芥川龍之介 風變りな作品二點に就て
芥川龍之介「風變りな作品二點に就て」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。
この作品には多くの興味深い点がある。
芥川は、有名な「れげんだ・おうれあ」騒動を面白おかしく綴っている。しかし、これは更に、二重の芥川の我々への騙しであったことは、近年の「奉教人の死」の種本の考察によって明らかになってきた。しかし、それは、当面の僕の興味ではない。
まず、「風變りな」という条件をつけ、幾分、乗り気のないようなイントロ乍ら、その実、自身の文章上の好悪(というよりもその彫琢)から、かなり素直に、このニ作品を自身の好む(というよりも会心の)作品として挙げている事実に着目したい。「奉教人の死」は大正7(1918)年9月、「きりしとほろ上人傳」は翌年の3月及び5月の発表である。彼は、実にこの執筆時33歳から遡ること、凡そ6、7年も前の、デビュー後間もない26、7歳の折の作品を挙げているのである。さらに言えば、「奉教人の死」を芥川龍之介の代表作(というよりも好きな作品)として挙げる向きは多いが、どれだけの人が「きりしとほろ上人傳」を読み、どれだけの人が「きりしとほろ上人傳」の文体を芥川龍之介の作品の中でも図抜けていると称揚し、これを名作と挙げるであろうか。
さらに、この感懐が大正15(1926)年であることに、注意したい。これは自裁まで、まさに言わば「一年有半」の距離にある。この距離は、ただの結果ではない。小穴への自決の告白は(小穴の回想によれば)、このすぐ後、同年4月15日にあった。その時制を考慮すれば、この「將來どんな作品を出すかといふ事に對しては、」以下の叙述は意味深長である。「小説などといふものは、他の事業とは違つて、プログラムを作つて、取りかゝる譯にはゆかない。」と言う言は正直に受け取ってよいのか。そもそも彼は「併し」という逆接の接続詞をもってこれを続け、「僕は今後、ます/\自分の博學ぶりを、或は才人ぶりを充分に發揮して、本格小説、私小説、歴史小説、花柳小説、俳句、詩、和歌等、等と、その外知つてるものを教へてくれゝば、なんでもかきたいと思つてゐる。」と一気に綴る。この部分、恐らく、芥川龍之介を愛する僕やあなたには、少なくとも我々の知る表向きの芥川の文章として、やや奇異な印象を受けはしないか。そもそもこの「その外知つてるものを教へてくれゝば」という叙述は如何にも、彼の謎めいた求心と遠心のアンビバレンツを感じさせるではないか。
そうして、最後のアイロニイを見よ。
「斯くの如く、僕の前途は遙かに渺茫たるものであり、大いに將來有望である。」
もう少し考察を深めたいのだけれども、これより暫く、旅に出ねばならぬ。また後日と致そう。