し,人口密度も非常に高い。アフリカでも最も進取の気性に富み、活力に満ちた人々として知られ、商業活動などを通じて、ナイジェリア全土、特に北部地方で活躍した。北部のハウサ族や西部のヨルバ族とは異なり、イボ族は、元来、中央集権的な政治制度を持たず、村落連合的な纏まりを基とする民族であった。

A. G. Leonard, ‘The Lower Niger and its Tribes,’ 1906, p.145」「下ニジェールとその民族」はアメリカの地質学者アーサー・グレイ・レオナルド(Arthur Gray Leonard 一八六五年~一九三二年)のニジェールの民俗誌。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が読める

「大英類典十一板八卷」「ブリタニカ百科事典」(Encyclopædia Britannica)のこと。「Internet archive」のここから原本が読める

「ハミルトン」不詳。アメリカ合衆国憲法の実際の起草者として知られる哲学者・政治家アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton 一七五五年~一八〇四年)か。

 以下の二段落は底本では特異的に両方ともに全体が一字下げ。第一段落は御覧の通り、行頭一字下げがあるが、二段落目は、ない。但し、底本のページをめくると、二段落目の続きは行頭に上がっており、おかしい。前の句読点なしの断ち切れも不審感が強く、「選集では以下の部分は丸括弧で続いている。但し、初出では確かに補記形式でかくなっている。その後は「追記」であり、この二段落目の字下げは、無視しないと、本文が尻切れ蜻蛉となってしまう。事実、初出はそうなっている。]

 此譚 F.A. von Schiefner, ‘Tibetan Tales,’ trans. Ralston, 1906, ch.viii にも出でたれど、漸令覺悟《漸く覺悟せしむ》とは無くて、歌謠、銅鈸子、大鼓を以て寤すと有り。それでは安眠を暴かに擾す[やぶちゃん注:「にはかにみだす」。]譯にて、王者に對する作法に背く。西蔵[やぶちゃん注:「チベツト」。]譯經の不備か、譯者の麁漏か、何に致せ唐譯の方正義を得たりと思はる。

[やぶちゃん注:「F.A. von Schiefner, ‘Tibetan Tales,’ trans. Ralston, 1906, ch.viii」ドイツの言語学者にしてチベット学者であったフランツ・アントン・シーフナー(Franz Anton Schiefner 一八一七年~一八七九年)の「チベット譚」。]

往年英國官吏が緬甸[やぶちゃん注:「ビルマ」。]人を訪て、屢ば睡眠中とて謝絕され、魂の還らざるを惧れて搖起せざると云ふ理由に氣付かず、無闇に家人の無禮を憤りし事(‘Hints to Travellers,Royal Geographical Society, London, 1889, p.389)、非列賓[やぶちゃん注:「フイリピン」。]島の「タガル」人の、睡中魂不在とて、睡人を起すを忌む俗(Tylor, op.cit., vol.i, p.441)等が生じたるなれ。

[やぶちゃん注:「royal geographical society」イギリスの「王立地理学会」。]

 追記。吾邦の魂結びに似たる事、「ハーバート・スペンセル」の社會學原理三板、七七七頁に出たり。南洋「ロヤルチイ」島の古風に、人病重くなれば、魂醫(ソール・ドクトル)[やぶちゃん注:ルビ。]をして病體を脫せる魂を取戾さしむ。其醫二十友を隨へ、二十友[やぶちゃん注:底本・初出・「選集」ともに『二十女』とするが、以下の叙述と齟齬するので、かく、した。]と俱に、病家の墓地に赴き、男は鼻笛吹き、女は嘯きて遊魂を誘出し、時を經て、吹嘯行列して遊魂を病家に伴れ[やぶちゃん注:「つれ」。]歸る。衆、掌を開き、穩かに之を扇ぎて家に向はしめ、家に入るや忽ち一齊に呵して、病人の身に入しめしと云ふ。予の現住地紀伊田邊に、古來四國の船多く來る。二三十年前迄親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]見しとて、數人語りけるは、其船員此地で病死し、葬事終り商賣濟みて出立に際し、船に踏板を渡し、乘込人を待つ振りする事良[やぶちゃん注:「やや」。]久しくて後、死者の名を高く呼んで早く乘れと催し[やぶちゃん注:「うながし」。]、扨て其者已に乘りたりとて人數を算へ、乘員の現數を一人多く增して稱へて解纜せり。斯くせずば亡魂安處せず。船に凶事有りと傳へたりとぞ。

[やぶちゃん注:「ハーバート・スペンセル」イギリスの哲学者・社会学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。一八五二年にThe Developmental Hypothesis(発達仮説)を、一八五五年にPrinciples of Psychology(心理学原理)を出版後、「社会学原理」(Principles of Sociology)「倫理学原理」を含むA Systemof Synthetic Philosophy(『総合哲学体系』一八六二年から一八九六年までの三十五年をかけて完成させるなど、多くの著作をものした。これらの著作はかれの“evolution”(「進化」)という着想に貫かれており、現在のダーウィニズムの「進化」という概念や、我々がダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年~一八八二年)は、の言葉と誤解している“survival of the fittest”(「適者生存」)という言葉は、実はダーウィンの進化論発表の直前に示された彼スペンサーによる概念及び造語である。一八八〇年から九〇年代の明治期の日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、『スペンサーの時代』と呼ばれるほどで、一八六〇年に出版されたEducation(教育論)は、尺振八の訳で明治一三(一八八〇)年に「斯氏教育論」と題して刊行され、『スペンサーの教育論』として人口に膾炙した。また、その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた(以上は主にウィキの「ハーバート・スペンサー」に拠った)。同版の英文はこちらで読める。

『「ロヤルチイ」島』ロイヤルティ諸島(英語:Loyalty Islands)又はロワイヨテ諸島(フランス語:îles Loyauté)及びプロヴァンス・デ・ジル・ロイヤルティ(同前:Province des îles Loyauté)或いはロワイヨテ諸島州(デ・ジル・ロイヤリティ州・離島州とも称する)は南太平洋の諸島で、フランス領ニューカレドニアを構成する三つのプロヴァンス(州)の一つであるが、地理的区分と行政区分とは異なる。ここ

 以下は行頭から記すが、初出も「選集」も追記の一部となっている。]

 人類學雜誌二七卷五號の拙文[やぶちゃん注:本篇の「一」。]差し立てゝ後、三重縣木本町近村の石工來り、予の忰五歲なるが夜分顏に墨塗り眠に就くを見、斯すれば必ず魘はる[やぶちゃん注:「おそはる」。うなされる。]と語りて去る。其夜忰屢ば寢言ひ安眠せず。妻、大に困れり。田邊近傍では斯すれば、阿房になると云ふ由。(同號三一三頁參照)

       (大正元年八月人類二十八卷)

[やぶちゃん注:「三重縣木本町」木本町(きのもとちょう)は三重県南牟婁郡にあった町。現在の熊野市木本町に当たる。ここ

「予の忰」南方熊楠の長男熊弥。明治四〇(一九〇七)年生まれ。満年齢で記している。これは不吉な予兆であった。彼は大正一四(一九二五)年三月、高知高等学校受験のために高知に赴いた際、精神異常を発症し(統合失調症と推定される)、自宅療養となったが、昭和二(一九二七)年五月に症状が悪化、熊楠の粘菌図譜を始めとした多くの書類を毀損するに至り、知人の勧めによって翌年の五月に京都の岩倉病院に入院させることとなった(昭和一二(一九三七)年三月に退院したが、病状は回復せず、現在の海南市藤白に家を借り、転地療養となった。後、父熊楠(昭和一六(一九四一)年十二月二十九日)、母松枝の死(昭和三〇(一九五五)年十一月六日)の後、昭和三五(一九六〇)年二月十八日、五十三歳で逝去した。発症素因としては、小学校時代の「いじめ」とも、また、父である巨人熊楠の精神的な重圧とも言われるが、定かでない。]

2022/05/18

「南方隨筆」底本正字化版「俗傳」パート「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 一」

 

[やぶちゃん注:本論考は「一」が明治四四(一九一一)年八月発行の『人類學雜誌』二十七巻五号に初出され、「二」が大正元(一九一二)年八月発行の同じ『人類學雜誌』二十八巻八号に初出されて、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は、本篇は「選集」版を「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。例によって、南方熊楠の文章はダラダラと長いので、「選集」を参考に段落を成形し、そこに注を挟んだ。不審な箇所は「選集」で訂したが、それはいちいち注記しなかった。経典の漢文(「大蔵経データベース」で確認した)は直後に《 》で推定訓読を附した。ブログ版では「一」と「二」を分割した。]

 

    睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 

          (人類二八九號二八二頁參照)

 本邦に此迷信を記せる者多き中、顯著なる一例、南溟の續沙石集(寬保三年自序有り)卷一章六に、中京の或家の婢、主人の親屬なる男と情を通ぜるが、彼男本妻を迎んとすと聞き、しきりに怨み臥たる夜半、俄かに叫び起き、双び臥したる女共に語る。某街の門を出んとするに、向ふより人來るを見て、隱れんとするを、彼人劍を拔て我を斬付ると夢見て寤ると、明朝人來て告ぐ、今日は珍しき事有て、只今迄其事に係りて往反せり、昨夜更て我相識れる醫者、某街の門を通り過んとする時、髮を亂し、恨めし氣なる樣したる若き女、行違んとして又立歸隱れんとす、影の如くにて進退に脚音無し、聲掛しも應えず、身の毛彌立て恐しかりければ、劍を拔て斬付けたり。忽消て其人無し、醫者劔を捨てゝ歸りしを今朝其街に往て乞ふに、聊爾に還すまじと、六かしくなって、漸く只今事濟けりと、其所其町の名も聢かに聞たれども、なおほ十年にも成ぬ事故、わざと記さず、此女、男を恨み、思ひ牾の一念、影の如く人目に見ゆる計り現はれ、男の許に往んとせし事疑ひ無し、と。

[やぶちゃん注:冒頭の注記は、「選集」では二行で、

   *

  谷津直秀「睡眠中に霊魂の抜け出づとの迷信」参照

  (『東京人類学会雑誌』二五巻二八九號二八二頁)

   *

とある。

「南溟の續沙石集(寬保三年自序有り)卷一章六に、……」事前に『「續沙石集」巻一「第六 夢中現映像事」』を、「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらを底本として電子化注しておいたので、そちらと対比されたい。同書には別版本があるので、或いはそちらを熊楠は参考にしたのかも知れぬが、熊楠が梗概として書き変えた部分もあるとも思われるので、必ず比較されたい。]

 七年前嚴冬に、予那智山に孤居し、空腹で臥したるに、終夜自分の頭拔け出て家の橫側なる牛部屋の邊を飛び廻り、有り有りと闇夜中に其狀況を詳く視る。自ら其精神變態に在るを知ると雖も、繰返し繰返し斯の如くなるを禁じ得ざりし。其後 Frederic W. H. Myeers, ‘Human Personality,’ 1903,  vol.ii, pp.193, 322 を讀で、世に斯る例尠なからぬを知れり、去れば蒙昧の民が、睡中魂拔出づと信ずるは、最もな事にて、啻に魂が人形を現して拔出るのみならず、蠅、蜥蜴、蟋蟀、鴉、鼠等となりて、睡れる身を離れ遊ぶと言ふ迷信、諸方の民閒に行はる(Frazer, ‘The Golden Bough,’ 1890, vol.i, p.126 )。隨つて急に睡人を驚起せしむれば、其魂歸途を誤り、病み出すとの迷信、緬甸[やぶちゃん注:「ビルマ」。]及び印度洋諸島に行はれ、塞爾維[やぶちゃん注:「セルビア」。]人は、妖巫眠中、其魂蝶と成て身を離るゝ間だ、其首足の位置を替て臥せしむれば、魂歸て口より入る能はず、巫爲に死すと傳へ、盂買[やぶちゃん注:「ボンベイ」。]にては、眠れる人の面を彩り、睡れる女に鬚を書けば罪[やぶちゃん注:「つみ」。]殺人に等し、と言り(同書一二七頁)、廿年前、予廣東人の家に宿せし時、彼輩の眠れる顏を描きて鬼形にし、又其頰と額に男根を𤲿き抔せしに、孰れも起て後ち、鏡に照して大に怒れり、其譯を問ひしに、魂歸り來るも、自分の顏を認めず、他人と思つて去る虞有る故との事なりし。

[やぶちゃん注:「七年前嚴冬に、予那智山に孤居し」南方熊楠は明治三四(一九〇一)年十月末に勝浦に向い、南紀植物調査行を開始し(途中で田辺に帰宅してはいる)、明治三十七十月、延べ三年に亙った調査を終えて田辺に戻っている。

Frederic W. H. Myeers, ‘Human Personality,’ 1903,  vol.ii, pp.193, 322」イギリスの詩人・古典文学者で心霊学者でもあったフレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤース(Frederick William Henry Myers  一八四三年~一九〇一年)。心霊研究の開拓者として知られ、また初期の深層心理学研究に於ける重要な研究者でもある、かのウィリアム・ジェームズやカール・グスタフ・ユングらにも影響を与えたとされる。一八八〇年代に、師であるイギリスの哲学者・倫理学者ヘンリー・シジウィック(Henry Sidgwick 一八三八年~一九〇〇年)らとともに「心霊現象研究協会」(The Society for Psychical Research)を創立している。「河出文庫」の中沢新一責任編集の『南方熊楠コレクションⅡ 南方民俗学』の本篇注によれば、『ここに挙げられている署は、人間個性とその肉体の死後の留存を論じたもので、南方熊楠はナチで耽読して大きな影響を受けた』とある。正式書名は注通り、「Human personality and its survival of bodily death」である。「Internet archive」で原本を見ることが出来る。ここと、ここである。

「蠅」何より忘れられないのは、「小泉八雲 蠅のはなし  (大谷正信訳) 附・原拠」であろう。「二」で熊楠が原拠に言及している。

「イギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)が一八九〇年から一九三六年の四十年以上、まさに半生を費やした全十三巻から成る大著で、原始宗教や儀礼・神話・習慣などを比較研究した「金枝篇」( The Golden Bough )。私の愛読書の一つである。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が読める。]

 又按ずるに、義淨譯根本說一切有部毘奈耶雜事卷廿七、多足食王子、假父に殺さるゝを慮り、鞞提醯國に奔る、途中樹下に困睡す、偶々其國王殂して嗣無く、大臣ら、然る可き人を求むるに、此王子非常の相有るを見て、觸て之を寤す[やぶちゃん注:「さます」。]、王子覺て曰く、王を覺すに然くすべけんや、諸人其法を問ふ、答て曰く、先奏美音、漸令覺悟、羣臣曰、此非貧子、定出高門《「先づ、美音を奏し、漸く覺-悟(めざ)めしむ。」と。羣臣曰く、「此れは貧しき子に非ず、定めて高門(かうもん)に出でしならん。」と。》、仍(より)て質して其の先王の甥たるを知り、立て王と爲す。是れにて、印度に古く、突然貴人を寤さず、音樂を奏し徐々[やぶちゃん注:「そろそろと」。]之を起す風有りしを知る、倭漢三才圖會卷七一に、伊勢國安濃郡内田村、長源寺の堂の椽に、土地の人と日向の旅人と、雨を避て眠れるを、倉卒呼起され、二人の魂入れ替り、各其家に還りしも、家人承引せず、再び堂の椽に熟眠中、魂入れ替り復舊せりと述べ、或る紀を引いて、推古帝卅四年、件の兩國の人死して蘇生せしに、魂入れ替りし故、二人を交互轉住せしめし由云り、此或紀とは、有名の僞書、先代舊事本紀なりしと記臆す、全くの妄譚也、但し之に似たる事、紀伊續風土記卷八五に出づ、云く、東牟婁郡野竹村民彌七郞、元文中七十歲計り、病で悶絕し、暫くして人々に呼れて甦りしも、言語態度頓に變り、妻子を識らず、木地引の語を成す(木地引者近江の詞多し、本年一月の文章世界、柳田國男氏の木地屋物語參看)、其頃、當村の奧山に住し木地引彌七郞死し、其魂未だ消失せざるに同名を呼ばれ、來て此老人と入替りたるなるべし、蘇生後十餘年經て死せりと。 

     (明治四十四年八月人類二七號)

[やぶちゃん注:「多足食王子、……」の話は、既に『「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 三 / 「卷第三十一 通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四」の「出典考」の続き』の本文に既出。そちらを見られたい。

「倭漢三才圖會卷七一に、伊勢國安濃郡内田村、長源寺の堂の椽に、……」事前に『「和漢三才圖會」卷第七十一「伊勢」の内の「當國 神社佛閣各所」内の「長源寺」の記載』として電子化注済み。

「紀伊續風土記」国立国会図書館デジタルコレクションのここに原本があるが、見つからない。

「木地引」木地師のこと。当該ウィキを参照。因みに、澁澤龍彥が死の直前に次回作の素材として考えていたのが、彼らだった。

「柳田國男氏の木地屋物語」サイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は一九七〇年筑摩書房刊の新装版「定本柳田國男集 第二十七卷」)で読める。]

「和漢三才圖會」卷第七十一「伊勢」の内の「當國 神社佛閣各所」内の「長源寺」の記載

 

長源寺    在安濃郡内田村【天台】

  本尊 十一靣觀音【長三尺三寸】傳教大師以菩提樹作

 相傳曰昔當地人與日向國旅人會避暑於堂之檐互

 不知熟睡日既暮有人倉卒呼起之兩人周章覺其魂

 入替而各還家靣貌其人而心志音聲甚異也家人不

 敢肯兩人共然故再來于此復熟睡則夢中魂入替如

 故諺曰伊勢也日向之物語者是也

 或紀曰【推古天皇三十四年三月壬午日】五瀬國并日向國言五瀬國

 黃葉縣佐伯小經來死三日三夜而蘓日向國小畠縣

 謂依狹晴戸者同日死同日蘓不知妻子及所柄鄕村

 名五瀬者語日向日向者語五瀬父子鄕村名分明其

 子弟互至相問符合何以然也兩人同時死共至冥府

 黃泉大帝議曰兩人命未宜還於鄕冥使率之來誤差

 其魂尸兩家子弟深不審之問焉縣社明神託巫告曰

 冥使通明何有所誤人不知魂鬼又多疑冥府冥帝知

 之證之教之如此而已其身雖我等父心卽非我實父

 心非父身無由父亦以不爲子願欲替父朝庭下府任

 父子願仍小經來至於日向晴戸至五瀬如故而行業

 鄕名亦替之

△按二說相似而趣異共是恠談而已蓋日向佐伯伊勢

 小畠其名與昔互替乎不知

   *

長源寺    安濃郡(あのうのこほり)内田村に在り。【天台。】

  本尊 十一靣觀音【長け、三尺三寸。】傳教大師、菩提樹を以つて作る。相ひ傳へて曰はく、『昔、當地(ところ)の人と、日向國の旅人と、會(たまたま)、暑(しよ)を堂の檐(ゑん)に避(さ)く。互ひに、知らず。熟睡して、日、既に暮るる。人、有りて、倉-卒(にはか)に之れを呼び起す。兩人、周章(あはて)て覺(めざ)め、其の魂(たましひ)、入れ替りて、各(おのおの)、家に還る。靣貌(めんばう)は其の人にして、心志(こころざし)・音聲、甚だ異(こと)なり。家人、敢へて肯(うけが)はず。兩人、共に、然(しか)り。故(ゆゑ)、再(ふたゝ)び,此(ここ)に來りて、復(ま)た、熟睡すれば、則ち、夢中に、魂、入れ替りて、故(もと)のごとし。諺(ことわざ)に曰はく、「伊勢や日向の物語」とは、是れなり。

或る「紀」に曰はく【推古天皇三十四年三月壬午(みづのえむまの)日。】、五瀬(いせ)の國、并(ならびに)、日向國より、言(まふ)す。五瀬の國黃葉縣(きえふのあがた)、佐伯小經來(さへきのこふく)、死して、三日三夜にして、蘓(よみがへ)る。日向の國小畠縣(こはたのあがた)、依狹晴戸(よさむのはれと)と謂ふ者、同日、死して、同日、蘓り、妻子及び柄(す)む所の鄕村(さとむら)の名をも知らず。五瀬の者は、日向のことを語り、日向の者は、五瀬のことを語るに、父子・鄕村の名、分明なり。其の子弟、互ひに至つて、相ひ問ふに、符(わりふ)合(あ)ふ。何を以つて然(しか)るや。兩人、同時に死して、共に冥府に至る。黃泉(よみぢ)の大帝、議して曰はく、「兩人の命(いのち)、未だし。宜(よろ)しく鄕(さと)に還へすべし。」と。冥使、之れを率(ひきい)て、來り、誤(あやま)ちて、其の魂と尸(かばね)を差(たが)ふ。兩家の子弟(こども)、深く、之れを不審(いぶか)り、縣社(あがたのやしろ)に問ふ。明神、巫(みこ)に託(か)りて、告げて、曰はく、「冥使は通明なり。何の、誤る所、有らん。人、魂鬼を知らず、又、多く、冥府を疑ふ。冥帝、之れを知りて、之れの證、之れを教ふること、此くのごとくなるのみ。」と。[やぶちゃん注:「両家の遺族は」が省略されている。]「其の身(むくろ)は、我等ら父と雖も、心、卽ち、我が實父に非ず。心、父に非る身は、由(よし)無し。父も亦た、以つて、子を爲(おも)はず。願はくは、父を替へんと欲す。」と。朝庭(みかど)[やぶちゃん注:「朝廷」に同じ。]、府(ふ)[やぶちゃん注:「官符」のことか。]を下して、父子の願ひに任(まか)す。仍(すなは)ち、小經來(こふく)は日向に至り、晴戸は五瀬に至り、故(もと)のごとくにして、行業(すぎわい)して鄕(さと)の名も、亦、之れを替ふ。

△按ずるに、二說、相ひ似て、趣き、異(い)なり。共に是れ、恠談のみ。蓋し、「日向の佐伯(さへき)、伊勢の小畠(こばた)と、其の名、昔と、互ひに、替りしや、知らず。

[やぶちゃん注:「長源寺」現在の三重県津市安濃町(あのうちょう)内多(うちだ)に現存(グーグル・マップ・データ)。

「伊勢や日向の物語」「事の前後がはっきりしないまとまりのない話」や、また、「見当はずれなこと」などにいう慣用語。この語の由来については、「伊勢物語知顕抄」は「伊勢(三重県)と日向(宮崎県)の男が死んだ時、閻魔の庁で、寿命のある伊勢の男を生き返らせようとしたが、すでに灰になっていたので、日向の男の体に生き返らせたところ、体と心が別人で、言うことがちぐはぐであった。」といい、また、「諺草」(ことわざぐさ)は「天鈿女命(あめのうずめのみこと)の問いに、随行者の猿田彦神が、「皇孫は日向の高千穂に、自分は伊勢の五十鈴川上に下る。」と答えた説話に拠るとする(小学館「ことわざを知る辞典」に拠る)。また、「東洋文庫」版「和漢三才図会」の注には、『「伊勢人は僻事(ひがごと)す」ともいう。『雑話集』に同話がある』とあるが、確認出来なかった。

『或る「紀」に曰はく【推古天皇三十四年三月壬午(みづのえむまの)日。】、……』出典未詳。南方熊楠は偽書である「先代旧事本紀」の記載と記憶すると、「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信 一」で述べているが、版本と活字本二種を調べたが、推古天皇の記事は推古天皇二十九年までしかない。本紀以外に出るのであれば、お手上げ。探す気はない。識者の御教授を乞う。]

「續沙石集」巻一「第六 夢中現映像事」

 

[やぶちゃん注:本書は鎌倉時代の無住の仏教説話集「沙石集」を範として、江戸後期浄土真宗仏光寺の僧南冥が書いたもの。全六巻・六十二話。延享元(一七四四)年京都で板行された。

 底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらから映像を視認して起こした。カタカナをひらがなに代え、読みは送り仮名で出すなどして、一部に留めた。句読点は私が、適宜、附し、段落も成形した。漢文脈部分は後に( )で訓読を示した。「*」は、以下が、筆者評言となるので、挿入した。「源氏物語」の「葵」の帖からの引用部は前後に「――」を入れた。]

 

 第六 夢中現映像事(夢中(むちう)に映像を現ずる事)

 中京(なかぎやう)のる或人の内に居(ゐ)たる女、その主人の親屬なる人の男と、そのびに情(こゝろ)をかよはして、末の松山、波こさじ、約(ちぎり)けるが、彼(か)の男、本妻を迎へんとするの相談をきゝけり。

 此の女、頻りにうらめしく、心のうちは、もゆるばかりなれども、流石(さすが)に、人、しんじて、契(ちぎ)りし事なれば、柰何(いかん)ともしがたく、埋火(うづみび)の下にのみこがれ侍りて、其の夜も卧(ふ)したるけるが、半夜(よなか)、まへになり、此の女世におそろしげなる聲して、呌(さけ)び、起きたり。枕をならべて卧したる傍輩(ほうばい)の序し(おなご)ども、其の聲に驚きて、各(おのおの)目をさましぬ。此の女、汗水になりて云ひけるは、

「何町通(なにまちどほり)何町(なにてう)の門(もん)を超えて向ひの方(かた)へゆかんとするに、向うより、人の來たるあり、是れ故に、傍らにかくれんとするを、彼(か)の人、來たる人、劔(つるぎ)をぬきて、我れを一打(ひとたち)にきりつくる。我れ、まさにきらるゝと思ふと、夢みて、今、覺めたる。」

と、かたる。

 扨(さて)、夜明けて、此の女、

「件(くだん)の物思ひありて、夢をや、見つらん。」

と、傍輩の中に別(べち)して親しき者に密かに物語りして居たりけるに、外(ほか)より、人、きたりて、云はく、

「今日は、珍らしき事ありて、只今まで、其の事にかゝりて、往反(わうへん)せり[やぶちゃん注:あちこちを行ったり来たりで閉口した。]。昨夜、更けて、半夜(よなか)まへ比(ころ)、我が相ひ識りたる醫者、何町通何町の門を通りすぎんとする時、髮をさばきて、世にうらめしき樣(さま)したる若き女、行き違はんとして、又、たちかへりて、傍らにより、かくる。醫者のこゝろには、

『何者ぞ、もし、狂氣したる者か。』

とみれば、人に、かくれんとする躰(てい)あり、又、影の如くにて、進退に、脚音(あしおと)、なし。

『化(け)したる者か。』

と思ひ、聲、掛をかけて、とがめても、物、いはず。其の間(ま)に、身の毛、卓竪(いよだち)て、をそろしかりければ、帶劔(たいけん)を拔きて、きりつけたり。

 忽ち、きえて、其の人、なし。

 よりて、劔(つるぎ)を、すて置きて、此の醫者、かへり、其の劔を、今朝(こんてう)より、其の町へ、ゆきて、『たまはれ。』と云ふに、『捨てたる劔、聊爾(れうじ)には[やぶちゃん注:そういい加減には。]、かへすまじ。』と、むつかしくなりて、漸(やうやう)、只今、事、すみてげり。」

と。

   *

 其の所、其の町(てう)の名も、たしかに聆(き)きぬれども、尚(まだ)十年にだも事ふりぬ故に、わざと其の町(てう)、所の名を、もらしぬ。

 されば、此の女、彼の男をうらみ、思ひねにせし一念、影のごとく、人目に見ゆるばかり、あらわれ、男のもとにゆかんとする途中にて、醫者にきりつけられ侍りるに究(きは)まれり。珍しく思ひて、此の事はきゝしより、わすれず、今、書き付け侍るなり。

 朝綱(あさつな)「婚姻賦」に、「彼情感之好通雖父母禁禦」(彼(か)の情感(ぜうかん)の好通(かうつう)は、父母(ぶも)と雖も、禁禦し難し)と見えて、男女の閨怨(けいゑん)、互ひに大方(おほかた)ならず。

 これが爲めに、命(いのち)を失ふ事、多し。

 其の内、別して、思ひつめて、晴方(はるゝかた)なきは、女の情(ぜう)なり。

――六條御息所(ろくでうのみやすどころ)、嫉妬の思ひ、深く、御座(ましま)して、葵上(あほひのうへ)を、なやまし玉ふ時、光君(ひかるぎみ)、さまざま、なぐさめ玉ふに、葵上の御氣色(ごきしよく)、かはりて、

「いてあらずや、身(み)のくるしきを、やすめ玉へ。」

と聞くらんとてなん、

「かく參りこんとも、さらに思はぬを、物思ふ人の、たましゐは、實(げ)に、あるかるゝものになん有りける。」

と、最(いと)なつかしげにいひて、

 なげきわび空(そら)にみだるゝわが靈(たま)をむすびとゞめよしたがひのつま

と、の玉ふ聲、けはい、其人にも、あらず、かはり玉へり。

『最(いと)あやし。』

と、おぼしめしぐらすに、只(たゞ)、

『かの御息所なりけり。浅ましく人の兎角いふを、「よからぬ者どもの云ひ出づること。」と聞きにくゝおぼしてのたまひけつ[やぶちゃん注:「消(け)つ。」]を、目に、みすみす、世には、かゝることこそは有りけり。』

と、うとましくなりぬ。――

と、「源氏物語」に見えたり。

 されば、女の一念、みづから、あらはれて、恨みをなし、或ひは、人につきて、其の怨みをかたること、古今にわたり、上下に通じて、其ためし、まゝ多く、寔(まこと)に是れ、をそろしき者なり。元來、「女」と云ふ字は、女の心の、こだはりて一すぢなるにかたどりたるにて、六書(りくしよ)の中には象形(しやうげう)の字なり。佛經の中には、ふかく女をいましめて、『たとひ、毒蛇にはちかづくとも、女人には、ちかづくこと、なかれ。』と見えたるも、宜(むべ)なるかな。

   *

大修館書店「廣漢和辭典」の「女」の「解字」には『両手をしなやかに重ねひざまずく女性の象形』とあるが、「語家族」の部分の最後に』『努や怒は奴から派生した語であろう』とはある。しかし、ここで南冥が言っているような、字義は「女」の本来の字素にはない。仏教上の差別的な「変成男子」(へんじょうなんし)思想を勝手に託けたものであろう。「六書」は言わずもがな、漢字の成立と使用についての六種の分類。象形・指事・会意・形声・転注・仮借。]

ヨハネ默示録筆写夢

この一ヶ月、ほぼ毎日、夢を見る。本未明のそれは印象的であった――

   *

 私は水茎の小筆を持って文語訳譯大正改譯の「新約聖書」の「ヨハネの默示錄」を暗い洞窟の中で机上に書写している。

 ところが、

『第三の御使ラッパを吹きしに、燈火のごとく燃ゆる大なる星、天より隕ちきたり、川の三分の一と水の源泉との上におちたり。

 この星の名は苦艾(にがよもぎ)といふ。水の三分の一は苦艾となり、水の苦くなりしに因りて多くの人死にたり。』

に至って、洞穴の内は水が満たされ、その水中で私は息が出来ないのも厭わず、水中の中空に墨色ではない白い筆跡の立体図のようになった続きの書写をし進めて行くのである。

 さうして、かの、

『此の獸(けもの)の數目(かずめ)の義を知るものは智慧あり才智ある者は此の獸の數を算へよ獸の數は人の數なり其の數は六百六十六なり』

を水中に記した瞬間、その文字が白い細い帯となって、メタモルフォーゼし、後ろ足で立ち、上半身を起こし、前足をこちらへ垂らした、僅かな黒い縞をもった白虎となって、私を凝視していた。その瞬間、私は、

『――李徴――であるな……」

と思い、優しく笑った。

 その白虎の眼の輝きの向こうに、私は私の古い教え子のある男子の優しい視線を感じ、寧ろ、心が落ち着くのを感じたのだった……

   *

 覚醒は午前一時五十分であった。続きを見たかったが、それから五時半の起床まで、半覚醒が続き、それは叶わなかった。

2022/05/17

南方熊楠「イスノキに關する俚傳」(「南方隨筆」底本正字化版・全オリジナル注附・縦書PDF版)

南方熊楠「イスノキに關する俚傳」(「南方隨筆」底本正字化版・全オリジナル注附・縦書PDF版)を「心朽窩旧館」に公開した。

2022/05/16

「南方隨筆」底本正字化版「俗傳」パート 「イスノキに關する俚傳」

 

[やぶちゃん注:本論考は明治四四(一九一一)年十月発行の『人類學會雜誌』二十七巻七号に初出され、大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 実は、本篇は「選集」版を「イスノキに関する里伝」として古くに公開しているが、今回のものが、正規表現版となる。]

 

    イスノキに關する俚傳

 

 「イスノキ」 Distylium racemosum Sieb.et Zucc.は、九州及び熊野等、暖地產の常綠樹にて「マンサク科」に屬す、ヒヨンノキとも呼ぶ、倭漢三才圖會卷八四に云く、其葉面如子者脹出、中有小蟲化出、殼有孔口、吹去塵埃爲空虛。、大者如桃李、其文理如檳榔子、人用收胡椒秦椒等末、以代匏瓢、故俗曰瓢木、或小兒戯吹之爲笛、駿州多有之、祭禮吹此笛供奉于神云々、紀州西牟婁郡稻成村大字糸田に、大なるイスノキ有り、俗に疣の木と稱す、年々小さき網窠蟲[やぶちゃん注:「まうくわちゆう」。]其葉に子を產付け、上記の蟲窠(沒食子)を生ずる、初め其狀頗る疣に類する故也。疣を病む者、此木の側らなる地藏の石像に祈り、其小枝を折り、葉にて疣を撫で、捨て歸るに必ず平癒すと傳ふ、疣が人體を離れて木に徙る[やぶちゃん注:「うつる」。]と云ふ、又紀州の里俗、疣有者、棒を己が身と木との間に、橋の如くに渡し、「疣橋渡」[やぶちゃん注:「いぼ、はし、わたれ。」。]と三度唱へ乍ら、指にて木を輕く打つて橋を渡るに擬すれば、疣速かに癒ゆ、別に何の木と定りたる事無しと云ふ、英國にも、ハンノキの芽を疣の數だけ取て、之を埋むれば、忽ち斯の患を除くてふ事 W. G. Black, ‘Folk-Medicine,’ 1883, p.57 に見ゆ。思ふに此れ等は、最初諸木の葉に生ずる蟲窠の疣樣なるより、人の疣を樹に移し得と信ずる事、件の糸田の疣の木に於るが如くなりしより起れるならんか、支那の先王の八音、金石糸竹匏土革木の中に、土の樂器は壎[やぶちゃん注:「けん」。]なり。和漢三才圖會卷十八に、事物起原云、世本壎謂暴辛公所造者非也、德音之音而聖人作爲也、拾遺記言、庖犧爲壎、蓋壎燒土爲之、大如鵝、卵鋭上平底似稱錘六孔と有り、白虎通に、其卦は炊に中り、其方は西南に位すと云り、其圖を視るにヒヨンの笛に似たり、其始めは斯る蟲窠を吹きしより起りしかと惟はる[やぶちゃん注:「おもはる」。]、十七年計り前、大英博物館に近き店に、不斷斬新の翫具を賣出す所有り、壎の圖に酷似せる、赤き土製の樂器に、音譜と使用傳授書を添え賣出せしを見るに、ocarina と云ふ物也、因て手近き字書類典抔を搜せしも見當らず、ウエストミンスターの學僧兼飮仙「ヂーン、ハーフヲード」に尋ねしに、是れは支那の壎如き古樂にも非ず、聖作にても無し、ほんの俗謠に合せて兒童の翫ぶ具也と答えられし、昨年出板の大英類典卷十九、九六五頁に、オカリナの短き一條有り云く、伊太利創製の器にて、兒戯具又奇品たるに過ぎず、但し合奏に用ゆべく譜曲を作れる者は有り、普通に十孔を有す云々と、去れば壎と何の關係も無き者なり、愚案に壎唐音ヒヱン、イスノキのヒヨン共に其鳴る聲に基ける名たる事、吾邦のビヤボン、ポコンポコン、英語のドラム(太皷)タムタム(拍皷)に等しきもの歟、序でに述ぶ、那智山と高田村の間だに、烏帽子岩とて甚だ淋しき處有り、魔所の由、昔し尾張で最上の陶器を燒くに、イスノキの灰を土に和するを要し、此所にイスノキ多ければとて採りに來るを常とせり、或る時其使一人、此岩に登り四邊を觀察して、申の刻を過せしに、周圍の草木風無きに自ら動き出しければ、狼狽して逃げ還れりと、咄しを聽て予暮に及んで獨り其處に行き見しに、果して風吹かずに、水楊[やぶちゃん注:「かはやなぎ」。]コアカソ抔動搖して止まず、氣味惡きを我慢して詳察せしに、叢下に多き細流[やぶちゃん注:「ほそながれ」。]に、水楊の細根夥く[やぶちゃん注:「おびただしく」。]浸り居り、水之に激して小木皆搖けるなり[やぶちゃん注:「ゆりけるなり」。]、諸國の俚譚に風無くて草木震動すと云ふは、此樣な[やぶちゃん注:「こんな」。]事から速斷して生ぜるなるべし。

   (明治四十四年十月人類第二十七卷)

[やぶちゃん注:『「イスノキ」 Distylium racemosum Sieb.et Zucc.は、九州及び熊野等、暖地產の常綠樹にて「マンサク科」に屬す、ヒヨンノキとも呼ぶ、倭漢三才圖會卷八四に云く……』事前に『「和漢三才圖會」卷第八十四 灌木類 瓢樹(ひよんのき/いす) / イスノキ』を電子化注しておいたので、そちらを参照されたい。

「紀州西牟婁郡稻成村大字糸田」現在の和歌山県田辺市稲成町(グーグル・マップ・データ)。南方熊楠の墓もここにある。なお、熊楠の神社合祀反対運動の濫觴はここの猿神社(さるがみのやしろ:結局、合祀されてしまった)の合祀に発した。

「網窠蟲」「選集」は『網翅蟲』と訂しているが、網翅目はゴキブリ亜目とカマキリ亜目からなり、イスノキに寄生して虫瘤を形成する種はそこに含まれないので、誤りである。築地琢郎氏のサイト「Mushi Navi」のこちらによれば、当該種はカメムシ目アブラムシ科ヒラタアブラムシ亜科 Metanipponaphis 属シイコムネアブラムシ Metanipponaphis rotunda rotunda とある。本文に現われる「gall」虫癭(ちゅうえい=虫瘤)は、同科 Nipponaphis 属イスノフシアブラムシ Nipponaphis distyliicola が作ったものを「イスノキエダナガタマフシ」、同科 Neothoracaphis 属ヤノイスアブラムシ Neothoracaphis yanonis が作ったものを「イスノキハタマフシ」と呼称する。画像はここ(Shu Suehiro氏のサイト「ボタニックガーデン」内)やここ(佐々木玄祐氏のサイト「Gen-yu's Files」内)を見られたい。

「蟲窠(沒食子)」前者は「ちゆうくわ」(ちゅうか)、後者は「もつしよくし」(もつしょくし)と読む。所謂、「虫瘤(むしこぶ)」である。

「ハンノキ」本邦産のそれはブナ目カバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonica var. villosa 。但し、イギリスには本種は自生しないから、ハンノキ属の別種である。ヨーロッパに分布ヨーロッパハンノキ Alnus glutinosa  (英語名:Black Alder)と思われる。

W. G. Black, ‘Folk-Medicine,’ 1883, p.57」グラスゴー出身のスコットランドの古物商で、弁護士・政治家でもあったウィリアム・ジョージ・ブラック(William George Black 一八五七年~一九三二年)の「民間薬」。このページ数は「選集」でも「p.657」で同じだが、「Internet archive」で見る限り、当該原本は全「228」ページで、こんなページはない。そこで,英文テクストを「warts」(疣)で検索してそれぞれの部分を調べた結果、図に当たった。これは(☞)「p.57」の誤りで、その「In Donegal,…」以下の段落に出現することが確認出来た。

   *

If one takes as many buds from an alder bush as one has warts, and buries them, there should soon be a cure.

   *

「八音」以下の「壎」とともに、事前に電子化注した『「和漢三才圖會」卷第十八 樂噐類 壎(けん) / べッセル・フルート(土笛)』を参照されたい。一部、熊楠の引用には不審があったので、訂した。

「匏」「はう(ほう)」。瓢(ひさご)を素材とした楽器の一種で、本邦の笙(しょう)の類から発せられる音。

「白虎通」中国,後漢の班固の編集した書。正しくは「白虎通義」(びゃっこつうぎ)。後漢の章帝が、七九年に、諸学者を白虎観に集め、儒教の経書に関する解釈の異同について討論させ、これを折衷して「白虎通徳論」を作ったが、これに基づいて班固が編集したもの。経書中の主要な事項について、総括した解説がある(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「ヒヨンの笛」「ひょんの笛」。イスノキ(「ひょんのき」の異名がある)の虫瘤で製した笛。個人ブログ「俳句の迷宮」の「ひょんの笛」を参照されたい。写真もある。

『ウエストミンスターの學僧兼飮仙「ヂーン、ハーフヲード」』不詳。

「ビヤボン」「琵琶笛」「口琴」と書き、江戸時代の子供用の玩具楽器で、二叉にした鋼に針状の鉄を挟んだものを口に含み、振動させて鳴らすもの。

「ポコンポコン」「ポヒン」「ポコペン」「ポッペン」等とも呼ぶ。薄いガラスで出来た玩具。首が長い管になったフラスコ形のもので、底のガラスを薄くし、息の出入によって「ポピン、ポピン」と鳴るようにしたもの。

「タムタム(拍皷)」Tam-tam。金属で作られた大型の打楽器。当該ウィキを見られたい。

「那智山と高田村の間だに、烏帽子岩」(ゑぼしいは)「とて甚だ淋しき處有り」ここ(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルの写真のここと、ここを参照。まさに烏帽子!

「水楊」キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属カワヤナギ Salix gilgiana 学名のグーグル画像検索をリンクしておく。

「コアカソ」バラ目イラクサ科カラムシ連(clade IBoehmerieae)カラムシ属 Boehmeria spicata 同前。]

「和漢三才圖會」卷第十八 樂噐類 壎(けん) / べッセル・フルート(土笛)

 

Ken

 

けん      塤【俗字。】

【音「暄」。】

ヒヱン

 

事物起原云世本壎謂暴辛公所造者非也德音之音而

聖人作爲也拾遺記言庖犧爲壎蓋壎燒土爲之大如鵝

卵鋭上平底似稱錘六孔俗作塤字非

 

   *

 

けん      塤【俗字。】

【音、「暄」。】

ヒヱン

 

「事物起原」に云はく、『「世本(せいほん)」に、『壎、暴辛公(ぼうしんこう)の造る所なり』と謂ふは非なり。「德」音の音にして、聖人(せいじん)の作爲なり。』と。「拾遺記」に、『庖犧(はうぎ)、壎を爲(つく)る。』と言へり。蓋し、壎は土を燒きて、之れを爲(つく)る。大いさ、鵝(がてう)の卵(たまご)ごとく、上を鋭(するど)にし、底を平(たひら)にし、稱(はかり)の錘(おもり)に似、六孔あり。俗に、「塤」の字に作るは、非なり。

 

[やぶちゃん注:ウィキの「塤」によれば、『中国の伝統管楽器のひとつで、粘土や陶磁で作られたべッセルフルート(英語: vessel flute、オカリナの仲間)のこと。土笛の一種。八音では「土」に属する』。『中国では陶器製のものを「陶塤」(タオシュン、táoxūn)と言い、他にも材質によって、石器製の「石塤」(シーシュン、shíxūn)、磁器製の「瓷塤」(ツーシュン、cíxūn)、獣骨製の「骨塤」(グーシュン、gǔxūn)、漆器製の「漆塤」(チーシュン、qīxūn)、貝殻製の「貝塤」(ベイシュン、bèixūn)などがある』。『朝鮮半島には塤から派生したフン(朝鮮語: 훈、塤、hun)がある』。『日本では、同じタイプの陶器の楽器は土笛(つちぶえ)と呼ばれ、「塤」の字訓もつちぶえである』。『大きさはさまざまだが、形状は卵形である。大きいものは低い音が出る。現在の代表的なものでは、いちばん上に吹き穴があり、指穴は通常』、『吹き穴より小さいものが』八『つあり、両手の人差し指・中指・薬指・親指で押さえる』。『起源は、狩猟の際に獲物を呼び寄せたり、反応を探るために使った管楽器と考えられている。骨で作る管状の呼び笛を「骨哨」といい、陶器製の「陶哨」も作られるようになった。中国浙江省の河姆渡』(かぼと)『文化や河南省の仰韶』(ぎょうしょう)『文化の新石器時代遺跡から、吹き穴だけの陶器の管楽器が出土しており、音色からこのような用途であると考えられる』。『夏代には指穴』二『つのものがあり、音が』四『種出せたと伝えられている。殷代には陶器、石、骨で作られ、多くは底が平らな卵形に作られている。戦国時代には指穴』四『つになり、多くは平底卵形となった。漢代の』「爾雅」の記述からも、『陶器製で、大きさは大きい物ではガチョウの卵ほどで、上部は尖り、底は平らで、はかりのおもりの様な形で、穴が』六『つあり、小さいものでは鶏卵ほどの大きさであったことが分かる。多くの音が出せるようになったことから、秦、漢以降は、主に宮廷音楽(雅楽)に用いられるようになった』。『その後廃れたが』、一九七〇『年代以降、出土された楽器から再び注目されるようになり、新たに作成されたり、演奏が行われるようになった。現代のものでは穴が増やされ』、七『個から』十『個の指穴が開けられている』とある。以上の解説に出た「八音(はちおん)は、当該ウィキによれば、『特に儒教音楽で使われる、八種類の楽器を表す語』で、『古代中国では、楽器は』、金・石・糸・竹・匏(ほう)・土・革・木(ぼく)の『八種類の素材からつくられると考えられ、区分されていた。楽器の総称を表す「金石糸竹」という四字熟語はこれに由来する』。『「発音原理」を楽器分類の重要な基準と考えたインドと違い、中国では、楽器区分は、「楽器の素材」によった』。『西洋音楽では管楽器を木管楽器、金管楽器に分けるが、これは素材によった分類からきており』(但し、現在では発音原理による分類である)、『八音と類似点がある。正倉院に保存されている種々の楽器はこの分類によって分けられていると考えられている』。『また、朝鮮半島に伝わる、孔子廟の祭祀楽は八音すべてを含むような楽器編成になっている。日本の雅楽でも同様の分類が行われた』。以下、

①「金」は『金属で作った楽器。青銅を使った編鐘(へんしょう)、鉄板を使った方響(ほうきょう)、銅鑼(どら)、鈴など』を指す。

②「石」は『石で作った楽器。編磬(へんけい)、特磬など。中国語で「玉音」とも呼ばれる』。

③「糸」は『絹の糸を張った楽器。琴(きん)、箏(そう)、瑟(しつ)、琵琶(びわ)、阮咸(げんかん)、箜篌(くご)などの弦楽器』。

④「竹」は『竹から作られた楽器。簫(しょう、排簫、洞簫)、箎(ち)、笛などの管楽器』を指す。但し、『同じ笛の仲間でもオカリナの類は』「土」に入り、笙は「匏」に入る。

⑤「匏」は「ふくべ」で、『ヒョウタン・ユウガオなどを素材として作った楽器。笙(しょう)、竽(う)など』を指す。

⑥「土」は『土を焼いて作った陶製の楽器』で、この『塤(けん、しゅん)という土笛など』を指す。

⑦「革」は、通常は、牛の『革を張った鼓』『などの楽器』を指す。

⑧「木」は『木製の楽器。柷(しゅく)、敔(ぎょ)、拍板など』がある。

『これを発音原理で分類してみると、金・石・革・木は打楽器』(この内、「革」は膜鳴楽器で、残りは体鳴楽器となる)、『糸は弦楽器、竹・匏・土は管楽器(明確に金管楽器に該当するものはない)に概ね該当する』とある。

「事物起原」宋の高承の撰になる事物の起源や由来を記した博物書。但し、現行本は後世の誰かが補填した部分の方が約九十八%を占め、原著とは言い難い。

「世本」詳細不詳。事物や事柄の創始者や氏姓の出所について述べたもので、後漢の頃に書かれたものと推定されている。南宋期に佚亡したが、清代になって多くの編輯本が作られた。

「暴辛公」蘇成公。春秋時代の蘇の国の君主。

『「德」音』儒教精神の核心たる「徳」を現わす音(おと)ということか。

「拾遺記」元は後秦の王嘉の撰になる、神話時代の伏羲(ふっき)から晉に至るまでの伝説を集めた志怪小説集。最初は十九巻あったが、散佚し、残ったものを梁の蕭綺が編輯して十巻に纏め、別に所論を附したものが残る。なお、以上の書物の注は「東洋文庫」の書名注に拠った。

「庖犧」伏羲の別名。]

南方熊楠『山神「ヲコゼ魚」を好むと云ふ事』(「南方隨筆」底本正字化版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版)公開

南方熊楠『山神「ヲコゼ魚」を好むと云ふ事』(「南方隨筆」底本正字化版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・1.85MB・28頁)を「心朽窩旧館」に公開した。

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 ムシロ貝 / ムシロガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。この見開き丁の図譜のなお、この見開きの丁もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はこちらで電子化した。]

 

Musirogai

 

「百貝圖」

   むしろ貝

 

[やぶちゃん注:腐肉食で知られるスカベンジャーの、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目新腹足下目ムシロガイ(オリイレヨフバイ)科 Nassarius 属ムシロガイ Nassarius livescens

である。幼少の頃は盛んに拾ったが、私は直に飽きてしまった。

「百貝圖」寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書」に拠った)。]

2022/05/15

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 口キリ貝 / カニモリガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。この見開き丁の図譜のなお、この見開きの丁もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はこちらで電子化した。]

 

Kutikirigai

 

口(くち)きり貝【「百貝圖」。】

 

[やぶちゃん注:標準和名に「口切貝」、腹足綱異鰓亜綱異旋目トウガタガイ超科 トウガタガイ科クチキレガイ属クチキレガイ Orinella pulchella があるが、開孔部の形状や、殻表面が平滑であって、本図とは一致しない。これは、まず、貝口の形と殼表の顆粒状螺旋から、

腹足綱前鰓亜綱中腹足(盤足)目オニノツノガイ超科オニノツノガイ科タケノコカニモリ属カニモリガイ Rhinoclavis kochi

に比定してよいように思われる。

「百貝圖」寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書」に拠った)。]

泉鏡花「高棧敷」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)を公開

「高棧敷」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)を「心朽窩旧館」に公開した。

2022/05/14

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「詩に就て」

 

[やぶちゃん注:底本のここ(「詩壇の柱」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。]

 

     詩に就て

 

 

 詩壇の柱

 

 或晚、本屋の店先で福士幸次郞氏の「太陽の子」を見て、直ちにこれを購ひ求めた。大正三年に出版された此詩集の中には、今のプロレタリア詩派の先驅的韻律と氣魄とを同時に持合せ、激しい一ト筋の靑年福士幸次郞の炎は全卷に餘燼なく燃え上つてゐた。自分は手擦れのした此詩集の存在に對し友情の外の敬愛を感じた。今の高村光太郞君の粗大を最う一ト握り生活面で壓搾した彼の内容的な集中感は、見渡したところ到底天下に較べるものの無い位だつた。これらの詩が大正初年の作品であることと、そして何よりも彼の性根がその時代から今までへの二十年の歲月に、悠悠と働きかけてゐる健實な新味を思はざるを得なかつた。時時「童謠も書いて見る」フラスコ風の詩人、時時注文によつて詩物語をも案じて見る三流以下の詩人、又時時人生派風の嵐や海洋やケチ臭い生活詩を歌ふ詩人、さういふ詩人の中で淸節をもつ此「太陽の子」に於ける行動と韻律を約束した二十年後の立派さは、自分の眼界に瘦軀をもつて霜を衝くところの、詩人中の詩人、過去がもつ大なる柱石的な奇峰を現出せしめた。縱令何人と雖も此一つの柱、云ひやうのない氣魄が全詩壇的な過去への大なる承認であることを知らねばならなかつた。

 自分は數句の後、大阪から來た或書店の書目の中に、彼が大正九年の版行である詩集「展望」を見て僅かに三十錢を投じて購求した。「感謝」の玲朧、「記億」の悒鬱《いふうつ》、「友情」の美と韻律、「平原のかなたに」の思慕的な熱情、そして「昏睡」の中にある現世的ライオン、此詩は、(一人の男に知惠をあたへ、一人の男に黃金のかたなをあたへ……)の呼びかけから書き出して左の四行の適確な、驚くべき全詩情的な記錄を絕した力勁さで終つてゐる。

 

 この男に聲をあたヘ

 この男をゆりさまし

 この男に閃をあたヘ

 この男を立たしめよ!

 

 そして又「夜曲」の美しい激越、調度と愛情。

 「われは君のかつて見た海をわすれず、君の遊ん

 だ濱を忘れず、その海によなよなうつる星のごと

 く荒いうねりに影うつす星のごとく、われは君を

 ば思ひだす……」

 その他「幸福」の幽《かそけ》さ「泣けよ」の純朴、「船乘りのうた」「この殘酷は何處から來る」それらの詩の内外にある健實な搖るがない確さは、もはや過去の詩檀に聳える奇峰的な壯大な疊み上げ、遙かに群がる諸詩人の上に光つてゐる。これらの韻律、行動、形態、表現の諸相は、今日の詩壇の最も柱石的なものであり、萩原朔太郞氏の「月に吠える」と相對ひ合うて、大なる詩歌の城をどつしりと上の方に乘せてゐる。風雲は彼らを訪れるであらうけれど彼らの拔くことのできない大なる柱は、益益その城を護るために、後代への重い役目を果すであらう。今日の詩壇に筆劍を磨くの徒は何人も彼のために一ト先づ挨拶を交し、自分のもつ敬愛を同感することに依つて、彼を知ることを得たのを喜ぶべきであらう。

[やぶちゃん注:文中に「われは君のかつて見た海をわすれず、……」は引用全体が一字下げベタなので、かく処理した。但し、以下に示す通り、引用が不全である。

『福士幸次郞氏の「太陽の子」』大正三(一九一四)年洛陽堂刊の福士の処女詩集。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本全篇が読める。

『詩集「展望」』大正九(一九二〇)年新潮社刊。同前のこちらで原本全篇が読める。以下、

「感謝」はここ

「記憶」はここ

「友情」はここ(題名の後に『(千家元麿氏に)』(「せんげもとまろ」と読む)の献辞がある)

「平原のかなたに」は「ああ平原のかなたに」が正しく、ここ

「昏睡」はここで、以下の引用は最後の「昏睡」の最終連であるが、原詩は最初の三行末には読点がある。

「夜曲」はここで、以下の引用は最終連であるが、引用(一部不全)がベタなのは不満。以下に示す。

   *

ああわれは君のかつて見た海をわすれず、

君の遊んだ濱を忘れず、

その海によなよなうつる星のごとく、

荒いうねりに影うつす星のごとく、

われは君をば思ひだす、

われは君をば思ひだす。

   *

が正しい。

「幸福」はここ

「泣けよ」はここ

「この殘酷は何處から來る」はここ

である。

「悒鬱」「憂鬱」に同じ。] 

 

 詩歌の道

  

 自分は若い時分から歌を詠まうといふ氣持を持たなかつた。歌に對する才能の無いのも朧氣ながら知つてゐた。併し他の歌人の詠草は努めて讀んで自分の足しになるものは、自ら恍惚としてその道の「物の哀れ」を感じ味はひ、發句や詩の境致に窺へない或は相聞風な或は自然風物の詠草に、身を入れて讀み耽ることは樂しかつた。良寬の閑境や元義《もとよし》の情熱、又は實朝の豪直なども、勞作の暇暇《いとまいとま》の心を和め慰めてくれたけれど、依然作歌の衝動を感じたことは一度もなかつた。何處まで行つても自分の作爲を動かすことはなかつた。

 昨年の夏自分は眼を病み、殆どその眼に纏帶を施してゐた關係上、かういふ時に發句でも作らうと思うて見たが、何故か發句への氣持が動かず、詩にも氣持は働かうとしなかつた。眼を病むと氣持の鬱屈することは並大抵ではなかつた。自分は或朝早く庭に小さな朝顏の花を見出し、それが土の上を這うて咲いてゐる有樣に物哀れさを身と心に沁みて感じた。歌を作りたい氣持に打込まうとしたのも、初めて經驗する靜かな又得難い衝動だつた。自分は齋藤茂吉氏の歌や島木赤彥氏の歌を讀んで見て、自分も作歌の志を立てて見たが矢張り失敗して書けなかつた。自分はふと釋超空氏の歌をよんで暫らく茫然と見詰めてゐた。實際自分は近頃これほど鋭い唐突な驚きを感じたことは稀だつた。それほど釋氏の歌は咄嵯の間《かん》に自分に關係を生じて來てゐた。「赤光」以來歌に驚きを感じたことは、初めての經驗だつた。自分は釋氏の境致には誰も手をつけてゐないことを知り、その茫茫たる道を釋氏が縱橫に步いてゐることに、ひそかに舌を卷いたのである。誰も知らぬ歌壇にこのやうな恐ろしい奴がのつそりと步いてゐたことは、全く驚いて見るだけの「押《あふ》」の强さをもつてゐた。自分は前田夕暮氏に會うた時の釋氏のことを尋ねたが、前田君も釋は怪物だといふ意昧のことを言つてゐた。自分の考へが謬《あやま》つてゐないことは兎も角、遠い文壇の彼方にぎらぎら光つてゐる眼光のあつたことは、自分を猛烈に打つて來るのだつた。自分はどういふ意味にも油斷してはならぬと思ひ、兄だか弟だか分らぬ藝術の分野に伏兵をしなければならぬ自分のネヂの弛みを締め上げるのだつた。凡ゆる詩歌の分野的仕事の隱れてゐる位置、匿れてゐなければならぬ境涯、それでゐて到底五十年を豫約する光芒の純粹さは、詩歌の大平原に朝日のごとく輝いてゐるものだった。彼らの中に一生詩歌に理もれてゐる人さへあり、それを衿持せずに微笑してゐる人もあつた。

 自分は詩歌への精進はしてゐても、最《も》う動かないものを動かさうとする詩歌の最後の中に絕叫してゐるものである。動かないものを動かすところへ行き着くことは、併し歡喜に違ひはないが進步ではなかつた。化石と同樣な慘めさと憂苦だつた。自分はその扉を蹴破らうとしながらゐて、自ら重石の下にゐるも同樣の苦衷を嘗めてゐた。それは詩が誠の「意識」から抉《ゑぐ》り出されるものだつたからだ。自分は呼べども答へない詩歌の鐵の扉を、日夜蹴破り敲くものの慘苦を經驗し、凡ゆる哄笑の中に仁王立ちに立ちあがり乍ら、身を以て打《ぶ》つかつてゐるやうなものだつた。

 最早あらゆる詩歌はその本體を搔きさぐることではなく、本體自身が本體となる前の、文章が文章とならない以前、感情の動きが既に動きとならない前のものでなければならなかつた。自分の刻苦して打つかるものも自分の感情的な皺の多い時代には、その皺を剝ぎ起さなければならなかつた。その皺の下に未だある一滴の泉を自分は靈藥のやうに目にそそぎ込まなければならないのだ。

[やぶちゃん注:「元義」平賀元義(寛政一二(一八〇〇)年~慶応元(一八六六)年)は幕末期の岡山の国学者で歌人・書家。当該ウィキによれば、『子規が明治』三四(一九〇一)年に、雑誌『『日本』に連載していた』「墨汁一滴」に『元義を万葉歌人として称賛する文が発表され、元義の名は世に広く知れ渡った』とある。]

 

 詩と發句とに就て

 

 發句も詩も別に自分には渝《かは》りがない。渝りのあるのは詩の中にあるもので壓搾されたものが、發句の姿となり内容となるだけである。特に職業的俳人や卽興的詩人の輩に依つて區別される發句や詩の單なる形式的識別は、自分には最早問題ではない、――自分の問題とするところはそれらの根本の嚴格さを引き出すことにあるのだ。

 發句といへばさびしをりを云ふのは、假令それらの言葉の存在があるとしても直ちにそれに依つて片付けてしまふことは間違ひである。要は嚴格な、高い、登り詰めてゐる氣持をいふに過ぎぬ。我我は吾吾の最高峰を攀ぢ登つてしまうたところで、最う一度何物かを搔きさぐらねばならぬ。詩が感情的風景の域を脫してゐることは勿論、詩はそれらの上に立つ最早雲表《うんぺう》的な氣禀《きひん》の激しさから登り詰めた何物かであらう。――

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

「雲表」遙かな雲の上。]

 

 遺傳的孤獨

 

 元祿の作者の中で特に選ばれた丈艸や凡兆は芭蕉と共に自分らを擊つのも、かれらの高峰が俗手《ぞくしゆ》の抵觸外に立つてゐる爲であらう。ホヰツトマンやヴエルレエヌの詩風は詩風の一存在として、特に僕らの靑春を襲うて共鳴してゐたのも、最早今日の僕らをしてたはいないものとして眺め飽きたのも、僕らの成人を意味する前に既に僕らが奈何に彼らよりも、より烈しい東洋風の孤獨とともに在ることに耐へる、千古不拔の遺傳的詩人であつたかが想像されるであらう。

 西洋人は遺傳的に孤獨の外の人種であり、性情に孤獨の巢をもたないやうである。稀れに露西亞人にある北方的憂欝の氣質は、トルストイやドストエフスキイの器に盛られたとしても、東洋風な、淡《あつさ》りした孤獨の城を建てることを知らない、――發句が幾たびか英譯されてゐながら、その十分の一すら味ひや甘みを傳へることのできぬのは、民族の遺傳的風習や生活樣式の相違ばかりではない。「分りかねる」ものが未永劫にまで「わかりかねる」ことであり、解らうとしてもその解るべき性質を根本から失うてゐるからに過ぎない。

 

 悲壯なる人

 

 詩が日本の靑年の間に作爲されたのは、正しい新人の努力に依つてその地盤を築き上げたのは、今から二十年前であらう。河井醉茗や澤村胡夷《こい》、蒲原有明等もその記憶にあるところのものだが、寧ろ北原白秋三木露風の二つの存在は、新人詩壇の存在を固めるに力のあつたものであらう。三木露風のねらひどころの可成りに正確な、洞察の幽邃は空虛な詩壇を一層低迷ならしめたことは萬死に値すべきであるが、併しあの時代に於て彼の詠嘆の矢弓《しきゆう》はただちに騷騷しい混鬧《こんだう》に陷入らないで、一ト通りの靜寂を覗き見ようとしてゐたのは並並でない努力であつた。白秋の邪宗門に於ける異國情調の比較的嚴格な律調も、消化されて次の時代の格律となつたことも疑へないやうである。「思ひ出」の輕い調子が後期に惡影響を與へたことは云ふまでもない。

 併乍ら白露二氏の時代から今日までの詩人中の詩人、新人中の新人として數へ上げることのできるのは、中野重治でもなければ千家元麿でもない。一人の劍の折れたる戰士萩原朔太郞であらう。時代の新勢は既に萩原を乘り越えてゐるに拘らず、彼はなほ昨日の新人の如き善良なる勇邁と、作詩的末期の餘熖《よえん》に捲かれ乍ら、悲壯なる戰鬪の眞中にゐるのは滑稽以上の嚴肅さであり餘りに悲壯以上の悲壯でなければならぬ。彼自らも猶悲壯淋漓たる中に、幾たびか胴震《どうぶる》ひをして猶永く末期的餘熖の渦中に立つであらう。

[やぶちゃん注:「澤村胡夷」(明治一七(一八八四)年~昭和五(一九三〇)年)詩人で美術史家。滋賀県彦根生まれ。本名は専太郎。京都帝大文科大学哲学科美学美術史専攻で明治四二(一九〇九)年卒。文学博士。早くから『小天地』などに詩を投稿し、明治三六(一九〇三)年、詩「小猿」を発表。旧三高の代表歌「逍遙之歌」や「水上部歌」を作った。明治四十年詩集「湖畔之悲歌」を刊行。大学卒業後は『国華』の編集に従事し、大正八(一九一九)年、京帝大助教授となった。著作に「日本絵画史の研究」「東洋美術史の研究」がある。台湾訪問中に依頼を受け、昭和三年の暮れ、「胡夷」のペン・ネームとして最後の詩となる「臺灣警察歌」を作詞している。

「混鬧」現代仮名「こんどう」。遣混乱と騒擾。]

 

 十年の前方

 

 詩が今より最《も》つと注意され愛讀されるには、やはり十年の歲月を要するであらう。その十年の曉にもなほ不運であるべき詩人の嘆息は、その時に於てすら更に十年の年月を曉望するであらう。我我が詩を書き始めたころは依然十年の行手を眺めてゐた。その十年は今吾吾の存在や周圍の存在だつた。しかも我我や吾吾の若い同行の詩人たちは、詩に於て衣食することを拒絕されてゐることは勿論、詩中に呻吟することをも許されなかつた。

 詩人は詩人である爲の輕蔑、詩人でなければならぬ輕蔑の苦苦しい唾液を吐き出すまでに、可成な辛酸のあることは小說家が小說的唾液を吐き出すと一般であらう。しかも詩人は詩人である傳說的美名と、美名がもつ輕蔑とに惱まされ通してゐる。應需の尠《すくな》い詩人の社會的進出は、小說家に及ばない如く他の何者にも及ばなかつた。併も彼らは風流才子でない如く甚だコセコセした虛名に憧れなければならぬ原因があるとしたら、それは詩人自身にではなく、彼の「十年」の年月が前方にあるからだと云つた方がよからう。彼ら詩人は絕えず十年を目ざして進んでゐる。これは小說家に於ける眼の前の生活にばかり拘泥してゐるのとは、少しく事變つてゐる。彼らが彼らの受ける輕蔑の前に、先づこの晴晴しい「十年」の前方を俯仰《ふぎやう》することに依つて、他の奈何なる藝術の士にも劣らない心魂を硏ぎ澄すことを證據立てるであらう。その一事のみに依つて彼らは漸く彼らの仕事に受ける輕蔑の蒼蠅を拂ひ除けることができるであらう。

 

 詩錢

 

 千家元麿氏は或時、或本屋の門を通り過ぎ乍ら、不圖《ふと》囊中《なうちゆう》空しきを知り、鉛筆で數章の詩を書いて金に換へたさうである。これは千家氏自身から直聞《ぢきぶん》した話であるから噓ではなからう。千家の詩風であつてこそ初めて此卽興的場面が充されることを知り、僕なぞはかうゆくまいと思はれた。

 詩を書かうといふ氣持は、殆ど瞬間にして消失する再び補捉しがたい氣持である。金に換へるために書くことは決して惡いことではない。僕などの詩を書きはじめた大正元年前後には、詩に稿料を拂ふ雜誌社がなく、そのために現今の如く身を落して、詩人が雜稿を市に賣ることを潔しとしなかつたやうである。尠くとも僕自身は詩を書く外、雜文は書かないで破垣茅屋《やれがきあばらや》に甘んじて暮した。その頃から見れば今は詩人の生活も物質的に惠まれてゐると言つてよい。

