浅沼芳郎翁を悼む
今日、浅沼芳郎翁が、本年春、97歳で亡くなった忌中葉書を受け取る。
4月7日、桜の満開の中、突然の、心不全であったと記されていた。
僕はこの方にに会ったことがない。しかし、十数年、年賀状を頂いてきた。
20数年前、僕が教師になった頃、飲み屋で、この方の親戚の方と親しくなった。浅沼氏一族は八丈島の出身であられた。そうして、先祖代々伝わる、漂流記の古文書の解読を、酒飲み話の中で頼まれた。それは「大清国漂流略記」と題されたもので、図書館司書資格取得の講義の中で、たかだか十数時間、古文書解読を学んだだけの、貧困にして、分不相応な知で、僕は安請け合いしてしまった。一夏かけて、崩し字辞典や古文書読解法をひっくり返しながら、強引な力技で活字に起こした。自信等、毛頭の微生物の繊毛ほどもなかった。それでも、格好をつけて、注釈まで施し、古文書解読の専門家に確認して頂くようにと奥書した。
それから、10数年後、この漂流記の主人公の七代後の、この芳郎翁より、往時の解読の感謝状と共に、国立公文書館の正式最終解読を経た、書籍となった「大清国漂流略記」を拝受したのであった。
僕には、大いなる感慨であった。当時の僕の判読資料と引き比べて見ると、恥じ入りたくなるような誤まった判字や、見当違いの注釈で、今なら、もう少し、まともに出来たと、内心忸怩たる部分が多々あったのだが、それでも最初の解読者として、僕の名が記され、過褒な謝辞までがある。
僕は、稚拙無知ながら、熱意を持ってこれに当たった当時の僕を、正直、羨ましく思う。今の、この蒼ざめた僕は、何だ、と正直、思う。
あの時、解読した原稿を渡した、その御礼は、くさやの干物三枚だった。よろしいか、僕は、不服なのではない。その三枚のくさやぐらい生涯、充実、満足して食った食い物はなかったし、今後もないであろうということを、僕は言いたいのである。
浅沼芳郎翁は、天寿を全うされたと言ってよいであろう。お会いしたことがないのに、僕にはその天寿全うの寿ぎの気持ちで、一杯である。
僕は、慶応二年に遭難し、その海上での艱難辛苦、無人島漂着から清への移送や、仲間の死、そして死んだと思った友との再会、最後の帰国に至るまでの詳細を読み解く中で、浅沼という幕末の一人の酒好きの船乗りの男と、漂流という異空間を介しながら、やすやすと一体化し得たのだ。そうして、同時にあの時、僕は、遂にお会いすることのなかった浅沼芳郎翁とも、固く結ばれたのであったのだと、今、心すがしく思えるのである……
人の死を悼みながら、すがしいと言ってはいけないだろうか?
僕は、僕が裏切り、そうしてまた同じように僕を裏切った、今もなお生きるあまたの人々よりも、限りなくこの逢ったことのない浅沼翁とこそ、揺ぎない糸で繋がれているのだという「すがしさ」感じている。
この蒼ざめた飴のように伸びた失意の数ヶ月の中で、唯一の充実した思いを抱いているということを、最後に、記しておく。

