尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)
「やぶちゃんの電子テクスト集」に自由律の「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版)」をアップ。かつて私が自分の研究用に打ち込んだもので、新発見の句稿も含めているが、なかなか出なかった筑摩版の全集以前に作ったものなので、今では、全句とは言えないが、総覧するには十分であろうと思う。ページの4/5を占領してしまった。使う人はコピーしてカスタマイズして下さい。
僕は富山は伏木中学校2年の折、国語の小島心水先生から授業中に尾崎放哉を教わった。翌日、先生から新潮社版日本詩人全集を借り、翌年には弥生書房版の一巻全集を買った(これは僕の買った初めての個人全集だった)。高校1年で、彼の所属していた俳誌「層雲」に加わった。大学の卒業論文は、1年の時に「尾崎放哉論」と決め、その夏、終焉の小豆島の南郷庵を訪れ、墓も洗った。卒論では、病跡論の一部で、句に現れた各色の頻度を算出、ロールシャッハ・テストの色彩反応理論を応用、また作品の象徴関係を精神分析学的に分析したこことが特異と言えば特異。
それにしても、酒の上での失敗の連続と宿阿の結核、そして緩慢なる自死とも言うべき自棄的生。それらは、どこかで僕の宿命(僕は1歳半から5歳迄、左肩関節結核性カリエスを患った)とつながっているやに感ずることが、今もある。
灯をともし來る女の瞳
一日物云はず蝶の影さす
わかれを云ひて幌おろす白いゆびさき
夕べひよいと出た一本足の雀よ
漬物桶に鹽ふれと母は産んだか
底が抜けた柄杓で水を呑もうとした
とかげの美しい色がある廃庭
すばらしい乳房だ蚊が居る
足のうら洗へば白くなる
とんぼが淋しい机にとまりに來てくれた
なん本もマツチの棒を消し海風に話す
壁の新聞の女はいつも泣いて居る
山は海の夕陽をうけてかくすところ無し
蜥蜴の切れた尾がはねてゐる太陽
障子あけて置く海も暮れきる
爪切つたゆびが十本ある
入れものが無い兩手で受ける
咳をしても一人
戀心四十にして穂芒
あすは元日が來る仏とわたくし
渚白い足出し
春の山のうしろから烟が出だした
中学1年の時に「生きることは差し引きゼロで、そのプロセスをのみ楽しむものである」という趣旨の僕の駄文が残っている。後に読んだ、放哉の大学時代の「俺の記」(漱石の「我輩は猫である」のパロディで寮のランタンの一人称小説)の中で「差引勘定零」「人生の楽しむ可き処は、そのプロセスに有る」という部分で、思わずどきりとしたものだった。
ちなみに彼は従姉妹で、澤芳江という女性を愛した。近親婚ということで反対され、一夜、江ノ島で語り合った後、永遠に別れた「白きゆびさき」の人物である。その直後、放哉は彼女に薔薇の絵葉書を送っている。そこに記された言葉は、
「諾、我過てり」
であった。
→お願い:どうか、次のページの東大時代の放哉と沢芳衛の肖像をご自分のフォルダに保存し、この僕のページと一緒に保存してあげて欲しい。僕は、この二人の写真を、どうしても並べてやりたかった。
「尾崎放哉記念館」
http://www2.netwave.or.jp/~hosai/
の常設展示品ページ
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