フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

トップページ | 2005年8月 »

2005/07/30

Memorial to Bud Powell

明日から、4泊5日でバスケットボール部の合宿で学校に泊まるので、blogもお休み。右腕の使えない「使えない顧問」が何をするわけでもないが、頭数さ。

さて、明日は僕の耽溺する Bud Powell の忌日だ。

中学3年の時、彼の "Invisible Cage"  を買って以来、金がない中、こつこつと収集してきた。でもあのトリオ・レコードの、あのジャケットは今以って素晴らしい。ピアノを弾く彼の周りは白(これはあのレーベルの一般的レイアウトだったのだが)。まさに「姿なき檻」に見えた。彼について語りだすと、きりがないので、後日に譲るが、彼のアルバムは最新のディスコグラフィの95%近くを、あらかたアナログだが、所持している。これは、僕のコレクションの中でも、まあしっかりした方だと自分では思っている(次に控えしは、Eric Dolphy の85%か)。米国の医師によれば、彼の精神病を、ある種のピアノの倍音がより悪化させたともいう。狂気させる音楽か。それも、素敵にぞっとして、いいではないか!

バド! ここにも、君を今も愛している男がいる!

僕は西行/テロリースタ

橈骨遠位端骨折という病名の響きが、何故か、気に入っている。

「あやなき闇にうらぶれて。眠るともなきに。まさしく圓位/\とよぶ聲す。」

「雨月物語」の「白峯」だ。

閑話休題。

8月にスイスの8日間トレッキングに旅立つ予定だった。医師は別に行っていいと言う。

「空港で鳴ると思いますが」

なるほど、そうだ。そこで考えた。

 ロンドンのテロ以降、欧州はぴりぴりだ。果たして、レントゲン・フィルムと説明で通用するものだろうか。固定ボルト二つは、見るからに小型高性能爆薬に見えるし、それぞれピンの頭が保護のためにコードで繋がっている。その二つを繋ぐカーボンロッドは、遠隔爆破装置からの受信アンテナに見える(事実昨日、職場の同僚は治療用の電波か何かを受け取っているのかと真剣に聞いた)。加えて、骨頭部(遠位端)に入っているピンは引き抜けば、頚動脈を刺すぐらいの十分な凶器になりうる(勿論、引き抜けない)。

僕が不審者として拘束され、誤って撃たれることもなきにしもあらず? それは冗談としても、同行する人々の迷惑を考えると、ちょっと行きたくなくなったというのが本音だ。

富田木歩句集 完成

新潮社版「現代詩人全集」になく、筑摩書房「現代日本文学全集 巻91 現代俳句集」1967年刊の「富田木歩集」に所収しているものを目視確認し、各年度の後ろにタイプした。不自由な手でのタイピング故、そのうちに再校正したい。

彼は、白黒の画面に、美事に、数え切れぬ花々を歌っていることに気づく。モノクロ故の絢爛さ。

先に述べたように、彼の句を選句することは恐らく不可能だ。上記の二冊を比べても、その有り様は、不思議に異なる。後者は「水のしらみもなく蛍火ひとつ過ぐ」で終わっているが、これは妙に辞世染みた選句で何か臭う気がする。

敢えて挙げるならば、やはり妹の死のシークエンスであろう。それは、イタリアン・ネオリアリズモの作品を髣髴とさせる。断続を取って、繋げてみる。

 

和讃乞ふ妹いとほしむ夜短き

 

今宵名残りとなる祈りかも夏嵐

 

妹さするひまの端居や青嵐

 

戸一枚立てゝ端居す五月雨

 

寝る妹に衣うちかけぬ花あやめ

 

病む妹に夜気忌みて鎖す花あやめ

 

医師の来て垣覗く子や黐の花

 

咳恐れてもの言ひうとし蚊の出初む

 

かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花

 

死期近しと夕な愁ひぬ鳳仙花

 

床ずれに白粉ぬりぬ鳳仙花

 

涙湧く眼を追ひ移す朝顔に

 

死装束縫ひ寄る灯下秋めきぬ

 

線香の火の穂浮く蚊帳更けにけり

 

棺守る夜を涼み子のうかゞひぬ

 

明けはずむ樹下に母立ち尽したり

 

朝顔の薄色に咲く忌中かな

 

それでも、強いて一句をとならば、やはりこれを選ぶ。

 

   病臥

我が肩に蜘蛛の糸張る秋の暮

2005/07/29

富田木歩句集 暫定アップ

 夭折にこだわっている。「やぶちゃんの電子テクスト集」に、「富田木歩句集」を暫定アップする。かつてタイプした不完全なものを、今日、かつて底本とした新潮社版「現代詩人全集」を借り、再度校正した。暫時、これは他の選句集等を用いて増殖させ、オリジナルな「木歩句集」を目指す。従って、将来のために底本表示をしない。
 2歳で発熱により歩行困難となる。障害と貧困のため、小学校にも行けず、いろはカルタや軍人メンコで識字したとされる。4人の姉妹と兄、聾唖者の弟。二人の姉と妹一人は苦界に売り払われ、その妹と弟も結核で亡くなった。自身も、家族感染。しかし、彼を死に至らしめたのは宿阿のそれではなかった。関東大震災の日、俳友、新井声風に背負われて逃げたが、火炎近づく中、隅田川の傍で、最早、万策尽きる。声風は木歩の手を握りしめ、別れた。彼のその後の消息は、ない。動けないままに、焼死したものと思われる。享年27歳。
 声風は生き残ったが、句作を自らに禁ずる。木歩のために(そのことは吉屋信子の「底の抜けた柄杓」等を読まれるがよい。この信子の作品の書名は放哉の一句からで、放哉についての一文もあるが、これには僕は余り感心していない)。
 彼は、「病境涯の俳人」とも言われるが、今回、再読して、そのモノクロームの、批評を拒絶する強烈な全的リアリズムに、圧倒された。個々の句の印象は、決して深いとは言えないかもしれぬ。しかし通して詠んだ時、そこに木歩という俳号を持った男の、恐ろしいまでの因縁が円環として宿命的に閉じられてゆくのだ。彼を子規と比較する向きもあるが、僕は、それは木歩という「個」を類型化して理解しようとする、虚しい行為だとしか思われない。子規には、自己犠牲した看病する妹がいた。おまけに、餓鬼のように彼は、喰った。喰えたのだ。動けぬ同病の木歩は、遊郭に売られ、襤褸同然で舞い戻った病む妹に、薄い掛け衣をしてやり、見送るしかなかったのだ。己が食い扶持にも困りながら。
 そうして、最期に一人、刻々と近づいてくる、業火に、自らの病んだ肉体を静かに、彼は委ねたのだ! 今、僕等は、焼いた木の足の幻という、句の中での彼の皮肉なレゾン・デトールを見ることになる。
彼の句の総体こそが、辞世であった。

「Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。」(鮎川信夫「死んだ男」最終行)

2005/07/28

定本芝不器男句集

「やぶちゃんの電子テクスト集」に、やはり夭折の俳人、芝不器男の「定本芝不器男句集」をアップした。底本を表示しなかったのは、単に失念したからで、昭森社版のそれは所持していないので、恐らく図書館で角川書店だったかの現代俳句全集を借りて、タイプしたものと思う。彼を知ったのは、梅崎春生の小説「狂い凧」の題名となった、「うまや路(ぢ)や松のはろかに狂ひ凧」からという超搦め手であるが、独特の視点消失に、未完成ながら夢幻的な映像世界がある。恥らえる幽かなエロチシズムの香りも、蒼いが故に、素敵だ。

紅葉山の忽然生みし童女かな

夜長さを衝きあたり消えし婢(をんな)かな

向日葵の蕋を見るとき海消えし

まぼろしの國映(うつ)ろへり石鹸玉

泳ぎ女の葛隠るまで羞ぢらひぬ

26歳、真の夭折、真のプエル・エテルヌス、真の少年の悲哀。

→プエル・エテルヌスに相応しい、芝不器男の肖像を見る。
『「愛媛の偉人・賢人」芝不器男』
http://joho.ehime-iinet.or.jp/syogai/jinbutu/html/067.htm

忘れ得ぬ人々 2

初めてのイタリア旅行は、14年前の夏、全くのフリーで2週間。

フィレンッエで超弩級に安いホテルに宿をとった。部屋の白い壁にピンクの細かい模様がある、と思ったら、叩き潰したザンザーラ(蚊)であった。その夜の集中攻撃は強烈で、ほうほうの体で、3日とったのをキャンセルした。その時初めて会った宿の老女主人は妻のキャンセルに難色を示した。外国では一切喋らず(英語もろくに喋れないから)、金も持たない(喋れなければ自動的に物も買えないから、いらない)というのが僕の信条で、その時も、妻から離れて僕は出口に立っていたのだが、埒が開きそうもないので、カウンターに寄っていって、「モルト、ザンザーラ! ミスクージィ!(蚊が沢山、ごめんなさい!)」と言ったら、彼女は僕を見て、急に相好を崩して、「オー! ジャポネーゼ、バンビーノ! アモーレ!(まあ、日本人の少年ね! かわいいわ!)」と突然両頬を手で包まれたなり、キスをされ、キャンセルも即刻OKとなった。

フィレンツエのレストランのテラスで、ビッラを頼む。横でどでかいワイングラスで飲んでるのを見て、それを指差し、「モルト、グランデ!」と言ったら、にこにこしながらウェイターがもって来たのは、バケツのようなワイングラス一杯のビールであった。隣にいた5、6歳の少女は、食事をそっちのけで、僕がそれを飲むのを悪戯っぽい微笑で見ている。こっちも癪だから、すっかり飲み干してウインクすると、彼女は、得も言えぬ笑顔で手を叩いてまじまじと僕を見続ける。そのうちに、母親に怒られたが、それでもちらちら僕を見ている。帰り際に、手を振ると、少し体を斜めに傾けて小さく手を振って返した。隣の妻は、不機嫌であった。

