自死についての一考察
道徳的に自死を禁じたり、拒絶することは、不可能である。
個としての生の実体が人類の中で認知された遥かずっと後になって、文化としての自死の禁忌は作られた。
いや、自己犠牲の名の下に、都合のいい例外を無数に我々は、近代社会にあっても認めてきた。
小説や映画の自死は、あろうことか、長く人々の感動を捉え続けていさえする。
しかし、それらは、美しくもない代わりに、惨めでもない。
自死する者は、決して他者にとっての自死を考えてはいけない。それは、幻想だ。ある人の欠けた世界など、存在しない。ある人は他者にとって欠ける存在ではない。自死を望む者は、絶対的な孤独の中で死を選び取る覚悟がなければならぬ。他者や文化的標準を照準とした正義や贖罪もそこでは無化されてしまう。そうして、鮮やかに、残る者たちに謎、遺恨も思い出も残すことなく、自然に消え去る。而して、そのような自死は、ほとんど、あり得ない。
僕は従って、自死を否定も肯定もしないのだが、翻って、僕は自死を望む何人かに、僕のみじめな意識を総動員して語り掛けて、止めようとしてきたことも事実である。
しかし、それはとりもなおさず、それが、逆に僕自身の自死願望への歯止めともなっていたからである。
練炭で見も知らぬ者同士が、自死し合い、窒息フェチに嘱託するぐらいなら、何もかも捨て去って、野垂れ死にの旅に出でよ。野垂れ死ねれば本望であろう、さても、旅の途中で、死にたくなくなることもあろう。
ゲットー体験者、ツェランは言う、
***
あらかじめはたらきかけることをやめよ wik nicht voraus
Paul Celan(飯吉光夫訳)
あらかじめはたらきかけることをやめよ、
さきぶれをおくることをやめよ、
そのなかにただくるみこまれて
立っていよ――
無にねこそぎにされて、
すべての
祈りからもときはなたれて、
さきだって書かれてゆく定めの文字のままに
しなやかに、
追い越すこともかなわぬまま、
ぼくはきみを抱きとめる、
すべての
安息のかわりに。
(「パウル・ツェラン詩集」思潮社刊より)
***
(以下原詩。詩集"Lichtzwang" 1970より引用)
WIRK NICHT VORAUS,
sende nicht aus,
steh
herein:
durchgründet vom Nichts,
ledig allen
Gebets,
feinfügig, nach
der Vor-Schrift,
unüberholbar,
nehm ich dich auf,
statt aller
Ruhe.
→Paul Celan の肖像を見、朗読すると“trinken”の響きが、読む者を突き刺す彼の代表作“Todesfuge”原文(英訳付)を読む。
“ Paul Celan 1920-1970 ”
http://www.nizza-thobi.com/paul_celan.htm
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