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2005/09/30

海洋生物分類表(やぶちゃん版)

大したことのないジャズ・コレクション( Powell と Dolphy は別として)のリストはどうも尻がむずむずしていやだ。そんなら、いっそのこと、こっちの方がいいやと、思うものを、up した。趣味の海岸動物の自学用に僕がオリジナルで作った海洋生物分類表(やぶちゃん版)だ。数種の分類学説を組み合わせて構成した部分もある。注意すべき種、海洋生物ではないが、記憶しておきたい種は、種和名やメモを記載してある。この腕を折った臨海学習の記念としよう。

では、随分、ごきげんよう。

「鬼火」のこと

以前にも書いたが、この名は、ドリュ・ラ・ロシェル/ルイ・マルの“LE FEU FOLLET”と、李賀の「南山田中行」のイメージから付けた。原作も映画も、何度見、読み返したか分からぬ。そうして、そろそろ、“LE FEU FOLLET”論を書かねばならぬと思っている。と言うより、20歳の時に見て、今の僕にしてやっと、 Alain Leroy について書けるという実感が湧いてきた。これは、きっと、他者から見れば、不幸なことなのかも知れぬ。しかし、それは梶井風に言うならば「今こそ俺は、あの櫻の樹の下で酒宴をひらいてゐる亡霊のアランと同じ權利で、花見の酒が呑めさうな氣がする」のだ。

今日は、生徒は秋期休業、途方に暮れていた仕事もこなせたから、僕も休んだ。これから、伊豆に湯治に行く。

Jazz Record List

「心朽窩」に「Yabtyan's Jazz Record List(1970-2000) omit Bud Powell & Eric Dolphy」をアップ。

ご苦労様マニアックで、余り公開したくなかったが、友人と約束をしてしまった。僕のジャズ・レコードのリストである。その昔、ひと夏かけて、旧ワープロで手打ちしたもので、自分で曲を検索するために作ったのだが、ほとんど使ったためしはない。一枚でもメイン・アルバムを持つアーティストは、見出しにし、デイスクナンバーも入れてある。但し、ぞっこんトチ狂いの Bud Powell と  Eric Dolphy はコレクターの作ったディスコグラフィがあるので(Dolphy のものはWeb上で閲覧できる)、入っていない。ちなみに、二人と競演したアーテイストの該当アルバムについては、右側にそれを注記してある。曲名検索やパーソネル、rec date の確認等には使えるかも。但し、ここのところ更新をしていない。レイアウトの不具合は直してないぞ。それと、一ページに入れたので恐ろしく重いからね。

2005/09/29

伊東靜雄 春のいそぎ 『反響』以後

伊東靜雄の詩集「春のいそぎ」と「『反響』以後」全篇を「心朽窩」に公開した。既にある「伊東靜雄拾遺詩篇」と、以前に紹介したサイトの代表詩集「わがひとに与ふる哀歌」「詩集夏花」 「反響」の三作を合わせて、これでWeb上でとりあえずほぼ全ての伊東靜雄の詩が読めることになる。

若干気になるのは、「青空文庫」のものが、新字体であり、「つれづれの文車」版「反響」が一作品単独ページの作りとされていることである。

後者は女性の手なる、美麗なレイアウトの素晴らしいサイトで、新参者の僕は羨望さえ感じる。が、詩集を通して鑑賞するのには、やや不便ではある。

前者について述べると、電子テクストの開拓者であり、僕も大いに恩恵を蒙っているのだが、しかし、この作品に限らず、「青空文庫」の方針上、入力者が自由に底本を選べるという特色が、テクストの信頼性にやや疑問を生じるのではないかと、僕は常々考えている。

即ち、誰もが気軽に入力できるという、ある側面から見れば、素晴らしい取り決めが、極めて小さいとは言いながら、思わぬ誤読を生み出す可能性を排除できないのではないかという懸念である。付け加えると、古い作品では普通に行われる校合がなされないことも、やや気にはなるのだ。但し、ここの伊東靜雄の両詩集は日本図書センター版が用いられており、それ自体の底本価値が高いことへ疑義を持つものではない。ただ、この本は、ページの最下部にその「凡例」が示されているように、まさに編集者の「判断」により、正字が新字に改変されているし、改変非改変の「判断基準」も『正字(旧字体)を生かしたものある』(注:下線やぶちゃん)と、微妙にブレがあるような記載である。やっぱり気になるのだ。広く公開される以上、まず、その底本とすべきは、やはり、決定版の全集、初版(又はその復刻)であろうし、それだけでは、古い書籍の場合、逆に単純な誤植があるわけで、やはり複数の、(一方はなるべく新しい出版物との)校合が望ましいとも思うのである。

勿論、「青空文庫」には、そのために校正者もおり、誤植や錯文等の表記ミスを連絡するシステムもある(ただ最近休止中であり、また、僕の体験から言うと、ものによっては、訂正までに底本確認や判定の討議で、思いの外、時間がかかり過ぎるのはちょっといただけなかった)ので、大きな誤読に発展することはないとは思う。しかし、最適のテクストとは言えないものが底本とされた場合は、リスクは排除できない。