シエナの路地を散策中、前を行く5歳ぐらいの少年が自転車で転倒し、泣き叫んでいる。誰もいないので、抱きかかえて、そばの家に連れてゆくと、若い女性が胡散臭そうに見るばかり。僕が泣かしたんじゃないよ! と言いたいところだが、勿論、何も言えず、へらへら笑っていたから、ますます、彼女は不審な顔をするばかりであった。転倒した自転車を指差すと、彼女はやっと状況が飲み込めたらしく、しぶしぶ少年を引き受けた。しかし、その間中、少年はしゃくりあげながら、固く僕の胸に顔をうずめて、抱きついて離れなかった。かすかなミルクの香りがした。

シエナのカンポ広場の夜は、老人たちの社交場。ドゥーモの前で涼んでいると、典型的な太ったイタリアのおばあさんが、寄ってきて、笑いながら何やら話し始めた。酔っ払いのおじいさんが広場を何べんも回っているのだが、それはここで行われる旗を振り回す有名な祭り、パロオの真似をしているらしく、それをこのおばあさんは僕に手振り身振りたっぷり、じいさんをちゃかして説明してくれているらしい。しかし、僕には当然、分からない。それでも分かった振りをして、適当なところで、笑ったり、「シー!」等と言っていたら、またもや、突然その巨体に抱きつかれて、ディープなキスをされてしまった。危なく、地面に落ちるところだった。

僕は、かくの如く、老人と子供にのみ愛される。

そうしてこの一瞬の、ほとんど言葉も交わさぬ人々が、僕の忘れ得ぬ人々でもあった。

小学校卒業文集

法学を学んだ教え子がBlogで、犯罪者の卒業文集が報道されるのを評して、「小学生よ、卒業文集には何も書くな」と訴えていたのを、ふと思い出した。

僕は「医者になりたい。名前は変だけど、必ず医者になってみせる」と書いたのだ(見ず知らずの方はここを見ないだろうが、僕の姓は「藪野」という)。結核性カリエスの罹患で、物心ついた時から、白衣の人が日常だったからか。

今年の初め行った与那国島に感動して、そうして偶々見たドラマの「Dr.コトー診療所」のドツボにはまった僕が、どこかの離島のニセ医者で捕まったら、きっとあの文集はかっこうのお笑いの素材になるんだろうなあ。

→公式サイトが閉鎖した今、そこで配布された壁紙が一番大きくていいのだが、著作権に抵触するから、「Dr.コトー診療所ファンサイト/コトー先生のカルテ。」(「Dr.コトー診療所~志木那島の旅物語」と並ぶ充実したサイト)http://www.geocities.jp/dr_kotoh_clinic/
の「レポート」で志木那島診療所(与那国島比川浜セット)見て我慢(しかしここはここで素晴らしい)。

この6日間で、医者にだけは、いっぱい逢った。レントゲンも10数枚、たっぷり放射線を浴びたな(もともとカリエスだったから、僕は人の数十倍以上の被爆をしている)。白衣白衣白衣、白衣のフェルマータ。友を殺した、白衣の天使ならぬ、白衣の罪人もあの中にいたのだな。だいたい、完全コンピュータ管理が(ちなみに病室の前には常に、オンになったパソコンが無人で置いてあり、通ると患者名、投薬状況から食事記録まで美事に覗けたよ)、僕を88歳にしてくれる病院だ。

しかし、さっき、漱石の「道草」を再読した別な教え子からのメールに、

「やはりこの小説には後味の悪いものが残ります。いまだに、論理を全てひっくり返して、「人生はこうもできるんだよ」と子どものように決め付けてしまいたくなります。」

とあるのを見て思った。

そうだな、僕は今も医者になりたいな、と。

2005/07/27

僕は88歳

骨折を殊更にパロディにして昨日も今日も過ごしてきた。実費で買ったレントゲン写真は、その最たる実弾だった。右下の、ネーム欄には、なんと僕の名前の下に「大正8年2月15日生 88才」とあった。

現実は僕を追い詰めずには措かぬらしい。今日は、生徒の親の気持ちを考えると、ひどくつらい事務上の出来事があった。そのために、その方へ手紙を書いたのだが、宛名一つ書けぬ。冷たいワープロの手紙。宛名書きの代筆。どんなに言葉を尽くしても、きっと僕は冷たい教師だと思われるしかない。

「死んだ積で生きて行かうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。然し私が何の方面かへ切つて出やうと思ひ立つや否や、恐ろしい力が何處からか出て來て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないやうにするのです。さうして其力が私に御前は何をする資格もない男だと抑え付けるやうに云つて聞かせます。すると私は其一言で直ぐたりと萎れて仕舞ひます。しばらくして又立ち上がらうとすると、又締め付けられます。私は齒を食ひしばつて、何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷かな聲で笑ます。自分で能く知つてゐる癖にと云ひます。私は又ぐたりとなります。」(「こゝろ」より)

「自分で能く知つてゐる癖に」。

その通りだ。

何だか疲れた。明日は、何年もやったことがないのだが、意味もなく休みをとってしまおうかと思っている。どうせ、いてもいなくてもおんなじだ。夏休みの学校に用もないのに、せっせと通うのもおかしなもの(勿論、部活や仕事のある人もいるからすべてとは言わぬ)。研究用の蔵書は汗牛充棟、家の廊下にまではみ出しているというのに。家での研修は世間様の目を憚って、まず、許されぬ。誰もが聞く、「先生方は、行って何してるんです?」答えよう。「骨折漫才だ」

2005/07/26

最大絶対の痛打

仕事に出た。妻は退院翌日のよりによって台風襲来の日に出て行く僕を批難した。職場では腕をまじまじ見られて、いちいち生徒や同僚に説明するのに、会話のリピート機能が欲しかった。図書室で陶淵明の翻訳などを字の練習がてらやってはみたが、昨日より腕の腫脹がひどく、とても満足できる字と言えない。筆を投げた。

僕はやはり少しく沈んでいた。今回の怪我で、筆記はおろか、板書もできない(試しにやろうとしたが、回転と手首からの距離の問題らしく、全く動かすこともできなかった)という事実が、国語教師と言う僕の最後の拠所たる存在そのものを全否定しかねないからだ。勿論、左手がある(ちなみに僕は幼少期に左肩関節の結核性カリエスを患っており、左手は長さも右手より5センチ以上短く、垂直に万歳することも不可能である)とか、根性でリハビリせよ(私は指示された課題は必ずこなす。しかし、統計的事実としての「回復は難渋」という予定調和を壊す「根性」を信じない。糖尿病の歩行も、僕は僕の出来る課題をこなしたに過ぎなかったのであり、万が一にも、根性では絶対に、ない)とか、ありきたりの陳腐な叱咤は幾らもあろうが、それは僕の諸々に繋がるある不安を払拭するものではなく、何らの激励にもならぬ。その理由を問われるなら、僕は、僕の現在の状況と精神状態を、その相手に理解させるだけの説明は可能だ。但し、そのためには、その相手が全的な僕を知ることへの覚悟なしには無理な相談なのだ。

しかし、そんな数少ない一人に、僕が最初に担任した教え子がいる。彼は、僕が3年間担任し、僕の現代国語を3年間受けるという淵藪地獄を味わった男だ。痛飲しても、「こゝろ」の大事な場面の文章を、即座に暗誦してくれるという、僕の憂鬱をいつも美しく完成させてくれる数少ない友である。そんな彼が今日、僕に見舞いの手紙をくれた。その末尾の言葉、

「先生がご自分で「失敗」と書かれると世の中が憎くなります。先生が失敗だったら僕も失敗に違いありません。」

これは、僕にとって、最大絶対の痛打であった。「こゝろ」の学生が先生にもし、この言葉を語っていたら……そんなことを考えた。彼に、どんな返事をしたか、それは、秘密だ。

2005/07/25

手術記3

今朝の話で、「手術記」は終わりとする。

足腰が(面白い。この語には手がない。こんな状態で使ってみて初めて分かった)がぴんぴんしているのに寝床にいるのは如何にも苦痛である。今朝も目覚めて、こっそり、屋外に煙草を吸いに行き、さて11時の退院まですることがない。主治医も休診日で来ない。やっと頼んで傷口の清払をしてもらうが、ピンニングや器具の血糊を綺麗にふき取ってくれないので、また湘南鎌倉3大がっかりだ。

実は昨日、包帯を外してみて、裸の状態は、かなり他人にはエグイということが分かった。固定器の中央、右手首の親指根元に、パラソルの持ち手状のシルバーの金属ピンの頭がぶっ刺さっているのだ。ちょうどインドやモロッコの大道芸人が、頬や胸部の皮膚に金串を刺したのと全く同じなのだ(よく観察すると、固定器の下も間隙があり、骨へのボルトが突き出ているのは良くわかるが、これは通常、固定器に隠れて見えないからまだよい)。

ともかく僕の「固定器ちゃん」は綺麗にしてあげないとね、と独り言を言いながら、早くも金属部の磨きに左手でいそしむ。次に、すべて部屋を復元する。ゴミも分別、ロッカーのもともと曲がったハンガーやら壊れていたフックを左手でなんとか修復した(なんといっても、自分の右手を分けも分からず整復したんだから、この左手は黄金だ!)。

それでも、まだ余る。

自力でものを書く練習でもしてみるか?

入院に際しての書類も、すべて看護師に書いてもらった。昨日までは、全く、ものを掴めなかった。

ナース・ステーション(「看護婦」がいけないのなら、「ナース」は何でいいんだろ? 看護師はメイル・ナースだろ? 言葉狩り、中途半端なら止めたがいいぞ)に紙とボールペンを借りに行く。

梅崎を書写しようと思ったが、書写は時間が懸かる。暗誦できる文章だ。中島敦の「山月記」がいい。とびきり難しい漢字もいっぱいある!

