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2006/10/14

芥川龍之介 袈裟と盛遠 附「源平盛衰記」原典

芥川龍之介の「袈裟と盛遠」を、「源平盛衰記」の原典資料を附して、正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。

僕ははっきり言おう。

この袈裟はかつて僕がブログ「月光の女」で言及した佐野花子である。渡は、その夫である海軍機関学校の同僚、佐野慶造、盛遠は芥川龍之介自身である。

これは、今回のテクスト化作業の中で、殆ど如何なる第三者の反論をも受け入れられない程の確信として、僕に落ちたのだ。

彼はこれを発表する二箇月前に文と結婚している。彼自身の現実的状況において、佐野花子への断ち難い恋愛感情を意識から排除せねばならなかった。

一方、彼はそれを断ち得ないことも知っていた。

しかし、彼には彼の秘中の秘である、そうしてストーリーテラーたる彼にしか操れない神話的変換システムが存在する。

彼は「芥川龍之介というパラレル・ワールド」の中では、この三人を、鮮やかにβ崩壊させることができると、考えていた――「袈裟と盛遠」の構造は、神話と同じである。そこでは、それぞれの登場人物の役割は神話という体系にとってのみ必要なコマでしかなく、その最期は予定調和としてア・プリオリに決定されている。この体系のなかでは、善悪や個としての倫理性を軽々と超越して、完結してしまっているのである。されば、その絶対的システムに組み込まれ、そのシステムが作動を始めた時、誰が「袈裟」であるか「盛遠」であるか「渡」であるかなどという、演出家の判断は無効となり、それぞれの主張する正当性や倫理的判断などという、甚だ人間臭く、同時に吝嗇くさいものは容易に無視され、「袈裟と盛遠」システムは精神のカタストロフへと順調に進む――はずであった……。

まずは、「渡」を考えてみよ。原典でも、本作でも、そこで描かれるそれは、まさに、妻佐野花子の語る、佐野慶造その人に相応しいのである。

そうして、この袈裟の独白を読むがいい。袈裟には、たった一人、そのステージで、まさに「月の光」を示す、シューティング・スポットを照らさない奴は、演出失格だ。彼女は何度も、言葉にするように、「月光の女」なのである。それが佐野花子でなくて、一体、誰であろう。彼の傍には、この時、秀しげ子も、野々口豊も、居はしないのだ……。

……テクスト化作業の中で、全く次元の違うことも、感じていた。これは先行する「藪の中」である。真砂の心理は、既にこの袈裟に内包している。「藪の中」の一つの新しい切り口は、この袈裟のかなり正直な(矛盾を孕んだ点に於いて、逆説的に正直で真摯な)供述のなかに見出しうるであろう。勿論、結果としての袈裟と真砂の行為のベクトルは全く逆ではある。しかし、それは恐らく、迂遠な放物線を描いて、再び回帰するのである……

……この小説を読む者は、必ずや、自身を盛遠になぞらえ、また、ある特定の女性を、この袈裟に重ね合わせないではおかないであろう。僕も、その例外ではない。しかし、そこで、僕は、このような女は「ファム・ファータル(宿命の女)」であるかどうか、という問題に否が応でも逢着せざるを得ないのだ。これだけで、一夜を要する議論となろう。結論だけ言う。袈裟は数少ない、稀有の、真正の「ファム・ファータル」である。だからこそ、袈裟は美しいのだ。亡ぶのは、袈裟ではない、亡ぶのは、行方も知れぬ渡であり、口の干ぬまに現実世界へと突出し、政治的行動主義に邁進、果てに佐渡に流されて骸を晒す盛遠=文覺上人である……

鎌倉に補陀落寺という観光ルートからは外れた寺がある。30年も前、管理されていない仏壇の隅に埃を被っていた文覺上人の木造が、僕にはひどく親しいものに感じられた。それはまるで、おぞましいこの世に唾する、天邪鬼のように僕には見えたのだった……

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