芥川龍之介 沼地
もともと好きな作品だし、昨日から考えていたことと、関わるので、「蜜柑」ともともと一体であった、芥川龍之介の「沼地」を同所に置いた。底本は岩波版旧全集。出来る事なら、デユシャンの「薬局」を「沼地」に飾りたいところなんだが……。画像が見当たらない。
*
トリエンナーレとかやっている。それはよい。
ニュースのテロップは「美しいだけが芸術じゃない」。それもいいだろう。
しかし、覚悟はあるか?
マルセル・デュシャンは、既製品の男性用小便器を「泉」と題して、アンデパンダンに出品して、拒否されたなんてえのは、高校生だって知ってるわな。僕は、あれが新品だったのが、少々惜しい。デュシャンか、それよりも「R.MUTT」のモデルとされる女性が一度、すばりしたものを出品していたら、よかったと思うのだが。
イヴ・クラインは、消防士の格好で火炎放射器を持って美術館に行き、キャンバスを焼こうとして、丁重に館に断られたし、女性モデルによる人拓なんかとっくにやってた。何より、飛ぶというパフォーマンスで、二階から胸を張って跳躍するクライン! 最高だね! あの写真は、大好きさ! その後落下して、しっかり両足を骨折したのも、マイウ!
先日は、中国系の作家が、死んだ胎児の実物標本に天使の羽をつけた作品が物議を呼んだが。
昔、山海塾の公演で、ホリゾントに冷凍マグロの尾鰭を沢山貼り付けたのがあったが、照明で解凍されて、場内はえも言われぬ臭いに満ちたなんていうのは素晴らしいじゃない!
さても、聞きたいのだ、あんなあまちょろい「地球にやさしい」風の乗りで、芸術の自由を言うなら、僕が、スカトロジスムではなくて、あなたの前で糞をし、放尿し、マスターベーションを繰り替えすことで「生」の有様をパフォーマンスしたいと言って、やっていいのだね?
いや、やるべきなのだよ。本当に。「美しいものだけが芸術じゃない」んだから。臭い、おぞましい、汚い、猥雑、腕が折れる、人が死ぬ……かも知れないパフォーマンス、それも「生」に肉薄した芸術なのだ。祭りの死者が、晴れにとって必要であったのと全く同じだ。
そもそもパフォーマンスを気取ってる連中達も、僕には退屈だ。だって、戦前のパリで、ダダの連中が、みんなやっちまったことじゃあないか。知らないと思うなよ、見飽きた退屈な奴は、沢山、いるんだよ。もっと、覚悟しろよ。
そう言えば、自分の生理の血で、作品を描いている海外の女性画家の絵をネットで見た。彼女の絵を、是非、ちゃんと美術館で展覧してみよう。実作ルームも付けてたらどうだ。実際、絵そのものの才能は、残念乍ら、僕は感じないし、見たくもないが、しかしそれも全的な意味に於いて差異区別なき芸術として理解しなくては、真に「芸術」を語る資格はないと、僕は思う。
デュシャンが生前、密かに愛していた女性彫刻家、美術館に置かれた「大ガラス」を通して、その人の作品が見えるなんざ、公共世界の私物化! 憎い限りだったけど、彼女に残した油絵をFBIが成分分析したら、デュシャンの精液が混入されていたなんて、やっぱり独身者の機械は、違うぜ!!!