 詩人にして小說を淋くことは多少輕蔑されることらしい。詩人で生涯小說を書き通すとも、よくよくの面魂《つらだましひ》をもたなければならぬ。千家氏の如く書店の門前で平氣で詩を書いて賣ることは、その平然たる面魂の中に、押しの强さがある。自分は何故かその話を面白く想出した。

 

 圓本の詩集

 

 圓本の中に詩集がその一卷の役目を持ち、改造社、春陽堂も其書册に加へてゐる。天下の詩人數十氏が年代的に後代に傳へらるべきものは、先づ此詩集位であらう。同時に凡ゆる圓本中、窺かに其後代に於て古籍本としての市價が圓本中の何物よりも以上に價高き古本の値を持つことは當然であらう。何故といへば小說本の紙價はその年代とともに低落するに先立ち、詩集類は歲月とともに其定價をセリ上げてゆくからである。萩原朔太郞の「月に吠える」や「靑描」福士幸次郞の「太陽の子」高村光太郞の「道程」日夏歌之介の「轉身の頌《しよう》」千家元麿の「虹」百田宗治の「ぬかるみの街道」北原白秋の「邪宗門」佐藤春夫の「殉情詩集」西條八十の「砂金」堀口大學の「砂の枕」等は、最早その初版は定價の二倍以上に昇り、市上これを輕輕しく求められない。

 以上の詩集はその詩人の出世作である所以もあるが、それを讀む若い人人は次から次へと成長し、又次から次へと搜し求めるからである。詩歌に熱情を持つ靑年は他の小說本の比ではない、彼等は一卷を求めるに東京中の古本屋を搔き𢌞すことは平氣である。詩歌の士は誠に此心がけがなければならず、往昔の自分もまた此道を踏んで來たものである。圓本の詩册がかういふ氣持ちを胎んでゐることはその編輯者と雖も自覺しないであらう。かういふ不斷な靑年の背景をもつ詩集の書册が、當然圓本中に於ける重大な役目を持つてゐること、及び後年その紙價を上騰させることは瞭《あきら》かなことである。

 圓本の使命はどうして之等の圓本を後代に殘すかといふ今は非營利な寧ろ藝術的熱情を感じる時である。相應營利的成果のあつた今日に於て、先づ此等の圓本を後代の史家に殘し、圓本の輕蔑を剝奪すべき良き書物の塔をどうして殘すかを考慮すべき時である。新人を加へ最善を盡し、少し位《ぐらゐ》損をしても自ら元祿の井筒屋庄兵衞をも念頭に入れるの時である。圓本時代に何人が圓本以上の仕事をしたか、その仕事に藝術的な眞摯な作用をもつ出版書肆がどれだけゐたか、さういふ決定を爲すベふ時である。自分は材料蒐集の上、これらの圓本論とその時代を論じたいと思うてゐる。圓本を檢討することは時代の腸《はわわた》に手をさぐり入れることに均しいからである。

[やぶちゃん注:「窺かに」逆立ちしても「ひそかに」と読むしかないが、「窺(ひそ)かに……持つことは當然であらう」という文脈では呼応がひどく悪い。「窺(ひそ)かに思ふには……持つことは當然であらうかとも感ぜられる」ぐらいでないと、尻が落ち着かないと私は思う。

「井筒屋庄兵衞」京都の書肆。俳書の出版で知られ、蕉門の俳書は、殆どが、この書肆より刊行されている。初代が初めて俳書を出版したのは承応元(一六五二)年で、以後百五十余年、五代にわたって出版活動を続けた。]

 

 詩情

 

 自分の詩を書いてゐた年少の時にすら、詩に遊ぶといふ氣持よりも、むしろ詩の中にゐて年少の生活を見てゐたやうに思ふ。何か心に添はず友情に叛き兄姉に離れた時には、机に對ひ詩中の悲しみを自ら經驗したやうに思うてゐる。徒らに花下《くわか》に春秋の思ひを練るといふ氣は無かつたらしい。假令、春秋の念ひを遣《や》るにしてもその折折の自分を基としてゐたやうである。

 年少の悲しさはそれ自身成長の後には詩情に似たやうなものであるけれど、年少の時は詩情どころではない。世に容れられぬと一般な悲哀であるやうだ。自分は敍情風な昔の詩を讀み返すと、それを書いた時の日光の色、樹の匂ひ、その時の心もちなぞが思ひ出されて來て、一枚の寫眞を眺め入るのと何の變化りはないやうである。自分は既に壯年の齡に行き着いてゐるけれど、詩情は昔に稀に立ち還つて自分に何か考へさせるやうである。尠くとも敍情の詩を書いた自分を不幸だとは思はない、あの頃は自分の生活の中でも一番樂しかつた頃ではないかとさへ思ふのである。考へることに濁りがなく憂愁はあつても素直な姿をもつてゐた。しかも靑春の多くの時を詩に形ををさめ、一卷として自分の年少時代を記念したことは決して不幸ではない。――振り顧(かへ)つて往時を思ふよすがともなる仕合《しあはせ》さへ感じるのである。

 その頃の自分は東京の町町を步くことを一種の旅行のやうに考へてゐた。實際、田舍に生れた自分には、海近い深川の土藏のある町通りや、大川端の古風な昔の艶を拭き出した下町を見物して步くことは、郊外から出掛けるだけでも鳥渡《ちよつと》した旅行に似た遠い感じであつた。土藏と土藏の間から隅田川を見、淺草公園では樣樣な見世物小屋に半日の心さむしい遊びをしたり、と或る店さきに眉目正しい、下町娘を見出したりして、ちよつとした旅愁を感じたものだつた。とり分けさういふ町を步きながら雨に降られたりすると、國の町のやうに傘借りることもできないなぞが、一層他鄕の感じを深めるのだつた。冷たい雨あしを眺め自分はよく淺草の知らぬ町家の軒下に佇んで、國の町でさういふ雨に降られた時のことを思ひ出して、漠然とした憂愁を感じたものであつた。この感じは東京に居馴れるに從つて次第に消えて行く感じであつたがまだ折折心を掠めて殘つてゐた。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。]

 

 詩集と自費出版に就て

 

 自分が初めて愛の詩集を出版したのは大正六年の冬だつた。當時も今も處女詩集は自費出版に定《きま》つてゐる。本屋などは相手にしてくれるものではない。そのかはり幾らかの文名を贏《か》ち得た後に更めて本屋が出してくれるものである。自分の愛の詩集も後に本屋から改めて發行した。同樣「抒情小曲集」も自費で出したが今までにアルスや紅玉堂から度度《たびたび》版を重ねた。

 自費出版はそれの償ひが精神的以外に酬いられるものではない。自費出版の意義はその詩人の大成した後日に初めて生じると云つてよいであらう。市井一介の詩人としての沈沒する詩集は、本人には意昧はあつても文壇的に意義をなさないとしたら、これはよく考へた後に出版すべきものであらう。當今の如く思いつきや當座の感興などから、簡單に出版されるべきものではなく、能くその詩人の全生涯の發足的な地盤を決定すべき、ゆるぎのない作品の堅實性を信憑してから、それの出版を見るべきものであらう。後代に傳はる如き作の集成を見ることは、ひとり作者の快適とするところばかりでなく、全文壇に美しい記錄を殘すものと言つてよい。小說集は二三年にしてその書物としての形や値を失ふことが多いが、詩集本は年經るごとに高金の値を生じてゆくのは、作者に誠の心があるからである。又、別の意昧で小說集は他の刊行物として出版されるが、詩集の重版は少く、その元の版のまま稀本として傳はつて行くが爲である。一朝にして亡びる詩集を出版するくらゐなら止めた方がよいといふのも此意昧に徹するからだ。

 

 

 過去の詩壇

 

 當今では詩や小說ぐらゐ書けない靑年は稀になつてゐる。全くのところ詩や小說の眞似事くらゐ書けないやうな靑年は、その靑年たる常識を缺いてゐる程度にまで、文藝が一般に普及してゐる時代である。何も詩や小說を書くことが特殊な仕事ではなつなつてゐる。それ故これからは詩や小說を書いて世に問ふことの困難であることは勿論である。餘程秀れた才能を持ち合せてゐるか、または異常な神經や心の持主に限り、世に問ふ所以のものを有つてゐると言へるであらう。

 詩だけに就て言ふならば、その分野は既に唄ひつくされてゐると云つてもよい程である。千遍一律の詩には我我は疾くに飽きもし素讀に耐へないものがある。詩を書かうとするならば餘程の文學的敎養の達人でなければ、餘程生れながらの素直な人でなければならぬ。尋常一樣の詩作程度では、その作を擧げて天下の詩情を動かすことはできないであらう。それほど詩作する人人が多く相應の腕のある人が揃つてゐる譯である。曾て萩原朔太郞君や千家元麿君の得たる詩境と聲望をさへ、今後の詩人に於ては却却《そこそこ》容易に得ることの出來ぬのは、彼ら程の才能を持つて出て來ても時勢は彼らの二倍くらゐの才能を求めてゐるから遂に彼らの地位を得られないのである。この過去の二作家の二倍以上の作家が出て來たら、完全に後繼者を詩壇は得たるものと言つてよからう。既成や新進の爭ひは俗惡なる文壇ばかりではなかつた。詩壇にもその聲を聞くとき僕の思ふところは以上數言に盡きてゐる。――

 

 敵國の人

     萩原朔太郞君に

 

 雜誌「椎の木」に僕の爲に二十枚に近い論文を揭げ、君の知る僕を縱橫に批評してくれたことは、僕と雖も絕えず微笑をもつて讀むことが出來た。併し詩集「故鄕圖繪集」に論及した君は、不思議に僕の本統の姿を見失うてゐる。君が自ら敵國と爲すところの僕の生活内容が、君のいふ老成の心境でもなければ風流韻事に淫する譯のものでもない。僕は僕らしく靜かに生活して居れば僕らしい者の落着けることを信じるだけである。君が自ら僕を敵國と目ざすところは落着いて暮したい希望を捨てない僕を難ずるなら兎も角、徒に輕率な風流呼ばはりや老成じみた一介の日蔭者としての僕を論ずるならば、僕はそれを返上したいと思つてゐる。

「故鄕圖繪集」の本流はこの詩集以外には決して流れてゐない。君が諸作品の韻律や素朴に統一的な缺乏のあることを指摘し、「忘春詩集」に劣つても勝ることなきを言及してゐるが、この詩集の中にある僕らしい行き着き方を君は又幸にも見失うてゐる。君はこれらの詩が發句的要素から別れて出たものであることを指摘するのはよいが、何よりも「忘春詩集」以來かうならなければならぬ「彼」の素顏を何故に見なかつたかと云ふことである。自分は俳三昧や風流沙汰や老成心境から出發したのではなく、これらの道具立は不幸にも僕に加へられた迷惑な通り名に過ぎない。

 僕は君の如き一代の風雲見を以て自稱するものではなく、只孤獨に耐へるだけの鍛へをあれ等の詩作の上に試みただけであり、夫等の試みは直ちに君には不幸にも老人臭く見えたのであらう。我我靑年の末期にあるものは兎もすると老人臭くなるのは、事實それに近づきつつあるからでどうなるものではない。又努めて僕は書生流の詩域から脫したい願ひを持つてゐることは勿論である。

 君のいふ如く僕を慘めな一個の庭いぢりとして生涯を送るもののやうに見るのは、君が僕を見失うてゐる初めではないかと思ふのだ。僕の生活苦やその種種な面は直に君を打たないであらう。

 君は僕に二人とない益友ではあるが、然し君は僕を讀み落し見詰めてゐては吳れないやうである。離れてゐて遠くから僕を見てゐる親切氣はありながら、僕が仕事によりどれだけ昔の僕から今の僕へ進んでゐるかを見落してゐる。君に見て貰はなければならぬものを君さへ見失うてゐる。僕のいふ孤獨の鍛《きた》へといふものも、君の誤解する風流韻事と稱する間違ひも大槪ここらあたりから別れて批評されたのであらう。

 君が僕の發句を以て餘技とし月並であり陳套《ちんたう》であるといふのは、月並の薀奧《うんわう》は何者であるか、何故に僕が蕉風の古調を自ら意識に入れながら模索してゐるかが能く解らないからである。

 自分は發句を以て末技《まつぎ》の詩作と思つたことがない。或意味で僕は僕の發句や短册を市井に賣つてまで衣食したい願ひを持つてゐるのは、賣文の埃から遠退くことが出來るかと思ふからである。元祿天明の時代なら兎も角今日發句を賣つて米鹽の資を得ることは出來ない。僕は僕の本來のものを靜かに心で育てる外に僕の發句は生きないと言つてよい位である。

 僕は又永年の詩作の經驗すら一句の發句に及ばないことを知つてゐる。或意味で發句を重んじる僕の凡てで無ければ全幅を剌繡すべき肝要なものだと云つてよい。何を苦しんで無意味な餘技を弄する愚を學ばう。――僕の發句を月並だと斷ずるのは新樣破調を操らない爲の君の非難であらうが、破調の發句が出駄羅目な容易に入り易い句境であり、古調は凡夫の末技から築き上げることの困難なのは、君と雖も。一應は肯《うなづ》くであらう。

 君の發句觀は不幸にも僕の未だ能く知らないところである。又君の說く蕪村は決して元祿の諸家を理解したものではない。君が粉骨碎身流の蕪村道の達人であることも、まだ寡聞なる僕の知らぬところである。その上君が今の僕を絞め上げ止《とど》めを刺すことは、寧ろ君へのお氣の毒な挨拶しか持合《もちあは》さぬ。君が天下の發句を論ずる前に先づ僕の止めを刺し、そして君の嫌ひな芭蕉流のさびしをりを此世から退治すべきであらう。

 僕の知る限りの芭蕉は一朝のさびや風流を說いた人ではない、芭蕉といふ能書的槪念は漸く今日では、あらゆる新しい思想の向側にあるやうに思はれてゐる。併し眞實の彼は元祿から今日へまでの新人中の新人だつた。彼の異國趣昧や無抵抗主義は後代のトルストイの中にさへその面影を潛めてゐる。太平の元祿にあつて彼は社會主義者になる必要に迫られはしなかつたらうが、併し彼は何よりも近代に生を享けてゐたら、彼も亦敢然として古今の革命史に秋夜の短きを嘆じてゐたかも知れぬ。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

『雜誌「椎の木」に僕の爲に二十枚に近い論文を揭げ、君の知る僕を縱橫に批評してくれた』これは昭和二(一九二七)年九月号の第一次『椎の木』(第十二号)に掲載された」「室生犀星君の心境的推移について(忘春詩集以後、故郷圖繪集迄)」である。調べたところ、OCRで全文を読み込んだままを校訂せずに放置してある本篇全文のページを発見したので、リンクさせておく。所持する筑摩書房「萩原朔太郎全集」初版では第八巻に所収しているが、私には電子化注する食指が全く動かない。

「故鄕圖繪集」昭和二(一九二七)年椎の木社刊の詩集。サイト「日本詩人愛唱歌集 詩と音楽を愛する人のためのデータベース」のこちらで恐らく全詩篇が電子化されてある。

「忘春詩集」大正一一(一九二二)年京文社刊の詩集。同前でここに恐らく全詩篇がある。こちらは「青空文庫」のここにもある。

「薀奧」奥義。]

 

 文壇的雜草の榮光

 

 詩が文壇の埒の外の雜草であるか否かは別として、詩は中央公論や改造や新潮には殆ど必要の無い一國の想華であることは、詩人であるが爲《ため》聰明なる吾吾の知るところである。そして又曾てそれらの大雜誌に揭載された詩が、均しく全詩壇に後世的作品を示した例は殆ど皆無であつた。吾吾の詩が今までの城砦を築き上げる爲に必要であり、我我をして忘恩せしめざるところのものは、片片たる三十二頁の同人雜誌の威力であり奮鬪であつたことは、何と文壇外の美しい榮光だつたことであらう。或營利雜誌は吾吾の詩に婦女子の寫眞を揷入れて之を揭載した。又或雜誌は出題の下に作詩せしめ且つそれに應じた低能な詩大家があつた。又或乳臭き雜誌は全詩壇の詩作人の詩を乞ひ、殘酷に作詩人を數珠つなぎとして、天下に詩人愚を梟首として揭載した。自分は一々これを拒絕したが、遂に婦女子の寫眞入りの詩だけは掠め取られた。自分は詩人が輕蔑せらるべき多くのものを、文壇人が斷乎として拒絕してゐる好例の對照を見聞《みきき》してゐる。さういふところに雜草的卑屈と强制された遠慮とが、常識的な冷笑すべき習慣となる程度までに下つてゐるやうである。

 

 ゴシップ的鼠輩の沒落

 

 ゴシツプ的鼠輩《そはい》の曲說はともあれ、僕自身が老成的壞血病詩人であることに於て、止むなき餘命を詩壇に置いてゐる譯ではないのである。僕自身は今の僕自身を役立てる爲のふくろ叩きを辭さない物好きの中に呼吸してゐるものである。凡ゆる作詩人も其中期の作品の中に悶えもし、又退屈も窺へないではないが、彼らのなかには猶ふくろ叩きや締めつけを辭さない者のある位は、又同時にゴシツプ的鼠輩の沒落した時に、その彼らの誤りであることに心づくであらう。

 

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 東大寺造立供養記(追記で「瑞稻」と「白烏」が付随する)

 

   ○「東大寺造立供養記」【文治元年。】云。周防國從杣中出大河曰佐波川矣。木津至于海【三十六町爲一里。】。

[やぶちゃん注:底本はここから。「瑞稻」(ずいたう:目出度い稲穂)と「白烏」(しろがらす:カラスのアルビノ)は無関係な記事であるからして、一行空けた。

 訓読を試みる。

   *

「東大寺造立供養記」【文治元年。】に云はく、『周防國、杣中(そまなか)より、出づる大河、「佐波川(さばがは)」と曰(い)ふ。木津にて、海に至る【三十六町、一里と爲(な)す。】。』と。

   *

この「東大寺造立供養記」は治承四(一一八〇)年に平重衡の南都焼き討ちによって焼失した東大寺大仏の再建から起こして、建仁三(一二〇三)年の東大寺総供養に至るまでの、造立及び供養に関する記述をほぼ編年的に記した史料で、短いものながら、そこには東大寺再建に於いて尽力した重源に関する記述が、多数、見られる。「文治元年」は一一八五年。原文は「国立公文書館デジタルアーカイブ」の「群書類従」のこちら8コマ目を参照されたい。右丁一行目から「周防國」の記載が始まり、左丁七行目からが以上の文となる。「中川木材産業」公式サイトの「第7章 木材供給の歴史」の「6.心血を注いだ鎌倉の復興」に、『文治二年(一一八六年)春に、後白河法皇から周防国(山口県)が寄進されたので、重源は十余人の役人と、宋の鋳物師陳和郷』(「東大寺造立供養記」の誤字。先の6コマ目二行目を参照。陳和卿(ちんなけい)が正しい)『らを従え、瀬戸内海を渡って周防の杣に入った。そのとき内海沿岸の国々は源平の戦の終わった直後で、疲弊困窮はその極みに達していた。重源らは船中の米を施し、農耕の種子を与えたりしながら、深山幽谷をことごとく巡視して良材を探し求めた。また良材を見つけたら米を与えるという奨励の方法を取ったので、杣人たちは大いに発奮し、谷、峰の境なく尋ね回ったために、成績は大いにあがった』と冒頭にあって、以下、当時の復興のための木材の収集の苦労が詳しく述べられてあり、必見である。陳和卿は鎌倉史では、実朝のトンデモ渡宋を決意させる如何にも怪しい渡来人のイメージが濃厚で、「北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諌言 竝 唐船を造る」や、「★特別限定やぶちゃん現代語訳 北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諫言 竝 唐船を造る」、及び、『やぶちゃんのトンデモ仮説 「陳和卿唐船事件」の真相』を見られたのだが、ここでは東大寺再建を支えた人物としていい感じに描かれているのが、興味深い。「佐波川」の位置は当該ウィキの地図を見られたい。

 以下の段落は底本では全体が一字下げ。]

「栂尾明惠上人渡天行程記」云。從大唐長安京摩阿陀國王舍城五萬里。即當八千三百三十三里十二町一也【大里定也。三十六町一里定。】。百里【小里。】十六里二十四町也【大里定也。】この二書、「群書類從」中に在り。

[やぶちゃん注:訓読してみる。

   *

「栂尾明惠上人渡天行程記」に云はく、『大唐長安京より摩阿陀(まがだ)國王舍城に到るに五萬里、即ち、八千三百三十三里十二町に當たれり【大里の定(ぢやう)なり。三十六町を一里に定(さだ)む。】。百里【小里。】十六里二十四町也【大里の定なり。】。

   *

「摩阿陀國」は当該ウィキを参照されたい。「大里」「小里」は先の「三十六町一里幷一里塚權輿事」を見られたい。なお、「栂尾明惠上人渡天行程記」というのは、かの名僧明恵(みょうえ)が釈迦への強い思慕のあまり、元久元(一二〇五)年、この「大唐天竺里程記」を旅行準備の資料として作成し、『天竺(インド)へ渡って仏跡を巡礼しようと企画したが、春日明神の神託のため、これを断念した。明恵はまた、これに先だつ』建仁二(一二〇二)年にも『インドに渡ろうとしたが、このときは病気のため断念して』(当該ウィキに拠る)おり、結局、明恵は大陸に渡ることはなかったので、注意が必要。なお、私はブログで「明恵上人夢記」及び「栂尾明恵上人伝記」【完】を手掛けている。]

右三ケ條、輪池翁の問れしかば、卒爾ながら、しか、答へたりき。そのゝち、翁、追考のよしにて、上層に朱をもて、しるして、見せられたり。さらば問ずもあれかしと思ふのみ。

 

追錄瑞稻、白烏、

天保二年辛卯の秋、越後魚沼郡妻有の庄、十日町の在鄕割、野村久左衞門といふ者の家の裏の軒端に、稻一株自然と生出しを、そがまゝに捨置しに、漸々生立て長さ八九尺に及び、葉の幅、八、九分なり。親穗は一穗に千百十數粒あり、小穗十三本、これぞ、おのおの五、六百粒有り。「未曾有の事也。」とて、遠近の老若、來會して、見る者、堵のごとくなりき。又天保三年壬辰の春、越後魚沼郡鹽澤の里人、鍵屋治左衞門といふものゝ園の樹に、烏、巢を造りて、雛三隻、生出たり。その内に白烏一隻あり。あるじのをとこ、人にぬすまれんことを怕れて、はやうとりおろして養ひたり。その烏、純白にして、初は觜と足と薄紅なりしが、成長に從ひて觜も脚も白くなりにき、といふ。鹽澤の里長、目擊して、圖して予におくれり。右の畫圖は別卷にあり。

[やぶちゃん注:以下は底本では、全体が一字下げ。]

この二ケ條は、壬辰の夏四月、牧之が書狀もて告られしを、こゝに半張の餘紙ありければ、追錄しつるにこそ。    著作堂主人

[やぶちゃん注:「天保二年」一八三一年。因みに、ウィキの「天保」によれば、この前の元年には、『秋田藩で大冷害。旧暦』六『月の土用の頃でも』、『襦袢を着る必要な涼しさ』で、『秋のコメの収穫は僅かで高騰を招いた』とあり、而して五年後の天保七年には人肉食も行われた「天保の大飢饉」が襲っている。

「越後魚沼郡妻有」(つまあり)「の庄」現代の旧十日町市・旧川西町・旧中里村・津南町の広い地域を指した。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「十日町の在鄕割」現在の十日町市街か。

「自然と」「おのづと」。

「生出しを」「おひいでしを」。

「生立て」「おひたちて」。

「遠近」「をちこち」。

「堵」「かき」。垣根。

「魚沼郡鹽澤」新潟県南魚沼市塩沢

「園」「には」と訓じておく。

「生出たり」「うまれいでたり」。

「怕れて」「おそれて」。

「觜」「くちばし」或いは「はし」。

「鹽澤の里長」「北越雪譜」の作者鈴木牧之その人である。

「圖して予におくれり。右の畫圖は別卷にあり」ネットを検索してみたところ、emi氏のブログ「今日も星日和 kyomo hoshi biyori」の「馬琴と画眉鳥シリーズ(その2)馬琴の『禽鏡』に感動!」で、それを、再度、模写した素敵なシロガラスの図が見られる。著作堂名義で馬琴がものした鳥図鑑「禽鏡」の中にあるものである。これは、凄い!

「壬辰」天保三年。

「半張」「はんはり」。]

2022/05/13

泉鏡花の芥川龍之介の葬儀に於ける「弔辞」の実原稿による正規表現版 又は ――「鏡花全集」で知られたこの弔辞「芥川龍之介氏を弔ふ」は実際に読まれた原稿とは甚だしく異なるという驚愕の事実――(PDF縦書ルビ版・附(参考)「芥川龍之介氏を弔ふ」)公開

先にブログで出したものを、『泉鏡花の芥川龍之介の葬儀に於ける「弔辞」の実原稿による正規表現版 又は ――「鏡花全集」で知られたこの弔辞「芥川龍之介氏を弔ふ」は実際に読まれた原稿とは甚だしく異なるという驚愕の事実――』(PDF縦書ルビ版・附(参考)「芥川龍之介氏を弔ふ」)として「心朽窩旧館」に公開した。

なお、私の『小穴隆一 「二つの繪」(25) 「芥川の死」』に、その日の葬儀場の図が載るので、参照されたい。

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「附録」「狩之卷」 / 「後狩詞記」電子化注~了

 

[やぶちゃん注:底本のここから。以下は、底本では各標題「一」のみが行頭で、抜きんでいるが、その解説部は一字下げである。その箇条の「一」の後に、すぐ、文が続くのだが、これがちょっと読み違えそうなので、一字空けた。また、本文上に横罫があり、その上方にポイント落ちで柳田國男の頭注が入る。それは【 】で同ポイントで適切と思われる本文の中に同ポイントで挿入した。〔 〕が割注である。なお、このパートでは下線は左傍線で、「序」の「十」にあったように、柳田が意味不明であった部分をかく表示したものである。文中の字空けはママ。]

 

    附錄

 

      狩之卷

    西山小獵師    獅子式流

一 山に出る時、生類〈しやうるゐ〉に行あふてまつるとなへ。

  山の神もてんとの事はめされ鳧〻〻〻〻

 と唱へ、もゝ椿の枝にて拂ふ也。但し道の上を折る

[やぶちゃん注:「西山」不詳。単に西の方の山間の意か。西方浄土に掛けるか。

「てんとの」不詳。「天殿」か?

「鳧」「けり」。

「〻〻〻〻」は「鳧」のくり返しではなく、「めされ鳧」のくり返しであろう。

「もゝ椿」不詳。或いは、「椿桃」「油桃」で「づばきもも」とも称したモモの変種のことか。流通名「ネクタリン」で知られる、バラ目バラ科サクラ亜科モモ属モモ変種ズバイモモ  Amygdalus persica var. nectarina 。中国西域原産であるが、古くから日本やヨーロッパに伝わった。一般に果実は無毛でモモよりやや小さく黄赤色を帯びる。果肉は黄色で核の周囲は紅紫色。核は離れやすい。七~九月に成熟し、生食する。在来品種は消滅したが、近年、ヨーロッパ系品種が渡来し、植栽されている。「つばきもも」「つばいぼう」とも呼ぶ。「桃」や「椿」の意なら、柳田が傍線するはずがない。]

 

    宍垣〈ししがき〉の法

一 鹿は上をしげく、猪は下をしげく。後宍垣、前は三尺二寸。腰袖しがきと云ふは二尺三寸也。其時 小摩〈しやうま〉の獵師猪をとる事數不知〈かずしらず〉 小摩が内の者【△今も椎葉にては男女の下人(メローとデエカン)を「内の者」といふ】に辰子と云へる男 せつ子といへる女に しゝを手向よと乞けるに 男女共にせなをかるひはぎなとして 小摩の獵師に仕ふる後一人は山川に飛入〈とびいり〉アダハヘとなる ひとりは海にとび入〈いり〉一寸〈いつすん〉の魚と成る 今の「おこぜ」これ也 其時しゝをとりてかふら戶を祭る かぶらは山の御神一人の君に奉る 骨をばみさき【△「みさき」は小田林の呪文にも「御先御前」とあること前に見ゆ】に參らする 草脇〈くさわき〉をば今日〈こんにち〉の三體玉女に參らする そも々々小摩がもとは藤原姓也 如何なる赤不淨黑不淨にくひちがへても 小摩が末〈すゑ〉たがふまじと誓ひたまふ 大摩〈たいま〉の獵師は山神の御母神にわりごを參らせず よつて三年に嶺の椎柴一つゆるされしが 三年に白きししの貳と一つゆるされ 三年にかは一枚 みなふこと一筋とたふへしや 奧山三十三人 中山三十三人 山口三十三人 山口太郞 中山二郞 奧山三郞 嶺の八郞 おろふの神谷原行司 三年原の行司 只今の獵師の末に相逢ふて あだ矢射させまじ獵師や 柳の枝七枝 小摩が年の數〔五十より〕かり文ましきのごく 白き粢(しとぎ)かけの魚とり調へ 昔の神かふざき 中頃の神かふざき 當代神かふざき【△「かふざき」は前にいふ「コウザキ殿」のことと見ゆ】 山の御神に懈怠〈おこた〉らず謹むで申奉る

[やぶちゃん注:「小摩の獵師」当地椎葉村の伝承中の人物名。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに柳田関連の論文からとして、『大摩』(たいま)『と小摩』(しょうま)『という二人の猟師がいた。七日間浄斎した飯を神にあげた。大摩はアダバエとなり、小摩だけが猟師となることができた。』とあった。「アダバエ」は意味不詳。

「せなをかるひはぎなとして」意味不明。以下、傍線部は柳田國男も判らなかったのであるから、個人的に推理出来そうなもの以外は注さない。

「アダハヘ」不詳。妖怪の名か。

「かふら戶」不詳。アニミズムの精霊の名か。

「かぶら」当初は「鏑」で、嘗つては猪鹿(しし)を矢で射る訓練に用いた鏑矢のことかとも思ったが、ここは後に「骨」とあるから、猪の頭をかく言っているものと思う。

「草脇」前掲。胸部部分。

「海にとび入〈いり〉一寸〈いつすん〉の魚と成る 今の「おこぜ」これ也」一寸は異様に小さいから、『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』で私が一番の候補に挙げたオニオコゼではあり得ない。思うのは、私自身、熊楠の「オコゼ」で、当初、ちらっと頭を過った、成魚でも十センチ前後で、しかし棘毒が半端ないカサゴ目ハオコゼ科ハオコゼ属ハオコゼ Paracentropogon rubripinnis が候補と挙がってくるように私には思われる。

「赤不淨黑不淨」一般の習俗では「死穢」(しえ)=「死の穢れ」を「黒不浄」、出血を伴い魂が二つ存在している出産前後のそれを「白不浄」、広義の血に纏わる「血の穢れ」を「赤不浄」と呼ぶが、「赤不浄」は専ら女性の月のものの穢れを指す

「粢〈しとぎ〉」神に供える餠。糯米を蒸し、少し搗いて卵形にしたもの。その形状から「鳥の子」とも呼ぶ。一説に、逆に粳(うるち)米の粉で作ったものとも言う。「しとぎもち」「粢餠(しへい)」。]

 

    椎柴の次第

一 上瀨にさか柴。但ししでを付る。

[やぶちゃん注:「しで」紙垂。注連縄・玉串・祓串(はらえぐし)・御幣などにつけて垂らす、特殊な断ち方をして折った例の紙。]

 

    御水散米の法

一 中瀨は椎柴也。木の柴三丸かし也。柴の上より粢みさき祭る。亦ごく【△「亦ごく」は赤御供なるべし、「ごく」は外にも見ゆ】七まへ、尤柴の右の三方より立掛火を放。心經讀誦。しゝは其柴にかけ置事。口傳。

一 中瀨みてぐら三本。但し水神の幣也。ごくしとぎごまひを備へ、諸神くわん

一 神崎三本。亦は七本。【△「神崎」は亦かふざきなるべし】

 ちゝみ右數にして備ふ。

 

    小獵師に望の幣【△左右の「六」と「八」何れかあやまりならん】

 

Nusa

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミング清拭した。]

 

    朝鹿の者けぢな祭る事【△「けぢな」は「けばな」とも見ゆ「け」は本の字分明ならずふり假名による】

一 ちはやふる神のおもひも叶しや

         けふ物數に千たびもゝ度

 

    完草(ウダグサ)返し

一のぼるは山に五萬五千 下るは山に五萬五千 合て十一萬の山の御神 本山本地居なほくち 得物を多くたびたまへ きざらだやはんけの水【△「はんけの水」前にも見ゆ】をたつね來て生をてんじて人に生れよ 夫(ヲ)じゝ五カ 婦(メ)じゝ四カや 步行。口傳。

一初しゝには頭にまなばしをあてず、矢びらきに掛る也。

一神崎まつり 〔串長 二寸二分 燒物串 右同斷〕

むかしありといひしや 中頃ありといひしや 地主かんどかうさき かんのかうざき 今當代かんどかうさき 簗のかうさき 祭人玉女にむかふ【△此文句などはきはめてよく沖繩の「オモロ」に似たり】

一丸頭 今日の日の三度三體玉女殿にかけ法樂申 野の神山の神 天日の神 三日の神 同所のちんじゆ森 かくら山の御神に參らする【△「カクラ」は前に出でたり狩倉と同義なるべし】 猶も數の得物たび玉へ ぐうぐせひのものたすくるといへどたすからず 人に食して佛果に至れ。六じの名號。

 

    掛隨

一 しやち頭 今日の日の三體玉女に參らする 二つの兩眼は日天月天  犬はな打きんのみさき 左のふたは所の鎭守森 かくら諸神にかけ法樂申奉る 草脇は草の御神 こしわきは尻指のみさき【△尻指のみさき】 八枚の折肌は八人のかんどかうさき 天竺の流沙川水神殿 同法界いなり ほつかい水神 め谷を谷のはゝ かりこの行司 かりこの子とも おろふの神 さけふの神 谷の口におりやらせ玉ふは山のみさきに掛け法樂申す とんたのとほみとしたの其子に掛け法樂申す 同じ山の木柴おりからし ほう丁まなばしまな板かうばし せんくやうくなきやうに 得物をくし玉へ まつりはづしはあか良原殿 はづしのなきやうに あとのちよとのにかけ法樂申奉る

一 完所に女來るときは、必ずしゝをふるまふべし。女心えはきたる草履の裏にて受れば、なり木の枝をしき、其上にしゝを置てわたすべし

[やぶちゃん注:「掛隨」「かけしたがひ」と読んではおく。願掛けの祝詞の文か。]

 

    山神祭文獵直しの法

一 抑〈そも〉山の御神 數を申せば千二百神 本地藥師如來にておはします 觀世音菩薩の御弟子阿修羅王 緊那羅王〈きんならわう〉 摩睺羅王〈まぎらわう〉と申〈まうす〉佛は 日本の將軍に七代なりたまふ 天〈あまの〉の浮橋〈うきはし〉の上にて 山の神千二百生れ玉ふや 此山の御神の母 御名を一神の君と申す 此神さんをして 三日までうぶはらをあたゝめず 此浮橋の上に立玉ふ時 大摩〈たいま〉の獵師毎日山に入り狩をして通る時に 山の神の母一神の君に行あひ玉ふとき 我さんをして今日三日になるまで うぶはらをあたゝめず 汝が持ちし割子〈わりご〉を少し得さすべしと仰せける 大摩申けるは 事やうやう勿體なき御事也 此わり子と申〈まうす〉は 七日の間〈あひだ〉行〈ぎやう〉を成し 十歲未滿の女子〈をなご〉にせさせ てんから犬にもくれじとて天上にあげ ひみちこみちの袖の振合〈ふれあひ〉にも 不淨の日をきらひ申す 全く以て參らすまじとて過〈すぎ〉にけり 其あとにて小摩〈しやうま〉の獵師に又行あひ 汝高をいふもの也 我こそ山神の母なり 產をして今日三日になるまで うぶはらをあたゝめず 山のわり子を得さすぺしとこひ玉ふ 時に小摩申けるは さてさて人間の凡夫にては 產をしては早くうぶはらをあたゝめ申事なり ましてや三日まで物を聞しめさずおはす事のいとをしや 今日山に不入〈いらず〉 明日山に不入とも 幸ひ持〈もち〉しわり子を一神の君に參らせん かしきのごく 白き粢〈しとぎ〉の物を聞しめせとでさゝげ奉る 其時一神の君大によろこび いかに小摩 汝がりうはやく聞せん 是より丑寅の方に的〈あたり〉て とふ坂山といへるあり 七つの谷の落合に りう三つを得さすべし 猶行末々たがふまじと誓て過玉ふ きうきうによりつりやう 敬白【此大摩小摩の物語は如何にも形式のよくととのひたる神話なり此筋より求入〈もとめい〉らば更に面白き發見あるべき也】

[やぶちゃん注:「緊那羅王」インド神話に登場する音楽の神々又は精霊。仏教では護法善神の一尊となり、天龍八部衆の一人とされる。

「摩睺羅王」摩睺羅伽(まごらが)が一般的。サンスクリット語名の「マホーラガ」は「偉大なる蛇」を意味する。本来は古代インドの神であったが、仏教に取り入れられた。身体は人間で、首は大蛇或いは頭に蛇冠を戴いた人間の姿で描かれる。八部衆の緊那羅と同じく音楽の神とされるが、ナーガがコブラを神格化したものであるのに対し、このマホーラガはニシキヘビのような、より一般的な蛇を神格化したものとされる。やはり、護法善神の一尊で天竜八部衆・二十八部衆に数えられる。胎蔵界曼荼羅の外金剛部院北方に配せられてある(当該ウィキに拠った)。]

一 上日さかな。へんはい口傳。

   みさきあらばかせと車に打のりて

        かへりたまへやもとのみ山に

一 友引。一大事。

一 我まへに來るかくれしゝ打つまじき事。

 

    熊の紐ときの傳 (大祕事)

一 なむめいごのもん  三返

     腹に手をあて

 ろてん中天なりばざつさい あとはならくのこんりんざい

     紐分

一 是より天竺の流沙か嶽の邊にて めんたはつたといへる鍛冶の打ぬべたる 彌陀の利劍を以て解いたる紐にとがはあるまじ

     歌

   月入て十日あまりの十五日

        のこる十日はみろく菩薩へ

     月の輪二つに割るとなへ

一 こんがうかい たいざうかい 兩部の万だら 大日如來。

[やぶちゃん注:「万だら」は底本献本では自筆で「方」を取消線して「万」と修正してある。]

      ねんぶつ十二返

 右小刀三本にてみつ柴口傳

     紐とく間のきやうもん

 

一なふまくさまんだもとなんそはらちことやきやなんおんのんしふらはらしふらうしゆしゆりそふはしやせんちんきやしりゑいそはか【△此呪文何に在りとも知らず切に識者の敎を待つ】

 同。しゝにまなばしをたてゝ九字の文にて九刀にきる。

     引導【△有難さうなる經文なれども編者も山中の人と共に夢中にて寫し置く】

一 ぐわんにしきどく平號しゆいつさいおんゆふく百さいちん守らいやうおんしゆりれうちごくがきしゆらのくをのがれしきやう成就となるべし

一 諸行むじやうぜしやうめつぽふ生めつめついじやくめつゐらくひがふぐんせいのもの助るといへども助らず人に食してぶつくわに至れ

 六字の名號。ごしんぼふ

一南無御本尊界行摩利支天

 のうへ影向〈やうがう〉あつて

   ヲンソワウロタヤソワカ。   七返。

 右產所の流といへり。

 

大山祇命

       山の御神也

豐玉姬命

 

 

   寬政五年八月  奈須資德相傳也

         ―――――――――――――

   右一卷日向國西臼杵郡椎葉村之内大字大河内椎葉德藏所藏之書以傳寫本一本謹寫訖

    明治四十二年二月二日  柳 田 國 男

 

[やぶちゃん注:本書には奥付が存在しない。既に述べたが、柳田國男が相原某に献呈した国立国会図書館デジタルコレクションの別の所蔵本(カラー画像。に献辞と署名有り)では、非常に読み難いが、こちらのここに奥付がある。左ページの右下方である。]

泉鏡花の芥川龍之介の葬儀に於ける「弔辞」の実原稿による正規表現版(「鏡花全集」で知られたこの弔辞「芥川龍之介氏を弔ふ」は実際に読まれた原稿と夥しく異なるという驚愕の事実が判明した) / 附(参考)「芥川龍之介氏を弔ふ」

 

[やぶちゃん注:泉鏡花の芥川龍之介の葬儀で本人によって読まれた自死の三日後、谷中斎場にて昭和二(一九二七)年七月二十七日午後三時から行われた葬儀で、先輩総代として第一番に本人によって読まれた弔辞である。以下に示したものは、その自筆原稿で、一九九二年河出書房新社刊の鷺唯雄編著になる「年表作家読本 芥川龍之介」に載った画像で、それを元に電子化した。なお、パブリック・ドメインの著作物を平面的にそのまま写した画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の見解である。岩波の「鏡花全集」巻二十八(一九四二年刊)と校合したが、驚くべきことに、句読点以外(現行より遙かに多く打たれてあり、句点と読点の相違も数多ある)では、現行、知られているそれとは、異様に激しい異同があることが判明した。以下に示す。下線は重大な異同と私が思うものに附した。

①原稿標題はあくまで「弔辞」であるのに、現行では「芥川龍之介氏を弔ふ」となっている。

原稿冒頭「玲瓏明哲」が現行では「玲瓏(れいろう)、明透(めいてつ)」と書き変えられてある。

③原稿の「其の文」が、現行では「その文」と「其」がひらがなになっている。

原稿「名玉、文界に輝ける君よ。」が、現行では「名玉山海(めいぎよくさんかい)を照(て)せる君(きみ)よ。」と激しく異なっている。

⑤現行のものは最後の一文のみを改行してあるが、原稿では全部で三段落が形成されてあり、行頭の字空けはどの段落にも存在しない。

原稿の「巨星天に在り」の前に、現行ではこの前に「倏忽(たちまち)にして」とある。

⑦同前の箇所で「在り」は、現行では、ひらがなで「あり」となっている。

原稿では「異彩を」とある部分が、現行では「光(ひかり)を」となっている。

原稿の「密林」が現行では「翰林(かんりん)」となっている。

原稿の「敷きて」が現行では「曳(ひ)きて」となっている。

⑪原稿の「とこしなへ」が現行では「永久(とこしなへ)」と漢字になっている。

⑫原稿の「手を取りて」が現行では「手(て)をとりて」となっている。

⑬原稿の次の「其の容を」が現行では「その容(かたち)」と「其」がひらがなになっている。

⑭同前で次の「其の聲を」が現行では「その聲(こゑ)を」となっている。

原稿の「秋悲しく」が現行では「秋深(あきふか)く」となっている。

⑯原稿の「其の靣影」が現行では「面影(おもかげ)」だけで「其の」を外してある。

⑰原稿の「代うべくは」が現行では「代(か)ゆべくは」となっている。

⑱原稿の「いふものぞ」が現行では「言(い)ふものぞ」と漢字になっている。

原稿の「令郞」が現行では「遺兒(ゐじ)」と書き変えられてある。

⑳最後の一文終辞「辭」(ことば)「つたなきを羞」(は)「ぢつゝ、謹」(つゝしん)「で微衷」(びちう)「をのぶ。」は現行では、段落を成していない。

岩波「鏡花全集」では編者によるクレジットは『昭和二年八月』となっている。

その㉑から、後に本「弔辞」が雑誌に収録されるに際して、鏡花自身が大幅に書き換えたものであると推察出来る。しかし、弔辞とは作品ではない。あくまで一回性のものである。書き変えられる謂われは、明らかな誤字以外はあってはならないものと私は考える。恐らく多くの芥川龍之介及び泉鏡花の愛読者は、書き変えられた弔辞が芥川龍之介の葬儀の場で読まれたと思っているはずだ。これはどうしても言っておかねばならぬと感じた。なお、弔辞原本には当然の如くルビは全くない。以下でも、それに従った。]

 

Kyoukaryunosuke

 

 

   弔辞

 

玲瓏明哲、其の文、その質、名玉、文界を輝ける君よ。溽暑蒸濁の夏を背きて、冷々然として獨り凉しく逝きたまひぬ。

巨星、天にあり、異彩を密林に敷きて、とこしなへに消えず。然りとは雖も、生前手をとりて親しかりし時だに、其の容を見みるに飽かず、其の聲を聞くをたらずとせし、われら、君なき今を奈何せむ。おもひ、秋悲しく、露は淚の如し。月を見て其の靣影に代うべくは、誰かまた哀別離苦をいふものぞ。

高き靈よ、須臾の間も還れ。地に、君にあこがるゝもの、愛らしく賢き令郞たちと、溫優貞淑なる令夫人とのみにあらざるなり。辭つたなきを羞ぢつゝ、謹で微衷をのぶ。

 

 昭和二年七月二十七日

             泉鏡太郞

 

 

●参考(「鏡花全集」巻二十八所収の「弔詞」パートの「芥川龍之介氏を弔ふ」。編者によるクレジットが昭和二(一九二七)年八月として標題下方にある。ルビにある踊り字は正字化した)

 

 芥川龍之介(あくたがはりうのすけ)氏(し)を弔(とむら)ふ

 

 玲瓏(れいろう)、明透(めいてつ)、その文(ぶん)、その質(しつ)、名玉山海(めいぎよくさんかい)を照(て)らせる君(きみ)よ。溽暑蒸濁(じよくしよじようだく)の夏(なつ)を背(そむ)きて、冷々然(れいれいぜん)として獨(ひと)り涼(すゞ)しく逝(ゆ)きたまひぬ。倏忽(たちまち)にして巨星(きよせい)天(てん)に在(あ)り。光(ひかり)を翰林(かんりんりん)に曳(ひ)きて永久(とこしなへ)に消(き)えず。然(しか)りとは雖(いへど)も、生前(せいぜん)手(て)をとりて親(した)しかりし時(とき)だに、その容(かたち)を見(み)るに飽(あ)かず、その聲(こゑ)を聞(き)くをたらずとせし、われら、君(きみ)なき今(いま)を奈何(いかん)せむ。おもひ秋(あき)深(ふか)く、露(つゆ)は淚(なみだ)の如(ごと)し。月(つき)を見(み)て、面影(おもかげ)に代(か)ゆべくは、誰(たれ)かまた哀別離苦(あいべつりく)を言(い)ふものぞ。高(たか)き靈(れい)よ、須臾(しばらく)の間(あひだ)も還(かへ)れ、地(ち)に。君(きみ)にあこがるゝもの、愛(あい)らしく賢(かしこ)き遺兒(ゐじ)たちと、温優貞淑(をんいうていしゆく)なる令夫人(れいふじん)とのみにあらざるなり。

 辭(ことば)つたなきを羞(は)ぢつゝ、謹(つゝしん)で微衷(びちう)をのぶ。

2022/05/12

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「色々の口傳」・附記

 

[やぶちゃん注:底本のここから。この段、標題本文は行頭からだが、その解説部は一字下げで、それが二行以上に亙る場合は、それ以降、全体が一字下げとなっている。]

 

    色々の口傳

 

飛走中の猪を止まらすること。

 竹笛を一口短く微〈かすか〉に吹く。

 竹笛無きときは同じくウソを吹く。

 猪は元來眼よりも耳の感覺鋭敏なり。近距離に居りても動きさへせねば之を知らず。物音は之に反す。故に一寸微に物音をすれば、附近に人の在るを疑ひて小止りをして考を付るなり。されど此法は素人は行ふべからず。

[やぶちゃん注:「ウソ」前に注した通り、ここは「口笛」を指す。]

猪を見ずして其大小肥瘠〈ひせき〉を知ること。

 蹄〈けづめ〉の跡小さくとも地中に印すること深きは大。

 蹄の跡小さくとも跡と跡との距離長きは大。

 蹄の跡大なりとも地中に印すること淺きは瘠肉〈やせにく〉也。

 蹄の跡に立つ形あるものは多くは瘠肉也。

 蹄の跡の向爪〈むかうづめ〉と後爪との間廣がり居るものは猪が疲憊〈ひはい〉せる兆〈しるし〉也。疲憊せる猪は遠くへ往かず、近所に潛伏するものと見る。

 蹄の跡の雪中に印するものは、小猪なりとも大猪と見誤まることあり。日射の爲蹄跡の雪融解すれば也。

丸の儘なる猪の肥瘠を知ること。

 牡猪は脊部肥え牝猪は腹部肥え居〈を〉るが常なり。故に牝猪の腹部の肥えたるを見て、全身肥滿のものと思ひ購〈あがな〉ふときは損をすべし。

 脊部の毛色白く且つ全身綿の如き綿毛にて蔽はれ居るものは肥肉にて、全面毛色黑く且つ疎なるものは瘠肉也。

[やぶちゃん注:「後爪」猪は後ろに「副蹄(ふくてい)」という小さな跡がつくのが特徴で、それを言う。サイト「マイナビ農業」の「獣害の犯人は? 足跡で獣を特定しよう ~動物の足跡12種~」を見られたい。]

猪の肉量を知ること。

 臟腑のみを除きたる丸の儘の猪ならば、之に六を掛くれば純肉の量なり。但し此は十貫目以内の猪のことにて、十貫目を超ゆる者は大槪七を掛け、二三十貫目の大猪となれば八を掛くる也。其殘〈のこり〉は骨又は蹄などなり。

[やぶちゃん注:「十貫目」三十七・五キログラム。]

銃聲を聞きて命中と否とを知ること。

 トンと短く纏まりたる反響は命中とす。

 トーンと長く散じたる反響は不とす。

彈の數のこと。

 一丸も二丸も場所によりて利害は色々なり。

 一丸は命中正確なるも飛走中の猪には二丸を利なりとす。一丸は熟練者に於て採用し、二丸は未練者に利あり。

 熊笹の如き障碍物密集の場所にて、狙ひ定まらざる場合には、誰人〈たれびと〉も多くは二丸を込むるを利とす。

 二丸を二ツ矢と云ふ。

獵犬を仕込むこと。

 猪狩向きの犬には決して兎を逐はしむべからず。若し兎を逐ひたるときはいたく叱し懲〈こら〉すべし。

 幼犬を仕込むに最良の法は、小猪を半死の中に繫ぎ置き、長く引ずりまはして咬殺〈かみころ〉さしめ、さて後時々其肉の小片を切りて與ふる也。

 幼犬の側にて發砲するときは、幼犬喫驚〈きつきやう〉して常に銃聲を恐るゝの癖を生ずるもの也。

 幼猪を伴ひたる牝猪に接したるときは、幼犬に付〈つき〉てはよほど注意すべし。何となれば幼犬は悅びて小猪を咬まんとす。若し放任するときは母猪歸り來〈きたつ〉て幼犬を噬殺〈かみころ〉すことあり。故に母猪の引返すを伺ひて速〈すみやか〉に射殺すべき也。

 幼犬もし猪罠にかゝりたるときは、直ちに罠を切り解くべからず。罠の杭を撓〈たわ〉め罠を弛〈ゆる〉めて、犬をして自ら之を噬み切るの習慣を養はしむるを肝要とす。

 

 

           ――――――――――――

茲に椎葉村の地圖を揭ぐることを得ば讀者に便なりしならんも、適當なる原圖を得ざりき。もし熱心なる人あらば、大日本陸地測量部にて出版したる五萬分一圖中、左の圖幅を參照せられんことを望む。共に延岡號の中なり。

     椎葉村。 神門(ミカド) 。諸塚山。 鞍岡。 村所(ムラジヨ)。

 

           ――――――――――――

[やぶちゃん注:以上は附記で、本文とは分離して、底本では次の「附錄」の見開き右ページ中央にポイント落ちで記されてある(底本のここ)。既に注で「ひなたGPS」を示しているが、地図をダウン・ロードして自由に見たい方は、「ひなたGPS」の元版である私がよく使う「Stanford Digital Repository」の明治三五(一三〇二)年測図・昭和七(一九三二)年修正図で陸軍参謀本部作成の「秘」印のあるそれがよい(ネット上の画面だと、拡大表示ではディスプレイ一杯に示されてしまい、使い勝手が実は悪い)。以下のリンク先からどうぞ。ダウウ・ロード・リストの下から二番目の最大の「Whole image (14423 x 11083px)」がよい(サイズの関係上、最初に開くとファイル破損で開けないとする表示が出るが、暫くそのままにしておくとちゃんと表示され、二度目からは出ないので安心されたい)。「椎葉村」はここ、「神門」はここ、「諸塚山」はここ、「鞍岡」はここ、「村所」はここである。五枚全部でも百二十六MBである。

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「狩の作法」

 

[やぶちゃん注:底本のここから。この段、本文は行頭からだが、以下二行以上に亙る場合は、それ以降、全体が一字下げとなっている。]

 

     狩の作法

 

獵法。 狩は陰曆九月下旬に始り、翌年二月に終る。狩を爲さんとする當日は、未明にトギリを出し、其復命に由り狩揃ひを爲し、老練者の指圖に依り各々マブシに就き、後セコカクラに放つ。オコゼを有する者は背負籠に之を納めて出るなり。

 マブシに在る者は、セコより竹笛にて合圖を爲す迄は、最も靜肅を旨とし、竹笛にて幽〈かすか〉に合圖をするはよけれども、決して言語を發すべからず。若し咳嗽〈がいさう〉起らば地上に伏して爲すものとす。既に猪が突到〈つきいた〉らば息を凝らし、數步の近きに引受け、肺臟心臟の部分を狙ひて發砲す。其狙ひ所を小肘〈こひぢ〉のハヅレと云ふ。

[やぶちゃん注:「トギリ」以下、概ね前二章で既出。未明に出発する猪の索敵係。

マブシ」猪を迎え撃つための猪の獣道の近くの一定の箇所を指す。

カクラ」猪が潜伏している区域。

オコゼ」「山の神」に入山・山猟のために安全と豊猟を祈誓するための供物。前章の「一五 オコゼ」を参照されたい。

セコ」勢子。狩場で鳥獣を追い出したり、他へ逃げるのを防いだりする役の担当者。

「咳嗽」せき。「咳」は「痰が無くて咳音のある症状」を言い、「嗽」は「咳が殆んど伴わず痰の絡む症状」を言う。]

タテ庭、吠庭始まりたるときは、受持のマブシを離れ、山の上の方に囘り靜に近寄るべし。萬一擊損ずるか又は負傷せしめたるときは、硝煙の未だ照尺を拂はざる中に、猪は突進し來りて股を切り、倒るれば、胴を切る也。故に未練者は楯に寄るに非ざれば近よるべからず。此時尙大〈おほい〉に注意すべきはハヒジシに在り。ハヒジシ(這ひ猪)とは負傷せる猪が怒りて人〈ひと〉犬に當らんが爲に、伏して假死狀を爲し居るを云ふ。此考無くして近よりたるときは、猪は矢の如く飛びかゝり、牡猪なるときは牙にて股をえぐり、牝猪なれば牙なき故肘と無く頸〈きび〉と無く咬〈くは〉へて粉碎せんとするなり。

[やぶちゃん注:「タテ庭」前掲。猟犬が猪を取り囲んで戦うことを指す。

「吠庭」同前。猪が包囲域が崩れて拡大してしまっても、さらに当該対象との狩猟を続ける様態を指す。]

猪斃れたるときはヤマカラシ(短刀のことなり)を拔きて咽喉〈のど〉を刺し、次に灰拂〈はひばらひ〉を切取る。灰拂を切取るは最先に射斃したる證とする也。其後ヤマカラシと耳とを一つに束ね、左の咒文を唱ふ。

[やぶちゃん注:「灰拂」不詳。但し、推理するに、これは「蠅拂」で、獣毛を束ねて柄をつけた、蠅や蚊を追うためのものを指し、後に法具の一つとして邪鬼・煩悩などを払う功徳があるとされた仏具があることから、逆に、蠅を嫌がって払う猪の頭部の部分を想起すると、耳(恐らく両耳)を指すのではないかと思われる。但し、ネットではこの「灰払」では熟語自体がヒットしない。識者の御教授を乞う。

 以下の呪文は底本では全体が二字下げ。原文はベタだが、底本にある程度まで近づけるために、早めに改行した。]

 今日の生神三度三代。ケクニユウの神。山の神。

 東山カウソが岳の猪の鹿も。角を傾けカブを申

 受け。今成佛さするぞ。南無極〈なむごく〉。

猪はヲダトコに持下〈もちおろ〉し、一應緣の上につるし下げ、然る後解剖す。解剖に二通りあり。胴切にして四足に分ち其後〈そののち〉骨を除くを金山オロシと云ひ、肉のみを四足に分ち其後骨を除くを本オロシと云ふ。

[やぶちゃん注:「ヲダトコ」前掲。獲った猪を里に持ち降ろし、裂いて分配をするための家を指す。この『ヲダトコの家は一定しをれり』とあった。後の柳田の補注の「小田床」もそれを漢字にしただけのものである。先に出た天草の地名ではない。

金山オロシ」「金山」の読み不詳。ネットでも出現しない。山猟の関連資料も縦覧したが不明。ただ、一つ目に留まったのは、さくら氏のブログ「昨日より今日 今日より明日へ 自分を信じて♪」の「猪と金山」で(行空けを詰めた)、

   《引用開始》

日蓮大聖人は御遺文集のなかで、中国の天台大師の『摩訶止観』の一節を引用されている。

「猪の金山を摺り衆流の海に入り薪の火を熾にし風の求羅を益すが如きのみ」と。

 猪は、金山の輝いているのを憎く思い、自分の体をこすりつけて光沢をなくそうとする。だが、こすればこするほど、金山は輝きをましてくる。あたかも、多くの河川が流れ込んで海水を豊かにし、薪が加えられると火がますます燃えさかえるように__。求羅は風にあうと大きくなるという伝説的な生き物である。

 これは、仏道修行の厳しき過程で、逆風に負けず、それを前進のための追い風に変えていけとの戒めだが、人生万般に通ずる尊い教訓が秘められていると思う。

   《引用終了》

万一、これが起源だとすると、「きんざんオロシ」と読めることにはなる。]

△分割は山にてもすることあり。之も違式には非ず。小田床〈をだどこ〉にて必ず一應は緣の上に釣下ぐるは、丸のまゝに先づ神に供ふる嚴重の儀式なりと聞けり。

分配の法は擊主には射中〈いあ〉てたる方の前肢と脂とを與ふ。其前肢の目方は總量の五分の一なり。其後又擊主をも加へて平等に分配す。擊主には草脇〈くさわき〉を與ふることもあり。その肉の量は前の場合に同じ。其他セコは一人に二人分を與へ、獵犬の分は又一人前とす。

[やぶちゃん注:「草脇」「草分き」(草を押し分けて行く部分)で「獣類の胸先」を指す。「くさわけ」とも呼ぶ。]

△曾て耳にて聞きたるは又此記事と少異あり。首と胸の肉を仕留めたる者の所得とす。首の肉は最上品なり。同じく首を落すにも、ヤマカラシを耳の元に宛てゝ、それより三轉〈みころ〉ばしにて切るも、四轉ばし目に切るもあり。地頭殿の仕留めたる折には、この轉ばし方殊に多し。執刀者にも餘分の所得あり。この慣習は中々嚴重なるものなりしが、可悲〈かなしむべし〉近年漸く廢せんとす。猪の肉が高くなると、狩人は自ら食はずして商人に渡すなり。一頭三十圓より五十圓に及ぶ。此場合には擊主の所得は代金の四分の一を定〈さだめ〉とす。

[やぶちゃん注:「ヤマカラシ」植物のそれではないので、注意。これは実用の小刀である「山刀(やまがたな)」の地方名である。主に焼畑などの山林伐採や、狩猟の際の獲物の皮剝ぎなどに用いる。これを動物との格闘の刺し突きの武器に使用するのは危急の場合に限る。一般に小型で片刃のものが多く、野鍛冶(のかじ)に打たせたもの、又は昔の脇指を切り縮めたものなどがある。地方により名を異にし、九州山地では「ヤマカラシ」、四国西部で「サッカン」、中国山地で「ホウチョウ」、青森県津軽地方で「コバヤリ」、秋田県阿仁で「マキリ」(これはアイヌ語と同じ)など各地ごとに違っている(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

解剖終りたるときは。執刀者はヤマカラシを肉の上に✕に置き、左の咒文を唱ふ。

[やぶちゃん注:以下の咒文は、底本では三字下げ。]

カブラは山の神越前のきさきに參らする。骨をば御先御前に參らする。草脇をば今日の日の三代ケクニユウ殿に差上ぐ。登百葉山が五萬五千。降百葉山が五萬五千。合せて十一萬の御山の御神。本山本地に居直りたまふて。數の獲物を引き手向けたび玉へり。ハンゲノ水を淸ければ。シヤウゲンして人々生く。南無極樂々々々々。

分配終つて後、コウザキと紙の旗をコウザキ殿に獻じ、左の祝詞を唱ふ。コウザキ殿は巖石又は大木の下、雨露のかゝらざる所に奇石を置き、折々カケグリを獻ず。カケグリとは七八寸の長さに拇指大〈おやゆびだい〉の竹を切り、十數本を束ね、此に濁酒を盛りたるもの也。

[やぶちゃん注:以下、原本は同前。]

   諏訪のはらひ

そもそも諏訪大權現と申するは。本地は彌陀のアツソンにてまします。ユウオウ元年庚戌〈かのえいぬ〉。我が羽根の下に天降らせたまふ。信濃國善光寺嶽赤根山の峠に。千人の狩子を揃へ。千匹の鹿をとり。右は地藏菩薩。左は山宮大明神。中に加茂大明神と現はれ出で。八重鎌千鎌を手に持ちて。我先の不淨惡魔を切拂ひ。水露ほども殘なく。三五サイヘイ再拜と敬て白す。

△前の呪文に「越前のきさき」とあるはコウザキ殿のことなるべしと思はる。ケクニユウ殿。ゆかしき名なれども思ひ得たる所なし。登百葉山降百葉山は、登る葉山降る葉山なること。「狩之卷」に依りて明〈あきらか〉なり。唯此字が新なる偶然の誤寫には非ずして、山民も久しく斯く唱へ來れるものとすれば興味あり。

[やぶちゃん注:柳田も思い当たらないと言っている通り、咒文(祝詞)なれば、ここの神名の実体は判らない。但し、宮崎のポータルサイト「miten」の「みやざき風土記」の「宮崎県民俗学会」副会長前田博仁氏の『宮崎の神楽「銀鏡神楽シシトギリ」にある猪霊送り』の記事が、本咒文や、その他の宮崎県内の事例を示して解説しておられ、必見である。それを参考に以下を推理してみる。

カブラ」は諏訪神社の古習俗(鹿の頭を奉納した)から見て猪の「頭(カシラ)」のことと読め、

「越前のきさき」は柳田の謂いから「えちぜん」ではなく、「コウザキ」「こしざき」で、「山の高みを越えたところにあられる山の神さま」の意ではなかろうか。

「御先御前」(「おさきごぜん」?)は山の神を前の「越前のきさき」と分離した山の入り口の一神としたものか。

「今日の日の三代ケクニユウ殿」の名はお手上げだが、形容に「今日の日の三代」とあるから、やはり、山の神を細分化して、今現在の三代目の山の神に与えた神号ととれる。こうした山の神の増殖は以下の「登百葉山が五萬五千。降百葉山が五萬五千。合せて十一萬の御山の御神」で明白である。

ハンゲノ水」これは「半夏生(はんげしやう)」の転訛であろう。小学館「日本大百科全書」他を参考にすると、七十二候の一つで夏至の第三候。半夏生は夏至を挟んで入梅と対称位置の時期に当たり、陽暦では七月二日頃となる。「半夏生」は多年草のコショウ目ドクダミ科ハンゲショウ属ハンゲショウ Saururus chinensisで、別名をハンゲ或いはカタシログサ(片白草)と称し、水辺や低湿地に生え、一種の臭気を持つ。「その半夏が生える頃」という意で、昔の農事暦では、この頃までに田植を終える、とされていた点で「水」との親和性が強く、また、迷信的暦注としては、この日には毒気が降るので、「前夜から井戸や泉に蓋をすべし」とされた、から、これもまた、「ハンゲノ水を淸ければ」という祝詞と、よく合うように思われる。

シヤウゲン」「正現」或いは「精進」の転訛か。

アツソン」「三尊」の転訛。

ユウオウ元年庚戌」「ユウオウ」を雄略天皇ととるなら、雄略天皇十四年(ユリウス暦四七〇年)が庚戌。仏教は伝来していないが、後付けだろうから、それは問題にならない。

「信濃國善光寺嶽赤根山」不詳。

サイヘイ」「賽幣」?