退院までの2時間で、冒頭から袁と李徴と再会、そして「李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊ねた。草中の聲は次のやうに語った。」(細かな字を練習するために、なるべく旧字で書くように心掛けた)まで、最初はまさに生徒のような蚯蚓ののたくった字が、「遂に発狂した」辺りから、人並みには読める字になったのには驚いた(少なくとも一部の生徒の漢字テストより10倍ましな字)。勿論、痛みはひどくぶり返したのだが、「これなら」という淡い光明が見えた気もした。ちょっと蒸す外気も、今の僕には天国だった。

実は、今、このBlogも、たどたどしいが両手で打っているのであった。かと言って、楽観はしていない、そもそも僕は悲観主義者だから。しかし、悲観主義者にとって、絶対的な悲観的状況は、悲観として作用しないような気がする。ウェーバーの法則だな。

では、ご心配をかけた多くの皆様に、とりあえず、ありがとう!

なお、正式な病名は「橈骨遠位端骨折」である。

手術記2

手術当夜は抗生物質点滴が深夜2時まで続いた。懐中電灯を持って、そっと点滴針を抜きに来た看護師に最後に「ありがとう」と言おうと思ったが、逆に針で刺されたら怖いので、やめた。

翌朝(7月24日(日))、彼女に言ったら、熟睡しているとばかり思っていたとびっくりされ、やっぱり安堵。熟睡の演技も、捨てたものでないらしい。

部屋からは、天神山が正面に見え、蜩が鳴いていた。ここには戦前、鉱泉があり、その昔は、頼朝の隠し湯と言われたことなどを、彼女に話すと、「社会科の先生ですか?」と聞かれた。一昨日、真鶴の診療所では生物の教師と思われた。僕は、満を持して、マラリアでなくなった同僚の社会科の教師のことに話を向けたが、彼女は4月からの勤務だそうで、感染病棟の在り処を尋ねると、よく分からない雰囲気であった。それなりにこの病院に入るに当たって、相応な皮肉を用意してきた僕ではあったが、それで話は止めることにした。もう、お察しの方もあろうが、彼女がなかなかに美形の方であったことも一因ではある。

打ち込んだボルト部分の痛みが、やや強くなったが、僕は痛みには滅法強い口で、座薬は使わなかった。主治医が来て、初期リハビリを教えてゆく。

確かに、指を握れない。また開けない。勿論、指で何かを突くと、ダイレクトに関節部に痛みが走る。時々、片手万歳をしないと、手術部位が腫れる。

主治医は、「リハビリが半年以上かかる」とだけ言っていたが、カルテの最後に、さりげなく「回復は難渋する」と記載してあった。どうも実感からしても、右手を突いて体重を掛けたり、手の甲を反転させることができなくなる(これは例の幼女連続殺人事件の宮崎被告人のコンプレックスであった先天性の病気と同じ症状だ)のかなとも思うが、こればかりは医師にも分からないのだろう。

ペンも持てないので、本を読むしかない。梅崎春生の「桜島」と「幻化」を、改めて精読した。それぞれ、新たな発見があり、それは後日に書ければと思うが、キーだけは述べておきたい。「幻化」は陶淵明の「田園の居に帰る」の詩の一節であることは周知の事実だが、あの主人公久住五郎と火口を回る自殺志願の丹尾章次の関係性に描かれたもの、さらには、「幻化」全体の主題が、まさに陶淵明の詩「形影神」の中にあるのではないかということだ。山本健吉が既に、五郎-丹尾の、形-影の構造を述べており、彼は、梅崎がかつて丹尾鷹一というペンネームを使っていたことも述べているが、それは、遂に「幻化」全体に敷衍され、そこに淵明詩「形影神」の思想が額縁されているのではないか。

ちなみに、『「桜島」から「幻化」へ』で誤記した、すさんだ(というより生理的不快感を与える不良じみた)特攻兵のシーンは「桜島」のものであった。

まあ、入院患者の読む本、ではないな。

夜の病院の音は、精神を病ませる。痰の吸引音やナースコール、歩行器や点滴掛けの軋り、便所の戸の開閉、排水、老婆の絶望的な呻き、鼾、叱責、争い、そして再び、短い陰鬱な静寂。

手術記1

先程、帰宅した。腕を見た母は、電信柱みたいと表現したが、言い得て妙だ。

7月23日(土)、手術の開始は2時間遅れた。待つ間、一つ嬉しかったのは、エントランスルームのBGMがJAZZで、何と最初に聴こえて来たのが、コルトレーンの「コートにスミレを」。僕が彼の演奏で一番好きなもので、思い出深いものだ。そうして彼の「バラード」、カーテイス・フラーの「ブルースエット」、次のペットは多分、アート・ファーマーで、曲は「クリフォードの思い出」……最後まで、分からない曲は、なしだった。まあ有名どころのベスト・ヒット集をかけているのだろうけれど、何だか、ハッピーな気分になれた。

午後2時半、術式開始。残念ながら期待に反して、麻酔から覚醒までは、一気に繋がってしまい、夢のかけらもなかった。

2時間弱で手術室を出ると同時に目覚め、同僚の家族が待っていた。術式の成功に安堵して、すぐ帰ったが、彼の娘は、もう一度、さよならを言いに来た。彼女は、まさに守護天使のように見えた。麻酔後の朦朧感はほとんどなかった。

その10分後ぐらいに、地震があった。看護師たちが騒ぐ中、僕は「初期微動が長いから、大丈夫だ」と彼らに言った。妻は妙な顔をして笑った。

そうして、天地鳴動から、自ずとマタイ受難曲のイエス復活の場面を思い出したのは、笑止か。しかし、事実だから仕方がない、別段、己をイエスになぞらえたわけでは全くない。

個室に入って、主治医は手術は非常にうまくいったと、目の前にレントゲンを突き出した。逆ゼット型が鮮やかに手の甲から手首の5センチ手前までを覆っている。ピンニングは親指の根元からの一本だけであった。創外固定のバーは、カーボン製のため写っていなかった。

そこで初めて吊られた右腕を見た。グレーとアンバーの左右の部分からなる固定器、そこから外側へ伸びた突起に浮いた状態で同色配合のバー固定ボルト、そこを繋ぐ艶やかな炭素棒。それぞれの固定器には、二本のボルトピンが、オレンジの細いビニールパイプで繋がり、上に放物線を描いて飛び出ている。これがまた、手の甲と、橈骨上のものとで放物線が違うのが、手業のリアリズムを感じさせる。

第一所見:不気味さなし。正直、うん、これなら僕の好みだ。どうせなら、ビニールパイプは淡いグリーンにして欲しかったが。しかし、やっぱり、ちと重いな。

尿道カテーテルは趣味じゃない。エイリアンはやっぱり気道からが正統派だ(と言っても気道の挿管抜管後、実際、昨日の夜まで、咽喉の微出血と、えがっらぽさは残った訳で。上も下も御免は御免だが)。看護師にはイエスマンの僕も、流石に直ぐに抜いて下さい! と叫んだ(マジ、僕が入院中、文句を言ったのはこれっきりだったス)。

而して、すっきりくっきりで、朝から何も飲まず食わず、飢え切った僕が、妻に頼んで買ってきてもらったものは?

何故か、「メロンパン、喰いたい!」であった。

2005/07/23

MEMORIES OF YOU

入院11:30、12:00過ぎには手術となる。
何を聴いて、家を出るかばかり考えている。CDもMDも職場に置きっ放しで持ってゆけない。
Bach? 昔、A型肝炎で1ヶ月入院した時は、教え子が録音してくれたマタイ受難曲をエンドレスで聴いたものだった。昨夜もレオンハルト版でアリアの8番「血を流せ、わが心よ!」と、僕が一番愛する「来たれ、甘き十字架」、ゴルゴダへの道を繰り返し聴いたが、今日の僕には、ちと重い。
JAZZは腐るほどあるが、POWELLやDOLPHYは覚悟なしには聴いてはいけないものだと決めているし、そもそも僕の好みはマイナーキー、ブルースかバラード、ブルーモードに拍車を掛ける。

さうして、結局、選んだ一曲は、

Benny Goodman  MEMORIES OF YOU

ちょっとダルでノスタルジックな Goodoman のcl、期待通りにゴキゲンにテンション・アップしてゆく Lionel Hampton の vib から、Charlie Chritian のクリーミーな guitar ヘ。絶品だね!
聴いたことない? いや、何処かできっと聴いたことがあると思うよ。
ちょっとだけなら、そう、ここへ。

http://bit.sonymusic.co.jp/Music/International/Arch/SR/BennyGoodman/download/d1.html

では、本当に暫く、ごきげんよう!

ちなみに今日は、Mamorial to Alan Leroy!

