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2006/01/29

人生は何故有意義でなくてはならないのか?

僕は、今日、仕事から帰る電車の中で、芥川について複数の引用を重ねた本を読んでいた。後代の批評家のみならず、彼の実の盟友でさえ、彼の小説には人生が見えぬと言う。彼のあらゆる作品は剽窃である、己という人生の見えぬ小説家は畢竟失敗だ、芥川は、己を隠すことに汲々とした結果、当然の如く自から果てた……

……思わず、その傲岸さに反吐が出そうになった。息苦しくなった僕は、本から目を離した……

……大声で携帯をかけている若い女、ゲームに興じて三人座席を一人占領して口を尖らせている男、ポケットのゴミをこっそりと捨てるお洒落な若僧、眠れる喧騒の森の老婆、何か臭いのはドア際の草の種を体のあちこちに付けたプー太郎の老人だろうか、降車階段から1スパンはずれそうなだけなのに舌打ちをしてぶつくさ言っているおばさんが横にいた――勿論、右手をにぎにぎしながら、付箋を忘れて気になるページにせっせとドッグ・イアを作っていた僕という存在も、立派に異様な中年として彼らに映っていたには違いない――しかし、そんなそれぞれに違った、いうところの凡庸な我儘な「人生」に生きている人々を眺めながら、こんなことを思った……

……明治維新からその末年に至るまで、自我の覚醒を謳う、いわゆる選ばれた「明治の知識人」達のみが、やっとこ一個の己を苦悩する主人公を、たかが数編の小説に描き得たに過ぎなかった。すると大正にかけて、今度は、それを自称「マイナー・ポエット」達がMRSAのように、あらゆる免疫不全の芸術分野に感染させた。しかし、大多数の大衆は、どこにいたのか? 彼らの、よりよき個としての存在たる「人生」は? そうして、芥川は預言者のように、いや、己がもっとおぞましい己に反した生き方をすることを、拒絶するために自尽した。富国強兵と皇民化からファシズムへの道のりの果てにあったのは、滅私奉公へのうんざりした回帰であり、そこには公的な視点からの「個人の尊重」も、「人生」も、なかった。そうして、芸術家は何をしたか? その個別的罪証を挙げつらうのは生産的ではない。荒川洋治は一篇の詩でも翼賛に関わった詩人はその責任を負うべきだと、教え子の大学の講義で豪語したと聞いたが、いっぺんで現代詩人なるもの全体が厭ましくなった。思い返せば、後に己を岩手に幽閉した文学報国会詩部長高村光太郎の沖縄戦賛美は馬鹿正直の自業自得としても、「落下傘」の金子三晴が反戦で、瀧口修造の「春とともに」は翼賛だと決め付ける輩は、スターリン並みのおぞましさだ。さてもそれよりその時、大衆は、どうしていた? どういうところの「よりよき個/人生」を生きていたのか? そうして、無数の屍の山を経ながら、あっと言う間に、僕らは、あたかも伝家の宝刀としての「自我の尊重」を当たり前のこととして信じるようになる。それは、GHQによって作られた憲法(僕が憲法改正の国民投票に賛成し、改正に反対であることはかつてのブログを見られよ)の棚ぼたのように得た、たかだか60年の短い幸いの歴史でしかなく、歴史的に見れば、不確かな仮説の一つに過ぎぬとさえ言い得る。いや、それが、今、音を立てて、崩れようとしてさえしているではないか……

……それは鏡像理論を想起させる。現代の「知識人」が現代の「文学」を求めたのではない。「文学」がゾルレンとしての「人生の意義」を強要したのだ。芸術が、我々の鏡像なのではない。ザインである我々が、芸術の、政治の、そうして、言うところの「人生」という規定された鏡像なのだ。僕らというそんなドリアン・グレイの肖像は、そうして「あるべき、有意義な、正しい、よりよい人生」を生きねばならないはめになった。そうしてそれを、教育が美事に順調に翼賛した(僕も、勿論、その謗りを免れぬであろう)。しかし老いてゆくのは、僕らと言う描かれた虚構なのだ……

……駅に着く。携帯はパタと閉じられ、ゲームの御仁は負けたようだ、ゴミはリハビリ代わりに僕が拾った、おばさんは僕を突き飛ばすと軽快に階段を上って、婆さんは涎をふいて立ち上がった、プーの爺さんは新住所の公園を目指すのであろう……僕は僕で、妻に帰るコールをする。帰ったなりに、暖かい幾たりかの食い物と酒に酔いしれるという、退屈な凡庸さのために。人生に、推量だか予想だか当然だか義務だか適当だか勧誘だか可能推量だか有象無象判別の困難な高校生泣かせの助動詞「べし」は、断じて、いらない。僕はゾルレンを求めない。「あるべき」なんて、「糞、喰らえ!」

