虎 村上昭夫
朝の想い。
何というメタファーか。確かに聖も魔も、耐え難い凡俗の中に隠れているのだ。あのデュシャンの吊るされたシャベル、「折れた腕の前に」にしばし立ち竦んだ時、遠くそれはこの右腕を予兆していたのだ。確かに全てはモナドとして「在る」ことを構成している。しかし、僕は予定調和を信じない。カオス理論の方がよっぽど文学的香気に満ち満ちて素敵だ。それにしても、「何故こんな事になつたのだらう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取つて、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」(中島敦「山月記」)と呟く以外にはない。しかし、
*
虎 村上昭夫
虎にでもなろうではないか
綱渡りをする場末の虎ではない
だんだらもようのびろうどの肌で
びょうびょうと笛を吹こうではないか
山に満月がかかる時があれば
かなしく高く祈ろうではないか
おれは兎などを苦しめぬ
おれは鹿などを傷つけぬ
そしてびょうびょうと笛さえ吹けば
それこそ四次元世界への郷愁
ああ 実に虎にでもなってしまおうではないか
だんだらもようのびろうどの肌で
びょうびょうと笛でも吹こうではないか
*
何より孤独が肝要だ。そう。「第一に安靜。がらんとした旅館の一室。清淨な蒲團。匂ひのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。其處で一月ほど何も思はず横になりたい」(梶井基次郎「檸檬」)のだが、しかし、それでも結局は、「かう云ふ氣もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?」(芥川龍之介「歯車」)と僕は眠る前に、その漆黒の闇に向かって囁いてしまうのだ。