手術の朝

早朝は水面の輪のようにゆっくりと広がる蜩の音で目覚めたが、起き上がらずに暫く聞き入って凝っとしていた。そのうちに、3羽の烏が、嘲るが如くに鳴騒し始め、一喝すると、軒を蹴って勢いよく飛び去って行った。これは、如何なる黙示か? 蜩はもとより望んだものだ。3羽? 3婆? マクベスか? ダンシネインの森は動いてしまうのか? それにしても、今日、全身麻酔の中で、僕はどんな夢を見るのだろう? 是非、夢記述しておきたいが、ペンも、持てないな。

しかし、昨夜来、8人の元教え子から励ましや気遣いのメールを頂いた。その程度には、このblogが読まれていることも知った。

或る女性からの一句は心に沁みた。

「先生の行われる授業を離れて、私はすでに3年になります(3年次は先生の授業を受けることが出来なかったので)。大学で日本文学の授業を受ける度に、先生のクラスに所属している生徒を羨んだり、今尚授業を受けることが出来ている在学生を妬んで過ごしてきました。
そんな折に、教えていただいたこのサイトは、私にとって高校の、あの教室そのものなのです。」

実は、僕の考える僕のHPは最初、そんなことを目論んでいた。これを励みにしたい。そのためにも、もう少し、頑張ってみるか。

2005/07/22

手術入院に相成候

粉砕した橈骨骨頭は深刻だと、友を殺した病院は言った(症状の可能性をすべて検討し尽くすことなく、安易にインフルエンザとし、患者関係者の要望で検査してマラリアと分かった時、キニーネのデポもなく、手遅れとなったのは、立派な医療過誤だと僕はなくなった日に思った)。明日、入院して手術と相成った。術式は全身麻酔で、骨頭部へのX字型のピンニングに加えて、人差し指と橈骨本体へボルトを植え込み、金属の棒で繋ぐ創外固定。リハビリは半年以上かかり、拘縮(握ったような状態から動かなくなること)と痛みの後遺症の心配が残るとのこと。でも、7月25日の月曜には退院だそうだ。

ロボコップか、はたまた好きなドラマ「ER」のドクター・ロマノ(もう死んじまったけど)にそっくりになるというわけだ。そう言えば、「ロボコップ」には、あのロマノ役の Paul McCrane が出てたなあ。

今日は、父が白神山地に鮎釣りに、母と妻は温泉へ(まるで昔話の導入だね)。僕は、一人で明日の入院とオペを待つ。なかなか、いい侘しさだ。

2005/07/21

生徒と海洋生物の観察に真鶴の横浜国大臨海研究所に出かけ、至福の時を過ごす。フシエラガイ、クルマナマコ、ウミフクロウの卵塊、チゴケムシ、カンザシゴカイ……何でそんなに詳しいの? と生徒はびっくりすることしきり。

でも、blogでもHPでも暫く語ることができないかも知れない。

左腕のみでキーを打つのは地獄。

観察が終わって、最後の岩場で普通にころんだ。突いた右腕が、奇妙な形にねじれて、おまけに背面130度ぐらいまで曲がっていた。右腕橈骨骨頭の粉砕骨折と尺骨を脱臼骨折(要するに右腕の手首のところがすっかり折れたわけだ)、レントゲンの美事な美しさ。尺骨なんか葱坊主のように、外にはみでている。真鶴の診療所では何も出来ないと言われ、そのままの状態で吊ったまま、仕事に戻った。今も、そのままの状態だ。

診療所の医師が紹介した、明日行く病院は、あのマラリアの友がなくなった病院だった。

あんな風にSFみたいに手首が曲がってしまうこと、そうして本能的にそれを整復した僕は、僕に、びっくりしている。

じっとしていれば、痛みはない。

2005/07/20

「冷たい場所で」解説

HPトップの今の詩が、良くわからないというメールを頂いた。昨日は(まだ今夜のつもりだが)、いささか疲れることと嬉しいこととが拮抗した。とりあえず、メモ。

   冷めたい場所で   伊東静雄
私が愛し
そのため私につらいひとに
太陽が幸福にする
未知の野の彼方を信ぜしめよ
そして
真白い花を私の憩ひに咲かしめよ
昔の人の堪へ難く
望郷の歌であゆみすぎた
荒々しい冷めたいこの岩石の
場所にこそ

◆恋の喪失者/それは真に故郷喪失者(漂泊者)の哀しみ
◆しかし、彼女には太陽が輝く幸福な未来よ、あれ
◆敢えて言えば、失恋した私には一本の真白い花[弔花?]を咲かせてくれればそれでよい。それが分相応だ。

そしてその花は

「昔のひと」~静雄以前の故郷を喪失した詩人達が

「歩み過ぎた」~「堪へ難く」て、とどまることなく足早に走り過ぎて行った(過ぎ行くべきでは、実はなかった)場所

だから、何者にも、悼まれることのなかった、この孤独な私が立つ「荒々しい冷たい岩石の場所にこそ」まさにふさわしい(だから咲かせてくれ)

 

「伊藤君の抒情詩には、もはや青春の悦びは何処にもない。たしかにそこには、藤村氏を思はせるやうな若さとリリシズムが流れて居る。だがその『若さ』は、春の野に萌える草のうららかな若さではなく、地下に堅く踏みつけられ、ねぢ曲げられ、岩石の間に芽を吹かうとして、痛手に傷つき歪められた若さである。……これは慘忍な恋愛詩である。なぜなら彼は、その恋のイメーヂと郷愁とを、氷の彫刻する岩石の中に氷結させ、いつも冷めたい孤独の場所で、死の墓のやうに考へこんで居るからである。」(萩原朔太郎 「わがひとに与ふる哀歌」評/雑誌「コギト」昭和一一(一九三六)年一月号)

 

これで如何?

2005/07/18

伊良子清白「漂泊」「安乗の稚児」

「アンソロジーの誘惑・現代詩編」に、伊良子清白「漂泊」「安乗の稚児」をアップ。彼の詩集「孔雀船」は忘れられた珠玉の詩集である。この一巻を出版して、鮮やかに詩壇を去り、地方医療に身を捧げた彼は、まさに真に詩人であった。岩波書店刊の2巻全集と同編者平出隆による「伊良子清白 月光抄 日光抄」は近年稀に見る労作。本テキストは総ルビの詩集「孔雀船」原本から、字面が汚くならぬように、誤読されそうな読みのみを括弧書きで振った。

 

プエル・エテルヌス、その名は伊良子清白、永遠の少年。

 

→髭は生やしている(ないのもあるけど画像が小さい)けれど、やっぱり永遠の少年、伊良子清白の肖像を見る。
『とっとりの文学探訪 「漂泊の詩人 伊良子清白」シンポジウム・資料展示の開催』http://db.pref.tottori.jp/bunkakankouhp.nsf/569b2071820743b349256be70043bb60/e29ba523f68ad8f249256ffd0020b7df?OpenDocument

療養記録

僕の運動療法とカロリー制限のみの身体改善を信じない友がいるので、この1年の療養記録を示す。各項目の( )内が標準値である(表は「小」の文字サイズで見て下さい)。

              2004/7/29  8/20  9/25  11/20   12/18   2/19   5/27
血糖値(60-109)   123    134     98        94        84     103*     97**
HbA1c(4.3-5.8)     6.1    6.0     5.1       4.8       4.9      4.8       5.1
γGTP(60-)           90    124      27        27        32       29      50
GOT(40-)             56              33         28       26       35     値以下
GPT(45-)              32             17         14       12       13     値以下
中脂(50-149)       232             79         72       70                値以内
総コ(150-219)      176            134       133     142     172     値以内
HDL-Cho(40-70)   38              35         38        41      44     値以内

体重                    67.9  67.8  62.6      61.0     60.0    59.2     62.0

尿糖(-)              +++                             +              -       +

尿蛋白                   -                             -          -         -       -
アルブミン(22以下)                                           9.3           値以下
ケトン体(-)                                                       -                -
負荷                                                                 *5単位   **6単位

パソコンがクラッシュしたため、5月27日の詳細数値は失念したが、γGTP以外は、ほぼ2月19日と横並びかそれ以下であった。主治医からは11月と5月の尿糖+は腎性糖尿で問題なしとし、体重は63キロ以下62キロ以上を維持するよう、指示されている。去年の療養開始8月20日から1ヶ月めで、主治医は「痩せろ言ったが、もう痩せるな」と言った。無理なダイエットをして飢餓状態にあるのと同じ総コレステロール量になってしまったからだそうだが、僕自身は、たいした肉体的苦痛もなく、もう無理かと思っていた山登りが、また出来そうな気がしてきている。

しかし、この一ヶ月は主治医からもっとアバウトに生きていい(毎日の食後2時間値尿糖、体重、各食事と飲酒量・カロリー、朝晩の運動距離及び消費カロリー、その日の身体状態をずっと記録して主治医に渡してきた)と言われ、極端な僕は、節制から一転、完全に昔の飲酒レベル、喫煙レベルに戻ってしまった。本日の体重は、指示体重から逸脱して59.6kgまで下がってしまった。そうして、明日は人間ドックだ。鬼が出るか、蛇が出るか、それもまあ、宿命と諦めるしかあるまい。

尾崎放哉句鑑賞

蛇が殺されて居る炎天をまたいで通る

 炎天下、蛇が殺されて横たわっている、つぶされて、生臭い体液を土ににじませて。それを避けることも出来ない細道なのか、それともあえてその凄惨な現場をまたごうとする不思議な心理か。
 惨殺された蛇の屍をまたぐのを、「炎天をまたいで通る」と表現したところに一種ぞっとするような俳諧味がある。太陽のギラギラした直射、埃っぽい乾燥感のなかにあって、ただ蛇から流れ出た血だまりだけが、湿り気をもって、生々しく迫ってくる。
 僕はこの句を読むにつけ、芥川龍之介が大正六(一九一七)年の『中央公論』に連載した「偸盗」の第一章の冒頭を思い出す。夏の蒸し暑い不潔な朱雀綾小路の、「車の輪にひかれた、小さな蛇(ながむし)」のシークエンスは、この句とまさに短歌長歌の関係にあると言えよう。

 

むし暑く夏霞のたなびいた空が、息をひそめたやうに、家々の上を掩ひかぶさつた、七月の或日ざかりである。男の足をとめた辻には、枝の疎な、ひよろ長い葉柳が一本、この頃流行る疫病(えやみ)にでも罹つたかと思ふ姿で、形(かた)ばかりの影を地の上に落としてゐるが、此処にさへ、その日にかわいた葉を動かさうと云ふ風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせゐか、人通りも今は一しきりとだえて、唯さつき通つた牛車の轍が長々とうねつてゐるばかり、その車の輪 にひかれた、小さな蛇も、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやつてゐたが、何時か脂ぎつた腹を上へ向けて、もう鱗一つ動かさないようになつてしまつた。どこもかしこも、炎天の埃を浴びたこの町の辻で、僅に一滴の湿りを点じたものがあるとすれば、それはこの蛇の切れ口から出た、腥い腐れ水ばかりであらう。(注:旧字は新字に直し、難読語のみ読みを付した)

