ブログアクセス特異点本日627
昨日のクラス会のせいか、今日のブログアクセスは、ぶっちぎり! 現在、
アクセス数627 訪問者数491
(PM12:00最終アクセス数 693 訪問者数509 であった)
平常時は平均アクセスが124だから 、とんでもない数値だ!
ついでに、ミクシイのコミュニティに「☆2C~やぶちゃん~☆」というのが、教え子の手で出来た。こっ恥ずかしいけれど、僕の名前が入った、ミクシイ・コミュの全国デビュー! 「僕の2C」のみんな、あの藪之屋敷を思い出したら、おいで!
« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »
昨日のクラス会のせいか、今日のブログアクセスは、ぶっちぎり! 現在、
アクセス数627 訪問者数491
(PM12:00最終アクセス数 693 訪問者数509 であった)
平常時は平均アクセスが124だから 、とんでもない数値だ!
ついでに、ミクシイのコミュニティに「☆2C~やぶちゃん~☆」というのが、教え子の手で出来た。こっ恥ずかしいけれど、僕の名前が入った、ミクシイ・コミュの全国デビュー! 「僕の2C」のみんな、あの藪之屋敷を思い出したら、おいで!
以前のブログで表明した『やぶちゃん版「和漢三才図会」電子テクスト化プロジェクト』の内容見本を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に掲載した。
奇特な教え子が自主的に「博物誌」の再校閲をしてくれ、メールで正誤表を送ってくれた。先程、昨日に続いて、再補正アップした。恐らく、これでミスはないものと思う。加えて、ピエール・ボナールの挿絵のリンク挿入(リンク先:ブログ左「Pierre Bonnard“Histoires Naturelles”」)も全て完了した。これで一冊の本を丸ごと電子化したことになった。
昨日の2年C組のクラス会は、僕の人生の中で、忘れられない至福であった。
君たちに、今度こそ、この作品を、自信を持って贈る。
僕が裏切った子らが僕をクラス会に招待してくれた。僕は一年ぶりに彼らに逢った。あの頃、一年後にどうなるのか心底心配していた子らが、一人残らず僕なんかより立派になっていた。僕なんかより生き生きと人生を生きていた。そういえば……僕にもこんな時があった気が、した……携帯で僕のブログがヨメナイ! と言った“瑞枝”と“茜”、君らのために、すべてをスマートにした。これで読めるかな? そうそう、カラオケに行けなくて残念だったね、行ってたら、僕が歌いたかったのは、2007/03/10のブログの「アフリカの月」と2005/12/01のブログの「胸の振子」だ。今度、デュエットしようねえ、「アフリカの月」が“茜”と、「胸の振子」は“瑞枝”と、だ。もう、決めてるよ。多分、知らないダロ? それまでに、練習しとけ!