されどこれは、自分の電子テクストの校正ミスを棚上げにしての意見であり、ちゃんちゃらおかしいと言われれば、尤もである。また定本の厳正という観点からも、「伊東靜雄拾遺詩篇」の「VERKEHRSINSEL 銃」の注記にも書いたが、人文書院版定本全集は、定本と冠するにあるまじき噴飯ものの誤植があって、それらを冠していても、信頼におけるとは言えないことも実感した。

ただそれを措いたとしても、正直言うと、芥川龍之介や伊東靜雄といった、僕の偏愛する作家の文章に対する文字への愛撫感覚は、如何ともし難い拘りがあり、やはり正字体で読みたいのである。これも厳密には、表記できない字が実はゴマンとある訳だが、それでも江戸川乱歩の「虫」は「蟲」でなくてはならないし、「薮」なんて字は漢和辞典に、本当はないんだ(ちなみに、「青空文庫」にはそのような感覚の方が居られ、旧新字体の二つが公開もしくは作業中となっているものもあるのは、大変好ましく思っている)。

さすれば、やはり自分で納得のゆく ものを創るに若くはなく、それが出来ることも、このネット世界の面白さなのであろう。而して、向後、「わがひとに与ふる哀歌」「詩集夏花」 「反響」の三作品も含めた、僕なりの伊東靜雄のWeb全詩集を目指すこととする。

これは、電子テクスト・サイトへの物言いでもなんでもないのであって、実は、何か、そんな目標でも創らないと、「じつと手を見る」ばかりだから、なのである。

2005/09/28

伊東靜雄詩集「春のいそぎ」予告

入力は、もう数篇を残すのみとなった。作業をしながら、この詩集をWeb上で公開することを、躊躇させるものがあるのであろうことが分かったような気がする。戦後、作者が詩集「反響」を編む時、7編の詩や冒頭の自序を削除したと聞くが、それは彼自身の、彼による、彼の詩集への冒涜として、残念だと、僕は思う。明日(明日は代休である)の公開を待たれよ。一読、お分かりになるであろう。しかし、而して、そのような躊躇や削除は、文学の本質とは、遠く隔たったものだということも、お分かり頂けるものと信じる。(2005年9月29日追記:いろいろ調べるうちに、削除が本人によるものという事実を知り、以上の記述の一部を変更したが、ここで述べている僕自身の感懐に影響は、全く、ない)

2005/09/27

ギプス切断

親しくさせていただいている「ナチュラルアート」様が入院された。早くご回復されることを切に願う。兄の帰還を待つ。(10月1日 記載内容変更追記)

ギプスを外した。ミイラみたような腕。と言うより、ギプスの下の部分では、体毛がそのまま擦り切れることなく伸びているのだ。そこだけ黒いのは、垢でも内出血でもなかった。それは先祖返り、まさに「鬼」の腕であった。二月ぶりの風呂。夜に続いて28日の未明にも、性懲りも無く入った。ちょっぴり幸せ。

2005/09/25

ギリヤーク尼ヶ崎

ギリヤーク尼ヶ崎が好きだ。でも、実際に見たのは、29年も前だ。

でもギリヤーク尼ヶ崎のことが書きたい。どうしようと考えあぐんだ末、その29年前、実演を見た大学二年の秋に、日記に書いたのを思い出した。

今、それを引っ張り出して、読んでみた。誠、臭い文章だ。臭過ぎる。今の文章も臭いが、これはまた超弩級に臭い。

でも、ギリヤーク尼ヶ崎が好きだ、書きたいのだ。

恥を忍んで、タイプした。ちなみにT美術館は上野の都立美術館、やっていたのは二紀展。好き好んで行ったわけではない。同会の画家が親族であるから、招待券をもらっただけだ。貧乏学生には文化的な休みのすごし方は、それほどになかった。

