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2006/05/31

生物クイズ

今日、職場で同僚に質問された事柄は、このブログを読む人でも正確なところは知らないかも知れないと思う(実際、かつて生物の先生でも知らない人がいた)。以下の質問に答えなさい。決して、ものの本を調べてはいけません。独力で推理なさい。

(1)ゲジゲジとムカデの人間生活の関わる決定的相違点は何か?

(2)シャクトリムシという種は存在するか?

(3)ミノムシという種は存在するか? または 事実存在する「一生ミノムシのままでいるミノムシ」とは何ものか?

我と思わん者はメールで答えを送るべし。採点して返却する。答えは、後日。

末梢神経障害

腕を折ってこの半年、リハビリと、そのストレス、加えてそれに関わる無謀でちゃちな人生選択で、まるで糖尿病の節制を守らなかった。酒量も以前に逆戻り、日々の歩行持続距離も、余り伸ばしていない。4月以来、またぞろ膝から下の両足の痺れと熱圧感(ジーンとした感じ)が持続的に襲来、初期病変の末梢神経障害である。しかし、酒でも飲まなきゃ、やってらんないよ。それでも、こうして書くのは、「檸檬」の「私」の、健全への希求と同じものがあるからか。でも、しかし、もう一杯。

郵便局窓口のシュールレアリスト――志賀丈二

「ART SHOT 郵便局窓口のシュールレアリスト――志賀丈二」をトップに追加。僕の父の亡き画友にして、日本で唯一真性のシュールレアリストの、一枚。

それにしても、ニフティ君、6月から100MBまで無料というのは、僕へのイヤガラセデスカ? 実質、たった4日間のために僕は追加料金を払ったワケデスネ?(自戒:貧乏根性丸出しだぁ)

2006/05/28

不良教師のミクシィの輪

ミクシィのマイミクの増加がすごい! 現在、60人だ。 かつての僕が教えた4校の教え子が遂に今日、揃い踏みだ! ここから不思議な未知の輪が広がれば、こんなに素晴らしいことはないじゃないか。 こんな不良教師が、何で覚えてもらえているのだろう……いや、不良だからこそか? 納得だ。法律に書かれそうな「愛国心」という語が大事なのだと強要する日本が今は、在る。僕にとっての愛国心とは、内在的な、純粋に感性的なものなのだ(かつてのブログで語ったように、僕は愛国心を持たない国は滅ぶと、しっかり思っているけれどね)。しかしだ、教育によって作られた「愛国心」はいつでも、気がついたら、おぞましい売国奴になるか、さもなければ犬死の美化だ。

こんなことを個人的なブログに語ることでも、さてさて、首になるのだとしたら(そういう世界はそこまで来ているよ)、それも、おもしれーじゃねえか! 腕も折って、やる気もなくして、まだ働けと言われ……僕には、なんにも、怖いものはないわさ。

命ずる上役は、自分が我々にとって、「怖いもの」だと思ってるらしい。だとすれば、これは途轍もない、救い難い、最下劣の、ど腐れ野郎だぁな。

……じゃあ、そんな、アル中のおまえにとって(これを打っている今も飲みに飲んでるぜ)、何が支えなのかって?

俺には愛してくれている人々が、少しだけ、少しだけ、いるんだよ。

多分、お前なんかより、きっと、ずっと辛酸を嘗めてきている奴らだ。もしくはこれから試練を迎えるかも知れぬ……。

それは教え子という、「僕の子供達」さ。

僕に子供はいないが、僕には、しかし、何千人という僕の「僕の子供達」が、いる。

そのことを、忘れたら、僕は、終わりなんだ。

それが、僕の、「こゝろ」、なんだ。

ART SHOT 夜の森の夜――藪野豊昭

「ART SHOT 夜の森の夜――藪野豊昭」をトップに追加。僕の父の絵である。

今日、二つの画像を追加したのは、非芸術的な単純な理由からだ。今月の初めにもうニフィティの容量が0.5になった。早々に越えるだろうと思って、更に有料追加したが、忙しくてろくなアップが出来なかった。ここで、大容量をアップしないと、無駄になる。それは悔しいじゃないの。それだけの、ことさ。滝口さん、父、ごめんね。

