芥川龍之介 玄鶴山房
満を持して、芥川龍之介の「玄鶴山房」を公開する。満を持して?――僕が最も芥川の作品中、真に絶望的で猥雑で露悪的で故にこそ好きな作品だからとだけは、言っておこう。
識者はエンディングのリイプクネヒトに新時代の光を読んだりするが、僕には「新時代」のインキ臭さ、芥川が内心、予兆し、美事に当たったプロレタリア文学の勃興と崩壊、そうして続く「近代文学」の不毛の荒野以外に、感じない。見え透いたかすかなロマン的望みは、大いなる現実的実在への冷徹な眼によって絶望を見据えている。しかし、この作は、芥川私生活の赤裸々な寓話でもある。校正しながら、今更に、玄鶴の部屋の病褥の饐えた匀(五章のラスト、己が行為を武夫に見つかるシーンは僕自身、是非演じてみたい欲求にかられるところだ)と、若き日のシモーヌ・シニョレに演じさせたい甲野に、慄とするほど吐気と色気を覚えて、美事に、痺れたものだ。