旅芸人のスケッチ――29年前:舞踊家ギリヤーク尼ヶ崎

その時、僕は彼がギリヤーク尼ヶ崎という名であることも何も知らなかった。彼が、青空公演を始めてまだ初期のころだ。

ギリヤーク尼ヶ崎、彼の舞踊を見る機会が偶然訪れたならば、それはあなたの幸福である。

彼の舞踊を思うとき、僕は考える。僕らは何と下劣で猥雑で陳腐な恥の意識に生きているのだろう、と。

僕に、もうこれから、何か心残りがあるとすれば、それは彼の演技をもう一度見たいということだ。

以下は、グーグルのキャッシュだから、近いうちになくなってしまうかも知れないが、ここが彼について知るには一番か。

死にもの狂いで踊るだけ

書いては消し、改造しては戻し、気がつけば、このブログを書いて、もう3時間半も経ってしまった。

気がつけば、台風が去ったのか、秋の高い青空と、夕日が目の前にある。

2005/09/24

清からの絵葉書



淸から繪葉書を貰ふた。淸は髮を當り乍ら神妙な顏をして、鏡の中の俺の面を凝つと眺めてゐるので、何だと云ふたら、坊ちやまはちやんと腕のリハビリに精をお出しになりますか等と染々聞いてくる。默つてゐると鼻面に突然繪葉書を出すから驚くりした。そいつは猫を眺めてゐる黑タイツの廿歲見當の女の寫眞で、鹿みたやうな途轍もなくすらりとした足と長い黑い髪で微笑むでをる。最近の活動寫眞の女優だらうと思ふたが、こんな美人はとんと知らないので、こいつあ誰だと聞くのに、淸はこの方に賴まれたら坊ちやまは何でもする筈で御座ゐます等と言ふて又神妙に一人ごちしてゐる。焦れて裏を返へすとジヤンヌ・モロウと書いてあるから、椅子から轉げ墜ちて叢の雌の鈴蟲に食はれさうになる程二度驚くりした。鼻に懸かつた聲でさうで御座いましよと淸が云ふので、憮然としてまあさうだと答へると、今度は、精をお出しになりますなら、よござんす、差し上げませうと勿體振るので、大いに癪ではあつたが、俺の中の神佛にも等しいモロウの、遂ぞ見たこともない若年の美麗なる其れは、背や腹どころか右腕だつて換へられぬ。俺は調髮を終へた淸に五體倒地する思ひで腰を曲げ、淸も惜しさうに出し澁りつつ、懷紙に包んで折り曲がらぬ樣に胸の隱しに入れて吳れた。俺は歸り道、淸に又借りが出來たと、越後の笹飴を手に入れる算段を呆つと考へ乍らも、然しけふの淸は今迄で一等意地惡でもあつたなとも思ひつつ莨を吹かした。


Image_20210616205901

 

 

「伊東靜雄拾遺詩篇」(全)

「伊東靜雄拾遺詩篇」全詩入力終了し、「心朽窩」に公開した。Web未公開の「春のいそぎ」の分量も少ないし、全集を見ると『「反響」以後』は十数篇しかない。近いうちに、どちらも入力しよう。以下の詩集と合わせて、それで彼の詩は網羅される。

「わがひとに与ふる哀歌」
「詩集夏花」

青空文庫(共に新字旧仮名)

「反響」

つれづれの文車(旧字旧仮名)

「伊東靜雄拾遺詩篇」最後の訳詩、ケストネルの「上流社會の人達・海拔千二百米」は、その謂いと言い、口調と言い、飯吉光夫訳のパウル・ツェラン詩を彷彿とさせた。

今日は、糖尿病の主治医の処に、3箇月ぶりに行こうと思う。波乱万丈の話をしなくてはならぬ。昼からは、髪を染めに横浜へ出掛け、夕刻にワインを買って帰ろう。こうして書くと、「失われた時を求めて」の「私」みたいだな。

122と美事に血糖値が上がっていた。

糖尿病の主治医は、自ら振り分け医を任じている先生だが、骨折の僕にいつも以上に優しかった。

骨折直前までは、完全健康数値だったが、これで又、糖尿病の方も一から出直しだ。

帰り道、歩きながら考えた。

慶応大学医学部に献体している。

末期の時には、右腕に

「医学生諸君、チタンにボルト5本有、メスを折るなよ」

とマジックで書くことにしよう。

2005/09/23

自動生成システム離脱

見た目は何も変わっていないが、今日、やっとプロバイダーの自動生成システムから卒業した。これで、ページ数を気にすることも、妙な裏技を使うこともなくなる。ソースをちまちま訂正したため、3時間のうち、ほとんどは、タグのバグや、リンクの書き換えに費やしてしまった。それにしても、たかだか3箇月程の付き合いでも、自動生成システムのテンプレートやデザインは雰囲気が落ち着いていて、気に入ってしまったのだった。幾つか試しては見たのだが、HPビルダーの素材や構成は妙に煌びやかで、しかも大味だ。どうもまだ好きになれない。使いこなせていないだけなのだろうが、だからちっとも変わり映えはしないが、これで、よい。これで、よい。(笠智衆風に)

「詩一篇」 伊東靜雄 

   詩一篇   伊東靜雄

危く、うつくしい方よ、あなたが出會つたひとは、終焉をいそいでゐたのです。

あのひとは死を通じてあなたを呼び、あなたは、喪ふために近づかれたのです。

 

そこであのひとはつか/\と死の中に、あなたの目の前で歩み入られた。

すべて美しいものの、それが運命です。  青春の意味なのです。

美しい、ひややかな方よ。あなたは引返しも、降りられもしないところで、

殘るでせう。  そして御自分のことで涙をお流しになることはなくなるでせう。

 

また、よしこのさき幸福と怡悦のなかに居られる時のあるにしても、

あなたのふかくなつたお瞳は、それを得信じないでせう。

「伊東靜雄拾遺詩篇」残り十五篇。削除した傍から、この詩、打ち込みながら、痛く気に入ったので、挙げておく。原文からうるさいルビを全て排除した。ルビは「また、よしこのさき幸福(しあわせ)と怡悦(よろこび)のなかに居(を)られる時のあるにしても、/あなたのふかくなつたお瞳(め)は、それを得(え)信じないでせう。」だけでよい。