芥川龍之介 點鬼簿

芥川龍之介「點鬼簿」を正字正仮名で公開。彼の随想の中で一読、忘れ難い名品である。どのエピソードも、僕が「或阿呆の一生」に幾分感ずる、ブラッシュ・アップゆえの『本物の贋』臭さとも言うべき、微妙な距離感が消えている。未読の方にお薦めする。

本日は、仕事に付、店仕舞い。

芥川龍之介 鵠沼雜記

僕は全然人かげのない松の中の路を散歩してゐた。僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の睾丸を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲り角へ來ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。

「鬼気」とは斯くなるものを言う。

2006/01/28

芥川龍之介 芭蕉雜記・續芭蕉雜記

芥川龍之介「芭蕉雜記・續芭蕉雜記」正字正仮名版を公開。

アリスを初めて風呂に入れる。遂に体験することはなかった子供を風呂に入れることの、疑似体験だった。

2006/01/25

芥川龍之介句集 完成

暫く、ブログも禁欲して、「やぶちゃん版芥川龍之介句集」の「我鬼全句」による校訂をやり終えた。結果として、旧全集を中心資料としたであろう「我鬼全句」の1014句を遥かに越える句を採ることが出来たと思う。何を重複句とするかもあり、僕は僕の渉猟した句数を数えることの意味を余り感じていない。しかし、嘗てのような芥川の好きの僕のような者だったら、これは面白いと思ってもらえる句集に仕上がったとは思うのだが。失敗でない僕のような僕が、このページに辿りついてくれたときに、笑みを洩らしてくれれば本望である。おやすみ

2006/01/20

帰還

昨日、無事修学旅行が終わった。僕のクラスは、沢山の素晴らしい思い出と共に、楽しく戻ってきた、ゼッタイだ。

まず僕が、どうしてもみんなに聞かせたかったのは、初日のひめゆり学徒隊の宮城喜久子先生のお話。本当に、一人一人が、静かに心から聞いてくれて嬉しかった。御自身が選び取った、語り部としての「覚悟」を、誰もが確かに心に刻んでもらえたと思う。一期一会――あなたと誰かはいつも一期一会なんだ――そうして誰にも、ここぞという時の「覚悟」は出来るんだ――

一昨日は、体験学習。僕は一人、やんばるへ30人の子らと一緒。

午前中はカーカヤック(二人乗りのカヌー)による億首(おっくび)川のマングローブ観察。

寡黙だけれど、気持ちは知れている去年の担任生徒と、僕は組んだ。

水面からそう高くない視線は川との直感の一体だ。

海蛇を間近に見たという女生徒のコワ面白い声が忘れられない。

ほかの血気盛んな連中は、しゃかりきになって漕ぐのだけれど、僕らのカヌーには追いつけない。帰りのコースでは闘志満々、競艇と相成ったが、僕ら二人はぶっちぎりで一番だったんだ。

僕は、本当に、少年のように、はしゃいだ。

7月の骨折以来、こんなに笑ったことは一度として、なかった。気がつけば、僕は右腕の不自由を、すっきりくっきりおっくび、忘れていた――半年前にすっかりおっくび失っていた自信が、確かに戻ったのだ――

さても、琉球放送を見れないのは残念。最初から最後まで、エコツーリズムの取材で撮影された。最後には子らも、ついでに僕も、相当くさいカメラ目線でインタビューに答えたものだった……。

そうして、午後の万座毛イノー観察。

あの骨折以来、初めて全く同じように、僕は海岸に立った。

ニセクロナマコを見つけた途端、インストラクターなんて視界から消えうせた。

握って揉むと、キュビエ管を噴き出させた。僕は、吐臓現象とその再生を子らに教える。

驚いただろ?――そうだよ、僕のエクスタシーだ――このキュビエ管、黒々とした男根からべとべとと精液のようだと思ってごらん――それで僕の至福の憂鬱は美事に完成したのだ! 岩場の青白いガンガゼの眼点は、さわさわと鋭い針を優美に寄せながら、優しく祝福していたじゃあないか……。

最終日には公設市場で、頰の落ちるオニダルマオコゼも喰えた。直後に急患の生徒が出て、病院の待合室でまるまる過ごしたのは想定外だったけれど、それはそれで修学旅行というものの風情なのだった……。

それから、修学旅行には付きものの失恋、破局、そうして片や、新しい恋――おじんの僕は、おじん故に、それもよく見えているよ――でも、それは、それで、いいんだ――それでこそ、恋だもの――

楽しかったね、本当に。心から、君たちに感謝!