ART SHOT 扉に羽音――瀧口修造

「ART SHOT 扉に羽音――瀧口修造」をトップに追加。父を認めてくれ、父が私淑する唯一の日本のシュールレアリスト、恐らく近代日本美術史の中で驚天動地の、「美術評論家による美術作品」のその第一回の個展で、父が買ったものだ。父は、当時の安給料のあらかたを払ってしまった。僕は、まだ5歳で、結核性カリエスの真っ最中だった。母は、途方に暮れた。しかし、僕は、この作品が大好きだ。僕にとって、瀧口修造が「瀧口さん」という親しい存在であるのは、父のお蔭であると思っている。前衛芸術の教祖として崇めない分、僕は生身の人として彼を、愛しうる。

32歳の僕の肖像画(部分)

Dsci0002 小学生の僕の写真なんて馬鹿にしてると思われそうなので、32歳の時、当時の職場の先輩の美術教師で、画家の齋藤重先生に描いていただいた僕の肖像画の顏部分を、慣れないデジカメで撮った。デジカメの性能が悪いのと、硝子入りの額装なので反射を排除できず、暗い状態で、顔のアップだけにした。

僕の大変お気に入りの絵で、ホリゾントは黒々とした不毛の地平、空は暗いセピア色に燃える虚空で、これは僕の私淑する画家、イヴ・タンギーの仮想世界を髣髴とさせる。

暗褐色の皮のジャンパーを着た僕は振り返っているが、じきにくるりと背を向けて彼方へと歩み去ろうとする雰囲気で描かれている。

向かって右の私の背後には、机の一部が見え、そこには顏を下に伏せた仮面と多立方体、金属の集合体で出来た鳥の頭部が置かれている。

これらは描いてくれた先生のデッサン用の小物なのだが、僕にはどれもが僕自身の象徴として美事に機能しているように感ぜられるのだ。

2006/05/27

再会

昨日の夕方、僕は、ちょっと気になっていて、逢いたくて、でも逢ったら何も言えなくなってしまいそうな教え子に、偶然、逢った。「ダ・ヴィンチ・コード」を見に行った帰りだと言った。やっぱり、ろくなことが言えなかった。「元気で頑張って! 卒業したらいいワインを一本おごるよ!」……何だ、やっぱり、僕はそんなつまんないことしか言えない、救い難いつまらない男だったんだな……それはそれで、精一杯の本心なのだけれど……そうして、陳腐だけれど、やっぱり言おう。「頑張って! 飲んだその時には、僕の考えるダ・ヴィンチ論(ホモセクシャル+エディプス・コンプレクス+宗教的倫理的二律背反+鏡像にとりつかれた意識=絶望的な他者懐疑……)をお聞かせしましょう!」

2006/05/21

少年時代の私の肖像

Img017 ある知人に私の写真を送らねばと思ったが、その人の少年時代の写真が僕には印象的で、僕も敢えて小学校二年生の頃の写真を選んだ。振り上げているのは、アマチュア考古学愛好家である父が発掘した、縄文時代の石斧に柄を付けたものだ。場所は、北鎌倉の北、六国見の山中。今は高野と称する新興住宅地に変貌した。まだ、あの頃は、大きな鬘籠を担った媼が、山道を行き来していたものだった……

「さようなら、僕の抒情詩時代。」……

2006/05/20

高校生による「こゝろ」講義後小論文

「こゝろ」の全文授業の後は、冬休みを使って、小論文を書かせることにしている。その一人の教え子の書いたものを公開する。本人の承諾は、既に得ており、匿名である。著作権は、勿論、書いた教え子のものである。過去、9年間の4回、すべて書いてもらっている。卒業した教え子のもので、非常に優れたものが沢山ある。おいおい許諾を得て公開したいと思っている。優れたものは、全てコピーをとってあり、何回かは、ワープロで打ち出して全員に配ってもいる。凡百の大学生の腐った論文よりも、数百倍、骨があるものばかりだ。