これで今日の楽しみは尽きた。

乗り遅れた蓮で蜂に刺される

昨日に引き続き、ブログを粛々と清める。「福永太郎詩集(抄)」も、「★サイド・インデックス/心朽窩」へ独立化することにした。

ついては、残したいコメントを除き、これをもって福永太郎の詩の各ブログは削除する。僕の退屈に付き合ってくれた方々、やはり、ありがとう。

また、李賀の「南山田中行」「長平箭頭歌」の僕の訳詩も同所に移行した。

2005/09/22

乗り遅れたバスでばちがあたる

HPメニューを一部改変し、トップからとりあえず全てリンクされるようにし、ブログを侵食し、覗きに来た多くの知人達をうんざりさせていた、「伊東靜雄拾遺詩篇」も、未だ未了であるが、後、二十篇ほどを残すところまで来たので、、「★サイド・インデックス/心朽窩」へ独立化することにした。

ついては、残したいコメントを付したものを除き、これをもって「伊東靜雄拾遺詩篇」の各ブログは削除する。僕の退屈に付き合ってくれた方々、ありがとう。

所詮小手先でHPを弄るばかりで、完全な自立的リニューアルを、まだ図れずにいる。見慣れたものに愛着を感じてしまう僕の悪い癖だ。職場でも、パソコンを使いこなす連中は、「知」の先端に輝くような会話を交わしている。僕には、外国語と同じだ。大したものだ(とは実は全くもって僕は思っていないが)。そうして「大したものだ! それで世界が解明されるね!」とエール(皮肉)を送る。すると「そんな大それたもんじゃない、誰でもできるよ」とせせら笑いつつ答える。それが、どれほど失礼で、不遜であるかも知らずに。速やかに、エシックスは廃用化することの見本さ。実は、おだやかな表情でありながら、切れまくってる先輩たちを、僕は何人も知っている。カラオケが酒場を殺したように、パソコンは職場をつまらないものにしてしまった。ちなみに、僕? 馬鹿だね、そんなことに腹を立てる前に、右腕で意気納棺さ。

こうして、僕らは取り残される。それもいい。

戦中、瀧口修造は、体制翼賛派の美術評論家に「君はバスに乗り遅れたね」と言われたと記しているが、僕は、バスにはとっくに乗ってないよ。

2005/09/21

「手」遅れだったよ(9月17日の再読み込み)

(注:この記事は 2005/09/17 11:46 のものだが、記事をどんどん増やしている関係上、「最近の記事」欄からすぐ消えてしまう。今の僕の近況としては、少々重いものなので、時々、ページの上部へ引き上げておくことにする)

9月17日、二度目の手術後、初めてレントゲンを撮った。

(多分だめだね、だって一回、術後ギプス固定前にこっそり自分で見たら尺骨がしっかり出てたもん)

主治医のところに持ってゆく前にゆっくり廊下で自己画像診断した。

(橈骨と尺骨の平面状での位置関係は正常誤差範囲内。しかしだ)

尺骨は再転位し、完全に手術前の脱臼した状態に戻ってしまっていた。

(こりゃ、診察など聞かなくても一目瞭然だね)

従って、この状態で変形治癒するしかないと言われても驚きもなしだ。

(それにしてもこれを失敗、手遅れと言わずに解説する君のディベート術には、感服したよ)

医師は、尺骨の痛みと多少の

(その基準は誰のかな?)

手の動きの不都合が生じるだけで、このままでも問題はない

(誰の問題だろう?)

と言う。もし、痛感が堪えられないとならば、更に橈骨遠位端(粉砕した部分)と尺骨を串刺しにして、尺骨のやや下を完全に切断して、人工的な回転する関節を装着する手術を行うが、

(ほう? やるとしたら、ますますサイボーグ化というわけだな、ハリウッドから出演依頼が来そうだ)

かなり複雑な手術になるとのことで、更に粉砕した橈骨が治癒しなければだめなので、

(そんなことは素人でも分かる。言わずもがなさ)

やるとしてもずっと後になるということだ。

(いや、もう、結構だ。痛みには慣れてるよ)

というわけで、僕なりに総括すると、二度目の手術は手遅れだったということである。右腕は、今後、大なり小なり痛みや不都合を背負って生きてゆかねばならないということである。

別段、怒りもないし、悲しみもない。実際、主治医の大きなミスだとも思っていないし、これで僕が人生お先真っ暗になろうなどとも思っていない。ただ、大方予測していた通りであったと言ってよい。但し、ドラマのように、それを受け入れて明るく前向きに、などともさらさら感じない。

ただ事実として、諦観的に受容し、この病んでねじけた暗い魂の中で、そろそろと消化するしかないのである。

もともとこの致命的な失敗としての魂こそが、大いなる僕の誤診の産物なのだから。

何でもいい。再来週の火曜には、ギプスがはずれるのだけが幸せだ。それだけで、僕は、ほっとしたよ。

ダメ押しで一言。今日のレントゲンも、僕は大正6年生まれだった。

2005/09/19

芥川龍之介「椒圖志異」完成

今、芥川龍之介「椒圖志異」の本文及び芥川龍之介手書き挿絵一葉の電子テクストをとりあえず完成し、公開した。完全な校閲は明日以降。未だ誤植は多々あるやに思うが、まずは、芥川や耽怪の志には、多少の便宜となろう。また、旧全集では、この後に、「椒圖志異」補遺ともいうべき断片を含む「ノート断簡」がある。これを、明日、「椒圖志異」の後に追加する。

