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2006/03/18

人工身体論

元教え子のミクシィの書き込みに感じるものがあり、朝から書き込みをした。こちらに、そのままコピーしておく。題名は大好きな金塚貞文の著作の真似だ。

前に言ったか。

僕は献体をするが、医学へ貢献という思いは微塵もない。

それは言うなら、自己救済であり、同時に自我の暴威でもある。

何者にも曖昧につながらぬ死後の自身を求めるための。

僕は、当り前に僕として死にたいだけだ。

 

僕は如何なる臓器移植も拒否する。

そのようにしてまで生きていたいと思うほどに、この世は魅力的でない。

但し、臓器移植によってのみ存命可能な人が、それを望むことを否定しない。ES細胞もクローン技術も基本的に僕は同じコンセプトで考えている。

 

何故、自身の思想の根底においては反対なのか。

それは大半の科学者の関心は、行為という技術の魅力にあり、結果がもたらす倫理にはないからである。

バイオ・エシックス等と声高に叫ばねばならぬ状況自体が、医の持つ根源の精神性が失われた証である。

そもそも医者とは職人であった。それがハイテクによって、「さばく」という手先一本の覚悟を失った時から、魂は失われたのではなかったか。

 

だが、兵器に詳しい君に釈迦に説法だが、技術はオール・オア・ナッシングなのだ。

一部の臓器移植の規制が緩和されれば、それは速やかに人間牧場へと必ず向かう。クローンや、人工生命体も同じだ。

一部の医師は未だに前置換手術の誘惑にかられているであろう 。君の首と僕の首の挿げ替えである(とっくの昔にチンパンジーで成功している)。脳は、拒否反応を起こさぬ臓器だから。

アインシュタインの脳の一部がオークションに出たのは数年前だが、あの脳は、二十数年前までは、完全体でリンゲル液の中に浮かべられ、時々、電気ショックを与えるとそれに反応していた、などということを知っている人は少ない。あわよくば、彼の頭脳を再活用しようとしていたのだ。

おぞましいことだ。アインシュタイン自身がそれを知ったら、彼は、自身の脳を床に落とすだろう。豆腐のように、べチャッとね。

 

いくつのも団体が反対する夢のES細胞も確実に開発され、胚性幹細胞が何たるかも知らずに、金のために自分等の受精卵を売り込む夫婦はゴマンと出るであろう。適度の生活難と性生活は反比例するから。

しかし、ES細胞への反対声明は、考えようによれば、コンドームを付けてセックスをしている奴等の根源的発想とES細胞を批判する生命倫理の境界の曖昧さ、即ち、カトリックの避妊否定の論理と何等変わらぬ。

 

そうだ。 我々がマスターベーションや夢精をするときに、生命倫理を考えぬのは片手落ちだ。受精しない精子や卵子を排出すること=そのような性行為を行う時、生命倫理を考えぬのは片手落ちだ。(言葉狩りに断固反対する僕はこの言葉を普通に使う。実際、僕は「半片手落ち」だしな)。

僕自身をも含めて、生命倫理を語るものは、最後に「僕はマスターベーションも夢精も、膣外射精もファラチオもしない」と宣言せねばならぬ。

これは、夢精一つで生物学的に絶対不可能である。

しかし、それでも僕等は、やはり黙っていられないのだ。

君と同じだ。

そこにあるのは「違和感」だ。

即ち、それは気高い倫理というよりも、非自己に対する違和感なのだ。

朝から、気持ちよく悩ませてくれた。 ありがとう。

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