森川義信 衢路
僕の、永く逢っていない友へ。
*
衢路 森川義信
友よ覚えてゐるだらうか
青いネクタイを軽く巻いた船乗りのやうに
さんざめく街をさまよふた夜の事を――
鳩羽色のペンキの香りが強かつたね
二人は オレンジの波に揺られたね
お前も少女のやうに胸が痛かつたんだろ?
友よ あの夜の街は新しい連絡船だつたよ
窓といふ窓の灯がパリーより美しかつたのを
昨日の虹のやうに ぼくは思ひ出せるんだ
それから又 お前の掌と 言葉と 瞳とが
ブランデーのやうにあたたかく燃えた事も
友よ お前は知らないだろ?
ぼくが重い足を宿命のやうに引きづつて
今日も昨日のやうに街の夜をうなだれて
猶太人のやうにほつつき歩いてゐる事を
だが かげのやうに冷たい霧を額に感じて
ぼくははつと街角に立ち止つて終ふのだ
そしてぼくが自分の胸近く聞いたものは
かぐはしい昨日の唄声ではなかつたのだ
ああ それは――昨日の窓から溢れるものは
踏みにじられた花束の悪臭だつたのだ
やがて霧は深くぼくの肋骨を埋めて終ふ
ぼくは灰色の衢路にぢつと佇んだまま
小鳥のやうに 昨日の唄を呼ばうとする
いや一所懸命で明日の唄をさがさうとする
ボードレエルよ ボードレエルよ と
ああ 力の限りぼくの心は手をふるのだつたが
――又仕方なく昏迷の中を一人歩かうとする