まずは右の鬼腕となり、孤独な作業であった左腕の頑張りを、少しだけ褒めてやりたい。

友遠く我腕鬼を抱きけり

旅立つ友へ(私信)

いってしまいますか。淋しくなります。
日本人へはもとより、中国の人へも、熱意の限りを示すのはいいですが、体を壊すような無理をして、双方から馬鹿みないように。
昇龍よりも臥龍の心得で頑張りなさい。
御家族も、どうか恙無き様。
わが手は、やや変形しつつも治癒へ向かい、来週の火曜にはギブスをはずせます。
二月ぶりの風呂だけが楽しみです。

  雲雀   伊東靜雄

 二三日美しい晴天がつづいた
 
 ひとしきり笑ひ聲やさざめきが
 
 麥畑の方からつたはつた
 
 誇らしい収穫の時はをはつた
 
 いま耕地はすつかり空しくなつて
 
 ただ切株の列にかがんで
 
 いかにも飢ゑた體つきの少年が一人
 
 落ち穂を拾つてうごいてゐる
 

 
 と急に鋭く鳴きしきつて
 
 あわただしい一つの鳥影が
 
 切株と少年を掠める 二度 三度
 
 あつ雲雀――少年はしばらく
 
 その行方を見つめると
 
 首にかけた袋をそつとあけて
 
 中をのぞいてゐる
 

 
 私も近づいていつて
 
 袋の底にきつと僅かな麥とともにある
 
 雲雀の卵を――あゝあの天上の鳥が
 
 あはれにも最も地上の危險に近く
 
 巣に守つてゐたものを
 
 手のひらにのせてみたいと思ふ

 そして夏から後その鳥は
 
 どこにゐるのだらうねと
 
 少年と一緒にいろいろ雲雀のことを
 
 話してみたく思ふ

いつか二人して行く大和路を今から楽しみにしています。
では 随分 ごきげんよう いってらっしゃい!

2005/09/18

忘れ得ぬ人々 5 反「蜜柑」 

教員になったその年だった。冬の午後、初めてのボーナスを懐に、久し振りの神田に出かけた。

学生時代に手の出なかった二冊を買った。青木書店で原田憲雄「李賀論考」大枚3万円、文庫川村で岩波の伊良子清白「孔雀船」1000円。

おまけに、明大前のディスク・ユニオンでBud Powellのパーソネル不詳、ラストレコーディングとされる「アプスンダウン」の洋盤を発見

(これは中古レコードで、山の中に隠れており、検盤してみたが無傷の美品だった。確か1650円、今は容易にCDで手に入るが、パウエル好きなら分かってもらえると思うが、当時としては大変な掘り出し物であった。ぼろぼろの演奏だけど、ぼろぼろ泣きながら聴きたくなるアルバム。僕のパウエル愛聴盤ベスト3の一枚)

完全に舞い上がって至福の頂上に立った思いだった。

ルンルン気分でも金を使い果たしたので、夕食はディスク・ユニオン近くの立ち食い蕎麦で済ませることにした。「心があったかけりゃ、それでいいさ!」と口に出して言ったような気がする。

ありがちなスタンド。誰もいない。二十歳そこそこのちょっとふくよかな女店員は、ひどく陰鬱な顔をしていた。きつね蕎麦を注文して、食べ始めた。

彼女はカウンターの中の、丁度僕の目の前の椅子に横向きに腰掛けると、左手の大きなパケットに入った油揚げを、調理用の小さなパックに箸でつまみあげては移し始めた。

「本当に……辛いんだよ……お母さん……毎日毎日……おそばやおうどんを作るだけ……本当に……もう帰りたい……田舎に……お母さんや妹に……会いたいな……本当に……生きてても……なんにも……楽しいことなんか……これっぽっちも……ありゃしない……本当に……辛いんだよ……」

油揚げをつまんでは、うつむいたまま、一言づつ。僕の耳には、その目の前の人に語りかける口調のモノローグが、はっきり聞こえた。

金を払うとき、僕は何か励ましの言葉を捜したが、受け取った彼女の目は、僕の背後のずっと彼方に焦点を結んで僕の存在すらなかったのだった。

夜の街に出ても、賑やかなざわめきが遠くのものに聞こえ、木枯らしが身に沁みた。そうして、さっきまでの己が有頂天が、何だか罪深いものに思えてきた。煙草が、妙に苦かった。

25年前、1979年の暮の出来事。

言わば、これは芥川の 反「蜜柑」 だ。

2005/09/17

鏡花先生発句縦書

今朝、曙に「鏡花花鏡」鷺田龍樹様より、今度は鏡花俳句集を縦書にしたものを頂戴し、早速「花鏡別荘」より入れるように置いた。誠、やはり座りがよい。発句は縦書きに限る。

本当に感謝の言葉もない。切に願う、どうか方々、是非、

鏡花花鏡

鏡の花

へ迷宮(らびりん)されんことを。

ちなみに鈍感なる僕は、嘗て、鷺田様のお名前の格好良さに思わず本名ですかとお聞きしてしまった。さて、その謂いは? ヒントは鷺田様「兩頭蛇」ページの下方……古楽……とだけ言っておこう。まずはその草迷宮へ……

