献体
昨日、2年生の授業の脱線の中で、友人の死と、それに関わって昨年の5月に僕が献体をしたことを話した。これは結構、彼らには衝撃的であったらしい。見上げている生徒の、妙に真剣な顔が印象的だった。
ご存知ない方々のために言っておく。
僕の葬式は、ない。僕の墓も、ない。
僕は死後、速やかに慶応大学医学部に運ばれ、解剖実習の教材となる。ばらばらになった後も、遺骨の返却不要。
僕は、僕自身の死による、後に残る人々が、悲しみや追悼から自由であれと考えただけだ。医学への貢献などという思いは、微塵もないことだけは確認しておく。勿論、自由でありたいと思ったことが、僕自身のエゴイスティクな我儘であるこも十全に自覚している。
僕は、多くの宗教家や哲学者の思想、他界概念や心霊学を面白く思い、ひいては怪談を蒐集し、自分でも書いたりする。しかし、その実、信ずる宗派も、他界も、僕の中に存在しないのだ。生物学的死という現象以外に、僕は自己消滅を認識しない。
だから、僕は「君」を死ぬまで忘れないが、僕が消えれば、それで僕の中の「君」と云う存在は消滅する。これこそ、魂の量子力学だ。「君」を観測する者である僕がいなくなった時、すべての自然的対象、その一つである「君」は存在しないのだ。この換喩は、頑なだったアインシュタィンも首を縦に振ってくれそうな気がする。
香奠が不要なだけでも、君、ほっとしただろう? では、またね。