拜と敬て白す。

『「狩之卷」に依りて明なり』本篇の最後に附録として添えられたそれの、「完草(ウダグサ)返し」の祭文(底本のここ)の冒頭。『のぼるは山に五萬五千 下るは山に五萬五千 合て十一萬の山の御神』とあるのを指す。]

罠獵〈わなりやう〉。 罠獵は秋の彼岸より春の彼岸までとす。罠は猪のウヂの屈曲なく見通しよき箇所に、二尋八引〈ふたひろやつびき〉の腕大〈かひなだい〉の杭を立て、麻にて作りたる八尺の繩を末端に結び付け、撓〈たわ〉めて輪を作り、蹴絲〈けりいと〉を張り、猪が蹴絲に觸れたるときは、はづれて之を捕縛するものなり。

[やぶちゃん注:「ウヂ」前掲。猪の通り道。

「二尋八引」一尋は大人が両腕を一杯に広げた長さの身体尺で、一般には八尺を指したとされるので、二メートル四十二センチ。「引」はその八本を並べて打ち込むことか。

「蹴絲」進行する猪を引っ掛けるための地面から相応の高さで横に張った細繩のトラップ。現在の猪猟では「トリガー」と呼んでいる。]

 猪がウヂを行くには、ウヂ引の命〈みこと〉、尻指の命と云ふ二の山の神が、其前後に立ちて走るものなりと云ふ。故に罠を掛けたるときは、少量の粟を四方に散らし、ウヂ引の命尻指の命に上げ參らすると三唱する者あり。其趣意はウヂ引の命は道先の案内、尻指の命は後押を爲す神なれば、此神たちに念願を掛れば、猪を罠の方に導き、又猪踟躊〈ちちゆう〉するときは尻指の命其尻に觸れて、はと罠に飛込ましむると言ふに在り。

△又「ウヂ引尻指の命に御賴み申す、あびらうんけんそはか」と唱ふる者もあり。夜待〈よまち〉をする者猪の來る前に凡そ鼠ほどの足音して走る者あるをきく。これウヂ引の神なりと云へり。

△罠にて猪を捕るは昔より小民の業にて、鐵砲を持つ者は之を輕〈かろ〉しめをれり。故に折々は無理なる獲物爭ひをもしかくる也。罠主は七日に一度づゝ罠を見巡るが作法なり。狩人之に先〈さきだ〉ちて罠ある所に行き、既にかゝれる猪を我が追込〈おひこ〉みたるなりと云ふことあり。凡そ罠は猪の通路を圖りて立るなれども、之を立てたる山には猪より付かず。故に諸方より追込みて罠に罹〈かか〉らするは常のことなり。狩人他人の罠に猪を追掛〈おひか〉けたるときは、片肢〈かたあし〉を罠の主に與へ殘りを我が所得とす。三四日も前に罹りて眼の落くぼみたる猪を、今日我が追込みたるなり。蝨猪(シラミジシ)なりし故〈ゆゑ〉山にて燒きて來たりなどゝ欺きて、橫領する奸徒〈かんと〉も無きに非ず。

△燒畑の猪防ぎにワナといふものあり。燒占、栞の類なり、罠に似たる物を作りて畑の附近に置けば猪亦之により付かず。

[やぶちゃん注:「尻指の命」「しりさしのみこと」か。]

ヤマ獵。 ヤマは猪が燒畑作りを荒し、又は樫の實をあさりに來る箇所に設くるなり。ヤマを設くることを上〈ア〉グルと云ふ。其方法は、六七寸周りの木を六尺に切り、二十本ばかり組みて筏狀と爲し、兩側に二本の俣杭〈またぐひ〉を立て、之に橫木を置き、ヤマの一端を三尺の高さに此橫木へ釣上げ、莢〈さや〉のまゝなる小豆を一握ばかりづゝ結びて、四周とヤマの内につるし、中央の小豆を引き餌とし、猪が此の引餌を咬〈くは〉へて引きたるとき、ヤマが落下して壓殺する法なり。ヤマの上には荷石を括り付け押へとする也。

ヤマにては巨猪を獲ることありと雖〈いへども〉、悲哉〈かなしいかな〉壓搾するを以て、血液煮えて全身に行渡り、肉の品質を損ふなり。井ドモなるときは一度に四五頭を得ることあり。

[やぶちゃん注:「井ドモ」「ヰドモ」。前掲。『猪伴。母猪に子猪があまた伴ひ居るを云ふ』とあった。]

狩の紛議。 狩獵に付ては甲乙カクラ組の間又は狩組と罠主との間に、紛議を生ずること往々にしてあり。然れども一〈ひとり〉も警官に訴へ或は法廷に持出すことなく、慣例に依り之を解決するものなり。左に其慣例の二三を記す。

[やぶちゃん注:以下の箇条部は、底本では全体が一字下げ。]

一 狩組が他人の罠に猪を追掛けたるときは、前脚一本を切り罠杭に括り付け置き、心當りに通告すること。

一 甲カクラ組に於て負傷せしめたる猪が、乙カクラ組の區域に遁げ込み、乙カクラ組の手にて擊ち留められたるときは。甲乙兩組の平等割とす。

一 甲カクラより乙カクラに遁げ込みたる猪を、乙カクラ組に於て擊ち留めたるときは、乙組の所得とす。但し甲組の獵犬が追跡し來りたるときは此限に在らず。(此場合が最も紛議を生じ易し。良犬は自ら搜し出したる物なるときは、終日追跡するものなり。然るに乙組に於ては芝苞〈しばづと〉を作り、犬に負傷せしめざるやうにして之を敲き拂ふことあればなり。)

一 猪を獲たるとき、其狩組に加はりし者か否かを判定するには、當日出發の際、狩揃ひの場に出頭せし人の顏を以てす。(橫著なる者は銃聲を聞きて獲物のありたるを知り、蒼皇〈さうこう〉獵裝〈れうさう〉を爲して己も狩組に加はりしものの如くに見せかけ、解剖場に乘込むことあり。本項は此場合に之を適用す。)

[やぶちゃん注:「蒼皇」慌てふためくさま。]

裁判例の一二。判士は庄屋殿、又は小役人。

[やぶちゃん注:以下の例は底本では全体が一字下げ。]

第一例 他人の罠猪を盜みたるもの。

原告八兵衞は昨日九年山に掛けある罠を見に行きたり。四斗位の猪がかゝり大に罠場を荒したる形跡現然たり。決して逐掛けの猪とは認めず。然るに狩人は之を銃殺して持去れり。其足跡は雪を蹈みて一ツ戶の方へ向けあるを以て、彼方の狩人に疑〈うたがひ〉を入れつなぎ至れば、果して一ツ戶なる三之助の緣の上に釣し在り。彼は予が質問に對し、此猪は昨日竹之元にて追起せしを、誰人〈たれびと〉かの罠に追掛けしを以て、狩の法に依り前肢一本を罠杭に括り付け置き、今日通告せんと思ひ居りたるなりと答へ、返すことを拒みたり。

庄屋曰く和談すべし。

原被とも承諾せず。

庄屋曰く。然らば直に關係外の狩人に申付け、元起し場より猪の足跡を搜索さすべし。

此時被告の顏色稍〈やや〉變ず。

被告は他の有力者に縋り、猪を罠主に返し、庄屋前〈まへ〉を取下げたり。

[やぶちゃん注:「四斗位」「」は「眞」で、正味の意であろう。容積で七十二リットル、米換算で二百四十キログラム。相当な大物であるから、孰れも引かなかったわけだ。

「前」訴訟告発文。]

          ―――――――

第二例。甲組に於て負傷せる猪を乙組に於て擊止めたるもの。

原告三太郞は一昨日佐禮山に登り、七八名連れにて狩を入れ、暮方鷹山の元にて大猪を起し、タテニハに於て一發を加へしも、鹿遊(カナスビ)の方へ向け流血淋漓として遁げ去れり。昨日ツナギを入れたるに、鹿遊の狩人虎市等に於て擊止めたる處に出會したり。由つて仲間入りを交涉したるに。頑として之に應ぜず。剩〈あまつさ〉へ侮辱を加へたり。

小役人曰く。手負猪と知らば雙方にて程好く分配すべし。

被告虎市曰く。成ほど血液は滴り來りしも、微傷にて銃傷とは認め難し。故に拙者共の勝手にすべし。

小役人曰く。猪は射手の前、口事〈もめごと〉は言手〈いひて〉の前と云ふことありと雖〈いへども〉、獵は此節に止〈とどま〉らず。末永く互に仲好くせざれば。終には之に類する反對の位置に立ちて損をすることあり。屹度〈きつと〉小役人の指圖に從ひ、仲間として分配すべし。猪の疵だけにやめ(矢目に通ず)として、敢て言ひ爭ひを爲し庄屋殿の手を煩はすことなかれ。

被告虎市曰く。誠に左樣なることなり。一同承諾すべしと。

△中瀨氏の文章、野味ありて且つ現代の味あり。其一句一字の末まで、最も痛切に感受せられ得と思ふ。讀者以て如何と爲す。

2022/05/11

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 酌子貝(シヤクシガイ)・イタラ貝 / イタヤガイ(四度目)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部、マスキングした。この見開き丁の図譜もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。]

 

Syakusigai

 

酌子貝(しやくしがい)【「いたら貝」。】

 

「大和本草」、『「海扇」の少なる者、「勺子貝」と為す。』。然(しか)らず。「海扇」は「車渠(をほみ貝)」と云ひ、其の貝、甚だ厚し。形狀は同物なれども、「勺子貝」は、殻、薄し。「海扇」と一物にあらず。其れ、肉柱、一つ有り、而して「たいらぎ」に類(るい)す「。車渠(しやこ)」、又、一種、別なり。

 

此の數品(すひん)、和田氏藏。同九月廿四日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:これは、既に本「介譜」で四度も示されてある、

斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans

である。本種は殻の色彩の個体変異が多いことが知られ、古くから貝杓子にもよく用いられてきた。ここに描かれたのは、膨らみが弱く、放射肋がくっきりしていることから、左殻で、やや殻の辺縁部がすっきりし過ぎて、描き方が気に入らないものの、蝶番の下方にあるのは、反転させた膨らみの強い右殻の内側の一部であろう。

 ここで梅園は珍しく益軒に嚙みついている。という私も、実は、この当該箇所である「大和本草卷之十四 水蟲 介類 海扇」で同じように批判している。益軒は安易に見た目から「ホタテガイ」(斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科 Mizuhopecten 属ホタテガイ Mizuhopecten yessoensis )の名を当ててしまっているからである。詳しくは、そちらの私の注を見られたい。

「車渠(をほみ貝)」というルビは、「大身貝」の意であろう。但し、梅園には、所謂、シャコガイ類(異歯亜綱マルスダレガイ目ザルガイ上科ザルガイ科シャコガイ亜科 Tridacnidae)の認識も、また、別にあったと私は考えている。『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 錦貝(ニシキガイ)・イタヤ貝 / イタヤガイ・ヒオウギ』の私の注を参照されたい。

『「たいらぎ」に類す』いただけない。タイラギ(学名は現在いろいろ問題がある。「大和本草附錄巻之二 介類 玉珧 (タイラギ或いはカガミガイ)」の私の注を参照されたい)はこの後のここで大図で示されるのだが、何故、益軒の杜撰を鋭く突いた彼が、同時にこのような似ても似つかぬ別種をのほほんと同類としたのか、気が知れないからである。残念!

「同九月廿四日」前からの続きで、これは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十四日となる。]

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 簞笥のはじまりの事

 

[やぶちゃん注:今までの底本ではここからだが、これも「曲亭雜記」巻第五・上に所収し、ルビも振られてあるので、それを基礎底本と、先のものを参考にして本文を構成した。一部の読みを濁音化した。]

 

    ○簞笥のはじまりの事

このもの、ふるくは所見なし。按ずるに、三百年あまり以前に、籠笥(ろうす)といひしもの、是、箪笥のはじめなるべし。この籠笥は「下學集」【「器材門」。】に見えて、唐櫃(カラビツ)、懸子(カケコ)、皮籠(カハコ)、葛籠(ツヾラ)、破籠(ヤレカゴ)、頓須籠、髮籠(カミコ)、籠笥(ロウス)、柳筥(ヤナギカゴ)と並べ出したり。この籠笥を後に簞笥と名づけしは、「廣韻」に『竹器ナルヲㇾ「箪」。方ナルヲㇾ「笥」』。とあるに據る。五山法師などの所爲(わざ)にもやありけんかし。元來(もと)、簞笥は籠(かご)をもてせし書箱(ふみばこ)なるべし。「書言字考」に、『本朝、俗、謂書厨簞笥』と註して、和訓をカタミバコとしるせしは、何に據れるにや。疑らくは記者の新製なるべし。もし、よめむかへに、簞笥の名目はなからずやと思へど、「群書類從」は、すべて舊宅の文庫に遺しおきたれば、只今、穿鑿によしなし。異目披閱(いもくひゑつ)してその事あらば、追書すべし。さばれ、大かた、なきなるべし。かゝれば籠笥(ろうす)の轉じて、簞笥となりしより後には、竹を編みて造らず、代りに桐の木をもて、引出しなどいふものすら、造りそえたるは、寬永以來の事にやあらん。譬へば、「柳筥(やなぎばこ)」の轉じて「挾み板」となり、又、轉じて「挾筥(はさみばこ)」となれるが如し。そが中に、「かさねだんす」といふものは、百年來のものと、おもほゆ。小石川の御簞笥町、牛込の簞笥町も、ふるき江戶繪圖、江戶地書等には、見えず。今は御簞笥町に、引出し橫町など唱ふる處もあり。こは、「私(わたくし)の字(あざな)なるべし」とばかりにして、簞笥を造りはじめたる時代は詳ならず。猶、考ふべし【「康煕字典」に、「廣韻」を引て、『箪笥は篋』と見えたり。但し、「簞」は「笥」なり。「小篋なり」と云ふ意にてもあるべけれども、同意の字をかさねて、熟字の如くつかふこと例あれば、既に唐山にて簞笥と云[やぶちゃん注:「いふ」。]名、ありぬらんと、おぼし。猶、考べし。「說文」、『簞は笥也』、「漢律令」、『京は小篋也』。】

 文政八年乙酉秋七月念一日  著作堂解識

再び云ふ、「たんす」は「擔笥」にて、明曆の災後、車長持を停廢せられしより、火事の時、擔ひ出すに便利の爲にとて、造り出せしものかと思へども、古くより「簞笥」とのみ書て、「擔笥」と書たるを見ねば、未、臆說を免れず。もし證文あらば一說とすべし【但、簞笥と云名目は、擔笥と別なるべし。】。

[やぶちゃん注:ウィキの「箪笥」によれば、『箪笥の登場は江戸時代前期、寛文年間』(一六六一年~一六七三年)『の大坂といわれ、正徳年間』(一七一一年~一七一六年)『頃から普及したとされる。それまで』、『衣服は竹製の行李、木製の長持や櫃といった箱状の物に収納されてきた』。『これらと比べた箪笥の特徴は何といっても』、『引き出しを備えたことで、これにより、大量の衣類や持ち物を効率よく収納できるようになった。逆に言えば、元禄時代の経済成長を経て、箪笥を使わなければいけないほど、人々の持ち物は増えてきたということである』。但し、『長持に比べ、多くの材料と高度な技術を必要とする箪笥は、まだまだ高価な品物であった。貧しい庶民にまで箪笥が広まるのは、江戸時代末期からである』。『「たんす」は、古くは「担子」』(本篇に「擔子」に同じ)『と書かれ、持ち運び可能な箱のことを指していた。江戸時代に引き出し式の「たんす」が登場すると、いつの間にか「箪笥」の字が当てられるようになった。中国では「箪」は円形の、「笥」は方形の竹製収納容器をさす言葉である。現在、中国では日本で箪笥と呼ぶものには「櫃」という語を用いる』とあった。

「下學集」著者は「東麓破衲(とうろくはのう)」という名の自序があるが、未詳。全二巻。室町中期の文安元(一四四四)年に成立したが、刊行は遅れて江戸初期の元和三(一六一七)年(徳川秀忠の治世)。意義分類体の辞書。室町時代の日常語彙約 三千語を「天地」・「時節」などの十八門に分けて簡単な説明を加えたもの。その主要目的はその語を表記する漢字を求めることにあった。室町時代のみならず、江戸時代にも盛んに利用され、その写本・版本はかなりの数に上る。類似の性格をもつ同じ室町中期の辞書「節用集」に影響を与えていると考えられている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。当該箇所は寛文九(一六六九)年版本の早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここ

「書言字考」近世の節用集(室町から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種。「せっちょうしゅう」とも読む。漢字熟語を多数収録して読み仮名を付ける形式を採る)の一つである「書言字考節用集(しょげんじこうせつようしゅう)」のことか。辞書で十巻十三冊。槙島昭武(生没年未詳:江戸前中期の国学者で軍記作家。江戸の人。有職故実や古典に詳しく、享保一一 (一七二六) 年に「關八州古戰錄」を著わしている。著作は他に「北越軍談」など)著。享保二(一七一七)年刊。漢字を見出しとし、片仮名で傍訓を付す。配列は語を意味分類し、さらに語頭の一文字をいろは順にしてある。近世語研究に有益な書。

「小石川の御簞笥町、……」ウィキの「箪笥町」を参照されたい。

「車長持」「くるまながもち」。移動しやすいように、車輪を下部にとりつけた長持。 明暦三(一六五七)年の「明暦の大火」で、車長持が道を塞ぎ、混雑したため、それ以後、禁止された。]

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 「狩ことば」

 

[やぶちゃん注:底本のここから。]

 

   狩ことば

 

一 トギリ。 狩を爲さんとする當日、未明に一二人を派して、猪の出入先を搜索し復命せしむるを云ふ。

二 オヒガリ。 逐狩。トギリを出さず、心あたりを空〈くう〉に狩るを云ふ。

三 オヒトホシ。 追通し。猪が小憩もせずにマブシのあたりを走り過ぐるを云ふ。猪は飛禽の如く走ると雖〈いへども〉、大槪二三十間每に凡そ二十秒ほどの間立止〈まだちとま〉るもの也。是四近の樣子に聞耳を立つる爲也。獵師は此時を待ちて發砲す。されども犬が追跡するときは、此小憩をも爲さずマブシを通り過ぐる故に、此に命中するをば追通しを擊ちたりとて大手柄とす。

[やぶちゃん注:「マブシ前掲。『猪の通路に構へて要擊する一定の箇所』を指す語。]

四 スケ。 猪が一定のマブシに出でず他に出でんとするを、囘走して擊つを云ふ。

五 タテニハ。 獵犬が猪を包圍して鬪爭するを云ふ。

六 ホエニハ。 吠庭。包圍が散開しつゝなほ鬪爭を續くるを云ふ。

△猪の犬は昔より細島〈ほそしま〉にて買ふ。兒犬の時にても二十圓もする也。狩に使ふには牝犬の方優れり。牝犬が行けば外の牡犬も追ひ行きて、捕られぬ猪も捕らるゝなり。されど牝犬を飼へば秋の比〈ころ〉に三里四方の牡犬悉く集り來て、玉蜀黍〈たうもろこし〉の畑を荒し村人に惡〈にく〉まるゝ故に、飼ふことを憚かるなり。犬は近年鹿兒島の種交りて形小さくなれり。

[やぶちゃん注:宮崎県日向市細島(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。江戸時代以前から江戸や大阪と東九州を結ぶ交易の中継地として発達した港町。]

七 九ダイ三ダイ。 獵師が當日猪の出先を占ふ方位なり。獵師は今日は何の日なるを以て猪は何代に出づと言ふなり。

八 クサククミニウツ。 猪の肌見えず、笹や草の中に在るを見込みて擊つを云ふ。

九 ヤタテ。 矢立。又矢鉾ともいふ。猪を獵獲し分配の後、三度發砲して山の神に獻ずるを云ふ。

△分配の後といふこと、如何。隣村諸塚村〈もろつかそん〉の村長堀莊氏曰く、分割の後に一發、之を「芝起し」と云ふと。ヤタテは山に在りて猪を仕止めたる時に手向くるものには非ざるか。

[やぶちゃん注:「諸塚村」ここ。椎葉村の東北に接する。当該ウィキによれば、『面積あたりの林道の密度は日本一である』とある。

「堀莊」読み方不詳。]

一〇 ガナラキ。猪の舌を云ふ。ガナラキは未だ一囘も猪を獲たること無き者には分配せず。

△新進の狩人は隨分冷遇を受く。例へば猪の腸(ワタ)は分割の場にて串に差し燒きて食ふを常とす。此のワタアラヒは必ず新參者の役なり。

一一 コウザキ。 猪の心臟を云ふ。解剖し了りたるときは、紙に猪の血液を塗りて之を旗と爲し、コウザキの尖端を切り共に山の神に獻ず。コウザキコウザキ殿と云ひ、又山の神をもコウザキ殿と云ふ。祭文は後に記す。

[やぶちゃん注:後の「狩の作法」のここに出る『咒文』というのがそれと思われる。]

一二 イリコモリ。 入籠。トギリを出したるときに、前夜は猪の出入先を發見せずと雖〈いへども〉、前々夜若くは數日前の入跡〈いりあと〉現然として、出跡〈いであと〉無きときは卽ち入り籠り居るものと見るなり。前夜の入跡をナマアトと云ひ、其以前のものをフルアトと云ふ。

[やぶちゃん注:「出跡」は「であと」かも知れない。]

一三 セコ。 包圍中のカクラに分け入り。タカウソ(竹の笛)を吹き犬を呼びつゝ、隈なく搜索して猪を追ひ出す者を云ふ。

[やぶちゃん注:「カクラ前掲。『猪の潛伏せる區域』を指す語。

タカウソ」単に「ウソ」という語は「口笛」を指す。]

一四 ハヒバラヒ。 灰拂。猪の尾端を云ふ。

一五 オコゼ。 鯱(シヤチ)に似たる細魚なり。海漁には山オコゼ、山獵には海オコゼを祭るを效驗多しと云ふ。祭るには非ず責むるなり。其方法はオコゼを一枚の白紙に包み、告げて曰く、オコゼ殿、オコゼ殿近々に我に一頭の猪を獲させたまへ。さすれば紙を解き開きて世の明りを見せ參らせんと。次〈つぎ〉て幸〈さひはひ〉にして一頭を獲たるときは、又告げて曰く、御蔭を以て大猪を獲たり。此上猶一頭を獲させたまへ。さすれば愈〈いよいよ〉世の明〈あか〉りを見せ申さんとて、更に又一枚の白紙を以て堅く之を包み、其上に小捻〈おひねり〉を以て括〈くく〉るなり。此〈かく〉の如く一頭を獲る每〈ごと〉に包藏するが故に、祖先より傳來の物は百數十重に達する者ありと云ふ。此のオコゼは決して他人に示すこと無し。

△椎葉村にオコゼを所持する家は甚〈はなはだ〉稀〈まれ〉なり。中のオコゼを見たる者は愈以て稀有〈けう〉なるべし。鯱に似たる細魚なりは面白し。中國の漁人たち試にオコゼを一籠此山中に送らば如何。オコゼは一子相傳にして家人にも置所〈おきどころ〉を知らしめず。或者の妻好奇心のあまりに、不思議の紙包を解き始めしに、一日掛〈かか〉りて漸〈やうや〉くして干〈ほし〉たるオコゼ出でたりと云ふ話あり。一生涯他人のオコゼ包〈づつみ〉を拾ひ取らんと心掛くる者もありと云ふ。此村にては吝嗇〈りんしよく〉なる者を「おこぜ祭」と云ふ。

[やぶちゃん注:実は本篇の電子化注は、ブログで公開した『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』を受けたものである。そこで熊楠がこの部分に言及している。また、私はそちらの注で、ここで言う「山オコゼ」及び「海オコゼ 」の種についても考証しておいたので、重複を避けるため、そちらを是非、参照されたい。

一六 タマス。 猪肉を分配する爲、小切にしたるものを云ふ。

△此說明は少しく不精確なり。タマスは分け前といふことなり。一タマスタマスは一人前二人前なり。役により一人にて二タマスを得る者もあり。次を見よ。

一七 クサワキ。 草脇。猪の腭〈あご〉の下より尻へかけての腹の肉を云ふ。

一八 ミヅスクヒ。 猪の下腭の末端を云ふ。

△三角の形を爲せる部分なり。最うまし。

一九 セキ。 猪の腰の間にて腹を包み居〈を〉る脂肉を云ふ。二十貫以上の猪ならば脂肉のみにて六七斤もあり。幾年圍ひ置くも腐敗せず。バタの代用を爲す。

[やぶちゃん注:「二十貫以上」七十五キログラム以上。

「六七斤」三・六~四・二キログラム。

バタ」バター。]

二〇 ギヤウジボネ。 行司骨。猪の肋骨の端なる軟骨を云ふ。

二一 イヒガヒボネ。 飯匙骨。猪の後脚の腿骨〈たいこつ〉の端を云ふ。其形狀飯匙に似たればなり。

[やぶちゃん注:「飯匙」杓文字(しゃもじ)のこと。]

二二 ツルマキ。 絃卷。猪の首の肉なり。輪切にしたる所絃卷に似たり。味最美なりとす。

[やぶちゃん注:「絃卷」弓矢の附属具。掛け替え用の予備の弓弦(ゆづる)を巻いておく道具。葛藤(つづらふじ)又は籐(とう)で輪の形に編み上げ、中に穴をあけて、箙(えびら)の腰革(こしかわ)に下げるのを例とした。弦袋(つるぶくろ)とも呼ぶ。]

二三 ソシ。 猪の背に沿ひて附著する肉なり。外部なるをソトゾシと云ひ、内部なるをウチゾシと云ふ。最〈もつとも〉不味〈ふみ〉也。

△「そじゝのむな國〈くに〉」などいふそじゝなるべし。

[やぶちゃん注:「そじゝのむな國」「膂宍(そしし)の空國(むなくに)」に同じ。猪などの獣類の背には肉が少ないことが原義であるが、そこから、「物事の豊かでない」意に喩え、「豊沃でない土地・瘦せた土地・不毛の地」の意図して記紀の時代から用いられた上代語である。]

二四 モグラジシ。 鼹鼠猪。又ブタジシとも云ふ。臭氣ありて食用に供し難し。百頭の猪の中大槪二三頭は此なり。外形少しく通常のものと異なれども、素人は解剖の上ならでは見分くること能はず。其形一見豕〈ぶた〉の如く、腹部甚しく肥滿して脚は割合に短かく、仰臥〈ぎやうぐわ〉せしむれば四肢の容態鼹鼠に酷似す。素人又は商人之を購ひ泣き出すことあり。

二五 〈いち〉ノキレ。 猪の首を云ふ。

二六 ヌリ。 負傷せる猪の血液が荊棘などに附著し。又は地上に滴り居るを云ふ。獵師はこのヌリを見て、急所に中〈あた〉り居るか擦り傷位なるかを知り、急所に中りたるものと認めたるときは、三四日間引續きても搜索する也。蓋し急所に中りたる折の血液は、黑味を帶び又脂肪を混ず。

△血をノリといふ語原はわかりたり。

[やぶちゃん注:と柳田は言っているが、それは「塗り」の転訛ということらしい。しかし、「血のり」は粘ついた凝固血の「糊」状になった「血」が語源と私は思う。]

二七 オヒサキ。 狩出したる猪を追跡するを云ふ。

二八 ツナグ。 猪の足跡を求めて搜索するを云ふ。

二九 アテ。 他人の猪を盜〈ぬすみ〉取り、又は狩場の作法に背き、不正の行爲を爲したるときは、奇妙にも獵運惡しきものなり。又獵師の妻が姙娠中は猪を獲〈から〉ず。萬一要部を射當るも斃〈たふ〉れず。斃れたりと雖〈いへども〉蘇生して逃走することあり。この二の場合をアテと云ふ。併し後のアテは大反對に出で、獵運大〈おほき〉によろしきこともありと云ふ。

三〇 ヰドモ。 猪伴。母猪に子猪があまた伴ひ居るを云ふ。

三一 ツキヰ。 附猪。ヰドモに牡の大猪が伴ひ居るを云ふ。

泉鏡花「星あかり」(正規表現・オリジナル注附・PDF縦書版)を公開

泉鏡花「星あかり」(正規表現・オリジナル注附・PDF縦書版)を満を持して「心朽窩旧館」に公開した。

2022/05/10

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 自作短歌・「土地の名目」

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」 自作顕歌・「土地の名目」

[やぶちゃん注:以下の柳田國男の献歌一首は、「序」の最後のページの見返し(裏)に記されてある(底本ではポイント落ち)。柳田が当初、歌人。詩人を志していたことはあまり知られていない。当該ウィキによれば、『森鷗外と親交を持ち、『しがらみ草紙』に作品を投稿』し、『桂園派の歌人・松浦辰男に入門する。第一高等中学校在学中には『文學界』『國民之友』『帝國文学』などに投稿』、明治三〇(一八九七)年には『田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版する。ロマン的で純情な作風であった。しかしこの当時、悲恋に悩んでおり、花袋にだけこれを打ち明け、花袋はそれを小説にしていた』(作品名は「野の花」(明治三十四年新聲社刊・単行本。後発の大正五年春陽堂版の花袋の作品集「野の花」が国立国会図書館デジタルコレクションで視認出来る)。『飯田藩出身の柳田家に養子に入り、恋と文学を諦め、官界に進んだ後も、田山花袋・国木田独歩・島崎藤村・蒲原有明など文学者との交流は続いたが、大正時代に入ったあたりから』、『当時の文学(特に自然主義や私小説)のありようを次第に嫌悪し』、『決別していった』とある。

 なお、以下の本文はメインの解説が二行に亙る場合は二行目以降は、底本では一字下げであるが、無視した。また、後に添えられた柳田自身による「編者注」(頭に△を打つ)も、底本ではポイント落ちで、全体が三字下げであるが、引き上げて同ポイントとした。]

 

        椎葉村を懷ふ

     立かへり又みゝ川のみなかみに

     いほりせん日は夢ならでいつ

 

 

      土地の名目

 

一 ニタ。 山腹の濕地に猪が自ら凹所を設け水を湛へたる所を云ふ。猪は夜々來りて此水を飮み、全身を浸して泥土を塗り、近傍の樹木に觸れて身を擦る也。故にニタに注意すれば、附近に猪の棲息するや否やを知り得べし。

△編者云、ニタは處によりてはノタともいふか。北原氏話に、信州にてノタを打つと云ふは、猪鹿などの夜分此所に來て身を浸すを狙ふなり。火光を禁ずる故に鐵砲の先に螢を著〈つけ〉けて照尺とし、物音を的に打放すことあり。ニタを必ず猪が自ら設けたるものとするは如何〈いかん〉。凡そ水のじめじめとする窪みを、有樣に由りてニタと云ふなるぺし。風土記に「にたしき小國也」とある出雲の仁多郡は不知〈しらず〉、伊豆の仁田〈にた〉を初め諸國にニタといふ地名少なからず。我々が新田の義なりとする地名の中にも、折々は此ニタあるべし。例へば上野〈かうづけ〉の下仁田など。

[やぶちゃん注:これは所謂「沼田場(ぬたば)」・「ヌタ場」として知られる、ある種の四足獣類が、泥浴びをする(体表に附着しているダニなどの寄生虫や、汚れを落とすために泥を浴びるをするとされているが、明確には判っておらず、以下に見るように、動物種によって役割は多様である)「ぬた打ち」行う場所を差す。当該ウィキによれば、『沼、湖や川の畔、休耕田』『なども使われるが、谷筋の一定の場所が繰り返し使われることがある』。『日本の猟師の間ではぬた場に、山の神がいて、祈ることで獣が現れると考えられていた』。『日本の神奈川県東丹沢地域での観察によれば、ヌタ場で最も多い行動は』、『動物の種類、ニホンジカ、イノシシ、タヌキ、アナグマによって異なるとことが判明した。ニホンジカは飲水(オスに限るとヌタ浴び)、イノシシはヌタ浴び、タヌキとアナグマは臭い嗅ぎが最も多い行動で、ニホンジカのメスにとってヌタ場は塩場』(塩分供給)『としての機能も有している可能性があることが報告されている』とあり、ウィキの「イノシシ」によれば、『多くの匂いに誘引性を示し、ダニ等の外部寄生虫を落としたり体温を調節したりするために、よく泥浴』『・水浴を行う。泥浴・水浴後には体を木に擦りつける行動も度々』、『観察される。特にイノシシが泥浴を行う場所は「沼田場(ヌタバ)」と呼ばれ、イノシシが横になり転がりながら全身に泥を塗る様子から、苦しみあがくという意味の』「ぬたうちまわる(のたうちまわる)」『という言葉が生まれた』とある。所持する松永美吉氏の労作「民俗地名語彙事典」(三一書房『日本民俗文化資料集成』版)の「ニタ」の項でも、『湿地。水のじくじくした田代として適当な谷間をいう〔『地形名彙』〕』とし、以下、猪絡みの記載が長く続く。『熊本県球磨郡水上(ミズカミ村元野では、ニタの神というのがある。桜、樫などの木が茂り、その下に水溜りがある。猪がここに来て、この水溜に入り、木の根に体をすりつけてシラミを殺す。そこでは昼でも暗く山師も寄りつかない。もしこの山の木を伐ると熱病にかかる、ニタの神様は耳も聞こえず目も見えないという〔『熊本民俗事典』〕』とあり、猪は『矢きずを負った時、ここで身体の熱をさまし、傷口を癒すらしい。重傷の手負いの猪が時折、ニタ場の近くで倒れていることがある。このニタのにごり具合で、猪が近くに居るかどうかを判断することもあり』、『ニタのつく地名が山間部に意外に多い〔前田一洋『えとのす』〕』とある。以下、一段落が霧島山付近の猪のニタでの行動様式が子細に語られていて興味深い。最後に谷川健の文章を引いて、『沖縄の宮古島の島尻という部落には、自然の湧水の濁ったくぼみをニッジヤまたはニッダアと呼んで他界への入口とみなしている』という例を挙げ、谷川はこの二つの呼称は『ニタと同義語であり』、ニタという地名は『神聖なものの出現の場所とみなすことができると思う』という谷川説が示される。豊饒の象徴である田代、先の「ニタの神」から、この谷川の説は、私は侮れないと思う。

「北原氏」「序」に既出。

『風土記に「にたしき小國也」とある出雲の仁多郡』「出雲風土記」の「仁多の郡(こほり)」の条には、文字通り、「こは濕(にた)しき小國(をぐに)なり」と大穴持(おおあなむち)の命(=大国主命)が仰せられたこととに始まる。彼は、この郡の三つの郷(さと)は孰れも田が優れているとも言っているので、やはり湿潤の地であるととってよい。現在の奥出雲町及び雲南市の一部に相当する。]

二 ガラニタ。 水枯渴して廢絕せるニタを云ふ。

三 ウヂ。 猪の通路を云ふ。

△鹿のウヂ、にくのウヂなどゝも云ふ。ウヂ引尻指の神の條參照。中瀨氏はウヂは菟道〈うみち〉にて山城其他の宇治同義なりと云ふ。如何〈いかん〉。

[やぶちゃん注:所謂、四足獣類の各自が形成する自身の獣道(けものみち)のこと。

「引尻指の神の條」後の「狩の作法」の「罠獵」の後注に出る。ここ。読みが判らぬが、ルビを振っていないので、「ひしりゆび」と訓じておく。]

四 セイミ。 少しく水湧き泥狀を爲し居〈を〉る處を云ふ。猪は此水を飮み蟹蛙などをあさり食ふ。人の注意することニタに同じ。

五 シクレ。 荊棘〈いばら〉茂り合ひ人容易に通過し能はざる處を云ふ。猪は大槪シクレに伏し、又はシクレを通路とす。

六 モッコク。 シクレの中に枯木の枝打混〈うちこん〉じ、シクレの層甚しく、且小區域なる處を云ふ。モッコクは猪の好潛伏場とす。

七 ヤゼハラ。 シクレの廣く亙れる處を云ふ。

八 ドザレ。 傾斜地に砂礫疊々として通行するに一步每に砂礫の轉下する處を云ふ。ドザレは流石の猛猪も急進すること能はず。故に村田銃を以てせば五六步每に一丸を與ふることを得る也。

[やぶちゃん注:所謂、山屋の言う「ガレ場」である。

「村田銃」陸軍少将村田経芳(つねよし)によって設計された小銃で、日本陸軍で初めて制式となった国産小銃。明治一三(一八八〇)年に、フランスのグラー銃及びオランダのボーモン銃を参考に「十三年式村田銃」として開発した。ボルト・アクション単発式で口径十一ミリ、全長一メートル二十九・四センチメートル、重量四キロ、照尺千五百メートルであった。明治十八年には、一部が改良されて「十八年式村田銃」となり、これらが「日清戦争」で実戦使用された。この十八年式の制定から間もなく、無煙火薬の連発銃の時代となり、村田も明治二十二年には「二十二年式村田連発銃」(口径八ミリ、全長一メートル二十二センチメートル、重量四キロ、照尺二千メートルを完成、制定されている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

九 ヒラミザコ。 凹所〈あふしよ〉急ならず弧狀を爲し、水無き迫〈さこ〉の竪〈ひき〉に引き居る處を云ふ。セイミは大槪ヒラミザコに在り。

[やぶちゃん注:「迫〈さこ〉」岡山県以西の中国地方と九州地方で「山あいの小さな谷」を指す。]

一〇 ホウバ。 樹木立込み居るも見通しのよろしき處を云ふ。卽ちセイミモッコクヤゼハラドザレの反對の地形なり。猪は遁走するにホウバを避く。故に狩人が包圍するにも、人手多き場合に限り弱卒を此處に配置するのみなり。

一一 スキヤマ。 森林にして見通しよろしき處を云ふ。スキヤマは位置ホウバに似たるも、猪は之を避けず。

一二 ツチダキ。 土瀧。岩石無く急傾斜にして滑り易く、人の通るに困難なる箇所を云ふ。

一三 クネ。 土砂隆起して大瀧の狀を爲し、橫又は斜に引き居る處を云ふ。猪は大槪クネの上下を過ぎるものなれば、クネの上に構へて要擊する也。

△對馬の久根。遠江の久根。地名辭書に見ゆ。

[やぶちゃん注:「地名辭書」明治三三(一九〇〇)年三月に第一冊上が出版された地名辞典。日本初の全国的地誌として、在野の歴史家吉田東伍個人によって十三年をかけて編纂された労作。

「對馬の久根」は国立国会図書館デジタルコレクションの原本(上巻二版)のここの左ページ上段に出、「遠江の久根」は同中巻の「山香」の中の「佐久間」の項(右ページ中段)に「久根(クネ)銅山」として出る。]

一四 マブ。 傾斜したる小谿〈しやうけい〉の水源又は小迫〈こさこ〉の頭に、塚狀を爲し居る處を云ふ。猪は大槪マブ下を通過し、巨猪は群犬を茲〈ここ〉に引受けて鬪ふ。

一五 ヨコダヒラ。 傾斜緩なる地が橫に長く亙り居る處を云ふ。

△九州南部にて廣くハエといふ地名を附する處、地形或は之と同じきか。椎葉及其附近にでは凡て「八重」と書く。勿論近代のあて字なり。例へば尾八重(ヲハエ)、野老八重(トコロハエ)などあり。或地方にては「生(ハエ)」とも書けり。「延へ」の義か。はた先住民の語か。山地の土着民居〈すむ〉に適する部分は多くはハエなり。

[やぶちゃん注:「山地の土着民居〈すむ〉に適する部分は多くはハエなり」同様の解説が前掲の松永氏の「民俗地名語彙事典」にもあった。]

一六 クモウケ。 雲受。天を眺むる如き山の頂上を云ふ。

一七 クザウダヒラ。 山々相重なり居る中に。一つの山のみが方向を異にし。斜に天を挑むるに似たる所を云ふ。

一八 カマデ。 鎌手。或目標に向ひて右の方を云ふ。

一九 カマサキ。 鎌先。同じく左の方を云ふ。

二〇 イレソデ。 入袖。燒畑又は舊燒畑跡が判然として、山林區域に對し袖狀に見ゆる所を云ふ。卽ち左圖の如し。

 

Totinomeimokuiresode

[やぶちゃん注:原本にある図であるが、これは底本(作者献本でモノクロ画像)ではなく、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの所有する、柳田國男が相原某に献呈した所蔵本(カラー画像。扉に献辞と署名有り)の当該部からトリミングした。キャプションは、右に、

「山林」

左に、

「入袖」

である。]

 

二一 ツクリ。 燒畑跡地にして未だ林相を爲さゞる處を云ふ。

二二 キリ。 切。昔燒畑とせし箇所が森林に復し居る處を云ふ。然らば椎葉の山林は凡てキリなるかとも云ひ得べしと雖〈いへども〉、此〈かく〉の如く解すべからず。抑〈そもそも〉キリの名稱は地面の一局部に小地名を冠する必要より生ぜしもの也。例へば往時燒畑を作りし人が五右衞門なるときは五右衞門キリ、三之助なるときは三之助切といふ一の小字〈こあざ〉となるなり。

△燒畑を經營することを此地方一帶にてはコバキリと云ふ。コバは火田〈くわだ〉にて、畑と書きてコバと訓む地名多し。人吉の南にある大畑(オコバ)[やぶちゃん注:この「(オコバ)」はルビではなく、本文。以下、丸括弧は総てルビ。]の如し。燒畑を切山(キリヤマ)。切畑(キリバタ)といふこと東西諸州に於て常のことなり。或は野畑(薩州長島)。藪(伊豫土佐の山中)とも云ふ。草里(サフリ)。佐分(サブリ)。藏連(ザウレ)。曾里(ソリ)とも云へりと見ゆ。反町と書きてソリマチ、後にはタンマチとも訓〈よ〉めり。是も燒畑に因〈ちなみ〉あること疑〈うたがひ〉なし。神奈川町の臺地に反町桐畑(タンマチキリバタケ)、昔忍ばるゝ地名なり。されど燒畑と切替畑〈きりかへはた〉とは同じ物に非ず。說長ければ略す。地方凡例錄〈ぢかたはんれいろく〉の說明は誤れり。

[やぶちゃん注:「地方凡例錄」寛政六(一七九四)年に高崎藩松平輝和の郡(こおり)奉行大石久敬(きゅうけい)の著したもので、江戸時代を通じて、農政全般に亙る各種実務書の内で、最も優れた書とされる。国立国会図書館デジタルコレクションの恐らく巻之二の下の内容を指しているようだが、どこを批判しているのか、ちょっと判らぬ。]

二三 カタヤマギ。 片病木。大木の半面が腐朽せるまゝ生存し居るを云ふ。

二四 ツチベイギ。 燒畑と燒畑との境に伐り殘りの樹木が多少燒害を受けつゝも生存し居るを云ふ。

△此村竝〈ならび〉に近鄕にはをさをさ土塀を見ず。此語を土塀より出でたりとは速斷すべからず。

二五 ヨホーレギ。 斜に立ち居る木を云ふ。

二六 マブシ。 猪の通路に構へて要擊する一定の箇所を云ふ。

二七 カクラ。 猪の潛伏せる區域を云ふ。

二八 ナカイメ。 中射目。カクラの中に在るマブシなり。中射目に手員〈てかず〉を配置するは、富士の卷狩に似たる大狩場にあり。四方八方要所を堅めたるも、カクラ廣くして逐出〈ひだ〉すに困難する場合のことなり。中射目は東西雌雄を決する關ケ原なれば、此要害を占〈し〉むるの任は、老練衆に秀〈すぐ〉る獵將と雖〈いへども〉、遺憾ながら之を庄屋殿に讓らざるべからず。

△此の庄屋殿は中瀨氏自らのことなるべし。下にも見ゆ。面白からずや。

二九 シリナシヲ。 尻無尾。尾(峯)がおろし居るも低所に達せず、中途にして展開し居るものを云ふ。この尾の下は猪の遁路に當り、最肝要の箇所とす。

三〇 ズリ。 材木又は薪を落し下〈おろ〉す所なり。熊笹の如き植物密生し見通し難き場合は、此のズリにすけ行き、一目一引といふ工合にて、ころりと擊落〈うちおと〉すことあり。

[やぶちゃん注:所謂、材木の切り出しや「柴車(しばぐるま)」(私の「譚海 卷之五 信州深山の民薪をこり事」の同注を見られたい)を落とす場所を利用して、猪を打ち落とすことを説明している。]

△一目一引の工合、十分に想像すること能はず。すけ行くは沿ひ行くなり。わざと椎葉の方言を飜譯せず。

[やぶちゃん注:「一目一引」「ひとめひとひき」か。発見した獲物を即座に引金を引いて一発で必殺することか。]

三一 ヲダトコ。 猪を里に持下〈もちおろ〉して、割〈さ〉きて分配するに使ふ家を云ふ。ヲダトコの家は一定しをれり。

△天草下島の西海岸にも小田床村あり。神祭にゆかりある名ならんと思へど考證し得ず。

[やぶちゃん注:「小田床村」現在の天草の下島(しもしま)の熊本県天草市天草町下田南の附近。ここ。]

三二 カモ。 猪の寢床なり。笹、柴、茅などを集めて、粗末なるものを作れり。此の笹草は如何に生ひ茂れる中なりと雖〈いへども〉、決して一所に於ては採取すること無く、遠方より點々と持集〈もちあつ〉め來りて、形跡を暗〈くら〉ますなり。

△草萎〈しぼ〉めば常に新しきを取〈とり〉そふるなり。カモにては子を育つる故にかく人に知られぬやうに骨を折る。

三三 ヲタケ。 峯の橫に亙れるを云ふ。

三四 ヲバネ。 峯を云ふ。

△赤羽根、靑羽根の如く羽根といふ地名は、凡て上代に埴(ハニ)を採りし所なるより直〈ぢき〉に命名したること、例へば柚木〈ゆずき〉、久木などゝ同じ類〈たぐひ〉ならんと思ひしが、かゝる羽根もありけり。

三五 タヲ。 嶺を云ふ。

△峯と嶺とを區別するの意明ならず。タヲは三備其他中國の山中にては。乢又は峠と書けり。乢の字の形が示す如く、たわむといふ語と原由を同じくするならん。土佐にては峠を凡てトーと云ふ。たゞ山の頂をもトーと云ふ。此もタヲの訛なるべし。三浦氏の一族に大多和氏、相模の三浦郡に大多和の地ありと記憶す。

[やぶちゃん注:「峯と嶺とを區別するの意明ならず」は「峯」は単独で山頂を指し、「嶺」はピークが並ぶこと、及びその間の鞍部や峠道を持つ部分をより広く指すと私は考えてよいようには思われる。

「大多和」神奈川県横須賀市太田和(おおたわ)。ここ。そこを、航空写真に切り替えると、丘陵や山間のピークが複雑に入れ込んでいることが判る。]

三六 ヒキ。 嶺の凹所に在り。各所より逐ひ囘したる猪が最後の遁路なり。ウヂとは混ずべからず。

三七 シナトコ。 大豆、小豆、蕎麥、稗等を燒畑の内にてたゝき落し收納したる跡を云ふ。猪は來りて落穗をあさるものなり。

△燒畑に作りたる穀類は凡て實のみを家に持歸るなり。麥などは穗を燒〈やき〉切りて採るが常にて、短き麥桿〈むぎわら〉の小束が松明〈たいまつ〉の末〈すゑ〉のやうに、焦げて山に棄てゝあるを見る。麥を燒きて穗のみを收むることは奧羽にても普通なり。

[やぶちゃん注:焼き切って収穫するというのは、ちょっと驚いた。]

三八 シバトコ。人の變死したる跡を云ふ。某〈なにがし〉シバトコと稱し、死者の名を冠して地名とす。路を行く者柴を折りて之に捧ぐる風習あり。之を又柴神〈しばがみ〉とも云ふ。柴を捧ぐるは亡靈を慰するの意なり。

△又路の側に小竹を立て其端に茅〈かや〉を結び付けたるを見る。これは蝮蛇〈まむし〉を見たる者が必ず其所に立てゝ人を戒むるなり。其名を何と云ふか記憶せず。

三九 アゲヤマ。 上山。燒畑に伐るとき誤りて樹上より墜落し悲慘の死を遂ぐる者あり。上げ山と稱するは、此山の一部分を爾後燒畑にせざる旨を山の神に誓ひて立て殘しある箇所なり。

四〇 サエ。 高寒の地。村里遠く隔たりたる所を云ふ。

四一 コウマ。 サエの反對にして卽ち村里を云ふ也。因〈ちなみ〉に記す、本村の神樂歌にサヱは雪コウマは霰といふ句あり。

[やぶちゃん注:「神樂歌」の「サヱ」の表記はママ。修正していない。どちらの表記が正しいかは判らない。]

2022/05/09

柳田國男「後狩詞記 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」電子化注始動 / 「序」

 

[やぶちゃん注:本篇は「のちのかりのことばのき」と読み、柳田国男が明治四一(一九〇八)年に宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん:グーグル・マップ・データ。以下同じ)で村長中瀬淳から狩猟の故実を聴き書きしたもので、私家版として翌年五月に刊行され、後の昭和二六(一九五一)年の彼の喜寿記念に覆刻された。題名は『群書類従』所収の「狩詞記」(就狩詞少々覚悟之事)に由来するもの。日本の民俗学に於ける最初の採集記録とされる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの献本(扉に献本辞と署名有り)原本のこちらを視認した。正字正仮名で、漢字表記はなるべく当該表示漢字を再現してある。なお、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」のここにある電子テクスト(底本は「定本柳田國男集」の「第二十七卷(新装版)」一九七〇年筑摩書房刊)を加工データとして、使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 なお、底本原本では、読点はなく、総ての箇所が句点であるが、これは流石に読み難いので、私の判断で一部を読点に代えた。また、やや難読と思われる箇所には私が〈 〉で読みを歴史的仮名遣で添えた(柳田のルビはカタカナなので判別は容易である。なお、読みは所持する「ちくま文庫」版一九八五年刊「柳田國男全集」第五巻の当該論文も参考にした)。下線は底本では右傍線。踊り字「〱」「〲」は私自身が生理的に嫌いなので正字に代えた。禁欲的に注を附した。冒頭に目次があるが、省略する。

 また、私の電子化注した、早川孝太郎氏の「猪・鹿・狸」の「猪」のパートは大いに参考になろうと思う。早川の郷里である愛知県の旧南設楽(みなみしたら)郡長篠村横山(現在の新城市横川。ここ)を中心とした民譚集で非常に面白い。特に以下の注では挙げないが、未読の方は、是非、お勧めである。

 

    

 

一 阿蘇の男爵家に下野(シモノ)の狩の繪が六幅ある[やぶちゃん注:「六」は印刷では「四」であるが、自筆で「六」に修正されてある。]。近代の模寫品で、武具や紋所に若干の誤謬が有るといふことではあるが、私が之を見て心を動かしたのは、其繪の下の方に百姓の老若男女が出て來て見物する所を涅槃像のやうに畫いてあるのと、少しは畫工の誇張もあらうけれども、獲物の數が實に夥しいものであることゝ、侍雜人〈ざうにん〉迄の行裝が如何にも花やかで、勇ましいと云はんよりは寧面白い美くしいと感ぜられたことゝである。下野の年々の狩は當社嚴重の神事の一であつた。遊樂でも無ければ生業では勿論無かつたのである。從つて有る限の昔の式例作法は之を守り之を後の世に傳へたことと思はれる。此が又世の常の遊樂よりも却つて遙に樂しかつた所以であつて、例としては小さいけれども、今でも村々の祭禮の如き、之を執行ふ氏子の考が眞面目であればあるほど、祭の樂しみの愈深いのと同じわけである。肥後國誌の傳說に依れば、賴朝の富士の卷狩には阿蘇家の老臣を呼寄せて狩の故實を聽いたとある。倂し坂東武者には狩が生活の全部であつた。まだ總角〈あげまき〉の頃から荒馬に乘つて嶺谷を驅け巡り。六十年七十年を狩で暮す者も多かつたのである。何も偏土の御家人に問はずとも、立派に卷狩は出來たことであらうから、此說は信用するには及ばぬ。が唯この荒漠たる火山の裾野が原も、阿蘇の古武士にとつては神の惠の樂園であつて、代々の弓取が其生活の趣味を悉く狩に傾けて居つたことは明かである。處が其の大宮司家も或時代には零落して、初は南鄕谷〈なんがうだに〉に退き、次には火山の西南の方、矢部(ヤベ)の奧山に世を忍び、更に又他國の境にまでも漂泊したことがある。祖神の社頭には殺生を好まぬ法師ばかりが衣の袖を飜へし、霜の宮の神意は知らいでも、阿蘇谷の田の實は最早他國の武家の收穫であつた。昔肥前の小城(ヲギ)の山中で腹を切つた大宮司は、阿蘇の煙の見える所に埋めよと言つたといふことである。其子孫が久しく故土に別れて居つたのである。嘸〈さぞ〉かし遙に神山の火を眺めて、產土〈うぶすな〉の神と下野の狩を懷かしがつたことであらう。然るに漸くのことで浦島のやうに故鄕に歸つて見れば、世は既に今の世に成つて居つた。谷々の牟田には稻が榮え、草山には馴れたる牛馬が遊んで居て、鹿兎猪狐の類は遠く古代へ遁げ去つて居つたのである。昔を寫す下野の狩の繪には、隱れたこんな意味合も籠つて居るのである。

[やぶちゃん注:「下野」恐らく「ひなたGBS」の椎葉村大河内地区のどこかにあった。現在も小字地名に残っているはずなのだが、地図類では見たらない。【二〇二二年五月十日削除・追記】以下の没落後の位置が孰れも肥後で、椎葉村と国を越えて有意に離れていることが不審だったが、その際、椎葉村字大河内小字下野という記載を発見したため(してしまったため)、大きな誤認を見逃してしまった。何時も情報を頂戴するT氏より昨日、「AsoPedia」の「下野狩」を紹介戴いた。そこに「下野狩(しもののかり)」はここに記されている通り、阿蘇大宮司家によって行われた神事的な演武の巻狩(まきがり)であって、阿蘇山麓で展開されたものであった。『鎌倉幕府を開いた源頼朝の富士の巻狩の手本となったと伝えられており、天正七年(一五七九)に阿蘇氏の没落と共に廃絶し』たとし、『下野とは、現在の坊中(黒川)』(ここ)『からの登山道、南阿蘇村下野』(ここ)『からの登山道と北外輪山麓の黒川に囲まれた広大な原野』・『沼沢地で』、『狩場は永草』(ながくさ:ここ。下野の東北直近)の「鬚捊(びんかき)の馬場」・「中の馬場」・「赤水の馬場」と三つに分かれていたとある。「下野狩」の起こりははっきりしないものの、『始めは農作物を食い荒らす害獣を駆除し、開拓神(国造神社)』(阿蘇神社の北に位置するため、通称「北宮」と呼ばれている「国造(こくぞう)神社」。約二〇〇〇年の歴史を持つ古い神社)『に贄(にえ)として捧げる小規模な』贄狩であったものが、『時代が下がるに従い、阿蘇家の勢力も拡大し、狩の方法も進化し』たとあり、『狩は武士団の軍事訓練の一環として、諸将を招集し、勢子(せこ)の動員から隊の編成、狩場での諸将の指揮振りを見る等、大規模なものとな』ったとして、その狩りの拡大や発展が解説されてある。而して、『阿蘇家には、この下野狩の様子を描いた』三『幅の「下野狩図」が残されてい』るとあり、そのカラー画像も載る(恐らくは古くにあったものの原画の部分写本であろう)。絵師は『肥後狩野派の祖とされる』薗井守供(そのいもりとも)で、精緻を極めた美麗なものでる。そして、その下方に「下野狩の推定図」が画像で記されて執行勢の進行路の指示もある。それを見るに、グーグル・マップ・データではこの画面の内部が展開地域であったことが判明した。永く私の読者として御助力頂いているT氏に心より御礼申し上げるものである。

「雜人」賤民。

「南鄕谷」現在の熊本県阿蘇郡高森町高森のこの附近。手間取ったが、「ひなたGPS」のここで阿蘇山南麓のこの旧地名を見出せる。

「矢部」位置的に見て、現在の熊本県上益城郡山都町北中島附近か。「矢部サンバレーカントリークラブ」というのがあり、阿蘇山の西南という条件に一致する。同じく「ひなたGPS」で旧地名の「矢部」を確認出来た。]

二 今の田舍の面白く無いのは狩の樂を紳士に奪はれた爲であらう。中世の京都人は鷹と犬とで雉子〈きじ〉鶉〈うづら〉ばかりを捕へて居〈を〉つた。田舍侍ばかりが夫役〈ぶやく〉の百姓を勢子〈せき〉にして大規模の狩を企てた。言ふ迄も無いが世の中が丸で今とは異なつて居る。元來今日の山田迫田(サコダ)は悉く昔の武士が開發したものである。今でこそ淺まな山里で、晝は遠くから白壁が見え、夜は燈火が見えるけれども、昔は此等の土地は凡て深き林と高き草とに蔽ひ隱されて、道も橋も何も無い、烈しく恐ろしい神と魔との住家であつた。此中に於て、茲〈ここ〉に空閑〈くげん〉がある茲に田代〈たしろ〉を見出でたと言ふ者は。武人の外に誰が有らうか。獸を追ふ面白味に誘はれてうかうかと森の奧に入つて來る勇敢な武士でなければ出來ないことである。其發見者は一方には權門大寺に緣故を求めて官符と劵文〈けんもん〉とを申下し、他の一方には新に山口の祭を勤仕して神の心を和らげた。名字の地と成れば我が命よりも大事である。之を守る爲には險阻なる要害を構へ。其麓には堀切土居の用意をする要害山の四周は必ず好き狩場であつた。大番役に京へ上る度に。むくつけき田舍侍と笑はれても。華奢風流の香も嗅がずに。年の代るを待兼て急いで故鄕に歸るのは。全く狩といふ强い樂があつて。所謂山里に住む甲斐があつたからである。殺生の快樂は酒色の比では無かつた。罪も報も何でも無い。あれほど一世を風靡した佛道の敎も。狩人に狩を廢めさせることの極めて困難であつたことは。今昔物語にも著聞集にも其例證が隨分多いのである。

[やぶちゃん注:「迫田」山の狭い谷あいに開かれた小さな田。

「空閑」未だ人が入って田畑になっていない開発し得るような未開地。

「田代」ここは田にするに適した土地。或いはかなり古い過去の隠田(おんでん)の跡も指すであろう。

「劵文」 奈良時代以降、土地家屋などに関する権利を証する文書を指す。]

三 此の如き世の中も終に變遷した。鐡砲は恐ろしいものである。我國に渡來してから僅に二三十年の間に。諸國に於て數千の小名の領地を覆へし、其半分を殺し其半分を牢人と百姓とにしてしまふと同時に、狩といふ國民的娛樂を根絕した。根絕せぬ迄も之に大制限を加へた。「狩詞記」の時代は狩が茶の湯のやうであつた。儀式が狩の殆〈ほとんど〉全部に成りかけて居る。大騷をして色々の文句を覺え、畫に描いた太田道灌のやうな支度で山に行つても、先日の天城山の獵よりも不成績であつたことが隨分有つたらうと思はれる。併しまだ遠國の深山には、狩詞記などゝいふ祕傳の寫本が京都に有るやら無いやらも考へずに、せつせと猪鹿〈しし〉を逐〈おひ〉掛けて居る地頭殿が有つた。併し鐵砲が世に現はれては是非も無い。弓矢は大將の家の藝であるけれども、鐵砲は足輕中間(チウゲン)に持たすべき武具である。而も其鐵砲の方が、使ひ馴れては弓よりもよく當り遠くへ屆く。平日は領主の威光で下人の狩を禁ずることも出來るが、出陣の日が次第に多くなつては、留守中の取締は付き兼ねる。昔は在陣年を越えて領地へ歸つて見ると、野山の鳥獸は驚くべく殖えて居る。此が凱旋の一つの快樂であつた。然るに今は落人〈おちうど〉の雜兵〈ざふひやう〉が糊口の種に有合せの鐵砲を利用して居る。土民は又戰敗者の持筒〈もちづつ〉を奪ひ取つて、之を防衞と獸狩の用に供して居る。怒つて見ても間に合はぬ。山には早〈はや〉よほど鹿〈しか〉猿が少くなつた。そこで徒然〈つれづれ〉のあまり狩の故實を筆錄する老武者もあれば、之を讀んで昔を忍ぶ者も段々と多くなつたのである。

[やぶちゃん注:「猪鹿〈しし〉」古い言い方で振った。別に「ゐのしししか」でもいいが、リズムがだれるので好まなかっただけである。]

四 狩詞記(群書類從卷四百十九)を見ると、狩くらと言ふは鹿狩に限りたることなりとある。所謂峯越す物といひ山に沿ふ物といふ「物」は鹿である。全く鹿は狩の主賓であつた。此には相應の理由のあることで、つまりあらゆる狩の中で鹿狩は最も興が高いといふ次第である。北原晉氏は鐵砲の上手で、若い頃を久しく南信濃の山の狩に費した人である。然るに十年餘の間に猪を擊つたのは至つて小さいのを唯一匹だけであつた。猪は何と言つても豚の一族である。走るときは隨分早いけれども、大雪の中をむぐむぐと行く有樣は鼹鼠〈もぐら〉と同じやうである。之に反して鹿は走るときはひたと其角〈つの〉を背に押付ける。遠くから見ても近くでも、丸で二尺まはり程の棒が橫に飛ぶやうなものである。足の立所〈たちどころ〉などは見えるもので無い。之を橫合に待掛けて必ず右か左の三枚〈さんまい〉を狙ふのである。射當てた時の歡〈よろこび〉はつまり所謂技術の快樂である。滿足などゝいふ單純な感情では無い。昔から鹿狩を先途〈せんど〉とするの慣習も或は此邊の消息であらうか。乃至は未知の上代から傳へられた野獸の階級とでもいふものがあるのか、兎に角に鹿は弱い獸で、人からも山の友からも最も多く捕られて最も早く減じたらしいのである。奈良や金華山に遊ぶ人たちは。日本は鹿國のやうに思ふだらうけれども、普通の山には今は歌に詠む程も居らぬのである。此因〈このちなみ〉に思ひ出すのは北海道のことである。蝦夷地には明治の代まで鹿が非常に多かつた。十勝線の生寅(イクトラ)(ユク、トラッシユ、ベツ)の停車場を始として、ユクといふ地名は到る處に多い。然るに開拓使廳の始頃に、馬鹿なことをしたもので、室蘭附近の地に鹿肉鑵詰製造所を設立した。そしたら三年の内に鹿も鑵詰所も共に立行〈たちゆ〉かぬことになつた。北海道の鹿は鐵砲の痛さを知るや否や直に其傳說を忘却すべく種族が絕えたのである。

[やぶちゃん注:「狩詞記(群書類從卷四百十九)」国立国会図書館デジタルコレクションの「新校 群書類從」(昭和七(一九三二)年内外書籍刊)の第十八巻の当該部(正しくは「就狩詞少々覺悟之事【今、狩詞記と稱す。】」)をリンクさせておく。

「三枚」肋骨の三本目を指す。鹿に限らず、猪・熊でもそこを急所とする。

「生寅(イクトラ)(ユク、トラッシユ、ベツ)」前の丸括弧はルビ、後者のそれは本文。幾つかのフレーズで検索をかけても見つからず、古い地図も調べたが、お手上げ。一つ、根室本線に「幾寅」なら、現存する。ここは現在の南富良野町幾寅であるが、十勝ではない。しかし、ここには南に「ユクトラシュベツ川」もあるから、ここか? また、調べると、アイヌ語で「ユク」は「鹿」を指し、古くはヒグマやエゾタヌキなども含めて「ユク」と読んでいたと、アイヌ工芸品店「アイヌモシリ三光」の店長のブログのこちらにあったので、以上の話との親和性が強いことが判った。【二〇二二年五月十日追記】同じくT氏より、『本序の最後に明治四二(一九〇九)年二月一日のクレジットがあるが、明治四十二年十月十二日まで、旭川―帯広間は「十勝線」であり、「幾寅駅」は明治三五(一九〇二)年十二月六日開業』との御指摘を受けた。これによって、柳田の「生寅」は「幾寅」の誤記の可能性が高いことになる。]

五 茲に假に「後狩詞記」といふ名を以て世に公にせんとする日向の椎葉村の狩の話は、勿論第二期の狩に就ての話である。言はゞ白銀時代の記錄である。鐡砲といふ平民的飛道具を以て、平民的の獸卽ち猪を追掛ける話である。然るに此書物の價値が其爲に些しでも低くなるとは信ぜられぬ仔細は、其中に列記する猪狩の慣習が正に現實に當代に行はれて居ることである。自動車無線電信の文明と併行して、日本國の一地角に規則正しく發生する社會現象であるからである。「宮崎縣西臼杵郡椎葉村是〈そんぜ〉」といふ書物の、農業生產之部第五表禽畜類といふ所に、猪肉一萬七千六百斤、其價格三千五百二十圓とあるのが立派な證據である。每年平均四五百頭づゝは此村で猪が捕られるので、此實際問題のある爲に、古來の慣習は今日尙貴重なる機能を有つて居る。私は此一篇の記事を最〈もつとも〉確實なるオーソリテイに據つて立證することが出來る。何となれば記事の全部は悉く椎葉村の村長中瀨淳氏から口又は筆に依つて直接に傳へられたものである。中瀨氏は椎葉村大字下福良(〈シモ〉フクラ)小字嶽枝尾(タケノエダヲ)の昔の給主〈きふしゆ〉である。中世の名主職を持つて近世の名主職に從事して居る人である。此人には確に狩に對する遺傳的運命的嗜好がある。私は椎葉の山村を旅行した時に、五夜中瀨君と同宿して猪と鹿との話を聽いた。大字大河内の椎葉德藏氏の家に泊つた夜は、近頃此家に買得〈ばいとく〉した狩の傳書をも共に見た。東京へ歸つて後賴んで狩の話を書いて貰つた。歷史としては最〈もつとも〉新しく紀行としては最〈もつとも〉古めかしいこの一小册子は、私以外の世の中の人の爲にも、隨分風變りの珍書と言つてよからう。

[やぶちゃん注:「宮崎縣西臼杵郡椎葉村是」この書物、未詳。識者の御教授を乞う。

「一萬七千六百斤」十トン五百六十キログラム。

「椎葉村大字下福良」ここ

「嶽枝尾」椎葉村大河内(おおかわうち)の、ここに嶽枝尾(たけのえだお)神社がある。

「給主」中世に於いて、幕府や主家から恩給としての所領を与えられた者。また、領主の命を受けて領地を支配した者。給人とも称した。江戸時代でも、幕府・大名から知行地或いはその格式を与えられた旗本・家臣などをも指した。

「買得」買い取ること。]

六 此序に少しく椎葉村の地理を言へば、阿蘇の火山から霧島の火山を見通した間が、九州では最深い山地であるが、中央の山脈は北では東の方〈かた〉豐後境へ曲り、南では西の方肥薩〈ひさつ〉の境へ曲つて居るから、空〈そら〉で想像すれば略〈ほぼ〉Sの字に似て居る。其Sの字の上の隅、阿蘇の外山(外輪山の外側)の緩傾斜は、巽〈たつみ〉の方へは八里餘、國境馬見原(マメワラ)の町に達して居る。其先には平和なる高山が聳〈そばだ〉つて、椎葉村は其山のあなた中央山脈の垣の内で、肥後の五箇莊〈ごかのしやう〉とも嶺を隔てゝ鄰である。肥後の四郡と日向の二郡とが此村に境を接し、日向を橫ぎる四〈よつ〉の大川は共に此村を水上として居る。村の大さは壹岐よりは遙に大きく隱岐よりは少し小さい。而も村中に三反とつゞいた平地は無く、千餘の人家は大抵山腹を切平げて各〈おのおの〉其敷地を構へて居る。大友島津の決戰で名を聞いた耳川の上流は村の中央を過ぎて居るが、此川も他の三川〈さんせん〉も共に如法の瀧津瀨であつて、舟はおろか筏さへも通らぬ。阿蘇から行くにも延岡、細島乃至は肥後の人吉から行くにも、四周の山道は凡て四千尺内外の峠である。

[やぶちゃん注:「馬見原」現在の熊本県上益城(かみましき)郡山都町(やまとちょう)馬見原(まみはら)

「五箇莊」落人伝説で知られる隠田集落。この附近

「大友島津の決戰」天正六(一五七八)年、豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向国高城川原(宮崎県木城町のこの附近)を主戦場とした「耳川の戦い」。

「耳川」サイト「川の名前を調べる地図」のここ。現在は小丸川。]

七 比の如き山中に在つては、木を伐つても炭を燒いても大なる價を得ることが出來ぬ。茶は天然の產物であるし、椎蕈〈しひたけ〉には將來の見込があるけれども、主たる生業はやはり燒畑の農業である。九月に切つて四月に燒くのを秋藪〈あきやぶ〉と云ひ、七月に切込んで八月に燒くのを夏藪と云ふ。燒畑の年貢は平地の砂原よりも低いけれど、二年を過ぐれば士が流れて稗も蕎麥も生えなくなる。九州南部では畑の字をコバと訓〈よ〉む。卽ち火田〈くわだ〉のことで常畠〈じやうばた〉熟畠の白田〈しろた〉と區別するのである。木場切の爲には山中の險阻に小屋を掛けて、蒔く時と苅る時と、少くも年に二度は此處に數日を暮さねばならぬ。僅な稗や豆の收穫の爲に立派な大木が白く立枯〈たちがれ〉になつて居〈ゐ〉る有樣は、平地の住民には極めて奇異の感を與へる。以前は機〈はた〉を織る者が少なかつた。常に國境の町に出でゝ古着を買つて着たのである。牛馬は共に百年此方〈このかた〉の輸入である。米も其前後より作ることを知つたが、唯〈ただ〉僅〈わづか〉の人々が樂しみに作るばかりで、一村半月の糧にも成り兼るのである。米は食はぬならそれでもよし、若し些〈いささか〉でも村の外の物が欲しければ、其換代〈かへしろ〉は必ず燒畑の產物である。家に遠い燒畑では引板〈ひきいた〉や鳴子〈なるこ〉は用を爲さぬ。分けても猪は燒畑の敵である。一夜此者に入込まれては二反三反の芋畑などはすぐに種迄も盡きてしまふ。之を防ぐ爲には髮の毛を焦して串に結付け畑のめぐりに插すのである。之をヤエジメと言つて居る。卽ち燒占〈やきしめ〉であつて、昔の標野(シメノ)、中世莊國の榜示〈ばうじ〉と其起原を同じくするものであらう。燒畑の土地は今も凡て共有である。又茅〈かや〉を折り連ねて垣のやうに畑の周圍に立てること、之をシヲリと言つて居る。栞も古語である。山に居れば斯くまでも今に遠いものであらうか。思ふに古今は直立する一〈ひとつ〉の棒では無くて、山地に向けて之を橫に寢かしたやうなのが我國のさまである。