2006/01/15

修学旅行

明日から三泊四日の沖縄修学旅行に出る。三日目、僕はマングローブのカーカヤック(カヌー)による観察(右腕首の旋回不具合で、パドルの操演が少し気がかりではある)。と、何と誠に性懲りもなくイノー(珊瑚礁の巨大タイド・プール)の生物観察に付き添う。では、随分、ごきげんよう!

2006/01/14

墓の中

全てが切実に切迫していた。私は生き生きと悲しもう。私は瑩墳に帰らなければならない。(坂口安吾「ふるさとに寄する讃歌」より)

独身頃の僕の書斎を訪ねた友は、言った。

「この部屋は、君の玄室だね……」

「我鬼全句」による校合開始

「我鬼全句」に載る句とやぶちゃん版を一句ずつ、校合する。「我鬼全句」所収は1014句、長丁場になるが、これで粗方の句は校正が出来、暫定版の表示を外す地平が見えてきた。それにしても、「我鬼全句」が各句の引用元を明らかにしていないのは、大いに困る。まあ、いい。すぐ出来ることでは、アンガジュマンにならんからなあ……。

2006/01/12

忘れ得ぬ人々 9 Maria

Mariaについて書いて欲しいというリクエストに応えて。

あれは、28の時だ、僕はある種の傷心の中にいた。それは、半ば以上は僕自身の招いた結果というべきであったが、あらゆる対人的対象を見失って、夜毎、大船の夜の街を、襤褸布のようになって、彷徨っていたものだ。いや、それは今も寸分違わない、彷徨わずにじっとしているだけ、よりたちが悪くなっているとも言えるが……。
……そんな宿酔の八月、僕はぎしぎし軋る頭を何とか抱えながら、鎌倉に絵を見に行った。何の特別展であったか、それも最早覚えていないほどに、意想外の退屈な展示だったのだろうか? ともかく、ほうほうの体で、僕は小町通を駅に向かっていた。そうして、ある四つ辻で、はたと足を止めた。実は予てより、気になっている店があったにはあったのである。若者が好みそうなお洒落な和小物を店前のワゴンに並べてはいるものの、その店内は骨董店で、ショー・ウィンドウを透かして、その少し翳った奥の展示ケースに五体のアンティーク・ドールが飾られているのである……。
一体、僕は人形が大好きだ。
幼稚園の時、近所のお姉さんの雛祭りに呼ばれて行った。女の子たちは、じき家で遊ぶのに飽いて、皆外へ羽子板打ちに出かけてしまった。そこのお母さんはすっかりみんな遊びに行ったものと、雛壇の飾られている部屋に片付けに入ると、そこに、僕がいたそうだ。僕は、雛壇の前に、ちんまりと正座して、いつまでも、じっとお雛様を眺めていたそうである。思えば、小学校の六年生になるまで、安物の西洋人形を、本棚に飾っていたし、なんと今でも、僕の家には子供がいないにも拘らず、御殿付の七段飾りが、桃の節句には、居間の四分の一を鎮座占領する。これは、ちなみに名古屋生まれの妻の持ち物で、僕の懇請で飾ってもらっているのである。ピグマリオン・シンドーロムと言われるのであれば、こんなに名誉なことはない。それは澁澤龍彦の言う正に「人形愛」だ。ちなみに、僕に、娘がいなくてよかったと思う。その理由は、澁澤と全く同じだ。
 ……やや暗い奥のショー・ケースの真ん中は、ジュモーと見た。羽毛の帽子を被った小ぶりの顔は、大人になることを毅然として拒否する挑戦的な眼を持つ。その右手には、やはりフランス系列の、しかし少女漫画の如き途轍もなく巨大な目とフォークのような睫毛を装着した顏でかの二体があり、左手にはドイツ製と思われる、ややそれぞれの顔の部品が落着い二体が見えた。ところが、そのいっとう左の一体は、ケースの前に飾られた赤ん坊の日本人形の乗る乳母車の庇に隠されてよく見えない。僕は、店の外のショー・ウィンドウに近づいた。
 彼女は、半ば翳った奥のケースの中で、窮屈そうに、立っていた。ワイン・レッド(僕のいっとう好きな色だ)の服に、少し困ったように、左腕を宙にとめて、しかし、笑っていた、仄かな薔薇色の頰と共に……。少し困っているのは、中央の我儘ジュモーとその眷属に従わねばならぬ辛さと直感した。僕は、店員のいるのも忘れて、硝子に額を押し付けて、一心に、彼女を見たものだった……。
 ……その翌日、そうしてその翌々日も……僕は彼女を見に行った。未だ若いとは言え、垢抜けない冴えぬ男が、三日日参すれば、目立つのは当り前だ。その日、ショー・ウィンドウの前に立っていた僕に、店のマダムは、最初に、こう言った。
「気になる御人形がおありですか?……人形は……出逢いです、よ……」
