フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 忘れ得ぬ人々 10 今日の少年 | トップページ | 怪談の学校 »

2006/02/15

49歳

数えで50だ。繰返す。僕という存在は、確かに失敗だった。されど、

「人生五十年 下天のうちに比ぶれば 夢幻のごとくなり ひとたびこの世に生を受け 滅せぬものの あるべきか」(幸若舞 敦盛)

であり、

「私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。(中略)
 時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が來ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆い埃に埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく讀者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの圖書館に、たつた一册殘つた儘、無殘な紙魚の餌となつて、文字さへ讀めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。しかし――
 私はしかしと思ふ。
 しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを讀むと云ふ事がないであらうか。更に蟲の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未來の讀者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
 私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が、如何に私の信ずる所と矛盾してゐるかも承知してゐる。
 けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に當つて、私の作品集を手にすべき一人の讀者のある事を。さうしてその讀者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃氣樓のある事を。
 私は私の愚を嗤笑すべき賢達の士のあるのを心得てゐる。が、私自身と雖も、私の愚を笑ふ點にかけては、敢て人後に落ちやうとは思つてゐない。唯、私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に戀々たる私自身の意氣地なさを憐れまずにはゐられないのである。或は私自身と共に意氣地ない一般人間をも憐れまずにはゐられないのである。」(芥川龍之介 後世 注釈及び全文は「やぶちゃんの電子テクスト 小説・随筆篇」の「後世」へ)

である。僕という一冊の乱丁の多いゾッキ本であっても。

« 忘れ得ぬ人々 10 今日の少年 | トップページ | 怪談の学校 »