T.S君へ
Melanchoiia 芥川龍之介
この田舎路はどこへ行くのか?
唯憂鬱な畑の土に細い葱ばかり生えてゐる。
わたしは當どもなしに歩いて行く、
唯憂鬱な頭の中に剃刀の光りばかり感じながら。
(岩波版旧全集「第九巻 詩歌二」より)
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Melanchoiia 芥川龍之介
この田舎路はどこへ行くのか?
唯憂鬱な畑の土に細い葱ばかり生えてゐる。
わたしは當どもなしに歩いて行く、
唯憂鬱な頭の中に剃刀の光りばかり感じながら。
(岩波版旧全集「第九巻 詩歌二」より)
今日のその日に聴くには、
“BUD POWELL TRIO AT GOLDEN CIRCLE VOLUME 5”
“THIS IS NO LAUGHIN' MATTER”
がふさわしい。優しいバラード。数少ない、Powellのヴォーカルが入る。
鬼火のAlanは言う。
「君は僕の友達か? だったらこのままの僕を愛してくれるはずじゃないか」
僕にとって、BudとDolphyを愛するということは、そういうことだとしみじみ思う。
芥川龍之介の「杜子春」の原典「杜子春傳」の「やぶちゃん版語註」及び「やぶちゃん訳」を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」にアップした。一昨日から、山行並みに四時起床で書き上げた。
緑の子供たちへの約束のうち、現代文は「枯野抄」の授業ノートで果たした。3年でやりたかった古文は、実は既にアップしてある「雨月物語 青頭巾」を読んでもらいたいのだが、何となく、オリジナルに約束を果たしたかったんだ。
まず、「杜子春傳」を白文で見る。勿論、超難度だ。そこで、 「やぶちゃん版訓読」を並べて読む。 「やぶちゃん版語註」を時々見ながら。大まかなストーリーが把握できたら、 「やぶちゃん訳」を通読してみよう。
そうして芥川龍之介の「杜子春」を読もう。本当なら最後に、諸星大二郎の漫画「感情のある風景」を配って、この三つの作品を比較検討してみることで、僕の授業は完成するのだが、著作権上、諸星の漫画はアップできない。機会があったら、ぜひ読んでみて欲しい。その評論は「立ち尽くす少年――諸星大二郎「感情のある風景」小論」として、アップしてあるよ。
漢文と現代文のクロスオーバーだ。決して、君たちの大事な夏を無駄にはさせないと思う。どっちに感動する? 勿論、芥川だよね。僕は、芥川の「杜子春」を朗読すると、どうしても「お母さん。」のあの一言のところで、不覚の涙を流してしまうんだ……。
*
あと一つだけ約束が残っているね。「プルートゥ」の「ノース2号」論。忘れてないよ。暫く、時間をくれ、岡本。
芥川龍之介の「杜子春」の李復言の原典「杜子春傳」を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」にアップ。これは、緑の三年生への授業の出前のその二を目指している。また、「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」新発見句断片1句を追加し、芥川龍之介「遺書(五通)」の注釈に新知見を追加した。
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」の芥川龍之介「尾生の信」に同名の題の詩稿を追加した。
梅雨前線の影響で、沢が増水、稜線まで登ったが、想像を絶する風速と頬を打つ雨、二つの山小屋の主人に撤退をすすめられ、一日早く下山した。それでも、素人の1年生には山の何たるかは充分享受出来たものと思う。生きて還ってこれた。また、死に損なったよ。
腕を折って一年が経った。あの日のことを、同僚がかつて描いたカリカチェールで、追悼する(サムネイルクリックでは、やや下が切れる。フルショットは左コンテンツの“THE PICTURE OF DORIAN GRAY”へ)。
