教師ぐらい成長しないお目出度い生き物はいない。おまけに、たかだか最長三年付き合った生徒を、「教え子」等と称して、悦に入る。だから、クラス会等に行くと馬鹿にされる。一番、言われるのは「まだ先生やってるんですか」という台詞だ。これはなかなか面白い。「まだ」とは何を意味するか。悪意にとれば、『教師に相応しくない下劣なあなたがまだ』であり、善意にとれば『あんなつまらない教師なんてものをまだ』であるかもしれず、もっとお目出度くとれば『先生のような方がたかが一介の高校教師なんてものをまだ』とも取れる(但し、最後のようなニュアンスを感じたことは未だにない。そもそも、そう感じていてくれる人は、最初の設問をしないものである)。
その二人の女生徒にはそれぞれ好きな先生がいて、二人揃ってネクタイの作り方を習いに行き、そうしてそれぞれの先生にネクタイを贈った。
その一人は僕であった。それは、僕の一等大好きなワインレッド、それもプレーンの。
僕は今も、ここぞという時、必ずこのネクタイをすることにしている。それが、僕の唯一のジンクスなのだ。
昨夜、その16年前の教え子二人としたたか飲んだ。そのネクタイをくれた彼女である。……勿論、そのネクタイをして。
僕は、彼らとのことを昨日のように思い出せる。誰が何を言い、どんな表情をしたか。少なくとも、僕はそうである。少なくともこっちは容易にその頃に戻れるのだ。いや、だいたいその教え子の高校生の時点で、こっちは成長が止まっていると言うべきなのだ。だから、懐かしがられると同時に、嫌がられもするのであるが。
教師とは成長しないお目出度い生き物である。生徒を叱咤しながら、自己成長はおろそか、それどころかすっかり出来上がった人間だと誰もが思い込んでいる(尤もその思い込みとはったりなしには、人を教える等という芸当は出来ないかもしれない。そもそも逆に『俺は自己成長し続けている教師』と慢心する輩はかつて教えた子供達に対しても失礼の極みである)。出来上がったと思い込む者は、己が周囲の他者をさらに指導したがるものだ。特にその思い込みの烈しいそれこそお目出度い何人かが、学校のシステムの中で(来年からシステムが刷新される)、主任なり主幹なり管理職になるという、悪循環が現場を腐敗した(その腐臭にさえ皆鈍感になっているのだが)ものにしている。昨日まで、日の丸君が代を声高に批判していた先生が、ある日突然、求められもしないのに、会議で、「国旗国歌を式典で掲揚斉唱するのは当然です」と発言するのだ。これは、戦中の話ではないのだよ、今の僕の職場での話なのだよ。僕のそれへの立場は「僕が教師をやめたい理由」で書いたから、繰り返さない。そうして、僕の個人の信条とは関係なく、心から国を愛する者は幸いである、と僕は心底思っている。僕が言いたいのは、そうした変節を平然としている教師が、今、子供たちの前で教えている教師の中に、いるという事実なのだ。それを恐ろしいと感じない不感症は、致死的だということだ。
昨日も、一人から「まだ先生やってるんですか」と聞かれた。
さても己が実感だな、「まだ」は。