ヤマアラシのディレンマ
「ショッペンハウエルの譬喩に、ヤマアラシ四、五、圏中にありて寒を感じ温を欲して相密着するときは、双方の針たたちまち相痛ましむ。これをもって賢人は温を貪りて相刺さず、温を少なくして刺撃受けざるを事とす、といへり。さすれば小生は独孤にて人に求むることなし。仁者、小生に向かいて温を求めらる。これその針を畏れざるなり。願わくは小生の針に痛むことなく、単に多少の温を得られんことを望む。」〔南方熊楠明治26(1893)年12月24日付土宜竜法竜宛書簡冒頭部より。但し、一部表記を改め、また一部を省略した〕。
土宜法竜(ときほうりゅう)〔1854-1922〕
高野山学林長として、明治26年にシカゴでの万国宗教大会に真言宗代表として出席、その後渡欧、同年の10月にロンドンで南方熊楠と相知ることとなる(南方熊楠27歳)。1920年高野派管長、22年金剛峰寺にて円寂。熊楠の、いわゆる『南方マンダラ』の形成に深く関わった人物。
挿入した絵は、引用書簡の挿絵に書かれた一匹のヤマアラシの絵を、熊楠の叙述に合わせて、僕が反転合成して二匹にし、針の一部に手を加えたもの。実際の熊楠の絵は、一匹だけで、左を向いたものである。
熊楠の一見不遜なその語り口に彼らしい照れが美事に隠れている。この絵からは、彼の、強毒の刺棘に満ちた極度に自制的禁欲的なフルメタルジャケットと、その内実としての人恋しい淋しがり屋の一面が見て取れる。
……それにしても、この豪猪(やまあらし)、かなり、かわいくない?