 

下手な解釈を下すより、芥川のこの一文の示すところが、この句の持つ生理的実感を如実に伝えているではないか。

      ***

うそをついたやうな昼の月がある

 思いがけず昼に月が出ているのを見たとき、人は何かだまされたような感じを持つことはよくあることである。別に月がだましたわけでもないのに、その感じを「うそをついたやうな」とユーモラスに表現したところに、俳諧本来の滑稽の眼目がある。

   ***

雀のあたたかさ握るはなしてやる

 雀を捕まえた両手に雀の肌のあたたかみが感じられた。そのあたたかさは作者にとっては、ひとりぼっちの毎日を送っている作者にとっては長いこと忘れられていたものに巡り会ったような思いであったろう。「あたたかさ握る」という表現にその思いが出ているようだ。
  しかし作者は雀をどうのこうのするというつもりはない。すぐに雀を放してやる。自由を得て雀は勢いよく飛び去る。そして両の掌にかすかに残る雀の肌のぬくみーー。

   ***

足のうら洗へば白くなる

  入れものがない両手で受ける
  咳をしても一人
と並んで放哉を代表する句とされる。それはこの句が短くてすぐ覚えられるということだけでなく、やはりこの句が当たり前のことを言っているにもかかわらず、改めて人に微笑ましい共感を与えるからである。そして同時にこの句ににじみ出ている放哉という「生」の人間に触れる思いがするからである。
  平易な日常の言葉で平凡な真実を言いとり、人を微笑ませるということは俳諧本来の精神である。

   ***

道を教えてくれる煙管から煙が出てゐる

 ここに現れたユーモアは、いわゆる理知的な、考え出されたものではなく、自然の事実そのものがかもしだすユーモアである。
 田舎道。道が分からないので、道で一服しているおやじに道を聞く。その人が煙管を突き出して方向を教えてくれる。その煙管から立ち上ぼる煙。牧歌的風景。
 晴れた暖かい日差しの中に紫の煙がゆらゆら溶けてゆくのを見ているようだ。国木田独歩の「武蔵野」に描かれた失われた日本の原風景を僕らはここに見るのである。

   ***

松かさそつくり火になつた

 松かさを火にして何かを煮ると見てよいが(同時期の句に「松かさ火にして豆が煮えた」というのがある)、松かさが燃え上がって松かさの形のまま火そのものとなった瞬間であろう。その火に作者の眼はじっと注がれているのである。しかし作者はこの瞬間は無念無想である。ただ松かさそっくりの火に見入っているだけである。
 「…火になった」であって「…火になっている」でないのは、その火になった瞬間の印象を捉えるのが主眼だからである。

   ***
   
山は海の夕陽をうけてかくすところ無し

 このスケールの大きさは放哉の俳句の中でも特異である。須磨寺時代の句に、
  山の夕日の墓地の空海へかたぶく
というのがあるが、これは格助詞「の」によって、遠近の構成を瞬時に再現し、更に「海へかたぶく」という自然に対するデフォルマシオンで印象を決定付けている点、非常に技巧に長けた句と言える。一方、本句は、自然の巨大な流れを、一字一句動かぬ、まさに「不易」の句にアウフヘーベンしたものと言えるのである。美事なパノラマ・スコープ。そこでは、広大な照り返す海の輝きも、それに照らし出される不動の山影も、連続体として余すところなく写しとられている。その視線の自在な流動性は、前掲の須磨寺時代の句をはるかに越えて、自然に即している。
 大瀬東二氏も指摘するところであるが、これは唐詩の「秋日」の「返照入閭巷」や、杜甫「返照」の「返照入江翻石壁」等のイメージに触発されたものに違いない。

   ***

蜥蜴の切れた尾がはねてゐる太陽

 この先行をなすのは、小浜時代の句、
  とかげの美しい色がある廃庭
であり、形式的にも四ー十ー四の音数が一致し、共に体言止めを用いている。
 乾いた土に照りつく日射しが、まるで映像的ハレーションを想起させる。そうしたシーンに切れた蜥蜴の尾という、「生」を失いながら動きを止めない不気味な存在をアップで表現し、加えてあのトカゲの不思議な色(これは正真正銘のトカゲであって、カナヘビではいけない。あの暗褐色の肌に三条の鮮緑色の縦帯を持つトカゲにして生きてくるシチュエーションである)を暗示させて、唯美的耽美的な傾向を強く押し出している(その視点から見ると、小浜時代の句の「廃庭」という語の選択は美事というべきであろう)。人気のないこの張り詰めた美学は、シュールレアリスム的モチーフとして、たとえばジョルジュ・デ・キリコの色彩構成やサルバドール・ダリの偏執狂的構図にも繋がるものであろう。

   ***

春の山のうしろから烟が出だした

 放哉の辞世の句とされるものである(実際にはそうではない)。
 最早、立ち上がることも出来なくなった彼の目に入ったその煙は何であったのか。新規一転、新しい気持ちで、句作三昧の堂守の生活を出直す、その名実共に「春」を予兆する百姓の野焼きの煙だったのか。否、それは恐らく彼自身の自然への永劫回帰、己が屍を焼く荼毘の煙の幻影であったのではなかったか。

以上は僕の高校生の尾崎放哉の俳句授業のためのプリントで、句によっては諸家の評を用いていることをお断りしておく。

2005/07/17

尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)

「やぶちゃんの電子テクスト集」に自由律の「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」をアップ。かつて私が自分の研究用に打ち込んだもので、新発見の句稿も含めているが、なかなか出なかった筑摩版の全集以前に作ったものなので、今では、全句とは言えないが、総覧するには十分であろうと思う。ページの4/5を占領してしまった。使う人はコピーしてカスタマイズして下さい。

僕は富山は伏木中学校2年の折、国語の小島心水先生から授業中に尾崎放哉を教わった。翌日、先生から新潮社版日本詩人全集を借り、翌年には弥生書房版の一巻全集を買った(これは僕の買った初めての個人全集だった)。高校1年で、彼の所属していた俳誌「層雲」に加わった。大学の卒業論文は、1年の時に「尾崎放哉論」と決め、その夏、終焉の小豆島の南郷庵を訪れ、墓も洗った。卒論では、病跡論の一部で、句に現れた各色の頻度を算出、ロールシャッハ・テストの色彩反応理論を応用、また作品の象徴関係を精神分析学的に分析したこことが特異と言えば特異。

それにしても、酒の上での失敗の連続と宿阿の結核、そして緩慢なる自死とも言うべき自棄的生。それらは、どこかで僕の宿命(僕は1歳半から5歳迄、左肩関節結核性カリエスを患った)とつながっているやに感ずることが、今もある。

 

灯をともし來る女の瞳

 
一日物云はず蝶の影さす
 

わかれを云ひて幌おろす白いゆびさき
 

夕べひよいと出た一本足の雀よ
 

漬物桶に鹽ふれと母は産んだか
 

底が抜けた柄杓で水を呑もうとした
 

とかげの美しい色がある廃庭
 

すばらしい乳房だ蚊が居る
 

足のうら洗へば白くなる
 

とんぼが淋しい机にとまりに來てくれた
 

なん本もマツチの棒を消し海風に話す
 

壁の新聞の女はいつも泣いて居る
 

山は海の夕陽をうけてかくすところ無し
 

蜥蜴の切れた尾がはねてゐる太陽
 

障子あけて置く海も暮れきる
 

爪切つたゆびが十本ある
 

入れものが無い兩手で受ける
 

咳をしても一人
 

戀心四十にして穂芒
 

あすは元日が來る仏とわたくし
 

渚白い足出し
 

春の山のうしろから烟が出だした

 

中学1年の時に「生きることは差し引きゼロで、そのプロセスをのみ楽しむものである」という趣旨の僕の駄文が残っている。後に読んだ、放哉の大学時代の「俺の記」(漱石の「我輩は猫である」のパロディで寮のランタンの一人称小説)の中で「差引勘定零」「人生の楽しむ可き処は、そのプロセスに有る」という部分で、思わずどきりとしたものだった。

ちなみに彼は従姉妹で、澤芳江という女性を愛した。近親婚ということで反対され、一夜、江ノ島で語り合った後、永遠に別れた「白きゆびさき」の人物である。その直後、放哉は彼女に薔薇の絵葉書を送っている。そこに記された言葉は、

「諾、我過てり」

であった。

→お願い:どうか、次のページの東大時代の放哉と沢芳衛の肖像をご自分のフォルダに保存し、この僕のページと一緒に保存してあげて欲しい。僕は、この二人の写真を、どうしても並べてやりたかった。
「尾崎放哉記念館」
http://www2.netwave.or.jp/~hosai/
の常設展示品ページ

杉田久女句集

「やぶちゃんの電子テクスト集」に「杉田久女句集」アップ。

高濱虚子によって抹殺された悲劇の女流俳人。彼女は、虚子によって狂わされ、孤独に亡くなっていったのだと言いきってよい。

富士見書房から2年前刊行された坂本宮尾著「杉田久女」は、その真相に肉薄して、美事だ。これを読んで、ますます僕は「虚子ぎらひ」となった。彼のやり口は、汚ない、愚劣、最下劣、罵詈雑言を幾ら並べても、表現しきれないほどだ。案外、京大俳句事件辺りも、どうなのだろう、こいつの影がちらつかないか。

 

足袋つぐやノラともならず教師妻

 
われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華
 

谺して山ほととぎすほしいまゝ
 

蝉涼し汝の殻をぬぎしより
 

羅の乙女は笑まし腋を剃る
 

龍胆も鯨も掴むわが双手
 

蝶追うて春山深く迷ひけり

 

最後の句は時世ではないが、僕には、自らの寂しい末期を予言した句、限りなく哀しい時世の句に見える……。

→若き日の、慄っとするほど美しき杉田久女の肖像を見る。
北九州市の公式HPの「ふたりの女性俳人」

鈴木しづ子句集

「やぶちゃんの電子テクスト集」に「鈴木しづ子句集」アップ。

彼女の著作権は継続中である。

僕は彼女の俳句が不当に曲解されていることに激しい憤りを持っている。彼女は俳壇から消息を絶って50年以上、現在に至るまで行方不明である。今生きていれば86歳。僕は、確信犯として公開する(実際にはネット上に既に多量の彼女の句が流されており、僕のこのページも代表作以外は、そうしたものを底本なしに無批判に合成している部分があるので、正しい定本に当たられることを望む)。

そうして彼女が現れてくれたら、喜んで彼女の平手打ちを受けるであろう、幾度も幾度も。

その不当さと失踪の経緯、幸薄き彼女の半生は、河出書房新社より昨年出版された江宮隆之の「風のささやき」に詳しいので、そちらに譲るが、一言だけ言っておく。

慾るこころ手袋の指器に觸るる

これが男性器を指しているとは、何と言う、おぞましい解釈か!

