忘れ得ぬ人々 11 チョコおばちゃん
(1979年1月14日~大学4年終了の直前の日記より)
小猿の贈り物
……十数年前まで、鎌倉の駅前正面、現在、銀行のある、木耕堂の左隣には当時としてはちょっとしたTという百貨店があった。
父の実家は大町にあって、そこに父の兄夫婦が祖母と住んでいた。当時、大船に住んでいた私は、その家に行くのが楽しみでならなかった。玄関に入るやいなや、私が小走りに向かうのは、決まって台所の冷蔵庫の前であった。
私は、満を持して、冷蔵庫の扉を開けると、三矢サイダーの瓶のあるのを確かめた上で、そうして、にこにこしながら後から追いかけてきた伯母に、
「チョコおばちゃん、サイダーある?」
と聴くのだった。
伯母は、痩せた、少し色の浅黒い、怒ると怖い人だったが、不思議と僕は怒られた記憶がない。千代子という名だったが、伯父が、チョコ、チョコ、と呼んでいたので、チョコおばちゃんが親族での符牒だった。その文字通りの甘い響き通り、而して私の口には常に甘いサイダーがもたらされたのだった。
チョコおばちゃんは、必ず、泊まった僕を連れて、買い物に行った。
時々、由比ガ浜通りから裏駅(実際には小町通り側の反対側が表なのであるが)へ行く時は、最後の唯一のプラモデル屋で、伯父には内緒で模型を買ってくれた。
それも、勿論、僕には舞い上がるほどの楽しみであったけれど、それ以上に、僕の記憶に残っているのが、必ず行く、T百貨店であった。
Tのこちら側の入り口(現在の木耕堂のすぐ左脇)には、私の「いつものやつ」が待っていた。伯母は、僕が何も言わない前に、にこにこしながら巾着から二十円を出して、僕の掌に乗せてくれる。そこには、小さなジャングルを描いたキッチュな(勿論、当時「キッチュ」と感じたわけではないけれど)アーチがあって、その手前に小さな猿が、両手を受け皿にして立っている。コインを入れると、猿は後に退き、アーチの中に入ると、グルリ(まさにグルリというカタカナが相応しい動きで)と一周する。戻ってきた猿の掌には、キャラメルが乗っている。
私は、それが事の外に嬉しかった。キャラメルよりも猿の持ちきたってくれるということに、素朴で無邪気な快感を覚えたのだった。
鏡があったわけでもないのに、私は、不思議なことに、自分のその時の、純真な自身の笑顔を、はっきりと思い浮かべることが出来る。そうして、私の横に立っている、チョコおばちゃんの微笑みも。
そのTという百貨店は、今はもうない。
伯母も五年前に白血病で亡くなった。
伯母の一切が亡くなった。
高校生だった私は、伯母に見舞いの葉書の一枚も送ることもせず、葬儀にも出ず、遠い富山の地で泣いていた。
あの小猿はもういない。
伯母もいない。
そうして、あの笑った小猿に目を輝かせていた少年も、いない。