不適格教員自己申告制度
不適格教員を教壇に立たせない等と言う、生温いことを言うな。不適格ならば立つ資格は、ない。だから辞めさせよ。そうして、教員一人一人に、自己申告をさせよ。「私は適格教員です。校長にも、教育委員会にも、文部科学省にも、決して不安を感じさせない、私はあなた方の意思に十全に沿った『適格教員です』」と自己申告させよ。それで、いいだろ。だって、誰が査定するんだ? 教員として僕よりろくに教壇に立ったこともなく、つまらない授業しか、してこなかった奴に査定はちゃんちゃら可笑しい、噴飯下血嘔吐陣痛だ。反論があるなら、降格して、僕たちに、いいや、生徒達に、『これが授業だ!』という授業をやってみろよ、いつでも、コイ! 貴様! ああん?。
そこで、今日考えたこと:
この人類に致命的な危機が来るとして、生き残る候補の人間たちを募った中で、真っ先に生き残りたいと手を挙げたのが、神父であり牧師であり僧侶であったとして、彼らが「私は人類の貴重な生残りの大切な一人なんだ! いや、教えを必要とする一人でもいる以上、私は死ねない!」と声高に堂々と言ったら、君たちは、どうする? 僕は一番に、そいつらをざっくりと斬り殺すがね。人類に、そんな「『自ら犠牲になることも想起の端にもありゃしない』宗教者」なんざ、いらねえ、ってことだ。そうして、それは教員も、同じだよ。コルチャック先生を初めとする「真の先生」達の存在を考えよ!
最後に言っておく。
僕はものの美事に不適格教員だ。僕はそれを誇りに思う。何故なら、僕はまず不完全なる「人間」であることの自負と自律に於いて、確かに人を教え得る、人は「かくあってはいけない」という「人間」であるからだ。それは、残念ながら、言い古された反面教師ではない。逆説的に言えば、教師とは、何より「真の大凡夫」であることが望まれるということだ。誰とも同じか、それ以下であることを自覚しない「人間」は、自身の「人間」としての自己同一性を失った、最下劣にして哀れな、バカ、だ。
「聖職の碑」だあ!? 僕は確かに生殖器は拭えぬ「碑」として持っているがな。
僕は、教師である前に、もっと昔から、おぞましき=素敵な「人間そのもの」であったのだ。これは、僕の「覚悟」なんだ、耳かっぽじってよく聞きやがれ! 最下劣野郎共!

