芥川龍之介 松江印象記 初出形
芥川龍之介の「松江印象記」の初出形「日記より(一)(二)(三)」を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」に公開した。底本とした井川恭の「翡翠記」は、言わば『あり得たかも知れぬ幸福なる先生とKの物語』である。そうして、この中で、井川はあの(!)レニエの詩を訳している。僕は多くを語るまい。ただそれを引用して、この稀有の二人の友情を羨望するに留めよう。
おもひ出 アンリドレニエ 井川恭訳
微睡(まどろ)む池のおもてに
水葦がおのゝいてゐる
眼に見えぬ鳥の
ひそやかな羽膊(はばた)きのやうに
ひくい顫動(みぶるひ)のひゞきのやうに
息の窒(つま)るやうな風が吹いてゆく
涯も無い野のうねりの上に
月は青じろい光をそゝぎ
風はみどりの叢(くさむら)のかをりを
艸(くさ)のはなのかをりを
絶え間もなく吹きおくる
けれども夜の底には
泉の水が歎きうたひ
慄(ふる)へる胸のなかには
古い戀ごゝろがめざめてゐる
そのよるの悲しく愛しい思ひ出は
過去の深みからうかび出て
遠い方からくちびるのうへに
戀のさゝやきが響いてくる
(井川恭「翡翠記」所収のものを、恣意的に新字体を旧字体に代えて示した。)