僕の脳天から肛門(ケツノアナ)まで、ものの美事に電撃が走った。小町通の雑踏が凍った。チャップリンの映画のように、人々が早回しで去って行き、僕と、人形の彼女だけが、ブレずに画面に映っている……僕は如何なる歓喜や悲哀の折にも、あのようなエクスタシーに等しい「痺れ」を感じたことは未だ嘗てないと断言できる。でなければ、極度の貧乏性で、一万円以上の買い物には難色を示した当時の僕が、躊躇することなく、ボーナスの三分の二を軽く遣い果たしたはずがない。
 マダムに導かれて、人気のない店内に入ると、
「どちら?」
と聞かれた。さても、その折の僕には、今のような居直りはなかったから、含羞に俯きながらも、それに応えずに
「真ん中のは、お幾らですか?」
と聞いたものだった。これは、マダムの商人としての好戦性を軽くいなしたといってよい。永遠の少女を豪語する不敵なジュモーは嫌いだった。
「お分かりと思いますが、これは売れないので御座います。」
ときた。そうだろう、そうだろう、この屹立は、店主のコレクション、それでこそコレクター(しかし、売るとすれば、100万は軽く超えます、と商売上手)。
僕は徐に、指した指を、左へずらしてゆく。
「この子は?」
……あとのことはあまりよく覚えていない。この子を選んだことを、マダムが痛く感動したこと、本来なら三万円はする、この子の白のドレスを無料でつけてくれたこと、そうそう、「アンティーク・ドールでは、何が高いって、オーダーの靴なんで御座いますよ……ものによりますけれど、五十万位はざらで御座います……ホホ、本体より高こう御座いますね……」(彼女は残念ながら、人形制作時よりかなり後に作られた、見るからに安っぽい人工皮革の黒のローファーだった)という話等等……。
……その八月二十三日の夜、僕はバド・パウエルのラスト・レコーディング・アルバム“アップスン・ダウン”を聴きながら、新しい娘、Maria と二人きり、ピースポーターのゴールドトロッフェン・リースニング・アウスレーゼを大奮発して、乾杯した。クーラーもない部屋で、あられもないパンツとランニングの僕と、「ご主人様、お帰りなさいませ」風のドレスのMaria と……。素敵に危ないシークエンスだったな……。
前に書いたけれど、彼女のプロフィルを。
ビスク・ドール、シモン&ハルビック社製、四肢関節眼瞼可動、ヘッドナンバー1909。妻よりも僕との生活は永い。四谷シモンという俳優は御存知だろう。彼のシモンという芸名は、この「シモン&ハルビック」からきている。先に言った我儘なジュモーは、超有名なフランス人形の制作工房だが、あまり知られていないのは、ジュモーのヘッドが、一時期、シモン&ハルビックで創られていたということであろう。伝家の宝刀ジュモーでさえ、シモンのビスクには、脱帽だったのだ。ビスク・ヘッドは焼きを三回入れる。だから、あの微妙な薔薇色の頰が出来るのだ。
最後に、Maria は、球体形式の自由関節である。眼球には、錘がついていて、横にすると、眼を閉じる。鎌倉期仏像のコペルニクス的転換を思い出し給え。刳り貫きと分割創作によって、玉眼が出来たのと同じだ。Maria はちゃんと眠るのだ……。
 ……一年経ったある秋の夜、例によって、泥酔した私は、未明に書斎に戻った。……白いドレスが眼に入った……着替えさせてやらないと、如何にも可愛いそうだと思った。横たえて眼瞑る彼女の衣服を、一枚ずつ脱がす……下着も着けていた……どうにか、僕は暗い電燈の下で、着せ替えを終えたが、勿論、流石の僕も、こう思った、
「俺は、何をやってるんだ…………」
僕のマリア、マリアの僕……。

原民喜全詩集

「原民喜全詩集」を「心朽窩」に公開。しかし、詩集以外の彼のすべての作品も、彼にとっては「詩」であった。

春の美しい一日   原民喜

 春の美しい一日はたしかにある。暗い暗い人世に於いてすら、たしかにそんなものはあつた。

 不思議なことに、それを憶ひ出すのは一つの纏つた絵としてである。私について云へば、額縁に嵌められた、春の野山の風景がある。霞んだ空と紫色の山と緑の道路とが、中学生の頭に一つの苦悩にまで訴へて、過ぎ去つた瞬間を追求させた。するとたしかに窓枠が浮んで来た。その窓のほとりで子供の私が悲んでゐた。四月の美しい空を眺めて、その日が過ぎて行かうとするのを恍惚としてゐた。何が一体恍惚に価したかと云へば、その日は桃の節句で、小さな玩具の鍋と七輪で姉が牛肉のきれつぱしを焚いて、焚けると云つて喜んでゐた。しかし、私の頭にはもつと何か美しいものが一杯とその日には満ちてゐた。美しいものとは何か、それは結局何でもないことにちがひない。