山岳部八ヶ岳山行の為、暫く、御機嫌よう。今度、滑落して折る時は、腕なんて吝嗇なことはやめて、すっきり首の骨を折って、皆に迷惑をかけないようにしよう。
まだブログの「忘れ得ぬ人々 12 少女T」を読んでいない方は、出来れば読んでもらいたい。知人からの評判はそれなりによい。僕の過去の「忘れ得ぬ人々」も、それ程退屈な話ではないつもりだ。よろしければ、ご笑覧あれ。
張楊(チャン・ヤン)監督の「胡同(フートン)のひまわり」を見る。
「こころの湯」の監督でもあり(あの朱旭はいつもながら、素晴らしい演技であった)、相応の期待の中で見たのだが、前半のほとんど文句の無い展開と映像の素晴らしさが、どうしたことか作品の後半に至って、プロット・撮影・演技共に「力」が急激に減衰してしまう。そこが誠に惜しい。
少年期から青年までの向陽を3人の俳優が演じるのだが、残念ながら、少年の美事なリアリズムが、後の二人になるに従い、段階的に陳腐になってゆく。父と母と隣人の劉さん以外の俳優の誰もが、哀しいかな、ものの美事に魅力的でなくなってゆくのである。
地震後の避難所のセットは、作中、唯一の大道具のバレである。明らかにテントの柱も被災した家具や葛篭も、整然とし過ぎた綺麗な避難所となってしまっている。「臭い」がないのである(これは「三丁目の夕日」と同じケースである)。しかし、これは逆に、随所に写されるかつての胡同、今、失われゆく胡同の姿が、強烈なリアリズムを産みだしている証しであり、瑕疵と言う程のものではない。
張暁剛(ジャン・シャオガン)の実際の絵を用いた後半の大きな展開は、僕には面白く映った。実際の画家の絵が、映画の展開上、極めて大きな意味を持って迫まってくるというのは、映画史の中でも、稀であろうと思う。しかもこれら絵は、この映画とは関係なく、1993年からシャオガンが描き続けてきた「全家福」シリーズの、まさに「本物中の本物」であるわけである。僕の妻などは、シャオガンの絵が気味が悪く、感情移入できなかったようであるが、僕は父が個展に出向き、そこで息子の中の家族に思い至るシーンでは大いに感動した。しかし、シャオガンの絵に対する僕の妻の反応は、極めて常識的な日本人の反応のようにも思われる。だが、では、他のどのような絵があそこに相応しいかと言われると、僕にはやはりシャオガンの暈されたあの霊のようなタッチでなくてはならなかったのだと思うのである。
では、大きなキズは何か。それは、やはり脚本の後半部にあるように思われる。この映画のポスターのコピーは、『画家になりたかった父の夢、30年たって初めて、ぼくはその意味を知った。』であるが、果たして、そうだろうか? これは「子」が「父」の真実に思い至る映画、ではない。これは「父」が「子」の内実に思い至ることによって、真の「父自身」を見出す映画、である。僕は少なくともそう観る。
しかし、それを象徴するエンディングの父の失踪(それは父にしてみれば旅であり失踪ではないのであろう)という大きな意外性の意味が、充分に観客に納得されない嫌いがあるように思われるのである。
それは唐突であり、リアルさを欠いている。なまじっかパーキンソン病の宣告という現実を前に持ってきてしまっているために、薬物も置き去りにしたまま(パーキンソンの発作は薬物なしでは極めて厳しい)、一年後も奥地の田舎で元気に向日葵を育てている、しかし孫の誕生は知っていて、その退院の日に向日葵を届けにくる、しかし父は戻ってこなかった、というのは、僕にはどうにもリアリティを感じさせないのである。「父」を死なせずに終らせるその手法の奇抜さは、一つの「意外性の筋書き」としては面白いけれども、前半から、ある感動の昂揚を期待している観客(少なくとも日本の観客の半数)には、やや戸惑わざるを得ないエンディングであると思うのである。
ただ、僕が注文をつけるのは、それだけこの映画に、中国映画の、新しい、素晴らしい種子が播かれている故のこと、いい映画故、なのである。私は嫌いな映画を批評しない。けなすための映画批評など、批評ではない。
*
帰りに、駒形どぜうへ行く。いい映画を観て、語り合い、どぜうを肴に酒をあおる。嗚呼、素晴らしき哉!
