芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察
僕はかつてブログの「月光の女」で、芥川龍之介の幻の作品「佐野さん」について語った。さらにミクシィの芥川龍之介コミュニティでもこの作品の情報を求めもしたが、このような老いさらばえた男の戯言に「人の好い微笑」と共に書き込んでくれる人間は、残念ながら皆無であった。僕は、ここに僕の「佐野さん」という作品の存在に多少なりとも迫る得るであろう、ある考察を以下に綴る。
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大正12(1923)年5月の雑誌『改造』に載った芥川龍之介の「保吉の手帳」(後に「保吉の手帳から」に改変)は、「わん」に登場する愚劣極まりない海軍機関学校主計部主計官の粘着質な描写といい、「午休み――或空想――」に於ける「ファウスト」よろしき機関学校総体の完膚なきまでのカリカチャライズといい、「西洋人」及び「恥」の学校の教師(自身も含めた)・生徒の存在の、蛇のように耐えがたいダルの感覚といい、「勇ましい守衛」の実直と卑小の入り混じった大浦守衛への意地悪い笑みといい――そのどれもが、海軍機関学校がゆゆしき問題とし、また、謝罪を要求したとしても尤もな内容と言ってよい。
更に、大正13(1923)年4月の同じく雑誌『改造』に載った芥川龍之介の「寒さ」を見よう。その前半に登場する物理教官宮本は、最早、疑いようがなく、海軍機関学校時代の同僚であった佐野慶造である。叙述の冒頭の「口髭の薄い脣に人の好い微笑」(大正7年撮影の佐野慶造の写真を見る限り、彼の口髭は濃いといえない)とは、芥川龍之介にして、何と悪意と皮肉に満ちた表現であることか! 以下の、人間の男女の性愛に演繹した『傳熱作用の法則』を得意気に語る宮本のシークエンスは、まさに佐野慶造の『つまり、物理学なんてやっている人間の非常識な野暮ったい面を突いて強調したような書き方なんだ。ぼくも自分のことながら、なるほどなあと思って可笑しくなったぐらいだ。芥川君のような文学者から見たら、可笑しく見える要素が多分にあるのだろうな。お前から見たって、ああ見えるかも知れないなあ。』という台詞と完全に一致する内容である。
そうである。完全に一致するのである。
――実は、上記の佐野慶造の台詞は佐野花子の「芥川龍之介の思い出」(昭和48年短歌新聞社刊)の中の、かの芥川龍之介の幻の作品「佐野さん」についての叙述から引用したものなのである。海軍機関学校から浮かぬ顔で帰宅した慶造は妻花子に向かってこう切り出す。
「芥川君はね。〝佐野さん〟という題で、ぼくの悪口を書いているのだよ。新潮誌上でね。今日、学校でそれを読んだ。学校当局も問題にしているよ。」
とあって、花子の無言を示す
「……………………」
(実際には、花子は既に「佐野さん」という作品を読んでしまっていることが、前に書かれている)の後、
『お前もその文を読んでごらん。解るだろうこの気持が。つまり、物理学なんてやっている人間の非常識な野暮ったい面を突いて強調したような書き方なんだ。ぼくも自分のことながら、なるほどなあと思って可笑しくなったぐらいだ。芥川君のような文学者から見たら、可笑しく見える要素が多分にあるのだろうな。お前から見たって、ああ見えるかも知れないなあ。こんなことぐらい、放って置いてもいいだけど、海軍機関学校というところも難かしいからね』
と続いている。
ちょっと、ここで発声してみて頂きたい。作品の題名である。
芥川龍之介幻の作品「佐野さん」――さのさん――Sano-san――
芥川龍之介作「寒さ」――さむさ――Samusa――
「芥川君はね。〝寒さ〟という題で、ぼくの悪口を書いているのだよ。……」
ここに至って僕は、幻の「佐野さん」という作品は、実は、この「寒さ」であったのだという強迫観念から逃れることが、最早、全く出来なくなっていると告白する。
勿論、この部分についてのみでも、発表雑誌が「新潮」であるという齟齬がある。しかし、多くの雑誌をその発表舞台としていた芥川のことを考えれば、ここでの誌名の記憶違いは容易にあり得よう。但し、佐野花子は耳にタコが出来るほど、粘着的に雑誌「新潮」の名前をこの本の中で繰り返している(いやだからこそ、この齟齬は実は佐野花子の確信犯的行為とも思える部分があるのである)。ちなみに、「保吉の手帳から」と「寒さ」は、大正13(1923)年7月に第7作品集である『黄雀風』に、共に所収され、出版されているのであるが、その出版社は、新潮社である。
更に言おう。後年、この佐野慶造と芥川龍之介を巡る佐野花子の話を元に、田中純が創作した小説「二本のステッキ」(僕は未だ未見である。近いうちに読もうと決心している。そこで新たな発見があることを期待もしている)が載ったのは、昭和31年2月の「小説新潮」であった。