 今にして、私は昼寝して、空が真青だ、あんな真青な空に化したいと号泣する夢をみる。荒涼とした浮世に於ける、つらい暗い生活が私にもある。しかし、人生のこと何がはたして夢以上に切実であるか。春の美しい一日はたしかにある。

梶井基次郎 檸檬に関わる「瀨山の話」の草稿断片(やぶちゃん版)

深夜を回ったが、何とか、梶井基次郎の『檸檬に関わる「瀨山の話」の草稿断片(やぶちゃん版)』を公開できた。作者の「檸檬」に至る旅は、これで、より「鼻を撲つ」刺激的な香を感じさせてくれるであろう。

今朝、川の水温が大気よりも高く、水煙が立ち込め、そこに昇り初めた日差しが反射し、その流れの只中に、一匹の青鷺が、毅然として立っていた。つげ義春の「無能の人」の鷺が人の姿になるコマが鮮烈に浮かんだ。誇張ではないのだ、蒼鷺のシルエットは、孤高な哲人の屹立する姿そのままであった……。

2006/01/10

テクスト大混戦

本日、「芥川龍之介句集 我鬼全句」がやっと手に入った。ぱらぱらめくると、僕の「芥川龍之介句集」の気になる部分がいくつか見えてくる。非芥川句であることが示されている部分は補正したが、これは強力な助っ人であるが、これを用いての校訂・追補は結構時間がかかりそうだ。

同時に、打ち込み中の、梶井の「瀬山の話」草稿(旧字にするとミクシィのブログ題名では「?」になってしまうので新字にする)は、予想外に手強い。草稿だけに抹消や訂正、が随所にあってその僕なりの統一性を図るのが難しいのである。しかし、乗りかかった舟だ!

と思ったら、教え子から原民喜の詩集にエールを送られた。

う~ん、まず「瀬山の話」⇒「原民喜詩集」⇒「芥川龍之介句集」としようか。しかし、来週は修学旅行で沖縄だあ……しばしの御猶予を! 

2006/01/09

散歩   原民喜

散歩   原民喜

 忘れ河の河のほとりを微笑みながら歩いてゐる男がある。もうみんな生きてゐた時の記憶は忘れてしまつたらしい。それなのにその男は相変わらずいゝ機嫌で歩いてゐる。まるでいたづらな小娘のやうに微笑みながら、何かめつけようとしてゐる彼の眼や、たえず喋らうとしてゐる彼の唇がある。凉しい太陽が靄の中を流れ、彼もたつた今目が覚めたばかりなのだ。もう一度睡くなつたら睡るばかりだ。

[やぶちゃん注:「がけろふ断章」中の「散文詩」の中の一篇。初出は昭和三一(一九五六)年青木文庫版「原民喜詩集」。底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」。]

腕のお蔭で得た、長い休暇は終わる。飴のように伸びた、蒼ざめた孤独な時間がまた始まる、という訳だ。

檸檬 草稿断片

「檸檬」の最後に、原稿用紙半ピラ一枚、唯一残存する草稿原稿断片を追加した。

ことの序でだ、梶井の日記にある「瀨山の話」の檸檬を挿話とする草稿断片部分も、近いうちにアップしよう。

Maria 成人

今日は長女 Maria の成人式。 maria

蟻   原民喜

 蟻   原民喜

遠くの路を人が時時通る
影は蟻のやうに小さい
私は蟻だと思つて眺める
幼い児が泣いた眼で見るやうに
それをぼんやり考へてゐる

[やぶちゃん注:「かげろふ断章」は原民喜の死後に刊行された、昭和三一(一九五六)年刊青木文庫版「原民喜詩集」を初出とする。]

2006/01/08

瀬山の話

かつての教え子が昨日のテクストを再読し、成立過程に興味を懐いた。そこで、丸一日かかったが、梶井の「檸檬」の原型である「瀨山の話」を、電子テクスト化した。しかし半ば以上は、己が欲求に従って成したというべきである。

今日、アリスと散歩した。みんなに可愛い可愛いと言われて、公園デビュー。パグ犬二匹と仲良くなった。一緒に居た、しっかり大人のオスのビーグルは、三箇月のアリスに何故か尻込みして近寄らない。無垢無防備にやんちゃだからだろうか。イディオ・サヴァン、アリス。