間違った文章を子らに贈るわけにはいかぬ。残りのボナールの画像を挿入することよりも、まずそれが大事だ、と思った。
ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士訳(附 Jules Renard “Histoires Naturelles”原文+やぶちゃん補注版)を全文校閲し、注を増補改訂、更に一枚、ボナールの「鷓鴣」の挿絵(これはやっぱり読み終わった直後に見えてくるのが印象的だろうから)を本文に追加した。
僕からの、ささやかな、君たちへの御礼である。
とりあえず冒頭の印象的な少女と犬の絵から、「蝸牛」までをアップした。更に、特に僕の好きなこの「少女と犬」、「猫」、「犬」、「驢馬」、「蛇」、「蝸牛」(二枚の内、の二枚目)、「蝶」、「蟻」、「蚤」、「鶸の巣」、「鳥のいない鳥籠」、「猟期終わる」、そして最後の「樹々の一家」の13枚については、本文に大きな画像で挿入した。あなたが、ルナールのボナールの絶妙のコラボレーションに少しでも心躍らせて戴けたなら、それは僕の幸福である。
追伸:
只今、9:55、ボナールの全ての挿絵の画像読み取りとトリミングを終えた。「庭のなか」の如露の絵は、本文にあった方がいいと判断して、追加してある。明後日の緑の元2年C組のクラス会までに、出来れば、仕上げたいのだが……。君達にあげた芥川龍之介の「侏儒の言葉」は、やはり如何にも屈折した「僕」であった。今の僕は、このルナールとボナールの「博物誌」を、心から、君らに贈りたい。
僕は、今、井上英作氏の「フィリピーナ・ラプソディー」を公開したことの喜びに浸っている。それは彼が愛したある女性に、その彼の優しさが届いたからだ。それは誰にも分からなくて良い。彼女は、今日、笑顔の彼に逢った。こんなに素晴らしいことは、ない。いのさん、あなたは美事な騎士だ。
ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士訳(附 Jules Renard “Histoires Naturelles”原文+やぶちゃん補注版)を「心朽窩 新館」に公開した。
僕は、愛する「にんじん」の作者の、自然への、自然の生き物の一つとしての人間としての、その限りない優しさの視線を、心から愛する。
ルナールがこの「博物誌」を書くに当たって、ベストセラーであったビュフォンの「博物誌」を参考にしたことは、彼の蔵書から多量の書き込みのあるフィルマン=デッド版ビュフォン「博物誌」が発見されたことのによって明らかである。しかし、ルナールは同時に日記にこう記している。
「『博物誌』――ビュフォンは人間を喜ばせるために動物を描写した。私の方は、動物自身の気に入りたいと思う。もし、動物たちが私のささやかな『博物誌』読むことが出来るなら、微笑をもらすようであって欲しい。」(1895年9月19日日記臨川書店1998年刊全集12『日記Ⅱ』(佃裕文訳)
僕は今日、全く偶然読んでいた紀伊国屋書店1999年刊の西村三郎「文明の中の博物学(下)」に、ドイツの動物学者・唯物論者カール・フォークトがビュフォンを評した1851年の記述を見つけた。「中身のない華麗で荘重な言葉を用いて、ビュフォンは」「哺乳類や鳥類の習性や生活を、なんの秩序も内的関連もなく、ただ自分の文体を輝かせるために、より適切と思われる素材に応じて、あれやこれや記述した。今では彼はフランスの文筆家として文学史のなかに名をとどめているにすぎない。」と。ルナールの日記の決意は、まさにその『対偶』というべき、真である。
さらに西村は最後にこう書く。「かつてビュフォンは、アカデミー・フランセーズへの入会演説で文体の問題を取り上げ、次のように論じたことがあった。すなわち、文体とは人がその思考のなかに置く秩序と運動にほかならない。そして、事実に関する記述は新発見によって急速に古くなってしまうが、文体と思考法とは決して古くならず、永遠にその人のものとして輝くと。だが、じつは、古くなるのは事実だけではない。文体と思考法も、厳密にいえば、時代とともに古くなるのだ。確かな知識のレベルを越えて大理論の構築をめざす思考法、そしておおげさでもったいぶった旧式な文体。――ビュフォンは、身をもっておのれの主張を反証したのである。」[やぶちゃん注:下線部は引用底本では傍点「丶」。]この西村の叙述の『対偶』こそが、ルナールの「博物誌」ではないか!?
この新潮文庫で見られるボナールの挿絵が、僕は大のお気に入りだ。ロートレック版が古書界では高値を示すというが、僕には、「博物誌」はボナールで決まりだ! 文化庁の著作権のQ&Aによれば、保護期間の過ぎた絵画作品の複製(複製発行者・カメラマン共)は著作権が認められないのだ。最後の「あとがき」で岸田も言っている通り、「ボナールの挿絵もこの版では原本から引き写」したのである。僕は、これからブログのマイフォトに、大手を振って、ボナールの絵をアップするつもりだ(そのまま「博物誌」の本文に貼り付けるのがベストだけれど、原文を挿入してページの容量が重くなっているので、マイフォトのPierre Bonnard“Histoires Naturelles”にリンク形式で置く。いちいちアップをブログで告知はしない。思いついたらお訪ねあれ!)。いや、ルナールとボナールの稀有の結晶を讃える必要を僕は感じた(やっぱり絵と文は一体が一番!)。とりあえず本文冒頭の一枚! どんと載せたよ!(これからも好きな絵は本文に気まぐれで挿入するからね! 言ってるそばから今日〔3月27日〕もアップしちゃった!)