 

夏みかん酸つぱしいまさら純潔など

 

コスモスなどやさしく吹けど死ねないよ

  
夫ならぬひとによりそふ青嵐
  

娼婦またよきか熟れたる柿食うぶ
 

好きなものは玻璃薔薇雨驛指春雷

 

どこぞの美形の、毒にも薬にもならぬ俳句を作っている女性俳人(誰とは言わない)に、彼女の爪の垢でも煎じて飲ませたい。

篠原鳳作句集

HPの作成を自動作成に頼っていたが、今朝、眠れぬまま、「やぶちゃんの電子テクスト集」の部屋を試験的に作成、公開し得た。

とりあえずここに、著作権の切れた、現在WEB上に公開されていない、僕にとって気になる作品を電子テキスト化してゆきたいと思う。暫くは、俳句集の公開を行う。

自己校正しているが、OCRではなく、すべてタイプしたものなので、ミスがないとは言い切れぬ。その折は、ご寛恕あれ。

まずは清新な無季の句を詠んだ篠原鳳作の句集を「やぶちゃんのテクスト集」にアップした。昭和11年30歳で夭折した俳人、彼が戦後も生きていたら、恐らく現代俳句の流れはもっと早くモダンになっていたであろうと思えてならない。なお、彼の死因については幾つかの文献には心臓麻痺とあるが、4ヶ月前からの首筋の痛みや発作的的嘔吐等、脳腫瘍も疑われる。

どれも珠玉、敢えて選ぶとすれば次の5句か。
 

ふるぼけしセロ一丁の僕の冬
 

しんしんと肺碧きまで海のたび
 

 喜多青子を憶ふ
詩に痩せて量(かさ)もなかりし白き骸(から)
 註 喜多青子は日野草城門下の秀才たり

 
太陽に襁褓かゝげて我が家とす
 

蟻よバラを登りつめても陽が遠い

→夭折にして澄明、篠原鳳作の肖像を見る。
『「宮古毎日新聞」2004年(平成16年) 11月25日 木曜日』
http://www.cosmos.ne.jp/~miyako-m/htm/news/041125.htm

 

ちなみに彼の友人喜多青子(「青」は正しくは旧字)という俳人の句集「噴水」を長年探索しているが、影も形もない。どなたかもし見かけたら、よろしくお教え下さい。

追悼式の後に

只今、午前2時。追悼式の後、横浜で友と二人で飲み、気がつけば小田原、気がつけば品川、奄美大島をニグザイルした運転手のタクシーでたどり着くも、家の鍵もなく、塀をよじ登って、泥棒の如、家に入る。しかし、書かずにはいられぬ。曰く、

必竟、生者は死者に敗北する。

永野広務。僕と同年。神奈川県公立高等学校社会科教諭。特定非営利活動法人草の根援助運動事務局長。マラリアによる多臓器不全。妻と娘。沢山の生徒達と友。

***

(通夜に僕が読んだ弔辞を転載する。僕の後悔を永遠に刻印するために)

弔辞

永野さん。
今日の涙雨が、枝に残った桜の花を散らしたように、あっという間に、僕たちの前から去っていってしまったね。
先日送った二人の思い出の泡盛、「心して飲ませてもらいます」と君は言っていたが、飲んでもらえたのかな。せめて、一杯、あの酒を二人で酌み交わしたかったよ。

短い付き合いの中で、君は僕の手の届かない手本だった。教師になるために生まれてきたような君に嫉妬さえ感じた。

生徒や同僚の悩みに、親身になって相談に乗る君、職員会議で管理職を鋭い論理で追い詰めてゆく君、しなやかなフットワークでバスケットボールを操る君。紛争と貧困に見舞われた国々への援助活動に一身を削る君……。

「自分の信条で日の丸のある卒業式には出ない」という君を、僕たちは言いくるめて無理に出した。君が代の始まると同時に、一緒に勢いよく座ったのは痛快だったね。

「己がポリシーに従って生きる」という君の信念の種は、教え子達の中で、しっかりと育まれ、それぞれ立派な若木となって、ほら、この式場にも沢山、やってきている。

忘れられない写真が一枚ある。
学年の卒業旅行の下田の海岸で撮った一枚だ。
君の少年のような笑顔が、他の先生たちに魔法をかけた。みんな少年少女のように微笑んでいるではないか。
あの世ではきっと三十年四十年はあっという間だろう。僕たちみんながあの世へ行ったら、学年旅行のやり直しをしようよ。おいさらばえた僕たちに対して、君だけが若いままなのはちょっと癪だが。それまで、待っていておくれよ。

永野さん。
僕たちが意に反したことをしてしまった時、どうか、あの少年の笑顔で僕らの心に戻ってきてくれたまえ。そうしてあのさわやかできっぱりとした「なんてことするんだよ!」と言う決り文句で叱ってくれたまえ。
君が安心して眠りにつくほど僕らは、この世界は、出来上がってはいないのだ。まだまだ、君の仕事はあるということだ。

だから、永野さん、僕は君に「さよなら」は言わない。
大切な、忘れ得ぬ沢山の思い出を、永野さん、ありがとう!

二〇〇五年四月二〇日通夜にて

 

***

一つの序詩    会田綱雄

雪ふり

雪つもり

わたくしはわたくしの

あなたはあなたの

火を掻き立て

わたくしはわたくしの

そして

あなたはあなたの

無を見すえる

       うずくものは

       わたくしたちがそれを生きてきた

                夢であり

       わたくしたちをささえるものは

       生傷である

 

雪降り

雪つもり

足跡はきえない

(現代詩文庫「会田綱雄詩集」思潮社刊より引用)

2005/07/16

友の追悼式の日に

     村上昭夫

雲が泣いているのを見たことがある

空はこんなにも青いし

野山はこんなにも明るいのに

この何処からともなく吐き出される暗さは

一体なんだろう

雲はそう言いながら

ぼうぼうと風に送られて

飛んで行ったのだ

   

私は実際恥ずかしかった

吐き出される暗さは

たしかに私のものであったかも知れないし

雲はそれを知っていたと思うのだから

(村上昭夫詩集「動物哀歌」思潮社刊より引用)

真っ青な空と真っ白な入道雲が、出かけようとした僕の書斎から見える。

2005/07/15

墓碑銘

昨日の文章、さりながら、達意はいつも陳腐なり。

今日、遂に13回めの「こゝろ」全文授業に突入、完全にスイッチが入ってしまった。

僕にとって宿命的な芸術家の墓碑銘。

Duchamp,Marcel

"D'ailleurs,c'est toujours les autres qui meurent."
「さりながら、死ぬのはいつも他人なり。」

Celine,Louis-Ferdinand

"non"
「否」

2005/07/14

人生という病

HPを開設して以来、僕が心許せる数少ない人々にのみ、それを知らせた。

見た感想をメールで寄せてくれたが、その半数は「漢字が多過ぎる」「ルビを振ってくれ」「難し過ぎて」という評であった。ものによっては、衒学的で「為にする」難解文、曖昧朦朧に終始しているように見える向きもあろう(後者は確信犯である部分が多い)。しかし、HPビルダーもなしに、安直なプロバイダ設定の簡単設定で作っている関係上、テクストの単純貼り付けでは、ルビは括弧書きで後ろにつくことになり、誠に醜い。そもそも、僕は鏡花のような総ルビ主義ではなく、「こゝろ佚文」等は、読む方に読みを想像してもらって遊んでもらいたい思いもある。

しかし、総体に於いて、言志の達意を旨とする僕としては、内心、忸怩たる部分があることは事実だ。反省する(僕はしかし、こうと想った思い込みは、しかし決して変えない。それを困った人と言いつつ、受け入れてくれた奇特な方もいたことを申し添えておく)。さても、救いは、HPに辟易した人も、このBlogは評価してくれることだ。特に、「僕が教師をやめたい理由」の内容は、本当に親しい教え子にも、誰にも話したことはなかったから。

そうして、そんな感想と共に、僕はその心許せる、きっと僕より幸福であると、傲慢迂闊にも思っていたその人々の多くが、何かをそれぞれに「病んでいる」という事実も知った。

ある者は、実際の肉体や心の病いを。またある者は、金、そして仕事、夫婦や職場といった互いの人間関係に。

僕は卒然、僕のこの、確信犯として「死」によって額縁したHPやBlogの、他者への覚悟と厳粛さについて、撃たれたように感じた。Kに指弾された先生のように、驚かされ、恐れさせられたと言ってよい。