「心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:小説・随筆篇」に公開済みの芥川龍之介の作品の内、「翡翠 片山廣子氏著」「玄鶴山房」「今昔物語鑑賞」「齒車」の四作品について、草稿を追加した。
2006年7月21日8:30追記:「心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:小説・随筆篇」に公開済みの芥川龍之介の作品の内、「父」「沼」「發句私見」の三作品について、草稿を追加した。
非力にして暴虎馮河なれど、ニフティのコミュニティに「李賀」を祀る。心ある者は来たれかし。
芥川龍之介の「明日の道徳」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」に公開。殆ど読まれることがないであろう作品(講演記録という性質からも所収されることが余りないと思われる)であるが、芥川龍之介のジャーナリスティクな一面を感じさせながら、面白く読ませる佳品であると思う。
芥川龍之介の「或阿呆の一生」に未定稿(草稿)を追加。
芥川龍之介の『やぶちゃん版「侏儒の言葉」(岩波版旧全集準拠完全版)』に未定稿「〔アフオリズム〕」及び「侏儒の言葉」草稿を追補した。後者については新全集を底本としたので(但し、例によって僕の矜持によって新字体を正字に恣意的に変更してある)、名称を『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』と変更した。
芥川龍之介の未定稿未完の小説、「遺書」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」に公開。この推定執筆年代が正しいとすれば、彼は24歳である。
「己自身でも何故己が之を書くかはつきりとはわからない」
「生涯の目的を破壞する事になる」
「或物に對する己の不安が強ひて之を書かせる」
「君は之を讀む第一の人間になる」
「こゝに書いてある凡ての事實に正當な信用を置いて、讀んでくれる事を希望する」
「毀誉襃貶が死後の己に意識されるとは思つてゐない。しかし己にはそれが何よりも氣にかゝつた」
「單なる學者を輕蔑した。彼等は冬籠りをしてゐる熊が木の實を貯へて生活する如く、知識の貯蓄によつて、衣食する人間にすぎない」……
――24の彼は、既に既に自身の「遺書」を予見していた……。
芥川龍之介の電子テクスト「沼地」(ブログ 2005/11/05)に、念願であったデュシャンの「薬局」を挿入した。「薬局」は修正レディ・メイドで、絵葉書にデュシャンが画材屋で買った冬の風景画に赤と緑の点を加筆、サインしたものである。
私は汽車の中でそれを描きました。薄暗い、たそがれ時で。私はルーアンに向かっていたのです。1914年の1月でした。風景の奥の方に、二つの小さな光を見ることができます。赤と緑を置くことによって、薬局に似てきたのです。そういうのが私の考える気晴らしです。――デュシャン 1966年
[1999年筑摩書房刊 マルセル・デュシャン+ピエール・カバンヌ 岩佐鉄男・小林康夫訳「デュシャンは語る」より]
芥川龍之介「翡翠 片山廣子氏著」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」に公開した。
「越し人」片山廣子(松村みね子)への芥川龍之介晩年の思いは、頓に有名であるが、彼がこの書評を書いた時、それは八年後の予定調和のようにあったのであろう。この時、芥川龍之介24(数え25)歳、廣子38歳、但し、彼女の夫、日本銀行理事の片山貞次郎はまだ生きていた(四年後に死去)。