最後に。
僕はこのルナールの「博物誌」を、一昨年の緑の僕が担任だった、2年C組の、腕を折った僕を心から支えてくれた君たち、みんなに、捧げたい。ありがとう! 30日、楽しみにしているよ。
案の定、井上英作氏の「フィリピーナ・ラプソディー」を公開しても、あの焼身自殺をした直後には、未知の方から、多くの問い合わせが舞い込んだのに、今度は何人もに公開のメッセージを送ったにも拘らず、ほとんど何の音沙汰もない。井上氏を直接御存知の女性二人の感謝の言葉、教え子の女性二人の感想、脚本家の男性一人の感懐、これが好意的にお返事をくれた五人すべてである。まさに「喉元過ぎれば熱さ忘るる」ではないか。しかし、焼死では、火炎を吸い込んで気管と肺が焼かれる時、最も苦しい。特に、気に入った教え子の女性の感想を掲げる。フラッシュ・バックを思わせる美事な一言だ。
* * *
太陽を吸込んだような肌
プルメリアの甘ったるい香り
こちらをみながら
ヒソヒソ話をする彼女たちが笑う
べたつく熱気 じわりとかく汗
喉が焼けるような なんという息苦しさ。
*
栗本丹洲「栗氏千蟲譜」の巻十(末尾にある後記、跋、所有者の識は僕の海産生物に特化した翻刻という主旨とは無関係なので省略した)を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。これで、海産生物関係の「千蟲譜」はすべて翻刻を終えた。耳鳴りと眩暈の中でも、充実感は、ある。
僕の充実感とは何か?
僕は別に、僕のこの杜撰な作業(少なくとも生物同定に関して言えば、門外漢の僕の仕儀は杜撰以下とも言われよう)に学術的な価値があろうなどとは到底思っていない。但し、こんな誰にでも出来ることを、誰もまともにやろうとしていない以上、それ以下でも以上ない、試みの端緒としての価値はあるであろう。そうして、まさに、そのようなものに触発されて、海の生き物に喜びを持つところの「遂に逢はざる」若者が、一人でも生まれてくれれば、それで本望である。僕は、小学生の時に買ってもらった海の生き物の図鑑を、本当に、本当に,ぼろぼろになるまで繰り返し読み続けた。
「僕」は、かつてのちっぽけな「僕」のような、それでいて生き生きと眼を輝かせていた「飢えた僕」のような「僕」に、これを捧げたいのである。
井上英作「フィリピーナ・ラプソディー」を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」に公開した。
いのさん、これでよかったのかな?
