葦間のニンフ ペーター・フーヘル
高校生の頃、似非文学少年気取りの僕は(今も全く変わらないな)、図書室の詩歌集を貪るように読み、読んでは己が琴線に触れるものを小さなノートに書き写して、それを一人朗読しては悦に入っていた気障な男だった(これもやはり今も全く変わらない)。
そんな中で、永く忘れていたのが、 ペーター・フーヘルの「葦間のニンフ」であった。
『(Peter Huchel 1903-1981)は、ドイツ北東部のブランデンブルク地方の自然と農村生活を原風景として詩を書きました。一方、フーヘルは、ドイツ帝国、ヴァイマル共和国、ナチスムスと第2次世界大戦、東ドイツの社会主義体制とその下での軟禁生活、西ドイツへの亡命などを体験しました。』(webの東北大学大学院講座案内の「言語芸術形象論」より引用 http://www.intcul.tohoku.ac.jp/culturaluselang/figure.htm)
検索をかける内に、フーヘルの詩をblogに紹介されている方を知り、遂に昨日、御迷惑も顧みる余裕も無く、「葦間のニンフ」のリクエストのメールを出してしまった。
今朝、その方からメールを頂き、ニンフに再会した。
それは丁度、
「……さう言ひかけながら、僕はそのときふいに、ひどく疲れて何もかもが妙にぼうとしてゐる心のうちに、けふの晝つかた、淨瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあつて見ていた自分たちの旅すがたを、何だかそれがずつと昔の日の自分たちのことででもあるかのやうな、妙ななつかしさでもつて、鮮やかに蘇らせ出してゐた。」
と「瑠璃寺の春」の終曲で堀辰雄が描いたような、「妙ななつかしさ」を僕にもたらした。
千年の孤独を隔てて永遠の恋人の遺骨に口寄せたような……
絵と音楽と詩に満たされたその方に、僕の満腔の喜びと敬意を込めて。
HP「ナチュラル、アート」
http://homepage2.nifty.com/kogaihirokazu/
*
葦間のニンフ ペーター・フーヘル
葦間のニンフ
みずは涸れ
沼のかえるの腹も
ひからびる
影くずれ
石にトカゲ
燃える
かげろう
しずかな藪
ものがなしい
とんぼのうた
うたをやめ
きこえるのは ただ
するどい
いやな音
陽がかたむく
荒野をわたる
風だけが
しのび笑う
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