49歳
数えで50だ。繰返す。僕という存在は、確かに失敗だった。されど、
「人生五十年 下天のうちに比ぶれば 夢幻のごとくなり ひとたびこの世に生を受け 滅せぬものの あるべきか」(幸若舞 敦盛)
であり、
「私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。(中略)
時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が來ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆い埃に埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく讀者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの圖書館に、たつた一册殘つた儘、無殘な紙魚の餌となつて、文字さへ讀めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。しかし――
私はしかしと思ふ。
しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを讀むと云ふ事がないであらうか。更に蟲の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未來の讀者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が、如何に私の信ずる所と矛盾してゐるかも承知してゐる。
けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に當つて、私の作品集を手にすべき一人の讀者のある事を。さうしてその讀者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃氣樓のある事を。
私は私の愚を嗤笑すべき賢達の士のあるのを心得てゐる。が、私自身と雖も、私の愚を笑ふ點にかけては、敢て人後に落ちやうとは思つてゐない。唯、私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に戀々たる私自身の意氣地なさを憐れまずにはゐられないのである。或は私自身と共に意氣地ない一般人間をも憐れまずにはゐられないのである。」(芥川龍之介 後世 注釈及び全文は「やぶちゃんの電子テクスト 小説・随筆篇」の「後世」へ)
である。僕という一冊の乱丁の多いゾッキ本であっても。