:僕の教え子にして高校三年生の時の担任生徒
:やはり僕の教え子であった童話絵本作家相野谷由起の高校美術部時代の盟友にして嘱望された造形作家
……輪島塗りまで体得して……それでいて、飄々としていた少女……トンボ眼鏡とカートをずるずる引ぱって本郷台の駅の地下道で衆人環視の中、「や、ぶ、の、せんせー!」と手を振ってくれて、ちょっぴり恥ずかしかったのを何故か覚えてる……僕のたまちゃん……そうだった、僕はちびまるこの「たまちゃん」が何故ファンなのか合点した……あれは君だったんだな……たまちゃん……命を絶つ前に、もうちょっとだけ、このむくつけきおじさんと話してくれたら良かったのにな……待ってろよ、俺は漆器の光沢の見識には、うるさいんだゼ、へへ……
[やぶちゃん注:本作の遺品としての所有者は相野谷由起嬢である。が、僕の相野谷と本間の作品を自分のブログで並べたいという強引な望みで、今回、彼女から送られた画像をここに飾ることを許諾してくれた。夏の一日、江ノ島で開かれた同窓会の後、相野谷嬢から、「先生、あそこに本間さんは来ていました。私はそう感じました。」という言葉を聞いた時……僕は一人、泣いた。]
月には兎がいるのだと
私は小さい時思っていた
恐らく月はでこぼこの冷めたい山が広がるばかりで
平地には崩れた塵埃が
幾重にも重なっているだけだろう
海というものは名ばかりで
一滴の水もない暗さが
深く沈んでいるだけだろう
だが今でも私は
月には兎がいるのだと思っている
月は昔疲れた飢えた旅人のために
身をささげた兎だったと
この涯というもののない宇宙のなかには
死んだものはひとつもないのだと
おそらく数知れない天体のなかには
数知れない兎がすんでいて
数知れない疲れた旅人もいるのだと
今でも子供のように思っている
(1968年刊 思潮社「動物哀歌」 より)
東京さ、行ったゆきねえが、帰って来る! ねえはお土産たくさん持ってきてくれるけんど、おらにとってはねえが帰って来るんが、一番のお土産だ!
おら、待ちきれなくて、この雪道で、待ってるだ!……
見えたよ! 白い白い道の向うにゆきねえの姿!
[やぶちゃん注:本作品は童話絵本作家にして僕の教え子である相野谷由起嬢が、今年の誕生日に僕にプレゼントしてくれた原画である(彼女のホームページで見た瞬間に僕はこの子に一目惚れしたのだった。公開に際しては本人の許諾を受けている)。きっと絵の少女が『僕のところに行きたい』と彼女に呟いたのだと、一人合点して悦に入っているのだ。つたない題名と台詞は、全く私の妄想である(小学校2年生の時に、母が読んでくれた綴り方運動のアンソロジーの中に「せつねえが来る!」という短編があったのを、僕はこの作品を見た時に鮮やかに思い出していた。その題名の上には版画でお土産を持った長い三つ編みを左右に垂らした、「せつねえ」の後姿が描かれていた。僕は、40年も昔に、その「せつねえ」の向こうに、この少女を見ていたのかもしれない)。この子は、いつも淋しい誰かを暖めてくれるために、必ずあなたの白い白い雪道の向うに「あなた」を待っていてくれる『永遠の少女』なのである。]
ついさっき、このめまいが気になり、生まれて初めて脳外科医のCTスキャンを受けた。
CTの中はもっとうるさいのかと思っていたが、存外静かで、看護師に聴いたところ、MRIはかなりうるさくて、だめな人はだめみたいよ、と教えてくれた。
――20枚の僕の脳の中に、ルナールの「蝶」は居た。二つ折りのラブ・レターは、僕の脳に届いていたのだな――
そんなことを自身の脳室を見ながら、思った。断面の箇所によっては、それはペガサスノツバサガイにも似ていた――
結局、脳や血管に異常は認められなかった。脳から来るものであるとすれば、三半規管と蝸牛管へのリンパ液の供給に不具合が生じている、ストレス性の自律神経の失調によるものかもしれないとのことで、これも生まれて初めてだが、精神安定剤の処方を受けた。
蝶の住まう脳は、やっぱり繊細だったということか。
また、命拾いした気がしているよ。
ルナールばかりに現をぬかしている訳じゃあ、ない。栗本丹洲の「丹氏千蟲譜」の第十巻のテクスト化は、今日、半分まで完成した。芥川龍之介も南方熊楠もいつでも出せるものはある。誰も読まないことをやることは、素敵だ。三半規管の不具合は、ますます凄い。歩くのが怖いな。それは「片足なくした」「老いぼれの船乗り」の思い出す「少年の日の思い出」だろう。そうだ、人生の船酔い、に過ぎないんだ。
アフリカの月
原作詞:KURO 作曲:西岡恭蔵
唄:Ann Sally
歌詞採録恣意的記号挿入レイアウト:やぶちゃん
古い港町流れる 夕暮れの口笛
海の匂いに恋した
あれは 遠い日の 少年
酒場じゃあ 海で片足 失くしたおいぼれ
安酒に 酔って
唄う 遠い想い出
……俺が旅した 若いころは
よく聞け! 若いの!
