小学生の時、僕は病弱で、他から見れば、いじめるに重宝な少年だった。1年の途中で、東京から、当時は田舎の大船へ戻っただけで、これだけで格好ないじめの対象だった。
小学校は、あぜ道を通った。肥溜めや田圃に落とされるのは、日常茶飯事で、見知らぬ山の中に置き去りにされるのも恒例だった。それは、確かに、一つの地獄だった。
A君は僕の家のそばに住む同級生だった。背の高い彼は、学校は休み勝ちな上に、奔放で、学校のそばの高圧鉄塔に登って担任の教師はほうほうの体だったが、4年生の時から卒業まで、学校では、いつも僕を守ってくれた。
医者になりたいという僕を、いつも「やぶ医者」と呼んで、怪我をしたときや、調子が悪いときは、「やぶ医者、こんなだけど大丈夫かなあ?」と、傷や容態を説明しては、僕のハッタリを聞いて安心していた。
僕は、朝の朝礼で、二度も、糞を洩らした。学校の行き帰りでさえ、洩らしそうになるのだった。まさにエンガチョな存在だった(ずっと後のなんと53歳になって検査の結果、過敏性腸症候群(IBS)であることが判明した) 。そんな僕を、軽蔑しなかった数少ない一人が、彼だった。彼が、「やぶ医者、うんこがしたくなったらな、掌に『ん』って書いて、飲むんだよ、三回な。そうすると、うんこ、したくなくなるんだぜ」と教えてくれたのも、彼だった。それが成功ためしは、残念ながら、なかったのだが、今も、その時の優しい彼の表情を忘れることはない。
6年の修学旅行に、彼は行かなかった。僕は、日光の名所の古びた写真の入った、ひどく安っぽいしおりを土産に持って行った。暗い裸電球の部屋で、彼は僕に「ありがと」と言うと、大粒の涙を、ぼろぼろと流した。彼の両親は、小学生の僕の前で、ひどく恐縮し、僕は訳も分からずに何度も礼をされ、饅頭までもらって帰った。
彼がいるときは、いつも一緒に帰った(そうするといじめっ子は僕をいじめられないのだった)。
彼は、イトミミズのいるきたないどぶ川を右に折れる。僕は、僕の家に、まっすぐ行かねばならない。欄干もない小さな橋のたもとで、僕は彼に「さよなら!」と声をかけ、彼は「さいなら!」と笑顔で答える。そうして、ちょっと歩くと、僕は彼の歩いているであろう、どぶ川の向こうの長屋の棟の方に、やはり「さよなら!」と少し大きな声で呼びかける。「さいなら!」というA君の声が聞こえる。……また、十歩、「さよなら!」、そうして甍の彼方から、また「さいなら!」の声が聞こえる……「さよなら!」、そして「さいなら!」……そうして、その声のリフレインが幽かになって、僕の幼年時代は遠い彼方へと消えてゆく……
彼が重い癲癇症であることは、なんとなく気がついていた。私の叔母が彼の児童相談所のカウンセラー担当で、僕の名前だけが信頼できる友達としていつも挙がっていたと聞いたのは、随分、後、青年になってからであった。
その彼は、僕が高校2年(僕は小学校終了と共に、彼と分かれ、富山に引っ越しており、5年ぶりに僕は故郷を訪ねたのである)の時に訪ねて行き、健在であった。馬鹿でかい体躯になった彼は、甚平を着て大いなる迫力で、「よう!」 と言って、少し話を交わして、別れた。幾分、警戒するような険しい表情が気になったが。
30分もしないうちに、彼は、その日、近くの、僕が泊まっていた親戚の家を訪ねてきた。彼は、薄汚れた、犬の人形を携えていた。
「おれはお前を、悪いけど覚えてないんだ。」
と彼は切り出し、すぐに
「でもね、おまえが訪ねてくれたのが嬉しいんだ、だから、これを受け取ってくれ」
とその、ぬいぐるみを差し出して、そうして、泣いた。
僕は、彼の大切な(その汚れ具合から解る)ぬいぐるみを、丁重に辞退して、昔のあの、「さよなら!」の話をした。
彼は、その大きな体の一見恐ろしげな彼は、あの日と同じように、ぼろぼろと涙を流しながら、黙って何度も頷くのだった……
*
今でも、僕は思い出す。僕は、ただ、ただ嬉しかったのだ。
僕は、だから、言っておく……だから、僕は、手を振ってくれる朔太郎が欲しいのだと……
【2019年4月1日追記】昨日、町内会の役員会で、今週の土曜に行われる4月例会のレジュメを見たところ、訃報欄に彼の名があった。2月12日で61歳とあった。彼は僕よりももっと後の早生まれであったのだった。昨年、御母堂を亡くされ、一人で住んでいた。車椅子の生活だった。彼のことを思い出す人はもうあまりいないであろう。だからここに名を記しておく。彼は芥川忍君である。空の高いところから「さよなら!」を言っている彼の声が、聴こえる。