ナナの死
先夏、糖尿病の宣告を受け、十箇月が過ぎた。運動療法とカロリー制限のみで8キロ減量、一カ月後に、あらゆる数値は標準値以内かそれ以下なった。現在も、その状態を維持している。体も軽くなり、腹部の形状も自分の体とは思えないほどに変化した。病んで健康となる皮肉だが、しかし、毒気に満ちた魂だけは病んだままだ。
毎日の職場への行き帰り、ひたすら12キロ程歩く。時々、職場までの20数キロもやっつける。
この病、ある意味、孤独な病である。人様からは贅沢病と言われ、同情のかけらもない。永遠の自己管理、いつかやってくるであろう悪化、そして性的不能や、失明、下肢壊疽の致命的合併症への不安。鬱病になって自殺する者も多い。
さて、毎日のウォーキングだが、川沿いや緑地、忘れられた小路を遠回りして歩数を稼ぐのだが、そこではちっぽけな楽しみもある。
先般は、三十数年前の小学生の頃の至福の一瞬を覚えた山の中の空き地を訪ね当てた。
空気や湿り気や草花や緑に四季の移ろいが感じられ、毎朝、顔を合わす商店街の小母さん達とも仲良くなった。
そして、自宅近くのはなむけは、いつもナナだった。柴犬の雑種のメスだ。
僕の足音を覚えていて、必ず覗くように、僕を待っていた。僕も三度に一度は、寄り道してなぜてやった。
十日程前に、嘔吐の跡を小屋の前に見た。その日から、彼女は小屋の中から、僕を見送るようになった。
先週の金曜、主のいない鎖が空しく打ち捨てられ、犬小屋は空虚だった。
死を送ることは、常に「生き残った者としての自分自身」を指弾することにほかならぬ。
しかし、その悲痛や後悔は、結局、芥川龍之介が「枯野抄」で描いたように、故人を失った自分自身を悼んでいるに過ぎぬのも事実である。私は、追憶や哀悼や懐古という感情にまつわる、どうしようもない人間の持つ軽薄さを感じずにはいられない。
4月に尊敬する同僚をマラリアで亡くした。
僕は、その死にまつわる時間の中で、思うところがあり、自己の死後、解剖実習への献体をする手続きを5月にとった。自分の死後の人々から、葬儀の悼みや墓標の追憶という思いを(勿論、僕の場合、それは限られた少数の人々であるということは言わずもがなだ)断ち切れればそれにこしたことはないと思う。というよりも、この僕という、みじめな自己存在のレゾン・デトールを残すのはおぞましいの一言に尽きるのだ(勿論、このブログもサイト
http://yab.o.oo7.jp/index.htm
【2016年5月8日URL変更のため修正】
もそのようなものとして機能するではないかというそしりを免れない。従って、今考えている僕のある個人的な目論みが、ある程度達成されれば、究極において、これらはすべて不要であり、消去される)。
ウィトゲンシュタインは、神は名指すことはできるが、示すことはできないということを、そして「語ることができないことに対して、我々は沈黙せねばならない」ということを、「論理哲学論考」で述べている。
この「神」は、実はすべての我々の真実の感懐と称すべきものと、等価であり、交換可能な言辞である。「神」は、「愛」であり、「恋」であり、「生」であり、そうして同時に、「死」である(と私は思う。彼は論考の中では「生」と「死」の断絶を語り、「我々は死を体験しない」と言う。これについて、後者は正しい。しかし、前者は微妙に留保したい)。
客体たる表現者(即ち純粋中立な記述者であり、思考の主体である)のみに「示すこと」の真の行為が可能である以上、実は我々は、何らの既存の言う「哲学」も持ち得ていないと言えるのではないか。何故なら、私たちは他者の個別的信仰や恋愛感情、そうして生死の意味を何らの個人的感懐なしに、客観的に記述することは不可能であるからだ。それが、そうでありながらも、普遍的意味において、人類の「人生」と称する「現象」を間違いなく「創造する」にも拘わらず。
W.シュルツは彼の哲学を、いみじくも哲学の否定(これは実に不遜な表明と思われる。哲学をイデー絶対主義として規定する彼には、禅の思想さえもとるに足らぬと映るのだろう)と断じたが、言語という不完全な道具を用いた形而上学そのものが、既にその出発点において誤っていることは、古来の哲人の誰もが分かっていたことではないのか。だからこそ、世界をすべて捉えようとした(これももちろん不遜ではある)「論理哲学論考」の使用語数や、真に幻想を現出させようとした小説家カフカの語彙数は極度に禁欲的なのだ(勿論、この僕の記述そのものがそのようなものとして無化されることは論を待たない)。
僕はここで、日々の私の「みじめな生き物」としてのくだらない瞑想、基、「迷走」をモノローグしたいと想う(従って、コメントもトラックバックも受けず付けない設定にしてある)。万一、読まれる方はそのような独白として承知頂き、通り過ぎて、ちょっと立ち止まって、見つめてくれるのであれば、恩幸これに過ぎたるはない。
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