諸星大二郎 魔障ヶ岳シリーズ
昨夜、高熱の為、床中にて汗もしとどとなりつつ、諸星の新作連作魔障ヶ岳シリーズを読む。「感情のある風景」論をアップした時、実は「生命の木」の映画化も、この久々の新作発売も、まるで知らなかったことを言っておかねばなるまい。それだけ、彼の存在はメジャーになっているということなのか。しかし、高校生で、まず彼の作品に親しんでいる者は、ゼロに近いのは、20年前とさほど変わらないように思われる。
さて、まず、新作は、その自己同一性を突き抜けた民俗学的「モノ」存在の形而上学的テーマという点で、伝奇作家諸星健在也という安堵はある。「マッドメン」に似た三輪山伝説を用いた、神話の相互交換論等も、彼の面目躍如というべきであろう。
しかし、振り返って考えると、そうした過去作品との強い類似性が、諸星作品に慣れ親しんだ者には、ストーリーテラーとしての彼が読者の期待に文句なしに答えていると感じる反面、ある種の伏線のバレを露呈してしまっている点、意外性のスペクタクルを殺いでしまっているとも言える。終局の凡百の個人の思念の総合体としての「モノ」の実体化シーンは、彼のパロディ作品である「ド次元くん」シリーズさえだぶってしまい、僕には、少々、喰い足りないエンディングであった。
同じようなシークエンスでも、「マッドメン」シリーズのラストのような、古代と現代を貫く、深い感慨が欲しかった。
ちなみに、彼の希望ではあるまい、帯の「妖怪ハンター」という名称の復活は。「稗田礼二郎のフィールド・ノート」では確かに、メジャーには向かないと、僕も編集者なら思うであろうが……。
瑕疵は、彼の新作が拝めることに比べれば、微々たるものだとも言えるのであろうが……。「西遊妖猿伝」の続編は、早く読みたいものだ。