蛇が殺されて居る炎天をまたいで通る
炎天下、蛇が殺されて横たわっている、つぶされて、生臭い体液を土ににじませて。それを避けることも出来ない細道なのか、それともあえてその凄惨な現場をまたごうとする不思議な心理か。
惨殺された蛇の屍をまたぐのを、「炎天をまたいで通る」と表現したところに一種ぞっとするような俳諧味がある。太陽のギラギラした直射、埃っぽい乾燥感のなかにあって、ただ蛇から流れ出た血だまりだけが、湿り気をもって、生々しく迫ってくる。
僕はこの句を読むにつけ、芥川龍之介が大正六(一九一七)年の『中央公論』に連載した「偸盗」の第一章の冒頭を思い出す。夏の蒸し暑い不潔な朱雀綾小路の、「車の輪にひかれた、小さな蛇(ながむし)」のシークエンスは、この句とまさに短歌長歌の関係にあると言えよう。
むし暑く夏霞のたなびいた空が、息をひそめたやうに、家々の上を掩ひかぶさつた、七月の或日ざかりである。男の足をとめた辻には、枝の疎な、ひよろ長い葉柳が一本、この頃流行る疫病(えやみ)にでも罹つたかと思ふ姿で、形(かた)ばかりの影を地の上に落としてゐるが、此処にさへ、その日にかわいた葉を動かさうと云ふ風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせゐか、人通りも今は一しきりとだえて、唯さつき通つた牛車の轍が長々とうねつてゐるばかり、その車の輪 にひかれた、小さな蛇も、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやつてゐたが、何時か脂ぎつた腹を上へ向けて、もう鱗一つ動かさないようになつてしまつた。どこもかしこも、炎天の埃を浴びたこの町の辻で、僅に一滴の湿りを点じたものがあるとすれば、それはこの蛇の切れ口から出た、腥い腐れ水ばかりであらう。(注:旧字は新字に直し、難読語のみ読みを付した)
下手な解釈を下すより、芥川のこの一文の示すところが、この句の持つ生理的実感を如実に伝えているではないか。
***
うそをついたやうな昼の月がある
思いがけず昼に月が出ているのを見たとき、人は何かだまされたような感じを持つことはよくあることである。別に月がだましたわけでもないのに、その感じを「うそをついたやうな」とユーモラスに表現したところに、俳諧本来の滑稽の眼目がある。
***
雀のあたたかさ握るはなしてやる
雀を捕まえた両手に雀の肌のあたたかみが感じられた。そのあたたかさは作者にとっては、ひとりぼっちの毎日を送っている作者にとっては長いこと忘れられていたものに巡り会ったような思いであったろう。「あたたかさ握る」という表現にその思いが出ているようだ。
しかし作者は雀をどうのこうのするというつもりはない。すぐに雀を放してやる。自由を得て雀は勢いよく飛び去る。そして両の掌にかすかに残る雀の肌のぬくみーー。
***
足のうら洗へば白くなる
入れものがない両手で受ける
咳をしても一人
と並んで放哉を代表する句とされる。それはこの句が短くてすぐ覚えられるということだけでなく、やはりこの句が当たり前のことを言っているにもかかわらず、改めて人に微笑ましい共感を与えるからである。そして同時にこの句ににじみ出ている放哉という「生」の人間に触れる思いがするからである。
平易な日常の言葉で平凡な真実を言いとり、人を微笑ませるということは俳諧本来の精神である。
***
道を教えてくれる煙管から煙が出てゐる
ここに現れたユーモアは、いわゆる理知的な、考え出されたものではなく、自然の事実そのものがかもしだすユーモアである。
田舎道。道が分からないので、道で一服しているおやじに道を聞く。その人が煙管を突き出して方向を教えてくれる。その煙管から立ち上ぼる煙。牧歌的風景。
晴れた暖かい日差しの中に紫の煙がゆらゆら溶けてゆくのを見ているようだ。国木田独歩の「武蔵野」に描かれた失われた日本の原風景を僕らはここに見るのである。
***
松かさそつくり火になつた
松かさを火にして何かを煮ると見てよいが(同時期の句に「松かさ火にして豆が煮えた」というのがある)、松かさが燃え上がって松かさの形のまま火そのものとなった瞬間であろう。その火に作者の眼はじっと注がれているのである。しかし作者はこの瞬間は無念無想である。ただ松かさそっくりの火に見入っているだけである。
「…火になった」であって「…火になっている」でないのは、その火になった瞬間の印象を捉えるのが主眼だからである。
***
山は海の夕陽をうけてかくすところ無し
このスケールの大きさは放哉の俳句の中でも特異である。須磨寺時代の句に、
山の夕日の墓地の空海へかたぶく
というのがあるが、これは格助詞「の」によって、遠近の構成を瞬時に再現し、更に「海へかたぶく」という自然に対するデフォルマシオンで印象を決定付けている点、非常に技巧に長けた句と言える。一方、本句は、自然の巨大な流れを、一字一句動かぬ、まさに「不易」の句にアウフヘーベンしたものと言えるのである。美事なパノラマ・スコープ。そこでは、広大な照り返す海の輝きも、それに照らし出される不動の山影も、連続体として余すところなく写しとられている。その視線の自在な流動性は、前掲の須磨寺時代の句をはるかに越えて、自然に即している。
大瀬東二氏も指摘するところであるが、これは唐詩の「秋日」の「返照入閭巷」や、杜甫「返照」の「返照入江翻石壁」等のイメージに触発されたものに違いない。
***
蜥蜴の切れた尾がはねてゐる太陽
この先行をなすのは、小浜時代の句、
とかげの美しい色がある廃庭
であり、形式的にも四ー十ー四の音数が一致し、共に体言止めを用いている。
乾いた土に照りつく日射しが、まるで映像的ハレーションを想起させる。そうしたシーンに切れた蜥蜴の尾という、「生」を失いながら動きを止めない不気味な存在をアップで表現し、加えてあのトカゲの不思議な色(これは正真正銘のトカゲであって、カナヘビではいけない。あの暗褐色の肌に三条の鮮緑色の縦帯を持つトカゲにして生きてくるシチュエーションである)を暗示させて、唯美的耽美的な傾向を強く押し出している(その視点から見ると、小浜時代の句の「廃庭」という語の選択は美事というべきであろう)。人気のないこの張り詰めた美学は、シュールレアリスム的モチーフとして、たとえばジョルジュ・デ・キリコの色彩構成やサルバドール・ダリの偏執狂的構図にも繋がるものであろう。
***
春の山のうしろから烟が出だした
放哉の辞世の句とされるものである(実際にはそうではない)。
最早、立ち上がることも出来なくなった彼の目に入ったその煙は何であったのか。新規一転、新しい気持ちで、句作三昧の堂守の生活を出直す、その名実共に「春」を予兆する百姓の野焼きの煙だったのか。否、それは恐らく彼自身の自然への永劫回帰、己が屍を焼く荼毘の煙の幻影であったのではなかったか。
*
以上は僕の高校生の尾崎放哉の俳句授業のためのプリントで、句によっては諸家の評を用いていることをお断りしておく。