世界を滅ぼす
世界は不完全であり、邪悪だ。僕はそれを批難する。僕は世界を弾劾し、世界を滅ぼす。
*
トップページ、我ながら(ではないのだが)いい台詞じゃないか。これは、原作のアランの心内語
(やぶちゃんの割注1:この「心内語」という語に代わるものを考えたい。如何にも、坐りの悪い、インク染みた物言いだ)
で、映画には、勿論、ない。映画のアランが、こんなこと言ったら、きっと総スカンだろう。でも、映画のアランも、確かに、そう、考えている。
アランは実行する。「世界」という認識は、「みじめな」自己存在の否定と共に、容易く実現されるものに他ならないからだ。現象としての世界は滅びないが、そんなことはどうでもよいことだ。何故なら、僕らが「世界」と言う時、それは仮象された「まさにみじめな」自己内世界の謂いに他ならないからである。
*
「世界を滅ぼすなんてできっこない」と言うならば、世界を正しく滅ぼそうじゃないか。かつてのフランスのラ・アグーのような再処理工場でも(そのうち六ヶ所村に出来るさ)、管理不行き届き美事な原発でも、プルトニウムの臨界量を半分にして侵入し、潔く死ぬ覚悟で、
(やぶちゃんの割注2:そう簡単に手に入らない? ネットでタリウムを女子高校生が買えるのに、そんな反論はないだろう。昔、ひ弱な高校教師のジュリーでさえ手に入れて、マンションで精製したじゃない。ちなみに言っておくと、あの「太陽を盗んだ男」は、あんまり馬鹿にしない方がいい。理論は勿論、プラグマテイックにもあれは全く問題がないんだ。それに考証もしっかりしている。あの中の、R回路切断というヤツに類似したシステムは、実際に当時の電電公社のトップシークレット技術として、確かにあったのだ。それどころか、核事故や戦争時の、庶民見殺しのおぞましいマニュアルさえ聞いたぜ。これは当時の電電公社技術幹部を酔っ払わせて聞き出したモノホンの話だ)
(やぶちゃんの割注3:失敗してもプルトニウムを素手で握れば適正確実に遠からずご臨終なのは当然なのだ。僕の若い頃の飲み仲間は、僕の惨めさに比して、大変な人物が多かった。中の一人は、原発の安全性のアセスメントを大手電力会社と共に企画している、僕の親父に近い年齢の誠実な物理屋だったが、酒を飲むと、原発事故など絶対起こらないと豪語し、起こっても万全のケアがなされると吹聴するのがいつもだった。彼は極めて微量でもプルトニウムは致死と言っていた。ちなみに、チェルノブイリ事故のその日に飲み屋で会った。「起きましたね」と僕が穏やかに言った。妙に、力なく「う~ん、やぶさん、僕も起こると、実は思ってたんだよ」と固い笑顔で言ったきり、後を語らなかった)
おもむろにカチッと目の前で、合わせればよい。日本どころか、アジア大半が、それで滅ぼせるぞ。世界を滅ぼすのは、いつでもだれでも、その気さえあれば出来るのだ、非文学的で、とてつもなく面白くないのだろ。
なんだか、僕らしい脱線をした文章だったな。