別な教え子からは、僕はとってもしあわせなんだろうなあ~、とメールを貰った。さても、それはどうだろうか。少なくとも、アリスといる時、テクストを打っている時だけは、不幸せだとは思っていないかも知れない。どちらも右腕の微妙な不自由を忘れていられるからであろう。

原民喜 はつ夏/気鬱

はつ夏   原民喜

 ゆきずりにみる人の身ぶりのうちから そのひとの昔がみえてくる。垣間みた あやめの花が をさない日の幻となる。胸をふたぐといふのではない、いつのまにかつみかさなつたものが おのれのうちにくるめいてゐる。藤の花の咲く空、とびかふ燕。

 

気鬱   原民喜

 母よ、あなたの胎内に僕がゐたとき、あなたを駭かせたといふ近隣の火災が、あのときのおどろきが僕にはまだ残つてゐる。(そんな古いことを語るあなたの記憶のなかに溶込まうとした僕ももう昔の僕になつてしまつたが)母よ、地上に生き残つていつも脅やかされとほしてゐるこの心臓には、なにかやはりただならぬ気鬱が波打つてゐる。

1962年のカサドのフォーレの「夢のあとに」を聴きながら……次なるアンガジュマン、「原民喜全詩集」としよう……


【2016年3月16日追記】

以上の二篇は、昭和二三(一九四八)年五月号『晩夏』(季刊・足利書院)に初出。私が私の「原民喜全詩集」(既に完成済)で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」の書誌では昭和二十五年五月とするが、
書誌(PDF)を見る限り、前者が正しいものと思われる。二篇目の「駭かせた」は「おどろかせた」と読む。「驚く」に同じい。]

2006/01/07

二匹ともころぶのだ

森川義信は鮎川信夫に、加藤健という詩人の次の詩を示し、

 

公園の熊の子は寂しい

二匹で相撲をとるのだ

そして

二匹ともころぶのだ

 

この詩をはじめて読んだ時、涙が出そうになった。わかるわからないは問題ではない、「どれだけ感じているかだ」と言い、「それは人の眼には見えない」と。(1982年美成社刊 鮎川信夫「失われた街」より要約)

僕はこの詩も、そうしてこの話をする森川も、限りなく好きだ。

森川義信詩集

「森川義信詩集」を「心朽窩」に公開した。

森川義信 あるるかんの死

あるるかんの死   森川義信

眠れ やはらかに青む化粧鏡のまへで
もはやおまへのために鼓動する音はなく
あの帽子の尖塔もしぼみ
煌めく七色の床は消えた
哀しく魂の溶けてゆくなかでは
とび歩く軽い足どりも
不意に身をひるがへすこともあるまい
にじんだ頰紅のほとりから血のいろが失せて
疲れのやうに羞んだまま
おまへは何も語らない
あるるかんよ
空しい喝采を想ひださぬがいい
いつまでも耳や肩にのこるものが
あつただらうか
眠るがいい
やはらかに青む化粧鏡のなかに
死んだおまへの姿を
誰かがぢつと見てゐるだらう

かつて僕にとって鮎川は、作品人物共に難解な詩人であった。難解でも重要な作品は生き残るというやや力技の如き謂といい、松川事件での彼の裁判所と検察へのお目出度いまでの頑なな信頼、確か死の直前の「現代詩手帖」のインタビューの後、彼はインベーダーゲーム機へと去っていった。

しかし、「死んだ男」を27の時に授業でやって以来、僕は現代詩の授業に必ず、これを入れている(HPの「アンソロジーの誘惑/奇形学の紋章」中の「詩人の群像~近現代詩篇」島崎藤村「初恋」から藤森安和の「せっぷん」までは、僕の現代詩授業用のオリジナル・プリントである)。

鮎川の詩、いや、彼にとって「荒地」として立ち現れてきた戦後社会を考える時、この森川という分身を透過せずに感じることは、殆ど不可能であるように思われる。鮎川の詩は、森川との永遠のコール・アンド・レスポンスであるようにさえ感じられるのである。

森川義信 衢路

僕の、永く逢っていない友へ。

 衢路    森川義信

友よ覚えてゐるだらうか
青いネクタイを軽く巻いた船乗りのやうに
さんざめく街をさまよふた夜の事を――
鳩羽色のペンキの香りが強かつたね
二人は オレンジの波に揺られたね
お前も少女のやうに胸が痛かつたんだろ?
友よ あの夜の街は新しい連絡船だつたよ
窓といふ窓の灯がパリーより美しかつたのを
昨日の虹のやうに ぼくは思ひ出せるんだ
それから又 お前の掌と 言葉と 瞳とが
ブランデーのやうにあたたかく燃えた事も
友よ お前は知らないだろ?
ぼくが重い足を宿命のやうに引きづつて
今日も昨日のやうに街の夜をうなだれて
猶太人のやうにほつつき歩いてゐる事を
だが かげのやうに冷たい霧を額に感じて
ぼくははつと街角に立ち止つて終ふのだ
そしてぼくが自分の胸近く聞いたものは
かぐはしい昨日の唄声ではなかつたのだ
ああ それは――昨日の窓から溢れるものは
踏みにじられた花束の悪臭だつたのだ
やがて霧は深くぼくの肋骨を埋めて終ふ
ぼくは灰色の衢路にぢつと佇んだまま
小鳥のやうに 昨日の唄を呼ばうとする
いや一所懸命で明日の唄をさがさうとする
ボードレエルよ ボードレエルよ と
ああ 力の限りぼくの心は手をふるのだつたが
――又仕方なく昏迷の中を一人歩かうとする