大正十三(1924)年の八月十九日、軽井沢の追分分去(わかさ)れで、片山と美しい虹を見た直後、芥川は「もう一度廿五才になつたやうな興奮を感じてゐる」(八月二十日付佐佐木茂索宛一二三七書簡)としたためている。
廣子は後年、芥川龍之介の思い出を「黒猫」(昭和三年)や「五月と六月」(昭和四年)等の随筆に記している。
前者では、黒猫を可愛がっていた芥川を回想し終え、その最後に「庭には影が見えないが、今たしかに黒猫が私の中をとほりすぎた。」と筆を擱く。
後の作品は、かつて夏に借りていた円覚寺の廃寺を再訪し、そこにある古井戸を覗きつつ、「そこへ来て死ねば、人に見えずに死ねるなと思」う。しかし、「同時に死んだつて、生きてるのと同じようにつまらない、と気」づく。「そのまゝ山を下りて来た。」と終わる。
どちらも、僕には慄っとするほど美しい……
(片山廣子の引用は2004年月曜社刊 片山廣子 松村みね子「燈火節」より)
きっと人には満を持して、書くべきことがあるのだけれど、恐らくそれは、何人かにとっては、あなたが書かねばならないのは私のことに決まっていると、指弾するに違いない人々が僕には、勿論、いる。そう思う人々が僕の「忘れ得ぬ人々」の一人であることは、確かに、言を待たないのだけれど、國木田獨歩の「忘れえぬ人々」のラストシーンのように、それは、それぞれの記憶の中の人物の、相対的な印象の温度差、そうして、何より、語るべき「時」の到来を待たねばならないのだ。――僕は、今日、永く気になっている一人の少女のことを、語りたい。
*
Tさんは、小学校の2年から一緒だった。彼女のことを思い出す時、彼女はいつも淡い黄緑のカーディガンを着ている。それほどに、彼女は同じ服を着ていた。同じ貧しい長屋に住む同級生のKでさえ、その子に面と向かって、「おまえは、くせえからな!」の言い放って、平然としていた。
彼女の親は、当時で言うバタ屋=ゴミ屋、廃品回収業であった。
しかし、そのKの家に遊びに行ったことが一度だけあった僕には、失礼ながらそのKの家――それは貧しいと思っていた自分の家の比ではなく、5~6人の家族が、6畳と4畳半にひしめいていた(しかし、そこに卑屈さは感じなかったけれど)――、それは決して同じ長屋にいるTさんを、「臭い」と言うことに、少年ながらもっともだと感じられるような雰囲気ではなかったから、妙に不思議であった。
その頃の机は、二人一組で坐る長机だった。クラスで席替えをすると、誰もがTさんの横に坐るのを嫌がった。男女を問わず、クラスの多くの者が、Kよろしく、「臭いもん」と、言ったのだった。――しかし、本当に、彼女は、「臭かった」だろうか? 僕は、今でもそれは否、と言える。なぜなら、僕は、ほとんどずっと彼女と、一緒に坐っていたのだから。
私は、何度目かの席替えの日、家に帰ると母に、「臭い」Tさんっていうのがいて誰も一緒に座んない、という話をしたのだった。すると母は、暫く黙った後、「たーちゃん(僕の幼名である)が一緒に坐って上げなさい。」ときっぱりと言ったのだった。僕は、びっくりしながらも、何となく、その意味が腑に落ちた気がした。僕は、それ以前、1年の途中に東京から転校してきたという理由だけで、毎日、いじめられていたことを母は知っていたから。考えれば、僕は何故、そんな話を母にしたのだろう。それは考えてみれば、いじめられてきた自身を、どこかでTさんに重ねあわせていたからであったのだろうか?