[やぶちゃん注:「火田」「焼き畑」のこと。古くは朝鮮のそれを指した。

「引板」鳴子と同じような警鳴器。略縮して「ひた」とも呼ぶ。]

八 椎葉村は世間では奈須と云ふ方が通用する。例の肥後國誌などには常に日州奈須と云つて居る。村人は那須の與一が平家を五箇の山奧に追詰めて後、子孫を遺して去つた處だといふ。昔の地頭殿の家を始め千戶の七百は奈須氏であるが。今は凡て那須といふ字に書改めて居る。併しナスといふのは先住民の殘して置いた語で、かゝる山地を言現〈いひあら〉はすものであらう。野州の那須の外、たしか備後の山中にも那須といふ地名がある。椎葉と云ひ福良と云ふも今は其意味は分らぬけれども、九州其他の諸國に於て似たる地形に與へられたる共通の名稱である。奈須以外の名字には椎葉である黑木である甲斐である、松岡、尾前、中瀨、右田、山中、田原等である。就中〈なかんづく〉黑木と甲斐とは九州南部の名族で、阿蘇家の宿老甲斐氏の本據も村の北鄰[やぶちゃん注:底本は「部」の字の誤植を手書きで「鄰」に訂してある。]なる高千穗庄であつた。明治になつて在名の禁が解かれてから、村民は各緣故を辿つて、村の名家の名字の何れかを擇んだが、其以前には名字を書く家は約三の一で、これだけをサムラヒと稱して別の階級としてあつた。其餘は之を鎌サシといふ刀の代りに鎌を指す身分といふことであらう。昔の面影は此外にも殘つて居る。家々の内の者卽ち下人は女をメロウといひ男をばデエカンと云ふ。デエカン卽ち代官である。近代こそ御代官はよき身分であつたが、其昔は主人を助ける一切の被管〈ひかん〉は大小となくすべて、代官であつた。

[やぶちゃん注:「肥後國誌」明治一七(一八八四)年頃に成瀬久敬の「新編肥後国志草稿」(享保一三(一七二八)年成立)を水島貫之・佐々豊水らが編纂したものを指すものと思われる。

「備後の山中にも那須といふ地名がある」現在の広島県山県(やまがた)郡安芸太田町那須であろう。

「高千穗庄」椎葉村の北東の現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町

「被管」「被官」はこうも書く。]

九 次には猪を擊つ鐵砲のことである。村に傳へらるゝ寫本の記錄「椎葉山根元記」に依れば、奈須氏の惣領が延岡の高橋右近大夫(西曆一五八七―一六一三)の幕下に屬して居つた時代に、椎葉の地頭へ三百梃の鐡砲が渡された。此時代は明治十年[やぶちゃん注:一八七七年。]の戰時[やぶちゃん注:西南戦争。]と共に、椎葉の歷史中最悲慘なる亂世であつた。十三人の地侍は徒黨して地頭の一族を攻殺〈せめころ〉した。此時の武器は凡て鐵砲であつた。元和年中[やぶちゃん注:一六一五年から一六二四年まで。江戸前期。]に平和が快復して後、此三百梃は乙名〈おとな〉[やぶちゃん注:長老を意味する一般名詞。]差圖を以て百姓用心の爲に夫々〈それぞれ〉相渡したとある。寬延二年[やぶちゃん注:一七四九年。]の書上を見ると、村中の御鐵砲四百三十六梃、一梃に付銀一匁の運上を納めて居る。今日ある鐵砲は必しも昔の火繩筒では無いやうだ。其數は寬延[やぶちゃん注:一七四八年から一七五一年まで。]度よりも增して居るや否や。運上の關係は如何〈いかに〉なつて居るかは凡て知らぬ。又如何なる方法で火藥を得て居るかといふことも知らぬ。併し鐵砲の上手は今日も決して少なく無いと考へられる。それは兎に角、椎葉の家の建て方は頗〈すこぶる〉面白い。新渡戶博士が家屋の發達に關する御說は、此村に於ては當らぬ點が多い。山腹を切平げた屋敷は、奧行を十分に取られぬから、家が極めて橫に長い。其後面は悉く壁であつて、前面は凡て二段の通り緣になつて居る。間〈ま〉の數は普通三つで、必ず中の間が正廳〈せいちやう〉である。三間ともに表から三分の一の處に中仕切があつて、貴賤の坐席を區別して居る。我々の語で言へば人側(イリカハ)である。正廳の眞中には奧へ長い爐があつて、客を引く作法は甚しくアイヌの小屋に似てをる。卽ち突當りの中央に壁に沿うて、床の間のやうな所があつて、武具其他重要なる家財が飾つてある。其前面の爐の側が家主の席であつて之を橫坐といふ。宇治拾遺の瘤取の話にも橫坐の鬼とあるのは主の鬼卽ち鬼の頭〈かしら〉のことであらう。橫坐から見て右は客坐と云ひ、左は家の者が出て客を款待(モテナ)す坐である。

 

Okarinokotobanoki

[やぶちゃん注:原本にある図であるが、これは底本(作者献本でモノクロ画像)ではなく、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの所有する、柳田國男が相原某に献呈した所蔵本(カラー画像。に献辞と署名有り。なお、非常に読み難いが、こちらにはここに奥付がある。左ページの右下方)の当該部からトリミングした。キャプションは、上から下へ、右から左へで、

   *

「廏」(=廐(うまや))

「障子又ハ雨戶」

「ウシロハ切崖」

「キヤクザ」

「エンガハ」

「シキダイ」

「トコ」(=床の間)

「カマト」(=竃(かまど))

「戶」(=勝手口)

「戶」(同前)

「泉又ハ筧」

   *]

 

遠來の客は多くの家の客坐に於て款待せられた。緣の外は僅の庭で其前面は全く打開〈うちひら〉けて居る。開けて居ると言つても狹い谿を隔てゝ對岸は凡て重なる山である。客坐の客は少し俯〈うつむ〉けばその山々の頂を見ることが出來る。何年前の大雪にあの山で猪を捕つた、あの谷川の川上で鹿に逢つたといふやうな話は、皆親しく其あたりを指さして語ることが出來るのである。之に付けて一つの閑話を想出すのは、武藏の玉川の上流棚澤の奧で字〈あざ〉峯といふ所に、峯の大盡本名を福島文長といふ狩の好きな人が居る。十年前の夏此家に行つて二晚とまり、羚羊〈かもしか〉の角でこしらへたパイプを貰つたことがある。東京から十六里の山奧でありながら、羽田の沖の帆が見える。朝日は下から差して早朝は先づ神棚の天井を照す家であつた。此家の緣に腰を掛けて狩の話を聽いた。小丹波川の波頭の二丈ばかりの瀧が家の左に見えた。あの瀧の上の巖には大きな穴がある。其穴の口で此の熊(今は敷皮となつて居る)を擊つたときに。手袋の上から二所〈ふたどころ〉爪を立てられて此傷を受けた。此犬は血だらけになつて死ぬかと思つたと言つて、主人が犬の毛を分けて見せたれば、彼の背には縱橫に長い瘢痕があつた。あの犬にも十年逢はぬ。此の親切な椎葉の地侍たちにも段々疎遠になることであらう。懷かしいことだ。

[やぶちゃん注:「棚澤」現在の神奈川県厚木市棚沢附近であろう。

「宇治拾遺の瘤取の話」「宇治拾遺物語」の知られた瘤取り爺さんの話。「鬼ニ瘤被取事」(鬼に瘤取らるる事)。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、原文が読める。

「羚羊」獣亜綱偶蹄目反芻亜目ウシ科ヤギ亜科カモシカ属カモシカ亜属ニホンカモシカ Capricornis crispus(日本固有種。京都府以東の本州・四国・九州(大分県・熊本県・宮崎県に分布)。私は槍ヶ岳から下る、徳本(とくごう)の手前で、夕刻、四、五メートル先の藪の中にいる♀と出逢ったのが、野生のそれとの邂逅の最初であった。]

十 椎葉山の狩の話を出版するに付ては、私は些も躊躇をしなかつた。此の慣習と作法とは山中のおほやけである。平地人が注意を拂はぬのと交通の少ない爲に世に知られぬだけで、我々は此智議を種に平和なる山民に害を加へさへせずば、發表しても少しも構はぬのである。之に反して「狩之卷」一卷は傳書である。祕事である。百年の前迄は天草下島の切支丹の如く、暗夜に子孫の耳へ私語〈ささや〉いて傳へたものである。若し此祕書の大部分が既に遵由〈じゆんいう〉の力を現世に失つて、椎葉人の所謂片病木(カタヤマギ)の如くであることを想像せぬならば、私はとても山神の威武を犯してかゝる大膽な決斷を敢てせぬ筈である。併し畏るゝには及ばぬ。狩之卷は最早歷史になつて居る。其證據には此文書には判讀の出來ぬ箇所が澤山ある。左側に――を引いた部分は、少なくも私には意味が分らぬ。それのみならず實の所私はまだ山の神とは如何なる神であるかを知らないのである。誰か讀者の中に之をよく說明して下さる人は無いか。道の敎〈をしへ〉は知るのが始〈はじめ〉であると聞く。もし十分に山の神の貴さを會得したならば。或は大に悔いて狩之卷を取除くことがあるかも知れぬ。其折には又狩言葉の記事の方には能〈かな〉ふ限〈かぎり〉多くの追加をして見たいと思ふ。

 

   明治四十二年二月一日 東京の市谷に於て

                  柳 田 國 男

[やぶちゃん注:「遵由」頼りにして従うこと。

「片病木(カタヤマギ)」以下の本文の「土地の名目」の「二三」に出る。そこに『カタヤマギ。片病木。大木の半面が腐朽せるまゝ生存し居るを云ふ』とある。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 イツカワ貝 / マルアマオブネ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。本図を以ってこの見開きページは電子化注を終わる。]

 

Itukawagai

 

イツカワ貝

 

[やぶちゃん注:この和名は不詳だが、図の描き方が、本種の反対側の開口部が大きいものであることを示唆しており、これは、明らかに、

腹足綱直腹足亜綱アマオブネガイ上目アマオブネガイ上科アマオブネガイ科Neritidae

であろうと踏んだ。特に、殻表の色と、その螺状の細い筋線が密であるところから、同科の、

コシタカアマガイ属マルアマオブネ Nerita histrio

に比定したい。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 岩蠃(イワニシ) / アシヤガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Iwanisi

 

岩蠃【いわにし。】

 

[やぶちゃん注:螺層が急激に大きくなって開口部が有意に楕円状に広がっていること、螺層上の細い線状に放射状のアクセントがあるところから、

腹足綱直腹足亜綱古腹足上目ホウシュエビス上科Granata 属アシヤガイ Granata lyrata と同定していいように思う。朝鮮語のサイトであるが、同種のページの写真が、かなり梅園の図に似ている。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 子ジマ貝 / ウスモシオか?

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Kojimagai

 

子ジマ貝

 

[やぶちゃん注:貝殻の一方の扁側が見られないが、『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 狐貝 / モシオガイ・ウスモシオ?』に候補として挙げた、

斧足綱異歯亜綱モシオガイ科ニッポノクラサテラ属ウスモシオ Nipponocrassatella adamsi

の若い個体かも知れない。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 鐙貝(アブミガイ) / ソデガイの一種か

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Abumigai

 

鐙貝(あぶみがい)

 

[やぶちゃん注:「鐙貝」の異名は残っていない(いい和名だと思うのだが)が、形状からは、もう少し一方の貝端(ここでは下方)が伸びていないとという不審あるが、

斧足綱原鰓亜綱クルミガイ目シワロウバイ超科シワロウバイ(ロウバイガイ)科Yoldia 属のソデガイ類の一種

であろうと思う。或いはこれ、貝表面の様態が梅園の絵心をそそらなかったため、貝殻の内側を描いたものかも知れない。種は、例えば、「鳥羽水族館」公式サイト内の「ギャラリー」の「キヌタレガイ、クルミガイの仲間」を見られたい。下方に写真附きで同属六種が載る。]

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 三十六町一里幷一里塚權輿事

 

[やぶちゃん注:本篇は、今までの底本「新燕石十種第四」では、ここからであるが、「曲亭雜記」の巻第五のここからにも載り、そちらではルビが振られてあることから、後者を参考に、必要と考えた読みを丸括弧で挿入した。表記も両者はかなり細部が違うが、私が読み易いと判断したものを、孰れと限らずに採ったので(読みの一部を外に出したりもした)、特殊な本文電子化となっていることをお断りしておく。また、数字が出てだらだらと続けて書かれていて、非常に読み難いので、勝手に改行を入れて、段落を成形し、そこに注を挟んだ。なお、標題の最後の「権輿」は「けんよ」で、「権」は「秤(はかり)の錘(おもり)」、「輿」は「車の底の部分」の意で、孰れも最初に作る部分であるところから、「物事の始まり・事の起こり・発端」の意。]

 

   ○三十六町を一里とせるはじまり幷一里塚の事

 解、按ずるに、「拾芥抄」【中末。】、「田籍部」に、

卅六町一里。此六里ㇾ條。條ㇾ從ㇾ北行於南【限トス卅六條。】。里ㇾ西於東【限トス卅六里。】。町ㇾ艮(ウシトラ)ニㇾ乾(イヌヰ)ニ【但し、已上可ㇾ隨國例。】

と、しるされたれど、三十六町をもて一里と定められし事は、いづれのおん時に、はじまりしにや、詳(つまびらか)ならず。

[やぶちゃん注:訓読しておく。

   *

三十六町を一里と爲(な)す。此れ、六里を條(じやう)と爲す。條は、北より起ちて、南に行く【三十六條を限りとす。】。里は、西に起きて、東に行く【三十六里限りとす。】。町(ちやう)は艮(うしとら)に始めて、乾(いぬゐ)に終はる【但し、已上は國例に隨ふべし。】

   *

「拾芥抄」(しゅうがいしょう)は南北朝に成立した類書。「拾芥略要抄」とも呼ぶ。鎌倉時代には原形が出来ていたものを、洞院公賢(きんかた)撰で、その玄孫の実熙(さねひろ)が増補したとされる。歳時・文学・風俗・諸芸・官位・典礼など九十九部に分け、漢文で簡略に記述。全三巻。国立国会図書館デジタルコレクションの慶長の版本のここが当該部。

「三十六町」一町は百九メートルで、三・九二七キロメートル。]

 舊き說に、いにしへ、六町を一里とせられしよしは、地六(ちろく)の數(すう)に隨はれしなり。そのゝち、三十六町を一里とせられしは、是と六六三十六、則ち、地の三十六禽(きん)によられるなりともいひ、或は鯉の鱗(うろこ)三十六の義によりて、里數を三十六里に定められしなりなどいへれども、何れも臆說にて、出處、定かならぬことなり。さばれ、その理なきにしもあらねば、姑(しばら)く、一說に備(そな)ふべし。但し、鯉の鱗の如きは鑿說(さくせつ)なり。

[やぶちゃん注:「地六」骰子(さいころ)を「一天地六」(いってんちろく)と呼び、その各面が天・地・東・西・南・北を象徴しているとされることから、天が「一」に対して、「六」が地を代表し、以下、その全方向として、「五」が東、「二」が西、「三」が南、「四」が北とされるところからの地の名数。

「地の三十六禽」一昼夜十二時の各時に一獣を配し、そのそれぞれの獣に、また、二つの属獣がついた計三十六の鳥獣。五行ではそれを卜(ぼく)に用い、仏家では、それぞれの時に現れて坐禅の行者を悩ますとされる。三十六獣。諸家で動物名は異なる。例えば、「画題Wiki」のここや、個人ブログ『「だい将棋」の謎』のここに三十六種のリストが出る。

「鯉の鱗三十六」平凡社「世界大百科事典」のコイ(鯉)の記載に、普通のコイは側線上の有孔鱗数が三十二から三十九枚ほどで、昔は鯉に「ロクロクリン」(六六鱗)という別名があったのは、側線鱗数の中間数の三十六枚の個体が多く見られたことによるとあった。「鑿說」「さくせつ」。内容が乏しく、真実性の薄い説。「鑿空」(さっくう)。]

 東涯先生の「制度通」に云、『公式令、凡、行程馬七十里、步は五十里、車三十里。本朝古へは中國の法にて、一里の中に小名を立て、何里何町と云こと、見えず。「拾芥抄」に、三十六町か二里とすとあるは、田地の積りにて、方一町の田を三十六、並べたるを云へり。今、路程の長さ、三十六町を一里とするものは、此等より轉じたるものなるべし。本朝に「里」と云ふに、三樣あり。戶令に、五十戶二一里一と云は、土地、廣狹によらず、家數を以て、一在所を立るの名なり。雜令に、三百步一里と云は、路程の法なり【三百步は規矩尺六尺を一步として、今の六尺か二間とすると同じく、一步は一間にて、今の五町なり。是、古への一里なり。○解云、上古の尺は、つまりたり。今の五町は、古の六町と同じかるべし。】。又、云、『今いふ三十六町を一里とし、五十町を一里とする事は、何れの頃よりと云ことを詳にせず。』と、いへり【以上、見「制度通」。又可ㇾ參「秉燭譚」。】

[やぶちゃん注:「東涯先生」伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇~元文元(一七三六)年)は古義学派の儒者。仁斎の長男。父の説を継承・発展させ、また、考証に長じて、現代でも有益な語学や以下のような制度関係の著書を残している。堀川の家塾で門弟を教授した。

「制度通」中国の制度の変遷と、中国と日本の制度の関係について述べた書。全十三巻。享保九(一七二四)年の自序があるが、実際の刊行は没してより七十年も後の寛政九 (一七九七) 年。日本の制度については、王朝以降には論及していないが、記述は実証的で正確(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。馬琴の引用は国立国会図書館デジタルコレクションの大正元(一九一二)年金港堂書籍刊の「三六、行程里數ノ事」のここで、前後を入れ替えている。

「秉燭譚」同じく東涯の考証随筆。]

 三十町二里の事は、紀原、詳かならず。先哲も、をさをさ「拾芥抄」によれるのみなり。又、今の一里塚のはじまりは、「信長記(しんちやうき)」に、天文九年冬、將軍家にて、諸國へ仰せ有て、四十町を二里とし、里堠(いちりづか)の上に、松と榎(えのき)を植ゑらると、いへり。又「蒼梧隨筆」には、天正年間の頃、織田信長公の下知に依て、一里を三十六町に定めて、其表示に榎を栽させ、旅人休泊の事を易からしめ給ふと、いへり。又、云、一里塚に榎木を栽しは、其頃の奉行のもの、「一里塚には松・杉を栽べきか。」と云ひしに、信長公の命に、「松杉は並木に等し、餘の木を栽よ。」と、の玉ひしを、餘の木を榎の木と聞誤りしといへども、密に[やぶちゃん注:「ひそかに」。]考るに、榎と槐と、其木、相似て、槐は少にして、榎は多きもの故に、得るに易く、尤、松・杉と異にして、蔭をなして、大木となるを以て、槐に代て、榎を栽しなるべし。「事文類聚」を考るに、韋孝寬、雍州の刺史と爲て、道の側に一里每に一土堠[やぶちゃん注:「いちどこう」。]を築しに、雨にて、其土堆、度々、損順するに因て、又、勘辨して、土堠の處に槐木を植しむ。然して、損頽なきのみに非ず、旅行の人、庇蔭を得て、休息するに便りありとて、韋孝寬が德を仰ぎしとなり。周文、これを可として、「壹、雍州のみならんや。」とて、普く天下に令して、一里に一木、十里に二木、百里に五木を植させしと有り【按ずるに、一里一木とあるは、一里塚の事なり。十里に二木、百里に五木とあるは、是、旅行の人の息む爲の事にして、槐木を栽て、庇蔭を設けしめし、今の世に、茶屋・建場といふ類の如くなるべし。○解云、一里每には一木を栽へ、其より、第十里目には二木、第百里目に五木と、其木を倍して、里數の句ぎり句ぎりを知らせしなり。五里に一舍、十里に一亭の定とは、異なるべし。】。魏の文帝は、一里每に、一銅表を置く。髙さ五尺にして、里數を記せしとあり【已上、摘要。】。解云、魏文の一條は、天朝の多賀城の類(たぐひ)なるべければ、今の一里塚とは、おなじからぬなるべし。【韋孝寬が事は、「北史」に見えたり。】。

[やぶちゃん注:「信長記」安土桃山から江戸初期にかけての儒学者で医師・軍学者であった小瀬甫庵(おぜ ほあん 永禄七(一五六四)年~寛永一七(一六四〇)年)が、書いた織田信長の一代記。但し、彼の書いた本書や「太閤記」は、また、彼らの複数の伝記類の総称であり、同名の著作は複数ある。その中でも小瀬のそれは最も著名なものである。

「天文九年」一五四〇年。

「將軍家」足利義昭。

「蒼梧隨筆」江戸中期の有職故実家。大塚蒼梧の随筆。寛政一二(一八〇〇)年刊。

「天正年間の頃」一五七三年から一五九二年であるが、信長は天正十年六月二日(一五八二年六月二十一日)に自死しているから、その閉区間。

「槐」「えんじゆ」。マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。中国原産で当地では神聖にして霊の宿る木として志怪小説にもよく出る。日本へは早く八世紀には渡来していたとみられ、現在の和名は古名の「えにす」が転化したもの。

「事文類聚」宋の祝穆(しゅくぼく)の編になる類書。全一七〇巻。一二四六年成立。「芸文類聚」の体裁に倣って古典の事物・詩文などを分類したもの。後に元の富大用が新追加し、総計二百三十六巻に膨れ上がった。

「韋孝寬」(い こうかん 五〇九年~五八〇年)南北朝の北魏・西魏・北周の軍事の名将で尚書令。彼が雍州刺史となったのは彼の中文ウィキによれば、西魏の五五三年。

「魏の文帝」(一八七年〜二二六年)は三国時代の魏の初代皇帝曹丕(在位二二〇年~二二六年)。曹操の子。父の死後、漢の献帝の禅譲を受けて皇帝となり、漢の制度を改革し、九品官人法を施行した。弟の曹植とともに文学を好み、多くの詩文を残した。

「多賀城の類」「壺の碑」のこと。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅26 壺の碑』の私の注を参照。]

 

 又、按ずるに、「信長記」に四十町を一里とせられしと云ふは、今の世も伊勢路は四十町、四十八町を一里とす。かゝれば、當時(そのかみ)の四十町一里は、伊勢・尾張の里數によられしものか。當時(そのとき)といへども、諸國、大かたは、三十六町一里にして、或は、五十町・六十町・七十町を一里とせし處も、ありけん。今も猶ほ、しかなり【今の世も仙臺は六町一里也。これを「こみち」といふ。又、三十六里もてするを「大みち」といふ。山陽道は、五十町・七十二町を一里とすと云。】。

[やぶちゃん注:「こみち」古い特殊な路程単位である「坂東里」「坂東道(ばんどうみち)」に同じ。「坂東路(ばんどうみち)」「田舎道(いなかみち)」とも称した。安土桃山時代の太閤検地から現在までは、通常の一里は現在と同じ三・九二七キロメートルであるが、この坂東里(「田舎道の里程」の意で、奈良時代に中国から伝来した唐尺(例えば唐代の一里は僅か五百五十九・八メートルである)に基づくもの)では、一里=六町=六百五十四メートルでしかなかった。これは特に鎌倉時代に関東で好んで用いたため、実は、江戸時代でも、江戸でこの単位をよく用いた。江戸期の諸本で、旅程などが異様に長いと感じたものは、この「坂東道」で換算すると、しっくりくるので、記憶しおかれるとよい。例えば、坂東里の「百里」は六十五・四キロメートルにしかならないのである。]

 この他、「續日本紀」に、限伊勢大神宮之界(タ)ツㇾ標としるされ、又、近世の制度(さだめ)には、一書に「奠陰(てんいん)」・「逸史(いつし)」を引て、慶長九年二月。下シテ東海東山北陸三道。是里置ㇾ堠。既ニ乄而西南亦皆依ルト其法云々と見えたるは、今の並樹の事にして、まさしく一里塚の事とも聞えず。「續紀」に見えたるは、道里遠近の碑を建られしにて、亦、是、多賀城の碑の類なるべし。

[やぶちゃん注:「奠陰」「逸史」孰れも江戸中期の大坂の儒学者中井竹山((一七三〇)年〜(一八〇四)年:朱子学者で荻生徂徠の「論語徴」を批判する「非徴」を書いたが、その朱子学は林家の学風とも闇斎の学風とも異なる、独自の自由なものであった)の著書。

「慶長九年」一六〇四年。開幕の翌年。]

 又、「一休和尙の連歌の發句なり。」とて、

 門松は冥土の旅の一里塚

といふを、人口に膾炙したり。これによれば一里塚は、天文・天正以前、はやく諸國にありしやうに思ふものもあるべけれど、この句、必しも、一休なりとは定めがたく、いと疑しきものながら、「人生、逆旅に似たり。」といふ、唐人の句を飜案して、「無常迅速」の意を示せしは、おもしろし【一休は、文明十三年十一月に遷化なり。かゝれば、一里塚を置れしといふ、天文九年より遡に數ば、六十年許上に在り。】。

[やぶちゃん注:「一休和尙の連歌の發句なり」これは、

 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

として彼の狂歌ともされ、ネット上では、一休宗純の漢詩集「狂雲集」の一句に拠るとか、彼の作と、まことしやかに書いてあるサイトをあったが、これは恐らく、江戸時代に盛んに創作された〈一休話〉の中で形成された偽作である。

『「人生、逆旅に似たり。」といふ、唐人の句』蘇軾の詞「臨江仙送錢穆父」(臨江仙、錢穆父(せんぼくほ)を送る:一〇九一年作)の一節、

   *

 人生如逆旅

 我亦是行人

 (人生 逆旅のごとし

  我れも亦 是れ 行人)

   *

全篇は壺齋散人氏のサイト「漢詩と中国文化」の「臨江仙‧送錢穆父 :蘇軾を読む」がよい。言わずもがな、芭蕉の「奥の細道」冒頭の原拠である、李白の「春夜宴桃李園序」(春夜桃李の園に宴するの序)」の冒頭「夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客」(夫(そ)れ、天地は萬物の逆旅にして、光陰は百代の過客(くわかく)なり)のインスパイア。「奥の細道」冒頭原文は私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅0 草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉』を参照されたい。]

2022/05/08

譚海 卷之五 信州深山の民薪をこり事

 

○信州にては、窮僻(きゆうへき)の高山に登りて常に薪を取(とる)也。登る時は蔦(つた)かづらにすがり、岩角などをふみてやうやうに登り、思ふまゝに薪を取、かずかずにつかねて、山よりなげおとして、一日の内に夥敷(おびただしき)薪を取事也。扨(さて)下らんとする時は、道なきけはしき山をも、薪の束(つか)ねたるを五六把(ぱ)腰にゆはへ付(つけ)て、夫(それ)に乘(のり)て絶壁をすべりて下(くだ)るといふ、和歌に柴車とよめるも此類(たぐひ)なるべし。

[やぶちゃん注:「窮僻」極めて辺鄙な場所。

「柴車」「しばぐるま」。柴を丸く束ねておいて、それを山の上から転がし落とすこと及びそのものを言う。ここに言うように、歌語として知れる。例えば、「堀河百首」(堀河百首(長治二(一一〇五)年か翌年頃)の「雜」の大江匡房(まさふさ)の、

 柴車落ち來るほどにあしひきの山の高さを空に知るかな

や、同じ折りの修理大夫顕季の、

 峯高きこしのを山にいる人は柴車にてかへるなりけり

或いは、「梁塵秘抄」の巻第二「雜 八十六首」の三七四番の以下などがある。

   *

 すぐれて速きもの

 鷂(はいたか) 隼(はやぶさ) 手なる鷹

 瀧の水 山より落ち來る柴車(しばぐるま)

 三所(さんしよ) 五所に申すこと

   *

「鷂」は私のこちら、「隼」はこちらを参照。最終行は熊野三所権現と熊野五所王子への祝詞(のりと)の意。]

譚海 卷之五 同國猿の事

 

○四國の猿は、飼(かひ)なして舞踏ををしふるに、よく曲節(きよくふし)にあたりて、觀物(みせもの)に供するに足る。他邦の猿はかく在(ある)事なし。四國にてもかしこき猿ならでは、敎(をしへ)を立(た)つる事成難(なりがた)し。山中の民此猿を生(いけ)どるには、戶棚を拵(こしら)へ、戶の内にくろゝを仕付(しつけ)、戶をたつれば内にてくろゝ下(さが)るやうにせしを山中へ持行(もちゆき)、戶棚の内に食物(くひもの)を置(おき)て、猿のあつまり來たるとき、先(まづ)その人戶棚の内へ入(いり)て戶をさしあけて出で、又入て戶をさし、此體(このてい)をあまたたび猿に見せ置(おき)て、其後かくれて伺ひをれば、猿ども此食物をくらはんとして、戶棚に入て生(いけ)どらるゝ也。但(ただし)愚(おろか)なる猿は、戶棚の内に入て物くふばかりにて、やがてにげ行(ゆく)ゆゑ生どらるゝ事なし。かしこき猿は戶棚に入て、跡より友猿(ともざる)の來らん事をはかりて、戶をたてて物くふ故、くろゝ下りて出る事あたはず、生どりにせらるゝと云。

[やぶちゃん注:「同國」前話を受ける。

「くろゝ」「くるる」の音変化であるが、「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部(左丁六行目)を見たところ、はっきりと「くるゝ」(「類」の草書体「る」)となっていることが確認出来た。「枢」で、戸締まりのために戸の桟から敷居に差し込む止め木及びその仕掛けを指す。]

譚海 卷之五 土州夏月潮いきれ幷豆州南海黑汐の事

 

○土佐國は極南の地ゆゑ、夏月殊に凌(しのぎ)がたし。酷暑の比(ころ)は時々盬いきれといふ事有。一日海上風絕(たつ)て波のたゝぬ日は、黃昏(たそがれ)より何となく心わるく、諸人屋内に往する事叶はず、庭中或は往還の道路にいでて、むしろ或は床几(しやうぎ)などをもうけて露席(ろせき)し、食事起臥をする事とぞ。裸體に成(なり)ても堪(たへ)がたく、眠(ねむり)に就(つい)てもまどろまれず、茫然として夜(よ)をあかす。やうやう夜半曉(あかつき)ちかく成(なり)て、身體も冷敷(すずしく)心よき事にて、始めて屋内に入(いり)て寢に就(つく)事也。是は絡日炎天に照されたる潮の氣醒(さめ)ずして、一國に𣎰[やぶちゃん注:底本では右に『(熏)』と編者傍注がある。](くん)じみち、其氣に蒸(む)るゝ故(ゆゑ)堪がたく暑き也。夜半より炎氣やうやうさめゆけば、涼しくなる事といへり。江戶にても鐵炮洲(てつぱうず)の邊は、暑月は時々かやうなる事あり。但(ただし)是は黃昏よりある事にはあらず、夜分七つ比(ごろ)より明かたまで、あつく苦しくして、家々門戶を明(あけ)とほし起居(おきを)る。一時(いつとき)ばかり過(すぐ)れば、涼氣を催し、明方よりまどろむ事といへり。是も盬いきれのわざなるべし。又伊豆の南海中に、秋夏の交(かはり)は黑汐といふものあり、陸より一里斗りを隔てし波の上に、黑く凝(こり)て流るゝやうに見ゆ、是も炎氣にむされて、鹽のこりかたまりたるがなす所也。渡海の舟人惧(おそれ)て是を避(さく)る也。もし此黑汐にあへば船をくつがへさる、また左(さ)なくても、人々病氣をうくるといへり。

[やぶちゃん注:「潮いきれ」この呼称は、少なくとも現在は生き残っていないようである。

「鐵炮洲」東京都中央区東部の地名。現在の湊町・明石町に相当する。地名は徳川家康の入府当時、鉄砲の形をした洲の島であったこと、また、寛永(一六二四年~一六四四年)の頃、この洲で鉄砲の試射をしたことによるとも言う。鉄砲洲稲荷などに名称が残る。隅田川西岸にあり、江戸時代は港として栄えた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「七つ」午前四時前後。]

甲子夜話卷之七 7 有德廟信濃國へ人參御植つけ、且生育の事

7ー7

秋山元瑞と云る醫者の【龍野侯の臣】話なりとて、或人より聞しは、德廟、朝鮮國の寒氣は吾邦の信州と均しと御考ありて、信州に人參を植させ給ふに、其生產、氣味、朝鮮に異らず。因屢々人をして視せられし故、土人これを厭ひて、密に彼草に湯を濯ぎ、土不ㇾ協など申上しより、竟其こと廢せしと云。萬民の爲を思召ての御仁心をはゞみし者ども、誅してもあまりある罪人とこそ云べき。又元瑞の門生、信州に歸住せし者の話しと聞しは、今も其種の遺りしものあるに、土地に應じて生育宜しとなり。彌可レ恨【元瑞は太宰純に學びたる者なりとぞ】。

■やぶちゃんの呟き

「有德廟」徳川吉宗。

「秋山元瑞」播磨国龍野藩藩医。彼が仕えたのは第八代藩主で寺社奉行・老中であった脇坂安董(やすただ:藩主在位:天明四(一七八四)年~天保一二(一八四一)年:老中在任中に急死)。

「均し」「ひとし」。

「因」「よつて」。

「密に」「ひそかに」。

「土不ㇾ協」「土、協(あ)はず」。

「竟」「つひに」。

「彌」「いよいよ」。

「太宰純」大儒太宰春台(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)の本名。

甲子夜話卷之七 6 宗左が水甁の銘の事

7-6

千宗左召に因て江都に出るの間、紀邸の長屋に寓し、茶器を求て客中の用に當たるが、皆麤惡を極たり。就ㇾ中水さしの水を度々かゆるは煩しとて、僕に命じて大なる水甁を錢三百文に買て、これを爐邊に置て用ひたり。其甁に不性者と銘題しけり。暇を賜り發足するに及で、門人所ㇾ置の茶器を乞需む。宗左これに應て配分せり。門人輩謝儀として方金一二三思々に贈る。時に宗左僕に謂て曰。嚮に汝が買來れる大甁三百匹に所望せられたれば、其金は汝に與ふと言ふ。僕拜受して退かんとす。宗左が曰。待べし。かの甁は我もと三百文を出せし者なり。三百文は返すべしと云て、其中錢三百文を取り、殘りの金は皆其僕に與しとなり。

■やぶちゃんの呟き

「千宗左」先般、既出既注

「麤惡」「そあく」。「粗悪」に同じ。

「水甁」「すいびやう」と読んでおく。

「乞需む」「こひもとむ」。

「應て」「こたへて」。

「思々に」「おもひおもひに」。

「嚮に」「さきに」。

甲子夜話卷之七 4 林子の常に從事する所を問事 / 5 前人寓意の事

 

4―4

林蕉軒に常に志して從事する所を問ものあり。答云。文武、和漢、古今、雅俗。この今と俗と云ところ、深く咀嚼すべし。又娛樂する所を問へば、答云。風月、山水、詩歌、管絃。

■やぶちゃんの呟き

「林蕉軒」お馴染みの林述斎。

 

4-5

前人一時寓意の聯あり。

   醜石雜花、此レハ家之大弓寶玉

   素弦又淸管、或以謂老子之醇酒婦人

これは「蕉軒集」外の文なれば錄す。

■やぶちゃんの呟き

 訓読しておく。

   *

醜石(しうせき)と雜花(ざつくわ)と、此れは、是れ、我が家の大弓(だいきゆう)・寶玉と爲(な)す。

素弦(そげん)、又、淸管、或いは、以つて、老子の醇酒(じゆうしゆ)・婦人と謂へり。

   *

「聯」はここでは「対句」の意。

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 帶披考【追記・信天緣】

 

[やぶちゃん注:本篇の本説「帶披考(おびかけかう)」は、今までの底本「新燕石十種第四」では、ここからであるが、「曲亭雜記」の巻第一下のここからにも載り、そちらではルビが振られてあることから、後者を参考に、必要と考えた読みを丸括弧で挿入した。表記も両者はかなり細部が違うが、私が読み易いと判断したものを、孰れと限らずに採ったので(読みの一部を外に出したりもした)、特殊な本文電子化となっていることをお断りしておく。なお、追記記事の「信天緣(あはうどり)」は後者には載らない。因みに、『アホウドリは「信天翁」だろ?』という御仁のために、ここでは――まあ、お待ちなせえ、そこのおいらの注を読んで下せえ――とのみ言っておこう。]

 

   ○帶披考【佐渡にては「帶平(おびひら)」と云、越後にては「帶挾(おびはさみ)」と云。】」

「佐渡事略」【下卷。】云、『賤女(しづのめ)のさまは、山里にては三十三歲まで眉をそらず。いづれも白粉(おしろい)、紅脂(べに)をほどこさず、髮を、結はず。只、押し上げて、まげ置き、櫛・弄(かうがい)等の具(ぐ)、なし。「帶平」といふ物を、多くは帶にはさむ』云々。この「帶ひら」といふものを、こゝろ得がたく思ひしかば、文化のはじめ、佐渡相川の人石井靜藏(せいざう)、出府の時にたづねしに、曰く、『「帶ひら」は茜染(あかねぞめ)の木綿(もめん)を、二、三尺にきりて、これを竪に三に折り、女の帶へはさみ候。何の故といふことを、しらず。「昔、順德院、當國に遷(うつ)され給ひし頃よりの事。」などゝいふもの、あれども、慥(たしか)ならず。これも、近來(ちかどろ)は至つて稀になり候故、「帶ひら」をかくる女は、相川などにては、見かけ候はず。山里の賤の女の、さきくさのドウネを着て、繩を帶にしたる類ひは、前のあらはれぬ料(れう)までに、ひらきて、はさむものならん。』といへり。

[やぶちゃん注:「帶披(おびかけ)」小学館「日本国語大辞典」では、『近世、大名の奥女中などが使った帯留の一種。帯挟み。帯平。』とある。

「佐渡事略」佐渡奉行石野平蔵廣広通(ひろみち 天明元(一七八一)年~天明六年まで在勤)が、天明二年に著わした佐渡地誌と見聞記。上・下・別録で全三巻。上巻では佐渡の大概を記し、下巻は佐渡に於見聞を記し、別録は金山・銀山のことを記している。当時の佐渡の国勢・気象・物産・風俗・鉱山の様子が知られるもの。「日本古典籍ビューア」の写本のここの左丁七行目以下。

「文化のはじめ」文化元年は一八〇四年で、文化十五年まで。

「石井靜藏」石井夏海(なつみ 天明三(一七八三)年~嘉永元(一八四八)年)は佐渡国雑太(さわた)郡相川生まれ。幼名は秀次郎、後に静蔵。別号、安瀾堂。江戸に出て、画を紀南嶺・谷文晁に、学問を大田南畝に、天文・地理・測量術・西洋画法を司馬江漢に学んだ。文政一二(一八二九)年、地方御役所絵師となった。曲亭馬琴・式亭三馬・酒井抱一らと親交があった。佐渡の歴史や伝承を題材にした戯作「小万畠双生種蒔」の稿本が残り、狂歌も詠んだ(サイト「UAG美術家研究所」の「佐渡奉行所の絵図師をつとめた石井夏海・文海父子」に拠った。彼の絵の画像も有り)。

「順德院」後鳥羽天皇の第三皇子で二代後の順徳天皇(建久八(一一九七)年~仁治三(一二四二)年)。「承久の乱」で佐渡へ配流され、そこで没した(自死とも)。

「さきくさ」「三枝」でミツマタの上代語。

「ドウネ」不詳。「ドウ」は「胴」か。]

 

Zakkiobikake

 

Ensekiobikake

 

[やぶちゃん注:孰れも国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。全然違うタッチなので、二本の参考底本の図をともに示した。前の方が「曲亭雜記」のそれで(左下に絵師の署名(二字目は「陵」か)・落款有り)、後が「新燕石十種」のもの。以下も同様である。]

 

越後鹽澤の鈴木牧之(ぼくし)【鹽澤の宿長。】云、『越後にて寺泊など、佐渡の方(かた)によりたる田舍の婦人は、祭見物(まつりけんぶつ)、或は、晴(はれ)なる時に出(で)あるきするには、「帶はさみ」をいたし候。此「帶はさみ」といふものは、紅染(こうぞめ)の布の二尺あまりなるを三に折りて、前にて、少し、脇へせて、はさみ候よし、只今、いかゞ候や、當所にても、關六日町(はさむいかまち)などの、舊家の婦人の晴なるときは、「帶はさみ」をしたるよし、承り及び候ひき。』と、いへり【今は、その事、絕たるなるべし。】。

[やぶちゃん注:「鈴木牧之」(明和七(一七七〇)年~天保一三(一八四二)年)は現在の新潟県魚沼市塩沢(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の豪商で随筆家。私の偏愛する北国の民俗学的随筆「北越雪譜」の作者としてとみに知られる(天保八(一八三七)年、初版三巻を刊し、天保十二年には四巻を追加)。

「關」塩沢の南方の現在の新潟県南魚沼市関か。

「六日町」塩沢の直近。]

 

Zakkiuhamo

 

Ensekiuhamo

 

[やぶちゃん注:キャプションがある。

   *

「襅(ウハモ)」

小ヒダ有とも云ヘり、未ㇾ詳。紐の左右の玉を、うしろヘめぐらして、帶に、はさむなり。長は、膝を不ㇾ過といへば、布一幅をもて、つくりしならん。

   *

「帶カケ」

佐渡・越後にては、「ひもをつけず」といふ。今はたゝみて、帶に、はさむゆゑなり。

   *

後者の「新燕石十種」の「帶カケ」に相当する「佐渡越後にては……」の「帯かけ」の図の中にサイズが記されてあり、縦が、

五寸斗(ばかり)

横が、

二尺余

とある。]

 

この兩說によりて按ずるに、彼(か)の「帶ひら」「帶はさみ」は、襅(ひつ)の遺製(ゐせい)なるべし。襅は往々國史に見えて、和名ウハモなり【「和名抄」には、なし。】。襅は字書に見えず。按ずるに、「韠」の「韋」を「衣」に易(かへ)たるなり。「韠」は「說文」云「韍」也。「正字通」、「韍」字の註に云、『韍布※芾紱、同トモニ蔽滕ㇾ也。韍又云、韠補密切所(ユヱン)一ㇾ。以ㇾ韋爲ㇾ之。禮玉藻』云々。

天朝の製、これに倣(なら)へり。但し、韋(かは)をもて作らず。代へるに、布をもてせり。是れ、その字、改めて、「衣」に從ふゆゑんなり。[やぶちゃん注:「※」=「㡀」+(「拔」―「扌」)。]

[やぶちゃん注:「襅」男は袴の上、女は下裳(したも)の上に着る裳。男は推古朝まで用いたが、女はさらに続けて用い平安時代に入ると上裳・下裳の別は無くなった。「しびら」「うわみ」とも呼ぶ(「日本国語大辞典」に拠る)。

『「韠」は「說文」云……』訓読を試みる。

   *

「韠(ひつ)」は「說文(せつもん)」に云はく、「韍(ふつ)」なり。「正字通」の、「韍」の字の註に云はく、『「韍」は布(ふ)・※[やぶちゃん注:読み・意味ともに不詳。読みは音「へい」か。]・芾(ひ)・紱(ふつ)、同(とも)に、蔽(おほ)ふなるを滕ふ[やぶちゃん注:読み・意味ともに不詳。音なら「とう」で、訓なら「湧く」「湧き上がる」だが、意味が通じない。]。「韍」の註に、又、云はく、『韠は「補」と「密」の切(せつ)。「前を蔽ふ」の所以(ゆゑん)たり。「韋」を以つて之れと爲(な)す。禮玉藻(れいぎよくさう)』云々。

   *

「芾」は儀式の際の膝掛け。「紱」は紐。その他、全くお手上げ。]

韠は、いにしへ、婢妾賤婦の儔(ともがら)、凡そ、袴を着るに及ばざりし女子(じよし)の、前にかくるものなり。その長さ、膝をすぎず、といふ。これ、いにしへは、婦人の帶、甚だ細し。故に、步行のとき、前のひらくを覆(おほ)ふが爲(ため)なり。

襅(ひつ)ウハモと名づけしは、裳(も)のひらくを、覆ふ具なればなり。後世、戰國爭擾(さうゆう)の世となりし程は、襅(うはも)の名をだに、しらぬもの、多かりけん。さりけれども、京師にては、はかなき遊(あそび)女のたぐひまで、前のひらくを厭(いと)ふが爲に、「帶かけ」といふものをしたらんと思ふよしは、古畫に、その圖の遺(のこ)れるがあれば也【古畫の婦人の「帶かけ」をしたるを、予は享和中、京師にて見たり。かくて、こたび、又、見つるのみ。この前後には絕て見ぬなり。】。

[やぶちゃん注:「享和」文化の前。一八〇一年から一八〇四年まで。]

されば流れての世の風俗なれば、襅(うはも)の製の、やうやく、變じて、只、色々の染絹などもて、今の「ゆまき」を、只、一幅(ひとはゞ)にしたるやうなるを、一重(ひとへ)、腰に繞(めぐ)らして、脇にて、結びとめたる也。そは天正前後の古畫に、その圖の遺るもの、則ち、是れ也。當時も、猶、婦人の帶は、究めて細かり。その畫圖(ゑづ)の帶に似たるは、則ち、これ、「帶かけ」にて、まことの帶は、隱(かく)るゝ故に、畫がゝず。こゝをもて、その「帶かけ」は、なかなかに、帶の如くに見ゆれども、その帶の結びめは、さらなり、端(はし)をだにゑがゝぬにて、「帶かけ」なる事、あきらかなり。かくて、百四、五十年以來(このかた)、婦人の帶の幅、年々(としどし)に廣くなりて、近來(ちかごろ)に至りては、昔の「帶かけ」の幅よりも、猶、廣きもの、多かり。この故に、「帶かけ」、變じて、「前垂(まへだれ)」になりたる也。

[やぶちゃん注:「ゆまき」「湯卷」。江戸中期までは、「入浴の際に腰に巻いた布」を本来は指した。宝永(一七〇四年~一七一一年)頃まで、男女ともに裸で入浴することはなく、布を腰に巻いて入った。湯文字 (ゆもじ) 。但し、ここは、所謂、女性の「腰巻き」のことであろう。「蹴出(けだ) し」「二幅(ふたの)」「いまき」などとも言った。

「天正」安土桃山時代の一五七三年から一五九二年まで。]

故老云、『むかし、江戶にては、小袖に、「袖口(そでくち)」といふものをかくることはなかりしに、東福門院樣御下向のとき、供奉の女中方の小袖に、袖口をかけたるを見て、江戶にても、袖口をかくることに、なりたり。又、「前垂」といふものも、江戶にてはせざりしに、是れは、京の茶屋女の風俗を、見および、聞きおよびて、遂に「前垂」をかくるやうになりたり。』と、いへり【今、市店の男女の前垂をかくるは、膝をよごさじ、との爲めなれば、いにしへの襅とは、その用心、異にして、いよいよ鄙俗になりしなり。】。

[やぶちゃん注:「東福門院」(慶長一二(一六〇七)年~延宝六(一六七八)年)は江戸幕府二代将軍徳川秀忠と御台所達子(浅井長政三女)の末娘で、後水尾天皇の中宮。

 以下の一段落は二書ともに全体が一字下げである。]

解、按ずるに、「日本紀略」に、藤原保昌(やすまさ)が弟保輔が事、見えて、渠(かれ)を「袴垂(はかまだれ)」と異名(いみやう)したるは、世の人、しれり。この「袴垂」は襅(うはも)の事なるべし。保輔は無類の癖者(くせもの)にて、遂に盜賊となりたりし。その人となりを推(お)すときは、渠、その禮服、威儀を斁(いと)ふにより、襅を袴に代へたるにやあらん。こゝをもて、「袴垂」と呼ばれしものか。「襅には小積(こひだ)あり」としもいへば、「袴に似て、垂(たれ)たり」といふ義ならんと思ふかし。譬へば、今も襅に似たるものを「前かけ」と唱へ、多くは「前垂(まへだれ)」といふ。「垂(たれ)」の儀、此の如くなるべし。

[やぶちゃん注:「日本紀略」平安末期に成立した歴史書。全三十四巻。成立年・著者不詳。神代は「日本書紀」そのままで,神武から光孝までの各天皇は六国史の抄略、宇多天皇以後、後一条天皇までは「新国史」や「外記日記」などに基づいて編集されている。六国史の欠逸を補う重要史料とされる。

「藤原保昌」(やすまさ 天徳二(九五八)年~長元九(一〇三六)年)平安中期の貴族。で「道長四天王」の一人。藤原南家巨勢麻呂流。右京大夫藤原致忠の子。当該ウィキによれば、「今昔物語集」から抄訳して、以下の話を示す。十月、『朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く者があった。それを見つけた袴垂』(はかまだれ)『という盗賊の首領が衣装を奪おうと』、『その者の後をつけたが、どうにも恐ろしく思い手を出すことができなかった。その者こそが保昌で、保昌は逆に袴垂を自らの家に連れ込んで』、『衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰ったという』とあり、さらに、『同様の説話は』「宇治拾遺物語」にもあり、『後世』、『袴垂は保昌の弟藤原保輔』(以下の通りなので、当該ウィキをリンクさせるに留める。因みに彼は傷害事件を起こし、史上最初の切腹で亡くなった人物として知られる)『と同一視され、「袴垂保輔」と称されたが』、「今昔物語集」の『説話が兄弟同士の間での話とは考えにくい』ため、『実際は袴垂と藤原保輔は別人と考えられている』とある。「今昔物語集」のそれは、巻二十五の「藤原保昌朝臣値盜人袴垂語第七」(藤原(ふじはらの)保昌の朝臣(あそん)、盜人(ぬすびと)の袴垂に値(あ)へる語(こと)第七)で、「やたがらすナビ」のこちらで、新字体であるが、テクストとして読める。]

かくて、今は、「前垂」にも、花美を盡すことになりたり。しかれども、そは、京の祇園の「赤前垂(あかまへだれ)」を初めとして、江戶にても、遊里の茶屋女、或は、遊民・俠客(けふかく)の妻・むすめならでは、前垂を晴れには、せず。これによりて思ふに、古畫(こぐわ)の美人の「帶かけ」をしたるは、皆、是、當時(そのかみ)の妓女なるべし。そが中に、佐渡・北越の片田舍には、なかなかに、古風、遣(のこ)りて、「前だれ」をかくる婦人はあらで、彼(か)の「帶ひら」・「帶はさみ」をのみせしよしは、猶、告朔(こくさく)の餼羊(きよう)の如しとも、いはましや。これすらも、近頃は、いと、まれまれになりしと、いへば、後々に至りなば、彼の地にても、「帶ひら」の名をだにしらずなりやせん。そは、なげくべきことになん。

[やぶちゃん注:「告朔の餼羊」古くから続いている習慣や年中行事は、理由もなく廃絶してはならないということの喩え。「告朔」は周代に行われた儀式で、毎月一日に羊を廟に供えて祖先を祭ったことを指し、「餼羊」は告朔の際に供える生贄の羊のこと。出典は「論語」の「八佾(はちいつ)」。魯で告朔の儀式が廃れ、羊を供える形式だけが残っていた。「それでは、無意味だから、餼羊をやめるべきです。」と子貢が言うと、孔子は儀式が完全に廃れることを惜しんだとされる。

 以下の一段落は二書ともに全体が一字下げである。]

「帶ひら」・「帶はさみ」と唱へるよしは、田舍といへども、今の帶は、その幅(はゞ)、廣かり。かゝれば、是を昔の如く、前にかけて、裳のひらくを掩(おほ)ふにしも及ばねば、只、昔より他行(たぎやう)には、しかするものぞ、とのみ、こゝろえて、只、いつとなく、三ツに折りて、おのおの、帶にはさみしより、「帶かけ」とだにいはずして云々と唱へるならん。譬へば、むかしは、駕輿(かき)のものも、多くは烏帽子(えぼし)・白張(しらばり)なりしに、烏帽子を省略する世となりしより、柹染(かきぞめ)、或(ある)は、段々筋(だんだらすぢ)の布をもて、鉢卷のやうにして、前をひらき、後ろをしぼりて、「盆(ぼん)の窪(くぼ)」にて結びしかば、則ち、烏帽子にかたどる也。又、その袖を長くしたるは、白張に擬(ぎ)したる也。しかるを、百年餘りこなたは、それをすら、略して、その布を頭(かうべ)に卷かせず。只、三つ、四つに長く折りて、腰に挾(はさ)ませたりしより、おしなべて、その布を「はさみ」「手ぬぐひ」と呼びなすのみ。それも又、近來(ちかごろ)は、その手拭を糊張(のりはり)にし、或(ある)は、片木(へぎ)の眞(しん)さへ入れて、檜扇(ひあふぎ)の如くしたるを、何等(なんら)の用に立つともしらねど、腰のかざりとこゝろえて、陸尺(ろくしやく)ばらの腰に揷すと、同日の談なるべし。

[やぶちゃん注:「陸尺」駕籠舁きを指す近世語。]

一日、輪池翁(りんちおう)、古畫(こぐわ)の美人三幅(さんぷく)を、予によせて問て云、「この箱書付には、『土佐又平(またへい)畫(ゑ)』とあれども、その時代より、猶、すこしおくれたるものなるべし。しかるに、畫圖(ゑづ)の美婦人の帶の幅(はば)、甚だ、廣し。抑(そもそも)婦人の帶の幅の、かくのごとく廣くなりしは、いつ頃よりの事なるや、聞(きか)まほし。」と、いはれたり。予、この心を得て、その畫(ゑ)を觀るに、げに又平が筆には、あらず。さばれ、畫中の人物は、天正中の妓女なるべく、畫者(ぐわしや)は天正後にやあらん。且つ、その帶と見られしは、眞(まこと)の帶にはあらずして、「帶かけ」ならんと、思ひしかば、則ち、「襅(うはも)」と、佐渡・越後なる「帶はさみ」の事をもて云々と、これをことわり、この畫(ぐわ)の時代に、かくのごとく帶の廣かるべきやうなし。その故は云々と、前條を擧げて答へしかば、輪池翁、うけ歡びて、猶、「帶はさみの證書(あかしふみ)を、見まくほし。」と、いはれたり。「扨も、輪池翁の博覽强記もて、下問(かもん)を耻ぢ給はぬ、めでたさよ。」とばかりにして、うちもおかれず、予が見たるまゝ聞たるまゝを、しどろもどろにしるしつけて、まゐらすること、右の如し。このうち、「襅(うはも)」の一條は、國史中に見えたるを、抄錄して置きたれども、抄錄の多卷(たくわん)なるを、探(さぐ)り出ださんも煩しければ、今、備(つぶさ)にはしるすに及ばず。又、「帶ひら」の一條は、「佐渡風土記」・「佐渡年代記」・「增補越後名寄」などに載せたりけん歟、ありとしも、おぼえず。この書どもは、舊宅なる書齋に殘し置きてしかば、そは、亦、異日、考索(かうさく)せん。正しく物にしるされしは、「佐渡事略」の外(ほか)暗(そら)には、おぼえず。餘は傳聞によるものから、近來(ちかごろ)、記憶を喪ひしに、かく引書(いんしよ)にすら、乏しければ、漏(もら)すも多く、違(たが)へるもあらん。猶、よく、正(たゞ)されん事をねがふのみ。時に文政八年五月四日瀧澤解拜具

[やぶちゃん注:「輪池翁」屋代弘賢。

「土佐又平」絵師土佐光起(元和三(一六一七)年~元禄四(一六九一)年)。父は「源氏物語画帖」などを描いた光則。承応三(一六五四)年三十八歳の時、左近将監に任ぜられ,室町最末期に廃絶した土佐派を再興、宮廷の絵所預(えどころあずかり)となった。また、この年の内裏造営に加わって、障壁画を描き、京都の公家社会と画壇に復帰して多年の宿望を果たした。しかし、この「又平」という呼称は、そもそもが、宝永五(一七〇八)年に大坂・竹本座で人形浄瑠璃として初演された近松門左衛門作の「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」に出る彼の通称としてもっぱら知られから、如何も怪しい。

「文政八年」一八二五年。]

追考(ついかう)

「伊豆國海島風土記(いづのくにかいとうふどき)」下卷に、八丈島なる男女(なんによ)の風俗をしるして云、『女の帶の幅は一尺ばかり、長、四、五尺に、紬(つむぎ)を織り、蘇枋木(すはうぼく)を以て、赤く染(そめ)、その儘、單(ひとへ)にて用ひ、老若(らうじやく)ともに、是を、前にて、結ぶ。男は眞(しん)を入れ、くけたる帶を結ぶもありと、いへり。これ、亦、「帶かけ」の遣風なるべく、今、佐渡にては、女の帶の幅の廣きを結ぶゆゑに、「帶ひら」を三にたゝみて、その帶に挾む也。又八丈島なる女は、いにしへの帶かけを、やがて、帶に用ふるにより、たけをば、長くせしにやあらん。孤島は他鄕(たきやう)の人をまじへざるをもて、物每(ものごと)に古風を存する事、多かり。五島・平戶などの島々なる風俗をも、よく訪ひ窮めなば、かゝるたぐひ、なほ、あるべし。文政八年七月朔 瀧澤解再識

[やぶちゃん注:「伊豆國海島風土記」官吏であった佐藤行信著。全六巻。伊豆諸島の地誌。天明元(二四四二)年に吉川義右衛門秀道という人物に調べさせたもの。

 なお、「曲亭雜記」には最後に、近代の漢学者で作家の依田百川(ひゃくせん 天保四(一八三四)年~明治四二(一九〇九)年:詳しくは当該ウィキを読まれたいが、森鷗外の漢文教師であり、幸田露伴を文壇に送り出したのも彼である)の批評が載り、そこで、

   *

『「襅(ひつ)」は、いにしへ婢妾賤婦の儔(たぐひ)、凡そ賤しきもの袴を着(つけ)ざるもの、これに代へたるなるべし。』といふは、如何(いかゞ)あるべき。袴は衣(ころも)の下に着たるものにて、「褌(こん)」といふも同じ。昔は貴賤ともに「褌(こん)」をつけざるもの、なし。これを下衣(したえ)に着(つけ)るによりて、遂にこれを廢するに至れりと見ゆ。男子・婦人ともに上衣下裳(じやういかしやう)の両種にて、その下には袴、即、「褌(こん)」を穿きたり。唐𤲿(からゑ)の婦人に裳(も)の下より少し露はるゝは、卽、袴にて、多くは紅(こう)の色を用ひたり。この袴なくものはなかりしに、中古より袴を美麗にせしより、自(おのづ)から賤しきものは、用ふること、能はずして、これを廢せしかば、その風、今に至りて、我國の婦人、貴賤ともに、單裙(たんくん)をのみ用ひ、袴を衣の下に着(き)ること無き惡風に至れり。されば、『いにしへ、賤婦に、袴、なし。』とは謂ふべからず。

   *

と批判している。

 以下、別な話題になるので、一行空けた。]

 

追記「信天緣」        瀧澤解再選

天保三年壬辰夏六月、牛込御門内なる武家某氏屋敷の樹に、「信天緣」、忽然と來て、集たり。人みな、觀て、捉まくほりせしかども、高樹の事なれば、すべなかりしに、次の日、その鳥、おのづからに落て、庭に、あり。やがて、とらへて、いろいろ飢を養ひけるに、啖はず。後に、泥鰌をあたへければ、いさゝか、くらひしとぞ。「信天緣」、又、「信天翁」と云。この間の俗、「馬鹿鳥」といふもの、是、なり。形狀、鴇[やぶちゃん注:「とき」。]に似て、脚に水かきあり。總身、薄黑色にて、臭氣あり。觀るもの、鼻を掩ふ。高さ一尺五寸、羽をひらけば、左右へ、七尺五寸あり、といふ。高さに合[やぶちゃん注:「あは」]しては、羽は、甚、長かり。短尾、雁の如し。この鳥、物に傷られて[やぶちゃん注:「いためられて」。]、遠く逃れ來つるなるべし。いく程もなく隕たり[やぶちゃん注:「しにたり」。]。上總・伊豆の海濱には、多くあるものながら、江戶にて觀るは、めづらし。芳婿赫洲、その畫圖を懷にし、來て、予に見せたれど、寫生、ならねば、見るに足らず。この鳥の事、「本草綱目」幷に「五雜俎」・「大和本草」等に詳也。こゝに半頁の餘紙あれば、誌して遺忘に備ふ。

[やぶちゃん注:「信天緣」鳥綱ミズナギドリ目アホウドリ科アホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus 。本邦には渡り鳥として、これを含めて三種が確認されている。現在の中文ウィキの「アホウドリ」でも、中文名を「短尾信天翁」とする。しかし、実は、現在の日本語に於ける標準和名アホウドリに、この漢字を当てたのは、中国人ではなく、貝原益軒の「大和本草」であるというのだ。これは一九八七年平凡社刊の荒俣宏「世界大博物図鑑  4 鳥類」の「アホウドリ」の項に記されあり、現代中国の、その「信天翁」については、荒俣氏は日本からの逆輸入を疑っておられる。「大和本草」のそれは国立国会図書館デジタルコレクションの原本の「信天翁(ライ)」なのであるが、そこで益軒は、『「本草綱目」、鵜鶘ノ集解ニ信天翁ト云者即是也』と記しているのであるが(右丁五~六行目)、いざ、「本草綱目」を調べると「鵜鶘」(荒俣氏はこれはペリカンを指すとされる)の「集解」には、「信天翁」ではなく、「信天緣」と書いてあるのである(「漢籍リポジトリ」が動作していないので、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年版本で示す。右丁の後ろから五行目末からで、二ヶ所出る)。即ち、少なくとも、現在のアホウドリに「信天翁」の漢字で誤って宛ててしまったのは、どうも、益軒の「犯行」であったらしいのである。益軒に批判的であった小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」では、国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の「鵜鶘」の項の左丁六行目に、

   *

「信天縁」は、「ライ」【筑前。】、一名、「アホウドリ」【丹後。】、「ヲキノタイフ」【長州。】、「ヲキノゼウ」【豫州。】、「トウクロウ」【圡州。】。一名「信天翁」【「事物紺珠」。】。「大和本草」に、『「かもめ」に似て、淡青白にして、觜(はし)、長く、少し、それり。脚、赤。海邉にあり。雁より大なり。』と云ふ。

   *

とあって、蘭山は正しく「信天縁」を代表表記として用いている。中に「信天翁」もあるが、この「事物紺珠」は明の一六〇四年黄一正が編纂した動植物等について類書であるが、荒俣氏はこの名は『天翁(太陽)に信(まか)せる』の意で、『本来どの鳥を指したものかは不明である』とされ、さらに、『信天縁なる語自体もほんとうにアホウドリを指したかどうか定かではない』。『一説によれば信天縁はペリカンだといわれる』とされ、『明治以降』、『アホウドリは天縁とは〈縁〉がなくなった!』と結ばれているのである。というか、ここで馬琴の記した江戸に飛来した奇体な黒い臭い鳥というのは、私は、アホウドリではないのではないか? と思っている。一つの候補としては、カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus はどうかなとは思う。]

2022/05/07

泉鏡花「怪談女の輪」(正規表現PDF縦書版)公開

泉鏡花の実話怪談「怪談女の輪」を正規表現・PDF縦書ルビ附き版「心朽窩旧館」に公開した。

2022/05/06

只野真葛 むかしばなし (54) / 毛虫の変化(へんげ)

 

一、おぢ四郞左衞門樣は、毛蟲、殊の外、御きらいなりし。

「此道に拔身(ぬきみ)を持(もち)て待(まつ)てゐるといふ所より、毛むしの巢の有(ある)下と聞(きき)し方、行難(ゆきがた)し。」

と被ㇾ仰し。

「松に付(つき)たる毛蟲も、所によりては、沙噀《なまこ》に、かへるものなり。」

とぞ。

 同じをぢ樣の御はなしなり。僞(いつはり)など、仰られぬ人なり。

 旅行被ㇾ成しに【紀州なるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、海邊の松原、けしきよかりし故、御休(おやすみ)有しに【夏秋の間なるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、水にのぞめる松の枝より、毛蟲のさがりて、水上(すいじやう)におちつきて、しばし、うごめくと、ちいさく成(なり)て、浪に引れて、ながれ行(ゆく)を、御嫌ひの事故、とく見つけられて、あやしく思召(おぼしめし)、所の者の、行(ゆき)かふに、御とへ被ㇾ成しかば、

「けふは天氣が能《よい》から、毛むし共が、ぬけかはります。」

と、こたへしとぞ。

「拔(ぬけ)て、何になる。」

と聞(きか)せられしに、

「なまこに成(なり)ます。」

と、いひしとぞ。

 ふしぎながら、能《よく》水底(みなそこ)を御覽あれば、小さきなまこ、夥しく、ゐたり。水の上にてうごめくは、からを脫(ぬぎ)うちなり[やぶちゃん注:「うつ」の誤記か。]。ぬぎ仕(し)まへば、なまこは、下におち、からは、流(ながれ)て行(ゆき)し、とぞ。

「きたいの事。」と被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:私は海鼠フリークなのだが、毛虫が海鼠に化生(けしょう)するというのは、ちょっと聴いたことがない。甚だ面白い。]

只野真葛 むかしばなし (53) / 舟奇談

 

一、濱町にて、御坊主永井久悅の咄しに、

『此頃、懇意のものゝはなしなり。吉原から猪牙(ちよき)にのつて歸りしに、闇の夜なりしが、藏前邊にて、

「ぐらり」

と、かへりしが、仕合(しあはせ)には、水、淺く、膝きりにて有(あり)し故、衣類《きもの》をぬらしたばかりにて、石垣傳ひに、どうかして、岡へ上りかへりしが、舟は、少しも、かまわずに、一さんに、漕(こい)で行(ゆき)し、となり。ぬれながら、内へ歸り、翌日、

「船頭はどうしてゐる。」

と舟宿へ行て見しに、高ぎせるにて、門口に居(ゐ)たり。

「是は。どうだ。」

と聲かけしかば、物いわずに、袖をとり、

「こちらへ、おはいり。」

とて引込(ひつこみ)、二階へ上(あげ)て、

「眞平御めん。」

と、あやまりしとぞ。

「御めん所か。とほうもない。」

と云(いふ)をおさへて、

「先々、高聲(こうせい)被ㇾ成て被ㇾ下ますな。大切な事でござりますが、申分(まうしぶん)の爲(ため)、御咄し申(まうし)ます。お素人がたを相手に、夜、壱人(ひとり)で漕(こぎ)、舟が引(ひつくり)かへつた時、壱人では、中々、助けられません。下手にうろつくと、共に、死にますから、棄切(すてぎり)の「さだめ」でござります。必、他言被ㇾ下まじ。」

とて、酒肴(しゆかう)にてもてなし、惣船宿、連名の「誤り證文」いたし、七重八重に成(なり)て閉口せし故、ふくれながら、其まゝにして置(おき)たり。

「とんだ事が有もの。」』

と、いひし。

 父樣も、

「わかき時分、吉原歸りの船にて、危(あやう)き事、有し。」

と被ㇾ仰し。是も暗夜にて下(さ)汐(しほ)の時、一さんに、くだして、來(きた)る。父樣は、船中にねむりて御いで被ㇾ成しに、

「ザブリ」

と、物の落(おち)たる音せし故、御覽有しに、艪(ろ)づな、切(きれ)て、櫂(かい)を持(もち)ながら、船頭が落(おち)しとぞ。

 舟は、矢を射る如く、走りて下る、中々、およぎて、追つかれねば、跡に成(なり)て、いかゞしたるか知らず、大きに心づかひなりしに、永代橋の外にかゝりたる親船のはらへ、舳先(へさき)が當りし故、船頭共、とがめしを、

「ケ樣、ケ樣。」

の事と被ㇾ仰て、舟をとめてもらひ、手間取(てまどる)内に、落たる船頭、櫂をかついで、岡を走りながら、

「萬幸(ばんこう)さん、萬幸さん。」

と呼(よび)て來りしとぞ。それより又、櫓をしかけて、歸りし、となり。

「親船に當らずば、いづく迄、行くかしれず、危かりし事。」

と、其時、被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:「御坊主」数寄屋(すきや)坊主・茶坊主・御奥(おおく)坊主で、江戸幕府の中奥の職名の一つ。若年寄の支配に属し、数寄屋頭の指揮をうけて、将軍を始め、出仕の幕府諸役人に茶を調進し、茶礼・茶器を司った。僧形で、二十俵二人扶持。町屋敷が与えられ、その数は百人から三百人ほどいた。一般には少年・若者が選ばれた。因みに、芥川龍之介の養父で伯父(実母フクの実兄で芥川家嫡流)の芥川道章の家系は彼の祖父の代まで、この職にあった。

「萬幸」そのぶつかった永代橋に係留してあった親船(伊勢船の俗称。伊勢船は船型構造が中世末期の伝統を持つため、近世の進歩した弁才船に対して、古様であるところからの称)の水主(かこ)の姓か。]

只野真葛 むかしばなし (52) / 舟怪談パート2!

