胡同のひまわり
張楊(チャン・ヤン)監督の「胡同(フートン)のひまわり」を見る。
「こころの湯」の監督でもあり(あの朱旭はいつもながら、素晴らしい演技であった)、相応の期待の中で見たのだが、前半のほとんど文句の無い展開と映像の素晴らしさが、どうしたことか作品の後半に至って、プロット・撮影・演技共に「力」が急激に減衰してしまう。そこが誠に惜しい。
少年期から青年までの向陽を3人の俳優が演じるのだが、残念ながら、少年の美事なリアリズムが、後の二人になるに従い、段階的に陳腐になってゆく。父と母と隣人の劉さん以外の俳優の誰もが、哀しいかな、ものの美事に魅力的でなくなってゆくのである。
地震後の避難所のセットは、作中、唯一の大道具のバレである。明らかにテントの柱も被災した家具や葛篭も、整然とし過ぎた綺麗な避難所となってしまっている。「臭い」がないのである(これは「三丁目の夕日」と同じケースである)。しかし、これは逆に、随所に写されるかつての胡同、今、失われゆく胡同の姿が、強烈なリアリズムを産みだしている証しであり、瑕疵と言う程のものではない。
張暁剛(ジャン・シャオガン)の実際の絵を用いた後半の大きな展開は、僕には面白く映った。実際の画家の絵が、映画の展開上、極めて大きな意味を持って迫まってくるというのは、映画史の中でも、稀であろうと思う。しかもこれら絵は、この映画とは関係なく、1993年からシャオガンが描き続けてきた「全家福」シリーズの、まさに「本物中の本物」であるわけである。僕の妻などは、シャオガンの絵が気味が悪く、感情移入できなかったようであるが、僕は父が個展に出向き、そこで息子の中の家族に思い至るシーンでは大いに感動した。しかし、シャオガンの絵に対する僕の妻の反応は、極めて常識的な日本人の反応のようにも思われる。だが、では、他のどのような絵があそこに相応しいかと言われると、僕にはやはりシャオガンの暈されたあの霊のようなタッチでなくてはならなかったのだと思うのである。
では、大きなキズは何か。それは、やはり脚本の後半部にあるように思われる。この映画のポスターのコピーは、『画家になりたかった父の夢、30年たって初めて、ぼくはその意味を知った。』であるが、果たして、そうだろうか? これは「子」が「父」の真実に思い至る映画、ではない。これは「父」が「子」の内実に思い至ることによって、真の「父自身」を見出す映画、である。僕は少なくともそう観る。
しかし、それを象徴するエンディングの父の失踪(それは父にしてみれば旅であり失踪ではないのであろう)という大きな意外性の意味が、充分に観客に納得されない嫌いがあるように思われるのである。
それは唐突であり、リアルさを欠いている。なまじっかパーキンソン病の宣告という現実を前に持ってきてしまっているために、薬物も置き去りにしたまま(パーキンソンの発作は薬物なしでは極めて厳しい)、一年後も奥地の田舎で元気に向日葵を育てている、しかし孫の誕生は知っていて、その退院の日に向日葵を届けにくる、しかし父は戻ってこなかった、というのは、僕にはどうにもリアリティを感じさせないのである。「父」を死なせずに終らせるその手法の奇抜さは、一つの「意外性の筋書き」としては面白いけれども、前半から、ある感動の昂揚を期待している観客(少なくとも日本の観客の半数)には、やや戸惑わざるを得ないエンディングであると思うのである。
ただ、僕が注文をつけるのは、それだけこの映画に、中国映画の、新しい、素晴らしい種子が播かれている故のこと、いい映画故、なのである。私は嫌いな映画を批評しない。けなすための映画批評など、批評ではない。
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帰りに、駒形どぜうへ行く。いい映画を観て、語り合い、どぜうを肴に酒をあおる。嗚呼、素晴らしき哉!