いや、そんなに格好のいいものでは、なかった。
3年生の担任の先生は、名を桜子先生と言った。まさにその名に相応しい、若くこの上ない美しい方だった(この人について、僕はまた別に書くべきことがあるけれど、それはまたの折にしよう。まさに語りたいほどに美しい方だった)。僕は、その日の帰りに、桜子先生に呼ばれて、「Tさんと坐ってくれない? あなたしか、もういないの」と頼まれていたのだったから(私は出席番号で男子の最後であった)……。
――授業参観があった。国語の詩の授業であった。それは、小学生の作った詩で、台所のガスの青い炎が不思議に美しいことを詠ったものであった(僕はその四十数年前の教科書のガス台の火の挿絵までありありと想起できる)。
先生が、その詩を朗読し終え、授業に入ろうとした時、僕の隣にいたTさんが、突然、手を挙げた。普段、居るのだか居ないのだか知れない程にもの静かな彼女が、
「先生――ガスの炎って、何ですか?」
彼女の父母が来ていたのかどうか(私は、来ていなかっただろうと思う)。しかし、間違いなく、それは、授業参観という、晴れの場での、真摯な彼女の、精一杯の、前向きな質問だったのに違いないのだ。
小学校3年の僕でさえ、『これは、まずいぞ』と直感した。僕は、彼女を呆けたように口を開けて見上げていたのを覚えている。その時、参観に来ていた母も、やはりそう感じていた。
そうして、桜子先生は、その甘い香りを思わせる薄桃色の唇から、こう発した。
「あなた、ガスの炎、知らないの?」
僕は、あの瞬間の、教室をつつんだチェレンコフの業火を忘れない。それは、桜子先生と同じように教壇に立つ、今の僕自身をも照射する絶対零度の光でもある。……
――翌年、4年生になっても、僕は彼女の隣に坐っていた。
社会科は、他の教科があまり芳しくない彼女の唯一の得意科目だった(ちなみに僕も、体育は言うに及ばず、算数がまるで出来なかった。好きだったのは国語の作文と社会の地理、唯一、ぶっちぎりだったのは家庭科、しかし、クラスでは陰で「おとこおんな」と馬鹿にされていた)。彼女は、テストが返されると、いつもうつむいたまま、「だめ、だめ」と言いながら、自分の頭をこつこつ、拳固で叩いていたのを思い出す。
ある時、社会のテストで僕は、満点をとった。得意の地理分野だった。
担任の瀬畑先生(この人も、思い出深い。東北から出てきた素朴な青年だった。授業中に故郷の歌を大声で歌っては、隣のクラスのおばさま先生からお叱りを受けていた)は、満点の生徒を褒めるために、骨太の、訛りのある声で、おもむろに名を挙げた。僕の他に、もう一人いた。Tさんだった。
昼休みになって、Kやほかの同級生が、僕を教室の後ろに呼んだ。「すげーじゃん!」という賛辞は世辞でしかない。彼らが言いたかったのは、「隣のTのヤツ、やぶのテストをカンニングしたんじゃねえの?」であった。
自分の席で、彼女は、粗末な日の丸弁当(彼女のお弁当はいつも本当に文字通りの梅干と御飯だけの日の丸だった)を隠すように食べていた。
みんなは聞こえよがしに、それを繰り返した。僕は、そんなことはないと分かっていながら(彼女との同席の付き合いは長い。彼女の社会科好きは誰よりも、僕が、知っていたのだから)、しかし、「そんな気に」させられて、何だか不機嫌になってきた。
午後の授業が、始まった。僕は、同級生の言葉に押されたかのように、不機嫌な表情を一層不機嫌にして、彼女を殊更に視界の外においた。
ふと気がつくと、彼女は、ハンカチを手に、すすり泣いていた。決して、先生や同級生に分からないように。……
放課後、僕はKたちに囲まれて、満点の答案を持って英雄のように、田んぼの畦道を凱旋して帰って行ったのだけれど、僕は、自分の家の近くで一人っきりになった時に、あの、すすり泣いている彼女のことを思い出して、何だかひどく憂鬱になっていた。……
――その年の終わり頃だったか、Tさんは、父親の仕事の都合で、転校していった。型通りの挨拶が終わって彼女が教室出てゆくと、僕だけ、先生に呼ばれた。ついてゆくと、昇降口のところに、父親に連れられたTさんが待っていた。Tさんは、中庭の、妙に明るいハレーションを起しそうな陽光の中、不思議に清々しい笑顔で、僕に、「ありがとう!」と一言、言った。二人は、体育館と理科室の路地を小さくなっていった。……
――パサついて傷んだ髪と、不揃いな歯と、はたけが出来た上に、あかぎれの頬で、時々、ほんとうに、ほんとうに時々、僕にだけ見せた、無邪気なTさんの、清々しい、笑顔だった――。
リメイクの「日本沈没」の宣伝番組を気を入れることもなくぼーっと見ていた。しかし、そこで、日本沈没後の日本人は、どう日本人として生きてゆくのだろうという思いが、僕の中に、沸々と湧き上がってきた。
かつてのユダヤ人の如く、彷徨える民として国外に分散するが、それぞれのコミュニティに順応すること、いや速やかであるであろう。
しかし、その時、「日本人」、いや「日本」というアイデンティティを「我々」どう片付けてゆくのであろう。国土なき「愛国心」、民族ならざる「日本人」(人類学的に日本民族と言う厳密な純系的統合的概念は、僕は存在しないと考えている)……「愛国心」や「日本人」という概念が、今現在、どうなっているかを見渡す時、僕は「沈没」よりも、「沈没後」こそ、「我々」の深刻な現在の問題を考えるよすがになるのではなかろうかとも思うのであった。
今日でこのブログを始めて丁度、1周年となった。あの時、僕が何を考えていたのか、その個人的な動機は、今となっては、不遜の極みであり、笑止にさえ思える。そうして、間もなく、僕は腕を折って、結局、僕の挫折(まさに「挫折」という語はぴったりではないか)から、僕自身を救助するためだけに、專ら使われることとなった。それは、所詮、僕と言う救いがたいエゴイストのレゾン・デトールであったということか。
La fête est finie.
