アオミノウミウシと僕は愛し逢っていたのだ
腕を折ったあの日、結局、診察は翌日ということで、僕が真鶴の横浜国大の臨海実習所の生徒のもとに、戻ってからのことは前に少し書いた。
腕首の粉砕した予感を払拭するために、僕は三角巾で腕を吊ったまま、アオミノウミウシについて、教授に聞いた。
「彼らはカツオノエボシの刺胞を捕食しながら、それをそのまま射出させずに自分の背中に移行させることができるのは何故でしょうか?」
教授は、笑いながら答えた。
「分からないね。研究している人いないから。」
その時は、合点して、僕も笑って、
「そうですね、金になりませんからね。」
と言ったのだが……。
ずっと気になっている。
アオミノウミウシは後鰓類の中でも、特異な生活環境を持っている。粘液の分泌によって、気泡を作り、洋上を漂い、強い刺胞毒をもつクラゲであるカツオノエボシやカツオノカンムリに食いつき、その体を齧って餌とする。いや、それだけではない。彼等は、その寄生主の、あの激烈な刺胞を自分の体内に射出させることなく、取り入れ、それを背中に蓑のように多量に背負っているのである。
アオミノウミウシはどうして刺胞を食いながら、口はもとより消化管の中においても、それを射出させないでいることができるのか? 更には、どのようにしてそれを、そのまま消化管から体内に取り込み、背部へ移行させることができるのか? そこでは、刺胞の極めて物理的な射出システムを、何らかの化学物質によって抑止しているとしか考えられない。
考えられるのは、刺胞がアオミノウミウシの総体を、異物として認識していない=群体(カツオノエボシは実は職能を分化した生物の集団なのである)の一部としてアオミノウミウシを誤認しているのではないかということである。カツオノエボシの栄養体は、僕にはアオミノウミウシに似ているようにも思える(これはただの僕の勝手なミミクリーかも知れないが)。
カツオノエボシは、その触手が何十メートルにも延びる固体があるが、激しい波浪の中では、彼らの自身の触手が、自身の他の部位にからまることは十分に考えられるが、その場合、単純に物理的に、自身に対して刺胞を射出するとは思えない。
だとすると、そこには何らかの高等生物の免疫システムのような、自己同一性を認識させる化学物質が存在していると考えるべきではないか。
そうした化学物質と類似の物質を、アオミノウミウシ自身が体内に持っているならば、僕の疑問は解決するように思われるのだが。
いや、想像は飛翔する。そのような化学成分を抽出精製し得たならば、それによって強烈な刺胞毒を持つクラゲ類に対する、非常に有効な保護薬剤となるのではないか。勿論、そうした薬物が析出できたとしても、実際には、最強のキロネックスやハブクラゲ、アンドンクラゲやイラモ等の刺胞毒性分は、十分に明らかにされているとは言えないし、それぞれにかなり異なったタンパク質であるから、万能であるとは言えない。しかし、決して「金にならない=役にたたない」わけでは、ないような気がしてくる。
いや、まてよ?
それは体表面の粘性という、物性であるかもしれない。そもそも機械的なメカニズムでしか作動しない棘胞にケミカルな解釈は不要ではないか? だとすれば、それは物性としてのアオミノウミウシの表皮にあるのではないか? この方が、ほとんど判断する神経系(大きな節も持っていない)を持っていない彼らにはしっくりくるのではないか?
……そんなことを考えながら、横浜駅へと下ってゆく国語教師を、だれも愛してはくれないことは、よく分かるさ。愚劣なお前に言われるまでもなく、な……。
Glaucus atlanticus Forster, 1777