梶井基次郎 檸檬 附 秘やかな樂しみ

昨年、教え子が、閉店の丸善に檸檬を置きに行きたかったと洩らした。当日は、予想に違わず、多くの檸檬が置かれたそうだ。こうなると、丸善どころか、地球を何度も破壊できる核兵器並だな。しかし、これは負け惜しみ、僕も置きに行きたかった。授業で付けた、詩も添えた。

2006/01/06

漁村   森川義信

漁村   森川義信

波がものを言ふやうになつてから

誰も姿を見せない砂浜に

抵抗する事を知らない貝殻のやうな女が

私生児(ないしよご)を抱いて立つてゐた

それは――生きる為には、生きる為には

        泥蟹をまで食べなければならぬ

        悲しい漁村の一つの姿である

夢を見ることのゆるされない漁村の娘は

今日の泥蟹の殻ばかりを捨てに行くのだつた

次なる自己拘束……鮎川信夫の「死んだ男」=森川義信の詩を、纏めよう……    

梶井基次郎 櫻の樹の下には/愛撫

梶井基次郎の「櫻の樹の下には」と「愛撫」を正字正仮名で公開。僕が、今まで、最も多く授業で朗読してきた作品である。ペアで取り上げることが殆どだったので、ほぼ同じ回数だけ読んでいると言ってよいだろう。この二作ぐらい、朗読する側の醍醐味を感じさせるものは、そうない。あなたも、声に出して読んで御覧なさい、騙されたと思って――。一つ残念なのは、生徒に「愛撫」に関わって、つげ義春の「やなぎ屋主人」のラストシーンは話せても、全編見せることが出来ないことだった。読んでいない大人の貴方、是非、お読みあれ。

2006/01/05

宮澤トシについての忌々しき誤謬

 

 山根知子著「宮沢賢治 妹トシの拓いた道」(2003年朝文社刊)を読む。「銀河鉄道の夜」の関わる論考や、トシの内的省察の分析、誠に面白く読んだ。同時に僕は、昨年の賢治忌に書いた自己のブログを修正しなくてはならない義務をも感じた。
 以下に記す嵐山光三郎氏の叙述に関心を持ち、山根氏の著作に巡り逢ったので、それは嵐山氏に感謝せねばならないのであるが、下線部の下りは無視できない全くの誤謬である。孫引きする宮澤淳郎『伯父は賢治』を僕は読んでいないので、嵐山氏には、直接の瑕疵はないのとも言えるが、この資料のこの見解が、嵐山氏の「文人悪食」というメジャーな文庫本で広がり、まさにゴシップとして誤解され続けていくこと、それがトシにとって、如何に最下劣な仕打ちとなるかということを嵐山氏は深刻に自覚されるべきであると思う。
 山根氏の著作には、宮沢トシの問題とされている「自省録」原文が再録されている。これと、山根氏が当該書籍の「第一部 トシの生涯と信仰」で明らかにしている「岩手民報」の「音楽教師と二美人の初恋」という誠に愚劣なゴシップ記事に纏わる事件を読む時、「あの事」とはこのゴシップ事件以外の何物でもない。「Oさん=お兄さん」は逆立ちしても出てこない。僕はここでそれを検証することさえ馬鹿馬鹿しく感じられるが、「自省録」の「Oさんに対する彼の心が分かった時にも」という下りを出すだけでも充分である。疑義のある方は、是非、「宮沢賢治 妹トシの拓いた道」をお読みになることをお薦めする。