酒と女と ロマン求めて
七つの海を 旅したもんさ……
……母さんは 言うけど『船乗りはやさぐれ
海に抱かれて 年とり
あとは さみしく死ぬだけ……』……
……僕は夢見る 波の彼方の
黒い大陸
椰子の葉かげで 踊る 星くず
見上げる 空には アフリカの月……
古い港町流れる 夕暮れの口笛
海の匂いに恋した
あれは 遠い日の 少年
ララル……ラル……ウルル……
*
これは確信犯である。勿論、これは著作権存続。作曲者西岡恭蔵氏のホームページも存続する。一応、形式的には憚って聞き取り採録とした。そうして、そのレイアウトや記号には、勿論、僕の恣意的な解釈が満杯だ。
でも、本当にいいものは、みなに語られ、みなに唄われてこそのもの、読まれてなんぼ、唄われてなんぼ――いや、それこそ文芸の、あらゆるアートと呼ばわるところのものの本質とは所詮そんなものではなかったか?!
いや、そんな吝嗇臭いことは、どうでもいいんだ。
どうしたって言っておきたいのは、作詞者は作曲者西岡恭蔵氏の亡くなった愛妻であること、そうして……そうして西岡氏はその愛妻の三回忌に自死したことだけだ。
『だから、どうだって?』
だって? だったら、あんたとは、金輪際、語りたくない。
それだけのことだ。
僕は今日、遠い海鳴りじゃあない耳鳴りを振り捨てるように、これを大音響リピートで、聴いている。
……ちなみに、今日の診断で僕の「ふらふら」は明らかに内耳的な器質的疾患であることが明白となった。気の迷いではなく、確かな「眩暈」であるということだ。原因は分からない。航空性中耳炎からは、このような内耳疾患は発生しないという。こいつも、耳鳴りと一生もん、かい。「海鳴りと船酔い」、いや、今気づいたよ、この歌詞は、今の俺に、ぴったりじゃあねえか!
……さて! いいじゃねえか! この小憎らしい「あれは 遠い日の 少年」っていうフレーズは、よ! 「ケッ!」といつものように唾吐いて、俺は、明日からほんとに北の海の彼方へと、「あばよ、だ!」(おっと! 俺の「ジパング」の可愛い子ちゃん! おまえさんが「楽しみにしているよ」と言ってくれたルナールは、自動更新システムなんぞというゲロ吐きそうな文明開化のお蔭で、ちゃんとセットしといた、ぜ! ケッ![やぶちゃん注:唾の音。])
まさにひぐらしの耳鳴りである。あの蜩の声ならまだ許せるが、これともうずっと付き合うのかと思うと耳に錐を突っ立てたい気さえする。頭が重く、歩く時も妙に不具合がある。耳を押さえながら、最後の試験を採点する。
それでも、今日、小論文を見てきた看護や医療系志望の子供達が、何人も志望校に合格した。嬉しい限りだ。今年、僕が個人的に見てきた20数人のうち、残る国立後期一本で戦う三人以外は、幸い合格していない子はいない。堅実な一橋大志望の子の指導も今日、終わった。明日の東大志望の子の小論文指導で、最後である。みんな、本当に最後の最後まで、よく食い下がった(僕が悲鳴を上げるほどにだ)。その成果は出ているぞ! きっと出る!