僕には、その僕に大切な人々に、誰一人にも、何一つ、返す言葉がない。

それでも、今朝、持つ傘を敢えてささず、霧雨にうたれながら、いたち川を大船から本郷台へと歩く道すがら、こんなことを思った。

人生とは「病い」と心得よ。

さすれば、君が苦悩し、病んでいると思っている拘りや病いは、鮮やかに反転する。

それは、病苦どころか、君を当り前の、「ある」君に戻すための黙示なのだ。

ザインとゾルレン。僕はこれに断固反論する。言い口は、ここに前に書いたことと何も変わりはしないのだが。

硬直し、去勢、強制された、道徳染みた説教の、手垢に汚れ、腐臭にまみれた、「あるべき」ことよりも、素直で無垢な自己表現としての君の「ある」ことを受け入れ、それにくるみこまれて立ちつくせ。その時、僕等は、僕等自身を見据えられるのだ。そこで「べき」という、けちくさい当然や義務、適当の助動詞から解き放たれるべきなのだ。

そこから、また踏み出そう。

踏み出す先が、崖であっても、いい。滑落して死ぬとは限らぬ。僕は、若い時、山をやっていたが、自他共に無数の滑落を経験したが、誰も死んだ奴はいなかった。否。気がついたら、泥だらけのあなたの眼前に可憐なスミレが咲いていたり、もしかしたら誰かに抱きとめられることだってあるかも知れない。僕の人生には、そんなこともあったよ。

そこにこそ、如何なる神や権威をも必要としない、己が救済は訪れるのではないか?

さあ! みんな、元気出して、歩こ! またね!

2005/07/11

御酒(うさき)

明治時代の泡盛製造の酵母の唯一の生き残りから出来た、瑞泉酒造の幻の泡盛の名。昨日の朝日新聞日曜版で特集を組まれていたのをご覧になった方もあろう。

先に語った亡くなった友人に、最後に贈ったのもこの酒だったのだ。配送したことを、沖縄の子供たちが笑顔を浮かべて、海辺に立っている、モノクロの絵葉書で伝えた。その返事、

「心して、いただきます」

これが、僕への、彼の、本当に、最後の言葉になってしまったのだ。

その絵葉書が、彼の死後、彼の机の上にあった。細かな経緯は省く。そうしてそれが、僕にとっては分不相応の、彼の弔辞を読むということへと導いた。

今日、僕は、この酒を置いている、行きつけの酒屋に出向いた。何故だか、どうにもこの「御酒」を、あるだけ全部、買い占めずにはおれなかったのだ。

夕暮れ、何本もの「御酒」を抱えて、家への坂道を登ろうとした、その時、向かいの山で、蜩が、いい声(ね)を立てて、一声、高く鳴いた。

2005/07/10

忘れ得ぬ人々 1

不思議にその想い出はモノクロームだ。

僕は、はしかからやっと本復したばかりの痩せた体で、父や親戚の者達からはぐれて、海水浴客の間をおどおどとうろついていた。

突然、目の前に水着を着けた、よく焼けた活発そうな少女が立っていた。同年か一つ上か。彼女は鮮やかにきっぱりと「一緒に泳がない?」と僕に声をかけた。まだあの頃、純情で引っ込み思案だった僕にとって、この見知らぬ少女の誘いは言葉通り、7年の人生で初めての青天の霹靂だった(記憶がモノクロなのはその閃光のせいなのか)。

僕は手を捕られて、ずんずん海へ入った。泳ぎの苦手な僕は、時々不思議な微笑で振り返る少女に導かれるように、沖へと向かう。足が立たないところで、全く恐怖を感じずにいられたのは、生涯の中で、実はあの瞬間だけだったように思われる。

僕は攣りそうになる手足を必死に動かして、無様な犬掻きを繰り返して、かろうじて浮いていた。うねる波間に、彼女の笑顔が見えては隠れる。それは、今も鮮やかな映像。

遂にたっぷりと海水を飲み込んで咽せかえった時には、少女は僕の手を捕って、既に海岸へと向かって泳いでいた。ものの数メートルも泳ぐと、足は着いたのだった。上がった浜で、僕は自分の情けなさに、ただでさえ病み上がりの青白い顔を、一層青白くして突っ立ていたに違いない。

少女は「またね!」というと、人ごみの中へ、鮮やかに消えてゆく。一度だけ振り返った。その手を振る微笑、紺色のあの頃の安っぽい水着、濡れて額にはりついた黒髪、肌の小麦色、肩の種痘の痕……スローからストップモーション、そうしてホワイトフェードアウト……

小学校2年生、夏の日差しのハレーション。鎌倉、材木座海岸。1964年の7月。41年前の記憶。

後年、「こゝろ」の上三を読んだ折、僕は強烈なフラッシュバックを起こした。

二丁程沖へ出ると、先生は後を振り返つて私に話し掛けた。廣い蒼い海の表面に浮いてゐるものは、其近所に私等二人より外になかつた。さうして強い太陽の光が、眼の屆く限り水と山とを照らしてゐた。私は自由と歡喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂つた。先生は又ぱたりと手足の運動を已めて仰向になつた儘浪の上に寐た。私も其眞似をした。青空の色がぎら/\と眼を射るやうに痛烈な色を私の顏に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな聲を出した。しばらくして海の中で起き上がる樣に姿勢を改めた先生は、「もう歸りませんか」と云つて私を促がした。比較的強い體質を有つた私は、もつと海の中で遊んでゐたかつた。然し先生から誘はれた時、私はすぐ「えゝ歸りませう」と快よく答へた。さうして二人で又元の路を濱邊へ引き返した。(夏目漱石「こゝろ」)

僕には、学生と先生を包み込む、この緩やかな海の「うねり」が確かに、見えるのだ。この海岸が、同じ鎌倉の材木座海岸であるという単純な事実からだけでは、なく。

カタストロフは、しかし、まだ待っていた。漫画家つげ義春の「海辺の叙景」だ。これは、語ってはなるまい。未見の方は、是非、ご覧あれ。僕の魂の致命傷が、如何に深いか、お分かりになるはずである。トラウマとしての妖精、無原罪のファム・ファータル、僕の忘れ得ぬ人々の一人。

→僕は著作権を犯してもその最終コマをここに示したい欲求を押え難いが、次のサイト(高田馬場つげ義春研究会内)の「つげ義春ラストシーン考2 第2回 生理的感覚としての音」で、小さいが、当該作品の最終コマを見るに留めよう。【2017年7月15日削除・追加:この時にリンクした記事が消失しているので、新たに『清水正氏のつげ義春評論―(2)「海辺の叙景」』をリンクさせることとした。最初に示されるのが見開きの最終コマである。】

2005/07/09

僕が教師を辞めたい理由

『トトトト』

僕の父は少年航空兵で特攻志願の熱烈な愛国少年だった。絵描き志望であったので、当時のスケッチブックには、美事な筆致で陸海空の戦闘場面が描かれている。しかし、幸か不幸か敗戦で生き残った。彼は裏切られたと感じた。彼は180度転回する。共産党に入り、中央合唱団に所属、就職した会社ではその日に組合活動を始めて3日で首といったことを繰り返した。後に、党の硬直性と欺瞞に失望して脱党するが、今も一緒に酒を飲むと青年のように議論をふっかけてくるごりごりするような骨のある男だ(但し、思想的にはという条件付きで。よき生活者ではない)。

彼の僚友は遠く南海の底に藻屑となり、父は生き残ってしまった。彼が日の丸の下、天皇の赤子として特攻で死んでいれば、僕は生まれていない。それは、彼の僚友の死、父の生、僕の存在との互換を意味する。

あの日の丸の下で、ある選択肢では、僕は非在であったのだ。更に特攻を犬死と言う時、父は同時に無化され、僕は存在しない。逆にそれを賛美した時、父は卑劣漢であり、同様に僕は僕であることを辞める。特攻で死んでいった青年は、確かに「そこに」生きたのであり、死にそこなった父は「それを」引き受けて生きたのであり、而して僕は、僕の卑小な意識とは無関係に、「それらを」総体として生きているということだ。それは義務や罪障とは無縁な連環である。そのような想いの中にあって、僕は羊のように従順に日の丸には起立できぬ。

僕が教師になった時、父は僕に、日の丸に最敬礼するようなことだけはするなと言った。僕は当たり前に、そんなことはするはずがないと軽く言い放った。

僕はいつも生徒達に、僕が何故日の丸に起立しないかを以上をもって語る。その上で、君達は君達の信条において、起立するしないを選べる自由を持っていると言ってきた。

しかし今、不起立はおろか、そうした発言さえも許されない状況になっているということをご存知だろうか。今の私の職場では、式の後に、起立不起立のアンケートをとる。これはおぞましい脅迫以外の何物でもない。

僕は硬直した教条主義者ではない。自衛隊は9条違反であることは論理的に完全な真である。しかし、ゴジラが襲ってきたら、自衛隊は必要だ(これは半ばは冗談ではない。ゴジラという隠喩としての天災、異邦人、異なる信仰思想を持つ人々、さらには我々自身の内なる狂気は、善玉のゴジラのように安穏とした平和主義者を踏み潰さずにいてくれるわけではない。興味のある方は僕のHPの「メタファーとしてのゴジラ」をどうぞ)。憲法は今のままでよいと僕は思うが、現憲法が日本人の手によって作成されたものではない以上、未だかつてなされたことがない国民投票の審判を受ける必要はある。更に言えば、愛国心、この言葉を素直なものとして用いられないのは如何にも残念だとも思う。それが我々一人一人の埋められぬ断絶を象徴している。

しかし、それを一律に教育の場で強制した時、それはもはや教育ではなく狂育であることは言を待たない。

『トトトト』

ワレ突撃ス、という意味で、特攻隊から発信されるのである。ト連送が終わった時が、一つの生命が失われた時なのだ。(梅崎春生「幻化」)

