或阿呆の一生 芥川龍之介 三十一 大地震
三十一 大地震
それはどこか熟し切つた杏の匂に近いものだつた。彼は燒けあとを歩きながら、かすかにこの匂を感じ、炎天に腐つた死骸の匂も存外惡くないと思つたりした。が、死骸の重なり重つた池の前に立つて見ると、「酸鼻」と云ふ言葉も感覺的に決して誇張でないことを發見した。殊に彼を動かしたのは十二三歳の子供の死骸だつた。彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。「神々に愛せらるるものは夭折す」――かう云ふ言葉なども思ひ出した。彼の姉や異母弟はいづれも家を燒かれてゐた。しかし彼の姉の夫は僞證罪を犯した爲に執行猶豫中の體だつた。……
「誰も彼も死んでしまへば善い。」
彼は燒け跡に佇んだまま、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。
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鎌倉の旅館で、芥川が関東大震災のカタストロフを予言していたエピソードをかつて読んだが、なかなか興味深い。