夕刻、明日の芸大の面接試験のためにシュミレーションをして欲しいと来た生徒と、「音のかたち」(今年の芸大楽理の小論文題である)という命題について議論をしながら、横浜駅までふらふらしながら歩く(彼にはこのふらふらは黙っていたが)。それはギリシャの学堂での議論のように形而上的だった。――僕は、この黒雲を頭部にかかえたような憂鬱を、その一時一瞬、忘れることが出来たのである。
宮澤賢治「銀河鉄道の夜」終曲部より。
これは僕の愛する『不特定多数の誰か』への語りかけである。耳鳴りがひどく、自身の言葉を語る思考が働かない。引用で許されたい。引用は昭和49(1974)年筑摩書房刊校本全集版を用いた。
*
ジョバンニはあゝと深く息しました。「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。
「僕たちしっかりやらうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいてゐるのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずたゞ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云ひました。「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむってゐるばかりどうしてもカムパネルラが云ったやうに思はれませんでした。何とも云へずさびしい気がしてぼんやりそっちを見てゐましたら向ふの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立ってゐました。「カムパネルラ、僕たち一諸に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずジョバンニはまるで鉄砲丸のやうに立ちあがりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱい はげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。
ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむってゐたのでした。胸は何だかおかしく熱り頬にはつめたい涙がながれてゐました。
*
井上英作兄の死は、僕にはこのシーンと妙に重なるのである。
さうして僕は、僕らは、ジョバンニになれるのだらうか?
静から動への美しさを僕はアントニオ・ガデスから教わった。表情や口調の豊かさは、俳優の魂ではない。全的な身心表現の、素直で過激な、まさに「ドゥエンデであること」以外に、演劇は、ない。だから僕は、舞台俳優にはなれなかった。僕は自分の演じられるレベルの「大衆演劇」を、教壇でしていると言っていい。しかし、市井の三文役者の僕でも、ガデスに教わった秘儀を忘れない。これが演じられなくなった/演じられることを禁じられたならば、僕は何時でも(明日にでも! これは真実の告白である)、教壇を去る。これは、至って素直な、確かな、「僕の本気」なのだ。
黒いこおろぎ 村上昭夫
私らの苦しみは
黒いこおろぎの黒い足のつま先の
一万分の一にも値いしない
私らの考えていることは
黒いこおおろぎの黒い足のつまさきの
一万分の一にも値いしない
私らの持っている不治の病いも
かさなる願いごとも
私らの死でさえも
あの秋を鳴く黒いこおろぎの
細いつま先の
一万分の一にも値いしない
世界はまだできあがらない
黒いこおろぎなのだ
[やぶちゃん注:これを特定の何人かに宛てた僕のメッセージだ等と思わることを拒否する。確かに、僕の周辺にいる何人かが(それは確かに複数である)一つの「生の限定」を言い渡されているし、いるであろう。しかし、そもそも現世的「生」に僕は全く興味がない。それは常に愚劣な自己措定の限定に過ぎない(この点に関しての如何なる議論も私は同様に拒否する)。但し、僕の言う「現世」とは仏教的な謂いではない。単なる種個体としての地球上での生存を示す、もの謂いであるし、もの謂いでしかない。僕は来世も後世も信じない。敢えて言えば、僕は「僕」らしき「僕」という「特定の僕」にこれを贈ると言っておく。]
