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2006/09/03

夏の一冊「芥川龍之介の愛した女性」

高宮壇「芥川龍之介の愛した女性―「薮の中」と「或阿呆の一生」に見る」

中学一年の時、清張の「点と線」を手に汗握って読んだスリリングな感触が、掌にじわっと蘇ってくる。当時の時刻表と官報の気象情報を駆使して、芥川の秀しげ子との密会を時間刻みで追い込んでゆく。

疑問と反論は多々あるけれども、「藪の中」を暗号として読み解く仕儀も、去勢されたアカデミズムから離れた、自由な発想としては素晴らしい(但し、金澤武弘=南部修太郎のアナグラムは留保する。解析過程が示されておらず、同じ文字を何度も使うというのは信用できない。いろは歌の謎を解明したというのと大差ない)。

特に、人力車を転がしながら待合「真砂」に辿りつく路程は、知り合いのNHKエンタープライズの方に、ドキュメンタリーにして欲しいぐらいだ。

何より、侮蔑の表情で読みながら、面白いことを否定できない有象無象の自称公認芥川龍之介専門大学教授のジレンマが見える、見える。小気味よいね。

第二部では、「或阿呆の一生」の「月光の女」が、どれも小町園の野々口豊であり、第一部で見せた、この作者の芥川龍之介に負けない絶倫の「精力」で、切り取られたフィルムを、整然とした時間軸の中に並べて、第一部同様、まさに動画としての不倫現場へと再現してゆくのも、「雨の中にいつか」「腐つて行くらし」い「濱木棉の花」の淫靡にして素敵な「匀」が漂ってくるのである。 

しかし僕には、この作者、ホームズにも見え、ジェラード警部にも見える、とだけ言っておこう。

以下は、殊更な反論と言うよりも、筆者の発想を僕が持つならば(それは芥川龍之介という実在の解明になるや否やという点で僕には不要な発想を含んでいると言っておく)という夢想の中での言葉である。第一部に対する僕の暴言は、僕の代わりに多襄丸に語ってもらおう……

……「何、男を殺すなぞは、あなた方の思つているやうに、大した事ではありません。どうせ女を奪ふとなれば、必、男は殺されるのです。唯わたしは殺す時に、腰の太刀を使ふのです」だから、「わたしの太刀は二十三合目に、相手の胸を貫きました。二十三合目に、――どうかそれを忘れずに下さい。わたしは今でもこの事だけは、感心だと思つてゐるのです。わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男一人だけですから。(快活なる微笑)」どうです。吝嗇臭い言葉の遊びなんざ止めにしませう。二十三合――そいつは文字通り「合」なんですよ、「合」! ……わたしが、ぶすつとやらかした、女との!……(淫靡にして不敵なる笑ひ)――「わたしの白状はこれだけです。どうせ一度は樗の梢に、懸ける首と思つてゐますから、どうか極刑に遇はせて下さい。(昂然たる態度)」……

第二部について――

「月光の女」という芥川の表現については、僕がブログで記載してもいる確実に先行する佐野花子の存在がある(それを、佐野花子の妄想や虚偽とするならば、そう表明・検証する必要が不可避的に、ある)。これを、語ることなく捨象してしまって、野々口豊一人に「月光の女」を強引に美的な象嵌をするのは、歯科医としての筆者の施術としては、インフォームド・コンセントに欠けると思われる。暫くすると、すぐ外れて仕舞いそうで、不安なのである。

「二十八 殺人」の周辺的な検証は、検証として大いに理解し得る部分があるが、大町教会という同定は、如何なものか。芥川龍之介が新婚時代に住んだ家が僕の父の実家のすぐ北隣であり、三十年近く郷土史研究で鎌倉を歩き続けてきた僕にとって、「爪先き上りの道を登つて行つ」てゆく先というシチュエーションの場所に、大町(現・由比ガ浜)教会は、はっきり言おう、ない。(追記:この最後の否定については重大な訂正をした。2007/2/1のブログ「『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察』を参照されたい。)

……しかし、続く野々口豊の追跡はどのような真実を解き明かしてくれるのだろう、楽しみである。凡百の芥川評論を読まれるな。これが、面白い。

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