「虹色のトロツキー」余談
安彦良和の「虹色のトロツキー」は、僕の妻(南京大学日本語科で一年間日本語を教えた)の大先輩で、現在も、中国の大学で経済学と日本語をほとんどボランティアで教えている先生(日本人)に頼まれて買い送り、ただのメッセンジャーも何なので、後学のために、もう一セットかっておきながら、書庫に放っておいたものだった。
この先生は、不思議な人である。既に10年以上に渡って、中国の学生のために講義をしている。貧しい学生のためのスカラー・シップまで私的にお作りになっている。何度か、お話をさせて頂く機会があったのだが、魯迅にも造型が深い。彼が何故、私財を投げ打ち、自身の第二の人生をこのような形で送っておられるのか、笑ってお答えにはならない。中国政府も、実はそれが分からない。逆に、そうした純粋な善意の背後に、疑心暗鬼を生じて、彼の思想的背景を疑ったりしているようだ。「虹色のトロツキー」の中で、満州で生まれ育った日本人が、中国人が「偽満」と呼称する「幻想の理想」国家への帰属意識、自己同一性を持っていることを知る時、僕は朝鮮で生まれ、育ち、敗戦時に想像を絶する辛酸を舐めて、あらゆる失意や絶望の内に帰国した先生は、今も大陸人としてのアイデンティティを不断に持ち続けているのではないかしら、という思いが掠めるのである。
本作の近代史オールスター総出演、南船北馬の大陸の縦横無尽なロケーションが頗る壮観であることは、まずはお読みになるに若くはない。僕のような、近現代史に疎い人間でも、一秒たりとも飽きさせることがなく、読者側の知識が貧困でも、相応にそれをくすぐって、充分に楽しませてくれるエンターテインメントに仕上がっている。
僕はそうした、最もレベルの低い読者の一人であると自認するが、一つ、読み進めるに感じたことは、史上、謀略家として悪名高い辻政信についてである。勿論、その存在の、独自な歴史的解釈への感懐や批評ではない。彼の写真を見ると、本作での彼の風貌は、よく実像を捉えながら、カリカチャライズされている。ところが、その二つを見比べながら、石原莞爾の非現実的な理想主義の幻想東亜思想を指示しつつ、そこに強引な戦略で猪突猛進することにエクスタシーを感じている、アブナイ男、おぞましく慄っとさせる存在でありながら、どこかに不思議な魅力を感じさせる、このトリック・スターは、実は、安彦良和がかつてその下で働いた、その死に際してさえ、アニメーターとしての仕事を宮崎駿に「すべて間違っていた」と言わせ、日本の錯誤的アニメーション認識の元凶として、完膚なきまでに批判される手塚治虫先生そのもののカリカチャライズではないか、と思われてくるのである。そう思い込むと、これはもう、ほとんど神経症的な確信のようにして、読み進める僕の意識を冒してきた。
繰返すならば、この魅力的な「虹色のトロツキー」を語るには、僕は余りにも無智であると思う。しかし、目くるめく面白さの中で、先の妻の恩師のことと、自身が持ったこの病識だけは、何故か記述しておきたかったのである。
« 芥川龍之介「奉教人の死」参考資料 斯定筌著「聖人伝」より「聖マリナ」 | トップページ | 森ヲ見テ木ヲ見ザルコト »