トンマコッルへようこそ
パク・クァンヒョン監督の「トンマッコルへようこそ」を見た。Webで「ありえない」理想郷へとやってくる「三組のお客さん」を見た瞬間に、これは! と思った。先週、ネットで予告映像を見て、既にして涙腺が潤んでいた。勿論、今日はしっかり泣いた。
語ろうと思えば、尽きない。「墜落」する米兵、敵前「逃亡」した国軍兵、「敗走」してきた人民軍兵士が、辿りつく『ありえない理想郷』“トンマッコル(「子供のように純粋な」の意)”は正に老子の『小国寡民』を体現している。手榴弾の「落下」、ポップコーンの「落下」、連合軍の「落下」傘部隊、凄惨でありながら同時に浄化を感じさせる絨毯爆撃の「落下する」爆弾――対する、ジェルソミーナを髣髴とさせるイディオ・サパン“ヨイル”の「蝶の舞い」の軽やかな身のこなし、爆裂し「上昇」する玉蜀黍、猪退治での三組の兵士連携のスローモーションの「無重力」性、無数の魂の如き蜂の「飛翔」や、蝶の「飛翔」、カタストロフの業火であると同時に浄火として“トンマッコル”守る爆撃の「打ち上がる」花火……いや、民俗学的なシシガミから「もものけ姫」に通底するアニミズムのモチーフを、それを食う南北米兵にパロディとしての聖餐たる三位一体を……しかし、当面、そうした思いつきの解析には、今の僕には興味がない。
「ありえない」愛に僕らは感銘しないというか? 現実に痛みを覚えるからこそ僕らは「ありえない」と思いつつも、「誰をも愛すること」を望んでいるのではないのか?
朝鮮半島の悲劇は、僕らの想像を絶する悲劇である。しかし、それは同時に、すべての「戦場」(それは「個」としての人間存在の自他の関係のマクロ化にほかならない)の悲劇でもある。だからこそ同胞が同胞を愛することの「当り前」=「子供のように純粋な」大切さを、「ありえない」と第三者が冷笑するところのファンタジーの世界で、毅然として映像で語りきっている「馬鹿正直な」素晴らしさと美しさに、僕は心から打たれたのだ。
あえてメタな難解な書き方になってしまったけれど、それは、それでよいのだ、ネタバレはよくない。何故なら是非、あなたに見てもらいたい映画だから。僕は元来、他人が退屈で難解と評する映画に感銘することが多いし、そうした作品を薦めて退屈されるのも不愉快だけれど、これは安心してお薦めできる。是非、ご覧あれ!