 「自省録」は襟を正して読むにふさわしい極めて真摯なものである。そこには悪人正機に似た罪障の認識の変容過程が、誠に丁寧に綴られている(但し、自立的な自己再生を目指すその先は全くトシ独自の「思想」と言うべきである)。
 断っておくが、僕は、近親相姦的叙述が愚劣だと言うのではない。実際、以下の引用の後の僕の叙述は、一部をそのまま残すことにした。僕には、トシの側ではなく、賢治の内面に(特にトシの死後)想像を絶した強烈な――狂気にさえ繋がりうる――トシとの霊的な交感(山根氏も当時、勃興した心霊科学等を参考に分析されている。この観点も正鵠を射ていよう。ちなみに読みながら、タイタニックに纏わる都市伝説の報道が当時あって、それを賢治が読んでいたらどうであったろう等と夢想した)があったのだと思う。しかし、「自省録」というそのような解釈が全く不可能である資料から、間違った見解を導き出し、それがひいては、あの彼女が悩んだ事件のおぞましき再来のように、今またトシを傷つけることになっているということが問題なのだと繰返し述べておきたい。賢治は分かっている研究者たちだけのものでない。こうした誤謬を表明し、正すことこそ、研究者がなすべきことではないのかと、僕は感じる。

『賢治の妹としに対する近親愛的関係に触れることは、賢治信奉者のあいだでは禁忌となっているようだが、宮澤淳郎『伯父は賢治』には、昭和六十二年に発見されたとしのノートの要約が載っている。

「(自分の)病気の原因は一朝一夕のものではなく、五年前(大正四年、としが日本女子大予科へ入った年)から私の心身に深く食い込んでいた。……私は自分のうちの暗い部分を無意識のうちに恐れていたに違いない。この部分こそは――今はあえて言おう――私の性に対する意識であったのだ。(中略)私の心には常に『あの事』について懺悔し、早く重荷をおろして透明な朗らかな意識を得たいという願いがあった」

あの事」とは男性との性的行為を暗示し、具体的にだれをさし、「なにがあったのか」は記されていないが、としは「五年前に遭遇した一つの事件が教える正しい意味を理解し、償うべきものを償い、回復すべきものを回復したい」と書いている。

 としは「あの事」の相手をOさんと書いており、「Oさん=お兄さん」とも考えられるが推測の域を出ない。福島章氏は、賢治ととしの近親相姦的関係を「精神的=情緒的問題であって肉体の問題ではない」としつつ、賢治の童話に反復して出てくる兄弟の愛情関係を分析している。

 としを失って以来、賢治の食生活は「死の食卓」を幻視するようになる。食卓ばかりではない。風のなかに又三郎を幻視し、松の根元では死の夢を見、切り倒された松を見ては松の死を共感し、夜空をあおいでは死の銀河鉄道の響きを幻聴する。

 三十二歳のとき急性肺炎を発病すると「淋シク死シテ淋シク生マレン」と記すようになる。死は現実として賢治にしのびよるが、妹としを失ったときに、賢治はすでに死んでいた。精神は死んでも肉体は生きつづけ、賢治は死者の目で童話を書きつづけた。』(新潮社 2000年刊 嵐山光三郎「文人悪食」より引用 一部ルビ省略。下線はやぶちゃん

 著作のコンセプトの関係上、ここまででトシとの関係の考察は終わっているが、賢治の世界を真に探ろうとする者(味わうことに飽き足らず探ろうとする者という微妙な条件ではある)は、そこに目を瞑っていては、到底足を踏み入れられない。踏み入りたければ、そこに現出するのは想像を絶する絶対の孤独の反世界であるかもしれないという覚悟が不可欠だ。ちなみに、言及される精神科医の福島氏でさえ、その賢治関係の著作を読むに、花巻に近づくに従って、体調が変化してしまうというバイアスのかかる、もう立派な信奉者である。
 賢治宇宙こそはまさにブラックにワーム、ダークにタキオン、分子に還元し、消滅する瞬間が途方もない永遠に感じられる、そこに「在る」のかもしれぬ。 

2006/01/02

坂口安吾 ふるさとに寄する讃歌

昨日で坂口安吾の著作権が切れた。僕の愛する「ふるさとに寄する讃歌」を置き土産しておく。

27歳の頃に、一度だけ、この作品を授業したことがあった。最初の授業で朗読し終わった時、思わず、涙が零れた(私は朗読七割、授業内容三割の朗読イッパツ勝負の、国語教師としてはヘンタイ的存在である)。

僕が、授業で図らずも泣いてしまった最初の作品であった……。

2006/01/01

芥川龍之介句集について

今日、所蔵する纏まった資料を粗方使い尽くした。その最後にとして、雑誌「墨」の短冊の写真版の短冊を検して、今後も、改訂を重ねるが、一応、それなりの「やぶちゃん版芥川龍之介句集」の形が出来上がった。杜撰なものではある。しかし――「わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。」――この彼の言葉が、僕は好きだ――

また暫らく、旅に出る。随分、ごきげんよう。

謹賀新年

迎春

今年もHP「鬼火」共々、「Blog鬼火~日々の迷走」をよろしく。

                         やぶちゃん

                   2006年1月1日 元旦

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