 

一、築地毛利樣へふだんござる旗本衆なりしが、吉原へ遊(あそび)に行(ゆき)て有(あり)しが、明朝、當番故、夜中に歸らねばならず、舟にのりて、船頭と、二人、夜更(よふけ)て川筋を下(くだ)るに、霧雨、しきりに下(ふ)りて、物も見へず【築地より、舟の通用には、「浪よけ稻荷」の後(うしろ)を出(で)ると、海にかゝり、天氣のよい時は、はればれとして、よけれど、いつも、浪のあらい所なり。それから、川といへども㚑岸島(れいがんじま)・「浪よけ」の前などは海も目前にて、人氣少(ひとけすくな)く、びやうびやうとしたるところなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。屋根船の中に、うちねぶりて有しに、㚑岸島を通過(とほりすぎ)たる時分、

「もし。且那、旦那。」

と起(おこ)す故、

「何だ。」といひば、

舟頭「舟が。うごきません。」

旦那「どふした。」

舟頭「あれを。ごろふじませ。」

といふ故、へさきの方を見れば、たしかに形は見えねど、眞綿(まわた)をぬり桶(をけ)に掛(かけ)たるやうな形にて、

「ふわふわ」

としたる白きもの、高さは、四、五尺の間(あひだ)とおぼしきもの、立(たち)て有(あり)。

 ねむけもさめしに、船頭、聲、かけ、

「もし。必ず、念佛を唱へ被ㇾ成ますな。お刀でお拂(つぱらい)て被ㇾ下まし。」

といひし故、

「得たり。」

と、刀(かたな)引拔(ひきぬき)ざま、心の内には、

『にくき妖怪め。かたじけなくも、公方(くばう)の御用、明朝勤(つとむ)る當番の、など、さまたぐるぞ。速(すみやか)に立去(たちさ)れ、立去れ。』

と、くりかへし、くりかへし、ねんじて、切拂(きりはら)ひしかば、

「ふわふわ」

とびさりしと思ふと、舟、動き出(だし)たり。

 物もいはず、息をもつかず、一おしに築地の川まで、おし付(つけ)たり。

 おかへ上(あが)りて後、

「あれは、何ぞ。」

と、とへば、

「『舟(ふな)ぼう㚑(れい)』なり。」

と、いひしとぞ。

「念佛をとゞめしは、何の故。」

と、とはれしかば、

「弱味へ付入(つけいり)ては、强く成(なる)ものなり。氣がをくれ、念佛などいふ樣なことでは、いくらも、いくらも、出て來て、舟を、しづめるものなり。兼(かね)て御元氣(おおげんき)をぞんじて居(をり)ますから、お力に存じましたる、お蔭で、命、助(たすかり)ました。」

と禮をいひしとぞ。

「折々、逢(あふ)ものか。」

と聞しに、

「とんだ事をおつしやります。そんなに逢ことでは、いきては居られません。たゞ、『忿佛を、左樣な時、必ずとなへぬもの。』と申事は、なかま中(うち)、いひつたへて置(おく)事なり。必ず、三年の中(うち)は、人にお咄し被ㇾ成ますな。わるいめに、逢(あひ)ます。」

と、口どめせしとぞ。

 それ故、其人も、しばらく、口外にせられざりしが、ほどへて、若い時分の「元氣咄し」などのでし時、語られしを聞(きき)て、人々、おぢたりし。

[やぶちゃん注:会話形式で臨場感たっぷり! 語り出すと、乗るんだよね! 真葛姐さんは!

「浪よけ稻荷」現在の東京都中央区築地にある波除(なみよけ)稲荷神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、「明暦の大火」(明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)までに江戸の大半を焼いた大火災)の『後、当時はまだ』、『江戸湾が入り込んでいた築地の埋め立て工事が行われたが、荒波の影響で工事は難航した。その最中の』、『ある晩、光を放ち』、『海面を漂う御神体が見つかり』万治二(一六五九)年、『現在地に社殿を建て祀った。その後、波が収まり』、『工事が順調に進んだことから、「波除稲荷」と尊称して厄除けなどに信仰を集めることとなった』とある。同神社公式サイトもリンクさせておく。

「㚑岸島」霊岸島。東京都中央区の東部、隅田川河口右岸の旧町名。現在の新川一・二丁目に相当する。江戸初期には北の箱崎島 (現在の日本橋箱崎町) とともに「江戸中島」と呼ばれたが、新川の開削により、分離した。地名は寛永元 (一六二四) 年に、霊巌雄誉上人がこの地に創建した霊巌寺に由来し (寺は「明暦の大火」後に深川に移転した) 、「霊巌島」とも書いた。以後、町家、門前町として発展した。また、海上交通の拠点でもあり、上方からの酒を扱う問屋が集中していた。現在では当時の面影は残っていないが、商業地区となっている。]

只野真葛 むかしばなし (51) 久々の真葛怪談!

 

一、卯野元的(うのげんてき)といふ人、有(あり)し。中通醫師なり。築地邊、旗本衆などへ出入し、工藤家へも常に出入せしが、ばゞ樣など諸見物に御いでの時、つれに成(なり)てありきし人なり。

 其人の咄しに、向(むかひ)、築地に、二千石ばかりの旗本衆、有し。大ひやう・大力にて、すなどりを好み、遠網打(とほあみうち)の名人、廿間餘に打出(うちだ)されしが、漁師も及ばざりし、となり。一月には、二、三度づゝ、御勤の暇(いとま)には、漁にいでゝ樂(たのし)まれしとぞ。

 あるひ、例の如く、漁に出(いで)られしが、ちと、刻限、早かりしに、奧方も、おいでの後に、又、床に入(いり)て、休まんとせられしに、夜が明(あく)るや否や、

「お歸り。」

と云(いふ)音(こゑ)す。

『誠(まこと)ならじ。』

と、おもはれしに、實(まこと)にかへられたり。

「風もなし、天氣はよし、何故(なにゆゑ)。」

と問(とふ)に、顏色、土の如くにして、無言なり。

 家内、いぶかりて、手をかへ、品をかへて聞(きく)に、さらに其故(そのゆゑ)をかたられざりしとなり【是より、つり道具を、みな、すてゝ、漁をやめられし、となり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 元的も出入(でいり)にて、殊にしたしくせし故、年をかさねて、事にふれつゝ、ゆかしければ、

「もふ、お咄被ㇾ成(はなしなられ)てもよさそうなもの。」

などゝ、まじめにも聞(きき)、をどけにも聞仕(ききしまはし)たりしが、一生、其故を口外(こうがい)へいださで、果(はて)られしとぞ。

 語らではてられしと云(いふ)事は、ワ、築地に居(をり)し内(うち)、聞(きき)しことなりし。

 然るを、數寄屋町へ引(ひつ)こして後、善助樣、

「船頭の隱居ぢゞに聞(きき)し。」

とて、其故を、御はなし被ㇾ成候。珍しきことなりし。

 老人曰(いはく)、

「わたし共も、海の上を渡世にしてゐるものだけれども、氣味の惡ひ事に逢(あひ)しは、久しきあとの事なりしが、築地の殿樣と、二人、舟にのつて出た所が、ちと早くて夜が明(あけ)やしなんだ。舟をかけてゐたら、何だか舟のわきに付(つい)てゐやしたが、死人(しびと)のやうで有(あつ)たから、漕(こぎ)ぬけやふとおもつて、櫂(かい)で、ついてやつて、二十間ばかりわきへ行(ゆき)やした【漁舟《りようせん》にて出懸(でがけ)に死人にあへば、其日の「けち」として、まづまづ、無言にてみぬ顏してつきだしてにげるとなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。所が又、下から「ざぶり」と、ういて出(で)た物が有故(あるゆゑ)、二人ながら、おもはず、見たら、女の死人さ。少し夜が明やした。『いまいましい』と思(おもつ)て、また、つきだそうとしたら、櫂が、つきはづれやした。其時、死人が「にこにこ」と笑(わろう)た顏の、いやな事、「ぞつ」として、そこにゐられぬから、其日は歸りやした。あんな氣味のわるい事は、ござりません。それから殿樣も漁を休(やすみ)さしつたし、私も遠(とほ)あるきを、やめました。」

と語(かたり)し故、其事は知れたり。

「少し、旗本衆の胸に、當りし事、有しならん。」

と被ㇾ仰し。すべて舟の中には、あやしき事、あるものなり。

[やぶちゃん注:久々の怪談実話である。聴き書きで、最後に老漁師の告白形式をとり、非常にリアリズムがあり、非常に優れている。当時の口語体が再現されているのも興味深い。真葛の怪談はまっこと、「キョワい」。似たような話であるが、幸田露伴の「幻談」なんか、足元にも及ばないね。

「中通」福島県「中通り」地方。福島県中部で、西に奥羽山脈、東に阿武隈高地に挟まれた太平洋側内陸の地域。その北部は真葛の父平助の仕えた主家、伊達郡を本貫とした伊達氏の領地であった。]

「和漢三才圖會」卷第八十四 灌木類 瓢樹(ひよんのき/いす) / イスノキ

 

Hyonnnoki

 

ひよんのき 正字未詳

瓢樹   【俗云比與牟乃木

いす    其木名伊須】

 

△按其木葉並似女負而厚狹長色微淡三四月開細小

 花深赤色結實大如豆自裂中子細小黒色別其葉靣

 如子者脹出中有小蟲化出殼有孔口吹去塵埃爲空

 虛大者如桃李其文理如檳榔子人用收胡椒秦椒等

 末以代匏瓢故俗曰瓢木或小兒戯吹之爲笛駿州多

 有之祭禮吹此笛供奉于神輿四國九州多有之斫木

 爲薪木心白微赤日乾者全赤堅硬爲薪之上品

一種 有唐比與乃木者花葉無異但葉小耳

 

   *

 

ひよんのき 正字、未だ詳かならず。

瓢樹   【俗に云ふ「比與牟乃木(ひよんのき)」。

いす    其の木を「伊須(いす)」と名づく。】

 

△按ずるに、其の木・葉、並びに女負(ひめつばき)に似て、厚く、狹長(さなが)。色、微(わづかに)淡し。三・四月、細き小花(せうくわ)を開く。深赤色。實を結ぶ。大いさ、豆のごとし。自裂して、中の子(たね)、細小、黒色。別に其の葉の靣(おもて)に、子のごとくなる者、脹(ふく)れ出でて、中に、小蟲、有り、化出(けしゆつ)す。殼に孔-口(あな)有り、塵埃(ちりほこり)を吹き去れば、空-虛(から)と爲(な)る。大(だい)なる者、桃・李(すもも)のごとく、其の文理(もんり)、檳榔子(びんらうじ)のごとし。人、用ひて、胡椒・秦椒(しんせう)等の末(まつ)を收む。以つて匏瓢(ひやうたん)に代(か)ふ。故に俗に「瓢の木」と曰ふ。或いは、小兒、戯れに之れを吹きて、笛と爲す。駿州(すんしう)に、多く、之れ、有り、祭禮、此の笛を吹きて、神輿(みこし)に供奉す。四國・九州、多く之れ有り、木を斫(き)り、薪(たきぎ)と爲す。木の心、白く、微赤。日に乾す者、全く赤し。堅硬にして、薪の上品と爲す。

一種 「唐比與乃木(たうひよんのき)」と云ふ者、有り。花・葉、異(こと)なること、無し。但(ただ)、葉、小さきのみ。

 

[やぶちゃん注:これは、

ユキノシタ目マンサク科イスノキ属イスノキ Distylium racemosum

である。当該ウィキによれば、イスノキは漢字では「柞の木」(但し、同種をこの漢字で示すのは本邦のみでの当て字であり、現在の中国名は「蚊母樹」である)で、本邦では、暖地の静岡県以西・四国・九州・琉球列島に自生し、異名に「ユスノキ」「ユシノキ」「ヒョンノキ」がある。『国外では済州島、台湾、中国南部に分布する』。葉は、しばしば、虫瘤(むしこぶ:虫癭(ちゅうえい))がつき、『大きくなると穴が開くのが特徴』とあり、『常緑広葉樹の高木で、高さ約』二十~二十五メートルになる。『樹皮は灰白色。大木になると赤っぽくなる』。『葉は互生し、長さ』五~八『センチメートルの長楕円形で、葉身は革質、深緑で表面に強いつやがある』。虫瘤は『イスノキコムネアブラムシの寄生では葉の面に多数の小型の突起状の虫こぶを』イスノキオオムネアブラムシ『Nipponaphis distychii の寄生によっては丸く大きく膨らんだ虫こぶ(ひょんの実)が形成される。どちらも非常に頻繁に出現するのでこれを目当てにイスノキが特定できるほどである。虫こぶは大きくなると』、『穴が開き、ここを吹くと』、『笛のような音が出ることから「ヒョンノキ」の別名がある』。『花期は』三~四月で、『葉腋に総状花序を出して小花をつける』。『花序の基部には雄花、先の方(上部)には両生花がつく』。『花弁はなく、萼も小さいが、雄しべが』五~八『個つき、葯が紅色に色づく』。『葯は乾燥すると』、『裂開し、花粉は風によって飛散する』。『果期は』十月で、『果実は広卵形で、表面が黄褐色の毛で覆われ』、『先端に雌蘂が二裂した突起として突き出すのが目につく。果実が熟すと』二『つに裂開し、黒色の種子が露出する』。『材は本州や四国に自生する木の中ではウバメガシと並んで非常に堅く重い部類となる。家具、杖の素材にされ、とくにイスノキ材の木刀は、示現流系統の剣術で使用されているのは有名。材や樹皮を燃やした灰(柞灰(いすばい))は陶磁器の釉の融剤とする。また、樹皮はトリモチの原料ともなる。樹皮を採取した後のイスノキを長く放置すると辺材が失われて心材のみとなるが、この心材をスヌケと呼ぶ。スヌケは濃い茶色で、磨くと光沢をもつ』。『樹木そのものは』、『乾燥に強く丈夫なので街路樹として栽培されることもある。 また、虫こぶ(ひょんの実)は成熟すると』、『表面が硬く、内部が空洞になり、出入り口の穴に唇を当てて吹くと笛として使える。これが別名ヒョンノキ(ひょうと鳴る木)の由来とも言われる。また、この虫こぶにはタンニンが含まれ、染料の材料として使われる』。『鹿児島県の「伊集院」という地名は、イスノキが多い地であり、平安朝の租税である稲穂を貯蔵する倉院が置かれたことから、「いすいん」と呼ばれるようになったことに由来する』とある。なお、良安は最後に近縁種を挙げているが、「イスノキ」のウィキには本邦では一種のみとあるので、これは誤りである。また、イスノキに寄生するアブラムシ類については、宗林(そうりん)正人氏の論文「緑化樹木のアブラムシ類 (4)」(『植物防疫』第五十七巻第十号・二〇〇三年発行・PDF)に詳しい(それでも多量の種がいるらしく、ウィキで例示している最初に出るイスノキコムネアブラムシは載っていない。なお、後者はウィキでは『イスオオムネアブラムシ』とあるが、この資料で訂した)。

「女負(ひめつばき)」標準和名でビワモドキ亜綱ツバキ目ツバキ科ヒメツバキ属ヒメツバキ Schima wallichii があるが、小笠原産であるから違う。「姫椿」は辞書では、他にサザンカの別名、或いは、ネズミモチの古名(「和名類聚抄」収載)とあり、最も普通に見られるのは、シソ目(或いはゴマノハグサ目)モクセイ科イボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum と、同属イボタノキ Ligustrum obtusifolium があり、後者は樹皮上に寄生するイボタロウムシ(半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科イボタロウムシ Ericerus pela)の分泌する「いぼた蠟(ろう)」で知られ、古くから蠟燭の原料や日本刀の手入れに用いられてきたから、この二種の孰れか、或いは、虫瘤から後者を良安は指しているとみてよいように思われる。また、否定した「唐比與乃木」(とうひょんのき)というのも、或いは、これらの種の孰れかを指しているともみられる。

「檳榔子(びんらうじ)」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu の種子。本邦には自生しないが、漢方で古くから知られていた。

「秦椒(しんせう)」ムクロジ目ミカン科サンショウ属フユザンショウ Zanthoxylum armatum var. subtrifoliatum の別名であるが、葉や実には芳香性が無いので、サンショウのように食用にはならないから、違う。中国語の辞書で引くと、山椒とあったので、ここはサ同属サンショウ Zanthoxylum piperitum の実や葉の粉末を指すと考えてよい。

「匏瓢(ひやうたん)」「瓢簞」に同じ。

「瓢の木」ここは「ひよん」(ひょん)との音の類似性から「へうのき」(ひょうのき)と読んでおく。

「駿州(すんしう)」駿河国。]

多滿寸太禮卷第三 柳情靈妖

多滿寸太禮卷第三 柳情靈妖

[やぶちゃん注:本話は『小泉八雲 靑柳のはなし(田部隆次訳) 附・「多満寸太礼」の「柳情靈妖」』で、一度、電子化しているが、今回は原版本に基づき、零から電子化注した。私の大好きなしみじみとした哀れな異類婚姻譚である。漢詩は原本では二段であるが、一段で示し、後に丸括弧で訓読を載せた。挿絵は今まで使っている国書刊行会の「江戸文庫」版のそれが、汚損がひどくいやな感じなので、今回は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該挿絵画像(単独JPG版)をリンクさせるに留めた。]

 

   柳情(りうせいの)靈妖(れいよう)

 文明の年中、能登の國の太守、畠山義統(よしむね)の家臣に、岩木(いわき)七郞友忠と云ふ者、有《あり》。幼少の比《ころ》より、才智、世に勝れ、文章に名を得、和漢の才(ざへ)に冨みたり。ようぼう、いつくしく、いまだ廿(はたち)にみたず。

[やぶちゃん注:一四六九年から一四八七年まで。室町幕府将軍は足利義政・足利義尚で、後半は「応仁の乱」の余波が未だ続いていた。

「畠山義統」(?~明応六(一四九七)年)は父義有(よしあり)が永享一一(一四三九)年か翌年頃、大和の陣中で死去したため、幼くして跡を継ぎ、祖父義忠の後見を受けて享徳元(一四五二)年に能登守護となった。義忠の隠居の後、室町幕府相伴衆(しょうばんしゅ(しゅう):室町時代、将軍が殿中で宴を催し、また、諸将の宴に臨む時、相伴役としてその席に陪従する者。有力守護大名家から選ばれた)となり、寛正五(一四六四)年の「糺河原勧進猿楽」にも列席した。畠山宗家の争いでは、幕命により、義就(よしひろ/よしなり)に味方し、「応仁の乱」でも義就のバックにあった山名氏が率いる西軍に属した。文明九(一四七七)年、能登に下国し、能登府中に長くあって、領国支配に専念したが、長享二(一四八八)年、加賀の富樫政親を救援すべく、出兵、明応二(一四九三)年の細川政元のクーデタで越中に逃れた前将軍足利義材(よしき)をも支援した。祖父義忠に似て、和歌。連歌に優れ、歌会を催し、臨済僧で歌人として知られる清巌正徹(せいがんしょうてつ)や、その門下の正広とも親交があった。

「岩木七郞友忠」不詳。]

 義統、愛敬(あいきやう)して、常に祕藏し給ふ。

 生國(しやうこく)は越前にして、母、一人、古鄕(こきやう)にあり。世、いまだ、靜かならねば、行《ゆき》とぶらふ事も、なし。

 或るとし、義統、將軍の命をうけ、山名を背(そむ)き、細川に一味して、北國(ほつこく)の通路をひらきぬ。杣山(そまやま)に、山名方(かた)の一城(いちじやう)あれば、

「是を責めむ。」

とて、義統、杣山の麓に出陣して日を送り給へば、此ひまをうかゞひ、母の在所も近ければ、友忠、ひそかに、只(たゞ)一人、馬(むま)に打ち乘り、おもむきける。

[やぶちゃん注:「杣山」福井県南条郡南越前町大字瓜生にあった杣山城か。サイト「城郭放浪記」の「越前 杣山城」が地図もあり、詳しい。但し、文明六(一四七四)年に『越前国守護斯波氏の家臣増沢甲斐守祐徳が城主となったが、斯波氏に叛いて朝倉孝景(敏景)に攻められ』、『敗れた。朝倉氏は家臣河合安芸守宗清を城主とした』とあるだけで、畠山が攻めた事実はないようである。]

 比《ころ》しも、む月の始めつかた、雪、千峯(せんほう)を埋(うづ)み、寒風(かんふう)、はだへを通し、馬、なづむで、進まず。

 路(みち)の旁らに、茅舍の中(うち)に、煙りふすぶりければ、友忠、馬をうちよせてみるに、姥(むば)・祖父(ほゝぢ)、十七、八の娘を中に置き、只、三人、燒火《たきび》に眠(いねふ)り居(ゐ)たり。その體(てい)、蓬(よもぎ)の髮(かみ)は亂れて、垢、付《つき》たる衣(ころも)は、裾みじかなれども、花のまなじり、うるはしく、雪の肌(はだへ)、淸らかにやさしく媚(こび)て、

『誠に、かゝる山の奧にも、かゝる人、有《あり》けるよ。しらず、神仙の住居(すまゐ)か。』

と、あやしまる。

 祖父(ぢい)夫婦、友忠をみて、むかへ、

「たつていたはしの少人(せうじん)や。かく山中に獨りまよはせ給へるぞや。雪、ふり積り、寒風、忍びがたし。先《まづ》、火によりて、あたり給へ。」

と、念比(ねんごろ)に申せば、友忠、よろこび、語るに、

「日、已に暮れて、雪は、いよいよ降りつもる。こよひは、こゝに一夜を明《あか》させ給へ。」

と佗(わ)ぶれば、おゝぢ、

「かゝる片山陰(かたやまかげ)のすまひ、もてなし申さむよすがもなし。さりとも、雪間(ゆきま)をしのぐ旅のそら、こよひは、何かくるしかるべき。」

とて、馬の鞍をおろし、ふすまをはりて、一間(ひとま)をまふけて、よきにかしづきける。

 此娘、かたちをかざり、衣裳をかへて、帳(ちやう)をかゝげて、友忠をみるに、はじめ見そめしには、且つ、まさりて、うつくしさ、あやしきほどにぞ有ける。

「山路(やまぢ)の習ひ、濁り酒など、火にあたゝめ、夜寒《よざむ》をはらし給へ。」

と、主(ぬし)よりして、はじめて、盃(さかづき)をめぐらしける。

 友忠、何となく、むすめに、さす。夫婦、うち笑ひ、

「山家(やまが)そだちのひさぎめにて、御心にはおぼさずとも、旅のやどりのうきをはらしに、御盃《おん》(さかづき)をたうべて上《あげ》まいらせ。」

と、いらへば、娘も、貌(かほ)うちあかめて、盃をとる。友忠、

『此女のけしき、よのつねならねば、心をも引《ひき》みむ。』

と思ひて、何となく、

  尋(たづね)つる花かとてこそ日をくらせ明ぬになどかあかねさすらん

と口ずさみければ、娘も、又、

  出る日のほのめく色をわが袖につゝまばあすも君やとまらむ

とりあへず、『その歌がら、詞(ことば)のつゞき、只人(たゞうど)にあらじ。』と思ひければ、

「さいあいのつまも、なし。願(ねがはく)は、我れに、たびてんや。」

といへば、夫婦、

「かくまで賎(いや)しき身を、いかにまいらせん。たゞかりそめに御心をもなぐさめ給へかし。」

と申せば、むすめも、

「此身を君にまかせまいらするうへは、ともかくもなし給へ。」

と、ひとつふすまに、やどりぬ。

 かくて、夜も明けければ、空もはれ、嵐もなぎて、友忠、

「今は暇(いとま)を申さん。又、逢ふまでの形見《かたみ》とも、み給へ。」

とて、一包(つゝみ)の金(こがね)を懷中より出して、これを、あたふ。主(あるじ)のいはく、

「これ、さらによしなき事なり。娘によき衣(きぬ)をもあたへてこそ參らすべきに、まづしき身なれば、いかゞせん。われら夫婦はいかにともくらすべき身なれば、とくとく、つれて行《ゆき》給へ。」

と、更に請けねば、友忠も力なく、娘を馬にのせ、別れをとりて、歸りぬ。

 かくて、山名・細川の兩陣、破れて、義統も上洛して、都、東寺に宿陣ありければ、友忠、ひそかにぐして、忍び置きけるに、如何(いかゞ)しけむ、主(しう)の一族なりし細川政元、此女を見そめ、深く戀ひ侘び給ひしが、夜にまぎれ奪(ばい)とらせ、寵愛なゝめならざりしかば、友忠も無念ながら、貴族に敵對しがたく、明暮(あけくれ)と思ひしづみける。

 或る時、あまりの戀しさに、みそかに傳(つて)をもとめ、一通のふみをかきて遣しける。その文のおくに、

 公子王孫逐後塵

 綠珠埀淚滴羅巾

 候門一入深如ㇾ海

 從ㇾ是蕭郞是路人

(公子王孫 後塵を逐(お)ふ

 綠珠 埀(た)れ 淚 羅巾を滴(した)つ

 候門(こうもん) 一たび入りて 深きこと 海のごとし

 是れより 蕭郞(せうらう) 是れ 路人(ろじん))

とぞ書《かき》たりける。

[やぶちゃん注:この漢詩の原拠(唐の憲宗の元和年間(八〇六年~八二〇年)に秀才(科挙制度の前段階の一つである院試に及第した者)になった詩人崔郊(さいこう)の詩としてよく知られた「贈去婢」(去る婢に贈る)という題の七言絶句。事実、彼はこの詩を以って愛人をとり返したとされる)と意味は『小泉八雲 靑柳のはなし(田部隆次訳) 附・「多満寸太礼」の「柳情靈妖」』で詳注してあるので、参照されたい。

「細川政元」(文正元(一四六六)年~永正四(一五〇七)年)は細川勝元の嫡男。足利義澄を擁して将軍とし、管領となって幕政の実権を握ったが、養子とした澄之(すみゆき)・澄元・高国の家督争いに巻き込まれ、澄之派に暗殺された。ただ、彼はこの友忠の妻を掠奪する役としては、正直、相応しくない。当該ウィキによれば、『政元は修験道・山伏信仰に凝って、女性を近づけることなく』、『生涯』、『独身を通した。そのため、空を飛び天狗の術を得ようと怪しげな修行に熱中したり、突然諸国放浪の旅に出てしまうなどの奇行があり』、「足利季世記」では『京管領細川右京大夫政元ハ、四十歲ノ比マデ、女人禁制ニテ、魔法飯綱(いづな)ノ法・アタコ(愛宕)ノ法ヲ行ヒ、サナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ。或時ハ經ヲヨミ、陀羅尼ヲヘンシケレハ、見ル人、身ノ毛モ、ヨタチケル。」『とある(ただし、政元は修験道を単に趣味としてだけでなく、山伏たちを諜報員のように使い、各地の情報や動向を探るなどの手段ともしていた)』。『とはいえ、衆道は嗜んだようであり、家臣の薬師寺元一と男色関係にあったとする見方もある』とあるからである。]

 いかゞしけむ、此の詩、政元へ聞えければ、政元、ひそかに友忠を召《めし》て、

「物いふべき事あり。」

と云ひ遣しければ、友忠、

「思ひよらず。一定《いちじやう》、これは、わが妻の事、顯はれ、恨みの程(ほど)を怖れて、吾れを取り込め、討たむずらん。たとへ、死すとも、いま一たび、見る事もや。折もよくば、恨みの太刀(たち)一かたなに。」

と、思ひつめて行《ゆき》ける。

 政元、頓(やが)て、出《いで》あひ、友忠が手をとりて、

「『候門一たび入て 深き事 海のごとし』と云ふ句は、これ、汝(なんぢ)の句なりや。誠に、ふかく感心す。」

とて、淚をうかめ、則ち、かの女を呼び出《いだ》し、友忠にあたへ、剩(あまつ)さへ、種々(しゆじゆ)の引手物して、返し給ふ。こゝろざし、いとやさし。

 尤も文道(ぶんだう)の德なりけり。

 これより、夫婦、偕老同穴のかたらひ、いよいよ深く、とし月を送るに、妻の云ひけるは、

「吾れ、はからずして、君(きみ)と五とせの契りをなす。猶、いつまでも、八千代をこめむと思ひしに、ふしぎに、命(いのち)、こよひに究まりぬ。宿世(すくせ)の緣を思ひたまはゞ、跡、よく弔(とむら)ひ給へ。」

と、淚、瀧のごとくにながせば、友忠、肝(きも)をけし、

「ふしぎなる事、いかに。」

と、とへば、妻、かさねて、

「今は何をかつゝみ候はん。みづから、もと、人間の種(たね)ならず。柳樹(りうじゆ)の情(せい)。はからずも、薪(たきゞ)の爲めに伐られて、已に朽ちなむとす。今は、歎くに、かひ、なし。」

とて、袂をかざすとぞみえしが、霜の消ゆるごとくに、衣(ころも)斗(ばか)り、のこれり。

「これは。」

と思ひ、立《たち》よれば、小袖のみにして、形體(かたち)も、なし。

 天にこがれ、地にふして、かなしめども、さりし面影は、夢にだに、みえず。

 せんかたなければ、遂に、もとゞり、切《きつ》て、諸國修業の身とぞ成《なり》にける。

 妻の古鄕(ふるさと)のもとへ尋ねて、ありし跡を見るに、すべて、家も、なし。

 尋ぬるに、隣家(りんか)もなければ、たれ、しる人も、なし。

 唯(たゞ)、大(おゝ)きなる柳(やなぎ)のきりかぶ、三《み》もと、殘れり。

『うたがひもなき、これ、なんめり。』

と思ひ、其傍らに塚をつき、なくなく、わかれ去りけり。

 

畔田翠山「水族志」 タバメ

 

(二一)

タバメ 一名タバミ タバミバヾク【紀州田邊】

形狀「クチビ」ニ似テ厚ク棘鬣ノ如シ背靑黑色暗ニ淡紫色ノ縱條アリ背ニ靑色ノ斑㸃アルヿ棘鬣ニ似タリ腹白色眼黑色瞳上白色觜細ク「クチビ」ニ似タリ背鬣淡黑色端紅色尾淡黑色端紅色腰下鬣淡黑色ニ乄淡紅ヲ帶脇翅淡黃色腹下翅本淡紅ニ乄末淡黑色淡黃ヲ帶頰淡紅色ヲ帶眼下藍色ノ斑アリ鼻及頭褐黑色ニ乄紅ヲ帶其長大ナル者色淺シ大者二三尺

○やぶちゃんの書き下し文

たばめ 一名「たばみ」「たばみばばく」【紀州田邊。】

形狀、「くちび」に似て、厚く棘鬣(たひ)のごとし。背、靑黑色暗(せいこくしよくあん)に淡紫色の縱條あり。背に靑色の斑㸃あること、棘鬣(たひ)に似たり。腹、白色。眼、黑色。瞳の上、白色。觜(くちばし)細く、「くちび」に似たり。背鬣(せびれ)、淡黑色、端(はし)は紅色。尾、淡黑色、端は紅色。腰の下の鬣(ひれ)、淡黑色にして淡紅を帶ぶ。脇翅(わきびれ)、淡黃色。腹の下翅(したびれ)の本(もと)は淡紅にして、末(すゑ)は淡黑色に淡黃を帶ぶ。頰、淡紅色を帶ぶ。眼の下に藍色の斑あり。鼻及び頭、褐黑色にして紅を帶ぶ。其の長大なる者は、色、淺し。大なるは、二、三尺。

[やぶちゃん注:「タバミ」は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」によれば、「イトフエフキ」・「クジメ」・「ハマフエフキ」・「フエフキダイ」の地方異名とする。この内、クジメイトフエフキは魚体から候補から外れる(後者はマダイには全く似ていない)。残るハマフエフキフエフキダイを比較すると、名にし負う後者の方がよりマダイ的ではある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」をリンクさせておいた。宇井縫藏の「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)の「フエフキダイ」を見ると、本書を指示して異名「タバミババク」を挙げる(他に本書から「タモリ」を『雜賀﨑』採取で載せるが、これは不審)から、これは、

スズキ目スズキ亜目フエフキダイ科フエフキダイ亜科フエフキダイ属フエフキダイ Lethrinus haematopterus

としてよい。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページによれば、「笛吹鯛」は『静岡県沼津市静浦での呼び名』で、『口笛を吹いているような口の形をしているため』とあり、さらに、『口美(クチミ、クチビ)』の異名については、『ハマフエフキなどとともに、クチミ、クチビ、クチミダイと呼ばれるのは口の中が赤いから』とある。写真もあるので参照されたい。なお、畔田は「クチビ」を別種としているが、推察するに、その共通点を持つ、フエフキダイ属ハマフエフキ Lethrinus nebulosus を「クチビ」に当てていると考えれば、腑に落ちる。]

畔田翠山「水族志」 メジロダヒ

 

(二〇)

メジロダヒ

大和本草曰目白ダヒ肩高ク橫濶與紅鬃魚異兩傍有紫斑其目白按「メジロダヒ」大者二尺許「タバメ」ニ似テ背淡褐色ニ乄紫斑斜ニアリ

○やぶちゃんの書き下し文

めじろだひ

「大和本草」に曰はく、『目白だひ、肩、高く、橫、濶(ひろ)く、紅鬃魚(たひ)と異(こと)なり、兩傍に、紫斑、有り』と。其れ、「目白」は、按ずるに、「めじろだひ」の大なるは、二尺許り、「たばめ」に似て、背、淡褐色にして、紫斑、斜めにあり。

[やぶちゃん注:畔田が引くのは、「大和本草諸品圖下 ムツノ魚・扁鰺(ヒラアヂ)・笛吹魚・目白鯛 (ムツ(図のみから)・マアジ(地方名)・ヤガラ類・メイチダイ)」である。目白という部分に疑問があるが、私はそこで、

スズキ目スズキ亜目フエフキダイ科ヨコシマクロダイ亜科メイチダイ属メイチダイ Gymnocranius griseus

に比定した。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページによれば、メイチは『東京・大阪など日本各地での呼び名。目を貫くように黒い一文字の帯があるから』としつつ、他に『痘痕(あばた)の方言、「めいちゃ」、「めっちゃ」の転訛』説、単に『目が大きいから』、また、目に『独特の臭みのある油があり、目を傷つけないように注意が必要だから』とされるが、以下で『実際には目の周辺は美味』ともある。

「タバメ」次項参照。]

畔田翠山「水族志」 コロダヒ

 

(一九)

コロダヒ【紀州】 一名ヒサノ魚【大和本草】カイグレ【勢州阿曾】石鯽【日用襍字母ニ石鯽ヒサト云按時珍食物本草曰石鯽生溪㵎池澤中長五六寸斑㸃身圓厚岳州名勝志曰石門縣東陽水出石鯽魚云云皆珍品廣西名勝志曰馬平縣靈泉多石鯽觀ㇾ此則石飾淡水魚也蓋「ヒサト」同名異物也】

大和本草曰久ダヒ其形如紅鬃魚黑㸃淡色味美ナルヿ如紅鬃魚或斜有紋三四條者大者一二尺按形狀棘鬣ニ似テ濶シ背淡黑色ニ乄黑斑首ニ頭ヨリ脇翅ニ至リ一條背ヨリ尾上ニ至リ一條アリ條俱ニ黑色也腹白色尾ニ岐ナシ其小ニ乄二三寸ノ者ヲ勢州阿曾浦ニテ「トシヲトコ」ト云背首頭淡黑色ニ乄靑ヲ帶斜ニ黑斑二條アリ首ニ又一黒條アリテ脇翅ニ至ル背ニ尾ノ方ヨリ黑㸃アリ背鬣淡黒色ニ乄上鬣ニ黑斑下鬣ニ黑㸃アリ尾黑色黑斑アリ腰下鬣本淡黑色端黑色腹下翅色相同脇翅淡黑色㋑サンセウダヒ 一名サンセイウヲ【泉州堺】ヱゴダヒ【尾州常滑】大サ尺許形狀「コロダヒ」ニ同乄背淡靑色ニ乄淡紅色ヲ混シ金色ヲ帶テ赤ヲ帶淡黑斑上鬣ノ下ニアリ金色ノ下ヨリ腹ニ至ルノ間淡藍色腹白色靑ヲ帶眼上黑下淡靑色頰及眼上唇上黒斑アリテ唇ヨリ眼ニ至リ一道藍色ナリ頭上ヨリ脇翅ニ至リ尾上ニ及ビ腹ヲ堺ヒ黑キ大斑アリ背ノ上鬣ノ頭ノ方ヨリ尾上至リ斜ニ巨キ黑斑アリ尾ヅヽノ下ニ黑斑アリ尾淡黑色ニ黃ヲ帶テ本ニ黑斑アリ腰下鬣黑色ニ乄半ニ淡藍色アリ其本ヨリ腹ニ至リ黑斑アリ背鬣上ハ淡黃ニ乄淡黑斑下ハ黑色ニ乄微淡黃色ヲ帶脇翅上黑色ヲ帶觜細シ大和本草曰一種ヒサノ魚黑色ノヒサノ魚ニハ異リ鮒ノ形ニ似テタテ筋アリ其筋ノ色濃淡相マジレリ口細ク背ニ光色アリ味ヨシ卽此也

○やぶちゃんの書き下し文

ころだひ【紀州】 一名「ひさの魚」【「大和本草」。】・「かいぐれ」【勢州阿曾。】・「石鯽(セキソク)」【「日用襍字母」に、「石鯽」、「ひさ」と云ふ。按ずるに、時珍、『「食物本草」に曰はく、石鯽は溪㵎・池澤の中に生ず。長さ、五、六寸。斑㸃、身、圓厚にして、「岳州名勝志」に曰はく、『石門縣の東陽水、石鯽魚を出づ』云々、『皆、珍品なり』と。「廣西名勝志」に曰はく、『馬平縣の靈泉、石鯽、多し。此れを觀るに、則ち、石飾にして、淡水魚なり』と。蓋し、「ひさ」と同名異物なり。】

「大和本草」に曰はく、『久(ひさ)だひ、其の形、紅鬃魚(たひ)のごとく、黑㸃、多し。淡色。味、美なること、紅鬃魚のごとし。或いは、斜めに、三四條の者、有り。』と。大なる者、一、二尺。按ずるに、形狀、棘鬣(たひ)に似て濶(ひろ)し。背、淡黑色にして、黑斑、首に、頭より脇翅(わきひれ)に至り、一條、背より尾の上に至り、一條、あり。條、俱(とも)に黑色なり。腹、白色。尾に、岐、なし。其の小にして、二、三寸の者を、勢州阿曾浦(あそうら)にて、「としをとこ」と云ふ。背・首・頭、淡黑色にして、靑を帶び、斜めに黑斑、二條あり。首に、又、一黒條ありて、脇翅(わきひれ)に至る。背に尾の方(かた)より、黑㸃あり。背鬣(せびれ)、淡黒色にして、上鬣(うはびれ)に黑斑、下鬣に黑㸃あり。尾、黑色、黑斑あり。腰の下鬣(したびれ)の本(もと)、淡黑色、端(はし)、黑色。腹の下の翅(ひれ)、色、相ひ同じ。脇翅、淡黑色。

㋑さんせうだひ 一名「さんせいうを」【泉州堺。】・「ゑごだひ」【尾州常滑。】大きさ、尺許(ばか)り。形狀、「ころだひ」に同じくして、背、淡靑色にして淡紅色を混じ、金色を帶びて、赤を、帶ぶ。淡黑斑、上鬣の下にあり、金色の下より、腹に至る間(あいだ)、淡藍色。腹、白色、靑を帶ぶ。眼の上、黑、下、淡靑色。頰及び眼の上・唇の上、黒斑ありて、唇より眼に至り、一道、藍色なり。頭上より脇翅に至り、尾上に及び、腹を堺ひとして、黑き大斑あり。背の上鬣の頭の方より、尾の上に至り、斜めに、巨(おほ)き黑斑、あり。尾づつの下(もと)に黑斑あり。尾、淡黑色に黃を帶びて、本(もと)に黑斑あり。腰の下鬣、黑色にして、半ばに淡藍色あり。其の本より、腹に至り、黑斑あり。背鬣の上は、淡黃にして、淡黑斑、下は黑色にして微淡黃色を帶ぶ、脇の翅の上、黑色を帶び、觜(くちばし)、細し。「大和本草」に曰はく、『一種、「ひさの魚」、黑色の「ひさの魚」には異(ことな)り、鮒の形に似て、たて筋あり、其の筋の色、濃淡、相ひまじれり。口、細く、背に光色あり。味、よし』と。卽ち、此れなり。

[やぶちゃん注:畔田のマニアックな細部の色の描写によって、これは百二十%、

スズキ目スズキ亜目マツダイ科マツダイ属マツダイ Lobotes surinamensis

である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のマツダイのページの画像や(異名に「石鯽」

学名のグーグル画像検索を見られたい。マツダイの生息水深は四十から二百メートルであるが、幼魚は表層を漂い、枯れ葉や木の枝に擬態し、成魚も流木等に寄って漂うことが多い。汽水域に侵入することが、たまにある。小魚・エビ・カニ・イカ等を食べる。日本では成魚はめったに獲れないが、数センチの幼魚が、夏の終わり頃、流れ藻や流木についたまま、海岸にうち寄せられることがある。背鰭と尻鰭の軟条が長いことから、倒すと尾鰭の中ほどか、それよりも後方にまで達し、まるで三基の尾びれがあるように見えることから、英語では、〝Triple-tail〟と呼ばれている。肉質は柔らかいが、美味である。本邦では南日本、太平洋・インド洋・地中海・大西洋の温帯・熱帯域に広く分布する(「デジタルお魚図鑑」の記載に拠った)。

「大和本草に曰わく、……」これは同書の本体部の「大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)」と、附属する図解説の「大和本草諸品圖下 馬ヌス人・赤(アカ)魚・寶藏鯛・久鯛 (チカメキントキ・カサゴ・クロホシフエダイ・イシダイ)」の記載を参照している。しかし、私はそちらでは、「ひさのたひ」「ひさだひ」を一貫してイシダイの幼魚と同定している。それを変更する気持ちは、ここに至っても、ない。但し、或いは、益軒の意識の端にはこのマツダイが含まれていたと考えることは吝かではない。しかし、後者の図はどうみても、マツダイではないと断言する。

「勢州阿曾」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「日用襍字母」既注だが、暫くサボっていたので、再掲する。不詳。本書ではしばしば引用書として挙げられる。他の箇所での記載を見るに。本邦で作られた日用(といっても上流階級の)される雑字(「襍」は「雜」の異体字)義集か。

「石鯽」「鯽」は通常、本邦では淡水魚のフナを現わし、畔田は、これを採り上げて漢籍を見てしまった結果、以下の割注の不審な異種の引用を齎すこととなってしまった。

『時珍、『「食物本草」……』不審。李時珍の「本草綱目」には、「石鯽」がただ一回だけ、「鯽魚」(鯉の一種)の状に出現するものの、この文字列は、ない(「漢籍リポジトリ」のここの[104-15a]を参照されたい)。そもそもが「食物本草」は元の李杲(りこう)の編である。それにこの文字列が載るかどうかは、ネットに電子化物が見当たらないので判らない。しかし、以下の引用は、話にならない内陸の河川上流の溪谷に棲息する純粋な淡水魚で、マツダイとは無縁である。但し、現代中国では、調べた限りでは、この「石鯽」は海産魚のスズキ目イサキ科ミゾイサキ属マダラミゾイサキ Pomadasys maculatus を指しているようである。まあ、畔田は最後に『蓋し、「ひさ」と同名異物なり』と言っているのでいいのだが、それに付き合わされるのはちょっと難儀やったな。

「岳州名勝志」不詳。

「石門縣」「東陽水」は不詳だが、現在の石門県なら、湖南省常徳市内のここである。完璧な内陸の山岳地帯である。

「廣西名勝志」明の曹學佺の撰になる広西省の地誌。但し、「中國哲學書電子化計劃」で原本影印を見たが、以下の文字列は見出せなかった。そもそも、この「石飾にして」というのは判読の誤りではないか?

「さんせうだひ」「さんせいうを」この異名、不詳。

「ゑごだひ」平凡社「世界大百科事典」によれば、和歌山では、

スズキ亜目イサキ科コロダイ属コロダイ Diagramma picta

の異名である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを参照されたいが、マツダイとは似ても似つかぬ種で、ここに類縁種として挙げた畔田の意図が判らぬ。但し、以下の記載はコロダイっぽくはある。]

2022/05/05

ブログ・アクセス1,720,000突破記念 梅崎春生 傾斜 (未完)

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二三(一九四八)年八月号『世界文化』に発表され、後の作品集「ルネタの市民兵」(昭和二十四年十月月曜書房刊)に所収された。なお、底本解題によれば、『雑誌掲載のとき、末尾に「第一章終」と記されていたが、これ以後書きつがれてはいない』という注記があったので、標題には、上記の通り、未完表記をし、末尾には上記のそれを丸括弧附きで加えておいた。

 底本は「梅崎春生全集」第二巻(昭和五九(一九八四)年六月刊)に拠った。文中に注を添えた。なお、これを以って底本である沖積舎版「梅崎春生全集」第二巻は「風宴」・「蜆」・「黄色い日日」を除いて総ての電子化注を終えた。「蜆」は、偏愛する「幻化」「桜島」を除き(以上のリンク先は私のPDF縦書版オリジナル注附き)、梅崎春生の名品五本指に入れるほど、好きな作品だが、この三篇は向後も電子化はしない。何故なら、「青空文庫」で先に電子化されてしまっているからである。私は単なる私個人の私の慰みとしての電子化は、する気が、全く、ないのである。「幻化」と「桜島」はそちらにあるが、これはパブリック・ドメインになった二〇一六年一月一日から独自に満を持して電子化注をこのブログで開始し(「幻化」はここ、「桜島」はここ)、「青空文庫」のデータは、私の本文では、一切、使っていない。正直、「青空文庫」の「梅崎春生」というと、個人的な恨みがあるのである。その二〇一六年の半ば過ぎ頃だったが、私のブログを批評したネット上の無名ページを発見し、そこでは、私のブログ版「桜島」の、オリジナル注附けを批判し(注の中身に対しての批評ではなくて、詳注を附けること自体が悪いというのだから、失笑物さね。じゃあ、来なきゃいいし、見なきゃいいんだから。というより、『こんなブログを読まないで「青空文庫」にいらっしゃい』感が、これ、見え見えだった訳だ)、それどころか、今じゃボケ過ぎていて大笑いだが、私のことを『「青空文庫」に梅崎春生があるのに、わざわざ梅崎春生の作品を電子化している』暇人呼ばわりしてあったのだ。そんなこたぁ、上のリストの全十六篇という恐ろしい乏しさでは、もう逆立ちしても、言えねえよな? 要はあのブログ(タイトルなし・プロフィルなし)主は同文庫のシンパの、文字通りの闇の「工作員」だったのだろう。因みに言ってやる! 「私の梅崎春生の電子化注は今や、悪いな、工作員! 三百四十篇近くになるぜよ! クソ野郎!」。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが近日内に、1,720,000アクセスを突破する記念として公開する。正直、公開を待つのに飽きただけさ。悪しからず。【二〇二二年五月五日午後八時五十四分:藪野直史】]

 

   傾  斜

 

 その家には玄関がなかった。その上奇妙なことには、便所というものが何処にもついていなかった。

 母家の方は三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]で、それにひろい縁側がついており、家族は其処から出入していた。時にお客があることがあってもその縁側で応対した。どういう大工が建てたのか判らないけれども、とにかく家としてはあらゆる虚飾を切り捨てた裸のままの家であった。ただ住むだけを目的として建てた家のかたちであった。玄関を切りすてた精神は彼にも判らないことはなかったが、便所を省略した気持がどうしても解しかねた。あるいは大工がぼんやりしていて造り忘れたにちがいないとも思ったが、それにしては間取りや採光にこまかい注意がはらわれていた。不注意な大工にはとてもできそうもない配慮があった。

 そこには鬼頭鳥子一家が住んでいた。

 母家からすこし隔てて離れがあった。離れといっても藁葺(わらぶき)の、もとは納屋(なや)かなにかに造られたらしい一棟だが、それを板でふたつに仕切って、片方が厩(うまや)、のこり半分に畳を入れて小部屋となっている。その部屋に彼は住んでいた。そして月額二百円の部屋代を鳥子に払ってした。もちろん納屋造りだから母家にくらべて造作が粗末で、窓だって格子(こうし)はあるが引戸が無く、雨の日は自由に降りこんできた。仕切の板の節穴からは厩がのぞかれた。押入れも棚もなかった。むろん便所など気の利いたものはついて居なかった。だから彼は特別の場合をのぞいて使所は勤め先に着くまで辛抱した。

 母家の前は広い空地で、花苑になっていた。そこには花花がみだれ咲いていた。華麗な季節のいろがみなぎってした。花苑のすみに板を二枚わたし、その下に大きな甕(かめ)が埋めてあって、それが便所であった。板がこいも何もなかった。ただその前に躑躅(つつじ)が二本植えてあったけれども、完全な遮蔽(しゃへい)の役は果してはいなかった。道路とは密生した杉垣でくぎられていたから、見えるおそれはなかったけれども、庭のなかからだと、角度によってはそんなわけには行かなかった。

 鳥子の家は、三人家族であった。鳥子には、花子と太郎というふたりの子供があった。この家族のなかで、彼が初めて逢(あ)ったのは、娘の花子であった。

 革手帳の所書きをたよりに、この家を訪ねあてたとき、玄関らしいものが見当らなかったので、彼は家の前ですこしまごついた。どこで案内を乞うていいのかと、ためらって立っていると、縁側の方から、どなたですか、という声がした。そして、人影がそこにあらわれた。それは女の姿であった。

 縁側に立った女をひとめ見たとき、彼は思わず視線を浮かした。女の顔は、火傷のために、醜くひきつれていた。皮膚に茶褐色の凹凸があって、表情がそれで消えていた。戦野でも、顔を焼いた兵の顔は、たくさん見てきたが、これが女の顔であるだけに、彼は平気になれなかった。すこしたじろいで視線を外(そ)らしかけたが、外らすことがかえって相手を侮辱することになると、彼は気持をひきしめた。そのとき女がかさねて言葉をかけた。

「なにか御用なんですか」

 それは明るく澄んだ声であった。

 彼がこの家を訪ねてきた理由を、すこしずつ話し始めたとき、とつぜん女が彼のことばをさえぎって、口早に問いかけた。

「それでお父さんと、どこで逢ったの。いつごろのことなの?」

 この女が花子であると判ったとき、彼はある烈しい衝動を胸にうけて、思わずだまりこんだ。そうすると花子は、彼の沈黙を落胆と感じたらしく、すこし身体を乗りだすようにして、沈んだ口調になって言った。

「お父さんは死んじまったのよ。船が沈没して――」

 お父さんと逢ったのはどこか、と花子が問いかけた瞬間、それは彼にも感じられたことであった。花子の語調には、あきらかにそのようなものを含んでいたのである。彼は佇立(ちょりつ)して、なおしばらく花子の顔を、こんどはためらわず眺めていた。ある贖罪(しょくざい)に似た気持が、彼の胸にいっぱいになってきた。花子にたいして、償うべきどんな罪も、現実には彼は犯していなかったのだけれども。

 あるいは部屋を貸してもらえるかと思って来たんだという彼の言葉を、花子が素直にうけたらしいのも、彼のこの引け目の気持をまっすぐ感じ取ったせいかも知れなかった。花子はその声と身のこなしで、急に彼の気持に近づいてきた。

「部屋はないこともないのよ。しかしひどい部屋よ」

 花子にみちびかれて、離れの部屋をみたとき、彼はすこしおどろいた。漠然と部屋というものに対する概念が彼にあったから、彼はこの部屋の荒れかたにおどろく気持がおこったので、南の島での生活を考えれば、おどろく筈のことはなかった。それは細長い変な形の部屋で、板仕切でむこうと隔てられていた。今のところが仮住居で、今日明日にも出なければならぬことでもあったし、他にあてもないことであったから、彼はわらでも摑(つか)む気持でいた。

「貸していただくとしても、あなた一存で」

「いいのよ。どうせあいてるんですもの」

 花子はそう答えた。

 その夜荷物をはこんで、彼はひっこして来た。荷物といっても、ほとんどなかった。そして母親の鬼頭鳥子とあった。

 もう四十を少し越えたように見える頑丈な婦人であった。肩の幅など彼よりももっと広いように見えた。坐っている膝の厚みも一尺は確かにあった。きちんと両掌を乗せて、自分達一家のことを簡単に話した。鳥子の眼はキラキラ光り、人を射すくめるような強い光があった。彼は膝もくずさず畏(かしこま)ってその話を聞いた。

「神様の御導きによりまして――」

 家族三人が餓えもせず大過なく現在を暮して居るという話なのであった。離れの部屋も別段貸す必要はないけれども、此の住宅難の時代に空部屋があることは神の意志に反するから、困って居る人に貸すことに決意したということであった。それにしては部屋代二百円は高いと思ったけれども、復員後金に対する観念が彼には混乱して判らなくなっていたから、或いはこの程度が相場なのかも知れないとも思った。

 それから彼は離れに行き、夜具をしいて横になった。この部屋はなにか臭いがすると彼は思った。嗅ぎ慣れた臭いだと思ったが、何の臭いか思い出せなかった。寝がえりをうとうとした時、板仕切になにか固いものがぶっつかる音がした。その音は一寸やんでまた二三度続けて聞えた。彼はおどろいて布団の上に起き直った。板仕切の向うに何者かがいるに違いなかった。彼は暫(しばら)くそうしていたが、またひとつ音がしたので思い切って立ちあがり、土間におりて扉をあけ、月明りの庭をこの棟の反対側に足を忍ばせて廻った。此の離れは何だか細長い造りだった。横木が一本渡してあってそこから首を出しているものは、月の光に照らされて、紛れもない馬の顔であった。

 「馬が!」

 叫びかけて彼はあわてて口を押えた。

 馬はながい頸(くび)を横木にもたせかけ、立ちすくんだ彼の姿を怪訝(けげん)そうな横目で見つめていた。たてがみが耳の辺や頭にふかぶかとかぶさっているが、小さな月の輪の形を宿した瞳のいろはむしろ温く光っていた。彼はやっと驚きから恢復(かいふく)して馬の方に近づいた。

 それは夜の光の中でもかなり老廃した馬の姿であった。彼が近づくと餌でも持って来たと感違いしたものか、顔を彼の方にすりよせながら、しきりに足踏みしはじめた。後脚の蹄(ひづめ)が時折板仕切に触れてかたい音を立てた。先程の音はこれに違いなかった。おれは馬と同居している、という奇妙な感慨が彼の胸をよぎったのはこの時である。馬の鼻息を裸の胸にかんじながら、それがやがていいようもない不思議な感覚となって彼の身体中に拡がって来た。ある過去から現在にわたる長い悲喜を、今この一点に凝集したような切なさがあった。ただその切ない感じだけが、彼にははっきり判った。その他の事はなにも判らなかった。彼は馬の真似のように自分も足踏み始めながら、次第に気持がいら立って来るのを感じはじめた。

 しかし彼は翌日から平凡な顔をして勤めに通いはじめた。都心の事務所まで電車で二時間近くかかった。出勤時刻はさほど厳格ではないのであったが、然し厠(かわや)の関係があるので彼はたいてい早く家をでた。庭の厠を遠慮なく使うよう鳥子は言ったが、夜分ならともかく白日の光の下では彼は其処を使う気になれないのである。軍隊にいる時でも彼は過敏にその意識をまもって来た。見通しのきくところで肉体を曝(さら)すことが、彼には堪えがたい生理的な不安を起させるのであった。此の不安はしかし、彼の内部にひそむ或る意識と頑強にからみ合っていた。それは彼にはっきり判っていた。

 勤めに出るため庭を通るとき、彼の視線はどうしても独りでそこに行く。それは強迫観念みたいに避けられなかった。誰もいないことが確められると彼はほっと肩を落すが、躑躅(つつじ)の花かげにしろい姿体を見出すと、にわかに頭に血がのぼり彼は視線を宙に外らす。恥かしがるべきはおれではなく向うではないかと思っても、顔のほてりが自然にそれを裏切った。鳥子や、花子ですらも、その事には平気で無関心に見えた。羞恥を超えた自然の営みに見えた。

 事務所は京橋にあった。昼間の何時間かを彼はそこですごした。

 郊外の駅からまた歩いて鬼頭家の門をくぐる時、それでも彼の眼は迷ったように花苑の方に流れる。躑躅は紅い花を、藤は青い花房を夕昏(ゆうぐれ)に垂れていた。彼はそれを瞳に収めて離れの方に足を運ぶ。花々は日に日に美しかった。此処だけが別の世界のようだった。此の苑は花子が作ったのかと彼は始め漠然と考えていたが、そうではなかった。花を植え花を育てるのは息子の太郎だった。

 太郎は頭の大きな、黙りこくっているとむしろ陰欝な感じのする子供であった。彼が離れに住むようになっても、太郎はほとんど彼に興味を示さないように見えた。ある日彼が少し早く家に戻って来る途中、道を切れた草原の土管のかげで、四五人の子供が集って賭博(とばく)に耽(ふけ)っているのに気がついた。南の島で彼は退屈まぎれに賭博に熱中した時期があったから、人が四五人集って、それが賭博をやっているかどうかは、感じで敏(さと)く見分けられた。それは雰囲気で判った。草原に入って彼はその群に近づいた。子供達は彼を見てもおそれる気配はなかった。おそろしい人とそうでない人を彼等は本能的に弁別するらしかった。その中に太郎がいた。

 南方で彼はやはり此の年頃の少年たちが賭博に耽っている情景を、何度となく見て来た。しかし内地の風物の中で日本の子供達が骰子(さいころ)を振っているのを見ると、何だか奇妙な感じだった。太郎のような子が骰子の目の動きに一心に打ち込んでいる顔付は少し恐い気もした。南方の子供をながめた眼と、ここの子供をながめる今の彼の眼は、たしかに変化していた。そのことを彼はぼんやり感じていた。その時太郎が顔を上げて彼を手まねいた。

「小父さんもやらないか」

 曖昧な笑いをつくったまま彼はそこを離れて歩き出した。すると太郎は立ち上って追って来た。

「離れのおじさん。俺とやんねえか。あんな子供たちとやっても面白くないんだよ」

「あんな子供たちって、お前も子供じゃないか」と彼は笑いながら言った。太郎は両手を彼の腰に廻して、身体ごとぐいぐい押すようにした。

 しかし暫くの後、馬のいない厩(うまや)で藁(わら)に埋もれ、彼は太郎と向き合って賭博を始めていたのである。始めは彼も退屈しのぎのつもりだったが、だんだん此の遊びに引き入られ始めていた。太郎はなかなか手強かった。勝つと太郎は揶揄(やゆ)するような短い笑声をたてた。彼は本気に殷子をふった。やがて厩から出て来た時には、彼は若干の金を太郎から捲きあげられていたのである。しかし彼は久しぶりに実のある仕事をしとげたような寛(ひろ)やかな感じが、彼の身体を領していることに気付いた。此の感じは長乍・忘れていたものだった。別れるとき太郎は、その中に綺麗(きれい)な花をやるから又やろうな、と言った。

 花は欲しいと思ったが彼は部屋に花をさすべき瓶すら持たなかった。彼はただ咲き乱れた花苑を勤めの行き帰りに一瞥することだけで満足していた。そしてその度に、太郎の丹誠への情熱はどこから来るのかとぼんやり考えた。しかしその事よりも、鳥子が此の庭を菜園とせずに太郎の花苑に任し切りであることが彼には不思議だった。

 鳥子が馬を買い運送の仕事をはじめるについての資金は、夫の兵太郎の殉職に対する船会社の見舞の金であった。しかし運送の仕事は表業で、鳥子は今はもっと利の多い所業に専心しているらしかった。運送業の儲(もう)けだけでも馬鹿にならなかった。朝八時頃になると鳥子はすっかり身仕度して厩(うまや)にやってくる。古い船員服を改造した服をまといゲートルを脚に巻いていた。頑丈な体軀(たいく)だからそれがまた良く似合った。空気を押し分けるようにしてあるいて来る。馬を叱咜(しった)して厩から引き出して荷車の轅(ながえ)につけると、やがて車輪の音を響かせながら何処かへ出て行く。

 夕昏になると鳥千と馬は戻って来る。荷は空の時もあるが、筵(むしろ)におおい隠された荷物が積んであることもある。鳥子はひとりでそれをかついで奥の八畳の間に運び込む。それが米俵らしいこともあったし、塩の袋でもあったし、また何を詰めたか判らない梱(こおり)のこともあった。近隣の話では鬼頭家に聞けばどんなものでも売って呉れるという話であったし、その売買の場を彼は見かけた事もある。それならば運送屋は表むきで、実は闇屋ではないかと始めて彼は気付いたが、しかしもうそんな事には彼は驚かなくなっていた。復員後そんなことには麻痺していた。人を疑うことはなかったが、人を信ずる気持からは離れていた。それで裏切られる驚きはなかった。すっかり八畳に運びこむと鳥子は馬を轅からはなして厩に追いいれる。[やぶちゃん注:「梱」ここは行李に同じ。]

 馬は実にたくさん食べた。

 朝は六時になると鳥子が厩に餌桶(えおけ)を持って来る。それから出発。昼の餌は車に積んで行き、帰って来て直ぐに一度。六時。八時。十一時に食わせる。これはみな鳥子がやった。そして真夜中の二時頃彼が眼をさますと、厩に餌箱を持ってきた音がする。この真夜中の餌だけは花子の役であった。仕切の節穴から覗くと、花千がもつ提燈(ちょうちん)の光のなかで馬は懸命に食べている。花子は薄い寝衣のままそれを見ながら、何時も小声で歌をうたっている。讃美歌であった。それは何時も同じ旋律の同じ文句であった。暗い感じの節だった。

 

  のどけきそらと  みるがうちに

  やがてほのおは  ふりきたれり

 

 馬は温和な表情で、しきりに顔を餌箱に出し入れした。提燈の薄い光のなかでも、馬の影は毛が伸びすぎて脚が畸形にみじかい感じであった。夜みても老廃のいろが濃かった。昼間の光の下で初めて彼がこの馬をながめたときの驚きは、いまでも彼の頭に残っている。それは衰順そのままの影だった。一眼見るなり彼はかすかな嘔気(はきけ)がこみ上げてきたほどであった。夜の馬のすがたの方が彼には親しみやすかった。

 夜になると馬はときどき仕切板を蹴った。最初の中は彼はそれが気になって眠れないのであった。此の馬は昼中あんなに働いてくる癖に、夜中になってもほとんど眠らないらしかった。馬は眠らなくとも彼は眠る必要があるので、彼は馬に対してあまり面白くない気特であった。ある日彼は勤めの帰りに睡眠剤を買いもとめて来た。馬に服用させる心算(つもり)なのである。四辺(あたり)が寝静まってから彼は薬を湯でとき、人参のはだに塗りつけた。厩に行って、横木から首をだしている馬の鼻面にもって行った。そうしながら、此の薬を馬に服用させるより自分が服用した方が早いのではないかと、ふと気付いた。

 馬は白い歯を見せてそれをくわえ、そしてパリパリと嚙みくだいたが、急に嚙むのを止めてじっと彼の顔を見た。食べるかといくぶん危惧(きぐ)の念でながめて居た彼は、青く澄んだ馬の視線をとつぜん受けて、少しばかりたじろいだ。いいようのない羞恥が彼の胸いっぱい拡がってきた。彼はそれを辛抱しながら、じっと馬の顔を見返してレた。すると馬はやがてかすかに頸(くび)を振って、顎を動かし始めた。嚥下(えんげ)してしまうと長い舌を出してゆっくり口の端を砥めた。そして首を垂れた。彼は部屋の方にとってかえしながら、馬は何もかも悟ったに違いないとかんがえた。

 しかしその夜も馬は眠らぬらしかった。何時もよりかえって板仕切を蹴った度数は多いようだった。薬の量が少かった為にかえって逆に亢奮(こうふん)させる結果になったのかも知れないと思ったが、もいちど試みる気持はもはや失せていた。馬を誑(たぶ)らかそうとしたこと、そしてそのことで馬に羞恥を感じたことが、彼の心にある意識となって強く作用していた。

