思いが 離れる その時に…
芥川龍之介の「本所兩國」を打ち込んでいる僕は、平井堅の「思いが かさなる その時に…」をエンドレスで聴きながら、考える。
所詮、人はエクスタシーを共有している幻想しか持てないのだが、だから「手を握る」ことで、それを確かなものだと思おうとするのだし、完膚なきまでに悲痛に打ちひしがれることは現実であるのに、「笑いあっ」てエクスタシーの共有を感じた幻覚の一瞬を思い出すだけでそれを相殺できるなんて思ったり、相手を失望させるのは常に自分であるのに、その失望させたまさにその相手の瞬間の存在によって「救われてる」なんて感じたりし、摑めない「虹」を摑めると甘いことを言ったり、「キミ(このカタカナの愚劣さ加減!)だけの歌」なんてありもしないくせに先験的にそれが『ある』前提のもとに、相手の耳にそれを「探しに行こう」なんて囁いたりしているんだ。
確かに「いつかキミは僕のことを忘れてしまう」。
でも確かに僕は「その時」「キミに手を振ってちゃんと笑っていられる」だろう。少なくとも、愚劣な僕はそうだ。
でも、「そんな事を隣でキミ」は「思ったりする」ことはない。
だから、だからこそ、僕達は「思いが」離れる「その前にこそ手を握」るのではなかったか!?
「誰といても一人ぼっち」であることは古来の哲人が語り尽くしてきた真理であり、彼らも平井堅と同じように、その苦い「唇を嚙み締め」ながら、「同じ青空を 何も言わずに見上げ」てきたのではなかったか!?
「波」は永遠に打ち返すが、「傷」は癒えるか、致命的な敗血症を起すかしか、ないのだ。
僕達が真に愛し合うためには、互いが互いを信じたという幻想に於いて互いが瞬時にこの世を去る心中以外にはないと言ってもいい。「キミだけの歌」とは、相対死(あいたいじに)の挽歌と同義である。
そうして、それは多くの凡庸な人間達には、できない相談だ。そもそも、近頃、とんと相対死を聞かない。
だからこそ「こんな僕はキミのために」「言葉にならない思いだけ」という偽善のもとに、これみよがしに「強く手を握ろう」! せめて、キミの手を握り潰す覚悟を持って、僕はたしかにいつも君の「強く手を握ろう」!