しかし、僕がこれを「強迫観念」と言う所以は、次のような一大齟齬が存在するからである。佐野花子は次のように書く。
『あれ程、夫に対して理解のあったと思う彼が、夫のことを、
「この男が三十を過ぎて漸く結婚できると有頂天になっているのは笑止千万だ。果してどんな売れ残りがやって来るのやら」
と結んであるのですが、これは私を見る前の文です。ずい分、前のことを書いたもので、それだけに顔を合わせていた期間の短かくないことを思うと余計腹立たしいのです。題も明らかに「佐野さん」とあるのです。新潮誌上に麗々と本名を使って発表した随筆。あまつさえ夫を見る影もない変な男とし、そして刺し殺すほどの憂き目に合わせていました。』
勿論、どこをどう読んでも「寒さ」にこのように読める部分は存在しない。そもそも、「寒さ」の物理教官宮本は結婚しているのである。
そうして、芥川のその作品の文章に対して『どのような皮肉冗談にも必ず伴う礼儀好意の片鱗さえ影を潜めてしまった文章』であり、『誹謗冷笑に満ちた文辞には改めて茫然としてしまう』ほど、『ムキ出しに書いた』もので、『名前を本名にし、世間の昼の光の中にさらけ出してしまっている』と続けている。これが、「佐野さん」なる作品の文体・叙述の特徴であることを押さえておきたい。それこそ、「寒さ」をここまで誹謗するのはお門違いも甚だしいであろう。
この後に、その数日後に、芥川龍之介が海軍学校に来校し謝罪した、という驚天動地の一件が記されるのである。そこで佐野慶造は『夕食どきに夫は声をひくく』して花子に語る。
「今日、芥川君が学校に来た」
私は驚いてなお語ることばに耳を立てましたのです。
「例の新潮の随筆の件で謝罪に来たのだ。学校で手を廻したと見える。芥川君は、学校当局にも、ぼくにも謝罪をしてね、以前のような元気はなく帰って行ったよ。ぼくはちょっと送って出て、是非うちにも寄ってくれ、ぼくは何とも思っていないし、あれもすっきりすることだろう。一泊してもよいからゆっくり話してやってくれと言ったけれど、奥さんには君からくれぐれもよろしくお詫びしておいてくれと帰って行ってしまった。淋しかったね。うしろ姿も淋しかったよ」
それを受けて、花子は芥川が最早、自身から夫婦との縁を断つことを覚悟しての言葉と感じて、涙ぐみ、『まことにやるせないその夜の思い出でございます。』と感懐を記す。
さて、その直後に、佐野花子は以下のように言う。
『機関学校の校長はじめ一同があの文を読んで憤慨し、芥川を呼びつけて謝罪させたことは、私にとってはせめてもの慰めでありました。学校では佐野を弁護し、かばってくれたわけですが、夫が信用を受けて居り、捨てておけない人物であったからと思えます。焼き捨ててしまった例の新潮はその後、一冊も眼にふれることなく、また、見たいとは思いませず、終わりのところの文のみ覚えているのでございますが、天下の芥川を庇う文壇ジャーナリストらの方でも、同時に申し合わせたように、あの随筆のみは彼の全集にはおろか、何の小集にも載せることなく消してしまいました。おそらく、あの文を覚えている人、所持している人もいないのではございますまいか。あれば解っていただけると思います。』
これが「佐野さん」という芥川龍之介幻の作品伝説のルーツとなった。しかし、それこそ「保吉の手帳」に描かれたような愚昧な集団である海軍機関学校の教職員が、「寒さ」程度のモデル内容で、『校長はじめ一同があの文を読んで憤慨』するなどとは到底思われない。いや、一年も前に同じ雑誌に発表された「保吉の手帳」の方が、学校当局として、余程憤慨する内容ではないのか? しかし、冒頭に記した如く、このニ作品は合わせて、作品集『黄雀風』に所載されて出版されている。『黄雀風』が回収・絶版化されたという話も当然の如く、ない。『黄雀風』は今も古書で普通に手に入る。
加えて、僕がここに都市伝説の匂いを嗅ぐのは、『例の新潮はその後、一冊も眼にふれることなく』というまことしやかな筆禍回収を暗示させるような口調と、全集未収録封印作品となったとする点である。この時代にあって、ここまで芥川龍之介という人気作家の作品を完璧に封印することなど、出来ない芸当だ。試しに幾つかの図書館の雑誌『新潮』を検索してみても、この大正10年代のバックナンバーに所蔵していない号(現在読めない号)は、ないのである。この伝説は極めて胡散臭い。存在しないが故にこそ、佐野花子はこう書かざるを得なかったのではなかったか、とも思わせる部分なのである。
僕は僕なりの、ケリをつけたいと思っている。「新潮」の総覧と、田中純の「二本のステッキ」だ。
この問題については、その時まで、では、随分、ごきげんよう。
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