南方熊楠 牛王の名義と烏の俗信
南方熊楠の「牛王の名義と烏の俗信」を、三木清の「旅について」アップ以来気になっていた名称の変更を行った「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。
将に感応自在天の如き熊楠の「知」神を味わいたい。彼のニューロンは、まさに、落雷点を探している稲妻である。もしくは、驚くべきスピードで変態する粘菌のような「知」の変容過程が活字化されていると言ってもいい。それは、傍目には脱線の如く見える部分も、南方曼荼羅たる彼の脳髄にあっては、それは語られるべきものであり、語らねばならないものなのである。そうして、その語り口は目の前のおとろしけない天狗の如き彼の肉声を伝える、味わいのある文体である。一度、彼の絶妙な語りの迷宮(ラビリンス)に入った者は、出口を見つけてしまうことを、密かに恐れるであろう。
彼は、うねるような考証と博覧の随所に、ある時は歓喜天ばりにセクシャルな、ある時はマンドラゴラの毒に満ちた、ある時は似非エコロジーに満ちた現代を遥かに超越した、淫靡にして致命的にして超現実的な「知」の光芒を見せる。そうして、プエル・エテルヌスの悪戯っぽい笑みも。
僕の私淑する文人の中で、実は彼は、唯一、とてつもない陽の気を感じさせる人物である(彼の息子の熊弥への心痛は例外)。彼が怪異や現実を語る時、他者にあり勝ちなむず痒くじめじめした陰気が、全く、ないのである。女中に殺虫剤を己が尿道に噴霧させた、豪快異形の巨漢は、ここに今も哄笑とともに生きている。
その語りの後半、「わが邦でも、初めは腐屍や害虫を除き朝起きを奨(はげま)しくれる等の諸点から神視した烏が、田圃開くるに及び嫌われだしたので、今日では欧米で烏鴉が跡を絶った地もある。本邦もご多分に洩れない始末となるだろうが、飛鳥尽きて良弓蔵まる気の毒の至りなり。」
という叙述に、僕達はいわく言いがたい、後味の悪い悔恨のような何かを感じはしないだろうか。少なくとも、僕は、ここで読む手をしばし置いたのである――。