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2006/11/04

忘れ得ぬ人々14 西原のお兄ちゃんのオモニ

Image0003 今、僕の書斎から見下ろすところに寺がある。すっかりその前は駐車場になり、高級なマンションが建っている。50年の昔、ここには大きな長屋があった。

画家志望だった私の父は、日曜日になると、ここの子供たちを相手に青空絵画教室を開いていた。勿論、ボランティアである。ある夏の日、この寺の山門の壁を借りて、長屋の青空子供絵画展を開いた。その写真がある。数十人のとびっきりの笑顔の鼻タレ小僧小娘たちに囲まれた20代の父に抱かれて、一歳半の僕がいる。僕は、妙に緊張して眉根に皺を寄せている。もう、この時、結核性カリエスに罹患して、左肩が疼いていたからであろう。

その中に、西原のお兄ちゃんもいる。

お兄ちゃんは僕を弟のようによく可愛がってくれた。昨日の「トンマッコルへようこそ」を見た『藤沢オデヲン』に、「サンダーバード」を見に連れて行ってくれたのも(あのころは総入れ替え制などなかった。僕がもう一度見たいというと、お兄ちゃんは笑って、「いいよ」と言ってくれた。二度目が終わって、隣を見ると、お兄ちゃんはいなかった。ロビーのベンチで寝ていた。大事な、日曜日を、餓鬼の我儘に付き合ってくれたのだった。僕は何故か、「サンダーバード」の映像より、そのベンチで寝ているお兄ちゃんの映像をはっきりと覚えている。ちなみに、この映画館は僕には忘れ難い映画館なのだ。母とディズニーの大好きな「海底二万哩」「まぼろし密輸団」を見たのもここだったから)、富山へ引っ越す時に、中学入学のお祝いに、高価な旺文社のエッセンシャル英和辞典を贈ってくれたのも西原のお兄ちゃんだった(今も僕はその原型をとどめない辞書を座右に置いて愛用している)。

お兄ちゃんは朝鮮人であった。

その「西原のお兄ちゃん」のお母さんは、バスの中で僕の母に連れられた上半身にギプスを装着した僕(左肩関節結核性カリエスのため、大船から新宿の東京女子医大まで2時間かけて通院していた)を見ると必ず、すぐにその巨体を揺すぶって、ドンと椅子から立ち上がると、「先生(絵を教えていた父のこと)の子供! 坐るネ!」と、満面の笑みを浮かべて、僕の自由な右手を引っ張ると強引に坐らせたものだった。

オモニはよく長屋の日本人と、「朝鮮人、朝鮮人て、馬鹿にするじゃナイヨ!」と大声で喧嘩していたが、そんな時に小学校帰りに毎日のようにいじめられて泣いて帰ってくる僕が横を通ると、「先生の子供!」と叫ぶが早いか、急に顏を、いつもの満面の笑みにして(彼女は喧嘩相手の存在を全く忘れて)、割れたおせんべいを割烹着の隠しから出して、くれたものだった。彼女は、僕の、もう一人の「オモニ」だった……

……それから25年経って、僕は今の家(昔のこの家)に戻って来た。長屋は寺領で、住む人々は区画整理のために退去することとなり、多くの家が空き家になっていた。西原さんのオモニは、お兄ちゃんの同居の誘いを拒んで、その時も、たった一人で、昔の長屋に住んでいた。

僕は、オモニを何度か尋ねていった。行くと必ず「アイ! 先生の子供!」と叫んで、その皺だらけの手で、大人になった僕の手を両手で握ると、黴臭い暗い室内に導き、お茶と自家製のキムチを出すと、やおら話が始まるのだった。頑固だったお父さんの怨みつらみの思い出に始まって、若い頃の来日の際の苦労話や、その後の不断の差別の痛み苦しみ、そうしてどんなに僕がちっちゃくて可愛いかったかを生き生きと語っては、僕を赤面させたりしたりした。

そうして、僕がオモニの故郷(北朝鮮にある)の話を尋ねると、彼女は時折、激しく泣きながら(私は朝鮮の人々の号泣を儒教的なオーバーアクトだとは思わない。それは民族としてのこの上なく美しい表現である)、時間は更に戻ってゆくのだった……少女時代から来日までの艱難辛苦……そうして、最後は、「帰りたいヨ、でも帰れないネ」……ところが、実はその辺りから、僕にはオモニの喋っていることがほとんど分からなくなってしまうのだった。時代が遡るにつれて、彼女の口をついて出てくるのが、朝鮮語になってしまうからだった。僕は、それでも、相槌を打つ。そうして、意味が分からない乍らも、涙が流れて止まらくなる。僕には彼女の悲しみが直感として、分かったのだ。それを、笑わば笑うがいい。ただ、はっきりと言えることは、それが、僕自身の人生にあって、数少ない確かな、人と人との感性の交感であったという疑いようのない事実である。……家を辞す時、オモニは、「モウ、私、自分で作っても、こんなに食えないヨ。」と、新聞紙に包んだ食べきれない程の真っ赤なキムチを僕にぎゅっと押し出すと、暗くなって人気のない真っ暗な長屋の路地に立って、僕が角を曲るまで見送ってくれるのだった……。

……トンマッコルの村長の母が、村を守るために死を賭して立ち去る南北米兵たちに言う。

「帰るのなら、来なければよかったのに……」

……僕には、それは、今は亡き、西原のお兄ちゃんのオモニの声だった……僕の眼が、霞んだ……

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