 この瞬間からこの馬は、たんに彼の棟の同居人だけではなく、ひとつの親近な存在として彼の心の一部に投影しはじめていた。彼は勤め先のうすぐらい室でぼんやりしている時など、ふと馬のことをおもいだした。おもいだしさえすれば、あの澄んだ瞳や老いぼれた毛並が、現実に眼の前にあるときよりももっと鮮烈にうかんできた。

 朝起きると直ぐ彼は床を離れて厩の前に廻る。横木に頸をもたせた茶色の馬の眼球のなかに、朝の花苑の風景が凝縮されて映っていた。その風景の中でも花々は朝風に小さく小さく揺れていた。それを見ると彼は何とはない親しさと安らぎが胸に湧きおこってくるのを覚えるようになった。

 

 鬼頭鳥千という女は、誠(まこと)に風変りな女のように彼には思えた。

 まず最初のうちは彼は鳥子の働きぶりに驚いた。終日馬を引いて歩きまわり、戻ってくると手まめに馬を世話し、それがすむと家事のきりもりや客の応対に従事する。夜中の餌だけは花子の仕事らしかったが、その他のは全部鳥子がした。疲れを知らぬ風であった。これに彼は圧倒された。

 背は五尺三寸ほどもある。和服を着ているときも堂々としているが、男の古服をきて馬車の先にたつと、にわかに凛(りん)として来て、動物精気とでもいいたいものが身体中に漲ってくる。眉が濃く、切れながの瞼からくろい瞳が力づよく動いた。誰と話すときでもこの瞳はぜったいにたじろがない。顔の皮膚も油を塗ったように艶やかにひかった。声はわざとおさえたような裏声だが、言葉遣いは気味悪くなるほど丁寧(ていねい)であった。あるいはその逆効果を意識して使っているのかもしれなかった。

 奥の八畳間は鳥子がどこからか運びこんだ物資でいっぱいらしい。夜になると食料をもとめに来た近所の内儀(おかみ)やブローカーらしい身なりの男と、鳥子は縁側で折衝している。鳥子は和服をきちんと着こなして、両掌を膝の上にそろえ大きな座布団の上にすわっている。あがれと言わないから買手は足を沓脱ぎに置き、尻をなかば縁にかけた姿勢で、身体をねじって応対しなければならない。鳥子の姿勢はすでに地の利を得たという感じであった。応対に際しては鳥子は自分の言いだしたことは絶対に曲げないのである。しかし言葉はきわめて鄭重であった。

「さようでございますか。さようでございましても、私どもの方はこれ以下の御値段ではお分けできないんでございますのよ。お宅様の御事情もお察し申すんでございますけれどねえ」

 鳥子の頰にはそんな時ふしぎな笑いがうかんでいる。それはつくった笑いでもなければ、得意そうな笑いでもない。心からうれしげな微笑である。買手はそれでまごついてしまうのだ。鳥子の売値はけっして安くない。時とすると市価を上廻る。買手がそれを言いだすと鳥子の顔にふと当感の色が浮ぶ。それは自分の売価と市価と、どんな関係があるのか判らないといった表情であった。

「それは大変でございますわねえ」

 そして溜息をつく。溜息をつくのも、相手が市価などを言いだす蒙昧(もうまい)さに溜息をついているので、鳥子としては自分の商品が市価に左右されるということが心から解せない風であった。

 鳥子が基督(キリスト)教徒であることは、最初の日会った時の口なりで彼は知っていた。朝仕事に出かける前に縁側に卓を据(す)え、鳥子は仕事着のまま大声で聖書の一節を朗読したり讃美歌をうたったりする。その声は彼の部屋まで聞えてくる。格子窓から覗(のぞ)くと縁側にいるのはいつも鳥子と太郎だけであった。祈禱(きとう)をする鳥子のまえに太郎がおおきな頭をたれて神妙にすわっていた。花子は姿を見せないか、苑の花卉(かき)の前にしゃがんで指でさわっていたりする。しごく無関心に見えた。時にその横顔が彼にも見えた。花子がこの異相になりながら、母親の祈禱に背をむけているのは彼には一応ふしぎに思えたが、しかし花子がその風貌で祈禱をささげる情景をもし見たら、おれは顔をそむけるに違いないと彼は思った。

 しかしそれよりも彼には鳥子の信心が不思議でならなかったのだ。あのように聖書を読んだ後できわめて平然と馬車をひき闇商売にでてゆく鳥子の心理が、彼には解釈できないのであった。彼はしかし鳥子の信仰は疑わなかった。鳥子が大声で聖書をよむ声をきいても、彼はその声から誇示とか擬装とかは感じとれなかった。没我の境にあることが肉体で感じられた。贋の声ではない。そして鳥子は信仰について語りだす時、その眼がひとしお強くキラキラと輝いて来る。

 夜厩に餌箱を持ってきて、馬がそれを食べ終るまでの間、時に鳥子は気紛(まぐ)れのように彼の扉をたたくことがある。夜はたいてい和服なので、恰幅は田舎の女地主みたいな感じをあたえる。窓に引戸がないので雨に畳のはしが濡れてふやけているのを避けながら、鳥子はどっかと坐りこむのだ。せまい部屋が鳥子がひとりで一ぱいになったように見える。彼は一つの感じが胸にあるから、もし寝転んでいればそのままの姿勢で起き直ろうとしない。はじめは意識して冷淡なポーズを取っている。

 気紛れのように来るといってもそれが初めからその積りであるらしい事には、鳥子はいつも蒸したパンや蜜柑(みかん)をたもとから出すのだ。そしてそれを彼にすすめる。それから色々彼に話しかける。兵太郎と会った時の話を聞きたがったり、彼の過去を根ほり訊ねたり、また自分の一家の話をしたりする。声は相変らぬおさえつけた裏声だが、話し振りにへんに浮ついた抑揚がまじる。幽(かす)かだけれども彼はそれを敏感に感じとっていた。

 「信仰の道にお入りなさいませよ。不破さん。こんな世の中になりましては、神様だけがほんとにおたより出来るものでございます」

 鳥子が持って来たパンなどを食い欠きながら、彼はそんな話を聞いている。勿論彼は信仰にはいる気特など全然ないので、始めのうちはいい加減に聞きながして居るが、そんな場合の鳥子の態度はなにか年歯もゆかぬ子供にたいするような変に訓(おし)えるような優しさを帯びて来るので、彼は自分でわかっていながら段々いらだって来るのだ。わざと鳥子の言葉に反対したりする。どんなに意地悪く反撥しても鳥子が怒らぬことは、肉体的な直覚として彼は感じ取っていた。

「しかし小母さん。そう言うけれど、僕は今の世の中を悪いとはおもわないな。僕には信仰は要らないのだよ」

 突っぱねたような彼の言葉を、鳥子はれいの微笑をたたえて聞いている。不破の言いかたが判らないといった笑いである。しかし眼だけは強い光を帯びて執拗に彼にそそがれている。

「此の世はほんとに濁っておりますのよ」

 此の世を悪くするのも鳥子たちが闇をやるからではないのかと、彼は心の中で忌々(いまいま)しがるのだが、流石にそれは口には出さない。ただ言葉尻だけで反撥するだけだが、自然自分の反対の仕方が子供の駄々じみてくるのが判るのだ。

 やがて鳥子が部鼠から出てゆくと、彼はやっと解放された気になる。疲れているのが判る。肩臂(かたひじ)張って相対したあとの感じであった。鳥子がきたあとのこの部屋は、いつもの厩の臭気にまじって、なにか一種の香がただよっている。鳥子の体臭と香料の匂いが微妙にいりまじっていた。その匂いはなにか予感じみた戦慄を彼に与えた。彼は毛布に横たわり燈を消してじっと眼をつむっている。

「こうしては居られない」

 そんな気持であった。とにかく今のままの中途半端な気持では過して行けないことだけが彼にははっきり判っていた。しかしどうしていいのか判らなかった。彼は暗闇のなかからするどく鳥子の体臭だけを引出して嗅ぎながら、ふてくされた自分の姿勢を持てあましていた。その体臭は、南の島で彼の肉体を愛したある曹長の体臭に似ていた。

 彼は少年時をストイックな家庭で育った。学校を出るとすぐ会社に勤め、そして召集を受けた。自分がそんな対象になり得るということを自覚したのは、此の荒くれた世界のなかであった。それは受身にしろ彼には背徳の感じが強かった。しかし彼は拒み切れなかったのである。それを拒むということが軍隊の中でどの位住みにくくすることか、同時にそれを受け入れるという事がどんな利益になるものか、彼は本能みたいに嗅ぎとった。心の弱さであると言えば言えたが、どの途(みち)戦死するのだという気持がそれを支えていた。しかし破倫の感じは執拗に残った。

 部隊をかわると必ず新しい相手ができた。腐臭を遠くから知る蠅(はえ)のように、それは正確に彼に近づいた。相手同士の鞘当(さやあ)てもあった。それらを彼はひややかに眺めていた。そして彼も南の島に渡った。

 その頃から感覚的な喜びが彼にないでもなかった。それは尾を引く背徳不倫の感と一緒になって、背に粟(あわ)立つような感じであった。彼は時に背囊(はいのう)に秘めた手鏡を取出して眺めた。毛穴の立ったような此の容貌のどこが良いのかと自らを嫌悪する気特に陥ちたが、それは戦争末期の孤島の荒涼たる世界の中では、そんな気持も感傷に思えた。その頃彼はある曹長に愛されていた。

 そんな経験の中で、彼はその意図をもって近づいて来る男をひとめで弁別できる直覚をつくりあげていた。多数のなかから一瞥(いちべつ)で指呼し得た。その瞬間に彼の全肉体は、不知不識(しらずしらず)の中にそれに呼応するようにうごいた。自ら気付いて浅間しいと思うのだが、肉体がそれを裏切った。肩の力をおとし、四肢からだるく力が抜けて来る。もちろん現実の肉体の形には出ず、気持の姿勢に過ぎなかったが、相手は生物の敏感さでそれを感知するらしかった。この男とのこれから先の経過を、彼はもはやひややかな心で計量し始めている。そして同じような態度と言葉遣いで近寄ってくる逞(たくま)しい肉体を、手練手管を知りつくした娼婦の心で彼はさげすむのであった。しかも自分の冷たさが充分の魅力であることも、それ故にかえって相手の心をかき立てることもはっきりと知っていた。

 ――烏子と最初会った時もある感じがあった。それは体臭から来るあの曹長への類推が、鳥子の頑丈な体軀の印象にたすけられて、彼にそんな錯覚を起させたものらしかった。それは倒錯した感じではあったけれども、背徳の感じはなかった。彼は四肢がぬけて行くようなあのだるい感じを遠くかんじながら、鳥子の強い視線を受けていた。此の女は組しやすいという考えが頭のどこかで動いていた。

 しかしそれも完全な錯覚にちがいなかった。鳥子がそんな簡単な女でないことは、判るのに日時を要さなかった。そして彼は無意識の中に鳥子の本態を知りたいと努めていることに気付いた。夜の対座で彼はわざと鳥子に冷淡な態度をとっていた。女から見透されまいと思うからであった。そんな彼を鳥子はふしぎな微笑で眺める。すると彼は独相撲(ひとりずもう)だと判りながら変にいら立って来るのであった。

 しかし鳥子への関心は、彼が鳥子と逢(あ)っている時だけであった。姿が見えないと彼はこの更年期の女の存在を忘れてしまう。想い出すことがあるとすれば、それは花子の母親としてであった。その意味では、あの異相を持った花子の存在は、当初から大きく彼の心を占めているようであった。

 

 此の家のある一帯は焼けた様子もないのに、何故花子にだけ顔に火傷の跡があるのかと、彼は初めからそれを疑間におもっていた。ある夜鳥子が空襲の話をした時彼はさり気なく言葉尻をとらえてそれを聞いてみた。そのとき鳥子はふと緊張した表情をつくった。鳥子は彼の部屋で色々話しこむくせに、不思議に娘の花子の事にはほとんど話題をふれなかった。彼はその時鳥子がその表情の中で、ある強い感情を押えようとする気配を見た。

 その時の鳥子の話はこうであった。花子にはもともと許婚(いいなずけ)みたいな男があって、ある爆撃の日にその男のすむ町ヘ沢山焼夷弾が落ちた。それと知って花子は男を救うつもりか、厳重に身装(みごしらえ)してその町へ出かけたというのである。花千が着いた時はそのあたりは一面の火の渦で、うろうろしているうちに火が背後からもあがり退路を絶たれ、ついに顔を焼かれる程の怪我をうけて誰かに救い出されたのだという。

 「何という馬鹿な娘でございましょうね、ほんとに」

 鳥子は溜息とともにそうつけくわえて微笑をうかべた。彼はある痛烈な感じでその話を受取った。彼が黙っていると鳥子がかさねてつけ加えた。

「あんな顔になりましてから、神の道にでも入れば宜しゅうございますものを、昔を忘れようという積りでございますか、アルバムのなかから自分のもとの写真だけを全部剝(は)ぎとりまして、庭先で皆燃してしまったんでございますのよ」

 彼は鳥子の祈禱(きとう)に背をむけている花子の姿を思い浮べていた。神の道に入ればいいといった鳥子の口調は、匙(さじ)を投げたといった風の詠嘆があったが、彼の瞼裏に浮んで来るその花子の姿勢は拗(す)ねたという感じではなかった。縁側にむけた背には意志的な冷淡さがあった。そこには一脈の哀れさがあるとも見えたが、心理的な類推から生ずる哀れさではなかった。何か昆虫などが持つような、非情の哀れさであった。

 同じ家の中に起居する同居人として彼は花子に近づき、そして隔てなく話したり冗談をすら取りかわす間柄に今はなっていた。最初の日花子に会った印象、あの理由のない贖罪(しょくざい)の感じはほとんど彼の心から消えかかっていた。消えかかるというよりは外の感じに変形しはじめていた。花子は自分の容貌がこんなになった事を、少しも悲しんでは居ないようであった。少くとも今は彼にはそう見えた。花子の声が明るい声だと思ったのは顔の印象が暗いからそう感じたので、つき合ってみると本当は冷たい澄み切った声だった。表面だけはすべてを言葉でそして人を小馬鹿にした口吻(こうふん)で割切っていた。いわば花子はこの家の形のように、自分の心からも玄関や厠(かわや)を切捨てた感じであった。しかし彼は時折花子と冗談を交しながらも、何か確めたい念でことさら視線を花子の顔に置いた。しかし花子の表情にはすこしも不幸の影はないょうであった。ないにも拘らず彼は花子から不幸の臭いを嗅ぎ出そうと努めている自分に気付いた。俺はやくざな犬みたいだ、と彼は思うのであった。

(此の女は仮面をかぶったつもりで安心しているのではないか?)

 躑躅(つつじ)の花蔭で肉体をあらわして恥じないのも、花子の童女的な無心からきているのではないかと彼は思ったことがある。そのような無心さに見えるものは確かに今の花子にあった。しかし花子が顔を焼いたのも許婚の男故だという話を聞いて以来、その無心さも彼には疑わしい気がしていた。けれども花子は何の身振りもないさばさばした態度で彼に立ち向っていた。

 それにも拘らず彼は花子が不幸であるに違いないという念を捨て切れないでいたのである。それは単に花子の異形から来るのではなかった。彼の胸の中に造り上げられた過去の花子の像と、現在の花子の姿の間に横たわる空白の距離を思うゆえであった。花子が写真を全部焼いたという話が、鋲(びょう)のように彼の胸に突きささっていた。花子はそれで過夫を全部消したつもりでいる。そう思うと彼は痛烈な喜びとも悲しみともつかぬ感情が胸につき上げて来るのを感じるのであった。花子は全部焼き尽した積りでいるが、少くとも一枚だけは地上に残っている。それを花子は知らない。その一枚を、彼が持っている!

 離れの部屋の行李(こうり)の中に、彼は一枚の手垢(あか)に黒ずんだ写真を初めからひそかに秘め隠していた。それは花子の十七歳の時の写真であった。大きな綺麗(きれい)な眼をしたその花子は、ふくよかにわらっている。それは三年前南の島の酒場で、その夜初めて会った鬼頭兵太郎の船員服のポケットから、兵太郎の泥酔に乗じて盗みとったものであった。勿論一夜の行きずりの一船員からそんな写真を掠(かす)めとる気になったのも、彼のすさんだ悪戯(いたずら)心に過ぎなかった。けれども彼はそれからの長い荒くれた生活の中でも、不思議に此の写真だけは手離さないで来た。彼は時々それを取り出して眺めた。それは再びもどって行げない世界への郷愁を伴って、彼の瞼に次第に色濃く焼きついて来るようであった。戦局が苛烈になり死が間近に意識されて行くのに比例してその感じは募った。死への不安を韜晦(とうかい)する為にも意識を他の一事に凝集することが兵隊の本能的な必要事であったが、彼の場合は此の写真がそれであった。山中に追い込められて飢餓に苦しみながらも、彼は之を守袋のように身体に秘めていた。そして戦争は終った。

 此の家にやって来て、花子がこんな異相になった事を知った時の感じを、彼は今でもはっきり想い出せる。それは形あるものが頽(くず)れ壊れて行くのを探りあてたような感じであった。自分がこうして生き残るためには、こんな犠牲が必要であったのかと、その夜彼は乾いた口の中で呟(つぶや)いたが、その感傷も彼の胸の中だけに投影し、胸の中だけで散乱した。それは彼だけの問題であった。現実の花子とは何の関係もなかった。現実の肉体を具えた花子に対して、彼は新しい関心をもって接触し始めていた。

 鳥子から花子の話を聞いてから一週間ほどもたった。どんな話のきっかけだったか忘れたが、彼は花子にその事を訊ねてみた。花子は苑にしやがんで花卉(かき)をいじっていて、彼はその側に立っていた。花子の背中の白い筋肉が彼の眼から見下せた。

「空襲の中を許婚(いいなずけ)の人を探しに行ったそうじゃないか」

「誰がそんなことを言ったの」

「大した情熱だと感心したんだよ」

「お母さんだ。きっとお母さんだ」

 使っていたちいさな花剪(はなきり)を取りおとして立ちあがろうとしたが、又思い直したように腰をおろした。花剪を拾いあげて小さな花をパチンと切り落した。そして平静な声で言った。

「あれはね、そんなんじゃないのよ。私は火事を見るのが好きなのよ。私は火事を見物にいったんだわ」

「だってそこに許婚はいたんだろう」

「お母さんだね、そんな事を言ったのは」

 彼は花子のしろい襟(えり)筋を這う一匹の黒蟻をながめていた。しろくなめらかな襟足であった。花子は暫(しばら)く黙っていたが、とつぜん早口で言った。

「あの男のことだって、お母さんは私を嫉妬していたのよ。私はその男は好きでもなんでもなかった。お母さんは誤解しているのよ。私があの男にかかわると気狂いみたいに怒ったわ。そんなのあるかしら。あの日だって火事見にゆくと言ったら、カンカンになって私をとめようとしたのよ。とめるから私は行っちまった。あの男の町が燃えてるということ、そんな事は私は心配じゃなかった。ただ街が壮烈に燃え上るところが見たかったのよ。その男のことを心配してたのは、むしろお母さんよ。心配して心はおろおろしている癖に、平気そうに落着いたりして、そして私が行こうとすると怒るの」

「で、男は焼け死んだの?」

「どうだか知らない。その後訪ねて来ないから死んだんでしょう。私も危く死ぬところだったのよ」

「どうしてそんな危いところまで行ったんだね」

「だってしかたがなかったわ。いつの間にか火が取り巻いていたのよ。気がついた時は病院にいたわ。お母さんがやってきたけれど、お母さんの顔ったらよその人みたいな気がしたわ」

 彼は花子の横顔を探るようにながめていた。花子は掌を上げて蟻(あり)を払いおとすと、ゆっくり立ち上った。そして花を手にそろえたまま縁側の方にあるいた。絹靴下に包まれた脚の形はすんなりと美しかった。縁に腰をおろすと彼の方に顔を振りむけた。

「私何だか詰らない事をおしゃべりしたようね。詰らない事聞くんじゃないわよ」

「お母さんが基督(キリスト)教になったのは、その時からなんだね」

ふと思い付いて彼は訊ねた。

「あら、何故? それはずっと前からよ。お父さんが生きてるときからよ」

「お父さんはまさか、基督教じゃなかっただろう」

 花子は短い笑声をたてた。

「お父さんはね、そんなものを信じるものですか。もっと立派なの。私に色んなことを教えて呉れたわ。でも船にばかり乗っていて、ほとんど家によりつかなかったわ。神戸にお妾がいたの。それを知ってからお母さんは基督教になったのよ」

 彼は沓脱石(くつぬぎいし)の上に立ったまま、ぼんやり家の内部を見廻していた。縁側に沿って六畳と四畳半がある。奥の八畳はからかみに隔てられて見えない。彼は今ずかずかと上り込んでそこを開き、内部を一眼見たい欲望にかられていた。

「此の家はお父さんが造ったんだね」

「そうよ。自分で設計したのよ」

「お父さんは何故、厠(かわや)を造り忘れたんだろうね」

「忘れたんじゃないわ。忘れるもんですか。初めからわざと省(はぶ)いてあったのよ」

「何故省いたのだろう」

「そのうちにつくるつもりだったんでしょう」

 事もなげな口調であった。此の言葉は、ふと鮮かに兵太郎の俤(おもかげ)を彼の頭によみがえらせていた。

 暫くして彼は離れに戻って来た。しき放した毛布の上にあおむけになり、彼は眼を閉じた。

 ――花子は鳥子を憎んでいるな。

 彼は冷やかにそう思った。自分と関係ない愛憎を眺める時、彼は本能的に距離をつくるのが習慣であった。そのことは彼に氷のような喜びをもたらすのであった。彼は鳥子が花子のことを話した時の、表情の緊張を想起していた。それは鳥子の方も花子に対してひとつの構えを持っているしるしであった。

 彼の目に大きく今鬼頭兵太郎の俤が浮び上って来る。

 それは南方の或る島の、小さな港にあった酒場であった。酒場というより居酒屋といった方が良い位の汚ない所だったが、そこで彼がひとりへんな臭いのする地酒を飲んでいると、すでに酔っぱらった兵太郎が入ってきた。防暑服を着た大きな体に薄いレインコートをひっかけていた。身体のこなしに船員特有の無雑作さがあった。いきなり彼の卓に近づくと、

「酒を飲む時は胸を張って飲むんだ、胸を」

 彼の肩を頑丈な掌でぴしぴしと打った。それから二人は同じ卓で飲んだ。初対面でそんな態度だから、初めは粗暴な男かと思ったが、一緒に飲んでみるとそうでもなかった。もう相当年配らしかったが、笑うと眼尻のあたりが無邪気だった。こんな事も飲みながら言った。

「日本は敗けるね。どの途(みち)勝ちっこは無い」

 此のような言葉を弄するのは兵隊の中にも間々(まま)いたから、その類の逆説をよろこぶ単純な露悪家かとも思ったが、次の言葉をきいて彼は少し驚かされた。

「そして俺はそれを望むんだ。早く日本が亡びてしまえばいいと思っている」

 何故と不破が問い返したら、兵太郎は、日本は嘘(うそ)付きだからだ、と答えた。

「領土が欲しいなら、そう言って戦争始めたら良いんだ。それに共栄圏とか領土に野心を持たぬなどとか、偽善だよ。偽善はいけないよ。本当の事言わなくちゃならん」

 それから色々話をした。兵太郎はひどく酔っぱらって軍人の悪口をずいぶんした。軍人だって人間ではないか。大義に生きる、などという言辞を誰が信ずるのか。死ぬのに何故そんな言い訳(わけ)が必要なのか。

「俺はまわりくどい事は全部嫌いさ。単純でないものは全くやり切れん。自分の此の眼で見るんだよ。(彼は自分の眼を指さした)此の眼で捕えたものだけが本当だよ。その他のものは信用出来ん」

 俺は鬼頭兵太郎だ、船員の兵太郎だと、その時始めて名乗った。そして彼の革手帳に東京の住所を書き付け、帰還したら遊びに来いと言った。

 ポケットから娘の写真を出して見せびらかしたのもその時である。それから彼は娘の自慢をした。そんな時は楽しそうであった。兵太郎はそして不破の顔を見ながら、君は女みたいな顔をしているな、と言った。

「ほんとに女みたいな身体つきをしているな。兵科はなんだね。あててやろうか。衛生科だろう。衛生科には、よく君みたいのがいる」

 泥酔した兵太郎をかかえて、酒場を出て船着場まで歩き、其処でわかれた。花子の写真はその時抜き取ったのである。その後彼は兵太郎と再び会わなかった。――

 一夜会っただけにしては、兵太郎の印象は彼の胸に深く残っていた。あの時兵太郎は花子の自慢をしたついでに、ふと淋しそうな自嘲の色を浮べて、俺はしかし結婚には失敗したよ、と呟(つぶや)いた。聞き取れない位低い呟きだったが、不破はそれをはっきりと心にきざんでいた。

 兵太郎の肖像画はしかし、鳥子のあの八畳間に額となって掛けられている筈である。不破はそれを眼で見た訳ではない。しかし知っている。太郎が書いた綴方で読んだのである。その綴方というのは、彼が太郎から賭博でまきあげたものだ。

 勤めの方も、だんだん彼は情熱をなくしていた。なんだか事務所も戦前とちがって、おそろしく内容が乱れているらしく、ほとんど仕事らしい仕事も、彼には与えられなかった。余計者という感じが、つねに彼にまつわっていた。この感じは、すくなからず彼をくるしめた。

 昼過ぎには家に戻り着く日が、こうして多くなった。鳥子は勿論何時も留守だが、花子も何処かへ出かけて居ないことがある。そんな時太郎は何時も彼の部屋にやって来た。扉を細目に開いて太郎の大きな頭がのぞく。太郎が覗(のぞ)く時は決って二人が留守の時だから、彼も安んじて厩(うまや)の中に入って行く。藁(わら)に半身埋もれて代る代る骰子(さいころ)を振るのであった。

 子供を相手にしてという自嘲が時に湧かぬでもないが、それを圧するひそかな楽しみがそこにあった。賭博をやって居る時の太郎はふしぎに彼に子供を感じさせなかった。大人の感じかといえばそうでもなかった。沈欝な容貌で巧妙に骰子を振る。彼も一所懸命だが、大抵勝負は同率であった。

 その日は彼の勝ち番であった。彼は太郎の金を全部捲き上げていた。太郎は憂欝そうにポケットをあちこち探し、そして折り畳んだ紙片を彼に差し出した。

「よし、これを賭けた」

 骰子を振ってそれも捲き上げた。紙片を拡げて見たら、稚ない字で文が綴ってある。僕の家という題の太郎の綴方であった。

 

 ボクノ家ニハ庭ガアル。イチジクノ木ガアリマス。オカアサンハ毎日ハタラキニ行キマス。ネエサンハ色ノシロイ女デス。オ父サンノシャシンガカケテアリマス。八丈ノヘヤノカベノ上デス。馬ゴヤニハウマガイマス。畠ハボクガツクルガネエサンハカッテニ切ッテシマウ。

 

 これで終っていた。欄外に赤インキで、平仮名で書きなさい、と教師の字で書いてあった。彼が読んでいる間太郎は少し照れてもじもじしていた。

「お母さんを好きかい」

「きらいだよ」はっきりした返事だった。

「何故」

「嘘ばかりついてるからさ」

「嘘って、君につくのか」

「ううん」曖昧に首を振ったが急に怒ったように「それ返してくんねえか」

 彼はも一度綴方の上に眼を落し、それを丁寧(ていねい)にたたんでポケットに入れた。太郎の眼がそれを追った。

「姉さんは好きかね」

 太郎は眉間に皺(しわ)を寄せて黙っていたが、何か思い付いたように言った。

「姉さんが小父さんのことを言ってたっけ」

「へええ。何と言ってたね」

「姉さんは昔はあんな顔じゃなかったんだぜ」急に声をひそめて秘密を語るような顔であった。

「知ってるさ。で、何と言ったんだ」

 太郎はずるそうな笑い声を立てた。そして言った。

「綴方返して呉れるなら教えてやるよ」

「あんなことを言ってる。姉さんが何も言うもんか。太郎も嘘付きだからな。何も言やしないんだろう」

 太郎はふと顔を彼にむけて、まっすぐに眼を据えた。眼が濡れたようにキラキラ光って彼を押した。それはあの鳥子の眼にそっくりだった。怒ったのかと彼はひるみ、なだめる言葉を思わず口にしようと思った時、急に太郎は立ち上って出口の方に後すざりしながら表情を卑しく歪めた。しかし眼は彼に釘付けしたままだった。卑猥に唇を曲げて嘲弄するような口調であった。

「やあい。気にしてら。やあい。教えてやろうか。ほんとに教えてやろうか」

「ああ、教えて呉れ」

 彼は静かに言ったつもりだった。太郎は午後の日射しに影を黒く地上に躍(おど)らせながら、そのまま後すざりして逃げて行った。彼は藁(わら)に半身埋めたままそれを見送った。藁の温(む)れた臭いが身体の四辺に立てこめていた。

 しかしそれからも太郎は、皆が留守になると平気な顔で大きな頭を扉口にのぞかせた。そして彼も平気な顔で太郎を連れて厩(うまや)の中に入って行った。綴方の事は太郎はもう忘れたように見えた。

 時々彼は夜が更けて太郎の綴方を取り出して読んだ。そして何時も、姉さんは色が白い、という箇所まで来ると、花子の顔は代赫色(たいしゃいろ)ではないかと思うのであった。しかし太郎が言うのは花子の身体の色のことかも知れなかった。そう考えると直ぐ、彼は代緒色の仮面に似た顔の下に続く花子の肉体を聯想(れんそう)した。形の良い脚や蟻のはっていたしろい背筋や、夜中厩に来るのを節穴から覗いた情景が、なまなましく浮び上って来る。彼は行李(こうり)の中から垢(あか)染んだ写真を出して長いこと眺める。花子の肉体に激しい興味を持ち始めていることを、今彼は一種の戦慄を伴って自覚するのであった。しかしそれは現実の花子に対してなのか。それを思うと彼は惑乱した。

 最初花子を見た時のあの感じは、既に彼の心の中で形を変えていた。それは奇妙なことだったが、憎悪の感情に酷似しているのだ。彼は花子の異相を見ると何か復讐じみた気持が幽(かす)かに起って来るのを感じていた。しかしその気持は一皮剝(は)げばあの贖罪(しょくざい)の思いに他ならぬことも彼は肉体でもって感じていた。

 あの南の島の汚辱に満ちた生活の間、彼は花子の写真に対して、しばしばある罪を犯していた。しかし彼の今の感じでは、その瞬間だけは純粋であった。それは汚辱の記億としてではなく、清冽(せいれつ)な高揚として彼の気持にとどまっている。何故あの数々の汚れた行為が清潔に思い出されて来るのか。彼はそう考えると、もはや破局的な予感なしには花子の肉体を思い浮べることは出来なかった。

 戦場にあった時と同じように、ふたたび自分をじりじり辷(すべ)りおとす傾斜のようなものを、彼は感じはじめていた。彼はひとりでいるときなど、そこから脱出する自分を思いふけっていたりした。その意図のなかでは、彼は奇妙なことだが、あの老馬にまたがって、ドン・キホーテのように果てしなく歩きつづけていた。そのような空想に乗っているのを意識すると、彼はなんとなくいやな気がした。(第一章終)

南方熊楠の研究者の方より貴重な論考を御提供戴いた

南方熊楠の研究者の大和茂之氏より貴重な論考を御提供戴いた。それを元に、先般、公開した『山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』に補正を加える。ここのところ、鬱気味であったので、非常に嬉しい。

多滿寸太禮卷第三 强盜河邊惡八郞が事

 

        强盜(ごうだう)河邊(かはべの)惡八郞が事

 

  元享(げんこう)年中に、和州三輪郡(みわこほり)に、川邊惡八郞といへる强盜の大將、有《あり》。

 かれ、幼(いとけな)き比《ころ》、父母にをくれ、叔父に養はれ、おさなき時より、生れつき、余の者に勝(すぐ)れ、强力(ごうりき)にして、身、かろく、足、はやき事、鳥の飛(とぶ)がごとく、いかなる駿馬(しゆんめ)もつゞきがたし。

 十一歲にて、叔父(おぢ)の供して、南都に赴(おもむ)く。

 路(みち)にて山賊にあひ、叔父、已に組みしかれ、危(あやう)く見へしに、賊(ぬすびと)の喉笛に喰付(くひつき)て、終可(つひ)に、くらいはなし、叔父を助けたりしかば、世に「惡八郞」とぞ呼(よば)れける。

 從弟なる者と妻を諍(あらそ)ひ、打ち殺したれば、所の住ひ、成《なり》がたく、浪牢の身となりて、爰《ここ》かしこ、さまよひけり。後には、强盜(ごうだう)、數(す)十人したがへ、宇治大路、小幡(こわたの)山中(やまなか)に出《いで》て、切取(きりとり)・追剥(おひはぎ)して、世を世ともせず、をくりけり。年、いまだ三十をこへず、せいは七尺に及び、色、白く、にうはにして、常に、好むで、立烏帽子(たてゑぼし)を着たりければ、世の人、「立ゑぼし」と異名して、怖れあへり。

[やぶちゃん注:「河邊惡八郞」不詳。この「悪」は「強い」の意であって「悪い」の意味はない。平安後期以降、武士の通称によく用いられた。頼朝の異母兄源悪源太義平など。

「元享」一三二一年から一三二四年まで。天皇は後醍醐天皇、鎌倉幕府執権は北条高時。鎌倉最末期。

「美輪郡」行政地名として奈良の美輪地区(現在の奈良県桜井市三輪はここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)に鎌倉時代に「美輪郡」が置かれていた形跡はない。

「宇治大路」宇治橋から三室戸(みむろど)に至る道の通称。この辺り

「小幡(こわたの)山中」前注の北方の、現在の宇治市木幡(こばた)の東方部(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「切取」切取り強盗。人を斬り殺して、金品を奪い取ること。]

Akuhatirou

[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]

 或る時、うちつゞき、仕合《しあはせ》も惡(あし)ければ、奈良にうち入《いり》、興福寺の、ある寺院に忍び入て、天井に上り、息をとゞめて、人の靜まるを待居《まちゐ》たり。

 あるじの僧、夜(よ)、更(ふく)るまで、兒(ちご)・同宿(どうしゆく)に、もの敎へ給ひしが、「法華經」を習ふ兒のありしに、「今此(こんし)三界《さんがい》皆是(かいぜ)我(が)其中(ごちう)衆生悉是(しつぜ)吾子(ごし)」と云《いふ》文に至り、老僧、和訓して、

「『今、この三界は、みな、これ、わが國也。その内の人間は、悉く、是、わが子なり。』と、敎主釋尊の說き置《おか》せ給ひつるぞ。」

と語り給へば、八郞、一々、天井にてこれを聞《きき》、

「三界の衆生、みな、佛の子ならば、吾れも、佛の子、成《なる》べし。此者共も、佛の子なれば、吾れも、まさしき兄弟の物を盜みとらんは、不道の上の、重罪なるべし。」

と、忽ちに發起(ほつき)して、其の寺より、歸りけり。

 其後《そののち》、いくほどなくて、頓(とみ)に死けり。

[やぶちゃん注:「興福寺」ここ

「仕合」巡り合わせ。運。事の成り行き現行では「幸せ」と書いて、専ら運の良いことしか言わぬが、古くは上義で、運は良い場合にも悪い場合にも用い、「しあはせよし」とか、「しあはせわろし」のように言い表わした。

「今此三界皆是我其中衆生悉是吾子」同経の譬喩品(ひゆほん)第三の一節。以下、「而今此處唯我多師諸患難一人能爲救護」(にこんししよゆいがたしげんなんいちにんのうゐくご)と続く。「今、此の三界は、皆、是れ、我が有(いう)なり、其の中(うち)の衆生は、悉く、是れ、我が子なり。而(しか)も、今、此の處は、諸々(もろもろ)の患難(げんなん)多し。唯だ、我れ一人のみ、能く救護を爲す」で、「現存在の総ては、これ、私が完全な大安心に導いてゆく世界である。即ち、そこに生きている総ての人々は、これ、一人残らず、 私の子どもである。 しかも、今の世界は、ありとあらゆる、身体と心の苦悩に満ち溢れている。唯だ、私一人だけが、 そこから衆生を救い導き、 守ることが出来る。」の意。]

 元より、賊中の事なれば、あたりの野原に捨てける。いかゞしけん、犬・狼・鳥・獸(けだもの)も、くらはず、七日《なぬか》を過《すぎ》たり。

 かれがけむぞく[やぶちゃん注:「眷屬」。]の盜人ども、行《ゆき》てみるに、忽《たちまち》に、よみがへり、起居(をきゐ)たり。

 或は怖れ、或《あるい》は、よろこぶといへども、人に面《おもて》をむかふこともなく、物いふ事も、なし。

 此者共、肝(きも)をけし、恐れて逃げ歸りぬ。

  爰に、興福寺の僧、不淨觀を修(しゆ)せん爲に、每夜(まいや)、葬場・古墓(こぼ)をめぐりけるが、此者に逢ひぬ。

 僧、

「何者ぞ。」

と問へば、

「我は、『立烏帽子』といへる賊(ぬすびと)也。近く、より給へ。物、申さむ。」

といへば、此僧、名を聞《きき》、

『哀れ、日比(ひごろ)聞及《ききおよ》びつる惡黨也。我を害せんとするにや。』

と思ひながら、近か付きて尋ぬるに、彼(か)の者、申《まうす》やうは、

「我は、是、天下第一の賊、『川邊惡八郞』と申《まうす》者也。はからず、死して、七日にまかり成《なり》さぶらふ。我、『死《しぬ》。』と思へば、鐵卒(てつそつ)と申《まうす》怖ろしき者、三人、來り。我を取りこめて、『車卒(しやそつ)』と云ふ者、火の車を持來《もちきた》り、吾れを、とつて、のせ、五體を火車に燋(こが)せば、熱苦(ねつく)忍びがたく、中々、人間《じんかん》の火は、かれになぞらへては、水のごとし。次に、『壷卒(こそつ)』と云《いひ》て、一人、來り、『神壷(しんこ)』と云《いふ》袋に、わが魂(たましひ)を取つて入《いれ》、又、繩にて、しばり、泣けども、淚、たらず、炎火(えんくわ)、面(おもて)をこがす。さけべども、聲、いでず。鐵丸(てつぐわん)、喉(のど)をやき、助くべき人も、來らず、哀れむべき人も、なし。苦患(くげん)、たとへむかたなし。普通の罪人は、廳前(ちやうまへ)にて、勘聞(かんもん)すといへども、大王を初め、冥官(みやうくわん)・冥衆(みやうしゆ)、出で會ひて、

『國中第一の惡人、深重(じんぢう)の罪人なり。無間地獄(むけんぢごく)におとすべし。但《ただし》、あまりに、にくきやつ也。爰にて、先《まづ》、さいなみ、うつべし。』

と、あれば、獄卒、鐵丈(てつぢやう)を以《もつて》、誠(まこと)に威を振(ふるう)て、うたむとする時、貴僧、壱人《ひとり》、來りて、

『不便(ふびん)なり。』

と仰られしかば、大王・冥官等(たう)、草の風に、ふすがごとく、皆、一統に平伏し、尊敬禮拜(らいはい)す。爰に貴僧の云はく、

『三界の衆生は、皆、是、我子なり。其中にも、此者は、我を父として、盜みの心をやめたる者也。父として、孝子(かうし)を哀れまずんば、有《ある》べからず。』

と、のたまひて、我を乞ひ請け給ひ、則ち、錫丈を以て、道を敎へて、

『速かに閻浮(ゑんぶ)に歸るべし。我は敎主釋尊なり。』

と仰らるゝと覺えて、今、爰に、蘇生したり。

 けんぞく、來りて、

『いかん。』

と問へども、吾れ、生(しやう)を賊(ぬすびと)の中に受けて、惡業(あくごう)、多く作る故に、まさしく、無間地獄におつべしなれば、彼等をみるに付《つけ》ても、心、うかりしかば、返事もせず、面も、むけず。尺尊(しやくそん)の御助《おんたす》けなれば、御僧、なつかしく思ふゆへに、かやうに申《まうす》なり。急ぎ、我を、出家せさせて、たび候へ。」

とて、血の淚を流せば、僧も、ふしぎに、又、哀れにおぼえて、住所(ぢうしよ)の寺につれ歸り、出家させて、沙彌(しやみ)と成して、難行苦行して、「法華經」を讀誦(どくじゆ)しけるが、本《もと》より、勇猛精進にして、持戒持律の僧と成《なり》ぬ。

[やぶちゃん注:「不淨觀」観(法心に仏法の真理を観察し、明らかにせんとする修法)の一つで、修行者が執着心を除くために、肉体の死んで亡びゆくさまを想起したり、実際を観察して、その不浄の実際を悟ることを言う。

「車卒」以下の「壷卒」や「神壷」ともに、私は知らない。作者は前回の「秦兼美幽冥禄」と同じく、この手の想像設定が好きらしい。

「勘問」罪状を調べながら訊問すること。責め問うこと。

「無間地獄」サンスクリット語「アヴィーチ」の漢訳語。後には「むげんじごく」と濁っても読む。八熱地獄の第八番目で最下底の最悪の地獄である。我々の住む閻浮提(えんぶだい)の地下二万由旬(ゆじゅん:サンスクリット語「ヨージャナ」の漢音写。古代インドにおける長さで、換算値に諸説あるが、一説では一万三千三百キロメートル)にあるとされる。五逆罪(母を殺すこと・父を殺すこと・阿羅漢(サンスクリット語「アルハト」の主格形「アルハン」の漢音写。「尊敬を受けるに値する者」の意。声聞(しょうもん:仏弟子)の到達しうる最高の位。菩薩の下位)を殺すこと・僧の和合を破ること・仏身を傷つけること)の大罪を犯した者がここに落ち、一劫(いっこう:サンスクリット語「カルパ」の漢音写。通常は「非常に長い時間」という意であるが、数理学的に厳密な仏教では、上下四方四十里の巨大な城一杯に小さな芥子(けし)の実を満たし、三年ごとに一粒ずつ、その実を取り除き、それが総て無くなる時間を「一劫」と説明した「芥子劫」が一般的)の間、間断なく責苦を受ける所。「阿鼻地獄」と同じ。

「錫丈」「錫杖」のこと。]

  或る年、南都北領(ほくれい)[やぶちゃん注:「領」はママ。]、遺恨をむすび、興福寺の衆徒(しゆと)、をのをの、戰場に赴きけるに、此入道も、さるものなれば、語(かた)らはれて、甲冑を帶し、已に打出《うちいで》けるが、

「我、一たび、たぐひなき黃泉(くわうせん)の責めをうけ、釋門(しやくもん)に入《いり》て、又、先業(せんごう)に歸る、あさましさよ。」

と、心に悔み、かなしみ、急ぎ、鎧をぬぎ捨て、宇治山の深洞(しんとう)にかくれて、おこなひすまし居《ゐ》けるに、或る夜(よ)、人、來りて、庵室をめぐり、入道を呼ぶ。

 曉に至りて、音、なし。三夜、おなじごとくに呼ぶといへども、更に、いらへず。あまりによべば、

「吾れを呼ぶは、何者ぞ。入り來りて、云《いふ》べし。」

と、いへば、うちに入《いり》ぬ。

 見れば、長(たけ)六尺有余[やぶちゃん注:二メートル超え。]の者、面の色、靑く、目を見はり、口、大きにして、耳のもとまできれ、黑き衣を着(ちやく)し、僧のまへに來りて、合掌しけり。入道、つらつら、みる事、やゝ久し。

「汝、寒きや。此火の本へよりて、身を、あたゝめよ。」

と、いへば、化物、則ち、座につゐて、火に、あたりぬ。

 一言(いちごん)も、語らず、只(たゞ)、經をよみ居(ゐ)けり。

 夜(よ)も五更に成《なり》ぬ。化物、火にや、よひけむ、口をひらき、目を閉ぢて、爐(ろ)のもとに打臥《うちふし》、いびきを、かく。

 入道、そばに有《あり》ける杓子(しやくし)といふものに、あつき灰(はい)を救(すく)ひて、其口の中に埋《うづ》み入《いれ》たり。

 妖物(ばけもの)、大きに叫び起きて、門をさして、走り出(いで)る。

 つまづき、倒(たふ)れたる聲して、後(うしろ)の山に登ると覺えて、夜(よ)、已に明けたり。

 入道、そのつまづきたる所をみれば、木の皮、一片、あり。いま、はぎたるものゝごとし。これを持ちて、山に登りてみるに、十四、五町[やぶちゃん注:十四、五キロメートル。]もゆきて、ある谷陰に、大きなる桐(きり)の木、有《あり》。幾世(いくよ)ふるともしらぬ老木(おひき)にして、其の木のもと、くぼみて、新らしく缺けたり。

 入道、かの木の皮をつけて、くらぶるに、ぢやうと、あひて、透間(すきま)、なし。木の半ばに、疵(きず)、あり。落ち入《いり》たること、深さ、六、七寸に及ぶ。

 かの妖物(ばけもの)の口にして、あつ灰(ばい)、そのうちにあり。久しく、猶《なお》、火氣(くわけ)、あり。入道、火を以て、その木を燒き倒(たふ)すに、此の後(のち)、ながく妖怪(ようけ)、なし。

 入道も、二度(ふたゝび)この山を出《いで》ずして、行ひすましたりしが、其の終りを、しらず。

[やぶちゃん注:最後の古木の変化(へんげ)を唐突に配することで、怪談自体のリアリズムが、逆に、増している。この作者、なかなか侮れないとみた。

「興福寺の衆徒、をのをの、戰場に赴きけるに」ウィキの「興福寺」によれば、『鎌倉時代や室町時代には』、『武士の時代になっても』、『大和武士』及び『僧兵等を擁し』、『強大な力を持っていたため、鎌倉幕府や室町幕府は守護を置くことができず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って』、『織豊政権に屈し』、文禄四(一五九五)年の『検地では、春日社興福寺合体の知行として』二万一千余石とされ、『江戸幕府からも寺領』として同じく二万一千石を『認められた』とある。

「宇治山」京都府宇治市の南東部にある喜撰山。喜撰法師の住居跡がある。標高四百十六メートル。]

2022/05/04

只野真葛 むかしばなし (50)

 

むかしばなし 四

 

 御家にては代がはりには是非一度御國へ下る事なりしを、父樣、始(はじめ)て代々定詰(じやうづめ)は被ㇾ成し。其故は、はじめ下りを被仰付し頃は、實にひばゞ樣座敷步行もならぬ大病なりし故、申(まうし)たて、此ばゞ樣、繁昌中はことなくて有(あり)しを、不幸後、ぜひ、くだり仰渡(おほせわたさ)れて有(あり)しに、御老中右近樣御家中は、一統、父樣の病家にて有しに、其頃、關口兵太夫といひし人、派(は)きゝにて有しが、每(つね)に懇意なりしを、仙臺へ下るとて、暇乞(いとまごひ)に御出被ㇾ成し時、

「それは。殘念の事なり。少し、工夫もあれば、今しばらく、病氣にても達(たつ)し、此地に留まられよ。」

とすゝめしとぞ。しか有(あり)て、兵太夫、御屋敷の人にいふ、

「扨(さて)、工藤周庵、此度(こたび)御國勝手被仰付由承り候が、をしき事なり。江戶に差置(さしおか)れ、權門方(けんもんがた)内御用被仰付んに、此人にまさる人、候はじ。」

と、念比(ねんごろ)に語(かたり)、掛合(かけあひ)しに、兵太夫は、萬事、御用御賴(おたより)の人にて有し故、御取上有て、下り相(あひ)扣《ひかへ》られて、すぐに、内々、權門御用被仰付て、色々の御用共、御勤被ㇾ成しが、

「誠に、此人の蔭にて、江戶におちつきし。」

と、折々、被し。

[やぶちゃん注:「御老中右近樣」陸奥国棚倉藩主松平武元(正徳三(一七一四)年~安永八(一七七九)年)か。官位は右近衛将監。宝暦一一(一七六一)年に老中首座。安永五(一七七六)年頃、工藤周庵平助は仙台藩主伊達重村により、還俗蓄髪を命ぜられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面に亙って活躍した。前に出た築地の工藤邸の当時としては珍しい二階建ての家の増築は安永六(一七七七)年のことである。

「關口兵太夫」不詳。

「派きゝ」「羽利き」で相応に影響力を持った人物の意。]

 

 父樣、料理しやの名代、廣く、珍しき料理めし上るとて、御大名方も、かれこれ、いらせられし。

 中村富十郞は木挽町に久しく居(をり)しが、

「御料理者の名代承り及候間(よびさふらふあひだ)、何卒、一席推參致度(いたしたく)。」

といひ入(いれ)て有し。招かぬに大立者(おほだてもの)の來(きた)るほどの事、其時のいきほひ、察(さつす)べし。

「やすき無心(むしん)なり。いつ幾日。」

と御約束被ㇾ成て、其夜を待(まち)しに、富十郞・のしほ・三津五郞、中(ちゆう)役者にて三國富士五郞といひし、四人なり。富十郞、羽織空色ちりめん紋付、帶付は黑じゆすなりし【すべて此衣類は久しきことにて、よくはおぼえず。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]。のしほは、紫縮緬に糸卷を縫(ぬひ)にしたるが、

 

Tomijyuurou

[やぶちゃん注:底本の行間にあるものをトリミング補正した。]

 

此やうに、石疊の形、糸卷を付(つけ)て嶋(しま)に仕(したて)たるを、白糸にて縫(ぬひ)、はへばへとせし模樣なり。

「富十郞、工夫なり。」

と語(かたり)し。羽織は白じゆすに、〆飾りの模樣かとおぽえし。袴も嶋じゆすなりし。立役は、二人ながら、黑ぢりめんにて有し。

[やぶちゃん注:「中村富十郞」(享保四(一七一九)年~天明六(一七八六)年)は初代。上方の歌舞伎役者。初代芳澤あやめの三男として大坂に生まれた。幼名は崎彌。当該ウィキによれば、『幼少のころ、立役の中村新五郎の養子とな』り、享保一四(一七二九)年『春に崎彌は中村富十郎と名を改め、京都の佐野川万菊座に加わるが、この時』は『まだ実際には舞台に立たなかったという。同年の暮、富十郎は万菊や新五郎とともに江戸に下り』、享保十六年『正月に市村座で初舞台を踏んだ。時に』十三『歳。同年冬、万菊と新五郎に付いて再び京に戻』った。享保十八年、『若衆形から女形となってからは、富十郎は美貌をもって巷間に知られるようになるが、それは役者ではなく』、『色子』(いろこ:陰間の一種。歌舞伎若衆で、男色を売る者を指す)『としてであった』。元文二(一七三七)年十一月、『大坂道頓堀の岩井半四郎座に出演』、この時、「曽根崎心中」の『天満屋お初を演じて大当りをとり、四ヶ月の続演となった。これが富十郎にとって役者としての道が開けた最初で、その後一年ほど』、『大坂の芝居に出続けるが』、『いずれも大当りをとる。それからは京、大坂、江戸の三都を往来し、どの土地でも人気役者として迎えられた』。寛延二(一七四九)年には、三十一『歳の若さで役者としての最高位である「極上上大吉」とされる。その後「古今無類之妙大至極上上吉」、さらに』、天明四(一七八四)年には「三ヶ津巻首歌舞伎一道惣芸頭」(さんがのつかんしゅそうげいがしら)『に置かれた』。『若女形を本領とし』、『時代物と世話物を兼ねたが、後に立役や荒事も勤めた。芸は』、『せりふ回しと身の軽さが評判となった。舞踊においても名人とされ、なかでも』宝暦二(一七五二)年八月、『京都嵐三右衛門座で踊った』「娘道成寺」は『大当りし、翌年の江戸中村座でも』「京鹿子娘道成寺」として『踊り、以後』、『これを当り芸として度々勤めた』。『六十を過ぎても』、『十七、八の娘姿が似合う若々しさだったと伝わる』。天明六年三月、『京で「女鉢の木」を勤めたのが最後の舞台とな』った、とあり、なお、『余技に絵も描いており、扇絵などを残している。東京国立博物館に「驟雨図」(紙本着色)の扇面』一本が所蔵されており、『画名を英(はなぶさ)慶子と称したという。天明』六『年には』「慶子画譜」が『八文字屋自笑の編で版行され』ているとある。私は歌舞伎嫌いの文楽好きで、他の役者は調べる気にならない。悪しからず。

「中役者」歌舞伎役者の階級。名題役者の次で、三階級ある内の中位の者の上方での呼称。役者といった江戸での呼称は「中通(ちゅうどおり)」。二流役者を指す場合もある。「板の間」とも称した。

「黑じゆす」黒い繻子(しゅす)。繻子は、精錬した絹糸を使った繻子織(しゅすおり)の織物。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方で、密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い。]

 

 其時の狂言は春なりしが、「曾我」をば態《わざ》として、月(つき)さよ・鬼王(おにわう)にて、當る積り。先(まづ)【七年か十三年か。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]追善を取組(とりくみ)、今の助高屋雄次郞とて、女形の時。幕明(まくあけ)は、工藤の舘、少し何か有て、人足共、大勢、竹たばを背おつて出(いで)る、跡に付く坂田半五郞鬼王にて、茶色紋付の布子に小倉ばかま股立取(まただちとつ)て、人足と同じく竹をおつて出(いで)、舞臺にて、人足共、少々、せりふ有。鬼王をみて不審して、

「そなた御侍は、どふして、おらが中間(ちゆうげん)へいらしやつた。」

と聞(きく)時、

「されば。ふと、道にて、此竹をそばに置(おき)て倒(たふれ)て居た人を見かけた故、『どふして爰(ここ)にゐる』と云(いふ)たら、『私は、けふ、工藤樣の御屋舖へ竹をかついでまゐる人足でござりますが、急に、腹が病《や》めて、困《こう》じて居(をり)ます。』と云故、『それなら、おれが、其竹を持(もつ)てゐてやろふか。』と云たら、『うれしい事。どうぞ持てゐて被ㇾ下まし。其かはりには、私が、今日の立(たて)まいのやとい賃(ちん)を上(あげ)ます。』と云た故、其人足に賴まれてきました。」

「ハヽア、申(まうす)。そんなら、人足にやとはれた、お侍か。」

と云。

「左樣(さやう)、左樣。」

といふ内、人足共、より合(あひ)て、買(こう)た酒德利(さかどつくり)を出(いだ)して茶碗へついで吞(のむ)を、鬼王、酒好(さけずき)にて、しきりに羨しがりて、咽(むせ)ずを引(ひき)、をかしみ有【實は、工藤の屋形、見たく、やとはれてこしなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]。こらい兼(かね)て、

「わしも、ちと被ㇾ下。」

と云ば、

「いや。是は賣物にはならぬ。」

と云を、

「どふぞ。さきにもらふた、やとはれ賃で、かいたい。」

と云ば、

「そんなら。」

とて、高賣(たかうり)するてい。

 色々をかしみ有て、人足は引込(ひつこみ)、鬼王は、ゑひて倒れて寢てゐると、三味線にて富十郞、小原女の出たち、頭に黑木をいたゞき、褄《つま》ばざみして、手おほひ・脚絆・小納戶茶木綿(ちやもめん)の惣模樣(そうもやう)にて出(いで)、花道に、少し、所作、有。本舞臺へかゝり、人の寢た上を踏(ふむ)と呻(うめき)、

「アイタ、アイタ、」

とて、鬼王、おきて、

「誰だ。」

と、とがめるを、小原女、恐れてわび事するが、

「ニヤ申、ニヤ申、」

と云ことばにて、ねから、分らぬ所、をかしみ有。

 トヾ、

「ふんだが、わるい。」

「寢てゐたが、わるい。」

と云募(いひつのり)て、

「それならば、其善惡を分るには、おれが謎をかけやふほどに、そなた、解兼(ときかね)たら、そちがまけ、皆解(みなとけ)たら、おれがまけに、せう。」

といふことに成(なり)、女、

「勝(かつ)た時には、どふする心。」

といへば、男、

「おれが爰に持(もつ)てゐる櫛があるから、是を、やろふし、そちが負たら、だいて、ねる。」

と、いはれて、恐れるおもい入(いれ)、有。

「サア、それなら、かけさんせ。」

ウシロ、チンラ、チンラ、の三味線に成、

「洗たく仕ながら、ぬれかゝる。こわひお敵(てき)は。」【少し考身ぶり有。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

「あらいの閻魔と云ことか。」【其頃洗のゑんま開帳なり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

又、

「お染久松、くる道は。」【女、とく。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

「油の小路と云事か。」

などと、だんだん、かけて、五ツばかりの謎を女とき、

「是から、わしが懸(かか)る。」

とて、又、五ツばかり懸ると、やうやう、解(とけ)ども、果(はて)に、とき兼(かね)る時、

「サア、わしが、勝じや。其櫛被ㇾ下。」

と、いはれて【小し、愁歎あり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

「約束はしたれども、此櫛には、ふかい分(わけ)が有(あつ)て、どふも、人手に渡されぬ。昔語(むかしがたり)をする程に、聞屆(ききとどけ)て堪忍してくれ。【略。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]若い時分、くらまぎれ、小原の里の女になれ、互に顏も見しらねど、又、逢(あふ)までのかたみぞと、此櫛を、おこした。」

と語るうちに、女、ふるへだし、

「若《もし》、其櫛は紅葉に鹿の蒔繪ではござんせぬか。」

「果《はて》、其蒔繪を知つてゐる女。」

「其時の女は、わしじや、はいな。」

と名乘合(なのりあひ)、【色々、口上あり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

「其時、ひと夜の契(ちぎり)に、女の子を、まうけし。」

と、かたり、悅(よろこぶ)内、又、愁歎して、

「五ツに成(なる)年のやよひ、汐干(しほひ)に出(いで)しに、俄(にはか)の水ましに、うろたへて、つゐ流して、仕舞(しまひ)し。」

と、かたり歎き、兎角して幕なり。【其頃、汐干にて俄の汐みちに逢(あひ)、ながれし事、有しなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]【萩野八重桐と云(いふ)女形、汐干に行(ゆき)て水におぼれ、「しゞみとるとてみじめみた」といふ唄はやりし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

 次の幕も、屋敷の内なりし。品々、狂言【略。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、あふむの買鳥(かひどり)有、十五、六の順禮にて出(いで)る。其鳥を見て背をなでなで、

「扨々、奇麗な鳥。そなたの名は何。」

と云(いふ)時、あふむ、

「そなたの名はなんと云。」

と、まねるを、びつくりして、とびのき、わが事をとはれしと心得、

「わしや、順禮じや。」

と云を、又、あふむ、まねて、

「わしや、順禮じや。」

といへば、

「扨も扨も、順禮と云(いふ)鳥は、きれいな鳥じやナア。」

とて、笑はせる事あり【其時、範賴三國富士五郞、始ての範賴なりし。いかなることにや、つくり啞(おし)と成(なり)て有しを、祐經がせし事のやうになりて、此病(やまひ)いえねば、狩場の御供ならず、さあれば、兄弟のかたきうたれぬといふ事にて、鬼王せつかく藥を求むる事なり。】。

 順禮、餘念なく鳥を愛してゐると、富十郞、月小夜にて出(いで)、門をたゝき、

「明(あけ)てくれ。」

と云に、外に、人、なし。

 順禮の小娘、立出(たちいで)て、門を明(あく)るや否や、富十郞が鼻の先へ、

「順禮に、御ほうしや。」

とひさくを出して、びつくりさせる笑(をか)しみ有。

 内に入(いり)て、何か語合(かたりあへ)ば、鹽干(しほひ)に流したる娘なり。

 ひろい上げて育てし親が、先の宗十郞にして、

「いつ幾日に、なくなりし。」

とて、雄次郞【雄次郞は宗十郞の子なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、歎く時、富十郞、廣め追善、口上、有。

 至極、あわれなる狂言なりし。

 口上終(をはり)て、

「それも、なげくな。今に本《もと》のとゝさんを呼(よん)で來て、あわそふ。」

とて、林町(はやしちやう)の方(かた)に入(いる)と【なのり合(あひ)の時分、守袋(まもりぶくろ)を落(おと)せしを、拾(ひろひ)て、それより、親子なる事を、しる。何の年、何の日、何の刻に生れし女の生膽《いきぎも》とやらが、範賴公の啞の藥に成(なる)とて、求むるなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、二重舞臺にて、始終の樣子、立聞(たちぎき)て、鬼王、ずつと、いで、物もいはずに、娘をとらへ、心もとをさしとほさんとする時、母月小夜、奧より走りいで、泣(なき)ながら、とゞめ、

「何の事かはしらねども、始て逢(おふ)たとゝさんの御腹立(おはらだち)、『あやまりました』と、手をついて、わびごと、しや。」

と敎(をしふ)ると、半五郞、刀を、なげ出し、

「なんの。腹のたつ事があろ。うれしいやら、悲しいやら、云にいわれぬ心の中。最前から立聞せしに、親子の名乘せし時の守袋の中なる書付、生(うまれ)し年と、月と日が、今、尋(たづぬ)る範賴樣へ上(あげ)る啞の藥になる娘。お主の爲に『天の與(あた)へ。』と思ふより、『なまなか、名のりせんよりは、一トおもひに。』と、覺悟、極めし、今のしだら。そなたも武士の妻、娘にもいひきかせ、得心させて、潔く、命をすてよ。」

と云(いふ)愁歎。【此半五郞、愁歎の上手なりしとなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

 是をきゝ、月小夜は、

「いつそ、昔、死(しん)だなら、それと思(おもふ)てゐるものを、今、なのりあふ、うれしさの、息もやすめず、此なげき。」。【などゝ、いろいろ、ならべて、かなしみの場はあり。はじめ小原女の仕うちよりか卵して、此狂言かなしみにて此所分て當なりし。見物をもなかせる狂言に、範賴公もあまりふびんと心を改め、つくり啞をやめて、二重舞臺の障子のうちから、】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

「おしの良藥、調合せり。しばし、しばし。」

と、聲、かけ、障子を明(あけ)て立(たち)いづる所、見物が愁歎、哀(あはれ)とおもふさなかにて、殊の外、はゑ有し故、中役者の聲色(こはいろ)にても、皆々、まねをしたりしなり。

 其頃、おもふに、藥調合をせし弟子に、元通(げんつう)といひしは、

「通(つう)が好(すき)故、『通』の字、つける。」

と被ㇾ仰し。當世人、芝居大好にて、目がさめると寢る迄、芝居のまねばかりしてゐし人なりしが、

「今宵、役者が來る。」

と聞(きき)、大(おほ)うかれにて待(まち)ゐしに、其時のうち出しは、暮過(くれすぎ)なり。

「五ツ前には、よも來らじ。」

と、皆、いひて有しに、くるゝと間もなく、門をたゝく音したり。

 元通、口(くち)こゞとに、

「今時、分くる藥取(くすりとり)は、大かた、大島樣だろう。氣のきかね、時もしらぬ、いそがしいに。」

と、立(たち)て玄關の障子、明(あく)るまへ、富士五郞が身ぶりにて、

「おしの良藥、調合せり。しばし、しばし。」

と高聲(たかごゑ)にいひ、

「さらり」

と、あけると、こはいかに。正身の富士五郞が先に立(たち)、

「中村富十郞、只今、參上。」

といはれて、

「二の口(く)もいでざりし。」

と其比(そのころ)の笑ひ咄(ばな)しなりし。【大だてもの故、其日は朝の手廻(てまはし)して、あかるいうちに仕舞(しまひ)しなり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

[やぶちゃん注:以上の曾我狂言は、歌舞伎に冥いので、誰のどの外題の、どの場面かは判らない。ど素人乍ら、色々調べたが、下手に注してはいかんので、悪しからず。一つだけ注が出来る。「あらいの閻魔」「洗のゑんま」は鎌倉の新井閻魔堂のことだな。由比ヶ浜の海辺に近い位置にあった。江戸後期に津波で壊された。現在の建長寺傍の円応寺の前身である。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事

 

[やぶちゃん注:本論考は明治四四(一九一一)年二月発行の『東京人類學會雜誌』二百九十九号に初出され、大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像ここが冒頭)で視認して用いたが、最後の「山神絵詞」の部分は平凡社の「南方熊楠選集」第三巻(一九八四年刊)の当該部を参考底本とした(そうした理由は当該箇所の前注で述べる)。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。また、「J-STAGE」のここで、本篇の初出の画像を入手出来たので、これも参考にした。無論、今まで通り、所持する平凡社の「南方熊楠選集」も参考にした。特に、例の通り、南方熊楠の文章は語り出すと、牛の涎の如く、止まらなくなるため、注を附けるのが厄介で、読者の方が直近で注を参考出来るようにしたいことから、「選集」を参考に段落を成形した(その結果、段落で切った箇所の読点は句点に変えてある。注の後は一行空けた)。また、今まで通り、なかなか読みが難しいので、( )で私が推定読みを歴史的仮名遣で添えた。漢文脈部分は、直後に、《 》で推定訓読文を添えた。

 本篇は底本では一連の単発論考を纏めた大パート「俗傳」の巻頭にあるのだが、後の論考に比べると、やや長めなので、独立させて電子化注する。実は私は既にサイトで、一九八四年平凡社刊「南方熊楠選集 第三巻 南方随筆」のそれ(標題は「山神オコゼ魚を好むということ」)を二〇〇六年九月に電子化公開している(底本は新字新仮名であるが、一部を独自に補正した。但し、注は附していない)が、今回は正規表現・オリジナル注版として零から始めた。

 なお、その古い公開時にブログでちょっと一言書いた。それも参考になろうからして、参照されたい。

 最後に一言。本篇末に「山神絵詞」が引用されているが、そこでは、「いくちもえくぼにみゆる」(「いくち」は口蓋裂のこと)等の差別表現が見られる。古文とはいえ、そうしたものへの批判精神をしっかり持って読解されることを望む。]

 

 

    俗   傳

 

 

    山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事

 

 瀧澤解の玄同放言卷三に、國史に見えたる、物部尾輿大連(もののべのをこしむらじ)、蘇我臣興志(そがのおみをこし)、尾張宿禰乎己志(をはりのすくねをこし)、大神朝臣興志(おほみわのあそみをこし)、凡連男事志(おほしのむらじをこし)等の名、總てオコシ魚の假字なりと云り。和漢三才圖會卷四八に、この魚、和名乎古之、俗云乎古世《和名「乎古之(をこじ)」。俗に「乎古世(をこぜ)」と云ふ。》と見ゆ、惟(おも)ふに、古え[やぶちゃん注:ママ。]オコゼを神靈の物とし、資(よつ)て以て子に名(なづ)くる風行はれたるか、今も舟師(しうし)山神(やまがみ)に風を禱(いの)るに之を捧ぐ。紀州西牟婁郡廣見川と、東牟婁郡土小屋(つちごや)とは「オコゼ」もて山神を祭り、大利を得し人の譚を傳ふ、甚だ相似たれば、その一のみを述(のべ)んに、昔し人有り、十津川の奧白谷(おくしらたに)の深林で、材木十萬を伐りしも、水乏(とぼし)くて筏を出す能はず、因(よつ)て河下なる土小屋の神社に鳥居(現存)を献じ、生(いき)たるオコゼを捧げ祈りければ、翌朝水夥(おびただし)く出でて其鳥居を浸し、件の谷より此處迄、筏陸續して下り、細民生利(しやうり)を得る事維(こ)れ多し、其人之を見て大に歡び、徑八寸有る南天の大木に乘り、流れに任せて之(ゆ)く所を知らずと。