ほら、僕のブログのここそこに書いてある。
「祭りは終わった」……!?
いや、きっと君たちの本当の祭りは、これから、さ!
芥川龍之介「産屋」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」に公開した。
萩原朔太郎は、この大正六(1917)年二月に、詩集「月に吠える」を刊行している。
……芥川の朔太郎へのラブコール……「詩を熱情している小説家」という直感はこの時既に朔太郎に根ざしていたような気がする……ミューズの齎した白い蛇……男叫び声……それは確かに10年後の彼へと続く流れのようにも思えてくるではないか……朔太郎32歳、龍之介25歳の夏、であった……
芥川龍之介「六の宮の姫君」を正字正仮名「今昔物語集」原典付きで「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」に公開した。オリジナルに作成した『芥川龍之介が原典とした「今昔物語集」中の三話本文』を付した。宇野浩二が「芥川龍之介」で言うように、これは原話が非常に優れていると僕は感じる。それを芥川は換骨奪胎し得たかどうかは、また、それぞれの読者の思いの中のことである。
昨年の二度目の手術直前、8月27日にミクシイに入って凡そ11ヶ月、ここのところ、自分のアイデンティティの表明の為に、コミュに多量に参加している(実際には、コミュの表示画像への偏愛が九割だが)せいだろうか、未知の方の訪問も多く、ついさっき3000人を超えた。孤独でやけっぱちの僕という存在に、少しだけ立ち止まって、見つめてくれたあなたへ。心より、ありがとう!
遂に未知の方からのマイミク! 同世代の外科医だ! なんだか、急に僕のマイミクが高尚なものになったような錯覚を覚えた。職場で医学部・看護系の小論文担当をしているので、教えを乞うこともできる。ここのところ、丸で現実への失望感に打ちのめされていたけれど、たまには意外な素晴らしい出逢いなんてものが、あるんだな。これを読んでいるあなた、きっとあなたにも、あるよ!
映画に撮りたくなる、暗く死臭に満ちた芥川龍之介の「悠々荘」を正字正仮名、オリジナルな考証等を施した補注付きで公開した。宇野浩二が「芥川龍之介」で高く評価する作品である。
僕の子供たちへ
何人かから文化祭に来て欲しいという伝言を伝え聞いた。1年の時のぶっちぎりの売り上げを誇った、軍手を脱ごうとくわえたところが前歯を折った(そうかあの時も「折る」だったのだ)タコ焼屋……去年の腕を折る直前、僕の人生であれほどテンション揚がったことはそうそうない、恐怖の藪之屋敷……僕も行きたいのは山々なのだが、それでも、平然と君たちの楽しい場にこの裏切った顔をぶらさげて行けるほどに、僕は厚顔無恥ではないのだ。逢えればとても嬉しいが、同時にさらに哀しくもなるのだ。どうか、それぞれに高校生活最後の文化祭に精を出し、成功に導かれんことを!
追伸:「藪之屋敷」の怪談チラシはすでに公開しているので、今日明日の成功を祈って、2004年の文化祭で書いたチラシ「藪だこのひとりごと」を公開しておくね。