偉そうなことを牛のよだれのように書き綴ってしまった。僕が教師を辞めたい理由は、実は、しかし外にある。

それはただ、僕という存在が、失敗だったから。その一語に尽きる。しかし、迷っている。僕には、国語を教える以外に何の手技もないから。それ以外に、なんらの楽しみを感じないから。

2005/07/08

蜩の声を聞く

昨日の僕は今日の僕ではない。今朝、昨日餓えていた蜩の音を確かに聞いた。僕は思わず立ち止まり、耳に手をやり、幻覚ではないかと思ったものだ。お婆さんが、僕を不思議そうに見て足早に過ぎてゆく。エリアーデは奇跡は俗の中にあり、それを奇跡と知る者にのみ、奇跡は現れると語った。僕にとって、今日の蜩の音(ね)は補陀落からの妙なる楽であり、まさしく奇跡であった。

語るべきことは多けれど溺酔の我を許されよ。

「桜島」から「幻化」へ

 

「桜島」は作家梅崎春生の実質的作家デビュー作であり、「幻化」はその遺作である。その主人公は一致しているわけではないが、作品として通底した円環の閉じ方は現代作家の中でも希有のものだと私は思っている。

終戦間近の桜島で、滅びの美学を説く男は虫けらのように機銃掃射で死んで行き、つくつく法師の鳴く中、その遺体は主人公の私に抱かれる。それはまさにおぞましき死、というよりも、死そのもの現存在として僕らを撃つ。

その「私」は生き残り、戦後の世界を飽くまで純粋に「戦後」として生きた(であろう)。その帰結として彼の心は当然、病む(はずだ)。それは江藤淳の言を待たずとも分かり切ったことだ。戦前戦中を生きた魂にとって、戦後の繁栄は虚構としての演じられた「戦後」ならざる単純時系列としての「戦後」であったのだ。

「幻化」の主人公はたるんだ日常を切り捨て、彼の青春の、いや真の魂の墓標の地である鹿児島坊津を訪れる。そこではさまざまなフラッシュバックが彼を待つ。自棄的な戦友の死、すさんだ特攻兵(後日注記:僕の記憶違い。「桜島」の一シーン。blogの「手術記2」参照)、ダチュラの花の妖しさ、そしてその妖精たる妖しい女。エンディング、彼は奇妙な青年と賭けをする。青年は阿蘇の噴火口の回りを回って、生きて帰れるかどうかを彼と賭ける。その彼に、主人公は、心中、叫ぶ。

「しっかり歩け。元気出して歩け!」

私は、このラストシーンに涙せずにはいられない。主人公は、死をゲームとする青年(後日注記:この男は34歳、主人公、45歳の五郎と出会う一箇月前に妻子を交通事故で亡くしており、五郎と同じくアルコール依存症である)を叱咤激励しているのでは断じて、ない。私達は、自己の絶対的な孤独者としての「死にざま」というものに、孤独者たる自身へエールを贈るほかはないのである。彼は彼に、不可分なものとしての生への/死への己が自身へのエールを贈るのだ。

目の前に全集もある。それなりにもっと厳密に書きたい思いはある。が、あくまで曖昧な記憶に基づいて荒く書きなぐったのは、「死」が遂に絶対の孤独の中にあり、他者どころか孤独者として当事者にさえ、その死の理由はおろか、付随する意味も後に付加されるであろう粉飾された疑似的価値も実は全く理解されることはないという当然のことを確認したかったのだ。

「死」が体験出来ず、理由も意味も価値も不明であるという事実は、正しく「名指すことは出来ても、示すことはできない」ことにほかならぬ。故にこそ、僕らは「沈黙せねばならない」のだ。この「沈黙」は半端ではできぬ。哀悼も無視も号泣も哄笑も賛辞も軽蔑も捨て去り、僕らは真に「死」と向き合えるのだ。そうしてその死を無条件に「抱く」以外には、ない。否、その他者の死につながる己が死をも見据えて、ただ「無」に「くるみこまれて立ちすくむ」のだ。僕らが僕らにつながる「死」に対して知り得ることとは、みじめな自らの「死」に対してエールを贈れるのは己のみであるという、突き付けられた事実を認識すること以外にはないのではないかということである。それが、他者の死を己に受け入れることの唯一の意味であると、僕は思う。

今年は、蜩の声を未だ聴かぬ(もうあなたは聴いたか?)。僕は所詮(他者から見て)みじめなる死を迎えたと思われるのなら、つくつく法師ではなく、蜩の、あの蝉しぐれの中で死にたいと昔から思ってきた、我が儘なことに。こんな青臭いサンチマンタリスムの述懐をなす僕は、実は「死を厳粛に受け止めていない」のかも知れぬ。未だに僕は「こゝろ」の万年学生なのかも知れぬ。

2005/07/05

ナナの死

先夏、糖尿病の宣告を受け、十箇月が過ぎた。運動療法とカロリー制限のみで8キロ減量、一カ月後に、あらゆる数値は標準値以内かそれ以下なった。現在も、その状態を維持している。体も軽くなり、腹部の形状も自分の体とは思えないほどに変化した。病んで健康となる皮肉だが、しかし、毒気に満ちた魂だけは病んだままだ。
毎日の職場への行き帰り、ひたすら12キロ程歩く。時々、職場までの20数キロもやっつける。
この病、ある意味、孤独な病である。人様からは贅沢病と言われ、同情のかけらもない。永遠の自己管理、いつかやってくるであろう悪化、そして性的不能や、失明、下肢壊疽の致命的合併症への不安。鬱病になって自殺する者も多い。

さて、毎日のウォーキングだが、川沿いや緑地、忘れられた小路を遠回りして歩数を稼ぐのだが、そこではちっぽけな楽しみもある。
先般は、三十数年前の小学生の頃の至福の一瞬を覚えた山の中の空き地を訪ね当てた。
空気や湿り気や草花や緑に四季の移ろいが感じられ、毎朝、顔を合わす商店街の小母さん達とも仲良くなった。
そして、自宅近くのはなむけは、いつもナナだった。柴犬の雑種のメスだ。
僕の足音を覚えていて、必ず覗くように、僕を待っていた。僕も三度に一度は、寄り道してなぜてやった。
十日程前に、嘔吐の跡を小屋の前に見た。その日から、彼女は小屋の中から、僕を見送るようになった。
先週の金曜、主のいない鎖が空しく打ち捨てられ、犬小屋は空虚だった。

死を送ることは、常に「生き残った者としての自分自身」を指弾することにほかならぬ。
しかし、その悲痛や後悔は、結局、芥川龍之介が「枯野抄」で描いたように、故人を失った自分自身を悼んでいるに過ぎぬのも事実である。私は、追憶や哀悼や懐古という感情にまつわる、どうしようもない人間の持つ軽薄さを感じずにはいられない。
4月に尊敬する同僚をマラリアで亡くした。
僕は、その死にまつわる時間の中で、思うところがあり、自己の死後、解剖実習への献体をする手続きを5月にとった。自分の死後の人々から、葬儀の悼みや墓標の追憶という思いを(勿論、僕の場合、それは限られた少数の人々であるということは言わずもがなだ)断ち切れればそれにこしたことはないと思う。というよりも、この僕という、みじめな自己存在のレゾン・デトールを残すのはおぞましいの一言に尽きるのだ(勿論、このブログもサイト 

http://yab.o.oo7.jp/index.htm
 
【2016年5月8日URL変更のため修正】

もそのようなものとして機能するではないかというそしりを免れない。従って、今考えている僕のある個人的な目論みが、ある程度達成されれば、究極において、これらはすべて不要であり、消去される)。

ウィトゲンシュタインは、神は名指すことはできるが、示すことはできないということを、そして「語ることができないことに対して、我々は沈黙せねばならない」ということを、「論理哲学論考」で述べている。
この「神」は、実はすべての我々の真実の感懐と称すべきものと、等価であり、交換可能な言辞である。「神」は、「愛」であり、「恋」であり、「生」であり、そうして同時に、「死」である(と私は思う。彼は論考の中では「生」と「死」の断絶を語り、「我々は死を体験しない」と言う。これについて、後者は正しい。しかし、前者は微妙に留保したい)。
客体たる表現者(即ち純粋中立な記述者であり、思考の主体である)のみに「示すこと」の真の行為が可能である以上、実は我々は、何らの既存の言う「哲学」も持ち得ていないと言えるのではないか。何故なら、私たちは他者の個別的信仰や恋愛感情、そうして生死の意味を何らの個人的感懐なしに、客観的に記述することは不可能であるからだ。それが、そうでありながらも、普遍的意味において、人類の「人生」と称する「現象」を間違いなく「創造する」にも拘わらず。
W.シュルツは彼の哲学を、いみじくも哲学の否定(これは実に不遜な表明と思われる。哲学をイデー絶対主義として規定する彼には、禅の思想さえもとるに足らぬと映るのだろう)と断じたが、言語という不完全な道具を用いた形而上学そのものが、既にその出発点において誤っていることは、古来の哲人の誰もが分かっていたことではないのか。だからこそ、世界をすべて捉えようとした(これももちろん不遜ではある)「論理哲学論考」の使用語数や、真に幻想を現出させようとした小説家カフカの語彙数は極度に禁欲的なのだ(勿論、この僕の記述そのものがそのようなものとして無化されることは論を待たない)。

僕はここで、日々の私の「みじめな生き物」としてのくだらない瞑想、基、「迷走」をモノローグしたいと想う(従って、コメントもトラックバックも受けず付けない設定にしてある)。万一、読まれる方はそのような独白として承知頂き、通り過ぎて、ちょっと立ち止まって、見つめてくれるのであれば、恩幸これに過ぎたるはない。

トップページ | 2005年8月 »