[やぶちゃん注:「オコゼ」狭義には、条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科 Scorpaenidae(或いはオニオコゼ科 Synanceiidae)オニオコゼ亜科オニオコゼ Inimicus japonicus を指し、漢字では「鬼鰧」「鬼虎魚」、地方名では「アカオコゼ」(東京)、「オクジ」(秋田県男鹿)、「シラオコゼ」(小田原)、「ツチコオゼ」(和歌山県田辺)の他、「オコシ」「オコジョ」「オコオジン」「アカオコゼ」があり、一般的には単に「オコゼ」と呼ぶことが多い。私の『毛利梅園「梅園魚譜」 鬼頭魚(オニオコゼ)』を参照されたい。美麗な図も、勿論、ある。但し、実際に山神への供物として使用される「オコゼ」はオニオコゼ一種ではなく、魚顔の異形(いぎょう)な広汎なカサゴ類の種群が用いられており(後述される)、他に後に「川オコゼ」出るように淡水系の異形魚も多く使われる。それは純粋な淡水魚であるスズキ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux や、降河回遊型のカジカ科 Rheopresbe属アユカケ Rheopresbe kazika である。これらの「川カジカ」については、「大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」の私の注を見られたいが、そこでも紹介してある通り、このカジカ科 Cottidaeには、有明海と流入河川に限定的に棲息する、ズバり! 和名が、カジカ科ヤマノカミ属ヤマノカミ Trachidermus fasciatus という種もいるのである(興味があられるであろうから、グーグル画像検索「ヤマノカミ Trachidermus fasciatusをリンクさせておく。結構なヤンキーっぽい!)。熊楠は明治四四(一九一一)年三月から五月にかけて地元の『牟婁新報』に「山の神とオコゼ魚」という随筆(未完)を発表しているが、これは、実は「南方熊楠全集」に未収載で、一九九一年八坂書房刊の「熊楠漫筆 南方熊楠未刊文集」に載っている(私は所持しない)。幸い、大和茂之氏のブログ「南方熊楠のこと、あれこれ」のこちらで、全文が電子化されてあるのであるが、その「五」の最後で、『前に引ける柳田氏の説にも、日向で神を祈るに、あるいは「海オコゼ」、あるいは「川オコゼ」を用ゆといえり。山中で生きたオコゼというはこの「川オコゼ」のことなり。田辺でアイカケという魚あり、鮎に随って川を上下し、形状オコゼに似て頬に刺あり、沙底に伏し動かず、鮎その上を過ぐると、たちまち刺を引っ掛けこれを捉え食らう。冬分は錦城館の下などにあり、夏分は請川ごとき海に遠き川に住む。「川オコゼ」とはこの魚のことならん。帝国博物館の『魚類目録』にも出でたり。』とあるのが、アユカケのことである。同じくグーグル画像検索「アユカケ Rheopresbe kazikaを示す。こちらも、なかなかの貫禄である。なお、熊楠の言う「オコゼ」の正体については、後注も参照されたい。

「瀧澤解の玄同放言卷三に、……」滝沢馬琴の考証随筆の巻三の巻頭にある「姓名稱謂」の一節。活字本を所持するが、本文は恐ろしく長い(但し、私は珍名が出てきて、結構、好きだ)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同版本のここ(文政元(一八一八)年序・PDF一括版)の21コマ目の四右丁の四行の「鰧(ヲコシ)」の項がそれ。本文でのルビは馬琴の添えたものをも参考にした。中にはその漢字では「おこし」だろうと思う読者がいることを想定して、ここに注した。

「和漢三才圖會卷四八に、……」私の同巻の電子化注を参照されたい(「鰧」の項だが、古い電子化で当該標題のその字が表記出来なかったので、「おこじ」でページ内検索をかけられたい)。

「舟師」水主(かこ)。船長。

「十津川の奧白谷」ここか(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「東牟婁郡土小屋」現在の和歌山県田辺市本宮町土河屋(つちごや)。或いは「小」は南方熊楠の誤認識かも知れない。

「神社の鳥居」神社はここの八幡神社。熊楠の言っているものかどうかは判らないが、サイド・パネルに鳥居写真があり(木製のこのタイプで百年は難しいが、或いは今もその奉納の儀式は続いているとも考えられる)、そこに並置された祭神小祠の四つの内、一番左に「山神」と墨書きした祠があり、これは相応に古いものであるようである。なお、熊楠は自分が十全に理解していることは、書く必要がないと断ずる傾向があり、ここでも何故、山神と海のオコゼがセットになるかの根本を書いていない。ざっくり言ってしまえば、山林を仕事場とする猟師や伐採に従事する者たちがこの儀式をするのである。山の神は女神とされるが、容貌が醜いとされ、しかも、山の幸を持ち去る者には厳しい神罰を下すと考えられたのである。そこで、醜悪なオコゼの顔を見ると、自分より醜いものがこの世にいると、安心して静まり、山中での仕事を許し、逆にその間の安全を守って呉れるとされるのである。現在でも、地方によっては、山入りの際に、実際のオコゼの類を仕入れて奉納し、山の神に許諾と安全を祈願している。]

 

 人類學會雜誌二八八號二二八頁、山中氏が、柳田氏の記を引たるを見るに、日向の一村には、今も「オコゼ」を靈有りとし、白紙一枚に包み、祝して曰く、「オコゼ」殿、「オコゼ」殿、近く我に一頭の猪を獲させ給はゞ、紙を解き開きて、世の明りを見せ參らせんと、扨幸ひに一猪を獲たる時、又前の如く言て、幾重にも包み置き、每度オコゼを紿(あざむ)きて、山幸を求むる風存すとなり、予が紀州日高郡丹生川(にふがは)の獵師に聞く所は、較(や)や之と異にして、其邊の民は、「オコゼ」を神異の物として之に山幸を祈ることなく、全く「オコゼ」を餌として、山神を欺き、獲物を求むる也、其話に、山神、居常(きよじやう)「オコゼ」を見んと望む念太(はなは)だ切也、因て獵師之を紙に裹みて懷中し、速かに我に一獸を與へよ、必ず「オコゼ」を見せ進(まゐ)らせんと祈誓し、扨志す獸を獲る時、纔かに魚の尾、又首抔、一部分を露はし示す、斯くの如くすれば、山神必ず其全體を見んと、熱望の餘り、幾度誓ひ、幾度欺かるゝも、狩の利を與(あたふ)る事絕えずと。

[やぶちゃん注:最後の「と」は初出によって挿入した。この後半の儀式は、数年前、NHKの特集番組で、場所が定かではないが、親しく見て感激した。確かに白い紙に包んだオコゼを、山神を祀った山林の入り口にある古い祠の前で祈った後に、ちらっ、と見せてのである。この、仕事で山入りする人々の間で、この儀式が今も残っているのに感動したのである。

「東京人類學會雜誌二八八號二二八頁、山中氏が、柳田氏の記を引きたる」牧師で民俗学者・考古学者でもあった山中笑(えむ 嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年)が、この前年明治四三(一九一〇)年三月に同誌の「雜錄」パートに発表した「本邦に於ける動物崇拜」。これは既に『山中笑「本邦に於ける動物崇拜」(南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜」の執筆動機となった論文)』で電子化してあるので、読まれたいが、熊楠の指す箇所は短いので引いておく。

   *

虎魚(オコゼ) 此魚を祭る日向奈須山村の奇風俗に就ては、柳田國男氏の後狩詞記に「海漁には山おこぜ、山獵には海おこぜを祭る。効驗多し、と云ふ。其方法は、おこぜを一枚の白紙に包み、告げて曰はく、おこぜ殿、おこぜ殿、近々、我に一頭の猪を獲させ玉へ。さすれば、紙を解き開きて、世の明りを見せ參らせん、と。次て、幸に一頭を獲たるときは、又、告て、前の如く云ひて、幾重にも包み置と」ぞ[やぶちゃん注:鍵括弧閉じるの位置はママ。]。之、おこぜを欺きつゝ、崇拜する奇風と云ふべし。

   *

この「後狩詞記」(のちのかりことばのき)は柳田国男が明治四一(一九〇八)年に著者が宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん)で村長中瀬淳から狩猟の故実を聴き書きしたもので、私家版として翌年五月に刊行され、後の昭和二六(一九五一)年の彼の喜寿記念に覆刻された。題名は『群書類従』所収の「狩詞記」(就狩詞少々覚悟之事)に由来するもの。日本の民俗学に於ける最初の採集記録とされる。原本のそれも短いので、国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の当該部を視認して示す(私は、近々、これを電子化したいと考えている)。掲載箇所は「狩ことば」の十五項目。【二〇二二年五月十三日追記】ブログ・カテゴリ「柳田國男」で同作を電子化注し終えた(分割六回)ので参照されたい。

   *

一五 オコゼ。 鯱(シヤチ)に似たる細魚なり。海漁には山オコゼ。山獵には海オコゼを祭るを效驗多しと云ふ。祭るには非ず責むるなり。其方法はオコゼを一枚の白紙に包み。告げて曰く。オコゼ殿。オコゼ殿近々に我に一頭の猪を獲させたまへ。さすれば紙を解き開きて世の明りを見せ參らせんと。次て幸にして一頭を獲たるときは。又告げて曰く。御蔭を以て大猪を獲たり。此上猶一頭を獲させたまへ。さすれば愈世の明りを見せ申さんとて。更に又一枚の白紙を以て堅く之を包み。其上に小捻を以て括るなり。此の如く一頭を獲る每に包藏するが故に。祖先より傳來の物は百數十重に達する者ありと云ふ。此のオコゼは決して他人に示すこと無し。

[やぶちゃん注:総てが句点のみなのはママ(以下も同じ)。「小捻」「こびねり。「括る」「くくる」。以下、原本では全体が二字下げでポイント落ち。]

△椎葉村にオコゼを所持する家は甚稀なり。中のオコゼを見たる者は愈以て稀有なるべし。鯱に似たる細魚なりは面白し。中國の漁人たち試にオコゼを一籠此山中に送らば如何。オコゼは一子相傳にして家人にも置所を知らしめず。或者の妻好奇心のあまりに。不思議の紙包みを解き始めしに。一日掛りて漸くして干たるオコゼ出でたりと云ふ話あり。一生涯他人のオコゼ包みを拾ひ取らんと心掛くる者もありと云ふ。此村にては吝嗇なる者を「おこぜ祭」と云ふ。

   *

ちょっと、この「中國の漁人たち試にオコゼを一籠此山中に送らば如何」という言いかけの意味が判らぬ。「山オコゼ」については、私はてっきり淡水産のゴリなどの魚を指すかと思ったのだが、「南方熊楠記念館」のブログ の「 山オコゼ」によれば、『郷土研究』四巻七号初出の南方熊楠の「山オコゼのこと」を部分引用した上で、そこでは、『キセルガイの殻を人に見せないように持ち歩くと、利益を得られると述べています。ただし、種類が多いためどれかを明確にせねば、どれが「山オコゼ」というかわからなかったそうです』とあり、さらに、『日本大百科全書によるオコゼに関する民俗の解説では、「山の神が好むオコゼには山オコゼと海オコゼがあり、山オコゼとは、陸産のキセルガイやイタチ、マムシ、毛虫など気味の悪い動物をさす場合もある。」としています。山の神は自分より醜いものを好むという伝承からきているのですが、キセルガイは醜いと言われると疑問符がつきます。可愛らしいと思います』とある。「キセルガイ」は腹足綱有肺目キセルガイ科 Clausliidae のキセルガイ類を指すが、確かに、オニオコゼに比して、見るも醜悪という感じの動物では、確かに、ない。その熊楠の「山オコゼのこと」は、「私設万葉文庫」の平凡社「南方熊楠全集」第三巻の「雑誌論考Ⅰ」で電子化されており、短いので、以下にそのまま引用して示す。

   *

   山オコゼのこと

     柳田国男「土佐高知より」参照

     (『郷土研究』四巻七号四四四頁)

 大正三年の予の日記に、「四月二十二日朝、下芳養《しもはや》村大字堺の漁夫一人来たり、山オコゼという物を欲しいと言う。子細を問うに答えけるは、山オコゼは北向きの山陰のシデの木などに付く長さ一寸ばかりの小介、殻薄きものなり。かの村にこの介を持ち、常に漁利また博奕利を獲る者あり。袋に入れて頸に掛け、人に見せず。二年ほど前、そこの駐在巡査谷口某のみこれを見得たり、と。予それは定めてキセルガイの一種であろう。予が熊野で集めただけでも十余種はあり。現に田辺町のこの住宅のはね釣瓶《つるべ》の朽ちたる部分にも棲《す》んでおる。今少し委細にその形状を言わねば、いずれの種が山オコゼか分からぬ、と言うて返した」と記してある。

 さて、この八月十三日に、『南国遺事』を著者寺石君から受けて山オコゼの記事を見、それはキセルガイのことであろうと書き送ると、同三十日付で返書あり、山中の林藪に生ずる小螺なりとて略図を示されたのを見れば、あまり大ならず、また小ならざる、一寸ばかりのキセルガイだった。土佐方言ゴウナとも謂う、と付記せられた。『和漢三才図会』によると、ゴウナとは小螺中に蟹が棲むもの、東京でいわゆるキシャゴノオバケである。紀州でゴンナイと呼ぶは水流に住む蜷《みな》のことだが、とにかくかかる小螺をすべてゴウナと呼んだものらしい。(十月二日) (大正五年十一月『郷土研究』四巻八号)

   *

添え辞にある「土佐高知より」というのは、書誌情報では、筑摩書房の『定本柳田國男集』の第十八巻(昭和三八(一九六三)年刊)の「『郷土研究』小通信」のパートに認めるが、生憎、所持する文庫本同全集には所収しないので内容や関連性は判らぬ。「和漢三才図会」云々は私の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の末の方にある、「寄居蟲(かうな かみな)」を参照されたい。しかしこれは海産のヤドカリ類であるから、これは「山オコゼ」からは除外するべきであろう(浜辺に上がってくることもあり、奇形(きぎょう)と言えば、そうだろうからして、資格はあるが、それを「山オコゼ」と呼ぶのは、私はちょっと無理な気がするのである)。「南国遺事」は寺石正路(慶應四(一八六八)年~昭和二四(一九四九)年:高知県生まれの教師で郷土史家)著で、大正五(一九一六)年聚景園武内書店刊。国立国会図書館デジタルコレクションにあるので調べたところが、当該部と思しいここでは(太字は底本では傍点「○」、下線太字は傍点「ヽ」)、『山田(やまだ)等に成長する田螺(たにし)(ヲコゼ)を所持して山海の狩の幸(さち)を願ふといふ事これ又諸國に多し余等が幼時に老いたる山賤(やましづ)が竹籠(たけかご)に田螺を入れて市中を呼びあるき思ひ事叶ふ山ヲコゼは要らぬかといひて賣り廻りたることを記憶せり日向(ひうが)薩摩(さつま)の國には山獵師(やまりようし)皆オコゼの干物(ひもの)を澤山の白紙に包み一獵ある每に其包紙を剝ぎ全部盡く剝ぎ取る程の大獵あらば其オコゼを奉らんと山神に祈る習あり但』(ただし)『土佐國にては昔舊藩の嘉永(かえい)前後の頃にオコゼ組と呼ばれたる政黨あり反政黨より相結托して利をなすといふ義によりて命名せられ一時大獄を起して大騷動を致せることありオコゼおいへる言葉は何となく土佐人には特別の響(ひゞき)ある如くなれど元來オコゼを用ひて幸福を祈るといふ事は土佐一國の特風にあらず』とあり、そこでは「山オコゼ」は「田螺」と明記されてある。熊楠がそれをここで一例として出さないのは、私は甚だ不当と感じるものである。

「紀州日高郡丹生川」合併と吸収が重なり、行政地名としては残っていないが、地元の神社・学校名等で確認出来る。ここ

「居常」常日頃。

 以下の段落は底本では、全体が一字下げである。]

 

 上述、日向村民「オコゼ」を紙に包み、如し獲物を與え吳(くれ)なば、世の明りを見すべしと祈り、獲物ある後も紙を開かず、每度誓言し、每度違約するは、不斷闇中に靈物を倦苦(けんく)せしめ、且つ之を紿(あざむ)き通すもの也、淵鑑類函、卷四四九、 倦遊雜錄曰、熙寧中、京師久旱、按古法令、坊巷以甕貯水、揷柳枝泛蜥蜴、小兒呼曰、蜥蝪蜥蝪、興雲吐霧、降雨滂沱、放汝歸去、下略《「倦遊雜錄」に曰はく、煕寧(きねい)中、京師、久しく旱(ひでり)す。古への法令を按ずるに、坊巷にて甕を以つて水を貯へ、柳枝を揷し、蜥蜴(とかげ)を泛(うか)べて、小兒、呼んで曰はく、「蜥蜴よ、蜥蜴、雲を興し、霧を吐き、雨を降らすこと、滂沱(ばうだ)たれば、汝を放ちて歸り去らしめん。」と。(下略)》、又酉陽雜俎卷十一に、蛇醫(ゐもり)を水甕中に密封し、前後に席を設け、香を燒き、十餘の小兒をして、小靑竹を執り、晝夜甕を擊(うつ)て止まざらしめしに、雨大いに降れりと有り、是又靈物を倦苦せしめて雨を祈りし也。至極けしからぬことの樣なれど、凡て蒙昧の民のみならず、開明を以て誇れる耶蘇敎國にも、近世迄、鬼神を欺弄(ぎろう)し、甚しきは脅迫して、利運を求(もとめ)し例少なからず、佛國サン、クルーの橋の工人之を仕上(しあぐ)る能はず、渡り初(そむ)る者の命を與ふべしと約して、魔を賴みて竣功し、扨最初に一猫を放ち渡せしかば、魔不滿十分ながら、之を收め去れりと傳え(Collin de Plancy, ‘Dictionnaire critique des Reliques et des Images miraculeuses,’ tom.ii, p.446, Paris, 1821)、十六世紀頃迄、ナヷル王國の諸市に、久(ひさし)く旱する每に、奇妙な雨乞ひ式あり。河岸へ彼得(ペテロ)尊者の像を舁出(かつぎだ)し、民衆同音に、吾れ吾れを助けよと三囘呼び、何の返事も無ければ河水に浸せと詈(ののし)るに及び、僧之を制止し、彼得(ペテロ)必ず雨を與ふべしと保證す。斯くする後、廿四時内に必ず雨降ると云(いへ)り(lbid., p.434)。支那にも、博物志卷八に、止雨祝曰、天生五穀、以養人民、今天雨不止、用傷五穀、如何如何、靈而不幸、殺牲以賽神靈、雨則不止、鳴鼓攻之、朱綠繩縈而脅之《雨を止むる祝(のりと)に曰はく、「天は五穀を生(そだ)て、以つて人民を養ふ。今、天、雨(あめふ)ること止まず、用(も)つて五穀を傷(そこな)ふ、如何、如何。」と。靈、幸ひせざれば、牲(いけにへ)を殺して以つて神靈を賽(まつ)り、雨、則ち、止まざれば、鼓を鳴らして之れを攻め、朱綠の繩を縈(めぐら)して之れを脅かす。》と載せたり。「タイラー」の「ブリミチヴ・カルチユル」篇、第二板、卷二、十四章に、斯(かか)る例多く見え、幸運を祈るとて、神靈の像を縛り脅かすさえ有る世の中に、「オコゼ」や山神を紿(あざむ)きて、獲物を求むる邦民の迷信は、比較的輕少也と謂(いふ)べし。

[やぶちゃん注:「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「夷堅志」は南宋の洪邁(こうまい 一一二三年~一二〇二年)が編纂した志怪小説集。一一九八年頃成立。二百六巻。南方熊楠は、この本が結構、好きで、他の論文でもしばしば引用元として挙げている。原文は「漢籍リポジトリ」のこちらを参考にした。

「熙寧」北宋の神宗の治世で用いられた元号。一〇六八年 から千七十七年まで。

「酉陽雜俎」唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立。原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらで当該部の影印本が視認出来る

「サン、クルー」次注のリンク先を参照されたいが、「‘Saint-Cloud」とあり、サン=クルー。ここ。パリに西でセーヌ川を挟んで接する都会近郊で、田舎ではない。

Collin de Plancy, ‘Dictionnaire critique des Reliques et des Images miraculeuses,’ tom.ii, p.446, Paris, 1821」コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。当該書は「遺物と奇跡のイメージに関する評論的辞書」。一八二一年刊。「Internet archive」で原本が見られ、当該部はここ

「ナヷル王國」「ナバラ王国」(Kingdom of Navarra)。スペインの北東部、ピレネー山脈の西寄りに南北に亙って存在した中世国家。フランス語では「ナバール王国」。十二世紀後半までは「パンプロナ王国」として知られていた。九世紀初頭、フランク王カルルⅠ世(大帝)が設置したエブロ川北方辺境領の一つナバラ辺境領をもとに,サンチョⅠ世(サンチョ・ガルセスⅠ世)の頃、本格的な王国として現れた。十一世紀サンチョⅢ世(大王)のもとに全盛期を迎え、カタルニャやカスティリアをも征服した。大王の死後、王国からカスティリアとアラゴンが独立して王国を築いた。一〇七六年、アラゴンのサンチョⅤ世(サンチョ・ラミレス)に併合されたが、一一三四年、ガルシアⅤ世が独立を回復した。その後、フランス王家の血統を引く王に統治され、シャルルⅢ世(在位:一三八七年~一四二五年) の時、最も繁栄を誇った。一五一二年、王国のスペイン側はフェルナンドⅡ世(カトリック王)に占領されたが、フランス側の王国はアンリⅣ世がフランス王となる一五八九年まで続いた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。位置は当該ウィキ地図を見られたい。現在バスク地方のフランスとの国境附近に相当する。

「彼得(ペテロ)尊者」「新約聖書」でイエス・キリストに従った使徒の一人であったペトロ(?~六七年?)。初代ローマ教皇とされる。

lbid., p.434ここ

「博物志」晋(二六五年~四二〇年)の名臣(呉を伐つに功あって最高職である三公の一つである司空に任ぜられた)で、学者でもあった張華(二三二年~三〇〇年)が撰した博物誌。散逸しているものの、「本草綱目」に見るように、多くの本草書に引用されて残っており、これがまた、非常に面白い内容を持つ。原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本に拠った。

『「タイラー」の「ブリミチヴ・カルチユル」篇』イギリスの人類学者で「文化人類学の父」と呼ばれる、宗教の起源に関してアニミズムを提唱したエドワード・バーネット・タイラー(Sir Edward Burnett Tylor 一八三二年~一九一七年)が一八七一年に発表した「原始文化:神話・哲学・宗教・芸術そして習慣の発展の研究」(Primitive Culture, researches into the Development of Mythology, Philosophy, Religion, Art and Custom )。原本当該部は「Internet archive」のここ。標題はズバり、「ANIMISM」である。]

 

 二年前、西牟婁郡近野(ちかの)村にて、予が創見せる奇異の蘚(こけ)Buxpaumia Minakatae S.Okamura は其後復た見ず。因て昨年末、當國最難所と聞ゑたる安堵峰に登り、四十餘日の久しき間、氷雨中に之を索めしも得ず。終(つひ)に、誠に馬鹿氣た限り乍ら、山人輩の勸めに隨ひ、山神に祈願し、若し之を獲(え)ば「オコゼ」を獻ぜんと念ぜしに、數日の後、忽ち彼(かの)蘚群生せる處を見出(みいだし)たり、去れば山神は兎も角、自分の子供に渝誓(ゆせい)の例を示すは、父たるの道に背く者と慮(おもんぱか)り、田邊に歸りて直ちに彼魚を購ひ、山神に贈らんとて乾燥最中也、其の節、販魚婦に聞きしは、山神特に好む「オコゼ」は、常品と異なり、之を山の神と名け、色殊に美麗に、諸鰭、殊に胸鰭勝れて他の種より長く、漁夫得る每に乾し置くを、山神祭りの前に、諸山の民爭ふて買ひに來る、海濱の民は、之を家の入口に懸て惡鬼を禦ぐと。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡近野村」現在の和歌山県田辺市中辺路町近露のこの附近と思われる。山間の日置川に沿って形成された小さな盆地である。

Buxpaumia Minakatae S.Okamura」叙述に従えば、二年前(但し、この謂いは本論考発表の明治四四(一九一一)年二月から事実上のほぼ二年前で、恐らくは明治四十一年の十一月から十二月に敢行した熊野への植物採集旅行を指すものと思う)に南方熊楠が発見し、日本の蘚苔学の草分けであった岡村周諦(明治九(一八七七)年~昭和二二(一九四七)年:和歌山県生まれ。漢方医の父の影響を受けて本草学・植物学、特に鮮苔類の研究を行った。東京帝国大学で理学博士を授与されている)に新種として報告して貰った、種小名に南方の名を持つ蘚類の新種、マゴケ植物門マゴケ綱キセルゴケ亜綱キセルゴケ目キセルゴケ科キセルゴケ属クマノチョウジゴケ Buxbaumia minakatae S.Okamura であり、熊楠は属名を誤っている(追加注参照)。生体画像は、蘚苔類の研究者であられる左木山祝一氏のブログ「そよ風のなかで Part2」の「クマノチョウジゴケ」(別にこちらにもある)で素晴らしい鮮やかな写真(顕微鏡写真も含む)が見られる。貝類同定でかなりお世話になっている「レッドデータブックあいち」の同種のデータ(PDF)も見られたい。【二〇二二年五月五日追記】本未明、南方熊楠の研究者で南紀生物同好会の先に引用させて戴いた大和茂之氏より、御自身の論考を、複数、頂戴した。その中の南方熊楠顕彰会機関誌『熊楠ワークス』第五十九号(二〇二二年 四月 一日発行)の「クマノチョウジゴケの補足――学名の誤記と熊楠による最終経緯の脚色――」(同会の土永浩史氏との共著)の中で、初出の『東京人類学会雑誌』での誤植が現在まで続いてしまった経緯を細かく考証された上で、熊楠の『日記の記述と照合させていくと』、「山神オコゼ魚を好むということ」の一部は、『事実に反する創作や脚色がなされていることに気がつく』とされ、実際には十一月十二日から十二月二十七月までの兵生(ひょうぜ)(ここ)での『滞在中に、少しずつではあるが、継続して標本を採集して』おり、『この滞在の最後の方の』十二月二十一日に、『待望していた大量の標本』『が得られたことは間違いないが、それが「山神に祈願し、もしこれを獲ばオコゼを献ぜんと念ぜしに、数日の後、たちまちかの蘚群生せる処を見出だした」というのは、少し脚色を加えているように読み取れる』とある(なお、この時の山神祭は十二月九日に行われている、とある)。『希少なコケを探し求める熊楠の気持ちと、大量のコケと出会うまでの間に、山神に祈願するという民俗を差し挟むことで、コケの発見が劇的なものになっている。熊楠からすれば、科学的な記述以外のところでは、多少の創作を混えることは構わないということだったのだろうか。そう考えると、『牟婁新報』掲載の採集経過についても、日記の記述と食い違う所が多数ある』と指摘され、明治四一(一九〇八)年に『拾い子谷で最初に本種を発見したときに、「陰徳の一事」ということで、躓いた僵木を後から来る人のために取り除こうとした際に見つかったという話も、少し脚色が入っているように見えてくる』と述べておられる。私も、どうも脚色の疑いを抱いていたが、これで腑に落ちた。大和氏に心より感謝申し上げるものである。

「安堵峰」『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」』の私の注を参照。地図をリンクさせてある。]

 

 人類學會雜誌二七八號、三一〇頁と、二九二號、三二八頁に、予が、古えわが邦に狼を山神とせる由の考說を載せたり。隨(したがつ)て勘(かんが)ふるに、諸種の「オコゼ」魚、外に刺(とげ)多けれど、肉味美にして食ふに勝(たへ)たり、以て山神を祭るは其基(もとづ)くところ、狼が他の獸類に挺(ぬきんで)て、之を啖ひ好む事、猫の鼠に於るが如くなるにや有らん、切に望むらくは世間好事の士、機會有らば、生(いき)たる狼に就(つい)て實際試驗されん事を。

[やぶちゃん注:「人類學會雜誌二七八號、三一〇頁」明治四二(一九〇九)年五月発行の同誌(但し、『東京人類學會雜誌』が正式誌名)に載せた論考『出口君の「小兒と魔除」を讀む』で、「J-STAGE」のここPDF)で初出画像が見られるが、これが、既に電子化注を終えた南方熊楠「小兒と魔除」PDF)となった。特に狼への言及が集中するのは、終わりの部分で、そこだけでよければ、ブログ版のこちらがある。

「二九二號、三二八頁」同じく明治四十三年六月発行の同誌に載せた論考『本邦における動物崇拜(追加)』がそれで、「J-STAGE」のここPDF)で初出画像が見られるが、これが、既に電子化注を終えた南方熊楠「本邦における動物崇拜」PDF)となった。こちらの私のブログ版の「狼」パートはここで読める。

『諸種の「オコゼ」魚』ここではハオコゼ亜科 Tetraroginae・オニオコゼ亜科 Synanceiinae 辺りを中心とする広義の棘を持つところの種が含まれるカサゴ目 Scorpaenoidei の総称として「オコゼ」を用いていると考えられる。

「生たる狼に就て實際試驗されん事を」我々が絶滅させてしまった食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax(確実な最後の生息最終確認個体は、明治三八(一九〇五)年一月二十三日に奈良県吉野郡小川村鷲家口(わしかぐち:現在の東吉野村大字小川(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で捕獲された若いオスであった)。これは結果ではあるが、熊楠がまさにこんなことを提案している、真最中に、目と鼻の先で、ニホンオオカミは最早、絶滅の末期にあったということを知ったら、彼はどう思っただろう。本論考は最後の捕獲から四年後であった。

 以下の段落は底本では全体が一字下げ。]

 

 安堵峰邊に又言傳(いひつたふ)るは、山神女形にて、山祭りの日、一山に生ぜる樹木を總算するに、成るべく木の多き樣(やう)算(かぞ)えんとて、一品每に異名を重ね唱え、「赤木に「サルタ」に猿スベリ、抹香、香(かう)ノ木、香榊(かうさかき)」抔讀む。樵夫此山に入れば、その内に讀み込まるとて、懼れて往かず、又甚だ男子が樹陰に自瀆するを好むと、此の山神は、獸類の長として狩獵を司どる狩神と別物と見え、頗る近世希臘の俗間に信ぜらるゝ「ナラギダイ」に似たり、「ナラギダイ」は野原と森林に住み、女體を具し、人其名を避(さけ)て呼ばず、美婦人と尊稱す、常に群を成して谷間の樹下、寒流の邊に遊び、好んで桃花の艶色を以て美壯夫を誘ひ、情事を成す、若し人之を怒らせば、忽ち罰せられて不具醜貌に變ずと云ふ(Thomas Wright, `Essays on England in the Middle Ages,` 1846, vol.ii, pp. 283-284)。「アラチウス」謂(いは)く、「ナラギダイ」は古希臘の「ネレイダイ」より訛(あやま)り出づと、是れ「ニムフス」の一部なり。「ニムフス」は原(も)と童媛(どうゑん)の義、下等の自然神、女體にて森林洞窟河泉等、住處の異なるに隨ひ部類を別つ、好んで男神と戯れ、又人と媾(まぐはひ)す、而して其の一部「ドリヤヅ」の存在は、實に樹木盛枯の由る所と云へり(Seyffert, `A Dictionary of Classical Antiquities,` London, 1908, p.420)、和歌に詠みたる山姬、吉野の柘(やまぐは)の仙女(類聚名物考卷十八と三二一に出づ)抔、古え本邦に「ニムフス」相當の信念行はれしを證すべく、女形(ぢよけい)の山神、山婆、山女郞抔、今も傳話するは其遺風と見ゆ。

[やぶちゃん注:「自瀆」初出は「手淫」。マスターベーション。

「ナラギダイ」これは思うに、ギリシア神話に登場する山の谷間の森に住むニンフであるナパイアーの、複数形ナパイアイ(ラテン文字転写:Napaîai)のことではなかろうか。「Thomas Wright, `Essays on England in the Middle Ages,` 1846, vol.ii, pp. 283-284 イギリスの好古家で著作家のトーマス・ライト(Thomas Wright 一八一〇年~一八七七年)の著作。前「Internet archive」のそれらしいものを調べたが、見つからない。また、ページ数の誤りか?

「アラチウス」不詳。ラテン名なら「Arantius」 だろうが、以下は後に示す原本に出るのに、この名だけ、どうしても私には見出せなかった。

『古希臘の「ネレイダイ」』ギリシア神話に登場する海に棲む女神たち、あるいはニンフたちの総称であるネーレーイス(ラテン文字転写:Nērēïs)、複数形ではネーレーイデス(NērēÏdes)。

「童媛」少女。以下の項目名の後に「properly the youg maidens”」とある。

「ドリヤヅ」ギリシア神話に登場する、木の精霊(ニンフ)であるドリュアス(ラテン文字転写:Dryas)は、複数形はドリュアデス(Dryades)。

Seyffert, `A Dictionary of Classical Antiquities,` London, 1908, p.420」ドイツの古典哲学者でローマが専門であったオスカル・セイフェルト(Oskar Seyffert 一八四一年~一九〇六年)の著作。「Internet archive」で版は古いが(一八九五年)、同ページにあった。項目名は「Nymphs」。

「和歌に詠みたる山姬、吉野の柘(やまぐは)」バラ目クワ科クワ属クワ品種ヤマグワMorus australis(養蚕用改良種)「の仙女(類聚名物考卷十八と三二一に出づ)」「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。前者「山姬」は国立国会図書館デジタルコレクションのここにある(右ページ上段)。一方、後者はこちらの「吉野柘枝(ツミエ)壱仙女」とあるのが、それ(右ページ下段中央)。

「山婆」「やまうば」「やまんば」と呼ぶ老女の妖怪。]

 

 人類學會雜誌二七八號三一〇頁に述たる通り、紀州田邊、湯川富三郞氏、屛風一對を藏す、一方は繪にて土佐風彩色細(くは)しく、一方は御家風の詞書也、狼形の山神「オコゼ」魚を戀ひ、遂に之を娶るを、章魚大に憤り、其駕を奪(うばは)んとせしも、「オコゼ」遁れて、終(つひ)に狼の妻と成る譚(ものがたり)にて、文章略(ほ)ぼ室町季世の御伽草紙に類せり、前半計(ばか)り存すと報ぜしは予の誤りで、全たき物也、前日全文を寫し得たれば、難讀の字に圈點を添え、遼東(れうとう)の豕(ゐのこ)の譏(そし)りを慮り乍ら、爰に書付(かきつ)く。

[やぶちゃん注:「人類學會雜誌二七八號三一〇頁に述たる通り」「南方熊楠 小兒と魔除 (7)」が当該部。

「遼東の豕」「後漢書」の「朱浮伝」の中で、遼東で珍しいとされた白頭の豚が、河東では珍しくなかったという故事から、「世間知らずであったために、つまらないことを誇りに思って自惚れること」の喩え。

 さて、この屏風は現存する(以下の引用の湯浅家。但し、現在は東京に転居)。以下は、底本よりも「選集」の方が正確である。ここで特異的に底本とする「選集」では、末尾に編者注があり、『右の「山神絵詞」の用字、かなづかいは、湯川功四郎氏所蔵の現物により校訂し、読みにくい箇所には、『東京人類学会雑誌』所載の南方の論文の漢字を〔 〕内に付記した。南方が付した疑問のうち未解決のものは、圏点および括弧内注記の形でそのまま残した。』とあるからである。しかし、「選集」は漢字が新字体であるから、それを恣意的に概ね正字に直して以下に示した。これによって、遂に最も本来の屛風の詞書に近いものを復元し得たと私は考える。なお、以下の( )のルビは「選集」のものであり、歴史的仮名遣の誤りもママである。〔 〕は「選集」のものそのままであるが、ポイント落ちなのは本文と同じポイントにした。太字は底本では傍点「○」、「選集」では傍点「﹅」である。踊り字「〱」は正字化した。「栞」は「選集」は「グリフウィキ」のこの字体だが、表示出来ないので「栞」にしてある。本屛風は「選集」では本文上方に五枚の写真が掲載されているものの、小さく、画素も粗く、絵の愉快な雰囲気を摑むことは甚だ困難である。私の所持する書籍では、一九九〇年八坂書房刊の「南方熊楠アルバム」の一四二~一四三ページに載る四枚(但し、モノクロ)の屛風部分図が見るに堪える。ネット上では、「南方熊楠記念館」のブログの「 山の神の日」に、原屛風ではないが、祝言宴の部分の写本(同館の展示物と思われ、作品プレートには「山の神草紙写本」とある。ただ、この構図は完全に同屛風の御両人のそれと一致するので、恐らく後に熊楠が津人の画家広畑幾太郎に模写させたそれではないかと推察する)が見られる。因みに、そこにはオコゼの液浸標本もある(但し、写真位置が悪く、種は判らない。体体の側扁しており、胸鰭や背鰭が有意に長いのも気になる)。なお、本話は「山の神」を男の「狼」とし、「おこぜ」を姫とし、その結ばれる顛末を描く、変わり種の異類婚姻譚であるが、同様の展開の草紙絵は他にもあるらしい。なお、屏風絵の「おこぜ姬」は、ロケーションや彼女の描き用から、海産のカサゴ類であることは間違いない。【二〇二二年五月五日追記】先の大和氏から頂戴した論考の中の「南紀生物同好会」の二〇一九年十月刊の雑誌『くろしお』(第三十八号)の、大和氏と山内洋氏の共著論考「南方熊楠におけるオコゼという名称」には、冒頭で(コンマを読点に代えた。以下同じ)、『白浜町にある南方熊楠記念館』『に、ガラスの標本瓶に入ったオコゼの液浸標本』『が展示されている。この標本は、一見したところ、鰭が長くて、表面の模様なども、普通に食用にするオニオコゼとは大きく違っている。筆者らは、なぜこの標本がオコゼと呼ばれるのか』と疑問を持ったと枕を置かれ、熊楠の言う「オコゼ」の種同定と名称の考察がなされてあった。そこでは、熊楠の自筆資料から、熊楠の指すそれは『ミノカサゴと、カマキリ(アユカケ)ではないか』と推定され、さらに、熊楠の友人にして教師・博物学者・郷土史家であった宇井縫蔵の「紀州魚譜」(大正一四(一九二五)年)を引用されておられる。この本は、私がブログ・カテゴリ『畔田翠山「水族志」』(ここのところ更新をサボっている)で種同定に用いているもので、甚だ馴染みのある本である。著者の宇井縫蔵については、その『畔田翠山「水族志」 ヱビスダヒ (タイワンダイ)』の私の注を参照されたいが、同書(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)は、原本を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。論考では同書のミノカサゴからの引用があるが、原本ではここで、以下、原本から電子化する。方言としては、「ヤマノカミ」(紀州各地)・「オコゼ」(堅田・三輪崎)」・「ハナオコゼ」(湯浅・和深・木ノ本)・「ハネオコゼ」(二木島)を挙げており、最後に畔田の「水族志」では「ダイナンオコゼ」(本脇)・「ヨロヒウヲ」(網代浦)・「ヨロヒ」とあることが示された後に、

   *

體は長く側扁し、兩眼高く兩眼間隔は廣く凹形を呈する。背鰭及び胸鰭の鰭條は共に延長遊離して、その狀恰も簑をひろげたやうで、胸鰭の後端は尾鰭に達する。全體淡紅色で、暗褐色又は黑色の細き橫帶多く、胸鰭に黑斑を有する。體長七八寸。近海の岩礁の邊に多產し、釣り又刺網にて漁獲せられる。肉は美味。

この魚は西牟婁郡和深地方では山の神の第一の好物として、山商人や山稼ぎ人などは山の神に供へるるためといつて爭うてもとめるとの事である。[やぶちゃん注:この最後段落は原本ではポイント落ちである。「和深」は「わぶか」と読み、現在は和歌山県東牟婁郡串本町和深である。]

   *

それに続いて、論考では本篇の熊楠の記述との一致が示される。一方、『アイカケの方はやや複雑で』、『山神とオコゼについて調べていた』一九一〇年代の『熊楠は、カジカ Cottus pollux GüTHER, 1873 とカマキリ Cottus kazika JORDAN & STARKS, 1904 が区別されていたことを、知らなかったらしい。宇井の『紀州魚譜』では、カジカとカマキリは区別されているが、アイカケという方言名は、両者で混同されていたとある』。熊楠がこの誤りに気づいたのは後の昭和六(一九三一)年十月発行の『民俗學』(第三巻第十号)に初出される「ドンコの類魚方言に關する藪君の疑問に答ふ」を書いた際に宇井の上掲本を見、『はじめて別種と気がついたようだ。そして、23 年前に東牟婁郡請川村で乾品を得て、持ち帰ったものを改めて調べてみると、カジカとカマキリが混合していたとある』とあり、以上から、熊楠個人が諸論考で『オコゼと呼んでいた2 種の魚は、ミノカサゴとカマキリである』と断定されておられる。さらに私も先に疑問を持った、「南方熊楠記念館」の液浸標本(採集日の疑問まで考証されてある)のそれは、条鰭綱カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科ミノカサゴ亜科ミノカサゴ属ミノカサゴ Pterois lunulata であることが示されてあった。強い棘毒で知られるが、綺麗な裳のような胸鰭のさまは、「かさご姫」にまさに相応しいと、思わず、膝を叩いて合点した。さらに同論考では、『“オコゼ”の名称について』の項で、『このように山神に祀るものとしてのオコゼという名称は、様々な魚類にあてはめられていたようだ。熊楠も、田辺周辺のヤマノカミ(=ミノカサゴ)を海オコゼ、内陸部のアイカケ(カマキリ)を川オコゼと呼んでいる』とあり、続く『熊楠におけるオコゼという名称』で生物学的な種名・異名としての「オコゼ」(群)と、熊楠が民俗学上の対象物としての「オコゼ」(群)の異相を弁別され、

   《引用開始》

熊楠のいうオコゼは、山神-狼-オコゼと組み合わされた物語の影響を受けつつ、それぞれの地域で、その物語に見合った種類が選ばれた。また、山神自体も、実体が知れないものだから、現象や喩えをつなぎ合わせて理解される。熊楠の山神の説明でも、狼であったり、猴《さる》であったり、女体であったりする例が挙げられていて、どれが正解ということではない。このようなオコゼは、山神に関する知識や意味のつながりの中で、理解されるべきものだろう。このような名称は、オコゼという「物」の背後にある象徴的な体系を踏まえたものである。

   《引用終了》

と、胸の透く結論が示されてある。]

 

 山ざくらは、わがすむあたりの詠(ながめ)なれば、めづらしからずや、春のうらゝかなるおりからは、濱邊こそ見どころおほけれ、めなみおなみ〔雌波雄波〕のたがひにうちかはし、岸のたま藻をあらふに、千鳥の浮しづみて、なく音もさら也、沖ゆく船の、風長閑(のどか)なるに、帆かけてはしる、歌うたふ聲かすかに聞えて、思ふことなくみゆるもいとおもしろし、鹽やくけぶりの空によこをるゝ(たはる?)は、たが戀ぢにやなびくらん、むかふの山より柴といふものをかりはこぶに、花を手をりてさしそへたるは、心なき海郞(あま)のわざにやさしうもおもほゆるかなと、やまの奧にてはみなれぬことども、山の神あまりの興にぜう〔乘〕じて、一首くはせたり、をかしげなれども心ばかりはかく〔斯〕なん、

  鹽木とる、海郞のこゝろも、春なれや、

  かすみ櫻の、袖はやさしも、

とうち詠じて、あそここゝをうそうそとまどひゆく、

 こゝにおこぜの姬とて、魚の中にほたぐひなきやさものあり、おもてのかゝりは、かながしら、あかめばるとかやいふらんものにゝ〔似〕て、ほね〔骨〕たかく、まなこ〔眼〕大にして、口ひろくみえしが、十二ひとえ〔一重〕きて、あまたの魚をともなひ、なみのうへにうかび出つゝ、春のあそびにぞ侍べる、あづま〔東〕琴かきならし、歌うたふ聲をきけば、ほそやかなれどもうちゆがみて、

  ひくあみの、めごと〔目每〕にもろき我なみだ、

  かゝらざりせばかゝらじと、後はくやしきうれし船かも、

とうたひつゝ、つまをと〔爪音〕たかくきこえ侍べり、

 山の神つくづくと立聞て、おこぜのすがたをみるよりも、はやものおもひの種らなみ(ならめ?)、せめてそのあたりへもちかづきてとはおもへども、水こゝろをしらねばそもかなほず、はまべ〔濱邊〕につくまりてこでまね〔小手招〕きしければ、あなこゝろ〔心〕うや、みるものゝありとて、水そこ〔底〕へがばがばとはいりぬ、

 さるにても山の神は、ひくやもすそのあからさまなる、おこぜのすがたいま一めみまほしく、たち歸り侍べれども、またも出ず、日もはや夕ぐれになりければ、しほしほとしてやまの奧にたちかへり、ねたりおきたり、ころ〔轉〕びをうてども、このおも影はわすられずして、むね〔胸〕ふくれこゝち〔心地〕なやみて、木のみ〔實〕かやのみ〔實〕取くらへども、のど〔喉〕へもいらず、ただ戀しさはまさり草の、露ときえてもとはおもへども、し〔死〕なれもせず、其夜もあけゝればまた濱邊に立いでゝ、もしやさりともうきあがるかと、沖のかたをみやれども、しら波のみうちよせて、その君は影も見えず、山の神はなみだのえだをりにて(を栞(しを)りにて?)、うとらうとらとまたもとのすみか〔棲家〕に立歸り、いかならむたま〔玉〕たれのひま、も〔洩〕りくる風のたよりもあれかし、せめては思ひのほどをしらせて、なからむ跡までも、かく〔斯〕とだにいひ出し侍べらば、後の世のつみ〔罪〕とがも、すこしはかろ〔輕〕くあるべきを、やまにすむ程のものは水のこゝろをしらず、また水にすむやから〔族〕は山へはきたらず、いかにとかせむことはと、大いき〔息〕つきて思案する、さればこそ、都のうち、因幡堂の軒の口なる鬼甍(瓦?)は、故鄕の妻がかほにゝ〔似〕て、都なれども、旅なれば戀しく侍るとて、さめざめとなきけん人の心にて、思出されはべり、こひ〔戀〕ぞせられ侍べる、

 かかるところへ獺(かわうそ)かけまゐり、たそやは、山の神のな〔泣〕くは、いかにもして、神の事しろしめしたりしかじかの事侍べり、文ひとつゝかば〔遣〕し侍べらんに、とゞけて給はれといふ、かわうそきいて、其おこぜはきわめてみめわろく侍べり、まなこ〔眼〕大にしてほね〔骨〕たかく、口ひろく色あかし、さすがに山の神などのうれし(かれら?)に戀をさせ給ふなんと、よそのきこ〔聞〕えもをこがましと申せば、山の神、いや〔否〕とよ、女の目にはすゞをはれといふこと有、目の大なるは美女のさう〔相〕也、ほねたかきは又貴人のさう也、口ひろきは知惠のかしこきしるし也、いづくにもけぢめなき姬なれば、誰のみ〔見〕させたまふとも、心をかけずといふことなからん、さや(左樣?)にあしくとりざたするは、世のならひぞかしとて、思ひいれたるありさま、まことにゑん〔緣〕あれば、いくち〔兎唇〕もえくぼにみゆるかなと、をかしさばかぎりなし、さらば御文かき給へ、つたへてまいらせんといへば、山の神よろこびつゝ、文かゝむとすれども紙はなし、木のかは〔皮〕を引むしりて、思ひのほどをぞかきたりける。

[やぶちゃん注:以下の山神の消息文は、段落末尾の「參らせ候、」まで、底本でも「選集」でも、すべて一字下げ。なお、以下の三ヶ所の「參候」は草書体であるが、漢字にした。]

あまりにたへかねて、御はづかしながら一筆參候(まいらせそろ)、いつぞや濱邊にたち出て、春のながめに海つら〔面〕を見まいらせゝつ〔節〕は、波のうへにうきあがらせ給て、あづま琴をかきならし、歌あそばせし御すがた、花ならば梅櫻、たをやかにして、柳の糸の風にみだるゝたとへにも、なをあきたらず、思ひ參らせ候、我身は深山のむも〔理〕れ木の、くちはてゆかむもちから〔力〕なし、おもひの末ののこりなば、君が身の上いかにせん、せめて手ふれししるし〔印〕とて、御返事給はらば、御うれしく參候、

とかきておく〔奧〕に、

  かながしら、めばるのをよぐ、波のうへ、

  みるにつけても、おこぜ戀しき、

とよみて獺にこそわたしけれ、げにも山かたおくふかくすみけるものとて、文のこと葉もいとゞふつゝかに、さるか可(かた? また歌?)のきたなげさよと(そ?)、かわうそもこゝろには思ひけらし、

 かくて獺は、いとゞはなうそやき(ぶき?)つゝ、濱邊にたち出で、海の底につぶつぶと水練し、おこぜの姬にたいめんして、しかじかとかたりければ、おこぜはこれをきゝて、おもひもよらぬ御事かなとて、手にも文をばとらざりけり、

 獺は、あゝつれなの御ことや、藻にすむ蟲のわれからと、ぬらすたもと〔袂〕のそのしたにも、なさけは世にすむ身の上に、なくてはいかになら〔楢〕柴の、かりのやどりの契りだに、おもひをはらすならひぞかし、ましてやこれはつねならぬ、後は契りの底ふかく、戀にしづみしそのこゝろを、いかでかたゞにはすごし給はん、しほ〔鹽〕やく海士(あま)のけぶりだに、思はぬかたになびくらん、春の靑柳風吹ば、かならずなびく枝ごとに、みだれ心のあはれさを、すこしはおぼししらせ給へなと、さまざまに申しければ、おこぜはつくづくとうち聞て、さすがに岩木ならねば、御はづかしく侍べれどもとて、

[やぶちゃん注:以下おこぜの消息文は、段落末尾の「參候。」まで、底本ではすべて一字下げ。なお、表記の通り、ここの末尾は山神の消息文と異なり、句點となっている。なお、「參候」は先に同じだが、漢字表記とした。]

おぼしめしよりたる水くき〔莖〕のすゑ、御こゝろのほどもあはれに思ひまいらせ候へども、たゞかりそめのうはべばかりに、空なさけかけられまいらせして、秋の草のかれがれに、候はん時は中中、後にはまくず〔眞葛〕が原に風さはぎて、恨み候はんもいかゞにて、御入候、とかくさも候はゞ、おもひすてさせしてたまわ(れ?)かし、あはぬむかしこそはるかのましにて、今のおもひにくらぶればと申すこと〔言〕も、御入候ぞや、まことにかく〔斯〕とおぼしいれさせ給はゞ、我身は靑柳の糸、君は春風にて、御入侯ほんとおもひをき參候。

とかきて、

  おもひあらば、たま藻の影に、ねもしなん、

  ひしきものには、波をしつゝも、

とうち詠じて(熊楠謂ふ、「ヒジキ」藻を敷物に言懸[やぶちゃん注:「いひかけ」。]たる也)、獺にわたしければ、よろこびて立歸り、山の神に見せければ、うれしな〔泣〕きになみだをこぼして、返事ひらき、よみてみれば、我身は靑柳の糸、君は春風と書給ひしは、なびき侍らんといふ事なるべし、さらば今宵おこぜの御もとへまいるべし、とて〔迚〕もの御事にみち〔道〕しるべして給はれといふ、やすき御事也、御とも〔供〕申さんといふ、かゝる處にたこ〔蛸〕の入道、このよしをつたへ聞て、さても無念のことかな、それがしおこぜのもとへたびたび文をつかはすに、手にだにもとらず、なげかへ〔投返〕し侍べるに、山の神のをくりし文に返事しけるこそ、やす〔安〕からね、法師の身なればとかくあなどりて、いかやうにやいたすらん、烏賊(いか)の入道はなきか、をしよせてそのおこぜふみころせとぞののしりける、

 烏賊の入道うけたまはり、おなじくは御一門めしあつめて、をしよせたまへと申ければ、しかるべしとて、蘆蛸(足長蛸?)、手なが章魚、蛛螵(蛸?)、飯だこ〔蛸〕、あをり烏賊、筒烏賊にいたるまで、使をたてゝめしよせ、はやをしよせむとひしめきたり、

 おこぜは此よし〔由〕きゝつたへ、このまゝこゝにあらむよりは、山のおくにもかくればやとおもひつゝ、波のうへにうきあがり、あかめばる、あかう、かながしらをともなひて、山の奧にわけいりければ、おりふし山の神、かわうそをともなひて、濱べら能遣(の去る?)所に候てはつたと行あふ〔逢〕たり、やま神みわあまりのうれしきにうろたへて、おはせて、山々にわおこたりし(?)、山の奧は海の上、川うそをおこせけりと(?)、らちもなきことゞもいひちらし、それよりうちつれて、をの〔己〕がすみか〔住家〕に急場(?)に歸ゑり、連理のかたら〔語〕ひをなしたるとぞきこ〔聞〕えし。

  (明治四十四年二月人類学第二十六卷)

[やぶちゃん注:「鹽木」「しほき」(「しほぎ」とも)は、塩釜で海水を煮つめるのに用いる燃料の薪(たきぎ)。昔は、松葉が燃料として最適のものとされていたが、他に萱(かや)・葭(よし)・篠笹・松の細枝などが用いられた。

「うそうそと」副詞。落ち着かない様子で、見回したり、歩き回ったりするさま。

「やさもの」「優者」。優れて美しい者。

「かながしら」棘鰭上目条鰭綱カサゴ目ホウボウ科カナガシラ属カナガシラ Lepidotrigla microptera「大和本草卷之十三 魚之下 金頭(かながしら)」で益軒は「カサゴ」に似ているなどとのたもうているが、誹謗中傷も甚だしい。似ているのはホウボウである。

「あかめばる」メバルSebastes inermis の流通名。俗に市場では「赤」とか「金(きん)」と呼ばれる。全体に黒味が強く、やや赤味がかる。沿岸・内湾性である。詳しくは、「大和本草卷之十三 魚之下 目バル (メバル・シロメバル・クロメバル・ウスメバル)」の私の注を参照されたい。違いを解説してある。

「あづま〔東〕琴」和琴(わごん)。

「ひくあみの、めごと〔目每〕にもろき我なみだ」海士(あま)の掛け引く漁網の「目」と、己が二つの「目每」に掛ける。

「かゝらざりせばかゝらじと」網に掛からずに済むことなら、どうか、掛からぬようにと祈って。それを受けての下句は、掛からずに済み、「後はくやし」いのは海士の方で、獲れずに「うれ」ふ(憂ふ)のであり、さらに「うれし船(ぶね)」は、助かった魚たちが「嬉(うれ)しぶ」を掛けたものであろう。

「水こゝろをしらねば」表向きは「水心(みづごころ)を知らねば」=水泳の心得がないと言いつつ、裏に「魚心(うをごころ)あれば水心」(魚に水と親しむ心があれば、水もそれに応じる心がある意から、「相手が好意を示せば、自分も相手に好意を示す気になる。相手の出方次第でこちらの応じ方が決まること」の喩え)を効かす。

「つくまりて」「つくまる」は「つくばふ(蹲ふ・踞ふ)」の転訛で、「しゃがみこんで」。

「こでまね〔小手招〕き」「こてまねき」とも。手先を振って招くこと。

「ひくやもすそのあからさまなる」「引くや、裳裾のあからさまなる」。オコゼの長い鰭をも掛けていて、ビジュアルにも効果的で上手い。

「かやのみ〔實〕」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera の実は食用となる。但し、アク抜きが必要。

「なみだのえだをりにて(を栞(しを)りにて?)」熊楠の解読が正しい。滂沱と出ずる涙が彷徨する浜辺に垂れて、それが道しるべの代わりをするという意である。

「うとらうとら」「うつらうつら」の転訛であろう。

「いかならむたま〔玉〕たれのひま、も〔洩〕りくる風のたよりもあれかし」「如何ならむ、玉簾(たまだれ)の隙(ひま)、洩り來る風の便りもあれかし」で、「何んとか、入り口に掛けてある玉簾(たますだれ)の細い隙間から漏れて吹き来たる、ちょっとしたおこぜ姬にかかわる『風の便り』でも、切(せち)に欲しいものじゃ!」の意であろう。

「なからむ跡までも」「後の世のつみ〔罪〕とがも、すこしはかろ〔輕〕くあるべきを」狼男の山の神が後世を語るところがまことに面白い。

「都のうち、因幡堂の軒の口なる鬼甍(瓦?)」京都市下京区因幡堂町(いなばどうちょう)にある真言宗福聚山平等寺(びょうどうじ)。「因幡堂」「因幡薬師」の名で親しまれている。ここ。狂言「鬼瓦」の舞台としても知られる。但し、同寺の鬼瓦は鬼形(きぎょう)の形象は全くないらしい。Tappy氏のブログ「自社巡礼.com」の「【因幡薬師】日本三如来に数えられる、がん封じのお薬師さま(因幡堂)」の、本堂前に置かれた鬼瓦の写真とその画像の中の解説を見られたい。

「獺(かわうそ)」我々がニホンオオカミとともに絶滅させてしまった、食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon 「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を参照。考えて見ると、このヒーロー「山の神」の「狼」も、その眷属の「獺」も、もうこの世には存在しないのだ。

「たそやは、山の神のな〔泣〕くは」「さて? 誰が泣いているだろう? おおっ! 山の神さまが泣いておられる! 如何がなされた?」。

「いかにもして、神の事しろしめしたり」とりあえず私は、前に続いて獺の台詞ととった。「どんなことでも、山の神さまのお世話を致しましょう。」。但し、「しろしめす」は「知る」の尊敬語だから、用法としてはおかしい。自敬表現ととって「なんとかして、我らの思うて(おられる)ところの」の意で下に続くと考えることも出来る。しかし以下では、「侍べり」「侍べらんに」「とゞけて給はれ」と丁寧語と尊敬語を「山の神」は獺に使っており、頭だけ自敬表現というのは話が通らないから、やはり獺の台詞である。

「よそのきこ〔聞〕えもをこがまし」「世間の聞こえもこれ、『如何にも馬鹿げた話じゃ』ということになりましょうぞ。」。

「女の目にはすゞをはれ」慣用句「男の目には糸を引け女の目には鈴を張れ」の後半。男の目はきりりと、真っ直ぐなのがよく、女の目はぱっちりと大きいのがよいということの喩え。

「けぢめなき」他の人と悪い意味での隔たりや違ったところ(「けじめ」)というものは、これ、全く、ない。山の神は「痘痕も靨(えくぼ)」状態である。

「心をかけずといふことなからん」反語。「心が惹かれないということがあろうものか!」。

「深山」「みやま」。

か可(かた? また歌?)」これは恐らく「哥」(うた:「歌」の異体字)の草書を上下で分離して起こしてしまった誤りと思う。

「かわうそもこゝろには思ひけらし」結構、狡猾な獺の内心が描かれて、これまた、笑いを誘うところである。

「いとゞはなうそやき(ぶき?)つゝ」「たいそう鼻を突き出して偉そうにしつつ」の意であろう。

「つぶつぶと」「ぼこぼこと音を立てて」か。或いは、それに、『何で、あの醜女(しこめ)のところへ行かにゃならんのじゃ?』 という内心の不満を「ブツブツ言いながら」もをも、掛けているように思われる。

「われから」節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類。『毛利梅園「梅園介譜」 ワレカラ』を参照。無論、「我から」(山の神自身、自ら)の意も掛ける。以下の懇請は、意外な獺の博識と風流を感じさせ、面白い。

「柳風吹ば」「やなぎ、かぜ、吹かば」。

「水くき〔莖〕のすゑ」恋文の筆跡、その内容。

「御入候」「おほんいりさうらふ」。丁寧語で「御座います」の意。

「たま藻」水中に生える藻の美称の古称。特定の藻類種を指す語ではない。

「ひしきもの」褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキ Sargassum fusiforme。古くより食用とされ、平安の昔より歌にも詠まれた。「大和本草卷之八 草之四 鹿尾菜(ヒジキ)」を参照。この一首は、そこに示した「伊勢物語」の一首、

 思ひあらば葎の宿に寝もしなむひじきものには袖をしつゝも

を典拠としている。さらに熊楠の指摘する通り、「ひしきもの」には閨(ねや)の「敷物」の意が重ねられている。

「法師の身なれば」「蛸入道」に引っ掛けたもの。

蘆蛸(足長蛸?)」頭足綱八腕形上目八腕(タコ)目無触毛(マダコ)亜目マダコ亜目マダコ科マダコ亜科マダコ属テナガダコ Octopus minor であろう。福岡県柳川市では同種を「アシナガダコ」と現在も呼称している。

「手なが章魚」マダコ科Callistoctopus属テナガダコ Octopus minor

蛛螵(蛸?)」マダコ科Paroctopus 属クモダコ Paroctopus longispadiceus

「飯だこ〔蛸〕」マダコ属イイダコ Octopus ocellatus

「あをり烏賊」頭足綱鞘形亜綱十腕形上目閉眼目ヤリイカ科アオリイカ属アオリイカ Sepioteuthis lessoniana

「筒烏賊」十腕形上目ツツイカ目 Teuthida のツツイカ類。多数の種を含む。

「あかう」これはスズキ目スズキ亜目ハタ科ハタ亜科ハタ族マハタ属キジハタ Epinephelus akaara であろう。同種は現在でも「アコウ」の異名で呼ばれることが多い。

「濱べら能遣(の去る?)所」不詳。「浜邊」を「よく遣(い)ぬる(=「去ぬる」)所」か?

「はつた」「はた」の強調形。思いがけず出会うさま。ばったり。

「やま神みわ」「山神(やまがみ)は」。「み」は捨て読みで、「わ」は口語体。

「おはせて」「負はせて」であろう。おこぜ姬を獺に背負わせたのであろう。

山々にわおこたりし(?)」意味不明。「山々」ではなく、「山神」で、「わ」は同前であって、「山神には、怠りし」で、「山神には、このような事態となったことを、自分の失敗であったと、謝った。」の意ではなかろうか?

「山の奧は海の上、川うそをおこせけりと(?)」意味不明。但し、直後に「らちもなきことゞもいひちらし」と続くことから、図らずも、おこぜ姫と邂逅したことから、気が動転して、訳の分からないことを言ってしまったととると、「山の奥は……海の上……獺を背負った……」と、一種の語句・構文のゲシュタルト崩壊を起こしたととると、甚だ面白いと私は思う。

急場(?)に」意味不明。「急場」は「差し迫って直ぐに処置しなければならない場合」の意であるから、まあ、「差し当たって」の意でよかろう。]

2022/05/02

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 木賊貝(トクサ貝) / シラタケ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Tokusagai

 

木賊貝

  とくさ貝

 

[やぶちゃん注:「トクサガイ」は、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目新腹足下目イモガイ上科タケノコガイ科ヒメトクサ Strioterebrum japonicum (姫木賊)

の異名としてあることが、個人サイト「鎌倉市材木座海産貝類」の「新腹足目」のページで確認出来たが、梅園の描いたように、真っ白ではない。ところが、そこのページの同属種に中に、同属シラタケ Strioterebrum subtexilis

があり、この画像が、まさにピッタリ一致することが判ったので、これに同定する。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 長蠃(ナガニシ) / コゲツノブエ?

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 長蠃(ナガニシ) / コゲツノブエ?

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Naganisi

 

 

長蠃(ながにし)【香螺。】

 よなき貝

 

香螺の尤も大なるものも、「夜啼貝(よなきがひ)」と云ふ。形狀、異(い)なり。

 

[やぶちゃん注:梅園の言う通り、これはナガニシ=ヨナキガイ、腹足綱前鰓亜綱新生吸腔上目新腹足目アクキガイ超科イトマキボラ科ナガニシ亜科ナガニシ属ナガニシ Fusinus perplexus とは形状が全く異なる。しかし、全く違うと判っていて、何故、「ナガニシ」=「香螺」=「ヨナキ貝」を名として置いたのかが、逆に頗る不審である。或いは、所蔵者である和田氏が、それに以上の名を添付していたからかも知れない。

 さて、しかし、この図もちょっと「困ったちゃん」である。それは、殻頂から螺旋下部にかけて、有意に目立つ縦脹脈が多数ある点である。殻口と前溝の形状にやや不審があるが、全体の形は、

腹足綱吸腔目カニモリガイ上科オニノツノガイ科カニモリガイ属 Cerithium

と考えていいのではないかと思う。而して、同属の中でこのように縦脹脈が異様にくっきりしている種を画像で探してみたところ、私は、

コゲツノブエ Cerithium coralium

ではないかと踏んだ。漢字表記では「焦げ角笛」である。学名の画像検索をかけたところ、梅園の描いたようなくっきりと連続したそれではないが、何枚かの画像で、こうした縦脹脈が目立つものを見出せた。されば、取り敢えず、それを比定候補した。もっと相応しい種があれば、御教授願いたい。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 米螺 / ミルクイの子貝

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Akanisi

 

米螺【漢名。】 小貝

 

[やぶちゃん注:これも如何にもぼんやりした、しょぼくれた感じで、電子化する気を全くそそらせないものであった(こいつも一ヶ月のペンディングの相手であった)。そもそも中国名で「米螺」というのが、大きく躓く。「螺」は、今も昔も、中国でも日本でも、専ら貝殻が螺旋形を成す腹足類、或いは、巻いているように見える貝類などの総称であって、二枚貝にこの字を用いることは、極めて稀れだからである。さらに、試みに調べてみたところが、「米螺」という漢名は、明の明後期の政治家・学者の屠本畯(とほんしゅん 一五四二年~一六二二年)撰の「閩中海錯疏」(福建省(「閩」(びん)は同省の略称)周辺の水産動物を記した博物書。一五九六年成立)で、巻下の「介部」に「米螺小粒似米肉可食」とあるのを発見した。この部分、前後にあるのは、明らかに「螺」=巻貝であり、何を以って梅園がこの図の二枚貝(にしか見えない)の漢名と断言したのかも甚だ不審なのである。ともかくも「米螺」は比定同定には無効な名である。初めは、「小貝」とするし、禿げちょろげた感じから、『シジミか?』とも思ったのだが、シジミは江戸の庶民の常食するお馴染みの貝であり、それを「米貝」という漢名を出すだけというのも、如何にもおかしいから、あり得ない。ともかくも、見たくもないこの朧な図を凝っと見つめてみた。すると、三つの特徴が挙げられると思う。それは、

①殻頂が、あたかも潰れて欠けたかのように、楕円状に白くなっている点。

②よく見ると、向かって右側の殻縁が有意にカットしたように直線になっており、左側の同じ部分も僅かに直線的に見える点。

③殻表面に同心円脈が多数確認出来、その間の部分が色違いに描かれている点。

である。そこで閃いた。特に②が、右が水管孔であるとすれば、この断ち切った感じが説明し得るし、その貝はしばしば殻頂が禿げたように白く、殻辺縁に向かって殻頂に近い部分も、有意に白っぽく、その白い部分を同心円脈が不規則に黒く仕切っているからである。則ち、

斧足綱異歯亜綱バカガイ科オオトリガイ亜科ミルクイ属ミルクイ Tresus keenae

の子貝に比定したい。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 狐貝 / モシオガイ・ウスモシオ?

