ヴェトナム 又は 精神の絨毯爆撃
ハノイ空港に降下する途中、左耳が完全に聴こえなくなった。
現地ガイドに頼んで、空港から病院に直行する。医者の指示で、妻が私の両耳を覗く。中は“Red”だった。風邪をひいて耳管閉塞を起した状態で気圧の変化を受け、航空性中耳炎に罹った(この様態と病名は昨日、帰国後に知ることととなる)。保険に入っていないので、診察費と抗生物質の点耳薬を貰う。金1万円強。
痛みはない。ないが、片耳の聞こえない状態は、精神を不安定にさせる。かつてソヴィエト映画の「炎628」で、主人公がドイツ軍の爆撃弾でそうなったのを、主人公の一人称イメージで(映像だけでなく音響も塞いだ状態)で、彼の呼吸音が妙に響く途轍もなく息苦しいシーンとして描き、好きな作品であったが、見ていて異様に耐え難かった印象が蘇った。
そうして、思い出す。ヴェトナム戦争の北爆に使われたB52爆撃機は、一編隊で324発の110kgの爆弾を1回に投下、幅1km、長さ3kmの地域を、土中の深さ15mまで完全に破壊する絨毯爆撃能力を持っていた。運よく直撃を免れても、近距離で炸裂した場合、鼓膜は破れるのだ。
翌朝には幾分復活したが、二日後にはダナンへの飛行で、元の木阿弥となり、1週間の旅行中、私の耳は、ヴェトナム戦争の爆撃の霊感を、確かに感じていたのかもしれない。
翌日、ハロン湾へと向かう途中、国営の工芸美術センターに立ち寄る。
沢山の若者が、刺繍をしている。僕の耳には、相変わらず左耳に響くジーンという不快な音が響いていたが、僕はそれを忘れて、作業場の一角に呆然と立ち竦んだ。
その若者のほとんどが車椅子や杖をつき、脊柱奇形や口蓋裂整形等の施術痕を持っている。ここで作業する90%の若者は、戦時中の米軍が撒布した枯葉剤のダイオキシンを被曝した両親や祖父母からの、遺伝的奇形や病態を抱えた二世、三世なのであった。
その瞬間、私はこのヴェトナムに来ることの意味を了解した気がしたのだった。
ハロン(下龍)湾――海の桂林、世界遺産、ディズニーの映画に出てくる海賊船のようなジャンクの群れ――
そこでも僕は考える、ジャンクの龍頭にもたれて、考える。
素晴らしい干潟ではないか。素晴らしい景観ではないか。
しかし、外国人観光客を誘致するために、その素晴らしい干潟は鮮やかに干拓されつつあり、海岸線には高級リゾート・ホテルの建築予定を告げる看板が林立する。一見、ファンタジックなジャンクも、船尾に回れば、客の食べ残しはおろか、煙草も水洗トイレの汚物も、そのまま水面へと捨てられている。住民の下水も、同じである。
私は、旅行中、三人のガイドに、そのことだけは言い続けた。
「ハロン湾は素晴らしい。しかし、閉鎖された停滞水域である上に、汚物を流して、干潟を潰して開発すれば、富栄養化して、今の生態系は破壊され、20年たたないうちに、死んだ海になってしまう。水質浄化のための法令と、干潟の保全が急務です。」と。
彼等は、頷きながら、しかし、仕方がないという笑い顔をするだけだった。
そうして、沿道で、旧ソヴィエトから日本へと技術が飛躍的に向上したという火力発電所を指差しながら、最初の30歳そこそこの男性ガイド(ギーさんといった。個人的には今回のツアーで最高に心優しい人であった)は自慢げに、「あともう少しすればベトナムでは原子力発電もできます」と言う。僕が「おやめなさい。危険です。」と言ったら、彼は如何にも不服そうな顔をした。高エネルギー廃棄物の危険性と原子力発電事業のリスクを理解してもらうには、彼の日本語は少し無理があったから、僕はそこで話を止めたけれども……
――このままでは、龍は天へ帰ってしまうよ。
三日目は陶器の名産地バチャン村。水牛の黒々とした優しい目、その水牛車を操る女性、最古の窯の主人の屈託のない表情、どれもがひどく懐かしく美しい。かつて、日本の農村のどこにでもあった笑顔――ああした、笑顔を僕たちは忘れて久しい。
最古の窯の主人は、遊びで、鳥の水笛を創っている。たっぷりと水につけて吹けば、これは絶品。その音色は、僕を遠い遠い無垢の幼少期へと連れ戻す。これは、多分ここでしか、手に入らない。子供騙しと侮るなかれ。
ハノイの市場で遂に念願の幻の食材を、見た。ゴカイだ。見事に日本種と全く同じと思われる形状のゴカイ(Hediste 属と外見の区別なし)がてんこ盛りに売られている。間違えてはいけない。釣り餌ではない。人の「食用」にだ。調理法を聞き逃した! 食いたかったなあ!
