「末法燈明記」は偽書にあらず
自分なりの訳をし終えて、暫く経った。その間、僕にはこの「末法燈明記」がすこぶる理路整然とした思想に基づいているという感が、いや増してくるのを覚えたのだった。そんな中、昨日、松原祐善の「末法燈明記の研究」と家永三郎の「末法燈明記を中心にとする諸問題」の真筆支持派の二作品を読み、僕は「末法燈明記」は偽書ではないという確信に至った。
そもそも、親鸞や日蓮が引用するのは末法思想の各論部分であって、実は肝心の、本書の最後部にある、末法という認識の中で、宝亀延暦期の僧統(=僧綱[そうごう])による仏教統制の新政策へのはっきりとしたNO!のプロパガンダの部分は、誰一人として引用していない。それは当然であろう。朝廷がそうした統制力を失してしまった平安末から鎌倉前期に於いてそのような本書の核心部分は、末法思想をスプリングとする専修念仏や御題目には、全く不要であるからだ。全く不要な古びた主張を装って、その各論部分にこそ実は主たる目的を配する、というような「偽書」というのは、如何にしても妙である。
僕らは、偽書というと博覧的な知識と緻密な時代考証によって書かれるものだと思い込んでいる。実際に僕らが偽書に対する時、そこは、その偽書たる所以であるところの、そのほころびの如何に隠蔽されているかを、更に巧みに暴き出す快感に満ちていると言えよう。即ち、僕らは、その「時代考証の精度」が高ければ高いほど、逆説的に、実はそれが巧みに偽装されたものではあるまいか、という疑念にも陥るのである。それは皮肉に考えれば、自分自身が現に持っている内在的な悪意の反映ともとれよう。
具体例を挙げるのも馬鹿馬鹿しいほどに、「○○文献」等と称する近代の偽書は、どれをとってみても、その登場の初めからどこか胡散臭く、必ず、最後には発見者の筆跡と同じだったり、当時存在しない語句が用いられていたり、ちょっとした連中ならば簡単に見破るような児戯に類した暗号文を曝して、最後には嘲笑と共に退場してきた(一度退場しても、ほとぼりが冷めると、すぐまた若い無垢な連中たちをターゲットに蘇生するのも彼等の常套手段だが)。
しかし、それは同時に、あらゆる古文献に、高度な偽書創造のテクニックと近代的個人主義の亡霊がすべてである、本物らしくみえる書は須らく偽書と疑えというステロタイプな猜疑を植え付ける結果となったのではなかったか。
そうした眼から「末法燈明記」見るならば、そのクロースアップの引用が鎌倉新仏教に大きな貢献を果たしたという点がまず疑念として芽吹き、さらには、引用されることのない主論のまさに「完璧なまでに巧妙な時代考証学的」書法が大いに疑われることになるであろう。
しかし、それは逆である。
これは当時の水準から言って、「在り得ない完璧な時代考証である」と、僕は思うのだ。
後世人に引用もされない部分に、厳密な校訂を加えて満足する偽書家というものを、僕はちょっと想像し得ない。少なくとも、今よりはもっと素朴で、もっと単純で、そうして、今のようには偽ることの「美学」には長けていなかったと思われる平安人の中に。
即ち、「在り得ない」ということは、それが「時代考証」などではない、「ありのままの事実を書いたに過ぎない」のだということになる。
細かに列挙しないが、それ以外の幾つかの偽書説の証左についても、上記二書の反論は淀みないものであった。最後のページを閉じた僕には、「末法燈明記」偽書説の、崩せない砦は、たったの一つも残らなかった。
さればこそ、ダイレクトに、これは確かに伝教大師最澄の真筆であると僕は、無謀にも思うものである。
延暦二十年、彼はまだ34歳、渡唐はその2年後である。僕らの知る最澄の日本における天台宗確立という歴史的事実や、その思想を伝える著述は、勿論、その後のことである。
行政の不当なる介入(ああっ! 何と今の僕にとって宿命的に暗示的であることか!)へ「当時壮年血気の最澄の蹶起をみたのは当然であつた」という家永三郎の言葉は、何か僕の心にすっとおちたのである。