2005/09/16

芥川龍之介「椒圖志異」 耽奇耽怪 戦淫慄淫

芥川龍之介の「椒圖志異」を左側コンテンツにリンクした。まずは「怪例及妖異」篇。いまだ入力途中であるが、遂に公開し始めることができたことを、僕は心より喜んでいる。芥川龍之介が、純粋に己が楽しみのために蒐集した怪奇談集。少しずつ、アップしてゆきたい。

耽奇耽怪、戦淫慄淫とも言おう……お分かりのように、僕の「淵藪志異」は、芥川のこれへのオードである。

今後の追加、暫定アップについては、HPの更新情報 Alain Leroy でお知らせする。なお入力には、岩波版旧全集初版を用いた。

2005/09/12

宿木 伊東靜雄

宿木    伊東靜雄  

冬のあひだ中 かれ枯れた楢の樹に

その一所だけ青んでゐたやどり木の

おまはこの目に區別もつかずに、

すつかりすつかり梢は緑に燃えてゐる。

 

何故(なぜ)にまた冬の宿木(やどりぎ)のことなど思ふのか。

外部世界はみんな緑に燃えてゐる。

數へ切れないほどの子供らが

花も過ぎた野薔薇のやぶで笑つてゐる。

そしてわたしの戀人はとうの昔

ひとの妻になつてしまつた。

 

疾うの昔に などとなぜ私は考へるのか。

いゝえ、あのひとにもわたしにも

やつと今朝青春は過ぎて行つたところだ。

窓邊につるした玻璃壺に

あはれに花やいだ金魚の影は、

はつきりとそのことを私につげる。

これはもう、タルコフスキイの「鏡」そのものではないか!

2005/09/11

VERKEHRSINSEL 「銃」 伊東靜雄

銃   伊東靜雄

私は廣大な森を所有つて居る

私が植林した樹列の間や

私が播種した草々の上に

私に自由を奪はれた

鳥らが放ち飼ひにしてある

注1:全集版で打ち込みながら、おやと思った。「私に自由を奪はれた」で終わっており、どう考えてもおかしい。角川書店版1974年刊「日本の詩集 15 伊藤静雄詩集」を確認、最終行が落ちていた。同書で、補正した。

注2:VERKEHRSINSEL=〔独〕安全地帯。

***

「日本の詩集 15 伊藤静雄詩集」

この本は僕にとって忘れられぬ存在だ。この本と共に、19歳の僕は、初めてある人に出会い、その人に教えられて伊東靜雄の詩に出会い、そうして僕の狭量故に、その人と別れた。それは間違いなく、僕の生涯の致命的な誤りだった。

2005/09/10

空の水槽 伊東靜雄

空(から)の水槽   伊東靜雄

午後一時の深海のとりとめない水底に坐つて、私は、後頭部に酷薄の白鹽の溶けゆくを感じてゐる。けれど私はあの東洋の祕呪を唱する行者ではない。胸奧に例へば驚叫する食肉禽が喉を破りつゞけてゐる。然し深海に坐する悲劇はそこにあるのではない。あゝ彼が、私の内の食肉禽が、彼の前生の人間であつたことを知り拔いてさへゐなかつたなら。

***

昨日、先週やった宿題テスト二クラスの採点を終えて、これから再来週以降に向けて、左手だけでの定期テスト作成、採点、成績評価は気が遠くなる難行と心得た。しかし、本日より、伊東靜雄の拾遺詩篇を昭和46(1971)年人文書院刊「定本 伊東靜雄全集」を用いて、少しずつ打ち込んでゆくことにする。ささやかにして幽かな、自身への慰藉として。本日、右腕、抜糸予定。(9月22日追記:以下に「伊東靜雄拾遺詩篇」纏めて公開し、ブログより削除)

2005/09/08

花鏡別莊 泉鏡花極美総振仮名付俳句集 

押し掛けメールをさせて頂いた「鏡花花鏡」の鷺田龍樹様より、「鏡花俳句集」の誤植の御連絡と、何と「鏡花花鏡」のスタイルシートの総ルビ「鏡花俳句集」を賜った。陳腐ながら、誠、僕は天にも昇る嬉しさ。HPのビルディングに無知な僕だが、御自身のページでは公開される予定はなく、利用は自由にとのことで、これは何としても鷺田様の御好意にお応えしなければと、blogのHPリンク(ニフティではマイリストと称している左側のコンテンツ)にリンクを張って、独立ページを作った。不遜乍ら「花鏡別莊」と題す。美しいそれを、是非御覧あれ!