ダナンのリゾート・ホテルは、恐らく僕が体験した5星ホテルのバイキングでは、最も贅沢なものだった。勿論、客にベトナム人は、いないのだ。
しかし、朝になって、ガイドが語った話は素敵に慄っとした。昨夜、台湾で発生した地震のために、このダナンの街の沿岸住民には待避勧告がなされていたというのだ。ガイドが示した新聞記事には、実際に深夜の雨の中、待避する住民の写真が載っていた。しかし、ホテルの僕たちには、何の警告も連絡もなかったのだった。恐らく、イメージ・ダウンや外国人の避難先等を考え、さらに津波は大丈夫だとタカを括ったのであろう(事実、津波はこなかった)。
しかし、考えた。プーケットの悲劇を考えれば、これは大変なことだったのではないか。危機管理を疎かにすると、誰より命の惜しい贅沢な先進諸国の観光客は、あっと言う間に、来なくなるというのに。砂の上を、紙が飛ぶように移動する(それは走るというより、砂上数ミリ上を、飛ぶ、という感じがしっくりくる)ミナミスナガニ Ocypode cordimana と戯れ、右の耳で、すこし荒れた波音を聞きながら……。
ダナンの旧王朝跡を案内されながら、僕はガイドに興味を持った。38歳。ソヴィエト崩壊前後に5年間、ハリコフでロシア語教師の勉強をしたという(当然、国費留学生のエリートだったと考えてよい)。しかし、最早、社会主義と縁の遠くなったロシア語は、学校でも、社会でも必要としない。仕方がないから、日本語を学んで、通訳となったという。彼は、ガイドの解説もそこそこに、現在の社会主義体制を大っぴらに批判する。僕が教育基本法や憲法改悪の日本の話をすると、「最早断末魔の北朝鮮」との関係の中で、そうした「愛国心」や「軍事力の保持は日本に必要だ」と言うのである。彼はまさに「裏切られた世代」なのだった。それも、一つのヴェトナムの矛盾ではある。
クチのトンネルを60m這っただけで、僕は今、太ももの筋肉が痛いのである。僕は、ヴェトナム戦争で真っ先に死んでゆく非力な存在であったろう。あのソンミ村の虫けらののように撃ち殺された老人のねめつける視線を相手に残して。
実弾射撃場があった。27歳の可愛い女性ガイドが「撃ちますか?」と誘った(高校生みたように若い)。実は隠れ軍事オタクの僕の内心は惹かれないことはなかった。しかし、僕はここで銃を撃って爽快感に浸る自分を許すことは、到底、できない。
ホーチミン市に行ったら、必ず戦争博物館に行かねばならない。『行くのがよい』ではない。『行かねばならない』のだ。ヴェトナムへ来て、ここに来ない者は、ヴェトナムへ来るべきでは、ない。
ここで澤田敬一やロバート・キャパの写真は、鮮やかに僕たちの精神に無数の風穴を空ける。僕は、中学3年の時に澤田の有名な「自由への逃走」を含む写真集を買った(僕が自律的に自分の小遣いをはたいて、1000円以上の本を買ったのは人生であの時が初めてであったと今思い出す)のだが、「違う」のだ。僕が、家で見るのと、ここで見る澤田の写真は、「違う」のだ。ここでは「報道写真」という外装はがばりと引き剥がされて、生身の肉と血の腥い匂いとして、確かに僕らの眼を引き裂くのだ。妻は、博物館の一角を大きく占めるいわさきちひろの絵に感動していた。恐らく、眼を背けたくなる写真やダイオキシン奇形の連続の後、ちひろの絵はあってよいのであろう。しかし、僕個人にとっては、それが如何に平和への思いを込めた善意のメッセージであろうとも、場違いな気がした。圧倒的な血と肉のむごたらしい「事実」を我々は、正しく直視し続けることが大切なのだ。「事実」を藝術や思想で組み直してならない。いや、僕なら、双頭奇形児のホルマリンの実物標本の脇に、ちひろの絵を、置く。
僕は高校生の修学旅行は、沖縄に若くはないと思っている(広島・長崎であってもよい。しかし、広島長崎の語り部の人々は今、あり得べからざる言論弾圧の危機に晒されていることは皆さんもご存知だろう)。今もそれに変わりはない。それはあの壕の体験や「ひめゆり部隊」の生き証人の講話を聞くことが、何より圧倒的な平和「教育」の理想形だと感じるからである。それでも海外修学旅行をしたいというのであれば、ヴェトナムへ行こうではないか。虐殺のソンミ村で農業体験をするのはどうだ。蛭に食われながら田植え体験をし、弟を庇って死んでいった兄の二人の倒れた農道を歩け。クチのトンネルを這い、撃ちたい生徒には、存分に自動小銃も短銃も撃たせよ。そうして、奇形児のホルマリン標本を、襤褸切れのようになった兵士や人民の死体写真を見よ……
……そんなことを考えながら、最後のヴェトナムの夜の街を歩いていたら、左の奥歯の金属が外れた。耳と口とが不自由になって初めて、この矛盾した「人間の世界」なるものが味わえた……そんな気がした――。