或阿呆の一生 芥川龍之介 八 火花
或阿呆の一生 芥川龍之介
八 火花
彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也烈しかつた。彼は水沫の滿ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。
すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を發してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雜誌へ發表する彼の原稿を隱してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
架空線は不相變鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。
*
高校生の頃、この火花を凝っと見つめたことがあった。富山の海沿いの、ある女の家の傍、見通す限りの田圃、そこに寂しく延びる電柱の上、ジリ、ジリと音を立てて、紫炎色の炎を吹いているのだった。秋の、嵐の間近な、夕暮れのことだった……。