2006/05/19

私の渾名

僕が教師になった頃、僕の渾名は「ジャミラ」だった。この拝名には、限りない感謝をしている。それは、僕の私淑するウルトラ・シリーズの、限りなく哀しいエピソードの怪獣の名前だから。僕は、あの頃、なりたての教師として、馬鹿にされたくなかった。だから、肩を張って、力んで教室に行った。それは首がないように見えたのだろう。だからジャミラだ。心ある(?)生徒が、「邪魅羅」という素晴らしい漢字をそれに与えてくれた。今となっては懐かしい。最後には「ジャミー!」という呼び声もあって、若気の至りで、心地よい響きに酔いしれた。その後、移った学校では、しょっぱな、「山月記」を朗読して、「李徴」とも呼称された。こんなに嬉しいことは、また、ないのだ。まさしく僕はあのおぞましい李徴なのだと今でも思うから。その後は、「やぶさん」か「やぶちゃん」だ。それも、いい。先生と呼ばれるほどの馬鹿でなしだ。親しげに呼ばれる、その響きは、決して悪くない。つくづく思うのだが、渾名や愛称で呼ばれることもなくなれば、教師は教師であることを辞めるべきなのだろう。生徒の付けた、ほかの先生の傑作な渾名には、枚挙に暇がない。そのうちに、書いてみたいと思う。では、「おやすみなさい」

虎   村上昭夫

朝の想い。
何というメタファーか。確かに聖も魔も、耐え難い凡俗の中に隠れているのだ。あのデュシャンの吊るされたシャベル、「折れた腕の前に」にしばし立ち竦んだ時、遠くそれはこの右腕を予兆していたのだ。確かに全てはモナドとして「在る」ことを構成している。しかし、僕は予定調和を信じない。カオス理論の方がよっぽど文学的香気に満ち満ちて素敵だ。それにしても、「何故こんな事になつたのだらう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取つて、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」(中島敦「山月記」)と呟く以外にはない。しかし、

 虎   村上昭夫

虎にでもなろうではないか
綱渡りをする場末の虎ではない
だんだらもようのびろうどの肌で
びょうびょうと笛を吹こうではないか

山に満月がかかる時があれば
かなしく高く祈ろうではないか
おれは兎などを苦しめぬ
おれは鹿などを傷つけぬ

そしてびょうびょうと笛さえ吹けば
それこそ四次元世界への郷愁

ああ 実に虎にでもなってしまおうではないか
だんだらもようのびろうどの肌で
びょうびょうと笛でも吹こうではないか

何より孤独が肝要だ。そう。「第一に安靜。がらんとした旅館の一室。清淨な蒲團。匂ひのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。其處で一月ほど何も思はず横になりたい」(梶井基次郎「檸檬」)のだが、しかし、それでも結局は、「かう云ふ氣もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?」(芥川龍之介「歯車」)と僕は眠る前に、その漆黒の闇に向かって囁いてしまうのだ。

夜   尾形亀之助

毎日が、嵐のように忙しい。ブログの記載もままならぬ。そんな思いを一つおいておく。

夜   尾形亀之助

私は夜を暗い異様に大きな都会のやうなものではあるまいかと思つてゐる

そして
何処を探してももう夜には昼がない

(「雨になる朝」より)