2005/09/07

(深い山林に退いて……) 伊東靜雄

                 伊東靜雄

                 (讀人不知)

深い山林に退いて
多くの舊い秋らに交つてゐる
今年の秋を
見分けるのに骨が折れる

***

「どうして……どうして……」

今日、総合学習絡みやら、国語表現やら、初めて現役の生徒達40人ほどに、HPとブログを教えた。「メタファーとしてのゴジラ」やらブログを教材として提示するために。2005/07/09 「僕が教師を辞めたい理由」等は問題かもな、それでお偉方からクレームがつくなら、しかし、それこそ僕の本望だ。

その実、実は、僕からの、腕で迷惑をかけている生徒へのささやかなプレゼントなのだ。

泉鏡花句集

というわけで、「泉鏡花句集」を「やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇」にアップ。したものの、精神ぐったり。もう、いいや、これで、僕の卑小な心はこれで満足だ……「やつぱり、湘南は妖しいな。」

日々の驚天動地

帰りにひどく疲れて、タクシーに乗った。

ギプスの僕の手を見て、運転手が聞いたので、最近、何度と無く繰り返す怪我の顛末を話し、何だか変な再手術の話をしたら、

「何処の病院?」

とその初老の運ちゃんが鋭く聞いた。病院名を答えた。

「○○って先生じゃないだろうな?」

僕の主治医の名前だ。

「(いや、まさに!)その先生です!」

「あいつは、レントゲンが読めねえよ!」

「(え! 何! これは!)……はあ……(やばいぞやばいぞ……)!?」

注:このblogの 08/27「不吉はいつも大当たり!」を参照されよ!

彼は、前に、運転中に事故で足を骨折した。まさに僕の主治医に見てもらったそうだ。軽いからギプスだと言われた。しかし、痛いし、そんなもんじゃないと思った彼は、別な病院に行った。すると大腿骨骨折、膝蓋骨粉砕の重症で、即入院手術だった。後に、労災(!)で初診の「僕の病院」に診断書を貰いに行った彼は、ねじ込んで、院長にも談判して、謝罪させたそうだが、遂に○○先生は出てこなかったそうだ。

タクシーを降りるとき、運ちゃんは気の毒そうに言った。

「騙されたと思って、他の医者に見てもらいな! あいつに手術されたら片輪になるよ!」

家の前で、しばし立ち尽くした。

……

しかしもう手術は、二度もした(まさにレントゲンの見誤りで)。もう、しちまったんだよ。

『○○先生、僕を見事に治して、どうかせめて、この悪評を名誉挽回してくれよ……』

僕が考えたのは、そんなことであった……

以上は、粉飾なしの、哀しいけれど、ホントの話なんだ……

2005/09/05

鏡花忌へ向けて

明後日は鏡花忌だ。惑溺する鏡花の忌日に何をしようと昨夜来考えて、腕鬼の我に可能なこと……やりながら楽しめ、決して苦痛に感じないこと……いろいろ考えて、彼の句集をアップすることとした。PDFファイルでダウンロードできるサイトは存在するが、テクスト処理は出来ない。誰もが加工して使えるように、昨夜遅くから始めて、やっと今、1988年版岩波全集による入力をまず終え、1校した。明日、再校して公開に漕ぎつけたい。約200句。僕の鏡花の刻印へ向けて。

2005/09/04

沙羅の花(相聞) 芥川龍之介 

芥川龍之介の「沙羅の花」を「やぶちゃんの電子テクスト集:小説篇」にアップ。

旧版岩波全集によると「澄江堂雑詠」の「六 沙羅の花」として大正14(1925)年6月1日発行の雑誌「新潮」掲載とあるが、これは単行本「梅・馬・鶯」に他の一項「蝋梅」と共に所収されており、自立性のある単品と解釈してよい。

この歌、例の唯一、彼が対等に勝負できる女と言い切った、松村みね子との訣別の、いわくつきの歌、「相聞」だ。マチネ・ポエテイックの連中が、現代定型詩で唯一の名作と持ち上げたのは過褒とは思うが、確かに一読、忘れられない名吟。

歌としては有名で、テクスト化されているが、前書き風の文を持つこの小品はまだのようだ(内心、好きなこの歌を正式テクストに加えられて嬉しくてしようがないのです)。

ちなみに初出と思われる室生犀星宛書簡では二行目の句点がない。また、旧版全集の生前未発表詩歌に所収するものは、二行目の「たれ」が「誰」と漢字になっている。

ちなみに、「かなしき」は「愛しき」ですぞ、お誤りなきように。

葦間のニンフ ペーター・フーヘル

高校生の頃、似非文学少年気取りの僕は(今も全く変わらないな)、図書室の詩歌集を貪るように読み、読んでは己が琴線に触れるものを小さなノートに書き写して、それを一人朗読しては悦に入っていた気障な男だった(これもやはり今も全く変わらない)。

そんな中で、永く忘れていたのが、 ペーター・フーヘルの「葦間のニンフ」であった。

『(Peter Huchel 1903-1981)は、ドイツ北東部のブランデンブルク地方の自然と農村生活を原風景として詩を書きました。一方、フーヘルは、ドイツ帝国、ヴァイマル共和国、ナチスムスと第2次世界大戦、東ドイツの社会主義体制とその下での軟禁生活、西ドイツへの亡命などを体験しました。』(webの東北大学大学院講座案内の「言語芸術形象論」より引用 http://www.intcul.tohoku.ac.jp/culturaluselang/figure.htm