[やぶちゃん注2:このような注は、実際には小うるさいもの以外の何ものでもない。しかし、村上昭夫氏の場合、彼の著作権は遺族によって守られている(彼の著作権者は弟に当たる方であり、それは2006/10/11で既に書いた)。一般に引用で許される条件とは、まず作品引用が明記されていること(これは1999年思潮社刊行「現代詩文庫159 村上昭夫詩集」である、という記載によってクリアーされるのであるが、それは不要であるとも言える。何故なら、弟の当たる方との認知がこの書籍の出版に際してなされていないからである)、それが自身の記述の中の引用であること(そのための小うるさい注であると理解されたい。但し、認識論的には引用に附された注は従であり、本来の引用と論述の関係においては、「詩の引用」とは言えないことも重々承知である。それでもこの詩を読んでもらいたいという思いを、僕は優先する確信犯である)、更には全文引用でないこと(しかし、詩に限らず、全文を引用することは、その著作権者への礼儀であると僕は思っている)である。しかし、この詩集を、町の中小の本屋で見かけることは、まずない。多くのあなたも、この詩人を知らないであろう。だからこそ、そうした全てを、僕は彼の詩を多くの人々に知ってもらいたい総体的確信犯として犯していることを表明しておく。こんなことを書き連ねばならないということは――全く笑止千万だとさえ思っている人間であるということも付記しておく。書かれたものは、万民の「智」である。僕は僕の学校での授業に著作権を行使するつもりはない。それでも「僕」の授業は、「僕」だけの創造物である。それは、僕の教え子が何人でも証明してくれるものと信じている。]
あなたは
眠らない限り
夢を見る
2007・3・3 あなたの卒業をお祝いして
やぶちゃんより
[やぶちゃん注:過去の卒業生も、この謎めいた言葉は気になっていただろう。この言葉の由来は「鬼火」トップページの更新履歴“Alain Leroy”3/3の条に記しておいた。]
航海を祈る 村上昭夫
それだけ言えば分ってくる
船について知っているひとつの言葉
安全なる航海を祈る
その言葉で分ってくる
その船が何処から来たのか分らなくても
何処へ行くのか分ってくる
寄辺のない不安な大洋の中に
誰もが去り果てた暗いくらがりの中に
船と船とが交しあうひとつの言葉
安全なる航海を祈る
それを呪文のように唱えていると
するとあなたが分ってくる
あなたが何処から来たのか分らなくても
何処へ行くのか分ってくる
あなたを醜く憎んでいた人は分らなくても
あなたを朝焼けのくれないの極みのように愛している
ひとりの人が分ってくる
あるいは荒れた茨の茂みの中の
一羽のつぐみが分ってくる
削られたこげ茶色の山肌の
巨熊のかなしみが分ってくる
白い一抹の航跡を残して
船と船とが消えてゆく時
遠くひとすじに知らせ合う
たったひとつの言葉
安全なる航海を祈る
(1999年思潮社刊「村上昭夫詩集」より)
注:第4連目は改ページの頭になっており、組版では一行空きではないが、僕の判断で、一連ととった。
*
この詩が、上記詩集の掉尾(追記:これが詩集最後の詩)となっているのは象徴的に見えるが、しかし、彼の詩は、そのどれもが、「最期」を意識した、搾り出された一編である。
これは確かに、辞世であって、辞世ではない。
1968年の今朝(追記:10月11日)、午前6時57分、肺結核と肺性心の合併症と長期に及んだ闘病生活による全身衰弱で、村上昭夫は亡くなった。
彼は詩稿ノートを人に見せるのが好きだったという。こうして、引用することを、彼は、きっと喜んでくれるであろう。
* *
以上は実は 2005/10/11 03:16 のブログの再録である。原文の一部に致命的なミスがあったので訂正して、元のブログを消去し、ここに新たに掲げる。
僕は君らの卒業式に電報も何も打たないことに決めた。
僕にとって君らの晴れの式場に日の丸や君が代がいらないのと同じように、そんなものは君たちにはいらない。
同様にそんなものがあのけち臭い職員室の入り口に張り出されるのも、僕自身が御免被るからだ。
当然、このおぞましい裏切り者である僕は、速やかに君らの記憶から忘れ去られるべき存在である。
まさに君らの卒業式から僕の存在は日の丸君が代同様、綺麗に払拭されるべきである――
しかし――僕を忘れない少数の誰かが居るとして――このページを覗いてやろうという奇特な誰かが居るとして――その数少ない誰かのために、僕は、心から「おめでとう!」を言おう。僕の人生の中の数少ない「権利」として――
だから――
「僕はどうにも、今、この時に、この詩を、君たちに贈らずにいられなかったのだと思って下さい。」