2006/05/15

末法燈明記 訓読終了

「末法燈明記」の訓読を終了した。幾つかの読みの自信のなさに、これからの現代語訳の、先の長さを痛感した次第である。

2006/05/13

丹沢山行

これから山岳部の一泊山行。バカ=大倉尾根から、塔ヶ岳へ、鍋割山から下る。

2006/05/10

原民喜の戦後

教え子が広島を訪ねるという。原民喜の詩碑は是非、訪れてもらいたい。彼については、彼の花幻忌の日に書いた。追伸する。

「もし妻と死別したら、1年間だけ生き残ろう。悲しく美しい1冊の詩集を書き残すために」

原民喜は、妻貞恵の一年目の忌日を前にして、被爆した。

その地獄絵の後に生き残ったことは、果たして彼にとって幸せだったのか。

我々は彼の被爆後の文学を称揚する。

確かに、後のUとの出逢いは、彼の晩年の、「彼自身」にとって、「生の実感」を幽かに感じさせるものであったのであろう。

しかし、彼にとって、「彼自身」にとって、「戦後」という時間は、果たして幸せであっただろうか。

彼は「悲しく美しい詩集」を残した――残した? それは確かに、文学史に残る「悲しく美しい詩集」である。

でも、それは僕たちの、我儘な物言いと言えないだろうか? それは、「あの時」、彼が、「彼自身」が思った「悲しく美しい詩集」、ではない。

民喜の写真。その淋しげで、それでいて透徹した視線――それは、僕等の、今現在の僕等を、この爛れきった虚妄を誤魔化そうとしている僕等を、射抜く。

  碑銘   原民喜

遠き日の石に刻み

    砂に影おち

崩れ墜つ 天地のまなか

一輪の花の幻

2006/05/09

『青空文庫倶楽部「みんなの輪」』

リンク集「僕との因縁のサイト」に『青空文庫倶楽部「みんなの輪」』を追加した。

電子テキスト関連のネット・サーフィンをするうちに、ここの「みんなのテキスト」に、僕の電子テクストがルビ入りで加工されているのに出会った。ちゃんと僕のHPからのリンクも張られている。ちょっと驚いた。以下の三作品である。

國木田獨歩「忘れえぬ人々」

坂口安吾「ふるさとに寄する讃歌」

梶井基次郎「秘やかな樂しみ」

独歩のルビは排除版を作ったくらいで、(ルビ)表記よりも、やはりちゃんとルビになって居る方が当然よいし、読みやすいに決まっている(では何故、そうしないかについては、かつてのブログに書いた)。

僕は、HPにカウンターを設置していないから、どれほどの人がこのHPを覗いたかは分からない。興味がないというよりも、どうせ置けば置いたでそれにいらぬ意識をする自分の貧乏根性が見えていると言うのが正しい。

が、ここでは、閲覧回数もチェックされるようになっており、今日の時点で、それぞれ50~80の閲覧がなされていた。どれもここでの公開は2006年になってからの表示である。獨歩の「忘れえぬ人々」は3月31日となっているので、たかだか二ヶ月で50人を越えるということは、僕のHPの地味な電子テクストでも、結構な人が、検索で訪れているということを示唆しているのであろう。

僕はこの、ゼファー生という方を全く存知上げないが(この方が、青空文庫の工作員であることは、かなり前から知っている。しかし、この尊敬している青空文庫とは、かつて記したように、僕の私的な理由から関係を遠慮している)、僕のサイトが、少しでも外へと開かれる、道標を創って下さったことに、感謝したい。

2006/05/08

(子供の時、病気になった……)

         子供の時、病気になった
飢えと恐れのために。くちびるのかさぶたを
剥し   くちびるをなめた。思い出す、
すこし冷たく、すこし塩辛い味を。
ぼくは歩く、いつまでも、いつまでも、
玄関先の階段に腰を降ろし、体を暖める、
歩く、ふらふらと、笛につられて、鼠取りのあとを
川の方へついて行くみたいに。階段に
座り、体を暖める、からだじゅうがぞくぞくする。
すると、母が立って、手招きしている、
そばにいるみたいなのに、すぐそばまでいけない、
近づいたと思うと、七歩先に立って、
手招きしている、近づいたと思うと、
七歩先に立って、手招きしている。
               熱い、
ぼくは襟のボタンをはずし、横になる、   
そのときラッパが鳴りはじめ、光がまぶたを
打った、馬が飛び出した、母が
道路の上に舞い上がり、手招きする、   
そして飛びさった……
         そしていまぼくは夢に見る
りんごの木の下の白い病院を、
そして、のどのしたの白いシーツを、
そして、白衣の医者がぼくを見る、
そして、白衣の看護婦がぼくの足下に立ち、
翼を動かす。そうしてそこにずっといた。
母がきた、手招きをした   
そして飛びさっていった……

 Arseny Tarkovsky

[Andrei  Tarkovsky「映像のポエジア」(鴻英良氏訳)より]

