花幻忌
今日は花幻忌。
以下は、2005年8月7日に「原民喜原爆句集」を公開したときのブログであるが、今回の「原民喜句集(杞憂句集)」に合わせて、一部を削除し、再書き込みをする。
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アドルノは言った、「アウシュヴィツの後に詩を書くのは野蛮だ」。それは「広島」「長崎」であろうと、「南京」であろうと、「パールハーバー」であろうと、更には「イラク」であろうと、僕には同じことだと想う。しかし、ツェランは書いた、民喜も書いた。僕は原爆文学の中で、唯一、詩魂と言うべきものを感じるのは、彼だけである。
それ以前に最愛の妻を失った時、彼の死は始まっていた。被爆後、それは明白な遺書としての戦後として立ち現れてきた。僕はツェランと全く同じ苦痛を民喜に見る。彼が友人の藤島宇内に語った言葉、「書くことがなくなったら、死ぬよ」。1951年3月13日、中央線吉祥寺近くで鉄道自殺を遂げた。45歳であった。
夏の野に幻の破片きらめけり
この句は勿論、彼の「碑銘」(彼の広島にある文学碑に刻まれている)
遠き日の石に刻み
砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
一輪の花の幻
に比べれば、劣るやもしれぬ。それほどに、「夏の花」の彼の例のカタカナ詩の示した被爆の現実の奇怪性と、対照的な恐ろしいまでに抑制された記録文体は、読んだ者に、それ以上の衝撃を他に起こさせないほどの、フラッシュ・バックを持っている。
それでも、僕はやはり、彼の句を全的に詠むことを自らに命ずる。被災の直後の次のカットバックを僕は、正視しなくてはならぬ。
炎の樹雷雨の空に舞上がる
日の暑さ死臭に満てる百日紅
梯子にゐる屍もあり雲の峰
水をのみ死にゆく少女蝉の声
人の肩に爪立てて死す夏の月
そうして末尾に、彼の黙示を、僕は見る。
山は近く空はり裂けず山近く
遠藤周作の手記に、民喜が神保町の都電のスパークを凝っと見つめるシーンがある。彼は、永遠の業火を、永遠に見ていた。
我々も同じようにその業火の幻を見続けねばならぬのだろうか。それが、我々に突きつけられた原罪なのだろうか。
ツェランが、そして民喜が自死した意味は何か。それは決して僕らへのおめでたい、まことしやかな、生温くそれでいて実は冷えきった平和への、メッセージ等に読み替えてはならぬ。それは、この愚かしき人類というものに突きつけられた、存在論的な疑義である。それは答えを求め得ぬことを知っている疑義である。でなくて、どうして彼等は自死するであろう。
彼は最後に美しい恋を抱いた女性がいた。彼女に宛てた遺書でも「この僕の荒涼とした人生の晩年に あなたのやうな美しい優しいひとと知りあひなれたことは奇蹟のやうでした(改行)あなたとご一緒にすごした時間はほんとに懐かしく清らかな素晴らしい時間でした」と記している。作品の中にも、U子の名で登場する。自死前年の春、遠藤周作と彼女らと多摩川にボートを浮かべた。雲雀が舞い上がった。彼は、ぽつりと「ぼくはね、ヒバリです」「ひばりになつていつか空に行きます」と呟く(遠藤の手記「原民喜」にその下りは詳しい。民喜の遺書はこれと共に読むべきである。僕は何度読んでも涙を禁じえない。若い頃、これを授業で朗読するという無謀な行為に及んだこともあった)。
パリ留学中の遠藤への遺書。
「これが最後の手紙です。去年の春はたのしかつたね。ではお元気で。」
そうして、彼女へ宛てた遺書の冒頭は、こうであった。
「とうとう僕は雲雀になつて消えて行きます」
被爆60年。この60年は何だったのか、そして、我々は、この後、何処へ行こうとしているのか……