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2006/02/12

注記とは何か

教科書の本文の脚注や頭注、傍注の注記が毒にも薬にもならぬ、唾棄すべきつまらぬものであることは、誰よりも生徒が知っている。僕は、教科書会社に長年に亙って難癖をつけてきた。もっと面白い、解釈のヒントになる注記を付けよ、と。しかし一介の無名の国語教師では、それが教科書に反映されることはめったになかった。文中に登場する歴史的人物や専門用語に、ちっちゃな辞書にも及ばない退屈平板な注記を付けて何になる。一番の噴飯ものは差別語注記だ。あんなものは、授業で教師が何故に今はこれが差別語であるかを縷々解説してこそ、差別認識変革の意義が生まれる。更には、NHKじゃあるまいし、商標までイニシャルにする等は、原作への冒瀆だ。高校教科書の定番、芥川龍之介の「羅生門」の老婆の「おしのように執拗く黙っている。」の「おし」の注記を見よ。原民喜の「夏の花」の「ライオン歯磨の大きな立看板」は何と「R歯磨」にすり変えられていることを君達は知っているか。

そもそも注釈とは、評論である。そこには当然、注釈者の恣意が現れる。どんな客観的事実を記載したのだと思っても、その客観的事実の「すべて」を記載することなど不可能である以上、それが例え、登場人物の生没年と職業に止まる記載であったとしても、恣意であることそのものからは免れることはできないのだ。だとすれば、注記を施す者は、自身の正しいと信ずるところの注記を、責任を認識した自覚と覚悟を持って、鮮やかに周到に付けねばならぬ。オール・オア・ナッシング、付けるか付けないか、付けるのならば、マニアックに付けてこそ、注記としての効果を発揮する。過剰である、偏向であると指弾されることを恐れてはいけない。注記者は評論者である所以だ。その注記を選び取るか、無視するかは読者の自由なのだ。教科書であっても、それは基本的に変わらない。でなければ、我々は、生徒を見くびっていることにさえなるではないか。

取り分け、僕のHPでは、「やぶちゃん版芥川龍之介句集」の注記が、句集の注記としては逸脱していると指弾されるかも知れぬ。中田雅敏氏の諸著作は、そのような僕にとって、大変心強い味方であった(彼も元高校の国語教師であることは、この際、偶然でしかないと思っている。また、多くの引用をさせて頂くなど、恩恵を被りながら、同氏の見解やミスを歯に物着せず批判していることについて、この場を借りて御詫びを述べておく)。それはそれでよい。僕は、俳人芥川龍之介ではなく、まさに芥川龍之介という一人の芸術家としての存在に対しての評論行為として、注記を付けている確信犯なのだから。

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