タルコスキー「論」を語り出そうとする者は、彼の父母双方へのアンビバレントな感情を解剖せねばならぬであろう。しかし、それは恐らく、タルコフスキー自身の最も嫌悪するものであり、彼の映像を説明するためにはそれは有効に機能しない。彼の映像は、彼を説明する写像ではないからだ。彼の存在が、彼の映像の鏡なのだということを知る時、僕たちは、彼の映像に何の難解さも退屈も感じずに、貫入することができるのだと、僕は思う。

2006/05/07

鰹のたたきという幸福

皮付き生刺身用の鰹の半身を、たたきにした。こればっかりは、自分でたたきにするに限る。家庭の一番火力の強いガス・バーナーの炎に直に晒す。皮側は少し厚めに、火を噴きながら脂が滴ったらOK。ちょっと焦げが見えたかなと感じたら、身の方を、さっと色が変わる程度に炙る。旨味を落とさないよう、氷水には晒さないのが秘訣だ。大葉を敷き詰めた皿にアツアツのうちに盛ろう。明日は周囲が鼻を曲げるであろう、大蒜四個分のスライス、葱の青いところに、万能葱、茗荷をてんこ盛りにして、たたきが一切、隠れた。タレは、飛魚のだし+寿司醤油+自家製の昆布酢を合わせてみた。柚子があれば完璧だ。食い終わって、今、擂った生姜を忘れたのを思い出したが、味に不満は、ない。この連休の最後を飾る、いや、唯一の幸福。

連休という不幸

この暦通りの連休中、感じたことは、皆、やっぱり何処かへ行ってしまっているのだなあ、という感懐だ。毎日の更新をチェックする複数のサイトやブログが、何処も殆ど、更新なしだ。僕のように、只管、一つ覚えに「末法燈明記」を更新し続けているのは、遊ぶことも知らず、仕事をするでもない、無粋な閑人ということか。それとも将に、この世は末法の末なのかしら。さっき、歯の詰めものが取れちまった。末法やなあ……。

教師という不幸

僕たちは、日本という恣意的な体制でしかない「国家」という幻想の、そのまた末端でしかない教育行政機関の、駒でしか、兵隊でしかないのか? よき教師とは、節を屈した=自己滅却した、「国家」の望む均一物を言うというのか? 僕には、公的にも私的にも、教師という存在が不確かになってきている。唯言えることが、一つだけある。こうした中で立ち竦んでいる教師たちに教わることが不幸であることは、言を待たない、ということだ。  

2006/05/06

僕が腕を折った場所

今日になって気づいた。あの岩海岸の右腕がフォーク変形した先に見えていた、真鶴港の入り口に、そうだった、僕の愛する「ウルトラQ」の「鳥を見た」で、ラルゲリュースを連れてくる古代インドの幽霊船が浮いていた。

あのエンディングにはいつも泣かされる。そうして、諸星大二郎の「マッドメン」が何故か、二重写しになる……

鳥は、もう帰ってこない。

立ち尽くすシルエットは、三郎だけのものではない。

ニライカナイからは、もう何もやって来ない。

ノアの鳥は、去ったのだ。

末法燈明記 訓読開始

「末法燈明記」の訓読を開始した。苦痛になるような仕儀はするつもりがないので、気長に見守って下さい。

2006/05/05

末法燈明記 原文公開

「末法燈明記」の原文打ち込みを終了し、公開した。打ち込みながら、この訓読の手強さ、そうして解釈の途方もなさに、少々ブルっている。しかし、それも覚悟の上。ともかくも、この電子テクストが、まさに「末法燈明記」への関心を持つ僕の知らない何人(なんぴと)かの、幽かな燈明とならんことを願う。

芥川龍之介 草稿追加

芥川龍之介の「芭蕉雜記・續芭蕉雜記」及び「大導寺信輔の半生」の、それぞれの後に、岩波版旧全集第十二巻所収の草稿を追加した。

2006/05/04

忘れ得ぬ人々 11 チョコおばちゃん

(1979年1月14日~大学4年終了の直前の日記より)

小猿の贈り物

……十数年前まで、鎌倉の駅前正面、現在、銀行のある、木耕堂の左隣には当時としてはちょっとしたTという百貨店があった。

 父の実家は大町にあって、そこに父の兄夫婦が祖母と住んでいた。当時、大船に住んでいた私は、その家に行くのが楽しみでならなかった。玄関に入るやいなや、私が小走りに向かうのは、決まって台所の冷蔵庫の前であった。

