オルガン教室 そして 生徒描けるそのカリカチェール そして 忘れ得ぬ人々 13
僕は小学校4年生から3年間、藤沢のヤマハのオルガン教室に通っていた。先生は、細身美麗の、いえもとあきこという先生であった。僕は、テッテ的に不器用な生徒で、おまけに泣き虫だった(今もそれは変わらない)。8人ほどの教室で、僕は毎回、叱られては、涙を滲ませた。
先生を囲んだ形の僕の斜めの位置に、同い年の、ぽっちゃりとした女の子がいた。
先生に叱られて僕が涙を浮かべていると、その彼女は、いつも優しくいたわる視線を僕に投げかけてくれた。が、それがまた、残るところ僅かな僕のプライドをテッテ的に傷つける仕儀となっていたことを彼女は理解していなかった。いつもその子が、僕にだけ「さよなら」を言って、宵闇の中を教室の前から左の大通りに別れて還ってゆく時、どこか複雑な思いで、「ウン」とすげない声ならぬ声を返すだけの僕であった。僕は、その少女と、一緒に帰ったことは、遂に一度としてなかった。
40年後の今、僕があの女の子の映像を鮮やかに蘇らせることができるということは、実は、あの子を僕が好いていたのだということに他ならないということを、49の僕は、確かに感じている。
しかし、同じ駅の方向へ帰るのに、何故、一緒に帰ることがなかったのか? それは、僕が教室の前の、右に折れた暗い路地の方から、いつも帰っていたからだ。僕だけは電車でなく、バスで通っていた。教室の子は、みんな、玄関から左に折れ、すぐに明るい表通りに出て、駅へ向かう道を帰った。
僕は、表通りを彼女と歩いても、少しばかりバス停への距離が長くなるだけだったのだ。だのに、何故だろう。その少女への素直な思いはきっとあったはずなのに……。
あきこ先生は、僕らがいっとう遅い教授生徒であった。必ず、僕らが終わって5分もすると、教室を出るのであった。彼女は、もちろん明るい表通りを歩く。僕は、ゆっくり反対から歩いてくるのだ。それも遠回りをして、道が表通りの道と合流する三叉路まで。そうして、そこで僕は、先生と必ず逢うのだった。いや、逢うようにわざわざのろのろと歩いたのだった。その信号待ちの一瞬だけ、僕はプライベートに先生と言葉を交わせ得たのだった。
その時必ず、先生は、まだ記憶に新しい叱責を、優しい笑みに変えて、「気をつけてお帰りなさい。」と声をかけ、暗い横断歩道を駅へと渡って行くのだった……オレンジ色のスカーフを、いつもしていた……。
……僕の、この、「忘れ得ぬ人」は、一体、誰だったのだろう……。
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1982年。教えていたクラスで、この話をした記憶がある。その3年生のクラスには、絵のうまい、ちょいと個性的な女子生徒がいた。今も、彼女が作ってくれた紙粘土製の、ピンク色のジャミラとベンチに坐る僕の像は宝物だ。そうして、彼女がイラストで大活躍した卒業文集(そのうちにまたその中の彼女の描いた私の別なカリカチェールをご披露しよう)と共にプレゼントしてくれた絵が、これである。
但し、もう一度、繰返そう。あきこ先生は、決してジャミラではなかった。永遠に美しい、僕の記憶の中の、稀有の女性である……