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Kitunegai

 

 

狐貝(きつねがい)

 三種

 

[やぶちゃん注:原本の「子」はカタカナ「ネ」のよく見られる異体字。近代までかなり普通に使用された。

これは右一個体と左二個体は異種と考えた。右は濃い放射状の褐色の彩色帯と、殼の辺縁の形状の直線部(図の右部分)から、

斧足綱異歯亜綱モシオガイ科ニッポノクラサテラ属モシオガイ Nipponocrassatella japonica ととった。一方の二個体は散々悩まされた(そのために一ヶ月ほどペンディングすることになってしまった)が、可能性として、梅園が右個体と一緒に図示したのは、色だけではなく、殻緣の特異な直線部分などを総合的に見て、右のモシオガイと近い種と捉えたからではないかという、ところ推理で落ち着き、モシオガイの近縁種である、

ウスモシオ Nipponocrassatella adamsi

を候補としてみた。なお、かなり調べて見たが、「狐貝」という異名は現行では全く見当たらない。]

甲子夜話卷之七 3 千宗左、眞臺司上覽。茶器を賜り歸京の事

7ー3

紀の藩中に千宗左と云あり。京住にして利休の末なり。享保の頃關東に召され、其家傳せし眞臺司の手前を上覽あり。御暇のとき御茶盌を下さる。宗左發足の前、相率たる從者を還し、御茶盌を袋に納め、自ら首に懸て、僅に殘せる僕一二人と發す。京の家内門人の輩、先立歸着せるものに其事を聞き、宗左が歸を待つ。不日にして宗左歸り、江都の云云を話し、恩賜の御茶盌を以て、一會を催さんと門人に云ふ。因て門人等、茶室露次を洒掃して、事既に成れども來客誰と云を不ㇾ知。故に誰をか招給ふと宗左に問へば、妻を客とせんと云。門人妻に告ぐ。妻驚て辭退す。宗左曰。辭すべからず。我は此家に聟養子として入り、其方は先人の女なれば、家の統は其方なり。吾祖先の餘薰に依り、今度の大惠を蒙ること、其本は汝が身に由れり。然れば祖恩に報ぜんには、其方をぞ客禮にて待遇すぺし。必辭すべからずと云。妻も其理に伏し、會席に赴く。宗左彼の御茶盌を上器とし、妻を一客とし、茶禮式の如く畢り、御茶盌は門生等にも示さず、其まゝ匱藏せりと。宗左が爲ㇾ人かくの如し。信に祖先の利休に恥ずと云べし。

■やぶちゃんの呟き

「千宗左」(せんのそうさ 慶長一八(一六一三)年~寛文一二(一六七二)年)の初代は江戸初期からの表千家の当主。宗旦の第三子。初代紀州侯徳川頼宣に仕えた。但し、ここには「享保の頃」(一七一六年~一七三六年)とあり、「聟養子」とあるから、初代ではない。時代が正しいとすると、第七代千宗左(宝永二(一七〇五)年~寛延四(一七五一)年)が相当するが、彼は第六代家元覚々斎原叟宗左の実子であるから、違う。養子となると、第九代(安永四(一七七五)年~文政八(一八二五)年)が茶人久田宗渓の長男で、第八代の婿養子となって家元を継いでいるが、彼は松浦静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)と同時代人であり、彼と間違えるというのは、ちょっとおかしい。なお、第八代も紀州徳川家の茶頭となっている。しかし、確信犯で本篇は綴られていることから、この「享保」というのは、享和(一八〇一年~一八〇四年)の誤りなのではあるまいか? 識者の御教授を乞う。【同日15:50/削除・追記】いつも御教授を戴くT氏より、只今、メールを頂戴し、表記の千宗左は第六代覚々斎原叟宗左(延宝六(一六七八)年~享保一五(一七三〇)年)であるとの御指摘を受けた。サイト「茶道本舗 和伝.com」の「三千家の誕生」の「表千家六代」「覚々斎原叟宗左」を紹介して下さった。彼は久田家三代久田徳誉斎宗全の子であったが、表千家第五代随流斎良休宗左の婿養子となったとあり、彼の妻はその養父の三女で、彼は、享保八(一七二三)年十月八日に第八代将軍徳川吉宗より唐津焼の茶碗を拝領したとある。茶碗の銘は「桑原」。最速の修正が出来た。T氏に心より感謝申し上げるものである。

「眞臺司」「しんのだいす」。「真台子」とも書く。「真」は台子(正式の茶の湯に用いられる四本柱の棚。風炉(ふろ)・茶碗・茶入れ・建水(けんすい:茶碗を清めたり、温めたりした際に使った湯や水を捨てるために使う椀)などの諸道具を載せておくもの。他に及台子・竹台子などの種類がある)を飾る基本的な方式。「真の台子」の点茶法は、点前(てまえ)の最上位に有り、その伝授を得て、宗匠となる。

「上覽」徳川吉宗のそれ。

「京住」「きやうずみ」。

「御暇」「おいとま」。

「御茶盌」「おちやわん」。

「相率たる」「あひつれたる」。

「先立」「さきだちて」。

「不日」「ふじつ」。日ならずして。

「江都」底本の東洋文庫に従い、「えど」と読んでおく。

「洒掃」「さいさう」「洒」は「水を注ぐ」意。掃除。

「女」「むすめ」。

「統」「とう」。血統・血筋。

「其本」「そのもと」。

「必」「かならず」。

「其理」「そのことわり」。

「匱藏」「ひつざう」。箱に入れて秘蔵すること。

多滿寸太禮卷第三 秦兼美幽冥禄

 

  秦兼美(はたのかねみ)幽冥禄(ゆうめいろく)

 

 承久の比(ころ)、深水形部秦兼美(ふかみぎやうぶはたのかねみ)といふ者は、もとは京家(きやうけ)の學匠なり。さうなき儒者にて、相州鎌倉の屋形(やかた)へめされ、闕所(けつしよ)の領知を給はり、桐が谷(ヤツ)の邊(へん)に居住し、日夜、儒書を講談し、五經・易に通ず。門人數輩(すはい)、市(いち)をなし、性(せい)、學を恣(ほしいまゝ)にして、專ら佛道をよろこばず。よりより、その門弟にあへば、則ち、誹(そし)りあざむきて、

「四民の内、たとひ士と成、農となり、工とならずんば、せめては商人(あきうど)ともなれかし。なんぞ釋氏(しやくし)となりて身を捨てむや。」

 「警論」といふ書を、三卷、作(さく)し、人性(にんじやう)を正し、世の敎へを扶(たす)けなす。その上篇の畧(りやく)にいはく、

「先づ、儒のいはく、『天は則ち理(り)なり』といへり。其形體(ぎやうたい)を以《もつて》いふ時は、是を帝(てい)といひ、帝は、則ち、天(てん)、天は則ち、帝。蒼天の上に、別に一天(てん)、宮居(ぐうきよ)・端閣(たんかく)、この世のごとき帝王のいますに、あらず。是れ、全く釋氏の妄語なり。 又、所謂(いわゆる)、三天・九天・三十三天、十方《じつ》(はう)の諸帝、いかに天の多(おほふ)して、帝(てい)の多き事や。これを思へば、いまだ階級の形(かた)ちのときを、まぬかれず。帝、又、割據の爭ひある事まぬかれず。漢の張道陵を尊(たつと)むで天師(てんし)となす。天、豈(あに)師あらむや。宋の林氏の女を以、天妃(てんひ)となす。天、いかに妃あらむや。それ、天は理のいづる所(ところ)。聖人(せいじん)は天にのつとる。道陵、たとひ、聖(せい)なりとも、亦、人鬼(じんき)なり。林女(りんによ)、既に死す。是れ又、遊魂のみ。なんぞ天たる事を得むや。 天を敬(うやま)ふ所以(ゆゑん)にして、此の說をなす事は、天を慢(あなど)る所なり。世に人、只、天にあるの天を、しる。此故に、日月星辰の光り、風雨霜露(さうろ)のあらはれを見る。吉(きつ)と凶とは天のしわざ、禍(くわ)と福とは天の降(くだ)すなり。をのが天ある事を、しらず。丹扃(たんけい)煌々(くわうくわう)は天の君なり。靈臺(れいだい)湛々(たんたん)は天の帝なり。三綱五常(さんかうごぢやう)、眼晰(がんせき)は日月星辰の光りにあらずや。禮樂法度(れいがくはつと)の明白正大(めいわくしやうだい)なるは、風雨霜露の敎へにあらずや。をのが君と、天の君と、たがふ時は、凶禍(けうくわ)なり。かならず類(るい)を以、したがふ。天の帝と、をのが帝と、合(かな)ふ時は、吉福(きつふく)なり。達する者は、これを信じ、愚者は、則ち、懵(あやま)るなり。」

 其の論篇、大むね、かくのごとし。

[やぶちゃん注:「秦兼美」「深水形部秦兼美」私は鎌倉史には常人より詳しいつもりだが、全く不詳。百済からの渡来した有力豪族秦氏の末裔という設定であろう。初期の幕府御家人では二階堂行政の妻が熱田神宮の巫女で秦氏が出自である。

「承久」一二一九年から一二二二年。京を舞台としており、「承久の乱」を挟むから、設定はその前後の短い期間しか設定不能である。以下の「闕所」云々とあって鎌倉に住んでいるところからは、乱後か。

「闕所」持ち主のない土地。特に中世に於いて、罪を犯して没収されたり、訴訟によって改替されたり、或いは、知行者が死亡して幕府や領主が直接支配することになった所領を指す。

「桐が谷(ヤツ)」カタカナは原本にママ。材木座の桐ヶ谷(きりがやつ)。但し、この谷戸名は現代に受け継がれていない。諸資料からみると、この中央の丘陵の中の谷の一つであったと考えられる(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「五經・易」と、わざわざ「易」を出しているところからは、五経の「易経」(周易)に基づいえ発展した広義の易学に詳しかったようだ。

「釋氏」仏僧。

「警論」不詳。

「張道陵」(三四年~五六年)後漢の道士。天師道(五斗米道(ごとべいどう))の祖。本名は張陵。蜀の鵠鳴山に入って、天人から道を授かり、それによって治病に尽くし、民衆から信奉されたという。

「宋の林氏の女を以、天妃となす」中国沿海部を中心に現在でも信仰を集める道教の女神、で航海・漁業の守護神媽祖(まそ)天后は、宋代に実在した官吏の娘黙娘が神となったものであるとされている。当該ウィキによれば、黙娘は九六〇年に興化軍莆田(ほでん)県湄州島(びしゅうとう)の都巡であった林愿(りんげん)の『六女として生まれ、幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かったが』、十六『歳の頃に神通力を得て』、『村人の病を治すなどの奇跡を起こし「通賢霊女」と呼ばれ』、『崇められた。しかし』、二十八『歳の時に父が海難に遭い』、『行方知れずとな』り、『これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ』、『神となったという伝承が伝わっている』。また、他に、『父を探しに船を出し遭難したという伝承もあ』り、『福建連江県にある媽祖島(馬祖列島、現在の南竿島とされる)に黙娘の遺体が打ち上げられたという伝承が残り、列島の名前の由来ともなっている』とある。

「丹扃」強く赤く輝く宮門か。

「三綱五常」儒教で説く絶対に守るべき基本徳目。三綱(君臣・父子・夫婦間の恭順)と五常(五徳とも。仁・義・礼・智・信)。

「眼晰」明確に表れた実在。

「懵る」この漢語は本来は「愚かである」「呆ける」の意。]

 

  或る時、兼美、聊か、病ひをまふけ、數日(すじつ)、療治す。門弟、うれへて、神祇(じんぎ)に祈る。

 兼美、聞きて、

「各《おのおの》、書をよむといへ共、理(り)をてらす事、いまだ、徹せず。鬼神(きしん)、なんぞ酒米(しゆべい)を私(わたくし)にすべけむや。人の命(いのち)、豈(あに)紙錢(しせん)を以《もつて》買ふべけんや。吾、誰(たれ)をか欺かむや、天をあざむかんや。」

と云《いひ》て、此の夜(よ)、遂に卒(そつ)す。

 しかれども、胸のほとり、やゝ暖かなれば、しばらく葬むらず。門弟、各、これを守る。

 七日七夜を過《すぎ》て、衣(ころも)、うごく。をのをの、驚き、うかゞへば、鼻のなか、氣を、いだす。急ぎ、藥をあたへ、良(やゝ)久敷(ひさしく)して、眼(まなこ)をひらき、四五日を經て、漸々(やうやう)もとのごとくに成りて、妻子・けむぞく・門弟を集めて、淚をながして云く、

「釋門の偉(おゝい)なる鬼神(きしん)の、誠(まこと)なる事、至れる事を、我れ、日比(ひごろ)、癖見(ひやくけん)してあやまり、佛神を毀(そし)る。今(いま)、官をけづられ、祿をへらさる。已(すで)に生(しやう)する事、あたはず」。

 門人、おどろき、

「いかに。」

と、とへば、

「我、常に怪しみを語らず。然れども、御邊らに、果報の空(むな)しからざる事をしめさむ。

 はじめ、我れ、病ひ、少し、おこたる時、二つの大きなる蠅《はへ》の、床(ゆか)のまへにおつるをみるに、其のまゝ變じて、人、となる。靑衣《せいえ》をきて、黃(き)なる巾(きん)をかうふり、吾に、

『地府(ちふ)、急ぎ、汝を召す。とく、赴き給へ。』

と云ふ。我れ、

『地府とは、いかに。』

黃巾、答へて、

『閻羅王。』

と、こたふ。我れ、聞きて、

『冥途、黃泉(くわうせん)は、道(みち)、異(こと)にして、いかにしてゆかむや。それ故、吾れをはなれて、いかで、冥地(めいち)あらむや。』

使者のもの、いかりて、予(われ)を、大きなるかわ袋(ぶくろ)の中に入、あみのごときなる細き繩にて、口を、ゆひ、兩人、中(ちう)にひつさげて、行く事、疾風のごとし。諸木の梢をふむ事を、きく。

 其の後(のち)、しきりに闇(くら)き空(そら)をゆく。使者、袋を平地(へいち)に置きて、中より、我を引き出だす。兩人して引はり、あゆむともなく、一つの鐵門に至る。

 守る者、或《あるい》は、高き鼻、深き眼(まなこ)、鬚髭(びんはつ)[やぶちゃん注:漢字はママ。]そらさまに生ひたり。

 使者に問ふに、

『朱印(しゆいん)なり。』

と答(こた)ふ。

 又、紅衣(こうい)の者、一人の男、三人の女を引きて來《きた》る。守る者、又、問ふ。

『墨印(こくいん[やぶちゃん注:ママ。])なり。』

と答ふ。

『印を、みん。』

といへば、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]札(ふだ)を出《いだ》して見する。長さ二寸斗《ばかり》。我を引居(ひきゐ)たる靑衣の札は朱字、紅衣の札は墨字(こくじ)なり。

 使者、門を入《いり》て、吾れをともなひ、左の廊下に行《ゆく》。

『いかなる所ぞ。』

と問へば、

『冥都(めいと)㐧一の關(せき)なり。』

といふ。

 爰(こゝ)にて、兼美、死(しゝ)たる事を、しる。

 又、前の朱墨(しゆぼく)の札を、とふ。答へていわく、

『冥司(みやうじ)、人を呼びに來りて、又、蘇生する者には、朱を以《もつて》書き、永く返らざる者には、墨(すみ)を以(もつてす)。』

 かくて、行く事、數里(すり)にして、鐵圍城(てつゐじやう)に入《いる》。

 城門の守護、使者に、とふ。さきのごとく、答ふる。俄かにして、禁庭(きんてい)に入《いる》。使者のいふやう、

『御邊(ごへん)、重罪なしといへ共、黃泉(くわうせん)の道は嚴重にして、凡世(ぼんせい)にあらず。』

とて、繩を解きて、わが首に付(つ)く。ひきて入《いり》、まづ、冠服司(くわんふくし)に入(い)る。主司(しゆし)は、六旬にこへたる白髮の老女なり。其の長(た)け八尺あまり。則ち、わが衣(ころも)をはぎて、

『罪巾(ざいきん)、おさむ。』

と、いへば、我、漸々(やうやう)、肌着斗りに、繩を帶びてゆく。

 聽門(ちやうもん)に及びて、一人の使者さきに入、しばらくの間に、五、六人を引《き》て出《いづ》るをみれば、おめき、さけぶ。

 吾れを、とらへて入る。

 階下にひざまづきおるに、大王、尊服寶冠を着(ちやく)し、臺上(うてなのうへ)に居住(きよぢう)す。

 侍衞(じゑ)の官人、四方に、ゐねうす。我にむかつて曰《いはく》、

『汝は、相州の儒士、秦兼美(はたのかねみ)にあらずや。汝、儒に尊(たつと)ぶ所は、上(かみ)、鴻濛(こうもう)をうかゞひ、中《なか》、聖智(せいち)に法(のつと)り、下(しも)は物理を究め、乾(けん)をひらき、坤(こん)を閉づ。妙に至り、微(み)にいたる。精醇(せいじゆん)を陶治(たうぢ)し、元和《げん》(わ)を橐(ゆふ)す。無中有象(む)《ちゆう》(うざう)の薀(うん)をきわめ、陰陽(ゐんやう)動靜の根(ね)を妙にし、翕忽變化(うこつへんくわ)を用とす。出入(しゆうにふ)に方(かた)なく、三つにして一つに會す。これを儒と云《いふ》。しかも鬼神(きしん)もうかがふ事、あたはず。[やぶちゃん注:「橐」の字はこの字の異体字で、最上部が「右」のこの字体(「グリフウィキ」)だが、表示出来ないので、かくした。]

  今、汝、ひとへに己(をのれ)が見(けん)をとりて、文詞(ぶんし)を作り、神を謗(そし)り、佛(ほとけ)を毀(そし)る。天、至つて大なるに、階級し、帝、至つて尊(たつと)きに、割據(かつきよ)を以《もつて》これに戲むる。妄りに天子の號を論じ、妄りに天妃の稱を弁ず。其の罪(つみ)、大いなり。且、儒書の中に天を云《いふ》事は、一つならず。「春秋」に「天王」と書し、「詩」には「天の妹(まつ)」に、たとふ。昊天(くわう)《てん》其の子(こ)といへるがごとし。皆、汝が論ずる、天、已(すで)に師なし、「妃、なし」と論ぜば、なんぞ王あり、妹(まい)有《あり》、子あり、といはんや。汝が學、誠(まこと)に拘(かゝは)りて通(とう)せず。滯(とゞこほり)て、さゝはりあり。さゝわり[やぶちゃん注:ママ、]あれば、鄙癖(ひへき)なり。誠に、俗賤虛妄(ぞくせんこもう)の士、なんぞ儒者の名を犯すや。汝、もとは六品《りく》(ほん)の官となり、花閣(くわかく)に出入《でいり》す。汝、神佛と信(しん)ぜず、鬼神(きしん)をなみする。殊に降(くだ)して七品《しち》(ほん)とす。』

大きに怒り、述べたまふ。

 吾、頓首して禮謝して、

『過(とが)を改めむ。』

と乞ふ。尊王のいわく、

『此人、面(おもて)には請けぬれども、後(しりへ)に誹(そし)りて、退(しりぞひ)て後(のち)、又、いわむ。獄中をみせて、その心を折服(せつふく)さすべし。』

と。

[やぶちゃん注:「罪巾」「巾」はここでは「布切れ」で、ここは罪人の衣服を指しているようである。下着だけ残すというのは、彼に対する最小限度の心遣いであろう。但し、挿絵の亡者は褌のみであるが(一人だけの女性の亡者が着衣であるのは寧ろ違和感が大である)、兼美は衣服はそのままである。本文では地獄巡りの後に、服は返されている。挿絵師はちゃんと本文を読んでいないようである。

「元和を橐(ゆふ)す」「元和」は本来の恒常的絶対的平穏和平の意か。「橐」は「袋」の意であるから、「元和」の状態をしっかりと包み込むという意か。

「無中有象」本来の無常なる仮初めの現実世界の儚い実体の意か。仏教的だが、中国の古来の諸思想でもそこは根本的には共通していると思われるから、問題はあるまい。

「薀」蓄え、保存すること。現実世界を安定させることか。陰陽思想に基づく「陰陽動靜の根を妙にし」もそれを言っている。

「翕忽變化」「翕忽」は「速やかなこと」。道家的であるが、前注のそれと同じく、現実世界に対する盗撮は儒家もそのような見かけの変容を認めていよう。

「用」現存在への作用の意か。

「階級し」勝手に対象を区分・差別化し、自然には存在しない絶対的強権力や架空の至上の称号を捏造することであろう。

「詩」「詩経」。『「天の妹」に、たとふ』は「大雅」の「文王之什」(ぶんわうのじゆう)の「大明」(だいめい)の一節に出る。

   *

大邦有子

俔天之妹

文定厥祥

親迎于渭

造舟爲梁

不顧其光

(大邦子有り

 天の妹に俔(たと)ふ

 文をもつて厥の祥(しやう)を定めて

 親(みづか)ら渭(い)に迎へり

 舟を造りて梁(はし)と爲(な)す

 顧(あきら)かならずや其の光)

   *

「文」は周末期の文王(紀元前十二世紀から紀元前十一世紀頃)、「天の妹」と称されたのは、彼の妃太姒(たいじ)。当該ウィキに、『有莘似』(ゆうしんじ)『氏の娘として生まれた。文王は渭水に舟を並べて橋を作り、太姒を迎えた。太姒は太姜や太任を慕って、朝に夕に勤労し、婦道を推し進めた。太姒は号を文母といった』。『太姒は文王とのあいだに』十『人の男子を産』み、『太姒が』その子らを『教育すると、子どもたち』は『成長しても悪癖を見ることがなかった』「詩経」に『「大邦有子、俔天之妹、文定厥祥、親迎于渭、造舟為梁、不顕其光」(大国に優れた娘があり、天の妹にもたとえられる。文王は礼をもってその吉祥を定め、自ら渭水に迎えに行き、舟を並べて橋を作った。その栄光の輝かしいことよ)』『と謡われ、また「太姒嗣徽音、則百斯男」(太姒は太任の名声を継いで、たくさんの男子を生んだ)』『と讃えられた』とある。同詩篇全体は『崔浩先生の「元ネタとしての『詩経』」講座』のこちらがよい。現代語訳も附されてある。

「昊天」大空。

「六品」正従・(じゅ)六位。以下の七品も同様。

「花閣」御殿。ここは鎌倉幕府を指すのであろう。

「鬼神」ここは邪悪なそれではなく、仏教に於ける超人的な能力を持つ存在の総称。

「なみする」「無みする・蔑する」で、本来は「無」の方で、形容詞「無(な)い」の語幹に接尾語「み」(「そのようなものとして捉える」の意か)の付いた「なみ」に、動詞「す」の付いたもので、「そのものの存在を無視する・ないがしろにする・あなどる」の意。ここは「無視する」でよかろう。

「此人、面には請けぬれども、後に誹りて、退て後、又、いわむ。獄中をみせて、その心を折服さすべし」という閻魔王の台詞から、彼が地獄に来たのは、そうした訓戒を告げるための方便としての仮死であったことが明らかとなる。]

 

 數卒(すそつ)、予(われ)を挾(さしはさ)むで、下(くだ)し、附(ふ)す。

 使者、領して、さり行く。

 其の道に、寶塔、一器、あり。僧堂の傍らに立ちて、香爐を執りて居(きよ)す。

 使者、再拜す。

 我も又、同じく拜す。

 僧、塔をひらきて、一つの大珠《だい》(じゆ)をとりて、金盤(きんばん)にのせて、出《いだ》す。

 使者、頂戴して行く。予(よ)、したがひゆくに、その道、幽暗にして、くらき事、限り、なし。我、道すがら、問ふ。

『僧は、たそ。』

 答へて、云はく、

『六道能化(のう)《げ》の地藏菩薩なり。』

 又、とふ、

『玉《たま》は、なんぞ。』

『菩薩の願珠(ぐわんじゆ)なり。獄中の業《ごふ》深く重きは、珠光(しゆくわう)を照らし、破(やぶ)るを賴む。さもあらざれば、鬼王、暗中(あん)《ちゆう》におひて、人の心肝(しんかん)をくらふて、出《いづ》る事を得ず。』

[やぶちゃん注:「六道能化」六道の辻に立って、死者を導き、六道に亙って衆生を教化(きょうげ)することの出来る者の意で、地蔵菩薩の別称。]

 

Hatajigoku
[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]

 

[やぶちゃん注:挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版のそれをトリミングした。地蔵菩薩の願珠は右から捕まえている冥吏が持っている。これがないと、暗黒の地獄では見学が出来ないから、気の利いた小道具として、映像的には優れていると言える。作者の創作部分では、かなり読者に向けた以下のシークエンスへの現実的且つ親切な効果を持っていることを見逃してはなるまい。]

 

 さるほどに、一つの獄中に至る。

『不義を罰する地獄。』

と云《いふ》。

 大きなる庭に、炭火(すみび)をうづたかくおこし、炎、のぼりて、空(そら)に、みつ。罪人を呼びて、ひざまづかせ、火中(くわ)《ちゆう》の鐵丸(てつ)《ぐわん》、大きさ、ゆびのごとくなるを刺して、人の眼(まなこ)に入れ、十五、六をつらねて、串に、さす。干魚(ひを)をかくるがごとし。

 使者のいはく、

『此の罪人ども、世にある時、大倫《だい》(りん)を輕んじ、財利の爲めに兄弟親族をつらくし、敵(てき)のごとく、かろしめて、此の報(むくい)をうくる也。』

[やぶちゃん注:「八熱地獄」に付随する「鉄丸地獄」か。串刺しは「八大地獄」の「焦熱地獄」=「炎熱地獄」でも見られる。後者の罪状の一つに「邪見」があり、これは「仏教の教えとは相容れない考えを説き、或いは、それを実践する」罪で、兼美に見せる最初としては腑に落ちる。]

 

 次(つぎ)の地ごくは、不和をいましむる獄なり。

 皆、女人老少、まじはり、人ごとに舌のうへに、一つの釣(つりばり)をかけ、おもりの石を、かく。くるしみいふ斗《ばかり》なし。後(のち)は瓜(ふり[やぶちゃん注:「うり」の古語。])をまろばすごとく、こけ倒れて、舌出《いで》て、長事、一尺斗《ばかり》。

 使者のいはく、

『此もの、世にある時、ひたすら色をこのみ、閨房にまよひ、女の道を守る事を、せず。夫(おつと)の家を分けさせ、中《なか》ごとを云《いひ》て、あだをむすばする、むくひなり。』

[やぶちゃん注:舌に関わる刑罰は多くの地獄でポピュラーなものとして活用される。

「瓜(ふり)」「うり」の古語。]

 

 東南の一獄は、「閻浮惣獄(えんぶそうごく)」といふ。此地ごくの北を「剔鏤(けつろう)」といふ。人を柱にからめ付《つけ》て、刀(かたな)を以て、つゞる。蓑(みの)のごとくし、うちわを以《もつて》、あふぐ。あつ酢(す)をかけ、絕して、又、よみがへる。水をそゝげば、皮肉、もとのごとし。惡逆にして、善人を生害《しやう》(がい)する者、爰に落(おつ)る。

[やぶちゃん注:「閻浮惣獄」不詳。作者の創作らしい。しかし、「閻浮」は「閻浮提」で仏教に於ける人間世界を指すので、何となく変な感じがしはする。

「剔鏤」不詳。同前。「剔」は「えぐる」、「鏤」は「刻みつける」の意。これは等活地獄の定番。]

 

  其の隣り、「穢溷獄(ゑこんごく)」といふ。大糞《だい》(ふん)の池(いけ)、沸々(ほつほつ)として、湯のごとくわき、臭くして、近づくべからず。鬼ども、長き熊手を以《もつて》、人をかけて、煮る。しばらくして潰爛(つえたゞ[やぶちゃん注:ママ。])れ、化(くわ)して蟲(むし)と成《なる》。これを鍋の中に入《いれ》て炒(い)る。灰とし、糞水(ふんすい)を汲みて、そゝぐに、又、人となる。これは、小人にして君子を謗り、智人(ち)《じん》をあざむくもの、こゝに來《きた》る。

[やぶちゃん注:「穢溷獄」不詳。同前。「溷」(音「コン」等)は「便所」「穢れる」等の意がある。「大糞の池」は等活地獄の「屎泥処」(しでいしょ)がよく知られる。]

 

  其の次は、數十人を裸にして、羅刹、錢(ぜに)の繩(なわ)を以《もつて》、八、九人の罪人を引き來たり、刀(かたな)を以つて、裸の者の胸・股(もゝ)の間《あひだ》の肉を、さいて、鍋の中にて、煮て、これを餓鬼に、くらはしむる。業風(ごうふう)、一たび吹けば、支體(したい)、もとのごとし。是、皆、人間、官祿の役人、權(けん)を專らにして、賄路を入れ、世を欺き、名をぬすみ、或《あるい》は、知行所・檢斷所(けんだんどころ)にても、表(うへ)は廉潔をみせ、内にはひそかに金銀を受け、或は非義の公事(くじ)を勝たせ、人をむさぶり、己(をのれ)を利する者、みな、其の中に有《あり》。

 兼美、日比(ひごろ)むつびし友も有り、淺ましなむども、おろかなる事ども也。

[やぶちゃん注:地獄名がないが、やはり創作であろう。作者はオリジナルな地獄を創案するのを楽しんでいる傾向が見られるが、それにしては、奇抜なオリジナリティがないのは、ちょっと残念である。ここの処刑も極めて総ての地獄で一般的だが、餓鬼を処刑に使役しているのはちょっと面白い。餓鬼道は畜生道同様、独立した別界ではなく、人間道とも別次元的に共時する世界であるから、問題はない。なお、ここを最後に配したのは、亡き友人の官吏が苦しむのを見せて、幕府から取り立てられている官人としての兼美自身の罪意識を駄目押しする効果として、よく効いている。]

 

 ことごとく、見終りて、かへる。

 使者、珠(たま)をおさめて僧に返し、又、王の前に至る。

 王、又、示して、のたまはく、

『まさに此の後(のち)の罪を改むべし。むかしの非(ひ)を、なす事、なかれ。若し、改めずは、罪を、まぬかるまじ。』

とて、使者に命じて、送りかへらしむ。

 此の時、始めて、繩を解き、身體、自由なる事を、おぼゆ。

 冠服司にゆきて、衣服をとりて、きせ、

『暫く、まち給へ。符をとりて、歸るべし。』

とて、捷徑(せうけい)を取りて歸る。

[やぶちゃん注:「捷徑」近道。]

 

 もとの道には、いでず、多くの關門を越ゆるに、爰に新敷(あたらしき)樓門の關(くわん)あり。「蜉蝣關(ふゆうくわん)」と云《いふ》。

 吾、儒者なる事を知りて、

『「蜉蝣門」の銘を作らしめむ。』

と云《いふ》。

 われ、重ねて、

『いかなる故に「蜉蝣」と名づくや。』

 鬼王の云はく、

『生《しやう》を人間に受くるものは、悉く、これより、出《いづ》る。しかれども、久しからずして、又、至る。蜉蝣の、朝(あした)に生じて、夕(ゆふべ)に死するが如し。』

 吾、則ち、數語(すご)をゑらむで、これに、むくふ。其の文(ぶん)に曰《いはく》、

[やぶちゃん注:「蜉蝣關」不詳。やはり作者の創作であろう。ただ、「徒然草」を原拠とした見え見えの鬼王の台詞はちょっと鼻白む。なお、閻魔王は地獄界のあらゆる場所を遠隔視認出来、そこに言葉を伝える超能力を持っていることが判る。これは作者の思いついた中では、意外にも王の声が聴こえてくる点で、なかなか効果的な思いつきとして評価出来る。

 なお、底本原本では以下の銘文全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

「尊(たつと)き事有《ある》者は關鎭厚(くわんちんこう)の地なり。赫(かく)たる事あるは、それ、威關(いくわん)の史なり。これを蜉蝣と名づく。凡そ、その生ずる事、有《ある》物は、是より、ゆく。去つて、又、時を越《こえ》ずして、やゝ又、至る。何ぞ此の蟲の一日の中《なか》に生死《しやうじ》あるに、異(こと)ならむ。南、閻浮提、光陰、かはる。往來して、なんぞ憩(いこ)ふ事、稀れなる。此名を見て、そのたとへを、さとらざらむ。六道四生、はやく出離(しゆつり)し、逍遙無方功利《せうえう》(むはうこうり)を證し、皆、天人と成《なり》て、此の關(くわん)、永く廃すべし。敬(けい)して予が銘(めい)を聞《きき》て、佛誓《ぶつせい》をはつせよ。あゝ、幽靈、守りて、かはる事、なかれ。」

[やぶちゃん注:「關鎭厚」不詳。見たことがない熟語である。一種の地獄の門域を言っているようではある。

「四生」仏教に於ける生物の出生・発生様態によって分類した分類法。「胎卵湿化」などとも呼ぶ。「胎生」(たいしょう:現代仮名遣。以下同じ)は「母親の胎内から出生するもの」を、「卵生」(らんしょう)は「卵殻様物体から出生するもの」を、「湿生」(しっしょう)は「湿潤なじめじめした場所から出生するもの」(広義の卵のごく小さな昆虫類などをそう捉えた)を、最後の「化生」(けしょう)は「純然たる業(ごう)によって何も存在しない時空間で、如何なる親子や血族関係もない状態で、忽然と突如、出生するもの」(天人・地獄の亡者などをそれとした)を指した。最後の「化生」は無生物から有情物が生まれるケース(山芋が鰻となる例)にも用いられる。

「無方」方位の制限がなく、際限がないこと。制限がないこと。自由自在なこと。

「功利」真に仏教的な意味での幸福と利益(りやく)の意であろう。]

 

 鬼王、よろこびて、則《すなはち》、吾れを、はなちて、ゆかしむ。

 二更に至りて、わが家に歸り、身(み)、床(ゆか)の上に臥し、燈(ともしび)、からげ、妻子・門人、取り𢌞(まは)し、嘆くを、みる。

 使者、一たび、うしろより、おす。吾、おぼえずして、跌(けつまづ)き、屍(しかばね)の内に入《いる》。恍然(くわうぜん)として、悟(さめ)たり。」

 其後、兼美、ふかく佛神を敬(うやま)ひ、淸愼廉潔(せいしんれんけつ)にして、世を送りけるとぞ。

[やぶちゃん注:「二更」午後十時及びそれを中心とする二時間。

「恍然」心がうっとりとしているさま。恍惚に同じ。]

2022/05/01

譚海 卷之五 奥州津輕より松前へ渡り幷蝦夷風俗の事 附數の子・鮭魚漁獵の事

 

[やぶちゃん注:二〇一五年の九月に電子化注を始動したが、途中、特に「卷四」の公家方の話が退屈で、暫くスルーしていたため、なかなか進まなかった。全十四巻だから、まだ三分の一弱だが、スピードを上げる。今一度、現在の凡例を確認しておくと、底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂版を用いた。底本では目録に一括して示されてある標題を各話の冒頭に配した。原則、底本のままに活字化した上で(底本の句読点は、原則、いじらない)、一部、読みにくいと私が判断した箇所に、私の推定する読みを( )で歴史的仮名遣で振った。不審な箇所は、私の底本と同一底本である国立国会図書館デジタルコレクションの画像(第五巻冒頭をリンクさせた)及び「国文学資料館」の写本(同前)も参考にした。また、数少ない底本のルビは、以下の通り、その旨を指示した。]

 

 譚 海 卷の五

 

〇津輕より松前へわたる所をたつひといふ。渡口(わたりくち)半里ほど、其間(そのあひだ)北より東へ潮の流(ながる)る事晝夜絕ず、潮はやくしてたぎり川の如し。夫故(それゆゑ)此わたり口甚(はなはだ)難儀なれば、東風はげしき折を見合(みあひ)船をいだす事なり。帆を船の橫にはり、東風をうけてわたる。隨分北によりて上のかたより船を出(いだ)せども、潮に押ながされて向ふへ着(つく)所は東のはづれへ着事也。渡るとき鼻紙などを流し見るに、暫時に十里斗りはうきつしづみつ流るるといふ。又松前にありて外(そと)[やぶちゃん注:原本のルビ。]蝦夷の地に至りて見れば、東は海にてみな赤き泥なれば、船の往來なりがたく見ゆ。泥中によしの如く葉もなき草かぎりなく生(はえ)てあり。每朝日の出る前方には、はるかに雷の如くひゞく也、其ひゞき收(をさむ)れば日はいづる、其鳴ひゞくとき、此泥中に生(お)ひたるよしの如き物のはへぎはより、ぶつぶつと沫(あは)わき、海水にえかへるやうに覺ゆ。松前は五穀を生ずる事なき故、皆他國より持渡(もちわた)りてあきなふ。夫故(それゆゑ)雪隱(せつちん)といふものもなし、大小便とも海邊(うみべ)へ仕(し)ちらし置(おく)事也。又外蝦夷の地にしりべち山と云高山有、殘らず岩ほの色五色にして見事也、山上に神ありて、時々遊戲する體(てい)山下より望み見ゆる也。蝦夷人は刄物(はもの)を作る事をしらず、又たばこも彼(かの)地になし、皆此邦より持渡りて交易する也。交易する所より奧へは此邦の人ゆく事ならぬゆゑ、交易のものを持(もち)はこびて、其所(そのところ)にならべ置けば、ゑぞ人(びと)來りて彼の方の產物に取かへもてゆく也。昔は斧・まさかり・庖丁・小刀の類、いくらもなまくら物を持行(もちゆき)て交易せしが、今はゑぞ人かしこく成(なり)て、刄物をならべ置(おく)所へ石を抱(いだ)き來り、刄物を其石にうちあてゝ試(こころみ)る、刄こぼれ又はまがりなどすれば、打やりて返りみず、刄よきものをゑりてかふる事に成たり。ゑぞの產物は大抵昆布・飴・にしむなどの類也。昆布は一ふさにて十間二拾間づつにつゞけり、百間に及ぶ物もあり。にしむといふはかづの子の親也。鮭は秋の末いくらも海よりのぼりくるを、やすといふものにてさして取也。此邦よりましけ船とて、每年五六艘十艘ほどづつ鮭をかえに行(ゆく)也。此船底(ふなぞこ)には盬百俵つみ入(いれ)、上荷(うはに)には刄物・たばこ・酒などを積(つみ)て行(ゆく)。扨(さて)每年着岸の地へ至れば、蝦夷人來りて交易を乞ふ。上積(うはづみ)せし刄物の類(たぐひ)を渡しやれば、ゑぞ人うけがひて船をとゞめ置(おき)、秋の末鮭の上(のぼ)る時、ゑぞ人海邊に出(いで)て鮭をつき取、いくらとなく船頭にわたす、一日に千二千の數に及ぶ。其鮭を船底より盬にて漬(つけ)ひたし、船の椽(ふち)に及ぶまで積(つむ)事故、夥敷(おびただしき)鮭を得る事也。夫(それ)をよき程にして歸らんとすれども、鮭の盛(さかん)に上る時は、ゑぞ人あまりきほひ勇(いさ)みて、今一日々々とゞめて、歸る事をゆるさず。然(しか)れども見はからひて早く歸船(かへりぶね)すれば難なし、もし歸りおくるゝときは、洋中(やうちゆう)にていつも颶風(ぐふう)の發(おこ)る比(ころ)に逢(あひ)て、船をくつがへさるゝ事也。萬一無難にして歸京すれば、巨萬の利を得(うる)事なれども、多(おほく)はゑぞにとどめられ、鮭の獵(れう)澤山有(ある)にひかれて逗留を過(すご)すゆゑ、無言にて歸る船少(すくな)し。年々五そふ六そふづつは破船に及べども、貪利(どんり)の徒(と)こりる事なく、ましけ船仕立(したてて)ゆく事悲(かなし)むべきわざ也。

[やぶちゃん注:「たつひ」青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍(みんまやたつはま)浜にある津軽半島の最北端龍飛崎(たっぴざき:グーグル・マップ・データ)。最も近い北海道松前郡松前町白神の白神岬とは津軽海峡を挟んで十九・五キロメート離れる。

「はへぎは」「生え際」。

「外蝦夷地」この場合、松前藩の領地以外の西蝦夷地と東蝦夷地を指す。小学館「日本大百科全書」の「蝦夷地」の解説と、「蝦夷地の範囲と略年表」の画像を見られるのがよい。本書「譚海」の成立は寛政七(一七九五)年であるから、松前藩が一応、北海道一円を支配地としてはいた。

「しりべち山」尻別岳(しりべつだけ)。標高千百七・二七メートル。アイヌの人々はピンネシリ(雄山)と呼んで、北西十キロ余にある羊蹄山(千八百九十八メートル)と対比させて呼んだ。後の入植者の呼称は「前方羊蹄山」。

「十間」十八・一八メートル。

「にしむ」条鰭綱ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii。「かづの子」ともに私の「大和本草卷之十三 魚之下 鰊(かど) (ニシン)」を参照されたい。

「やす」漁具の突き銛(もり)の簎(やす)。

「ましけ船」不詳。時代的に見て、宝暦元(一七五一)年に松前の商人村山伝兵衛(能登国出身)が函館奉行所より、増毛場所を請け負い、増毛に出張番屋を設けて交易を始めているから、ここへ向かう内地日本の船を、かく呼んだのではあるまいか。名はアイヌ語の「マシュキニ」「マシュケ」(鷗(かもめ)の多いところ)に由来する。まさに鮭がやってくるくるから、鷗も来るのである。

「颶風」強く激しい風。]

只野真葛 むかしばなし (49) / 「むかしばなし 三」~了

 

○「龜さ」と「萬作」は御ぞんじにや。此人は相見(さうみ)の上手といはれし人の子なり。父はいづくの生(うまれ)かしらねど、大坂にて、はてし人なり。むかし、母樣と桑原おぢ樣、大坂まで墨色を見てもらひにつかわされしに、母樣をば、大にほめて、

「一生、無事無難なり。」

と、いひて、こしたりし。おぢ樣は、いろいろ、むつかしきこと、有し故、すぐに火中(くわちゆう)被ㇾ成、人に見せられざりしとなり。母樣被ㇾ仰しが、おば樣御末、後のていなど、さも有しことなるべし【母樣、をば樣に、「いかゞ申(まうし)きたりし。」と、とはれし時、をば樣、答へに、「餘りあしきことばかり故、火中せしが、をぢ樣へは、うしないし。」と申ておきしと被ㇾ仰しとぞ。】。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

[やぶちゃん注:「相見」占い師。

「墨色」墨で文字を書かせて、その文字の墨の色で吉凶を判断する占いの方法。「墨色の考へ」とも言う。

「火中」ここは来たった書状を焼き捨てること。]

 齋藤忠兵衞といひし、御家中にて名代の才人、出入司(しゆつにふのつかさ)にて大坂へのぼりし時に、萬作をつれて下りしなり。何でも忠兵衞方に若黨のやうにして居(をり)たりし。仙臺などへも下りし人なり。しかるを、御長屋は氣がつまる、とおもひしや、築地工藤家へ居候のやうにしてきてゐたりしが、ワ、御殿へ上(あが)りし後(あと)なり、外へ身をかたづけるつもりにて有しが、書をよむ心もなし、醫をまねぶ心もなし、ただ出(いで)あるきなどしてばかり有し故、父樣、御しかり、

「徒(いたづら)に年をおくるべからず。早く、身を、かたづけよ。」

と被ㇾ仰しに、おどろきて、御屋敷ちかくの旗本衆の用人の所へ、急養子に行(ゆき)て有しが、十九、廿ばかりのころなるべし。

[やぶちゃん注:「出入司」仙台藩の職名で、領内の財政・民政を司った。]

 忠兵衞かたに、おなじやうにして居たりし若黨も、いとまとりて、三百兩の持參金にて公儀衆へ養子に行しなり。ひとつに有しほどは、たがいに出世をいどみしに、壱人は旗本に成(なり)、我は其下人になること故、ふすゝみなりしを、父樣、いけん被ㇾ成て、

「身に應ぜぬことは、心がけぬものなり。かれが、仕合よきよふなれども、今、見よ、かならず、わざはひに、あふべし。其方【三か五か】[やぶちゃん注:同前で『原割註』とある。「三千石」或いは「五千石」の意。]千石の家來になることを不足とおもふべからず。ことに富家なれば、よろしきことなり。」

とて、やうやう、すゝめて、つかはされしとぞ。

[やぶちゃん注:「ふすゝみなりし」面白くなくて陰気な感じになったということか。]

「はたして、旗本に成(なり)たる方は、上へ願(ねがひ)も上(あげ)ずに、内證にて引(ひき)とり、また持金(もちがね)の有(ある)ことをしりて、それを、とりしまはゞ、いぢめだす心にて有(あり)しとぞ。三百兩だして、行(ゆき)てみた所が、養父は、わかし、家内、人氣のすばらしきこと、申(まうす)ばかりなく、のこりの金二百兩有しは、少しもはだ身をはなしかね、湯に入(いる)にまでも持(もち)て有しとなり。半年よ、壱年ちかくも辛抱せしに、いかゞせしことにや、誰人(たれびと)の仕わざといふこともしれず、居宅(きよたく)よりはるか遠くなる、人も、ろくにかよわぬ細道とやらに、金をば、取(とり)て、うづくるまりたる兩の肩より、土までとほる程に、其身のさしたる大小をぬきて、つきとほして、すてゝ有(あり)しとなり。ふびんなることの、さて、いかやうにして、つきとほりたるものにや、ふしん千萬なることなりし。」

と被ㇾ仰し。男ぶりよく、力量も人並にはすぐれ、少々は武藝もたしなみし人なりしを、かやうに他人の中に入(いり)て、たのみなきものなり。其あと、大きにもめたりしとぞ。

 是を見聞(みきき)て、やうやう、萬作、心おちつき、よくつとめしほどに、是も、金持といはれし、是も、りつぱの男にて有し。「大しわんぽう」といはれしが、金のまはるにまかせて、身の廻(まはり)をこしらへ、だんだん、おごりだして、遊び所にては、名をしられるやうに成(なり)しが、もちがねは、なくなりしくらいの時、時疫(はやりやまひ)にて病死せし。妻子なし。誰(たれ)も、

「よき死時(しにどき)。」

と、いひたりし。

 築地に有し時は、まだ、年若にて、とりつまらぬことなりし。

 ある夕方、ばゞ樣、庭へ御出被ㇾ成しに、火の見に何か白きもの見へし故、其時の大人役(おとなやく)安兵衞をよばせられて、

「火の見に、何か見ゆるから、見てこい。」

と被ㇾ仰しゆへ、行(ゆき)て見て、わらひながら歸り入(いり)て、

「晝ほど、萬作が外へ出(いで)るに、『下帶(したおび)よごれし』とて、俄(にはか)にあらひまして、『はやく干すにはどこがよかろふ』とて、もつてあるきました。一番はやくほす心で、火の見へゆひ付(つけ)て、出る時にはしめるをわすれて、參りました。」

と、いひしこと、有しとぞ。

[やぶちゃん注:「大しわんぽう」大吝嗇。

「大人役」若い半人前の従者に対して、一人前の書生・弟子を指す。]

 後(のち)に數寄屋町のとき、やかた船にて、すゞみのふるまひせしこと有し。むかしの御恩がへし、また我はなやぐをも見せたく、兩やうにて有(あり)つらん【此時、ふか川の名取の藝者三人、小船にて、あとより來りしが、素顏なりし。女の素顏といふもの、色が白くなくては、遠見のあしきものなりし。】[やぶちゃん注:同前で『原割註』とある。]、其折(そのをり)、妹もきたりしが、相應の女にて有し。弟は「新山けん藏」とふ「書物よみ」なりしが、兄には少しも似ず、不人柄(ふひとがら)のものなりし。萬作、兄の病氣の時も、此者、かんがくせしといふことなりしが、よかれとおもはゞ、病中、父樣、御藥でも戴(いただき)にきそふなものを、一向、病氣のこと、しらせもなく、

「相(あひ)はてし。」

と、しらせたりし。船ふるまひし、よく年のことなりし。其外、「けん藏」、評判あしきこと、かずかず、有し。

只野真葛 むかしばなし (48)

 

○蟲のまねをよくして枝豆をうる人、有し。度々、御よび、客の有(ある)時など、なぐさみに被ㇾ遊し。是も律義ものにて、いそがしき時は、手つだへに來りしが、數寄屋町に引(ひつ)こして後、一度、たづねて來りしこと、有し。

「ぢゞに成(なり)、齒がかけて、昔のやうにはできませぬ。」

と、いひしが、少しはまねたりし。

 其頃、出入の豆腐屋、律義ものにて、日々に上(あげ)しとふふ、二季拂(ばらひ)かよひ帳なりしが、盆暮には十兩前後のはらひなりし。是にて、暮しの手、はりたること、おもふべし。五、六丁入(いり)のとうふ入岡持(いれおかもち)、臺所に有て、二丁づゝ入(いる)るは定(きま)りなり。入用の時は、いく丁とても、このむことなり。朝、二丁入(いれ)て行(ゆき)、夕方來る時、ふたを明(あけ)て見て、なければ、又一丁入(いれ)、有時は、晝こしらへのとうふと取(とり)かへて、二丁おきて行(ゆく)ことなり。そのおくことは、豆腐屋まかせ、又、上(うへ)の用になき時、下々(しもじも)は、いくらくひても、かまわず、といふやうな、大まかなことにて有し。豆腐屋も「一且那(いちだんな)」とて主人のごとく有(あり)がたがりて、

「壱年に廿兩、豆腐をうる所は、築地にて、門跡樣と工藤樣。」

とて、ほめしとぞ。

○ワ、七(ななつ)ばかりのことなりし。「お品」といふ御奉公人、父樣、病家なりしが、もとは御本丸を見た人ならん、其頃は愛宕下、九鬼樣なるべし、部屋かたより、むかふに、愛宕の見へる所なりし。病氣にて下(さが)り居(をり)候時、父樣は駕(かご)の中にのせて御つれ被ㇾ成しが、子ども好きにて、錦手の雛《ひな》の膳わん壱人前と、けし人形、香箱入、又、拜領のよしにて、あらゝ木にて仕(したて)たる菓子だんすの、おほは、まるくぬきて【絹花なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、切《きれ》にてしたる作花(つくりばな)を色々付(つけ)たる物、もらひて有し。何にもならねど、見事のものなりし。

 

Kasidansu

 

[やぶちゃん注:以上に「菓子だんす」の絵が入っている。底本からトリミングした。

「菓子だんす」思うに、雛飾りの小型のミニチュアの菓子入箱であろう。

「あらゝ木」「蘭」裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata の異名。「櫟」。年輪の幅が狭く、緻密で狂いが生じにくく、加工し易く、光沢があって美しいという特徴を持つ。紅褐色をした美しい心材が多く、彫刻品などの工芸品・器具材・箱材・机の天板・天井板。鉛筆材等に用いられる。

「おほは」キントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連オオバギ属オオバギ Macaranga tanarius であろう。大葉木。材は淡褐色で軽く柔らかく、下駄材・箱材に好適とされる。ここはそれを薄く剝いだものを花型に切り抜いたものを貼付した細工と思われる。

「お品樣」お雛さまの調度品の謂いであろう。]

 それより、

「お品樣、お品樣。」

とて、うれしがりて有しこと、おぼへたり。

 快氣後、へやへ上りしこと、有し。其時は九(ここのつ)なりし。白練(しろねり)に吹繪(ふきゑ)と縫(ぬひ)にて、すそ模樣付(つえ)たるひとへものを、もらひたりし。「おしづ」・「おつね」と、だんだん、ゆづりに成(なり)しが、そなたにも着られしなり。部屋かたにて、三味線などなりて、にぎやかの御殿なりし。

[やぶちゃん注:「吹繪」地紙の上に種々の形に切り抜いた型紙を置き、その上方から絵の具や墨などを含ませた筆に、強く息を吹きかけて飛沫を散らし、型紙を取り去って、絵や模様を表わしもの。]

 橘りう庵樣よりは、桑原家内、年々、年始(ねんし)ふるまへによばれしが、其時、いつも、母樣も御よばれ被ㇾ成るれど、御斷(おことわり)のこと、おほかりし。ワなども、兩度、行(ゆき)しことおぼへたり【乳のみ子の時分は年々かけずにいらせられしとなり。】[やぶちゃん注:同前で『原頭註』とある。]。

[やぶちゃん注:「橘りう庵」複数回既出既注だが、再掲しておくと、幕医橘隆庵元常(もとつね)。真葛の母遊の父である仙台藩医桑原隆朝(りゅうちょう)の師。]

 明和九年辰のとし、二月廿九日、橘家、ふるまひなりしが、

「餘り、年々、斷もならず。」

とて、母樣ばかり御出被ㇾ成し留守のうち、名大の火事、出(いで)たりし。風つよく、物さわがしきに、父樣も留守なり、小倉樣【門ならびの旗本衆勝之進といひし。】[やぶちゃん注:同前で『原頭註』とある。]の角に立(たつ)て、やけだされのくるを見てゐたりしに、稻葉橋を三丁つゞきの女駕(をんなかご)とほる。『やけだされか。』とおもひて有しに、桑原のばゞ樣、をぢ樣と、母樣にて有し。

「見物どころで、なし。」

とて、内へつれて御歸り、かた付物など被ㇾ成たりし。いまだ御膳上らぬうち、大火にて御かへり被ㇾ成しと被ㇾ仰し。道すがら、風つよく、駕も吹たほすやうなりしとぞ。其日は、築地は風わきにて、心づかひなかりし故、七頃よりやけだされ、おびたゞしく來たりし。其時分、派きゝ男(をとこ)老中右近樣御家中、難波(なんば)・牧多(まきた)家内(いへうち)【是は内緣有(あり)。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、熊谷與左衞門家内【ばゞ樣お妹の所。】[やぶちゃん注:同前。]、片岡平十郞といひしも、右近樣御家中、與右衞門妹の行(ゆき)し所にて【名お淸といひし。】[やぶちゃん注:同前。]、前々より出入(でいり)せし程に、

「見へそうなもの。」

と思召れしが、工藤家、風わきの所、心付(こころづか)ず、外(ほか)へ行(ゆき)しとなり。

[やぶちゃん注:「明和九年辰のとし、二月廿九日」ここ以降の大火は、江戸三大大火の一つに数えられる「明和の大火」である。明和九年二月二十九日(一七七二年四月一日)に江戸で発生し、目黒行人坂(ぎょうにんざか:現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、「目黒行人坂大火」とも呼ばれる。同地にあった大円寺に盗みに入った武州熊谷無宿の願人坊主真秀の放火が原因であった(真秀は同年四月頃に捕縛され、同年六月二十一日、市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された)。これは、私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 眞葛の老女』でも、瀧澤馬琴が彼女をせつせつと語る中に出ており、そこに「明和の大火」も注してあるので、未読の方は、是非、読まれたい。

「稻葉橋」不詳。表記が誤っているか。

「老中右近樣」この時、「右近」と称するのは、陸奥国棚倉藩主で老中首座であった松平武元であろう。]

 此牧多、見もん第一の人にて有し。明日、客、有はづにて、料理の仕度とゝのひて有しを、その夜先、やけだされに御ふるまひ被ㇾ成しゆへ、

「此騷動の中、よく丁寧の御料理被ㇾ成、御手のまわること。」

と、感心して有しとなり。是等も幸(さひはひ)のことなりし。一夜の逗留なり。

[やぶちゃん注:「見もん」権門の意であろう。]

 追々、中元ども、毛氈(まうせん)に、荒繩かけて、包(つつみ)たるもの、持て來りしが、雛をかざりしまゝにて、立のきし故、やたらに引つつみて持て來りしなり。

「手や足、かけて、何にもならねど、お子さまがたのお持(もて)あそびに被ㇾ成。」

とて置(おい)て行たり。手前女ども、

「さてさて。おしきこと。」

といへば、難波の女、口々に、

「それより、おしきは、雛のかざりて有(あり)しうしろの押入に、色々の反物が二長持(ふたながもち)有しが、をしかりし。」

と、いひしとぞ。

 富士南の風、一晝夜吹(ふき)しが、一日に、目黑より千手まで、やけはらひ、翌日、風かわりて、又、吹もどせし程に、大火事、道をかえて、かへりこし間、

「築地も、あぶなし。」

とてさわぐに付(つき)、やけだされの人たちも、又、立のきて有し。

 黑けむり、天にみちて、

「三月朔日(ついたち)日中に、提燈つけて、通行仕(し)たりしは、珍らしきこと。」

後には、父樣御はなし被ㇾ成し。與左衞門御家内は、しばらく逗留なりし。翌年の春、父樣、右近樣御家中へ御いで御覽被ㇾ成しに、

「雛をもらひしこと、おびたゞしく、段にあまりて、たゞ、おくほどなりし。」

と被ㇾ仰し。誠に「やけほこり」とは、此ことなり。

 其火事に光明寺の山へのぼりて、やけ死(じに)たる人、數をしらず。其故は明曆中の大火に、此山にて、ふしぎに人の命たすかりしとぞ、それをいひつたへ聞(きき)つたへて、火事とさへいへば、此山にのぽることゝ近邊の人々おもひてゐし故、大火といふいなや、一さんに此山へ諸道具をはこびしほどに、道もなきよふにて有しに、火かゝりしかば、たき付(つけ)に成(なり)て、のこらず、燒死す。其當座、少しづゝ假屋さしかけなどして、人、すまひしに、光明寺の山にて亡㚑《もう》(れい)の音(こゑ)するといふこと、聞えしとぞ。女子ども、おぢをそれて、夜は外へ出(いで)ざりし。夜更(よふけ)、物しづかになれば、何となく、なげくやうな音(こゑ)のせしを、おそれて衾《ふすま》かぶり、又は、物の陰などに、よりかくれなどせしに、次第に聲もたしかに聞(きこ)へ、九に成(なり)四(よつ)に成、五(いつつ)頃からも、少々、きこゆるほどになりしに、

「誰がきゝても、人聲(ひとごゑ)に、たがわず。」

といふ沙汰有しを、公儀より、ひそかに捕手(とりて)をつかはされて四方よりかこみよせて見たれば、五十人ばかり、ぬす人、つどひて居(をり)しとぞ。聲を聞て、おそるゝ所をみすまし、やけのこりの品を、とりしとぞ。其夏は、殊の外、ひかり物、おほく、とびたり。駕のものなどは、

「夜ごとに見し。」

とて、かたりしを、おさな心に、おそろしくおもひて有し。

[やぶちゃん注:「光明寺の山」東京都港区虎ノ門にある光明寺か(グーグル・マップ・データ)。「明和の大火」の死者の供養塔が現存する。]

 日ごとに火事見舞をつかわさるに御いとまなかりし。重の内に、酒、そへて、二所へ被ㇾ遣を、二升入の德利に酒つめたるを、ふたつ口など結(むすび)て、

「夫(それ)、いだせ。」

と被ㇾ仰しを、十六、七の小女、力もないくせに兩手に持(もち)て立(たち)しが、おもはず、とくりを打(うち)つけて、兩方ともに打わり、酒四升を坐中へこぽして、なきて居(をり)しが、急にとくりとゝのへることならず、まことに仕方なきことにて有し。ばヾ樣、被ㇾ仰しは、

「すべて、德利といふもの、力、有ても、ふたつは提(さげ)ぬもの。」

と、おしへ被ㇾ成しを、『げに』とおもひて、今も、わすれず。

[やぶちゃん注:]「夫(それ)、いだせ。」底本は『がいだせ』だが、意味が通じないので、「日本庶民生活史料集成」を参考にして訂した。]

 火事後、疫(えやみ)はやりて、人、多く死(しに)、父樣、病家に御懇意に被ㇾ成(なり)し町人、廿五、六より仕合(しあはせ)よく、だんだん、仕出(しいだ)し、りつぱに普請せしが、新宅びらきなどは、きらきらしきことなりしとぞ。

 しかるに、其男、大病にて有しを、父樣、つきそひ、看病被ㇾ成しが、

「大時疫なりし。」

とぞ。

「今宵かぎりならん。」

と思(おぼし)めされしに、

「熊の胆(ゐ)をのませて見たし」

と思しめされし。かしらへ、病人、うわ言に、

「熊の胆、熊の胆、」

と、いひしゆへ、

「病人もいふことなり。」

と、おぼしめし、のませられしに、それにて、ひらけて、命、とりとめ、快氣するといなや、大火にて、皆、燒失なり。

 しづまりて後、病人見舞・火事見廻かねて御いで被ㇾ成しに、やけのこりし藏にさし懸(かけ)して住居(すみゐ)しに、きらきらしき佛壇有(あり)て、花をおほく上(あげ)て有しを、

「常は、佛など信ぜぬ人の、何事ぞ。」

と、とわせられしに、

「此尊像は『作(さく)の御佛(みほとけ)』とて、むかしより、持(もち)つたへたる御像(おんぞう)なり。私(わたくし)ぢゞの代より三十三にて、死去致候間、私も當年三十三なり。今年かぎりの命ならんと、力をつくして、家もつくりし所、『大病、はたして、たすかるまじ。』と覺悟いたして有しに、いたつて、むつかしく、夢中(むちゆう)にて有し内、此尊像の、我につげ給ふは、

『其元(そこもと)こと、只今、死べきを、少しさゝはること有(あり)て、命、かゝりて有しことなり。いま、熊の胆をのたまはずば、たすかりまじ。』と仰せらるゝと、たしかにおぼへし時、あなた樣のくまのゐを被ㇾ下し故、たすかりたり。其有がたさ、身にしみしゆへ、とりおかず、佛壇を、しつらへし。」

と語(かたり)しとぞ。

「佛の御(おん)しめし、かならず、なきことには、あらず。」

と被ㇾ仰し。

 其ふし、今一言、御しめし有りしは、

「『さりながら、生たるといふ、名のみぞ。』と、佛の被ㇾ仰しとぞ。

「是、いかなることならん、をかしきこと。」

と其時は、かたりしが、後、一向、引(ひき)たゝず、何をしても左前に成(なり)て、だんだんに下(さが)りしが、裏屋ずみして終(をはり)しならん。」

と被ㇾ仰し。おちぶれては、恥(はぢ)て、人交(ひと)《まぢわ》りもせざりし、とぞ【うら店《だな》に有(あり)といふことまではきかせられしが、死生(ししゃう)のこと、御存なしと被ㇾ仰し。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 數寄屋町にて、折々ごとの御はなしに、

「此佛の御しめしをもて考えれば、命はおもきものと見へたり。花々しく普請仕(しまはし)て後、急死し、さて、『いかほどか、仕だすべき人の、おしきこと。』と、人にいはれて、死後に、家、やけなば、よそ目には、やすらかにおもわるゝを、せつかく仕たりし家は燒(やけ)、あるかなきかに裏屋ずみして、世をうらやみ、身をかなしみて生(いき)たるが、命みじかき若死(わかじに)には、まさることゝ見ゆるは、合點ゆかぬこと。」

と被ㇾ仰し。實(まこと)に誰(たれ)も、さこそ、おもわるゝやうなり。

只野真葛 むかしばなし (47)

 

○例の敵役(かたきやく)の桑原おぢ樣は、おなじ築地にすみながら、庭も家もせまくわびわびとしてござるが、底心《そこしん》くやしく、いつもいつもふさいでばかり。内心には、『一生の内には、はやりだして、ふんでみせやう。』と、ふくんでござりしなり。行(ゆき)てみるに、言(いふ)にいできも、其やうに被ㇾ仰て有し。奈須の惡心に引込(ひっこま)れてわるいことや貧乏に成(なり)そふなことばかり、だんだん被ㇾ成(なされし)を、そこ、おかしく見てござりながら、顏にもださず、内田をつゝいて、地たてのもくろみし、工藤で、こまれば、壁とむかつて、笑みをふくむ、といふ、かたちなり。父樣は、たゞ樂しみにばかりおぼれていらせられし内、月日は立(たち)て、昔の隣、内田一郞殿は、玄松(げんしよう)となられ、かの懇意の母樣も、なくなり、つらくおもふに、『我(わが)地面を人の自由にばかりせらるゝは、馬鹿らし。』とや、心づかれけん、腰、おしつゝく人や有けん、手習弟子なりし昔のよしみは、ときにて、一向、こちへは、沙汰なしに、地面を、其頃、派(は)きゝの若年寄つとめらるゝ御大名女隱居へうりわたし、半金、うけ取てのうへ、

「かやうかやうの次第故、其地を明(あけ)て被ㇾ下べし。」

といひ入(いれ)たり【今、玄松とても、昔は父樣にしたがひて有し人なり。一向しらぬ人を、あしらふ樣に、さたなしにするは、さりての有し故なり。年も廿少餘(すこしあまり)のことなるを、ぜひ、たゝねば、ならぬやうなことを、こしらへて、しらぬ顏でゐる心意氣、にくいけれども、仕方なし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。是をのがるゝ御くふうは、さすがの智者の父樣も、一寸でず、大きに御難儀被ㇾ成しなり。

 さりながら、「公儀御用の外は相(あひ)たてまじ」と云(いふ)證文とりてのうへ、地をかりること故、それを仰(おほせ)たてられし。

「公用ならねば、立(たち)がたし。」

と被ㇾ仰しを、あのかたにては、手付をわたし候故、やかましく、其金は、とくに内田は、つかいつぶし、

「さよふなら、手付金かへし、上(あが)る分、おぎなわれよ。」

と、のいひ分、大にもめて、ひまとる内、先かたより、御屋敷へ使者をたてられ、

「其御家中工藤平肋と申(まうす)者、手前にてかいとりし地に住居(すみゐ)候所、何卒早速明渡(あけわた)し候やう仰付被ㇾ下度。」

と、いはれしとぞ。

 此口上、以の外、徹山樣、御意にさわり、

「なぞや、小家の分として、わづか若(わか)老中の役を鼻にかけて、大家の家中を、かろがろしくとりあつかふや。にくきことなり。」

とて、

「公用ならねば、いつまでも家中のもの立のき候事、なりがたし。」

と、ぴんと御挨拶被ㇾ遊て、父樣をめして、

「かやうかやうのこと有。かろがろしく立(たつ)べからず。」

と仰付られしとぞ。先かたにては、使者の御返答、あしければ、

「一番、是はしくじつたり、やはらかにかゝれ。」

と聲をひそめ、進物をもたせて、

「何とも無心しごくながら、引料(ひきれう)を進じ申べし。地面あけて被ㇾ下。」

と下手(したて)でかゝられ、りきまれもせず、とてもこう成(なり)かゝりし上は、我(が)をはつてゐて見た所が、おもしろからずと思召、

「さやうならば、此家御とゝのへ被ㇾ下たし。」

と被ㇾ仰しに、

「はや、材木、切組(きりくみ)候間、入用に、なし。」

といはれゐるに、はした立(だて)もはしたにて、しづ心なく、壱兩年