私は、満を持して、冷蔵庫の扉を開けると、三矢サイダーの瓶のあるのを確かめた上で、そうして、にこにこしながら後から追いかけてきた伯母に、

「チョコおばちゃん、サイダーある?」

と聴くのだった。

伯母は、痩せた、少し色の浅黒い、怒ると怖い人だったが、不思議と僕は怒られた記憶がない。千代子という名だったが、伯父が、チョコ、チョコ、と呼んでいたので、チョコおばちゃんが親族での符牒だった。その文字通りの甘い響き通り、而して私の口には常に甘いサイダーがもたらされたのだった。

チョコおばちゃんは、必ず、泊まった僕を連れて、買い物に行った。

時々、由比ガ浜通りから裏駅(実際には小町通り側の反対側が表なのであるが)へ行く時は、最後の唯一のプラモデル屋で、伯父には内緒で模型を買ってくれた。

それも、勿論、僕には舞い上がるほどの楽しみであったけれど、それ以上に、僕の記憶に残っているのが、必ず行く、T百貨店であった。

Tのこちら側の入り口(現在の木耕堂のすぐ左脇)には、私の「いつものやつ」が待っていた。伯母は、僕が何も言わない前に、にこにこしながら巾着から二十円を出して、僕の掌に乗せてくれる。そこには、小さなジャングルを描いたキッチュな(勿論、当時「キッチュ」と感じたわけではないけれど)アーチがあって、その手前に小さな猿が、両手を受け皿にして立っている。コインを入れると、猿は後に退き、アーチの中に入ると、グルリ(まさにグルリというカタカナが相応しい動きで)と一周する。戻ってきた猿の掌には、キャラメルが乗っている。

私は、それが事の外に嬉しかった。キャラメルよりも猿の持ちきたってくれるということに、素朴で無邪気な快感を覚えたのだった。

鏡があったわけでもないのに、私は、不思議なことに、自分のその時の、純真な自身の笑顔を、はっきりと思い浮かべることが出来る。そうして、私の横に立っている、チョコおばちゃんの微笑みも。

そのTという百貨店は、今はもうない。

伯母も五年前に白血病で亡くなった。

伯母の一切が亡くなった。

高校生だった私は、伯母に見舞いの葉書の一枚も送ることもせず、葬儀にも出ず、遠い富山の地で泣いていた。

あの小猿はもういない。

伯母もいない。

そうして、あの笑った小猿に目を輝かせていた少年も、いない。

三十三回忌

祖母と伯母の法事が円覚寺であった。

伯母は白血病で、三十三年前に亡くなった。「忘れ得ぬ人々」に書くことなるであろう、僕に最も優しかった伯母であった。

伯母は病床で、「元気になったら、象の涙をちょうだいね」と伯父に書き残している。

マスカットの大好きな伯母は、いつもあの薄緑の大粒の葡萄を「象の涙」と呼んでいたのだった。

ウィトゲンシュタインとヒトラー

巻頭言を Ludwig Wittgenstein の「論理哲学論考」の忘れ難い終章に変えた。A型肝炎で一月の入院を余儀なくされた、20年前の夏、僕はベッドの上で、正直、半理解もしていなかった難解な論理記号を用いたこの著作を、分からぬ乍ら、何度も読み耽った。

Ludwig Wittgenstein と Adolf Hitler は同い年である。同じリンツのレアルシューレ(技術工科学校)に最低でも1903年から翌年にかけての1年間、同じ空間にいたことは間違いない。
実際に、二人が写っている集合写真を、それがヨーロッパで発見報道された10数年前、僕は、旅先のミラノのホテルのロビーの、読めないイタリア語の雑誌に見出した。――
何か衝撃的であったことを覚えている――そこには、確かに、どちらもちょっと淋しそうなウィトゲンシュタインとヒトラーが……ウィトゲンシュタインは掛け値なしの美少年、ヒトラーは……一枚の写真の中に居た――

