冬の蠅 梶井基次郎
冬の蠅とは何か?
よぼよぼと歩いてゐる蠅。指を近づけても逃げない蠅。そして飛べないのかと思つてゐるとやはり飛ぶ蠅。彼らは一體何處で夏頃の不逞さや憎々しいほどのすばしこさを失つて來るのだらう。色は不鮮明に黝んで、翅體は萎縮してゐる。汚い臟物で張り切つてゐた腹は紙撚のやうに痩せ細つてゐる。そんな彼らがわれわれの氣もつかないやうな夜具の上などを、いぢけ衰えた姿で匍つているのである。
冬から早春にかけて、人は一度ならずそんな蠅を見たにちがひない。それが冬の蠅である。私はいま、この冬私の部屋に棲んでゐた彼等から一篇の小説を書かうとしてゐる。
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そんな或る日のこと私はふと自分の部屋に一匹も蠅がゐなくなつてゐることに氣がついた。そのことは私を充分驚かした。私は考へた。恐らく私の留守中誰も窓を明けて日を入れず火をたいて部屋を温めなかつた間に、彼等は寒氣のために死んでしまつたのではなからうか。それはありさうなことに思へた。彼等は私の靜かな生活の餘徳を自分等の生存の條件として生きてゐたのである。そして私が自分の鬱屈した部屋から逃げ出してわれとわが身を責め虐んでゐた間に、彼らはほんたうに寒氣と飢えで死んでしまつたのである。私はそのことにしばらく憂鬱を感じた。それは私が彼等の死を傷んだためではなく、私にもなにか私を生かしそしていつか私を殺してしまふきまぐれな條件があるやうな氣がしたからであつた。私は其奴の幅廣い背を見たやうに思つた。それは新しいそして私の自尊心を傷ける空想だつた。そして私はその空想からますます陰鬱を加へてゆく私の生活を感じたのである。
(梶井基次郎「冬の蠅」より 筑摩書房版全集による冒頭と末尾)
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だからね、言ってるだろ、
人間をやめるとすれば冬の蠅
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