西尾正「骸骨」を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。久々に新しい作家の電子テクストである。
この作品には、事の外、深い思い入れがある。
大学1年の時、僕は鎌倉の郷土史研究に没頭していた。鎌倉に関わった作家の鎌倉を舞台にした作品を貪るように読んでは、交通費節約のために、林檎一個を一日の食い物にして、渋谷の3畳間の下宿から鎌倉に出向いては、山野寺社仏閣を気儘に跋渉したものだった。
そんな中で、さる鎌倉近代文学関係書の中にあった、推理小説界の芥川龍之介と異名をとったという彼に、異様(ウトレ)に惹かれた。大学の図書館で、その由比ヶ浜を舞台とした「骸骨」をレファレンスすると、大宅文庫の「新青年」そのものを読むしかないと言われて、呆然とした。図書館司書の資格を志したのはその年の暮れで、とても当時は、ジャーナリストの名を冠した有難そうな所へとても行ける都会人では、僕はなかったのだ(大宅文庫は後に、床が抜けるほどに有象無象のどうしようもない雑誌まで蒐集している、どうってことのない気軽な文庫であることを知ることになる。だって、僕の駄文である小説「雪炎」の載った大学のクラス雑誌も、今、大宅文庫に入っているのだもの。永久保存で)。
ところが、その翌年の春、渋谷の本屋で手に取った鮎川哲也の「怪奇探偵小説集」(既にカバーを失っているが、映画の「エクソシスト」の場面を無断流用して、ドラキュラ然とした男の横顔のモンタージュという、完膚なきまでにキッチュな装丁だったと思う)に、これを見出した時、僕は快哉を叫んだ。ちなみに、挿絵は30代になってとことん耽溺することとなる花輪和一であった。この挿絵、どれも一見、忘れ難い秀作だ。
しかし、この衒学的な、これといって驚愕のない小説のどこが、因縁かって? 小説としての意外性は、まるでないかも知れない。しかし、この由比ヶ浜に消えてゆく吉田の姿は、西尾の鼻につくペダントリーをふと忘れさせるほどに、僕は、好きなことは事実なのだ。
いや、正直に言おう。そんなことはどうでもいいんだ、それは僕の因縁の核心ではない。
……僕は、これを読んだ、その年の3月、終電で鎌倉に赴き、まさにこの吉田が入水した場所で、寒風の砂浜に坐ったまま、朝まで、打ち返す吉田が死んでいった、「その海」を見つめていたことを、鮮やかに思い出すのだ。
一人では、なかった。
僕が、生まれて初めて、心から結ばれたいと思った女性と共に、朝焼けの空になるまで、見ていた。ただ、見ていた。ただ、朝まで。打ち返す波の波頭を……。彼女のために、確かに言おう、ただ、見ていたのだ。
それは、確かに僕の、馬鹿馬鹿しいほどに、純粋奇体な青春だったと言ってよい……。
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本テクストは、異例の公開をした。外来語の後注の一部に、不明な箇所を残してある。僕は勿論、不断に調べるが、もしお分かりになる箇所があれば、どうかメールなりで御教授願えれば幸いである。
ともかく、これは、僕の青春の墓碑銘であることに違いはない。愚かにして、笑われるべき……たかが/されど……
……僕と同じように、西尾正の「骸骨」を読みたいと感じる「いけない」「みすぼらしい」青年に、僕は、僕のテクストで読んでもらいたいと、ふと「愚かにも」思ったのだ……。