或阿呆の一生 芥川龍之介 四十九 剥製の白鳥
四十九 剥製の白鳥
彼は最後の力を盡し、彼の自敍傳を書いて見ようとした。が、それは彼自身には存外容易に出來なかつた。それは彼の自尊心や懷疑主義や利害の打算の未だに殘つてゐる爲だつた。彼はかう云ふ彼自身を輕蔑せずにはゐられなかつた。しかし又一面には「誰でも一皮剥いて見れば同じことだ」とも思はずにはゐられなかつた。「詩と眞實と」と云ふ本の名前は彼にはあらゆる自敍傳の名前のやうにも考へられ勝ちだつた。のみならず文藝上の作品に必しも誰も動かされないのは彼にははつきりわかつてゐた。彼の作品の訴へるものは彼に近い生涯を送つた彼に近い人々の外にある筈はない。――かう云ふ氣も彼には働いてゐた。彼はその爲に手短かに彼の「詩と眞實と」を書いて見ることにした。
彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つけた。それは頸を擧げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯發狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往來をたつた一人歩きながら、徐ろに彼を滅しに來る運命を待つことに決心した。
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僕は朔太郎の芥川は詩人を熱情している小説家であるという言を素直に受け入れることは出来ない、出来ないが、この「或阿呆の一生」の体裁を考える時、これは哀しくも当たっているようにも思えてくるのだ。芥川は己が自叙をするに際しても、章番号と見出し、さらには序まで必要とした。しかも、この章では、その叙述の内実を語るという、彼の得意な楽屋落ち(関係ないが、僕は最近の有象無象の小演劇集団やTV番組や映画の、内輪受けや楽屋落ちに安易に走るのを、虫唾が走って、そいつを顔面に浴びるぐらい、嫌悪している)、暴露のポーズさえ忘れない。その序では久米正雄に人物その他へのインデキスを付けてくれるなとまで言う。誰が、この周到に剥製され、種名表示された人生標本に注釈がつけられよう。そこでは菊池寛が言った如く、「人生を銀のピンセツトで弄」ぶ分析者芥川の白衣姿が垣間見える……。それは、折角のこの作品の詩性を、惜しくも虫食いのように減衰させていると言って、よかろう……。