検索をかける内に、フーヘルの詩をblogに紹介されている方を知り、遂に昨日、御迷惑も顧みる余裕も無く、「葦間のニンフ」のリクエストのメールを出してしまった。

今朝、その方からメールを頂き、ニンフに再会した。

それは丁度、
「……さう言ひかけながら、僕はそのときふいに、ひどく疲れて何もかもが妙にぼうとしてゐる心のうちに、けふの晝つかた、淨瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあつて見ていた自分たちの旅すがたを、何だかそれがずつと昔の日の自分たちのことででもあるかのやうな、妙ななつかしさでもつて、鮮やかに蘇らせ出してゐた。」

と「瑠璃寺の春」の終曲で堀辰雄が描いたような、「妙ななつかしさ」を僕にもたらした。

千年の孤独を隔てて永遠の恋人の遺骨に口寄せたような……

絵と音楽と詩に満たされたその方に、僕の満腔の喜びと敬意を込めて。

HP「ナチュラル、アート」

http://homepage2.nifty.com/kogaihirokazu/

葦間のニンフ   ペーター・フーヘル

   葦間のニンフ
   みずは涸れ
   沼のかえるの腹も
   ひからびる

   真昼の壁に
   影くずれ
   石にトカゲ
   燃える
   かげろう
   白昼の光
   しずかな藪
   ものがなしい
   とんぼのうた
   湖の黒いトンボ
   うたをやめ  
   きこえるのは ただ
   するどい
   いやな音
   葦のしげみに
   陽がかたむく
   荒野をわたる
   風だけが
   しのび笑う

2005/09/03

芥川龍之介 人と死と

切開部と腫脹の状態がよいので、ギブス固定をするという。先生が一声、「ギブス、入ります!」とコールした……

*ここで僕は回想した……

2~3歳の頃の結核性カリエスのコルセット製作、僕の中の記憶……

まずは、新宿駅を降りよう。青空市で無数の露天商が色とりどりの菓子をこぼれそうな程の山にして売ってるところを通って、朝の酒場通りを抜ける。或る時、猪が二匹届けられていた。豚好きの僕は、その無惨に撃たれて転がっている猪を、愛おしく撫ぜてやったのを忘れない……

昭和30年初頭当時の新宿の東京女子医大に、さあ、僕と、正面玄関から入って行こう……

入って、真っ直ぐ行き、左に折れると、しょっちゅう行かされる放射線科があった。老技師は毎回、撮影機の前の高い処にある小さな観察窓を指して、「坊や、あそこから鳩が出るよ」と言った。鳩なんか永久に出ないのはとうに分かってる。でも素直にいつも同じ姿勢で窓を見てた。ちなみに玄関を折れずに進むと、いつもガランとした人気の無い廊下と、閉じられたガラス扉があった。精神科病棟だった。コルセットを作った処置室は、玄関右手の売店(いつも帰りにここでずんぐりしたビンのヨーグルトを買ってもらうのがお楽しみだった)の横の廊下の右側、奥から二番目だった。ちなみにその廊下を挟んだ向かいの処置室は、お尻の大きな黒子を西郷隆盛みたいな皮膚科の先生に除去してもらった部屋だ。さて、やっとたどり着いた……コルセットの処置の話……

行き交う看護婦、全身に巻かれる包帯。僕はミイラ男になった……

首筋からかなり熱いどろどろの石膏が盥で流し込まれる……

もうもうとする蒸気。耳元のあやす看護婦の声。支えている医師が助手を叱る。器具がタイルに落ちる鋭い音。天井のライトも雲上の陽のようだった……

ああ、あの左上半身を覆うコルセット、左手が腹部から前へ90度しか動かせない奴、僕の左腕は卒園までいつも流行のイヤミのシェーをしていたのだったな……あれ、いやだったな、夏には汗疹が出来てさ……

*……ここで我に返る

……みたいな石膏固めを予期していたら、今や、すべてがテープ状なのだ。数分で綿に巻いたテープ状の物質がカチカチのギブスになるんだ。僕は気がついたら、電動カッターで窓を作ったりしているのを、興味深々、あの頃の子供のように、にこにこしながら見ていたよ。

***

今日、芥川龍之介の「人と死と」を「やぶちゃんの電子テクスト集:小説篇」にアップした。「僕との因縁のサイトへのリンク」で示したえんどうさんのサイトを久し振りに見ているうち、絵本の中の上記作品が、Web上唯一のテクスト化であることに気づき、1978年刊岩波版旧全集と校合してみたところ、残念ながらテクストに重大な脱落が認められた。断片であるが、本話部分よりも妙にPROLOGUEが忘れがたい(電子テクスト化に際し、えんどうさんの絵本のテクストを加工・訂正用ベースとしたことをお断りしておく)。

2005/09/01

腕を見る

包帯を外し 右腕を見る

薬臭い 蒼ざめた肌と

細かく堅実に縫い締めた糸 そして

黒ずんだ肌の 亀裂のその下に

5本のボルトで打ち込まれた 永遠のチタンプレートがあるのだが

その僕のボイジャー板に 何が刻まれているのか

僕には痛いほど 分かっているのだ

肉体が 灰になっても

それは僕という失策を刻印し 否応なしに

僕の思念の 絶対無間の島宇宙を

遂に逢うことのなかった その見知らぬ憧憬者への

絶望の懺悔という 馬鹿げた任務を載せたまま

ただただ 漂い続けるのだ

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