ウィトゲンシュタインはユダヤ系の家系である――
ユダヤ人絶滅計画を実行したヒトラーに、実はユダヤ人の血が流れていたという説、勿論、ご承知であろう――

ヒトラーが六芒星を縫い取ったユダヤ人のみでなく、同性愛者にピンクのトライアングルを刻印し、ゲットーへ送り、絶滅を命じていたこともご存知のこと思う――
ウィトゲンシュタインが同性愛者であったことは、言わずもがな――
最後に、そうして、近年の研究の中、実はヒトラー自身が同性愛者であった事実が浮上しつつある――

不思議な皮肉な交差、ではないか――

2006/05/03

芥川龍之介 父

芥川龍之介の「父」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」に公開。

芥川龍之介の初期作品の中で、僕が一読、忘れられない、あるペーソスを感じる小品である。僕たちには、こんな経験はないか? こんな心の片隅のうずきは、ないだろうか? そうして、このようなエピソードに心動かされなくなった時、それは少し淋しいという気はしないであろうか?

DON'T BLAME ME

僕にとっての“DON'T BLAME ME”の名演は、Eric Dolphyの“ERIC DOLPHY IN EUROPE VOL.2”だと永らく意識的には思い続けているのだけれど、それを聞く以前から、耳底に残り続けて、これって“DON'T BLAME ME”なんだったよな、と無意識に惹かれ続けていたのは、実は、Bud Powellの“THE AMAZING BUD POWELL VOL.3”、いや、これはパウエルの名演と言うよりも、Curti Fullerのトロンボーンの名演というべきで、その曲調は、実は、ドルフィーの詩想とは異なった、別なリリシズムの所産なのだと思う。トロンボーンのペーソスを十二分に発揮したこの演奏を聴かずして、“DON'T BLAME ME”を名曲と言うなかれ。「君」も是非、聴いてみてほしいのだ。

献体

昨日、2年生の授業の脱線の中で、友人の死と、それに関わって昨年の5月に僕が献体をしたことを話した。これは結構、彼らには衝撃的であったらしい。見上げている生徒の、妙に真剣な顔が印象的だった。

ご存知ない方々のために言っておく。

僕の葬式は、ない。僕の墓も、ない。

僕は死後、速やかに慶応大学医学部に運ばれ、解剖実習の教材となる。ばらばらになった後も、遺骨の返却不要。

僕は、僕自身の死による、後に残る人々が、悲しみや追悼から自由であれと考えただけだ。医学への貢献などという思いは、微塵もないことだけは確認しておく。勿論、自由でありたいと思ったことが、僕自身のエゴイスティクな我儘であるこも十全に自覚している。

僕は、多くの宗教家や哲学者の思想、他界概念や心霊学を面白く思い、ひいては怪談を蒐集し、自分でも書いたりする。しかし、その実、信ずる宗派も、他界も、僕の中に存在しないのだ。生物学的死という現象以外に、僕は自己消滅を認識しない。

だから、僕は「君」を死ぬまで忘れないが、僕が消えれば、それで僕の中の「君」と云う存在は消滅する。これこそ、魂の量子力学だ。「君」を観測する者である僕がいなくなった時、すべての自然的対象、その一つである「君」は存在しないのだ。この換喩は、頑なだったアインシュタィンも首を縦に振ってくれそうな気がする。

香奠が不要なだけでも、君、ほっとしただろう? では、またね。

芥川龍之介 今昔物語鑑賞

芥川龍之介の「今昔物語鑑賞」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」に公開。

小島政二郎の「小説 芥川龍之介」(これは何処が小説なのだ?)でいたくこの評論を褒めており、Web上になく、芥川が引用する「今昔物語集」の説話が、悉く僕の好きな話ばかりなので、迷わずテクスト化することにした。この中でも、芥川が「本朝の部第十六。東方行者娶蕪子語第二」として挙げている蕪の話は、僕の大好きな話だ。この開けっぴろげのおおらかなセクシャルな笑いは、一抹の隠微さも感じさせぬ。かつて男子クラスでこれを授業でやって、大ブレイク、妙に生徒との距離を縮められたのが懐かしいが、ある時は「男子限定」と名打ってこれを含めた今昔の好色物ばかりを補習でやろうとして、女性教員の総攻撃にも逢った。

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